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2020/07/17

ブログ1,390,000アクセス突破記念 芥川龍之介「Karl Schatzmeyer と自分」(未定稿)/「ERNST MÜLERと自分」(未定稿) / ■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収「Karl Schatzmeyer と自分」後半部 附・藪野直史注

 

[やぶちゃん注:以下は、新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年刊。写真版。私は現物を見たことがない)を底本とした「Karl Schatzmeyer と自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記を参考にして正字化したものである。実は、後者は、その「編者註」で葛巻氏が冒頭、

   《部分引用開始》

『これは「Karl Schatzmeyer と自分」、「Ernst Müllerと自分」と云う二つの原稿を、編者の手で編集し直したものである。その二つの原稿は、何処かへ発表するつもりであったのか、「芥川龍之介」と云う署名がされて、二つとも、「カル シヤマイエル」、「エルンスト ミー」と、その横文字の名前のわきに、わざわざ振り仮名までふられている原稿である。が、その内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど回じで、――これらの先後して、(いずれかが書き直しのつもりで)書かれた原稿のいずれが「清書」とも、また最初のものとも、筆蹟その他等からも、一切わからない。(編者は唯比較的に読みやすく書かれた方の原稿「カル シヤマイエルと自分」の方を採って、絶えず「エルンスト ミーと自分」と引合せながら、編者独自の採択を行った。――それらの両原稿ともに、これだけの範囲内でも、いずれも完全なかたちとして残されていなく、欠けた部分を他で補わなければならなかったが、いまは一々それらを註しなかった。それらはどこまでも編者の編と云う点に拠った。しかし、句読点その他の一切の加筆や削滅は行わなかった。ただこれらの原稿は或時代の彼の原稿の書き方のため、読点を用いない一字アケの非常に多い文章で、――他との均合い上、如何かとは思われたが、編者はそれらの原型を敢て保存することにした。』[やぶちゃん注:以下略。この『編者註』はかなりの分量があり、葛巻氏による原稿が書かれた経緯や内容への推理・考察が記されてある。それでも不充分であったものか、末尾にもさらに追記風に『編者註』が加えられてもいる。その考察の中には非常に興味深いもの(後の芥川龍之介の晩年に書かれた私の偏愛する「彼 第二」(芥川が参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあり、龍之介とも友人となり、非常に親しかったアイルランド人新聞記者トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年:芥川が彼と知り合ったのは、まさに本未定稿が書かれたと推定される大正五年の年初前後と推定されている)を主人公とするもの。リンク先の私の電子化の注を参照されたい。彼のことは他にも「上海游記」の「二 第一瞥(上)」「三 第一瞥(中)」や、「北京日記抄」の「二 辜鴻銘先生」にも出、芥川龍之介の大正八(一八一九)年の日記「我鬼窟日錄」でも二人の緊密さがよく判る(孰れも私のオリジナル全電子化注。特に最初の注では教え子が上海の彼の墓を探索して呉れた結果が必見である))との強い連関性である。私もそれ――即ち、ドイツ人 Karl Schatzmeyer 或いは Ernst Müller とは、このアイルランド人 Thomas Jones がモデルではないかという示唆――を支持するものである。そもそもこの時期に芥川龍之介がドイツ人青年と親しかった事実は少しも見当たらないのである)も含まれてある。紹介したいところだが、葛巻氏の著作権は存続しているので、詳しくは葛巻氏の原本を読まれたい。]

   《部分引用終了》

述べおられるところの、甚だ復元とは言えない不審点を多く感ずる〈作品断片〉なのである。以上の葛巻氏の謂いからお判り戴けるものと思うが、「Ernst Müller」或いは「エルンスト ミー」或いは「エルンスト」或いは「ミユラアー」の名は葛巻氏のそれには一切出現しない。即ち、葛巻氏は「Ernst Müllerと自分」という未定稿原稿の《Ernst Müller》なる人物を《Karl Schatzmeyer》に置き換えて両原稿を恣意的にカップリングした、しかも『欠けた部分を他』の原稿断片らしきもので『補』い、しかもその補った『他』の正体を一切『註しな』い状態でそれを行った、と述べておられるわけで、まさにそれは葛巻氏自身が図らずも述べてられる通り、『それらはどこまでも編者の編』、則ち、芥川龍之介原作を用いた葛巻氏の手になる、葛巻氏のみの確信犯で作り上げられた、にも拘わらず「芥川龍之介未定稿」の一つと名打った結合改作物であると言うことになるのである。しかも、基礎底本とした新全集第二十二巻の「未定稿」には、本篇とは別に「芥川龍之介資料集・図版1・2」底本の「ERNST MÜLLERと自分」という別な未定稿がちゃんと載るのである。

 その「ERNST MÜLLERと自分」(当該新全集の「後記」では、推測で、「ERNST MÜLERと自分」の方は『中に「欧州の大戦乱が勃発」と記されていることなどから』、大正五(一九一六)年頃に執筆されたものであろうとし、「Karl Schatzmeyer と自分」よりも十三篇も前(同巻は編年構成である)に配されてある)は同様の仕儀で、故あって、この最後に電子化する。最初に言っておくが、少なくとも「新全集」の「Karl Schatzmeyer と自分」と「ERNST MÜLLERと自分」を読み比べても、またそれぞれの「後記」を読んでみても、現存する両原稿のそれは葛巻氏の言うような『内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど同じ』ものなどではないのである。

 立ち戻って、当該新全集の「後記」によれば、この「Karl Schatzmeyer と自分」の方は推定で大正五~六年頃に執筆されたものであろうとある。大正五~六年は東京帝国大学卒業から海軍機関学校嘱託教官時代である。

 本文冒頭の「Karl Schatzmeyer」へのルビは基礎底本でも「芥川龍之介未定稿集」でも「カルル シヤツマイエル」であるが、ここは葛巻氏の『註』にある表記法をそのままに用いた。読点なしの字空けは散在するのは基礎底本のママである。

 適宜、当該語句を含む各段落末に注を挿入した。

 なお、本電子化は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,390,000アクセスを突破した記念として公開する【2020717日 藪野直史】]

 

   Karl Schatzmeyer と自分

 

 成瀨が自分を Karl Schatzmeyer(カル シヤマイエル)に紹介してからもう三年になる。何でも成瀨の伯父さんが伯林にゐた時、この男の親父(おやぢ)に世話になつたとか何んとか云ふので、先、伯父さんが成瀨に紹介し、それから又 成瀨が自分に紹介してくれたのである。

[やぶちゃん注:「伯林」ベルリン。]

 自分の記憶に誤がないとすれば、始めて遇つたのは十一月の末である。成瀨から電話で 今夜シヤマイエルと云ふ男が遊びに來るが遇つて見ないかと云つて來た。勿論 こつちの獨乙語は人並みに遇つて見ようなどと云へた義理のものではない。しかし自分は前から、その男が浮世繪の蒐集をしてゐるとか、源氏物語の插繪を自分で描(か)きたがつてゐるとか云ふやうな事を、ちよいちよい耳にはさんでゐた。さう云ふ人間なら、天氣と基督敎の事ばかり話してゐる宣敎師などとは違つて、話の種に困るやうな事は先 なからう。それに一人だと いくら何でも 聊たぢろぐが 成瀨の二人なら高等學校の時に習つた獨乙會話篇の文句を代り代り饒舌つても どうにか胡麻化せるに違ひない。自分はかう考へたから 早速承知の旨を答へてやつた。

[やぶちゃん注:「たぢろぐ」室町時代まではかく表記したので誤りではない。]

 日が暮れてから 成瀨の家へ行つて見ると先方はもう餘程 前から來てゐるものと見えて、暖爐(カミン)の前へ椅子を据ゑながら 和漢名畫選を膝の上にひろげて、友の落ちさうになる紙卷を口に啣ヘたり指にはさんだり 大に持てあつかつてゐる。成瀨は又 ひとりで太刀打ちをつづけるのに内心可成辟易してゐたらしい。それは自分が扉をあけてはいると、さも助かつたやうな顏をして 急に元氣よく語尾變化の怪しい獨乙語で 自分を紹介してくれたのでも、知れるのである。シヤツマイエルは自分の顏を見ると、紙卷を灰皿の中へ抛りこんで 勢よく椅子から立ち上りながら、[やぶちゃん注:参考底本にはここに『七字欠』とあり、葛巻編の「未定稿集」では『数字分欠』とある。]とか何とか云つて 手をのばした。

[やぶちゃん注:「暖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語で「壁に取り付けた暖炉」のことを指す。

「大に」「おほいに」。]

 自分も仕方がないから 學校で敎はつた通り、

 「お目にかかれて大變愉快です」と云ひながら、向うの手を握つた。雀斑のある 大きな白い手である。自分はその時 はじめてこの男をよく見る事が出來た。

[やぶちゃん注:「雀斑」「そばかす」。]

 先第一に眼を惹くのは この男の鼻である。華奢な鼻柱が始はまつすぐに上から下りて來たが 途中で 氣が變つて ちよいと又元來た上の方を顧眄したとでも形容したらよからう。先の方が抓んで持上げたやうに上を向いてゐる。かう云ふ鼻は いくら西洋人でも 到庭滑稽の感を免れない。自分は之を見ると、昔讀本(リイダア)か何かで讀んだ事のある ナポレオンが鼻の上を向いた男ばかり集めて近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した。シヤツマイエルは正にこの近衞兵になる資格のある男である。しかし遺憾ながら 體格が餘りよくない。尤も 背だけは普通の日本人よりも少し高いが 胸が狹くつて、瘦せてゐる所が 自分によく似てゐる。自分は椅子をひきよせて腰をかけながら私の同病相憐れんだ。シヤツマイエルは 瘦せてゐる癖に 昂然と頭をあげて 自分と成瀨とを等分に見比べながら 例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。

[やぶちゃん注:「顧眄」(こべん)は振り返って見ること。「眄」は「見回す」・「横目で見る」の意。]

 

 それからぽつぽつ會話をやりはじめた。それも「あなたは麥酒が好きですか」と云ふやうな事から 話し出すより外に仕方がない。元來自分は西洋人と話をする時には その前に必とつときの文句を拵へて置く。さうして話をする時には それを小出しの金のやうに少しづつ出して使ふのである。だから一時間位は、どうにでも融通をつける事が出來る。――しばらくして自分はそのとつときの文句の中から、シユウインドの畫はどうだと云ふやうな事を云つた。

[やぶちゃん注:「シユウインド」葛巻版では『シンド』。不詳。ドイツ・ロマン主義時代の画家となると、カール・シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg 一八〇八年~一八八五年)臭い感じはするが、彼はロマン主義ではなく、小市民的日常の観察に立った「ビーダーマイヤー」(Biedermeier)時代を代表する作家である。]

 すると、シヤシヤツマイエルは 上を向いた鼻を一層上を向けて 何か大に辯じ出した。卓勵風發と云ふ語は こんな時に使ふにちがひない。それも始めの中こそ シュウィンドの浪漫主義はオオベルレンデルに比べてどうとかだから 好箇の並行線をどうとかすると云ふやうな事だと思つたが、少し經つともう誰の事を何と云つてゐるのだか一向判然しなくなつた。シユウインド Oberlaender Stuck Klinger などと云ふ名が無暗に出る。自分と成瀨とは わかつたやうな顏をして、首をふりながら聞いてゐた。勿論 話の大部分はわからないが、どうもシユウインドの惡口を云つてゐるらしい。そこでシヤツマイエルが口をつぐむと、自分は「至極同感に思ふ シユウインドの畫は自分も好まない」と云つた。すると先方は人が好ささうに笑ひながら Ja と云つて、何度も合點をして見せる。自分は反つて 恐縮した。

[やぶちゃん注:「卓勵風發」正しくは「踔厲風發」で「たくれいふうはつ」と読む。議論などが他に優れて鋭く、風が吹くように勢いよく口から出ることを指す。「踔厲」は「卓絕嚴厲」の略。

「オオベルレンデル」次のアダム・アドルフ・オーベルレンダーのことであろうか。

Oberlaender」葛巻版では『Oberländer』。これはドイツの風刺漫画作家・イラストレーターのアダム・アドルフ・オーベルレンダー(Adam Adolf Oberländer 一八四五年~一九二三年) と考えてよい。

Stuck」ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家のフランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck 一八六三年~一九二八年)。一八九五年からミュンヘン美術院の教授となり、教え子にはパウル・クレーやワシリー・カンディンスキーがいる。

Klinger」ドイツの画家・版画家・彫刻家で、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われるマックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。私の好きな作家である。

Ja」ドイツ語で「はい」「yes」に当たる「ヤー」。]

 所が自分のこの答は大に成瀨を發奮させたと見えて、今度は成瀨の方から突然千萬人と雖も我往かんと云ふ調子で「エドガア・アラン・ポオの作品を君はどう思ふ」と訊(き)き出した。シユウインドとポオとどう云ふ關係があるのか それは成瀨に訊いて見なければわからない。シヤッツマイエルも聊 話題の急變したのに勝手が違つたやうであつたが、すぐにまあ卓勵風發をやり出した。今度は Kubin と云ふ名が時々出る。すると成瀨は大に景氣づいて、自分のやうに首をふつて聞いてゐるばかりでなく 何とか短い返事を加へ出した。尤も成瀨の獨乙語はシヤッツマイエルのよりも自分にわからない これはその時ちよいと感心したが 後で聞いて見たら その前の目にカビンの插畫を入れた Aurelia と云ふ本の獨譯が成瀨の所へ屆いてゐたので、それでどうにか話を合せて行けたのである。

[やぶちゃん注:「Kubin」「カビン」葛巻版では後者は『クビン』。ボヘミア生れのオーストリアの画家アルフレード・レオポルド・イジドール・クービン(Alfred Leopold Isidor Kubin 一八七七年~一九五九年)。マックス・クリンガー、ゴヤ、ビアズリーの影響を受け、独自の幻想的世界を描いた。ポー・ホフマン・ネルヴァル・カフカ・トラークルなどの錚錚たる幻想作家の作品の挿絵を描いた。キリコやクレーに影響を与えた。やはり私の好きな作家で、彼自身が書いた “Die andere SeiteEin phantastischer Roman (一九〇八年発表。私は法政大学出版一九七一年刊の野村太郎氏訳「対極 デーモンの幻想」で読んだ)は私が殊の外偏愛する幻想怪奇小説(無論、挿絵も彼)である。

Aurelia」フランスのロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval 一八〇八~一八五五年)の遺作の幻想小説。原題は“Aurélia ou le rêve et la vie” (「オーレリア、或いは夢と人生」。一八五五年作)。クービンのイラスト入りのドイツ語訳は一九一〇年刊。

 以上で参考底本の新全集の「Karl Schatzmeyer と自分」は終わっている。冒頭からここまでは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」とは一部の助詞の違いや表記の違い、空白部に読点がより打たれてあることなどの外は、有意な異同は認められない。ところが、葛巻版は――この後が――行空けもなく――普通に改行して佗上記の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の分量の二倍以上も続いている――のである。

 前注で示したように、葛巻氏は「ERNST MÜLLERと自分」と「Karl Schatzmeyer と自分」とを、カップリングして辻褄の合うように恣意的に操作を加えていることは間違いない。

 しかし、これが――単なる恣意的な葛巻氏の掟破りの自分勝手な断片合成或いは葛巻氏の創作挿入でないとするなら――或いは、現在は既に失われた芥川龍之介の今一つの幻の未定稿の余香を残すものであるとするなら――これを無視する訳には当然、行かない。しかもこれは「芥川龍之介未定稿集」に芥川龍之介のそれらと同資格で以って所収・並置されているものなのであって、葛巻義敏の作ではない(編したのは自分であるとおっしゃってはいるが、それを葛巻の著作権や編集権が発生するものとするには明らかに無理がある)。

 そこで、現存する「Karl Schatzmeyer と自分」は以上に示したので、以下では、参考として葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」の、上記部分に続いている箇所を総て示しておくこととする。なお、これが葛巻の編集権(連結したという断片素材の実物を示さず、また、恣意的に繋げたにも拘わらず、「芥川龍之介未定稿」の一つとする場合には、それは最早「編集」とは言えず、「改竄」である)なるものを侵すとするなら、それ以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」自体が芥川龍之介の未定稿集を詐称して改竄したものを出版した点をこそ、まず問題とせねばならぬこととなる。

 

    *   *   *

 

■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の上記パートに続く後半部分

[やぶちゃん注:以上のような経緯のある非常に問題のあるものであるので、少し迷ったが、同じように注を附した。なお、葛巻氏は本篇末の註で、『この時代の』芥川龍之介の『原稿の書き方――読点なしに、一枡を一字分だけあけることを含んでいる。――に就いては既に前』(当該書の別な前の作品での註を指す)『に註したが、その他の用字や用語についても、この時代にはまだ、「訳」(「訣」字でなく)、「可成(かなり)」、「不思儀」、「小供」、「之(これ)」、「饒舌る」、「はひる」、その他等々後年の彼の表現とは違うものを混用していることも、一言註して置きたい。(それらは、一つの例として、強いてここでは改めなかった。草稿であり、一未定稿と云う意味からも。)』と述べておられる。そのままに以下に電子化し、ママ注記も一部の除いて打たなかった。なお、底本のルビは総て採った。これは、底本凡例に於いて『本文のルビは総て芥川が附けたものである』と述べているからである(但し、実は私はこの断言にやや疑問を抱いてはいる)。]

 

 それから 一週間ほど後に成瀨と二人で 始めて 彼を訪問した。その時の事は 比較的よく覺えてゐる。彼はその頃 四谷北伊賀町の或しもた家の二階に 下宿してゐた。八疊と四疊半と二間つづきで 兩方とも床の間はない。安普請ではあるが、新しいだけが取柄であらう。その八疊のまん中に 大きな机を据ゑて 机の前に輪轉椅子が一つ置いてある。あと外(ほか)には豐國や國芳の役者繪を一々ピンで叮嚀にとめた 銀色の黑く燒けた、二枚折りの古屛風が一つ、――黃大津の壁側にならべてある、籐の肘掛椅子が二つに 背の低い書棚が三つばかり ――外には、何の裝飾もない。

[やぶちゃん注:「四谷北伊賀町」現在の新宿区四谷三栄町(よつやさんえいちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「黃大津」「きおほつ」。壁土の一種。黄色の埴(へなつち)に牡蠣灰(かきばい)と籾莎(もみすさ:稲藁を二センチメートル程度の大きさに刻んで揉み解したもの)を混ぜたもので、上塗りに用いる。]

 

 シヤツマイエルは、何時も この八疊に陣取つてゐる。

 その時も 自分たちがはいつて來るのを見ると、人が善ささうに 鼻の先へ皺をよせて笑ひながら 何でも「Guten Morgen」位な事を云つて 少しきまりが惡さうに手を出した。雀斑のある、大きな白い手である。

[やぶちゃん注:「Guten Morgen」「グーテン・モルゲン」。ドイツ語で(以下略す)「おはよう」。]

 

 自分たちは この手を握りながら 高等學校で習つた、日獨會話篇のとほり Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ? とか何とか云つて 出たらめな 挨拶をした。

[やぶちゃん注:「Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ?」「ヴィ・ゲーツ・イーネン、ヘェアァ・シャッツマイヤー?」。「シャッツマイヤーさん、お元気ですか?」。]

 

 それから 籐椅子に腰を下して 所謂會話を始めた。――この男が、浮世繪の蒐集をしてゐる事は 前にも書いたが、この時、はじめて 彼が日本に來てから 蒐集した 浮世繪を 見せてもらつた。

 日本へ來てゐる西洋人で、浮世繪を難有がらない者はないが、それは 御多分に洩れず、――廣重の江戶名所が 六七枚に、國芳の、「見立提灯藏」が揃つてゐる外には 皆、碌なものではなかつた。

[やぶちゃん注:「見立提灯藏」「みたてちやうちんぐら」。歌川国芳の大判錦絵で十一枚揃い。弘化4(一八四七)年から翌嘉永元年にかけて制作された、様々な美人の姿を「仮名手本忠臣蔵」の各段の著名な場面に見立てたもの。参照した「立命館大学所蔵貴重書アーカイブ」のこちらを見られたい。]

 

 中には、六圓で買つたと云ふ北齋は、新しい複製でさへ あつた。それにもかかはらず 彼は、この不二がどうだとか、この海の藍がどうだとか さも感心したらしい 批評をつけ加へた。

 特に、その批評の中で 刀をさしたり 上下(かみしも)をつけたりしてゐる人物が出て來ると、彼は 必 Heldenと云ふ語(ことば)をつかふ。無理もない 事には、――ちがひなかつたが、團七九郞兵衞と左平次との二人立ちを Zwei kämpfende Helden(二人の鬪へる英雄)と呼んだ時には 到頭、自分は たまらなくなつて、吹き出してしまつた。彼が 妙な顏をして、吃りながら「何が可笑しい」と云つたのを思ひ出すと、自分は 今でも 恐縮する位である。

[やぶちゃん注:「Helden」「Zwei kämpfende Helden」「ツァイ・カンプフンダ・ヘルデン」。

「團七九郞兵衞と左平次」「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ:延享二(一七四五)年大坂竹本座初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲の合作)」の「七段目「長町裏」(通称「泥場」)の段であろうが、「左平次」は「義平次」の誤り。団七九郎兵衛が義父義平次を惨殺する下りである。詳しくはウィキの「夏祭浪花鑑」を参照されたい。]

 

 しかし、彼の浮世繪評は 曖味であつたが、その知識と云ふ點になると、日本にゐて日本の事を知らない自分たちよりは 遙かに、確な所があつた。國貞が生れたのは千八百何年で 死んだのが何年だから、豐國を襲名した何年は、丁度 何歲の時だらうなどと云ふ。さうかと思ふと、寫樂は能役者だつたとか 豐國は道樂をしたとか云ふ。その時も 歌川といふ名の系譜のやうな事を 根氣よく述べ立てた。かう云ふと、さも 衒學的な人間のやうに聞えるが、それは 決してさうではな[やぶちゃん注:ここには葛巻氏が脱字と判断して補った『〔く〕』が入っている。]、この男が喋るのは ただ神經質で、話と話との間がとぎれるのを ひどく氣にするのである。

 その上、どうかすると 彼には時々 吃るくせがあつた。現に成瀨の所で 獨乙の繪の話か何かになつて Kubin がどうとかしたと云つてゐる中に KKKK-と吃り始めた。そのクビンが一つうまく云へると 後は今まで吃つて遲れた時間を 取返す氣なのかと思ふ程 早口で辯じつづけた。さうなると 獨乙語の未熟な人間なのだから 愈 何が何だかわからなくなる。自分は 例の上を向いた鼻の下で 薄い唇が痙攣的に動くのを眺めながら 今更のやうに南蠻鴃舌と云ふ成語を思ひ出した。

[やぶちゃん注:「南蛮鴃舌」「なんばんげきぜつ」と読む。五月蠅いだけで意味の通じない外国語を卑しめて言った卑称語。「孟子」の「滕文公(とうぶんこう)上」による。「鴃舌」は鳥のモズの鳴き声を指す。]

 

 神經的な自分は 今でも その吃る時小供のやうに赤い顏をするのを見て 妙にこの男を氣の毒に思つた事を覺えてゐる。もしこの男にかう云ふ癖がなかつたら 自分との交情はもつと疎遠になつたのにちがひない。――

 德川時代の寂びた色彩を眺めながら その絵の說明を獨乙語で聞かされた時の不思儀な心もちを 今でもはつきり 自分は覺えてゐる。洋服の膝の上へ 自分たちは 過去の空氣の中に 何十年を寂びつくした江戸錦繪をひろげながらそれらを聞いてゐたのである。

 かうやつて 怪しい會話をつづけてゐる間にやがて晝飯の時刻になつた。食事は階下の六疊でするのである。

 二階を下りて見ると もう ちやぶ臺の上に茶碗と箸とが自分たちを待つてゐる。そのまん中には 赤と金とによい程の時代がついた九谷燒の德利さへあつた。これはシヤツマイエルが 古道具屋をあさつて買つて來たものだと云ふ。自分たちは その德利の酒をのみながら 膳の上の酢の物をつついた。伯林にゐた時から持つたとか云ふので 彼は箸が自由に使へる。坐るのには勿論 困らない。

「剌身と澤庵ととろろを除けば 何でも食べられる。」

 かう云ひながら 彼は得意さうに 例の上を向いた鼻を 一層上へむけて 自分たちの顏を見𢌞した。

「これからあなたの所へ日本の事を ききに來ませうか」 かう云つて自分たちは 笑つた。

「ええ 來て下さい。その代り獨乙の事はあなた方の方がよく知つてゐませう。私は獨乙の事をききます。獨乙の今の作家の事を。知らなくとも 私よりあなた方の方が 彼等に同情のある事はたしかでせう。……」

 その日の訪問は こんな事で完つた。それから一月ばかりたつて 今度は自分一人で行つて見ると この獨乙人は――銘仙の綿入れに 大嶋の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管で煙草をふかしながら 端然とその輪轉椅子に腰を落着けてゐたのだから 奇拔である。さう云ふ異樣ななりをしながら その朱羅宇の煙草を持ちかへて 自分に 雀斑のある 犬きな白い手をひろげて出す。勿論 握手をしろと云ふ合圖である。

[やぶちゃん注:「完つた」「おはつた」。

「朱羅宇」「しゆらう」。朱色をした、煙管(キセル)の火皿(ざら)と吸い口とを繋ぐ竹の管のこと。古くラオス産の竹を使ったことから「羅宇」と当てて書く。]

 

 この時 彼がはいてゐる黑繻子の足袋が十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話も 着物も一反では足りない 二反かかつたと云ふ事も聞いた。見ると成程、唯でさヘ一反では覺束ない所を その裾が又 べらぼうに長く出來てゐる。話を よく聞いて見ると 之(これ)は浮世繪の中に出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく 特別 彼が仕立てさせたものであつた。

[やぶちゃん注:「黑繻子」「くろおしゆす(くろしゅす)」。「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。

「十三文半」凡そ三十センチメートル前後か。]

 

 その日も又、この男の口から 獨乙語で浮世繪の說明を 刻み煙草の煙りと一しよに 長々と聞かせられた。自分は 理由のない輕蔑から それらの說明を輕蔑してゐたが 併し亦 妙な興昧もあつた。彼はその時 浮世繪の裝飾的特質と云ふ事を しきりに說明してゐたが さて 實際に、浮世繪を 室内の裝飾に使ふと云ふ段になると 少からず當惑した。どうも額へ入れて 壁ヘつるすのは 不調和だと云ふやうな議論だつたと思ふ。自分は勿論、日本間へ輪轉椅子を置いてその上へ銘仙のお引きずりを前で 腰をかけてゐる彼に 調和不調和の問題を論ずる資格など あるまいと(不法にも)その時は 思つてゐた。さうして 豐國や國芳の役者繪を一一ピンで 叮嚀に この色の變つた 銀の古屛風に 貼りつけてあるのも、その調和不調和の考へから 來てゐるのだらうと思つた。――さうして 亦、この古屛風を後(うしろ)にして 輸轉椅子に お引きずりの銘仙の 綿入れを着て 早口に喋りつづけてゐる この異樣ななりをした外國人と――不思儀にも、自分がこんなにも早く(何時の間にか、)親しくならうと云ふ事などは 夢にも考へなかつた。――しかし 不思儀にも 間もなく シヤツマイエルと自分とは 親しい間がらとなつて行つた。――この日は 歸りにハムズンの獨譯を二三册 借りて歸つた。

[やぶちゃん注:太字「不法」は底本では傍点「ヽ」。

「お引きずり」「御引き摺り」。着物の裾を引きずるように着ること

「ハムズン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)のことか。後の一九二〇年、作品「土の恵み」でノーベル文学賞を受賞したが、ナチスを支持し続けたため、戦後、名誉は失墜した。]

 

 四度目には――さう一一 會つた時の事を 全部 書立てなくとも善い。唯 自分はこの男と自分との交涉を 多少 ここに小說めかしく 書きつければ 好いと思つてゐる。

 彼と自分とは又、東京中を 當てもなしに 足にまかせて 步き𢌞つた。――淺草の觀音堂のまはりを鳩に豆をやりながら 根氣よく半日ばかり 散步した事もある。[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔二字分缺〕』が入る。]から電車で 永代まで行つて 永代から一錢蒸氣で吾妻橋へ來て 吾妻橋から步いて向島へ行つて 長命寺の櫻餅を、晝飯代りに食つた事もある。中でも一番 記憶に殘つてゐるのは、一しよに銀座の松下へ行つた歸りに 何かの道順で 白粉の匂のする 狹い 裏通りを拔けた時のことである。

[やぶちゃん注:「永代」永代橋(えいたいばし)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「吾妻橋」ここ

「長命寺」現在の東京都墨田区向島にある天台宗宝寿山遍照院長命寺。「長命寺桜もち」で知られる。

「銀座の松下」後述からは料理店らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 狹い往來の兩側には、みがきこんだ格子戶の中に 御神燈がぶら下つてゐたり、水を打つた三和土(たたき)の上に盛鹽がしてあつたり 白い菊の花が活けてあつたりした。すると シヤツマイエルがこれを見つけて、この町にはどんな階級の人間が往んでゐるかと訊(き)くから、自分は無造作に藝者だと敎へてやつた。所が この答がシヤツマイエルの好奇心を動かしたと見えて、彼はそれ以來 女さへ通れば 自分に「あれは藝者か?」と 尋ねた。勿論 獨乙語で尋ねるのだから、彼は先方の女には 何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で 「藝者か?」ときく。それには 自分は、少からず 弱らされた。――彼は亦 何かの話の序から Madame Chrysanthèmeを思だすとも云つた。それはその「お菊さん」のやうな人を、紹介してくれと云つたのか どうか知らないが――自分は、いま以て 白い菊の花と、ロティと、この獨乙人とが、一しよになつて 思ひ出される。……

[やぶちゃん注:「Madame Chrysanthème」「マダーム・クリザンテーム」。フランス海軍士官で、世界各地を航海して訪れた土地を題材にした小説や紀行文をものした作家ピエール・ロティ(Pierre Loti:本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー Louis Marie-Julien Viaud 一八五〇年~一九二三年)が一八八七年に発表した小説。邦訳は専ら「お菊さん」。]

 

 彼を訪ねると、机の上に 妙な火入れ見たいなものが 出してある。元來は 杯洗か何か[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の欠字註『〔に〕』が入る。]使はれたものに[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔ちがひ〕』が入る。]ない。彼は机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出して こちらへよこして、日本語で、「ドウダ?」と云つて、すすめてくれる。それから 銘仙の襟を、かき合せて 今度は獨乙語で、「大學は 面白いか?」とくる。この二つは 前の手を出すのと 一般で 天氣の如何にかかはらず、やらない事はない。さうして、自分が「日本の大學位 退屈な所はなからう」と答ヘると、「獨乙の大學も同じだ」と こたへる。さもなければ「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ。どつちがほんたうなのか 未(いまだ)に わからない。

[やぶちゃん注:「杯洗」(はいせん)は酒席で一つの盃を複数で使い回す際に用いる、盃を洗うためのやや大振りの器。

「抽匡」「抽斗」或いは「抽筐」の芥川龍之介の誤字であろう。「ひきだし」。]

 

 彼の所へ行くのは 唯、漫然と饒舌(しやべ)りに行つた事もあれば、本のわからない所を聞きに行つた事もあつた。どちらか と云へば、大抵 前の場合の方が多い。後の場合でも、自體が根氣のいい男だから、彼は 繰返し 繰返し 敎へてくれるが、その親切氣には 今でも感謝してゐるが その繰返す度に せき込んで來て、無暗と口が早くなるには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落着いて話してゐても、碌に向うの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから、さうなつて來ると 愈 何を云つてゐるのだか わからなくなつてしまふ。唯、神經的に唇の動いてゐるのを、見つめてゐるしかない。また、こつちから、喋るにも 中々骨が折れた。何しろ 高等學校の時に習つた日獨會話篇を應用するより 仕方がないのだから、第一 噓をつく事になる。ほんたうの事を云はうとすると、その語(ことば)さへも、なかなか 見つからない。話題は 重に 文學の話とか、美術の話とかであつたが、一度 ケスの話か何かをした序(ついで)に 彼と戰爭論をはじめてしまつたのも、元をただせば、全く これに崇られた お蔭らしい。――

[やぶちゃん注:「ケス」不詳。後で示す「ERNST MÜLLERと自分」のこれと類似した箇所では『ケルネル』とある。これは或いは、ドイツの劇作家で詩人であったカール・テオドール・ケルナー(Karl Theodor Körner 一七九一年~一八一三年)のことではないかと考える。戯曲「ツリニー」(Zriny :一八一二年) により文名を確立し、対ナポレオン解放戦争の愛国詩人として活躍、義勇軍に加わって戦死した。死後、父親の手によって編纂された詩集「琴と剣」(Leyer und Schwert :一八一四年刊) は熱狂的に迎えられた、と「ブリタニカ国際大百科事典」にある人物である。]

 

 獨乙人と云へば、必ず 麥酒よりも 人と喧嘩をする事の方が それ以上に好きだと思つてゐた自分には、このシヤツマイエルと云ふ男が、獨乙帝國の カイゼルの臣民の 一人だと思ふと、どうも 少し 矛盾が感ぜられて ならなかつた。――何しろ 喋り出すと、加速度で口の早くなる男だから、その喋つてゐる事の全部が全部 わかつた譯ではないが――シヤツマイエルは 元来 戰爭と云ふものが嫌ひらしく、例の 朱羅宇の煙管で 自分の膝をたたきながら むきになつて 辯じ出した。(この時の事は 可成、はつきりと覺えてゐる。)元來、戰爭と云ふものが 嫌ひらしく、戰爭と云ふ言葉を聞くと 顏をしかめて 例の鼻を上へ向けて、「トルストイが云つてゐる通り」と云つて、「自分もさう思ふ」と 答へる。それから、さも 人を莫迦にしたやうに 鼻を一層、上へ向けて「死ニタイカ アナタハ?」と 來る。自分が nein とこたへたのは 勿論である。すると、彼は「私モ死ニタクナイ」と云つて それから 妙な身ぶりをした。遺憾ながら自分は、之(これ)を妙な身ぶりと云ふより外に仕方がない。强ひて說明すれば 兩足を少し前へ出してちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとか云つて シヤツマイエルの非戰論に反對した。すると、彼は 急に むきになつて 何度も「トルストイが云つてゐる通り 自分もさう思ふ」を繰返しながら、あの朱羅宇の煙管を、恰も「さう思ふ」の代表者であるかの如く 自分の服の前へつきつけると 二三囘ふりまはして見せて、滔々と 自說を 辯じ出した。今も云つた通り 加速度に口が早くなつて行くのだから 何を云つてゐるのだか その全部はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に、並べ立て出したのは 確かであるらしい。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 別にこれと云つて 大した主張がある訳でも 何でもないのだから 自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく 參つてしまつた。それを見て 彼が例の鼻を 意地惡く 自分の顏の側へ持つて來て、「主戰論者が さう容易に 降參していいのか?」と云つたのを思出すと 今で心 少し忌々しい。…… それから 暫くして、歐洲の犬戰亂が 勃發してしまつたから つまり われわれの戰爭論が 惡讖に なつてしまつたのである。――あの開戰の號外の出た日 自分は彼に誘はれて、松下へ食事をしに行つて その歸りに あの狹い裏通りを通つた事は 既に 書いた通りである。

[やぶちゃん注:「nein」「ナイン」。「いいえ」。

「娓々」「びび」と読み、飽きずに続けるさま、くどくどしいさまを言う。

「惡讖」「あくしん」と読み、「悪い不吉な予言」の意。

 なお、この後は底本自体が一行空けになっているので、ここでは二行空けておく。]

 

 彼と自分との關係は、日本と獨乙とが 戰爭をはじめるやうになつてから 或緊張したものになつた。或日、突然やつて來て、「暇かね?」と云ふから、「うん 少ししかけた仕事があるけれど、まあ 上つて行くさ」と云ふと「なに 又來てもいい」と 彼は云つた。

「いや 手がはなせないやうな仕事なら 僕の事だから さう云つて斷るが、さうではないから上つて話してゆき給へと云ふのだ。」

 これには 噓があつた。實際 仕事は手をはなしたくない性質のものだつた。が 何か 何時ものやうに ぶつきらぼうに 斷はる氣になれなかつたのである。

[やぶちゃん注:「斷はる」はママ。なお、末尾には『・・・』が打たれてあるが、これは葛巻氏が底本の他の断片でよくやる癖なので除去した。]

 

    *   *   *

 

[やぶちゃん注:以下は、先の「Karl Schatzmeyer と自分」と同じく新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」を底本とした「ERNST MÜLLERと自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記等を参考にして正字化したものである。字空けに就いては葛巻版に照らして変更を加えた箇所があり、そこは注記してある。

 各仕儀は以上の電子化注に従ったが、前に注したものは省略した。表記違いでも、前の参考文で比較して示したものもダブらせることはしていない。なお、本文冒頭の「Erst Muller」のルビを示した読み表記部分は、基礎底本では「エルンスト ミユラア」であるが、ここのみは葛巻氏の註にあるそれを用いた。]

 

    ERNST MÜLLERと自分

 

 自分が Erst Muller(エルンスト ミー)と近づきになつてから もう四年になる 始は 成瀨の紹介で會つた。その時 どんな事を話したか 今ではまるで覺えてゐない。二度目に會つたのは 自分が始めてこの獨乙人の下宿を訪問した時である。たしか半日ばかり話して 歸りに獨譯のハムスンを二三册借りて來たかと思ふ。三度目は――さう一一 會つた時の事を 書き立てる必要はない。自分は唯 この男と自分との交情を 幾分か小說らしく話しさへすればいいのである。

 ミユラアは その頃 上野櫻木町の或しもた家に下宿してゐた。六疊と四疊半と二間つづきで 安普請ながら 家は可成新しい。六疊のまん中には 大きな机があつて 机の前に輪轉倚子が一つ置いてある。あとは銀の色が黑く燒けた二枚折の古屛風と 籐の肘掛倚子が二つあるばかりで 外に別段これと云ふ裝飾もない。屛風には 過去の空氣の中から堀り出された豐國や國芳の役者繪が 一一に叮嚀にピンでとめてある。これは 額緣に入れて 壁へぶらさげるのが不調和だと云ふ考からであらう――ミユラアは何時でもこの屛風を後にして 端然と尻をセセツシオン式の輪轉倚子の上に落着けてゐた。

[やぶちゃん注:「上野櫻木町の或しもた家」「上野櫻木町」は現在の桜木町ではないので注意。寛永寺を中心とした、現在の上野桜木地区である。ところが、先に示した葛巻版「Karl Schatzmeyer と自分」では、ここが『四谷北伊賀町の或しもた家』と、南西に五・八キロメートルも離れた方向違いの地名になっているのである。これは「新全集」が拠った原稿(画像)以外にそう記した葛巻が見た全く別の原稿の存在を強く感じさせるものである。葛巻が統合編集するに当たって地所を変更するの必要性が全く存在しないからである(私は例えばモデルかも知れぬトマス・ジョーンズとの絡みでそうした可能性を考えて調べたが、ジョーンズの住んだ幾つかの場所とは一致しないから、その線はないと思う)。

 

 それも唯 落着けてゐるだけなら 特筆する必要は少しもない。所がこの男は 秩父銘仙の綿入れに 大島の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管を口に啣へながら 右の膝の上へ左の膝をのせて大納りに納つてゐるのだから奇拔である。始めてたづねた時に 自分は彼のはいてゐる黑繻子の足袋が 十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話を聞いた。それから 着物も一反では足りなくつて 二反かかつたと云ふから 見ると成程 唯でさヘ一反では覺束ないと思ふ所へ 裾が又べらぼうに長く出來上つてゐる。よくよく聞いて見ると 之は浮世繪の中へ出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく特別に彼が仕立てさせたものであつた。

 ミユラアは かう云ふ異樣ななりをしながら 自分が行くと 必その朱羅宇の煙艸を持ちかへて[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔五字欠〕』と入っている。]とか何とか 世にも不精な挨拶をする。さうして それと同時に 自分の眼の前へ 雀斑(そばかす)のある 細い手をひろげて出す 勿論 握手をしろと云ふ合圖である が 自分は面倒臭いから 未嘗 一度握つた[やぶちゃん注:ママ。]事はない それでも 行きさへすれば 必ひろげて出す。自分が握らないと云ふ事を考へるより 手の出る方が先なのであらう。

 行くと 自分は何時でも 籐の肘掛倚子にかけさせられた。机の上には の[やぶちゃん注:字空けママ。]妙な火入れが出てゐる。何でも元來は杯洗か何かにちがひない。ミユラアは机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出してその火入れと一しよに 日本語で「ドウダ」と云ひながら すすめてくれる。それから 秩父銘仙の襟をかき合せて 今度は獨乙語で「大學は面白いか」と來る。この二つも 前の手を出すのと一般で 天氣模樣に變らず やらない事はない。さうして 自分が「日本の大學位 退屈な(ラングワイリヒ)所はなからう」と云ふと 「獨乙の大學も退屈だ」と云ふ。さもなければ 「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ どつちがほんとうなのだか 未にわからない。

[やぶちゃん注:「退屈な(ラングワイリヒ)」三文字に対するルビ。Langweilig。]

 

 話題には 一番文學上の問題が上つた。ミユラアは自體根氣のいい男だから 自分が何か質問でもすると 繰返し繰返し敎へてくれる。その親切氣には 今でも感謝してゐるが 繰返す度に せきこんで來て 無暗に口が早くなるのには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落ついて話してゐても 碌に向ふの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから さうなつて來ると 愈 誰の事を何と云つてゐるのだか それさへもわからない。自分は ミユラアの唇がめまぐるしく動き出すと 何時でも南蠻𩾷舌と云ふ成語を 今更のやうに思ひ出しながら あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた。

[やぶちゃん注:「さうなつて來ると 愈」底本では「さうなつて來ると」で行末で「愈」が次行一字目であるが、違和感があるので、葛巻版に従い、一字空けた。

「あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた」も「あつけにとられて」で行末で次行が頭から「唯……」とあるのだが、どうも生理的におかしい感じがするので、特異的に一字空けた。]

 

 鼻と云へば この男の鼻は 實際 人が眺めるばかりでなく、當人が眺めるのにも 甚都合よく出來上つてゐた。華奢(きやしや)な鼻柱が 始は素直に上から下りて來たが 途中で不意に氣が變つて 又元來た上の方を 眄一眄したとでも 形容したらいいのだらう。先の方が まるで抓(つま)んで持上げたやうに 上を向いてゐる。いくら西洋人でもかう云ふ鼻は 餘り上品に見えるものではない。自分はこの鼻を見てゐると よく ナポレオンか誰かが 鼻の上を向いた男ばかり集めて 近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した 兎に角 三十何才かの獨乙人にしては 氣の毒な鼻である。

 ミユラアは 鼻こそ近衞兵になる資格があるが 體格は甚振はない 瘦せてゐて 胸の狹い所が自分によく似てゐる 獨乙人と云へば 必麥酒がすきで 人と喧嘩をする事が それより猶すきな人間のやうに思つてゐた自分は この男が獨乙帝國の臣民だと思ふと どうも矛盾の感があつた。――自分がケルネルの話か何かした序(ついで)に ミユラアと戰爭論をはじめたのも 元をただせば 全くこの矛盾の感に崇られたおかげである。

 その時の事は 今でも可成覺えてゐる ミユラアは 戰爭と云ふと さも人を莫迦にしたやうな顏をして 例の鼻を一層上へむけながら 日本語で「死ニタイカ アナタハ」は來た。自分が nein と答へたのは 勿論である。すると 彼は 「私モ死ニタクナイ」と云つて それから妙な身ぶりをした。遺憾ながら 自分は 之を妙な身ぶりと云ふより仕方が外にない。强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して ちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとかと云つて ミユラアの非戰論に反對した。すると 彼は急にむきになつて何度も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔六字欠〕』と入っている。葛巻版では『「トルストイが云つてゐる通り 自分もそう思ふ」』となっている。]を繰返しながら あの朱羅宇の煙管を恰も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔三字欠〕』と入っている。葛巻版では『「そう思ふ」』となっている。]の代表者であるかの如く 自分の眼の前へつきつけて 滔々と自說を辯じ出した。何しろ殆 加速度で口が早くなつて行くのだから 詳しい事はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に並べ立てた事だけは確である。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 今も云つた通りミユラアの體格が獨乙帝國の臣民たるべく餘りに貧弱な所から起つたので 別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない。だから自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく參つてしまつた。それを見て ミユラアが例の鼻を意氣惡く 自分の顏の側へ持つて來ながら 主戰論者がさう容易に 降參してもいいのか と云つたのを思ひ出すと 今でも少し忌々しい……

 それから 暫くして 歐洲の大戰亂が勃發した。つまり 戰爭論が 惡讖になつたのである。――あの開戰の號外が出た日 自分はミユラアに誘はれて 松下へ食事をしに行つた さうしてその歸りに 二人で 銀座の裏通りを散步した。狹い往來の兩側には みがきこんだ格子戶の中に御神燈がぶら下つてゐたり 水を打つた三和土の上に盛鹽がしてあつたりする。するとミユラアがそれを見て この町にはどんな階級の人間が住んでゐると訊(き)くから 自分は無造作に藝者だと敎ヘてやつた。所がこの答がミユラアの好奇心を動かしたと見えて 彼はそれ以來 女さへ通れば 自分にあれは藝者かと尋ねる 勿論 獨乙語で尋ねるのだから 彼は先方の女には何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で「藝者か」と云ふ 自分は少からず弱らされた。――ミユラ

[やぶちゃん注:以上で底本は断ち切れている。

「强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して」同前改行で葛巻版に従って字空けを施した。

「別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない」の「訳」の字体は葛巻版の当該相当部に従った。

「降參してもいいのか」の後の字空けは読み易さから補った。]

 

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