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カテゴリー「「北條九代記」」の242件の記事

2018/02/19

北條九代記 卷第十二 後醍醐帝踐祚

 

      ○後醍醐帝踐祚

 

正和五年七月に、北條高時、十四歳にして、初(はじめ)て將軍守邦親王の執權となりて、評定の座に出でらる。北條相模守基時、執權の職を辭す。後に入道して信忍(しんいん)と號し、普恩寺と稱す。翌年三月に改元有りて文保元年と號す。高時、十五歳にして相摸守に任ず。然るに、高時は其天性(うまれつき)、甚(はなはだ)輕忽(きやうこつ)にして、智慮、尤(もつとも)、後れたり。頗る執權の器量に相應せすといへども、前代武州泰時より以来、嫡子相續の掟(おきて)あるを以て、秋田〔の〕城〔の〕介時顯、長崎』〔の〕入道圓喜、是を守立(もりた)てんとし、様々、計略を致し、諸人の心を執宥(とりなだ)め、高時の行跡(かうせき)を教へ參らせ、世を靜め、家を齊(ととの)ふとはすれども、兩人の内管領(ないくわんれい)、私欲深く、奢侈(しやし)を好み、權威を振ふ事、邪(よこしま)多かりければ、人望(にんぼう)に背く事、少からず。恨(うらみ)を負ふ、報(むくひ)を待つ者、近習、外樣(とざま)に、いくらも、あり。同二年二月二十六日、京都には御讓位の御事あり。主上、今年二十二歳、春宮(とうぐう)は既に三十歳に餘り給ふ。是は後宇多院第二の皇子、尊治(たかはるの)親王と申し奉る。御母は談天門院参議忠繼卿の御娘なり。皇子、既に春宮に立ちて、御年三十一歳に成らせ給へば、後宇多法皇を初め奉り、其方樣(かたさま)の人々は待兼(まちか)ねさせらるべし、とて、關東より計ひ申して、同二十九日、尊治親王、御位に卽(つ)き給ふ。先帝は花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す。時移り、事改(あらたま)り、此君、御位に卽き給ひ、内には仁慈の思(おもひ)深く、外には萬機(ばんき)の政(まつりごと)を施し、近代の明君、當世の賢王にておはしましければ、遠くは延喜天曆の跡を慕ひ、近くは後三條延久(えんきう)の例(れい)に任せ、記錄所(きろくしよ)へ出御(しゆつぎよ)有りて、直(ぢき)に訴陳(そちん)を決し給ふ。德澤(とくたく)、一天に覆ひ、恩惠、四海に蒙(かうぶ)り、絶えたるを繼ぎ、廢れたるを興し、悪を宥(なだ)めて、善を賞し給ひしかば、儒佛の宏才(くわうさい)、皆、共に望(のぞみ)を達し、寺社の碩學(せきがく)、各(おのおの)、既に所を得たり。誠に是(これ)、天に受けたる明君(めいくん)、地に奉ぜる聖主(せいしゆ)なりとて、上下、其化(くわ)に誇り、遠近(ゑんきん)、具德を仰がざるは、なかりけり。卽ち、是を、後醍醐天皇とじ申し奉りける。

[やぶちゃん注:「正和五年」一三一六年。

「北條高時」(嘉元元(一三〇四)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十四代執権(在職:(正和五(一三一六)年 ~正中三(一三二六)年)。ウィキの「北条高時」より引く。第九代執権北条貞時三男。延慶二(一三〇九)年に七歳で元服している。『元服に際しては烏帽子親の偏諱』『を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の』一『字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖』(あやか)『ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説』『を唱えたものの』、『根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたり』、『その正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと』『や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・資宗(助宗とも書く)の名字(名前の』一『字)を平資盛に求めた可能性があること』『を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず』、『得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式が』、『この時代に成立していたことが御家人の名前から窺え』、『これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している』。応長元(一三一一)年、九歳の『時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで三代の中継ぎ執権』『を経て』、この正和五(一三一六)年に父と同じ十四歳で、第十四代執権となった。しかし、『その頃には』既に『円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた』。『在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き』正中元(一三二四)年、『京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された』。しかし二年後の正中三年には病と称して二十四歳で『執権職を辞して出家』して崇鑑(すうかん)と名乗った。『後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こ』り、三月には非得宗の『金沢貞顕が執権に就任する』もたった十日で辞任、四月に非得宗の最後の執権(第十六代)赤橋守時が『就任することで収拾』した。元弘元(一三三一)年には、『高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる』。同年八月、『後醍醐天皇が再び倒幕を企てて』、『笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると』、幕府は『軍を派遣して鎮圧させ、翌』年三月には、再び、『後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立て』ている。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月、『後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する』が四月に『高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って』、五月七日に『六波羅探題を攻略。同月』八『日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する』十八『日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると』、二十二『日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年』二十九の若さであった。『後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった』が、『高時の実像を伝える当時の史料は少なく、これらの文献に描出される高時像には、足利尊氏を正当化し』、『美化するための誇張も』多く『含まれている』。「太平記」では、『高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため』、『鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている』。『更に、北条氏の礎石を築いた初代執権の北条時政が江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から』七『代の間』、『北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で』七『代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する』。「太平記」は『高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている』。こうした「太平記」に於ける『高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もある』。『では』、『実際の高時はどのような人物だったのかというと』、「保暦間記」は『高時の人物像について』、『「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した』金沢文庫古文書でも『彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。彼の虚弱体質の原因として、祖父・時宗さらには高祖父・時氏まで遡る安達氏を正室とした血族結婚にあると思われる。実際、彼の正室も安達氏である。また』、二条河原の落書には『「犬・田楽ハ関東ノホロ()フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬・田楽を愛好したことが幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが伺える』とある。『父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には』十四『歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており』、二十三『歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が』三『歳の時に起きた嘉元の乱以来』、『貞時が政務に対する意欲を失って』、『酒浸りの生活になっていたうえ、高時が』九『歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった』。『また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった』。『その一方で』、『高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんだことが知られている』。また、「増鏡」でも、『高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽・闘犬に興じることもあったと記して』あり、『また、田楽・闘犬を愛好したのは執権を退い』て『以降であったと記している』とある。実は彼もまた、権力闘争の中にあって形骸だけが利用された滅びの一族の一人であったのである。

「翌年三月に改元有りて文保元年と號す」「二月」の誤り。正和六年二月三日(ユリウス暦一三一七年三月十六日) に大地震などにより、改元。

「輕忽(きやうこつ)」軽率。

「兩人の内管領(ないくわんれい)」この場合は(元)内管領長崎円喜とその嫡男で(現)長崎高資を指す。現在では正和五(一三一六)年頃に、父から内管領の地位を受け継いで、幕府の実権を父とともに握ったと考えられている。文脈から秋田城介時顕と円喜と採っては誤りである。安達時顕は名門御家人の一族であって内管領ではない

「同二年二月二十六日」文保二年は一三一八年。

「主上」花園天皇。

「談天門院参議忠繼卿の御娘」後醍醐天皇の母五辻忠子(いつつじちゅうし 文永五(一二六八)年~元応元(一三一九)年)。「談天門院」(だんてんもんいん)は彼女の院号。後宇多天皇の後宮、女院(にょういん)。大覚寺統。

「後宇多法皇」大覚寺統。

「花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す」彼の御所は仁和寺の花園御所であったが、ここを寺に改めて妙心寺を開基している。正平三(一三四八)年十一月に、この花園萩原殿で死去した。

「萬機(ばんき)の政(まつりごと)」「萬機」は政治上の多くの重要な事柄であるが、特に帝王の政務を指す。

「延喜天曆」「延喜」醍醐天皇の治世。この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたことから、後に「延喜の治」と呼んで理想的な治世として賞賛されるようになった。「天曆」村上天皇の治世。彼は天慶九(九四六)年に即位した後、暫くは藤原忠平を関白に置いていたが、天暦三(九四九)年に忠平が没すると、以後は摂関は置かず、天皇親政の形をとった。後世、「延喜の治」と並称して聖代視された。しかし、ウィキの「天暦の治」によれば、『忠平の後に実際に政務をリードしたのは』、『太政官筆頭である左大臣藤原実頼であり、村上治世を天皇親政の理想の時代とするのは』、十一『世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったのだと考えられている』とある。

「後三條延久(えんきう)」後三条天皇(長元七(一〇三四)年~延久五(一〇七三)年/在位:治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の「延久の親政」。ウィキの「後三条天皇」によれば、彼は『桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出』し、『画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置』、『絹布の制』・『延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等』、『摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし』、「古事談」では、『これを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったため』、『天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった』。『また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようにな』った、とある。

「記錄所(きろくしよ)」政務実務室相当。

「訴陳(そちん)」訴人の告訴内容と被告側の弁明陳述。

「宏才(くわうさい)」広汎な知識を学んだ才人。]

2018/02/18

北條九代記 卷第十二 金澤家譜 付 文庫

 

      金澤家譜  文庫

 

同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる。基時は、是(これ)、相摸守重時には曾孫たり。彈正少弼業時には孫にて、新別當(しんべつたう)時兼が嫡男なり。貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり。後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す。後に稱名寺とぞ號しける。その子越後守顯時より、金澤を家號とし、稱名寺の内に文庫を立てて、和漢の群書を集められ、内外兩典、諸史、百家、醫、陰(おん)、神(しん)、歌(か)、世にある程の書典には、殘る所なし。金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり。讀書講學望(のぞ)みある輩は、貴賤道俗、立籠(たちこも)りて、學文(がくもん)を勤めたり。金澤の學校とて、舊跡、今も殘りけり。越後守顯時は、文武の學を嗜みて、書典の癖(へき)とぞなりにける。その子、貞顯、本(もと)より、學業の勤(つとめ)、怠らず。作文、詩章には、當時に名を得し人なりければ、執權の職に居しても恥(はづか)しからずとぞ聞えける。

 

[やぶちゃん注:「同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる」月日及び表現に誤まりと問題がある。非得宗の先の執権熈時が病没し、北条基時が第十三代執権(非得宗)となったのは、正和四(一三一五)年七月十一日で、言わずもがなであるが、基時が「執權」であり、その「連署」となったのが「貞顯」である。判り切っていても、表現がおかしいものはおかしいと言わねばなるまい。

「金澤家譜」底本では標題には「かなざはかふ」とルビするが、本来は「かなさは」が正統。北条氏の一族金澤(かねさわ)流北条氏のこと。「金澤」は鎌倉時代の武蔵国久良岐郡(くらきのこおり)六浦庄(むつうらのしょう)金沢郷(かねさはごう:現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後のことである。第二代執権北条義時の五男北条実泰(初名は実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄であった政村(義時の五男)の嫡系に次ぐもので、実泰の嫡男実時が政村の娘を、その子の貞顕が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を形成している。居館は、顕時が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われ、菩提寺は「金澤文庫」のある真言律宗金沢山(きんたくさん)称名寺である。以下、参照したウィキの「北条 (金沢流)」より引くが、言葉で理解するより、系図で見るのが一発で理解出来るので、リンク先にある「系図」をまずは参照されたい。『始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した』金沢流二代目に当たる『実時が実質的初代ともされる。実時は北条氏の総領得宗家の庇護を受けて有力御家人となり、叔父にあたる政村の娘を正室に迎える』。第三代『顕時は、執権・北条時宗の死後に幕政を主導していた安達泰盛の娘婿』となっていたため、弘安八(一二八五)年、『得宗家被官の内管領・平頼綱の策謀で泰盛派が粛清される霜月騒動が起こると、事件に連座して失脚、出家して隠棲している』が、永仁元(一二九三)年に第九代得宗執権の『北条貞時が頼綱を滅ぼして得宗家主導の幕政を復活させ、失脚していた泰盛派を復権させ、顕時も幕政に復帰』している。第四代『貞顕は連署として北条高時政権を支え、一時的に第十五代執権に就任している(後注参照)。『学問の家柄としても知られる金沢氏は明経道』(みょうぎょうどう:律令制の大学寮に於いて儒学を研究教授した学科)の『清原氏の家説に学び、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作』り、『六波羅探題として京都に赴任した貞顕も本格的に文献収集している』。『金沢氏の家名とされる六浦庄は、六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷から構成される』建保元(一二一三)年の和田合戦以降に『北条氏の所領となり、はじめは将軍家の関東御料で、金沢氏はその地頭職を勤めていたと考えられている。実政が鎮西探題として赴任』(文永一二・建治元(一二七五)年)『して以来は九州にも所領を持ち、幕府滅亡に際して鎮西探題が滅ぼされた後も、規矩高政』(きくたかまさ(北条高政) ?~建武元(一三三四)年七月?:父は金沢流で鎮西探題を務めた北条政顕(実政の子)であったが、鎌倉幕府最後の第十六代執権北条(赤橋)守時の弟で鎮西探題であった北条英時の養子となった。豊前国規矩郡 (現在の福岡県北九州市)を領したのでかく呼ばれる)『らが北九州を中心に北条残党を集めて抵抗している(規矩・糸田の乱)』。『初代・実義は将軍・源実朝を烏帽子親としてその一字を与えられたが、のちに得宗家の当主である長兄・泰時の一字を受けて「実泰」と改名している。以降も』第二代『実時が同じく泰時を』、第三代『顕時が時宗を』、第四代『貞顕が貞時を烏帽子親として一字を付与されていることから、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともに』、『それよりも一段階低い』、「得宗家を烏帽子親とする家系」と『位置づけられていたことが指摘されている』(下線やぶちゃん)。

「文庫」「金澤文庫」。北条実時が設けた日本最古の武家の文庫。当時の建築物は現存しない。ウィキの「金澤文庫」によれば、成立時期は実時が晩年に金沢の館で過ごした建治元(一二七五)年頃と推定されている。『北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設』、『文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり』、『収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し』、『「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継』ぎ、『室町時代には上杉憲実が』一度、『再興して』はいるものの、その後、文庫施設そのものは廃滅、やはり称名寺』が資料の管理を行った。現在の「神奈川県立金沢文庫」はその資料を受け継いだ県立歴史博物館であって当時の文庫そのものではない。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺〔附金澤文庫の舊跡 御所が谷 金澤の八木〕」前後の本文と私の詳しい注を参照されたい。或いは、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫」も、特に近世近代以降の視点から参考になるはずである。

「北條相摸守基時」(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。「普恩寺(ふおんじ)基時」とも呼ぶ。ウィキの「北条基時」によれば、『父は普恩寺流の北条時兼』(北条義時三男の重時の子業時(なりとき)の子)で、『子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる』。正安三(一三〇一)年六月七日に『六波羅探題北方として上洛』、乾元二(一三〇三)年十月二十日、『六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り』、『評定衆に列する(評定衆になっていない』とする『説もある)』嘉元三(一三〇五)年八月二十二日に引付衆となり、延慶三(一三一〇)年には『信濃守護に任命された』。この時、執権として就任し』ているのは、煕時と彼が第七代執権(非得宗)『北条政村を曽祖父に持』ち、『血縁的にはとこの関係にあった』ことに拠るか。七日後の七月十九日を以って『正五位下相模守に転』じた。しかし既に何度も述べている通り、『幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた』。しかも、翌正和五(一三一六)年になると、早くも『得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ』、この年の七月九日に、僅か満十一歳の『北条高時に執権職を譲り』、十一月二十日に出家、『以後は一線から離れたようで』、『中央政界に活動の様子は無い』。元弘元(一三三一)年九月、『後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた』。『基時はよく防衛したが』、五『日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため』、この合戦の二週間前、『近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した』。享年四十八歳で、辞世の歌は、

 待てしばし死出の山邊の旅の道同じく越えて浮世語らん

『であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる』とある。

「同修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。ウィキの「北条貞顕」によれば、『名の貞顕は北条貞時の「貞」と顕時の「顕」を組み合わせたものといわれる』。永仁二(一二九四)年十二月二十六日に『左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された』但し、『この官職は北条一門では低い』方『で庶子扱いであり、出仕が』十七『歳の時というのも遅いものである。これは』弘安八(一二八五)年十一月の『霜月騒動で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は安達泰盛の娘・安達千代野である)していたことが影響していたとされる』。永仁四(一二九六)年四月十二日に『従五位下に叙され』、直近の四月二十四日に『右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった』。五月十五日には『左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる』。正安二(一三〇〇)年十月一日には『従五位上に昇進し、これにより』、『霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した』、正安三(一三〇一)年三月に『父が死去すると、北条貞時より』、『兄らを飛び越えて』、『嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる』。正安四(一三〇二)年)七月、『六波羅探題南方に就任』し、その後、『中務大輔に転任』、嘉元元(一三〇三)年に『探題北方が北条基時から北条時範に交代すると、事実上の執権探題として京都の政務を仕切った』。『在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため』、『金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により』、『時範と共に弔問に訪れたりして』、『後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど』、『文化的活動を精力的に行なっている』(ここに「嘉元の乱」の際の話が載るが(貞顕の正室は北条時村の娘)、省略する)。延慶元(一三〇八)年十二月、『大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任』、延慶二(一三〇九)年一月に『鎌倉へ帰還した』。延慶二(一三〇九)年一月二十一日の北条高時の元服の式では『御剣役(元服する者の傍で御剣を侍して控える役)を務めた』。『この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後』、三月には引付頭人三番に『任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して』三『ヶ月ほどの貞顕が』『兄の甘縄顕実(』七『番)より上位にあることは』、『貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている』。四月九日には『北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった』。延慶三(一三一〇)年二月十八日に引付衆の再編によって『貞顕は引付頭人を辞職』、六月二十五日には、再び、『六波羅探題北方として上洛、その後、正和三(一三一四)年十二月に六波羅探題を退任して、帰鎌、翌正和四年七月十一日、ここにある通り、北条基時が執権になると同時に、貞顕は連署に就任している(以下は、以降で再び注することとする)。

「彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年又は仁治三(一二四二)年~弘安一〇(一二八七)年)は六波羅探題北方や連署を勤めた北条重時(義時三男)の四男。ウィキの「北条業時」によれば、『兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし』、第八『代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し』、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)』二『番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ』二『番手の家格となっている』とある。

「新別當(しんべつたう)時兼」北条(普恩寺)時兼(文永三(一二六六)年~永仁四(一二九六)年)父は業時。母は北条政村の娘。父が陸奥守であったことから「陸奥三郎」と呼ばれた。弘安九(一二八六)年に四番引付頭人、永仁三(一二九五)年に評定衆であったことが確認される。「新別當」の呼称の意は不詳。普恩寺は所在地不詳の鎌倉御府内にあった寺(廃絶)であるが、これは彼の子である基時の創建であるから、実際の寺との関係性はない。或いは、基時が普恩寺を創建し、一門の名を「普恩寺」とした際、想像であるが、一流の始祖である祖父北条業時を初代「別当」と擬え、その息子の父を「新別当」と呼んだのかも知れない

「貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり」意味は取り違えようがないが、「なり」がまずい。「貞顯」(が一門の濫觴)「は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人」の「あり」、「この方」、「後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す」と続いて意味が通る。北条実泰(承元二(一二〇八)年~弘長三(一二六三)年)は北条義時四十六歳の時の子。ウィキの「北条実泰」によれば、元は実義(さねよし)を名乗った。元仁元(一二二四)年、十七歳の時に『義時が急死し、母伊賀の方が同母兄政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名した』『のもこの頃とみられる』。寛喜二(一二三〇)年三月四日、『兄重時の六波羅探題就任に伴い』、二十三『歳で後任の小侍所別当に就任する』。『しかし』、『実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さに耐えられず、精神の安定を崩したと見られ』、四年後の天福二(一二三四)年六月二十六日の朝には、『誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂されたという』(「明月記」同年七月十二日条)。また、彼には怪異現象や妖しい発言などがあったらしく、「明月記」の著者藤原定家は「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べているという。同六月三十日、『病により家督を』十一『歳の嫡男・実時に譲って』二十七『歳で出家した』とあるから、「溫良仁慈の聞(きこえ)」どころか、尋常な様子でさえ、ない。「越後守實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金澤流北条氏の実質初代で、母は天野政景(石橋山の戦いに父と参戦した直参の御家人)娘。ウィキの「北条実時」によれば、天福元(一二三三)年、十歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第』三『代執権の北条泰時の邸宅において元服』、『烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)』。翌文暦元(一二三四)年、『出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は』二『人に対し』、『「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた』(「吾妻鏡」に拠る)以後、三度に『わたって同職を務め』さらに第四代執権北条経時及び第五代北条時頼の『政権における側近として引付衆を務め』、建長五(一二五三)年には評定衆となっている。文永元(一二六四)年には『得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり』、第八代執権の『北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった』。『文永の役の翌建治元』(一二七五)年『には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住』、『蔵書を集めて金沢文庫を創設』したが、翌年に逝去した。『文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して』、『法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学』んだ。『源光行・親行父子が校訂した河内本』「源氏物語」『の注釈書を編纂する』などもしている。

「顯時」金澤(北条)顕時(宝治二(一二四八)年~正安三(一三〇一)年)は、正室が安達泰盛の娘千代野で安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより、縁戚連座で逼塞を余儀なくされたが、その後に第九代執権北条貞時の信頼を回復して復権、顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えている。ウィキの「北条顕時によれば、文応元(一二六〇)年に『将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学』んだ。弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」では』、『金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲』、『出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり』、『出家したため』、『助命されている』。永仁元(一二九三)年四月に『執権北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼし』、その僅か五日後の四月二十七日、『顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰』(「武家年代記」)、十月には『貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された』。永仁二(千二百九十四)年には引付四番頭人、二年後には三番頭人となって、『赤橋館を与えられ』ている。『晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという』。『顕時は父に似て好学で』、『金沢文庫の成立に寄与した』。彼の死去後は、『跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて』、『得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる』のであった。

「内外兩典」仏教の正式なものと認められた経典である「内典」と、仏教以外の書物である「外典(げてん)」。本来はインドの外道(げどう)の書物を指したが、日本では主としてフラットな意味での仏教経典以外の参考に供し得る儒学書を指す。

「陰(おん)」陰陽道(おんみょうどう)の関係書。

「神(しん)」神道系の関係書。

「歌」和歌集や歌学書。

「殘る所なし」余す所なく、蒐集した。

「金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり」私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」「金澤文庫舊跡」に印像があるので見られたい。但し、そこには『或はいふ、儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とあり、そこで私は注して、『これらは幕府崩壊後、室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押された蔵書印とも言われるが、日本最古の蔵書印であることに変わりはない』とも述べた。

「學文(がくもん)」「學問」に同じい。

「書典の癖(へき)」愛書家。古書蒐集家。読書家。]

 

北條九代記 卷第十二 北條相撲守貞時卒す 付 高時執權家督 竝 北條凞時病死

 

 ○北條相撲守貞時卒す  高時執權家督  北條凞時病死

 

同十月二十六日[やぶちゃん注:応長元年。ユリウス暦一三一一年十二月六日。この年は閏六月があったために西暦とのズレが大きい。執権師時の死後三十三日後(前月九月は小の月)で、ほぼ一ヶ月後でまさに後を追うように亡くなっている。]、北條相摸守貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既注通り、「崇演」の誤り。]病死し給ふ、年四十一歳[やぶちゃん注:誤り。享年数えでも四十歳。満三十九歳。]、最勝園寺(さいしようおんじ)と號す[やぶちゃん注:正式な戒名は「最勝園寺覺賢」。]。年來、所勞[やぶちゃん注:病気がちであること。]の氣に依て、引籠られけれども、天下の政理を大事に思はれ、世の怨(うらみ)、人の憤(いきどほり)負をはぬやうに、と思はれければ. 小大となく遠慮深(ふか)くおはしましけるに、終(つひ)に行く道は誰(たれ)とても遁れざる事なれば、是非なく、白日(はくじつ)の本(もと)を辭して、九泉(きうせん[やぶちゃん注:「幾重にも重なった地の底」の意で、死後の世界。黄泉(こうせん)。黄泉路(よみじ)。])に赴き給ふ。去ぬる弘安七年[やぶちゃん注:一二八四年。]より、正安三年[やぶちゃん注:一三〇一年。]に至る、執權の當職十八年、剃髪の後十ヶ年、首尾二十八年、晝夜に心を勵(はげま)し、思(おもひ)を凝(こら)して、世を取靜(とりしづ)め給ひけり。嫡子太郎高時、僅に九歳なり。北條陸奥守宗宣(むねのぶ)、同じく相摸守の熈時(ひろとき)、兩人、執権、連署(れんじょ)致されしに、内管領(ないくわんれい)長崎入道圓喜と、高時の舅(しうと)秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)と貞時入道の遺言を受けて、高時を輔佐す。圓喜は平左衞門賴綱が甥にて、光綱と云ふ者の子なり。然るに、正和元年六月[やぶちゃん注:一三一二年。]に北條宗宣、俄(にはかに)に死去せられしかば、諸事の政理、悉く、熈時一人、是を勤めらる。長崎圓喜、城〔の〕介時顯、漸々に威を振ひ、京、鎌倉の支配、大名、小名の式禮、皆、既に濫吹(らんすゐ[やぶちゃん注:致命的に秩序が乱れること。斉(せい)の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで、楽人を大勢、集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いている真似をして俸給を貰っていたという「韓非子」の「内儲説 上」の故事に基づく故事成句。「濫竽(らんう)」とも言う。])して賄(まひなひ)に耽り、私欲に陷り、侈(おごり)を好みて肆(ほしいまゝ)なり。萬(よろづ)、往始(そのかみ)にもあらず覺えて[やぶちゃん注:万事が以前とはすっかり様変わりしてしまったように感ぜられて。]、古(いにしへ)を慕ひ、今を恨むる人も多かりけり。か〻る所に、同四年[やぶちゃん注:正和四(一三一五)年。]七月上旬の比より、北條熈時、瘧病(ぎやくへい)[やぶちゃん注:瘧(おこり)。マラリア。]の患(うれへ)に罹り給ひ、其、發(おこ)る時には、寒戰(かんせん)[やぶちゃん注:振戦(しんせんせん)。激しい痙攣的な震(ふる)え。]の甚しき事、屋室(おくしつ)も共に震動し、壯熱(さうねつ[やぶちゃん注:激しい発熱。])する事は、火に燒くが如し。時々、譫言(せんげん[やぶちゃん注:うわごと。所謂、アルコール中毒症状の後期などに見られる振戦譫妄(せんもう)様状態と同じ。])ありて、鬼物(きぶつ)を見るに似たり[やぶちゃん注:熈時自身が恰も物の怪を見て恐れ戦いているかのようにさえ見受けられた、の意。]。典藥頭(てんやくのかみ)盛國、藥石の妙術を盡し、順逆(じゆんぎやく)二劑[やぶちゃん注:体温を下げる作用を持つ薬と、その逆に、体温を上昇させる作用を持つ薬の二剤。]、攻補(こうほ)[やぶちゃん注:熱を積極的に下げる治療に、下がり過ぎる体温を一定値で保持することを言っているか。]、兼用(かねもち)ひて、百計すれども、効(しるし)なし。陰陽師(おにゃうじ)泰元(やすもと)、符(ふ)を書きて、禳祭(じやうさい)の法[やぶちゃん注:「禳」は「厄を払う」こと。]を行ひ、諸社寺、諸社の祈禱、肝膽(かんたん)を碎きけるに、靈鬼の形(かたち)、幻(まぼろし)に見えて、恐しさ、限なし[やぶちゃん注:熈時自身の気持ちになって書いている。明らかに彼は怪しい霊や悪鬼を幻覚に見て恐れているのだと筆者は理解しているように読める。]。辛うじて瘧病(ぎやくへい)は截(き)りたりけれども[やぶちゃん注:マラリア(の激しい発作症状)は断ち切ることが出来たけれども。但し、マラリアは回帰性で、無論、これは快癒したのではない。]、食事、打絶えて、起臥(おきふし)も叶はず。只、朦々(もうもう)として[やぶちゃん注:朦朧として。ぼんやりと腑抜けのようになってしまって。]、漸々、病勞羸瘦(びやうらうるゐそう[やぶちゃん注:病的に異常に瘦せ細って。])し、同二十六日[やぶちゃん注:誤り。七月十一日(一三一五年八月十一日)。]に、遂に卒去し給ひけり。極樂寺に葬送して、新(あらた)に一堆(たい)靑塚(せいちよ)[やぶちゃん注:一山(ひとやま)の新しい塚(つか)。]の主(ぬし)となし參らせ、法名をば道常(だうじやう)とぞ號しける。近比(このころ)、京都鎌倉の有樣、何事に付きても心を延(のぶ)る樂(たのしみ)はなく、眉(まゆ)を顰(ひそ)め、息(いき)を伏(ふく)し、冷笑(にがわらひ)にて月日を送り、打續きたる無常の憂(うれひ)[やぶちゃん注:訃報。]に、世は末になり、運は傾(かたぶ)きぬと、未然を計つて[やぶちゃん注:これからのこの世の暗雲立ち込めたるようなる行く末を思って。]、歎く人も、ありとかや。

 

[やぶちゃん注:「北條陸奥守宗宣(むねのぶ)」かっちりと独立して注していないのでここで掲げておく。基本はウィキの「北条宗宣に拠った。北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(千二百五十九)年~正和元(一三一二)年七月十六日)鎌倉幕府第十一代執権(非得宗:在職:応長元年十月三日(一三一一年十一月十三日)~正和元年五月二十九日(一三一二年七月四日))。北条宣時(彼は北条大仏流の祖である朝直の子であり、朝直は北條時政の子で義時の異母弟時房(幕府初代連署))の子である)。『大仏家の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗』った。弘安九(一二八六)年に引付衆となり、永仁五(一二九七)年からは、『六波羅探題南方に就任』、乾元元(一三〇二)年まで在京した。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日に発生した北条宗方の謀叛、『嘉元の乱においては得宗の北条貞時』『の命令で北条宗方を討っ』ている。同年七月二十二日、『その戦功により』、『連署となる』。応長元(一三一一)年九月二十二日、『執権であった北条師時の死去により』、十月三日に『連署から昇格して第』十一『代執権に就任した』。実際には永年、『貞時と対立した宗宣』であったが、そ『の執権就任は貞時がすでに病身だったためと思われる。しかし幕政は内管領・長崎円喜に実権を握られ』、事実上は全く『政治をみることができなかった』と言ってよい。正和元(一三一二)年五月二十九日に『執権職を北条煕時に譲り』、出家、六月十二日に享年五十四で逝去している。歴史学者『細川重男は嘉元の乱の背景』自体『に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は』、『時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として』、『大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては』『鈴木宏美が』「北条氏系譜人名辞典」で『反証して』おり、『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで』、『北条一族のなかで重んじられていたとする』のであるが、『実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々』、『幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』。『ことから、要職には就ける代わりに』、『得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「長崎入道圓喜」(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条氏得宗家被官である御内人(みうちにん:北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の総称)の内管領(ないかんれい:北条得宗家の執事で得宗被官である御内人の筆頭位置の者を指し、「御内頭人(みうちとうにん)」とも称した。「得宗の家政を司る長」の意で、幕府の役職名ではない)。長崎氏(平清盛の孫資盛の系統と称した北条得宗家の家令となった平禅門の乱で知られる平盛綱を祖とする)の一族。父は長崎光綱(平頼綱の近親者とされるが、頼綱の弟(父は平盛綱又は平盛時)とする説や、長崎光盛の子で頼綱の甥又は従兄弟とする説があって確定していない)。円喜は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。以下、概ね、参照したウィキの「長崎円喜より引く。「太平記」「保暦間記」において、『嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている』。『史料上の初見は一族である平頼綱が滅ぼされた平禅門の乱の翌年』、永仁二(一二九四)年二月、第九代執権『北条貞時の使者として御持僧親玄を訪れた記録である。同年、貞時の側室播磨局の着帯の儀式に父光綱と共に主席者筆頭として参列している』正安四(一三〇二)年には『得宗家の分国である武蔵国守護代を務めている記録がある』。永仁五(一二九七)年に『父光綱が没しているが、光綱が務めた世襲の職である得宗家執事(内管領)・侍所所司は工藤杲禅』(こうぜん)と『尾藤時綱が任じられており、高綱は父の地位を継ぐ事はなく、光綱没後の数年間は長崎氏不遇の時代であった』。嘉元三(一三〇五)年、『嘉元の乱で貞時が内管領の北条宗方を滅ぼした後』、徳治二(一三〇七)年頃には『宗方に代わって高綱が内管領・侍所所司に就任し』ていると推定される。延慶二(一三〇九)年四月には『尾藤時綱と共に寄合衆を務めており、この頃には出家して円喜と号し、「長入道」と称された。出家により侍所所司を長男の高貞に譲ったと見られる』。応長元(一三一一)年の『貞時死去にあたり、安達時顕と共に嫡子高時の後見を託され、幼主高時を補佐して幕政を主導した。老齢により』、正和五(一三一六)年頃には『内管領の職を嫡子高資に譲っている』ようである。『長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握し、円喜は子息が実権を握る侍所所司と内管領の権力を背景に寄合衆を主導した。表面的には集団指導体制で運営される高時政権の一員であるが、世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである』。正中元(一三二四)年に『正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し、時顕の詰問に宣房が狼狽したことが』、「花園天皇宸記」に出る『が、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された』。『鎌倉幕府が滅亡した際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した』。

「秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)」安達時顕(?未詳(弘安八(一二八五)年頃か?)~元弘三/正慶二年五月二二日(一三三三年七月四日)幕府の有力御家人。ウィキの「安達時顕より引く。『安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)』。弘安八(一二八五)年の『霜月騒動で』、『父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった時顕』『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年『までには』、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服し』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』.永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中で時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわちこの当時』、『政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後、延慶元年に改元。一三〇八年)『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年には、『霜月騒動で討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせ』、『北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで』、『権勢を強めた』。正中三(一三二六)年三月の、『高時の出家に従って』、『時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害した』。

「極樂寺」鎌倉市極楽寺にあるは真言律宗霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺。正式には霊鷲山感應院極樂律寺。開基は北条重時(北条義時の三男)開山は忍性。]

2018/02/17

北條九代記 卷第十二 北條師時頓死 付 怨靈

 

      ○北條師時頓死 付 怨靈

 

北條貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既に注した通り、「崇演」の誤り。]は、出家の身として、政事を執行ふに及ばず。師時、凞時(ひろとき)、既に執権の連署を勤めらる[やぶちゃん注:この言い方もやはりおかしい。師時は既に正式な執権であるのに、これでは貞時が執権のままであるように読めてしまい(実権は事実上はそうであるが)、師時と凞時が執権の連署を勤めているようにしか読めないからである。増淵氏もここの記載の奇妙さを感じて、『師時』『と凞時』『とがすでに執権・連署の核を勤めらた』と訳しておられる。]威勢高く、門前に市をなし、出入る輩(ともがら)、日夜に絶間(たえま)なし。然るに、師時、如何なる故かありけん、鶴ヶ岡の別常総正を初(はじめ)て、眞言師(しんごんし)の僧に仰せて、各(おのおの)七日の護摩を修(しゆ)せしめ、門戸(もんこ)には符(ふ)を書きて、押させらる。何事と知る人なし。後に聞えしは、去ぬる七月[やぶちゃん注:後の場面から応長元(一三一一)年七月と読める。]の比より、北條宗方[やぶちゃん注:卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐参照。師時とは従兄弟同士。]が亡靈、來りて、師時に怨(うらみ)を報ずべき由、喚(よば)はる聲、餘人の耳には聞えず、師時一人是を聞くに、定(さだめ)て狢(むじな)狐(きつね)の致す事かと思はれしに、後には形(かたち)を現(あらは)し、蜻蛉(かげろふ)[やぶちゃん注:ここは「陽炎」と表記する方が判りがよい。]の如く、あるかなきかのやうに見えたりければ、師時、是(これ)に依(よつ)て、祈禱を致し、鎭祭(ちんさい)、護摩を修せらる〻に、その效(しるし)なし。他人に向ひて語らば、臆病神の俤(おもかげ)に立ちたるもの、と笑はんも口惜しかるベし、如何(いか)にもして、禳鎭(はらひしづ)めばや、と思はれけるが、漸々(ぜんぜん)に憔悴せられ、諸人、奇しみ思ひけり。同九月十一日[やぶちゃん注:応長元(一三一一)年。]、師時、只一人、亭に坐して、庭を見ておはしける所に、宗方が怨靈、形(かたち)顯(あらはし)て、長刀を橫(よこた)へ、直(ぢき)に廣庇(ひろひさし)に走掛(はしりかゝる)。師時も太刀押取(おつと)りて、立たれしが、胸の邊(あたり)を刺(さゝ)れたりと覺えて打倒(たふ)れ、血を吐(はく)事、一斗(と)計(ばかり)にして其儘、絶入(ぜつじゆ)し給ひけり。家内上下、周章慌忙(あはてふため[やぶちゃん注:「周章慌忙」四字へのルビ。])き、扶起(たすけおこ)しければ、少し、人心地付きて、只、口惜(くちをし)さよ、とのみ、云はれしが、其日の暮程に、遂に事切れにけり[やぶちゃん注:応長元年九月二十二日(ユリウス暦一三一一年十一月三日)の誤り。また、貞時の死(次章)の凡そ一ヶ月前に当たるこの日に出家し、同日に死去したとされる。享年三十七歳で、ウィキの「北条師時によれば、『評定中』、『その座でそのまま』、『死去したと伝わる』とあるから、この怨霊話は如何にも作り話臭い。]。世には頓死と披露しけれども、實(じつ)には怨靈の所爲(しわざ)とぞ聞えける。昔、周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる。後秦(ごしん)[やぶちゃん注:底本は「後奏」とあるが、原典を確認して誤植と判明したので訂した。後も同じ処理をした。]の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅(ふきん[やぶちゃん注:原典もママ。「ふけん」であろう。])を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す、と云へり。師時、如何なれば、か〻る怨(うらみ)の報(むくい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて、生年三十七歳にて卒去せらる。昔も今も例なき事ならず、と恐(おそれ)、思はぬ人は、なし。

 

[やぶちゃん注:「周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる」周朝の第十一代宣王(せんおう ?~紀元前七八二年)に纏わる伝承。ウィキの「王(周)によれば、父厲(れい)王は前八四二年に暗殺を主眼とした暴動のために国から『逃亡し、以後は王が不在のまま』、『共和制が敷かれていた。紀元前』八二八『年に厲王が崩御した後、厲王の子である』彼『が王として立てられた。治世前期は周定公』と『召穆公』『を輔政とし』、『国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる』が、『軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出した』ものの、『こちらは徐々に劣勢となり、紀元前』七八九『年の千畝(せんぽ)の役で姜戎』(きょうじゅう)『に大敗するなど、あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも』、父『厲王にみられ』たような『君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など』、『諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。その末路は定かではないが』、「墨子」の「明鬼篇」によれば、『杜伯を処刑した』三『年後に、鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。賛否両論の分かれる王ではあるが、結果から言えば』、『父の厲王や子の幽王と同じく、周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない』とある。墨子」原文で読めるが、個人ブログ「七つの回廊」の霊魂が、死後も実在していることの証明? その一で、その箇所の非常に分かり易い現代語訳が載るので、引用させて戴く。

   《引用開始》

 周の宣王(せんおう)は、臣下の杜伯を死罪としたが、それは無実の罪であった。そこで、杜伯は、(死の直前)次のように復讐を誓った、

『わが主君は、私を処刑しようとしているが、私は無実である。もし、死者には知覚する霊魂がないのであれば、(復讐も)やめる他はない。だが、もし、死後も知覚があるのならば、三年以内に、必ずや、わが君に死者の怨念を思い知らせてやろう』

 三年目のある日、周の宣王は、諸侯を集め、圃田(ほでん)で大掛かりな狩りを催した。(その総勢は)戦車が数百台、お供の者が数千人で、狩り野は人であふれた。

 その真っ昼間に、杜伯は、白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って、突然、姿を現した。朱の衣服をまとい、朱の冠をかぶり、朱塗りの弓を手に取り、朱塗りの矢を小脇にはさんで、周の宣王を追いかけ、車上の宣王を狙撃した。

 杜伯の放った矢は、宣王の心臓に命中し、さらに、背骨までも打ち砕いた。宣王はもんどり打って車の中に倒れ、弓袋に突っ伏して絶命した。

 この時、直接、宣王につき従っていた周の人々で、杜伯の姿を目撃しなかった者はなく、また、離れた所にいた人々でも、事件の物音を聞かなかった者はいなかった。

 (そこで、この事件は、紛れもない事実として)記録されて、周の歴史記録である『春秋』に今も見ることができる。

 君主の立場にある者は(周の『春秋』をひもとき)、この事件を材料に臣下を教導し、父の立場にある者は、この事件を教訓に息子たちを教戒して、次のように諭した、

『慎めよ、戒めよ。罪なき人を殺す者は、皆、不吉な出来事に見舞われる。鬼神が降す誅罰は、こんなにも迅速だぞ』

 この周の『春秋』の記録から判断するならば、『鬼神』の実在は、どうして、疑ったりできようか」

   《引用終了》

「後秦の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す」「姚萇」(ようちょう 三三一年~三九四年)は五胡十六国時代の後秦の創建者で羌(きょう:古代より中国の西北部に住んでいる民族)の出身。ウィキの「姚萇」によれば、『父』『は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦は』、『おもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。「苻堅」(ふけん 三三八年~三八五年)は同じ五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝(大秦天王)ウィキの「苻堅によれば、氐(てい)族(古代より中国の青海湖(現在の青海省)周辺にいた民族)出身で、『宰相の王猛を重用し』、『前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上』、『東晋の益州を征服して』、『前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指し』、三八三『年に大軍を南下させたが、諸因により』、「淝水(ひすい)の戦い」で『東晋に大敗した。以後』、『統治下の諸部族が反乱・自立する』に及んで、『前秦は衰退』し始め、三八五年、『羌族の部下』であった『姚萇に殺害された』とある。ウィキの「姚萇」の「晩年」の条に、『死の直前、長安に移動する途中』、『病床にあった姚萇が夜に見た夢に、苻堅が天官の使者の鬼兵数百を連れて訪れた。宮人がそれを迎え撃ったが、宮人が持っていた矛が』、『誤って』、姚萇の『陰部に刺さった。鬼兵が急所だ、と言い、矛が抜かれて』、『大量に出血したところで目が覚めると、陰部が大きく腫れ上がっていて夢の中と同じように出血していた。錯乱した姚萇は』、『苻堅の命を奪ったのは姚襄』(姚萇の兄)『であると叫んだという』とある。]

 

2018/02/13

北條九代記 卷第十二 後二條院崩御 付 花園院御卽位

 

鎌倉 北條九代記卷   第十二

 

      ○後二條院崩御  花園院御卽位

 

德治三年、主上、御惱(ごなう)に罹らせ給ひ、朝政(てうせい)の御事も叶はせ給はず。御位を東宮富仁(とみひとの)親王に讓りて、同八月二十五日に崩じ給ふ。御年二十四歳なり。在位僅に六年、一朝にして鼎湖(ていこ)の雲を攀(よ)ぢ、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隱れさせ給ひ、一天、既に諒闇(りやうあん)の有樣、愁(うれへ)の色を見せ侍り。後二條院とぞ申しける。北白川に葬送し奉る。東宮は、是(これ)、伏見院第二の皇子、御母は山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)公の御娘、顯親門院藤原厚子(あついこ)とぞ申しける。同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す。同十一月二十六日、御年十二歳、寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで御位に卽(つ)きたまふ。花園院と申すは、この君の御事なり。九條關白師教(もろのり)公、攝政たり。伏見上皇、院中にして政道を知(しろ)しめす。武家より計(はからひ)申して、後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせらる。九條師教公、攝政を辭退あり。鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)公、攝政と成り給ふ。同三年十一月に北條越後守貞房、六波羅にして卒す。越後守時敦(ときあつ)、その代(かはり)として上洛す。貞房は武藏守朝直の孫なり。時敦は北條左京兆政村の三男、駿河守政長の嫡子なり。今年十二月、主上、十四歳に成らせ給ふ。御元服の事あり。御加冠(かくわん)の役人は、先(まづ)、太政大臣に補任せらる〻は舊例なり。是(これ)に依(よつ)て、鷹司冬平公、豫て太政大臣に任じ、應長元年正月、主上、御元服あり。冬平公、加冠たり。理髮(りはつ)は近衞〔の〕左大臣宗平公、勤めらる。

 

[やぶちゃん注:「德治三年」一三〇八年。

「主上」後二条天皇。

「東宮富仁(とみひとの)親王」持明院統の伏見天皇の第四皇子で第九十五代天皇となる花園天皇(永仁五(一二九七)年~正平三(一三四八)年/在位:延慶元年十一月十六日(一三〇八年十二月二十八日)~文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)。即位した時は十二歳。

母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の2つの皇統のうちに属する。

「在位僅に六年」後二条天皇の在位は正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)から徳治三年八月二十五日(一三〇八年九月十日)であるから、七年半であるから、誤り

「鼎湖(ていこ)」中国の神話時代の帝王で五帝の一人である黄帝は首山(山西省浦阪県とする)の銅を採掘して荊山(河南省閿郷県とする)の麓で一つの鼎を鋳造した。すると、一匹の龍が髯を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天して仙人となったという伝承がある。その場所を「鼎湖」と呼んだ。ここは極楽へ昇天されたことを述べたもの。

「蒼梧(さうご)」湖南省寧遠県にある山に比定され、五帝の一人である舜(太陽神)がここから天に昇ったとされ、彼の墓もその山中にあるとされる。同前。

「諒闇(りやうあん)」「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、本来は天皇がその父母の死に当たって喪に服する期間を指すが、後の広義に天皇・太皇太后・皇太后の死に際して喪に服する期間を指した。

「北白川」現在の京都府京都市左京区北白川追分町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)」山階左大臣洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。娘三人が孰れも三人の天皇(亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇)の妃となり、しかも孰れも皇子を産み、これがまた、孰れも即位したことから、さらに三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父となって長く権勢を誇った。

「顯親門院藤原厚子(あついこ)」「厚子」は季子(すえこ/きし 文永二(一二六五)年~延元元(一三三六)年)の誤り

「同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す」徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために改元。

「寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで」天子の位(宝祚)に「就く(践)」こと。践祚。

「九條關白師教(もろのり)」九条師教(文永一〇(一二七三)年~元応二(一三二〇)年七月十三日))。延慶元(一三〇八)年八月の花園天皇の践祚に際して、摂政に補されたが、同年十一月に辞任している。彼は正安三(一三〇一)年八月に富仁親王(後の花園天皇)が立太子すると、その東宮傅(とうぐうのふ:東宮教育官)に補任されているから、花園天皇とは親しかったはずである。理由は不明だが、ウィキの「九条師教」の注によれば、『大才人であり』、『漢籍の才に富み賢く、廉直の人である、と評している。何度も摂関に還補するよう打信があっても』、『固辞し続けた、とある』(「花園天皇宸記」等に拠るらしい)から、何らかの個人的な思いがあったものらしい。花園天皇は持明院統であるが、師教の母が大覚寺統の祖亀山天皇の皇女であったことが私にはちょっと気になる

「武家より計(はからひ)申して」大覚寺統の嫡流を継ぐべき後二条天皇の第一皇子邦良親王がわずか九歳であったこと、彼が当時、歩行が不自由であったらしいこと(ウィキの「邦良親王」に拠る)などから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が機能しない事態が生じたことに拠る。邦良(くによし/くになが 正安二(一三〇〇)年~正中三(一三二六)年)親王は叔父である後醍醐天皇(次注参照)の皇太子となるが、これ以降では皇位継承については持明院統・大覚寺統の対立以外に、大覚寺統内に於いて、後二条と後醍醐系とが互いに反目し合うこととなり、正中二 (一三二五) 年には幕府に人を遣わして即位を謀ったものの、翌年、即位することなく没している。

「後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王」後の後醍醐天皇(正応元(一二八八)年~延元四(一三三九)年)。大覚寺統後宇多天皇の第二皇子。生母は内大臣花山院師継の養女藤原忠子(談天門院。実父は参議五辻忠継)。持明院統の花園天皇の即位に伴って幕府の中継ぎ工作として、後二条天皇の異母弟であった彼が皇太子に立てられたのであった。後の文保二年二月二十六日(一三一八)年三月二十九日の花園天皇の譲位を受けて三十一歳で践祚し、後醍醐天皇となる。

「鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)」鷹司 冬平(建治元(一二七五)年~嘉暦二(一三二七)年)。この後、三度に亙って関白を歴任、「後照念院関白」と号した。関白鷹司基忠の子。鷹司家第三代。歌人としても優れていた。

「同三年」延慶三年であるが、延慶二(一三一〇)年の誤り

「北條越後守貞房」(文永九(一二七二)年~延慶二(一三一〇)年)通称は大仏(おさらぎ)貞房。父は大仏流北条宣時(彼は大仏流北条氏の祖北条朝直の子)。元服時に得宗家当主北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗った。当初は、引付衆や評定衆を歴任し、徳治三(一三〇八)年には従五位上となるなど、昇進を重ねた。延慶元(一三〇八)年十一月二十日より、六波羅探題南方として上洛・赴任していたが、十二月二日、京で三十八歳で死去した。歌人としても優れていた。

「越後守時敦(ときあつ)」(弘安四(一二八一)年~元応二(一三二〇)年)は北条氏政村流。父は北条政長(彼は第七代執権北条政村(非得宗家)の五男(推定))。徳治元(一三〇六)年、引付衆の一員として幕政に参画、延慶三(一三一〇)年には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、五年後の正和四(一三一五)年には北方に転任した。ウィキの「北条時敦によれば、この頃、『持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝し』、『問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた』。彼もしかし京で四十歳で死去している。以前にも述べたが、鎌倉後期の幕政担当者は思いの外、若死にが多い。想像以上に政務が過激であったものと思われる。

「今年十二月」延慶三(一三一一)年でここは正しくなる

「加冠」元服の儀式の際に元服する者に冠を被せる役のこと。

「豫て太政大臣に任じ」同年同月十五日。

「應長元年正月」正しくは、まだ、延慶四年。延慶四年四月二十八日(一三一一年五月十七日)、疫病を理由に応長に改元される。

「理髮(りはつ)」元服まの際に頭髪の末を切ったり、結んだりして整える役。

「近衞左大臣宗平」不詳。]

幾つかのサイト版についてのお断り

労多くして、讃辞のない「北條九代記」サイト版のほか、「耳囊」「生物學講話」(後者二本はブログ版は完成済み)のサイト版は、既公開分は残すが、以降の版は作成をしないことに決した。悪しからず。

実は讃辞などなくてもいいのだが、問題はルビ・タグの不具合が頻繁に起こってイライラすることと、外部リンク付け作業が大変だからである。されば向後、

「北條九代記」(オリジナル電子化注の残りは「卷第十二」のみ)

「耳囊」(二〇一五年四月二十三日附・オリジナル電子化訳注完成済み)

「生物學講話」(二〇一六年三月三日附・オリジナル電子化注完成済み)

は、それぞれ、以上のリンク先のブログ版で読まれたい。悪しからず。

北條九代記 卷第十一 後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛 / 卷第十一~了

 

      ○後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛

 

 嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける。同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ。御年三十八。後宇多上皇最愛の御事なれば、殊に悲歎の色深く、龍顏(りうがん)、日夜、御淚の乾く隙なし。世の中の事、今は絶(たえ)て、何をか御心に、露、慰み給ふべき。必ず一度は別離(わかれはな)るべき浮身の習(ならひ)、せめて後の世には、同じ蓮(はちす)の緣を結ばん爲、朝暮(てうぼ)の讀經も、只、此君にと、御囘向ましましけるぞ忝(かたじけな)き。同月二十六日、御落飾有りて、法名金剛性(こんがうしやう)とぞ申しける。睿算(えいさん)未だ四十歳に盈ち給ふ。法皇の尊號、蒙(かうぶ)らせ給ひ、是より、眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ、嵯峨の大覺寺を造營し、寛平(くわんぺい)法皇の跡を慕ひ、世を逃れて行なはせ給ふこそ有難けれ。關東には如何なる子細にや、北條貞時入道の計(はからひ)として、將軍久明(ひさあきら)親王を都へ返し奉らんとて、同三年七月に鎌倉を出し參らせ、京都に歸しければ、力なく上洛あり。嘉暦三年十月に五十五歳にして薨ぜらる。摠(そう)じて天下の武將といへども、只、その名計(ばかり)にて、大小の政事は、皆、北條の掌握に落ちて、漸く年紀(ねんき)も久しければ、武職(ぶしよく)を替へて新(あらた)にせん、との事なるべし。其御跡は、前將軍久明親王の御子守邦(もりくにの)親王、今年、僅に七歳になり給ふを、征東大將軍に仰ぎて、鎌倉の主(しゆ)と册(かしづ)き奉る。貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり。時世のみならず、人も亦、改(あらたま)り、内外に付きて物侘しく愁勝(うれひがち)なる世の中なり。

 

[やぶちゃん注:これが卷第十一の最終章である。「北條九代記」は残す所、一巻。鎌倉幕府の滅亡が遂にやってくる。

「嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける」嘉元四年十二月十四日(ユリウス暦一三〇七年一月一八日) 天変による災異改元とされている。

「同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ」後深草天皇の皇女で後宇多天皇妃であった姈子内親王(れいしないしんのう 文永七(一二七〇)年~徳治二年七月二十四日(一三〇七年八月二十二日))。生母は中宮東二条院西園寺(藤原)公子。正応四(一二九一)年八月、院号宣下により、遊義門院となった。急病による。ウィキの「姈子内親王」によれば、「増鏡」によると、『後深草上皇(持明院統)の秘蔵の愛娘であった姈子内親王を後宇多上皇(大覚寺統)が見初め、恋心止みがたくついに盗み出してしまったという。持明院統と大覚寺統は当時朝廷を二分して対立していたため、これは大事件だったようである。事件の詳細は不明だが、その後』、『上皇は数多い寵妃の中でも姈子内親王を別格の存在としてこの上なく大切に遇したといい、後に彼女の急逝を悼んで葬送の日』(ここに出る通り、没後二日後の七月二十六日)『に出家したことから見ても、上皇が姈子内親王を深く寵愛したのは事実であったらしい』とある(下線やぶちゃん)。

「龍顏(りうがん)」天子の顔。「りよう(りょう)がん」とも読む。

「世の中の事」上皇としての院政の政務。但し、後宇多天皇は実際には第一皇子である後二条天皇の治世を翌徳治三(一三〇八)年の後二条天皇崩御まで院政を行っている。その後、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れたが、後、持明院統の花園天皇を挟んで、彼の第二皇子である尊治親王(後醍醐天皇)が文保二(一三一八)年に即位すると、再び、院政を開始している。元亨元(一三二一)年、院政を停止し隠居し、以後は後醍醐天皇の親政が始まった。元亨四(一三二四)年六月、大覚寺御所にて崩御、満五十六歳であった(以上はウィキの「後宇多天皇」に拠った)。

「浮身」浮世の身。「憂き身」を掛ける。

「睿算(えいさん)」以前に出た宝算と同じ。天子の年齢を謂う。

「未だ四十歳に盈ち給ふ」当時、後宇多天皇は数え四十二であるから、ここは「未だ」を外し、「四十歳に盈ち給ふたるばかりなりけり」ぐらいが正しい。底本頭書には『給はずの誤り』とするが、これもまた、誤りである。

「眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ」ウィキの「後宇多天皇」によれば、『仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治』三(一三〇八)年『には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。この頃から、真言密教に関心を深め』、五年後の正和二(一三一三)年、『かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多法皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として』「弘法大師伝」や「御手印遺告」などを著わしている。『大覚寺で院政を執った』際、『法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨』(永代に亙って有効とする宣旨)『を出した』(但し、この「永宣旨」は明治維新を迎えると同時に廃止されている)。『また、仁和寺の御室門跡が法性法親王の没後、寛性法親王が後任に決まるまで、別当を代行していた禅助(中院通成の子)に迫って』、『門跡だけが知り得る秘儀「密要抄」の内容の伝授を受けようとして法性に阻止されている(「密要抄」のような秘儀の相承は門跡の正統性の要件の』一『つであり、師弟関係にない他寺の人間に流出することは』、『門跡の存続に関わる事態であった)。これは後宇多院による御室門跡の事実上の乗っ取り策であったとみられているが、これが失敗に終わったために』、『自らを祖とする「大覚寺法流」と呼ばれる新たな門跡の素地となる法流を作りだした』のであった、とある(下線やぶちゃん)。「瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)」「瑜伽」は「ヨーガ」と同義で、意識を完全に制御して、心の神秘的な合一を図る行法を指し、「三摩耶」とは、その論理に基づいて三密加持〈自己の身体的動作によって諸尊の動作を模し(「羯摩(かつま)印」と称する)、口にそれらの真言を誦し(「法印」)、意識の中でそれらを象徴する形象(「三昧耶形(さんまやぎょう)」)を観想(「三昧耶印」)すること〉によって、自己を唯一の実在界であるところの仏世界の一個の象徴(「大印」)と化して即身成仏をするという密教の根本の実現を指す。「口訣(くけち)」は「口伝」と同義で、奥義・秘伝などを口伝えに伝授することを謂い、ここはそれを伝授されたと称している(先の下線部参照)ことを指す。

「嵯峨の大覺寺を造營」「造營」は正確には「再興」とすべきところ。現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、時代劇の撮影でお馴染みの大覚寺(だいかくじ)。現行では真言宗大覚寺派大本山で山号を「嵯峨山」と称する。正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺。本尊は不動明王を中心とする五大明王で、開基は嵯峨天皇。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室所縁の寺。ウィキの「大覚寺」によれば、『嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから』三十数年後の貞観一八(八七六)年、『皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした』。その後のこの時、『後宇多法皇が大覚寺を再興』、『法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。また、ここで院政を行ったため嵯峨御所』『とも呼ばれ、法皇の父である亀山法皇』『から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)』。『この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる』。元中九(一三九二)年になってやっと『南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった』。但し、『南北朝時代を通じて南朝方寺院であったというのは事実ではなく、南北朝分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、南北朝が和解した時期には北朝・室町幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府』三『代将軍であった足利義満の子・義昭を門跡に迎える素地となった』とある。

「寛平(くわんぺい)法皇」第五十九代天皇宇多天皇(貞観九(八六七)年~承平元(九三一)年)。彼の在位は仁和三年八月二十六日(八八七年九月十七日)から寛平九年七月三日(八九七年八月四日)までで、寛平(八八九年~八九八年)を主たる治世としたことによる呼称。彼は寛平九(八九七)年七月、皇太子敦仁親王(醍醐天皇)を元服させて即日、譲位している。ウィキの「宇多天皇」によれば、『この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている』とある。譲位後は『仏道に熱中し始め』、昌泰二(八九九)年十月に『出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣』する。(この間、「昌泰の変(しょうたいのへん):昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が宇多天皇の寵臣であった右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らが左遷又は流罪となった事件)が起こっている)。延喜元(九〇一)年十二月、『宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる』。。延喜二一(九二一)年十月二十七日には『醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている』とある。

「有難けれ」恐れ多い滅多にないことである、であるが、以下の久明更迭を考えると、筆者は「残念なことである」と言っているようにも読める。

「北條貞時入道の計(はからひ)として」既に執権を師時に譲っているが、実権は得宗である彼にあった。

「久明(ひさあきら)親王」「久明親王征夷將軍に任ず」の私の注を参照されたい。

「同三年七月に鎌倉を出し參らせ」京都に歸しければ、力なく上洛あり」京都現着は八月。

「嘉暦三年」一三二八年。

「五十五歳」五十三歳の誤り

「年紀(ねんき)も久しければ」傀儡としての将軍職在位期間も長くなったので。解任時、数え三十三歳。第七代将軍就任・下向は正応二(一二八九)年で十四歳の時であった。

「武職(ぶしよく)」将軍職。

「守邦(もりくにの)親王」(正安三年五月十二日(一三〇一年六月十九日)~元弘三年八月十六日(一三三三年九月二十五日)は鎌倉幕府第九代、最後の征夷大将軍。鎌倉幕府将軍の中で二十四年九ヶ月と在職期間は最長。ウィキの「守邦親王によれば、徳治三(一三〇八)年八月(この年は後の徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために延慶に改元している)、『父に代わってわずか』八『歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった』。後、『その北条得宗家の当主である北条高時の地位すら』、『形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人が握ることとなった。そのため、『将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず』、文保元(一三一七)年四月に『内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである』。『また、題目宗』(ここは日蓮宗を指す)『の是非を問う問答対決の命を』、『亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し』、文保二(一三一八)年十二月二十日から翌元応元(一三一九)年九月十五日にかけて』、『題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認め』ている。元弘三(一三三三)年、『後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際』、『後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた』。元弘三年五月二十二日、『足利義詮や新田義貞の攻撃により』、『鎌倉は陥落』、『鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の三カ月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない』とある。死去は鎌倉とされるが、それも不確かで、埼玉県比企郡小川町(おがわまち)の現在の曹洞宗大梅寺(たいばいじ。(グーグル・マップ・データ))で病没し、ここに葬ったという伝承もある。

「册(かしづ)き」大切に養育し。本書では前に用例有り。

「貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり」これはおかしな謂いである。師時はこの七年も前の正安三(一三〇一)年八月、貞時の出家に伴って執権職に就いているのだから、「代」わりであるはずがない。

北條九代記 卷第十一 貞時入道諸國行脚 付 久我通基公還職

 

      ○貞時入道諸國行脚 付 久我通基(こがのみちもと)公還職(げんしよく)

 

夫(それ)、四海を靜め、天下治むる事は、仁を本(もと)とし、義を進め、禮を專(もつぱら)にして德を修め、威を逞(たくまし)くして道を正しくす。その行ふ所には、無欲を以て奢(おごり)を愼む。萬民、是に靡きて、かの道德を仰ぎ、士農工商その安(やすき)に居て、上下、和融(くわゆう)し、遠近(ゑんきん)、相隨ふ。 然れども、氣質の禀(う)けたる事、又、齊(ひと)しからざるを以て、非法濫行の者、その間に在りて、人の愁(うれへ)、世の害となり、政道の邪魔となる事、堯舜も猶、病めり。是に依(よつ)て、年來(としごろ)、囘國の者を出して、諸國郡邑(ぐんいふ)の間に濫惡(らんあく)をなす輩(ともがら)を誡めらるといへども、その人、若(もし)、病に罹り死するに於ては、餘人を入替へて回(めぐ)らされけるに、後に出ける者共、奸曲を構へ、利分を貪り、却(かへつ)て囘國の者よりして、惡事起る故に依て、この事をも留(とゞ)められ、相州貞時、出家の後、自(みづから)、身を窶(やつ)して、只、一人、鎌倉を忍び出て、諸國を囘(めぐ)り、時賴入道の跡を追ひて、非道惡行の輩を、潛(ひそか)に伺ひ記(しる)して、四ヶ年を經て皈り給ふに、六十餘州の間に六百七十八人とぞ聞えける。皆、鎌倉に召寄(めしよ)せ、罪の輕重に隨ひて、刑罸を行はる。囘國の使三人は頭を刎ねられ、賄(まひなひ)を入れて惡行を隱しける國人(くにうど)、百三十八人は罪に行ひ給ふ。二階堂道仙(だうせん)、申されけるは、「今度、諸國の罪科人、既に一千に及べり。是を皆、刑せられんは、仁政にあらずとやいはん、末々(すゑずゑ)の者をば淸められて、然るべきか」とあり。貞時入道、仰せけるは、「是、更に世の人の態(わざ)ながら、我が政道の怠(おこたり)より起る。この恥しさ、限なし。千人を捨てて、萬民を助け、後世(こうせい)を懲(こら)す爲なれば、只今、嚴(きびし)く拵(あてが)ふものなり。又、行跡(かうせき)の宜(よろし)き者には、賞を與へ侍るなり」とて、淚を流してぞ恥ぢられける。貞時入道、囘國の次(ついで)、城南(せいなん)の離宮を經て、山崎に掛り、西國へ通りたまひしに、小枝河の東に恠(あやし)げなる茅屋(かやゝ)あり。草深く鎖(とざ)して、蓬(よもぎ)の垣、疎(まばら)なり。貞時入道、立寄りて、水を求め給へば、流石に賤からぬ男の、 破(やぶ)れたる單衣(ひとへぎぬ)に、剝げたる烏帽子著て、自(みづから)立ちて水を汲みて參らせらる。貞時入道、熟々(つくづく)と見給へば、此男、面映(おもはゆ)げに打笑ひける。鐡漿(かね)黑く、年は未だ三十計(ばかり)と覺えたり。「是は如何なる人の引籠りて住ませ給ふ御事ぞや」と問ひ給へば、此男、「誠に此有樣にて、行脚の聖に狎々(なれなれ)しく語り侍らんは、恥かしけれども、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の功德にも成れかし、我は久我内大臣通基と聞えし者の成(なれ)る果(はて)にて候。或人の讒言(ざんげん)に依て、仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り、領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ、官職を削られ、か〻る住居になりて候。讒言を蒙(かうぶ)りたりと申さば、君に咎を掛け奉るになり候へば、そら恐しく侍る。只、我世の運、傾(かたぶ)き、家の亡びん時、至れり、と存ずれば恨(うらみ)はなく、力及ばず候なり」とぞ語られける。貞時、委細に尋聞きて、申されけるは、「させる御科(おんとが)にもあらず。仰(おほせ)の趣、忠節有りて私(わたくし)なし。天道の憐(あはれみ)、神明の守(まもり)、爭(いかで)か空しからん、只一時(じ)の變災と思召給へ、この聖(ひじり)も鎌倉方(がた)の者にて候。若、故郷(こきやう)に皈り候はゞ、北倏殿にも對面致し、御事の有樣を語り申さん」とて立出でられ、その後、關東に皈りて、この事を奏聞(そうもん)ありしかば、仙洞にも大に驚かせ給ひ、舊領を返付(かへしつ)けられ、久我(こが)の官職、相違なく二度、榮え給ひけり。

 

[やぶちゃん注:全く以って、時頼回国譚(「卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵」)の二番煎じで厭になる。隠密の回国の巡察使の奸曲の話は既に「卷第十一 囘國の使私欲非法 付 羽黑山伏の訴」に出た。

「城南(せいなん)」洛南。

「山崎」現在の大阪府三島郡島本町山崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小枝河」不詳。「東に」と言っている以上、小流れという一般名詞ではない。当該地は宇治川・木津川・桂川・水無瀬川などの合流地であるが、私の知識では比定出来ない。ただ、架空の話なれば、拘って探す気にもならぬ。

「鐡漿(かね)黑く」平安末期には元服・裳着を迎えるに当たって、女性のみならず、男性貴族・平氏などの武士及び大規模寺院に於ける稚児も鉄漿(おはぐろ)を行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒・引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた。

「慚愧懺悔(ざんぎさんげ)」「慚愧」は現行では「ざんき」と読むが、古くは「ざんぎ」と濁っても読み、底本及び濁点が見えるので「さんぎ」とした。但し、原典では「ザンキ」と清音のように見える。底本表記を支持した。「慙愧」も同字で、自己の見苦しさや過ちを反省し、心に深く恥じることを指す。普遍的な常識や倫理に基づくもので、特定の宗教的な意味は本来は持たない。「懺悔」は原典では濁点が見え「ザンゲ」であるが、底本は擦(かす)れの可能性もあるものの、「さんげ」と判じ、やはり底本を支持する。何故なら、本邦では「懺悔」は江戸期に至っても「さんげ」と濁らないのが普通であるからで、現行で一般的なキリスト教の「ざんげ」とは明確に異なったものとして使用されてきたからである。本来は仏教用語で、「自分の以前の行いが悪い事だったと気づき、その罪を悔いて仏・菩薩や高僧らに許しを請うこと」で、「懺」はサンスクリット語の「忍」の意の漢訳で、「罪を許して忍ぶようにと他人に要請すること」を指し、「悔」は「過去の罪を悔いて仏・菩薩・目上の者・信者である会衆の前に告白して詫びること」を示す語である。具体的には半月ごとに行われたウポーサタ (「布薩」と漢訳) の集会で罪を犯した比丘が懺悔を行なった。本邦では神仏習合にによって土着神や神道の神に対しても行われた。

「久我内大臣通基」公卿久我通基(こがみちもと 仁治元(一二四〇)年~延慶元(一三〇九)年)。ウィキの「久我通基」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父は正二位大納言右近衛大将久我通忠、母は唐橋通時の娘、または北条義時の娘』『建長七年(一二五五年)二月十三日、従三位に叙される。左中将は元の如し。康元二年(一二五七年)二月二十二日、正三位に昇叙。正元元年(一二五九年)九月二十八日、参議に任ぜられる。正元二年(一二六〇年)三月二十九日、権中納言に任ぜられる。同年四月六日には帯剣を許され、十一月十五日には従二位に昇叙。弘長三年(一二六三年)一月六日、正二位に昇叙。文永五年(一二六八年)十二月二日、中納言に転正。文永六年(一二六九年)三月二十七日、権大納言に任ぜられる。建治四年(一二七八年)二月二十五日、右近衛大将を兼ねる。同年八月二十日には右馬寮御監が宣下される。弘安八年(一二八五年)八月十一日、大納言に転正。弘安一〇年(一二八七年)六月五日、右大将を止められるが、同年十月四日に右大将に復帰。正応元年(一二八八年)七月十一日、内大臣に任ぜられ、右大将は元の如し。同年九月十二日には奨学院別当に補され』、『源氏長者の宣下を受けた。しかし』、同正応元(一二八八)年十月二十七日に内大臣と右大将を止められており、そこから、九年後の永仁五(一二九七)年十月一日にやっと従一位への昇叙を受けている。『建長二年(一二五一年)に』彼の『父久我通忠が没した時には十一歳で』あったが、『祖父久我通光は後室三条に遺産の大半を託したため、父からの遺領は唯一、久我荘』(山城国乙訓(おとくに)郡の荘園。現在の京都市伏見区久我一帯。十二世紀初めにこの地に久我家別邸が営まれ,十二世紀末に同家領となった。その後、久我本荘(下荘)と久我新荘(上荘)に分かれたが、久我家領のまま近世を迎えている。桂川右岸一帯(グーグル・マップ・データ))『のみであった。このため、父の死後、経済的危機に立たされることとなった。しかし、父通忠の後室である平光盛の娘である安嘉門院左衛門督局(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った』。『源通親の子供たちが薨去して各家の分立が始まり、各家の第二世代第三世代となるに従い、久我家が村上源氏中の嫡流として確固たる地位を確立できなくなってきていた。建長二年(一二五〇年)には堀川具実が内大臣となったことを手始めに、文永六年(一二六九年)には中院通成が内大臣に、弘安六年には堀川基具が従一位に、そして正応二年(一二八九年)には准大臣から太政大臣に、正応五年(一二九二年)には土御門定実が従一位准大臣に、そして永仁四年(一二九六年)には内大臣に、と相次いで従一位や大臣に昇っている。通基の父通忠が大納言右大将のまま』で『早世したことや』、『祖父通光の所領の大半を久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感を抱き』、『村上源氏一門の中で優位性を確立する事を』狙って、『源氏長者の宣下を望んだのであろう。しかし』、『せっかく源氏長者を得た直後に、前年に即位した伏見天皇のもとに入内し』、『女御、さらに中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼を大臣大将に任じるため』、『通基は』、『内大臣だけでなく』、『約十年間』、『在任した右大将も止めさせられてしま』ったのであった。『近衛大将には』、『通基の時代までは村上源氏一門』からでは、『久我家からしか就任していないが、通基薨去の二年前である嘉元四年(一三〇六年)には』、堀川『基具の息男である具守が右大将に就任』しており、『そのような状況の中で』、『通基の息男通雄の時代に』、『再び』、『所領問題を発生させることになり、鎌倉時代を通じて久我家は困難な状況が続いたのであ』った(下線やぶちゃん)。『一方で、通基は四人の息男を公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身の右大将在任期間は通算約十年間になる。源氏長者の宣下と合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家が一歩抜きん出ることができるよう』、『着々と手を打っていたと見ることができる』とある。この太字下線及び下線部が彼の不遇期や彼に始まる久我家の問題の時期を示すわけだが、どう逆立ちしても、本章に描かれたような茅屋に住むまで、彼が落魄(おちぶれ)よう、はずはないから、これは、貞時側ばかりでなく、通基の方の事実から見ても、あり得ようはずのない架空の話であることが判る。思うに、ウィキにもこの後に出るが、「徒然草」の第百九十五段に出る通基(次の第百九十六段にも登場する)の奇体なシークエンスを換骨奪胎したのが、この章の元ではないかと私は思う。第百九十五段を引く。

   *

或(ある)人、久我繩手(こがなはて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口(おほぐち)着たる人、木造りの地藏を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男、二、三人、出で来て、「ここにおはしましけり。」とて、この人を具して去(い)にけり。久我内大臣殿(こがのないだいじんどの)にてぞ、おはしける。 尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

   *

則ち、彼は「尋常におはしましける時は」(精神状態が普通であられた折りは)「神妙に、やんごとなき人にておはしけり」(まことに優れて類いなき知性の持ち主(事実、次の第百九十六段では彼の有職故実の細部への知識が披瀝されるエピソードとなっている)であられたので御座いますが)というのである。則ち、吉田兼好の叙述をまともに受けるなら、久我道基は、正応元(一二八八)年十月の内大臣・右大将の停止(ちょうじ)前から永仁五(一二九七)年十月一日に従一位昇叙を受けるに至る、この九年余りの間、何らかの精神変調を来していたのではないか、ということが疑えるとも言える。そう考えると、「或人の讒言(ざんげん)に依て」とは、そうした精神疾患等からの被害妄想であったと考えると、如何にも腑に落ちるようにも思われるのである。但し、彼の精神変調を記した一次史料がないので、ここまでとしておく。

「仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り」増淵勝一氏はここに『伏見天皇』と割注する。伏見天皇の在位は弘安一〇年十月二十一日(一二八七年十一月二十七日から永仁六年七月二十二日(一二九八年八月三十日までであるから、通基が内大臣と右大将を停止させられた正応元(一二八八)年十月二十七日当時及び従一位昇叙を受ける永仁五(一二九七)年十月一日当時は、確かに孰れも伏見天皇在位中である。但し、貞時が出家したのは正安三(一三〇一)年で、それから回国したと宣うちゃう訳だから、この事実よりずっと後に茅屋の通基と身を窶した貞時は逢ったことになる。しかもその時は、もう、大覚寺統のわが世の春の後二条天皇の御世でっせ? ちょっとも話が合いませんがな!

「領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ」事実に反する。

「官職を削られ」停止されていたであるから、かく言っても、これは実質上の愁訴としては腑に落ちる。

「か〻る住居になりて候」事実に反する。]

2018/02/12

北條九代記 卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐

 

      ○貞時出家  北條宗方(むねかた)誅伐

 

同八月二十三日、相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し、最勝園寺(さいしようをんじの)入道と稱す。執權をば、師時にぞ讓られける。是は時賴入道の孫として、父は武藏守宗政と號す。又、時村は政村の嫡子なり。新相摸守に任じて、師時に差副(さしそ)へて加判連署せしめらる。京都には、當今(たうぎん)、後二條院御位に卽(つ)き給ひ、正安四年を乾元元年と改め、翌年、又、改元有りて嘉元と號す。同三年の春、北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり。宗方は修理〔の〕大夫宗賴が次男なり。共に是(これ)、最明寺時賴入道には、孫なり。殊更、師時は貞時の婿なり。又、相摸守凞時(ひろとき)は婭(あひむこ)にて侍りければ、時村と師時とは至りて親く睦びけり。宗方、深く妬む心あり、先(まづ)、時村を討(うつ)て後に、師時、凞時を討たばやと思ひ、同四月十一日、宗方が與力同心の軍兵を集め、久明將軍の仰(おほせ)なりと詐(いつは)りて、時村を夜討にして攻殺(せめころ)す。時村、今年六十四歳、思(おもひ)も寄らぬ事にてはあり、家子、郎從、起合(おきあは)せ、暫く防戰(ふせぎたゝか)ふといへども、叶はずして、時村、既に討たれければ、郎從、家子、或は討たれ、或は落失(おちう)せて、宗方が兵ども、勝鬨(かちどき)を揚げて引返す。貞時入道、大に怒(いかつ)て、北條陸奧守宗宣と宇都宮貞綱に四百餘騎を差副へて、宗方を討たせらる。宗方も、豫て用意しける事なれば、軍兵を手分して門を差固めて防戰ふ。内より射出す所の矢に疵を蒙り、[やぶちゃん注:ここ、底本句点であるが、訂した。]射伏(いふせ)らる〻者、五、六十人に及べり。是(これ)にては叶(かな)ふまじ。只、四方より攻入(せめい)れとて、兩隣後(どなりうしろ)の町より、垣(かき)を崩し、壁を倒(たふ)して攻入りしかば、兵共、防兼(ふせぎか)ねて、散々に落行(おちゆ)く所を、打伏せ、切倒(きりたふ)し、館(たち)に火をさしければ、宗方は奧に走入(はしりい)り、腹、搔切(かきき)りて死にたりけり。一門の中、何れか疎(うと)からん、無用の妬(ねたみ)に軍(いくさ)を起し、數多(あまた)の人を損(そん)しけるのみならず、身を亡(ほろぼ)し、家を失ふ淺ましさよと、彈指(つまはじき)をしてぞ惡(にく)みける。一味同類を探出(さがしいだ)し、皆、悉く、殺され、軈(やが)て、宗宣を師時に副へて、執權の加判せしむ。同九月十五日に龜山法皇、崩じ給ふ。去年七月十六日には後深草院、崩御あり。今年、又、打續(うちつゞ)きてこの法皇、隱れさせ給ふ。御年五十七歳とぞ聞えし。御葬送の時には、後宇多院も供奉(ぐぶ)し給ふ。公卿、殿上人、數多、出給ひけり。此法皇は、御在位の初(はじめ)、十三歳より御子(みこ)出來て、御讓位の後までも、年々(としどし)に男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「貞時出家」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の晩年は乱れたものとなった。ウィキの「北条貞時」によれば、『元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するため』、永仁五(一二九七)年に「永仁の徳政令(関東御徳政)」を『発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた』。正安三(一三〇一)年八月、『鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った』。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日、『貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった』(後注参照)。貞時は五月二日、『時村殺害は誤りとして』、『五大院高頼らを誅殺』、五月四日には『宗方の陰謀と』断じて、『宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)』。『この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と』、『歴代にわたって冷や飯を食わされて』きた北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(一二五九)年~正和元(一三一二)年:後の第十一代執権。大仏家は第三代執権北条泰時の叔父に当たる北条時房を始祖とする)『の対立が背景にあったとされている』。徳治三(一三〇八)年八月四日には『将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された』。また、『幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜・安達時顕を登用し彼ら』二『人を高時を補佐する両翼として備えようとした』延慶二(一三〇九)年一月には未だ満五歳であった『高時の元服式を行っている』。だが、『幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子』二『人に先立たれた貞時の政治は』、『次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにし』、『酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている』。応長元(一三一一)年九月二十二日には『高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去』、『嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど』、『最晩年の貞時政権下では世代交代と』『得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降』、『築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても』、『長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった』とある。

「北條宗方(むねかた)」(弘安元(一二七八)年~嘉元三(一三〇五)年)は長門探題で第八代執権北条時宗の異母弟北条宗頼の次男ウィキの「北条宗方」によれば、時宗の甥であるが、その猶子となっている(誕生の翌年に父宗頼が長門国で死去したため)。二十歳で六波羅探題北方となり、正安二(一三〇〇)年に鎌倉へ戻って評定衆に就任している。『五位への叙爵は』十七『歳だが、このときまだ兄兼時は存命であり、それでも兄よりは』二『歳早い。評定衆となった歳は』二十三『歳であり、従兄弟で北条貞時のあと』に『執権となった北条師時(』十九『歳)よりは若干遅いが、それでも』永仁三(一二九五)年に『没した兄兼時の』三十二『歳よりもずっと早い。また』、『北条庶流の名門で貞時執権時の連署大仏北条宣時の嫡子で、嘉元の乱で宗方を討った大仏北条宗宣が評定衆となったのは』二十九『歳、赤橋北条久時は』二十七『歳である。これは兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁としての従兄弟、かつ父時宗の猶子として義兄弟ともなる師時、兼時、宗方の官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより』、『得宗家の一員として扱われていたと思われる』。正安三(一三〇一)年には『引付頭人を経て越訴頭人とな』り、更に三年後の嘉元二(一三〇四)年十二月には、『平禅門の乱以降』、『人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任』、『同時に幕府侍所所司に』も就いている。この時、二十七歳である。「保暦間記」によれば、『執権職への野心を抱いて挙兵し』、嘉元三(一三〇五)年四月、『貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害。さらに貞時殺害も目論んだが』、同年五月四日に『貞時の命を受けた北条宗宣率いる追討軍によって殺されたとされる(嘉元の乱)』。但し、「保暦間記」『の記述は、霜月騒動や平禅門の乱の原因についてもあまり信憑性はなく、嘉元の乱についても、京の公家の日記等と突き合わせると如何にも不自然であり疑問視されている。動かしがたいのは以下の範囲である』。四月二十二日、『既に執権職を退きながらも』、『実権を握っていた北条貞時の屋敷で火災があり、貞時は従兄弟で執権であった北条師時の屋敷に移る』。翌二十三日、『貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い』、『殺害、屋敷一帯は炎に包まれた』。五月二日、『時村討手の者』十二『人の内、逐電した和田茂明を除く』十一『名が首を切られた』。五月四日、『連署に次ぐ地位にあった一番引付頭人北条宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司の北条宗方を討つ。宗方は佐々木時清と相討ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたりか)にあった宗方の屋敷には火』が『かけられ』、『宗方の多くの郎党が戦死した』。『乱の後、幕府に捕らえられた宗方の遺児は、武蔵国六浦の海に籠に入れられて沈められた』という。また、ウィキの「北条宗宣」によれば、歴史学者(日本中世政治史)『細川重男は嘉元の乱の背景に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては』、『大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては鈴木宏美が反証している』が、そこで『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで北条一族のなかで重んじられていたとするが、実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』『ことから、要職には就ける代わりに得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し」法号は「崇演(すうえん)」の誤り

「師時」北条師時(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)鎌倉幕府第十代執権(非得宗家)。父は第八代執権北条時宗の同母弟北条宗政。母は第七代執権(非得宗家)北条政村の娘。父の死後に伯父・時宗の猶子となったウィキの「北条師時」によれば、永仁元(一二九三)年、十九歳で評定衆(五月三十日)、直後六月五日に三番引付頭人、同年十月二十日には執奏、十二月二十日に従五位上を叙任されるなど、『鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている』。『貞時の出家に伴い』、『執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の』十四『代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた』。なお、『補佐役の連署には母方の伯父である北条時村が任じられている』とある。

「時村」北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村(第二代執権義時の五男)の嫡男。既出既注であるが、大分、前の注なので再掲しておく。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり」言葉で見ていると判り難いが、要は宗方も師時も時頼の孫(前者は傍系、後者は直系得宗)に当たるのである。ウィキの「北条の「北条氏系図」(詳細版)を表示させて御覧になられるとよい。

「師時は貞時の婿なり」師時の正室は北条貞時の娘であった。

「相摸守凞時(ひろとき)」後に第十二代執権となる北条煕時(弘安二(一二七九)年~正和四(一三一五)年)父は北条為時で、煕時は第七代執権北条政村の曾孫、時村の孫に当たる。初名は貞泰(さだやす)であった。ウィキの「北条煕時」によれば、『引付衆などを務め』、嘉元三(一三〇五)年に『長門探題となる。同年の』四『月に嘉元の乱が起こり、祖父(政村の子で為時の父)の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが』、『煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている』、『なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている』。延慶二(一三〇九)年三月に『引付再編が行なわれて』一『番頭人となり、直後の四月九日には『金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ』、『この頃から煕時は得宗の北条貞時や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の』一『人になった』。応長元(一三一一)年九月に第十代執権の『北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第』十一『代執権に就任すると』、十月三日、『煕時は連署に就任した』。正和元(一三一二)年六月二日に『宗宣が出家すると』、第十二代執権に就任したが、この頃には既に『実権は内管領の長崎円喜に握られていた』とある。

「婭(あひむこ)」姉妹の夫同士を謂う。前注で示した通り、北条熙時の室は(「南殿」と称した)、やはり、貞時の娘であった。なお、熙時は師時より四つ下である。

「四月十一日」既に注した通り、二十三日の誤り

「北條陸奧守宗宣」前の方の複数の注を参照されたい。或いはウィキの「北条宗宣をどうぞ。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は御家人宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘・名は北条貞時の偏諱を受けたもの。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、弘安四(一二八一)年の元寇の「弘安の役」で第八代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六『万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した』。『その功績により戦後、引付衆の一人に任じられ』ている。『時宗の死後は北条貞時に仕え』た。

「宗方を討たせらる」五月四日。

「疎(うと)からん」疎外されているなどということがあろうか。反語。

「去年」嘉元二(一三〇四)年。

「男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや」ウィキの「深草天皇で、ざっと数えても十七人いる。]

 

北條九代記 卷第十一 後伏見院御讓位

 

       ○後伏見院御讓位

 

正安三年正月に、鎌倉よりの使節として隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)、山城前司行貞、上洛して、主上の御位を下(おろ)し奉り、東宮へ讓り奉り給ふ。主上今年未だ十四歳、御在位僅に三年にして、何の御事もおはしまさざりけるを、押下(おしおろ)し奉ること、天道神明(しんめい)の照覽も如何(いかゞ)恐(おそろ)しとぞ、心ある人は申合(まうしあは)れける。太上天皇の尊號、蒙らせ給ひけり。王道、久しく癈れて、政事(せいじ)に付きては、萬(よろづ)、叡慮に任せられず、天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ、と申す人も多かりけり。邦治〔の〕親王、御位に卽(つ)き給ふ。寶算十七歳、二條〔の〕太政大臣兼基公、關白たり。龜山〔の〕法皇、後宇多〔の〕上皇、既に院中にして御政務を聞召(きこしめ)す。伏見、後伏見の御在位の時には參仕(まゐりつか)ふる人も希(まれ)なりけるに、今は又、貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て、交態(かうたい)、是、賴難(たのみがた)し。門外、往昔(そのかみ)、雀羅を張るが如くなりしを、忽(たちまち)に引替て、鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり。雍熙(ようき)、高く耀きて、門楣(もんぴ)、弘(ひろ)く開け、異類、皆、臣屬となり、朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く、誠に移代(うつりかは)るは、世の中の風情なり。

 

[やぶちゃん注:「正安三年正月」正安三(一三〇一)年一月二十一日年。

「隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)」御家人隠岐(佐々木)時清(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)。頼朝以来の名門佐々木氏の子孫。北条時頼が得宗家当主であった頃(寛元四(一二四六)年~弘長三(一二六三)年)に元服をし、その偏諱(「時」の字)を授かったとみられる。「吾妻鏡」によれば、弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として名が見え、翌文永元(一二六四)年十一月に従五位下に叙爵されている。建治元(一二七五)年、引付衆、弘安六(一二八三)年、評定衆。永仁三(一二九五)年に評定衆を辞している。次章の「嘉元の乱」で北条宗宣の率いる追討軍に従軍したが、北条宗方と相討ちになり、死去している(ウィキの「隠岐時清」に拠る)

「山城前司行貞」これは名門二階堂氏の子孫である二階堂行藤(ゆきふじ 寛元四(一二四六)年~乾元元(一三〇二)年)の誤りではないかと思われる。鎌倉後期の幕府の文官で評定衆二階堂行有の子。永仁元(一二九三)年、政所執事となり、越訴奉行や五番引付頭を勤め、永仁三年には評定衆となっている。正応三(一二九〇)年の浅原為頼による伏見天皇殺害未遂事件(卷第十一 淺原八郎禁中にして狼藉を参照)やこの後伏見天皇譲位問題に代表される皇位継承をめぐる弐皇統の抗争に対して、幕府の使者として交渉に当った、と平凡社の「世界大百科事典」にあり、一緒に行った佐々木時清とのバランスから考えても、評定衆或いはその経験者でないとおかしいからである。彼はこの時、現役の評定衆である。

「邦治〔の〕親王」第九十四代天皇後二条天皇(弘安八(一二八五)年~徳治三(一三〇八)年/在位:正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)。後宇多上皇第一皇子。

「天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ」中国の代表的な兵法書で「六韜(りくとう)」(「韜」は剣や弓などを入れる袋の意)の一巻の「文韜」に、

   *

天下非一人之天下、乃天下之天下也。同天下之利者、則得天下、擅天下之利者、則失天下。

(天下は一人の天下に非ず、乃(すなは)ち、天下の天下なり。天下の利を同じくする者は、則ち、天下を得、天下の利を擅(ほしいまま)にする者は、則ち、天下を失ふ。)

とあるのに引っ掛けて批判したもの。

「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。

「二條〔の〕太政大臣兼基」関白二条良実の子二条兼基(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)。兄師忠の養子となって二条家を継いだ。

「貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て」大覚寺統の天下となって、胡散臭い連中までが宮中に入り込んでは、恰も内裏の内も、京の市中の巷間のような有様の如くになって。

「交態(かうたい)」そういった一癖も二癖もある連中が往ったり来たりする様子。

「雀羅を張るが如くなりしを」「門前雀羅を張る」の故事成句に基づく。「雀羅」は「じやくら(じゃくら)」と読む。雀を捕えるための「かすみ網」のこと。訪れる人もなく、門の前には雀が、これ、沢山、群れ飛んでいて、網を張れば容易に捕えられるほどだ、という謂いで、「訪れる者もいなくなってしまい、ひっそり如何にも寂れてしまっている」ことの喩え。これはもと、司馬遷の「史記」汲・鄭(てい)列伝が元であるが(昔、翟(てき)公が官をやめたとたん、誰も来ずなって、「廢門外可設雀羅」(門を廢し、外に雀羅を設くべし)というありさまに成った)、かの白居易の「寓意詩五首」の一節(高位高官が左遷されてしまい、主の居なくなった屋敷は「賓客亦已散、門前雀羅張」(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ、門前、雀羅張る。))によって広く知られるようになったものである。持明院統の二代の伏見・後伏見天皇の頃は、すっかり衰微して閑散としていた宮中が、大覚寺統の院政と同統の後二条天皇即位によって。

「鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり」脚を持った青銅器の鼎は君主などの権力の象徴であり、建物を支える柱に礎石があるというのは盤石な権勢をシンボルする。

「雍熙(ようき)」「雍」は「和やかに保つ」、「熙」は「恩徳が広く行き渡る」の意。大覚寺統の皇族らが如何にもわが世の春を大いに楽しみ。

「門楣(もんぴ)」具体には「門の上の梁(はり)」であるが、ここは一族の棟梁・首領及びその一門で、大覚寺統の皇族らの前途を指す。

「異類」これまで無関係であった者ども。

「朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く」根まで朽ち腐ってしまったはずの木が、再び花を咲かせて、えもいわれぬ香しい香りを放つかのようで。]

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