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2020/02/25

三州奇談卷之三 宮塚の鰻鱺

    宮塚の鰻鱺

 「山川不ㇾ改、人事は非なり」と云共、大川(だいせん)も又人の爲に改めかへらるゝにや。

[やぶちゃん注:標題は「宮塚(みやづか)の鰻鱺(まんれい)」と読んでおく。「宮塚」は後に出る通り、川の名であるが、現行ではこの名の川はない。後で考証を示すが、恐らくは現在、高橋川の地区名ではないかと推測する。石川県金沢市米泉町の高橋川に架橋するそれを「宮塚橋」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と呼んでいるからである(厳密には他に金沢市横川と野々市市押野の三地区に跨る)。「鰻鱺」は「うなぎ」と訓じてもよいが(本邦では普通にかく漢字表記した。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」を参照されたい)、ここは妖異の怪魚であるので音読みをお勧めする。地理的に見てこのウナギは条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギAnguilla japonica と断じてよい。その妖異を見るに、同属のオオウナギ Anguilla marmorata も候補になりそうだが、本来がオオウナギは熱帯性で、九州よりも以北に棲息するというのは考えにくいからである。

「山川不ㇾ改、人事は非なり」「山川(さんせん)は改(あらた)まらざるも、人事は非なり」「自然は不変であるが、人事は無常である」。特に出典があるわけではないが、道家思想や仏教の世界観・自然観である。

「大川」一般名詞で「大きな川」。]

 布市(ぬのいち)の邑(むら)は、往古富樫氏の都會にして、數千軒の坊舍もありしに、今寺號村々に殘り、田間の松原も皆古墳あり。曹洞の祖道元師の塚も、布市の村中にあるに、今一堆(いつたい)の喬木しんしんたり。「布市の御館(みたち)」と云ふは、富樫の後(のち)若松氏住し、其後不破彥三(ひこそ)も住し、今は「作食(さじき)の御藏(みくら)」となる。同じく「山川(やまがう)の館」と云ふは、富樫の家臣山川(やまがう)三河守の跡にて、大乘寺開祖徹通和尙の墓あり。三世明峯和尙の墓は大平村にありて、葬る時に白山權現回向(えかう)ありて、「香の水」と云ふ淸水涌出(わきいづ)ると云ふ。古へ此所に大德(だいとこ)の人ありしに、白山權現常に回向あり、白雲布の幅にして長くたなびきしにより、「布(ぬの)一里」の名是より起ると云ふ。

[やぶちゃん注:「布市」現在、石川県白山市布市があるが、古くは現在のその東方の野々市市の一部をも含む広域が「布市」であったらしい。ここはサイト「地名の由来」の「野々市」に拠ったが、地名由来は『この地に大徳の人があって、常に白山大権現を遙拝していた。その人が拝むと』、『真夏でも雪が降り、布の幅はどの白雲が一里あまりたなびいた。これを人々が〝布一里″と呼んだのがなまって〝布市″になった』という本篇に記されたものと、『その昔、この地で布の市が開かれた』からという別説も載せる。

「富樫氏」藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名。

「寺號村々に殘り」廃された寺々の名に由来する地名のみが各村内に残っているばかりであることを謂う。

「古墳」これは所謂「古墳」ではなく、廃寺となった寺々の墓の謂いのように文脈では読めるが、実際の野々市市には複数の実際の古墳時代の有意な規模の遺跡があり、それらも、というよりそれらを主体としての謂いととるべきかも知れない。「野々市市」公式サイト内のこちらを参照されたい。

「道元師の塚も、布市の村中にある」驚きの記述であるが、不詳。布市にも野々市にもそれらしいものは現存しない模様である。道元は晩年に体調を崩し、建長五(一二五三)年に永平寺住職を弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲って、京の俗弟子覚念の私宅で療養したが、同年八月に入滅した(享年五十四歳)。当時、古墳や廃寺の墓などの一つがそのように誤伝されていたものか?

「若松氏」不詳。

「不破彥三」不破直光(?~慶長三(一五九八)年)。戦国から安土桃山にかけての武将で斎藤氏・織田氏・前田氏の家臣。通称は彦三。諱は勝光とも。斎藤氏の家臣不破光治の子として生まれ、父と共に織田信長に仕えて各地を転戦、天正八(一五八〇)年頃、父光治が亡くなって跡を継ぎ、「府中三人衆」の一人として政務をこなした。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」後は柴田勝家方につき、「賤ヶ岳の戦い」では佐久間盛政に属して奮戦した。敗戦後は前田利家に仕え、「末森城の戦い」では前田軍の先鋒として佐々成政の軍勢と戦った。金沢にて死去。家督は側室朝倉対馬守息女が産んだ光昌によって継承され、子孫は加賀藩士として続いた(以上はウィキの「不破直光」に拠る)。現在の石川県金沢市彦三町(ひこそまち)は彼の一族が住んだことに由来する。

「作食(さじき)の御藏(みくら)」作食蔵(さじきぐら)とは、収穫期までの期間、農民に貸与する米を貯蔵する蔵のことを指す。

「富樫の家臣山川(やまがう)三河守」の「山川(やまがう)の館」(読みはネット記載で最も多い読み「やまごう」を「郷」の当て訓と考えて「がう」とした。但し、「やまご」と振るものもある)は現在の野々市市本町のこの中央附近にあったらしい。直近の南東に主君富樫氏の館の碑が確認出来る(この付近に富樫の館は複数あったらしい)サイト「城郭放浪記」のこちらを参照されたい。yoshitsuna hatakeyama氏のサイト「加賀冨樫氏野々市の歴史」の「山川館(山川館址)」に、『山川氏は冨樫氏の一族で、冨樫家経の子にあたる繁家が始祖にあたる。現在の山川町あたりを領していたと思われ、山川三河守の居館の本館は伝承によると冨樫館北西の場所にあったと言う。江戸時代の記録によるとわずかに土塁が残っていたと言われる(『ののいち歴史探訪』野々市町教育委員会発行より)』。『山川氏は金沢市にも居館跡と言われるところがある。その館跡付近に神社があり、その付近にある山川砦は「見張り台」として機能していたのではないかと高井勝己氏は指摘する(『北加賀の山城』高井氏自費出版より)』とある。

「大乘寺」金沢市長坂町にある曹洞宗大乗寺ウィキの「大乗寺」によれば、『寺伝によれば、弘長』三(一二六三)年、『冨樫家尚が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。後、禅寺に転じ、弘安』六(一二八三)年、曹洞宗の徹通義介を招聘して開山とした』という。乾元元(一三〇二)年に瑩山紹瑾』(けいざんじょうきん:曹洞宗発展の基礎を築いた名僧で曹洞宗第四祖とされる)『が二世住持となった。応長元(一三一一)年、『臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継いだ。臨済僧が住持となったのは、十方住持制度(禅寺において、自派に限らず他派からも住持を選ぶ)に基づくものと考えられている』。『しかし、恭翁運良と大乗寺の間にはその後』に『確執があったようで、彼の名は世代から除かれており、暦応元』(一三三八)年に住持となった『明峰素哲が大乗寺第』三『世とされている』。『寺は』暦応三(一三四〇)年に『足利尊氏の祈願所となるが、室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。さらに、江戸時代初期には加賀藩家老本多家の菩提寺となり、現在の金沢市本多町に移転している』とある。

「徹通和尙」徹通義介(てっつうぎかい 承久元(一二一九)年~延慶二(一三〇九)年)は越前国出身の鎌倉中期の曹洞宗の僧。永平寺三世でこの大乗寺の開山。ウィキの「徹通義介」によれば、『地元の藤原氏(富樫氏とされる)に生まれ』、十三『歳の時に地元の波著寺にて日本達磨宗の懐鑑に就いて出家、「義鑑」の法名を受ける』。十九『歳の時に比叡山に登って授戒したが』、仁治二(一二四一)年に『懐鑑と共に山城国深草興聖寺の道元の下に参じた。以後』、『道元に師事し、永平寺で典座・監寺などの要職を務めた』。『道元の没後は孤雲懐奘に師事し、途中』、正嘉三・正元元(一二五九)年に『入宋し、諸寺院にて各種の祈祷や清規を学んだ』後、『帰国して、永平寺の規則や儀式の整備などを行った』。文永四(一二六七)年に『懐奘の後を継いで永平寺第』三『世になるが、日本達磨宗系と曹洞宗系の内部対立(三代相論)を収めきれず』同九年に『辞任し、麓に庵を建てて老母と共に隠居。後は再び懐奘が就任した』。『懐奘の没後の弘安』三(一二八〇)年には『再び、永平寺住持となるが』、またしても『両派の対立を収拾出来ず、永仁元』(一二九三)年に『永平寺を出て加賀国に移り、大乗寺を真言宗寺院から禅寺に改めてその開山となった』とある。

「明峯和尙」明峰素哲(めいほうそてつ 建治三(一二七七)年~観応元/正平五(一三五〇)年)。能登或いは加賀生まれとし、一説に富樫氏を出自ともする(次注参照)。先に出た瑩山紹瑾の一番の高弟とされる。比叡山で出家し、当初は天台教学を学んだが、やがて京の建仁寺で臨済禅に転じた。後に加賀大乗寺の瑩山に参じ、認められて侍者となり、八年の参学の後、開悟し、元亨三(一三二三)年、瑩山より法衣を伝えられ、正中二(一三二五)年、瑩山の後席を継いで永光寺の住持となった。「法は明峰」と讃えられているものの、著述は少ない。しかし、その法は「明峰派」と称されて、江戸期以降の宗学の発展に重要な役割を果たした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大平村」不詳。但し、嶋田良三氏の「富樫のふるさと」のこちらの「位川町」の条に、『池上白山神社の境内に「御手水池」があり、大乗寺主僧明峰祖哲(富樫氏出身)の葬儀を行うにあたり、白山権現が白雲にのりご影向ありと伝えられ、村人たちは白山権現がお参りされて手を清められた池として大切に守っている』とあり、野々市市位川(くらいがわ)はここであり、その北に隣接する地区名は「太平寺」である。『「香の水」と云ふ淸水』というのもこの池上白山神社の「御手水池」と同一と考えてよかろう(リンク先は「石川県神社庁」の同神社。地図あり)。なお、同じ嶋田良三氏の「野々市の古跡集」にも「御手水池跡」があり、『位川にある池上白山神社境内鳥居左側に御手水池があり、昔明峰和尚(又は徹通)と云う人がなくなり』、『太平寺に葬った時、白山から太平寺にかけて布幅一里程の白雲が橋のようにかかり、六月と云うのに雪が降り、白山権現が現われた云う。そして、この池で手を清められたことから御手水池と名がついたと伝えられている』と同じ記載があるものの(しかしここでは開山の徹通の説も挙がっている)、別に『一説には太平寺の御手洗池とも伝えられる』ともある。孰れにせよ、検索でも池は見当たらない。廃仏毀釈で失われた可能性が高いか。

「回向」これは「影向」(やうがう(ようごう):神仏が時に応じて、仮にその姿を現すこと)でないとおかしい。国書刊行会本は『影向』となっている。言っておくと、にも拘らず、編者は「影」の横に補正注で『(回)』としている。訳が分からない。]

 天正の頃迄は手取川の水、鶴來より高雄の城を廻(めぐ)りて、此布市の邊(ほとり)に落ち、相河(さうご)・宮崎の邊に水下る。然るに今粟生(あを)・寺井の邊りにつぼめて、直ちに本吉に落つ。是(これ)大川(だいせん)を狹(せば)めて新田を多くせるに依てなり。然共此邊(あたり)昔の水筋故か、いかなる日照(ひでり)にも水渴(みづがれ)なく、當國第一の美田となる。石川郡の名故ある哉(かな)。

[やぶちゃん注:「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から行用された)。

「高雄の城」高尾城

「相河」現在の石川県白山市相川町(そうごまち)であろう。読みは現在のそれに従った。

「宮崎」不詳。国書刊行会本は宮腰を正しいとし、「近世奇談全集」も同じで『みやごし』のルビを振る。しかし、「宮腰」の地名は現存しない。寧ろ、前の相川町の東内陸には「宮永町」・「見永内町」があり、南方には「宮北通り」を見出せる。この辺りを言っているのではあるまいか?

「粟生」現在の手取川左岸(一部右岸)の石川県能美市粟生町(あおまち)

「寺井」粟生の南の能美市寺井町

「本吉」白山市美川本吉町等を含む広域。「水嶋の水獸」で考証済み。

「石川郡の名故ある哉」ウィキの「石川県」によれば、石川郡の『命名は本県最大の河川手取川の古名である「石川」に由来する』とある。]

 されば此邊あやしき水多し。所謂御子田村(みこだむら)に「人形見(ひとがたみ)の淸水」と云ふあり。人來れば水涌き、人されば渴す。又水島には「夏の水」あり。是は往還の地なれば、爰に略す。「鐵(かね)くらひ川」とて、橋を用ひざる流(ながれ)もあり。是が中に「宮塚川」と云ふは、「三(み)まん堂川」と水落合(おちあ)ふ【二万堂は公儀名は「三(ミ)マンド」なり。實(じつ)は其方角巳午堂(みんまだう)と云ふ。】野社(のやしろ)の怪しげなるを廻(めぐ)り、兩水一つになり、深淵巴(ともゑ)の字をなすといへども、四方田野にして耕夫穡女(しよくじよ)の早歌喧しき程の街なれば、誰(たれ)恐るゝ者もなく、小魚集(あつま)るを得物にして、金城の遊人日々魚網・釣竿を提げ來りて、爰に遊ぶ。然共(しかれども)一筋の「三まん堂川」は、水上(みなかみ)黑壁より出で、泥沙多く流込み、水底淨(きよ)からで足定めがたければ、彼淵に入る者稀なり。

[やぶちゃん注:『御子田村に「人形見の淸水」と云ふあり』「加能郷土辞彙」のここに複数あることが記されてある中、『石川郡日御子村宮森の内に人影の淸水あり』とある。これは現在の石川県白山市日御子町(ひのみこまち)と思われる。

「水島」「水嶋の水獸」で考証済み。

「夏の水」不詳。

「鐵(かね)くらひ川」国書刊行会本の元筆写のカタカナ・ルビに拠る。

「橋を用ひざる流(ながれ)もあり」国書刊行会本は『橋に鉄を不ㇾ用(もちひざる)流も有(あり)』とある。

「宮塚川」まず頭の注で私が推定比定した地図(宮塚橋)を再確認されたい。但し、以上で見た通り、江戸時代と現代では手取川の流域が激しく異なるから、そこが正確な「宮塚」だというのではない。あくまで指標として見られたい。

「三まん堂川」川名がごちゃついていて非常に読み難いが、これは「加能郷土辞彙」の「ミマガハ 御馬河」の記載の最後から、伏見川の上流を指す。この伏見川のこれまた異名に「二万堂」川の名があったことは、伏見川のここに現在「二万堂川橋」があることからも判る。なお、嘗ては多くの分流が存在したと推定されるから、それぞれの分流に別に附された名であった可能性もあることは言い添えておく。また、この伏見川について同じく「加能郷土辞彙」の「伏見川」の記載に『石川郡知氣寺領山なる城山の東から流出し、二萬堂川となり、西泉・米泉領境で額谷川と落合ひ、是より下は古保川となつて犀川に入る』としながら、最後に『伏見川は二萬堂川も古保川含んだ名である』とある。呼称が二重にも三重にもなっているので注意されたい。因みに、呼称に拘りのある方は同書の「二萬堂」の解説の領域や「二萬堂稻荷社」の記載も参照されたい。私は関心がない。悪しからず。

「巳午堂」方位は南南東である。

「野社の怪しげなる」不詳。宮塚橋のある高橋川と伏見川の合流点の近くとなると、横川神社がやや近いが、この神社は「石川県神社庁」の解説によれば、『歴代藩公を始め、上下の崇敬篤く、前田斎泰公直筆の奉納あり。社殿広壮なり』とあるから違う。

「穡女」「穡」は刈り入れすること。

「早歌」この場合は仕事歌で能率を上げるためのテンポの速い歌の意であろう。

「黑壁」伏見川上流の金沢市三小牛町(みつこうじまち)内にある黒壁山。現在、黒壁山薬王寺九萬坊大権現が建つ。一説に、金沢城の本丸の地は元は怪異の起こる魔所であったが、藩祖前田利家が強引に城を築き、魔所をここ黒壁山に移したともされる。]

 然るに寶曆四年六月半ば、金澤古寺町福藏院と云ふ修驗家(しゅげんか)の弟子寶仙坊と云ふ者、壯年の俠氣に任せて此淵に游泳するに、忽ち水中へ引込(ひきこ)む者ありて久しく出でず。淵の水逆卷上(さかまきあが)り、夥しく高鳴りして、やゝ暫くありて寶仙坊は死して川下へ流れ出ぬ。

[やぶちゃん注:「寶曆四年六月半ば」一五七四年八月初旬相当。

「金澤古寺町」現在の石川県金沢市片町二丁目の古名。

「福藏院」現存しない模様。

「修驗家」修験者(しゅげんじゃ)。山伏。神仏両部に仕え、山岳に籠って密教的な神秘的呪法を修行する。]

 夏日水に死する事は、所々あることにして珍しからざるに、

「怪しや」

此評判甚しく、

「是鱣(うなぎ)の所爲なり」

とて、誰いふ共(とも)なく語り傳へ、俄に

「寶仙坊鱣と組合ふところの圖なり」

とて、板におこし、色繪に仕立て、所々の市町に賣るに、買ふ人こぞり爭ふこと、彼(かの)王義之が老婆にあたへし扇面に似たり。

[やぶちゃん注:「王義之」底本は『王義元』であるが、これでは意味が判らぬので、国書刊行会本で訂した。これは東晋の政治家にして名書家であった王義之の逸話の一つ。個人ブログ「落書帖」の「右軍題扇」から引用させて戴く。私もこの橋、行ったことがある。

   *

 人々は羲之の墨宝を視ることは最大の栄光と考えた。《晋書・王羲之伝》に“右軍題扇”の故事が記載されている。

 王羲之は蕺山街の石橋の辺りで六角竹扇を売っている老婆と出会った。不景気で老婆はうかぬ顔をしていた。羲之は売り物の扇に五つの文字を揮毫して老婆に渡したが、老婆は羲之のことを知らない上、字も読めないため不機嫌になった。

 羲之は笑って老婆に言った。“この字は王羲之が書いたものだと言えば一百銭で売れますよ。”半信半疑の老婆はその通りにすると人々が競って買ったので笑いが止まらなかった。翌日、老婆は羲之の好きな白い鵞鳥を携えてもう一度字を書いて欲しいと頼みに行くと、王羲之はただ笑うだけだった。

 長廊の絵画は“鵞鳥を以って字に換え”ようとしている老婆が描かれている。王右軍が扇に字を書いた橋は“題扇橋”と呼ばれ、今日紹興市の有名な観光名所になっている。

   *]

 然るに其日を經ずして、石坂町鐵砲方大組の内(うち)遠田兵左衞門忰(せがれ)兵藏と云ふ者、是も二三人を誘引して、此水にひたり遊びしに、先日の如く俄に河水逆卷き上り、兵藏を引込みて、是又命を取りければ、此大組は皆壯勇の人多し。人々聞傳へて、

「憎き事にこそ、泥龜・川童(かつぱ)の類なるべし、此水をかへ盡して、敵を取(とら)ばや」

と、時は文月の二日なりけり。大組殘らず催し、此川筋を外に掘かへ、二筋の流を外へ移し、彼淵の溜水(たまりみづ)をかへ盡すに、下より涌く水多して、曾て減る事なし。邊りに有合(ありあ)ふ農民、往來に行懸りたる人迄も皆寄つどひ水をかふる。况や此噂金城へ聞えければ、纔(わづか)に一里許の所なり、追々壯力(さうりき)の者共祭角力(まつりすまふ)の日の如く走り集(あつま)る者夥(おびただ)し。手々に水をかへ、小道を脇へ掘(ほり)しに、餘程水渴して、今四五尺許にもやと思ふ頃。

 一勢に水吹出で、又元の如し。

 只よく物ありて防ぎ守るが如し。斜日海畔の松にかゝれば、人々力を盡して換ふるに、水も又力を盡して吹出(ふきい)ずが如し。

 鬼ありてよく護(まもり)するなるべし。彼(かの)齏粉(せいふん)の術(すべ)もなく、世に張華が博物もなければ、終に水盡きずして日は暮(くれ)ぬ。

[やぶちゃん注:「石坂町」現在の金沢市野町の内にあった。

「遠田兵左衞門」不詳。

「齏粉」身を粉(こ)にして働くこと。

「張華が博物」三国時代魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻を指す。]

 一夜ありて行きて見るに、昨日千萬の骨折りし新川堤(しんかはづつみ)、悉く元の所へきれ落ちて、深淵藍の如し。終に功空して止みぬ。里俗に云ふ、

「此川水常に磧(かはら)礫(つぶて)の響きありて、水膝(ひざ)に過ぎず。然るに水怪ありしは、實(げ)にも大川の水脈通じてありけん。」

[やぶちゃん注:最後の里俗の台詞が国書刊行会本では『「是(これ)は此(この)上三かい淵と云所(いふところ)と、此落合とに住(すむ)(ぬし)主成(なり)」と云(いふ)』で切れて、此川以下は筆者の添え辞となっている。どうもその方が正しいように思われる。その場合なら、「磧礫」は「セキレキ」と音読みしたい。この語の使用が里俗の言にしてはちょっと気になったので訓じておいたからである。

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