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2020/08/24

大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)

 

【和品】

ムカデクジラ 長大ニ乄海鯂ノ如シ背ニ鬣五アリ尾二

ニワカル足左右各六凡十二足アリ肉紅ナリ食之殺

人有大毒○本草鴆集解別錄曰海中有物赤色

狀如龍名海薑亦有毒甚於鴆羽是ムカテクシラノ類

乎凡有毒物ヲ知テ不可食性不知物ヲ妄不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

むかでくじら 長大にして、海鯂〔(くじら)〕のごとし。背に鬣(ひれ)五つあり。尾、二つにわかる。足、左右〔に〕各〔(おのおの)〕六つ、凡そ十二足あり。肉、紅〔(くれなゐ)〕なり。之れを食へば、人を殺す。大毒有り。

○「本草」〔の〕「鴆〔(ちん)〕」〔の〕「集解」〔の〕「別錄」に曰はく、『海中に物有り、赤色、狀、龍のごとし。「海薑〔(かいきやう)〕」と名づく。亦、毒有り、鴆〔の〕羽より甚だし。』〔と〕。是れ、「むかで・くじら」の類〔(たぐひ)〕か。凡そ、毒有る物を知りて食はざるべし。性〔(しやう)の〕知らざる物を妄〔(みだり)〕に食ふべからず。

[やぶちゃん注:遂に謎のおぞましい海棲生物が出現した。実はこれに就いて真っ向から立ち向かったのが、かの博物学者南方熊楠で、それは「十二支考」の「田原藤太(たわらとうだ)竜宮入りの話」の最後の部分に当たる(初出は大正五(一九一六)年三月発行の『太陽』)。かなり長いが、以下に引用する。底本は一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集1」を用いたが、加工データとして「青空文庫」の同作を使用させて貰った(そちらは一九九四年岩波文庫刊「十二支考(上)」底本(親本は平凡社「南方熊楠全集」)。しかし、これは初出なのか、本文や図の一部が省略された不完全なものである)。図類は私の底本からトリミングした。一部に私が〔 〕で推定で読みを添えた。( )のそれは底本のもの。なお、ルビは総て拗音その他の小書きがないベタな添えとなっているが、書名のカタカナ表記のそれは例外的に小書きにするかどうかの判断をせず、総てそのままとしたことをお断りしておく。その判断には個人によってブレが生じてしまうことを排除出来ないからである。本文中の丸括弧原注はポイント落ちであるが、本文と同じとした。これはもう注を附けたくなるところが満載! ストイックに附した。

   *

 これも従来気づいた人がないようだが、秀郷が竜に乞われて蜈蚣(むかで)を射平らげたてふ事も先例ある。『今昔物語』巻二十六の九にいわく、加賀の某郡の下衆(げす)、七人一党として兵仗〔へいじょう〕を具えて海に出で釣りを事とす。ある時風に遭〔お〕うて苦しむと、はるかに大きな島ありて、人がわざと引き寄するようにその島に船寄る。島に上りて見廻すほどに二十余歳らしい清げな男来て、汝たちを我が迎え寄せたるを知らずや、風は我が吹かしたのだと言って、微妙の飲食もて饗応し、さて言うは、ここより澳(おき)にまたある島の主〔ぬし〕我を殺してこの島を取らんと常に来り戦うをこれまで追い返したが、明日は死生を決し戦うはずゆえ、我を助けもらわんとて汝らを迎えたと、釣り人ども出来ぬまでも命を棄て加勢申さん、その敵勢はいかほどの人数船数ぞと問うと、男それはありがたい、敵も我も全く人でないのを明日見なさい、従前敵が来るとこの滝の前に上陸せしめず海ぎわで戦うたが、明日は汝らを強く憑(たの)むから上陸させて戦うて、我堪えがたくならば汝らに目を見合す、その時箭〔や〕のあらん限り射たまえと、戦いの刻限を告げ、しっかり食事して働いてくれと頼んで去った。七人、木で庵を造り鏃〔やじり〕など鋭〔と〕いで弓弦(ゆづる)括(くく)って火焼(た)いて夜を明かし、朝に物吉(よく)食べて巳(み)の時[やぶちゃん注:午前十時前後。]になりて、敵来〔きた〕るべしといった方を見れば、風吹いて海面荒れ光る中より大きな火二つ出で来る、山の方を望めば草木靡き騒ぐ中よりまた火二つ出で来る、澳より近く寄するを見れば十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]ばかりの蜈蚣で、上は□□に光り左右の眼(?)は赤く光る。上から来るは同じ長さほどの臥長(ふしたけ)一抱えばかりな蛇が舌嘗(なめず)りして向い合うた。蛇、蜈蚣が登るべきほどを置いて頸を差し上げて立てるを見て、蜈蚣喜んで走り上る。互いに目を瞋(いか)らかして相守る。七人は蛇の教えの通り、巌上に登り箭を番(つが)えて蛇を眼がけて立つほどに、蜈蚣進んで走り寄って互いにひしひしと咋(く)うほどに、共に血肉(ちじし)になりぬ。蜈蚣は手多かるものにて打ち抱きつつ(?)咋えば常に上手なり。二時ばかり咋う合うて蛇少し弱った体〔てい〕で釣り人どもの方へ目を見やるを、相図心得たり、と七人の者ども寄りて蜈の頭から尾まである限りの箭を筈本〔はずもと〕まで射立て、後には太刀で蜈の手を切ったから倒れ臥した。蛇引き離れ去ったから蜈蚣を切り殺した。やや久しうして男極めて心地悪気わるげに顔など欠けて血出でながら、食物ども持ち来って饗し、喜ぶ事限りなし。蜈蚣を切り放って木を伐り懸けて焼きしまう。さて男、釣り人どもに礼を厚く述べ、この島に田作るべき所多ければ妻子を伴れて移住せよ、汝ら本国に渡らんには此方こなたより風吹かさん、此方へ来んには加賀の熊田宮に風を祈れと教えて、糧食を積ませ乗船せしむると、にわかに風吹いて七人を本国へ送る。七人かの島へ往かんという者を語らい七艘に乗船し、諸穀菜の種を持ち渡りその島大いに繁昌が、みだりに内地人を上げず、唐人敦賀へ来る途上、この島に寄って食物を儲け、鮑〔あわび〕など取る由を委細に載せおる。

[やぶちゃん注:以上の「今昔物語集」のそれは、巻第二十六の「加賀國諍蛇蜈島行人助蛇住島語第九」(加賀國の、蛇(へみ)と蜈(むかで)と諍(あらそ)ふ島に行く人、蛇を助けて島に住む語(こと)第九)である。新字であるが、サイト「やたがらすナビ」のこちらで原話が読める

「□□」「今昔物語集」原本の欠字であるが、研究者は「サヲ」の漢字表記を期した意識的欠字で、「眞靑」(真っ青)辺りを当て得るとする。]

 これを以て攷〔かんが〕えると秀郷が蜈蚣を射て竜を助けた話も、話中の蜈蚣の眼が火のごとく光ったというも、『太平記』作者の創〔はじ〕めた思い付きでなく、少なくとも三百年ほど前(さき)だって行われたものと判る。英国に夜〔よる〕燐光を発する学名リノテーニア・アクミナタとリノテーニア・クラッシペスなる蜈蚣二つあり、学名は知らぬが予米国で一種見出し、四年前まで舎弟方に保存しあったが砕けしまった。かかる蜈蚣たぶん日本にも多少あるべし。蜈蚣の毒と蝮蛇〔まむし〕の毒と化学反応まるで反対すと聞いたが、その故か田辺〔たなべ〕辺〔へん〕で蜈蚣に咬かまれて格別痛まぬ人蝮蛇咬〔かむ〕を感ずる事劇しく、蝮蛇咬をさまで感ぜぬ人蜈蚣に咬まるれば非常に苦しむと伝う。この辺から言ったものか、『荘子』に蝍蛆(むかで)帯〔たい〕を甘んず、注に帯は小蛇なり、蝍蛆喜〔この〕んでその眼を食らう。『広雅』に蝍蛆は蜈蚣なり、『史記』に騰蛇(とうだ)[やぶちゃん注:翼を持たぬが、飛翔能力を持つ蛇神。]これ神なるも蝍蛆に殆(くるし)めらる、『抱朴子』に「南人山に入るに、皆竹管を以て活ける蜈蚣を盛る。蜈蚣蛇あるの地を知り、便(すなわ)ち管中に動作す。かくのごとくければ、則(すなわ)ち草中便ち蛇あるなり。蜈蚣、蛇を見れば、よく気を以てこれを禁じ、蛇ただちに死す」。『五雑俎』九に竜が雷を起し、大蜈蚣の玉を取らんとて撃った話あり。その長(たけ)一尺以上なるは能く飛ぶ。竜これを畏〔おそ〕る故に常に雷に撃たる、という。竜宮入りの譚に蜈蚣を竜の勁敵〔けいてき〕[やぶちゃん注:強敵。]としたるも洵(まこと)に由ありだ。西洋には蜈蚣蛇を殺すという事。下に言うべし。

[やぶちゃん注:「リノテーニア・アクミナタとリノテーニア・クラッシペス」恐らくは多足亜門ムカデ上綱ムカデ綱ジムカデ目Linotaeniidae 科に属する、現在の、前者はStrigamia 属 Strigamia acuminata Leach (1815) で、後者は同属の Strigamia crassipes Koch (1835) であろう。

「かかる蜈蚣たぶん日本にも多少あるべし」熊楠先生! いました! 沖縄本島・八重山諸島に棲息するジムカデ目オリジムカデ科ヒラタヒゲジムカデ属ヒラタヒゲジムカデ Orphnaeus brevilabiatusです(1 November 2011 The Terrestrial Bioluminescent Animals of Japan:英文論文)! ネット上を見ると、他に「ヒカリジムカデ」という発光ムカデの記載を複数確認出来るが、それは八重山諸島を分布域とすること、当該和名の学名が見当たらないことなどからは、ヒラタヒゲジムカデの異名なのではないかとも思われる。

 秀郷の譚に蜈蚣が湖水中の竜宮を攻めたすら奇なるに、『今昔物語』の加賀の海島の蜈蚣が海を渡った大蛇を襲うたは一層合点行かぬという人もあろう。しかし欧州西部の海浜波打ちぎわに棲む蜈蚣二属二種あり、四十年ほど前、予毎度和歌浦の波止場の波打ち懸る岩下に小蜈蚣あるを見た。今日は既に命名された事と想う。さて貝原先生の『大和本草』に「ムカデクジラ、長大にして海鰌(くじら)のごとし、背に鬣(たてがみ)五あり尾二に分かる。足左右各六すべて十二足あり。肉紅なり、これを食えば人を殺す。大毒あり」、『唐土訓蒙図彙』にその図あったが、貝原氏の説に随ってよい加減に画いた物に過ぎじと惟〔おも〕う。かかる変な物今日まで誰も気付かぬは不審と、在外中種々捜索すると、やっとサー・トマス・ブラウンの『ノーフォーク海岸の魚等の記』(十七世紀)に、「予また漁夫が海より得たという物を見るにロンデレチウスが図せるスコロペンドラ・セタセア(蜈蚣鯨の意)に合い十インチほど長し」とあるを見て端緒を得、ロンデレチウスの『海魚譜(リブリ・デ・ピツシブス・マリンス)』(一五五四年板)と『水族志余篇(ウニヴエルサエ・アクアチリウム・ヒストリアエ・パルス・アルテラ』(一五五五年板)を求めたが、稀書で手に入らず、しかし幸いに一六〇四年板ゲスネルの『動物誌』巻四にロ氏の原図(第二十八図)を出しあるを見出した、一七六七年板ヨンストンの『魚鯨博物志(ヒストリア・ナチユラリス・デ・ピツシブス・エト・セチス)』巻五の四四頁には一層想像を逞しうした図(第二十九図)を出す、この二書によるに、蜈蚣鯨を満足に記載したは、ただ西暦二百年頃ローマ人エリアヌス筆『動物性質記(デ・ナチユラ・アニマリウム)』一三巻二三章あるのみで、その記にいわく、蜈蚣鯨は海より獲れし事あり、鼻に長き鬚あり尾扁くして蝦(えび)(または蝗(いなご))に似、大きさ鯨のごとく両側に足多く、外見あたかもトリレミスのごとく海を游ぐ事駛(はや)し、と。トリレミスとは、古ローマで細長い船の両側に長中短の櫓を三段に並べ、多くの漕ぎ手が高中低の三列に腰掛けて漕いだもので、わが邦の蜈蚣船(『常山紀談』続帝国文庫本三九八頁、清正が夫人の付人輩〔ども〕、川口にて蜈蚣船を毎晩に漕ぎ競べさせたとある)も似たものか。さてゲスネルはかかる蜈蚣鯨はインドにありと言い、ヨンストンはその身全く青く脇と腹は赤を帯ぶと言った。それからウェブストルの大字書に、スコロペンドラ(蜈蚣)とスペンサーの詩にあるは魚の名、と出でおる。

[やぶちゃん注:「唐土訓蒙図彙」(平住専庵編・享和二(一八〇二)年刊)の巻十四の「魚介」のここ(左頁右下)に「海薑(かいけう)」と出るのがそれ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。解説には『そのかたち、龍の如く鬣あり。是、多く、其に毒あり。くらふへからす。和云むかでくしらなるへし』とある。]

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第二十八図 ロンデレチウスの蜈蚣鯨の画[やぶちゃん注:上図。]

第二十九図 ヨンストンの蜈蚣鯨の画[やぶちゃん注:下図。]

 

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第三十図 (イ)スコットランドのストロンサ島に打ち上げられた大海蛇

     (ロ)大鮫セラケ・マキシマ

[やぶちゃん注:底本では上に(ロ)図が、下に(イ)図があるが、順列が悪いので、逆転させて組み直した。

 これだけ列ねて一八九七年の『ネーチュール』五六巻に載せ、蜈蚣鯨は何物ぞと質問したが答うる者なく、ただその前インドの知事か何かだったシンクレヤーという人から『希臘詞花集(アントロギアイ・グライカイ)』中のテオドリダス(西暦紀元前三世紀)とアンチパトロス(紀元前百年頃)の詩を見ろと教えられたから半日ほど酒を廃して捜すと見当った、詩の翻訳は不得手ゆえ出任せに訳すると、テの詩が「風南海をかきまわして多足の蜈蚣を岩上に抛(な)げ揚げた、船持輩(ども)この怪物の重き胴より大きな肋骨を取ってここに海神に捧げ置いた」、アの方は「どことも知れぬ大海を漂浪したこの動物の遺骸、破れ損じて浜辺の地上にのたくった。その長さ四丈八尺[やぶちゃん注:十四メートル五十四センチメートル。]海沫(あわ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に沾(ぬ)れ巌石に磨(すりきら)れたるを、ヘルモナクス魚取らんとて網で引き上げ、ここにイノとパライモンに捧げた、この二海神まさにこの海より出た珍物を愛で受くべし」てな言(こと)だ。マクグレゴル注に、ここに蜈蚣というはその足の数多しというでなく、その身長きを蜈蚣に比(よそ)えたので、近世評判の大海蛇のような物だろうと言い、シュナイデルはこれぞエリアヌスのいわゆる蜈蚣鯨なりと断じた。これは鯨類などの尸(しかばね)が打ち上がったその肋骨の数多きを蜈蚣の足と見たのだろ。レオ・アフリカヌスの『亜非利加(アフリカ)記』にメッサの海浜のある社の鳥居は全く鯨の肋骨で作る。蜈蚣鯨が予言者ヨナを呑んでここへ吐き出した。今も毎度この社前を過ぎんとする鯨は死んで打ち上がる。これ上帝この社の威厳を添えるのだとは、そりゃ聞えませぬ上帝様だ。『続博物誌』に曰く、李勉汴州〔べんしゅう〕[やぶちゃん注:現在の河南省東部の開封(かいほう)市(グーグル・マップ・データ)。]にありて異骨一節を得、硯となすべし。南海におった時海商より得、その人言う、これ蜈蚣の脊骨と。支那でも無識の人は鯨の脊骨に節多きを蜈蚣の体と誤認したのだ、有名な一八〇八年九月スコットランドのストロンサ島に打ち上がった五十五フィート[やぶちゃん注:十六メートル七十六センチメートル。]の大海蛇は、これを見た者宣誓して第七図(イ)を画き稀有の怪物と大評判だったが、その骨をオエンら大学者が検して何の苦もなく一判りにセラケ・マキシマなる大鮫と知った(同図(ロ))。その心得なき者は実際覩〔み〕た物を宣誓して画いてさえ、かく途方もなき錯誤を免れぬ事あり(一八一一年エジンバラ板『ソーネリアン博物学会報告』一巻四二六―三九頁。一八五七年板『依丁堡皇立学士会院記事(プロシージングス・オヴ・ゼ・ロヤル・ソサイエチー・オヴ・エジンボロ)』三巻頁二〇八―一五頁。一八六〇年板、ゴッス『博物奇談(ゼ・ロマンス・オヴ・ナチユラル・ヒストリー)』三二七頁)。したがって『隋書』に「真臘国(カンボジア)に浮胡魚あり、その形䱉〔(ショ)〕に似る、嘴(くち)は鸚䳇〔(おうむ)〕のごとく、八足あり」、また『類函』四四九に『紀聞集』を引いて天宝四載[やぶちゃん注:七四五年。唐の玄宗の後期の元号。]、広州海潮によって一蜈蚣を淹(ひた)し殺す、その爪を割〔さ〕いて肉百二十斤[やぶちゃん注:唐代の換算で七十一キロ六百四十グラム。]を得、とあるも、鯨類か鮫類の死体の誤察から出た説だろう。第三十一図は、過去世の鮫クリマチウスで、ちょっと蜈蚣鮫と言っても通る形だ。

[やぶちゃん注:「セラケ・マキシマ」調べるのにやや手間取ったが、この Selache maxima (Gunnerus, 1765) とは、軟骨魚綱ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメCetorhinus maximus (Gunnerus, 1765) のシノニムであった。現在、旌旗に記録されているウバザメの最大個体は全長十二・二七メートルで推定体重は十六トンである。巨大だが、彼らはプランクトン食であり、人間には無害である。

「過去世の鮫クリマチウス」脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱†棘魚綱 Acanthodii クリマティウス目 Climatiiformes:シルル紀中期から石炭紀後期にかけてアフリカを除く六大陸及びグリーンランドに分布していたと考えられる一群。背鰭は二つあり、孰れも棘を有する。クリマティウス科クリマティウス属 Climatius など、胸鰭と腹鰭の間に最大六対の副対鰭(ふくついき)を持つが多い(熊楠の絵はそれを明らかに描いている)。歯はないか、あっても、顎に固着しない。体長は小さく、最大でも体長は僅かに十センチメートルであったらしい。]

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第三十一図 過去世の鮫類似魚クリマチウス

 以上拙考の大要を大正二年の『ノーツ・エンド・キーリス』一一七輯七巻に載せ、さらに念のため諸家の批評を求めると、エジンボロのゼームス・リッチー博士の教示にいわく、エリアヌスが筆した蜈蚣鯨はゴカイ類のある虫だろう、ゴカイ類の頭に鬚あるを鼻に長鬚ありと言い、尾に節ありて刺あるが鰕(えび)(または蝗(いなご))に似、両側に足多くトリレミスごとく見ゆとは、ゴカイ類の身に二十対あり二百双の側足(パラポチア)ありて上下二片に分かれ、波動して身を進むる様に恰(よく)当たれり。鯨は古人が大きな海産動物を漠然総称したので、英国、ノルウェー、北米等の海から稀に獲るネレイス・ヴィレンスという大ゴカイの長(たけ)一フィートより三フィート[やぶちゃん注:約三十一~九十一センチメートル。]で脊色深紫で所々黯青〔あんせい〕[やぶちゃん注:暗い青色。]また緑ばかりで光り、脇と腹は肉色であるいは青を帯びたる所が、ヨンストンのいわゆるその身全く青く脇と腹赤を帯ぶに合いおる。ローマのプリニウスら、かかるゴカイを海蜈蚣(スコロペンドラ・マリナ)と号(なづ)け、鈎(つりばり)を呑めばその腸をまるで吐き出し鈎を去って腸を復呑(のみもど)すと書きおるとあって、この鈎一件についても説を述べられ、予と論戦に及んだが、ここに要なければ略す。女文豪コンスタンス・ラッセル夫人よりも書面で教えられたは、哲学者ジョン・ロック一六九六年(わが元禄九年)鮭の胃を剖〔さ〕いて得た海蚣(うみむかで)をアイルランドの碩学で英学士会員だったモリノー男〔だん〕[やぶちゃん注:男爵。]に贈り、男これを解剖してロンデレチウスやヨンストンの蜈蚣鯨とやや差(ちが)う由を述べ、ロックの記載とともに同年板行したとあって、熊楠がこの学問上の疑論を提出した功を讃められたが、対手〔あいて〕が高名の貴婦人だけにその書翰を十襲〔じっしゅう〕[やぶちゃん注:幾重にも包んでしまっておく、大切にしまっておくこと。]して「書くにだに手や触れけんと思うにぞ」と少々神経病気味になって居る。

[やぶちゃん注:「ネレイス・ヴィレンス」環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科カワゴカイ属ネレイス・ヴィレンス Nereis virens。最大長九十センチメートルで、二百もの剛毛節を持つ。北半球の寒い地域に棲息し、本邦にはいない。英文サイト「Marine Species」のこちらの記載に拠った。]

 さてこれらの教示を得てますます力を得、また捜索するとプリニウスの海蜈蚣の事は、リッチー博士より前にキュヴィエーが既(はや)そのゴカイ類たる由を述べ居る、もっとも、博士とは別な点から起論されたが、帰する所は一で、ここに引いても動物専門の人でなくては解らぬ。このキュヴィエーは最(いと)高名な動物学者で一世那翁(ナポレオン)に重用されて仏国学政の枢機を運用し、ブルボン家恢復後も内務大臣になると間もなく死んだ。定めて眼が舞うほど忙しかった身をもって海蜈蚣の何物たるまで調べおったは、どこかの大臣輩〔ども〕がわずかな酒に酔っ払ったり芸妓に子を生ませたりして能事〔のうじ〕[やぶちゃん注:成し遂げるべき事柄。]とすると大違いだ。それからゴカイ類には、サモア島で年に二朝しか獲れず、したがって王に限って食うたパロロ・ヴェリジス、わが国備前の海蛭、支那の土笋(どじゅん)や禾虫(かちゅう)(畔田翠嶽〔くろだすいがく〕の『水族志』に出〔い〕づ)など食品たるものもあるが、その形背皆蚯蚓〔みみず〕に足を添えたようで魚釣りの餌にするのみ、食い試みぬ人が多い。一五六八年板ジャク・グレヴァン・ド・クレルモンの『毒物二書(ド・リヴル・ジュ・ヴエナン)』一三八頁に、古人一種の蜈蚣を蛇殺し(オフィオクテネ)と言い、能く蛇を咋(く)い殺したとあって、貝原先生同様人の唾が蜈蚣の大敵たる由を言うたは、秀郷唾〔つば〕を鏃〔やじり〕に塗りて大蜈蚣を殺したと言うに合う。それから海蜈蚣すなわちゴカイが人を咬めば、毒あるのみならず、触れても蕁麻(いらくさ)に触れたように痛むと言うた。十二年前、東牟婁郡勝浦港にあった時、毎度その近傍の綱切島[やぶちゃん注:この中央付近にある島(国土地理院図)と推定される。]辺の海底に黄黒斑(まだら)で二、三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]も長い海蜈蚣が住むと聞いて例の法螺談〔ほらばなし〕と気に留めなんだが、右のごとく教示やら調査やらで気がつき、当田辺湾諸村人に質〔ただ〕すと、諸所で夏日海底から引き揚げて石灰に焼く菊銘石〔きくめいせき/きくめいいし〕の穴に一尺から一間ほど長い海蜈蚣が棲むと聞いて、前祝いに五、六升飲んで出懸けると、炎日のため件(くだん)の虫がたちまち溶け腐りて漆のごとくなりおった。よほど大きな物で容れる器がないとの事だ。

[やぶちゃん注:「パロロ・ヴェリジス」待ってました! 私の大好きなパロロちゃんです! 私の偏愛振りは、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』をとくとあれ! なお、熊楠先生の指示しているのは、Palola viridis であるが、英文ウィキの「Palola viridisの分類の項を見ると、“It is sometimes synonymous with Palola siciliensis.”とあるので、それに従い、問題としない。

「備前の海蛭、支那の土笋(どじゅん)や禾虫(かちゅう)(畔田翠嶽の『水族志』に出いづ)」「畔田翠嶽〔くろだすいがく〕」は紀州藩の本草学者で藩医であった源伴存(みなもとともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年)の別称。「水族志」は本邦初と考えられている本格的な水産動物誌である(明治一〇(一八七七)年に再発見されたもので、南方熊楠も彼の再評価をした最初の一人である)。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの明一七(一八八四)年文会舎刊の活字本で見られるが、当時としては古典的乍ら、非常によく自分なりの系統を持たせてあり、記載も、よく諸書を引いて、これ、すこぶる海産生物博物誌として精密である(但し、残念なことに貝類は含まない)。さて、では、その記載順に見よう。まず「第十編 海蟲類」に「ウミミヽズ」「ウミヒル」・「ウミビル」が並んで載るのであるが、「ウミミヽズ」の漢名に「土笋」が載り、「海蛭」は後二者ととってよい。更に「禾虫」が「ウミヒル」の方の漢名として出る。以下に電子化する。漢文部分があり、本文も句読点がない漢字カタカナで読み難いので、平仮名に直し、句読点や濁点・記号等を打って、漢文部分(返り点のみ有り)は推定で書き下した。一部に丸括弧で推定の読みを添えた。但し、読みは完全な自然流で参考書もないからして(漢文部はかなり読みに苦労した。返り点のない部分でも返って読んだ箇所がある)、必ず、画像原本と比較対照して読まれたい。

   *

(二五一)

うみみゝず【紀州田納浦】 土笋 海底に生ず。形狀、蚯蚓の如く、太く大にして節あり。半(なかば)にて大なる節は𢌞(めぐ)り、三寸許(ばかり)。頭尾の節、次第に小也。肉色にして、長さ一尺許。「閩小記(びんしやうき)」に曰はく、『予、閩に在りて、常に「土笋凍(どじゆんとう)」を食ふ。味、甚だ鮮にして異なり。但し、其れ、海濱に生じ、形、蚯蚓に類すと聞く。何(いか)なる狀(かたち)かを識らず』。「五雜組」に曰はく、『又、土笋なる有るは、全(すべ)て蚯蚓の類なり』。按ずるに、「嶺山雜記」に『嶺南人(れいなんひと)、喜んで蛇を食ふ。其の名を易(か)へ、「茅鱔」と曰(い)ふ[やぶちゃん注:「鱔」は判読不能であったが、「嶺山雜記」を江戸時代の翻刻本で確認して当てた。]。草螽を食ふ。其の名を易へて、「茅蝦」と曰ふ。鼠、「家鹿」と曰ひ、曲蟮、「土笋」と曰へば、此れを以つて考(かんがふ)るに、「土笋」は蚯蚓なり。然らば、則ち、「海みゝず」は、即ち、海產「土笋」なり。土笋、海底泥中に產す。

㋑一種「うみみゝず」あり。海濱砂泥中に生ず。穴を發(おこ)して之れを捕(とら)ふ。長さ、二、三尺に至る。「閩中海錯疏(びんちゆうかいさくそ)」に、『土鑽(どさん)、砂蠶(ささん)[やぶちゃん注:ゴカイ。]に似て、長し。』。紀州若浦・毛見浦[やぶちゃん注:和歌山県毛見とその北の和歌浦地区(グーグル・マップ・データ)。]等に產する者あり、長さ、二、三尺、蚯蚓の如し。臭氣ありて、手に觸(ふる)れば、臭氣移り、去りがたし。

(二五二)

うみひる【備前岡山】 禾蟲 備前に產する「うみびる」は、潮の來(きた)る河中の泥底(どろぞこ)に生じ、九、十月に至(いたり)て、泥中より自然(おのづ)と出(いで)て、流水中に混(こん)じ流(なが)る。形狀、蚯蚓に似て、一、二寸、微紫色、左右、軟(やはらか)なる足あり、細くして、蜈蚣の足の小なるが如く、軟(やはらか)也。土人、「此を採(とり)て、麥の肥(こやし)とし、或(あるい)は煑(に)食ふて、味甘美也」と云(いふ)。「華夷續考」に曰はく、『海田、當(まさ)に、秋、成るべき時、禾蟲多く、潮に隨ひて浮上し、蚕(かひこ)のごとくして、微紫なり。小民、繒(そう)するに[やぶちゃん注:「繒」には「矢に糸をつけて鳥を射る道具」の意があるので、それを「漁具として絡布投げ打つ」の意でとってみた。]、以つて絡布(らくふ)[やぶちゃん注:繋ぎ合わせた布。]を、之れを捕る。艇に盈(み)つれば、歸る。味、甘く、食ふべし。之を市(あきな)ひ、利を獲る。爭ひ訟ふる者、有るに至る[やぶちゃん注:好む者が多くて買い手間に争いが起こるということであろう。]』と。「順德縣志」に曰はく、『禾蟲、蠶のごとく、微紫、長さ、一、二寸、種類無し。夏・秋の間、早稻(わせ)・晩稻(おくて)、將に熟せんとする時、田中に由(よ)り、潮、出でて、長く、田に漫(み)ち、潮に乘り、海に下る。日(ひる)、浮き、夜、沈む。浮けば、則ち、水面、皆、紫たり。采(と)る者、預(あらかじ)め、布の網を爲(つく)り、巨(おほき)なる口にて狭(せば)き尾となす。竹、有り。囊、有り。材を海の兩の旁(かたは)らに樹(た)て、名づけて、「埠(ふ)」と爲(な)す。各(おのおの)蟲に主(あるじ)有りて、出づれば、則ち、網をして材に繫ぎ、逆流するときは、之れを迎へる。張り口は、嚢(ふくろ)を東(ひんがし)し、二重たり。則ち、舟に瀉せば、百盤に至る[やぶちゃん注:かかった獲物を舟にぶちまけると、何重にもなるほど獲れるの意か。]。活(い)ける者は、之れを製するに、以つて醬(ししびしほ)に作るべし。之れを炮(あぶ)りて、以つて醬に作るべし[やぶちゃん注:この部分、同一の衍文の可能性があるか。或いは「之れを製するに、以つて醬(ししびしほ)に作りて可にして、之れを炮りて、以つて醬に作るも可なり」で、「生を塩辛にしてよく、また、炙っあ上で塩辛にするのもよい」の意かも知れぬ。]。味、甚だ美(よ)し。或いは醃(しほづけ)にして、之れを藏し、鹹壓(かんあつ)爲(し)て[やぶちゃん注:重い石で圧して水分を充分に取り除いた上で、であろう。]、之れを爆(さら)し、乾(ひもの)と爲すも、皆、可なり』と。按(あんずる)に「廣東新語」に『色、紅黃』と云ふ。地產により其の色を異にする者也。

(二五三)

うみびる 海底の巖に附着す。長さ二寸許。形狀、蠶に似たり。大(おほい)さ母指の如し。褐色にして淺深の橫斑、條をなす。頭より尾に至り、背上に淡茶色の硬き甲あり。甲は、末、尖り、間を隔てり。腹下、岩に着(つく)處、淡黃色にして微紅を帶ぶ。

   *

その次を見ると、何と! 「ウミケムシ」(「海毛蟲」)だ! 流石に脱線に過ぎるので、原本を見られたいが、私は江戸時代の本草書で「ウミケムシ」(環形動物門多毛綱ウミケムシ目ウミケムシ科ウミケムシ Chloeia flava)を単独で採り上げ、ここまで形状・様態をはっきり正確に記しているものを見たのは初めてである。以上、注したいところや、ゴカイ・フリークの私には判っていることも含め、如何にも私の注意欲をそそるのだが、それは別の機会とし、ともかくも、南方熊楠の挙げた「備前の海蛭」、中国の「土笋」や「禾虫」が何であるかを同定しなくてはならぬ。しかし、正直、熊楠はパロロから並列させて、オリジナルに挙げているように言っていながら、その実、「海蛭」・「土笋」・「禾虫」の三つ総てが(熊楠の書き方は最後の「禾虫」だけが引用であるかのように記しているが)、実は畔田翠嶽の「水族志」から引いたことが以上の電子化ではっきりしたと言ってよい。ただ、実は、畔田の記載は、当時の本草書の悲しさで、中国の本草書の別種を混在させて記しているためにそう簡単には行かないのが難しいところなのである。但し、それをいちいち指摘していると後に進まぬので、結論だけを示すと(細かな考証は後の「水族志」の「海蟲類」電子化注に譲っておく。お恥ずかしいことに、実は忘れていたが、私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』起動していたのであった。「クラゲ」と「ナマコ」でストップしているが、近日中に再開することをお約束しておく)、

「海蛭」と「禾虫」は多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ科 Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

である。これについては、畔田はその生態を引用書を上手く選んで利用し、かなりいい線まで追い詰めている。糸の発射という怪しげに見える引用記載は、実は多毛綱ゴカイ科の環形動物で、生殖のために特殊な遊泳行動をとる生殖型個体を指しているものと考える。イトメは、砂泥中で生活している個体が成熟してくると、十月から十一月の大潮の夜、雌雄の体の前方の三分の一が自切し、生殖物(雄は精子を、雌は緑色の卵を)を充満させて泳ぎだし、生殖群泳するのである。特に日本ではこれを「バチ」「ウキコ」「ヒル」「エバ」と呼ぶ。イトメのバチを「日本パロロ」(英名:Japanese palolo)とも呼ぶが、これは先の『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』でも述べておいた。また、是非、お読み戴きたいのが、

私がカテゴリ「海岸動物」で電子化注した「いとめ」の生活と月齢との関係 ――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて―― 新田清三郎』(全十回)

である。新田先生は岐阜生まれで、大正時代に上京し、現在の江東区木場の地に医院を開業、人望厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった。昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲で亡くなられた。逢って見たかった人である。最後にさらに、イトメの群泳が信じられない御仁に――美麗なビジュアルで――お目にかけようではないか! イトメちゃんを!

私の『文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」』(栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻六より)

の図入り電子化注で、決まり!

 さて、では最後に「土笋」だ。はっきり一発で言うと、これはゴカイではない。

「土笋」は環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)

である。世界中の潮間帯から深海底に至るまでの砂泥底・岩礁・サンゴ礁に穴を掘って棲息している、のっぺりとした円筒形の、ごく細いソーセージ状の蠕虫で見た目はミミズ或いはヒルに似ている。大きさは数ミリメートルから五十センチメートルまで多様はであるが、我々が目にする種は三~十センチメートル程度のものが多い。体は体幹部と陥入吻(かんにゅうふん)から成り、陥入吻は胴部に完全に引き込むことができ、その先端に口があって、その周囲又は背側に触手が多数ある。和名の「星口」は、この口の周囲で触手が放射状に広がる種のそれを星に見立てたドイツ語名「Sternwürmer」(「星型の蠕虫」)に由来するようである。その中でも、特に中国などで食用とされているのは、

サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta

が代表種である。ウィキの「土筍凍」を見よう。閩南語(福建省南部で話される方言で福建語とも呼ぶ)で「thô·-sún-tàng」(トースンタン)、北京語で読むと「tǔsǔn dòng」(トゥースエンドン)。他に「塗筍凍」とも書く。中国福建省の泉州市やアモイ市近郊の郷土料理で、『星口動物のサメハダホシムシ類を煮こごりにした料理』とある(「凍」が腑に落ちた。なお、種は中文の同ウィキの記載でも確認した)。『浙江省から海南省にかけての近海の砂地に生息する星口動物サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科の「土筍」』(別名は「塗筍」「塗蚯」「海沙虫」「沙虫」「泥蒜」「可口革嚢星虫」とするが、総てが生物学上の同一種を指すとは思われない)を一日ほど、『泥を吐かせ、さらに押して内臓の中から異物を出した後、繰り返し洗い、水でぐらぐら煮てから、碗やバットに入れ、冷やし固めたもの』。『この「土筍」にはコラーゲンが多く、煮ることによって煮汁に溶け出してゼラチンとなり、冷やすとゼリーのように固まる。貝の出汁と塩などで薄味を付けておき、そのまま、または酢、酢醤油をつけて食べる他、唐辛子味噌、おろしまたは刻みニンニク、辛子などの調味料や、コリアンダー、トマト、酢漬けのダイコン』やニンジンなどの『薬味と合わせて食べることも行われている』。『もともと、晋江市安海鎮周辺の郷土料理であったが、現在は泉州市、アモイ市の多くの海鮮料理のレストランで食べることができる。また、泉州市の中山路、晋江市の陽光路などの繁華街、アモイ市の歩行者天国となっている中山路などでは露天商もこれをよく売っている』。『大きさには』一、二匹が入った直径四センチほどの猪口(ちょく)サイズの小さなものから、数匹が入った直径六センチほどの中型のもの、十数匹が入った直径八センチ以上の茶碗サイズの『大型のものなどがある。大型のものは、切り分けて出されることもある』。『作られ始めた時期は不明であるが、清代には記録があり、周亮工』(一六一二年~一六七二年)は「閩小記」(畔田が引いたそのものである)の中で、『「予は閩でしばしば土筍凍を食すが、味ははなはだうまし。だが海浜にいると聞き、形はミミズに似たナマコである」』『などと記していることから、少なくとも』三百五十『年以上の歴史はある』。『厦門で現在のような丸い碗入りのものが普及したのは』、一九三〇『年代に安渓県出身の廖金鋭』(りょうきんえい)『が厦門の篔簹港』(うんとうこう)『で採れた「土筍」を使って作り、市内を売り歩いたのが大きいとされる』。『味が良いと評判で、中山公園西門付近で売っていた事が多く、「西門土筍凍」と呼んで、他のものと区別された。後に、廖金鋭から仕入れて、自分の店に置いて売る者もいくつか現れた。晩年、中山公園西門付近の斗西路に店を構え』、一九九〇『年代に廖金鋭が亡くなると、息子の廖天河夫妻が跡を継ぎ、現在も人気店として営業をしている』。『廖金鋭が存命の時期でも、厦門の埋め立てや都市化が進んでほとんど「土筍」が採れなくなり、福建省北部から仕入れるようになった。近年は福建省各地の工業化が進んで、「土筍」の漁獲量が減ったため、浙江省などからも運ばれており、浙江省温嶺市などでは人工養殖も行われている』。『素材である浙江省温嶺市産の冷凍「土筍」の営養素を分析した例では、次のような結果であった』。『水分80.97%、タンパク質12.00%、ミネラル2.13%、炭水化物1.58%、脂肪1.26%。また、脂肪分の内訳では、脂肪酸が84.93%、コレステロール15.07%と、比較的低コレステロールであった。総脂肪酸の内、アラキドン酸が20.11%、エイコサペンタエン酸(EPA)が4.14%、ドコサヘキサエン酸(DHA)が2.04%と不飽和脂肪酸が高かった。また、アミノ酸では、必須アミノ酸のすべてを含み、特にグルタミン酸、グリシン、アルギニンを多く含む』とある。中国人の動画が多数あるので現物を見るのは簡単。但し、採取から加工までのものはニョロニョロ系が苦手な人は見ない方がいいかも知れない。大丈夫ならば、それらの過程が総て映っている非常に綺麗な画像の、YouTube の中国江西网广播电视 China Jiangxi Radio and Television Networkの「【非美食】美食精 土笋がお薦め! せっかく煮凝りのセットしたのを、お孫さんが傍から勝手に開けて「ぱくぱく!」っていかにも美味しそうに食べちゃうところが、とっても、いい!

「食い試みぬ人が多い」熊楠先生! そんなことはありません! 先生がこれを書かれる、三十八年も前の明治一一(一八七八)年七月、かのエドワード・モース先生が北海道で食べておられるんです! 私の、

「博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY BY EDWARD S. MORSE CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」(二〇一三年九月十二日公開記事)

を熊楠先生に献呈致します! なお、私はカテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』で全文の電子化とオリジナル注を二〇一三年六月二十六日に始動し、二〇一六年二月十三日に終わっている(翻訳の当該部は「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う!」であるが、前記考証記事にも最後に同じものを掲げてある)。

「菊銘石」刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目サザナミサンゴ科キクメイシ属キクメイシ Dipsastraea speciosa(代表種。他にも同属種は多い)。個虫は直径一センチメートル以内であるが、長径二~三メートルもの半球状の群体を作る。個体のついていた痕は菊の花が集まったように見えることが和名の由来。生きている個体の中央部は青緑色を呈する。サンゴ礁を形成するサンゴ類の一種で、岩などに着生する。暖海種で、日本では房総以南の黒潮暖流域に見られるが、沖縄以南には少ない。「きくめいせき」とも呼ぶ。]

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第三十二図 ゴカイの一種,ネレイス・メガロプス

 以上述べたところで秀郷蜈蚣退治の先駆たる、加賀の海島で蜈蚣海を游いで大蛇と戦った譚も多少根拠あるものとわかり、また貝原氏が蜈蚣鯨大毒ある由記したのも全(まる)嘘でないと知れる、氏の『大和本草』に長崎の向井元升〔げんしょう〕という医者の為人(ひととなり)を称し毎度諮問した由〔よし〕記しあれば、蜈蚣鯨の一項は向井氏が西洋人か訳官(つうじ)から聞き得て貝原氏に伝えたのかも知れぬ。第三十二図はゴカイの一種ネレイス・メガロプスが専ら水を游ぐ世態〔せいたい〕[やぶちゃん注:生態に同じい。]をやや大きく写したので、大小の違いはあるが、実際海蜈蚣また蜈蚣鯨の何様〔いかよう〕の物たるを見るに足る。

[やぶちゃん注:「向井元升」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で、五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の次男は蕉門の俳人として有名な向井去来である。

「ネレイス・メガロプス」学名は Nereis megalops であろうは思われるものの(種小名は「巨大な」、幾ら探しても、一致するシノニムを見出せない。但し、ゴカイ類の分類は近年、属レベルで大きな改変があり、属を移動した種も多い。例えば、本邦にも棲息し(北海道から東北地方の浅海息)、「蛇虫(じゃむし)」の名で呼ばれ、人をも噛む強力な強大な顎を有したゴカイ類の最大種(最大九十センチメートルにも達する。英文ウィキには時に四フィート(約一メートル二十二センチメートル)を超えるとあり、別名「king ragworm」(ragworm はゴカイの通称。「rag」は「襤褸布」だから「乞食(虫)の王様」的な何とも言えぬ呼称ではある)であるゴカイ科Alitta 属ジャムシ Alitta virens のシノニムには「ネレイス・グランドゥロサ」Nereis glandulosa Ehlers, 1908 があり、さらに調べると、やはり本邦にも棲息するゴカイ科Platynereis 属イソツルヒゲゴカイ Platynereis dumerili のシノニムにNectonereis megalops Verrill, 1873 というのを見出せた(英文のWorld Register of Marine Species」の同種のページを参照)。さて! このシノニム、よく見ると、「ネクトネレイス・メガロプス」と読めるではないか!(但し、このゴカイ、調べてみると、その幼生が脳内にオプシン(Opsin)とという光センサー・タンパク質が発現する光受容細胞を持ち、動物プランクトンのモデル生物として盛んに研究されているようだが、そんなに巨大な個体ではないよう(諸論文を縦覧したが、サイズ・データ記載がないので不明)である)。

「世態」「生態」に同じい。]

 これを要するに秀郷竜宮入りの譚は漫然無中有〔むちゅうゆう〕を出した丸嘘談でなく、事ごとにその出処根柢〔こんてい〕ある事上述のごとし。そのうち秀郷一、二の矢を射損じ第三の矢で蜈蚣を射留めたと言うに類した、那智の一蹈鞴(ひとつたたら)という怪物退治の話がある、また『近江輿地誌略』に秀郷竜女と諧(かたろ)うたという談については、古来諸国で竜蛇を女人の標識としたり、人と竜蛇交わって子孫生じたと伝え、「夜半人なく白波起こる、一目の赤竜出入の時」など言い、竜蛇を男女陰相に比(よそ)へて崇拝した宗義など、読者をぞっとさせる底の珍譚山のごとく、上は王侯より下乞丐(こつじき)に至るまで聞いて悦腹せざるなく、ロンドンに九年あったうち、近年大臣など名乗って鹿爪らしく構え居るやつばらに招かれ説教しやり、息の通わぬまで捧腹〔ほうふく〕[やぶちゃん注:「捧」は「両手で抱える」の意。腹をかかえて大笑いすること。]させ、むやみに酒を奢らせること毎々だったが、それらは鬼が笑う来巳(み)の年の新年号に「蛇の話」として出すから読者諸君は竜の眼を瞼みはり蛇の鎌首を立て竢〔ま〕ち給えと云爾(しかいう)。ついでに言う、秀郷の巻絹や俵どころでなく、如意瓶〔にょいがめ〕とて一切欲しい物を常に取り出して尽きぬ瓶を作る法が『大陀羅尼末法中一字心呪経』に出でおる。欲惚(ぼ)けた人はやって見るがよろしい。(大正三年[やぶちゃん注:四年の誤記。以下の「四年」も五年の誤記。]十二月六日起稿、大竜の長々しいやつを大多忙の暇を竊〔ぬす〕んで書き続け四年一日夜半成る)

[やぶちゃん注:「無中有」実際にはない現象を、あるように見せること。

「那智の一蹈鞴(ひとつたたら)」「和歌山県企画部企画政策局文化学術課」公式サイト内の]「和歌山県文化情報アーカイブ」の「和歌山県の民話」の「一つたたら」に、『むかし那智(なち)の奥山に、「一つたたら」という怪物(かいぶつ)があらわれました。身の丈(たけ)約九メートル、目がひとつ手も足も一本、疾風(しっぷう)のように現れ、民家を襲(おそ)い、那智山一帯の死活(しかつ)問題となりました』。『腕に自信のある何人かの武士が、怪物退治(たいじ)に山へ入りましたが、帰ってきた者はありませんでした。噂(うわさ)では、身体は岩石のようで矢もはね返し、力も無双(むそう)であるということです』。『あるとき、樫原(かしはら)の善兵衛さんの家に刑部(ぎょうぶ)という落武者(おちむしゃ)らしい若者が滞在(たいざい)していました。偉丈夫(いじょうふ)で人情も厚く、学問、武芸(ぶげい)に秀(ひい)でていました』。『刑部は、村人たちの困惑(こんわく)を見かねて、怪物退治を申し出て、善兵衛さんを道案内に、まず那智権現(ごんげん)に祈りを込めて奥山へ入りました』。『山に入って四日目、にわかに西の空から轟音(ごうおん)が起こり、噂(うわさ)のとおりの怪物が刑部たちを襲って来ました。刑部は、あわてず弓を引き絞り、怪物の皿のような大きなひとつの目に狙いを定め、一矢にして射抜きました』。『刑部には、この功労(こうろう)により、那智山から寺山三千町歩(ちょうぶ)と金百貫(かん)、本宮からも金百貫が贈られましたが、刑部は色川郷(いろかわごう)十八ヵ村に寄付して、村人から大いに感謝されました』。『やがて、刑部、刈場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)は、色川の守り神として祀(まつ)られ、その神社は樫原(かしはら)にあります』。『この話は、永享(えいきょう)七年(一四三五)、室町時代の出来事で、刑部は平家の一族と言い伝えられています』とあった。

「近年大臣など名乗って鹿爪らしく構え居るやつばら」「南方熊楠 履歴書(その9) ロンドンにて(5)」(私の電子化注)に出た外交官加藤高明(安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)のことであろう。彼は後に第二十四代内閣総理大臣となった。

   *

これ以上の本「むかでくじら」への注は、私は不要かと思う。ただ、一つ、我々が学んだことがある。それは南方熊楠が言っている、『鯨』という別な実在生物への比喩呼称は『古人が大きな海産動物を漠然総称した』に過ぎない、相対的な海棲生物の異常個体の謂いだ、ということである。「くじら」とは物理的絶対的に巨大な鯨並みの巨大生物なのではなく、本来の個体よりも相対的に大きいという謂いだ、ということである。クラーケンが通常の蛸より大きいように、数センチのチビッ子な生物の中で、それを凌駕する数十センチ、一メートルに達するような相対的に大きなゴカイを「クジラ」と呼称したという事実である。向後、古文献で「くじら」と出ても、実際の鯨類のように大きな生物だと考えるのは、伝統的な本草学上でもナンセンスであるということであった。

 久しぶりに、本気になって、しかも、楽しく注を附することが出来た。南方熊楠先生に感謝申し上げる。

 おっと! いけない! 「鴆」と「海薑」ね。大丈夫! 私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん)(本当にいないと思いますか? フフフ……)」の私の注で、同定していますからね。

2020825日追記】江戸中・後期の仙台藩儒学者であった大槻清準(安永元(一七七二)年~嘉永三(一八五〇)年:大槻玄沢の伯父の孫。林述斎に師事し、江戸の昌平黌に学び、文化三(一八〇六)年に仙台藩藩儒に抜擢された。荒蕪地の開墾を行い、藩校養賢堂を建てて第四代学頭となって藩士子弟の教導と教育行政に努めた)が、平戸の生月島(いけづきじま)の捕鯨の見聞を記した「鯨史稿」(文化五(一八〇八)年成立)の「巻之二」の最後に「蜈蚣鯨」の記載があったので、添えておく。国立国会図書館デジタルコレクションの江戸後期の写本の当該頁の画像を視認した。読み易さを考え、前半の漢文は訓点に従って書き下し(送り仮名は一部で推定で振った)、後半の漢字カタカナ交じりは、カタカナを平仮名に代えた。全体に句読点や濁点・記号を打った。〔 〕は私が補った読み(丸括弧)や添え字を示す。

   *

蜈蚣(ムカデ)鯨

蜈蚣鯨、此方〔(こなた)の〕漁人云く、『鯨魚の一種、別類、「蜈蚣鯨」と名づくる者、有り。形〔(かた)〕ち、鯨児に似たり。赤色〔の〕脊に五〔つの〕鬣〔(たてがみ)〕有り、岐尾〔(きび)に〕して、短脚、十二足、有り。水中を行く。形ち、蜈蚣に似たり。故に「蜈蚣鯨」と名づく。大毒有り。漁人、甚だ之れを恐る』と云ふ【「魚譜」。】。

按ずるに、これ、固〔(もと)〕より、鯨の種類にあらず。しかれども、俗に鯨の一種と云ふ說あるによりて、今、姑〔(しば)〕らく此に附して、異聞を廣む。

   *

この前半の引用元である「魚譜」については、それらしい魚譜を複数披見したが、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

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