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2020/10/31

★カテゴリー「怪奇談集」初期の「佐渡怪談藻鹽草」と「谷の響」の電子化注リンク一覧★

 実は、先日来、複数の知人から、カテゴリー「怪奇談集」を開いても、初期の「佐渡怪談藻鹽草」と「谷の響」の前半分が纏まって表示されないために非常に読みにくくなっているという御指摘をいただいているのであるが、これはブログの『システムのバランス』(意味不明だが、ニフティの正式回答にそうある。サイバーの過剰負荷防止ということか?)のためにニフティの方がカテゴリーの一括表示を如何なる場合も1,000件までで制約しているためで、私自身ではどうすることも出来ないことなのである。本「怪奇談集」は2020年6月17日に1,000件に達し、現時点で1,084件ある。ニフティがこの表示件数を1,000以上にする可能性は今のところなさそうで、かといって、カテゴリー分割をするには、八十四件総てを一つ一つカテゴリー変更をしなくてはならなくなる(システム上、一括変換は不可能ということである)。それでもよかったのだが、どうも機械的にブッ千切って「怪奇談集2」というB級映画の題名みたようなのにするのは不愉快である。

 因みに、「佐渡怪談藻鹽草」は最初の「怪奇談集」電子化注として甚だ私の偏愛する一篇で、電子化自体が私のものぐらいしかない。私の佐渡好きの友人に至っては、総てを印刷して読んでくれたりしており、個人的にはイチ押しの怪奇談集である。「谷の響」も北辺の津軽藩領内に特化した、魅力的で、不思議にリアルなもので、忘れ難い。やはりネット上では今でもレアな電子化注の一つであると思う。

 そこで、少し面倒だったが、最初期の「佐渡怪談藻鹽草」と「谷の響」の二件について、ここにリンク集を作成し、読者の便に供することとした。リンクの後は当該電子化注の公開年月日(一部は時間も)である。また、五十話も書けば、「谷の響」の後も表示されなくなるが、それまでは暫し時間がある。その時には、また、この追加したものを新たに作って掲げることにする。まずはこれで、知人たちの憂鬱も少し晴れるものと思う。

向後とも、本ブログの「怪奇談集」をよろしゅうに!

 

谷の響 序 (二種) / 全目録 2016.12.07

谷の響 五の卷 十九 假面 / 谷の響 ~ 全電子化注 完遂 2016.12.06

谷の響 五の卷 十八 地中に希器を掘る 2016.12.06

谷の響 五の卷 十七 地を掘て物を得 2016.12.06

谷の響 五の卷 十六 旋風 2016.12.06

谷の響 五の卷 十五 龍まき 2016.12.06

谷の響 五の卷 十四 蚺蛇皮 2016.12.05

谷の響 五の卷 十三 蚺蛇 2016.12.05

谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹 2016.12.05

谷の響 五の卷 十一 大蝦蟇 怪獸 2016.12.05

谷の響 五の卷 十 雩に不淨を用ふ 2016.12.04

谷の響 五の卷 九 沼中の主 2016.12.04

谷の響 五の卷 八 河太郎 2016.12.04

谷の響 五の卷 七 メトチ 2016.12.04

谷の響 五の卷 六 狢讐を報んとす 2016.12.04

谷の響 五の卷 五 怪獸 2016.12.04

谷の響 五の卷 四 狼の力量幷貒 2016.12.03

谷の響 五の卷 三 皮を剝ぎ肉を截れて聲を發てず 2016.12.03

谷の響 五の卷 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す 2016.12.02

谷の響 五の卷 一 羹肉己ら躍る 2016.12.02

谷の響 四の卷 廿一 一夜に家を造る 2016.12.01

谷の響 四の卷 二十 天狗人を攫ふ 2016.11.30

谷の響 四の卷 十九 食物形を全ふして人を害す 2016.11.30

谷の響 四の卷 十八 奇病 2016.11.30

谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る 2016.11.28

谷の響 四の卷 十六 肛門不開 2016.11.28

谷の響 四の卷 十五 半男女 2016.11.28

谷の響 四の卷 十四 閏のある年狂人となる 2016.11.27

谷の響 四の卷 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる 2016.11.27

谷の響 四の卷 十二 賣僧髮を截らしむ 2016.11.27

谷の響 四の卷 十一 題目を踏んで病を得 2016.11.27

谷の響 四の卷 十 戲謔長じて酒殽を奪はる 2016.11.27

谷の響 四の卷 九 人を唬して不具に爲る 2016.11.27

谷の響 四の卷 八 存生に荼毘桶を估ふ 2016.11.26

谷の響 四の卷 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す 2016.11.26

谷の響 四の卷 六 鬼に假裝して市中を騷がす 2016.11.24

谷の響 四の卷 五 狂女寺中を騷かす 2016.11.24

谷の響 四の卷 四 大毒蟲 2016.11.24

谷の響 四の卷 三 水かけ蟲 2016.11.24

谷の響 四の卷 二 氷中の蟲 2016.11.23

谷の響 四の卷 一 蛙 かじか 2016.11.23

谷の響 三の卷 廿一 妖魅 2016.11.21

谷の響 四の卷 二十 妖魅人を惱す 2016.11.21

谷の響 三の卷 十九 鬼火往來す 2016.11.20

谷の響 三の卷 十八 落馬の地 2016.11.20

谷の響 三の卷 十七 樹血を流す 2016.11.20

谷の響 三の卷 十六 陰鳥 2016.11.20

谷の響 三の卷 十五 骨牌祠中にあり 2016.11.19

谷の響 三の卷 十四 大藤 2016.11.19

谷の響 三の卷 十三 大躑躅 2016.11.19

谷の響 三の卷 十二 ネケウ 2016.11.17

谷の響 三の卷 十一 巨薔薇 2016.11.17

谷の響 三の卷  十 化石の奇 2016.11.17

谷の響 三の卷 九 奇石 2016.11.17

谷の響 三の卷 八 異魚2016-11-14 20:24:34

谷の響 三の卷 七 死骸を隱す2016-11-13 06:53:32

谷の響 三の卷 六 踪跡を隱す2016-11-12 16:20:46

谷の響 三の卷 五 天狗子を誘ふ2016-11-12 15:20:17

谷の響 三の卷 四 震死2016-11-05 10:13:30

谷の響 三の卷 三 壓死2016-11-04 07:16:28

谷の響 三の卷 二 壘跡の怪2016-11-03 10:24:11

谷の響 三の卷 一 大骨2016-11-02 13:41:59

谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇2016-11-01 11:50:44

谷の響 二の卷 十六 怪蟲2016-10-31 16:39:54

谷の響 二の卷 十五 山靈2016-10-30 10:25:39

谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅2016-10-29 08:18:07

谷の響 二の卷 十三 犬無形に吼える2016-10-28 08:34:19

谷の響 二の卷 十二 神の擁護2016-10-25 08:02:47

谷の響 二の卷 十一 夢魂本妻を殺す2016-10-24 08:20:43

谷の響 二の卷 十 蜘蛛の智2016-10-23 13:33:56

谷の響 二の卷 九 蝦蟇の智2016-10-23 13:00:59

谷の響 二の卷 八 燕繼子を殺す2016-10-23 09:51:32

谷の響 二の卷 七 海仁草 海雲2016-10-23 06:09:29

谷の響 二の卷 七 異花を咲く2016-10-23 05:59:47

谷の響 二の卷 六 變化2016-10-23 05:57:15

谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず2016-10-23 05:54:44

谷の響 二の卷 四 怪蚘2016-10-22 13:42:49

谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す2016-10-21 15:58:10

谷の響 二の卷 二 章魚猿を搦む2016-10-21 15:05:14

谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ2016-10-21 08:06:19

谷の響 一の卷 十八 龜恩に謝す2016-10-20 14:43:33

谷の響 一の卷 十四 筟子杼を脱れ鷹葉を貫く2016-10-19 14:10:02

谷の響 一の卷 十七 猫讐を復す2016-10-19 09:44:46

谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ2016-10-18 16:41:57

谷の響 一の卷 十五 猫寸罅を脱る2016-10-16 05:41:41

谷の響 一の卷 十三 自串2016-10-15 14:30:54

谷の響 一の卷 十二 神靈2016-10-15 12:26:06

谷の響 一の卷 十一 鬼祭饌を享く2016-10-15 06:07:34

谷の響 一の卷 十 虻2016-10-14 14:26:40

谷の響 一の卷 九 木筒淵の靈2016-10-14 08:20:13

谷の響 一の卷 八 蛇塚2016-10-13 09:15:47

谷の響 一の卷 七 蚺蛇を燔く2016-10-12 21:25:14

谷の響 一の卷 六 龍尾2016-10-12 06:07:07

谷の響 一の卷 五 怪獸2016-10-11 07:33:21

谷の響 一の卷 四 河媼2016-10-10 12:50:51

谷の響 一の卷 三 山婦2016-10-09 06:25:50

谷の響 一の卷 二 地中の管弦2016-10-08 16:19:54

谷の響 一の卷 一 沼中の管弦2016-10-07 15:52:51

佐渡怪談藻鹽草 序 目錄 / 佐渡怪談藻鹽草全電子化注 了2016-10-06 12:44:21

佐渡怪談藻鹽草 井口氏何某幼子夜泣の事2016-10-06 10:33:47

佐渡怪談藻鹽草 千疊敷怪異の事2016-10-06 08:16:29

佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事2016-10-05 07:57:35

佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事2016-10-04 11:19:16

佐渡怪談藻鹽草 專念寺にて幽靈怪異をなす事2016-10-03 10:10:34

佐渡怪談藻鹽草 頰つり姥が事2016-10-02 16:42:16

佐渡怪談藻鹽草 小林淸兵衞狢に謀られし事2016-10-02 16:40:07

佐渡怪談藻鹽草 仁木氏妻幽鬼を叱る事2016-10-02 08:32:13

佐渡怪談藻鹽草 淺村何某矢の根石造るを見る事2016-10-02 08:29:23

佐渡怪談藻鹽草 仁木何某懷胎怪異の事2016-10-02 08:27:20

佐渡怪談藻鹽草 井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事2016-10-02 08:18:54

佐渡怪談藻鹽草 河原田町止宿の旅人怪異に逢事2016-10-01 10:04:34

佐渡怪談藻鹽草 百地何某狸の諷を聞事2016-09-30 04:43:29

佐渡怪談藻鹽草 仁木與三兵衞賭ものに行事2016-09-29 06:37:12

佐渡怪談藻鹽草 髭坊主再生の事2016-09-28 08:25:51

佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事2016-09-28 05:49:32

佐渡怪談藻鹽草 眞木の庄兵衞が事2016-09-27 16:37:30

佐渡怪談藻鹽草 小川權助河童と組し事2016-09-27 12:08:30

佐渡怪談藻鹽草 高田何某あやしき聲を聞事2016-09-26 16:12:53

佐渡怪談藻鹽草 名畫の奇瑞有事2016-09-26 10:23:04

佐渡怪談藻鹽草 高田備寛狸の火を見し事2016-09-25 13:47:25

佐渡怪談藻鹽草 神鳴の銚子の事2016-09-25 08:09:00

佐渡怪談藻鹽草 仁木與三兵衞大浦野にて狢をおびやかす事2016-09-24 05:29:25

佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事2016-09-23 08:51:07

佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事2016-09-23 07:32:57

佐渡怪談藻鹽草 高下村次郎右衞門狸を捕へし事2016-09-22 16:13:06

佐渡怪談藻鹽草 靈山寺に大百足出し事2016-09-22 06:36:44

佐渡怪談藻鹽草 小川村の牛犀と戰ふ事2016-09-21 19:56:21

佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事2016-09-21 08:16:47

佐渡怪談藻鹽草 山仕秋田權右衞門愛宕杜參籠の事2016-09-21 07:20:10

佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事2016-09-20 05:17:17

佐渡怪談藻鹽草 上山田村安右衞門鰐を手捕にせし事2016-09-19 05:54:59

佐渡怪談藻鹽草 宿根木村臼負婆々の事2016-09-18 16:18:44

佐渡怪談藻鹽草 荻野何某怪異の火を見る事2016-09-18 13:11:36

佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事2016-09-18 07:43:04

佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事2016-09-17 20:40:47

佐渡怪談藻鹽草 梶太郎右衞門怪異の物と組事2016-09-17 15:30:54

佐渡怪談藻鹽草 菅沼何某金北山權現の御影を拜せし事2016-09-17 13:57:36

カテゴリ「怪談集」始動 / 佐渡怪談藻鹽草 眞木の五郎鰐に乘し事2016-09-17 12:39:14

北原白秋 邪宗門 正規表現版 ただ秘めよ

 

  ただ秘めよ

 

曰(い)ひけるは、

あな、わが少女(をとめ)、

天艸(あまくさ)の蜜(みつ)の少女(をとめ)よ。

汝(な)が髮は烏(からす)のごとく、

汝(な)が唇(くち)は木(こ)の實(み)の紅(あけ)に沒藥(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。

わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに擁(いだ)かまし。

薰(くゆり)濃(こ)き葡萄の酒は

玻璃(ぎやまん)の壺(つぼ)に盛(も)るべく、

もたらしし麝香(じやかう)の臍(ほぞ)は

汝(な)が肌の百合に染めてむ。

よし、さあれ、汝(な)が父に、

よし、さあれ、汝(な)が母に、

ただ秘(ひ)めよ、ただ守れ、齋(いつ)き死ぬまで、

虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、

ああただ秘(ひ)めよ、御(み)くるすの愛(あい)の徵(しるし)を。

 

[やぶちゃん注:「沒藥(もつやく)」ムクロジ目カンラン科カンラン科 Burseraceae のコンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂を指す。ウィキの「没薬」によれば、『スーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生』し、『起源についてはアフリカであることは確実であるとされる』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残され』、『また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とある。

「汁(しゆ)」小学館「日本国語大辞典」の「汁」の方言欄に『島原方言』として「シュル」を載せる。これは直に発音を聴かないと判らぬが、「しゅる」の摩擦音「しゅ」の後の「る」は脱落表記されても、強ち、不自然ではない。]

2020/10/30

北原白秋 邪宗門 正規表現版 汝にささぐ

 

 汝にささぐ

 

女子(をみなご)よ、

汝(な)に捧(ささ)ぐ、

ただひとつ。

然(しか)はあれ、汝(な)も知らむ。

このさんた・くるすは、かなた

檳榔樹(びろうじゆ)の實(み)の落つる國、

夕日(ゆふひ)さす白琺瑯(はくはふらう)の石の階(はし)

そのそこの心の心、――

えめらるど、あるは紅玉(こうぎよく)、

褐(くり)の埴(はに)八千層(やちさか)敷ける眞底(まそこ)より、

汝(な)が愛を讃(たた)へむがため、

また、淸き接吻(くちつけ)のため、

水晶の柄(え)をすげし白銀(しろかね)の鍬をもて、

七つほど先(さき)の世(よ)ゆ世を繼(つ)ぎて

ひたぶるに、われとわが

採(と)りいでし型(かた)、

その型(かた)を

汝(な)に捧(ささ)ぐ、

女子(をみなご)よ。

 

[やぶちゃん注:「檳榔樹(びろうじゆ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu。本邦の南日本に植生する同じヤシ科ビロウ属ビロウ Livistona chinensis とは異なる植物なので注意が必要(同じ「檳榔」と漢字表記するが別種である)。

「白琺瑯(はくはふらう)」白い琺瑯(ほうろう)引きの(琺瑯を焼き付けた)石段。琺瑯は鉄やアルミニウムなどの金属材料表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもの。英語では「Enamel」(エナメル)。「琺」は「釉薬」の、「瑯」は「金属や玉が触れ合う音」或いは「美しい石」の意である。金属材由来の機械的耐久性と、ガラス質由来の化学的耐久性を併せ持ち、食器・調理器具・浴槽などの家庭用品・屋外広告看板・道路標識・鉄道設備用品・化学反応容器などに用いられる。工芸品の琺瑯は「七宝」或いは「七宝焼き」と呼ばれ、工芸品としてのそれらの素地には主に銅・銀・金が使われる。その歴史は古く、紀元前一四二五年頃に製作されたと推測される世界最古の琺瑯製品とおぼしき加工品が、エーゲ海中部のキクラデス諸島に属するギリシャ領のミコノス島で発見されている。その後、この技術が、ヨーロッパ方面とアジア方面に伝播し、十六世紀頃には朝鮮半島に流れ、そこを経て、日本へと渡ってきたと考えられている。また、ツタンカーメンの黄金のマスクの表面には琺瑯加工が施されてあった(以上はウィキの「琺瑯」に拠った)。

「紅玉(こうぎよく)」ルビー(英語:Ruby)ダイヤモンドに次ぐ硬度を持つ。

「褐(くり)の埴(はに)」肌理(きめ)の細かい黄赤色の粘土で作った褐色の瓦或いは陶板。

「八千層(やちさか)」贅沢に何層にも積み重ねた。

「世(よ)ゆ」の「ゆ」は上代の格助詞で、動作の起点を示す「~から・~以来」、或いは経由点を示す「~を通って」。上代の歌語で、本詩集の使用の特異点。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入り、「より」に統一され、歌語のみで辛うじて生き残った。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 艣を拔けよ

 

 艣を拔けよ

 

はやも聽け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、

御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、

蠟(らふ)の火もともるらし、艣(ろ)を拔(ぬ)けよ。

もろもろの美果實(みくだもの)籠(こ)に盛りて、

汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと

歸るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。

われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに

新(あらた)なる大海(おほうみ)の香爐(かうろ)採(と)り

籠(こ)に炷(た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。

さるほどに、跪き、ひとびとは

目見(まみ)靑き上人(しやうにん)と夜(よ)に禱(いの)り、

捧げます御(み)くるすの香(か)にや醉ふ、

うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。

われらまた祖先(みおや)らが血によりて

洗禮(そそ)がれし假名文(かなぶみ)の御經(みきやう)にぞ

主(しゆう)よ永久(とは)に惠みあれ、われらも、と

鴿(はと)率(ゐ)つつ禱らまし、帆をしぼれ。

はやも聽け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、

御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、

蠟(らふ)の火もくゆるらし、艣(ろ)を拔けよ、

 

[やぶちゃん注:最終行を読点で終わるのは、本詩集の中でも特異点である。

「艣」「櫓・艪」に同じ。舟を漕ぐそれである。]

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蜜蜂

 

 蜜蜂

 

 蜜蜂は紀州の地にて多くかへば、世に「熊野蜂」などと、のぶるなり。信〔しな〕のゝ國は、山より山のかさなりて、秋の末つかたより、山々は雪ふりしきて、寒さも殊にはやければ、蜜蜂などの事は、考〔かんがへ〕たる人だにも、聞〔きき〕しれるもの、なし。まいて、人家に飼〔かひ〕たるは、見し事もあらず。

 近きころ、いづこよりか、來りけん、そこ爰〔ここ〕にむらがりあつまりぬ。はじめのほどは、

「人の害にやなるらんか。」

と燒〔やき〕ころしなどしつ。後には、

「是〔これ〕、蜜蜂なり。」

という事を知りてければ、箱など作りて、飼ことゝはなりぬ。

 文化卯の春の比〔ころ〕、

「夜ごとに、いづこともなく、音樂のおと、聞ゆ。」

と沙汰せり。

「いと、めづらか成〔なる〕事よ。」

と、いひ傅へのゝしる。「白紙物語」に、『是は西土〔さいど〕に鼓妖〔こえう〕と言〔いひ〕し事のありしも、是ならん』など、評せり。

 左〔さ〕にはあらず。かの蜜蜂のむらがりあつまり、或は、むらがりとびて、

「いんいん」

として聲をなすにそ有〔あり〕けん。其時、いまだ蜜蜂なる事をしらずして、「音樂」など、いひなせるなり。

 

[やぶちゃん注:本邦には日本固有種である膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica が棲息しており、古くは紀州藩によるニホンミツバチの養蜂(養蜂が本邦で本格的に行われるようになるのは江戸時代になってからである)が行われてきたが、ニホンミツバチでは年に一回しか採蜜が出来ず、安定した収量が見込めないことから、ニホンミツバチを用いた養蜂は極めて少なくなってしまい、採取できる蜜の量が多い明治時代に導入されたセイヨウミツバチ(同種は旧世界での養蜂の歴史が長いために亜種が甚だ多いが、本邦の移入種の代表はミツバチ属セイヨウミツバチ亜種イタリアミツバチApis mellifera ligustica である)がすっかり席巻してしてしまい、ウィキの「ミツバチ」によれば、『ニホンミツバチは山間部などで細々と飼育された。ところが近年、セイヨウミツバチの大量失踪』(蜂群(ほうぐん)崩壊症候群(Colony Collapse DisorderCCD:原因不明。詳しくはウィキの「蜂群崩壊症候群」を見られたい。農薬によるミツバチの体内寄生する菌(キノコ)類が原因とする記事を見つけたが、それだけでは説明が出来ない現象である)『という現象が』世界中で発生しており、本邦でも事例があることから、『日本の気候に適した、寒さや害虫に強いニホンミツバチの養蜂が見直されつつある』。『セイヨウミツバチの繁殖力と蜜の採集能力の高さとニホンミツバチの日本の気候に適した、寒さや害虫に強い能力に注目し、セイヨウミツバチ(A. m. ligustica 及び A. m. iberiensis)』(後者はセイヨウミツバチの亜種で種小名から判る通り、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)原産である)『とニホンミツバチ(Apis cerana japonica)を掛け合わせて、日本での養蜂に適した品種作りも検討されている』とある。

 辞書類では呆れるばかりだが、ニホンミツバチの独立項立てが殆んどない。ネット上では恐らくはサイト「ニホンミツバチ・養蜂文化ライブラリー」「歴史」「伝統養蜂・映像」が群を抜いて優れ、また、「日本財団 図書館」の『自然と文化』第六十七号の「特集 ニホンミツバチの文化誌」が生物学的考証や民俗誌としても非常に丁寧に書かれてあり、興味深く読める。それでも歴史部分はよく判っていないこともあり、後者では凡そ三パートほどに収まっている。一つは塚本学氏の「日本人のニホンミツバチ観」で、以下に引く。単なる孫引きにならぬように、私が途中に多数の補足注を附した。引用の範囲内を逸脱しているということで日本財団から指摘があれば、総て破棄し、引用に寛容な前者の「歴史」に差し替える用意はある。本引用に附した原本等へのリンクは相応に時間をかけてオリジナルに私が検証したもので、相応に資料的参照として価値があると思っている。著作権侵害として破棄する場合を考えると、興味を惹かれた方は保存されておいた方が無難である。

   《引用開始》

 日本で、動植物についての知識の記録化は、江戸時代中期にいちじるしくなる。日常的にこれに接触して生きてきたひとびとが文字世界に参入してその知見を著作者たちの利用に供し、支配層の都会居住者が各地の生業の場に興味をよせていったのである。

 「本朝食鑑」一六九七年)[やぶちゃん注:元禄十年。医師人見必大が書いた食物本草書。は、江戸城の庭園内で蜂を飼って蜜を採るのを楽しむことがあったかに記す。まとまったニホンミツバチ観察記録の最古の例であろう。巣箱の説明につづけて、「蜂王の座」と「群臣」がそれぞれの官職があるかのように「列座」するとした。多くの蜂が朝巣を出て、ひる頃花のしんやしべを持ち帰るが、入り口には二匹の大きな蜂がいて検査し、花をくわえないできた蜂を追い返す、逆らう蜂は他の多くの蜂によって刺殺されると記す。巣が風雨に侵されたり、人に絶えずのぞかれたり、汚物や虫類が巣に入ったりすると、すべての蜂は巣を捨てていなくなると注意してもいる[やぶちゃん注:それは最終巻の「蛇蟲類」の「蜜蜂」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからで、江戸城云々は冒頭直ぐの「江都官家設蜂堂於庭上採蜜作戯其製用厚木板并四園以模大柱之内設部房」とあるのを指し、以下の説明もその後に記されてある。リンク先は原本であるが、訓点入りで読み易いので、是非、参照されたい。]

 蜂の分業等の観察成果にちがいないが、当時の人間社会にひきよせてその行動を解釈していることは否めず、怠け蜂の処遇などは、とくにひきつけ過ぎであろう。蜂の生態は洋の東西を通じて、ひと社会を連想させる面が多かったし、日本の観察者は、中国の文献、とりわけ「本草綱目」の圧倒的な影響を受けていた。一六世紀末に成立し一七世紀初にもたらされたこの本は、「礼記檀弓編」[やぶちゃん注:「らいき」「だんぐうへん」と読む。]の蜂は冠をつけているとの記事を引いて蜂に「君臣之礼」ありとし、また王は無毒で刺さないのは君の徳に似る、王を失えば群が潰れるのは臣の節義を示すなど、蜂の封建道徳を強く認めていた[やぶちゃん注:明の李時珍の本草書のチャンピオン「本草綱目」巻第三十九の「蟲之一」の「蜜蜂」の「釋名」には『時珍曰、蜂尾垂鋒故謂之蜂蜂有禮𧍙。範故謂之𧍙。「禮記云」、范、則冠而蟬有緌。「化書」云、蜂有君臣之禮是矣』とあり、『嗚呼、王之無毒、似君徳也。營巢如臺、似建國也。子復為王似分定也、擁王而行似衛主也。王所不螫似遵法也、王失則潰守義節也 』と珍しく感動詞を附して絶賛している!]。

 その「本草綱目」が一面で、蜂は花をとって小便で醸して蜜にする、臭腐が神奇を生ずるとした[やぶちゃん注:先の「蜜蜂」の前の「蜂蜜」の独立項に「時珍曰、蜂采無毒之花、釀以小便而成蜜、所謂臭腐生神奇也」とある。]。西洋の世界で蜜蜂が牡牛の死体から生まれたと長く説かれていたのを連想させる奇妙な説であった。「本朝食鑑」の少し後「大和本草」(一七〇八年)[やぶちゃん注:宝永四年。]が、これを明解に否定したのは中国本草学からの自立表現でもあったが[やぶちゃん注:私の後注参照。]、「後鶉衣」に載る「鳥獣魚虫の掟」(一七五九年)[やぶちゃん注:宝暦九年。俳人横井也有の俳文集「鶉衣」(うずらごろも)。但し、後編は誤りで「拾遺 下」の中にある。短いので、引く(所持する二〇一一年岩難文庫刊堀切実校注を底本とし、漢字を恣意的に正字化した)。『一 蜜蜂の小便、高直(かうぢき)に賣り候よし、諸方の痛みになりよろしからず候。向後は世間一統に、只(ただ)米六升ほどの積(せき)を以て相はらひ申べき事』。]という戯文では蜜蜂を小便売りに擬していて、世間ではなおこの説が一般的だったようだ。「家蜂畜養記」(一七九一年)[やぶちゃん注:寛政三年。](「古事類苑」所引)は、紀伊の養蜂家出身者の著作のようで、暮春から仲夏までの間、快晴の日の夕刻近く巣を出て騒ぐ「八時噪」という現象とこれについでみられる分封活動、新しい巣の収容法、分封数の予測法、外敵に襲われた蜂の戦い等々のくわしい記述とともに、蜂が不潔なものに集まるのも、蜂の足に人の尿がついたのも見たことがないとし、小便で蜜を醸す説を強く否定した[やぶちゃん注:「家蜂畜養記」のそれはかなり長い。「古事類苑全文データベース」こちら(「八時噪」で検索されたい)で電子化したものと、原本画像(PDF。続きはアドレスの数字を増やせば見られる)が読める。その下には一部であるが、「日本山海名産圖會」の冒頭部分も電子化されてある。]

 「家蜂畜養記」の筆者は、蜜蜂に君王ありという古人の言を始め疑ったが実見して信じるようになったと記す。文献や擬人化への依存から自由な観察者で、養蜂家の実務に応じた知識の普及に力を入れた。だがそこでも、分封後の蜂がもとの巣に戻ることは許されず、誤って入るものは殺される、「執事の臣」が王命を行うので法は厳しいなどとする。「虫の諌」(一七六二年)[やぶちゃん注:宝暦十二年。京都の漢詩人江村北海の著になる和文の戯文。虫に仮託した人間社会批判となっている。]と題する本が、蜂を「代々帯刀の武職」としながら、「口にあまき蜜ありて腹にするどき剣をかくす」「才ありて徳なき生まれ」とするなど、「後鶉衣」の例と同様、戯文類が蜂にきびしいのに対して、まじめな観察者の方が蜂に封建道徳を認める傾向が強い。

 「家蜂畜養記」が刊行されずに終わったのに対して、「日本山海名産図会」(一七九九年)[やぶちゃん注:中略。ここには参照が指示されてあるが、原雑誌ノンブルなのでよく判らぬ。恐らくは「◎蜜桶◎」パートであろう。]は、綿密な観察の成果を広く読書人たちの場に普及させた。「八時噪」の記載など「家蜂畜養記」と重なるところも多く、紀州熊野での観察が中心のようだが、諸国の養蜂にも目を向ける。蜂の分業について、「多く群れて花をとる物は巣を造らず、巣を造るものは花を採らず、時に入替りて其役をあらたむ」ことにも注意する。黒蜂十ばかりを「細工人」と呼ぶが、その職掌に花を持たずに帰った蜂を監査して従わないものを刺し殺すとするのは「本朝食鑑」説によったのであろうか[やぶちゃん注:「日本山海名産図会」のそれは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の14コマ目以下の「○蜂蜜」を参照されたいが、花を持たずに帰った蜂を監査し、不服従の個体を刺し殺すというのは、19コマ目の六行目に出る。]

 日本列島に人類の生活がはじまった頃には、すでにそこにはニホンミツバチが棲息していて、蜂たちは蜜をつくっていたにちがいない。食材を求めて山野の動植物に鋭い目を向けたひとびとが見過ごすわけはなく、蜂蜜の採取は縄文時代以前にはじまっていたろう。養蜂のはじまりはずっと遅れ、その地域は限られていた。紀州熊野をはじめとして各地の養蜂生産が記録されていった江戸時代にも、養蜂によらぬ蜜の採取も行われていた。「本草綱目」での、石蜜・木蜜・土蜜と家蜜という分類がこれに相応し、「大和本草」が木蜜以下の三つは蜜として同一としたように、野生の蜜蜂の巣を採っての養蜂は、分封の巣の採取育成技術と通じたろう。「家蜂畜養記」は、南方は温暖で家蜂があり、寒い北方には土蜂があるが、よく養えば「土蜜」も「家蜜」のようになろうと期待し、「日本山海名産図会」は、山蜜・家蜜に二区分して山蜜の方が濃厚で良いとするとともに、土を深く掘って巣を作る土蜂の一種にも蜜があり、南部地方でこれをデッチスガリというとの記述を残す。自然界に利用すべき生物を求めるうごきはこの時代にもつづいていた[やぶちゃん注:以上は既に私がリンクを張ってあるもので総て原本が読める。]

 「栗氏千虫譜」(一八一一年)は、凶年には無能の「黒蜂」が多くまじり生ずることがあり殺さねばならない、これは「土蜂ニアヤカリテ」生ずるものであるとの記述も残す[やぶちゃん注:栗本丹洲の名品「栗氏千虫譜」の巻頭を飾る、蜜蜂や養蜂を図入りで示すそれの、「ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の左頁の後ろから五行目以降に書かれてある。本篇は図を含めて非常に素晴らしい。是非、画像を繰って、冒頭から味わって戴きたい。]。一八世紀末にも、将軍家や紀州家の江戸の庭中に蜜蜂が飼育されていた。筆者はそこからの知見も生かし、その分業状況を図のように認識していた。養蜂術の面からも、それぞれの役割変更やこれと「土蜂」との関係など、観察力はなお問われねばならず、それがニホンミツバチの範囲についての理解にも通じたろう。だが、多くの虫について記録したこの大著で、蜂の記述を冒頭に置いたのは、群臣が君命を守り、子が父の令を受け、孜々[やぶちゃん注:「しし」。熱心に努め励むさま。]として蜜を醸すに勤め苦辛することは人倫以上という瑞奇を人に知らせるためであった。

 自然界の動植物に日常的に接していたひとびとの知識と、中国文献による知識とを接合させる試みが、江戸の博物学、日本人の自然知識を高めていったが、文字知識によって実地の観察がまげられる場面もあった。ニホンミツバチのばあい、その行動が封建倫理に適合するかにみえたことの呪縛が、これと別に大きな力をもっていたのである。ただし、金銀を掘り出す鉱山労働者の辛苦を、蜜をあつめる蜂の身の上と同じとした「日本山海名物図絵」(一七五四年)のように、人間社会との類推には別なみかたがあったことも注意されねばなるまい。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

次に、佐々木正己氏の「ニホンミツバチの生態」のニホンミツバチのルーツの記載(学名を斜体に直し、一部の学名や命名者英文で前後を半角空けた)。

   《引用開始》

 ニホンミツバチは日本でただ一種の在来種ミツバチで、北海道を除く日本全土の山野に広く分布している。導入種のセイヨウミツバチがヒトの飼養下にあり、我が国では野生状態で系統を維持している個体群はないのと異なり、飼われているものでも野生状態のものと変わらない。野生個体群の一部が、一時的に伝統的な巣箱で飼養されてはまた山野に戻ることを繰り返している。

1 ニホンミツバチはどこから来たか?

 ニホンミツバチ(Apis cerana japonica Rad.1887)は、分類学上はトウヨウミツバチ(Apis cerana)の一亜種である。アジアにおけるミツバチの分布を図[やぶちゃん注:中略。リンク先を参照されたい。]に示したが、その中でキナバルヤマミツバチやクロオビミツバチは、島や高地に隔離される形で局地的に分布しているのに対し、日本亜種を含む cerana の分布は、熱帯アジアから日本までと実に広い。それはセイヨウミツバチが、西に分布を広げ、ただ一種でアフリカ南部から欧州北部にまで分布しているのと、ちょうど対比される[やぶちゃん注:中略。表有り。リンク先を参照のこと。]。

 では同じ熱帯起源でありながら、なぜセイヨウミツバチとトウヨウミツバチの二種だけが、下北半島のような寒冷の地までを住処とすることができたのであろうか?

 それは熱帯のミツバチが、ただ一枚の巣板を開放空間に作るのに対し、二種は、1.木のうろなどの閉鎖空間に居を求め、2.巣板を複数並べて配置することにより高い保温効率を獲得し、3.長い冬を乗り切るための多量の蜜を貯蔵する性質を獲得したからである。

 日本列島が大陸から隔離されるプロセスは、今から数万年前までの幾度かの間氷期に進んだ。ニホンミツバチはその隔離後、大陸の cerana から区別しうる固有の集団になったと考えられる。日本がまだ朝鮮半島を通じて大陸と地続きだったころ、ミツバチが自由に行き来していたであろうことは、韓国やタイなどの cerana とニホンミツバチとがきわめて近縁であることから想像される。ミトコンドリアDNAの類似度を調べた Smith1991)の結果では、日本とタイのものが近く、最近の Deowanish1997)によれば、韓国と日本のものが大変近い。対馬産のものは本州、四国、九州産のものとは区別され、むしろ韓国の cerana に近いようである。ニホンミツバチの祖先がフィリピンルートで入って来た可能性は、台湾の cerana が日本産のものと大きく異なること、南西諸島に棲息を示す確かな証拠がないことから低い[やぶちゃん注:韓国に分布するトウヨウミツバチとニホンミツバチは近年のDNA解析によって種として近いことが判っている。後の荒俣宏氏の引用中に附した私の注を参照されたい。]

 結局ニホンミツバチは「大陸の cerana が陸橋を通り、現在の西南日本に入り、下北半島まで北進し、北海道には入れなかった」と見るのが適当と考えられる。

   《引用終了》

次に、やはり同じ佐々木氏の「2 ニホンミツバチによる旧式養蜂の歴史」である。

   《引用開始》

 ニホンミツバチによる養蜂がいつ頃から行われていたかは定かでない。文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」(大日本農史、明治十年)とされる。「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち飼う。しかれどもついに蕃息らず」という記載(六四三年)で、百済の人が奈良の三輪山で養蜂を試みたが、失敗に終わったという記録である。しかし実際にニホンミツバチのことを描写していると思われる記述はこれより少し前、同じ「日本書紀」の六二七年の項にもでてくる[やぶちゃん注:後の荒俣宏氏の引用中で私の注で原文を示す。]

平安時代に入ると諸国から宮中への蜂蜜献上の記録が見られ、当時すでに各地でニホンミツバチが飼われていたことが推察される。平安時代も末期になると、貴族[「今鏡」(一一七〇)の藤原宗輔]や庶民の間(「今昔物語」平安後期の成立)でもミツバチが飼われていた姿が描かれている[やぶちゃん注:「今昔物語集」の知られたそれは、巻第二十九の「於鈴香山蜂螫殺盜人語第三十六」(鈴香(すずか)の山にして、蜂、盜人(ぬすびと)を螫(さ)し殺せる語(こと)第三十六)。「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める(新字体)。但し、この水銀商人は、自宅で酒を造っては、ひたすら、蜂に呑ませて大切に祀り飼っていたそれを、二百匹も呼び出して襲わせ、八十余人の盗賊は、その蜂に刺されて悉く死んだとあるからには、ちょっとニホンミツバチとは思われない。敢えて比定するなら、オオスズメバチの可能性が高いように私には読める。但し、ヒトがオオスズメバチを飼い馴らすというのは聴いたことがなく、嘘臭い。]。

 養蜂が本格的に行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、蜂の生態観察も飼養技術も飛躍的に進んだ。貝原益軒は「大和本草」(一七〇九年)の中で、ハチミツを採蜜場所により、石密(山の岩場の割れ目などに営巣した巣から採取した蜜)、木蜜、土蜜、家蜜に分類したりしている。生態にも詳しい最初の養蜂技術書は久世敦行の「家蜂畜養記」で、蜂王および王台、巣箱の作り方、巣箱の台の高さ、巣箱を置く場所、闘争、分蜂、雄蜂、巣虫、採蜜法、製蝋法、の十項目からなる渡辺、一九八一)。挿図が良く、広く読まれたのは木村孔恭の「日本山海名産図会」(一七九九)であるという。造巣をする内勤蜂と採餌をする外勤蜂とを区別しており、分蜂の記載も詳しい。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」(一八〇三)からは、蜂蜜は全国各地で生産されたものの、薬店ではすべてが熊野蜜の名で売られていた、という当時の状況が読みとれる。

 日本の旧式養蜂を大成させたのは、和歌山県の貞市右衛門(一八二五~一九〇四)といってよい。伝記(松本保千代編 一九五九)によると、巣箱の規格化を実行して数百群を飼い、小規模ながら移動養蜂まで試みている。私は一九九〇年、有田市の貞家を訪問し、群数や蜜の収量、売買のすべてを記録した大福帳を見せて頂き、当時の様子を実感することができた。それによると、翁晩年の一八八二から一九〇二年までの二十年間に、延べ三、六二九箱から一群あたり四・七キログラムもの蜜を採取している。これは現在のセイヨウミツバチによる商業養蜂の数字と比べれば五分の一程度であるが、ニホンミツバチとしてはすばらしい数字である。

 図[3][やぶちゃん注:略。リンク先を参照。]は一八七二年、オーストリアで開かれた万国博へ出品するために編纂された「蜂蜜一覧」の一部である。これはニホンミツバチによる旧式養蜂の総決算ともいうべきもので、分蜂群を収容するときに蜂を静めるための桶の水、五段重ねの継ぎ箱、蝋を分離する工夫など、感心させられる記載が随所にみられる。

 この「蜂蜜一覧」の後間もない明治八年、ドイツの養蜂技術が日本に紹介され、同十年、セイヨウミツバチ群が初めてアメリカ経由で日本に導入される。その後日本の養蜂は導入セイヨウミツバチを用いた近代化への道を歩み、ニホンミツバチは農家の庭先で昔ながらの方法で飼われる程度となってしまった。しかし一方、そのために、伝統的な飼い方が今に残ることになったともいえる。

   《引用終了》

これで概ね日本に於ける蜜蜂観とニホンミツバチの歴史が判ったが、以下、それらと重複する部分もあるが、纏まった刊本記載であり、以上の記載の補填相当部もある、所持する荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「ミツバチ」の項から、本邦に関わる部分を引用する(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 《曰本書紀》皇極天皇2年(64311月の条によると、この年、百済の太子の余豊竹がミツバチの巣4枚を、三輪山で放し飼いにした。しかしうまく繁殖しなかったという。俗にこれは曰本における養蜂の起源といわれるが、亡命中の太子が占いをするためにミツバチを放したという説もあって、そのあたりははっきりしない[やぶちゃん注:荒俣氏は「11月」と書いてあるが、これは十一月の条の後に書かれているだけで、この皇極天皇二(六四三)年のこの年に、という意味であって、十一月の意ではない。以下である。『是歲。百濟太子余豐以密蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息』とあり、最後の「蕃息(ばんそく)せず」というのは「繁殖しなかった」の意と読める。但し、彼が放ったのは百済から持ち来ったミツバチと思われ、近年、DNA解析によって基亜種であるトウヨウミツバチ Apis cerana cerana の中でも現在の韓国に棲息する群と近縁であることが判明しているから、或いは、この時の一部が生き残り、本邦のニホンミツバチに遺伝子を残している可能性はゼロとは言えないと私は思う。]。

 曰本の山間部では古く、大木の中をくりぬいて〈蜂洞勁〉[やぶちゃん注:「蜂洞」だと「はちどう」と読むことが確認出来るが、ここは「ほうどうけい」と読んでおく。]という巣箱をつくり、そこにハチの群れをすまわせた。ちなみに原淳氏は。〈蜜蜂今昔〉(《虫の曰本史》所収)という一文のなかで、百済の太子は、三輪山にこの〈蜂洞〉を4つ置いたのではないか、という新説を提唱している。というのも、《曰本書紀》にはこのくだり、〈蜂房四枚〉とある。そして〈枚〉には〈幹〉の意昧もあるからだ。

 ちなみに《曰本山海名産図会》には、ミツバチの野生種の捕獲法が記されている。すなわち、桶や箱に酒や砂糖水を入れ、蓋に孔をたくさんあけて、大木の洞穴にあるハチの巣のそばに置いておく。すると、ハチが自然に容器に移ってくるので、それをもち帰って蓋をかえ、軒や窓にかけておくのだという。

 いっぽう養蜂については、日本でさかんになったのは江戸時代からである。ソバの花がしぼむときが、蜜を採取する目安にされた。採る方法は、まず巣箱の蓋を軽く叩く。するとハチが巣の後ろに逃げこむので、そのとき巣の3分の2を切りとるのである。そして巣をしぼる。こうして巣を3分の1残しておくと,ハチはまた巣をもとのようにつくりなおす。だから同じ巣から何度も蜜がとれたという。

 ミツバチは、巣の温度が高くなると、いっせいに外に出て、はねをあおいで風を送り、巣の温度を低下させる習性がある。日本では、この作業がだいたい午後2時から3時ころ、つまり八ツ時に行なわれることから、これを〈八ツさわぎ〉とよんだ(《日本山海名産図会》)[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の20コマ目の右七行目を参照されたい。]

 なお西洋から技術を導入しての養蜂は1877年(明治10)より始まる。新宿勧農局に、セイヨウミツバチ6群が初めて移入された。

 なお江戸時代には、砂糖と朝鮮飴(熊本県名産の飴菓子)をまぜて、にせの蜂蜜がつくられた。これについて、《和漢三才図会》には、真蜜は黄白だが、にせの蜜は色が黒くて乾きやすい、とある[やぶちゃん注:これについては、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」の電子化注を参照されたい。]

[やぶちゃん注:中略。以下は「蜂蜜」の項となるが、初めのパートが古代エジプト及びローマその他の西域の主記載である。以下、本邦と本草学で強く関連する中国の部分から引用を再開する。]

 中国でも、古くからミツバチを飼養して、その蜜を食料とした。ただし明末の崇禎10年(1637)に書かれた宋応星《天工開物》によると、山ぎわの崖や土穴の巣にある蜜をとるのが8割で、家で採取する蜜の量は、全体の2割にすぎない。

 中国人は古来、崖の上や洞窟につくられたミツバチの巣から、蜜を採取する風習を守ってきた。長い竿を巣房に突きさして蜜をだし、それを竿に伝わらせて、下にある容器で受け取るのである。陣蔵器《本草袷遺》によると、多いときは3~4石(540720ℓ)も採れるという。また同書では、薬用にはこの蜜が最良だとされている。

 陶弘景によれば、ミツバチは、種々の花を人尿で醸成し、蜂蜜をつくるのだという。いっぽう李時珍は、大便を用いて醸成するとして、〈臭腐神奇(しゅうふしんき)を生む〉とはこのことだ、と《本草綱目》で述べている。また《天工開物》の著者宋応星は、人尿説を支持した。

 おもしろいのは尚秉和[やぶちゃん注:しょうへいわ。清末期から中華民国時代の易学者。以下は一九三八年刊。]《中国社会風俗史》である。中国の蜂蜜は。西洋のものよりずっと甘い。醸成する期間が長いからである。西洋のは、蜜ができるとすぐ採取してしまうので、味がひじょうにうすいという。

 《本草綱目》によれば、同じ蜂蜜でも新しい蜜は希薄で黄色、古い蜜には白い結晶質が含まれている。蜜としては古いほうが上等、したがって中国では前者を偽蜜、後者を真蜜とよんで区別した。同書には〈およそ蜜の真偽を試験するには、火筋を紅く焼いて中に挿入し、それを引き上げて見て、気が起こるものならば真物、烟(けむり)が起こるものならば偽物である〉としている。

 曰本ではミツバチに関する知見を、中国からの受け売りと独白の伝承とをミックスさせてつくりあげた。たとえば《和漢三才図会》には、中国の本草書の考えがそのまま引きつがれ、ハチは花を小使で醸して蜜にする、とされた[やぶちゃん注:先と同じく、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」を参照されたい。]。しかし貝原益軒は《大和本草》でこの説を初めてはっきりと否定、ハチは花を巣に運んできて、それを巣に塗りつけて蜜をつくるのだ、と述べた[やぶちゃん注:中村学園の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」の「陸蟲 蟲之下」PDF)の「蜂蜜(はちみつ)」を参照されたい。長い記載で、冒頭は13コマ目から開始されるが、この否定記載は15コマ目の左ページ後ろから二行目の箇所から始まり、16コマ目にかけて記されてある。]

 《延喜式》典薬寮の〈諸国進年寮雑薬〉には、蜜・蜂房があげられている。ただし原淳《ハチミツの話》によると、この蜜は、養蜂によってつくられたものではなく、天然のものだったらしく、量もあまり多くなかった。

 《曰本山海名産図会》には、蜂蜜は〈紀州熊野を第一とす〉とあり、さらに〈芸州是につぐ、其外勢州、尾州、土州、石州、筑前、伊予、丹波、丹後、出雲などに、昔より出せり〉と記されている[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本第二巻PDF)の16コマ目の「蜂蜜」冒頭の二行目を参照されたい。]

 蜂蜜の産地について、貝原益軒《犬和本草》には〈土佐ヨリ出ルヲ好品トス〉とある[やぶちゃん注:先のデータ14コマ目八行目を参照。]

 《本朝食鑑》では、ミツバチが関東にもまれに見かけられる、と記される[やぶちゃん注:人見必大のそれは最終巻の「蛇蟲類」の「蜜蜂」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここの右頁七行目の「江東亦希見ㇾ之」がそれ。]

 日本でも、山奥の崖にあるハチの巣から、熟した蜜を採ることも行なわれた。その場合、長い竿を巣に突きさして、蜜を流しとったという。また、巣ができてから曰が浅く、蜜が熟していないものも、よじのぼってとった(《日本山海名産図会》)[やぶちゃん注:先のデータ20コマ目の左ページ六行目を参照。]

   《引用終了》

「文化卯の春」文化四年丁卯(ひのとう)。一八〇七年。この年の旧暦一月一日はグレゴリオ暦二月七日、旧暦二月一日は三月九日、旧暦三月一日は四月八日である。

「夜ごとに、いづこともなく、音樂のおと、聞ゆ」これは即座に想起する実話笑話がある。「耳囊 卷之三 聊の事より奇怪を談じそめる事」である(原文と私の注及び現代語訳有り)。私はそこで正体のハチをニホンミツバチと同定した。事件は安永の初めである。安永年間は西暦一七七二年から一七八一年で、ここで信濃でニホンミツバチの群れ(時期的に見て確かに分蜂する頃である)が確認されたのより、三十年余り前である。私はその同定比定を今も変えるつもりはない。第一、前に見た通り、「本朝食鑑」一六九七年)では百年以上前に江戸城内庭園で養蜂が行われていたとあるのだから。

「白紙物語」読み不詳。「しらがみものがたり」と読んでおく。底本の向山雅重氏の補註に、話者『元恒の叔父吉川鸞岡』(「らんこう」と読んでおく)『が見聞を記したもの。鸞岡』(宝暦九(一七五九)年~文政三(一八二〇)年)『は、吉川崇広の次男、家を継ぎ』、『医を業とし、かたわら俳人として活躍、医号を養性、俳号を鸞岡。父の代よりその居を白紙関(現、長野県伊那市伊那郡)と名づけ、風流のひと作を示さざればここを通さなかったという』とある。

「西土」ここは中国。

「鼓妖」清の紀昀が著した文言志怪小説集「閱微草堂筆記」の巻八の「如是我聞 二」の以下。

   *

姚安公又言一夕。與親友數人。同宿舅氏齋中。已滅燭就寢矣。忽大聲曰巨炮發於床前。屋瓦皆震。滿堂戰慄。噤不能語。有耳聾數日者。時冬十月。不應有雷霆。又無焰光衝擊。亦不似雷霆。公同年高丈爾炤曰。此為鼓妖。非吉徵也。主人宜修德以禳之。德音公亦終日栗慄慄。無一事不謹愼。是歲家有縊死者。別無他故。殆戒懼之力歟。

(姚安公(てうあんこう)、又、言はく、「一夕、親友數人と與(とも)に、舅氏の齋中[やぶちゃん注:書斎。]に同宿す。已に燭を滅(け)して就寢せんとす。忽ち、大聲、巨炮の曰ふがごとく、床の前に發す。屋の瓦、皆、震ふ。滿堂、戰慄し、噤(ごん)して[やぶちゃん注:黙ったままで。]、語る能はず。耳の聾すること、數日たる者も有り。時に冬十月、應(まさ)に雷霆の有るべからざるべく、又、焰光、衝擊も無く、亦、雷霆に似ず。公と同年なる高丈爾炤(こうじやうじしやう)が曰はく、『此れ、鼓妖なり。吉徵に非ざるなり。主人、宜しく德を修め、以つて、之れを禳(はら)ふべし』と。德音公も亦、終日、慄慄として、一事をも謹愼せざる無し。是の歲、家に縊死せる者は有るも、別に他に故(こと)無し。殆んど戒懼の力[やぶちゃん注:過ちを犯さないよう気をつけよという霊的な力による戒め。]なるか。)

   *

この話、如何にも辛気臭い載道的(日本で言う道話)な怪談で気に入らぬ。「鼓妖」は怪声を発する妖物で、「春秋左氏伝」や、「漢書」の「五行志」に出る古い妖獣ではある。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 ほのかなる蠟の火に

 

  ほのかなる蠟の火に

 

いでや子ら、日は高し、風たちて

棕櫚(しゆろ)の葉のうち戰(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、

ほのかなる蠟(らふ)の火に羽(は)をそろへ

鴿(はと)のごと歌はまし、汝(な)が母も。

好(よ)き日なり、媼(おうな)たち、さらばまづ

禱(いの)らまし讃美歌(さんびか)の十五番(じふごばん)、

いざさらば風琴(オルガン)を子らは彈け、

あはれ、またわが爺(おぢ)よ、なにすとか、

老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座(ざ)はあきぬ、

いざともに禱(いの)らまし、ひとびとよ、

さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。

拜(をろが)めば香爐(かうろ)の火身に燃えて

百合のごとわが靈(たま)のうちふるふ。

あなかしこ、鴿(はと)の子ら羽(は)をあげて

御龕(みづし)なる蠟(らふ)の火をあらためよ。

黑船(くろふね)の笛きこゆいざさらば

ほどもなくパアテルは見えまさむ、

さらにまた他(た)の燭(そく)をたてまつれ。

あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、

まめやかに安息(あんそく)の日を祝(ほ)ぐは、

あな樂し、眞白(ましろ)なる羽をそろへ

鴿(はと)のごと歌はまし、わが子らよ。

あはれなほ日は高し、風たちて

棕櫚(しゆろ)の葉のうち戰(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、

ほのかなる蠟(らふ)の火に羽をそろへ

鴿(はと)のごと歌はまし、はらからよ。

 

[やぶちゃん注:YouTube のyu00000000氏の『讃美歌15番「われらのみ神は」(パイプオルガン)Hymn:The Lord is king! lift up thy voice(pipe organ)』をリンクさせておく。普通の信徒の合唱付きを探したが、いいものが見出せなかった。歌詞は画像に出る。

「パアテル」「角を吹け」の私の注を参照されたい。

「ロレンゾ」イタリア語圏の男性名ロレンツォ(Lorenzo)で知られるが、元はラウレンティウス(Laurentius)で、ラテン語の男性名「ローマを含むイタリア中央西部地方に位置していたラティウム地方出身の男」の意。ここは邦人に与えられたクリスチャン・ネーム。よく知られた聖人で総ての宗派から崇められる人物としては「ローマのラウレンティウス」(聖ラウレンチオ助祭殉教者:St. Laurentius Martyr/イタリア語:San Lorenzo martire 二二五年~二五八年)が挙げられる。彼は生きながら熱した鉄格子の上で火炙りにされて殉教(切支丹用語「まるちり」)した。因みに、私の偏愛する芥川龍之介の「奉教人の死」(大正七(一九一八)年九月発行『三田文学』初出)の「ろおれんぞ」が登場するには、まだ、十一年、待たねばならない(私は因みに、奉教人の死〔岩波旧全集版〕作品集『傀儡師』版「奉教人の死」、及び芥川自身によって隠蔽された原拠である斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」の他(以上はサイト版)、芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版と、同前やぶちゃん注 ブログ版を作成済みである)。]

2020/10/29

堀内元鎧「信濃奇談」始動 /序・信濃奇談 卷の上 諏訪湖

 

[やぶちゃん注:堀内元鎧(げんがい)の伊那郡を主とする奇談奇話を集めた「信濃奇談」(上・下二巻)の電子化注を起動する。底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の教師で郷土史家・民俗学者向山雅重(むかいやま まさしげ 明治三七(一九〇四)年~平成二(一九九〇)年:長野県上伊那郡宮田村生まれ)氏校訂本を用いる(親本は中村元恒(後述)の後裔の中村家から高遠信徳図書館に寄託された信濃地誌「蕗原拾葉(ふきはらしゅうよう)」)の巻百六十二・百六十六]。但し、参考校合として早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある「信濃奇談」版本を使用した。底本にはルビが殆んどなく、参考底本にもそれ以上のものはないため(それは丸括弧で添えた)、一部の読みに迷ったものは推定で歴史的仮名遣で〔 〕を以って読みを振った。また、濁点落ちの部分が多く、読み難いため、適宜、濁点を補い、また、読点や記号も増やし(句読点は一部で底本のものを変更した)、段落も成形した。踊り字「〱」は正字化或いは「々」とした。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、五月蠅いだけなので、基本、指示していない。

 本書は向山氏の解題によれば、堀内元鎧(文化四(一八〇七)年~文政一二(一八二九)年:享年二十三歳)が、その父で高遠藩儒者(教授職)・医師・歴史家であった中村元恒(げんこう 安永七(一七七八)年~嘉永四(一八五一)年:号は中倧(ちゅうそう))が語った内容を実子であった元鎧が筆録したものである。元鎧は上穂(現在の長野県駒ケ根市赤穂。グーグル・マップ・データ)に生まれ、『父が高遠藩の儒者となってからは叔父の玄三について医を修めた。業成って、かつて中村家の出である松本の堀内家を嗣ぎ、玄堂の義子となった』が、『次の年の秋病となり、翌文政十二年二月病』いのため、夭折した。本書は『その死を悼んで、父元恒が』『出版したもので、その序文と、巻末に附せられた「堀内玄逸墓表」とによって、本書の成立と、逝』(ゆ)『いた愛児を悼む父の心持がよく出ている』。元恒の出である『中村家は、代々、医を業としていたので、元恒は父に』就いて、『医をならい、高遠藩阪本天山に儒を学んだが、後、京都に上り、猪飼敬所』(いかい/いがいけいしょ)『に儒を、中西鸞山に医を学んだ。文化五(一八〇八)年大出村(現、長野県上伊那郡箕輪町大出)に』て『医を業とするとともに、易の研究を進め』、その傍ら、『郷土資料の蒐集に心かけた』。『ここにあること』、『十七年』にして、『その名声』の『あがるとともに、文政七(一八二四)年』、『高遠藩主の招きをうけ、ついに、藩儒に列し、儒学教授とともに、医家を督することとなった』。『元恒の学は、天山の古文辞学を祖述したものであって、治国平天下、救世済民を目的とし、安民長久の実用的な学問でなければならないとした』。『時』、『あたかも募末、藩財政窮迫の時代、ことに高遠藩は極度に財政が窮乏したため、藩士は食禄を減ぜられ』、『生活が困窮してきた。そのため』、『藩士らの一部に、その救済策として開墾事業を興すよう』、『連署して藩に請願したものかあった。ところが、士たる者が、百姓の真似をして生活を豊かにしようなどということは恥ずべきことだという当事者の意見のためにその請願は却下され』、『しかも、その請願の士の多くは元恒の門人であったので、藩士にこの挙のあるは』、『教授の責任だとし、元恒の禄を半減し、一家を入野谷の黒河内村泉原(現・長野県上伊那郡長谷村黒何内)』(現在は伊那市長谷黒河内(はせくろごうち)。グーグル・マップ・データ)『に流し、親威故旧との文通をも禁じた。時に嘉永二(一八四九)年』、『元恒七十二歳』の時であった。『そしてここに在ること二年、嘉永四年九月』、『病んでこの地に歿した。享年七十四歳』であった。晩年の不遇は胸を撲つものがある。『元恒の蔵書は、二千二百余種、一万一千余巻。儒学関係の註釈等の著述も多く、また、歴史書の蒐集、ことに、郷土関係の文献を収集した「蕗原拾葉」は五十四冊百五十巻。後、元恒の子元起が続篇として集めたものを合せると、計五百二十二巻を成している郷土文献の大集成であ』った。『「信濃奇談」の筆録者堀内元鎧』は『人となり、貞信懿実』(いじつ:心から誠実で麗しいこと)、『口に他人の過悪を言わず、よく継母、義父母に仕えて、皆の感賞するところであった。祖父淡斎に似て俳諧を好み、病篤くなるや、得意の一句をしたためて瞑目した』。『没後、その遺篋』(いきょう)『の中に「信濃奇談」の筆録があった。これは、元恒の説くところの小言隻語までもかならず述べて遺さない』ものであり、『これは元恒の選述したところであるが、元鎧の力によるものであると、父元恒は記している』とあり、底本の親本には『頭註のほかに、上木後に書入された註、ならびに補遺のほとんどか、明らかに元恒の筆蹟のものが多い。つまり、元恒の手沢本を、元起』(元恒の今一人の子。『父と共に在ったが』、父の死から二年後の『嘉永六年、謫居を解かれて藩に出仕、後、江戸に出て昌平黌に学び、林学斎の援をうけ、帰って万延元(一八六〇)年藩学校進徳館を開いた』とある)が、「蕗原拾葉 続篇」へと『編入したことがわかる』とある。最後に『本文の内容は、どの項目にも、和漢の多くの文献を引用して考証しており、元恒の科学的態度のうかがわれるものか多い』と評されておられる。]

 

 

信濃奇談 序

 

予爲家人時東走西奔專從事醫業以糊口妻子傍隆好文藝乎不得暇隙每以爲憾兒元鎧在膝下以纉吾志述吾事於是吾業有達也盖我信濃之地里老所傳鄙說奇談頗有類齊東野語者予徵諸史書一々爲之解說元鎧隨而錄之名曰信濃奇談玆己丑二月元鎧沒偶探遺篋中得之是雖予之所撰述皆元鎧與焉有力可見余之所言小言隻語必述而不遺可謂其意能勤爲子之道今也逝矣悲哉予亦不遺其志傳之世以慰其魂耳

 

  文政己丑仲春 中邨元恒撰

         ㊞ ㊞ 

         中村直薰書

          ㊞ ㊞ 

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットと署名は原本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」第一巻PDF)を参考にポイントと位置を配した。実父元恒の序文。書の「中村直薰」は不詳。中村家の相応の書家であったか。「文政己丑仲春」とあるから、まさに元が鎧亡くなったその月の内にこの序文を記していることになる。訓読を勝手流で試みる。

   *

 予、家人の爲に、時に、東走西奔し、專ら醫業に從事し、以つて妻子の糊口とす。傍ら、文藝の隆好するや、暇(いとま)を得ず、隙(すき)每(ごと)に、以爲(おもへら)く、

「兒(こ)の元鎧、膝下(しつか)に在るを憾(うら)み、以つて、吾が志しを纉(つ)ぎ、吾が事を述べ、是に於いて、吾が業(げふ)、達する有るなり」

と。

 盖(けだ)し、我が信濃の地、里老、傳ふる所の、鄙說・奇談、頗る類(るゐ)有り。齊東野語(せいとうやご)は、予が、諸史書に徵(ちよう)して、一々、之れの解說を爲(な)す。元鎧、隨ひて、之れを錄し、名づけて曰はく、「信濃奇談」。

 玆(ここ)に己丑(つちのとうし/きちう)二月、元鎧、沒す。

 偶(たまた)ま、遺篋(いきやう)の中(うち)を探るに、之れを得(う)。是れ、予の撰述する所と雖も、皆、元鎧と與(とも)にせり。余の所言、見るべき力はあるべし。小言・隻語(せきご)、必ず、述べて、遺(のこ)さず。其の意(こころ)、能く勤め、子の道を爲すと謂ひつべし。

 今や、逝(ゆ)けるや、悲しきかな。

 予、亦、遺らず、其の志しを世に傳ふるを以つて、其の魂(たましひ)を慰むのみ。

   *

「齊東野語」信ずるに足りない下品で愚かな言葉。元は中国の斉(現在の山東省)の国の東部の田舎者の言葉つき「斉東野人の語」の略。「孟子もうし」の「万章篇」が原拠。]

 

 

信濃奇談 卷の上

堀内元鎧錄  

 諏訪湖

 

 信〔しな〕のゝ國諏訪の湖は、わたり一里ばかり、冬になれば、あまねく、氷、とぢて、湖のおもて、鏡のごとく、斧もて、穴をうがち、網おろし、鯉・鯽〔ふな〕など取るを「氷引〔こほりびき〕」といふ。めづらかなるわざなり。

 此氷のうへに「神わたり」といふ事ありて、一夜のほどに、白きすじ、いできぬれば、是を見て、後は人も馬も、此うへをゆききする事、むかしより、年ごとの例〔ためし〕とすめれど、あやふげもなきは、いと奇事になむ。私〔わたくし〕にいふ。「かの神渡りの事は狐のわたる也」と貝原翁はいへり。是は朱子が「楚辭」、及び「狐媚叢談」などいへる書に、しか見へたれば、かくはいへるなれど、是は、氷のあつくはれるによりて、われるにぞ有〔ある〕べき。「西域聞見錄」に、氷山〔ひようざん〕を往來する事を記して、『道路無一定之所有二神獸一非ㇾ狼非ㇾ狐每ㇾ晨視其蹤之所ㇾ住踐而從ㇾ之必無差謬。よくこれに似たる事なり。神のわたるといひ、狐のわたるといふ、兩說ともに心得がたし。

[やぶちゃん注:「西域聞見錄」の引用のうち「住」とあるのは、複数の原本の版本で確認したが、孰れも「往」となっているので、「信濃奇談」の原著の誤りであることが判明した。

 以下、頭書(かしらがき)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「信濃奇談」HTML)を見られたい。]

 「閑田次筆」に、出羽の國八郞潟といふ四里に七里の湖ありて、冬は、さながら、氷、あひて、人も馬も其上を行かふ。又、漁人、氷の上に火を燒〔やき〕て暫〔しばらく〕あれば、其處、氷、ぬけて、深き穴となる。其穴に網をおろして、魚をとる、とぞ。氷の厚きも三さか、四さかばかりもあり

 

[やぶちゃん注:「氷引」湖などの結氷した氷面に適当な距離をおいて穴を空け、第一の穴から網を入れ、順次、次の穴へと送り広げて、魚を獲る漁法で、特に諏訪独特の方言でも漁法というわけでもない。

「神わたり」所謂、「御神渡(おみわた)り」である。ウィキの「諏訪湖」によれば、『冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため』、『「膨張」し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる』。『この自然現象を御神渡り』『と呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だという。御神渡りが現れた年の冬には、無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が、八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する「拝観式」が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが』、『注進式は行われ、その状態は「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ』。『御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」、「二之御神渡り」(古くは「重ねての御渡り」とも呼んだ)、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ぶ。御渡り神事にて確認・検分の拝観がなされる』。『御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる』。但し、『氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険をともなう行為である』。『平安末期に編纂された』西行の「山家集」に『「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること』、応永四(一三九七)年、『室町時代に諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え』「御渡注進状扣(ひかえ)」に『「当大明神御渡ノ事」とあることから、古くは平安時代末期頃には呼称があったとされている』とある。

「白きすじ」「白き筋(すぢ)」。

「私にいふ」私見を述べる。

「狐のわたる也」これは私も知っている俗信である。「立命館大学アート・リサーチセンター「ArtWiki」のこちらの「御神渡について」によれば、『諏訪湖の湖面が全面結氷し、寒気が数日続くことで氷の厚さが増してゆく。さらに昼夜の温度差で氷の膨張・収縮がくり返されると、南の岸から北の岸へかけて轟音とともに氷が裂けて、高さ』三十センチメートルから一メートル八十センチメートルほどの『氷の山脈ができる。これを「御神渡り」』『と呼び、伝説では諏訪神社上社の男神・建御名方神』(たけみなかたのかみ)『が下社の女神・八坂刀売神』(やさかとめのかみ)『のもとへ通った道筋といわれて』おり、『また、氷上に人が出ることが許されるのは、神様の通った後というタブー』の解除の謂い『もある』。『一般的に御神渡りは、上記の通り建御名方神が八坂刀売神のもとに向かった跡であるとされているが、別の言い伝えで諏訪明神の御使である狐の所為だという俗信もあ』り、『『郷土研究』の中の「信州諏訪湖畔の狐」によると、諏訪湖から流下する天龍河畔の川岸村などには、大崎様という祝神がおり、これはヲサキ狐を祀ったものだとされている』。『狐の所為だという説について「笈埃随筆 巻之六」』(江戸中期の旅行家百井塘雨?~寛政六(一七九四)年)の紀行)『には以下のように書いてある』。『(前略)湖水の差出たる諏訪家代々の居城有る所を霞が崎といふ。その大手に橋あり。その橋の下に富士峰の形厳然と水に移る也。毎年極寒になれば、この湖水一面に氷りて、その厚さ計難し。誠に鉄石の如し。故に上下の諏訪、常は三里あるに、此氷の上を真直に行時は僅一里計なり。然れども神使の狐有て、先渡るを考へ、夫よりは重き荷を付たる馬も人も渡るに難なし』とある。

「貝原翁」福岡藩藩医で儒者・本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。但し、どうも元恒は何かを勘違いしているのではないかとも思われる。益軒の書いたもので御神渡りをよく記しているものに、貞享二(一六八五)年に木曾路を旅し、書いた「岐蘇路記」があるが、そこには(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書PDF)の三十六コマ目から視認して起こした。歴史的仮名遣の誤りはママ)、

   *

此湖(うみ)、冬・春の間、氷はりて寸地も透間なく、湖一面にふさがる。年の寒溫により、霜月の初中(しょちう)・終(じう)、或は師走の初より、氷はりて後(のち)、人、其上を通る。春も年によりて、正月の末・二月の半(なかば)まで氷の上を渡る。二月半までわたれば、氷は二月末まであり。寒ければ、おそく消(きゆ)る。氷のあつさ、年により、八、九寸、一尺二、三寸あり。其上は何ほどの大木・大石を置(おき)ても、わるゝ事なし。幾千人わたりても、あやうからず。氷の上すべるゆへに、「かんじき」をはきて通る。其上に雪つめば、常の道のごとく、「かんじき」を、はかず。わらんじ・草履にても行〔ゆく〕。馬はすべるゆへ、わたらず。日本國中に湖多しといへども、かくのごとく氷はる所、なし。信濃は日本にて最(もつとも)地高くして、寒気、甚〔はなはだ〕ふかき國なる故也。湖の上に、冬、はじめて、氷はりて、第三日、若〔やや〕氷薄ければ、第四、五日の比(ころ)、上の諏訪より、下の諏訪の方(かた)に、よこはゞ五尺ばかり、大なる木石などの通りたる如く、氷の上に、あと付〔つき〕て、みゆる。是、毎年かならず有〔あり〕。奇怪の事也。是を「御渡(みわたり)」と云〔いふ〕。又、「神先(かみざき)」とも云。御渡ありて、後、人、わたる。御渡なき内は、渡らず。氷、なを、うすきゆへ也。年(とし)により御渡の所、かはる。上の諏訪より、ある事は、かはりなし。下の諏訪の方に御渡ある所は、かはる也。其所によりて、年の豊凶をしると云。御渡のすぢ、一文字につき、或は、ゆがむ事、有。「堀川院後百首」[やぶちゃん注:永久四(一一一六 )年の「永久四年百首」の別名「堀河院後度(ごど)百首」のこと。]神祇伯(しんぎはく)顯仲(あきなか)[やぶちゃん注:源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年)平安後期の公卿で歌人。村上源氏、右大臣源顕房の子。従三位で神祇官の長官であった。]が哥に、「すはの海の氷の上の通路〔かいひぢ〕は神のわたりてとくる也けり」とよめるは、この事ならん。[やぶちゃん注:中略。]此湖、氷はりて、漁人(ぎよ〔じん〕)、氷の下に、あみを引〔ひく〕を「氷引(〔こほり〕びき)」と云。これ又、奇異のわざなり。氷を、一所、ながくうがちて、其所より、あみを入〔いれ〕、また、其先(さき)をうがち、竹の竿(さほ)を持(もち)て、まへのうがちたる所より次のうがちたる所まで、あみを送りやりて、幾所(いく〔しよ〕)も、かくのごとくにうがち、あみをひろくはりて、魚を、とる。昔は、かくの如くするすべを知らずして、冬・春は、漁人、すなどりをせず、といへり。

   *

とあって、狐のことは全く記していない。私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化注を完遂しているが、彼が安易に狐が渡るなどと書いて放っておくタイプの人間ではないことは請け負える。しかもこの木曾の紀行は益軒が実際に現地に出向いて親しく実見して記した数少ないドキュメント(彼は若き日の遊学の折り以外は福岡藩を出ていない。されば、魚類に同定などにとんでもない誤りがある)なのである。さても、どうも元恒の批判の情報源として、何か頻りに臭くてしようがないのは、偶然、前に引いた江戸中期の旅行家百井塘雨の紀行「笈埃随筆」なのである。「国立公文書館」のこちらの画像(四十一コマ目)を視認して引く。百井の批評も読んでて、ガチョーーーン!!! てなっちゃうんだけどね。

   *

   諏訪不思議

抑〔そもそも〕、信州諏訪に上下の社有り。其間に湖水を湛〔たた〕ふ。其道路、湖邊を𢌞りて三里也。世に七不思議とて有〔ある〕中に、每日、「社檀[やぶちゃん注:ママ。]の雨」といふ事ありしかば、やがて巳の刻[やぶちゃん注:午前十時頃。]計りに參詣して、靜〔しづか〕に宮・社を廻りつゝ時を移し待〔まち〕けり。此日、六月中旬の事なるに、數日、雨も無く、草、焦〔こが〕れて燒〔やくる〕が如く、更に一㸃の雲さへ見えず、炎暑絕難し。

「いかにや。」

と怪〔あやし〕み、おもひ立𢌞る中、萱葺の二尺餘りもあらん御殿の正面へ、

「じたじた。」

と、水、十滴斗り、滴〔したた〕り落〔おつ〕。

「コハ。あらたなる靈異なりけり。」

と、有難くも、神驗、肝に銘じぬ。世にこれを、

「湖水の水源也。」

と、いひ傳へたり。又、御祭礼には、必ず、七十五の獸の頭を贄〔にへ〕とす。兎・狸・猪・鹿を用ゆ。

「近鄕より持集〔もちあつま〕るに、いつの年にても、七拾五に、增減なし。」

とかや。中に一頭、耳の裂〔さけ〕たる鹿、一頭、必ず、あり。是も又、ふしぎ也。又、古き歌に、

 諏訪の海かすみが崎にきて見れば冨士のうへ漕〔こぐ〕あまの釣舟

と詠〔よみ〕しと、彼地に在〔おは〕しける澄月法師に聞ければ、

「誠に。その事よ。湖水の差出〔さしいで〕たる諏訪家代々の居城有る所を霞が崎といふ。その大手に橋あり。その橋の下に冨士峯の形、嚴然と水に移る也。」

 每年、極寒になれば、この湖水、一面に氷りて、その厚さ斗り難し。誠に鉄・石の如し。故に、上下の諏訪、常は三里あるに、此氷の上を眞直に行〔ゆく〕時は、僅〔わづか〕一里斗り也。然れ共、神使の狐、有〔あり〕て、先〔まづ〕渡るを考へ、夫よりは重き荷を付〔つけ〕たる馬も人も渡るに難なし。其狐渡らざる間は、氷、破れ安し。春に至り、既に氷解〔とく〕る頃には、其狐、又、渡り戾る也。その後は人も渡らず、「いつしか解る也」と云傳へ、書にも記せり。

 是、事實を正さずして傳書の誤〔あやまり〕也。

 其狐の渡る事は、韻府[やぶちゃん注:漢字熟語を韻字によって検索できるようにした書。簡単な辞書的役割も担った。]に記したる中華の事を取傳〔とりつた〕へ、「さも有べし」と自得したるは、不ㇾ詳〔つまびらかならざる〕か。

 「漢書」文帝紀註師古云、狐之爲ㇾ獸其性多ㇾ疑、每ㇾ渡氷河。且聽且渡。故云疑者而稱狐疑と云々[やぶちゃん注:「漢書」文帝紀の師古の註に云はく、「狐の獸爲(た)るや、其の性、疑、多し、氷河(ひようが)を渡る每(ごと)に、且つ聽き、且つ渡る。故に疑ひぶかき者を云ひて狐疑と曰ふ」と。]。

 「述征記」[やぶちゃん注:東晋末年に郭縁生の撰した地誌。]に亦曰、河氷合須狐聽而行[やぶちゃん注:河の氷、合(がつ)せば、須(すべか)らく、狐、聽くべくして行く。]。

 是等を推考〔おしかんが〕へて傳へ云〔いふ〕なり。諏訪の氷を渡るといふ、中々、類(たぐ)ふべき事には、あらず。又、川などの流れにも、あらず。周匝(シウソウ)[やぶちゃん注:周囲の外縁の総距離。]三里なる湖水の極寒に及ばんとするに、水底より、

「もりもり」

と鳴響〔なりひびき〕、夜となく、晝となく、次第に氷る音、初〔はじめ〕て聞〔きく〕ものは、大〔おほい〕におどろき、奇なりとす。かくて一面に氷る事、厚さ三尺余、五尺に及ぶ。不時に風雨雷電する事、一晝夜、或は二日に及ぶ。是を「御渡り」と稱して、人、大に恐れ、門戶を閉〔ちぢ〕て出〔いで〕ず。

 風雨、靜まりて後、見るに、彼〔かの〕尺余の氷の眞中に、一文字に、裂破〔さけやぶ〕る。其幅三尺斗り、向ひ路より、爰方〔こなた〕に貫けり。其山中より出る所、每年、同じく、その出たる所の道路の樹木は、打ひしぎたる樣に倒れ、砂石、乱れ、大なる材木など曳出したる跡のごとし。

 爰をもつて、狐の所爲にあらざる事を知るべし。偏〔ひとへ〕に大蛇の出〔いづ〕るなるべし。

 四、五尺に及ぶ厚さの氷を、直に裂破り通る程の事也。

 その後、村民・旅人迚〔とて〕も、前にいふ如く、駄荷〔だに〕の馬にても、快く通行す。

 又、常に漁者ありて、魚を網するものも、此奇事の後は、氷上、二十間、三十間[やぶちゃん注:三十六メートル強から約五十四メートル半。]を隔て、胴突〔どうつき〕を以て、所々に穴を鐫(ゑり)て大網を通し、彼一文字に裂〔さけ〕たる所へ、魚を追出して捕へ賣買す。其味ひ、甘美にして類ひなしといふ。されば「堀川百首」に、顯仲の歌にも、神の渡る諏訪の氷など詠るを考ふべし。其うたは左の如し。

 諏訪の海や氷の上の通ひ路は神の渡て解るなりけり 顯仲朝臣

但し、春に至り、又、後、戾る、などとは、なき事にて、三月の頃、自ら解るなれば、人も心得て、通りを止〔やむる〕なり。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が一字下げ。]

因〔ちなみ〕に曰〔いはく〕、「能登大夫資基といふ人、俊賴朝臣の許に來り語りけるは、『信濃國と申〔まうす〕は、極めて風早き所なり。これによりて諏訪明神の社に、「風祝部(カザホウリ)」といふものを置〔おき〕て、かれを奧深く籠置〔こめおき〕、百日の間、尊重し祝ひ祭るに、其年、風、靜にて、農業のため、めでたし。若〔もしく〕は、自然、少〔すこし〕の透間ありて、日の光りを見せつれば、風、治らずして荒し、といふ事なり。これを哥に詠〔よま〕んとおもふ』事を語りけるに、俊賴の答に、『珍らしき事也。さりながら、無下〔むげ〕に俗に近し。かやうの事を更におもひよるべからず。不便〔ふびん〕々々』と、いはれければ、その旨を存する所に、後に俊賴、

 信濃なる木曾路の櫻咲にけり風の祝部に透間あらすな

と詠れければ、『黑き事なり』と、五品、大に後悔しけり。

   *

最後の話は、鎌倉中期の教訓説話集「十訓抄」にまるまる載っている。「やたがらすナビ」のこちらを見られたい。藤原通基 (寛治四(一〇九〇)年~久安四(一一四八)年)は平安後期の貴族で鎮守府将軍藤原基頼の次男。源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)は歌学書「俊頼髄脳」で知られる貴族歌人。「五品」通基は極官が正四位下・能登守・大蔵卿・左京大夫であるから、その前の五位の時の出来事なのであろう。それにしても、この最後の「風祝部」の話が非常に惹かれる。これは日本の民俗学が隠蔽したがる生贄としての一年神主のニュアンスを非常に強く持っているからである。柳田國男も『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十)』で誤魔化すように言及しているが、古代社会に於いては災厄を防ぐために生贄に類するものがあったのであり、ごく近世までその疑似的な祭祀や儀式が行われ続けていたことは疑いがない。小泉八雲も「神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(30) 禮拜と淨めの式(Ⅷ) 一年神主」でそれに触れている。さて。どうだろう、これだけ読んでしまうと、どうも元恒は、最後の美味しいところ(自然科学的には正しい)をとっただけ、という気がしてこないだろうか?

なお、鹿の耳の話が気になった方で、柳田國男の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(1) 神のわざ』をお読みでない方は、是非、お薦めする。私のカテゴリ「柳田國男」で全十三回に分けてある。

『朱子が「楚辭」』南宋の儒学者で朱子学の創始者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)の「楚辞集注」(そじしっちゅう)。恐らく、同書の、

   *

猶豫狐多疑而羞聽河冰怡介孤赫其下不聞水聲乃敢遇故人過河冰者要須狐行然後

   *

辺りを言っているものであろう。

「狐媚叢談」明の憑虚子(ひょうきょし)撰の妖狐譚を集めた文言志怪小説集。

「西域聞見錄」清の東トルキスタン (後の新疆省、現在の新疆ウイグル自治区) 関係の地誌。椿園七十一(ちんえんしちじゅういち)撰。全八巻。一七七七年完成。別名に「新疆外藩紀略」「異域瑣談」などがある。みずからの現地調査に基づいた紀行文で、独自の内容を持ち、当時の官撰地誌には見られない重要な内容を含んでいる、と「ブリタニカ国際大百科事典」にはあった。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政一三(一八〇一)年に板行された同書の畑道雲(はたどううん)校訂本PDF。但し、返り点のみしか附されていない)の三十四コマ目の右から五行目に発見した。「卷七 回疆風土記」の「雜錄」の一節である。先に示した通り、文字列に誤りがあるので正して、以下、勝手流で訓読しておく。読みは私が勝手に振った。

   *

道路は、一定の所、無し。神獸、一つ有り、狼に非ず、狐に非ず。晨(あした)每(ごと)に、其の蹤(あしあと)の往(ゆ)きける所を視て、踐(ふ)むに、之れに從(よ)る。必ず、差謬(さびう)、無し。

   *

〔氷結した地面には〕道路というような一定の道筋はない〔時には薄い氷が張っているだけでその下には恐るべき断崖や渓谷が待ち受けていることもある〕。ただ、神獣は一匹だけおり、それは狼のようで狼でなく、狐のようで狐ではない。夜が明ける度に、その神獣の歩いた足跡が往き示す所を見つけて、その後を、慕って行くことを常とする。一度として、それが間違うこと〔危険な奈落に落ちること〕は、無い。

   *

「閑田次筆」国学者伴蒿蹊(ばんこうけい:生まれは近江八幡の京の豪商の子で、同地の同姓の豪商の養子となったが、三十六歳で家督を養子に譲って隠居した)著になる考証随筆。文化三(一八〇六)年刊。「閑田耕筆」の続編。紀実・考古・雑話の三部に分類し、古物・古風俗の図を入れたもの。以下は、巻一の一節であるが、カットがあるので、正しく引く。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本を視認した。

   *

○くぼたより七里西に、八郞潟といふ四里に七里の湖ありて、冬は、さながら、氷、あひて、人も馬も其上を行かふ。又、漁人(スナドリビト)、氷の上に火を燒〔やき〕て日頃あれば、其所、氷、ぬけて、深き穴となる。其穴に網をおろして、魚をとることをす。「氷の厚きこと、三さか(尺)[やぶちゃん注:「さか」の右添えの漢字。]四さかばかりもあり」など聞ゆ。行〔ゆき〕て見まほしけれど、道のほどもとほく、いたづき[やぶちゃん注:病気。]にかゝりて、もだしぬ。近き城下の川も、氷、あひて、人みな、その上を通ふなり。[やぶちゃん注:以下、考証部は原文では一字下げ。]

閑田按ずるに、八郎潟の樣子、信濃諏訪の湖のごとく成〔なる〕べし。其諏訪のうみは、昔より歌にもよみならしたるを、此八郎潟、又城下の川も、氷の上を行〔ゆき〕かふことは、しる人、稀なり。昔、出羽は蝦夷の地にてありしかば、よき人など、聞〔きく〕も及ばれざるゆゑ成べし。村瀨栲亭〔かうてい〕の語られしも、此記に同じ。

   *

「村瀨栲亭」(延享元(一七四四)年~文政元(一八一九)年)は京生まれの儒者。天明三(一七八三)年に出羽久保田藩(現在の秋田県)に招かれ、藩政に参加。晩年は京都に戻った。]

2020/10/28

北原白秋 邪宗門 正規表現版 「天草雅歌」パート 辞・角を吹け

 

Mahiru-amakusagaka

 

[やぶちゃん注:「天草雅歌」パート標題ページ(解説はご覧の通り、実際にはポイント落ちで下方に記されてある)。上に画像を示した。活字ポイントの違いを判って戴くために前の「外光と印象」パート最後の「眞晝」との見開き画像で示した。絵は石井柏亭のタッチであるから、白秋がスケッチしてきたものをもとに石井氏が描いたものと思われる。]

 

   このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支

   丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつとき 

   みくるすなり。これは野中に見いでたり。      

             天草島大江村天主堂秘藏  

 

 

   天草雅歌

 

 

[やぶちゃん注:以下は、上記パート標題ページの裏に記されてある。クレジット(実際には画像の通り、二行書きの辞の後に凡そ四行分の行空けがある)も含めて、底本では有意にポイントが小さい。その左ページの挿絵とパート標題再表示と、その上に石井柏亭の挿絵があり、第一篇「角を吹け」が始まる。両開きの画像で添える。]

 

Amakusagakaji-tunowohukeboutou

 

 四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く    

 天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。 

 

                    「四十年十月作」

 

[やぶちゃん注:以上の明治四〇(一九〇七)年八月の旅については、既に詩集巻頭の「邪宗門扉銘」で引用した吉田精一氏の解説に出るが、ここでは個人サイト「天草探見」の「五足の靴文学碑」をリンクさせておく。この旅を記念した各種文学碑の画像と説明板が電子化されている。中でも木下杢太郎歌碑の記載が詳しく、杢太郎が『東京帝大医学部一年の』時、明治四十年八月、『新詩社主幹の与謝野寛、北原白秋(早稲田大文科一年)』、『吉井勇(早稲田大文科一年)』、『平野万里』(ばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年:化学者・官僚で歌人・詩人。農商務省・商工省に勤めた。大正一〇(一九二一)年に第二次『明星』創刊に参画して後、与謝野夫妻が没するまで協力し、作品を発表した。大正一二(一九二三)年には「鷗外全集」の編集も務めた)『(東大工学部一年)の五人が九州のキリシタン遺跡探訪の旅をした』。『約一ヶ月ほどの日程で、一行が天草の土を踏んだのは』八月八日、『長崎県茂木港から天草下島の富岡港に上陸して一泊し』、翌九日には『天草町大江まで』、『炎天下』三十二キロメートルの『険阻な山道を歩いた。其の夜は海岸近くの木賃宿に一泊』し、翌十日、『大江教会で』フランス『人司祭のガルニエ神父から話を聞き』、『深い感銘を受けた。このガルニエ神父との会見が旅の中核となっている。この九州旅行の後、五人の文芸活動は噴出し、異国情緒の漂った南蛮文学が展開した』とある。与謝野寛がこの旅を紀行記録「五足の靴」として、少し遅れる形のルポルタージュ風の記事として同年八月七日から九月十日にかけて『東京二六新聞』紙上に連載したことから、この旅を「五足の靴」と呼ぶ。この旅を特集した旅行サイトのこちらの「五足の靴」文学碑の説明板によって、旅自体は同年七月三十一日から八月十七日までであったことが判る。]

 

 

   天艸雅歌

 

   角 を 吹 け

 

わが佳耦(とも)よ、いざともに野にいでて

歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。

視よ、すでに美果實(みくだもの)あからみて

田にはまた足穗(たりほ)垂れ、風のまに

山鳩のこゑきこゆ、角(つの)を吹け。

いざさらば馬鈴薯(ばれいしよ)の畑(はた)を越え

瓜哇(ジヤワ)びとが園に入り、かの岡に

鐘やみて蠟(らふ)の火の消ゆるまで

無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと

歌はまし、汝(な)が頸(くび)の角(つの)を吹け。

わが佳耦(とも)よ、鐘きこゆ、野に下りて

葡萄樹(じゆ)の汁(つゆ)滴(した)る邑(むら)を過ぎ、

いざさらば、パアテルの黑き袈裟(けさ)

はや朝の看經(つとめ)はて、しづしづと

見えがくれ棕櫚(しゆろ)の葉に消ゆるまで、

無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと

歌はまし、いざともに角(つの)を吹け、

わが佳耦(とも)よ、起き來れ、野にいでて

歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。

 

[やぶちゃん注:この詩篇、読みを除去すると、一行字数をかなり意識して合わせるようにしていることが判る。

   *

 

   角 を 吹 け

 

わが佳耦よ、いざともに野にいでて

歌はまし、水牛の角を吹け。

視よ、すでに美果實あからみて

田にはまた足穗垂れ、風のまに

山鳩のこゑきこゆ、角を吹け。

いざさらば馬鈴薯の畑を越え

瓜哇びとが園に入り、かの岡に

鐘やみて蠟の火の消ゆるまで

無花果の乳をすすり、ほのぼのと

歌はまし、汝が頸の角を吹け。

わが佳耦よ、鐘きこゆ、野に下りて

葡萄樹の汁滴る邑を過ぎ、

いざさらば、パアテルの黑き袈裟

はや朝の看經はて、しづしづと

見えがくれ棕櫚の葉に消ゆるまで、

無花果の乳をすすり、ほのぼのと

歌はまし、いざともに角を吹け、

わが佳耦よ、起き來れ、野にいでて

歌はまし、水牛の角を吹け。

   *

「佳耦(とも)」二字へのルビ。「耦」(音「グウ」)は「二人がならぶこと・向きあうこと・類(たぐ)い・連れ合い」の意がある。

「パアテル」先の注の旅行サイトのこちらによれば、大江天主堂に到着した五人は『大江教会で、地元信者から「パアテルさん」と呼ばれるフランス人宣教師ガルニエ神父に対面し』たとある。「パアテル」はラテン語「pater」で「父・神父」の意である。彼のウィキ他によれば、パリ外国宣教会所属のフランス人カトリック司祭フレデリック・ルイ・ガルニエ(Frederic Louis Garnier 一八六〇年~昭和一六(一九四一)年:なお、彼はフランスから送られてくる一時帰国費用も蓄え、全ての財産を大江天主堂の建設に投じ、この地で亡くなった)はオート=ロワール県ル・ピュイ=アン=ヴレ市出身。明治一三(一八八五)年十二月、二十四歳の時に来日、京都での日本語修得を経て明治一九(一八八六)年長崎県伊王島の大明寺教会、二年後には上五島の魚の目教会、明治二五(一八九二)年に天草のこの大江教会に司祭として赴任した(昭和二(一九二七)年まで崎津教会司祭を兼任)。以来、同地に没するまでの四十九年間、質素な生活を送りながら、天草島民への布教に従事した。この間、昭和八(一九三三)年には私費を投じて大江教会の現会堂(通称「大江天主堂」)を完成させている。ロマネスク様式の同会堂は、ガルニエ司祭の布教に捧げた生涯の記念碑であると同時に、日本の大工職人がヨーロッパの教会建築の技術を摂取して明治から昭和期の日本各地に建てた、いわゆる「天主堂」の作例として、近代建築史上でも重要なものである。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 眞晝 / 「外光と印象」パート~了

 

   眞   晝

 

日は眞晝(まひる)――野づかさの、寂寥(せきれう)の心(しん)の臟(ざう)にか、

ただひとつ聲もなく照りかへす硝子(がらす)の破片(くだけ)。

そのほとり WHISKY(ウ井スキイ) の匂(にほひ)蒸(む)す銀色(ぎんいろ)の内(うち)、

聲するは、密(ひそ)かにも露吸ひあぐる、

色赤き、色赤き花の吐息(といき)……

四十一年十二月

 

[やぶちゃん注:本篇を以って「外光と印象」パートは終わっている。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 鉛の室

 

   鉛 の 室

 

いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)に

うちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、

暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。

 

油じむ末黑(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね

悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ聲(こゑ)は

鏽(さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、

 

强(つよ)き薰(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)は

くわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして

壁の濕潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。

 

力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、

病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み來(こ)し

新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。

 

いんきや盡きむ。――はやもわがこころのそこに

聽くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――

はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、

 

手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、

赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ

一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。

 

さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば

手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)

爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。

四十年九月

 

[やぶちゃん注:「卓(しよく)」は現代仮名遣「しょく」で、これは唐音。かく読んだ場合、狭義には仏前に置いて香華を供える机を指し、これは茶の湯にも用いる。広義には食卓で、私はここは後者の「テーブル」でよいと考えている。]

2020/10/27

北原白秋 邪宗門 正規表現版 幽閉

 

   幽  閉

 

色濁(にご)るぐらすの戶(と)もて

封(ふう)じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間(ま)、

そのなかに蠟(らふ)のあかりのすすりなき。

 

いましがた、蓋(ふた)閉(とざ)したる風琴(オルガン)の忍(しの)びのうめき。

そがうへに瞳(ひとみ)盲(し)ひたる嬰兒(みどりご)ぞれあそぶ。

あはれ、さは赤裸(あかはだか)なる、盲(めし)ひなる、ひとり笑(ゑ)みつつ、

聲たてて小さく愛(めぐ)しき生(うまれ)の臍(ほぞ)をまさぐりぬ。

 

物病(や)ましさのかぎりなる室(むろ)のといきに、

をりをりは忍び入るらむ(おど)けたる街衢(ちまた)の囃子(はやし)、

あはれ、また、嬰兒(みどりご)笑ふ。

 

ことことと、ひそかなる母のおとなひ

幾度(いくたび)となく戶を押せど、はては敲(たた)けど、

色濁る扉(とびら)はあかず。

室(むろ)の内(うち)暑く悒欝(いぶせ)く、またさらに嬰兒(みどりご)笑ふ。

 

かくて、はた、硝子(がらす)のなかのすすりなき

蠟(らふ)のあかりの夜(よ)を待たず盡きなむ時よ。

あはれ、また母の愁(うれひ)の恐怖(おそれ)とならむそのみぎり。

 

あはれ、子はひたに聽き入る、

珍(めづ)らなるいとも可笑(をか)しきちやるめらの外(そと)の一節(ひとふし)。

四十一年六月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 華のかげ

 

   華 の か げ

 

時(とき)は夏、血のごと濁(にご)る毒水(どくすゐ)の

鰐(わに)住む沼(ぬま)の眞晝時(まひるどき)、夢ともわかず、

日に嘆(なげ)く無量(むりやう)の廣葉(ひろは)かきわけて

ほのかに靑き靑蓮(せいれん)の白華(しらはな)咲けり。

 

 ここ過(よ)ぎり街(まち)にゆく者、――

 婆羅門(ばらもん)の苦行(くぎやう)の沙門(しやもん)、あるはまた

 生皮(なまかは)漁(あさ)る旃陀羅(せんだら)が鈍(にぶ)き刄(は)の色、

 たまたまに火の布(きれ)卷ける奴隷(しもべ)ども

 石油(せきゆ)の鑵(くわん)を地に投(な)げて鋭(するど)に泣けど、

 この旱(ひでり)何時(いつ)かは止(や)まむ。これやこれ、

 饑(うゑ)に墮(お)ちたる天竺(てんぢく)の末期(まつご)の苦患(くげん)。

 

 見るからに氣候風(きこうふう)吹く空(そら)の果(はて)

 銅色(あかがねいろ)のうろこ雲濕潤(しめり)に燃(も)えて

 恒河(ガンヂス)の鰐(わに)の脊(せ)のごとはらばへど、

 日は爛(ただ)れ、大地(たいち)はあはれ柚色(ゆずいろ)の

 熱黃疸(ねつわうだん)の苦痛(くるしみ)に吐息(といき)も得せず。

 

 この恐怖(おそれ)何に類(たぐ)へむ。ひとみぎり

 地平(ちへい)のはてを大象(たいざう)の群(むれ)御(ぎよ)しながら

 槍(やり)揮(ふる)ふ土人(どじん)が晝の水かひも

 終(を)へしか、消ゆる後姿(うしろで)に代(かは)れる列(れつ)は

 こは如何(いか)に殖民兵(しよくみんへい)の黑奴(ニグロ)らが

 喘(あへ)ぎ曳き來る眞黑(まくろ)なる火藥(くわやく)の車輌(くるま)

 揭(かか)ぐるは危嶮(きけん)の旗の朱(しゆ)の光

 絕えず饑(う)ゑたる心臟(しんざう)の呻(うめ)くに似たり。

 

さはあれど、ここなる華(はな)と、圓(まろ)き葉の

あはひにうつる色、匂(にほひ)、靑みの光、

ほのほのと沼(ぬま)の水面(みのも)の毒の香も

薄(うす)らに交(まじ)り、晝はなほかすかに顫(ふる)ふ。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:「旃陀羅(せんだら)」「栴陀羅」とも書く。梵語「チャンダーラ」の漢字音写で、語源的には「チャンダ」(「激しい・獰猛な・残酷な」の意)から来た語とみられる。中国では「厳熾執」(ごんししゅう)「暴悪人」「屠殺者」「殺者」(せっしゃ)などと訳されている。所謂カースト四姓外の最下級とされた階級で狩猟・畜などを生業とした。これは中国を経由して本邦にもそのままに伝わり、江戸時代には、このインドに起源をもつ「旃陀羅」と、その成立を異にするはずの中国の「屠者」と、日本の「穢多(えた)・非人(ひにん)」とが結びつけられて差別の合理化が謀られた。被差別部落の人々には、その死後に「桃源旃陀羅男」などの戒名をつけ、墓石にきざみつけて差別した事実がある。

「熱黃疸(ねつわうだん)」高い熱と、肝障害による黄疸を呈した病態。種々の疾患で見られる。黄熱病(事実、高熱が出て重症化すると黄疸が見られることによる命名)を想起されるかも知れぬ(或いは北原白秋はそれを念頭に置いたのかも知れぬ)が、黄熱病は熱帯アフリカと中南米に特徴的な風土病でインドは感染分布域に含まれない。]

2020/10/26

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 環人見春澄を激して家を興さしむる事・奥書・目次 / 席上奇観垣根草 全電子化注~了

 

    環(たまき)人見春澄(ひとみはるずみ)を激(げき)して家を興さしむる事

 むかし、小野篁(おののたかむら)、少(わか)かりし時、父岑守(みねもり)に從ひ、奧州の任に赴き、兵事を調練す。

[やぶちゃん注:「環」本作に登場する女性の名。

「人見春澄」「人見民部春澄」武蔵国幡羅(はら)郡人見邑(ひとみむら:現在の埼玉県深谷市人見附近。グーグル・マップ・データ)を発祥とする人見一族の者と意いう設定である。「人見氏」の本姓は小野氏で、家系は武蔵七党(むさしひちとう)の一つ猪俣党(次段の後注参照。武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称した)の支流とされる。猪俣五郎時範の四世政経とその従弟 清重を祖とするという、とウィキの「人見氏」にあった。

「小野篁」参議小野篁(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)は平安初期の公卿で文人。同じく参議であった小野岑守(宝亀九(七七八)年~天長七(八三〇)年)の長男。弘仁六(八一五)年に陸奥守に任ぜられた父に従って、陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後、一向に学問に取り組む様子がなかったことから、「漢詩に優れ、侍読を務めるほどであった岑守の子であるのに、何故、弓馬の士になってしまったのか」と、嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は、恥じて、悔い改め、学問を志し、弘仁一三(八二二)年に文章生試に及第した。以降のことは参照したウィキの「小野篁」の続きを見られたい。

「激」本文中に左右ルビで出る。]

 

 ゆゑに其子孫、わかれて關東にありて、武州(にしう)七黨(たう)の中、岡部・人見など、其末にて、世々、弓馬の業(げふ)を襲ひたりしが、中にも人見民部(みんぶ)春澄なるもの、下野國(しもつけのくに)に數千町(すせんてう[やぶちゃん注:原本のママ。])を領じて、北條家のために藩籬(はんり)を守りしに、高時の代にいたりて、聊(いさゝか)の過(とが)によりて所領を沒取(もつしゆ)せられ、安からぬ事に思へども、力なく、國にあらんも面(おもて)ぶせにて、

「都に登り、權門の推擧をも假(か)らばや。」

と、家の子兩三人を具して、ひそかに國を離れ、都を心ざして登るに、木曾の深山にかゝりて、馬蹄(ばてい/ムマノヒヅメ)は、雲を踏んで半天に登るかとおどろき、人影(じんえい)、寒水に映じて不測(ふしぎ)の溪(たに)に下り、ゆけども、ゆけども、雲霧、あとをうづみ、前途、遙(はるか)にして、馬(むま)人(ひと)ともに疲れたりしに、宿るべき驛舍(たびや)もほどへだち、日も峯に沈みて、いとゞ木立(こだち)暗き山中をたどる所に、數(す)十人の山賊(さんぞく/ヤマダチ)、路を塞ぎて、衣服・物具(ものゝぐ)を剝取(はぎと)らんとす。

[やぶちゃん注:「武州七黨」平安後期から鎌倉・室町にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。但し、実際の命数は七ではない。ウィキの「武蔵七党」によれば、『横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した』「吾妻鏡」には記載がないことから、『南北朝時代以降の呼び方と考えられている』とある。

「岡部」「人見氏」と同じ猪俣党に属した一族。猪俣党は武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)で、猪俣氏・人見氏・男衾氏・甘糟氏・岡部氏・蓮沼氏・横瀬氏・小前田氏・木部氏などが含まれる。「保元の乱」や「平治の乱」及び「一ノ谷の戦い」などで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名とウィキの「武蔵七党」にはある。

「藩籬」鎌倉幕府北条氏の直轄の領地の意。

「高時の代」後の段で「王澤(わうだく)」(この場合は以下の対なので「天皇の恵み・朝廷の差配力」の意)「は己に」(自然と)「喝(つ)きて」(尽き果てて)「國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意(がい)」(放恣。利己心)「に舊貫」(幕府が守ってきた古くからの公正を謳った慣習)「をわすれ、非道の政道、多かりしかば、國々に盜賊起りて、守護の下知(げち)も憚らず、州郡を侵掠(しんりやう/ヲカシカスム)せし」とあるから、本篇の設定時制は、鎌倉幕府第十四代執権で、事実上の幕府滅亡まで最後の形式上の権力者であった北条高時(執権在職は正和五(一三一六)年~正中三(一三二六)年)の執権就任から幕府が滅亡する元弘三(一三三三)年までの閉区間となるが、まず、高時の就任以後(在任中に既に諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱などが頻発していた)、彼が出家するも、後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(「嘉暦の騒動」)が起こり、正中三年三月には金沢貞顕が執権に就任するが、十日で辞任し、四月に赤橋守時が就任することで収拾(この騒動の背景には太守高時の庶子である邦時を推す事実上の実見掌握をしつつあった長崎氏に対して、高時正室の実家が安達氏であったことから正嫡子が生まれるまでとして高時実弟の泰家を推す安達氏との確執があったとされる)した後、元徳三年四月二十九日(一三三一年六月五日)に後醍醐天皇の討幕計画が発覚、後醍醐天皇が隠岐へ、尊良親王は土佐に流され、腹心日野資朝が処刑される。元弘二年(一三三二)年四月十日に幕府は関係者の処分を終えて、事態の終結を公式に宣言している。さてもこの「元弘の乱」のプレの騒動である「元弘の変」が次の段に出てくることと、さらに「都に登り、權門の推擧をも假(か)らばや」と人見が思って上洛するところを見ると、鎌倉政権をはっきり見限って、公家方の武士への再就職を狙っているからには、このオープニング・シークエンスは、元弘二年四月十日以降の直近で、同年(同年四月二十八日に幕府及び持明院統側では「正慶」へ改元している)末に楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵行動に出る直前までの八ヶ月に限定出来ることになる(がしかし、実は以下、篇中で時間が経過し、「元弘の乱」に突入し、楠正成・赤松則村・新田義貞の挙兵も起こり、幕府が滅亡するまでが描かれるので、その八ヶ月の、これまた末の末が初期設定ということも判明する)

「兩三人」二、三人。]

 

 民部、怒りて、

「商客(しやうかく/アキビト)の類(たぐひ)とや、見あやまりし、命、惜しくば、路を開(ひら)け。」

と、家の子諸共(もろとも)、切尖(きつさき)するどに切つてかゝり、先にすゝみし賊二人を切倒したる勢(いきおひ)に、餘黨は、さんざんに迯走(にげはし)る。

 民部、勝に乘じて、暗夜(あんや)なれども、跡を慕うて、一町[やぶちゃん注:一〇九メートル。]ばかりも追打にする所に、おもひもよらぬ後(うしろ)の岨(そば)[やぶちゃん注:崖。]より、五、六人、あらはれ出で、前なる者も取つてかへせば、從者(じうしや[やぶちゃん注:原本のママ。])は溪に落ちて死し、民部は遂に生捕(いけど)られたり。

 數十人、取圍(とりかこ)みて、賊寨(ぞくさい)[やぶちゃん注:賊の山城。山寨(さんさい)。]にかヘる。

 其頃、王澤(わうだく)は己に喝(つ)きて國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意(がい)に舊貫をわすれ、非道の政道、多かりしかば、國々に盜賊起りて、守護の下知(げち)も憚らず、州郡を侵掠(しんりやう/ヲカシカスム)せしが、錦部次郞宣連(にしきべじらうのぶつら)と云ふ者、賊主となりて部下(ぶか/テシタ)に數(す)百人を扶助し、木曾の山奧に山寨(さんさい)を構へ、數(す)年、その威を震ふといへども、元弘の變より、國家、いよいよ、多難なれば、賊徒誅伐(ぞくとちうばつ)の議も等閑(なほざり)なりしに、時を得て、近國までも其禍(わざはひ)に苦しむ。

[やぶちゃん注:「其頃、王澤は己に喝きて國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意に舊貫をわすれ」の語句は前の段の「高時の代」で注した(太字)。

「錦部次郞宣連」不詳。]

 

 民部を生捕りたりしも錦部が部下(ぶか/テシタ)の者にて、やがて賊主の前に出づれば、、錦部、民部が風情の常ならぬにあやしみて、出身(しゆつしん/ミモト)をとへども、答へず。

 錦部、いよいよ、あやしみおもひて、別屋(べつや)にいたはり置きて、次の日、自(みづか)ら、さとして云く、

「君の風骨、正(まさ)しく武門の豪族(ごうぞく/イヘガラ)ならん。當今、北條家の政(まつりごと)、虎よりも、はげし。國をぬすみ、天下をくるしむる者、王侯の位に居し、吾が輩(ともがら)のみをさして、賊とせんは、あやまらずや。時の變化(へんくわ/ナリユキ)をもみんために、かく、ひそみ居(ゐ)る事なり。君も此所にとゞまりて、下半世(しもはんせい)のたのしみをとりたまへ。」

とすゝむれば、民部も鎌倉の政道を憤り、又、前途(ぜんと/ユクサキ)もこれぞと思ひさだめたる事なければ、

『暫く此所にありて、時を待たんこそ、亂世の上策なれ。』

と領掌(りやうじやう)すれば、賊主、悅びて、

「一人の羽翼(うよく/タスケ)を生じたり。」

と、酒を酌みて其勞を慰む。

 元來、此山寨、人多しといヘども、はかばかしく文字をしりたる者もなきゆゑ、かくは饗應(もてな)してとゞめたり。

 民部も、晝は野山に獵(かり)し、夜は錦部と酒宴を催して明し暮すうち、耳目の馴るゝところ、いつしか功名(こうめい)の心も弛(ゆる)まりて、

「よき安心の地を得たり。」

と、心ゆり[やぶちゃん注:「心弛(こころゆる)び」と同義。]して暮しけり。

 錦部が使女(しじよ/メシツカヒ)うちに、「環(たまき)」といへる婢(ひ/コシモト)、見めかたちも、なみにはすぐれたるが、心も、さとく、酒宴の席にはいつも酌にたちける。民部が品(しな)のすぐれて、山寨の者の類(たぐひ)に似ざるに、心とゞめて、よしありげに見ゆれば、民部、又、さとりて[やぶちゃん注:彼女の好意あるを覚(さと)って。]、うちとけたりしに、ある時、人なき折を窺ひ、ひそかにいふやう、

「君のさまを見參らすに、正しく武門の名家なるべし。何とて、かゝる山賊の中(なか)に、あたら、年月をつひやしたまふぞや。しろしめさずや、今、河内に楠(くすのき)とやらんが天子のためにが天子のために軍(いくさ)を起し、西國には赤松、城を守りて、官軍、所々に起る時にて、家をも興し、名をも揚げたまふべきよき時節ならずや。など、かく、ゆるかせには暮したまふや。」

と諫むるに、民部、

『實(げ)にも。』

とはおもへども、

『此女の、心よりしていふにはあらじ。錦部が、我が心を探らんため、いはせたるものならん。謀(はかりごと)について謀をなして、心しづかに思ひたちてん。』

と、只、うなづき居て、其夜、錦部にむかひて、ありし事どもをかたりて、

「伶利(れいり)の女なり。」

といへば、錦部、餘意(よい/ホカゴコロ)なきことをよろこび、環をよびて、その饒舌(ねうぜつ[やぶちゃん注:現代仮名遣「にょうぜつ」。こうも読む。]/クチオホク)なるを怒り、つよくいましめたり。

[やぶちゃん注:「赤松」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)は「元弘の乱」で後醍醐天皇の討幕に応じ、大功を立てたが、賞少く、足利尊氏が建武政府に背くとこれに従い、播磨守護となった。以後、室町幕府の確立に貢献した。禅宗に帰依して出家している。]

 

 其後、日を經て、人なき所にて、環、また、いふやう、

「君、さきに申したりしを、主(あるじ)にきこえたまひし故に、せめをうけたり。されども、妾(せふ)が身は、甲斐なき者なれば、いとひ侍らず。君の、あたら、千金(せんきん/タイセツ)の軀(み)を石瓦(いしかはら)と同じく、朽ちさせたまはんことの、心うさに、すゝめ參らするなり。とくとく、覺(をぼ[やぶちゃん注:原本のママ。])したちたまへ。」

と、淚ながらにすすむるにぞ、

『扨は。實情(じつじやう/マコトノコヽロ)なり。』

と感じて、其(その)謀(はかりごと)ならんことを疑ひしことを謝し、

「我も其日より醉(ゑひ)さめたるごとく、功名に心ありて、日夜に山寨をさらん事をおもへども、賊主、用心、ふかくして、心ゆるさず。其上、道の費(つひえ/ロギン)も調はねぱ、心ならずも怠りたり。」

と語るに、環、閨(ねや)に入りて、ひとつの袱紗包(ふくさづつみ)をもち來り、民部に與ヘて、

「妾(せふ)、年頃、貯(たくはへ)置きたるところにて、身のよすがの露(つゆ)なり。君の行費(かうひ/ロギン)に參らせん。」

といふに、民部、いよいよ、其實情を感じ、共に迯出でんことをすゝむるに、

「いやとよ。はるばるの山川、ことに思ひ定めたまひたる事もなきに、女を具したまはば、君の累(わづらひ)なり。況や、妾(せふ)は身價(みのしろ)償ひ侍(はんべ)らねば、今、暫くとゞまるべし。妾を念(ねん)[やぶちゃん注:気配りや注意をする対象の意。]としたまふことなく、今宵、ひそかに迯げたまへ。妾、よきにはからひ參らすべし。」

と約して別れぬ。

 民部は環に激(げき/ハゲマササレ)たるうへ、彼が實情に、心、決して、暮るゝを待ちて山寨をのがれ出でて、本國をさして落ちのびたり。

 錦部は、かくともしらで、例のごとく酒宴を催して、環に命じて民部をまねかしむ。環、民部が房(へや)に至りて、其影迹(えいせき)なきに、

『さては。かしこくも迯出でたまひし。』

と、しりて、歸りて、

「今宵しも、勞(いたは)ること侍(はんべ)るとて、臥し給ふ。」

といふに、錦部、疑ふことなく、夜明けて、はじめて、これをさとりて、人をして追はしむれども、行方(ゆきがた)をしらず。

 環、さきにすゝめたりしに心つきて、つよく、せめとへども、

「しらず。」

と答ふ。

 錦部、怒りて、晝夜、これを呵責(かしやく/セメ)て後、

「山ふかく捨てさせて、狼なんどの腹にみたしめよ。」

と命じたりしを、山寨の者ども、いたはりて、人家近き所に捨てゝかへりぬ。

 民部は、晝夜をわかずして、本國に下向したりしに、頃しも、新田義貞、大義を倡(いざな)ひ[やぶちゃん注:「唱」に同じ。]、兵を擧ぐるところなりしかば、馳加(はせくは)はりて鎌倉を攻むるに、家運傾きたる北條、處々の軍(いくさ)破れたりしかど、長崎勘解由左衞門、一方を防いで、しかも驍勇(げうゆう)、當る者なく、寄手(よせて)、引色(ひきいろ)に見えたるを、民部、一陣にすゝんで、士卒を勵まし、中にとり圍んで攻むるに、遂に長崎を打取り、高時も自殺して、鎌倉、平均し[やぶちゃん注:「平均され」の方が躓かない。平定され、]、先帝、還幸ありて、海内(かいだい)一統の時に至りて、義貞の推擧によりて本領を復したまはる上、出羽にて一郡をたまはり、名をも人見下野守定澄とあらため、多年の蟄懷(ちつくわい)をひらきぬ。

[やぶちゃん注:「長崎勘解由左衞門」内管領(ないかんれい)を輩出した長崎氏の一族で得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた長崎思元(しげん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日):思元は出家後の法名で、俗名は長崎高光又は長崎高元)の子息と思われる。ウィキの「長崎思元」によれば、『他の長崎氏一族と同様に高時邸の近くに住んでいたことが判明している』。以後の活動は「太平記」に描かれており、『それによれば』、元弘三/正慶二年に新田義貞が率いる軍勢が鎌倉に攻め入った際、「長崎三郞左衞門入道思元、子息勘解由左衞門爲基二人」が極楽寺坂を守って奮戦の後、やがて父子別行動をとることとなったとある。『同記事では』、『これが今生の別れかと涙にくれて立ち去り難くしている為基に対し、思元は「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」(どうせ皆今日討ち死にして明日には冥土で再会するのだから一夜別れるのを悲しむことはない)と大声で激励叱咤して立ち去らせたというエピソードを伝えている。為基と別れた思元はその後』、『主君・高時らのいる東勝寺に赴いたようで、同寺にて自害した者の中に「長崎三郎左衛門入道思元」も含まれている』。『これに従えば』、幕府滅亡の『東勝寺合戦で自害したということになる』。『実名は不詳だが』、「系図纂要」の長崎氏系図には、為基、通称「勘ケ由左衞門尉」の『父に高光(別名高元、三郎左衛門尉、入道昌元』元弘三年五月二十一日討死)を『載せており、続柄に加え』、『通称や法名、死没の時期も』、『ほぼ共通していることから、この高光が思元を指すと考えられている』。『法名より出家前の通称は』「系図纂要」が『示す「長崎三郎左衛門尉」であったこと』は『確実である』。『高光は同系図において長崎光盛の子(平盛綱の孫)、光綱の弟に位置付けられており、正しければ』、『長崎円喜の叔父ということになる』と父のことに関わって、彼の事蹟が判る。

「人見下野守定澄」残念ながら、この名で調べても、やはり不詳である。]

 

 人見、いよいよ、環が志を感じ、人をつかはして山寨の動靜(どうじやう/ヤウス)を窺はしむるに、

「去(さ)んぬる頃、部下(ぶか/テシタ)の者、錦部が無狀(ぶじやう/ワガマヽ)を惡(にく)みて、これを殺して足利に下りたり。」

と、きこゆるに、

「さては、環が身の果(はて)、いかゞしたりしや。」

と、安き心もなく、晝夜(ちうや)、おもひ煩ふといへども、搜求(そうぐ/サガス)すべき方便(てだて)もなく、日を送るうち、又もや、新田・足利の確執(かくしつ)、出來(いでき)て、天下、ふたゝび、戰國となる。

 人見は、新田に屬(しよく)して、足利を攻めて東國に下り、數度(すど)の戰(たゝかひ)に、新田、利なくして、都に登れば、人見は本國に下りて、奧州の國司北畠と相議して奥羽の勢(せい)を催し、上洛して、足利を遂に西國に追落(おひおと)しぬ。

[やぶちゃん注:「北畠」後醍醐天皇の側近で南朝の重臣として知られる北畠親房(正応六(一二九三)年~正平九/文和三(一三五四)年)であるが、ウィキの「北畠親房」によれば、『鎌倉幕府が倒れ』、『後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰した』が、『この時の待遇については、陸奥将軍府設置の主導が誰だったかによって説が分かれ』、『岡野友彦は』、この時、一時的に『後醍醐から冷遇されたため』、『親房は護良親王と共に陸奥に活路を見出そうとしたと』したとし、『亀田俊和は、嫡子の顕家は後醍醐から厚遇されて、後醍醐主導で設置された陸奥の恩賞問題に関して大きな実権を得たために、その補佐として陸奥に向かったとする』とある。なお、彼は「元弘の乱」などの鎌倉幕府討幕計画には加わっていなかったとされている。

「足利を遂に西國に追落しぬ」後醍醐に反旗を翻した尊氏建武三(一三三六)年二月十一日の「摂津豊島河原の戦い」で新田軍に大敗を喫し、播磨室津に退き、さらに赤松円心の進言を容れて、京都を放棄して九州に下った(但し、三ヶ月後の五月二十五日の「湊川の戦い」で新田義貞・楠木正成の軍を破って、六月には京都を、再び、制圧している(「延元の乱」))。]

 

 新田も其忠職を感じて、親しかりしが、いまだ、定まる妻もなければ、

「いかなるものをも娶(めと)りて後嗣(こうし/ヨツギ)をはかりたまへ。」

と、よりより、すゝめらるれど、人見は、環がことをわすれず、妻をも迎ふることなく暮しけり。

 幾ほどなく、足利、大軍を催し、攻(せめ)登れば、新田、敗れて北國に走り、主上も南山(なんざん)に狩(かり)したまふにぞ、人見、本國にかへりて、

「再び官軍を催さん。」

と議する頃、おなじ一族のうち、岡部新左衞門成國なる者、其娘を人見に娶(めあは)せんことを求む。

 人見も、環が消息(おとづれ)待つ事、六年むとせ)を經(ふ)れども、其影響をきかざれば、今はやむことを得ず、

「後嗣(こうし/ヨツギ)をのこさざらんも、父祖の罪人なり。」

と、領掌したりしに、喜びて、吉日をえらび、婚儀を調(とゝの)へんとして婢(ひ/コシモト)を求むるに。幸ひ、飛驒より來(きた)る商人(あきびと)一婢を連來(つれきた)る。よく物馴れたる者にて、岡部、限りなく喜び居たりしに、人見、通家(つうか/イチモン)の事なれば、ある日、岡部が館(やかた)に來(きた)る。

[やぶちゃん注:「岡部新左衞門成國」個人は不詳。

「通家(つうか/イチモン)の事なれば」「岡部氏」は既に述べた通り。「人見氏」と同じ猪俣党に属した一族であるから、「一門」なのである。]

 

Tamaki

 

[やぶちゃん注:挿絵。底本のものを上下左右の枠を除去し、中央に寄せて合成、清拭した。中央上の人物が主人公の人見、左の人物が岡部、右の二人の女のうち、手前が服装から岡部の娘で、その右手の奥の女性が環と思われる(と思いたい)。背の接着部に難があり、左右の幅が平衡になっていない。底本を破壊してもいいのだが、やはり本を壊す断捨離は私の好みではない。されば、画像アプリの回転を使用して平行化し、合成した。中央の隙間とズレは大目に見て貰いたい。ひたすら、環をお見せするために。]

 

 女(め)の童(わらは)ども、

「婿君よ。」

とて、私語(しご/サヽヤク)するを、かの新婢(しんひ/シンザンコシモト)も物影より窺ひたりしが、やがて一間に走入り、久しく出(で)もやらぬに、使女(しぢよ/メシツカヒ)等(とう)、

「いかに。」

と、みれば、縊(くびれ)死したり。

「こは、おそろし。」

と泣きのゝしるにぞ、主の岡部も、

「事のやうこそ、あるらん。」

と、使女等(とう)に尋ぬるに、

「さらにしらず。只、婿君のいらせたまふを、今まで、さしのぞき、ゐたりし。」

などいふに、人見も、

「何事やらん。」

と尋ぬれば、岡部も、

「あやし。」

と語り居るうち、

「さまざま、針藥(しんやく)のしるしありて、息出(いきい)でたり。」

といふ。

 人見、すこし、醫術を試みたることありしかば、

「縊死(えきし)の者は、きはめて調埋(てうり/ヤウジヤウ)に意(こゝろ)あり[やぶちゃん注:注意が必要である。]。」

とて、岡部諸共(もろとも)、一間に至りみれば、縊(くび)れたる婢は、山寨にありし環なり。

 人見、

「こは。そも、いかにや。」

と驚くに、岡部、いぶかしみて尋ぬるにぞ、包むべきやうなく、初め終りを語りて、其流落(りうらく/サマヨヒ)し來りたるを、且(かつ)、なげき、且、よろこぷ。

 環も、人心地つきて、淚ながらに、

「われ、君を尋ねて、此國にさまよひ來れども、便るべきかたもなく、わけて、むかしの名にてもましまさぬゆゑ、おもひよるべくもなかりしに、けふ、見奉れば、館(やかた)の婿君にならせたまふもの。『我、こゝにありては便(たより)あし』と、おもひさだめて、死したるものを。なまじひに、命ありて君の體面(たいめん/オモテ)をも、汚(けが)し參らす事の、悲しさよ。」

といふに、岡部、大いに驚歎して、

「むかしより、托(たの)むべき主(ぬし)を卒伍(そつご)・縲絏(るいせつ)の中に撰(えら)み、むつびし例(ためし)は侍(はんべ)れども、かく時變をさつして、英雄を激し、身、婢妾(ひせふ)の賤役(せんえき)をとりて、後榮(こうえい)をもとめず、義に死すること、家にかへるがごとくなるもの、異國にも其例(れい)をきかず。女中(によちう)の烈丈夫(れつぢやうぶ)といふべし。幸ひ、我が娘の粧奩(さうれん/ヨメイリダウグ)調ひたれば、これを以(も)て環を君に娶(めあは)せん。我が娘は妾(せふ)と見たまへかし。」

といふに、環、泣いて是を辭して、うけがはず。

 人見も答ふるに言葉なき所に、新田義矩(よしのり)、其頃、館(みたち)にましましたりしが、此由を聞きて、

「天下の義、岡部一人に讓らんも、ほいならね。環は、われ、養うて、義女として人見に娶(めあは)すべし。岡部の息女は二室(じしつ/オヘヤ)とし給ふべし。諸侯・大夫、さだまりたる數あり。一妻一妾、何ぞ嫌(けん)とせん。」

と宣ふに、岡部も、

「尤(もつとも)。」

と同心、人見も恩を謝して、其議に隨ふ。

 こゝにおいて、吉日を卜(ぼく)して、二家(にけ)より新人(しんじん/ヨメ)を送りて婚儀を執行(とりおこな)ひ、二人、むつまじく妬忌(とき/ネタミ)の念なく、環、その婢・妾の昔をわすれずして謙遜(けんそん/ヘリクダル)すれば、岡部が娘は、其夫(をつと)に功(こう)ありて、しかも賢操(けんさう)を崇(たつと)びて、すこしも輕慢(かろし)めず。人見も、わくかたなく、親しみ、子孫、榮えて、南朝亡びさせたまひし後も、

「望族なれば。」

とて、足利家よりも、敢て、損益(そんえき)すること、あたはず、所領、恙なく安堵して、めでたく榮えたりしとぞ。

 

 

席上奇観垣根草五之巻終

[やぶちゃん注:「卒伍」身分の低い庶民。

「縲絏(るいせつ)」捕らわれた罪人のこと。「縲」は「罪人を縛る黒繩(こくじょう)、「絏」は「繩」又は「繋ぐ」の意。

「粧奩(さうれん/ヨメイリダウグ)」「奩」は、もと、中国の漢代の化粧用具の入れ物を指す。青銅製と漆器とがあり、身と蓋とから成り、方形や円形のものがある。この中に鏡や小さな容器に詰めた白粉(おしろい)・紅・刷毛(はけ)・櫛などを入れた。また、身が二段重ねになっていて、上段に鏡を、下段に白粉などを入れるようにしたものもある。長沙の馬王堆一号漢墓や楽浪の王光墓などから出土している。

「新田義矩(よしのり)」不詳。義貞の次男新田義興(元徳三/元弘元(一三三一)年~正平一三/延文三(一三五八)年)や、新田義貞の三男で嫡子(次兄義興の生母が上野国一宮抜鉾神社神主の娘と身分が低かったため)として新田家を継いだ新田義宗(元徳三/元弘元(一三三一)年?~正平二三/応安元(一三六八)年)が浮かぶが、彼らの異名にこれはない。最後の最後になって、いもしない新田氏を登場させるというのは如何にも不審である。

「賢操(けんさう)を崇(たつと)びて」この部分は彼女の、正室環への尊崇の念である。

「南朝亡びさせたまひし」五十六年余り続いた南朝は、元中九/明徳三年十月二十七日(一三九二年十一月十二日)の締結された「明徳の和約」に基づき、その七日後の同年閏十月五日(一三九二年十一月十九日)に、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰還し、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝合一が行われた。

「望族」人望があり、名声の高い家柄。門閥家。

 なお、本篇が、明の口語章回小説集である馮夢龍 (ふうむりょう) 編(一六二七年刊)の「醒世恒言」を利用している(前半が巻十九「白玉孃忍苦成夫」を、後半が巻一「兩縣令競義婚孤女」を)ことが、小川陽一氏の講演要旨「明清小説と善書―日本近世小説も視野に入れて―」(『近世文藝』第七十九巻・二〇〇四年発行所収・PDF)で判る。

 以下、本「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草」の奥書。画像から起こした。]

 

 

明和七庚寅年六月吉日

        堀川通佛光寺下

          錢 屋 七郎兵衞

        同町

          近江屋庄右衛門

 皇都書林 梅花堂藏

        綾小路下

          錢 屋 庄 兵 衞

        寺町通高辻下

          菊 屋 七郎兵衞

        同通松原下

          梅 村 三郎兵衞

 

 

[やぶちゃん注:以下、「巻首」の後にある目次を電子化しておく。原本は手跡彫りの画像であるから、なるべく、その通りの漢字表記を選んだ。本文標題と異なるのはママ。画像を添える。特別サーヴィスでリンクも附した。]

 

Kakinegusamokuji1

Kakinegusamokuji2

 

席上奇観垣根草惣目録

  一 の 巻

 深草の翁相字の術虵妖を知る事

 伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事

 塩飽正連荒田の祠を壞事

  二 の 巻

 在原業平文海に託して寃を訴ふる事

 覚明義仲を辞して石山に隱るる事

  三 の 巻

 鞆晴宗夫婦再生の縁をむすぶ事

 宇野六郎廃寺の怪に逢ふ事

  四 の 巻

 小櫻奇縁によつて貴子を產む事

 山村が子孫九世同居忍の字を守る事

 夢庵鍼砭の妙遂に道を得たる事

  五 の 巻

 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事

 千載の斑狐一條太閤を試むる事

 環人見春澄を激して家を興さしむ事

   以上十三條

 

[やぶちゃん注:以上で「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草」の全電子化注を終わる。今までの怪奇談集では、最も注に時間をかけたものとなった。それだけに忘れ難い。]

2020/10/25

北原白秋 邪宗門 正規表現版 蟻

 

   

 

おほらかに、

いとおほらかに、

大(おほ)きなる鬱金(うこん)の色の花の面(おも)。

 

日は眞晝(まひる)、

時は極熱(ごくねつ)、

ひたおもて日射(ひざし)にくわつと照りかへる。

 

時に、われ

世(よ)の蜜(みつ)もとめ

雄蕋(ゆうずゐ)の林の底をさまよひぬ。

 

光の斑(ぶ)

燬(や)けつ、斷(ちぎ)れつ、

豹(へう)のごと燃(も)えつつ濕(し)める徑(みち)の隈(くま)。

 

風吹かず。

仰ふげば空(そら)は

烈々(れつれつ)と鬱金(うこん)を篩(ふる)ふ蕋(ずゐ)の花。

 

さらに、聞く、

爛(ただ)れ、饐(す)えばみ、

ふつふつと苦痛(くつう)をかもす蜜の息。

 

樂欲(げうよく)の

極みか、甘き

寂寞(じやくまく)の大光明(だいくわうみやう)、に喘(あへ)ぐ時。

 

人界(にんがい)の

七谷(ななたに)隔(へだ)て、

丁々(とうとう)と白檀(びやくだん)を伐(う)つ斧(をの)の音(おと)。

四十年三月

 

[やぶちゃん注:第四連「光の斑(ぶ)」の「ぶ」はママ。現行、ここは「ふ」とルビされている。しかし、原本を見て戴きたい(赤い矢印は私が打った)。 

Ari 

このページの前にある明らかなルビの濁音表記である「ご」、「ざ」、「ず」と比較しても、この「ふ」は印刷のスレなどではない、正真正銘の「ぶ」という濁音表記である。勿論、正規の「斑」とい漢字には「ブ」という音はない。しかし、「ぶち」という訓はあり、本詩集で北原白秋は音数律から自在に読みを変形させていることは既に見てきた通りである。彼が《光りの斑模様》(まだらもよう)を「光の斑(ぶち)」と表現し、韻律からそれを「ひかりのぶ」と読んだとしても、私は何ら違和感を感じない。いや、寧ろ、これに違和感を覚えるという御仁は、本詩集に散在する他の奇妙な短縮音や清音・濁音を問題にすべきであろう。さらにあなた方には困ったことに、後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)では、悩ましくもこの「ふ」のルビにカスレが生じてしまっているのである。但し、当該書籍の活字の様態からは「ふ」の第一画のすぐ右側に濁点はあるはずであるから、これは「ふ」と執ってよいとは思う。されば、少なくとも、アルス版では白秋は「ふ」と読ませていると譲ってよいと思うものの、それを以って、私はこの「ぶ」を単なる現行の誤記或いは植字工・校正者の誤植であると断ずることは出来ないのである。見た目を重視し、しか「ぶ」の読みが私には不自然とは思われない以上、ここは上記の通り、「ぶ」で示した。当時の有意な数の読者も書かれた通りに「ぶ」で読んだと私は思うからである。

畔田翠山「水族志」 アヲ (アオブダイ・アミメブダイ・スジブダイ)

 

(一一)

アヲ【熊野通名】 鸚哥魚

形狀「イソアマダヒ」ニ似頭癭アリ齒口外ニ出テ鳥嘴ノ如シ上下齒板牙ニ乄端ニ小鋸齒ヲナス本藍色細黑㸃アリ末ハ白色也頰藍色ニ乄褐斑アリ癭灰白色鱗粗大ニ乄淡黃褐色ニ褐色ノ斑每鱗アリ腹淡紅色ヲ帶背鬣腰下鬣倶ニ本褐色末藍色脇翅本淡黃色端藍色腹下翅藍色尾ニ岐ナク藍色眼上眼前ニ褐色ノ斑アリ續修臺灣府志曰鸚哥魚鳥嘴紅色週身皆綠孫元衡有詩朱施烏啄翠成襦臺灣縣志曰鶯哥魚狀如鯉週身綠嘴烏而勾曲似鶯哥故名臺灣府志曰鸚哥魚嘴如鸚鵡而皮綠色一種形同乄背深藍色腹淺藍色翅黃ヲ帶ル者アリ八丈物產記曰ク「マノミ」色靑黛ノ如ク異形ナル魚也丈ケ一尺二三寸身柔ニシテ味平ナリ一種遍身綠色ニ乄齒紅色ノ者アリ此餘品類アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(一一)

アヲ【熊野。通名。】 鸚哥魚〔いんこうを〕

形狀、「イソアマダヒ」に似て、頭、癭〔こぶ〕あり。齒、口外に出でて、鳥の嘴〔くちばし〕のごとし。上下の齒、板牙〔ばんが〕にして、端〔はし〕に小鋸齒〔しやうきよし〕をなす。本〔もと〕は藍色、細き黑㸃あり。末は白色なり。頰、藍色にして、褐斑〔かつぱん〕あり。癭〔こぶ〕、灰白色。鱗、粗大にして、淡黃褐色に褐色の斑〔まだら〕、鱗每〔ごと〕にあり。腹、淡紅色を帶ぶ。背鬣〔せびれ〕・腰下の鬣〔ひれ〕、倶に、本〔もと〕、褐色、末〔すゑ〕、藍色。脇翅〔むなびれ〕、本、淡黃色、端、藍色。腹下の翅〔ひれ〕、藍色。尾に岐なく、藍色。眼の上、眼前に褐色の斑あり。「續修臺灣府志」に曰はく、『鸚哥魚、鳥の嘴、紅色、週身、皆、綠。孫元衡、詩、有り。「朱施烏啄翠成襦」』と。「臺灣縣志」に曰はく、『鶯哥魚〔いんこうを〕、狀〔かたち〕、鯉のごとく、週身、綠。嘴、烏〔からす〕にして、勾曲〔こうきよく〕し、鶯哥〔いんこ〕に似たり。故に名づく』と。「臺灣府志」に曰はく、『鸚哥魚〔いんこうを〕、嘴、鸚鵡〔あうむ〕のごとくにして、皮、綠色なり』と。

一種、形、同じくして、背、深き藍色、腹、淺き藍色。翅〔ひれ〕、黃を帶ぶる者あり。「八丈物產記」に曰はく、『「マノミ」。色、靑黛〔せいたい〕のごとく、異形なる魚なり。丈〔た〕け、一尺二、三寸。身、柔らかにして、味、平なり』と。

一種、遍身、綠色にして、齒、紅色の者あり。此れ、餘品の類〔るゐ〕あり。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。主記載は、

スズキ目ベラ亜目ブダイ科アオブダイ亜科アオブダイ属アオブダイ Scarus ovifrons

を指しているとしてよかろう。ここで「ブダイ」というブダイ科 Scaridaeの総称和名について言っておくと、漢字では「舞鯛」「武鯛」「不鯛」「部鯛」といった字が当てられ、サイト「FISH WORLD」のブダイによれば、『姿が武士のいくさで着る鎧のようにウロコが大きいから「武鯛」。泳ぎ方がヒラヒラと舞うようだから「舞鯛」。不細工な姿をした鯛ということで「不鯛」などと、名の由来にはいろいろな説があ』るとある。さて、ウィキの「アオブダイ」によれば、『岩礁やサンゴ礁に生息する大型魚で、名の』通り、『青みの強い体色が特徴である』。『体長は最大90 cmほど』で、和名が示すように、『体色は青みが強いが、体の各所に赤褐色、白、黒などの斑点が出るものもいる。成魚は頬に白っぽい斑点が出て、前頭部がこぶのように突き出るが、若魚は頬に斑点がなく、額にこぶもない』。『歯は上下それぞれが融合して、鳥のくちばしのような形状をしている。これは他のアオブダイ亜科の魚にも共通する特徴で、人間の指を噛み切るくらいの顎の力もあるので注意が必要である』。『東京湾、朝鮮半島以南からフィリピンまでの西太平洋に分布し、浅い海の岩礁やサンゴ礁に生息する』。ハゲブダイ属ナンヨウブダイ Chlorurus microrhinos や、ブダイ科アオブダイ亜科カンムリブダイ属カンムリブダイ Bolbometopon muricatum)など、『他のアオブダイ亜科』Scarinae『の魚が熱帯のサンゴ礁に生息するのに対し、アオブダイは温帯域にも生息する』。『食性は雑食性で、藻類、甲殻類、貝類などいろいろなものを食べる。強靭な歯と顎でサンゴの骨格をかじるとされてきたが、これはサンゴではなく、サンゴの枝についた藻類を食べるための行動とみられる。現在のところ、生きたサンゴを餌にするのが確認されたのはアオブダイに近縁のカンムリブダイだけである』。『昼間に活動し、夜は岩陰などで眠る。眠る際は』、『口から粘液を出して、自分を覆う薄い透明の「寝袋」を作り、その中で眠る行動が知られている』。『釣りや網などで漁獲され、食用になるが』、食中毒による複数の死亡例があるので、食べるべきではないと私は考える。『また、特徴的な魚だけに、古来から各地方独特の方言呼称もある』。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオブダイのページによれば、「ハチ」(頭部の「鉢」であろう)「バンド」「ブダイ」「アオイガミ」「アオタ」「イガミノオバ」「コブ」「ハースマイラブチャー」「ハッチイ」「ハトイガミ」「バンド」「モハミ」などの多様な異名が記されてある(但し、これらの多くはブダイ類に共通する異名として考えねばなるまい)。『日本では1953年以降、5人のアオブダイによる食中毒での死亡例がある』。『アオブダイはスナギンチャク』(刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱スナギンチャク目 Zoanthidea の多様な種を指す)『を捕食するため』、『パリトキシン』(palytoxin:最強の海産毒素の一種。海産毒素として最も毒性が強いとされるマイトトキシン(maitotoxin)に次ぐ猛毒とされ、呼称名は一九七一年にハワイに棲息する伝説的に猛毒を有するとされていたイワスナギンチャクの一種 Palythoa toxica から初めて単離されたことによる)『という強力な毒成分を蓄えており、内臓を食べてはいけないとされている。また、フグ毒で知られるテトロドトキシン』(tetrodotoxin:TTX)『が内臓から検出された事例もあ』り、しかも『パリトキシンは』テトロドトキシン同様、『加熱や塩蔵によっては分解されない』。『日本においては、有毒成分を含むことを理由として、アオブダイの販売自粛を求める通知が厚生労働省から』出されている、とある。パリトキシン中毒は横紋筋融解症(筋肉が溶け出すと考えてよい)を発症させ、急性腎不全を引き起こして重篤な状態に陥るので、本種の食用は厳に慎むべきである。

「鸚哥魚〔いんこうを〕」口吻の形状から、鳥のオウム目インコ科 Psittacidae のインコ類に比したもの。

「イソアマダヒ」既に複数の条で見てきた通り、スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio を指すと考えてよい。

「齒、口外に出でて、鳥の嘴〔くちばし〕のごとし。上下の齒、板牙〔ばんが〕にして、端〔はし〕に小鋸齒〔しやうきよし〕をなす」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオブダイ属の口吻部画像を見られたい。

「續修臺灣府志」清の余文儀の撰になる台湾地誌。一七七四年刊。この「臺灣府志」は一六八五から一七六四年まで、何度も再編集が加えられた地方誌である。その書誌データは維基文庫の「臺灣府志」に詳しい。「中國哲學書電子化計劃」によって、以下は、同書の巻十八にあることが判った。

   *

鸚哥魚、鳥嘴、紅色。周身皆綠。孫元衡有詩云、『朱施鳥喙翠成襦 陸困樊籠水厄罛 信是知名無隱法 曾聞眞臘有浮胡』。相傳眞臘有魚、名爲浮胡。嘴似鸚鵡同上。

   *

孫元衡(生没年未詳)は清の官吏で文人。「罛」(音は「ロ・ク・コ」)は大きな漁網の一種を指す。詩の意味は判らぬが、ブダイ類は現在、刺し網の漁網に掛かって、網を食い破る厄介者とされている。「眞臘」は現在のベトナム。

「臺灣縣志」清の王禮撰になる台湾県誌。一七二〇年完成。同じく「中國哲學書電子化計劃」によって、「土產」の部に、

   *

鶯哥魚、狀如鯉魚而闊。色綠、嘴尖而勾曲、似鶯哥嘴、故名。澎湖所產。

   *

とあって、畔田が「烏」とするところが、「尖」となっており、その前も、体幅が広いことを言っているようで、この方が躓かずに読める。「澎湖」は澎湖(ほうこ)諸島で、台湾島の西方約五十キロメートルに位置する台湾海峡上の島嶼群。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「臺灣府志」これは先のそれとは別編集のもので、恐らくは先行する「臺灣府志(蔣志)」(蔣毓英(いくえい)撰・一六八四年刊)或いは「臺灣府志(高志)」(高拱乾撰・一六九六年刊)の記載で、「中國哲學書電子化計劃」によって後者に、

   *

鸚哥魚嘴如鸚鵡。而皮綠色。

   *

とあるのが確認出来た。

一種、形、同じくして、背、深き藍色、腹、淺き藍色。翅〔ひれ〕、黃を帶ぶる者あり」八丈島で獲れるこの様態となると、一つ、

アオブダイ亜科アオブダイ属アミメブダイ Scarus frenatus

を挙げていいような気がする。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアミメブダイを見られたい。本種の♂は派手で、西洋の博物学者が狂喜乱舞しそうな図譜向きの多色で、しかも頭部側面に人工的な印象を受ける独特の紋を持ち、一目見れば、まず忘れられない。「異形」と言うに相応しい。体長は三十六センチメートル近くになるから、「一尺二、三寸」もぴったり一致する。食味も(私は食べたことがない)、ぼうずコンニャク氏の評によれば、「身、柔らかにして、味、平なり」と大きな隔たりは感じられない。

「八丈物產記」大村某なる人物が寛延四・宝暦元(一七五一) 年に書いた「八丈物産誌」か。現物を確認出来ないので判らない

「靑黛」化粧用の青い眉墨(まゆずみ)。特に歌舞伎でメーキャップに使う藍色の顔料が知られ、月代(さかやき)に使う羽二重鬘(はぶたえかつら)に塗るほか、藍隈(あいぐま:歌舞伎の隈取りの一つ。藍で青く顔を隈取るもの。怨霊・公家悪(くげあく)などの役柄に用いる)などに用いる。

一種、遍身、綠色にして、齒、紅色の者あり」歯が赤いというのは、誤認のような気がする(歯が赤い種というのはちょっと知らない。口吻部が赤いということか)が、それを無視すると、全身が緑色であるという点では、

アオブダイ亜科アオブダイ属スジブダイ Scarus rivulatus

を挙げてよいだろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスジブダイを見られたい。私がこれを一押しにする理由は、リンク先に本種の棲息域として、高知県柏島・愛媛県愛南が挙げられているからである。和歌山の畔田が全く現認出来ない南西諸島のブダイ類が、本書に載ると考えるのは甚だ無理があるからである。

「此れ、餘品の類〔るゐ〕あり」こうした類似した個体群は他にも有意にいる。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 惡 の 窓  斷篇七種 (全)

 

[やぶちゃん注:以下で冒頭に掲げたのは、「惡の窓」パート冒頭見開き。右にパート標題と石井白亭の挿絵。左ページは挿入画で、これは、本詩集の最後(奥附の前の前)に配されてある装幀・挿絵その他のリストにある、『太田正雄』(木下杢太郎)の「私信『四十一年七月廿一日便』」とするものと思われる。ご覧の通り、太田の北原白秋宛書簡(葉書であろう)を写真版に起こしたものである。奇体な絵の四隅の文面は、やや読み難いが、右上→左上→右下→左下の順に(私が判読できなかったものは□で示した)、

   *

僕ハ六五日頃一たん帰岡

しやうと思つてゐる。

九月にどういふ

事でもどつ

てくる

かわ

 

らぬ

也國の実□

と、我を以て家を建て

 

それまで、一𢌞あつて

また「美き日の歌」

でも歌はふ

 

て□返るかも知れない

   *

か。「帰岡」杢太郎の故郷は静岡である。左上の二行目は「國の実兄」と読みたかったが、「兄」の崩しではない。或いは「國」は「圓」ではないかとも思った。彼の次兄は太田圓三(土木技師・鉄道技師)という名であるからである。最終の左下も存外に読めなかった。「て(で)も」「ち(ぢ)き」等を考えたが、崩しが合わない。識者の御教授を乞う。

 全七断篇を纏めて電子化注する。総標題下の「斷篇七種」は底本では御覧の通り、右寄りである。各断篇は一作毎に改ページ開始で整序されているので(「五」と「六」は見開き左右に各篇分置)、各篇の間を三行空けた。]

 

Akunomadomihiraki

 

   惡 の 窓  斷篇七種

 

 

   一 狂 念

 

あはれ、あはれ、

靑白(あをじろ)き日の光西よりのぼり、

薄暮(くれがた)の燈のにほひ晝もまた點(とも)りかなしむ。

 

わが街(まち)よ、わが窓よ、なにしかも燒酎(せうちう)叫(さけ)び、

鶴嘴(つるはし)のひとつらね日に光り悶(もだ)えひらめく。

 

汽車(きしや)ぞ來(く)る、汽車(きしや)ぞ來(く)る、眞黑(まくろ)げに夢とどろかし、

窓もなき灰色(はひいろ)の貨物輌(くわもつばこ)豹(へう)ぞ積みたる。

 

あはれ、はや、燒酎(せうちう)は醋(す)とかはり、人は轢(し)かれて、

盲(めし)ひつつ血に叫ぶ豹(へう)の聲遠(とほ)に泡(あわ)立つ。

 

 

 

   二 疲 れ

 

あはれ、いま暴(あら)びゆく接吻(くちつけ)よ、肉(ししむら)の曲(きよく)。……

 

かくてはや靑白く疲(つか)れたる獸(けもの)の面(おもて)

今日(けふ)もまた我(われ)見据(みす)ゑ、果敢(はか)なげに、いと果敢(はか)なげに、

色濁(にご)る窓硝子(まどがらす)外面(とのも)より呪(のろ)ひためらふ。

 

いづこにかうち狂(くる)ふ井゙オロンオロンよ、わが唇(くちびる)よ、

身をも燬(や)くべき砒素(ひそ)の壁(かべ)夕日さしそふ。

 

 

 

   三 薄 暮 の 負 傷

 

血潮したたる。

 

薄暮(くれがた)の負傷(てきず)なやまし、かげ暗(くら)き溝(みぞ)のにほひに、

はた、胸に、床(ゆか)の鉛(なまり)に……

 

さあれ、夢には列(つら)なめて駱駝(らくだ)ぞ過(す)ぐる。

埃及(えじぷと)のカイロの街(まち)の古煉瓦(ふるれんが)

壁のひまには砂漠(さばく)なるオアシスうかぶ。

その空にしたたる紅(あか)きわが星よ。……

 

血潮したたる。

 

[やぶちゃん注:「古煉瓦(ふるれんが)」のルビはママ。]

 

 

 

   四 象 の に ほ ひ

 

日をひと日。

日をひと日。

 

日をひと日、光なし、色も盲(めし)ひて

ふくだめる、はた、病(や)めるなやましきもの

窻ふたぎ窻ふたぎ氣倦(けだ)るげに唸(うな)りもぞする。

 

あはれ、わが幽欝(いううつ)の象(ざう)

亞弗利加(あふりか)の鈍(にぶ)きにほひに。

 

日をひと日。

日をひと日。

 

 

 

   五 惡 の そ び ら

 

おどろなす髮の亞麻色(あさいろ)

背(そびら)向け、今日(けふ)もうごかず、

さあれ、また、絕えずほつほつ

息しぼり『死』にぞ吹くめる、

血のごとき石鹼(しやぼん)の珠(たま)を。

 

 

 

   六 薄 暮 の 印 象

 

うまし接吻(くちつけ)……歡語(さざめごと)……

 

さあれ、空には眼(め)に見えぬ血潮(ちしほ)したたり、

なにものか負傷(てお)ひくるしむ叫(さけび)ごゑ、

など痛(いた)む、あな薄暮(くれがた)の曲(きよく)の色、――光の沈默(しじま)。

 

うまし接吻(くちつけ)……歡語(さざめごと)……

 

 

 

   七 う め き

 

暮(く)れゆく日、血に濁る床(ゆか)の上にひとりやすらふ。

街(まち)しづみ、窻しづみ、わが心もの音(おと)もなし。

 

載(の)せきたる板硝子(いたがらす)過(す)ぐるとき車燬(や)きつつ

落つる日の照りかへし、そが面(おもて)噎びあかれば

室内(むろぬち)の汚穢(けがれ)、はた、古壁に朽ちし鉞(まさかり)

一齊(ひととき)に屠(はふ)らるる牛の夢くわとばかり呻(うめ)き悶(もだ)ゆる。

 

街(まち)の子は(たはむ)れに空虛(うつろ)なる乳(ち)の鑵(くわん)たたき、

よぼよぼの飴賣(あめうり)は、あなしばし、ちやるめらを吹く。

 

くわとばかり、くわとばかり、

黃(き)に光る向(むか)ひの煉瓦(れんぐわ)

くわとばかり、あなしばし。――

惡の窻畢――四十一年二月

 

[やぶちゃん注:最後のクレジット注記の「惡の窻」の「窻」はママ。冒頭のパート総標題は『惡の窓』である。]

2020/10/24

北原白秋 邪宗門 正規表現版 硝子切るひと

 

  硝 子 切 る ひ と

 

君は切る、

色あかき硝子(がらす)の板(いた)を。

落日(いりひ)さす暮春(ぼしゆん)の窓に、

いそがしく撰(えら)びいでつつ。

 

君は切る、

金剛(こんがう)の石のわかさに。

 

茴香酒(アブサン)のごときひとすぢ

つと引きつ、切りつ、忘れつ。

 

君は切る、

色あかき硝子(がらす)の板を。

 

君は切る、君は切る。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:「茴香酒(アブサン)」「天鵝絨のにほひ」の私の注を参照。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 吊橋のにほひ

 

  吊 橋 の に ほ ひ

 

夏の日の激(はげ)しき光

噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、

雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、

見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も眞白に

聲もなき潮のさしひき。

 

そがうへに懸(かか)る吊橋。

煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鐵(てつ)の桁構(けたがまへ)、

半月形(はんげつけい)の幾圓(いくまろ)み絕えつつ續くかげに、見よ、

薄(うす)らに靑む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の

圓柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。

 

銀色(ぎんいろ)の光のなかに、

そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、

或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、

河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに眞晝の

白蠟(はくらふ)の冷(ひや)みの沈默(しじま)。

 

かくてただ惱(なや)む吊橋(つりはし)、

なべてみな眞白き水(み)の面(も)、はた、光、

ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の

銀(ぎん)の眞晝(まひる)に、色重き鐵(てつ)のにほひぞ

欝憂(うついう)に吊られ壓(お)さるる。

 

鋼鐵(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、

絕えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子

眞白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して

柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、

白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。

 

眞白(ましろ)なる眞夏(まなつ)の眞晝(まひる)。

汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、

暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目當(めあて)にたぎち來る

小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、

日は光り、煙うづまく。

四十一年八月

 

[やぶちゃん注:「或(あるひ)は」の「ひ」はママ。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂へる椿

 

  狂 へ る 椿

 

ああ、暮春(ぼしゆん)。

 

なべて惱(なや)まし。

溶(とろ)けゆく雲のまろがり、

大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。

 

ああ、暮春。

 

大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――

幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に

照りかへし、

くわと入る光。

ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。

あかあかと狂ひいでぬる藪椿(やぶつばき)、

自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む靈(たま)か、見よ、枝もたわわに

狂ひ咲き、

狂ひいでぬる赤き花、

赤き譃言(うはごと)。

 

そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、

うち濕(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく

大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。

人力車夫(じんりきしやふ)は

ひとつらね靑白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。

客を待つこころごころに。

 

ああ、暮春。

 

さあれ、また、うちも向へる

いと高く暗き崖(がけ)には、

窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の

長き列(つら)、はては閉(とざ)せる

灰黑(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。

 

はたやいま落つる日ひびき、

照りあかる窪地(くぼち)のそらの

いづこにか、

さはひとり、

濕(しめ)り吹きゆく

幼(をさな)ごころの日のうれひ、

そのちやるめらの

笛の曲(ふし)。

 

笛の曲(ふし)…………

かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、

赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。

四十一年六月

 

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 千載の斑狐一條太閤を試むる事

 

[やぶちゃん注:さても、実は以下の本文電化は、既に三日目の夜に全部、出来上がっていた。而して、そこで私は感じた。――天下に博識を誇った一条兼良を手玉にとる少年(実は妖狐)の博覧強記、即ち、作者都賀庭鐘のそれが――どうにも何かやり過ぎて――実に不快で小憎らしい――と――である。されば、そこで私は決心した。――「ここで兼良を黙らせてしまう、その妖狐=都賀庭鐘の『智』をテツテ的に検証してやろうじゃあ、ねえか!」――されば、殆んど丸二日を注にかけた。――ちょいと、ガムばったな――と自分でも思う。お読みあれ。]

 

    千載(せんざい)の斑狐(はんこ)一條太閤を試むる事

 應仁の亂は古今未曾有(みぞう)の至變(しへん)にして、元弘・建武の亂は其類(たぐひ)にあらず。五畿七道みだれざるところなく、群雄、蜂のごとく起りて、各國に割據(かつきよ/ワカレ)して爪牙(さうが/イキホヒ)を逞(たくま)しうすること、唐土(もろこし)の戰國といひしも、かゝる例(ためし)なるべし。上(かみ)一人より公卿・殿上人まで、こゝかしこに身をよせて、からき命を保ちて太平を待つの外なし。中にも一條太閤兼良(かねよし)公は、いさゝかの緣を求めて、江州に亂を避けたまふ。公は、もとより、古今獨步の大才(たいさい)にて、其博識、又、いにしへにも類(たぐひ)まれに、詩文和歌のみちまで、一時(〔いち〕じ)に肩を比(なら)ぶる人なし。「四書童子訓」・「花鳥餘情(くわてうよじやう)」・「歌林良材(かりんりやうざい)」・「公事根元(くじこんげん)」など數多(あまた)の書をあらはし、後生(こうせい)の便(たより)となしたまへり。常々、不平を抱きたまひて、

「我、菅丞相(くわんしやうじやう)に勝(まさ)ること、三つあり。菅公は、官、右府(いうふ)にとゞまり、我は相國に昇る。菅公は、其家、もとより、攝關の家にあらず。我は累代、執柄(しつへい)の家なり。菅公は唐土(もろこし)の事は李唐(りたう)以前のみをしり、本朝の事は延喜以前のみを、しる。われは和漢の古(いにしへ)を知るのみならず、李唐以後、延喜以後の事を、しる。此三條、彼(か)の公に勝れども、後世、我を見ること、公の萬分が一にも、およぶまじきこそ遺恨なれ。」

と宣(のたま)ふより、時の人、太閤を請(しやう)するには菅公の畫像・墨蹟などは憚りたりしに、たまたま心附かぬものあれば、はなはだ不興し給ひしとぞ。かくまで自ら許し給ふ、誠に衰世(すゐせい)の大才(たいさい)といふべし。

 されども、政務は久しく武家の手にありて、損益(そんえき)したまふこと、あたはず。徒(いたづ)に虛位(きよゐ/ムナシキクラヰ)を守りたまひ、夫(それ)さへ、身を置きたまふ所なく、江濃(かうのう/アフミミノ)の間(あひだ)にさすらへありきたまひて、草莽(さうまう/クサムラ)に身をひそめたまふこそ、不幸なれ。

[やぶちゃん注:「千載の斑狐」千年を生きた妖狐。年古りたる故に毛色が斑(まだら)となって普通の狐とは異なるということか。

「一條太閤」「兼良」(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年)は室町時代の公卿で古典・有職学者。「かねら」とも呼ぶ。法名は覚恵(かくけい)。「一条禅閤」と称し、謚号は後成恩寺。父は関白左大臣一条経嗣、母は参議東坊城秀長(ひがしぼうじょうのひでなが)の娘。応永一九(一四一二)年に元服して叙爵、翌年、従三位、同二十一年に正三位・権中納言となり、同二十三年に権大納言となって家督を継いだ。同二十八年、内大臣、同三十一年、右大臣、同三十二年、従一位、永享元(一四二九)年に左大臣、永享四年八月には摂政・氏長者となったが、時の室町幕府第六代将軍足利義教が二条持基を重用したことから、同年十月に摂政を辞任させられている。文安元(一四四四)年に足利義政が将軍になると、同三年に太政大臣、翌年には関白となった。宝徳二(一四五〇)年に太政大臣を、享徳二(一四五三)年に関白を辞任、同年准三宮に叙せられて長禄二(一四五八)年に辞した。応仁元(一四六七)年には再び関白となったが、「応仁の乱」(応仁元(一四六七年)に発生。約十一年続き、彼の生前である文明九(一四七八)年に終息をみた)の勃発により、同二年に奈良興福寺大乗院門跡尋尊(兼良五男)のもとに疎開した。文明二(一四七〇)年に関白を辞し、同五年に美濃に下向、その後、奈良に戻って、まもなく大乗院で出家した。同九年に帰京し、同十一年には越前の朝倉孝景のもとに下向して、家領であった足羽御厨(あすはのみくり)の返還を要めたが、聞き入れられず、二百貫文の寄進を得て帰京、同十三年に病没した。墓所は東福寺。兼良は当時、「五百年以来の才人」と謳われ、古典学・有職学の第一人者であった。ここに示されたように、有職故実を始めとする多くの著作があり、「源氏物語」などを天皇や将軍家に進講し、歌学入門書や教訓書から仏教書も手掛けた。兼良の博識な学問と多数の著書は、当時の人々の啓蒙と学問研究に多大な功績を残した(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「元弘・建武の亂」後醍醐天皇の討幕運動(元徳三(一三三一)年六月)から鎌倉幕府滅亡から元弘三年六月五日(一三三三年七月十七日)を経、建武政権期(広義の南北朝前期)の建武二(一三三六)年十一月から延元元/建武三(一三三六)年十月までの後醍醐の建武政権と足利尊氏を筆頭とする足利氏との間で行われた一連の戦乱。

「四書童子訓」一条兼良による「四書」の仮名抄の注釈書。兼良には「五経抄」もあったと伝えられるが、この「大学」に対する一巻のみが四書五経関連の唯一の漢籍の注釈書として現存する。文安元(一四四四)年の写本が知られるので、それ以前の成立である。

「花鳥餘情」文明四(一四七二)年成立。「源氏物語」の注釈書。彼は後に本書の秘伝書として「源語秘訣」も著している。

「歌林良材」作歌ための由緒ある良歌を収集した作歌入門書で、後世の歌人に大きな影響を与えた。

「公事根元」「公事根源」或いは「公事根源抄」が正しい。有職故実書。後醍醐天皇の「建武年中行事」や、祖父二条良基が著した「年中行事歌合」などを参考にし、元旦の四方拝から、大晦日の追儺までの、宮中行事百余を月順に記し、起源・由来・内容・特色などを記す。参照したウィキの「公事根源」によれば、『奥書によると』、応永二九(一四二二)年に『兼良が自分の子弟の教育のために書いたものとあり、また』、『後世に書かれた識語には』、『室町幕府』第五代『将軍足利義量』(よしかず:満十七で夭折した)『の求めに応じて』、十九『歳の兼良が何の書物も見ずに書いて』進呈したとする。本文に「年中行事歌合」からの本文引用が多く』、『兼良の著作と呼ぶべきではないとする説もある』『が、こうした著作方法は当時の学問では広く行われており』、『兼良が独自に採用した他書の所説も含んでいることから』、『兼良独自の著作とするべきであるとする反論もある』。『後世において重んじられ』、複数の『注釈書が書かれている』とある。

「菅丞相」菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)。

「右府」右大臣の唐名。

「相國」太政 (だいじょう)大臣・左大臣・右大臣の唐名。

「執柄」摂政・関白の異称。

「李唐」唐代のこと。李淵が隋を滅ぼして建国し、皇帝は代々、李氏が継いだことによる呼称。

「延喜」平安中期の元号。九〇一年から九二三年まで。当代の天皇は醍醐天皇。道真は延喜三年に亡くなっているのだから、いかにも馬鹿げた物言いである。]

 

 頃しも、愛知川(えちがは)の片ほとりに蟄居(ちつきよ/カクレスミ)したまひ、友もなき荒れたる軒に都をしのび、徒然を慰めかねておはせしに、たまたま、編戶をおとづるものあり。

「誰(た)そ。」

と見たまへば、年頃二十(はたち)ばかりの少年(せうねん/ワカモノ)、身にはふと布(ぬの)をまとヘども、眼中、ひかりありて骨相(こつさう)の奇なるに、『世のなみの村夫(そんふ)にはあらじ』と請(しやう)したまヘば、少年、辭することなく、座につきて、

「某(それがし)は此川上高野(たかの)のほとりに住み侍る萱尾何某(かやをなにがし)と申す者なるが、幼(いとけなき)より書籍(しよじやく)を好み、手は卷(まき)を捨て侍(はんべ)らねども、寒村のかなしさ、然(しか)るべき師友とてもなく、これのみ歎き侍りしに、はからずも、君(きみ)、此所(このところ)にさすらへましますことを、うけたまはり、恐(おそれ)はかへりみず、推(お)して參りたれ。」

といふに、太閤、よろこびて、其學ぶところを試みたまふに、和漢の學、其博(ひろ)きこと、海のごとく、辯舌、水の流るゝがごとし。

[やぶちゃん注:「愛知川」(えちがわ)は滋賀県東部(湖東地域)を流れる川。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高野」愛知川の川上に、滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)(グーグル・マップ・データ)がある。

「萱尾(かやお)」この姓、如何にも九尾狐みたように妖しく見えるのだが実は、永源寺高野町の東、愛知川上流左岸に旧永源寺町内であった東近江市萱尾町(かやおちょう)という地名(本文でも後に出る)が現存する(グーグル・マップ・データ)。]

 

 太閤、大いに驚きて、

「天下の奇才なり。」

と、再三、稱美し給へば、少年、謝して云く、

「敢て、あたらず。されども、君の尊名(そんめい/オナ)、雷霆(らいてい)のごとく、僻境(へききやう/カタヰナカ)某(それがし)がごときも、幼(いとけなき)より、これを仰ぐ。今、試みに、五、三を問ひ奉らん。そも、四書の名、程(てい)・朱(しゆ)に出でたるは、論、なし。『大學』・『中庸』の二篇を表出(へうしゆつ)したるは、何れの時とやせん。」

太閤云く、

「程・朱、はじめて戴記(たいき)の中(うち)より表出して、四書の名、いでたり。」

少年云く、

「晋(しん)の戴顒(たいぐう)、『中庸傳』二卷を作る。又、梁の武帝、『講疏』一卷、『制旨義(せいしぎ)』五卷を製す。宋の仁宗、王堯臣(わうげうしん)に『中庸』一篇を賜ひ、呂瑧(りよしん)に『大學』一篇を賜はりしを以てみれば、なんぞ程・朱を待たんや。」

太閤、其精覈(せいかく/クハシクアキラム)に伏したまふ。

[やぶちゃん注:「程・朱」宋代の儒学者で新儒学(道学)の創始者である程顥(ていこう 一〇三二年~一〇八五年)・程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)兄弟と、後の朱子学の創始者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)を指す。

「戴記」漢代の儒者戴徳が古代の礼文献を取捨して整理した儒教関連の論文集「大戴礼記(だたいらいき)」。元は全十三巻八十五篇であったが、現在はその過半が失われ、四十篇のみ現存する。現存部分には「大学」と「中庸」は含まれていないようである。

「晋の戴顒」(三七八年~四四一年:辞書類では「たいぎょう」と読んでいる)は南北朝期の晋・宋の学者。官の召請を辞し、隠者として過ごした。初めて「中庸」を表彰したのは彼とされ、「禮記傳」・「中庸傳」を書いており、また「荘子」の大旨を述べて、「逍遙論」をも著している。

「梁の武帝」南朝梁の初代皇帝蕭衍(しょうえん 五〇二年~五四九年)。彼は「中庸講疏」二巻を著し、「制旨中庸義」五巻を編集させている。

「宋の仁宗」在位は一〇二二年から一〇六三年。

「王堯臣」(一〇〇三年~一〇五八年)仁宗の治世の賢臣。

「呂瑧」同じく仁宗の治世の臣か。「中國哲學書電子化計劃」の明夏良勝の「中庸衍義」の「原序」の一節に、まさにここに書かれている(問題としている)ようなことが、以下のように記されてある。「宋仁宗時王堯臣及第賜中庸篇呂臻及第賜大學篇始掇取於載記中至大儒程顥及頥尊信之簡編循次旨趣有歸朱熹集說章句別爲」といった文字列を見出せる。

「精覈」(底本や原本では「覈」の字は(かんむり)の「襾」(かなめがしら)の下部が完全に塞がった「覀」のこの(グリフウィキ)字体であるが、表字出来ないので、かくした)。「覈」は「調べて明らかにする」の意で、詳しく調べて明らかにすることの意。]

 

 又、云く、

「西瓜(すゐくわ)の中國に來(きた)る、いづれの時とやせん。」

太閤云く、

「五代の時、胡嶠(こきやう)といふ者、戎(えびす)の地より種(たね)をとり來りて、はじめて、中國に西瓜あり。」

少年云く、

「もし、しからば、『梁の武帝、西園(せいゑん)に綠沈瓜(りよくしんくわ)を食(くら)はふ[やぶちゃん注:底本・原本のママ。]』とあるは、何物なるや。」

太閤、言葉なし。

[やぶちゃん注:「西瓜」ウリ目ウリ科スイカ属スイカ Citrullus lanatus の原種は、ウィキの「スイカ」によれば、『熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯』とし、『西瓜の漢字は中国語の西瓜(北京語:シーグァ xīguā)に由来する。日本語のスイカは「西瓜」の唐音である。中国の西方(中央アジア)から伝来した瓜とされるため』、『この名称が付いた』とある。『原種は西アフリカ原産のエグシメロン、アフリカ北東部原産のCitrullus lanatus var.colocynthoides等、様々な説が存在する。リビアでは』、五千『年前の集落の遺跡よりスイカの種が見つかっていることから、それよりも以前から品種改良が行われていたことが判明している』。『エジプトでは』四千『年前の壁画にスイカが描かれているが』、『当時は種のほうを食べていたとみられている』。『ツタンカーメンの墳墓等』、四千『年以上前の遺跡から種が発見されており、各種壁画にも原種の球形ではなく』、『栽培種特有の楕円形をしたスイカが描かれている。またこの頃、現在カラハリ砂漠で栽培されるシトロンメロンが発明された』。『紀元前』五百『年頃には地中海を通じ』、『ヨーロッパ南部へ伝来。地中海の乾燥地帯での栽培が続けられるうちに果実を食べる植物として発達した』。『ヒポクラテスやディオスコリデスは医薬品としてスイカについて言及している。古代ローマでは大プリニウスが『博物誌』の中で強力な解熱効果がある食品としてスイカを紹介している。古代イスラエルでは「アヴァッティヒム(avattihim)」という名で貢税対象として扱われ、さらに』二百『年頃に書かれた文献の中でイチジク、ブドウ、ザクロと同じ仲間に分類されていることから、すでに甘味嗜好品として品種改良に成功していたことが窺える。もっとも、地中海地域で普及したスイカは黒皮または無地皮のものが一般的だった』。また、『この頃の文献では「熟したスイカの果肉は黄色」と記述されており』、四二五『年頃のイスラエルのモザイク画にもオレンジがかったスイカの断面が描かれており、こちらもやはりオレンジがかった黄色い果肉が描かれている。スイカは糖度を決定する遺伝子と果肉を赤くする遺伝子とがペアになっているため、まだ現代品種ほど甘くはなかったことが推察される。果肉が赤いスイカが描かれた最初期の資料は』、十四『世紀のイタリア語版『健康全書』であり、楕円形で緑色の筋の入ったスイカが収穫される様子や赤い断面を晒して販売されるスイカの図が描かれている』。『日本に伝わった時期は定かでないが、室町時代以降とされる』。天正七(一五七九)年、『ポルトガル人が長崎にカボチャとスイカの種を持ち込んだ説や』、慶安年間(一六四八年から一六五二年まで)に、『隠元禅師が中国から種を持ち込んだ説がある』。元福岡藩士宮崎安貞が元禄一〇(一六九七)年に刊した日本最古の農業書「農業全書」では、『西瓜ハ昔ハ日本になし。寬永の末初て其種子來り。其後やうやく諸州にひろまる。」と記されてある。一方、。正徳二(一七一二)年に成立した寺島良安の「和漢三才図会」では、『慶安年間に隠元禅師が中国大陸から持ち帰った説をとっている』。『日本全国に広まったのは江戸時代後期である』。『しかし、果肉が赤いことからなかなか受け入れられず、品種改良による大衆化によって栽培面積が』やっと『増えるのは』、『大正時代になってからである』とある。この筆者は伝来をかなり詳しく追っているが、中国への伝来は、一切、記していない。それにしても、本話柄は室町後期・戦国の初めで、実はここで西瓜談義をすること自体が、有り得ないことになるという、「がっくりオチ」がつくことになる。

「五代」唐朝滅亡の九〇七年から、宋朝の興った九六〇年までの間、中原の地に興亡した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五つの王朝の時代。中原以外の地方には北漢・荊南・前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩・楚・南漢などの十国が、おのおの割拠したため、併せて五代十国時代と呼ぶ。

「胡嶠」(生没年未詳)五代後晋の県令。「維基文庫」の「胡嶠」に、彼が契丹(きったん:四世紀から十四世紀にかけて満州から中央アジアの地域に住んだ半農半牧の民族)の地に軍を進めて(捕虜になったか?)帰った際に、西瓜を中国に齎したとあり、これが漢人が初めて西瓜に接触した始まりだと記してある。原拠は胡嶠著の「陷虜記」とする。

「戎(えびす)」西戎で、中国西方の異民族全般に用いる。

「梁の武帝、西園に綠沈瓜を食はふ」清の沈濂(しんれん)の「懷小編」の中に「綠沈瓜」として、「丹鉛總錄南史梁武帝西園食綠沈瓜綠沈卽西瓜皮色也案西瓜至五代時中國始有見於五代史附錄然陸宣公論獻瓜果人擬官狀云累路百姓進獻果子胡瓜等胡瓜疑卽西瓜如升庵言則六代已有西瓜矣」とあった。グーグル・ブックスのこちらの画像から起こした。「丹鉛總錄」は明の楊慎(一四八八年~一五五九年)撰の一種の百科事典か。]

 

 又、云く、

「『竹實(ちくじつ/タケノミ)は鳳凰の食する所といふ』、いぶかし。近頃、多く生ずる所の竹實ならんや。」

太閤云く、

「いまだ考へず。」

少年云く、

「竹實、二種ありて、鳳の食ふものは、大いさ、鷄卵(けいらん/ニハトリノタマゴ)のごとく、其味(あぢはひ)、蜜にまさる、といふ。今、此方(はう)に生ずる所は、江淮(かうわい)の間(あひだ)に『竹米(ちくべい)』と呼ぶものにして、生ずれば、其竹、ひさしからずして枯(か)るといふ。唐句(たうく)に『饑年竹生ㇾ花(きねん たけ はなをしやうず)』とも見えて、『荒年(くわうねん/キキン)の兆(しるし)なり』と李𪽌(りぶん)が『該聞集』に載せたり。何ぞ、一物(いちもつ)ならん。」

太閤、言葉なし。

 又、云く、

「曹操、關羽を漢壽亭侯(かんじゆていこう)に封(ほう)じたる事、『三國志』に見えたり。其字義、いかん。」

太閤云く、

「いまだ考ヘず。」

少年云く、

「蜀の嚴道(げんだう)に漢壽(かんじゆ)といふ地ありし故に、漢壽亭侯に封じたるものを、後世、『漢』の字を世の名として、壽亭侯と呼ぶは、あやまらずや。」

太閤、言葉なし。

 又、云く、

「『論語』に『紫の朱を奪ふ』とあり、いぶかし。紫と朱と、何ぞ、まぎるゝ事かあらんや。」

太閤云く、

「いまだ考へず。」

少年云く、

「宋の仁宗の頃より、紫(むらさき)を染むるに、紫草(しさう)を多く用ひて、『油紫(ゆし)』と名づく。是、我が國染むる所の紫(むらさき)なり。古(いにしへ)の紫は染むるに『靑(せい/アヲク)』とすることなく、紫草を纔(わづか)に用ひたり。鷄冠(けいくわん)を『紫色(ししよく)』といふを以て、知るべし。唐土(もろこし)も淳凞(じゆんき)の項よりは、紫色、いにしへに復して、北紫(ほくし)と呼びたるよし。近世、たまたま、染むる所の紅紫(べにむらさき)なるべし。『朱(あけ)を奪ふ』と宣(のたま)ふも宜(むべ)ならずや。」

太闇、こと葉なし。

[やぶちゃん注:「竹實」竹(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambuseae。現生タケ類は、学説により異なるが、世界で六百から千二百種、本邦には百五十から六百種が植生するとされる)の開花と結実については、サイト「笹JAPON」(webマガジン)の「竹の実と笹の実・竹の花と笹の花」がよい。『タケ類は開花すると』、『ほとんどのものが』結実せずに『枯死してしまいます』。『一斉に枯れるのを見て、昔の人は伝染病のせいだと考え、伝染するのを恐れて皆』、伐ったり、『焼き払ったりもしました』。『しかし近年、一度に枯れる原因は伝染病ではないことが分かっています』。さて、『目的を持って植えられた竹の中で有用なものは地下茎を隣の人が貰い受けます』。『これを』、『また』、『貰って植えることがくり返されると、ひとつの部落や渓谷で栽培される竹は同系統のものとなることが多くなります』。『そうすると、広大な竹藪の元をたどると』、『ひとつの個体に行き着くため、似通った環境で育った竹は同時期に開花し』、さらに『タケ類は開花後に枯れる特徴があるため、同系統のタケ類は一斉に枯れてしまいます』。『タケ類の開花は珍しく』、俗説では、六十年から百二十年に一度と『言われています』。『そのため、開花は不吉の前兆と考えられることもあります。しかし、あくまで俗説であって科学的根拠はありません』。『花をつけ、実を結ぶのは植物によく見られる現象です』。『タケ類も同様に栄養成長が終わり、生殖成長になると花をつけます』。『では、生殖成長になる要因は何でしょうか?』 『乾燥続きの年には藪の一部がよく開花すること、稈』(かん)『の反面がしばしば開花することから、体内の炭素化合物が鍵になっているのではないかという説が唱えられています』。『稈は炭素化合物の増量で開花します』。『タケ類に開花がおこると』、『結実』、『実がなります』が、『結実の頻度は非常に少なく、よく結実すると考えられているチマキザサ』(タケ連ササ属チシマザサ Sasa kurilensis:北方種)でも三〇%ほども『実をつけません』。『反対に実をめったにつけない種もあります。少ないものだと、その確率は数万分の』一『と考えられています』(代表例はタケ連マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides)とある。この、開花のスパンの長さに加えて、結実しないものが多いという事実も、民俗社会では甚だ異常な凶兆様態と捉えられるであろう。なお、私は小学校六年の終わり、今いる鎌倉を去る頃、裏山の崖の笹叢に一斉に花が咲いたのを覚えている。昭和四四(一九六九)年初から二月までの間と記憶している。亡き母が「不吉とされるのよ」と教えてくれたのを思い出す。

『竹實(ちくじつ/タケノミ)は鳳凰の食する所といふ』鳳凰やそれに類すると思われる伝説上の鳥が、梧桐の木にしか住まず、「練實」(竹の実)しか食べないという伝承は「荘子」その他漢籍の諸書に現われる。柳川順子氏のサイト「中国文学研究室」の「元白応酬詩の感想」の注の一に、『「梢雲」とは、竹を産する山の名。『文選』巻』五、『左思「呉都賦」に、「梢雲無以踰、嶰谷弗能連。鸑鷟食其実、鵷鶵擾其間(梢雲も以て踰ゆる無く、嶰谷も連なる能はず。鸑鷟は其の実を食べ、鵷鶵は其の間に擾(やす)んず)」、劉逵の注に「鸑鷟、鳳鶵。鵷鶵、『周本紀』曰、鳳類也。非梧桐不棲、非竹実不食。黄帝時鳳集東園、食帝竹実、終身不去(鸑鷟とは、鳳鶵なり。鵷鶵とは、『周本紀』に曰く、鳳の類なり。梧桐の非ずんば棲まず、竹の実に非ずんば食せず。黄帝の時 鳳 東園に集まり、帝の竹の実を食べ、終身去らず、と)」。李善注に「梢雲、山名。出竹(梢雲とは、山の名なり。竹を出だす)」と』あり、さらに注の五で、『鳳凰は、伝説上の一対の鳥。竹の実のみを食べる。『詩経』大雅「巻阿」に「鳳皇鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽(鳳皇は鳴く、彼の高岡に。梧桐は生ず、彼の朝陽に)」、鄭玄の注に「鳳皇之性、非梧桐不棲、非竹実不食(鳳皇の性、梧桐に非ずんば棲まず、竹実に非ずんば食せず)」と』あると記されてある。

「江淮(かうわい)」江蘇省北部の長江下流部と淮河(わいが)下流部との間にある江淮平原。長江中下游(ちょうこうちゅうかゆう)平原の一部。大運河や無数の人工水路が縦横に走る水郷地帯。この中央部の北の淮河と南の長江に挟まれた東西に広がる平野域(グーグル・マップ・データ)。

「竹米(ちくべい)」これが我々の知っている竹の実のこと。さても、この少年、則ち、作者都賀庭鐘が参考にしたのは、明の李時珍の「本草綱目」であろうことが判明した(寛文九(一六六九)年風月莊左衞門板行本の訓点(国立国会図書館デジタルコレクション)を参考に訓読した)。

   *

竹實[主治]神明に通じ、身を輕くし、氣を益す【「本經」。】。

[發明]「别録」に曰はく、『竹實、益州に出づ』と。弘景曰はく、『竹實、藍田の江東に出づ。乃(すなは)ち花有りて實し。頃來(ちかごろ)、斑斑として、實、有り。狀(かたち)、小麥のごとし。飯と爲して食ふべし』と。「承」に曰はく、『舊(むかし)、竹の實有り、鸞鳯の食する所。今--道(いま)、竹間、時に、花開くを見る。小白にして、棗の花のごとし。亦、實を結ぶこと、小麥のごとし。子(み)、氣味、無くして、濇(とどこほ)る。江浙の人、號して「竹米」と爲す。以つて荒年の兆しと爲す。其の竹、卽ち、死せる。必ずや、鸞鳯の食する所の者に非ず。近ごろ、餘干の人、有り、言はく、「竹實、大いさ、雞(にはとり)の子(たまご)のごとし、竹葉、層層として包褁(はうか)す。味、甘くして、蜜に勝されり。之れを食して、人をして、心膈、淸凉ならしめて生らしむ。深き竹林、茂盛䝉宻(まうみつ)[やぶちゃん注:びっしりと映えていることであろう。]の處、頃(この)ごろ、因りて之れを得。但し、日、久しくして、汁、枯乾して、味、尚ほ、存するのみ。乃ち、知んぬ、鸞鳯の食する所、常の物に非ざるなり」と』と。時珍曰はく、『按ずるに、陳藏器が「本草」に云はく、『竹肉 一名「竹實」。苦竹の枝上に生ず。大いさ、雞の子のごとし。「肉臠(にくれん)[やぶちゃん注:細かく切った肉。]」に似たり。大毒有り。須らく、灰汁(あく)を以つて煮、二度、煉(や)く。訖(をは)りて乃ち、常の菜に依つて茹(ゆ)で食す。煉きて熟せざるときは、則ち、人の喉を㦸(さ)し、血を出だし、手の爪、盡く脫するなり』と。此の說、陳承が說く所の竹實と相ひ似たり。恐くは、卽ち、一物(いちもつ)なり。但し、苦竹の上の者の毒有るのみ。「竹米」の「竹實」と同じからず。

   *

少年が「何ぞ、一物(いちもつ)ならん」と批判するのも、この時珍の最後の最後の部分の受け売りに過ぎぬことさえ判る。

「唐句(たうく)に『饑年竹生ㇾ花(きねん たけ はなをしやうず)』とも見えて」宋の蕭立之の以下の五律。

   *

 茶陵道中

山深迷落日

一徑窅無涯

老屋茅生菌

饑年竹有花

西來無道路

南去亦塵沙

獨立蒼茫外

吾生何處家

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「窅」の訓読は「えう(よう)として」で奥深くて遠いさまを謂う。

「『荒年(くわうねん/キキン)の兆(しるし)なり』と李𪽌(りぶん)が『該聞集』に載せたり」「該聞集」は宋李𪽌(りぶん)が『該聞集』李𪽌』

「何ぞ、一物(いちもつ)ならん」鳳凰の餌のそれは別としても、竹の種は多く、中国では漢方薬として、また、多く結実するものは今も食用としているぐらいだから、一種類でないという謂いは正しいとは言える。

「漢壽亭侯」ウィキの「関羽」によれば、西暦二〇〇年に『劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳』(かひ)『に撤退せず』、『北上し』、『袁紹の元に逃げると、関羽は一時的に曹操に降り』、『賓客として遇された。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻』、『上表して』漢寿亭侯に『封じた』とあり、注に『三国時代は呉の支配下にあったため、「呉寿」と改称され、西晋で「漢寿」に戻された。蜀漢の漢寿は益州広漢郡の葭萌県を改称したもので、別の地名』であるとある。正しい「漢壽」は現在の湖南省常徳市漢寿県(グーグル・マップ・データ)。というわけで、遂に妖狐の誤りを発見した! 「蜀の嚴道(げんだう)に漢壽(かんじゆ)といふ地ありし」というのは現在の四川省雅安市滎経(えいけい)県(グーグル・マップ・データ)で、アウト!

「『論語』に『紫の朱を奪ふ』とあり」「論語」の「陽貨第十七」の以下。

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子曰。惡紫之奪朱也。惡鄭聲之亂雅樂也。惡利口之覆邦家者。

(子曰はく、「紫(むらさき)の朱(しゆ)を奪ふを惡(にく)む。鄭聲(ていせい)の雅(が)、樂(がく)を亂すを惡む。利口(りこう)の邦家(ほうか)を覆へす者を惡む。」と。)

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意味は「web漢文大系」のこちらを見られたい。

「紫草(しさう)」現在の中国産種はシソ目ムラサキ科ムラサキ属セイヨウムラサキ Lithospermum offcinale少年は本邦のムラサキ Lithospermum erythrorhizon と同じとするが、同属の別種である。但し、次注を参照。

「油紫(ゆし)」「正字通」にあるらしい。小林昭世氏の論文「『正字通』による糸部首漢字の色彩表現調査」(日本デザイン学会『デザイン学研究』二〇一六年・PDF)に、『紫の説明においては、紅花による染色を基にして、その上に藍を染め、紫色を得る。その紫色は深く染めると、北窓からみた冷たい感じの色であり、それが北紫と呼ばれた。また、北紫を染めるとき、紅花による染を深く染めすぎて、それが正色としての赤と間違われるので、「悪紫奪朱」の由来となったのであろう。紫の染色のなかには油に汚れて、油紫といわれる深い紫色となり、これは三品以上の官服の色であった。今回の調査によっては北紫と油紫の色名は明時代の特有な色名であろうと推測できる。残念ながら、その染色材料は明確に確認できていない』とあるから、前注のセイヨウムラサキに同定比定は出来ないことになる。

「古(いにしへ)の紫は染むるに『靑(せい/アヲク)』とすることなく、紫草を纔(わづか)に用ひたり。鷄冠(けいくわん)を『紫色(ししよく)』といふを以て、知るべし」という謂いからは、くすんだごく薄い紫色を言っているようである。「論語」の言っているのは、色を濁すとか、圧倒するという視覚的物理的現象としての色の変異を指しているのではなく、間色である紫がそのなまめかしさの故に好まれ、正しき純色である赤が圧倒されて、低く認識されることが憎むべき習慣であると言っているのである。

「淳凞(じゆんき)」南宋の孝宗の治世で用いられた元号。一一七四年から一一八九年。

「北紫(ほくし)」前の小林氏の論文の引用を参照。]

 

 又、云く、

「我が國、詩のはじまる、誰人(たれびと)とか、したまふ。」

太閣云く、

「大津皇子たる事、諸書に見えたり。」

少年云く、

「大津皇子にさきだちて、大友皇子・河島皇子、ともに五言の詩を作り給ふ。大友叛逆(ほんぎやく/ムホン)の冤(ゑん/ムジツ)をかうむりたまひし故、世の人、これをしらず。『日本紀』にも漏らされたるにや。」

太閤、言葉なし。

 又、云く、

「羅城門の名、いかなる義ぞや。」

太閤云く、

「いまだ考へず。」

少年云く、

「羅城・羅郭などと同じ意(こゝろ)にて、外郭(ぐわいかく/ソトグルワ)なり。唐の懿宗の時、羅城を築くといふ。注に『外郭なり』といふ。平安城外郭の門なるを以て名づけたるなるべし。」

太閤、言葉なし。

 又、云く、

「木曾路は美濃の地なりや、信濃なりや。」

太閤云く、

「信濃なる木曾といふを以て見るに、信濃なること、論なし。」

少年云く、

「承和(しやうわ)・仁壽(にんじゆ)の頃、度々、兩國の境を論じたることありしに、勅使をつかはされ、美濃の地なるよしを定めたまへり。其後、信濃に屬(しよく)したる事、國史(こくし/キロク)に見あたらず。」

といふに、太閤、大いに憤り、

『かゝる小冠者(こくわんじや)に難殺(なんさつ/イヒツメラル)せらるゝこそ、やすからね。』

と、おぼせども、せんすべなく、沈吟(ちんぎん)したまひしが、忽ち、一計を生じて云く、

「少年、和歌をたしむや。」

少年云く、

「幼(いとけなき)より、是をたしめども、ふつに、近世、軟弱華靡(なんじやくくわひ)の體(てい)をこのまず。世の人歌(〔ひと〕うた)と覺えたるは、剪裁(せんさい/ツクリバナ)の花にして、生色(せいしよく/ホンノイロ)なし、某(それがし)、たしむ所は、流俗に同じからず。」

太閤云く、

「懷中、詠草ありや。」

少年、一册を呈す。

 ひらき見たまふに、誠に秀逸にして、たけ高く、詞(ことば)なだらかなる事、定家の、いはゆる、「企て及ぶべからず」と歎じたまひし風調なり。

 太閤、卷を收めて云く、

「少年、全才といふべし。されども、和歌は其門に入らざれば、奧儀(あうぎ)をきはむる事、かたし。詠草、秀逸なりといへども、地下(ぢげ)の風にて、見るに、たらず。」

と嘲(あざけ)りたまふに、少年、冷笑(あざわら)うて云く、

「君の賢明なる、猶、流俗の說を執(しう)したまふは、なんぞや。聖(ひじり)と貴(たつと[やぶちゃん注:ママ。])ぶ人丸(ひとまる)・赤人(あかひと)、地下ならずや。貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)が輩(ともがら)、又、地下の淺官(せんくわん/カロキモノ)。和歌式を定めし窺仙(喜撰)[やぶちゃん注:以上は底本編者による補正追加。]は姓氏(せいし/ウジ)もさだかならぬ桑門(よすてびと)なり。一時(〔いち〕じ)の風(ふう)をよみなほさんとせし西行は、北面の士(さむらひ)の入道したるに侍(はんべ)らずや。人の心を種(たね)とする歌に、貴賤の差別(しやべつ)あるものならば、何ゆゑ、かゝる輩(ともがら)を先達(せんだつ)とはし給ふやらん。雲井の上に春秋(はるあき)を詠(なが)めたまふも、賤(しづ)が家(や)に折(をり)しる梅に春をしり、夜さむにうちあかすきぬたに夢さまして、こしかた行末をおもひやるも、心になどか違ひ侍るべき。よろこび、かなしみの心も、同じ心にて、月・雪・花も、同じながめなるもの、などか貴賤の差別(しやべつ)を論ずべきや。こと葉(ば)に雅俗ありて、古今を諭じ、心に淺深(せんしん)ありて、優劣を定むるのみにて、人の貴賤をもて、論ずるものにあらず。まして、地下(ぢげ)・堂上(たうしやう)のわかれたるは、朝家(てうか)衰へ、政務、武家に歸してより後のならはしにて、むかし、かつて、其論、なし。攝祿(せつろく)の家に地下あり、寒微(かんび/カスカ)の家にも殿上に登るあり。内外の名にして、貴賤の名にあらず。惣じて朝權、鎌倉にうつりて後は、みなみな、虛位(きよゐ)に居たまふより、さまざまの流風(りうふう)出來(いでき)て、或は和歌の家、手跡の家など、技藝を專務としたまひ、百工(ひやくこう)と其能(のう)を爭ひたまふに、いたる。天朝(てんてう)の大臣(だいじん)、なんぞ、かゝる末技(まつぎ)を本(もと)と、したまふや。衰世のさま、やむことなき業(わざ)なるを、君のごとき、古今の治亂(ちらん)に達したまひたるすら、かゝる事を眉目(びぼく)とし給ふ。今日の大變も、みづから招きたまふといふべし。」

と、憚るところなくいふに、太閤、心、醉(ゑ)へるがごとく、面(おもて)、黃(き)になり給ひ、一言(〔いち〕ごん)のいらへ、なかりしが、ひそかに、おもひたまふは、

『此少年、必ず、非常のものならん。是をこゝろむるは、劒(けん)と鏡とに、しくものなし。』

と、帶劒(たいけん/タチ)と鏡一枚を出(いだ)して、

「少年。これを、しるや。」

と宣へば、少年、色、よろこびずして云く、

「君、おそらくは、我を、鬼魅(きみ/バケモノ)妖狐(えうこ)の類(たぐひ)と、おもひたまふなるべし。天地の廣き、なんぞ、奇才なしとせん。衰世なりといへども、君のごとき命世(めいせい)の大才(たいさい)を生じたり。後生(こうせい)の畏るべき、孔子すら、あなどりたまはず。夫(それ)、劒は、陽にして、威ある物たり。鬼魅は、陰にして、形なき物たり。威あるを以て形なきに逼(せま)るときは、其妖、鎖鑠(せうれき/ウチケサル)して敵する事あたはず。此故に鬼魅は劒をおそる。鏡、また、陽にして明なる物なり。精(せい)は陰にして僞變(ぎへん/カリニアラハル)せる物なり。僞變(ぎへん/カリニアラハル)せるもの、至明(しめい)に逢ふときは、其形を暴露(ばうろ/アラハレ)して迯(のが)るゝ所なり。此ゆゑに、狐狸・花月の妖、みな、鏡を畏る。むかし、抱朴子(はうばくし)、此事を論じ置きたり。某(それがし)、これを知る事、久し。君、此の二〔ふたつの〕物(もの)を以(も)て試みたまふことの拙(つたな)さよ。」

とて、傲然(がうぜん)として、畏るゝ氣色(けしき)なし。

[やぶちゃん注:「詩」漢詩。

「大津皇子」(天智二(六六三)年~朱鳥(しゅちょう/すちょう)元(六八六)年)は天武朝の皇族政治家・歌人・漢詩人。天武天皇の第三皇子で、母は大田皇女 (ひめみこ) 。同母の姉に万葉歌人大伯 (おおくの) 皇女がいる。「壬申の乱」(天武元(六七二)年)の際、近江を脱出して父の一行に合流、父は大いに喜んだという。天武一二(六八三)年、初めて朝政に参与したが、天皇崩御の直後、皇太子草壁皇子に謀反のかどで捕えられ、処刑された。「日本書紀」・「懐風藻」の伝によれば。文武に秀でた大人物で、「詩賦の興れるは大津より始る」とされる。「万葉集」に短歌四首、「懐風藻」に漢詩四篇を残しているが、このうち、「万葉集」巻三の辞世の歌と「懐風藻」の「五言臨終一絕」は有名で、高く評価されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大友皇子」(大化四(六四八)年~天武元(六七二)年)は天智天皇の第一皇子。伊賀皇子とも。天智一〇(六七一)年、天智天皇没後に即位したかどうかは不明。「日本書紀」は即位記事を載せていない。明治政府になってから、天皇としての即位があったはずだとされ、明治三(一八七〇)年に弘文天皇と追諡(ついし)された。母は伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)の娘で、伊賀国の豪族の出身であろう。「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇)によって亡ぼされた。天智天皇はその晩年、天智十年に、大友皇子を太政大臣とし、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金(なかとみのかね)を右大臣とするとともに、大海人皇子を後継者にしようとしたが、大海人皇子は固辞したことになっている。さらに同年、大友皇子と左右大臣らは、近江大津宮の内裏の西殿の織(おり)仏像の前で、天智の詔を守る誓いを立てている。このように天智は、結果として大友皇子を中心に蘇我赤兄、中臣金など、古くからの大和朝廷に参画した畿内の大豪族を結集し、権力を安定させ、大友皇子を後継者とすることとなった。ところが、吉野に退いた大海人皇子との間で争いが生じ、「壬申の乱」が起こり、大友皇子は東国・筑紫・吉備など、全国に渡って、軍隊を派遣し、大海人方を征討することにしたが、最終的に東国・大和の兵を中心に電撃作戦に出た大海人皇子の軍隊に敗れ、天武元年七月、瀬田橋で決戦を挑んだものの、支えきれず、自縊して没した。「壬申の乱」の原因については、大友皇子と大海人皇子との皇位継承争いとみられているが、その原因の詳細は不明である。大友皇子は漢詩文にも秀で、「懐風藻」にも淡海朝大友皇子二首として詩が残されている。「懐風藻」に残された詳しい伝記によると、博学で多くの知識に通じており、群臣は畏れ、服従していたという。また、広く学識者と親交があったとし、彼らは百済滅亡(六六三年)後に亡命者として来日した人々であった。このように、大友皇子を支えたのは左右大臣としては蘇我・中臣という古くからの豪族であり、また学識者としては、百済からの亡命官人たちであった。これは畿内の大豪族の古い絆を断ち、親百済外交を改めて、新羅との親交を開いた大海人皇子、則ち、天武政権の政策とは対照的に、古い体制に依拠していたものと考えられる。大友皇子の能力が「懐風藻」などで高く評価され、「太子は天性明悟、博く古を雅愛する」と述べられているように、個人的に秀でたものがあったにも拘わらず、「壬申の乱」に敗れたのは、その背景となった歴史的基盤に要因があったものと考えられている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「河島皇子」川島皇子(斉明三(六五七)年~持統五(六九一)年)は天智天皇の第二皇子。母は色夫古娘(しこふこのいらつめ)。「河島皇子」「河島王」とも記す。妻は天武天皇の娘泊瀬部皇女(はつせべのみこひめ)。大津皇子と親交があって、運命を共にする約束をしていたが、朱鳥元年に大津皇子の謀反が暴露された際には、大津皇子の計画を告発する立場に立ったとされている。政府はその忠誠を嘉したが、世間では、その告発行為の是非を問う声が多かったという。事件当時から、大津への同情の声があったためかとも考えられる。天武一〇(六八一)年、忍壁皇子(おさかべのみこ)とともに、上古諸事の記定に参加し、国史の編纂に携わった。文筆の能力を評価されてのことであったらしい。「懐風藻」に五言絶句一首を残す。また、「万葉集」巻第一に「白波の濱松が枝(え)の手向草(たむけぐさ)幾代(いくよ)までにか年の經(へ)ぬらむ」の一首を収めるが(三四番)、これは山上憶良の歌かとも注記されてある。越智野(現在の奈良県高取町越智)に葬られ、その折に柿本人麻呂が泊瀬部皇女と忍壁皇子に献じた歌が「万葉集」巻第二(一九四・一九五番)に残されている(同前)。

「羅城門」本来は都城を取り囲む城壁である「羅城」に開かれた「門」の意。

「唐の懿宗」唐の第二十代皇帝。在位は八五九年~八七三年。史書によれば、暗愚な性格であったという(ウィキの「懿宗(唐)」に拠る)。「資治通鑑」(しじつがん:北宋の司馬光が一〇六五年の英宗の詔により編纂した編年体歴史書)によれば、咸通九年で八六八年のことらしい。

「承和(しやうわ)」仁明天皇の治世。八三四年~八四八年。

「仁壽(にんじゆ)」文徳天皇の治世。八五一年~八五四年。

「勅使をつかはされ、美濃の地なるよしを定めたまへり」誤り。もう少し後である。ウィキの「美濃国」によれば、『木曽谷に関しては』、『しばしば美濃国と信濃国の間で領有権が争われたが、貞観年中』(八五九年~八七六年)『に朝廷は藤原朝臣正範や靭負直継雄らを派遣して国境を鳥居峠とした。その後平安末期までに木曽は信濃国という認識がされ始めており』、「平家物語」などは『信濃国木曽と記述するようになる。鎌倉時代には大吉祖荘』(おおぎそのしょう:現在の長野県木曽郡木曽町・木祖村付近と推定されている)『は信濃、小木曽荘』(おぎそのしょう:現在の長野県木曽郡南木曽町・上松町・大桑村付近と推定されている)『は美濃と書かれる傾向にあった』。室町中頃までは「美濃國木曾莊」とする記述が見られる。『美濃国恵那郡であった木曽全域が信濃国になった時期について、信州大学人文学部の山本英二准教授が木曽郡大桑村の定勝寺の古文書の回向文の中から年代が分かる』五『点で』、延徳三(一四九一)年には、「美濃州惠那郡木曾」庄とあるが、永正一二(一五一五)年には、「信濃州木曾莊」と『書かれていた』ことから、『木曽が美濃国恵那郡から信濃国へ移ったのは』、この一四九一年から一五一五年の『間と結論付けた』(一条兼兼良は文明一三(一四八一)年没であるから、少年の謂いは正しいことになる)。天正一四(一五八六)年に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる』とある。

「ふつに」「都に・盡に」。副詞。下に打消しの語を伴って、「全然・全く(~ない)」の意。

「剪裁(せんさい/ツクリバナ)」花を摘み取ること。ここは自然を失った紛い物の謂い。

『定家の、いはゆる、「企て及ぶべからず」と歎じたまひし風調なり』出典不詳。或いは、室町中期の臨済宗の歌僧正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)の歌論書「正徹物語」(前半は正徹の自筆、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年頃、または宝徳二(一四五〇)年頃の成立。歌論と歌話を集成するが、藤原定家に対する傾倒が著しく、その「幽玄」論は重要な影響力を持った)にある、「此道にて定家をなみせん輩は、冥加も有るべからず。罰をかうむるべき事也」辺りを変形させたものか。

「貴(たつと)ぶ」私は、小学校五年の時、担任であった国語の並木裕先生から、「尊ぶ」は「たっとぶ」、「貴ぶ」は「とうとぶ」と読む、と教わったことを絶対の掟としている。

「地下(ぢげ)」ここは「堂上」に対する語で、清涼殿の「殿上の間」に昇殿する資格を持たない人を広く指す。一般的には、蔵人を除く六位以下の官人、及び四位・五位の内で、「殿上人」の資格を持たない者、「地下の諸大夫(しよだいぶ)」を指すが、本来は昇殿の資格がある者でも一時的にこれを奪われる場合があった。特に鎌倉末期以降に公家の家格が固定されると、位階・官職に関係なく、地下であり続ける公家方が多数発生し、堂上家以外の出身者は公卿となっても、昇殿しないのが慣例とさえなった。

「人丸(ひとまる)」柿本人麻呂(斉明天皇六(六六〇)年頃~神亀元(七二四)年)。後世、次の山部赤人と共に「歌聖」と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。参照したウィキの「柿本人麻呂」によれば、『柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭』(かきのもとのおおば)、『兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献』『がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子』(よさみのいらつめ)『を挙げており、人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である』。人麻呂の経歴は「続日本紀」等の『史書にも記載がないことから定かではなく』、「万葉集」の詠歌と、『それに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には』天武天皇九(六八〇)年には『出仕していたとみられ』、『天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌』『を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある』。『江戸時代、賀茂真淵によって草壁皇子に舎人』(とねり)『として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠はない。複数の皇子・皇女(弓削皇子、舎人親王、新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い』『が、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である』とある。

「赤人」山部赤人(?~天平八(七三六)年?)の姓は宿禰。大山上・山部足島の子とする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。三十六歌仙の一人。参照したウィキの「山部赤人」によれば、山部氏(山部連(やまべのむらじ)・山部宿禰(やまべのすくね)は、『天神系氏族である久米氏の一族で、職業部』(しょくぎょうべ)『の一つである山部の伴造家』(とものみやつこけ)『とされる。また』、天武天皇一三(六八四)年に「八色(やくさ)の姓(かばね)」の『制定によって』、『山部連から山部宿禰への改姓が行われているが』、『この時に赤人が宿禰姓を賜与されたかどうかははっきりしない』。彼の経歴も定かではなく、「続日本紀」などの『正史に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ』、『和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる』とある。

「躬恒」平安前期の歌人凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 生没年不詳)。三十六歌仙の一人。紀貫之と並称される名歌人。紀貫之・壬生忠岑・紀友則とともに「古今和歌集」撰者。

「和歌式を定めし窺仙(喜撰)は姓氏(せいし/ウジ)もさだかならぬ桑門(よすてびと)なり」平安前期の歌人で六歌仙の一人。紀貫之が「古今和歌集仮名序」で、その名を挙げて論じているが、実は出自・伝記ともに未詳で、出家して宇治に住んだことがわずかに推定されるだけの幻に近い人物であり、確実な歌作は「古今和歌集」巻第十八の「雑歌下」の、

 わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ

    世をうぢ山と人はいふなり

の一首だけである。歌学書「和歌作式(喜撰式)」の作者ともされるが、これも後世の仮託である。一説に桓武天皇の後裔とも、近くは役行者系統の道術士であったという説もある。

「差別(しやべつ)」「さべつ」に同じいが、仏語として、「万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること」をも意味する。ここは正法(しょうぼう)に敵対するであろう妖狐の言葉であるから、仏語としてのそれを批判的に含めたとも言えよう。

「攝祿(せつろく)の家」「攝籙」の誤り。摂政又は関白のこと。また、摂関家。

「内外」原本には右に「ないぐはい」、左に「をくむきとざま」(ママ)と振る。

「朝權」本来は「朝廷の権力」の意であるが、ここはズラして国政の実権限の意で用いている。

「眉目(びぼく)」面目。名誉。誉れ。

「非常のもの」行動や様子が甚だ異常であるさま。人間ではない異類のものの意。

「命世(めいせい)」その時代に最もすぐれていて名高いこと。また、その人。

「後生(こうせい)の畏るべき、孔子すら、あなどりたまはず」「論語」の「子罕第九」の、

   *

子曰。後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉。斯亦不足畏也已。

(子曰はく、「後生、畏るべし。焉(いずづくん)ぞ來者(らいしや)の今に如(し)かざるを知らんや。四十、五十にして聞ゆること無くんば、斯(こ)れ亦、畏るるに足らざるのみ。」と。)

   *

に基づく。「若者という存在、それを侮っては、いけない! 彼らの将来の存在が、我々のこの現在に及ばないなどと、一体、誰が謂い得よう? しかし、まあ、四十、五十の歳にもなって、衆目を惹くこともないような輩は、これ、なんの! 恐れるに足らない。」の謂い。

「精(せい)」精霊。精霊木霊(すだまこだま)。魑魅魍魎。

「至明(しめい)」はっきりと核心まで知り尽くすこと。「見切る」の意。

「抱朴子」晋の道士で道教研究家の葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の号(同時に神仙思想と煉丹術に関する彼の著になる理論書「抱朴子」の書名でもあるが、ここは号である)。ウィキの「葛洪」によれば、彼は『後漢以来の名門の家に生まれたが』、『父が』十三『歳の時になくなると、薪売りなどで生活を立てるようになる』。十六歳で、はじめて「孝経」・「論語」・「易経」・「詩経」を『読み、その他』、『史書や百家の説を広く読み』、『暗誦するよう心がけた』。その頃。『神仙思想に興味をもつようになったが、それは従祖(父の従兄弟)の葛仙公(葛玄)とその弟子の鄭隠』(ていいん)『の影響という。鄭隠には弟子入りし、馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから』、「太清丹経」・「九鼎丹経」・「金液丹経」と、『経典には書いていない口訣を授けられた』。二十歳の時、「張昌の乱」で『江南地方が侵略されようとしたため、葛洪は義軍をおこし』、『その功により』、『伏波将軍に任じられた。襄陽へ行き』、博物学者でもあった『広州刺史となった嵆含』(けいがん)『に仕え、属官として兵を募集するために広州へ赴き』、『何年か滞在した』。道士で『南海郡太守だった鮑靚』(ほうせい)『に師事し、その娘と結婚したのも』、『その頃である。鮑靚からは主に尸解』(しかい)『法(自分の死体から抜け出して仙人となる方法)を伝えられたと思われる』。三一七年頃、『郷里に帰り』、「抱朴子」を『著した。同じ年』、『東晋の元帝から関中侯に任命された。晩年になって、丹薬をつくるために、辰砂の出るベトナム方面に赴任しようとして家族を連れて広東まで行くが、そこで刺史から無理に』留められしまい、『広東の羅浮山に入って金丹を練ったり』、『著述を続けた。羅浮山で』死んだとされるが、『後世の人は尸解したと伝える。著作としては』他に「神仙傳」・「隱逸傳」・「肘後備急方」など、多数がある。以下の鏡の効用については、巻第十七「登涉」の初めの方に出る。

   *

又、萬物の老いたる者、其の精、悉く能く、人の形に假託し、以つて人の目を眩惑して、常に人を試むるも,唯、鏡中に於いては、其の眞形(しんぎやう)を易(か)ふる能はざるのみ。是(ここ)を以つて、古への入山の道士は、皆、明鏡の徑(わたり)九寸已上なるを以つて、背後に懸く。則ち、老魅(らうみ)、敢へて人に近づかざるなり。或いは、來たりて人を試むる者有れば、則ち、當(まさ)に鏡中を顧み、視るべし。其の、是れ、仙人及び山中の好(よ)き神ならんには、鏡中を顧みるに、故(もと)より人の形のごとくなるも、若し、是れ、鳥獸・邪魅ならば、則ち、其の形貌、皆、鏡中に見(あらは)れん。又、老魅、若し來らば、其の去るときは、必ず、却行(あとしざり)す。行かば、鏡を轉じて、之れに對すべし。其の後ろにして之れを視るに、若し、是れ、老魅ならば、必ず、踵(かかと)、無きなり。其の踵有る者は、則ち、山神(さんじん)なり。昔、張蓋蹋(がいきふ)及び偶高成の二人、並びに、蜀の雲臺山の石室中に精思せしに、忽ち、一人有りて、黃(き)の練(ねりぎぬ)の單衣(ひとえ)と葛巾(くずぬののづきん)を著け、往きて其の前に到りて曰はく、「勞するかな、道士、乃(すなは)ち、幽隱に辛苦す。」と。(ここ)是に於いて、二人、鏡中を顧み視れば、乃ち、是れ、鹿なり。因りて之れを叱(しつ)して曰はく、「汝、是れ、山中の老いたる鹿なるに、何ぞ敢へて詐(いつは)りて人の形を爲すや」と。言、未だ絕えざるに、來りし人は、卽ち、鹿と成りて走り去れりと。林慮山の下に一亭有り、其の中に鬼(き)有り、宿する者有る每(ごと)に、或いは死し、或いは病めり。常に、夜、數十人有りて、衣の色、或いは黃、或いは白、或いは黑。或いは男あり、或いは女ありき。後、郅伯夷(けきはくい)なる者、之れを過ぎて宿し、燈燭を明にして、坐して、經を誦みしに、夜半、十餘人、來たる有り。伯夷と對坐し、自ら共に樗蒲博戲(ちよぼはくぎ)[やぶちゃん注:ダイス・ゲームの博奕(ばくち)の一種。]す。伯夷、密かに鏡を以つて之れを照せば、乃ち、是れ、群犬なり。伯夷、乃ち、燭を執つて起ち、佯(いつは)り誤りて、燭燼(もえさし)を以つて其の衣を爇(や)くに、乃ち、毛を燋(こ)がすの氣(かざ)を作(な)す。伯夷、小刀を懷(ふところ)にし、因りて一人を捉へて之れを刺すに、初めは人の叫びを作(な)せしが、死して犬と成り、餘の犬も悉く走り、是に於いて遂に絕えしことは、乃ち、鏡の力なり。

   *

がそれである。以上の原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを参考にし、訓読は、私の愛読書である昭和二二(一九四七)年岩波文庫刊の石島快隆(やすたか)譯注「抱朴子」に拠った。

「傲然」驕(おご)り高ぶって尊大に振る舞うさま。]

 

 太閤、謝して云く、

「聊(いさゝ)か戲れたるのみ。少年、意(こゝろ)に挾(さしはさ)むことなかれ。我、此ところにありて無聊(ぶりやう)沈鬱に堪へず。少年、暫くこゝにとゞまりて、ゆるゆる、古今(ここん)を談ぜんは、いかん。況や、今日(こんにち)、暮に及びたり。夜もすがら、旅館の徒然を慰めん。」

と宣へば、少年、いなむことなくして、一間(ひとま)にしりぞきぬ。

 太閣、いよいよ、あやしみ給ひ、

『天下、奇才なきにしもあらずと、かゝる絕世(ぜつせい/ヨニスグルヽ)の俊才、我、又、しらざること、あらんや。おもふに、鬼魅にあらずんば、必ず、千載の妖狐なるべし。我、聞く、千載の妖狐(ようこ/フルギツネ)は劒・鏡をもおそれず。只、千年の古木(こぼく)を以て照す時は、其形をあらはす、といふ。』

[やぶちゃん注:本文の切れは悪いが、ここでシークエンスが変ずるのでブレイクしておく。]

 

「千年を經たる古木やある。」

と、隣家(りんか)の翁(おきな)をまねきて、ひそかに尋ねたまへば、

「多賀の社(やしろ)のほとりにこそ、千年の餘(よ)になるといふなる杉の侍(はんべ)る。」

と答ふ。

 太閤、よろこびたまひ、村夫(そんぷ/ムラビト)の心たけき者をめして、

「今宵、多賀に至りて、其古木、きりて得させよ。」

と宣ふに、諾(かしこま)りて出(いで)行きぬ。

 やがて、多賀に近づくに、森のほとりに、翁一人、たゝずみて、

「何事の急ありてか、かく夜中(やちう)に來りたまふ。社參(しやさん)の人とも覺え侍〔はんべ〕らず。古木をきりとらんためにや。」

と、いふに、兩三人の者ども、驚きて、

「其事なり。」

と答ふ。

 翁云く、

「われ、とくより、是をさとれり。此山奧、荒川溪(あらかはだに)のほとり、萱尾(かやを)といふに千年を經たる老狐の侍るが、きのふ、此に來りて、

『ちかき頃、一條太閤、愛知川(えちがは)の邊(ほとり)に蟄居したまふ。公(きみ)は博學の名、かくれなく、古今類(たぐひ)なしと自負(じふ/ホコリ)したまふ。我、試みに見(まみ)えて、公(きみ)の博識をなやまし、鋭氣を折(くじ)かんため、かしこに行かんとおもふ。翁にも共に來れ。』

とすゝむるゆゑ、我、制(せい/トヾメ)して云く、

『汝が才智詭辯、天下、たれか、敵する者、あらん。太閤、服したまはんこと、明(あきらか)なり。只、おそらくは奇禍(きくわ)に逢はん。汝のみにあらず、其餘殃(よあう)、翁をも連累(れんるゐ/マキゾヘ)すべし。其時、悔ゆとも、及ぶまじ。光をつゝみ、德をかくして、天年(てんねん)を保ちたらんこそ、本意(ほんい)なれ。草木、花うるはしきを以て折られ、虎豹(こへう)、皮の章(あや/モヤウ)あるを以て殺さる。美玉、碎けやすく、甘泉(かんせん/ヨキミヅ)は竭(つ)きやすし。汝、ゆかば、玉(たま)を懷きて深淵(しんえん/フカキフチ)にのぞむの禍(わざはひ)あらん。』

と、再三、制せしかど、用ひずして、まかりぬ。果して、禍、翁(をきな[やぶちゃん注:原文のママ。])にも、およびたることよ。」

と、いふかとおもへば、かきけすごとくに、行方(ゆきがた)を、しらず。

 村人、あやしめども、もとより膽(きも)ふとき若もの共(ども)なれば、

「いざや。」

と、彼(か)の杉を切倒(きりたを[やぶちゃん注:原文のママ。])し、一束(いつそく)の薪(たきゞ)をとり、かへりてありし。

[やぶちゃん注:「多賀の社(やしろ)」愛知川からは東北に十キロメートル前後離れるが、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある多賀大社のことであろう(グーグル・マップ・データ)。中世には多賀大明神として信仰を集め、何より、特に「長寿祈願の神」として信仰された点で老狐と老神木に強い親和性があるからである。ウィキの「多賀大社」によれば、『多賀社は特に長寿祈願の神として信仰された』。『鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して』二十『年にならんとする』六十一『歳の重源』(ちょうげん)『が、着工時に成就祈願のため』、『伊勢神宮に』十七『日間参籠』『したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」』(異体字に「卄」がある)『と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し』、『奮い立った重源は以後さらに』二十『年にわたる努力を続け』、見事、『東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため』に『当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように』して『亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれている。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」』『はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)』。天正一六(一五八八)年には、『多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が』「三年、それがだめなら二年、せめて三十日でも」と、母大政所の『延命を祈願し、成就したため、社殿の改修を行わせようと大名に与えるに等しい米』一『万石を奉納した』とある。

「荒川溪(あらかはだに)」不詳。但し、次注参照。

「萱尾(かやを)」不詳。先に出した東近江市萱尾町(かやおちょう)(グーグル・マップ・データ)は愛知川上流で、南東に有意に一山超えた位置で繋がらない。しかしながら、多賀大社の南西近くを流れる犬上川は渓谷を形成しており、その際上流には滋賀県犬上郡多賀町「萱原(かやはら)」という地名を見出せる(ここから南東に山を越えると「萱尾町」でもある)。

「餘殃(よあう)」使い方が微妙におかしい。これは「先祖の行った悪事の報いが、災いとなって、その子孫に残ること」を指すからである。

「竭(つ)き」この「竭」は音「ケツ」で「悉く・失くす・尽きる」の意がある。]

 

 事ども、つまびらかに太閤に語り參らすれば、

「扨こそ。老狐の精に、疑ひなし。」

と、次の間にて、かの薪を燃(もや)したまへば、熟睡(じゆくすゐ/ヨクネイリ)したる少年、

「あ。」

と、叫ぶ聲して、年ふる斑狐(はんこ/マダラギツネ)、妻戶(つまど)、蹴(け)はなし、迯(に)げいづるを、村人ども、持ちたる斧(をの)にて、只、一刀(ひとかたな)に打殺(うちころ)したり。

 太閤云く、

「かれが本形(ほんぎやう)をあらはさしめて、其詭辯を折(くじ)かんためなるに、千載を經たる靈狐(れいこ)を徒(いたづら)に殺したるこそ、便(びん)なけれ。」

とて、後(うしろ)なる山の麓に埋みて、しるしを殘したまひしより、里人、「狐塚(きつねづか)」と呼んで、今にありとぞ。

 其後(そのゝち)、都も、すこし靜(しづか)ならんとせし故、太閤も歸洛を催したまひしが、

「社頭の古木をきりたることをも謝し參らせん。」

とて、多賀に詣(まふ)で、奉幣・神樂(かぐら)など、執行(とりおこな)ひたまひしとき、よませたまひけるとて、

 多賀の宮たが世にかくはあとたれて

 神さびにけりあけの玉垣

今に人口(じんこう)に殘れり。

 蟄居したまひし所をも「公(きみ)が畑」とて、里人の、いみじき事に語り傳へ侍る。

 都にかへりたまひしに、文明のはじめより、漸(やうやう)、靜謐(せいひつ)におよびしかば、「文明一統記」を著(あらは)したまひ、治亂の大略をしめし、後に入道したまひて、禪閤(ぜんかく)とぞ稱しける。

 誠に命世(めいせい)の大才、不幸にして國家陽九(こつかやうきう/テンカノヤクドシ)の運に逢ひたまひしこそ遺恨なれ。

 されば、博識は公(きみ)の長じたまふところにて、詩文は短なる所にや、世に傳ふるも、又、いとすくなし。「新續古今(しんぞくこきん[やぶちゃん注:底本・原本ともにママ。])」の序、紀行の詩など、漸く世に傳へたるのみ。

 其後、太閤、常々、斑狐の事をかたりて嗟嘆(さたん)したまひ、日記等(とう)にも、しるしたまひしとぞ。

[やぶちゃん注:「かの薪を燃したまへば」ここは最後に都賀庭鐘、笑いを狙ったらしいが、如何にもショボい。千年の古木の杉とは言え、これは狐狸や穴熊を穴から追い立てて狩る野蛮な柴を燃やして煙りで燻し出す狩法そのまんまだからである。兼良の俗物性を駄目押しする効果はある。

「妻戶」家の端に設けた両開きの戸。

「狐塚」『蟄居したまひし所をも「公(きみ)が畑」とて、里人の、いみじき事』(天下の関白さまがお住まいになった格別なこと(場所)として)『に語り傳へ侍る』とともに不詳。残念、これが実在すれば、兼良の蟄居していたロケーションも限定できたのになぁ。

「多賀の宮たが世にかくはあとたれて神さびにけりあけの玉垣」都賀庭鐘が兼良のふりして作るとはちょっと思えないから、何かに兼良の歌として載っているのだろうとは思うが、判らぬ。識者の御教授を乞う。

「文明」は応仁三年四月二十八日(一四六九年六月八日)改元であるが、「応仁の乱」が終息するのは、文明九年十一月(一四七七年十二月)のことである。兼良は文明一三(一四八一)年没で、享年八十であった。

「文明一統記」教訓書。成立年未詳。兼良が第九代将軍足利義尚の求めに応じて、政治上の戒めを述べたもの。八幡大菩薩に祈念すべきこと、孝行・正直・慈悲・芸能を嗜むべきこと、政道を心にかけるべきことの六項目から成る。

「入道したまひて、禪閤(ぜんかく)とぞ稱しける」平凡社「百科事典マイペディア」では、文明五(一四七三)年に出家して、『失意のうちに死んだ。法名覚恵(かくえ)』とある。

「陽九」重陽なのに不審に思ったが、これは「陽九の厄(やく)」で、本邦の「ハレ」と「ケガレ」の両極が一致するのと同じく、中国の古代社会では、最大の陽気をシンボライズする最大の陽数である「九」や「九月九日」の「重陽」というのは、陽の気が強過ぎ、逆に不吉なものを呼び込む凶であるとして、実は最も注意を必要とする節気として選ばれていた一面があるようである。而してその禍々しき符牒としての「陽九」という漢語は、まさに「世界の終末を意味する陰陽家の語として存在したらしいのである。されば、腑に落ちる。

「新續古今」二十一代集の最後に当たる勅撰和歌集「新續古今和歌集」(しんしょくこきんわかしゅう:「ぞく」とは普通は読まない)。第六代将軍足利義教の執奏により、後花園天皇の勅宣を以って、権中納言飛鳥井雅世が撰進、堯孝が編纂に助力した。永享五(一四三三)年)八月に下命され、同十年に四季部奏覧、翌十一年六月に成立した。真・仮名序はとものこの一条兼良の筆になる。撰進のために応製百首(永享百首)が召され、宝治(後嵯峨院)・弘安(亀山院)・嘉元(後宇多院)・文保(同)・貞和(尊円法親王)度の百首歌も選考資料とされた。下命時の後花園院は当時十五歳の若年ながら、詩歌管弦の造詣深く、御製も多く伝わる好文の賢主として知られ、飛鳥井雅世は新古今選者の一人である雅経の六世の孫であり、庇護を受けた足利義教の推輓で選者の栄誉に浴した。二条派の入集が有意で、京極・冷泉派は皆無に近く、選者とその庇護者の態度が知れる。女流の入選は極めて少ない。選歌範囲は広く、「新古今」以後に重点をおきながら、各時代より入集している。なかでも「新古今」時代を尊重し、良経・俊成・定家・家隆及び後鳥羽・順徳両院が入集数の上位を占め、発意者である足利義教(十八首)以外にも武家方の歌が頗る多いのも特徴である。選者雅世の先祖の優遇も目立つ。後花園は再度の勅撰集計画も練っていたが、「応仁の乱」によって中断し、以後。遂に勅撰集は編まれなかった(以上はウィキの「新続古今和歌集」に拠った)。

「太閤、常々、斑狐の事をかたりて嗟嘆(さたん)したまひ、日記等(とう)にも、しるしたまひしとぞ」兼良の日記が残っているのか、いないのか、知らないが、流石に、もう、疲れた。調べる気は、ない。悪しからず。]

2020/10/23

北原白秋 邪宗門 正規表現版 入日の壁

 

  入 日 の 壁

 

黃(き)に潤(しめ)る港の入日(いりひ)、

切支丹(きりしたん)邪宗(じやしゆう)の寺の入口(いりぐち)の

暗(くら)めるほとり、色古りし煉瓦(れんぐわ)の壁に射かへせば、

靜かに起る日の祈禱(いのり)、

『ハレルヤ』と、奧にはにほふ讃頌(さんしよう)の幽(かす)けき夢路(ゆめぢ)。

 

あかあかと精舍(しやうじや)の入日。――

ややあれば大風琴(おほオルガン)の音(ね)の吐息(といき)

たゆらに嘆(なげ)き、白蠟(はくらふ)の盲(し)ひゆく淚。――

壁のなかには埋(うづ)もれて

眩暈(めくるめ)き、素肌(すはだ)に立てるわかうどが赤き幻(まぼろし)。

 

ただ赤き精舍(しやうじや)の壁に、

妄念(まうねん)は熔(とろ)くるばかりおびえつつ

全身(ぜんしん)落つる日を浴(あ)びて眞夏(まなつ)の海をうち睨(にら)む。

『聖(サンタ)マリヤ、イエスの御母(みはは)。』

一齊(いつせい)に禮拜(をろがみ)終(をは)る老若(らうにやく)の消え入るさけび。

 

はた、白(しら)む入日の色に

しづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて

濕潤(しめり)も暗き戶口(とぐち)より浮びいでつつ、

眩(まぶ)しげに數珠(じゆず)ふりかざし急(いそ)げども、

など知らむ、素肌(すはだ)に汗(あせ)し熔(とろ)けゆく苦惱(くなう)の思(おもひ)。

 

暮れのこる邪宗(じやしゆう)の御寺(みてら)

いつしかに薄(うす)らに靑くひらめけば

ほのかに薰(くゆ)る沈(ぢん)の香(かう)、波羅葦增(ハライソ)のゆめ。

さしもまた埋(うも)れて顫(ふる)ふ妄念(まうねん)の

血に染みし踵(かがと)のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。

四十一年八月

 

[やぶちゃん注:「踵(かがと)」古くは濁音であった。

「蟋蟀(きりぎりす)」私はキリギリスとコオロギの近代以前と現代の一律相互転換には激しく反対するものであるが、ここは映像設定とSE(サウンド・エフェクト)から考えても、音数律から「きりぎりす」を選んだもので、実体は実体は蟋蟀=こおろぎ=コオロギであることは言うまでもあるまい。]

2020/10/22

北原白秋 邪宗門 正規表現版 浴室

 

   浴   室

 

水落つ、たたと……………浴室(よくしつ)の眞白き湯壺(ゆつぼ)

大理石(なめいし)の苦惱(なやみ)に湯氣(ゆげ)ぞたちのぼる。

硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと

小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。

 

水落つ、たたと……………灰色(はひいろ)の亞鉛(とたん)の屋根の

繫留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰欝(いんうつ)に

行德(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ聲なし、

川むかひ、黃褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。

 

水落つ、たたと……………兩國(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)は

うち煤(すす)け、上手斜(かみてななめ)に日を浴(あ)びて、

色薄黃(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり

忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。

 

水落つ、たたと……………もの甘く、あるひは赤く、

うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる

鐵(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹼(しやぼん)のしぶき。

水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ聲す、太皷ぞ鳴れる。

 

水落つ、たたと……………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、

大理石(なめいし)の苦惱(なやみ)に湯氣(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、

鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に

疲(つか)れゆく赤き都會(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。

四十一年八月

 

[やぶちゃん注:本篇については、本庄あかね氏の論文『北原白秋「浴室」の詩法 : 時の推移の表現をめぐって』(『稿本近代文学』(二〇一一年十二月発行)所収・PDF)が優れている。ロケーションはグーグル・マップ・データではこの範囲で、「今昔マップ」で示すとこの範囲。]

譚海 卷之三 尊純親王 (良純法(入道)親王の誤り)

尊純親王

○尊純親王と聞へしは、後陽成院の八の宮にをはしまして、和歌も堪能に入せられ、御手跡(ごしゆせき)など殊に勝れて、聰明なる宮にましましけるが、時勢にしたがつて放蕩にましまし、伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋に常に遊び給ひ、御行跡(ごぎやうせき)よろしからざりしかば、終(つひ)に甲斐の國に左遷せられ、かしこにてかくれ給ふといへり。鹽(しほ)の山の禪寺の邊(あたり)に御墓ありといへり。甲州へ御首途(おんかどで)の時伏見の遊女に贈らせ給ふ訣別の御文、殊に哀(あはれ)なるもののよし、烏石(うせき)といへる書家祕藏して傳へたるを見たる人のかたりし也。

[やぶちゃん注:「尊純親王」は良純法(入道)親王の誤り。後陽成天皇第八皇子良純入道親王(慶長八(一六〇四)年~寛文九(一六六九)年)。知恩院初代門跡。五歳で知恩院門跡に治定されて同寺に入ったが、出家は先送りされ、その後、慶長一九(一六一四)年に親王宣下を受けて直輔親王と名のり、翌元和元年に徳川家康の猶子となった(これは門跡となるための儀式上の処理で、これより以後、門跡は将軍の猶子となるのが慣例となった)。元和五(一六一九)年十六歳の時、満誉尊照を戒師として出家得度し、良純と名乗った。ところが、寛永二〇(一六四三)年十一月、突如、甲斐国天目山(山梨県甲州市大和町(やまとちょう)木賊(とくさ)にある臨済宗天目山棲雲寺(グーグル・マップ・データ)であろう)に配流された。理由としては、寺務を巡る大衆との対立・酒乱による乱行(らんぎょう)・江戸幕府の朝廷及び寺院への介入への批難・待遇不満・出家不満など、諸説があるが、飾り物である門跡の地位への不満及び幕府からの圧迫に対する不満があったとする見方は一致している。後に甲府の曹洞宗興因寺(甲府市下積翠寺町(しもせきすいじまち)のここ。グーグル・マップ・データ)に移され、幽閉された。但し、ここに甲府で没したとするのも誤りで、万治二(一六五九)年には勅許によって帰京したが、知恩院ではなく、泉涌寺に住んだ。後、北野で還俗、隠退生活を送った。後には以心庵と号し、六十七歳で没し、泉涌寺に葬られて「専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正」の諡号(おくりな/シゴウ)が贈られた。明和五(一七六八)年の百回忌に際しては、名誉回復が図られて、改めて「無礙光院宮良純大和尚」の諡号が追贈されてもいる(以上はウィキの「良純入道親王」に拠った)。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、既に名誉回復も終わった後であって、この内容は公家にも寺方にとっても頗る偏頗なものであるはずだが、彼らにとっても名誉回復してしまえば、終わった「過去の人物」であり、還俗してもいるから、寺方も特に文句は言いそうもない。それにしても、誤りが多過ぎていただけない

「伏見の墨染(すみぞめ)の遊女屋」京都府京都市伏見区墨染町(グーグル・マップ・データ)にあった遊廓のこと。サイト「遊廓・遊所データベース」の「京都府所在の遊廓の沿革と概要」によれば、『京都では、江戸・大坂と同様、近世初頭に唯一の公認として島原遊廓ができた』が、十七世紀から十八『世紀にかけての市中東部を中心とする新地開発に伴い、北野、祇園などに茶屋町が形成され、島原は早くも』十八『世紀前半から長期的な営業不振にあえいだ』。十八『世紀末の寛政改革に際して、新地の』四『か所に島原からの出稼を名目とする遊女屋営業が免許され、島原は「茶屋年寄」として出稼地からの上前を取得した(差配体制)。差配体制は、天保改革期の一時廃止をはさみ、明治』三(一八七〇)『年まで継続した』とあり、当該ページのデータの『3)明治後半以降の展開』に、明治一九(一八八六)年の『五業取締規則にもとづく京都府の遊廓統制は』、明治三三(一九〇〇)年の内務省令第四十四号『「娼妓取締規則」公布まで続』き、同『年、娼妓取締規則を受けて出された京都府令第』百『号「貸座敷取締規則」によって、それまでの子方営業は貸座敷営業と見なすようになり、新たに貸座敷営業者・芸紹介業者・娼妓の三区分にもとづいた統制が行われるようになった。規則に掲載された貸座敷営業免許地は、上七軒、五番町、先斗町、祇園新地、島原、宮川町、下河原、七条新地のほか、伏見町の墨染・恵美須町・中書島、橋本、庵我村、宮津万年新地・新浜、舞鶴朝代町の計』十六『か所であった』と記す中に、伏見町墨染があることから、ここが江戸時代からの遊廓であったのであろうことが判る。

「鹽(しほ)の山」山梨県甲州市塩山地区のことであろうが、先の二ヶ寺は孰れも塩山からは東西に有意に離れているので、これも誤りである。

「烏石といへる書家」」江戸中期の書家松下烏石(元禄一二(一六九九)年~安永八(一七七九)年)。ウィキの「松下烏石」によれば、『幕臣の松下常親の次男として生まれる。書は佐々木玄竜・文山兄弟に学んだ。欧陽詢の流れを汲んだ唐様の書法だったという。また』、『詩文を服部南郭に学んでいる。表面にカラスの模様のある天然石を磐井神社(東京都大田区大森)に寄進したことで知られる。この石は「烏石」と呼ばれ』、『評判となり、多くの文人墨客が見学に訪れたという』。『江戸古川に住んでいたが』、『明和年間に京都に移り』、『西本願寺の賓客として晩年を送』ったというとある。そこに出た「烏石」については、私の「耳囊卷之三 鈴森八幡烏石の事」の本文及び注を参照されたい。実は、この松下烏石というのも、かなり問題のある人物だったようである。]

甲子夜話卷之六 21 内田信濃守殉死の事

 

6-21 内田信濃守殉死の事

猷廟御佗界の時、堀田、阿部の重臣を始め、侍臣迄も多く殉死せり。その中内田信濃守正信は、今夜殉死せんと期せし日、親族を呼集め、宴を設て最後の盃し、言笑いさゝかも常にかはることなし。夜に入りたれば來客に向ひ、しばし眠り候半、亥刻に至らば起し給はれ迚、其席の床ぶちを枕とし、快く鼾睡したり。その内夜も更行けど、誰も起すに忍びずありし内、いつか夜半を踰たりし頃、信州目を醒し、何時なるやと問ふ。何れも子刻や下りぬらんと答ふれば、さればこそ程よく起し給へと云しものをと言ながら、押肌ぬぎ短刀を拔き、腹十文字にかき切りて、自ら喉をかきて伏たりとなり。今百載の後に傳へ聞ても淚も落べし。かゝる潔き心底は、信に世に難ㇾ有人にぞ有ける。

■やぶちゃんの呟き

「内田信濃守」内田正信(慶長一八(一六一三)年~慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)は旗本・大名。下総小見川藩主・下野鹿沼藩初代藩主。八百石の御納戸頭内田正世の次男。寛永七(一六三〇)年から徳川家光の家臣として仕え、寛永一二(一六三五)年十二月に奥小姓、翌年六月には御手水番(ちょうずばん:厠担当)に任ぜられた。寛永一四(一六三七)年、相模国内に一千石を加増される、翌年には叙任、寛永一六(一六三九)年、下総名取郡や常陸鹿島郡などで八千二百石を加増されて計一万石の大名となり、小見川藩主となると同時に、御小姓組番頭となった。慶安二(一六四九)年、下野国内で五千石を加増されて鹿沼藩主となり、御側出頭(おそばしゅっとう)となった。慶安四(一六五一)年四月二十日の家光の死去(本文の「猷廟」(いうべう(ゆうびょう))は家光の諡号。死因は脳卒中と推定されている)に従って殉死した。享年三十九であった。跡を次男の正衆(まさもろ)が継いでいる。

「殉死」ウィキの「殉死」によれば、『徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している』。『こうした行動の背景には』、『かぶき者や男色との関連があるという説もある』。『家光に殉じなかった松平信綱は世間の批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出の供せよ」という落首が貼り出された』。第四代将軍徳川家綱及び第五代『綱吉の治世期に、幕政が武断政治から文治政治へと移行』、寛文三(一六六三)年五月の「武家諸法度」の『公布とともに、殉死は「不義無益」であるとして』、『その禁止が口頭伝達された』。寛文八(一六六八)年には』強要殉死事件が発生、『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』(追腹一件(おいばらいっけん:寛文八(一六六八)年二月十九日に宇都宮藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子で長男の昌能(まさよし)が忠昌の寵臣杉浦右衛門兵衛に対し、「未だ生きているのか」と詰問して杉浦が直ちに切腹した事件。藩主昌能は二万石減封されて出羽山形藩九万石への転封に処され、殉死者杉浦の相続者も斬罪に処するなど、幕府は異例の厳しい態度で臨んだ。これ以後、殉死者の数は激減したとされる)。『殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる』。『これに先立つ』寛文元(一六六一)年七月には、『水戸藩主徳川光圀が重臣団からの』、先代藩主で父の『徳川頼房への殉死願いを許さず、同年閏』八『月には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加え』ている。『この後、延宝』八(一六八〇)『年に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和』三(一六八三)『年には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。

「御佗界」「ごたかい」。「御他界」に同じ。

「設て」「まうけて」。

「言笑」「げんせう」。談笑。

「候半」「さふらはん」。意志を表わす「はん(はむ)」に漢字を当てたもの。

「亥刻」「ゐのこく」。午後九時過ぎ。

「迚」「とて」。

「床ぶち」「とこぶち」。床縁。床の間の前端の化粧横木。

「鼾睡」「かんすゐ」。鼾(いびき)をかいて眠ること。

「その内夜も更行けど」「そのうち、よも、ふけゆけど」。

「誰も」「たれも」。

「踰たり」「こえたり」。

「何時」「なんどき」。

「子刻」(ねのこく)「や下りぬらん」午前零時過ぎ。

「伏たり」「ふしたり」。

「今百載」(さい:年に同じ)「の後」この百年は単に遠い時間の隔たりを指す。正信の殉死は慶安四(一六五一)年で、「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月十一月十七日甲子の夜であるから、有に百七十年以上経っている。

「信に」「まことに」。

「難ㇾ有人」「有り難き人」。

甲子夜話卷之六 20 松平幸千代元服のとき有德廟上意

 

6-20 松平幸千代元服のとき有德廟上意

德廟の御時、松平幸千代【出羽守こと】は八歲にて殿上元服。御盃下さるゝ時、御酌は目賀田長門守なりしが、過て盃に盈る計につぎたりしかば、早くも御覽ぜられて、其酒給ばいたみ申さん。滴み候得と仰ありしに、幸千代騷がず一口吞、さて左の袂へ酒のまゝ盃をさし入れしかば、何れも不思議の若ものよ迚、内々稱美しけるを聞しめして、人は年相應の智をよしとす。餘りに年不相應也とて、思召に應ぜざりしと也。

■やぶちゃんの呟き

「松平幸千代」出雲国松江藩第六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年五月二十八日~天明二(一七八二)年)。ウィキの「松平宗衍」を見ると、彼は隠居後に奇行を繰り返したとして、かなり「異常」と呼べる内容が記されてあるので、是非、見られたい。

「有德廟」(うとくべう)徳川吉宗。宗衍は偏諱。

「八歲」とあるが、誤り。彼の元服は寛保二(一七四二)年一二月十一日で数え十四である。この時、従四位下に叙位され、侍従に任官、後に出羽守を兼任した。

「目賀田長門守」目賀田守成。吉宗には紀州藩より従って側近として仕え、旗本となった。

「過て」「あやまちて」。

「盈る計に」「みつるばかりに」。

「給ば」「たば」。飲んだのでは。これも次もその次も吉宗の自敬表現ととる。

「いたみ申さん」【2020年10月23日改稿】いつも御指摘を戴くT氏より、これと次の注は間違っていると御指摘を戴いたので修正する。T氏より、『「いたみ申さん」 は、酔っぱらてしまう』の意であり、『「滴み候得」は多すぎる酒の量なので、一口のんで残りは 「 滴み 」(たらす =捨てる )し、杯を空にするよう』に、と吉宗は気を使って指示したのであって、私の『「代わりのものを用意させよう。」では、目賀田長門守の不調法が、目出』ってしまうので、それは、ない。さて、『「将軍の言う通り」に 松平幸千代が酒の残りを 「 滴み 」 ( たらす =捨てる)した場所が、自分の袖の中』であったことが、『「内々稱美しける」内容と見ました』。『将軍は、杯を載せてきた三方か何かにでも、 「 滴み 」 ( たらす = 捨てる)とおもいきや、袖の中』にさっと零し入れたことに『意表をつかれ』、逆に『「子供らしくない」と考えたようです』とあった。正しくそうとって、総てが自然な画面となる。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。

「滴み候得」「したみさふらえ」。【2020年10月23日改稿】「残りは滴せてて、飲まぬがよかろう」。

「一口吞」「ひとくち、のみ」。

「何れも」その場にあった者たち誰もが、後に。

「迚」「とて」。

「内々」非公式な噂話として。

「稱美しける」若いのに洒落た処置だと褒め称えあったのである。

「聞しめして」「きこしめして」。

「思召に應ぜざりしと也」「おぼしめしにおうぜざりしとなり」。そうした過剰な少年への讃美を、年齢不相応な出過ぎた小賢しい振舞いであるとして、お採り上げになられなかった、というのである。但し、八歲なら、この話、「御尤も」と思うが、事実の、十四であれば、どうか? という気は私は、する。しかし、晩年の様態を見ると、吉宗の不快は、寧ろ、当たっているという気がする。

北原白秋 邪宗門 正規表現版 夕日のにほひ

 

  夕日のにほひ

 

晚春(おそはる)の夕日(ゆふひ)の中(なか)に、

順禮(じゆんれい)の子はひとり頰(ほ)をふくらませ、

濁(にご)りたる眼(め)をあげて管(くだ)うち吹ける。

腐(くさ)れゆく襤褸(つづれ)のにほひ、

酢(す)と石油(せきゆ)……にじむ素足(すあし)に

落ちちれる果實(くだもの)の皮、赤くうすく、あるは汚(きた)なく……

 

片手(かたて)には嚙(かぢ)りのこせし

林檎(りんご)をばかたく握(にぎ)りぬ。

かくてなほ頰(ほ)をふくらませ

怖(おづ)おづと吹きいづる……………珠(たま)の石鹼(しやぼん)よ。

 

さはあれど、珠(たま)のいくつは

なやましき夕暮(ゆふぐれ)のにほひのなかに

ゆらゆらと圓(まろ)みつつ、ほつと消(き)えたる。

ゆめ、にほひ、その吐息(といき)……

 

彼(かれ)はまた、

怖々(おづおづ)と、怖々(おづおづ)と、………眩(まぶ)しげに頰(ほ)をふくらませ

蒸(む)し淀(よど)む空氣(くうき)にぞ吹きもいでたる。

 

あはれ、見よ、

いろいろのかがやきに濡(ぬ)れもしめりて

圓(まろ)らにものぼりゆく大(おほ)きなるひとつの珠(たま)よ。

そをいまし見あげたる無心(むしん)の瞳(ひとみ)。

 

背後(そびら)には、血しほしたたる

拳(こぶし)あげ、

霞(かす)める街(まち)の大時計(おほどけい)睨(にら)みつめたる

山門(さんもん)の仁王(にわう)の赤(あか)き幻想(イリユウジヨン)……

 

その裏(うら)を

ちやるめらのゆく……

四十一年十二月

 

[やぶちゃん注:リーダ数は一箇所を除いてママ。実は第一連最終行末の「汚(きた)なく……」のリーダは五点しかない。しかし、後ろの二点は有意に右方向に曲がっており、恐らくは三点リーダの植字不全のミスと受け取れることから、特異的に推定で六点リーダとした。五点リーダにするのであれば、そのひしゃげたものも再現せねばならぬと思うたが、それはあまりにも無体なことと考えたからである。

 本篇は「邪宗門」の中でも忘れ難い一篇である。私はこの巡礼の少年の姿に不思議に強い既視感(déjà-vu:デジャヴュ:フランス語)を感ずるからである。振り返った彼は――或いは――私自身――なのかも知れない……………]

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事

 

席上奇観垣根草五之巻

 松村兵庫古井(こせい)の妖鏡(えうきやう)を得たる事

 

[やぶちゃん注:本篇については、実は私は既に二度、全文電子化を行っている。最初は、

201749日公開の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』

で、そこでは、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」で活字化された、本作の後代の改題本である晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻之第五」の「松村兵庫古井の妖鏡」を参考としつつ、恣意的に漢字を正字化したものである。次が、

2019105日公開の『小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」巻之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)』

で、そこでは、小泉八雲が実際に原拠原本とした、富山大学「ヘルン文庫」にある旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化したものである。

 さても、三度目の正直というわけではないが、今回は、原拠の改題本でないオリジナルが底本であるから決定版と言える(但し、既に述べた通り、底本は歴史的仮名遣の誤りや送り仮名を補正してある。既に述べているが、実は原本は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、送り仮名も現行のように活用語尾を読みに含めて送っていないケースが散見され、実は原本は総ルビに近いものの、それらの点では誤りだらけと言ってよいのである。試みに本「巻之五」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の校合している原本・PDF)を読んでみられるがよい)。注も、後者でかなり詳しいオリジナルなものを附したが、それも再度、徹底的に検証し直しをしてある。

 なお、私は同じものが原拠の『小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」』とともに(先行する原拠はこちら)、小泉八雲の少女物(厳密には本篇では実在する「少女」ではないけれども――いや――少女――とは現実在を頑なに拒否する存在であってみれば――やはり「少女」である――)綺譚の名品として忘れ難いのである。絵師が挿絵に少女を描かなかったことが、一抹の恨みを残すと私は感ずる。

 

 南勢(なんせい/ミナミイセ)大河内(おほかはち)の鄕(がう)は、そのかみ、國司の府にて、南朝の頃までは、北畠殿、こゝにおはして、一方を領じたまふ。國府の西南に大河内明神(おほかはうちみやうじん)の社(やしろ)あり。國司より、宮宇(きゆうう/ヤシロ)も修理したまひ、神領(じんりやう)も、あまた寄せられしが、漸く衰廢(すいはい/アレハテ)して、嘉吉・文安の頃にいたりては、社頭も雨露におかされたまふ風情なりしかば、社官(しくわん/カンヌシ)松村兵庫なるもの、都に登りて、時の管領(くわんれい)細川家に由緖あるにたよりて、修造(しゆざう/サイコウ)の事を訴ふるといへども、前將軍義敎公、赤松がために弑(しい)せられたまひ、後嗣(こうし/ヨツギ)も、ほどなく早世ありて、義政公、將軍の職を繼ぎたまふ。打續きて、公(おほやけ)の事、繁きに、其事となく、すぎ侍(はんべ)れば、兵庫は、もとより、文才もかしこく、和歌の道なども、幼(いとけなき)より嗜(たしな/スキ)みたりしかば、

「幸(さいはひ)に、滯留して、其奧儀(あうぎ)をもきはめん。」

と、京極(きやうごく/テラマチ)今出川の北に寓居(ぐうきよ/カリズミ)して、公(をゝやけ[やぶちゃん注:原本のママ。])の沙汰を待居たり。

[やぶちゃん注:「松村兵庫」「斎宮歴史博物館」公式サイト内の学芸普及課課長榎村寛之氏の「第17話  伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話」に、本篇に基づく形で、以下のようにある。『三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなっていました』。その頃、『この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと』、『物情騒然の折から』、『なかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし』、『兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです』とある。但し、これは全く本篇にまるまる拠った記載であるから、この人物が実在した証というわけには、残念ながら、ゆかない。

「南勢」南伊勢。次注参照。

「大河内明神」現在の三重県伊勢市辻久留(つじくる)にある、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社志等美神社(しとみじんじゃ)と同じ社地内にある外宮(げぐう)摂社大河内神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「志等美神社」によれば、『社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している』。『外宮の摂社』十六『社のうち第』八『位である』。本話柄時制より後の『戦国時代に大河内神社が』、再び(本話柄が正しければそうなる)『荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった』とあり、さらに、『現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている』ともある。

「南朝の頃」五十六年余り続いた南朝は、元中九/明徳三年十月二十七日(ユリウス暦一三九二年十一月十二日)の締結された「明徳の和約」に基づき、その七日後の同年閏十月五日(ユリウス暦一三九二年十一月十九日)に、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰還し、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝合一が行われた。それは本話柄時制より五十年余り前のこととなる。

「北畠殿、こゝにおはして、一方を領じたまふ」ここで示される「嘉吉・文安の頃」(一四四一年~一四四九年)という時制設定に限定するならば、室町中期の公卿で、権大納言・正二位の伊勢国司北畠家の第四代当主にして伊勢国守護大名であった、南朝を支えた公卿北畠親房の玄孫(やしゃご)に当たる北畠教具(のりとも 応永三〇(一四二三)年~文明三(一四七一)年)となる。ウィキの「北畠教具」によれば、父『が戦死した時は』七『歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた』が、嘉吉元(一四四一)年、十九歳で伊勢国司となった。その際、『将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康』『の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った』。文安五(一四四八)年には『長野氏と所領を巡り』、『合戦を行っている』とあって、設定と合致する。但し、この南伊勢を南朝方のしっかりした防衛地盤としたのは、親房の三男であった北畠顕能(あきよし:但し、一説には中院貞平の子で親房の養子にとなったともされる)が、建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点として退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗したのが最初で、顕能は「伊勢北畠氏」の祖とされ、この「一方を領じたまふ」の歴史はそこまで遡った謂いととってよかろう。さらにそこから、南朝方の総司令官となった北畠親房が、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、内宮より外宮を優位とする伊勢神道の大成者であった度会家行の強いバック・アップを受けて、この伊勢に勢力圏を固めていたことまで遡れる地盤でもあったのである。これは本篇が下宮絡みであることからも、言っておいてよい事実であろう。

「時の管領細川家」以上の時制設定から、これは若き日の細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と考えてよいように思われる。彼は嘉吉二(一四四二)年八月に父であった第十四代室町幕府管領細川持之が死去し、十三歳で家督を継承した。年少であったために叔父細川持賢(もちかた)の後見を受けたが、文安二(一四四五)年に畠山持国(徳本)に代わって十六歳で管領に就任している

「將軍義敎公、赤松がために弑(しい)せられたまひ」第六代将軍足利義教は専制を恣にし、守護家の家督にも積極的に介入、「衆議」の名目で細川氏を除く殆んどの宿老家の改変を行った。有力守護であった一色義貫(よしつら)・土岐持頼を暗殺、管領畠山持国を追放するなどしたことから、各守護は恐慌をきたし、先手を打つことで将軍の魔手を逃れようとした赤松満祐により、嘉吉元年六月二十四日(一四四一年七月十二日)、赤松の自邸に招かれ、宴会の席上で斬殺(斬首)された。享年四十八であった。

「後嗣も、ほどなく早世ありて」義教の嫡男で庶子の足利義勝が、管領細川持之ら大名に擁され、嘉吉二(一四四二)年十一月七日に九歳で第七代将軍となったが、翌年六年七月二十一日に逝去した。就任から僅か八ヶ月後のことであった。死因は落馬・暗殺など諸説あるが、赤痢による病死が有力とされる。

「義政公、將軍の職を繼ぎたまふ」義勝の後継将軍には、僧侶になることが予定されていた義勝の同母弟で、当時八歳であった三春(みはる:後の義政)が選ばれた。但し、義政の第九将軍就任はその六年後の文安六(一四四九)年四月であり、義勝・義政と、幼少の将軍が二代続いたことにより、朝廷や有力守護大名の幕政への過剰な関与が続き、将軍の権威が揺らぐこととなった。さても、本篇エンディングで、初めて、彼の治世が話柄内時制であることが判明する。他變でもそうだが、都賀は歴史経緯記載に拘る余り、話柄内時制を判り易くに示すことがなく、それが本作全体の一つの大きな欠点であると言える。

「京極(きやうごく/テラマチ)今出川」「京極」は元来、京都の四方の端を指す。現在の京都府京都市上京区今出川町はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが(東直近に「室町幕府第跡」がある)、左ルビの寺町を生かすなら、寧ろ、その東の「今出川通り」と「寺町通り」の交差する辺りの北西に伸びる「寺町通り」附近を考えた方がいいかも知れない。]

 

 旅館の東北(ひがしきた)にあたりて、一つの古井(こせい/フルヰ)ありて、むかしより、

「時々、よく人を溺(をぼ/トル)らす。」

と、きゝたれども、宅眷(たくけん/カナイ)とてもなく、從者(じうしや)一人のみなれば、心にも挾(さしはさ)まず、暮しけり。

 其頃、畿内、大(をゝゐ[やぶちゃん注:原本のママ。])に旱(ひでり)して、洛中も水に乏しき折(をり)にも、かの古井(こせい/フルヰ)は涸(か)るゝことなく、水(みづ)、藍(あゐ)のごとく、みちたれば、近隣より、汲みとる者、多し。されども、人々、心して汲(く)むゆゑにや、溺るる者もなかりしに、或日(あるひ)、暮の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)、例のごとく、汲まんとして、久しく井中(ゐちう)を窺ひ居たるを、

「あやし。」

と見るうちに、忽(たちま)ち、墜(お)ちいりて、溺れ死したり。

 井水(ゐすゐ)、きはめて深ければ、數日(すじつ)を經て、漸(やうや)く、その死骸をもとめ得たり。

[やぶちゃん注:「宅眷」ここは家族の意。「人を呑む井戸」となれば、婦女子がおれば、日頃、近づかぬように注意をさせて、自らも気を配っておらねばならぬけれども、というニュアンスである。]

 

 是より、兵庫、あやまちあらん事を怖れて、垣(かき)など、嚴しくしつらひたりしが、

「去るにても、あやし。」

と、おもふより、たちよりて、竊(ひそか)に窺ふに、中(なか)に、年の頃、二十(はたち)ばかりと覺しき女の、なまめけるが、粧飾(さうしよく)、いとうるはしく、粧(よそほ)ひて、あり。兵庫をみて、すこし、顏、そむけて笑ふ風情(ふぜい)、その艶(えん)なる事、世のたぐひにあらず、魂(たましい[やぶちゃん注:原本のママ。])、飛び、こゝろ、動きて、やがて、『ちかよらん』とせしが、おもひあたりて、

『扨は。かくして、人を溺らす、古井(こせい/フルヰ)の妖(えう/ヌシ)なるべし。あな、おそろし。』

と、急に立(たち)さりて、從者にも、此よし、かたく制して、近付(ちかづか)しめず。

[やぶちゃん注:「やがて」そのまま。すぐに。自制心が操作されて「思わず」そうしようとしているさまを表現している。

「扨は。かくして……」以下は二重鍵括弧である。決して松村は、無意識にも口に出して言ってはいない。言ってはいけないからである。こうした場合の「事上(ことあ)げ」は十全に注意しなくてはならぬ。近づくという自制心が利かなくなっている状態(これが既に相手の手の内にあるということは言うまでもない)で、生半可に相手の正体と思われる名指しを口にした場合、それが外れていれば、命を落とすことになるという民俗社会に於ける呪的システムが起動してしまうからである。その最たる例が悲劇の英雄倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山の神の化身であった白い猪を神使と誤認した結果がそれである。それで彼は致命的な病いに罹患し、遂に死に至るのである。]

 

Yayoi

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵。合成は上手く行かないことが多いので、見開きからトリミングしただけで、やや清拭した。]

 

 或夜(よ)、二更の頃より、風雨、はなはだ烈しく、樹木を倒(たを[やぶちゃん注:原本のママ。])し、屋瓦(をくぐわ/ヤネノカハラ)を飛ばせ、雨は盆を傾(かたぶ)くるごとく、閃電(せんでん/イナヅマ)、晝のごとく、霹靂(へきれき/ハタヽガミ)、おびたゝしく震(ふる)ひ、天柱(てんちう)も折(くじ)け、地維(ちゆゐ[やぶちゃん注:ママ。])も崩るゝかとおもふうちに、天(そら)、晴(はれ)て、夜も明(あけ)たるに、兵庫、とく起(をき)て、窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ、表に、女の聲して案内を乞ふ。

「誰(た)そ。」

と、とヘば、

「彌生(やよひ)。」

と、答ふ。

[やぶちゃん注:「二更」現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。

「地維」普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱を指し、転じて「大地」の意。「天柱」の対語。]

 

 兵庫、あやしみながら、裝束(しやうぞく)して戶をひらき、一間(ひとま)に請(しやう)じて、これを見れば、先に井中にありし女なり。

 兵庫が云(いはく)、

「女郎(ぢよらう)は井中の人にあらずや。何ぞ、みだりに人を惑(まどは)して殺すや。」

 女、云(いはく)、

「妾(せふ)は人をころす者に、あらず。此(この)井(ゐ)、毒龍(どくりよう)ありて、むかしより、こゝに、すむ。ゆゑに、大旱(たいかん/オホヒデリ)といへども、水、かるゝ事、なし。妾は、中昔(なかむかし)、井に墜ちて、遂に龍(りよう)のために役便(えきし/セメツカヘル)せられ、やむことを得ずして、色(いろ)を以(も)て、人を惑(まどは)し、或は、衣裝・粧具(さうぐ/クシカウガイ)の類(るい[やぶちゃん注:原本のママ。])を以て、欺(あざむ)き、すかして、龍の食(くら)ふところに供(きよう)するのみ。龍、人血(にんけつ/ヒトノチ)をこのみて、妾をして、これを辨(べん)ぜしむる。其辛苦、堪(たへ)がたし。昨夜、天帝の命ありて、こゝをさりて、信州『鳥居(とりゐ)の池』にうつらしむ。今(いま)、井中(ゐちう)、主(ぬし)、なし。此時、君(きみ)、人をして妾を拯(すく)うて[やぶちゃん注:ママ。]、井を脱(だつ/ノガレ)せしめ給へ。もし、脱することを得ば、おもく、報ひ奉るべし。」

と、いひ終りて、行方(ゆきがた)をしらず。

[やぶちゃん注:「役便(えきし/セメツカヘル)」これは底本のままだが、原本を見るに、左ルビは『せめつかはる』(原本は左ルビも平仮名)である。「攻め仕へる」よりも、寧ろ、この原本の「攻め使はる」の方が正しいように私には思われる。

「カウガイ」「笄」。本来は「髪搔き」という道具を意味するもので、簪 (かんざし) と同義で、髪の乱れを整えたり、頭皮を搔くのに用いたり、髪を結髪する際の実用的な道具であったものが、近世以降、髪飾りの一つとなった。

「辨(べん)ぜしむる」処理させる。彼女に人の体から血を搾り取らせるというのである。

「信州『鳥居(とりゐ)の池』」ずっと「不詳」としてきて、誰からも情報はないが、今回、「或いは長野県下高井郡山ノ内町の志賀高原内にある大沼池のことではないか?」とも思った。この池、黒龍と黒姫の哀しい異類婚姻譚の伝説があり、何より、現在は池岸近くに鳥居が建っており、池の深い碧と相俟って美景として知られている(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの鳥居入りの画像)のである。ただ、果してこの大沼神社(大沼池弁財天)がいつから存在したものか、定かでない。但し、個人サイト「神奈備」に載る本「大蛇神社」の掲示板の電子化によれば、伝承自体の時制は、登場人物の一人が室町後期から戦国時代にかけての武将で、高梨氏の全盛期を築いた上杉謙信の曽祖父(或いは大叔父か)ともされる高梨政盛(康正二(一四五六)年~永正一〇(一五一三)年)であるから、本作内時制には及ばぬとしても、作者都賀庭鐘が生きた時代には既に伝承としてあった可能性は排除出来ない(というだけのことで、実際に江戸以前からあった伝承だと私は言っているわけではない。だいだいからしてこれが広く知られるようになった採話自体は、松谷みよ子による再話で、ごく新しい。ウィキの「黒姫伝説」の「『信濃の民話』の「黒姫物語」」を参照されたいが、その「信濃の民話」の刊行は私の生まれた昭和三二(一九五七)年なのである)。]

 

 兵庫、數人(すにん)をやとひて、井をあばかしむるに、水、涸れて、一滴も、なし。

 されども、井中、他(た)のものなく、唯(たゞ)、笄簪(けんさん/カウガイカンザシ)のるゐのみなり。

 漸(やうや)く、底に至りて、一枚の古鏡(こきやう)あり。

 よくよく、あらひ淸めて、是をみるに、背(うら)に、

「姑洗之鏡(こせんのかゞみ)」

といふ四字の款識(くわんしき)ありて、

「さては『彌生』といひしは、此ゆへなり。」

と、香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を清め、匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)じ、一間(ひとま)なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに、其夜、女、又、來りて云(いふ)やう、

「君(きみ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)みをのがれて、世に出づることを得侍(はんべ)るうへ、不淨を淸めて、穢(けがれ)をさりたまひしゆゑ、とし月の腥穢れ(せいえ/ナマクサキケガレ)をわすれ侍り。そも、此井は、むかし、大(をゝゐ)なる池なりしを、遷都の時、埋(うづ)めたまひ、漸(やうや)く形ばかりを、のこしたまふ。都を遷(うつ)したまふときは、八百神(やほよろづ)の神々、きたりたすけ給ふゆゑ、其(その)むかしよりすみたりし毒龍(どくりう)も、せんすべなくして、井中(せいちう)をしめて、すまひ侍(はんべ)り。妾(せふ)は、齊明天皇の時、百濟國(くだらこく)よりわたされて、久しく宮中に秘め置(をか[やぶちゃん注:原本のママ。])れしが、嵯峨天皇のときに、皇女賀茂の内親王にたまはり、夫(それ)より後(のち)、兼明(かねあきら)親王の許(もと)に侍(はんべ)り。遂に藤原家に傳はり、御堂殿(みだうどの)[やぶちゃん注:底本で「みだう」を、「どの」は原本で示した。]、ことに祕藏したまひしが、其後(のち)、保元(ほうげん)の亂に、誤りて、此(この)井に墜ちてより、長く毒龍に責めつかはれて、今日(こんにち)にいたる。十二律にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)、妾は、『三月三日』に鑄る所の物なり。君、妾を將軍家にすゝめたまはゞ、大いなる祥(さいはひ)を得給ふべし。其上、此所(このところ)、久しくすみたまふ所にあらず。とく、外(ほか)に移り給へ。」

と、懇(ねんごろ)にかたり終りて、かきけすごとくにして、其形を、みず。

[やぶちゃん注:「款識」(現代仮名遣「かんしき」)「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘で、鐘・鼎・鏡などの鋳造部に刻した銘・銘文を指す。

「姑洗」は「こせん」と読み、ここで述べる通り、陰暦三月の異称である。語源は少し手間取ったが、「姑洗」は第一義は、中国音楽の十二律(中国及び日本の古くからの音名。一オクターブ内に半音刻みに十二の音がある)の一音階で、基音とされる「黄鐘 (こうしょう)」より四律高い音を言うという(日本の十二律の下無 (しもむ) に当たるともあった)。而して「呂氏春秋」には音楽の「音律」というものの音の起原は「春夏秋冬の四季ごとに吹く風であるとする」らしく、そこで「季春(三月)には姑洗を生じ」と言っているとあるのが語源であるようだ。これは、「黄帝内経」研究家松田博公氏の週刊『あはきワールド』の「〈黄帝と老子〉雑観」第十六回「音楽と暦法が出逢うとき宇宙が構成される 『黄帝内経』の謎を解く鍵は数術にある(その4)」PDF)に拠った。ウィキの「十二律」によれば、『西洋音楽の音名と対照すると』、『規準音である黄鐘をAとした場合』、『姑洗』は『C♯』に相当するとあるから、ドの半音上相当となる。

「齊明天皇の時」彼女寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ 推古天皇二(五九四)年~斉明天皇七(六六一)年:舒明天皇の皇后で天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇の母)は元は皇極天皇で、重祚して斉明天皇となった。斉明天皇としての在位は、斉明天皇元(六五五)年一月から斉明天皇七(六六一)年七月までで、「日本書紀」によれば、斉明天皇元年に二回、以下、同二年(一回)・三年(一回)・四年(二回)・六年(二回)・七年(一回)に貢献或いは遣使を受けている(但し、百済はこの六六〇年半ばに新羅からの援軍要請を受けた唐によって、事実上、滅ぼされている)。この内、斉明天皇重祚の表敬と思われる斉明天皇元年七月の『百濟調使一百五十人』と、同年のその後の『百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人』というのが遣使としては大規模で、この鏡が彼女に貢献されたとすれば、この二回の孰れかである可能性が高いようにも思われなくもない。もしこの時のものとすれば、この鏡は実に六百五十年以上も前の古物となる(因みに、参考までに遡って皇極天皇としての在位は皇極天皇元(六四二)年一月から皇極天皇四(六四五)年六月である)。

「嵯峨天皇」在位は大同四(八〇九)年四月から弘仁一四(八二三)年四月。

「皇女賀茂の内親王」嵯峨天皇の第八皇女有智子(うちこ)内親王(大同二(八〇七)年~承和一四(八四七)年)初代賀茂斎院。弘仁元(八一〇)年の「薬子の変」を契機に、初代賀茂斎院に定められたと言われる(先代で復位を試みた平城上皇が弟嵯峨天皇と対立し、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇が王城鎮守の神とされた賀茂大神(かものおおかみ)に対し、「我が方に利あらば、皇女を『阿礼少女(あれおとめ:賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)』として捧げる」と祈願したところ、「薬子の変」で嵯峨天皇側が勝利したため、誓約に従い、娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりとされる)。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙したという。その詩作は「経国集」などに計十首が遺されており、日本史上、数少ない女性漢詩人の一人である(以上はウィキの「有智子内親王」に拠った)。私はこの事績を読むにつけ、或いは、この「彌生」、才媛にしてどこかで政争の被害者であったかも知れない有智子内親王の魂をも暗に示されているのではなかろうか? とも思うたのであった。

「兼明(かねあきら)親王」(延喜一四(九一四)年~永延元(九八七)年)は嵯峨天皇の八代後の醍醐天皇(元慶九(八八五)年~延長八(九三〇)年)の第十六皇子で、朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。

「御堂殿」藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)。

「保元(ほうげん)の亂」保元元(一一五六)年七月に発生した。]

 

 兵庫、その詞(ことば)のごとく、翌日、外(ほか)に移りて、事のやうを窺ふに、次の日、故(ゆへ[やぶちゃん注:原本のママ。])なくして、地、おちいり、家(いへ)も崩れたり。

 ますます、鏡(かゞみ)の靈(れい)にして、報ゆるところなるをさとりて、これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公、古翫(こぐはん/フルキドウグ)を愛したまふ折(をり)なれば、はなはだ、賞(しやう)したまひ、傳來するところまで、あきらかに侍(はんべ)るにぞ、

「第一の奇寶(きほう)。」

としたまひ、兵庫には、其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ、猶も、

「社頭再建は公(おほやけ)より沙汰すべき。」

よしの嚴命をかうむりて、兵庫は本意(ほい)のごとく、多年の愁眉(しうび)をひらきぬ。

 其後(のち)、此鏡、故ありて、大内(おほうち)の家に賜りしが、義隆、戰死の後は、

「その所在をしらず。」

とぞ、いひつたへ侍(はんべ)る。

[やぶちゃん注:「これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公」とあることから、ここで初めて時制が明らかとなる。既に述べた通り、足利義政の将軍就任は文安六(一四四九)年四月十六日に元服し、同月二十九日に将軍宣下を受け、正式に第八代足利幕府将軍として就任している(満十三歳)。下限は彼の親政がまあ上手く行っていた、「長禄・寛正(かんしょう)の飢饉」(長禄三(一四五九)年から寛正二(一四六一)年にかけて日本全国を襲った大飢饉)よりも前ということになろうか。

「義隆、戰死」戦国大名大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に反逆されて自害したのは、天文二〇(一五五一)年である。私の措定伝来からは実に八百九十六年後となる。]

2020/10/21

梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます 《2020年11月3日追記有り・ほぼ解決》

梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます。初出誌・内容は勿論、ご記憶の中にあるなど、何でも結構です。私はブログ開設以来、コメントは、一切、拒絶していますが、これに就いては、特別にそれを解除しておきます(但し、無縁と思われる広告や、怪しいサイトへ誘導すると判断されるもの等々に就いては、即座に削除します)。よろしくお願い致します。

【2020年11月3日追記】実は、これは、ツイッターでフォローされている方からの質問を受けて立項した記事である。今、現在まで、コメントは皆無である。ただ、昨日、梅崎春生の「小さな町にて」を公開した際、底本の解説をちらと見た時、「英雄」という書名が眼についた。以下は、先ほど、その質問者に返信した内容の全文である。

   *

 昨日、たまたま「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)の本多秋五の解説を読んでいたところ、以下の一節がありました。
   《引用開始》

 梅崎春生は、いわゆる毛並のいい秀才や、人の上に立って指揮し、人を愛し、人にも愛されるといったタイプの人間を描いたことがない。絶対になくもなかったかも知れないが、いま私には思い出せない。思い出すのは、片意地で、不器用な、片隅の人間ばかりである。
 これは制作の年代を無視していうことになるが、阿川弘之は海軍時代の経験をもとにして『山本五十六』を書いたが、梅埼春生は、たとえどんなに長生きしたとしても、あの種の作品を書くことがなかっただろう。書くとすれば、旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという『英雄』のような作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である。
 私は『桜島』をはじめて読んだとき、吉良兵曹長は海軍のいやなところばかりを抽いて練り固めたような人物で、いかにもつくりものめいて観念的な人物だと思った。現在では、これが梅崎春生の人生認識の方法なのだと思っている。彼はイヤなもの、むかむかさせるもの、ひりひりするものに現実感を感じ、生き心地を感じるのである。イヤなものが好きなのである。
 眼をとじたいようで眼の放せぬもの――恐ろしく、不快で、残酷なもの、そこに彼は生の感触をいきいきと感じるのである。お爺さんの首くくりの話がそれである。これは見張りの男が話す間接の話だが、この一篇のなかでそこがどんなに印象鮮明であることか。そういえば、ポケットのなかで法師蝉を握り潰すあのイヤな感覚。
 メーデー事件のとき、彼の感覚が急に生き生きと目覚めたのは偶然でない。
 戦争末期に海軍にとられ、否応のない労働と屈従を強いられたことは、彼にとって生涯忘れられぬ災難であった。しかし、そのことによって彼は人生の感触を濃厚痛烈に味わう機会をもった。軍隊生活は彼にとって不本意なものであったが、自発的には決してふるい起すことがなかったであろう緊張を彼によび覚ました。海軍の生活は、それなしには彼に欠けていた幾多の人生経験を豊富にもたらしたばかりでなく、もともと彼にあったもの(ニヒリズムもまたそうである)を堅い砥石にかけてはっきりと磨ぎ出した、と私は思う。
 私はいつか太宰治について、戦争は彼に対して崩れる姿勢をしゃんと特ち直させるギプスのように作用した、と書いたことがあったが、それと同じ筆法でいえば、軍隊生活は梅崎春生に対して倦怠と無気力を吹きとばす覚醒剤のようにも、自身の本質をくっきりと磨ぎ出す堅い砥石のようにも作用したといえる、と思う。

   《引用終了》
 →「書くとすれば」← →「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きている」← →「という」← →「『英雄』」← →「のような」←「作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である」――
   *
 この本多の謂いを見るに、これは、
   *
仮に梅崎春生が「書くとすれば」、例えば「『英雄』」「という」皮肉な題名で、「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きている」「という」「ような」部類の「作品」「であった」ろうと思う。「もちろん生きている杉野兵曹長は贋物で」、「わびしく、愚かしく、哀しい話」となるに違いなかろう――
   *
という意味のように私にはとれます。
 但し、ここで悩ましいのは、『英雄』という書名に二重括弧が使用され、「のような作品」の表現部分が、恰も梅崎春生の著作に「英雄」という小説があり、それが「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという」「作品で」、「もちろん」その主人公の「生きている杉野兵曹長は贋物で」、「わびしく、愚かしく、哀しい話」なの「である」と読めてしまうようにも思えなくもない、という点なのですが、正直、私は、芥川龍之介の「西郷隆盛」の二番煎じのような、有名人生存という噂話――都市伝説の真相暴き物の如きコントを梅崎春生が書くというのは、ちょっと私には、鼻白む感じが、なくもありません。
 「廣瀬中佐」の「杉野はいずこ 杉野は居ずや」で知られる杉野孫七上等兵曹の生存説は、日露戦争直後から発生し、何度も繰り返し噂され、第二次世界大戦中や終戦直後にも頻繁に噂され、梅崎春生の死後の昭和五七(一九八二))年にも再燃していることが、ネットの複数の記載で確認出来、それを追った書籍も出されています。梅崎春生がもし贋杉野を扱った小説を書いていれば、その本で採り上げられているかとも思われます(「日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う」林えいだい著・新評論・一九九八年刊)。
 本多秋五氏に聴けば、一番、手っ取り早いのですが、残念ながら、彼は十九年前に亡くなっています。
 あなたの、梅崎春生の初期作品に「英雄」という作品がある、という情報元は何でしょうか? それを知りたく思います。
 私は、以上の手持ちの情報からは、『梅崎春生の「英雄」という作品は実在しないのではないか?』という印象を拭えません。

   *

――いや――ないとは断言できぬ――まだ、このコメントは有効にしておく――

   *

【同日午後四時三十分追記】

質問者から回答があり、古林尚氏が作成した年譜に『六月、「英雄」を「小説と讀物」に発表』とあること、私も所持する沖積舎版梅崎春生全集にある彼の日記の昭和二二(一九四七)年四月二十日の記載に『高鍋 六十枚 馬 六十枚 英雄 三十五枚 にて皆放棄す。造形と言うことのむつかしさ。今「外套」の下書き』とあることが根拠であるとあり、もし「英雄」が実在するとすれば、それは戦争小説、軍隊物である可能性が高いのではないでしょうか? という旨の内容であった。そこで、日記を全く忘れていた私自身のうっかりを含めて、返事を書きながら、書きながらもいろいろ全集をひっくり返しつつ、ネットの検索もして、調べてみた結果、遂にカタがついた。

結論から言うと、梅崎春生の「英雄」は実際に書かれ、上記の通り、発表されていた。

以下、質問者へ送った解決メールを示す。

   《引用開始》

こりゃあ、「英雄」はあるね!
古林尚作成の年譜というのは、私は所持していない新潮社版全集か、或いは講談社文芸文庫「風宴・桜島・日の果て・幻化」辺りにあるものですか?(私は沖積舎の全集を買ってからは、彼の著作集は全く買っていません。大学時代に最初に読んだ新潮文庫は「猫の話」に感激した教え子に上げてしまいました)
それに、

『六月、「英雄」を『小説と讀物』に発表』(昭和二二(一九四七)年ですよね?)

と、あるからには、現存しますね。

しかも、私としたことが、梅崎春生の日記を見落としていました。私は沖積舎版の詩篇・エッセイ部の電子化を終わったところで、第七巻の電子化を、皆、終わったと、どこかで錯覚していた部分があり、日記がその後にあったことをすっかり忘れていました(日記は戦中・敗戦部分しか読んでいません)。先ほど確認、確かに昭和二十二年にあるね!
   *

四月二十日
 高鍋 六十枚
 馬  六十枚
 英雄 三十五枚
 にて皆放棄す。造形と言うことのむつかしさ。今「外套」の下書き。成功すればいいが。今日は土井氏等来る筈なり。

   *
この「放棄」とは「破棄した」の意ではなく、途中まで書いて気に入らず、途中放棄して篋底に仕舞い込んだという意味でよいでしょう。実際に沖積舎全集にも未完成で放棄し、完成させずに投稿した「生活」などが所載されているし、あなたの指摘する通り、「高鍋」は「無名颱風」の原型と考えられますが、「無名颱風」は昭和二五(一九五〇)年八月初出ですから、実に三年半かかって、原稿用紙の単純機械換算ですが、四十枚近くは書き足している感じです。

さらに、先ほど、沖積舎版の「別巻」最後にある年譜

(これは雑誌『南北』の元編集長常住郷太郎氏の編です。本巻七巻全部の編集解題を手掛けた古林尚氏では、ないのです。――これで腑に落ちました。――同全集編集解題を担当してきた古林尚氏は実は同別巻が刊行された翌月に亡くなっています。――もし、古林尚氏が年譜を担当していれば(同全集の挟み込みの栞では『解題・編集・解説 古林尚」』となっていて、彼がが全部を仕切るはずだったことが判ります。――「英雄」はちゃんと年譜内に記されたものと思うのです)

を見ながら、全集の中で殆んど読んでいないこの「別巻」の研究篇(私は作家研究評論が実はすこぶる嫌いです。特に評論家のそれは)を何気なく縦覧してみたところ、

――見つけました!――

「英雄」は確かに発表されています。

浅見淵氏の「梅崎春生の結婚祝賀会」(初出は講談社「昭和文壇側面史」昭和四三(一九六八)年二月)の最後の段落の冒頭で、

   *

 梅崎君は結婚すると同時に、積極的にどんどん仕事をしだし、その年だけでも「崖」「紐」「英雄」「蜩」『日の果て』[やぶちゃん注:作品集。]「ある顚末」「贋の季節」「亡日」「蜆」「朽木」「麵麭の話」の十一篇を発表している。

   *

とあるからです。梅崎春生が山崎江津さんと結婚したのが、昭和二二(一九四七)年一月で、以下、

「崖」(三月)    【沖積舎版全集第1巻】
「紐」(六月)    【沖積舎版全集第2巻】
「英雄」
「蜩」(九月)    【沖積舎版全集第2巻】
『日の果て』(九月) 【沖積舎版全集第1巻】(標題作「日の果て」の所収巻)
「ある顚末」(十月) 【沖積舎版全集第2巻】
「贋の季節」(十一月)【沖積舎版全集第2巻】
「亡日」(十一月)  【沖積舎版全集第2巻】
「蜆」(十二月)   【沖積舎版全集第2巻】
「朽木」(十二月)  【沖積舎版全集第2巻】
「麵麭の話」(十二月)【沖積舎版全集第2巻】

が発表月で、「英雄」以外は総て沖積舎版全集に所収されています。同全集第1巻は、古林尚氏の解題冒頭で、「桜島」(昭和二一(一九四六)年九月)による実質的文壇デビュー以降、昭和四〇(一九六五)年『五月までに発表された小説中より、いわゆる「戦争文学」の系譜に属する二十四篇を選びだしたものである』「選びだした」に注目とあります。因みに第2巻は昭和一一(一九三六)年六月から昭和二四(一九四九)年『五月にかけて発表された小説中より、いわゆる「戦争文学」を除外した、自伝的要素の濃い初期短篇二十九をおさめた』とし、『初期短篇群のほとんどが網羅しつくされている』と自負しているのとは対照的です。即ち、「戦争文学」群には、かなり、選から漏れているものがあることが判り、それを意識して沖積舎版は当該全集の挟み込み栞の標題にわざわざ『第一期』と入れてあるのだと思います。古林氏は恐らく梅崎春生の第二期を出して全作品を網羅したいと考えていたのではないでしょうか?

さても。あなたの推理通り、「高鍋」は「無名颱風」でしょう。「外套」が「蜆」の原題とすれば、戦争物・日常的私小説風物を交互に出して模索していたと考えるなら、而して、本多秋五氏の例の解説はやはり小説「英雄」を指していると考えていいでしょう。

   *

 これは制作の年代を無視していうことになるが、阿川弘之は海軍時代の経験をもとにして『山本五十六』を書いたが、梅埼春生は、たとえどんなに長生きしたとしても、あの種の作品を書くことがなかっただろう。書くとすれば、旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという『英雄』のような作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である。

   *

かくも本多が言い放つとならば、「英雄」のストーリーはやはり贋杉野を登場人物とした戦争文学であると考えていいでしょう。

後は、当該発表雑誌を探し出す以外にはありますまい。あなたの年譜に十月とあるのなら、『小説と読物』十月号でしょう。にしても、しかし、ブログもツイッターもフェイスブックに貼り出したのに、誰からも何も情報が入ってこないということは、私より若い世代の層では「英雄」を実際に読んだことがある人が、殆んどいないと言ってもいいように思われます。さすれば、そう簡単には見つからないということになるのかも知れません。まあしかし、いくら何でも、手に入らないことはないと思われます。

にしても最後に気になるのは、四月の段階で三十六枚と枚数が少ない点です……などと思いつつ……試みに……雑誌名で検索をかけてみたところ――思わぬ発見!!!

小嶋洋輔・西田一豊・高橋孝次・牧野悠『「中間小説誌総目次」――小説界」 「苦楽」 「小説と讀物」』(『千葉大学人文社会科学研究』二十六号・二〇一三年三月発行)
「千葉大学附属図書館デジタルコレクション」のこちらからダウン・ロード可能

その『小説と讀物』の部分を見ると――!

   *

第二巻第六号昭和二十二年六月一日発行

   *

のところに! あった!!!

   *

英雄……梅崎春生(三六)

   《引用終了》

ページ数がランダムに見えるのだが、恐らく「映画時評……津村秀夫(四七)」が後らしいから、ページ数は十二ページ分以下。にしてもスゲえぞ! 目次に並んでるのは尾崎士郎「人生劇場」、室生犀星「瓦文」、林房雄「小説時評」、吉野秀雄の短歌、平山蘆江の随筆だぜ!

国立国会図書館に問い合わせて当該号があればよし、なければ、このデータを作った研究者の中の誰かに雑誌の所在を問い合わせればよろしいかと思います。これで、ケリがつきました。その日の内に誤認を修正した上に、実在する正規の書誌情報に巡り逢えたのは幸いでした。実は私は今朝から、梅崎春生の「B島博物誌」の電子化にとりかかっていたところなんですよ! これも何かの知らせだったのかも知れませんね! 読むことが出来たら、話の内容だけでも教えて下さい。

【追伸】なお、「英雄」の話の中身が判るまでは、コメント欄を生かしておくことにする。


 

畔田翠山「水族志」 コブダヒ (コブダイ)

 

(一〇)

コブダヒ 一名エビスダヒ【紀州田邊】ノブシ【大和本草】

大和本草曰「ノムシ」「タヒ」ノ類ナリ頭鵞ノ如シ大ナルアリ色紫紅ウロコハ鯉ノ如シ味淡シ按形狀「アヲ」ニ同乄齒出ルヿ「アヲ」ノ如ク鱗大ニ乄赤色也

 

○やぶちゃんの書き下し文

(一〇)

コブダヒ 一名「エビスダヒ」【紀州田邊。】・「ノブシ」【「大和本草」。】

「大和本草」に曰はく、『「ノムシ」、「タヒ」の類なり。頭、鵞〔がてう〕のごとし。大なるあり。色、紫紅。うろこは鯉のごとし。味、淡し』と。

按ずるに、形狀、「アヲ」に同じくして、齒、出ずること、「アヲ」のごとく、鱗、大にして、赤色なり。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。これは、標題通り、

スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ属コブダイ Semicossyphus reticulatusValenciennes, 1839

でよい。宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)こちらから次ページにかけて、「コブダイ 瘤鯛 Semicossyphus reticulatus (Cuvier. & Valenciennes.)」(学名が斜体でないのはママ。命名者はシノニム)として(下線は底本では傍点「ヽ」、下線太字は傍点「●」)、

   *

方言モムシ又はモブシ(紀州各地)・・・・・・・・藻伏の義、コブ(白崎)、コベダイ(廣)、カンノンダイ(太地)、水族志にはエビスダヒ(田邊)とある。

體形カンダイ[やぶちゃん注:宇井の言うそれは既に複数回出たスズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio の地方名であるので、注意。]に似て、遙に大形である。成魚は前頭著しく隆起して瘤狀を呈する。眼は小さく、口に鋭齒を有する。鱗は稍小さい。全體暗褐色で腹部は稍淡く、鰭は暗色を帶びる、體長二三尺、目方數貫[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラム。]に達する。近海の岩礁間に棲み、海藻を食する。肉は不味く主に蒲鉾材料とする。東京市場でカンダイというのは本種の事であるといふ。

   *

とある。ウィキの「コブダイによれば、『コブ鯛と名前がつくが鯛の一種ではなく、ベラの一種で』、『日本南部の太平洋、日本海、東シナ海、南シナ海に分布』する。『雄は体長』八十センチメートル、『大きいもので』一メートルを『越え』、大型個体は十キログラムを超えるものもいる。『体色は茶色や黒、白色などが入った赤色』。『雌性先熟で、大きく育つまではメスで、卵を産む』。五十センチメートルを『超えるとコブが張り出してきて、オスに性転換する』。『見た目があまりに違うため、かつて雌は別種の魚だとさえ思われていた』。『雄は頭部に名前の由来である大きな瘤がある。特に大型のものは、顎にも同様な瘤ができる。瘤の中には脂肪が蓄えられている。口には巻き貝を砕くために大きな歯と強力な顎を持つ』。『幼魚は体色がオレンジ色で上下の鰭が黒く、白い線が体の横に入り、成魚とは大きく異なる』(成魚とこもごも出るが、グーグル画像検索「コブダイ 幼魚」をリンクさせておく。別種と間違えられたのが激しく腑に落ちる)。『本種はハーレムを創る魚として有名であり、雄は自分のテリトリーを主張し、そこに入ってきた他の雄を容赦なく攻撃して、縄張りを確保しながら、複数の雌を呼び寄せる性質を持つ。また、幼魚には手を出さず、幼魚はそうして成魚に守られながら成長し、学習していくともいわれる』。『非常に強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻ごと食べてしまう。繁殖は雄と雌が海上付近で体をくねらせながら産卵、受精する』。『本種は暖海性だが、死滅回遊魚でもあり、黒潮に乗って、北海道付近にまで北上することもある』。『寿命は』二十年『前後とされている』。『磯釣りの際』、『その強力な顎で餌に食いつき、引きが強いので釣りごたえがある。流通量が少ないため』、『一般に食用としての知名度は高くないが』、『大型の物は味が良い。日本海側の市場の方が人気がある』。『旬は冬であり、市場では「寒鯛」(カンダイ)とも呼ばれる。刺身や焼き物、吸い物、酒蒸し、フライなどで食される』とある。「寒鯛」はイラの別名としても、とみに知られるので、要注意

『「大和本草」に曰はく、……』以下は、「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」の一節。私はそこでは、スズキ亜目フエダイ科フエダイ属フエダイ Lutjanus stellatus に同定したが、修正する。

「鵞〔がてう〕」鵞鳥(ガチョウ)で、カモ目カモ亜目カモ科ガン亜科 Anserinae の野生の雁(ガン)類を家畜化したもの。現在、飼養されているガチョウ類は、ハイイロガン(マガン属ハイイロガン Anser anser)を原種とするヨーロッパ系種の「ガチョウ」と、サカツラガン(サカツラガン Anser cygnoides)を原種とする中国系の「シナガチョウ」のグループの二つに大別されるが、「シナガチョウ」系は上の嘴の付け根に瘤状の隆起があることでヨーロッパ系の「ガチョウ」類と区別出来るので、ここは後者を指すと考えてよい。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵞(たうがん(とうがん))〔ガチョウ〕」を参照されたい。

「ノムシ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑のコブダイのページに、福岡県福岡市長浜鮮魚市場での採取名として「ノムス」がある。これは宇井の指摘する「藻伏」(もぶし)の音が訛ったものと理解出来る。なお、同ページの「歴史・ことわざ・雑学など」で、『古くは大型魚と小型魚は別種と考えられていた? 紀州魚譜に「カンダイ、体長」一、二『尺」、「コブダイ、体長』二、三『尺」とある。いずれもありえない大きさ』とあるが、実際に別種として誤認されていたことに加えて、「紀州魚譜」が、「イラ」を和名標準名のように「カンダイ」と表記してしまっていること(ここ)、それに続けて「コブダイ」を載せているところにも、そうした大きな誤認或いは混同が、恐らくは全国的に長くあったことが推定されると言える。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 樅のふたもと

 

  樅 の ふ た も と

 

うちけぶる樅(もみ)のふたもと。

薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、

若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる

雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、

なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の樂(がく)のしたたり

やはらかに絕えず霧するにほやかさ。

ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

 

はやにほふ樅(もみ)のふたもと。

いつしかに色にほひゆく靄のすそ、

しみらに燃(も)ゆる日の薄黃(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、

ひそやかに暗(くら)き夢彈(ひ)く列並(つらなみ)の

遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、

近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。

ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

 

燃えいづる樅(もみ)のふたもと。

濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、

深き靑みの重(かさな)りにまじらひけぶる

山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまた

かすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、

晚夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。

ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

 

色うつる樅(もみ)のふたもと。

しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの

幽(かす)かにもののなまめきに搖曳(ゆらひ)くなべに、

沈(しづ)みゆく雲の靑みの階調(シムフオニヤ)、

はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薰(くゆり)、

薄れつつうつらふきはの日のおびえ。

ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

 

饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。

燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、

はや夜(よ)の沈默(しじま)しのびねに彈きも絕え入る

列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の

柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、

おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。

ああ、見よ、惱(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

 

暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。

聲もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき

薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悅(はふえつ)、

いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、

ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ

夢靑む忘我(われか)の原の靄の色。

ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

四十一年二月

 

[やぶちゃん注:第一連「Chopin(シオパン)」後半生、主にフランスで活躍した、ポーランド生まれの前期ロマン派音楽を代表するピアニストにして名作曲家であったフレデリック・フランソワ・ショパン(ポーランド語:Fryderyk Franciszek Chopin/フランス語:Frédéric François Chopin 一八一〇年(一八〇九年とも)~一八四九年)。想起されているのは二十一番まである「夜想曲」(ノクチュルヌ:Nocturne)群の内の孰れかであろうが、ここの「なやみ幽(かす)けき」とすれば、短調のもの(十曲ある)であろう。というより、この詩篇全体がノクチュルヌ群以下ショパンの諸楽曲をイメージしながら進行し、後半の第四連以降から最終連までは、特に主調を、かの「葬送」「葬送行進曲付き」の呼称で知られる「ピアノソナタ第二番変ロ短調作品三十五」(Sonate pour piano no 2)に基づいているものと思われる。最終連三行目以下では、寧ろ、ノクチュルヌの長調の楽曲が響いているように感じられる。

第一連「あかれ」は「別(あか)れ」。別れ別れになっている、それ。この樅(裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma)の木は双樹である。

第二連「濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね」モミの樹皮はかなり茶色がかっており、伸びた枝葉の主幹部は朝露に濡れて陽光に光ったりすると、明るい柑子色に見える。

最終連「篳篥(ひちりき)あかる谷のそら」谷から覗かれる夜空の星の視覚的な輝きのさんざめくさまを篳篥の音(ね)に換喩したメタファー。

最終連「月魄(つきしろ)」は月(の姿)。]

2020/10/20

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之四 藪夢庵鍼砭の妙遂に妙を得たる事 / 巻之四~了

 

    藪夢庵(やぶむあん)鍼砭(しんへん)の妙遂に妙を得たる事

 むかしより鍼砭の妙、誠に起死回生の功あり。脈絡の會(くわい)、湯液(たうえき/クスリ)のおよばざる所、其(その)兪穴(ゆけつ)に中(あた)るときは、速效(そつかう)、神(しん)のごとし。傳記の載するところ、少なからず。李洞玄(りどうげん)、龎安(はうあん)が類、其聖(せい)といふべし。

 北條時賴の時に藪夢庵といふもの、異人に逢うて、其術を傳へしとて、往々不測(ふしぎ)の功ありて、其名、ますます、著(あらは)れたり。

[やぶちゃん注:「藪夢庵」(やぶむあん)は以上の通り、鎌倉中期の第五代執権北条時頼の治世(現任在職は寛元四(一二四六)年五月から康元元年(一二五六)年十一月。但し、第六代執権で義兄北条長時(間もなく病死)と第七代北条政村は時宗成長までの中継ぎ(二人は得宗ではない)で、事実上の幕府実権は亡くなる弘長三(一二六三)年十一月まで時頼が握っていた)の鍼灸医とする。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、備前岡山藩医緒方惟勝義夫(摂生堂)が医師の心得や症例などを書いた天保期の医術書「杏林内省録」(きょうりんないせいろく:天保七(一八三六)年成立)に記載があるとあるので、調べようとしたが、「引用文献」欄に「垣根草」とあったので、あほらしいから、やめた。

「鍼砭(しんへん)」小学館「日本国語大辞典」では読みを「しんぺん」或いは「しんべん」とし、鍼術(しんじゅつ)のこと。

「李洞玄」隋代の医師及び唐代医師にこの名の医師がいる。前者は射精の寸止め法などを述べているらしいが、調べる気にならない。

「龎安」(現代仮名遣「ほうあん」)鍼灸師kouitsu氏のブログ「鍼灸学の一考察~鍼灸学生のつぶやき跡」の「『難經本義諺解』 難經彙考その3 注家について」(「難経」は古代中国の医学書「黄帝八十一難経」(こうていはちじゅういちなんぎょう)の略)によれば、その注釈書についての上記の「解」の記載に、「蘄水(きすい)の龎安常(はうあんじやう)、」『難經』の解、數萬言有り、と。惜しい乎(かな)、傳ふること無し」とあるらしい(引用は漢字表記を正字化し、歴史的仮名遣に代えた)。]

 

 隣家の孕婦(ようふ)、數日(すじつ)、產に臨みて分娩(ぶんべん/ムマレ)せず。夢庵云く、

「兒(こ)、已に胞(えな)を出づといへども、母の腸(はらわた)を執(とら)へて放さず。時を經(へ)ば、母子ともに救ふに術なからん。」

とて、兒の手のあるところを捫(もん)して、「虎口(ここう)」に鍼(はり)す。兒、手を縮めて、すなはち生(うま)る。兒の虎口、果して鍼痕(しんこん/ハリノアト)あり。誠に、一時(いちじ)の權(けん)、六百四十九穴(けつ)の外(ほか)にいづるもの、常理を以て論ずべからず。

[やぶちゃん注:「胞(えな)」胞衣(えな)。胎児を包む膜状組織。

「捫」手で探ることを指す語。

「虎口」鍼の経穴(つぼ)の名称「合谷」(ごうこく)の異名。手の甲の親指と人差指の分岐する最奥部、その開いた状態が虎の口に似ているため、かくも呼ぶ。

「六百四十九穴」鍼灸の古書に全身のツボの全数をこの数字で示している。但し、この「一時(いちじ)の權(けん)、六百四十九穴(けつ)の外(ほか)にいづるもの、常理を以て論ずべからず」という全体の意味は私にはよく判らない。「ただ一時のいい加減な判断に基づく診断に於いて、古来より支持されてきている六百四十九穴に鍼を打つ以外の処方などというものは、正常な医学上の道理として論ずべきものでは到底、有り得ない」といった謂いか。]

 

 其頃、時賴の愛妾、久しく中風(ちうぶ)のごとくにして、諸醫、手をつくせども效(しるし)なし。

 夢庵を召して視せしむるに、夢庵、笑つて云く、

「是、邪疾(じやしつ)なり。湯藥(とうやく[やぶちゃん注:原本のママ。])及ぶべからず。」

とて、鍼を出して其足踝(そくくは/アシクルブシノウヘ)上、二寸ばかりを、剌す。

 暫くありて、婦人、醒覺(せいかく/ヱヒサメ)するがごとくにして云く、

「氣力、常にことならず。はじめて疾(やまひ)起る日より、一人の裝束(しやうぞく)したる男、來りて、城外又は山林の間(あいだ[やぶちゃん注:原本のママ。])に誘(いざな)ひ行く。今日しも、伴はれていづる、と、おもふうち、彼の男、路の棘刺(きよくし/イバラノハリ)に足をさゝれて動くこと、あたはず。我、そのひまに走りかへりたり。」

といふ。

 時賴、大い褒賞して、其術をとふ。

 夢庵云く、

「剌すところは『人邪穴(にんじやけつ)』なり。奇怪に似たりといへども、百邪の祟り、その穴十三處あり。鬼宮(ききゆう)・鬼信・鬼壘(きるゐ)のごとき、是なり。近世の醫、みだりに術を試みて、生民(せいみん)を視ること、芥(あくた)ごとく、百邪は剌すベし。庸醫(ようい)のあやまりたるは、我が術、又、施す所なし。」

といふに、人皆、術に妙なることを信じ、業を受くる者、甚だ多し。

[やぶちゃん注:「城外」奇妙な感じがする。鎌倉御所及びそれに附属する幕府施設や、執権や有力御家人の居館、また現在の鎌倉市街地(狭義の鎌倉の幕府を含めた中心部)、及び、広義の鎌倉御府内を「城」と呼ぶことは、鎌倉時代、当時の習慣として日常的には、なかった。

「人邪穴」サイト「一鍼堂大阪心斎橋本院」の「一鍼堂ブログ」の「東洋医学の面白い?不思議な古典籍 『千金翼方』篇其ノ二」によれば、唐代の有名な医者で道士の「薬王」とも称された孫思邈(そん しばく 五四一年?~六八二年?)が書いた中国史上初の臨床医学百科全集「千金要方」を自身が補完したものが「千金翼方」(六八二年完成)の「針灸中 小腸病第四」に以下の記載があるとある(漢字の一部が正字化されていないのを代えた)。

   *

針邪鬼病圖訣法

凡百邪之病、源起多途、其有種種形相、示表癲邪之端、而見其病、或有默然而不聲、 或複多言而謾語、或歌或哭、或笑或吟、或眠坐溝渠、啖食糞穢、或裸露形體、或晝夜游走、或扁鵲曰、百邪所病者、針有十三穴。

凡針之體、先從鬼宮起。

次針鬼信、便至鬼壘、又 至鬼心、未必須竝針、止五六穴卽可知矣。

若是邪蟲之精、便自言說、論其由來、往驗有實、立得精靈、未必須盡其命、求去與之。

男從左起針、女從右起針、若數處不言、便遍針也。

依訣而行、針灸等處並備主之。

第一初下針、從人中名鬼宮、在鼻下人中左邊下針、出右邊。

第二次下針、手大指爪甲下三分、名鬼信。入肉三分。

第三次下針、足大指爪甲下、入肉二分、名鬼壘、五指皆針。

第四次下針、在掌後膻紋入半解、名鬼心。

第五次下針、在外踝下白肉際、火針七、三下名鬼路。

第六次下針、入發際一寸、大椎以上火針七、三下名鬼枕。

第七次下針、去耳垂下五分、火針七、三下名鬼牀。

第八次下針、承漿從左刺出右、名鬼市。

第九次下針、從手膻紋三寸兩筋間針度之、名鬼路、此名閒使。

第十次下針、入發際直鼻上一寸、火針七、三下名鬼堂。

第十一次下針、陰下縫灸三壯、女人玉門頭三壯、名鬼藏。

第十二次下針、尺澤膻紋中內外兩紋頭接白肉際七、三下名鬼臣、此名曲池。

第十三次下針、去舌頭一寸、當舌中下縫、刺貫出舌上。

仍以一板膻口吻、安針頭令舌不得動、名鬼封。

上以前若是手足皆相對、針兩穴。

若是孤穴、卽單針之。

   *

ここに出る語が出現する。同ブログでは以上について、『ここで出てくる「鬼」という漢字』は、『太古の時代には祟りであったり、日本ではもののけを現すものであり、医療の中では原因のよくわからない病に使われていたようです。ただ』、『時代が経つにつれ、東洋医学でも病気の原因や症状のメカニズムが解明され、その文字も医書から消えてきました。上の文章は、実は精神疾患の治療法を示したものであり、後世に編纂される『鍼灸聚英』『鍼灸大成』にも引き継がれることとなりました』。『唐代の名医』である『孫思邈がなぜ「鬼」の文字を使用したか。それは孫思邈が医道だけでなく、仏教や道教にも精通していたからだとされ』ている、と述べておられる。但し、本篇の場合は、やはり、真正の邪悪な鬼神や精霊(すだま)のようなものが体内に出入りする経穴のことを指しているようには読める。

「近世の醫、みだりに術を試みて、生民(せいみん)を視ること、芥(あくた)ごとく」意味不明。中途半端な不全な施術を面白がって民草に試みて、モルモット扱いしているというのか?

「百邪は剌すベし」諸々の体外から侵入して疾患を起こす百邪は、適正確実に鍼で一刺しにして仕留めなければならない、の謂いか。

「庸醫」凡庸な医師。現代中国語でもこれで「藪医者」を指す。]

 

 中にも金澤原思(かなざはげんし)なるもの、日夜、心を潛めて、其術の奧妙(あうめう)を極めんことを求む。漸く、その粗(そ)を得て、

「猶、たらず。」

として、ますます、おこたらず。

 夢庵云く、

「鍼砭(しんへん/ハリ)の術、これを意(こゝろ)にえて手に應ず。人命の至重〔しちよう〕なる、一鍼の下にあり。なんぞ麁心(そしん)にして百年の命を斷送(だんそう)すべけんや。呼吸の消息にしたがひ、陰陽の盈虛(えいきよ)によりて、指尖(しせん)、天工(てんこう)に代るの妙あり。汝、志(こゝろざし)すゝむといへども、用心、いまだめらく、況や、術を試み、業を賣るの念、急なり。鍼砭の妙處、傳ふべからず。暫く、我に隨うて山に來(きた)れ。心氣(しんき)を靜(しづか)にし、世念(せねん)を消(せう)して、其後、妙處を傳ふべし。古人、石を以て鍼とす。金鐵(きんてつ)を用ゐること、なし。故に『砭』の字、『石』にしたがひ、古(いにしへ)に『藥石』の語あり。後世佳石(かせき/ヨキイシ)なきがゆゑに、金鐵を用ひて後、石鍼(せきしん)あることをしらず。我、異人に逢うて術を受けたる時、下野國(しもつけのくに)二荒山(にくわうざん)に佳石あることをきけり。いざや、我に從ひ來れ。」

といふに、原思、悅びて從うて二荒山に入り、晝夜、心氣をしづめて松風閑雲に伴ひ、俗慮妄念の穢汚(ゑを/ケガレ)をさらんとす。夢庵、又、やうやくに其術をさとし敎ふ。原思う、歸らんことを求むれども許さず。

[やぶちゃん注:「金澤原思」不詳。

「麁心」いい加減な思い。

「斷送」台無しにして失わせてしまうこと。

「盈虛」盛んにすすむことと、徐々に衰えること。

「下野國二荒山」二荒山(ふたらさん)は霊峰男体山(標高二千四百八十六メートル)の別称。本山を御神体山として祀る二荒山神社がある(グーグル・マップ・データ)。]

 

 一日、原思、暴疾(ばうしつ/ニハカヤマヒ)おこりて、大いに惱む。

 夢庵は石をたづねて、山奧に入りて、すべきやうなく、自ら一鍼を師傳の所に下(くだ)すに、鍼、「もの」のために、留めらるゝごとくにして、出でず。痛み、又、忍ぶべからず。折節、師の歸るを見て、是を告げて、術を求む。夢庵、笑つて云く、

「穴(けつ)、まことに疾(やまひ)に中(あた)るといへども、出鍼(しゆつしん)の法をしらざる時は、益なきのみにあらず、其死せんこと、眼前にあり。」

とて、別に手腕(しゆわん/テクビ)の交(あはひ)に一鍼を剌すに、さきの鍼(はり)、忽ち躍り出でて、疾、愈えたり。

 原思、慙謝(ざんしや/ハヂワビ)して山にとゞまりて、ますます、心術を精練す。されども、功名の心、やみがたく、

『あはれ、此術を以て世に施さば、誰人(たれびと)か、右に出づるものあらん。師におよばざるは、論、なし。奥妙(あうめう)を得るを待つときは、死灰(しくわい)となりて、なんの益かあらん。』

と、頻りに暇(いとま)を乞ふに、夢庵、かさねてとゞめず、其心にしたがはしむ。

 原思、いそぎ、鎌倉にかへりて其術を施し、遂に時賴に仕へて、祿を賜はり、富貴(ふうき)を得て後(のち)、二たび、師を尋ね、二荒山に、いたる。

 僕從を麓に殘して、只、一人、山に登りて庵を訪(とむら)ふに、夢庵、窻下(そうか/マドノモト)に書をひらきて坐せり。

 原思、その恩を謝し、業(げふ)の成就したるを語る。

 夢庵云く、

「幸ひ、麓の人家に病む者ありて、今日、こゝに來(きた)る。汝、其術を試むべし。」

といふ所に、肩輿(けんよ/カゴ)に乘じ、婢僕(ひぼく/コシモトシモベ)あまた具して來(きた)るあり。扶(たす)け出(いだ)すをみれば、我が妻なり。

 原思、驚きて、これをとはんとおもへども、婢僕、我が家の者にあらず、妻、又疾(やまひ)、殆(あやう)うして、氣息、纔(わづか)に通ず。

 急ぎ、鍼を出(いだ)して、其穴(けつ)を定めて刺すに、忽ち、悶絕して、息絕え、手足、冷えたり。

 原思、周章(あわて)て、過ちたりしを、悔ゆ。

 夢庵云く、

「汝が術、わづかに其法を得て應變の妙をしらず。おそらくは、世の人をあやまち、斃(たを[やぶちゃん注:原本のママ。])さんこと、少(すくな)からじ。」

と、誡むるに、原思、支體に汗流るゝがごとくして、罪を謝す。

 夢庵、一鍼を臍下(さいか/ホソノシタ)一寸に下して、たちまち、息、出でて、はじめて蘇る。

 其後(そのゝち)、婢僕に命じて家にかへらしめ、

「三日、驚かしむることなく、しづかに臥さしむべし。」

と告ぐるに、喜んで肩輿(けんよ/カゴ)に扶(たす)けのせて歸る。

 原思、妻なることをしりて、婢を招きて、其故を尋ねんとするうち、飛ぶがごとくに、麓に下りて、行方(ゆきがた)をしらず。

 原思、益(ますます)、師のおよぶベからざるをしりて、

『此人、もし、世に出でば、我が術は、白日の螢火(けいくわ/ホタル)なるべし。ひそかに殺して後の禍を拂はん。』

と、おもふ念、きざしたるに、夢庵、一大石を指(ゆびさ)して云く、

「汝、試みに、此の石を、さして、術をしめすべし。」

とあるに、原思、

『あたはじ。』

とおもひながら、これを刺すに、鍼、をれて、入るべからず。

 夢庵云く、

「術、精(くは)しき時は、鐵、石も剌すべし。病人にのぞみて、術を試むるに、堅石(けんせき/カタキイシ)をさすがごとくせざれぱ、用心、粗(そ/アラシ)なり。鍼砭(しんへん/ハリ)、其穴(けつ)を得れば、泥を剌すがごとし。しからざれば、起死の功をとるべからず。我、試みに薄術(はくじゆつ)をしめして、汝が心疾(しんしつ)を療ぜん。」

とて、彼(か)の石を、撫磨(ぶま/ナデサスル)すること、暫くして一鍼(いつしん)を下すに、誠に、泥をさし、水に投ずるがごとく、其石、忽ち、ふたつに分れたるに、夢庵、中に入るよ、とおもへぱ、石、合して、もとのごとし。

 鍼穴(しんけつ/ハリノアナ)のところより、夢庵、面(おもて)をあらはし、

「汝、家に歸りて、富貴を、たのしめ。我は、石室の中に、心をやすんず。汝が累(わづらひ)となるの日、あらんや。後患(こうげん/ノチノウレヒ)をかへりみすして、とく、山を下れ。」

と、心中の計策をいひあらはされ、慙謝(ざんしや)するに、ふたゝび、ことばなし。

 原思、その得道(とくだう)の人なる事を、はじめて知りて、後悔すれども、せんすべなく、家にかへりて、其妻の起居(ききよ)をとふに、

「原思、山に登りし日、俄に疾(やまひ)おこりて、前後をしらず。只、ほのかに、山中にいたりて、醫を求む。君、幸(さいはひ)に座におはして、鍼を下したまひしと覺えて、其餘(そのよ)をしらず。三日を經て、疾、愈えたり。」

と、かたるに、いよいよ、師の得道の、異人なるを信じて、愧服(ぎふく)したりしとぞ[やぶちゃん注:「愧服」強く恥じ入って、心から敬服すること。]。

 其後(のち)も、時々、

「夢庵を、山中にして見たりし。」

と、いふもの、あり。

 遂に、その終るところを、しらず。

 術の精妙、かゝる神異も侍(はんべ)るならし。

 近代は無術の庸醫、人をあやまる事、不學の凡僧、士女をまどはして、阿鼻(あび/ムケン)に送るに同じ。原思がごとき者、なほ、得ベからず。その術の妄(まう)なる、推して知るべし。

[やぶちゃん注:この話、映像的にも何か、私の心を強く撲(う)つ。特に、エンディングの、

――其石、忽ち、ふたつに分れたるに、夢庵、中に入るよ、とおもへぱ、石、合して、もとのごとし。

 鍼穴(しんけつ/ハリノアナ)のところより、夢庵、面(おもて)をあらはし、

「汝、家に歸りて、富貴を、たのしめ。我は、石室の中に、心をやすんず。汝が累(わづらひ)となるの日、あらんや。後患(こうげん/ノチノウレヒ)をかへりみすして、とく、山を下れ。」――

というシークエンスは……恐らく……如何なる幻想文学も及ばぬもの……と心得る……]

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之四 山村が子孫九世同居忍の字を守る事

 

     山村が子孫九世(くせ)同居(どうきよ)忍(にん)の字を守る事

 中昔(なかむかし)、江州守山に山村庄司といふものあり。代々、酒を釀(かも)して酒幟(しゆし/サカバヤシ)、近鄕に高く、家、富み、さかえけり。庄司、生質(せいしつ)、慈惠(じけい/ナサケ)ありて、すこしの才覺もあるなれど、一箇(ひとつ)の癖ありて、夫(それ)がために不測(ふしぎ)の禍(わざはひ)を引出せり。其病根は、短慮性急にして沈思寬容することあたはず、やゝもすれば、鬪諍打罵(とうじやうだめ/タヽカヒアラソヒウチノヽシル)におよぷ。まして少しの酒氣を帶ぶる時は、心上(しんじやう)の恚火(いくわ/イカリノヒ)に油をそゝぐごとく、人、これをおそれずといふことなし。

[やぶちゃん注:「中昔」それほど遠くない昔。

「江州守山」現在の滋賀県守山市(グーグル・マップ・データ)。

「山村庄司」不詳。「庄司」は一般に江戸時代には村落の長である庄屋・名主・肝煎(きもいり)を指し、それを名の一部とした者は多かった。

「酒幟」酒旗(さかばた)。酒屋の看板として掲げた旗や酒林(さかばやし:造り酒屋の軒下などに吊り下げられる、杉の葉を束ねて球状にした看板。杉玉・酒箒(さかぼうき)などとも呼ぶ。ここは以下で名酒の酒屋として近郷に名が知れていたことを指す。

「打罵(だめ)」「罵」には音「バ」の他に「メ」が存在する。]

 

 あるとき、近隣の饗(きやう/フルマヒ)に應(おう/ナネカレ)じて、酒氣、七、八分(ぶん)にして暮に及びて家にかへるに、門前、多く、人集りて、かまびすしきに、

「何事ぞ。」

とみるに、薯蕷(やまのいも)をうる老夫(らうふ/オヤヂ)、庄司が家奴(かぬ/ケライ)と價(あたひ)を論ずるより、遂に詞あらく、たがひに爭ふなり。庄司、たちよりて、利害をさとせども、老夫、却つて惡口(あつこう)に及ぶに、酒氣、漸くみちたる上、痼疾(こしつ/ヂビヤウ)の恚火、盛んに燃えて、有無を論ぜす、拳(こぶし)をあげて、つゞけ擧(う)てば、老夫、そのまゝ倒れて悶絕す。

 家奴、大いに驚きて、家内に扶入(たすけい)れて湯藥(たうやく)を用ゐるに、氣息、喘喘(ぜんぜん)として有無の間にあり。

 庄司も、これに驚きて、酒氣、忽ち消(せう)して、初めて追悔懊悩(ついげいくのう)すれども、かへらず。近隣の醫を招きて針藥(しんやく)、さまざま、手をつくすうち、漸々(やうやう)に、氣息たしかに、目を開きて、あたりを見て、急に起上りて云く[やぶちゃん注:「懊悩」の「いくのう」はママ。不審。「懊悩」は「わうのう」(おうのう)で「懊」に「イツ」の音はなく、中国語音でもない。]、

「老夫、平生(へいぜい)、痰火(たんくわ)にて、折にふれては、かゝる事、侍(はんべ)り。須臾(しばらく)ありて平復すること、常のごとし。はからざる煩(わづらひ)をかけまゐらせし。」

と、初に似ず、慇懃(いんぎん)に謝するに、庄司をはじめ、家内(かない)のもの、蘇りたるこゝちして、酒飯(しゆはん)をあたへて、なほも布一疋を出して、主人の短慮よりおこるを謝す。

 老夫、幾度(いくたび)も辭して後、これを、をさめて、其喜色(きしよく/ヨロコビ)、面(おもて)にあらはれて歸りぬ。

 此時、すでに二更(〔に〕かう/ヨツ)[やぶちゃん注:凡そ現在の午後九時又は午後十時からの二時間を指す。亥の刻。]の頃におよぶ。家内、打寄りて奇禍(きくわ/サイナン)を免れたるをよろこび、且、庄司が輕卒(けいそつ/ソコツ)を諫めて、やがて臥しぬ。

 夜半ならんとおもふ頃、頻りに表たゝく者あり。

「誰(た)そ。」

といへぱ、

「野須川(やすがは)の渡守にて侍(はんべ)るが、一大事の事あり。主人に密(ひそか)に見(まみ)えまゐらせん。」

といふ。

[やぶちゃん注:「現在の野洲川(グーグル・マップ・データ)。守山市と野洲市の間を流れる。] 


Kimuranosyouji

 [やぶちゃん注:挿絵はここに挿入する。左右二幅に分離しているものを、上下左右の枠を除去して合成・清拭したが、手落ちがあって、上手く合成出来ていない。悪しからず。]

 

 庄司、いぶかしながら、一間に出づれば、渡守、包みたる物を出(いだ)して、

「是なん、見知りたまふにや。」

といふに、よくみれば、宵に老夫(らうふ/オヤヂ)に與へたる布なり。

 庄司、あやしみてこれを問へば、渡守、左右の人をしりぞけて近く居(ゐ)より、

「今夜、二更の頃、例の薯蕷(やまのいも)を賣る老夫、川を渡らんことを求め、中流(ちゆうりう)にして悶絕するに、驚き、向うの岸につけて、さまざま、いたはるに、氣息、出來(いでき)て云ふやう、『今日しも、山村殿の爲に、つよく打たれ侍(はんべ)りしが、其折は、格別の痛(いたみ)をもおぼえ侍らざりしゆゑ、暇(いとま)申して、門を出でて後、漸々(ぜんぜん)に背の痛、堪へがたく、爰にいたりては一歩(いつぽ/ヒトアシ)もすゝむこと、あたはず、むなしく船の上に死すべし。惜しからぬ命なれども、老夫、生國(しやうごく)は美濃の國土岐(とき)山里の者にて、妻子も侍れぱ、此のよし傳へたまはりて、老夫が非命に死したる事をきこえたまはれかし。鏡(かゞみ)の宿(しゆく)までまかれぱ、しりたる人も侍る』など、いふうちに、痰喘(たんぜん)せまりて、遂に、をはりぬ。此事、やすからぬ一大事にて、君の禍、まのあたりにあり。故に、密(ひそか)につげ參らす。」

といふに、庄司、迅雷(じんらい/オホカミナリ)、頭(かしら)のうへに落ちかゝるごとく、面色、藍(あゐ)となり、聲、ふるひて、渡守が好意を謝し、猶、その方便(はうべん/ハカリゴト)をもとむ。渡守、暫く案じていはく、

「此事、かたきに似て、やすし。今宵、三更、人のしる、なし。死骸を、夜あけぬさきに、ひそかに葬りたらんに、誰(たれ)かは、その影迹(えいせき)をしるものあるベき。」

と、事もなげにいふに、庄司、大いに喜び、

「ひたすら、其方の芳情(はうじやう)による。我(われ)一人のみならず、公(おほやけ)の沙汰に及ぶときは、一門の辱(はづかしめ)、一鄕の禍となるべし。ひそかに葬りて得さするならば、我その勞(らう)を報ずべし。」

とて、金子二十兩を出(いだ)して謝儀(しやぎ)とす。

 渡守、猶、不滿(ふまん/タラヌ)の色あるを見て、別に白銀(はくぎん)拾枚を以て酒飯の料(れう)におくる。

[やぶちゃん注:「美濃の國土岐」岐阜県土岐市(グーグル・マップ・データ)。

「白銀拾枚」作品内時制と齟齬する(本篇末尾の注を参照)が、江戸中期に贈答用に用いられたもので、それ以前に確かにあったという資料はない。その江戸中期の換算になるが(読者は当然、その読んでいる時代の換算をするしかない)、七両相当になる。]

 

 渡守、よろこびてこれを納め、又、云く、

「一人の助力を貸し給へ。我(われ)一人にては、夜中に事を辨じがたし。夜あけなば、人口(じんこう)をふさぎがたし。」

といふに、密事の事なれば、家に久しきものの子に、周七(しうしち)といへる心しりたる者あり。これを呼んで始末をかたり、渡守に添へて遣はしぬ。

 庄司は、いねもやらで、一時の短慮より不測(ふしぎ)の禍に陷(おちい)らんとせしを思ひつゞけて、周七が音信(おとづれ)を待ち居たるに、天明(よあけ)にいたりて、歸りて、死骸を川上の山の邊(ほとり)に埋(うづ)み、薯蕷(やまのいも)のいりたる籠をも、同じくうづみ終りてかへりたるよしを告ぐるに、はじめて安心して、周七にも銀十兩をあたへて其勞を償ふ。

 是より、庄司、つゝしみて、短慮の癖を改め、忍(にん/コラヘル)の一字を守るに、家内の者も氣質の變じたるを、あやしみぬ。

 周七、もとより、家の子といひ、密事にあづかりたる者なれば、夫(それ)が母をも、ひとしほ心つけて、恩顧、他にこえたるまゝ、漸(やゝ)不敬のふるまひもあれども、庄司、よく待(だい/アシラフ)して見ゆるしぬ。

 翌年の春に至りて、庄司が最愛の妾(てかけ)、前栽(せんざい)に出でて、あそびたりしに、周七も出來りてならぴ居たりしを、庄司、物影より、これを見て、

『不良の事あり。』

と、おもひて、周七を散々に打擲(ちやうちやく)し、前來(ぜんらい)の痼疾(こしつ/ヂビヤウ)一時(いちじ)に發して、猶も怒りやまず、卽時に家を追出(〔をひ〕いだ)す。

 周七、其實なき事を詫ぶれども、愛妾の事よりおこりたれば、日頃の恚火(いくわ/イカリノヒ)十倍して、罪を糺(たゞ)さずして、遂に家を出(いだ)しぬ。

 周七、憤(いきどほり)にたへず、直(すぐ)に公(おほやけ)に出でて、庄司が老夫を殺したる始終を訴ふ。

 時の郡代、そのまゝ庄司が家に捕吏(とりて)をつかはす。

 庄司は家にありて、帳簿を鮎檢(てんけん/ギンミ)し居たりしに、おもひもよらず、捕吏、數人(すにん)入來りて、

「公の命あり。とく來(きた)るべし。」

といふに、驚きて、其罪狀をとへども、

「事の有無は公廨(こうがい/ヤクシヨ)にてこそ決すべし。」

とて、一條(いちでう/ヒトスヂ)の繩索(じようさく/ナハ)に縛(ばく/シバル)して追立(おひた)てさる。

 家内の者、其來歷をしらず、

「禍、天よりふりたり。」

と號哭(がうこく)すれども、いかんともすべきやう、なし。

 庄司を召捕り來るよしを申すに、郡代、其前年、老夫を打殺(ださつ)せし事を糺す。

 庄司、

『密事(みつじ)露(あらは)れたり。』

とおもへども、

「その實(じつ)なし。」

と陳(ちん)ず。

 郡代、すなはち、周七を呼んで、

「汝、此者をしりたるや。」

とあるに、庄司、其周七が訴へたるをさとりて陳ずべきやうなく、拷問をまたずして、罪に伏す。

 郡代、吏に命じて、庄司を獄に繫(つな)がしめ、周七をも、禁獄せらる。

 渡守を尋ぬるに、去年、德づきたる後は、何地(いづち)へか行方(ゆきがた)をしらずすといふに、

「彼の者、老夫が生國をもしりたる上、罪も又、のがれえず。急ぎ召捕るべし。」

とて、四方遠近(しはうゑんきん)に追捕(つゐほ)せしむ。

 庄司、獄にありて、日夜、號泣して再生(さいしやう/フタヽビイキル)のみちを案ずれども、人を殺すの律(りつ/ハツト)、嚴科(げんくわ)のがるべからざるをしりて、念佛誦經(じゆきやう)して哀(あい)を求むるより外なし。

 家にある妻子は、猶更、夢のこゝちして、雨〔あめ〕、山〔やま〕と、なきかなしむ。

 一族・家の子より集りて、脫路(だつろ/ノガルヽスヂ)を商議(しやうぎ)すれども、萬死(ばんじ)の中(うち)、一生のたよりも、なし[やぶちゃん注:「商議」相談。]。

 其上。當時の郡代、方正にして理非明白なれば、賄賂(わいろ/マヒナヒ)をいるゝみちも、なし。

「此上は。」

とて、神に祈り、佛にかこち、冥祐(めいいう)をねがふ[やぶちゃん注:「冥祐」神仏の助け]。

 すべて、人情として、無事の日は、餘所(よそ)に見なして、災患(さいげん/ワザハヒ)おこる時にいたりて、除災のため、佛神にかこつ事、古今同じき所にて、妻子をはじめ、家の子まで、心々に神を祈り、佛を念じて、脫路(だつろ/ノガルヽスヂ)をもとむ。

 五三日[やぶちゃん注:捕縛から十五日。]をへて、暮のころ、前年の老夫、薯蕷(やまのいも)を荷ひ、門に入來(いりきた)る。

 家内のもの、

「白日に幽靈こそ。」

とて、あわて騷ぎ、にげまどふに、老夫、あやしみながら、内に入りて、踈濶(そくかつ)をのべ、前年の厚情を謝し、薯蕷一つとを、出(いだ)して、しるしとす[やぶちゃん注:「踈濶」「疎濶」が一般的であるが、この字でもよい。久しく会わず、間柄が親しくないこと。疎遠。]。

 家内のもの、はじめて、その鬼(おに/イウレイ)ならざる事を知りて、其詳(つまびらか)なる事をとヘば、

「去年の冬より、勞(いたは)りごとありて、里を出でず、漸々(やうやう)、氣力、復して、前年、煩(わづらひ/セワ)をかけたるを謝せんため、來(きた)る。」

といふに、驚きて、庄司が罪に陷りたる始末をかたるに、老夫、手を拍(う)つて、大いに驚き、

「我、その妄誣(まうぶ/ムジツ)の源(みなもと)を、しれり。急ぎ、公(おほやけ)に伴ひたまへ。主人のために、無實の罪をすゝがん。」

といふに、妻子をはじめ、みなみな、五月雨(さみだれ)の晴間に日を見たるこゝちして、手の舞ひ、足のふむことをしらず。

[やぶちゃん注:「手の舞ひ、足のふむことをしらず」「礼記」の「楽記」に由る故事成句。非常に喜んで、思わず、小躍りし、有頂天になるさま。意識せずに手が万歳をし、足を踏み鳴らして喜ぶこと。]

 

 やがて、老夫を伴ひて、下司(したづかさ)に此よしを訴ふるに、郡代、これをめして其委しきことを問ふ。

 老夫、云く、

「去年、酒家(しゆか)[やぶちゃん注:山村庄司の家。]を出でて、野須(やす)の渡しに近づくに、夜、已に二更にして、往來(ゆきき)の旅人(りよじん)もなし。渡守、

『例にことなりて歸ることの遲き』をいぶかるに、『庄司殿の家にありて酒飯をたまはりたる』はじめ終りを具(つぶさ)にかたるに、渡守、その布を買はんことを求む。老父[やぶちゃん注:自称の一人称。]、『終身(しうしん/イツシヤウ)、荒布(あらぬの)にて事たれば、彼にあたヘて價(あたひ)をえばや』と、鳥目一貫文に代へて讓りぬ。渡守、又、云く、『薯蕷(やまのいも)をいれたる籠、我、用ゆる所あり。これをも買はん』といふに、むなしき籠を持ちかへらんよりはと、望むごとく、あたへてかへりしが、此(この)二物(にもつ)を以て質(ち/シルシ)として、僞りたる姦計(かんけい/ワルダクミ)なるベし。」

といふに、郡代、云く、

「我も、とくより其間(そのあひだ)、姦計のあるべきをさとりて、追捕を嚴(げん)にして、頃日(このごろ)、渡守を捕へえたり。」

とて、渡守をめさるゝに、渡守、老夫、庭上(ていじやう)にあるをみて、陳ずべきみちなく、姦計を以て庄司を誣(し)ひたるよし、罪に伏(ふく)す。

 郡代、かさねて云く、

「汝、そのとき、葬りたる死骸は、いかゞして辨じえたるや。」

渡守、云く、

「其夜、川上より、溺死(できし/オボレジニ)のもの、流れ來(きた)る。岸にあげて、人の尋ね來るをまつ頃しも、老夫がものがたりに心うごきて、かくは、はからひたり。」

といふに、埋みたる骸(かばね)を發(あば)いて、あらためさせらるゝに、としをへたるといへども、正しく溺死の者なり。郡代、一々、罪狀を考へて、判じて云く、

「渡守、首惡(しゆあく)なること、論、なし。されども、人を殺すの律(りつ)を犯さず。もとより利を貪るより、おこりたれば、死刑一等を減じて、市(いち)にさらすこと、三日にして、鬼界(きかい)が嶋(しま)に遠流(をんる)すべし。周七、主人の惡を發(あば)くのみならず、誤りて妄誣(もうぶ/ムジツ)の罪に陷(をとしい[やぶちゃん注:原本のママ。])れんとす。況や、庄司、密事を助成したるに報いて、厚く待(だい)するをや。汝が罪、甚だ、大いなり。庄司が門前にさらすこと、三日にして梟首(けうしゆ/ゴクモン)すべし。庄司、罪なきに似たれども、源(みなもと)、汝が性急より起り、まして一意に『打殺したり』と知りて、密(ひそか)に埋みおく事、上(うえ)を誣(し)ひる罪、あり。過料として鳥目拾貫文を出(いだ)すぺし。又、周七が罪にくむベしといへども、彼を追ふ事は汝が性急にして、罪の虛實を辨ぜざるより出づ。これがため、彼が母、終身の扶助(ふじよ/ヤシナヒ)、汝、さたし、えさすべし。母たるもの、罪なく、まして汝が家に久しきものなる。よくよく哀れむべし。老夫、その姦計をしらずして、轉賣したりといへども、厚意を以て送りたる布を、半途にして賣りたるより起る。況や、はじめ、汝が過言より庄司が怒(いかり)を引出(ひきいだ)したれば、今、發(あば)きたる溺死(できし/オボレジニ)の死骸を改葬する勞(らう)は、汝、これをつとむべし。一人の辨じがたきことなれば、庄司、また、最初、かれと爭ひたる奴(やつこ)を出(いだ)して助けしむべし。」

と、輕重、明白に決斷あるに、おのおの、其罪に伏(ふく)しぬ。

 庄司、

「不測(ふしぎ)の禍を、幸(さいはひ)にしてまぬかれたれども、老夫、もし、來らざる時は一線(いつせん)の生路(せいろ)をしらず。よしなき短慮より無窮の禍端(くわたん)、おこりたり。」

と、心を改め、「忍(にん/コラヘル)」の字をつねに守り、壁上(へきじやう/カベ)に一つの「忍」の字をかけて、短慮の疾(やまひ)を療(れう)じ、子孫にをしへて、これを守らしむ。

 其子孫、連綿として、九世をヘて、同居して家、富み榮えたり。

 國の守(かみ)、其よしをきこし召して、

「いかなる敎(をしへ)ありてか、家を、をさめ、業を守る。」

と、たづねたまふに、

「世々(よゝ)、『忍』の字をまもりて、おこたらず。」

と申すに、國守、感じたまひて、綿百把(は)をたまはりしとぞ。

「今の世までも、其子孫のこりて侍る。」

と、守山の里人、つたへ侍(はんべ)りし。

 誠に、過(あやまち)をあらためて、かしこきにうつる、聖(ひじり)のをしへ、むなしからぬをや。

[やぶちゃん注:「鬼界が嶋」が流刑の島とされていたのは、中世までであるから、この話柄の時制は戦国時代よりも前の設定のように思われる。なお、喜界島はここであるが、流刑地とされたそれは、現在の鹿児島県のずっと本土よりの硫黄島であるとする説もある(孰れもグーグル・マップ・データ)。

「一人の辨じがたきことなれば」「私一人の審議にては総てを公正に弁ずることが難しいことではある。されば、今一つ、」の謂いであろう。

 最後に、しかし、言いたいことがある。この郡代の裁きの内、周七は遺体を山芋売りの老人と思って遺体を処理したと考えるべきであろう。渡守が遺体が別人であることを覚知させてしまっては、自身の目論見全体を総て話さなくてはならず、周七も分け前を与えるべき共同正犯にさせなくてはなんらなくなるからで、そうした可能性は零だからである。則ち、周七は主人山村庄司が老人の遺体遺棄を指示した主犯と考えており、それを正直に訴え出たに過ぎないからである。にも拘わらず、彼が木村庄司の門前に三日晒された上に梟首というのは、どう考えても公平な裁きとは言えない。主家を危うくした不義というのが、重刑の主旨と思われるが、そうした共犯者をも嘘で騙してコテコテに固めた謀略を考えた渡守こそが、匹敵する重罪に相当すると私は思う。さらに、この周七の三日の晒しの間に、周七の老母は自身の扶助は固辞し、俄然、息子の助命を嘆願するに決まっているからである。それでも平然と冷酷に獄門を執行する郡代は、寧ろ、名判官ではなく、長く冷酷無情の代官として土民に記憶されるであろう。私は周七も渡守と同じく、晒しの上、遠島が適切であると考えるものである。

北原白秋 邪宗門 正規表現版 靑き光

 

    靑 き 光

 

哀(あは)れ、みな惱(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと靑き光のなかに、

ほの白き鐵(てつ)の橋、洞(ほら)圓(まろ)き穹窿(ああち)の煉瓦(れんぐわ)、

かげに來て米炊(かし)ぐ泥舟(どろぶね)の鉢(はち)の撫子(なでしこ)、

そを見ると見下(みおろ)せる人々(ひとびと)が倦(う)みし面(おもて)も。

 

はた絕えず、惱(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく

河岸(かし)なみの白き壁あはあはと瓦斯も點(とも)れど、

うち向ふ暗き葉柳(はやなぎ)震慄(わなな)きつ、さは震慄(わなな)きつ、

後(うしろ)よりはた泣くは靑白き屋(いへ)の幽靈(いうれい)。

 

いと靑きソプラノの沈みゆく光のなかに、

饐(す)えて病むわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――

幽靈の屋(いへ)よりか洩れきたる呪(のろ)はしの音(ね)の

交響體(ジムフオニ)のくるしみのややありて交(まじ)りおびゆる。

 

いづこにかうち囃(はや)す幻燈(げんとう)の伴奏(あはせ)の進行曲(マアチ)、

かげのごと往來(ゆきき)する白(しろ)の衣(きぬ)うかびつれつつ、

映(うつ)りゆく繪(ゑ)のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――

そのかげに苦痛(くるしみ)の暗(くら)きこゑまじりもだゆる。

 

なべてみな惱(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと靑き光のなかに。――

蒸し暑(あつ)き軟(なよ)ら風(かぜ)もの甘(あま)き汗(あせ)に搖(ゆ)れつつ、

ほつほつと點(と)もれゆく水(みづ)の面(も)のなやみの燈(ともし)、

鹹(しほ)からき執(しふ)の譜(ふ)よ……………み空には星ぞうまるる。

 

かくてなほ惱み顫(ふる)ふわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――

見よ、苦(にが)き闇(やみ)の滓(をり)街衢(ちまた)には淀(よど)みとろげど、

新(あらた)にもしぶきいづる星の華(はな)――泡(あわ)のなげきに

色靑き酒のごと空(そら)は、はた、なべて澄みゆく。

四十一年七月

 

[やぶちゃん注:第一連「穹窿(ああち)」アーチ。Arch。橋下の下部のそれ。

第一連「泥舟(どろぶね)」泥や土砂を積んで運ぶ荷船。土船(つちぶね)。これはそうした舫(もやい)に揺られる生業(なりわい)に生きる者たちが、その船の一角に家族で住んでいる。炊ぐのは妻か娘か。小さな小さな「撫子」の鉢植えの一輪のピンクだけが、モノクロームの画面にぼぅっと発色する。一九八一年公開の小栗康平監督の名品「泥の河」を髣髴させる一行である。

第二連「惱(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく」パンタグラフのスパーク。

第二連「瓦斯」「がす」或いは「ガス」。ガス灯。]

2020/10/19

北原白秋 邪宗門 正規表現版 盲ひし沼

 

   盲 ひ し 沼

 

午後六時(ごごろくじ)、血紅色(けつこうしよく)の日の光

盲(めし)ひし沼にふりそそぎ、濁(にごり)の水の

聲もなく傷(きずつ)き眩(くら)む生(なま)おびえ。

鐵(てつ)の匂(にほひ)のひと冷(ひや)み沁(し)みは入れども、

影うつす煙草工場(たばここうば)の煉瓦壁(れんぐわかべ)。

眼(め)も痛(いた)ましき香(か)のけぶり、機械(きかい)とどろく。

 

 鳴ききたる鵝鳥(がてう)のうから

 しらしらと水に飛び入る。

 

午後六時、また噴(ふ)きなやむ管(くだ)の湯氣(ゆげ)、

壁に凭(よ)りたる素裸(すはだか)の若者(わかもの)ひとり

腕(かいな)拭(ふ)き鐵(てつ)の匂にうち噎(むせ)ぶ。

はた、あかあかと蒸氣鑵(じようきがま)音(おと)なく叫び、

そこここに咲きこぼれたる芹(せり)の花、

あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。

 

 聲もなき鵞鳥(がてう)のうから

 色みだし水に消え入る

 

午後六時、鵞鳥(がてう)の見たる水底(みなぞこ)は

血潮したたる沼(ぬま)の面(も)の負傷(てきず)の光

かき濁る泥(どろ)の臭(くさ)みに疲(つか)れつつ、

水死(すゐし)の人の骨のごとちらぼふなかに

もの鈍(にぶ)き鉛の魚のめくるめき、

はた浮(うか)びくる妄念(まうねん)の赤きわななき。

 

 逃(に)げいづる鵞鳥(がてう)のうから

 鳴きさやぎ汀(みぎは)を走(はし)る。

 

午後六時、あな水底(みそこ)より浮びくる

赤きわななき――妄念の猛(たけ)ると見れば、

强き煙草に、鐵(てつ)の香(か)に、わかき男に、

顏いだす硝子(がらす)の窓の少女(をとめ)らに血潮したたり、

歡樂(くわんらく)の極(はて)の恐怖(おそれ)の日のおびえ、

顫(ふる)ひ高まる苦痛(くるしみ)ぞ朱(あけ)にくづるる。

 

 刹那、ふと太(ふと)く湯氣(ゆげ)吐き

 吼(ほ)えいづる休息(やすらひ)の笛。

四十一年七月

 

畔田翠山「水族志」 イダ (イラ)

 

(九)

イダ【紀州熊野總稱】 一名イソアマダヒ【紀州若山】

形狀方頭魚ニ似テ鱗大ニ乄滑也背紅色ニ乄黃ヲ帶頭上ニ紅㸃アリ橫翅ノ上ヨリ背ニ至リ黑斑太キ條ヲナシ條ノ下白斑アリ白斑ノ下ヨリ尾ニ至リ淡紅色ニ乄黃ヲ帶黑㸃アリ腹白色黃紅ヲ帶尾岐ナク黑色黃ヲ帶背鬣紅黃色ニ乄端黑色腰下鬣紅黃色ニ乄淡黑色及淡黑條アリ脇翅淡黃腹下翅淡黃ニ乄下淡黑色唇黃ニ乄上黑色一種頭淡紫色ナル者アリ紀州ニテ漁人「モブシ」ト云「モブシ」ハ海磯葉ニ住ト云義也一種同形ニ乄橫ニ綠色大斑斜ニ一ツアルアリ一種同形ニ乄短者アリ一種「メアカ」ト云者アリ形狀短ク圓ク鱗大ニ乄眼大ニ赤色此魚頭大ニ乄身小也鱗色綠褐色ニ乄滑也

 

○やぶちゃんの書き下し文

(九)

イダ【紀州。熊野。總稱。】 一名「イソアマダヒ」【紀州若山。】

形狀、方頭魚〔アマダヒ〕に似て、鱗、大にして、滑らかなり。背、紅色にして、黃を帶ぶ。頭の上に紅㸃あり。橫翅〔むなびれ〕の上より背に至り、黑斑、太き條をなし、條の下、白斑あり。白斑の下より、尾に至り、淡紅色にして黃を帶び、黑㸃あり。腹、白色、黃紅を帶ぶ。尾、岐なく、黑色、黃を帶ぶ。背鬣〔せびれ〕、紅黃色にして、端〔はし〕、黑色。腰の下の鬣〔ひれ〕、紅黃色にして淡黑色、及び、淡い黑條あり。脇翅〔むなびれ〕、淡黃。腹の下の翅〔ひれ〕、淡黃にして、下、淡黑色。唇〔くちびる〕、黃にして、上、黑色。一種、頭、淡紫色なる者あり。

紀州にて、漁人、「モブシ」と云ふ。「モブシ」は「海磯葉に住む」と云ふ義なり。

一種、同形にして、橫に綠色の大斑、斜に一つある、あり。

一種、同形にして、短き者あり。

一種、「メアカ」と云ふ者あり。形狀、短く、圓〔まる〕く、鱗、大にして、眼、大にして、赤色。此の魚、頭、大にして、身、小なり。鱗の色、綠褐色にして滑らかなり。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。重複になるが、これも先の「イソアマダヒ」と同じく、

スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio

ととってよいように思われる。寧ろ、こちらの方の記載が、よりよくイラの細かな様態と一致するようにも思われるぐらいである。頭に出してある「イダ」が「イラ」に音が近いのも同一種である可能性を示唆しているものとも言えるように思う。宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)のこちらの「カンダイ」(これは紀州に於けるイラの地方名)にも「方言」の記載に、「イラ」の次に「イダ(堅田:現在の和歌山県西牟婁郡白浜町堅田。グーグル・マップ・データ)」と挙げているのである。記載の色彩におかしなものを感じる方もいるかも知れぬが(個人的には共通属性のように「頭の上に紅あり」とあるのはちょっと引っ掛かる)、イラは♀♂の体色や斑紋の差が大きいだけでなく、成長過程に於ける色や斑紋なども、全く別の魚であるかのように見えるので、何ら問題ないと私は思う。不審な方はグーグル画像検索「イラ」を見て戴きたい。

 なお、畔田は決して一項一項を別種として立てるのではなく、呼称が異なったり、呼称が同じでも実際には別種と思われるものだったりするという経験から、違った部分が少しでもあるように見受けられるところがあれば、新しい項立てをするという形で記載しているように思われる。分類体系化するという点では甚だ問題があるが、基礎資料としては漏れがないようにした、博物学的資料としては大切な観点に立って記載しているように私には見受けられ、頭が下がる思いさえするのである。

『「モブシ」は「海磯葉に住む」と云ふ義なり』私は「イソアマダヒ」で「モブシ」という異名について「藻伏」と解釈した。これはそれが正しい可能性を支持するものと言える。「海磯葉」は一応、「うみいそば」と読んでおくが、所謂、磯近くの海底に繁茂する海藻の謂いであろう。

一種、「メアカ」と云ふ者あり。形狀、短く、圓〔まる〕く、鱗、大にして、眼、大にして、赤色。此の魚、頭、大にして、身、小なり。鱗の色、綠褐色にして滑らかなり」「メアカ」という異名は沢山の魚の異名にあるが、思うに、これはイラの幼魚を指しているのではないかと私は思う。ウィキの「イラ」の幼魚の画像を見られたい。凡そ成魚とは全く違う姿・色・斑紋であり、目が赤い。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 顏の印象 六篇

 

Kaonoinnsyou6hen

 

[やぶちゃん注:詩篇群「顏の印象 六篇」の冒頭。石井柏亭の挿絵とともに。ご覧に通り、「六篇」の文字はポイント落ちでやや右寄りである。

 以下、「顏の印象」六篇は纏めて電子化し、各篇の間は三行空けた。これは、各篇が総て、右ページ始まりに整除されているからである。標題の字下げが、「A」のみ三字下げで、後は総て四字下げであるのもママである。]

 

 

  顏 の 印 象 六 篇

 

   A  精 舍

 

うち沈む廣額(ひろびたひ)、夜(よ)のごとも凹(くぼ)める眼(まなこ)――

いや深く、いや重く、泣きしづむ靈(たまし)の精舍(しやうじや)。

それか、實(げ)に聲もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより

熟視(みつ)むるは暗(くら)き池、谷そこの水のをののき。

 

いづこにか薄日(うすひ)さし、きしりこきり斑鳩(いかるが)なげく

寂寥(さみしら)や、空の色なほ紅(あけ)ににほひのこれど、

靜かなる、はた孤獨(ひとり)、山間(やまあひ)の霧にうもれて

悔(くい)と夜(よ)のなげかひを懇(ねもごろ)に通夜(つや)し見まもる。

 

かかる間(ま)も、底ふかく靑(あを)の魚盲(めし)ひあぎとひ、

口そそぐ夢の豹(へう)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、

みな冷(ひ)やき石の世(よ)と化(な)りぞゆく、あな恐怖(おそれ)より。

 

かくてなほ聲もなき秦皮(とねりこ)よ、秘(ひそ)に火ともり、

精舍(しやうじや)また水晶と凝(こご)る時(とき)愁(うれひ)やぶれて

響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の靈(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。

以下五篇――四十一年三月

 

[やぶちゃん注:「秦皮(とねりこ)」「陰影の瞳」の私の注を参照されたい。

「斑鳩(いかるが)」スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata のことであるが、ウィキの「イカル」によれば、この漢字表記は正しくないとし、「鵤」「桑鳲」が正しいとする。同種は『木の実を嘴(くちばし)で廻したり』、『転がしたりするため』、『古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。イカルという名の由来は』、『奈良県の斑鳩とも』、『鳴き声が「イカルコキー」と聞こえるからとも言われるが、定かではない。また「イカルガ(斑鳩)」と呼ばれることもあるが』、『厳密には「斑鳩」の文字を使うのは誤用であり、「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ』こと『に由来する』とある。但し、聖徳太子の宮があったとされる斑鳩の里に、この鳥が多くいたことによる古名とする説はある。ただ、その「斑鳩」に多くいたとする鳥が現在のイカルであるという確証はなく、大修館書店「廣漢和辭典」では「斑鳩(ハンキュウ)」をハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria としてあり(『いかる』とも記しているものの、解説は明らかにジュズカケバトのものである)、明の李時珍の「本草綱目」の「禽之三」の頭に「斑鳩」を出すが、その記載は、『鳩也』と始まっており、「廣漢和辭典」の比定根拠として挙げているのも、「本草綱目」である。因みに、寺島良安の「和漢三才図会」でも、巻第四十三「林禽類」冒頭に「斑鳩」として出すのはハトであって、イカルではない(リンク先は私の電子化注)。良安はイカルは同巻に「桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが) (イカル)」として出しており、その本文では、わざわざ最後の部分で『「倭名抄」に『鵤【伊加流加〔(いかるが)〕。】・斑鳩【同。】』〔とあれど〕、共に誤りなり』と書いてさえいる。また、現代中国語では、「斑鳩」をハト目ハト科キジバト属 Streptopelia の中文属名「斑鳩属」としていることが、中文ウィキのこちらで判る。されば、やはりイカルを斑鳩に比定同定するの甚だ無理であると言わざるを得ないと私は思う。以下、ウィキの「イカル」から引く。『ロシア東部の沿海州方面と日本で繁殖し、北方の個体は冬季に中国南部に渡り』、『越冬する』。『日本では北海道、本州、四国、九州の山林で繁殖するが』、『北日本の個体は冬季は本州以南の暖地に移動する』。『全長は約』二十三センチメートルで、『太くて大きい黄色い嘴を持つ。額から頭頂、顔前部、風切羽の一部が光沢のある濃い紺色で体の上面と腹は灰褐色で下腹から下尾筒は白い。初列風切羽に白斑がある。雌雄同色である』。『主に樹上で生活するが、非繁殖期には地上で採食している姿もよく見かける。木の実や草の種子を採食する。時には、昆虫類も食べている』。『繁殖期はつがいで生活するが』、『巣の周囲の狭い範囲しか縄張りとせず、数つがいが隣接してコロニー状に営巣することが多い。木の枝の上に、枯れ枝や草の蔓を組み合わせて椀状の巣を作る。産卵期は』五~七月で、三~四個の『卵を産む。抱卵期間は約』十四『日。雛は孵化してから』十四『日程で巣立つ』。『非繁殖期は数羽から数十羽の群れを形成して生活する』。『波状に上下に揺れるように飛翔する』。以下「聞きなし」の項。『各地に様々な聞きなしが伝わ』り、「比志利古木利(ひしりこきり)」(これは白秋の『きしりこきり』のオノマトペイアに酷似する)、「月日星(つきひほし)」とも成し、『月・日・星と囀ることから三光鳥とも呼ばれている』とある。YouTube の野鳥動画図鑑Wild Bird Japan「イカル(1)さえずり(戸隠)」をリンクさせておく。]

 

 

 

    B 狂 へ る 街

 

赭(あか)らめる暗(くら)き鼻、なめらかに禿(は)げたる額(ひたひ)、

痙攣(ひきつ)れる唇(くち)の端(はし)、光なくなやめる眼(まなこ)

なにか見る、夕榮(ゆふばえ)、のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、

熱病(ねつびやう)の響(ひびき)する煉瓦家(れんぐわや)か、狂へる街(まち)か。

 

見るがまに燒酎(せうちう)の泡(あわ)しぶきひたぶる歎(なげ)く

そが街(まち)よ、立てつづく尖屋根(とがりやね)血ばみ疲(つか)れて

雲赤くもだゆる日、惱(なや)ましく馬車(ばしや)驅(か)るやから

靈(たましひ)のありかをぞうち惑(まど)ひ窓(まど)ふりあふぐ。

 

その窓(まど)に盲(めし)ひたる爺(をぢ)ひとり鈍(にぶ)き刄(は)硏(と)げる。

はた、啞(おふし)朱(しゆ)に笑ひ痺(しび)れつつ女(をみな)を說(と)ける。

次(つぎ)なるは聾(ろう)しぬる淸き尼(あま)三味線(しやみせん)彈(ひ)ける。

 

しかはあれ、照り狂ふ街(まち)はまた酒と歌とに

しどろなる舞(まひ)の列(れつ)あかあかと淫(たは)れくるめき、

馬車(ばしや)のあと見もやらず、意味(いみ)もなく歌ひ倒(たふ)るる。

 

[やぶちゃん注:第一連三行目の「なにか見る、夕榮(ゆふばえ)、のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、」の「夕榮」の後の読点は、音数律から見ても明らかに誤植であるが、そのままに再現した。後の昭和三(一九二八)年アルス版「白秋詩集Ⅱ」では、正しく除去されている。

「ひとみぎり」聴いたことのない語である。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。しかし、後に出る「浴室」や「華のかげ」にも出現し、詩集「東京景物詩及其他」の中の「靑髯」の「畜生」にも出現する。それらを並べて見ても、しかし、今一つ、意味が判然としない。個人的には「砌 (みぎり) 」(時節・折り・頃)に、不特定の一時期や大体の範囲などを表わす接頭語の「ひと」が附いたもので、「丁度、その折の辺りに」の意であろうか。]

 

 

 

    C 醋 の 甕

 

蒼(あを)ざめし汝(な)が面(おもて)饐(す)えよどむ瞳(ひとみ)のにごり、

薄暮(くれがた)に熟視(みつ)めつつ撓(たわ)みちる髮の香(か)きけば――

醋(す)の甕(かめ)のふたならび人もなき室(むろ)に沈みて、

ほの暗(くら)き玻璃(はり)の窓ひややかに愁(うれ)ひわななく。

 

外面(とのも)なる嗟嘆(なげかひ)よ、波もなきいんくの河に

旗靑き獨木舟(うつろぶね)そこはかと巡(めぐ)り漕ぎたみ、

見えわかぬ惱(なやみ)より錨(いかり)曳(ひ)き鎖(くさり)卷かれて、

伽羅(きやら)まじり消え失(う)する黑蒸汽(くろじようき)笛(ふえ)ぞ呻(うめ)ける。

 

吊橋(つりばし)の灰白(はひじろ)よ、疲(つか)れたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)よ、

たまたまに整(ととの)はぬ夜(よ)のピアノ淫(みだ)れさやげど、

ひとびとは聲もなし、河の面(おも)をただに熟視(みつ)むる。

 

はた、甕(かめ)のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、

内と外(そと)かぎりなき懸隔(へだたり)に帷(とばり)墮(お)つれば、

あな悲し、あな暗(くら)し、醋(す)の沈默(しじま)長くひびかふ。

 

[やぶちゃん注:「漕ぎたみ」「たみ」は「囘む・𢌞む」で「ぐるりと漕ぎ廻る」・「迂回すして漕ぐ」の意。

「伽羅(きやら)」梵語の漢訳。狭義には香木として有名な沈香(じんこう:例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名。]

 

 

 

    D 沈 丁 花

 

なまめけるわが女(をみな)、汝(な)は彈(ひ)きぬ夏の日の曲(きよく)、

惱(なや)ましき眼(め)の色に、髮際(かうぎは)の紛(こな)おしろひに、

緘(つぐ)みたる色あかき唇(くちびる)に、あるはいやしく

肉(ししむら)の香(か)に倦(う)める猥(みだ)らなる頰(ほ)のほほゑみに。

 

響(ひび)かふは呪(のろ)はしき執(しふ)と欲(よく)、ゆめもふくらに

頸(うなじ)卷く毛のぬくみ、眞白(ましろ)なるほだしの環(たまき)

そがうへに我ぞ聽(き)く、沈丁花(ぢんてうげ)たぎる畑(はたけ)を、

堪(た)へがたき夏の日を、狂(くる)はしき甘(あま)きひびきを。

 

しかはあれ、またも聽く、そが畑(はた)に隣(とな)る河岸側(かしきは)、

色ざめし淺葱幕(あさぎまく)しどけなく張りもつらねて、

調(しら)ぶるは下司(げす)のうた、はしやげる曲馬(チヤリネ)の囃子(はやし)。

 

その幕の羅馬字(らうまじ)よ、くるしげに馬は嘶(いなな)き、

大喇叭(おほらつぱ)鄙(ひな)びたる笑(わらひ)してまたも挑(いど)めば

生(なま)あつき色と香(か)とひとさやぎ歎(なげ)きもつるる。

 

[やぶちゃん注:「髮際(かうぎは)」「かみぎは」の音変化で中世以降の古文に既に見られる。意味は無論、「髪の生え際(ぎわ)」。現代仮名遣は「こうぎわ」となる。

「ほだし」「絆し」。人の心や行動の自由を縛るもの、手かせ・足かせの意であるが、ここは愛人から貰った指輪であろう。

「曲馬(チヤリネ)」「秋の瞳」の「曲馬師(チヤリネし)」の私の注を見られたい。]

 

 

 

    E 不 調 子

 

われは見る汝(な)が不調(ふてう)、――萎(しな)びたる瞳の光澤(つや)に、

衰(おとろへ)の頰(ほ)ににほふおしろひの厚き化粧(けはひ)に、

あはれまた褪(あ)せはてし髮の髷(まげ)强(つよ)きくゆりに、

肉(ししむら)の戰慄(わななき)を、いや甘き欲(よく)の疲勞(つかれ)を。

 

はた思ふ、晚夏(おそなつ)の生(なま)あつきにほひのなかに、

倦(う)みしごと縺(もつ)れ入るいと冷(ひ)やき風の吐息(といき)を。

新開(しんかい)の街(まち)は鏽(さ)びて、色赤く猥(みだ)るる屋根を、

濁りたる看板(かんばん)を、入り殘る窓の落日(いりひ)を。

 

なべてみな整(ととの)はぬ色の曲(ふし)……ただに鋭(するど)き

最高音(ソプラノ)の入り雜(まじ)り、埃(ほこり)たつ家(や)なみのうへに、

色にぶき土藏家(どざうや)の江戶芝居(えどしばゐ)ひとり古りたる。

 

露(あら)はなる日の光、そがもとに三味(しやみ)はなまめき、

拍子木(へうしぎ)の歎(なげき)またいと痛(いた)し古き痍(いたで)に、

かくてあな衰(おとろへ)のもののいろ空(そら)は暮れ初む。

 

 

 

    F 赤き恐怖

 

わかうどよ、汝(な)はくるし、尋(と)めあぐむ苦悶(くもん)の瞳(ひとみ)、

秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇(くちびる)

みな戀の響なり、熟視(みつ)むれば――調(しらべ)かなでて

火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを。

 

はた、辻の眞晝(まひる)どき、白楊(はこやなぎ)にほひわななき、

雲浮かぶ空(そら)の色生(なま)あつく蒸しも汗(あせ)ばむ

街(まち)よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、

炎上(えんじやう)の光また眼(め)にうつり、壁ぞ狂(くる)へる。

 

人もなき路のべよ、しとしとと血を滴(したた)らし

膽(きも)拔(ぬ)きて走る鬼、そがあとにただに饑(う)ゑつつ

色赤き郵便函(ポスト)のみくるしげにひとり立ちたる。

 

かくてなほ窓の内(うち)すずしげに室(むろ)は濡(ぬ)るれど、

戶外(とのも)にぞ火は熾(さか)る、……………哀(あは)れ、哀(あは)れ、棚(たな)の上(へ)に見よ、

水もなき消火器(せうくわき)のうつろなる赤き戰慄(をののき)。

 

[やぶちゃん注:第一連末の「火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを」というのは、現実としては、軒に吊るした走馬燈の目くるめく回転がそのイメージのもとにはありながら、それがしかし、詩想の中では完全に後退して走馬燈の形象は分解され、再構築されて、実際の炎を上げて馬と馬車が燃えつつ窓の彼方を走り過ぎてゆく、という慄然とさせる観念的なメタモルフォーゼを起こしているように私には読める。

「白楊(はこやなぎ)」「下枝のゆらぎ」の私の「白楊(はくやう)」の注を参照されたい。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 噴水の印象

 

  噴 水 の 印 象

 

噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。――

霧しぶく苑(その)の奧、夕日(ゆふひ)の光、

水盤(すゐばん)の黃(き)なるさざめき、

なべて、いま

ものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。

 

噴水(ふきあげ)の病(や)めるしたたり。――

いづこにか病兒(びやうじ)啼(な)き、ゆめはしたたる。

そこここに接吻(くちつけ)の音(おと)。

空は、はた、

暮れかかる夏のわななき。

 

噴水(ふきあげ)の甘きしたたり。――

そがもとに痍(きず)つける女神(ぢよじん)の瞳。

はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、

冷(ひや)み入る

銀(ぎん)の節(ふし)、雲のとどろき。

 

噴水(ふきあげ)の暮るるしたたり。――

くわとぞ蒸(む)す日のおびえ、晚夏(ばんか)のさけび、

濡れ黃ばむ憂欝症(ヒステリイ)のゆめ

靑む、あな

しとしとと夢はしたたる。

四十一年七月

 

[やぶちゃん注:「憂欝症(ヒステリイ)」このルビは意味上のそれと漢字の単語との乖離があっていただけない。「憂欝症」の示す「メランコリー」と、ルビの「ヒステリー」の孰れを意味で採るかで迷ってしまうからである。私は前者のメランコリーの意味で採るべきとは思う。なお、「ヒステリー」はドイツ語の Hysterie であるが、元は「子宮」を意味するギリシャ語から生まれた語で、古代ローマに於いては女性の様々な病気の原因としての子宮に、因果関係に求めたことに由来するものの、現在の身体的障害を示すヒステリーとは一致しない。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 暮春

 

  暮  春

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

なやまし、河岸(かし)の日のゆふべ、

日の光。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

眼科(がんくわ)の窓(まど)の磨硝子(すりがらす)、しどろもどろの

白楊(はくやう)の温(ぬる)き吐息(といき)にくわとばかり、

ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、

蒸し淀(よど)む夕日(ゆふひ)の光。

黃(き)のほめき。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

なやまし、またも

いづこにか、

なやまし、あはれ、

音(ね)も妙(たへ)に

紅(あか)き嘴(はし)ある小鳥らのゆるきさへづり。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

はた、大河(おほかは)の饐(す)え濁(にご)る、河岸(かし)のまぢかを

ぎちぎちと病(や)ましげにとろろぎめぐる

灰色(はひいろ)黃(き)ばむ小蒸汽(こじようき)の温(ぬ)るく、まぶしく、

またゆるくとろぎ噴(ふ)く湯氣(ゆげ)

いま懈(た)ゆく、

また絕えず。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

いま病院(びやうゐん)の裏庭(うらには)に、煉瓦のもとに、

白楊(はくやう)のしどろもどろの香(か)のかげに、

窓の硝子(がらす)に、

まじまじと日向(ひなた)求(もと)むる病人(やまうど)は目(め)も惱(なや)ましく

見ぞ夢む、暮春(ぼしゆん)の空と、もののねと、

水と、にほひと。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

 

なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、

また懈(た)ゆく。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆ、しゆ……

四十一年三月

 

[やぶちゃん注:「しゆ、しゆ……」の「ツ」は明らかにポイントが落ちて右方に打たれて、明白な促音表記がなされてあるようにしか見えない。しかし、実際には「狂人の音樂」で使用された「クラリネト」の促音表記は明白な右肩小文字のそれであり、これはそれと比較するならば、促音表記の小さな「ツ」ではないことになる。そしてそれは「狂人の音樂」の直前にある平字の促音でない「バツソ」の「ツ」と同じ活字なのである。私の言っている意味が判らない方のために、画像で示す。まず、本篇「暮春」の冒頭部(「ツ」の部分に赤い矢印を附した。次も同じ)

Bosyun

次に同サイズでスキャンした「狂人の音樂」の「バツソ」と「クラリネト」の現われる部分。

Kyoujinnoongaku

次に、「暮春」の「しゆツ」の「ツ」をトリミングして示す。

Bosiyunnnotu

次に同サイズでスキャンした「狂人の音樂」の「バツソ」の「ツ」を示す。

Kyoujinnoongakunotu

御覧の通り、同じポイントの活字「ツ」であることが判る。これは例えば、後発の昭和三(一九二八)年の自身の編に成る「白秋詩集Ⅱ」で、先の「狂人の音樂」の平字の「バツソ」の「ツ」と「クラリネット」の「ツ」を比較して見る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。左ページ中央と左ページ後ろから三行目)と、後者が明らかにやや小さな別の活字の「ツ」を使用していることで明らかである。而して、この後発のそちらの「暮春」の「ツ」と、前に示した同じ後発の「狂人の音樂」の「バツソ」(同前。左ページ中央)の「ツ」の両者を拡大して比較して見ても、誠に残念なことに、同じ大きさの「ツ」であることが判るのである。しかしながら、私は見た目上の印象を大事にしたい。そこで、本篇では「ツ」のポイントを落した。なお、現行詩集類に見る「暮春」の「しゆツ」の「ツ」は促音ではないものが殆んどであると思われる。

 さて、この「ひりあ、ひすりあ。」「しゆ、しゆ……」は非常に手の込んだ(或る意味で「やや意地の悪い」と評してもよい)オノマトペイアであることが判る。無心に読んだ時は、誰もが「この音は何だろう?」と惑うと思われる。第六連まで読んで、「これは、この『小鳥ら』の囀りかしら?」と一瞬、思うのだが、にしては、何か気に障る厭な印象が、囀りとは思われない。それが、第八連に来て、実はそれは眼科医院の傍らを流れる川、或いは白秋の故郷柳川の運河を行き来する小蒸汽船の立てる発動機の音(或いはその船の運航に付随する水切音などを含む)であることが判明する。ここまで不明に眩暈されて少し憎くなるまでに味な用法なのである。

「白楊(はくやう)」「下枝のゆらぎ」の私の「白楊(はくやう)」の注を参照されたい。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 赤子

 

  赤  子

 

赤子啼く、

  急(はや)き瀨(せ)の中(うち)。

 

壁重き女囚(ぢよしう)の牢獄(ひとや)、

鐵(てつ)の門(もん)、

淫慾(いんよく)の蛇の紋章(もんしやう)

くわとおびえ、

水に、落日(いりひ)に

照りかへし、

 黃ばむひととき。

 

赤子(あかご)啼(な)く、

  急(はや)き瀨(せ)の中(うち)。

四十一年六月

 

2020/10/18

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之四 小櫻奇緣によりて貴子をうむ事

 

席上奇観垣根草四之巻

     小櫻奇緣によりて貴子をうむ事

Kozakura

[やぶちゃん注:底本よりトリミングした。珍しく、話柄の瞬間を、よく、絵にしている。清水寺であることが、非常によく判る挿絵である。味わいたい。]

 大和の國高市(たかいち)の郡(こほり)に小野兵衞(をのひやうゑ)といふあり、代々、農家にて、家、富榮(とみさか)えて、一郡の豪家(がうか)なりしが、夫(それ)が子に太夫通明(たいふみちあきら)といふあり。幼(いとけなき)より御堂殿(みだうどの)に宮仕(みやづか)へて、諸士(しよし)たり。父の兵衞、身まかりて後は、故鄕に歸りて、橘(たちばな)の何某(なにがし)が娘をめとりて、父の業(ぎやう)をつぎ、

「公(おほやけ)の禮節に身心(しんじん)をくるしめんより、村野(そんや/ヰナカ)の活計(かつけい/クラシ)、天年を全うする基(もとゐ)。」

と、よろこび暮しけり。

[やぶちゃん注:「大和の國高市の郡」現在の奈良県中西部の古くからの郡名。奈良盆地の南部にあり、大和・飛鳥時代の政治・文化の中心で、古くは興福寺・東大寺の荘園が多かった。昭和三一(一九五六)年に北部の町村が合併して橿原市が成立。現在は高取町と明日香村とからなる。古くは「たけち」と称した。この南北の中央部分が相当する(グーグル・マップ・データ)。

「小野兵衞」不詳。

「太夫通明」不詳。

「御堂殿」藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)の異称。

「諸士」侍。]

 

 然るに、年四十(よそぢ)をすぐるまで、一子とてをなく、明暮、これをなげき、

『老のね覺(ざめ)のたのしみにも、あはれ、子といふもの持ちたらば。』

とおもふにつけて、

「誠や、枯れたる木にも花さく、大悲のめぐみ、などか、いのるに甲斐なかるべき。」

と、夫婦もろとも、初瀨寺(はせでら)の觀世音(くわんぜおん)に、一七日〔いちひちにち〕、參籠したりしに、夢ともなく、うつゝ心に、御帳(みちやう)のうちに妙なる御聲(みこへ[やぶちゃん注:原本のママ。])にて、

「汝等は都(みやこ)淸水(きよみづ)の本尊(ほぞん)こそ有緣(うえん)なれ。とく、かしこに詣でよかし。」

と宣〔のたま〕ふと覺えて、其感應(かんおう)のむなしからざるをよろこびて、佛のをしへにまかせ、都、淸水に籠りて、

「求男求女(ぐなんぐによ)のおんちかごと、心念不空(しんねんふくう)の御〔おん〕いさをし、たがはせたまはずは、あはれみたまへ。」

と、一すぢに祈るに、七日〔なぬか〕滿つる曉に、ねむるともなく、まどろみたりしに、うつくしき童子一人、手に今をさかりの山櫻一枝(ひとえだ)、もちたまひしが、やがて、妻が枕のほとりにさし置きて、寶殿(はうでん)に入り給ふ、と見て、ゆめ、さめぬ。

 夫の太夫に此よしを語りて、

「所願むなしからぬしるし。」

と、猶も賴(たのみ)をかけて下向したりしに、ほどなく、只ならぬ身となり、十月(とつき)滿ちて女子をまうく。夫婦のよろこび、たとへをとるに、ものなし。

 靈夢(れいむ)にかたどりて、「小櫻」と名付けて、手のうちの珊瑚(さんご)と、いつくしみ、そだつるに、まことや、大悲の授けましましたるしるしにや、天性の艶色(ゑんしよく)、玉(たま)をあざむき、花もはづるよそほひ、父母の心は、いふもさらなり、近隣の者も其國色(こくしよく)をしらざるもの、なし。

[やぶちゃん注:「初瀨寺」現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(はせでら)。本尊は十一面観世音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淸水」京都府京都市東山区清水にある音羽山清水寺(きよみずでら)。もとは法相宗であったが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。本尊は十一面千手観世音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「本尊(ほぞん)」「ほんぞん」に同じ。

「おんちかごと」「御誓言」。

「心念不空」「観音経」に出る「我爲汝略說 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」で、訓読するなら、「我れ、汝が爲に略して說(と)かん。名を聞き及び、身(しん)を見、心に念じて、空しく過(す)ぐさざれば、能く諸有苦(しようく)を滅せん)」、「私はそなたのために簡潔に医謂おう。仏の名をしっかりと聞き、仏の姿を見、それを一途に心に念じ、忘れることなく過ごしたならば、ありとある苦痛をよく滅することが出来る」の意。

「寶殿」経蔵。

「國色」その国で一番の容色。絶世の美女。]

 

 齡(よはひ)もすでに最中(もなか)の月にちかづけば、あこがれ慕ふも、數をしらず、中にも一族のうち、河邊三郞、芳賀(はが)十郞なるもの、切(せち)におもひ入れて、

「我、むかへとらん。」

と爭ひて、仲人(なかびと)をもて、太夫夫婦に、其よし、きこゆれども、同じ一族といひ、何(いづ)れ隔(へだて)なきに、おもひわずらふうち、國の郡代何某(なにがし)、

「其子のためにむかへん。」

と、度々(たびたび)、使(つかひ)をもて、せめたりしに、太夫、おもふやう、

『老らくのたのしみ、只、此ものにあり。外(ほか)せしめんは、もとより本意(ほんい)ならず。されども、今その贅婿(ぜいしよ/イリムコ)を議せば、爭(あらそひ)を生ずる基(もとゐ)なり。暫し、都にのぼせ、いづかたへも宮仕させて、ゆるゆる、是をはからば、穩便の計(はからひ)なるべし。其うへ、玉(たま)を塵(ちり)に埋(うづ)まむよりは、はからぬ身のさいはひもあらば、老らくの榮行(さかゆ)く末も見まほし。』

など、おもひきはめ、取りしたゝめて、都にのぼせ、時の關白家に宮仕させける。

 郡代をはじめ、河邊、芳賀も、遺恨にはおもへども、力なくて、やみぬ。

[やぶちゃん注:「齡もすでに最中の月にちかづけば」女性の元服に相当する「髪上げ」・「裳着(もぎ)」の儀式をする年頃に近づいたので。概ね高貴な階級では古くは満十二、十三歳頃から十六歳頃に行われた。

「關白家」後の方を見ると、何時もの通り、時制違いの人物が出現するので、考証すること自体が甚だ無駄なのであるが、まず、矛盾や不道徳性を避けるためには、やはり父が仕えたのと同じ道長としておくのが無難である。]

 

 かくて、小櫻は官仕の後は、野路(のぢ)の梅がえを、御園(みその)にうつしたるこゝちにて、ひときは、容儀もすぐれ、歌の道、手習ふわざまで、をさをさ、世の人並(ひとなみ)には、まさりければ、政所(まんどころ)の御いつくしみ、ふかくおはしけり。

 頃しも、立ちかへる春のけしき、彌生の空といへば、柳・櫻の錦(にしき)、をりわたす都のながめ、さなきだに、大宮人(おほみやびと)のいとまありげに、

「そこよ、こゝよ。」

と、花に心はあこがるゝ折しも、關白家の政所、東山に、さくら狩して、

「いざや。名にし負ふ地主(ぢしゆ)の櫻を。」

とて、車を東南(ひがしみなみ)にきしらせ、やがて、中門(ちうもん[やぶちゃん注:ママ。])にさしよせて、政所をはじめ、あまたの女房、よりつどひ、袖をつらねて、幕となし、絹の香に、空も薰(かを)るばかり。

「さぞな、花の本意(ほい)ならめ。」

と、けふの花見はこゝにとゞまりぬ。

[やぶちゃん注:「政所」道長の正室ととるなら、源倫子(りんし/みちこ 康保元(九六四)年~天喜元(一〇五三)年)。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子(ぼくし/あつこ)。宇多天皇の曾孫に当たる。

「地主」東山区にある地主神社。清水寺に隣接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中門(ちうもん)」清水寺の中門である「轟橋轟門(とどろきばしとどろきもん)」(グーグル・マップ・データ航空写真)の事と思われる。]

 

 其頃、淸水のほとりに、年久しく行ひすまし、うき世を、雲のよそに見かぎりたるひじり、すみ給へり。むかしは叡山橫川(よかは)の學匠にて智淵中將(ちえんちゆうじやう)と呼びまゐらせて、僧綱(そうかう)もおもひのまゝすゝみたまひ、公家の梵筵(ぼんえん)につらなり、一山(いつさん)の學徒に仰がれたまひしかど、

「中々に、名聞(みやうもん)ぐるし。」

とて、山を離れてさすらへありき給ひし後、此山の奧に、形ばかりの庵(いほり)、ひきつくろひ、弟子の僧一人ならで具したまふものもなく、明暮、法華讀誦の外は、大悲の寶號(はうがう)を念じておはせしが、

「野も山も、花さき鳥鳴くにぞ、さては、うき世の春にこそ、我もまた、常ならぬ世になぞらへても、詠(なが)めんものを。」

と、けふしも、庵を出でて、地主(ぢしゆ)のほとりに、たちやすらひたまひ、

「誠や。人家(にんか)のへだてなき山の景色。」

と、杖にすがりて、遷流(せんる/ムジヤウ)の觀(くわん)、こらし居(ゐ)たまふに、小櫻は、何心なく政所のあそばしたる短册(たんざく)をもちながら、とある櫻の枝に手をかけたりしを、聖(ひじり)、一目(ひとめ)見給ふより、いかなるすく世(せ)の惡緣にてか侍(はんべ)りけん、さすがの大道心、たちまち、心、ゆるみて、

「こは。そも、いかにや。みめかたち、うるはしき女もあれば、あるものかは。古(いにすへ)の美人ときこえしも、などか、たとへにとるべき。離欲の仙人が帝釋天(たいしやくてん)の后(きさき)に通(つう)をうしなひたるも、かゝる類(たぐひ)なるべし。常々、不淨觀(ふじやうくわん)の前には、ひたすら、女はけがれたるものから、臭皮袋(しうひたい/ケガレタルイレモノ)とも見すてしが、それはなみの女にて、かゝる美人は、何れのところにか不淨の念のたよるべきか。あな、うるはし。」

と、うつゝ心なく、見とれたまふに、小ざくらも、

『後(うしろ)に人やある。』

と、かづきたる絹、すこし、かいやりて、見かはしたるに、八(や)そぢにあまるひじりの目もあやに見とれたまふさまに、

『けしからず。』

とや、おもひけん、かほ、そむけたるに、まなじりは、猶、のこりたるが、なほ、媚(こび)ありて、蓮葉(はちすば)に、露、こぼれ、曉の月、山の端にかすかになるまで、詠(なが)めやりたまひしかども、さすがはとし頃(ごろ)行ひすましたまヘるしるし、

「き。」

と、おもひかへし、

「こは、そも、佛のみまへにて、ちかひたることの、たがひたるよ。」

と、淨業障(じやうごつしやう)の文(もん)、誦(ず)じすてゝ、庵に引籠り、又も坐禪の床(ゆか)にのぼりたまヘども、介爾(けに/ワヅカ)、愛欲の雲きりに、さとりの月、かくれ、一念起動(きどう/サワグ)の、波風に禁(いましめ)の堤(つゝみ)、くずれ、護摩の煙(けふり)にふすぼりたまひし本尊も、ありしすがたに見まがひ、さとりの心、いつしか、雲井の空にまよひて、夜晝となく、おもひわづらひたまひ、遂には重き病にそみ給ふ。

[やぶちゃん注:「叡山橫川」比叡山延暦寺の横川中堂を中心とした横川(よかわ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真)。慈覚大師円仁によって開かれ、源信・親鸞・日蓮・道元といた名僧らが修行に入った地である。

「智淵中將」不詳。

「僧綱(そうかう)」通常は「そうがう」(そうごう)と濁る。僧尼の大綱を保ち、諸寺を監督するために設けられた僧官の総称。中国に始まったが、本邦では京師の諸寺より推挙された智徳兼備の人物が任命され、綱所(こうじょ)にあって事務を行い、僧正・僧都・律師の三階の称が用いられ、これをさらに大・少・正・権などに分けた。人数も「弘仁格(こうにんきゃく)」では僧正・大僧都各一名・少僧都二名・律師四名と定められたが、後に漸次増員し、貞観六(八六四)年には、これらに相当する僧位として、僧正に法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)、僧都に法眼(ほうげん)和尚位、律師に法橋上人位(ほうきょうしょうにんい)が設けられたこともあって、人数の増加に拍車をかけ、応徳三(一〇八六)年には総勢二十七人と激増し、有名無実となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「公家の梵筵(ぼんえん)」公家衆の法座。

「一山(いつさん)」比叡山。

「名聞(みやうもん)ぐるし」あたかも名声を求める「ために」するようなありさまが如何にも見苦しい。

「弟子の僧一人ならで」「ならで」は連語で「以外には」の意。

「大悲の寶號(はうがう)」「宝号」は観音を指し示す日本語の漢字表現「南無大慈大悲觀世音菩薩」を指す。

「人家(にんか)のへだてなき山の景色」人の住む世界と自然とが分離していないように見かけ上は見える山の景観。しかし所詮それも本質は「遷流(せんる/ムジヤウ)」=無常の時空間であるとする。

「こらし居(ゐ)たまふに」「凝らす居給ふ」。ここに既に凝(じ)っと対象を見つめてしまうという執着への踏み間違い(綻び)が現れていると私は読む。

「離欲の仙人が帝釋天(たいしやくてん)の后(きさき)に通(つう)をうしなひたる」これは「今昔物語集」の巻第五の「天竺付(つけたり)佛前」の「天帝釋夫人舍脂音聞仙人語第三十」(天帝釋(てんたいしやく)の夫人(ぶにん)舍脂(しやし)の音(こゑ)を聞きし仙人の語(こと)第三十)を指す。短いので、総て引く。

   *

 今は昔、舍脂夫人と云ふは、天帝釋の御妻(みめ)なり。毗摩質多羅阿修羅王(びましつたらあしゆらわう)[やぶちゃん注:須弥山最深部にある阿修羅界の王。]の娘なり。佛(ほとけ)[やぶちゃん注:釈迦。]、未だ世に出で給はざる前に、一(ひとり)の仙人、有りけり。名をば提婆延那(だいばなえん)と云ふ。帝釋、常に其の仙の所に行きて、仙法を習ひ給ふ。其の時に、舍脂夫人、心の中に思ふ樣、

『帝釋、定めて仙法を習ふにしも有らじ。此の人、必ず、他(ほか)の夫人の有るか。』

と思ひて、密(ひそか)に、夫人、帝釋の後ろに隱れて、尋ね行きて見れば、實(まこと)に帝釋、仙の前に居(ゐ)給へり。帝釋、夫人の密に來れるを見給ひて、呵嘖(かしやく)[やぶちゃん注:声を荒らげて叱責すること。]して宣はく、

「仙の法は、女人(によにん)に見しめず。亦、聞かしめず。早う、還り給ふべし。」

と云ひて、蓮(はちす)の莖(くき)を以つて、舍脂夫人を打つ。

 其の時に、舍脂夫人、あまへて、帝釋と戲(たはぶ)る。其の時に、仙人、夫人のあてなる音(こゑ)を聞きて、心の穢(け)がれければ、忽ちに、仙の通力、失せて、凡夫(ぼんぷ)に成りにけり。

 然(さ)れば、「女人は仙の法の爲に、大(おほき)なる障(さはり)なり」となむ、語り傳へたるとや。

   *

「不淨觀」身体の不浄さを観ずる行法の一つ。自身や他者の身体が腐敗・白骨化していさまを観想し、それへの執着を断つことを基本とする。九相図絵巻はこれを図案化したもの。

「女はけがれたるものから、臭皮袋(しうひたい/ケガレタルイレモノ)とも見すてしが」「女」と限定するが、これは前の不浄観から判る通り、誤りである。「中身に腥(なまぐさ)い物を入れている皮袋」で、我々、「人間の」不潔な「肉体」を広く指す語である。

「それはなみの女にて、かゝる美人は、何れのところにか不淨の念のたよるべきか、あな、うるはし」この儚い見かけ上の「美」に捕われて哀しくも差別化して取り立ててしまった瞬間、この智淵の長年の修行は完全に無化されてしまったのである。

「淨業障(じやうごつしやう)」業障(ごっしょう)とは、悪業のために浄なる聖道とその加行(かぎょう)の善根を妨げる障り。「ごうしょう」とも読む。

「文(もん)」経文。呪文。

「介爾(けに/ワヅカ)」仏語で、非常に微弱なこと。主として一刹那の心(一念)の形容に用いる。

「雲きり」「雲霧」。

「護摩の煙(けふり)にふすぼりたまひし本尊も、ありしすがたに見まがひ」護摩を焚いている煙の向こうにぼんやり見える本尊(恐らくは観世音菩薩像)も、さっき見た小桜の面影に髣髴してしまうというのである。このシークエンスはなかなかに上手い。]

 

 されども、われからこがす、と覺(おぼ)して、醫療(いれう)をも用ひたまはねば、弟子の僧もせんすべなくて、日を送るうち、「山科の宰相」ときこえしは、値遇(ちぐう)の緣ありて、折には、庵にまうでたまひしが、此やうを見たまひて、

「など、醫師(いし/クスシ)をも、めさざるや。御いたはりは何やらん。」

と、さまざま、なぐさめたまふに、聖、枕をもたげて、淚ながらに、ありしあらましをかたりたまへば、宰相、驚きて、

「さては。道心のいみじくおはすを、さまたげ奉らんと、障碍神(しやうげじん)のわざにてこそ侍(はべ)るらめ。さるにても、御心〔みこころ〕をやすんじ給へ。毒をもて、毒をかる方便(てだて)、はからひ申すべし。」

とて、其日の花見車(はなみぐるま)をしるしに、尋ねたまへば、やがて關白家の御車(みくるま)にて、その女こそ、新命婦(しんみやうぶ)「小ざくら」と、たしかにいふものあり。

 宰相、こまごかと消息(せうそく/フミ)して、

「かゝる貴(たふと)き聖の夫(それ)ゆゑに、末の世かけて、まよひ給はんも、淺ましくも、そらおそろし。とても、世をさりたまひてんこと、風(かぜ)の前の燈(ともしび)きえぬ間(ま)に、一度、きたり、まみえたまはゞ、そこのためにも、あしき緣(えにし)にも侍(はんべ)るまじ。」

など、理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])せめて、いひ送りたまへば、小ざくら、もとより、心ある女にて、

「うれしくもきこえたまふものかな。とく、まゐりてこそ申さめ。」

といらヘて、あくるあした、淸水に尋ねきたり、

「消息たまはりし女こそ、まゐりたれ。」

と、具したる女に案内させ、やがて、ひじりの枕のほとりに、ちかく居(ゐ)よりて、

「此ほどの御いたはりは、つたなき自(みづか)らゆゑときこえ侍(はんべ)るに、かへすがへすも、罪ふかき身を持ちて、一度(〔いち〕ど)、きよらかにさとりたまひし御心〔みこころ〕をくるしめ奉ることの、あさましさよ。さるにても、すく世(せ)、いかなるえにしの侍(はべ)るらん。又、末(すゑ)の世、やみ路をも照したまはるべきわが身の幸(さいはひ)を、御佛(みほとけ)のこしらヘたまひし事にや、とおもひわきまへて、御勞(おんいたはり)をも、見もし、御心をも、なぐさめ參らせんため、來(きた)りまみえ侍(はんべ)る。」

と、懇(ねんごろ)にきこゆるにぞ、聖、淚をおさへて、

「さらば、某(それがし)が、年頃(としごろ)、讀誦(どくじゆ)の功(こう)つもりたる、法華十萬部の、最上の功德(くどく)を、のこりなく讓りまゐらせん。此すゑ、いかなる人にも馴れ給ひ、男子(をとこご)をまうけたまはゞ、攝政・關白、もしや、出家となしたまはゞ、僧正・僧都、姬ならば、女御・更衣、是なん、しるしとし給ふべし。」

とて、弟子の僧に筆をとらしめて、

  多年愛養菩提樹

  留遇人間第一春

[やぶちゃん注:「多年 愛し養ふ 菩提の樹(うゑき)」「留(とゞ)めて遇(あ)はしむ 人間 第一の春」と訓じている。]

二句を吟じ畢(をは)りて、座をくみ、掌(たなごころ)を合せて、終(つゐ[やぶちゃん注:原本のママ。])に、こときれたまふ。

 小櫻、おどろきて、雨露(あめつゆ)となげきかなしめども、其甲斐なく、まして、宮仕の身なれば、心ならずも、そのまま歸りし跡(あと)にて、山科家より荼毘(だび/クワソウ)の儀とり行ひたまひ、鳥部山に葬り、供養、さまざま、沙汰したまふ。

 小櫻も、折には、まうでて、

「今はの御言葉、たがひなくは、末々(すゑずゑ)は一宇の伽藍をたてまゐらせん。」

と祈りしが、ほどなく宇治殿(うぢどの)におもはれて、君達(きんだち)・姬君、數人(すにん)出來(でき)て、いつくしみ、深かりし事ども、聖のことば、露(つゆ)違(たが)ふことなく、みなみな、爵位・昇進、心のまゝに、ときめきたまひけり。

 小櫻、宇治殿に事のやうを、きこえまゐらせて、一宇を建立し、如意山(によいさん)普門寺(ふもんじ)となづけ、興福寺の千覺律師、供養の導師には、たち給ひし。封戶(ほうこ/ジリヤウ)あまたよせられて、めでたき伽藍なりしが、近き頃までは東山に其舊趾(きうし)侍(はんべ)りしとぞ。

[やぶちゃん注:「われからこがす」「我から焦がす」。病原は外ならぬ、自分自身の焦がれる愛執の一念にあることが判っているから、医療の世話にも敢えてならぬのである。

「山科の宰相」不詳。山科家は羽林家の家格を有する公家であるが成立は、平安末期、後白河法皇の下北面に仕えた藤原教成に始まるから、この話柄とは自制的に合わないと思う。識者の御教授を乞う。

「障碍神(しやうげじん)」「障碍」は「障礙」とも書き、仏教で悟りの障害となるものを広く言う。

「毒をかる方便(てだて)」「かる」は「狩(か)る」。

「命婦」平安中期以降の中級の女官や中﨟 (ちゅうろう) の女房の称。

「消息」この場合は現在の智淵の様態とその原因の「山科の宰相」から受けた知らせの意。

「宮仕の身なれば、心ならずも、そのまま歸りし」「死の穢れ」に触れた者は宮中へ戻ることは出来ないので、秘密裏にして、「山科の宰相」へ応急の処置を頼んだものであろう。

「宇治殿」父道長の後を継いで、後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に、関白を実に五十年の長きに亘って務めた藤原頼通(正暦三(九九二)年~延久六(一〇七四)年)の別名である。永承七(一〇五二)年に平等院鳳凰堂を作るが、これは道長の別荘であった宇治殿を改修したものであった。晩年閉居したのも宇治であった。

「君達(きんだち)」摂関家・清華家 (せいがけ:摂関家に次いで大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄) などの子弟。

「如意山(によいさん)普門寺(ふもんじ)」不詳。嘗て現在の京都府京都市東山区東福寺隣にあった臨済宗凌霄山普門寺があるが、これは鎌倉時代の峯寺関白藤原道家の開基で話が合わない。

「興福寺の千覺律師」興福寺に入り僧正隆覚に師事した千覚(康和三(一一〇一)年~?)がいるが、彼は平安末期の僧で、ウィキの「千覚」を見ても、時制が合わない。またしても、やられた感じがする。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「外光と印象」/太田正雄(木下杢太郎・文)/冷めがたの印象

 

Gaikoutoinsyou

 

  外光と印象

 

[やぶちゃん注:パート標題と石井白亭の絵。]

 

 

近世佛國繪畫の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の敍情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に殘れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Café の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金綠に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も靑みゆき、靑みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は來る。燈の薄黃は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。               太田正雄

 

[やぶちゃん注:以上は前の本パート表題の裏(右ページ)に記されてある。底本では極くポイントが小さい。最後の署名は底本では下一字上げインデント。なお、ブラウザの表示字のフォントの大きさやによっては、フランス語の単語が行末から次行にかかる場合、或いは、同様に句読点がそうなる場合、自動的に送られて空間が生ずるが、そのような字空きは存在しないので注意されたい。また、但し、フランス語の前後には底本の見た目に似るように半角分の字空けを施してある。太田正雄とは詩人(劇作・翻訳もよくした)にしいて美術史や切支丹史研究家であり、また医学者(皮膚科学)でもあった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年)の本名である。而して彼の手に成る、この「外光と印象」パートへの序文である。

「Watteau」ジャン=アントワーヌ・ヴァトー(Jean-Antoine Watteau 一六八四年~一七二一年)はロココ時代のフランスの画家で、「シテール島への船出」(L'embarquement pour Cythère:第一ヴァージョン:一七一七年)や「ジル」(Gilles:一七一八年~一七一九年)で知られる。

「羅曼底」恐らくは「ろまんちつく」(歴史的仮名遣)或いは、フランス語原音に近づけるならば、「ロマンテイク(ロマンティク)」と読んでいる。英語なら「romantic」であるが、ここはフランス語で「romantique」。ここは、空想好きな、夢見がちな「わかき旅人」ということになる。但し、北原白秋自身は後に出る詩篇「羅曼底の瞳」では高い確率で「ロマンチツク」と読んでいる。但し、ここはそれに倣う必要はない。

「Corot」十九世紀のフランスの画家で「バルビゾン派」(École de Barbizon:自然主義的・写実主義的一団)の一人で次世代の「印象派」との橋渡しをした画家ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot 一七九六年~一八七五年)。私が真っ先に思い浮かべるのは晩年の「青い服の婦人」(La dame en bleu:一八七四年)。

「Fontainebleau の森」フォンテーヌブローの森(Forêt de Fontainebleau:フォレ・ド・フォンテーヌブロー)。パリ南東郊外のフォンテーヌブロー市街の西側一帯に広がる二百五十平方キロメートルに及ぶ広大な森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「Seine の河」セーヌ川(la Seine)。

「Manet」十九世紀のフランスの画家で「印象派」の先駆者とされるエドゥアール・マネ(Édouard Manet 一八三二年~一八八三年)。絵画界にスキャンダルを巻き起こした「草上の昼食」(Le Déjeuner sur l'herbe:一八六二年~一八六三年。但し、初題は「水浴」(Le Bain)。一八六七年に画家自身が改題した)と「オランピア」(Olympia:一八六三年)が彼の代表作とされる。

「Velazquez」バロック期、スペイン絵画の黄金時代であった十七世紀を代表する巨匠ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 一五九九年~一六六〇年)。先のエドゥアール・マネは彼のことを「画家の中の画家」(peintre des peintres)と呼んだ。

「Monet」「印象派」を代表するフランスの画家クロード・モネ(Claude Monet 一八四〇年~一九二六年)。代表作「印象・日の出」(Impression, soleil levant:一八七二年)が「印象派」の名の由来となったことはとみに有名。

「Cafin」画家の名らしいが、不詳。但し、島内裕子氏の論文『「舞踏会」におけるロティとヴァトーの位相』(『放送大学研究年報』十二。一九九四年。PDFでダウン・ロード可能)で、本篇全部を掲げ(そこでは島内氏は本引用を詩集「邪宗門」の『「外光と印象」と題された三一編の白秋の詩に付けられた木下杢太郎の序文』と規定しておられる)、『本論からはやや逸れるが』と前置きされた上で、『ここに出てくる何人もの画家の名前やヴェルレーヌのような詩人は、よく知られた芸術家であるのに対して、ただひとり、Cafinという人物だけが未詳である、という点に関して』、『一言述べておきたい』とされ、『現在は忘れ去られてしまっていても、当時はよく知られた芸術家だった可能性はある。杢太郎の書き方だけからは、この人物が画家であるのか、あるいはヴェルレーヌのような詩人であるのかも不明瞭である。しかしながら、「ほのかになつかしくはた悲しきCafinの夕は来る」という表現から、少なくとも、この芸術家の世界が、夕暮に象徴されるものであることだけはわかる。このことを手がかりとして、杢太郎の翻訳した』『リヒヤルド・ムウテル著』『『十九世紀仏国絵画史』を読んでゆくと、次のような箇所がある』として、フランスの風景画家ジャン=シャルル・カザン(Jean-Charles Cazin 一八四〇年~一九〇一年)についての記載部分を引用された後、『このカザンという画家についての記述と、先の序文のCafinの記述には共通性が見られないだろうか。カザンは、白昼の明るい絵を描かず、夕方から夜のほの暗い絵を描いたという。「聖書的風景画」ということばや、星空の夜を特に好んだという記述は、やや杢太郎の序文とイメージの違いがあるようにも思われるが、全体の書き方から感じられるカザンの画題や画風は、杢太郎が言うところの「ほのかになつかしくはた悲しき」という雰囲気とかなり近いようにも思われる。そのように考えると、『邪宗門』序文のCafinは、あるいは、このムウテルの美術論に出てくるカザンのことではないだろうか。カザンCazinとCafinは、綴りがよく似ているので、誤植されたのではないか、というのがわたしの推測である。従来この点については注意されてこなかったようなので、本論からは逸れたが気付いたこととして、ここに書いた』とある。私はこの見解に全面的に賛同する。ジャン=シャルル・カザンは彼の日本語版ウィキ(但し、かなり不備があるので、仏文ウィキその他を参照にして追記した。継ぎ接ぎだらけなのはそのためである)によれば、『パ=ド=カレー県』(Pas-de-Calais)『のサメール(Samer)で生まれた』。一八四六年に『家族とブローニュ=シュル=メール』(Boulogne-sur-Mer:フランス北部のドーバー海峡沿岸)『に移った』。一八六二年、二十二歳の時、『パリに出て』、『工芸学校でオラース・ルコック・ド・ボワボードラン』(Horace Lecoq de Boisbaudran)『に学んだ』。一八六三年の『「落選展」』(フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会。特にこの一八六三年の展覧会を指すことが多い。落選作には先のマネの「草上の昼食」や、後に出るホイッスラーの「白の少女」が含まれていた)『に出展している』。一八六三年から一八六八年までエミール・トレラ(Émile Trélat)が『校長を務める私立の建築学校(École Spéciale d'Architecture)で絵を教えた』。一八六八年に画家・版画家であったマリー・クラリス・マルゲリッタ・ギエ(Marie Clarisse Marguerite Guillet 一八四四年~一九二四年)と『結婚した』。一八六八年には『トゥール』(Tours:フランスの中部)『の美術館の学芸員に任じられ、美術館の絵画学校の校長も務めた』。『普仏戦争の後、混乱していたフランスを離れ』、一八七〇年代の初めに、アルフォンス・ルグロ』(Alphonse Legros)『と彫刻家のジュール・ダルー』(Jules Dalou)『とイギリスに渡り、イギリスで美術学校を開こうとしたが』、『これは成功しなかった。イギリスではヴィクトリア&アルバート博物館』(Victoria and Albert Museum)『で工芸品を研究し、磁器のデザインの仕事をした』。一八七四年に『イギリスを離れ、イタリア、オランダを旅してフランスに戻った』。一八七六年に「サロン・ド・パリ」(Salon de Paris)『に出展した。パ=ド=カレー県のブローニュ=シュル=メール』(Boulogne-sur-Mer)『に居を構え、宗教的な題材や歴史画も描いたがパ=ド=カレー県の風景を主に描いた。パリのパンテオンのピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ』(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)『の未完の装飾画を完成させた』。『パリの工芸学校で同窓であったオーギュスト・ロダン』(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年)『の友人で、ロダンの彫刻』「カレーの市民」(Les Bourgeois de Calais:ロダンの著名な彫刻の一つ。一八八八年完成。「百年戦争」時の一三四七年にイギリス海峡に於けるフランス側の重要な港カレーが一年以上に亙ってイギリス軍に包囲されていた「カレー包囲戦」の出来事に基づいて作られたもの)『一人のウスタシュ・ド・サン・ピエール』(Eustache de Saint Pierre:カレー市の指導者の一人)『の像のモデルを務めた』とある。

「Whistler」アメリカの画家・版画家ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler 一八三四年~一九〇三年)。主にロンドンで活動した。「印象派」の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵を始めとする日本美術の影響が濃く、「印象派」とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した。「落選展」に出た「白のシンフォニー第一番:白の少女」(Symphony in White, No. 1: The White Girl:一八六二年)がよく知られる。ここで杢太郎が想起しているのは、恐らく「青と金のノクターン:オールド・バターシー・ブリッジ」(Nocturne: Blue and Gold - Old Battersea Bridge:一八七二年~一八七五年頃)であろう。

「Pissarro」「印象派」のフランスの画家カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。田園風景画を好んだ。

「Verlaine の白月の賦」フランス「象徴派」の詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)の「白き月影」などと訳される詩集「優しき歌」(La Bonne Chanson:一八七〇年刊)の中の一篇(La lune blanche…)のこと。原文はフランスのサイトのこちらを、国立国会図書館デジタルコレクションの川路柳虹訳「ヴェルレーヌ詩抄」(大正四(一九一五)年白日社刊)の中のそれをリンクさせておく(左ページの「Ⅲ」とある詩篇)。]

 

 

  冷めがたの印象

 

あわただし、旗ひるがへし、

朱(しゆ)の色の驛遞馬車(えきていぐるま)跳(をど)りゆく。

 

曇日(くもりび)の色なき街(まち)は

淸水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、

轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、

晝の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、

茴香酒(アブサン)の靑み泡だつ火の叫(さけび)、

絕えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れて

マンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、

あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。

 

くわと來り、燃(も)えゆく旗は

死に墮(お)つる、夏の光のうしろかげ。

 

灰色の亞鉛(とたん)の屋根に、

靑銅(せいどう)の擬寶珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、

また寒き萬象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、

爛(たゞ)れ彈(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、

狂氣(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲勞(つかれ)に、今は

ひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、惱(なやみ)と、戰慄(をのゝき)と。

 

あかあかとひらめく旗は

猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。

 

あなあはれ、あなあはれ、

あなあはれ、光消えさる。

四十年十一月

 

[やぶちゃん注:「驛遞馬車」郵便馬車。

「茴香酒(アブサン)」「天鵝絨のにほひ」の私の注を参照。

「白楊(やまならし)」「下枝のゆらぎ」の私の「白楊(はくやう)」の注を参照されたい。

「猩紅熱」(しょうこうねつ)溶血性連鎖球菌によって起こる感染症。咽喉が痛み、急に高熱を出し、全身に発疹が現われる。小児に多く、治療にはペニシリンが有効。以前は「法定伝染病」・「学校伝染病」の一つであったが、ペニシリンで治療すれば軽症で治ることが多いことから、「溶連菌感染症」という病名で在宅治療を行うのが普通となり、現在では猩紅熱という病名で法的な規制は受けない(小学館「大辞泉」に拠った)。]

2020/10/17

北原白秋 邪宗門 正規表現版 月の出 / パート「朱の伴奏」~了

 

  月 の 出

 

ほのかにほのかに音色(ねいろ)ぞ搖(ゆ)る。

かすかにひそかににほひぞ鳴る。

しみらに列立(なみた)つわかき白楊(ぽぴゆら)、

その葉のくらみにこころ顫(ふる)ふ。

 

ほのかにほのかに吐息(といき)ぞ搖る。

かすかにひそかに雫(しづく)ぞ鳴る。

あふげばほのめくゆめの白楊(ぽぴゆら)、

愁(うれひ)の水(み)の面(も)を櫂(かい)はすべる。

 

吐息(といき)のをののき、君が眼(め)ざし

やはらに縺(もつ)れてたゆたふとき、

光のひとすぢ――顫(ふる)ふ白楊(ぽぴゆら)

文月(ふづき)の香爐(かうろ)に濡れてけぶる。

 

さてしもゆるけくにほふ夢路(ゆめぢ)、

したたりしたたる櫂(かい)のしづく、

薄らに沁(し)みゆく月のでしほ

ほのかにわれらが小舟(をふね)ぞゆく。

 

ほのめく接吻(くちつけ)、からむ頸(うなじ)、

いづれか戀慕(れんぼ)の吐息(といき)ならぬ。

夢見てよりそふわれら、白楊(ぽぴゆら)、

水上(みなかみ)透(す)かしてこころ顫(ふる)ふ。

四十一年二月

 

[やぶちゃん注:「白楊(ぽぴゆら)」「下枝のゆらぎ」の私の「白楊(はくやう)」の注を参照されたい。

 本篇を以って「朱の伴奏」は終わっている。]

畔田翠山「水族志」 イソアマダヒ (イラ)

 

(八)

イソアマダヒ 一名テス【勢州松坂】シホヤキ【仝上】モブシ【熊野和深】

形狀方頭魚ニ似テ滑ニ乄背黑褐色腹淡紅褐色細鱗上唇二牙口外ニ出尾ニ岐ナク紅褐色背鬣腰下鬣同色翅亦同腹下翅本紅褐色ニ乄端黑色味劣レリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(八)

イソアマダヒ 一名「テス」【勢州松坂。】・「シホヤキ」【同上。】・「モブシ」【熊野和深〔わぶか〕。】

形狀、方頭魚〔アマダヒ〕に似て、滑かにして、背、黑褐色。腹、淡紅褐色。細鱗。上唇、二牙、口外に出づ。尾に岐なく、紅褐色。背鬣〔せびれ〕・腰下の鬣、同色。翅〔むなびれ〕も亦、同じ。腹の下翅〔したびれ〕の本〔もと〕、紅褐色にして、端〔はし〕、黑色。味、劣れり。

 

[やぶちゃん注:本文はここ宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)のこちらの「カンダイ」(これは紀州の地方名)の学名によって、

スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio

と判明した。同書では、方言として、イラ(田辺・串本)を最初の挙げ、以下、イダ(堅田:現在の和歌山県西牟婁郡白浜町堅田。グーグル・マップ・データ。以下同じ)、イザ(周参見(すさみ:西牟婁郡すさみ町)・和深東牟婁郡串本町和深)、オキノアマダイ(田辺)、イソアマダイ(和歌山)、アマ(太地)、アマダイ(塩屋(和歌山市塩屋)・切目(きりめ:日高郡印南町西ノ地切目漁港周辺)、テス(和歌浦・白崎(日高郡由良町大引のこの一帯)・塩屋・二木島(三重県熊野市二木島町))を並べ、

   *

體は略楕圓形で側扁し、前頭は大に隆起する。背部は淡紅色に黃を帶び、下方は淡い。幅廣き暗褐色の一帶は胸鰭の腋部より背鰭の第七及び第八棘に至るまで斜に走り、この色帶の後方は大なる白斑をなし、白斑の下方より尾にかけて淡紅色に黃を帶びる。背鰭と臀鰭は淡黃色である。體長一二尺。近海の岩礁間に棲息し、六月頃產卵する。多く釣獲せられ、或は刺網を以て漁獲せらる。煮付・刺身とし、又蒲鉾材料とする。從來下等魚とされてゐるが、冬季稍美味である。

   *

とある。この「カンダイ」という異名は美味しくなる時期で「寒鯛」なのであろう。ウィキの「イラ」によれば、南日本(本州中部地方以南)・台湾・朝鮮半島・東及び西シナ海を棲息域とする。幼魚・成魚では模様が大きく異なるのでリンク先の写真を見られたい。全長は約四十~四十五センチメートル、『体は楕円形でやや長く、側扁』する。なお、このイラ属 Choerodon はベラ科 Labridae の『魚類の中では体高が高い』という特徴を持つ。『額から上顎までの傾斜が急で、アマダイを寸詰まりにしたようである』(これで畔田の似ているという表現が正しいことが判る。但し、私はアマダイに似ているとは思わないのだが)。『老成魚の雄は前額部が隆起・肥大し』、『吻部の外郭は垂直に近くなる』。『アマダイより鱗が大きい』。『両顎歯は門歯状には癒合せず』に『癒合し』て、『鋸歯縁のある隆起線をつくる』。『しかし』、『ブダイ科』(ベラ亜目ブダイ科 Scaridae)『魚類のように歯板を形成することはな』く、『前部に最低』一『対の大きな犬歯状の』後犬歯と呼ぶ歯があって、この歯は非常に大きく、上下の顎から隙間から見えるほどである(ネット上の画像を縦覧するに上・下額一方の場合や両方に生えている個体もある。英名の一つである「Tsukfish」(タスクフィッシュ)は「牙の魚」の意)。『側線は一続きで、緩やかにカーブする』。『前鰓蓋骨の後縁は細かい鋸歯状となる』。『尾鰭後縁はやや丸い』。『体色は紅褐色』『から暗紅色で腹側は色が薄く』、『尾鰭は濃い』、『口唇は青色』『で、鰭の端は青い。背鰭と腹鰭、臀鰭は黄色。背鰭棘部の中央から胸鰭基部にかけ、不明瞭で幅広い黒褐色の斜走帯が走る』(この斜帯が本種の特徴で、英名の一つの「Scarbreast」(スカールブレスト)は「傷跡のある胸」の意でこの帯状紋に由来する)。『その帯の後ろ』に『沿うように』、『白色斜走帯』(淡色域)があるが、『幼魚にはこの斜走帯はない』。『雌雄の体色や斑紋の差』も『大きい』。『沿岸のやや深い岩礁』性の強い海域や、『その周りの砂礫底に見られ』、『単独でいることが多い』。『日本近海での産卵期は夏』。『夜は岩陰や岩穴などに隠れて眠る』。♀から♂への『性転換を行う』ことが知られている。『付着生物』『や底生動物などを食べる肉食性』で、『これはイラ属の魚類に共通する』。『食用だが、肉は柔らかく』、『うまく捌けば上品な白身だが、評価は普通』、『または』不味いとに『分かれる。また』、『水っぽいという意見もある』。『他種と混獲される程度で漁獲量も少なく、あまり利用されない』。『刺身、煮つけ』『などにされる』とある。畔田の記載が孰れもしっくりくることが判る。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイラのページによれば、「イラ」は「苛」で「苛魚」「伊良」と漢字表記し、もとは『和歌山県田辺、串本での呼び名』とし、『つかまえようとすると』、『逆にかみつきにくる。そのために「苛々する魚(いらいらするさかな)」の意味』とあり、他のネット記載を見ても、可愛い顔の割に、かなり攻撃的で、フィッシング系のイラのページでは釣り人への注意喚起が必ずのようにされている。『旬は晩秋から初夏』で、『鱗は柔らかく大きい。皮はしっかりしているが、柔らかい』。『白身でまったくクセがない。柔らかくつぶれやすい身だが、熱を通すと締まる。ほどよく繊維質で口に入れると適度にほぐれる』。『いいだしが出る』とある。ぼうずコンニャク氏のページの最大の魅力は、それぞれ殆ど全ての海産種について、調理されたものの写真と味が載ることである。なお、「地方名・市場名」の一つに「ブダイ」が挙っており、『最近、市場でもスーパーでもブダイと書かれて入荷するのをみている。また』、『沼津魚の達人で仲買をしている菊地利雄さんによると』、『近年』、『沼津でもブダイと呼ぶことがあるという。これなどは形態からブダイと混同しているのかもしれない』とあった。ベラ亜目ブダイ科ブダイ属ブダイ Calotomus japonicus ということは、時にはブダイと言われて、イラを食わされるケースもあるということだ。ご用心。

「テス」これは多く額部の張り出した「シロアマダイ」・「コブダイ」・「テンス」(これには「天須」の漢字名が当たっている)などの魚の異名に認められる(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」に拠る)から、思いつきに過ぎぬが、「出頭」(でず)が訛って「てす」となったものか?

「シホヤキ」語源不詳。「鹽燒」で「塩焼きにして美味い」か? 或いは、「潮燒」で「潮」に焼けて赤くなっている魚か?

「モブシ」「藻伏」と思われる。これも「オオモンハタ」・「ホウセキハタ」・「ムラソイ」・「コブダイ」・「ヨロイメバル」・「タケノコメバル」・「クロソイ」と多様な魚の異名としてある(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」に拠る)。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 風のあと

 

  風 の あ と

 

夕日(ゆふひ)はなやかに、

こほろぎ啼(な)く。

あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒(すさ)みたる風も落ちて、

夕日(ゆふひ)はなやかに、

こほろぎ啼く。

四十一年八月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂人の音樂

 

   狂 人 の 音 樂

 

空氣(くうき)は甘し……また赤し……黃(き)に……はた、綠(みどり)……

 

晚夏(おそなつ)の午後五時半の日光(につくわう)は晷(かげり)を見せて、

蒸し暑く噴水(ふきゐ)に濡(ぬ)れて照りかへす。

瘋癲院(ふうてんゐん)の陰欝(いんうつ)に硝子(がらす)は光り、

草場(くさば)には靑き飛沫(しぶき)の茴香酒(アブサント)冷(ひ)えたちわたる。

 

いま狂人(きやうじん)のひと群(むれ)は空うち仰ふぎ―

饗宴(きやうえん)の樂器(がくき)とりどりかき抱(いだ)き、自棄(やけ)に、しみらに、

傷(きず)つける獸(けもの)のごとき雲の面(おも)

ひたに怖れて色盲(しきまう)の幻覺(まぼろし)を見る。

 

空氣(くうき)は重し……また赤し……黃に………はた綠(みどり)……

 

  *   *   *   *

    *   *   *   *

 

オボイ鳴る……また、トロムボオン……

狂(くる)ほしき井゙オラの唸(うなり)……

 

一人(ひとり)の酸(す)ゆき音(ね)は飛びて怜羊(かもしか)となり、

ひとつは赤き顏ゑがき、笑(わら)ひわななく

音(ね)の恐怖(おそれ)……はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……

 

彈(ひ)け彈(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

セロの、喇叭(らつぱ)の蛇(へび)の香(か)よ、

はた、爛(たゞ)れ泣く井゙オロンの空には赤子飛びみだれ、

妄想狂(まうさうきやう)のめぐりにはバツソの盲目(めしひ)

小さなる骸色(しかばねいろ)の呪咀(のろひ)して逃(のが)れふためく。

 

彈け彈け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

クラリネトの槍尖(やりさき)よ、

曲節(メロヂア)のひらめき緩(ゆる)く、また急(はや)く、

アルト歌者(うたひ)のなげかひを暈(くら)ましながら、

一列(ひとつらね)、血しほしたたる神經(しんけい)の

壁の煉瓦(れんぐわ)のもとを行(ゆ)く……

 

彈け彈け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……、

 

かなしみの蛇(へび)、綠(みどり)の眼(め)

槍(やり)に貫(ぬ)かれてまた歎(なげ)く……

 

彈け彈け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

はた、吹笛(フルウト)の香(か)のしぶき、

靑じろき花どくだみの鋭(するど)さに、

濁りて光る山椒魚(さんしようを)、沼(ぬま)の調(しらべ)に音(ね)は瀞(とろ)む。

 

彈け彈け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

傷(きずつ)きめぐる觀覽車(くわんらんしや)、

はたや、太皷(たいこ)の悶絕(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ、

窻(まど)の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、

月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……

 

彈(ひ)け彈(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

赤き神經(しんけい)……盲(めし)ひし血……

聾(ろう)せる腦の鑢(やすり)の音(ね)……

 

彈け彈け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

 

  *   *   *   *

    *   *   *   *

 

空氣(くうき)は酸(すゆ)し……いま靑し……黃(き)に……なほ赤く……

 

はやも見よ、日の入りがたの雲の色

狂氣(きやうき)の樂(がく)の音(ね)につれて波だちわたり、

惡獸の蹠(あなうら)のごと血を滴(たら)す。

 

そがもとに噴水(ふきゐ)のむせび

濡れ濡れて薄闇(うすやみ)に入る……

 

空氣(くうき)は重し………なほ赤し………黃(き)に………また綠(みどり)………

 

いつしかに蒸汽(じようき)の鈍(にぶ)き船腹(ふなばら)の

ごとくに光りかぎろひし瘋癲院(ふうてんゐん)も暮れゆけば、

ただ冷(ひ)えしぶく茴香酒(アブサント)、鋭(するど)き玻璃(はり)のすすりなき。

 

草場(くさば)の赤き一群(ひとむれ)よ、眼(め)ををののかし、

躍(をど)り泣き彈(ひ)きただらかす歡樂(くわんらく)の

はてしもあらぬ色盲(しきまう)のまぼろしのゆめ……

午後の七時の印象(いんしやう)はかくて夜(よ)に入る。

 

空氣は苦(にが)し……はや暗(くら)し……黃(き)に……なほ靑く……

四十一年九月

 

[やぶちゃん注:かなりの通常と異なる点や不審点がある。

・第一パート第三連一行目のダッシュ一字分はママ(後の自身の編になる昭和三(一九二八)年アルス版「白秋詩集Ⅱ」では通常の二字分ある)。

・第一パート第四連(最終行)「空氣(くうき)は重し……また赤し……黃に………はた綠(みどり)……」の「黃に」の後のリーダ九点はママ。前記アルス版ではこの詩篇に限らず、殆んどの詩篇のリーダが八点で統一されてある。

・第二パート第二連三行目の「音(ね)の恐怖(おそれ)‥‥はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……」の四点リーダはママ。実は「恐怖」の後には有意な半角空きがあるのだが、これは再現しなかった。半角分が二点リーダの脱活字と採れると言われる方がいるかも知れない。しかし、それは「そうかも知れない」し、「そうではなくて半角空けてある」という可能性が限りなくあるからである。何故かと言うと、本篇に限らず、実は、不規則な字空けが、一々挙げているときりがないほどに、本詩集には多数認められるからである。それら総てが白秋の指示や意図によるものとは、実は、到底、思えないことも事実である。だからと言って、植字ミスで済まされるかというと、実は前記の後発のアルス版では、この空きがもっと頻繁に随所に見られるという事実があるのである(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見られたい)。単にこうした植字のバラつきを彼自身が全く問題にしなかっただけだと考えるのが自然ではあろうが、ルビに異様に凝り、連構成にも拘っている白秋にして、そこだけが杜撰というのは、寧ろ、考え難い気もする。しかし、そこまで忠実に再現すると、実は寧ろ、読む際の音律上の躓き、障害になるばかりで、実は何の有益な効果もないように私には見られるのである。

・第三パート第四連単独一行の「空氣(くうき)は重し………なほ赤し………黃(き)に………また綠(みどり)………」のリーダが総て九点なのはママ。アルス版は他と同じ八点である。

「瘋癲院(ふうてんゐん)」精神病院。

「茴香酒(アブサント)」absinthe で、フランス語。音写するなら「アプサァント」。古くからフランス・スイス・チェコ・スペインなどを中心にヨーロッパ各国でニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium)・アニス(英語 anise。双子葉植物綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum)・ウイキョウ(セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare)などを中心に複数のハーブやスパイスを主成分として作られてきたアルコール度の高い(四十~八十九%)薬草系リキュールの一つ。元はギリシア語の「ヨモギ」を意味する「アプシンシオン」に由来する。

「オボイ」管楽器のオーボエ(英語:oboe)。

「井゙オラ」弦楽器のヴィオラ(英語:viola)。

「バツソ」バッソ(イタリア語:basso)。最低音のバスのこと。

「月琴(げつきん)」は中国のリュート系の撥弦楽器で、満月のような円形の共鳴胴に短い首、琴杵(ちんがん)を持つ。弦数は時代や国によって異なるが概ね二弦から四弦。弦を親指以外の指先で押さえつけて弾片(ピック)で弦を弾いて音を出す。共鳴孔は無い。演奏時は椅子に座りながら月琴を腿の上に置き、胴を自分の体から少し離して弾く。胴内に不安定な金具が仕込んであり、それを振ったり、叩いて音を鳴らす、鳴り胴と呼ばれる機構を備えたものもある。起源は阮咸琵琶や阮と呼ばれるものであるとされているが、よくわかっていない。日本の明清楽でも使われるが、明楽の「月琴」が棹の長い「阮咸」であるのに対し、清楽の「月琴」は胴の丸い円形胴の月琴であり、両者は全く別の楽器である。明楽は清楽に押されて早くに衰退したこともあり、日本で単に「月琴」と言えば、清楽で使う月琴を指す。参照したウィキの「月琴」によれば、『清楽の月琴は長崎経由で中国から輸入されたが、ほどなく日本国内でも模倣製作され、清楽以外の俗曲の演奏にも用いられるようになった。江戸時代から幕末・明治期にかけて大いに流行し、演歌師や法界屋、更には瞽女等にも演奏された』。『司馬遼太郎の歴史小説』「竜馬がゆく」の『中で、坂本龍馬の妻・お龍』(りょう)『がつま弾く描写がある(現在の知名度の高さはそれによるところが大きい)。しかし日清戦争』(明治二七(一八九四)年七月から翌年にかけて起こった。当時、白秋は満九~十歳)『時に「敵性楽器」とされてからは廃れた』とある。リンク先で実物の画像が見られる。

「蹠(あなうら)」この「蹠」(音は「セキ・シャク」。この漢字もルビの「あなうら」も「足の裏」の意。「あ」が「足」、「な」は所有の格助詞「の」)は底本では、「庶」の部分が、「鹿」の「比」の代わりに「从」を入れた奇体な字体である。漢字字形自由共有サイト「グリフウィキ」の「蹠」の異体字にもない。最も近いのはこれである。表記出来ないことを正直示して「※」でやることも考えたが、それは如何にも詩全体の雰囲気を壊すので、ここは現行の正字であるこれで示した。なお、上記アルス版「白秋詩集Ⅱ」では「蹠」を使用している。

2020/10/16

北原白秋 邪宗門 正規表現版 雨の日ぐらし

 

  雨の日ぐらし

 

ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく

刻(きざ)む音(おと)……

 

河岸(かし)のそば、

黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、

 

かくてあな暮れてもゆくか、

驛遞(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)

灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、

おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。

 

さあれ、なほ薰(くゆ)りのこれる

一列(ひとつら)の紅(あか)き花罌粟(はなけし)

かたかげの草に濡れつつ、

うちしめり浮きもいでぬる。

 

雨はまたくらく、あかるく、

やはらかきゆめの曲節(めろでい)……

 

ち、ち、ち、ち、と絕えずせはしく

刻(きざ)む音……

角窻の玻璃(はり)のくらみを

死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。

 

さてあればそこはかとなく

出でもゆく

薄ぐらき思(おもひ)のやから

その步行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。

 

しばらくは

事もなし。

かかる日の雨の日ぐらし。

 

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく

刻(きざ)む音(おと)……

さもあれや、

雨はまたゆるにしとしと

暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……

 

いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、

近く、

はた、遠のく軋(きしり)、

待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の

旗の色(いろ)見えも來なくに、

うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。

 

さあれ、ふと

夕日さしそふ。

瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。

 

あなあはれ、

あなあはれ、

泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、

最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。

 

日の光かすかに消ゆる。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく

刻(きざ)む音(おと)……

雨の曲節(めろでい)……

 

ものなべて、

ものなべて、

さは入らむ、暗き愁に。

あはれ、また、出でゆきし思のやから

歸り來なくに。

 

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく

刻(きざ)む音(おと)……

雨の曲節(めろでい)……

 

灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。

四十一年五月

 

[やぶちゃん注:私の好きな半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis の詩。私はもう楽曲を聴くことが殆んどない。作業しながら聴くのは専ら――亡きアリスと散歩しながら聴いた――それだ。例えば――YouTube のTOMOKI Nature Sounds & Landscapesの「【睡眠用BGM】ひぐらしの鳴き声と川のせせらぎ」――

「驛遞(えきてい)の局(きよく)」郵便局。

「死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる」電話による電報が開始されるのは明治二三(一八九〇)年で、それまでは郵便局で電報を扱っていたから、これは、或いは白秋の記憶の幼少期の記憶に基づくとすれば(彼は明治一八(一八八五)年一月二十五日生まれ)、この電報を打っている場所はやはり同じ「駅遞局」であると考えてよいと私は思う。但し、これは言わずもがな、実際の訃報電報の打電音ではなく、ヒグラシの音を不吉なそれにオノマトペイアとしたもの。その気持ちはひどく判る。

 因みに、私は本電子化終了後に逸早く縦書ルビ版で「邪宗門」全部をPDFで公開するために、一篇を公開後するごとに、ルビ版を作成している。この偏愛の一篇だけをフライングしてお示ししよう

北原白秋 邪宗門 正規表現版 下枝のゆらぎ

 

   下枝のゆらぎ

 

日はさしぬ、白楊(はくやう)の梢(こずゑ)に赤く、

さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

 

  水(みづ)の面(も)のやはらかきにほひの嘆(なげき)

  波もなき病(や)ましさに、瀞(とろ)みうつれる

  晚春(おそはる)の窻閉(とざ)す片側街(かたかはまち)よ、

  暮れなやむ靄の内(うち)皷(つづみ)をうてる。

 

  いづこにか、もの甘き蜂の巢(す)のこゑ。

  幼子(をさなご)のむれはまた吹笛(フルウト)鳴らし、

  白楊(はくやう)の岸(きし)にそひ曇り黃(き)ばめる

  敎會(けうくわい)の硝子窻(がらすまど)ながめてくだる。

 

日はのこる兩側(もろがは)の梢(こずゑ)にあかく、

さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

 

  またあれば、公園(こうゑん)の長椅子(ベンチ)にもたれ、

  かなたには戀慕(れんぼ)びと苦惱(なやみ)に抱く。

  そのかげをのどやかに嬰兒(あかご)匍(は)ひいで

  鵞(が)の鳥(とり)を捕(と)らむとて岸(きし)ゆ落ちぬる。

 

  水面(みのも)なるひと騷擾(さやぎ)、さあれ、このとき、

  驀然(ましぐら)に急ぎくる一列(ひとつら)の郵便馬車(いうびんばしや)よ、

  薄闇(うすやみ)ににほひゆく赤き曇(くもり)の

  快(こころよ)さ、人はただ街(まち)をばながむ。

 

燈(あかり)點(とも)る、さあれなほ梢(こずゑ)はにほひ、

全(また)くいま暮れはてし下枝(しづえ)のゆらぎ……

四十一年八月

 

[やぶちゃん注:「白楊(はくやう)」後の「冷めがたの印象」では白秋「白楊(やまならし)」と読んでいる。これは音数律の関係上での読みの違いであると考えられ、後に引用で示すように、他にも「白楊」を用いて「ぽぴゆら」「はこやなぎ」ともルビするのであるが、これはまず、キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii と採って問題ないと思う。「ヤマナラシ」は「山鳴らし」で、葉がわずかな風にも揺れて鳴ることに由来する標準和名なのだが(この「さざめき」は本篇の「下枝のゆらぎ」と親和性があり、また、白秋好みであるように私は思う)、ヤマナラシは木製の箱の材料にするところ「ハコヤナギ」(漢字表記は「箱柳」「白楊」)の別名がある。但し、白楊には、今一種、同じヤマナラシ属ドロノキ Populus suaveolens の別名としてもあるから、それを同定候補と挙げぬわけにはゆかぬ。ドロノキは水分の多い土壌を好み、よく川岸や湿地などに生えている点では、第二連の光景との親和性を持つとも言える。但し、ドロノキは日本では北海道から中部地方かけてに分布が限定される点では、「邪宗門」総体の空間的な漠然とした南蛮・南方といった属性とは、ややズレがあるように思われる。両者は孰れも属名は「ポピュラス」であるから、言い換えだけを採り上げる限りは、圧倒的にヤマナラシが有利で、白秋が熊本生まれで福岡の柳川育ちであることからも、ヤマナラシの方に遙かに分(ぶ)がある。但し、以前に示した、今野真二氏の論文「イメージの連鎖―詩的言語分析の覚え書き―」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』第三十七号・二〇一六年三月。PDFでダウン・ロード可能)の最後には、『『邪宗門』には、「白楊(はくやう)」(下枝のゆらぎ・暮春)「白楊(ぽぴゆら)」(月の出)「白楊(やまならし)」(冷めがたの印象)「白楊(はこやなぎ)」(赤き恐怖)のように漢字列「白楊」がしばしば使われている。漢字列「白楊」は』、『「ハクヨウ」「ポピユラ」「ヤマナラシ」「ハコヤナギ」といった異なる語にあてられているのであって、白秋の意識は語そのものではなく、漢字列側にあったようにもみえなくはない。そうであるとすれば、語を離れた漢字列そのものが表現の手段であったとみることができ、きわめて興味深い』と記されてあることを考えると、この「白楊」を植物学的に特定種に規定すること自体は、或いは詩想の解析には重要な意味を持たないとも言えるのかも知れない。白秋の詩語への独特のフェティシズム的嗜好は確かにある。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 ふえのね

 

   ふ え の ね

 

ほのかに見ゆる靑き頰(ほ)、

あな、あな、玻璃(はり)のおびゆる。

 

かなたにひびく笛のね、……

靑き頰(ほ)ほのに消えゆく。

 

室(むろ)にもつのるふえのね、……

ふたつのにほひ盲(し)ひゆく。

 

きこえずなりぬふえのね、……

内(うち)と外(そと)とのなげかひ。

 

またしも見ゆる靑き頰(ほ)。

あな、また玻璃(はり)のおびゆる。

四十一年二月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 地平

 

   地  平

 

あな哀(あは)れ、今日(けふ)もまた銅(あかがね)の雲をぞ生める。

あな哀(あは)れ、明日(あす)も亦鈍(にぶ)き血の毒(どく)をや吐かむ。

 

見るからにただ熱(あつ)し、心は重し。

察(はか)るだにいや苦(くる)し、愁(うれひ)はおもし。

 

かの靑き國(くに)のあこがれ、

つねに見る地平(ちへい)のはてに、

大空(おほぞら)の眞晝(まひる)の色と、

連(つ)れて彈(ひ)く綠(みどり)ひとつら。

 

その綠(みどり)琴柱(ことぢ)にはして、

彈きなづむ鳩の羽の夢、

幌(ほろ)の星(ほし)、劍(つるぎ)のなげき、

淸搔(すががき)はほのかに薰(く)ゆる。

 

さては、日の白き恐怖(おそれ)に

靜かなる太鼓(たいこ)のとろぎ、

晝(ひる)領(し)らす神か拊(う)たせる、

ころころとまたゆるやかに。

 

また絕えず、吐息(といき)のつらね

かなたより笛してうかび、

こなたより絃(いと)して消ゆる、――

ほのかなる夢のおきふし。

 

しかはあれ、ものなべて壓(お)す

南國(なんごく)の熱病雲(ねつやみぐも)ぞ

猥(みだ)らなる毒(どく)の譃言(うはごと)

とどろかに歌かき濁(にご)す。

 

おもふ、いま水に華(はな)さき、

野(の)に赤き駒(こま)は斃(たふ)れむ。

うらうへに病(や)ましき現象(きざし)

今日(けふ)もまたどよみわづらふ。

 

あな哀(あは)れ、昨(きそ)の日も銅(あかがね)のなやみかかりき。

あな哀(あは)れ、明日(あす)もまた鈍(にぶ)き血の濁(にごり)かからむ。

 

聽くからにただ熱(あつ)し、心は重し。

思ふだにいやくるし、愁は重し。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:「淸搔(すががき)」「耽溺」に既出既注であるが、再掲する。幾つかの意味があるが、原義を当てる。和琴 (わごん) の手法の一つで、全部の弦を一度に弾いて、手前から三番目又は四番目の弦の余韻だけを残すように、他の弦を左指で押さえるもの。

「拊(う)たせる」「打たせる」に同じ。或いは「軽く叩かせる」の意でもある。遠い雷鳴と読むが、少なくとも、後の「ころころとまたゆるやかに」強烈に叩かせるようにの意ではない。]

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之三 宇野六郞廢寺の怪に逢ふ事 /巻之三~了

 

     宇野六郞廢寺の怪に逢ふ事

 貞治(ぢやうじ)・應安の頃、室町家は細川賴之、義滿將軍を輔佐して、天下を以て任(にん/ワガコト)とすれば、いつしか南方(なんぱう/ヨシノ)の兵、衰へ、九州の勢、疲れ、楠氏(なんし/クスノキ)も兵機を擧ぐるに力たらず、徒(いたづ)に回天の氣を吞み、新田の一族も北越の雪にうづもれ、回復の春をしらず。闔國(かふこく/テンカ)、漸く靜(しづか)に、足利の武威、大いに震ひ、海内(かいだい)一統して、初めて、干戈(かんくわ)ををさむる頃、宇野八郞俊勝、岡部八郞資忠(すけただ)いふ二人の才子あり。父祖は北條家の功臣なりしが、元弘赤族(せきぞく)の後は、いづれに屬するともなく、近頃、都に登りて、もとより一族といひ竹馬の友なりしゆゑ、出づるに、馬をならべ、入るに恥を床(ゆか)を同じうして、水魚のまじはり淺からずといへども、二人の志操(しさう)、大いに異なり、六郞は生質(せいしつ)聽明にして、文學を好み、風月を友とす。八郞は生得、心たけく、膽(きも)太くして、平日、獵(かり)を好み、武事を學ぶの外、餘(よ)をかへりみず。世の人、「荒(あら)八郞」とよびなせり。六郞、常々、八郞が匹夫の勇を諫めて、文學をすゝむれば、八郞、また、武門に生れながら柔弱にして膽氣(たんき)なきことを譏(そし)りて、その趣(おもむき)、異(こと)にして互に容るゝこと、なし。

[やぶちゃん注:「貞治・應安」応安が先で一三六一年から一三六八年まで。

 

「細川賴之」(元徳元(一三二九)年~元中九/明徳三(一三九二)年)は守護大名・室町幕府管領。「観応の擾乱」で将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、第二代将軍義詮(よしあきら)の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の第三代将軍義満の管領として幕政を主導し、南朝との和睦なども図った。義満が長じた後、天授五/康暦(こうりゃく)元(一三七九)年の「康暦の政変」で、一度、失脚したが、その後に赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元と、その子孫が、斯波氏・畠山氏とともに「三管領」として幕政を担った(ウィキの「細川頼之」に拠る)。

「義滿將軍」(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年)室町幕府第三代将軍(在職:正平二三/応安元(一三六八)年~応永元(一三九五)年十二月)。南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。これが後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった(ウィキの「足利義満」に拠る)。

「楠氏」楠正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。「湊川の戦い」で自害した。

「新田」新田義貞(正安三(一三〇一)年頃~延元三/建武五(一三三八)年)。「藤島の戦い」で燈明寺畷(なわて)に於いて討たれて戦死した。孰れにしても、確かに最初に示した時制の中には含まれてはいるものの、その閉区間のごく早い時期に世を去っており、その時制後では既に南朝方の勢力も減衰して、室町時代の安定期にあるのであるから、初っ端の時制提示そのものが如何にも大雑把に過ぎて、正直、リアリズムを欠いている。しかも元号の順序を逆にしてしまうという不審も含め、どうにも、またしても気に入らない。今までもあったように、作者が本篇の内容が虚構であることを謂わずもがなに臭わすための確信犯なのか、ともかくも、またまた厭な仕儀なのである。

「闔國」「闔」(コウ)は「総て・蔽(おお)う」の意。全国。

「海内」四海(四方の海)の内。国内或いは天下。

「干戈」「干(たて・楯)」と「戈(ほこ・矛)」の意。戦争。

「宇野八郞俊勝」不詳。

「岡部八郞資忠」不詳。底本は「すけさだ」と誤っているのを原本で訂した。

「北條家」鎌倉幕府のそれ。

「赤族」意味不明。天子の赤子たるべき北条一族が朝敵となって「賊」(族)として滅ぼされたことを謂うか。]

 

 六郞、或る日、鞍馬の邊に所用ありて出でたりしが、秋の日の暮れやすき、殊に、折しる[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「しも」或いは「しきる」の原本の誤記・脱字か。]時雨(しぐれ)に、路、うるほひ、おもひの外に日を暮して、從者(じうしや)とても具せざれば、唯一人、北山道をたどるに、雷雨、夥しく、咫尺(しせき)も見えわかねば、

「暫し。」

と路の邊(ほとり)の辻堂と覺しき軒(のき)にたゝずみて、晴間を待つうち、奧を見やるに、燈(ともしび)、かすかに、人のけはひするに、

『さては。行(おこなひ)すましたる世捨人にてあるや。かく、人家はなれたる所にひそみゐたらんは、心も、さぞや、澄み侍(はべ)るらん。』

とおもふより、立寄りて、發心(ほつしん)のいはれをもきこえたく、おとづるゝに、主(あるじ)の僧は、圍爐(ゐろ)の邊(へん)にうづくまりて、念誦し居給ひしが、六郞を見て、「常住の田(でん)荒れて、淸衆(せいしゆ/シユツケ)も、ちりうせてよりは、檀越(だんをつ)の、履(くつ)をいれたる事もなき草庵に、めづらかなる賓客(まらうど)なり。」

と、親しき言葉に、六郞も爐邊(ろへん)に居よりて、木の葉、折りくべて、共に世の興廢などを物語るに、主僧、器(うつはもの)に椎(しひ)をもりて、出(いだ)す。

 六郞、數粒(すうりふ)を食して、味、また世の常ならず。

[やぶちゃん注:「鞍馬」現在の京都市左京区鞍馬本町周辺(グーグル・マップ・データ)。京に冥い私の数少ない好きな所で、二度、訪ね、鞍馬越えもした。

「北山道」鞍馬から貴船口を経て南下して京都市街の「北山通」へ向かう道(グーグル・マップ・データ)。

「圍爐」囲炉裏(いろり)。

「常住の田」寺院の僧侶の斎料(ときりょう:食事)に当てるための田畑。

「淸衆」修行僧。「清浄大海衆」(しょうじょうだいかいしゅう)の略。元は広く出家教団や叢林などに修行する僧衆を指す。インドの四大河の水が海中に入れば、元の川の名を捨てて、全て一味の「大海」の水と呼ばれるように、出家すれば、以前の俗界の姓名から解き放たれて、解脱一味の「清浄」の「衆」となることを指す。

「檀越」檀家。僧は広く非僧の大衆をかく称する。]

 

 暫くありて表に人の聲するに、主僧云く、

「秀才、驚くことなかれ。この所、閑寂なるをもて、山林の隱士、巖下(がんか)の道人(だうにん)、こゝに集りて參話(さんわ)す。秀才も席に列(つらな)りて斷腸(だんちやう)を、あらひたまへ。」

とあるに、六郞、よろこびて待ちゐたるに、程なく入來(いりきた)るを見れば、長(たけ)七尺有餘(あまり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])にして僧とも俗とも見えわかぬが、髮・鬚、おどろに亂れ、兩眼、黃にして、霜の眉、たれたるをかかげて、座につくあり。

 或(あるひ[やぶちゃん注:原本のママ。])は、衣の破れたるに肩をあらはし、頭、とがり、耳、ながく、面(おもて)、漆をさしたるごときが、鉢(はち)の子(こ)をさゝげたるあり。

 又は、頭を布(ぬの)やうの物にてつゝみて、身には襤褸(らんる/ツヾレ)をまとひ、形、枯木(こぼく)のごとく、面、するどに、眼(まなこ)は日月のごとくなるもあり。

 異相の者、五、六人、おのおの、主僧に禮をほどこして、座につく。

 六郞、大いに驚き、魂(たましひ)、身につかず、ふるひながらも、末座(ばつざ)に窺ひ居る。

 主僧云く、

「今宵、秀才の來(きた)るあり。われ、これをとゞむ。各位(かくゐ/ミナミナ)とがむることなかれ。」

[やぶちゃん注:「隱士」世を厭うて隠棲する者。

「道人」同前であるが、特に神仙の術を学び行う者。

「鉢(はち)の子(こ)」布施行脚に用いる鉄鉢(てっぱつ)。

「末座(ばつざ)」底本は『まつざ』と振るが、原本に従った。]

 

 座客、みな、諾して、六郞を顧みて笑うて云く、

「秀才を慰めんため、薄術(はくじゆつ)を呈すべし。」

とて、一人、空(そら)に向うて、秘文と覺しく唱ふれば、一聲の霹靂(へきれき)ひらめき、黑雲、庵にみちて、中に小龍ありて、飛動して遂に鐡鉢(てつぱつ/ハチノコ)にとゞまる。

 一人、手を拍(はく/ウツ)すれぱ、大風、樹木を倒し、瓦をとばせて、一陣(いちぢん/ヒトシキ)吹きしきりて、俄(にはか)に雲晴れて、龍(りやう)の所在をしらず。

 六郞、初より、魂、とんで、徧身に汗を流し、面、土のごとし。

 主僧、笑つて、

「無益(むやく)の戯(たはむれ)に賓客(まらうど)を怖れしむることなかれ。」

と制したまへば、座客、席を正(たゞ)して餘事を論ず。

[やぶちゃん注:「空(そら)」底本にルビなく、原本のルビ。しかし、ここは「くう」と読みたいところ。その庵の中の部屋の上の空間である。以下の霹靂も黒雲も小龍もそこに出来(しゅったい)するのであるからである。]

 

 その語るところ、多くは上世(じやうせい/ムカシ)のことにして、當代の事にあらず。

 兎角(とかく)するうち、一人、表の方(かた)を見やりて、大きに驚き、

「荒八郞こそ來りたれ。」

といふほどこそあれ、主僧は、走りて眠藏(めんざう)にかくれ、座客は狼狽して四散す。六郞も、

『こは、そも、かゝるあやしき上に、いかなるものゝきたるやらん。』

と、逃(のが)るゝ路(みち)なければ、床(ゆか)の下にかくれて窺ふに、把火(たいまつ)に路をてらして來(きた)るものあり。

[やぶちゃん注:「眠藏」底本は誤って「眼藏」としている(ここのみ)。原本が正しいので訂した。これは狭義には禅宗に於いて寝室・納戸 (なんど) などの住持の寝間や私室を指す。

「把火(たいまつ)」松明に同じ。]

Tukumogami

[やぶちゃん注:底本挿絵をトリミングし、清拭の後、ズレがあるので、補正を加えて両幅を寄せておいた。]

 

 おそろしとは思へども、ちかづくを、よくよく見れぱ、朋友八郞なり。

 六郞、蘇(よみがへ)りたる心地して、あらましをかたれば、八郞、笑つて云く、

「足下のかへり遲きをいぶかり、迎へになん、まかりたるなり。足下のみるところ、狐狸(こり/キツネタヌキ)のたぐひの妖(えう/バケ)をなすなるべし。さるにても妖怪すら、人間に荒八郞あるをしりて怖るゝこそ本意(ほい)なれ。」

とて、把火(たいまつ)をもちて、席をてらせば、『器に椎をもりたり』と覺えしは、破れたる鐵鉢に鼠糞(そふん/ネズミクソ)、うづたかく滿ちたり。

 圍爐(ゐろ)は護摩壇(ごまだん)のくづれたるにて、別に物なし。眠藏と覺しきを尋ぬるに、古佛(こぶつ/フルボトケ)の支分(しぶん/テアシ)欠損(かけそん)じたるが、一體、たふれたる、あり。

 主僧と見えしは、是なるべし。

「されども、その餘のものこそ訝(いぶか)しけれ。」

とて、くまぐまを尋ねもとむるに、簷(のき)の下なる所に、十六羅漢・仁王などの、或(あるい)は片身(けんしん/カタミ)、あるは手足もかけ損じたるが、五、六體、まろびゐたり。

「必定(ひつじやう)、妖怪は此ものどもの業(わざ)なるべし。『物、千載におよぶときは、必ず妖(よう/バケ)をなす』といふ。あやしむにたらず。」

と、八郞、一所に束縛(そくばく/シバル)して、火をつけて、是を燒きすつ。

 六郞は、神氣(しんき)、いまだ定まらず。

 八郞云く、

「足下(そこ)、平日の文學、胸中(きやうちう[やぶちゃん注:ママ。])萬卷(〔ばん〕ぐわん)の書、今、用ゐるに、いかん。鼠糞に飽くより、外(ほか)、なし。」

と笑ふ。

 六郞、更に言葉なし。

 夜、已に明けたれぱ歸らんとするに、六郞云く、

「かゝる古物を存するをもて見れば、この所一大伽藍(がらん/テラ)の舊趾(きうし/テラノアト)なるべし。斷碑(だんぴ/ワレタルイシブミ)の類(るい[やぶちゃん注:原本のママ。])にても埋(うづも)れあらんも、はかりがたし。いざや、尋ねん。」

とて、八郞もろとも、四面をもとむるに、西南(にしみなみ)の叢(くさむら)の中(なか)に、丈餘[やぶちゃん注:一丈は三・〇三メートル。]の大石(たいせき)、倒れふす。

 苔を拂ひて、よくよく見れば、碑石なり。

「さては。」

とて讀まんとするに、文字も剝落(はくらく)して纔(わづか)に數十字(す〔じふ〕じ)を辨ずべし。

 水をそゝぎ、苔をうがち、からうじて、其大略を見るべきに、八郞に向ひて、

「足下(そこ)、試みに是を讀んで、寺の來歷をしらしむべし。」

といふに、八郞云く、

「前言の報い、早くきたれり。文字の小敵(せうてき)は足下(そつか)にゆづる。」

と笑ふに、六郞、碑文を讀み畢(をは)りて云く、

「寺を莊嚴寺(しやうごんじ)と名づけ、本願上人は智證大師、檀越(だんをつ)は藤原の關雄(せきを)、碑文、菅原淸岡(すがはらきよをか)作なり。關雄は内磨呂(うちまろ)の孫眞夏(まなつ)の息にて、世に東山進士(とうざんしんし)と稱する人なり。淸岡は善主(よしぬし)の叔父にて冨時の宿儒(しゆくじゆ)なり。寺のふるきを知るべし。六百年餘(よ)の古物(こぶつ)存(そん)したるこそ幸(さいはひ)なれ。よしや、殘簡斷碑にもせよ、名儒(めいじゆ)の大作(たいさく)、なんぞ、賞せざらんや。今時〔こんじ〕、杜撰(づさん)の者、みだりに名を貪りて、金石に彫(ゑ)りて、醜(しう/ミニクキ)をあらはし、臭(しう/クサキ)を賣る類(たぐひ)と比せば、玉(たま)と瓦(かはら)とのたぐひにも、あらず。」

と、限りなくよろこぶに、八郞、

「妖(よう/バケモノ)は某(それがし)が武名に伏し、疑(うたがひ)は足下(そこ)の文才に、はれたり。」

と笑ヘば、六郞云く、

「古佛は足下(そこ)の毒手に死し、舊碑は某(それがし)が愛養(あいよう)に生きたり。物の幸・不幸、同じからずといへども、靜(しづか)なるをまもり、辱(はづかしめ)を忍びたる舊碑(きうひ/フルキイシブミ)の德なり。」

とて、うちつれて歸りしが、幾程なく、六郞は、細川賴之、推擧して、義滿公の師範となりて、文名(ぶんめい)世にかくれなく、八郞は、明德の亂に戰功ありて、數箇所(すかしよ)を、あて、行(おこな)はれ、後(のち)には鎌倉にくだりて、上杉叛逆(はんぎゃく)の頃まで、存命して度々(たびたび)の忠戰(ちうせん[やぶちゃん注:ママ。])に家名をおこして、子孫、東國に榮えたりとぞ。

 

 

席上奇観垣根草三之巻終

[やぶちゃん注:「物、千載におよぶときは、必ず妖(よう/バケ)をなす」付喪神(つくもがみ)である。ウィキの「付喪神」によれば(一部の記号を省略・変更した)、『日本に伝わる、長い年月を経た道具などに』『精霊(霊魂)などが宿ったものである。人をたぶらかすとされた。また、「伊勢物語」の古注釈書である「伊勢物語抄」(冷泉家流伊勢抄)』(室町時代の成立。巻末に冷泉為秀など、三人の奥書を持ち、藤原為家自筆本を今川了俊(りょうしゅん)に与えたと伝えるが、疑わしい)『では、「陰陽記」』(おんみょうき)『にある説として百年生きた狐狸などが変化したものを「つくもがみ」としている。現代では九十九神と表記されることもある』。『「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代の御伽草子系の絵巻物「付喪神絵巻」に見られるものである。それによると、道具は』百『年という年月を経ると』、『精霊を得て』、『これに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、「伊勢物語」』の第六十三段の『和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている』。『「付喪神絵巻」に記された物語は次のようなものである。器物は百年経つと精霊を宿し』、『付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていた。廃棄された器物たちが腹を立てて』、『節分の夜に妖怪となり』、『一揆を起こすが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依をする』。『物語のなかで語られている「百年で妖怪になる」などの表現は厳密に数字として受け止める必要はなく、人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得し、自ら変化する能力を獲得するに至るということを示しているのであろうと解釈できる』。『「つくもがみ」という存在を直接文中に記している文献資料は、「付喪神絵巻」を除くと、「伊勢物語」の古注釈書に「つくも髪」の和歌の関連事項としてその語句の解釈が引かれる以外には確認されておらず、その用例は詳細には伝来していない。「今昔物語集」などの説話集には器物の精をあつかった話が見られたり』(巻第二十七の「東三條銅精成人形被掘出語第六」(東(ひんがし)三條の銅(あかがね)の精、人の形と成りて掘り出だされたる語(こと)第六)。「やたがらすナビ」のこちらで読める(新字))、『おなじく絵巻物である「化物草紙」では、銚子(ちょうし)などが化けた話、かかしが化けた話などが描かれているが、「つくもがみ」といった表現は見られない。江戸時代の草双紙などにもほとんど「付喪神」という表現は使われていない』。『小松和彦は、器物が化けた妖怪の総称としての「つくも神」は中世に最も流布したものであり、近世には衰退した観念であった。幕末になり』、『浮世絵の題材として器物の妖怪は再浮上したものの、それは「つくも神」の背景にあった信仰とは切り離された表現だった、と考察している』。『付喪神が描かれている「付喪神絵巻」では、物語の冒頭に「陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」とあり、道具が変化することを「付喪神」としている』(但し、「陰陽雑記」(諸本に引用はあるが、これ自体も十六世紀に成立したとされるものの、現在、実物は見当たらない。架空の書である可能性が高いようである)及び先の「伊勢物語抄」に引用されている「陰陽記」という書物の実在は確認されていない)。『本文中、それらの姿は「男女老少の姿」(人間のかたち)「魑魅悪鬼の相」(鬼のかたち)「狐狼野干の形」(動物のかたち)などをとっていると文章には表現され、絵画に描かれている』。『また、変化したのちの姿は「妖物」などと表記されている』。『「付喪神絵巻」よりも先行していると見られる絵巻物にも、道具がモチーフとなっている妖怪を絵画で確認することは出来、「土蜘蛛草紙」』(現存最古とされるものは東京国立博物館蔵で十四世紀の成立)『には、五徳が頭についているものや、手杵に蛇の体と人の腕が』二『本くっついたものや、角盥(つのだらい)に歯が生えそのまま顔になっているものなどが描かれている。また、角盥がモチーフとなったとおぼしい顔は「融通念仏縁起」』(平安後期に融通念仏宗をおこした良忍の事績並びに念仏の功徳について説いた説話を描いた絵巻物。原本となった絵巻物は諸本の下巻奥書にある年号から正和三(一三一四)年成立とみられているが、現存している多くの同種の絵巻物は南北朝から室町にかけて製作されたものである)『や「不動利益縁起絵巻」』(南北朝の十四世紀の成立とされるが、絵の筆致などは鎌倉末期に遡るものと言われる)『に描かれている疫神にほぼ同様のかたちのものが描かれている。ただし、いずれも道具だけではなく、動物や鬼のかたちをしたものと混成している。これは「付喪神絵巻」や』、室町時代の作者不詳の『「百鬼夜行絵巻」などにも見られる特徴である』。『室町時代の作例であるとされる』、『現存品も確認されている「百鬼夜行絵巻」は、道具の妖怪と見られるものが多く描かれている。現在では』、『これら道具の妖怪たちは「付喪神を描いたもの」であると考えられてもいる。また、もともと「百鬼夜行絵巻」に描かれている行列の様子は「付喪神絵巻」に見られる妖物たち(年を経た古物)の祭礼行列の箇所を描いたものではないかとも考察されている』。『道具を人格のある存在としてあつかっている作品には、他に「調度歌合」(ちょうどうたあわせ)という』、『道具たちが歌合せをおこなうという形式をとったものも室町時代以前に存在しており、「付喪神絵巻」などで道具が変化』(へんげ)『する対象としてあつかわれている』の『と近い発想であるとも考えられる』とある。

「神氣」正常な精神状態。

「莊嚴寺」鞍馬への北山道付近には、この寺名・旧跡を認めることは出来ない。

「本願上人」開山僧。

「智證大師」(弘仁五(八一四)年~寛平三(八九一)年)平安前期の僧。延暦寺第五世座主。天台宗寺門派の祖。俗姓和気氏。母は空海の姪。十五歳で叡山に登り、座主義真に師事。二十歳で官試に及第し、菩薩戒を受けた。以後、十二年間、籠山修行し、仁寿元 (八五一)年、内供奉十禅師。同三年に入唐し、以後五年の間、中国各地で顕密両教などを学んで、天安二(八五八)年に帰国、四百四十一部一千巻の経疏を伝えた。叡山山王院に住し、園城寺を再興、貞観五(八六三)年、同寺に灌頂壇を設け、同八年には園城寺別当(長吏)となった。同十年以後、実に二十三年の間、天台座主を務めた。元慶七(八八三)年、法眼和尚位、寛平二(八九〇)年、少僧都となる。円珍以後、第九世長意を除き、第十三世尊意に至る七代の座主は、悉く円珍の門下から出た。没後の延長五(九二七)年、智証大師を追諡(ついし)。著作に「伝教大師略伝」他がある名僧(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「檀越」ここでは開基に相当する。

「藤原の關雄」(延暦二四(八〇五)年~仁寿三(八五三)年)平安前期を代表する文人。左大臣藤原冬嗣の兄で、参議の藤原真夏(右大臣藤原内麻呂の長男)の第五子。天長二(八二五)年春、文章生試に合格したが、「閑退を好み、常に東山の旧居に在りて、林泉を耽愛」し出仕せず、「東山進士」と呼ばれた(「文徳実録」)。淳和上皇はその人となりに感じて、再三、要請し、優礼を以って近臣に迎えている。淳和から琴の秘譜を賜る一方、その求めに応じて南池院・雲林院(孰れも淳和ゆかりの離宮)の壁に文字を書いた。和歌にも秀で、この期に於ける和歌復興の機運を盛り上げた一人である。詩歌は「経国集」や「古今和歌集」に収められている。彼の東山の旧居は「見返り阿弥陀如来」で知られる禅林寺(通称永観堂)となっている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。因みに「見返り阿弥陀如来」は私の好きな仏像の一つである。

「菅原淸岡」平安初期の公卿で文人であった、菅原古人の四男、左京大夫菅原清公(きよきみ/きよとも)の弟というぐらいしか判らぬ。今に漢詩が残る。

「善主」菅原善主(延暦二二(八〇三)年~仁寿二(八五二)年)は平安前期の官人。清公の三男で、道真の叔父に当たる。容儀美しく、弁才があったとされ、天長二(八二五)年、文章生試に及第、その後、弾正少忠となった。承和元(八三四)年、藤原常嗣が遣唐大使に任ぜられた際、判官に任命され、親子二代(父清公も判官として入唐)が起用されたことになる。同三年七月に出発したが、渡海は困難を極め、三度目にして、漸く実現した。これが事実上、最後の遣唐使派遣となった。同六年八月に帰国、翌九月には、その功で従五位下に昇進、その後、伊勢介・主税頭などを歴任、仁寿二(八五二)年六月には勘解由次官となったが、その五ヶ月後に病没した。

「宿儒」年功を積んだ儒者のこと。

「愛養」慈しみ、大切に保護すること。

「明德の亂」元中八/明徳二(一三九一)年十二月に起きた山名氏清・満幸の反乱。室町幕府第三代将軍足利義満は、当時、十一ヶ国の守護を兼ねて勢力を誇っていた山名氏を押えるため、山名氏一族の内紛に乗じて、満幸を丹波に追放したが、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵、氏清も和泉から京に迫った。義満は細川・畠山・大内氏の軍勢を動員してこれに応戦、満幸は伯耆に逃れ、氏清は戦死して反乱は鎮圧された。この乱により、山名氏の守護大名としての勢力は減退した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上杉叛逆」応永二三(一四一六)年に前(さき)の関東管領上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」であろう。]

2020/10/15

畔田翠山「水族志」 アマダヒ (アマダイ)

 

(七)

アマダヒ 一名ナベクサラシ【淡州北村】シラ【紀州田邊】クズナ【大和本草】ヲキツダヒ【本朝食鑑】コビル【物類稱呼出雲】方頭魚

華夷考閩中海錯疏漳州府志八閩通志俱曰方頭魚似棘鬣頭方味美閩書曰福州人謂之國公魚言其方如國公頭上冠也或云當作芳言芳香也華夷考曰其頭味芳香也本朝食鑑曰一種有頭角扁小而嘴尖鱗鬐淺紅者比タヒ則細小不過一尺餘許然味極甘美肉亦脆白名曰甘鯛或曰興津鯛是駿河興津多產也大和本草曰方頭魚鼻ノ上他魚ヨリ高シ目モ高ク付ケリ色ハ「タヒ」ノ如ニシテ長シ「タヒ」ヨリ性カロシ肉ヤハラカ也此魚紅白ノ二種アリ白色ニ乄微ニ淡紅色ヲ帶ルヲ白アマダヒ【紀州若山】ト云一名ドウマ【同上】本朝食鑑ニ或曰甘鯛之大者色帶白而味不美此謂白皮甘鯛云々白色ノ者味美乄魚價モ貴ク漁人甚賞之物類稱呼曰駿河興津ニテ多ク是ヲトル鱗ニ富士ノカタチ有ト云傳フ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(七)

アマダヒ 一名「ナベクサラシ」【淡州北村。】・「シラ」【紀州田邊。】・「クズナ」【「大和本草」。】・「ヲキツダヒ」【「本朝食鑑」。】・「コビル」【「物類稱呼」。出雲。】・「方頭魚」

「華夷考」「閩中海錯疏」・「漳州府志」・「八閩通志」、俱〔とも〕に曰はく、『方頭魚、棘鬣〔タヒ〕に似て、頭、方〔はう〕なり。味、美〔よ〕し』と。「閩書」に曰はく、『福州の人、之れを「國公魚」と謂ふ。言〔いひ〕は、其れ、方にして、國公の頭上の冠のごとければなり』と。或いは云はく、『當〔まさ〕に「芳」に作るべし。言〔いひ〕は「芳しき香」あればなり』と。「華夷考」に曰はく、『其の頭の味、芳香あるなり』と。

「本朝食鑑」に曰はく、『一種、頭に角〔かど〕ありて、扁〔ひらた〕く、小にして、嘴〔くちばし〕、尖り、鱗・鬐〔ひれ〕、淺紅なる者、有り。「タヒ」に比するときは、則ち、細く小なり。一尺餘許りに過ぎず。然れども、味、極めて甘美なり。肉も亦、脆く、白し』。『名づけて「甘鯛」と曰ふ。或いは、「興津鯛」と曰ふ。是れ駿河の興津に多產するなり』と。

「大和本草」に曰はく、『方頭魚(クズナ)、鼻の上、他魚より高し。目も高く付けり。色は「タヒ」のごとくにして、長し。「タヒ」より、性〔しやう〕、かろし。肉、やはらかなり』と。

此の魚、紅白の二種あり、白色にして微〔かすか〕に淡い紅色を帶〔お〕ぶるを「白(しろ)アマダヒ」【紀州若山。】と云ふ。一名「ドウマ」【同上。】。

「本朝食鑑」に、『或いは、曰はく、甘鯛の大なる者は、色、白を帶びて、味〔あぢは〕ひ、美〔び〕ならず。此れを「白皮(しら)甘鯛」と謂ふ』云々。

白色の者、味、美にして、魚の價〔あたひ〕も貴〔たか〕く、漁人、甚だ之れを賞す。

「物類稱呼」に曰はく、『駿河興津にて、多く、是をとる。「鱗に、富士のかたち、有る」と云ひ傳ふ』と。

 

[やぶちゃん注:本文はここから次のページまで。これはアマダイで、京阪で「グジ」の名で親しまれ、西京漬けなどにされるスズキ目スズキ亜目キツネアマダイ(アマダイ)科アマダイ属 Branchiostegus のうち、本邦近海産は以下の四種。

アカアマダイ Branchiostegus japonicus

シロアマダイBranchiostegus albus

キアマダイ Branchiostegus auratus

スミツキアマダイ Branchiostegus argentatus

孰れも全長は二十~六十センチメートルほど。体は前後に細長く、側扁する。頭部は額と顎が角張った方形で、目は額の近くにあり、何となく、とぼけた、或いは、可愛らしい顔をしている。現行、食用ではシロアマダイを最美とする。畔田が人見必大の「本朝食鑑」に反論するように付け加えているのは賛同出来る。

「ナベクサラシ」「鍋腐らし」。これは実は不名誉な名前で、どうも、煮ると生臭くなり、勢い、誰も手を出さない結果、鍋をダメにしてしまう(生臭さが移る)という謂いらしい。特にアカアマダイを指すようである。カジカのような美味な魚をしばしば「ナベコワシ」(あまりの美味さに皆で鍋を突っく結果、鍋が壊れる」と異名するのと正反対であるのが面白い。コブダイ(ベラ亜目ベラ科コブダイ属コブダイ Semicossyphus reticulatus)の異名にも「ナベクサラシ」があった。調べてみるに、どうも旬の問題らしく、アマダイやコブダイは秋・冬・春が寒い時期が旬であり、夏場に獲れたそれらは美味くないことに由来するように思われる。これは、同種がもともと脂肪分が少なく、淡白であるかわりに、柔らかく、水っぽいという食感にも起因するのかも知れない。

「淡州北村」海浜で旧村名で「北村」を有するのは「草加北村」で、現在の兵庫県淡路市草香北(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか。北を除く東村・西村・南村は「徳島大学附属図書館」の「貴重資料高精細デジタルアーカイブ」のこちらの古地図(寛永一八(一六四一)年頃)内に見つけたが、単独の「北村」は遂に見出せなかった。

「シラ」「白(しら)」でシロアマダイであろう。

「クズナ」シロだのアカだのを限定して指すという記載が散見されるが、アマダイの総称と考えてよい。古書には「屈頭魚(くずな)」とあり、頭がへこんだように見えることに由来していると考えられます。サイト「プライドフィッシュ」にまさに後に出る「コビル(アカアマダイ)」の標題で産地を島根県として出し、そこに『アマダイという名前の由来は、身に上品な「甘」みがあることや、横顔を見ると』、『頭を眼のすぐ前で切り落とした様な顔つきをしており、頬被りした「尼」僧に似ていることからきていると言われています』とし、『このアカアマダイのことを、島根県では「コビル」と呼んでいます。これは、アカアマダイが鯛と名前のつく他の魚に比べて大きくならないことからついたとされる呼び名。ほかに「クズナ」という地方名もありますが、古書には「屈頭魚(くずな)」とあり、頭がへこんだように見えることに由来していると考えられます』とある。今一つ、「コビル」の由来が判らぬので、さらに調べてみたところ、サイト「日本の旬・魚のお話」の「甘鯛(あまだい)」に、『島根の方言辞典に「コビル・コビリ、甘鯛をいう」とあり、また、「コビレル、発音』(「発育」の誤りか)『不全で大きくならないこと」としてある。鯛と呼ばれる他の魚に較べ、小型であることの呼名であろう』によって概ね了解できた。

「大和本草」江戸時代の儒者・医師で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年:名は篤信。黒田侯祐筆職貝原寛斎の五男。長崎で医学を修め、明暦元(一六五五)年に江戸に出て,翌年より黒田光之に仕え、藩医となった。寛文四(一六六四)年、三五歳で福岡に帰り、藩儒の実務をとった。同五年から死に至るまでの五十年間に、全九十八部二四七巻の著述を成し、儒学・医学・民俗・歴史・地理・教育などの各分野で先駆者的業績を残した)が七十九歳の時に完成、翌年に刊行された。明の李時珍の「本草綱目収載品の中から、日本に産しないもの及び薬効性の疑わしいものを除き、七百七十二種を採って、さらに他書からの引用及び日本特産品と、西洋からの渡来品などを加え、実に千三百六十二種の薬物を収載している。全体としては博物学的な傾向にあるが、しばしば薬効にも触れており、「養生訓」とともに益軒の代表作とされる。但し、彼は生涯の大半を福岡藩で過ごしたことから、種同定に大きな誤りがあり、それに対する小野蘭山の批判が、蘭山の「本草綱目啓蒙」の成立の一因ともなった。「大和本草」の水族の部は、先般、その総ての電子化注を終えている。以上の引用部も「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」で電子化注してある。以下もそこで私が施した「○方頭魚(くずな)」の部分の訓読を参考にした。

「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。以上の引用部は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の訓点に拠って訓読した。但し、二箇所に別けて出している。ここの左頁の五行目から十行目がそれであるが、畔田は途中の一部をカットしており、それをまた、本文内では分割して出している。省略部が判るように引用途中に二重鍵括弧を挿入してある。

「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「甘鯛」は巻二の「動物」の「棘鬣魚(たひ)」の小見出しに出る。以下の引用はPDFで所持する(岡島昭浩先生の電子化画像)昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った。

   *

甘鯛、畿内西國、東武共に「あまだひ」と呼。出雲にて◦こびるといふ。關東にて◦興津鯛と呼(駿州興津にて多く是をとる。鱗に富士のかたち有と云つたふ)

   *

「華夷考」(かいかこう)以下、漢籍であるから、これは明の慎懋官(しん ぼうかん)撰になる「華夷花木鳥獣珍玩考」のことであろう。

「閩中海錯疏」(びんちゅうかいさくそ)明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「八閩通志」明の黄仲昭の編になる福建省の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「國公の頭上の冠」中国の皇帝や国王(古くは本邦でも)が頭に被った冕冠(べんかん)。冠の上に冕板(延とも)と呼ばれる長方形の木板を乗せ、冕板前後の端には旒(りゅう:宝玉を糸で貫いて垂らした飾り)を垂らした。中文ウィキの画像(明朝定陵出土の十二旒冕冠)をリンクさせておく。

「駿河興津」現在の静岡県静岡市清水区興津本町はここ(グーグル・マップ・データ)。

「鱗に富士のかたち、有る」個人ブログ「世の中のうまい話」の「甘鯛(アマダイ)」に、『「駿河湾沿岸で獲れるアマダイのウロコは富士山の形をしている」と言い伝えられ、縁起物としてもてはやされた。しかし、一般的に何処で獲れてもウロコは山の形をしているようだ』とされ、『ちなみに、徳川家康が天ぷらの食べすぎで死んだと言う話は有名だが、アマダイの天ぷらだったと言うのが最も有力』で、『イワシであったとか、真鯛であったとか言う人もいるようです』とある。サイト「ORETSURI」の編集長であられる平田剛士氏の書かれた「アマダイの若狭焼きを上手につくるなんて10年早えよ」にあるこの画像がよい。確かに!🗻富士山🗻!]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 黑船

 

Kurohune

 

   黑  船

 

黑煙(くろけぶり)ほのにひとすぢ。……

あはれ、日は血を吐く悶(もだえ)あかあかと

濡れつつ淀(よど)む惡(あく)の雲そのとどろきに

燃え狂ふ戀慕(れんぼ)の樂(がく)の斷末魔(だんまつま)。

遠目(とほめ)に濁る蒼海(わだつみ)の色こそあかれ、

黑潮(くろしほ)の水脈(みを)のはたての水けぶり、

はた、とどろ擊(う)つ毒の砲彈(たま)、淸(すず)しき喇叭(らつぱ)、

薄暮(くれがた)の朱(あけ)のおびえの戰(たゝかひ)に

疲れくるめく衰(おとろへ)ぞああ音(ね)を搾(しぼ)る。

 

黑煙(くろけぶり)またもふたすぢ。――

序(じよ)のしらべ絕(た)えつ續きつ、いつしかに

黑(くろ)き惱(なやみ)の旋律(せんりつ)ぞ渦(うづ)卷(ま)き起る。

逃(に)げ來(く)るは密獵船(みつれうせん)の旗じるし、

痍(きずつ)き噎(むせ)ぶ血と汚穢(けがれ)、はた憤怒(いきどほり)

おしなべて黃ばみ騷立(さわだ)つ樂(がく)の色。

空には苦(にが)き嘲笑(あざけり)に雲かき亂れ、

重(おも)りゆく煩悶(もだえ)のあらびはやもまた

黑き恐怖(おそれ)のはたためき海より煙る。

 

黑煙三すぢ、五すぢ。――

幻法(げんぱふ)のこれや苦(くる)しき脅迫(おびやかし)

いと淫(みだ)らかに蒸し挑(いど)む疾風(はやち)のもとに、

現れて眞黑(まくろ)に歎(なげ)く樂(がく)の船、

生(なま)あをじろき鱶(ふか)の腹ただほのぼのと、

暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、

血の甲板(かふはん)のうへにまた爛(たゞ)れて叫ぶ

樂慾(げうよく)の破片(はへん)の砲彈(たま)ぞ慄(わなゝ)ける。

ああその空にはたためく黑き帆のかげ。

 

黑煙終に七すぢ。――

吹きかはす銀(ぎん)の喇叭もたえだえに、

渦卷き猛(たけ)る樂(がく)の極(はて)、蒼海(わだつみ)けぶり、

惡(あく)の雲とどろとどろの亂擾(らんぜう)に

急忙(あわたゞ)しくも呪(のろ)はしき夜(よ)のたたずまひ。

濡れ焙(い)ぶる水無月ぞらの日の名殘(なごり)

はた搔き濁し、暗澹(あんたん)と、あはれ黑船(くろふね)、

眞黑なる管絃樂(オオケストラ)の帆の響(ひゞき)

死(し)と悔恨(くわいこん)の闇擾(みだ)し壞(くづ)れくづるる。

四十一年二月

 

[やぶちゃん注:前の「といき」の注で示した通り、冒頭に標題と第一連の見開き原画像(「九二」ページと「九三」ページ)を掲げておいた。なお、第一連の末尾のリーダはかすれているが、後の連の冒頭のようにダッシュとは判断出来ず、六点リーダのスレである。後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)では確かにダッシュではあるが、ここは正規表現版として六点リーダで示した。

「樂慾(げうよく)」この場合の「樂」は「願う」の意で、「願い求めること・欲望」の意。この音「ガウ(ゴウ)」「ゲウ(ギョウ)」は表外音であるが、呉音から転じたものらしい(ネットで調べるに根拠は薄弱らしい)仏教用語の慣用音である。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 といき

 

 と い き

 

大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、

旅しつつ燃えゆく黃雲(きぐも)。

そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)

半(なかば)黃(ぎ)になかばほのかに、

薄闇(うすやみ)に蠟(らふ)の火にほひ、

圓柱(まろはしら)またく暮れたる。

 

ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、

敷石(しきいし)の闇にはひとり

盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、

ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、

あはれ、その追分(おひわけ)のふし。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:底本には二箇所の難しい点がある。

 まず、第一連の「黃」であるが、底本は明らかに「き」ではなく、「ぎ」と振ってある。現行のものは、総て「き」であるが、後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)でも、明らかに「ぎ」と振っている。「浅黄」などで判る通り、本字は正規の音ではないが、慣用読みで「ぎ」が存在する以上、ここは「き」とする。

 次に、二連構成という点にある。実は底本の初版本では、この一篇は見開きに印刷されてあり、「ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、」以下が左ページに配されてある。ところが、他の詩篇の各ページの開始位置を見ても、この前に一行分を開けている事実は組版上では認められない。前の「圓柱(まろはしら)またく暮れたる。」は版組の最終行であり、「ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、」は版組の第一行相当なのである。されば、素直に版組を正規としてとるならば、この詩篇を一連構成として採ることは極く尋常な読みではある(私は如何なる詩集でもこの検証をして、行空けの有無を確認して読んでいるからである)。しかし、詩想から言えば、ここはやはり切れていると採るのが自然ではあるし、先に示したアルス版を見ると、悩ましいのだが、そこでも改ページとなっているものの(ここ)、右下方のノンブルとの間に他のページと比して、明らかに一行分の空けが施されていることが判る。されば、ここは現行の諸詩集と同様に一行空けて、二連構成と採った。これは本詩集でこの篇の前後には、十一行に及ぶ連を作らない一篇完結の詩篇が見当たらないからでもある。但し、後の「天草雅歌」には八篇出現し、その後にも「紅玉」・「大寺」・「ひらめき」・「凋落」の四篇がある(孰れも十一行以上で、字下げなどもないもののみを数えた)ことは言い添えておく。則ち、絶対的にここに一行空けが「ある」として、これを問題にしないことは、本詩の原稿に当たらない限りは、あり得ないということである。但し、白秋は、本詩集では、改ページを強く意識して、詩篇の開始位置をズラしている事実もある。例えば、次の「黑船」が最たるもので、これは「九二」ページの見開きで始まるが、標題「黑船」のみが「九二」ページの最終行から一行後相当の位置にあって、最終行は空け、則ち、標題の「黑船」だけでその前の「九二」ページの部分は真っ白なのである。次の「黑船」の頭にその画像は掲げる。ただ、意地悪く言わせて貰えば、そうした詩人は多かっただろう。しかし、ページ数が有意に増大すれば、金がかかる。白秋は父の金でこの贅沢な詩集を刊行した。誤植まみれの宮澤賢治の詩集「心象スケツチ 春と修羅」(リンク先は私の正規表現注釈版。ああっ! そこでは扉の標題のそれからして『心象スツチケ』なのだ!)を考える時、私は何か悶々とした思いに驅られるのである。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 耽溺

 

  耽 溺

 

あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。

聽(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。

 

白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、

わが戀の器樂(きがく)の海に。

 

あはれ、聽け、光は噎(むせ)び、

海顫ひ、淸搔(すががき)焦(こ)がれ

眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、

苦悶(もだえ)そふ歡樂(よろこび)のせて

キユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。

 

彈(ひ)けよ、彈(ひ)け、毒(どく)の井゙オロン

吹けよ、また媚藥(びやく)の嵐。

あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、

その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。

 

海の歌きこゆ、このとき、

『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、

接吻(くちつけ)よ。』

 

聽けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、

肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、

『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、

『戀よ、汝(な)よ。』

 

彈(ひ)けよ、彈(ひ)け、毒の井゙オロン

吹けよ、また媚藥(びやく)の嵐。

 

一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、

樂(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、

接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快樂(けらく)、

毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。

 

狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、

聽くははや樂(がく)の大極(たいきよく)、

狂亂(きやうらん)の日の光吸(す)ふ

紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。

 

死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。

 

紅(あか)き帆(ほ)きゆる。

紅(あか)き帆(ほ)きゆる。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:「淸搔(すががき)」幾つかの意味があるが、原義を当てる。和琴 (わごん) の手法の一つで、全部の弦を一度に弾いて、手前から三番目又は四番目の弦の余韻だけを残すように、他の弦を左指で押さえるもの。

「キユラソオ」Curaçao(フランス語)。リキュールの一種。古くからオランダが主産地で、現在もオランダ自治領であるカリブ海のクラサオ(キュラソー)島特産のビター・オレンジの未熟果の果皮を乾燥させ、基酒であるラムに浸出したもの。フランス産キュラソーはブランデーを基酒とする。オレンジ色のオレンジ・キュラソーや無色のホワイト・キュラソーなどがあり、アルコールは約四十度と高く、カクテルによく用いられる。ブルー・キュラソーの色がよく知られるが、オレンジ・キュラソーを樽熟成させたものは褐色を帯びる。ここで出た二箇所のそれは、後者はそのままであるが、前者は、その色を想像の航海する帆船の色に転じたものである。

「非命」天命でなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。]

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之三 靱晴宗夫婦再生の緣をむすぶ事

 

席上奇観垣根草三之巻 

     靱晴宗(ともはるむね)夫婦再生(さいしやう)の緣をむすぶ事

 いにしへ、朝家いまだ盛んなりし頃、豐後は久我家(こがけ)の領國にして、國司代を置きて取りまつろひ、郡司を知らせたる國人(くにうど)に、靱の大領(たいりやう)冬宗といふものあり。嫡子は早世して、次男小次郞晴宗、生(むまれ)淸げに、心ざま、優にやさしく、幼(いとけなき)より、詩歌管弦の外、書畫の工(たくみ)なる、

「鄙(ひな)には類(たぐひ)まれなる才なり。」

と、人みな、もてはやしけり。

[やぶちゃん注:「靱晴宗」不詳。

「朝家いまだ盛んなりし頃」本篇の時制設定は明らかに平安末期である。そう限定出来るのは、後で遊女の文化職業としての『白拍子』と『今樣』が登場人物の言葉に出るからである。後者は平安中期に発生し、瞬く間に流行歌となり、平安末期には後白河法皇が熱中し過ぎて喉を痛めたほどに熱中し、彼が採録・編纂した今様の集大成「梁塵秘抄」(の一部)が今に伝わっており、遊女芸としての専門職である白拍子に至っては、平安末期から室町初期にかけて成立したものだからである。

「豐後」現在の大分県の中・南部。国府は現在の大分市にあったと推定される。

「久我家」村上源氏の嫡流。清華家(せいがけ:摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣・大将を兼ねた家系)。源顕房の娘賢子(けんし)が白河天皇の皇后となり、堀河天皇を産んだ。賢子の兄雅実(まさざね)は太政(だいじょう)大臣となり、後に久我家の家祖と仰がれたが、十二世紀初頭までにその邸宅を京都久我(現在の京都市伏見区)に営み、「久我太政大臣」と称されたのが家名の由来。源氏の中でも官位が高かった。

「知らせたる」「領らす」とも書く連語(動詞「しる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」)で尊敬語。「お治めになる」の意。

「靱の大領冬宗」不詳。]

 

 いまだ世をしらざる日、都に登りて、國司の館(たち)に宮仕(みやづかへ)侍(はんべ)るうち、父の大領、みまかりしに、繼母(けいぼ)のはからひとして、三男三郞直宗(なほむね)なるもの、家業を襲(おそ/ツグ)ふ。されども、小次郞は國司のおぼえ他(た)にこえたれば、爭ふ事なく、それが心にまかせたり。在京のうち紀の何某(なにがし)の娘初瀨(はつせ)といへるを娶(めと)り、偕老のちぎり、あさからず暮しけるが、

「父の墳墓(ふんぼ/ハカシヨ)へもまうでたく、又は、一族の者にも、國司の恩顧のほども目(ま)のあたりきこえんものを。」

と思ひたちて、國司に、其よし、申しけるに、衣服・太刀なんどの類(るゐ)、かずかずたまはりて、如月(きさらぎ)の頃、妻もろとも、從者兩三人を具して、難波津(なにはづ)より、舟もよひして、はるばるこぎ出すに、春の海原、のどかなるうへ、おぼろにかすむ須磨・明石のながめ、

「これなん、一刻千金。」

と、妻もろともに、酒くみかはし、吟情(ぎんじやう)をなやまし、夜ふくるまで、いねもやらで、詠(なが)め居たりしに、船の者どもは、早や、いびき高く聞ゆるにぞ、苫(とま)さしよせて、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「紀の何某の娘初瀨」不詳。

「兩三人」二、三人。

「難波津」古くより大阪湾にあった港湾施設。現在の大阪市中央区付近(グーグル・マップ・データ)に位置していたと考えられている。

「吟情」詩歌を吟詠せんとする気持ち。

「苫」「篷」とも書く。菅 (すげ) や茅 (かや) などを粗く編んだ莚(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いた。]

 

 其頃、伊豫・讃岐の間(あひだ)に、海賊(かいぞく/フナヌスビト)あまた橫行(わうぎやう)して、往來の客船をなやませしが、小次郞は、かくとも知らで不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:思いがけないこと。不慮。]の備(そなへ)もなかりしに、とくより、海賊の窺ひて、熟睡(じゆくすゐ/ネイル)をはかりて、究竟(くつきやう)[やぶちゃん注:ここは「屈強」に同じ。]の者共、小次郞が船に上り、器物・調度の類(るゐ)、己(おの)が船に移すに、初瀨、驚きて、

「こは、いかに。」

と、おとたつるを[やぶちゃん注:声を挙げたところが。]、これをも己(おのれ)が船にうちこみたる物音に、小次郞、目さめて、刀、おつとり、起上(たちあが)るを、有無をいはず、海へ投げいれたり。

 從者(ずさ)のねおびれたる[やぶちゃん注:寝ぼけていた者。]をも、みなみな、海に打込みて、水主(すいしゆ)には、奪ひとりたる衣服など、處分(しよぶん/ワケトラセ)して、賊船は遙に漕去(こぎさ)りぬ。

 初瀨、聲をかぎり、泣叫(なきさけ)べども、いかんともすべき樣なく、海にいらんとすれば、押へて働き得ず。中にも賊主(ぞくしゆ/ゾクノカシラ)と覺しきが、詞(ことば)をやはらげて云く、

「汝一人をたすけ置くこと、心なきにあらず。我輩(わがともがら)かゝる非義は、ふるまふといへども、生れながらの海賊にもあらず、嫡子あれども、いまださだまる妻もむかへず、下賤(げせん/シモサマ)の女をめとらんも、心ぐるし。さいはひ、汝、鄙にはめなれぬ容儀(ようぎ)なれば、我息婦(わがよめ)となしてんと思ふより、かく計らひおきたり。心をとゞめて、利害をはかり見よ。」

といふに、初瀨、

『眼前に夫の死を見て、何たのしみにながらへて、辱(はづかしめ)をみん。』

とおもへども、頗る心さとき女にて、

『あはれ、敵(かたき)をとりて怨(ゑん)を報い、夫にも手向けばや。』

と、おもふ心、うかびて、はじめて、淚をとゞむ。

 賊主、その肯(うけが)ひたるを喜びて、やがて船を岸につけて、己(おのれ)が家に歸る。

 賊主、妻とてもなく、乳母なる老婆一人のみにむて、その餘は、みな、海賊の者ども、あつまり居(ゐ)るなり。嫡子といふは、このほど風の心地にて引籠りゐたるに、すこしは心ゆるして日を經るうち、賊主も、そのけはひの外心(ほかごゝろ)なきに安堵して、家事をゆだねぬ。

 十日餘を過ぎて、一人、來りて、

「長州の商船(しやうせん/アキンドブネ)きたるあり。その備(そなへ)、堅固なれば、心して向ひ給へ。」

と告ぐるに、賊主、その夜は大小の海賊、みなみな、引具して出でぬ。

 初瀨、

『さいはひ。』

と、老婆がいぬるをまちて、裏なる一重(ひとへ)の垣をこえて、四方をみれども、もとより都の外(ほか)は、ふみもみぬ鄙路(ひなぢ/ヰナカミチ)、ことに人ばなれたるところなれば、何所(いづく)をさしてと思ひさだむることもなく、月の出(で)し、ほのかたをしるべに走るに、蘆葦(あしかや)生茂(おひしげ)りて路もなき所を、凡そ、二、三里も來りぬらんとおもふ所に、行先(ゆくさき)、入海(いりうみ)にして、わたらんやう、なし。引返して右に走るに、遠里(とほざと)に鳥[やぶちゃん注:鶏。]のこゑするに、

「さては。人家のあるにや。」

と走るうちに、夜もほのぽのと明けわたる頃、からうじて磯邊に出でたり。

 商船と覺しきが、一艘、つなぎよせたり。

 しきりに、

「たすけたまはれ。」

とよぶに、船のうちより、ねむびれたる聲して、

「なにごとにや。」

と尋ぬるに、

「委しきことは船にてこそ申さめ。とくのせたまへ。」

といふに、船主(ふなぬし)、とま、おし開きて見るに、艶(えん)なる女の、髮みだれ、すそ、ほころび、玉ぼこ[やぶちゃん注:玉鉾でこれは道の枕詞であるから、それを援用して彼女の足のことを指していよう。]も、あけになりて[やぶちゃん注:血だらけになって。]、打倒れたれども、天然の國色(こくしよく)[やぶちゃん注:その国で一番の容色。絶世の美女。]、いとゞ媚(こび)あるに、船主、俄(にはか)にかひがひしく抱きのせて、湯藥(たうやく)をあたへていたはるに、宵より息をかぎりに走りたるが、すこし、心ゆりして[やぶちゃん注:気持ちが緩んで。]、氣、つき、力、たゆみたるにや、肢體(したい)もひえて、人心地、なし。

 さまざま、いたはりて、藥をあたへ、やうやう、呼吸もたしかに覺ゆるにぞ、粥などあたへて、なほも、

「疲(つかれ)を息(いこ)はしめん。」

とて、端なる一間をしつらひて、ふさしむ。

 元來、此船は筑紫の人商(ひとあきびと)にて、諸國を廻(めぐ)りて、婦女をすかし欺きて、轉賣(てんばい/マタウリ)する船なり。はじめ、初瀨をみるより、

『おもひの外(ほか)に德づきたり。』

と心積(こゝろづもり)して、急に船〔ふな〕もよひ[やぶちゃん注:「船催」。出航の準備。]して、藝州の嚴嶋(いつくしま)に渡りて、かの所の「葛尾(くづを)の長(ちやう)」といふものゝ許(もと)に、鳥目三拾貫文に轉賣して、人商は他國にさりぬ。

[やぶちゃん注:「葛尾(くづを)の長(ちやう)」不詳。

「鳥目三拾貫文」後の慶長年間の換算で(読者は江戸時代それでしか換算しないだろうから問題なかろう)、金一両は鐚銭(びたせん)四貫文であったから、七両半、江戸時代の換算で最高で九十七万円弱、後期のインフレで低く見積もって四十万円弱の範囲内となろうか。]

 

 その頃まで、吉備・いつくしまなどは、海路のよせよく、繁華の所なるゆゑ、爰かしこに賈舶商船(かはくしやうせん/タビアキビトノフネ)の纜(ともづな)をつなぐ。路の邊(べ)の柳、客をまねき、物いはでさへ、人のよりくるもの、まして籬(まがき)にわらひて手折(たを)りやすきには、遊客旅人(いうかくりよじん)の歸るを忘るゝも斷(ことわり)ぞかし。わきて、「葛尾の長」ときこえしは、家居(いへゐ)もきよらかに、つぎつぎしく侍(はんべ)れば、國の下司(したづかさ)、或は、祿(ろく)いまださだまらぬ人などは、いふもさらなり、やんごとなき國司代なんども、うちひそまりて[やぶちゃん注:こつそりと。]通ひくる人、多ければ、妓女(ぎじよ/オヤマ)も、綾戶・二村(ふたむら)・袖師(そでし)など、名姝(めいしゆ)の名、四方(よも)にかくれなし。されども、さすがは鄙(ひな/ヰナカ)にて、初瀨が艶色(ゑんしよく[やぶちゃん注:原本のママ。])に及ぶものなし。

[やぶちゃん注:「綾戶・二村・袖師」ここで知られた遊女の源氏名らしい。

「名姝」現代中国語でも「美女」の意。]

 

 長、大きに喜びて、其客(かく/ツトメスル)をむかへん事をさとせども、初瀨、人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれて、虎狼の害におちいりたる心地して、ふつにものをもいはず、夜晝となく、ひきかづきて泣きくらす。まことや、王昭君が胡地(こち)に嫁(か)せし、「漢宮萬里月前膓(かんきうばんりつきのまへのおもおもひ)」、楊貴妃が驪山(りざん)の舊宴をおもひて、「梨花一枝春帶雨(りくわいつしはるあめをおぶ)」と、いひけんも、かくや、とおもはれ、誠に天然の國色、惱める西施、泣ける虞氏(ぐし)、「せまらば、王をや、碎きなん」と、煙花(えんくわ/サト)に馴れたる妓女に、すゝめ、さとさしめんとす。

[やぶちゃん注:「人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれて、」は表現が不全。「人商(ひとあきびと)の船にありて、はじめて毒蛇の口をのがれたりと思ふたに、」ぐらいにして欲しいところだ。

「王昭君」紀元前一世紀頃の前漢の女性。昭君は字(あざな)。後宮に仕え、三三年、元帝の命により、匈奴(秦・漢の頃にモンゴル高原を拠点としていた遊牧騎馬民族。しばしば中国に侵攻した)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、寧胡閼氏(ねい こえんし)と称した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら、生涯を胡地に送った。古来、中国文学の題材として扱われるが、この悲劇は宮廷画家毛延寿 (もうえんじゅ) に賄賂を送らなかったため、故意に彼女が醜女に描かれたことに起因するとされる。しかし、昭君が胡地に赴くに際して、元帝は初めて王昭君を見、その美貌に驚き、毛延寿の悪業が露見し、彼を斬罪に処したと伝える。中国・日本の画題として好んで扱われた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「漢宮萬里月前膓」大江朝綱(仁和二(八八六)年~天徳元(九五七)年:漢詩人。参議。祖父音人 (おとんど) 以来の学業を継ぎ、博学多才で詩文の誉れが高かった。当時の詔勅や辞表などは殆んどが彼の手に成ったといわれ、また、書道にも優れていた。詩は艶麗優美で後世の手本にされた。音人が「江相公」と称されたことから、「後江相公(のちのごうしょうこう)」と称された)の作で、「和漢朗詠集」の「王昭君」と題して載る。元は七律であるが、同書では二句ずつに分けて四つで収載してある(なお、同書には多く彼の詩歌が載るが、誤って「江相公」として載っている)。高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」のこちらに、原文と訓読と訳が載る。

「驪山」西安の東の現在の陝西省臨潼県城の東南にある標高千三百二メートルの山。山麓に温泉があり、玄宗が楊貴妃のために華清宮を建てたことで知られる。

「梨花一枝春帶雨」言わずもがな、白居易の「長恨歌」のエンディングのプレの一節。私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を参照されたい。

「煙花」遊女及び遊廓に生きる境涯。]

 

 多くの妓女の中にも、名を得たる綾戶・二村、近く居よりて、

「かくなる上は、長くかなしみて、詮(せん)なきことなり。我々とても、あかぬ中を、親・夫のために、かひなき身を川竹(かはたけ)の流(ながれ)にひたし、或は心ならずも、人あきびとにかどはされて、爰に賣渡されたるも侍(はんべ)り。朝夕に馴るれば、又、思ひやる事も侍りて、寄來(よりく)る人も、ふつに、むくつけなるのみにも侍らず。さまざま、かはる波の枕にも、おもひよる湊も、なきにしも、あらず。それがためには、遂には、たのもしげある世をもしめんと、そら賴(だのみ)にも暮らすことにて、うきが中にも、たのしみも侍り。」

などと、よそながら、言葉たくみにすゝむれど、答(こたへ)だにせねば、多くの妓女も詞つきて、

「今、しばし、里の色香も目になれば、心もなどか花にうつらであるべき。」

とて、綾戶がねやに、いたはり置きぬ。

[やぶちゃん注:「あかぬ中」「飽かぬ仲」で後の「親・夫」との本来の幸せな親密ないい仲の状態を指す。

「川竹の流」川の畔りに生えている竹が空しく流れてゆくような身で、やはり遊女や遊女の身の上を指す。

「たのもしげある世をもしめん」「賴もし氣ある世をも占めん」。頼もしく幸せに思えるような未来をこそ、いつか必ず、と念ずることであろう。そこには「苦界(くがい)浄土」の含みもあろう。]

 

 その夜、人しづまりて後、綾戶、また云ふやう、

「君、ひたすら操(みさを)を守りたまはゞ、この上、いかなる遠き國へも賣渡され、からきめを見給はば、今日を戀ひ給ふとも、かへるまじ。その上、この里に妓女多かる中(なか)、『白拍子(しらびやうし)』といふは、あながちに客をむかふるにも侍(はんべ)らず、たゞ一さしの風流(ふりゆう)に酒宴の興を添へ、または高貴の家に召されて、月花(つきはな)の色を增すのみにて、操をくじき給ふにも侍らず。君は正しく都人と見たれば、今樣(いまやう)なんどは堪能(かんのう)にてや、おはすらん。あはれ、そのみちをだに勤めたまはゞ、里のかざしともなり、身もやすく心にも恥づることなかるべし。」

と、いとしみじみと、さとし、きこゆるに、初瀨、おもふやう、

『われ、甲斐なき命をすてもやらで今日(けふ)にいたるは、夫の仇(あだ)を報ぜんとおもふよりなれば、身をも汚(けが)さで、高貴の家に近づくこそ願ふところなれ。』

と、はじめて、淚をとどめて、綾戶に向ひ、

「それのをしへに從ひ參らせん。よきにはからひたまはれ。」

といふに、綾戶、よろこびて、此よし、長(ちやう)に告ぐるに、

「計(はかりごと)成りたり。」

と、翌日より、專ら、歌舞吹彈(かぶすゐだん/ウタマヒイトタケ)をしふるに、もとより糸竹(いとたけ)は幼(いとけなき)より馴れたることなれば、ほどなく、里に名をしられ、

「初瀨が今樣には、天(あま)ぎる雲も停(とゞま)る。」

とぞ、いひはやしける。

[やぶちゃん注:「かへるまじ」この「まじ」は打消推量の不可能。ここへ帰ることさえできますまいよ。

「歌舞吹彈(かぶすゐだん/ウタマヒイトタケ)」「吹」が笛で「タケ」(竹)、「彈」が筝や琵琶で「イト」(糸)に当たる。]

 

Harumunehatuse

[やぶちゃん注:底本の画像をトリミングし、聊か清拭した。話柄の展開から、冒頭に掲げず、ここに挿入した。]

 

 頃しも、藤原朝臣道信卿、あらたに國府へ下り給ひ、ことに近年、朝家の事、繁きに、海賊追捕(つゐほ[やぶちゃん注:ママ。]/センギ)も忽(ゆるがせ)に成りたりしを、

「この度(たび)は、海賊、ことごとく搦捕(からめと)り、海路(かいろ)の風波(ふうは)を靜めよ。」

との別勅を蒙り給ひ、西國・南海に、此よし、施行(せぎやう/フレナガス)したまヘば、諸國の來使、たゆる間なく、國府の繁華、往年にまさりけり。

 一日、國司誕辰(たんしん/タンジヤウビ)の慶賀(けいが/シウギ)にて、白拍子をめさるゝに、初瀨、その數(かず)にえらばれて館(やかた)に參るに、國司、甚だ其名手を賞し給ひ、數日(すじつ)をとゞめ給ふ。

 ある夜、月のあかゝりしに、南の殿(との)に出でたまひて、初瀬に、

「琵琶、つかふまつれ。」

と侍(はんべ)れば、初瀨、床(とこ)におかれたる錦の袋紐(ふくろひも)、とく、とくくと見るより、淚をうかめ、やゝ伏沈(ふししづ)みたりしが、やがて、淚ながらに抱(いだ)きて、四(よつ)の緒(を)かきならし、一曲を彈ずるに、大弦、小弦、嘈々切切(さうさうせつせつ)として、雨のごとく、語るがごとく、曉の鶴、夜の鹿、腸(はらわた)を斷つかなしみ、泣くがごとく、訴ふるがごとく、餘韻嫋々(でうでう)として、細谷川(ほそたにがは)の流(ながれ)、よどみてかきくれたるに、國司、覺えず、狩衣(かりぎぬ)の袖をうるほし給ひ、

「汝が心中、限りなき愁(うれひ)あるに似たり。流離哀怨(りうりあいえん/ワカレサマヨフカナシミ)の聲、宛然(えんぜん)として明(あきらか)なり。つゝまず、語れ。」

と宣(のたま)ふに、初瀨、おぼえず、撥(ばち)をすてゝ、ふしまろびて、絕入(たえい)りしが、やゝありて、淚をおさへて、身の上の、くはしきことをきこえ參らせ、

「この琵琶こそ『裂帛(さきぎぬ)』と名づけて、夫が常々秘藏したりしを、六とせ以前、海賊の襲ひたりし時、主(ぬし)さへむなしくなり侍(はんべ)れば、海賊の手に入りしが、君の御許(みもと)へは、如何にして來りけん。」

と、憚るところなく申すに、國司、甚だ驚き給ひ、

「晴宗、久我家にありし折は、わが館(たち)へも、きたり見えたり。國に下りては、さだめて一所(いつしよ)の安堵をもしつらめとおもひしに、はからざる橫難(をうなん)。また、汝が報讐(ほうしう)の志(こゝろざし)、感ずるにあまりあり。われ、其力を助け得さすベし。幸(さいはひ)に海賊を探る最中(もなか)なれば、やはか、その賊、天網(てんまう/アミ[やぶちゃん注:後者は「網」のみに附す。])を漏(もる)るべき。さるにても、賊が住居(すまひ)は、いづれの國の境と覺えたるや。」

と宣ふに、初瀨、

「はじめより此國に來るまで、國(くに)所(ところ)の名だにしらず。たゞ、兩三人の面貌(おもて[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を、とめたるのみ。」

といふに、國司、うなづきたまひ、

「この琵琶を得たる手より探らば、賊の巢穴をしるべし。」

とて、頓(やが)て長(ちやう)には、初瀨が身の價(あたひ)をたまはりて、北の方の許に、ひそかに置き給ひぬ。

[やぶちゃん注:「藤原朝臣道信」知られた人物としては、「小倉百人一首」の(五二番)、

 明けぬれば暮るるものとは知りながら

    なほ恨めしき朝ぼらけかな

の「後朝(きぬぎぬ)の別れ」を詠じた一首で知られる藤原道信(天禄三(九七二)年~正暦五(九九四)年)である。しかし、そうなると、時制上の矛盾が生じる。彼は平安中期の人物だからである。またしても、キャスティング、悪し! しかしまあ、最後のシークエンスへの伏線なんだろうなあ……

「嘈々切切」これは、初瀬の引くのが琵琶であるから、白居易の長篇「琵琶行」の一節のインスパイアである。

   *

大絃嘈嘈如急雨

小絃切切如私語

嘈嘈切切錯雜彈

大珠小珠落玉盤

 大絃(たいげん)は嘈嘈(さうさう)として 急雨のごとく

 小絃は切切(せつせつ)として 私語のごとし

 嘈嘈と 切切と 錯雑して彈(だん)じ

 大珠(だいしゆ) 小珠(せうしゆ) 玉盤に落つ

   *

「嘈嘈」は音が激しく多いさまを、「切切」は音が繊細で速いさまを謂う。

一ページで序から全部の原文・訓読・訳を載せておられるサイト「井手敏博の日々逍遥」のこちらをリンクさせておく。

「餘韻嫋々」音が鳴り止んでも、なお、幽かに残る響き。或いは、その音が細く長く続く(かのように感ずる)さま。「嫋嫋」(現代仮名遣「じょうじょう」)は「音声の細く長く続くさま」を謂う。これも蘇軾の「前赤壁賦」に基づくものである。

「細谷川(ほそたにがは)の流(ながれ)」漢詩に基づく二連奏が気になったものか、終わりは「古今和歌集」の巻第二十の(一〇八二番)、

   *

 眞金(まがね)吹く吉備の中山帶にせる

    細谷川(ほそたにかは)の音のさやけさ

   *

辺りを意識したものであろう。この歌には左注があり、

 この歌は、承和の御嘗(おもむべ)の吉備國の歌

とあり(「承和の御嘗」は仁明(にんみょう)天皇の大嘗祭のこと。即位から約九ヶ月後の天長一〇年十一月十五日(八三三年十二月二十九日)に行われた)、ロケーションが近い。

「宛然」ある対象や様態とそっくりそのままであるさま。

「撥をすてゝ」老婆心乍ら、悲しみの余り、思わず、力なくとり落したのである。

「絕入(たえい)りし」通常は気絶・失神を指すが、ここは見た目そのように見える、則ち、悲哀が昂じ、暫く動かくことさえ出来なかったのである。

「橫難」思いがけなく(これが「横」の意。「横死」などで使う)起こる災い。不慮の災難。

「北の方」道信の正室。]

 

 かの「裂帛(さきぎぬ)」の琵琶は、國人星川庄司(ほしかはしやうじ)なるもの、奉りたるなれば、いそぎ召して尋ね給ふに、

「先年、豫州大三嶋(おほみしま)へ、公(おほやけ)の事につきて罷(まか)りたるに、海珠寺(かいしゆじ)といふ禪院に寄宿したりし時、寺僧の所持なるを見て、價(あたひ)の絹をあたへて、とり來れり。その來歷を尋ね侍りしに、同じ國、『川(かは)の上(かみ)』といふ所の檀越(だんをつ)、『香火の料に』とて寄せたるなりと承りし。」

と申すにぞ、

「さては。賊主が踪跡(そうせき/アリカ)も影響をしるべし。」

と、豫州の諸司へ追捕のこと、しきりに促し給ふ。とくより、四國は賊の藪澤(さうたく)ときこえたれば、追捕の密使、よりよりに搦捕(からめと)り來(きた)るに、國司、初瀨をひそかに簾中(れんちう[やぶちゃん注:ママ。]/ミスノウチ)にかくし置きて、窺(うかゞ)はさせ給ふに、

「その者にあらず。」

といふ。さらば、

「猶も、賊主を漏(もら)したり。」

とて、の在家(ざいけ)を探り求むるに、かしこくも影響なし。

[やぶちゃん注:「星川庄司」不詳。

「豫州大三嶋」現在の芸予諸島(一部が広島県)の、愛媛県今治市に属する大三島(グーグル・マップ・データ)。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大。

「海珠寺」この名の寺(禅寺)は大三島には現存しない。「宝珠寺」ならあるが、真言宗である。

「川の上」愛媛県内には複数の「川上」が認められるが、不名誉な、しかも作り話であるから、それらを挙げるのはやめておく。

「檀越」檀家。

「踪跡」足跡。

「影響」影が形に従い、響きが音に応じるの意から、ここは、その確かな存在の謂いであろう。

「藪澤」雑木や雑草が生い茂っている湿地。転じて、フラットな意味で「物の集まっているところ」を指す。

「かしこくも」普通は「申すも恐れ多いことに」の意。ここでは「どうもはかばかしくなくて」の意としかとれないが、適切な使い方とは思われない。]

 

 翌春(よくはる)、大洲(おほず)の沖にて、防州(ばうしう)の商船に、海賊、あまた亂入したりしを、折節、追捕使の船、ちかきにかゝりゐて、この動靜(どうじやう)を聞くより、取圍(とりかこ)みて、一人も殘らず、生捕(いけど)りて國府に參らす。

 また、はじめのごとく、初瀨に窺はしむるに、

「かれこそ賊主なり。」

と答ふ。

 されば、張本なれば、とて一々、盤詰(ばんきつ/ギンミ)にするに、七年以前、京家(〔きやう〕け)の武士の船を襲ひたりしことまで、具(つぶさ)に白狀におよぶ。

 國司、きこしめして自ら廳(ちやう)に出でたまひ、初瀨を召して、

「賊主、この婦をしるや。」

と宣ふに、賊主、大きに駭(おどろ)きて、面(おもて)、土(つち)のごとし。

 國司、笑つて云く、

「天道昭々(せうせう/アキラカ)、なんぞ、むなしからん、婦人、微々たる一念、今日に達することを、えたり。されども、公の罪人(つみんど)なれば、私の計(はからひ)にまかせがたし。」

とて、梟木(けうぼく/ゴクモン)にさらして後、初瀨に、たびければ、その首を小次郞が靈位(れいゐ/ヰハイ)に備へて、千辛萬苦して報讐の志、やうやうに屆きたるを、生ける人にいふごとく、喞(かこ)ちて祭りしこそ、誠に千載の恨(うらみ)こゝに散じ、萬緖(ばんしよ)の鬱、忽ちに、ひらけたりといふべし。見聞(けんもん)の人、淚をおとさゞるはなし。

[やぶちゃん注:「大洲(おほず)」現在の愛媛県大洲市(グーグル・マップ・データ)。

「防州」周防(すおう)国。

「盤詰」漢語の用法。中文サイトでは「何度も繰り返し、細かく訊問すること」を意味するようである。

「たびければ」「賜(た)びければ」。

「喞ちて」激しく嘆きながら語って。

「萬緖」よろずの糸口。あらゆる事柄。]

 

 その後、僧をやとひて、夫をはじめ從者(ずさ)までの追善に水陸(すゐりく/セガキ[やぶちゃん注:原本の左ルビ。「施餓鬼」。])を修したりし。その費(つひへ)、みな、國司、わきまへたまひしに、初瀨、恩惠の海山(うみやま)なるを謝し、なほ、この上いかなる師をも賴み、剃度(ていど/カミオロシ)して、亡夫の菩提を祈り度(た)きよしを申しきこゆるに、國司も其志の切なるを感じさせ給ひしが、折しも、北の方、御產(ごさん)の臨月なれば、

「御產やの宮仕し參らせて後、心のまゝなるべし。」

と、北の方よりもふくめ給ふに、いなむベきやうなくして、御產をまちゐたり。

[やぶちゃん注:「水陸(すゐりく/セガキ[やぶちゃん注:原本の左ルビ。「施餓鬼」。])」施餓鬼会(せがきえ)は水死者(元来は殺生対象であった魚類の供養が本来のものであった)のために水辺でも盛んに行われる。ご存知ない方は、私の「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」を読まれたい。祭壇の絵もある。]

 

 その頃、國司、別殿を營(えい)したまひ、畫工(ぐわこう/エシ)を求め給ふに、近頃、肥後よりきたり住む菅野主馬(すがのしゆめ)といへるを進むるものあり。めして一幅をかゝしめ給ふに、畫法、正しく、氣韻、また、凡(ぼん)ならぬに、愛(め)でさせたまひ、その出身を尋ね給ふに、

「肥後の產。」

と答ふ。されども、言葉のはしの鄙(ひな)めかざるに怪しみたまひ、

「その本貫(ほんくわん/コキヤウ)・師家體來(しかでんらい/ヱノリウギ)を委しく語れ。」

と宣ふに、主馬、辭することあたはず、

「元は豐後の產にして、國司につかへて都にとどまり、たまたま、國にかへらんとして海賊の難にあひ、妻なる者もむなしくなりしに、幼(いとけな)きとき、水練の術(じゆつ)をすこしくならひたるに、からき命を保ちて、商船にたすけられ、國にかへるに、繼母(けいぼ)の姦(かたまし)きより、

「都の繁華に身を失ひ、零落(れいらく/オチブレ)したりし。」

と、あらぬ罪を數へて、一族どもに見限りて、よるべなく、賴みおもふ京都の國司の館(やかた)には、打續きて早世(そうせい/ワカジニ)したまひ、他家より家を繼ぎたまふと聞くに、賴む木の下(もと)雨(あま)もりて、所さだめず、さすらへありき、肥後にいさゝかの所緣侍(はんべ)りて、それにやしなはれ、惜しからぬ命ながらに、『一度(ひとたび)、汚名をもすゝぎて、父なるものゝ墳墓(ふんぼ/ハカシヨ)をも掃(はら)ひて、その後(のち)は出家して、先だちたる者の菩提をも吊(とむら)ひてんもの』と、おもひ侍るより、繪のことは、都にありしとき、少しく指(ゆび)を染めたるを、今日の煙(けふり)のよすがになし侍るのみにて、何の師傳と、をこがましくきこえ參らする事も侍(はんべ)らず。」

と、淚にくれて答へ申すに、國司、つくづく見給ふに、姓名は變りたれども、面(おも)ざし、紛(まご)ふかたなき晴宗なり、と覺しければ、「裂帛(さきぎぬ)の琵琶」を出して、

「これなん、覺えあるや。」

と宣ふに、主馬、驚いて、

「申すもおそれ侍(はんべ)れども、やつがれ、往年祕藏したりし『裂帛』と申すに、たがふことなく覺え侍る。」

といふに、國司、いよいよ、晴宗なる事をしろしめせども、わざと、

「汝、妻子とてもなく、世にたのみなき身なれば、われに仕へて賤務(せんむ/シモノヤク)をもとらんや。」

主馬、拜伏して、

「犬馬(けんば)の勞(らう)をつくさん。」

といふ。國司、また僞りて云く、

「さいはひ、我に一婢(いつぴ/ヒトリノコシモト)あり。出身いやしからぬ者なれば、汝、めとらば、われ、義女(ぎぢよ/ムスメブン)として、めあはせんは、いかん。」

主馬云く、

「尊命(そんめい/ギヨイ)の重き、背(そむ)き奉る理(り)なし。たゞ、此一事(いちじ)は、鄙心(ひしん)、安からざる所あり。亡妻、罪なくして賊手(ぞくしゆ)に死し、某(それがし)、生(せい)を偸(ぬす)みて、今日に至りても、身の置所なきまゝ、はかばかしき追薦(ついせん)をも、いとなまず、『幽魂(いうこん)、さだめて薄情(はくじやう/ミヅクサキ)を恨みん』と、心に恥づるところあれば、まして再醮(さいせう/ゴサイ)の念は、つゆ、侍(はんべ)らず。願はくは、高明(かうめい)、鄙情(ひじやう)を察し給へ。」

と實情をのぶるに、國司、ますます、感嘆したまひ、

「婚儀は心にまかすべし。今日より、館下(くわんか)にありて安穩(あんをん)なるべし。」

と宣ふに、主馬、恩を謝して退(しりぞ)きぬ。

[やぶちゃん注:「姦(かたまし)き」「かだまし」とも。動詞「奸(かだ)む」の形容詞化。 心がねじけている。悪賢く、誠意がない。

「一族どもに見限りて」原本もママ。「見限られて」とあるべきところ。

「吊(とむら)ひ」「弔ふ」はしばしばこの漢字も用いる。

「追薦(ついせん)」「追善」はこうも書く。

「再醮(さいせう/ゴサイ)」「醮」はもと星辰を祀って、それに酒肴を供えることにを意味し、そこから人の通過儀礼としての冠礼や婚姻に於いて行われる神への酒礼の一法となった。されば、ここは再び妻を娶ることの意となるのである。

「高明」地位高く勢力があり、富貴にして、学識に優れているという道信の尊い人柄への尊敬表現。

「鄙情」田舎染みた気持ち、賤(いや)しい感情という自身の気持ちを卑称した謙遜語。]

 

 ほどなく、北の方、御產、ことゆゑなく、しかも若君にて、上下、その賀をのぶるに、國司より酒(さけ)賜りて、終日(ひねもす)、酒(しゆ)を酌みて、夜に入りて、興、闌(たけなは)なる時、國司、主馬を近く召され、

「この賀筵(がえん)にて汝に再生(さいしやう)の緣をむすばしむべし。恐らくは鬼魅(きみ/バケモノ)とやせん。驚くことなかれ、われに『返魂(はんごん)の術(じゆつ)』あり、今、見すべし。」

とて、初瀨を召し給ふに、北の方、とくより、初瀨には、

「明日こそ汝が剃度(ていど/シユツケ)をゆるすべければ、今宵は、うき世の花の名殘に。」

とて、侍女に仰せて衣眼をあらためさせ、よろづ、きよらにかざりたれば、さなきだに麗しきが上に、盛飾濃粧(せいしよくぢようさう/カミカタチケハイ)の風流をつくしたる、誠に天津乙女(あまつをとめ)の月の宮を出づるかと、うたがはる。

 侍女、いざなうて、國司の傍(かたはら)に坐するを、

『いかなる上﨟やらん。』

と、面(おもて)をあげて、よくよくみれば、妻の初瀨なり。

 初瀨も、その小次郞なるに、

「こは、いかに、夢か現(うつゝ)か。」

と、淚こぼれて、詞(ことば)いでず。

 人々のおはすをも打忘れて、取りすがりて、且(かつ)、悅び、且、なげきて、たがひに淚はとゞめ得ず。

 國司、座にむかひて、初瀨が貞操なる、又、晴宗が心の變ぜすして誠あるをかたり給ふに、一座、みな、感稱(かんしよう)して國司の仁惠(じんけい)を知りぬ。

 國司、盃(さかづき)をとりて、初瀨にたまひ、

「汝、今生(こんじやう)に賴(たのみ)なかりしものを、今、はからずも、未了(みれう/ツキヌ)の緣(えん)をむすぶ。『初瀨』の名をも『瀧川』と改めて、われても遂にあひみる月の盃を晴宗に與ふベし。晴宗、又、もとの姓名に復して、幸に下司(したつかさ)の闕(か)けたるあれば、我に仕ふべし。かの『裂帛(さきぎぬ)』の琵琶も、かへしあたへむ。なれども、枉(ま)げて、我にあたへよ、『裂帛』の名も哀怨(あいゑん/カナシミウラミ)に出でたれば、今より『有明(ありあけ)』と名づけて秘藏すべし。われ、また、美意(びい)をつぐなふため、婚儀を助けん。」

とて、侍女に命じ給へば、白銀〔しろがね〕百枚、いろいろの小袖、十重(とかさね)をさゝげ出でたり。夫婦の者、天を拜し、地に謝して、その恩惠の雨(あめ)、山(やま)なるを喜び、これより長く國司に仕へて、恩顧、また、他にこゆるにぞ、國なる一族も、このよしを聞き、繼母(けいぼ)のさかしらなるを知りて、昔のごとく、親しみたりしとぞ。

 誠に、物の離合(りがふ/ハナレアフ)、みな、其(その)數(すう/サダマリ)ありて、其緣、盡きざれば、胡越(こゑつ)も遠からずといヘども、かゝるたぐひも、又、ためしすくなく覺え侍(はんべ)る。

[やぶちゃん注:「返魂(はんごん)の術」「反魂」とも書く。死者の魂を呼び返す術。死んだ人を蘇らせる呪法。元は道教の神仙術の一つ(本来の仏教はこうした生死に関わる幻術を嫌う)。

「盛飾濃粧(せいしよくぢようさう/カミカタチケハイ)」「濃」の音「ノウ」は慣用音で、呉音では「ニユウ(ニュウ)」、漢音では「ヂヨウ(ジョウ)」である。

「『初瀨』の名をも『瀧川』と改めて、われても遂にあひみる月の盃を晴宗に與ふベし」「小倉百人一首」の源俊籟頼朝臣の(七四番)、

 憂かりける人を初瀨(はつせ)の山おろしよ

    はげしかれとは祈らぬものを

に、初瀬の名と今までの流離の憂愁を掛けた上で、同じく崇徳院の(七七番)、

 瀨をはやみ岩にせかるる瀧川(たきがは)の

    われても末(すゑ)に逢はむとぞ思ふ

を掛けて、再会の言祝ぎと改名の由来としたもの。

「闕(か)けたるあれば」欠員があるので。

「なれども、枉(ま)げて、我にあたへよ」恣意的な或いは二人にとって本意ではないかも知れぬが、そこを曲げて、やはり改名権を、またしても私に与えよ、というのである。

「『裂帛』の名も哀怨(あいゑん/カナシミウラミ)に出でたれば、今より『有明(ありあけ)』と名づけて秘藏すべし」これが先に出した道信の歌に基づく改名であることは明白であろう。道信のそれは「後朝の別れ」、則ち、「朝ぼらけ」を迎えてあなたと別れねばならぬのが「恨めしき」と嘆いたものであり、それは「帛」=「神前に供える白い絹」を無体にも二つに裂く如き悲痛の音(ね)を奏でるという、二人の辛苦の半生を象徴する不吉な名であるから、これを吉兆に変じて「有明」としようというのである。この場合の有明は、しかし道信の一首の男(晴宗に比し得る)の別れの悲しみの「朝ぼらけ」というよりは、やはり「百人一首」の素性法師の(二一番)、

 今來むといひしばかりに長月の

    有明の月を待ち出でつるかな

をインスパイアしているのではなかろうか。こちらは女性の身になって詠んだ一首で、「行くよ」と言いながら、少しも訪ねて来てくれぬつれない男への、女性の不安と期待とが、ない交ぜとなった怨情を表現したものであるから、今までの想像を絶する苦界の中で小次郎晴宗に思いを寄せ続けた初瀬の思いをこそ「有明」に掛けて、妻初瀬とともにこの琵琶「有明」を大切にせよという、実に洒落たはからいなのだと、私は思う。但し、私は和歌嫌いであるから、もっとピッタリくる原拠構造がある可能性は高い。どうか、そうしたものがあるとなれば、識者の御教授を乞うものである。

「美意(びい)」二人のこれまでの立派な堅い志。

「つぐなふ」今と同じく「賠償する」の意なので、このコーダの直接話法の謂いとしては、あまりよい単語とは思われない。

「さかしらなる」「賢しらなる」。小賢しい。けちな悪知恵ばかりが働くさま。

「胡越(こゑつ)も遠からず」「胡越」は古代中国の北方の胡の国と南方の越の国で、転じて、互いに遠く離れていること、疎遠であることを喩えていう語で、初・盛唐期に歴史家呉兢(ごきょう 六七〇年~七四九年)が編纂したとされる太宗の言行録「貞観政要」(じょうがんせいよう)に、「物竭誠則胡越爲、傲物則骨肉為行路「物にして誠(まこと)を竭(つく)せば、則ち、胡越も一體と爲(な)り、物にして傲(おご)れば、則ち、骨肉も行路(かうろ)と爲る」(何物に対しても誠意を尽くせば、遠く離れたの人心も親密な一体となり、何物に対しても傲慢になってしまえば、肉親でさえも路傍の赤の他人となってしまう)。とあるのに基づく。]

2020/10/14

北原白秋 邪宗門 正規表現版 ほのかにひとつ

 

 ほ の か に ひ と つ

 

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、

また、ひとつ……

 

やはらかき麥生(むぎふ)のなかに、

軟風(なよかぜ)のゆらゆるそのに。

 

薄(うす)き日の暮るとしもなく、

月(つき)しろの顫(ふる)ふゆめぢを、

 

縺(もつ)れ入るピアノの吐息(といき)

ゆふぐれになぞも泣かるる。

 

さあれ、またほのに生(あ)れゆく

色あかきなやみのほめき。

 

やはらかき麥生(むぎふ)の靄に、

軟風(なよかぜ)のゆらゆる胸に、

 

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、

また、ひとつ……

四十一年二月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 納曾利

 

   納 曾 利

 

入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと

鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる樂(がく)の色。

また、高窻の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の

眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。

 

 さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……

 鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、

 吹(ふ)き鳴らす古き舞樂(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、

 納曾利(なそり)のなげき……

 

 納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみ

 おほらににほふ雅樂寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、

 納曾利(なそり)の舞(まひ)の

 人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、

 おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、

 納曾利(なそり)のなげき……

 

 くりかへし、さはくりかへし、

 ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、

 笛(ふえ)のねとりもすずろかに、廣(ひろ)き家内(やぬち)に、

 おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、

 舞(ま)へる思(おもひ)の

 倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、

 ゆるき鞨皷(かつこ)の

 音(ね)もにぶく、

 古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……

 

今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、

ほのかに靑(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。

また、浮(う)きのこる欝金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の

聲(こゑ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て默(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。

四十一年七月

 

Nasori

 

[やぶちゃん注:以上の絵は本篇の第一連の終わった七八ページの左に挿入されている山本鼎の何処かの木場のそれ。本篇第一連を含む見開きで示した。山本鼎(かなえ 明治一五(一八八二)年~昭和二一(一九四六)年は画家・版画家。愛知県岡崎市生まれ。桜井暁雲に木口木版を学ぶ。東京美術学校卒業。明治四〇(一九〇七)年、本詩集装幀を取り仕切っている石井柏亭らと美術雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を起こした。春陽会等に油絵を発表するとともに、日本創作版画協会・日本版画協会創立の立役者となり、日本近代版画の確立と普及に尽力した。この間、一九一九年から一九一六年にはフランスに遊学。帰国の途次、ロシア農民美術に啓発され、長野県上田近郊に日本農民美術研究所を設立,農家の副業としての農民美術の育成に努めた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。本作は「山本鼎アーカイブズ」のこちらで、原画は明治四二(一九〇九)年の作品で(本詩集は明治四十二年三月十日印刷)、十八・九×十三・二センチメートルであることが判る。

「納曾利」雅楽のなかの高麗楽(こまがく)の曲名。「納蘇利」とも書く。高麗壱越(こまいちこつ)調に属する。曲の由来は明らかでない。二人舞。二頭の竜が舞い戯れるさまをかたどったものといわれ、「双竜舞(そうりゅうのまい)」の別称もある。笛の「小乱声(こらんじょう)」という前奏曲に続いて(他の辞書等の記載を見ると、この序に当たる部分は伝わっておらず、従って現在演奏される「序」は元来の本曲のものではない。また、白秋の本篇の大きな三パートの構成(中間部三連が総て一字下げ)は思うにその序破急を模したもののようにも思われる)、この曲の破と急が舞われる。音楽も舞いも、リズミカルで変化に富んでおり、曲の構成が整った名曲である。舞人は裲襠(りょうとう)装束(「うちかけ」とも読み、「打掛」とも書く。古代の武官の礼服(らいふく)に用いられる衣服で、貫頭衣(かんとうい)の一種。長方形の布を二つ折りにし、中央の穴に頭を通して着用し、上から帯を締める。錦で作られ、縁どりが施されている。舞楽の装束の裲襠装束は金襴で縁どりしたものと、毛皮のような房飾りの附いたものがある)に、長く毛を垂らした濃い緑色の面をつけて、細長い銀色の桴(ばち)を持つ。正式には左方(さほう)の「陵王」という曲と対を成して舞われる。但し、「納曾利」を一人で舞うこともあり、この時の舞いは別して「落蹲 (らくそん)」と呼ぶ。但し、春日大社に伝承される「納曾利」は一人舞で、「落蹲」のほうが二人舞である(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。YouTube のチャンネル「雅楽」の「納曽利」をリンクさせておく。

「ねとり」「音取」。雅楽に於いて、管弦合奏の始めに作法として行う一種の序奏。楽器の音調を整え、雰囲気を醸成する。]

2020/10/13

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之二 覺明義仲を辭して石山に隱るゝ事 / 巻之二~了

 

     覺明(かくめい)義仲(よしなか)を辭して石山に隱るゝ事

 

Kakumeiyosinaka



[やぶちゃん注:底本画像をトリミングし、清拭した。]

 後白河院の寵臣少納言通憲(みちのり)入道信西(しんぜい)ときこえしは、實範(さねのり)の曾孫實兼(さねかね)の息にて、藤氏南家(とうしなんけ)の儒流(じゆりう)にして、資性、聰明、類(たぐひ)なく、古今の治亂に達し、詩文の道、また、時流にこえて、時の人も其廣才に服しぬ。されども高階氏(たかしなうぢ)に養はるゝを以て、儒官に昇らず、久しく登庸(とうよう/アゲモチヰ)せられざりしが、その母、かつて後白河院の乳媼(にうおん/オチヽノヒト)なるを以て、帝、即位のはじめより親近せられて、寵遇、ならぶ者なし。後、薙髮して通憲の名を信西とあらため、專ら、朝政を執りて、威、福手にあり。遂に信賴(のぶより)等と權を爭ふより、「平治の亂」、いで來り、平(へい)相國(しやうこく)淸盛、また、信西、常に法皇に親近して平氏の短(たん)をそしることを憤りて、遂に戮死(りくし)せらる。

 その一門、ちりぢりになりし中に、妾腹(せうふく)に八重丸(やへまる)とて、四歲になりけるを、乳母(うば)、懷きて木津(きづ)の邊(へん)に居たりしが、やがて南都興福寺の衆徒のうちに親しきありて、寺に送りて弟子の兒〔ちご〕とするに、父の風ありて、才智、他の兒(ちご)に十倍し、一目(ひとめ)に十行を讀下(よみくだ)すの聰明にして、わづか一年ならざるうち、經論の要文(えうもん)など、ことごとく覺えをはりしかば、後には、

「南京(なんけい)の傳燈、この兒にあるべし。」

と、いひはやしけり。

 或る時、乳母なる者、寺に來りて、兒の成長したりしを悅んで、ひそかにかたるやう、

「父入道殿は、常々、平氏の跋扈(ばつこ/フミハダカル)を憤りて、其權(けん)を奪はんとして、却つて禍(わざはひ)をとり給ヘり。君は庶子(しよし/メカケバラ)のことなれば、早く出家して、父君の菩提を、いのり給へ。」

と、淚ながらに、こまごまと語るを聞きて、驚きて云く、

「など、けふまでは委しき事をもきこえざりし。」

といふに、

「さればとよ、相國の怒(いかり)、つよき事、皆人(みな〔ひと〕)の知る所なれば、いかなる禍のはしともなりやせんと、深くつゝみて、この寺の阿闍梨(あじやり)をも、すかし參らせて、『われ、知りたる人の子なり』と申し置き侍(はんべ)り。あなかしこ、この事、人にしらせたまふな。」

と制するに、兒、うちうなづきてありしが、是より、日夜に、父の罪なくして死したりしを憤り、平氏を亡(ほろぼ)して怨(うらみ)を報ぜんとおもふ心、おこりぬ。

 九歲の春になりしかば、師の阿闍梨、剃度(ていど/カミヲソリ)して、太夫坊覺明(だぶばうかくめい)とぞ呼びける。剃度は師命といひ、年頃、扶助の恩あれば、いなむ所なし。

『報讐(はうしう/カタキヲウツ)の志(こゝろざし)はおもひとゞまるべきにあらず。』

と、よりより、武事(ぶじ)を學びたりしに、さいはひ、三輪のほとりに橘知晴(たちばなともはる)とて、軍事に達したる隱士ありしを、師とたのみ、明暮(あけくれ)、兵書に心をゆだね、餘事をかへりみず。その頃までは南都北嶺(ほくれい/エイザン)の衆徒、やゝもすれば、合戰におよぶ時なれば、師の阿闍梨も、

『釋門(しやくもん)の禦侮(ぎよくわい/マモリ)、法王の干城(かんせい/タテシロ)ともなれかし。』

と、見ゆるしたまひぬ。もとより聰明の質(しつ)なるに、憤(いきどをり[やぶちゃん注:原本のママ。])を發して學びしかば、五、三年のうちに、兵家の大要、天文運氣の術まで、殘ることなく學び得て、十九歲の秋の頃より、

「行脚。」

と披露して南都を離れ、今の都に登りて、こゝかしこにひそみ居て、

『折もあらば、平相國(へいしやうこく)を剌して、父の怨を報ぜん。』

と伺ひども、相國、出づるときは、前驅(ぜんぐ)、路を拂ひ、入るに侍衞(ぢえい[やぶちゃん注:ママ。])、雲のごとくわきて、「源氏の一族、怨を含む」としりて、其備嚴(そなへおごそか/ヨウジン)なれば、素意(そい/ノゾミ)を達することなく、明し暮すうち、治承の春、北野參籠ときこゆるに、とくより、弓矢を隱しもちて、森の木蔭に窺ふに、さいはひ、下向は暮におよびたるに、

「是ぞ、相國の車よ。」

と放つ矢、春の夜の朦朧(おぼろ)なるに、見そんじて、隨身の侍の袖をつらぬくに、

「すはや、狼籍者よ。」

と騷動するに、

「さては、射損じたり。」

と跡を晦(くらま)して北山にかくれて、動靜(どうせい/ヤウス)を伺ふに、六波羅よりは、處々に屬托(ぞくたく/ハウビ)の札〔ふだ〕を以て、追捕(つゐほ/オヒトラヘ)、嚴重たれば、近國には身をいるゝ所なく、北國をさして、落延(をちの[やぶちゃん注:原本のママ。])びける。

[やぶちゃん注:本篇は源平の戦いから鎌倉初期が舞台で、郷土研究としての鎌倉史を趣味とする私自身は、ここに出てくる誰にもについて、よく判っている。されば、人名等については主人公及び必要最小限の対象にしか注を附さない。そもそもが、今朝から始めて、珍しく、本文全篇を躓くことなく五時間余りで一気に電子化し得たのも(私は今までは一つの部分シーンごとに本文を電子化し、そこで切っては注を附してきた)、心中のスクリーンに鮮やかに総ての映像が動いていたからに他ならない。

「覺明」大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう/かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した。元は藤原氏の中・下級貴族の出身と見られる。木曽義仲(久寿元(一一五四)年~寿永三年一月二十日(一一八四年三月四日):享年三十一)の右筆で、寿永二年五月十一日、現在の埴生護国八幡宮(富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。現在、馬上の人物像としては日本最大級の源義仲騎馬像が建立されてある。これ(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの同義仲騎馬像の画像)。八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。また、この倶利伽羅合戦のプレの部分は私の「三州奇談卷之五 倶利伽羅」でも注で詳しく記してある。さらに、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、芥川龍之介の「義仲論」(正字正仮名正規表現版 藪野直史全注釈(三章分割版)「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」にも彼のことが出てくるので参照されたい。彼については海野幸長(海野氏は信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる)と同一説、また、法然門下の僧西仏(さいぶつ)と同一人物とする説があり、講談社「日本人名大辞典」では三者総てを同一人物として記しているが、これらは孰れも私には信じ難い。

「石山」滋賀県大津市にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「石山寺」によれば、現在の本堂は永長元(一〇九六)年の再建になり、東大門・多宝塔は鎌倉初期に『源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している』とあるから、最後のシークエンスは現在の境内をそのままにロケーション出来る。

「高階氏」藤原通憲(信西)(嘉承元(一一〇六)年~平治元(一一六〇)年一月二十三日)は曽祖父藤原実範以来、代々、学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永三(一一一二)年父実兼が二十八歳の若さで、蔵人所にて急死したため、当時、僅か七歳であった通憲は縁戚であった高階経敏の養子となった。参照したウィキの「信西」によれば、『高階氏は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げてい』き、保安二(一一二一)年『頃には、高階重仲(養父・経敏とははとこの関係)の女を妻としている』。『通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる』とある。

「信西、常に法皇に親近して平氏の短(たん)をそしることを憤りて、遼に戮死(りくし)せらる」誤りウィキの「信西」によれば、「保元の乱」後、政治中枢にあって力を持っていた『信西は自分の息子たちを要職に就けた』が、『そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方』、保元三(一一五八)年八月には『鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院』(藤原得子(とくし/なりこ 永久五(一一一七)年~永暦元(一一六〇)年:鳥羽天皇皇后)『と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった』。『やがて院政派の藤原信頼、親政派の大炊御門』(おおいのみかど)『経宗、葉室惟方らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出すことにな』り、『信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた』。平治元(一一五九)年十二月、『清盛が熊野詣に出かけ』、『都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する』。『信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、郎党を尋問した追手に発見された。掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。享年』五十五。『掘り起こした時には、目が動き』、『息もしていたという』。『追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた』。『また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された』とある。

「その一門、ちりぢりになりし中に、妾腹(せうふく)に八重丸(やへまる)とて、四歲になりける」筆者は、則ち、この信西の庶子が、後の覚明であるとするのであるが、そのような説は、少なくとも私は聴いたことがない。思うに、案外、僧時代の覚明の法号が信救(しんぎょう)であったことからの思いつきかも知れない。また、覚明は若き日、勧学院(藤原氏が運営した儒学大学)に在籍していた頃、奈良興福寺(藤原氏の氏寺)に頼まれ、三井寺からの「以仁王挙兵の檄文」に対する返牒に「太政入道淨海は平家之糟糠、武家之塵芥」と書き(本篇では時制をズラして、挙兵した木曾義仲の八幡神への願文として登場する)、それが平氏の手に渡ってしまって清盛の逆鱗に触れ、追手から逃れるために、漆をかぶって姿を変え、逃走したことが知られており、源平争乱前後の有名人を手っ取り早く繋げることで、オール・スター・キャストにしようと欲張ったのかも知れない。

「木津」現在の木津川市付近か(グーグル・マップ・データ)。

「南都興福寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南京(なんけい)」南都に同じ。

「三輪」三輪山(グーグル・マップ・データ)。

「橘知晴(たちばなともはる)」不詳。

「釋門(しやくもん)」仏教。

「禦侮(ぎよくわい/マモリ)」これは通常、「ぎよぶ(ぎょぶ)」と読む。ここは外敵を防ぐことの意。

「法王」神聖なる仏法の正法(しょうぼう)の絶対の力を王に喩えたもの。

「干城(かんせい/タテシロ)」これも通常、「かんじやう(かんじょう)」と読む。国家を防ぎ守る武士や僧兵。「干」は「盾」の意。「詩経」の「周南」にある「兎罝(としゃ)」が原拠。AKY氏のサイト「暁楽詩集」のこちらで全篇の原文・訓読文・訳が読める。

ともなれかし。』

「治承の春」治承元年は一一七七年であるが、細かいことを言えば、まだ、安元三年。この年の八月四日(ユリウス暦一一七七年八月二十九日に治承に改元された。但し、改元された場合、元日まで戻って呼称されるのが普通で、ここもそれでよい。

「北野」北野天満宮(グーグル・マップ・データ)。

「六波羅」ウィキの「六波羅」によれば、『京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される』。天暦五(九五一)年、『空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになったという』。『この地は洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口にあたる事から、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた』。『院政期には平正盛が一族のために供養堂を建立し、その子忠盛が「六波羅館」を置き、ここを武家(軍事貴族)の拠点とする。正盛父子の伊勢平氏は、伊勢国を本拠としており、京都から伊勢や東国方面への街道が近くにある六波羅が拠点として選ばれた、六波羅流、六波羅家、六波羅氏と称したことが考えられている。平清盛の時代に平氏政権の中心となるが、後に清盛は洛中に「西八条邸」を造営して政治の拠点を移した。しかし』、『平氏一門の軍事力の拠点は引き続き』、『六波羅館に残った』。寿永二(一一八三)年の『平氏の都落ちの際、六波羅館は焼失した』。『平氏の都落ち後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、京都守護となった北条時政が京都守護の庁舎を置き(後、一族で甥の北条時定が駐留する)、頼朝や御家人の宿舎が築かれた』。承久三(一二二一)年、「承久の乱」後の『朝廷へ対しての処理として、六波羅探題が置かれた』。

「屬托(ぞくたく/ハウビ)」通常、「しよくたく(しょくたく)」と読む。嘱託・委嘱に同じ。仕事を頼んで任せること。

「札〔ふだ〕」指名手配書。通報者には褒美が与えられたから、前の「ハウビ」が附されてある。]

 

 兎角するうち、其年暮れて、明くれば治承二年の春、客星(かくせい/ハウキボシ)あらはれ、その上、

「洛中、さまざまの怪異(けい)あり。」

と風聞するに、覺明、もとより天文に達したれば、ひそかにこれを考ふるに、

「兵亂の兆(きざし)、國家の凶變、ちかきにあり。」

と知りて、

『さらば、其虛に乘じて、報讐の志を達せん。』

と思ひめぐらすに、その頃、

「木曾の冠者義仲、密々(みつみつ)、義兵の催しあり。」

と、きこえければ、

「彼(か)の人をすゝめて、急に軍(いくさ)をおこさせばや。」

と義仲の館(たち)に行きて、相見(しやうけん/タイメン)を求むるに、義仲云く、

「貴僧、何の敎へるところありて、遠く來〔きた〕るや。」

覺明、進んで云く、

「某(それがし)、一言(いちごん)をのべんため、はるばる、こゝに來〔きた〕る。そもそも、平氏の殘暴(ざんぼう)、天人〔てんにん〕の惡(にく)むところ、中にも法皇(ほふわう)を離宮に幽閉(ゆうへい/オシコメル)し奉る、古今例(ためし)なき不臣の至り。公卿(こうけい)、齒を切るといへども、力たらずして徒(いたづら)に其毒手(どくしゆ)を忍び、諸源(しよげん)、また、勢〔いきおひ〕、微(び)にして、むなしく自滅を待つの外なし。たまたま、平治に端をひらきしかど、却つて、百亂(〔ひやく〕らん)、階(かい)を生じて、その欲をみたしむ。しかるに、相國、位(くらゐ)、人臣をきはめ、一門、みな、榮達して、凡そ天下を三分して、その二つは平氏の領國となる。物、盈(み)つるときは必ず、缺(か)く。晝夜消息の理〔り〕なり。今春よりの天變、正(まさ)しく兵亂の兆(きざし)にて、不日に、大變、生ずべし。さきだつ時は人を制す。この時を虛(むな)しうせずして大事を起さん人こそ、誠に豪傑といふべし。君は正(まさ)しく源氏の嫡流、諸國離散のものも、常に意を寄せ參らす。今、大義を擧げて、上天子の爲に賊(ぞく/テフテキ)を討(とう)し、下(しも)、父祖の爲に讐(あだ)を報ず、とのたまはゞ、白旗(しらはた)、一度(ひとたび)閃(ひらめ)きて、群雄、雲のごとくに集らん。この時節をむなしうせば、長く人の下に屈したまはん。賢慮を決し給へ。」

と、席を打つてすゝむるに、義仲も席を前(すゝ)めて、

「誠に公論といふべし。われ、當らずといへども、指揮(しき/サシヅ)にしたがはん。されども、内府重盛、よく衆心(しゆしん)を得て、一門の柱礎(ちうそ/イシヅヱ)たり。われ、これを憚る。」

とあれば、覺明云く、

「重盛一人の德、一門の暴(ばう/アクジ)を掩(をふ[やぶちゃん注:原本のママ。])ふにたらず。一杯の水、一車(いつしや)の薪(たきゞ)の火を消(せう/ケス)すること、あたはず。況や、重盛、夭折(よえうしやく[やぶちゃん注:ママ。]/ワカジニ)の相にして、その死せんこと、來秋を過(すご)すべからず。君、はやく、事を圖り給へ。」

といふに、義仲、大いに悅び、

「われ、久しく大義に志ありといへども、然るべき謀士(ぼうし)を得ざる事を愁(うれひ)とせしに、さいはひに、天、貴僧をあたふ。わがために子房・諸葛(しばう・しよかつ/チヤウリヤウ。コウメイ)なり。」

とて、別館(べつかん/キヤクヤ)を拂(はら/サウジ)うて、重く用ゐられたり。

 翌日、義仲、かさねて問うて云く、

「われ、多年、この所に蟄居(ちつきよ/ヒソミ)して、徒(いたづら)に囘天の氣を呑む。いづれの國ヘうち出でてか、敵の動靜(どうじやう[やぶちゃん注:ママ。])、民の向背(こうはい)をも窺ふべきや。」

覺明云く、

「君、北陸(ほくろく[やぶちゃん注:ママ。])の僻境(へききやう)に蟄居したまひしこそ幸なれ。地、邊境なるゆゑ、進んで敵を攻むるに後患(こうげん)なく、退(しりぞ)いて嶮(けん)を守らば、枕を高うして安心すべし。この所を巢穴(さうけつ)として勢(いきほひ)を張らば、加賀・越前の諸士は招かずして應ずべし。信濃・越後は已に同志の人、過半なれば、先づ兵勢(へいせい)を張りて、其機(き)を露(あらは)し給へ。四方の國國、震(ふる)ひおそれんこと、掌(たなごころ)を指(さ)すがごとし。一度(〔いちど〕〕、六波羅の討手(うつて)を引寄せ、地埋にうとき弱卒(じやくそつ/ヨワモノ[やぶちゃん注:ママ、])、嶮岨(けんそ)になれぬ京勢(きやうぜい)、手始(てはじめ)の軍(いくさ)に打勝つものならば、その勢に乘じて長驅して攻(せめ)登らんに、誰(たれ)か遮(さへぎ)る者の侍(はんべ)るべき。況や、近江に佐々木の一族ありて、多年、回復をまつなれば、力をあはせんこと、必然なり。一鼓(いつこ)して都を襲はゞ、聞怖(きゝおぢ)する京童(きやうわらべ)、「すはや、敵よ、合戰よ」と、騷動せば、いとゞ武にうとき公家原(くげばら)、動亂して、平氏、内〔うち〕を治むるに暇(いとま)なく、外を防ぐに術(じゆつ)なからん。累年(るゐねん)の欝(うつ)を聞かんこと、只、一擧にあり。」

と激(げき/ハゲマス)するにぞ、

「さらば。」

とて、近國に潜みゐる源氏の一黨に牒〔てふ〕じ合せ、簱(はた)を揚ぐると、ひとしく、馳集(はせあつま)る勢(せい)、五百騎にあまる。

「小勢(〔こ〕ぜい)なりといへども、蟄(ちつ)を啓(ひら)いて雲を慕ふ龍蛇の勢、敵の十萬にも敵(てき)すべし。」

と、すなはち一通の願書を認(したゝ)めて、八幡宮に納めて、おのおの、義を結ぶ。その願文(ぐわんもん)、覺明、執筆にて、

「平相國は武家糟糠(さうかう/カスヌカ)、王法の怨敵(おんてき/アダガタキ)」

など書きたりしを、後に淸盛、傳ヘきゝて、

「この法師を六條川原に梟首(けうしゆ/ゴクモン)せずば、死すとも瞑目(めいもく/メヲフサガジ)せじ。」

とぞ憤られしとぞ。

[やぶちゃん注:「治承二年の春、客星(かくせい/ハウキボシ)あらはれ」「平家物語」巻第三「傳法灌頂」のほぼ冒頭部分、治承二年正月一日に後白河院の法住寺御所での拝礼の記事に続いて、

   *

正月七日、「彗星、東方に出づる」とも申す。また、「赤氣(しやくき)」とも申す。

   *

とある。

「殘暴(ざんぼう)」残虐なる乱暴狼藉。

「齒を切る」「臍を噛む」や「歯ぎしりをする」に同じ。激しく悔しがるさま。

「忍び」耐え。我慢をし。

「諸源(しよげん)」見かけぬ熟語であるが、孰れもその内の元が持つところの活力を指すようである。

「平治」「平治の乱」。平治元年十二月九日(ユリウス暦一一六〇年一月十九日から永暦元年三月十一日(一一六〇年四月十九日)。平治は保元四年四月二十日(一一五九年五月九日) 二条天皇の即位により改元したが、翌平治二年一月十日(一一六〇年二月十八日)には永暦に改元してしまい、事実上は九ヶ月余りしかなかった。

「却つて、百亂(〔ひやく〕らん)、階(かい)を生じて」「平治」という元号とは裏腹に、かえって数えきれない混乱・糜爛が、何層にも積み重なって生じてしまい。

「不日に」副詞。日ならずして。近いうちに。

「さきだつ時は人を制す」人が何かをする前に先だって異変が生ずれば、最早、人がその邪悪な現象の展開をどうこうすることは出来なくなる。

「公論」公平にして偏りのない正論。

「われ、當らずといへども」義仲の謙遜の辞。

「掩(をふ)ふにたらず」平家の悪しき部分を抑止するには、到底、足らない。

「謀士(ぼうし)」策士。

「子房」漢を建国する劉邦の部下で軍略家として活躍した張良の字(あざな)。

「諸葛」三国時代の蜀漢の丞相。字は孔明。劉備に仕え、「赤壁の戦い」で魏の曹操を破ったことでよく知られる。

「後患(こうげん)」通常は、「こうかん」でよい。但し、「ゲン」の音もある。また、一般には、「後日の憂い・後になって起こる煩わしい事柄」の意であるが、ここは文字通りで、後方から攻撃を受ける危険性を指している。

「嶮(けん)を守らば」屹立する断崖のような山間の山寨(さんさい)を自身の守りの城となされば。

「兵勢を張りて」軍勢を、取り敢えず、張り動かして。

「機(き)」平家討伐をするという無言の挙動・威勢。

「掌(たなごころ)を指(さ)すがごとし」、掌(てのひら)の上にあるものを指差して説明するように、物事が極めて明白に起こることのたとえ。

「近江に佐々木の一族あり」ウィキの「佐々木氏」を引く。その元は宇多天皇の第八皇子敦実(あつみ)親王の流れを汲む宇多源氏であった源成頼の孫佐々木経方を祖とする一族である。『近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し、全国に勢力を広げた』。『祖の佐々木秀義は保元元年』(一一五六年)『に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年』(一一五九年)の「平治の乱」の折りも、『義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により』、『伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の』四『人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた』。治承四(一一八〇)年に『頼朝が伊豆国で平家打倒の兵を挙げると、佐々木』四『兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め』、十七『か国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる』とある。

「一鼓(いつこ)して」進軍の軍太鼓を一打ちするだけで。

「牒〔てふ〕じ合せ」手紙を出して同盟を確認し。

「蟄(ちつ)を啓(ひら)いて」土中で冬籠りをしていた虫が、大地が暖まって、まことの自身の春の到来を感じ、暗がりから勇んで出てくるように。

「この法師を六條川原に梟首せずば、死すとも瞑目せじ」というのは、どこかに実際にそう書かれているだろうか。ご存知の方は是非、御教授願いたい。]

 

 されば、覺明が先見に差(たが)はず、翌年の秋、重盛、薨去して、一門闇夜(あんや)に燈(ともしび)をうしなひたるごとく、人心、これがために動くを待つて、高倉の宮、覺したちたまふこと侍(はんべ)りしに、計(はかりごと)、敵にもれて、宮も、あへなく邊土の土とならせ給ひ、與力(よりき)し奉りし賴政(よりまさ)父子も、むなしく宇治の波と消えて、暫く都も靜〔しづか〕なりといへども、宮の令旨、諸國に下し給ひし中にも、

「伊豆の賴朝、木曾の義仲こそ、義兵を起して攻登る。」

と、きこえしかば、

「まづ、その近きを攻めよ。」

とて、義仲追討のため、大軍を向けたりしに、覺明が計策に、六波羅勢、散々にうち負けて敗走すれば、後(あと)を慕うて、北陸の大軍、潮の湧くがごとく殺到するに、此彼(こゝかしこ)に時を待ちたる源氏重恩の諸士、馳加(はせくはゝ)りて、洛中に亂入すといふほどこそあれ、上下〔うへした〕、その兵勢(へいせい)に氣をのまれ、平氏の一門、一戰〔いつせん〕にもおよばず、主上・門院を供奉(ぐぶ)し參らせ、隣家(りん〔か〕)の犬の、棒を見て逃ぐるごとく、西國をさして沒落す。

 義仲、都に入りて、法皇の御所に參れば、御感、斜(なゝめ)ならず、

「なほも、平氏の一族を亡(ほろぼ)して禍の根をたち、宸襟(しんきん)を安んぜよ。」

との勅を奉(う)げて、暫く、都に軍馬の勢を休む。

 然るに義仲、北陸にありて、一圖(いちづ)、報讐の念より外なかりしに、都滯留のうちに見聞(けんもん/ミキク)する所、生涯、見もなれぬ繁花風流、水きよく、山うるはしく、むかし、「東門闉土(いんと)の女〔をんな〕、雲のごとし」といひけんは、物の數(かず)かは。大宮人(おほみやびと)の、いと、やんごとなきは、いふもさらなり、賤(しづ)の女(め)まで、鄙には似ざるけはひ、木曾の山里になれたる目には、天仙かともあやしまれ、六波羅の結構、大厦高樓(たいかかうろう)、玉をちりばめ、錦をかざれる奢侈(しやし/オゴリ)を見るより、いつしか惰氣(だき)生じて、

「かゝる地に下半世(〔しも〕はんせい)の歡樂を極むるものならば、人世の望(のぞみ)たれり。」

と、美女をあつめて、日夜、淫酒(いんしゆ)を事として、軍務を心におかず。況や、一戰の大功に心恃(たの)むで、放逸(はういつ)の兆(きざし)、みえたるに、覺明、諫めて云く、

「君、この所に逸樂を欲し給ふは、火宅に巢(すく)ふ燕にひとしく、大禍、忽ち來るべし。平氏、敗走すといへども、多年恩顧の者、西國に多ければ、虎を放ちて山に入れ、龍(りよう)を追うて淵に沈むるに、ことならず。要害を固うして敵に備へ、主上(しゆじやう/テンシ)、神器を挾(さしはさ)みて諸國に令せば、なかなか、たやすく勝つべき軍(いくさ)と覺え侍(はんべ)らず。兵〔つはもの〕は神速(〔しん〕そく)を貴ぶこと、君のしろしめす所なれば、今、敵軍の怖意(ふい)さらぬ間(ま)に、短兵(たんへい)、急に攻めよせなば、一戰に擒(とりこ)にすべし。事をあやまち給はゞ、窮鼠却つて猫を食(は)むの譬(たとへ)あり。況や、援兵(ゑんへい/カセイ)加り、嶮(けん)に據(よ)らんをや。そのうへ、賴朝・義經等(とう)の數人(す〔にん〕)は、皆、故左馬頭(さまのかみ)の遺子にして、已に義兵を起す。何ぞ、君の下にありて、令(れい/イヒツケ)をうけ、命〔めい〕を守るベきや。古(いにしへ)より兩雄ならび立たず、君のひまを窺ふこと理(り)の當然なり。今、平家を族滅して大功を建てゝ、その後、都に守護をおきて、君は北陸にありて、天下兵馬の權(けん)を握りたまはゞ、まくらを泰山(たいざん)のやすきに置きて、其時、はじめて、歡樂をうけて太平をたのしみ給ふも晩(おそ)からじ。都にとゞまりて、久しく朝家(てうか/キンリ)に親しみたまはゞ、はじめは武を忘れ、終(をはり)は不臣の罪をとり給ふべし。況や、今日〔こんにち〕、前に平氏の大敵あり、後(しりへ)に賴朝・義經の梟雄(けうゆう)あり。その中間(ちうげん[やぶちゃん注:ママ。])にはさまりて、逸樂を事として、後患(こうげん)をかへりみ給はぬは、小兒の見(けん)にことならず。」

と、折檻(せつかん)の諫(いさめ)をいれたりしかど、諂諛(てんゆ/ヘツラヒオモネル)の者、親近して、却つて、覺明を疎んずるはし、見え侍(はんべ)るに、覺明、退(しりぞ)いて歎(たん/ナゲキ)じて云く、

「鳴呼、竪子(じゆし)、敎ふるにたらず。敵國、亡びずして、主將、驕り、士卒、おこたる。いづれか滅亡を免(まぬか)るベきや。況や、義仲、天年を全うする相にあらず。われ、一度〔ひとたび〕、空門(くうもん/ホトケノミチ)にいりしかども、父の讐(あた)を安然として詠(なが)めをらんも、本意〔ほい〕ならずと、思ひたちたりし素意は滿足しぬ。

もとより、太平をともに樂しむべき望(のぞみ)もなければ、はじめより、主(しゆ)を擇(えら)ぶこともなかりし。機をみてさらすんば、禍、近きにあり。赤松(せきしやう)に從ひし子房(しぼう)、かしこくも害を免(のが)れたり。空門、已に榮辱(えいじよく)を一夢(〔いち〕む)に附す。なんぞ去留(きよりう)に心あらんや。」

と、遂に何地(いづち)ともなく、跡をくらまして、影響(えいきやう)を知るものなし。

[やぶちゃん注:「翌年の秋、重盛、薨去して」平重盛の逝去は治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)で享年四十二であった。死因は胃潰瘍・脚気衝心や背中に発症した悪性の腫瘍などの説がある。彼の死によって清盛と後白河法皇の関係は完全に破綻し、清盛は同年十一月十四日にクーデターを起こし、白河の院政は停止(ちょうじ)され、鳥羽殿に幽閉されることとなる。

「高倉の宮」後白河天皇の第三皇子で「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した以仁王(もちひとおう 仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年五月二十六日(一一八〇年六月二十日))の通称。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮・高倉宮と呼ばれた。討たれた場所は南山城(みなみやましろ)の加幡河原(かばたかわら)とも(木津川の畔らしい)、同じく木津川沿いの光明山鳥居の前ともする。

「賴政(よりまさ)父子も、むなしく宇治の波と消えて」源源三位(げんざんみ)頼政は、逃がした以仁王と同じく、同年五月二十六日、休息を取った宇治平等院で平家軍に襲われ、子の仲綱・宗綱・兼綱が次々に討ち死に或いは自害し、頼政も自刃した。享年七十七であった。

「門院」ここは清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院徳子その人を指す。

「宸襟(しんきん)」「宸」は「天子の住まいや関係する対象」を指し、襟は「襟首(えりくび)」を意味し、「御前」と同じく、直接示すことが憚られることから、これで「天子の御心」を指す。

「東門闉土(いんと)」これは「詩経」の「鄭風(ていふう)」の「出其東門」(しゅつきとうもん)に基づいた謂い。「闉闍」とは甕城(おうじょう)で、城門の出入口を壁で半円状に囲った区域(小さな防塁)、本邦で言えば城の「曲輪(くるわ)」に相当する)の門のことを指す。「出其東門」は壺齋散人氏の「壺齋閑話」の「出其東門:いとしい妻を思う(詩経国風:鄭風)」として、原文・訓読・訳が載るので見られたい。

「大厦(たいか)」大きな家。豪壮な建物。

「火宅に巢(すく)ふ燕」「火宅」は仏語で、煩悩や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家に喩えた語(「法華経」の「譬喩品 (ひゆぼん)」に説く)で、現世・娑婆の意。「火宅」は燕の喉と額の赤いのに不吉に通じ、また、「巢ふ燕」は「燕巣幕上」(えんそうばくじょう)或いは「燕、幕上に巣くう」という諺、戦場の本営などに張っている幕の上に燕が巣を作ることから転じて、「安定せず、非常に危険な状況」の喩えをも、連想させる。

「泰山(たいざん)」道教の最高神泰山夫君の住む泰山に、「安泰」を掛けたもの。

「不臣」臣下としての道に背くこと。君主に反抗すること。不忠の臣。ここはそうした大罪を犯す家臣が出てくることを謂ったもの。

「梟雄(けうゆう)」残忍で強く荒々しい人。悪者などの首領に使うことが殆んどである。

「折檻の諫(いさめ)」強く厳しく諫言 (かんげん) すること。漢の孝成帝が朱雲の強い諌めを怒り、朝廷から彼を引きずり出そうとした際、朱雲が欄檻(らんかん) につかまって拒絶しようとして、それがために欄干が折れたという「漢書」の「朱雲伝」の故事に基づく。

「疎んずるはし、見え侍(はんべ)る」「はし」は「端」で、既にこの諌めの最中に、義仲の雰囲気や表情のちょっとしたところに彼の五月蠅さを疎(うと)んじていることが見て取れたというのである。

「鳴呼、竪子(じゆし)」はいはい、思い出すよね、「鴻門の会」で沛公(劉邦)を殺そうとしない項羽に、参謀の范増が、怒り心頭に発して、「唉、豎子不足與謀。」(「唉(ああ)、豎子(じゆし)與(とも)に謀るに足らず」)と嘆くところを援用したわけだよ。「竪子」は若者・青年の意であるが、特に未熟な者に対して蔑(さげす)み、罵って言う場合に使うことが多いね。「ああっ! この糞ガキが!!」だよ。

「空門(くうもん/ホトケノミチ)」この場合は、一切を空と考える大乗仏教の教え。転じて、仏教の総称である。

「赤松(せきしやう)」小学館「日本国語大辞典」に、『中国、上古の仙人。神農の時の雨師』(雨を司る神)『で、崑崙山に入って』、『仙道を得た。後世に』至って、『漢の張良』子房『が弟子となったという伝説がある』とある。

「榮辱(えいじよく)」誉れと辱め。名誉と恥辱。

「影響」影が形に従い、響きが音に応じるの意から、ここは、その確かな存在の謂いであろう。]

 

 義仲、驚いて、士卒をして是を尋ねもとむれども、その行く所を知らず。

 果して、幾程(いくほど)なく、義仲、減亡の禍をとりしこと、覺明が先見、露、たがふことなし。

 平氏は義經・範賴がために西海に亡び、四海一統して、賴朝、覺明が義仲にすゝめしごとく、その身、鎌倉にありて、天下の兵權を掌りて、覺明、義仲を諫めしことを傳へきゝて、

「あな、おそろし。義仲、もし、其計(はかりこと)を用ゐば、われ、今日〔こんにち〕、あらんや。徒に藩籬(はんり)を守るの犬たるべし。」

とて、是より覺明をたづね求めしめ給へども、その所在、たしかならず。

 その後、文治五年、義經、衣川に自殺して、海内(かいだい)、悉く鎌倉の手に屬せしかば、建久元年、賴朝、上洛して恩を謝す。法皇の御氣色、よろしく、數日〔すじつ〕、滯留のうち、和田・兒玉黨の若殿原、出仕の暇(いとま)をぬすみて、湖水に舟をうかべ、石山寺に諧で侍りしに、頃しも、滿月にて、山の端(は)に出づるより、影は湖水にひたして、金(こがね)の波、煙の樹木(うゑぎ)、さながら、我もまた。畫圖(ぐわと)の中にあるかと疑はるる風情。御堂の欄(おばしま)近くあつまりて、いみじく興じたりしに、近くゐあつまりて、一人、

「白霧山深鳥一聲(〔はく〕む〔やま〕ふかし 〔とり〕いつせい)。」

と吟ずれば、一人は、

「月は上(のぼ)る庾公(ゆこう)が樓(ろう)。」

と朗詠するに、佛前に燈(ともしび)挑(かゝ)げゐたりし法師の、うちしはぶきながら、

「『月には上る庾公が樓』とこそありたけれ。」

と、獨言(ひとりごと)するをきゝとがめて、おのおの舌を捲いて、

「こは世の常の法師にはあらじ。いざや、招きて淸談をもかたりきこえん。」

と、從者をして尋ねさするに、いづち、去(い)にけん、影もなし。みなみな、遺憾(いかん/ノコリオホキ)のことにおもひながら、

「さるにても、『月には上る』の一句は、心つかざる趣を、はじめて得(とく)とりたり。」

とて、夜ふけて歸りて、あくる朝、賴朝に此よし、語りきこゆるに、賴朝、しばしば案じて、俄(にはか)に重忠をめされ、ひそかに仰言(おほせごと)侍(はんべ)りしを、

「いかなる事にや。」

と、諸大名も、いぶかしみおもひしが、次の日、賴朝、物語のついでに、

「さりし夜、殿原の逢ひたまひし法師こそ、必定、木曾に從ひありし覺明ならめ。石山のほとりに隱れすむよし、ほのかに聞きたりしに、『このほどの樣(やう)、なみの者にはあらじ』と、急に重忠に命じて、『彼(かしこ)にこえて誘引(いういん)してよ』と心をつくせしに、かしこくも、はや、跡をかくして、行方をしらず。われ、多年、彼が兵機妙算(へいきめうさん)を慕ひ、且は、文筆に達したれば、われに仕へさせたくおもひしに。殘念さよ。」

と宣(のたま)ふに、諸人、はじめて疑(うたがひ)をはらしぬ。

 後に覺明は高野にすみて、兄の出家して蓮華谷(れんげだに)に明遍僧都(みやうへんさうづ)とて、いまそかりしに、たよりて、奧の院の傍(かたはら)に、かたちばかりの庵(いほり)しつらひて、遂に、そのところにて終りぬといひ傳へ侍(はんべ)る。後までも文筆の業(わざ)は捨てもやらで、「三敎指揮(さんがうしき)」の抄(せう)は、其頃、書きたりし。この書は大師壯年の著述にて、「文選(もんぜん)」にくはしからぬものは解しがたきを、覺明、閑居のうちに抄を作りて、今にもてはやしぬ。誠に文武の全才(ぜんさい)なるをや。賴朝の惜しまれしも、むべなり。たゞ、義仲の用ゐること能はざりしこそ、千載の遺恨といふべし。釋門については論ずべきことあるべけれど、その氣象(きしやう)豪傑なる、稱するに、たれり。文覺(〔もん〕がく)法師、老後、ふたゝび、遷謫(せんてき/ルザイ)の禍(わざはひ)を招きたるに比するに、天淵(てんえん)のたがひ侍(はんべ)るをや。

 

 

席上奇観垣根草二之巻終

[やぶちゃん注:「義仲、減亡の禍をとりしこと」寿永三(一一八四)年一月六日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。十五日には後白河法皇に自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦工作、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経の率いる鎌倉軍が目前に迫り、開戦を余儀なくされた。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉に始まる一連の行動により、既に人望を失っていた義仲につき従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。戦いに敗れた義仲は、乳兄弟今井兼平ら数名の部下とともに落ち延びようとするが、二十日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を經たり。信賴の前蹤と比するに、猶、その晩きを思ふ」と評している。享年三十一であった(以上はウィキの「源義仲」に拠った)。

「藩籬(はんり)を守るの犬」直轄を許された領地の、朝廷の使い走りの「犬」。

「文治五年、義經、衣川に自殺して」義経は庇護者であった藤原泰衡の寝返りにより、文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)に享年三十一の若さで、高館で自刃した。

「海内(かいだい)」天下。

「建久元年、賴朝、上洛して恩を謝す」建久元(一一九〇)年十月三日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発ち、「平治の乱」で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経た後、十一月七日、千余騎の御家人を率いて入京し、嘗て平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。九日に後白河法皇に拝謁、長時間、余人を交えずに会談した。この上洛で頼朝は権大納言・右近衛大将に任ぜられたが、十二月三日には両官を辞した。鎌への帰着は同年十二月二十九日であった。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷に於ける公事の運営上の重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り、帰鎌が困難になると判断したからとみられている。十一月九日の夜、頼朝は九条兼実と面会し、政治的提携を確認した。頼朝の在京はおよそ四十日間であったが、後白河院との対面は実に八回を数え、朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年三月二十二日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた(以上はウィキの「源頼朝」に拠った)。

「和田」鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられた和田義盛。

「兒玉黨」平安後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団「武蔵七党」の一つ。主に武蔵国最北端域の全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に周縁域に勢力を持っていた。

「湖水」琵琶湖。

「月は上(のぼ)る庾公(ゆこう)が樓(ろう)」「『月には上る庾公が樓』とこそありたけれ」「庾公」は東晋建国に関わった人物で、身体障碍者であったが、外戚として東晋の政界に重きをなした、優れた官吏であったようである。正直、よく判らない。但し、漢詩として詠ずるに「には」の方が遙かに優れていることは直感として判る。

「重忠」畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)。頼朝の挙兵に際しては、平家方として敵対したが、のちに臣従して「治承・寿永の乱」で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子重保とともに謀殺されれた。存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と称された人物である。

「兵機妙算」軍事上の機略と優れた妙策。

「蓮華谷」和歌山県伊都郡高野町高野山蓮華谷ここNAVITIME)。

「明遍僧都」(康治元(一一四二)年~貞応三(一二二四)年)は僧で、彼に関しては父は確かに藤原通憲信西である。ウィキの「明遍」によれば、『東大寺で三論宗義を学び、後に遁世僧となり、高野山に入り』、『蓮華三昧院をひらく。法然に帰依し』、『浄土教に入ったとも』される。十八の時、「平治の乱」に遭い、『父は斬首され、自身も越後国に配流となる。赦免された後』、『東大寺で三論宗を学』び、五十歳を『過ぎてから遁世して高野山に入山』、『蓮花三昧院を開創した。法然門下となり』、『専修念仏に帰依した時期については不明である。著作として「往生論五念門略作法」などがあるが』、『現在は残されていない』とある。因みに、信西には異様に子が多く、二十三名を数える。

「三敎指揮(さんがうしき)」空海の「三敎指歸」(さんごうしいき)のことであろう。序文から、延暦一六(七九七)年十二月二十三日)に成立。空海二十四歳の著作で、出家を反対する親族に対する宗教的な寓意小説に仮託した出家宣言の書として知られる。

「文選(もんぜん)」六朝時代の梁の昭明太子の編になる詩文選集。全六十巻。五三〇年頃の成立。周から梁にいたる約一千年間に及ぶ詩文の選集で、収録された作者は百三十人、作品は七百六十編に達する。賦・詩・騒に始り、弔文・祭文に至る三十九の文体に分類し、各文体内では、作者の年代順に配列されてある。編集方針は編者の序によれば、道徳・実用的観点よりも、芸術的観点から文学を評価して選んだものとあり、その結果として賦は五十六編、詩は四百三十五首が選ばれ、この二つだけで六割以上を占めている。本書は、後、文学を志す者の必読書として広く流布し、唐の李善の注を始め(これには大学時代に苦しめられた)、多くの注釈が出て、「文選学」が生まれたほどで、日本にも早くに伝わり、王朝文学に大きな影響を与えた(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「釋門については論ずべきことあるべけれど」どうも、作者都賀庭鐘は神道志向の保持者であったか。

「文覺法師」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)は俗名を遠藤盛遠と言った真言僧。元は「北面の武士」とされ、袈裟御前を殺した発心譚などの伝説が多い。京都高尾の神護寺再興を志し、後白河法皇に寄進を強要して伊豆に流された。その地で、源頼朝に近づき、後の鎌倉幕府や法皇の援助を得て、空海所縁の諸寺を復興した。しかし、頼朝の没後、謀略を計画したとして捕縛され、佐渡・対馬に配流となり、六十五歳で没した。私の芥川龍之介「袈裟と盛遠」(芥川が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」原文も電子化してある)を参照されたい。]

畔田翠山「水族志」 オナガダヒ (ハマダイ)

 

(六)

オナガダヒ[やぶちゃん注:「オ」はママ。]【紀州日高郡薗浦】

形狀棘鬣ニ同乄其尾上尖末長ク糸出テ下尖ハ短シ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(六)

オナガダヒ【紀州日高郡薗浦。】

形狀、棘鬣(たひ)に同じくして、其の尾の上、尖(さき)の末、長く糸出でて、下の尖は短し。

 

[やぶちゃん注:本文はここスズキ目スズキ亜目フエダイ科ハマダイ属ハマダイ Etelis coruscans か。本種は関東で「オナガ」(尾長)の異名を持つ。但し、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のハマダイの画像を見て戴くと判るが、凡そ「棘鬣(たひ)」(マダイ)には似ていない。解説によれば、「浜鯛」と漢字で書くが、しかし、この和名のもとは『不明だが、推測で「はま」は実は「幅」の変化で、大きいことを現すという説があり、これをとると「大きい」、「鯛」は左右に側扁している、もしくは赤いという意味合いを現しているのではないか』とあり、成魚は一メートル『前後になる。体色は背の部分が赤く、腹側は赤味を帯びて白い。目が大きく、側扁(左右に平たい)し、細長い。尾鰭がとても長い』とあり、英語名も「Deepwater longtail red snapper」である。「snapper」は広くフエダイ科 Lutjanidae の仲間を指す語で、彼らは多く口が頭部のやや下にあって、前に突き出てており、口笛を吹くように見えることから、和名では「笛鯛」とし、英語の「snapper」は「パチッと鳴るもの」・「がみがみ言う人」の意で腑に落ちる。

「紀州日高郡薗浦」現在の御坊市(グーグル・マップ・データ)内であるが、地名は残っていないようである【2020年10月15日追記】いつも御教授戴くT氏の御指摘を頂戴した。私がろくに探さずいただけであったちゃんと地名に残っていた。和歌山県御坊市薗(その)(グーグル・マップ・データ)である。T氏が添付して下さった「天保國繪圖紀伊國日高郡御坊付近」の中央に「薗浦」とあった(「ヱビスダヒ」の注を見られたい)。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。

北原白秋 邪宗門 正規表現版 序樂

 

   序  樂

 

ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、

光、もののね、色、にほひ―― 聲なき沈默(しじま)

徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、

薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるし

ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。

 

壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし

象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、

その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に

冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空

かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。

 

あはれ、見よ、そのかみの苦惱(なやみ)むなしく

壁はいたみ、圓柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて

朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。

ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、

はた、もろもろの調樂(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。

 

暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ

想(おもひ)の沈默(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、

そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、

はじめまづ井゙オロンのひとすすりなき、

鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。

 

燃えそむるヴヱス井゙アス、空のあなたに

色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。

廢(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、

ひとときに渦卷(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ

管絃樂部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。

四十一年二月

  

[やぶちゃん注:第一連二行目のダッシュの後の字空けは見た目のママ。

「タンホイゼル」「楽劇王」の異名を持つヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)が作曲した、全三幕構成のオペラ「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)の略称。一八四五年十月ドレスデン宮廷歌劇場。詳しくはウィキの「タンホイザーを参照されたい。因みに、私はヴァルトブルク城に泊まったことがある。

「熔岩(ラヴア)」lava。英語。この語の語源はまさに「ポンペイ」と関わる。イタリア語で「濁流」の意で、紀元後七九年にヴェスヴィオ火山(イタリア語:Il monte Vesuvio:イタリア・カンパニア州にある火山。ナポリから東へ約九キロメートルのナポリ湾岸にある)が噴火した際に、その溶岩流を「lava」と呼んだことに基づくからである。

「ポンペイ」ラテン語で「Pompeii」、イタリア語で「Pompei」。イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。私は二度、行った。]

2020/10/12

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之二 在原業平文海に託して寃を訴ふる事

 

席上奇観垣根草二之巻

     在原業平文海(ぶんかい)に託して寃(ゑん)を訴ふる事


Narihira

[やぶちゃん注:底本画像をトリミングし、汚損を除去した。考えて見ると今までもそうだが、合成するほどの挿絵では、これ、ない。向後も基本、これで行く。]

 天文の頃、都、相國寺(しやうこくじ)に文海といふ僧あり。禪誦の暇(いとま)、和歌をこのみ、逍遙院殿の門人にて、叢林に文字禪の風韻をたてて、一時の奇才なりしが、その頃は室町家義晴公の治世にて、連年、干戈(かんくわ)息(や)む時なく、西國・中國は大内・毛利の確執(かくしつ)、東國に北條・今川、北陸は武田・長尾の合戰、ひまなく、將軍家も都を沒落し給ひ、洛中の動亂また前代に類(たぐひ)まれなる事にて、本寺(ほんじ)も、天文二十年亥(ゐ)七月、兵火にかゝりて禪堂・法堂(ほふだう)、殘りなく燒亡せしかば、文海も安居(あんご)に所なく、衣鉢を收めて東國を心ざして行脚して、此彼(こゝかしこ)、ところさだめず遊歷するうち、四、五年も經たりしに、さすが、都もなつかしく、錫(しやく)を廻(かい)して伊勢路にかゝり、大神宮に詣でて法施(ほつせ)奉り、それより大和路にこえて、

「吉野の花をも見ばや。」

と分登(わけのぼ)るに、頃は彌生の末にて、花もわづかに散り殘りたる風情、いとゞ哀(あはれ)ふかく、覺えず、山深く入りたるに、日、西山(せいざん)に沈み、遠寺(ゑんじ)に鐘ひゞき、花より外に知る人もなき山中を、そこはかとなく迷ひゆけども、人家とてもなし。

『花を今宵の主(あるじ)とやせん。』

とやおもひ煩ふ所に、遙(はるか)のあなたに燈(ともしび)のかすかに見ゆるにぞ、

「さては、人家のあるやらん。」

と、やうやう、たどりつきたれば、木立うるはしきほとりに、殿造(とのづくり)、いときよらかにて、門もさゝで、誰(たれ)いさふる人なければ、文海、あやしみながら、軒の邊(あたり)に徘徊(たちやすら)ひて内を窺ふに、折りふし、童(わらは)の出でたるに、辭(ことば)をいやしうして投宿を乞ふ。

 童、しばらくありて、出でて案内するに從うて一間なる所に坐すれば、やがて、茶菓點心(さかてんじん)やうの物、懇(ねんごろ)に饗應あるに、終日(ひねもす)の饑(うゑ)をわすれ、はじめて安心するうちにも、

『いかなるかたの此奧山にかくはひそみゐ給ふやらん。』

と見めぐらすに、主と覺しき人、いで給ひたり。

[やぶちゃん注:「在原業平」(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)。六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の間に生まれた。五男だったことから「在五中将」「在五」などとも呼ばれた。右馬頭(みぎうまのかみ)・右近衛権中将などを経て、元慶三(八七九)年には蔵人頭(くろうどのとう:天皇に近侍する要職)になったとも伝える。「三代実録」には「体貌閑麗、放縦にして拘わらず、略才学無し、善く倭歌を作る」と評されて、その人柄が伺われる他は、実像を伝えるものは少ない。但し、紀有常の娘を妻としたこと、文徳天皇の皇子で紀氏を母とする惟喬(これたか)親王に親しく仕えたこと、恋愛関係にあったともされる二条の后藤原高子(たかいこ)の引き立てを受けたことは、事実と考えられている。「古今和歌集」時代に、先駆けて新しい和歌を生み出した優れた歌人の一人で、紀貫之も深い尊敬の念を抱いていたことが、その「土佐日記」によって知られるが、一方で「古今集」の「仮名序」で貫之は彼のことを『その心、余りて、言葉、足らず』と評しているように、業平の和歌は大胆な発想による過度なまでの詠嘆に特徴があり、桜の花への愛惜の情をパラドキシャルに詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の一首を始めとして、その新鮮な表現と抒情性は後代まで常に高く評価され続けた。また、斬新な発想や用語には白居易などの漢詩の表現に源泉を持つものが多く、この点でも平安朝和歌の方向を先取りしている。「伊勢物語」の一部は業平の自作かとも考えられ、その後、何人もの手によって業平を思わせる主人公の物語として加筆され、成長していったものと考えてよい。また、ここでも以下で本人が問題にするように、虚構が実録として読まれたことから、さまざまな伝説の業平像が生まれ、各時代に応じた変容を見せつつ、日本の文学や文化の大きな源泉であり続けた。「古今集」には三十首が入集する。以下の勅撰集にも多くの歌が採られているものの、この時既に「伊勢物語」の主人公の歌を業平の歌と考えて採録したものが多く、現存する「業平集」も、後人が「古今集」「伊勢物語」などから歌を集めて編集したものである(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「文海」不詳。但し、実は本篇を正面から取り組んだ、飯倉洋氏の論文『一上方の「奇談」書と寓言:『垣根草』第四話に即して』(『上方文藝研究』二〇〇四年五月発行・PDF)があり、そこで飯倉氏は『文海なる僧が実在の人物なのかどうかはわからない(人名辞典類および『実隆公記』『相国寺史料』等には出てこない)むしろ相国寺で修行したという宗祇や、天文二十二年に三条西公条』(きんえだ)『の吉野旅行に同行した紹巴(時代的にはぴったりくる)や、実隆に親しい数奇の僧で天文二年に『あづま道の記』の著書のある尊海(僧で名に「海」と付く)などの面影を合わせた虚構の人物ではないかと考えている』とある。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。

「相國寺」京都市上京区にある臨済宗萬年山(まんねんざん)相国寺(グーグル・マップ・データ)。永徳二(一三八二)年に第三代将軍足利義満が「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願したが、竣工は十年後の明徳三(一三九二)年であった。京都五山第二位で、五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。開山の経緯は複雑なので、ウィキの「相国寺」を見られたい。

「逍遙院殿」三条西実隆(康正元(一四五五)年~天文六(一五三七)年)の別名。室町後期から戦国時代にかけての公卿で内大臣三条西公保(きみやす)の次男。官位は正二位内大臣。長禄二(一四五八)年に兄実連が死去し、家督相続者として扱われて従五位下に叙され、侍従に任官したが、二年後の寛正元(一四六〇)年には父公保も死去した。そのため、母方の叔父であった甘露寺親長の後見を受けて家督を相続した。応仁元(一四六七)年、京都で「応仁の乱」が発生すると、鞍馬寺へ疎開した(乱によって三条西邸も焼失してしまう)。文明元(一四六九)年の元服と同時に、右近衛権少将に進み、実隆に改名、永正三(一五〇六)年には内大臣となったが、在職僅か二ヶ月で致仕した。永正一三(一五一六)年に出家している。天皇家とは深い縁戚関係にあったことから、後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の三代に仕えた。室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭国守護武田元信らとも親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亙り、一条兼良とともに和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授も受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から「小倉懐紙」の鑑定を依頼されたことが「実隆公記」にみえる(以上はウィキの「三条西実隆」に拠った)。

「文字禪」普通は禅宗では「不立文字(ふりゅうもんじ)」を謂い立てるが、無論、禅宗には、その奥義を解釈したり、シンボライズする詩・文・詞・疏・記・銘などがあり、それを指し、この場合は和歌・連歌などをそれに加えたものと考えられる。

「風韻」風流。

「室町家義晴公の治世」第十二代将軍で在職は大永元(一五二二)年十二月二十五日から天文一五(一五四七)年十二月二十日まで(西暦はズレを確認して入れてある)。

「天文二十年亥(ゐ)七月」三好長慶軍と細川晴元軍との間で起こった「相国寺の戦い」。天文二〇(一五五一)年七月十四日から翌日にかけて、現在の京都府京都市上京区の相国寺で戦い。細川方の政勝・香西元成らがこの寺に陣取ったが、対する三好勢の松永久秀らが包囲し、細川方は敗走、相国寺は炎上した。

「大内・毛利」周防の大内義隆と安芸の毛利元就。義隆は天文二〇(一五五一)年九月一日、文治政治に不満を抱いた一族で家臣の陶隆房(すえのたかふさ)に謀反を起こされ、義隆と一族は自害し、大内家は事実上、滅亡している。

「北條・今川」相模の北条氏綱及び嫡男氏康と、駿河の今川義元。

「武田・長尾」甲斐の武田信玄(武田晴信)と、越後の長尾景虎(上杉謙信)。

「安居」禅宗で、それまで個々に托鉢や行脚をしていた僧侶たちが、一定期間、一ヶ所に集まって集団で修行すること及びその期間のことを指す。具体的には雨や暑さの厳しい、行脚「大神宮」伊勢神宮。但し、但し、僧形の者は境内地に入ることは許されないので、設えられた場所から遥拝した。西行も芭蕉もそうしている。

「いさふる」「諫むる」であろう。入り訪ねることを「戒(いまし)める・禁止する」である。

「茶菓點心(さかてんじん)」「点心」はかく濁音でも読み、普通は茶菓子を指すが、ここは前にそれが出ているので、一時の空腹を癒すためにとる軽い食事であろう。但し、禅家では原則、午前中に一回しか食事は出来ない。しかしそれでは事実上、もたないので「非時」と称して、昼過ぎに食事を摂った。ここはそれを広義に広げたものと考えてよい。]

 

 そのさまは、淸らに、年は三十(みそぢ)ばかりと見ゆるが、裝束(しやうぞく)うるはしくひきつくろひ、文海に對して揖(いつ)したまふに、文海、拜伏して、

「山路のながめに歸るべき路をうしなひ侍(はんべ)りしに、はからずも厚情(かうぜい)奉ることの忝(かたじけ)なさよ。」

と謝すれば、主、云く、「かゝる幽僻(いうへき)の境(きやう)、たれ訪(と)ふ人もなきを、幸(さいはひ)に師の尋ねきたり給はるこそ、本意なれ。茅屋(ぼうをく)を佗(わび)しともし給はずは、ゆるく、つかれをも、なぐさめてよかし。」

と、いと懇なるに、文海、いよいよ、美意を謝す。主、かさねて「某(それがし)、生平(せいへい)、寃屈(ゑんくつ/ムジツ)の事侍(はんべ)りて、世にこれを訴へて妄誣(まうぶ)をたださんとすれども、その時、いたらず。幸に師に逢ふ事を得たる、千載の一遇といふべし。委しくきこえ參らせん。我がために世に傳へて愁眉を開かしめ給へ。」

と、近く居(ゐ)よりて、

「われこそ、世の人、普(あまね)く知る所の在原業平にてぞ侍(はんべ)る。そも不平の事は、某(それがし)、世にありし時、和歌の林(はやし)には指(ゆび)かずに折られ、詠草も世々の撰集に載せられ、口碑にも傳はれり。是、よろこぶべきに似たれども、いつの頃よりか、世の人、某を、古今第一の好色放蕩の者のやうにいひなせり。その妄誣の源(みなもと)は『伊勢物語』にて、かの草紙に、『昔、男』とあるを、みなみな、某が事なりと覺ゆるより、遂に『昔男(むかしをとこ)』は某が化名(あだな)となれり。某、不肖なりといへども、朝家(てうか)仕へたりしもの、春のはじめより、年暮るゝまで、花に雪に、ひたすら此所(このところ)の處女(むすめ)、彼所(かしこ)の寡婦(やもめ)をたぶらかし暮すべきや。後世(こうせい)、政(まつりごと)の武門に歸(き)してより、公家の無下(むげ)に暇(いとま)がちなるを見て、往古をしらざる者のいふところなり。二條の后(きさき)と密通の事は、いまだ平人(たゞうど)にておはせし時のことにて、入内(じゆだい)の後(のち)は衆議を憚りて、吾妻へ歌枕に下りたりしを、后を竊(ぬす)みいだして亡命(ぼうめい/カケオチ)したるやうに思へるも心ぐるし。また、伊勢齋宮(いせさいぐう)の一段も、さほど色好(いろごのみ)の名ある男を、宮の寢所ちかく置くべきやうなし。穢汚(ゑを)の惡名、某のみかは。連累(れんるゐ/マキゾヘ)に齋宮をも、神の禁(いさめ)をわすれ、只ならぬ身となり給ひし、などといふ。また、甚だしからずや。或は、はらからの妹に懸想(けさう/コヽロカケ)して、人のむすばんことをしぞおもふと戲れ、母たる人も我に心ありしなど、さまざまの妄誣、その罪、一人に歸して千載の汚名を蒙る。また、若年たりし時、眞濟(しんぜい)僧正に密敎(みつけう/シンゴン)を習ひしを、龍陽(りやうやう)が愛より、斷袖(だんしう/シユダウ)の契(ちぎり)も侍(はんべ)りしやうにいひなせる、衆惡(しゆあく)、海委(かいゐ/オチイル)して、誰か一人その實(じつ)なき事を覺(さと)るもの、なし。そも『伊勢物語』のふみは、作者、昔よりさだかならねども、實(じつ)は具平(ぐへい)親王の手に出でて、昔は眞名(まな)なりしを、後(のち)に假名文字(かなもじ)になしたるものにて、『古今』の序などと同じ類(るゐ)なり。それはともあれ、物語の大體(だいたい)、歌の意をのべて端書(はしがき)を添へたるものなり。無中に有(う)を生じて歌のさまを一轉して、風情あらせたる作り物語の體(てい)なり。近き頃、定家も、『詞花言葉(しくわげんゑふ)を翫(もてあそ)ぶべき書なり』と、をしへられしは格言にて、實錄のごとく、年月・日時を正(たゞ)し、誰某(たれそれがし)の事などと思ふこそ、いと拙(つたな)きことにて、唐土(もろこし)の詩(からうた)も『辭(ことば)をもて意(こゝろ)を害することなかれ』と、をしへ給ふ。まして、大和歌は、はかなき事たはれたる事をも、興(きよう)より、物にふれて三十一文字(みそひともじ)のことの葉となれるを、彼(か)の物語には、それが上を、又、一轉、風情を生じたるものから、よむもの、詞花言葉(しくわげんゑふ)をもてあそぶ外(ほか)、なし。唐土の詩に、『漢に遊女あり、求むべからず』とあるより、後世、附會して、『韓詩外傳(かんしぐわいでん)』に至りては、『孔子、阿谷(あこく)といふところにて、物洗ふ女を見給ひ、子路に命じて佩(おびもの)を贈り給ひ、いどみ給へども、女、從ふ事なかりしゆゑ、ああ、求むべからずと歎じたまひし』などいヘるを、以て、見るべし。詩歌のこと葉より、事を生じて、それを實ならしめんとするより、古(いにしへ)の聖(ひじり)すら秋胡子(しうこし)と一等(いつとう/オナジクラヰ)の人とおもふにいたる。まして某ごときをや。惣じて國の實錄たる書籍、なほ、傳記の、言(こと)たがふ事、すくなからず。況や後世に至りては、豪家權門(がうかけんもん)の人は、文人をして傳記をかゝせ、碑銘を彫(ゑ)りて、事を飾り虛を構へ、生ける日、盜跖(たうせき)なる者、死して夷齊(いせい)となるの類(るゐ)、あげて數へがたし。文人、もとより、行(かう)、實(じつ)なきもの多き時は、紀傳すら定說(ぢやうせつ)となしがたし。まして、作り物語の風流より、誰某(たれそれがし)ともなく、『昔、或る男』と、かけるを見て、一槪に、某がことぞともふは、癡人(ちじん)の前、夢を說くの類(るゐ)なるベし。むかし、光明皇后の淫乱[やぶちゃん注:底本はここは『△△』と伏字になっているが、原本ははっきりとこう書いてあるので復元した。ここの左頁の後ろから四行目(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部)。「乱」の字は原本のママ。実は原本は略字が甚だ多い。]なりしも、浴室(よくしつ/ユドノ)にして阿閦佛(あしゆくぶつ)をみ給ひしと傳へ、近頃、道明(だうみやう)法師が濫行(らんかう)なるも、五條の天神、隨喜したまひしなどいふ說、出でたるに、某が不幸(ふこう/フシアハセ)なる、佛神、その荒淫(くわういん)に感應(かんおう)し給ひしといふものならざれども、某を『觀音(くわんおん)の化身なり』といふは、あまり過當(くわたう/ブンニスギタル)の說にて、却つて、人の嘲(あざけ)りを生ずる端(はし)なり。是は釋氏(しやくし)の作り出せるものにて、欲の鈎(つり)をもて、引いて、佛道にいたらしむ、といふ經文より、普門品(ふもんぼん)の三十三身應現(〔さんじふさん〕じんおうげん)の說に會(くわい/アハセ)し、楊柳觀音(やうりうくわのん)などの、その形、艷麗(えんれい/ナマメキタル)にちかきをもて、この說を生じたるものなり。光明皇后、如意輪の化身といへると、同日の談にして、とるに足らず。惣じて我が國の人は、少し、けやけき人をみては、某の化身(けしん)、誰(たれ)の後身(ごしん)など、虛誕(きよたん/イツハリ)の說をなす事、口碑(こうひ)にあるのみならず、傳記に載せて、疑ふものなし。千、百人の中、一、二もあるべきも、はかられずといへども、唐(もろこし)の聖(ひじり)孔子すら、當時、化身の說なし。後世、讖緯(しんゐ)の書を作りてより、彼の國も星の精、山川(さんせん)の靈などいふ說、いでたり。わが國の人は殘忍凶暴の人すら、なみにことなる者、多くは、『凡人、ならず。佛菩薩神明の化身なり』といふものあり。たゞ、今日に至りて菅相公(くわんしやうこう)を讒(ざん)したる時平(しへい[やぶちゃん注:底本・原本のママ。])、義經を弊(たふ)したる梶原を化身なりといふ說なきこそ、漏れたるといふべし。かゝる虛誕の過譽(かよ)は、なきに、おとる。唯、荒淫放蕩の汚名をすゝぐ時は、望(のぞみ)、たれり。又、因(ちなみ)に託(たく/タノム)すべきは、百人一首に載せられたる歌にて、彼(か)の歌は、二條の后、東宮の御息所(みやすどころ)にておはせしとき、屛風に龍田川に紅葉ながるゝすがたをかゝさせ給ひしを題にて、素性法師と同じくよめるが、某が趣意は、『龍田川に紅葉散りしきて流るゝを、一疋の練(ねりぎぬ)を纐纈(かうけつ/ユカタ[やぶちゃん注:「ママ])のくゝり染(そめ)にそめなしたるに見なして、かゝる大河を巧みにもくゝり染にそめなしたるは、いちはやき神の御代には、さまざまあやしきことも多かれど、よもかゝる例(ためし)は侍(はんべ)るまじ』と、よみたる歌にて、題にも應じ、趣も風情あるかと覺ゆ。しかるものを、いつの頃よりか、『水くゞる』と、『く』文字、濁りてよみならはせり。紅葉の川水を泳ぎくヾる、何ほどのめづべき事の侍(はんべ)るベき。くゝり染のかのこまだらに似て、うるはしきをもて、樂天も『黃纐纈(くわうかうけつ)』と詠じたりし類(たぐひ)あるを、知らざるものゝ濁りてよみなせるを、遂には讀癖(よみくせ)などといふこと出來(いでき)て、一定(いちぢやう)の說となりたるなり。惣(そう)じて、讀癖といへること、ふつに、ものしらぬ者のいひ出せることにて、癖といふをもて、その非なるをしり給ふべし。人に癖ありて、いづれか法則(ほうそく/テホン)とすべき。それはさしおき、某が歌の七文字(なゝもじ)を淸みて讀むべきよしをも、世に傳へ給へかし。」

と、懇に語りたまへば、文海、云く、

「某も幼(いとけなき)より、和歌をたしみ侍(はんべ)りしが、『伊勢物語』などよりして、『君は正しく荒淫の方なれども、人をもて、言葉をすてぬこそ、聖の敎(をしへ)なり』と、われ、かしこげに覺えたりし事のつたなさよ。その上、百人首の讀癖、まことに風情も雲泥のたがひありて、秀逸をいたづらとなすこと、あまねく世に傳へて妄誣をたゞし參らすべし。さるにても、君は此山奧にて昇仙(しようせん/センニントナル)したまひしと傳へ侍るは實事にて、今日、かくは相見(しやうけん)し奉るにや。」

と、いふに、主、うち笑ひて、

「昇仙(しようせん/センニントナル)の說は、近き頃、虎關(こくわん)が『元亨釋書(げんかうしやくしよ)』より出でたるそらごとにて、某、世をさりしは、陽成院、御世〔みよ〕をしろしめす元慶(ぐわんきやう)四年五月八日、家に卒(そつ)したるを、わが國に仙人の少きを愁ひて杜撰(ずさん)したるものにて、全く跡なき僞(いつはり)と知り給ふべし。」

と宣(のたま)ふに、文海、かさねて、

「今日〔こんにち〕、かく在(ましま)すは神靈(しんれい/タマシヒ)の滅びたまはざるにや。假(かり)に形をあらはして相見(しやうけん/マミエ)し奉る事にや、覺束(ぼつか)なし。」

と尋ね參らすれば、

「この事、たやすく答へ申すべきにも侍(はんべ)らず。夜もいたく深(ふ)けたり。山路の疲(つかれ)ども、やすめ給へ、夜〔よ〕あけてこそ。」

とて、奧の殿(との)へいり給ふに、文海も居(ゐ)よりて、まどろむうちに、遠寺(ゑんじ)の鐘、ひゞき、鳥の聲するに、目さめてみれば、所は、吉野川のほとりにて、松杉一むら、しげれる中に、小き祠(ほこら)のかたはらにふしたるに驚きて、いそぎ麓ヘ下りて、里人に尋ぬれば、

「祠は在原明神なり。」

と答へるに、奇異のおもひをなし、とく、都に登りて、

『あまねく、公卿士庶(くぎやうししよ)の人々にもかたり、書にも記(しる)しおかばや。』と思ふところに、頃しも、三好が叛逆(はんぎやく)に、將軍義輝、弑(しい)せられ給ひ、都の騷動、前年にまさりたれば、またも、諸國にさすらへありきて、その事となく過(すご)し侍(はんべ)りしが、住吉の祠官津守の何某(なにがし)が許(もと)にて、物語したりしを、たまたま、世の人、傳へ侍りしとぞ。

 いと奇怪なりといへども、その諭辯する所は、皆、確論(かくろん)にして信ずべし。

 是によりて思ふに、業平を古今第一の美丈夫(びじやうふ/ヨキヲトコ)といふも、後世、意料(いりやう)の說にて、「伊勢物語」の、『むかし、男』とあるを、槪して業平とおもふより、美男ならでは、と推度(すゐたく/オシハカル)したるなるべし。傳記には體貌(たいばう/カタチ)閑雅(かんが/ミヤビヤカ)とのみ侍(はんべ)り。體貌(たいばう/カタチ)閑雅(かんが/ミヤビヤカ)といふもの、業平一人に限らず。柳貴妃、玄宗の寵愛ならびなく、三千の官女も顏色なきがごとくなりしより、後世、毛嬙(まうしやう)・西施(せいし)と一等(いつとう/オナジクラヰ)の美人とおもふ類(るゐ)なり。貴妃は廣西普寧縣雲陵といふ所の產にて、異質ありしゆゑ、楊康(やうかう)、もとめて、女(むすめ)とし、のち、楊玄琰(げんえん)、また、康に乞うて、これを壽王の宮に奉る。その頃、美人のきこえも侍らざりしに、玄宗、ひとたび見給ひてより、至寶を得たるごとく悅び給ひしは、心あれば、眼中、西施を出すの類(るゐ)なるベし。聰明怜利は、論、なし。毛嬙・西施と同じき美人ならば、玄宗、高力士がすゝめ奉るまで、しろしめさぬ事やあるべき。況や貴妃、體(たい)、肥滿にして暑を苦しむより、茘枝(れいし)を好み、胡臭(こしう/ワキガ)ありし故に、外國の名香を以て、これを掩(をゝ[やぶちゃん注:原本のママ。])ひたりしを以て推してみるべし。當時、君の寵姬たるより、詞曲(しきよく/ウタヒモノ)に命じて、その美艷(びえん)を稱し、文人、また阿諛(あゆ/オモネリ)して、「天下の絕色(ぜつしよく)」と盛(さか)りに譽めしより、「衆犬、聲に吠ゆる」の類(たぐひ)にて、今にては此國の人も美女を數ふれば「貴妃」を第一とし、美男をいへば「業平」を首(しゆ)とす。その謬(あやま)るところ、皆、同意にして推度(すいたく/オシハカル)の說なり。文海、ま見えたりし時、これをも問はゞ、一笑を發したまはんこと、觀音化身の說ごとくなるベしや。

[やぶちゃん注:「揖(いつ)し」現代仮名遣で「揖(いっ)す」で、笏(しゃく)を持って、上体をやや前に傾けてする礼。或いは、昔の中国の礼式の一つとして、両手を胸の前で組み、これを上下したり前にすすめたりする礼も言うが、ここは前者でよい。

「幽僻(いうへき)」奥深く、都を遠く離れていること。人里を離れていること。鄙(ひな)びた僻地。

「美意」立派な意志。素敵な心遣い。

「生平(せいへい)」平生(へいぜい)に同じい。

「寃屈(ゑんくつ/ムジツ)」ここは「無実の罪に陥れられること」を言う。

「妄誣(まうぶ)」「誣妄」「誣罔」(フマウ(フマウ))或いは「誣謗」(フバウ(フボウ))が一般的。「ありもしないことをあるように作って、人を悪く言うこと」を指す。

「伊勢物語」は複雑な成立過程を経ているらしく、作者・成立年代ともに不詳。業平の死没後に原「業平集」の成立が推定され、「古今和歌集」や原「伊勢物語」はそれを資料としたと見られている。その原「伊勢物語」は、ほぼ業平の歌だけからなると推定され、。十世紀末頃の伝本でも五十段足らずの小規模な物語であったらしい。十一世紀以後に大幅な増補が行われ、現在の形態に至っている(通行の定家本系統では百二十五段ある)。作者については古来、在原、紀家系の人物が想定され、一説には文体上の類似などから紀貫之ともされる。増補者については全く不明である(以上は小学館「日本大百科全書」他に拠った)。「伊勢物語」は「源氏物語」と平安文学の双璧を成し、これらに「古今和歌集」を加えて同時代の三大文学と見る向きもある。

「覺ゆるより」感じられることから。

「化名(あだな)」変名。不定の仮りの名。

「春のはじめより、年暮るゝまで」季節を表に借りて、生涯を指している。

「二條の后(きさき)」藤原高子(こうし/たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)の通称。清和天皇の女御で後に皇太后となった。父は藤原長良(ながら/ながよし:左大臣藤原冬嗣の長男。官位は従二位