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カテゴリー「Иван Сергеевич Тургенев」の253件の記事

2017/11/01

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 露西亞の言葉 /トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄)~了

 

   露西亞の言葉

 

 疑ひ惑ふけふこのごろ、國運を思ひて、心病みぬるけふこのごろ、なれこそは、杖なれ、より木なれ、噫、大なるかな、忠なるかな、自由なるかな、露西亞の言葉よ。汝なかりせば、今の故國のさまをみて、たれか望を絶たざらむ。しかも、大なる國民にあらずして、かゝる言葉をもたむこと、夢にも思ひえせざるなり。

 

[やぶちゃん注:神西清個人訳(第一次改訳) ロシヤ語の私の注も参照されたい。これを以って公刊された上田敏のツルゲーネフ「散文詩」抄訳十三篇総ての電子化注を終わる。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) あすは、明日は、

 

   あすは、明日は、

 

 いかに、わが世の、あだなるや、空(くう)なるや、うつろなるや。げに、人間のあとかたの覺束なくて、數少なき。徒なるは月日なり。

 しかも萬人は生を惜む。いたく、性命を尊みて、これより、我より、當來より、なに物か、えまほしく、求めてやまず……噫、人は、當來に、豐なる賚(たまもの)を望む。

 さはれ、なじかは、思はざる、當來また過去に似たらむを。

 げに、思はざるなり。考ふるを好まざるなり。此事眞に善し。

 『さて、あすは、明日は!』人みな、この『あすは』をもて、自ら慰め、終におくつきの道に降らむ。

 而して、ひとたび、墳塋(おくつき)のうちに入らば、人の思はおのづから已まむ。

 

[やぶちゃん注:「性命を尊みて」「せい、いのちをたつとみて」と訓じておく。「性」は生まれつきの意。

「當來」未来。

「此事眞に善し」「このこと、まことによし」と訓じておく。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 一僧

 

   一 僧

 

 わが知己に一人の僧ありき――世を遁れ、行ひすましぬ。ひたぶるに、祈禱を淨樂として、一念これに醉ひぐれたれば、精舍のつめたき床にたちても、膝より下の、ふくだみて、全身、石柱をあざむくに至るまで、ひるまざりき。すべてのおぼえ、うせぬるまでも、そこに佇みて祈り念じぬ。

 この人の心、われよく識りぬ。こゝろ妬(ね)たくさへおもほゆ。彼また吾を解(げ)したれば、おのれが悦にえとゞかねばとて、卑しみ果つることつゆなかりき。

 この人は、憎むべき『我』をほろぼしつ。しかはあれど、吾の祈りえざるは、あながちに、唯我のたかぶりあるのみにあらじよ。

 わがもてる『我』は、この人のもてる『我』よりも、更に重くして、更に憎々しかるなり。

 おのれを忘ずる術、かれ、既にみいだしぬ。われもまた、いつもいつもといふにあらねど、『我』を脱離する法を悟れり。

 彼は、矯飾の徒にあらず、われまたさにあらじかし。

 

[やぶちゃん注:ここから最後までの三篇が翌明治三五(一九〇二)年八月発行の『明星』(「三ノ二」号)に発表されたものである。

「悦」「よろこび」と訓じておく。

「我」以下総て「が」と音読みしておく。

「唯」「ただ」。

「術」僧であるからして「すべ」ではなく、「じゆつ」と音読みしておく。

「矯飾」「けうしよく(きょうしょく)」は「上辺(うわべ)だけを取り繕って飾ること。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 戰はむ哉

 

       戰はむ哉

 

 いともいともはかなき事の、時としては心機を轉ずるものかな。

 悲觀にくれて、ひと日、大路を辿(たど)る。

 憂愁の思に胸苦し。 心、沈欝に亂れぬ。 ふと仰げば………高楊二列のひま、途は、矢の如く遠きに馳す。そをこえて、その途こえて、十步のあなた、眩ゆき盛夏の金光裡、ひとむれ雀、つれだちて、躍りゆく、勢猛に、をかしげに、心だのみ強く。

 殊に其群の一羽、必死の勢に橫走りし、胸つきいでゝ誇りかに囀るさま、恐ろしもの無しといふやうなり。 げに勇しき小戰士かな。

 時に、見よ、みそら高く鶻(はやぶさ)かけりて、おとし來らむず姿なるを。

 これを觀じて、われほゝゑむ。 躰をふるひて、憂愁消えたり。勇氣、豪毅、人生の愛、とみに、われ再び覺ゆ。

 かれもわが上に飛べや、わが鶻(はやぶさ)。

 われら戰はむ哉。 かれなにものぞ。

 

[やぶちゃん注:「哉」は「かな」と訓じておく。

「金光裡」「こんくわうり」と読んでおく。黄昏の夕日の光りの中。

「ひとむれ雀」「むれ雀」で「群雀」のソリッドとして採る。

「勢猛に」「いきほひ(いきおい)、まう(もう)に」と訓じておく。

「鶻(はやぶさ)」鳥綱ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus。但し、原詩は“ястреб”で、これはタカ目タカ科 Accipitridae の鷹類或いはハイタカ属 Accipiter のハイタカ類を指すので、隼、ハヤブサはおかしい。元にしたガーネット夫人の英訳が誤っているのかも知れない。

 

 なお、ここまでが上田敏の単行本訳詩集「みをつくし」に載るものであるが、この詩の最終行に下インデントで、

   *

(トルゲニエフ)

   *

とあって、次の行から、二字下げポイント落ちで、

   *

露西亞の作家、數はあれど、妙趣最も饒かなるはトルゲニエフ Ivan Turgenev を秀でたりとす。「散文詩」は千八百八十二年の著にして、思想の奇拔なるを以て名あり。「遊獵日記」「大野のリア王」「親子」等の傑作、今に十九世紀の珍品と稱せられて、作家の模範たり。

   *

と記してある。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 處世法

 

       處世法

 

 いたく敵を窘め、またこれを害はむとまで思ひ込まばと狡獪なる老奸われに語るやう、おのれ自ら持てりと知れる缺點をもて、彼を誹るに如かず。 大に憤りて………責むるに如かじ。

 かくなさば、先づ、おのれに、さるかたの缺點なしと世に信ぜらるゝ利あり。

 つぎには、汝の憤は、佯ならずしてすむべし。………

 卽ちおのが良心の呵責を、他(ひと)に移すことを得。

 君にもし、首鼠兩端の性あらば、敵を譏りて、汝、無主義なりと、罵れ。

 君、もし心から卑屈の人ならば、嚴しく人を責めて、汝は盲從家なり………歐州文明の奴隷なり、社會主義の奴隷なりと告げよ。

 非盲從論の奴隷ぞとも、いひ得可くやと、われ口插めば、それもよからむと、くせもの點頭(うなづ)く。

 

[やぶちゃん注:意味を採り難い方は、神西清個人訳(第一次改訳) 處生訓中山省三郎譯「散文詩」の当該詩「處生訓」(二つある最初の方)を参照されたい。

「窘め」「くるしめ」。苦しめ。

「害はむ」「そこなはむ」。

「狡獪」「かうくわい」。「狡猾」に同じい。悪賢いこと・狡(ずる)く立ち回るさま。

「老奸」「らうかん(ろうかん)」邪(よこしま)で悪賢い年取り。

「誹る」「そしる」。

「憤」「いきどほり(いきどおり)」。

「佯」「いつはり(いつわり)」。偽り。

「首鼠兩端の性」「首鼠兩端」は「しゆそりやうたん(しゅそ-りょうたん)」と読み、「ぐずぐずして、どちらか一方に決めかねていること」或いは「形勢を窺い、心を決めかねている」ことの譬え。所謂、「日和見主義者」「変節者」のこと。「穴から首だけを出した鼠が外を覗って、両側をきょろきょろ見回している動作からとも、「首鼠」はもとは「首施(しゅし)」に同じで、「躊躇するさま」からともいう。「両端」は「二(ふた)心」の意味。出典は「史記」の「灌夫傳」とする。

「譏りて」「そしりて」汝、無主義なりと、罵れ。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 滿足

 

       滿 足

 

 若き人、都大路を欣び躍りつゝゆく。 步(あゆみ)も嬉しげに、眼に光、口にゑみ、揚々として瞼更に紅し。………心滿ち、望足り、樂これをこえじとみゆ。

 何事ありて、かくは樂しき。 遺産うけたるか、榮進したるか、そも戀のあひゞきか、あるは單に、すぐれたる朝げすまして、心地すこやかに、食足れる愉快、全身にみちたるか。 鳴呼、波蘭土王スタニスラス、この少年の頸に、君が美しき八稜十字の勳章かけたるにもあらざるべし。

 あらず。 かれは、その友を中傷して、醜聞を傳へぬ。 廣めありきし心盡しの甲斐ありて、今其醜聞を、他の友の口より聞きしなり。………而も…かれ自らも之を信ずるに至りぬ。

 噫、何等の滿足、この溫和なる前途多望の靑年、けふのこの日は、いかに懇ろなるべき。

 

[やぶちゃん注:「波蘭土王スタニスラス」「波蘭土王」は「ポーランドわう(おう)」と読む。スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanisław August Poniatowski 一七三二年~一七九八年)はポーランド・リトアニア共和国の最後の国王(在位:一七六四年~一七九五年)。神西清氏の訳(昭和二三(一九四八)年斎藤書店刊/第一次改訳)の註には『當時の文官勳章三種(併せて十一等)のうち、最も低いスタニスラフ勳章(これに三等ある)と』、貴族からはロシアの女帝エカチェリーナⅡ世から寵愛を受けてポーランド王にまで登り詰めた『スタニスラフ・ポニヤトーフスキイを掛けた洒落』とある。詳しくは神西清個人訳(第一次改訳) 心足らへる人の私の注を参照されたい。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 物乞

 

       物 乞

 

 街頭をゆく。……老いさらぼへる物乞に、袖ひかれぬ。………眼(まなこ)、血走り、唇蒼く、痍(きづ)は爛(ただ)れて、なり、むさぐろし。………あはれ、醜くも、貧窮の、此薄倖兒に食(は)み入りしよ。

 赤くふぐだめる掌をあげて、かれはうめきぬ。救を口籠りぬ。

 かくしの數々を探れども………紙入なく、時計なく、手巾(はんけち)だになし。………身に一物もつけざりけり。

 …物乞の捧げたる手は弱げに顫へわなゝく。

 鼻白みたるまゝ、其汚れたる手を執りて、懇ろに握りぬ。………怨む勿れ、わが友、われ今一物なし。

 血走る眼(まなこ)われを見つめぬ。 蒼唇、自らほゝゑみたり。 彼も亦わが冷たき持を握りぬ。

 口籠りて語るやう、心煩はし給ふな、わが友、これこそ忝なけれ、これもなほ賚(たまもの)ぞ、わが友よ。

 この時われも亦賚(たまもの)うけたる心地ぞありし。

 

[やぶちゃん注:これは是非、神西清訳 乞食の私の注をご覧戴きたい。本詩をインスパイアした、朝鮮の詩人윤동주(ユン・ドンジュ 尹東柱 一九一七年~一九四五年:一九四三年(昭和十八年)に治安維持法違反で逮捕され、二年後の日本敗戦の年に九州で獄死した)の「ツルゲーネフの丘」を読んで戴きたいからである(私の古い教え子であるI君が原語から訳してくれたものを掲げてある)。

「兒」には男子の意味がある。

「ふぐだめる」岩波文庫版では『ふくだめる』とする。「ふくだむ」は本来は「けば立って、ぼさぼさになる」或いは「けば立たせる」の謂いであるが、ここは腫れぼったく、浮腫(むく)んだの謂いであろう。

「賚(たまもの)」は「賜物」に同じい。

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) わが敵

 

   わが敵

 

 昔、人を識りぬ、これわが敵。 業(わざ)に、好(このみ)に、心たえて合はず。 遇ふ度ごとに盡きせぬ論爭は起りぬ。 すべてにつきて爭ひぬ、藝術、宗教、科學、地上の生(しやう)、墓のあなたの生につきて、特に墓のあなたの生につきて。

 信篤く情濃(こまやか)なる人なりき。 ひと日、われにいふやう、君はすべてをあざみ笑ふなり。 されどわれ若し先ちて死なば、必らず、他界より君のもとに音づれむ。 その時、嘲み笑はむか、いかにと。

 言葉の如く、彼は先ちて歿しぬ。 されど歳は移りて、その契、そのおびやかしも、忘じ果てつ。

 ひと夜、床にありて、いのねられず。 げに眠は襲はざりけり。 室(へや)はにび色の、覺束なき薄明り、みいりつゝ、忽ち窓前に、わが仇のたてるを見る。 頭靜に振りてうなづくも、あはれや。

 われ恐るゝことなかりき。 愕きだにせず。………

 ただ少し起き直りて、枕欹て、眦を決してゆくりなき幻をみる。 終に語を放ちて問ふ。 君、いま勝ち誇るか、悔い怨むか。 こはなにぞ。………警(いましめ)か咎(とがめ)か。……あるは、君の誤てるを、あるは、わが誤てるを告げむとにや。 今受くるところ何物ぞ。 地獄の責(せめ)か、天堂の歡(よろこび)か。 せめて、一言をだにいへ。

 されど、わが仇は默して言はず。たゞさきの如く、うら悲しくも、伏眼がちに、例の如くうなづく。

 乃ち大笑すれば………かつ消えにけり。

 

[やぶちゃん注:「嘲み」岩波文庫版は『あざみ』と訓じている。従がう。

「契」「ちぎり」。約束。

「欹て」「そばだて」。

「眦」「まなじり」。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 犬

 

       

 

 室内双影あり、犬とわれと。 そともは、風雨すさまじく荒びぬ。

 犬は面前に踞して、わが顏まもりぬ。

 われ亦犬をまもる。

 かれ、宛も、何事をか語らむとする如し。 啞なり、言葉なし、はたおのれをも識らず………されどわれは彼を識れり。

 われは識る。 ふたりのきはに何の隔(へだて)なしといふ思は、犬にも、われにも、この刹那にこそ浮ぶなれ。 われら平等ぞ。 同じ火花はふたりに燃えたり。

 死は、冷たき長翼の一搖曳をもて、落し來らむ。

 かくて寂滅。

 その時、誰か、各に耀ける熖の、何たるを判(わか)ち知らむ。 否、今目守り合ふこのふたりは、人間にあらず、畜生にあらず。

 かたみに睨むその眼(まなこ)よ、平等のものゝ眼なり。

 畜生にも、人間にも、同じ命といふもの、おぢわなゝきつゝ、互に寄り添ふ。

 

[やぶちゃん注:「踞して」「きよして(きょして)」。蹲(うづくま)って。

「長翼の一搖曳をもて」「ちやうよくのいちえうえいをもて」。長く大いなる翼の、ただ一(ひと)羽ばたきを以って。

「落し來らむ」その生命の「火花」の、「燃え」る火を、吹き落しにやって来るであろう。

「各に」「おのおのに」。

「おぢわなゝき」「怖じ戰慄(わなな)き」。]

トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 老嫗

 

       老 嫗

 

 獨り廣野をゆく。

 そびらのかた、忽ち輕く愼ましげなる跫音をきゝぬ。 なにものか、わが後を步めり。

 顧れば、鈍(にびいろ)色の襤褸(つゞれ)をかつぎ、老いかゞまれる姥こそたてれ。 顏のみぞ、きぬよりのぞく。 皺寄り、鼻たかく、齒落ちて、黃める顏なり。

 たちよれば………おうなはとまりぬ。

 誰ぞ、なにか求むる。 乞丐の類か。 施(ほどこし)こふか。

 姥、答なし。 かゞみて、さし覗くに、半透明の膜か、皮か、鳥の眼のやうに、雙眼おほひぬ。 おほひて眩ゆき光をよけたり。

 おうなの膜、さはいへど、動くなし、聞くなし。

 かくてその盲(めしひ)なるを判(わか)ちぬ。

 折返していふやう、施乞ふか、いかなれば、われをつけ來るぞと。 されどまた答へなく、たゞ少しなほかゞむのみ。

 乃ち踵をめぐらして、わが道をゆく。

 しかも、背に步(あゆみ)をきく。 はたはたと、例の拍子、輕く忍びやかに。

 また、かの嫗か、何故に添ひ來れると、心寂に訝りつゝも、さて思ひ直すやう、途に迷へる瞽女(ごぜ)ならむ。 人すむあたりへこそと、わが步(あゆみ)をつけくるなり。さなりさなり。

 しかすがに怪しき不安の念、やうやう、添ひまさりきつ。 おもへらく、こはわれにつゞくにあらで、われを導くなり。 卽ち、右に、左に、指揮されて、知らず知らず嫗に從ふかと。

 遂になほ進み行きぬ。 あな、けうとし、遠(をち)のかた途の上、黑きひろきあるもの………竅(つかあな)めいたる………こちねんとしてわなゝく。 噫、おくつき。

 然り、姥はそこにしも吾を追ふよ。

 にはかに、ふりむく。 姥、はた向ひぬ。………しかも、雙眼あきらか。 むごき邪念のつぶら眼………鷙鳥の眼………われ僂みて、顏に寄り、眼に近づく。………再び例の半透明膜、れいの盲(めしひ)なる鈍きおもゝち………おもふ、われ、噫、嫗こそわが運命か、人の免るゝに由なき運命かな。

 免るゝ由なし、活路なし。 噫、何のたはけぞ、試みなくて、已まむや。………乃ち他の方に走りゆく。

 さて、走れども走れども………さきの如く、輕步はたはたと迫り迫る。………さきの如く、ゆくてに暗穴(あんけつ)。 兎の犬に追はるゝ如く、僂まりて、いづちに走るとも………露もつゆも變りなし。

 思ひめぐらしぬ。 待て、誑(たぶら)かしてみむ。 こゝ動かじと、乃ち停(とゞま)る。

 姥も二步ばかりに、とまりぬ。 音はきかねども、そのけはひす。

 おもひきや、あなたの黑影、さながら、浮び來て、わが身につとそはむとは。

 已ぬる哉。 噫。 顧みれば………嫗ひしとみいり、齒もなき口元、苦笑にゆがみぬ。

 免るゝよしなし。

 

[やぶちゃん注:何箇所かのリーダの前の句読点の判読が困難で、文脈を考えつつ、岩波文庫版に従った箇所もある。「神西清個人訳(第一次改訳) 老婆」の神西及び私の附注も参照されたい。コーダの処理が締った切迫感に欠け、特に最後の一文は失敗と言わざるを得ない。

「老嫗」「らうう(ろうう)」と読んでおく。「老媼(ろうおう)」に同じい。老婆。

「そびら」背後。

「姥」「うば」と訓じておく。老婆に同じい。

「黃める」「きばめる」。

「誰ぞ」清音「た」で読みたいが、下が「ぞ」だと矢張り「だれ」か。

「乞丐」「かたゐ」。乞食。

「類」「たぐひ」と訓じておく。

「踵」「きびす」。

「背」前の表現に従い、「そびら」と訓じておく。

「嫗」「おうな」と訓じておく。

「心寂に」「うらさびに」と訓じておく。「こころさびに」でもよいが、どうもリズムが遅滞するので私は採らない。

「瞽女(ごぜ)」ここは視覚障害者の旅芸人の意。

「さなりさなり」「そうだ! そうだ! きっとそうに違いない!」。

「しかすがに」「然すがに」。「そうは思ったものの、しかしながら」の意。副詞「しか」+サ変動詞「す」の終止形+接続助詞「がに」から成る連語。中古以降は専ら歌語として使用された。その後は、「しか」が「さ」に代わって「さすがに」が多用されるようになった。「竅(つかあな)」「塚穴」。墳墓。墓場。

「こちねんとして」物事が一瞬にして現れたり消えたりするさまを言う「忽然(こつぜん)」が転訛し「こつねん」がさらに訛ったものであろう。副詞で「にわかに・突然と」の意。

「おくつき」「奥津城」。墳墓。

「鷙鳥」「してう(しちょう)」と読む。「鷙」はワシやタカなどの猛禽類を指す。

「僂みて」「かがみて」。屈んで。]

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