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2020/09/06

梅崎春生 無名颱風 (前)

 

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年八月刊『別冊文芸春秋』第十七号及び、同年十月刊の同雑誌第十八号に連載され、後、同年十一月刊の月曜書房の作品集「黒い花」に収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 なお、梅崎春生「生活」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とした。

 一部に注を附した。

 全体が十章からなる。このブログ版では、二部に分けて「一」から「十」と、「十一」から終章までに分ける。後にサイト一括版をPDF縦書版としてアップする予定である。

 

   無 名 颱 風

 

      

 昭和二十年八月下句、かなりの風速をもった颱風(たいふう)が、九州南西部の一帯を通り抜けた。終戦後、とは言っても、まだ数日を経たばかりだから、しゃれた名前のつきようもない。無名の颱風である。

 この颱風が、どんな性質のものだったのか、どこから来てどの方面へ抜けたのか、私は未だによく知らない。知るよしもない。

 ただ私は当時、その風域の一端にいて、それが狂暴に地表を擦過し、物と人とを傷つきやぶる状況を、つぶさに体験した。地点によって異るだろうが、私の場合この颱風は、薄暮の一刻にとつぜん始まり、夜中を荒れ通し、翌朝の晩方に終った。この一夜の印象は、その時おかれた環境のゆえもあって、今なお私に鮮烈である。

 かなりの風速、と、さきに書いたけれど、控え目に記億を探ってみても、やはりそれはかなり以上の風速だったような気がする。昭和六年の夏北九州をおそった、風速四十五米の颱風を私は知っているが、身に迫る兇暴さにおいて、それと同程度の、ある瞬間にはそれ以上のものを、この無名颱風は具(そな)えていたようだ。身を倚(よ)るすべもない、ふつうでない状況が、あるいはそれを実際以上に、私に感じさせたのかも知れないが。――

[やぶちゃん注:敗戦直後の大災害を齎した台風としては枕崎台風(昭和二〇(一九四五)年台風第十六号)が有名だが、それは九月十七日に鹿児島県川辺郡枕崎町付近の上陸で、ここに描かれる台風ではない。サイト「四国災害アーカイブス」の「昭和20年8月の台風」に、昭和二〇(一九四五)年八月二十五日として、現在の香川県三豊(みとよ)市高瀬町(たかせちょう:リンク先に国土地理院の地図有り)、当時の当地、旧三豊郡比地二村(ひじふたむら)の村役場「日誌簿」に、同日、午後四時より夜半にかけて暴風雨が襲った旨の記事があるとある。当該ページには資料へのリンクがあるので、それで見ると、「高瀬町史 通史編 現代」の「三 災害の発生」の冒頭に、「暴風雨の災害」と項立てし、『終戦の年の比地二村役場『日誌簿』八月二十五日の欄に、「午後四時ヨリ夜半ニカケテ暴風雨、敵ノ占領上陸ヲ明日ニ控ヘテ神風吹クカト疑カハシムル計リナリ」』とあった(この記載もなんとも哀しいが、香川には崇徳院の白峯陵がある。昭和天皇は開戦に際し、ここに崇徳院がアメリカに加担せぬことを祈って遣使を遣わしていることを思い出し、寧ろ、荒ぶるその御霊の歓喜を想起したことを告白しておく)。当時の村役場があったのは現在のJA香川県比地二支店(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると、ウィキの「比地二村」にある。以下の「二」の最初のロケーションは鹿児島駅で、敗戦解除直後(当時の残務処理・物資分配などから考えても十七日以降と考えてよかろう。「二」に無蓋の鹿児島駅のホームで「二日も三日も待ってる人だってある」という描写があるからには、十八日以降としてもいいと思う)である(そのシーンの初めは炎天下である)。「三」の頭では、「都城を過ぎる頃から、列車をおおう空模様が、あやしく乱れ始めてきた」とあり、「六」で雨が降り始め、「九」の宮崎の高鍋駅で既に風雨激しく、川が氾濫しているという記載がある。而してこの「一」の描写を見ると、作品後半の台風の襲来と通過は凡そ十二時間で、その時のロケーションは高鍋駅近くである。鹿児島駅と旧比地二村役場の位置は直線で約四百十九キロメートル離れている。さらに、途中に出る都城駅と先の同村役場を直線で引くと、そのルートの真下に高鍋があることが判るはずである。されば、実際に敗戦直後に発生したこの台風がこの「無名颱風」のモデルであると断じてよい。なお、調べてみたところ、株式会社「気象サービス」の「気象トピック」の「終戦の日」によれば、当時のラジオ放送の天気予報は同月二十二日から再開されたとある。昭和一六(一九四一)年十二月八日のハワイの真珠湾攻撃を境としてラジオの天気予報は放送が禁止されていた。実に三年八ヶ月振りの天気予報であったが、ちゃんと報じられたとすれば、まさにこの台風はその予報の中で伝えられてあったはずである(と思ったが、以下の引用にあるようにそれはなかったと考えた方がよいようである。因みに、敗戦の日の天気図がサイト「SORA 2016年8月号」の「気象アーカイブス(17) 終戦の日の空は本当に晴れていたのか?」で確認出来る)。どうも気になって、さらに調べてみたのだが、妙な記事が見つかった。「いであ株式会社」のサイト「お天気豆知識」の「終戦と台風」である。そこには『終戦後の最初の台風』(リンク先に『終戦後最初に上陸した台風の経路図』とキャプションした日本地図がある)『は、豆台風でしたが』、『終戦の日の約』一『週間後、ラジオで天気予報が再開された翌日の』八月二十三日『未明に房総半島に上陸して関東地方を北西方向に通過しています。気象観測は空襲で破壊されていない気象官署で行われていました。しかし、海上の観測は皆無です。現在でも海上の気象観測は航行中の船の観測が頼りですが、当時は航行する船舶はほとんどありませんでした。さらに通信回線も完全に復旧しておらず、離島からの情報は入ってきませんでした。このため、台風が接近していることがわからず、まさに不意打ちだったようです』とあったからである。この台風は小さいし、その進路は明後日の方角で、鹿児島・宮崎・香川に影響を与えたとは思われない。梅崎が台風を捏造したというなら、香川の記録がおかしなことになる。同年同月の「中央気象台月報」を国立国会図書館デジタルコレクションで探してみたが、ない。もし、この昭和二〇(一九四五)年八月下旬の天気図を見られた方は、御教授戴けると幸いである。

 

      

 

 その当時、とにかくすべてのものが、ひどく混乱していた。交通状態、人の往き来、そんなものが何もかも。――ことに南九州一円においては、他の地方にくらべても、混乱状態は一段とひどかっただろう。所在の交通機関は、沖繩米空軍にさんざんたたかれていたし、また内地の第一線として、一部隊の数もおびただしく、やがて連合軍が鹿屋(かのや)に進駐してくるというので、それらがほぼ一斉に解散してしまったからだ。

 だからそこらの街道、停車場、波止場(はとば)、汽車や牛車やトラックに、復員荷物を背負ったさまざまの兵士が満ちあふれ、動き廻り、右往左往していた。晩夏の烈日のもとで、それらはまるで巣をつつかれた蟻(あり)のように、右へ左へ無目的な動き方をしていた。もちろん個々をあたれば、各自の故郷にむかって動いているに違いないのだが、全体としては、錯雑したでたらめな蠢(うごめ)きにしか見えなかった。

 それらが整然とした動きをとらないのは、いきなり軍務から解き放たれた情緒の混乱と、とにかく一刻も早く故郷へ戻ろうという焦躁(しょうそう)で、それぞれが方途を失っていたせいでもあったが、交通機関の不整備がまず第一の原因であった。鉄道の状況は、ことにひどかった。汽車が何時(いつ)くるのかも判らなかった。故郷を遠隔地に持ち、鉄道のみをたよりにする者たちに、それは大きな不安と焦躁をもたらした。何しろ食糧も、一日分しか支給されていないのに、汽車が来なければ、一体どうなるのか。

 ――建物も天蓋(てんがい)もない、歩廊だけの鹿児島駅で、陽(ひ)にかんかん照らされながら、私たちは空(むな)しく汽車を待っていた。待っている外はないのである。歩いて帰るわけにも行かないのだから。[やぶちゃん注:「歩廊」ホームのこと。]

 ひどくむしむしと暑い日であった。歩廊にあふれた群のなかで、ふとした言葉の行き違いで、小競合(こぜりあい)がおこったり、下士宮が兵隊に袋叩きにされたりした。その側に将校がいても、横目でそれを眺めているだけで、別に止めようとするでもなかった。かと思うと、向うの方では、変にはしゃいだ歌声がおこって、自棄(やけ)っぱちな笑い声が立ったりした。すべてが別々に、揺れ動いていた。そしてみんな同じ境遇にもかかわらず、妙につめたい無関心が、どこかに動いているのが感じられた。陽は相変らずかんかん照りつけ、風は死んで動かない。空気はじっとりと湿気を含んで重かった。歩廊の彼方の線路ぎわに、向日葵(ひまわり)の花が七つ八つ、一列にうなだれて咲いている。嘔(は)きたくなるような真黄色の大輪だ。時折思い出したように、私は汗づく眼を見開いて、線路の方を眺めるのだが、その度にそこに汽車の姿はなく、花の色ばかりが目に沁(し)みてくる。もう四五時間にもなる。

「――ええい。いつまで待たせる気だい」

 近くで誰かが、うなるように叫んだりする。誰もそれに答えない。いつ汽車が来るか、誰も知る訳はないのだ。駅員や駅長でさえも知らないのだから。

「莫迦(ばか)にしてやがる。この重い荷物を背負って、五六箇所も歩くんだとよ」

 ――さっき私たちの要求によって、駅員が歩廊にやってきて、その説明によると、九州本線は確実に五六箇所きれ、徒歩連絡せねばならぬが、日豊線は全然状況が不明だと言う。うまく行けば全部つながっているが、断(き)れていれば、どこで降ろされるか判らない。それはそれとして、だいいち、汽車が何時くるのかも分明しないと言う。ダイヤの混乱、それどころの話ではなかった。

「今日中に乗れれば、運が好い方ですよ。二日も三日も待ってる人だってある位だから」

 ――歩廊の一隅に積み重ねた枕木のかげに、私は衣囊(いのう)を、抱いてうずくまっていた。炎日の直射を避けて、七八人の兵士が私のまわりにひしめきしゃがんでいる。私より年長の、応召兵ばかりだ。顔がみんな汗でびっしょり濡れている。一体に顔面筋肉の動きがすくない。しかしそれでも、いらいらした表情や、不安げな色を、皆かくし切れないでいる。早く汽車に乗らないと、部隊から呼び返しに来ないかと、怖れている風にも見える。それをごまかすように、彼等は線路を見渡したり、時々ぼそぼそと私語したりしている。注意するともなく、私はその私語をとびとびに耳にとめている。

「――ひどくむしむしするなあ。おい」

「――ほら、こんなにべとべとや」

「――嵐でも来るんじゃないかいな」

「――とにかく早く汽車がこんかのう」

「そううまく行けば、なあ」

 そんな風にきれぎれの会話が、ぼそぼそと始まったり、止んだりしている。しばらくしてその中の一人が、暑そうに身じろぎしながら、ぼんやりしたような口調で言う。その声と、むくんだような顔付が、ひどく印象的だ。

「――俺たちはいつも、運がわるい方だったから、のう。いつも、いつも」

 しかしこの度は、彼等(私をふくめて)は運が悪い方ではなかった。と言うのは思いもかけず、間もなく奇蹟のように、汽車がやってきたからだ。

 歩廊の一角がざわめき立ったと思うと、前触れもなく汚れた汽車が、するすると歩廊に入ってきたのである。午後の二時。客車を五六輛しかつけない、短く矮小(わいしょう)な列車であった。それが僥倖(ぎょうこう)にも、丁度私たちの前に止ったのだ。四方からわっと沸(わ)きたって押しよせる中を、私たちはむちゃくちゃに動いて、どうにか客車に乗り込んでいた。歩廊の群を半分以上積み残し、叫声と罵声(ばせい)をあとにして、やがてとにかく汽車は動き出した。積み残された者達の呪(のろ)いを背にうけて、私たちは曲りなりにも、座席の一角に必死にとりついていた。

 今思って見ても、これはとにかく一応の幸運だったと言えるだろう。(真の幸運だったかどうかは判らない)後で聞いたのだが、この汽車に乗りそこねて、それから二日間、ここで日曝(ひざら)しになっていた兵隊もあった、という話だから。

 

     

 

 都城(みやこのじょう)を過ぎる頃から、列車をおおう空模様が、あやしく乱れ始めてきたのである。

 大きな掌をひろげるように、薄墨色の雲群が地平からぐんぐん伸びて、やがて太陽を包みかくしてくるらしい。車窓に飛び去る稲田や疎林が、風が立ちそめたと見えて、思い思いになびき揺れている。その風景の部分部分が、急に蒼然と日の色をうしなってくる。

 なにか不安なものが、かすかに胸に滲(にじ)んでくる。今朝部隊を離れるときの、あのへんに狂騒的な亢奮(こうふん)がもう醒(さ)めかかっていて、窓から吹き入る風に私は顔をさらしたまま、しきりに首筋や背中の汗をこすりとっていた。湿度がしだいに高まるらしく、顔を内側にむけると、眼鏡がすぐに曇ってきた。

 隼人(はやと)駅で、九州本線に乗り換える者が、ぞろぞろとかたまって下車したが、それ以上の人数が入れ替りに押し入ってきて、車内は身動きもできない程であった。人いきれでむんむんする。大部分は年とった補充兵だが、年若い兵隊や下士官などもばらばらといた。

 下士官が通路にしゃがんだりしていても、座席の兵隊は今は席をゆずろうとしなかった。そしてそれは不自然ではなかった。ごくあたり前の情景に見えた。部隊では一律に同じような生彩のない顔をしていた連中が、汽車でそこから離れ遠ざかるにつれて、すこしずつ娑婆(しゃば)の表情をとりもどしてくるのが、はっきり感じられた。遠慮がちだがやはり浮わついた調子で、皆会話を交したり、控え目な笑い声をたてたりしている。老兵が席を占め談笑するそばに、若い下士官が疲れてうずくまっている。数日前までは想像もできない風景だが、今ではすでに、軍服はまとっていても、世間のおじさんが席にかけ、生白い若者がしゃがんでいる、そんな風にしか見えない。戦終って数日経ち、軍務をとかれた今となっては、おのずから年齢という世間の掟(おきて)が、この車室にも通用し始まるらしい。それを不自然でなく眺める私も、いつしか世間の感情を、徐々にとりもどし始めているのだろう。――しかしその自覚は、必ずしも今の私に愉快ではないのだ。ひどい倦怠(けんたい)のさなかにいるような、また密度の違う世界に無理矢理に追いこまれるような、生理的にかすかな厭らしささえ、ありありと感じられる。何故だろう。戦争から解放されて、今はすっかり自由になったというのに、私のこの感じは一体何だろう?

 私の前の座席には、鹿児島駅いらいミミズクに似た顔をした四十四五の老応召兵がちょこんと腰かけていた。

 押しつけられた窮屈な姿勢のまま、彼はさっきから衣囊の口を開いて、その中の風呂敷包みを結び直したり、小さな木箱をとり出して、その中のものを詰め換えたり、整頓したりしていた。木箱の中には、解員時に分配された航空糧食や携帯口糧がぎっしり詰っている。ふと見るとその上に、小さな写真が一葉、表をむけて乗っかっている。

 その私の視線に気付いたのか、垂れた瞼(まぶた)をひっぱりあげるようにして、その老兵は顔を起した。濁った大きな眼である。首を左右にふりながら、はっきりしない呂律(ろれつ)でつぶやいた。

 「――子供がふたりもあるのですよ。九つに六つ」

 特に私にむかって言った調子でもない。独白じみた呟(つぶや)きである。表情のはっきりしない、いくらか沈欝な感じのする容貌だが、その瞬間にある笑いが、喜悦とも羞恥ともつかぬ色をのせて、ぶわぶわと顔いっぱいに拡がるのを、私ははっきり見た。

 ある感じをもって、私はぐっと背を立てた。そして少し乱暴な動さで右手を伸ばし、老兵の木箱の中から、すばやくその写真をかすめ上げた。老兵のカサカサした掌が、あわててそれを追ったが、私はもうその写真を、自分の眼にかざしていた。

「ふん。これがその、あんたの息子さんたち、というわけだね」

[やぶちゃん注:「都城駅」はここ。宮崎県都城市。「隼人駅」はそこから西直線で三十一キロ手前の鹿児島寄りのここ。現在は鹿児島県霧島市隼人町(はやとちょう)。因みに、私はあくまで地理に不案内な方のために注しているだけで、私のために附しているのではない。私の母はこの日この時、鹿児島県曽於市大隅町岩川にいた。十三歲であった。祖父は旧志布志線岩川駅近くの歯科医であった。]

 

      

 

 この老兵は、さっき鹿児島駅の歩廊で、私のそばにしゃがんで、仲間とぼそぼそ私語をしていたあの男だ。それを私は知っている。そして汽車がきた時、私の手にたすけられて、やっと窓から転がりこんで、私の前の座席にすわったのだ。

 しかしこの印象的な風貌を、私はその時初めて意識にとめたのではない。

 この赤く濁った大きな眼を、ミミズクに似た顔を、ずっと前から私はよく見覚えているのである。この老兵は鹿児島ふきんの海軍基地で、私と同じ部隊にいたのだ。

 この部隊に転勤になった当初のころ、私は足指にヒョウソを病んで、毎日医務室にかよっていた。診察の順番を待つための行列のなかに、私はこの男の顔をしばしば見た、と思う。

 元来設営の袖充兵らしいのだが、身体にどんな故障があったのか知らないが、そんな具合に医務室へ出入しているうちに、設営の任に堪えないと診断されたのかも知れない。その次(つぎ)気がついたときは、彼はいつの間にか医務室の雑用がかりになっていたようである。顔色は悪くぶよぶよとふくれてはいるが、肩や胸が不釣合にほそく、手指が妙に長くて、掌全部はまるで鳥類のそれのようにカサカサに乾いていた。

 部隊に赤痢が蔓延(まんえん)していると言うので、その掌に消毒剤を入れた噴霧器を握り、あちこち消毒をして廻っていた。これはおおよそ楽な配置であっただろう。私の居住区にも、両三度来た。

 ある夕方、私は当直の疲れで寝台に横になり、うとうとと眠り始めていた。

 するといきなり生ぬるい霧のようなものが、裸の胸や脇腹にふきつけてきたので、ぎょっとして眼醒めたら、この男が噴霧器を乙な形にかまえて、寝台の側に立ちはだかっていた。[やぶちゃん注:底本には最後の句点がないが、誤植と断じ、補った。]

 私はとたんに腹を立てた。

「なんだ。寝てるところに、薬をかけるやつがあるか。目は疣(いぼ)か」

 私は思わず上半身を起してどなっても、この男の顔つきは、なぜ私がどなるのか理解しかねる、といったようなぼんやりした表情であった。

「兵曹。私は消毒をばしているところです」

 大きな眼をみひらいて私を見ているのだが、その眼は丁度、昼間に大きく開いていても視力を喪失しているあのミミズクの眼に、そっくりであった。こっちの姿が彼の瞳孔(どうこう)にうつっているのかどうか、はなはだたよりない。

 こんな場合に怒ったって、相手はみじんも反応も示さないにきまっている。それは私はかねて充分承知しているのだから、にがにがしく舌打ちでもしてから、呟く外はない。

「いい加減にしろよ、ほんとに」

 

      

 

 いい加減にしなよ。ほんとに。

 私は知っている。

 私も補充兵だから、年配で海軍に召集された男たちの気持は、だいたい類推できる。

 私たち三十歳前後の連中は、前年召集されたのだが、四十代の男たちはおおむねこの年に入ってからだ。だから私は、私の後から次々入ってくる連中の様子を、つぶさに眺めてきた。彼等は大体同じコースをたどって、同じ型の兵隊になってゆくのだ。

 入団する当初は、彼等は皆それぞれの世間の貌(かお)をぶらさげてくる。自尊心だとか好奇心だとか、軍隊内では通用しそうもない属性を、表情に漲(みなぎ)らせてやってくる。もちろんある種の構えをもって、――いかにも烈しい肉体的訓練を充分覚悟しているぞ、といった風な気構えを誇示しながら、悲壮な面(おも)もちで入ってくる。

 ところが一箇月もたたないうちに、息子ほどの年頃の兵長に、ようしやなく尻を打たれたり、甲板掃除で追い廻されたり、だんだん自分が人間以下に取りあつかわれていることが、身に沁みて判ってくる頃から、彼等の世間なみの自尊心や好奇心や、その他もろもろの属性は、しだいに消えてなくなってゆく。喜怒哀楽が表情に出てこなくなる。

 しかし消えてなくなるのは、表面からだけだ。彼等の感情は表に出ずに、もっぱら心の内側に折れこんでゆくのだ。するどく深く、折れ曲ってゆくのである。彼等は総じて無表情となる。

 そして彼等は頑強に無表情をたもち、そこでいろんなものを韜晦(とうかい)することによって、その日その日を生きようと思い始める。肉体を、上から命ぜられても、最小限度に使用しようと心にかたくきめる。肉体のみならず、精神をも。[やぶちゃん注:「韜晦」自分の本心や才能・地位などを敢えて包み隠すこと。]

 かくして彼等はみな一様に動作がにぶくなり、しだいに痴呆に似た老兵となってゆくのだ。勿論これらは、根本的にはポーズにすぎない。しかしもうその時は、それが擬体か本体か、外部からは見分けがつかなくなっている。そして若い兵長や下士官が、なんて年寄りはのろくさいのかと怒り嘆いても、彼等がふたたび娑婆に戻れば、生馬(いきうま)の眼を抜くような利発な商人であったり、腕っこきの職人であったり、あるいは俊敏な学者であることには、とうてい思い及ばないだろう。[やぶちゃん注:「擬体」表記はママ。後で正しく「擬態」と出る。同じミスは既発表の梅崎春生「生活」にも認められるので、丁寧な再推敲もせずに援用していることが判る。]

 流体がおのずと抵抗のすくない流線形をとるように、彼等はいろんな抵抗を避けるために、概していかなる擬態をも採用する。その為につんぼの真似をしたり、馬鹿をよそおったりすることも、珍らしいことではないのだ。

 ここに仮に、彼等と書いた。彼等ではない。もちろん私ならびに私たちである。

 ただ三十前後の私たちが、長いことかかっても、完全には化け終(おお)せなかったところを、此の年召集された四十前後は、極めて巧妙に、しかも頑固になしとげたようである。世間で苦労してきた賜(たまもの)という外(ほか)はない。

 だから私は、軍隊で会ったいかなる人間も、だいたい信用しない。ことに四十代の兵隊を。私ですら贋(にせ)の表情をどうにか保ちつづけてきたから、この男たちもうまく仮面をかぶり終せたに違いないのだ。

 今この座席から見渡せる幾多の老兵らも、部隊にいた時は、ただひとつの表情しか持ちあわせなかった。それがただ部隊をはなれ汽車に乗ったというだけで、もはや娑婆の風情(ふぜい)をとりもどし始めている。

 私の前にいる老兵も、部隊にいたころは、なにか得体の知れぬ痴鈍な感じだったのが、今ははっきり解放された喜びを、身のこなしにあらわしている。向うの座席に、所書(ところがき)をかいて交換している二人の老兵も、弁当を分け合って食べている他の群も、それはもはやあの一つの表情からぬけ出している。世間人としての匂いを立て始めている。老兵からかすめた小さな写真に眺め入っているこの私にしても、はたから見ればやはりそう見えるのかも知れないのだ。――しかし召集前、私はそんな世間の貌(かお)を信用していたのか。世間の中で私は、自らを韜晦(とうかい)せずに純粋に生きてきたのか。ふとその事に思い当ると、にがい唾が口にいっぱいあふれるような気持がして、私は写真をぐっと老兵の方につき戻した。

「そうです。そうです」私が写真を眺めている間、彼は私の顔をじっと見守っていたらしい。ぶよぶよと頰にゆるんだ笑いをうかべて、しきりに合点合点をしながら、調子をつけるように、

「これが長男、これ、次男」

 ピントの合わぬ、ぼやけた写真であった。縁が色褪(あ)せているのは、おそらく汗がしみたのであろう。納屋(なや)みたいな感じの建物の前に、子供が二人写っていた。二人とも、まぶしそうに笑っていた。大きい方は頭が平たく、手には小旗を持っていた。小さい方はくりくりした眼を、あらぬ方に向けている。その眼の形が何となく、この老兵にそっくりである。子供たちの背後に、三十五六の女が立っている。母親なのだろう。これは笑っていない。うっむいているので、眉の間に暗い翳(かげ)がおちている。女も子供も、上等の服装はしていない。あまり裕福な感じではない。しかしこの素人(しろうと)らしい撮り方のゆえに、子供の頰の乳くさい軟かさや、日向(ひなた)に照らされた着物の匂いのようなものまで、かえってなまなましく画面に浮びただよっている。

「うしろのは、おかみさん?」

「ええ。ええ」

 老兵はそれを大事そうに、ちらと私にかざして見せた。車窓からどっと吹き入る風が、その縁をひらひらとなびかせる。風が急にひやりとした湿気をふくんでくる。部隊にいた頃は、過去もなにもない、現象みたいにしか眺められなかったこの男が、ふるさとには家庭と職業をちゃんと持っているということが、俄(にわ)かに実感として私に迫ってきた。その実感は私自身にからんで、なにかかすかに不快な抵抗を伴ってくる。

「故郷(くに)はどこなんだね。どこまで帰るのか」

「ヘヘえ」写真を丁寧に箱にしまいながら「原籍は福岡県です。しかし、その、居住区は別府」

 居住区だってやがら、と通路に立った若い上等兵がわらい出した。乾いてぎすぎすしたわらい声であった。老兵はきょとんとした顔をあげたが、そちらを見るでもなく、こんどは別の小さな紙包みを箱から取り出して、無神経に私の顔の前にひらひらさせた。

「あなたさん」私のことをそう呼んだ。「これを湯で溶かすと、そっくりお萩(はぎ)になりますがな。饀粉(あんこ)は饀粉、御飯は御飯、とな。さっき駅で仲間のものが、うまいとこ拵(こしら)えて食べよりました」

 航空糧食の一種で、お萩を粉末にしたものである。私も三四箇支給をうけて、衣囊の中にしまってある。

「あんたはなぜ食べなかったんだね」

「へへえ」老兵はまた曖昧(あいまい)な笑い方をしながら「子供に食べさしてやりたい、と思いまして、な」

「子供に会いたいかね」

 老兵は何か言いかけて、口ごもった。灼(や)けつくような色が、その赤らんだ眼の底をはしって消えるのを、私は見た。老兵の略帽は、長いこと洗濯しないと見えて、うすぐろく変色している。

 

      

 

 野面(のづら)に光が蒼然とおとろえ、数百の復員兵をのせたこの小さな列車は、いやな軋(きし)りを立てながら、がらんとした大きな駅に辷(すべ)りこんでとまった。

 停車と同時にあちこちの窓から、ぴょんぴょん蝗(いなご)のように飛び出して、歩廊の水道栓に兵隊らは走ってゆく。群りひしめく彼等の青いシャツの裾が、一斉(いっせい)にはたはたとなびく。吹きつける風はさらに、歩廊の表面をぬめぬめと光らせ、線路の側で小さな渦巻きをつくっている。

 眼をあげると、油煙を溶かしたような黒雲が、もはや南の空の半分をおおい、その千切れた雲端をはげしく揺すりながら、ひくく垂れ下ってくるらしい。それを眺めていると、胸が急に息苦しくなってくるような、背後から追い立てられるような、不安に満ちた緊張感が私に迫ってくる。

「これは嵐になるかな。悪くすれば」

 なにかをごまかすように、口の中でつぶやいてみる。

 汽車が突然ごとんと動き出すと、水を汲み残したままの水筒をかかえ、七八人の兵達が叫びながら歩廊をはしって、ばらばらと汽車を追ってくる。汽車は速力を早めた。

 毀(こわ)れくずれた町並が、線路にそって連なる。大きな踏切りを越えた。線路沿いのせまい道を、カンカン帽をかぶった中年の男があるいて行く。突風がいきなり帽子を吹き飛ばした。白い浴衣(ゆかた)のたもとを風でふくらませながら、男は腰をかがめてそれを追っかける。黒い柵伝いに、カンカン帽はどこまでも転がってゆくのだ。その男の姿体を、はっきり私の眼底に残したまま、汽車はそこを轟然(ごうぜん)とはしり抜けた。

 「ああ、あの感じなんだな」

 浴衣にカンカン帽をかぶった姿。そんな服装が暗示する生活。それがこの世間にあるということ、自分にふたたび始まるということが、なぜか先ず肌合わぬ感じとして私にきた。そんな生活を私もかつて営(いとな)んでいた。その記憶がとつぜん身体によみがえってくる。いつか私もあんな姿勢で、飛ばされた帽子を追っかけた。その時の気持や身体の感覚。――この汽車で東京にもどる。着物を着て、畳の上で飯をくう。背広をきて、毎日役所にかよう。夕方夕刊を買って、省線で戻ってくる。時には風で帽子を吹き飛ばされたり、乏しい銭で安酒を飲んでみたり、そんな生活の枝葉。(しかしそんな生活をこそ、この二年近くの間、私はひそかに渇望しつづけていた!)

 それだのに今となって、その渇望は渇望の形のまま、ヘんに不透明な翳(かげ)をひき始めている。ごく微かな、ぼんやりした侘しい翳を。それはいきなり気圧の低い世界に立たされたような、生理的に不安定な感じを伴っている。湿って不味(まず)いほまれを、ざらざらと口に吸い付けながら、私はしきりに煙をはき出していた。今朝部隊の門を出るときの、あの昂揚(こうよう)された自由感が、何時の間にか、なにか質の違ったものとすり替えられている。そんな筈はあり得ないのに、その感じは膜のように私にかぶさってくる。そいつの襞(ひだ)を探りあてようと焦(あせ)りながら、私は視線だけをぼんやり窓外にあずけていた。その私の頰や額を、とつぜん水粒をふくんだ風が、つめたく弾(はじ)き撲(なぐ)った。[やぶちゃん注:「ほまれ」軍隊内で需品として支給されていた軍用煙草の銘柄の一つ。「保万礼」「譽」「ほまれ」の表記のものもある。大蔵省専売局が製造・発売した紙巻煙草の銘柄で発売当初は民間用だったが、後に軍隊専用となった。旭日旗を交差させたデザインである。]

「雨だ」

 車内があわただしくざわめいて、ガタガタと窓のガラスを立て始めた。いきなり人いきれがこもって、ぼうと眼鏡が内側から曇る。

 長い時間不自然な姿勢で、座席にいるせいで、尻の骨がぐきぐきと痛い。前の老兵が衣囊の紐(ひも)をぐいぐいしめる度に、そのかたい角が私のすねをつき上げてくる。外は蒼然と昏(く)れかかるのに、車室には燈が全然ともらない。

 車内の皆は、やや談笑に疲れたのか、ぼんやりしている者が多いが、それらの眼が明かに不安を宿して、時折窓外にはしるのも、あやしい空模様につながって、列車が何時停まるか知れないという危惧(きぐ)を、はっきり感じているに違いないのだ。その危惧は、私をも強く摑んでいる。(戦争がすんで、やっと身軽になったというのに、また見知らぬ土地におろされて、厄介なことになるのは、もう御免だ)しかし誰もまだ、それを口に出さない。うっかり口辷らせると、たちまちそれが実現するかも知れない。そんな畏(おそ)れが、皆の口をつぐませている風に見える。そこだけを避けて、低声の会話が交されている。

「さっきのあの駅、宮崎?」

「え。広瀬。広瀬だろう」

「大分(おおいた)着は、明朝かな。この分では午(ひる)過ぎになるかなあ。え」[やぶちゃん注:独立した「え」は相手への応答を促す辞。]

 衣囊の紐を結び終えた前の老兵は、すこしの間窓の外を見ていたが、ふと心配そうに私に間いかけてきた。

「この汽車はまっすぐ、別府まで行くとでしょうか」

[やぶちゃん注:「宮崎」駅はここ、「広瀬」駅は現在の宮崎県宮崎市にある佐土原駅の旧称。後の昭和四〇(一九六五)年七月に佐土原駅に改称している。]

 

       

 

「おれは知らんよ」あとは思わず口に出た。「おそらくどこかで、断(き)れているだろう」

「断れているとすれば、私どもはどうなるとでしょう」

「降りるんだよ」

 そっけなく私は答える。日豊線をえらんだことについて、しだいに私は後晦し始めていたのである。隼人(はやと)で下車して、九州本線に乗り換えればよかった。さんざん選んで、これでは悪い籤(くじ)を引きあてたかも知れない。いやな予感がする。隼人駅で手を振りながら降りて行った連中の姿が、ある感じをもって瞼にうかんでくる。

 しきりに顔の汗をぬぐいながら、ガラス窓に吹きつける風雨の音を聞いているうちに、私はしかし急に胸がいらだってきた。

「どうせ、どのみち、家へ帰れるんだ。二日や三日伸びたって、大したことはないさ」

「え。へえ」

「そんな早く帰り着いても、しかたがないじゃないか」

 老兵は頰にちょっと厭な色をうかべて黙った。そしてまっすぐ私を見て言った。

「私どもは、一刻も早く、帰りたいとです」

 はっきりした口調であった。私はすこしひるんだ。部隊にいたときのように、命令を受けても理解できない風であったり、寝ている人間に消毒液をかけたり、そんなけたを外(はず)した動作や感情は、もうこの男にはない。あれはやはり擬態だったのだ、と思う。意識した擬態ではないとしても、保護色や警戒色のように外界に反応して、自然とその個体に具わったのだろう。しかしそれはどちらでもいい。もはや私と関係ないことだし、それほどの興味もない。ないにも拘(かかわ)らず、この老兵の顔を見ていると、私はしてやられたという感じが強かった。

 私から眼をそらさず、老兵はまた追っかけるように、口をひらいた。

「あなたさんはそれほど、帰りたくないとですか」

「いや」私はたじろいだ。すぐ気を立てなおして、こんどは逆に相手をたしかめるように「そんなに帰りたいものかな。家では何をやっていたんだね」

「人形を造るとです。人形師」

 別府土産の人形をつくるのが、その商売だという。それから老兵は、やや雄弁になって、粘土から人形を造り上げる工程を、いちいち話し出した。時々手真似も入る。小さな工房をもち、そこで注文の仕事をするのらしい。職人は使っていないが、弟が一人いて、それと一緒に働いていたのだという。

「――私が学資を出してやりましてな、中学を卒業させました。ところが中学出ても、人形をば造りたいと言うもんで、仕事の加勢をさせておりますが、これが私ども以上の腕利きで、これが人形は、別府でいっとう良い店から、いくらでん注文があるとです。え、二月。二月に私が海軍に引っぱられたあとは、弟一人でやっておりましたが、これも六月頃陸軍に引っぱられたということで、女房からその便りがあったきり、その後のことは判りませんです」

「お内儀(かみ)さんはあの写真のうしろに立っていた人だね」

 外ではますます、風雨がつのってくるらしい。列車は左右に厭な振動をつづけながら走ってゆく。窓ガラスに雨滴がぶつかって、筋となって流れおちる上を、また新しい雨滴がつぎつぎ打ちつけてくる。車室の内部も暗く、人々の顔の輪郭も定かならぬほどだ。反対側の窓の彼方に、海が墨色に拡がっているように見えるが、それも海かどうか判らない。視野はいちめんに昏く、一色に轟々と鳴りはためいている。

 通路で誰かがマッチをすった。瞬間そこらあたりが、ぽうと薄赤くほのめく。その光に浮き上った人々は皆、顔にかぐろく隈(くま)をつくり、まことに荒(すさ)み果てた感じであった。

 身体のしんに熱っぽい疲労を感じあてながら、私は背を曲げて、時折物憂(う)くあいづちを打ちながら、老兵がしゃベるのをうつうつと聞いていた。他に何かやらねばならぬことが、沢山あるような気ばかりしながら。

 

      

 

「……巡検が終りますとな、いつも砂浜の莨盆(たばこぼん)にでて、仲間のものと夜遅くまで話しこむとです。皆帰りたいという話ばかりで、何の因果(いんが)でこんな海軍に入ったんじゃろか、孫子の代まで海軍には入れんちゅうてな。私は医務室の仕事になったから、まあ良かったけんど、他の連中は、この汽車にも乗っとりますが、毎日モッコかつぎで、肩の肉がやぶれたり底豆を出したり、とにかく満足な体の奴はおらんとです。みんな私が楽な仕事をしているのを羨しがりましてな、いつも言い返してやったとですが、お前らは要領がわるい、軍人は要領を旨とすべしと知らんかてな。しかしあまり可哀そうなんで、医務室から薬をもってきてやって、煙草と交換してやったりしましたたい。その薬を罠盆のまわりでつけ合いながら、こんなとこ見たらカアチャンが泣くだろう、そんなことか二人が言ったりしますとな、笑うどころか皆しんとしてしまって、そんな具合にしてやっと、八月十五日になりました」[やぶちゃん注:「そこまめ」。足の裏にできる肉刺 (まめ) 。]

「――ラジオががあがあ言うだけで、なんにも判らず、隊長さんの訓辞では、今よりももっと働かねばならんという話で、居住区へ戻ってきて、陛下もこれ以上やって皆死んでしまえとは、何とむごいことをおっしやるかと、みな寄り合って悲観しているうちに、あのラジオは終戦のことと判りましてな、班長や分隊士がやけになって酒をば打ちくろうて、まことに今まで一生懸命にやってこられたのに、何ともはや気の毒とは思いましたけんど、私どもは皆してこれで家へ帰れる、子供や女房の顔も拝めるちゅうて、悪いと思ったが、肩をたたき合うて喜びましたがな。この世ではもう逢えぬ、こんりんざい逢えぬと、私どもはあきらめて、なるたけ思い出すまいとつとめておったところへ、とっけもなくこんな事になって、私はそれから女房や子供のことばっかり考えつづけですたし」[やぶちゃん注:「とっけもなく」「思いもよらず、とんでもないことに」の意。熊本弁として認識している向きが多いが、江戸後期の「東海道中膝栗毛」に既に口語形容詞として使用されており、宮城生まれ東京育ちの志賀直哉の名作「暗夜行路」でも使用されている。]

「――ヘええ。女房は今年三十二になります。おとなしい、良い奴でしてな。出てくる時、おれが死んだら弟と一緒になれ、そう言うたらな、情(じょう)がないちゅうてむちゃくちゃに泣きましてな、私もそんな覚悟でいた処をこんなことになって、あいつもさぞかし喜ぶじゃろ。あいつにもなにか軍隊土産(みやげ)でも持って行きたい、と思いましても、隊で支給されたのは兵隊のものばっかりでな、甘いものも少しは貰ったけんど、これは子供の分。その他は、毛布や、米や、罐詰(かんづめ)や。女むきの土産物は、何もありやせんちゅうて、笑い合ったりしましたけんどな」

「――何も要らん、帰してさえ呉れれば、何も要らん。こつちから金出してもいい、と言うてた連中が、いよいよ帰れるとなると、皆とたんに慾張りになりましてな、俺の毛布はスフだから純毛のがほしいとか、靴をかっぱらわれたから又盗(と)ってくるとか、浅間しいと思いますけんど、私もそれでな。これだけあれば、四五年は着る物の不自由はせん、そうなれば女房もたすかるだろうし、また伜(せがれ)たちにしても……おや?」[やぶちゃん注:「スフ」レーヨン (rayon)の旧称。人絹(絹のように光沢を持つことから)とも言った。「ステープル・ファイバー(staple fiber)」(本来は「不連続な長さの繊維状のもの」の意)の略。太平洋戦争中、輸入削減によって綿花が極端に不足したため、それを補うために国内の化学繊維で作った紡績用の短繊維を指す。]

 がたんと汽車がとまった。どこかの駅についたらしい。と思ったとたん、濡れた窓ガラスの向う側に、人の顔が五つ六つひしめき迫って、手でガラスをがたがたとたたく。同時に叫び喚(わめ)いているらしいのだが、何を言っているのか、さっぱり聞きとれない。ガラスがべっとりと水に濡れているので、それらの顔の形は暗く歪(ゆが)んで、幽鬼じみてこちらに迫ってくる。

「あけるな。あけるな」

「喚いたって乗れやせんぞ。こんなにいっぱいだあ」

 車内の通路から、そんな声がとぶ。

 しかしその勢に押されて、ついに開いた一つの窓から、外の声々が決定的な意思を伝えて、かん高く突き通ってくる。

「この汽車は、ここ停りだぞ」

「先には行けんぞ」

「早く降りろ、降りろ」

 口々に喚きながら、窓からいきなり荷物を押しこんだり、気も早く上半身を車内につっこんでくるのもいる。みな年若い兵隊や下士官らだ。

「先にはもう行けんぞお。鉄橋が落ちたんだあ。ぼさぼさするなあ」

 この駅のすぐ先の鉄橋が、増水のため落ちて、不通になっているというのだ。この連中は延岡(のべおか)付近の特攻基地の解員兵で、徒歩連絡で河を越え、鹿児島方面へ帰郷する途次だという。全員びっしょりと雨に濡れている。動作はあらあらしく、殺気立っている。[やぶちゃん注:「延岡」ここ。]

 出る者と入ろうとする者で、たちまち狭い車室は大混乱になった。暗い車内に、黒い影がいそがしく入り乱れ、濡れた肌の臭いがひしひしと充満した。名前を呼び合う声や、ののしり合う声に混って、窓ガラスがパリパリパリと砕け散る音がひびきわたった。

 重い衣囊に引きずられるようにして、私は真暗な中を、なかば窓から転がり落ちた。飛沫をふくんだ烈風が、その時私の全身に、横ざまに吹きつけてきた。私は立ち上ろうとしてよろめいた。

[やぶちゃん注:「先にはもう行けんぞお。鉄橋が落ちたんだあ」次章冒頭に出る高鍋駅のすぐ北で小丸(おまる)川河口に架かる小丸川橋梁がある。この橋は小丸川の河口部直近内側が南北に延びる砂州の内側で大きく抉れて広くなっている部分に架橋されているため、非常に長いことが判る(リンクさせたグーグル・マップ・データ航空写真を拡大されたい)。ウィキの「高鍋駅」には、昭和二〇(一九四五)年七月十六日に『空襲により』、『駅本屋構内被災全焼し』、『小丸川橋梁落橋』とあるものの、七月二十七日に『橋梁復旧』とするのだが、「国土交通省 九州地方整備局」公式サイト内のこちらの「小丸川鉄道(おまるがわてつどう)橋」を見ると、『日豊線整備の一環として大正』八(一九一九)年に『小丸川鉄橋が着工、同』一〇(一九二一)年の春、『長さが九州第一の』八百五・四九メートルに及ぶ『大鉄橋、小丸川鉄橋が完成した。これによって高鍋、美々津間の日豊線が開通した』。しかし、昭和二〇(一九四五)年六月二十九日の『大空襲で小丸川鉄橋は大型爆弾の集中投下を受けて』五『ヵ所のガードが落ち』、『不通となり、日豊線は折り返し運転となった。さらに』、昭和二〇(一九四五)年八月二十七日の台風によって被害を受けた、とあり、昭和二三(一九四八)年三月二十日になってやっと再建された、とある。この最後の記載はまさにここで描写される台風のことを意味しているように思われる。日付が前の香川県のデータの後になってはいるが、この時、台風が襲来した事実の傍証ともなろうかとも思われるので示しておく。]

 

      

 

 日豊線高鍋駅。

 その建物を、その時、私は初めて見たのである。(そしてもう永久に、見ることはない)

 ペンキの塗立てみたいな、つい近頃建てたという感じの、しょうしゃな駅舎であった。しかしそこら一帯が停電で、燈ひとつない暗さだから、はっきりと見て確かめた訳ではない。ただそういう感じがしただけである。

 私たちは降りしぶく歩廊をはしり、改札をぬけて、この駅舎の中に集っていた。総数にして、千名近くの復員兵が、汽車を見捨てて、暗い待合室に続々と詰めかけてきた。

 駅のすぐ前から、高鍋の町が始まっているらしい。薄黝(うすぐろ)い屋根の稜角が、ぼんやりした空明りを背にして、凸凹にそそり立っている。雨をともなった烈風が、そこら一帯を間歇(かんけつ)的に、どどっ、どどっ、と吹き荒れている。汽車を乗捨ててきた歩廊の方角は、激しいしぶきにさえぎられて、一面の真暗闇である。[やぶちゃん注:「黝」は音「ユウ」で、「蒼黒い・黒・黒い・黒む・薄暗い」などの意を持つ。]

 しかも風威はしだいに加わってくるらしい。

 風と風との間の小休止が、だんだん短くなってくる。

 切迫した空気が、急に闇のなかに立てこめてきた。汽車の中では、自分も動いているのだから、それほどには感じなかったが、こうして静止して見ると、ただごとでない状況におかれたことが、ひしひしと身に迫ってくる。と言ってこちらからは、何も手を下しようがない。無抵抗に身をすくめて、それが収まるのを待つ外はないのだ。

 暗い待合室には人と荷物がぎっしり詰め合って、輪郭も定かに見えないが、気配だけは物々しく動いていた。あらあらしい呼吸、物を引きずる音、それらが触れ合いぶっつかる音、呼びあう声々、それらを圧倒するように、地鳴りと雷鳴を伴った烈風が、建物全体をぐゎんと撲りつけてくる。建物は生きもののように悲鳴を上げながら、ぐらぐらと身震いをする。その瞬間だけは、駅舎内の物音と人声はすベて絶え、呼吸をつめた沈黙がそこに凝縮する。建物の振動や軋(きし)り音の感じから、この駅舎がひよわな細っこい建て方をしてあることが、皮膚にじかに伝わってくるのである。

「こいつはまずいな。こいつはまずいな」

 闇の底に衣囊を置き、それにのしかかるように身をもたせながら、私はしきりにつぶやいていた。雨に濡れて肌は冷えているのに、額からはじとじとと汗が滲み出てくる。今は暗くて判らないけれども、明るいところで見るこの駅の有様を、私は頭のすみで想像に組み立てていた。近頃出来に特有な、資材不足で手を抜いて、ペンキやベニヤ板などで外観だけをととのえた、やわな建物の外貌を――その建物の在り方をのろう言葉が、思わず口に上ってくる。何かしら呟いていないと、すこし不安なのだ。[やぶちゃん注:「近頃出来」「ちかごろしゅったい」と読んでおく。]

「あぶないぞう。あぶないぞう」

 闇の遠くから、そんな声がちぎれちぎれに間えてくる。

 風の合い間には、やはりそこらで色んなものが動き廻り、短い会話のやりとりが交されている。この風雨を冒(おか)して、川向うの駅まで徒歩連絡に出かけた一団が、やがて空しく戻ってきたらしい。大丸川は大氾濫(はんらん)していて、橋をすべて没し、渡河は不可能だという。不安からくる緊張が、それらの会話を生き生きさせている。どこかで笑い声さえひびいている。すべてが狂躁的に、呼吸(いき)ぎれしたようにはずんでいる。[やぶちゃん注:「大丸川」小丸(おまる)川の誤り。既に注で述べた通り、高鍋駅から北へ出てすぐの位置に大きな河口がああり、そこに九州一の橋梁が掛かっている。]

 烈風がおどろな響きをつれてひとしきり襲ってきた。建物は熱病やみのようにはげしく慄え立ち、不快な軋り音を発して揺れた。ガラスが破れる音、なにかがもぎとられるような音がして、つめたい飛沫がさあっと顔にかぶさってくる。建物の一部が、窓か壁か天蓋かが破れて、そこから雨が直接降りしぶいてくるのだ。

 私は無意識裡(り)に、衣囊を身体でおおう姿勢になっていた。衣囊が濡れるのが心配なのか。その倒錯に気付くと、私は急に腹だたしくまた可笑(おか)しくなって、勢よく背をおこして立ち上った。風威はいささかも衰えるもようはないが、雨はいくぶん小止みになった様子で、それで空がすこし明るんだのか、あるいは眼が闇に慣れてきたのか、ものの動きのぼうとした輪郭が、視野にちらちらととらえられて来た。

 駅舎内から三々五々飛び出して、風雨に安全な場所をもとめて、人影が街なかに駈け出してゆくらしい。そこらで呼びあう声が、風の音にまぎれて聞えてくる。白い稲光(いなびかり)がぱっと流れて、軒下を駈けてゆく人々の姿を、瞬時に照らし出した。

 その時建物の土台から、ぎぎっと突然不気味な音がひろがって、風圧に耐えかねて駅舎全体が、すこし傾きかしいだらしい。突風がうなりを立てて、どどっと吹き入ってきた。

 顔の皮が急につめたくなるような気がして、私も衣囊を引摑むと、いろんなものとぶつかり合いながら、出入口の仄(ほの)明りへ飛び出した。そして呼吸をはずませて街なかに走り入った。

 

      一〇

 

 その高鍋の町の有様は、その夜の私のきれぎれの印象を、今ここにつづり合せて見ても、ことのほか異様である。

 しかし私は少からず動顚(どうてん)していたから、その時それを異様に感じる余裕はなかった。またその動顚ゆえに、私の印象もはなはだしく錯誤しているかも知れない。記憶や印象の脱落も、もちろんある。

 その夜の私の印象では、高鍋という町は、ぜんぜんの無人の巷(ちまた)である。住民ひとり居ない感じの、死に絶えた町の様相であった。

 大きな家や小さな家が、参差(しんし)して並んではいるが、すベて爆撃か爆風で根太(ねだ)がゆるんで、傾いたり歪んだりして建っている。全町あげて疎開し、この嵐の下に、がらんどうの家々だけが残っている。あわただしく駈けぬけた印象では、まさしくそうであった。[やぶちゃん注:「参差」互いに入り交じるさま。高低・長短などがあって不揃いなさま。]

 私は呼吸をはずませて走っていた。走っているつもりだが、衣囊が重いのと、風圧がはげしいため、よろめき歩くに過ぎないようである。仝身にしぶいてくるのは、雨なのか、水溜りを逆風が吹き上げてくるのか、よく判らない。

 吹き倒されそうになると、物かげに身をよせたり、電柱に抱きついたりして、風の弱まりを待って、進んでゆく。何分か、何十分か、そんなふうにして動いていたか、私はよく覚えていない。風雨から完全に避けられる場所を求めて、少しずつ移動しているうちに、どの屋根の下もたよりなく見えて、いっそ歩いている方が安全だ、という気特にもなっていたのだろう。全身は水から引き上げられた犬みたいに、もうこれ以上濡れようがない状態になっていた。

 一緒に街に駈けこんだ連中とも、いつかばらばらに別れて、風のみが吹き荒れる暗い夜道を、私はほとんど無我夢中でうごいていた。しぶきが眼鼻をふさいでくるので、時時舌を垂らして私はあえいだ。風物の輪郭は小暗くみだれ、歪みぼやけている。さっき駅舎を飛び出したとたん、突風が私の眼鏡をさらって行ったのだ。

 視界がちらちらとする。瞳孔が対象に定まらない。そのことが私の判断力を、なおのこと狂わせてくる。私は眼を大きく見開こうと努力しながら、その瞼の引っぱり上げる感覚で、ふいに先刻の老兵の顔を、あわただしく思い出したりしている。

「あいつは、どうしただろうな。あいつは」

 ――私はとある家の軒下のような処に身をよせていた。おぼろに眼に入ってくる風物の感じからでは、街外(はず)れのような一角であるらしい。神経はとがっていても、体が綿のように疲れていて、これ以上風に抗して足を踏み出すことは、とても出来そうになかった。ここで夜明ししようか。肩で小刻みに呼吸しながら、私はそうかんがえた。そのうちに風も収まるだろう。

 それからどの位経ったか判らない。そこらの記億がない。暗い軒下にある防火水槽のかげににじり寄って、私はひとりうずくまっていた。濡れた肌から身体の内部に、冷えがしんしんと沁み通ってきて、私はがたがたと慄えながら、衣囊の紐をといていた。毛布などを取出して、万一の場合の防禦物(ぼうぎょぶつ)にしようと思ったのである。衣囊につっこんだ手が、ふと濡れた箱包みに触れたとき、私は今朝から何も食べていないのを思い出した。虚脱した空腹感が、いきなり胃をしめつけてきた。私は昏迷を感じながら、あわただしくその箱を引きずり出そうとした。

 その時、さかまく突風がななめに私におちてきて、いきなり濡れた服の裾を、猛烈にあおり立てた。うずくまる私の腰を浮かすほど、その風圧ははげしく強かった。それと同時に、板片(いたぎれ)みたいな堅く小さなものが、瞬間に顔の皮をかすめて、私の腕にしたたかぶつかってきた。圧痛が二の腕をはしった。

 私は悲鳴を上げたのだろうと思う。防火水槽の混凝土(コンクリート)に思わず懸命にしがみつきながら、眼鏡をとばした不確かな視力で、風の行方を見定めようとしていた。雲が切れて、そこからおちてくる夜の光で、仄(ほの)白く浮き上った夜の道を、板片や木の枝や、屋根瓦のようなものまでが猛烈な速力で走ってゆくのだ。しかも風位が定まらぬと見えて、それらは突然方向を変えたり、鼠花火のようにそこらを狂い廻ったりしている。

 しんじつの恐怖が、その時始めて私に湧き上った。この颱風は峠をこしていない。まだまだ烈しくなる。その予感が私をぎゅっと摑んだ。それは直覚的に私にきた。

 私は衣囊もろとも、軒下から土間にころがりこんだ。むしろの下に逃げこむムカデみたいに、嵐の眼から自分を隠すことで、ひたすら生命を保とうとするかのように。安全地を選択する余裕は、もう無かった。――身体がひとりでに、本能で動いた。

 

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