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2020/02/07

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ)の第一歌集「一握の砂」の初版は、明治四三(一九一〇)年十二月一日、東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店より刊行された。総歌数五百五十一首。定価六十銭。啄木満二十四歳。

 啄木はこの前年の明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、この明治四十三年四月より彼が主担当となっていた。また、その後の同年九月には『東京朝日新聞』に「朝日歌壇」が設けられ、啄木がその選者に抜擢されている(彼による選歌は翌明治四十四年二月二十八日までの八十二回、投稿者百八十三名、総歌数五百六十八首に及んだ)。なお、この明治年六月五日に所謂「大逆事件」報道(幸徳秋水の拘引報道は六月三日。幸徳ら被告二十六名の大審院特別刑事部の大逆罪公判開始の決定は刊行の前月十一月九日で、第一回公判は刊行九日後の十二月十日であった)に激しい衝撃を受け、社会主義への強い関心を示した。プライベートでは刊行二ヶ月前の十月四日に妻節子(明治一九(一八八六)年十月十四日~大正二(一九一三)年:南岩手郡上田村に岩手郡役所に勤務する士族堀合忠操(ちゅうそう)の長女として生まれる。盛岡女学校卒。盛岡女学校在学中に啄木と知り合い、明治三八(一九〇五)年五月に結婚した。故郷を追われた夫とともに函館・小樽・東京と移り住む。啄木の素質は彼女との恋愛によって目覚め、輝きを増したとも言われる。啄木没年の翌年、大正二(一九一三)年五月五日に同じく結核で逝去した。満二十六歳の若さであった)が長男真一を生んだが、同月二十七日に亡くなっている(死因不明。啄木の日記によれば『生れて虛弱』とはある。以下の自序参照)。この年の文芸面では短歌活動が主であったが、五月下旬から六月上旬にかけて小説「我等の一団と彼」を執筆、文芸評論・社会評論にも手を染めている(以上の事蹟は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でもそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多いこと、底本が初版に拠るものが少ないことから、本仕儀をまず始動することとした(ブログ・カテゴリ「石川啄木」を新設)。底本は「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版を視認した。但し、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「一握の砂」(日本語正字正仮名表記)を使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは初版底本と照らし合わせても、冒頭の啄木の序の頭の「函館」が「凾館」となっていたり、初版の最初に掲げられてある藪野椋十(むくじゅう)の序文がカットされているなど、かなり問題があり、読みが一切附されていないのも問題で、一部の本文には明白な誤植も有意に複数あり、実に十八年間も放置されたまま(二〇〇二年に保存した時のものと対照したが、現在も修正されていない)である)。さればこそ私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審な部分には注記を加えた。

 なお、底本本文の短歌群は総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。なお、向後も啄木の作品を電子化するためにブログ・カテゴリ「石川啄木」を創始したことを言い添えておく。

 或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月六日始動 藪野直史】]

 

一握の砂

 

石川啄木著

 

[やぶちゃん注:表紙。孰れも右から左へ手書き記載。中央に絵。名取春仙(明治一九(一八八六)年二月七日~昭和三五(一九六〇)年三月三十日)画。名取は『東京朝日新聞』に連載された二葉亭四迷の小説「平凡」の挿絵を描いたことが縁となり、明治四二(一九〇九)年に同社に入社、大正二(一九一三)年の退社まで、夏目漱石の「虞美人草」・「三四郎」・「それから」・「明暗」などの挿絵でジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を描いた。他にも森田草平「煤煙」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、泉鏡花「白鷺」などの名作のそれも手掛けた。彼は妻の繁子とともに青山の高徳寺境内の名取家の墓前にて服毒自殺している(以上はウィキの「名取春仙」に拠る)。彼は啄木とほぼ同期で、年も同じ同僚であったのである。]

 

 一握の砂   石川啄木著

 

[やぶちゃん注:。書名は大ぶりのゴシック太字。]

 

   一   握   の   砂

 

    石 川 啄 木 著

 

     東 雲 堂 版

 

[やぶちゃん注:。総て右から左書き。]

 

 

世の中には途法も無い仁(じん)もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い處が卽ち新の新たる極意かも知れん。

定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手當り次第に繰り展げた處が、

 

   高きより飛び下りるごとき心もて

   この一生を

   終るすべなきか

 

此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出來たら、至極ぢや。面白い處に氣が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。

 

   非凡なる人のごとくにふるまへる

   後のさびしさは

   何にかたぐへむ

 

いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覺えずに過す人が、所謂當節の成功家ぢや。

 

   何處やらに澤山の人が爭ひて

   鬮引くごとし

   われも引きたし

 

何にしろ大混雜のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大槪は空鬮(からくじ)ぢや。

 

   何がなしにさびしくなれば

   出てあるく男となりて

   三月にもなれり

 

   とある日に

   酒をのみたくてならぬごとく

   今日われ切に金を欲りせり

 

   怒る時

   かならずひとつ鉢を割り

   九百九十九割りて死なまし

 

   腕拱みて

   このごろ思ふ

   大いなる敵目の前に躍り出でよと

 

   目の前の菓子皿などを

   かりかりと嚙みてみたくなりぬ

   もどかしきかな

 

   鏡とり

   能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

   泣き飽きし時

 

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ

 

   よごれたる足袋穿く時の

   氣味わるき思ひに似たる

   思出もあり

 

さうぢや、そんなことがある、斯ういふ樣な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた此の著者と此の讀者との間にすら共通の感ぢやから、定めし總ての人にもあるのぢやらう。然る處俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大膽に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が此の集中に滿ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合點して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出來る歌も亦當節新發明に爲つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。

 

       犬の年の大水後

            藪 野 椋 十

 

[やぶちゃん注:末尾の添え辞と署名はもっと下にあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げた(以下、同様の仕儀を施した箇所がある)。「新派」明治中期、主に「古今和歌集」に拠ったところの旧来の和歌の一派「御歌所(おうたどころ)派」が「旧派」和歌と称された一方、華々しく登場した若き精鋭与謝野鉄幹と正岡子規のそれらが「新派」短歌として、短歌革新運動の最たる存在として位置付けられていた。

「拱みて」「くみて」。

「犬の年の大水後」本書が刊行された明治四三(一九一〇)年は庚戌(かのえいぬ)で、この年の八月十日の「早川の大洪水」(豪雨により川が決壊、宮城野では三十六棟の家屋と水田の三分の二が流出、箱根湯本では三枚橋とその近くの線路が流出、その後再建されたが、線路は対岸側に移設された。塔ノ沢温泉では老舗旅館の福住楼が客室もろとも押し流され、歌舞伎作家の川尻宝岑夫妻ら宿泊客が死亡している。ここはウィキの「早川」に拠った)に代表されるように、大雨による、東海道全域に亙った降雨・洪水被害が発生した。

「藪野椋十」(やぶのむくじゅう)は当時の啄木の上司であった渋川玄耳(げんじ 明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)の完全なペン・ネーム(よく聞かれるので断っておくが、私の藪野家とは何の関係もない)。ジャーナリストで随筆家・俳人。佐賀県生まれ。本名は渋川柳次郎。ウィキの「渋川玄耳」によれば、『長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し』、現在の『福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務』した。この『熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。漱石が英国留学で不在時には、池松迂巷らと紫溟吟社を支え、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献』した。『日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、東京朝日新聞特派員の弓削田精一』(ペンネーム「秋江」。二葉亭四迷と交友があり、「二葉亭全集」の編集も担当した)『と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ』て『評判を呼』び、『弓削田の推薦で熊本出身の池辺三山主筆に請われ』、明治四〇(一九〇七)年三月に『東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図』った。『「取材法」や「記者養成システム」を』導入して『現在につながる』手法を『革新』していった。『熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、石川啄木を抜擢して『朝日歌壇』を創設』したのも彼であった。明治四三(一九一〇)年に『中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある杉村楚人冠とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた』。『名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立』し、『自身の離婚問題なども重なり』、大正元(一九一二)年十一月、『東京朝日新聞を退社』、『以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった』とある。]

 

 

函館なる郁雨宮崎大四郎君

同國の友文學士花明金田一京助君

この集を兩君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを兩君の前に示しつくしたるものの如し。從つて兩君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。

また一本をとりて亡兒眞一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の藥餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。

              著   者

 

[やぶちゃん注:石川啄木の自序。底本では全体が四字下げ。

「郁雨宮崎大四郎」宮崎郁雨(いくう 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は歌人。郁雨は雅号。大四郎が本名。明治四〇(一九〇七)年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたいが、そこにある通り、啄木の死の前年の明治四四(一九一一)年九月、『郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを』啄木が『読み、これを妻の不貞と採った』彼『は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交』(但し、亡くなるまで節子との離婚は成立していない)している。

「花明金田一京助」(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は同じ岩手出身の友人(盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)・盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)以来の先輩の友人であり、啄木の死まで親交が続いた。啄木より四つ年上)の言語学者で、アイヌ語研究の本格的創始者として知られる。「花明」(くわめい(かめい))は雅号で、若い頃から和歌を作り、与謝野鉄幹の『明星』の同人となっていた。法名も「寿徳院殿徹言花明大居士」である。啄木は明治四一(一九〇八)年四月に単身、上京するが、ウィキの「金田一京助」によれば、上京早々(初めは鉄幹の新詩社に滞在)の五月四日、『中学で一学年上だった金田一京助の』好意で彼のいた『本郷区菊坂町赤心館に止宿』している。その後、『生計のため』に『小説を売り込』んだが、『成功せず』、『逼迫した生活の中』(以下は先の年譜で確認した)、同年六月二十三日から二十五日にかけて「東海の小島」「たはむれに母を背負ひて」「己が名をほのかに」などの、後に広く知れ渡る歌が作られ、この時に書かれた百十四首を、翌月の『明星』に「石破集」に発表している。詳しい事蹟はウィキの「金田一京助」を見られたい。

「この集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき」逝去の翌日の十月二十九日。

 以下の附記は、上記の自序の裏、本文開始(左)の右ページに全体が八字下げで記されてある。]

 

 

明治四十一年夏以後の作一千餘首中より五百五十一首を拔きてこの集に收む。集中五章、感興の來由するところ相邇きをたづねて假にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の記念なり。

 

 

[やぶちゃん注:「相邇き」「あひちかき」。「相近き」に同じい。

 以下、枠入りの目次。上部の横枠内に右から左に「目次」。但し、リーダとページ数は略した。「手套」は「てぶくろ」。]

 

目  次

 

我を愛する歌

秋風のこころよさに

忘れがたき人人

手套を脫ぐ時

 

 

    我を愛する歌

 

 

東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に

われ泣(な)きぬれて

蟹(かに)とたはむる

 

 東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

[やぶちゃん注:「東海の小島の磯」は広義の日本の海辺の意。「白砂」とあるから「磯」は岩礁性海岸ではなく、広義の「海岸」の意で、ここは無論、砂浜海岸である。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、このロケーションは『函館の大森海岸を念頭において作ったものであろう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。一連の砂山や砂浜歌群も概ねここが回顧された舞台と考えてよい。同書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』である。] 

 

頰(ほ)につたふ

なみだのごはず

一握(いちあく)の砂(すな)を示(しめ)しし人(ひと)を忘(わす)れず

 

 頰につたふ

 なみだのごはず

 一握の砂を示しし人を忘れず

 

 

大海(たいかい)にむかひて一人(ひとり)

七八日(ななやうか)

泣(な)きなむとすと家(いへ)を出(い)でにき

 

 大海にむかひて一人

 七八日

 泣きなむとすと家を出でにき

 

 

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ

砂山(すなやま)の

砂(すな)を指(ゆび)もて掘(ほ)りてありしに

 

 いたく錆びしピストル出でぬ

 砂山の

 砂を指もて掘りてありしに

 

 

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)來(きた)りて築(きづ)きたる

この砂山(すなやま)は

何(なん)の墓(はか)ぞも

 ひと夜さに嵐來りて築きたる

 この砂山は

 何の墓ぞも

[やぶちゃん注:「夜さ」「夜去(よさ)り」の略。「去り」は「来る」の意の古語。夜。私は中学・高校を富山県で過ごしたが、現地では今も「夜」を「よさり」と呼ぶ。]

 

 

砂山(すなやま)の砂(すな)に腹這(はらば)ひ

初戀(はつこひ)の

いたみを遠(とほ)くおもひ(い)出づる日(ひ)

 

 砂山の砂に腹這ひ

 初戀の

 いたみを遠くおもひ出づる日

 

 

砂山(すなやま)の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に

あたり見(み)まはし

物言(ものい)ひてみる

 

 砂山の裾によこたはる流木に

 あたり見まはし

 物言ひてみる

 

 

いのちなき砂(すな)のかなしさよ

さらさらと

握(にぎ)れば指(ゆび)のあひだより落(お)つ

 

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ

 

 

しつとりと

なみだを吸(す)へる砂(すな)の玉(たま)

なみだは重(おも)きものにしあるかな

 

 しつとりと

 なみだを吸へる砂の玉

 なみだは重きものにしあるかな

 

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて歸り來れり

 

 大(だい)といふ字(じ)を百(ひやく)あまり

 砂(すな)に書(か)き

 死(し)ぬことをやめて歸(かへ)り來(きた)れり

 

 

目(め)さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ兒(こ)の癖(くせ)は

かなしき癖(くせ)ぞ

母(はは)よ咎(とが)むな

 

 目さまして猶起き出でぬ兒の癖は

 かなしき癖ぞ

 母よ咎むな

 

 

ひと塊(くれ)の土(つち)に涎(よだれ)し

泣(な)く母(はは)の肖顏(にがほ)つくりぬ

かなしくもあるか

 

 ひと塊の土に涎し

 泣く母の肖顏つくりぬ

 かなしくもあるか

[やぶちゃん注:現在(二十代前半或いはそれよりも少し前の追懐)の涎(唾(つば))を滴らせて土くれを捏(こ)ねて柔らかくし、そこに自分の母の似顔絵を泥絵として描いたのである。ヌーヴェル・ヴァーグの一シークエンスのように鮮烈である。]

 

 

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我(われ)あり

父(ちち)と母(はは)

壁(かべ)のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

 

 燈影なき室に我あり

 父と母

 壁のなかより杖つきて出づ

[やぶちゃん注:父と母は健在である(母は啄木の死の直前に亡くなった)。啄木の父石川一禎(いってい 嘉永三(一八五〇)年~昭和二(一九二七)年)は曹洞宗の僧であったが、宗費滞納(百十三円余り)のため、曹洞宗宗務院から住職罷免処分を受け、明治三八(一九〇五)三月二日、渋民村(現在の盛岡市渋民)の万年山宝徳寺を一家で退去しなくてはならなくなった。啄木らは村内の別な場所に転居し、後、啄木は渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務する一方、父の復職運動を行ったが、父自身が精神的な弱さから家出し、明治四十年三月にそれも無に帰し、啄木は函館移住を決意することになる。啄木十九から二十一歳の、人生の一大転機となった出来事であった。母カツは弘化四(一八四七)年生まれで、明治四五(一九一二)年三月七日没(結核)で、啄木の死(同年四月十三日。満二十六歳)の一か月前であった。カツと妻節子とはしばしばぶつかったようである。石川啄木についての恐るべき強力な近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、本歌は先に記した明治四一(一九〇八)年六月二十五日の夜に作られた一群に含まれるもので、全集の日記の当日の記載によれば、『頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だこの日の夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら』と記されてあり、近藤氏は『その最初の歌が』この一首であるとされ、

   《引用開始》

上記「四十首」中に

津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子

という歌がありますが、当時父一禎は青森県野辺地の寺で食べらせてもらっています。母は北海道函館で嫁節子・孫京子とともに宮崎郁雨の世話になっています。自分は東京で小説を書けなくて絶望的になっています。

そんな日々の東京本郷の下宿の一部屋に、明かりを消してひとり居ると幻想が浮かびます。津軽海峡をはさんで向き合う野辺地と函館に暮らす父と母が、ますます老いて杖をつき、長男の自分を頼って歩いてくるのです、壁の中から。

   《引用終了》

と近藤氏は解説しておられる。なお、ここに限らず、リンク先では「一握の砂」の全歌が緻密に解説・評釈されてあり、検証は他の追従を許さぬ凄いものである。必見必読である! ただ、私はあくまで表現で私が気になったこと、語句として私が確かに躓いたことを、ある意味、極めて愚鈍な私のレベルで注しているだけである。ただ、勘所として、どうしても必要と思われる場合は、積極的に近藤氏の見解を掲げたく思っている。]

 

 

たはむれに母(はは)を背負(せお)ひて

そのあまり輕(かろ)きに泣(な)きて

三步(さんぽ)あゆまず

 

 たはむれに母を背負ひて

 そのあまり輕きに泣きて

 三步あゆまず

[やぶちゃん注:既出の學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』。その解説によれば、当時の啄木は上京したものの、『創作生活に失敗し』『函館の老母や妻子を呼び寄せることができず』、『煩悶の日々を送』る中で詠んだ全くの『仮構にすぎぬが』、『作者の』複雑した『悲しみが一首の基底となっている』とある。私は「たはむれ」ではなく、確かに母を背負った(「母を背負う」)。そうしてそれを確かに覚悟した(「母を確かに背負って行こう」)。しかしその四ヶ月半後に母は亡くなったのだった(「聖子テレジアは天国に召されました 直史ルカ記」)。

 

 

飄然(へうぜん)と家(いへ)を出(い)でては

飄然(へうぜん)と歸(かへ)りし癖(くせ)よ

友(とも)はわらへど

 

 飄然と家を出でては

 飄然と歸りし癖よ

 友はわらへど

 

 

ふるさとの父(ちち)の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く

咳(せき)の出(い)づるや

病(や)めばはかなし

 

 ふるさとの父の咳する度に斯く

 咳の出づるや

 病めばはかなし

 

 

わが泣(な)くを少女等(をとめら)きかば

病犬(やまいぬ)の

月(つき)に吠(ほ)ゆるに似(に)たりといふらむ

 

 わが泣くを少女等きかば

 病犬の

 月に吠ゆるに似たりといふらむ

[やぶちゃん注:容易に連想されるであろう萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の刊行は大正六(一九一七)年で本作品集の七年後のことである。同詩集の標題の由来詩篇である『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜』(私の電子化注。後も同じ)を見ると、朔太郎の意識の中には確実にこの啄木の一首が影響を与えていると私は感ずる。岩城氏も前掲書の本歌の評釈で、同詩集の「序」で朔太郎が『月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は靑白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。』の部分を示され、『月に吠ゆる犬が「病犬」であることを示しているので、この啄木の歌の影響下にこの書名がつけられたと考えられる』と述べておられる。]

 

 

何處(いづく)やらむかすかに蟲(むし)のなくごとき

こころ細(ぼそ)さを

今日(けふ)もおぼゆる

 

 何處やらむかすかに蟲のなくごとき

 こころ細さを

 今日もおぼゆる

 

 

いと暗(くら)き

穴(あな)に心(こゝろ)を(す)吸はれゆくごとく思(おも)ひて

つかれて眠(ねむ)る

 

 いと暗き

 穴に心を吸はれゆくごとく思ひて

 つかれて眠る

[やぶちゃん注:「こゝろ」はママ。底本ではこの繰り返し記号は特異点である。]

 

 

こころよく

我(われ)にはたらく仕事(しごと)あれ

それを仕遂(しと)げて死(し)なむと思(おも)ふ

 

 こころよく

 我にはたらく仕事あれ

 それを仕遂げて死なむと思ふ

 

 

こみ合(あ)へる電車(でんしや)の隅(すみ)に

ちぢこまる

ゆふべゆふべの我(われ)のいとしさ

 

 こみ合へる電車の隅に

 ちぢこまる

 ゆふべゆふべの我のいとしさ

 

淺草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに

まぎれ入(い)り

まぎれ出(い)で來(き)しさびしき心(こころ)

 

 淺草の夜のにぎはひに

 まぎれ入り

 まぎれ出で來しさびしき心

 

 

愛犬(あいけん)の耳(みみ)斬(き)りてみぬ

あはれこれも

物(もの)に倦(う)みたる心(こころ)にかあらむ

 

 愛犬の耳斬りてみぬ

 あはれこれも

 物に倦みたる心にかあらむ

[やぶちゃん注:後の梶井基次郎の「愛撫」(昭和五(一九三〇)年五月稿)の猫の耳を強く想起させる。]

 

 

鏡(かがみ)とり

能(あた)ふかぎりのさまざまの顏(かほ)をしてみぬ

泣(な)き飽(あ)きし時(とき)

 

 鏡とり

 能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

 泣き飽きし時

 

 

なみだなみだ

不思議(ふしぎ)なるかな

それをもて洗(あら)へば心(こころ)戲(おど)けたくなれり

 

 なみだなみだ

 不思議なるかな

 それをもて洗へば心戲けたくなれり

 

 

呆(あき)れたる母(はは)の言葉(ことば)に

氣(き)がつけば

茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

 

 呆れたる母の言葉に

 氣がつけば

 茶碗を箸もて敲きてありき

 

 

草(くさ)に臥(ね)て

おもふことなし

わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥(とり)は空(そら)に遊(あそ)べり

 

 草に臥て

 おもふことなし

 わが額に糞して鳥は空に遊べり

 

 

わが髭(ひげ)の

下向(したむ)く癖(くせ)がいきどほろし

このごろ憎(にく)き男(をとこ)に似(に)たれば

 

 わが髭の

 下向く癖がいきどほろし

 このごろ憎き男に似たれば

 

 

森(もり)の奧(おく)より銃聲(じうせい)聞(きこ)ゆ

あはれあはれ

自(みづか)ら死(し)ぬる音(おと)のよろしさ

 

 森の奧より銃聲聞ゆ

 あはれあはれ

 自ら死ぬる音のよろしさ

[やぶちゃん注:ルビ「じうせい」はママ。「銃」は歴史的仮名遣は「じゆう」でよい。]

 

 

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳(みみ)あて

小半日(こはんにち)

堅(かた)き皮(かは)をばむしりてありき

 

 大木の幹に耳あて

 小半日

 堅き皮をばむしりてありき

[やぶちゃん注:「小半日」半日近く。岩城氏前掲書によれば、初出(『スバル』明治四二(一九〇九)年五月号)は「小半晌(とき)」である。推敲よし。]

 

 

「さばかりの事(こと)に死(し)ぬるや」

「さばかりの事(こと)に生(い)くるや」

止(よ)せ止(よ)せ問答(もんだふ)

 

 「さばかりの事に死ぬるや」

 「さばかりの事に生くるや」

 止せ止せ問答

 

 

まれにある

この平(たひら)なる心(こころ)には

時計(とけい)の鳴るもおもしろく聽(き)く

 

 まれにある

 この平なる心には

 時計の鳴るもおもしろく聽く

 

 

ふと深(ふか)き怖(おそ)れを覺(おぼ)え

ぢつとして

やがて靜(しづ)かに臍(ほそ)をまさぐる

 

 ふと深き怖れを覺え

 ぢつとして

 やがて靜かに臍をまさぐる

[やぶちゃん注:「臍(ほそ)」古くは「ほぞ」ではなく清音であったので問題ない。筑摩版全集もルビは『ほそ』である。ネットを見ると勝手に「ほぞ」にしているテクストが有意に見られる。誤りである。

 

 

高山(たかやま)のいただきに登(のぼ)り

なにがなしに帽子(ばうし)をふりて

下(くだ)り來(き)しかな

 

 高山のいただきに登り

 なにがなしに帽子をふりて

 下り來しかな

 

 

何處(どこ)やらに澤山(たくさん)の人(ひと)があらそひて

鬮引(くじひ)くごとし

われも引(ひ)きたし

 

 何處やらに澤山の人があらそひて

 鬮引くごとし

 われも引きたし

 

怒(いか)る時(とき)

かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り

九百九十九(くひやくくじふ)割(わ)りて死(し)なまし

 

 怒る時

 かならずひとつ鉢を割り

 九百九十九割りて死なまし

 

 

いつも逢(あ)ふ電車(でんしや)の中(なか)の小男(こをとこ)の

稜(かど)ある眼(まなこ)

このごろ氣(き)になる

 

 いつも逢ふ電車の中の小男の

 稜ある眼

 このごろ氣になる

 

 

鏡屋(かがみや)の前(まへ)に來(き)て

ふと驚(おどろ)きぬ

見(み)すぼらしげに步(あゆ)むものかも

 

 鏡屋の前に來て

 ふと驚きぬ

 見すぼらしげに步むものかも

 

 

何(なに)となく汽車(きしや)に乘(の)りたく思(おも)ひしのみ

汽車(きしや)を下(お)りしに

ゆくところなし

 

 何となく汽車に乘りたく思ひしのみ

 汽車を下りしに

 ゆくところなし

 

 

空家(あきや)に入(い)り

煙草(たばこ)のみたることありき

あはれただ一人(ひとり)居(ゐ)たきばかりに

 

 空家に入り

 煙草のみたることありき

 あはれただ一人居たきばかりに

 

 

何(なに)がなしに

さびしくなれば出(で)てあるく男(をこと)となりて

三月(みつき)にもなれり

 

 何がなしに

 さびしくなれば出てあるく男となりて

 三月にもなれり

 

 

やはらかに積(つも)れる雪(ゆき)に

熱(ほ)てる頰(ほ)を埋(うづ)むるごとき

戀(こひ)してみたし

 

 やはらかに積れる雪に

熱てる頰を埋むるごとき

戀してみたし

 

かなしきは

飽(あ)くなき利己(りこ)の一念(いちねん)を

持(も)てあましたる男(をとこ)にありけり

 

 かなしきは

 飽くなき利己の一念を

 持てあましたる男にありけり

 

 

手(て)も足(あし)も

室(へや)いつぱいに投(な)げ出(だ)して

やがて靜(しづ)かに起(お)きかへるかな

 

 手も足も

 室いつぱいに投げ出して

 やがて靜かに起きかへるかな

 

 

百年(ももとせ)の長(なが)き眠(ねむ)りの覺(さ)めしごと

呿呻(あくび)してまし

思(おも)ふことなしに

 

 百年の長き眠りの覺めしごと

 呿呻してまし

 思ふことなしに

[やぶちゃん注:「呿呻(あくび)」「呿」(音「キャ・キョ・コ」など)は「口を開く」「欠伸(あくび)をする」で、「呻」(音「シン」)は「うめく・うなる」の意で、この二字で「あくび」と読むのは必ずしも特異な用法ではない。]

 

 

腕(うで)拱(く)みて

このごろ思(もも)ふ

大(おほ)いなる敵(てき)目(め)の前(まえ)に躍(をど)り出(い)でよと

 

 腕拱みて

 このごろ思ふ

 大いなる敵目の前に躍り出でよと

[やぶちゃん注:「拱」の字は一般には「拱(こまね)く」と訓じて、フラットな意味で「両手を胸元で組み合わせる」で本来は中国の礼式の動作であった。但し、後に専ら「手出しせずに、或いは手出し出来ずに、ただ何もせずに傍観している」の意で「手を拱いているばかり」のように用いることが殆んどになった。しかし、ここは本来のフラットな意味であり、毅然とした超然たるポーズであることは言うまでもない。]

 

 

手(て)が白(しろ)く

且(か)つ大(だい)なりき

非凡(ひぼん)なる人(ひと)といはるる男(をとこ)に會(あ)ひしに

 

 手が白く

 且つ大なりき

 非凡なる人といはるる男に會ひしに

[やぶちゃん注:前景書で岩城氏はモデルとして一般には、東京市長であった尾崎咢堂や高村光太郎などが挙げられているが、『この歌が啄木が朝日新聞社に就職した直後の明治四十二年』(一九〇九年)『四月二十一日ないし二十三日の作であるので、これは啄木を校正係に採用した「朝日」の名編集長佐藤北江(真一)』(ほっこう:明治元(一八六九)年~大正三(一九一四)年)『であろう。彼が佐藤にはじめて会ったのは同年二月二日である』とある。]

 

こころよく

人(ひと)を讃(ほめ)めてみたくなりにけり

利己(りこ)の心(こころ)に倦(う)めるさびしさ

 

 こころよく

 人を讃めてみたくなりにけり

 利己の心に倦めるさびしさ

 

 

雨(あめ)降(ふ)れば

わが家(いへ)の人(ひと)誰(たれ)も誰(たれ)も沈(しづ)める顏(かほ)す

雨(あめ)霽(は)れよかし

 

 雨降れば

 わが家の人誰も誰も沈める顏す

 雨霽れよかし

 

 

高(たか)きより飛(と)びおりるごとき心(こころ)もて

この一生(いつしやう)を

終(をは)るすべなきか

 

 高きより飛びおりるごとき心もて

 この一生を

 終るすべなきか

 

 

この日頃(ひごろ)

ひそかに胸(むね)にやどりたる悔(くい)あり

われを笑(わら)はしめざり

 

 この日頃

 ひそかに胸にやどりたる悔あり

 われを笑はしめざり

 

 

へつらひを聞(き)けば

腹立(はらた)つわがこころ

あまりに我(われ)を知(し)るがかなしき

 

 へつらひを聞けば

 腹立つわがこころ

 あまりに我を知るがかなしき

 

 

知(し)らぬ家(いへ)たたき起(おこ)して

遁(に)げ來(く)るがおもしろかりし

昔(むかし)の戀(こひ)しさ

 

 知らぬ家たたき起して

 遁げ來るがおもしろかりし

 昔の戀しさ

 

 

非凡なる人のごとくにふるまへる

後のさびしさは

何にかたぐへむ

 

 非凡(ひぼん)なる人(ひと)のごとくにふるまへる

 後(のち)のさびしさは

 何(なに)にかたぐへむ

 

 

大(おほ)いなる彼(かれ)の身體(からだ)が

憎(にく)かりき

その前(まへ)にゆきて物(もの)を言(い)ふ時(とき)

 

 大いなる彼の身體が

 憎かりき

 その前にゆきて物を言ふ時

[やぶちゃん注:啄木は身長一メートル五十八センチ、体重四十五キロで小兵であった。岩城氏の前掲書の評釈には吉田孤羊の「啄木短歌の背景」(昭和四〇(一九六五)年洋々社刊)で吉田氏が『このモデルは東京朝日新聞主筆の池辺三山(吉太郎)であると述べている。三山は西郷隆盛を思わす巨体であった』とある。]

 

 

實務(じつむ)には役(やく)に立(た)たざるうた人(びと)と

我(われ)を見(み)る人(ひと)に

金(かね)借(か)りにけり

 

 實務には役に立たざるうた人と

 我を見る人に

 金借りにけり

 

 

遠(とほ)くより笛(ふゑ)の音(ね)きこゆ

うなだれてある故(ゆゑ)やらむ

なみだ流(なが)るる

 

 遠くより笛の音きこゆ

 うなだれてある故やらむ

 なみだ流るる

 

 

それもよしこれもよしとてある人(ひと)の

その氣(き)がるさを

欲(ほ)しくなりたり

 

 それもよしこれもよしとてある人の

 その氣がるさを

 欲しくなりたり

 

 

死(し)ぬことを

持藥(ぢやく)をのむがごとくにも我(われ)はおもへり

心(こころ)いためば

 

 死ぬことを

 持藥をのむがごとくにも我はおもへり

 心いためば

[やぶちゃん注:「持藥」用心のために何時も持っている常備薬。]

 

 

路傍(みちばた)に犬(いぬ)ながながと呿呻(あくび)しぬ

われも眞似(まね)しぬ

うらやましさに

 

 路傍に犬ながながと呿呻しぬ

 われも眞似しぬ

 うらやましさに

 

 

眞劍(しんけん)になりて竹(たて)もて犬(いぬ)を擊(う)つ

小兒(せうに)の顏(かほ)を

よしと思(おも)へり

 

 眞劍になりて竹もて犬を擊つ

 小兒の顏を

 よしと思へり

 

ダイナモの

重(おも)き唸(うな)りのここちよさよ

あはれこのごとく物(もの)を言(い)はまし

 

 ダイナモの

 重き唸りのここちよさよ

 あはれこのごとく物を言はまし

[やぶちゃん注:「ダイナモ」dynamo。発電機。]

 

 

剽輕(へうきん)の性(さが)なりし友(とも)の死顏(しにがほ)の

靑(あを)き疲(つか)れが

いまも目(め)にあり

 

 剽輕の性なりし友の死顏の

 靑き疲れが

 いまも目にあり

[やぶちゃん注:『近藤典彦「石川啄木伝」』のこちらによれば、初出は『東京朝日新聞』の明治四三(一九一〇)年五月二十六日で初出形は、

剽輕の性なりし友の死顏の靑き疲勞(つかれ)が長く目にあり

であるとされ、『この「友」については管見の限り』、『誰もふれていませんが、考えられる人は』一『人しかいません』。「渋民日記」の明治三九(一九〇六)年『「八月中」の終わりにある次の記述中の「沼田千太郎」で』あるとされる。『予は十一歳(?)の頃死んだ母方の伯父の棺に入つた死を見た外には死人を見た事がない。その時は小児の時の事だから、種々の空想を刺戟された外には別に深くも考へなかつた。今度、三十二で死んだ友人沼田千太郎の死後一時間許りのところを見て、数日の間忘るることが出来なかつた』。『生前かるがるしく滑稽に振る舞っていた友の死顔には、今や隠しようもなく生きていた時の疲れが浮き出ていた』とされ、『啄木もまた日常の振る舞いの陰に潜めている、自分自身の生きる辛さや悲しさを思ってい』るのだと記され、『啄木は『一握の砂』の歌の半分を創出し』、明治四三(一九一〇)年十月四日から十六日に『おいて、全日記を読み返し活用したのであり、『これは『一握の砂』創造の』一『源泉として確実で重要な事実で』あったが、『最近もう一つの時期にも日記が歌の源泉になったと推定して』おり、『それは短歌に啄木調を確立した』同年四月・五月のことで、この『歌もその一例と言え』ると述べておられる。沼田千太郎氏については詳しい事蹟は判らないので、ここまでとしておく。

「剽輕」現代仮名遣「ひょうきん」「剽」も「軽い」の意で、「軽」の「キン」は唐音。気軽でおどけた感じのすること。]

 

 

氣(き)の變(かは)る人(ひと)に仕(つか)へて

つくづくと

わが世(よ)がいやになりにけるかな

 

 氣の變る人に仕へて

 つくづくと

 わが世がいやになりにけるかな

 

 

龍(りよう)のごとくむなしき空(そら)に躍(をど)り出(い)でて

消(き)えゆく煙(けむり)

見(み)れば飽(あ)かなく

 

 龍のごとくむなしき空に躍り出でて

 消えゆく煙

 見れば飽かなく

 

 

こころよき疲(つか)れなるかな

息(いき)もつかず

仕事(しごと)をしたる後(のち)のこの疲(つか)れ

 

 こころよき疲れなるかな

 息もつかず

 仕事をしたる後のこの疲れ

 

 

空寢入(そらねいり)生呿呻(なまあくび)など

なぜするや

思(おも)ふこと人(ひと)にさとらせぬため

 

 空寢入生呿呻など

 なぜするや

 思ふこと人にさとらせぬため

[やぶちゃん注:「空寢入(そらねいり)」狸寝入り。「生呿呻(なまあくび)」は普通は眠気がないのに出る欠伸(あくび)を指すが、ここは歌意から意識的に欠伸をわざとすることを指している。]

 

 

箸(はし)止(と)めてふつと思(おも)ひぬ

やうやくに

世(よ)のならはしに慣(な)れにけるかな

 

 箸止めてふつと思ひぬ

 やうやくに

 世のならはしに慣れにけるかな

 

 

朝(あさ)はやく

婚期(こんき)を過(す)ぎし妹(いもうと)の

戀文(こいぶみ)めける文(ふみ)を讀(よ)めりけり

 

 朝はやく

 婚期を過ぎし妹の

 戀文めける文を讀めりけり

[やぶちゃん注:「妹」ミツ(明治二一(一八八八)年~昭和四三(一九六八)年:通称は光子)。啄木より二つ年下。明治四〇(一九〇七)年に小樽のメソジスト教会で洗礼を受け、後、日本聖公会の婦人伝道師養成学校である兵庫県芦屋市の聖使女学院(啄木の年譜では明治四三(一九一〇)年時に既に在学している)を卒業し、北海道札幌市・福岡県久留米市・東京都江東区深川や奈良県など、各地で伝道師として活動した。啄木の死後十年後の大正一一(一九二二)年に、聖公会の司祭三浦清一と結婚した。ウィキの「三浦ミツ」を参照されたい。]

 

 

しつとりと

水(みづ)を吸(す)ひたる海綿(かいめん)の

重(おも)さに似(に)たる心地(ここち)おぼゆる

 

 しつとりと

 水を吸ひたる海綿の

 重さに似たる心地おぼゆる

 

 

死(し)ね死(し)ねと己(おのれ)を怒(いか)り

もだしたる

心(こころ)の底(そこ)の暗(くら)きむなしさ

 

 死ね死ねと己を怒り

 もだしたる

 心の底の暗きむなしさ

 

 

けものめく顏(かほ)あり口(くち)をあけたてす

とのみ見(み)てゐぬ

人(ひと)の語(かた)るを

 

 けものめく顏あり口をあけたてす

 とのみ見てゐぬ

 人の語るを

 

 

親(おや)と子(こ)と

はなればなれの心(こころ)もて靜(しづ)かに對(むか)ふ

氣(き)まづきや何(な)ぞ

 

 親と子と

 はなればなれの心もて靜かに對ふ

 氣まづきや何ぞ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、この一首の初出は明治四三(一九一〇)年四月七日の『東京朝日新聞』で、

 親と子とはなればなれの心もて食卓に就く気拙かりけり

が初出形であるとある。漠然と私は「親」は父一禎(いってい)であろうと考えていたが、それを厳密に立証されておられる。]

 

 

かの船(ふね)の

かの航海(かうかい)の船客(せんかく)の一人(ひとり)にてありき

死(し)にかねたるは

 かの船の

 かの航海の船客の一人にてありき

 死にかねたるは

 

 

目(め)の前(まへ)の菓子皿(くわしざら)などを

かりかりと嚙(か)みてみたくなりぬ

もどかしきかな

 

 目の前の菓子皿などを

 かりかりと嚙みてみたくなりぬ

 もどかしきかな

 

 

よく笑(わら)ふ若(わか)き男(をとこ)の

死(し)にたらば

すこしはこの世(よ)のさびしくもなれ

 

 よく笑ふ若き男の

 死にたらば

 すこしはこの世のさびしくもなれ

 

 

何がなしに

息きれるまで驅け出してみたくなりたり

草原などを

 

 何がなしに

 息きれるまで驅け出してみたくなりたり

 草原などを

[やぶちゃん注:一読、後の鬼才宮澤賢治を想起させる。]

 

 

あたらしき背廣(せびろ)など着(き)て

旅(たび)をせむ

しかく今年(ことし)も思(おも)ひ過(す)ぎたる

 

 あたらしき背廣など着て

 旅をせむ

 しかく今年も思ひ過ぎたる

[やぶちゃん注:「しかく」「斯(しか)く」。そのように。]

 

 

ことさらに燈火(ともしび)を消(け)して

まぢまぢと思(おも)ひてゐしは

わけもなきこと

 

 ことさらに燈火を消して

 まぢまぢと思ひてゐしは

 わけもなきこと

 

淺草(あさくさ)の凌雲閣(りようんかく)のいただきに

腕組(うでく)みし日(ひ)の

長(なが)き日記(にき)かな

 

 淺草の凌雲閣のいただきに

 腕組みし日の

 長き日記かな

[やぶちゃん注:「凌雲閣」現在の東京都台東区浅草公園にあった煉瓦造十二階建ての高層展望塔。本書刊行の二十年前の明治二三(一八九〇)年に建設され、東京名所となったが、後の大正一二(一九二三)年の関東大震災で半壊し、撤去された。通称「十二階」。]

 

 

尋常(じんじやう)のおどけならむや

ナイフ持(も)ち死(し)ぬまねをする

その顏(かほ)その顏(かほ)

 

 尋常のおどけならむや

 ナイフ持ち死ぬまねをする

 その顏その顏

[やぶちゃん注:次の歌も合わせて実景ではなく、啄木自身の自棄的幻想と読む。但し、岩城氏の評釈は金田一京助との類似エピソードを記す。]

 

 

こそこその話(はなし)がやがて高(たか)くなり

ピストル鳴(な)りて

人生(じんせい)終(をは)る

 

 こそこその話がやがて高くなり

 ピストル鳴りて

 人生終る

 

 

時(とき)ありて

子供(こども)のやうにたはむれす

戀(こひ)ある人(ひと)のなさぬ業(わざ)かな

 

 時ありて

 子供のやうにたはむれす

 戀ある人のなさぬ業かな

 

 

 

とかくして家(いへ)を出(い)づれば

日光(につくわう)のあたたかさあり

息(いき)ふかく吸(す)ふ

 

 とかくして家を出づれば

 日光のあたたかさあり

 息ふかく吸ふ

 

 

つかれたる牛(うし)のよだれは

たらたらと

千萬年(せんまんねん)も盡(つ)きざるごとし

 

 つかれたる牛のよだれは

 たらたらと

 千萬年も盡きざるごとし

 

 

路傍(みちばたの切石(きりいし)の上(うへ)に

腕拱(うでく)みて

空(そら)を見上(みあぐ)ぐる男(をとこ)ありたり

 

 路傍の切石の上に

 腕拱みて

 空を見上ぐる男ありたり

 

 

何(なに)やらむ

穩(おだや)かならぬ目付(めつき)して

鶴嘴(つりはし)を打(う)つ群(む)を見(み)てゐる

 

 何やらむ

穩かならぬ目付して

鶴嘴を打つ群を見てゐる

 

 

心(こころ)より今日(けふ)は逃(に)げ去(さ)れり

病(やまひ)ある獸(けもの)のごとき

不平(ふへい)逃(に)げ去れり

 

 心より今日は逃げ去れり

 病ある獸のごとき

 不平逃げ去れりげ

 

 

おほどかの心(こころ)來(きた)れり

あるくにも

腹(はら)に力(ちから)のたまるがごとし

 

 おほどかの心來れり

 あるくにも

 腹に力のたまるがごとし

 

 

ただひとり泣(な)かまほしさに

來(き)て寢(ね)たる

宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

 

 ただひとり泣かまほしさに

 來て寢たる

 宿屋の夜具のこころよさかな

 

 

友(とも)よさは

乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ

餓(う)ゑたる時(とき)は我(われ)も爾(しか)りき

 

 友よさは

 乞食の卑しさ厭ふなかれ

 餓ゑたる時は我も爾りき

[やぶちゃん注:「よ」は呼びかけの感動詞で、「さは」「然(さ)は」で、副詞の「そうんな風には」の謂いと採る。]

 

 

新(あたら)しきインクのにほひ

栓(せん)拔(ぬ)けば

餓(う)ゑたる腹(はら)に沁(し)むがかなしも

 

 新しきインクのにほひ

 栓拔けば

 餓ゑたる腹に沁むがかなしも

 

 

かなしきは

喉(のど)のかわきをこらへつつ

夜寒(よざむ)の夜具(やぐ)にちぢこまる時(とき)

 

 かなしきは

 喉のかわきをこらへつつ

 夜寒の夜具にちぢこまる時

 

 

一度(いちど)でも我(われ)に頭(あたま)を下(さ)げさせし

人(ひと)みな死(し)ねと

いのりてしこと

 

 一度でも我に頭を下げさせし

 人みな死ねと

 いのりてしこと

[やぶちゃん注:「てし」は文法的には厳しい。強意の副助詞で「まさに祈ってのことさ!」の意が一番腑には落ちる。過去の助動詞では「て」が致命的におかしい。]

 

 

我(われ)に似(に)し友(とも)の二人(ふたり)よ

一人(ひとり)は死(し)に

一人(ひおり)は牢(らう)を出(い)でて今(いま)病(や)む

 

 我に似し友の二人よ

 一人は死に

 一人は牢を出でて今病む

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この二人を盛岡中学時代の友人であった、小野弘吉と宮永佐吉に同定されておられる。]

 

あまりある才を抱きて

妻のため

おもひわづらふ友をかなしむ

 

 あまりある才を抱きて

 妻のため

 おもひわづらふ友をかなしむ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この人物を啄木が敬愛していた友人の国語教師大島経男であるとする。]

 

 

打明(うちあけ)けて語(かた)りて

何(なに)か損(そん)をせしごとく思(おも)ひて

友(とも)とわかれぬ

 

 打明けて語りて

 何か損をせしごとく思ひて

 友とわかれぬ

[やぶちゃん注:この「何か損をせしごとく思ひて」は意識の流れのブレイクを表わした上手い改行と思う。]

 

 

どんよりと

くもれる空(そら)を見(み)てゐしに

人(ひと)を殺(ころ)したくなりにけるかな

 

 どんよりと

 くもれる空を見てゐしに

 人を殺したくなりにけるかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四三(一九一〇)年十二月号初出である。私が十二の夏、痛烈に惹かれた一首である。]

 

人並(ひとなみ)の才(さい)に過(す)ぎざる

わが友(とも)の

深(ふか)き不平(ふへい)もあはれなるかな

 

 人並の才に過ぎざる

 わが友の

 深き不平もあはれなるかな

 

 

誰(たれ)が見(み)てもとりどころなき男(をこと)來(き)て

威張(ゐば)りて歸(かへ)りぬ

かなしくもあるか

 

 誰が見てもとりどころなき男來て

 威張りて歸りぬ

 かなしくもあるか

 

 

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)樂(らく)にならざり

ぢつと手(て)を見(み)る

 

 はたらけど

 はたらけど猶わが生活樂にならざり

 ぢつと手を見る

[やぶちゃん注:恐らく、啄木の一首で最も人口に膾炙した一首であろうが、これは事実に於いては啄木の実際の境涯を表象するものとは、今は私は全く思わない。しかし、詠んだが勝ちであることは言うまでもない。]

 

 

何(なに)もかも行末(ゆくすゑ)の事(こと)みゆるごとき

このかなしみは

拭(ぬぐ)ひあへずも

 

 何もかも行末の事みゆるごとき

このかなしみは

拭ひあへずも

 

 

とある日(ひ)に

酒(さけ)をのみたくてならぬごとく

今日(けふ)われ切(せつ)に金(かね)を欲(ほ)りせり

 

 とある日に

 酒をのみたくてならぬごとく

 今日われ切に金を欲りせり

 

 

水晶(すいしやう)の玉(たま)をよろこびもてあそぶ

わがこの心(こころ)

何(なに)の心(こころ)ぞ

 

 水晶の玉をよろこびもてあそぶ

 わがこの心

 何の心ぞ

 

 

事(こと)もなく

且(か)つこころよく肥(こ)えてゆく

わがこのごろの物足(ものた)らぬかな

 

 事もなく

 且つこころよく肥えてゆく

 わがこのごろの物足らぬかな

 

 

大(おほ)いなる水晶(すゐしやう)の玉(たま)を

ひとつ欲(ほ)し

それにむかひて物(もの)を思(おも)はむ

 

 大いなる水晶の玉を

 ひとつ欲し

 それにむかひて物を思はむ

 

 

うぬ惚(ぼ)るる友(とも)に

合槌(あひづち)うちてゐぬ

施與(ほどこし)をするごとき心(こころ)に

 

 うぬ惚るる友に

 合槌うちてゐぬ

 施與をするごとき心に

 

 

ある朝(あさ)のかなしき夢(ゆめ)のさめぎはに

鼻(はな)に入(い)り來(き)し

味噌(みそ)を煮(に)る香(か)よ

 

 ある朝のかなしき夢のさめぎはに

 鼻に入り來し

 味噌を煮る香よ

 

 

こつこつと空地(あきち)に石(いし)をきざむ音(おと)

耳(みみ)につき來(き)ぬ

家(いへ)に入(い)るまで

 

 こつこつと空地に石をきざむ音

 耳につき來ぬ

 家に入るまで

[やぶちゃん注:私はこの一首を読むと、フランツ・カフカの「審判」のエンディングを想起するのを常としている。

 

 

何(なに)がなしに

頭(あたま)のなかに崖(がけ)ありて

日每(ひごと)に土(つち)のくづるるごとし

 

 何がなしに

 頭のなかに崖ありて

 日每に土のくづるるごとし

 

 

遠方(ゑんぱう)に電話(でんわ)の鈴(りん)の鳴(な)るごとく

今日(けふ)も耳鳴(みみな)る

かなしき日(ひ)かな

 

 遠方に電話の鈴の鳴るごとく

 今日も耳鳴る

 かなしき日かな

[やぶちゃん注:これはまさに今の私の左耳の確かな実際の激烈な絶え間なき地獄である。]

 

 

垢(あか)じみし袷(あはせ)の襟(えり)よ

かなしくも

ふるさとの胡桃(くるみ)燒(や)くるにほひす

 

 垢じみし袷の襟よ

 かなしくも

 ふるさとの胡桃燒くるにほひす

 

 

死(し)にたくてならぬ時(とき)あり

はばかりに人目(ひとめ)を避(さ)けて

怖(こは)き顏(かほ)する

 

 死にたくてならぬ時あり

 はばかりに人目を避けて

 怖き顏する

[やぶちゃん注:「はばかり」便所。恐らく、こうした馬鹿馬鹿しい注が、向後、必要になるであろう。]

 

 

一隊(いつたい)の兵(へい)を見送(みおく)りて

かなしかり

何(なん)ぞ彼等(かれら)のうれひ無(な)げなる

 

 一隊の兵を見送りて

 かなしかり

 何ぞ彼等のうれひ無げなる

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年八月三日夜から翌四日の夜で、初出は『東京朝日新聞』の同年八月十四日とある。この月の二十九日、日本は大韓帝国を併合して統治下に置く「韓国併合」を行い、朝鮮半島を領有化している。]

 

 

邦人(くにびと)の顏(かほ)たへがたく卑(いや)しげに

目(め)にうつる日(ひ)なり

家(いへ)にこもらむ

 

 邦人の顏たへがたく卑しげに

 目にうつる日なり

 家にこもらむ

[やぶちゃん注:「邦人(くにびと)」という表現から前歌の詩想や背景との密接な関連が推定される。近藤典彦「石川啄木伝」のこちら(以下、数回に亙る)を見ると、やはりそうした解釈をなさっておられる。是非、読まれたい。なお、本歌の初出は『スバル』明四三(一九一〇)年十一月号で、創作は同年十月四日から十六日と示されある。]

 

 

この次(つぎ)の休日(やすみ)に一日(いちにち)寢(ね)てみむと

思(おも)ひすごしぬ

三年(みとせ)このかた

 

 この次の休日に一日寢てみむと

 思ひすごしぬ

 三年このかた

 

 

或(あ)る時(とき)のわれのこころを

燒(や)きたての

麺麭(ぱん)に似(に)たりと思(おも)ひけるかな

 

 或る時のわれのこころを

 燒きたての

 麺麭に似たりと思ひけるかな

 

 

たんたらたらたんたらたらと

雨滴(あまだれ)が

痛(いた)むあたまにひびくかなしさ

 

 たんたらたらたんたらたらと

 雨滴が

 痛むあたまにひびくかなしさ

 

 

ある日(ひ)のこと

室(へや)の障子(しやうじ)をはりかへぬ

その日(ひ)はそれにて心(こころ)なごみき

 

 ある日のこと

 室の障子をはりかへぬ

 その日はそれにて心なごみき

 

 

かうしては居(ゐ)られずと思(おも)ひ

立(た)ちにしが

戶外(おもて)に馬(うま)の嘶(いなな)きしまで

 

 かうしては居られずと思ひ

 立ちにしが

 戶外に馬の嘶きしまで

[やぶちゃん注:歌意は単純に、外を通った馬の嘶きを異様な何かの事態・天災と聴き誤って、思わず『こうしていられないぞ!』と感じて立ち上がったと、自身を諧謔しているように一見読めるが、この「嘶き」は日本全土に広がった大陸侵略への軍靴の音の凶兆の表象のように私には読める。]

 

 

氣(き)ぬけして廊下(らうか)に立(た)ちぬ

あららかに扉(とびら)を推(お)せしに

すぐ開(あ)きしかば

 

 氣ぬけして廊下に立ちぬ

 あららかに扉を推せしに

 すぐ開きしかば

[やぶちゃん注:前歌とは内的な感覚上の組み歌のように思われる(但し、シチュエーションが同一だというのではない)。ただ「廊下」という表現が、この歌のロケーションは自宅ではないように思われる。近藤典彦「石川啄木伝」では、こちらで、『「扉」がドア式である。喜之床』(きのとこ)の二『階つまり今借りている部屋の出入口はドア式ではあるまい。ドア式で若い男が「あららかに」推さないと開かないような出入口では』、『老母や』四『歳未満の京子』(明治三九(一九〇六)年十二月二十九日生まれの啄木の長女)『は生活できないだろうから。職場東京朝日新聞社の日常使う編集室のドアがそんなに固いはずはなかろう。偉い記者たちもたくさん出入りするのである。ガタピシドアであるとは思えない』。『この「扉」=ドアのある部屋は、節子が出産のために入っている東大病院の病室であろうと思われる』。『それだと』、『ドアの調子が今一つ分からなくても不自然ではない。おそらく入室するとき、ドアが固かったのではなかろうか。でなければ前回出るときに固かったか』。『<訳>気抜けして病院の廊下に立ってしまった。このドアは固いと思い込んで、体重をかけて荒っぽく推したところ、すっと開いてしまったので。』とある。なお、本歌は「一握の砂」初出で、作歌時期は明四三(一九一〇)年の十月四日から十六日とある。既に注した通り、長男真一は十月四日生まれである(同月二十七日死亡)。]

 

 

ぢつとして

黑(くろ)はた赤(あか)のインク吸(す)ひ

堅(かた)くかわける海綿(かいめん)を見(み)る

 

 ぢつとして

 黑はた赤のインク吸ひ

 堅くかわける海綿を見る

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらでは、驚くべき注意深さで、この一首の極めて具体的な状況を解析しておられる。是非読まれたい。

「はた」副詞。動作・状態が短時間に変わるさま。]

 

誰(たれ)が見(み)ても

われをなつかしくなるごとき

長(なが)き手紙(てがみ)を書(か)きたき夕(ゆふべ)

 

 誰が見ても

 われをなつかしくなるごとき

 長き手紙を書きたき夕

 

 

うすみどり

飮(の)めば身體(からだ)が水(みづ)のごと透(す)きとほるてふ

藥(くすり)はなきか

 

 うすみどり

 飮めば身體が水のごと透きとほるてふ

 藥はなきか

[やぶちゃん注:私は結核の不快症状を背景に考えていたが、啄木の顕在的な結核の罹患症状らしきものは明治四四(一九一一)年一月末頃に自覚されているようで、近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本歌の初出は『スバル』の明四三(一九一〇)年十一月号で、作歌時期は同年十月四日から十六日とあり、時期が前で、合わない。私のそれは思い込みであることが判った。而して、近藤氏はそこで、上田博氏のこの歌の評釈から、これは『透明人間願望の歌であ』り、かのHG・ウェルズのSF小説「透明人間」(Invisible Man:一八九七年刊)に触発されたもという見解を示しておられる。但し、近藤氏は『まだ邦訳されてはいないまでも、透明な人間の物語がイギリスで読まれている、くらいのことを啄木は耳にしていたかも知れ』ないとされる。ウィキの「石川啄木」によれば、彼は、この二年前の明治四十二年四月十三日、『「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記に』記しており、『次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はHG・ウェルズの作品『宇宙戦争』を翻案したもので』一九〇九年三月に出版されている』とあって、啄木がウェルズのSF小説に関心を持っていたことが判る。立ち戻って、さらに近藤氏は、木股知史氏の評釈を引かれ、『透明になることは、<見られる自己>を消滅させるという願いを意味し』、『この歌では、他者のまなざしからの自由を希求している。『うすみどり』と『透きとほる』が呼応して、空想にふさわしい軽く明るいイメージを作っている』とあり、訳されて、『うすみどりで、それを飲むと身体が水のように透きとおるという薬はないものか。あればしばしの間透明人間を楽しめるのだが』とされており、すこぶる腑に落ちた。]

 

 

いつも睨(にら)むランプに飽(あ)きて

三日(みか)ばかり

蠟燭(らふそく)の火(ひ)にしたしめるかな

 

 いつも睨むランプに飽きて

 三日ばかり

 蠟燭の火にしたしめるかな

 

 

人間(にんげん)のつかはぬ言葉(ことば)

ひよつとして

われのみ知(し)れるごとく思(おも)ふ日(ひ)

 

 人間のつかはぬ言葉

 ひよつとして

 われのみ知れるごとく思ふ日

 

 

あたらしき心(こころ)もとめて

名(な)も知(し)れぬ

街(まち)など今日(けふ)もさまよひて來(き)ぬ

 

 あたらしき心もとめて

 名も知れぬ

 街など今日もさまよひて來ぬ

 

 

友(とも)がみなわれよりえらく見(み)ゆる日(ひ)よ

花(はな)を買(か)ひ來(き)て

妻(つま)としたしむ

 

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 花を買ひ來て

 妻としたしむ

 

 

何(なに)すれば

此處(ここ)に我(われ)ありや

時(とき)にかく打驚(うちおどろ)きて室(へや)を眺(なが)むる

 

 何すれば

 此處に我ありや

 時にかく打驚きて室を眺むる

 

 

人(ひと)ありて電車(でんしや)のなかに唾(つば)を吐(は)く

それにも

心(こころ)いたまむとしき

 

 人ありて電車のなかに唾を吐く

 それにも

 心いたまむとしき

 

 

夜明(よあ)けまであそびてくらす場所(ばしよ)が欲(ほ)し

家(いへ)をおもへば

こころ冷(つめ)たし

 

 夜明けまであそびてくらす場所が欲し

 家をおもへば

 こころ冷たし

 

 

人(ひと)みなが家(いへ)を持(も)つてふかなしみよ

墓(はか)に入(い)るごとく

かへりて眠(ねむ)る

 

 人みなが家を持つてふかなしみよ

 墓に入るごとく

 かへりて眠る

 

 

何(なに)かひとつ不思議(ふしぎ)を示(しめ)し

人(ひと)みなのおどろくひまに

消(きえ)えむと思(おも)ふ

 

 何かひとつ不思議を示し

 人みなのおどろくひまに

 消えむと思ふ

 

 

人(ひと)といふ人(ひと)のこころに

一人(ひとり)づつ囚人(しうじん)がゐて

うめくかなしさ

 

 人といふ人のこころに

 一人づつ囚人がゐて

 うめくかなしさ

 

 

叱(しか)られて

わつと泣(な)き出(だ)す子供心(こどもごころ)

その心(こころ)にもなりてみたきかな

 

 叱られて

 わつと泣き出す子供心

 その心にもなりてみたきかな

 

 

盗(ぬす)むてふことさへ惡(あ)しと思(おも)ひえぬ

心(こころ)はかなし

かくれ家(が)もなし

 

 盗むてふことさへ惡しと思ひえぬ

 心はかなし

 かくれ家もなし

 

 

放(はな)たれし女(をんな)のごときかなしみを

よわき男(をとこ)の

感(かん)ずる日(ひ)なり

 

 放たれし女のごときかなしみを

 よわき男の

 感ずる日なり

[やぶちゃん注:「放たれし女のごとき」旧日本の(今もその亡霊はしっかりいるが)束縛され差別されてきた女性の内から出現した、男と同様に個人として覚醒して解放された女性像のような存在が持つところの。]

 

 

庭石(にはいし)に

はたと時計(とけい)をなげうてる

昔(むかし)のわれの怒(いか)りいとしも

 

 庭石に

 はたと時計をなげうてる

 昔のわれの怒りいとしも

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本「一握の砂」初出、作歌は明四三(一九一〇)年九月九日夜で、『「昔」住んだ「庭石」のある家といえば』、渋谷村の『宝徳寺か盛岡市加賀野磧町の家(結婚後まもなく移り住んだ)であろう。「いとし」は「かわいい」の意味であるから、思い出は宝徳寺時代の、それも少年期のものであろう』とされ、この『「時計」は目覚まし時計であろうとされた上で、『「昔のわれ」は何に対して怒ったのであろう。家族に対してか。時計そのものに対してか。自分自身に対してか。どうも見当がつかない。はっり言えるのはその怒りが個人的なものだったということである』。『「昔のわれの怒り」の裏側にある「現在のわれの怒り」は作歌が』上記の通り『であるから』、『歴史的社会的なものであ』り、『「現在のわれの怒り」はまさに「韓国併合と時代閉塞の現状」への怒りなのである。表現の自由への狂気じみた弾圧の嵐の今、怒りは鬱屈せざるを得ない』と記しておられる。]

 

 

顏(かほ)あかめ怒(いか)りしことが

あくる日(ひ)は

さほどにもなきをさびしがるかな

 

 顏あかめ怒りしことが

 あくる日は

 さほどにもなきをさびしがるかな

 

 

いらだてる心(こころ)よ汝(なれ)はかなしかり

いざいざ

すこし呿呻(あくび)などせむ

 

 いらだてる心よ汝はかなしかり

 いざいざ

 すこし呿呻などせむ

 

 

女(をんな)あり

わがいひつけに背(そむ)かじと心(こころ)を碎(くだ)く

見(み)ればかなしも

 

 女あり

 わがいひつけに背かじと心を碎く

 見ればかなしも

 

 

ふがひなき

わが日(ひ)の本(もと)の女等(をんなら)を

秋雨(あきさめ)の夜(よ)にののしりしかな

 

 ふがひなき

 わが日の本の女等を

 秋雨の夜にののしりしかな

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらが、明晰に本歌の背景と作者の怒りを分析しておられる。是非、読まれたい。]

 

 

男(をこと)とうまれ男(をとこ)と交(まじ)り

負(ま)けてをり

かるがゆゑにや秋(あき)が身(み)に沁(し)む

 

 男とうまれ男と交り

 負けてをり

 かるがゆゑにや秋が身に沁む

 

 

わが抱(いだ)く思想(しそう)はすべて

金(かね)なきに因(いん)するごとし

秋(あき)の風(かぜ)吹(ふ)く

 

 わが抱く思想はすべて

 金なきに因するごとし

 秋の風吹く

 

 

くだらない小說(せうせつ)を書(か)きてよろこべる

男(をとこ)憐(あは)れなり

初秋(はつあき)の風(かぜ)

 

 くだらない小說を書きてよろこべる

 男憐れなり

 初秋の風

[やぶちゃん注:「くだらない小說」近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とされ、この「くだらない小說」とは啄木の「我等の一團と彼」(同年五月下旬から六月上旬にかけて執筆された)を指すとされる。現在、同小説は高く評価されている。「青空文庫」のこちらで読める(正字正仮名)。近藤氏の引用された加藤周一氏と井上ひさし氏のの評価を読まれたい。]

 

秋(あき)の風(かぜ)

今日(けふ)よりは彼(か)のふやけたる男(をとこ)に

口(くち)を利(き)かじと思(おも)ふ

 

 秋の風

 今日よりは彼のふやけたる男に

 口を利かじと思ふ

 

 

はても見(み)えぬ

眞直(ますぐ)の街(まち)をあゆむごとき

こころを今日(けふ)は持(も)ちえたるかな

 

 はても見えぬ

 眞直の街をあゆむごとき

 こころを今日は持ちえたるかな

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

いそがしく

暮(くら)らせし一日(ひとひ)を忘(わす)れじと思(おも)ふ

 

 何事も思ふことなく

 いそがしく

 暮らせし一日を忘れじと思ふ

 

 

何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ

すこし經(へ)て

またも俄(には)かに不平(ふへい)つのり來(く)

 

 何事も金金とわらひ

 すこし經て

 またも俄かに不平つのり來

 

 

誰(た)そ我(われ)に

ピストルにても擊(う)てよかし

伊藤(いとう)のごとく死(し)にて見(み)せなむ

 

 誰そ我に

 ピストルにても擊てよかし

 伊藤のごとく死にて見せなむ

[やぶちゃん注:前年の明治四二(一九〇九)年十月二十六日、元韓国統監(同年六月辞任)であった伊藤博文はロシアの財務大臣と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために訪れたハルビン駅頭で、大韓帝国の民族運動家安重根(アン・ジュングン)によって射殺された。近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四十三年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とある。本歌の解釈は二回に亙る近藤氏の評釈を読まれたい。下句が英雄的人物としての伊藤(私は彼のことを全くそう思わないが)讃美であることが判る。]

 

 

やとばかり

桂首相(かつらしゆしやう)に手(て)とられし夢(ゆめ)みて覺(さ)めぬ

秋(あき)の夜(よ)の二時(にじ)

 

 やとばかり

 桂首相に手とられし夢みて覺めぬ

 秋の夜の二時

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は前歌と同じ明治四三(一九一〇)年九月九日夜。初出も同前である。そこで近藤氏は『いきなり強い力で桂首相に腕をつかまれた。びっくりして目が覚めた。秋の夜の』二『時だった。(「強権」との闘いを呼びかける文章を書いたばかりだからだろうか。強権政治の親玉が怖い目をして夢に現れたのだった。)』と訳しておられる。

 以下は私の印象であるが、「やとばかり」に緊迫は感じられるが、短歌という性質上、強烈なインパクトを表現しきれてはいない。特に前の伊藤博文のそれと並べられると、逆にソフトな誤った印象を与える。私は啄木が本作の「我を愛する歌」の掉尾にこれを持ってきたのは決して成功しているとは言えない気がしている。大方の御叱正を俟つ。

「桂首相」桂太郎(弘化四(一八四八)年~大正二(一九一三)年)は元長州(萩)藩士。明治三一(一八九八)年の第三次伊藤博文内閣で陸軍大臣に就任し、同年、大将に昇進、軍備拡張政策を推進して藩閥の一員として政党勢力と対立した。明治三十四年に首相となり日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)を指導、その際、原敬と五度会談し、戦後の西園寺公望への政権委譲を条件に立憲政友会の支持を得た。しかし、「ポーツマス講和条約」に対する国民の不満が「日比谷焼き打ち事件」という形で顕在化する中で退陣、西園寺と交代した。明治四十一年に成立した第二次桂内閣では、日露戦争後の困難な財政再建を図るとともに、満州での勢力範囲を「第二次日露協約」により確定し、明治四十三年に韓国を併合した。また、社会政策である工場法を制定する一方で、「大逆事件」に代表される社会主義者への弾圧を行った。後、第三次桂内閣を組織したが、詔勅を乱発したため、非立憲との批判が高まり、自らも政党を作るべく立憲同志会創設を宣言したが、護憲運動が民衆暴動と化し、大正二(一九一三)年二月にわずか五十三日で総辞職した。その後、新政党の勢力拡大を図っている最中に病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

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