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カテゴリー「「耳嚢」【完】」の1000件の記事

2018/02/13

幾つかのサイト版についてのお断り

労多くして、讃辞のない「北條九代記」サイト版のほか、「耳囊」「生物學講話」(後者二本はブログ版は完成済み)のサイト版は、既公開分は残すが、以降の版は作成をしないことに決した。悪しからず。

実は讃辞などなくてもいいのだが、問題はルビ・タグの不具合が頻繁に起こってイライラすることと、外部リンク付け作業が大変だからである。されば向後、

「北條九代記」(オリジナル電子化注の残りは「卷第十二」のみ)

「耳囊」(二〇一五年四月二十三日附・オリジナル電子化訳注完成済み)

「生物學講話」(二〇一六年三月三日附・オリジナル電子化注完成済み)

は、それぞれ、以上のリンク先のブログ版で読まれたい。悪しからず。

2015/04/23

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅻ) / 「耳嚢」マイ・ブーム――延べ5年と213日――取り敢えず、大団円也!

一 寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃、「道中宿驛の食賣女(めしうりをんな)を停止(ちやうじ)せらるべきや、いかにやあらん」とうちうちに評議ありしとき、翁道中の奉行たりしまゝ具(つぶさ)に宿驛のありさま書(かき)つらね、「食賣女といふもの旅人寢食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必(かならず)其主人の制しとゞくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在(あり)て、定(さだま)りたる家には更にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居(いへゐ)とせる大船の船頭なるもの、湊(みなと)にくゞつなるいへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」よしをことわり申され、「其中に目立(めだち)たる花美(くわび)を盡し遊女屋にひとしき所業(しよぎやう)もあらんには、奉行より夫々(それぞれ)嚴重の沙汰にも及び候はん」との次第、誠意を盡したる趣(おもむき)言外にあふれたりし事のよし。さらば其掟(おきて)にまかすべき事に決斷有しよし。

 嘉永四辛亥(かのとゐ)年八月廿八日發寫(はつしや)

 同年十一月十七日寫畢(うつしをはんぬ)

                 瀧 口 廣 教

[やぶちゃん注:町奉行時代ではないが、これも実に胸の透く、名捌きである。私の「耳嚢」マイ・ブームのエンディングには、まっこと、相応しい話ではないか!――これを以って「耳嚢副言」は終了する。――2009年9月22日より今日まで(延べ2039日――5年と213日)の永きに亙り、翁と私とに御付き合い戴き、忝のぅ存ずる。――根岸鎭衞翁ともども――この場を借りて読者の方々に心より御礼申し上ぐる。……では、また……いつか……何処かで……【2015年4月23日記 藪野直史】

・「寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃」「白河侯」は当時の老中首座松平定信。鎮衛は定信によって天明七(一七八七)年七月に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢された。

・「食賣女」飯盛女(めしもりおんな)。宿場にいた奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼。参照したウィキの「飯盛女」によれば、『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者』『も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけでは』なかった。また、今、時代劇でよく聴く「飯盛女」の名は俗称であって、享保三(一七一八)年以降の『幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』とある。十七世紀に各街道の『宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説がある。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説がある』。『当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難であった。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ』。因みに、明和九・安永元(一七七二)年で千住宿や板橋宿には百五十人、品川宿には五百人、内藤新宿には二百五十人の制限をかけている。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられ』ている、とある。

・「翁道中の奉行たりし」道中奉行は五街道と、その付属街道に於ける宿場駅の取締りや公事訴訟・助郷(すけごう:諸街道の宿場の保護及び人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)の監督及び道路・橋梁などを担当した。当時の役料は年間二百五十両であった(ここはウィキの「道中奉行」に拠る)。天明七(一七八七)年に勘定奉行(同年末に従五位下肥前守叙任)した鎮衛は、翌天明八年八月三日に道中奉行を兼任している。兼任当時、鎮衛は満五十一歳であった。

・「くゞつなるいへる」底本には「なる」の「る」右に編者長谷川強先生による『〔ど〕』と訂正注が打たれてある。

・「くゞつ」ここで根岸は、当時の廻船業などの長期に亙る船旅に従事した船乗りたちが、湊々で買った売春婦のことを彼らの符牒で「くぐつ」と呼んでいたと思わせる発言をしている。但し、これが事実かどうかは確認出来なかった。事実としてもなんらおかしくはない。「傀儡子」が例えば、民俗学的でしばしば謂われる海人(あま)族の末裔であったとすれば、各地の湊を行動のランドマークとしてことは想像に難くないからである。ただ、かくも長く付き合って参ると鎭衞翁の性質(たち)がよく分かってくるのであるが、しばしば翁は、相手が知らぬであろうことを以って、はったりをかまして少し退かせるという手法を用いられる。何となくこの期に至って、これもそうした翁の茶目っ気が出たもの――翁の知ったかぶり――ではなかろうか、という気がちょっとしているのである。以下、ウィキの「傀儡子」を引いておく。元来、『傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで』、『当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう』。平安時代(九世紀)には『すでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった』。『平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった』。『寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された』。『傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり』、『その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている』。『寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている』とあり、また、『その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる』 とし、白柳秀湖の、傀儡子というのは大陸のロマ族のような大道芸を生業とした被差別者集団が『中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族で』あったが、後に『時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の』人々へと変容したもので、『民族的なものではない』という説、『その他に、「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある』とする。また、応徳四・寛治元(一〇八七)年に大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:平安後期の学者。歌人赤染衛門は曾祖母に当たる。四歳で書を読み、八歳で「史記」や漢書に通じ、十一歳で詩を賦して神童と称せられた。十六歳の天喜四(一〇五六)年には文章得業生(もんじょうとくごうしょう:文章生〔大学寮で中国の詩文および歴史を学ぶ学科である文章道を専攻した学生〕の中から、成績優秀な者二名を選んで、官吏登用試験の最高段階である秀才・進士試験の受験候補者としたもの。)となり,学問料を支給されたが,これは菅原道真が十八歳で合格して評判になった例と比較しても異例に早い。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)によって書かれた「傀儡子記」(漢文体で三百二十字ほどの小品)を概説して、『当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし』 、二本の剣をお手玉にしたり、『七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある』。『魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である』(後の太夫姿の女芸人による水芸のルーツ!)。『また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で』、『歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す』。『なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる』と記す。……いや、これで我らが注嚢、これ、満腹で御座るよ……

・「嘉永四辛亥年」西暦一八五一年。因みに、翌々年の嘉永六(一八五三)年の六月三日(グレゴリオ暦七月八日にはアメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着、翌月の七月十八日には、ロシア大使プチャーチンが開国通商を求めて長崎に来航、江戸幕府(老中首座阿部正弘)は朝廷を始め、外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求に対する対応策を下問、結果、品川砲台(お台場)の構築工事を開始(翌年完成)、翌嘉永七(一八五四)年の三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)には遂に日米和親条約が締結されている(ウィキの「嘉永」に拠る)。

・「嘉永四辛亥年八月廿八日發寫/同年十一月十七日寫畢」「發寫」は書写の起筆。同年八月は小、九月が大、十月が小の月であるから、この「耳嚢副言」全部の筆写には述べ四十六日を費やしていることが分かる(こんなつまらない注記をするのは恐らく私ぐらいなものだろう。最後の最後までやぶちゃん流に拘った注を附すことの出来て、実は内心、非常に嬉しい。私もライターの末席に参加しているウィキペディアには最もお世話になった。最後にこの場を借りて謝意を表する)。

・「瀧口廣教」不詳。「ひろのり」或いは「ひろゆき」か。識者の御教授を――最後に――乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 寛政の初め、翁が松平白川侯定信様の御補佐――勘定奉行に道中奉行を兼ね勤めておられたが――をなさっておられた頃、

「――街道道中宿駅の食売女(めしうりおんな)に就いて、これを停止(ちょうじ)せらるべきか否か?」

と、営中うちうちにて評議のあった折り、翁、道中奉行の就いておられたによって、具(つぶさに各所の宿駅の実態につき、手下の者を向かわせて子細に調査致いたものをしっかりとした文書に致いて披露の上、

「……以上、お示し申し上げた通り――食売女――と申す者、これは、旅人の寝食の給仕をなし、場合によっては密通など致すことのあるも、これ必ずしも、その旅籠屋主人の制止の行き届くようなる現状にては、これ、御座ない。公家や武家の、ゆったりのんびり致いた旅中とは、これ、さま変わり、庶民の生業(なりわい)の中には、一年の内、幾度となく旅中にあって、定まった一屋(ひとや)には一度として住んだことのない者も少なからず、……これは、かの海上を家居(いへい)とする大船(おおぶね)の船頭なる者らにとって、それぞれの湊(みなと)に――くぐつ――と称する女のあるが如きもの。……これもまた――一つの世界――と呼ぶべきものにて御座ろう。……」

との御自身の理(ことわり)の趣きにつき、これ、幕閣重臣の方々を前に、まっこと、正々堂々と申された上、

「――その中に、目立ったる華美を尽くし、最早、旅籠とは思われぬようなる――遊女屋に等しき所業(しょぎょう)をも成す不届き者のあったならば、これはもう、奉行より、それぞれの者に厳重なる沙汰にも及び申そうと存ずるが、如何(いかが)で御座ろう?」

との次第、誠意を尽くした簡潔なる主旨を述べ説かれ、また、その人情の温もり、これ、言外に溢れ出たものにて御座ったと申す。

 されば、翁の申された、その掟(おきて)に任すがよい、との御決断の下された、とのことである。

 

 嘉永四年辛亥(かのとい)年八月二十八日書写を始め

 同年十一月十七日写し終える

                 瀧 口 廣 教]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅺ)

一 いづれの年にか有けん、日本橋前後の川の附洲(つきす)を浚ひ上(あげ)る御普請の初(はじめ)に、其人歩(にんぷ)に出るもの悉く近邊の町火消人足(まちびけしにんそく)と唱ふるものなれば、先(まづ)其頭(かしら)だちたる火事場世話役といへるものを白洲へ呼出(よびいだ)し、「こたびの御用格別に精入(せいいれ)つとめよ。年頃其方(そのはう)の勤(はたらき)かたよろしきよしはかねて聞置(ききおき)たれば、分(わけ)て此事をゆだぬる」よしを申されしかば、かの老夫涙おとしてよろこびかしこまれり。翁其席を立(たち)て奧のかたに入(いり)ながら、「かやつをもまづさとし置(おき)たれば必ず落成速(すみやか)ならん」と獨りごちうれしげなりしが、豈(あに)はからんや、其普請のもなか大雨つゞきて其川邊大水なりしを、「普請手(ふしんて)もどりなるべきを厭ひ、かの老夫其川邊にをりたちこれかれ指揮せしまぎれ、あやまりて溺死せり」との訴(うつたへ)あり。翁大きに嘆息ありて、例の事とて鳥目(てふもく)そこばくを其妻子にあたへ、猶(なほ)別に葬式のたすけなど厚く惠まれつゝ、「奉行たるもの一言(いちごん)を出すもつゝしむべき事也。餘りにあつく申(まうし)さとしたれば、全く老夫の命も捨(すて)させしなり」と後悔せられたり。事がらは是非なき次第、され共(ども)士卒の打死(うちじに)をも厭はずして進むは、軍配の賢愚によるのたとへなるべし。

[やぶちゃん注:

・「附洲」上流から流れて来た土砂が、下線の平野部や河口近くに於いて堆積して砂洲や中州を形成したものを称する語と思われる。それが河川の船の運航の妨げになったり、川の流れの遅滞を起して河川の氾濫や、潮位の上昇によって周辺域の浸水の原因になったものであろう。

・「町火消人足」「町火消」(まちびけし)は第八代将軍徳川吉宗の時代に始まった町人による火消のこと。以下、ウィキの「火消」の「町火消」によれば、『財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題とな』り、享保二(一七一七)年に南町奉行となった大岡忠相は、翌三年に『名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。これにより、火事の際には』一町につき三十人ずつ、火元から見て風上の二町と風脇の左右二町の計六町百八十人体制で『消火に当たることになった。しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった』。その後、享保五(一七二〇)年になって、地域割りを修正し、約二十町ごとを一組とし、隅田川から西を担当する「いろは組」四十七組と、東の本所・深川を担当する十六組の町火消が設けられた。『同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった』。享保一五(一七三〇)年には、いろは四十七組を一番組から十番組まで十の大組に分け、『大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して』十五人へ半減され、町火消全体での定員は一万七千五百九十六人から九千三百七十八人と大幅に整理された。『のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の』十六組は北組・中組・南組の三組に分けて統括され、元文三(一七三八)年には『大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は』計八組となった。この年の定員は一万六百四十二人、その内訳は鳶人足が四千七十七人・店人足が六千五百六十五人であった(鳶人足と店人足の違いについては後述される)。町火消は毎年正月の一月四日に、『各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである』。

『いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという』。いろは四八組の内、「め組」は文化二(一八〇五)年に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代に竹柴基水の作で歌舞伎の外題「神明恵和合取組」にも取り上げられている。これとは別に、町人により組織された火消として、享保七(一七二二)年に成立した『橋火消(はしびけし)もあげられる。これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた』とあるが、享保二〇(一七三五)年に『橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった』とあるから、この話柄のそれも先の町火消の担当であったと考えてよいであろう(後の天保一三(一八四二)年には天保の改革によって髪結床組合が解散、町奉行所への駆けつけは名主たちに命ぜられている)。『町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととな』り、享保七(一七二二)年には二町(約二百十八メートル)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命ぜられるようになり、それ以降も享保一六(一七三一)年に『幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった』とある。延享四(一七四七)年の『江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられ』ている。なお、以後でも天保九(一八三八)年に起こった西の丸出火、同一五(一八四四)年の本丸出火などでも江戸城内へ出動し、『目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている』とある。以下、「火消人足」の項の町火消の関連項に、『町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。これは、享保四(一七一九)年に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためでああったが、『江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった』。『鳶人足に対しては、町内費から足留銭』(注釈に『本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用』とある)『をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた』。『町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら、組頭)、纏持と梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。江戸全体で』約二百七十人いた頭取は、『力士や与力と並んで江戸三男(えど・さんおとこ)と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった』とある(以上、下線やぶちゃん)。この老人はこの「人足頭取」と思われ、まさに時代劇に出て来る、きっぷのいい老江戸っ子であったのであろう。なお、個人サイト「河童ヶ淵」の「町火消し」によれば、この人足たちは、火消しの数に組み入れられず、「土手組」とも呼ばれたとあり、また、『江戸の鳶は遠国生まれどころか近郷近在生まれ』の者もおらず、『地元の人間がつとめて』おり、『贔屓(ひいき)の旦那がいる者もあって気前がよく、火事を相手にする職業がらキビキビとしていて、若い娘だけではなく人妻にも人気があ』ったとある。当該頁には各組の人足数が総て細かく記されてあり(ばらつきが大きい)、別サイトで調べて見ると、この日本橋周辺は「ろ組」と「せ組」が担当と思われ、「ろ組」は人足二百四十九人、「せ組」は二百八十一人である。

「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことによる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 孰れの年の頃のことであったろうか、日本橋近くの、その上流であったか下流であったか、その頃出来てしもうた附き洲を、これ、浚い上ぐる御普請(ごふしん)を始めること相い成り、その事始めとして――それらの現場人夫として雇われ出でる者どもが、これ、ことごとく日本橋近辺の町火消人足(まちびけしにんそく)と称する者どもであったによって――翁、まず、その頭(かしら)を任せられた火事場世話役と申す者を、お呼び出だしになられ、

「――此度(こたび)の御用、これ、格別に精入(せいい)れ、勤めよ。――年頃、その方らの勤き方、これ、よろしき由は、かねてより聞き及んでおればこそ、別して、この大事を委ぬるぞ!」

といった言葉を賜わられたところ、その火事場世話役の老夫、これ、涙を落いて悦び畏まって御座ったと申す。

 翁、その席を立って、やおら、奧の方へと入らんとする折りから、

「――か奴(やつ)をも、かくもまず諭しおいておけば――これ必ず、落成も速やかなることであろう。」

とひとりごちて、こちらもまた、嬉しげで御座った。

 ところが、である。

 豈に図らんや、その普請の最中、折り悪しく大雨の降り続いて、その川辺一帯、大水となって御座ったが、ある日のこと、

「――普請手(ふしんて)どもが、雨を厭うてこっそり仕事をさぼるようなことのあるをを憂え、かの火事場世話役が老人、かの川辺に自ら降り立って、かれこれ指揮致いておりましたところ、誤って大水の流れにはまり込み……溺死致いて御座いまするッ!……」

と、急な訴えのあった。

 翁、大いに嘆息なされ、こうした際の例(ためし)なればとて、鳥目(ちょうもく)幾許(いくばく)かを、これ、その妻子にお与えになり、しかもなお、別に葬式の助けなども厚くお恵みになられた。そのお指図を支配の者に命ぜられつつ、翁、

「……奉行たる者……一言(いちごん)を口に出すにつけても、重々これ、慎まねばならぬことじゃのぅ。……あまりに力を込めて申し諭し励ましたればこそ……全く……あたら、かの老夫に……命をも、これ、捨てさせて、しもうた……」

と、ひどく後悔なさっておられたと申す。

 かくなれば、この出来事、是非もなき次第にては御座った。

 されども……かくも――士卒の打ち死にをも厭わずして進む――と申すは、これ――軍師軍配の賢愚に據(よ)る――の譬え、なればなるべしと申そうず。]

2015/04/22

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅹ)

一 翁は南の番所と唱ふる官邸たりしが、ある評定の日に北の官邸なる方の吟味に、町家のものより寺院を相手取(どり)たるうりかけの出入(でいり)あり。茶漬飯(ちやづけめし)のうりかゝり四、五十金のとゞこほりなるを、其かゝりの奉行、「茶漬めしの料(れう)には大金珍らし」と申されしを、翁かたはらより、「そはいづ方の町なりや」と問はれしに、「これは湯島天神のまへなる町なり」と答へられしかば、翁とみに「夫(それ)こそ子供の踊りを見過したるならん」と申されしによりて、かの出家顏をあからめ、「速(すにや)かに其滯りを濟し申(まう)さん」とこたへ上(あげ)たり。男色のうりものは子供踊りといへなるよし。

[やぶちゃん注:

・「北の官邸なる方」これはもう、親しく助言していることからも間違いなく盟友永田正道(まさのり)のことと思われるが、永田は結構、真面目一方の御仁であったらしいのぅ……♪ふふふ♪

・「うりかけ」「売(り)掛け」でツケのこと。

「湯島天神のまへなる町」男色を売る歌舞伎若衆を置いていた陰間(かげま)茶屋があった。ウィキの「陰間茶屋に(注記号は省略した。下線やぶちゃん)、『江戸時代中期、元禄』(一六八八年~一七〇四年)年間の頃に『成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した』とあり、『元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指し、男性と性的関係を持つことは女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の格好のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化した陰間茶屋が増えていった』。『売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着』、『江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた』という。『料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書と』言うべき「江戸男色細見 菊の園」「男色評判記 男色品定」によれば、一刻(二時間)で一分(四分の一両)、一日買い切りで三両、外に連れ出すときは一両三分から二両かかったとある(因みにこの頃の一両は現在の五万円から十万円相当とされる)。『主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった』。『但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ』、天保一三(一八四二)年には陰間茶屋は禁止されているとある。そして「陰間茶屋があった場所」の項には、湯島天神門前町に十軒ともあった。

「子供踊り」陰間茶屋のことを「子供茶屋」「子供宿」「子供屋」とも呼んでいたから、そうした男色行為を元の歌舞伎踊りから、暗に「踊り」擬えていたものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁は南の番所と呼ばれた南町奉行所内の官邸にお住まいであられたが、ある評定の日のこと、たまたま北の官邸なる御方の御吟味にて、町家の者より、寺院を相手取った売り掛けに纏わる公事のあった。

 これがまた、茶漬飯(ちゃづけめし)のツケの騒動にて御座ったが、その金額たるや、これ、実に四、五十両の支払いのない、と申す訴えであったによって、その月番の係であられた北町奉行の御方、

「……茶漬飯(ちゃずけめし)の代料(だいりょう)にしては……これ……如何にも大金……なんとも、珍らしきことじゃが?……」

と糾された。

 ところが、たまたま、そのお白洲の場近くにあられて、それを聴かれた翁、これ、傍らより、

「……失礼乍ら……それは、何方(いずかた)の町でのことで御座るか?」

と問はれたところが、

「――いや、これは――湯島天神の前なる町――でのこととのことじゃが? 何か?」

と、北町の御奉行さまのお応えになられたところ、翁、即座に、

「――いやさ! それこそ――子供の踊りを――これ、見過ぎたということで御座いましょうぞ!」

と、呵々大笑なされて申されたところが、訴えられ、そのお白洲の場にあった出家、これ、蛸の如くに顔を真っ赤に致いて、

「……す、す、速やかに、そ、その滞りに、つ、つきましては、こ、これ、お支払致します、すれば……」

と、唾を呑んで答えたとのこと。

 さても――男色の売り物はこれ――子供踊り――と当時は申して御座ったとか。……♪ふふふ♪……]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅸ)

一 家紋蛇の目の外に猶(なほ)有(あり)しよしなれども、壯年の時着用の上下(かみしも)・小袖など、こくもちと稱してたゞ丸く染置(そめおき)たるを其まゝ用ゆるに便利なりとて、蛇の目斗(ばか)りをつくる事とす。微々(びび)たりし時は別にもんかゝする事もせず、かのこくもちの中へみづから墨を以てぬり、蛇の目となしゝも着用有し由。

[やぶちゃん注:

・「家紋蛇の目」中央に白い丸の開いた黒いドーナツ型のシンプルな家紋。邪眼を思わせる極めて呪術的な紋様である。紋様を見るために播磨屋氏の強力な家紋サイト「家紋World」内の「名字と家紋」の「蛇の目紋」をリンクさせておく。

・「こくもち」「石持」「黒餅」。元来は紋の名で、黒い円形で中に文様のないもの。ルーツは矢口の祭り(武家に於いて男子が初めて狩猟で獲物をしとめた際にその肉を調理して餅を搗いて祝う儀式を矢開きというが、その時、黒・白・赤の三色の餅を供えて山の神を祭った)の黒餅を象ったものとされる。但し、ここでの「こくもち」は、その形から派生した、定紋をつけるべき所を白抜きにして染め、あとでその中に紋を描き込むことが出来るようにしたもの及びそれを施した衣服などを指している。やはり、サイト「名字と家紋」の石餅(黒餅・石持)紋をリンクさせておく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸家の御家紋には、「蛇の目」の他にもなお、別なものもあらるるとのことで御座ったが、壮年の時、着用なさっておられた裃(かみしも)や普段の小袖などには、

「――こくもち――と称して、ただ中を白く丸く染め抜いただけのものに、これ、ちょちょっと黒い輪を染めたを、そのまま用いればよいのじゃから、まっこと、便利じゃて。」

と、蛇の目ばかりの紋所を、専ら、お作らせになさっておられた。

 お若い時分には何でも、別に職人に紋を染めさせなさることもなさらず、かの――こくもち――の中を、自ら墨を以て――ぐるん!――と塗られて、「蛇の目」となしたるものをも、これ、着用なさっておられたとか申す。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅷ)

一 下婢(かひ)の朝夕用ゆる手燭(てしよく)も、しばしば損じてわづらはしとて、松の板一尺四方のものに例のとづるを長くつりて、夫(それ)に細長き紙屑籠といへるものをうつぶせにさし込(こみ)て、中に蠟燭をともす。其具いくらといふ事もなくつくりて、次の間に並(ならび)おけり。

[やぶちゃん注:

・「一尺四方」三〇・三センチメートル四方。

・「とづる」私は当初、これは仮名の草書の「津」(つ)と「亭」(て)を判読し損なったものではないかと思った。「とつて」(取っ手)である。しかしそれでもどうもしっくりこない。「長くつりて」とあるから、これは「取り鉉(づる)」と合点した。「鉉」(つる)とは所謂、土瓶・鍋・急須などの上に半円状に渡してある蔓(かづら)などで出来た取っ手のことである。少なくとも「とづる」という語は小学館の「日本国語大辞典」にも近似する語さえ載らず、ネット検索でも掛かってこない。「吊り鉉(づる)」で訳した。

・「次の間」主人の居室の次にある部屋で、従者などが控える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 下女が朝夕に用いる手燭(てしょく)と申すも、これ、華奢な造りで、

「……あの市井に出回る手燭と申すもの、これ、如何にもちゃちで、しばしば損ずるが、まっこと、煩わしいのぅ。」

と申され、手ずから、松の板の一尺四方のものに、かの薬缶(やかん)の吊り鉉(つる)のようなる、藤蔓で作った半円の取っ手の頑丈な奴を結わい附けて長く釣り、それにまた、細長き紙屑籠(かみくずかご)にも見紛うような、しっかりした覆い籠をうつ伏せにさし込んで立てられ、中に蠟燭を灯すようにした、全く自前の灯明具をお作りになられた。

 それを見本にさせた上、下男どもに、これまた数え切れぬほどに沢山、お作らせになられ、いつも次の間に並べ置いておかれて御座った。]

2015/04/21

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅶ)

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

 

[やぶちゃん注:直前にあるように、これは先の条々は、「耳のあか」の筆者で生前の鎮衛とも交流のあった御勘定組頭吉見儀助こと吉見義方の書き記したものを志賀理斎が「耳嚢副言」の「追加」として転写したものであるので注意されたい。]

 

一 翁性質奢侈(しやし)をいましめ、座右の調度皆卑下の品を備ふ。日々の勤(つとめ)肩輿(けんよ)に用ゆる烟草盆(たばこぼん)、陶器の大きやかなる火入(ひいれ)に曲物(まげもの)の臺をつけ、それに蔓(つる)もて提(さぐ)るやうになし、灰吹(はいふき)といふ物をも具(ぐ)せず。「唾(つばき)はみづから戸を明(あけ)て往來へはきても足(た)れり」と。されどあまりに見ぐるしと人のいふにまかせ、其(その)火入のかたはらに竹の筒を添へたるのみなり。退朝(たいてう)ののちも其器(うつわ)を左右に置(おき)て別に備ふるものなし。近親羽田何がしも御勘定吟味役たりしが、其器をまねびて常に用ひたり。

[やぶちゃん注:

・「肩輿」駕籠。それに乗った際に中で用いる携帯用の煙草盆を言っている。

・「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく器。

・「曲物」檜や杉の薄く加工したへぎ板を湾曲させて作る木製容器の総称。盆・桶・櫃・三方(さんぼう)などの日用容器に多く用いた。曲げ輪破(わつぱ)。

・「灰吹」煙草盆に付属した竹筒で、煙草の灰や吸い殻などを落とし込むもの。吐月峰(とげつぽう)とも呼ぶ。

・「退朝」日常、役所の勤務を終えて帰ること。鎮衛は生涯現役であったから、ゆめ致仕の意でとらぬように。

・「羽田何がし」不詳。因みに、この「耳嚢副言」本文クレジットよりも十一年後ではあるが、天保一四(一八四三)年のデータに羽田竜助利見なる人物が勘定吟味役にはいる(後に佐渡奉行)が、違うか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の性質(たち)は、奢侈(しゃし)を戒め、座右の調度はこれ皆、至って市井の者の用いる安物を備品となさっておられた。

 日々の勤めで乗用なさる駕籠の中で用いらるる携帯用の煙草盆もこれ、陶器のずんぐりとした火入れに、曲げ物で台を拵え附け、それに藤蔓(ふじづる)を以って取っ手となし、ぶら提げるようにした手製のものにて、灰吹きといった物をも備えっておらなんだ。

 常日頃より翁、

「――唾(つばき)なんどというもんはこれ、自ずと駕籠の戸を開けて往来へ吐けば、十分じゃ。」

と言うておられたからであったが、ある折り、

「……お畏れながら……御奉行様なればこそ、それはあまりに見苦しきことと存じまする……」

と人の申したに任せ、それよりは、その火入れの傍らに小さき竹の筒を添え附けられた。それでも、ただそれだけの、まことに素朴なること、これ、変わらぬ品にて御座った。

 退庁なさってからでも、自邸にあっても、これ、相変わらず、その器(うつわ)を身近にお置きになられ、それ以外には、別に常備なさるる品というもの、これ、全く御座らなんだ。

 因みに、鎮衛殿の御近親の羽田何某(なにがし)殿も――今、御勘定吟味役であらるるが――その器を真似て、常に用いておらるる。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅵ)

[やぶちゃん注:以下に引用される「耳のあか」というのは実は既に私が電子化訳注を済ませた底本の『「耳嚢」吉見義方識語』(編者鈴木棠三の標題)とほぼ同文である。

 そこで、例外的に同引用文注では読みを概ね排除して(一部の異同箇所では挿入した)原文の雰囲気を出すこととし、後の注では『「耳嚢」吉見義方識語』との表記・表現の異なる箇所のみについて附した。現代語訳は省略も考えたが、最後の箇所に重要な違いがあるので、ここは煩を厭わず、再度附すこととした。但し、基本的に『「耳嚢」吉見義方識語』でのそれを用い、やや修正を加えたものであることをお断りしておく。

 また、この「耳のあか」の最後には『「耳嚢」吉見義方識語』にはない、「こはさきに……」という全体が二字下げの附文がある(これは、この「耳のあか」への吉見儀助による解説及びこの後に続く更なる吉見の記した記事の前触れであるが、ここからは今まで通り、一部に読みを附す形に戻した。]

一 右の外にもいろいろ歎服(たんぷく)すべきことのあるべきとおもへども、聞かざる事はしるすこと能(あた)はず。爰(ここ)に古山(こやま)君〔峰壽院御用人古山善吉〕の話に、吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕の翁の行狀(ぎやうじやう)を筆記せるものありとのことなれば、しきりにそれを請ひ侍りけるに、吉見大人耳のあかと號(なづけ)られしを見せ給ふ。其文左のごとし。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥州藤原鎭衞朝臣別號守臣翁は、御代官安生太左衞門定洪の二男にして、元文二年丁巳をもて生れ、文化十二年乙亥七十九歳〔官年八十〕にして卒す。定洪はじめ相撲國津久井縣若柳邑の産にして、其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成御徒に召加へられ、後組頭に轉じ、猶篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢遷せられ、拜謁の士に列り、其長男直之は御勘定・評定所留役・御藏奉行等を經て、ついに布衣の上士に昇り御船手の頭たり。根岸家は九十郎衞規とて廩米百五十苞の祿にして、もとより拜謁の士たれどもいまだ小普請の列に在るうち、年若して疾篤く易簀に臨みて、守臣翁を養ひ遺跡を繼がしめん事を乞ひ置死せしかば、翁其家を繼小普請の士より御勘定につらなり、評定所留役をかねて訴言(そげん)を糺し、いく程なく組頭にのぼり、俊廟の日光山にまゐらせ給ふ事にあづかり、後御勘定吟味役に進み布衣の上士に列し、又佐渡奉行に擧らる。此時秩錄を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて御勘定奉行に轉ず。時に恆例を以て從五位下肥前守に敍任あり、家祿五百石に加恩あり、はじめて知行の地を給ふ。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を歷せられ、食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり。御勘定たりし時よりおなじき奉行たるに至迄、しばしば營作土功の事をうけ給はり、落成の度毎に褒賜ある所の黄金通計二百六十餘枚に及ぶとかや。かゝる繁務のいとまにうち聞く所の巷説、兒輩のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記してひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿つ。卷をわかつて十帖とす。かりそめの物すらしか也。されば國務に有用の事を編集ありしはいくばくならん事、をして知るべし。人となり大量にして小事にかゝはらず、瑣細の事に力を入れず。朝夕近(ちかづ)くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し、選擧必其人を得たりしは、全く偏頗の私情なきによるものか。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、「小音にして事を談ずるは謹情の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて己が利あらん事を思ふが故に、他聞を憚るより起れり」と。其私なき此言をもても思ふべし。翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり。義嗣かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへどもかの耳嚢を騰寫する事を得て、己れ義方に示さる。亦はやくより翁に値遇せるも近藤氏の因によれり。これかれ思ひはかればいといと餘所ならず。欣慕のあまり數言を其書のはしに贅す、穴かしこ。

文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす。

  こはさきに近藤助八郎義嗣(よしつぐ)の

  爲に筆す。又志賀何某がもとめに應じて、

  翁が存在の行狀(ぎやうじやう)・嘉言(か

  げん)を思ひ出(いで)て左にしるす。

[やぶちゃん注:冒頭に注したように、「耳のあか」の部分の細かな語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。以下では表記・表現の異なる箇所のみについて示す。

・「歎服」感服。感心して心から惹かれ従うこと。

・「峰壽院」峰姫(みねひめ 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)は第十一代将軍徳川家斉八女。第八代水戸藩主徳川斉脩(なりのぶ)正室で第九代水戸藩主徳川斉昭の養母。諱は美子で峯寿院は院号。第十二代将軍家慶の異母妹で第十三代将軍家定や十四代将軍家茂の叔母に当たる。

・「御用人」諸藩に置かれたそれで、略して「御側(おそば)」とも呼んだ。藩主やその家族らの私的な家政実務や秘書的役割を担った。

・「古山善吉」(「こやま」という読みは木村幸比古「吉田松陰の実学 世界を見据えた大和魂」(PHP研究所二〇〇五年刊)及び CiNii こちらの佐藤一斎の書簡『「慶安」「六諭」を古山善吉所望につき』のデータに拠った)現在の長野県中野市にあった天領代官所(代官陣屋)中野陣屋の代官(文政元(一八一八)年)〜文政五(一八二二)年)を勤め、その後、御目付となり、文政七(一八二四)年五月二十八日に常陸国(現在の茨城県)に漂着したイギリスの捕鯨船遭難船員の調査に出向いていることなどがネットの検索から分かる。この異国船來船の折り、彼は水戸藩の責任者中山信情に対し、捕虜としているイギリス船員を全員釈放して捕鯨船に薪・水・食糧を与えて帰帆させるように指示しており、これを知った水戸藩の攘夷強硬派が激怒した旨の記載が、「スローネット」の「檜山良昭の閑散余録 第113回 未知との遭遇事件(2)」に載る。この話、いろいろな意味で、私にはなかなか面白く感ずる。(1)はこちら。是非、一読をお薦めする。斉脩は文政一二(一八二九)年十月に病死し、峰姫はほどなく剃髪して峯寿院と号しているから、この記載部分での時制は、まさに剃髪それ以後のものと考えなくてはならぬ。また、彼が後に、この尊王攘夷の水戸藩の、斉脩正室の御用人となったというのも、私にはなんとも皮肉に感じられる。

・「吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕」吉見義方(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後に示す「耳嚢」本文底本の編者鈴木棠三氏の注で逆算した)。鎮衛より二十九年下であるが、以下に述べる如く、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「己れ亦はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。「耳嚢」底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。文化四(一八〇七)年に御勘定組頭となっており、この志賀の「耳嚢副言」の正文跋文のクレジットは天保三(一八三二)年で、彼の死去が天保一二(一八四一)年(但し、その時は昇進して御勘定評定所留役であるから下限はもっと下がる)、この筆記時制はその閉区間内となる。

 以下、「耳のあか」の語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。ここでは『「耳嚢」吉見義方識語』との有意な(意味が同じ部分は採っていない)差異があると私が判断した異同のみを注した。それにしてもこの二つを比べることは当時の書写の過程の誤写の実態がよく分かって、私には甚だ興味深いものであった。

 

・「耳のあか」「耳嚢」に添え寄すからその「耳」の垢の如き駄文であるという謙辞である。

・「七十九歳」『「耳嚢」吉見義方識語』は『七十歳』であるが、数え七十九でこちらが正しい。

・「官年八十」この割注は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。官年は近世武家社会に於いて幕府や主家などの公儀に対して届けられた公式な年齢をいう。家督相続や出仕、御目見などに関わる年齢制約を回避するため、年齢を操作して届け出るこのような慣行が成立した。公年(こうねん)ともいった。これに対し、実際の年齢は生年といった(以上はウィキの「官年」に拠った)。

・「其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成」「其の年」は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。これだと、鎮衛の父定洪は出生した年の内に安生家の養子となったと読める。

・「擢遷」『「耳嚢」吉見義方識語』の「擢選」の方が私にはしっくりくる。

・「御船手の頭たり」『「耳嚢」吉見義方識語』では単に「御船手を勤む」である。

・「俊廟」『「耳嚢」吉見義方識語』は「凌廟」。これは両方とも書写の誤りと思われ、「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。「俊」には優れるの意があるが、しかしやはり私は誤写と採る。

・「知行の地」『「耳嚢」吉見義方識語』は「采地」。意味は同じだが、これは孰れかが書写担当者による書き換えと思われる。

・「歷せられ」『「耳嚢」吉見義方識語』は「慰せられて」。「慰」の方がしっくりくる。

・「食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり」『「耳嚢」吉見義方識語』では、この後に「在職の祿故の如し」という一文がある。

・「しばしば」『「耳嚢」吉見義方識語』は「品々」。

・「十帖」『「耳嚢」吉見義方識語』は「六帖」。これは恐らく「耳嚢」の複雑な成立或いは書写過程と関係するものであって、私は誤写ではないと感じている。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、実は三村本の巻六の末に附されてあるのである。

・「瑣細」『「耳嚢」吉見義方識語』は「鎖細」と誤写している。

・「朝夕近くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し」「記臆」は底本に右に編者長谷川氏によるママ注記がある。さて、この部分、『「耳嚢」吉見義方識語』では、

 朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し

となっていて有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語の方がしっくりくる。本筆写者が脱文したか、或いは意訳して写した可能性が疑われる。

・「翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり」この箇所、『「耳嚢」吉見義方識語』の方では、

 翁男衞肅は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣の先妻たり。

で有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語』の「近藤氏の女」の注の鈴木棠三氏の引用を見て頂くと分かるように、『先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい』とあって、この志賀の転写した方がより正確な事蹟を伝えていることが分かる。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は無縁な記載として書写者が確信犯で、この「はじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び」の部分を省略し、改変したものかも知れない。

・「文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす」『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、

 あやあるまつりことてふこゝのつのとし、長月すゑつかた、時雨めきる日小ぐらき窓下にしるす

とあって、遙かに高雅な識語となっている。なお、この筆者は私が以前に推理したのと同様に「時雨めきる」と判読して書写していることが分かる。

 

・「嘉言」佳言。人の戒めとなる、よい言葉。

 

■やぶちゃん現代語訳(先に述べた通り、「耳のあか」の部分は、『「耳嚢」吉見義方識語』で行った私の訳を基に補正を加えたものである。同じく、読み易さを考え適宜、改行を施してある。最後の附文の前は一行空けた。)

 

一 以上の他にも、歎服(たんぷく)すべきことはこれ、まだいろいろとあろうかと存ずれども、見聞きしたことを総て記すことはとても出来ない。

 さて、ここに古山(こやま)君――水戸の峰寿院(ほうじゅいん)様の御用人である古山善吉殿――の話に、吉見大人――御勘定組頭吉見儀助殿――の翁の行状を筆記なされたものがあるとのことなれば、しきりにその閲覧を請うて御座ったところ、吉見大人の「耳のあか」と名づけられた識語を見せて下された。その文は以下の通りである。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十九歳――官年八十歳――にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳(わかやぎ)村の出であられ、その年のうちに御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)組頭を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて知行地を賜い、その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ。それより遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労の経歴を重ねられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって十帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、初め関川氏の養女を娶られたが、残念なことに子をもうけらるることなく亡くなられた。されば後に再び、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶られ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義種殿の子であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

文政九年の年、長月の末つ方、時雨めいた日のこと、お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

 

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

2015/04/20

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅴ)

一 翁病中にありし時、自火(じくわ)ありて御役宅殘らず燒亡せし時、北の奉行永田氏早速駈付(かけつけ)、無程(ほどなく)鎭火に付(つき)翁に向ひ、「火に怪我もなきや、又書(かき)もの燒失もせざりしや」、其外同役の事なれば殘る處なく相尋(あひたずね)終りて歸られける。予も早速見廻(みまひ)に趣(おもむき)て後(のち)歸りがけに永田の御役所え出けるに、備後守火災の事など申され咄されけるは、「扨々同役は病中にてはあり、嘸(さぞ)かし轉動(てんどう)の事もあるべしとおもひの外、格別おどろきたる風情も見えず。諸向(しよむき)の事またさしあたりたる火事の始末に付ては色々の相談もせし處、諸事常にかはる事なくしめやかに申談(まうしだん)じ、萬事行屆(ゆきとどき)し趣也。いかなるものも自火といひかれこれ取亂(とりみだ)し、物事前後もすべきを、いさゝかの落度(おちど)もなき取鎭(とりしづ)めかた、誠に驚き入(いり)たる器量の程感心する事にて、中中我等などの及ぶ所にあらず」との物語り也。後々人のはなしをきくに、火事の出(いづ)べき朝(あさ)便所に行かれしに、「夫(それ)火事」とて大騷動也。附從(つきしたが)ひ來りし女ども大(おほい)に驚き、右の事をあはたゞしく告(つげ)て、「早く便所より出給(いでたま)ふ樣に」としきりに申せ共(ども)、いさゝか構はず平常の如く、燒(やく)るもかまはずゆるゆると便(べん)し終りて出たりとぞ。げに當世の一人物にて、其(その)量の程凡庸の人にあらざる事、此一事にてもをして知るべし。心廣く體(たい)ゆたかとは是をしもいふべし。

[やぶちゃん注:クレジットがないが、永田備後守正道(まさのり)と筆者の志賀が見舞いに訪れているから、永田の北町奉行就任である文化八(一八一一)年から奉行在任のまま根岸の死去する文化一二(一八一五)年の閉区間で、しかも根岸は「病中」とするから、この役宅(町奉行の役宅は奉行所内にあり、南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近であったとウィキの「町奉行」にある)を火元とする火災は四年間の後半の出来事と推理出来る。調べて見ると、人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)に、現在の千代田区神田駿河台一丁目(明大の向い)にあった根岸家屋敷の解説文中に、『根岸鎮衛とその子孫が居宅した場所。文化十二年十月、自宅二階の灯明が元で御役屋敷と居宅を焼失。鎮衛は罹災後この地で過ごし、十二月に死去した』とあった(下線やぶちゃん)。なんと! これは鎮衛の亡くなるたった二ヶ月前の満七十八歳の時の出来事だったのだ! しかもこれ以前、根岸は役宅に附属する形で自宅を構えていたということも遅まきながら分かった(私は「耳嚢」を訳していたこの五年の間、ずっと神田が彼がせんから住んでいた屋敷だと勘違いしていたのである)。役宅は全焼したものの、近隣に類延焼しなかったことこそが町奉行たる根岸にとって、何より最もほっとしたことではなかったろうか?……「燒るもかまはずゆるゆると便し終りて出たり」――いいねえ! 根岸の旦那!――馥郁たる御香の漂って参りやすぜ!!……

・「永田の御役所」北町奉行所(北番所)は東京駅の八重洲北口付近にあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の病中にあられた折りのことである。

 御自宅より出火のあって、御役宅も、これ残らず焼亡なさった際には、北の御奉行永田正道(まさのり)氏も早速にお駈けつけなされたが、幸いなことに、ほどのぅ鎮火致いて御座ったによって、翁に向われ、

「――火にて怪我などなされなんだか?――また、公事方の重き文書の焼失などもなく済んで御座ったか?……」

など、その他、御同役なればこそのお気遣いから、こと細かに、こうした折りの公務上の危機管理に相当する事柄につき、洩れなくお訊ねになられ、総て事なきことのご確認を終えられた上、お帰りになられた。

 私も回禄の報を聴き、早速に御見舞いに赴き、その後、翁の避難なされておられたところからの帰りがけ、永田氏の北町の御役所へ少し御機嫌伺いに参ったところ、備後守殿、親しく対面なされて、この度の一件につき、お話しなされたが、

「――さてさて! 御同役は病中にてあれば、さぞかし、動転なされておらるる向きなんどもあろうほどに、と直ちに見舞って御座ったのじゃが、これ、当人、思いの外、格別驚いておらるる風情も見えず御座っての! 公務上の種々の対応の件及びさし当たっての奉行所役宅の焼失の後始末などに就きては、これ、いろいろと相談も致いたのじゃが、諸事これ、常に変わるところのぅ、まっこと、落ち着いて普段通りに話し合いなど致いて――そもそもが、我らが参ったは、やっと鎮火致いたかと申す、ほんの直後であったにも拘わらず、万事これ、なすべき処置や指図、総て行き届いておるといった趣きであった!……如何なる者といえども、これ、自家より火を出だいたとならば、百人が百人、かれこれ取り乱し、慌てふためき、まともな判断や対処もあっちゃこっちゃとなるが、これ、当たり前のところなるに、翁のそれは、もう、いささかの落度(おちど)もなく――いやさ! 冷静にとり鎮めて御座った、その仕儀たるや! まことに驚き入ったる器量のほど! いやもう! 感心するのなんの!……なかなか! 我らなんどの及ぶべきところにては、あらなんだわ!」

と、物語っておられた。

 のちのちになって、人の話を聴いたところ、火事の起こったまさにその折り、翁は朝の便所に行かれておられたが、

「――か、火事じゃッツ!!」

と、大騒動となったによって、つき従って御座った下女ども、これ、大きに驚き、

「――か、火事にて御座いまするッツ! お、お殿さまッツ!!……」

と、便所の内へ慌ただしく呼びかけ、

「――は、早う!――お便所よりお出で下さりませッツ!!――は、早くうにッツ!!!」と、しきりに申し上げたけれども、これ、翁、いささかも構はず、普段の如く――家のめらめらと焼くる音の致すも、どこ吹く風と――ゆるゆると、まり終わらるると、徐ろに出でて参られた、とのことで御座る。……

……げに――当世の一大人物にして、その御器量のほど、やはり流石に、凡庸の人にてはあらざること、この一事をとって見ても、推して知るべし――で御座る。

――心広く体(たい)豊か――とは、これをしも言うと申せましょうぞ。……]

2015/04/18

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅳ)

一 「非人の女太夫(をんなたいふ)といへるもの、むかしは衣類に縮緬(ちりめん)其外見事なる衣を着たりしかば、甚だ平人(へいにん)と紛(まぎらは)しく且(かつ)はあるまじき驕奢(きやうしや)の有樣なれば、已來は木綿(もめん)にかぎるべし」と、きびしく絹布類(けんぷるい)を制止し申付(まうしつけ)られしかば、今以(もつて)其(その)令(れい)をかたく守りて木綿のみを用(もちゐ)し事なり。さりながら近比(ちかごろ)は絹に見まがへるやうなるもあれど、みな木綿にて其令を犯すものなし。扨又一とせ北の奉行永田備後守、「とびのものまたいさみなど唱ふ若者共、身體にほりものして、賴光(らいかう)の山入(やまいり)また紅葉狩(ももぢがり)の鬼女其外渡邊の綱(つな)の羅生門(らしやうもん)など、五色の畫具をもて彩色しほりて、いかめしくりきみあるく事甚(はなはだ)見ぐるし。是(これ)その入用金拾兩餘も費(つひ)ゆる、畢竟はそのこれを彫るものあるゆゑなれば、巳來は決して右樣の業(わざ)をなすものあらば訴へよ」と、きびしく申渡(まうしわた)されしかば、その頃は壹人も彫りつかはすものなくなりしにより、我(われ)これを大(おほい)に悦び備後守え申(まうし)けるは、「此程は彫もの御制止のよし。扨々結構なる事にて、ほらせ候ものは身體髮膚(しんたいはつぷ)を花々敷(はなばなしく)する事不孝と申(まうす)事は一向不存(ぞんぜず)。せめて孝經(かうきやう)にても覺えたらばかゝる事をすまじきにて、第一年寄(としより)て子や孫に對して後悔するもの多しとの事なり。扨(さて)死して桶(をけ)に入るとき、ゆかんをするに、佛になられたと人々なみだを流す時分にも、おそろしきほりものしたる死人は、さてさて殊勝らしく見えず。佛にはならで鬼にもなりさうに見るよし。かたがた以(もつて)不孝の罪を救ひ給ふ處なるべし」と申(まうし)ければ、永田氏の申されしは、「今度(このたび)我(われ)申渡(まうしわた)せし條もわれら御役を勤(つとむ)る内は守るべきが、後々は天下の法度(はつと)は三日法度(みつかはつと)といへり、あしき申習(まうしなら)はしなれ共(ども)是非に不及(およばず)。すへすへはまたもとのもくあみとなるべし」とて笑ひながら申されしが、果(はたし)て今頃は盛んにほりものをするものもとの如くに成(なり)ぬ。これかれを思へば、根岸翁の女太夫の令は今によく守ることいみじき事にこそ。

[やぶちゃん注:この一条、鎮衛の捌き話以外に実は、理斎の語る刺青始末滑稽談も眼目の一つであるのでお楽しみあれ。なお、本条では当時の被差別者についての叙述が出るので、批判的視点をも持ってお読みになられるようお願いする。

・「女太夫」現代仮名遣で「おんなだゆう/おんなたゆう」と読む。女の門付け芸人のこと。菅笠を被って各戸を訪ね歩き、三味線や胡弓の弾き語りをして物乞いをした。正月には鳥追い笠をかぶって「鳥追い」(後述)となって、鳥追い唄を歌って家々を回った。また、浄瑠璃・水芸・奇術などの演芸をする女芸人のことをも指す。以下、ウィキの「女太夫」より引く(注記号は省略した。下線やぶちゃん)。『江戸時代において、門付は非人のみが許されていたが、非人であっても小屋頭』(非人は関東では長吏頭(ちょうりがしら)弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあり、さらに抱非人(かかえひにん)と野非人(のびにん)との別があった。野非人は「無宿」(今日的には路上生活者のような生活形態)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は非人小屋頭(ひにんこやがしら)と言われる親方に抱えられて各地の非人小屋に定住していたグループを指す。非人小屋は江戸の各地にあった。その非人小屋頭はこれまた、それぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸にはそれは四人おり(一時期五人)、この非人頭を弾左衛門が支配下に置いて末端への伝達を計った。この非人頭の中でも特に有力であったのが浅草非人頭車(くるま)善七であった。非人の主な生業は「物乞い」で、他に街路の清掃や門付などの「清め」に関わる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事していた。以上はウィキの「非人に拠る。なお、次の「平人」の注も参照されたい)『クラスの妻や娘は女太夫をやることはなく、その下の層である小屋者の女性が行なった。小屋者の女は遊郭の遊女になることが許されず、櫛・簪をつけることも禁じられており、外へ出るときは笠をかぶる決まりだった。天保の改革以降は、下駄も許されなかった。絹の着用も許されなかったため、女太夫の着物は綿であったが、襟にだけ縮緬をあしらったり、染めや色合わせに凝ったりして工夫し、それがかえって色香があって粋に見られた。門付以外にも呼ばれて歌うこともあり、次第に演芸をする女芸人一般を女太夫と呼ぶようにもなった。容貌に優れた者も多く、色恋沙汰が歌舞伎の題材になったりもした』。『なお、関西には鳥追いはあったが、女太夫は生まれなかった。明治時代に女太夫は禁止された』。「鳥追い」は小正月(一月十四日~十五日)に行われる年中行事の一つで、その正月からこの時期にかけて祝い芸として各戸を回っては鳥追い唄を歌った門付芸人をも同時に指した。以下、ウィキの「鳥追い」から引く。農耕儀礼の一つであるそれは『主に東日本の農村において行われる行事で、田畑を鳥の被害から守ることを祈念して行われる。この行事は、主に子どもが主役となって行われ、地域によってやり方は異なるが、木や藁・正月に使われた注連縄などで小屋をつくり、その小屋を小正月の夜に燃やすものや、子どもたちが鳥追いの歌を歌いながら村の中を回ったり、村境まで行くものなどがある』。門付芸としてはまず、『新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。江戸初期、京都悲田院の与次郎が始めたという。たたき。たたきの与次郎』という男性のものが始まり、後の『江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回』るようになった。『近世には三味線の伴奏で門付(かどづけ)しながら踊る者が現れ、これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋(いき)な編笠(あみがさ)に縞(しま)の着物、水色脚絆(きゃはん)に日和下駄(ひよりげた)の2人連れの女が、艶歌(えんか)を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠(すげがさ)にかえ、女太夫(おんなだゆう)と称したともいう。京都悲田院に住む与次郎の始めたものと言い伝えるが、京坂では早く絶え、江戸では明治初年まであった』とあり、現在の『阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている』と記す。

・「平人」「へいじん」と読む。通常の官位を持たない普通の庶民を便宜上指して言っている(「平人」という公的身分階級が存在したり認知されていた訳ではないので注意されたい)。所謂「士農工商」の「農工商」のグループが属する。因みに、それらの下位(枠外)に賤民として「穢多(えた/かわた)」「非人」が配されていた(現在、正しい理解に於いては「士農工商」は身分制度でなく、職業区分枠と認識されているようだ)。以下、ウィキの「賤民」から引いておく。『穢多(かわた)は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理』(西日本に於いては必ずしも非人は穢多の支配下にはなかった。部落解放同盟東京都連合会公式サイ内の「東京の被差別部落の歴史と現状」「非人」に拠る)。『などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。諸職人(刀鍛冶や、石工、仏師など)や舟渡、陰陽師、宿曜師、山伏、禰宜、巫女、白拍子、舞々、楽人、能役者(端役)、連歌師、俳諧師、通事(翻訳業)、瓦版売りなどのように地域・時代によっては賤民とされた職業もある』。『非人には非人頭の配下に属する抱え非人と野非人(浮浪者)など区別があり、心中の生き残り、近親相姦者、税金不納者、権力に収容された野非人(病人を含む)がこの身分に置かれた。穢多とは異なり、彼らには非人化から』十年以内であれば『脱出(足洗い)の機会が与えられることもあった。ただし、非人の子として生まれた者は脱出の機会はなかった。奴隷労働から脱走し、逮捕されると腕に入れ墨を入れられて脱走回数が記録された』。脱走が三回に及ぶと死刑と決せられて行刑役も非人が負わされた。また、平人が無礼などを理由に非人を七人殺した場合、平人一名を殺したのと同等の罪として詮議されたとある。但し、『地方地域によっては穢多と非人の区別は一定していない』ともある。なお、部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「東京の被差別部落の歴史と現状」が最も詳しく、情報の改訂も厳密なので必ずそちらも参照されたいが、同サイト内に「2003年新春特集」として「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事があり、『近世の江戸の町には、非人や猿飼、そして乞胸など被差別民衆が担った様々な芸能の世界がありました。新春の言祝ぎの芸―女太夫の鳥追、清めの意味を持った門付や猿回し、様々な大道芸がそれでした』という浦本誉至史氏の「新春を祝う芸―女太夫の鳥追」に、この「女大夫」が出るが、そこでは、本文を読み解くに大切な、描かれていない彼女たちの生き生きとした姿や、江戸庶民とのその交流が髣髴としてくるので引用させて戴く(以下、下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 江戸時代後期の庶民生活や風俗を記した史料に、『守貞漫稿』(もりさだまんこう)『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)という書物があります。これらの書物の中に、「鳥追」(とりおい)芸の話がかなり詳しく出てきます。

 

 鳥追は今では京阪にはなく、江戸に多い。江戸ではこれを女太夫(おんなだゆう)というものが行っている毎年正月元日から中旬に至るまで、新しい服を着て編笠をかぶり、また常の歌・浄瑠璃と異なる節を唄い三味線を特に繁絃して町屋に(女太夫が)やって来る。女太夫は非人小屋から来るが、一人に12銭の紙包みをわたす。中旬以降は編笠が菅笠に変わるのだが、編笠の時を鳥追と言うのである。

 

 『守貞漫稿』に出てくる鳥追に関する記述です。又この記述の少し前に、女太夫についてつぎのように記されています。

 

 非人小屋の妻娘は女太夫と号し菅笠をかぶり木綿の服と帯ではあるが新しい着物を着、袖口などには絹の縮緬などを用い、綺麗に化粧し、日和下駄をはいて「なまめきたる」風姿で一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って銭を乞う。往々にして女太夫に美人がいる。市中の店などでは1文をわたすが、参勤で江戸にやってきた諸国の下級武士などは長屋の窓下などに呼んで2・30銭をわたし、一曲を語らせたりする。

 

 同じような記述は、もう一つの書物『嬉遊笑覧』にもあります。それによれば女太夫たちは三弦だけではなく胡弓も弾いたようです。

 このように、江戸の町の正月の風物詩の一つであった「鳥追」は、女性の非人である女太夫がおこなったものでした。また記述の内容から、江戸の町人や武士などが、日頃から女太夫が来ることを楽しみにしていたことが分かります(著者である喜田川守貞や喜多村信節は、儒教道徳を身につけた民間「知識人」として、こういう「身分の垣根を曖昧にするような」風潮には批判的ですが)。

 日頃、非人たちの「物乞い」について規制することが多い幕府も、「鳥追はめでたいことだから」と、あまり規制しませんでした。女太夫の鳥追(そして正月以外の浄瑠璃の門付)は、今日的に言えばまさに江戸の町のアイドルでした。この江戸町人の文化は、やがて北廻船に乗って遠く北陸地方にまで(その風俗が)伝えられます。北陸地方などでは、今でも「江戸の女太夫の鳥追」姿をして夜の町を弾き歩くお盆の祭りが、大切に伝承され続けているのです。

   《引用終了》

ここに出る「守貞謾稿」は喜田川守貞(生没年未詳。江戸後期の風俗史家で大阪生)の江戸の事物風俗を渉猟解説した類書(一種の百科事典)で起稿は天保八(一八三七)年である。……袖口に絹の縮緬……鎮衛翁ならきっと「まあ、よかろう、衣の袖は衣ではない」と粋に言った気がする……それより幕末に至っても「女太夫」たちは鎮衛の決めた定めを守っていたことが分かる。江戸の「アイドル」であった「女太夫」たちもさしずめ、名捌きの名奉行たる鎮衛を、これ、尊敬していた故の仕儀ではなかろうか?

 また、この不当に差別された人々の中に「乞胸(ごうむね)」と呼ばれた門付芸を生業とする一団が存在したことも分かる。それを「東京の被差別部落の歴史と現状」「乞胸」の記載より引用させて戴く(当該データ元最終改定日二〇〇三年三月二十三日附記載)。

   《引用開始》

 浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました。

 乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。

 一応「身分は町人」とされていた乞胸でしたが、しかし前近代にあっては職業と社会的身分および居住は分離できないと考えられていました。したがって乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されました。

 乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいました。しかし1843年(天保14年)天保の改革の時、幕府によって集住を命じられます。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行鳥居甲斐守〈耀蔵〉の水野忠邦への上申)という差別的なものでした。

 1870年(明治3年)、「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されましたが、このとき乞胸は布告から除外されました。つまり近代になって、はっきりと行政的に被差別民の規定を受けたわけです。

   《引用終了》

この「乞胸」については、先に引いた「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事の方の「乞胸」の頁には、乞胸の大道芸の種類を挙げた中に、『浄溜璃(じょうるり)、義太夫節(ぎだゆうぶし)や豊後節(ぶんごぶし)の節をつけて語る芸のこと』というのが含まれている。こうなると「女太夫」と「乞胸」は境界域がはっきりしないように私には読めるのであるが、特に女性がやるものを「女太夫」と呼び、男性の場合は「乞胸」であったものか? しかしそうなると同じ生業をなしながら、非人女性の生業としての「女太夫」と町民とも非人ともつかない特異的隔離的扱いを受けることになってしまった「乞胸」は、その差別された運命に於いても微妙に異なった経緯を辿ることになったと読める。誤解があれば、識者の御教授を乞うものである。

・「身體にほりものして」刺青。ウィキの「入れ墨」より、歴史のパートから奈良から江戸までの部分を引用しておく(下線やぶちゃん)。縄文以来の古代の日本に於ける『入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および』継体天皇七(五一三年)の『百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した』。『一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された』。『この他、 蝦夷や隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた』。『日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイやカンボジアなど小乗仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる』。『中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない』。『また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった』。『現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された』。『江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した』。『遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった入れ墨を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行した。入れ墨の他にも、放爪(爪を剥いで贈る)・誓詞・断髪・切指(指を切って贈る)・貫肉』(かんにく:腕や股の肉を傷つける)『といった、遊女による独特の愛情表現が存在した』。(中略)『こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わり、浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した』。『装飾用途の入れ墨は入墨刑とは明確に区別され、文身』(ぶんしん)『と呼ばれることが多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施したほか、刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった』『背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている』。十九世紀に『入ると入れ墨の流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった』。『幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された』。『下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた』。『時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない』(因みに実は根岸鎮衛にも入れ墨をしていたという噂があるが、これは恐らくデマであろう)。『また、当時の武士階級の間では、入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録』『されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった』とある。最後の部分は極めて興味深い。これはリンク先の注の「27」で、江戸の斬首刑を担当していた山田浅右衛門が副業で相当の報酬があった刀の試し切りに於いては、それに使用する死体には入れ墨の無いものを選んでいたという事実が記されてある。必読。

・「北の奉行永田備後守」既に何度も登場している生前の同僚(根岸は南町奉行)で仲の良かった永田正道(まさのり)。

・「いさみ」俠気に富んで言葉や動作の威勢のいい若い衆(しゅ)。おとこだて。

・「入用金拾兩餘」当時の刺青の相場が分かる。文化・文政期の十両は百万円相当であるから、とんでもない出費である(彫りに時間がかかるので恐らく分割支払したものとは思われる)。

・「孝經」中国の十三経の一。一巻。編者未詳。戦国時代に成立か。孔子とその弟子の曽子(そうし)の問答形式で孝道について述べ、「孝」を最高道徳・治国の根本と説いている。

・「われら御役を勤る内は守るべきが」以前に注したが、永田備後守正道の北町奉行在任期間は、文化八(一八一一)年四月二十六日から文政二(一八一九)年四月二十二日で鎮衛と同様に現職のままで死去した(因みに、根岸肥前守鎮衛の南町奉行在任期間は、寛政一〇(一七九八)年十一月十一日から文化一二(一八一五)年十一月九日である)。

・「三日法度」古くからある故事成句であるらしい。短い期間しか守られない法律や規則のこと。また、効き目の薄い薬などをも比喩的に指す。

・「今頃」前の正文の跋のクレジットが「天保三年」であるからそれ以降、志賀理斎は天保一一(一八四〇)年一月に享年七十九で亡くなっている。天保初年頃として、正道死去から二十五年ほどでこの条例は守られなくなっていたことが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿、町奉行として、

「――非人の女太夫(おんなたゆう)と申す門付芸の者は、昔は衣類に絹の縮緬、その他、華美なる衣裳を着しておったがため、はなはだ平人(へいにん)と紛わしく、且つは、あるまじき驕奢(きょうしゃ)のありさまを呈するに至ったによって、向後、着用の儀はこれ――木綿のみに限る――ように。」

と、厳しく絹織物の着用を制止し、堅く申し付けられたが、今以って女太夫らは、その禁制を堅く守って、木綿のみを着用なしおる由。

『……然りながら、近頃にては、絹にしか見えぬもののこれあるぞ……』

と申さるる御仁もあろう。

 が――しかしこれ――絹に見紛ごうようなもの――であって――これ――絹にては御座らぬ。これ皆、木綿にして、その禁制を犯す者はおらぬ、のである。

 さてもまた、とある年のこと、かの肥前守御同朋にして、北の御奉行永田備後守正道(まさのり)殿が、

「――鳶の者、また、巷間にて「勇(いさ)み」などと称する若者ども、身体(からだ)に彫り物なんど成して、

――源賴光(みなもとのらいこう)酒呑童子(しゅてんどうじ)征伐 大江山山入(おおえやまやまい)りの図――

また、

――平維茂(たいらのこれもち)鬼退治 「紅葉狩(もみじがり)」は鬼女の図――

その他、

――頼光四天王筆頭渡邊綱(わたなべのつな) 髭切(ひげきり)にて羅生門の鬼を斬るの図――

なんど、五色の絵の具を以って、けばけばしき彩色に成し彫り、それを見せびらかしては厳めしく力んで歩きおること、これ、はなはだ見苦しい。

 これ、その入用金も十両余りも費やすと申す由々しきものである。

 畢竟それは、これを彫る者が在(あ)る故なれば――向後は、かような者どもへ、かような刺青(いれずみ)を成す者のあった場合は――これ――必ず訴え出る――ように。」

と、厳しく申し渡されたによって、その禁制を定められたその折りには、これ、一人もかような刺青を己(おの)が身に彫ろうとする者はふっつりとおらずなった。

 されば、私はこれを大いに歓迎致いて、備後守殿方へ参ってご挨拶の折りから、

「――このほどは、彫物御制止の由。さてさて結構なることにて。彫らせようと致す若造どもはこれ、父母から受けた身体髪膚(しんたいはっぷ)を、おぞましくもけばけばしく傷つくること、これ、不孝の極みたることは一向、存ぜぬタワケ者にて御座る。……せめても「孝経」などをも暗記致いて御座ったとならば、かかる不埒なることは致しますまいに。……この刺青をなしたる者、第一からしてが、年寄って後に子や孫に対し、遅まきながら、後悔致す者の多いと聴いて御座る。……さてもそれ何故(なにゆえ)かと申さば、死して棺桶に入(はい)るとき、湯灌(ゆかん)をせんとしたところが……仏(ほとけ)になられたと、人々の涙を流すが当たり前の場面に御座っても……これ……あまりに怖ろしき彫り物をした死人(しびと)は……さてさてこれまず以って一向、殊勝らしく見えず――仏には成らで――鬼にも成りそうに――見る由にて御座る。……さすればこそ、そうしたあらゆる意味に於きまして――備後守様はこれ――不孝の罪を――お救いになられた――ということにて御座いまする。」

と、申し上げたところ、永田氏の仰せには、

「……この度(たび)、我ら、申し渡せし条も、これ……そうさ、我ら御役(おやく)を勤めておる内は守られようが……さても、後々は――天下の法度(はっと)は三日法度――と申すではないか。……これもまた、悪しき申し習わしにして不快なる諺じゃが……まあ、是非に及ばず、じゃて。……いやさ、末々(すえずえ)には……これまた――元の木阿弥――となるに違いあるまい。……」

と、お笑いになりつつ、述懐なさっておられた。

 ……が……さても果たして……近頃にては、これ――永田氏の御言葉通り――盛んに彫り物をする者ども、雲霞の如(ごと)湧き出だいて、元の如く相い成ってしもうて御座る。……

 この遺憾なる事実と比較して考えてみれば、かの根岸翁の「女太夫への令(れい)」が今によく守られて御座ると申すはこれ、まっこと、類い稀なる奇跡の定めと申せよう。]

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