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カテゴリー「「北條九代記」」の228件の記事

2017/11/04

北條九代記 卷第十一 淺原八郎禁中にして狼藉

 

      ○淺原八郎禁中にして狼藉

 

同三年三月四日、紫宸殿の師子(しゝ)・狛犬、何の事もなきに、中より裂けて、兩方に別れたり。「是は如何樣、只事にあらず、天下国家の重き御愼なるべし」とて、陰陽寮に仰せて、御祈禱あり。京中、聞傳へて、「古も斯(かゝ)る例(ためし)あり、非常の災(さい)に禁裡を汚(けが)し、弓箭(きうせん)の難に人品を損する事あるべし」と、世には私語(さゝや)き申しけり。同九日の夜、甲斐源氏の末葉(ばつえふ)、淺原〔の〕八郎爲賴と云ふ者、その子・兄弟二人を召連れ、甲胄を帶し、馬に乘りながら、禁門に馳入(はせい)りて、長橋(ながはし)の局(つぼね)よりして、殿上に參り、女房共に向ひて、「主上の御座(ござ)は何處(いづく)ぞ」と問ひけるに、典侍(ないし)以下の官女、大に肝を消し、「玉上は此所許(こゝもと)にはおはしまさず。杳(はるか)に北なる御殿にこそ渡らせ給へ」とて彼方此方する間に、主上は女房の姿にて、忍出(しのびい)でさせ給ひ、中宮、東宮も潛(ひそか)に他(た)所へ遁れ給ふ。爲賴父子、中宮の御方(おんかた)へ押入りつゝ、主上の御座を尋求(たづねもの)む。宿直(とのゐ)の侍共、「太刀よ、長刀よ」とて、犇(ひしめ)き出でつゝ、殿中にして相戰(あひたゝか)ふ。その間に、近邊の篝(かゞり)の武士五十餘騎、馳來(はせきた)り、四方より取𢌞(とりまは)し、生捕(いけどり)にせんと仕(し)ければ、爲賴、叶はじと思ひけるにや、「口惜くも主上を取逃しける事」と訇(のゝし)りながら、夜殿(よるのおとゞ)の御茵(おんしとね)の上にて、鎧、脱置(ぬぎおき)きて、自害したり。嫡子賴資(よりすけ)は、紫宸殿の御帳(みちやう)の内に蒐入(かけい)りて、跡より來る宿直の武士三人に手負せ、その間に腹卷(はらまき)を脱ぎて、自害したり。次男賴堅(よりかた)は、大障子の下に伏して矢を放ちて防ぎければ、昏さは暗し、物間(ものあひ)は定(さだか)ならず。敵は何人何處に(いづく)ありとも知難(しりがた)し。間每(まごと)を蒐囘(かけめぐ)り、鼠を追ふが如くしければ、賴堅が伏したる所を求出(もとめいだ)したり。武士等(ら)、大勢、詰寄(つめよ)せて、生捕(いけどら)んとしければ、矢種は射盡し、今は叶はじとや思ひけん、立ちながら、腹、搔切(かきき)りて死ににけり。父子三人が尸骸(しがい)は六波羅へ遣して實檢す。「是は、そも、何者なれば、禁中に蒐入(かけい)りて詮なき命をば失ひけるぞ」とて、武士に仰せて見せらるゝに、知る人、なし。爲賴が放ちける矢注(やじるし)に「太政大臣源爲賴」と書きたりけるを見出して、其(それ)とは知りにけり。かの爲賴は大力の強弓(つよゆみ)武勇(ぶよう)の精兵(せいびやう)なりけるが、國郡に橫行(わうぎやう)し、村邑(そんいふ)に徘徊して、人の妻子を犯し、財産を掠(かす)め、非道濫惡の所行、更に云ふ計(ばかり)なし。惡逆の張本なりければ、鎌倉よりその所領を沒收(もつしゆ)して、國中に觸れて、追放せらる。「爲賴父子、身の置き所のなき故に狂亂となり、かゝる淺ましき事を仕出(しいだ)しけるにや」と、憐(あはれ)がる人も多かりけり。「爲賴が自害せし刀は、三條宰相中將實盛の家に相傳する所、世に隱(かくれ)なき刀なり」と申すに依て、六波羅より子細落居(らくきよ)の程、僉議(せんぎ)に及び、同四月に、實盛卿竝に子息侍従公久(きんひさ)を召捕(めしと)りぬ。爲賴と同意して、内々叛逆(ほんんぎやく)の企(くはだて)ありと風聞せし故なり。遂に鎌倉に下し遣し、謀叛の子細、同意の輩を糺問せらる。「是等の事も王道の磷(ひすろ)ぎて、武門に侈(おごり)ある故なり」と貴賤、唇を翻し、上下、眉をぞ顰(ひそ)めける。糾明募りて、この事の源(みなもと)は中院龜山の叡慮より起りける由、沙汰あり。西園寺内府實兼(さねかぬ)の息、中宮大夫公衡(きんひら)、是を聞きて、本院後深草〔の〕院へ奏し申しけるは、「皇統改(あらたま)り、政理、偏(ひとへ)に武家の計(はからひ)として、當今(たうぎん)、御位に卽(つ)き給ふを、中院龜山院、新院後宇多院、是を怨み給ひて、竊(ひそか)に爲賴に仰せ付らるゝ所なるべし。中院をば、六波羅へ移し參らせ、重(かさね)て評定の上にて遠流に處し申さん」とありけれども、本院後深草〔の〕院、更に御許容なし。西園寺家、既に武家に贔屓(ひいき)ありけるを以て、嚴しく糾明を遂げられん事を勸めて、此(かく)は奏し參らせらる。中院、新院、聞召(きこしめ)され、大に騷ぎ給ひ、誓詞(せいし)を鎌倉に遣され、樣々に陳謝(ちんじや)し給へば、武家、殊なる沙汰にも及ばすして、事、漸く靜(しづま)りぬ。

 

[やぶちゃん注:これは、あまり知られてはいないと思われる、正応三年三月九日(一二九〇年四月十九日)に発生した伏見天皇暗殺未遂事件の顛末を語った章である。ウィキの「浅原事件」によれば、三月九日『夜、浅原為頼(浅原八郎為頼)ら武装した』三『名の武士が騎馬で、御所である二条富小路殿に乱入した。浅原は御所内にいた女嬬』(にょじゅ/めのわらわ:後宮に於いて内侍司(ないしのつかさ)に属して掃除や照明を点(とも)すなどの雑事に従事した下級女官)『を捕まえて』、『天皇の寝床を尋ねた。危険を感じた女嬬は咄嗟に違う場所を教え、その間に天皇に事の次第を伝えたため、天皇は女装をし』、『三種の神器と皇室伝来の管弦』二『本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って春日殿に』、『春宮(のちの後伏見天皇)は常盤井殿に』『脱出した』。『一方、浅原らは天皇と春宮を探して』、『御所内を彷徨ったものの、御所内の人々が騒ぎに驚いて逃れ去った後だったため』、『天皇・春宮の居所を見つけることが出来ず、そのうちに篝屋の武士』(かがりやのぶし:鎌倉幕府の職名で「篝屋守護」「篝屋守護人」或いは単に「篝」とも呼んだ。京都市内四十八ヶ所に置かれた篝屋に宿営して、京の市中の治安に当たった武士)『が駆け付けたため、失敗を悟って自害した』。『首謀者である浅原為頼は甲斐武田氏または小笠原氏の庶流奈古氏の一族(ともに甲斐源氏系)で』、先の『霜月騒動に連座して所領を奪われたために悪党化し』、幕府の『追捕の対象となり』、『指名手配されていた』人物であった。『事件の折に御所内で射た矢には「太政大臣源為頼」と記すなど、事件当時』、『常軌を逸した行動があったとされている。また共に襲撃し』、『自害した』、『名は彼の息子(光頼・為継』『)であったという』(本文の名前は異なっているが、こちらが正しいようである)。『ところで、浅原為頼が自害した時に用いた鯰尾(なまづを)という太刀が実は三条家に伝わるもので、事件当時の所有者が庶流の前参議三条実盛』(?~嘉元二(一三〇四)年:権中納言三条公泰(きんやす)の長男)『と判明したために、六波羅探題が実盛を拘束した。伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は実盛が大覚寺統系の公卿であることから、亀山法皇が背後にいると主張したが、持明院統の治天の君である後深草法皇はこうした主張を退け、また亀山法皇も鎌倉幕府に対し』、『事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された』。『浅原為頼の天皇暗殺未遂騒動は』「増鏡」及び「中務内侍日記」に『記述されている』とある(下線やぶちゃん)。

「師子(しゝ)」獅子。

「腹卷(はらまき)」簡易の鎧の一種。

「物間(ものあひ)は定(さだか)ならず」敵と思われる人物の居る位置や距離の見当が全くつかないことを言っている。

「間每(まごと)を」殿中の部屋部屋を。

「磷(ひすろ)ぎて」薄らいで。弱くなって。

「西園寺内府實兼(さねかぬ)」既注。「さねかね」は「さねかぬ」とも読んだ。]

2017/11/02

北條九代記 卷第十一 久明親王征夷將軍に任ず

 

      ○久明親王征夷將軍に任ず

 

同九月、北條貞時一族參會して、「關東爪牙(さうが)の將軍には、誰(たれ)をか册(かしづ)き奉りて、武家の柱礎(ちうそ)と崇(あが)め奉るべき」とて、評議、數般(すはん)なる所に、貞時、申されけるは、「攝家の中には然るべき器量の人おはしますとも聞及ばす。後深草〔の〕院第二の御子は、是、主上の御連枝(ごれんし)として、久明(ひさあきの)親王と申す。御母は三條内大臣藤原〔の〕公親(きんちか)公の御娘、從二位房子(ふさこ)と號し、御匣殿(みくしげどの)と稱す。この親王を迎へて、鎌倉に居ゑ奉り、主君の禮を致さん」とありしかば、一族諸親、皆、一同して、賴綱入道が次男飯沼〔の〕判官に、名ある武士七人を相副(あひそ)へて、上洛せしめらる。後深草〔の〕院も然るべき事と思召して、卽ち、勅許あり。同十月三日、親王、御元服あり、征夷大將軍に任じ、一品に叙し、式部卿を兼ね給ふ。御年十六歳。仙洞より六波羅へ移り給ひ、關東に赴き給ふ。惟康親王の通り給ひし足柄越(あしがらごえ)は、先蹤(せんしよう)宜(よろ)しからずとて、別の路を御下向あり、貞時、大に喜び、前將軍惟康の住み給ひける館を壞(こぼ)ちて、新しく御所を造り、册入(かしづきい)れ參らせ、幕府の權威、此所(こゝ)に新(あらた)なり。大名、諸侍、殊に拜趨(はいすう)の禮を盡し、番役の勤(つとめ)を致されしかば、鎌倉、二度(たび)、平安の風に皈(き)し、關東、悉く、政治の德を仰ぎ奉る。前將軍惟康親王の御娘を御息所とせられしかば、その方(かた)の人々も、何(いつ)しか怨(うらみ)の雲も散じて、悦(よろこび)の眉をぞ開きける。

 

[やぶちゃん注:「久明親王」(ひさあきのしんのう:本条では標題にも「の」が入っているのでそれに従う 建治二(一二七六)年~嘉暦三(一三二八)年)は後深草院(久明出生時に既に上皇で三十歳)と藤原(三条)房子(二位局・三条公親の娘)の間に生まれた。鎌倉幕府八代征夷大将軍。ここでは第二皇子としているが、実際には後深草の第六皇子である(第一皇子常仁親王(この当時は既に故人)・第二皇子熈仁親王(伏見天皇)・第三皇子性仁法親王(仁和寺)・第四皇子幸仁親王(この当時は既に故人)・第五皇子行覚法親王(円満院)の次(それぞれの母はウィキの「深草天皇を見られたい)。ウィキの「久明親王によれば、ここに記されている通り、正応二(一二八九)年九月、従兄の前将軍惟康親王(後嵯峨天皇第一皇子で鎌倉幕府第六代将軍となった後深草天皇の異母兄宗尊親王の子)が『京に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した』(当時、未だ満十二歳であった)『幕政の実権は得宗北条貞時が一貫して握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった。ゆえに在職中は特に業績もなかったが、冷泉為相を師として和歌を学んでいた久明親王は鎌倉歌壇の中心として歌合を主催しており、執権の北条貞時も複数の和歌を久明親王家で詠んでいる。親王自身の和歌も』二十二首が「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」など八『つの勅撰集に入集している』。就任から十九年後の延慶元(一三〇八)年八月に、惟康同様、北条氏(当時の執権は第十代執権北条師時(非得宗家)であったが、得宗家高時(第十四執権)の中継ぎであって事実上は依然として前執権貞時及び得宗家が実権を握っていた)に『よって将軍職を解任され、京に送還され』、『出家した。交代する形で』八『歳の子の守邦親王(前将軍惟康親王の娘との間に出来た子)が将軍となった』。但し、『鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と放逐同前の形で京都へ送還されていたが、久明親王の場合』は『京都へ送還された後も幕府との関係は平穏であったようで』、嘉暦三(一三二八)年に彼が逝去した際には、幕府は喪に服すため、五十日間の沙汰停止(ちょうじ)を行い、『翌年正月には百箇日法要が鎌倉で行われている』。『守邦親王の他に、歌道の師である冷泉為相の娘との間に子息久良親王がいる。久良親王の息子は臣籍降下して源宗明として従一位権大納言まで昇っている。また』、『鎌倉幕府滅亡後に天台座主となった聖恵も久明の子とする説もある』とある。

「同九月」の惟康親王京都送還に続くので、「同」は正しく、正応二(一二八九)年九月。

「關東爪牙(さうが)」「爪牙」は「主君や国家を守護する家来・主君の手足となって働く家臣」の意であるが、ここは関東を守る事実上の東の守りの頂点たる征夷大将軍のことを指す。

「册(かしづ)き奉りて」大切にお世話申し上げて。

「三條内大臣藤原〔の〕公親(きんちか)」(貞応元(一二二二)年~正応五(一二九二)年)は正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の娘。

「賴綱入道」北条得宗家の御内人筆頭格として北条時宗・貞時の執事を勤め(貞時にとっては乳母父)、時宗死後に対立した有力御家人安達泰盛を先の「霜月騒動」で滅ぼし、「内管領(うちかんれい)」として幕府内に絶大なる権勢を持った平頼綱(仁治二(一二四一)年?~正応六(一二九三)年)。

「飯沼〔の〕判官」飯沼資宗(文永四(一二六七)年~正応六(一二九三)年)は頼綱の次男で得宗家御内人。安房守。ウィキの「飯沼資宗によれば、御内人で国司に『任命されるケースは稀である』とある。弘安二(一二七九)年九月、『得宗領である駿河国富士郡内で「刈田狼藉」を行ったとして日蓮門徒の百姓が捕縛され』、『頼綱の命で鎌倉の侍所へ連行された、いわゆる「熱原法難」の際、当時』十三『歳(数え年)の資宗が門徒に改宗を迫って鏑矢を射たという』。この正応二(一二八九)年九月、得宗政権による将軍すげ替えのために将軍惟康親王が京都へ送還された後、『資宗は御内人としては異例の検非違使に任ぜられ』、十月に『新将軍久明親王を迎えるために上洛した。その際、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」と、流罪として送還された前将軍惟康親王の通った跡は通れぬと詠い、箱根を通らず』、『足柄山を越えたという。入洛後は検非違使任官の挨拶回りのため、束帯姿で』四、五『百騎の武士を従えて上皇御所や摂関家、検非違使別当邸を訪れ、そのありさまを多くの貴族達が大路の傍で見物した。資宗はさらに五位の位を得て、大夫判官となり、御内人としてかつてない栄誉を極めた。直属の上司である検非違使別当は、ある法会の上卿(責任者)を急遽辞して、資宗の訪問を待ち受けている』。『この年の』三『月から鎌倉に滞在していた』「とはずがたり」の作者である『後深草院二条を邸にたびたび招いて和歌会を催している。二条は資宗を「思ったよりも情ある人」と評し、その交流の深さから周囲に仲を疑われたと思わせぶりに描いている』。正応四年、『鎮西の訴訟と引付衆による神社・仏寺の裁判迅速化のための監察とな』るが、正応五年五月には『再び上洛し、検非違使として葵祭の行列に加わった。金銀で飾り立てた資宗一行の出で立ちは、見物した正親町三条実躬』(おおぎまちさんじょうさねみ)が日記「実躬卿記」に『おいて「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評するほどであった』。『賀茂祭の翌年』正応六年四月二十二日、『鎌倉大地震での混乱の最中、鎌倉の経師ヶ谷にある頼綱邸で、頼綱の権勢を危険視した貞時の命を受けた武蔵七郎の軍勢に急襲され滅ぼされた(平禅門の乱)。享年』二十七。『御内人の賀茂祭り参加は資宗が最初で最後となった』とある(下線やぶちゃん)。

「惟康親王の通り給ひし足柄越(あしがらごえ)は、先蹤(せんしよう)宜(よろ)しからずとて、別の路を御下向あり」前の注の引用下線部を参照されたい。

「册入(かしづきい)れ參らせ」心を籠めて丁重に御養育申し上げ。

「拜趨(はいすう)の禮を盡し」急遽、御所に参上しての威儀正しき礼拝の礼を丁重に尽くし。

「番役」警護役。

「皈(き)し」「歸し」に同じい。

「關東」ここは旗下の幕臣総ての意。

「前將軍惟康親王の御娘」(?~嘉元四(一三〇六)年)次代で最後の鎌倉幕府将軍となる守邦親王の母。

「その方(かた)」惟康親王方。]

2017/11/01

北條九代記 卷第十一 胤仁親王東宮に立つ 付 將軍惟康歸京

 

      ○胤仁親王東宮に立つ  將軍惟康歸京

 

北條修理亮兼時、六波羅の南の方より北の方に移り、左近將監盛房を上洛せしめ、南の方に居ゑられけり。同二年四月に、主上、第一の皇子胤仁を東宮太子と定らる。是は准(じゆ)三后藤原經子(つねこ)とて、入道参議經氏卿の娘の腹に出來給ひし皇子なりけるを、西園寺内大臣實兼公、既に經子を我が娘とし、太子を孫と册(かしづ)き、外祖の威を振ひけり。是も關東より西園寺家を重くせらるゝ故なるべし。同九月、鎌倉中、物噪(さわが)しく、近國の御家人等、我我もと馳集(はせあつま)りければ、土民、百姓共、何事とは知らず、「すはや、大事の出來て、合戰に及ぶぞや。軍(いくさ)起らば、日外(いつ)落居(らくきよ)すべきとも更に辨難(わきまへがた)し」とて、雜具(ざふぐ)を取運(とりはこ)び、貴賤、走出(はしりい)でて逃吟(しげさまよ)ふ。此騷動に依て、盗人共の此彼(ここかしこ)に橫行(わうぎやう)して資材を奪取(うばひと)り、女童(をんなわらは)打倒(うちたふ)し、衣裳を剝(はぎむく)り、小路々々、巷の間には、赤裸になりて啼叫(なきさけ)び、幼(いとけな)き子は親を見失ひ、老いたる者は道に伏轉(ふしまろ)び、噪(さはがし)き中に、物の哀(あはれ)を留めたり。軍兵、東西に馳違(はせちが)ひ、相摸守の家に集り、又辻々に立別(たちわか)れ、嚴(きびし)く、諸人の往來を止(とゞ)め、將軍家、俄に御上洛あるべしとて、周章(あはて)慌忙(ふため)き、網代の御輿(みこし)を差寄(さしよ)せ、親王惟康、既に召されしを、餘(あまり)に急ぐとて御輿を後樣(うしろざま)に舁(か)きて鎌倉をぞ出でにける。流罪の人をこそ輿には後樣に乘せて舁くと云ふに、今の惟康親王を逆(さかしま)に御輿を奉りて、上洛し給ふ御有樣、惟康親王を京へ流すと云ふものかとて、鎌倉の諸人、笑合(わらひあ)ひけり。去ぬる八月十五日、鶴ヶ岡の放生會(はうじやうゑ)までは、さしも行粧(かうさう)を刷(つくろ)ひ、大名小名、駿馬、歩行(ほかう)、花を飾り、銛(きら)を磨き、行列、威儀を正しくして、威光は日の耀(ひかり)を欺(あざむ)き、權勢(けんせい)は帝德をも增(まさ)らじとこそ見奉りしに、俄に引替て淺ましげなる御上洛を、さこそ思召さるらめと推量(おしはか)り參らせ、淚を流さぬ人は、なし。去ぬる文永三年より今正應二年まで、御在職二十四年、果(はたし)て御入洛の後、軈(やが)て御餝(おんかざり)下(おろ)し給ひ、西山嵯峨野の邊に幽棲を占めて、蓬戸(ほうこ)を閉ぢて明(あか)し暮させ給ひけり。遙(はるか)に年歳(ねんさい)重なりて、正中二年十月に薨じ給ふ。御齡は六十二歳とぞ聞えける。

 

[やぶちゃん注:「北條修理亮兼時」既注。但し、やや時間が前で、彼が六波羅探題北方(長官)に異動したのは弘安一〇(一二八七)年八月である。

「左近將監盛房」北条盛房(仁治三(一二四二)年~永仁五(一二九七)年)は佐介流北条政氏の子。佐介盛房とも称した。ウィキの「北条盛房」によれば、『盛房の家系である佐介流北条氏は、北条時房の直系でありながら、傍流の大仏流の隆盛と、佐介流北条時国、北条時光らの凋落により大仏流の後塵を拝していたが、盛房の活躍によって地位を恢復した』。『それでも』、『佐介流の没落は盛房の出世の』障害『となったようで、要職に就き、幕府の中枢で活躍するのは』四十『代を過ぎてからであった』弘安五(一二八二)年に右近将監に叙任し、弘安九年に四十一歳で『引付衆に選定され、翌年には評定衆にも名を連ね』た。彼が六波羅探題南方(長官)に移動したのは弘安一一(一二八八)年二月のことである。『六波羅探題南方就任と間を置かずして左近将監に』昇進し、同年八月『には丹波守に叙任されて』いる。『六波羅探題南方の職は』永仁五(一二九七)年『まで務め、同年』五月十六日に『辞任した後は関東に下向し』、七月八日に数え年五十六で没した。『和歌にも堪能であり、新後撰和歌集に歌が収録されている。奈良の額安寺に墓塔が建立されている』とある。

「同二年四月」この「同」は前話の最後を受けているので、正応二(一二八九)年。胤仁(後の後伏見天皇(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)の皇太子定立は四月二十五日。

「准(じゆ)三后藤原經子(つねこ)」五辻経子(いつつじつねこ/けいし ?~元亨四(一三二四)年)は伏見天皇の典侍で後伏見天皇の生母。父は従三位参議武蔵守五辻経氏(?~弘安八(一二八五)年)。胤仁親王を産んだが、『胤仁親王は中宮西園寺鏱子の猶子となったため、経子は国母として遇されなかった。従三位、准三宮。中園准后とも呼ばれた』(ウィキの「五辻経子」に拠る)。

「西園寺内大臣實兼」(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)は従一位太政大臣。ウィキの「西園寺実兼」によれば、文永六(一二六九)年、『祖父西園寺実氏の家督を継ぎ』、『関東申次に就く。大覚寺統・持明院統による皇位継承問題などで鎌倉幕府と折衝にあたる』。正応四(一二九一)年には、『子の西園寺公衡に関東申次を譲ったが、公衡の死去により』、『再度』就任している。『当初は持明院統に近い立場に立って』、『伏見天皇の践祚に尽力したため』、『大覚寺統と激しく対立したが、京極為兼との確執から』、『次第に大覚寺統寄りに転換していった』。歌人として著名で「続拾遺和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」などの『勅撰集に入集』し、また、『琵琶の名手でもあった。なお』、『後深草院二条の「とはずがたり」に登場する恋人「雪の曙」は実兼であるとされる』とある。

「册(かしづ)き」大切に養育し。

「是も關東より西園寺家を重くせらるゝ故なるべし」「卷之八 西園寺家繁榮 付 時賴相撲守に任ず」を参照。
 
 「噪(さわが)しく」 ママ。

「落居(らくきよ)」(戦乱が)鎮静化すること。

「相摸守」北条氏得宗家当主第九代執権北条貞時。

「網代の御輿(みこし)」竹又は檜の薄板を斜め又は縦横に組んだ網代で屋形を覆って、物見(窓)を設けた輿。摂政・関白・大臣・納言・大将などの略式用であり、親王の乗り物としては甚だ粗末である。ウィキの「惟康親王によれば、第八代執権『時宗が源氏将軍の復活を強く望んで』おり、弘安七(一二八四)年に『時宗は死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の』同一〇(一二八七)年『に惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか』三『ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下がなされ、惟康親王と名乗ることとなった』。『これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく』、二十六『歳となった』この正応二(一二八九)年九月、自分の意志とは無関係に『将軍職を解任され』、『京に戻された』。「とはずがたり」によれば』、『鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる』とその有様を綴っている。

「差寄(さしよ)せ」御所に。

「召されしを」やっとお乗りになられたばかりなのに。

「餘(あまり)に急ぐとて」幕府方が「早急に御出立の程」と急いたため。

「御輿を後樣(うしろざま)に舁(か)きて」前後を逆にしたまま舁いた状態で。

「さしも行粧(かうさう)を刷(つくろ)ひ」あのように将軍らしく如何にもきらびやかに出で立ちを飾り立てて。

「歩行(ほかう)」権威を誇って練り歩き。

「銛(きら)を磨き」行列の美しさに磨きをかけ。

「帝德をも增(まさ)らじ」「增らじ」は「劣らじ」或いは「增らむ」の誤りであろう。「帝の御威光をも凌ぐばかりである」の意。

「文永三年」一二六六年。

「正應二年」一二八九年。

「御在職二十四年」数え。

「軈(やが)て」直ぐに。同年十二月に「御餝(おんかざり)」を「下(おろ)し」(出家)た。「蓬戸(ほうこ)」粗末な屋敷。

「閉ぢて」閉め切って。

「正中二年十月」誤り。彼の逝去は正中(しょうちゅう)二(一三二五)年ではなく、嘉暦元年十月三十日(一三二六年十一月二十五日)であった。

「御齡は六十二歳」誤り。享年は六十三歳。]

2017/10/31

北條九代記 卷第十一 伏見院御卽位

 

      ○伏見院御卽位

 

同十年六月に、將軍惟康を中納言に任ぜられ、右大將を兼給ふ。同月十七日、北條彈正少弼業時(なりとき)は、職を辭して入道せらる。左近將監宣時は、時房には孫にて、武蔵守朝直(ともなほ)の三男なりけるを、文才優美の人なりければ、業時の替(かはり)として、貞時、舉(きよ)し申され、執權の加判せらる。北條泰村は京都六波羅の職を止めて、鎌倉に下向あり。同十月、將軍惟康に親王の宣下有りて、二品(ほん)に叙せらる。同月二十一日、京都には主上御讓位の御事あり。主上、今年、僅(わづか)二十一歳に成らせ給ふ。龜山の新院も、只今の御讓位は餘(あまり)に早速(さうそく)の御事なれば、未だ遲からず、御殘(おんのこり)多く思召(おぼしめ)し、主上も本意ならずと聞えさせ給へども、後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし、只、疾(とく)御位を讓らせ給はんは、然るべき太平比和(たいへいひわ)の御基(もとゐ)たるべき旨、關東より奏し申せば、御心の儘ならず、俄に御讓位有りて、東宮熈仁(ひろひと)、御位に卽(つか)せ給ふ。軈(やが)て院號奉りて、後宇多天皇とぞ申しける。改元有りて、正應と號す。御卽位の主上は、是、後深草院第二の皇子、御母は玄輝門院と稱す。山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)公の御娘とぞ聞えし。東宮二十三歳にて御位に卽き給へば、二條左大臣師忠(もろただ)公、關白たり。この時に當りて、後深草、龜山、後宇多天皇にて、太上天皇、三人まで、おはします。後深草院、政(まつりごと)を知召(しろしめ)す。是を一院とも又は本院とも申し奉る。龜山院は中院(なかのゐん)と稱し、後宇多を新院と號す。昔に引替へて、何事に付きても天下の政道は露程(つゆほど)も綺(いろ)ひ給はず、打潛(うちひそ)みたる御有樣にて、其方樣の人々は、自(おのづから)、影もなきやうにぞ見えける。正應元年六月、西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘、入内あり。是等の事までも皆、關東より計(はかり)申して、萬(よろづ)、御心にも任せ奉らず。榮枯、地を換(かふ)るとは見えながら. 誠には賴難(たのみがた)き世の中なりと、高きも賤しきも、思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:「同十年六月」前話「城介泰盛誅戮」(霜月騒動)の最終時制は弘安八(一二八五)年であるから、誤り將軍惟康親王が中納言に任ぜられ、右近衛大将兼任となるのは、弘安一〇(一二八七)年 六月六日である。惟康親王は当時、満二十三歳。

「同月十七日、北條彈正少弼業時は、職を辭して入道せらる」既注であるが、再掲しておく。北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には北条重時の四男であったが、年下の異母弟北条義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。但し、出家の日付は十八日の誤り。この八日後の六月二十六日に享年四十七で逝去している。

「左近將監宣時」(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)この時、執権北条貞時の連署(「加判」)となった。和歌にも優れ、また、何より彼は「徒然草」第二百十五段での、第五代執権北条時頼との若き日のエピソードによって、実は誰もが知っている人物なのである。

   *

 平(たひらの)宣時朝臣(あそん)、老の後(のち)、昔語りに、

「最明寺入道、或宵の間(ま)に呼ばるる事ありしに、

『やがて。』

と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくて、とかくせしほどに、また、使(つかひ)、來りて、

『直垂などの候はぬにや。夜(よる)なれば、異樣(ことやう)なりとも、疾(と)く。』

とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子(てうし)に土器(かはらけ)取り添へて持て出でて、

『この酒を獨り食(たう)べんがさうざうしければ、申しつるなり。肴(さかな)こそなけれ、人は靜まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』

とありしかば、紙燭(しそく)さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、

『これぞ求め得て候ふ。』

と申ししかば、

『事足りなん。』

とて、心よく數献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか。」

と申されき。

   *

「武蔵守朝直(ともなほ)」(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は時房の四男であったが、長兄時盛が佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は、突然、出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世し、北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた。但し、寄合衆には任ぜられてはいない。北条大仏(おさらぎ)流の祖。

「貞時」第九代執権。

「北條泰村」「北條時村」の誤り。既注であるが、これも再掲しておく。北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』、この弘安一〇(一二八七)年に『鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人に任じられ』た。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし」自分の子である熈仁(ひろひと:即位して伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)の即位を、である。

「太平比和(たいへいひわ)」天下泰平と、後深草上皇(持明院統)と後宇多天皇(大覚寺統)の二流の和睦。

「俄に御讓位有りて、東宮、御位に卽(つか)せ給ふ」即位は弘安十年十月二十一日。

「後宇多天皇」誤り。「天皇」ではなく「上皇」である。

「改元有りて、正應と號す」改元は翌弘安十一年四月二十八日。

「玄輝門院」洞院愔子(とういんいんし 寛元四(一二四六)年~元徳元(一三二九)年)。

「山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)」洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)は公卿で洞院家の祖。従一位左大臣。娘三人がそれぞれ三人の天皇(亀山・後深草天皇・伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、三人の天皇(後宇多・伏見・花園)の外祖父ともなった(ウィキの「洞院実雄に拠る)。

「二條左大臣師忠(もろただ)」(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)は関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継いだ。この直前の弘安一〇(一二八七)年八月、関白・氏長者となっている。彼は正応二(一二八九)年に関白を辞し、永仁二(一二九四)年に出家しているが、その後も実に南北朝期まで長生きした。

「綺(いろ)ひ給はず」関与なさらず。

「西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘」伏見天皇中宮西園寺鏱子(さいおんじしょうし 文永八(一二七一)年~興国三/康永元(一三四二)年)。従一位太政大臣西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)の長女。正応元(一二八八)年六月二日に入内、同月八日、女御、さらに同年八月二十日には中宮となった。参照したウィキの「西園寺鏱子によれば、『実子は生まれなかったが、典侍五辻経子が生んだ東宮胤仁(のちの後伏見天皇)を猶子とし、手許で育てた』とあり、また、『伏見天皇の東宮時代から京極為兼が仕えていたことから、歌を京極為兼に師事し、為兼や伏見天皇を中心とする京極派の歌人として』「玉葉和歌集」「風雅和歌集」等に多くの歌を残している、とある。]

2017/09/11

北條九代記 卷第十一 城介泰盛誅戮

 

      ○城介泰盛誅戮

 

同四月に、北條貞時を相模守に任ぜらる。父時宗の世に替らず、執權相勤め、道を正しく禮を專(もつぱら)とし、仁慈を以て惠(めぐみ)を施し、政理(せいり)を行ふに、私欲を省き給ひければ、諸方の貴賤、その德に歸し、靡かぬ草木もなく、世は淳厚(じゆごう)の風に隨ひ、人は正直の心を勵(はげま)す所に、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛は、外祖の威を假(かつ)て、恣(ほしいまゝ)に勢(いきほひ)に誇り、榮耀(ええう)に飽盈(あきみ)ちて、奢(おごり)を極め、諸侍に向ひては、目銛(みぎら)を立て、百姓を責虐(せきぎやく)して、貪(むさぼり)を逞(たくまし)く、欲を深くして、「世の憤(いきどほり)、人の怨(うらみ)、誠に亂根(らんこん)の萠(きざし)なり」と、心ある輩は彈指(つまはじき)をしてぞ、疎(うと)みける。相模守貞時の御内(みうち)に、管領(くわんれい)平左衞門尉賴綱と云ふものあり。泰盛が行跡(ありさま)を目醒(めざま)しく思ひければ、その事とはなくして、中(なか)、不和に快らず、權(けん)を爭ひて、勢(いきほひ)に乘らんとす。泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景は、父に勝りて大に驕(おご)り、世を世とも思はぬ躰にて、山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹・逍遙に法令を破り、式目に背き、我儘を振舞ふこと、諸人の目にも餘りけり。「今、見よ、世の中の大事は、この家よりぞ起らんずらめ」と、危き中にも惡(にく)まぬ人はなし。家運の傾(かたぶ)く習(ならひ)、非道の行(おこなひ)、重疊(ぢうでふ)して、あらぬ心も付く物にや、奢(おごり)の餘(あまり)に、「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」とて、先祖より相續しける藤原の姓を改めて、源氏になり、家中の作法、偏(ひとへ)に執權の如し。馬・物具(もののぐ)の用意、既に分際に過ぎて多く拵へ、腕立(うでだて)・力量ある溢者(あぶれもの)共、數百人を招集(まねきあつ)め、軍事・兵法の稽古を致す事、日比に替りて聞えけり。左衞門尉賴綱は、泰盛父子が缺目(けぢめ)を伺ひ、「少の子細もあれかし」と、内々、工(たく)みける事なれば、此有樣を見聞くより、「究竟(くつきやう)の事こそあれ」と思ひ、潛(ひそか)に相模守に訴へけるやうは、「泰盛父子、逆心を企(くはだて)候事、粧(よそほひ)、色にあらはれ候。その故は、先祖數代相續せし藤原の姓を改めて、源氏になり候。是は偏(ひとへ)に鎌倉を傾(かたぶ)け、將軍に成(なり)て世を持(たも)たんとの結構なるべし。弓矢、馬、物具の用意夥しく、力量逞しく腕立を好む溢者共數百人を集め、非常の行跡(ふるまひ)、是、只事にあらず。諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候。國家の大事、起(おこ)り立ち候はぬ中(うち)に、憚りながら、御思案も候へかし」とぞ申しける。貞時、熟々(つくづく)と打聞きて、「實(げ)にも」と思はれ、「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」とて、同十一月八日、潛(ひそか)に人數を揃へて、殿中に隱置(かくしお)かれたり。泰盛父子は露計(つゆばかり)も思寄(おもひよ)らざる事なれば、出仕の威儀を刷(かいつくろ)うて、參られし所を、「ひしひし」と搦捕(からめと)りて、誅せらる。その館(たち)へは、また、人數を遣(つかは)し、家中悉く追捕(つゐふ)し、一味同類を聞出し、召捕(めしと)りて誅戮(ちうりく)せられけり。俄(にはか)の事にてはあり、女・童(わらは)・老いたる者共、周章慌忙(あはてふため)き、啼叫(なきさけ)びて、逃げ出でたりければ、傍(あたり)近き、地下(ぢげ)・町人ばら、「こは、そも、何事ぞ」とて、上を下に騷立(さはぎた)て、資財雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)びける程に、遠近(ゑんきん)、共(とも)に肝を消(け)し、魂(たましひ)を失(うしな)うて、騷動しけれども、事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり。是より、左衞門尉賴綱一人、愈(いよいよ)、威を振ひ、勢(いきほひ)高くなりけるが、「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず」と云ふことを思ひけるにや、同十二月二十七日に剃髮して、法名果圓(くわゑん)とぞ號しける。北條修理亮兼時は、相模守時賴の六男宗賴の嫡子にて、今年、京都に上洛して、六波羅の南の方にぞ成られける。世の中、今は京都・鎌倉、物靜(しづか)なるやうにて、諸國の有樣(ありさま)は、政道、行足(ゆきた)らざる事あり。「堯・舜も猶、病めり」とは是等をや申すべき。

 

[やぶちゃん注:「同四月」弘安八(一二八五)年。前章准后貞子の九十の慶賀の式は弘安八年に行われており、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年:北条時宗嫡男)は執権就任(弘安七(一二八四)年四月四日。未だ満十三歳であった)から一年後の弘安八年四月十八日に左馬権頭から相模守に遷任している。

「淳厚(じゆごう)」普通は「じゆんこう(じゅんこう)」。「醇厚」とも書く。人柄が素朴で人情にあついこと。

「秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八年十一月十七日(一二八五年十二月十四日))のこと。「秋田城介」(北辺鎮衛司令官の官職名)は彼の官位。安達義景の三男。彼は源頼朝の流人時代からの側近であった有力御家人の筆頭であった安達盛長の直系の曾孫である(これが後の「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」の謂いとなる)。妻は北条重時の娘。邸宅は鎌倉の甘繩にあった。建長五(一二五三)年に引付衆、翌年に秋田城介を継ぎ、康元元(一二五六)年には引付頭人及び評定衆となって第五代執権北条時頼を補佐した。父義景の死の前年(建長四(一二五二)年)に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育して、彼女を弘長元(一二六一)年に時宗に嫁がせ(正室で潮音院殿とも呼び、貞時の母である)、北条得宗家との関係を強固なものとした(本文の「外祖」とはこれを指す。話柄内現在の執権貞時の外祖父(事実上は伯父)に当たる)。弘長三(一二六三)年に時頼が没すると、時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時とともに得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となっていった。文永元(一二六四)年から同四年までは新設の越訴(おっそ)方(訴訟担当機関)の主力を勤め、同九年以降の官位は没するまで肥後国守護であった。著名な「蒙古襲来絵詞」の中で竹崎季長の訴えを鎌倉の邸宅で聴くシーンは建治元(一二七五)年の恩賞奉行の時の姿(四十四歳)である(一部参照にしたウィキの「安達泰盛」にこの絵巻の部分画像が有る)。文永三年の将軍宗尊親王追放の合議に加わっており、弘安年間(一二七八年~一二八八年)にはそれまで北条氏が占有していた陸奥守にあったことから判る通り、幕府の中枢に位置していた。これとともに、安達一族が引付衆・評定衆に進出、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていったことが、後の「霜月騒動」の遠因とも言える。源家相伝の名剣を保持し、実朝の後室八条禅尼から京都西八条遍照心院の保護を委ねられるなど、実際、源家との繋がりが深かった。弓馬に優れ、御所昼番衆の番文を清書するなど、書も達者であり、世尊寺経朝から「心底抄」を伝授されたことは、鎌倉の書風が世尊寺流書道へと流れてゆくの契機となったとされる。宗教面では高野山の檀越の有力な一人として参詣道整備等を積極的に援助し、奥院に後嵯峨天皇供養の石碑を建立、高野版の開板事業も行っている。信仰面では弘安三年に甘縄無量寿院で法爾上人から伝法灌頂を受けて同七年に出家したが、対立する平頼綱(後注)の讒言により、同八年の霜月騒動で一族諸共、滅ぼされた。この霜月騒動により、鎌倉末期の得宗専制体制が固定して行くこととなる(以上はおもに主文を「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。「北條九代記」の筆者は狡猾な人物として叙述しているが、これはかなり悪辣な粉飾である。

「目銛(みぎら)を立て」不詳。底本(有朋堂文庫)頭書には『苛察なるをいふ』とある。「苛察」は「細かい点にまで立ち入って厳しく詮索すること」を指す語である。

「亂根(らんこん)」世が乱れるその種。

「御内(みうち)」御内人は北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の通称。この頼綱の辺りから特に「内管領」(うちかんれい)とも呼ばれるようになる。但し得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭という「得宗家の家政を司る長」の意であって、幕府の役職名ではない。鎌倉末期には概ねこの内管領が権勢を持ち(特に頼綱の一族である長崎高綱(円喜))、得宗家を凌駕するまでになるのである。

「平左衞門尉賴綱」(?~永仁元(一二九三)年)は北条泰時・時頼の侍所所司で得宗被官御内人であった盛綱或いは盛時孰れかの子とされる。得宗時宗の侍所所司で内管領として「天下の棟梁」(日蓮書状)と目され、幼い執権貞時の乳母の夫として勢力を得た。弘安八(一二八五)年、幕政の実権を握っていた安達泰盛の子宗景が謀反を企てていると讒言し、その一族を滅ぼした(霜月騒動)。幕政での優位を確立した得宗勢力を背景に、諸人が恐れおののく専制的な政治を行ったが、永仁元(一二九三)年、次男の飯沼資宗(助宗)を将軍にしようと企てている、と嫡男宗綱から密訴され、貞時が差し向けた討手に攻められて鎌倉経師谷(きょうじがやつ)の屋敷で一族諸共、自害した(平頼綱の乱)。密告した宗綱は佐渡に配流されたが、後に内管領に復帰し、その後、概ね、同族であった長崎氏が鎌倉末期まで内管領の地位を占有した(ここまでは同じく「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。ウィキの「霜月騒動」によれば、貞時が『執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って』安達泰盛と平頼綱『両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので』、『得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった』とし、ウィキの「安達泰盛」によれば、ここに記されてあるように、頼綱は泰盛の子『宗景が源姓を称した事をもって将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得』。弘安八年十一月十七日、『この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の』正午『頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した』ところ、そこで『待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者』三十名、負傷者十名『に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼』午後四時頃に『合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族』五百『名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された』とある。

「泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景」(正元(一二五九)年~弘安八(一二八五)年)は安達泰盛嫡男。秋田城介を継いでいた。ウィキの「安達宗景」によれば、父泰盛二十九歳の時の子で、第八代執権『北条時宗より偏諱を受けて宗景と名乗』った。建治三(一二七七)年二月に検非違使に任官し、弘安四(一二八一)年に引付衆、翌年には『泰盛が陸奥守に任官するのを機に』二十四『歳の若さで評定衆とな』った。弘安六年に秋田城介に就いた。翌年四月に『執権北条時宗の死去に伴って泰盛が出家しているので、この時に宗景が家督を継承したと見られ、泰盛が長年務めた五番引付頭人も引き継いでいる』。同年五月に『高野山から幕府に宛てた報告書の宛名は宗景となっており、時宗の嫡子貞時が』七『月に執権職に就くまでの空白期に宗景が執権職を代行していた』ことが判るという。弘安八(一二八五)年の霜月騒動で死亡、享年二十七であった。「保暦間記」によれば、『霜月騒動の原因は、宗景が曾祖父の安達景盛が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓したところ、平頼綱が執権貞時に「宗景が謀反を企て将軍になろうとして源氏に改姓した」と讒言したためとしている』とある。

「山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹」山野での狩猟及び海上での水魚類の漁獲及び鵜飼や鷹狩り。

「逍遙」物見遊山。

「法令を破り、式目に背き」殺生戒を無制限に破っていることを指す。

「あらぬ心も付く物にや」教育社の増淵勝一氏の訳では『とんでもない(謀反の)心が取つ付くものなのであろうか』とある。

「物具(もののぐ)」武具。

「缺目(けぢめ)」足をすくえるところの致命的な欠陥・誤りの意。

「少の子細もあれかし」「ちょっとでもよいから致命的な結果を招き得るしくじりをしてくれればよいぞ」の意。

「工(たく)みける」企んでいた。

「究竟(くつきやう)の事こそあれ」「すこぶる都合がよいことではないか!」。

「色」現実の行動・様態。

「諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候」増淵氏の訳は『人々の取沙汰や世間の評判も皆(泰盛父子の行為を危ぶむ点で)一致しております』とある。

「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」増淵氏の訳は『そういうわけなら』、『なんとか』、安達一族を滅ぼす『計画を練りたい』とある。

「追捕(つゐふ)」犯罪者と見做した者を追いかけて捕えること。

「地下」ここは下級官人の意。

「遠近(ゑんきん)」鎌倉御府内の周縁は勿論、それより有意に隔たった地域。

「魂(たましひ)を失(うしな)うて」非常に驚いて。

「事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり」騒動はあっという間に治まったのであった。

「大名(たいめい)」高名(こうみょう)。この前後の頼綱寄りのいい話は全く事実ではないウィキの「頼綱によれば、霜月騒動で安達一族を滅ぼした後の『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』、弘安一〇(一二八七)年に第七代『将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』とし、『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後には』、『それまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六(一二九三)年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。 頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」に拠れば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。因みに、『室町時代に禅僧の義堂周信』(正中二(一三二五)年~元中五年/嘉慶二(一三八八)年:土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)生まれの名僧。義堂は道号で、周信は法名。空華道人とも号した。当初は台密を学んだが、後に禅宗に改宗して上京、夢窓疎石の門弟となった。延文四(一三五九)年に室町幕府が関東の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め、公明正大にして厳正中立な人格者として賞讃された。その後に帰京して第三代将軍足利義満の庇護の下、相国寺建立を進言し、建仁寺や南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧として知られる。ここはウィキの「義堂周信に拠った)『が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十『年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』のであった、と記す。この「北條九代記」の筆者の頼綱贔屓は歴史上の事実に全くそぐわず、特異的に極めて不快であると言っておく。

「北條修理亮兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条時宗異母弟北条宗頼の子。ウィキの「北条によれば、弘安三(一二八〇)年に『長門探題であった父の死に伴い』、『長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴』き、弘安の役から三年後の弘安七(一二八四)年、『摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた』(下線やぶちゃん)。正応六(一二九三)年一月に『探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年』三『月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり』、五月三日『に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた』。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は異国用心のために『筑前国と肥前国で九州の御家人達と』「とぶひ(狼煙)」『の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は』、永仁三(一二九五)年四月二十三日に『鎮西探題職を辞して』、『再び鎌倉に帰還した』(『翌年には北条実政が鎮西探題に派遣され』ている)。その後、『兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の』五ヶ月後の九月十八日に死去した。享年三十二。

「今年、京都に上洛して」誤り。霜月騒動の前の弘安七年である。筆者の表現上の美味しい辻褄合わせが深く疑われる。その辺りがやはり、実作者を浅井了意と非常に深く疑わせる。

「物靜(しづか)なるやうにて」意味は最後は逆接。「なるやうなれども」。

「堯舜も猶、病めり」。増淵氏訳は、中国の天下を太平とさせたとする伝説上の『堯や舜のような偉大な聖帝もやはり広く天下の人々を救うことは困難としていた』とされる。]

2017/09/09

カテゴリ「怪談集」は「怪奇談集」に変更

怪談集以外の実録奇談も多く含まれる結果となったことから、先日、名称を変更した。既存の過去記事中の注で使用した同カテゴリ名は変更が面倒なのでそのままとする。悪しからず。

2017/06/30

北條九代記 卷第十一 准后貞子九十の賀

      ○准后貞子九十の賀

 夫(それ)、人間世(にんげんせん)の有樣、古(いにしへ)今に亙(わたつ)て、上壽は百年、中壽は八十、下壽は六十歳、猶、是までも存(ながらへ)難く夭傷(えうしやう)する者、數知らず。人生七十古來稀なりとこそ云ふに、此、此世にめでたき御事とて、京、田舍、申し傳へ、いみじき事に持(もて)はやすは、鷲尾(わしのをの)大納言隆衡(たかひら)卿の娘貞子(さだこ)は、故西園寺相國實氏公の北の政所なり。御子(おんこ)、數多(あまた)設けらる。中にも御娘(おんむすめ)は本院、新院の御母后(おんぼこう)、大宮〔の〕女院とて、院號、蒙(かうぶ)らせ給へば、御母も外祖母にて、北山の准后(じゆごう)從一位の宣を蒙り、當今(たうぎん)、東宮の御爲には曾祖母なり。本朝、古來、御后(おんきさき)の珍圖(めづらし)き例(ためし)ありといへども、或は壽(ことぶき)短うして皇子(みこ)の御在位を見給はず、或は皇子の帝に後れて長き命を悔ゆるもあり。この大宮の女院は、帝三代の國母(こくも)にて、主上後宇多、東宮伏見院を御孫に持ち、我が御母の准后は、猶、存生(そんじやう)にて、一家の富榮(ふえい)なる事、申すも愚(おろか)なり。准后從一位貞子、今年、九十の賀、行はる。誠に以て例(ためし)少き果報なりとて、同八年二月上旬、主上、北山へ行幸(ぎやうかう)あり。新院、本院、東宮も行啓(ぎやうけい)にて、舞樂、歌の會、その下々(したじた)まで酒宴、遊興、程々に付けて賜(たまもの)あり。

 

[やぶちゃん注:「准后貞子」四条(藤原)貞子(さだこ 建久七(一一九六)年~正安四(一三〇二)年)は西園寺実氏(既に注しているが、親幕派の公家として知られ、第三代将軍源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式にも参列しており、承久の乱の際には後鳥羽上皇の命令によって父公経とともに幽閉されている。寛喜三(一二三一)年に内大臣、嘉禄元(一二三五)年に右大臣、寛元四(一二四六)年には太政大臣まで登りつめ、関東申次・院評定衆も兼務した)の正室。父は権大納言四条隆衡(後に出る「鷲尾大納言」は彼の通称)、母は坊門信清(後鳥羽天皇の外叔父で娘で貞子の姉信子は源実朝の室)女である。父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫に当たる。西園寺実氏の室となり、嘉禄元(一二二五)年に姞子(きつし:後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元(一二三二)年に公子(きんし:後の後深草天皇中宮・東二条院)を生んだ。逝去した時は数えで実に百七歳で、まさに現代から見ても正真正銘の長寿であった(以上は主にウィキの「四条貞子に拠った)。ここに出る弘安八(一二八五)年二月三十日に催された彼女の九十の賀の華やかな様子は「増鏡」の「第十 老のなみ」の最後に異様に詳しく述べられてあり、本条もそれを参考に極度に圧縮したものと思われる。当初は原文を引くつもりであったが、あまりに長く、それをこれだけ切り詰めた筆者の気持ちを考えると、引用する気にならなくなった。悪しからず。但し、ご要望があれば示す。なお、何度も注しているが、再掲しておくと、「准后」(「じゅんこう」とも読む)は、朝廷に於いて太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者を言い、准三后(じゅさんごう)・准三宮(じゅさんぐう)とも称した。ここは女性だが、「后」があるために勘違いされる方が多いので言っておくと、これは男女とは関係がない

「人生七十古來稀なり」知られた杜甫の七律「曲江」中の一句。

「御娘(おんむすめ)」後嵯峨天皇中宮姞子。

「本院」後深草天皇。

「新院」亀山天皇。

「當今(たうぎん)」今上天皇である後宇多天皇。

「東宮」後の伏見天皇。この後の弘安十年十月即位。彼の「御爲には曾祖母なり」とあるのは、これは貞子の次女公子が後深草天皇の后となった関係から、後深草天皇の第二皇子であった彼(母は左大臣洞院実雄の娘愔子(いんし))が公子の義理の子となったことから、かく言っている。

「帝三代」誤り。「大宮〔の〕女院」姞子は後深草天皇と亀山天皇の母であるから「二代」が正しい。

「同八年二月上旬」おかしい。これは貞子の九十の慶賀の前日で二月二十九日である。]

2017/05/22

北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

      ○惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

蒙古大元の世祖忽必烈(こつびれつ)は、今度大軍を鏖(みなごろし)にせられ、憤(いきどほり)、尤も深く、如何にもして日本を討隨(うちしたがへ)へ、この怒(いかり)を休(きう)せんと、寢食を忘れて祕計を𢌞(めぐら)すといへども、智謀雄武の日本國を容易(たやす)く討(うつ)て、急迫(きふはく)には滅難(ほろぼしがた)からん。只その弊(つひえ)を伺ひ、時節を計るに加(しく)なしとて、日本の樣(やう)を聞居(きゝゐ)たり。この比(ころ)、龜山の新院、鎌倉の北條、京、鎌倉の間、佛心宗を崇敬(そうきやう)し、禪法を歸仰(きかう)し給ふ事、都(すべ)て諸宗に超過せり。抑、本朝に禪法の弘通(ぐつう)する事、遠くは聖德太子、直(ぢき)に達磨(だるま)の心印(しんにん)を傳へ給ふといへども、その名のみ論書に見えて世に知る人もなし。淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す。眞言密法を空海和尚に聞き給ふ。その便(たより)に問ひ給はく、「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」と。空海、答へて宣く、「大唐國に佛心宗とて候ふなる、是、則ち、南天(なんてん)菩提達磨の傳來せし所、盛(さかり)に彼(かの)地に行はれ候。然れども、空海、是を究(きはむ)るに暇(いとま)なくて、歸朝致し候」と申し給へば、橘皇太后、「さては又、如來の大法、未だ唐國に留りて傳らず。是、大に悕(こひねが)ふ所なりしとて惠蕚(ゑがく)法師に勅して、文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる。唐の宣宗皇帝大中の年なり。惠蕚、卽ち、登萊(とくねき)の界(さかひ)より鴈門(がんもん)、五臺(だい)を經て、杭州の靈池寺(れいちじ)にいたり、齊安(せいあん)禪師に謁して、宗門の直旨(ぢきし)を極め、禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる。京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふといへども、根機(こんき)、未だ熟せざりけるにや、世に知る人も希なりけり。寶治の比(ころ)、蜀の僧、隆蘭溪、本朝に遊化(いうげ)せらる。最明寺時賴、厚く禮敬(れいきやう)を致し、巨福山建長寺を立てて、開山とす。相摸守時賴は、祖元を開山として瑞鹿山圓覺寺を創めて、宗門を弘通せしむ。京都には建仁寺の榮西禪師より起りて、主上、上皇、この法に御歸依あり。攝家、淸華(せいくわ)の輩(ともがら)、皆、宗門の弟子となり、四海、是に依て、禪法の繁昌(はんじやう)する事、頗る鎌倉に超過せり。殊更、この比は、日本の諸國、佛心宗を尊びて、公家武家共に頭を傾(かたぶ)くる由、元朝に傳聞(つたへきゝ)て、王積翁(わうせきをう)と云ふ者を使者として、如智(によち)と云へる禪僧を此日本にぞ渡しける。王積翁は海路の間、同船の者に刺殺(さしころ)されしかば、日本の風俗を伺ひ見るべきやうもなく、如智も、その名を知る人なし。海中にや入りぬらん、元國にや皈りけん。その終(をはり)は聞及ばず。愈(いよいよ)、本朝、この宗、普(あまね)く弘(ひろま)りて盛なれども、異國襲來の備(そなへ)をば堅く守り、強く誡めて、西海の湊々(みなとみなと)は、更に用心怠る時なし。

[やぶちゃん注:「佛心宗」禅宗の異称。文字などに依らず、直ちに仏心を悟ることを教える宗門の意。

「達磨」中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧菩提達磨大師(サンスクリット語音写:ボーディダルマ 生没年未詳。五世紀末から六世紀末の人とされる)。南インドで王子として生まれたが、般若多羅から教えを受け、中国に渡って禅宗を伝えた。

「心印」禅宗用語としては、以心伝心によって伝えられる悟り、決定(けつじょう)していて不変である悟りの本体のことを指す。

「淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし」「淳和天皇」(第五十三代)は「嵯峨天皇」(第五十二代)の誤り。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)は橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣橘清友の娘。諡号は檀林皇后。ウィキの「橘嘉智子によれば、『世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后したと考えられ』ている。『仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺』(承和年間(八三四年~八四八年)に洛西嵯峨野に創建された。後に出る通り、開山は唐僧の義空で、京都で最初に禅を講じた寺として知られる。盛時は壮大な寺院として塔頭十二坊を数えたと伝えられるが、皇后の没後、急速に衰え、平安中期には廃絶した。その跡地に建てられたのが夢窓疎石を開山とした天龍寺である)『を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は』ともに『冷然院・嵯峨院に住んだ』が、『嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるため』、承和の変(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたとして流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥道康親王が皇太子となった)にも『深く関わったといわれる。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている』。『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらがつじ:現在の京都市北西部にあったとされる場所)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれ』。或いは、『その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。

「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」の「是」は空海の教えた真言宗を指す。

「南天(なんてん)」南インド。

「惠蕚(ゑがく)法師」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。ウィキの「惠蕚によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は先行する「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこでも私は注しているので、参照されたい。

「文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる」「齊衡」は八五四年から八五七年。これではしかし嘉智子の没後(嘉祥三(八五〇)年没)となり、如何にもおかしい。前注の通り、彼が弟子とともに入唐して五台山に至ったのは唐の会昌元(八四一)年)とするのがピンとくるから、この叙述は変である直後に「宣宗皇帝大中の年なり」とあるが、大中は八四七年から八五九年で、二つを合わせると、入唐はユリウス暦八四七年から八五七年の間ということになり、これだと、嘉智子の晩年と三年だけかぶるからまだしもではある

「登萊(とくねき)」読みはママ。山島半島の北側にある登(とう)州と萊(らい)州のこと。

「鴈門」山西省北部にある句注山(雁山)のこと。中国史に於ける北辺守備の要地。

「五臺」山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった。

「靈池寺」杭州塩官県の霊池院。現存しない模様。

「齊安禪師」塩官齊安 (?~八四二年)。「碧巖錄」の「第九十一則 鹽官 (えんかん)の犀牛 (さいぎう) の扇子」などで知られる禅僧。

「禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる」恵萼の帰朝は、先の注に記した、唐宣宗の大中一二年、本邦の天安二年、ユリウス暦八五八年のことであった。因みに、この年の八月、文徳天皇は薨去し、清和天皇が践祚している。

「京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふ」時代が齟齬している。おかしい

「根機」時機。禪語で言うなら、禅宗が広まるための禪機である。

「寶治」一二四七年~一二四八年。

「隆蘭溪」蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年:建長寺にて示寂)。この辺りは先行する「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「遊化」教化のために来日したこと。

「祖元」蘭溪道隆の後継として来日した無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年:建長寺にて示寂)。この辺りも私の「新編鎌倉志卷之三」の「圓覺寺」の項を参照されたい。

「榮西禪師」備中国賀陽郡(現在の岡山県加賀郡吉備中央町)の神官の子であった臨済僧明菴栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)。正治二(一二〇〇)年に北条政子が建立した寿福寺の住職に招聘され、建仁二(一二一二)年には鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外護により、京都に建仁寺を建立(同寺は禅・天台・真言の三宗兼学)、以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努め、建仁寺で示寂した。

「攝家」摂関家。

「淸華」現行では「せいが」と濁る。清華家。公家の家格のの一つで最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「王積翁」(一二二九年~一二八四年)が殺されたのは、先例に徴して日本に行けば問答無用で斬首されると恐れた水夫らの反乱によるものと考えられているようである。

「如智」不詳。補陀禅寺の長老という記載をネット上では見かけた。

「皈り」「かへり」(歸り)。]

 

2017/02/20

北條九代記 卷第十一 北條時宗卒去 付 北條時國流刑

 

      ○北條時宗卒去  北條時國流刑

 

同七年四月四日、北條相摸守時宗、病(やまひ)に依(よつ)て、剃髮し、法名道果(だうくわ)とぞ號しける。去年の春の初より何となく心地煩ひ、打臥(うちふ)し給ふ程にはあらで、快らず覺え、關東の政治も合期(がふご)し難く、北條重時の五男彈正少弼業時(だんじやうのせうひつなりとき)を以て執權の加判せしめらる。今年になりて、時宗、取分(とりわ)けて、病、重くなりければ、内外の上下、大に驚き奉り、樣々醫療の術を賴みて耆扁(ぎへん)が心を差招(さしまね)くといへども、更に其驗(しるし)もなし。今は一向(ひたすら)打臥し給ひ、漿水(しやうすゐ)をだに受け給はねば、諸人、足手(あして)を空(そら)になし、神社に幣帛を捧げ、佛寺に護摩を修(しゆ)し、精誠(せいじやう)の祈禱を致さるといへども、天理に限(かぎり)あり。命葉、保(たもち)難く、漸々(ぜんぜん)に気血(きけつ)衰耗し、この世の賴(たのみ)もなくなり給ひて、圓覺寺佛光禪師祖元を戒師として、出家せられしが、同日の暮方に遂に卒去し給ひけり。行年三十四歳。寳光寺殿(どの)とぞ稱しける。去ぬる文永元年より今弘安七年に至る首尾二十一年、天下國家の政道に晝夜その心を碎き、朝昏(てうこん)其(その)思(おもひ)を費し、未だ榮葩(えいは)の盛(さかり)をも越えずして、命葉(めいえふ)、忽(たちまち)に零(お)ち給ひけるこそ悲しけれ。嫡子左馬權頭貞時十四歳にて、父の遺跡を相續し、將軍惟康(これやす)の執權たり。彈正少弼業時、加判して、政治を行はれ、貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛、陸奥守に任ぜられ、その威、既に八方に盈(み)ちて、その勢(いきほひ)、四境に及び、肩を竝(ならぶ)る者なし。奉行、頭人(とうにん)、評定衆も先(まづ)この人の心を伺ひ、諸將、諸司、諸大名も、偏(ひとへ)にその禮を重くせしかば自(おのづから)執權の如くにぞ侍りける。同五月、北條時國、六波羅南の方として、西國の成敗を致されし所に、如何なる天魔の入替りけん、如何にもして世を亂し、關東を亡(ほろぼ)して、我が世を治めて執權となり、眉目嘉名(びもくかうめい)を天下後代(こうだい)に殘さばやとぞ思ひ立たれける。内々その用意ある由(よし)聞えければ、關東より飛脚を以て「俄に密談すべき子細あり」と申上せられしかば、時國、思も寄らず、夜を日に繼ぎて、鎌倉に下向せられしを、是非なく捕へて常陸國に流遣(ながしつか)はす。一味與黨の輩、憤(いきどほり)を挾(さしはさ)み、常州に集(あつま)り、時國を奪取(うばひと)りて大將とし、北陸の軍勢を催し、城郭に楯籠(たてこも)り、討死すべき企(くはだて)ありと聞えしかば、潛(ひそか)に配所に人を遣し、時國をば刺殺(さしころ)しければ、その事、終(つひ)に靜りけり。

[やぶちゃん注:「同七年」弘安七(一二八四)年。

「合期」思うようなる、思い通りに展開すること。

「北條重時の五男彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には重時の四男であったが、年下の異母弟義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。

「時宗、取分けて、病、重くなりければ」時宗は満三十二歳の若さで亡くなっているが、死因は結核とも心臓病ともされる。孰れにせよ、執権職の激務も死を早めた要因ではあろう。

「耆扁(ぎへん)」名医。歴史上、名医とされる耆婆(ぎば)と扁鵲(へんじゃく)から。耆婆(生没年不詳)はインドの釈迦と同時代の医師で、美貌の遊女サーラバティーの私生子であった。名医として知られ、釈尊の教えに従った。扁鵲(生没年不詳)は中国の戦国時代(前四〇三~前二二一)の名医で、事実上の中国医学の祖師とされる人物。渤海郡(現在の河北省)の生まれで、「史記」によれば、各地を遍歴して施術を行い、特に脈診に優れていたとされる。彼の才能に嫉妬した秦の太医によって殺害された。

「心を差招く」懇切に依頼して招聘する。

「漿水」飲料水。

「足手(あして)を空(そら)になし」なすすべもなく、途方に暮れ。

「精誠(せいじやう)の」精魂込めた。

「命葉」後で「めいえふ」(めいよう)とルビが振られる。「命数」に同じい。

「気血」漢方医学に於ける人体内の生気と血液で、経絡の内外を循環する生命力の源とみなされる。

「圓覺寺佛光禪師祖元」無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。諡は「仏光国師」。弘安二(一二七九)年に執権時宗の招きに応じ、来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となった。懇切な指導法は「老婆禅」と呼ばれ、時宗を始めとして多くの鎌倉武士の厚い帰依を受け、弘安五年には時宗が元寇での戦没者追悼のために創建した円覚寺の開山となり、本邦に帰化して無学派(仏光派)の祖となった。建長寺で示寂し、墓所も同寺にある。

「文永元年」一二六四年。

「榮葩(えいは)」「葩」は「花」「華やかさ」の意で「栄華」のに同じい。

「零(お)ち」前の「葩」の落花・凋落に掛けたもの。

「嫡子左馬權頭貞時」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。かの悪名高き第十四代執権北条高時は彼の三男である。

「加判」連署職。

「貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は有力御家人安達義景の三男。異母妹(後の覚山尼(かくさんに))を猶子として養育して、弘長元(一二六一)年に時宗に正室として嫁がせ、北条時宗の外戚となり、得宗家との強固な関係を決定的にし、幕府の重職を歴任、栄華を誇った。時宗の死後、「弘安徳政」と称される幕政改革も行ったが、内管領平頼綱と対立、弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」で一族郎党とともに滅ぼされた。北条貞時の側室で高時の母となる後の覚海円成(えんじょう))も、彼の次兄安達景村の子泰宗の娘であった。

「陸奥守に任ぜられ」弘安五(一二八二)年のこと。この時、泰盛は「秋田城介」を嫡子宗景に譲り、その代りとして「陸奥守」に任ぜられている。ウィキの「安達泰盛」によれば、『陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた』とあり、彼の権勢が、ここにかたっれるように名実ともに最も輝いた頂点の時であったと言える。

「同五月」弘安七(一二八四)年五月。

「北條時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年十月三日(但し、異説有り。後注参照))は北条氏佐介流の一族で「佐介時国」とも呼ばれた。「卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基」の私の注を参照されたい。

「如何なる天魔の入替りけん」如何なる悪辣なる天魔がその心と入れ替わってしまったものか。

「眉目嘉名(びもくかうめい)」「嘉名」は通常、歴史的仮名遣でも「かめい」で「名声」の意。「眉目」もここは「面目・名誉」の意。

「申上」「せられしかば」と続くので「しんじやう」と音読みしておく。

「潛に配所に人を遣し、時國をば刺殺しければ」ウィキの「北条時国」によれば、この時国の死は「鎌倉年代記」の建治元(一二七五)年の条では『常陸国伊佐郡下向、十月三日卒』、「武家年代記」の建治三年条では十月三日に「於常州被誅了」とする一方、「六波羅守護次第」では十月四日に自害とするが、異説として九月、常陸にて逝去とも伝える。「關東開闢皇代並年代記事」の「北條系圖」でも死因を自害としているが、その時期を遡る八月としており、「尊卑分脈」や「續群書類從」所収の「北條系圖」及び「淺羽本北條系圖」では八月十三日に「被誅」(誅さる)とする、とある。如何にも怪しい。]

2017/01/17

北條九代記 卷第十一 蒙古襲來付神風賊船を破る

 

鎌倉 北條九代記卷第十一

 

      ○蒙古襲來神風賊船を破る

 

弘安四年正月、蒙古大元の軍艦、阿刺罕(あしかん)、范文虎(はんぶんこ)、忻都(きんと)、洪茶丘(こうさきう)、十萬人を率して、兵船六萬艘に取乘(とりの)り、纜(ともづな)を解きて海に浮ぶ。阿刺罕は船中にして病に罹り、范文虎等(ら)、軍(いくさ)評定、區々(まちまち)なりければ、軍法令命(れいめい)一決し難し。同七月に蒙古の兵船(ひやうせん)、既に日本の平壺島(ひらどしま)に著きて、人數の手分(てわけ)を相(あひ)定め、其よりして五龍山(ごりうさん)に推移(おしうつ)る。日本にも豫(かね)て用意せし事なれば、筑紫九州の武士等(ら)、是を待掛(まちかけ)けて、蒙古を陸地(くがち)に上立(あげたて)じと、海岸に柵(さく)を振(ふ)り、その上に櫓(やぐら)、搔楯(かいだて)、隙(ひま)なく搔竝(かきなら)べ、鏃(やじり)を揃へて射(い)出しければ、蒙古の舟には掛金(かけがね)を掛けて組合(くみあは)せ、其上に板を敷きたれば、海上、宛然(さながら)、陸地(くがち)になり、馬を走(はしらか)して危(あやふ)からず、鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)るに、櫓に燃付(もえつ)き、搔楯(かいだて)、燒上る。是を打消すに遑(いとま)なく、迸(ほとばし)る焰(ほのほ)に手足を燒かれ、日本の軍兵、是に僻易し、中々厭(あぐ)みてぞ覺えける。蒙古、勝(かつ)に乘(のつ)て、一同に攻掛(せめかゝ)る。打(うた)るれども顧(かへりみ)ず、倒(たふ)るれども引退(ひきの)けず。乘越(のりこえ)々々飽(いや)が上に、詰掛(つめか)けたり。日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて、菊池、原田、松浦黨(まつらたう)、手負ひ討たる〻者、數知らず。此由、京都に告げたりければ、兩六波羅、初(はじめ)て加勢の軍兵を指下(さしくだ)すべき評定あり。禁裡、仙洞には大に驚かせ給ひ、諸寺、諸山に仰せて大法(だいほふ)を執行(とりおこな)ひ、護摩の煙(けぶ)り立休(たちやす)む隙なく、振鈴(しんれい)の音、響(ひゞき)の絶(たゆ)る時なし。伊勢、石淸水(いはしみづ)、賀茂、春日、平野、松尾を初て、二十一社の御神は申すに及ばず、小社、禿倉(ほこら)に至るまで、諸方の神社に勅使を立てられ、奉幣祈願に叡信を傾(かたぶ)けられ、宸禁(しんきん)、更に安からず。斯る所に、諸社の神殿或は鳴動し、神馬(しんめ)に汗を綴(つゞ)るもあり。或は瑞籬(みづがき)の本より神鹿(しんろく)掛出でて、雲路(くもぢ)を分けて入(い)るもあり。或は寶殿(はうでん)の御戸(みと)、開(ひら)けて、白雲(しらくも)靉靆(たなび)き、虛空(こくう)の間に亙(わた)るもあり。或は末社の扉(とびら)の内より、白羽(しらは)の矢の出づるもあり。その神々の使者と云ふもの、狗(いぬ)、庭鳥の親(たぐひ)まで、皆、悉く西に向ひ、諸神、各(おのおの)鎭西(ちんぜい)の方に赴き給ふ。粧(よそほひ)は歷然として疑(うたがひ)なし。宜禰(きね)が鼓(つゞみ)の音、少女(をとめ)の舞の袖、鈴(すゞ)の聲に相(あひ)和して、 如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじと賴(たのも)しくこそ思ひけれ。斯(かく)て八月一日の午刻(うまのこく)計(ばかり)に、俄(にはか)に大風吹起(ふきおこ)り、大木(たいぼく)を掘(ねこぎ)にし、岩石(がんせき)を飛(とば)せ、海中、怒浪(ぬらう)を揚げしかば、蒙古數萬艘(すまんぞう)の舟共(ども)、組合(くみあはせ)たる掛金、一同に斷離(ちぎ)れて、右往左往に吹亂(ふきみだ)れ、岩に當り浪に打(うた)れ、皆、悉く沈みければ、異國十萬人の軍勢、底(そこ)の水屑(みづく)となりて、僅(わづか)に三萬人、張百戸(ちやうびやくこ)といふ者を首魁(しゆくわい)とし、博多の浦に漂ひける所を、同七日に日本の軍兵、押掛(おしか〻)り、一人も殘らず打殺(うちころ)す。その中に干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)とて、三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける。是(これ)、偏(ひとへ)に本朝三千七百餘杜の靈神(れいじん)の擁護(おうご)に依て、不日(ふじつ)に異賊を退治し給ふ、神力(しんりき)の程こそ有難けれとて、上(かみ)は主上を初め奉り、仙院、攝家より、京、鎌倉の貴賤上下、頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、この神德をぞ仰がれける。宇都宮貞綱は、六波羅の仰(おほせ)に依て大將を承り、中國の勢を集めて、筑紫に赴きける所に、備後(びんご)にして、蒙古、既に討亡(うちほろぼ)されぬと聞えしかども、貞綱は押(おし)て九州に下りて、彌(いよいよ)異賊襲來の備(そなへ)を致し、其より京都に凱陣(がいぢん)す。世は末代と云ひながら、日月、未だ地に落ち給はず。本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)とて、伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる。その外、諸神(しよじん)勳一等の賞を行はる。我が國の古(いにしへ)より伊勢の神風(かみかぜ)や吹き治まれる世の例(ためし)、久方の天津空(あまつそら)、新金(あらかね)の國津巖(くについはほ)の動(うごき)なき御代こそ目出度けれ。

 

[やぶちゃん注:弘安四(一二八一)年の弘安の役のシークエンス。ウィキの「元寇」の「弘安の役」によれば、元・高麗軍を主力とした東路軍は総勢約四万から五万七千人に軍船数九百艘、それに旧南宋軍を主力とした江南軍約十万人及び江南軍水夫(人数不詳)に軍船三千五百艘で、両軍の合計は約十四万から~十五万七千人(プラス人員不詳の江南軍水夫)と軍船四千四百艘もの軍が日本に向けて出撃した。『日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった』とさえある。「弘安四年正月」とあるが、現在は東路軍の朝鮮半島の合浦(がっぽ)からの出航は五月三日(その内訳は東征都元帥ヒンドゥ(忻都)・洪茶丘率いるモンゴル人・漢人などから成る蒙古・漢軍三万と征日本都元帥金方慶率いる高麗軍約一万)であった。

 同軍は十八日後の五月二十一日に対馬沖に到着、対馬の大明浦に上陸したが、『日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死し』ている。

 次いで、五月二十六日には壱岐を襲った(『なお、東路軍は壱岐』『に向かう途中、暴風雨に遭遇』、兵士百十三人、水夫三十六人の『行方不明者を出』している)。その後、『東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来』しているらしい。

 六月上旬、『対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾岸に』約二十キロメートルにも『及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念』、六月六日、『陸繋島である志賀島』(しかのしま:現在の福岡県福岡市東区にある島。博多湾の北部にあって海の中道と陸続き)『に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした』ものの、六月九日の戦闘でも敗戦を重ね、『東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つこと』となった。

 『ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である』六月十五日を過ぎても現れず、『さらに東路軍内で疫病が蔓延して』三千余人もの『死者を出すなどして進退極まった』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」』『と漢詩に詠んでいる』とある。ここに至って『戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した』が、結局、『江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った』。

 『一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した』。『江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである』。この江南軍は六月下旬に出撃(慶元(寧波)・定海等)江南軍の主力部隊は七昼夜かけて平戸島と鷹島に到着、『平戸島に上陸した都元帥・張禧率いる』四千人の『軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた』。

 一方、日本軍は六月二十九日、『壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始』、七月二日、『肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された』『龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦』した。

 『壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と』、『江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより』『壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している』。

 七月中下旬、『平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢』四千人に『守らせ』つつ、『鷹島へと主力を移動させた』が、これは『新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画』『を実行に移すための行動と思われる』。ここでようやく『東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了』している。

 七月二十七日、『鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げてい』る。

 元軍はここまでの戦闘により、『招討使・クドゥハス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた』。『そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止し』てしまう。また、「張氏墓誌銘」によると、『鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったと』もいう。

 『一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる』六万余騎と『もいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった』(これは本章でも語られている)。『さらに幕府は、同年』六月二十八日には、九州及び『中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の』四ヶ国に於ける『幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園領の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷い』ていた。

 ところが七月三十日の夜半、台風が襲来、『元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被』るという事態が出来した。これは『東路軍が日本を目指して出航してから』約三ヶ月後、博多湾に侵攻して戦闘が始まってから約二ヶ月後のことであった。「張氏墓誌銘」によれば、『台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという』。また、元朝の文人周密の「癸辛雑識」によると、『元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け』、約四千隻の『軍船のうち残存艦船は』、たった二百隻であったとも言う。但し、『江淮戦艦数百艘や諸将によっては台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船』九百艘の『台風による損害も軽微であったことから』、「癸辛雑識」の『残存艦船』二百というのは『誇張である可能性もある』とある。事実、『東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった』。『その理由を弘安の役から』十一年後の『第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」』『と発言しており、高麗で造船された戦艦に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」』『と述べており、高麗船が頑丈だったことが分かる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍水夫の生還者は』七割を超えていたという。

 閏七月五日、『江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか』という軍議があり、そこで張禧が『「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」』と続行論を唱えたものの、范文虎は『「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」』と述べ、『結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした』。『その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒』十余万を『見捨てて逃亡した』。『平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬』七十頭を『降ろして、これを平戸島に棄てると』、その代わりに軍勢四千人を『軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった』 という。『この時の元軍諸将の逃亡の様子』は、「蒙古襲来絵詞」の閏七月五日の『記事の肥前国御家人・某の言葉』として『「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」と』記している。

 この後、諸将に見捨てられた兵士たちが日本軍によって掃討された。

 閏七月五日、『日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始』、午後六時頃、『御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け』、『筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船』三艘の内の大船一艘を追い掛け、『乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した』。『また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した』。『日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃し』ている。

 『御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍』十余万と『鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した』。『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した。しかし閏七月七日、『日本軍は鷹島への総攻撃を開始』、『文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した』。『上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を』二人『生け捕るなどした』。『また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦』、活躍している。『一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払っ』ている。『これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により』十余万の『元軍は壊滅』、日本軍は二万〜三万人の『元の兵士を捕虜とした』。『現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、』十万の『江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」』『と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」』『とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」』『と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している』。「元史」によると、「十万の『衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の』三人のみで『あったという』。他方、「高麗史」では、『鷹島に取り残された江南軍の管軍捴把・沈聰ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる』。『南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる』。「辛巳六月の『半ば、元賊は四明より海に出る』。大舩七千隻、七月半ば頃、『倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日』『に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか』四百餘隻のみ廻る。二十万人は『白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」』とある。『戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた』のであった。

 

 以下、本文語注に移る。

 

「阿刺罕(あしかん)」元の司令官(日本行省右丞相)の名。現行では原音に近い「アラハン」で読まれている。但し、本文に出るように彼は途中で急病を発し、阿塔海(アタハイ)が交代している。

「范文虎」(?~一三〇一年)は南宋や元に仕えた政治家・軍人。南宋の宰相賈似道の娘婿であった。ウィキの「范文虎」によれば、『当初は南宋の武将として夏貴とともに、元と対峙する戦争に従事していた』が『その後、元に投降した(間もなく岳父の賈似道は福建に左遷され、亡父に関して恨みがあった鄭虎臣によって殺害された)』。弘安の役では先に示した通り、台風が襲来、波状的な日本軍の攻撃に『慌てた范文虎は生き残った手勢を見捨てて、わずかの腹心とともに逸早く帰国した』。帰国後、一二八四年に『中書左丞を経て、枢密院事を歴任した』が、『クビライの逝去を経て』、一三〇一年になって、『生き残って帰還することができたわずかの将兵が、自分たちを放置して勝手に帰還した范文虎をはじめ、将校の厲徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を告訴した。このことを耳にしたクビライの孫の成宗(テムル)は激怒し、皇后ブルガンとともに徹底的な調査を厳命させた揚句に、范文虎らが白状したため、范文虎は妻の賈氏と側室の陳氏をはじめ家族とともに斬首に処された。同時に厲徳彪、王国佐、陸文政らも自分たちだけではなく、一家も皆殺しの刑に処された』。

「忻都(きんと)」(生没年不詳)は元のモンゴル人武将。日本行省右丞。名前の原音は「ヒンドゥー」が近いという。暴風後は辛うじて高麗へ逃れている。

「洪茶丘(こうさきう)」既出既注。

「平壺島(ひらどしま)」現在の長崎県北部の北松浦半島の西海上にある平戸島。平戸市内。平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された水軍松浦党(まつらとう)の根拠地として知られる。

「五龍山(ごりうさん)」九州北西部の伊万里湾口にある長崎県松浦市に所属する鷹島のこと。

「陸地(くがち)に上立(あえたて)じ」上陸させまい。

「搔楯(かいだて)」「かきだて」の転訛。原義は垣根のように楯を立て並べることであるが、特にここでは小形の持ち楯(手楯)に対して、大形の楯(厚板二枚を縦に並べて接(は)ぎ、表には紋を描いて裏に支柱をつけて地面に立てるようにしたもの)を指す。それをバリケードのようにみっちりと立てたのである。

「鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)る」ウィキの「元寇」の「てつはう」によれば、『正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で』直径一六~二〇センチメートル、総重量は四~一〇キログラム(約六〇%が容器の重量で残りが火薬)。二〇〇一年に長崎県の鷹島の海底から「てつはう」の実物が二つほど『発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径』四センチメートルの孔が空いた直径一四センチメートルの素焼物の容器で重さは約四キログラムあった。『なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は』約四キログラムもあり、手投げする場合、腕力があるもので二二〇~三〇メートルしか『飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている』。『「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い』一・二キログラムの弾を八〇メートル飛ばすのに四十一人(一人は指揮官)も要した。従って、組立式にし、『日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている』とある。リンク先に弾丸の実物写真がある。

「是を打消すに遑(いとま)なく」教育社の増淵勝一氏の訳ではその理由として『(次ぎ次ぎと打ちこまれて来るので)』という補助訳を添えておられる。

「乘越(のりこえ)々々」元軍の兵士たちが同胞の遺体を踏み越えて攻めてくるのである。

「日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて」「軍旗色(いくさはたいろ)」で一語。日本軍の旗色が悪くなって。

「菊池」菊池一族。本姓藤原氏を称し、九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を本拠としていた。文永・弘安の役では第十代当主菊池武房(寛元三(一二四五)年~弘安八(一二八五)年)の活躍が「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。

「原田」建長元(一二四九)年、原田種継・種頼父子が現在の福岡県糸島市にあった日本の古代の山城土(いと)城の遺構を利用して高祖山に高祖城を築城、元寇の際はその直系の種照・種房兄弟が奮戦している。

「禁裡」後宇多天皇。

「仙洞」後深草上皇と亀山上皇。

「大法(だいほふ)」戦勝祈願の修法(ずほう)。

「平野」二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた神社)の一社である、現在の京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。

「松尾」同じく二十二社の一社である、現在の京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。

「禿倉(ほこら)」石製の禿倉(ほくら)と呼ばれるごく小規模な小石祠。祠(ほこら)。

「宸禁(しんきん)」広義の禁中。宮廷。

「瑞籬(みづがき)」《古くは「みづかき」と清音。神社や神霊の宿るとされた山・森・木などの周囲の周囲に設けた垣根。玉垣。斎垣 (いがき) 。神域の結界を示す。

「本」「もと」。結界を神獣が破って出るのは神威の発現と捉えられた。

「雲路(くもぢ)」雲の棚引いている山道。同前。

「開(ひら)けて」自然に開いて。同前。

「白羽(しらは)の矢の出づる」これも誰も射てなどいないのに、突如、放たれるのである。同前。

「庭鳥」「鷄」。

「宜禰(きね)」「禰宜」。

「少女(をとめ)」巫女。

「如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじ」どう考えても、神威のあらたかなそれは、空しい者となるなどと言うことはあるはずがない。

「八月一日」誤り。颱風の襲来は、冒頭の引用で見たように旧暦七月三十日(当月は小の月でこの日が晦日)で(ユリウス暦八月十五日でグレゴリオ暦換算で八月二十二日相当)、しかも弘安四年は閏月が七月の後に入っているので、この翌日は八月一日ではなく、閏七月一日(ユリウス暦八月十六日でグレゴリオ暦換算で八月二十三日相当)である。

「午刻(うまのこく)」正午であるが、諸記録からはおかしい気がする。颱風が彼らを襲ったのは「夜」である(ウィキの「元寇」の注記の「鎌倉年代記裏書」を見ると、「同卅日夜、閏七月一日大風」とする)とあるから、これは「午」ではなく、日付の変わる子の刻が正しいのではなかろうか?

「張百戸(ちやうびやくこ)」先のウィキの引用に『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した(下線太字やぶちゃん)という人物であろう。

「干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)」孰れも不詳。ただ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、前の「張百戸」やここに出る三名の『蒙古人の名』は「日本王代一覧」に拠るとある。従って『三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける』という事実があったのか、なかったのかも、私は知らぬ。

「不日(ふじつ)に」間もなく。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は幕府御家人。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘。後の北条氏得宗家の第九代執権北条貞時(北条時宗嫡男)の偏諱を受けて貞綱と名乗った。この弘安の役では第九代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六万に及ぶ『御家人を率いて総大将として九州に出陣し』、『その功績により戦後、引付衆の一人に任』ぜられている。後の嘉元三(一三〇五)年の嘉元の乱では、「凱陣(がいぢん)す」ここの「凱陣」は底本では「歸陣」とありながら、ルビで「がいじん」とする。「歸陣」で読みを附さないという法もあるとは思ったが、かく本文を訂した。

「世は末代」これは筆者の時制から見た鎌倉時代の「末代」(後末期)と読むべきであろう。直後「日月未だ地に落ち給はず」以下は、神道の神観念に基づく天照大神等を意識した(本地垂迹を逆手にとった逆本地垂迹説をさえ感じさせる)謂いとしか思えず、さすれば、平安末期の末法思想の「末法」なんぞではないのは明白だからである。

「本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)」増淵氏は『わが国に仏が衆生済度のために仮に神となって現われた天照大神の穏やかな威光の輝きは、やはり新しく、そのおぼしめしはいちじるしいことだ』と訳しておられる。こういう謂いであったとしても、江戸期の神道観からは私は前注の謂いを改める気は全くないと言っておく。

「伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる」これは現在の三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮の二つの正宮(しょうぐう)の内の一つである、豊受(とようけ)大神宮の、境内別宮である風宮(かぜのみや)のこと。ウィキの「風宮によれば、『風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。祭神は内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命で、外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある亀石を渡った左側に風宮がある。亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられている』。『別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる。外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、風宮が別宮となったのは』正応六(一二九三)年。『古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)であったが』、この弘安の役で『神風を起こし』、『日本を守ったとして別宮に昇格した』ものである。『風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)である。本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となった』とある。古くは『風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され』弘安の役で『朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利とし』、正応六(一二九三)年に『風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となった』とある。]

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