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カテゴリー「プルートゥ」の11件の記事

2009/07/08

プルートゥ又は「史上最大のロボット」とは誰か?

1.1 ボラー

1.1.1 「ホギャアアア…」と泣き叫ぶその声

1.1.2 つるつるでちんちくりんのその身体

1.1.1.2 手塚先生の原作も同様の形態である

1.1.3 惑星改造ロボットとして星を原初の形に改造するその機能

1.1.3.1 とすれば惑星改造ロボット・ボラーと砂漠緑化ロボット・プルートゥは本来ガロンのような一体であるべきものである

1.1.3.2 しかし惑星改造という領域の問題解決のためには反陽子爆弾による自己破壊を必要とせざるを得ない

1.1.3.3 ゆえにプルートゥとボラーは引き裂かれざるを得ない

1.2 ボラーはゴヤの巨人であった<過去に証明済>

1.2.1 ゴヤの巨人は闘争の生み出す力とその憎悪のシンボルである

1.2.1.2 しかしそれは愛憎の表現、憎しみの生み出す哀しみでもある

1.2.1.3 それは言い換えれば感情のカオスに他ならない

1.2.2 ボラーは原初の感情のカオスである

1.3 ボラーはヒラニア・ガルパ(スター・チャイルド)である

2 「1.1.3.3」からボラーはプルートゥと一体になることがゾルレンである

2.1 ボラーとプルートゥは一体となって機能としては全っきものとなった

3 プルートゥはサハドである

3.1 プルートゥはサハドの希望と絶望の記憶である

3.2 プルートゥはアトムから総ての人工知能の体験した哀しみを完全に理解した

3.2.1 総ての人工知能とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト、そしてそのハイブリッドな知性体としてのアトムである

4 総ての人工知能の総体となったプルートゥとボラーは全っき存在である

4.4 全っき存在は同じ失敗は繰り返さない

5 真理命題が与えられる

5.1 「憎悪からは何も生まれない」

5.1.1 「地球が終わってもおまえを離さない」

5.2 「4.4」からそれは必ず守られる

5.2.2 注意! 不完全で愚かである「人間」存在は同じ失敗を繰り返す

6 全っき者は全っき存在である

6.1 全っき存在は総ての自己を守る

6.2 全っき存在は総ての他者を守る

6.3 全っき存在は総ての世界を守る

7 総ての世界を守る全っき存在こそは人間のゾルレンである

8 「史上最大のロボット」とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト・アトム・プルートゥ・ボラーにシンボライズされた人工知能の総体である

9 総ての世界を守る全っき存在である「史上最大のロボット」は確かに浦沢直樹の「プルートゥ」で世界を守った

9.1 警告! 世界を守るのは神ではない

10 「史上最大のロボット」こそ/のみが「真の人間」である

僕の今まで書いた「プルートゥ」のブログ記事を纏めて読めるように「プルートゥ」をカテゴライズした。よろしければ、こちらで纏めてお読みあれ。             

2009/03/01

さりながら「プルートゥ」のボラーとはあの「巨人」なり 又は エプシロンの魂(フォトン)は死にかけた僕のパソコンの夢を見る《垂翅PC余命連禱》

《垂翅PC余命連禱》に相応しい――

読み損なっていた「プルートゥ」の06と07を読む――

06――

最後にゲジヒトの最期がやってくる――

それは哀しく切なく透徹した美しさで僕らに迫る――

……何もかもが終わった後に――アントンの抱えた薔薇が雨に匂ってくる――

そうして僕にも――

確かなものとしてゲジヒトの(!)「喜び」と「悲しみ」が直感される――

07――

プルートゥ出現――僕には如何にもあっけない「出現」――

あっけなく現したその姿も手塚先生のプルートゥの「エヴァンゲリヲン」流――

でも、これはきっと確信犯だ!――もう、みんな気がついている!――僕らが本当に見たいのは、本当に知りたいのは――「感じたい!」のはボラーなんだ!――そうだ、ボラー、なんだ!

みんなで叫ぼう! あの孤児の少年たちと共に!

そうして気付く――

エプシロンは「サクリファイス」のアレクサンデルであり――

エプシロンは「ノスタリジア」のドメニコだ――

そうして――ボラーとは……誰か……

――「Act.49 サプライズパーティの巻」19下方のコマ……戦場の硝煙の中の巨大なもの……

――「Act.55 大いなる目覚めの巻」10+11上方のコマ……それは……あの「巨人」なり……

………………

Goya y Lucientes, Francisco José de

“The Colossus”

Goya_colossus

1808-12; Oil on canvas, 45 3/4 x 41 1/4 in; Museo del Prado, Madrid(画像元:“the WebMuseum,Paris”)

 

 

 エプシロンへの追伸:どうかエプシロンよ、そのフォトンでもって、僕のPCを葬送してくれ給え――

「プルートゥ」を我に教えし教え子Y.O.へ。

これは僕の勝手な印象を綴ったものに過ぎない。「Act.48 六十億の偏りの巻」の22の伝馬博士の「そ………その顔は……」というコマからは、プルートゥやボラーの『内実としての本当の』60億の偏りの顔とは、我々の誰もが知っている顔でなくてはならないように思われる。さて、我々の誰もが知っている顔は――人類に最も知られた顔と言えば――善悪の彼岸の顔――全人類の罪を一身に受ける者――ナザレのイエスか?……また語り合いたいものだ。

* *

因みに、昨年、この有名な“The Colossus”はゴヤの真筆ではなく、彼の弟子の筆になるものという鑑定が専門家から提出されているということを、今日、この画像を探しに行って初めて知った。巨人の顔や下界の人物や馬の描写が粗雑なんだそうだ――ちょっと寂しい気がした――

2008/06/18

ノース2号の「あの」曲

“Живые мощи”(Living Relic)中山省三郎訳「生神様」より

 「歌を?……おまへが?」

 「ええ、歌を、古い歌を。輪踊り(ハラウオド)のや、皿占(さらうらな)ひのや十二日節のなど、何でも歌ひますの。わたし、今でもたくさん知つてゐて、忘れないんでございます。ただ普通の踊りの歌は歌ひません。今の身分では仕方がございませんから」

 「一體、どんな風に歌ふの、……自分ひとりのために歌ふのか?」

 「ええ、さうですの、聲を立てて。大きな聲は出ませんけれど、それでも人に分かるくらゐに。あの、さつきお話しましたでせう――娘が來るつて。あれは孤し兒で、よく分かる子でございますよ。それで、私はあの子に歌を教へましてね、もう四つほど覺えました。ひよつとしたら本當になさらないでせうね? では一寸お待ち下さいまし、直ぐにお聞かせ申しますから……」

 ルケリヤは息を繼いだ……この半ば死にかかつてゐる生物(いきもの)が歌を唄はうとしてゐるのだといふ考へは、思はず私のうちに恐怖を喚び起こした。しかし、私が一言(ひとこと)もいひ出さないうちに、私の耳には、長々とのばした、殆んど聞きとれるかとれないくらゐの、しかも清く澄んだ、しつかりした聲が響いて來た……、續いて二聲、三聲と。ルケリヤは『草場のなかで』を歌つた。彼女は化石したやうな顏のけしき一つ變へずに、眼さへ一ところに据ゑたまま歌ふのであつた。とはいへ、このあはれな、力をこめた、細い煙のやうにふるへ勝ちな聲たとへやうもなく哀切なひびきをもつてゐた。彼女はその魂の全部を注ぎ出さうとしたのである……。私はもう恐怖の念は感じなかつた。いひ知れぬ憐憫の情が私の胸に惻々と迫るのであつた。

「あゝ、やつぱりいけない」と不意に言ふ、「力が続きません……、お眼にかかつた嬉しさに胸が詰まつてしまひました」

 彼女は眼を瞑ぢた。

多くを語りたくない。僕は思う。僕にとって、ノース2号の「あの」曲は、間違いなく、これであった――

2007/07/13

ノース2号論ノート 練習曲(重大修正)

私はある教え子の指摘から大変な錯誤に気づいた。

Act4-21の137コマ目でノースは「正確ではありませんが、このような…………」と言って『ダンカンの夢の曲』を弾き始めるのだった。それが彼の練習曲なのだ!

これはやはり、あのオリジナルのダンカンの『母の曲』なのだ! 如何なる既成曲でも、あってはならないのだった!

2007/07/10

ノース2号論ノート 教え子の疑問に答える

注:本篇は僕の教え子――それはあの素晴らしい「プルートゥ」を是非読んで見て下さいと言った彼、彼がその一言を言い貸してくれなければ僕は多分「プルートゥ」を読まなかった。そうしてそれは僕の人生にとって悲しいこととなったに違いない――その彼の「ノース2号の巻」へのミクシイでの日記(それは明白に僕への挑戦状であると認識した)に答えた全文である。それにしても、今日の夕刊……さても第1次中央アジア紛争は既に始まったな……

○紹介業者から新しい執事は軍隊出身だとわかっててなぜOKしたかということ

Act4-3でダンカンは「ふん、またどうせろくでもないのをよこしたんだろう。」と言う。彼は恐らく、紹介業者からの執事ロボット(その強い他者不信から人間の執事をダンカンは使わないと確信する)をことごとく解雇してきたことが伺える。所謂、通常の家事ロボット(失礼ながらロビーの奥方のようなタイプの)では最早無理と考えた紹介業者が、渡りに舟のノースをあてがったと考えてよいであろう。経歴から見ても、ノースの求職は極めて異例のものであろうから、紹介業者としてはどこにどうするかを却って困惑していたかもしれない。従って、往年の映画音楽作曲家のプライドを満足させられる、「輝かしい経歴」のロボットを示せば、ダンカンは興味を持つと思ったのであろう(事実、そのような経過を辿る)。他者を嫌悪するダンカンにとっては、執事専用ロボットではなく、軍隊で多くのロボットを殺してきたロボットとして、ある種の露悪的というか、サディスティックな関心が働いたとも言えるであろう。ダンカンの中には、「こゝろ」の先生のように、あらゆる人間への不信がある以上、そこには実は無意識的な殺戮願望があるとも言えるかもしれない。
振返って、まさにノースの執事ロボット志願自体が、作品冒頭の強力な伏線なのだ。彼は、もう戦いたくない。だからこそ、周囲が驚いたであろう、執事というノースの「人生」の選択がある。
なお、その「2号」の体制や機能から見て、想定されるノース「1号」はもともと純然たる戦闘専用ロボットとして開発され、そのバージョンアップが「2号」であると考えてよいであろう(原作で彼が従うのは開発研究者である博士)。

○ダンカンに破壊したロボットの数を聞かれるときダンカンは「数えきれないほどか?」と答えるが、ロボットがそんな曖昧な記憶しかないことはありえない。記憶を消去した可能性もなくはないが「何体のロボットを破壊した?」のセリフの前後でノース2号の顔が同じ表情で黙っていることから記憶(メモリー)を見て計算したに違いない。

その通りである。ノースの記憶素子から消去されている可能性は、ないと言ってよい。人工知能が成長することによって、人間に近づけば近づくほど、「記憶の消去」は不可能になる。僕ら自身を考えてみるがよい。僕らは忘れたい記憶ほど、忘れられないものである。
現実的に考えても、ノース自身に自己の過去の記憶を消去する権利は禁止されていると考えるべきであろう。そのようなものとしてロボットはある。主人(もしくは製作者)が命じるのではなく、恐らく原始的な手動によってのみ、記憶の消去は可能であるように思われる。まさにパソコンや「ターミネーター2」の頭部ハードディスクの初期化のような作業を必要とすると考えてよい。
しかし、ここでそれ以上に、気づかなくてはならないことがある。それはここで既にノースはロボット法第2条に違反しているという点である。ダンカンに聞かれた時、彼は君の言うように、その破壊したロボットの正確な数を答える「義務」があるのである。しかし、彼は黙っている。それは、極めて都合よく(ロボット法的に)考えるならば、第2条の付則部分、“that doesn't conflict with the First Law. ”に関わり、第1条“A robot may not injure a human, or allow a human to be injured. ”が優先するから、と考えるとすれば、実はその時、ノースは正しくダンカンの「心」をとらえているということになってしまう。しかし、そうではあるまい。逆に、第2条に違反するほどに、ノースは人間化している、いや、あの戦場での自身の大量殺戮のおぞましさに、「心」から「人」と同様に「苦悩」していることの暗示であると捉えるべきであろう。

○ダンカンが、この屋敷から出て行け、といったのにもかからわず出て行った(正確には歌の採取)あとに、ダンカンの「本当にでていったのか」のセリフ。人間の矛盾。人工知能の論理矛盾と規則。ノースはもちろん初めからボヘミアへ行くつもりだった。そのとき彼の人工知能は命令違反をしているわけである。
俺はここで人口知能の進化を考える。きっと命令違反したノースの人工知能を調べても正常だろう。
むしろ精工な人工知能ほど正常を保ちつつ、論理矛盾と規則の間から考えを導き出す。それはロボットの進化ではないか。もちろんこの進化は第39次中央アジア紛争後である。

激しくすべてに同意する。あの解雇を命じた時、すでにダンカンのノースへの「愛」が生じている。僕は素直に「愛」であると思うのだ。それは互いが、自己の内的な秘密の苦悩(ダンカンは過去の母へのトラウマ、ノースは第39次中央アジア紛争のトラウマ)の相互開示によって、その「心の孤独者」であることの共有感情である。――万一、それに抵抗があるのであれば、「師弟愛」の萌芽と言ってもよい――その証拠に、ここで初めて純粋にダンカンのノースへ開かれた心が言葉として開示される。Act5-20の「多少はうまくなったようだな」である。そして、その瞬間、ダンカンは無意識的に、ノースがロボットであることを忘れているのである。でなくて、どうして、ダンカンは「本当にでていったのか」と呟くだろう。それは、僕ら「人間」の男女が、愛憎の中でつい本気でない罵倒や拒絶(それは愛の裏返しであることがしばしばある)をし合うのとなんら変わりはないシチュエーションなのである。
そうして、ロボット法はここで、もはやノースを拘束しない。あれは命令違反では、最早、ない。「愛」の対象者となった、それを恐らく未来的に予測した「ノースを愛するであろうダンカンを愛するノース」(それは最後に確かに哀しく実現する)は――最早、ロボットでは、ない、から。
一般論を述べよう。戦争の技術が人類の文明を進化させてきたのとパラレルに、実は戦争のトラウマが人間の倫理を高めてきたのではないか? 倫理とは「心」である。ヤーヴェが自身に似せてアダムを創ったように、人形(ひとがた)に似せたロボットの人工知能が人の心と相同となるのは(それを進化と称してよいかどうかは微妙に留保したいのだが)、歴史的必然なのである。

○ノースの夢:紛争のフラッシュバックについて。なぜメモリーを消去しないのか? 人間の記憶は忘れたいほど残る。夢を見るように何度も見るなら消去という選択肢もあったろう。ただしここで消去していた場合、上で上げた進化は考えられない。

既に答えた。現実的に消去できない。消去する権利を持たない。そうして、君の言う通り、というか、消去していたら、この話は「ない」、のだ。ロボットのノースが人間と同じくトラウマを持ち、悪夢を見る。それがダンカンの孤独な悪夢と共鳴して、壮大な二人の心の交感の交響曲(シンフォニー)となってゆくという「曲想」が、この作品の単一的、シンフォニックな「主題」なのである。

○ノースは言葉を発するとき口を開かない。が、ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせるときにのみ口が開いている。人間のまねごと? しかしダンカンには見えない。そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。

これは、まさに君の意見を読む直前に、僕も気づいたことである。この作品中、ノースの唇は能面のように一文字に閉じたままである。ところが、君の言う通り、「ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせる」時、Act6-14及び15の412と414コマ目の2コマだけ、ノースの少年のような唇が開き、ボヘミアの歌を詠うのだ。それは、しかし断じて「人間のまねごと」、ではない。それはノースが真に人間になった瞬間、に他ならない。歌(=音楽)は恐らく、人類の最初の芸術である。そうして、それはタルコフスキイが「ノスタルジア」で音楽史家ゴルチャコフに語らせるように、人類の持ち物の中で、唯一、鮮やかに「国境」(=自己と他者の境界)を越えてゆけるものなのである。「そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。」……いい表現だ。気に入った。

○ノースだけ他の6人と違って世界最高水準という設定がでてこない。ダンカンは知っていたのか? 世界最高水準としての機能もでてこない。逆にわからないところが2人を対等な関係としてみれるのかもしれないな。

過去に僕が述べたように、これは「プルートゥ」の挿話ではない。少なくとも、それを感じさせない。やってくる「脅威」は「プルートゥ」でなくてもよいのだ。従って、世界最高水準である必然性もない。
*但し、第39次中央アジア紛争時にブリテン軍総司令官アンドリュー・ダグラス将軍の執事をしていたという設定や、彼のフラッシュバックに現れる戦闘シーンからは充分、世界最高水準のロボットという印象は与えられていると見てよいであろうし、ダンカンもその経歴からただものではないことを目が不自由であるがゆえに逆に敏感に感じ取っていたであろう。ダンカンがサディスティックにノースの過去を問い詰めるシーンもそのような認識があればこそであろう。

さらに言えば、プルートゥそのものがこの作品では、僕には、我々人類のあらゆる「脅威なるもの」に還元されてみえる。事実、この作品ではそのような脅威=自然の雷鳴の音としてのみプルートゥの襲来が表現されている(プルートゥ自体は全く点としてさえ描かれないことに着目せよ)。ここで、「プルートゥ」という額縁ははずされているのである。あるのは、ダンカンとノースを描いた、未完の、愛すべき哀しいキャンバス画なのである。

○最後のノースの「すぐ戻ります」のセリフ。死期に気づいていた。だからこそ最後に戦いながら音楽としてダンカンのもとへ、記憶のなかへ戻ってきたのだろう。そしてそれに、気づいているダンカンもまた、その音をボヘミアの風景のように本物の歌として記憶する。

素晴らしい! 付け加えるべき言葉を僕は持たない。ここにきて、君の文章は、僕のノース2号論を遥かに超えて、美しく確かに完結している。

*新たな疑問
第39次中央アジア紛争とはどのような戦争として浦沢は設定しているのであろう。Act2-1「ゲジヒトの巻」の冒頭に現れるモンブランについての叙述で「混迷を続けたペルシア王国の治安を回復させた」であるとか「潜伏していたテロリスト」という表現や、ノースの語る履歴の「ブリテン軍」からは何やらアメリカのイラク侵攻やそれを一番に援助したイギリスを思わせる。それにしても第39次は、半端ではないぞ。中東戦争だって25年間で第4次だ。イスラムのファンダメンタリスト(原理主義者)がらみであろうことは想像できるが、その中身が知りたいものだ。

2007/07/09

ノースの練習曲

教え子との議論の中で、確かなものとして固まった。

ショパンのバラード第1番作品23

だ。そうしてこれは、1と2に使う。フラッシュバックのシーンにも僕は確かにマッチすると確信する。でも……これって、実は、35年来、僕のショパンの最愛の曲なの♡ 一番の演奏はミケランジェリ!

2007/07/06

「ノース2号の巻」挿入曲ノート

今日は数回に亙って教え子と「ノース2号の巻」に用いられる曲についてメールでやりとりした。まず使用するシチュエーションは

1 『ノースが「練習」する』曲

2 『ノースがフラッシュバックする第10次中央アジア紛争の戦闘シーン』の曲(バックイメージ)

3 『ノース最期の出撃』の曲

の三つは外せない(1と2を同じ曲でカバーすることも考えたが、これは思いの外難しい。とりあえず別に考えたい。2と3も同曲を用いることが出来るが、それは少々作劇的には陳腐であるように思われる)。ピアノを弾くその教え子は、まず1に

ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲 作品43」の「第18変奏」

を挙げた。ロマン的な甘さが気になるが、右手で奏でることの難易度から、承服できる曲だ。

次に2に

モーツァルトの「レクイエム」第8曲「ラクリモーサ」

これは使いたい誘惑に抗し切れないほど、はまり過ぎている――はまり過ぎていることが気になった。その標題性が「如何にも」という感を呈してしまう。音楽が余りにも説明的に過ぎる……しかし、う~ん、いいなあ。

僕のこの不安に彼女は次の2の候補として

ショパンの「革命」

を提示してきた。これは自然だ。しっくりくる。ノースの建前としての「正義」の使命、しかし、そこに内実としての齟齬を覚えるノースの心――を美事に描き出すように思えた。曲の長さと完結性も、あのシーンにぴったりくる。そうなると、今度は1から2へのジョイントのスムースさに欲が出てくる(ノースの「練習」とフラッシュバックはシーンとして連続しているから)。

すると1は同じショパンか、やっぱり東欧・ロシア系の民族派の音楽が合うか……僕がこの議論を始める前に最初に浮かべたのは、実はショパンの「別れの曲」だったのだが……

ところがそう考えながら、彼女も僕も実はやっぱりバッハが使いたくもなってくるのである。彼女が次に挙げた1は

バッハの平均律クラヴィーア第1巻第1曲

これも、いい(グールド好きの僕はノースのすらりとした姿にグールドを感じ、「ゴルトベルグ」の主題もいい、と更に欲を出すのだが)。そうなると、バッハの幾多の宗教曲、マタイやオルゲルビューヒライン、遂には「主よ、人の望みよ、喜びよ」なんぞを弾かせたい思いがむくむくと起ってくるのだが、それはまた標題性へ回帰してしまうので、禁欲的にならざるを得ない。

ノースの弾く曲……想像はまだまだ飛翔する――あの最期のノースのように――

2007/06/23

ノース2号論ノート 後書

今終えた構造分析の修正の後、僕はつくづくノース(ノース2号)を愛してしまった/愛していることを自覚する。反論は無論いつでも来い(必ず君の存在を明記せよ。好い加減なHNや匿名で許されると思うな。君はダンカンであるかもしれないし、ノースであるかもしれない。どちらでもいい。だって君も僕もノースでありダンカンであるのだから)。君がこの話を愛するならば、その収束は同じだ。……そうでないとしたら、君の他者への愛は、明白なエセだ、と僕は明言する。

ノース2号論ノート2 作品構造分析(完全版)

「ノース2号の巻」のエピソードはAct.4から6まで[前編][中編][後編]の三部からなるが、小学館2004年刊の初版「PLUTO 01」でこれらを通してコマ数を数えると

総コマ数 492

である。約500と念頭に置いて各シークエンスを見て行くと、その絶妙な構成とリズムがこの作品を成功に導いていることが分かる(以下総コマ数は僕のオリジナルな数え方[但し特に判断に困るようなコマはない]。Act6-12といった数字は「01」の各Volごとにページのどこかに小さく振られている通しページ番号である)。また印象的シークエンスにはオリジナルな名を『 』で附した。

[前編]

17 執事としてダンカンのもとに来たノース2号のフルショット。1ページ1コマ(これはカタストロフのAct6-27の488コマ目までない)。

後段で畳み掛けるように示される([後編]冒頭313から343で現実の仕事2件の屈辱的エピソードを含むシークエンス)、現在のダンカンは、音楽家として既に過去の人であることの事実としての明示と、虚栄のかった強烈な自負(それは現実世界への呪詛=母への呪詛の転移したもの)が、28から53コマ目までの『テラスの喫茶』シークエンスに現われる。

ここで注意したいのは、ダンカンは「母に捨てられた」という強いトラウマから、他者を信じない質であるにも関わらず、この新参の『人非人殺人兵器』ノース2号に対して、皮肉と虚栄をからませながらも、内実を語っているという点であろう。そこには「母=人間」を信じないダンカンゆえに、図らずも人間でないが故にノース2号に内実を語ってしまうという構造を持っているのである。ダンカンは自己の作曲した過去の映画音楽をすべてゴミ箱にぶち込むごとき発言をするが、これはダンカンの内的な、誰にも知られていない『真実』なのである。そうして、そのシーンの中間部Act4-8の41コマ目に大切な伏線が張られる。「書けないのではない、書かんのだよ。」というノース2号への言葉だ。これはこうして単独で切り離した時に、その特異性が明らかとなる。この、相手にその言明の理解を心から求めるような口ぶりに注意せねばならぬ。この時、実はダンカンはノース2号を無理解なロボットと、見ていないのだ。少なくとも僕はそう思う。この一瞬のダンカンからノース2号へのラポートは、しかし、7コマ後、ノース2号への、最初のダンカンの恣意的で悪意に満ちたAct4-9の47コマ目で遮断される――「名前と同じだな。」「は?」「お茶だ。」「味もそっけもない。」――このお茶を『ジャー‥』とこぼすダンカンのコマは丁度、50コマ目である。

ノース2号がダンカンのうわ言の中のメロディを垣間聴く大切な伏線シークエンスは、その後のAct4-18及び19の108コマ目から121コマ目である。

翌日。『ノースの願い』(Act4-20から最後のAct4-24)。

ここでノース2号はロボット法第一条に5回連続で違反する(ロボット法の嫌いな僕は快哉を叫ぶのだが)。「ピアノに触れるなと言ったはずだ!」(125)、「出て行け」(137)、「この屋敷から出て行け」(139)、「主人の命令だ!! 出て行け!!」(141)、(ピアノを弾き始めたノースに)「やめろ!」(151)……ノースはこれらをことごとく無視する。そこには、ダンカンの『夢の曲』を完成することがダンカンの心を癒すことに繋がるということをノースが察知し確信したから、であり、ゆめゆめ、それは曲を完成できないことで困っている主人を、夢の曲で補完することで完成できると論理的に認知したから、では決してない。ここを押さえることが肝要だ。ここから、僕たちは最早「ノース2号」という呼称をやめよう。「彼」は一個の存在としての「ノース」である。

「ピアノを……」(143)「ピアノを弾けるようになりたいのです。」(145)を介して、ダンカンがそれへの侮蔑的な激しい拒否感を示し、ピアノを引き続けるノースへの「やめろ! それはおまえのような破壊兵器が触るものではない!!」(151)「おまえには戦場がお似合いだ!!」(152)という痛打が打たれ……しかし全てを無視してノースは言うのだ。「だから弾けるようになりたいのです」(153)♪「もう……」(155)♪「戦場に行きたくないから……」(156)♪という最初の作品テンションのピークにくる。ここはプロローグからほぼ1/3弱、ストーリーテラーの定石(または推理小説の伏線張りの常識と言ってもよい)を、美事に踏んでいる。この前編の最後157コマ目は、黙ったダンカンのアップで終わる。黒眼鏡と深い皺のダンカンの心底は容易には見えない。しかし、ダンカンは黙し、ノースのピアノでFOする。

[中編]

しかし、その後、ダンカンの夢(Act5-1からAct5-3の最初の塗りつぶしのコマまで。158-170)が読者に示され、ダンカンの孤独な過去が開示されてゆき(最初の明確主題への暗示)、Act5-61からAct5-7(90から200コマ目)ではダンカンがノースの前でテルミン風の電子楽器やシンセサイザーを叩き壊す(第一ピークの余韻ピーク)。丁度200コマ目は印象的な、ダンカンが杖でノースを指し、「そのケープを脱いで、醜悪な兵器の体をさらしてみろ! その体で、何人の仲間を殺したんだ!?」である。ノースの身体と精神を完膚なきまでに引き裂く。これが全体のピッタリ2/5、これが中間部への強力な牽引ジョイントとなっているのである。

その直後、後半部への橋渡しとなるAct5-9から13(208から232)までが、作品構造でも中核となる重大なダンカンの過去の語りとなるのである。そうして先にブログで語った例のブラックジャックの足元は、その追想の中間点、225コマ目、ページをめくったAct5-12冒頭という、あのブラックジャック登場に相応しいコマ割りとなっている(実際の作品全体の中間コマ(246)にも近い)。「ブラックジャックの足」――それは間違いなく心理的な効果だけでなく、外見上の構造に於いても美的にコペルニクス的な転回点に位置していると僕が確信する所以なのである。

246――この作品の実際の半分である折り返し点のコマを見てみよう。Act5-15最下段の右側である。素晴らしい! そうして、これも極めて重大な伏線を孕んでいるのだ。

245

全ての懐古と母への歪曲した愛憎を吐き捨てた窓際のダンカン、その脳裏に浮かぶボヘミアの落日のイメージ画(間違えてはいけない。これはスコットランドのこの城からの景色ではない。そもそもダンカンには今の=眼前の真実の風景は最早見えないのである(これはただ彼が視覚障害者であるというような即物的なもの謂いではない)。常に見えるのは、記憶の中の母に繋がる「落日の風景」のみなのだ(Act5-1の159コマのボヘミアの落日=捨て去る母の象徴のコマの絵との一致を確認されたい)。そうしてそれにかぶさるのは、母への呪詛――「人間が捨てちゃいけないものはなんなのか、教えてやるよ!!」――

246

プレイルームに両手を広げて佇立するダンカン。両手を広げてやや顔を左背後に先にダンカンが叩き壊した電子楽器の一部が見え、反対側ダンカンの右背後に控えて立つノース。ややうつむいている。その右手にはピアノの一部がわずかに見える。台詞はない。

ここまででダンカンが今まで隠して生きてきた母に繋がる歪曲した愛憎、やり場のない鬱憤は開示された。そうして後は、この登場人物二人だけの(!)作品のもう一人の、ノースの内実を知ることのみが残されるのだ(本作品で現実の実体として登場するのはダンカンとノースだけであるという驚天動地の事実を確かめられたい。コーダに現われるプルートゥでさえ、普遍的カタストロフの象徴である雷の音のみであり、影も点も描かれないのだ!)。

第39次中央アジア紛争によるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を抱えたノースの「傷ついた心」のみが残るのだ。

そして、続く。

247

ノースのアップ。「ダンカン様…………」(言いよどむ)「あなたのお母様は…………」(言いよどむ。)

248

(247のノースの後のよどみを食って)ダンカン「黙れ!!」

そうして次ページのAct6-12の冒頭249コマで、ノースに執事としての解雇通告をし、プレイルームから庭へとダンカンは去るのである。

勿論、ここで僕らはノースが言いかけた事柄を容易に想像できる。それは恐らく、ダンカンの知らない、もしくは誤解している、そうしてノース2号だけが「データ」として知っているダンカンの母親の真実しかない。それは後にAct6-12の395コマ目ではっきりと開示される。ノースの「言いよどみ」――人間では慰藉を初めとするあらゆる意味合いを含むものであるが――ここでは絶対に慰藉ではない。悪名高き(と僕だけが思っているのかも知れない)ロボット法の禁則が、ここでもノースを言いよどませる(論理矛盾による判断停止と言ってもよいかも知れない)。ダンカンの母への憎しみは強烈である。「裏切った母」を真実と認識する彼に、「殺人兵器」の『ロボットふぜい如き』としか認識されていないノースが真実を語って、人間であるダンカンの誤りを指摘することは、「人間」のプライドを傷つけることであり、明白に第一条に反する。しかし、同時にそれは誤った感情によるPTSDから、ダンカン自身が誤った人生を送っていることでもあるのだ。誤った記憶とはダンカンの心的外傷である。では、それはダンカンが受けている心的危害にほかならぬ。それを排除しないことも、逆に第一条に反するではないか? だが、その論理矛盾に、ダンカンの「黙れ!!」の命令が致命的に加わるのだ。第二条の命令遵守が、そこで優先的にかかる。論理矛盾と禁則。ノースの悲しみが、今の僕には痛いほど、分かるね! 僕はロボットではない、人間だ。ノースと共有できると僕が感じる時、ノースは確かに僕と同じく「心」を持つ。僕がこの世界を許せないように……

……閑話休題。さて、続くAct5-16からAct5-20(252-280)の『ピアノと庭の老人』のシークエンスも、いい。

ここで初めてダンカンは心内にノースへの思いを明確に抱く。

ダンカンが出て行ったプレイルーム。左手のピアノの鍵盤に顔を向けるノース。ダンカンは電動車椅子で庭へ。ピアノを弾き始めるノース♪ダンカンの心に響くノースのピアノ♪ノースの言葉のリフレイン♪

「ピアノを弾けるようになりたいのです」♪

「もう戦場に行きたくないから……」♪

ノースは弾く……♪かぶる第39次中央アジア紛争の記憶……♪そのむごたらしい修羅……♪同胞ロボットを……♪完膚なきまでに……♪破壊しつくす……♪ノース……♪(そのノースのトラウマ的イメージ画に満ちた見開きページをめくる)と♪今の庭のダンカン……

♪「ふん!」(279)♪「多少はうまくなったようだな……」(280)♪

Act5-20からAct5-22(281-298)『ノースの悪夢』

深夜。キッチンで水を飲む寝巻のダンカン。寝室に戻ろうとして、床のコードを杖で見つけるダンカン。それはキッチンのサイドルームでエネルギチャージをしているノースに繋がっており、そのためノースの主電源はオフとなっているようである。「明日の出発に備えて、チャージ中か……機械めが……」(189)。明日の出発とは、先のダンカンによる解雇が生きていることを示している。ノースの横顔。ダンカンのアップ、そのコマに太字の「?」。

「ウ……」「ウウ……」パワーオフのノースが洩らす声。ノースの横顔。(292)

ノースの方を振り向くダンカン。(293)

ノースの横顔と呻き声。(294)

ダンカン「うなされているというのか……」ノース「ウ……ウ……」(295)

ダンカン「ロボットも……」ダンカンのあおりのショット。(296)

ノース「ウウ……」ノースのあおりのショット。(296)

ここのショットに着目したい。このあおりは296のコマの方が遥かに大きい。しかしそれはダンカンとノースの実物大と等比なのだ。このあおりは完全にそのフレーミングもあおりの角度もトリミングも一致している! ここはまさに、ダンカンの意識がノースの意識と自然に重層するように巧まれているのだ! その時、ダンカンの黒眼鏡でさえ、美事にノースのフェイスカバーと相同しているではないか! 

Philip K. Dick “Do Androids Dream of Electric Sheep?”を挙げるまでもない。僕は今までの他の叙述でも、ロボットも(アンドロイドは勿論。そもそもこの「プルートゥ」のゲジヒトやアトムはその外見からも最早ロボットというべきではなく立派なアンドロイドである)夢を見ることを語ったつもりである(その場合、羊が電気羊でなくてはならないとは僕は思わない。ディックもそのつもりであることは分かっている。

ここでノースは夢を見ている。それは中央アジア紛争での、あの修羅場のフラッシュ・バックである。記憶素子に記されたそれは、フラッシュ・バック等と言う「生やさしいもの」(PTSD患者にとってフラッシュ・バックは「生やさしいものではない」ことは充分理解している上で、の確信犯的発言である)では、ない。この能面のようなノースの内なる病んだ心、ロボットゆえに正常に健常者を振舞いながら(振舞うことを強制されながら!)、心の闇を抱えていなくてはならなかったノース……それはこのポーカーフェイスな怪しい黒眼鏡の頑固な老人でもあったのだ。しかし、そこにダンカンが気づくまでには、もう少し、時間が必要だ……

なお、夢学説はフロイト・ユングに始まり、最近の睡眠学では脳が膨大な記憶情報を睡眠中に消去整理している状況下に生ずる意味のないものだという学説もある。この最後の最新学説は皮肉にも、人間機械論(人間=ロボット)の一見古風な学説にさえ戻ってゆく気さえする。しかし、それも僕は有意な学説と思う。僕らは機械だ。そうして、機械が心を持って、何が悪い!

翌朝。(299)ダンカンは呼べどノース2号の姿は、ない。ピアノに向かうダンカン。弾くのをやめるダンカン。中編の掉尾を飾る大きな312コマは、ピアノに向かってうなだれるダンカンを背後から描いた印象的なショットだ。そして、彼は遂に言う。曲を

「書けなくなった

のかも

しれない……」

……僕は若い頃は余り意識したことはなかったが、年老いて実際に漫画を朗読して見ると(私は小説の朗読同様、これを好んで一人でやるのだが)、この吹き出しの中での台詞の改行は、優れた漫画作家ほど、美事に計算され、実際の戯曲台本のト書きに相当するものを効果的に示していると言える。この「プルートゥ」然り、である。

[後編]

独りぼっちのテラスのダンカン。最初に記した通り、冒頭Act6-1からAct6-5(313から343)は、ダンカンが現役の音楽家としては最早、実質的に忘却されていることを示す2件の屈辱的エピソードのシークエンスが続く。その最後の部分、消沈した彼が電動車椅子で庭を行く。(397)香りがする。バラをはじめとして庭の花々が満開だ。それはノースが手入れしたもの。彼がいなくなった今、ダンカンは呟く。「手入れをしなければ」と。しかし、そこでダンカンは自身を嘲笑する。「私に何ができるというんだ……」「私がやることいえば、この庭を……」(342)「枯れさせるだけだ……」(343)。ここのモンタージュはうまい。実際には最後の343コマ目でカメラが引いて、ここで初めて「香り」の意味と、そのダンカンの言葉の意味するところが分かるようになっている。花に囲まれた孤独なダンカン……

ボヘミアの落日。(344)淋しげな母の顔。「母さん……」。(345)母のバストショット。)「母さん……」。(346)そこから急速に後退するカメラ、急速に急速に。)「母さん!!」。(347)

ダンカン、テラスのまどろみの中での夢からはっと目覚める。ピアノに向かうダンカン。例の曲を弾き始めるが、例の、ある所まで来て弾けなくなる。右手の拳で思い切り鍵盤を叩くダンカン。……そうして、斧を振り上げるダンカン。今にもピアノにそれを振り下ろそうとした瞬間(背後からのノースの目線で)、ノースの声。

「ダンカン様。」(365)。「ただいま戻りました。」。(369)「ボヘミアへ行っておりました。」「ダンカン様の故郷へ……」。(372)

と語るノース。彼は歌を採取してきたと語る。そうしてその中で遂にダンカンの寝言に現われる曲を見出だしたと言う。「今から歌います。」(378)というノースに、ダンカンは叫ぶ。「やめろ!」「機械の歌など聴きたくない!!」(379)「これ以上私の悪夢に入りこむな!! 人間には忘れてしまいたいものがあるんだ!!」(380)

……人間は忘れてしまいたいものを良く覚えている皮肉な生き物だ。僕は小学校1~2年の頃、毎日のようにいじめられた記憶を昨日のように鮮明に覚えている。それは45年近く経った今でも絶えがたい新鮮な憎悪と呪詛である。僕の周りにいる人間は、時々『そいつら』になるのだ。鮮やかなフラッシュバックだ。僕は今でも、そいつらに逢って、お前を殺してやりたいと言い放ってやりたい願望にかられる(正直言えば殺すことも辞さないのだ)。こんな風に、僕らは思い出したくないことを普通以上に思い出し、その都度、そのイメージを更新してしまう。だから忘れたいものほど忘れない(その癖、痴呆やボケは、皮肉にも、最愛の人や大切な記憶を一瞬にして、人から奪い去る)。

ダンカンにとって、実は最も悲しかった母との別れは、忘れたくない思い出であるはずだ。何故なら、彼はその憎しみの負のエネルギーを自身の作曲する映画音楽に昇華して生きてきたはずだからだ。しかし、自分を「捨てた母」への復讐のために、このスコットランドの城を手に入れ(Act5-14の240で語られる)てしまった時、彼にはその半生に作曲した映画音楽が如何に非芸術性であったかが自己開示されてしまったのだ(Act4-8の42の「もうあんなくだらんものは」書かないという台詞)。だから、彼に残されたのは「私のための曲」(Act4-9の45)のみであったのだ。しかし、その曲がどうしても出来ない。だから、ノースの採取してきたそれは当然、ダンカンが知りたい続きのメロディ・ラインである。彼は「母」を忘れたくないし、「歌」を聴きたいのだ。

それがノースには/だけには分かる。「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(381)はロボットの論理的な回路からの応答、ではない。そうした蒼ざめたただの、しかしダンカン自身が知らない母のインプット・データを、ノースは自律的に思索し(!)行動し(!)勝ち取った(!)のである。その歌い手としての母のオリジナルの歌を添えることで、それをデータとしてではなく、『心』としてダンカンに伝えようとするのである。そうでなくて、どうしてノースは、自己の地獄のような苦しみをダンカンに再開示する必要があっただろう。ノースは暗に言うのだ。

『ダンカン様、私はあなたの苦しみが分かりました。私はあなたの心を救うことが出来ると信じます。だから、あなたもピアノを私に教えてくれることで、戦場に行かずに済むようにここに置いて戴くことで、この苦悩から「私の心」を救って下さい。』

と。

「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(Act6-8の最終コマ381)に始まるノースの語りは実に30コマ分ある。終始ノースが語り、ダンカンはこの間、404コマ目に「そんな……」というのみである。

母が実は彼の病気――これは網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)の方――のためにその治療費を得る為に成金に近付いたとあるが、ここはやや補足が必要となるであろう。恐らくブラックジャックはRPは治療できないと断ったと思われる。その後、寄宿舎に入った彼が膠原病を患い、生死の境を彷徨った際、彼女は再度、ブラックジャックのもとを訪ねた。そうして、BJが膠原病の治療を承諾したという経緯であろう。

「あなたは捨てられたんじゃない」(402)「視力を失ったあなたのすぐそばまで、お母様は、やって来ていた……」「でもお母様はあなたの憎しみを知り、手をさしのべることができなかった。」(403)

そうして、ダンカンが忘れていた、この、「悪夢」の、本当の意味が、ノースの歌によって明らかにされる。……

これ以上、この後半を分析することに、実は僕には堪えられない。このダンカンの「母さん……」と呟いて涙するAct6-16の421コマ目は、このページを開いただけで、僕は涙を押さえられないのである。だから少し駆け足で行くことにしよう……

歌い終えたノースはダメ押しで言う。「申し訳ありません。機械の歌で……」(422)「あなたの夢は悪夢なんかじゃない。」「私の夢とは違う……」(423)。本来なら、このノースの『絶対の孤独の心情』を語らずにはおけないはずであるが、以上のような理由から、後に考察を回したい。

ただ、ここで注意しておきたいことがある。この(422)以降、本シークエンスの最後419コマまで、ノースはダンカンの前に立ちながら、ダンカンの前方の右下をうつむいて見たままなのである(ダンカンへの真実の告知はダンカンを正面からしっかりと見据えているし、母の歌を歌う時は正面を向きやや顎を上げて歌っているにもかかわらず、だ)。

425 ダンカンのうつむき加減の左横顔。

ダンカン「おまえはもう……」「戦場へ行かなくていい……」

426 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま)。

427 ダンカンのノースを見上げる左横顔。(425より寄る)

ダンカン「ピアノの練習をしよう。」

428 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま。426より寄る)。

429 ピアノ、その前のノースを見上げるダンカン、その前に428と同じ姿勢で佇立するノース。

ノース「はい。」

枯葉……レッスン……夕暮れ……帰雁……秋……冬……枝から落雪……雪かきをする二人が雪をかぶる……笑う(!)ダンカン……レッスン……春……

エピローグは、春のコマ、Act6-19最下段右側の444コマから始まると読んでいいだろう。

446コマ目で遂にダンカンはノースに言う。「やっとあの曲が完成した。聴いてくれ。」あの曲とは勿論、母の思い出の曲にインスパイアされたダンカンの『新曲』である。

しかし、遂にノースはこれ聴くことはない。

ここで初めて、僕らはこれが「プルートゥ」の一エピソードであったことに思い至る。そう、僕らは何とこの終局間近の、450のノースの「何かがこちらに近づいてくるのです。」という台詞から455のダンカンが語る「スイスのモンブランとかいうロボットが、竜巻に巻き込まれて大破した」というニュースの話の部分で、これが「プルートゥ」の一挿話に過ぎなかったことに今更ながら気づいて驚愕する。それほどにこの作品の独立完成度は高い。いや、「プルートゥ」の挿話という属性を忘却させるだけの、本話を食ってしまった危うい麻薬効果をさえ持っていると言ってよい。

しかし、その覚醒と共に僕らは哀しくなる。ノースは間違いなくプルートゥにやられて死ぬということが分かるから。

……以下、既に僕はこの後編後半部入って批評の力を失うほどに、本作に打たれてしまっている。シナリオ風に纏めて、愚かな批評は控えたいと思う。ここを語るためには冷徹になる必要がある。泣いていては書けない。僕は僕が冷徹になれるのを、少し待ちたい……いや、そんなクソ冷徹さは、いらないのかも知れない、な……

撥ねられるケープ。(461)装着される附属肢の一本。(462)ページをめくって463コマ目、ノースのアーミー仕様の全体像が哀しくも示される(!) 遠い雷鳴、『ゴロゴロ‥』。(464)空を毅然と見上げるノース!(465)ノース、飛ぶ!(466)

……見上げるダンカン。雷鳴! 476で空中の激しい爆発音!!

……見上げるダンカン。『?』。何かに気づく。

「これは……」(480)♪

「あの曲だ……」(481)♪

「大気いっぱいに……」♪

「あの曲が……」(482)♪「ノース2号が……」(483)♪

[空中♪遠く高い遥かな位置でボンという爆発♪破砕したノースの一部が落下を初める♪(484・485)]♪見上げるダンカン♪

「ノース2号が歌っている…………」♪(486)

一言だけ、言おう。

ここでノースの「霊」は自身の「死」の瞬間に、残存した有効な身体機能の全てを用いて、愛する師ダンカンのために「あの歌」を、歌っている――

――そして、それを聴いているダンカンは――この時、ノースの死を直感している――ダンカンの「霊」は、ノースが死んだことを、「肉体」から開放されたノースの「その」歌声から、分かっている――でなくて、どうして、最後の492のダンカンの台詞が、限りなく悲しく、僕らの胸を打つことが、あろう!

……[飛行機雲のような後を引きながら♪ゆっくりと落下し始める♪](487・488)

Act6-27の488コマ目は1ショット1ページ1コマ。そのゆっくりとした落下の映像は前ページ下の487コマの画像からの流れと、コマ(及びその境界線上)に配された複数の音符によって、実際の動画を見るようだ。それは実に哀しく、かつ美しい「色」、なのである。

以下、最終ページAct6-28。

489 見上げるダンカンの顔のアップ。

「そんな所で

歌ってないで、

早く帰っといで。」♪

490 ♪カメラ、引く♪テラスの椅子に坐ったダンカンのバストショット♪

491 ♪更にカメラ、引く♪テラス、テーブル、椅子に坐るダンカンのフルショット♪

「ノース2号……」♪

492 ♪ダンカンの城の尖塔を含む屋根をなめて空をあおる、やや広角のショット♪その中央に♪落ちてゆく……ノース……♪

ダンカン(オフで)

「ピアノの

練習の時間

だよ。」♪

2007/06/19

ノース2号論ノート1 ダンカンの疾患及び特別出演ブラックジャックについての注釈

ダンカンは回想の中で「生まれつき重い病気をわずらい、視力も弱かった」とノース2号に言い、その後、母に捨てられて寄宿学校に行ってから「原因不明の」高熱を発し、「日本人の」「〝もぐりの医者〟」の手術で命をとりとめたものの、視力が「日に日に弱くなり」、遂には「闇がおとずれた」と語る(それを「その」医師は既に予言していた)。
ダンカンの疾患は二つに大別される。一つは若年性の視力低下を示すところの、ほぼ間違いなく先天性遺伝疾患と思われる病気の罹患であり、今一つは長期間に渡って持続的な原因不明の高熱を示すところの、「いくつもの病院をたらい回しにされたが、容態は悪くなる一方の」疾患である。
前者は網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)が疑われよう。ダンカンは母親や早くに亡くなった父にそのような疾患があったことを述べていないことから(親族への愛憎半ばするかなり激しい被害妄想を持つ彼ならばこそそのような疾患を親族が持っていたとすればそれを語らないではおかないはずである)、これは網膜色素変性症の中でも孤発型を示す常染色体劣性遺伝由来のものと考えてよいだろう。この病気は、網膜に異常な色素沈着が起こり、夜盲症から視野狭窄・欠損、最悪の場合、失明に至る。ダンカンはその中でも若年性発症であるから、進行も早いと考えられる。遺伝病であるから現在も効果的な治療法はない(今後、遺伝子治療による光明のきざしはあるであろう)。
しかし、彼の失明の直接の要因のように見える高発熱の持続は、この病気とは無関係と考えるべきである。素人でも容易に想起する失明に繋がる高熱を伴う疾患は麻疹(はしか)であるが(栄養状態や治療の手遅れ時に発生する)、ここではあり得ない。「病院のたらい回し」「医者に見はなされ」たとダンカンが言っている点と、その直後のコマのそれなりに管理されている病床設備が描写されていることからも、知られた感染症ではあり得ないからである。そうなると、残るのは特異な癌か膠原病である。癌であれば、進行後にはっきりして(「日本人の医者」がそれをインフォームドコンセントしたはずである)、それが判然とする表現を現在のダンカンが用いるはずであり、あくまで「原因不明」が告白時にも生きている性質のものであるとすれば、膠原病(アレルギー・免疫不全症)と考えるのが妥当ではなかろうか。

そうした不治とされる遺伝病を抱えた上に、ほとんど何もわかっていないに等しい膠原病を合併した患者を治せる「日本人の」「〝もぐりの医者〟」は、世界にたった「一人」しか、いない。
ブラックジャックである。
手塚ファンならずとも、ここでは容易に彼を想起する。そうして、そんな当り前のことを、私は言いたいのでは、勿論ない。

ブラックジャックは不発弾処理の事故の犠牲になって母を失い、自身も五体をばらばらにされた(=擬似去勢体験)。彼の父はその直後(と思われる)に彼を捨てて、女と国外(マカオ)へと去っている(後のエピソードにある)。ブラックジャックはそうした意味で、多分に変形したエディプス・コンプレクスを保持しており、ピノコへのピグマリオン・コンプレクス(ペドフィリアの要素も含む)も、そうした延長線上に容易に見てとれると私は考えている。而して、「ブラックジャック」の物語とは、必ず「母」がポジティヴにもネガティヴにも現われてくる物語なのである(これは手塚作品全体の共通性といってもよい)。彼はそうした「母性」像を無意識的に介することで、患者に対するのである。そもそも医術とは生命を扱う稀有の技である。本来、自然界で生命を司ることが許されたのは唯一「母」だけであった。即ち「母性」に直結するところの「仁術」師としての医師という一個の人間が、患者という一個の人間と、一対一の関係でまっこうから対峙対決するイメージを、あの「ブラックジャック」という作品は我々に喚起するのである(彼が要求する法外な手術代は、経済としての現代医学技術が遥かにバイオエシックスを追い越していることへの危惧や、世界的な視野での医療水準の偏頗・各種医療保険制度の持つ矛盾への激しい皮肉として機能しているに過ぎない)。付け加えれば、そこでは当然のこととして、教える人間と教えられる人間の関係が描かれるが、その位置はしばしば、作中で転移逆転する。それは、ダンカンとノース2号の関係にあっても同じである(このことはまた別に考察したい)。ともかく、ブラックジャックが手掛けた患者は(少なくとも作品に描かれている患者は)常に、その「病巣」と同時に「心という病巣」をもブラックジャックによって問題にされ、治療されるのである。この特別出演でも、僕は例外ではないと考えるのである。

ダンカンが母親に対して持っている、誤解に基づく憎悪(それはやはり強いエディプス・コンプレクスの変形したものであることは明白である)が、実際には誤解であったのだという後半の鮮やかな展開を、この足元だけのブラックジャックの登場が既に暗示していると言えないだろうか。その時、このシーンは、ただの手塚ファンへのサービスと言うよりも、判明度は低いものの、高度に巧まれた精神的な伏線であったと理解されるのである。

だからこそ、その『闇』の眼が、そうした「母」の真実に目覚め、「愛」の復活によって鮮やかに蘇り、開明開示された、あのエンディングのコマの、その抜けるような空の青さが、僕等の眼に沁みるのだと、僕は思うのである。