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カテゴリー「「北條九代記」【完】」の256件の記事

2018/06/22

「北條九代記」完遂への追記とお願い

本電子化注には足掛け五年半余りかかった。初期には本ブログのブラウザ機能では表記出来なかった漢字が、途中で表記出来るようになったり、私自身が最新のユニコードによる正字を使用するようになった(比較的最近。例えば「海」「僧」等)結果、初期の頃の電子化したものと、後期のものとでは、有意な漢字表記の差が生じていることはお断りしておく。また、サイト版は以前から申し上げている通り、「卷第三」以降は作成しないので、それ以降の部分で本文の誤り等を見出された方は、是非、御連絡戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

2018/06/21

北條九代記 卷第十二 相摸太郎邦時誅せらる 付 公家一統

 

      ○相摸太郎邦時誅せらる  公家一統

 

新田〔の〕小太郎義貞、鎌倉を攻干(せめほし)て、その威、遠近に輝く。東八國の諸將・諸侍、隨ひ屬(つ)く事、風に靡く草の如し。平氏恩顧の者共は降人(かうにん)になり、遁世すといへども、枝葉(しえふ)を枯(から)して殺さるる者、數知らず。五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)は、相摸〔の〕入道の重恩の侍にて、入道の嫡子相摸〔の〕太郎邦時は、宗繁が妹の腹の子なれば、甥(をひ)なり、主(しゆ)なり、何れに付けても、「貳心(ふたごゝを)あらじ」と深く賴みて、邦時を預けられけるを、「子細候はじ」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ。平氏、滅亡して、その枝葉の殘りたるをば、皆搜し出(いだ)して誅しければ、宗繁、思ふやう、「果報、盡はてたる人を隱置(かくしお)きて、我が命を失はんよりは」とて、邦時は討手向ふ由を語り、「伊豆の御山(おやま)の方へ落ち給へ」とて、五月二十七日の夜半許(ばかり)に鎌倉を忍出(しのびいだ)し、中間(ちうげん)一人に太刀持(もた)せて、編笠・草鞋(わらんぢ)にて、足に任せて行き給ふ。宗繁は船田〔の〕入道が許(もと)に行きて、相模〔の〕太郎の訴人(そにん)を致しける。二十八日の曙に、相摸河の端(はた)に立ちて、渡し舟を待たれたり。討手の郎從、宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へけるに任せて、透間(すきま)なく、三騎まで走寄(はしりよつ)て、邦時を生捕(いけど)り、馬の乘せて、白晝に鎌倉に入れ、翌朝(よくてう)、竊(ひそか)に首を刎(は)ね奉りけり。宗繁は源氏に忠あるに似て、重恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし。因果歷然の道理は、踵(くびす)を囘(めぐ)らさず、と惡(にく)まぬ人は、なかりける。都には五月十二日、千種(ちくさの)忠顯・足利高氏・赤松圓心等(ら)、追々に早馬を立てて、六波羅滅却の由、船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。同二十三日、先帝、既に船上を御立ち有りて、山陰(さんいん)の東に催(うなが)されけり。播州書寫山より、兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)に入御ありけるに、新田義貞の早馬三騎、羽書(うしよ)を捧ぐ。相摸、沒落して、相摸〔の〕入道以下の一族、從類、不日(ふじつ)に追討し、東國靜謐(せいひつ)の由を注進す。主上を始め奉り、上下、喜悦の眉をぞ拓(ひら)き給ふ。楠多門兵衞正成、七千餘騎にて兵庫に參向し、是より、楠、前陣(せんぢん)として、六月五日の晩景に東寺まで臨幸あり。此所にて行列を立てられ、禁門にぞ入り給ひける。同七日に、菊池・小貳・大伴が早馬、同時に來り、「九國の探題英時を退治し、九州の朝敵、殘る所なく伐干(うちほ)し候」とぞ奏聞(そうもん)しける。束西南北一統して、公家の政道に皈(かへ)りけり。先帝重祚(てうそ)の後、「正慶の年號は廢帝(はいだい)の改元なり」とて捨られ、本(もと)の元弘にぞなされたる。同二年の夏、天下、賞罰・法令、悉く、公家の政(まつりごと)に出でしかば、諸方の流人を召返(めしかへ)され、諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し、太平の世とぞ響に成りにける。

 

  旹延寶三乙卯年冬吉旦

 

         書林

           梅林彌右衞門

 

鎌倉北條九代記卷第十二

 

[やぶちゃん注:最後の奥書部分は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原典延宝三(一六七五)年板行本)こちらの画像で翻刻した。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十一巻頭の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎(相摸太郎を賺(すか)す)事」(「賺す」は「騙(だま)す」の意)、及び、「将軍記」巻五の「義貞」「廿七日」、及び、「日本王代一覧」巻六を元としているとある。本章を以って「北條九代記」は全篇が終わっている。私が「北條九代記」の電子化注を始めたのは、二〇一二年十月二十九日のことであったから、実に完遂に五年七ヶ月余りがかかったことになる。「和漢三才図会」のようなものを除き、単品の作品電子化注では今までは最も時間がかかった(しかもこれは教師を辞めてからの完全野人となってから仕儀である)。サイト版の作成を巻第一と巻第二で断念したが、残念な気はしていない(サイト版は誰からも讃辞は寄せられなかったし、その割にルビ付け作業が異様に大変だったこと、しかも理由不明(ソフトのバグと推定される)の突然の不具合によるルビ・タグ書き換えによる修正作業が死ぬほど辛かった(二日徹夜した)からである)。ともかくも最後に、最もお世話になった(特に「吾妻鑑」を元とした前半で)先の論文を書かれた湯浅佳子氏に改めて御礼を申し上げたい。また、ほぼ毎回、実に全二百五十四回の連載を読んで呉れた古い教え子にも心から感謝するものである。「ありがたう」。なお、標題の「公家一統」とは、本来の在り方であるべき朝廷・公家に政権が戻って天下が統一された、という謂いらしい。直に、武家に奪還されちゃうんだけどねぇ。

「相模太郎邦時」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。前章で既出既注

「平氏」平氏である北条氏。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。前章で既出既注

「子細候はじ」逐語的には「異議は御座らぬ」だが、まあ、「ご安心召されよ」「畏まって存ずる」の意。

「領掌(りやうじやう)」受諾。承知。

「鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ」「太平記」巻第十一の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎事」の「と領掌して、降人とぞなつたりける」という叙述を変質させている「太平記」のそれは、恐らく、宗繁は北条一党自害の前に、高時の懇請通り、東勝寺から邦時とともに鎌倉御府内のどこかに連れて行って隠した上で、自らは新田軍にわざと降伏した、というのである。それは、当初は邦時を今後、何とかもっと安全な所へ逃すための、自分がある程度は自由に動ける身にしておくための方途であったのであり、それは「情けな」い行為ではないのである。しかし、取り敢えず命は助かって、ある程度、身の自由な積極的投降者を演じながら、それとなく様子を見ていると、滅亡直後から厳しい北条の残党狩りが行われ、そうした者を新田軍に差し出した「捕手(とりて)は所領を預かり、隱せる者は忽ちに誅せらるる事多」(「太平記」の記載。次も同じ)きを見るにつけ、「五大院右衞門、これを見て、『いやいや果報盡き果てたる人を扶持(ふち)せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知つたる由、源氏の兵(つはもの)に告ぐて、ふたごころなきところを顯はし、所領の一所をも安堵せばや』と思」ったからこそ、ここにある通り、「情な」くも、邦時を騙し、結局、新田義貞に密告するのである。そうした人の微妙な心の揺らぎを筆者は無視している。最後に至って、私はここを読んで、やや不快になった。多分、私が郷土鎌倉に強い愛着を持っていることと(私は荏柄天神の境内に生まれ、六地蔵の側で育った)、後醍醐が大嫌いなことと無縁ではあるまい。

「伊豆の御山(おやま)」現在の熱海市の伊豆山。伊豆山神社を中心に、頼朝が流人時代から崇敬していた伊豆山権現を祀り、その峻嶮な地勢と僧兵らを以って一つの勢力を形成していた。

「五月二十七日」既に見た通り、幕府滅亡は元弘三(一三三三)年五月二十二日である。

「船田〔の〕入道」。新田義貞の執事船田義昌(?~建武三(一三三六)年)。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、執事は『武家にあって、その家政に従事する者の長』とし、この船田は『群馬県山田・勢多(せた)両郡の地の豪族』で『義貞が去就に迷っていた時の相談相手になっていた』とある。後も義貞に仕え、義貞が足利軍に制圧された京都の奪還を目指した戦いの最中、戦死している。

「訴人(そにん)」ここは「訴え出ること」を指す。「太平記」は、

   *

五大院右衞門は、かやうにして、この人をば賺し出だしぬ。

『われと打つて出ださば、「年來(としごろ)、奉公の好(よしみ)を忘れたる者よ」と、人に指を差されつべし。便宜(びんぎ)好からんずる源氏の侍(さぶらひ)に討たせて、勳功を分けて知行せばや。』

と思ひければ、急ぎ、船田入道がもとに行きて、

「相摸の太郎殿の在所をこそ、くはしく聞き出でて候へ、他の勢を交へずして、打つて出でられ候はば、定めて勳功、異に候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵つかまつるやうに、御吹擧(ごすゐきよ)に預り候はん。」

と云ひければ、船田入道、心中には、

『惡(にく)き者の言ひやうかな。』

と思ひながら、

「まづ、子細非じ」

と約束して、五大院右衞門尉もろともに、相摸太郎の落ち行きける道をさへぎつてぞ待たせける。

   *

とある。ここで既に、船田でさえ、宗繁の欲絡みの慇懃無礼な物の言い方に不快を覚えている。しかし、ここまで来れば、まさに毒を喰らわば皿まで、である。以下、その辺の悲惨のリアルな映像を、ちゃんと見よう。

「討手の郎從」船田の郎等である。

『宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へける』「太平記」は、

   *

相摸太郎、道に相ひ待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日曙に、殘ましげなる窶(やつ)れ姿にて、

『相摸河を渡らん。』

と、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衞門、餘所(よそ)に立つて、

「あれこそ、すは、件(くだん)の人よ。」

と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく、生け捕りたてまつる。

 にはかの事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬に乗せ、舟の繩にて、したたかにこれをいましめ、中間二人(ににん)に馬の口を引かせて、白晝に鎌倉へ入れたてまつる。これを見聞く人ごとに、袖を絞らぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程(なにほど)の事かあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、

「さしおくべきにあらず。」

とて、則ち、翌日の曉(あかつき)、潛かに首を刎ねたてまつる。

   *

この処刑された時、「北条系図」では邦時は数え十五とするが、現在の推定される誕生日からは未だ満八歳であった。

「宗繁は源氏に忠あるに似て」宗繁は平氏北条を滅ぼしたる源氏(新田ら)に忠義を尽くしたかのように見えながら。

『恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし』「太平記」は前章の注で示した通り、

   *

年來(としごろ)の主(しゆ)を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衞門が心のほど、

「希有なり。」

「不道なり。」

と、見る人ごとに、爪彈(つまはじ)きをして憎みしかば、義貞、

「げにも。」

と聞き給ひて、

「これをも誅すべし。」

と、内々、その儀、定まりければ、宗繁、これを傳へ聞いて、ここかしこに隱れ行きけるが、梟惡(けうあく)の罪、身を譴(せ)めけるにや、三界廣しと雖も、一身を置くに所なく、故舊(こきう)と雖も、一飯を與ふる人無くして、遂に乞食(こつじき)の如くに成り果てて、道路の岐(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞えし。

   *

と終わっている。

「踵(くびす)を囘(めぐ)らさず」踵(かかと)をくるっと回すほどの僅かの時間もない、の意で、ここは「瞬く間」の意。応報迅速であること。

「播州書寫山」現在の兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)。、康保三(九六六)年に性空(しょうくう)が創建したと伝える。中世には比叡山・大山(だいせん)とともに、『天台宗の三大道場と称された巨刹で』あり、『京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』とウィキの「圓教寺にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)」現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町にある臨済宗巨鼈山(こごうさん)福厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福厳寺」によれば、『開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹』。「摂津名所図会」に元弘三(一三三三)年五月『晦日に後醍醐天皇が』『京へ戻る途中に入り』、六『月朔日、大般若経を転読させたとある』。『赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が』後醍醐をこの寺で『出迎えた』という。

「禁門」皇居。宮中。

「菊池」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、かの道長の長兄『藤原道隆の子孫、菊池二郎武時の息、武重か』とある。

「小貳」(読みは「せうに(しょうに)」)同前の山下氏の注によれば、『源平時代、藤原(武藤)頼兼が太宰少弐に任ぜられ』、『この地に土着したことから』、『これを称する。大友氏とともに鎮西奉行を世襲。貞経(法名妙慧(みょうえ))がその息頼尚(よりなお)とともに英時討伐に参加している』とある。

「大「大友」の誤り元鎌倉幕府鎮西奉行であった大友貞宗(さだむね ?~元弘三/正慶二(一三三四)年)。同前の山下氏の注によれば、『藤原秀郷(ひでさと)の子孫、親時(ちかとき)の息貞宗。鎮西奉行として、九州の御家人を支配した』とある。ウィキの「大友貞宗によれば、大友氏第六代当主。『「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる』。応長元(一三一一)年、『兄の貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて』、元弘三/正慶二(一三三三)年三月、菊池武時が『後醍醐天皇の密命を受け』、『攻め寄せた』時には、『英時や少弐貞経らと』とも『敗死させ』ている。『その後も九州における討幕軍の追討に務めたが』、同年五月、『足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと』ともに、『英時から離反し』、逆に『これを攻め滅ぼした。その功績により』、『豊後国の守護』『を与えられたが、同年十二月三日、『京都で急死した』。『その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった』とある。

「九國の探題英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。既出既注

「先帝重祚(てうそ)」親後醍醐の筆者にしてこれは甚だ誤った言い方である。後醍醐は光厳天皇の皇位を全否定して、親政(建武の親政)を開始するのであって、後醍醐は、あくまで自身の譲位を認めていないのであり、溯る十五年前の文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)の即位からずっと継続して在位していると、この時、主張したのである。従って当然、自らの「重祚」(復位)という言い方自体を後醍醐は認めないのである。

「廢帝(はいだい)」光厳院。

「同二年」元弘三年の誤り

「諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し」旧幕府や親幕派公卿によって不当に官職を追われていた公家の方々は、それぞれ以前の官職に戻り。

「旹」「時」の異体字。「ときに」と訓じていよう。

「延寶三乙卯」「乙卯」は「きのとう」。グレゴリオ暦一六七五年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「初冬」陰暦十月の異称。

「吉旦」「吉日」。

「書林」書肆。出版元。

「梅林彌右衞門」京都の本屋であること以外は不明。]

北條九代記 卷第十二 新田義貞義兵を擧ぐ 付 鎌倉滅亡

 

      ○ 新田義貞義兵を擧ぐ  鎌倉滅亡

 

新田(につたの)太郎義貞は去ぬる三月十一日、先帝後醍醐の綸旨を賜はり、千劍破(ちはや)より虛病(きよびやう)して本國へ皈り、竊(ひそか)に一族を集めて、謀叛の計略を囘(めぐ)らさる。相摸〔の〕入道、舍弟四郎左近大夫泰家入道に、十萬餘騎を差副へて、京都へ上せらる。軍勢兵粮の爲とて、近國の莊園に臨時の夫役(ふやく)をぞ課(か)けらる。中にも新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)へ、「五日の中に六萬貫を沙汰すべし」と下知して譴責(けんせき)す。義貞、怒(いかつ)て使を討殺(うちころ)す。相撲入道、大に憤(いきどほり)て、武藏・上野の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)を討つべし」と下知せらる。義貞、聞きて、當座の一族百五十騎、同五月八日に旗を擧げ、利根河に打出でしに、越後の一族里見・鳥山・田中・大井田の人々、二千餘騎にて來りたり。豫(かね)て内々相觸れける故なれば、甲・信兩國の源氏等、五千餘騎にて馳來る。東國の兵共、悉く來付(きたりつ)きて、その日の暮方には、二十萬七千餘騎にぞ成りにける。同九日、鎌倉より、金澤武藏守貞將に五萬餘騎を差し副へて、下河邊へ下され、櫻田治部〔の〕大輔貞國に六萬餘騎を副へて、入間河へ向けらる。同十一日より、軍、初り、鎌倉㔟、度々(たびたび)打負けて、利を失ふ。相摸入道、驚きて、四郎左近入道惠性(ゑしやう)を大將として、十萬餘騎を下さる。義貞、分倍(ぶんばい)の軍に打負け給ひしが、同十六日には鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す。東國の勢、新田に馳付く事、六十萬七千餘騎とぞ記しける。是より、三手に分けて鎌倉に押寄せて、藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘所に火を掛け、三方より攻入りけり。鎌倉にも、三手に分けて防がせらる。同十八日巳刻より合戰始り、互に命を限に攻戰ふ。萬人死して一人殘り、百陣破れて一陣になるとも、何(いつ)終(はつ)べき軍(いくさ)とも覺えす。今朝、洲崎へ向はれし赤橋相摸守は、數萬騎ありつる郎從も討たれ落散りて、僅に一、二百餘騎に成る。侍大將南條左衞門高直に向ひて仰せけるは、「この軍(いくさ)、敵、既に勝(かち)に乘るに似たり。盛時は足利殿には女性方の緣者たり。相摸人道も、その外の人々も、心を置き給ふらめ。我、何の面目かあらん」とて、腹切りて臥し給ふ。同志の侍九十餘人、同じ枕に自害しける。この手より、軍、破れて、義貞の官軍、山内まで入りにけり。すはや、敵は勝に乘りて、深く攻入りたりと云ふ程こそあれ。鎌倉勢諸手、皆、勢を失ひけり。極樂寺の切通へ向はれし大館(おほだちの)二郎宗氏は、本間(ほんまの)山城左衞門に討たれて、軍勢、片瀨へ引きけるを、義貞、二萬餘騎にて、同二十日の夜半に極樂寺坂にうち望む。稻村崎、道狹く、兵船を浮べ、櫓を搔きて、數萬の軍兵、防ぎけるが、鎌倉の運の盡(つく)る所、潮(うしほ)、俄に干瀉となり、二十餘町は平沙渺々たりし。漕浮(こぎうか)べし兵船は、潮に隨(したが)うて、遙の沖に漂へり。大將義貞、大に悦び、軍兵を進めらる。濱面(はまおもて)の在家に火を掛けたりければ、濱風に吹布(ふきしか)れ、二十餘所、同時に燃上る。相模〔の〕入道、千餘騎にて、葛西谷(かさいがやつ)に引籠(こも)られしかば、諸大將の兵共、東勝寺に充滿(みちみち)たり。大佛陸奧守貞直、三百餘騎にうちなされ、極樂寺の切通(きりどほし)にして、鎌倉殿の御屋形(やかた)に火の掛りしを見て、「今は是までなり」とて、郎從共は自害す。貞直は脇屋〔の〕義助の陣に蒐入(かけい)り、主從六十餘騎、皆、討たれ給ひけり。金澤武藏守貞將も、山〔の〕内の軍(いくさ)に手負ひければ、東勝寺に皈り、相摸〔の〕入道に暇乞ひし、大勢の中に掛入りて、討死せらる。普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)は、假粧坂(けはいざか)の軍に、二十餘騎に打なされて自害せられけり。鹽田陸奥入道道祐(だういう)、子息民舞〔の〕大輔俊時も自害し、鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)、子息三郎左衞門忠賴も腹切りて果てらる。相摸入道は諏訪(すはの)三郎盛高に向ひ、二男龜壽(かめじゆ)殿を預けらる。盛高、抱きて信濃に下り、諏訪〔の〕祝部(はふり)が本に隱置(かくしお)きけるが、建武元年の春、關東を劫略(ごふりやく)し、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大將相模二郎と云ふは、是なり。嫡子萬壽殿をば、五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)、預りて、落行きたり。長崎〔の〕二郎高重、大剛武勇(だいがうぶよう)の名を現(あらは)し、東勝寺に立皈り、相摸〔の〕入道の前に來りて、「今は是迄候。早々(はやはや)御自害候へ。高重、先(さき)を仕る」とて腹切りて臥したり。長崎入道圓喜も死す。相摸入道も腹切り給へば、一族三十四人、惣じて門葉二百八十三人、皆、悉く自害して、屋形に火を掛けしかば、死骸は燒けて見えねども、殘る人は更になし。元弘三年五月二十二日、軍家北條九代の繁昌、一時(じ)に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり。

[やぶちゃん注:遂にカタストロフがやってくる。但し、後醍醐の謀反以降の描写で判るように、筆者は平板な尊王年表的直線的記録の先端にぶら下がっている〈当然の終結展開の一事件〉としてしかこれを捉えておらず、修羅の鎌倉の惨状は、正直、呆れるほどにストイックにしてドライで、血の匂いもしない、パノラマ館の小さなジオラマのようにしか見えない。「平家物語」のような風情感懐的余韻を伴った文学的香気もなく、「太平記」のようなカット・バックを多用した講談的活劇の面白さも、一切、ない。真実、年代記として本書が書かれたものならば、それは寧ろ当然と言えるのであろうが、しかし、あの頼朝の奥州攻めでの、「吾妻鑑」を自在にマルチ・カメラに変えたリアリティに富んだ活劇性や、時頼を屋上屋で得宗の理想的権威者として塗りたくった狂信的パワーに比し、終盤、高時をテツテ的に愚昧な偏狂者として堕(だ)し、幕府滅亡の薄っぺらい罪状高札として掲げている辺り、残念乍ら、こと、ここに来たって、筆者の筆力の衰退或いは飽き性を物語っていると言えるように私は思う。特に「主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ」以降の本文が、進むにつれて、恥も外聞もなく、「太平記」の〈貼り交ぜ日記〉調となっているのは誰が見ても明らかで、正直、ここまで電子化注を進めて来て、あと一章を残すのみ、という段になって、かなり、私は、内心の淋しさを感じざるを得ないのである。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十の二項目の「新田義貞謀叛事 付 天狗催越後勢(えちごぜいをもよほする)事」から「高時幷(ならびに)一門以下於東勝寺自害事」及び「将軍記」巻五の「同八日」、「保暦間記」や「日本王代一覧」を元としているとある。

「新田(につたの)太郎義貞」(正安三(一三〇一)年~延元三/暦応元(一三三八)年)の正式な名は源義貞。河内源氏義国流新田氏の本宗家八代目棟梁。新田朝氏の長男。以下、主に小学館「日本大百科全書」によって記す(但し、本シークエンス部分は、詳しいウィキの「新田義貞」から引く)。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(旧新田郡。現在の群馬県太田市・伊勢崎市・みどり市の各一部。郡域はウィキの「新田郡を参照されたい)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらも持たぬほどの、鎌倉幕府からは冷遇された一御家人に過ぎなかった。元弘の乱では「太平記」によれば、当初、幕府軍の一員として千早城攻撃に加わったが、その途中、帰国したとされる。ウィキの「新田義貞」によれば、『義貞は』鎌倉幕府『大番役として在京していたが』、『河内国で楠木正成の挙兵が起こると』、『幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いで』『河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが』、この元弘三/正慶二(一三三三)年三月、『病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう』。ところが「太平記」では、この河内出兵中に、『義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している』のであるが、歴史学者『奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない』。歴史学者山本隆志も、「太平記」の『記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している』。一方で、『義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる』。しかし、「太平記」には『後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている』とある。さて、ここで『義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった』。『楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した』。同年四月、『新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた』。『金沢と黒沼は「天役」を名目として』、六『万貫文もの軍資金をわずか』五『日の間という期限を設けて納入を迫ってきた』。『幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである』。『両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で』、『世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で』は、『一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は』、『長年』、『世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった』。『また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった』。『そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した』。『黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると』、『幕府を刺激する』、『と義貞が懸念したとも考えられている』。『これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である』五月八日付で『長楽寺に寄進する文書を発給した』。『これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった』。『この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞』が兵を進発させた『数日後であったと考えられている』とある(ウィキ引用はここまで)。ともかくも、こうして北条氏に背いて義貞は挙兵し、上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら:現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら:現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させたのであった。その功によって建武政権下では重用され、越後などの国司・武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになり、建武二(一三三五)年、関東に下った尊氏を追撃するも、「箱根竹の下の合戦」で大敗、しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃して「京都合戦」で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とした。延元元/建武三(一三三六)年、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(現在の兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城(現在の福井県敦賀市在)を拠点に再起を図ったが、翌年、これを失い、嫡男義顕(よしあき)も自刃した。その後、越前藤島(現在の福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺(へいせん)の衆徒の軍と合戦中、伏兵の急襲を受けて戦死した。義貞は、鎌倉攻めのために上野を出た後、遂に一度も故地上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族が纏まって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さも勿論だが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、僅かに弟脇屋義助(わきやよしすけ)・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏ら、本宗系の庶子家しか動員し得なかった点に、既に義貞の非力さが存在した。にも拘らず、義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路を辿ることになったのであった。

「虛病(きよびやう)」仮病。

「舍弟四郎左近大夫泰家入道」北条泰家(?~ 建武二(一三三五)年?)。第九代執権北条貞時の四男で、第一四代執権北条高時相摸入道の同母弟。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「北条泰家」によれば、『はじめ、相模四郎時利と号した』。正中三(一三二六)年、『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が』、『泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』。その後、翌年の二月に『南朝に呼応して信濃国麻績』(おみの)『御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武』二『年末に野盗によって殺害されたとも言われて』おり、事実、「太平記」にも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)」現在の群馬県太田市世良田町附近(グーグル・マップ・データ)。

「舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田朝氏の次男で新田義貞の弟。ウィキの「脇屋義助」によれば、兄義貞に従い、『鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した』。『長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから』、『名字を「脇屋」と称した』。『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け』、『北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって』、同年八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官した』。『また、同年、一時期、駿河守にも補任され、以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任した。また、この』頃に『設置された武者所では兄の義貞が頭人に補せられたのに伴い、義助も武者所の構成員となり、同所五番となった』。『その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した』。延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が不慮の戦死を遂げると』、『越前国の宮方の指揮を引き継いだ。兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局室町幕府軍に敗れて越前から退いた』翌年九月には『従四位下に昇叙』している。興国三/康永元(一三四二)年、『中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如』、『発病し、そのまま病没した。享年』三十八であった。

「里見」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県群馬郡榛名町里見』(現在は高崎市上里見町)『の武士』で『新田の一族』とあり、『以下孰れも新田の一族』とする。

「鳥山」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県太田市鳥山の武士』とある。

「田中」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県新田郡新田町田中の武士』とある。現在は太田市内。

「大井田」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『新潟県十日町市の武士』とある。

「下河邊」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、利根川の『下流、埼玉県』北葛飾郡『の地の総称』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「櫻田治部〔の〕大輔貞國」北条(桜田)貞国(弘安一〇(一二八七)年?~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)或いは同年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条氏一門。ウィキの「桜田貞国」によれば、『得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる』が、『その後の貞時・高時政権期の活動は不明である』。この時、『新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった』『が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ』、『大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った』後、同月二十二日に『北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した』。『しかし、以上』は「太平記」に『見られるものであり、実際の史料ではそれより前の』、五月九日、『北条仲時らと共に』遙か離れた滋賀で『自害したとされる』。『いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである』とある。

「分倍(ぶんばい)の軍」五月十五日の一戦で「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」の第一次戦。分倍(ぶんばい)は現在の東京都府中市分梅(ぶばい)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。分倍河原(ぶばいがわら)はそこに含まれる。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)には、この日の敗退について、以下のようにある。幕府はこの前哨戦である小手指原及び久米川での幕府軍の『敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく』先に出た通り、『北条高時の弟北条泰家を大将とする』十『万の軍勢を派遣』して、『分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した』が、実は『義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた』。五月十五日、二日間の『休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始』したが、『援軍を得て』、『士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、新田軍は堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き』、撤退している。『もし、幕府軍が』そのまま彼らを『追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている』。『しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した』とある。

「同十六日には、鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す」同第二次戦。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)によれば、前日に『敗走した義貞は、退却も検討していた』。『しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢』六千『騎で義貞に加勢した』。『大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した』もので、『また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている』とある。ともかくも、『義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる』ため、『忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌』十六『日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した』とある。

「藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘ケ所に火を掛け」「太平記」巻第十「鎌倉合戰〔の〕事」によれば、この「鎌倉合戦」緒戦を予告する狼煙ともいうべき包囲放火は「五月十八日の卯の刻」(午前六時前後)とする。

「三方より攻入りけり」北の巨福呂坂切通(現在の北鎌倉の山内(やまのうち)の建長寺門前から東山上を抜ける旧切通。現在は中間部が保存されておらず、通行も出来ない)・西中部からの化粧坂(けわいざか:洲崎・梶原を経て源氏山から扇ガ谷へ抜けるルート)・極楽寺坂(南西。稲村ヶ崎の要害で鎌倉合戦の最大の激戦地の一つ)の三方。

「同十八日巳刻より合戰始り」鎌倉幕府は、

元弘三年五月十八日から同月二十二日まで

の五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で

一三三三年六月三十日から七月四日

に当たる。因みに時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、

一三三三年七月八日から七月十二日

に相当する。「巳刻」は午前十時前後

「赤橋相摸守」最後の執権北条(赤橋)守時。

「南條左衞門高直」御内人であった武将南条左衛門尉高直(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)はサイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だが』、『その系図はまったく不明である』。『「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要』(元亨二(一三二二)年)『のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある』。この鎌倉攻めの火蓋が切られた五月十八日、『執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな』、『私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て』、その場にあった九十『余名の兵たちも一斉に腹を切ったという』。『「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている』とある。本文の守時の述懐はその通りである。

「大館(おほだちの)二郎宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二/元弘三年五月十九日(一三三三年七月一日)は新田氏の支族の武将。ウィキの「大館宗氏」によれば、『祖父は新田政義、父は大舘家氏』。『鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り』、『争論となり、控訴されて敗れる。この折りは『総領である新田家を無視し、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている』。この時は『義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し』、挙兵した。『宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任され』、五月十八日、『稲村ヶ崎の海岸線から』『鎌倉市街突入を敢行しようとし』、一『度は北条軍を破って突破したが』、『大仏貞直が態勢を立て直すと』、『その配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した』。「梅松論」に拠れば、同十八日『未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている』。五月十八日を討ち死にの日とするのは「尊卑文脈」に『よるものだが』「太平記」は『死去の日時を』五月十九日としている。享年四十六。『宗氏の討死によって』、『この方面軍の指揮系統が消失したため、一旦』は『息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ』、二十一日に『極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった』。『その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく』、「梅松論」が『伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から』二十一『日未明に鎌倉市街に突入したとされている』。『戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる』とある。

「本間(ほんまの)山城左衞門」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『村上源氏か』とある。日野資朝を処刑した佐渡守護「本間山城入道」の名が見えるが、彼は資朝処刑直後に死去しているとする系図資料があり、同一人物かどうかは不明。

「二十餘町」二十町は約二キロ百八十二メートル。

「平沙渺々」平らな砂浜が広々と広がるさま。

「濱面(はまおもて)」由比ヶ浜の正面。

「葛西谷(かさいがやつ)」現在の宝戒寺境内の南の、滑川(流域呼称は青砥川)を越えた東南の谷。山下に臨済宗青龍山東勝寺(北条泰時創建。この後、廃寺となり(次注参照)、現在は遺跡の一部の発掘後、埋め戻されて当該発掘地は平地(立入禁止)となっている)があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東勝寺」この時、建造物は焼失したが、直ちに再建されており、暫くは存続した。貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『当寺がいつ廃したかは明らかではない。けれども永正九年(一五一二)五月二十日、古河公方足利政氏は妙徳を東勝寺住持に任じており(「東山文庫記録」)、この時まで存在していたことがわかる』とある。

「大佛陸奧守貞直」北条(大仏(おさらぎ))貞直(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は大仏流北条宗泰の子。ウィキの「北条貞直により引く。『得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る』。『引付衆、引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した』。元弘元(一三三一)年九月、貞直は『江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛し』、同月二十六日には『軍を率いて笠置に向けて進発し』、二『日後に攻め落とした(笠置山の戦い)』。十月の『赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられ』ている。元弘二/正慶元(一三三二)年九月には、再び、『北条高時が派遣した上洛軍に加わり』、翌年二月から勃発した『千早城の戦いにも参加している』。『このとき、貞直は寄せ手の軍勢が大打撃を受けたことを見て、赤坂城攻めの経験から水攻め、兵糧攻めの策を講じている』。この時、『新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(鎌倉の戦い)と』、『極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め』、『新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い』一『度は突破を許したが』、『態勢を立て直して宗氏を討ち取り』、『堅守し』た。しかし、力及ばず、五月二十一日深夜、『攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は』三百騎にまで減っていた。翌二十二日、『宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れて戦死した』。この時、『弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦死している』。彼は『武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる』。『「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている』とある。

「金澤武藏守貞將」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。既出既注

「普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)」北条基時(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。普恩寺(ふおんじ)基時とも呼ぶ。「信忍」は法名。既出既注

「鹽田陸奥入道道祐(だういう)」北条(塩田)国時(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条一門の武士。ウィキの「北条国時」によれば、『父は極楽寺流の分流で塩田流の北条義政』(六波羅探題北方や連署を務めた北条重時(北条義時の三男)の五男。鎌倉幕府第六代連署(在任:文永一〇(一二七三)年~建治三(一二七七)年)。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの三代は塩田北条氏と呼ばれる)。徳治二(一三〇七)年、『二番引付頭人に就任』、応長元(一三一一)年、『一番引付頭人に就任』したが、二年後に辞任している。『元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家』北条氏『と運命を共にし、子の藤時・俊時らと共に自害した』。なお、元弘三(一三三三)年五月、『国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また』建武二(一三三五)年八月一四日、『駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている』とある。

「子息民舞〔の〕大輔俊時」(?~~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条国時の嫡男。ウィキの「北条俊時」によれば、元徳元(一三二九)年に『評定衆に任じられ、同』三年には『四番引付頭人に就任し』ている。「太平記」巻十「鹽田父子自害事」に『よると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り』、『自害して果て』ている。

「鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)」塩飽聖遠(しあくしょうえん/しょうおん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))は北条得宗家被官(御内人)。「太平記」の「鹽飽入道自害事」によれば、東勝寺で北条氏に殉じて、聖遠も自刃している。『自刃の際、嫡男である忠頼』(本文の「子息三郎左衞門忠賴」)『に出家をして生き延び』、『自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し』、『袖の下から抜いた刀で』、即座に『自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが』、『聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたと』ある(引用はウィキの「塩飽聖遠」)。この「太平記」の一章は短い章であるが、一読、忘れがたい

「諏訪(すはの)三郎盛高」「太平記」によれば、「諏訪左馬助入道が子息諏訪三郎盛高」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、この「諏訪(左馬助入道)」は『諏訪下社の神主家』とある。次注も参照されたい。

「二男龜壽(かめじゆ)殿」「中前代(なかせんだい)の大將相模二郎」北条高時の次男北条時行(?~正平八/文和二(一三五三)年)。当時は、兄(後注参照)の生年から考えると、満七歳以下である。以下、ウィキの「北条時行」から引く。この時、『時行は母』二位局『によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ』、『処刑されている』。『時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた』。幕府滅亡の二年後、『北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた』。「太平記」に『よれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ』て『処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅し』、『二位局らを困惑させている隙に』、『時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという』。建武二(一三三五)年七月、『成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった』。『建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し』、七月二十二日には女影原(おなかげはら:現在の埼玉県日高市)で『待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍』、『ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破』って、七月二十五日に『鎌倉を奪回した』。その二日前、『直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった』。『鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか』という『議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった』。『直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび』に『破れ』、『退却を余儀なくされた』。『そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅』、八月十九日に『諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら』四十三『人は勝長寿院で自害して果てた』。『自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた』(事実は生き延びた)。『時行が鎌倉を占領していたのはわずか』二十『日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ』、『支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる』。『また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった』。延元二(一三三七)年、時行は姿を現わし、『後醍醐天皇方の南朝に帰参し』て『勅免の綸旨を得ることに成功した』。『足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた』。『時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている』。『時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対し』、もともと、『時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解』する見解もある。『朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した』。『南朝へ帰順した時行は東国へ向かい』、『北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった』。『顕家が戦死したことにより』、『北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続け』、正平七/文和元(千三百五十二)年には、『南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる』。同年閏二月十五日には、『時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵し』、『また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵』、三日後の閏二月十八日、『時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)』が、『別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると』、三月二日に『鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている』。そして、「鶴岡社務録」などの『史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ』、正平八(一三五三)年五月二十日、『鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された』とする。しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や今川了俊の「難太平記」などに『よると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある』。『以上のように』彼は『処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い』とある。

「諏訪〔の〕祝部(はふり)」「太平記」では「はぶり」とルビする。諏訪神社の神官。

「建武元年」建武二年の誤り。一三三五年。

「劫略(ごふりやく)」古くは「こうりゃく」とも読んだ。脅して奪い取ること。

「嫡子萬壽殿」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。ウィキの「北条邦時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は御内人五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)』。『邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟』。『元徳三年/元弘元年(一三三一年)十二月十五日に元服した時は七歳であり、逆算すると』、『生年は正中二年(一三二五年)となるが、同年十一月二十二日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである』。『翌三年(一三二六年、四月嘉暦に改元)三月十三日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも二歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても』、『幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月十六日に』、『長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か十日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した』。『この後』、『元徳元年(一三二九年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり、慣例に倣って七歳になった同三年(一三三一年)十二月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ、将軍・守邦親王の偏諱を受けて邦時と名乗った』。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月、 元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され』、鎌倉御府内に潜伏したが、『北条の残党狩りが進められる中で、宗繁が褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、二十七日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、二十八日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼』、『鎌倉へ連行されたのち、翌二十九日の明け方に処刑された。享年』僅か九歳であった。『「太平記」では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記している』。『ちなみに、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され』、新田『義貞が処刑を決めたのち』、『辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが』、『餓死したと』される。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。「五大院高繁」とも呼ばれる。ウィキの「五大院宗繁」を一部、引いておく。元亨三(一三二三)年十月二十六日に『円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として名を連ねる』。『元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された』。「太平記」『巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり』、『恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる』が、前の引用にあるようにそれを裏切って、邦時は処刑されてしまう。而して、先の通り、新田義貞の処刑命令を受けて逐電したが、『旧友らにも一椀の飯すら与えられず』、『見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて』、『路傍で餓死したとされる』とある。

「長崎〔の〕二郎高重」(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は北条氏得宗家被官(御内人)。かの最後の幕府の権力者、内管領長崎高資(長崎円喜の嫡男)の嫡男である。私には「太平記」の鎌倉合戦の中でも、最も忘れ難い、ヒップな武将である。同書巻第十の十四項目にある「長崎高重最期合戰〔の〕事」は途轍もなく凄い(「面白い」というよりも確かに「凄い」のである)。かなり長いが、私は七年前の二〇一一年十二月二十六日、私の新編鎌倉志卷之七の「崇壽寺舊跡」の条の注で、掟破りに全文電子化し、注と現代語訳まで附している。本「北條九代記」の鎌倉合戦の粗雑さを補うためにも、是非、お読みあれかし!!!

「源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり」言わずもがなであるが、北条氏は平氏であり、北条義時以降、その意のままに幕政が続いてきた。頼朝開幕以来、源氏を奉じてきた源氏を出自とする新田氏や足利氏らにとっては、まさに長年の「蟄懷」(ちっかい:心中の不満。潜在的な恨み)が、この一日(いちじつ)にして晴れたのである。]

2018/06/20

北條九代記 卷第十二 足利高氏上洛 付 六波羅沒落

 

      ○足利高氏上洛  六波羅沒落

 

鎌倉には、先帝宮方軍兵、駈付けて、京都を攻むべき由、聞きて、相摸〔の〕入道、評定有りて、名越尾張守を大將として、外樣の大名二十人を催さる。その中に、足利治部大輔高氏は父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て、しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず、上洛の催促、度々に及びしかば、心中に憤(いきどほり)を含み、『先帝の御味方に參り、六波羅を攻亡(せめほろぼ)さん』とぞ思立(おもひた)たれける。相摸入道、この事は思寄(おもひよ)らず、一日に兩度の催促をぞ致されたる。足利殿、異義に及ばず、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」と聞えしかば、長崎入道圓喜、怪(あやし)み思ひて、「相模入道に心を入れつゝ、起請文を書きて、別心なき旨、不審を散(さん)ぜらるべし」と申遣す。高氏、愈(いよいよ)欝胸(うつきよう)しながら、舍弟民部大輔直義(なほよし)に意見を問はれければ、直義、思案して、「御臺は赤橋殿の御娘なり。公達は御孫なれば、自然の事もあらんには、見捨て給ふべからず。又、その爲に郎從を殘置(のこしお)かれ、隱し奉るに難(かた)かるべからず。先(まづ)、相摸入道の不審を散じて、御上洛有りて、大義をも思召立ち給へかし」とあり。高氏、「實(げに)も」とて、子息千壽王殿と御臺とを赤橋相州に預け、起請文を相摸入道に參らせらる。相摸入道、不審を散じ、高氏を招請し、御先祖累代の白旗(しらはた)あり、錦の袋に入りながら參らせらる。足利殿兄弟・吉良・上杉・仁木(につき)・細川・今川以下の一族三十二人、高家(かうけ)の一類四十三人、その勢三千餘騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ちて、名越尾張守高家に三日さきだちて、四月十六日に京著し、次の日、船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を參らせ、綸旨をぞ賜りける。名越尾張守は、大手の大將として、七千六百餘騎、鳥羽の作道(つくりみち)より向はる。足利治部大輔高氏は搦手の大將として、五千餘騎、西郊(にしのをか)より向はれけり。八幡・山崎の官軍、是を聞きて、三手に分けて待掛けたり。尾張守高家、その出立(いでたち)、花(はなやか)に人目に立ちて見えけるが、官軍の中より、佐用(さよの)左衞門三郎範家とて、の精兵(せいびやう)、步立(かちだち)に成りて、畔(くろ)を傳ひ、籔(やぶ)を潛(くゞ)り、狙寄(ねらひよ)りて、一矢、射ければ、高家の甲(かぶと)の眞甲(まつかふ)の端(はづれ)、眉間の眞中に中(あた)りて、腦、碎け、骨、烈(さ)け、項(うなじ)へ、矢鋭(さき)、白く射出しける間(あひだ)、馬より落ちて、死に給ふ。官軍は鬨を作りて攻掛(せめかゝ)る。名越殿の七千餘騎、大將を討(うた)せて、狐河(きつねがは)より、鳥羽の邊迄、皆、伐干(うちほさ)れて臥(ふ)しにけり。足利殿は桂河の西の端に下居(おりゐ)て軍(いくさ)をも初(はじめ)ず、「大手の大將、討たれたり」と聞えしかば、「さらば」とて、山崎を外(よそ)に見て、丹波路を西へ、篠村(しのむら)を差して赴き給へば、軍兵、馳付きて、二萬三千餘騎になる。同五月七日、官軍、「既に攻べし」とて、三方に篝(かゞり)を焚きて取囘(とりまは)す。東山道一方計(ばかり)ぞ開(ひら)けたる。足利殿、篠村を出でて、右近馬揚(うこんのばゝ)に至り給へば、軍兵五萬餘騎に及べり。六波羅には六萬餘騎を三手に分けて差向けらる。赤松入道圓心は、三千餘騎にて、東寺に押寄せけるに、内野も東寺も軍に打負けて、皆、六波羅に逃籠(にげこも)る。四方の官軍、五萬餘騎、六波羅を圍みつ、態(わざ)と東一方をば、開(あ)けたり。城中、色めき立ちて、夜に紛れて落失せければ、僅に千騎にも足らざりけり。主上・上皇・國母・女院、皆、步跣(かちはだし)にて城を落出で給ふ。六波羅の南の方、左近將監時益、行幸の御前(みさき)、仕り、北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら、城を出でて、十四、五町にして、顧みれば、敵、早、六波羅の館に火を懸けて、雲煙と燒上(やきあが)る。苦集滅道(くすめぢ)の邊にして左近將監時益は、野伏(のぶし)の流矢に頸の骨を射られて死ければ、力なく、その日、漸(やうや)う篠原の宿に著き、是より千餘騎の軍兵、落ちて、七百騎にも足らず。龍駕(りうが)、已に番馬の峠を越(こゆ)る所に、數千の敵、峠に待掛けたり。後陣も續かねば、麓(ふもと)の辻堂に下居(おりゐ)て、進退此所に谷(きは)まりつゝ、越後守仲時、自害せらる。是を初として、佐々木隱岐前司淸高父子・高橋〔の〕九郎左衞門・隅田(すだの)源七左衞門を宗(むね)として、一族郎從、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りにける。主上・上皇は、忙然としておはしましけるを、五〔の〕宮の爲に囚はれて、都へ皈(かへ)り上らせ給ふ。楠正成が籠りし千劍破(ちはや)の城の寄手、「六波羅、沒落す」と聞きて、南都を差して落行きけるが、野伏共(ども)に討たれて、大將計(ばかり)ぞ辛じて遁れける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第九の巻頭「足利殿御上洛〔の〕事」から、同巻の八項目「越後守仲時以下於番馬(ばんばにおいて)自害事」の拠るとする。

「先帝宮方軍兵」先の後醍醐天皇と護良親王方の軍兵。

「相摸〔の〕入道」元執権北条高時。

「名越尾張守」北条(名越)高家(?~元弘三年四月二十七日(一三三三年六月十日)。ウィキの「北条高家」によれば、名越流北条時家の子。『「尾張守」の官途名は文保元』(一三一七)年三月三十日付の関東御教書(みぎょうしょ:鎌倉幕府の発給文書の一つで、一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式のもの)に『おいて見られ、これ以前の任官であると考えられている』。嘉暦元(一三二六)年には『評定衆の一員となっている』。この四月、謀反鎮圧部隊として足利高氏(後の尊氏)ともに派遣されたが、「太平記」巻第九「山崎攻事付久家繩手合戰事」によれば、『久我畷(京都市伏見区)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍勢と激突するが、赤松の一族で佐用城主の佐用範家に眉間を射抜かれ、あえなく戦死を遂げた(久我畷の戦い)』とし、「太平記」の描写によるならば、ここにある通り、『その余りに華美に過ぎるいでたちによって大将軍であることを敵に覚られ、集中的に攻撃を受けることとなった』結果ともされる。『没年齢は不明だが』、「太平記」には『気早の若武者』と記されていることから、二十代『前後と推定される』。『そもそも生誕年が分かっていないが、諱の「高」の字は』、『得宗の北条高時から一字拝領したものである』『ことから、元服の時期は高時が得宗の地位にあった』一三一一年から一三三三年の『間と推定できる』。「難太平記」に『よると、今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり』、『今川那古野家を名乗ったという。安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた』とある。

「足利治部大輔高氏」後の室町幕府の創設者で初代将軍となる足利尊氏(嘉元三(一三〇五)~延文三/正平一三(一三五八)年)の初名。源頼朝の同族の名門として鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。現在、生地は栃木の足利ではなく、母の実家丹波国何鹿(いかるが)郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)とされる。父は貞氏(因みに、貞氏の祖父頼氏は足利泰氏と北条時氏(第三代執権泰時の長男であったが、病気のために執権職を継がずに早世(二十八歳)した)の娘との間に出来た北条氏と足利氏のハイブリッドである。ここは私が補足した)、母は上杉清子。元応元(一三一九)年十月十日に十五歳で従五位下・治部大輔となり、同日、元服、得宗北条高時の偏諱を受けて、「高氏」と名乗ったとされる。十五歳での叙爵は北条氏であれば、得宗家や赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば、圧倒的に優遇されていたと言える(下線部はウィキの「足利尊氏に拠る)。妻は最後の執権北条守時の妹登子(とうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二〇(一三六五)年:幕府滅亡時は数え二十八歳)。元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛、事件が落着して、一旦、鎌倉に帰っている。後、この醍醐軍の再起によって、再び、出兵を命ぜられると、ここにある通り、丹波で、突如、反幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を急襲、殲滅した。その半月後、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都に帰還して建武新政を開始し、高氏は討幕の殊勲者として天皇の諱である尊治の一字を与えられて「尊氏」と改名、高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく、鎌倉に嫡子義詮(よしあきら)を留めて、関東制圧の拠点を固めた。後醍醐は尊氏に破格の待遇を与えた半面、その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、また、北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し、関東の足利勢力を牽制しようとした。しかし、尊氏は直ちにこれに対抗、成良親王を鎌倉に下し、弟直義を以って輔佐せしめた。この間、新政の失敗が重なり、武士の輿望が尊氏に集まるにつれ、後醍醐と尊氏の対立が高まり、新政開始から僅か二年後の建武二(一三三五)年七月、北条氏残党の鎌倉侵入(中先代(なかせんだい)の乱:北条高時の遺児時行が御内人諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、ごく一時的(二十日余り)に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれる)を転機として尊氏は新たな幕府創建の志を明らかにし、後醍醐の制止を無視して鎌倉に下り、北条氏残党を掃蕩した。次いで、後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの、奥州軍に敗れて九州に逃れ、再挙東上して後醍醐軍を追いつめ、後醍醐より持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和睦するとともに、建武式目を制定し、建武三(一三三六)年十一月、京都に新しい幕府を開いた。二年後、正式に征夷大将軍となっている。他方、後醍醐は吉野に走り、光明の皇位を否定し、尊氏打倒を諸国に呼びかけ、ここに吉野の南朝と京都の北朝の対立が始まる。 尊氏は幕府の運営に当たって、武士に対する支配権と軍事指揮権は自身で握り、裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いたが、この体制は直義を中心に結集する官僚派と、尊氏を頂く高師直ら武将派との対立をひき起こし、やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展、さらに南朝が第三勢力として加わったために、直義が死んだ(尊氏による毒殺ともされる)後も、直義党は諸国で根強い反抗を続け、この間、南朝軍や直義党が三度も京都に侵入するなど、争乱は長期化・全国化の様相を呈した。尊氏は三度目の京都侵入軍を駆逐して畿内と周辺地域の鎮定を実現してから、三年後に、京都で病死した。死因は背中の癰(よう:悪性の腫れ物)であったが、晩年の五、六年は、たびたび大病を病み、往年の精彩は失われていた。尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねた上、その信仰上の師夢窓疎石の評した如く、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え、人間的魅力に溢れた人物ではあったという。以上は主要部分を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て」「太平記」に拠っているのであるが(「梅松論」も『今度は當將軍、淨妙寺殿』(「淨妙寺殿義觀」は貞氏の戒名)『逝去一兩日の中なり。未だ御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲淚にたへかねさせ給ふおりふしに』(引用は所持する一九七五年現代思潮社刊「新撰 日本古典文庫 梅松論」から)とあるのであるが)、高氏の父貞氏は元弘元/元徳三年九月五日(一三三一年十月七日)で、本時制の二年も前で事実に反する。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『高氏寝返りの原因を高時の難題に求めようとする虚構か』と注されておられる。しかし、どうもこれは当時の素人が読んだとしても、おかしな話で、説得力が、ゼンゼン、ないと私は思う。武将ならば、武将であった父の喪の最中であれ、主君のために戦さに出て、武運を挙げてこそ、なんぼのもんじゃろ! 「しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず」だったのが本音だったんだってか? ところがね、山下氏も注しておられるんだが、「梅松論」には『高氏が当時』、『病に苦しめられていた事は見えない』んだよね。そもそもが、こんな感情的な理由で「心中に憤(いきどほり)を含」んだ上、しかも尊王思想があるわけでもなんでもなく、鎌倉幕府なんか裏切っちゃえ、濃ゆい縁戚の北条氏も亡ぼしちゃおっと、なんて考えたっていうのは、よほどイカれたアブナい男としか思えないんだけど! 「太平記」は言うに及ばず(そちらでは高氏が「俺は北条時政の末孫(ばつそん:末流の子孫)だぜ!? 何で、こんな戦さに行かにゃならんの? 訳判らん!」とかホザイテいる)これで納得してる、本「北條九代記」の筆者の気も知れねえな。寧ろ、先見の明があった高氏が、冷徹に諸状況を勘案して鎌倉幕府の滅亡をいち早く予期していたことを語った方がすっきりするぜ! これじゃ、第二次世界大戦前の「国賊尊氏」と大して変わらない佞人並みだんべ!

「足利殿、異義に及ばず」流石にここまで催促されたからには、異議を差し挟むことは最早せず、出兵を受諾した。ところが、と逆接で続く。しかし、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」というのは、あり得ません! 円喜! 「起請文」如きで、お目出度過ぎだっつう、の!

「相模入道に心を入れつゝ」高時様の御不審・御不安を配慮なさって。

「欝胸(うつきよう)」憂鬱。

「舍弟民部大輔直義(なほよし)」足利直義(ただよし/なおよし 徳治元(一三〇六)年~正平七/文和元年二(一三五二)年)は高氏の実弟で一つ違い。本「北條九代記」の注としては、兄の注で事足りるので、ウィキの「足利直義をリンクさせるに留める。悪しからず。

「赤橋殿」既出既注であるが、悲劇の武将(と私は感じる)なれば、再掲しておく。第六代執権北条長時の曾孫に当たり、第十六代、最後の幕府執権となった北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「公達は御孫なれば」御子息(千寿王。後の足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年:後、室町幕府第二代将軍。当時は未だ満三歳未満)は守時様の御甥子(「孫」はおかしい。或いは、赤橋流北条氏の「末孫(ばっそん)」の意で筆者は使ったものかも知れぬ)であられるので。

「自然の事もあらんには」事態が自然の成り行きとして大きく変ずるようなことがあっても。具体的には、ここでは狭義に未だ北条への謀反のニュアンスではあろう。

「その爲に郎從を殘置かれ、隱し奉るに難かるべからず」その万一の時のためにも、逆に配下の者どもを鎌倉に残しておかれれば、いざという事態が生じた折にも、御子息や御台所を安全にお隠し申し上げることは、決して難しいこととは思われませぬ。事実、高氏の妻登子と幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出、新田義貞の軍勢に保護されている

「吉良」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流』で、現在の『愛知県幡豆(はず)郡吉良町に住んだ』とある。

「上杉」同前の山下氏の注によれば、『藤原高藤(たかふじ)の子孫。足利氏の外戚で、高氏の母もその出身』とある。

「仁木(につき)」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市仁木町に住んだ』とある。

「細川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市細川町に住んだ』とある。

「今川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。三河の守護足利義氏の孫。国氏から今川を号した。西尾市今川町に住んだ』とある。

「高家(かうけ)」同前の山下氏の注によれば、『天武転王の皇子、草壁(くさかべの)皇子の子孫と称する高階(たかしな)氏』とある。

「名越尾張守高家」既注であるが、ここ、直前の「高家」(こうけ)とは関係ないので、注意されたい

「船上(ふなのうへ)」後醍醐の行在所である船上山。

「綸旨」討幕の綸旨(りんじ)。綸旨は蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書で、初見は万寿五 (千二十八) 年の後一条天皇のそれであるが、宣旨に代って多く用いられるようになり、特に南北朝時代には頻繁に用いられた。通常は薄墨紙(宿紙(しゅくし)。平安末期に反古 (ほご) 紙を漉き直して作った薄い鼠色の紙で,鎌倉時代以降に綸旨・宣旨 などを書くのに専ら用いられた) が用いられたが、白紙の場合もあった。

「鳥羽の作道(つくりみち)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『九条朱雀(すじゃく)の四塚(よつづか)から鳥羽までの道。京と西国とを結ぶ重要な道として平安遷都の際し』、『造られらので「作道」と言う。現在は残らない』とある。ウィキの「鳥羽作道(つ」によれば、『平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路』とあり、『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とある。以上のウィキの叙述に従うなら、この中央南北附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ)

「西郊(にしのをか)」「太平記」では「西岡」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『賀茂川と桂(かつら)川が合流する羽束師(はつかし)の西南、淀(よど)の西方一帯を指す』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「八幡」現在の京都府八幡市の北西端であろう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」既出既注。現在の京都府乙訓郡大山崎町附近(グーグル・マップ・データ)。八幡からは川筋を隔てた北西。

「佐用(さよの)左衞門三郎範家」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『赤松の一族で『赤松系図』によれば為範の息』子とある。

畔(くろ)」田の畦(あぜ)。

「籔(やぶ)」「藪」に同じ。

「眞甲(まつかふ)の端(はづれ)」兜(かぶと)の真正面のすぐ下。

「烈(さ)け」「裂け」。

大將を討(うた)せて」大将を討ち取られてしまって。

「狐河(きつねがは)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『山崎から八幡へ渡る渡し場。川の流れに変化があるので現在いずれとは定め難い』とある。腑に落ちた。実はネットの「太平記」の複数の現代語訳サイトでは、これを平然と、全くの方向違いである、現在の京都府京田辺市田辺狐川と注しているのだ。古文の誤訳ならまだしも、彼らは地名を考証する手間も惜しむどころか、現在の地図上で少しもそこを確認していないことが、よぅく判った。諸君も騙されぬように気をつけられたい。

「大手の大將」正面の討手の大将名越高家。

「山崎を外(よそ)に見て」合戦の場である山崎の方を遙かに見やったかと思うと、そこを北に大きく迂回して方向違いの丹波路を、と続くのである。

「篠村(しのむら)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『京都府亀岡市の東部、王子・森・浄法寺の辺』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。山下氏の挙げる三つの地名はこの区域に現存する。確認済み)。

「既に攻べし」ターゲットは京の両六波羅探題。

「東山道一方」「太平記」では「東一方」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、本文で後に出る『苦集滅道(くすめじ)(六波羅から鳥部野の南を経て清閑寺(せいかんじ)方面へ通ずる道)方面への道』とある。これは渋谷(しぶたに)街道(渋谷通・渋谷越)とも呼び、東山を越えて洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つであるから、ここは「ひがしやまみち」と読みたくなるが、筆者はやはり広義の「とうさんだう(とうさんどう)」と読んでいようこの国道一号線の部分ルートに近いであろう(グーグル・マップ・データ)。「苦集滅道」は本来は「くじふめつだう(くじゅうめつどう)」で仏教の根本教理を示す語で「四諦(したい)」を指す。「苦」は生・老・病・死の「苦しみ」を、「集」は苦の原因である迷いの心の「集積」を、「滅」は「苦」・「集」が「滅」した(取り払われた)悟りの境地を、「道」は悟りの境地に達する「道」としての修行を指すが、ここにそれが当てられたのは、ここが沢の水が絶えず、落ち葉なども多くあって、非常に滑り易い困難な通りであったことや、古えの葬送の地であった鳥部野との関連が私には想像される。

「右近馬揚(うこんのばゝ)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、内裏の『右近衛府の舎人(とねり)が馬術の練習をした所。西大宮大路の北端、北野神社の東南にあった』とあるから、この中央附近である(グーグル・マップ・データ)。

「内野」京都市上京区南西部の平安京大内裏のあった場所。個人ブログ「ミステリアスな日常」のこちらの地図で旧位置を確認されたい。

「主上」光厳天皇。

「上皇」後伏見院と花園院。

「國母」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年。後伏見上皇女御。光厳天皇及び後の光明天皇の実母。広義門院。

「女院」藤原実子(永仁五(一二九七)年~延文五/正平一五(一三六〇)年)は花園院の妃。正親町(おおぎまち)実明の娘。祖父の太政大臣洞院公守(とういんきんもり)の養女として花園天皇の後宮に入った。寿子内親王(徽安(きあん)門院)・源性入道親王・直仁親王・儀子内親王を生んだ。宣光門院。

「行幸の御前(みさき)」天皇以下の御皇族方のお出ましの先駆け。

「北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら」六波羅北探題であった北条仲時(既出既注)も、北の方(ここは奥方の意)との別れを悲しみながら。「太平記」には、このシークエンスが詳しく描かれている。

「十四、五町」一キロ五百二十八メートルから一キロ六百三十六メートル。

「野伏(のぶし)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『農民の武装したゲリラで、敵陣を奇襲したり、敗残の兵などを襲ったりした』とある。

「篠原の宿」同前の山下氏の注によれば、『伊賀健野洲(やす)郡野洲町篠原』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍駕(りうが)」「りようが(りょうが)」とも読む。天皇の乗り物を指す。

「番馬の峠」現在は滋賀県米原市番場にあった番場宿の位置と、北条仲時一門が自決した蓮花寺の位置から考えて、航空写真であろう(グーグル・マップ・データ)。

「宗(むね)として」中心に。

「忙然」「茫然」。

「五〔の〕宮」「太平記」もこうなっているが、これだと、後醍醐天皇の皇子で後の後村上天皇、当時の義良(のりよし/のりなが)親王を指すことになってしまうが(増淵氏の現代語訳も義良親王とするのであるが)、この当時、彼は満でも五歳の子どもで如何にもおかしい。調べたところ、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『「五宮」は誤り』とあり、神田本「太平記」に『傍記する「五辻ノ兵部卿親王宮」が正しい。五辻宮は、亀山天皇の皇子、守良親王。四品(しほん)兵部卿で法名覚静』とある。但し、この守良(「もりよし」と読んでおく)は生没年未詳で一応、講談社「日本人名大辞典」を見ると、鎌倉から南北朝時代の皇族で、亀山天皇の皇子とし、母は三条実任の娘。四品(しほん)・兵部卿。後に出家し、法名は覚浄。五辻宮(いつつじのみや)家(初代)と呼ばれたとあって、「太平記」に見える、この北条仲時ら六波羅勢を全滅させた官軍中の「先帝第五の宮」というのはこの守良親王と見られている、とあるばかりで、どうも注の最後なのに、すっきりしない。]

2018/06/19

北條九代記 卷第十二 先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

 

      ○先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

正慶二年閏二月、隱岐判官淸高、近國の地頭・御家人等を催し、宮門を警固し、先帝後醍醐を嚴しく守護し奉る。同下旬、佐々木富士名(ふじなの)判官義高、竊(ひそか)に心を寄せ奉り、「楠正成、伊東〔の〕大和二郎・赤松圓心・土居・得能、皆、御味方に參り候。聖運(せいうん)の啓(ひら)けん事、近きにあり。君、願(ねがは)くは配所を忍び出で給ひて、千波湊(ちなみみなと)より御舟に召され、出雲・伯耆の方へ赴き給ひ、 然るべき武士を御賴(おんたのみ)あるべし。義綱も軈(やが)て御味方に參り候はん」と申す。是より、富士名、竊に鹽冶(えんやの)判官高貞・名和〔の〕太郎長年を語(かたら)ひ、 朝山(あさやまの)八郎が禁門の當番の夜(よ)、是に心を合せて忠顯(たゞあきの)卿に申入れ奉りければ、君、卽ち、忍びて配所を出(いで)給ひ、 千波湊より御舟に召して、伯老國名和湊に著きたまふ。六條少將忠顯一人、名和又太郎長年が館(たち)に行(ゆき)て、頼思召(たのみおぼしめ)す由を宣へば、一族二十餘人一同に御請(おう)け申して、御迎(おんむかひ)に參り、船上山(ふなのうへさん)へ入れ奉り、兵粮五千餘石を用意して、その勢、百五十騎にて、船上(ふなのうへ)の皇居を守護し參(まゐら)せけり。隱岐〔の〕判官淸高・佐々木彈正左衞門尉、三千餘騎にて押寄せ、一戰に利を失ひ、佐々木は射殺され、淸高は小舟に乘りて風に任せて、越前の敦賀に吹寄(ふきよ)せせられ、六波羅沒落の時に、江州番馬の辻堂にて自害したり。その後、鹽冶・富士名、一千餘騎、淺山二郎八百餘騎、金持(かなぢ)の一黨三百餘騎、大山(だいせん)の衆徒七百餘騎、其外、出雲・伯耆・因幡・石見・安藝・美作以下、四國・九州の軍兵、殘(のこり)なく馳付(はせつ)けけり。六渡羅には、是を聞きて、「さらば先(まづ)、赤松を退治せよ」とて、佐々木判官時信・常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)に五千餘騎を差副(さしそ)へて、摩耶(まや)の城へ向けらる。求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)より押寄せけるが、城兵五百餘人、打て出でたるに追崩(おひくづ)され、僅(わづか)に、千騎計(ばかり)に討ちなされて、京都にぞ引返しける。六波羅より、又、一萬餘騎にて討手を向けらる。赤松城を出でて、久々知(くゝち)・酒部(さかべ)に出向ふ所に、尼崎より、舟を上りける、阿波の小笠原が三千餘騎と、赤松、僅に五十騎にて戰ひて、父子六騎に打(うち)なされ、小屋野(こやの)の宿に控へたる味方三千餘騎が中に馳入り、虎口の死をぞ遁(のが)れける。六波羅勢は瀨河(せがは)の宿に陣を取る。赤松、三千餘騎が中より子息筑前守貞範以下、只、七騎にて南の山より、散々に射る。寄手、多く射落されて色めく所を、赤松が軍兵七百餘騎、掛出でて戰ふに、寄手、崩れて、大半、討たれ、僅に京都に引返す。赤松、追ひ縋(すが)うて攻上(せめのぼ)る。三月十二日、淀・赤井・山崎邊、三十餘ヶ所に火を懸けたり。兩六波羅、驚きて、隅田・高橋に左京の武士二萬餘騎を相副へ、西朱雀に向けらる。兩陣、桂川を隔てて、矢軍(やいくさ)に時を移す。赤松が子息帥律師則祐以下、只、五騎にて桂川を渡しければ、父圓心を初(はじめ)て、三千餘騎、打渡す。六波羅、勢氣を吞まれて、引立ちしかば、赤松が勢、追掛り、大宮・猪熊・七條邊に火を掛けたり。主上持明院殿は、六波羅へ臨幸なる。兩六波羅は七條河原に打出でて、敵を相待ち、隅田・高橋に三千餘騎を副へて、八條口へ向けらる。河野・陶山(すやま)は二千餘騎にて蓮花王院へ遣(つかは)す。赤松、前後の敵に揉合(もみあ)うて、備(そなへ)亂れて打負け、僅の勢に成りて、山崎へ引返す。同十五日、六波羅勢、五千餘騎にて山崎に差向ふ。赤松、三千餘騎を二手に分けて、善峯・岩倉に出向うて、散々に射る。向明神(むかうのみやうじん)の邊にて、赤松が軍勢百騎、二百騎前後より蒐出(かけい)でしに、京勢、捨鞭(すてむち)を打ちて、引返す。同四月三日、赤松、又、京都に押寄せしかども、一族郎從八百餘騎、討たれて、又、山崎へ引返す。

[やぶちゃん注:標題の「先帝船上皇居軍」は「せんてい ふなのうへくわうきよ いくさ」で「後醍醐天皇、船上山行在所に於ける戦さ」の意。清湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第七の六項目「先帝船上(ふなのうへへ)臨幸〔の〕事」から巻第八の六項目「四月三日合戰事 付 妻鹿(めが)孫三郎勇力事」に拠るとある。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「隱岐判官淸高」隠岐守護佐々木清高(永仁三(一二九五)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十日))。ウィキの「佐々木清高」によれば、『宇多源氏流佐々木氏の一族で父は佐々木宗清』。『治承・寿永の乱で源氏方として活躍した佐々木秀義の』五『男義清の末裔で、義清-泰清-時清-宗清-清高と至る。この家系は代々隠岐守護を相伝(世襲)する家柄であった。船上山の戦いで清高と敵対した塩冶高貞』(後注参照)『は、時清の兄弟である塩冶頼泰の孫であり、清高とは又従兄弟(はとこ)の関係にあたる。また、後の南北朝時代において婆沙羅大名として著名な佐々木道誉(高氏)をはじめとする京極氏一族や、室町時代に近江守護として君臨した六角氏一族は義清の兄定綱の末裔で清高と同族(遠戚関係)である』。『鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)内の前半には『元服し、その高時と烏帽子親子関係を結んで偏諱(「高」の字)を受けた』『とみられている』。『父から受け継いで』、『隠岐守護、更には引付衆となり』、正中二(一三二五)年十二月には『幕府の使者として入京した』。元弘二/正慶元(一三三二)年、『鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ』、『隠岐国に流されると(元弘の変)、同国守護をしていた清高』『は隠岐へ下向し』、『領内の黒木御所に天皇一行を幽閉した。当時は西日本を中心に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていたため、清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視』したが、この時、『天皇一行は突如として黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出してしまった』。『天皇は伯耆の武士名和長年一族に迎えられ、伯耆船上山にて挙兵』、『これに対し、焦った清高は隠岐の手勢を率いて船上山に攻め寄せ』、『長年らと戦うが、寄せ手の将佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死し、同族(はとこ)で出雲守護の塩冶高貞が寝返って天皇方につくなど』、『悪条件が重なり、結局』、『攻めきれずに敗退してしまう(船上山の戦い)』。『その後、敗戦の責任から隠岐を追われ』、『海路で北国に逃れ』、『六波羅探題北条仲時の軍に合流し』、同年五月九日、『近江番場の蓮華寺にて仲時らと共に自害した』。享年三十九。『子の泰高も父と共に自害したと伝えられる』。

「佐々木富士名(ふじなの)判官義高」富士名雅清(永仁四(一二九六)年~建武三(一三三六)年)は若狭守護。ウィキの「富士名雅清」によれば、「太平記」では富士名義綱・富士名判官の古称で知られる。『富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭』であった。『後醍醐天皇が隠岐へ流刑とな』ると、『雅清は、北条氏の命により』、『後醍醐の警固役の一人となったが』、『翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画』(「太平記」巻第七「先帝船上臨幸事」)、『脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された』、しかし、翌年のこの時、『雅清の帰島を待たず』、『隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ』、『船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し』、『上洛するなど』、『宮方として倒幕に貢献し』、『建武政権では若狭守護に補任された』。『南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い』、建武三(一三三六)年正月、『京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した』。

「千波湊(ちなみみなと)」「ちぶりみなと」が正しい。隠岐諸島の南端にある知夫里島の、恐らくは、南側の現在の知夫漁港或いはその東の姫の浦港ではないかと推定するが、実際には後醍醐の行在所(配流場所)は島後の現在の西郷町池田にあった国分寺内であり、これは「太平記」による創作ではないかと思われる。

「鹽冶(えんやの)判官高貞」(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は出雲守護。ウィキの「塩冶高貞」によれば、前の「隱岐判官淸高」の引用で見た通り、当初は幕府方に与しようとしたが、結局、時局を計って、『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが』暦応四年三月、『京都を出奔』し、それを謀反とされて『北朝に追討され、同年翌月』、『出雲国で自害した』。『生誕年は不明だが、鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)『内に元服』『して、高時と烏帽子親子関係を結んで』、『その偏諱(「高」の字)を受けた』『人物とみられる』。鎌倉幕府滅亡後、建武二(一三三五)年に起こった『中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣』したが、『箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった』。しかし、『高師直の讒言』により、『謀反の疑いをかけられたため』、『ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山』『で自害した。高貞は』辛うじて『出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞』いて、『出雲国宍道郷の佐々布山で自害』『したという。これにより、高貞の子弟殆ど』は『共に討ち取られるか』、『没落した』が、『息子の塩冶冬貞』『(ふゆさだ)が家督および出雲守護を引き継いだとされ』、『冬貞は足利直冬・山名時氏ら南朝勢力と結び(「冬」の字も直冬から偏諱を受けたものとみられる)、一時的に塩冶郷を支配する立場にあったが、叔父(高貞の弟)の時綱(ときつな)と家督を巡』っての抗争をしてから後は、『時綱およびその子孫が新たな惣領となった』。『この家系を後塩冶氏と呼ぶことがあり』、『将軍の近習として存続した』。なお、『出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の貞慶(さだよし)を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせ』ている。因みに、「塩冶判官」というと、誰もが「仮名手本忠臣蔵」を思い出すが、あれは、赤穂事件を描きつつ、筋書きを「太平記」の世界に仮託することで、公儀の咎めを回避しているため、『播州赤穂藩主・浅野長矩は「塩谷判官」』『として(播州の名産品「赤穂の塩」からの連想)』あるのであり(『幕府高家肝煎吉良義央を「高師直」としたのは「高家」からの連想である)、『物語の発端が赤穂事件の実情とは異なる色恋沙汰となっているのも、塩冶判官の妻・顔世御前に対する師直の横恋慕という伝承を』、『そのまま』、『物語に取り入れているからである』とある。

「名和〔の〕太郎長年」(?~延元元/建武三(一三三六)年)初名は長高。伯耆守。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが、長高の時、同国汗入(あせり)郡名和(鳥取県名和町)に移って名和氏を称した。良港名和湊を領有し、日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。この時、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると、長高は天皇を迎えて船上山に布陣し、佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により、天皇から「年」の字を与えられて、長年と改名、同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年五月二十三日、天皇が船上山を出発して京都に向かうと、長年も天皇軍に随従した。建武政権下では、記録所・雑訴決断所の寄人などに任命され、天皇の身辺警護に当たるなど栄耀を極め、世人はその栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣四人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により肥後国八代荘を与えられた。建武元(一三三四)年十月、天皇の命令により、護良親王を清涼殿で捕縛し、鎌倉へと送った。建武の乱では、一旦、足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが、勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや、天皇を奉じて叡山に避難した。建武三/延元元(一三三六)年六月三十日、京中へ打って出たものの、大宮通り一条の合戦(「梅松論」では「三条猪熊の合戦」とする)で戦死を遂げた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「朝山(あさやまの)八郎」不詳。この名は「太平記」にも出ないようである。そもそも、後醍醐の隠岐脱出自体には、前に述べた通り、「太平記」でも義綱は関与出来なかった。以下に、後醍醐に与して馳せ参じた「淺山二郎」の同族か。

「六條少將忠顯」既出既注

「船上山(ふなのうへさん)」現行では「せんじょうさん」と読み、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高六百八十七メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐々木彈正左衞門尉」「昌綱」とも。諸本、不詳とする。佐々木清高の一族であろう。

「江州番馬の辻堂」既出既注。現在の滋賀県米原市番場の蓮花寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淺山二郎」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『大伴氏の子孫で、現在の島根県出雲市朝山町に住んだ武士』とする。

「金持(かなぢ)」前掲書に、『島根県日野郡日野町金持(かもち)に住んだ武士』とある。

「大山(だいせん)の衆徒」鳥取県西伯郡大山町伯耆大山中腹にある天台宗角磐山(かくんばんざん)大山寺(だいせんじ)の僧兵。当時は修験道場として知られ、ここの『座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場』であった、とウィキの「大山寺」にある。

「佐々木判官時信」六角(佐々木)時信(徳治元(一三〇六)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏第三代当主。ウィキの「六角時信」によれば、『佐々木頼綱(六角頼綱)の子として誕生』、『廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって』、『嫡子となり』、延慶三(一三一一)年の父の死後、『家督を継ぎ、近江守護となった』。正和三(一三一四)年)に元服して『時信と名乗』る。『朝廷との関わりは深く』、元徳二(一三三〇)年の『後醍醐天皇の石清水行幸の際には橋渡を務めているが』、元弘元(一三三一)年の「元弘の乱」では『鎌倉幕府方につき』、同年八月の『近江唐崎にて後醍醐天皇に応じた延暦寺衆徒と戦い敗れる』『ものの、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置山に挙兵した際(笠置山の戦い)には鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加勢して山門東坂本に攻め寄せた。戦後は、捕縛された尊良親王(後醍醐天皇の皇子)の身を預かっている』。元弘三(一三三三)年の『後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では摂津国天王寺に参陣している。しかし、六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した』。『幕府滅亡後の建武の新政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、室町幕府においては近江守護職を一時庶流の京極氏当主佐々木道誉に奪われるなど』、『不遇をかこつことになり、出家して家督を子・氏頼に譲り』、四十一『歳で死去したという』。

「常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)」六波羅の頭人(とうにん)であった小田時知。サイト「南北朝列伝」によれば、『常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが』、『傍流で』、『代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである』。『後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝・日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している』。元徳三(一三三一)年八月二十四日、『後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が』「増鏡」に『描写されている』。二十七日には、『時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している』。本詩クエンス時(三月一日)には『時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが』、『敗退』し、『勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている』。『このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年』五『月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる』とあり、さらに「尊卑分脈」の『小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいは』、『そのつてを頼って』、『後醍醐方に投降したのではないか』とサイト主は推理されておられる。事実、『建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている』、但し、『その後の詳しい動向は不明である』とある。

「求塚(もとめづか)」現在の兵庫県神戸市灘区都通附近(グーグル・マップ・データ)。私の偏愛する、かの「菟原処女(うないおとめ)」の伝承が残る地である。

「八幡林」灘区八幡町附近。求塚の東北。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「久々知(くゝち)」尼崎市久々知(くぐち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒部(さかべ)」尼崎市上坂部(久々知の北に接する)・下坂部附近(久々知の北東に接する)。ここ(グーグル・マップ・データ)・

「阿波の小笠原」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、甲斐長房(かいながふさ)が阿波の国(徳島県)守護に任じてから阿波の豪族となった』とする。

「父子六騎に打(うち)なされ」筆者は「太平記」をコンパクトに圧縮するあまり、ここではリズムが崩れている。この父子とは赤松円心とその子息則祐のことで、二人を含めて、たった六騎までに小笠原㔟に討たれて減ってしまったというのである。

「小屋野(こやの)の宿」現在の兵庫県伊丹市昆陽(こや)にあった山陽道の宿場町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瀨河(せがは)」現在の大阪府箕面瀬川。ここ(グーグル・マップ・データ)。昆陽の東北、猪名川を隔てた位置。

「子息筑前守貞範」(徳治元(一三〇六)年~文中三/応安七(一三七四)年)円心の次男。ウィキの「赤松によれば、嘉暦元(一三二六)年頃は『摂津国長洲荘の荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った』。建武二(一三三五)年には『中先代の乱を平定するため』『、関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は』三百『騎で脇屋義助』七千『騎に突撃を敢行した。これを見て』、『義貞方の大友貞載』(さだとし/さだのり)『が寝返ったため』、『戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波国春日部荘ほか』、『播磨国の所領を与えられたという』。『室町幕府の確立に尽力し』、正平元/貞和二(一三四六)年には『姫路城の基礎である城を築い』ている。正平六/観応二(一三五一)年に兄範資が『亡くなった時、弟・則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は』、室町『幕府から疎まれていたためとされる』。正平一一/延文元(一三五六)年に『美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子・足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし』、正平一八/貞治二(一三六三)年に『時氏が幕府に帰順すると』、『美作を時氏の末子・時義に交替させられ』ている。彼の『子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞・赤松貞村を輩出した』。

「淀」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見区淀。桂川・宇治川・木津川にのぞむ水郷』とある。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「赤井」同前の山下氏注によれば、『淀から羽束師(はつかし)・樋爪(ひづめ)までの間、桂川にのぞむ地』とある。桂川右岸(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」同前の山下氏注によれば、『淀・羽束師の西方一帯を指す』とあるから、現在京都府乙訓大山崎町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「隅田」隅田(すだ)通治。既出既注

「高橋」未詳既出既注

「大宮」大宮大路。朱雀大路の東の最初の南北に走る東大宮大路のこと。その南端で南北に走る、南から二本目(最南端が九条大路)の「七條」大路辺りまでの閉区間で火を放ったということであろう。次も同じ。

「猪熊」猪熊小路。東大宮大路の東の最初の小路。

「主上持明院殿」光厳天皇。

「河野」九郎左衛門尉通治(みちはる)か。

「陶山(すやま)」既出既注の陶山藤三義高であろう。或いは、その一族かも知れない。

「蓮花王院」所謂、三十三間堂の正式な寺名。なお、六波羅探題はにあった(グーグル・マップ・データ)。

「善峯」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『釈迦岳の支峰を善峰と言い、また中腹に善峰寺がある』と記す。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「岩倉」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『西京区大原野石作(いしづくり)町岩倉。金蔵寺の辺』とする。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「向明神(むかうのみやうじん)」「向日明神」が正しい。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小塩山にある天台宗の金蔵寺の守護神』とあるから、前の注のリンク先附近。]

2018/06/15

北條九代記 卷第十二 赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

      ○赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

播磨國の住人、赤松次郎則村(のりむら)入道圓心が子息、律師則祐(そくいう)は、大塔宮に付纏(つきまと)ひ奉りて、年來、奉公の忠勤あり。しかも近年は、武功の粉骨を盡しけり。宮は南都の般若寺より虎口を遁れて、紀伊國に赴きつ〻、十津河を經て、吉野の大衆を語(かたら)ひ、野長瀨(のながせの)六郎兄弟を賴み給ひ、愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて籠らせられ、赤松圓心が本(もと)へ令旨を下さる。律師則祐、使節として、父圓心が館(たち)に來る。入道圓心、嫡子範資、早く御請(おうけ)申して、佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)に城を構へければ、與力同心の軍兵、馳集りて、一千餘騎にぞなりにける。畿内・西國の凶徒、日を逐(おつ)て蜂起せしかば、高時入道、大に驚き、一族・他門の大名、東八ヶ國の軍勢を催促して、差上(さしのぼ)せらる。宗徒(むねと)の大名百三十二人、都合その勢、三十萬七千五百餘騎、元弘二年九月二十日に鎌倉を立ちて、十月八日に京著(きやうちやく)す。その外、西國・九州・北陸(ほうろく)七國、諸國七道の軍勢、我も我もと馳上り、翌年正月晦日に、諸國の軍勢八十萬騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三(みつ)の城へぞ向ひける。赤坂の城へは、阿曾(あその)彈正少弼、その勢、八萬餘騎、城の四方を取圍みて攻むれども、寄手のみ討たれて、城中には、ものともせず。然る所に、播磨國の住人吉河八郎が思案に依(よつ)て、城中、水の手を取切(とりき)られたり。城の本人平野(ひらのゝ)將監入道は、矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)が甥なり。楠正成、養子として、この城を預けしが、水に渇(かつ)えて堪難(たへがた)く、軍兵二百八十二人、共に降人(かうにん)に成て出でけるを、六波羅より計(はから)ひ、六條河原に引出し、一人も殘らず、首を刎(は)ねて梟(か)けられけり。降者(くだるもの)をば殺さずとこそ云ふなれ、吉野の金剛山に籠りたる兵共、是を聞きて、愈(いよいよ)、心を堅くして、一人も降人に出でんと思ふ者は、なかりけり。正慶二年正月に、大塔宮の罷り給ふ吉野の城へは、二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)、六萬餘騎を引分て押寄せ、同十八日より軍(いくさ)初(はじま)り、夜晝(よるひる)七日が間(あひだ)、息をもつがず、相戰ふ。寄手八百餘人、討たれたり。城兵も、三百餘人は手負ひ討たれしかども、少も弱る色なし。かゝる所に、搦手(からめて)より吉野の執行(しゅぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、百五十人の足輕を步立(かちだち)になし、後の山より愛染寶塔の上に忍上りて、鬨の聲を揚げ、在々所々に走𢌞(はしりめぐ)りて、火をさしければ、大手の五萬餘騎、三方より攻上(せめのぼ)る。村上〔の〕彦四郎義光、宮の御鎧(おんよろひ)・直垂を賜り、御諱(おんいみな)を犯して自害す。その間に、宮は城を落ち給ひ、高野山に忍入(しのびい)り給ふ。大將二階堂道蘊は、宮を打泄(うちもら)し奉りて、安からず思ひながら、楠正成が籠りたる千劍破(ちはやの)城へぞ向ひける。去程(さるほど)に、楠正成は、赤坂の城を落ちて、一族等(ら)を引率(いんそつ)し、紀伊と河内の境なる金剛山にぞ入りにける。この山に、城郭を構へ楯籠(たてこも)りしかば、東國八十萬騎、陸奥〔の〕右馬〔の〕助を大將として、赤坂、吉野の寄手、是に加り、百萬餘騎に成りて攻寄(せめよす)る。城中は僅に千人にも足らずして、防戰(ふせぎたゝか)ふこそ不敵なれ。寄手、一日の中に、五、六千人討たれしかば、軍勢、戰(たゝかひ)を止めて、陣々をぞ構へたり。度每(たびごと)の軍(いくさ)に寄手のみ多く討たれ、手懲(てごり)してぞ覺えける。この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり。赤松二郎入道圓心、播磨國苔繩〔の〕城より打ち出でて、その㔟、一千六百餘騎、山里(やまのさと)・梨原(なしはら)に陣取る。三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟、宮方に成りて、三石山に城を構へ、備前の守護加治〔の〕源二郎左衞門を負落す。是より、西國の道、塞(ふさが)りて、西園の軍勢、六波羅へ上る事を得ざりしかば、赤松、又、軍兵を進めて、高田兵庫〔の〕助が城を攻干(せめほ)し、山陽道を差して攻上る。路次の軍勢、馳付(はせつ)きて、七千餘騎にぞなりたる。赤松、大になりて、兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺に城を拵へて、楯籠る。六波羅、聞きて、誰(たれ)をか討手に向へんと、評定する所に、又、伊豫國の住人土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)三郎、宮方に成りて、長門の探題上野〔の〕助時直(ときなほ)を打平(うちたひら)ぐ。四國の勢、皆、土居・得能に屬(しよく)して、六千餘騎、京都に攻上らんとぞ用意しける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻第六の四項目「赤松入道圓心賜大塔宮令旨事」(赤松入道圓心、大塔宮令旨、賜はるる事」)から巻第七の五項目「河野謀叛事」に基づくとする。標題の「千劍破城軍」は「ちはやのいくさ」と読む。

「播磨國」兵庫県。

「赤松次郎則村(のりむら)入道圓心」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。円心は法名。播磨国佐用荘の地頭の一族であったが、護良親王の令旨を受け、山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき、ここに出る通り、正慶二/元弘三(一三三三)年一月、苔縄城に挙兵した。次いで、山陽道を攻め上り、五月足利高氏(尊氏)とともに六波羅を攻め落とした。その功により、建武政権で播磨守護職を与えられたが、間もなく、理由なく取り上げられ、新政に不満を抱くようになった。建武二(一三三五)年、尊氏が新政権に反して、関東に向かうと、これに応じ、次男貞範を同行させた。翌年二月、尊氏が京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走する際、光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは、この則村の発案によると言われている。次いで、播磨白旗城に立て籠って、新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み、尊氏の再上洛を助けた。十一月に尊氏が室町幕府を開くと、播磨守護に復帰、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任ぜられた。観応元/正平五(一三五〇)年の「観応の擾乱」では、尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めて足利直冬の進軍に備えたが、その直後、京都七条の自邸で病死した。禅に深く帰依し、京都より雪村友梅を招いて苔繩に法雲寺を建ている。また宗峰妙超が京都紫野に大徳寺を開くと、最初の檀越となってこれを援助するが、それは妙超が播磨出身であるのみならず、姉の子であったことにもよると考えられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「律師則祐(そくいう)」(のりすけ 正和三(一三一四)年~建徳二/応安四(一三七二)年)は赤松則村の子。ウィキの「赤松則祐によれば、後醍醐天皇の「元弘の乱」勃発時、『則祐は比叡山延暦寺に入って律師妙善と称しており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野、十津川、吉野城などで転戦した』。ここにある通り、元弘三(一三三三)年、『護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心(則村)に届け、赤松氏は播磨で挙兵、父に従って東上』、『瀬川合戦にも従軍、京都の六波羅探題を攻撃』した。『則祐には武勇伝が多く、『太平記』にも幾つか記されている。熊野や十津川では護良親王を守って善戦。父に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。京都においても相撲人としての武勇伝があったという(『梅松論』)』。『建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと』、『父や兄らと共に尊氏に味方し』、建武三(一三三六)年に『尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びた後は父と共に播磨で待ち構えた』。これは、『後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐこと』が目的『で、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し』、『感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促』している。正平五/観応元(一三五〇)年、「観応の擾乱」の最中、『父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが』、翌年、急死し、その『遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、則祐は当主・播磨守護となる』。『この決定の理由については、舅(しゅうと)が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年』、『父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった』。同年七月に『護良親王の皇子・陸良親王を推載、南朝に降った。このため』、『尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。翌年の正平一統で南朝が京都を占領、北朝の皇族を連れ去って義詮が諸大名の動員を命じると』、『これに応じて帰順』、正平八/文和二(一三五三)年に『南朝への備えとして城山城を築城した』。正平一〇/文和四(一三五五)年には『松田氏に代わって備前守護に任じられた』。正平一四/延文四(一三五九)年)、第二代将軍『義詮の南朝征討に従軍』、正平一六/康安元(一三六一)年には『幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨の白旗城へ避難させた』。『この時』、『則祐は義満の無聊を慰めるため、家臣に命じ』、『風流踊り「赤松ばやし」で接待した』。『これを大いに喜んだ義満は将軍になった後も毎年』、『赤松屋敷を訪ねてこれを見たという』。翌正平一七/貞治元(一三六二)年には『山名時氏と戦い』、建徳元/応安三(一三七〇)年、禅律方(室町幕府に置かれた禅宗・律宗寺院(個人としての禅僧・律僧も含む)関係の訴訟等を取り扱った機関。室町幕府はこれを設けることで禅律寺院を保護・統制したと推測されている)に任命され、『管領の細川頼之を補佐した』。『死因は肺炎だったとされる』。

「野長瀨(のながせの)六郎兄弟」野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡。ウィキの「野長瀬氏」によれば、『赤坂城の戦いに敗れた尊雲法親王(のちに還俗して大塔宮護良親王)が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき』、彼ら兄弟が『軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が下赤坂城を逃れて以来』、『はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も』、『再び』、『大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後、横矢氏も称するようになった』。『野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた』。『その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続』したとある。

「愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて」愛染明王の宝塔を槇野の城に建てて。槇野城は現在の五條市にあったが、手狭であったために、後に吉野城に移っている(移転は元弘二(一三三二)年六月二十七日以前。ここはウィキの「吉野城」に拠った)。

「嫡子範資」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は赤松則村(円心)の嫡男(則村の弟という説もあるらしい)。赤松氏五代当主。ウィキの「赤松範資によれば、初め、弟貞範とともに摂津長洲荘の代官として派遣されたが、この時、『父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した際、父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた』。正平五/観応元(一三五〇)年の『父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に味方して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している』が、翌年、『京都堀川七条の自邸にて急死』した。『摂津は嫡男・光範が、家督と播磨は弟・則祐が継いだ。他の子らはそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる』とある。

「佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)」現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)苔縄(こけなわ)にあったとされるが、位置は不明。一応、この中央附近とされるが(グーグル・マップ・データ)、遺構は発見されていない。

「宗徒(むねと)の」主要な。

「阿曾(あその)彈正少弼」北条(阿蘇)治時(文保二(一三一八)年~建武元(一三三四)年)。得宗家の傍流阿蘇家の第四代当主。父随時が二十八歳の時、鎮西で誕生、第十四代執権北条高時の猶子となっている。「太平記」では、この時に差し向けられた鎮圧軍の筆頭に北条一門として彼の名が挙げられており、楠奪還後の第二回の赤坂城攻略戦では、大将として出陣しているが、ウィキの「北条治時」によれば、満十五歳と、『若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞(長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた』とある』。『続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが(千早城の戦い)、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず』、五『月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗・高直兄弟らとともに興福寺に篭り』、『抗戦を続けた』が、『鎌倉陥落の報を聞き』、六月五日、『般若寺で出家して降伏するが』、建武元(一三三四)年七月九日、『京都阿弥陀寺で高貞、貞宗、高直らとともに処刑された』。享年十七。

「吉河八郎」「太平記」では「吉川」。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『藤原南家、工藤氏の一門』とする。

「城の本人」城主。

「平野(ひらのゝ)將監入道」同前の山下氏の注によれば、『河内の豪族』とする。

「矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)」八尾城(現在の大阪府八尾市内。正確な位置は不明)を築いて城主として権勢を持ち、後に楠木正成八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士。権僧正でもあった。正成が湊川で戦死した後は和田・恩智両氏とともに正成の子正行を助けたが、延元三(一三三八)年に八尾城で病死したと伝えられる。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)」既出既注

「吉野の執行(しゅぎやう)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『吉野の金峰山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂にあって、事務や法会(ほうえ)をとりしきる官』とある。「吉野」とあるからといって後醍醐方と誤ってはいけない。この「岩菊丸(いはぎくまる)」(事蹟不詳)は立派な鎌倉幕府方である。

「村上〔の〕彦四郎義光」彦四郎。同前の山の注によれば、『清和源氏』『「義日」とも書く』とある。

「御諱(おんいみな)を犯して自害す」御名前を詐称して。親王の装具を著け、身代わりとなって自害したのである。

「千劍破(ちはやの)城」千早城に同じ。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった、四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇ったとされる連郭式山城。先の「金剛山」の注でも少し述べたが、四方の殆んどを深いに谷に囲まれ、城の東北後背のみが金剛山の山頂に峰で連絡する要害の地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。この時、奇策で幕府軍を嘲弄したそれはウィキの「千早城」に詳しいが、要所を引くと、『上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった』とされ、「太平記」には「長崎四郎左衞門尉(ざゑもんのじやう)、軍(いくさ)奉行にてありければ、手負・死人の實檢をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人、夜晝三日が間(あひだ)、筆をも置かず記せり」とある。『鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい』、『水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き』三百『もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成は策をめぐらし』、『わら人形を』二十~三十体『作らせ、甲冑を着せ』、『弓や槍を持たせた。その人形を』、『夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵』五百人を『潜ませ、夜明けになると』、『鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ』、『攻め寄せた』ため、五百の伏兵は『矢を放ちながら』、『徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし』、この一時だけで、三百名が即死、五百名が負傷している。『鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年』三月四日には、『鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった。そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工衆』五百『余人を呼び集め』、巾十五尺(四・五メートル)、長さ百尺(三百メートル)もの橋を『造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると』、『橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと』、「太平記」には記載されている。但し、「太平記」『以外の史料に』この『「長梯子の計」の記述が無いことから』、『信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから』、『「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」と』する肯定説もある。

「陸奥〔の〕右馬〔の〕助」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。ウィキの「北条貞将より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は北条時村の娘』。『鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、新田義貞軍に敗れてこの時、父と同じく壮烈な最期を遂げた』。『兄に顕助がいるが』、『庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である』。『文保二年 (一三一八年)、評定衆となり、引付五番頭人などを務める。この頃に出自は不明であるが』、『正室を迎えている。また』、『この頃には従五位下の位階と右馬権頭の官位を持っていたとされ、文保二年の六月二十五日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。十二月には引付衆五番頭に就任している』。『正中元年(一三二四年)九月十九日、正中の変が発生すると、十一月十六日に六波羅探題南方となり上洛するが、この時に貞将は五千騎の軍勢を率いて上洛した。貞将は以後、執権探題として京都の動静を探り職務を遂行していった。上洛してわずか三日後に六条坊門猪熊から出火した火事を鎮火している。嘉暦四年(一三二九年)八月一日に越後守から武蔵守に転任する』。『元徳元年(一三二九年)より父・貞顕の根回しもあり、元徳二年(一三三〇年)四月に探題職辞任が決定し、七月十一日に正式に辞任して京都を出発した。鎌倉に帰還した後の七月二十四日に引付一番頭人に任じられ』ている。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月八日、新田義貞が隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応して上野新田庄の生品神社で挙兵すると、十日に幕府軍の大将として防衛のため』、『下総下河辺荘を目指して進発し、六浦庄で軍勢を整えたが、武蔵鶴見川付近(横浜市鶴見区)で義貞に与した従兄の千葉貞胤や小山秀朝の軍勢に敗れて鎌倉に引き返した』。『鎌倉に戻ると』、『鶴見の敗戦』を受けて、『軍勢を再編成していたが、洲崎の戦いで執権の赤橋守時軍が新田軍に敗れて壊滅すると、守時軍に代わって巨福呂坂を防備する。ここには新田氏の一族である堀口貞満に攻められ、戦いは五月二十日から五月二十二日まで激しく攻め続いたという』。『軍記物語「太平記」巻第十の「大仏貞直金沢貞将討死事」では貞将軍は連戦で兵力が八百人にまで減少し、自身も七か所に傷を負ったため、北条一門の篭る東勝寺に撤退して得宗の北条高時に最後の挨拶を行なった。この時に高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模の守護職を与えられたとしている。だが、当時の貞将は引付頭人一番の職にあり、また六波羅探題職もかつて在職経験があるため』、『逆に左遷に近い恩賞を与えられている事になる(恩賞になるのであれば』、『父・貞顕と同じ連署か執権への就任だけである)。それゆえ、「太平記」記述の両探題職は当時の著「沙汰未練書」の記述から六波羅探題ではなく、もう一つの意味の執権・連署を指し、連署には北条茂時がおり、一方で執権が赤橋守時の戦死によって空席の状況下、武蔵守から執権の殆んどが任官する相摸守への異動により、執権(第十七代執権)に任用されたと解する説がある』。『その後、貞将は「冥土への思い出になるでしょう」と御教書を受け取って戦場に戻り、新田軍に対して突撃を敢行し、嫡男の忠時ら』、『多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は「太平記」に壮烈な描写で記されており、高時から与えられた御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を捨て、公の一日の恩に報いる)と大文字で書き、それを鎧に引き合わせ(胴の合わせ目)に入れたのち、敵の大軍に突撃して討死にしたという。その姿に敵味方問わず』、『感銘を受けたとされる』。

「不敵」大胆不敵。敵になるものがないかのごとく、大胆にして恐れを知らぬさまを指している。

「この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり」やや先走るが、ウィキの「千早城」によれば、このように『幕府が千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が』三月二十三日(或いは閏二月二十四日か?)に『隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる。鎌倉幕府が滅亡するのは』、ここでの百日戦争『(千早城の戦い)が終了した』、僅か十二『日後のことであった』とある。

「山里(やまのさと)・梨原(なしはら)」の間。「山里」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)山野里(やまのさと)。「梨原」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原(なしがはら)。この中央附近か(グーグル・マップ・データ)。

「三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の「大和次郎」の注によれば、『吉備(きび)』(吉備国は現在の岡山県全域と広島県東部及び香川県島嶼部と兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部)を含む)『の豪族』とある。

「三石山」現在の岡山県備前市三石(東近くに兵庫県県境)にあるここ(グーグル・マップ・データ)。標高は二百九十七メートルと低い。

「加治〔の〕源二郎左衞門」先の山下氏の注によれば、姓としては「加地」が正しいようである。『宇多源氏の佐々木盛綱の子孫。盛綱が藤戸渡りの功』(「藤戸の戦い」は「治承・寿永の乱」での一戦。備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で、寿永三/元暦元年十二月七日(一一八五年一月十日)に行われた戦いで、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約五百メートルの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かったが、「吾妻鏡」によれば、波濤が激しく船もなかったことから、盛綱らが浜辺に轡を並べて躊躇していたところ、平行盛がしきりに挑発、盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま、郎従六騎を率いて、藤戸の海路三町(約三百二十七メートル)余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたとされる。ここはウィキの「藤戸の戦い」に拠った)『児島を賜ってから、この土地の豪族となった。現在、岡山市に可知の地名が残る』とある。

「高田兵庫〔の〕助が城」同じく山下氏の注によれば、『兵庫県赤穂郡上郡町に古くから高田郷の地名があった。その土地の豪族であろう。苔繩の東方に当る』とある。

「兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地中央にある標高七百二メートルの摩耶山(まやさん)山頂には、現在、近くに移転している(放火による全焼のため)真言宗佛母摩耶山忉利天上寺があった。

「伊豫國の住人土居(どゐの)二郎」(?~建武三(一三三六)年)は、まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県松山市土井町の豪族。土居通益(みちます)』とある。ウィキの「土居通増」によれば(「益」「増」の違いはままある)、『土居氏は河野氏の傍流で、伊予久米郡石井郷南土居に所領を構えていた』。元弘三(一三三三)年閏二月十一日、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である得能通綱・忽那重清』(くつなしげきよ 生没年未詳:伊予(愛媛県)忽那諸島を本拠とする水軍。後醍醐に呼応して挙兵、足利尊氏が建武政権に反すると、足利軍の追討に当った。建武三/延元元(一三三六)年、尊氏が九州から京都に向かうと、足利方に転じ、京都・安芸などで戦っている)『・祝安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した長門探題北条時直を、石井浜で敗走させた』。同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』その十一日後の三月十二日には、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた。また』、五月には『讃岐まで遠征』、『幕府方の勢力を破っている』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、伊予権介、続いて備中守に任官。南北朝の争乱が起こると、通増は通綱と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三年二月十日の『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した』。『また、同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破』っており、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍している』。同年十月十日、『南朝勢力再建のため』、『北国へ赴く義貞に従い、越前へ向かうが、その途中、険しい山路で知られる越前荒乳で斯波高経の襲撃に遭』い、『予想外の降雪による寒波と兵糧の不足する中、高経の攻撃を受け、通増は一族と共に戦死した』とある。

「得能(とくのうの)三郎」(?~延元二/建武四(一三三七)年)まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町徳能の豪族。得能通綱(みちつな)』とある。ウィキの「得能通綱によれば、『得能氏は伊予の河野氏の一族で、桑村郡得能荘を所領としていた』。この時、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝』(ほうり)『安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため』、以降、殆んど先の土居と同行しているが、煩を厭わず引いておくと、伊予へ進軍した長門探題北条時直を』『石井浜で敗走させ』、同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた』。五月には『讃岐まで遠征し』、『幕府方の勢力を破っている。また、村上義弘や忽那義範と共に水軍を指揮して幕府の糧道を封鎖する等、倒幕へ貢献した』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、備後守に任官。南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三(一三三六)年二月十日、『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した。同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破り』、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍した』。『南朝勢力再建のため北国へ赴く義貞に従い』、十月十三日に『越前金ヶ崎城へ入城するが、北朝方の斯波高経に城を包囲される(金ヶ崎の戦い)。通綱は奮戦したが』、翌年三月六日に戦死した。

「長門の探題」鎌倉後期、モンゴルの襲来に備えて、長門・周防防衛のために設けられた幕府の出先機関。長門周防探題とも称し、鎮西探題に準じて設けられた。建治二(一二七六)年に北条得宗家の北条宗頼(時頼の子で、時宗の異母弟)を長門・周防両国の守護として派遣し、敵襲の防衛に当らせたのが、事実上の初めで、以後、北条一族がその地位を相伝し、諸国の守護以上の強力な権限を与えられた。「探題」という称呼は、最後の同職に就いた北条時直在職 (一三二三年~一三三三年) の時に初めて見える。元弘三/正慶二 (一三三三) 年五月、時直が後醍醐天皇に降伏、長門探題は滅びた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上野〔の〕助時直(ときなほ)」北条(金沢)時直(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)。金沢流(実質初代。始祖は実時の父実泰であるが、実泰は若くして出家しているため)北条実時の子。ウィキの「北条時直」によれば、嘉禎三(一二三七)年に式部大輔に叙任、寛元四(一二四六)年から建長三(一二五一)年まで遠江守となる。永仁三(一二九五)年から文保元年(一三一七)年まで上野介・大隅守護を務めており、永仁五年には鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐している。元亨三(一三二三)年、周防・長門の守護に任命され、長門探題となった。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月十一日及び三月十二日に、『祝安親・土居通増・得能通綱・忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する』。しかし、五月、『厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ』たが、海上にあるうちに、『六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び』、『孤立無援となった』。このため、五月二十六日、『朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された』が、『程なく没した。死因は病死であったという』。因みに、彼の年齢は、嘉禎三(一二三七)年の式部大輔の叙任から推定して、生年は当然、嘉禎年間(一二三五年から一二三七年)より十年以上は前と考えねばならぬから、亡くなった時は優に百歳を越えていたと考えないと、辻褄が合わない。]

2018/06/12

北條九代記 卷第十二 楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

 

      ○楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

 

同五月[やぶちゃん注:正慶元(一三三二)年。]に、楠正成、又、天王寺邊に出張(しゆつちやう)す[やぶちゃん注:打って出た。]。六波羅より隅田(すだ)、高橋に五千餘騎を指副(さしそ)へて向けらる。正成、二千餘騎を以て、追落(おひおと)す。隅田、高橋、白晝に京都に逃上(にげのぼ)る。又、宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)、七百餘騎にて向ひければ、楠、聞きて、態(わざ)と、天王寺を引退(ひきしりぞ)きたり。宇都宮、是を面目として、同七月二十七日、京都に上洛せしかば、楠、又、入替りしに、近國遠境(ゑんきやう)の軍勢、馳付(はせつ)けて、今は大軍にぞなりにける。天下、既に亂逆に及び、國家、漸く傾敗(けいはい)[やぶちゃん注:国が衰え滅びること。]に至れども、相模守高時人道宗鑒(そうかん)は、行跡(かうせき)、更に改むる色なく、愈(いよいよ)恣(ほしいまゝ)に成りて、極信(ごくしん)正道の輩(ともがら)を隔てて近付(ちかづけ)ず、愛し仕ふる者とては、美女の媒(なかだち)、大酒(たいしゆ)の者、無道の利口[やぶちゃん注:道に外れた喋(しゃべ)くり。]、無益の内奏[やぶちゃん注:ここは内輪で申し上げる下らない話の意であろう。]、傾城[やぶちゃん注:遊び女(め)。]・双六(すごろく)[やぶちゃん注:双六の博奕打ち。]・猿樂[やぶちゃん注:猿楽法師。寺社に所属した滑稽な物真似や言葉芸をする職業芸能者。]・田樂[やぶちゃん注:田楽法師。予祝の田遊(たあそ)びやその派生芸を演じた僧形の職業芸能者。]、追從輕薄を以て世を謟(へつら)ふ輩(ともがら)、是を「善者(よきもの)」と心得て、朝夕に出頭せさせ、美酒、佳肴を前に列ね、終日(ひねもす)終夜(よもすがら)、醉(ゑひ)に和して、諸國の訴(うつたへ)をば、打捨てて聞く事なし。訴人、憂苦(うれへくるし)めども、知らず。鎌倉中に集置(あつめお)く所の美女三十七人、何(いづれ)も所領、二、三ヶ所を付けられ、この賂(まかなひ)[やぶちゃん注:この怪しげな大勢の連中を抱え続けるための賄いの費用。]の費(つひえ)、千萬とも限(かぎり)なし。新座・本座[やぶちゃん注:田楽で、新しく結成された新流行のグループと、旧来からあった伝統的なグループを、かく称した。]の田樂六十餘流、二千餘人、是を在鎌倉の大名、其分限に應じて、二、三人づつ、預けられ、美女、遊興の爲に高時一獻を勤め、田樂一曲を奏すれば、見物の中より、綾錦の小袖・大口[やぶちゃん注:「おほぐち(おおぐち)」大口袴。束帯を着用の際の表袴 (うえのはかま) の内側に穿く袴。裾口が大きく開いており、通常は表裏ともに紅 (くれない) の平絹を用いた。]・直垂・水干等の裝束を抛(なげ)出して、是を積む車、山の如し。八珍[やぶちゃん注:珍味。]の備(そなへ)、九獻[やぶちゃん注:何度も巡る献盃の儀。]の肴、數を盡して調味を飾る。高時入道、是に心を蕩(とらか)されて[やぶちゃん注:「とろかされる」の意。酒色に溺れて締まりがなくなり。]、夜晝の境(さかひ)を忘れ、その隙(ひま)には、唐(から)の、日本(やまと)の奇物を愛し、座に列ねて、翫(もてあそび)とす。或時、庭前に犬の嚙合(かみあひ)けるを見て、高時、面白き事に思ひ、是を好む事、骨髓に徹る[やぶちゃん注:すっかり夢中になる。]。媚(こび)を求むる佞人(ねいじん)[やぶちゃん注:言葉巧みに、表だけは諂(へつら)う、心の邪(よこしま)な者。]共、奇犬を求めて進ぜしに、世に奇犬を飼立(かひた)てて、犬一疋を、錢、二、三十貫より百貫に及びて買取り、魚鳥(ぎよてう)を飼うて食とし、錦繡(きんしう)を著(き)せて衣とす、金銀を鏤(ちりば)め、珠玉を飾りて[やぶちゃん注:その「お犬さま」の衣装や敷物・繫ぐ綱や紐などからの装飾として、である。]、高時に奉れば、思掛けざる恩祿に預る。人、科(とが)あるも、宥(なだ)めらる[やぶちゃん注:許されてしまう。]。道行人(みちゆきびと)も公犬(こうけん)[やぶちゃん注:「お犬さま」。]の通るに逢ひぬれば、馬より下(お)りて、笠を脱ぎ、道の傍(かたはら)に跪く。天下の諸國この風に效(なら)ひ、「鎌倉樣(やう)の犬合(いぬあはせ)」[やぶちゃん注:「樣」は「風の」の意。]とて地頭・御家人まで、儀式を整へて弄(もてあそ)ぶ。諸大名の手に、五疋・三疋づつ預りて、賞翫輕(かろ)からず、肉に飽き、錦(にしき)を著たる奇犬、鎌倉中に充滿して、四、五千疋に及べり。月に十二度(ど)の犬合には、一族・大名・御内[やぶちゃん注:「みうち」。御内人(みうちにん)。北条得宗家に仕えた武士・被官・従者。]・外樣(とざま)の人々、堂上堂下に座を列ねて、見物す。兩陣の犬共、二百疋を放し合(あは)せ、入違(いれちが)へ、追合(おひあは)せて、上になり、下になりて、噉合(かみあひ)ける有樣、其聲、天地に渉つて洋々たり。戰(たゝかひ)に雌雄を決し、郊原(かうげん)[やぶちゃん注:野原。]に尸(かばね)を爭ふに似たり。「皆、是、鬪諍(とうじやう)死亡の前相(ぜんさう)なり」と、心ある人は眉を顰め、汗を握る。是等の費に財寶を散(ちら)し、正税(ぜい)官物(くわんもつ)[やぶちゃん注:租税と上納物。]に募りて、民を貪り、百姓を虐(はた)りける[やぶちゃん注:「徴(はた)る」は、そうした税徴収や献上品を「催促する」以外に、「責め立てる・虐待する」の意をメインとしている。]程に、諸國の郡縣、人、悴(かし)け[やぶちゃん注:痩せ衰え。すっかりみすぼらしくなり。]、家、衰ふ。されば、『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひしは實(げ)にさる事ぞかし。高時入道は、奢侈(しやい)に躭(ふけ)りて、政道に暗く、管領長崎高資は、逆威(ぎやくゐ)[やぶちゃん注:悪逆非道な権威。]を振(ふる)うて、主君を輕(かろし)め、奢(おごり)の甚しき事、云ふ計(ばかり)なし。高時入道、竊(ひそか)に謀つて、高資が一族兵衞尉高賴(たかより)に仰せて、高資を殺さんとす。その事、顯れて、高賴、却(かへつ)て奧州へ流され、高資、愈、逆威強し。政理、邪(よこしま)に重欲を行ひ、人望に背く事、重疊(ぢうでふ)せしかば、上、恨み、下、憤りて、世の中、かく亂れ立ちたるこそ、淺ましけれ。

[やぶちゃん注:標題の「奢侈」は本文に出る通り、「しやい」とルビするが、これは現在と同じく「しやし(しゃし)」が正しい。「度を過ぎて贅沢なこと・身分不相応に金を費やすこと」の意。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻五の四項目「相模入道弄田楽(でんがくをもてあそび) 幷(ならびに) 鬪犬の事」及び、巻六の「楠出張天王寺事(くすのき、でんわうじにでばりのこと) 付(つけたり) 隅田(すだ)高橋 幷(ならびに) 宇都宮〔が〕事」を主として、「将軍記」の巻五の「七月」、「日本王代一覽」の巻六の他、「太平記評判祕傳理盡鈔」(たいへいきひょうばんひでんりじんしょう:江戸時代に広まった太平記」の注釈書。全四十巻。近世初期、日蓮宗の僧大運院陽翁(永禄三(一五六〇)年~元和八(一六二二)年?)が纏めたものと見られもので、「太平記」の本文に沿って奥義を伝授する体(てい)のもの。「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から、本文を論評した部分)から成る。ここはウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」に拠った)の巻三「主上御夢 付 楠事」に基づくとされ、『高時の行状について、『太平記』の犬を好む記事に『太平記評判秘伝理尽鈔』での奢侈ぶりを添え、高時が政道に暗く、家臣高資に侮られ』、『世情の乱れをもたらしたと批判する』と記されておられる。

「隅田(すだ)」隅田通治(みちはる)。藤原姓。和歌山県橋本市隅田出身の武士(新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注に拠る)。角川文庫「太平記(一)」で岡見正雄氏は『隅田党(紀伊国伊都郡隅田荘に拠った族的武士集団、此頃隅田通治が一族を率いている)の武士』とする。

「高橋」前書に『未詳』とする。同じく岡見氏は『紀伊国守護代であったか』と注されている。

「宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)」宇都宮公綱(乾元元(一三〇二)年~延文元/正平一一(一三五六)年)。例のサイト「南北朝列伝」のこちらには、非常に詳細な事蹟が載り、また、これ、「太平記」を紙芝居のように語っておられて、非常に面白い。引用させて貰うと、『下野の有力御家人・宇都宮氏の第』九『代当主で、南北朝動乱の前半を生きた』人物で、「太平記」でも『要所要所で登場し、良くも悪くも』、『印象に残る名物男でもある』とあされ、『宇都宮氏は宇都宮明神(現二荒山神社)の神官職から有力御家人となった一族。鎌倉幕府の草創期から配下の紀(益子)・清(芳賀)両党を率いて「坂東一の弓取り」と武勇の誉れが高かった。宇都宮公綱は初名は「高綱」だったとされ、これは当然』、『北条高時の一字を与えられたものである。「公綱」への改名時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡後と考えるのが自然ではなかろうか』とある。ここにある通り、楠正成が『天王寺方面まで進出し、六波羅軍を破って兵糧を確保』すると、『これを討つべく』、『関東からやってきていた宇都宮公綱が紀・清両党を率いて出馬することになる』。「太平記」では『両者の対決を講談調に面白く語っているが、時期が前年の』七『月にさかのぼらされており、内容をそのまま信用できるわけではない』と注意を促しておられる。取り敢えず、「太平記」に添うと、元弘三/正慶二(一三三三)正月二十二日、『宇都宮公綱は六波羅探題・北条仲時の指名を受けて』、『あえて自分一人、数百の小勢を率いて天王寺へ出陣した。正成は「宇都宮が小勢で出て来たのは決死の覚悟であろう。しかも宇都宮といえば坂東一の弓取りである。紀・清両党も戦場では命知らずの連中だ。そんな軍と戦ってはこちらも大きな被害を受けよう。この戦いで全てが決するわけでもない」と言って戦わずに金剛山方面に退却した。この「宇都宮出陣を受けて楠木軍が退却した」事実は公家の二条道平が』正月二十三日の『日記の中で「仙洞(上皇の御所)の女房から聞いた」と書いており、都でかなり評判となっていたことがわかる』。『勢いに乗った公綱は放火・略奪などの威嚇行動をしながら楠木軍の城(赤坂城か?)へ迫ったが、このとき正成が味方の野伏らに夜の山でかがり火をたかせ、あたかも楠木軍が大軍であるかのように見せかけたため』、『宇都宮軍は恐れを抱き、こちらも戦わずに撤退してしまう。ただし』、『信用のおける戦闘記録である』「楠木合戦注文」では、二十三日に『宇都宮の「家の子」の「左近蔵人・その弟右近蔵人・大井左衛門以下十二人」が楠木の城へ攻め入り、かえって生け捕りにされてしまったとの記事がみえ、結局戦況が悪いので』、二月二日、一先ず、『京都に帰ったというのが真相のようである』。この年、閏二月から「千早城の戦い」が始まるが、『楠木軍の奮戦で』、『まともな戦闘はひと月足らずで終わり、あとは持久戦となった』。「太平記」に『よれば』、『このとき』、『再び』、『宇都宮公綱が紀清両党を率いて出陣し、一時は敵城に肉薄するほどの奮戦を見せ、それがうまくいかないとみると』、『前面に兵を置いて防戦させながら、スキ・クワを手に』、『山城そのものを掘り崩して突破を図ろうとしたという(坑道戦を試みた可能性もあるが、「太平記」本文ではそうは読み取れない)。昼夜の作業を続けるうち』、『三日のうちに大手の櫓を崩すことに成功したため、他の武士たちも「最初からそうすればよかったんだ!」とみんなクワを手に土木作業に打ち込み始めた。しかし』、『さすがに』、『山一つを崩すまでには時間が足らず』、『結局無駄に終わってしまった』と、「太平記」は記すが、『このあたりの描写は「面白さ優先」の感が強く、そのまま事実と見るわけにもいかない』。五月七日、『足利高氏により』、『六波羅探題が攻め落とされ』二日後の五月九日、『そのことを知った千早城包囲軍は崩壊した。その主力は』、一先ず、『奈良に入って』、六月まで『様子をうかがったが、当初』、『奈良の入り口の般若寺の守りに入っていた公綱は』、『投降を呼びかける後醍醐天皇の綸旨を受け取って』、『一足先に京に入っている(「太平記」)。幕府軍の有力武将である公綱にわざわざ綸旨が出されたのは奇異にみえるが、同族の宇都宮通綱が』、五月十八日に『後醍醐側に投降して後醍醐の京都凱旋にも付き従っており、早くから投降のための工作をしていたらしい。宇都宮氏は関東の有力御家人であり、北条一門でもなかったので』、『投降させた方が得策、という後醍醐側の思惑もあっただろう』。『後醍醐天皇による親政「建武の新政」が始まると、公綱は有力武家として重んじられ、土地問題処理を目的とした「雑訴決断所」の奉行メンバーに名を連ねた。彼は畿内担当の一番に配置されているが、ここにはかつて名勝負(?)をした楠木正成も配置されている』(以下、「建武の親政」の破綻から、足利軍への投降、はたまた、後醍醐側への復帰、足利軍との攻防、後醍醐の尊氏との講和による京都への帰還、後醍醐の吉野入りへの追従はリンク先を読まれたい)。その後、『このあとどのように行ったかは不明だが、公綱は拠点の下野・宇都宮に帰還して』おり、延元二/建武四(一三三七)年八月、『奥州の北畠顕家が再度の上洛軍を起こすと、公綱はこれに呼応し』、『軍勢をひきいて合流した。ところが重臣の「清党」である芳賀禅可(高名)が公綱の嫡子・加賀寿丸(氏綱)を擁して宇都宮城にたてこもって足利方につき、北畠軍を妨害した。あくまで南朝につこうとする公綱に対し』、『宇都宮一族の中でも批判の声があがっていたことがうかがえる』。『結局』、『公綱は顕家に従って西上』、翌延元三/建武五(一三三八)年の『美濃・青野原の戦いにも参加している。その後』、『北畠軍は奈良から河内・和泉へと転戦し』たものの、五『月に崩壊すするのだが、この間』、『公綱がどこで何をしていたかはよく分からない。少なくとも顕家ともども戦死したわけではなくどこかで生きていたはずだが、自身の拠点である下野では自身の子である氏綱とそれを助ける芳賀禅可が足利方の旗幟を鮮明にしていたため、帰るに帰れずにいたのではないかと想像される。こうした事情からこれ以後の公綱の消息はほとんど分からなくなってしまう』とある。是非、リンク先の元を読まれんことを!

「『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひし」「餓莩(がへう)」は既注既出。現代仮名遣では「がひょう」。「莩」は、これだけでも「飢え死に」の意。以上は、「孟子」の巻之一の「梁惠王章句上」の四章に出る。

   *

梁惠王曰、寡人願安承教、孟子對曰、殺人以梃與刄、有以異乎、曰、無以異也、以刄與政、有以異乎、曰、無以異也、曰、庖有肥肉、廏有肥馬、民有飢色、野有餓莩、此率獸而食人也、獸相食、且人惡之、爲民父母行政、不免於率獸而食人、惡在其爲民父母也、仲尼曰、始作俑者、其無後乎、爲其象人而用之也、如之何其使斯民飢而死也。

   *

 梁の惠王、曰はく、

「寡人、願わくは安んじて敎へを承(う)けん。」

と。

 孟子、對えて曰はく、

「人を殺すに梃(つゑ)[やぶちゃん注:棍棒。]と刄(けん)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

「刃と政(まつりごと)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

 曰く、

「庖(くりや)に肥肉有り、厩に肥馬有り、民に飢色有り、野に餓莩(がへう)有り。此れ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(は)ましむるなり。厚く、民を斂(れん)して、以つて、禽獸を養ひて、民を飢えさせ、以つて死なせしむるは、則ち、獸を驅(か)つて人を食ましむるに異なること無し。獸、相食むすら、且つ、人、之れを惡(にく)む。民の父母と爲(な)りて、政を行ひ、獸を率ゐて、人を食ましむることを免れずんば、惡在(いかん)ぞ、其れ、民の父母爲(た)らんや。仲尼[やぶちゃん注:孔子。]曰はく、『始めて俑(よう)を作る者は、其れ、後(のち)、無からんか。」と。其の人に象(かたど)りて之れを用ひしが爲(ため)なり。之れ、如何(いかん)ぞ、斯(そ)の民をして、飢えて死なしめんとは。」

と。

   *

孔子の「俑」の部分であるが、この「俑」は、かの「兵馬俑」のそれと同じで、埋葬に従がわせるために拵えた木製の人形(ひとがた)を指す。孔子はこの習慣の中に、本来の殉死させたい願望を鋭く嗅ぎ取って、これを人間の尊厳に対する侮辱として憎んだのである。

「高資が一族兵衞尉高賴」(生没年不詳)は長崎高資の父長崎円喜(高綱)の弟。貞時・高時時代の御内人で、兄・高綱の補佐役として幕府奉行人を歴任した。「保暦間記」によれば、高時に甥に当たる高資の暗殺を命ぜられたが、失敗し、流罪となった。]

北條九代記 卷第十二 先帝配流 付 赤坂城軍

 

      ○先帝配流 付 赤坂城軍

 

正慶(しやうきやう)元年三月、常盤駿河守範貞、六波羅の職を辭して鎌倉に皈る。北條越後守仲時、同左近將監時益(ときます)、兩六波羅に補せられて、上洛す。仲時は北の方、時益は南の方にあり、同月、高時入道の使者長井〔の〕高冬、上洛し、兩六波羅と相談して、先帝後醍醐をば、隱岐國へながし奉り、一宮尊良親王は、土佐國に配流す。大塔宮は遁出(のがれい)でて、此彼(こゝかしこ)に隱れ給ひ、尊雲門主を還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、吉野の奧に籠り給ふ。同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり。去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時、兩六波羅の軍勢七萬五千餘騎にて攻めけれども、城、くして、物の數ともせず。鎌倉へ告げて、勢を請ひけり。相摸入道[やぶちゃん注:北条高時。]、大に驚き、一門[やぶちゃん注:北条一門。]、他家宗徒(たけむねと)[やぶちゃん注:他の有力御家人の一族。]の大名六十三人を催し[やぶちゃん注:召喚して。]、二十萬七千六百餘騎を差上(さしのぼ)す所に、陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して、笠置は落城せし事を、鎌倉勢、路次にて聞きたり。遙々と東國より上りたる大勢、殘多(のこりおおほ)く思ひて、楠正成が楯籠(たてこも)りし赤坂の城へ向ひけり。彼(かの)城は方、一、二町には過ぐべからず。其間に櫓(やぐら)、二、三十、搔双(かきなら)べたり。東國㔟、侮りて、四方より同時に押詰(おしつめ)ければ、案に相違して、寄手の討たる〻事、數知らず。寄手、厭(あぐ)みて、術(てだて)を替へて攻めかゝれば、城中、工(たくみ)を替へて防ぎけり。東國勢、三千萬騎、僅に城兵、四、五百人に防がれて、今は爲すべき樣(やう)なく、陣々(ぢんぢん)に櫓を搔き、逆茂木(さかもぎ)を引きて、軍(いくさ)を止(やめ)て、遠攻(とほぜ)めにぞしたりける。暫時の構(かまへ)、兵粮、少(すくな)し。二十日餘に、城中、只、四、五日の食あり。正成、諸卒に向ひて云ひけるは、「度々敵に勝つといへども、大勢なれば、討たれても、物の數ともせず。城中、食、盡きて、援兵、なし。天下の草創、一端にして止むべきや。謀(はかりごと)を好みて敵を惱ますは、勇士の爲(す)る所なり。暫く此城を開退(あけの)きて、東國㔟を歸し、又、打出でて襲(おびやか)し、軍勢、上らば、又、深山に引籠(ひきこも)り、四、五度も東國㔟を惱(なやま)したらんには、必ず退屈せざるべきや。是(これ)、身を全くして敵を討つの謀なり」とて、雨風の吹洒(ふきそゝ)ぐ夜を待ち得て、城兵、四、五人づつ、閑(しづか)に寄手の役所[やぶちゃん注:敵(幕府軍)の陣営。]の前を忍びて越出(こえい)馨でたり。正成も長崎が役所の後(うしろ)を通り、虎口に死を遁(のが)れて、金剛山(こんがうせん)の奧へぞ落集(おちあつま)りける。 その跡に、城に火を掛けたり。寄手、これを見て、「城は落ちたるぞや」とて、勝鬨(かちどき)を作りて、驅込(かけこみ)みつ〻、同士討(どしうち)して死するも多かりけり。燒靜(やけしづ)まりて後に見れば、正成、自害して燒けれる躰(てい)に作置(つくりお)きたり。寄手の軍兵等(ら)、是を見て、『楠正成は自害したり』と思ひて、「萬歳(まんざい)」を唱へながら、憐む者も多かりけり。

[やぶちゃん注:標題の後半「赤坂城軍」は「あかさかのじやう、いくさ」とルビする(「赤坂城」は本文と私の注を参照のこと)。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻四の掉尾「備後三郎高德〔の〕事 付(つけたり) 呉越軍(ご・ゑつ、いくさの)事」(前章から使用)に続いて、巻五の掉尾(六項目)である「大塔宮熊野落事〔をほたうのみやくまのをちのこと)」及び、巻六の二項目の「楠出張天王寺事 付 隅田高橋幷宇都宮事」(楠、天王寺に出張(でば)りの事 付 隅田・高橋幷(ならびに宇都宮(うつのみやが)事)をメインで使用している。

「正慶(しやうきやう)元年三月」「元德」二(一三三〇)年「十二」月の誤り。後の「北條越後守仲時」の注の下線太字部を参照。

「常盤駿河守範貞」北条範貞。既出既注

「北條越後守仲時」(徳治元(一三〇六)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)は鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。ウィキの「北条仲時」より引く。『普恩寺流で第』十三『代執権である北条基時』(非得宗。当時、実権は既に内管領長崎高資に握られていた)『の子。普恩寺仲時(ふおんじなかとき)とも呼ばれる』。元徳二(一三三〇)年十一月、『鎌倉を発って上洛』し、十二月二十七日、『六波羅探題北方となる』。『元弘の乱で、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し』、『挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流』し、『さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当』している。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻め』『落とされると』、五月七日、『六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われ』、『時益は討死し、仲時は』その後、『同国番場峠(滋賀県米原市)で再び』、『野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ』てしまい、『やむなく』、『番場の蓮華寺に至り』(滋賀県米原市番場にある現在の浄土宗(昭和一八(一九四三)年までは時宗大本山であったが、仲時一党が自刃した当時は現在と同じ浄土宗)八葉山(はちようさん)蓮華寺。ここ(グーグル・マップ・データ))、『天皇と上皇の玉輦』(ぎょくれん)『を移した後』、『本堂前で一族』四百三十二人と『共に自刃した』。享年二十八歳(『天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された』)。

「同左近將監時益(ときます)」北条時益(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。「北條越後守仲時」の注を参照されたい。但し、彼の南方着任は、先立つ、元徳二(一三三〇)年七月二十日で、八月二十六日に上洛している。

「同月、高時入道の使者長井高冬、上洛し」「同月」は正慶元(一三三二)年三月の大きな誤り。「長井高冬」(正和三(一三一四)年~貞和三(一三四七)年)は鎌倉末から南北朝時代の武将で、大江姓長井氏嫡流当主。通称は右馬助。参照したウィキの「長井挙冬」(これで「たかふゆ」と読む。「高冬」という表記は以下を参照)によれば、『鎌倉時代当時の史料や古文書から、当初は長井高冬(読み同じ)と名乗っていたことが判明しており』(下線太字やぶちゃん)、『「高」の字は執権・得宗の北条高時より偏諱を受けたものとされている』。『嘉暦年間に長井宗秀』『の遺跡を継ぐ形で、美濃国茜部荘正地頭となっており』、『長井氏惣領として活動していたことが窺える』。「元弘の乱」の勃発に『伴い、その沙汰のために太田時連とともに東使として上洛し』ているが、『鎌倉幕府が滅ぶと、高時からの偏諱を棄て』、『挙冬と改名』し、『後醍醐天皇によって始められた建武の新政では訴訟機関として設置された雑訴決断所の構成員となった。しかし、その後は建武政権に反旗を翻した足利尊氏に従い』、翌延元元/建武三(一三三四)年に、『同じ大江一族で後醍醐天皇に従っていた毛利貞親・親衡父子が尊氏の武家政権に対抗して挙兵した後には、尊氏の命により』、『貞親の身を預かっている』とある。彼の死後、『挙冬の系統は』『氏元(うじもと)・氏広(うじひろ)・兼広(かねひろ)と続き、その偏諱から察するに、長井広秀(ひろひで)の系統(武蔵長井氏)同様、鎌倉公方足利氏の支配下となったものとみられる』とする。

「尊雲門主」大塔宮護良親王は六歳の頃に「尊雲法親王」として天台宗三門跡の一つであった梶井門跡三千院に入院(彼が「大塔宮」と呼ばれたのは東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることによる)、正中二(一三二五)年(満十七歳)に門跡を継承し、門主となっていた(前に述べた通り、それ以後、嘉暦二(一三二七)年十二月から元徳元(一三二九)年二月迄、及び、その後の同年十二月から元徳二(一三三〇)年四月迄の二度に亙っては天台座主ともなっている)。

「同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり」前のクレジットが誤りなので、ここも無効であるが、前の内容の翌月である事実は正しい正慶元(一三三二)年四月。「湯淺權正」は湯浅宗藤(ゆあさむねふじ 生没年不詳)で鎌倉末期から南北朝時代の武士。ウィキの「湯浅宗藤」によれば、『紀伊国阿氐河荘(阿瀬川荘とも書く)を本領としたので、阿氐河孫六』(あてかわまごろく)『と称した。法名は定仏。父は湯浅宗国(宗親の子)』。元弘元(一三三一)年十月、『幕命により』、『楠木正成の拠る赤坂城を攻略し、その功により』、『地頭職を与えられ、赤坂城の守備を命じられた』。しかし、この正成の赤坂城奪還に『敗れ、湯浅党とともに降伏』、『以降は正成に従い、摂津、河内方面で幕府軍と戦』った。建武元(一三三四)年九月、『神護寺領紀伊国河上荘預所方雑掌職に補任され』、興国元/暦応三(一三四〇)年四月、『脇屋義助に従って四国に渡』っている。正平六/観応二(一三五一)年二月の『後村上天皇の摂津住吉社行幸に』は供奉している、とある。「楠が家人を入置(いれお)きたり」増淵勝一氏の訳の割注では、この家人を『平野将監入道』と割注する。これは武士で悪党の平野重吉(しげよし ?~元弘三/正慶二(一三三三)年)で、。ウィキの「平野重吉によれば、『「太平記」では平野将監と表記され』、「江戸譜平野氏系図」に『よると名は重吉とされ、父は平野重紀、母は八尾別当の娘とされる』。『持明院統に仕える西園寺公宗の家人であるが、同時に大覚寺統に縁のある僧とも繋がりがある』とし、元徳二(一三三〇)年九月、『この僧の仲介で、悪党の東大寺領長洲荘狼藉中止の要請を受けた際に、多額の金銭を要求し、断られると自らも大和や河内、摂津の約』四十『人の悪党による狼藉へ加わっ』ている(「東大寺宝珠院文書」)。『時期は不明であるが、元弘の乱で、倒幕を目指す後醍醐天皇に呼応し』、元弘二/正慶元(一三三二)年十一月に『二度目の挙兵をした楠木正成の支配下に入っており、千早城の戦いでは上赤坂城の城将(副将は楠木正季)として鎌倉幕府の軍勢と戦った』。「太平記」巻六「赤坂合戰事 付 人見本間拔懸事」に『よると、幕府方に城の水源を絶たれ』、翌元弘三/正慶二年閏二月、『幕府方大将北条治時に助命や本領安堵を約され』て『降伏するも、破棄され』、『軍奉行長崎高貞から六波羅探題へ引き渡され、京都の六条河原で処刑された』とある。

「去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時」元弘元(一三三一)年九月。参照。

「陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して」同じく本文と私の注を参照のこと。

「路次」向かう途中の意。

「殘多(のこりおおほ)く思ひて」気抜けしてしまい、戦意の向けようを考えて。

「方、一、二町には過ぐべからず」百九~二百十八メートルほどしかない。

「搔双(かきなら)べたり」建て並べて置いている。

「逆茂木(さかもぎ)」通常は古代から中世にかけての山寨・城郭の防御施設の一種で、敵の侵入や行動を阻害するために、茨の木の塊りや先端を鋭く尖らせた木の枝などを、敵陣方向に向けて高く並べ、それを連続的に結び合わせた柵。逆虎落(さかもがり)・鹿砦(ろくさい)・鹿角砦(ろっかくさい)などとも称した。

「遠攻(とほぜ)め」遠巻きにしておいて持久戦(後に出る「兵糧攻め」)に持ち込んだことを指す。

「天下の草創、一端にして止むべきや」反語。天下を引っ繰り返して大変革をせんとするこの気運、こんなどうということはない一場面で已んでしまいなどということはあり得ぬ!

「身を全くして」一つしかない命を全うして(捨てることなく)。

「長崎」増淵氏の訳の割注に『紫郎左衛門』の『尉泰光』とある。ウィキの「長崎泰光から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。長崎泰光(生没年未詳)は鎌倉後期の武士で、』『内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた』。『「系図纂要」の長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない』。『「泰光」という実名は「御的日記」(内閣文庫所蔵)と「太平記」で確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも徳治元年(一三〇六年)正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに』、『通称が「孫四郎」であったことが分かる。すると、延慶二年(一三〇九年)正月二十一日の北条高時の元服に際し』、『「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上しているが、これも泰光に比定される。尚、通称の変化から』、『恐らく』、『この間に左衛門尉に任官した可能性が高い』『「太平記」では「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門(尉)の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだが、前述の史料から』、『いずれも泰光を指すと考えられる。前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には正中元年(一三二四年)九月の出来事(いわゆる正中の変)で、東使として派遣されたのも』、『別の人物であり、この両名は元徳三年/元弘元年(一三三一年)五月五日』(「元弘の変」の時)『に上洛して』、『俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物を挙げたものである。後者は元弘三年/正慶二年(一三三三年)、長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し』、『新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される。尚、「梅松論」によれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという』。『建武二年(一三三五年)九月、朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれていることから、幕府滅亡後まもなくして』、『泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた(一三三三~一三三五年の間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である』とある。

「金剛山(こんがうせん)」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山、或いはそこを含めた金剛山地を指す。嘗ては「高間山」「高天山(たかまやま)」「葛城嶺(かづらきのみね)」と称された、金剛山地の主峰。標高千百二十五メートル。最高地点は葛木岳。現在は御所市の葛木神社の本殿の裏で、神域とされ立入れない(ここはウィキの金剛山(金剛山地)に拠った)。(グーグル・マップ・データ)。地図を御覧になると判る通り、正成の詰め城として知られる千早城は、この金剛山(こんごうさん:現行は普通、かく呼ぶ)の西にある一支脈の先端直近に築かれた山城である。]

2018/06/10

北條九代記 卷第十二 主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ

 

      ○主上笠置御籠城  師賢登山  楠旌を擧ぐ

 

元弘元年八月、關東の使、兩人、三千餘騎にて上洛し、近國の武士、我も我もと、六波羅に集る。「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり。宮より仰遣(おほせつかは)されければ、同二十二日の夜、主上は女車に召して、陽明門より出で給ひ、三條河原より御輿(おんこし)にて笠置(かさぎ)の石室(いはや)に臨幸なる。花山〔の〕院大納言師賢(もろかた)、萬里小路中納言藤房・同舍弟季房、三、四人、御供あり。源中納言具行(ともゆき)・按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)・六條少將忠顯(たゞあき)は、三條河原にて追付き奉りけり。大納言師賢卿は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり。四條大納言隆資・二條〔の〕中將爲明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)、供奉の躰(てい)にて從へり。西塔(さいたふ)の釋迦堂を皇居と定む。主上、山門を御賴(たのみ)有りて臨幸なりたる由、披露せしかば、山上・坂本は云ふに及ばず、大津・松本・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・和爾(わに)・堅田の者共まで、我も我もと馳參(はせさん)じけり。六波羅、大に驚き、四十八所の篝(かゞり)に畿内五國の勢を差添(さしそ)へて、都合、五千餘騎にて山門に押寄(おしよ)せ、散々に攻(せめ)けれども、山門の御勢、六千餘騎になりて、防戰(ふせぎたゝか)ふ。寄手、多く討(うた)れて、仕出(しいだ)したる事もなし。この間に、師賢、既に露(あらは)れて、主上にはあらず、と知れければ、軍兵共、皆、散々に成りて落失せたり。師賢も忍落(しのびお)ちて、笠置の皇居へぞ參られける。大塔宮も山門を落ちて、南都に赴き給ふ。主上、竊(ひそか)に楠多門(くすのきたもん)兵衞正成(まさしげ)を笠置へ召されて、武將の祕策を委(まか)せて御賴ありければ、正成、赤坂の城を構へて、旗(はた)を舉げたり。關東勢、押寄せて、攻めけるに、俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり。兩六波羅の軍勢、七萬五千人、笠置に取掛(とりか)けて攻めたりしに、大塔宮、師賢以下、皆、この城に集り居給ふ。陶山(すやまの)藤三義高、小見山次郎某(なにがし)、夜討(ようち)して、後(うしろ)の嶺より攻入りければ、城中亂れて、八方に落失せたり。主上は城を迷ひ出給ひ、山城國多賀郡まで落させ給ひけるを、深須(みすの)入道、松井〔の〕藏人、御輿(みこし)を奉り、南都の内山へ入れ奉る。其より宇治の平等院に成(な)し參らせ、關東の兩大將、主上を守護して、白晝に六波羅へぞ成し奉りける。大塔宮は十津川の邊に落隱(おちかく)れ給ふ。一〔の〕宮尊良親王以下の皇子(わうじ)、藤房、季房等の近臣は、皆、悉く捕(とらは)れ給ひ、敵の手に渡され、諸大名に一人づつ預置(あづけお)きたり。同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る。この君、御諱(いみな)をば量仁(かずひとの)親王とぞ申しける。後伏見院第一の皇子、御母は西園寺左大臣公衡(きんひら)公の御娘、廣義門院とぞ申しける。先帝後醍醐御卽位の後、關東より計(はから)ひて、東宮に立て參らせけり。今、卽位に即(つ)き給ひしが、御在位二年にして、正慶(しやうきやう)二年六月に、後醍醐帝、二度(ふたたび)、都に入り給ひ、復位ありける時に、又、御位を下居(おりゐ)させ給ひけり。一榮(えい)一枯(こ)、誠に定(さだめ)なき浮世の有樣、貴賤、皆、斯の如し。

[やぶちゃん注:標題の「楠旌を擧ぐ」は「くすのき、はたをあぐ」と読む。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、これ以降、最後まで、筆者は本格的に参考底本のメインを「太平記」に置いているとあり、本項は「太平記」巻第二の七項目の「天下怪異(けいの)事」から巻第四の最後(七項目)の「備後三郎高德(たかのりが)事 付 呉越(ご・ゑつ)軍(いくさの)事」

が利用されているとある。なお、本書では語られていないが、この「元弘の乱」が未然に発覚したのは、実は後醍醐帝の側近であった吉田定房(「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」に既注)が後醍醐のことを慮って六波羅探題に倒幕計画を密告したためである。

「笠置」現在の京都府相楽郡笠置町にある標高二百八十八メートルの笠置山。ここ(グーグル・マップ・データ)。山上を境内地とする真言宗鹿鷺山(しかさぎさん)笠置寺(かさぎでら)がある。

「師賢」花山院(藤原)師賢((正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。先の「後醍醐帝御謀叛」に既出既注。

「楠」楠正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。この元弘元/元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇の召しに応じ、笠置山の行在所に参向、河内赤坂城にて挙兵し、六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により、河内・和泉の守護及び河内の国守に任ぜられた。建武二 (一三三五)年に足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らとともにこれを討ち、一旦は撃退したが、翌年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。実は三つ前の「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」で、鎌倉幕府の命によって、渡邊右衞門尉一党の反乱、安田荘司の謀反を鎮定した人物としてさりげなく既に登場している。実は近年では一部の歴史家によっては彼は本来は北条得宗被官で、鎌倉幕府御家人であったとする説も有力な一説となっている(詳しくはウィキの「楠正成」を見られたい)。

「旌」単に「旗」の意でも用いるが、ここは旗竿のさきに旄(ぼう)という旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗で、天子が士気を鼓舞するのに用いた正規の勅許を得た官軍のシンボルとしてのそれを指す。

「關東の使、兩人」増淵勝一氏は『陸奥守北条』(大仏)『貞直ら』とされるが、これは翌九月の鎮圧部隊であって(他に江馬越前入道時見・金沢貞冬・足利高氏(後の尊氏)ら)、違う。諸資料では錯綜しているが、事実上の東使は後醍醐帝の内裏脱出(同年八月二十四日夜。本文の「二十二日の夜」は誤り)の後の九月十八日に着いた安達高景・二階堂道蘊(どううん)であろう。諸資料に載る八月二十二日東使到着というのは、実は「太平記」の記載を無批判に受け入れたもので、一次史料にそれを裏付けるものはない(ここは岡見正雄校注「太平記(一)」(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)に拠った)。

『「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり』という風聞が倒幕準備のためにそこにいた(彼はこれまでに二度、天台座主に就任していた)大塔宮護良(もりなが)親王のいた比叡山に伝わったのである。

「石室(いはや)」笠置寺には岩盤を刳り抜いた道場がある。無論、後に出る通り、別に行在所はじきに造られた。

「萬里小路中納言藤房」(?~永仁四(一二九六)年)「萬里小路」は「までのこうじ」(現代仮名遣)と読む。非常に詳しいウィキの「万里小路藤房」から引く。『公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う』。『江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の』一『人に数えられている』。文保二(一三一八)年二月の『後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる』。元亨三(一三二三)年一月、『蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため』、『「兄弟弁官例」と称された』。同四年四月、『参議に任じられて公卿に列し』、正中三(一三二六)年春、従三位・権中納言に叙任』、その後、『左兵衛督・検非違使別当を兼ね』、元弘元/元徳三(一三三一)年、『中納言に転正し、正二位に叙された』。しかし、『同年』、『天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)』、この八月、『四条隆資・北畠具行とともに天皇に供奉して笠置へ逃れた。行在所では、天皇が夢告により』、『楠木正成を召し出した時、その勅使を務めたという』。一『か月に及ぶ幕府軍との攻防の末』、九月二十八日に『笠置が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日』、『有王山で捕捉され』、『すぐに解官』となり、十月、『宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監』『の許へ預けられた』翌年四月、『幕府から遠流の処分が伝えられると』、五月、『京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の』元弘三/正慶二(一三三三)年六月には『治久を伴って上洛し、復官を果たした』。『建武政権下では初め、洞院実世の後任として恩賞方上卿となるが、「忠否ヲ正シ、浅深ヲ分チ」』『公平な処理を行おうとしたところ、内謁により不正に恩賞を獲得する者が多かったため、病と称して辞退したという。ただ』、建武元(一三三四)年五月の『恩賞方改編に際しては三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、この他、雑訴決断所の寄人を務めた。一方、後醍醐天皇に直言を呈することのできた硬骨漢としても知られ、出雲の塩冶高貞から駿馬が献上された際、洞院公賢がこれを吉兆と寿いだのに対し、藤房は凶兆と論じ、以下の点を挙げて政権を指弾したと』される。それは、①『為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っていること』、②『恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていないこと』、③『大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課したこと』、④『諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること』、⑤『源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと』、⑥『倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ』、『不当に恩賞が少ないこと』であったとされる。一方で、『藤房は武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返すも、天皇に聞き入れられないまま』、同年十月五日、『岩倉で出家。天皇は慌てて宣房に命じて藤房を召還させたが、既に行方を晦ましていたため、再会は叶わなかったという。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える』『他、各地に伝承が散見する』という。

「同舍弟季房」万里小路季房(?~元弘三(一三三三)年)は公卿で前の藤房の弟。ウィキの「万里小路季房」によれば、『子は仲房。季房は後醍醐天皇の倒幕運動に関わったが、子の仲房は北朝に仕え、万里小路家は北朝政権と足利将軍家で重きをなしていくことになる』(以下、任官が細かに記されるが省略する)。元徳二(一三三〇)年四月七日に『参議に任ぜられ』たが、『間もなく、元弘の乱に関わって』元弘元(一三三一)年十月五日に『参議を辞し』、同月十六日『には出家し』、その翌十七日、『武家に出頭し』で『幕府に捕縛され』、『その後、常陸に流罪とな』り、元弘三(一三三三)年五月二十日、『配所で殺された』(「東勝寺合戦」によって鎌倉幕府が亡ぶ二日前である)。『兄の藤房は京都に帰還できたが、季房のみが殺され』、『父宣房と母が嘆き悲しんだと『増鏡』にも記述がある』とある。

「源中納言具行(ともゆき)」北畠具行(正応三(一二九〇)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は公卿。村上源氏北畠家庶流の北畠師行の次男。ウィキの「北畠具行より引く。『北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家』四『代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった』。元弘元(一三三一)年、『後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)』翌年、『京極高氏(佐々木道誉)により』、『鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された』。『「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが』、『叶わず、その別れを惜しんだと伝』え、六月十八日『夜、二人は暫く談笑し、翌』十九日、『具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる』。『「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」』とされる。

「按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)」洞院公敏(とういんきんとし 正応五(一三九二)年~観応三/正平七(一三五二)年)であろう。例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、妹守子と娘が後醍醐天皇妃となっている。官位は按察使弾正尹・権大納言(正二位)洞院実泰の二男。「増鏡」は「公俊」と表記する。応長元(一三一一)年五月に参議となり、また、『按察使弾正尹に任じられたので「按察(あぜち)大納言」と呼ばれることが多い』『早くから後醍醐天皇に接近していたらしく』、元弘元(一三三一)年八月に『後醍醐が挙兵を決意して京を脱出する時に同行して一緒に笠置山に立てこもった。笠置陥落時に捕えられ』、『直後に出家し「宗肇」と号した。出家しても罪は許されず、小山秀朝に預けられ』、『下野国に流刑となった』(「太平記」は配流先を上総『とする)。「新後拾遺和歌集」に載る「思ひねと知りてもせめて慰むは都にかよふ夢路なりけり」という歌は配流先で詠んだものとされる』。『鎌倉幕府崩壊後に帰京し』、『政界に復帰したが、後醍醐天皇が吉野に入って南朝を開くのには同行しなかった』。『息子の実清は南朝に仕えたとされる』とある。

「六條少將忠顯(たゞあき)」公卿千種忠顕(ちぐさ ただあき ?~延元元/建武三(一三三六)年)。ウィキの「千種忠顕」によれば、『権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議』。正応三(一二九〇)年当時は、『東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた』が、『その後は後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父の六条有忠と敵対した。学問よりも』、『笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩、博打にかまけていたため』、『父から義絶されている』。この「元弘の乱」の後、後醍醐天皇が隠岐流罪に『処されると、これに随従し』、『翌年、天皇とともに隠岐を脱出』、『伯耆の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて』、『足利高氏や赤松則村らとともに六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広、親朝親子をはじめ』、『各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した』。『建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと』ともに、『権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など』三『ヶ国の国司職と北条氏の旧領』十『ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らとともに出家した』。当時、未だ若年であったと思われる忠顕の『出家は新政への批判が集まる中で』の、『詰め腹を切らされる形となったものと考えられている』。建武二(一三三五)年十一月、『足利尊氏が新政から離反すると』、翌年一月には『新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した』が、同年六月七日、『再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した』。なお、『建武の新政の功により、後醍醐天皇から莫大な恩賞を得て、忠顕は家臣らとともに日夜酒宴に明け暮れた。宴に集う者は』三百『人を数え、費やされる酒肴の費用は膨大な額に上った。数十間もある厩で肥馬を』五、六十『頭も飼育し、興が乗ると』、『数百騎を従えて』、『上京や北山へ繰り出し』、また、『犬追物や鷹狩に没頭した。狩りの際は豹や虎の皮を装着し、金襴刺繍や絞り染めの直垂を着用していたとされる』とある。

「大納言師賢」既出既注であるが、再掲しておく。花山院(藤原)師賢(正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。「大納言師賢は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり」は以上の注でお判り頂けるものと思う。

「四條大納言隆資」(正応五(一二九二)年~文和元/正平七(一三五二)年)は公卿。父は左中将隆実。後醍醐天皇の信任を得た南朝の公卿として知られる。「正中の変」(一三二四年)に関与したが追及を逃れ、嘉暦二(一三二七)年に参議、元徳二(一三三〇)年には権中納言。本「元弘の変」では後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉したが、一度、消息を絶ってしまう。しかし、正慶二/元弘三(一三三三)年の後醍醐天皇の帰京に際し、再び、姿を見せ雑訴決断所・恩賞方などに名を連ねた。南北朝分裂後は、天皇とともに吉野に赴いた。文和元/正平七(一三五二)年の男山八幡での足利義詮軍との戦いで戦死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「二條〔の〕中將爲明(ためあきら)」(永仁三(一二九五)年~貞治三(一三六四)年)は公卿で歌人。歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命ぜられたが、撰の途中で死去した。歌は「続千載和歌集」などにある。正三位・権中納言(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)」(生没年不詳)公家で武将。村上源氏。左少将、後に右中将。「太平記」によれば、当初より、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐運動に加わり、同天皇の隠岐配流中は護良親王の側近として、さらに建武新政下では天皇配下の武将として活動。建武三/延元元(一三三六)年五月の「湊川の戦い」で足利軍に敗れた後、同十月河内(大阪府)へ隠れて以降、消息不明である(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「皇居」行在所(あんざいしょ)。

「山門」比叡山延暦寺を指す。以下が「比叡山合戦」。

「披露」公表。

「坂本」比叡山東麓の、現在の滋賀県大津市坂本ここ(グーグル・マップ・データ)

「松本」現在の大津市内、松本石場附近。ここ(グーグル・マップ・データ)

「戸津(とづ)」現在の『大津市下阪本』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の浜の古名』と新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注にある。以下の山下氏注とするのは総てそれに基づく。こちらは「阪本」なので注意が必要

「比叡辻(ひえつじ)」現在の『大津市下阪本比叡辻(ひえつじ)町』(山下氏注)とする。現在の滋賀県大津市比叡辻(下阪本北部分も含むか)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)

「和爾(わに)」「太平記」の「師賢登山之事 付 唐崎濱合戰之事」では「和仁」。ここは現在の『滋賀郡志賀町内の地名』(山下氏注)とあるが、現在は大津市内の和邇(わに)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)

「篝(かゞり)に」洛中の警固所に常駐していた武士に、の意。

「仕出(しいだ)したる事もなし」当の目的である後醍醐天皇(実はここにいないが、いると思って六波羅軍は攻めている)を始めとする謀反一党を捕えることが出来ずにいる。

「赤坂の城」現在の大阪府南河内郡千早赤阪村森屋にあった下赤坂城。の附近(グーグル・マップ・データ)。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったらしい。ウィキの「下赤坂城」によれば、『熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策』(糞尿を撒いたとも聞く)『を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城』(本文の「俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり」に相当)、『正成は金剛山に潜伏し』、翌元弘二(一三三二)年には、『正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる』とある。

「陶山(すやまの)藤三義高」(生没年不詳)は例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『笠置山を陥落させた殊勲者』とし、『備中国陶山(現・岡山県笠岡市』金浦『)の武士』で、「太平記」の『巻三には』「陶山藤三(たうざう(とうぞう))義高」『として現れる』。『後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、それを攻める幕府軍に加わって』いた。『笠置山は難攻不落の要害で、幕府の大軍相手に後醍醐方はよく善戦し』、二十『日間以上も抵抗を続けた』が、『陶山義高は同じ備中武士の小宮山次郎と語らって抜け駆けの功名を狙い』、九月二八日の夜、五十人ばかりの『兵を率いて』、『風の中をおして』、『笠置山裏手の絶壁をよじ登り、後醍醐の行在所に火を放って』、『後醍醐方を混乱におとしいれた。この混乱をみて』、『正面から幕府軍も突入』、『笠置山は陥落、後醍醐らは逃亡したが』、『間もなく捕えられた。笠置山が背後の断崖からの奇襲で陥落したことは他資料でも確認できるが、陶山・小見山の名については』「太平記」のみが記しており、確認は不能である、とある。『その後、赤松円心軍が後醍醐側で挙兵して京都を攻めた』際、『「陶山次郎」なる者がこれを破り、その功績によって「備中守」となるが、足利高氏の寝返りによって六波羅探題が攻め落とされ、北条仲時以下』、『探題の一行が近江・番場で集団自決した時に、この陶山次郎も運命を共にしている。これを陶山義高のこととする人も多いが』、「太平記」では別人扱いされているようである、とある。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、姓は大江氏とする。

「小見山次郎某(なにがし)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小見山(岡山県井原市)の土豪』とする。

「山城國多賀郡」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町多賀。(グーグル・マップ・データ)

「深須(みすの)入道」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見の西、三栖(みす)の土豪』とする。

「松井〔の〕藏人」同じく山下氏の注によれば、『綴喜郡田辺町松井の土豪』とする。

「南都の内山」同じく山下氏の注によれば、『奈良県天理市杣之内(そまのうち)にあった内山永久寺。第五寺の末寺で、修験道(しゅげんどう)の寺』とある。廃仏毀釈によって明治初期に廃寺となった。(グーグル・マップ・データ)

「其より宇治の平等院に成(な)し參らせ」増淵氏の現代語訳には、この平等院に入った日付を『九月三十日』と補足してある。

「關東の兩大將」南都本「太平記」は北条(大仏)貞直と金沢貞将と明記する。これは関東から派遣された謀反討伐軍の大将で他にもいたことは前にも注した。

「十津川」奈良県吉野郡十津川村。奈良県の最南端の山間部。(グーグル・マップ・データ)

「一〔の〕宮尊良親王」(延慶三(一三一〇)年~延元二/建武四(一三三七)年)は後醍醐天皇の皇子で、母は二条為世の娘為子。宗良親王の同母兄。ウィキの「尊良親王」によれば、『幼少時は吉田定房に養育された』。嘉暦元(一三二六)年に『元服し、中務卿に任じられた』。元徳三(一三三一)年一月には『一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された』。『元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した』建武二(一三三五)年に『足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた』。延元二/建武五(一三三七)年一月、『尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという』とある。

「同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る」光厳天皇(正和二(一三一三)年~正平一九(一三六四)年)は持明院統の天皇(在位:元弘元年九月二十日(一三三一年十月二十二日)~元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日))。ウィキの「光厳天皇によれば、『後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が』、『自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇』百二十五『代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた』二代十五年の『間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った』とある。建武の親政の失敗以後の事蹟はリンク先を見られたい。

「後伏見院」(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)。

「西園寺左大臣公衡(きんひら)」

「廣義門院」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年)。後伏見上皇の女御で、光厳天皇及びその弟で北朝第二代の光明天皇の実母。参照したウィキの「西園寺寧子によれば、『北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室』の出自でないのに『治天の君となったのも、日本史上で』、『広義門院西園寺寧子が唯』一人である、とある。

「正慶(しやうきやう)二年」元弘三年。一三三三年。

「六月」五日。ユリウス暦七月十七日。]

2018/05/12

北條九代記 卷第十二 相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

 

      ○相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

嘉曆元年三月に、高時、既に剃髮し、法名をば宗鑒(そうかん)とぞ號しける。舍弟左近大夫泰家を鎌倉の執權として、金澤修理大夫貞顯と連署せさせんとしける所に、長崎新左衞門尉高資、同心せず、押(おさ)へて泰家を出家せしむ。泰家、大に憤妬(いきどほりねた)みて、貞顯を殺さんと計る。貞顯、思ひけるは、『枝葉(しえふ)の職に居て、身を苦め、心を惱(なやま)し、人の嘲(あざけり)を蒙(かうぶ)らんは、偏に世の亂根となり、家門の爲、然るべからず』。これとても、俄に入道して、相模守守時と北條左近太郎維貞(これさだ)と兩人を以て執權とす。泰家は、鎌倉、亡びて後に還俗し、西園寺の家に忍びでありけるが、刑部卿時興(ときおき)と名を替へて、謀叛しける人なり。維貞は、翌年十月に病死せられたりければ、自(おのづから)遺恨も止みて、別事(べつじ)なく成りにけり。元德二年二月に、主上、思召立ちて、南都に行幸ましましけり。同月の末に及びて、還御あり、又、北嶺に行幸(ぎやうかう)あり。是(これ)、更に佛法信心の爲にあらず、東夷(とうい)征伐の評議を以て衆徒の心を傾けられん謀(はかりごと)とぞ聞えし。當時、山門の貫主(くわんしゆ)は、主上第六の皇子、御母は大納言公廉(きんかど)卿の娘にて、梨本(なしもと)の門跡に御入室あり。承鎭(しようちん)親王の御門弟となり、圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に、實相眞如(じつさうしんによ)の月を弄(ろう)し、荊溪(けいけい)玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)を汲んで、本有常住(ほんうじやうじう)の德を澄(すま)しめ給ひし所に、主上、思召立つ事有りてより、行學修道(ぎやうがしゆゆだう)の勤(つとめ)を捨てて、勁捷武勇(けいせふぶよう)の稽古の外、他事(たじ)なし。大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王とは、この御事を申すなり。主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける。その中にも、大塔宮は殊に武勇智謀に長じ給ひ、主上の御爲、柱礎爪牙(ちうそさうげ)の猛將にて渡らせ給ひける所に、運命、空(むなし)く閉ぢて、後に關東に引下され、直義(なほよし)が爲に殺せられ給ひけるこそ口惜(くちをし)けれ。同五月、二階堂下野〔の〕判官、長井遠江守、二人、關東より上洛す。法勝寺(ほふしようじの)圓觀(ゑんくわん)上人、小野文觀(をのゝもんくわん)僧正、南都の知教(ちけう)、教圓(けうゑん)、淨土寺の忠圓僧正を六波羅へ召捕りたり。是は去ぬる比、主上中宮、御産の御祈(いのり)に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ、猶、主上御謀叛の子細を尋ねられん爲なり。又、二條中將爲明(ためあきら)は主上の近臣なりとて、六波羅へ召捕りて、拷問・水火(すゐくわ)の責(せめ)に及ばんとせし所に、

 

   思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは

 

常盤(ときは)駿河守範貞、この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。忠圓、文觀、圓觀の三僧は、關東へ倶せられて、主上御謀叛の事、具(つぶさ)に白狀せられければ、後に遠流(をんる)に所(しよ)せられけり。君の御隱謀、今は疑ふ所なしとて、同七月、俊基朝臣、重ねて鎌倉へ召下され、粧坂(けはいざか)にして斬れ給ふ。日野中納言資朝〔の〕卿は、佐渡の配所にして、本間山城〔の〕入道に仰せて、斬せられしかば、資朝の子阿新殿(あにひどの)、本間を殺して、父の仇(あだ)を報ぜられけり。資朝、俊基兩人は、殊に隱謀密策の張本(ちやうぼん)なる故とぞ聞えし。

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、後半の後醍醐帝行幸と俊基・資朝の処刑は「太平記」巻第二の一項目の「南都・北嶺行幸(ぎやうがうの)事」から六項目の「俊基被ㇾ誅(ちうせらるる)事 付(つけたり) 助光(すめみつが)事」が利用されている。

「嘉曆元年三月」十三日。一三二六年。正確には正中三年である。正中三年は後の四月二十六日に嘉暦に改元するからである。

「舎弟左近大夫泰家」第九代執権北条貞時四男で第十四代執権北条高時の同母弟である北条泰家(?~建武二(一三三五)年頃?)。ウィキの「北条泰家」より引く。『はじめ、相模四郎時利と号した』。ここで『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』第十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。正慶二/元弘三(一三三三)年、『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗』(彼が関東申次で親幕派であったことによる)『の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』(高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて幕府再興のために挙兵した「中先代(なかせんだい)の乱は、この二ヶ月後の七月)。その後、建武三年二月、『南朝に呼応して信濃国麻績御厨』(おみのみくり)『で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には』建武二年末に『野盗によって殺害されたとも言われて』おり、「太平記」でも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「金澤修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。「卷第十二 金澤家譜 付 文庫」に一部を注したので、それに続けて、ウィキの「北条貞顕」から引く(一部、前の「舎弟左近大夫泰家」の注とダブる)。正和五(一三一六)年七月に『北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった』。この時、『高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する』。三月十六日、『貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて』第十五『代執権に就任する。このとき』、『貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど』、『精力的な活動を見せた』。しかし、『貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家し』ている。『これにより』、『貞顕暗殺の風聞まで立ったため』、『窮地に立たされた貞顕は』十『日後』『に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)』。『そして新たな執権には』、四月二十四日に『北条守時が就任した』(嘉暦の騒動)。『出家後の貞顕は息子の貞将・貞冬らの栄達を見ることを楽しみにしていたとい』い、『六波羅探題南方として在京する貞将に鎌倉の情勢を伝えたりする役目も勤めている。なお、金沢流は貞顕の出世のため、貞将・貞冬の時代にも幕府の中枢を担うようになっていた』。元徳二(一三三〇)年閏六月頃、『貞顕は眼病を患っており』、閏六月三日付の『書状では子の貞将宛にそれを』伝えている。『新田義貞が上野で挙兵して鎌倉に攻め寄せ』た時には、『貞顕の嫡子の貞将と』、『その嫡男の北条忠時ら金沢一族の多くは』、『巨福呂坂を守備して新田軍と戦い』、『奮戦したが討死にした。そして』五月二十二日、『崇顕貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り最後の拠点として北条一族の多くと共に新田軍と少し戦った後、自刃した(東勝寺合戦)』享年五十六であった。

「相模守守時」第六代執権北条長時の曾孫にあたる北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「北條左近太郎維貞(これさだ)」第十一代執権北条(大仏(おさらぎ))宗宣の子で大仏流当主となった北条維貞(弘安八(一二八五)年或いは翌年?~嘉暦二(一三二七)年)。朝直の曾孫。ウィキの「北条維貞」より引く。嘉元二(一三〇四)年に『引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ね』正和四(一三一五)年には『六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した』が、元亨四(一三二四)年に『探題職の辞任を命じられ、鎌倉への帰還を命じられたが、このときに後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに空白の合間をぬって後醍醐天皇一派によって』、九月には「正中の変」が『引き起こされている。そ』の『変後の』十月三十日には『評定衆に返り咲い』ている。正中三(一三二六)年四月二十四日に『連署となり、第』十六『代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動』を受けての、『内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家して』亡くなった』。『家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが』、翌年に『早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。大仏一族はのち、家時が鎌倉幕府滅亡時に自決し、貞宗、高直らが降伏後に処刑されている』とある。

「維貞は、翌年十月に病死せられたり」誤り維貞の逝去は嘉暦二年九月七日(一三二七年九月二十二日)である。

「元德二年二月」誤り三月。「元德二年」は一三三〇年。

「南都」東大寺と興福寺。

「北嶺」延暦寺。

「山門の貫主」ここは延暦寺の貫主、天台座主(ざす)のこと。

「主上第六の皇子」これは最後に「大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王」とするので、かの悲劇の後醍醐天皇の皇子護良親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年七月二十三日鎌倉:「もりよし」とも読む)ということになる。「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた。『母は権大納言源師親の娘親子』。『鎌倉幕府追討のため』、『有力社寺との連絡を考慮した後醍醐天皇の意を受け、梶井門跡の大塔に入室』、嘉暦元 (一三二六) 年、落飾して尊雲法親王と称し、世に大塔宮といわれた。同』二年には『天台座主となり、関東調伏の祈祷をし、山門衆徒の収攬に努めた』元徳三 (一三三一) 年の「元弘の乱」が起こると、翌年、『還俗して護良と改名、吉野に兵をあげた。楠木正成の赤坂城が落ちてからは』、『幕府の追及を逃れて十津川。吉野。熊野などに転じ、各地の武士や社寺に反幕府の決起を促した。元弘三/正慶二 (一三三三) 年後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して征夷大将軍となり、兵部卿に任じられたが、まもなく足利尊氏との反目が起り、その勢力削減をねらって楠木、新田、名和氏らと画策したが』、『失敗』、『一方、成良親王の皇太子が廃止されるのを恐れた後醍醐天皇の後宮藤原廉子 (のちの新待賢門院) の讒言もあって』建武元 (一三三四) 年には『鎌倉に流されて幽閉され、同』二年七月に「中先代の乱」が『起ると、足利直義の命を受けた淵辺義博に弑殺された』。なお、彼が『大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである』とウィキの「護良親王」にある。

「大納言公廉(きんかど)卿の娘」そうなると後醍醐天皇の室の一人、二条為子を指すであるが、これは誤り二条為子の父は二条為世(ためよ)である(「大納言公廉」とは阿野(藤原)公廉で、その娘は後醍醐天皇の別な寵妃で後村上天皇(義良親王)などを産んだ阿野廉子である)。そもそもが、為子は尊良親王や宗良親王の母であって、護良親王の母ではない。ここは、北畠師親(村上源氏中院流)の娘で後醍醐のやはり別な室であった北畠親子でなくてはおかしいのである。因みに、どうしてこんな混乱が筆者に起こったのかを推理してみると、後醍醐天皇には室が大勢おり、皇子もさわにあって、しかも、それらの名が皇族であるから仕方がないのだが、「~良親王」という一字違いの名であること、護良親王と同じような働きをした皇子がおり、それがまた天台座主を勤めていたからではないかと思うのである。それが直前に出した、第百二十世・第百二十三世天台座主で後醍醐天皇の皇子で還俗した宗良親王(むねよし/むねながしんのう 応長元(一三一一)年~元中二/至徳二(一三八五)年?)なのである。彼は、当初、妙法院に入室し、出家して尊澄法親王と称し、同門跡を嗣ぎ、さらに天台座主となった(就任は元徳二(一三三〇)年)。父である後醍醐天皇が討幕活動を開始すると、行動をともにし、「元弘の変」(一三三一年)後、幕府方によって讃岐へ流されたが、幕府の滅亡と建武の新政で京に戻り、天台座主に還任した。しかし、南北朝内乱が始まると、また還俗して宗良と名乗り、父天皇の軍事面の一翼を担った。まず、伊勢に赴いて、その後、遠江井伊城に入った。一時、吉野に戻って、暦応元/延元三(一三三八)年九月には北畠親房らとともに、船で伊勢大湊から東国を目指したが、台風によって親王の一行のみ、遠江に漂着、再び井伊城に入り、以後、信濃を中心に北陸・関東に転戦した。南朝勢力が下降すると、信濃小笠原氏に押され、同国伊那地方に籠もったが、その間、何回か南朝行宮(あんぐう)に赴いている。和歌に秀で、歌集「李花集」があるほか、南朝関係者の和歌を集め、勅撰集に準ぜられた「新葉和歌集」を編集している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)という人物だ。これはどちらにも悪いが、何とも紛らわしいのである。

「梨本(なしもと)の門跡」増淵氏の割注に『現在の大原三千院。天台三門跡(皇子などの居住する特定の寺』で、後の二つは青蓮院と妙法院である)『の一』つ、とある。ウィキの「護良親王」によれば、六『歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した』とあり、この叙述と一致する。六歳というと、正和二(一三一三)年頃となる。

「承鎭(しようちん)親王」増淵氏の割注に『後宇多院養子、岩倉宮の子』とある。

「圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に」「圓頓止觀」は通常「えんどんしかん」と濁る。人格を完成させた完璧な悟りの境地を指す語で、総ての真存在の理法を完全に具備し(あらゆる存在がそのまま全体(円)として直ちに真実の法則に合致すること)、雑念なく、直ちに悟りに到る境地のこと。主に天台宗で「漸次止観」「不定止観」と合わせて「三種止観」と呼ばれる。「窓の前に」は、それを学ぶことの比喩。以下も同じ。

「實相眞如(じつさうしんによ)」「實相」と「眞如」は同じ存在体を異なる立場から名づけたもの。万有の本体。永久不変にして平等無差別なもの。即ち、涅槃・法身・仏性(ぶっしょう)を指す。

「荊溪(けいけい)」中国の天台宗の第九祖で天台中興の祖とされる湛然(たんねん 七一一年~七八二年)のこと。「荊渓尊者」「妙楽大師」と称された。初祖智顗(ちぎ)の著述の研究とその教学の宣揚に努めた。「溪」や「湛然」という名(「湛然」は一般名詞で「静かに水をたたえているさま・静かで動かないさま」の意)から、「玉」露の「泉」の比喩を成したのである。

「本有常住(ほんうじやうじう)」現行では諸宗派は「ほんぬじょうじゅう」と読んでいる。本来固有にして生滅変化することがなく、三世に亙って常に存在すること。仏性が一切の有情非情に本来的に平等に備わっており、無始無終の存在であることなどを意味する。

「勁捷武勇(けいせふ)」強靱にして素早いこと。

「主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける」後醍醐の子女は、ウィキの「後醍醐天皇」のデータで数えてみると、実に二十一人の皇子と二十三人の皇女がいる

「柱礎爪牙(ちうそさうげ)」ある対象(事物・行動)の大黒柱や土台石、重要な基本部分や根幹となるもの、また、外部からの攻撃や抵抗勢力に対する、爪や牙のような非常に強力な武器となることを言う。

「直義(なほよし)」足利直義(あしかがただよし 徳治元(一三〇六)年~観応三/正平七年二月二十六日(一三五二年三月十二日))足利貞氏の子で兄尊氏とともに建武政権樹立に貢献、建武二年の「中先代(なかせんだい)の乱」に際し、護良親王を殺害したことから、建武政権と決別、室町幕府創設後は尊氏を補佐したが、後、執事高師直(こうのもろなお)と対立し、兄尊氏とも不和となってしまう(観応の擾乱)。一時は和睦したが、再び尊氏と戦って降伏、鎌倉で四十七歳で死去した。兄による毒殺とされる(概ね、講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「同五月」叙述からは元徳二(一三三〇)年になってしまうので、誤り元弘元(一三三一)年

「二階堂下野〔の〕判官」二階堂時元(?~暦応元/延元三(一三三九)年)。二階堂元重の孫で行元の子。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『二階堂一族の一員として鎌倉幕府の政務官僚をつとめていた』。「太平記」ではこの『「元弘の変」の際に幕府の使者として「二階堂下野判官」』『時元が長井遠江守と共に上洛したと書かれているが、史実ではこの時の幕府の使者は別の二人と確認されており、時元が実際に上洛したかは不明である』とある。その後、正慶元/元弘三(一三三三)九月には『畿内の討幕派鎮圧のために派遣された幕府軍に参加(同族の二階堂道蘊もいた)。恐らく吉野や千早城の攻撃に参加し、そのまま幕府の滅亡を迎えて後醍醐側に投降したと思われる。他の二階堂一族と同様にその政務能力を買われていたはずである』とし、『足利幕府が発足するとこれに参画し、建武四/延元二(一三三七)年には『幕府の内談衆メンバーにその名がみえる』とある。調べてみると、二階堂氏の中には足利氏に転じて命脈を保った流れが結構あるようである。

「長井遠江守」不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『鎌倉幕府の実務官僚を多く出した長井氏の誰かと思われるが』、『実名不明』とある。

「法勝寺」(ほっしょうじ)は平安時代から室町時代まで平安京の東郊白河(現在の岡崎公園・京都市動物園周辺。この附近(グーグル・マップ・データ))にあった六勝寺(同時代に建立された「勝」の字を持つ勅願寺六ヶ寺)の筆頭とされた寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後に衰微廃絶した。

「圓觀(ゑんくわん)上人」弘安四(一二八一)年~延文元/正平一一(一三五六)年)は南北朝時代を代表する天台宗の高僧で、「太平記」作者説もある人物。サイト「南北朝列伝」のこちらに詳しく、『皇室の帰依も受け、後伏見・花園・後醍醐に円頓戒を授け、とくに後醍醐の信任を受け嘉暦元年』(一三二六年)『の中宮安産祈願にかこつけた倒幕の祈祷に文観とともに参加している』。ここにあるように、その一件が露見して『捕えられ』、六『月に取り調べのため』、『鎌倉に送られた』が、『「太平記」によれば』、『鎌倉についた円観は北条一門の佐介越前守に預けられ、文観・忠円が拷問にかけられ』、『白状したあと』、『円観も拷問にかけられようとしたが、北条高時が夢に比叡山の神獣・猿たちが円観を守ろうとする光景を見て、さらに佐介越前守が円観の様子を見に行ったところ』、『障子越しの円観の影が不動明王の姿に見えた。これらの奇跡を見て恐れをなした高時は円観の拷問を中止させ、当初遠流に決定していたところを奥州・白河の結城宗広に預けるという軽い処分で済ませた』とある。後に『幕府が滅ぼされ』、『建武政権が成立すると、円観は』『京に戻った』。『法勝寺住持に返り咲いた円観は、同じく流刑地から戻った文観と共に後醍醐から厚く遇せられ』、『「権勢無双」と称され、「法勝寺の僧」と聞いただけで関所の兵士たちが弓を伏せうずくまったと伝えられる』とある。

「小野文觀(をのゝもんくわん)僧正」(弘安元(一二七八)年~延文二/正平一二(一三五七)年:「もんがん」とも)は、やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の腹心となった僧侶。邪教とされる「真言立川流」の大成者とされ、その人脈と存在感から「南北朝動乱の影の演出者」「怪僧・妖僧」とまで呼ばれる』とある。「小野」は京都市山科区小野(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗小野随心院。小野小町所縁の寺としても知られる。珍しく私も行ったことがある。

「南都の知教(ちけう)」尊鏡(そんぎょう 文永二(一二六五)年~?)のこと。やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の討幕計画に参加した律宗僧。『太平記』では「知教」、花園天皇の日記では「智暁」、『鎌倉年代記裏書』では「智教」と表記されているが、その正体は西大寺の智篋房(ちぎょうぼう)尊鏡であることが近年研究者により解明されている』とある。

「教圓(けうゑん)」これは「太平記」に記載する名で、サイト「南北朝列伝」のこちらを見るに、慶円(ぎょうえん 文永元(一二六四)年~暦応四/興国二(一三四一)年)である。冒頭に『後醍醐の討幕計画に関与した唐招提寺の僧』とある。

「淨土寺」かつて銀閣寺(正式名称は慈照寺)の場所にあった天台宗寺院か。

「忠圓僧正」は生没年不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらを参照されたいが、それによれば、「太平記」『では忠円自身は呪詛には参加していなかったが、後醍醐に近い立場にあって仏教界に顔が広く、陰謀について知らないはずがないというのが逮捕の理由であったとされる(』『実際には呪詛に関与した可能性が高い)』。『忠円は円観・文観と共に鎌倉に送られ、足利貞氏(尊氏の父)の屋敷に預けられた』が、「太平記」によると、『忠円は元来』、『臆病な性格であったため拷問されそうになると』、『たちまち後醍醐の陰謀についてすべて白状してしまったという。幕府は忠円を越後国へ流刑にしたというが、その後の消息は不明である』とある。また「太平記」巻二十五では、『「観応の擾乱」の前触れとして仁和寺に護良親王ら南朝方の怨霊が集まり世を乱す陰謀を語る逸話があり、ここで忠円は峰僧正春雅・智教上人(尊鏡)と共に天狗の姿になって登場、怨霊たちがそれぞれに幕府の有力者にとりついて世を乱そうと提案している。忠円自身は高師直・高師泰兄弟の心にとりついて足利直義と争わせたことになっている。こうした描写からすると、忠円は配流先の越後で死去したということだろうか』と記しておられる。

「主上中宮」後醍醐天皇の中宮西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。太政大臣西園寺実兼の三女。

「御産の御祈に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ」ウィキの「西園寺禧子」に、『禧子は』正和四(一三一五)年に『第二皇女、懽子内親王(のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった阿野廉子に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった』。『なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが』、歴史学者『河内祥輔は関東申次として幕府にも強い影響力を及ぼした西園寺家を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども』、『鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している』とある。

「二條中將爲明(ためあきら)」二条為明(永仁三(一二九五)年~貞治三/正平一九(一三六四)年)。二条為藤の子で、歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命じられたが、撰の途中で死去した。歌は「続(しょく)千載和歌集」などにあり、勅撰入集数は計四十五首ある。

「思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の「二条為明」に「太平記」所収として、本歌を載せ、「補記」で、

   《引用開始》

太平記巻二「僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」。元徳三年=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れた際、為明は側近の歌人として六波羅に捕われた。拷問にかけられようとした時、硯を所望し、料紙にこの歌を書いた。幕府の使者たちはこれを読んで感涙し、為明はあやうく責を遁れたという。和歌としてすぐれた作ではないが、南北朝の政争に翻弄された歌人為明の人生を象徴するという意味では彼の代表作となろう。為明の歌人としての名声はこの一首によって高まったという(近来風体抄)

   《引用終了》

 

「常盤(ときは)駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主。父は北条時範、重時の曾孫である。北条貞時が得宗家当主であった期間内(一二八四年~一三一一年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたと見られる。正和四(一三一五)年に引付衆に任ぜられて幕政に参画。元応二(一三二〇)年には評定衆に補充された。元亨元(一三二一)年、六波羅探題北方に任命されて上洛、元徳二(一三三〇)年、北条仲時と交替するまで九年間、務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。元徳元(一三二九)年に駿河守に任ぜられている。「太平記」によれば、新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)とする。同じく「太平記」では北条貞将とともに六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。彼は歌人でもあり、勅撰集に三首収録されている(以上はウィキの「北条範貞」に拠った)。

この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。「所(しよ)せられけり」処罰された。

「同七月」これも前が元弘元年なので誤りで、月も違う日野俊基の処刑は元弘二(一三三二)年六月である。

「俊基朝臣」日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日))刑部卿日野種範の子。既出既注であるが、再掲しておく。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され、正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、この「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡(ここでは「化粧坂(けはいざか)」とするがこの切通しは葛原岡の南の上り坂口ではあるものの、そこで処刑されたのではないから、やはりおかしい)処刑された。

「日野中納言資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。やはり既出既注であるが、再掲しておく。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし、翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、この後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑されている。

「本間山城〔の〕入道」(?~正慶元/元弘二(一三三二)?)は佐渡守護代。サイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『本間氏は北条氏大仏流の家臣。佐渡守護の大仏家に代わって守護代として佐渡支配にあたっていた。実態としては守護代というより』、『現地地頭と言った方がいいとの意見もある』。『本間山城入道は』「太平記」巻二に登場し、『「正中の変」で佐渡へ流刑となった日野資朝を預かっていたが、「元弘の乱」が起こったために幕府の命を受けて資朝を処刑する役回りである』。「太平記」では元徳三/元弘元年の『うちに処刑される展開になっているが、史実では乱がひとまず鎮圧され』、『後醍醐天皇が隠岐へ流された後の』正慶元/元弘二(一三三二)年六月二日に『処刑が執行されている』。「太平記」では『処刑直前に資朝の子・阿新丸が佐渡までやって来て、本間山城入道は哀れには思って丁重に扱いつつも』、『父子の面会は許さぬまま』、『処刑する。そのために阿新丸に父の仇として命を狙われるが』、『代わりに息子の本間三郎が殺されてしまうという展開になっている』。『雑多系本間氏系図では』、『この山城入道に該当しそうな人物として「泰宣」がいる。この系図では彼が「山城兵衛尉」であったとしているためだが、「正慶元年六月十日死」と注記されており、これが事実であれば』、『資朝処刑の直後に死去したことになる』。しかし『一方』では新田の『鎌倉攻めで、大仏貞直に従って極楽寺切通しで奮戦した本間山城左衛門と同一人とする見方もある』とある。ともかくも、このサイト「南北朝列伝」の人名録は感服するほど素晴らしい!

「資朝の子阿新殿(あにひどの)」増淵氏の訳では、この「阿新殿」に対して『くまかわどの』のルビが振られており、平凡社「世界大百科事典」でも「阿新丸」として「くまわかまる」と訓じている。それによれば(コンマを読点に代えた)、元応二(一三二〇)年生まれで正平一八/貞治二(一三六三)年没とし、『鎌倉時代末の公家日野資朝の子。資朝は後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、事が漏れて捕らえられ、佐渡に流された』十三『歳の阿新は従者』一『人をつれて佐渡に渡り、守護本間入道に父子の対面を願ったが』、『許されず、父は殺されてしまった。復讐の機をねらう阿新は、ある夜』、『本間の寝所に忍び込んだが、入道は不在で果たせず、父を斬った本間三郎を殺して巧みに逃げ、山伏に助けられて都に帰った話が』「太平記」『にくわしく記されている。その後』、『阿新は邦光と名のって南朝の忠臣となり、中納言に任ぜられた』とある。]

 

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