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2020/10/26

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 環人見春澄を激して家を興さしむる事・奥書・目次 / 席上奇観垣根草 全電子化注~了

 

    環(たまき)人見春澄(ひとみはるずみ)を激(げき)して家を興さしむる事

 むかし、小野篁(おののたかむら)、少(わか)かりし時、父岑守(みねもり)に從ひ、奧州の任に赴き、兵事を調練す。

[やぶちゃん注:「環」本作に登場する女性の名。

「人見春澄」「人見民部春澄」武蔵国幡羅(はら)郡人見邑(ひとみむら:現在の埼玉県深谷市人見附近。グーグル・マップ・データ)を発祥とする人見一族の者と意いう設定である。「人見氏」の本姓は小野氏で、家系は武蔵七党(むさしひちとう)の一つ猪俣党(次段の後注参照。武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称した)の支流とされる。猪俣五郎時範の四世政経とその従弟 清重を祖とするという、とウィキの「人見氏」にあった。

「小野篁」参議小野篁(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)は平安初期の公卿で文人。同じく参議であった小野岑守(宝亀九(七七八)年~天長七(八三〇)年)の長男。弘仁六(八一五)年に陸奥守に任ぜられた父に従って、陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後、一向に学問に取り組む様子がなかったことから、「漢詩に優れ、侍読を務めるほどであった岑守の子であるのに、何故、弓馬の士になってしまったのか」と、嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は、恥じて、悔い改め、学問を志し、弘仁一三(八二二)年に文章生試に及第した。以降のことは参照したウィキの「小野篁」の続きを見られたい。

「激」本文中に左右ルビで出る。]

 

 ゆゑに其子孫、わかれて關東にありて、武州(にしう)七黨(たう)の中、岡部・人見など、其末にて、世々、弓馬の業(げふ)を襲ひたりしが、中にも人見民部(みんぶ)春澄なるもの、下野國(しもつけのくに)に數千町(すせんてう[やぶちゃん注:原本のママ。])を領じて、北條家のために藩籬(はんり)を守りしに、高時の代にいたりて、聊(いさゝか)の過(とが)によりて所領を沒取(もつしゆ)せられ、安からぬ事に思へども、力なく、國にあらんも面(おもて)ぶせにて、

「都に登り、權門の推擧をも假(か)らばや。」

と、家の子兩三人を具して、ひそかに國を離れ、都を心ざして登るに、木曾の深山にかゝりて、馬蹄(ばてい/ムマノヒヅメ)は、雲を踏んで半天に登るかとおどろき、人影(じんえい)、寒水に映じて不測(ふしぎ)の溪(たに)に下り、ゆけども、ゆけども、雲霧、あとをうづみ、前途、遙(はるか)にして、馬(むま)人(ひと)ともに疲れたりしに、宿るべき驛舍(たびや)もほどへだち、日も峯に沈みて、いとゞ木立(こだち)暗き山中をたどる所に、數(す)十人の山賊(さんぞく/ヤマダチ)、路を塞ぎて、衣服・物具(ものゝぐ)を剝取(はぎと)らんとす。

[やぶちゃん注:「武州七黨」平安後期から鎌倉・室町にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。但し、実際の命数は七ではない。ウィキの「武蔵七党」によれば、『横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した』「吾妻鏡」には記載がないことから、『南北朝時代以降の呼び方と考えられている』とある。

「岡部」「人見氏」と同じ猪俣党に属した一族。猪俣党は武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)で、猪俣氏・人見氏・男衾氏・甘糟氏・岡部氏・蓮沼氏・横瀬氏・小前田氏・木部氏などが含まれる。「保元の乱」や「平治の乱」及び「一ノ谷の戦い」などで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名とウィキの「武蔵七党」にはある。

「藩籬」鎌倉幕府北条氏の直轄の領地の意。

「高時の代」後の段で「王澤(わうだく)」(この場合は以下の対なので「天皇の恵み・朝廷の差配力」の意)「は己に」(自然と)「喝(つ)きて」(尽き果てて)「國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意(がい)」(放恣。利己心)「に舊貫」(幕府が守ってきた古くからの公正を謳った慣習)「をわすれ、非道の政道、多かりしかば、國々に盜賊起りて、守護の下知(げち)も憚らず、州郡を侵掠(しんりやう/ヲカシカスム)せし」とあるから、本篇の設定時制は、鎌倉幕府第十四代執権で、事実上の幕府滅亡まで最後の形式上の権力者であった北条高時(執権在職は正和五(一三一六)年~正中三(一三二六)年)の執権就任から幕府が滅亡する元弘三(一三三三)年までの閉区間となるが、まず、高時の就任以後(在任中に既に諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱などが頻発していた)、彼が出家するも、後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(「嘉暦の騒動」)が起こり、正中三年三月には金沢貞顕が執権に就任するが、十日で辞任し、四月に赤橋守時が就任することで収拾(この騒動の背景には太守高時の庶子である邦時を推す事実上の実見掌握をしつつあった長崎氏に対して、高時正室の実家が安達氏であったことから正嫡子が生まれるまでとして高時実弟の泰家を推す安達氏との確執があったとされる)した後、元徳三年四月二十九日(一三三一年六月五日)に後醍醐天皇の討幕計画が発覚、後醍醐天皇が隠岐へ、尊良親王は土佐に流され、腹心日野資朝が処刑される。元弘二年(一三三二)年四月十日に幕府は関係者の処分を終えて、事態の終結を公式に宣言している。さてもこの「元弘の乱」のプレの騒動である「元弘の変」が次の段に出てくることと、さらに「都に登り、權門の推擧をも假(か)らばや」と人見が思って上洛するところを見ると、鎌倉政権をはっきり見限って、公家方の武士への再就職を狙っているからには、このオープニング・シークエンスは、元弘二年四月十日以降の直近で、同年(同年四月二十八日に幕府及び持明院統側では「正慶」へ改元している)末に楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵行動に出る直前までの八ヶ月に限定出来ることになる(がしかし、実は以下、篇中で時間が経過し、「元弘の乱」に突入し、楠正成・赤松則村・新田義貞の挙兵も起こり、幕府が滅亡するまでが描かれるので、その八ヶ月の、これまた末の末が初期設定ということも判明する)

「兩三人」二、三人。]

 

 民部、怒りて、

「商客(しやうかく/アキビト)の類(たぐひ)とや、見あやまりし、命、惜しくば、路を開(ひら)け。」

と、家の子諸共(もろとも)、切尖(きつさき)するどに切つてかゝり、先にすゝみし賊二人を切倒したる勢(いきおひ)に、餘黨は、さんざんに迯走(にげはし)る。

 民部、勝に乘じて、暗夜(あんや)なれども、跡を慕うて、一町[やぶちゃん注:一〇九メートル。]ばかりも追打にする所に、おもひもよらぬ後(うしろ)の岨(そば)[やぶちゃん注:崖。]より、五、六人、あらはれ出で、前なる者も取つてかへせば、從者(じうしや[やぶちゃん注:原本のママ。])は溪に落ちて死し、民部は遂に生捕(いけど)られたり。

 數十人、取圍(とりかこ)みて、賊寨(ぞくさい)[やぶちゃん注:賊の山城。山寨(さんさい)。]にかヘる。

 其頃、王澤(わうだく)は己に喝(つ)きて國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意(がい)に舊貫をわすれ、非道の政道、多かりしかば、國々に盜賊起りて、守護の下知(げち)も憚らず、州郡を侵掠(しんりやう/ヲカシカスム)せしが、錦部次郞宣連(にしきべじらうのぶつら)と云ふ者、賊主となりて部下(ぶか/テシタ)に數(す)百人を扶助し、木曾の山奧に山寨(さんさい)を構へ、數(す)年、その威を震ふといへども、元弘の變より、國家、いよいよ、多難なれば、賊徒誅伐(ぞくとちうばつ)の議も等閑(なほざり)なりしに、時を得て、近國までも其禍(わざはひ)に苦しむ。

[やぶちゃん注:「其頃、王澤は己に喝きて國司の威なく、鎌倉の武威も近年の我意に舊貫をわすれ」の語句は前の段の「高時の代」で注した(太字)。

「錦部次郞宣連」不詳。]

 

 民部を生捕りたりしも錦部が部下(ぶか/テシタ)の者にて、やがて賊主の前に出づれば、、錦部、民部が風情の常ならぬにあやしみて、出身(しゆつしん/ミモト)をとへども、答へず。

 錦部、いよいよ、あやしみおもひて、別屋(べつや)にいたはり置きて、次の日、自(みづか)ら、さとして云く、

「君の風骨、正(まさ)しく武門の豪族(ごうぞく/イヘガラ)ならん。當今、北條家の政(まつりごと)、虎よりも、はげし。國をぬすみ、天下をくるしむる者、王侯の位に居し、吾が輩(ともがら)のみをさして、賊とせんは、あやまらずや。時の變化(へんくわ/ナリユキ)をもみんために、かく、ひそみ居(ゐ)る事なり。君も此所にとゞまりて、下半世(しもはんせい)のたのしみをとりたまへ。」

とすゝむれば、民部も鎌倉の政道を憤り、又、前途(ぜんと/ユクサキ)もこれぞと思ひさだめたる事なければ、

『暫く此所にありて、時を待たんこそ、亂世の上策なれ。』

と領掌(りやうじやう)すれば、賊主、悅びて、

「一人の羽翼(うよく/タスケ)を生じたり。」

と、酒を酌みて其勞を慰む。

 元來、此山寨、人多しといヘども、はかばかしく文字をしりたる者もなきゆゑ、かくは饗應(もてな)してとゞめたり。

 民部も、晝は野山に獵(かり)し、夜は錦部と酒宴を催して明し暮すうち、耳目の馴るゝところ、いつしか功名(こうめい)の心も弛(ゆる)まりて、

「よき安心の地を得たり。」

と、心ゆり[やぶちゃん注:「心弛(こころゆる)び」と同義。]して暮しけり。

 錦部が使女(しじよ/メシツカヒ)うちに、「環(たまき)」といへる婢(ひ/コシモト)、見めかたちも、なみにはすぐれたるが、心も、さとく、酒宴の席にはいつも酌にたちける。民部が品(しな)のすぐれて、山寨の者の類(たぐひ)に似ざるに、心とゞめて、よしありげに見ゆれば、民部、又、さとりて[やぶちゃん注:彼女の好意あるを覚(さと)って。]、うちとけたりしに、ある時、人なき折を窺ひ、ひそかにいふやう、

「君のさまを見參らすに、正しく武門の名家なるべし。何とて、かゝる山賊の中(なか)に、あたら、年月をつひやしたまふぞや。しろしめさずや、今、河内に楠(くすのき)とやらんが天子のためにが天子のために軍(いくさ)を起し、西國には赤松、城を守りて、官軍、所々に起る時にて、家をも興し、名をも揚げたまふべきよき時節ならずや。など、かく、ゆるかせには暮したまふや。」

と諫むるに、民部、

『實(げ)にも。』

とはおもへども、

『此女の、心よりしていふにはあらじ。錦部が、我が心を探らんため、いはせたるものならん。謀(はかりごと)について謀をなして、心しづかに思ひたちてん。』

と、只、うなづき居て、其夜、錦部にむかひて、ありし事どもをかたりて、

「伶利(れいり)の女なり。」

といへば、錦部、餘意(よい/ホカゴコロ)なきことをよろこび、環をよびて、その饒舌(ねうぜつ[やぶちゃん注:現代仮名遣「にょうぜつ」。こうも読む。]/クチオホク)なるを怒り、つよくいましめたり。

[やぶちゃん注:「赤松」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)は「元弘の乱」で後醍醐天皇の討幕に応じ、大功を立てたが、賞少く、足利尊氏が建武政府に背くとこれに従い、播磨守護となった。以後、室町幕府の確立に貢献した。禅宗に帰依して出家している。]

 

 其後、日を經て、人なき所にて、環、また、いふやう、

「君、さきに申したりしを、主(あるじ)にきこえたまひし故に、せめをうけたり。されども、妾(せふ)が身は、甲斐なき者なれば、いとひ侍らず。君の、あたら、千金(せんきん/タイセツ)の軀(み)を石瓦(いしかはら)と同じく、朽ちさせたまはんことの、心うさに、すゝめ參らするなり。とくとく、覺(をぼ[やぶちゃん注:原本のママ。])したちたまへ。」

と、淚ながらにすすむるにぞ、

『扨は。實情(じつじやう/マコトノコヽロ)なり。』

と感じて、其(その)謀(はかりごと)ならんことを疑ひしことを謝し、

「我も其日より醉(ゑひ)さめたるごとく、功名に心ありて、日夜に山寨をさらん事をおもへども、賊主、用心、ふかくして、心ゆるさず。其上、道の費(つひえ/ロギン)も調はねぱ、心ならずも怠りたり。」

と語るに、環、閨(ねや)に入りて、ひとつの袱紗包(ふくさづつみ)をもち來り、民部に與ヘて、

「妾(せふ)、年頃、貯(たくはへ)置きたるところにて、身のよすがの露(つゆ)なり。君の行費(かうひ/ロギン)に參らせん。」

といふに、民部、いよいよ、其實情を感じ、共に迯出でんことをすゝむるに、

「いやとよ。はるばるの山川、ことに思ひ定めたまひたる事もなきに、女を具したまはば、君の累(わづらひ)なり。況や、妾(せふ)は身價(みのしろ)償ひ侍(はんべ)らねば、今、暫くとゞまるべし。妾を念(ねん)[やぶちゃん注:気配りや注意をする対象の意。]としたまふことなく、今宵、ひそかに迯げたまへ。妾、よきにはからひ參らすべし。」

と約して別れぬ。

 民部は環に激(げき/ハゲマササレ)たるうへ、彼が實情に、心、決して、暮るゝを待ちて山寨をのがれ出でて、本國をさして落ちのびたり。

 錦部は、かくともしらで、例のごとく酒宴を催して、環に命じて民部をまねかしむ。環、民部が房(へや)に至りて、其影迹(えいせき)なきに、

『さては。かしこくも迯出でたまひし。』

と、しりて、歸りて、

「今宵しも、勞(いたは)ること侍(はんべ)るとて、臥し給ふ。」

といふに、錦部、疑ふことなく、夜明けて、はじめて、これをさとりて、人をして追はしむれども、行方(ゆきがた)をしらず。

 環、さきにすゝめたりしに心つきて、つよく、せめとへども、

「しらず。」

と答ふ。

 錦部、怒りて、晝夜、これを呵責(かしやく/セメ)て後、

「山ふかく捨てさせて、狼なんどの腹にみたしめよ。」

と命じたりしを、山寨の者ども、いたはりて、人家近き所に捨てゝかへりぬ。

 民部は、晝夜をわかずして、本國に下向したりしに、頃しも、新田義貞、大義を倡(いざな)ひ[やぶちゃん注:「唱」に同じ。]、兵を擧ぐるところなりしかば、馳加(はせくは)はりて鎌倉を攻むるに、家運傾きたる北條、處々の軍(いくさ)破れたりしかど、長崎勘解由左衞門、一方を防いで、しかも驍勇(げうゆう)、當る者なく、寄手(よせて)、引色(ひきいろ)に見えたるを、民部、一陣にすゝんで、士卒を勵まし、中にとり圍んで攻むるに、遂に長崎を打取り、高時も自殺して、鎌倉、平均し[やぶちゃん注:「平均され」の方が躓かない。平定され、]、先帝、還幸ありて、海内(かいだい)一統の時に至りて、義貞の推擧によりて本領を復したまはる上、出羽にて一郡をたまはり、名をも人見下野守定澄とあらため、多年の蟄懷(ちつくわい)をひらきぬ。

[やぶちゃん注:「長崎勘解由左衞門」内管領(ないかんれい)を輩出した長崎氏の一族で得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた長崎思元(しげん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日):思元は出家後の法名で、俗名は長崎高光又は長崎高元)の子息と思われる。ウィキの「長崎思元」によれば、『他の長崎氏一族と同様に高時邸の近くに住んでいたことが判明している』。以後の活動は「太平記」に描かれており、『それによれば』、元弘三/正慶二年に新田義貞が率いる軍勢が鎌倉に攻め入った際、「長崎三郞左衞門入道思元、子息勘解由左衞門爲基二人」が極楽寺坂を守って奮戦の後、やがて父子別行動をとることとなったとある。『同記事では』、『これが今生の別れかと涙にくれて立ち去り難くしている為基に対し、思元は「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」(どうせ皆今日討ち死にして明日には冥土で再会するのだから一夜別れるのを悲しむことはない)と大声で激励叱咤して立ち去らせたというエピソードを伝えている。為基と別れた思元はその後』、『主君・高時らのいる東勝寺に赴いたようで、同寺にて自害した者の中に「長崎三郎左衛門入道思元」も含まれている』。『これに従えば』、幕府滅亡の『東勝寺合戦で自害したということになる』。『実名は不詳だが』、「系図纂要」の長崎氏系図には、為基、通称「勘ケ由左衞門尉」の『父に高光(別名高元、三郎左衛門尉、入道昌元』元弘三年五月二十一日討死)を『載せており、続柄に加え』、『通称や法名、死没の時期も』、『ほぼ共通していることから、この高光が思元を指すと考えられている』。『法名より出家前の通称は』「系図纂要」が『示す「長崎三郎左衛門尉」であったこと』は『確実である』。『高光は同系図において長崎光盛の子(平盛綱の孫)、光綱の弟に位置付けられており、正しければ』、『長崎円喜の叔父ということになる』と父のことに関わって、彼の事蹟が判る。

「人見下野守定澄」残念ながら、この名で調べても、やはり不詳である。]

 

 人見、いよいよ、環が志を感じ、人をつかはして山寨の動靜(どうじやう/ヤウス)を窺はしむるに、

「去(さ)んぬる頃、部下(ぶか/テシタ)の者、錦部が無狀(ぶじやう/ワガマヽ)を惡(にく)みて、これを殺して足利に下りたり。」

と、きこゆるに、

「さては、環が身の果(はて)、いかゞしたりしや。」

と、安き心もなく、晝夜(ちうや)、おもひ煩ふといへども、搜求(そうぐ/サガス)すべき方便(てだて)もなく、日を送るうち、又もや、新田・足利の確執(かくしつ)、出來(いでき)て、天下、ふたゝび、戰國となる。

 人見は、新田に屬(しよく)して、足利を攻めて東國に下り、數度(すど)の戰(たゝかひ)に、新田、利なくして、都に登れば、人見は本國に下りて、奧州の國司北畠と相議して奥羽の勢(せい)を催し、上洛して、足利を遂に西國に追落(おひおと)しぬ。

[やぶちゃん注:「北畠」後醍醐天皇の側近で南朝の重臣として知られる北畠親房(正応六(一二九三)年~正平九/文和三(一三五四)年)であるが、ウィキの「北畠親房」によれば、『鎌倉幕府が倒れ』、『後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰した』が、『この時の待遇については、陸奥将軍府設置の主導が誰だったかによって説が分かれ』、『岡野友彦は』、この時、一時的に『後醍醐から冷遇されたため』、『親房は護良親王と共に陸奥に活路を見出そうとしたと』したとし、『亀田俊和は、嫡子の顕家は後醍醐から厚遇されて、後醍醐主導で設置された陸奥の恩賞問題に関して大きな実権を得たために、その補佐として陸奥に向かったとする』とある。なお、彼は「元弘の乱」などの鎌倉幕府討幕計画には加わっていなかったとされている。

「足利を遂に西國に追落しぬ」後醍醐に反旗を翻した尊氏建武三(一三三六)年二月十一日の「摂津豊島河原の戦い」で新田軍に大敗を喫し、播磨室津に退き、さらに赤松円心の進言を容れて、京都を放棄して九州に下った(但し、三ヶ月後の五月二十五日の「湊川の戦い」で新田義貞・楠木正成の軍を破って、六月には京都を、再び、制圧している(「延元の乱」))。]

 

 新田も其忠職を感じて、親しかりしが、いまだ、定まる妻もなければ、

「いかなるものをも娶(めと)りて後嗣(こうし/ヨツギ)をはかりたまへ。」

と、よりより、すゝめらるれど、人見は、環がことをわすれず、妻をも迎ふることなく暮しけり。

 幾ほどなく、足利、大軍を催し、攻(せめ)登れば、新田、敗れて北國に走り、主上も南山(なんざん)に狩(かり)したまふにぞ、人見、本國にかへりて、

「再び官軍を催さん。」

と議する頃、おなじ一族のうち、岡部新左衞門成國なる者、其娘を人見に娶(めあは)せんことを求む。

 人見も、環が消息(おとづれ)待つ事、六年むとせ)を經(ふ)れども、其影響をきかざれば、今はやむことを得ず、

「後嗣(こうし/ヨツギ)をのこさざらんも、父祖の罪人なり。」

と、領掌したりしに、喜びて、吉日をえらび、婚儀を調(とゝの)へんとして婢(ひ/コシモト)を求むるに。幸ひ、飛驒より來(きた)る商人(あきびと)一婢を連來(つれきた)る。よく物馴れたる者にて、岡部、限りなく喜び居たりしに、人見、通家(つうか/イチモン)の事なれば、ある日、岡部が館(やかた)に來(きた)る。

[やぶちゃん注:「岡部新左衞門成國」個人は不詳。

「通家(つうか/イチモン)の事なれば」「岡部氏」は既に述べた通り。「人見氏」と同じ猪俣党に属した一族であるから、「一門」なのである。]

 

Tamaki

 

[やぶちゃん注:挿絵。底本のものを上下左右の枠を除去し、中央に寄せて合成、清拭した。中央上の人物が主人公の人見、左の人物が岡部、右の二人の女のうち、手前が服装から岡部の娘で、その右手の奥の女性が環と思われる(と思いたい)。背の接着部に難があり、左右の幅が平衡になっていない。底本を破壊してもいいのだが、やはり本を壊す断捨離は私の好みではない。されば、画像アプリの回転を使用して平行化し、合成した。中央の隙間とズレは大目に見て貰いたい。ひたすら、環をお見せするために。]

 

 女(め)の童(わらは)ども、

「婿君よ。」

とて、私語(しご/サヽヤク)するを、かの新婢(しんひ/シンザンコシモト)も物影より窺ひたりしが、やがて一間に走入り、久しく出(で)もやらぬに、使女(しぢよ/メシツカヒ)等(とう)、

「いかに。」

と、みれば、縊(くびれ)死したり。

「こは、おそろし。」

と泣きのゝしるにぞ、主の岡部も、

「事のやうこそ、あるらん。」

と、使女等(とう)に尋ぬるに、

「さらにしらず。只、婿君のいらせたまふを、今まで、さしのぞき、ゐたりし。」

などいふに、人見も、

「何事やらん。」

と尋ぬれば、岡部も、

「あやし。」

と語り居るうち、

「さまざま、針藥(しんやく)のしるしありて、息出(いきい)でたり。」

といふ。

 人見、すこし、醫術を試みたることありしかば、

「縊死(えきし)の者は、きはめて調埋(てうり/ヤウジヤウ)に意(こゝろ)あり[やぶちゃん注:注意が必要である。]。」

とて、岡部諸共(もろとも)、一間に至りみれば、縊(くび)れたる婢は、山寨にありし環なり。

 人見、

「こは。そも、いかにや。」

と驚くに、岡部、いぶかしみて尋ぬるにぞ、包むべきやうなく、初め終りを語りて、其流落(りうらく/サマヨヒ)し來りたるを、且(かつ)、なげき、且、よろこぷ。

 環も、人心地つきて、淚ながらに、

「われ、君を尋ねて、此國にさまよひ來れども、便るべきかたもなく、わけて、むかしの名にてもましまさぬゆゑ、おもひよるべくもなかりしに、けふ、見奉れば、館(やかた)の婿君にならせたまふもの。『我、こゝにありては便(たより)あし』と、おもひさだめて、死したるものを。なまじひに、命ありて君の體面(たいめん/オモテ)をも、汚(けが)し參らす事の、悲しさよ。」

といふに、岡部、大いに驚歎して、

「むかしより、托(たの)むべき主(ぬし)を卒伍(そつご)・縲絏(るいせつ)の中に撰(えら)み、むつびし例(ためし)は侍(はんべ)れども、かく時變をさつして、英雄を激し、身、婢妾(ひせふ)の賤役(せんえき)をとりて、後榮(こうえい)をもとめず、義に死すること、家にかへるがごとくなるもの、異國にも其例(れい)をきかず。女中(によちう)の烈丈夫(れつぢやうぶ)といふべし。幸ひ、我が娘の粧奩(さうれん/ヨメイリダウグ)調ひたれば、これを以(も)て環を君に娶(めあは)せん。我が娘は妾(せふ)と見たまへかし。」

といふに、環、泣いて是を辭して、うけがはず。

 人見も答ふるに言葉なき所に、新田義矩(よしのり)、其頃、館(みたち)にましましたりしが、此由を聞きて、

「天下の義、岡部一人に讓らんも、ほいならね。環は、われ、養うて、義女として人見に娶(めあは)すべし。岡部の息女は二室(じしつ/オヘヤ)とし給ふべし。諸侯・大夫、さだまりたる數あり。一妻一妾、何ぞ嫌(けん)とせん。」

と宣ふに、岡部も、

「尤(もつとも)。」

と同心、人見も恩を謝して、其議に隨ふ。

 こゝにおいて、吉日を卜(ぼく)して、二家(にけ)より新人(しんじん/ヨメ)を送りて婚儀を執行(とりおこな)ひ、二人、むつまじく妬忌(とき/ネタミ)の念なく、環、その婢・妾の昔をわすれずして謙遜(けんそん/ヘリクダル)すれば、岡部が娘は、其夫(をつと)に功(こう)ありて、しかも賢操(けんさう)を崇(たつと)びて、すこしも輕慢(かろし)めず。人見も、わくかたなく、親しみ、子孫、榮えて、南朝亡びさせたまひし後も、

「望族なれば。」

とて、足利家よりも、敢て、損益(そんえき)すること、あたはず、所領、恙なく安堵して、めでたく榮えたりしとぞ。

 

 

席上奇観垣根草五之巻終

[やぶちゃん注:「卒伍」身分の低い庶民。

「縲絏(るいせつ)」捕らわれた罪人のこと。「縲」は「罪人を縛る黒繩(こくじょう)、「絏」は「繩」又は「繋ぐ」の意。

「粧奩(さうれん/ヨメイリダウグ)」「奩」は、もと、中国の漢代の化粧用具の入れ物を指す。青銅製と漆器とがあり、身と蓋とから成り、方形や円形のものがある。この中に鏡や小さな容器に詰めた白粉(おしろい)・紅・刷毛(はけ)・櫛などを入れた。また、身が二段重ねになっていて、上段に鏡を、下段に白粉などを入れるようにしたものもある。長沙の馬王堆一号漢墓や楽浪の王光墓などから出土している。

「新田義矩(よしのり)」不詳。義貞の次男新田義興(元徳三/元弘元(一三三一)年~正平一三/延文三(一三五八)年)や、新田義貞の三男で嫡子(次兄義興の生母が上野国一宮抜鉾神社神主の娘と身分が低かったため)として新田家を継いだ新田義宗(元徳三/元弘元(一三三一)年?~正平二三/応安元(一三六八)年)が浮かぶが、彼らの異名にこれはない。最後の最後になって、いもしない新田氏を登場させるというのは如何にも不審である。

「賢操(けんさう)を崇(たつと)びて」この部分は彼女の、正室環への尊崇の念である。

「南朝亡びさせたまひし」五十六年余り続いた南朝は、元中九/明徳三年十月二十七日(一三九二年十一月十二日)の締結された「明徳の和約」に基づき、その七日後の同年閏十月五日(一三九二年十一月十九日)に、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰還し、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝合一が行われた。

「望族」人望があり、名声の高い家柄。門閥家。

 なお、本篇が、明の口語章回小説集である馮夢龍 (ふうむりょう) 編(一六二七年刊)の「醒世恒言」を利用している(前半が巻十九「白玉孃忍苦成夫」を、後半が巻一「兩縣令競義婚孤女」を)ことが、小川陽一氏の講演要旨「明清小説と善書―日本近世小説も視野に入れて―」(『近世文藝』第七十九巻・二〇〇四年発行所収・PDF)で判る。

 以下、本「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草」の奥書。画像から起こした。]

 

 

明和七庚寅年六月吉日

        堀川通佛光寺下

          錢 屋 七郎兵衞

        同町

          近江屋庄右衛門

 皇都書林 梅花堂藏

        綾小路下

          錢 屋 庄 兵 衞

        寺町通高辻下

          菊 屋 七郎兵衞

        同通松原下

          梅 村 三郎兵衞

 

 

[やぶちゃん注:以下、「巻首」の後にある目次を電子化しておく。原本は手跡彫りの画像であるから、なるべく、その通りの漢字表記を選んだ。本文標題と異なるのはママ。画像を添える。特別サーヴィスでリンクも附した。]

 

Kakinegusamokuji1

Kakinegusamokuji2

 

席上奇観垣根草惣目録

  一 の 巻

 深草の翁相字の術虵妖を知る事

 伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事

 塩飽正連荒田の祠を壞事

  二 の 巻

 在原業平文海に託して寃を訴ふる事

 覚明義仲を辞して石山に隱るる事

  三 の 巻

 鞆晴宗夫婦再生の縁をむすぶ事

 宇野六郎廃寺の怪に逢ふ事

  四 の 巻

 小櫻奇縁によつて貴子を產む事

 山村が子孫九世同居忍の字を守る事

 夢庵鍼砭の妙遂に道を得たる事

  五 の 巻

 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事

 千載の斑狐一條太閤を試むる事

 環人見春澄を激して家を興さしむ事

   以上十三條

 

[やぶちゃん注:以上で「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草」の全電子化注を終わる。今までの怪奇談集では、最も注に時間をかけたものとなった。それだけに忘れ難い。]

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