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« 三州奇談卷之二 水嶋の水獸 | トップページ | 石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二 »

2020/02/18

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。……正直……この数週間……自分の誕生日さえも含めて……嬉しいことは一つもなく痙攣的に厭なことしかなかった……今も憂鬱であり……今後も恐らくはそうであろう……ともかくも……これをアップするためだけに今日は頑張った……とだけ言っておく…………

 

     忘れがたき人人

 

    

 

潮(しほ)かをる北(きた)の濱邊(はまべ)の

砂山(すなやま)のかの濱薔薇(はまばら)よ

今年(ことし)も咲(さ)けるや

 

 潮かをる北の濱邊の

 砂山のかの濱薔薇よ

 今年も咲けるや

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、やはりロケーションは啄木が愛した北海道函館市大森町の大森海岸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の砂山である。

「濱薔薇」バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節ハマナス Rosa rugosa の異名の一つ。漢字表記では「浜茄子」「浜梨」の他、漢名「玫瑰」もよく用いられる。初夏から夏季中に赤い花(稀に白花)を咲かせる。]

 

 

たのみつる年(とし)の若(わか)さを數(かぞ)へみて

指(ゆび)を見(み)つめて

旅(たび)がいやになりき

 

 たのみつる年の若さを數へみて

 指を見つめて

 旅がいやになりき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月九日附『東京朝日新聞』。初出形は、

 たのみつる我の若さも漸くにたのみ少なし旅がいやになりぬ

で、『この初出歌から』、『たのみの少ない「我が若さ」が旅』(転々とする彷徨生活)『がいやになった原因であることがわかる。この年』(発表時)『啄木二十五歳。』(数え)『北海道へ渡ったのはその三年前の二十二歳のことである』とある。]

 

 

三度(さんど)ほど

汽車(きしや)の窓(まど)よりながめたる町(まち)の名(な)なども

したしかりけり

 

 三度ほど

 汽車の窓よりながめたる町の名なども

 

 したしかりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『渡道の途中』、『汽車の窓より眺めた東北本線の沿線の町の回想。今井泰子氏も「歌の配置された位置からみえ、この『町の名』は好摩(こうま)以北の東北線沿線の町。啄木には四十年の北海道移住以前に二度』『の渡道経験がある』(「二度」とは明治三七(一九〇四)年秋と明治三九(一九〇六)年春のこと)」と述べている、とある。]

 

 

凾館(はこだて)の床屋(とこや)の弟子(でし)を

おもひ出(い)でぬ

耳(みみ)剃(そ)らせるがこころよかりし

 

 凾館の床屋の弟子を

 おもひ出でぬ

 耳剃らせるがこころよかりし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、宮崎郁雨氏の「函館の砂――啄木の歌と私と」によれば、函館山の麓の現在の函館市谷地頭町(やちがしらちょう)にあった小室理髪店であるとある。個人的に私は下句が体感的に非常によく判る。そんな快感を私も中学・高校時代に高岡市伏木の理髪店で味わい、それを楽しみにしていたものだった。因みにトリビアとして言っておくと、北海道では行政区画名の「~町」は道南の北海道茅部(かやべ)郡森町(もりまち)の一箇所だけが「まち」と読み、他は総て「ちょう」と読む。]

 

 

わがあとを追(お)ひ來(き)て

知(し)れる人(ひと)もなき

邊土(へんど)に住(す)みし母(はは)と妻(つま)かな

 

 わがあとを追ひ來て

 知れる人もなき

 邊土に住みし母と妻かな

[やぶちゃん注:啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を妹光子を連れて離れ、新天地を求めて五月五日に函館に到着(この時は母は渋民の知人宅へ、妻子は盛岡の実家に寄せさせた。なお、次の歌はその時の津軽海峡上での追懐である)、短歌雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』(宮崎大四郎(後の啄木上京時には啄木の家族を託され、自宅の貸家に居住させている。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイト内の宮崎の事蹟に拠った)主宰・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)発行)編集者・函館商業会議所の臨時雇いを経て、同年六月十一日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員となれたことから、七月七日に妻子が渡道、八月四日には啄木が迎えに行った母も加わって、一家五人の生活となった。]

 

 

 

船(ふね)に醉(ゑ)ひてやさしくなれる

いもうとの眼(め)見(み)ゆ

津輕(つがる)の海(うみ)を思(おも)へば

 

 船に醉ひてやさしくなれる

 いもうとの眼見ゆ

 津輕の海を思へば

 

 

目(め)を閉(と)ぢて

傷心(しやうしん)の句を誦してゐし

友(とも)の手紙(てがみ)のおどけ悲(かな)しも

 

 目を閉ぢて

 傷心の句を誦してゐし

 友の手紙のおどけ悲しも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『以下三首いずれも』青森県八戸生まれの『函館郵便局に勤務する苜蓿社同人岩崎白鯨(はくげい)(本名正(ただし))を歌えるもの。啄木と同年齢の歌才に秀でた人物であった』とある。白鯨の歌を見たいと思ったが、ネット上には見当たらない。]

 

 

をさなき時

橋の欄干に糞塗りし

話も友はかなしみてしき

 

 をさなき時

 橋の欄干に糞塗りし

 話も友はかなしみてしき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『白鯨は郷里の青森県八戸の中学校に在学中』、『裁判所判事であった父親が死んだため、中学校を退学し、以後』、『一家の支柱となって働いたが、生活は貧しく志を得ぬ不遇の日』を送っていたとある。]

 

 

おそらくは生涯(しやうがい)妻(つま)をむかへじと

わらひし友(とも)よ

今(いま)もめとらず

 

 おそらくは生涯妻をむかへじと

 わらひし友よ

 今もめとらず

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書には、『白鯨は大正三』(一九一四)『年九月五日肺結核のため結婚することなく函館で死んだ。享年二十九歳である』とある(確かに啄木と同年である)のだが、サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、詩・短歌に『すぐれた才能を持ち、『明星』『スバル』等にたくさんの作品を発表している。晩年』、『気が狂って亡くなるが、啄木の詩に影響を与えた』とあった。]

 

 

あはれかの

眼鏡(めがね)の緣(ふち)をさびしげに光(ひか)らせてゐし

女敎師(をんなけうし)よ

 

 あはれかの

 眼鏡の緣をさびしげに光らせてゐし

 女敎師よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは函館時代』の『啄木が勤務した弥生(やよい)尋常小学校の代用教員高橋すゑ(結婚後高田姓)で、宮崎郁雨も「何処となく色っぽい感じのする美しい顔と、それによく似つく金縁の眼鏡が印象的」』であった『と語っている』とある。]

 

 

友(とも)われに飯(めし)を與(あた)へき

その友(とも)に背(そむ)きし我(われ)の

性(さが)のかなしさ

 

 友われに飯を與へき

 その友に背きし我の

 性のかなしさ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『友は渡道時』、『世話になった松岡蕗堂(ろどう)、沢田天峯(てんぽう)、吉野白村(はくそん)らをさす』とある。前に示したサイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録に「吉野章三(白村)」として、当時二十七歳で、『短歌に優れたセンスを持ち』、『『明星』で活躍した。吉野の素直な歌が、啄木の歌を美文調から平易な言葉へと変えていったのではないか』とある。]

 

 

凾館(はこだて)の靑柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ

友(とも)の戀歌(こひうた)

矢(や)ぐるまの花(はな)

 

 凾館の靑柳町こそかなしけれ

 友の戀歌

 矢ぐるまの花

[やぶちゃん注:「靑柳町」明治四〇(一九〇七)年、函館に来て二ヶ月後、妻子を迎えて住んだ現在の函館市青柳町のここ。]

 

 

ふるさとの

麥(むぎ)のかをりを懷(なつ)かしむ

女(をんな)の眉(まゆ)にこころひかれき

 

 ふるさとの

 麥のかをりを懷かしむ

 女の眉にこころひかれき

 

 

あたらしき洋書(ようしよ)の紙(かみ)の

香(か)をかぎて

一途(いちづ)に金(かね)を欲(ほ)しと思(おも)ひしが

 

 あたらしき洋書の紙の

 香をかぎて

 一途に金を欲しと思ひしが

 

 

しらなみの寄(よ)せて騷(さわ)げる

凾館(はこだて)の大森濱(おほもりはま)に

思(おも)ひしことども

 

 しらなみの寄せて騷げる

 凾館の大森濱に

 思ひしことども

 

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

支那(しな)の俗歌(ぞくか)をうたひ出(い)づる

まくら時計(どけい)を愛(め)でしかなしみ

 

 朝な朝な

 支那の俗歌をうたひ出づる

 まくら時計を愛でしかなしみ

[やぶちゃん注:オルゴール附きの枕元におく置時計であろう。]

 

 

漂泊(へうはく)の愁(うれ)ひを敍(じよ)して成(な)らざりし

草稿(さうかう)の字(じ)の

讀(よみ)みがたさかな

 

 漂泊の愁ひを敍して成らざりし

 草稿の字の

 讀みがたさかな

[やぶちゃん注:初出は岩城氏の前掲書に『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号とある。

「漂泊の愁ひを敍して成らざりし」「草稿」とは、同じく岩城氏のそれによれば、『函館青柳町時代』(明治四〇(一九〇七)年七月から九月上旬)に『執筆された未完の小説「漂泊」などを念頭において作られたものであろう。このほか』『中絶』した『原稿には「札幌」「菊池君」「北海の三部」などがある』とある。「漂泊」は『紅苜蓿』明治四十年七月号に「㈠」が発表されただけで、「㈡」から「㈣」は未発表で未完の函館を舞台とした小説。「札幌」は明治四十一年八月稿の実体験を擬した未完小説、「菊池君」も明治四十一年五月稿の「札幌」と同じような体裁の未完小説で、「北海の三部」は明治四十一年五月六日起稿で未完の評論的随想である。]

 

 

いくたびか死(し)なむとしては

死(し)なざりし

わが來(こ)しかたのをかしく悲(かな)し

 

 いくたびか死なむとしては

 死なざりし

 わが來しかたのをかしく悲し

[やぶちゃん注:自殺願望の告白。岩城氏前掲書によれば、この『東京時代に書いた「彼の日記の一節」と題する断片にも自殺を暗示するくだりがあるので、啄木は函館時代から東京時代にかけてたえず死の誘惑にかられていたことがわかる』とある。「彼の日記の一節」小説の構想メモ風のもので大半が英語表記で、登場人物のイニシャルや英語の詩のようなパラグラフと作品内ロケーションかと思われる地図のみの破片であるが、冒頭に、

   *

 人は唯才のある、氣の輕い愉快な男とみられてゐて、突然自殺した男の遺した日記の一節――

   *

とのみ、日本語で書かれてある(引用は筑摩版全集第三巻をもとに漢字を正字化して示した)のを岩城氏は指しているのであろう。]

 

 

凾館(はこだて)の臥牛(ぐわぎう)の山(やま)の半腹(はんぷく)の

碑(ひ)の漢詩(からうた)も

なかば忘(わす)れぬ

 

 凾館の臥牛の山の半腹の

 碑の漢詩も

 なかば忘れぬ

[やぶちゃん注:「臥牛の山」が寝そべったような山様による函館山(標高三百三十四メートル・周囲約九キロメートル)の別名。

「碑」戊辰戦争の特に箱館戦争に於ける旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑「碧血碑」(へきけつひ)。函館山に明治八(一八七五)年五月に建立されたもの。土方歳三や中島三郎助などを始めとする約八百名の戦死者を弔うもの。ウィキの「碧血碑」によれば、「碧血」とは「荘子」の「外物篇」にある「萇弘(ちやうこう)は蜀に死す。其の血を藏すること三年にして、化して碧と爲(な)る」(萇弘死于蜀、藏其血三年而化爲碧)から『来ており、忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で宝石の碧玉と化すという伝説にちなむ』(萇弘は周の楽官であったが、主君を諌めて追放され、郷里の蜀に戻った後、自刃した。蜀の民が哀れに思い、その血を器に入れておいたところ、三年後、それが美しい碧玉になったという故事で、そこから「極めて強い忠誠心」「碧血丹心」(へきけつたんしん)という成句が生まれた。「碧」は「青」、「丹心」は「真心」の意)。高さ約六メートルで、『碑石は伊豆産の石を使い、東京霊岸島で造り、海路運搬された』。『碑石の文字は大鳥圭介』(元幕臣で教育者・外交官)『のものだと言われるが定かではない』。『碧血碑の裏側には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」との文字が刻まれている。これは、「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読』む。「厥の」は指示語で「その」。明治二年己巳(つちのとみ)年(一八六九)年。但し、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)までは本邦では旧暦が使用された)は『箱館戦争で五稜郭の旧幕府軍が降伏し』(明治二年五月十八日(一八六九年六月二十七日))『戊辰戦争が終結した年であるが、建立当時でも』、『そうした経緯に具体的に触れることがはばかられていたことが推測される表現となっている』。『箱館・五稜郭の防衛戦で、賊軍とされた旧幕府軍戦死者の遺体は戦闘終結後も埋葬が許されず、斃れた場所に腐敗するまま放置された。哀れに思った箱館の侠客柳川熊吉は遺体を回収して埋葬しようとした。実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し、子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。柳川熊吉は』安政三(一八五六)年に『江戸から箱館へ渡り、請負(人材派遣)業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者の供給に貢献した人物』で、『榎本武揚ら幕臣とも交流を持っていた』。『賊軍の慰霊を行ってはならないとの明治政府からの命令に反した熊吉は追及を受けたが、熊吉の堂々とした態度に官吏は埋葬を黙認したという。また、新政府軍の薩摩藩士・田島圭蔵は、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせ、熊吉は無罪釈放となった』。二年後の明治四年、『熊吉は函館山の土地を買い、そこに箱館戦争戦死者を実行寺より改葬した』。明治七(一八七四)年八月十八日になって、やっと『明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可すると、箱館戦争の生き残りである榎本武揚、大鳥圭介らが熊吉と協力して』、明治八年五月に『この碧血碑を建立した』という経緯がある。『晩年の熊吉は、碧血碑の傍で余生を過ごしながら、大正』二(一九一三)年、八十九歳で『生涯を閉じた。同年、熊吉』八十八『歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、碧血碑の側に碑を建てている』。『現代においては、箱館五稜郭祭などに際して碑前で慰霊祭が行われている』とある。但し、ここでは漢詩と言っているので、この碑文の文字ではなく、その「碧血碑」の前にある、小さな碑、

のそれを指す。この碑は明治初期の外交官で、後の元老院議官・貴族院議員などを歷任した官僚宮本小一(こいち(おかず)  天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年:号は鴨北(こうほく))が明治三四(一九〇一)年八月に本碑を訪れた際に詠じた七絶で、

 戰骨全收海勢移

 紛華誰復記當時

 鯨風鰐雨凾山夕

 宿草茫々碧血碑

である。訓読は幾つかのものがネットに掲げられてあるが、納得出来ない部分があるので、自然流で示すと、

 戰骨 全(すべ)て收め 海勢 移る

 紛華 誰(たれ)か復た當時を記(しる)せん

 鯨風 鰐雨(がくう) 凾山(かんざん)の夕べ

 宿草 茫々たり 碧血の碑

「海勢」は社会情勢の換喩であろう。「紛華」華麗な詩文。文華。「鰐雨」吹き荒ぶ雨。「宿草」冬には地上部位が枯れて地下部分が休眠状態で越冬し、春に再び生長開花する多年草。「道南ブロック博物館施設等連絡協議会」公式サイト内のこちらで画像が見られる。]

 

 

むやむやと

口(くち)の中(なか)にてたふとげの事(こと)を呟(つぶや)く

乞食(こじき)もありき

 

 むやむやと

 口の中にてたふとげの事を呟く

 乞食もありき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『この歌は明治末年から大正にかけて函館市内を徘徊した乞食万平(本名矢野万平)を歌ったもの。啄木はこの乞食に関心をもち、函館大火後』(明治四〇(一九〇七)年八月二十五日)『友人の大島経男に宛てた明治四十年八月二十九日の書簡にもこの万平の消息を記している』とある。当該書簡の追伸で啄木が万平の棲み処かであるが臥竜窟が焼け、見舞いに行ったところ、焼け跡から何やらん拾っていた、とある。焼け出された乞食を見舞う詩人とは正統に風狂ではないか。]

 

 

とるに足(た)らぬ男(をこと)と思(おも)へと言(い)ふごとく

山(やま)に入(い)りにき

神(かみ)のごとき友(とも)

 

 とるに足らぬ男と思へと言ふごとく

 山に入りにき

 神のごとき友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『函館時代交友のあった苜蓿社主筆大島経男を歌えるもの。大島は流人(るじん)または野百合と称し、啄木が渡道した当時』、『私立靖和(せいわ)女学校の国語教師をしていたが、教え子石田松江との恋愛結婚の破綻から教職を辞し、郷里の北海道日高国(ひだかのくに)静内(しずない)の山中に隠棲してしまった。「神のごとき友」というのは』、『この大島の出所進退があまりにも自己にきびしく、敬虔なクリスチャンにふさわしい態度であったので』、『かく歌ったのである』とある。サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、大島は『啄木が生涯』に於いて『「先生」と呼んだ』『二人』の内の一人で、『一人は森鴎外、もう一人が大嶋だった。わずか数カ月の触れ合いだが大きな影響を持った』とある(ここでは「大島」ではなく「大嶋」とある)。]

 

 

卷煙草(まきたばこ)口(くち)にくはへて

浪(なみ)あらき

磯(いそ)の夜霧(よぎり)に立(た)ちし女(をんな)よ

 

 卷煙草口にくはへて

 浪あらき

 磯の夜霧に立ちし女よ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、ロケーションは大森海岸で、明治四三(一九一〇)年六月十三日本郷発信の岩崎正宛書簡の中で、如何にもこのシチュエーションらしい追懐を述べている(筑摩版全集第七巻の書簡を参考に漢字を正字化して示した)。

   *

僕が海といふものと親しんだのは、実に靑柳町の九十日間だけであつた。嵐のあとの濡砂の上を步いたこともあつた。塩水に身を浸してもみた。秋近い瓦斯(ガス)が深く海面を罩めて[やぶちゃん注:「こめて」。]、ガスの灰色の中から白浪の崩れて來るのを眺めながら、卷煙草を吸ふ女の背後から近づいて來るのを感じたこともあつた。

   *

岩城氏は続けて、『モデルは万歳という芸者で松岡蕗堂のなじみであった』とされる。(蕗堂は前の注で既出)。]

 

 

演習(えんしふ)のひまにわざわざ

汽車(きしやに乘(の)りて

訪(と)ひ來(き)し友(とも)とのめる酒(さけ)かな

 

 演習のひまにわざわざ

 汽車に乘りて

 訪ひ來し友とのめる酒かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、訪ねに来てくれた「友」は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人の歌人宮崎郁雨(明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年:啄木より一つ年上)で、『郁雨は当時』、『勤務召集で見習士官として旭川の連隊にあったが、機動演習ので江別(えべつ)まで来たとき、小樽に移住した』(明治四〇(一九〇七)年九月二十七日)『啄木の身を案じて』同『年十月十二日』、『小樽花園町に啄木夫妻を訪ね』て呉れた折りの追懐である。本書冒頭の自序で献辞されており、既注であるが、簡単に再掲しておくと、郁雨は雅号。本名は大四郎。明治四十年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。この時は軍人であったが、啄木の死後、家業の味噌醤油醸造業を継いだ。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後(実は、その直前に妻節子に対する不倫の猜疑を啄木からかけられて絶交されてしまっていた(既注)のは不幸な出来事であった)も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたい。続く二首も彼を詠んだもの。]

 

 

大川(おほかは)の水(みづ)の面(おもて)を見(み)るごとに

郁雨(いくう)よ

君(き)のなやみを思(おも)ふ

 

 大川の水の面を見るごとに

 郁雨よ

 君のなやみを思ふ

[やぶちゃん注:これは恐らく郁雨が啄木の妻節子の妹堀合ふき子と結婚する以前の彼の憂愁を、遠い東京で一人暮らしをしている啄木が遙かに時間を遡って追想したものである。

「大川」隅田川。]

 

 

智慧(ちゑ)とその深(ふか)き慈悲(じひ)とを

もちあぐみ

爲(な)すこともなく友(とも)は遊(あそ)べり

 

 智慧とその深き慈悲とを

 もちあぐみ

 爲すこともなく友は遊べり

 

 

こころざし得(え)ぬ人人(ひとびと)の

あつまりて酒(さけ)のむ場所(ばしよ)が

我(わ)が家(いへ)なりしかな

 

 こころざし得ぬ人人の

 あつまりて酒のむ場所が

 我が家なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、函館青柳町時代の追想歌で、「人々」は苜蓿社同人らとされる。]

 

 

かなしめば高く笑ひき

酒をもて

悶を解すといふ年上の友

 

 かなしめば高(たか)く笑(わら)ひき

 酒(さけ)をもて

 悶(もん)を解(げ)すといふ年上(としうへ)の友(とも)

[やぶちゃん注:

「悶を解す」憂いを銷(け)す。]

 

 

若(わか)くして

數人(すにん)の父(ちち)となりし友(とも)

子(こ)なきがごとく醉(ゑ)へばうたひき

 

 若くして

 數人の父となりし友

 子なきがごとく醉へばうたひき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、モデルは吉野白村(章三)。彼の『妻ていは函館区立宝高等小学校訓導で、いわゆる共稼ぎであったが、長男真一、母きよの、弟喜代志、友八、妹きよ、ときよの八人家族であったから経済的には苦しかった。この一首は当時二十七歳の白村にたくさんの子がいたという意味ではなく、家族の事情から若くして一家の支柱となり四人の弟妹を扶養して、その父親代わりとなって働かねばならないこの友人の不幸な境遇を歌ったものである』とある。「国立国会図書館」公式サイト内の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、彼は『宮城県柴田郡舟岡村出身』で、明治一四(一八八一)年生まれで啄木より五歳年長で、大正七(一九一八)年胸部疾患で享年三十八歳で亡くなった。『啄木が函館に来て初めて出逢った文学人であり、函館東川小学校の教員をしていた。苜蓿社の主要メンバーの』一人で、『啄木は函館滞在時は白村と度々逢っていたほか、釧路にやってきてからも白村を釧路に呼ぼうと考えていたなど、白村の人柄を大変気に入っていた。それは啄木が釧路に滞在していた間には叶わず、白村は』明治四一(一九〇八)年八月十七日に『函館東川小学校から釧路天寧小学校』『校長として赴任』したものの、その前年に『啄木は既に上京して』しまっていた。『校長として赴任したが、実際は生活が苦しく』、『後に退職し、釧路運輸事務局に勤め』、『生涯をそこで務め』て当地で没した、とある。]

 

 

さりげなき高(たか)き笑(わら)ひが

酒(さけ)とともに

我(わ)が膓(はらわた)に沁(し)みにけらしな

 

 さりげなき高き笑ひが

 酒とともに

 我が膓に沁みにけらしな

 

 

呿呻(あくび)嚙(か)み

夜汽車(おぎしや)の窓(まど)に別(わか)れたる

別(わか)れが今(いま)は物足(ものた)らぬかな

 

 呿呻嚙み

 夜汽車の窓に別れたる

 別れが今は物足らぬかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四〇(一九〇七)年九月十三日の追懐。全集年譜(同岩城氏編)によれば、弥生小学校代用教員を辞した彼は、日刊紙『北門(ほくもん)新報』に校正係として就職するため、函館を去って札幌に向かった。]

 

 

雨(あめ)に濡(ぬ)れし夜汽車(よぎしや)の窓(まど)に

映(うつ)りたる

山間(やまあひ)の町(まち)のともしびの色(いろ)

 

 雨に濡れし夜汽車の窓に

 映りたる

 山間の町のともしびの色

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前の歌と同日のもので、函館と小樽間の車窓景の追懐とする。年譜によれば、啄木は翌日に小樽で途中下車し、姉夫妻山本千三郎とトラの家を訪ねている。以下の二首も同じ。]

 

 

雨(あめ)つよく降(ふ)る夜(よ)の汽車(きしや)の

たえまなく雫(しづく)流(なが)るる

窓硝子(まどカラス)かな

 

 雨つよく降る夜の汽車の

 たえまなく雫流るる

 窓硝子かな

 

 

眞夜中(まよなか)の

倶知安驛(くちあんえき)に下(お)りゆきし

女(をんな)の鬢(びん)の古(ふる)き痍(きず)あと

 

 眞夜中の

 倶知安驛に下りゆきし

 女の鬢の古き痍あと

[やぶちゃん注:「倶知安驛」現在の北海道虻田郡倶知安町にある函館本線倶知安駅(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この三年前の明治三七(一九〇四)年十月に北海道鉄道(初代。現在の函館本線)の駅として開設されたばかりの駅であった。なお、「くっちゃん」という地名由来は諸説あって不明であるが、それらがウィキの「倶知安町」に掲げられてあるので見られたい。]

 

 

札幌に

かの秋われの持てゆきし

しかして今も持てるかなしみ

 

 札幌(さつぽろ)に

 かの秋(あき)われの持(も)てゆきし

 しかして今(いま)も持(も)てるかなしみ

 

 

アカシヤの街(まち)にポプラに

秋(あき)の風(かぜ)

吹(ふ)くがかなしと日記(にき)に殘(のこ)れり

 

 アカシヤの街にポプラに

 秋の風

 吹くがかなしと日記に殘れり

[やぶちゃん注:年譜によれば、実は札幌の『北門新報』での勤務は九月十六日から二十七日と短く、この十七日には辞職して小樽日報社へ赴任している。即ち、札幌滞在(到着は九月十四日)は僅か十四日間であった。

「アカシヤ」マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ(針槐)属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia。別名「ニセアカシア」で北アメリカ原産。日本には明治六(一八七三)年に導入された。熱帯・温帯產の種群である真正のマメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia とは全くの別種であり、こちらは日本では関東以北では栽培が困難である種群が多く、北海道のものは総て前者とされる。

「ポプラ」ヨーロッパ原産キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパクロポプラ Populus nigra。別名をヨーロッパクロヤマナラシとも呼ぶ。日本にはやはり明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた。]

 

 

しんとして幅廣(はばひろ)き街(まち)の

秋(あき)の夜(よ)の

玉蜀黍(たうもろこし)の燒(や)くるにほひよ

 

 しんとして幅廣き街の

 秋の夜の

 玉蜀黍の燒くるにほひよ

 

 

わが宿(やど)の姉(あね)と妹(いもと)のいさかひに

初夜(しよや)過(す)ぎゆきし

札幌(さつぽろ)の雨(あめ)

 

 わが宿の姉と妹のいさかひに

 初夜過ぎゆきし

 札幌の雨

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、この時の宿は『札幌市北七条四丁目四番地の田中サトという未亡人の下宿屋で』、この姉妹は『十八歳になる姉のヒサと十二歳になる妹英(ひで)である』とある。ここで現在の札幌駅のごく直近である。]

 

 

石狩(いしかり)の美國(びくに)といへる停車場(ていしやば)の

栅(さく)に乾(ほ)してありし

赤(あか)き布片(きれ)かな

 

 石狩の美國といへる停車場の

 栅に乾してありし

 赤き布片かな

[やぶちゃん注:「美國」岩城氏前掲書に、これは「美唄(びばい)」或いは「美瑛(びえい)」の『記憶の誤りであろう』とされ、『美国という地名は石狩地方にはなく』、『後志(しりべし)地方にある』(北海道積丹郡積丹町大字美国(びくに)町)『が、明治四十』(一九〇七)『年当時はもとより現在に至る』まで『駅はない』(しかも方角が全くおかしい)。『したがって』、『この歌は第一句の「石狩の」から考えて啄木が釧路赴任』(小樽日報社内の内紛で事務長に暴力を振るわれ、怒った啄木は明治四十年十二月二十一日に退社し、翌明治四十一年一月、釧路新聞社に入社し、同月十九日に単身赴任で小樽を出発、翌二十日に釧路に着いている)『の途中に通』った『美唄駅か美瑛駅と考えたい』とある。当時、札幌から釧路に行くには函館本線をさらに北上して旭川まで行き、そこから十勝線(現在の富良野線)で南東へ下って行くという大きく北に迂回するルートしかなかった。

「赤き布片」所謂「赤ゲット」であろう。サイト「AKARENGA」のこちらに、『明治初期、政府は軍隊用にイギリスから赤い毛布を大量に輸入します。毛布はその後』、『民間に払い下げられ、さまざまな形で利用されました。「赤いブランケット」から通称「赤ゲット」と呼ばれ、赤地に数本の黒い筋を入れたものが多く、旭川や札幌などの呉服店で売られたほか、農村漁村では行商が販売しました』。『当時はそのまま身にまとうほか』、外套に『仕立てたり、脚絆(きゃはん)や手袋を作ったり、端切れはツマゴ(ワラ製の深靴)をはくときに足に巻くなど、人びとの生活に浸透していきます。明治』二十〜三十『年代には東北や北海道からこれを着て上京する人が多かったため、赤ゲットが「田舎者」とか「おのぼりさん」の代名詞になったほどです』とあり、写真もある。元軍隊用であったとは知らなかった。]

 

 

かなしきは小樽(をたる)の町(まち)よ

歌(うた)ふことなき人人(ひとびと)の

聲(こゑ)の荒(あら)さよ

 

 かなしきは小樽の町よ

 歌ふことなき人人の

 聲の荒さよ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書を参考にすると、これは啄木の「明治四十年丁未日誌」の十二月二十七日に、当時、親交のあった啄木をして「快男児」と言わしめたという、『函館日日新聞』主筆斎藤大硯(たいけん 明治三(一八七〇)年~昭和六(一九三一)年:本名は哲郎。啄木より十六年上。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらを参照されたい)が訪れた際の談話が素材とある。以下にその日の日記の冒頭を示す(例の仕儀で正字化した)。

   *

十二月二十七日

 大硯君來り談ず。君も浪人なり、予も浪人なり、共に之天が下に墳墓の地を見出さざる不遇の浪人なり。二人よく世を觀る、大いに罵りて哄笑屋を搖がさむとす。「歌はざる小樽人」とは此日大硯君が下したる小樽人の頌辭なり。淵明は酒に隱れき、我等は哄笑に隱れむとするか。世を罵るは軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]自らを罵るものならざらむや。

   *

「頌辭」(しようじ(しょうじ))は通常は功績を褒め讃える言葉であるが、ここは多分にアイロニカルでもある。]

 

 

泣(な)くがごと首(くび)ふるはせて

手(て)の相(さう)を見(み)せよといひし

易者(えきしや)もありき

 

 泣くがごと首ふるはせて

 手の相を見せよといひし

 易者もありき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『啄木が小樽時代』に『間借した花園町』(ここ)『十四番地の』煎餅屋の『二階には』、襖『一枚へだてて天口堂海老名(えびな)又一郎という易者が住んでいた』とある(彼の名は日記にも登場する)。とすれば、このシークエンスは戸外の辻占ではない可能性が高い。]

 

 

いささかの錢借(ぜにか)りてゆきし

わが友(とも)の

後姿(うしろすがた)の肩(かた)の雪(ゆき)かな

 

 いささかの錢借りてゆきし

 わが友の

 後姿の肩の雪かな

[やぶちゃん注:かの借金の達人啄木に金を借りるというのは凄い。いや、寧ろ、その友の後ろ姿の寂寥に借金だらけの自身の後ろ姿を投影していると読むのが正しかろう。]

 

 

世(よ)わたりの拙(つたな)きことを

ひそかにも

誇(ほこ)りとしたる我(われ)にやはあらぬ

 

 世わたりの拙きことを

 ひそかにも

 誇りとしたる我にやはあらぬ

[やぶちゃん注:最後は否定形の反語で、強い肯定である。]

 

 

汝(な)が瘦(や)せしからだはすべて

謀叛氣(むほんぎ)のかたまりなりと

いはれてしこと

 

 汝が瘦せしからだはすべて

 謀叛氣のかたまりなりと

 いはれてしこと

[やぶちゃん注:ただ読むと啄木の自虐的な感懐のように見えるが、岩城氏の前掲書を見ると、全く違う。これは小樽日報社内での内紛の前期を素材としたもので、歌われたのは排斥(啄木は排斥派)されて辞任に追い込まれた主筆の岩泉江東(泰)とその一派に対する辛口評であるらしい。沢田信太郎氏の「啄木散華―北海同時代の回顧録―」の「二」がそれを詳細に伝えている。なお、後の社内紛争の展開で啄木が辞任する至る部分は、同じ沢田氏のそれの「三」に詳しいので、そちらも参照されたい。]

 

 

かの年(とし)のかの新聞(しんぶん)の

初雪(はつゆき)の記事(きじ)を書(か)きしは

我(われ)なりしかな

 

 かの年のかの新聞の

 初雪の記事を書きしは

 我なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、これは明治四〇(一九〇七)年十月二十七日附『小樽日報』第六号に啄木が書いた記事「昨朝の初雪」であるとされる。筑摩版全集第八巻所収の「小樽のかたみ」パートにある当該記事を参考に、例の仕儀で示す。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 

 昨朝の初雪

 

 名にし負ふ蝦夷(えぞ)が島根の紅葉時(もみぢどき)も老(ふ)け初めて、朝な朝なに顏洗ふ水の冷たさ、井戸端に散り布(し)く落葉に霜重くて、於古發(おこばち)川の濁水もどうやら流れゆく秋の聲爽かになりし此頃の天候、一昨日(をとゝひ)よりメツキリと寒さ募りて、冬衣(ふゆぎ)の仕度出來ぬ人は肩をすぼめて水鼻垂らす不風流も演じけらし。寒い寒いと喞(かこ)ちながら寢入りし其夜は明けて、雪が雪がと子供の騷ぐ聲に目をさませる。昨日の朝楊子くはへて障子綱目に開け見れば、成程白いものチラチラと街ゆく人の背を打ちて、黑綾の被布(コート)に焦茶の肩掛(シヨール)昨日よりは殊更目に立ちて見えぬ。道路にはまだ流石に積る程でもなけれど、四方(よも)の山々は紅葉と雪のだんだら染、内地では見られぬ景色と見惚(みと)れしが、由來風流は寒いものと寢卷姿の襟を押へて逃げ込み、斑(まだ)らの雪に兎の足跡追ふて今朝獵夫(かりうど)の山路に入りつらむなど想ひつづけぬ。編輯局も昨日よりは筆の暇々大火鉢の傍賑はひて、晝頃の大霙(おほみぞれ)に窓の目貼りを建議したる人もありし。

   *]

 

 

椅子いす)をもて我(われ)を擊(う)たむと身構(みがま)へし

かの友(とも)の醉(ゑ)ひも

今(いま)は醒(さ)めつらむ

 

 椅子をもて我を擊たむと身構へし

 かの友の醉ひも

 今は醒めつらむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、以下五首は先にも注した、啄木が小樽日報社を辞任する動機となった、同社事務長小林(後に中野姓となる)寅吉との諍(いさか)いを歌ったものとする。「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、彼は会津出身とある。それによれば、彼は後、憲政会の衆議院議員を経て、晩年、会津の『法用寺の住職となった』とある。]

 

 

負(ま)けたるも我(われ)にてありき

あらそひの因(もと)も我(われ)なりしと

今(いま)は思(おも)へり

 

 負けたるも我にてありき

 あらそひの因も我なりしと

 今は思へり

[やぶちゃん注:確かに、新谷保人氏のサイト「人間像ライブラリー」のこちら(「小樽の街を歩こう 第十回」(『短大図書館だより』二〇〇一年十二月号)の記事によれば、直接の原因は啄木の側に非があるようである。『無断欠勤していた』啄木が『夕方』になってから『社に出て』来たのを『事務長』の彼が『見とがめ』、『口論になり、激怒した事務長が』彼を『殴ってしまった』とあるからである。]

 

毆(なぐ)らむといふに

毆(なぐ)れとつめよせし

昔(むかし)の我(われ)のいとほしきかな

 

 毆らむといふに

 毆れとつめよせし

 昔の我のいとほしきかな

 

 

汝(なれ)三度(さんど)

この咽喉(のど)に劍(けん)を擬(ぎ)したりと

彼(かれ)告別(こくべつ)の辭(じ)に言(い)へりけり

 

 汝三度

 この咽喉に劍を擬したりと

 彼告別の辭に言へりけり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『従来この歌は』紛争の前期に辞任した『主筆の岩泉江東を詠めるものとされているが、歌集の順序からいってやはり小林寅吉を歌えるものであろう。小林は東京専門学校の出身で、以前に啄木の義兄山本千三郎の下で小樽駅助役をしていたので、啄木がなにかにつけて』、『義兄のもとの部下といった態度で接したので』、『反感をかったのである』とある。因みに、前の歌の評釈で岩城氏は『小林事務長もまもなく』この暴力事件の『責任をとって辞任し、明治四十一』(一九〇八)『年六月』、『北海道庁衛生部の警部となった』とあるから、ここは当時既に東京にあった啄木が人伝てにその告別の挨拶の話を聴いたものと思われる。]

 

あらそひて

いたく憎(にく)みて別(わか)れたる

友(とも)をなつかしく思(おも)ふ日(ひ)も來(き)ぬ

 

 あらそひて

 いたく憎みて別れたる

 友をなつかしく思ふ日も來ぬ

 

 

あはれかの眉(まゆ)の秀(ひい)でし少年(せうねん)よ

弟(おとうおと)と呼(よ)べば

はつかに笑(ゑ)みしが

 

 あはれかの眉の秀でし少年よ

 弟と呼べば

 はつかに笑みしが

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代交遊のあった文学少年高田紅果(こうか)(本名治作)を歌えるもの。紅果が啄木を訪ねてその指導を受けたのは十七歳のときで、短い期間であったが』、『啄木に接したことは生涯の思い出になった』とある。]

 

 

わが妻(つま)に着物(きもの)縫(ぬ)はせし友(とも)ありし

冬(ふゆ)早(はや)く來(く)る

植民地(しよくみんち)かな

 

 わが妻に着物縫はせし友ありし

 冬早く來る

 植民地かな

[やぶちゃん注:「植民地」北海道(小樽)のことを指す。]

 

 

平手(ひらて)もて

吹雪(ふぶき)にぬれし顏(かほ)を拭(ふ)く

友(とも)共產(きようさん)を主義(しゆぎ)とせりけり

 

 平手もて

 吹雪にぬれし顏を拭く

 友共產を主義とせりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『北門新報』の『記者小国露堂(ろど)(本名善平)を歌ったものであろう。小国は』同日報の『創刊にあたって啄木を推挙した』とある。]

 

 

酒(さけ)のめば鬼(おに)のごとくに靑(あを)かりし

大(おほ)いなる顏(かほ)よ

かなしき顏(かほ)よ

 

 酒のめば鬼のごとくに靑かりし

 大いなる顏よ

 かなしき顏よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前に出た『函館日日新聞』主筆であった斎藤大硯であろうとされる。啄木が「快男児」と呼んだというに相応しい。次の一首も大硯を詠んだものとされる。]

 

 

樺太(からふと)に入(い)りて

新(あたら)しき宗敎(さいうけう)を創(はじ)めむといふ

友(とも)なりしかな

 

 樺太に入りて

 新しき宗敎を創めむといふ

 友なりしかな

[やぶちゃん注:斎藤大硯を詠んだもの。先に示した「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらによれば、函館の『大火で、新聞社を焼失した大硯は小樽に移り、すでに小樽に来ていた啄木と旧交をあたため』た。『かつて北方経営を夢見ていた大硯は、浪々の身を小樽で過ごしているうちに、樺太に理想郷を開拓しようと、樺太庁長官を宿に訪ねるというほどの情熱家でもあった』が、『「函館日日新聞」の再刊に際して帰函し、その後は社会事業に』携わり、『函館学生会を設けて進学生を援助し、教育会、図書館、函館慈恵院などにも尽力し、函館慈恵院の主事から常務理事を務めた』とある。]

 

 

治(をさ)まれる世(よ)の事無(ことな)さに

飽(あ)きたりといひし頃(ころ)こそ

かなしかりけれ

 

 治まれる世の事無さに

 飽きたりといひし頃こそ

 かなしかりけれ

 

 

共同(きようどう)の藥屋(くすりや)開(ひら)き

儲(まう)けむといふ友(とも)なりき

詐欺(さぎ)せしといふ

 

 共同の藥屋開き

 儲けむといふ友なりき

 詐欺せしといふ

 

 

あをじろき頰(ほほ)に淚(なみだ)を光(ひか)らせて

死(し)をば語(かた)りき

若(わか)き商人(あきびと)

 

 あをじろき頰に淚を光らせて

 死をば語りき

 若き商人

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代』、先に詠まれた『紅果と』ともに『啄木の指導を受けた文学少年藤田武治(たけじ)(本名南洋)を歌えるもの。当時』、『藤田は市内の雑貨問屋浜名商会に店員見習として勤務していた』とされ、これは啄木の日記により、明治四〇(一九〇七)年十二月二十二日の夜の啄木の部屋でのシチュエーションであるとある。そこで啄木は人生の在り方を訊ねる彼に『大に個人主義を說』いたと記している。]

 

 

子(こ)を負(お)ひて

雪(ゆき)の吹(ふ)き入(い)る停車場(ていしやば)に

われ見送(みおく)りし妻(つま)の眉(まゆ)かな

 

 子を負ひて

 雪の吹き入る停車場に

 われ見送りし妻の眉かな

[やぶちゃん注:これは岩城氏の前掲書によれば、先に注した釧路への単身赴任の当日の景。明治四一(一九〇八)年一月十九日。]

 

 

敵(てき)として憎(にく)みし友(とも)と

やや長(なが)く手(て)をば握(にぎ)りき

わかれといふに

 

 敵として憎みし友と

 やや長く手をば握りき

 わかれといふに

[やぶちゃん注:相手は小林寅吉と考えられている。但し、「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、国際啄木学会評議員三留昭男氏の話として、中野(旧姓小林)寅吉は『「反骨、実直な努力力行型の熱血漢」』であったとし、『その熱血漢を』時間経た後、『啄木は情感を込めて歌った。ただ』、『三留さんは、別れの握手は啄木が複雑な胸中を再構成したフィクションと』断定されておられるそうだ。しかし、そうだろうか? この歌をここに挟み込むというのは、虚構としては唐突に過ぎる気がする。意想外に寅吉が駅頭に秘かに見送りに来たのを見つけた啄木が、思わず走り寄って、別れの握手を交わしたとしてそれは決して不思議ではない。いや、寧ろ直情径行の熱血漢であると同時に、「直き心」の持ち主であったように思われる寅吉にして、これは十分にあり得ることである。でなくて、一連の歌で寅吉を終始「友」と呼ばうはずはないと私は思うのである。さればこそこれをフィクションと片付けるのには強い抵抗を覚えるのである。]

 

 

ゆるぎ出(い)づる汽車(きしや)の窓(まど)より

人先(ひとさき)に顏(かほ)を引(ひ)きしも

負(ま)けざらむため

 

 ゆるぎ出づる汽車の窓より

 人先に顏を引きしも

 負けざらむため

 

 

みぞれ降(ふ)る

石狩(いしかり)の野(の)の汽車(きしや)に讀(よ)みし

ツルゲエネフの物語(ものがたり)かな

 

 みぞれ降る

 石狩の野の汽車に讀みし

 ツルゲエネフの物語かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽出発後』、『札幌をへて岩見沢』(ここ。ここで啄木は途中下車して姉トラの家に一泊している。当時、義兄山本千太郎は岩見沢駅駅長をしていたのであった)『に至る旅行中の思い出を詠めるもの』とある。

「ツルゲエネフの物語」私の偏愛するイワン・セルゲーエヴィチ・トゥルゲーネフ(Ивáн Сергéевич Тургéнев/ラテン文字転写:Ivan Sergeevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)の、中でも「猟人日記」(Записки охотника)であって欲しいと感ずる。私は自身のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で「猟人日記」中の十二篇と彼の「散文詩」全篇の邦訳を電子化注している。また、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」でも多数の邦訳を公開している。]

 

 

わが去(さ)れる後(のち)の噂(うはさ)を

おもひやる旅出(たびで)はかなし

死(し)ににゆくごと

 

 わが去れる後の噂を

 おもひやる旅出はかなし

 死ににゆくごと

 

 

わかれ來(き)てふと瞬(またた)けば

ゆくりなく

つめたきものの頰(ほほ)をつたへり

 

 わかれ來てふと瞬けば

 ゆくりなく

 つめたきものの頰をつたへり

 

 

忘(わす)れ來(き)し煙草(たばこ)を思(おも)ふ

ゆけどゆけど

山(やま)なほ遠(とほ)き雪(ゆき)の野(の)の汽車(きしや)

 

 忘れ來し煙草を思ふ

 ゆけどゆけど

 山なほ遠き雪の野の汽車

 

 

うす紅(あか)く雪(ゆき)に流(なが)れて

入日影(いりひかげ)

曠野(あらの)の汽車(きしや)の窓(まど)を照(てら)せり

 

 うす紅く雪に流れて

 入日影

 曠野の汽車の窓を照せり

 

 

腹(はら)すこし痛み(いた)出(い)でしを

しのびつつ

長路(ちやうろ)の汽車(きしや)にのむ煙草(たばこ)かな

 

 腹すこし痛み出でしを

 しのびつつ

 長路の汽車にのむ煙草かな

 

 

乘合(のりあひ)の砲兵士官(ほうへいしくわん)の

劍(けん)の鞘(さや)

がちやりと鳴(な)るに思(おも)ひやぶれき

 

 乘合の砲兵士官の

 劍の鞘

 がちやりと鳴るに思ひやぶれき

 

 

名(な)のみ知(し)りて緣(えん)もゆかりもなき土地(とち)の

宿屋(やどや)安(やす)けし

我(わ)が家(いへ)のごと

 

 名のみ知りて緣もゆかりもなき土地の

 宿屋安けし

 我が家のごと

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木は一月二十日午後三時十五分旭川に下車。駅前の宮越屋に投宿し』、札幌から釧路へ戻る、これから啄木が勤務することとなる『釧路新聞』社長白石義郎(次の歌で注する)と合流し、『翌二十一日午前六時半の旭川発一番の釧路行に乗った』とある。現在の旭川市宮下八丁目の「西武」のB館エレベーター入口近くの外の植込に「石川啄木宿泊の地」の表示板が建っている。サイト「啄木の息」の「啄木文学散歩 北海道:岩見沢~旭川 5」を参照されたい。]

 

 

伴(つれ)なりしかの代議士(だいぎし)の

口(くち)あける靑(あを)き寐顏(ねがほ)を

かなしと思(おも)ひき

 

 伴なりしかの代議士の

 口あける靑き寐顏を

 かなしと思ひき

[やぶちゃん注:釧路行の車内の景。

「代議士」『小樽日報』と『釧路新聞』の社長であった白石義郎(しらいしよしろう/しろいしよしお 文久元(一八六一)年~大正四(一九一五)年)。この当時は「代議士」ではなかったが、これ以前の明治三一(一八九八)年三月の第五回衆議院議員総選挙で福島県第三区から出馬して当選していたこと(後、第一次大隈内閣の北海道庁長官杉田定一の要請を受け釧路支庁長から初代釧路町長に就任し、北海道会議員などを務めた)と、本歌集「一握の砂」刊行の二年前の明治四一(一九〇八)年五月(啄木上京直後)の第十回総選挙で北海道庁根室外三支庁管内から出馬して当選し、立憲政友会に所属、衆議院議員を通算二期務めたことから、かく呼んだものである。彼は明治四〇(一九〇七)年に『小樽日報』を創刊(但し、半年後に廃刊)、同紙の初期には啄木と野口雨情が記者を務めており、啄木を『釧路新聞に移籍』させ、実質上の編集長(名目は主任)に任じたのも彼であった。以上はウィキの「白石義郎」と全集年譜に拠った。]

 

 

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

泊りし宿屋の

茶のぬるさかな

 

 今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

 泊りし宿屋の

 茶のぬるさかな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、ここを前後させて旭川の宮越屋とし、意想外に『十畳間に白石社長と共に寝』ることとなり、遂に思いを果たせなかった『やるせなさを、「宿屋の茶のぬるさ」に託して』詠んだものと解しておられる。]

 

 

水蒸氣(すゐじようき)

列車(れつしや)の窓(まど)に花(はな)のごと凍(い)てしを染(そ)むる

あかつきの色(いろ)

 

 水蒸氣

 列車の窓に花のごと凍てしを染むる

 あかつきの色

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『以下四首旭川駅出発後』、『下富良野(しもふらの)から空知川の岸辺に沿うて上る車窓の光景を歌ったもの』とされ(この付近)、明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記冒頭にも(同前の仕儀を施した)、

   *

                於釧路

午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川發に乘つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此邊が所謂最も北海道的な所だ。

   *

次の一首以降、暫く車中からの景を詠じたものが続く。]

 

 

ごおと鳴(な)る凩(こがらし)のあと

乾(かわ)きたる雪(ゆき)舞(ま)ひ立(た)ちて

林(はやし)を包(つつ)めり

 

 ごおと鳴る凩のあと

 乾きたる雪舞ひ立ちて

 林を包めり

 

 

空知川(そらちがは)雪(ゆき)に埋(うも)れて

鳥(とり)も見(み)えず

岸邊(きしべ)の林(はやし)に人(ひと)ひとりゐき

 

 空知川雪に埋れて

 鳥も見えず

 岸邊の林に人ひとりゐき

[やぶちゃん注:私の好きな作家國木田獨步の先行する小説「空知川の岸邊」(明治三五(一九〇二)年作)を想起させる(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]

 

 

寂寞(せきばく)を敵(てき)とし友(とも)とし

雪(ゆき)のなかに

長(なが)き一生(いつしやう)を送(おく)る人(ひと)もあり

 

 寂寞を敵とし友とし

 雪のなかに

 長き一生を送る人もあり

 

 

いたく汽車(きしや)に疲(つか)れて猶(なほ)も

きれぎれに思(おも)ふは

我(われ)のいとしさなりき

 

 いたく汽車に疲れて猶も

 きれぎれに思ふは

 我のいとしさなりき

 

 

うたふごと驛(えき)の名(な)呼(よ)びし

柔和(にうわ)なる

若(わか)き驛夫(えきふ)の眼(め)をも忘(わす)れず

 

 うたふごと驛の名呼びし

 柔和なる

 若き驛夫の眼をも忘れず

 

 

雪(ゆき)のなか

處處(しよしよ)に屋根(やね)見(み)えて

煙突(えんとつ)の煙(けむり)うすくも空(そら)にまよへり

 

 雪のなか

 處處に屋根見えて

 煙突の煙うすくも空にまよへり

 

 

遠(とほ)くより

笛(ふえ)ながながとひびかせて

汽車(きしや)今(いま)とある森林(しんりん)に入(い)る

 

 遠くより

 笛ながながとひびかせて

 汽車今とある森林に入る

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

日一日(ひいちにち)

汽車(きしや)のひびきに心(こころ)まかせぬ

 

 何事も思ふことなく

 日一日

 汽車のひびきに心まかせぬ

 

 

さいはての驛(えき)に下(お)り立(た)ち

雪(ゆき)あかり

さびしき町(まち)にあゆみ入(い)りにき

 

 さいはての驛に下り立ち

 雪あかり

 さびしき町にあゆみ入りにき

[やぶちゃん注:先に示した明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記の、省略した後半を見ると。釧路着は夜午後九時半で、午前零時過ぎまで、町長や道会議員と小宴となったことが記されてある。]

 

 

しらしらと氷(こほり)かがやき

千鳥(ちどり)なく

釧路(くしろ)の海(うみ)の冬(ふゆ)の月(つき)かな

 

 しらしらと氷かがやき

 千鳥なく

 釧路の海の冬の月かな

[やぶちゃん注:「千鳥」はチドリ目チドリ亜目チドリ科チドリ属コチドリ Charadrius dubius か。日本最小のチドリ類の一種で、黄色いアイリングが目立つ。「バードウォッチングパラダイス ひがし北海道 釧路」のこちらを見られたい。鳴き声はYouTube Shinji kawamura氏の「コチドリの親子」がよい(北海道ではなく、季節ももっと後)。さて、岩城氏は前掲書の評釈中で、この歌は『一般に』は『きびしい冬の釧路の海岸を歌った叙景歌として知られているが、渡り鳥の千鳥がこの釧路を訪れるのは、毎年三月中旬より四月上旬にかけてである』(上記最初のリンク先では見られる時期としては四月以降で三月はついていないが、飛来のプレととれば問題ない。後の「よりそひて/深夜の雪の中に立つ/女の右手のあたたかさかな」の私の注に引いた啄木の日記を見よ。千鳥が鳴いている。北海道ならば「三月」を「冬」と呼んでも違和感はない)。『したがってこの一首は』、その『時期の海岸を詠める歌と考えてよい』とされる。実は啄木の釧路滞在は、短かく(上司であった主筆日景安太郎に対する不満と東京での作家活動への憧れに由る)、これまた、二ヶ月半後の四月五日には函館に戻り、同月二十四日には宮崎郁雨の厚意に縋って、家族を函館に残したまま、海路で上京しているから、こ「千鳥なく」釧路の景は殆んど釧路生活最後の頃に措定出来る。]

 

 

こほりたるインクの罎(びん)を

火(ひ)に翳(かざ)し

淚(なみだ)ながれぬともしびの下(もと)

 

 こほりたるインクの罎を

 火に翳し

 淚ながれぬともしびの下

 

 

顏(かほ)とこゑ

それのみ昔(むかし)變(かは)らざる友(とも)にも會(あ)ひき

國(くに)の果(はて)にて

 

 顏とこゑ

 それのみ昔に變らざる友にも會ひき

 國の果にて

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『「友」は啄木が』嘗て『神田養精館(ようせいかん)という下宿屋で一緒だった佐藤衣川(いせん)(本名巌(いわお))で』、『釧路新聞』の『三面の記者をしていた』とある人物とする。但し、岩城氏はそれを明治三八(一九〇五)年の秋のことと指定されるのであるが、その年は節子との婚姻後、盛岡を離れていない模様でおかしい。同氏の編に成る全集年譜では、それは一年前の明治三十七年の十一月のことである(『神田区駿河台袋町八養精館』とある。入居は十一月八日、そこから牛込区に転居したのが十一月二十八日であるから、佐藤との邂逅はその閉区間となる)。

 

 

あはれかの國(くに)のはてにて

酒(さけ)のみき

かなしみの滓(をり)を啜(すす)るごとくに

 

 あはれかの國のはてにて

 酒のみき

 かなしみの滓を啜るごとくに

 

 

酒(さけ)のめば悲(かな)しみ一時(いちじ)に湧(わ)き來(く)るを

寐(ね)て夢(ゆめ)みぬを

うれしとはせし

 

 酒のめば悲しみ一時に湧き來るを

 寐て夢みぬを

 うれしとはせし

 

 

出(だ)しぬけの女(をんな)の笑(わら)ひ

身(み)に沁(し)みき

厨(くりや)に酒(さけ)の凍(こほ)る眞夜中(まよなか)

 

 出しぬけの女の笑ひ

 身に沁みき

 厨に酒の凍る眞夜中

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書は『釧路の料亭での真夜中の出来事』とする。]

 

 

わが醉(ゑ)ひに心(こころ)いためて

うたはざる女(をんな)ありしが

いかになれるや

 

 わが醉ひに心いためて

 うたはざる女ありしが

 いかになれるや

[やぶちゃん注:岩城は前掲書で、啄木は『釧路新聞』に「紅筆(べにふで)だより」と題する釧路の『花柳界の艶種(つやだし)を連載し、その取材と』『称して料亭に出入りしてい』た。最初は『芸者小静を贔屓としていたが、やがてその関心は「釧路粋界の花形小奴、市子」に移り、特に十九歳の小奴』(こやっこ:本名は近江ジン)『を愛して』、連日、料亭に繰り出していたらしい。『この一首はこれらの芸者の一人を歌ったものである』とされる。]

 

 

小奴(こやつこ)といひし女(をんな)の

やはらかき

耳朶(みみたぼ)なども忘(わす)れがたかり

 

 小奴といひし女の

 やはらかき

 耳朶なども忘れがたかり

 

 

よりそひて

深夜(しんや)の雪(ゆき)の中(なか)に立(た)つ

女(をんな)の右手(めて)のあたたかさかな

 

 よりそひて

 深夜の雪の中に立つ

女の右手のあたたかさかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四十一年三月二十日の日記から、同日の午前零時半頃で、相手は送って行く小奴である。日記より例の仕儀で引く。この時はまだ、既に啄木は釧路を離れる決心をしていないことが判る。

   *

何かは知らず身體がフラフラする。高足駄を穿いて、雪路の惡さ。手を取り合つて、埠頭の邊の濱に出た[やぶちゃん注:知人(しりと)海岸附近]。月が淡又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の緣に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーンと云ふ浪の音。幽かに千鳥の聲を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。[やぶちゃん注:一段落分中略。]

 月の影に波の音。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]忘られぬ港の景色であつた。〝妹になれ〟と自分は云つた。〝なります〟と小奴は無造作に答へた。〝何日までも忘れないで頂戴、ネ〟と云つて舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。]を離れた。步きながら、妻子が遠からず來る事を話した所が、非常に喜んで、來たら必ず遊びにゆくから仲よくさして吳れと云つた。郵便局前まで來て別れた。[やぶちゃん注:後略。]

   *

別な歌の評釈に彼女の経歴が記されてあり、それによれば、明治二三(一八九〇)年函館生まれ(啄木より四つ年下)。『十勝国大津の伯父坪松太郎の養女となって坪ジンと名乗ったが、伯父が死んだため』、『帯広の函館屋という小料理屋にあずけられ芸事を覚えた。その後釧路の近江屋旅館に再婚した母ヨリを慕ってこの地に来て、鶤寅(しゃもとら)という料亭の専属となり』、『自前で左褄をとり』、『十九歳のとき』、『啄木を知った』とある。また、彼女は『昭和四十』(一九六五)『年二月十七日』、『東京都南多摩郡多摩町の老人ホーム一望荘で』亡くなった。『享年七十六歳。「六十路(むそぢ)過ぎ十九の春をしみじみと君が歌集に残る思出」の歌がある。法名甚深院釈尼京泉』ともあった。]

 

 

死(し)にたくはないかと言(い)へば

これ見(み)よと

咽喉(のど)の痍(きず)を見(み)せし女(をんな)かな

 

 死にたくはないかと言へば

 これ見よと

 咽喉の痍を見せし女かな

 

 

藝事(げいごと)も顏(かほ)も

かれより優(すぐ)れたる

女(をんな)あしざまに我(われ)を言(い)へりとか

 

 藝事も顏も

 かれより優れたる

 女あしざまに我を言へりとか

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると「かれ」は小奴』自身で、『「かれより優れたる女」は』小奴の『姉芸者の小蝶(本名甲斐谷しも)で小奴と同じ料亭鶤寅(しゃもとら)の専属芸者。評判の芸者だった。「女あしざまに我を言へり」とある』ものの、『実際は小奴と啄木が親しくなりすぎるのを心配した忠告のようで、明治四十一年三月二十日の啄木日記にも、「〝小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪く[やぶちゃん注:「えらく」。]なる人なんだから、惚る[やぶちゃん注:「ほれる」。]のは構わないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。〟」という小奴の言葉がある』とある。]

 

 

舞(ま)へといへば立(た)ちて舞(ま)ひにき

おのづから

惡酒(あくしゆ)の醉(ゑ)ひにたふるるまでも

 

 舞へといへば立ちて舞ひにき

 おのづから

 惡酒の醉ひにたふるるまでも

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、次の二首と合わせて、これは小奴の啄木に対する純情な愛の姿を、り代わって詠んだものとされるようである。]

 

 

死(し)ぬばかり我(わ)が醉(ゑ)ふをまちて

いろいろの

かなしきことを囁(ささや)きし人(ひと)

 

 死ぬばかり我が醉ふをまちて

 いろいろの

 かなしきことを囁きし人

 

 

いかにせしと言(い)へば

あをじろき醉(ゑ)ひざめの

面(おもて)に强(し)ひて笑(ゑ)みをつくりき

 

 いかにせしと言へば

 あをじろき醉ひざめの

 面に强ひて笑みをつくりき

 

 

かなしきは

かの白玉(しらたま)のごとくなる腕(うで)に殘(のこ)せし

キスの痕(あと)かな

 

 かなしきは

 かの白玉のごとくなる腕に殘せし

 キスの痕かな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると、ある日酔客が彼女に「キス」をさせよと乱暴な振舞いをしてその腕に歯形を残したが、啄木はこれを見て「ずいぶん乱暴なことをする人もあるものだ。」と憤慨したという』とある。]

 

 

醉(ゑ)ひてわがうつむく時(とき)も

水(みづ)ほしと眼(め)ひらく時(とき)も

呼(よ)びし名(な)なりけり

 

 醉ひてわがうつむく時も

 水ほしと眼ひらく時も

 呼びし名なりけり

[やぶちゃん注:無論、モデルは小奴。]

 

 

火(ひ)をしたふ蟲(むし)のごとくに

ともしびの明(あか)るき家(いへ)に

かよひ慣(な)れにき

 

 火をしたふ蟲のごとくに

 ともしびの明るき家に

 かよひ慣れにき

 

 

きしきしと寒(さむ)さに踏(ふ)めば板(いた)軋(きし)む

かへりの廊下(らうか)の

不意(ふい)のくちづけ

 

 きしきしと寒さに踏めば板軋む

 かへりの廊下の

 不意のくちづけ

[やぶちゃん注:モデルは小奴と思われる。以下も同じ。]

 

 

その膝(ひざ)に枕(まくら)しつつも

我(わ)がこころ

思(おも)ひしはみな我(われ)のことなり

 

 その膝に枕しつつも

 我がこころ

 思ひしはみな我のことなり

 

 

さらさらと氷の屑が

波に鳴る

磯の月夜のゆきかへりかな

 

 さらさらと氷(こほり)の屑(くづ)が

 波(なみ)に鳴(な)る

 磯(いそ)の月夜(つきよ)のゆきかへりかな

 

 

死(し)にしとかこのごろ聞(き)きぬ

戀(こひ)がたき

才(さい)あまりある男(をとこ)なりしが

 

 死にしとかこのごろ聞きぬ

 戀がたき

 才あまりある男なりしが

[やぶちゃん注:この一首について岩城氏は前掲書で、『北海道時代の追想歌の中に収められているが、その作歌時期』である明治四二(一九〇九)年四月二十二日か二十三日と、『初出時』(『スバル』明治四十二年五月号)『から考えて、盛岡中学校時代の同級生で』、英語学習グループ『ユニオン会の会員であった小野弘吉を歌ったものと推定される。小野は七高を』経て、『東京帝国大学農科に学んだが、卒業論文を書くために帰郷し、岩手県九戸郡江刈村に旅行中、急性腹膜炎で四十一年二月二十一日、二十五歳の若さで死んだ。啄木は同年三月四日の日記にこの友の死を悼んでいる』とあるが、全集では確認出来ない。]

 

 

十年(ととせ)まへに作(つく)りしといふ漢詩(からうた)を

醉(ゑ)へば唱(とな)へき

旅(たび)に老(お)いし友(とも)

 

 十年まへに作りしといふ漢詩を

 醉へば唱へき

 旅に老いし友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『釧路時代交遊のあった「北東新報」の記者菊池武治を歌ったもの。菊池は鷲南(しゅうなん)、啄木の小說「菊池君」のモデルで、啄木日記にも「年将に四十、盛岡の生れで、恐ろしい許りの髯面、」と書いている。啄木は釧路退去の直前の三月二十六日の夜』、『この友人と酒盃を傾け』、『互いに漢詩を詠じているが、啄木は菊池の志を得ぬ流転の生活に、事故に通じる悲しみを見てこのように歌ったのである』と評しておられる。]

 

 

 

吸(す)ふごとに

鼻(はな)がぴたりと凍(こほ)りつく

寒(さむ)き空氣(くうき)を吸(す)ひたくなりぬ

 

 吸ふごとに

 鼻がぴたりと凍りつく

 寒き空氣を吸ひたくなりぬ

 

 

波(なみ)もなき二月(にぐわつ)の灣(わん)に

白塗(しりぬり)の

外國船(ぐわいこくせん)が低(ひく)く浮(う)かべり

 

 波もなき二月の灣に

 白塗の

 外國船が低く浮かべり

[やぶちゃん注:釧路港の景であろう。]

 

 

三味線(さみせん)の絃(いと)のきれしを

火事(くわじ)のごと騷(さわ)ぐ子(こ)ありき

大雪(おほゆき)の夜(よ)に

 

 三味線の絃のきれしを

 火事のごと騷ぐ子ありき

 大雪の夜に

[やぶちゃん注:騒ぐのは喜びから。岩城氏前掲書に、この芸妓は鹿島屋の市子で、『啄木の「紅筆だより」に「一昨五日の晩の事例の市ちやん三味線の一の弦を切らしたので縁起がよいと許り躍り上つて喜び」とある』とある。]

 

 

神(かみ)のごと

遠(とほ)く姿(すがた)をあらはせる

阿寒(あかん)の山(やま)の雪(ゆき)のあけぼの

 

 神のごと

 遠く姿をあらはせる

 阿寒の山の雪のあけぼの

[やぶちゃん注:「阿寒の山」雌阿寒岳(めあかんだけ)。標高千四百九十九メートル。少し離れて雄阿寒岳(標高千三百七十一メートル)があるが一般に「阿寒岳」と称した場合は、前者の雌阿寒岳を指すことが多い。釧路市街から北西に聳える。]

 

 

郷里(くに)にゐて

身投(みな)げせしことありといふ

女(をんな)の三味(さみ)にうたへるゆふべ

 

 郷里にゐて

 身投げせしことありといふ

 女の三味にうたへるゆふべ

[やぶちゃん注:身投げした経験を語っているのは、三味線を弾く芸妓自身の経験談である。]

 

 

葡萄色(えびいろ)の

古(ふる)き手帳(てちやう)にのこりたる

かの會合(あいびき)の時(とき)と處(ところ)かな

 

 葡萄色の

 古き手帳にのこりたる

 かの會合の時と處かな

[やぶちゃん注:「かの會合」は釧路花柳界での一齣。]

 

よごれたる足袋穿(たびは)く時(とき)の

氣味(きみ)わるき思(おも)ひに似(に)たる

思出(おもひで)もあり

 

 よごれたる足袋穿く時の

 氣味わるき思ひに似たる

 思出もあり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木の小説「病院の窓」』(明治四一(一九〇八)年五月脱稿の小説であるが、未発表)『の梅野看護婦のモデルとなった、釧路協立笠井病院の薬局助手梅川ミサホを歌えるもの。啄木日記によると』、『梅川は啄木を慕っていうようであ』ったが、『啄木は彼女との交渉を避けてこれを近づけなかった。この一首は』、その彼女『との「気味わるき」思い出を歌ったものである』とされる。]

 

 

わが室(へや)に女(をんな)泣(な)きしを

小說(せうせつ)のなかの事(こと)かと

おもひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが室に女泣きしを

 小說のなかの事かと

 おもひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「わが室」は釧路区北州崎町一丁目の関という下宿の一室。この部屋で泣いた女は』前の歌に出た『梅川ミサホ。「小説のなかの事かと」は明治四十一年三月二十一日の啄木日記にある、夜半の小奴と梅川の恋のさやあてめいた事件をいうのであろう』とある。なかなかスリリングな出来事であるが、こういう事実に私はあまり興味がないので(こういう現場に居合わせたくないので)特に私は電子化したいとは思わぬ。筑摩版全集第五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の二百三十五ページ以下を参照されたい。]

 

 

浪淘沙(らうたうさ)

ながくも聲(こゑ)をふるはせて

うたふがごとき旅(たび)なりしかな

 

 浪淘沙

 ながくも聲をふるはせて

 うたふがごとき旅なりしかな

[やぶちゃん注:「浪淘沙」岩城氏の前掲書に、『「浪淘沙」は浪淘沙詞の意で』楽府(がふ)題である、長『江辺の商人の妻が遠く家郷を離れた夫を憶うの情を述べた唐詩で、劉禹錫(りゅううしゃく)や白楽天の詩が有名であるが、啄木が親しんだのはおそらく白楽天であろう』とされる。白居易のそれは以下と思われる。

   *

 

 浪淘沙 六首

 

白浪茫茫與海連 平沙浩浩四無邊

暮去朝來淘不住 遂令東海變桑田

 

海底飛塵終有日 山頭化石豈無時

誰道小郞抛小婦 船頭一去沒囘期

 

借問江潮與海水 何似君情與妾心

相恨不如潮有信 相思始覺海非深

 

靑草湖中萬里程 黃梅雨里一人行

愁見灘頭夜泊處 風飜暗浪打船聲

 

隨波逐浪到天涯 遷客西還有幾家

却到帝都重富貴 請君莫忘浪淘沙

 

一泊沙來一泊去 一重浪滅一重生

相攪相淘無歇日 會敎東海一時平

 

   *

所持する複数の白楽天の詩集にも載らないので、概ね意味は分かるつもりだが、訓読は控える。]

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