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2020/05/31

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 國定忠冶の墓

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽而(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴(ぶらい)の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しきかな。

久遠に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせむ。

          ――上州國定村にて――

 

【詩篇小解】 國定忠冶の墓  昭和五年の冬、 父の病を看護して故鄕にあり。 人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。 ひそかに家を脫して自轉車に乘り、 烈風の砂礫を突いて國定村に至る。 忠治の墓は、 荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、 暗き竹籔の影にふるえて、 冬の日の天日暗く、 無賴の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。 我れ此所を低徊して、 始めて更らに上州の肅殺たる自然を知れり。 路傍に倨して詩を作る。

 

[やぶちゃん注:「國定忠冶」(文化七(一八一〇)年~嘉永三(一八五一)年)は江戸後期の侠客。本名は長岡忠次郎。父は上野(こうずけ)国(群馬県)佐位(さい)郡国定村の中農与五左衛門。十七歳の時、人を殺(あや)め、大前田英五郎の許に身を寄せて博徒の親分として売り出した。博奕(ばくち)を業とし、縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めては私闘を繰り返した。天保五(一八三四)年、敵対する島村伊三郎を謀殺したことから、関東取締出役(所謂「八州廻り」。文化二(一八〇五)年に設置された幕府の役職。関東地方の無宿者・博徒などの横行を取締って治安維持強化を図り、幕領・私領の別無く村を回って警察権を行使する強大な権利が与えられていた。代官の手代・手付から八名(後に十人)を選任した)に追われる身となり、以降、一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、「関東通り者」の典型となった。逃亡・潜伏を繰り返すうち、同七年、信州の弟分の茅場長兵衛(兆平とも)を殺した信州やくざの原七(波羅七)を討つため、大戸(群馬県)の関所を破ったり、同十三年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋を履いた三室勘助を子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど、幕府の御膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。その間の逃亡や潜伏を支えたのは、一家の子分の力もあるが、忠治を匿った地域民衆の支持もあった。伝承によれば、同七年の「天保の大飢饉」の際には私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門(にしのめうえもん)と協力して、博奕のアガリで農業用水の磯沼を浚(さら)ったりした。忠治の存在は幕府にとって沽券に係わるものとなっていた。嘉永三(一八五〇)年夏、潜伏先の国定村で中気となり、隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中、捕らえられ、江戸に送られて勘定奉行の取調べられたが、罪状が余りに多過ぎるため、最も重い「関所破り」を適用されて磔(はりつけ)と決まった(宇右衛門も彼を匿った罪で打首となった)。磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々、道中行列を演技し、十四度まで槍を受けて衆目を驚かせた。忠治の対極にいた代官羽倉簡堂は「劇盗忠二小伝」(「赤城録」)を著し、『凡盜にあらずして劇盜』と評した。死後の忠治は、時代が閉塞状況となる度、国家権力と戦う〈民衆のヒーロー〉として映画や芝居などを通して甦った。墓は金城山養寿寺(群馬県伊勢崎市国定町)と善応寺(伊勢崎市)にある(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。萩原朔太郎が行ったのは前者で、ここ(グーグル・マップ・データ。同サイド・パネルの墓の画像はこちら)。サイト『「風雲児たち」に登場する人物の事典(第一期)』の「国定忠治」によれば、『萩原朔太郎は、 昭和』五『年冬に実家から』二十キロメートルも『離れた国定村まで』、『自転車で墓参りに行』き、本詩を詠んだと記す。これは正しいが、但し、初出の吟詠のクレジットは以下に見る通り、昭和八(一九三三)年一月である。

「蠶」「かひこ」と訓じでおく。

「閾(しきみ)」内外の境として門や戸口などの下に敷く横木。現在の敷居に当たる。戸閾 (とじきみ) 。

「悽而(せいじ)」陶淵明の「閑情賦」の中に用例があるが、それは「色慘悽而矜顏」(色は慘悽として顏を矜(きよう)す)であって、「顔の色は如何にも痛ましい感じで、泣いてさえいる」で、このような熟語は普通に使用されることはない。萩原朔太郎の勝手な造語の一つと考えてよい。以下の初出の「悽爾(せいじ)」も同様である。

「肅條」「しゆくでう(しゅくじょう)」であるが、意味不明。「蕭條」(せうでう(しょうじょう):ひっそりともの寂しいさま)の、やはり朔太郎お得意の例の思い込み誤用である。

 昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『自らのさだめを見さだめる』と題して以下のように述べておられる。底本の傍点「ヽ」を太字に代えた。

   《引用開始》

 ここには、「品川沖観艦式」におけるような、外的客体物への主観の投入、その融一化というより、もっと冷静に、主観と客観とは分離しているようです。いうまでもなく第一連では、寒々とした竹藪の影の「無頼の眠りたる」忠治の墓が描かれ、第二連では、ついに自らが墓石と化する日を、まざまざと見て、おのれの感懐(かんかい)をのべるのです。忠治の墓は、「路傍の笹の風に吹かれ」て、ひえびえと彼の眼前にあります。それは、現実の、歴史的時間の中に、非情にも「亡び尽」される一切の実存の姿にほかなりません。ここにおいて、彼は、巨大な、という形容さえこと足りぬ、外部現実の中に置かれた、実存の、のがれ得ぬ絶対的条件に直面し、自らのさだめを見さだめます。

  いかんぞ残生を新たにするも

  冬の蕭条(せうでう)たる墓石の下に

  汝はその認識をも無用とせむ。

 第一連の描写的記述の中に、「人生の貧しき惨苦を感ずるなり。」の感懐表白の一行が置かれたのと対比的に、この第二連の感懐表白体の中に挟まれた、「冬の蕭条たる墓石の下に」という一行のイメェジは、きわめて効果的で、「かの荒寥たる平野の中」の行とともに、けっして感覚的に多彩でもこまやかでもありませんが、その大づかみな抱え方において、よく前後の重い観念的詩句と均衡(きんこう)を保っています。そして、「日月我れを投げうつて去り」の一句が、陶淵明(とうえんめい)の「日月擲ㇾ人去」(「雑詩」其二)に基づくかどうかはともあれ、つづけて「意志するものを亡び尽せり。」と読むとき、それは詩句としての異常な緊張力のゆえに、読者を感動させるのを知ると同時に、やはりそこに、これまで見てきた萩原朔太郎という詩人の久しい間の詩業と、その精神の歴史がまざまざと甦(よみがえ)り、ほとんど劇的といっていい感動となって迫ってくるのを、おぼえずにはおれません。

   *

この絶賛は過褒ではない。

 初出は昭和八(一九三三)年六月発行の『生理』「Ⅰ」である。

   *

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽爾(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しいかな。

久遠(くゑん)に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせん。

   ――上州國定村にて、一九三三年一月――

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 中學の校庭

 

   中學の校庭

 

われの中學にありたる日は

艶めく情熱になやみたり。

怒りて書物を投げすて

ひとり校庭の草に寢ころび居しが

なにものの哀傷ぞ

はるかに彼(か)の靑きを飛び去り

天日直射して 熱く帽子の庇(ひさし)に照りぬ。

           ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:最終画面の強烈なハレーションが、我々のある種の普遍的追懐のへと収斂してゆく手法は見事と言わざるを得ない。萩原朔太郎は明治三三(一九〇〇)年(数え十五歳)三月に群馬県立師範学校附属小学校高等科を卒業し、四月に県立前橋中学校に入学した。明治三十七年三月に五年次生進級に際して落第し、翌年(二十歳)四月に進級、翌明治三九(一九〇六)年三月に卒業している。本篇については、case 氏のブログ「流体枷仔」(りゅうたいかせこ)の「萩原朔太郎『純情小曲集』「中學の校庭」小考」が驚異の解析力で初出からの推敲過程を推察されているので、是非、読まれたい。

 なお、そこにも訂正・削除がされて少し書かれてあるのだが、筑摩版萩原朔太郎全集第二巻(昭和五二(一九七七)年刊)の「解題」の「初出形及び草稿詩篇」に、この「中學の校庭」については、大正一二(一九二三)年一月号『薔薇』が初出であることが判明しているものの、当該雑誌を採集することが出来なかった旨の記載がある。従って、本当の初出形は私は示すことが出来ない。

 なお、大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」には「郷土望景詩の後に」という自解パートが巻末にあり、「Ⅳ 前橋中學」という条が最後にある。

   *

 

 Ⅳ 前橋中學

 

 利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。

 

   *

とある。「四つ葉(くろばあ)」の「くろばあ」は「四つ葉」三字に対するルビである。

 さらに、後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、

   *

 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ

 

  艶めく情熱に惱みたり

 

 と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絕えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。

 

   *

と強い呪詛として語られてある。

 以下、現在知り得るこれ以前の形である「純情小曲集」版のものを示す。

   *

 

   中學の校庭

 

われの中學にありたる日は

艶(なま)めく情熱になやみたり

いかりて書物を投げすて

ひとり校庭の草に寢ころび居しが

なにものの哀傷ぞ

はるかに彼靑きを飛びさり

天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 動物園にて

 

   動物園にて

 

灼きつく如く寂しさ迫り

ひとり來りて園内の木立を行けば

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を食らひ

本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に

鐵鎖のつながれたる惱みをたえたり。

暗欝なる日かな!

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり。

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙みつきつつ

さびしき復讐を戰ひしかな!

いま秋の日は暮れ行かむとし

風は人氣なき小徑に散らばひ吹けど

ああ我れは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

[やぶちゃん注:「たえたり」はママ(初出も同じ)。ロケーションの動物園はどこのそれか不詳。

 初出は昭和五(一九三〇)年二月号『ニヒル』(創刊号)。

   *

 

   動物園にて

 

灼きつく如く寂しさ迫り

一人來りて園内の木立を行けり。

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を喰らひ

本能の蒼き瞳(ひとみ)に

鐵鎖のつながれたる惱みをたえたり。

暗欝なる日かな

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

いかんぞこの悲しきものを見るに耐えん。

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙み付きつつ

さびしき復讐を戰ひしかな。

今秋の日は暮れ行かんとし

風は人氣なき小徑に散りばひ吹けり。

ああその思惟を斷絕せよ

われは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

   *

「耐えん」もママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 告別

 

   告 別

 

汽車は出發せんと欲し

汽鑵(かま)に石炭は積まれたり。

いま遠き信號燈(しぐなる)と鐵路の向ふへ

汽車は國境を越え行かんとす。

人のいかなる愛着もて

かくも機關車の火力されたる

烈しき熱情をなだめ得んや。

驛路に見送る人々よ

悲しみの底に齒がみしつつ

告別の傷みに破る勿れ。

汽車は出發せんと欲して

すさまじく蒸氣を噴き出し

裂けたる如くに吠え叫び

汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。

 

[やぶちゃん注:「向ふへ」はママ(初出も同じ)。

 初出は昭和五(一九三〇)年二月号『ニヒル』(創刊号)。

   *

 

   告別

 

汽車は出發せんと欲し

竃(かま)に石炭は積まれたり。

今遠きシグナルと鐵路の向ふへ

汽車は國境を越え行かんとす

人のいかなる愛着もて

かくも機關車の火力されたる

烈しき熱情をなだめ得んや。

驛路に見送る人々よ

悲しみの底に齒がみしつつ

告別の傷みに破る勿れ。

汽車は出發せんと欲して

すさまじく蒸氣を噴き出し

裂けたる如くに吠え叫び

汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。

 

   *]

2020/05/30

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 小出新道

 

   小出新道

 

ここに道路の新開せるは

直として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗欝なる日かな

天日家並の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

           ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する一篇。末尾の「いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん」「われの叛きて行かざる道に」「新しき樹木みな伐られたり」は〈絶対の孤独者萩原朔太郎〉の絶唱と言ってよい。芥川龍之介は嘗て「鄕土望景詩」群を朝の寝床で読み、勃然として床を蹴って、寝間着のまま萩原朔太郎の家を訪れたエピソードがあるが、龍之介が感銘したそれは本篇ではなかったかと密かに思っているぐらいである(私の古い(従って正字化が杜撰なのはお許しあれ)萩原朔太郎「芥川龍之介の死」(初出は雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号)の第「7」章を参照されたい。なお、私はこれを芥川龍之介追悼文の白眉であると信じて疑わない)。さて、個人(松永捷一氏)サイト「高校物理講義のノートとつれづれの記」の「前橋の詩碑」の中の「小出新道」によれば、『小出新道という名は朔太郎がつけたもので固有名詞ではない。「小出新道」の詩から、現在の大渡橋の南にある上毛会館から住吉町交番へ向かう道と考えられる』。『前橋は製糸業が盛んになり、街は活気づき道路が広げられた。前橋で作られた生糸は横浜経由で輸出された。朔太郎がそれまで親しんできた小出新道に茂っていた楢や櫟などが切り倒され、朔太郎は自分では抗えないふるさとの変貌ぶりに心を痛めていたに違いない』。『左の写真』(リンク先参照)『は、小出新道と呼ばれていた道路の現在の姿である。市街地から西を眺めたもので、正面に見えるのは榛名山である。朔太郎には現在のような姿は想像だにできないだろう』とある。同氏の「前橋の詩碑」のメニューにある地図ではここである(Yahoo!地図)。後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)の「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、本篇の一部を引きつつ、

   *

 と歌つた小出(こいで)の林は、その頃から既に伐採されて、楢や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生生(なまなま)しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに驀進して行く。

 

   兵士の行軍の後に捨てられ

  破れたる軍靴(ぐんくわ)のごとくに

   汝は路傍に渇けるかな。

  天日(てんじつ)の下に口をあけ

  汝の過去を哄笑せよ。

  汝の歷史を捨て去れかし。

            ――昔の小出新道にて――

   *

という、本篇続編というか、〈追悼詩〉をさえ添え据えているのである。なお、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『かえすすべない人生への思い』と題した中で以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 最初七行は、叙景の体をとりながら、「さびしき四方(よも)の地平をきはめず」といい、「暗影なる日かな」といい、西日の下の荒茫(こうぼう)たる風景は、そのまま作者の心の境位をうつし出しています。「天日家並の軒に低くして/林の雑木(ざふき)まばらに伐(き)られたり」の簡勁(かんけい)な落日の叙景に次いで、詩句は一転して、「いかんぞ いかんぞ思惟(しゐ)をかへさん」という、感懐(かんかい)の激発的直叙となります。おのれがこれまで「思惟」し生きてきたところの一切、それはかえすすべもなく、やり直すすべもなく、しかもまたついにおのれを救うすべもないところのものです。「われの叛(そむ)きて行かざる道」、おのれの経てきた人生と別の人生を、たとい生きたとしても、それは同じだったでしょう。第一それは、最初から不可能でもあった、おのれの「思惟」は必然であり、ほかに生きようはなかったのです。しかも「われの叛きて行かざる道」に、まのあたり「新しき樹木」はみな伐り倒されているのです。この実景はそのまま、作者の悲劇的宿命感をうつし出しているものといえます。

   《引用終了》

私は那珂氏の解に、何らの屋上屋をも必要としない。

 初出は大正一四(一九二五)年六月号『日本詩人』(芥川龍之介はこれで読んだ。同号には後に「鄕土望景詩」と群名するものは他に「新前橋驛」・「大渡橋」・「公園の椅子」の四篇のみである。「大渡橋」(リンク先は私の古いブログでの電子化)も好きだが、龍之介の琴線に激しく触れたのは、やはり、間違いなくこの「小出新道」の最終三行であると思うのである。それは龍之介の中の自死へと激しく傾斜してゆく孤独者としてののっぴきならない激烈な共鳴であったのである。芥川龍之介の自殺は、この二年後の昭和二(一九二七)年七月二十四日であった)

   *

 

   小出新道

 

ここに道路の新開せるは

直(ちよく)として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗鬱なる日かな

天日家並の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 地下鐵道(さぶうえい)にて

 

   地下鐵道(さぶうえい)にて

 

ひとり來りて地下鐵道(さぶうえい)の

靑き步廊(ほうむ)をさまよひつ

君待ちかねて悲しめど

君が夢には無きものを

なに幻影(まぼろし)の後尾燈

空洞(うつろ)に暗きトンネルの

壁に映りて消え行けり。

壁に映りて過ぎ行けり。

 

    「なに幻影(まぼろし)の後尾燈」
    「なに幻影(まぼろし)の戀人を」
    に通ず。掛ケ詞。

 

[やぶちゃん注:初出は本詩集。この詩は好きだが、その諧謔は「臭い」。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 火

 

   

 

赤く燃える火を見たり

獸類(けもの)の如く

汝は沈默して言はざるかな。

 

夕べの靜かなる都會の空に

炎は美しく燃え出づる

たちまち流れはひろがり行き

瞬時に一切を亡ぼし盡せり。

資產も、工場も、大建築も

希望も、榮譽も、冨貴も、野心も

すべての一切を燒き盡せり。

 

火よ

いかなれば獸類(けもの)の如く

汝は沈默して言はざるかな。

さびしき憂愁に閉されつつ

かくも靜かなる薄暮の空に

汝は熱情を思ひ盡せり。

 

 

【詩篇小解】   我が心の求めるものは、 常に靜かなる情緖なり。 かくも優しく、 美しく、 靜かに、 靜かに、 燃えあがり、 音樂の如く流れひろがり、 意志の烈しき惱みを知るもの。 火よ! 汝の優しき音樂もて、 我れの夕べの臥床の中に、 眠りの戀歌を唄へよかし。 我れの求めるものは情緖なり。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和五(一九三〇)年二月号『ニヒル』(創刊号)。

   *

 

   

 

赤く燃える火を見たり

獸の如く

汝は沈默して言はざるかな。

 

夕べの靜かなる都會の空に

炎は美しく燃え出づる

たちまち流れはひろがり行き

瞬時に一切を亡ぼし盡せり。

資產も、工場も、大建築も

榮譽も、富貴も、野心も、希望も、

すべての一切を燒き盡せり。

 

火よ

いかなれば獸の如く

汝は沈默して言はざるかな。

さびしき憂愁に閉されつつ

かくも靜かなる薄暮の空に

汝は熱情を思ひ盡せり。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 品川沖觀艦式

 

  品川沖觀艦式

 

低き灰色の空の下に

軍艦の列は橫はれり。

暗憺として錨をおろし

みな重砲の城の如く

無言に沈欝して見ゆるかな。

 

曇天暗く

埠頭に觀衆の群も散りたり。

しだいに暮れゆく海波の上

既に分列の任務を終へて

艦(ふね)等みな歸港の情に渴けるなり。

 

冬の日沖に荒れむとして

浪は舷側に凍り泣き

錆は鐵板に食ひつけども

軍艦の列は動かんとせず

蒼茫たる海洋の上

彼等の叫び、渴き、熱意するものを强く持せり。

 

【詩篇小解】 品川沖觀艦式  昭和四年一月、 品川沖に觀艦式を見る。 時薄暮に迫り、 分列の式既に終りて、 觀衆は皆散りたれども、 灰色の悲しき軍艦等、 尙錨をおろして海上にあり。 彼等みな軍務を終りて、 歸港の情に渴ける如し。 我れ既に生活して、 長く既に疲れたれども、 軍務の歸すべき港を知らず。 暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食はれたり。 いかんぞ風景を見て傷心せざらん。 欝然として怒に耐えず、 遠く沖に向て叫び、 我が意志の烈しき渴きに苦しめり。

 

[やぶちゃん注:実は、底本は視認するに、第二連の後は版組から考えると、二行分、空いている(「42」ページ)。これは第三連の頭を一行しか持ってこれず、連としての自然さを壊し、読者を惑わすことを考慮して確信犯で空けたものである。

 昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」で本篇について『なだめがたい飢渇感』という表題の評釈の中で(傍点は太字に代えた)、

   《引用開始》

 この作の素材となったのは、昭和四年一月(じつは品川沖で観艦式が行われたのは昭和三年十二月)に見たという観艦式あとの品川沖の実景ですが、ここではもはやそれが、作者内部のまったきヴィジョンにまで昇華されています。「しだいに暮れゆく海波の上/既に分列の任務を終へて/艦等みな帰港の情に渇けるなり」と軍艦のイメェジがうたわれるとき、読者は必然的に、そこに二重写しに、作者のなだめがたい飢渇感が迫ってくるのを知るのです。それは、かつての「愛」の現実的対象への飢渇であり、また漠然たる人生のイデアヘの飢渇であり、あるいは「信じられないものを信じようとする」(「草稿詩稿」)信仰への飢渇であり、さらには「遠い実在への涙ぐましいあこがれ」「霊魂ののすたるぢや」であったところのもの、――そしていまは、飢渇すべき対象さえついにさだかでないままに、なおかつ飢え渇く魂の、ただ「帰港」すべきところを求めようとする、やむことのない飢渇感なのです。

「冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣(かき)」の一句を、著者は、『氷島』の扉(とびら)にしるしましたが、生の無目的感、虚無感は、すでに久しく、牡蠣のように彼の内部に食いつく宿痾となったのにかかわらず、なにとはしれぬ飢渇の情ばかりは、なおも、ありつづけるのです。それがここでは、『月に吠える』『青猫』当時の幻視幻想のイメェジではなく、方法的にはこの詩人の「退却」といわざるをえない、客観的事物への感情移入という、古風なかたちをとるものにせよ、「蒼茫(さうばう)たる海洋の上」に、「叫び、渇き、熱意」しつづける軍艦の列によって、みごとに、表現しおおされています。外部の事象と内部の観念とが渾和し融合している点で、きわだつ秀作です。

   《引用終了》

と述べておられる。ところが、『「信じられないものを信じようとする」(「草稿詩稿」)』とあるが、この引用元は不詳である。筑摩版全集には本「品川沖觀艦式」の草稿詩篇は有意な異同がないものとして載らないからである。但し、全集編者によって「品川沖觀艦式」の原稿は一種二枚が残っているとあるので、或いは那珂氏はそれを見たものか。因みに同全集の編集者には那珂氏が入っている。後の「遠い実在への涙ぐましいあこがれ」「霊魂ののすたるぢや」の方は、先行する大正一二(一九二三)年一月に新潮社から刊行された詩集「靑猫」の序(リンク先は 私の『萩原朔太郞 靑猫 (初版・正規表現版)始動 序・凡例・目次・「薄暮の部屋」』)の第一段落(後者)と第二段落(前者)からの引用である。

 初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

  品川沖觀艦式

 

低き灰色の空の下に

軍艦の列は橫はれり。

暗憺として錨をおろし

みな重砲の城の如く

無言に沈鬱して見ゆるかな。

 

曇天暗く

埠頭に觀衆の群も散りたり。

しだいに暮れゆく海波の上

既に分列の任務を終へて

艦(ふね)等みな歸港の情に渴けるなり。

 

冬の日沖に荒れむとして

浪は舷側に凍り泣き

錆(さび)は鐵板に食ひつけども

軍艦の列は動かんとせず。

蒼茫たる海洋の上

彼等の渴き、叫び、熱意するものを强く持せり。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 晩秋

 

   晚秋

 

汽車は高架を走り行き

思ひは陽(ひ)ざしの影をさまよふ。

靜かに心を顧みて

滿たさるなきに驚けり。

巷(ちまた)に秋の夕日散り

鋪道に車馬は行き交へども

わが人生は有りや無しや。

煤煙くもる裏街の

貧しき家の窓にさへ

斑黃葵(むらさきあほひ)の花は咲きたり。

                    ――朗吟のために――

 

[やぶちゃん注:「斑黃葵(むらさきあほひ)」の「あほひ」はママ。歴史的仮名遣は「あふひ」が正しい。

 さて、この「斑黃葵(むらさきあほひ)」に違和感を持つ読者は多いだろう。というより、漢字表記を愚かにも無視して、紫色の葵の花をイメージして合点してしまって読み過ごしてきたという読者も多いであろう。現に今、私のこの注記を読んで初めて「おや? 言われて見ると!?!」と全く以ってこの瞬間までここで立ち止まったことがない萩原朔太郎愛読家さえいるであろう(その責任は、実は、後述するように、あなた方読者のせいでは、実は、ない、のである。私より年上の方は、皆、これを「むらさきあほひ」(むらさきあおい)と萩原朔太郎の本篇が載るあらゆる詩集・解説などで読まされてきたのである)

 そもそもが、しかし、「斑黃」を「むらさき」とは読めないだろうという不審は正当である。さればこそ、そのような読みがあるかどうかをまずは調べてみたくなるであろう。そうしてそんな読みはおろか、「斑黄」という熟語にも遂に辿り着くことはないであろう。さらに「ムラサキアオイ」を標準和名に持つ植物も存在しないことに気づくであろう。

 そうして後掲する初出を見て、そこに「斑黃葵(むらきあふひ)の花は涸れたり。」とあることに気づいて、極めて多くの読者はその「むらきあふひ」(正しい歴史的仮名遣は「むらきあふひ」)のルビに驚愕されるであろう。そうである。この「むらさきあふひ」は実は本初版本の単なるルビの誤植であって、正しくは「むらきあふひ」なのである。

 さらに、恐るべきことに、これは驚くばかりに疾患の根が深く永いのだ。実はこの初版以来、永くこの誤植のままに本篇「晩秋」の最終行は「斑黃葵(むらさきあほひ)の花は咲きたり。」と誤ったまま表示され、読まれ続けたのである。それは戦後までも、なのである。昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」で本篇についての解説の最後に、『「斑黄葵」のルビは『氷島』初版(昭和九年)で「むらさきあふひ」と誤植されて以来、約四十年間すべての刊本がこれを踏襲してきましたが、これ』は清岡卓行『氏の指摘によって訂されました』とあるのである。昭和九(一九三四)年から四十年後は、一九七四年(昭和四十九年)である。則ち、本篇が正しく「むらきあふひ(むらきあおい)」とルビが振られるようになったのは、恐らくその翌年辺りからで、それはまさに私が大学に入った年であったのである。

 しかも、そこでもこの「むらさきあほひ」の謎は終わらないのである。植物に詳しい方でも、その「斑黃葵」=「むらきあおい」とは如何なる植物であろう? と首をひねるはずである。而して調べて見ても、ムラキアオイという標準和名の植物は、これまた、実在しないのである。

 私はまず、検索の曖昧な結果を見るうち、似た文字列の「黄蜀葵」に着目した。これはアオイ目アオイ科Malvoideae亜科フヨウ連トロロアオイ属トロロアオイ Abelmoschus manihot の和名漢字表記であると同時に、現代の中国語名でもある。中国原産であるが、早くに本邦にはち込まれて、手漉和紙の糊(固定剤)として使用されてきた歴史がある。

 次に少し落ち着いて立ち止まって考えてみると、問題はそもそもが「斑黃」の読みが何故、「むらき」なのかである。これは容易に想像はつく。「斑」は「むら」と訓じられるからでる。この「斑」(ムラ)は専ら日常的には「ムラのある塗り方」などの用例で見るように、斑(まだら)になっている状態をイメージし、そこから直に斑点の映像を浮かべてしまい勝ちなのであるが、「斑(むら)」は対象体の「色の濃淡」や「その物の厚さ薄さ」またはその「表面に凹凸があるように見えること」を広汎に指す語である。とすれば、この「斑黃(むらき)」とはその「花」の色が黄色いけれども、全体に一様に一色なのではなく、薄い黄色と濃ゆい黄色とが交じっているという意味にとれるのである。それは恐らく「まだら」にくっきりしている必要はなく、薄く見えるところから次第に濃く見えるところがグラデーションになっている場合でも「斑黃」だと言えるということである。しかも「むら」の今一つの「厚さ薄さ」を念頭におくなら、植物の花弁(或いは花と思っている萼など)の多くは、花の中心方向に向かって花びらは厚くなってゆき、辺縁部は薄いのが普通であり、厚さが薄くなれば色は当然、薄く見えるのである。更に言えば、皺のある花びらは凹がくっきりと見える場合、それは「斑(むら)」があると言えるのである。

 さて、先に記したトロロアオイは別称を「花オクラ」と言うほどに綺麗な黄色の大きな花を咲かせるのである。ウィキの「トロロアオイ」によれば、八月~九月に開花し、『花の色は淡黄からやや白に近く、濃紫色の模様を花びらの中心につける。花は綿の花に似た形状をしており、花弁は』五『つ。花の大きさは』十~二十センチメートルで、オクラ(トロロアオイ属オクラ Abelmoschus esculentus)の『倍近い』(但し、実は堅くて不味く、食用にはならないが、花は食べられる)。『朝に咲いて夕方にしぼみ、夜になると』、『地面に落ちる。花びらは横の方向を向いて咲くため、側近盞花(そっきんさんか)とも呼ばれる』とある。グーグル画像検索「トロロアオイ」をリンクさせておく。目立つ大きなグラデーションのあるように見える黄色で皺のある花びらなのである。

 しかし、トロロアオイは綺麗な黄色の花を咲かせるものの、私自身、とある園芸家の庭で数度みたことがあるばかりで、普通に町を歩いていて見かけたことがなく、しかも花が短命であることが気になる。さらに、問題はここでは「煤煙くもる裏街の」「貧しき家の窓にさへ」「斑黃葵(むらさきあほひ)の花は咲」くのである。とすれば、この花は市井で普通に見られる黄色い花でなくてはならないのである。とすれば、私が頭に浮かべるのは唯一つだだ。則ち、アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea(本邦には古くから薬用として渡来したとされる。当初は中国原産と考えられていたが、現在ではビロードアオイ属(Althaea)のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種(Althaea setosa ×Althaea pallida)とする説が有力)の黄色系の花を咲かせるものである。タチアオイの花は品種によって八重のものもあり、花びらは十センチメートルほどで、葉の皺(凸凹)がよく目立つし、黄色のものは辺縁部に向かって有意に薄くなっている。但し、こちらは花期が六~八月で、本篇の「晩秋」という設定と全くズレてしまうのだ(敢えて言えば初出は表題が「晩秋」ではなく「斷章」であり(本文には本篇と同じく「秋の夕日散り」とはある)、最終行は「斑黃葵(むらきあふひ)の花は涸れたり。」で枯れているのだから、タチアオイでもぎりぎりセーフの気はする。でも彼らは梅雨が終わるとだめだからなぁ。まあ、時制をズラすのは萩原朔太郎お得意のことではあるから秋の花としなくてもいいかもと、最後は逃げを打っておく)。ともかくも、よりシチュエーションにしくりくる晩秋の花の種があるとなれば、御教授戴ければ幸いである。

 那珂氏は前掲書で、「わが人生は有りや無しや」』と題する鑑賞文で以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 これははじめ「断章」と題して昭和六年一月二十二日付『都新聞』に発表、尾に「一九三〇―十二月作」とし、「この詩は朗吟調に作ってある。成るべくは黙読でなく声に出して歌って下さい。」と付記されていました。のち前掲二篇[やぶちゃん注:「乃木坂倶樂部」「歸鄕」を指す。]と同じ『詩・現実』第四輯(しゅう)に、「短唱」と改題して再掲載されました。

 「朗吟のために」と作者みずから言う通り、文語定型の七・五の伝統的な音律を基調としながら、七・七をまじえ、さらに字余りによって微妙に緩急をくわえ、また「k」子音の使用が音律を引き緊(しめ)てすぐれた短唱となっています。とりわけ高潮部の「わが人生は有りや無しや」の七・六音は、切れのいい「i」母音をまじえながら「a」母音のつらなりが息深く詠嘆をふくらませています。

 これは、東京生活数年の後、昭和四年妻と離別し、翌五年には郷里の父の死にあうなど、実生活の上でも痛苦をかさねた作者が、その年の秋に書いた作ですが、「静かに心を顧みて/満たさるなきに驚けり」という感懐の表白は、むろん単に実生活上の経験だけから来たものではないはずです。より根底的には、それは、彼が夢みてきた「近代」そのものへの幻滅の表白にほかならなかったでしょう。

 なお、最終行の「斑黄葵の花は咲きたり」は、初出では「花は涸れたり」となっていたのを、のちに作者が書き改めたのですが、この一語の書きかえによって、作品全体がずっとふくらみと奥行をましたことを、清岡卓行氏が指摘しています。

   《引用終了》

とあって、この後に「斑黃葵」の先の記載が出るのである。

 以下、初出の昭和六(一九三一)年一月二十二日附『都新聞』掲載の「斷章」を示す。

   *

 

   斷章

 

汽(き)車は高架(か)を走(はし)り行き

思(おも)ひは陽ざしの影(かげ)をさまよふ

しづかに心を顧(かへり)みて

滿たさるなきに驚(おどろ)けり。

巷(ちまた)に秋(あき)の夕日散り

鋪道に車馬は行き交(まじ)へども

わが人生は有(ある)や無しや。

煤煙(ばいえん)くもる裏(うら)街の

貧(まづ)しき家の窓(まど)にさへ

斑黃葵(むらきあふひ)の花は涸(か)れたり。

               一九三〇―十一月作

 この詩は朗吟調に作つてある。成るべく
 は默讀でなく聲に出して歌つて下さい。 

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 新年

 

   新年

 

新年來り

門松は白く光れり。

道路みな霜に凍りて

冬の凛烈たる寒氣の中

地球はその週曆を新たにするか。

われは尙悔ひて恨みず

百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。

いかなれば虛無の時空に

新しき辨證の非有を知らんや。

わが感情は飢えて叫び

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

いかんぞ曆數の囘歸を知らむ

見よ! 人生は過失なり。

今日の思惟するものを斷絕して

百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせん。

 

【詩篇小解】 新年  新年來り、 新年去り、 地球は百度廻轉すれども、 宇宙に新しきものあることなし。 年々歲々、 我れは昨日の悔恨を繰返して、 しかも自ら悔恨せず。 よし人生は過失なるも、 我が欲情するものは過失に非ず。 いかんぞ一切を彈劾するも、 昨日の悔恨を悔恨せん。 新年來り、 百度過失を新たにするも、 我れは尙悲壯に耐え、 決して、 決して、 悔ゐざるべし。 昭和七年一月一日。 これを新しき日記に書す。

 

[やぶちゃん注:「悔ひて」はママ。

「凛烈」「りんれつ」と読み、「凜冽」とも書くので以下の初出の表記は誤りではない。寒気が甚だきびしいさま。「凛」「凜」の原義は「氷で閉ざされて身に沁みて寒いこと」を言う。

「百度(たび)」は後の「たび」という訓から見て、「ももたび」と読んでおく。

「いかなれば虛無の時空に」「新しき辨證の非有を知らんや。」は萩原朔太郎にしては、かなり難解な謂いである。「辨證」は弁証法で、「非有」は「ひう」で「非存在・非在」の謂いとしかとれないから、「どうして虚無の時空にあって、新しい弁証法の正・反・合の止揚(aufheben:アウフヘーベン)による、より高みへの自己存在の誕生・新生・進化があり得ようか、いや、それは決してない!」と朔太郎は叫ぶのだと私は解釈する。でなくてどうして、「見よ! 人生は過失なり。」「今日の思惟するものを斷絕して」「百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。」吐き出すように言うだろう! 私の解釈は以下の初出に於けるこの部分が、「いかなれば非有の時空に」「新しき辨證の囘歸を知らんや。」とあることではっきりすると私は思う。絶対の孤独者、過失者としての孤独者としての存在しかないと謂うのである。……にしても、新年を迎えてそうした新たな思念を持ち出そうとするところに、民俗社会的日本に抵抗しながらも捕われている彼を逆に私は哀れにも感じるのである。……といっても、私も同じ穴の虚無の哀れな貉であることは言うに及ばぬのであるが。

 初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

   新年

 

新年來り

門松は白く光れり。

道路みな霜に凍りて

冬の澟烈たる寒氣の中

地球はその週曆を新たにするか。

われは尙悔ひて恨みず

百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。

いかなれば非有の時空に

新しき辨證の囘歸を知らんや。

わが感情は飢えて叫び

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

いかんぞ曆數の囘歸を知らん。

見よ 人生は過失なり

けふの思惟するものを斷絕して

百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせむ。

 

   *

「悔ひて」「飢えて」はママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 珈琲店 醉月

 

   珈琲店 醉月

 

坂を登らんとして渴きに耐えず

滄浪として醉月の扉(どあ)を開けば

狼藉たる店の中より

破れしレコードは鳴り響き

場末の煤ぼけたる電氣の影に

貧しき酒瓶の列を立てたり。

ああ この暗愁も久しいかな!

我れまさに年老ひて家鄕なく

妻子離散して孤獨なり

いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。

女等群がりて卓を圍み

我れの醉態を見て憫みしが

たちまち罵りて財布を奪ひ

殘りなく錢(ぜに)を數へて盜み去れり。

 

【詩篇小解】 珈琲店 醉月  醉月の如き珈琲店は、 行くところの佗しき場末に實在すべし。 我れの如き悲しき痴漢、 老ひて人生の家鄕を知らず、 醉うて巷路に徘徊するもの、 何所にまた有りや無しや。 坂を登らんと欲して、 我が心は常に渴きに耐えざるなり。

 

[やぶちゃん注:「耐えず」はママ。「滄浪」既出既注の通り、「蹌踉」の誤用。「年老ひて」(「詩篇小解」のそれも)はママ。

 「醉月の如き珈琲店は、 行くところの佗しき場末に實在すべし。」と「如き」「べし」あるからには、「醉月」という「珈琲店」は詩篇内仮想の幻の存在と読むべきであり、モデルはあっても実在したそれを探すことは徒労と思う。

 初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

   珈琲店醉月

 

坂を登らんとして渴きに耐えず

蒼浪として醉月の扉(ドア)を開けば

浪藉たる店の中より

破れしレコードは鳴り響き

場末の煤ぼけたる電氣の影に

貧しき酒瓶の列を立てたり。

ああ この暗愁も久しいかな。

われまさに年老ひて家鄕なく

妻子離散して孤獨なり

いかんぞまた漂泊の悔(くひ)を知らむ。

女等群がりて卓をかこみ

われの醉態を見て憐れみしが

たちまち罵りて財布を奪ひ

殘りなく錢を數へて盜み去れり。

 

   *

「耐えず」「蒼浪」「浪藉」「年老ひて」及び「悔(くひ)」のルビは総てママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 家庭

 

   家庭

 

古き家の中に座りて

互に默(もだ)しつつ語り合へり。

仇敵に非ず

債鬼に非ず

「見よ! われは汝の妻

死ぬるとも尙離れざるべし。」

眼(め)は意地惡しく 復讐に燃え 憎々しげに刺し貫ぬく。

古き家の中に座りて

脫るべき術(すべ)もあらじかし。

 

[やぶちゃん注:「債鬼」(さいき)は借金の返済を厳しく迫る人。情け容赦なく取り立てるさまを鬼に喩えて言う。

 初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

   家庭

 

古き家の中に座りて

互に默しつつ語り合へり。

仇敵に非ず

債鬼に非ず

「見よ! われは汝の妻

死ぬるとも尙離れざるべし。」

目は意地惡しく、復讐に燃え、憎々しげに刺し貫ぬく。

古き家の中に座りて

脫(のが)るべき術(すべ)もあらじかし。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 波宜亭

 

   波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや

われは波宜(はぎ)亭の二階によりて

かなしき情感の思ひにしづめり。

その亭の庭にも草木茂み

風ふき渡りてばうばうたれども

かのふるき待たれびとありやなしや。

いにしへの日には鉛筆もて

欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。

                 ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:個人(松永捷一氏)サイト「高校物理講義のノートとつれづれの記」の「前橋の詩碑」の中の「波宜亭」によれば、『波宜亭は、かつての波宜亭に関する書類に「前橋市東照宮筋向ヒ坡宜亭」(萩亭ともいう)と刻まれている。筋向かいは斜め前のことだから、東照宮が現在の位置のままなら、波宜亭は現在の児童遊園地から臨江閣あたりだったようだ。波宜亭は元前橋藩士山本郷樹の創業による旗亭(きてい。茶店、料理屋など)であった。室生犀星、草野心平もここを訪れている』とある。同氏の「前橋の詩碑」のメニューにある地図ではここである(Yahoo!地図)。少し拡大すると、県道一〇号を挟んだ南側に東照宮があり、道を挟んだ東側は「遊園地にて」の「遊園地(るなぱあく)」の名を継いだ後身「前橋市中央児童遊園」(愛称「前橋るなぱあく」)である。本篇の初出(後掲)は大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」であるが、同書には「郷土望景詩の後に」という自解パートが巻末にあり、

   *

 Ⅴ  波宜亭

 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

   *

と記し、後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、本篇の一部を引きつつ、

   *

 

  少年の日は物に感ぜしや

  われは波宜(はぎ)亭の二階によりて

  悲しき情感の思ひに沈めり

 

 と歌つた波宜(はぎ)亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た。

   *

と追懐している。また『一九一三、八』(大正二年八月)のクレジットを持つ筑摩版全集呼称「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」の短歌に連作で、

   *

 

その昔よく逢曳したる

公園のそばの波宜亭

今も尙ありや

 

波宜(はぎ)亭の柱に書きし戀の歌

かの頃の歌、今も忘れず

 

その昔

身をすりよせ君と我と

よく泣き濡れし波宜亭の窓

 

   *

ともあり、彼にとっては殊の外忘れ難い思い出の強い場所であったことが判る。

 なお、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」の本篇評釈の中で、那珂氏は詩中の「待たれびと」という語を採り上げ、これは『いうまでもなく恋びとのことで、独逸語の「Geliebte」などの連想からの、受身形による作者の造語でしょう』と述べておられる。「Geliebte」(ゲェリープテ)で男性名詞として用いると男の立場からの「恋人」で、「geliebt」は「lieben」(愛する)の過去分詞形で「恋しい・いとおしい」の意がある。

 以下、「純情小曲集」の「鄕土望景詩」中の初出を示す。

   *

 

   波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや

われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて

かなしき情歡の思ひにしづめり。

その亭の庭にも草木(さうもく)茂み

風ふき渡りてばうばうたれども

かのふるき待たれびとありやなしや。

いにしへの日には鉛筆もて

欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。

 

   *]

2020/05/29

あいつの名を呼んでやれ!

私は一点に於いて疑問を感じている。

我々を脅威に陥れているウィルスをメディアは一貫して「新型コロナウィルス」と呼んでいることである。

「彼」には「COVID-19」という呼称がある。何故、日本人はそれを使用しないかという素朴な疑問である。
何故、面倒くさい長々なしい「新型コロナウィルス」という呼び方に固執するのか?

民俗学的には「名指す」ことがそれを征服することに繋がるはずである。しかし、彼らはそれを脅威の禍々しいものとして「認めたくない」からなのだからなのか?

だったら、勝ち目はない。

日常に侵入した災厄は特定の名指しをすることによって、除去し得ると考えるのが、本邦の民俗社会の正統な常識である。不明なものを永遠に「新型ウィルスの仲間らしきもの」と称している状況自体が、既に「彼」に「負けている」のではないか?

恐らくは名指すこと――おぞましいが「愛称」を与えて、それを日常化することを拒否する――現代の馬鹿げたメディア・コード(無益な禁忌)があるのではないか?
 
仮に「ゴジラ」が実際に出現しても、国家はそれに実は絶対に対象生物を「ゴジラ」と名付けない気がする。
 
その理由は糞高度な文明世界はそれを認めたくないからである(嘗ての民俗社会にはそれは私はなかったと思う)。
 
その弱気――認めたくないから名指さない――という点に於いて、実は我々は「彼」がいないのだ思い込み、
「名前を呼んでやる必要もない下劣にして消え去るもの」
と思っているのではなかろうか?
 
しかし――私は言う――その時点で既にもう致命的に我々は「彼」に「負けているのだ」と――


まあ、いいや、俺も名指されることはもうなくなった――しかし――「彼」と同じように禍々しく生きることとしよう…………

追伸:なお、「COVID-19」が症状を指す症病名であって、「彼」を直に指す語ではないことは百も承知だと言っておく。揚げ足取りとは議論したくないから。

 

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 歸鄕

 

   歸 鄕

     昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へ
     て故鄕に歸る

 

わが故鄕に歸れる日

汽車は烈風の中を突き行けり。

ひとり車窓に目醒むれば

汽笛は闇に吠え叫び

火焰(ほのほ)は平野を明るくせり。

まだ上州の山は見えずや。

夜汽車の仄暗き車燈の影に

母なき子供等は眠り泣き

ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。

嗚呼また都を逃れ來て

何所(いづこ)の家鄕に行かむとするぞ。

過去は寂寥の谷に連なり

未來は絕望の岸に向へり。

砂礫(されき)のごとき人生かな!

われ既に勇氣おとろへ

暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。

いかんぞ故鄕に獨り歸り

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

汽車は曠野を走り行き

自然の荒寥たる意志の彼岸に

人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 

【詩篇小解】 歸鄕 昭和四年。 妻は二兒を殘して家を去り、 沓として行方を知らず。 我れ獨り後に殘り、 滄浪として父の居る上州の故鄕に歸る。上野發七時十分、 小山行高崎廻り。 夜汽車の暗爾たる車燈の影に、 長女は疲れて眠り、 次女は醒めて夢に歔欷す。 聲最も悲しく、 わが心すべて斷腸せり。 既にして家に歸れば、 父の病とみに重く、 萬景悉く肅條たり。

 

[やぶちゃん注:「滄浪」(さうらう(そうろう))は「青々とした波」或いは「老いて髪につやがなくなること」を言い、明らかに「蹌踉」(音は同じ:足どりがふらつくさま。よろめくさま)の誤用である。萩原朔太郎に特徴的な思い込みによる誤用偏執である。

 稻子夫人との関係と顚末は既に「乃木坂倶樂部」の私の注で述べたので繰り返さない。昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『実生活の荒廃』と題して、本篇について以下の評釈をなさっておられる。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   《引用開始》

 この作が、妻との離別という実生活上の経験にもとづくものであることは、明らかです。しかしこの詩及び「詩稿小解」にのべるところは、必ずしもすべては事実に即さないことを、注意しなければなりません。伝記的調査にてらせば、妻との協議離婚届出は昭和四年十月十四日ですが、彼が「一児を抱へて」前橋に帰郷したのは、それより前七月二十七日のことでした。作者の長女萩原葉子さんの回想文『父・萩原朔太郎』の「幼いころの日々」の章に、この間の事情が詳(くわ)しくのべられていますが、それによっても「二児を抱へて」の帰郷が夏だったことが、立証されます。のち彼は単身上京、前記乃木坂倶楽部で独居生活をつづけ、年末おしつまって父の病気のため、再度帰郷するのです。とすれば、この作は「二児を抱へて」の帰郷と、単独での帰郷とを、混同したものとせざるをえませんが、ここで、季節を特に冬としたのは、おそらく作者自身の心の荒廃感、寂寥感をいっそう効果的にうつし出すための、詩的設定だったと考えられます。いかに「実生活の記録」とはいえ、その程度の虚構は詩的リアリティのために必要なのです。

「過去は寂寥の谷に連なり/未来は絶望の岸に向へり」のあたり、この作が事実的背景のもとにうたわれたものであるだけに、いかに観念的暗喩(あんゆ)表現とはいえ、やはり実景との不釣合(ふつりあい)を指摘しなければなりませんが、それにつづく「砂礫(されき)のごとき人生かな」/われ既に勇気おとろへ/暗澹(あんたん)として長(とこし)なへに生きるに倦(う)みたり」にいたっては、この正述心緒(せいじゅつしんしょ)の詩の力は、読者を感動させずにおかないでしょう。この作品の冒頭六行は、いま郷里敷島(しきしま)公園の詩碑に刻まれ、『氷島』の中でも特に広く知られています。

   《引用終了》

私は晩年の朔太郎の絶唱として高く評価する一篇である。私が数少ない文芸上の閉じた時空間の例外として「絶対の孤独」の中にいる主人公を見る。特に「暗澹として長(とこし)なへに生きるに倦みたり」は音読でなくては、心を撲(う)たぬ。「長なへに」で切ってはいけない。「長(とこし)なへに生きるに」とソリッドに詠まねば、ならぬ。彼は絶対の意味に於いて――永久に永遠に――「生きる」ことに「倦」んでいるのである……。

 初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

   歸 鄕

 

わが故鄕に歸れる日

汽車は烈風の中を突き行けり。

ひとり車窓に目醒むれば

汽笛は闇に吠え叫び

火焰(ほのほ)は平野を明るくせり。

まだ上州の山は見えずや。

車室のほの暗き燈火の影に

母なき子供等は眠り泣き

ひそかに皆わが憂愁をさぐれるなり。

ああまた都を逃れ來て

何所の家鄕に行かんとするぞ。

過去は寂寥の谷に連なり

未來は絕望の岸(きし)に向へり。

砂礫(されき)のごとき人生かな!

われ既に勇氣おとろへ

暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。

いかんぞ故鄕にひとり歸り

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

汽車は曠野を走り行き

自然の荒寥たる意志の向ふに

人の憤(いきどほ)りを激(はげ)しくせり。

   *

「向ふ」はママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 殺せかし! 殺せかし!

 

   殺せかし! 殺せかし!

 

いかなればかくも氣高く

優しく 麗はしく 香(かぐ)はしく

すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。

我れは醜き獸(けもの)にして

いかでみ情の數にも足らむ。

もとより我れは奴隷なり 家畜なり

君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。

願くは我れを蹈みつけ

侮辱し

唾(つば)を吐きかけ

また床の上に蹴り

きびしく苛責し

ああ 遂に――

わが息の根の止まる時までも。

我れはもとより家畜なり 奴隷なり

悲しき忍從に耐えむより

はや君の鞭の手をあげ殺せかし。

打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

 

【詩篇小解】 戀愛詩四篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鐵道にて」「昨日にまさる戀しさの」等凡て昭和五―七年の作。今は既に破き棄てたる、 日記の果敢なきエピソートなり。 我れの如き極地の人、 氷島の上に獨り住み居て、 そもそも何の愛戀ぞや。 過去は恥多く悔多し。 これもまた北極の長夜に見たる、 佗しき極光の幻燈なるべし。

 

[やぶちゃん注:「耐えむより」はママ。

 初出は昭和六(一九三一)年二月号『蠟人形』。

   *

 

   殺せかし!殺せかし!

 

いかなればかくも氣高(けだか)く

優しく、麗(うる)はしく、かぐはしく

すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。

我れは醜き獸(じう)にして

いかでみ情(なさけ)の數にも足らむ。

もとより我れは奴隷(どれい)なり 家畜なり

君がみ足の下に腹這(はらば)ひ

犬の如くに仕へまつらむ。

願くば我れを蹈(ふ)みつけ

侮辱(ぶじよく)し

唾(つば)を吐きかけ

また床の上に蹴り

きびしく苛責(かしやく)し

ああ遂に――

わが息の根の止まる時までも。

 

われはもとより家畜なり、奴隷なり、犧牲なり

悲しき忍從に耐えむより

はや君の鞭の手をあげ殺せかし。打ち殺せかし。

 

   *

やはり「耐えむ」はママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 乃木坂倶樂部

 

  乃木坂倶樂部

 

十二月また來れり。

なんぞこの冬の寒きや。

去年はアパートの五階に住み

荒漠たる洋室の中

壁に寢臺(べつと)を寄せてさびしく眠れり。

わが思惟するものは何ぞや

すでに人生の虛妄に疲れて

今も尙家畜の如くに飢えたるかな。

我れは何物をも喪失せず

また一切を失ひ盡せり。

いかなれば追はるる如く

歲暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて

晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。

虛空を翔け行く鳥の如く

情緖もまた久しき過去に消え去るべし。

 

十二月また來れり

なんぞこの冬の寒きや。

訪ふものは扉(どあ)を叩(の)つくし

われの懶惰を見て憐れみ去れども

石炭もなく暖爐もなく

白堊の荒漠たる洋室の中

我れひとり寢臺(べつと)に醒めて

白晝(ひる)もなほ熊の如くに眠れるなり。

 

【詩篇小解】 乃木坂倶樂部   乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、 坂を登る崖上にあり。 我れ非情の妻と別れてより、 二兒を家鄕の母に托し、 暫くこのアパートメントに寓す。 連日荒妄し、 懶惰最も極めたり。 白晝(ひる)はベツトに寢ねて寒さに悲しみ、 夜は遲く起きて徘徊す。 稀れに訪ふ人あれども應へず、 扉(どあ)に固く鍵を閉せり。 我が知れる悲しき職業の女等、 ひそかに我が孤寠を憫む如く、 時に來りて部屋を掃除し、 漸く衣類を整頓せり。 一日辻潤來り、 わが生活の荒蕪を見て啞然とせしが、 忽ち顧みて大に笑ひ、 共に酒を汲んで長嘆す。

 

[やぶちゃん注:「飢えたるかな」はママ。「べつと」は当時「bed」の慣用表記として用いられていた。今でもこう(「ベット」)発音する人は実は意外に多い。

「去年はアパートの五階に住み」以下に注するように本当はこのアパートメントは二階建てで、萩原朔太郎の部屋は二階であった。時空変幻を起させるための確信犯であろう。

「麻布一聯隊」誤認。「麻布三聯隊」が正しい。

「荒妄」「くわうばう(こうぼう)」で本来は「嘘・偽り」の意であるが、朔太郎は単漢字の意味をそのまま「荒れて妄(みだ)りに出鱈目に道理から外れるようなことをし」の意で用いている。

「孤寠」中国の仏典や古い用語等にこの熟語の用例はあるが、やはり単漢字の意味を組み合わせた彼得意の造語であろう。音は「コク」で「孤独で貧しく窶(やつ)れて見すぼらしいこと」を言うのであろう。

「辻潤」(明治一七(一八八四)年~昭和一九(一九四四)年)はダダイストで翻訳家・評論家。東京生まれ。国民英学会などに学んだ後、上野高等女学校に勤務中、教え子伊藤野枝との恋愛事件を起して退職。ド・クインシーやオスカー・ワイルドらの著書を翻訳しながら、放浪生活を続け、評論集「浮浪漫語」や「ですぺら」などを刊行、日本に於けるダダ流行の仕掛け人とあったが、昭和十九年、放浪をやめて落ち着いた東京都淀橋区上落合のアパートの一室で、十一月二十四日、虱塗(まみ)れになって餓死しているのが発見された。

 萩原朔太郎は昭和四(一九二九)年七月初旬に稻子夫人との離婚を決意(当初からの結婚生活の破綻は直接には稻子に愛人が出来たことによるが、そこには萩原朔太郎自身の異常な性癖や、朔太郎の母ケイとの軋轢などに負う部分が大きい。落合道人氏のブログ「落合学」の「萩原稲子が下落合にやってくるまで。」がその様態や経緯をコンパクトにしかもズバリと語っていてよい)し、同月末頃に上京、稻子夫人(当時三十一。朔太郎は四十四)と離別(協議離婚届出は三ヶ月後の同年十月十四日附)、馬込の家を手放し、二児(葉子と明子(あきらこ))を連れて前橋に帰った。しかし、本格的な上京への思い止まず、同年十一月十四日に単身上京し、赤坂区檜町六番地(現在の港区赤坂八丁目。グーグル・マップ・データ)のアパート「乃木坂倶樂部」の二階二十八号室に仮寓した。筑摩版全集第十五巻年譜(昭和五四(一九七九)年刊)によれば、ここは三好達治が見つけてきたもので、『當時としては近代的な、高級の部に屬するモルタル二階建の大きな建物であった。室代六十圓、敷金三ヶ月分。ここでの生活はひどく荒廢していたらし』いとして、前掲「詩篇小解」の一部を引く、『當時、辻潤、生田春月』(詩人で翻訳家。彼はこの翌昭和五年五月十九日小豆島沖の汽船から投身自殺し(享年三十八)、朔太郎は激しいショックを受けている。私はブログ・カテゴリ「生田春月」で彼の詩篇や翻訳詩を電子化している)『らとの交友を深め、辻潤同道で北原白秋宅を訪問したりした』とある(筑摩版全集は本文だけでなく解説・解題など総ての漢字が正字という変わり種である)。当時の一円の価値は二千五百前後で、この部屋代は十五万円相当になる。同年十二月中旬には東京定住を固め、借家を探し始めたが、下旬になって父密蔵が重体に陥り、乃木坂倶楽部を引き払って前橋に帰っている(密蔵は翌昭和五年七月一日に逝去した)。

 昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『「我れは何物をも喪失せず また一切を失ひ尽せり」』と題して、本篇について以下の評釈をなさっておられる。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   《引用開始》

 「すでに人生の虚妄(きょもう)に疲れて」といい、「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」というのは、『青猫』後期以来のこの詩人のライトモチイフであり、殊に後者は、昭和二年二月発表の「虚無の鴉(からす)」(原題「否定せよ」)「我れの持たざるものは一切なり」における詩句のヴァリエイションにすぎませんが、いま彼は、実生活上の経験からも、いっそう切実にこれらの詩句をくりかえす理由を、加えたのです。ほとんど実生活が彼の思想を模倣(もほう)し、注解したのであり、そうすることによってここに人生は、彼の観念に復讐(ふくしゅう)したのだといえましょう。彼はアフォリズムの一節に書いています、「余生とは? 自分の過去の仕事に関して、註釈(ちゆうしやく)を書くための生涯を言ふ。如何にまだ、余生でさへも仕事を持つてる!」(『絶望の逃走』)と。彼は、いま、おのれの「宿命」を身にしみて確証し、注釈するために、「白堊(はくあ)の荒漠(くわうばく)たる洋室の中」に在るのではありませんか。なお、「今も尚(なほ)家畜の如くに飢ゑたるかな」「白昼(ひる)もなほ熊の如くに眠れるなり」の二つの詩句は、それぞれの位置においてはどちらも適切な効果をもつものの、一篇の詩の中で用いられた比喩(ひゆ)として、ともに動物である点で共通し、家畜猛獣という点では異質であるため、やはり読者に心理的抵抗感をあたえるといわねばなりません。

   《引用終了》

那珂氏が明らかに批判的に示される『心理的抵抗感』というのは無論、萩原朔太郎の確信犯である。私はそこにこそ、惨めな動物としての自己存在の〈動悸〉を感ずると言っておく。

 なお、那珂氏が指示される「虛無の鴉」「我れの持たざるものは一切なり」は、先行する昭和四(一九二九)年十月発行の「新潮社版現代詩人全集第九卷 高村光太郞集・室生犀星集・萩原朔太郞集」に載り、本詩集でも後に掲げられるので、ここでは示さない。なお、以上の二篇は那珂氏の言うように昭和二年二月三月号『文芸春秋』に併載されたものであるが、初出の際の前者の表題は那珂氏の言う「否定せよ」ではなく、「否定せよツ!!!」であるので注記しておく。また、次の那珂氏による引用は昭和一〇(一九三五)年十月に刊行されたアフォリズム集「絕望の逃走」の「第二章 意志・宿命・自殺・復讐・SEX など」の一節であるが、正確には、

   *

       餘生

 餘生とは? 自分の過去の仕事に關して、註釋を書くための生涯を言ふ。――如何にまだ、餘生でさへも仕事を持つてる!

   *

である。このダッシュは萩原朔太郎の意識のブレイクや強い想念の取り立てというよりも、痙攣的執着或いはやや皮肉を含んだ慙愧の念の表象であり、しかも、しかし、それが詩人の成すべきことであるという偏執的な謂いなのでもあって、このダッシュはそうした含み(もっと多様にも読める)に於いて、落としてはならないものであると思う。なお、この「持つてる」のような、口語的な「ゐ(い)」の脱字はやはり萩原朔太郎の好きな(そうして私の嫌いな)癖である。

 本詩篇の初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。

   *

 

  乃木坂倶樂部アパートメント

 

十二月また來れり

なんぞこの冬の寒きや。

去年はアパートの五階に住み

荒漠たる洋室の中

壁に寢臺(ベツト)を寄せてさびしく眠れり。

わが思惟するものは何ぞや。

すでに人生の虛妄に疲れて

今も尙家畜の如くに飢えたるかな。

我れは何物をも亡失せず

また一切を失ひ盡せり。

いかなれば追はるる如く

歲暮の忙がしき街を憂へ迷ひて

晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。

虛空を翔け行く鳥の如く

情緖もまた久しき過去に消え去るべし。

いかんぞ貧しき錢に換へて

酢へたる情熱を求むるあらん。

汝の意識を斷絕せよ。

十二月また來れり

寒氣は骨に食ひしめども

暖爐(ストーブ)もなく石炭もなく

白堊の荒漠たる洋室の中

われ一人寢臺(ベツト)に醒めて

晝もなほ熊の如くに眠れるなり。

 

   *

やはり「餓え」はママ。]

2020/05/28

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 遊園地(るなぱあく)にて

 

   遊園地(るなぱあく)にて

 

遊園地(るなぱあく)の午後なりき

樂隊は空に轟き

廻轉木馬の目まぐるしく

艶めく紅(べに)のごむ風船

群集の上を飛び行けり。

今日の日曜を此所に來りて

われら模擬飛行機の座席に乘れど

側へに思惟するものは寂しきなり。

なになれば君が瞳孔(ひとみ)に

やさしき憂愁をたたえ給ふか。

座席に肩を寄りそひて

接吻(きす)するみ手を借したまへや。

見よこの飛翔する空の向ふに

一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。

暮春に迫る落日の前

われら既にこれを見たり

いかんぞ人生を展開せざらむ。

今日の果敢なき憂愁を捨て

飛べよかし! 飛べよかし!

明るき四月の外光の中

嬉々たる群集の中に混りて

ふたり模擬飛行機の座席に乘れど

君の圓舞曲(わるつ)は遠くして

側へに思惟するものは寂しきなり。

 

【詩篇小解】 戀愛詩四篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鐵道にて」「昨日にまさる戀しさの」等凡て昭和五―七年の作。今は既に破き棄てたる、 日記の果敢なきエピソートなり。 我れの如き極地の人、 氷島の上に獨り住み居て、 そもそも何の愛戀ぞや。 過去は恥多く悔多し。 これもまた北極の長夜に見たる、 佗しき極光の幻燈なるべし。[やぶちゃん注:「エピソート」はママ。筑摩版全集校訂本文では「エピソード」に〈消毒〉(私は同全集の有無を言わさぬ強権的補訂校訂をかく呼称している)されてある。]

 

[やぶちゃん注:「たたえ」「向ふ」はママ。

「遊園地(るなぱあく)」とはルナ・パーク (Luna Park:月の公園) で、古くから世界各地にあった遊園地の愛称である。ウィキの「ルナパーク」他によれば、初めてのものは1903年開園で、アメリカ合衆国ニュー・ヨーク市ブルックリン区の南にあるコニー・アイランド(Coney Island)に作られた。この名は一九〇一年にニュー・ヨーク州バッファローで開催された国際見本市「汎アメリカ万国博覧会」(Pan-American Exposition)の出し物であった「月への旅行」(A Trip to the Moon) という遊園地アトラクションの宇宙船から名を取ったものであった。この初代のルナ・パークの成功によって、世界中の遊園地にこの名が用いられ、例えば本邦では浅草に「ルナパーク」明治四三(一九一〇)年九月十日に東京市浅草区公園六区「日本パノラマ館」の跡地約一万二千坪に開業し、夜間営業もしたため、「月の公園」といわれ、高さ十五メートの人工の山と瀑布、天文館・木馬館(メリーゴーラウンド)・汽車活動写真館・映画館「帝国館」・飲食店などを設けた。ここは人気があり、盛況であったが、翌一九一一年四月二十九日に漏電が原因で火災により焼失し、僅か八ヶ月のみの営業で再建されなかった。また、それを引き継ぐ形で、大坂に「新世界ルナパーク」が明治四五・大正元(一九一二)年に開園、大正一二(一九二三)年まで営業している。大阪の新世界にあり、こちらは敷地面積十三万二千平方メートルで、初代通天閣から入り口までロープウェイが伸びているなど、ユニークな造りであったという。朔太郎は明治四十三年一月二十九日に上京し、三月頃まで東京にいた。ハイカラ趣味の彼であるから、浅草の「ルナパーク」に行った可能性は頗る高く、彼がその「ルナパーク」という呼称を偏愛し、遊園地の別称と勝手にしたであろう可能性は想像に難くない。但し、この「遊園地(るなぱあく)」は浅草のそれではない。現在、群馬県前橋市大手町に正式名称「前橋市中央児童遊園」・愛称「前橋るなぱあく」がある(グーグル・マップ・データ)が、この名は本詩篇によるもの(公募)である。但し、この前橋市立の遊園地自体は昭和二九(一九五四)年開園で、ここで朔太郎が名指した直接のそれではない。nagashima氏のブログ「271828の滑り台Log」の「前橋市るなぱあく『写真で見る るなぱあくの歴史』続」によれば、

   《引用開始》

『写真で見る るなぱあくの歴史』を見て初めて分かったことは、この遊園地の前史です。江戸時代からここは窪地であって、明治の中ごろには乳牛が飼育される「赤城牧場」が設立されました。四半世紀の営業の後、前橋市に譲渡され、動物園が設けられ遊具も置かれて、市街地から歩いて行ける公園として市民に親しまれました。戦後の昭和の大合併(1954)を記念して、現在の「るなぱあく」の前身である前橋市中央児童遊園地となりました。

戦前の公園の様子が分かる一枚です[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。以下、同じ。]。池から見た風景ですが、公園から臨江閣に通ずるトンネルが見えます。萩原朔太郎がこのトンネルを撮影した写真も残っています[やぶちゃん注:この写真は確認出来なかったが、所持する萩原朔太郎の撮影した立体写真集の中に「遊園地にて」というアヒルの泳いでいる池の一枚を見出すことは出来た。]。

昨日、このアングルからトンネルを撮影したいと思って足を運びましたが、建物が増え木立が大きくなってしまい撮影出来ません。結局冒頭の画像を撮影して諦めることにしました。

次の目的は赤城牧場の痕跡を確認することです。冊子の記述に寄れば飛行塔の西にあるはずです。ラジオ塔、飛行塔の脇を歩いて石碑を見つけました。自然石に「赤城牧場趾」と刻まれていました。

裏面に回るとこの碑の由来が刻まれていました。

明治二十八年 羽生田仁作 牧場設立
大正九年   羽生田俊次 当市譲渡
昭和五十三年 羽生田進  表碑建立

この碑を建立した羽生田進さんは中心市街地に眼科を開業されていたので、私もお世話になったと記憶しています。

この冊子で興味を惹かれたのは戦前の公園の遊具です。大正末期から昭和の初めの頃の画像が掲載されています。

この画像の中ほどに高い柱が見えます。クリックすると拡大します。よく観察すると、最上部に回転する機構があり、ここから複数のロープが下がっています。遊び方はロープに端部の取っ手を握り、柱の周りを周回したに違いありません。回旋塔の原型ではないでしょうか?回旋塔は遊びやすくするために、鉄のループを柱の頂点から鎖で支えています。

もう一枚は滑り台と2頭の木馬です。これもクリックすると拡大します。滑り台で遊んでいる子どもの服装は和服です。滑面はアーチで支えられ、当時のモダニズムが感じられます。デッキも広く、滑面も幅広と思われますので、複数入り乱れて遊んだに違いありません。亡父は1919年生まれなのでこの滑り台で遊んだかも知れません。

今の滑り台はコンクリートより摩擦係数の低い素材が使えるので傾斜も緩く、斜面も長く作れます。

   《引用終了》

nagashia氏は、『久しぶりに前橋公園に来たので「さちの池」までトンネルを通って行ってみました。緑化フェアの大改修工事で池は奇麗にこじんまりとなりました。冒険心・探究心をそそる未知の領域は全く姿を消しています』。『この池から流れる水路からは前橋周辺では最初にホタルが飛ぶ名所でしたが、もう見られないと思うと何だか淋しくなってしまいます』と擱筆しておられる。因みに「前橋公園」というのは現在の「るなぱあく」の道路を隔てた西側に隣接する南北に広大なそれである。これら全体が萩原朔太郎の言う「遊園地(るなぱあく)」の後身であると考えてよかろう。

 さて、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『薄暮のなかに思惟するもの』と題して、「詩篇小解」を引用された上で以下のように述べておられる。

   《引用開始》

これは当時の作者のじっさいの恋愛経験をもとに書かれた作品とみられます。しかしこの作品を味わうためには、現実の経験がどのようなものであったかを、詮索する必要はまったくありません。ただ前記「詩篇小解」にいう「殺せかし! 殺せかし!」「昨日にまさる恋しさの」が、はげしい感情のたかぶりを切迫した語調でうたうのに対し、これは、ずっと沈鬱(ちんうつ)に、静まったかたちで、おのれ自身をも客観硯するような内省的姿勢でうたわれているのに、注意すればよいのです。

 第二連三行目の「側(かた)へに思惟(しゐ)するもの」は、作者自身のことをさし、恋びとのそばにあって思いにふけるもの、という意です。日曜日の遊園地、楽隊の囃子(はやし)、廻転木馬(かいてんもくば)、赤いゴム風船、群集、それら周囲の明るさの中にあって、恋びとといっしょに「摸擬飛行機」に座席を占めながら、「寂しきなり」という作者、ここにはかつての彼の作品にしばしばえがかれた、外部世界からの乖離疎隔(かいりそかく)の意識を、ふたたびみることができます。そういう作者の心がそのまま、恋びとの「瞳孔(ひとみ)」に「やさしき憂愁をたかへ」ているのを見る心なのです。

 この作品の四つの連は、おのずから起承転結の構成をとっていますが、転にあたる第三連、模擬飛行機の座席から見はるかされる「高く揚り また傾き 低く沈み行」く地平のとらえ方もみごとなら、これにつづく作者の感懐(かんかい)の高潮した表白も、じつにみごとな詩句をなしています。「いかんぞ人生を展開せざらむ」という反語的断言、ついで「今日の果敢(はか)なき憂愁を捨て/飛べよかし! 飛べよかし!」とのつよい自己鞭撻(べんたつ)は、前掲「漂泊者の歌」における、一つの輪廻を断絶して/意志なき寂寥(せきれう)を蹈み切れかし」の詩的緊張力と呼応するものです。このはげしい感懐の高まりは、しかし、第四連終結部、全体を統括する「明るき四月の外光の中」で沈静させられ、やがて第二連三行目の詩句がつぶやくようにくりかえされます。「側(かた)へに思惟(しゐ)するものは寂しきなり」。

   《引用終了》

私は那珂氏に鑑賞の他を寄せつけぬ鋭さを感ずるものである。

 初出は昭和六(一九三一)年七月号『若草』であるが、本詩集に収録するに際して、かなりの推敲が施されてある。

   *

 

   遊園地にて

 

遊園地(ルナパーク)の午後なりき

樂隊は空に轟(とどろ)き

風船は群衆の上に飛び交(か)へり。

今日の日曜(にちえう)を此所に來りて

君(きみ)と模擬飛行機の座席(ざせき)に乘れど

側(かた)へに思惟(しい)するものは寂しきなり。

なになれば君が瞳孔(ひとみ)に

君の憂愁をたたえ給ふか。

見よ この廻轉する機械の向ふに

一つの地平(ちへい)は高く揚(あが)り また傾き、沈(しづ)み行かんとす。

われ既にこれを見(み)たり

いかんぞ人生(じんせい)を展開せざらむ。

今日(こんにち)の果敢なき憂愁を捨(す)て

飛べよかし! 飛(と)べよかし!

 

明(あか)るき四月の外光の中(うち)

嬉(き)々たる群集(ぐんしふ)の中に混りて

二人(ふたり)模擬飛行機の座席にのれど

側(かた)へに思惟するものは寂(さび)しきなり。

 

   *

ルビ「しい」はママ。「たたえ」「向ふ」もママ。「飛(と)べよかし!」のルビが後ろにしかないのもママ。推敲後の本篇の方が遙かに、よい。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 始動 / 自序・「漂泊者の歌」

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎(明治一九(一八八六)年十一月一日~昭和一七(一九四二)年五月十一日)の詩集「氷島」は第一書房から昭和九(一九三四)年六月一日第一書房から刊行された。箱入りで装幀は著者自身。

 私は初版本を所持しないが、幸いにして「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館 近代文献情報データベース ポータル近代書誌・近代画像データベース」のこちらで、高知市民図書館「近森文庫」蔵の初版本を、箱から本体の殆んど総て(奥付後の「萩原朔太郞著書目錄」に至るまで)視認することが出来るので、これを底本とした。但し、加工用データとして、菊池真一先生が嘗て御自身の研究室サイトで公開しておられた「明治大正詩歌文学館」の中の同初版本を底本とした「氷島」の電子化データ(HTML版。一九九九年十二月二十一日ダウン・ロード。残念乍ら、現在は公開されておられない。但し、当該データは漢字が新字である)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、正直、誤字がかなりある)。

 私は自慰行為として電子化データを作ったことは一度たりともない。ここで言っておくと、萩原朔太郎を偏愛する一人として、まともに初版の詩集「氷島」の全篇を完全に電子化したデータが殆んどないこと、唯一と思われる「青空文庫」のそれは「旧字」をうたってい乍ら作成時のコード制約(Shift_JIS)ために、今現在では表示漢字が見るに耐えないほどに気持ちが悪く不徹底であること、等々がこれを始動する大きな理由の一つである。また、既存のデータと明確に差別化するため、筑摩書房版「萩原朔太郎全集」(昭和五一(一九七六)年)により(この全集は私が一九七九年に高校国語教師となって初めて買った個人全集であった)、各詩篇の初出形を後に附した。その場合、一つの解説が複数詩篇に及ぶ「戀愛詩四篇」及び「鄕土望景詩(再錄)」については、煩を厭わず、総ての詩篇末に掲げた。

 但し、萩原朔太郎自身が巻末に附した「詩篇小解」(九つの詩篇と「戀愛詩四篇」及び「鄕土望景詩(再錄)」に対する自注)は最後に於いても意味がないので、適切と思われる詩篇の後【詩篇小解】として掲げることとした。なお、「詩篇小解」では、文中の句読点の後が有意に空いている。それも再現した。

 一部でオリジナルに気になった部分に注を附した。【二〇二〇年五月二十八日 藪野直史】]

 

 

  The Iceland

 

西曆千九百參拾四年

著者  萩原朔太郞

 

  氷 島

 

     東京 第一書房版

 

[やぶちゃん注:箱(表)。現物はこちら。楽譜のような印象。柄・色・飾罫及び字体・ポイントと各文字列の配置はそちらを確認されたいが、文字はブラック、地が白で、飾罫が薄緑、外周縁の飾りが網目のやや濃い黄緑である。本本体の挿入は右側から。]

 

   氷  島

 

[やぶちゃん注:箱(背)。著者名はない。]

 

[やぶちゃん注:次に本体表紙であるが、箱と完全に全く同じものであるので電子化しない。但し、全体が遙かにくすんだ暗い薄緑色に見える(但し、これは経年劣化の可能性がある)。裏表紙も見て戴きたいが、箱との決定的な大きな違いは、見た目が本書本体は昔の大学ノートのように見えるということである。なお、残念なことに本体の背は画像にない。何の文字も記されていない可能性もあろうか。

 次は、であるが、やはり箱と同じなので(但し、モノクローム)略す。]

 

 

     自 序

 

 近代の抒情詩、槪ね皆感覺に偏重し、イマヂズムに走り、或は理智の意匠的構成に耽つて、詩的情熱の單一な原質的表現を忘れて居る。却つてこの種の詩は、今日の批判で素朴的なものに考へられ、詩の原始形態の部に範疇づけられて居る。しかしながら思ふに、多彩の極致は單色であり、複雜の極致は素朴であり、そしてあらゆる進化した技巧の極致は、無技巧の自然的單一に歸するのである。藝術としての詩が、すべての歷史的發展の最後に於て、究極するところのイデアは、所詮ポエヂイの最も單純なる原質的實體、卽ち詩的情熱の素朴純粹なる咏嘆に存するのである。 (この意味に於て、著者は日本の和歌や俳句を、近代詩のイデアする未來的形態だと考へて居る。)[やぶちゃん注:丸括弧前の字空けはママ。]

 かうした理屈はとにかく、この詩集に納めた少數の詩は、すくなくとも著者にとつては、純粹にパツシヨネートな咏嘆詩であり、詩的情熱の最も純一の興奮だけを、素朴直截に表出した。換言すれば著者は、すべての藝術的意圖と藝術的野心を廢棄し、單に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。したがつて著者は、決して自ら、この詩集の價値を世に問はうと思つて居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく藝術品であるよりも、著者の實生活の記錄であり、切實に書かれた心の日記であるのだらう。

 著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、佗しい氷山の生活だつた。その氷山の嶋々から、幻像(まぼろし)のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ、惱み、悅び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して來た。著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家鄕も持たない。著者の心の上には、常に極地の佗しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その實生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである。讀者よろしく、卷尾の小解と參照して讀まれたい。

 

 因に、集中の「鄕土望景詩」五篇は、中「監獄裏の林」の一篇を除く外、すべて既刊の集に發表した舊作である。此所にそれを再錄したのは、詩のスタイルを同一にし、且つ内容に於ても、本書の詩篇と一脈の通ずる精神があるからである。換言すればこの詩集は、或る意味に於て「鄕土望景詩」の續篇であるかも知れない。著者は東京に住んで居ながら、故鄕上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を叙べるのである。それ故にこそ、すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌はれて居る。讀者は聲に出して讀むべきであり、決して默讀すべきではない。これは「歌ふための詩(うた)」なのである。

 

   昭和九年二月      著   者

 

[やぶちゃん注:「自序」の印刷ページからノンブルが始まる(「3」から)。ノンブルは右ページでは左隅、左ページでは右隅に打たれており、斜体。位置・フォントといい、非常にお洒落な印象を与える。なお、文中で朔太郎は『集中の「鄕土望景詩」五篇は、中』(うち)『「監獄裏の林」の一篇を除く外、すべて既刊の集に發表した舊作である』と但し書きしているのであるが、これは彼の全くの誤認で、「監獄裏の林」も本詩集より前の昭和三(一九二八)年三月に刊行した「第一書房版萩原朔太郞詩集」に既に既存の「鄕土望景詩」詩群に追加して(初出はもっと前の大正一五(一九二六)年四月号『日本詩人』であるが、そこに出した際にも末尾にはっきりと『(鄕土望景詩、追加續編)』と記しているのである。

「イマヂズム」imagism。二十世紀の初めに英米で起った新詩運動。イギリスの詩人で哲学者のトーマス・アーネスト・ヒューム(Thomas Ernest Hulme)の影響のもと、一九一二年頃からアメリカのエズラ・ウェストン・ルーミス・パウンド(Ezra Weston Loomis Pound)らを中心に始められ、ギリシア・ローマの短詩、日本の俳句、フランスの象徴詩などを援用しつつ、反ロマン主義的詩論を展開、『イマジストたち』(Des Imagistes 1914) 以下四冊のアンソロジーを出した。一九一四年、パウンドが〈渦巻派〉に転じたため,以後はアミー・ローレンス。ローウェル(Amy Lawrence Lowell)が指導的役割を果した。その周辺にあった大きな影響を受けた人物に作歌で詩人のD.H.ロレンス(David Herbert Richards Lawrence)がいる。正確な単語の使用、新しいリズムの創造、題材選択の自由、明確なイメージの提示、堅い明確な詩体及び集中主義を主張した。象徴主義の音楽に代って彫刻との類似を追究したイマジズムの意図は現代詩の底流となっている(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 以下、「目次」であるが、リーダとページ数は略した。]

 

   目 次

 

漂泊者の歌

遊園地にて

乃木坂倶樂部

殺せかし! 殺せかし!

歸鄕

波宜亭

家 庭

珈琲店 醉月

新 年

晚 秋

品川沖觀艦式

地下鐵道にて

小出新道

告 別

動物園にて

中學の校庭

國定忠治の墓

廣瀨川

無用の書物

虛無の鴉

我れの持たざるものは一切なり

監獄裏の林

昨日にまさる戀しさの

 

詩篇小解

 

 

 

    我が心また新しく泣かんとす

 

 冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣

 

[やぶちゃん注:以上の前書付きの俳句は、「目次」の終わった「12」ページ見開き右、の左(「13」ページ相当であるが、ノンブルは意図的に打たれていない)にある。「牡蠣」は「かき」。「やぶちゃん版萩原朔太郎全句集」を見て戴きたいが、萩原朔太郎には数が非常に少ないが、俳句がある。本句は朔太郎自身が偏愛した一句で、遺稿にさえ、

 

   鳴呼すでに衰へ、わが心また新しく泣かむとす

 冬日くれぬ思ひ起せや岩に牡蠣

 

と記している。但し、この句はその前年の昭和八(一九三三)年十二月に西村月杖宅で催された句会での作、

 

 冬日くれぬ思ひおこせや牡蠣の塚

 

が初期形である。西村月杖は大森在住の俳人。この二年後の昭和一〇(一九三五)年に属していた『曲水』を脱退して「新興俳句運動」に参加、俳句と詩の統合を目指した俳誌『句帖』を発行した。これには朔太郎の他、彼の盟友室生犀星、百田宗治の他、何と西脇順三郎まで参加していた。]

 

 

 

  漂泊者の歌

 

日は斷崖の上に登り

憂ひは陸橋の下を低く步めり。

無限に遠き空の彼方

續ける鐵路の栅の背後(うしろ)に

一つの寂しき影は漂ふ。

 

ああ汝 漂泊者!

過去より來りて未來を過ぎ

久遠の鄕愁を追ひ行くもの。

いかなれば滄爾として

時計の如くに憂ひ步むぞ。

石もて蛇を殺すごとく

一つの輪廻を斷絕して

意志なき寂寥を蹈み切れかし。

 

ああ 惡魔よりも孤獨にして

汝は氷霜の冬に耐えたるかな!

かつて何物をも信ずることなく

汝の信ずるところに憤怒を知れり。

かつて欲情の否定を知らず

汝の欲情するものを彈劾せり。

いかなればまた愁ひ疲れて

やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に歸らん。

かつて何物をも汝は愛せず

何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

 

ああ汝 寂寥の人

悲しき落日の坂を登りて

意志なき斷崖を漂泊(さまよ)ひ行けど

いづこに家鄕はあらざるべし。

汝の家鄕は有らざるべし!

 

 

【詩篇小解】漂泊者の歌(序詩) 斷崖に沿ふて、 陸橋の下を步み行く人。 そは我が永遠の姿。 寂しき漂泊者の影なり。 卷頭に揭げて序詩となす。

 

[やぶちゃん注:「耐えたるかな!」の「耐え」はママ。

「滄爾」音であろうから「さうじ(そうじ)」であるが、意味不明である。「滄」は「寒い」・「(海や水の色のように)蒼い」で、「爾」には熟語を形成する場合には「しかり・そのとおりである・そのように」と言った意味を修飾語(この場合は上の「蹌」)に添える助字か、或いは「のみ・だけ」の限定・断定の助字の可能性が考えられる。初出では後で示す通り、「滄而」となっているが、この熟語も判らぬ。正直、私は若い頃これを読んだ時は、勝手に「蹌踉」(さうらう(そうろう):足もとが定まらずにふらふらとよろけるさま)みたような意味だろうと勝手に思い込んで調べても見なかったことを自白する。ところが、筑摩版萩原朔太郎全集校訂本文を見ると、何んと、ここは、

いかなれば蹌爾として

と全く違う字に書き変えられてあるのである(例によってそれに就いての編者注などは全くない)。では、「蹌爾」とは何かと言うと、ネットで検索しても、これ、萩原朔太郎の本詩篇のここばかりが、痙攣的に引っ掛かるばかりなのである。「蹌」の字は「よろめき動く」「舞い踊る」の意が前後から押さえ得る。「爾」はその位置関係からは後者が「のみ・だけ」が相応しいものの、意味からは前者を採るべきであろう。則ち、ここは「蹌爾(さうじ(そうじ))たり」という形容動詞のタリ活用の連用形「蹌爾と」であって意味は「かくもよろめいている感じで」で、ここは、

――どうして、かくもよろめいて、時計の如くに憂え、今にもふらふらと倒れ込みそうに歩むのだ?

の謂いであろう。では「蹌爾たり」という形容動詞が単語として存在するかと言えば、存在しないのである。則ち、これは萩原朔太郎の造語ということなのである。この萩原朔太郎のトンデモ造語癖(彼には他に明らかな漢字誤用や歴史的仮名遣の誤りも実は非常に多い(本詩集でも以下で散見される)。これは思い込みで習慣化したもので晩年までずっと変わらずに確認される。彼には病的な固執傾向が多く認められることから、他者からそれを指摘されてもそれを直す意志は持たず、寧ろその誤りを徹底することによって自身に内側だけで正当化し、閉じた孤独な世界の正当な規範とする偏執(パラノイア)的性情の持ち主であったと考えて間違いない)については、「氷島」をケチョンケチョンに言って詩集としてほぼ全否定している三好達治が既に気づいて批判していた。合地舜介氏の「中原中也インナープラネット」に「三好達治の「氷島」否定論について6/鋳型を用いた反射的な用語用字」で、三好が、『この「蹌爾」は「蹌踉」の借用であり、「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」も同じであり』、『「爾」という字が「氷島」中に繰り返されるのは「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」は(語法としては)よいにしても(「蹌爾」が「蹌踉」からの借用であったのと)同じ転用に過ぎない』。『「爾」と』いう『字の使い方もまた「氷島」中で繰り返しが目に付く刺々(とげとげ)しい着字』(つけじ)『である』(「『詩の原理』の原理」(昭和三五(一九六〇)年初出からの引用らしい)とあるのである。私は三好のように「氷島」否定論に立たないが(私は朔太郎が伊東静雄を褒めちぎったのをポスト朔太郎の地位を狙っていた三好が「過褒だ」として取消を求めたが、朔太郎が撤回しなかったことを根に持って永く静雄を遠ざけた件で人間として彼が甚だ嫌いである)、取り敢えず私の若き日の不勉強な読み換えは誤りではなかったことを図らずも三好は証明して呉れていた。

 初出は昭和六(一九三一)年六月号『改造』。

   *

 

  漂泊者の歌

 

日は斷崖の上に登り

憂ひは陸橋の下を低く步めり。

無限に遠き空の彼方

續ける鐵路の柵の背後(うしろ)に

一つの寂しき影は漂ふ。

ああ汝 漂泊者

過去より來りて未來を過ぎ

久遠の鄕愁を追ひ行くもの。

いかなれば滄而として

時計の如くに憂ひ步むぞ。

石もて蛇を殺すごとく

一つの輪廻を斷絕して

意志なき寂寥を蹈み切れかし。

ああ 惡魔よりも孤獨にして

汝は氷霜の冬に耐えたるかな!

かつて何物をも信ずることなく

汝の信ずるところに憤怒を知れり。

かつて欲情の否定を知らず

汝の欲情するものを彈劾せり。

いかなればまた愁ひ疲れて

やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に歸らん。

かつて何物をも汝は愛せず

何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人

悲しき落日の坂を登りて

意志なき斷崖を迷ひ行けど

いづこに家鄕は非ざるべし。

汝の家鄕は有らざるべし!

          ――一九三一・二月――

 

   *

判り難いが、初出では四行目が「柵」で正字「栅」と異なる。

 さて、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『「意志なき寂寥」の否定』と題して以下のように述べておられる。底本の傍点「ヽ」を太字に代えた。

   《引用開始》

自身を漂泊者とみなすことは、『青描』末期から「『青猫』以後」にかけての多くの作においても、しばしばくりかえされたところですが、特にここではニイチェの『ツアラトウストラ』第三部冒頭の『漂泊者』を連想させます。ニイチェの、それも生田長江訳のニイチェの影響が、『氷島』全体の語調に、その思索表白的スタイルに、さらにはおのれの虚無感への反語的姿勢にまでみられることは、あきらかですが、この作品においてその気配は殊に濃厚なのです。

 ともあれここには否定的精神のはげしさが貫いていますが、これを論理としてたどろうとすると必ずしも明晰(めいせき)とはいえず、たとえば、「一つ輪廻(りんね)を断絶して/意志なき寂寥を(せいれう)を蹈(ふ)み切れかし」という詩句にしても、この作者が「『青猫』以後」までにつきつめてきた生認識の、行きどまりのはての、意志を喪失(そうしつ)したおのれに対する真摯(しんし)な自己指弾(しだん)であることは疑いなく、詩的言語としての緊張力をもつものといえますが、また終連においては、「意志なき断崖を漂泊(さまよ)ひ行けど」と、思索論理の上でなんら前進することなく終わらされています。そして、「久遠(くをん)の郷愁を追ひ行く」ことと、「意志なき」こととの次元関係も、ここでは一向あかされてはいないのです。

 しかしじつは作者は、ここで論理をのべようとしているのではありません、むしろ論理を拒否したところで、おのれの決意を、というより激した感情の――あえていえばドラマを、うたっているのです。「いかなれば蹌爾(さうじ)として/時計の如くに憂ひ歩むぞ」と、おのれ自身に彼は呼びかけますが、虚空に放たれるこの「いかなれば」という疑問符には、どのような答えもなく、「意志なき寂寥(せきれう)」は踏み切られるわけもなく、そのゆえにこそまた、ことばだけが空無の中に存在しつづけるほかないのです。この詩のもつリズム、その音のひびき=語調にこそ、作者がここで真に表現しようとするものの内実がこめられています。読者はただ文字の意味だけを読んではなりますまい。耳で聽(き)きとらなければなりません。

   《引用終了》

これは至当な評言と思う。『生田長江訳の』『ニイチェの『ツアラトウストラ』第三部冒頭の『漂泊者』』は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。さても。それこそ「蹌爾」という造語を挙げつらって、批判する三好達治がこれを実際に朗吟することで味わおうとしなかった点にこそ、詩人としての致命的な落ち度が私はあるとさえ思っている。]

2020/05/27

三州奇談續編卷之三 擧ㇾ頭猫兒 / 三州奇談續編卷之三~了

 

    擧ㇾ頭猫兒

 前條日久し、樹上空しく鳴りて、宮田吉郞兵衞舊宅には、今は番人付きて徒(いたづ)らに秋を送る。然るに兩三夜續けて屋根の上に一聲あり。大方百貫目ばかりの物を投げ付くる勢ひなり。家内の人躍り上りて恐れけれども、夜明け見れば何の事もなし。いかなる由緣を知ることもなし。

[やぶちゃん注:またまたまたまた前話の続編である。表題はよく判らぬ。「頭(かうべ)を擧(あ)ぐる猫の兒(こ)」或いは「頭を擧ぐれば、猫の兒か?」か? 内容とぴったりはこない変な題である。

「百貫目」三百七十五キログラム。]

 隣家に小森番助と云ふ者あり。宮田とは前々より入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じい。]にて、今も折節は訪(とぶ)らひ來りけるが、或時家内嘆きのあまり、娘おらんを中に取り卷きて、妻子集ひ座して泣き恨み、

「汝(なんぢ)がいらざることを父に進めて、『敵(かたき)を討ちてたべ』の、『命終る』のと云ひしより此事起りて、大勢の子ども詮方なく、世に出づべき期(き)も見えず。又邊りの人々へも御厄介を懸けて、何一つ云ふベき方なし。汝が口一つなり。さらば死にもする事か。其身は息災に居ながら、父を殺し主(あるじ)を殺して、何の役に立つことぞ」

とせぐりかけて打うらみけるに、おらんも返答なく、泣くより外に申譯もなし。

[やぶちゃん注:「せぐりかけて」「せぐり掛ける」は忙(せわ)しく詰め寄ること。]

 あやまり入りたる樣子なりしに、側に隣家の小森番助有合(ありあ)ひしが、恨みながら傍(かたはら)へ寄り見るに、此おらん小猫を抱き居る樣子なり。

「さてさてかく眞實(まこと)に泣入る中(なか)に、慰みごとするは沙汰の限(かぎり)」

と、灯など引寄せ能くよく見るに、小猫とは見えながら、能く見れは河原毛色にして、猫にあらずとも見ゆ。狐にてもあらんか、顏付細きやうにも見えし。

 番助

『何にしても引出だしておらんをしからん』

と思ひ、頓(やが)て袖をまくり、手を急に懷にさし込み捕へけるに、初めは何ぞ捕へたると思ひしが、忽ち減(へ)り失せて、乳(ち)の間、腹の皮をしかと摑みたるなり。

 外に迯げ出づべき所もなし。

 人々取卷きし中のことなりしに、更に別物(べつもの)も見えずなりにけり。

「おらんに付居(つきを)るものにやありけん。病(やまひ)の形(かたち)にや」

と見合ひたる人々不審止まず。

[やぶちゃん注:「付居る」「憑きをる」。憑依している。

「病の形にや」(憑き物ではなくて)罹患している心の病いが形となって外に現れたものか?]

 番助が「しか」と摑みしは相違なしとなり。

 其後おらん病重(おも)り、日を經て直らず、終に死にけり。

「此ものは益氣湯(えききたう)を用ひしことありし。其間は家療治なりし」

と長家の醫師橫井三柳の物語ありし。

[やぶちゃん注:「益氣湯」現在の補中益気湯(ほちゅうえっきとう)であろう。これは漢方処方に於いて「天下の名方」と呼ぶべき薬剤で、金の李東垣(とうえん 一一八〇年~一二五一年)が創方し、既に約七百五十年に亙る歴史があり、中国・日本に限らず幅広く応用され続けてきているものだそうである。詳しくは北里研究所東洋医学総合研究所の医史学研究部室長真柳誠氏の論文「補中益気湯の歴史」を読まれたい。「漢方のツムラ」の解説によれば、『生命活動の根源的なエネルギーである「気」が不足した「気虚」に用いられる薬です。「補中益気湯」の「中」は胃腸を指し、「益気」には「気」を増すという意味があります。胃腸の消化・吸収機能を整えて「気」を生み出し、病気に対する抵抗力を高める薬です。元気を補う漢方薬の代表的処方であることから、「医王湯(イオウトウ)」ともいわれます』。『脈もおなかの力も弱く、全身倦怠感や食欲不振などをともなう、さまざまな不調が処方の対象となります。気力がわかない、疲れやすいといった人から、胃腸虚弱、かぜ、寝汗など、また、病後・産後で体力が落ちているときや夏バテによる食欲不振にも使われます』とある。]

 されば、此首尾、何となく宮田陪臣の身として御直參(ごぢきさん)の歷々を斬り、國主の御用を缺(か)きて妨(さまたげ)をなし、國君の御憤(おんいきどほり)をむかへ奉ることを忘れ、猶又萬事案内のことなど、長家より後手(ごて)になりしことゞも種々憚りあれば、長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき。尤も三十日を經て、國君より

「夫(それ)には及ばざる」

よしの御使者ありて開門せられけり。

[やぶちゃん注:「陪臣」ここは家臣の家来。

「御直參」ここは藩主の直の家臣で、特に目を掛けられて領地や料米を受けいるものを限って言っている。

「後手」底本は『御手』であるが、意味が通らぬので「近世奇談全集」で特異的に訂した。この不首尾は前話に出た。

「長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき」事実。前話の私の最後の注の引用を参照。]

 然れども

「河原毛の馬の怪は其儘違(たが)はず、終に門を閉ぢさせし」

と人々申合へり。

[やぶちゃん注:間違えてはいけない。これは長連起が閉門処分を受けて退いたという意味ではない。最初の「長氏の東武」で連起の老臣が三つの禁制を語った際、彼は「河原毛の馬」の禁忌を犯すと、『河原毛の馬を求め給へば、御門を閉ぢられ候御仕落を引出すよし申し來り候』と言ったことを指しているのである。ここでは、門を閉じなくてならない大変な間違い禍いを引き起こす、と言っているのであって、具体的な「閉門」の処罰を主人から受ける、とは言っていないのである。「この度の宮田乱心の一件で長大隅守連起の家は、ほうれ、言に相違せず、河原毛の馬の怪異がために、遂に家の門を自ら閉じさせて謹慎されたではないか!」言っているのである。]

 

 長大隅守殿にも忌み思はれてやありけん。河原毛の馬は、越中の末なる博勞(ばくらう)にとらせて遣はされしとぞ。

 其後又馬の譽れありてや、金城へ牽きたりとも云ふ。

 されば此河原毛色の妖を引くこと、其家其節に依りて必ず怪をなすと聞えたり。

 是は其後の事にやあらん、似たるかはらげの一變あり。後條に記して餘意を扶(たす)く。

[やぶちゃん注:「末なる博勞」「末」は越中の果ての、身分の低い知れる博労(牛馬の仲買人)。

「其家」でもいいが、これは「長家」の判読の誤りか、誤写ではないかとちょっと疑う。

 以下は底本では全体が一時下げ。一行空けた。]

 

一說に田邊父子を葬る地は野田山なり。宮田を葬る地は六道林(ろくだうりん)なり。然るに氣相結びて、折々見ゆるよしを見たる人もあり。附たり、田中の門を閉ぢたる事等略ㇾ之[やぶちゃん注:「之れを略す」。]。

[やぶちゃん注:「野田山」既出既注であるが、再掲する。前田利家の墓のある金沢市野田町(のだまち)であろう。拡大すると「野田山」という呼称も見える(グーグル・マップ・データ、以下同じ)。

「六道林」「三州奇談卷之四 陰陽幻術」(おどろおどろしい名であるが、関係ない。リンク先でそれも書いてある)で既出既注であるが、再掲する。金沢市弥生公民館刊の弥生公民館新館十周年記念の文集「弥生の明日のために」(平成七(一九九五)年刊・PDF)の記載によれば、現在の金沢市弥生一丁目及びその北の野町三町目附近の旧呼称であることが判る。

「氣相結びて、折々見ゆるよし」上記の二箇所は北東・南西に二キロほどしか離れていない。或いはその間辺りで、不可解な発光現象などを見ることがある、とでも主張する者がいたらしい。

「田中」河原毛馬の購入を強く勧め、三禁を否定した家臣の「田中源五左衞門」(「田中源五右衞門」とも)のこと。

 本篇を以って「三州奇談續編卷之三」は終わっている。]

三州奇談續編卷之三 宮田の覺悟

 

    宮田の覺悟

 田邊忠左衞門と云ふ士あり。祿糧(ろくりやう)に四百石なりといへども當たる時の諸用此身に懸り、百萬石の御用方勤め居る士なり。組外の番頭(ばんがしら)なれども、格別御用方當時一身に引受けて勤め居(を)るなり。惣領をば忠藏と云ひ、二十四歲、忠勇共に備(そなは)りて學問に精を入れ、剱術に油斷なく、日々に物を勵む。二番目は女子(ぢよし)なり。三男は忠三郞と云ひ、十五歲、是又勤むるに心利きたる若者なり。狗(いぬ)を好きて愛せしが、或夕暮に、惣構(そうがまへ)の川端を犬を引きて來りしに、何處(いづこ)ともなく

「侍ちませい」

と呼懸くる者あり。

 其内犬猛りて聞かず。

 聲は慥に藪の内と聞きしかば、犬を放し聲を懸け、杖を打なぐりて、是を追ふに、古狐二疋飛出で川端を走る。

「此狐めならん」

と頻りに追ふに、犬彌々(いよいよ)猛りて追掛くれば、狐ははうはう迯げて、長(ちやう)の家の塀に飛上りて隱れ失せぬ。

「己(おの)れ重ねて迯(のが)すべきか」

と罵りて家に歸る。

[やぶちゃん注:「惣構」「総構え」は狭義には城郭の外郭或いはその囲まれた内部を言う語であるが、広義には城の他に城下町一帯全体をも含め、その外周を堀・石垣・土塁で囲い込んだ日本の城郭構造を特に指す。「総曲輪・総郭」(孰れも「そうぐるわ」と読む)とも称する。「金沢市文化スポーツ局文化財保護課」が作成した「金沢城惣構跡」の公式パンフレットがやや小さいがこちらで見られる。当該ページの解説に『金沢城には、内・外二十の惣構がつくられました。内惣構は二代藩主前田利長が高山右近に命じて慶長』四(一五九九)年『に造らせたといわれています。さらに慶長』十五『年には、三大藩主利常が家臣の篠原出羽守』『一孝(かずたか)に命じて外惣構を造らせました。堀の城側には土を盛り上げて土居を築き、竹、松、ケヤキなどを植えていました』。この「惣構の管理」は、『惣構肝煎(きもいり)・惣構橋番人などの』限定された独自の『町役人を配置して、堀にゴミを捨てること、土居を崩すこと、竹木を伐採することなどを禁じていました。北国街道出入口の枯木(かれき)橋と香林坊(こうりんぼう)橋、港へ通じる升形(ますがた)はとくに軍事・交通の要衝とされていました』とある。

「はうはう」「這う這うの體(てい)にて」の意。散々な目に遭って今にも這い出すようににやっとのことで逃げ出すさま。]

 かゝること兩三度もありしとや。跡に思ひ當ればふしぎなり。されば宮田吉郞兵衞と長の家中に身小姓組(こしやうぐみ)の者なり。一向宗にして堅律儀(かたりちぎ)千萬なる仁(ひと)なり。元來長家の臺所に勤めし故に、小料理も利きて、近付(ちかづき)の町中(まちうち)をも振舞(ふるまひ)の取持ち手傳(てつだひ)して、料理方も務め世を渡らるゝ故、人もその律儀を能く知り、多くは是に賴みけり。されど家貧しきが爲に、姊娘おらんといヘるを奉公に出す。十四歲の時、彼の番頭の田邊忠左衞門の許に在着(ありつ)く。

[やぶちゃん注:「小姓組」ここは警護方ほどの意。]

 

 三十日もや過ぎけん、或夏の暮、晚暑(ばんしよ)蒸して身も倦(うま)れ果つる夕つがた、荼色の木綿浴衣を持ちて居たりしが、洗濯して庭に干して忘れ置きける。

 爰に彼の忠左衞門三男忠三郞、夕暮過ぎて歸りしが、庭に出でさまよふ所に、彼の干し捨し單物(ひとへもの)を見付け、

「是は新參のおらんが忘れて干し置きし物」

と知りて、

『幸(さひはひ)におどして戯れ、是を與へん』

と思ひて、頭にあらぬ物を被(かぶ)り、身は黃茶の單物に包み、月影に隱れて庭の内に待ちけるに、おらんは此に心付かずして便所に行んとて立出でける所、忠三郞折よしと思ひ、遙に遠き庭の木陰より

「わつ」

というて飛付きけるに、おらんは

「つ」

と魂消(たまげ)てけるが、其まゝ死してけり[やぶちゃん注:気絶してしまった。]。

 爰に於て家内の人々大(おほき)に驚きて、色々と呼び起し、藥を與へ、

「水よ湯よ」

とさわぎけるに、暫くして心付きけれども、終(つひ)に氣もぬけ、聲おぼろげにて、

「彼のかはらげなるは何にてあるぞ」

と恐れける。

「其方が單物なり」

と出し見するといへども、

「是にはあらず、あのかはらげなるものが今も目に見ゆる」

とて、少し物狂ひの躰(てい)に見えけるが。翌日も猶心よからざりける程に、御斷り申し我が宿に歸りける。

[やぶちゃん注:おらんの単衣の浴衣は茶色であったが、忠三郎の被り物の色が黄茶色でこれこそ「河原毛色」なのである。]

 

 扨(さて)家内の人に對し、色々と田邊氏の勤めがたき事を歎き訴へ、

「早く暇(いとま)を取りてたべ」

と、父母へ乞ひにけるにぞ。

 父母も聞きとゞけて、人して暇もらひに遺しけるに、田邊屋敷は大に疑ひ、

「忰どもが少しおどしたりとて、根もなき事を申し立(たつ)にして暇を乞ふこと沙汰のかぎりなり。おらんに今一度出(いで)て奉公し、其うへ勤めがたき趣あらば、いかにも暇を遣すべし。此まゝ申來(まうしきた)らば、着替(きがへ)を押へて返すまじきぞ[やぶちゃん注:奉公に参った際に持ち込んだ衣類一式を押収して帰さぬぞ。]」

と怒りて返答に及びければ、其段々をおらんに語り聞かするに、おらんは氣分愈々重(おも)り、其中(そのうち)に

「こゝの厩(むまや)の間(ま)かと覺えて、かはらけ[やぶちゃん注:ママ。]色なる物めしたる神の來り給ひて告(つげ)の有りし」

とて、いよいよ田邊氏を恨み出し、父吉郞兵衞に告げて、

「最早我等は空しく相成申すべし。田邊ゆゑ果て申す事にて候へば、子の仇敵(かたき)なり。刀をさし給ふは何の爲(ため)ぞ。早く田邊の家へ切込み、撫切(なでぎり)にして其恨みを報じ給はねば、父とも思はれぬことに候ぞ」

と、かきくどき歎くこと日夜絕えず。

 初めは聞捨(ききすて)にもしたりしが、每度のことなれば、其中に宮田吉郞兵衞もふと心に止(や)むことを得ぬやうに思ひなして、或日終に心を決し、我が屋の品々賣代(うりしろ)なし、白銀(はくぎん)五枚を整へ、是を東末寺(ひがしまつじ)の御堂に持行(もてゆ)き、我が法名を永代經に付けて、其請取(うけとり)を腰に括(くく)り、終に覺悟を極(きは)めたり。安心了解(あんじんりやうげ)の發願(ほつぐわん)、切死(きりじに)の用に立ちしも又妙なり。

 其後衣服を改め、一家知音(ちいん)の人々に暇乞(いとまごひ)に出づる。其たち樣(ざま)夫(それ)とは爾(しか)と聞えねど、後に思ひ合せてけふの哀れを語りあふに、家々の請けこたへをかしきことどもありし。是又怪異のことにして、正氣なることにはあらず。

[やぶちゃん注:「白銀五枚」「白銀」は銀を直径約十センチほどの平たい楕円形に作って白紙に包んだもの。通用銀の三分(ぶ)に相当し、主に贈答などに用いた。一両は四分であるから、十五分は四両弱となる。

「東末寺」真宗大谷派金沢別院(通称「東別院」)のこと(グーグル・マップ・データ)。

「永代經」「永代讀經」の略で永代供養のこと。ここはそれを菩提寺に依頼する願い状のようである。

「安心了解」安心 (=信心)を領納解了するの意で、「確かな信心のもとに、阿弥陀如来の命を受け取って、その道理を理解してしっかりと身につけること」を指す。

「其たち樣夫とは爾と聞えねど」その暇乞いに立ち出でた宮田の様子は、実際、どのようなものであったかは、はっきりとは判らないものの。

「をかしきこと」理解不能な部分。]

 

 終に心を一定(いちぢやう)して、七月廿六日田邊氏の家へ切込まんとおもひ立ちて、道は法船寺町と云ふを過ぎ、所々にて田邊氏の家を尋ね問ひしこと數ヶ所なり。終に田邊の門に至り、折節田邊忠左衞門は役所より歸りて、大肌脫ぎて臥し居られ、惣領忠藏は屋根葺(やねふき)の手傳(てつだひ)して屋根の上にあり。三男忠三郞は瘧(おこり)を病み手を額(ぬか)にあて、次ぎの間にうつぶき居(ゐ)る。

 宮田吉郞兵衞式臺に於て大音揚げ、

「我は是れ長大隅守家來小姓組宮田吉郞兵衞なり。我が娘らん命期(めいご)今日(けふ)にあり。是を顧みざるのみならず、道具を押へ暇をくれず。是れ恨み死に死(じに)せしむるなり。子の敵(かたき)覺えあるべし。いざ立合ひて勝負あれ」

と罵れども、元來覺えなきことなれば、居合ひたる家來は迯げかくれ、二歲の小兒を抱きけろ乳母立出で、

「何の事ぞ」

と問ふ所を、宮田長き刀をすらりと拔き、乳母大いに恐れ迯入るを拂切(はらいぎり)に切りたるに、乳母の袖二つにきれて、小兒の片足へ少し切込む。

 乳母大いに肝を潰し、逸足(いちあし)出して迯込むを、續いて追懸け、唐紙[やぶちゃん注:襖(ふすま)。]を蹴(けり)はなして次へ通(とほ)れば、三男忠三郞は瘧に目まひ立ちかねながら、刀を取らんと這ひ寄る所を、拔きまふけたる刀なれば、躍り掛りて一打に切放すに、肩先よりひばらに懸けて打込む。忠三郞は二言(にごん)もなくあへなき最期なり。

 此音に驚き、忠左衞門奧の紙ぶすま引明けて出づる所を、吉郞兵衞又躍りかゝりて

「丁(てう)」

と切る。此疵片耳より後ろ喉(のど)へかけて深疵なり。

 忠左衞門飛び入りて刀の手を捕へ、左の手を右の手に支へて

「えいやえいや」

と押し合ふ。

 此時

「忠藏忠藏」

と呼はる聲、やうやう屋根へ聞えしとなり。

 忠藏驚き屋根より飛び下り、父が躰(てい)を見るに、敵を捕へ緣先きに兩方挑(いど)み合ふ。

 忠藏書院の鎗(やり)おつとり、吉郞兵衞が脇腹に

「すつぱ」

と突込(つきこ)みしかば、組みながら兩人共に緣より落つ。

 依りて

「忠藏にて候」

と聲懸けしかば、父は心安堵して

「がつくり」

と息絕ゆる。

 忠藏駈け寄りて呼び生(い)ける間(あひだ)に、吉郞兵衞起上り、鎗を取り拔き捨て、其樣怪しく四つ這ひに飛廻(とびまは)り、人をはねのけて門へ出でんとする所を、田邊の家子共(いへのこども)先づ門を固めて出(いだ)さず。故に庭を走り廻ること飛獸(とぶけもの)の如く、其家の男女を追立(おひた)つること度々(たびたび)なりしに、家來共階子(はしご)を取りて是を押へんとするに、拔けくゞり出づること四五度なりしが、法船寺町の商家俵屋某(ぼう)の背戶へも至りしことありしとぞ。

 忠藏は馳付けし一族共へ父を預け、終に追懸けて詰め寄せ、吉郞兵衞を一打に打倒し、乘懸つてとゞめをさす。

 吉郞兵衞

「無念無念」

とおめけども、

「不斷煩惱得涅槃、」

終に最後に及びける。

依りて田邊一門知音駈付けし者ども集り、先づ誰ならんと改め見るに、更に見馴れぬ者なり。入來(いりきた)りし時名乘りしを聞きし者もあれども、何と云ひしやらん慥(たしか)に聞きし者もなく、

「誰よ彼よ」

と云ふばかりなり。

 先づ父忠左衞門手疵を養ふに、深疵にして存命不定(ぞんめいふぢやう)なり。

 三男忠三郞は一刀に息絕えたり。

 二歲の小兒は疵纔(わづか)にして死に至らず。

 其外家内の者どもは、皆少々の手疵なり。或は自ら轉びて疵付きし者も多かりし。

 偖(さて)殘らず遠方の一門中(うち)も駈け付け、喧嘩追懸者(けんかおひかけもの)役の衆中も來會(らいくわい)して首尾を問ひ、國君[やぶちゃん注:第十代加賀藩主前田治脩(はるなが)。]よりも御使者立ち、手疵を尋ね、人參を下され、御懇意又冥加なき[やぶちゃん注:神仏の御加護が過ぎるかのように忝(かたじけな)い、あり難い。]に似たり。

 尤も深く忠左衞門を惜み給ひて、此討人(たうにん)を御吟味ありけるに、兎角知れず。時は晝八つ時[やぶちゃん注:午後二時。]過ぎ宮田則ち田邊屋敷へ來りしに、落着は日落ちて切合ひすみしとぞ。思へば長き間なり。

 夜に至りても猶知れざりしに、吉郞兵衞を裸にせしかば、下帶に永代經の受取括(くく)りありしとぞ。

 終に行衞知れて、長氏へ案内に及ぶ。長家は一向に知らず、付けとゞけ・案内等後手(ごて)になりて、首尾不都合なり。されば詮議は近隣の御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺にてありし。是も一向宗の因緣にや死骸を渡す時色々の論(ろん)[やぶちゃん注:言い争い。]ありし。

 田邊忠左衞門は六十歲なるに、二十餘の深疵なれば、外科名醫丹誠を以て療養なれども終に叶はず、二三日の内に死去せり。

 されば事濟みたる時、一時にやありけん、忠左衞門・忠三郞・吉郞兵衞葬禮三つ並びて行きしも、又ふしぎの出合なり。此時葬所に於て葬らんとせし時、大いなる響きの音發して、人々膽を消しけること、

「猶修羅道に戰ふにや」

と、其頃人々申合ひしなり。

 されば田邊氏の屋敷及び役所へ、每度宮田吉郞兵衞の妻子呼出(よびい)だされ、御吟味嚴しかりし所、妻子の口上には、

「私どもの更に恨みなることも無之(これなく)候。たゞし吉郞兵衞罷出(まかりい)で候儀は、畢竟亂心に紛れあるまじく候」

との申譯(まうしわけ)にて、事濟みて歸りけれども、長大隅守殿よりは、宮田の支族妻子迄皆々しまり仰付けられ、殘らず同役どもへ御預けなり。

 田邊の家士剛膽(がうたん)御吟味ありて、その後忠藏へ家督仰付けられ、又々役儀仰渡しありて相勤め、事故なく榮ゆるなり。

[やぶちゃん注:「付けとゞけ・案内」詫びや見舞いのつけ届けや、事件に対する即応した多方面での対応や処置を指す。

「法船寺町」既出既注であるが、再掲する。現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。ADEACの「延宝金沢図」(延宝は一六七三年~一六八一年)の中央下方のやや左部分をゆっくり拡大されたい(左が北)。長九郎左衛門(連起)屋敷(二ヶ所。下方に下屋敷)が見えてきたら、それを左上にして停止すると、右手犀川右岸に「法舩寺」が見えてくる(目がちらついて田邊の屋敷までは探せなかった。悪しからず)。

「瘧(おこり)」マラリア。現在は撲滅(戦後)されているが、近代以前は本邦全域に感染が見られ、特に西日本の低湿地帯や南日本を中心にかなり多くの感染者がいた(光源氏や平清盛も罹患している)。本州では琵琶湖を中心として福井・石川・愛知・富山で患者数が有意に多く、福井県では大正時代はでも毎年九千から二万二千名以上のマラリア患者が発生しており、一九三〇年代でも五千から九千名の患者が報告されていた。嘗ての本邦で流行したマラリアは三日熱マラリア(アルベオラータ Alveolata 亜界アピコンプレクサ Apicomplexa 門胞子虫綱コクシジウム目 Eucoccidiorida マラリア原虫三日熱マラリア原虫 Plasmodium ovale による)である(以上は概ねウィキの「マラリア」に拠ったが、より詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合)の私の注を参照されたい」。

「拂切」右利きなら、引き抜いて右横に強く大きく払って斬ること。

「其樣怪しく四つ這ひに飛廻り」この段落部分(私が段落にしたのであるが)には麦水の確信犯の狐の憑依を匂わすところの示唆があると私は読む。

「不斷煩惱得涅槃」親鸞の「教行信証」の「行巻」の末尾に所収する「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の偈文。原拠は「維摩経」。「煩惱を斷たずして涅槃を得」。

「喧嘩追懸者」野次馬。

「御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺」これは「淨照寺」の誤り。法船寺の南東直近にある浄土真宗大谷派浄照寺である(グーグル・マップ・データ)。「加能郷土辞彙」に、『ジヨウショウジ 淨照寺 金澤下傳馬町に在つて、眞宗東派に屬する。寺記に、長祿二年[やぶちゃん注:一四五八年。室町時代。]慶正といふ者、之を能美郡土室に草創し、五代正慶の時金澤移ったが、今に土室御坊と稱するとある。能美郡德久の靜照寺と關係のあるものであらう』とある。旧町名もここの旧町名と一致する。よって田邊の屋敷はこの近くになくてはならないのだが、不思議なことにADEACの「延宝金沢図」にはこの寺さえも見つからない。不審。

「妻子の口上」私はここでおさんが何故、何も言わなかったのかが大いに不審なのである。真に狐憑きであったなら、役人など何するものぞ、ガツンと言い放つであろう。統合失調症その他の重い精神病であったとしても、同じように却って訳の分からぬことを訴えるはずである。その点が、私は頗る不審なのである。一つ――もしかすると、この田邊家の男(主人子息を含む。しかも複数である可能性も考える)からおさんは性的暴行を受けていたのではなかったか? そうすると、宮田の行動も説明がつくと私には思われるし、おさんがここで何も言わないのも、どこか納得出来るのである。

「家士剛膽」田邊当主他子息らや家来はその剛胆(肝が太く物に動じずにこの事件に対処したこと)が。

 またしても前話「三不思議」の強力な連関怪奇譚であるが、その内容は奇怪にして凄絶である。ここでは「三不思議」の最後の狐の話に登場する長大隅守連起(つれおき)の家臣である「臺所懸りの」「宮田吉郞兵衞」が思いもしなかった主人公として登場し、驚くべき仕儀をしでかしすのである。「前々篇からの、こんな連続的な怪異は如何にも作り物臭いぞ! 特にこれはねぇ」とお思いになる方が多かろうが、しかし、この異常にして凄惨な殺人事件は、確かに実際にあったことが「加賀藩資料」第九編の「安永二年」(一七七三)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)はっきりと記されてあるのである(ポイント落ちや下げは無視した)。

   *

八月廿六日。長大隅守の家臣宮田吉郞民衞、御馬廻組田邊忠左衞門を殺害す。

〔政隣記〕

九月十五日、大隅守殿今日より御自分指扣。

但、右は前月二十六日大隅守殿家來宮田吉郞兵衞と申者、定番御馬廻御番頭田邊忠左衛門方へ罷越、式臺より入、三男勇三郎を切殺候に付、忠左衞門立合候處、忠左衞門にも三ヶ所深疵を爲負、嫡子八左衞門立合、吉郞兵衞を捕令切害。忠左衛門右手疵癒之御屆相濟候上、今月十二日死去。右之趣に付而也。

[やぶちゃん注:以下、頭注。]【平癒の屆出を爲したるは殺害せられたる者は遺知相續を得ざればなり】

   *

・本篇では「七月」と異なるものの、日付は正しい。八月二十六日ならばグレゴリオ暦十月十二日、七月二十六日ならば同九月十二日である。

・長大隅守連起の「指扣」は「さしひかふ」と読む。自分の意志で自主的に暫く閉門(謹慎)したというのである。

・「三男」を「勇三郎」とするが、本篇では「忠三郎」である。既に述べたように通称は複数あったから、特に問題にするに足らない。

・「嫡子八左衞門」が本篇の通称「忠藏」。

・「捕令切害」は「捕(とら)へ切害(せつがい)せしむ」。

・「右手疵癒之御屆相濟候上」は「右手疵、之れ癒(い)ゆの御屆(おんとどけ)相ひ濟み候ふ上(うへ)」。

・「付而也」「つき、しかなり」で「以上、確かな事実である」である。武家で殺人の被害者となった場合、何の抵抗もなしに殺された時は、被害者にも応戦しなかった点に於いて落ち度(現刑法で言う不作意犯)が認められてしまい、通常の病死や老衰死の場合に認められるはずの死後の家督相続が認められないことがあったので、こうした一見おかしなまどろっこしい手続きが必要とされたであったのである。江戸時代、そうした相続(特に末期養子)のために死を実際より遅らせて届け出ることはかなり頻繁に行われた。実際、本篇では彼は事件から二、三日後に死んだと記してあるのである。

 さて。ここまでくると、思うに、作者堀麦水(享保三(一七一八)年~天明三(一七八三)年)は寧ろ、この長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)と個人的に親しかったのではないか? という逆の想像が働くのである。それは、今までもそうだが、長家絡みの話柄に於ける台詞や事件の経緯から結末に至るまでの内容が、実に克明に再現されているように見えるからである。これはまず、長家にごく近い人間が麦水にいなければ到底自信を以って記せるものではない。麦水亡きあと(連起はその後も十七年生きており、無論、長家は幕末まで続き、維新後は男爵家となっている)この「三州奇談」が書写されて加賀藩内で普通に読まれた可能性を考えると、そう考えるしかない。而して多少は長連起自身には都合の悪い部分、不名誉な箇所があるにしても、「三不思議」で引用させて頂いた展宏氏の仮説のように、この麦水の実録記載は――栄えある「畠山七人衆」として知られた能登畠山氏旧臣にして旧有力国人であった長(ちょう)一族の「三禁制」――として喧伝される効果を逆に持つ。この怪奇談が加賀藩の人持組頭(加賀八家)でありながら、今一つ、力を持てずに続いた長家の、しかしその武家一族としての正統性、サラブレッド性を補強するものとして、連起以後の長家に於いて確かな《実録》として容認されていたのではなかったか? とも思えてくるのである。

2020/05/26

三州奇談續編卷之三 三不思議

 

    三不思議

 抑(そもそも)長家(ちやうけ)三禁制の所以を尋ぬるに、鷹野の事は、遠く先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて、惱みながら芦間(あしま)に入りて湯にひたり養ふ。是を見給ひて溫泉の奇特(きどく)を知り、爰に湯坪(ゆつぼ)を開き給ふ。今の山中の湯是なり。其後白鷺觀音と化して鷹狩を戒(いまし)めしことなども、山中醫王寺の緣起に聞えたれども、昔語りにして其實(そのじつ)しかと知れ難し。されば今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見ることなれば、又別に鷹狩の此家に障(さは)ること近き理(ことわり)のありやしぬらん。【猶後に記す。】

[やぶちゃん注:「長家三禁制」前の前の「長氏の東武」を参照。各篇の重層・連鎖記載が止まらない。それは「三州奇談」本編にまで及んでいる(後注参照)。こういうことは「三州奇談」正編にはなかったし、どうも内容がダブってしまって怪奇談としての新鮮さが殺がれ、私はあまりいい気がしない。いちいち既出既注の注をするのは面倒なので、必ず「長氏の東武」を読まれて後にこちらを読まれたい。

「先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて……」これは「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」に出、ここに出る「山中醫王寺」真言宗国分山医王寺のことなども含めて詳しい注も私が附してある。そこにも記したが、山中温泉は別名白鷺温泉とも呼ばれるのである。なお、白鷺が観音となるというのは、イメージとしてはごく腑に落ち、医王寺の境内には石仏が多数あり、中でも観音らしきものは多いらしい。但し、医王寺の本尊は薬師如来である。

「今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見る」ブログの「展宏 ki-dan.com」の『加賀藩「三州奇談」 藩老長家の三禁制』で本篇を紹介され、「三禁制」について述べておられ、『が、この奇談にある長家の鷹狩り禁制は事実でなく、鷹狩りをしたという史料がある。賤ヶ岳七本鑓の一人、豊臣秀吉に仕えた片桐且元に、長家から鷹狩りでとった鶴を贈った文書が「長家文献集」に記されている。長家鷹狩りの禁制は、別の理由で語られたものだと考えている』とあって、『戦国時代の長家は、鎌倉時代の長谷部信連を祖だとしているが史料はなく、それをつなぐのが稲荷信仰と鷹狩りだと考える』と述べておられ、別な記事では、やはり長家絡みの「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」を紹介された後記事として、『話の前半で、長家には「別家に変りし事多し」として、放鷹禁止をあげており、また長家始祖・長谷部信連が戦場で、狐の助けによって戦功をあげることができたので、今でも狐を大切に飼っているという』。『鷹狩りの禁止と狐はどのように結びつくのだろう』。『まず』、『長家の狐伝説とはどんなものか。これは『長家家譜』、『長家由来記』といった家譜に出ている。さきの話では、信連は戦場で狐に助けられたとするが、『長家家譜』では、信連が伯耆国に配流されていた際、女に化けた狐に助けられた恩を忘れず、今でも長家では稲荷を祀っているとしている』(ここに本篇「三不思議」の紹介が入るが、省略する)。『鷹狩り禁制の理由のひとつは、このように観音となった白鷺の戒めによるものだが、もうひとつは狐が関係している。鷹狩りは人・鷹・犬が一体となり、鳥獣を捕獲するものであり、狐・狸も猟の対象となる。鷹狩りがあると狐は捕えられてしまう。長家の鷹狩り禁制の伝承の由来はここにある』。『ところで、長家の狐伝承はいつ頃、どのようにしてできあがったのか。狐伝承を、家譜の編纂と稲荷信仰を手がかりにして、つぎのように考えてみた』。『長家では近世にはいり、稲荷社を祀って信仰しており、同じ江戸中期には、武家の間で、家譜編纂が大流行していた。まず家譜編纂の事情をみたい』。『(1)全国諸家で一家の系譜を書き記し、始祖にはじまる歴代の続柄・事績を書き上げる家譜編纂が、とくに江戸中期に流行した』。『(2)加賀藩は、殿様九人ありともいわれ、藩主と重臣八人が割拠し、相互に家格への意識が強く、それぞれが家格を誇るための史料をまとめた』。『(3)こうしたなか』、『長家には、中世の信連以来の歴史があり、他家にはない三州はえぬきの、栄光の歴史があった』。『こうした状況があったが、長家の中興の祖といわれる連竜(一五四六~一六一九)以後の歴史は確かなものの、それ以前の信連と連竜をつなぐ史料が不足していた。その役割を果したのが、稲荷信仰であったと考えたい。江戸時代、稲荷信仰は長家に限らず、全国的に流行した。こうしたことで、稲荷信仰にはいってからのちに、それに関連して長家の狐伝説ができあがったと考えたい』。『稲荷信仰にはいった長家では、稲荷社を建立し、あわせて狐も大事にした。この流れのなかで、信連・稲荷・狐をからめた伝承が成立した。時を同じくして家譜の編纂が進んでおり、この狐が信連と連竜をつなぐ役割をはたし、長家の歴史を一本化した。このようにして長家の狐伝説は家譜に組みこまれ、伝承を後世に伝えたのである』。『長家の狐伝承は稲荷信仰を介して家譜編纂とつながる。長家の近世と中世は狐伝承によって結ばれた。近世人ははるか昔の先祖とされる人物との関係を結ぶために、いろんな手段を使い、苦労してますね』と考証されておられる。確かに、森岡浩氏の長氏の系図を見ても、信連と連龍の間は十七代で、その間の嫡流の長氏の名の中には全く見たことがない名が結構あり、頼連と藤連の間などには「某」とさえある。そういう系図の脆弱部分を補うために、「三禁制」を持ち出したというのは、外野から攻める面白い手法で、私などは非常に共感出来る。少なくとも、本篇の最後の訳の分からない麦水の謂いより百倍納得出来る「近き理」としての仮説ではないか。]

 

 「釣狐」の狂言の事は、先々よりなかりし所に、近年法船寺町ぬしや傳次、其頃「名人」と人の沙汰すればとて、此者に甲斐守殿仰付けられて、「こんくわい」の狂言ありし。其時は夜のことなりしとなり。庭の内

「どやどや」

として見物の來るが如し。傳次心の内大(おほき)に恐れを生じける。時しも狐の鳴聲の藝をする所にてありしに、かゝる時庭の内より聲を合せて聲を發せしに、「敎ふる」にも似て又「叱(しつ)する」にも似たり。

 是より傳次夢中にて漸(やうや)くに勤めて歸りしが、其夜より亂心して、夜每に町外れの山に分け入りて、狐の鳴聲して歸り、明(あく)る夜は海外(うみはず)れの磯に出で、狐の聲して歸りしが、心終に調はず。幾程なくて死にけり。御主人甲斐守殿も一兩年に世を早うし給ふ。最も若死なり。されば不吉と見えたり。

[やぶちゃん注:最後の段落の「勤めて」は底本は「勸めて」であるが、誤判読か誤植と断じて、特異的に訂した。

「法船寺町」現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。中央に町名となった法船寺が現存する。

「ぬしや傳次」前の話ではただの「傳次」であった。「塗師屋(ぬしや)」で狂言師の屋号か。

「甲斐守」既出既注であるが、再掲しておくと、長連起(つれおき)の先代の加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)は享年二十八で亡くなっており、正しく短命であったが、彼は叙任されていない。「甲斐守」であったのは同じく加賀藩年寄・長家第五代当主であった、その善連の父長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっているので、単に先代善連と先々代を混同したものである。]

 

 扨(さて)河原毛(かはらげ)の馬のことは、何に障るとは見えねども、此長の御家(おんいへ)は多く狐を養ひ給ふ。是も能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし由舊話あり。故に此屋敷の内常に狐住み居ること、常の犬の如し。これ故犬を禁じて一疋も門内に入れず。尤も白狐・玄狐(げんこ)[やぶちゃん注:黒狐。]もありといへども、狐の色多くは河原毛なる物なり。此毛色を忌みて狐の嫌ふにや。又河原毛の色には狐氣の通じて怪(あやし)みをなす物にや。又何か幽冥に別理(べつり)あるにや。猥(みだ)りに測り知るべからず。

[やぶちゃん注:「能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし」「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」の『其上(そのかみ)信連(のぶつら)戰場(いくさば)にて途(みち)に迷ひ粮(らう)盡(つき)たりし時、野狐來て路を敎へ、終に食を求めて功を立られし』とあった。]

 

 彼(かの)河原毛の馬(むま)來りて後、此厩(むまや)に色々怪しき事ありて、人の不審を立つること多し。馬取(むまとり)も夜を明し兼ね、馬もうつゝになりて、日頃の神駿(しんしゆん)の精氣失せ果て、阿房(あはう)[やぶちゃん注:「阿呆」に同じい。]の如くなりしと云ふ。

 又折々此馬屋の前に女の彳(たたず)むことあり。折節は家中の娘に略々(ほぼ)見まがふものも來り立居(たちを)ることもあり。

 爰に不思議なるは、此家の臺所懸りの人に宮田吉郞兵衞と云ふ者あり。此家の御先祖信連公を近年「武顯靈社(ぶけんりやうしや)」と崇め奉り、屋敷の内に御社(おやしろ)建つ。是に供御(くぎよ)を日々備ふる役を蒙れり。其跡は捨てゝ狐にあたふること言渡(いひわた)しあり。然るに折々は吉郞兵衞狐に與へず、隱して宿に歸り、妻子を育むを以て例とす。此故にや一度吉郞兵衞、供御の膳を持ちながら河原毛馬の厩へ迷ひ入りて、大きに驚きしことありと云ふ。

 かゝること人の知らざること多し。狐妖も又甚だ多し。恐らくは鷹狩を禁ずることも、昔の白鷺物語りは差(さし)おき、近く狐妖の知らしむることあるか。其禁ずるの理(ことわり)は知り難しと難しといへども、かゝる事を思ひ廻(めぐら)せばなり。

[やぶちゃん注:「宮田吉郞兵衞」(きちろべゑ(きちろべえ))は事実、実在した長連起の家臣であることが判っている(「加賀藩資料」に載る。続く「宮田の覺悟」は彼を主人公にし、その内容が衝撃的なので次回の当該話の注で本文を示すこととする)

「うつゝになりて」「うつつになる」は「夢か現(うつつ)か」などの形で用いられるところを意味を誤って「夢とも現実ともはっきりしない状態・夢心地」に転用したもの。「ぼんやりとした状態になって」。]

三州奇談續編卷之三 田中の馬藝

 

    田中の馬藝

 されば河原毛の馬(むま)凶(きよう)たるの說を破りて、其馬を求め得し田中源五右衞門と云ふ者の事を尋ぬるに、其親は浪人にて所々を奉公し世を渡りけるに、心中英雄にして終(つひ)に出世し、後は竹園(たけぞの)の攝家に仕へて、佐々木日向守とて五位の官職を給はり、近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり。其子は故ありて、加賀の家中長氏の家臣田中氏へ送りてけり。故に田中源五右衞門と名乘る。されば幼少の時より、江戶表にありて名高き山鹿甚五右衞門が後(のち)山鹿藤助、其孫新五左衞門が方に内弟子として仕へ、武學飽く迄も稽古して、依りて名も甚五右衞門と云ひしなり。甚五右衞門と申すは、則ち北條安房守が高弟にて、天下の奇才なり。一年天下の咎めを受けて播州赤穗に蟄居せしことあり。次でながら其趣を語らん。

[やぶちゃん注:前話「長氏の東武」から直に繋がる形で書かれてあるが、私は前話の田中に係わる話の部分に甚だ不審を感じている。そちらをまず読まれたい。

「竹園の攝家」藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家甘露寺家の支流に竹園家があるが、甘露寺家自体が摂家ではない。

「佐々木日向守」武野一雄氏のブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『並木町(2)静明寺②』に、佐々木日向守丹蔵なる人物の記載がある。

   《引用開始》

元文元年(17366月下旬、身の丈6尺余、色青く目鼻立ち鋭い風体いやしい男丹蔵は、主家多羅尾家の系図を盗み金沢を出奔した。丹蔵は武家に仕える仲間で、夜な夜な博打にふけり、その夜、つきに付き大金を手にしたのである。

元禄のインフレ景気が去り、8代徳川吉宗の時代、政策の反動でデフレが起こり、享保の改革からインフレ期一石銀七十匁~百匁がデフレで三十匁~五十匁にな り、武士も百姓も生活は苦しくなり、世態は醜悪、風紀は紊乱し、一攫千金を夢見る投機心が勃興し富籤や頼母子講がはやり挙句の果てには、詐欺窃盗騒ぎが頻 繁に起こった時代だったと言う。

主家の多羅尾八平次(300石取り)も賭博に嵌り、収納米の二重売却や近隣に住む鶴見和太夫の刀、脇差4本を盗み打ちつぶし売り飛ばすなど詐欺窃盗の常習で、おまけに兄弟骨肉の相食む乱脈であったと言う。元文2年(1737615日八平次は能登島へ流罪、弟(定番御馬廻組清太夫)は五箇山へ流罪になる。奉公人灯篭竹の丹蔵は、このような主人のもとでは実直に働くことが出来なかったようで博打三昧に走ったのも頷ける。主家の没落で扶持にも離れ、江戸に 活路を求めての出奔であったものと思われる。

江戸では、常陸笠間城主六万石の井上河内守(後、浜松城主井上大和守)の仲間奉公の職を得る。博徒とは言え、才気煥発で理財の才があり、河内守の勝手を建 て直し、知行500石の家老職に出世した。老年に至り、傍輩の子を養子として跡式を譲り、隠居となり、京に上り佐々木北翁と改め九条家[やぶちゃん注:九条家は摂家である。](左大臣尚実の時) に仕え、雑掌を勤める。

ここでも財政整理に成功して、自身も一万四千両の分限者となる。経済的非常時に知恵と才覚で成り上がる。金力には公家も大名も膝を屈せざるを得なかったのである。

明和元年(176410月佐々木日向守 (左京高安)は九条家雑掌の格式で故郷金沢を訪れるのである。[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」は安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事である。]

当時、金沢の法船寺町に実子田中源五左衛門(長家家来田中伴左衛門の養子御馬廻組200石)あり。大坪流の馬術の名手[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」には「兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門」と初めに出る。]で、灯篭竹の丹蔵が金沢時代博徒仲間、玄洞坊という山伏の妹との仲に生まれた長子である。

佐々木日向守(左京高安)が金沢に来た理由は、京の仁和寺、青蓮院の宮様の資銀を調達し、貸し付けると言う触れ出しで、当時は、どこも台所は火の車、長家 も前田駿河守家も村井家も、あからさまに言い出さないまでも、いずれも借銀に関する談合を円滑にしたいと思っていた事はうなずける。佐々木日向守(左京高安)は、金沢逗留6日間。

加賀藩では、10代重教の時代、藩では国賓として歓待した。また謝罪のため多羅尾家を訪れ、多羅尾家では憎しみを忘れ晴れ姿を祝福して迎えたという。

当時、養子縁組を利して苗字を改め諸太夫(従五位下)にまで昇進したものはいたが、この姓「佐々木」で諸太夫になった彼の手腕は稀有という。ちなみに当時、加賀藩での諸太夫(従五位下)を叙爵出来たのは、八家だけだった。

静明寺の墓は、源五左衛門により建立され、高さ六尺。法名は「義好院殿忠山北翁日勇大居士」左側面に俗名佐々木日向守、右側面に明和丁亥歳十一月二十二日、田中氏と刻してある。

参考文献 副田松園著(世相史話)石川県図書館協会発行より

(多羅尾家、旧味噌蔵丁、現在の消防署裏、珠姫に付いて来た甲賀忍者の末裔。菩提寺は蓮昌寺。)

   《引用終了》

即ち、前篇「長氏の東武」に出る「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」が、まさにここで語られるように、この佐々木日向守(左京高安)の実子である田中源五左衛門と考えてよいわけである。

「近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり」これはどうにも、前篇「長氏の東武」の酷似した「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」のエピソードが被さってしまって混同が生じるのであるが、以下を読むと、納得出来ないことはない。ともかくも親子揃って野心家・自信家であったことが判る。

「山鹿甚五右衞門」山鹿素行(やまがそこう 元和八(一六二二)年~貞享二(一六八五)年)は江戸前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。ウィキの「山鹿素行」によれば、『諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した』。『陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以』(山鹿高道とも)の『子として生まれ』、寛永五(一六二八)年に六歳で『江戸に出』、寛永七(一六三〇)年九歳の時、『大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び』、十五『歳からは小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ』。『朱子学を批判したことから』、『播磨国赤穂藩へお預けの身となった』。承応二(一六五三)年には『築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより』、『二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている』。寛文二(一六六二)年『頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究』し初め、寛文五年には、『天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている』。延宝三(一六七五)年に『許されて江戸へ戻り、その後の』十『年間は軍学を教えた』。『墓所は東京都新宿区弁天町』『の宗参寺(曹洞宗)にある』。『地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定して』おり、『名言に「常の勝敗は現在なり」がある』とある。因みに、『山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である』ともある。但し、これは素行の赤穂藩への思想的影響力が甚だ強かったことを傍証するものであることは間違いあるまい。他に若松一止(かずよし)氏のサイト「会津への夢街道 夢ドライブ」のこちらに、年譜形式の詳しい事績が載るが、そこにも、死後十七年目に『赤穂浪士の討ち入りが起こった』が、『赤穂藩での仕官ならびに謹慎で通算』二十『年ほど居住し、赤穂藩士へ与えた影響は大きかった』。『家老/大石良雄 (内蔵助) は素行の教えを直接受けており、用意周到に一致団結して主君の仇を討った行動は、素行の教え「死節論」そのものであった』。『忠臣蔵になくてはならない「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」は映画などでの創作であるが、いかに素行の影響が大きかったかの証であろう』と述べておられる。

「山鹿藤助」上記の若松氏年譜によれば、延宝九(一六八一)年素行六十歳の条に、『息子の萬助が元服し、藤助と改名する』とあり、さらに『息子/高基 (藤助) は、家督を継いで兵法を教えた。門弟も多かったという』とある。別な資料によると、彼は寛文六(一六六六)年(素行が赤穂にお預けとなった四十五歳の年)の生まれで、没年は元文三(一七三八) 年とあり、ウィキの「平戸城」によれば、第四代平戸松浦(まつら)藩主松浦重信(鎮信)は『山鹿素行と交流があり、平戸に迎えたいと希望したが叶わず』、『後に一族の山鹿高基・義昌(平馬・藤助とも)が藩士として迎えられた』ともあった。

「其孫新五左衞門」不詳。

「北條安房守」江戸前期の幕臣で軍学者にして北条流兵法の祖北条氏長(慶長一四(一六〇九)年年~寛文一〇(一六七〇)年)。]

 

 山鹿甚五右衞門元來儒學に入りて、林道春(はやしだうしゆん)の高弟にして朱子を尊む流(ながれ)なりしに、歌道は烏丸(からすま)公の一の弟子となり、神道は吉田卜部(うらべ)の源を盡(つく)し、佛學も終に黃檗(わうばく)の隠元禪師に參學して、其源を極められしが、次第に自らの見識を開きて、既に宋儒の說の惡(あし)きを見出し、自ら言を發して、

「我れ周公孔子を取りて漢魏晋宋以下の學說によらじ」

と、終に儒門を說き興(おこ)して自ら「聖敎要錄(せいけうえうろく)」を作り、「語類(ごるゐ)」を書して世に行ふ。號を素行子(そかうし)と云ふ。是(これ)日本「古學」を稱する初めなり。徂徠・仁齋の類(たぐひ)も是より心付くといへり。

[やぶちゃん注:「林道春」林家の祖にして朱子学派儒学者であった林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の法号。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。

「烏丸公」没年ぎりぎりだが、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ烏丸光広(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)であろうか。

「吉田卜部の源を盡し」「徒然草」の作者卜部(吉田)兼好(但し、彼の出自は怪しく今も不明である)で知られる神職家卜部氏の流れを汲む公家で神職である吉田家(信長の推挙によって堂上家となった)。吉田家は江戸時代、後の寛文五(一六六五)年の「諸社禰宜神主法度」で神職に優位を得た。但し、先の若松氏の記載によれば、彼が学んだ神道家として廣田(忌部(いんべ))坦斎(たんさい 生没年未詳)を挙げておられ、彼は忌部正通の神道説をうけて「神代巻神亀抄」を著わし、元本宗源(げんぽんそうげん)神道=吉田神道に対抗して、根本宗源神道=忌部神道を唱えた人物であり、不審である。

「黃檗」承応三(一六五四)年に来日した明僧隠元(後注する)が開祖で、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とし、明治九(一八七六)年には臨済宗から独立して一宗となった。「教禅一如」を提唱し、「念仏禅」に特色がある。

「隠元禪師」隠元隆琦(りゅうき 明万暦二〇(一五九二)年(本邦では文禄元年相当)~寛文一三(一六七三)年)。隠元は号。中国福州(現在の福建省)福清の出身で、俗姓は林氏。一度は学を志したものの、二十三歳の時、寧波の普陀山に登り、潮音洞で茶の接待役(茶頭(さずう))となって仏道修行に入り、二十九歳で福州黄檗山鑑源興寿について剃髪出家した。その後、嘉興の興善寺や峡石山碧雲寺などで学んだが、黄檗山に住した費隠通容禅師を知り、帰山して彼に参じ、四十三で費隠の法を嗣いだ。以後七年間、黄檗山に住して禅風を宣揚した。一六四四年に明が滅ぶに及んで、一六五二年(本邦の承応元年相当)から長崎の興福寺に渡っていた明僧逸然性融(いつねんしょうゆう)らの来日の懇請を受け、三年間の限定ででこれに応じ、承応三(一六五四)年、かの明憂国の士鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日した。興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺(そうふくじ)の唐三箇寺は幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑の檀那寺であり、隠元は直ちに興福寺、次いで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、特に禅僧たちに大きな反響を呼び、龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)らは隠元を京の妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)らの反対も強く、結局、摂津の普門寺に迎えられた。万治元(一六五八)年、江戸に赴き、将軍徳川家綱に謁見、翌年には酒井忠勝らの勧めで永住を決意、幕府から京山城の宇治に寺地を与えられ、寛文元(一六六一)年、一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。三年後に隠退、八十二歳で示寂した。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風を齎し、万福寺は、行事・建築・仏像など、万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。また彼は能書家としても知られ、隠元の書は幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集は今にその精力的な活動を伝えている(主文は来日前は平凡社「世界大百科事典」に、来日後は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、他にも複数の辞書類の記載を参考にしてある)。

「宋儒の說」朱子学。

「聖敎要錄」(現代仮名遣「せいきょうようろく」)は寛文六(一六六六)年素行四五歳の折りに書かれた。本篇二巻と附録一巻で全三巻。門人への講義である「山鹿語類」(やまがごるい:全四十三巻)から、その学説の中核を集録したもの。「聖人」から「道原」まで、全二十八項の簡潔な解説から成り、直接に周公旦・孔子の教えを学び、日用実践を重んずべきことを説いた朱子学批判の先駆を成す書である。

「古學」江戸時代に起った本邦独自の儒学の一派。既存の朱子学・陽明学などの解釈を批判し、「論語」「孟子」などの経書(けいしょ)の本文を直接に研究して、その真意を解明しようとするもの。山鹿素行その嚆矢とされ、他に以下に出る伊藤仁斎・荻生徂徠などが代表的人物である。「復古学」とも呼ぶ。

「徂徠」儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)。名は双松(なべまつ)。通称、惣右衛門。荻生方庵の次男で父の蟄居により二十五歳まで上総で過ごした。荻生家は三河物部氏を先祖とし、修姓して物(ぶつ)とも称した。元禄三(一六九〇)年江戸に戻り、後に柳沢吉保に仕えた。朱子学から出発しながら、それを超える古文辞学(こぶんじがく)を提唱、茅場町に「蘐園(けんえん)塾」をひらき、太宰春台・服部南郭ら、多くの逸材を出した。また、「赤穂事件」の裁定提言や、第八代将軍徳川吉宗に「政談」を提出するなど、現実の政治にも深く関わった。

「仁齋」儒者伊藤仁斎(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)。名は維楨(これえだ)。京の商家出身。朱子学を批判し経書復古を主張、寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾「古義堂」を開き、古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層に亙る門弟は実に三千人に及んだ。]

 

 されば水戶黃門公大いに是を稱し給ひ、此著本(ちよほん)を江戶御殿にて披露あり、紀州公・尾州公皆々感心に及ばれしとなり。然るに保科肥後守殿一人は御心に叶はず、不興して申されけるは、

「各々此書を御信仰と見えて候。左候はゞ某(それがし)に於ては只今迄公方樣を御後見申し上げ、天下の成敗を取行ひ候へ共、今日より御斷り申し上げ、逼塞仕るべきにて候。其故は、我ら今日迄御政務を執扱ひしは、全く宋儒の學を信じ、朱子の全書を以て執行(とりおこな)ひ來(き)申候。然る所此筋足らざる趣に依つては、明日(みやうにち)より退(しりぞ)き可申候(まうすべきさふらふ)」

と御斷(おことわり)に付、各(おのおの)大(おほき)に御驚き、色々と云直しありて、終に山鹿甚五右衞門に咎(とが)を歸(き)して、頓(やが)て罪科に極まりしなり。天下諸家中、皆々師範と賴む人なりし程に、事皆輕く取りて、先づ當分播州赤穗城主淺野内匠頭へ御預けにて年經しなり。是等の事(こと)「中外傳」附錄「南島變」等に記す。

[やぶちゃん注:「水戶黃門」大の廃仏家にして強力な儒教崇拝者として知られる常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)。寛文六(一六六六)年当時は三十九で、藩主となって五年目。

「紀州公」これは徳川家康十男で紀州徳川家の祖にして、当時、和歌山藩藩主であった徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)である。彼が嫡男光貞(吉宗の父)に跡を譲って隠居するのは寛文七年である。

「尾州公」尾張藩第二代藩主徳川光友(寛永二(一六二五)年~元禄一三(一七〇〇)年)。当時の名は光義。

「保科肥後守」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠四男で三代将軍徳川家光の異母弟にして、当時は陸奥国会津藩藩主であった保科政之(慶長一六 (一六一一)年~寛文一二 (一六七二)年)。信濃高遠藩主保科正光の継嗣。当時の第四代将軍徳川家綱の補佐として幕政に強く参与した。彼は山崎闇斎の朱子学、吉川惟足の理学神道を信奉していた。

「罪科に極まりしなり」先の若松氏の記載によれば、寛文六(一六六六)年、

   《引用開始》

  921

 朱子学を非難した内容の著書「聖教要録」を、密かに著す。

 幕府が正学としていた朱子学を非難することは、幕府への反抗であり、死罪もありうる行為であった。

 幼い将軍/家綱の後見者として武断政治から文治政治への移行を進めていた保科正之公としては、見過ごすことのできない事であった。

 15年前に将軍/家光が死去した3ヶ月後に慶安の変 (由井正雪) が勃発したが、「聖教要録」の発刊の著者が、はるかに超える影響力のある素行だったからである。

 「山鹿子 当は王愷石崇に合し 弁は蘇泰張儀を驚かし 兵器を設け 兵馬を備え 好んで遊説の士 豪英の徒を集め 一挙に乗じて事を起さんとす」

 羅山の門下生でもあり、すでに死去していたとはいえ師を非難することでもあった。

 

 10 3日未明

 北條安房守氏長から、突然、

 「相尋ぬべき御用の儀に付 早々私宅まで参らるべく候 以上」

との手紙を受け取る。

 一瞬にして密かに刊行した「聖教要録」のことだと悟ったという。

 

 10 4

 遺書を懐に入れ出頭すると、播磨国/赤穂藩にて謹慎との命が下った。

 

 10 9

 江戸/浅野藩邸を出発し、播州赤穂へ護送される。

 家族は、17日に出立し、114日に赤穂へ着く。

 

 1024

 赤穂の刈屋城に到着。

 6年ぶりの、赤穂入りであった。

 45歳から54歳までの10年間ほどを過ごすこととなる。

 待遇は幽閉とは名許りで、衣料、食事、住まいまで不自由なく厚遇された。

 家老/大石頼母助良重 (良雄の祖父) からは、毎日朝夕の2回、欠かすことなく野菜を送り届け続けたという。辞退すると、藩主/内匠頭の命だと答えている。

 素行は、因山と号した。

 朝寝などすることもなく、無作法な態度もとらず、1室にて謹慎していた。

 国家老/大石良雄をはじめ赤穂藩士たちも、素行宅を訪れては諸学、特に軍学を学び、後の討ち入りへとつながる。

 皮肉にも討ち入り後、山鹿流が「実戦的な軍学」としい大いに評価される。

   《引用終了》

とある。

「播州赤穗城主淺野内匠頭」言わずもがな、播磨赤穂藩第三代藩主官浅野長矩(寛文七(一六六七)年~元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日))のこと。

『「中外傳」』「慶長中外傳」。本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。自作の宣伝。既出既注。]

 

 其後十年ありて御免にて召返され、江戶に於て家を求め遣はされしとなり。此家を探るに、古き筆にて書きたる額を見出し、其文字を其儘「積德堂(しゃくとくだう)」と云ふ。世人甚だ用ひ、天下に大(おほき)に行はれて、浪人ながら十萬石の大名格なりしこと、諸人の見る所なり。山鹿甚五右衞門歸り來(きたり)て、「聖敎要錄」を取り引さき捨て、一生の間再び儒學を手に取らず。武學に篤實を守ることのみ敎へられしとなり。

 其子山鹿藤助高基、業(げふ)を繼ぎて其名高く、馬場を持ち馬をも常に五疋を飼ひ、家内に内弟子として仕ふる者二百八十四人となり。されば荻生總右衞門なる徂徠先生も、此山鹿藤助高基が弟子なり。此家にして「要錄」・「語類」等を見て、學問發明ありしと云ふ。

 かゝ筋目(すぢめ)の家に仕へし田中源五右衞門の事なれば、此度(このたび)の江戶表に盛名を響かし、主人の名をも揚(あげ)んと思はれしに、國君大主公度々(たびたび)馬場に召され、馬藝をも御上覽ありといへども、更に御目に留(とま)らず。彼(かの)河原毛の馬も徒(いたづ)らに朽ち、何の一つの御詞(おことば)のかゝることもなく、徒らに江戶表を人並に立歸ることに至りぬ。加州金澤に戾り來(きたり)て、主人御意も常に變らずといへども、心に懸ることは、只河原毛の空しく厩(むまや)に引かれて、折節は心に障(さは)るの端(はし)となり、心怏々(あうあう)として暮されし内、不慮に失念の事起りて、田中源五右衞門閉門申付けられしとなり。是等も彼馬の故にやあらん。

[やぶちゃん注:「國君大主公」前話「長氏の東武」 は安永三(一七七四)年十二月以降の出来事であることが確定しているから、加賀藩第十代藩主前田治脩(はるなが)を指す。

「怏々」(現代仮名遣「おうおう」)心が満ち足りないさま。晴れ晴れしないさま。

「不慮に失念の事起りて」思いもしなかった、うっかりした落ち度の顛末があって。

「閉門」武士や僧侶に科せられた処罰の一種。「公事方御定書」によれば、「門を閉し、窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが、同条但書及びこれより刑の軽い逼塞・遠慮の規定と引き比べてみると、出入りはやはり昼夜ともに禁止されていたことが判る。但し、病気の際、夜間に医師を呼び入れたり、火事の時、屋敷内の防火に当たったりすることは勿論、焼失の危険ありと判断されれば、退去して、その旨を届け出ればよいとされていたという(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2020/05/25

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 炎の宮

 

   炎 の 宮

 

女(をみな)は熱(ねつ)にをかされて、

終焉(いまは)の床に叫ぶらく、──

『我は炎の宮を見き。

宮は、初めは生命の

綠にもゆる若き火の、

たちまちかはる生火渦(いくはうづ)、

赤龍(せきりゆう)をどる天塔(てんたふ)や。

見ませ今はた漸々(やうやう)に、

ああ我が夫(つま)よ、神々(かうがう)し

御燭(みあかし)に咲く黃の花と

もゆる炎の我が宮を。

やがては融(と)けて白光(びやくくわう)の

雲輪(うんりん)い照る日とならば、

君をつつみて地の上に

天(あめ)の新宮(にひみや)立ちぬべし。』

 

『見ませ、』と云ふに、『何處(いづこ)に、』と

問(と)へば、『此處(こゝ)よ、』と、眞白(ましろ)なる

腕(かひな)に抱く玉の胸。──

胸は、いまはの息深く、

愛の波、また死(し)の波の

寄せてはかへすときめきを

照らすは月の白き影。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。

「い照る」の「い」は前に「い渡る」で注した意味を強めて語調を整える接頭語。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 壁畫

 

   壁  𤲿

 

破壞(はゑ)が住みける堂の中、

讃者(さんじや)群れにしいにしへの

さかえの色を猶とめて

壁𤲿(かべゑ)は壁に虫ばみぬ。

おもひでこそは我胸の

かべゑなるらし。熄(き)えぬ火の

炎のかほり傳へつつ、

沈默(しゞま)に曳(ひ)ける戀の影。

 

古(ふ)りぬと壁𤲿こぼちなば、

たえぬ信(まこと)のいのちしも

何によりてか記(しる)すべき。

虫ばみぬとて思出の

糸をし斷たば、如何にして、

聖(きよ)きをつなぐ天の火の

光に、かたき戀の戶に、

心の城を守るべき。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。

「さかえ」はママ。初出は「榮え」であるから、「さかへ」でなくてはならない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 天火盞

 

   天 火 盞

 

戀は天照(あまて)る日輪(にちりん)の

みづから燒けし蠟淚(ろふるい)や、

こぼれて、地に盲(し)ひし子が

冷(ひえ)にとぢける胸の戶の

夢の隙(すき)より入りしもの。

 

夢は、夢なる野の小草、

草が天(あめ)さす隙間(すきま)より

おちし一點(ひとつ)の火はもえて、

生野(いくの)、生風(いくかぜ)、生幾熖(いくほむら)、

いのちの野火(のび)はひろごりぬ。

 

日光(ひかげ)うけては向日葵(ひぐるま)の

花も黃金の火の小笠(をがさ)。

燬(や)かれて我も、胸もゆる

戀のほむらの天火盞(あまほざら)、

君が魂をぞ燒きにける。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 枯林

 

   枯  林

 

うち重(かさ)む楢(なら)の朽葉(くちば)の

厚衣(あつごろも)、地(つち)は聲なく、

雪さへに樹々(きゞ)の北蔭(きたかげ)

白銀(しろがね)の楯(たて)に掩へる

冬枯の丘の林に、

日をひと日、吹き荒(すさ)みたる

凩(こがらし)のたたかいひ果(は)てて、

肌寒(はだざむ)の背(そびら)に迫る

日落(ひお)ち時、あはき名殘(なごり)の

ほころびの空の光に

明(あか)に透く幹(みき)のあひだを

羽(はね)鳴らし移りとびつつ、

けおさるる冬の沈默(しゞま)を

破るとか、いとせはしげに、

羽强(はづよ)の胸毛赤鳥(むなげあかどり)

山の鳥小さき啄木鳥(きつつき)

木を啄(つゝ)く音を流しぬ。

 

さびしみに胸を捲(ま)かれて、

うなだれて、黃葉(きば)のいく片(ひら)

猶のこる楢(なら)の木下(こした)に

佇めば、人の世は皆

遠のきて、終滅(をはり)に似たる

冬の晚(くれ)、この天地に、

落ちて行く日と、かの音と、

我とのみあるにも似たり。

 

枝を折り、幹を撓(たわ)めて

吹き過ぎし破壞(はゑ)のこがらし

あともなく、いとおごそかに、

八千(やち)とせの歷史(れきし)の如く、

また廣き墓の如くに、

しじまれる楢の林を

わが領(りよう)と、寒さも怖(を)ぢず、

氣負(きお)ひては、音よ坎々(かんかん)、

冬木(ふゆき)立(た)つ幹をつつきて

しばらくも絕間(たえま)あらせず。

いと深く、かつさびれたる

その響き遠くどよみて、

山彥は山彥呼びて、

今はしも、消えにし音と

まだ殘る音の經緯(たてぬき)

織(を)りかはす樂(がく)の夕浪(ゆふなみ)、

かすかなるふるひを帶びて、

さびしみの潮路(うしほぢ)遠く、

林こえ、枯野をこえて、

夕天(ゆふぞら)に、また夕地(ゆふづち)に

くまもなく溢れわたりぬ。

 

われはただ氣も遠々(とほどほ)に、

瘦肩(やせがた)を楢にならべて、

骨の如、動きもえせず、

目を瞑(と)ぢて、額(ぬか)をたるれば、

かの響き、今はた我の

さびしみの底なる胸を

何者か鋭(と)きくちはしに

つつきては、靈(たま)呼びさます

世の外(ほか)の聲とも覺(おぼ)ゆ。

 

ああ我や、詩(うた)のさびし兒(ご)、

若うては心よわくて、

うたがひに、はた悲哀(かなしみ)に

かく此處(こゝ)に立ちもこそすれ。

今聞けよ、小(ちひ)さき鳥に、──

いのちなき滅(めつ)の世界に

ただひとり命(めい)に勇みて、

ひびかすは心のあとよ、

生命(せいめい)の高ききほひよ。

强(つよ)ぶるふ羽のうなりは

勝ちほこる彼(かれ)の凱歌(がいか)か、

はた或は、我をあざける

矜(たかぶ)りの笑ひの聲か。

かく思ひわが頤(おとがひ)は

いや更に胸に埋(うま)りぬ。

細腕(ほそうで)は枯枝なして

ちからなく膝邊(ひざべ)にたれぬ。

しづかにも心の絃(いと)に

祈(いの)りする歌も添ひきぬ。

 

日は既(すで)に山に沈みて

たそがれの薄影(うすかげ)重く、

せはしげに樹々(きゞ)をめぐりし

啄木鳥(くつつき)は、こ度(たび)は近く、

わが凭(よ)れる楢の老樹(おいき)の

幹に來て、今日(けふ)のをはりを

いと高く膸(ずゐ)に刻みぬ。

           (甲辰十一月十四日)

 

[やぶちゃん注:表題は作品の孤高にして凄絶なヴィジョンからは「コリン」と音で読みたくなるが、まあ、「かればやし」であろう。初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『太陽』で「野調」(「のしらべ」か)という総題で本篇と「お蝶」という二篇を載せる。初出の有意な変異を認めない。なお、「お蝶」の方は「あこがれ」には採られていない。お蝶という母を失った少女の物語詩で「枯林」とのセット性は認められない。

「掩へる」は「おほへる」。覆われた。

「羽强(はづよ)の胸毛赤鳥(むなげあかどり)」は「啄木鳥(きつつき)」のこと。この場合、前者の謂いから、本邦のキツツキ目キツツキ科キツツキアカゲラ属アカゲラ亜種アカゲラ Dendrocopos major hondoensis と考えてよかろう。但し、胸の毛ではなく、有意に下方の腹部や尾羽基部の下面(下尾筒)が赤い羽毛で覆われ、♂の成鳥は後頭部も赤い羽毛で覆われ、よく目立ち、和名の由来にもなっている。因みに虹彩も暗赤色を呈する。

「領(りよう)」はママ。歴史的仮名遣は「りやう」が正しい。

「怖(を)ぢず」はママ。歴史的仮名遣はそのまま「おぢず」でよい。

「經緯(たてぬき)」総て。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 江上の曲

 

  江 上 の 曲

 

水緩(ゆる)やかに、白雲(しらくも)の

影をうかべて、野を劃(かぎ)る

川を隔(へだ)てて、西東、

西の館(やかた)ににほひ髮

あでなる姬の歌絕えず、

東の岸の草蔭に

牧(まき)の子ひとり住(すま)ひけり。

 

姬が姿は、弱肩(よわがた)に

波うつ髮の綠(みどり)なる

雲を被(いあづ)きて、白龍(はくりゆう)の

天(あめ)の階(はし)ふむ天津女(あまつめ)が

羽衣ぬげるたたずまひ。

牧の子が笛、それ、野邊の

白き羊がうら若き

瞳をあげて大天(おほあめ)の

圓(まろ)らの夢にあこがるる

おもひ無垢(むく)なる調なりき。

 

されども川の西東、

水の碧(みどり)の胸にして、

月は東に、日は西に

立ちならびたる姿をば

靜かに宿す時あれど、

二人が瞳、ひと日だに

相逢ふ事はなかりけり。

 

ふたりが瞳ひと日だに

あひぬる事はあらざれど、

小窓(をまど)、櫻の花心地(はなごゝち)

春日(はるび)燻(くん)ずる西の岸、

とある日、姬が紫の

とばりかかげて立たす時、

綠(みどり)草野(くさの)の丘(をか)遠く

いとも和(やは)らに、たのしげに

春の心のただよひて、

糸遊(いという)なびく野を西へ、

水面をこえて浮びくる

牧の子が笛聞きしより、

何かも胸に影遠き

むかしの夢の仄(ほの)かにも

おとづれ來(く)らむ思ひにて、

晝はひねもす、日を又日、

姬があでなる俤(おもかげ)は、

廣野(ひろの)みどりのあめつちを

枠(わく)のやうなる浮彫(うきぼり)と、

やかたの窓に立たしけり。

 

また、夕されの露の路、

羊を追ふて牧の子が

草の香深き岸の舍(や)に

かへり來ぬれば、かすかにも

薄光(うすあかり)さす川面(かはおも)に

さまよひわたる歌聲の

美(うるは)し夢に魂ひかれ、

ただ何となくその歌の

主(ぬし)を戀しみ、獨木舟(うつろぶね)、

朽木(くちき)の杭(くひ)に纜(ともづな)を

解(と)きて、夜な/夜な牧の子は

西の岸にと漕(こ)ぎ行きぬ。

 

ああ、ああされど日を又夜、

ふたりが瞳、ひとたびも

相あふ時はあらざらき。

姬が思ひはただ遠き

晝(ひる)の野わたるたえだえの

笛のしらべの心にて、

牧の子が戀、それやはた、

帳(とばり)ゆらめく窓洩れて

灯影(ほかげ)とともにゆらぎくる

淸(すゞ)しき歌の心のみ。

 

姬は夢見ぬ、『かの野邊の

しらべぞ、夜半(よは)のわが歌の

天(あめ)よりかへる反響(こだま)なれ。』

また夢見けり、牧の子も、

『かの夜な夜なの歌こそは、

白晝(まひる)わが吹く小角(くだ)の音の

地心(ちしん)に泌(し)みし遺韻(なごり)よ。』と。

 

牧の子は野に、いと細き

希望(のぞみ)の節(ふし)の笛を吹き、

姬はさびしく、紫の

とばりを深み、夜半(よは)の窓、

人なつかしのあこがれの

柔(やは)き歌聲うるませて、

かくて日每に姬が目は

牧野(まきの)にわしり、夜な夜なに

牧の子が漕ぐうつろ舟

西なる岸につながれて、

櫻花散る行春(ゆくはる)や、

行きて、いのちの狂ひ火の

狂ふ熖(ほむら)の深綠(ふかみどり)、

ただ燃えさかる夏の風

野こえてここにみまひけり。

 

ああ夏なれば、日ざかりの

光にきほふ野の羊、

草踏み亂し、埒(らち)を超(こ)え、

泉の緣(ふち)のたはぶれに

鞭(むち)ををそれぬこをどりや、

西の岸にも、葉櫻に、

南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)、

來て啼く歌は、かがやかの

生(い)ける幻誘ふ如、

ふる里(さと)とほき南(みんなみ)の

燃(も)えにぞ燃ゆる戀の曲(きよく)、

照る羽つくろひ、瞳(め)をあげて、

のみど高らに傳(つた)ふれど、

さびしや、二人、日を又夜、

相見る時はあらざりき。

胸に渦卷くいのちの火

その熖(ほむら)にぞ燬(や)かれつつ、

ああ燬(や)かれつつ、かくて猶、

捉(とら)へがたなき夢追ふて、

水ゆるやかの大川の

(隔(へだ)てよ、さあれ浮橋(うきはし)の)

西と東に、はかなくも

影に似る戀つながれぬ。

 

夏また行きぬ。かくて猶、

ああ夢遠きあこがれや、

はかなき戀はつながれぬ。

牧野(まきの)の草に、『秋』はまづ

野菊と咲きて、小桔梗(をぎきやう)に、

水引草(みづひきさう)にいろいろの

露染衣(つゆぞめごろも)、虫の音も、

高吹(たかふ)く風も追々(おひおひ)に、

ひと葉ひと葉と水に散る

岸の櫻の紅葉(もみぢ)さへ、

夢追ふ胸になつかしく

また堪へがたき淋しさを

この天地にさそひ來ぬ。

 

ひと夜、月いと明(あか)くして、

咽(むせ)ぶに似たる漣(さゞなみ)の

岸の調(しらべ)も何となく、

底ひ知られぬ水底(みなぞこ)の

秘めたる戀の音にいづる

おとなひの如聞かれつつ、

まろらの月のおもて、また

わが心をばうつすとも

見えて、ああその戀心(こひごゝろ)

いと堪へがたき宵なりき。

牧の子が舟ゆるやかに

東の岸をこぎ出でぬ。

 

高窓洩れて、夢深き

月にただよふ姬が歌、

今宵ことさら澄み入りて、

ああ大川も今しばし

流れをとどめ、天地の

よろづの魂もその聲の

波にし融(と)けて浮き沈み、

ただ天心(てんしん)の月のみか

光をまして、その歌の

切(せち)なる訴(うた)へ聽くが如、

この世の外の白鳥の

かがなき高き律(しら)べもて、

水面(みのも)しづかにいわたれば、

しのびかねてや、牧の子は

櫂(かひ)なげすてて、中流(ちうりう)の

水にまかする獨木舟(うつろぶね)、

舟をも身をも忘れ果て、

息もたえよと一管(ひとくだ)の

笛に心を吹きこみぬ。

 

たちまち姬が歌やみて、

窓はひらけぬ。 月影に

今こそ見ゆれ、玲瓏(れいろう)の

光に浮ぶ姬が面(おも)。

小手(こて)をばあげて招(まね)げども、

櫂なき舟はとどまらず。

舟も流れて、人も流れて、

笛のしらべも遠のくに、

呼ぶ名知らねば、姬はただ

慣(な)れにし歌をうたひつつ、

背(せ)をのびあがり、のびあがり、

あなやと思ふまたたきに、

袖ひらめきて、窓の中

姿は消えぬ。 川のおも

月は百千(もゝち)にくだかれぬ。

 

かくてこの夜の月かげに

姬がみ魂も、笛の音も

はてなき天(あめ)にとけて去り、

かなしき戀の夢のあと

獨木(うつろ)の舟ともろともに、

人知りがたき海原の

秘密の底に流れけり。

           (甲辰九月十七日夜)

 

[やぶちゃん注:実はこの詩篇以降は前の「秋風高歌」の最後の二篇の全体字下げ位置のままで本文詩篇が組まれてしまっている(本篇の開始ページを底本の早稲田大学図書館古典総合データベースの画像で示す。この前のページと比較されたい。なんなら、全体(HTML見開き各個版ならこちらで、PDF一括ならこちら)を見て戴いてもよい)。どうもこれは、「秋風高歌」の最後の二篇の字下げを、本詩篇から引き上げるのを忘れた校正係がそのままやらかした誤りとしか思われない。されば、本篇以降は特に字下げを行わない。

 句点の後の字空けは見た目を再現した。

 さて、二ヶ所に現われる「櫂」(最初の方の「かひ」の読みはママ。歴史的仮名遣は「かい」でよいが、これはママとした)であるが、実は底本では「擢」となっている。しかし「擢」(音「タク」・「ジョク(ヂヨク)」・「テキ」(慣用音))は訓「ぬく」・「ぬきんでる」で、「抜擢」に見る「抜く」・「抜きん出る」・「より抜いて選び出す」・「取り去る」・「伸びる」・「長い」の意味しかなく、「櫂」(音「トウ(タウ)」・「ジョウ(デウ)」とは全く違う漢字で音も異なり、舟を漕ぐ「かい」(櫂・橈)の意味や代用慣用もない。筑摩版全集は二ヶ所ともそのまま「擢」としている。初めに「擢(かひ)」と読みが振ってあっても私ははっきり躓いた。しかし、初出((『明星』明治三七(一九〇四)年十月号。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。初出では全体が「一」から「四」のゴシック太字表記の整然とした四章構成となっている)でもこの誤った「擢」が二ヶ所とも使用されていることが判るのである(そちらでは二ヶ所とも正しい仮名遣で「かい」とある)ここここである。ところが、筑摩版全集の「雑誌に発表された詩」の「江上の曲」では二ヶ所とも「櫂」に消毒されてあるのである。してみれば、私は筑摩版「あこがれ」には従えない。特異的に二ヶ所ともに漢字を「擢」から「櫂」に訂したことをお断りしておく。

表題「江上の曲」は私は「かうしやうのきよく(こうしょうのきょく)」と読む。

「糸遊」陽炎(かげろう)。

「小角(くだ)」管(くだ)の形をした小さな笛。本来は古く中国で戦場で吹いたとされる動物の角で出来たホルン型のものを指すが、本邦ではまず見られないから、啄木のそれは牧羊神パンの吹くようなそれをイメージしてよかろう。

第八連八行目「牧野(まきの)にわしり」の「わしり」は「走り」に同じ。素早く牧野に向かって目を走らせ、の意。

同連の「をそれぬ」はママ。

「南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)」啄木が如何なる鳥をイメージしているかは確定出来ぬが、一般的には「風鳥(ふうちょう)」、スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae のフウチョウ類をイメージするであろう。所謂、「極楽鳥」である。ゴクラクチョウは正式和名ではないので注意されたい。

「のみど」は「飲み門()」「のみと」「のみど」で漢字表記「喉」「咽」で「咽喉(のど)」のこと。

「水引草(みづひきさう)」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae亜連イヌタデ属ミズヒキ Persicaria filiformis

「いわたれば」「い渡れば」。響き渡ってゆくので。「い渡る」は万葉以来の古語で「い」は意味を強めて語調を整える接頭語。

「玲瓏(れいろう)」対象が美しく光り輝くこと。

「招(まね)げども」初出(前掲)は「招けども」となっている。ここ。しかし私は古文の中で「まねぐ」という濁音表記を見た記憶があるのでママとした。筑摩版も濁音のままである。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 秋風高歌⦅雜詩十章甲辰初秋作⦆ / 附 初出形

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 寂寥

 

秋 風 高 歌 ⦅雜詩十章甲辰初秋作⦆

 

   黃 金 向 日 葵

 

我(わ)が戀は黃金向日葵(こがねひぐるま)、

曙いだす鐘にさめ、

夕の風に眠るまで、

日を趁(お)ひ光あこがれ、まろらかに

眩(まば)ゆくめぐる豐熱(ほうねつ)の

彩(あや)どり饒(おほ)きこがねの花なれや。

 

これ夢ならば、とこしへの

さめたる夢よ、こがねひぐるま。

これ影ならば、あたたかき

瑞雲(みづぐも)まとふ照日(てるひ)の生(い)ける影。

 

圓(まろ)らかなれば、天蓋(てんがい)の

遮(さへぎ)りもなき光の宮の如。

まばゆければぞ、王者(わうじや)にすなる如、

百花(もゝはな)、見よや芝生(しばふ)にぬかづくよ。

 

今はた、似たり、かなたの日輪(にちりん)も、

わが戀の日にあこがれて

ひねもすめぐるみ空の向日葵(ひぐるま)に。

             (八月二十二日)

 

   我 が 世 界

 

世界の眠り、我ただひとり覺(さ)め、

立つや、草這(は)ふ夜暗(やあん)の丘(をか)の上。

息をひそめて橫たふ大地(おほつち)は

わが命(めい)に行く車(くるま)にて、

星鏤(ちりば)めし夜天(やてん)の浩蕩(かうたう)は

わが被(かづ)きたる笠の如。

 

ああこの世界、或は朝風の

光とともに、再びもとの如、

我が司配(つかさどり)はなるる時あらむ。

されども人よ知れかし、我が胸の

思の世界、それこの世界なる

すべてを超ゑし不動(ふどう)の國なれば、

我悲しまず、また失(うしな)はず、

よしこの世界、再びもとの如、

蠢(うごめ)く人の世界となるとても。

             (八月二十二日)

 

   黃 の 小 花

 

夕暮野路(のぢ)を辿りて、黃に咲ける

小花(をばな)を摘(つ)めば、淚はせきあへず。

 

ああ、ああこの身この花、小(ちい)さくも

いのちあり、また仰(あふ)ぐに光あり。

この野に咲ける、この世に捨(す)てられし、

運命(さだめ)よ、いづれ、大慈悲(おほじひ)の

かくれて見えぬ惠みの業(わざあ)ならぬ。

 

よし我、黃なる花の如、

霜にたをるる時あるも、

再び、もらす事なき天(あめ)の手(て)に

還(かへ)るをうべき幸もてり。

 

ああこの花の心を解(と)くあらば

我が心また解(と)きうべし。

心の花しひらきなば、

またひらくべし、見えざる園の門(かど)。

             (八月二十二日)

 

   君 が 花

 

君くれなゐの花薔薇(はなさうび)、

白絹(しらぎぬ)かけてつつめども、

色はほのかに透(す)きにけり

いかにやせむとまどひつつ、

墨染衣袖かへし

掩(おほ)へども掩へどもいや高く

花の香りは溢れけり。

 

ああ秘めがたき色なれば、

頰(ほゝ)にいのちの血ぞ熱(ほて)り、

つつみかねたる香りゆゑ

瞳(ひとみ)に星の香(か)も浮きて、

佯(いつ)はりがたき戀心(こひごゝろ)、

熄(き)えぬ火盞(ほざら)の火の息に

君が花をば染めにけれ。

              (九月五日夜)

 

   波は消えつつ

 

波は消えつつ、碎けつつ

底なき海の底より湧き出でて、

朝より眞晝(まひる)、晝(ひる)より夜に朝に

不斷(ふだん)の叫びあげつつ、帶(をび)の如、

この島根(しまね)をば纒(まと)ふなり。

 

ああ詩人(うたびと)の興來(きようらい)の

波も、消えつつ、碎けつつ。

はかり知られぬ『秘密』の胸戶(むなど)より、

劫風(ごふふう)ともに千古の調にして、

不滅の敎宣(の)りつつ、勇ましく

人の心の岸には寄するかな。

             (九月十二日夜)

 

   

 

ああ君こそは、靑淵(あをぶち)の

流轉(るてん)の波に影浮けて

しなやかに立つ柳(やなぎ)なれ。

 

流轉(るてん)よ、さなり流轉よ、それ遂に

夢ならず、また影ならず、

照る世の生日(いくひ)進み行く

生命(いのち)の流れなればか、春の風

燻(くん)じて波も香にをどり、

ひと雨每(あめごと)に梳(くしけ)づる

愛の小櫛(をざし)の色にして、

見よ今、枝の新裝(にひよそひ)、

靑淵波もたのしげに

世は皆戀の深綠(ふかみどり)。

              (九月十四日)

 

   愛 の 路

 

高きに登り、眺むれば、

乾坤(けんこん)愛の路通ふ

靑海原のはてにして、

安らかに行く白帆影。──

  波は休まず、撓(たゆ)まずに

  相嚙(か)みくだけ、動けども、

  安らかに行く白帆影。

 

路のせまきに、せはしげに

蠢(うご)めく人よ、來て見よや、──

   花を虐(しひた)げ、景(けい)を埋(う)め、

   直(すぐ)なるみちをつくるとて、

   狹き小暗さ愁嘆(しうたん)の

   牢獄(ひとや)に落ちし子よ、見よや、──

大海みちはなくして、縱橫(じうわう)の

みちこそ開け、愛の路。

              (九月十四日)

 

   落 ち し 木 の 實

 

秋の日はやく母屋(おもや)の屋根に入り、

ものさびれたる夕をただひとり

紙障(しさう)をあけて、庭面(にはも)にむかふ時、

庭は風なく、落葉の音もたえて、

いと靜けきに、林檎(りんご)の紅(あけ)の實(み)は

かすかに落ちぬ、波なき水潦(みづたまり)。

 

夕のあはき光は箒目(はゝきめ)の

ただしき地(つち)に隈(くま)なくさまよひて、

猶暮れのこるみ空の心のみ

一きは明(あか)くうつせる水潦(みづたまり)、

今色紅(あけ)の木の實の落ち來しに

にはかに波の小渦(さゝうづ)立てたれど、

やがてはもとの安息(やすらぎ)うかべつつ、

再び空の心を宿しては、

その遠蒼(とをあを)き光に一粒(いちりふ)の

りんごのあたり緣(ふち)どりぬ。

 

ああこの小さき木の實よ、八百千歲(やはちとせ)、

かくこそ汝(なれ)や靜かに落ちにけむ。

またもも年(とせ)の昔に、西人(にしびと)が

想ひに耽る庭にとおとなひて、

尊とき神の力(ちから)の一鎖(ひとくさり)、

かくこそ落ちて、彼(かれ)には語りけめ。

 

我今人のこの世のはかなさに

つらさに泣きて、運命(さだめ)の遠き路、

いづこへ、若(わか)きかよはきこのむくろ

運(はこ)ばむものと秘(ひそ)かに惑(まど)へりき。

落ちぬる汝(なれ)を眺めて、我はまた、

辛(つら)からず、はたはかなき影ならぬ

たふとき神の力の世をば知る。

 

汝(なれ)何故にかくまで靜けきぞ、──

人はみづから運命(さだめ)に足(た)りかねて、

さびしき廣みはてなき暗の野の

躓(つまづ)き、にがき悲哀(ひあい)の實を喰(は)むに、

何故汝のかくまで安けきぞ、──

足(た)るある如く、落ちては動かずに

心に何か深くも信賴(たよ)る如。

 

夜の步みは漸く迫(せま)り來て、

羽弱(はよは)か、群(むれ)に後れし夕鴉(ゆふがらす)

寂(さび)ある聲に友呼ぶ高啼(たかな)きや、

水面(みのも)にうきしみ空の明(あか)るみも

消えては、せまきわが庭黝(くろず)みぬ。

ああこの暗の吐息のたゞ中(なか)よ、

灯(ひ)ともす事も、我をも忘(ぼう)じては、

よみがへりくる心の光もて

か黑き土(つち)のさまなる木の實をば

打眺めつつ、靜かに跼(ひざま)づく。

             (九月十九日夜)

 

     秘  密

 

  花蠟(はなろふ)もゆる御簾(みす)の影、

  琴柱(ことぢ)をおいて少女子(をとめご)の

  小指(をゆび)やはらにしなやかに

  絃(いと)より絃に轉(てん)ずれば、

  さばしり出る幻の

  人醉(ひとよ)はしめの樂(がく)の宮、

  ああこの宮を秘(ひ)め置きて

  とこあらたなる琴の胸、

  秘密ならずと誰か云ふ。

 

  八千年(やちとせ)人の手(て)に染(そ)まぬ

  神の世界の大胸に

  深くするどくおごそかに

  我が目うつれば、ちよろづの

  詩(うた)は珠(たま)なし淸水(しみづ)なし、

  光の川と溢れくる。

  ああこの水の美しく、

  休(やす)む事なく湧き出(づ)るを

  秘密なりとは誰か知る。

             (九月十九日夜)

 

    あ ゆ み

 

  始めなく、また終りなき

  時を刻むと、柱なる

  時計の針はひびき行け。

  せまく、短かく、過ぎやすき

  いのち刻むと、わが足(あし)は

  ひねもす路を步むかも。

             (九月十九日夜)

               『秋風高歌』畢

 

[やぶちゃん注:最後の二篇が有意な字下げになっているのはママ。早稲田大学図書館古典総合データベースの画像で示すと「秘密」がここ、次の「あゆみ」がここ初出は明治三七(一九〇四)年『時代思潮』十月号と十一月号に分割されて掲載された。後掲する。

「黃金向日葵」の「趁(お)ひ」は「追ひ」に同じい。

「我が世界」の「浩蕩(かうたう)」(現代仮名遣「こうとう」)は広広として大きなさま。

「君が花」の「火盞(ほざら)」は「火皿 (ほざら)」に同じい。

「柳」の「影浮けて」はママ。確信犯であろう。「影を受けて」いるのだが、それは波に「浮」きてあると掛けるものと採る。

「落ちし木の實」の「紙障(しさう)」は「障子」のこと。本来ならば歴史的仮名遣は「しやうじ」であるが、これは誤りではなく、嘗て、拗音に発音された或いはされたと思われる漢字音を直音の仮名で表記する直音表記(「しゃ(者)」・「しゅ(主)」・「しょ(所)」をそれぞれ「さ」「す」「そ」と書く類い。中古・中世の文献に見られ、高校古文にも幾らも出現する)である。

同詩篇の「心に何か深くも信賴(たよ)る如。」の「信賴(たよ)る」は二字へのルビ。

 さても初出であるが、初出は「秋風高歌」という表題のみで、本「あこがれ」のようなパート表題は存在しない。その代わりに、パートごとに「○」が挿入されてある。なお、掲載分割の切れ目は十一月号が「愛の路」以下の二篇分であるものの、そこでは三篇分の「○」によるパート分割が行われてある。この詩篇は推敲甚だしく、一部で内容も順列も激しく異なるため、以下に筑摩版石川啄木全集の「第二巻 詩集」(昭和五四(一九七九)年刊)初出(漢字新字)を参考に、恣意的に漢字を概ね正字化して示す。雑誌分割部は続ける。その際、存在しない「○」を補った。但し、読みはそこにあるもののうち、必要と私が判断したもののみに附した。

   *

 

  秋風高歌

 

    ○

 

我戀は、こがねひぐるま、

曙いだす鐘にさめ、

夕の凧に眠るまで、

日を趁(お)ひ、ひかり憧(あく)がれ、圓(まろ)らかに

眩ゆくめぐる豐熱の

彩どり饒(おほ)き白晝(まひる)の花なれや。

 

これ夢ならば、とこしへの

覺めたる夢よ、こがね日車。

これ影ならば、うつろはぬ

瑞雲(みづくも)纏ふ照日(てるひ)の生ける影。

 

まろらかなれば、天蓋の

遮りもなき光の宮の如、

眩ゆければぞ、「物(もの)」は皆、

首(かうべ)をたれて、歌ふは愛の曲。

 

似たり、かなたの日輪も、

我が戀の日にあくがれて、

ひねもすめぐるみ空の日車花(ひぐるま)に。

 

    ○

 

世界の眠(ねむり)、我たゞひとり覺(さ)め、

立つや草這ふ夜暗(やあん)の丘の上。

息をひそめて橫たふ大地(おほつち)は

我が命(めい)に行く車にて、

星鏤(ちりば)めし夜天(やてん)の浩蕩(かうたう)は

我が被(かづ)きたる笠の如。

 

ああこの世界、或は朝風の

光と共に、再びもとの如、

わが司配(つかさどり)はなるる時あらむ。

 

されども人よ知れかし、わが胸の、

神祕の世界、それ、この世界なる

渾(すべ)てを超えし不動の國なれば、

我れ悲しまず、また失はず、

たとへ、この世の天と地が、

蠢めく人の世界となるとても。

 

    ○

 

夕ぐれ野路を辿りて、黃に咲ける

小花を摘めば、淚はせきあへず。

ああ我神よ、わが身をつくれるも、

またこの花に整へる

姿と香をば此の埜に飾りしも、

皆爾(な)が高き惠みの業(わざ)なれや。

 

よし我れ、黃なる花の

霜にたをるる時あるも、

それわが魂は再び天(あめ)の手に

還るを得べき幸(さち)もてり。

小さき花の心を解(と)きえなば、

また我心ときうべし。

心の花しひらきなば、

また開らくべし、見えざる園の門(と)も。

 

    ○

 

朝に夕に水をかひ、

また朝每に日の香る

南の椽(えん)にはこび出で、

夕ぐれ每に薰風の

窓のうちにと取り入れて、

育てあげたる鉢の百合

白無垢薰(にほ)ふ花とぞ咲きにけり。

我は思ひぬ、この花の、

我こそ、尊(たか)きまことの親にして、

その香も、色も、けだかき趣きも、

皆わが胸の惠みの泉より

あふれし露ぞ凝りぬる姿よと。

 

されば淸冽の朝風に

ほのかに花の匂ひのただよひて

胸に入る時、我云ひぬ。――

ああ我がいとし寵兒(まなご)よ、汝(なれ)が根は

土にはあらず、胸なる心より

詩歌の如く咲きぬる花なれ、と。

 

ああ、ああされど、ひと日の夕まぐれ、

我ただ一人森路をさまよひて

ひらける綠夏野出でし時、

そこに、圓(まろ)らに走るせせらぎの

鏡にかげを宿して、白百合の

數こそ亂れ咲きけれ、限りなき

自然の胸の匂ひを集めつつ。

 

我は思ひぬ、(家にして

にほへる花をおもひつつ)

ああ此の野邊の白百合、誰か來て

汝に淸水の糧(かて)をばめぐみしや、

はた誰ありて汝をば守りしと。

又思ひけり、かくある我が生(せい)の

眞(まこと)の親は天(あめ)にか、地(つち)にかと。

 

日暮れて暗の息せまる

路をば我はひそかに慰みて

ほほゑみつつぞ家にはかへり來ぬ。

歸りて花の鉢をばかき抱き、

我は祈るよ、ああ世の「すべて」こそ

また「ひとつ」にて、大いなる

愛に生れし我人(われひと)の

行くべき路は、ただその大いなる

愛の光を隈なく地心(ちしん)まで

かがやかしめむ自然の法(のり)のみ、と。

 

   ○

 

高きに登り、眺むれば、

乾坤けんこん)愛の道通ふ

靑海原の涯(はて)にして、

安らかに行く白帆影。――

  波は休まず、撓まずに

  相嚙み碎け動けども、

  安らかに行く白帆かげ。

みちの狹きにせはしげに

うごめく人よ、來て見よや、

  花を虐(しい)たげ、景(けい)を埋め、

  直(すぐ)なるみちを作るとて、

  せまき小暗き愁歎の

  牢獄(ひとや)に落ちし子(こ)よ、見よや、

大海道(みち)はなくして、縱橫の

みちこそ開け、愛の道。

 

    ○

 

始めなく、又終りなき

「時」を刻むと、柱なる

時針の針はひびき行け。

 

せまく、短かく、過ぎ易き

いのち刻むと、我足は

ひねもす地(つち)を步むかも。

 

    ○

 

ひと夜床(とこ)にと立てかけし

琴をとり出(で)て、乙女子の

小指(をゆび)和らに、しなやかに、

絃(いと)より絃に轉ずれば、

さばしりいづる幻(まぼろし)の

樂(がく)の宮居(みやゐ)は立ちにけり。

ああこの音色、新らしく

つきせず出す琴の胸、

祕ならずと誰か云ふ。

八千歲(やちとせ)人の手に染まぬ

神の世界の大胸(おほむね)に

深く、鋭どく、おごそかに

わが目うつれば、ちよろづの

詩(うた)は珠(たま)なし、淸水なし、

光の川と流れけり。

ああこの水の美しく

休む事なく湧き來るを、

祕密なりとは誰か知る。

 

    ○

 

秋の日はやく母屋(おもや)の根屋に入り、

もの寂びれたる夕べを、ただ一人、

障子(しやうじ)をあけて庭面(にはも)に對すれば、

庭は風なく、落葉の音も絕えて

いと靜けきに、林檎の紅き實は

かすかに落ちぬ、波なき水潦(みづたまり)。

夕べの淡き光は、箒目(はゝきめ)の

ただしき地(つち)に隈なくさまよひて、

猶暮れ殘るみ空のみ心のみ、

ひと際(きは)明(あか)くうつせる水潦(みづたまり)、

今、色深き木(こ)の實の落ち來しに、

にはかに波の小渦(さゝうづ)立てたれど、

やがてはもとの安息(やすらぎ)うかべつつ、

再び空の心をやどしては、

その遠蒼(とほあを)き光に、一粒の

林檎のあたり緣どりぬ。

 

ああこの小さき木の實よ、八百千年(やほちとせ)、

汝(なれ)かくこそは靜かに落ちにけむ。

また百年(もゝとせ)の昔に、西人(にしびと)が

想にふける庭にとおとなひて、

たふとき神のちからの一鎖(ひとくさり)、

かくこそ落ちて彼には語りけむ。

 

我今、人のこの世のはかなさに、

辛(つら)さに、泣きて、運命(さだめ)の遠き路、

この幻(まぼろし)のむくろを何處(いづこ)へか

運ばむもの、と私(ひそ)かに惑へりき。

落ちたる汝を眺めて、我はまた、

つらからず、また、はかなき影ならぬ

尊とき神の力の世をば知る。

 

何故汝はかくまで靜けきぞ、

人は自(みづか)ら、さだめに足りかねて、

幻趁(お)ふて、我また幻と

夢にも似たる悲哀を覓(もと)むるに、

何故汝はかくまで安けきぞ、

足るある如く、動かず迷はずに、

心に何か深くも依賴(たよ)る如。

 

夜の步みは漸く迫り來て、

水面に浮きしみ空の明るみも

消えては狹き我庭黝(くろず)みぬ。

ああこの暗の吐息のただ中に、

灯(ひ)ともす事も、我をも忘(ぼう)じては、

よみがへりくる心の光もて、

黯(かぐ)ろき塊(つち)のさまなる木の實をば

打(うち)みつめつつ、靜かに跼(ひざま)づく。

 

   *

「根屋」はママ。「あこがれ」では「屋根」であるから、ほぼ誤植であると断定してよいと思われるが、意味が採れないわけではないのでそのままとした。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 寂寥

 

   寂  寥

 

片破月(かたわれづき)の淋しき黃の光

破窓(やれまど)洩(も)れて、老尼(らうに)の袈裟(けさ)の如、

靜かに細うふるひて、讀みさしの

書(ふみ)の上(へ)、さては默座(もくざ)の膝に落ちぬ。

草舍(くさや)の軒(のき)をめぐるは千萬(ちよろづ)の

なげきの絲(いと)のたてぬき織(を)り交(ま)ぜて

しらべぞ繁(しげ)き叢間(くさま)の蟲(むし)の歌。

夜の鐘遠く、灯(ともし)も消えがてに、

  ああ美しき名よ、寂寥!

天地(あめつち)眠り沈みて、今こそは

汝(な)がいと深き吐息(といき)と脈搏(みやくはく)の、

ひとりしさめて物思(ものも)ふわが胸と

すべての根(ね)ざす地心(ちしん)にひびく時。

 

壁には淡き我が影。堆(うづ)たかく

亂れて膝をかこめる黃卷(くわうくわん)は

さながら遠き谷間の虛洞(うつろ)より

脫(ぬ)け出で來ぬる『祕密』の精(せい)の如。──

かかる夜幾夜、見えざる界(さかひ)より、

  美しき名よ、寂寥!

汝(われ)この窓を音なく、月影の

鈍色被衣(にびいろかづき)纒(まと)ひてすべり入り、

なつかし妻の如くも親しげに

ほほゑみ見せて側(かた)へに座(すわ)りけむ。

 

見よ、汝(な)が吐息靜かに吹く所、

人の心の曇(くも)りは拭はれて、

あたりの『物』の動きに、動かざる

まことの『我』の姿の明らかに

宿るを眺め、汝(な)が脈搏(みやくう)つ所、

すべての音は潜みて、ただ洪(ひろ)き

心の海に漂ふ大波の

寄せては寄する響のきこゆなる。

  美しき名よ、寂寥!

ああ汝(なれ)こそは、鋭(するど)き斧(をの)をもて

この人生(じんせい)の假面(かめん)を剝(は)ぎ去ると

命(めい)負(お)ひ來つる有情(うじやう)の使者(つかひて)か。

 

汝(な)がおとづれは必ず和(やは)らかに、

またいと早く、恰も風の如。

二人(ふたり)のあるや、汝(な)が眼(め)は一すじに

貫ぬくとてか、胸にとそそぎ來て、

その微笑(ほゝゑみ)もまことに莊嚴(おごそか)に、

たとへば百(もゝ)の白刄(しらは)の剱(つるぎ)もて

守れる暗の沈默(しゞま)の森の如、

聲なき言葉四壁にみちみちて、

おのづと下(くだ)る頭(かうべ)はまた起(お)きず。

  美しき名よ、寂寥!

かくて再び我をば去らむとき、

淚は涸(か)れて、袂(たもと)はうるほへど、

あらたに胸にもえ立つ生命の

石炭(うに)こそ汝が遺(のこ)せる紀念(かたみ)なれ。

 

  美しき名よ、寂寥!

甞ては我も多くの世の人が

厭(いと)へる如く、汝(なれ)をばいとへりき。

そはただ春の陽炎もゆる野に

とび行く蝶の浮きたる心には、

汝(な)が手のあまり霜には似たればぞ。

さはあれ、汝(なれ)やまことに涯もなき

大海にして、不斷の動搖に、

眞面目(まじめ)と、常に高きに進み行く

心の奧の鍵(かぎ)をぞ秘めたれば、

遂には深き崇高(けだか)き生命の

勇士の胸の門(かど)をばひらくなり。

 

  美しき名よ、寂寥!

たとへば汝は秘密の古鏡(ふるかゞみ)。

人若し姿投(とう)ぜば、いろいろの

假裝(よそひ)はすべて、濡(ぬ)れたる草の葉の

日に乾(かは)く如、忽ち消えうせて、

おもてに浮ぶまろらの影二(ふた)つ、──

それ、かざりなき赤裸(せきら)の『我』と、また

『我』をしめぐる自然の偉(おほ)いなる

不朽の力(ちから)、生火(いくひ)の燃ゆる門。

げに寂寥(さびしみ)にむかひて語る時、

人皆すべて眞(まこと)の『我』が言葉、

『我』が聲をもて眞(まこと)を語るなる。

 

  美しき名よ、寂寥!

汝また長き端(はし)なき鎖(くさり)にて、

とこしへ我を繫(つな)ぎて奴隷(しもべ)とす。

家をば出でて自然に對す時、

うづ卷く潮(しほ)の底より、天(あま)そそる

秀蜂(ほつみね)高き際(きは)より、さてはまた、

黃に咲く野邊の小花(をばな)の葉蔭より

雀躍(こをど)り出でて、胸をば十重二十重(とへはたへ)

犇(ひし)と捲きつつ、尊とき天(あめ)の名の

現示(あらはれ)の前(まへ)、頭(かうべ)を下げしむる

それその力(ちから)、ああまた汝にあり。

 

  美しき名よ、寂寥!

戀する者の胸より若しも汝が

おとづれ絕たば、言語(ことば)も闡(ひら)きえぬ

心の奧の叫びを語るべき

慰安(いあん)の友の滅びて、彼遂に

たへぬ惱みに物にか狂ふべし。

またかの善(よき)と眞(まこと)を慕(した)ふ子に、

若し汝行きて、みづから自らに

敎ふる時を與ふる勿(なか)りせば、

遂には彼の心も枯るるらむ。

 

  美しき名よ、寂寥!

寂寥(さびしみ)人を殺すと誰か云ふ。

靈なきむくろ、花なき醜草(しこくさ)は

汝がおごそかの吐息に、げに或は

死にもやすべし。朽木(くちき)に花咲かず。

ああ寂寥よ、汝が脈搏つところ、──

我と我との交はる所にて、

うちめぐらせる靈氣の 八重垣(やへがき)に

詩歌(しいか)の花の戀しきみ園あり。

そこに我が魂しづかにさまよふや、

おのづと起る唸(うめ)きの聲は皆、

歷史と堂と制規(さだめ)を脫(ぬ)け出でて、

親(した)しく自然を司(つかさど)どる

慈光(じくわう)の神に捧ぐる深祈禱(ふかいのり)。

あふるる淚、それまた世の常の

淚にあらず、まことの生命の

源ふかく歸依(きえ)する瑞(みづ)の露。

 

  美しき名や、寂寥!

汝こそげにも心の在家(ありか)にて、

見えぬ奇(くし)かる界(さかひ)に門(かど)ひらき、

またこの生けるままなる世の態(さま)に

却(かへ)りて大(おほ)き靈怪(くしび)の隱(かく)れ花(ばな)

かしこに、ここに、各自(かたみ)の胸にさへ

咲けるを示し、無言の敎垂れ、

想ひをひきて自在の路告(つ)ぐる

豐麗無垢の尊とき靈の友(とも)。

ああこの世界ひとりの『人』ありて、

若し我が如く、美し寂寥の

腕(うで)に抱かれ、處(ところ)と時を超(こ)え、

あこがれ泣くを樂しと知るあらば、

我この月の光に融け行きて、

彼にか問(と)はむ、『榮華(えいぐわ)と黃金(わうごん)の

まばゆき土(つち)の値(あたひ)や幾何(いくばく)』と。 (甲辰八月十八日夜)

 

[やぶちゃん注:今回より労多くして需要無き読みの一部の除去版(実際、当て訓多く、振れのある訓もあって半分も除去出来ないケースがあるからである)は示さないことにした。本篇初出は『明星』明治三七(一九〇四)年九月号。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る(視認して比べられる限りは、ここでは、以下、大きな異同があっても電子化はしない)。

「黃卷(くわうくわん)」(こうかん)は書物・本の異名。古く中国では紙に虫がつくのを防ぐために黄蘗 (おうばく) の葉で紙を黄色に染めたことに拠る。

第四連三行目「二人のあるや、汝(な)が眼は一すじに」の「すじ」はママ。

「石炭(うに)」伊賀の山中で採れた泥炭の方言。恐らくは「烏丹(うに)」か。

第六連六行目「おもてに浮ぶまろらの影二つ、──」の「まろらの」は「まろらかなる」「円形の」。

「生火(いくひ)」この場合は文字通りそれ自体が生きている火である。

第八連後ろから三行目「若し汝行きて、みづから自らに」の「自らに」は同じく「みづからに」と読ませている。なお、初出形ではここが、「若し汝(なれ)行きて、みづから自(みづか)らを」と助詞が異なる。

「靈怪(くしび)」動詞「くしぶ」(靈ぶ・奇ぶ)の連用形の名詞化。霊妙なこと・不思議なこと。]

2020/05/24

三州奇談續編卷之三 長氏の東武

 

    長氏の東武

 行(かう)を能浦(のううら)に發して、眼を波路(なみぢ)の萬濤(ばんたう)に極(きは)む。又何となく頭(かうべ)を舊里金城に廻(めぐ)らす所に、忽ち一箇の旅人あり、我を突過(つきす)ぎて足を早うする者あり。『いかにや』とさし覗き見たるに、兼て知己の友なり。頓(やが)て呼留めて其急ぐ謂(いは)れを聞くに、其人息喘(あへ)ぎ胸踊るを、頓て手を取り引きて、卯の氣川(うのけがは)の流(ながれ)に到りて水を喫(きつ)して暫く憩ふ。

[やぶちゃん注:「長氏」(ちやうし)は「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」の私の「長(ちやう)某公」の注の引用を参照されたいが、中世より長氏は能登の有力な国人領主であった。表題は「長氏の江戸参府」の意。

「能浦」能登の浦辺(ここでは能登半島の南西の根(南)の海浜となる)という一般名詞。前話「七窪の禪狐」からの続きの形をとるので、前回のロケーションに近い条件で探すと、「卯の氣川」が現在の宇ノ気川(うのけがわ)で、丁度、南の七窪と北の高松の間を流れることが判る(グーグル・マップ・データ)。但し、前話の注の古地図で判る通り、宇ノ気川の少なくとも中・下流は現在とはかなり異なっていた(河北潟がずっと北へ貫入していた)ことは念頭に置かねばならない。]

 行人(ゆくひと)我れに向ひて曰く、

「金城に一變あり。其事に付きて我れ今至るといへども、吾子(ごし)が求むる所も爰にあり。日高くとも今宵は今濱の驛に一宿して、夜もすがら談(かた)り申さん。

 元來長(ちやう)の家は能州に業(げふ)を立てし氏なれば、其話其因(ちな)みなきにしも非ず。十里去りて國の變話を聞く又珍らしからずや。幸(さひはひ)に怪異是に預れり、奇談とせすんばあらず。事は一毫(いちがう)より發す。爰に卯の毛(うのけ)【村名】に談り出ださん」

とて、たばこの口を留(と)め、左より煙管(きせる)を路次(ろし)の石に打たゝき、物語をはじむ。

[やぶちゃん注:以下、知人の川岸での一服に話に入ってゆき、それはそのまま以下、今浜宿での夜話に続いていると考えられる。

「吾子が求むる所も爰にあり」その友人はこれから語られる金沢での異変に絡んでここより先の能登の北の地に行かねばならない用が出来たようである。「吾子」は二人称代名詞。で親しみをこめて同僚格を呼ぶ語であるが、この謂いは、この友人は麦水と親しい故に彼の怪奇談蒐集癖をよく知っているという前提の言葉である。「君が求める怪奇なるところもまさにその異変の中にある」、さればこそ未だ日は高いが今夜は近くの今浜の駅で同伴にて一宿して、一つ、その奇体な話を夜もすがら、語り申そうぞ」というのである。但し、オープニングから後ろの金沢の方を何故か振り返って遠望するところに、友人が彼に気づかぬ勢いで抜いて行き、かく麦水嗜好の奇談夜話となるというのは、如何にも芝居がかって、作り話臭い感じがする。

「今濱」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町今浜(グーグル・マップ・データ)、ここは宇ノ気川沿いからは凡そ直線で十キロほどであるから、この川辺で一休みして、三時間もあれば着く距離である。

「卯の毛」現在の石川県かほく市宇気(うけ)であろう(グーグル・マップ・データ)。ここはまさに前話の七窪の北に接し、私が先ほど試しに今浜までの距離を計算しようと何気なく基点していたのがまさに、この地区内を貫流する宇ノ気川の北の川沿いであったのである。

「たばこの口を留(と)め」これは煙草を吸うのを止めての謂いであろう。]

「抑々(そもそも)元來能州半郡(ハンコホリ)の領主、天下の英維、諸人の知る所なり。されば此異に傳はる「武衞御敎書(ぶゑいごきやうしよ)」と稱する物あり。其文に

[やぶちゃん注:以下、引用は原本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

下能登國能登之郡。上日・下日・越蘇・八田・加島・與木・熊木・長濱・神戶。都合高三萬三千石。

右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執建如件。

 文治二年六月廿二日 從二位大納言 源 賴朝 判

  從四位下長馬新太夫 長谷部信連どの

 

斯くの如くありとなり。

[やぶちゃん注:「半郡(ハンコホリ)」珍しく原本のルビである。(能登)鹿島半郡(かしまはんごおり)或いは鹿島川西半郡とも表記する。鹿島郡全体はウィキの「鹿島郡」を見られたいが、現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部である。鹿島川西半郡という名から判るが、この川は二ノ宮川(グーグル・マップ・データ)を指し、半郡は鹿島郡内の二宮川以西を指した郡域である。天正八(一五八〇)年、長九郎左衛門連龍(つらたつ)は織田信長より、この鹿島半郡を領することが認められており、翌年、信長が前田利家に能登四郡を宛がった際にも、利家は九郎左衛門を与力大名とし、半郡を知行させている。その連龍の子で、江戸初期の加賀藩家老にして長氏二十三代当主であった長連頼(つらより 慶長九(一六〇四)年~寛文一一(一六七一)年)がいるが、ウィキの「長連頼」によれば、元和五(一六一九)年に『父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国・能登国内』三万三千石を継いだ。『鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった』。『そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をし』、『それを私有しているという噂が流れた。そこで』寛文五(一六六五)年二月、『新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は』、同年三月二十七日に『検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子の元連を仲介して提出した』。九『月には検地が一部』で行われようとしたが、『浦野は元連と連携し、十村頭の園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった』『これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し』、寛文七(一六六七)年二月十五日に、『本多政長、横山忠次、前田対馬、奥村因幡、今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した』。第四代藩主『前田綱紀は』、これを『鹿島半郡を直接統治する』絶好の『機会と考え』、『介入し、浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕した。このことを幕府の保科正之(綱紀の舅)に相談し』、同年中に『浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔』、三『人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった』。而して、『事件は長家の家中取り締まり不行き届となり、罪は子の元連にも及び、剃髪の』上、『蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件(浦野騒動)と』呼び、綱紀の思惑通り、『半郡も加賀藩の直接支配地とな』ったのであった。連頼は享年六十八で没した。彼の孫の尚連が十歳で『当主になると、前田綱紀は鹿島半郡を取り上げ、代わりに石高に見合う米を給することになった。これにより、長家の特権が完全に潰えた。その後、長家は高連(尚連の養子)、善連、連起、連愛、連弘』(加賀藩年寄本多政礼(まさのり)の次男)と、三『万余石の家老のまま、幕末に続いている』とある。調べてみると、以下に記される内容は時制的に見て、加賀藩年寄で加賀八家長家第六十七代当主であった長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)の代のことと思われる。則ち、後半の主たる人物は彼その人であるということである。『父は先々代長高連の弟長連安。母は佐々木博太夫の娘。養父は長善連。正室は三田村監物の娘。子は長連穀、長連愛、長連郷。幼名小源太。通称右膳、津五郎、三左衛門、九郎左衛門、号は恵迪斎。官位は従五位下大隅守』(下線太字は私が附した)。宝暦七(一七五七)年、『宗家善連の末期養子となり』、三月六日、家督と三万三千石の知行を相続、安永三(一七七四)年十二月に二十五歳で従五位下大隅守に叙任されている。天明五(一七八五)年に『長男連穀が早世したため』、翌年、『次男連愛を継嗣とする』。寛政一二(一八〇〇)年三月に『隠居して嫡男連愛に家督を譲り、恵迪斎と号する。隠居領として』二千『石を授かった』。筆者堀麦水は天明三(一七八三)年に没しており、齟齬がない。則ち、次の段の「今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ」という部分から、本篇が安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事であることが判る。因みに、当時の藩主は第十代前田治脩(はるなが)である

「武衞御敎書」「武衞」は将軍。ここは源頼朝を指す。この下されたとする相手「長谷部信連」は長(ちょう)氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)で複数回既出既注でああるが、再掲しておく。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが』、『捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも』、『屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘』(おおやのしょう:現在の能登半島の輪島市から穴水市一帯の地域)『を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。しかし、ここに既に「高三萬三千石」と、後代にもっと南の全く別な地域(しかも以下の地名は後代の鹿島郡内である)の石高と全く一致してあるのは、本御教書がそもそも偽物であることを物語っているように見える。なお、頼朝が征夷大将軍に任ぜられるのは後の建久三(一一九二)年七月十二日であるが、これは後にこの文書が長家に於いて「將軍御敎書」と呼ばれるようになったという意味であるから、その点では問題は全くない。しかし、後注するように、本状が真っ赤な偽物であることは、最後の肩書によって明白なのである。

「下」「くだす」と読んでおく。下知する。

「上日」上日(あさひ)。現在の石川県鹿島郡中能登町二宮(のとまちにのみや)にある天日陰比咩(あめひかげひめ)神社が上日庄郷十八ヶ村の総社氏神であったと「石川県神社庁」公式サイト内の同神社の解説にある。

「下日」「しもひ」か。サイト「千年村をみつける」の「能登郡下日郷(石川県)」に『現在の鹿島郡鳥屋町東武の大字良川・一青・春木・大槻付近から、七尾市の南西部の西三階町・東三階町にかけての地区とする説(地理志料)は妥当と見てよいであろう』とある(地図有り)。

「越蘇」「和名類聚抄卷七」の「加賀國第九十九 能登郡」に『越蘇【惠曾】』とし、読みは『エソ』と振る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明である。

「八田」同前で『八田【也太】』でルビは『ヤタ』。「千年村をみつける」の「能登郡八田郷(石川県)」に、『現在の七尾市八田町も遺称地に含め、ともに古代の八田郷の郷名を継承すつと説かれているが(能登志徴・郷土辞彙)、八田町は、江曽町・飯川町と至近の距離に連なっており、むしろ能登郡越蘇郷の合意期に属した可能性が強い(日本地理志料)』とある(地図有り。以下省略)。

「加島」同前で『加嶋(カシマ)【加之萬】』。同前の「能登郡鹿嶋郷(石川県)」に、『いまの七尾市の中心市街区の、特に西半部の御祓地区を郷域の中心とし、御祓川を挟んで東の八田郷と平行していたとする説(郷土辞彙)が妥当であり、加嶋津(香嶋津)も、当然現七尾港の一部に相当すると見なすべきである』とある。

「與木」同前で『與木(ヨキ)【與岐】』。同前の「能登郡与木郷(石川県)」に、『郷域は、邑知潟東岸と碁石ヶ峰北西麓の山麓線に挟まれた低湿地帯にあって、現在の羽咋市東端部から』旧鹿島郡『鹿島町西端部に連なる地区に比定され(日本地理志料・能登志徴)、郷域内に駅が置かれていた』とある。

「熊木」同前にあるのは『熊來【久萬岐】』で『クマキ』とルビする。これであろう。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「長濱」同前にあるのは『長濱(ナカハマ)【奈加波萬】』。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「神戶」同前にあるのは『神戸(カムヘ)』(割注なし)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執達如件」推定で訓読しておくと、

   *

右の者、三條の宮(みや)へ平家亂入の刻(とき)、其方(そのはう)一身(いつしん)働(はたら)きを以つて、敵、數輩(すはい)、討ち捕り、暫く追ひ拂ひ、古今の高名(こうみやう)一騎當千の働(はたら)き、神妙(しんべう)なり。仍(よ)つて、能登の國能登の郡(こほり)所々、充(あ)て行き下(くだ)す者なり。子々孫々、長く收納有るべし。則ち、地頭職、申し付け候ふ。百姓をして安撫(あんぶ)せしむべし。仍(よ)つて執達(しおつたつ)件(くだん)のごとし。

   *

以上の内、「三條の宮」は以仁王の別称。

「文治二年六月廿二日」一一八五年。確かに、「吾妻鏡」の文治二年四月四日の条に、

   *

四日辛亥 右兵衞尉長谷部信連者。三條宮侍也。宮、依平家讒。蒙配流官鳧御之時。廷尉等亂入御所中之處。此信連有防戰大功之間。宮令遁三井寺御訖。而今爲抽奉公參向。仍感先日武功。態爲御家人召仕之由。被仰遣土肥二郎實平【于時在西海】之許云々。信連自國司給安藝國檢非違所幷庄公畢。不可見放之由云々。

   *

四日辛亥(かのとゐ) 右兵衞尉長谷部信連は三條の宮の侍なり。宮が平家の讒(ざん)に依りて、配流の官符を蒙り御(たま)ふの時、廷尉等(ら)、御所中に亂入するの處、此の信連、防戰の大功有るの間、宮は三井寺へ遁れしめ御(たま)ひ訖(をは)んぬ。而るに今、奉公を抽(ぬき)んでんが爲に參向す。仍つて先日の武功に感じ、態(わざ)と御家人と爲し召し仕ふの由、土肥二郎實平【時に西海(さいかい)に在り。】の許(もと)へ仰せ遣はさると云々。

信連、國司より安藝國檢非違所(けびいしよ)幷びに庄公(しやうこう)を給はり畢(をは)んぬ。見放つべからずの由と云々。

   *

とある。「檢非違所」とは都でない国郡や荘園の検非違使が職務を行う庁所。信連は既に安芸国の国司から同国の検非違使及び「庄公」(私有地である荘園と公領である国衙領を含む総ての所領地の管理者)を命ぜられているから、そのまま捨ておくわけには行かないというのである。ここには既に北条時政らが進言して構想されていた、幕府の諸国への守護・地頭職の設置とその任免権の獲得が視野に入っていたからであろう。実際、この五か月後の文治元(一一八五)年十一月二十八日に朝廷から頼朝にその勅許が下るのである。

「從二位大納言 源 賴朝」これはおかしい。確かにこの前年の元暦二年四月二十七日(元暦二年八月十四日(ユリウス暦一一八五年九月九日)に文治に改元)に頼朝は従二位へ昇叙はしているが、彼が権大納言に叙任されるのは五年後の建久元(一一九〇)年十一月だからである。

「長馬新太夫」これは致命的な誤りである。「長馬(ながま)新大夫(しんたいふ)」というのは信連の父為連(ためつら)の通称だからである。例えば、「吾妻鏡」の長信連の逝去の記事を見よ(二十三巻の建保六(一二一八)年十月二十七日の条)。但し、無論、この能登の一帯に長連の領地が頼朝によって安堵されていた事実は疑いようはない。私が言いたいのはこの「武衞御敎書」なるもの自体は後世に作られたものだということである)。

   *

廿七日丙寅。霽。秋田城介景盛爲使節上洛。依被賀申皇子降誕之事也。今日。左兵衞尉長谷部信連法師於能登國大屋庄河原田卒。是本故三條宮侍。近關東御家人也。長馬新大夫爲連男也。

   *

廿七日 丙寅(かのえとら)[やぶちゃん注:乙丑(きのとうし)の誤り。] 霽(は)る。秋田城介景盛、使節として上洛す。皇子降誕の事を賀し申さるるに依つてなり。

今日、左兵衞尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田にて卒(しゆつ)す。是れ、本(もと)は故三條の宮の侍、近くは關東の御家人なり。長馬(ながま)新大夫爲連が男なり。

   *

この「皇子」は順徳天皇の第三皇子懐成親王(四歳で践祚したが、祖父鳥羽上皇が起こした「承久の乱」によって戦後に執権北条義時により廃された仲恭天皇(九条廃帝))のこと。「河原田」は現在の石川県輪島市山岸町に現存する。「石川県観光連盟」公式サイト内の「長谷部信連の墓」を見られたい(地図有り)。]

 長家(ちやうけ)のことは「中外傳」附錄「昔日北華」と云ふに委し。餘事は是に依りて暫くさしおく。

[やぶちゃん注:『「中外傳」附錄「昔日北華」』さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。]

 

 然れば三萬三千石の數の事は久しき名目の事と覺えぬ。されば往古より一日として不覺不念の事なき家なり。

 然るに今度(このたび)一變事ありて門戶を閉(とざ)さるゝは千古の一不思議と云つべし。

 其所以を聞くに、今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ、其謝(そのしや)として東武へ趣き給ひし折しも、國主は兼て江戶表に在府ましまして、專ら騎射馬術行はるゝのよし聞ゆる時なれば、定めて長侯

「江戶表へ出府に於ては、先づ一番に家中の士を召させられ、馬術武藝覽(らん)せらるゝことあるべし」

とて、兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門【二百石を領す。】と云ふを撰びて召連(めしつ)れられ、江戶表に至り給ひぬ。

 然るに江戶御着成(おつきな)され、

「先づ馬藝のことより」

とて駒(こま)御覽なり。別して奧州閉伊(へい)の出の駒を第一に引かせて見給ふに、さして御心(おこころ)に叶ふ馬(むま)もなし。爰に少しの内緣を以て勤むる駒あり。百金[やぶちゃん注:百両。]に少しく足らざる價(あたひ)なりとて、誠に古今の駿足と見ゆる氣色(きしよく)にて、河原毛(かはらげ)の馬[やぶちゃん注:全体の毛が淡い黄褐色から艶のない亜麻色まであって、鬣と四肢の下部が黒色の馬を指す。]を牽き來りけり。長君(ちやうくん)も良々(やや)氣に入りし由にて、近臣に尋ね給ふに、各(おのおの)皆(みな)「御内緣にて進め上ぐる駒」と聞えければ、何れも詞を揃へ、「最も秀でし馬」の由を申上る。

 爰に一人の老臣あり。密(ひそか)に眉をそばめて申しけるは、

「昔より申傳(まうしつた)へし御家に三つの不吉あり。第一に鷹野(たかの)[やぶちゃん注:鷹狩りをすること。]、第二に「釣狐(つりぎつね)」の狂言、第三には河原毛の馬と申し傳へて候。未だ試みたることはこれなく候へ共、前々より格(かく)[やぶちゃん注:定まった禁忌の掟。]となり來り候。竊(ひそ)かに聞く所、鷹野遊(あそば)され候へば御家(おんけ)滅亡し、「釣狐」の狂言有之(これあり)候へば御命(おいのち)にたゝり、河原毛の馬を求め給へば、御門(ごもん)を閉ぢられ候(さふらふ)御仕落(しおち)[やぶちゃん注:手落ち。]を引出(ひきいだ)すよし申し來り候。されば此三事(さんじ)終(つひ)になし。御鷹野(おたかの)は川狩(かはがり)迄にて、御鷹は召されず候へども、狂言の儀は近年に至り先君甲斐守樣、狂言師傳次に仰付けられ、「こんくわい」の狂言ありて傳次(でんじ)も卽死し、先君も御短命にて候ひき。是も其たゝりかと、下々(しのじも)今に密(ひそか)に惜み奉り候。然るに只今あの馬を召上げられ候へば、俗言に申しならはし候所を御犯(おんをか)しのこと、甚だ御無用に奉存候(たてまつりぞんじさふらふ)。其上我々(われわれ)しき迄も意にかゝり奉存候間、御差止めも候はんや」

と申し上げれば、大隅守殿も少し御意(ぎよい)にかゝりしや、無言にて座を立給ふが、又近々御殿中(ごてんうち)の馬合(むまあは)せもあれば欲しくや思(おぼ)し召けん。則ち田中源五右衞門を召して、段々を御語り成され、

「此馬求めて苦しかるまじき哉(や)」

と御尋(たづね)の所、田中畏(かしこま)り謹みて申上ぐるは、

「此儀少しも御心に懸け給ふべきことに非ず。馬(むま)は則ち我が足なり、何の論かあらん。君子は斯言(しげん)に拘(かかは)らず。尤(もつとも)馬の色には相剋(さうこく)し候(さふらふ)趣(おもむき)も候へども、我等能(よ)く能く根元(こんげん)取り分けたること御座あれば、河原毛は必竟(ひつきやう)水色なり。御家は金(ごん)を以て立給ふことなれば、相生(さうしやう)して理(ことはり)よく侍る。俗說の申傳へは大人(おとな)に取(とる)べきことに非ず。女兒(をんなこども)の詞(ことば)豈(あに)用ゐるに足らんや。必ず必ず此度(このたび)の河原毛の馬(むま)求め給へ」

と勸めければ、御納得ありて、彌々(いよいよ)其馬御求めに極(き)まり、上(あ)げ主(ぬし)大(おほき)に悅びて田中が發明を譽立(ほめた)て、「當世の士」とぞ感じける。されば是に決し、御求めありて歸國ありけるに、奧方大いに心に懸け給ひしとぞ。是は「彼(かれ)無用」と云ひし老臣、奧方に申して密(ひそか)に先君の例などを告げしとぞ。依ㇾ之(これによつて)所々災害他散の御祈禱どもありける。

 別して御妾(おんせう)何某(なにがし)、甚だ心に懸けて、卯辰山(うたつやま)なる五行院といへる法華の行者へ步行(かち)にて賴みに行き、災(わざはひ)を轉じて他に移すことを專ら祈念賴まれ、五行院精心(しやうじん)を抽(ぬき)んでゝ修行せられ、專ら他に移す祈禱ありしとぞ。

[やぶちゃん注:「田中源五左衞門」「田中源五右衞門」無論、同一人物である。当時の通称は複数あるのが普通でこれは誤りではないと思われる。しかも、本時制より八年後のことであるが、加賀藩資料」第九編の「天明二年」(一七八二)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)彼の名を認めるのである。

七月九日。前田重敎、陪臣田中源五左衞門の馬術を觀る。

とあり、以下「政隣記」から引いた頭に、

七月九日、長大隅守殿給人君馬役領二百石田中源五衞門馬術、中將樣御覽。

と記されてある。「前田重敎」(しげみち)は第九代藩主で第十代藩主治脩の兄であり、この時は隠居していた。「長大隅守」は既に見た通り長連起である。これで史実上の実在は総て確認されるのである。なお、「給人」(きふにん(きゅうにん))とは大名から知行地或いは同等の格式を与えられた家臣を指す。

「奧州閉伊(へい)」馬の産地として知られた岩手県旧閉伊郡。旧郡域は明治一一(一八七八)年に発足した当時の郡域は現在の遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分に当たる。広いのでウィキの「閉伊郡」を参照されたい。

「内緣を以て勤むる駒あり」長連起の信頼出来る親しい内縁の人物が推奨する馬がいた。

「御家」長(ちょう)家。

『「釣狐」の狂言』狂言の演目。鷺流での名称は「吼噦(こんかい)」で、歴史的仮名遣は「こんくわい」だ。ウィキの「釣狐」によれば、「披(さば)き」(能楽師が特定の難曲や大曲を演じて修行の成果を披露し、一定の技量を持つことを周囲に認めて貰うための興行)として『扱われる演目の一つで、大蔵流では極重習、和泉流では大習と重んじられている』。『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは『靱猿』の猿役で初舞台を踏んだ狂言師が、『釣狐』の狐役を演じて初めて一人前として認められるという意味である』。『白蔵主』(はくそうず:本邦の妖狐・稲荷神の名。大阪府堺市にある少林寺に逸話が伝わっており、その逸話が本狂言の題材となったとされる)『の伝説を元に作られたとされており』、『多くの狂言師が、上演する際に白蔵主稲荷を祀る大阪府堺市の少林寺に參詣し、この稲荷の竹を頂いて小道具の杖として使っている』。あらすじは、『猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』とある。

「先君甲斐守」連起(つれおき)の先代は加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)で、享年二十八で亡くなっており、確かに「短命」であったが、叙任されていない。「甲斐守」であったのは、同じく加賀藩年寄・長家第五代当主にして、善連の父であった長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっている。ただ、先代善連と先々代を混同したものであろう。

「狂言師傳次」不詳。

「我々(われわれ)しき迄も」私のような無学な老いぼれのような者でさえも。

「御殿中の馬合せ」金沢城内で主だった家臣が自慢の名馬を引き出し、馬芸をして品評する馬合わせ。

「何の論かあらん」何の論(あげつら)うことがありましょうや! あれこれとやかく言って批評する必要なんど御座りませぬ!

「君子は斯言(しげん)に拘らず」優れた人格者というものは、そのような馬鹿げた理(ことわり)を欠いた発言には決して係わらぬものにて御座る!

「相剋」(そうこく)は五行相剋。木・火・土・金・水の五つの根元要素が互いに力を減じ合い、打ち滅ぼして行くとする陰の関係を言い、「木剋土」(木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる)・「土剋水」(土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める)・水剋火(水は火を消し止める)・火剋金(かこくごん:火は金属を熔かす)・金剋木(ごんこくもく:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。

「相生」(そうしょう)は相剋の対概念で、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係性を言う。順送りに相手を生み出して行く陽の関係であり、「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生み出す)・火生土(物が燃えれば灰となってそれは土へと還る)・土生金(どしょうごん:鉱物・金属の多くは土中にあって土を掘ることによってその金属を得ることが出来る)・金生水(ごんしょうすい:金属の表面には凝結によって水が生じる)・水生木(木は水によって養われる)という循環である。

「河原毛は必竟水色なり」「河原」から「水」かい! ただ何故あの色を「河原毛」というかを考えると、水場に生えるヨシの穂の色じゃなかろうか? と思っている私には「河原毛」=「水」は腑には落ちる。

「御家は金(ごん)を以て立給ふ」何故、長家が「金」なのかは判らぬが、長家の家紋は「銭九曜」紋で金属ではある。サイト「武家の家紋」の「長氏」を見られたい。

「奧方」連起の正室は三田村監物の娘。三田村監物定敬(さだのり)か。姉は加賀藩第五代藩主前田吉徳の母(名は「町(まち)」)預玄院。ただ彼だと、ちょっと年が行き過ぎる感じはする。

「御妾」連起の側室。

「卯辰山なる五行院」不詳。現存しない。

 但し、長連起が蟄居とか閉門になったりした事実はなく、恙なく逝去の年の二月十九日まで勤め上げた上、致仕して『惠迪齋』(「加能郷土辞彙」に拠る)と称し、隠居料二千石を賜って、九ヶ月後の寛政一二(一八〇〇)年十月十四日に享年六十九で亡くなっている(別資料でも確認した)。長連起自身、万一、これが事実と少しでも違っていたとしたら、麦水を訴えて捕縛し、著作の焚書や手鎖(てぐさり)の刑に処せられてしかるべきことだと思う。しかも「田中源五右衞門」なる実在する藩士の名を丸出し、正妻や妾の細かな話まで出すのは、事実としても如何なものかと私でさえ心配に思うのである。――しかし――ということは――かく今に平然と残っているということは、この出来事が実は、その出来事が起こって直ぐに広く知られてしまい、加賀藩では町人に至るまで知らぬ者のない周知の事実であったということを物語るものなのではなかろうか? さすれば「今度一變事ありて門戶を閉さるゝ」というのは、暫く自主的に戸を閉じて城に出仕しなかったという程度のことであり、そうした有意な自粛期間が実際にあった、ということになろうかと思うのである。【2020年5月25日:追記】現在、次の「田中の馬藝」を読み、注を施そうとしている最中であるが、これはどうも麦水の書き方がちょっとおかしいのであって、閉門の処罰を藩から受けたのは長善起ではなく、彼の家臣であり、本話後半の重要な人物であるところの田中源五右衞門(実は調べると記載によっては前に出る「田中源五左衞門」の名で出るものもある)のことらしい。しかし、だとしても、ますます善起にとって誤った記述となる。不審はやはり晴れないのである。

2020/05/23

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 一

 

[やぶちゃん注:野澤凡兆(?~正徳四(一七一四)年:芭蕉(寛永二一・正保元年(一六四四)年生まれ)より年長かともされる)姓は宮城・越野・宮部ともするが、確かではない。名は允昌(むつまさ)。俳号は初め加生(かせい)、晩年は阿圭(あけい)とも称した。金沢の人で、京に出て医を業としたが、やがて蕉風俳諧に近づき、元禄三(一六九〇)年から翌年にかけて、近江・京方面に滞在していた芭蕉から親しく指導を受け、去来(凡兆は芭蕉対面以前、少なくとも元禄初年には彼と親交があった)とともに「猿蓑」(元禄四年刊)の編纂にあたるなど、一躍、蕉門の代表的作家の地位を獲得した。しかし、その後まもなく芭蕉から遠ざかり(各務支考の「削かけの返事」(享保一三(一七二八)年)によると、岡田野水・越智越人が凡兆を語らって芭蕉に八十村(やそむら)路通を讒訴したことが芭蕉の機嫌を損じたためともされる)、また、事に座して(具体的にはよく判らないが、一説には罪ある人と親しんで連座の罪を被ったとも、「抜け船」(密貿易)ともされる)投獄され、元禄十二、三年頃に出獄して大坂へ移住したが、作風は全く生彩を失うようになり、特に晩年は零落した生活を送ったらしい。「猿蓑」時代の俳風は、具象性・叙景性に優れ、感覚的で印象鮮明な句に見るべきものがあった。因みに、凡兆と同じく「曠野」に初めて

 佛より神ぞたうとき今朝の春 とめ

(「たうとき」はママ)の一句を見る女性は彼の妻で、後に法体して羽紅尼(うこうに)と称し、「猿蓑」には羽紅の名で十三句が入集している他、芭蕉の「嵯峨日記」(本文後注参照)の元禄四年四月二十日の条には、「尼羽紅」(「の吟」の意)と前書して、

 またや來ん覆盆子(いちご)あからめ嵯峨の山

の一句が載る(以上は小学館「日本大百科全書」の堀切實氏の解説を主文としつつ、潁原退蔵氏の「蕉門の人々」(昭和二一(一九四六)年大八洲出版刊)などの信頼出来る資料を、複数、参考にした)。]

 

     凡  兆

 

        

 

 凡兆について記すのは容易でない、というよりもむしろ改めて記すだけの材料がないといった方がいいかも知れぬ。中途で俳壇から消え去った凡兆の一生は、依然として不明である上に、凡兆の句については明治以来定評と目すべきものがあって、必ずしも異を立てるほどの余地を発見し得ぬからである。

 最初に『猿蓑』を点検して凡兆を賞揚されたのは鳴雪翁だそうである。翁が自ら好む所の純客観句を七部集中に求めて『猿蓑』を推し、『猿蓑』中の作家について凡兆を推すに至ったのは、明治の新俳句と重大な関係を持っている。明治俳句の特色としては第一に客観趣味の発達を挙げなければならぬが、蕪村に逢著する以前において、客観趣味の鼓吹に寄与するところ多かったものは、けだし凡兆を首(はじめ)とすべきであろうと思う。

 碧梧桐氏が明治三十二年[やぶちゃん注:一九八九年。]に著した「俳句評釈」は、当時においても問題の多い著作であった。子規居士はこの書を評して、天明的標準を以て『猿蓑に』臨んだものとし、種々見解の異る所以を列挙したが、最後に「各句の評論に至っては古今にない好著述で、彼趣味を解せぬ似而非註釈家などの及ぶ所でないのは勿論、猿蓑の作者を九原(きゅうげん)に起して一々読んで聞かせたい位である。もし彼らに読んで聞かせたら彼らは何というであろうか。芭蕉は黙っているであろう。去来は怒って論ずるであろう。凡兆は頻にうなずいているであろう」と断じた。居士が碧梧桐氏の評論に対して、ひとり凡兆の首肯すべき点を認めたのは、凡兆の句風乃至傾向が天明的標準――延(ひ)いては明治的標準に近いためであろう。凡兆の句が明治に至ってはじめて光彩を放ったのは偶然でない。

 但以上の説はいずれも『猿蓑』の凡兆に対する見解である。『猿蓑』における凡兆の四十四句は集中の最高点で、芭蕉よりもやや多く、去来、其角とは二十に近い差を示している。数において他を圧するのみならず、殆ど一句も捨つべきなしというに至っては、何人も凡兆の力量に驚かざるを得まい。明治以来の定評というのも、この『猿蓑』の凡兆に対してであって、他に存する凡兆の句なるものは自ら問題の外になっている。

 凡兆の句は大体『猿蓑』に尽くるものと一般に信ぜられていた。現に最初の凡兆讃美者であり、純客観派の本尊として凡兆を崇めたという鳴雪翁ですら、『碧子の俳句評釈』の中で、「惜(おし)いことには凡兆の句は本集中の四十金句の外(ほか)殆ど他に存していない(二、三句はあるそうだ)」といわれた位である。凡兆を純客観派の本尊とするためには、『猿蓑』の句だけを見るに如(し)くはない。むしろ他の句を存せしむる必要はないかも知れぬ。けれども実際は『猿蓑』以外にも相当の句を存しているとすれば、今までの定評以外に新に説を立つべきであろう。

[やぶちゃん注:「碧子の俳句評釈」『ホトトギス』明治三十二年七月号所収。]

 明治三十二年中の『随問随答』に「凡兆の句は猿蓑集以外にも有之候や」という質問があった時、子規居士は次のように答えた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「合本俳諧大要」(大正五(一九一六)年籾山書店)のここ(「隨問隨答」の「㈣」の「第七問」)で正字正仮名で読める。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

凡兆の句猿蓑以外には極めて少し。元禄の俳書には、時に凡兆のを見る事あれども、皆一句二句位に止(とど)まる。蝶夢の類題発句集には、猿蓑以外の句少しありたりと覚ゆ。因(ちなみ)にいふ。加生といふも凡兆の事なり。

[やぶちゃん注:「蝶夢の類題発句集」安永三(一七七四)年刊。]

 

 子規居士が作家別に分類した『俳家全集』には、凡兆の句が六十二句集まっている。出所は明記したのもありせぬのもあるが、『猿蓑』以外の材料として先ずこれから列挙しよう。

 曙や菫傾く土竜            凡兆

[やぶちゃん注:底本では「あけぼのやすみれかたぶくもぐらもち」とルビを振るが、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」では、座五を「土龍」と表記し「うごろもち」とルビする。]

 山陰やいつから長き蕗の薹       同

[やぶちゃん注:座五は「ふきのたう(ふきのとう)」。]

 せり上げて葵をこぼす葵かな      同

 夕顔のあとからのぼる葎かな      同

[やぶちゃん注:「葎」は「むぐら」。]

 かゝる身を蝨の責る五月かな      同

[やぶちゃん注:「蝨」は「しらみ」(「虱」に同じい)、「責る」は「せむる」、「五月」は「さつき」。この句については、潁原退蔵氏が「蕉門の人々」(昭和二一(一九四六)年大八洲出版刊)のここで、この句の出典を宝永六(一七〇九)年序・跋の「ねなし草」(艸士編)とし、

   囚にありしとき

 かゝる身を虱のせみる五月かな

という前書とともに挙げ、『これは』獄中にあった『往時を追想したのであろう』と述べておられる。因みにその前で頴原氏は『ほゞ元祿六年』(一六九三年)『後に投獄せられ、同年前には釋放されえて京拂ひとなつたのではあるまいか』と推測されておられ、一説に獄中での句とする句も二句載っているので参照されたい。]

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな     同(去来抄)

[やぶちゃん注:風が全く吹いていないのにはらはらと散る景である。「桐の落ち葉」が季題で秋。]

 白かりし花は昔に種瓢         同(類題発句集)

[やぶちゃん注:座五は底本では「たねひさご」とルビする。これはしかし「たねふくべ」の読みの方が一般的である。種子を採るために残しておく瓢簞の実を指す。蝶夢の原本を早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで見たが、

 白かりし花はむかしにたね瓢

で読みは不明である。]

 団栗や熊野の民の朝餉         同(袖草紙)

[やぶちゃん注:「団栗」は「どんぐり」、座五は「あさがれひ(あさがれい)」で朝飯のこと。]

 黍の根や心をつくる秋の風       同( 同 )

[やぶちゃん注:「黍」は「きび」。「心をつくる」は「気づかせる」の謂いであろう。]

 秋風に巻葉折らるゝ芭蕉かな      同

 残る葉も残らずちれや梅もどき     同(類題発句集)

[やぶちゃん注:この句は「曠野」に載るのでそちらを出典に出すべきである。「卷之四」の「暮秋」では、

 殘る葉ものこらずちれや梅もどき    加生

である。「梅もどき」はバラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ Ilex serrata。但し、本邦には近縁種複数植生する。木の高さは二~三メートルで雌雄異株。葉は互生し、楕円形を呈し、先端が尖り、葉の縁が細かい鋸歯状を成す。花は淡紫色で五~七月頃で、果実は九月頃から赤く熟し、十二月頃、落葉しても枝に残っている。このため、落葉後の赤い実が目立つ。庭木・鉢植・盆栽・活け花に使われるものの、この句で見るように鑑賞の対象は花より果実である。和名は、葉が梅の葉に似ていることや、花も梅に似ているころに由来する(以上はウィキの「ウメモドキ」に拠った)。]

 捨舟の内そと氷る入江かな       同

[やぶちゃん注:「捨舟」は「すてぶね」。私が凡兆の句で最も偏愛する一句である。漢詩の一首を読むような、まさに凄絶に凍りついた寂寥のモノクロームの景。堀切氏は前掲書の評釈で『晩年凡兆が住んだ難波近くの入江のさびしい光景であろうか』と記しておられるが、まさに落魄(おちぶ)れた孤独な彼の氷結したイメージが染み渡る絶句と言える。]

 こきまぜし雪の都を岡見かな      同

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の素性法師の一首(五六番)

   花ざかりに、京を見やりよめる

 見わたせば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

を冬の雪景色に転じたインスパイアである。]

 師走哉餅つく音の須磨の浦       同

 田の水のありたけ氷るあしたかな    同

[やぶちゃん注:この句も私は好きである。]

 煤掃や餅の序になでゝおく       同

[やぶちゃん注:「煤掃」は「すすはき」、「序に」は「ついでに」。堀切氏は前掲書で、本句を評釈されて、『師走も末になり、煤払いを済まさなければならないが、それほどの家具もない。そこで、餅搗きをした日、そのついでに、型ばかりちょっと煤掃きの真似事をしてみたことだ、というのである。煤掃きは厄介なことだが、いくら家財・什器が少ないといっても、正月を迎えるには、ともかく一年の埃を払っておかなければなるまい――まあ、手軽に片付けてむこう、といった気持であり、そこに興を覚えて詠んだものであろう。そうした心理が』座五の「なでゝ置おく」に『巧みに表わされている』とされる。また、「煤掃」に注されて『煤払い。近世では十二月十三日を煤掃きの日とし』てい『たが、実際にはそれ以後の適当な日を選んで行なわれた』とある。]

 秋篠や庄屋さへなきむらしぐれ     同(大和名所図会)

[やぶちゃん注:「秋篠」は現在の奈良市北西部の秋篠町(あきしのちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。砧(きぬた)や霧の名所として知られた。「新古今和歌集」の歌人藤原良経の号秋篠月清の由来地。歌枕。「大和名所図会」は秋里籬島著で、竹原春朝斎画になる寛政三(一七九一)年刊の通俗地誌。]

 こりもせでことしも捨ぬ師走かな    同(大三物)

[やぶちゃん注:これは現実的な年の瀬の節目に、新らしい年を迎える際していろいろといらない無駄な物を捨てるべきだのに、捨てられずにいるという景よりも、世を捨てること(遁世者にとっては儚い一生の中のつまらぬ節目としての師走を意識する必要はない)が出来ない凡夫としての自身への自嘲の思いが含まれていよう。「大三物」は京都の井筒屋庄兵衛編で寳永八(一七一一)年刊の「大三物(おほみつもの)」か。但し、早稲田大学図書館古典総合データベースで同書PDF)を見ても載っていないようだが?]

 序いで三十四年になって、『ホトトギス』の募集週間記事の中に小洒(しょうしゃ)氏が「猿蓑研究日記」なるものを掲げ、『猿蓑』以外の俳書にある凡兆の句を抄出した。『俳家全集』に洩れたものとしては

[やぶちゃん注:「小洒氏」安井小洒は書肆で俳人・俳文学研究者。本名は知之。現在の兵庫県神戸市中央区上筒井通にあった「なつめや書店」店主。叢書『蕉門珍書百種』等の刊行を成した。]

 重なるや雪のある山たゞの山      加生(曠野)

 毒だめの其名もゆかし春の草      凡兆(薦獅子集)

[やぶちゃん注:「其名」は「そのな」。「毒だめ」コショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata の異名。「ゆかし」と言っているのは本草の和名の有力な一説である「毒を矯(た)める」の意に拠るものであろう。ウィキの「ドクダミ」によれば、『和名ドクダミの名称は、民間薬で毒下しの薬効が顕著であるので、毒を抑えることを意味する「毒を矯(た)める」から、「毒矯め(ドクダメ)」が転訛して「毒矯み(ドクダミ)」と呼ばれるようになったというのが通説である』とある。]

   のゝみや

 木枯に入相の鐘をすゞしめよ      加生(錦繡緞)

[やぶちゃん注:「のゝみや」嵯峨野(現在の京都市右京区西院日照町)にある西院野々宮神社(グーグル・マップ・データ。現在、東北六百メートルにある院春日神社が宮司を兼任)である。これは複式夢幻能の大曲の一つである「野々宮」を裁ち入れた一句であろう。サイト「the能.com」の「野々宮」から梗概を引く。――晩秋の九月七日、『旅僧がひとり、嵯峨野を訪れ、伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮の旧跡に足を踏み入れます。昔そのままの黒木(皮のついたままの木)の鳥居や小柴垣を眺めつつ参拝していると、榊を持った上品な里女が現れます。女は、僧に向かい、毎年必ず長月七日に野の宮にて昔を思い出し、神事を行う、ついては邪魔をしないで立ち去るようにと話します。僧が、昔を思い出すとはどういうことかと尋ねると、かつて光源氏が、野の宮に籠もっていた六条御息所を訪ねてきたのがこの日だと告げ、懐かしそうに御息所の物語を語ります。そして、自分こそが、その御息所だと明かし、姿を消してしまいました』。中入。『別に現れた里人から、改めて光源氏と六条御息所の話を聞いた僧は、御息所の供養を始めます。すると、牛車に乗った御息所の亡霊が現れます。御息所は、賀茂の祭りで、源氏の正妻葵上の一行から、車争いの屈辱を受けたことを語り、妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。野の宮での源氏との別れの記憶にひたりながら、御息所は、しっとりと舞い、過去への思いを深く残す様子で、再び車に乗り、姿を消しました』――。「入相の鐘」(いりあひのかね(いりあいのかね))は日没の際に寺で勤行の合図に撞き鳴らす鐘のことで、座五「すゞしめよ」の「すずしむ」とは「涼しむ」或いは「淸しむ」と書くが、ここでは「涼しくする」の意ではなく、心を鎮め慰める。特に「祭事を行って神や霊などを慰める・鎮める」の意である。即ち、ここで凡兆はこの謡曲「野々宮」の六条御息所の亡霊に向かって呼びかけている、祈りかけているのである。木枯らしの吹き荒ぶ中、勤行の始まる入相の鐘に、そなたの裁ち切れぬ光源氏への思いを鎮めなされよ、と謂うのである。「錦繡緞」(現代仮名遣「きんしゅうだん」)は其角編「俳諧錦繡緞」(元禄一〇(一六九七)年刊)。但し、堀切氏の前掲書の「出典俳書一覧」には、本書について『この書の成立については、近年疑義がだされている』と注記がある(既出既注)。]

   かへりに

 都路や初夜に過たるもみぢ狩      同

[やぶちゃん注:この句は、もし前の句が並んでいるのであれば、「都路」「初夜」「もみぢ狩」は皆、謡曲に台詞や演題を組み合わせた遊びかと思うのだが、実際の「錦繡緞」(早稲田大学図書館古典総合データベース・PDF)を見ると、「13/133」(カーソルを画面の上に上げるとステイタス・バーが下りる)に載るが、前の句は「12/133」前のページの終わりで、間に其角・去来・其角・去来の四句が挟まっている。「初夜」「しよや(しょや)」で初更に同じで、現在の午後七時頃から九時頃まで。秋の京の町を夜遅くなって帰るのを紅葉狩りと洒落ただけのものか。]

等があるに過ぎぬが、なおこれによって「残る葉も残らずちれや」の句が『曠野』にあること、「曙や菫傾く」の句が『千鳥掛(ちどりがけ)』にあること、『猿蓑』所載の句のうち、「豆植る畑も木部屋(きべや)も名所かな」が『嵯峨日記』に、「渡りかけて藻の花のぞく流かな」が『卯辰集(うたつしゅう)』に、「門前の小家も遊ぶ冬至かな」が『韻塞(いんふたぎ)』に、それぞれ載っていること等を明にし得た。『曠野』及『卯辰集』は加生、『韻塞』だけが「不知作者」となっている。

[やぶちゃん注:「千鳥掛」「俳諧千鳥掛」は知足編で正徳二(一七一二)年序。

「豆植る畑も木部屋も名所かな」堀切氏の前掲書の評釈では、「猿蓑」所収(「卷之二 夏」)のそれを出して、

   題去來之嵯峨落柿舍二句

 豆植(うう)る畑(はた)も木べ屋も名処(めいしよ)哉

で出し(「題去來之嵯峨落柿舍」は「去來の嵯峨落柿舍に題す」。堀切氏の引用では前書を『「題去来之嵯峨落柿舎句」トアル内』とする)、『元禄四年四月二十三日、洛西嵯峨の落柿舎に去来を訪ねた折の挨拶吟である。このあたり、豆の植えてある畑も、焚き木を収めてある小屋も、よくよく尋ねると、みな由緒あるところなのだ、という句意である。落柿舎周辺に名所が多いという漠然としたことだけでなく、今では荒廃した庭になっているこの庭も昔はなかなかの名園だったのではないかなどと、いろいろ想像させるような趣を感じたのであろう。いずれにせよ、「名所」に「豆植る畑」「木べ屋」といった日常・庶民的なものを取り合わせたところに俳諧らしさがある』とされ、「豆植る」に注され、『夏の季題』と示された上で、『森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』は陶淵明の詩「園田の居に帰る(其三)」(『古文真宝前集』『陶淵明集』)の冒頭の一節「豆を種(う)う南山の下 草盛んにして豆の苗は稀なり 晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうわい)を理(おさ)め 月を帯び鋤(すき)を荷(にな)ひて帰る」をふまえたものか』とする(「荒穢」歴史的仮名遣は「こうくわい」で「雑草が生い茂って荒れ果てていること」を指す。「月を帯び」は「月の光を浴びながら」の意)。「木べ屋」は『焚き木などを収めておく小屋』とある。

「嵯峨日記」元禄四年四月十八日(グレゴリオ暦一六九一年五月一日)から同年五月四日(同前五月三十一日)までの芭蕉の落柿舎滞在中の日記。同記事は四月二十四日相当(日付を欠く、これは月待ちをして寝ずに明かしたことによるものと推定される)に出る。

   *

二十三日

 手をうてば木魂(こだま)に明くる夏の月

 竹の子や稚(をさなき)時の繪のすさみ

 一日(ひとひ)一日麥あからみて啼く雲雀

 能(のう)なしの眠たし我を行行子(ぎやうぎやうし)

 

    落柹舍に題す          凡兆

 豆植うる畑も木部屋も名所かな

 

 暮に及びて、去來、京より來たる。

 膳所昌房より消息。

 大津尙白より消息あり。

 凡兆來たる。堅田本福寺、訪ねて、その夜泊る。

 凡兆京に歸る。

   *

「卯辰集」楚常編・北枝補。宝暦年間(一七五一年~一七六四年)刊。

「門前の小家も遊ぶ冬至かな」堀切氏は前掲書で、『今日は冬至の日、寒さも一段と厳しくなるころである。ここの禅寺でも、それを祝っての休日で、僧衆は思い思いに暇を楽しんでいるようであるが、門前の小さな店屋の人たちも一日商売を休んで、のんびりと遊び暮らしている、という情景である。「門前の小家」を客観的に写生した句であるが、単なる写生にとどまらず、そこに庶民の生活ぶりの一端が生動しており、また、間接的に、いつもの厳しい空気とは異なってのんびりした禅寺の様子も描かれているのである』と評され、「門前」に注されて、『おそらく禅寺で』、『京東山あたりの寺の門前であろう』とされる。また、「冬至」に注されて、『陰暦十一月の中旬(陽暦では十二月二十二日ごろ)にあたり、昼が最短、夜が最長の日。冬の季題。この日から春がだんだん近づく日ということで仕事を休んで祝う。とくに医者と禅僧の祝い日であった。『滑稽雑談』に「和朝又禅家において朔旦に限らず、毎年冬至を専ら賀す。前一日冬夜と称して弟子の徒師家を饗す。俗に冬夜振舞と云ふ。冬至の目、師家又門弟に酒飯を送る」とある』とされる。凡兆は医師であった。「滑稽雑談」(こっけいぞうだん)は四時堂其諺(しじどうきげん)著の俳諧歳時記。正徳三(一七一三)年成立。「冬夜振舞」は「ふゆよぶるまひ」か。また最後に堀切氏は「韻塞」(李由・許六編で元禄九(一六九六)年刊)には『「冬至」と題し、「不知作者」』(作者知らず)『として収む。凡兆が刊行の年の元禄九年当時、獄中にあったからであろう』と述べておられる。]

 これだけの材料によって時代をしらべて見ると、『猿蓑』に先んじたものは第一に『曠野』(元禄二年)である。『卯辰集』は『猿蓑』と同じく元禄四年、『錦繡緞』は元禄十年で遥におくれているが、「木がらし」「みやこ路」の二句は、嵯峨遊吟として元禄三年の『いつを昔』に載っているから、『曠野』と『卯辰集』との間に入るべきであろう。加生というのは惟然の素牛と同じく、凡兆の前に用いたものであることも、ほぼこれで想像することが出来る。凡兆の注意者は早くからあったのである。

[やぶちゃん注:「いつを昔」(「何時を昔」であろう)別名「俳番匠(はいばんしょう)」と言う。其角編で元禄三(一六九〇)年刊。]

 私はその後気長に構えて凡兆の句を捜すつもりでいた。『俳家全集』所載の句の年代も出来るだけ知りたいと思ったが、容易に見つからない。「秋風に巻葉折らるゝ葉蕉かな」がやはり元禄三年の『華摘(はなつみ)』にあることを知ったのと、『錦繡緞』にない句が二句、『いつを昔』にあるのに気がついただけであった。

 草は皆女いじけぬさがの町       加生

 ひとつ松この所より浦の雪       同

 年代のわからぬ『俳家全集』中のものはあと廻しにして、『猿蓑』以前の加生時代の作品を通覧する。純客観派の本尊たる凡兆はまだ生れていないといって差支ない。この時代における凡兆は、他の作家に伍して異彩を放つほどの特色は持合せておらぬようである。ただその中で一つさすがに凡兆の作たるに恥じぬのは、「重なるや雪のある山たゞの山」であろう。いくつも重っている山の或峯には雪が白く積っており、或峯には雪も何も見えぬ、という眼前の景色をそのまま句にしたので、「たゞの山」という言葉は時と場合によっていろいろな意味に使われるが、ここでは「雪のある山」と続けたために、自ら対照的な意味になっている。巧な言葉ではないかも知れぬが、これ以上適切にこの感じを現す五文字は、恐らく見当るまいと思われる。

[やぶちゃん注:「俳家全集」正岡子規が手書きで作成した研究的労作。国立国会図書館デジタルコレクションのここから五冊分の子規の手書きのそれを総て見ることが出来る。

「華摘」其角編。元禄三年。

「草は皆女いじけぬさがの町」ネット検索では「さが」に「嵯峨」の漢字が当たったものが多数あり、一箇所で「女」に「おなご」(歴史的仮名遣「をなご」)と振ったものがあった。これは嵯峨野の草が「女がいじけたような感じで、しゃんと生えていない」ということに加えて、京の「嵯峨」野の地名と「女」の「いじけ」やすい「性(さが)」を掛けたものと読める。

「ひとつ松この所より浦の雪」「ひとつ松」は歌枕で近江八景の一つである「唐崎の一つ松」。サイト「京都の観光写真集」の「唐崎神社、唐崎の一本松」を参照されたい。]

 凡兆の『猿蓑』に収めた句に

 上行くと下くる雲や秋の天       凡兆

[やぶちゃん注:「天」は「そら」と読む。]

というのがある。上層の雲を吹く風と、下層の雲を吹く風と、その方向を異にするため、両方の雲が反対に動く。じっと仰いでいると、二つの雲の動きが交錯して目に入る。秋の空などによくある趣である。「上行くと下くる」という言葉によって、その反対の動きを現した手際も巧であるが、この句を一誦すると秋天の雲の動きが、まのあたり浮んで来るような気がする。

 凡兆の自然観察は精緻であってしかも生々としている。純客観派の本尊たる所以はこの辺に存するのであろう。

 「雪のある山たゞの山」は「上行くと下くる雲」ほど精緻な観察でもない。趣からいえばむしろ大まかであるけれども、雪のある山とない山との重り合った工合は頗る印象明瞭で、油画[やぶちゃん注:「あぶらえ」。]的な生趣に富んでいる。「重なるや」と上に置いたのも、下の大景を十分引緊めるだけの力がある。

 『曠野』と『猿蓑』との間には僅々二年の歳月しかないが、元禄の俳句はこの間において驚くべき飛躍を示した。『曠野』に発揮された平遠なる自然の趣は、『猿蓑』に至って更に高く更に深いものとなっている。ここに挙げた凡兆の二句の如きは、這間(しゃかん)の消息を語る好箇の一例であろう。『曠野』において「重なるや」の句を詠じた作者が、『猿蓑』に進んで「上行くと」の句を成すのは、極めて自然な径路である。凡兆の俳句生活は何時(いつ)頃からはじまるものかわからぬが、『曠野』に見えた「重なるや」の一句は、純客観派の本尊たるべき前途を語って余あるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「這間(しゃかん)」「この間(かん/あいだ)」の意。「這」には本来は「この」という意はない。宋代に「この」「これ」の意を漢字で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体を「這」と誤認して混同したことに拠る慣用表現である。既出既注。]

2020/05/21

三州奇談續編卷之三 七窪の禪狐

 

 三州奇談後編卷三

 

    七窪の禪狐

 七窪と云ふは海邊ながら地高うして、疇(うね)七つに下り上りありて高松に續く。則ち『「越の高濱」は爰を云ふ』とぞ。

[やぶちゃん注:前の「三州奇談續編卷之二」の掉尾の「薯蕷化ㇾ人」の擱筆で「七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん」と言っていた、その前の部分に相当する。

「七窪」「高松」「薯蕷化ㇾ人」の最後で示したが、現在、能登半島の南の端に石川県かほく市七窪があり、その北に少し離れて、かほく市高松がある。今回はグーグル・マップ・データ航空写真で示す(以下注なしのリンクは同じ)。下方の少し内陸の赤い枠(貫通する河川があるため、東西に分離しているように見える)が七窪、その上の海辺が高松(北東内陸部に複数の飛び地がある)である。参考までにここに高松北部海水浴場(但し、ここは現在はかほく市二ツ屋地区内である)のサイド・パネルの砂浜海岸の画像をリンクさせておく。因みに、ここから北へ十二キロほど行った千里浜海岸が長い砂浜海岸として美しいことで知られる。ここで大いなる不満を言っておくと、私は観光道路「千里浜なぎさドライブウェイ」と称して千里浜海岸に車の乗り入れを許している石川県の気が知れない。日本で海岸への車両の進入を許可して道路としているのはここだけなのである。

「疇(うね)」この場合は耕作地ではなく、山や丘の高くなっている部分を言う。スタンフォード大学の大正二(一九一三)年大日本帝國陸地測量部発行の「津幡」で七窪と高松の間を見ると、なだらかながら、高低に富んだ丘陵が続いており、概ね海側に針葉樹が、内陸側に広葉樹が植生し、ところどころに桑畑がある程度であるから、江戸時代後期にここに広大な耕作地(「疇」の第一義は人口の耕作地としての畝(うね)である)が広がっていたとは到底考えられないので、読みの「うね」を別にあるそのような意で採った。

「越の高濱」歌枕のように見えるが、私は知らないし、ネット検索でも掛かってこない。何かの聴き違いではないか。佐渡に「越の松原」「雪の高浜」があったという記事を見かけたが、それらは古く(歌枕とするには私は中世以前に詠み込んだものがなくてはならないと考えている)は遡れないようである。]

 されば低き地は必ず松あり。砂吹きならして一遍に見ゆ。爰に至りて行(ゆく)人路を誤る。古へより「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」とも云ふ。迷路(まよひみち)の理(ことわり)定め難し。廣野(ひろの)ながら樹(き)群立(むれだ)ちて妖もあるべき地と覺えたり。

[やぶちゃん注:「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」妖気を持つ狐らを飛砂が生きながら吹き埋め殺してしまい、その妖気が地に漂っているために。]

 此下(このしも)内高松(うちたかまつ)の池と云へるは、大洋よりの入江にして、渺々(べうべう)たる望(のぞみ)なり。近年も此池の中へ俄に島一つ吹出(ふきい)で、其上に草木も生ずる程なりしに、いつしか島消失(きえう)せて、今は元の入江の池となれり。地中の理は測るべからざること、まのあたりなり。

[やぶちゃん注:「内高松の池」「内高松」という地名ならば、高松の内陸に現在もかほく市内高松(うちたかまつ)(グーグル・マップ・データ)として高松に南北と西を抱かれるような塩梅で東に別個に存在する。そこに池もあるが、ここは内陸でとても潟として日本海と繋がっていた可能性はないように見える。しかし、もっと前の地図を見てみようと思った。そこで「ADEAC」を使って資料検索を掛けたところ、明治二(一八六九)年に描かれた加賀国絵図」を見つけた(北は左方向)。そこを開いて河北潟の部分をそのまま左部分を拡大して見て欲しい。すると、明治時代まで河北潟はずっと北まで驚くほど深く貫入していたことが判ったさらに左上方を「能登加賀國境」の文字が左側に大きく見えるまで拡大すると、国境のすぐ内側に二重丸(宿場町風)で囲われた「外高松」がある。これが現在のかほく市高松地区である。その右上を見て貰いたい。「内高松」(村であろう)とある。これが現在の内高松だ。そうしてその地名の脇に瓢簞型の池があるのが判る。それは地名で隠れた真下で左に流れる川に繋がっている。それを下って行くと村名が順に「橫山」・「宇氣」・「笠島新」・「鉢伏新」・「宇野氣新」とあって、「内日角」村の上方で河北潟に流れ入っているのが判る。この最後の三つの村名に「新」が附いていることに注目されたい。これは恐らくは江戸後期にここいら辺りまで、河北潟はさらに北に貫入していた、それを干拓して新しい村を作ったのではないか? とすれば、もっとずっと古くは、現在の横山や宇気にまで実は河北潟はあって、驚くべきことに現在の高松の東後方で入り江を作っていたのである! 諦めなかった結果、予想外の事実にたどり着くことが出来た! 目の前の日本海ではなく、ずっと南西から迂遠にぐるりと回って、日本海と繋がる汽水潟である原河北潟の北で、ここに正しく池を作っていたのである! 「地中の理」どころではない! 「海の貫入の理」こそ「測るべからざること、まのあたりなり」なのであった! 近現代の公式地図を見ていては到底思い至らぬことなのであった!

「渺々たる」現代仮名遣「びょうびょう」。果てしなく広いさま。遠くはるかなさま。

「望(のぞみ)」臨み。眺め。]

 七窪四疇(しうね)の高みには、地藏尊立ち給ひて、路次(ろし)の利益あること顯然たり。然れども今は砂、堂を吹き埋めて、八尺許りの尊像半ばを隱したり。

[やぶちゃん注:この地蔵尊は七窪地蔵として現存する。それも七窪神社の境内の中にちゃんと守られてある(元あった場所からここへ移転したもの)。「かほく市」公式サイト内の「七窪地蔵尊」に、『昭和の初め頃まで、宇野気から七窪に通じる道は低い沼地で、枯れた葦が風に揺れる寂しい光景が広がっていました。その上、「おまん狐」という人を化かす狐が出るので、夕方には人の往来もなくなっていました。これではいけないと思った七窪の人たちは、道行く人々の安全を願ってお地蔵様をつくり、道端に立てました。その後、お地蔵様は七窪神社の境内に移り、昔と代わらぬ微笑をたたえています』とあり、紹介動画(YouTube『石川県かほく市歴史・文化動画シリーズ「七窪地蔵」(かほく市教育委員会・かほく市ボランティア観光ガイド制作)もある! 必見! その中で地蔵は現在の津幡町(つばたまち)能瀬(のせ)に住んでいた渡邊家第六代当主で十村役(とむらやく)であった渡邊永忠弥右衛門が享保九(一七二四)年に造立したことが判っている。「十村役」とは加賀藩独自の制度で、名の通り十ヶ村ほどを纏めて取り仕切る頭役であるが、年貢の取立や藩からの掟の連絡・検地による地図作成・用水管理・各種の争い事の裁判まで殆んど藩の役人が行うべきことまで任されており、その屋敷には藩主や藩士が泊まることもあった非常に格式の高い百姓であった。因みに、本篇の作者堀麦水は享保三(一七一八)年生まれである。なお、上記動画の109のところに、国立国会図書館所蔵の「御鷹場等御定并繪図」の拡大図が出るが、そこでも前の内若松にあった池が見られる! ちょっとフライングするが、以下の話のロケーションをここで示す。妖狐の名は「おまん狐」という。「石川県神社庁」公式サイトの高松にある額(ぬか)神社の解説に、『当所は、加賀国より能登国に通じる街道にして街道の南、河北潟より七窪を経て当社に至る街道は、おまん狐の出でし所にして』とあることから、後のロケーションはここの中央南北の海寄りに相当する。]

 夏日(かじつ)景よしといへども、砂燒けて步み難く、秋日(あきび)は靜(しづか)なりと云へども、松覆ひて日(ひ)物凄し。冬・春は例の北地(ほくち)の雪風(ゆきかぜ)、奈何(なん)ぞ風景の望(のぞみ)に落ちんや。元來濱地の能登道(のとみち)なり。實(げ)に「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」と云ひし、戰後の地異をも寫すべし。

[やぶちゃん注:「松覆ひて日(ひ)物凄し」松が覆いかぶさるように生えているので、木下闇(こしたやみ)深くて日中でも陽光が差し入らず、何やらん、物凄い感じがする、という意味か。

「奈何ぞ風景の望に落ちんや」どうして風景を眺めようなどという気持ちになれようか、いや、なれぬ、一時も立っていられないほど寒く凄絶なる状況である。

「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」この前後の鍵括弧は私が附したもの。訓読すると、

 砂場(さじやう) 夜(よ)に入つて 風雨 多し

 人 云(いは)く 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)る」

か。どうもこの最後の「る」が私は気に入らない。この「る」は衍字で「來と」で、

 人 云(い)ふ 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)れ」と

と読みたくなる。而してしかし、この七律の出来損ないのようなものの原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。二句目の意味は『人は言う。「ここを通りたくば、鉄の鎧兜つけた勇猛な騎兵を身近に連れて通れ」と』の謂いか。

「戰後の地異をも寫すべし」これはこの付近で実際に戦闘があったことを指すのではないだろう。その一年を通してこの辺りに漂っている、どこか荒涼とした感じは、あたかも、沢山の人が死んだ戦場の地に染み滲んだ死者たちの古血の恨みの地妖を再現したような感じと謂うべきものがある、という謂いであろう。]

 享保[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]何れの年にや、爰に人を殺して懷中の物を奪ひ立ち隱れし事あり。金澤の檢使某(なにがし)死骸をとくと改むるに、

「切疵(きりきず)の躰(てい)刀・脇差の類ひにあらず。小刀(さすが)樣(やう)の物なり。况や糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる。」

檢使の人心(こころ)利(き)きて、

「是(これ)常人の所爲にあらず。必ず穢多(ゑた)仲間の者どもの仕業(しわざ)なるべし。人間には違(ちが)へる所あり」

とて、則ち役人を以て非田地(ひでんち)の者どもを吟味するに、終(つひ)に殺人(さつにん)知れて、穢多兩人刑に逢ひたり。

 さればいばりに付きて替りありと聞えしが、是に似たる怪談を近くも聞けり。

[やぶちゃん注:以上はこの辺りで起こった、一つの異常な殺人事件と、その不思議な捜査・判例を挟んだものである。

「檢使某」検死役としてやって来た役人の某(ぼう)。

「糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる」犯人は大小便を犯行現場に残しているが、その糞や小便が広範囲に、しかも方々に隔たってなされてある。

「心利きて」非常に利発で鋭く。

「穢多(ゑた)」「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注を参照されたい。

「非田地」「加能郷土辞彙」に『ヒデンチ 非田地 藩政の間、非田地のものといふのは農業に從事せざるものゝ意味で、藤内・穢多・舞々・非人等の總稱である』とある。この「藤内」は「とうない」と読むが、加賀藩独特の呼称で、藩内にいる被差別部落民の最上位のぐるーぷを指した。 「舞々」(まいまい)は中世に発生した曲舞(くせまい)・幸若舞(こうわかまい)などの流れを受けた歌舞音曲を演じて門付した芸能者たちを指す。

「人間には違(ちが)へる所あり」「たがへる」でもよい。小便の仕方に通常の人間とは違うところがある、というのである。それにしても「人間には」という物言いの、驚くべき差別感に慄然する。これが以下の話に繋がるポイントとなる。]

 安永初めの年、稀有なる狐妖(こえう)あり。秋も尾花の色ふりて、うら枯の野の露多き冬空近き頃なりき。能登の惣持寺(そうぢじ)へ行く僧の多き時なりし。

[やぶちゃん注:「安永初めの年」明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元している。

「惣持寺」表記はママ。現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸嶽山總持寺祖院(そうじじそいん)。旧曹洞宗大本山總持寺。本山機能が神奈川県横浜市へ移転する際、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」が「總持寺祖院」と改称されて別院扱いとなった。ウィキの「總持寺祖院」によれば、『加賀藩時代を通じて手厚い保護を受け』た寺で、『江戸幕府は』元和元(一六一五)年に『永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で』一千『両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが』、明治三(一八七〇)年の『栴崖奕堂以後』、『独住の住持が置かれた』。明治三一(一八九八)年四月、『大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失』、七年後に『再建されたものの、これを機に』、『より大本山に相応しい場所への移転を求める声が高ま』り、明治四四(一九一一)年十一月五日、横浜鶴見へ移されたとある。]

 一人の禪僧此七窪の砂道に行き倦(う)みて、松の古木に打もたれて一睡を快くせしに、秋の日早くたけて、夕風の冷(さむ)けさに忽ち驚き、夢打覺めて起返(おきかへ)り、傍らを見れば一僧あり。是れも今眠(ねむり)覺めたる躰(てい)に見えて、手を伸ばし欠伸(あくび)し、以前の僧をきよろきよろと見て物云ひたげなる躰(てい)なり。以前の僧は、元來關東出の遠慮知らずの氣儘坊主なれば、則ち問て曰く、

「偖(さて)此僧は何所(どこ)の僧だ、何方(どこ)へ往き召す」

と云ふ。跡の僧曰く、

「何所出(いづくで)の者でも僧は僧なり。夫(それ)を疑ふは何事ぞ。」

鬪東僧の曰く、

「此小僧は咎(とが)め好(ずき)の坊主だ。己(おれ)が問ふは尋ねるのだ。夫(それ)をはや疑ふとは是(これ)狐疑心(こぎしん)を持てるよな。」

跡の僧曰く、

「心中元來一物(いちぶつ)なし。疑ふを以て狐疑心と寫(うつ)すならば、汝も未だ五百生(ごひやくしやう)中(ちゆう)の野狐生(やこしやう)なり」

と云ふ。關東僧恐(いか)りて、

「野狐生とは其方が事よ。不落因果・不迷因果の理(ことわり)は濟んだか」

と云ふ。

 跡の僧曰く、

「偖(さて)も愚鈍なる問ひやうかな。不落も不迷も同じことにて、今日にては古反古(ふるほうご)書(かき)汚(けが)し紙の類(たぐひ)なり」

と云ふ。

 關東僧又橫に打倒れて足を延ばし、

「汝が師匠は誰じや[やぶちゃん注:ママ。]、何所(いづこ)の法嗣(はうし)ぞ」

と問ふ。

 跡の僧云ふ、

「我は師も求めず法も嗣(つ)がぬ。其方は不學者なれども氣丈なり。最(も)そつと問答せん」

と云ふ。

 關東僧彌々(いよいよ)怒りて、

「法も受けず師もなき者ならば、犬に劣れる類(るゐ)の者ぞ」

と云ふに、此僧又

「きよろきよろ」

と四方を見る。

 關東僧寢ながら片足を松にかけて、小便をみだりに放しけるに、跡の僧何と思ひ合せしや、驚く氣色(きしよく)見えしが、いかなる故にかありけん、

「クハイクハイ」

と鳴きて、三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]許り飛んで四足(よつあし)の形ちと變じ、小松隱れに逃失(にげう)せける。

 關東僧

「こはふしぎ」

と思ひ怪しむ中(うち)に、暫くして人も通り來りければ、打連立ちて今濱へ出で、道々此(この)ありし事ども語るに、其中に酒井の永光寺(えうくわうじ)の僧ありて申されけるは、

「夫こそは此野邊に年經る『黃藏主(くわうざうす)』と云ふ黃狐(きぎつね)ならん。我寺の和尙能く狐狸に馴るゝ故に聞けり。先々(まづまづ)日も暮るゝに今濱迄來られよ」

と。先達して宿をも指圖して、偖(さて)委しく語らせて聞合ふに、關東僧も心付き、

「思へば目付き物云ひ、是非(ぜひ)野狐には極まれり。犬に劣れる類(たぐひ)の者と云ひし時、けしからぬ顏付なりしに、小便する關東風(のふづ)の野躰(やてい)を見て、本(もと)より狐疑の者なれば、『若しや此僧は狗(いぬ)の化けたるなるか』と思ふより、急に逃去(にげさり)しとは覺えぬ」

と、今濱・子浦など宿々の夜話なり。

 七窪は禪僧の能く通る所なれば、かゝる法語を覺えてや、猶も疑ひを晴(はら)さんと出でたるなるべし。

 能(よ)く能く思へば、野狐生返つて人間の上に出づる說をなす。久しく諭ぜば妙論を出(いだ)すべき躰(てい)なりしに、狗の化けたるかと恐れて、半ばに止みしは残念にや。

 扨は人間の妖物を恐るゝのみにはあらず、狐狸も又妖物を恐るゝに違ひなし。さらば奇談の妙、人中(じんちゆう)のみの間(かん)にはあらず。

[やぶちゃん注:「以前の僧」「以前」は「もとより」の意。

「五百生中」五百年を生きて妖術を得たの意。

「野狐生」面白い。自ら「野禪」(禅の修行者が未だ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれるこ)に掛けて名乗っているのである。あり得ない。

「不落因果・不迷因果」私の「無門關」の「二 百丈野狐」を参照。

「クハイクハイ」面白い。表面上は狐の鳴き声のオノマトペイアであるが、一般には狐の鳴き声は歴史的仮名遣では「クハウクハウ」である。恐らくここには「解、解」(但し、これは「クワイクワイ」となる)、則ち、「悟ったぞ! 悟ったぞ」の意に掛けてあるのかと私は読んだ。

「今濱」高松の少し東北の海辺のこの付近であろう。

「酒井の永光寺」石川県羽咋市酒井町にある曹洞宗洞谷山(とうこくざん)永光寺(ようこうじ)

「黃藏主」tera 氏のブログ「【妖怪図鑑】 新版TYZ」にこの後半部が現代語訳されてあり、『加賀の化け狐』とある。この訳は完全ではないものの、なかなか本腰が入ったいいものである。

「是非」必ずや。

「關東風(のふず)」この当て訓は「近世奇談全集」を参考にした(但し、そこでは「のふづ」とあり、歴史的仮名遣としては誤りであると思う)。「のふず」とは「のふうぞく(野風俗)」の音変化で、「無作法であること・図太くいばっていること」、また、そのさまで、「のふうぞう」とも呼んだ。関東の男子が犬のように片足を上げて小便をするというのは、江戸期の風俗画の中で確かに見たことがある。

「子浦」今浜の少し北に子浦川が流れる。]

昨日のbotによるブログ・アクセスについて

昨日の午前9時過ぎからbotによるブログ・アクセスが一記事毎に行われ、アクセス総数が一日で13000を超えた。
午後4時頃に気づき、IPアドレスで当該botのカウントを停止し、その時点でのカウント表示数を前日までの数値に計算し直した上、昨日のvisitor数のみを加えて減じておいた。
botは5時前には終わった。
私は思うに、特定の記事から金になる情報を引き出そうとする外国からのアクセスの可能性が高いと考えている(法人情報の場合はそうした情報記載の有意性が知れる可能性があるからである)。
以前にも一度あったが、その後、ある検索の最中、英文のフレームの中に私のブログ記事がそのままの状態でごっそりソリッドに保存されているのを見つけたことがある。
それを眺めながら、私は「これが残るとならば、私のブログが私の死によって無くなってもそれは残るのかも知れない。多分、誰も読まないし、得になる情報は皆無であるのに」
と思ったものである。ご苦労なことだと思う。
以上。

2020/05/20

「惟然坊句集」をサイト版で公開(縦書版もあるよ!)

昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊の「名家俳句集」に載る「惟然坊句集」を全電子化して、サイト版として公開した。

HTML横書版

HTML縦書版(最近はグーグル・クロームやエッジでも見られます)

の二種を用意した。ストイックにオリジナルの注も附してある。晩年の芭蕉が溺愛した、口語・破格テンコ盛り、妻子を捨てたアウトローのぶっ飛びの句群を味わっていただきたい。

2020/05/19

この騒ぎに就いての私の見解

私は正直、経済政策と自己保身でしかない政治家にも、初めから判ったような新ウィルスを語る自称疫学者にも、飽き飽きしている。そうさ、湘南海岸に参集する連中には海中を含めて有刺鉄線を張るべきだとさえとまともに思っている(自衛隊の諸君には設営だけで防衛を頼んではいけない。ある種の若い集団はそれを面白がり、自分を殺すことなどないと思い上がっている彼らに諧謔的に誘い掛けて揶揄することが目に見えているからだ)。しかし、このままで「この」生温いことをだらだらやって、「この騒ぎが静まる、静まって欲しい」と無知も甚だしく勝手に我儘に考え行動する大衆の一部を抑え込むことが出来ぬ限り、諸君の求めている仮想の「以前の生活」など夢のまた夢であると断言する。ウィルスとの共存は無論、可能ではある。しかし、それは残念ながら、数年・數十年或いは数百年単位ででしか生物学的にはあり得ないと私は考える。簡単に「ワクチン」とか「特効薬」とかの公的発言には、強く眉に唾せねばならぬ。自己複製不全のRNAウィルスの変異は想像を絶するからだ。我々「ヒト」は決して自然を征服することは出来ぬ。寧ろ、核兵器や核汚染、もしかするとこの騒ぎでさえ疑われる生物兵器によって、「ヒト」自身が容易に滅亡する可能性は頗る高率であるからである。
大事なことは――「為政者」や「識者」と呼ばわるる輩は――「最悪の事態」を決して語らない――ということに尽きる。ありとあらゆる悲惨な戦時の国家のように――である。「この事態は戦争だ」という彼らの謂いは――それに尽きる――ということである――

2020/05/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 四 / 惟然~了

 

       

 

 芥川龍之介氏は『続芭蕉雑記』の中で、惟然を評して「彼の風狂は芝居に見るように洒脱とか趣味とかいうものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である」といい、更に附加えて「もし彼の風狂を『とり乱している』と言う批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝(おし)まないであろう」ともいった。桎梏(しっこく)を厭い、山野を恋うるの情は、何人といえども多少は持合せている。ただこれを実行に移すに及んで、惟然の如き勇気を持合せぬため、大概の人は首途に逡巡(しゅんじゅん)するのである。この意味から見れば、惟然は蕉門中最も芭蕉に近い一人といい得るであろう。『渡鳥集(わたりどりしゅう)』が集中の作者を国別にして挙げた中に、一処不住としたのは芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴(うんれい)の五人である。同じく一処不住であっても、支考と惟然との間には大なる径庭(けいてい)を認めなければなるまい。

[やぶちゃん注:以上は二ヶ所とも昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された芥川龍之介の「續芭蕉雜記」(リンク先は私の「芭蕉雑記」及び「續芭蕉雜記」の「芭蕉雜記」の草稿を纏めた古い電子化)の「三 芭蕉の衣鉢」の中の一節。既に「惟然 二」の私の注で、その全文を示してある。

「桎梏」「桎」は「足枷(あしかせ)」、「梏」は「手枷」で、人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。

「首途」「しゅと」或いは「かどで」と読む。元は「旅に出ること・旅立ち」で、転じて「物事を始始めること」の意にも用いる。

「逡巡」決断出来ずにぐずぐずすること。しりごみすること。ためらうこと。

「渡鳥集」去来・卯七編。丈草の跋文は元禄一五(一七〇二)年十一月、宝永元(一七〇四)年刊。

「一処不住としたのは芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴の五人である」但し、「芭蕉」は同書刊行の十年前に亡くなっている。「丈艸」は刊行時には没していた(元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)没)が、跋文を書いているから問題はない。「支考」如きは論外だし、「雲鈴」は延宝二(一六七四)年~寛延四(一七五一)年)は堀内雲鼓の門人で京都に住んだと辞書にあるので、甚だ怪しい。

「径庭」「径」は「小道」、「庭」は「広場」の意で、二つのものの間にある懸隔が甚だしくあること。「荘子」の「逍遙遊」が典拠。]

 惟然は風狂のために家を捨て、妻子を棄てた。彼が芭蕉を喪(うしな)って後、その遺句をつらねた風羅念仏なるものを作って、「心の趣く所へはしりありく」うち、名古屋の町中で成人した自分の娘に遭遇した。この時

   両袖にたゞ何となく時雨かな    惟然

の句をいい捨てて逃れ去った事、娘が京都まで慕って来たと聞いて、自分の旅姿を画いた上に、

   おもたさの雪はらへどもはらへども 惟然

と題したものを人に托したまま、直に越路をさして走り去った事などは、惟然の生涯における最も有名な逸話で、同時に彼の風狂の如何なるものかを語る有力な資料になっている。その娘も遂に薙髪(ちはつ)して惟然の郷里に草庵を結ぶと、惟然も越路から帰って暫く起居を共にした。この辺は多少西行の俤(おもかげ)があるが、調度が七つしかないというので、その庵に弁慶庵と命ずるあたり、西行よりも洒脱な、平和なところがある。しかし折角の弁慶庵の生活も一年とは続かず、「又風雲の心おこりて風羅念仏を歌ひ浮れて走り出」てしまったのは、固より惟然の惟然たる所以で、彼は一切を捨てて風狂に身を委ねたのである。古え孔子の大聖を以てすら「七十ニシテ而従ㇾ欲スル不ㇾ踰ㇾ矩」といった。惟然のような天縦(てんしょう)の材が、心の赴くところに任せた迹(あと)を見て、常軌を逸したことを咎めるのは、そもそも咎める方が無理であろう。

[やぶちゃん注:前半の逸話の内容は既に「惟然 一」の私の注に電子化した伴蒿蹊著で寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」にあるものだが(「風羅念仏」もそちらで説明した)、ここで宵曲が示した全体の原拠は惟然百回忌記念追善集として中島秋挙が編した「惟然坊句集」(曙庵秋挙及び朱樹叟士朗序・秋香亭巴圭及び三河宍戸方鼎跋・文化九(一八一二)年刊)の跋文によるものである。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊「名家俳句集」の「惟然坊句集」を視認して典拠部分を示す。まず「心の趣く所へはしりありく」を含む箇所は以下。傍点「ヽ」は太字に代え、踊り字は正字化した。踊り字「ゝ」は「〻」であるが、濁点付きがあるので「ゝ」「ゞ」に代えた。

   *

  蕉像の事
  風羅念佛の事

翁の亡骸いとねもごろに粟津義仲寺に葬たてまつりて、幻住菴椎の木を伐りて、初七日のうちに蕉像百體をみづから彫刻し、之を望めるものに與へぬ。又「まづたのむ椎もあり夏木立降るはあられか檜笠 古池や古池や蛙とびこむ水の音南無アミダ南無アミダ」かゝる唱歌九つを作りて、風羅念佛となづけ、翁菩提の爲にとて古き瓢をうちならし、心の趣く所へはしりありく、そも風狂のはじめとぞ。

   *

「瓢」「ふくべ」或いは「ひさご」と読んでいよう。瓢簞のこと。続いて、自身の捨てた娘と遭遇した部分から最後まで。【 】は底本では二行割注。また、底本に載る本文中に記されてある真蹟「おもたさの雪はらへどもはらへども」の旅姿と一句の記された画像を補正してこの後に載せた。]

   *

  娘市上に父惟然坊に逢ふ事

坊風狂しありくのちは娘のかたへ音信もせず。ある時名古屋の町にてゆきあひたり。娘は侍女下部など引連れてありしが、父を見つけて、いかに何處にかおはしましけむ、なつかしさよとて、人目もはぢず乞丐ともいふべき姿なる袖に取付きて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

 兩袖にたゞ何となく時雨かな

と言捨てゝ走り過ぎぬとなむ。

  娘父を慕ひ都に登る事幷娘薙髮の事

娘父に逢はまほしくおもふ心明くれ已まざりけるを、ある時父都に在りと聞て、いそぎ都に登り、書肆橘屋何がしの家は諸國の風客いりつどふ處なれば、此家にゆきて問はゞ、父の在家もしらるべければとて、ゆきてあるじに逢ひていふやう、みづからは惟然坊といふものの娘にて侍る、父風雲の身となりてより、たえて音信なかりしを、さいつ頃ある街にてふと行逢ひ侍りていとうれしく、近くよりて過ぎこし程の事いひ出でむとし侍りしほどに、かきけすごとく遁れ隱れて、影だにみえずなり侍りつれば、いはむかたなく打歎きつゝ日數過しつるほどに、此ごろ都におはする由風のたよりに承りて、取るものもとりあへず、はるばる登り侍りぬ。父の在家知り給はゞ逢はせ給へ、いかでいかでと泣く泣く言出づれば、うちうなづきて、げにことわりなりけり、さらば尋ね求めて逢はせ參らせむとて、彼方こなたかけあるきつゝ、からうじて坊がありか尋ねあたりて、かくてしかじかのよしかたりければ、坊とかうの返事なく、硯とり出て[やぶちゃん注:「いだして」。]、墨すり流し、かゝる畫かきて、うへにほ句[やぶちゃん注:「發句」。]書ていふやう、あふべきよしなし、此一片の紙を與へて還したまひてよとて投出しつゝ、かくて其身は雪の越路の冬ごもりこそ好もしけれとて、うち立たむとしけるを、袖をひかへて引とゞむれど、ふりはなちて草鞋さへはかずして、越路をさして走りゆきぬ。橘屋何がしほいなく[やぶちゃん注:「本意なく」。不本意で期待外れに。]思ひけれど、せむすべもなく、かのかいつけたるを持て歸り來て、ありしことのよしを語りければ、むすめはたゞふしにふして泣きけり。あるじも共に淚にかきくれけるを、やゝありて娘頭を擡げて[やぶちゃん注:「もたげて」。]いふやう、かくまで淸き御こゝろを强ひて慕ひまゐらするは、わが心匠[やぶちゃん注:「たくみ」。思慮。]のつたなきなり、これぞ我身にとりてこのうへ無きかたみなるとて懷にいれて、いとねもごろにあるじに暇乞して、父のふるさとこそ戀しけれとて、關の里へかへり、みづから髻[やぶちゃん注:「もとどり」或いは「たぶさ」。]をはらひ、幽閑なる山陰の竹林に草の菴をむすび、かの都よりもて歸りたるを一軸となして、明暮父に事ふる心にして、かの一軸をぞかしづきける。坊かゝるよし越路にて聞て、遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]馳せ歸りて、かく染衣[やぶちゃん注:「ぜんえ」。僧衣。]の身となりぬれば、過ぎこし方の物語し、一椀の物をも分けつゝ食ひて、ともに侘住居[やぶちゃん注:「わびずまゐ」。]せむと、心うちとけて、多年の思一時に[やぶちゃん注:「おもひ、いつときに」。]はらし、かくて辨慶庵といふ額を自ら書て懸けつゝ、此庵の名としぬ。【調度七つをもて明暮の辨用とするゆゑとぞ】さるを一とせもたゝざるうちに、又風雲の心おこりて、風羅念佛を歌ひ、浮れて走り出ぬ。かくて播磨國姬路の里は親しき友多ければ、尋行てこゝに足とゞめしを、日あらずして病して終に姬路にて身まかりぬとぞ。

Omotasano

   *

この一句と絵は孤高の惟然の名品である。これはまさに山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」の遥かな真正の先取りであろう。

「七十ニシテ而従ㇾ欲スル不ㇾ踰ㇾ矩」「論語」の「爲政第二」の有名な一節。

   *

子曰、「吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲不踰矩。」。

(子曰く、「吾(われ)十有五にして學に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳(みみ)順(した)がふ。七十にして心の欲する所に從ひて矩(のり)を踰(こ)えず。」と。)

   *

「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。]

 われわれは惟然の行蔵(こうぞう)を以て飽くまでも天賦の性によるものとし、こういう人物をも自分の翼(つばさ)の下に置いて自由に翺翔(こうしょう)せしめた芭蕉の包容力に敬意を表せざるを得ない。芭蕉さえ健在であったならば、惟然も風羅念仏を歌って浮れ歩く必要もなかったろうが、また一方から考えれば一たび芭蕉に遭い得たからこそ、風羅念仏を歌ってでも残生を全うしたのであろう。幸不幸は比較の問題である。芭蕉に別れた惟然の悲愁は同情に堪えぬけれども、芭蕉に遭い得なかった人、たとい遭い得ても彼の如く魂の契合を見出し得なかった人に比べれば、彼は遥に幸福であったといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「行蔵」進んで世に出て手腕を振るうことと、隠れて世に出ないこと。出処と進退。

「翺翔」鳥が空高く飛ぶように、思いのままに振る舞うこと。

「契合」合わせた割り符のようにぴったり一致すること。]

  翁身まかり給ひてふたゝび

  伊賀におもむく道中

 瘦顔のうつりて寒しむらの橋      惟然

[やぶちゃん注:「瘦顔」は「やせがほ」。]

  深川の旧庵に入て

 こゝらにはまだまだ梅の残ども     同

[やぶちゃん注:「残ども」は「のこれども」。]

  む月廿日あまりふかゝはの
  旧庵に入てこゝかしこなつ
  かしき事のみなれば

 鶯のなけば今朝尚おきられず      同

  芭蕉翁三回忌

 庵に寝るなみだなそへそ浦鵆      惟然

[やぶちゃん注:「浦鵆」は「うらちどり」。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。]

  芭蕉翁七回忌追善

 空よそらさればぞ風の只寒み      同

[やぶちゃん注:元禄十三年十月十三日(グレゴリオ暦一七〇〇年十一月二十四日)作。芭蕉の忌日は「時雨忌」とも呼ばれる(「時雨」は旧暦十月の異称でもあり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあったことに拠る)が、この日はからりと晴れて、しかし、ただただ寒風ばかりの吹き抜ける寒々とした日であったものを、『空よ! そら! 今日はさても! かの芭蕉翁の「時雨忌」にてあらせらるるのだぞ!』と擬人法で呼びかけているである。「寒み」「み」は形容詞の語幹に付いてその状態を表わす名詞を作る接尾語で「寒い日和」の意。]

  芭蕉忌

 摺小木も飛て廻るか散木葉       同

[やぶちゃん注:「摺小木」は「すりこぎ」、中七座五は「とびてまはるかちるこのは」と読んでおく。芭蕉庵に散る木の葉と同じように、使う主もいないぶら下がった擂粉木が凩に吹かれてくるくると廻るという淋しい情景か。]

 こういう芭蕉歿後の作に、しみじみとした追慕の情を感ずるものは、勿論われわれだけではあるまいと思う。けれども静にその作品の迹をたずねると、芭蕉歿後の惟然は必ずしもいい道ばかり辿っているわけではない。許六が漫罵を逞(たくま)しゅうした『青根が峯』時代よりもむしろ後において、惟然の作品は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の感を与えるものが多くなっている。

 きりぎりすさあとらまへたはあとんだ  惟然(きれきれ)

[やぶちゃん注:「きりぎりす」私はしばしば行われている古典で一律に「きりぎりす」を現在の「コオロギ」の古名とする立場には異を唱える人間であり、それについては私のオリジナルな考察を「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の注で行っているので、是非、参照されたい。但し、一般人にとって分類の必然性がなかった中古・中世に於いて、「鳴く虫」の総称として「きりぎりす」や「こほろぎ」があり、それらが互換性を持っていたというのであれば、正しい。特に音数律に於いて「きりぎりす」の五音が歌語・俳語として使い勝手が良かったことから、事実はコオロギの鳴き声であっても「きりぎりす」と詠み込んだ可能性は大いにある点で中古・中世には特に雅語・歌語・俳語としてその逆転現象が優位であったとは思われる。しかし、では――古典では「こほろぎ」は現在の「キリギリス」であり、現在の「キリギリス」は古典では「はたをり」と呼ばれていた――などと鬼の首を捕ったように国語教師が言うのは非科学的である。そもそもが「こほろぎ」は既に「鳴く虫」の総称として「万葉集」で七首に用いられており、そこでは如何なる虫かを限定出来ないのである。されば、奈良時代に「こほろぎ」が「秋の虫の鳴き声の総称」の地位から追われて、音律の都合がいい「きりぎりす」が「秋の虫の鳴き声の総称」とって変わったが、本草学が博物学的なレベルまで広がってくる近世、それも江戸前期には既に現在と同じ正しい「こほろぎ」と「きりぎりす」になっていた(少なくとも本草学者や生物に関心のある知識人にとっては)と考えてよい。実際、江戸中期の日本の正徳二(一七一二)年成立した類書(百科事典)である寺島良安の、私の電子化注「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」をみて戴きたい。挿絵から既に正しく描かれているのである。しかし、では、この良安と同時代人であった惟然の句の「きりぎりす」はキリギリスかと言われると、これは、それを捕まえんとしているシーンを思い浮かべる時、どうして室内の景であり、大きさや動きからもキリギリスではどうにも役者の図体がでか過ぎてだめである。ここは歌語の伝統を踏まえる俳諧からして現在の「コオロギ」と採らざるを得ぬと言える。

「きれきれ」俳諧選集「きれぎれ」。白雪編。元禄一四(一七〇一)年自序。]

 何とせう名月なれどなぐれたは     同

[やぶちゃん注:「なぐれたは」「なぐれる」は「横に逸れる」の謂いで、ここは、「何んということか! ほんに味わうに最もよき名月であるのに、自分が見ているここからでは一番よい筋から横にそれたように動いて行きおるが!」で、月が何かの影に隠れてしまいそうなのであろう。]

 暖さ水仙があゝ莟んだぞ        同

[やぶちゃん注:「莟んだぞ」は「つぼんだぞ」。「蕾(つぼみ)を持ったぞ!」。]

 おしめたゞはや浅瓜かこれはこれ    同(三河小町)

[やぶちゃん注:「これはこれ」の後の「これ」の部分は底本では踊り字「〱」であるが、当時の口語音律から考えて、かく正字化して読んだ。

「浅瓜」(あさうり)はウリ目ウリ科キュウリ属メロン変種シロウリ Cucumis melo var. utilissimus の別名。身が緻密であるが、味が淡白なため、奈良漬けなどの漬物としての利用が適している。種を抜いて螺旋状に切り、塩をして干したものは「雷干し」と称し、夏の風物詩であった。惟然は好物であったのだろう。それが恐らくもうさわに乾されていた景を見ての好物ゆえの妙に惜しむ感慨ででもあろう。

「三河小町」白雪編。元禄一五(一七〇二)年刊。]

 よい節供でござるどなたも菊のはな   同

 新麦かさらばこぼれをほつほつと    同

 何でやはひとりわらひは涼しいか    同

 ふんきつて尚悪うなくちる梅か     同

[やぶちゃん注:「何か、踏ん切って思い切ったようにはらはらと散る桜、何とも、それもなお……悪うはないなぁ……」。]

 朧でも月に何にもあらばこそ      同(はつたより)

[やぶちゃん注:「朧」は「おぼろ」。「月にしろ何にしろ、その存在のあらばこその『朧(おぼろ)でもよい』というものであるよ」という意か。

「はつたより」「初便(はつだより)」。知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

 おらもはや霞む知る人もゝすかち    同

[やぶちゃん注:「初便」には「聳ものは」の前書がある。「聳(そびき)物は」で「聳き物」は連歌・俳諧に於いて季題分類の「天文」の内で「雲・霞・煙などの聳え棚引くもの」を総称する語である。「もすかち」は「燃す勝ち」で「燃やしているように霞んで見える」の謂いか。]

  三栄軒の三字は二百才にたらざる
  寿老の手跡にこそ、窓前松あり菊
  ありながら再久世のおのおのに対
  面すといふことば書ありて

 先あきよ月をたがひの無事ながら    同(花の雲)

[やぶちゃん注:「三栄軒」不詳。以下、前書き全体も意味が判らない「再久世」は「ふたたび、くぜ」で「久世」は人名と思われるが、これも判らない。「先」は「まづ」か? 句の意味も判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「花の雲」千山編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

  致景は作の内久世といふながれにこそ

 奪合ふものいちごから水雞から     同

[やぶちゃん注:「致景」は絶景の意だが、前の句の前書の「久世」がまた出現してこの前書の意味も不明。句の意味も不明。「いちご」は「苺」に「一語」を掛けたか。

「水雞」は「くひな(くいな)」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus「惟然 三」で既出既注。]

  人丸の社頭を拝す

 やんはりと海を真向の桜の芽      同

[やぶちゃん注:現在の兵庫県明石市人丸町(ひとまるちょう)にある柿本大明神とも称される柿本人麻呂を祀る柿本(かきのもと)神社(グーグル・マップ・データ)。創建史はウィキの「柿本神社」を参照されたいが、ここの境内には「盲杖桜(もうじょうざくら)」がある。これは『筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木。当地における杖立て伝説を示す』(サイト「神話の森」の「歌語り風土記」の「柿本神社 盲杖桜」には今少し経緯のある(和歌の歌い直し)話が載る)とあり、『境内は明石海峡を望む』淡路島を正面に見る『「ほのぼのと」の歌に相応しい景観を提供する地であるが、日本標準時子午線(東経135度)が通るのに因んで社前の山腹に明石市立天文科学館が建てられ、その高塔が聳えているため視界が一部遮られている』とあるから、惟然のこの一句もその和歌と致景に杖立伝承をインスパイアしたものであることが判る。]

  わらぢ解里は鴨方となん、その家

  あたらしう三つば四つ葉になど

 覚ふぞ十七日の夏の月         惟然(二葉集)

[やぶちゃん注:「解」は「とく」。「覚ふぞ」は「おぼえふぞ」。

「鴨方」恐らくは岡山県浅口市鴨方町(かもがたちょう)鴨方(グーグル・マップ・データ)であろう。

「三つば四つ葉になど」意味不明。

「十七日の夏の月」「十七日」は「とをなぬか」と読んでおく。立待月(たちまちづき)である。

「二葉集」(惟然編・元禄一五(一七〇二)年刊)は後で振られているが、現代仮名遣で「じようしゅう」と読む(歴史的仮名遣では「じえふしふ」)。]

  兀峰亭にて

 涼しいか草木諸鳥諸虫ども       同

[やぶちゃん注:「兀峰」桜井兀峰(ごっぽう 寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江出身で備前岡山藩士。通称は藤左衛門・武右衛門。元禄五(一七九二)年に江戸勤番となってより、芭蕉に学び、其角・嵐雪らと交わった。]

  道は水のながるゝがごとくものと
  あらそはざれば、おのづから麦も
  あからむ時あれはなり。只潜竜を
  もちゆる事なかれと、浪々士禿峰
  のもとにおくる

 おのづからおのづからこそ雲の峯    同

[やぶちゃん注:「潜竜」「せんりよう(せんりょう)」。「せんりゆう(せんりゅう)」でもよい。池や淵に潜んでいて未だ天に昇らない龍の意で。しばらく高い位に就かずに敢えてそれを避けている人。世に出るに相応しい機会に未だめぐり逢わない英雄の謂い。

「禿峰」人物不詳。故に前書きの意味も「潜竜をもちゆる事なかれ」の部分が却って判らない。であるから、句自体も半可通である。]

 この雪に何がなとかく座禅かよ     同

  兵庫に入吟

 つげてくるゝ最とまれとや雉子の声   同(当座払)

[やぶちゃん注:「入」は「いる」。「最」は副詞の「もう」である。

「当座払」(たうざはらひ:千山編。元禄一六(一七〇三)年自序。]

 新麦で先しつとりと誰が命       同

[やぶちゃん注:「先」は「まづ」、「誰が」は「たが」。五座は自身を外化して卑称化したものであろう。]

 鮠ならば松茸ならば嘸や嘸や      同

[やぶちゃん注:「鮠」]は「はえ」(「惟然 一」で既出既注)、「嘸や」は「さぞや」。]

 『きれきれ』は元禄十四年、『三河小町』『はつたより』『花の雲』『二葉集(じようしゅう)』は共に十五年、『当座払』は十六年の刊行である。これらの句に著しいものは第一に俗語の駆使であるが、これは伊丹派にも同様の傾向があり、必ずしも惟然の擅場(せんじょう)と見るわけには行かない。ただこれを前に引いた「若葉吹く風さらさらと鳴りながら」「水さつと鳥よふはふはふうはふは」「水鳥やむかうの岸へつういつい」等の諸句に比べると、同じ俗語であっても効果に大分の相違がある。少くとも『三河小町』以下の諸書に散見する句は、この若葉の句乃至水鳥の句ほど、自然の趣を感ずることが出来ない。いわば惟然のひとり言(ごと)であって、この種のひとり言は動(やや)もすれば「ひとりよがり」に堕しやすいのである。

[やぶちゃん注:「伊丹派」「伊丹市」公式サイトの「伊丹風俳諧」によれば、『酒造業が盛んだった伊丹のまちでは、酒造家たちを中心に文芸が流行。「太くたくましい伊丹風俳諧」が起こり』、『その拠点だった俳諧塾「也雲軒(やうんけん)」には、西山宗因(そういん)や井原西鶴(さいかく)など諸国の俳人、文人たちが集い』、『そうした中に育った』のが、伊丹派の中堅とされる上島鬼貫であったとある。]

 惟然が芭蕉から教えられた「俳諧無分別」の語も、この辺に至るといささか横道に入り過ぎた嫌がある。「句をわるくせよく、求めてよきはよからず」という惟然の説も、徒(いたずら)に巧を弄する者に対しては慥(たしか)に頂門の一針であるが、句をわるくした結果が如上の作品に到達するとすれば、これも一考せねばならぬ問題であろう。生活の上において矩(のり)を踰(こ)えた惟然は、作品の上においても同じ轍(てつ)を蹈(ふ)んだ。それも惟然の特異な性格と相俟って、面白いと感ぜられる間はよかったが、ただ口を衝いて出るままを是(ぜ)とするに至っては、芥川氏のいわゆる「とり乱している」ものといわざるを得ない。

 歴史は繰返すという。中心人物の芭蕉を失った元禄俳壇は久しからずして乱離に陥った。俗語の濫用もまたその乱離の一現象である。ひとり惟然のみが好む所に偏したわけではない。『花の雲』『二葉集』『当座払』等の句集を執って検(けみ)すれば、皆滔々(とうとう)としてこれに赴く風のあったことを知り得るであろう。「和らかに女松(めまつ)生ひそふつゝじかな」「菜畠や二葉の中の虫の声」「藁(わら)つんで広く淋しき枯野かな」「よろよろと撫子(なでしこ)残る枯野かな」等の句に元禄期の最も雅馴なる傾向を示した尚白の如き作家ですら、『花の雲』になると、「見えましたお相撲見えた見えました」というような、たわいもない句を作っている。他は推して知るべしである。

[やぶちゃん注:「尚白」(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は近江大津の人で医を業とした。姓は江左(こうさ)。本姓は塩川。初め貞門・談林の俳諧を学んだが、貞享二(一六八五)年に芭蕉の門に入った。近江蕉門の長老として、「孤松(ひとつまつ)」「夏衣(なつごろも)」などの俳書を編したものの、蕉風後期の展開について行けず、芭蕉から離反した。芭蕉より六歳つ年下。]

 俳諧が在来の連歌に対して新生面を開いたように、元禄に大成された蕉門の俳句なるものに新な展開を試みようとしたのが、惟然らの俗語駆使であったと解釈出来ぬこともない。また惟然は慥に俗語において或成功を収めている。但あまりにこれに偏するに及んで、無拘束の弊に堕したのである。俳句における口語の作品――今いう口語なるものは明治以後における言文一致的口語であって真の口気をうつしたものではない、その点からいえばむしろ俗語の天真なるに如かぬ――を論ずるならば、惟然は伊丹沢の作家と共に真先に挙げらるべきであろう。世人が一茶の俗語にのみ瞠目するのは、たまたまその限界の狭いことを証するに過ぎない。

 無分別を尚(たっと)び、無拘束を喜んだ惟然は、一方において無季の句をも作っている。

 うれしやなけさはねくさが生て出た  惟然(二葉集)

 船よふねこちがはやいか須磨の岡   同

これらは前のひとり言(ごと)的作品と類を同じゅうするもので、詩として成功したとはいい難い。われわれが以上の句に興味を感ずるのは、俳諧の拘束を脱しようとする運動が、元禄の昔から用語において口語(俗語)に傾く事、季を無視してかかる事の二途を出ない点である。惟然には破調の句もないではないが、大体において十七字を破壊するほどの傾向は認められない。『田舎句合(いなかのくあわせ)』『常盤屋句合(ときわやのくあわせ)』から『虚栗(みなしぐり)』を経て元禄の雅正に帰した当時からいえば、十七字破壊の如きはむしろ時代逆行の観があって、それほど新な意義を感じなかったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「ねくさ」は「寢腐る」(だらしなく何時までも寝ている。一般には他人の寝ているのを罵って言う)を名詞化したものか。

「田舎句合」「田舍の句合」。其角編で延宝八(一六八〇)年序。

「常盤屋句合」「常磐屋句合之判」。杉風編で芭蕉判。延宝八(一六八〇)年奥書。

「虚栗」其角編。天和三(一六八三)年刊。]

 惟然の作品は比較的多くの俳書に散見するようである。これは彼の足跡が天下に遍(あまね)きにもより、その句の一風変っているにもよるが、またその人柄の天真愛すべき点も与(あずか)って力あるのではないかと思われる。秋挙は『惟然坊句集』を編むに当って必ずしも古俳書に拠らず、旅寝の折々に見たり聞いたりしたものを主としたようだけれども、句の佳なるものはほぼこれを集め、俗語の濫用に陥った時代のものは概ねこれを洩している。俳人としての惟然の面目は、殆ど『惟然坊句集』に尽くるといっても差支ない。以上惟然の句を説くに当り、爾余の作品に及んだのは、出来るだけ年代的に句作の跡を討(たず)ねようとしたに外ならぬ。蛇足的言説を咎められなければ幸(さいわい)である。

ブログ・アクセス1360000万突破記念 梅崎春生 演習旅行

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三六(一九六一)年一月発行の『世界』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。

 主人公の「私」である「暗号兵曹」の経歴は梅崎春生のそれとよく一致する。作中に出る「通信自動車」は「眼鏡の話」にも出たが、今回、画像を探してみたが、陸軍のものは見出せたが、海軍のそれは見当たらなかった。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが昨日、1360000万アクセスを突破した記念として公開する。コビッド-19による籠城でアクセスが増え、二十日で一万を超えた。【2020518日 藪野直史】] 

 

   演習旅行

 

「どうせこの戦争は敗けよ。いくら張り切っても、何にもならん。なあ、暗号兵曹」

 話が戦争や戦況のことになると、いつも岩本兵長はそう言う。投げ出すような、あるいはねばりつくような口調で、そう言う。顔を私に向けて言うのだ。

「だって……」

 若い甲斐兵長が傍から口惜しそうに、口をもごもごさせる。もごもごさせるだけで、あとは続かない。沖繩がすでに取られた現在、甲斐兵長にしても、日本は絶対に不敗だと主張し得る根拠はない。ただ甲斐は、岩本がそんな断定的なことを、そのような口調で言うのが気にくわないのだ。しかし面と向って、甲斐はそれをなじることは出来ない。兵長として、甲斐は岩本よりもずっと後輩になるからだ。

「だっても蜂の頭もねえよ」

 初めて甲斐の存在に気付いたように、そんなふりをよそおって、岩本はきめつける。

「それよりも早く飯を取って来い」

 岩本兵長はもう四十歳近くに見える。よく肥っていて、腕も丸太棒ぐらいの大きさはある。昭和初年に海軍に召集され、三年きたえられて水兵長となり、この度十何年ぶりに再召集されて来たのだ。昭和初年の兵長だから、甲斐のような近頃なり立ての兵長なんか、逆(さか)立ちしたって追付かない。

 岩本兵長の職種は、自動車の運転員だった。A基地で自分で志願して、わが通信自動車の運転手として乗り込んで来たのだ。年かさだし、再応召の兵長だから、その点、なまなかな下士官よりかなりわがままがきく。

 通信自動車というのは、戦争末期に海軍でつくられた通信専用の自動車だ。まだ試作品程度で、性能はあまり上等でなかった。それでも一応装甲された大型車で、屋根にはアンテナが立っている。その装甲されているというところが、岩本兵長の気に入ったのかも知れない。

「うん。こいつは具合がいいや」

 初対面の時、装甲をこんこんと叩きながら、私の方を見てにやりと笑った。

「敵さんが上陸して来たら、こいつをすっ飛ばして逃げればいいな。なあ、暗号兵曹」

 通信車の構成人員は、電信員が一人、暗号員が一人、それに運転手ということになっていた。その暗号員というのが私で、兵曹とはいうもののなり立ての二等兵曹で、しかも正規の二等兵曹でなく、即席の下士訓練(学校出だけにほどこされた)を経た下士官であった。海軍では階級よりも、食った飯の数の方が重視される。即席下士官は飯の数で、古い兵長に頭が上らないのだ。岩本は一目見て、私の年恰好や体格からして、私が即席下士官であることを直ちに見破ったのだろう。私に話しかけるのに、私の名前を呼はず『暗号兵曹』という言い方をもってした。若干なめている証拠である。初めから摩擦を起すのはイヤだから、摩擦は自分にマイナスにしか働かないことを、一年の海軍生活で骨身にしみて知っていたから、私は気軽に応じる。

「そうかね。逃げおおせるかね」

「逃げおおせるとも。決してあんたらに犬死にはさせないよ。わしに任せなさい」

 戦争末期の南九州には、たくさんの海軍基地があった。われわれの通信自動車はA基地で仕立てられ、所要人員を乗せて出発、点在する各基地を歴訪、最後にQ基地に着いて、そこで待機せよというのが、A基地の通信士の命令であった。別段それは作戦と関係あるのではない。通信車の性能をためすための演習旅行だということで、義務といえは、各基地に到着、また出発の際に、無事到着、只今出発、と暗号電報で報告するだけで、あとは何もなかった。ただ地図にしたがって移動さえしていれはよかった。

「いい配置だのう。岩本」

 見送りに来た岩本兵長の僚友らしい下士官が、岩本の肩をたたいて、しきりにうらやましがった。A基地は砂岩質の丘陵を縦横にくりぬいた洞窟陣地で、じめじめして陽の目にあたらない場所だから、陽光のもとのさして緊急でない演習旅行は、羨望のまとになるのも無理はなかった。しかしまかり間違えは、大型装甲車はきらきら光るため、グラマンあたりの好箇の銃撃の対象になるおそれはある。

 電信員は司令部通信科から出た。それが甲斐兵長だ。司令部通信料とあまり交渉がなかったので、私は彼の顔によく見覚えはない。うっすらと無精髭を生やして、二十二三に見えるから、おそらく徴募兵上りの苦労して来た兵長なのだろう。志願兵と徴募兵は、その年齢でも見分けられるが(志願兵の方がずっと若い)その顔付でもおおむね見分けられる。徴募兵は眉目のどこかに、蟹(かに)のような苦渋の色をたたえているのだ。

 司令部の掌暗号長が甲斐兵長にいろいろ指示を与えている間に、岩本兵長は烹炊所(ほうすいじょ)にかけて行き、三人分の弁当、それに若干量の生米と味噌を仕入れて、かけ戻って来た。岩本の顔だからそれが出来るので、私だの甲斐だのではそういうわけには行かない。

「不時着ということがあるからなあ。不時着ということが」

 機械か何かの故障でエンコした時の食料だという意味だ。岩本はそれを運転台に放り上げ、自分も飛び乗った。司令部の掌暗号長は来ているが、私の方の分遣隊から誰も来ていない。うやむやのうちに私たち二人も乗り込んだ。通信自動車は斜めにかしぎながら、赤土の坂道をゆるゆると降り始めた。ある解放感が私の胸にもひろがって来た。

 

 弁当は各自握り飯二箇にコオナゴのつくだ煮。それを食べてしまって、そこらの海岸で一泳ぎしようと言い出したのが岩本で、それに反対したのが甲斐だ。朝十時A基地出発の、午後一時昼食だから、まだいくらも来ていない。大型で重いので、揺れがはげしく、スピードが出ないのだ。

「それじゃB基地に着くのが遅れるじゃなかとですか」

 甲斐は眼をいからせて、私に詰め寄るようにした。司令部掌暗号長から、かなり気合をかけられて来たものらしい。私に詰め寄るより、岩本に詰め寄るのが本筋だと思う。何故かというと、岩本がそれを言い出したのだからだ。岩本は細い木の枝を折って、口にくわえながら、そっぽを向いていた。

「え。そうじやないですか。兵曹」

 甲斐は目をいからすと、黒眼が中央に寄って、寄り目になるのだ。それはへんに真面目っつぽい、愚直といつたような印象をひとに与える。私は真面目なことは好きだ。こちらと関係のない真面目さは大好きだ。しかしこちらを巻き込むような、押しつけがましい真面目さは、たいへん苦手だ。かかわって、ろくなことはない。だから私は黙っていた。

「張り切るなよ」

 岩本がぺっと木の枝をはき出して、のっそりと立ち上った。

「そんなに張り切って、何になるんだい」

「張り切っちゃ、いかんのか」

「おや。お前、おれにそんな言葉使いをしていいのか!」

 岩本が身体ごと向き直った。大きな体軀(たいく)だから迫力がある。それで甲斐はすこしたじろいだ風だった。

「そんなに急ぎたきゃ、お前だけ急いで行きやいいだろ。おれはちょいと泳いで来る。いいね、暗号兵曹」

 岩本も是が非でも泳ぎたかったわけじゃあるまい。ちょっとの行きがかりで妙にこじれて、岩本はさっさと略服の上衣を脱ぎ始めた。車は林の中の、空からは見えない繁みに姿をかくしているが、ここから小さな砂丘を越えて彼方に海が見えるのだ。甲斐は顔を戻して、訴えるような眼で私を見た。私は黙って、空気を眺めるようなつもりで、景色を眺めていた。岩本はすっかり服を脱ぎ捨てると、悠々と砂丘の方に歩き出したが、砂が太陽に熱射されて灼(や)けていたのだろう、やがてぴょんぴょん飛びはねる恰好で、丘の向うに姿は消えた。私は笑いながら言った。

「運転手がいなきゃ、急ごうにも急げないじゃないか」

 そういう私の言い方は、甲斐の癇(かん)にさわったかも知れない。しかし私は気分としては、岩本の主張の方に傾いていた。何時何分までにB基地に到着せよと、指示があったわけでない。車の性能に応じて、到着すればいいのだ。私は久しぶりの解放感をたのしみたかったのだ。久しくしめっぽい洞窟に閉ざされていたから、ここに少時停止して気ばらししてもいいじゃないか。そんな気持で、私は甲斐の肩をたたいた。甲斐の肩はびくんと反応した。慣れ慣れしくたたかれて、不本意だったのだろう。

「それよりもA基地と連絡を取ってみたらどうだ。具合を調べて置かないと、あとで困るぞ」

 通信車の内部に電信台があり、その傍につくりつけの金庫がある。その金庫が私の所轄(しょかつ)で、内に暗号書が入っている。甲斐はむっつりした顔で通信車に入り、電鍵(キイ)をカチャカチャとたたき始めた。車内は熱気がむっとこもって暑い。無線機械は甲斐の所轄で、私のあずかり知ったところでないから、私は単に入ることはせず、皆の弁当の食べがらなどをまとめて林の奥に投げこみ、そこらの地相などをしらべて歩き廻った。やがて岩本がまた飛びはねながら、海から戻って来た。耳に水が入ったとみえ、服をつけながら片足飛びをしている。

「さあ。出かけるか」

 車内では甲斐がレシーバーをつけ、首を傾けて電鍵をぽつりぽつりとたたいている。連絡がつかないらしい。

 

 B基地に着いたのは、午後六時頃だ。季節が季節だから、もちろんまだ四辺は明るい。基地の入口に自動車をとめて、甲斐がしきりに電鍵をたたくが、A基地からいっこうに応答がない。電信連絡は甲斐の責任だから、彼は真剣な表情で、車から出て来ようとしなかった。岩本がじれてうながした。

「おい。何を張り切ってんだ。こんなところでカブを上げたって仕様がないじやないか」

 特に張り切っているわけじゃないが、もし連絡がつかなきゃ、何のために通信車が動いているのか判らない。岩本はハンドルをとつて車を動かしておれは任務は済むので、通信については全然同情がないのだ。

「早く烹炊所(ほうすいじょ)に行って、食事を取って来い」

 電鍵の音がはたとやんだ。

「今勤務中だ。暇な人が行ったらいいじゃないですか」

「なに? 勤務中だ?」

 岩本がとげとげしい声を出した。

 車からすこし離れた道端に、牛が臥(ふ)した形の大きな岩があって、私はそれに腰をおろして、そのやりとりを聞いていた。今日一日働いたのは誰だと思う。おれではないか。そう岩本が言っている。考えてみればそれに違いない。岩本が運転をして、私たち二人はただ乗っていたに過ぎないのだ。甲斐が車から降りて来た。ふくれ面(つら)をしている。それらしい方向に歩き出す。

「へっ。近頃兵長になったくせに殿様になったような気でいやがる」

 岩本が私のそばに腰をおろしながら、はき出すように言った。

「あんなのが兵長で通るんだから、もう戦争は敗けだね」

「敗けかねえ」

 私は煙草をふかしていた。この事の主導権を握っているのは誰だろう。そんなことをぼんやり考えていた。階級からいうと、私が一番上だけれども、任務の点からでは何も力がない。車を移動させることが演習の目的なら、岩本が第一の実力者だし、連絡通信が目的なら、甲斐が立役者ということになる。私なんかそえものみたいなものだ。甲斐が連絡に成功しなきゃ、私はしばらく開店休業の形だ。それならそれでいいけれども、二人の実力者がいがみ合っているのに、私がそれに介入できないことが、なんだかひどく中途はんばな感じだった。煙草をはじき飛ばしながら、私は言った。

「まあゆっくりやろうや。先は長いんだから」

 やがて甲斐が飯をとって戻って来た。一層ふくれっ面になっている。時間がかかったのは、食事の請求が時刻過ぎで、烹炊所員に散々イヤ味を言われたに違いない。烹炊所とか看護科の連中は、どこの部隊でも、よそ者に対しては、ひどく意地悪をするのだ。当然ながら、おかずも少かった。岩本兵長みたいな海千が行けは、要領よく仕込んで来るだろうが、甲斐兵長じゃやはり貫禄が足りない。

「しけたおかずだなあ」

 岩本はじろりと食事をにらんで言った。

「これだけしか呉れなかったのか」

「これだけしか呉れんかったです」

 甲斐がぶすりと答える。先刻気合を入れられたから、言葉使いだけは丁寧になっている。

「ふん」

 岩本は通信車に戻って、罐詰(かんづめ)一箇取って来る。食事場所は臥牛石(がぎゅうせき)の上だ。岩本はキコキコと罐を切った。暮れて行く海面を眺めながら、私たちはほとんど無言で、食事を終えた。罐詰を私にも分けて呉れるのかと思ったら、分けて呉れない。もちろん甲斐にも分けてやらない。ひとりで三分の二ぐらい食べてしまって、あとは大事そうに蓋(ふた)をしたところを見ると、翌日またその続きを食べるつもりらしい。

「暗号兵曹」

 木の小枝を楊枝(ようじ)に使いながら、岩本は奥歯をこすり合せ、考え深そうに言った。

「わしはこの部隊に泊るのはイヤだから、そこらの民家に頼んで泊ることにするよ」

「そうかね」

「そいで、兵曹は、自動車に泊って呉れるかね?」

「それでもいいよ」

 見知らぬ部隊に泊るのも窮屈なことだし、夏だからどこに寝たって寒いということはない。それで私は承諾した。

 甲斐は手をのろのろ動かして、食器のあと片付けをしている。海面はついに昏(く)れわたった。

 

 自動車の中は案外寝苦しかった。私は運転台に寝たのだが、窓をあけ放って置いたから、暑苦しい筈はなかった。空気が妙に濃密のようで、昨日までの洞窟陣地より寝苦しく、盗汗とともにしばしば眠が覚めた[やぶちゃん注:「盗汗」は「とうかん」で主に医学用語で寝汗(ねあせ)のことを言う。]。

 甲斐もうしろの通信室の床に毛布をしいて寝たが、そちらは閉め切りでなお寝苦しかったのだろう。夜半に毛布をかかえて出て行く気配がした。朝眠が覚めて車を降りると、臥牛石の上に毛布がひろげられていた。甲斐は石の上で一夜を明かしたらしい。毛布に腰をおろして、ぼんやりと海を眺めている。日はすでに昇っていて、私は空腹を感じた。

「甲斐兵長。飯を取って来いや」

 出来るだけ気軽に響くように発音する。命令として言うと、あとあとさしさわりがあるからだ。

「岩本兵長はとうしたとですか?」

「岩本ももう戻って来るだろう」

 どうも一番気弱なのは私で、こんな若い甲斐にまで気がねをしている。

「だから三人分、取って来て呉れ。昨夜烹炊所に、三人と通してあるんだろ」

「そうですか」

 甲斐が歩き去ったあと、私は大急ぎで崖をまっすぐにかけ降りた。海岸に出た。岸は石が洗濯板みたいになっていて、ところどころの窪(くぼ)みに泥をため、きれいな海水がゆらゆらと通っている。私は上半身裸になって汗を拭き、手を海水で洗った。顔を洗おうかとも思ったが、塩分で顔がこわばるのがイヤなので、そのまま手拭いを腰につるした。泥の窪みに、小さな蟹やヤドカリが何匹も這っている。比較的大型のヤドカリをつまみ上げ、また崖をよじて戻って来た。その時甲斐が食事を提げて、ゆるやかな坂道を登ってくるのが見えた。

 まだ岩本兵長は戻って来ない。

 だから臥午石の上で、二人だけで食べ始めた。昨夜と同じく無言である。生れつきかどうか知らないが、むっとしたような顔をしているから、こちらから話しかける気もしないのである。食事はうまかった。今日は味噌汁もたっぷりあったし、漬け物の味もよかった。あの地方に産する漬け物は、伝統的に味がいいのだ。

 食事が済んだが、岩本はまだ帰って来ない。今日も天気がよく、暑くなりそうな気配がある。

 所在がないから私は通信車の運転台に戻り、さっき取って来たヤドカリを膝や腕に這わせながら遊んでいた。海水を離れてもヤドカリは元気で、私の腕のやわらかいところでは爪を立てようとする。

「まだ出発せんとですか。兵曹」

 甲斐が窓からのぞき込んだ。私を見る甲斐の眼が、もう寄り眼になっている。

「この調子で、いつQ基地に着けますか?」

「運転手がいないのに、出発できるか!」

 私の語調もやや強くなる。

「それよりもお前、A基地と早く連絡取って置かないと、掌暗号長に叱られるぞ」

 部隊の方の坂道から、兵隊が五六人、ぞろぞろと登って来た。暑いせいか、部隊のしつけがゆるんでいるのか、皆じだらくな恰好をしている。上衣を脱いで肩にかけ、上半身裸のやつもいる。臥牛石のまわりに足をとめて、ものめずらしそうにこちらを眺めている。皆十六七の若い兵長だ。聞いてみるまでもなく、彼等は予科練出身で、船や飛行機がもうなくなって使い所がないから、ここらの基地に集団的に配属されているのだ。彼等がくずれたような恰好をしているのは、ちゃんとした仕事がなく、頽廃しているせいだろう。その中の一人が靴をはいたまま、いきなり石の上の毛布にあぐらをかいた。

「おい、おい、きさまらぁ!」

 甲斐は運転台の下から離れ、けわしい声でそちらの方へ歩いた。

「きさまらぁ、昨日や今日兵長になったくせに、大きな顔をすると、承知せんぞ。何だ、貴様らあ、予科練の青二才ども!」

 あぐらをかいていたのは、あわてて石からずり落ちた。次の瞬間その連中は顔を見合せた。その中の勇敢なのが一人、やって来た甲斐の向う脛(ずね)を、略靴で力まかせに蹴り上げた。甲斐はうっと殺気あるうめきを洩らしながら、腕を宙に振った。

「……バカだな。甲斐兵長」

 甲斐のうめき声と共に、私の中を走り抜けた衝動がなかったわけではない。しかし私は扉を排して、外に出ることはしなかった。私はじっとしていた。じっとして、掌でヤドカリをもてあそんでいた。こんなところで喧嘩をおっ始めて、甲斐兵長よ、一体どうするつもりなんだ。殴り勝ったら殴り勝ったで、袋叩きにされたら袋叩きで、惨めになるのはお前じゃないか。お前だけじゃないか。何というバカなんだろう、お前という男は!

 

2020/05/17

三州奇談續編卷之二 薯蕷化ㇾ人 / 三州奇談續編卷之二~了

 

    薯蕷化ㇾ人

 「山高からずとも仙あれば靈あり」と。寳達山(はうだつさん)は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金(わうごん)を納む。然れば是仙境疑ふべからず。仙境ならば靈あるは固よりの事なるべし。地靈の變化(へんくわ)又他方にあるべきにあらず。さらば仙境にして金氣(きんき)を貯へ異人を釀(かも)す現證を述べんに、近き頃も此山の「北櫻馬場」と云ふ所に、山師の人靈神(れいしん)の意に戾りて、金山(きんざん)のしきを仕かけけるに、山潰れ穴塞がりて、山中死する人夥(おびただ)し。然れ共衆人こりず、猶神をいさめ、他所(よそ)にしきを構へて、今に金を掘るの催し絕えず。近年間部(まぶ)には掘當り得ざれども、其費用となす程宛(づつ)は、金子(きんす)出づること今に絕ゆることなし。何(いつ)の日いかなる人か、神の意に叶ひて多く金を掘得(ほりう)ることあらん。誠に賴母(たのも)しき寳山(はうざん)にはありけり。

[やぶちゃん注:表題は「薯蕷(やまいも)、人に化(か)す」と読んでおく。「薯蕷」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指す。日本薯蕷とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であり、別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なる。ここは無論、前者の真の「薯蕷」=ヤマノイモ Dioscorea japonica である。但し、ここでは通俗の呼称である「やまいも」と訓じておくこととする。

「寳達山」三つ前の「平氏の樂器」に既出既注。石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる。平家落人伝説や「小松大臣」(平重盛)の「黃金」伝説(こちらは読むに耐えない凡そ信じられない牽強付会の話である)もそちらを参照されたい。

「地靈の變化又他方にあるべきにあらず」この「他方」は「ここ以外の各所」の意であろう。この宝達山の地霊の変化(へんげ)、則ち、地霊の引き起こす変容・変異(広義のメタモルフォーゼ)は、他の地方で知られているような、通り一遍の変異ではない、と言うのであろう。

「金氣(きんき)」五行の金気(ごんき)ではなく、具体な黄金(おうごん)、則ち、「金(きん)の気」と採って、かく読んでおく。

「異人」人ではない人型の異人、化け物の意。

「北櫻馬場」古い地図を見てもこの地名は見当たらないが、現在、石川県羽咋郡宝達志水町上田出(はくいぐんほうだつしみずちょううわだで)に「中尾平坑跡」が金山跡として史跡指定されており、「宝達志水町役場」公式サイト内のこちらに、『宝達山では江戸時代に金が掘られていました。金山としての開山は天正121584)年とされ、最盛期には150人以上が従事していました』。『宝達山の東北側の斜面に9か所の廃坑口が確認されており、中腹にある中尾平坑跡には開口部が残っています』とあり、「石川県観光連盟」公式サイト内のこちらでも複数の写真が見られる。この九ヶ所の孰れかの旧地名と考えてよいであろう。

「山師の人」山を歩き回って鉱脈を見つける職人。

「靈神(れいしん)の意に戾りて」この「戾る」は「欲張る・貪(むさぼ)る」の意で、霊神の気を感ずるなどと称して、金採掘をせんと欲を出して、の意であろう。

「金山(きんざん)のしき」この「しき」は「式」で、金採掘の「法」「仕儀」「事業」の意であろう。

「神をいさめ」そうした神霊の報復を不当として。

「間部」この「まぶ」は「間府」「間分」「間歩」で本来は鉱山で鉱石を取るために掘った坑道を指す語であるが、それを金脈の意で使用したものであろう。

「金子(きんす)」ここは鉱物としての金(きん)を売って相応の金(かね)にすることを縮約した謂いであろう。

「寳山(はうざん)」宝の山。宝達山に掛けた謂い。]

 然るに近年の事とぞ、稀有の一說あり。密事(みそかごと)なれども、其邊(そのあたり)の里人のひそひそと云ひ傳ふる奇談あり。

 元來此山は薯蕷(やまのいも)の名所にして、多く掘出だす。大いなる物は五六尺より一丈に及ぶ。太さ小臼(こうす)の如し。其味ひ甚だ美なり。依りて近邊の山里の婦女共、是を業(げふ)として必(かならず)掘る。

[やぶちゃん注:ヤマノイモの「根」(植物学的には実は根ではない特殊な組織体であって「担根体(たんこんたい)」と呼ばれる茎の基部についた枝の下側部分が伸びたもの)は一メートルを超えることがある。私の家の裏山は嘗てはよく人が掘りに来ていたが、幼少の頃に二メートルになんなんとするそれを見事に折らずに(後に「掘廻(ほりめぐら)」すと出る通り、担根体を取り出すには、慎重にも慎重を重ねて、周囲を根気よく掘る必要があり、少しでも先が欠けると売り物としては驚くほど安くなってしまう。その老人は蔓から掘り出し易い斜面に植わっているものを探すのが大事なのだと教えてくれた)掘り出した老人と親しくしたことがあるから、一丈(約三メートル)も誇張とは思えない。

「業」現代仮名遣「ぎょう」で生業(なりわい)の意。]

 さればこの山里に白生と云ふ小村あり。此所に三四世も此山のいもを掘りて浮世を送る小民あり。いつしか末(すゑ)の露(つゆ)本(もと)の雫(しづく)となりて、今は娘一人になりて、猶(なほ)此山に土を穿ち岸を崩せども、隨分に山を尊(たつと)みて世を過ぎにけり。其娘名を「おさん」といふ。二十歲(はたち)許りにして、肥大ながら色白く、美女とも云ひつベき生れつきなり。

[やぶちゃん注:「白生」旧地図を見ても見当たらぬが、オックスフォードの明治四二(一九〇九)年測図の「石動」(いするぎ)の地図を見るに、宝達山の北に「南志雄村」・「北志雄村」を見出せ、現在の宝達志水町内の宝達山の北方の平野部には志雄小学校や志雄郵便局の名を見出せ、これらは現在「しお」と読んでいる。「白生」を「しお」と読むことは可能であり、「志雄」は歴史的仮名遣で「しを」乍ら、現代仮名遣(口語)では「しお」であるから、この旧「志雄」と「白生」が同一地名である可能性はあるかと思う。「近世奇談全集」では「しらふ」とルビするが、以上の私の推理から、それには従えない。

「末の露本の雫」葉末の露も、根元から落ちる雫も、後先はあれ、必ず消えるところから、「人の命には長短の差こそあっても何時かは必ず死ぬ」という人の命の儚さの喩え。]

 然るに或日山に入りて、「鶴(つる)の嘴(はし)」と云ふ物にて土を深く掘り、大いなる薯蕷を掘廻(ほりめぐら)し、

「折らさじ」

と心靜めて一心不亂に掘入りけるに、一念只(ただ)土にのみ染みて意(い)脫(もぬ)けたる如し。

[やぶちゃん注:「鶴の嘴」ピッケル様の「鶴嘴(つるはし」である。農学者大蔵永常(明和五(一七六八)年~万延元(一八六一)年)が著した農機具論「農具便利論」(全三巻・文政五(一八二二)年刊)は「木起こし」として紹介されているから、江戸後期には既にあった。恐らくは用途から見て、頭部の張り出しが片方にしかない「片鶴嘴(かたつるはし)」であろう。

「意脫けたる如し」「意」は意志・意識で、「他に何も考えることなく一心不乱となったような不思議な感じであった」の意であろう。既にして異界との接触が暗示されているのである。]

 久しうして後、土の下より幽かに聲ありて、

「おさんおさん」

と呼ぶ者あり。おさん大いに驚き恐れ、打捨て家に迯(に)げ歸らんとせしが、

『扨(さて)しも業(わざ)の捨つべきに非ず』

と、又そろそろ本の所へ行きて土を掘るに、又々地中に幽かに聲して

「おさんおさん」

と云ふこと度々なれば、心靜まりて

「何人(なんびと)ぞ」

と問ふに、

「私はおまへの妹にて候、驚き給はず」

「今少し深く掘給へ」

と云ふ。

 其時何となく心にいたはしき事生じて、

「然らば掘るべし、鶴に【「鶴」は「鶴の觜(はし)」の異語也。山人(さんじん)土を掘る物を「鶴」と云ふ。】

「あたらぬ樣にせよ」

とて、又々靜(しづか)に掘り入るに、今少しになりしと見えて、

「おさん樣しばし待(まち)給へ、穴を明(あ)けん」

と下より押す樣にせしが、一尺許り土陷りてけり。

 おさん頓(やが)て鶴の嘴を其明きたる穴に差込みけるに、何かは知らずして

「ひたひた」

と卷付く音して無音なり。

[やぶちゃん注:何かが鶴嘴にしゅるしゅると巻き付く幽かな音と振動がしたが、すぐに静かになったというのであろう。]

 おさん恐ろしながら力を極めて引上げければ、白き衣を纒ひたる八九歲許りの女子(をなご)、鶴の嘴の柄に

「くるくる」

と纒(まと)ひて上(のぼ)る。

 其さま地中の「ことこと虫」と云ふ物の如し。

[やぶちゃん注:「ことこと虫」「虫」はママ。不詳だが、白い色、「ことこと」が土の中にいてかさこそと音を発する程度には大きいことを意味していようから、甲虫類の幼虫のことと思われる。]

 橫に倒れて引出(ひきいだ)したり。

 之を見れば、色白く髮も又白し。然共顏の愛こぼるゝ如く麗(うるは)し。

 おさん何となく恐しげ止みて甚だ可愛く、前に抱き我宿に歸るに、物をも云はず生氣もなし。

 久しく暖めて、稗(ひえ)の粥・ふすまの湯などにて口をうるほしければ、目を明け物を云ひ出で、暫くして動き出で、這ふことも叶ひたり。

[やぶちゃん注:「稗」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta。近代まで本邦では主食穀物であった。

「ふすま」「麩」「麬」と書き、小麦を製粉したときに篩い分けられる糠(ぬか)のこと。]

 おさん嬉しく密(ひそか)に養ひて、三・四月(み・よつき)許り過しけるに、ふとりて十二歲許の女子となる。

 是よりおさんと二人連にて山に入り、薯蕷を掘るに、指圖する所甚だ妙を得て、多くいもを取得る。土の扱ひ手廻(てまは)しよく、程を知りて折ると云ふことなく、大いなる薯預の有る所を委しく敎へて、日頃三十日許も懸る仕事を、二日三日許りには調へける程に、麓の里に出(いで)て賣るに、よき價(あたひ)を得て、食分[やぶちゃん注:「くひぶち」と当て読みしておく。]に餘りしかば、

「いも掘藤五郞とやらんが富をも得べき有樣」

と、おさんは殊に嬉び、着る物など能く拵へ與へなどし、名をば「おつる」と付くる。是「鶴の嘴」を山詞(やまことば)に「つる」と云ふ。其つるに取付きし爲に得たればとて、直(すぐ)に名に用ゆとなり。

[やぶちゃん注:「いも掘藤五郞」芋堀藤五郎。加賀国にいたとされる民話上の人物で「金澤」の地名由来譚の主人公ともされる。ウィキの「芋堀藤五郎」によれば、『山芋を掘って生計を立てる欲のない人物だったとされる。藤五郎が掘り出した山芋には砂金が付いていて、芋を洗った沢が「金洗いの沢」と呼ばれたことが、金沢という地名の由来とされる。また、金沢神社のそばにある金城霊澤』(きんじょうれいたく:ここ)『が、この「金洗いの沢」であるとされている』。『金沢市南部の山科には、芋堀藤五郎を祀る藤五郎神社がある』(ここ)。『「いずみの」泉野小学校三十年の歩みと地域発展の譜籍(平成4年、泉野小学校体育館改築記念事業実行委員会著)によると、里人の話から大乗寺の西にある二王塚』(先の藤五郎神社の北東直近に大乗寺と大乗寺公園があり、神社の南西直近には満願寺山古墳群があるからそれであろう)『が藤五郎の墓だととしている』とあり、「金沢市」公式サイト内の「いもほり藤五郎」で全十一回に亙る彼の長者伝説が読める。]

 家居も少し繕(つくろ)ひて、おさんも新敷(あたらしき)着物を仕立て、立並びければ、彼(かの)「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘と云ふも、かゝる類ひにやと稱すべし。

[やぶちゃん注:『「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘』「五娘」は「五嫂」(ごさう)の誤り。初唐の伝奇小説。一巻。作者張鷟(ちょうさく 生没年不詳)は七世紀末から八世紀初めの流行詩人で、寧州襄楽県尉・鴻臚寺丞・司門員外郎(しもんいんがいろう)などに任ぜられた人とされる。物語は、作者が黄河上流に政務で向かった際、神仙の岩窟に迷い込み、仙女崔(さい)十娘と彼女の兄嫁であった王五嫂(おうごそう)という二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるという筋。文体は華麗な駢文(べんぶん)で、その間に八十四首の贈答を主とする詩を挿入し、恋の手管(てくだ)を語らせる。また、会話には当時の口語が混じっている。本書は中国では早くに散逸してしまったが、本邦には奈良時代に伝来し、「万葉集」では山上憶良が引用し、大伴家持が坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌に明白なその影響があり、その他、「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」・「唐物語」・「宝物集」などにも盛んに引用され、江戸時代の滑稽本や洒落本にさえも影響を与えている(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 されば一兩年には、隣村にも名に立つ美人の由をも云ひ立てし。

 或人の俳句に、

  薯預(いも)太き越(こし)の小里に暮したき

と聞こえしは、爰等(ここら)の事をや云ふならん。

[やぶちゃん注:一句の作者は不詳。「小里」は「こさと」「こざと」「おさと」「おざと」と読めるが、「太」に対で応じた美称の接頭辞であろう。]

 然るに二年許り過ぎて、或日此お鶴申出でけるは、

「我に白木綿(しらゆふ)の着物拵(こしら)へたべよ。金澤に出で薯蕷を賣らん」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「白木綿」白色の木綿(もめん)。

「拵へたべよ」「拵へ給(た)べよ」。新調して下されませ。]

 おさん、

「然らば我等も一所に出(いで)ん」

と云ふに、お鶴云ふ、

「先づ我れ許り出(いだ)し給へ、樣子あらん」

と云ふ。

「さらば着物は色よく染めて與へんに、好み候へ」

といふ。お鶴云ふ、

「我れ是にも樣子あれば、只白のまゝにて着るべし」

とて、白無垢にして着す。

[やぶちゃん注:「樣子」特別に考えているところにある事情。思うところ。]

 扨大薯蕷(おほいも)二三本負ひて。まだ闇きより立出で、金澤へ行去れり。

 然るに二三日立(たち)ても歸らず。六七日に及べども歸り來らず。

「金澤へは纔(わづか)に一日參りの道なれば、女足なりとも二日懸ることはあるまじ。是はいかなる事やらん」

と案じ居る。

 然れども十四五日も便りなし。おさん思ふやう、

『是は直ぐに伊勢參(いせまゐり)にても致したるにや。何とも心元なし。兎角(とかく)金澤へ出で樣子を聞かん』

と身拵へする所に、夕暮に至りて一人の武士らしき男、此白生村を尋來(たづねきた)り、

「おさん殿といふは爰か」

と云ふ。おさん聞きて、

「成(なる)ほど是(ここ)にて、私(わたくし)則(すなはち)おさんにて御座候が、何所(いづく)より御出(おい)で」

と尋ねたるに、彼武士云ふ、

「お鶴殿の姊御(あねご)にて候か。お鶴殿より言傳(ことづて)にて御座候故、尋參る」

よし申す程に、

「是は幸(さひはひ)なり、早々樣子を聞かせ給はり候へ」

といふに、侍申しけるは、お鶴殿仕合(しあはせ)の事候て、今はよき身におなりなされ候程に其元(そこもと)にも金澤へ御出(おいで)あるべし。迎へに籠(かご)にても進(しん)じ申さんや、但(ただ)步行(かち)にて御出候か」

と尋ぬる。

 おさん聞きて、

「我も金澤へ出(いで)たしと日頃用意する内なり。末寺の御庭(おには)へも御禮申度(まうしたく)も候間(さふらふあひだ)、必ず參り候べし。駕籠などは勿體(もちたい)なし、いやなり。此まゝ薯蕷を背負うて參るべし。扨其行く所はいづくいかなる所にて候ぞや」

といふ。

 侍の曰く、

「さきは御大家(ごたいけ)の事なり、今は云ひ難し。お鶴殿も『其許(そこもと)[やぶちゃん注:「おさん」のこと。]のさやうに仰せあるべし』とて、此(これ)參り候(さふらふ)品(しな)どもの候(さふらふ)、是をめして御出候へ」

とて、白木綿(しらゆふ)一疋、銀小玉五十目(め)、錢一貫文を出(いだ)し、

「是にて跡仕舞(あとじまひ)よくして、白無垢も仕立て御待ち候へ、追付(おつつ)け某(それがし)御迎ひに參り、御同道申すべし」

とて、色々内證(ないしよう)を申(まうし)含め、

「必ず他意はしたまふな」

とて、堅く約して歸りぬ。

[やぶちゃん注:「末寺の御庭」ここは自身の先祖からの菩提寺の尊称。幕府の本山・末寺制度の中で、末端の「普通の寺」を「末寺」と呼んだに過ぎない。なお、ここの「御禮」とは、結果して自分がいなくなった後の先祖の永代供養を依頼することが既に含まれているのであろうと私は考える。

「銀小玉五十目」「銀小玉」は当時の銀貨である小玉銀(こだまぎん)。小粒の銀塊で普通は豆のような潰れた形をしたものが多い。個々の大きさは不定であるが、概ね約十匁(もんめ:ここの「目」に同じ。十匁は三十七・三グラム)以下で標準的なそれは一つが五~七グラム程度であった。通常の換算では銀五十匁が一両である。

「錢一貫文」は一両の四分の一である。

「跡仕舞」里の家の後始末。

「色々内證を申含め」総ての点で内密なことと言い含め。「内證」は「内緒(ないしょ)話」の「内緒」に同じい。

「必ず他意はしたまふな」「決して他言は御無用にてあらせられよ。」。]

 おさんはとくとく聞き得て、翌日親類の末なる「およつ」なるものを呼びて、

「私は金澤へ出で、妹のたよりにてよき奉公の口もあり、又京の本願寺へも參る望(のぞみ)なれば、今立出で候ても、歸り時(どき)心もとなし。私若(も)し歸り申さず候はゞ、此家又此諸道具、皆其許(そこもと)へ遣はし申候間、村への公儀向(こうぎむけ)の所置(しよち)、御取捌(おとりさばき)これあるべし」

と、跡の事つくづく申置き、白木綿をひとへ物重ねに仕立て、山のいも苞(つと)をもよき程背負ひて待ちけるに、又々金澤より侍分(さむらひぶん)の者下人連れ來りて、

「迎ひに參り申(まうす)」

よし申入れ、銀子(ぎんす)なども持參して、跡のこと能く能く申置きて、おさんを同道にて金澤へ歸りし。

[やぶちゃん注:「山のいも苞」手土産としての山芋を沢山、藁苞(わらづと)に包んだもの。

「公儀向の所置、御取捌これあるべし」は――有意に時間が経って帰って来なかった場合は、これこれこういうことを言い残して家を去った旨、肝煎や村役人に正直に届け出て、そこで多少のお取り調べやご処置やお前(およつ)への指示などもあるだろうが、それを言われた通りにすれば、家の家財道具その他もそのままに、皆、お前のものになるだろうから安心おし――といったニュアンスであろう。彼女は山中の一人住まいで、山芋のみを掘り、それを売って生活していた、ごくごく底辺の、耕作地を持たない特別な農民であるから、所謂、逃散(ちょうさん)などの大事には発展しないと踏んだものであろう。後で判るが、おさんは公儀を含めた関係者がそのように判断するような後始末をちゃんとしており、そんな感じに受け取られるよう、金目の物その他を、事件性が疑われないように綺麗に整理してあるのである。事実、以下で、概ね、おさんの想像した通りの展開を示すこととなるのである。]

 扨およつは留守を預りて此家に移り居(をり)しに、待てども待てども歸らず。其年も暮れ、又の春にも及ぶ故、今は左ばかりも隱し包み難く、夫々手筋の人を招きて、右の次第をかたり、

「兎角おさんが家居(いへゐ)を相見(さうけん)にて改め見ん」

とてしらべ見るに、今迄少したまりたる錢金も其まゝあり、綿入・袷(あはせ)などの類(たぐひ)も相應にあり。五人前の輪島の朱椀家具、手次(てつぎ)の御坊を迎ふるとて用意せし器物(うつはもの)も、拵へしまゝにありし程に、此趣(このおもむき)村の役人へ達しければ、兎角穩便にて

「尋ねよ」

とのみの事なりしかば、三年過ぎて此およつ身拵へし、路用など調へ、金澤より京都まで尋ねに出(いで)る。

[やぶちゃん注:「相見(さうけん)」およしや近所の者などと村の肝煎が、揃って現場を立ち会い検分することであろう。]

 然るに金澤に滯留して聞合はすれども、行衞(ゆくゑ)を知りたる者なし。依りてそろそろ小松・大聖寺・三國(みくに)などへ行廻(ゆきめ)ぐり、京都へ出で尋ぬれども、是又似たる人もなし。

[やぶちゃん注:現在の福井県坂井市の三国地区。旧越前国坂井郡内。九頭竜川の河口周辺に位置し、嘗ては北前船の拠点として栄え、名勝東尋坊で有名。]

 是非に及ばす故鄕ヘ歸る道、又

『金澤に再び逗留して、今一度尋ね見ん』

と思ひ、人立(ひとだ)ちある所を聞合はすに、其頃犀川の橋の上(かみ)覺源寺と云ふ寺の門過ぎて、藤の花多く咲く宮ありて、時しも開帳にて伺やらん見物することもあるよしにて、人々多くこぞり押合ひ行くに、

「いざや彼のかたを尋ね見ん」

と、そろそろ犀川の堤を上(かみ)に步み行くに、新竪町(しんたてまち)とやらんの後ろあたりにて、向うより下女に小者連れたる町方の内儀と見えて、美々しく拵へて、進物の包など多く下男に持たせて通る者を、行違ひさまに是を能く能く見れば.彼(かの)尋ぬるおさんなりしかば、大いに驚き聲を懸けて、

「やれおさんさか。何をして居る事ぞ」

といふに、おさんはおよつを見て大いに驚き、

「先々(まづまづ)靜(しづか)に物を申し給へ」

とて、近所の密かなる所をかりて、彼(かの)およつを伴ひ、密(ひそか)に申しけるは、

「今は斯の如き身になりたり。左に候へば、跡の家居諸道具は其許(そこもと)御取候て、村へは沙汰なしにして給はるべし」

と、吳々(くれぐれ)賴みける程に、およつも安堵して、

「村には何の替ることなし、只行衞を案じ、自分(おのづ)と尋ねに出でたる」

よし申す程に、おさんも心打解けて、内諸吳々語り、

「お鶴ことはふしぎの者にて、彼(か)の山にて拾ひたる女なりしが、因緣如何なることにや、金澤へ白無垢を以て薯蕷賣(やまいもうり)に出で、或大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ、其緣を以て自らも白無垢にて金澤ヘ出で、町家の何某(なにがし)の女房となりて、お鶴は私の妹なるよし、慥(たしか)に急度(きつと)請け合ひて事濟み、さばかりの大人(だいじん)の御内室樣(ごないしつさま)に定まりたり。此上は其(その)元(もと)必ず隱し包み給へ、以來とても密(ひそか)に米・錢なども續け申さん」

とて、相應の土產物(みやげもの)を吳れて口を留(とど)めて歸しける。

 およつは寳達の麓の里に歸りて、村人小役の者などへ土產をすそわけして、彼(か)の家に住みて今に富榮(とみさか)ふるよし。お鶴・おさんの二人は、世上へは奉公に出でたる分(ぶん)にて事濟めども、内證には通路もあり。各(おのおの)知りたることゝて、其家跡を指して能州の路人(ろにん)委しく語りき。

[やぶちゃん注:「人立(ひとだ)ちある所を聞合はす」特に今、多くの人が参集する場所はないかと人に聴いたところ。

「覺源寺」石川県金沢市菊川にある浄土宗覚源寺。犀川右岸直近で、しかもすぐ角の交差点の名は「川上広見(かわかみひろみ)」で本文の「犀川の橋の上」(現在、近くの犀川に架かる菊川橋がある)とよく合う。この「上」は堤を歩くシーンでも用いられているが、「北」のことを指すのではないかと思われ、或いは「金沢城の方角」の意でも矛盾がない。

「藤の花多く咲く宮」不詳。そこを目指して歩く途中の「新竪町」で「おさん」とめぐり逢うわけだから、「新竪町」かその先にある神社でなくてはおかしいことになるが、どうもそれらしい神社は見当たらない。先の注に出した芋堀藤五郎の金城霊澤の隣りの金沢神社は、現在、藤の花が美しく、しかも最も大事な例大祭がその季節であるから、それを考えたが、グーグルアースを見ると、覚源寺から金沢神社は今は見えないようであるが、この文章、必ずしも藤の花やお宮が見えずともよい。そういう話を聴いたというのだから。一つの候補としては挙げておいてよいか。

「新竪町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「能州の路人」能登国へ行き来する、とある人。]

 思ふに桂(かつら)の精は女と化して明帝にまみえしためし。「ばせを」の女は僧家(そうか)に宿りしとやらん。日本にても「かくや媛(ひめ)」は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、竹とり物語にも聞えし。竹の子・山の芋共に筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交りなれば、出世の例(ためし)眞(しん)にあたれり。此末(このすゑ)串海鼠(くしこ)・靑山椒(あをざんせう)も心に留まる世なりけめ。浦島の龜・保名(やすな)の狐、何れも妻となる因緣にや。されど「つれづれ草」には、土大根の精勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して敵(かたき)を防ぎ守る由聞えたれば、精魂何とてか化せずんばあらず。されば淸正房の山伏は加藤虎之助と化し、武田信玄は由井正雪と再生せしとは、化(か)しそこなひの類ひにや。假令(たとひ)同じ物にても、伊勢道者(いせだうじや)の錢は蛇となり、作太郞が錢は蛙(かはづ)となるとや。いかなることなりともとは云はれざることながら、慥にきのふけふ聞えし白生女郞の事は、正しく薯蕷の化したることは奇なりと云ふも餘りあり。其事はまのあたり證據ある事とやらん、委(くはし)くは書とゞめず。其障りあらんことの外聞を恐れてなり。是ぞ山の芋のお内儀になるとは、かゝるためしにこそと思はるれ。されば自然生(じねんじよ)のおさんが傳記、あらまし斯くの如し。化(くわ)、化(くわ)、何をか正(ただ)しとせん。例の三世の定(さだめ)に入りて、暫く一見を赦し給へ。

[やぶちゃん注:「桂の精は女と化して明帝にまみえし」う~ん、読んだ記憶があるのだが、何に出ていたどんな話か思い出せない。識者の御教授を乞う。なお、日本の桂はユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum を指すが、中国の「桂」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii を指し、全くの別種である

「ばせをの女は僧家に宿りしとやらん」唐の楚の湘水というところに山居する僧が、夜、「法華経」を読誦していると、一人の女が結縁を求めて来て消え失せ、後ジテで非情とされる植物である芭蕉(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の精であると告げて舞を舞って消え去って「花も千草もちりぢりになれば 芭蕉は破れて残りけり」と終わる、金春禅竹作の複式夢幻能を指している。台詞を含め、より詳しくは、『宝生流謡曲「芭蕉」』のページがよい。「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」の私の注で細かく記してあるので参照されたいが、そこで示したように、この元の話は作者不詳の元の志怪小説集「湖海新聞夷堅續志」の「後集巻二 精怪門 樹木」の「芭蕉精」が元とされる。但し、他にも南宋の「夷堅志」に芭蕉の怪異の話があり、同書の「庚志巻六」の「蕉小娘子」、「丙志巻十二」の「紫竹園女」は芭蕉そのものが精怪になって出現する話である。

「かくや媛(ひめ)は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、竹とり物語にも聞えし」ブー! 皇后にはなっていませんよ! 麦水はん!

「筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交り」「筍羹」は、てっきり麦水が「管鮑の交わり」の「鮑」に引っ掛けて洒落た熟語だと思っていたら、小学館「日本国語大辞典」に「筍羹」として載ってた! 『筍を切って、鮑(あわび)』(!)、『小鳥、蒲鉾(かまぼこ)などと色よく煮含めて盛り合わせた普茶料理。節を抜いた筍に魚のすり身を詰めて煮たものもいう。しゅんか』で季語は夏だそうだ! 寛永二〇(一六四三)年刊の「料理物語」に出ており、サイト「江戸料理百選」のこちら(作り方有り)によれば、これは既に室町時代に流行していた筍の煮物だそうで、『冷めてから食膳に出された料理なので、別名、煮冷(にさまし)とも言われていた』とある(そうか! それで夏の季語なわけだ!)。『しかし』、享保一五(一七三〇)年刊の嘯夕軒・宗堅他の著になる「料理網目調味抄」に『なると、筍に限らず、菜類を中心に、海老、いか、あわびなどを加えた煮物のことになっている』とある。「料理昔ばなし」のこちらでは明らかに新春のそれとして「筍羹」(作り方と写真有り)が載ってます。これら見てると、うん、これに山芋かけて食べてもよかとデショウ!

「串海鼠(くしこ)」腸を取り除いた海鼠(なまこ:棘皮動物門ナマコ綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコApostichopus armata)を茹でて串に刺して保存できるように干したもの。ナマコの食用の歴史は古く、奈良時代には既にナマコの内蔵を抜いて煮干に加工した熬海鼠が(いりこ:この「くしこ」と基本的には同じような処理をしたもの)がまさにこのロケーションである能登国から平城京へ貢納されており、平安時代には海鼠の内蔵を塩辛にした海鼠腸(このわた)が能登国の名産物として史料に早くも登場している。則ち、現在に至るまで能登は海鼠の名産地なのである。

「靑山椒(あをざんせう)」初夏の実山椒は塩漬けにしてよう食べた。辛みがたまらんね。「心に留まる世なりけめ」という謂い添えからは、麦水は食には保守的で、ゲテモノではないものの普通でない「串海鼠」のような処理保存食や、ぐちゃぐちゃ詰めた非時期物(筍は夏じゃないでしょう)はあまり好まないタイプの人物であったのかも知れない。

「保名(やすな)の狐」安倍保名(やすな)。古浄瑠璃「しのだづま」の登場人物で摂津阿倍野の武士。和泉の信太(信田:しのだの)森で陰陽師芦屋道満の弟石川悪右衛門に追われた狐を助け、狐の化身の女「葛の葉」と結ばれて、二人の間に生まれた子が安倍晴明であるとされる。最も知られるのは「蘆屋道満大内鑑」であろう。

『されど「つれづれ草」には、土大根の精勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して敵(かたき)を防ぎ守る由』「徒然草」の第六十八段。

   *

 筑紫に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を、

「萬(よろづ)にいみじき藥。」

とて、朝(あさ)ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。

 或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來て、圍み攻めけるに、館の内に兵(つはもの)二人出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な召しつる土大根(つちおほね)らにさぶらふ。」

と言ひて失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。

   *

「押領使」は平安時代に諸国に設置された令外の官の一つ。「押領」は「引率する」の意で、地方の内乱・暴徒鎮定・盗賊逮捕などに当たった。後に常設化された。「土大根(つちおほね)」ダイコン。

「淸正房の山伏は加藤虎之助と化し」強力な日蓮宗信者であったかの加藤虎之助(介)清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)に対する、死後に発生した一種のファナティクな御霊信仰的再生伝承で「清正公信仰(せいしょうこうしんこう)」と音読みする。ウィキの「清正公信仰」によれば、清正の死から半世紀ほど過ぎた寛文年間(一六六一年~一六七三年)に成立した「続撰清正記(ぞくせんきよまさき)」に、清正は、その昔、六十六部の「法華経」を全国に納めることを成就した回国の聖「清正房(せいしょうぼう)」の生まれ変わりである、加藤清正の没後に廟の工事をしていると』、『清正房の遺骸の入った石棺が見つかったとする伝承を紹介している。同書の著者はこの伝承は史実ではないと否定しているものの、清正の没後』五十『年にしてこうした伝承が伝えられるほどの清正公信仰が既に成立していたことを示している』とある。

「化しそこなひの類ひにや」これは確かに清正と正雪の最期を知るに突っ込みたくはなるね。

「伊勢道者の錢は蛇となり」「柴田宵曲 續妖異博物館 錢と蛇」の本文と私の注をご覧戴きたい。

「作太郞が錢は蛙となるとや」原話を知らない。識者の御教授を乞う。一つ、山形の民話でサイト「日本むかしばなし」に載る「人が見たらカエルになれ」(銭緡(ぜにさし)に対して)という話があるのは見つけた(但し、これにはオチがあり、これは実際には銭が蛙に化したのではない)。

「白生女郞」「しらおじょろう」(現代仮名遣。「しらお」は前に注した)と読んでおく。女郎は単に(但しやはり卑称性はぬぐえないが)「女性」「少女」の意でも使う。

「其障りあらんことの外聞を恐れてなり」「おさん」は「町方の」かなり裕福な「内儀」となっており、それどころか、「お鶴」は、ある「大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ」というのだから当然である。

「化(くわ)、化(くわ)、」大笑する「呵、呵」に引っ掛けたか。但し、そちらだと歴史的仮名遣は「か、か」になる。にしても私はマズいとは思わないがね。

「三世の定(さだめ)」六道を輪廻する前世・現世・後世の再生の因業。その因果(例えば「お鶴」は何故、山芋から大名の寵愛者になれたのかということ)は実は凡夫には判らぬわけで、さればこそ一つ奇っ怪な話という程度のものとして「暫く一見を赦し給へ」(管見下されば幸いで御座います)と遜ったのである。]

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一時下げである。それのため、改行は行わず、この後に一行空けた。]

 

 此話は此十年許りの間とかや。證もある事とて不審がられしに、傍(かたはら)に物產先生あり。辨じて曰く、「是(これ)必ずあるべき事と思はる。山の芋年久しうして『大乙禹餘𩞯(たいいつうよりやう)』となると聞く。實(げ)に土のねばり、此(この)薯蕷に似たり。大乙禹餘𩞯强氣(つよきき)を請(う)くる時は、生物となると聞えたり。「おさん」薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈(あに)別に替りたる論ならんや。曾て聞く、外國に婦人のみ住む國あり。歸人子を求めんと欲(ほつ)しては、必ず井(ゐ)を覗きて影を移す。終(つひ)に孕みて女子を產すと聞えたり。おさん一婦(いつぷ)家を守る、一心只寳達の穴中に臨む。低向(うつむ)きて影をひたし、意を爰に留(とど)む。此時若(もし)大乙禹餘𩞯に化する薯蕷あらんには、陰氣を請けて生物を生ずるの理(ことわり)、豈なくて叶はざらんや。士中に向ひて化人(けにん)を求むること、別に珍らしき理とも思はれず」と、扇(あふぎ)「きりり」と廻して聞えぬ。予是を聞きて、『是も又奇談なり』として爰に書留(かきとど)む。是より彌々(いよいよ)能州に杖をつきて、北浦(きたのうら)の極(きはみ)を探さんとす。七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん。

[やぶちゃん注:「物產先生」一種の地方の博物学者である。

「大乙禹餘𩞯」中国の聖王「禹」の食べ残したもの、「大乙」は(「大一」「太乙」とも書く)古代中国に於ける宇宙の根元を神格化したもの。特定の超越的存在者が食べ残したものが化石などになり、際限なく増殖或いは再生することにより永遠に存在し続けるとするのである。こうしたものへの原始信仰は世界的に広く見られる。

『「おさん」』が「薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈別に替りたる論ならんや」「おさん」が孤独に一心に山芋を掘り続けた、その強い一念が、一心に土の中に「精」を入れ込み、その歳月が重なるに従って、遂に「人」(この場合、妹と称する「お鶴」)に変化(へんげ)して人と化して生まれたことは、どうしておかしな論であろうか、いや、正当な論理である。

「七窪」能登半島の南の端に、現在、石川県かほく市七窪(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。

「高松」現在、石川県かほく市高松がある。ここは「七窪」の北であるが、現行の行政区域で問題とするに足らない。

 というわけで、「三州奇談續編卷之二」は終わっている。それにしても、本篇は「三州奇談」の中でも異様なまでの長文で、草臥れたし、読み終えてみても、それほど面白い奇談でもない。麦水に、やや失望した。……正直言うと(言っておくと、この続編は読みながら電子化しており、過去に読んだことはないのである)……だんだん面白くなくなってきたなぁ……

2020/05/16

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 三

 

    

 

 惟然は党を立てて人と争い、論を以て他に見ゆる風の人ではない。けれどもその天縦(てんしょう)の材は、同門の士とも合わぬ点があったらしく、許六(きょりく)の如きは口を極めてこれを罵っている。その「贈落柿舎去来書」において、蕉翁歿後の俳諧を慨歎した末、特に惟然一人の名を挙げて攻撃を加えたのは、明(あきらか)に両者の肌の合わぬことを語るものであろう。

[やぶちゃん注:「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。

「贈落柿舎去来書」俳諧論書「俳諧問答」中の一篇。本体は元禄一〇(一六九七)年閏二月附の去来発信の其角宛書状を皮切りに、翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡の集成を中心に置いたもの。「贈晋氏其角書」(去来から其角宛。以下が許六・去来往復書簡)・「贈落柿舍去來書」(本「落柿舍が去來へ贈る書」)・「答許子問難辨」(後掲される。「許子の問ふ難(なん)に答ふる辨(べん)」)・「再呈落柹舍先生」(後掲される。「再び落柹舍先生に呈す」)・「俳諧自讚之論」・「自得發明辨」・「同門評判」から成る。去来は〈不易流行〉論、許六は〈血脈(けちみゃく)〉説を前面に打ち出して論を戦わせており、蕉風俳論書としては第一級の価値を持つとされる。天明五(一七八五)年、浩々舎芳麿により「俳諧問答靑根が峯」として出版され、寛政一二(一八〇〇)年になって現在の「俳諧問答」の題で再版された(以上は平凡社「世界大百科事典」を主文として使用した)。書写年代不詳の写本(寛政十二年竹巣月居序)でなら、早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部(宵曲引用部含む)の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

惟然坊といふもの、一派の俳諧を弘(ひろむ)るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ噺(はな)し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に辱(はじ)を晒すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。口すぎ世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門他門ともに本性を見とゞけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。

 俳諧における論議がとかく漫罵に流れるのは、珍しいことでもないが、芭蕉歿後僅々数年にして、しかも同門より出づる評語としては、甚しきに過ぎたる憾(うらみ)がある。篤実なる去来がこれに答えて「雅兄惟然坊の評、符節を合したるが如し」といいながら異見を開陳したのは、むしろ当然であるとしなければならぬ。

[やぶちゃん注:「浄瑠璃の情より」浄瑠璃の義太夫節の一節の情趣の表現を安易に切り取って創造性も何もない。

「金山談合の席に」橘佐為氏は割注して『(賄賂か)』とされる。風流とは対極に位置する鉄気(かねっけ)が鼻を撲(う)つが如き怪しい大金の動く武家や商人の談合の場にあっての謂いであろう。

「昼狐」「ひるぎつね」で、昼間に図々しく巣の外へ出てくる狐の意から、「あつかましい人」や「きょろきょろとして落ち着きのない人」を謗ってい言う語。

「漫罵」(まんば)は漫(みだ)りにののしること。]

 去来の答弁はかなり長きにわたっているから、全文を引用するに堪えぬが、劈頭(へきとう)先ず「一生真の俳諧一句もなしといはんは、過たりとせんか。また大賊とは云ひがたからんか」といって、許六の説の感情に奔り過ぎたのを咎めている。去来の説に従えば、惟然は蕉門に入ること久しくして、芭蕉に昵近(じっきん)する機会が乏しかったのを、芭蕉最後の旅行に随遊した際、芭蕉は惟然の「性素にして、ふかく風雅に心ざし、能く貧賤にたへたる事をあはれみ」俳諧に導くことが切だったというのである。惟然の俳諧はこの間に長足の進歩を遂げたが、同時に芭蕉の感覚と、俳談とによって多少の迷[やぶちゃん注:「まよい」。]を生じた。惟然を迷える者とはいい得るが、自ら欺き人をたぶらかす者ではない、というのが去来の見解である。故に去来は撰集に関する許六の攻撃も誤解であるとし、事実を挙げて惟然のために弁じている。「口すぎ世渡りのたよりとせば、それは是非なし」という罵評に対し、「彼坊における、定て[やぶちゃん注:「さだめて」。決して。]この事なけん」といったのは、惟然の美点を認むるに吝(やぶさか)ならざるものがあったのだろうと思われる。

 けれども据傲(きょごう)なる許六は直にこれに承服しなかった。「再呈落柿舎書」の中に、次のような一節がある。

[やぶちゃん注:「据傲」驕(おご)り高ぶること。傲慢。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

二十四章惟然坊が評、猶以てさたなし。先生の論神の如し、一生真[やぶちゃん注:「まこと」。]の俳諧なしとは、予過論か、碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん。

  世の中を這入かねてや蛇の穴

[やぶちゃん注:中七は「はいりかねてや」と訓じておく。]

は少し哀なる所もあり、これ坊素牛といへる時、藤の実といふ集を編り[やぶちゃん注:「あめり」。]。その時はさしたる事も無きやうに思ひ侍れども、この頃余りに集どもの拙き[やぶちゃん注:「つたなき」。]を見て、この集取り出し[やぶちゃん注:「いだし」。]見るに、中々頃日[やぶちゃん注:「けいじつ」。近頃。]の集に似たる物にもあらず、これは師在世したまふ光也(ひかりなり)。この藤の実専(もっぱら)洒堂が後見と見えて、奥の俳諧は珍碩(ちんせき)なり、丈艸(じょうそう)の手伝ひも見えたり、正秀(まさひで)が序文は丈艸の口なり、師の手伝とは見えず。

[やぶちゃん注:「予過論か」「よ、すぎたるろんか」と訓じておく。「私のそれは言い過ぎた論であろうか?」の意。本当は許六は反語的疑問として言っているのだが、直後に申し訳にそれほどでもない一句を挙げて「金に似たるものもあらん」とは「少し哀なる所もあり」とは糞のようない謂いだ。

「碌碌」石が転がっているさまも指すが、ここは平凡なさま、役に立たないさま、何事もなし得ないさまを言う。

「洒堂」「珍碩」同一人物で浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)のこと。初期は珍夕・珍碩とも名乗った。近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮。元禄二(一六八九)年入門。努力の人で、元禄五年秋には、師を訪ねて江戸に上って俳道修業の悩みを訴えたりしている。後に大坂に出て専門の俳諧師となったが、薬種商で俳人の槐本之道(えもとしどう)との間で勢力争いを起こし、元禄七年、芭蕉はその仲裁のために大坂に赴き、取り敢えずの両者和解の直後に不帰の人となった。

「正秀(まさひで)が序文は丈艸の口なり、師の手伝とは見えず」水田正秀(みずたまさひで ?~享保八(一七二三)年)は近江生まれで大津膳所の湖南蕉門の有力な一人。通称、孫右衛門。藩士或いは町人であったとも言われ、後に医者となった。初めは尚白に師事したが、元禄三年秋に蕉門に入った。彼は膳所義仲寺に於ける芭蕉のパトロンでもあった。この部分は、「正秀の序文は丈草の口振りであり、丈草の手伝いどころではなく、正秀の代わりに丈草が全部代筆したものだ」と言いたいのである。]

 『藤の実』が出た時にはさほどにも思わなかったが、近年世間の俳書があまりに低下しているので、それに比べれば見上げたものだという説である。『藤の実』の価値は認めても、鉄中(てっちゅう)の錚々(そうそう)、庸中(ようちゅう)の佼々(こうこう)としか考えない。しかのみならず芭蕉在世の光とし、洒堂、丈艸ら手伝の賜(たまもの)とし、どこまでも惟然の力を減殺(げんさい)しようとかかっているのは、感情に偏する譏(そしり)を免れぬ。『藤の実』は元禄俳書の中でも出色のものである。許六、李由(りゆう)の撰に成る『韻塞(いんふたぎ)』の下風(かふう)に立つものではない。惟然の句も『藤の実』集中にすぐれた作品の少からぬこと、已に述べた通りであるにかかわらず、同書中の作は一も挙げることなく、僅に「蛇の穴」の一句を示して「碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん」などと嘯(うそぶ)いているのは、公正なる批評とはいい得ぬであろう。この「蛇の穴」及(および)「磯際の波に鳴入いとゞかな」[やぶちゃん注:「鳴入」は「なきいる」。]「晩方(ばんがた)の声や砕(くだけ)るみそさゞい」等の諸句は、許六自身『韻塞』に採録したものである。これらの句が『藤の実』所収の句よりまさっているか否かは姑(しばら)く措(お)く。「一生真の俳諧なし」ということを頑守すれば、自らその句を採用した所以を弁じなければなるまい。すなわち前言を指して「予過論か」といい、自家撰集中より特にこの一句を挙げたものではないかと思われる。

[やぶちゃん注:「鉄中の錚々、庸中の佼々」鉄の中では、よい音のするもの。凡人の中で、少しすぐれている者を喩えた言葉。「後漢書」の「劉盆子」などに拠る。劉秀が降伏してきた敵将に対して、「卿所謂鐡中錚錚、傭中佼佼者也」(卿(けい)は所謂、鐡中の錚錚、庸中の佼佼たる者なり)「お前たちは鉄の中でも、多少は良い音のする鍛えたましな鉄材であり、平凡な連中の中にあっては、まあ、少しは優れている者ではある」と評した故事から。「鐡」は一般的で普通の金属を指し、「錚」は高価な或いはよく鍛えた金属が打ち当たった時に立てる涼やかな音の形容。相対表現で多少褒めたように見えるものの、多少はマシな存在だ程度の謂いである。特にここでの許六の謂いは以下で宵曲も批判するようにその極めつけに皮肉った雑言に近いものと言える。

「李由」河野李由(寛文二(一六六二)年~宝永二(一七〇五)年)は近江の生まれで同地の明照寺住職で蕉門の俳人。芭蕉とは特に親密な師弟関係を結んだ。許六と親しく、「韻塞」「篇突(へんつき)」などは彼との共同編集である。

「韻塞」李由・許六編。元祿一〇(一六九七)年刊。芭蕉三回忌に際して蕉門の規範を示すべく編集されたもの。彦根を中心に諸家の発句や連句・俳文を収め、許六と芭蕉の交流を伝える。

「いとゞ」前が「鳴入」(なきいる)であるから、ここもやはりカマドウマではなく、コオロギ。

「みそさゞい」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。漢字表記は「鷦鷯」。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。小さな体の割りには声が大きく、囀りは高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」と鳴く(引用元で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴くが、私は「砕(くだけ)る」という感覚に合うのは囀りしかないと思う。]

 惟然に対する許六の非難は必ずしも以上を以て尽きず、惟然を引合に出すごとにこれを攻撃したというよりも、むしろ攻撃せんがために惟然の名を持出すかと思われる位である。某(なにがし)の集に

 閑なる秋とや鮹も壺の中        惟然

[やぶちゃん注:「しづかなるあきとやたこもつぼのなか」。]

を収めたことを難じて、「是師の句の下手なるもの也。予が集の時も、この句かきておくれり。大きにいやしみ我党は小便壺へかいやり捨るなり」といえるが如き、彼の筆は常に一種の毒気を含んでいる。何故にこれほど目の敵(かたき)にしなければならなかったか。湖東の天刑子の眼孔もまた僻(へき)せりといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:この句は無論、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回』を参照されたい)へのオマジューである。それほどの句ではないが、「小便壺」に投げ込むというのは如何にも口を穢している許六自身、如何にも下品な物言いである。

「湖東の天刑子」許六のことを宵曲がその晩年に発症した病気から名指したものであろう。彼は彦根城下藪下生まれの彦根藩重臣で近江蕉門。晩年、宝永四(一七〇七年)年五十二歳の頃からハンセン病(旧癩病。皮膚変性が激しく、洋の東西を問わず生きながらにして地獄や煉獄の刑を受けているという意味で「天刑病」と呼ばれ、激しく差別され忌み嫌われた)を病み、同七(一七一〇)年に井伊家を辞し、家督を養子の百親に譲り、正徳五(一七一五)年に死去した。

「僻(へき)せり」「心がねじけている」「偏見に満ちている」「正しくない」の意。許六がハンセン病を患い、偏見に眼に晒されたであろう晩年を考えると、そうした他者への強いある種の偏見が、まさか自己に向けて照射されるとは考えていなかった彼を少し哀れにも私は感ずる。]

 前に引いた去来の「答許子問難弁」を読むと、芭蕉が惟然に教えた中に「俳諧吟呻(ぎんしん)のあひだの楽(たのしみ)なり。これを紙にうつす時は反故(ほご)に同じ」「当時の俳諧は、工夫を日ごろに積んで、句にのぞみてたゞ気先(きさき)をもって吐出すべし」「俳諧は無分別なるに高みあり」等の語があったと記されている。惟然はこれによって悟入すると共に、いささか迷[やぶちゃん注:「まよい」。]を生じたというのが去来の説であるが、這間(しゃかん)の消息を伝うべき例句は別に挙げていない。もし無拘束な惟然調なるものがこの辺[やぶちゃん注:「あたり」。]から顕著になったものとすれば、その可否は見る人によって異るであろう。朱拙が「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」と評したのも、許六が徹頭徹尾罵倒したのも、時代からいえばほぼ同じ頃だからである。

[やぶちゃん注:「俳諧吟呻(ぎんしん)のあひだの楽(たのしみ)なり。これを紙にうつす時は反故(ほご)に同じ」真の芸術家の言う言葉である。「俳諧(芸術)とは魂を絞りに絞って詠吟する、その創作過程のプロセスにこそ楽しみがあるのであって、出来上がってしまった発句を紙に移し書いた瞬間、それは芸術作品としては何の意味も持たないゴミと同じである。」というのである。

「当時の俳諧は、工夫を日ごろに積んで、句にのぞみてたゞ気先(きさき)をもって吐出すべし」「吐出すべし」は「はきいだすべし」と読む。「現代の真の俳諧というものは、工夫を常に怠らず積みあげておいて、一句に対峙してただ荒々しい生の気の勢いの機先(きせん)を以って一気呵成に吐き出だすことが肝心である。」。

「這間」「この間(かん/あいだ)」の意。「這」には本来は「この」という意はない。宋代に「この」「これ」の意を漢字で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体を「這」と誤認して混同したことに拠る慣用表現である。]

 芭蕉歿後における惟然は、多くの歳月を漂浪の旅に費した。

  広しまにて

 やがて花になる浦山や海苔日和  惟然(初蟬)

[やぶちゃん注:「やがてはなに なるうらやまや のりびより」。「初蟬」(はつせみ)は風国編。元禄九(一六九六)年刊。]

  周防岩国山の麓にて

 半帋すく川上清しなく雲雀    同

[やぶちゃん注:「周防」は「すはう(すおう)」、「岩国山」は「いはくにやま」、「半帋」は「はんし」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の評釈の中に、『元禄九』(一六九六)『年春、筑紫行脚の帰途、中国筋での旅中吟である。まだ余寒の残るころ、山国の川の流れはあくまで清く、雲雀はうららかに鳴いている――そんな山里では、名産の半紙を漉く光景が見られることだ』とある。「岩国山」は現在の山口県岩国市錦見(グーグル・マップ・データ)。標高二百七十七・八メートル。]

  長崎に入の吟

 朝ぎりに海山こづむ家居かな   同

[やぶちゃん注:「入」は「いる」。「家居」は「いへゐ」。「こづむ」は「一ヶ所に偏(かたよ)って集まる」「ぎっしりと詰まる」の意。]

  豊前小倉に舟つきて

 名月や筵を撫る磯のやど     同

[やぶちゃん注:「豊前」は「ぶぜん」、「筵」は「むしろ」、「撫る」は「なでる」。]

  象潟にて

 名月や青み過たるうすみいろ   同(菊の香)

[やぶちゃん注:底本では「象潟」は「きさかた」と清音。「うすみいろ」は「薄綠」で薄い緑色のことであろう。「菊の香」は風国編。元禄九一〇(一六九六)年刊。]

  湯殿山にて

 日のにほひいたゞく龝の寒さかな 同

[やぶちゃん注:「龝」は「あき」。秋。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 44 湯殿山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな』を見られたいが、惟然は芭蕉の句を意識しながら、女陰秘蹟の山行に陽射しに嗅覚を以って応えたものと私は思う。]

  越中にて

 ゆり出すみどりの波や麻の風   同

  周防路を過るとて

 風呂敷に落よつゝまん鳴雲雀   同(鳥の道)

[やぶちゃん注:「過る」は「すぐる」、「落よ」は「おちよ」。「鳴雲雀」は「なくひばり」。]

  西国船かゝりの比

 あすのひのひより誉てや宵の月  同

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「誉てや」は「ほめてや」。堀切氏の前掲書では、前書を「西國船(さいごくふな)がゝり」と読んで、『元禄八』(一六九五)『年秋、海路筑紫国(九州)に向かった折の吟である。明日の日和のよさを祝福するかのように、今宵は夕月夜がほの明るく照らしている、という意である』とされる。「宵の月」は「宵月夜(よひづきよ)」で、宵の間だけ月の出ている夜。特に旧暦八月二日から七日頃までの夜。また、その上弦の月を指す。宵のうちだけ月が見える。元禄八年ではグレゴリオ暦九月九日から九月十四日に相当するが、九日は新月なので見えぬから、八日から十四日。しかし厳密な宵月はその翌日の陰暦八月八日(グレゴリオ暦九月十五日)がこのロケーションのその日にするに正しいかと思われる。いつもお世話になっている「暦のページ」のこちらを参照されたい。]

  礪波山も程なく過て猶山そひ
  井波の麓にしるべ有まゝたづ
  ね入て

 真綿むく匂ひや里のはひり口   同

[やぶちゃん注:「礪波山」は「となみやま」。ここ(グーグル・マップ・データ)。「過て」は「すぎて」。「井波」は「ゐなみ」。現在の富山県南砺(なんと)市井波(グーグル・マップ・データ)。「有まゝ」は「あるまま」。「入て」は「いりて」。]

 いずれも芭蕉歿後数年を出でざる間の句である。前言の地名がこれを語っている通り、足跡の広きにわたる点においては固より芭蕉以上であろう。けれどもこれらの句は惟然としてその最高峯を示すものではない。『藤の実』以降の佳句に如(し)かぬのみならず

 どんみりと桜に午時の日影かな  惟然

[やぶちゃん注:「どんみりと」空の曇っているさま。「どんより」に同じい。「午時」は「ひる」。]

 曇る日や水雞ちらりと麦の中   同

[やぶちゃん注:「水雞」は「くひな(くいな)」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいるから、その景であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。]

の如き、比較的平凡な句に比べても、なお物足らぬところがある。傾向として軌道を外れているというわけでなしに、どこか一点釘の緩んでいるような感じである。但(ただし)芭蕉生前の諸作と後の惟然調との間に、こういう中間的な時代のあることは、一顧を要するかと思う。

 惟然調を以て目せらるる句は、前に朱拙が『けふの昔』に引いたような種類のものであるが、なお少しく『惟然坊句集』によって実例を挙げる必要がある。

 梅の花赤いは赤いはあかいはな  惟然

 我儘になるほど花の句をさらり  同

 若葉吹く風さらさらと鳴りながら 同

  故郷の空ながめやりて

 あれ夏の雲又雲のかさなれば   同

 あそびやれよ遊ぼぞ雪の徳者達  同

[やぶちゃん注:「徳者達」は「たつしやたち」と読む。雪国の子らを詠んで、一茶の先駆者の面目を感じさせる句である。]

 水さつと鳥よふはふはふうはふは 同

 水鳥やむかうの岸へつういつい  同

[やぶちゃん注:「つういつい」の「つい」は踊り字「〱」であるが、韻律と語調から「つい」であると思われる。堀切氏も前掲書でそう詠むべきとされる。]

  芋鮹汁は宗因の洒落 奈良

  茶漬は芭蕉の清貧

 冬籠人にもの言ふことなかれ   同

[やぶちゃん注:「冬籠」は「ふゆごもり」。京都の一般家庭の惣菜料理として「おばんざい」という言葉が知られるが、これが使われた家庭料理本に幕末に出された「年中番菜録」という一冊があり、一説にはこの書から「おばんざい(御番菜)」が広まったとも言われるそうである。その「年中番菜録」で紹介された料理の一つが「芋鮹汁」で、この時代の「芋」は里芋でそれに蛸を合わせた味噌味の汁を言う。味噌汁としては意外な組み合わせであるが、参照したハムカツサンド氏のブログの「芋たこ汁」によれば、相応に美味いらしい。但し、「宗祇の洒落」というのは不詳。識者の御教授を乞う。

「茶漬は芭蕉の清貧」は芭蕉の三十八の折り、深川に隠棲した直後に記した「月侘斎(つきわびさい)」(延宝九(一六八一)年秋)の以下。

   *

 月を侘び、身を侘び、つたなきを侘びて、侘ぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほ侘び侘びて、

 

  侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌   芭蕉

   *

伊東洋氏の「芭蕉DB」の「月侘斎」の解説を引く。

   《引用開始》

 支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。ここに奈良茶とは、奈良の東大寺などで食する茶粥のことで粥の中に煎った大豆や小豆などを入れた質素な食事のこと。奈良茶歌とは、奈良茶を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味であろう。一句中、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指している。芭蕉修業時代の心意気を述べたものと解釈される。なお、この年延宝9年には16句が現存している。

侘ぶと答へんむとすれど、問ふ人もなし:言うまでもなく、『古今和歌集』在原行平の歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」から引用している。

   《引用終了》]

 この種の句は『藤の実』時代の句が誰からも推奨されるのと異り、毀誉相半(あひなかば)するという結果になりやすい。その代り惟然らしいという点からいえば、頗る惟然らしいもので、容易に他人の廡下(ぶか)に立たぬだけの特色を具えている。俳諧は吟呻の間の楽で「紙にうつす時は反故に同じ」という言葉はこういう句の上に適切であるかも知れない。しかし惟然自身としては「工夫を日ごろに積んで、句にのぞみて、たゞ気先をもって吐出」したので、少くとも「無分別なるに高みあり」位の自負は持っていたであろう。この種の句が口を衝(つ)いて出ずるに及んで、「句をわるくせよわるくせよ、求めてよきはよからず、内すゞくば外もあつからじ」というような説法をするに至るのは想像に難くない。朱拙はそこが気に入ったらしいが、去来のような人から見ると、少し薬が利き過ぎた感がないともいえぬ。「水さつと」の句の外(ほか)、これらの句の出来た時代はよくわからぬけれども、もし「答許子問難弁」時代に当るものとすれば、去来の懸念も一応尤(もっとも)なわけである。

[やぶちゃん注:「廡下」廂(ひさし)の下。ある人の亜流。]

 但ここに列挙した中にも自らいろいろな種類がある。「若葉吹く」の句、「水さつと」の句、「水鳥や」の句などは、いい廻しが惟然的に自由なだけで、十分客観的な要素を持っている。「若葉」の句は『類題発句集』などには「若葉吹くさらくさらさらと雨ながら」となっており、雨が添えば更に変化を生ずるわけであるが、いずれにせよ爽(さわやか)な若葉の風を耳許(みみもと)に聞く思(おもい)がある。水鳥の二句にしても、畳みかけた俗語の使用によって、軽快な感じを現しているので、それがために動的描写の効果を収め得たのであるが、「あれ夏の」の句になると、そうは行かぬ。「雲又雲のかさなれば」の一語は、重畳たる夏雲の様を目に浮ばせぬではないけれども、故郷の空を望むという作者の主観が勝っているために、渾然として十七字に纏まりきらぬ憾(うらみ)があるかと思う。

 「梅の花」の句にしてもそうである。作者の興味は梅花の紅に集中されており、「赤いは赤いは」を繰返すあたり、無分別の尤(ゆう)なるものではあるが、俳句としては主観に傾き過ぎて、その梅の紅を読者の眼前に髣髴することが出来ない。田安宗武の「ひむがしの山の紅葉は夕日にはいよいよ赤くいつくしきかも」という歌は、同じく単純なものであっても、山を現し、夕日を現し、紅葉と相俟って一幅の画図をなしている。「赤いは赤いはあかいはな」は俳句として珍たるを失わぬけれども、真に成功したとはいい難いであろう。

「田安宗武」(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)は第八代将軍徳川吉宗の第三子で国学者にして歌人。幼時から学を好み、初め荷田在満に国学を学び、後に賀茂真淵に師事した。歌人としても秀れ、また有職故実の研究者としても知られる。権大納言。

「ひむがしの山の紅葉」(もみぢ)「は夕日にはいよいよ赤くいつくしきかも」「紅葉」と前書する田安宗武の一首。]

 「あそびやれよ」の句は、句法の変化において「木もわらん宿かせ雪の静さよ」の句に似ている。ただ「木もわらん」の句が句法に伴って内容も変化に富んでいるに反し、「あそびやれよ遊ぼぞ」の繰返しには、それほどの妙味が認められぬ。『惟然坊句集』にはこの二句が並記してあるけれども、同じ場合の句ではなさそうである。

[やぶちゃん注:「木もわらん」国立国会図書館デジタルコレクションの「名家俳句集」では、

  越路にて

 薪も割らあむ宿かせ雪の靜さは

 あそびやれよ遊ぼぞ雪の德者達

とあり、前者は一本に座五を「靜さよ」とする。ここここ。]

2020/05/15

三州奇談續編卷之二 氣化有ㇾ因

 

    氣化有ㇾ因

 越中射水郡(いみづごほり)和田川といふあり。步渡(かちわた)りながら古戰(ふるきいくさ)の氣(き)あり。「木船の城」と云ふは、先段にも記す如く、地震の爲に地陷(おちい)りて今はなし。此城初めは石黑左近と云ふ者籠りし所と云ふ。其頃鎌倉將軍の御代と聞きし。其後和田合戰一亂終りて、木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ。故に越中多く「巴塚」と稱するあり。此和田川の川邊(かはべ)り蔓草(つるくさ)悉く力あり。葛(くづ)・蔦(つた)・葵(あふひ)・ぬかごの類(たぐひ)迄も、他に比すれば悉く肥えて甚だ異なり。山人(さんじん)葛などを以て柴を結び、或は重荷の「荷(にな)ひ繩(なは)」にして歸る。甚だしきものは蔓を以て、家居(いへゐ)のしまりにするともいへり。里俗

「是(これ)巴御前(ともゑごぜん)の執心なり」

とて「巴蔓(ともゑづる)」と云ふ、又妙なり。山中(やまなか)成(なる)べし。桃妖(たうえう)が

 山人の晝寢をしばれ葛かづら

と云ひて、ばせを翁の感を請けしは此咄(このはなし)に依りて案じたりと聞けり。

 又此渡りに德萬(とくまん)村と云ふあり。堂を建つるに、崇(たか)くして岩神(いはがみ)と云ふ產神(うぶすながみ)あり。此堂は岩を見立て、其上に堂を建つ。其岩年々大きくなり、五年許りにしては、堂を建て替へざれば堂傾くと云ふ。四十年許にては岩一倍に成りしを見ると、所の人の口實(こうじつ)なり。

 是は此里に往昔岩上德摩(いはがみとくま)と云ふ者住みにけり。領主などの如き者にやありけん。自ら身甚だ肥大にして、却りて是を愛す。召遣ふ所の婢妾奴僕(ひせうぬぼく)も、皆肥えふくれたる者にあらざれば愛せず。身終る迄是を求む。死して氣(き)岩に化すと云ふ。然れども何れの世なりけん、傳記とても傳はらず。俗諺と覺えたり。

[やぶちゃん注:表題は「氣(き)、化(か)するに因(いはれ)有り」と訓じおく。

「射水郡和田川」「西住の古碑」の注で示したように、現在の大門地区の西で庄川に合流する和田川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧流路(現在とは庄川の流路自体が大きく異なる)。

「木船の城」「縮地氣妖」を参照。富山県高岡市福岡町木舟にあった木舟城。

「石黑左近」ウィキの「木舟城」によれば、元暦元(一一八四)年、木曾義仲に従って前年の「倶利伽羅峠の戦い」で活躍した越中国の豪族石黒光弘によって築かれ、以後、石黒氏が治めたとあって、鎌倉時代の事跡はよく判っていなようである。文明一三(一四八一)年八月、『越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで』、『越中一向一揆勢の瑞泉寺門徒らと戦うが』、『敗退(田屋川原の戦い)。光義ら一族は安居寺で自害し』、『石黒氏本家』は衰退し、『その後』、『徐々に木舟石黒氏が勢力を強め』た。天文年間(一五三二年~一五五四年)には『木舟城主石黒左近将監が越中国安楽寺城を攻めて城主高橋與十郎則秋を討っている』。永禄九(一五六六)年、『城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館並びに越中国勝満寺を攻め、これらに放火している』(中略)。後、天正二(一五七四)年七月、『上杉謙信に攻め落とされて臣従した』とあって、天正五(一五七七)年十二月二十三日に書かれたと考えられる「上杉家家中名字尽」に『石黒左近蔵人(成綱)の名が見える』とある。しかし、天正六(一五七八)年、『上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方についた』。天正八、九年と二度に亙って『一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち』にし、結果、『焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされ』て奪われ、同天正九年七月に『成綱を始めとする石黒一門』三十『人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図』ったが、『近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)』とある。麦水は「初めは」と言っているが、彼の言う「石黑左近」はずっと後の、この石黒成綱(?~天正九(一五八一)年:通称は左近蔵人)との混同が生じていると考えるべきであろう。

「和田合戰」建暦三年五月二日から三日(ユリウス暦一二一三年五月二十三日~二十四日/グレゴリオ暦換算五月三十~三十一日)にかけて発生した鎌倉幕府初期の内乱。三浦義盛を筆頭とする和田一族が執権北条義時の策略によって滅ぼされた。その経緯と詳しい戦闘は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白狀 竝 和田義盛叛逆滅亡」の、

〈泉親衡の乱〉

〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉

を読まれたい。

「木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ」私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」を見られたい。そこで本文にブスの坂額(ばんがく:越後の平家方豪族で建仁元(一二〇一)年一月から五月にかけて実兄城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱に参加した女傑武将。但し、「吾妻鏡」の板額姐さんは超美人と出るから不当! なお、名前の表記は後世に「板額」に変化してしまう)と比較するところで、「和田義盛は木曾義仲の妾(おもひもの)巴女(ともゑ)を妻として、其力(ちから)を傳へて、淺比奈義秀(あさひなのよしひで)を生みたり。當時大力(ちから)の剛(がう)の者と世にその隱(かくれ)なし。是は美目善き女なり」と出るので、注をしてある。再掲する。ウィキの「巴御前」によれば、巴御前は義仲の妻と称されることが多いが、便女(びんじょ:武将の側で身の回りの世話をする下女。)であって、妻ではない(義仲は京で松殿(藤原)基房の娘藤原伊子(いし)とされる人物を正妻としている)。従って「妾(おもひもの)」という記載は正しい。一般には、義仲の討死の直前に別れて、消息不明となったとされるが、生きのびたのか、その消息は判らなくなったとされているが、「源平盛衰記」では、『倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされて』おり、『宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り』、九十一歳で生涯を終えた、という後日談が語られる。また、義仲と別れた際の彼女の年齢については、「百二十句本」で二十二、三歳、「延慶本」で三十歳程、「長門本」で三十二、この「源平盛衰記」では二十八歳としている、とある。

「蔓草」蔓(つる)植物。草本性蔓植物と木本性蔓植物がある。以下のクズ・ツタ及び「むかご」の本体植物であるヤマイモ類もそれらに含まれる。

「葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata

「蔦」ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata

「葵」本邦では古くはアオイ目アオイ科 Malvaceae の内、概ねゼニアオイ属 Malva・フヨウ属Hibiscus に含まれるものを指すことが多い。

「ぬかご」本来は自然薯(じねんじょ=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica)・長芋(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya)などの葉腋に生ずる栄養体である緑褐色を呈する珠芽を指すが、ここはその本体の蔓部分。

「家居のしまり」家の戸締りのための内側の諸器具を固定する括り縄。

「山中(やまなか)成(なる)べし。」ここは句点ではなく、読点であるべきところ。「山中温泉でのことであるが、」と続くように読まないとおかしいからである。

「桃妖」(現代仮名遣:とうよう 延宝四(一六七六)年~宝暦元(一七五二)年)は俳人で加賀山中温泉の旅宿「泉屋」の主人。通称は甚左衛門。別号に桃葉。元禄二年七月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年九月十日)にこの泉屋に到着して泊った松尾芭蕉から桃妖の号を送られた。但し、当時は未だ十三歳の美少年で、名は久米之助であった。享年七十六歳。著作に「首尾吟」。「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗敎 第六節 俳諧」の彼の父でやはり俳人であった又兵衛の逸話と息子桃妖の話を載せるので(頭書「泉屋又兵衞 桃妖」)以下に引いておく。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

   *

山中温泉の浴樓に泉屋又兵衞といひしものあり。諱は武矩、長谷部氏又は長氏を冐す[やぶちゃん注:「ばうす(ぼうす)」。姓を勝手に名乗る。]。洛の貞室曾て一面の琵琶を得たり。筐に南北と篆書し、四面に梅鶯鶴月の圖を描く。貞室之を愛すること深く、彼が山中に來りしとき日夕翫賞せり。又兵衞その名器なるに感じ、伊勢の望一が所藏したる南北にあらざるやと問ふ。貞室何を以て之を知るやを質しゝに、又兵衞は、望一が天滿宮に奉納せる獨吟百韻に、『梅ならば南の枝や北野殿。飛ぶ鶯の跡を老松。長閑なる光に鶴の羽をのして。月にほこりを拂ふ高窓。』とあるにより、所愛の琵琶を南北と名づけ、四絃を梅鶯鶴月と銘したることを以て答へたりき。是に於いて貞室は、自ら俳諧を知らざりしが爲に、田舍翁の愧かしむる[やぶちゃん注:「はづかしむる」。]所となりたるを思ひ、洛に歸りたる後、貞德に學びて遂に巨匠となれり。さればこの一村判詞を求むるものあるも、貞室は決して朱料を受くることなかりしといふ。この譚、奧の細道歴代滑稽傳に載せらるゝも、遲月庵空阿の俳諧水滸傳の記事を最も委しきものとす。芭蕉のこの地に至りて泉屋に泊するや、又兵衞既に死し、子久米之助家を繼ぎしが、彼は尚小童たりしも、能く俳諧を解したりき。芭蕉乃ちこれに桃夭の號を贈り、『桃の木のその葉ちらすな秋の風』と祝福せり。葢し詩經周南の桃之夭々其葉蓁々より採りしなり。而もこの後久米之助が常に桃妖の字を用ひたるものは、夭字に短折の義あるを忌みたればなるべく、楚常の卯辰集に桃葉に作り、句空の草庵集及び北枝の喪の名殘に桃蛘に作るも亦彼にして、所居を桃枝齋又は宿鷺亭といへり。その遠逝は寶曆元年十二月廿九日にして、周孝桃妖居士と諡せらる[やぶちゃん注:「おくりなせらる」。]、享年七十六。『山人の晝寢をしばれ蔦かづら。』『水鳥の藪に聲あり夜の雪。』等の吟あり。[やぶちゃん注:以下、次のページで、ここで突如別れることとなる曾良のその後の行程が書かれてある。]

   *

さても、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅』の、

「69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ」

「70 桃の木の其の葉ちらすな秋の風」

「71 いさり火にかじかや波の下むせび」

「72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別」

「73 湯の名残今宵は肌の寒からむ――タドジオとの別れ」

も是非お薦めである。……芭蕉は元禄二年八月五日(グレゴリオ暦一六八九年九月十八日)、八日間も滞在した山中和泉屋を発った。……「奥の細道」では「曾良は腹を病みて、伊勢の國、長嶋と云ふ所にゆかりあれば、先き立ちて行く」とあるが、……事実は違っていて、「曾良随行日記」によれば、……金沢から見送りのために同道して山中温泉にも同宿していた立花北枝とともに、同日の『晝時分』に芭蕉が先に那谷寺へと発ち、……曾良はその後、程なく山中を発っているのである。……これは奇妙と思わない人の方がおかしいだろう。……そうして、何を隠そう、この桃妖の存在こそが、長い間同行二人であった曾良が、芭蕉とここで別れることになる原因を作っているのである。以上のリンク先でそれを見られたいのである。

「山人の晝寢をしばれ葛かづら」「石川県史」との齟齬でお判りの通り、本句は「續猿蓑」の「龝草」(しうさう(しゅうそう)/あきくさ)の部に、

 山人の晝寐をしばれ蔦かづら 加賀山中桃妖

の形で出るので「蔦」(つた)の誤りである。「山人」は「やまひと」或いは「やまびと」で、山男・山女・山姥(やまうば)・山童(やまわらわ)などの、山に住む人型妖怪の総称である。「ばせを翁の感を請けしは此咄に依りて案じたりと聞けり」と、まさに『桃「妖」にしてよく言い出したり』と芭蕉が諸手を挙げて喜んでいるさまが見えるようだが、それが前の「巴蔓」を元にして詠んだのだ、というのは少し出来過ぎた話で鼻白む感じが私はする。

「德萬村」現在の砺波市徳万(とくまん)(グーグル・マップ・データ)。芹谷の西方と南方に位置する。

「岩神と云ふ產神」個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「五社神社」に、『この神社は県民公園頼成の森の西北西約2kmに鎮座しています。水田地帯の突き当たり、庄川が作った河岸段丘の下に鎮座するこの社の鎮守の杜は市保存樹林指定を受けており、遠くからその豊かさが確認できます。社名は「五社神社」ですが、入口の鳥居には「岩神」と刻まれた石の額が掲げられています』。『この社の南東約1kmに有る千光寺(真言宗)の守護神は、石動山の伊須流岐比古神社(五社権現)であったといわれ、昔の千光寺の参道入口は、庄川の方に1kmほど下った辺りにあったようなので、この社は明治の神仏分離で独立し、「五社神社」となった』ものか? とされ、『この社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明』とある(写真有り)。他にも調べてみたが、そのような隆起現象は少なくとも現在は認められないようである。川の中のある種の堆積岩や激しい活動をしている火山地形ならいざ知らず、普通の沖積平野にあるただの岩が有意に成長肥大するというのは非科学的である。

「一倍」現在の二倍という意味か。

「口實」単なる言い草で事実ではない、の意か。

「岩上德摩」読みは『北日本新聞』の二〇一五年八月七日附の記事「岩のご神体すっきり 砺波・徳万の五社神社」に従った。そこに、『五社神社は古くから「岩神の宮」と呼ばれ、鳥居に「岩神」の社額が飾られている。同神社には「岩上徳摩(いわがみのとくま)」という長者の伝説があり、太っていた徳摩が亡くなった後で岩になり、その上に堂が建てられたという。岩は年々大きくなり、5年ほどで建て替えないと堂が傾いてしまうと伝わる。伝説は江戸期の加越能の奇談を収めた「三州奇談」に記されている』。『ご神体は神殿に安置され、1955(昭和30)年ごろにお身ぬぐいを行った後、地元住民も見ることができなかった。1913(大正2)年に近くにあった稲荷社が合祀されて100年が経つことから、毎年8月6日に行っている「六日祭」に合わせて、お身ぬぐいを行うことにした』。『手袋とマスクを着けた氏子が、拝殿と神殿をつなぐ階段を順番に上り、黒田紀昭宮司からおはらいを受け、ご神体の岩をきれいに拭いた。氏子の有志が神殿と拝殿、鳥居のしめ縄を奉納した』とあるから、御神体が事実、岩であることが判る。この記事以外に岩上徳摩という人物についてはネット上に情報はないようである。]

 又此隣村の芹谷の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]の前には、細川勝光[やぶちゃん注:以下もママ。後注冒頭参照。]の塚あり。此所に稀れに兩面の蟹(かに)・蛙(かはづ)ありと云ふ。折々見たる者もあり。死したるを乾かして持ち傳へたる者もあり。怪しき物なりと聞えたり。今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども、此山の打越え飛驒の國の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]は、兩面宿禰(りやうめんすくな)出でしこと年代記に見えたり。兩面の男子にして、這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし。又思ふに、「細川勝光は其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ。今勝光が塚に蟾を出し、怪蟹(くわいけい)を出(いだ)すと聞くは、此氣の化したるも計り知り難し。變化(へんげ)は是より渠(かれ)に化し、渠又是に化せざれば、化の理(ことわり)叶ひ難しと聞きし故に、鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる話もあり。鶉(うづら)の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化(きくわ)にやあらん。

[やぶちゃん注:どうもこの部分、気に入らない。素人の私でさえ少なくとも後者の「飛驒の國の千杲寺」は「千光寺」の、「細川勝光」は「細川勝元」の誤りとしか思えないのに(孰れも本文中に二ヶ所もあるのに、である)、平然とこうしてあるということは、特に後者は有名人で気づかなかったはずがないとさえ思われてくるのである(日野富子の兄が日野勝光だが、室町史に冥い私でさえ間違いようはないぞ?!)。何故、ほかでは大々的に手を加えて校閲している日置謙氏がそれをかくもそのままにしておいたのかが大いに不審であり、不満であるからである。「杲」は「光」の書写或いは判読の誤りともとれなくもないが、千光寺は古く「千杲寺」と書いたなどとは公式サイトにも載らない。『堅いこと言わずに。「杲」には「日の光が明るいさま」の意があるからいいんじゃないか?』などとのたもう御仁がいるなら、それは絶対にダメなのである。何故かって? 「千光寺」の歴史的仮名遣は「せんくわうじ」、「千杲寺」のそれは「せんかうじ」で漢字としては意味は酷似するとは言えど、致命的に違う別な字であるからである。さあ! 万一、両方の千光寺或いは一方を嘗ては「千杲寺」と書いた、細川勝元ならぬ「細川勝光」という歴史上知られた人物が実在し、その人が勝元と同じくガマガエルの化身だったという証左をお持ちの方は是非とも御連絡戴きたいものである!

「芹谷の千杲寺」少なくとも現在は「千光寺」である。別名、千光眼寺。富山県砺波市芹谷にある真言宗芹谷山(せりたにざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「千光寺(砺波市)」によれば、開基は大宝三(七〇三)年とされ、『彌勒山安居寺(南砺市安居)とともに砺波地方でもっとも古い寺とされる。浄土真宗の多い富山県にあって真言宗の寺院は珍しく、その中でも特に古い伝承と多くの寺宝を保持しており、越中真言の古刹として著名である。また、閻魔像を安置する寺としてもよく知られる』。『天竺(インド)の僧法道円徳上人』(後述される)『の開基。桓武朝以後』、七『代に亘り皇室勅願所であった。上杉謙信侵攻の際焼失。その後』、元和四(一六一八)年の『火事で再度被災した。豊臣秀吉の越中平定のとき、復興を命じ禁制朱印状(現存)を下した。以後加賀藩の祈祷所となり』、『寺領安堵され』、『現在に至る』。『法道仙人は天竺(インド)の霊鷲山に住む五百時妙仙の一人で、日本に渡来したという伝説上の人物である』。『法道開基の寺は北陸では能登の石動山や越後の米山、越中では砺波市の千光寺(真言宗)のほか、氷見市の大栄寺(浄土真宗)、上日寺(真言宗)、小矢部市の観音寺(真言宗)などがある』とある。

「細川勝光」以下の『「其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ』(「その本性(生まれつき与えられた真の姿)は人間ではなくヒキガエル(本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよい(以下に述べる中国産種はヒキガエル属ではあるが、別種である)。「卷之一 蛙還呑ㇾ蛇」に後足が一本の前足とで三本の蛙が登場したが、捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されており、それを形象した置物も作られて売られている。ヒキガエルは妖怪としての巨大な怪獣であったり、妖気を吐いて人を誑かしたり、襲って食ったりする伝承や言い伝えは中国でも本邦でも枚挙に遑がなく、私のこの「怪奇談集」にも複数既出である。例えば、「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」と、その次の「北越奇談 巻之四 怪談 其十四(大蝦蟇)」(驚くべき大きさの「仮面の忍者 赤影」で見たような巨大蝦蟇(がま)の挿絵有り)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」も参照されたい)であり、それが人に姿を変えていたものなのだ」と言う)話から、これはかの「応仁の乱」の一方の張本で東軍総大将であった細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年しかいないわけよ! だけどね! 麦水さんよ! 細川勝元の塚がなんでこないな場違いな所にあるのかを探らずして、突然、言い出すのはどう考えてもおかしいだろ?! 何の関係もなかろうが?! ネットで調べても、今、この砺波の千光寺に細川勝元の塚なんか、ないぜ? あったら、嘘臭くても、誰かが採り上げて「おや!?! コンナところに細川勝元の塚がある!?!?」と絶対書き立てるはずだもん! それともやっぱり「細川勝元」でなくて「細川勝光」なる別人だと仰せかい!?! 何んとか言えや! 麦水!

「兩面の蟹・蛙」顔を二つ持った蟹や蛙。頭部の結合双生個体奇形。ヒト・ヒツジ・ヘビなどで時に知られるが、カエルのケースは想像できる(三つの個体が腹部で一部が繋がってしまったまま成体になったカエルの国外の事例が動画(ニコニコ動画)で見られる。視聴は自己責任で)ものの、蟹の双頭というのは頭部自体が非常に狭いから、ちょっと考え難い。柄眼が四本並んでいるということか? それでも「National Geographic」の「動物の奇形:3つ目のカニ、双頭のカメ」(画像有り。自己責任で。但し、それほど衝撃的ではない)に『目が3つ、鼻が2つ、頭から触覚が1本生えている生き物がニュージーランドで見つかった。8月に「Arthropod Structure & Development」誌で紹介されたヤワラガニの一種で、学名Amarinus Lacustrisと呼ばれる沢ガニの珍しい奇形だ。「3つ目」のカニの奇妙な体と脳の異常は、複数の奇形が重なった結果だと思われる。まず、体の一部が2匹分存在するというシャム双生児(または結合双生児)の特徴として、第3の目がついている。また、カニは目を損傷すると新しい目を再生する能力があるが、それがこの場合はうまく再生できずに触覚となって生えてしまった』とある。しかし、この解説はやや不満がある。甲殻類の場合は、眼よりも遥かに触覚の方が生活するに際して利用度・必要度が高い。しかも触覚と柄眼は多くの種ではごく近くにある。そのため、再生領域の認識を誤るか、或いは確信犯で眼(柄眼)を一つ欠損した場合にはある程度の確率で同じ部分に触覚が再生してくるのである。この場合、それを再生不全・奇形と見るか、実用的な意味における補完再生と見るかは、研究者によって見解が異なるものと思う。私はその三本目の触覚の再生する事実を高校時代に生物の再生に係わる参考書で実験結果の図を見て以来、非常に印象に残って今も脳裏を去らないのである。私はそれを奇形再生・誤再生とは思わない。生物体自身が実用度を勘案した結果として選んだのがそれであって、それは立派な正常な補完再生であると考えるからである。なお、私は生物再生では全くのド素人ではない。私は高校時代に演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、生物部ではイモリの手足を切断して再生実験を繰り返し行った。残念ながら、水槽の汚染を防ぐための抗生物質の投入が予算上出来なかったために、多くの個体を感染症のために死に至らしめてしまったが、中でも一体、体部の切断面から複数の指状のものが伸びてきて再生する様子を見せつつ、そこで再生がとまった個体があった。その子は永くそのまま元気に生きていた。

「怪しき物なりと聞えたり」奇怪な生きた生物体であると聴いている。「存在が怪しい物」=「偽物」の意ではあるまい。そういう意味で突き放した場合は、以下の「今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども」という謂い方はしないからである。

「此山の打越え」あのねぇ……南東の峨々たる山脈を幾つも越えて……五十四キロメートルも先にある寺をこうは言わないと思いますがねぇ……

「千杲寺」これも「千光寺」の誤り。飛驒千光寺が過去に「千杲寺」と書いた事実はない。岐阜県高山市丹生川町(にゅうかわまち)下保(しもぼ)にある真言宗袈裟山(けさざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。なお且つ、前の芹谷の千光寺とは同じ真言宗であるだけで、何の関係もない。両面蟹や両面蛙と両面宿儺を牽強付会するには、遥かに遠く、遥かに無縁、遥かに致命的に馬鹿げている! 「千光寺」公式サイトから引用する(円空物の写真も有り、以下に出る「両面宿儺」像も見られる)。同寺は仁徳天皇の御代、今から1600年前に飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が建立された古刹です』。『最近は「円空仏の寺」としても、その名は広く知られています』。『海抜900メートルの袈裟山に広がる寺の境内には、大慈門の近くに「円空仏寺宝館」があり、館内には64体の円空仏と寺宝の一部が展示され、年間2~3万人の拝観者が訪れます』。『仏教の寺院としては、平安時代に、嵯峨天皇の皇子で弘法大師の十大弟子の一人、真如親王が当山に登山され、本尊千手観音を拝し、法華経一部八巻と二十五条袈裟が奉祀されていたことから袈裟山千光寺と名づけ、自ら開基になりました』。『それ以来』、『高野山の末寺となり、「飛騨の高野山」とも呼ばれています』。『また、鎮護国家を祈祷する道場でもあったため、朝廷の帰依を受け、寺運は隆昌を極め、山上に19の院坊を持ち、飛騨国内に30ヶ寺の末寺をかまえていました』。『飛騨一宮神社の別当職も兼ね、天皇御即位の際には、国家安穏玉体安穏、万民豊楽、諸人快楽を祈念して一位の笏木の献上もしていました』。『ところが、室町時代に飛騨国内の内乱で一時衰退し、戦国時代に入り』、『永禄7年(1564年)、甲斐の武田軍勢が飛騨に攻め入った折、全山炎に包まれてしまいます。そして、諸伽藍や末寺、数万の経典儀軌等も悉く灰燼に帰してしまいました』。『しかし、本尊は守られ、その法灯は今も連綿として続いています。本尊は秘仏となっており、7年に一度御開帳があります』。『現在の堂宇は、江戸時代以降、高山城主金森長近公を始めとして、檀信徒や高山の旦那衆の力によって順次再興、建立されたものです』とある。ウィキの「千光寺(高山市)」も見ておこう。『両面宿儺像など、円空の手になる仏像が63体あり、円空仏の寺としても知られている』。『伝承によれば、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺が開山したと伝えられる。両面宿儺とは、『日本書紀』に拠ると、飛騨国に現れ、民衆を苦しめていた異形の人であり、朝廷が差し向けた武将・武振熊命(たけふるくまのみこと)により退治されたとされている。頭の前後に顔が二つ付いており、腕が前後一対の四本、足も前後一対の四本あるといわれている。しかし、飛騨国、美濃国では両面宿儺は伝説的人物であり、洞窟から現れた際、「我は救世観音の使現なり。驚くこと無かれ。」と村人に伝えたという』。『養老4年(720年)、泰澄により白山神社が開かれ、嘉祥3年(850年)頃、真如親王(弘法大師十大弟子の一人。俗名高岳親王。平城天皇第3皇子、嵯峨天皇皇太子)が開基する』。『天文年間、兵火で焼失し、天文15年(1546年)に桜洞城(現在の下呂市萩原地域に存在した城)城主三木直頼により再建されるが、永禄7年(1564年)に武田信玄の飛騨攻めにより』、『再度焼失する。天正16年(1588年)、高山城城主金森長近により再建される』。『貞享2年(1685年)頃、円空が千光寺に滞在し、両面宿儺像などを彫ったという』とある。さても、どこを見ても、越中の千光寺とは縁も所縁もない。因みに、私は大学生の時、父母とともにこの寺を訪れている。その時、丁度、その「円空仏寺宝館」が建築中であった。住職が親切に案内してくれ、特別にその竣工に近かった「円空仏寺宝館」の内部へも入れてもらい、既に運び入れてあった数体の円空仏も見た。父が頼むと、両面宿儺以下三体の写真の撮影も許可して下さった。その両面宿儺の衝撃は凄かった。それ以来、私は円空と両面宿儺の大ファンとなったのである。

「兩面宿禰」「両面宿儺」(現代仮名遣「りょうめんすくな」)の方が今は一般的だが、誤りではない(「宿儺」は「宿禰」とも書き、「足尼」「足禰」「少名」などとも書いて、本来は「すくね」の読みが一般的である。「すくね」は古代日本における称号の一つで、大和朝廷初期(三世紀~五世紀頃)にあっては武内宿禰のように武人・行政官を表わす称号として用いられていた。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた)。ウィキの「両面宿儺」によれば、彼は『上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神で』、「日本書紀」においては武振熊命(たけふるくまのみこと)に『討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話ものこされている』。「日本書紀」仁徳天皇六十五年丁丑(三七七年?)の条に以下のように両面宿儺が登場する(ウィキに拠らず、独自に示す)。

   *

六十五年。飛驒國有一人。曰宿儺。其爲人壹體有兩面。面各相背。頂合無項。各有手足。其有膝而無膕・踵。力多以輕捷。左右佩劒。四手竝用弓矢。是以不隨皇命。掠略人民爲樂。於是。遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。

   *

以下、ウィキの『現代語訳』を示す。『六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるが』、『ひかがみ』(「ひきかがみ」の音変化。膝の後ろの窪んでいる所。「膝窩(しっか)」「よぼろ」などとも呼ぶ)『と踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した』。『両面宿儺は、計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写される。神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲』(はしろくまわし:筑紫の国に名を馳せた部族の長)や、「日本書紀」「風土記」に『しばしば現れる土蜘蛛と同様、その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。仁徳記の記述は一般に、大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した』五『世紀における征服の事実の反映とされている』。『また、「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から、脛当てを着け、つまがけ』(ここでは藁製の深い雪靴のことを指しているものと思われる)『を履いた飛騨の山岳民が想像されることもある』。「日本書紀」では『皇命に逆らう賊とされる両面宿儺だが、飛騨から美濃にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承がのこり、その内容は』「日本書紀」のそれと『異なるものが多』く、例えば、元和七(一六二一)年の奥書を持つ「千光寺記」には、『高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺(高山市)の縁起が記されている』が、それによれば、仁徳天皇の頃、『飛騨国に宿儺という者があり、八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた。このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという』。『同じく丹生川町日面』(ひよも)『の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する』。『また、位山』(くらいやま:高山市一宮町内にある山。グーグル・マップ・データ)の『鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる』。『位山の付近には飛騨一宮水無神社があるが、享保年間に編纂された』「飛州志」では『神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す』。『下呂市金山町の伝承』としては、「金山町誌」に『よれば、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に』三十七『日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は』三十七『日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った。故にこの山を鎮守山と呼び』、『村人が観音堂を建てて祭ったともいう』。『関市下之保の伝承』では、「新撰美濃志」に『引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山の毒龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し』、『千手観音の像を安置した。千本』檜『はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。また』「美濃国観音巡礼記」では』『日龍峰寺の開基を「両面四手上人」として』おり、『この他に』も『両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある』。美濃や飛驒に点在する伝承は「日本書紀」の『記述に沿うものであっても、両面宿儺を単なる凶賊ではなく』、『官軍に討伐された飛騨の豪族とする。その』一方で、或いは『龍や悪鬼を退治し(高沢山・位山)』、或いは『寺院の縁起に関わる(千光寺・善久寺・日龍峰寺)など、地域の英雄にふさわしい活躍を見せている。大和王権に抗した古代の豪族を、その土地の人々が尊崇し続けてきたかのよう』に窺える部分が濃厚に感ぜられるのである。『とはいえ、伝説の多くは江戸時代以降に記されたものである。たとえ江戸期における信仰が在来の伝承に基づくとしても』、「日本書紀」に『登場する両面宿儺を寺院の創建と結びつけることは困難で』、『これらの伝説の起源については定説を見ないが、在地伝承に現れる両面宿儺に、王権によって矮小化され、観音信仰の蔭に隠れるようにして生き延びた英雄の名残を見いだし、位山を神体とする飛騨一宮水無神社の本来の祭神に想定する研究者もいる』とある。『日龍峰寺の縁起では、両面宿儺は身に鎧を着て、四つの手にはそれぞれ鉾・錫杖・斧・八角檜杖を持ち、その存在は救国の英雄だとされる。また至高神は双面神であるとする説があり、中国の武神である蚩尤(シユウ)に通じるという見方もある』。「日本書紀」の伝承については、仁徳天皇の時代は五世紀『前葉の時期であり、この時期に仏教が日本列島に到来したことは考え難く、また両面宿儺を退治したとされる武振熊命も仁徳朝より時期が少し早い成務天皇・応神天皇の時代に活動した武将であるため、伝承が全体として整合性がないと考えられる。しかし、両面宿儺伝承の記事は飛騨という地域の国史初見であり、現地に伝わる英雄伝承を考え合わせれば』、単なる『怪異伝承ではないと見る向きもある。これについて両面宿儺は双子(二人)の兄弟支配者を一体として表現した可能性も考えられ、また「宿儺」は「宿祢」(すくね、足尼)の敬称とも、斐陀国造の実質的な祖神である少彦名命を意味するとも考えられる』。『両面宿儺像は千光寺・善久寺・日龍峰寺などにあるが、いずれも頭の前後に顔があり、唐風の甲冑を着け斧や剣を帯びる。善久寺のものは合掌した手に斧を横に持ち韋駄天の像容に類似する。円空作と伝えられる像(千光寺蔵)は、二つめの顔が肩に並ぶ』。『ローマ神話のヤーヌスと外観上の類似(前後両面の顔)があるが、日本と地理的に近いのは、スマトラ西海のニアス島のシレウェ・ナザラタ(ロワランギの妹兼妻神)である。この神像は顔が二つ(かつ両性具有)として表現される』。『多面一身の神というだけなら』、「古事記」に『登場する伊予之二名島(四国島)・筑紫島(九州島)がそれぞれ四面一身の神として語られている』とある。

「年代記」上に示した「日本書紀」のこと。

「這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし」両面宿儺についてどこにそんな記載があるのか? あんたが、前に出した両面蟹に合わせて作った穴(ケツ)の穴の小さいつまらぬ創作なんじゃないのかッツ?! 「心許なし」なのは、誰あろう、堀麦水! お前のことよ!

「細川勝光は其性蟾の化したるなりと云ふ」浮世草子作者で書肆の林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:もと京の両替商であったが、貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業しているらしい。元禄五年に浅井了意の遺作「狗張子」に自ら序文を書いて板行し、それに倣って元禄八年に怪談集「玉櫛笥」(たまくしげ)を、翌九年に「玉箒木」(たまははき)を著している)の怪談集「玉帚木」の「卷之二」の巻頭に「蝦蟆(かへる)の妖怪」として出る。複数、活字本を所持しているのだが、山積みになって見当たらないので、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書株式会社編「近代日本文學大系」第十三巻の当該部を視認した。読みは一部に留め、踊り字「〱」は正字化した。読み易くするために段落を成形し、読点や記号も増やした。

   *

     蝦蟆の妖怪

 細川右京大夫勝元は、將軍義政公の管領(くわんれい)として武藏守に任じ、富貴(ふうき)を極め、威權を輝かし、凡そ當世公家武家の輩(ともがら)多くは、その下風(かふう)につき從ひ、その命を重んじ、敬ひあへり。かかりしかば、貸財・珍寶、求めざれども、來り集まり、繁榮日々に彌增(いやま)しにて、よろづ心に叶はずといふ事なし。

 その頃、洛西(らくせい)等持院(とうぢゐん)の西に德大寺公有(きんあり)卿の別莊あり、風景面白き勝地なれば、勝元、請ひ受けて菩提所の寺と爲し、義天和尙をもつて開祖とし給ふ。今の龍安寺(りうあんじ)是なり。

 勝元居宅の書院を引いて方丈とせり。この故に造作(ざうさく)の體(てい)、世の常の方丈とは變れり。

 勝元、元來、權柄(けんぺい)天下を傾(かたむ)けければ、私(ひそ)かに大船(たいせん)を大明國(だいみんこく)につかはし、書籍(しよじやく)・畫圖・(ぐわづ)・器財・絹帛(けんはく)の類(たぐひ)、かずかずの珍物(ちんもつ)をとり需(もと)めて祕藏せり。その時の船の帆柱は大明の材木にて造りしを、此の龍安寺普請(ふしん)の時、引き割つて方丈の牀板(とこいた)とせらる。その幅五尺ばかり、眞(まこと)に條理(でうり)堅密(けんみつ)の唐木(たうぼく)にて、和國の及ぶ所にあらずといふ。方丈の前に築山(つきやま)を構へ、樹木を植ゑ、麓には大きなる池あり、是は勝元自ら、その廣狹(くわうけふ)を指圖して、景氣おもしろく鑿(き)り開き給ふとなり。水上(すゐじやう)には鳧鴈(ふがん)[やぶちゃん注:カモとガン。]・鴛鴦(ゑんあう)、所得顏(ところえがほ)に羣れ遊び、嶋嶼(たうしよ)嶸𢌞(くわうくわい)[やぶちゃん注:高く廻(めぐ)ること。]して、松杉(しようさん)、波に映(うつ)ろふ、古人の、「綠樹影(かげ)沉(しづ)んでは魚(うを)木(き)に上る」と詠じけんも、こゝなれや。色々の奇石を疊みたる中(なか)に、勝れて大きなる石、九つあり。是れまた、勝元自ら配り置き給ふ。その作意絕妙なりとぞ。

 勝元、政務の暇(いとま)には、常に此寺に來り、方丈に坐して池中(ちちう[やぶちゃん注:ママ。])の景を詠め、酒宴を催し、殊更(ことさら)、夏の中(うち)、暑熱の頃は、しばしば池の邊に逍遙し、近習(きんじゆ)の人を退(しりぞ)け、たゞ獨り、ひそかに衣服を脫ぎて赤裸(あかはだか)になり、池水(ちすゐ)に飛び入つて暑さをしのぎ、しばらく、あなたこなた遊泳して立ちあがり、そのまゝ方丈に入つて打臥し、寐入り給ふ。

 ある年の夏の暮に、此の邊(あたり)を徘徊する山立(やまだち)の盜賊[やぶちゃん注:山を根城とする山賊。]ども七八人、此の寺に入り來り、ひそかに方丈の事をうかゞふに、人一人も見えず、いと物しづかなり。盜賊ども思ふやう、

『今日は管領も來り給はず、寺僧も他行(たぎやう)せしと見ゆ、究竟(くつきやう)一(いち)の幸(さひは)ひならずや、いでいで、しのび入つて財寶を奪はん』

とて、池の岸根をつたひ、隔(へだ)ての戶ども押し破り、方丈へはひあがらんとするに、おもひもよらず、座席の眞中(まんなか)に、その大きさ一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]ばかりの蝦蟆(かへる)うづくまり、頭(かしら)を上げ、眼(まなこ)を見いだす、その光(ひかり)、硏(と)ぎたてたる鏡のごとし。

 盜賊ども、肝を消して絕入(ぜつじゆ)し、そのまゝ臥したふる。

 此蝦蟆、忽ち大將と覺しき人となりて、起ちあがり、傍(そば)なる刀、押取(おつと)り、

「汝等は何者ぞ、こゝは外人(ぐわいじん)の來(きた)る所にあらず。」

と大きに怒りければ、盜賊ども、怖れ戰(をのゝ)き、わなわな慄(ふる)ひけるが、

「まことは[やぶちゃん注:実に。ほんに。]盜人(ぬすびと)にて侍る。物の欲しさに忍び入りしなり。御慈悲に命(いのち)を助け給へ。」

と、一同に手をあはせ、ひれ伏したり。

 此の人、打笑ひ、

「しからば。」

とて牀(とこ)の間(ま)にありし金(こがね)の香合(かふがふ)を投げ出(いだ)し、

「汝等、貧困に迫り、盜竊(ぬすみ)するが不便(ふびん)さに、これを與ふるなり。かならず、只今見つけたる體(てい)を人に語ることなかれ、とくとく歸るべし。」

といへば、盜賊ども、香合を受けず、其のまゝ戾し、

「ありがたき御芳志なり。」

といひも敢(あ)へず、跡をも見ずして逃げ出でけり。

 遙かに年經て後(のち)、此盜賊の中(うち)一人(ひとり)、勢州北畠家に囚(とら)はれ、此始末をかたりけるとなり。

 抑(そもそも)此蝦蟆は勝元の本身(ほんしん)にて、かく、かたちを現じ、思ひかけず亂れ入りたる盜賊共に見つけられたるにや。

 然らずば、又、此の後(うしろ)の山中(やまなか)には、蛇谷(をろちだに)・姥ヶ懷(うばがふところ)などいふ木深(こぶか)き惡所もあれば、かゝる妖怪の生類(しやうるゐ)もありて出でけるにやと云ふ。

   *

「勢州北畠家」とは細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と「応仁の乱」の前から抗争して京を追われ、伊勢から吉野に逃れて徹底抗戦し続けた畠山義就(よしひろ/よしなり 永享九(一四三七)年~延徳二(一四九一)年)であろう。

「鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる」読みはこれでは読めないので私が推定で施した。本邦ではかなり昔から「山芋変じて鰻となる」という俗説があった。ここはそれを反転させた諧謔であろう。面白くないが。

「鶉の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化にやあらん」これも俗説の「田鼠化して鶉となる」の諧謔。猫がウズラを襲うのは、ウズラの元のネズミの気が体から発散するからであろうか、というのである。但し、「田鼠」はネズミではなく、モグラだからこの洒落は厳密には不全に見えるが、実際、これは麦水に先行する蕉門の名俳宝井其角の句に「鶉かと鼠の味を問てまし」(「五元集」)があるので、広く田鼠が鼠に変換されていたものと見える(麦水より後代だが、小林一茶にも「飛鶉鼠のむかし忘るゝな」(「一茶句帖」)があるのを見ても、鼠が鶉に化すという言説は一般化していたのである。 なお、「田鼠化して鶉となる」は元は中国の「田鼠化爲鴽」で七十二候の一つである清明の第二候(現在の四月十日から十四日までの間に相当)を意味するもので、俳諧では晩秋のちゃんとした季題となっている。これは鶉が畑の麦の根元に巣食って(ここがモグラとダブる)、頻りに鳴くことに由来するようである。

2020/05/13

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 二

 

       

 

 惟然に関する逸話はほぼ、『惟然坊句集』所収のものに悉(つく)されているといって差支ない。『近世畸人伝』なども句集に先立ってそのうちの若干を伝えているが、いずれもやや時代を隔てて書かれたものだけに、事実の興味はあっても、年次の徴すべきものは殆どない。庭前の梅花が時ならず鳥の羽風(はかぜ)に散るのを見て、しきりに隠遁の志を起したというのは何時(いつ)頃か、妻子を捨て薙髪して蕉門に入ったのは何時頃か、そういう点になると明瞭な経過がわからぬのは遺憾である。正徳元年に歿したということは慥(たしか)であったにしても、享年が未詳というのであれば、逆算して『藤の実』時代の年齢を知ることも困難になって来る。

[やぶちゃん注:伴蒿蹊著寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」は「一」の注で示した。]

 『藤の実』の中には「素牛を宿して」という前書で「すゝみ出て瓜むく客の国咄(くにばな)し」とある智月の句、「素牛にこととはれ侍折ふし我宿のことしけゝれは鄰寺に伴て」という前書で、「古寺をかりて蚊遣(かやり)も夜半かな」とある正秀(まさひで)の句などが見える。これらも惟然との交游の模様を知り得る点において面白いが、更に

  訪素牛市居 二句

 蚊遣火の鄰は暑しつるめさう     史邦

 涼しさや竈二つは有ながら      洒堂

  素牛か家に宿して

 菊の香や御器も其儘宵の鍋      支考

等の句あるによって、素牛時代の彼がどこかに居を定めていたことを推察出来る。但この「市居」というのが『薦獅子集』にある「京」の家であるかどうか、そこまではわからない。素牛の名が『藤の実』以後に見えぬことは、前に記した通りであるが、何時どういう動機で惟然と改めたかは不明である。元禄七年秋、芭蕉最後の旅行に随った時は無論惟然であり、芭蕉の書簡に出て来る名前も、多くは素牛でなく惟然になっている。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

昨日は渡紙沢山御恵辱存候処昨夜惟然一宿例之むだ書剰筆の先棒になし困入申候、今四五枚申請度候、此人に御こし可被下候

などという杉風宛の書簡は、年代不明の部に入っているけれども、素牛以後、最後の旅行以前であることは間違ない。こういうものを見ると、如何にも両者の様子の打解けていたことが窺われる。尤も親疎は必ずしも年月の多寡によらぬ。近く子規居士の例を見ても、晩年の病牀に侍しただけで、十年の故旧よりも親しかった人はいくらもある。芭蕉と惟然とは俳句以外にも何か契合(けいごう)すべきものがあったのであろう。(惟然の号は普通「イネン」と呼ばれている。しかし実際は「イゼン」であったのかも知れない。惟然が鬼貫を訪うて「秋晴れたあら鬼貫の夕べやな」と詠んだ時、「いぜんおじやつた時はまだ夏」と鬼貫が脇をつけた話は、相当人口に膾炙している。あれは以前ということにかけるため、特に洒落ていったものかと思っていたが、句集の中にも「いせん」と仮名書にしたものが散見するようである)

[やぶちゃん注:「訪素牛市居」「素牛が市居(いちゐ)を訪(おとな)ふ」。

「つるめさう」「弦賣僧」で、中世から近世にかけて大社に従属した被差別階級の一集団と認識された下級神官の犬神人(いぬじにん)のこと。神人(じにん:同じく神社に隷属して雑役を行った下級神職。寄人(よりうど))よりも格下で、境内や参詣路の不浄死穢の除去・清掃などに従事した。特に京の祇園神社(八坂神社)の犬神人がよく知られる。ウィキの「犬神人」によれば、治暦五・延久元(一〇六九)年出された「荘園整理令」で『鴨川東岸の三条~五条間の河原田畑の領有を認められたとき、これを社恩として非人に賜い、犬神人と号したのが』、康永三/興国五(一三四四)年の事である(「八坂神社文書」百三十三号「感神院所司等申状案」)。『これは建仁寺との争論に基づいて出されたものであり、延久の事情を語るものではない』が、『境内を追い出された葬送法師たちが近辺の河原に移り住んだのが』、既に『平安・鎌倉のある時点で「犬神人」として把握され』ていた『とみられる』。『祇園社犬神人の初見は、日蓮の『御書』に』嘉禄三(一二二七)年に山門(比叡山延暦寺)の僧兵らによる『法然墓所破却が』行われているが、その際、『「犬神人(つるめそう)」に命じて行ったとある』。『犬神人が祇園関係の史料にはっきりと現れるのは』弘安九(一二八六)年の「感神院所司等申状案」で、『「以公人、宮仕、犬上人等」とあり、山門或いは祇園社家に仕える用務の者として使役されている』。『先述の墓所破却以前にも犬神人によるものかは定かではないが』、『祇園社家が承久元』(一二一九)年に『犯科人の住宅を破却している』。康永四/興国四(一三四五)年には『夢窓疎石の天龍寺供養に天皇の臨幸を仰いだ事に憤激した山門延暦寺大衆が犬神人に仰せ付けて破却しようとしている。このように犬神人の用務は一向宗・法華宗・禅宗などの宗徒住所破却など、山門の他宗弾圧の尖兵としての使役が多い』。その他、正平七/文和元(一三五二)年頃の「祇園執行日記」に『散見する犬神人の用務は、境内触穢物取捨清掃、祭礼の警護、社家および山門の検断の住居破却の執行、地子などの譴責などである。時には数十人の犬神人が催集されており、度々の用務に「疲労」と称して出てこないこともあった。この記録の存在の他、祇園社が山門を背景に犬神人の新たな編成に乗り出したためか、南北朝時代には犬神人の活動が夥しく見られる』。康永三/興国五(一三四四)年の『「感神院所司等申状案」には「為社恩死賜非人之間、号犬神人、所相従祭礼以下諸神事也」と、祇園社の領域に居住する非人は犬神人であるということになっている。いわば論理の転換・拡大であるといえ、戦国時代から近世にかけての犬神人は弓矢町に集住していたが、南北朝期にはまだ三条~五条の広い範囲に渡っており、「宮川分犬神人」などがいる。また、関連は不明だが「犬法師」と呼ばれる者もあった』。『この時代、犬神人と清水坂の坂者が同一視されて』おり、『犬神人を別の所で坂者と称している』。永正七(一五一〇)年頃の文書では、『「当坂者事、山門西塔院転法輪堂寄人、祇園御社犬神人」とあり、坂者と犬神人は同一のものであると同時に転法輪堂寄人となっている』。寛元二(一二四四)年、『以前から奈良坂と激烈な闘争(奈良坂・清水坂両宿非人争論)を繰り広げていた「清水坂非人」集団と犬神人とが同じであるかどうかは不明である。しかし』、承久三(一二二一)年の「承久の乱」以前に『清水坂非人の先長吏法師を殺そうとした帳本の阿弥陀法師が祇園林に籠居して祇園を号したことから、坂非人の一部が犬神人になっていた可能性があ』り、『更には建保元』(一二一三)『年に清水寺を延暦寺の末寺に寄進しようと「乞食法師」が諜書をつくり画策した事も無関係とは言えない』(「明月記」)。正平七/文和元(一三五二)年頃の『犬神人は宿老、奉行を選出して集団を為しており、しかも「諸国犬神人」も存在した。これが犬神人の組織したものか、坂非人と同一化することで坂支配下の諸国末宿を諸国犬神人としたのかは判らない。前記永正』七『年頃の申状には、西岡宿者は譜代百姓とあり、宿者全てが諸国犬神人になったとは考えられない。よって、清水坂非人と犬神人との実態が同一化したとて、犬神人の感神院祇園社下級神職=職掌人としての身分と、上下京の葬送・乞食の支配権を有した坂非人の区別は守られていた』。文安二(一四四五)年、『東寺は三昧輿を使用して葬送を実施する権限を坂非人によって承認され、遺体の移動・火葬を坂に任せている。この定書には坂の執行部たる薩摩以下七名の署印花押がしてあり、また、坂之公文所(坂惣衆公文所)・沙汰人=奏者、奉行・坂番頭中などの署名があり、これらが坂執行部と見られる。下部の非人との関係は不詳だが、犬神人の構成員と重複したとしても組織としては別物であった』。『江戸時代においても非人銭請受は「坂豊後」でなされており』、『坂非人と犬神人は使い分けられていた』。『犬神人は上下京の葬送権を独占していたといわれ、その起源は祇園の神輿渡御の道路清掃に基づくという説がある。だが神輿渡御や祇園祭礼は下京のみであるため、上下京に渡る独占の根拠とは考えにく』く、「部落史用語辞典」では『葬地と葬送従事に基づく独占であると推測している。既に』文永一二(一二七五)年の『叡尊の非人施行に当たっての非人長吏の起請文の第一条に、葬送の時に身に付けた具足を取っても葬家に言って責め取ってはならぬと箇条があり、それが坂非人と犬神人との同一化の結果、神輿渡御の不浄物撤去に原因を求める説ができたのだろうとしている。また、東西本願寺門主の葬式には、宝来=犬神人=つるめそが、祇園祭礼と同じ服装で先導を務め、荼毘の事を行っているが、これも坂非人と犬神人との同一化の結果だろうとしている』。『祇園会神輿渡御の際、「六人の棒の衆」として先行し、法師姿で赤い布衣に白い布で覆面し、眼だけ出して八角棒を持つという』。『犬神人は弓弦を作って売ったので「弦売り」「弦指」と呼ばれ、その「弦召せ」の呼び声から弦召(つるめそ)と呼ばれた』。「七十一番職人歌合」(室町時代の一五〇〇年末頃に成立したとされる中世後期最大の職人を題材とした職人歌合)に於いても、『もの弦売りの絵も、祇園祭礼と同じ様に僧形の覆面し、笠を被っている』。『江戸時代、彼らの住所は弓矢町と呼ばれ、弓矢・弦・沓・弓懸を作った他、辻占いの一種「懸想文売り」を行った。この占いは細い畳紙の中に洗米二三粒を入れたもので、中世にも同じく賎民であった声聞師』(しょうもんし)『が卜占・寿祝を行っていた。これについて前記永正』七『年頃の申状に元三日に中御戸で千秋萬歳の祝言を行う事が書かれてあり、江戸時代にも元日寅の刻に禁裏日華門で毘沙門経を唱える事がいわれており、これらも声聞師の千秋萬歳に繋がる』。「雍州府志」(山城国(現在の京都府南部)に関する最初の総合的体系的地誌。歴史家の黒川道祐によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年に書かれた)には『犬神人が京中の寺院から埋葬料を取った事や』、正月二日に『愛宕寺で牛王加持を行い』、『それが「天狗酒盛」と呼ばれたとある』。

「史邦」中村史邦(ふみくに 生没年不詳)。本名は大久保荒右衛門、他に根津宿之助とも。尾張犬山出身で、元禄期(一六八八年~一七〇四年)に活躍した蕉門俳人。尾張藩寺頭であった寺尾直龍(なおたつ)の侍医で、医名は春庵。後に京に出て、御所に出仕、さらに京都所司代の与力も勤めた。職を辞してから江戸に下り、諸俳人と交流した。俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、以後は句作活動は衰えた。芭蕉の遺物二見文台や「嵯峨日記」などを伝承した人として知られる。

「竈」「かまど」。

「洒堂」浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)は医師で蕉門の俳人。近江出身で名は道夕。別号に珍碩・珍夕(ちんせき)。元禄三(一六九〇)年に俳諧七部集の一つ「ひさご」の編者となり、同六年には江戸深川の芭蕉庵滞在を記念して「深川」を板行、同年夏、大坂に移って点者となり、同七年に「市の庵」を出したが、俳壇経営には失敗した。晩年の芭蕉からは遠ざかった。

「元禄七年」一六九三年。

「昨日は」以下の書簡は恣意的に正字化し句読点を打って、読みを推定で添えてみる。

   *

昨日は、渡紙(わたりがみ)澤山(たくさん)御惠辱存候處(おめぐみかたじけなくぞんじさふらふところ)、昨夜、惟然(いぜん)、一宿、例之(の)むだ書(がき)剩(あまつさへ)筆の先(さき)棒になし、困入申候(こまりいりまうしさふらふ)、今四、五枚申請度候(まうしうけたくさふらふ)、此(この)人に御こし可被下候(くださるべくさふらふ)

   *

この「渡紙」が判らぬ。金銭の隠語かとも思ったが、以下の文面からは書信用紙のようではある。最後は書信を届けた使い走りのことか。

「契合」合わせた割り符のようにぴったり一致すること。

「惟然が鬼貫を訪うて……」これは鬼貫の自撰句文集「佛兄七久留万」(これで「さとえななくるま」と読む)(享保一二(一七二七)年序)。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」で大阪興文堂刊の天明三(一七八三)序のものを視認して以下に示す。ここ。調べたところ、これは元禄一五(一七〇二)年の付合であることが判っている。

   *

  惟然か伊丹の我宿に

      來りていふ句

 秋晴たあら鬼貫のゆふへやな

  とりあへず

 いせんおしやつた時はまだ夏

   *

因みに、芥川龍之介は昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された「續芭蕉雜記」の「三 芭蕉の衣鉢」で本句を挙げて以下のように述べている(リンク先は私の「芭蕉雑記」及び「續芭蕉雜記」の「芭蕉雜記」の草稿を纏めた古い電子化)。

   *

      三 芭蕉の衣鉢

 芭蕉の衣鉢は詩的には丈艸などにも傳はつてゐる。それから、――この世紀の詩人たちにも或は傳はつてゐるかも知れない。が、生活的には伊賀のやうに山の多い信濃の大詩人、一茶に傳はつたばかりだつた。一時代の文明は勿論或詩人の作品を支配してゐる。一茶の作品は芭蕉の作品とその爲にも同じ峰に達してゐない。が、彼等は肚の底ではどちらも「糞やけ道(だう)」を通つてゐた。芭蕉の門弟だつた惟然も亦或はかう云ふ一人だつたかも知れない。しかし彼は一茶のやうに圖太い根性を持つてゐなかつた。その代りに一茶よりも可憐だつた。彼の風狂は芝居に見るやうに洒脫とか趣味とか云ふものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である。 

     秋晴れたあら鬼貫の夕べやな 

 僕はこの句を惟然の作品中でも決して名句とは思つてゐない。しかし彼の風狂はこの句の中にも見えると思つてゐる。惟然の風狂を喜ぶものは、――就中輕妙を喜ぶものは何とでも勝手に感服して善い。けれども僕の信ずる所によれば、そこに僕等を動かすものは畢に芭蕉に及ばなかつた、芭蕉に近い或詩人の慟哭である。若し彼の風狂を「とり亂してゐる」と言ふ批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝まないであらう。

   *

(「吝まない」は「をしまない」と読む)私も芥川龍之介に激しく同感である。]

 芭蕉最後の旅行に伊賀から随従したものは支考と惟然とであった。支考はこの間の消息を『笈日記』に伝えているが、惟然には何も書いたものがない。病中祈願として

 足がろに竹の林やみそさゞい      惟然

の句、歿前歿後にわたって

 引張てふとんぞ寒き笑ひ声       惟然

[やぶちゃん注:「引張て」は「ひつぱりて」。]

 花鳥にせがまれ尽す冬木立       同

等の句が残っているだけである。一切をふり捨てて芭蕉のいわゆる「此(この)一筋」に縋(すが)ろうとし、芭蕉によって道を歩んだ後は、半途にして師と別れなければならなかった。蕉門の高足(こうそく)は固(もと)より乏しくなかったにせよ、一度芭蕉において魂の契合を見た彼が、他人によってこれを補い得ぬのは当然である。偉大なる百世の師を得ることは、人生の至福であるに相違ないが、不幸にしてこれと永訣するに及んでは、何者を以てしても償い得ぬ悲哀に陥らざるを得ぬ。この意味からいえば、孔子をして「天予(われ)を喪(ほろぼ)す」と歎息せしめた顔回は、師を失うの悲哀を味わずに済んだ点で、むしろ幸福だったといえるかも知れない。

[やぶちゃん注:「高足」門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。

「「論語」の「先進第十一」の一節。

   *

 顏淵死。子曰、「噫、天喪予、天喪予。」。

 (顏淵、死す。子曰く、「噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろ)ぼせり、天、予を喪ぼせり。」と。)

   *

孔子が最も愛した高弟顔回(紀元前五二一年~紀元前四八一年(四九〇年とも)。諱(いみな)は回、字(あざな)は子淵(しえん)。そこから顔淵(がんえん)とも呼ぶ。魯の出身。孔門十哲の一人にして随一の秀才にして学才・徳行ともに第一と称された。孔子は彼を自身の後継者と目していたが、孔子七十一の時、四十一の若さで病死した。]

 師の道は常にその高弟によって継承される。けれども高弟によって代表せられるものは、決して師の全部ではないから、そこに自ら領域の差を生じて来る。其角、嵐雪、去来、丈艸(じょうそう)、いずれも蕉門の逸材たるに恥じぬ人々ではあるが、その世界は所詮分割の形になって、芭蕉在世当時の如き盛観を呈するわけには行かなくなった。大店(おおだな)の主人が亡くなった後、一番番頭では店のおさまりがつかぬというようなのは、世間に珍しくない話である。いわんや芭蕉の如き人物の歿後、一癖ある蕉門の人々が動(やや)もすれば分散的傾向を帯びるのは怪しむに足らぬところであろう。

 惟然の如きも慥に芭蕉の死によって魂のよりどころを失った一人であった。『藤の実』時代の作品は一句一句完成されたものに富んでいるけれども、一面からいえばいわゆる格に入ったもので、惟然の天縦(てんしょう)が材を十分に発揮したものではないかも知れぬ。芭蕉歿後に出た『有磯海(ありそうみ)』『続猿蓑』等にある句も、大体においてその継続と見るべきものである。

 馬の尾に陽炎ちるや昼はたご      惟然

[やぶちゃん注:「はたご」は「旅籠」のこと。]

 無花果や広葉にむかふ夕涼       惟然

[やぶちゃん注:「無花果」「いちじく」、「広葉」は「ひろは」又は「ひろば」、「夕涼」は「ゆふすずみ」。]

 粘ごはな帷子かぶるひるねかな     同

[やぶちゃん注:宵曲も後で言っているが、「粘ごはな」は「のりごはな」で「糊をごわごわと強く効かせた」の意。「帷子」は「かたびら」。]

 時鳥二ツの橋を淀の景         同

 磯ぎはをやまもゝ舟の日和かな     同

 肌寒き始にあかし蕎麦のくき      同

[やぶちゃん注:「始に」は「はじめに」。]

  悼少年

 かなしさや麻木の箸もおとなゝみ    同

[やぶちゃん注:前書は「少年を悼む」。「麻木」は「をがら(おがら)」と読む。]

 別るゝや柿喰ひながら坂の上      同

 更行や水田の上のあまの河       同

[やぶちゃん注:上五は「ふけゆくや」、「水田」は「みづた」。]

 待宵や流浪のうへの秋の雲       同

[やぶちゃん注:「待宵」は「まつよひ」。]

 銭湯の朝かげきよき師走かな      同

 こがらしや刈田の畔の鉄気水      同

[やぶちゃん注:「畔」は「あぜ」、「鉄気水」は「かなけみづ」。]

 冬川や木の葉は黒き岩の間       同

[やぶちゃん注:「冬川」は「ふゆかは」、「間」は「あひ」。]

水仙の花のみだれや藪やしき       同

 「粘ごはな」の句、「別るゝや」の句、「待宵」の句などには、多少惟然その人の様子を想わしむるものがある。「粘」の字は「ノリ」と読むのであろう。

[やぶちゃん注:「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。

「馬の尾に陽炎ちるや昼はたご」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の「昼はたご」(晝旅籠)の注に『「旅籠」はここでは宿屋での食事の意。もと、食物などを入れる器である「旅籠」を開いて食事をするところを「旅籠所」といった。また、当時、旅籠の玄関先には馬をつなぐ場所(馬つなぎ)があった』とあり、通釈では『道中の旅宿で昼飯をとって一休みしているのであろう。表につないだ馬が尾を振るたびに、かげろうの影がちらちらとして散るように眺められるのである。のんびりした街道筋の宿場の光景が目に浮かんでくる』と、惟然の映像的なそれを見事に説明しておられる。また堀切氏曰く、「惟然坊句集」では座五が『「昼多葉粉」となっている。「昼多葉粉」は昼間の小憩に吸う刻み煙草の意。馬子(あるいは農夫)などがのどかに煙草の烟を吹いていると、大地にかげろうが立ち、それが馬の尾のゆれるたびにちらちらと動く、という情景と解される』とある。うん! 確かに!

 馬の尾に陽炎ちるや晝多葉粉

の方が広角のワイドな画面になって、よい!

「無花果や広葉にむかふ夕涼」本句について、堀切氏は前掲書で『『藤の実』の正秀序に、京における惟然の住居を記して「寅丸坊のほとりに、家一つ三つに分(わけ)て、四畳半の座中に柱さへかどかどし、欠たる鍋、煤けたる行燈をしめして、月花のためには朝暮の煙をだにかへり見ず」とあるのが参考になろう』とある。

「無花果」バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus caricaウィキの「イチジク」によれば、中国語では「無花果」以外に古くからの表現に「映日果」(インリークオ)があるが、これはイチジクが十三世紀頃に『イラン(ペルシア)、インド地方から中国に伝わった』際、『中世ペルシア語』でイチジクを意味した『「アンジール」』『を当時の中国語で音写した「映日」に「果」を補足したもの』であるとする。『通説として、日本語名「イチジク」は』十七『世紀初めに日本に渡来したとき、映日果を唐音読みで「エイジツカ」とし、それが転訛し』て「イチジク」となった『ものとされている』。日本には天正一九(一五九一)年(千利休が自害した年)に、『天草に所縁のある神父がポルトガルのリスボンから伝えたとされ、天草はイチジク発祥の地とされる』。『伝来当時の日本では「蓬莱柿(ほうらいし)」「南蛮柿(なんばんがき)」「唐柿(とうがき)」などと呼ばれた。いずれも』「異国の果物」といった『含みを当時の言葉で表現したものである。なお現在でも天草地方ではイチジクを「南蛮柿」と表記する文化が残っている』とある。この「寅丸坊」がいっかな判らぬのだが、一部の資料では彼は京の岡崎の風羅堂に住んだとあり、調べると、個人サイト「私の旅日記」(ずっと昔から俳句ではしばしばお世話になっている)の「白河院庭園~諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升菴址~」に現在の白河院庭園内にあるその標柱に「惟然坊旧蹟トモ伝フ」記されているとあるので、この付近か(グーグル・マップ・データ)。

「広葉」読みは通常の俳書では濁音でも濁点を省略することが多いため、清音か濁音かを特定することは出来ない。基本的には濁音でないとおかしい場合以外は清音で読んでおけば問題はない。]

「帷子」袷 (あわせ) の片枚 (かたひら) の意で、もとは裏をつけない衣服の総称。「単衣(ひとえ(もの))」であるが、ここは生絹 (すずし) や麻布で仕立てた夏に着る単衣の着物で、それで夏の季題となる。ぱりぱりに張ったそれに、夏の暑さをこれまたいや増す効果が与えられてある。

「時鳥二ツの橋を淀の景」この句に一見よく似した句が其角にあり、

 ほとゝぎす一二の橋の夜明かな     其角

である。また、荷兮に、

  東福寺開山諱(き)

 村しぐれ一二の橋の竹笠屋       荷兮

の句もある。堀切氏に前掲書に其角の句が挙げられており(荷兮はその注に「曠野後集」(荷兮編・元禄六(一六九二)年自序)からとして載っている)、この「一二の橋」については、『⑴京都市下京区本町、東福寺門前の大和大路にある一の橋、二の橋。⑵江戸本所の一つ目、二つ目の橋、の両説のうち⑴が有力とされる』とある。ロケーションがずれるものの、同じ京の景色で其角のそれを意識して作ったようにも思われる。

「磯ぎはをやまもゝ舟の日和かな」中七は「やままももぶね」と一語としたところが上手い。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra。磯近くを山桃の黒赤色の艶の実をこんもりと積んだ小舟が行き、それに夏の陽射しがハレーションする――そんな「山桃舟磯際を行ける」という「日和」なのである。当初、私はなまじっか海産物に関心を持っているため、この句を、高知で行われるシイラ(スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus:漢字表記「鱪」・「鱰」)を捕るための「シイラ漬(づけ)漁」の舟かと考えた。ウィキの「シイラ漬漁業」から引くと、『海面の浮遊物に集まるシイラの習性を利用し、シイラ漬(漬木)』(づけぎ)『という漁具を海面に設置してシイラなどをおびき寄せ、まき網(旋網漁業)あるいは釣漁業によってこれを捕獲する漁業で』、『漬漁業』(づけぎょぎょう)『は南方から日本に伝来した漁法で、主に鹿児島県から新潟県にかけての対馬海流域と黒潮域の高知県で行われている。漁期は夏から秋』。『海面に浮かぶよう』、六~八メートルの『長さの孟宗竹数十本をワイヤーあるいはロープで横向きに数カ所結束し、ここから垂直に』二メートル『程度の目印(旗・木・竹など)を立てる。そして、漬を海底に固定するため』、『水深の』二『倍程度の碇綱』(いかりづな)『を取り付け、その先端に碇となる数百』グラム『の土俵を取り付ける』。『高知県では、水中に葉の付いたヤマモモの枝を吊り下げ、それを隠れ場所にする小魚を餌とするシイラを、より集め易くする。ヤマモモは、『葉が取れ難く、効果が高い』とされるが』、一『ヶ月程で交換が必要と成る』とある。惟然は宝永元(一七〇四)年に四国讃岐に行脚していることは確認出来たが、しかし、非常に特殊な漁法であり、仮にそれ(ヤマモモの枝を満載して沖へシイラ漬けを作りに向かう舟)を詠んだとするならば、前書でそれを書くだろうし、その説明なしには殆んどの読者はその意味にはとれないから、やはりここは実を載せたそれである。

「肌寒き始にあかし蕎麦のくき」ナデシコ目タデ科ソバ属ソバ Fagopyrum esculentum。茎の色は緑もあるが、淡紅・濃紅色を呈するもの(在来種・品種)も多い(ウィキの「ソバ」の赤い茎の画像)。堀切氏は前掲書で、『晩秋の山路の景であろう。白い蕎麦の花の下にわずかに透けて見えていた赤い茎が、やがて葉が枯れてゆくにつれて、冴えざえと目につくようになるのである。茎の赤さは、底冷えの空気を象徴するように寒々として淋しく哀れな感じになる』と評されておられる(ソバの花は場所によっては新暦の九月下旬頃まで咲いている)。やはり、惟然は類い稀な映像詩人である。

「かなしさや麻木の箸もおとなゝみ」「麻木」は「苧殻」(おがら)。「麻幹」「麻殻」或いは「苧殻箸(おがらばし)」とも。麻の皮を剥いだ後に残る芯を干したものであるが、本邦では麻は古来より清浄なものとされて神社などで神事に使われてきたが、特に江戸時代以降、盂蘭盆(うらぼん)の迎火を焚くのに専ら使用され、また、その時、苧殻を折って箸にし、精霊棚(しょうりょうだな)の供え物に添えたりもする。ここはその「苧殻箸」である。以上から初秋の季題となる。堀切氏は前掲書で、『年若くして亡くなった子供を追悼した句である。孟蘭盆の精霊棚に供えてある数々の麻木の箸の中に、死んだ少年のぶんもまじっているが、それが大人の仏さまのものと同じ大きさなのが、余計に痛々しく悲しみを誘うというのである。命短くして箸長し――少年なのに、なにも死ぬことまで大人並みに真似をしなくてもよかったのに、という述懐が、「麻木の箸」の大きさを通じて』滲(にじ)み『出ているのである』とある。この句は「續猿蓑」の「釋敎之部 附 追善 哀傷」に

  悼少年 二句

 かなしさや麻木の箸もおとななみ   惟然

 その親をしりぬその子は秋の風    支考

として出るもので、「惟然坊句集」では前書がなく、

 悲しさや麻木の箸も長生並

とある。有朋堂の藤井紫影氏の頭注には『長生並は「おとななみ」と讀むべきか、一本に「悲しさよ」とし「悼少年」と前書あり』とある。支考の一句は支考著・一浮編「蓮二吟集」(れんじぎんしゅう:宝暦五(一七五五)年刊)では「しりぬ」を「しらぬ」とするが、支考没後のものであり、意味も突き放した感じになるので全く採れない。

「別るゝや柿喰ひながら坂の上」堀切氏の前掲書に、『師芭蕉とのしばしの別れを借しんで即興的に詠んだ句である。とある坂道の上のところまで見送ってきて、さあここでお別れだと、柿をかじりながら、別れの挨拶をかわしたのであろう。「柿喰ひながら」の別れとは、たがいの親愛感もあふれていて、いかにも瓢逸洒脱な惟然にふさわしい。一説には、坂の上に立つ惟然が、しだいに小さくなってゆく師の後ろ姿を見送りながら、手にした柿を無心に頬張っている情景とする』とある。「惟然坊句集」では、

  翁に坂の下にて別る〻とて

 別る〻や柹食ひながら坂のうへ

と載る。堀切氏はこの句に、『元禄七年七月上旬、芭蕉が大津の無名庵から京都の去来宅へ移り、さらに中旬に伊賀へ向かって帰るころの吟であろう』と注しておられる。

「更行や水田の上のあまの河」三百六十度の天地相写す全方向の至高の映像美である。

「待宵や流浪のうへの秋の雲」この「待宵」は表面上は「翌日の十五夜の月を待つ宵」の意で陰暦八月十四日の夜である小望月(こもちづき)を季題として示し、ロケーションを確定させるのだが、しかし同時にこの語は歌語として永く「来るはずの人を待つ宵」を意味する語であることをも疎かにはできない。さすれば、妻子を捨てた惟然にして以下「流浪のうへの秋の雲」と続けた「待宵や」の切れには甚だ強い苦さがあると読まねばならぬ。]

「こがらしや刈田の畔の鉄気水」堀切氏の前掲書の評釈。『荒涼とした田づらを木枯しが吹きすさんでいる。足もとを見ると、稲を刈りとったあとの田の畔際には、鉄気を帯びた赤黄色の水が吹き寄せられて、鈍く光っているというのである。木枯しの吹くころの季節感が冬田の情趣の中に見事にとらえられた句である。「刈田の畔の鉄気水」という描写がじつに的確である。「惟然坊句集」では、

 凩や刈田の畔の鐡氣水

である。次の、

 冬川や木の葉は黑き岩の間(あひ)

と一緒にアンドレイ・タルコフスキイに聴かせたかった句である。]

 しる人になりてわかるゝかゞしかな   惟然

 元禄七年の『其便(そのたより)』には「近付に」とあり、『惟然坊句集』にも「近付」となっている。芭蕉に随従して奈良から大坂へ出る途中の作らしい。田の中に立っている案山子(かかし)と御馴染になって、やがてまたこれに別れて行くというところに、この人らしい旅情が窺われる。とぼとぼ歩く昔の旅行でなければ味い得ぬ趣である。

[やぶちゃん注:「元禄七年」一六九三年。これは元禄七年八月(芭蕉五十一歳)に芭蕉が支考・維然・又右衛門・二郎兵衛を同伴して大坂に向けて出発し、奈良に一泊した、謂わば死の一ヶ月前の最後の旅である。]

 ひだるさに馴て能寝る霜夜かな     惟然

[やぶちゃん注:「馴て」は「なれて」、「能」は「よく」。]

これは旅中の吟であるかどうかわからぬが、惟然にあらずんば道破し得ぬ世界であろう。

[やぶちゃん注:「惟然坊句集」には、

   *

  有千斤金不如林下貧

 ひだるさに馴れてよく寝る霜夜哉

   *

とある。前書は「千斤(せんきん)の金(こがね)有るも、林下(りんか)の貧(ひん)に如(し)かず)」と読む。堀切氏は前掲書で『去来は『俳諧問答』(『青根が峯』)「答許子問難弁」において惟然につき「先師、彼が性素にして深く風雅に志し、能く貧賤に堪へたる事をあはれみ、俳諧に導き給ふ事切なり」と言っている』とある。

「道破」「道」は言う意で、ずばりと言ってのけること。言い切ること。]

 煤掃や折敷一枚蹈くだく        惟然

[やぶちゃん注:「煤掃」は「すすはき」、「折敷」は「をしき(おしき)」、「蹈くだく」は「ふみくだく」。]

などという句になると、軽快な調子といい、多少の滑稽味を帯びている点といい、よほど惟然らしいものになっている。が、それよりも惟然の面目を発揮したものは、『有磯海』にある左の一句であろうと思う。

  奈良の万僧供養に詣で片ほとりに一夜
  あかしけるに夜明て主につかはすべき
  料足もなければ枕もとのから紙に名処
  とともに書捨のがれ出侍りける

 短夜や木賃もなさでこそはしり     惟然

 宿賃の持合もなかったから、枕許の唐紙に住所姓名と共にこの一句を認(したた)めて逃出した、というのである。これを来山(らいざん)の

  しろしろと見ればよその天井なり

 みじか夜や高い寝賃を出した事     来山

と対照すれば、両者の世界が如何にかけ離れているかわかるであろう。「こそはしり」などという俗語も、極めて惟然らしいものである。

 元禄十二年の『けふの昔』に次のようなことが書いてある。

  李白が法外の風流を得て道にちかしと
  宋儒の評せられしは天機を動かさゞれ
  ばなり、惟然が諸州を跨て句をわるく
  せよわるくせよ、求めてよきはよから
  ず、内すゞしくば外もあつからじとい
  ふは生得の無為をたのしみて此為に塵
  埃をひかじとならむ。

    南部の雪に逢ひて

 木もわらん宿かせ雪の静さよ

    二本松にて

 先米の多い処で花の春

[やぶちゃん注:「先」は「まづ」。]

    松しまにて

 松しまや月あれ星も鳥も飛

[やぶちゃん注:「飛」は「とぶ」。]

    深川の千句に

 おもふさまあそぶに梅は散ばちれ

[やぶちゃん注:「散ばちれ」は「ちらばちれ」。]

  など一句として斧鑿にわたりたりとは
  見えず、地獄天堂は学ぶ人の心なるべ
  し。

[やぶちゃん注:「斧鑿」は「ふさく」で、詩文などに技巧を凝らすこと。]

 これは編者たる朱拙(しゅせつ)の筆に成るものに相違ない。ここに挙げた数句は悉(ことごと)くいわゆる惟然調であって、慥に法度(はっと)の外に出ている。「句をわるくせよわるくせよ」というのは無技巧論のようであるが、「求めてよきはよからず、内すゞしくば外もあつからじ」とあるのを見れば、単に技巧を排したのではない、技巧よりも自然を重んじたのである。巧を求める間はなお斧鑿の痕(あと)を免れぬ、自然に巧なるに及んではじめて全きを得る、というのがその眼目であろう。由来無技巧論は立派な手腕の所有者によって唱えられる。惟然が俳句においてすぐれた伎倆を具えていたことは、これまでに引用した句が何よりも明(あきらか)に語っている。妄(みだり)にこれを振廻す者が邪道に陥るのである。「地獄天堂は学ぶ人の心なるべし」とは朱拙がこの点を警(いまし)めたものと思われる。

 朱拙の批評は惟然本来の句風に比し、「木もわらん」以下の句を法度の外に遊ぶものとしたので、この見解は当を得ている。「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」というのも惟然の意を忖度したのであるが、知己の言たるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「煤掃」新年を迎える準備として屋内の煤や埃を払い清めること。江戸時代には年中行事として十二月十三日に行うのが恒例ではあったが、実際には多忙な時期であり、それ以降の大晦日前までにやることが多かった。

「折敷」檜(ひのき)のへぎで作った縁つきの盆。多くは方形で、食器などを載せる食台で高価なものではない。

「奈良の万僧供養」公家で一万人もの僧侶を集めて食を供養すること。また、その法事。本邦では村上天皇の応和元(九六一)年一一月に始まった。これは元禄五(一六九一)年の東大寺大仏開眼万僧供養か。

「来山」大阪出身の俳人小西来山(こにしらいざん 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)。通称、伊右衛門。少年期に死別した父が宗因門の俳人であったことから、同門の由平(よしひら)の後見を得て俳人となった。若くして法体となった。宗因直門となり談林風の句を作っていたが、元禄期に至るや、静寂な自然観照を主眼とする蕉風に近い俳風を示すようのになった。正徳三(一七一三)年の夏に今宮に閑居した。豪放磊落な人柄で、無類の酒好きで「生涯醒めたる日なく」と鬼貫の追悼文に見える。雑俳の点業にも力を入れた。「元禄十二年」一六九九年。

「けふの昔」朱拙編。

「宋儒」宋代の儒者。

「天機」生まれつきの才能。それを当時の社会のためには全く使わなかったからこそかく言われたというのであろう。どこかで官職に神経症的に拘り続けた親友杜甫とは対照的である。

「跨て」「またがりて」。

「無為」道家思想の根幹たる無為自然。をたのしみて此為に塵

「木もわらん宿かせ雪の静さよ」座五は「しづけさよ」であろう。芭蕉を崇拝していた彼は元禄一〇(一六九七)年、都を出て、北陸から東北に逆コースを行脚している。

「二本松」現在の福島県二本松市。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を見られたい。

「深川の千句」逆コース「奥の細道」を終えて深川の芭蕉庵に着いた時の句。「惟然坊句集」では、

  深川庵

 思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ

で、この旅で千句を成就していたか。句は「奥の細道」の「上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」を鮮やかに言い返したもの。

「地獄天堂」その俳人の到るところが地獄となるか、はたまた、天の神仏のあらせられる真の芸術家の迎えられる聖堂であるかは。]

2020/05/12

三州奇談續編卷之二 石蛇の夾石

 

    石蛇の夾石

 越中礪波郡庄川・千保川(せんぼがは)はもと一流にして、水源は飛州高山にて、凡(およそ)四十餘里を下る。もと是北陸道第一の大川なり。正保・慶安の間、瑞龍寺境内水勢障(さは)るにつき、小松黃門公の命を以て、材木・切石に鐡道具(てつだうぐ)を用ひて川除(かはよ)けを築かれて、兩川(りやうせん)の間良々(やや)易(やす)し。爰を大淸水村と云ふ。

[やぶちゃん注:表題は「せきじや(せきじゃ)のきやうせき(きょうせき)」と読んでおく。

「千保川」「西住の古碑」の私の注を参照されたい。庄川や瑞龍寺(高岡市関本にある曹洞宗高岡山(たかおかさん)瑞龍寺。開基は加賀藩第二代藩主にして前田家第三代当主前田利常で、開山は広山恕陽。高岡城を築城して、この地で亡くなった初代藩主で前田家二代当主前田利長を弔うために建立された。私の好きな寺である)との関係もその引用で明らかである。このグーグル・マップ・データで、西に南北流れているのが現在の千保川、中央に原庄川の流れで境内の損壊を受けた瑞龍寺、右に斜めに流れる大きな川が現在の庄川を配して三者の現在の位置関係を押さえるようしておいた。

「水源は飛州高山」ウィキの「庄川」によれば、『岐阜県高山市南西部の山中峠(1,375m)の湿原を水源としている。ただ、庄川水系の幹川は高山市荘川町一色で合流する一色川で、飛騨高地にある烏帽子岳(1,625m)が水源であ』『り、より厳密にいえば、鷲ヶ岳(1,671m)と烏帽子岳の間の谷が水源である』とある。国土地理院図のこの中央であり、グーグル・マップ・データで見ると判る通り(中央が先の水源)、飛騨高山、現在の高山市の西南の外れに当たる。

「凡四十餘里を下る」百五十七キロ超えとなるが、現在の測定では庄川の総延長は百十五キロである。

「正保・慶安の間」一六四五年~一六五二年。

「小松黃門公」加賀藩第二代藩主前田利常。「小松」は彼が小松城に隠居したことによる(彼にとっては思い出深い地で六歳の時、「関ヶ原の戦い」直前の「浅井畷の戦い」の後、講和を望んだ丹羽長重の人質となったが、その時の丹羽の居城は小松城であった)、「黃門」は中納言の唐名。利常は権中納言であった。

「大淸水村」現在、大清水地区というと高岡市戸出大清水であるが、瑞龍寺から有意に南(五キロ強)に離れた庄川左岸である。但し、上流で大規模な河川改修して流れを変えたはずであり、ここと見て問題はない。現在の戸出大清水地区は、拡大してみると、地域内と西地域外端を千保川及びその支流の複数が縦断していることが判り、同地区内の千保川の右岸には大清水神社もある。従って、ここと同定しておく。]

 此一里上(か)みに太日村といふに、般若野(はんにやの)と名づくる所あり。是者(これは)源平の戰(いくさ)の頃、今井四郞兼平越中の次郞兵衞と戰ひし所といふ。大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】爰を二つ塚と云ふ。彼(かの)「太平記」に見えし、名古屋遠江守が二ツ塚の城と云ふは爰なり。是も兩川の流(ながれ)の間なり。

[やぶちゃん注:「太日村」不詳。しかし、これは恐らく「太田村」の判読の誤りか、誤植ではないかと推定する。「今昔マップ」で明治期の地図の方を見ると、戸出大清水から庄川上流五キロ圏内(「一里上み」)に当たる位置に「太田村」があることが判る。

「般若野」上記の「今昔マップ」の古地図を再確認されたい。旧太田村から東の庄川を渡った先に「般若村」の名を見出せる。やはり「西住の古碑」で考証したが、ここは別名を「芹谷野」とも呼び、「芹谷野」はこれで「せんだんの」と読み、「栴檀野」とも書く。現在、砺波市芹谷(せりだに)の北西部直近一帯が「栴檀野」地区(グーグル・マップ・データ)であることは地図上の複数の施設名に「栴檀野」が冠せられてあることから判る。則ち、現在の芹谷周辺が古くは広域の「栴檀野」=「般若野」であったと考えてよいと思われるのである。

「今井四郞兼平」木曽義仲の名臣今井兼平(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)。

「越中の次郞兵衞」平氏にあってその豪勇を称えられた名将平盛嗣(?~建久五(一一九四)年)の通称。平盛俊(剛力の持ち主として知られ、清盛の政所別当をも務めた平家の有力家人。「一ノ谷の戦い」で猪俣範綱に騙し討ちにされた)の次男。ここの話は寿永二(一一八三)年五月九日にここで行われた平氏軍(平盛俊)と源氏及び北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の「般若野の戦い」を指す(「西住の古碑」で示したように、これから三百二十三年後の永正三(一五〇六)年に同じ場所で行われた越中一向一揆と越後守護代長尾能景との間の「般若野の戦い」と混同しないように)。同日明け方、加賀より軍を進め、般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曾義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲、平盛俊軍は戦況不利に陥り、退却している。盛嗣の後の数奇な運命(落人となるも捕縛され、由比ヶ浜にて斬首となった)はウィキの「平盛嗣」を読まれたい。

「大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】」何だか言っていることがおかしい。「大淸水」と「淸水」は同じとしか取り得ないが、そこから「六道寺」までは本文では「半道」(一里の半分。約二キロ)と言い乍ら、割注では「五里余」(十九・六三九キロ超)である。そもそもが「六道寺」がおかしい。これは「六渡寺」で射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称であろう。現地の駅名標などではこれで「ろくどうじ」(現代仮名遣)と読む。庄川河口右岸の海辺の地名である。現在の戸出大清水から六渡寺までは実測すると、十四キロはある。「半道」は「半日」の誤りではなかろうか?

「二つ塚」現在の戸出大清水から実測で四キロほど庄川左岸を下った富山県高岡市二塚(ふたづか)の「三ヶ首、鐘堀、太刀城跡の碑」(グーグル・マップ・データ)。

『「太平記」に見えし』巻第十一の「越中の守護自害の事付けたり怨靈の事」。

「名古屋遠江守」鎌倉最末期の越中守護であった名越(北条)時有(?~正慶二/元弘三年(一三三三)年五月)。北条氏名越流。ウィキの「北条時有」によれば、正応三(一二九〇)年、時有は越中国守護所として放生津城を築城している。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』て『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の』子である恒性(こうしょう/つねなり)『皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権(この時は既に退任)『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は』甥の『名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公』(ありきみ)・『貞持と共に放生津城』(ここ。グーグル・マップ・データ)『へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ』、『奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃し』たとある。]

 二塚村に澤田次郞兵衞(じろべゑ)と云ふ百姓あり。是は名古屋遠江守が兩家老の一人なり。今一人の家老は某と云ふ。此跡は故ありて國君に功あり。今戶出(といで)に移りて居(きよ)し、大庄屋を勤むる戶出の又八と云ふものゝ先祖なり。

[やぶちゃん注:「澤田次郞兵衞」不詳。

「此跡は」とは「今一人の家老」「某」の後裔ということだろう。

「國君」加賀藩主。

「戶出」高岡市戸出町(グーグル・マップ・データ)。二塚の南西直近。]

 されば次郞兵衞が家に、今に「海濱筐(かいひんきやう)」とて、「石蛇夾石(せきじやきやうせき)」と云ふ物あり。執念の餘勢といへども、世にも又間々あるものなり。「石蛇」とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣(せきき)ありて、貝より石(いし)を出(いだ)して、互に挾みて土を離れて石(いし)を生ず。其の石「蛇床石(じやしやうせき)」に似たり。相抱(あひいだ)きて連々(れんれん)離れざるが如し。是(これ)人の執氣(しふき)石によるか。又石氣自(おのづか)ら連理(れんり)をなす物なるか。

 又一變して此浦渡り及び能浦(のううら)に「眞珠貝」と云ふ物あり、必ず眞珠を含む。玉を得ること石決明(あはび)に十倍す。里俗「眞珠貝」と云ふ。此「眞珠貝」のうち、稀に「喰違貝(くひちがひがひ)」といふあり。只裏面相違(あひたが)ひて抱(いだ)く、稀なり。此中の眞珠も又枝の如く粒(つぶ)出(い)で、少しく喰違(くひちが)ふたる珠となる。是又妙なり。是や思ひ合はざる者の氣の化(か)する所なるか。將(は)た自然なるか。執氣凝(こ)らば、不執氣(ふしふき)も又凝らずんばあるべからず。

[やぶちゃん注:「海濱筐」(現代仮名遣「かいひんきょう」)=「石蛇夾石」(現代仮名遣「せきじゃきょうせき」)。以下、多くは音読みしておいた。「筐」は「四角な竹製の籠」・「四角な寝台」・「小さな釵(かんざし)」の意があるが、後で「蛇床石に似たり」と言っているので、二番目の意味か。但し、「海濱筐」も「石蛇夾石」も、そして「蛇床石」も見たことがない熟語で、対象物が如何なるものかはここに書かれた内容から推測するしかない。而も似ているという手掛かりになるはずの「蛇床石」(じゃしょうせき)なるものも正体が全く判らぬのでお手上げである。かの石狂木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の「雲根志」(安永二(一七七三)年(前編)・安永八(一七七九)年(後編)・享和元(一八〇一)年(三編)刊)にあっていいはずだと、知らべてみたが、それらしいものがいっかな、見つからなかった。当初、私は三葉虫(節足動物門†Artiopoda 亜門三葉虫綱 Trilobita のトリロバイト(Trilobite:カンブリア紀に現れて古生代の終期であるペルム紀に絶滅した)やアンモナイト(軟体動物門頭足綱アンモナイト亜綱 Ammonoidea のアンモナイト(Ammonite))の重合化石ではないかと思ったのだが、前者は日本では殆んど出土せず、後者も現行では北海道を除いて、あまり出土しないから、ハズレだろう。「石蛇とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣ありて、貝より石を出して、互に挾みて土を離れて石を生ず」という文を眺めながら、ここで「ハッ!」とした。自分が幼い頃から貝類研究をしてきたにも拘わらず、初っ端から実際の現生貝類を候補の中に全く想定していなかった愚かさに気づいて、「あれ? これって、オオヘビガイとかミミズガイとかの殻じゃあねえの?」と膝を叩いたのだ。

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

吸腔目カニモリガイ上科ミミズガイ科ミミズガイ Siliquaria cumingii

などである。記載の感じは、螺形が細く紐状で「ぐるぐると交」わっているとなると、後者のミミズガイがまさにぴったりなのだが、ミミズガイは房総半島以南の太平洋にしか分布しないので、だめだ。前者でとっておく。ウィキの「オオヘビガイ」を引用しておこう。言わずもがなであるが、変則的な形をしているが、巻き貝の一種であり、『岩石の上に殻を固着させて生活する。巻き方は不規則で、時にほぐれた形にもなる』。『岩の上に殻を固着させて成長するため、岩の形などによってその形は多少変わる』。『おおよそでは成貝で殻径50mm、殻高20mm程度になる。殻口の径は老成貝で15mm程度。固着して後は次第に殻の径を増しながら巻き上がってゆく形になり、上から見ると左巻きに見える』。但し、『巻かずに伸びてしまった形で育つ例もある。なお殻口部分はそこまで巻いてきた殻の上に乗るか、または多少基盤を離れて立つ傾向がある』。『螺管断面が半円形から円形で、表面には幾筋かの瓦状の螺肋と多数の糸状の螺肋がある。殻の表面は淡灰褐色で、殻口の内面は白い』。『殻は巻き上がっているので見た目は左巻きに見え、これを超右巻き(Superdextral)という』。『活動として殻から肉体を出すことはなく、せいぜい頭が見える程度である。摂食方法としては粘液を分泌してそれを水中に網状に広げ、これに引っかかったデトリタス等を回収して食べる』。『網となる粘液は足』(外套膜の辺縁)『から分泌される』。『食べる際は粘液ごと回収してしまう』。『繁殖時は夏で、卵の入った袋を殻の入り口の内側に』吊るす。『卵はこの嚢内で孵化し、ベリジャー幼生となって泳ぎ出』、『胎殻は右巻き』『で滑らかで光沢がある』。なお、『繁殖には他家受精が必要であるが、本種は集団を作らない。つまり他個体と接触する方法がない。受精に関しては雄が精子のカプセルを放出し、雌が粘液の糸で絡め取ってそれを回収、体内で受精が行われる、との報告がある』。『日本では北海道以南、それに台湾と中国に分布』し、棲息『地は沿岸岩礁の潮間帯で』、日『当たりの弱い岩場やタイドプールでよく見られる』。『日本本土ではどこでも普通だが、奄美ではこれに代わってリュウキュウヘビガイ Serpulorbis itrimeresurus が』いる。但し、『この種は四国南部からも知られ』、また、『殻に薄紫や褐色の斑があるソメワケヘビガイ』(Serpulorbis dentiferus)『も紀伊半島以南に分布する』。『なお、別属の』Dendropoma属フタモチヘビガイ Dendropoma maximum は殻に蓋を持』ち、『紀伊半島以南に見られる』。『本種の死んだ殻は岩の上にパイプ状の構造を作ることになり、岩表面の構造を複雑化し、他生物が利用することで種』の『多様性を高める効果がある。ナベカ』(スズキ目ギンポ亜目イソギンポ科ナベカ属ナベカ Omobranchus elegans)『やクモギンポ』(ナベカ属Omobranchus loxozonus)『が産卵床として利用することが知られている』。『コケギンポ』(ギンポ亜目コケギンポ科コケギンポ属 Neoclinus bryope)『では二枚貝に産卵する例もあるが、本種の殻を利用する率が高い。また』、『この種では雄が卵の保護を行うが、その際に雄が殻口から頭部だけを出すと、頭についている皮質の突起が周囲の付着生物と紛らわしく見え、一種の隠蔽の効果を持っているとみられる』。また、『本種の殻の隙間にはゴカイ類などが住み着いている。その中には本種が出して栄養分を集める粘液を食べるものがあると考えられる』。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科クマドリゴカイクマドリゴカイ Perinereis cultrifera は『実験室内の観察で』は、『本種が粘液を引き戻して摂食する際に殻口に出てきて、その一部を摂食することが観察された。これは一種の』「盗み寄生」と『考えられる。他にもゴカイの』一種 Nereis sp. やシリス科の一種 Ophisthosyllis sp. が同様の行動を取っているらしいことも観察されており、同様の関係を持っている可能性がある』。但し、『これらのゴカイ類の摂食が本種の栄養にどれほど影響があるかなどは未知である』。『一般に広く利用されるものではないが、肉は食べれば美味であり、食用とする地域がある』。『ハンマーや鏨』(たがね)『などを使って剥がす必要があるが、茹でたところで殻の口のところを割ってから口からすすり込むと食べやすく、粘液が多くとろりとした舌触りと甘みのある貝独特のうまみが絶品とのことである』とある。いつか食うてみよう。

「能浦」これは明らかに、富山湾の西方北の能登半島の海浜を指している。

「眞珠貝」ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii伊藤勝千代氏の論文「能登和倉の海產貝類目錄」PDF)によって富山湾にアコヤガイが棲息することの確認がとれた。

「石決明(あはび)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis。アワビ類は「鮑玉」と称された天然真珠を作ることが古くから知られている。

「喰違貝」左右の貝の形状が異なるという謂いであろうが、アコヤガイは両貝殻の辺縁が薄い層状になっており、折れ易い突起があり、また、容易に薄く剥がれる。そうした大きい損壊をきたして、その部分から大きな異物が入った場合に大きな真珠が形成されることは想像に難くない。

2020/05/11

甲子夜話卷之六 10 水戶の瑞龍山の事

 

6―10 水戶の瑞龍山の事

水戶の瑞龍山と云るは、餘ほど高き處なり。この山上、西山義公を葬る。蓋公の遺命とぞ。彼家の老職、中山信敬は【備中守實文公の弟】友交の人ゆゑ聞しに、かの山は一岩石にして殊に峻し。その岩石を鑿て棺を穴中に容るとなり。その問しときは源文と諡したる黃門殿の時なりき。頃又聞く、彼藩の立原翠軒が云しは、穿坎に葬し畢りて、鑿碎の石屑を以て棺を塡む。十年に及ぶ頃には、必ず融化して、もとの天然岩石に歸すと云。誠に不朽の兆域なり。

■やぶちゃんの呟き

「瑞龍山」「ずいりゆう(りゅう)さん」。現在の茨城県常陸太田市瑞龍町(瑞竜町)にある水戸徳川家累代の墓所(グーグル・マップ・データ航空写真。その拡大)。阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面に当たる。ウィキの「瑞龍山」によれば、『現在は管理上の理由で一般には公開されていない』とある。『水戸藩第』二『代藩主徳川光圀が初代藩主徳川頼房の遺志を受け継ぎ』、寛文元(一六六一)年に『ここを墓地と定めた』。延宝五(一六七七)年には『伯父の武田信吉、生母谷久子の墓を改葬した。全山深い木々に覆われ、その所々に歴代藩主の墓がある』。『葬儀墓制は日本では珍しい』完全な『儒教の形式によるもので、螭首亀趺(ちしゅきふ:亀の胴体に竜の首が付いている台石)とよばれる墓の様式である』。『瑞龍山には累代藩主一族の墓以外に、朱舜水』(しゅ しゅんすい 万暦二八(一六〇〇)年~天和二(一六八二)年)『の墓がある。朱舜水は中国明代の儒学者であったが、明の滅亡に際して援助を求め』、『来日し、清の成立に伴い』、『亡命、帰化した。その後、光圀の招きで水戸藩を訪れ、水戸学思想に多大な影響を与えた』人物としてよく知られる。

「餘ほど高き處なり」標高は百三十四メートル。「茨城県教育委員会」公式サイト内の「水戸德川家墓所」の解説に拠った。そこにも仏教嫌いで知られた光圀(彼は生涯に一度しか旅をしなかった。それは鎌倉への旅であったが、途中、横浜の金沢付近では地蔵を破壊している)よろしく、『葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りは禁じられてい』たとある。

「西山義公」「にしやまぎこう」。水戸光圀のこと。「義公」は「諡(おくりな)」(本文の読みもそれ)で、「西山」光圀は元禄三(一六九〇)年に幕府からの隠居の許可を受けて、養嗣子綱條に水戸藩主を継ぎ、翌年五月に久慈郡新宿(あらじゅく)村西山(ここ。グーグル・マップ・データ。現在は常陸太田市新宿町(あらじゅくちょう)。サイド・パネルで一部復元された西山荘の様子が見られる)に建てられた隠居所「西山荘」に隠棲したことによる。

「蓋」「けだし」。まさしく。

「中山信敬」(なかやまのぶたか 明和元(一七六五)年~文政三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で水戸藩附家老。第五代水戸藩主徳川宗翰(むねもと)の九男で、第六代藩主徳川治保の弟。明和八(一七七一)年、八歳の時、先代中山政信の臨終の席でその娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した。安永八(一七七九)年に備前守、後に備中守に遷任した。文政二(一八一九)年、罹患していた中風を理由として、家督を三男の信情に譲って隠居するように命ぜられて藩政を退き、翌年、没した。参照したウィキの「中山信敬によれば、『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には『大田村からかつての松岡に知行替えをし』ており、『地位向上』のための『運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』、文化一三(一八一九)年)一月から『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』は『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって』、『家格向上に努めた』とあり、なかなかのやり手であることが判る。

「備中守實文公」これは水戸藩中興の祖と称せられる前に記した信敬の兄で第六代藩主であった徳川治保(はるもり 寛延四(一七五一)年~文化二(一八〇五)年)のことであるが、「文公」は彼の諡で正しいものの、「備中守」と「實」は誤りとしか思われない。後者は不明だが、前者は弟信敬の叙任と誤ったものであろう。

「峻し」「けわし」。

「鑿て」「うがちて」。

「穴中」「けつちゆう(けっちゅう)」と音読みしておく。

「容る」「いるる」。

「その問しときは」この「問」は以下「頃又聞く」(このごろまたきく)との対応から見ても、「聞し」(ききし)の静山に誤字か、或いは参考に使用している平凡社東洋文庫の誤植ではなかろうか? 何となく圧縮された言い方で判り難いのであるが、ここは――そういう異様な埋葬法であることを聞いた中で、最も古いものとして確かにそうした処理をしたというのは、「源文と諡したる黃門殿の」埋葬の「時」にそうした、ということを聞いたのが最初である――の謂いと私は採る。「源文と諡したる黃門」とは權中納言(黄門は中納言の唐名)であった第六代藩主徳川治保のことである。因みに「源」は徳川家康が自身は「源氏」の出身であることに拘った(彼の愛読書は「吾妻鏡」であった)ことからの姓である。

「彼」「かの」。

「立原翠軒」(たちはらすいけん 延享元(一七四四)年~文政六(一八二三)年)は水戸藩士。ウィキの「立原翠軒によれば、学者として第五代藩主徳川宗翰と次の第六代治保の二代に亙って仕えた。『本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹』(なりもと)の子『立原五郎久幹を祖とする立原氏』通称は甚五郎、『致仕後に翠軒と号』した。『父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所』(きょうしょ)、『孫には幕末の志士・立原朴次郎』(ぼくじろう)『や閨秀画家の立原春沙』(しゅんさ:杏所の長女)、子孫にはなんと、かの詩人にして建築家であった立原道造がいるとある。宝暦一〇(一七六〇)年に『荻生徂徠を祖とする古文辞学派(徂徠学派)・田中江南が水戸を訪れた折に』、既に師であった谷田部東壑(とうがく)とともに『その門に入った』。同十三年、『江南が去った後、江戸彰考館の書写場傭に任ぜられた。江戸にては文章を大内熊耳』(ゆうじ)、『唐音を細井平洲、書を松平』頼順(よりゆき)『に学んだ』。明和三(一七六六)年には、『編集員を命ぜられ』て『水戸史館に転じた』。天明六(一七八六)年六月、『彰考館総裁に進み、以後』、享和三(一八〇三)年に『致仕するまで』、かの「大日本史」の『編纂に力を注ぎ』、寛政一一(一七九九)年には「大日本史」の『紀伝浄写本』八十『巻を』「大日本史」編纂の遺命を残した第二代藩主『徳川光圀の廟に献じた。この間、混乱の生じていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本』などもしている(これらは「江水往復書案」・「史館雑事記」として今日に伝わっているものの原形本とされる)。『永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により』、『後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告し』、寛政五(一七九三)年には、『門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという』。但し、「大日本史」編纂に際しては、書名に国号を冠することや、論賛の是非について、『弟子の藤田幽谷と対立を深めていたともいわれている』(この対立と結果はリンク先に、以下、より具体的にしるされてある。また、そこにある「逸話」を魅力的。流石、道造の御先祖さまだねえ)。

「穿坎」「さくかん」。穿(うが)った坑(あな)。

「葬し畢りて」「さうしをはりて」。

「鑿碎」「さくさい」。鑿(うが)ち碎(くだ)くこと。

「石屑」「せきせつ」。石の屑(くず)。

「塡む」「はむ」と読む。「嵌(は)む」に同じで、「落とし入れる」「投げ入れる」の意。

「融化」「ゆうくわ(ゆうか)」。融(と)けて変化すること。溶け合って一つの物になること。ここは遺体がすっかり溶けて「天然」の「岩石に歸すと云」うのである。

「不朽」岩石に融和するからまさに遺体は腐らないのである。

「兆域」「てうゐき(ちょういき)」で「墓のある区域・墓所」の意。

三州奇談續編卷之二 平氏の樂器

 

    平氏の樂器

 奇は實の中に求め、理(り)は直(ちよく)の中に求めば、得て易く、說きて當ることもあらん。然共予が性虛惰にして爰に倦む。又廢して元の歌談となる。是をさまでは咎むまじ。

[やぶちゃん注:初めの語りは本巻の冒頭の「僧辨追剝」で若き僧がのたもうた見解である。「直」は「なほきこと」(歪んでいない事実・正直な話)を意味していよう。

「歌談」詩歌の話。]

 中昔(なかむかし)に聞けり。宗祗法師連歌の席に宗匠たる日にや、櫻井基佐(さくらいもとすけ)

「花舟(はなふね)くだす」

と云ふ事を云ひ出せしに、

「詞(ことば)艶(えん)なれども證歌なくては」

と難ぜらる。基佐取敢へず、

「石山櫻谷(いしやまさくらだに)の古歌にあると覺え候」

と云ふに、

「其歌は」

と問はれける。基佐俄(にはか)に作意して一首をつらね、

「古歌なり」

とて吟ず。

  水上は櫻谷にやつゞくらん花舟くだす宇治の川をさ

と申されしかば、宗祇も打笑みて其日の席興ありしと聞く。

[やぶちゃん注:「櫻井基佐」(生没年未詳)は室町~戦国時代の連歌師で、初め心敬に、後に宗祇に学んだとされる。名は元佐、元祐とも書く。通称は弥次郎、弥三郎、法名は永仙。歌集に「桜井基佐集」。晩年は山城に住した。宗祇らと多くの連歌会に加わったが、明応四(一四九五)年の宗祇の撰した「新撰菟玖波(つくば)集」には一首も選ばれていない。稲田利徳氏の論文「桜井基佐の作品における俳諧的表現」PDF)によれば、『基佐といえば、宗祇の撰した『新撰菟玖波集』に一句も入集されなかったため』、

  遙見筑波錢便入、不ㇾ論上手與下手

  足なくてのぼりかねたるつくば山

    和歌の道には達者なれども

『という落首を残し、賄賂としての金銭の多少によって、入集が左右されたことを揶揄した人物として著名である。この他、山名邸の連歌会で、自句の連歌の付合を正当化するため、自作の即興歌を「万葉歌」と偽って提出したが、宗祇に見破られて降参したとか、生活に貧窮したとき「露」を質に入れ「終生不ㇾ吟ㇾ露」と約束し、「露之質」と言い囃されるなど、逸話の多い人物である』とある。漢文部分は「遙かに筑波を見るに、錢(ぜに)、便(すなは)ち入るる、上手と下手とを論ぜず」であろう。ともかくも小賢しい詐術家であったようである。

 以下の漢詩は三段組であるが、一段に代えた。題や作者の字間も再現していない。]

    詠雪   梁  簡文帝

  鹽飛蝶舞

  花落粉奩

  奩粉飄落花

  舞蝶亂飛鹽

    呈秀野  宋  朱熹

  晚紅飛盡春寒淺

  淺寒春盡飛紅晚

  樽酒綠陰繁

  繁陰綠酒樽

  老仙詩夕好

  好夕詩仙老

  長恨送ㇾ年芳

  芳年送ㇾ恨長

是等は詩の狂體(きやうたい)、廻文(くわいぶん)類(たぐひ)なるべし。簡文皇帝は風流の君、縱橫(じゆうわう)左(さ)もあるべし。ただ堅親仁(かたおやぢ)の朱先生、猶斯くの如きの吟あらば、風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや。

[やぶちゃん注:筆者の述べる如く、以上の漢詩は回文である(但し、中国の詩の回文詩とは逆に詠むと全く別の意味になる詩を指すのが普通である)。前者は艶麗な宮体詩の確立者で「玉台新詠集」の編纂を命じたことで知られる南朝梁第二代皇帝簡文帝蕭綱(しょうこう 五〇三年~五五一年/在位:五四九年~五五一年)の作とされるもの。中文サイトでは「玉台新詠集」を出典とするのだが、私の持つ「玉台新詠集」には見当たらない。

    雪を詠ず

  鹽(しほ) 飛びて 蝶(てふ)の舞ひの亂れ
  花 落ちて 粉奩(ふんれん)に飄(ただよ)ひ
  奩粉 落花に飄ひ
  舞ふ蝶 飛ぶ鹽に亂る

全体は雪の降るさまを喩えたもの。「粉奩」は白粉箱(おしろいばこ)。

 後者はかの朱子学の創始者として知られる南宋の大儒朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の作。題は「菩薩蠻」とも。これはちゃんと朱熹の正規の詩篇として中文サイトに載る。こちらは私にはうまく訓読出来ないが、無理矢理示すと、

  晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
  淺寒の春 盡(すべ)て飛ぶ 紅(くれなゐ)の晚
  樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁し
  繁陰(はんいん) 綠酒の樽
  老仙の詩 夕べに好(よ)し
  好き夕べ 詩仙の老
  長き恨み 年送りて 芳(かんば)しく
  芳年 恨みを送りて 長し

当てにならぬ私の推測であるが、「晚紅」は晩秋の紅葉で、一行中に半年が経過して春となるのではないか? その時の経過をも「飛び盡して」が表わすのではと思った。二句目は意味が判って訓読しているわけではないので説明できないが、牽強付会させると、「紅の晩」は夕陽の時刻とするならば、「盡て飛ぶ」のは青空か、はたまた夕べの雲か、或いは夜空の星か? 「詩仙」は李白の異名であり、「芳年」は「若き日の年月」で、後半部は半可通ながらも、意味は通りそうではある。訓読から訳まで識者の御教授を乞うものである。【当日削除・改稿】教え子の中国語に堪能なS君に頼んだ。以下にその鮮やかな答えを示す。

   《引用開始》

 私もなかなか解読できません。自信も全くありません。とはいえ、いくつかの点について感じたことをもとに、書き記してみます。

『晩紅』:この言葉は、①花の色が暫し保たれているさま、②茘枝、という二つの意味で使われます。ここは前者と受け取りました。
『淺寒春盡』:ここは二字熟語の組み合わせと取り、和らいだ寒気のうちに春が終わりに近づいた、または和らいだ寒気のうちに春の一日も尽きようとしている、という意味かと思いました。
『飛紅』:花が散る、という意味で使うのが一般的かと思いました。
『老仙詩夕好』:年老いた翁が詩を嗜むこの良き夕べよ、というほどの意味と感じました。
『詩仙』:ご指摘の通り、やはりどうしても李白が思い浮かびます。
『年芳』:春の麗しい景色、と取ります。
『芳年』:麗しき青春時代、と取ります。

私の乱調破格勝手訓読および口語訳は次の通りです。

  晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
  淺寒 春を盡す 飛紅(らくくわ)の晚(ゆふべ)
  樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁く
  繁陰(はんいん) 綠酒の樽(たる)
  老仙 詩の夕べ 好(よ)く
  好ましき夕べに 詩仙 老ゆ
  長き恨み 年芳(ねんはう)を送り
  芳年(はうねん) 恨みを送ること 長し

最後まで残っていた紅(くれない)の花も今散り終え、寒氣も和らいだ。
肌寒さの中に一日も盡きようとしている。この黄昏(たそがれ)、最後に宙を舞う花びらよ。
もう夏がやってくる。樽には酒が満たされ、樹樹の葉は生い茂る。
ああ、仄暗(ほのぐら)い木陰に、翠(みどり)の酒。
年老いたこの私が、詩に遊ぶ麗しき、たそがれ時。
この黄金の時に、かの李白も静かに老いて行ったか。
私のとめどない想いは、春の後ろ姿を見送る。
そう! あの青春時代! 私は尽きせぬ想いに惱んだものであったのだ……

   《引用終了》

これ以上のこの解釈は――私は――「ない!」――と思う。S君に心から感謝申し上げるものである。

「縱橫」ここは「自由自在」の意。

「堅親仁」頑固親父。大学時代の漢文で「論語」の朱子集註(しっちゅう)の読解には一年間痛く苦しめられたのを思い出す。「論語」本文をあそこまで神経症的にほじくらずんばならずという朱熹は殆んど病気だ、という気が強くしたものだ。

「風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや」「風韵」(一字一句の形態や平仄・韻)に「狂醉」(狂ったようにのめり込むこと)して「さまで」「事實にも拘る」(四書読解で一字一句も蔑ろにしないで神経症的に拘ったことを指す)「まじきにや」(ことはなかったのではなかろうか?)の意でとっておく。]

 寳達山(はうだつさん)は密かに聞く、平重盛子孫を隱し殘されし所と云ふ。育王山(いわう)に金(かね)を納め申されしとは、若(もし)くは此山の事にや。寳達の文字も良々(やや)似たり。又夫(それ)かと覺えたる一奇談を聞けり。

[やぶちゃん注:「宝達山」石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる(以上はウィキの「宝達山」に拠った)。三つ後の「薯蕷化人」でも頭で、『寳達山は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金を納む』と述べており、この周辺には実は平家の落人伝説が多い。「津幡町役場」公式サイトの『平家伝説が残る「平知度の首塚」』を引いておく。『津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」には、平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)の墓と伝えられている首塚が残っています。1183(寿永2)年の源平合戦の時、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は倶利伽羅山に陣を取り、知度は従兄の通盛(みちもり)とともに兵3万で志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣を取っていました。倶利伽羅峠の戦いで、維盛が木曽義仲(きそ・よしなか)に敗れたことを聞いて援軍に来た知度は、激しい戦いの末、平谷において自害したと伝えられています(津幡地区の伝説「平知度の墓・首塚」の話より引用)』。『『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』29巻には、赤地錦の直垂に紫裾濃(むらさきすそご)の鎧を着け、黒鹿毛(くろかげ)の馬に乗る容貌優美な姿とともに、目じりは裂け、眉は逆さにつり上がった激しい表情で奮闘する知度の様子が描写されています』。『一帯の地名は「平谷」と呼ばれ、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで生活したところと伝えられています。『加賀志徴』によると、平谷は「平家谷」と記され、集落の入口にある首塚の側には大木の松が生え、「首塚の松」と呼ばれていました。ここに住み着いた末裔は、平田、平能、平林、平村を名乗り、現在でもこの首塚を大切に守り続けています』。『津幡町には、平家伝説が数多く残っています。河合谷地区の牛首(うしくび)・木窪(きのくぼ)の両区や英田(あがた)地区の菩提寺区も、平家の落人が村の開祖と伝えられています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています』とある。

「育王山に金を納め申されし」「育王山」阿育王山の略で現在の浙江省寧波(ニンポー)の東にある山(グーグル・マップ・データ)。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)がインドのマガダ国マウリヤ朝第三代の王阿育王(アショカ王)の舎利塔を建立した地で宋代には広利寺として中国五山の一つがあった。「平家物語」巻第三「金渡(こがねわた)し」の段に基づく(新潮日本古典集成版を参考に正字で示した)。

   *

 大臣(おとど)は天性(てんせい)滅罪生善(しやうぜん)の心ざし深うおはしければ、未來のことをなげいて、

「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんことありがたし。他國にいかなる善根をもして、後世(ごせ)を戶ぶらはればや。」

とて、安元のころほひ、鎭西より妙典(めうでん)といふ船頭を召して、人をはるかにのけて對面あつて、金(こがね)を三千五百兩召し寄せて、

「なんぢは大正直の者であるなれば、五百兩をなんぢに賜(た)ぶ。三千兩を宋朝へわたして、一千兩をば育王山(いわうざん)の僧に引き、二千兩をば帝(みかど)へ參らせて、田代(でんだい)[やぶちゃん注:寺領としての田畑。]を育王山へ申し寄せて、わが後世(ごぜ)とぶらはせよ。」

とぞのたまひける。妙典、是を賜はりて、萬里(ばんり)の波濤(はたう)を凌ぎつつ、大宋國へ渡りける。

 育王山の方丈、佛照禪師德光に會ひたてまつり、このよしを申したりければ、隨喜感嘆して、一千兩を僧に引き、二千兩をば帝へ參らせて、小松殿の申されける樣に、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、帝、大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞよせられける。されば、

「日本の大臣(だいじん)平朝臣重盛公の後生善處」

と、今にあるとぞうけたまはる。

   *

「寳達の文字も良々(やや)似たり」活字で見ると、凡そ似ているように見えぬが、草書の崩し字の「育」は、「寳」の簡体である「宝」のそれと、また「王」の方は、「達」の最も簡略した崩し字にかなり似ている。リンク先は「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍くずし字データセット」のそれぞれの字の画像付きの検索結果である。

 石動(いするぎ)の宿より一里半ばかり、寳達の山根によつて井勢村と云ふ一在所あり。昔は國主の命を請けずと云ひ傳へしも、今は礪波領の支配の内なり。

[やぶちゃん注:「井勢村」不詳。条件からみると、現在の高岡市福岡町の山間部と思われるのだが、いっかな、古地図を探しても「井勢」の名は見つからない。識者の御教授を乞う。]

 されども此一在所へ、他村の人を聟嫁(むこよめ)にも奉公人にも迎ふることなし。表向は公命に隨ふと云へども、内は別に「村の主人」と云ふ者ありて、其命を守ること神佛の如し。此主(あるじ)に尋ねて、後に公命にも隨ふなり。其主人と云ふ者別に立つにあらず。村中を年每に廻(まは)し預る。長持(ながもち)一棹あり。是を預る者「村の衆の頭(かしら)」にて、主人の如し。其長持の内何たることを知らず。封の上に封を付けて、大(おほい)さ一抱へに及ぶ。幾百年以前よりにやあらん。斯くの如きの例(ためし)と定めり。

[やぶちゃん注:「公命に隨ふ」庄屋・肝煎・村役人などは無論、定めるが。

「長持」ウィキの「長持」より引く。『主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱』。『箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものを、車長持という』。『室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及したことで掻巻や布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされたことで武家で長持が使用され始め、やがて庶民の間にも普及するようになった』。『一般的なそれは長さが八尺五寸(約一メートル七十四センチ)前後で、幅と高さは二尺五寸(約七十五センチ)が標準であった。『錠を備えたかぶせ蓋がある。上等の品は漆塗り、家紋入りのものもある』。『長端部には棹(さお)を通すための金具があり、運搬時はここに太い棹(長持棹)を通して』二『人で担ぎ、持ち運ぶ』。『移動しやすいように底部に車輪を組み込んだ車長持が普及したこともあったが』、明暦三(一六五七)年に『江戸で発生した明暦の大火で、家々から外へ運び出した車長持が路上にあふれ、人々の避難を妨げるという事態が生じたため、江戸・京都・大阪で使用が禁止された』。『一方、地方では引き続き用いられ』、宝暦四(一七五四)年の『仙台では火災のたびに車長持が引き回される状況があった』。『長持は代表的な嫁入り道具の一つでもあり、嫁入りに際して長持を運ぶ際の祝い歌は「長持歌」として伝承されたが、明治時代・大正時代以降、長持の役割は箪笥に譲られることとなった』とある。

「封の上に封を付けて」代々の後退した「村の主人」が主人になる度に蓋にある封印の上にさらに封印をして。]

 然るに寳曆元年[やぶちゃん注:一七五一年。]の事とにや、始て此里へ他鄕の者入聟(いりむこ)したり。是も例なきことゝて、村に肯(うけが)はざる人々多かりしかども、其年の主人役の者吞込(のみこ)みたる上、人もよきものなり。其頃また公用に色々の新法ども出來(いでき)て、物むづかしきこと度々(たびたび)なりしに、此入聟上公邊(じやうこうへん)の諸事を辨じ、能(よ)く村の難題を遁(まぬが)れしめければ、終に聟入り能く調ひける。是は石動(いするぎ)の花陽庵と云ふ人の甥なりし。

[やぶちゃん注:「人もよきものなり」その入り候補の人柄も評判よい人物であった。

「上公邊の諸事を辨じ、能く村の難題を遁れしめければ」たまたま、お上や御公儀の諸公事に彼が詳しく、それについて仲介に入って、上手く村の抱えていた難題を有利に処理して呉れたので。

「石動」これは現在の富山県小矢部市石動町(いするぎまち)(グーグル・マップ・データ)。

「花陽庵」不詳であるが、寺の庵号というよりも俳号っぽい。麦水の知れる俳人である可能性がある。]

 されば事整ひて、此井勢村の家主(やぬし)なりしに、其翌年此家の主人番とて、長持を荷ひ來りて、是に封印せんことを人々勸めけるに、此入聟の人(ひと)能く公邊馴れたる男なれば、一應に領承せずして、令を傳へ村中をよせて申しけるは、

「某(それがし)儀主人番にて長持を預り申すことに及べり。然共(しかれども)物として其主(ある)じなる者中を見ずして預かると云ふ理(ことわり)なし。此中いかなる罪にあたるべき物ならんや知らず。よしやさまでのものならずとも、紙などの物にても虫の入りたらんや、或は風にあて爭ば朽ち行きなん物にやあらんも知らず。預る者某(それがし)なれば、封を切りて開き見んと思へども、各(おのおの)年々(としどし)の封印を致され置かれぬれば、一應案内に及ぶなり。各(おのおの)立寄り申さるゝの上は、只今封を切りて中を改めん」

[やぶちゃん注:「虫」の字体はママ。]

と申渡す。村中の者色を失ひ、

「さればこそ『他鄕の方(かた)は宜(よろし)からず』と申したる是(これ)なり。こは何と成りぬべし。其長持は何百年に成りたるも知れず。『あけることはならぬ』と、往古よりの云ひ渡しなり。是(これ)は氣の毒のこと出來(しゆつたい)して、今の主人番の垣破(かきやぶ)りなる事云ひ出(いだ)したり」

[やぶちゃん注:「氣の毒」私は中高の六年間を富山で過ごした。富山では「大変ですな」「厄介かけます」の意で普通に「気の毒な」と言う。]

とて、皆々恨み泣きて差留めける程に、彼(かの)新來の聟申しけるは、

「各(おのおの)は惡くも聞入(ききいれ)られたる物哉(ものかな)、我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり。其上明けしとて何の咎(とが)かあらん。若(も)し又罰(ばつ)にても當る趣(おもむき)ならば、其(それ)身一つに請けぬべし。よき事を云ふを支(ささ)へ給ふこそ心得ね」

[やぶちゃん注:「惡くも聞入られたる物哉」私の行為を悪しきものとしてお聞きになられたものだ。

「我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり」と句点であるが、ここは読点であるべきところで、「こそ~(已然形)……」の逆接用法であり、「私が預かったものを壊してその中の物を捨てると言うのであれば、その言いも御尤もと言えましょうが、逆に『この中の大事なる物とされるそれが損壊していたなら、大変だ』と、心配に思うておりますれば、それに念を入れて確認致しましょうと申しておるので御座います」の意である。

「支(ささ)へ給ふ」邪魔をなさる。]

といへども、

「其元(そこもと)は外より來り給ふ故(ゆゑ)、譯を知り給はず。其箱は何(なん)にもせよ明(あく)ることならぬに極(きは)まりたり。あら物憂(ものうき)の人を此村の主人番にせしかな。主人番の云付(いひつ)けを聞かぬも、今迄の此村の例(ためし)に背くなり。偖々(さてさて)悲しき世に下(くだ)りし哉(かな)」

と、人々怪しみ留(と)むる。今の聟は

「とかく其理(ことわり)心に落ちず。歎くことは猶更に心元(こころもと)なし。さほど人に隱す物は、所詮見ずにはすまぬことなり。今は郡奉行(こほりぶぎやう)へ申出(まうしい)で、斯樣(かやう)の隱し物の候(さふらふ)段を、金澤へ披露するより外なし」

と申放(まうしはな)つにぞ。

 村の者共詮方なく、

「さらば是非なし」

とて日を極(き)め、鹽水(しほみづ)を打ちて淸めをなし、其上にて開きけるに、中には書き物一つもなし。裝束(しやうぞく)の如き物朽果(くちは)て、土の如くなり居たり。太刀(たち)二振(ふたふり)、是又損じて物の用に立たず。琵琶一面・太皷(たいこ)一挺(ちやう)入れ置きたり。

 其外何もなし。

 傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり。是(これ)に依りてさしてもなき事なれば、本(もと)の如く納めて封印し、主人番を廻して今に別條なし。往古より知れざる箱の内、緣(えん)ありて寳曆二年の秋初(はじめ)て開き、又納めしよし、珍說を聞けり。

[やぶちゃん注:「傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり」――中の物についての由来書も附属しない。その元の持ち主も不詳である。「村の主人」役という呼称の謂われも判らぬ。それ以外にもこの長持の由緒・伝来などを補助する資料などもなく、全く以って不明である。ただ『大切な物であり、これが御主(おんあるじ)さまの物なのである』と言い伝えるばかりにして、『この何の価値もないようにしか見えぬ品々を預かる者を「村の主人」と呼ぶのである』と言うばかりの口碑しかない――というのである(但し、次の部分で、納得出来る言い伝えがあることが附記される)。但し、この外から婿入りした人物はやはり人格者であった。この役に立たず、重宝とも思えぬものを元の通りに長持に収めて、封印を総て元通りにして、自身も封印し、今まで通り、御主人番廻りを続けたのである。この村の民俗社会のしきたりを守って続行させたのである。よい人物を村は迎えた。それだけにこの村が特定出来ないのは残念至極である。]

 思ふに平氏は伊勢なり。井勢村は平氏の緣あるに似たり。其上育王山に何某(なにがし)の公家(くげ)來り、爰に壽を以て病死す。其衣服・手廻りを主人と崇(あが)めて、守り奉るよしをほのかに云ひ傳へり。若しくは小松殿なるか。

[やぶちゃん注:「平氏は伊勢なり」平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があるが、後世に残ったその殆んどは葛原親王(かずらわらしんのう 延暦五(七八六)年~仁寿三(八五三)年:桓武天皇の第三皇子)の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはその内の高望王流坂東平氏の流れのみで、常陸平氏や伊勢平氏がこれに当たる。その伊勢平氏は「承平天慶の乱」に功のあった平貞盛の四男平維衡より始まる平氏一族の一つである高望王流坂東平氏の庶流である(ここまでは概ねウィキの「平氏」に拠り、以下はウィキの「伊勢平氏」に拠る)。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(「六波羅家」或いは「六波羅流」)を狭義に「平家(へいけ)」と呼ぶ場合がある(但し、『「平家」の語は本来』は『桓武平氏でも高棟王流(いわゆる「公家平氏」)を指すのに用いられ(『江談抄』(二))、伊勢平氏の全盛期には同氏が率いる他姓の家人・郎党を含んだ政治的・軍事的集団を指す呼称として用いられるなど、時代によって異なる用法があり、「伊勢平氏=平家」とは必ずしも言えないことに注意』が必要ではある)。十世紀末から十一世紀にかけて、同族の平致頼(むねより)との『軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層』の侍品(さむらいほん)であった。『伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず』、『伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ』。『その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡』(これひら))『以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった』。『さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代』で「前九年の役」・「後三年の役」を『平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり』、『白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく』、『摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし』、『勢力を減退させていった。一方』、『伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面』の『武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった』。『殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。正盛は』、嘉承二(一一〇七)年に『出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられ、翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った』。『その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった』。『平忠盛の死後、平清盛が継ぎ』、「保元の乱」・「平治の乱」を制して従一位太政大臣にまで昇進、平家一門の栄華を築き上げたことは御承知の通りである。

「小松殿」平重盛(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)のこと。六波羅小松第に居を構えていたことによる。史実上は病死(胃潰瘍・背部に発症した悪性腫瘍・脚気衝心などの説がある)で享年四十二であった。]

2020/05/10

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 光の門

 

   光 の 門

 

よすがら堪へぬなやみに氣は沮(はゞ)み、

黑蛇(くろへみ)ねむり、八百千(やはち)の梟(ふくろふ)の

暗聲(やみごゑ)あはす迷ひの森の中、

あゆみにつるる朽葉(くちば)の唸(うめ)きをも

罪にか誘ふ陰府(よみぢ)のあざけりと

心責めつつ、あてなくたどり來て、

何かも、どよむ響のあたらしく

胸にし入るに、驚き見まもれば、

今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。

 

ああ我が長き悶(もだえ)の夜は退(しぞ)き、

香もあたらしき朝風吹きみちて、

吹き行く所、我が目に入るところ、

自由と愛にすべての暗は消え、

かなしき鳥の叫びも、森影も、

うしろに遙か谷間(たにま)にかくれ去り、

立つは自然の搖床(ゆりどこ)、しろがねの

砂布(し)きのべし朝(あした)の磯の上。

 

不朽(ふきう)の勇み漲る太洋(おほわだ)の

張りたる胸は、はてなく、紫の

光をのせて、東に、曙(あけ)高き

白幟(しらはた)のぼる雲際(くもぎは)どよもしぬ。

ああその光、──靑渦(あをうづ)底もなき

海底(うなぞこ)守る祕密の國よりか。

はた夜と暗と夢なき大空(おほぞら)の

紅玉(こうぎよく)匂ふ玉階(たまはし)すべり來し

天華(てんげ)のなだれ。 或は我が胸の

生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──

蒼空(あをぞら)かぎり、海路(うなぢ)と天(あめ)の門(と)の

落ち合ふ所、日輪(にちりん)おごそかに

あたらしき世の希望に生れ出で、

海と陸(くが)とのとこしへ抱く所、

ものみな荒(すさ)む黑影(くろかげ)夜と共に

葬り了(を)へて、長夜(ながよ)の虛洞(うつろ)より、

わが路照らす日ぞとも、わが魂は

今こそ高き叫びに醒めにたれ。

 

明け立ちそめし曙光(しよくきわう)の逆(さか)もどり

東の宮にかへれる例(ためし)なく

一度(ひとたび)醒(さ)めし心の初日影、

この世の極み、眠らむ時はなし。

ああ野も山も遠鳴(とほな)る海原も

百千(もゝち)の鐘をあつめて、新らしき

光の門(かど)に、ひるまぬ進軍(しんぐん)の

歡呼(くわんこ)の調の鬨(とき)をば作れかし。

 

よろこび躍り我が踏む足音に

驚き立ちて、高きに磯雲雀(いそひばり)

うたふや朝の迎(むか)への愛の曲。

その曲、浪に、砂(いさご)に、香藻(にほひも)に

い渡る生(せい)の光の聲撒(ま)けば

わが魂はやく、白羽の鳥の如、

さまよふ樂(がく)の八重垣(やへがき)うつくしき

曙光の空に融け行き、翅(は)をのべて、

名たたる猛者(もさ)が弓弦(ゆんづる)鳴りひびき

射出す征矢(そや)もとどかぬ蒼穹(あをぞら)ゆ、

靑海、巷(ちまた)、高山(たかやま)、深森(ふかもり)の

わかちもあらず、皆わがいとし兒(ご)の

覺(さ)めたる朝の姿と臨(のぞ)むかな。

           (甲辰八月十五日夜)

 

   *

 

   光 の 門

 

よすがら堪へぬなやみに氣は沮(はゞ)み、

黑蛇(くろへみ)ねむり、八百千(やはち)の梟の

暗聲(やみごゑ)あはす迷ひの森の中、

あゆみにつるる朽葉の唸きをも

罪にか誘ふ陰府(よみぢ)のあざけりと

心責めつつ、あてなくたどり來て、

何かも、どよむ響のあたらしく

胸にし入るに、驚き見まもれば、

今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。

 

ああ我が長き悶(もだえ)の夜は退(しぞ)き、

香もあたらしき朝風吹きみちて、

吹き行く所、我が目に入るところ、

自由と愛にすべての暗は消え、

かなしき鳥の叫びも、森影も、

うしろに遙か谷間にかくれ去り、

立つは自然の搖床(ゆりどこ)、しろがねの

砂布きのべし朝(あした)の磯の上。

 

不朽の勇み漲る太洋(おほわだ)の

張りたる胸は、はてなく、紫の

光をのせて、東に、曙(あけ)高き

白幟(しらはた)のぼる雲際どよもしぬ。

ああその光、──靑渦底もなき

海底(うなぞこ)守る祕密の國よりか。

はた夜と暗と夢なき大空の

紅玉匂ふ玉階(たまはし)すべり來し

天華(てんげ)のなだれ。 或は我が胸の

生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──

蒼空かぎり、海路(うなぢ)と天(あめ)の門(と)の

落ち合ふ所、日輪おごそかに

あたらしき世の希望に生れ出で、

海と陸(くが)とのとこしへ抱く所、

ものみな荒む黑影夜と共に

葬り了へて、長夜の虛洞(うつろ)より、

わが路照らす日ぞとも、わが魂は

今こそ高き叫びに醒めにたれ。

 

明け立ちそめし曙光の逆もどり

東の宮にかへれる例(ためし)なく

一度(ひとたび)醒めし心の初日影、

この世の極み、眠らむ時はなし。

ああ野も山も遠鳴(とほな)る海原も

百千(もゝち)の鐘をあつめて、新らしき

光の門(かど)に、ひるまぬ進軍の

歡呼の調の鬨をば作れかし。

 

よろこび躍り我が踏む足音に

驚き立ちて、高きに磯雲雀

うたふや朝の迎への愛の曲。

その曲、浪に、砂(いさご)に、香藻(にほひも)に

い渡る生の光の聲撒けば

わが魂はやく、白羽の鳥の如、

さまよふ樂の八重垣うつくしき

曙光の空に融け行き、翅(は)をのべて、

名たたる猛者が弓弦(ゆんづる)鳴りひびき

射出す征矢もとどかぬ蒼穹(あをぞら)ゆ、

靑海、巷、高山(たかやま)、深森(ふかもり)の

わかちもあらず、皆わがいとし兒の

覺めたる朝の姿と臨むかな。

           (甲辰八月十五日夜)

[やぶちゃん注:最終連の後ろから三行目の「巷」は底本では(くさかんむり)に「大」と(「氾」-「氵」)を立に組んだ奇妙な字体であるが、表記出来ない。筑摩版全集も「巷(ちまた)」であり、同全集の初出も「巷(ちまた)」であるので、それで表記した。句点の後の字空けは見た目を再現した。初出は明治三七(一九〇四)年九月号『白百合』で、総表題「高風吟」で、本篇「光の門」と前の「鷗」が載る。初出は、以下が有意に異なる。

・第一連の最後の「今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。」が「我れこそ今立ちたれ光(ひかり)の門(と)。」となっている。

・第三連「生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──」が「生火(いくひ)の焰(ほむら)もえ立つひらめきか。」となっており、しかもそこで第三連が終わっており、連が一つ増えている。

・第四連頭の「明け立ちそめし曙光(しよくきわう)の逆(さか)もどり」が第五連冒頭となって、しかも「明け立ち初(そ)めし曙光(しよくきわう)のまた更に」となっている。

「沮(はゞ)み」「阻(はば)み」に同じ。初出では「砠」となっているが、これは「石山」「土山」の意の名詞で誤用。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一

 

     惟  然

 

        

 多士済々たる蕉門の俳人のうち、世間に知られたという点からいえば、広瀬惟然(ひろせいぜん)の如きもその一人であろう。惟然の作品は元禄俳壇における一の異彩であるに相違ない。けれども彼はその作品によって知られるよりも、先ずその奇行によって知られた。飄々(ひょうひょう)として風に御するが如き奇行にかけては、彼は慥(たしか)に蕉門第一の人である。ただその奇行が何人にも奇として映ずる性質のものであるだけに、作品を閑却して奇行だけ伝えるか、あるいは奇行を説くのに都合のいい作品のみを引合に出すような結果になりやすい。子規居士が乞食百句の中で「ある月夜路通惟然に語るらく」と詠み、鳴雪翁が井月(せいげつ)の句集に題して「涼しさや惟然の後に惟然あり」と詠んだのは、いずれも後年の放浪生活を主としたものであるが、彼がそこに到るまでの径路を知るには、もっと前に遡って彼の作品を点検する必要がある。

[やぶちゃん注:「広瀬惟然」(「いねん」とも 慶安元(一六四八)年?~宝永八(一七一一)年)は美濃国関(現在の岐阜県関市)に富裕な酒造業の三男として生まれた。通称は源之丞。十四歳の時、名古屋の商家藤本屋に養子に入ったが、貞享三(一六八六)年三十九の時、妻子を捨てて関に戻り、出家した。貞享五(一六八八)年六月(この貞享五年九月三十日に元禄に改元)、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終え、岐阜に逗留した折り、芭蕉と出逢って門下となった(宵曲は後でずっと後の元禄四年説をとるが、私は従えない)。翌年にも「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後、関西に滞在した芭蕉に近侍した。元禄七(一六九四)年、素牛(そぎゅう)の号で「藤の実」を刊行している。天真爛漫な性格で、晩年の芭蕉に愛された。芭蕉没後は極端な口語調や無季の句を作るようになり、同門の森川許六からは『俳諧の賊』と罵られている。一茶の先駆とも称される。「奥の細道」の逆順路の旅などもし、元禄一五(一七〇二)年頃からは芭蕉の発句を和讃に仕立てた「風羅念仏」を「風羅器」と呼ぶ木魚のような楽器を作り、それを唱えて芭蕉の追善行脚した(「風羅念仏」とは例えば「古池に、古池に、かはづとびこむ水の音、水の音、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛」といった体(てい)のものであったという)。晩年は美濃に戻り、弁慶庵(ただ七つの什器のみで暮らすと決めたことに由来する)に隠棲した(以上は諸資料を合わせて作成した)。柴田宵曲が「其角」「嵐雪」に次いで蕉門のアウトローの一人である彼を選んだところに宵曲のオリジナルな炯眼を私は強く感ずる。私は蕉門の俳人で最も好きな句が多い俳人の一人が実にこの「惟然坊」なのである。されば、ここで伴蒿蹊(ばんこうけい)著で寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」を示したく思う。底本は昭和一五(一九四〇)年岩波文庫刊森銑三校注本を用いた(踊り字「〱」は正字化した。【 】は二行割注)。

   *

惟然坊は美濃國關の人にしてもと富家なりしが、後甚貧しくなれり。俳諧好て芭蕉の門人なり。風狂して所定めずありく。發句もまた狂せり。されば同門の人彥根の許六、其句を集めて天狗集と名づく。ある時ばせをと供に旅寐したるに、木の引切たる枕の頭痛くやありけん、自の帶を解(とき)てこれを卷て寐たれば、翁みて、惟然は頭の奢(おごり)に家を亡(うしな)へりやと笑れしとなり。ある時、故鄕の篠田氏なる人のもとにて數日滯留し、浴に入たるが、いづこへか行んとおもひ出けん、其浴所に女の小袖のありけるを、あやまりて取かへ著つゝ、忽うせたり。さもしらで、其家くまぐままでをたづねて、大きにさわぎしが、四五里外の里にあそびてありしとなん。又師の發句どもをつゞりあはせて和讃に作りて常に諷ひありく。これを風蘿(ふうら)念佛といふ。【風蘿ははせをの號なり】

   まづたのむたのむ椎(しひ)の木もあり夏木立、音はあられか檜木笠、南無あみだ南無あみだ

此例にて數首あり。此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部など引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、乞丐[やぶちゃん注:「こつがい」。乞食。]ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

   兩袖に唯何となく時雨哉

といひ捨てはしり過ぬとなん。此人のかけるもの、或人のもてるをみしに、手いとよくて、詞書は、有ルモ千斤、不ㇾ如林下と書て、[やぶちゃん注:「千斤(きん)の金有るも、林下の貧にしかず」。千斤は約六百キログラム。)]

   ひだるさに馴てよく寐る霜夜哉

又關の人のもてるには詞書、世の中はしかじと思ふべし、金銀をたくはへて人を惠めることもあらず、己をもくるしましめんより、貧しうして心にかゝることなく、氣を養ふにはしかじ、學文して身に行ざらんより、しらずして愚なるにはしかじ。

   人はしらじ實(げに)此道のぬくめ鳥

これらにて其情その生涯のありさまをしるべし。

   *

「ぬくめ鳥」は「温め鳥」で、冬の寒い夜、鷹が小鳥を捕らえて摑み、足を暖めること。また、その小鳥。翌朝、鷹はその小鳥を放して、その飛び去った方向へはその日は飛ばぬとされた。]

 今普通に行われている『惟然坊句集』は、曙庵秋挙(あけぼのあんしゅうきょ)の編に成るもので、初版の総句数九十八、再版の増補のうち芭蕉の句の混入したものを除いて二十、更にこれを「有朋堂文庫」に収める時、藤井紫影(ふじいしえい)博士が追補されたもの三十二を加えても百五十句に過ぎぬ。(但この追補の中には重複の句が一つあるし、秋挙の編んだ中にある「梅さくや赤土壁の小雪隠」なども、『梅桜』にある桂山の句の誤入だとすれば、当然勘定から除かなければなるまい)しかし惟然の作品の諸俳書に散見するものは固よりこれにとどまらず、すべてを合算すれば「有朋堂文庫」所収の二倍以上に達するであろう。必ずしも材料に乏しいわけではない。

[やぶちゃん注:「曙庵秋挙」中島秋挙(安永二(一七七三)年~文政九(一八二六)年)は名は惟一、三河刈谷(かりや)藩士。井上士朗の門に学び、享和元(一八〇一)年、同門の松兄(しょうけい)とともに師の供をして江戸その他を旅した。翌年、致仕して郊外の小垣江(おがきえ)に曙庵を結んだ。生涯独身で諸国を巡り、俳諧三昧の暮らしをした。彼の編んだ「惟然坊句集」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで明治四〇(一九〇七)年木下書店刊のそれが読める。

『「有朋堂文庫」に収める』昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「藤井紫影」国文学者で俳人藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)。紫影は号。兵庫県津名郡洲本町(淡路島の洲本市)生まれ。京都の第三高等学校を経て明治二七(一八九四)年帝国大学国文科卒、在学中に正岡子規を知り、句作を始める。福岡県立尋常中学修猷館の教諭から金沢の第四高等学校教授となる。金沢にて「北声会」を主宰し、『北国新聞』の俳壇選者となった。明治四一(一九〇八)年、名古屋の第八高等学校教授、翌年、京都帝国大学文科講師となり、後に教授、大正元(一九〇二)年に文学博士の学位を受け、昭和三(一九二八)年定年退職して名誉教授。二年後、帝国学士院会員。近世文学研究の基礎を作った学者の一人である(以上はウィキの「藤井乙男」に拠った)。

「梅さくや赤土壁の小雪隠」検索を掛けると、そこら中に惟然の句として掲げられてある。

「梅桜」(うめさくら)は四方郎(阪本)朱拙編で元禄一〇(一六九七)年刊。

「桂山の句の誤入」上記撰集の昭和一〇(一九三五)年に同原本を書写したものが、早稲田大学図書館の中村俊定文庫にあり(中村氏の筆写)、同図書館の「古典籍総合データベース」で確認したところ、ここの右頁の四句目に、

 梅さくや赤土壁の小雪隠吉井柱山

とある。宵曲は『桂山』とするが、この写本はどう見ても『柱』で「桂」とは読めない。但し、俳号としては「柱山」と「桂山」だったら、普通は後者を選びたくはなる。「吉井」という地名もどこの吉井か判らぬ。識者の御教授を乞う。しかし、ともかくもこの句は正直、句柄から見ても惟然の句ではないように私には見える。

 惟然は最初の号を素牛といった。彼が芭蕉の門に入ったのは何時頃か。

  関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれ
  侍りしに彼ふぢしろみさかといひけん
  花は宗祇のむかしに匂ひて

 藤の実は俳諧にせん花の跡       芭蕉

[やぶちゃん注:「住」は「ぢゆう」、「素牛」は「そぎう(そぎゅう)」、「彼」は「かの」。「ふぢしろみさか」は「藤白御坂」で「万葉集」以来の紀州の歌枕。]

とあるのが初対面であるとすると、元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の『奥の細道』の帰りか、元禄四年の秋、美濃を経て名古屋に遊んだ時か、いずれかのうちであろう。しかし『猿蓑』[やぶちゃん注:元禄四年刊。]には惟然の句は未だ見えず、元禄五年に至って、嵐蘭(らんらん)の『罌粟合(けしあわせ)』、支考の『葛(くず)の松原(まつばら)』、車庸(しゃよう)の『己(おの)が光(ひかり)』、句空(くくう)の『北の山』等にその句が見えるのだから、あるいは四年の方ではあるまいかと思う。但これは臆断で、慥な推定ではない。惟然はこの芭蕉の句によって自ら『藤の実』なる集を編むに至ったが、当時のこれらの書には皆「素牛」の名で出ている。

[やぶちゃん注:「ふぢしろみさかといひけん花は宗祇のむかしに匂ひて」「藤の実は俳諧にせん花の跡」飯尾宗祇の連歌の発句に山城国と近江国の国境にある「逢坂(おうさか)の関」を越えた坂道に白い藤の花の咲いているのを見た折り、

 關越えて爰(ここ)も藤白御坂かな

と興じた昔の花の香を受けて、の意。一説に宗祇の出身は紀州ともされる。「曠野」(卷之四)にはこの句を投げ入れて、

  美濃國關といふ所の山寺に藤の咲(さき)

  たるを見て吟じ給ふとや

と後書している。芭蕉は「俳諧連歌の祖たるかの宗祇は、優雅な白藤の花を連歌に読んだが、我らは、どうじゃ、このブラリとぶら下がる、雅趣もない「花の跡」の実鞘を訪ねて果敢に俳諧と致そうぞ」と、蕉門を叩いたばかりの素牛(惟然)に、興じながら、さりげなく俳諧の極意を示唆した巧まぬ挨拶に一句である。頴原退蔵は芭蕉の没する元禄七年作とし(これはもうあり得ない)、中村俊定や山本健吉は元禄二年の作とする。

「嵐蘭」松倉嵐蘭。既出既注

「車庸」潮江車庸。本名は長兵衛。大坂蕉門の一人。裕福な町人であったらしい。芭蕉の死の少し前の一句「秋の夜を打崩したる咄かな」(私の電子化)は彼の邸宅で詠まれたものである。

「句空」(生没年不詳)は加賀金沢の人。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六十五、六歳とあるのが、最後でこの年以後、消息は不明。元禄元(一六八八)年(四十一、二歳か)京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。同二年、芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢を訪れた際に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部もの選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

 惟然の書いた「貧讃」を読むと、「今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子(なすび)をちぎる軒の畑、と招隠のこゝろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顔、とその文の回答ながら、それを絵にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顔に培(つちか)ひて、その貧楽にあそぶなりげり」ということがある。これだけでは書翰の応答のように解せられぬこともないが、『藤の実』には「芭蕉翁岐阜に行脚の頃したひ行侍て」という前書があって、「見せばやな」の句が出ているから、この時たずねて行ったのである。「藤の実は」の句を示したのと、茄子の絵を与えたのとは同じ時であるかどうか。芭蕉と惟然との交渉は慥に興味ある問題だけれども、遺憾ながらあまり資料とすべきものが見つからない。元禄五年にはじめてその句を見るという一事を以て、おぼつかない区劃にして置こうと思う。

[やぶちゃん注:「貧讃」芭蕉没後のもの。先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの藤井紫影校訂「名家俳句集」に載るその全文を電子化する。

   *

  貧 讃

いにしへより富めるものは世のわざも多しとやらむ、老夫こゝの安櫻山に隱れて、食はず貧樂の諺に遊ぶに、地は本より山畑にして茄子に宜しく、夕顏に宜し。今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子をちぎる軒の畑、と招隱のこゝろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顏、とその文の囘答ながら、それを繪にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顏に培ひて、その貧樂にあそぶなりけり。さて我山の東西は木曾伊吹をいたゞきて、郡上川其間に橫ふ。ある日は晴好雨奇の吟に遊び、ある夜は輕風淡月の情を盡して、狐たぬきとも枕を竝べてむ、いはずや道を學ぶ人はまづ唯貧を學ぶべしと、世にまた貧を學ぶ人あらば、はやく我が會下に來りて手鍋の功を積むべし。日用を消さむに、經行靜坐もきらひなくば、薪を拾ひ水を汲めとなむ。

   *]

 素牛時代の初期における惟然の作品には

 山吹や水にひたせるゑまし麦  素牛(葛の松原)

[やぶちゃん注:「葛の松原」支考・不玉編。元禄五(一六九二)年刊。]

  南都の行

 此水に米頰ばらんかきつばた  同 (己が光)

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五年刊。]

 年の夜や引むすびたる繈守   同

[やぶちゃん注:「繈守」は「さしまもり」と読む。]

の如く『惟然坊句集』で御馴染のものもあり、

 蜻蛉や日は入ながら鳰のうみ  素牛(北の山)

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんばう」或いはトンボの古名としての「かげらふ」の孰れかで読んでいる。「鳰のうみ」は「にほ(にお)のうみ」で琵琶湖の異称。「北の山」句空編。元禄五年刊。]

 棹竹の雫落けりけしの花    同 (罌粟合)

[やぶちゃん注:「罌粟合」「俳諧罌粟合(けしあはせ)」嵐蘭編。元禄五年刊。]

 石菖の朝露かろしほとゝぎす  同 (己が光)

 初午や畠のむめのちり残り   同

 水無月や朝起したる大書院   同

[やぶちゃん注:「大書院」は「おほじよゐん」。]

  車庸子の庭興

 横わたす柄杓の露や錦草    同

[やぶちゃん注:「錦草」は「にしきぐさ」で紅葉の異称であろう。]

 一くゝり雙紙やしめる木槿垣  同

 鹿子ゆふ音きこゆ也夜の雪   同

 たてつけの日影ほそしや水仙花 同

の如く「有朋堂文庫」の追補に洩れたものもあるが、大体において極めて著実(ちゃくじつ)な発足を示している。「水にひたせるゑまし麦」は、山吹の句として永く価値の変らぬものであろうが、「蜻蛉や日は入ながら」の一句が最も感誦(かんしょう)に値する。かつて琵琶湖に浮ぶ夕暮の船中で、偶然こういう景色を見たため、直に船中の句と解していたが、湖畔の句としても差支ないように思う。琵琶湖のような大景に対して、無造作に夕暮の蜻蛉を点じ来ったのが、頗る自然で面白い。

[やぶちゃん注:「山吹や水にひたせるゑまし麦」「ゑまし麦」は「笑麥」「咲麥」で、大麦を水や湯に浸して水を含ませている状態。粒が膨らんで割れ目の出来たものを微笑んだ顔に喩えた呼称。そう処理したものを他の穀類と混ぜて炊いた。ここは、その含ませている最中の景。その水に鮮やかな黄色い花を咲かせた山吹の枝が挿してあるのであろう。静のリアリズムにして無駄のないかっちりとした構図である。

「南都の行」「此水に米頰ばらんかきつばた」前書に暫く躓いたが、「惟然坊句集」を見ると、この句は「夏」の部に、

   *

  於知足亭

    名所夏

涼まうか星崎とやらさて何處ぢや

澤水に米ほゝばらむ燕子花

   *

の形で出ているのに気づいた。「南都の行」は南都で行われる寺院の何の修「行(ぎやう)」だろうなどと考えてしまったのがそもそもの「なんとのかう」でただの「南都の旅」なのであり、しかもそれは句集にある通り、実際には「知足亭」での「名所」の「夏」の仮想吟なのであって「南都」に意味はないのではないか? と考えた瞬間、解けたは「伊勢物語」の第九段「東下り」の三河八橋のパロディだ。「そののほとりの木の蔭におりゐて、乾飯(かれいひ)食」おうとしたのだった。而して「そのに、かきつばたいとおもしろく咲きたり」ければ、「それを見て、ある人のいはく」、『「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ」と言ひければ』、男は「燕子花(かきつばた)」を折句(おりく)として「唐衣(らころも)つつなれにしましあればるばる來ぬる旅(び)をしぞ思ふ」と見事に「よめりければ、みな人、乾飯の上に淚おとして、ほとびにけり」だ。惟然は、その「乾飯」の「澤水にたっぷりと浸して「ゑまし米」にして頰ばってやる、とやらかしたのである。

「年の夜や引むすびたる繈守」「年の夜」は大晦日であるから、「引(ひき)むすびたる繈守(さしまもり)」とは緡(さし:銭に紐を通したもの)を善福の御守りとしてきりりと結んで借金取りを迎え撃つ姿ででもあろうか。いや、たいした緡でもないものを、一文字(注連繩)の代わりに結界として茅舎に引き結んで、借金取り以下の現世の魑魅魍魎を入れまいとする滑稽か。【2020年5月19日:追補】現在、「惟然坊句集」の電子化を行っているのであるが、そこでは、この句は五座が、

 年の夜や引結びたる𦄻守

という違う漢字となっていることに気づいた。そこで、この漢字表記の違いから、ネットを調べてみたところ、「𦄻」で「つなぎ」と読み、これは「繋ぎ」と同じで、特定地方の方言であり、米や銭などを各人各戸が出し合って相互扶助するという意味である、とブログ「言葉を“面白狩る”」のここと、ここにあった(そこには広島で近世に「𦄻」をそのような意味で用いる例があるように書かれてある)。確かに、小学館「日本国語大辞典」の「繋ぎ」の「方言」の条をみると、『各家などから金を出し合うこと。醵金(きょきん)』として採取地を長野県下伊那郡・広島県高田郡・徳島県を挙げ、別に『部落の共有物について一二月に決算すること』として、青森県三戸郡五戸を挙げている。これだと、確かに後者の決算は「年の夜」という時制とマッチする。しかし、そうなると、この一句は全くの映像の対象物が、少なくとも私には浮かんでこない。ある掟の概念だけで年の瀬の窮迫を惟然が詠むだろうか? という疑念が生ずる。しかも、岩波文庫は「繈守(さしまもり)」であって「𦄻守(つなぎもり)」ではないのである。さらに言えば、妻子を捨てて風羅に生き、そして死ぬことを望んだ惟然坊の句としては、歳末吟としては如何なものかとも思われるのである(いや、そうした俗に墮ちる側面も彼にはあり、それはそれで私には魅力的なのであるが)。やはり、識者の御教授を俟つ他あるまいというところである。

「鳰のうみ」の「鳰」は国字で、生物種としてはカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis を指す。

「けしの花」キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas

「石菖の朝露かろしほとゝぎす」「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。多年草。北海道を除く日本各地に自生し、谷川などの流れに沿って生える。庭園の水辺などにもよく植えられる。全体はショウブをごく細くした感じで同じ芳香もあるが、各部が小型で根茎は細くて硬く、葉も細くて幅は一センチメートルほど、長さ二十~五十センチメートルの線形を成し、ショウブと異なり中肋が目立たない。四~五月頃、葉に似た花茎を出し、中ほどに淡黄色の細長い肉穂花序をつける。グーグル画像検索「Acorus gramineus」をリンクさせておく

「初午」(はつうま)は、通常、稲荷社の祭の日である旧暦二月の最初の午の日を指す。稲荷社の本社伏見稲荷神社の祭神宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山へ降りた日が和銅四年二月のその日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀るとされる。また、この日を蚕や牛・馬の祭日とする風習もある。江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門した。本来はその年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものである(以上はウィキの「初午」に拠った)。

「一くゝり雙紙やしめる木槿垣」双紙を一括りにして締めるのは引っ越しの体(てい)か。「木槿」はアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ムクゲ Hibiscus syriacus で夏の季語だが、これは「双紙」と言い、「木槿垣」(むくげがき)と言い(これはそこを覗いている景である)、ちょっと訳ありな女の存在を感じさせるのだが、今一つ、よく判らない。何か原拠の裁ち入れがあるか。

「鹿子ゆふ音きこゆ也夜の雪」「鹿子(かのこ)結ふ」は鹿子染め(絞り染めの一種で、布を結び縛って染色することで染まらない白い鹿の子の斑点のような模様を作り出すことを謂う)のために布地を摘まんでは糸で縛る作業を指す。

「たてつけ」「建付け」は戸や障子などを隙のないようにぴったりと閉めた状態を指す。]

 次いで元禄六年にも

 風寒き流れの音や手水鉢    素牛(薦獅子集)

[やぶちゃん注:「手水鉢」は「てうぢばち(ちょうずばち)」。「薦獅子集」「俳諧薦獅子(こもじし)集」巴水編。元禄六(一六九三)年自序。

 陽炎や庇ふきたる杉の皮    同

[やぶちゃん注:「陽炎」は「かげろふ(かげろう)」、「庇」は「ひさし」。]

 紫の花の乱やとりかぶと    同

[やぶちゃん注:「乱(亂)や」は「みだれや」。]

 洗菜に朝日の寒き豕子かな   同

[やぶちゃん注:「洗菜」は「あらひな(あらいな)」、「豕子」は「ゐのこ」。]

 起ふしにたばふ紙帳も破ぬべし 同 (流川集)

[やぶちゃん注:「紙帳」は「しちやう(しちょう)」、「破ぬべし」は「やれぬべし」。「流川集」(ながれがわしゅう)は露川編。元禄六年刊。]

その他の句があり、『薦獅子集』の肩書に「京」とあることなども、当時の居所を示す点で注意しなければならぬが、元禄七年に『藤の実』の出ずるに及んで、惟然の力量は完全に発揮された。『惟然坊句集』にある客観的好句なるものは、大部分がこの時代に成ったのではないかという気がする位である。

[やぶちゃん注:「とりかぶと」強力な有毒植物として知られるモクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum は本邦には紫色の独特の袋状の花序を持つヤマトリカブトAconitum japonicum var.montanum など約三十種が自生する。和名の由来は花が古来の衣装である舞楽で用いられる鳥兜や烏帽子(えぼし)に似ているからとも、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからとも言われる。鳥兜に見えるのは萼(がく)で、花弁は下の画像の上に少し飛び出た部分だけである。

「豕子」は「亥の子の祝い」で旧暦十月の亥の日に行う収穫祭。この亥の刻(午後九時~十一時)に田の神様をお祀りする。特に西日本でかく呼び、関東地方では旧暦十月十日に行われる「十日夜 (とおかんや)」に相当する。この日、収穫を祝って新穀の餅を食し、子供たちが藁束や石で地面を打って回る。元は中国の俗信に基づく宮中の年中行事で、この亥の月の亥の日の亥の刻に餅を食べれば無病息災であるとされる。「玄猪 (げんちょ)」とも呼び、その餅を「亥の子餅」と呼ぶ。「亥の子餅」は新米にその年に収穫した大豆・小豆・大角豆(ささげ)・胡麻・栗・柿・糖(飴)の七種の粉を混ぜて作った餅で、多産である猪(いのしし)の子「瓜坊(うりぼう)」の色や形を真似て作られる。

「起ふしにたばふ紙帳も破ぬべし」「起き臥しに庇(たば)ふ紙帳も破(やれ)ぬべし」で、「紙帳」は紙を張り合わせて作った蚊帳 (かや) のことを指し、「庇(たば)ふ」は虫に刺されるのから「身を守る」ためのそれ「も」使い古して「破」れてしまいそう、役にたたなくなりそうだ、という心もとない夏の夜の侘しさを詠む。

「流川集」(ながれがわしゅう)は露川編。元禄六年刊。]

 張残す窓に鳴入るいとゞかな   素牛(藤の実)

[やぶちゃん注:俳諧撰集「藤の実」(素牛(=惟然)編)元禄七年跋。]

 朝露のゐざり車や草の上     同

  湖上吟

 田の肥に藻や刈寄る磯の秋    同

[やぶちゃん注:「肥」は「こえ」。「刈寄る」は「かりよする」。]

 物干にのびたつ梨の片枝かな   素牛

[やぶちゃん注:「片枝」は「かたえ」。]

 しがみ付岸の根笹の枯葉かな   同

[やぶちゃん注:「しがみ付」は「しがみつく」。擬人法。]

  尋元政法師墓

 竹の葉やひらつく冬の夕日影   同

[やぶちゃん注:「尋元政法師墓」は「元政(げんせい)法師の墓を尋(たづ)ぬ」。]

  万句興行のみぎりに

 初霜や小笹が下のえびかづら   同

 鵜の糞の白き梢や冬の山     同

  詣因幡堂

 撫房の寒き姿や堂の月      同

[やぶちゃん注:「詣因幡堂」は「因幡堂(いなばだう(いなばどう))に詣づ」。「撫房」は「なでばう(なでぼう)」。]

 茶をすゝる桶屋の弟子の寒かな  同

[やぶちゃん注:「桶屋」は「をけや(おけや)」。「寒」は「さむさ」。]

 枯蘆や朝日に氷る鮠の顔     同

[やぶちゃん注:「鮠」は「はえ」。]

 燕や赤土道のはねあがり     同

[やぶちゃん注:「燕」は「つばくろ」。]

 とりちらす檜木の中や雉の声   同

[やぶちゃん注:「檜木」は「くれき」。]

  詣聖廟

 二月や松の苗売る松の下     同

[やぶちゃん注:「詣聖廟」は「聖廟に詣(まう)づ」。「二月」は「きさらぎ」。]

 かるの子や首指出して浮萍草   同

[やぶちゃん注:「浮萍草」は「ひるもぐさ」と読む。]

  嵯峨鳳仭子の亭を訪し比

  川風涼しき橋板に踞して

 涼しさや海老のはね出す日の陰り 同

[やぶちゃん注:「鳳仭子」は「ほうじんし」、「訪し比」は「とひしころ」、「踞して」は「きよして(きょして)。」]

  遣悶

 雞鳴や柱蹈ゆる紙帳越      同

[やぶちゃん注:「遣悶」は「けんもん」と音読みしておく。「悶(もだ)えを遣(や)る」で「言い表せぬ苦悶を謂いやる」といった意。「雞鳴や」は「とりなくや」、「蹈ゆる」は「ふまゆる」、「紙帳越」は「しちやうごし(しちょうごし)」。]

 「梅の花赤いは赤いは赤いはな」流の句でなければ惟然らしくないと思う人は、こういう句の多いのをむしろ意外とするかも知れぬ。けれども元禄の俳句はそう簡単に片附かぬところに特色がある。素牛時代にこの種の好句を示した惟然が、早く芭蕉の認むるところとなったのは怪しむに足らぬであろう。

 われわれはこの十余句を通覧して、如何にも生々たる自然の呼吸を感ずる。しがみついている岸の根笹の枯葉も、鵜の糞のために白くなっている冬山の木の梢も、枯蘆の下の氷にじっとしている鮠の顔も、皆これわれわれの眼前に味い得べき趣であって、その間に時代の距離も何もない。惟然の感じた通りを、直に身に感ずることが出来る。それがこの種の句の強味であるが、同時にこれだけ手際よく纏めた惟然の伎倆(ぎりょう)にも注目しなければならぬ。

 深草の元政上人(げんせいしょうにん)は、予が墳には竹三竿(かん)を植えよと遺言して死んだ人である。竹三竿とは修辞上の詞であるのを、その辞句に拘泥して今に至るまで三本しか竹を残してないということが、往年『ホトトギス』の「随筆」に見えていたかと記憶する。惟然の詣(まい)った時代にも無論三本だったのであろう。その竹の葉が夕日の光の中にひらひらと動く。風などのない場合に相違ない。冬の夕方のしずかな空気は、この一句に溢れている。「ひらつく」という俗語が、竹の葉の動きと、それにさしている夕日の色とを如実に現しているように思う。巧にして自然な何である。

 因幡堂の句は『惟然坊句集』には「さむき影なり」となっている。影を点じた方が複雑になるかも知れぬが、調子は「寒き姿や」の方が引緊っている。撫房というのは撫仏(なでぼとけ)のことだそうである。

 「かるの子」というのは軽鴨(かるがも)のことであろう。『大言海』に軽鴨、なつがもに同じと出ている。「有朋堂文庫」の註には「かりの子」か「かもの子」の誤だろうとあるが、単にカルとのみ称える地方もあるようだから、このままで差支あるまい。小川芋銭氏の画にでもありそうな小景である。

 これらの句は前に挙げた『己が光』その他のものに比して、別に傾向を異にするわけではない。ただ調子が緊密に赴くと共に、内容においても深味を加えており、仮に『猿蓑』集中に移したところで、さのみ遜色を感ぜぬほどの出来栄であると思う。『藤の実』は惟然最初の撰集であるだけに、大に力を用いたものであろう、自己の作品のみならず、全体にわたりて佳句に富んでいる。しかして後はこの集を最後に素牛の名を棄て、惟然の号を用いるに到ったのであった。

[やぶちゃん注:「いとゞ」通常はカマドウマの古名であるが、「鳴入る」とあるので、ここはコオロギの異名の方。

「朝露のゐざり車や草の上」の「ゐざり車」は足の不自由な者や病人、多くはそうした乞食などが乗った台車。箱若しくは板に四つの木製の車輪を付けたもの。そこに胡坐などをかいたりして座り、手に持った棒で地面を突くか、車輪を手で動かすか、或いは取り付けた縄や手押し部分で介助する者が動かした。この映像には最早、乗り手はおらず、朝露に草も乗り捨てられたそれもぐっしょりと濡れたままにある。そこをゆっくりとクロース・アップしてゆく(やはりアンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか)。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」では、『客観的な叙景の句であるが、惟然の行雲流水の孤独な境涯と重ねると、しみじみとした思いが生じてくる』との評釈しておられる。

「湖上吟」琵琶湖磯辺の秋景を詠んだもの。

「田の肥」水田に肥料。淡水藻や水草を田のそれにして撒いた。そればかりではなく、湖沼の底の土なども一緒にそうした肥えにしたのである。

「元政法師」俗名を石井吉兵衛と言う日蓮宗の僧。堀切氏の前掲書によれば、『江戸前期の人』で、『はじめ彦根侯に仕えた武士であったが、のち京都深草の竹葉庵に隠棲し、深草の元政と称された。国学・和歌・茶に通ずる。寛文八』(一六八八)『年二月十八日寂。遺言によって遺骸を竹葉庵の傍らに埋め、竹二、三本を植えて墓の代わりとした』とある。また、箕園氏に書かれた「釣り鐘二題」の「その一 妙法寺の梵鐘(兵庫県福崎町指定文化財)および元政上人と高尾太夫の恋物語」次の二ページに及ぶ)に若き日の波乱万丈の詳しい話が語られてあるので参照されたい。そこには二十六才で出家し、享年四十六であったとする。

「万句興行」寛文一三(一六七三)年三月に当時は俳諧師として井原鶴永と名乗っていた三十二歳の井原西鶴が大坂の生國魂(いくくにたま)神社の南坊(みなみぼう)で行った、十二日間を費やして百韻百巻を成就した万句興行のこと(参照した「大阪府立中之島図書館」公式サイト内の「西鶴と生玉」によれば、『「出座の俳士総べて百五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超える」』ものであったという。野間光辰氏の「刪補 西鶴年譜考證」より引用)。同年六月にはそれを「生玉万句」として板行し、西鶴の名(西鶴という号は翌年(寛文十三年は九月二十一日に延宝に改元した)延宝二年一月の「歳旦発句集」に初めて見える)を知らしめることとなったもの。

「えびかづら」ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae の古名。

「鵜」カツオドリ目ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo。堀切氏前掲書によれば、『一般には夏の季語であるが』混空(こんくう)著の『『産衣』(元禄十一年刊)に「ただ鵜とばかりは雑なり」と』見えるとある。

「因幡堂」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)(グーグル・マップ・データ)の通称であろう。この寺の本尊は薬師如来であり、古くから病気平癒の御利益があるから、撫仏(宵曲にこれは「有朋堂文庫」の注に『撫房はなで佛をふ』とあるのを引いたもの)というのは腑には落ちぬことはない。

「鮠」の「はえ」の読みは底本に従ったが、堀切氏前掲書では「はや」とする。「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では他に「鯈」「芳養」とも書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。]

「とりちらす檜木の中や雉の声」「檜木」を「くれき」と読むのは(底本にそうある)、当て訓であろう。「くれき」は「榑木」が正しく、ヒノキやサワラなどから製した板材のことを指し、これは近世には屋根の葺き板材に使用された。「榑(くれ)」はもと、「切り出したままの皮のついた材木」・「厚い板材」で、次に「板屋根を葺くための薄いへぎ板」の意である。ここは雉が鳴くのであれば、原義の「切り出したままの皮のついた材木」が取り散らかされた山麓或いは貯木された野の景とすべきであろう。

「聖廟」「有朋堂文庫」の注には、『聖廟は天滿宮』とのみある。【2020年5月19日:改稿】これは句の「松の苗売る松の下」から、「曽根の松」で知られた兵庫県高砂市曽根にある曽根天満宮(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「曽根天満宮」によれば、『この神社の創建年代については不詳であるが、社伝では』延喜元(九〇一)年、『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えした。後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えている。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた』。『道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は』寛政一〇(一七九八)年に『枯死したとされる』が、一七〇〇年代初期に『地元の庄屋が作らせた約』十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間』(一七八一年から一七八九年)『に手植えの松から実生した二代目の松は』、大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に『枯死した。現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。ここに出るのは、まさにその初代の松なのである。

「かるの子」宵曲の言う通り、これでカモ目カモ科マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha でよかろう。

「浮萍草(ひるもぐさ)」は単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科 Lemnoideae 類ととってよかろう。無論、ウキクサ属ウキクサ Spirodela polyrhiza としても問題はない。

「小川芋銭」(慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

「鳳仭子」坂井野明(やめい ?~正徳三(一七一三)年)は博多黒田家の浪人。奥西氏とも。去来と親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えた。鳳仭とも称した(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」の記載に拠った)。

「橋板に踞して」堀切氏は前掲書で『川岸の桟橋にたたずんで』と訳しておられる。

「涼しさや海老のはね出す日の陰り」これは「藤の実」の句形。「有朋堂文庫」では下五が「日の曇り」である。視覚的にはこの「陰り」の方が断然よい。

「雞鳴や柱蹈ゆる紙帳越」「詩経」の「国風」の「鄭風」(ていふう)の「風雨」を諧謔したか。そちらは女が男に逢えた喜びであるが、ここは「遣悶」から、自ら選んだとは言え、中年男の孤独な悲哀を感じさせるものとなっている。中七「柱蹈ゆる」が魂の体感としてズシりと重くかかる。

「梅の花赤いは赤いは赤いはな」この座五は「去来抄」(自筆稿本)及び「惟然坊句集」のもの。同板本では、

 梅の花赤いは赤いは赤いかな

竹内玄玄一の「俳家奇人談」(正篇)(文化一三(一八一六)年刊)では、

 梅の花赤いは赤いはあかいはの

となっている。彼の口語調の直叙体の真骨頂を代表する一句である。「去来抄」では(昭和二六(一九五一)年岩波文庫刊の頴原退蔵校訂「去来抄・三册子・旅寝論」に拠った。一部に私が読みを振った)、

   *

  梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

去來曰、惟然坊がいまの風大かた是の類也。是等ハ句ハ見えず。先師迁化の歲の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、其秀たる口質(くちぐせ)の處よりすゝめて、磯際(いそぎは)にざぶりざぶりと浪うちて、或は杉の木にすうすうと風の吹わたりなどゝいふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先(きさき)を以もつて無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風體(ふうてい)かろからんなど、の給ひける事を聞(きき)まどひ、我が得手(えて)にひきかけ、自(みづから)の集の歌仙に侍る、妻呼雉子(つまよぶきじ)、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などゝいふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。

[やぶちゃん補注:「季先」は気勢の意。

「妻呼雉子」去来の「妻呼雉子の身をほそうする」。

「あくるがごとく」惟然線編「藤の実」に載る野明の「ふるふがごとくこぬか雪ふる」のことであろう。]

   *

とボコボコに批判しているが、昭和五三(一九七八)年(第五版)小学館刊「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の栗山理一氏に評釈には、『こういう句風については同門の去来や許六(きょりく)らから非難されたが、ことさらに新奇を求めたというよりも、心の自然な流露にまかせたまでのことであろう、親交のあった鬼貫からの影響も考えられる』とあるのは私の肯ずるところである。私の最初の惟然坊との出逢いはこの句であった(当時、私は中学三年、尾崎放哉に惹かれて自由律俳句を作り、『層雲』にも入っていた。私の卒論は「尾崎放哉論」で、サイトでは完備した全句集も作ってある)。]

 素牛時代における惟然の句は、先ず以上説いたようなものである。これらの句は絶対に他人の窺うを許さぬ独造の天地とはいい難いにせよ、如是(にょぜ)の作品のみを以てしても、惟然は当時における有力な作家と称して差支ない。飄々たる惟然の風格を愛するの余り、この種の句における伎倆を閑却するのは、真に惟然を知る者ではあるまいと思う。

[やぶちゃん注:「独造」ママ。]

 子規居士は明治二十八年の須磨保養中、古人の集を点検してその好句を算えた結果を鳴雪翁に報告したことがあった。この居士の標準によると、好句百以上のもの蕪村、六十以上白雄(しらお)、四十以上几董(きとう)、三十以上去来という順序であるが、惟然は嵐雪、鬼貫、凡兆、嵐外(らんがい)等と同じく、自二十まで二十四の中にあり、「意外にも見あげたる」者の中にも惟然を挙げている。恐らく居士もそれ以前は惟然を以て単なる風狂的作家とし、自己の新なる標準に照して採り得べき句の少いものと解していたのであろう。居士は惟然の如何なる句を好句の中に算えたか、その実例がわからぬのは遺憾であるが、『藤の実』所収の句はその大半を占めておりはせぬかと思われる。少くとも居士が意外に見上げたという所以のものは、惟然がよく自然の趣を得た点にありそうな気がするのである。

[やぶちゃん注:「明治二十八年」一九九五年。これについては、宵曲は「子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 須磨保養院」にも書いている(リンク先は私の電子化注)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人。名は吉春。信州上田藩士の次男として江戸深川に生まれた。五歳で生母に死別し、十三歳で家出、上州館林で禅寺に修行したともされるが、詳細は不詳。俳諧は初め青峨に学び、次いで烏明(うめい)に入門、さらに烏明の師鳥酔(ちょうすい)にも学んだ。諸国を遍歴したが、とくに信州へはしばしば足を運んで、多くの門弟を育てた。安永九(一七八〇)年、江戸日本橋に春秋庵を開いて俳壇に一勢力を築いた。師鳥酔の説を継ぎ、俗な世界を離れて自然な趣きを重んじることを主張した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「几董」高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。

「嵐外」辻嵐外(明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は江戸後期の俳人。越前の生まれ。名は利三郎。敦賀で呉服商を営む。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。後、甲府に移り住み、多くの門人を育て、「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

2020/05/08

三州奇談續編卷之二 藤塚の獺祭

 

 三州奇談續編 卷二

 

    藤塚の獺祭

 心(こころ)越路(こしぢ)の能(よき)浦にあり、杖を返して濱傅ひに步む。爰に一つの見出したることあり。聊(いささ)か記す。加州本吉(もとよし)は古(いにしへ)の名は藤塚なり。今繁華の地となりて、古名の然らしむる所謂(いはれ)なし。一里を去りて蓮池と云ふ里あり。今蓮池なし。多く塚ありて藤の多きこと、樹々亂石に纒(まと)はざる枝なく、這(は)はざる地なし。花のとき最も愛すべし。土地の人神木として折ることなし。此濱傳ひを又一里去りて石立(いしだて)村あり。此邊沼多く水淀みて、蓮・蓴菜(めなは)の類(たぐひ)生(しやう)ず。多く採れども盡きず。藤塚の名一里違ひ、蓮池の名又一里違へるが如し。

[やぶちゃん注:表題は「ふじづかのだつさい」。獺祭(現代仮名遣では「だっさい」と促音になる)は「礼記(らいき)」「月令(がつりょう)」にある「孟春之月、獺祭ㇾ魚」(孟春(まうしゆん)の月[やぶちゃん注:陰暦一月。]、獺(かはうそ)、魚を祭る)とあることから、獺(かわうそ)が捕らえた魚を食べる前に並べておくとするのを、魚を祭っていると捉えた語句。獺祭魚(だっさいぎょ)とも呼ぶ。春の季題とする。なお、晩唐の詩人李商隠がその詩に非常に多くの典故を用いたことを獺祭に譬えられたことから、「詩文を作る際に多くの参考文献を並べ広げること」や「詩文に故事を数多く引用すること」の意もある。

「心(こころ)越路の能(よき)浦にあり」推定で読んだ。まず「心越路」や「能浦」という地名や熟語がない(私は知らない。「能浦」は広義の「能登の浦辺」の意で麦水が用いることがあるようだが、ここでは以下のロケーションが能登とは有意に離れてしまっており、私は上手く意味を繋げられないと判断した)ことから、「心」(気持ち)が北「越」のそこここの「路」(みち)に惹かれて「能」(よ)き(良き)「浦」辺(海浜)を流離(さすら)ってそこに今辿り着いて「あり」の意で採った。「心越路」や「能浦」という地名がある(あった)となれば、お教え戴きたいが、個人的には以上は決して牽強付会とは思われないのである。何故なら、これは明らかに「奥の細道」の冒頭を俳人である堀麦水が念頭に置いたものに違いないと私は読むからであり、そう考えると、この表現はかなり腑に落ちる、と私は思うからである。則ち、「そぞろ神の物につきて《心》をくるはせ」て「白川の關《こえ》んと」「《道》祖神のまねきにあひて」「片雲の風にさそはれて」「漂泊の思ひやまず、《海濱》にさすら」ふのは「日々旅にして旅を栖とす」る「旅人」とは、とりもなおさず俳諧の風狂人の普遍的な理想像であるからであり、芭蕉はそこで「松島の月先(まづ)心にかゝりて」と松島の「能」(よ)き「浦」辺を見ることを一番に挙げているからである。大方の御叱正を俟つ。

「本吉は古の名は藤塚」これも私の「三州奇談」の注を丁寧に読んでくれている読者ならば、既に「水嶋の水獸」で考証した中にあることを記憶されておられるはずである。詳しくはその「本吉世尊院」の私の注を見られたいのであるが、そこでの考察をはしょって結論のみをここで言うなら、まず、現在の石川県白山市美川南町に藤塚神社(グーグル・マップ・データ)がある。ここは以下に出る海辺の白山市石立町の「石の木」遺跡の西南に実測(県道二十五号を使用)で四・七キロしか離れていない海辺に近い位置にある(リンクさせた地図の上方の中央より右手に「石の木」遺跡がある)。しかも「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」の「行政」の項(国立国会図書館デジタルコレクション)の「町名」の条に(下線太字は私が附した)、

   *

元吉寺も荒廢せり。降りて明應八年[やぶちゃん注:一四九九年。]藤塚、羽左場の二邑を合して一邑となし、舊寺號を取りて元吉(モトヨシ)と稱し、加賀四港の一となりしが、河口變遷につれ、舟楫の便を得、次第に繁榮して承應元年[やぶちゃん注:一六五二年。]佳字を取りて本吉町と稱するに至る。[やぶちゃん注:中略。]明治二年[やぶちゃん注:一八六九年。]能美郡湊村を合し、兩郡の各々一字を取り美川町と命名し、舊本吉町を北郷、湊村を南郷と唱へ來りしも、同四年復び分離し本吉町のみを美川町と稱せり

   *

とあることから、この現在の「美川南町」内には、最も古くは「藤塚」という地名があり、それが後に「本吉」となったことが判るのである。というより、美川南町の南側に「美川本吉町」が現存するのである。

「蓮池」藤崎神社を起点とすると、「石の木」遺跡までの半分に当たる東北約三キロ位置に白山市蓮池町(はすいけまち)(グーグル・マップ・データ)がある。麦水は記していないが、ここにはかつて弘法大師所縁の万病に効くとされた「生水(しょうず)」の湧水があった。敗戦後に進駐軍の命令で道路の下に埋められてしまったが、昭和三十年代に竹内ユキという女性に弘法大師のお告げがあり、今、「由貴の水」として復活している(以上は同グーグル・マップ・データのサイド・パネルの解説板の写真の説明に拠った)。また、麦水は「今蓮池なし」とあるが、現在は町内に公営の「アプリコットパーク」があり、そこの「蓮の池庭園」が作られている。但し、「多く塚ありて藤の多き」とあるが、特に古墳があるわけでもなく、現在「神木」とする藤の木があるようでもない。

「又一里去りて石立(いしだて)村あり」以下に示す石立の「石の木」までは、浜伝い実測で二キロ強しかない。以下の「藤塚の名一里違ひ、蓮池の名又一里違へるが如し」というのもどう計測してみても、「一里」はなく、「半道」(一里の半分)というのが正しいようである。「半道」ではスケールが小さくなるので、それを避けて誇大に表現したものかも知れず(漂泊の感じが確かに薄れる)、また、グーグル・マップ・データ航空写真でこの広域を見ると、完璧な砂浜海岸で、砂地の浜を歩くのは思いの外難渋するから、倍に感じられたものかも知れぬ。

「蓴菜(めなは)」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。読みは国書刊行会本の正編の「三湖の秋月」でのそれに従った。]

 此石立に鳩崎と云ふ古名あり。石立の始(はじめ)何(いづ)れの代に起ることを知らず。里の外れに五七本の老松巡り立ちて、中に七尺計りの立石五つあり。人は云ふ

「是龍宮より生立ちたり」

とし、中頃の國主小松黃門公[やぶちゃん注:第三代藩主前田利常。]、人夫をして其根源を掘らせらるゝに、其根一本にして、數里を掘るに其底を極めず。或は

「龍宮の人出(いで)て語りし」

とも云ひ、又

「遠く能州石動山(いするぎやま)に其根(そのね)蟠(わだ)かまり入る」

とも云ふ。此石の立ちやう、さながら生(お)ひ出でたるが如し。故に里童(りどう)は「石の木」と云ふ。

[やぶちゃん注:「石の木」この不思議な石の柱(無論、人工物である)については、前の「三州奇談卷之四 怪石生ㇾ雲」に出た。加賀石川郡石立村は現在の石川県白山市石立町(いしだてまち)で、「石の木塚」(いしのきづか:グーグル・マップ・データ)として石柱が残る。奇体な人工物であり、鎌倉時代には既にそこにあったとされる。現在、石川県指定文化財(史跡)となっている。まず、リンク先のサイド・パネルの石川県及び石川県教育委員会署名の説明板の画像を電子化する(読みは一部に留めた)。

   *

 石の木塚は5基の立石(たていし)(流紋岩質凝灰石[やぶちゃん注:「石」のルビが「がん」になっている。])からできており、その配置は最大の立石を中心にほぼ東西南北に配置されています。

 石立町の町名の発祥ともなっており、正応4年(1291年)の「遊業上人縁起絵(ゆぎょうしょうにんえんぎえ)」[やぶちゃん注:ママ。「業」は「行」でないとおかしい。]の中に立石(たていし)の地名があることから、鎌倉時代にはすでに存在していたものと思われます。

 古来より広く奇石として知られ、[やぶちゃん注:「知られていますが、」とすべきところであろう。]立石の由来が伝えられていないことから人々のロマンを誘い石の木には多くの伝承が残されています。浦島太郎、弁慶にまつわるものや、石の根は能登石動山(せきどうさん)まで続いている等がその代表的なものです。

 平成5年には中心石(ちゅうしんせき)の南西を試掘調査し、10世紀後半から11世紀前半頃の土器が出土しています。

 また立石後(たていしご)[やぶちゃん注:「石を立ててから後(のち)、」の意。]40~50cmの土の堆積があり、本来の中心石の高さは217cmと大人の身長より遥かに高かったことが分かっています。[やぶちゃん注:右に立石の平面図が添えられてある。]

   *

正直、文章がこなれておらずミスもあり、署名の石川県教育委員会が恥ずかしい。次に白山市教育委員会のそれを示す。

   *

 石の木塚は5基の四角柱状に加工された凝灰岩の立石により構成され、最大の立積を中心にほぼ東西南北に配置されています。石立町の町名の発祥ともなっており、「遊行上人縁起絵」正応4年(1291)の記述に「石立」の名があることから、この頃には既に存在していたと考えられます。

 石の木塚はその性格[やぶちゃん注:「建造目的や独特の配置の意味」とでもすべきところであろう。]については不明とされながらも、古来より広く奇石として知られ、浦島太郎や武蔵坊弁慶にまつわるものや、石の根が能登石動山まで続いているなど多くの説話や信仰の対象となりながら、現在まで変わらぬ姿で保存され続けている貴重な遺跡として高く評価されています。

 平成5年(1993)に中心石の南西の試掘調査が実施されており、10世紀後半~11世紀前半の土器が出土しています。また造立後4050cmの土の堆積があり、本来の中心石の高さは217cmと大人の身長より遥かに高かったことがわかりました。立石が10世紀代に造立されたとすれば、水陸交通の要衝であった「比楽駅(ひらかえき)」、加賀の国津「比楽湊(ひらかみなと)」に近接して存在した古代交通路関連の遺跡であった可能性が高いと考えられます。[やぶちゃん注:やはり右に立石の平面図が添えられてあるが、県のそれとは90度右に回転させてある。恐らく解説板の位置の違いからそうしたものと思われる。]

   *

後者はルビがないという点でやや問題があるが(子供が読むのにという点で)、県のそれよりも遥かによい。特に北陸の海運や街道関連の何らかの施設か装置の遺跡であるという見解が添えられているのもよい。また、藤島秀隆氏の論文「浦島伝説異聞――近世加賀の石の木由来の伝承をめぐって――」(PDFでダウン・ロード可能。ここではブラウザで読める)が非常に面白い本伝承を伝えている。そこには加賀藩第二代藩主前田利常が人夫に命じて掘らせたてみたが、石の根を掘り起こすことが出来ず、伝承ではその石の根は遠く能登半島の南部の鹿島郡の石動山(いするぎやま)(グーグル・マップ・データ。直線で実に約六十五キロメートルもある)或いは竜宮城にまで続いていると伝えるのである。そこでも引かれている「石川県石川郡誌」の「第二十四章 笠間村」の「名蹟」の「石の木」(昭和二(一九二七)年石川県石川郡自治協会刊。国立国会図書館デジタルコレクション)によると、ここの竜宮伝承では、驚くべきことに、ここの太郎に相当する男は酒屋の主人で、亀は出ず、龍宮へは瞬間移動、乙姫との間に五人の子までもうけ、その後この世に戻って亡くなったが、その父を慕った五人の子が太郎を弔うために建てたのが、この五本の石の柱だとある。浦島伝承の中では特異点であり、その遺跡とするのも実に興味深い。今回は以上を電子化しておく。

   *

○石の木。石の木は石立にあり。五基の石柱相對し、長さ四五尺、廻り八九尺、中央のもの最も高くして六尺三寸餘あり、其の基根を知るものなし。右へ此の地は濱坂と唱へ、官道に當りて、海に瀕し川に沿ひたるが故に、當時の橋杭の遺ならんかともいひ、船の纜[やぶちゃん注:「ともづな」。]を繫げるならんとも云へり。石質軟弱なるも、形狀は毫も變化する所なし。傳說によれば石立の濱坂と云ひし頃、其所に一戸の酒造店あり、主人を浦島太郎と云ひしが、每日一人の少女、不思議の德利を持ちて酒を買ひ求むるを例とせり。主人怪しみ少女に隨ひ行きしに、少女は汀に進み、主人を省みて、妾は龍宮の乙姫なり、君を想ふこと久し、願くは暫く瞑目し給へと。依りて之に従ひ、幾くもなく[やぶちゃん注:「いくばくもなく」。]周圍を見れば、身は已に壯麗なる龍宮に在り。之れより浦島と乙姫と結婚し、五子を擧げたりしも、後浦島は慕鄕の念禁じ難く、遂に乙姫の許を得て歸鄕し、間もなく死亡せしかば、龍宮の五子父を慕ひて來り、五子基の石柱を立て〻之を弔ひしなりと。源平の時、辨慶の義經に従ひて北下せし際之を見、試に之を拔かんとせしも能はず。今石上辨慶の脊及び手足の痕跡を存すなどいへり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げでポイント落ち。]

 〔加越能舊跡緖〕

石立領の内に、大き成石五本立て有[やぶちゃん注:「たちてあり」。]。往古左右石の一夜に出現の由、年號等不知。

〔石川縣史蹟名勝調査報告〕

 石川郡笠間村字石立に、通俗石樹と稱するものあり。石立の地名は、正應四年遊行第二祖眞敎の繪傳に見え、文安五年の八幡宮寄進狀にも記され、其の由來は此石樹に發すること明なるも、從來種々の臆說を流布するのみにて、其の配置技工等に注意を拂はざりしが、調査り結果次の諸點を認めたり。一、四個の石材を略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]正方位に置き、其の中央に一個を建てたること。二、五個の石は何れも同質にして、人工を加へたるものなること。三、基礎工事として見るべきものなく、現在の地表下約三尺だけ埋沒しあること。四、石柱の形狀は底部太く、上部次第に細くなれること。五、中央の石柱及び南角の石柱に刻せる長方形の凹所は、何の爲めなるか不明なること。隨て[やぶちゃん注:「したがつて」。]浦島の墓と唱ふる事、舊手取川の橋杭設繫船柱等の説は取るに足らざること〻なり、他の解釋を施さざるべからず。

   *

また、「夜明け前だ」氏のブログ「住めば天国」の「石の木塚」(見易い写真もあり)の恐らく平成七(一九九五)年石川県教育委員会編の「加賀の道」の「第十章 特論」よりの引用と思われるものも孫引きしておく。一部のタイプ・ミスと思われるところは独断で訂した。

   《引用開始》

石立の立石

 松任市石立町は、町の東北部に立つ五基の立石を町名の由来としている。

 石立の名は嘉元二年(一二〇四)~同三年(一三〇五)頃の成立とされる『遊行上人縁起絵』の詞書に今湊、藤塚といった海沿いの集落とともに初めてみえる。このことより、立石が鎌倉時代後期にはすでに、村名となるほど象徴的で、周知化された存在であったことがわかる。近世に入ると地誌や紀行文にたびたびとりあげられており、「奇石」として耳目を引く存在となっていたようである。このなかで、天保一一年(一八四〇)に加賀藩士津田鳳卿が著した『笠間郷游記』は実見による立石の詳細な記録として注目されるものである。

 立石は写真で示したように、五基の四角柱より構成されており、四基の石が方形に配置され、中央に最も大きな石が据えられている。

 第一号と仮称する中央の立石は、地表からの高さ一七四cmを測る。この石は一九九三年の松任市教育委員会による試掘で基底が確認されている。それは、地表下九五cmにあり、総高は二六九cmと判明した。また、基底より上方五二cmまでは整形が粗く、この部分が造立時の地中部分であることが分った。したがって、造立時の地上高は二一七cmである。これは津田鳳卿の計測値とほぼ等しい。このほか、第二号立石は高さ一三四cm、第三号立石は上部を欠いており、同一一七cm、第四号立石は最も低いもので高さ七一cm、第五号立石は高さ九七cmである。

 立石の材質はいずれも凝灰岩で、医王山系から富樫山地、辰口~小松の丘陵にかけて産出するものであるという。

 造立時期については、試掘により一〇世紀後半から一一世紀前半にかかる土師器が出土していることから、この時期をその上限とみてさしつかえなかろう。

 立石は一見して性格が測りがたいことから、多様な説話や信仰が生まれている。一八世紀前半には、「立石の宮」として信仰の対象となっており、一八世紀後半に入ると立石の根が龍宮や石動山に続くという話もあらわれるほか、浦島型説話も生まれている。

 さて、古代の造立と推定されるに至った立石であるが、道との関わりはどうであろうか。木下良氏は全国の立石および立石地名に注目し、これらが古代道に沿って存在する例が多いことを指摘した。石立も源平争乱の軍事ルートや時衆の布教ルート上にあったことが明らかで、立石は古代道に面して立てられていた可能性が大きい。そして、その大きさから何らかの標識的な役割を担っていたものと考えられる。その標識の意味は古代的な環境のなかで検討すべき課題であるが、立石の場所は駅家跡や古代的諸施設、あるいは渡河点といった交通路の要地である可能性があるという木下氏の指摘にも留意しておきたい。

   《引用終了》

「鳩崎」不詳。但し、「加能郷土辞彙」には(そこでは「いしたて」と清音である)、

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イシタテ 石立 石川郡笠間郷に屬する部落。この村名は文安五年[やぶちゃん注:一四四八年。]六月の石淸水八幡宮寄進狀に見える。名義は同領に、五本の石をと立てたところがあるに因る。里人は之を石の木宮と稱する。鄕村名義抄には往古この村を濱崎といったと見え、また寶永誌には、この村に狩野隱岐という者の居住した屋敷跡があると記する。

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とあるから、「鳩」は「濱」の判読の誤りではなかろうか。ただ困るのは「加能郷土辞彙」が本底本の校訂者と同じ日置謙であることなのだが。「鄕村名義抄」は「加越能鄕村名義抄」「村名由來書」とも呼ぶ。元禄一四(一七〇一)年に加賀領内に命じて村の名義の濫觴を書き上げさせたもの。しかし、先の「石川県石川郡誌」には「濱坂」とある。「はまさき」と「はまさか」、さらに「はとさき」は孰れも音が似る。]

 此邊りは水多き地にて、大川(おほかは)の海に入る橫曲りにあたれば、水獺(かはうそ)多くして狗(いぬ)に類(たぐひ)す。又人を誑(たぶ)らかすことなし。此二三里の間の村長(むらをさ)のもとに、古ヘより云ひ傳へて獺(かはうそ)の魚を献ずる家あり。其家主は笠間氏にして、家の中を一小川流れ下る。此庭の石の上へ、年每に二月の始め、獺鱒(ます)の魚を喰(くは)へ來て備へ置く。今は其事絕えたるに似たれども、亭主替る時には、必ず其年の二月は、此献魚の事ありて絕ゆる事なし。予此地に遊びて此事を尋ぬるに、隣村の醫師阿閉氏なる男、我れに語りて云ふ。

「子(し)獺の魚を天に祭り、狼の獸を天に祭る、其所以を知れりや。」

予曰く

「知らず、只季候の然らしむるならん。」

阿閉氏曰く、

「七十二候の云ふ所誤(あやまり)ならざるに似たれども、爰に一僻見(へきけん)あり。密かに子(し)に告げん。獺の魚を祭るは天を敬するにあらず、女を求むるなり。我れ能く是をためし置けり。依りて思へば、狼の獸を祭るも、又婬を求むるに極まれり。我一年此石立邊(いしだてあたり)に遊びて、終日を窺ふに、一つの白斑(しらふ)の女獺(ぢよだつ)あり。衆獺(しゆうだつ)是に馴れんことを欲するに似たり。白獺(びやくだつ)肯(うけ)がはざるが如し[やぶちゃん注:底本『肯かはざるが如し』であるが、特異的に訂した。]。一つの蒼獺(さうだつ)あり。初春寒を侵して一鱒魚(いちそんぎよ)を得て、是を石上(せきじやう)に橫たへ、彼(かの)白女獺(びやくぢよだつ)を待つと見えて、其魚の側(かたは)らに敬恐して女獺の到るを待つこと半夜半日なり。白女獺到りて悅べる色あり。諸獺(しよらい)春寒うして小魚をも得ず。此蒼獺一大魚(いちたいぎよ)を得て能(のう)を示すに似たり。女獺顧(かへりみ)て魚を得るに巧(たくみ)なることを賞するが如し。歡喜して去る。其後又水邊(みづべ)を窺ふに、白斑獺(しらふのかわうそ)彼(かの)蒼獺(あをかわうそ)と馴戯(なれたはむ)れて、兩々(りやうりやう)相離れず。彼(か)の獺の風流雅(タハレメ)[やぶちゃん注:非常に珍しいが、このルビは底本の前の三字にあるもの。]と云ふものゝ如し。偖(さて)笠間氏の家の話を聞くに、百年許り先の事にや、此家の下(もと)の長獺(ちやうだつ)、いかなる事にか、此家の婦人に戯れし。此婦人の水に臨む每に、此長獺出迎ひ戯る。頻りに近寄りて帶に取付く程に、婦女大に呼(よば)はり恐る。家僕ども驚き打合(うちあ)へども、此獺放れ難きが如くにして去らず、終に生捕(いけど)らる。奴僕共(ぬぼくども)打殺(うちころ)さんとす。婦女ふしぎに相憐む心起りて、僕共に詑びて此獺を赦さしむ。是よりして魚を献ずる事斯の如しと云ふ。人は云ふ、『命(いのち)の禮(れい)なり』と。予は思ふ。此老獺(らうだつ)猶(なほ)婬心を含むに依りて、此行ひをなすか。年每の三四月に至り、魚多き時は衆獺も皆(みな)之を得。爰に至りては奇とするに足らず。春寒猶厚氷(こうひやう)ありて魚少なき間に初めて得れば、是を衆獺に示し、婦(め)に誇りて婬を求むる媒(なかだち)とす。傳へ聞く、戎主(じゆうしゆ)更に絃歌の術(すべ)なし、纔(わづか)に黃雀(くわうじやく)を射て婦女に媚(び)を云ふ。夫(それ)是に近きか。」

[やぶちゃん注:「此邊りは水多き地にて、大川(おほかは)の海に入る橫曲りにあたれば」話を最初の本吉(旧藤塚)まで戻したもの。同所及びその後の地区は御覧の通り(グーグル・マップ・データ)、手取川の右岸となる。地図を引いて見れば、「橫曲り」も腑に落ちるはずである。

「水獺(かはうそ)」二字でかく読んでおいた。日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、当然、「カワウソは本当に獺祭に相当するような行動をとるか?」という疑問が出てこよう。まず、それは、上記リンク先の注で示したが、「淮南子(えなんじ)」の「繆稱訓(びょうしょうくん)」にある、

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鵲巢知風之所起、獺穴知水之高下。

(鵲、風の起こる所を知りて巢(すづく)り、獺、水の高下(かうげ)を知りて穴(あなつく)る。)

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辺りが恐らくルーツではあろうかと思う。則ち、寺島良安が言うように、「知、本(ほん)を報ひ、始めに反(かへ)るを知るなり」で、魚を殺生して生きている自分の存在を自覚し、天にその生贄を捧げて獺祭を行い、自己の無惨な生き方を自覚し、その在り方を原型に戻すことをちゃんと弁えている極めて知的にして倫理的な動物だという載道的解釈である。――「いやいや! そんな非科学的な話をしてるんじゃない! 事実、するかどうか? だよ!」――はいはい! 判りました! それについては、カワウソに詳しい kawausosu 氏がQ&Aサイトのこちらで非常に明快なお答えをなさっており(kawausosu 氏が動物園で撮影なさった動画でその実際の行動も見られる)、ユーラシアカワウソ Lutra lutra ならば「獺祭」に相当しそうな行動をとる