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カテゴリー「「北條九代記」」の220件の記事

2017/02/20

北條九代記 卷第十一 北條時宗卒去 付 北條時國流刑

 

      ○北條時宗卒去  北條時國流刑

 

同七年四月四日、北條相摸守時宗、病(やまひ)に依(よつ)て、剃髮し、法名道果(だうくわ)とぞ號しける。去年の春の初より何となく心地煩ひ、打臥(うちふ)し給ふ程にはあらで、快らず覺え、關東の政治も合期(がふご)し難く、北條重時の五男彈正少弼業時(だんじやうのせうひつなりとき)を以て執權の加判せしめらる。今年になりて、時宗、取分(とりわ)けて、病、重くなりければ、内外の上下、大に驚き奉り、樣々醫療の術を賴みて耆扁(ぎへん)が心を差招(さしまね)くといへども、更に其驗(しるし)もなし。今は一向(ひたすら)打臥し給ひ、漿水(しやうすゐ)をだに受け給はねば、諸人、足手(あして)を空(そら)になし、神社に幣帛を捧げ、佛寺に護摩を修(しゆ)し、精誠(せいじやう)の祈禱を致さるといへども、天理に限(かぎり)あり。命葉、保(たもち)難く、漸々(ぜんぜん)に気血(きけつ)衰耗し、この世の賴(たのみ)もなくなり給ひて、圓覺寺佛光禪師祖元を戒師として、出家せられしが、同日の暮方に遂に卒去し給ひけり。行年三十四歳。寳光寺殿(どの)とぞ稱しける。去ぬる文永元年より今弘安七年に至る首尾二十一年、天下國家の政道に晝夜その心を碎き、朝昏(てうこん)其(その)思(おもひ)を費し、未だ榮葩(えいは)の盛(さかり)をも越えずして、命葉(めいえふ)、忽(たちまち)に零(お)ち給ひけるこそ悲しけれ。嫡子左馬權頭貞時十四歳にて、父の遺跡を相續し、將軍惟康(これやす)の執權たり。彈正少弼業時、加判して、政治を行はれ、貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛、陸奥守に任ぜられ、その威、既に八方に盈(み)ちて、その勢(いきほひ)、四境に及び、肩を竝(ならぶ)る者なし。奉行、頭人(とうにん)、評定衆も先(まづ)この人の心を伺ひ、諸將、諸司、諸大名も、偏(ひとへ)にその禮を重くせしかば自(おのづから)執權の如くにぞ侍りける。同五月、北條時國、六波羅南の方として、西國の成敗を致されし所に、如何なる天魔の入替りけん、如何にもして世を亂し、關東を亡(ほろぼ)して、我が世を治めて執權となり、眉目嘉名(びもくかうめい)を天下後代(こうだい)に殘さばやとぞ思ひ立たれける。内々その用意ある由(よし)聞えければ、關東より飛脚を以て「俄に密談すべき子細あり」と申上せられしかば、時國、思も寄らず、夜を日に繼ぎて、鎌倉に下向せられしを、是非なく捕へて常陸國に流遣(ながしつか)はす。一味與黨の輩、憤(いきどほり)を挾(さしはさ)み、常州に集(あつま)り、時國を奪取(うばひと)りて大將とし、北陸の軍勢を催し、城郭に楯籠(たてこも)り、討死すべき企(くはだて)ありと聞えしかば、潛(ひそか)に配所に人を遣し、時國をば刺殺(さしころ)しければ、その事、終(つひ)に靜りけり。

[やぶちゃん注:「同七年」弘安七(一二八四)年。

「合期」思うようなる、思い通りに展開すること。

「北條重時の五男彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には重時の四男であったが、年下の異母弟義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。

「時宗、取分けて、病、重くなりければ」時宗は満三十二歳の若さで亡くなっているが、死因は結核とも心臓病ともされる。孰れにせよ、執権職の激務も死を早めた要因ではあろう。

「耆扁(ぎへん)」名医。歴史上、名医とされる耆婆(ぎば)と扁鵲(へんじゃく)から。耆婆(生没年不詳)はインドの釈迦と同時代の医師で、美貌の遊女サーラバティーの私生子であった。名医として知られ、釈尊の教えに従った。扁鵲(生没年不詳)は中国の戦国時代(前四〇三~前二二一)の名医で、事実上の中国医学の祖師とされる人物。渤海郡(現在の河北省)の生まれで、「史記」によれば、各地を遍歴して施術を行い、特に脈診に優れていたとされる。彼の才能に嫉妬した秦の太医によって殺害された。

「心を差招く」懇切に依頼して招聘する。

「漿水」飲料水。

「足手(あして)を空(そら)になし」なすすべもなく、途方に暮れ。

「精誠(せいじやう)の」精魂込めた。

「命葉」後で「めいえふ」(めいよう)とルビが振られる。「命数」に同じい。

「気血」漢方医学に於ける人体内の生気と血液で、経絡の内外を循環する生命力の源とみなされる。

「圓覺寺佛光禪師祖元」無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。諡は「仏光国師」。弘安二(一二七九)年に執権時宗の招きに応じ、来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となった。懇切な指導法は「老婆禅」と呼ばれ、時宗を始めとして多くの鎌倉武士の厚い帰依を受け、弘安五年には時宗が元寇での戦没者追悼のために創建した円覚寺の開山となり、本邦に帰化して無学派(仏光派)の祖となった。建長寺で示寂し、墓所も同寺にある。

「文永元年」一二六四年。

「榮葩(えいは)」「葩」は「花」「華やかさ」の意で「栄華」のに同じい。

「零(お)ち」前の「葩」の落花・凋落に掛けたもの。

「嫡子左馬權頭貞時」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。かの悪名高き第十四代執権北条高時は彼の三男である。

「加判」連署職。

「貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は有力御家人安達義景の三男。異母妹(後の覚山尼(かくさんに))を猶子として養育して、弘長元(一二六一)年に時宗に正室として嫁がせ、北条時宗の外戚となり、得宗家との強固な関係を決定的にし、幕府の重職を歴任、栄華を誇った。時宗の死後、「弘安徳政」と称される幕政改革も行ったが、内管領平頼綱と対立、弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」で一族郎党とともに滅ぼされた。北条貞時の側室で高時の母となる後の覚海円成(えんじょう))も、彼の次兄安達景村の子泰宗の娘であった。

「陸奥守に任ぜられ」弘安五(一二八二)年のこと。この時、泰盛は「秋田城介」を嫡子宗景に譲り、その代りとして「陸奥守」に任ぜられている。ウィキの「安達泰盛」によれば、『陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた』とあり、彼の権勢が、ここにかたっれるように名実ともに最も輝いた頂点の時であったと言える。

「同五月」弘安七(一二八四)年五月。

「北條時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年十月三日(但し、異説有り。後注参照))は北条氏佐介流の一族で「佐介時国」とも呼ばれた。「卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基」の私の注を参照されたい。

「如何なる天魔の入替りけん」如何なる悪辣なる天魔がその心と入れ替わってしまったものか。

「眉目嘉名(びもくかうめい)」「嘉名」は通常、歴史的仮名遣でも「かめい」で「名声」の意。「眉目」もここは「面目・名誉」の意。

「申上」「せられしかば」と続くので「しんじやう」と音読みしておく。

「潛に配所に人を遣し、時國をば刺殺しければ」ウィキの「北条時国」によれば、この時国の死は「鎌倉年代記」の建治元(一二七五)年の条では『常陸国伊佐郡下向、十月三日卒』、「武家年代記」の建治三年条では十月三日に「於常州被誅了」とする一方、「六波羅守護次第」では十月四日に自害とするが、異説として九月、常陸にて逝去とも伝える。「關東開闢皇代並年代記事」の「北條系圖」でも死因を自害としているが、その時期を遡る八月としており、「尊卑分脈」や「續群書類從」所収の「北條系圖」及び「淺羽本北條系圖」では八月十三日に「被誅」(誅さる)とする、とある。如何にも怪しい。]

2017/01/17

北條九代記 卷第十一 蒙古襲來付神風賊船を破る

 

鎌倉 北條九代記卷第十一

 

      ○蒙古襲來神風賊船を破る

 

弘安四年正月、蒙古大元の軍艦、阿刺罕(あしかん)、范文虎(はんぶんこ)、忻都(きんと)、洪茶丘(こうさきう)、十萬人を率して、兵船六萬艘に取乘(とりの)り、纜(ともづな)を解きて海に浮ぶ。阿刺罕は船中にして病に罹り、范文虎等(ら)、軍(いくさ)評定、區々(まちまち)なりければ、軍法令命(れいめい)一決し難し。同七月に蒙古の兵船(ひやうせん)、既に日本の平壺島(ひらどしま)に著きて、人數の手分(てわけ)を相(あひ)定め、其よりして五龍山(ごりうさん)に推移(おしうつ)る。日本にも豫(かね)て用意せし事なれば、筑紫九州の武士等(ら)、是を待掛(まちかけ)けて、蒙古を陸地(くがち)に上立(あげたて)じと、海岸に柵(さく)を振(ふ)り、その上に櫓(やぐら)、搔楯(かいだて)、隙(ひま)なく搔竝(かきなら)べ、鏃(やじり)を揃へて射(い)出しければ、蒙古の舟には掛金(かけがね)を掛けて組合(くみあは)せ、其上に板を敷きたれば、海上、宛然(さながら)、陸地(くがち)になり、馬を走(はしらか)して危(あやふ)からず、鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)るに、櫓に燃付(もえつ)き、搔楯(かいだて)、燒上る。是を打消すに遑(いとま)なく、迸(ほとばし)る焰(ほのほ)に手足を燒かれ、日本の軍兵、是に僻易し、中々厭(あぐ)みてぞ覺えける。蒙古、勝(かつ)に乘(のつ)て、一同に攻掛(せめかゝ)る。打(うた)るれども顧(かへりみ)ず、倒(たふ)るれども引退(ひきの)けず。乘越(のりこえ)々々飽(いや)が上に、詰掛(つめか)けたり。日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて、菊池、原田、松浦黨(まつらたう)、手負ひ討たる〻者、數知らず。此由、京都に告げたりければ、兩六波羅、初(はじめ)て加勢の軍兵を指下(さしくだ)すべき評定あり。禁裡、仙洞には大に驚かせ給ひ、諸寺、諸山に仰せて大法(だいほふ)を執行(とりおこな)ひ、護摩の煙(けぶ)り立休(たちやす)む隙なく、振鈴(しんれい)の音、響(ひゞき)の絶(たゆ)る時なし。伊勢、石淸水(いはしみづ)、賀茂、春日、平野、松尾を初て、二十一社の御神は申すに及ばず、小社、禿倉(ほこら)に至るまで、諸方の神社に勅使を立てられ、奉幣祈願に叡信を傾(かたぶ)けられ、宸禁(しんきん)、更に安からず。斯る所に、諸社の神殿或は鳴動し、神馬(しんめ)に汗を綴(つゞ)るもあり。或は瑞籬(みづがき)の本より神鹿(しんろく)掛出でて、雲路(くもぢ)を分けて入(い)るもあり。或は寶殿(はうでん)の御戸(みと)、開(ひら)けて、白雲(しらくも)靉靆(たなび)き、虛空(こくう)の間に亙(わた)るもあり。或は末社の扉(とびら)の内より、白羽(しらは)の矢の出づるもあり。その神々の使者と云ふもの、狗(いぬ)、庭鳥の親(たぐひ)まで、皆、悉く西に向ひ、諸神、各(おのおの)鎭西(ちんぜい)の方に赴き給ふ。粧(よそほひ)は歷然として疑(うたがひ)なし。宜禰(きね)が鼓(つゞみ)の音、少女(をとめ)の舞の袖、鈴(すゞ)の聲に相(あひ)和して、 如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじと賴(たのも)しくこそ思ひけれ。斯(かく)て八月一日の午刻(うまのこく)計(ばかり)に、俄(にはか)に大風吹起(ふきおこ)り、大木(たいぼく)を掘(ねこぎ)にし、岩石(がんせき)を飛(とば)せ、海中、怒浪(ぬらう)を揚げしかば、蒙古數萬艘(すまんぞう)の舟共(ども)、組合(くみあはせ)たる掛金、一同に斷離(ちぎ)れて、右往左往に吹亂(ふきみだ)れ、岩に當り浪に打(うた)れ、皆、悉く沈みければ、異國十萬人の軍勢、底(そこ)の水屑(みづく)となりて、僅(わづか)に三萬人、張百戸(ちやうびやくこ)といふ者を首魁(しゆくわい)とし、博多の浦に漂ひける所を、同七日に日本の軍兵、押掛(おしか〻)り、一人も殘らず打殺(うちころ)す。その中に干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)とて、三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける。是(これ)、偏(ひとへ)に本朝三千七百餘杜の靈神(れいじん)の擁護(おうご)に依て、不日(ふじつ)に異賊を退治し給ふ、神力(しんりき)の程こそ有難けれとて、上(かみ)は主上を初め奉り、仙院、攝家より、京、鎌倉の貴賤上下、頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、この神德をぞ仰がれける。宇都宮貞綱は、六波羅の仰(おほせ)に依て大將を承り、中國の勢を集めて、筑紫に赴きける所に、備後(びんご)にして、蒙古、既に討亡(うちほろぼ)されぬと聞えしかども、貞綱は押(おし)て九州に下りて、彌(いよいよ)異賊襲來の備(そなへ)を致し、其より京都に凱陣(がいぢん)す。世は末代と云ひながら、日月、未だ地に落ち給はず。本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)とて、伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる。その外、諸神(しよじん)勳一等の賞を行はる。我が國の古(いにしへ)より伊勢の神風(かみかぜ)や吹き治まれる世の例(ためし)、久方の天津空(あまつそら)、新金(あらかね)の國津巖(くについはほ)の動(うごき)なき御代こそ目出度けれ。

 

[やぶちゃん注:弘安四(一二八一)年の弘安の役のシークエンス。ウィキの「元寇」の「弘安の役」によれば、元・高麗軍を主力とした東路軍は総勢約四万から五万七千人に軍船数九百艘、それに旧南宋軍を主力とした江南軍約十万人及び江南軍水夫(人数不詳)に軍船三千五百艘で、両軍の合計は約十四万から~十五万七千人(プラス人員不詳の江南軍水夫)と軍船四千四百艘もの軍が日本に向けて出撃した。『日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった』とさえある。「弘安四年正月」とあるが、現在は東路軍の朝鮮半島の合浦(がっぽ)からの出航は五月三日(その内訳は東征都元帥ヒンドゥ(忻都)・洪茶丘率いるモンゴル人・漢人などから成る蒙古・漢軍三万と征日本都元帥金方慶率いる高麗軍約一万)であった。

 同軍は十八日後の五月二十一日に対馬沖に到着、対馬の大明浦に上陸したが、『日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死し』ている。

 次いで、五月二十六日には壱岐を襲った(『なお、東路軍は壱岐』『に向かう途中、暴風雨に遭遇』、兵士百十三人、水夫三十六人の『行方不明者を出』している)。その後、『東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来』しているらしい。

 六月上旬、『対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾岸に』約二十キロメートルにも『及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念』、六月六日、『陸繋島である志賀島』(しかのしま:現在の福岡県福岡市東区にある島。博多湾の北部にあって海の中道と陸続き)『に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした』ものの、六月九日の戦闘でも敗戦を重ね、『東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つこと』となった。

 『ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である』六月十五日を過ぎても現れず、『さらに東路軍内で疫病が蔓延して』三千余人もの『死者を出すなどして進退極まった』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」』『と漢詩に詠んでいる』とある。ここに至って『戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した』が、結局、『江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った』。

 『一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した』。『江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである』。この江南軍は六月下旬に出撃(慶元(寧波)・定海等)江南軍の主力部隊は七昼夜かけて平戸島と鷹島に到着、『平戸島に上陸した都元帥・張禧率いる』四千人の『軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた』。

 一方、日本軍は六月二十九日、『壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始』、七月二日、『肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された』『龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦』した。

 『壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と』、『江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより』『壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している』。

 七月中下旬、『平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢』四千人に『守らせ』つつ、『鷹島へと主力を移動させた』が、これは『新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画』『を実行に移すための行動と思われる』。ここでようやく『東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了』している。

 七月二十七日、『鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げてい』る。

 元軍はここまでの戦闘により、『招討使・クドゥハス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた』。『そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止し』てしまう。また、「張氏墓誌銘」によると、『鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったと』もいう。

 『一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる』六万余騎と『もいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった』(これは本章でも語られている)。『さらに幕府は、同年』六月二十八日には、九州及び『中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の』四ヶ国に於ける『幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園領の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷い』ていた。

 ところが七月三十日の夜半、台風が襲来、『元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被』るという事態が出来した。これは『東路軍が日本を目指して出航してから』約三ヶ月後、博多湾に侵攻して戦闘が始まってから約二ヶ月後のことであった。「張氏墓誌銘」によれば、『台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという』。また、元朝の文人周密の「癸辛雑識」によると、『元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け』、約四千隻の『軍船のうち残存艦船は』、たった二百隻であったとも言う。但し、『江淮戦艦数百艘や諸将によっては台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船』九百艘の『台風による損害も軽微であったことから』、「癸辛雑識」の『残存艦船』二百というのは『誇張である可能性もある』とある。事実、『東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった』。『その理由を弘安の役から』十一年後の『第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」』『と発言しており、高麗で造船された戦艦に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」』『と述べており、高麗船が頑丈だったことが分かる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍水夫の生還者は』七割を超えていたという。

 閏七月五日、『江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか』という軍議があり、そこで張禧が『「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」』と続行論を唱えたものの、范文虎は『「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」』と述べ、『結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした』。『その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒』十余万を『見捨てて逃亡した』。『平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬』七十頭を『降ろして、これを平戸島に棄てると』、その代わりに軍勢四千人を『軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった』 という。『この時の元軍諸将の逃亡の様子』は、「蒙古襲来絵詞」の閏七月五日の『記事の肥前国御家人・某の言葉』として『「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」と』記している。

 この後、諸将に見捨てられた兵士たちが日本軍によって掃討された。

 閏七月五日、『日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始』、午後六時頃、『御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け』、『筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船』三艘の内の大船一艘を追い掛け、『乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した』。『また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した』。『日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃し』ている。

 『御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍』十余万と『鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した』。『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した。しかし閏七月七日、『日本軍は鷹島への総攻撃を開始』、『文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した』。『上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を』二人『生け捕るなどした』。『また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦』、活躍している。『一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払っ』ている。『これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により』十余万の『元軍は壊滅』、日本軍は二万〜三万人の『元の兵士を捕虜とした』。『現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、』十万の『江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」』『と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」』『とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」』『と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している』。「元史」によると、「十万の『衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の』三人のみで『あったという』。他方、「高麗史」では、『鷹島に取り残された江南軍の管軍捴把・沈聰ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる』。『南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる』。「辛巳六月の『半ば、元賊は四明より海に出る』。大舩七千隻、七月半ば頃、『倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日』『に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか』四百餘隻のみ廻る。二十万人は『白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」』とある。『戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた』のであった。

 

 以下、本文語注に移る。

 

「阿刺罕(あしかん)」元の司令官(日本行省右丞相)の名。現行では原音に近い「アラハン」で読まれている。但し、本文に出るように彼は途中で急病を発し、阿塔海(アタハイ)が交代している。

「范文虎」(?~一三〇一年)は南宋や元に仕えた政治家・軍人。南宋の宰相賈似道の娘婿であった。ウィキの「范文虎」によれば、『当初は南宋の武将として夏貴とともに、元と対峙する戦争に従事していた』が『その後、元に投降した(間もなく岳父の賈似道は福建に左遷され、亡父に関して恨みがあった鄭虎臣によって殺害された)』。弘安の役では先に示した通り、台風が襲来、波状的な日本軍の攻撃に『慌てた范文虎は生き残った手勢を見捨てて、わずかの腹心とともに逸早く帰国した』。帰国後、一二八四年に『中書左丞を経て、枢密院事を歴任した』が、『クビライの逝去を経て』、一三〇一年になって、『生き残って帰還することができたわずかの将兵が、自分たちを放置して勝手に帰還した范文虎をはじめ、将校の厲徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を告訴した。このことを耳にしたクビライの孫の成宗(テムル)は激怒し、皇后ブルガンとともに徹底的な調査を厳命させた揚句に、范文虎らが白状したため、范文虎は妻の賈氏と側室の陳氏をはじめ家族とともに斬首に処された。同時に厲徳彪、王国佐、陸文政らも自分たちだけではなく、一家も皆殺しの刑に処された』。

「忻都(きんと)」(生没年不詳)は元のモンゴル人武将。日本行省右丞。名前の原音は「ヒンドゥー」が近いという。暴風後は辛うじて高麗へ逃れている。

「洪茶丘(こうさきう)」既出既注。

「平壺島(ひらどしま)」現在の長崎県北部の北松浦半島の西海上にある平戸島。平戸市内。平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された水軍松浦党(まつらとう)の根拠地として知られる。

「五龍山(ごりうさん)」九州北西部の伊万里湾口にある長崎県松浦市に所属する鷹島のこと。

「陸地(くがち)に上立(あえたて)じ」上陸させまい。

「搔楯(かいだて)」「かきだて」の転訛。原義は垣根のように楯を立て並べることであるが、特にここでは小形の持ち楯(手楯)に対して、大形の楯(厚板二枚を縦に並べて接(は)ぎ、表には紋を描いて裏に支柱をつけて地面に立てるようにしたもの)を指す。それをバリケードのようにみっちりと立てたのである。

「鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)る」ウィキの「元寇」の「てつはう」によれば、『正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で』直径一六~二〇センチメートル、総重量は四~一〇キログラム(約六〇%が容器の重量で残りが火薬)。二〇〇一年に長崎県の鷹島の海底から「てつはう」の実物が二つほど『発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径』四センチメートルの孔が空いた直径一四センチメートルの素焼物の容器で重さは約四キログラムあった。『なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は』約四キログラムもあり、手投げする場合、腕力があるもので二二〇~三〇メートルしか『飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている』。『「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い』一・二キログラムの弾を八〇メートル飛ばすのに四十一人(一人は指揮官)も要した。従って、組立式にし、『日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている』とある。リンク先に弾丸の実物写真がある。

「是を打消すに遑(いとま)なく」教育社の増淵勝一氏の訳ではその理由として『(次ぎ次ぎと打ちこまれて来るので)』という補助訳を添えておられる。

「乘越(のりこえ)々々」元軍の兵士たちが同胞の遺体を踏み越えて攻めてくるのである。

「日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて」「軍旗色(いくさはたいろ)」で一語。日本軍の旗色が悪くなって。

「菊池」菊池一族。本姓藤原氏を称し、九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を本拠としていた。文永・弘安の役では第十代当主菊池武房(寛元三(一二四五)年~弘安八(一二八五)年)の活躍が「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。

「原田」建長元(一二四九)年、原田種継・種頼父子が現在の福岡県糸島市にあった日本の古代の山城土(いと)城の遺構を利用して高祖山に高祖城を築城、元寇の際はその直系の種照・種房兄弟が奮戦している。

「禁裡」後宇多天皇。

「仙洞」後深草上皇と亀山上皇。

「大法(だいほふ)」戦勝祈願の修法(ずほう)。

「平野」二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた神社)の一社である、現在の京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。

「松尾」同じく二十二社の一社である、現在の京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。

「禿倉(ほこら)」石製の禿倉(ほくら)と呼ばれるごく小規模な小石祠。祠(ほこら)。

「宸禁(しんきん)」広義の禁中。宮廷。

「瑞籬(みづがき)」《古くは「みづかき」と清音。神社や神霊の宿るとされた山・森・木などの周囲の周囲に設けた垣根。玉垣。斎垣 (いがき) 。神域の結界を示す。

「本」「もと」。結界を神獣が破って出るのは神威の発現と捉えられた。

「雲路(くもぢ)」雲の棚引いている山道。同前。

「開(ひら)けて」自然に開いて。同前。

「白羽(しらは)の矢の出づる」これも誰も射てなどいないのに、突如、放たれるのである。同前。

「庭鳥」「鷄」。

「宜禰(きね)」「禰宜」。

「少女(をとめ)」巫女。

「如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじ」どう考えても、神威のあらたかなそれは、空しい者となるなどと言うことはあるはずがない。

「八月一日」誤り。颱風の襲来は、冒頭の引用で見たように旧暦七月三十日(当月は小の月でこの日が晦日)で(ユリウス暦八月十五日でグレゴリオ暦換算で八月二十二日相当)、しかも弘安四年は閏月が七月の後に入っているので、この翌日は八月一日ではなく、閏七月一日(ユリウス暦八月十六日でグレゴリオ暦換算で八月二十三日相当)である。

「午刻(うまのこく)」正午であるが、諸記録からはおかしい気がする。颱風が彼らを襲ったのは「夜」である(ウィキの「元寇」の注記の「鎌倉年代記裏書」を見ると、「同卅日夜、閏七月一日大風」とする)とあるから、これは「午」ではなく、日付の変わる子の刻が正しいのではなかろうか?

「張百戸(ちやうびやくこ)」先のウィキの引用に『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した(下線太字やぶちゃん)という人物であろう。

「干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)」孰れも不詳。ただ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、前の「張百戸」やここに出る三名の『蒙古人の名』は「日本王代一覧」に拠るとある。従って『三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける』という事実があったのか、なかったのかも、私は知らぬ。

「不日(ふじつ)に」間もなく。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は幕府御家人。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘。後の北条氏得宗家の第九代執権北条貞時(北条時宗嫡男)の偏諱を受けて貞綱と名乗った。この弘安の役では第九代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六万に及ぶ『御家人を率いて総大将として九州に出陣し』、『その功績により戦後、引付衆の一人に任』ぜられている。後の嘉元三(一三〇五)年の嘉元の乱では、「凱陣(がいぢん)す」ここの「凱陣」は底本では「歸陣」とありながら、ルビで「がいじん」とする。「歸陣」で読みを附さないという法もあるとは思ったが、かく本文を訂した。

「世は末代」これは筆者の時制から見た鎌倉時代の「末代」(後末期)と読むべきであろう。直後「日月未だ地に落ち給はず」以下は、神道の神観念に基づく天照大神等を意識した(本地垂迹を逆手にとった逆本地垂迹説をさえ感じさせる)謂いとしか思えず、さすれば、平安末期の末法思想の「末法」なんぞではないのは明白だからである。

「本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)」増淵氏は『わが国に仏が衆生済度のために仮に神となって現われた天照大神の穏やかな威光の輝きは、やはり新しく、そのおぼしめしはいちじるしいことだ』と訳しておられる。こういう謂いであったとしても、江戸期の神道観からは私は前注の謂いを改める気は全くないと言っておく。

「伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる」これは現在の三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮の二つの正宮(しょうぐう)の内の一つである、豊受(とようけ)大神宮の、境内別宮である風宮(かぜのみや)のこと。ウィキの「風宮によれば、『風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。祭神は内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命で、外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある亀石を渡った左側に風宮がある。亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられている』。『別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる。外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、風宮が別宮となったのは』正応六(一二九三)年。『古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)であったが』、この弘安の役で『神風を起こし』、『日本を守ったとして別宮に昇格した』ものである。『風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)である。本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となった』とある。古くは『風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され』弘安の役で『朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利とし』、正応六(一二九三)年に『風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となった』とある。]

2016/12/21

北條九代記 卷第十 蒙古の使を殺す 付 蒙古日本を伐たむ事を企つ / 北條九代記 卷第十~了

 

      ○蒙古の使を殺す  蒙古日本を伐たむ事を企つ

 

同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける。正月上旬に、北條右京大夫時村、上洛して六波羅の北の方となり、京都西國の沙汰を執行(とりおこな)ふ。同二年正月に將軍惟康を正二位に叙せられ、位記(ゐき)、既に鎌倉に下著す。同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり。蒙古の王、傳聞(つたへき)きて大に怒り、大將軍等を催し、兵船を造りて、大軍を遣し、日本を伐亡(うちほろぼ)さんとて、武勇の兵を選びける由、又本朝に聞えしかば、年比には替りて頗る大事の時節なりとて、公家よりは伊勢へ勅使を立てられ、奉幣御祈禱、精誠(せいじやう)を盡され、諸寺諸社に仰せて、御祈念護摩の行(おこなひ)は、日を重ねて怠(おこたり)なし。北條相摸守時宗は、鎌倉にありながら筑紫の軍士に催促して、防戦の武備を致さしめ、兵糧、秣(まぐさ)に至るまで、事闕(ことか)けざる用意あり。「蒙古の軍(いくさ)、若(もし)強くして、西國傾く事あらば、東國の軍兵を上せて、主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし。又筑紫の左右に依て兩六波羅の兵共(ども)、鎭西へ下向し、命を量(ばかり)に防戰し、勳功(くんこう)あらん輩(ともがら)には忠賞(ちうしやう)を行ふべし。天下の大事、この時なり」と下知せらる。諸國の武士共、是を聞きて、「假令(たとひ)如何なる事ありとも、この日本を異賊(いぞく)には奪はるまじ、忠戰(ちうせん)の功を現(あらは)し、重賞(ぢうしやう)に預(あづか)らん。是(これ)、世の位の常の叛逆(ほんぎやく)には替りて、面々、身の上の、大事ぞかし」と、諸軍一同に齒金(はがね)を鳴し、牙を嚙みて思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:本章を以って「北條九代記 卷第十」は終わる。

「同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける」文永は十二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に後宇多天皇即位によって弘安に改元している。

「北條右京大夫時村」(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は。第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「位記(ゐき)」律令制に於いて位階を授けられる者に、その旨を書き記して与えた文書。

「同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり」綾なす誤りが頂点に達した箇所。「同三年二月」とは弘安三(一二八〇)年二月となるが、既に見たように、事実とは齟齬する。くどいが、第七回目の元からの使節団のモンゴル人正使の礼部侍郎杜世忠が、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されたのは建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日)である。なお、ここには今一つの勘違いが加わっている可能性がある。それは、杜世忠が問答無用で斬殺されたことを知らず(幕府はそれを元に伝えていなかった)、クビライが最後の最後に「第八回使節」を送って、その使節団も斬首されている事実との混同であるウィキの「元寇」によれば、第二次日本侵攻を命じようとしたクビライに対し、元に征服された『南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案を受け入れ』、『杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した』のであった。『今回の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった』もので、『大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は「宋朝(南宋)はすでに蒙古に討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝(南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する内容であった』。弘安二(一二七九)年六月、『日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行を斬首に処した』(下線やぶちゃん)のであった。なお、この二ヶ月後の同年八月、逃げ出した水夫により、『杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した』。『元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった』とある。傀儡である使者南宋の旧臣范文虎らは、〈いい面の皮〉としか言えない。そもそもが南宋からは多数の僧が日本に亡命しており、禅僧が殆んどだが、彼らは内心、元への強い敵愾心を持っていた。ウィキの「元寇」にも弘安四(一二八一)年、「弘安の役」の『一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え』、『さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた』。これはのちに、「驀直前進」(ばくちょくぜんしん:いじいじと考えずにただ只管に真っ直ぐに進むのみ)という『故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる』。なお、『無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた』一二七五年、『元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる』とあり、最早、范文虎などは唾棄されこそすれ、およそ支持する在日同胞さえいなかったのである。

「年比には替りて頗る大事の時節なり」前の章の最後の「主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし」という祝祭が、ここで急速に暗転する手法は、正直、上手いと思う。

「秣(まぐさ)」兵馬用の餌。

「事闕(ことか)けざる用意あり」細心の注意を払って欠けるところのない万全の防備体制を敷いた。

「主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし」こうなって(鎌倉時代に早くも恒久的に朝廷が鎌倉に遷って)、そうして元寇が本州を蹂躙していたら、と考えると、これ、なかなか面白いではないか。戦国時代どころか、第二次世界大戦後の「日本分割」も真っ青かも知れんぞ?!

「筑紫の左右に依て」筑紫を中心とした九州全土の戦況によっては。

「命を量(ばかり)に防戰し」命の限り、防戦し。

「齒金(はがね)を鳴し」「齒が根」でも面白いが、それでは以下と畳語で実はつまらぬ。ここはやはり、武士なればこそ、「鋼」「刃金」で、刀剣を鳴らして、怒りに起因する武威を逞しくすることであろう。

「牙を嚙みて」歯を食いしばって。同じく、怒りの形容。]

2016/12/20

北條九代記 卷第十 主上東宮御元服

 

      ○主上東宮御元服

 

建治二年正月に、將軍惟康、讚岐〔の〕權〔の〕守に補(ふ)せられ給ふ。同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける。同三年正月に主上、御元服まします。御年十一歳、攝政太政大臣藤原兼平公、加冠たり。理髮は頭中將具顯(ともとき)とぞ聞えし。同月十九日、龜山上皇へ朝覲(てうぎん)の行幸あり。打續き、石淸水、賀茂の行幸ありければ、京都の有樣、いと賑々(にぎにぎ)しくぞ覺えける。同五月、北條武藏守義政、執權の加判を辭退し、剃髮入道して信州鹽田郷(しほだのがう)に閑居せらる。相州時宗、一判にて大小事を下知せられ、晝夜、政理(せいり)に思(おもひ)を費し、心の隙(ひま)はなかりけり。同十二月、東宮熈仁、御元服あり。春宮(とうぐうの)傅(ふ)二條左大臣藤原師忠公、加冠たり。春宮大夫源具守(とももり)、理髮せらる。主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし。

 

[やぶちゃん注:「建治二年」一二七六年。

「同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける」既に述べた通り、これは建治元(一二七五)年二月に進発した、杜世忠の第七回使節団の処分を誤認した叙述である。

「主上、御元服まします」後宇多天皇のそれ(一月三日)。彼は文永四(一二六七)年十二月一日生まれであるから、当時、満十歳である。

「藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)

「加冠」男子の元服の際に初めて冠をつける儀式初冠(ういこうぶり)での、冠を被らせる役。「ひきいれ」とも言った。

「理髮」元服の際に頭髪の末を切ったり結んだりして整える役。

「頭中將具顯(ともとき)」ちょっと若いが、源具顕(文応元(一二六〇)年?~弘安一〇(一二八七)年)か? 伏見天皇の東宮時代の弘安三(一二八〇)年頃に側近として仕えている。彼は左近衛中将であった。

朝覲(てうぎん)」現代仮名遣では「ちょうきん」。「覲」は謁見の意で、年頭に天皇が上皇又は皇太后の御所に行幸する儀式を指し、践祚(せんそ)・即位・元服の後にも臨時に行われた。

「北條武藏守義政、執權の加判を辭退」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、文永一〇(一二七三)年に叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任じられ、執権北条時宗を補佐した。ウィキの「北条義政によれば、彼は杜世忠らを『時宗が処刑しようとした時には和睦の道もあるとしてこれに反対して』おり、「関東評定伝」(「関東評定衆伝」とも称し、嘉禄元 (一二二五) 年から弘安七(一二八四)年に至る鎌倉幕府の執権・評定衆・引付衆の任命と官歴を記したもの。二巻。作者や成立年代は未詳)によれば、この頃から『義政は病のために出家を望んでいたと言われ、花押の有無からも、義政は文永の役以降に病の為に連署としての政務を十分に務めてはおらず』、建治二(一二七六)年『前後には見られなくなる』。「建治三年記」に拠れば、建治三(一二七七)年四月(本書では「五月」となっている)に『突如連署を辞し、出家』して、道義と号したが、翌五月二十二日に逐電、とある。

「信州鹽田郷(しほだのがう)」現在の長野県上田市塩田地区。(グーグル・マップ・データ)。前注に引いたウィキの「北条義政にも、この地へ隠居した旨が記されてあり(「建治三年記」によるか)、『塩田には、義政創建と伝えられる安楽寺八角三重塔が残されている』とし、さらに、『義政の遁世について没年などを勘案しての病気説、あるいは拠点塩田荘の地盤固めの為に幕政から退いたなどの説が提唱されているが、歴史学者の網野善彦は義政は安達泰盛室が同母姉妹である事を指摘し、泰盛と得宗家被官平頼綱との対立が義政の立場を微妙なものにしたであろうと推測。さらに、義政の遁世後には極楽寺流の義政にとって本家筋にあたる北条義宗は評定衆に加わっている事からも、本家筋に憚るところがあったとする説、時宗の慰留や、義政遁世後の幕府人事の手早さ等から、得宗家の政治的排除であるとも考えられている』ともある。

「一判にて」一人で幕政の署名決済を行ったことを指す。

「東宮熈仁」後深草院の第二皇子。後の伏見天皇。

「春宮(とうぐうの)傅(ふ)」律令制で定められた皇太子(東宮・春宮)附き教育官の一つ。大臣が兼ねることが多かった。

「二條左大臣藤原師忠」二条師忠(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)。関白二条良実三男であったが、兄道良の早世により、二条家を継いだ。

「春宮大夫」春宮坊の最高官。

「源具守(とももり)」(建長元(一二四九)年~正和五(一三一六)年)。文永六 (一二六九) 年参議、後に従一位に進んで、正和二(一三一三)年には内大臣となる。娘の基子(西華門院)が後宇多天皇の後宮に入ったことから、後二条天皇の外祖父となった。

「運」願い。切望。

「淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり」「淳厚」は「醇厚」とも書き、人柄などが素朴で人情に篤いことを言う。ここはこの時、主上以下の仁徳のお蔭で、洛中が安泰にして人心平穏であることを形容している。

「東耕(とうこう)の勞(らう)」五行で「東」は「春」。年の初めの春の農事の労苦。

「西收(せいしう)の畜(たくはへ)」同前で「西」は「秋」。秋の収穫の、その貯蔵分。

「聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なり」増淵勝一氏はこれを以下の「萬民百姓」の台詞とし、『聖天子の聡明でいつくしみ深い道理にかなった政治によってもたらされたのである』と訳しておられる。]

北條九代記 卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基

 

      ○改元  蒙古の使を追返さる  一遍上人時宗開基

 

夫(それ)、天運、循環して、四時、迭(たがひ)に代謝す。年も漸(やうや)く暮行きて、立返る春にもなりしかば、靑陽(せいやう)の空の景色、山には霞(かすみ)の衣を著て、谷の戸(と)出(いづ)る鶯の氷(こほ)れる淚も解初(とけそ)めたり。改元有て、建治元年と號す。二月上旬にも成りしかば、餘寒(よかん)は未だ盡きざれども、木の茅は漸(やうや)う萠(きざ)しつ〻、花、待兼ぬる好事(かうず)の人は、いとど永き日を數へて、花信(くわしん)の風をぞ招きける。斯る所に、蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。 路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ。同十二月、北條左近〔の〕大夫時國、上洛して、六波羅の南の方となり、西國の成敗を執行ふ。是は從四位下相摸守時房が曾孫(そうそん)なり。智仁(ちじん)の德、篤くして、寛溫(くわんをん)の惠(めぐみ)を施しければ、人望の指(さ)す所、鎌倉執權の加判たりとも、誰か、その命を輕(かろ)くすべき。然れども、時世の習(ならひ)、京都に上せらる〻は、責(せめ)ての事とぞ申合ひける。今年、鎌倉藤澤時宗念佛の流義、草創す。開山一遍上人は伊豫國の住人河野七郎通廣が次男なり。家富榮えて、国郡、恐從(おそれしたが)ひ、武門の雄壯(ゆうさう)たりければ、四國九州の間(あひだ)、他(ただ)に恥(はづ)る思(おもひ)なし。二人の妾(おもひもの)あり、何(いづれ)も容顏(ようがん)麗しく、心樣(こ〻ろざま)優(いう)なりしかば、寵愛深く侍りき。或時、二人の女房、碁盤を枕として、頭(かしら)、差し合せて寢たりければ、女房の髻(もとゞり)、忽(たちまち)に小(ちいさ)き蛇となり、鱗を立てて喰合(くひあ)ひけるを見て、刀を拔(ぬき)て中より斷分(きりわ)け、是より、執心愛念嫉妬の恐しき事を思知(おもひし)り、輪𢌞妄業(まうごふ)因果の理を辨(わきま)へ發心(ほつしん)して家を出つ〻、比叡山に上り、受戒、桑門(さうもん)の形となり、西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人に逢ひて本願念佛の法門を學(がく)し、十一年を經て、自(みづから)、知眞房と名を付けて、其より熊野に參詣し、山復(また)山、靑巖(せいがん)に雲を蹈み、水復(また)水、碧潭(へきたん)に波を凌(しの)ぎ、道行く人に逢ひても、男女貴賤を撰ばず、只、念佛を勸めて、自(みづから)も亦、行々、餘言を交ふる事なく、念佛より外の聲もなし、斯くて本宮(ほんぐう)證誠殿(しやうじやうでん)に參向(さんかう)し、衆生利益(りやく)の結緣(けちえん)を曹(あまね)く十方に弘通(ぐつう)せん事を祈誓して御寶前に通夜(つや)せられける所に、御寶殿の内より、齡(よはひ)闌(た)けたる老僧の現れ出(いで)させ給ひて、妙なる御聲(みごゑ)を擧げて仰せけるは、「それ、彌陀如來十劫(ごふ)正覺の曉(あかつき)、一切衆生の往生は、六字の名號を以て決定業(けつじやうごふ)と定め給ふ。一度(たび)も耳に聞き、口に唱ふる時は、永く佛種(ぶつしゆ)と成りて、成佛の緣を結ぶ。今、我が示す所を聞きて、札に作りて一切の貴賤男女に賦與(くばりあた)へて、此念佛の結緣を怠る事勿れ」とて、七言四句の偈(げ)を御口(おんくち)づから授け給ふ。其文に、

 

  六字名號一遍法(ぺんはふ)

  十界依正一遍體(たい)

  萬行離念一遍證(ぺんしよう)

  人中上上妙好花(めいかうげ)

 

と唱へさせ給ふと見て、夢想は卽ち、覺めにけり。知眞房上人、この夢想を感じて、正身(しやうしん)の權現を拜み奉り、歡喜の淚、措所(おきどころ)なし。卽ち、此偈を札に書きて、老少男女を云はず、賦與(くばりあた)へて結緣(けちえん)す。四句の偈の上の字に、六十萬人とある上は、決定往生の念佛を曹(あまね)く勸(す〻め)んと思立ちて、九州二島(じたう)の末までも、千里を遠しとせず、萬仞(ばんじん)の波を越えて、又、鎭西より洛陽を志し、道にして一人の僧に行逢(ゆきあう)たり。元より道心深く、世を遁れし聖(ひじり)なるが、知眞房上人の念佛の弟子となり佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)と號して、隨逐(ずゐちく)して、諸國を囘(めぐ)る。魚と水との如くにて、影と形に似たりければ、師弟の情、深くして、立離(たちはな)る〻時ぞなき。其より打囘(うちめぐ)り、信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)と云ふ所にて、歳末の別時(べちじ)行ひて、踊躍歡喜(ゆやくくわんぎ)の餘(あまり)、立て唱へ、居て唱へ、踊躍(ゆやく)の姿(すがた)、身を忘れ、鳧鐘(ふしよう)の響(ひゞき)、空に渡り、紫雲、軒(のき)に覆ひたり。結緣の男女、諸共(もろとも)に歡喜の淚を流しけり。昔、空也上人、市朝(してう)洛外にして踊躍(ゆやく)の餘(あまり)に踊(をどり)念佛し給ひけり。これぞ、その事の初なる。奥州に赴き、白河の關に掛りて、修行、既に日を送り、山野は同じく續けども、地形(ちけい)は又、等しからず、月は野草(やさう)の露より出でて、遠樹(ゑんじゆ)の梢(こずゑ)に昇り、日は海岸の霧に傾きて、叢松(そうしよう)の綠(みどり)に映(うつろ)ふ。往初(そのかみ)、西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん事を思出でて、關屋の柱に書き付けける。

 

  白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ

 

又、或時、詠める歌に、

 

  思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる

 

  あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ

 

斯(かく)て、東西南海北陸の諸國、京都洛外に至るまで、影を殘し、教を留め、普(あまね)く念佛を弘通して、相州藤澤の道場を構へ、鎌倉を囘(めぐ)りて、念佛を結緣(けちえん)し、此所(こ〻)にも猶、留らず、修行の志、怠らず。攝州兵庫の觀音堂に於いて正念にして遷化(せんげ)あり。正應二年八月二十三日、生年五十一とぞ聞えし。佗阿彌陀佛、その遺教(ゆゐけう)を守りて、同じく諸国を修行せしより、一遍上人時宗の流義、今の世までも退轉なし。

 

[やぶちゃん注:本文の一部に行間を設けた。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、一遍『上人の若年期の経歴、二人の妾のこと、熊野参詣までの内容は『京雀』(七巻七冊、寛文五年板)巻六「七条通」「材木町」の一遍上人関連の記述と類似する。また『謡曲拾葉鈔』『諷謌鈔』にも一部類似がある。なお、熊野参詣以下の内容は『一遍上人縁起』に類似する』とある。

「四時」四季。

「迭(たがひ)に」「迭」(音「テツ」)は「代わる代わる」「交替に」の意。

「年も漸(やうや)く暮行きて」ここは前章の最後ではなく、メインである「文永の役」を受けている。文永一一(一二七四)年が暮れたことを意味する

「靑陽(せいやう)」五行説に於いて「青」を「春」に配するところから、春の異称。特に、初春を指す。

「改元有て、建治元年と號す」文永一二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に前章の最後に出る後宇多天皇の即位により「建治」に改元された。

「二月上旬にも成りしかば」重箱隅みをつつくようであるが、二月では、まだ改元前である。これは次の元使の話に繋げるための順列変更である。

「蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。 路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ」完全な誤り「文永の役」の翌年の二月に、確かに第七回目の元からの使節団が来日し、その正使であったのは確かに礼部侍郎であったモンゴル人杜世忠(一二四二年~建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日))ではあったが、この時、彼らは帰国など出来ず、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されているからである。ウィキの「元寇」によれば、『クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した』。『通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の三名が同行した』。『使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下』五名を即刻、斬首に処している。『これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している』(原詩と訓読は私が別に用意した)。

 

  出門妻子贈寒衣

  問我西行幾日歸

  來時儻佩黃金印

  莫見蘇秦不下機

   門を出ずるに 妻子 寒衣を贈りたり

   我に問ふ 西に行き 幾日にして歸ると

   來たる時 儻(も)し 黃金の印を佩びたらば

   蘇秦を見 機(はた)を下らざること 莫(な)かりしを

 

『(家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)』。ウィキの「杜世忠」によれば、『辞世の句は、蘇秦の故事を踏まえた李白の詩のもじりであり、栄達を果たして家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念と、身につけた一定の教養が窺われる』ともある。現在、彼ら首塚は、藤沢市片瀬にある日蓮宗龍口山(りゅうこうさん)常立(じょうりゅう)寺に、「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる供養塚として残る。「北條九代記」がボロボロに致命的なのは、この後、これを次の章で、この後にまたまた懲りもせずに杜世忠一行が使節団として来たので、有無を言わせず斬首に処した、と書いてしまっている点である。

「北條左近〔の〕大夫時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年)は北条時房の長男であった北条時盛の子である北条時員(ときかず)の子(但し、後に祖父時盛の養子となっている)。ウィキの「北条時国」によれば、文永九(一二七二)年の『二月騒動で北条時輔が誅殺された後、空職であった六波羅探題南方に就任するため』、この建治元(一二七五)年十二月、十三歳で七十九歳の『祖父時盛と共に上洛し、北条時村と共に洛中の警護を命じられる』。弘安七(一二八四)年四月に執権『北条時宗が没して間もない』六月、悪行(素行不良)を『理由に六波羅探題を罷免されて関東へ召し下され』、『常陸国へ配流となった後』、誅殺されてしまう(単なる死とするもの、自死する資料もある)。『時国の事件の背景には、この頃の安達泰盛と平頼綱の対立が関係していたとの説がある。すなわち、時国を婚姻関係を通じた安達氏の与党と捉え、時国の流刑は頼綱派による泰盛派への攻撃で、翌』弘安八(一二八五)年)に『起こる霜月騒動の前哨戦であったとする』。『また、時国が捕えられた』同時期の弘安七年六月二十五日には『有力御家人の足利家時が自殺している』 『が、これについても家時が佐介流とその姻戚にあたる極楽寺流北条氏を介した泰盛与党であったとして時国の事件に連座する形での自害と解釈されている(家時の義母(父頼氏の正室)は北条時盛の娘であり、その兄または弟である時国は家時にとって義理の外叔父であった)』。『しかし、近年の研究においては、泰盛も頼綱も時宗の政治路線の継承者であり、時宗が亡くなった直後においては、その際に行われた「弘安徳政」も時宗によって企画・準備されたものが明らかであったので頼綱派も当初はこれに異を唱えなかったとされており』、『家時の自殺をその後の泰盛派と頼綱派の対立に関連づける必要はないとの説も出されている』。『従って、時国の事件も霜月騒動と関連したものであるかについては注意を要するところである。今のところ、時国が事件を起こした理由について窺える史料はない』。『但し、同じ頃』(弘安七年八月とされる)『には、時国の伯父(時盛の次男)である北条時光が謀叛を画策したとの嫌疑によって佐渡国に配流されており』、『これが時国の事件と関連があるかは不明だが、この二つの事件によって佐介流北条氏が没落したことは確かで、代わって同じ時房流である大仏流北条氏が隆盛してゆくこととなる。また、曾祖父・時房以来継承された丹波国の守護職も没収され、佐介流は時国の従兄弟である北条盛房に引き継がれた』とある。

「寛溫の惠」物事や人物に対し、寛大で人間的な温もりのある慈悲に富んだ対応すること。

「加判」連署。

「責(せめ)ての事」よほどの事。現在、一般に言われている「悪行」を字背に匂わせたか。

「今年」文脈からは建治元(一二七五)年となるが、ウィキの「一遍」によれば、一遍(延応元(一二三九)年~正応二(一二八九)年)が、六字名号を記した念仏札を配る「遊行(ゆぎょう)」を開始するのは文永一一(一二七四)年二月八日とされ、その後、『四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励』んだが、『紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする』ある(下線やぶちゃん)から、この「北條九代記」の時宗開創年は穏当な線と言える。建治二(一二七六)年には『九州各地を念仏勧進し』、建治三(一二七七)年に『豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる』。『さらに各地を行脚し』、弘安二(一二七九)年には『伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた』。翌弘安三年に『陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る』。弘安五年には『鎌倉入りを図るも拒絶され』ている。弘安七年『上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう』。弘安九年、『四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する』。弘安一〇(一二八七)年には『書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣』、文永十一年以来、実に十四年もの遊行を経、正応元(一二八八)年、『瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻』った。彼の『死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられ』ている、とある。なお、一遍は現在、独立宗派としての「時宗(じしゅう)」の開祖とされるが、親鸞同様、彼自身には新たな独立した宗派を立宗しようという意図はなく、その教団や成員も專ら「時衆(じしゅう)」と呼ばれた。

「鎌倉藤澤時宗念佛」現在の藤沢市西富にある時宗総本山の藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)、所謂、「遊行寺」(通称。但し、近世以降)のことである。一遍の没後三十六年経った正中二(一三二五)年、俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言される。「鎌倉」とあるのは、現在の藤沢市地区の鎌倉に接する多くの部分が古くは鎌倉郡に属していたからであって、誤りではない。

「伊豫國の住人河野七郎通廣が次男」ウィキの「一遍」によれば、『伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、別府通広(出家して如仏)の』第二子として『生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ』るが、『同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力御家人であった本家の河野氏は』、承久三(一二二一)年の『承久の乱で京方について』、敗北後、『祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた』とあって、以下に語られる内容とは大いに齟齬する。二人の妻の髪の毛の蛇に変じて盤上で争そうというのは、この手の遁世譚の、聴き飽きたステロタイプであり、一遍が生きていたら、「阿呆臭!」と言い放って、踊り出っしゃうような気がする。

「桑門(さうもん)」僧侶。

「西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人」法然の最需要の高弟の一人で、浄土真宗西山派の祖善恵房証空(ぜんねぼうしょうくう 治承元(一一七七)年~宝治(一二四七)年)。加賀権守源親季の長男であったが、九歳で内大臣久我通親の養子となった。建久元(一一九〇)年十四歳の時、元服に際して発心・出家し、法然の直弟子となった。以後、法然臨終までの二十一年に亙って、その許で親しく修学、法然の「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」撰述に当たっては、編集作業の重役を勤めており、法然に代わって九条兼実邸での「選択集」講義なども行っている。

「靑巖(せいがん)」青緑に苔蒸した大岩。

「本宮證誠殿(しやうじやうでん)」現在の和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮(ほんぐう)大社の「上四社」の内の、第三殿とされる「證証殿」。祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ:恐らくは素戔嗚の別名)で、神仏習合期のその本地は阿弥陀如来であった。

「弘通(ぐつう)」「ぐずう」とも読む。仏教を普及させること。

「十劫(ごふ)」「劫(こう)」は仏教の無限に近い長い時間単位で。ここは「永い」の謂い換え。

「正覺」仏法のまことの一念を悟ること。

「決定業(けつじやうごふ)」一般には「定業」と同じで、前世から定まっている善悪の業報(ごうほう)であるが、ここは特異義で、弥陀の本願が既に成就している以上、その定め、即ち、「南無阿彌陀佛」の名号(みょうごう)を唱えることで、生きとし生けるありとある衆生は極楽往生するということは、既にして決定(けつじょう)している、ということ全体を指している。

字名號一遍法/界依正一遍體/行離念一遍證/中上上妙好花」辛気臭い宗教サイトよりも、増淵勝一氏の訳(一九七九年教育社刊)の方が遙かによい。引用させて戴く。『「南無阿弥陀仏」という六文字の名号には仏の教えのすべてがこもっている。十界〈地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の各界)の依正(えしょう)〈依報(えほう)と正報。過去の業によって受けた我が心身を正報といい、その心身がよりどころとする一切世間の事物を依報という〉は全本体である。すべての行ないが妄念を離れるとすっかりさとりきったことになる。そういう人を人間の中の上上の妙好花というのである。』。

「九州二島(じたう)」九州と壱岐と対馬の二島。

「末までも」隅々、残る隈なく。

「佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)」(嘉禎三(一二三七)年~文保三(一三一九)年)は遊行上人第二世で、「他阿(たあ)」と略する。ウィキの「他阿より引く。建治三(一二七七)年に『九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う』。正応二(一二八九)年に『一遍が亡くなった後』、一旦、散り散りになってしまった『時衆を再結成して引き連れ、北陸・関東を中心として遊行を続けた』。嘉元二(一三〇四)年には遊行上人を第三世『量阿(他阿智得。のち他阿号を世襲)に譲り、自らは相模国に草庵(後の当麻道場金光院無量光寺)を建立して独住(定住)し、そこで没した。同寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔がある。おもな門弟に量阿のほか、有阿(恵永または恵光。のち藤沢道場をひらく他阿呑海)、京都四条道場・浄阿(真観)がいる』。『膨大な消息はのちに』「他阿上人法語」(八巻)に『まとめられたほか、歌人として京都の貴人たちとまじわり』、歌集「大鏡集」もある。『一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者とみなしていた節があり、しかも入寂に際して時衆は各地に散って自然消滅している。それを再結成して他阿自らが中心となって再興をなしとげた』。『他阿はバラバラであった時衆を統制するために信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め』、「時衆過去帳」を『作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の道場(寺院)は百あまりと述べている。こうして他阿は時衆を整備された教団とし、その教団確立のうえで大きな功績を残した』。『現在ある時宗教団は、この他阿の系統を引く藤沢道場清浄光寺が、他の一向俊聖などの念仏聖の教団を吸収して近世に成立した。歴代の時宗法主は他阿を称する。したがって、他阿真教こそが、時宗の実質的な開祖といえよう。宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている』とある。

「隨逐(ずゐちく)」後を追って附き従うこと。

「信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)」現在の長野県佐久市伴野。ウィキ伴野荘 (信濃国佐久郡)に『霜月騒動の少し前である』弘安二(一二七九)年の『冬、善光寺に向かう途中であった一遍が、伯父の河野通末の配流先』(承久の乱で河野一族は上皇方についたことによる)『であった伴野荘を訪れ、この地の市場において初めて踊念仏を行った』、と「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」にあると記す。

「歳末の別時(べちじ)」増淵氏の割注に、『特別の時日。期間を定めて唱名念仏をすること』とある。

「鳧鐘(ふしよう)」中国神話で音楽を司る鳧(ふ)氏が作ったという鐘の意から釣鐘・梵鐘・鉦鼓 (しょうこ) などを指すが、ここはまさに極楽天界の音楽、飛天の奏でるそれをイメージしてよかろう。

「空也」(延喜三(九〇三)年~天禄三(九七二)年)。天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが、不明。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡って、道路を開鑿し、橋を架けるなどの社会事業をも行ったことで知られる。京都に疫病が流行した際に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立、平癒を祈った。ここに出る「踊念仏」の開祖とも仰がれるが、空也自身がそうした「踊念仏」を修したという証拠はない。但し、門弟は高野聖などとして中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となったことは事実で、一遍に彼の影響が大きいことは言うまでもない。

「市朝」洛中の人々の集まる市(いち)。

『西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん』「山家集」に出る一首(一一二六番歌)。

 

    みちのくにへ修行してまかりけるに、

    白河の關にとまりて、所がらにや、

    常よりも月おもしろくあはれにて、

    能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折り、

    いつなりけむと思ひ出でられて、名

    殘(なごり)おほくおぼえければ、

    關屋の柱に書き付けける

 白河の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり

 

能因のそれは、御存知、

 

 都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の關

 

である。「もる影」は月の光りがあばら家の隙間から「洩(も)る」と、孤独な関守が関を「守(も)る」の掛詞。

「白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ」増淵氏の訳を引く。『はるばると修行の旅を続けて今やっと行く手を「塞(せ)く」白河の関にまでやってきた。しかし私はやはりここで留まらないで先へ進もう。陸奥(みちのく)の地が奥深いように私の仏を求める心は奥深く果てしないから。』。

「思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる」同じく増淵氏の訳。『思い嘆くこともなくて過ごしてきた昔でさえも、今思い出すと、どうしてあの時にもっと早く仏道を求めなかったのかという嘆きになることだよ。』。

「あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ」同増淵氏訳。『晴れればあとかたもなくなってしまう月を隠している雲〈妄念の意〉に対して、そこをどくようにと争う心こそが、かえってしみじみと見るはずの月〈心〉の障害となることであろう。』。

「相州藤澤の道場を構へ」既に注した通り、誤り。清浄光寺(遊行寺)は一遍の死後の建立である。なお、同寺は現行でも藤沢道場と呼称する。

「退轉」没落。衰退。凋落。]

北條九代記 卷第十 龜山院御讓位 付 蒙古の賊船退去 竝 東宮立

 

      ○ 龜山院御讓位  蒙古の賊船退去  東宮立

 

同十一年正月、主上、御年二十六歳にて、御位を太子に讓り給ふ。院號蒙らせ給ひ、龜山院と稱し奉る。三月二十六日、太子、寶位(はうゐ)に卽(つ)き給ふ。御年、初て八歳に成らせ給ふ。御母は藤原〔の〕左大臣實雄公の御娘(おんむすめ)なり。後に後京極〔の〕女院と號し奉る。九條〔の〕關白忠家公、攝政として、朝政(てうせい)を行はる。この時、後深草を本院と申し、龜山を新院とぞ申しける。同じき月に、筑紫(つくし)の探題、早馬を六波羅に立てて申しけるは、「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」とぞ告(つげ)たりける。これ、年來、數度(すど)、使者牒狀(てふじやう)を送るといへども、日本、更に返狀なきに依(よつ)てなり。禁中には、主上、仙院より、諸社に勅使を立てて、御祈念あり。諸寺の高僧に仰(おほせ)て祕法を行はる。關東より筑紫へ下知(げち)して、武備に怠(おこたり)なし。同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る。筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ。蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る。日本の武士等も、攻破(せめやぶ)られざるを勝(かち)にして、軍は是にて止みにけり。同月、本院、後深草第二の皇子熈仁(ひろひと)を東宮に立てらる。主上には御年も二歳まで勝り給ふ故に、新院、龜山御在位の御時、東宮には先(まづ)、此宮をこそ立てらるべかりしを、後嵯峨法皇の叡慮、偏(ひとへ)に新院の御許(もと)におはします由を、大宮(おほみや)の女院より關東に仰せ遣されしかば、時宗、計(はからひ)奉りて、主上を御位に定めけり。是(これ)に依て、新院は御讓位の後も政務を知しめし、御心の儘に振舞ひ給ふ。本院は何事に付きても、少も綺(いろ)ひ給ふべき御心もましまさず。只、疾(とく)御飾(おんかざり)をも下(おろ)し、世を浮草(うきくさ)の風に任せて、御身をま〻に行脚し、諸國の靈地をも巡禮抖藪(とそう)せばや、と思召しける所に、北條時宗、計(はからひ)申して、熈仁親王を東宮に立て參(まゐら)せしかば、本院、深く喜悦の眉(まゆ)を開き、御落飾(おんらくしよく)にも及ばす、新院の御心も融(と)けて、本院と御中、よく成り給ひ、大宮の女院も嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)斜(な〻め)ならず、 大平長久の寶運なりと、世の中、廣く、彼方此方(かなたこなた)、隔(へだて)なくぞ見えにける。これより後は、譲位卽位立坊(りつばう)の御事、皆、關東よりぞ計ひ申されけり。

 

[やぶちゃん注:標題の「龜山院御讓位」は「龜山院の御讓位」、「東宮立」の「立」は「だち」のルビが配されてある。

同十一年正月」前条後半の叙述上の時制に激しい不備があるので、「同」では厳密にはおかしい。文永十一年はユリウス暦一二七四年。

「主上」亀山天皇。

「太子」世仁(よひと)。ここで後宇多天皇となる。

「寶位(はうゐ)」皇位の尊称。

「藤原〔の〕左大臣實雄の御娘」従一位左大臣であった故洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:山階左大臣。既注)の娘で亀山天皇皇后の佶子(きつし)。

「後京極〔の〕女院」増淵勝一氏の現代語訳もママであるが、これは、前にある「後の」からの衍字であって、「京極〔の〕女院」(京極院)でないとおかしい。「後京極院」というのは後醍醐天皇中宮西園寺禧子(きし)の、それも死後に改めて南朝側より追贈された院号(女院号)だからである。

「九條〔の〕關白忠家」(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)は九条教実の子で、延応元(一二三九)年に従三位。後、内大臣を経(但し、この間、建長四(一二五二)年に発生した了行による謀反事件に際し、九条家の関与が疑われ、従兄弟に当る鎌倉幕府第五代将軍九条頼嗣が解任され、忠家自身も同年七月に後嵯峨上皇の勅勘を受け、右大臣を解任されている)、この前年の文永一〇(一二七三)年に関白・藤氏長者・従一位に進んでいる。ウィキの「九条忠家によれば、『この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に』、『息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼から、当時の鎌倉幕府執権北条時宗に、忠家復権への支持の働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。その証拠に、翌文永一一(一二七四)年正月に摂政に就任するも、同年六月には、早くも同職を辞職しており、その辞職の際も、『大嘗会の故実を知らないことを理由とし、更に三度の上表すら許されないなど、異常なものであったとされている』。しかしながら、『短い在任期間とはいえ』、『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることとなった』とある。

「同じき月」これでは、文永十一年三月となるが、これもおかしい。恐らくはクドゥン(忽敦)を総司令官として元軍が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した(十月三日)後のことと思われ、ここは十月と読み換えるべきである。なお、クビライが日本侵攻を指示したのは一二七三年(文永十年)で、翌年、即ちこの年の一月にはクビライは昭勇大将軍洪茶丘を高麗に派遣、高麗に戦艦三百艘の建造を開始させている。同年五月には元から派遣された日本侵攻の主力軍一万五千名が高麗に到着、翌六月に、高麗は元に使者を派遣、戦艦三百艘の造船を完了、軍船大小九百艘を揃えて高麗の金州に回漕したことを報告している。侵攻軍総司令官クドゥンの高麗着任は八月である(後半部はウィキの「元寇」に拠った)。

「筑紫(つくし)の探題」鎮西探題。現在の研究では福岡市博多区祇園町にあったと考えられている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」ウィキの「元寇」によれば、総司令官クドゥン以下、『漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍』(この副将を「大將二人」と数えたか)一万五千から二万五千名の『主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍』五千三百から八千名、それに水夫(かこ)を含むと、実に総計で二万七千から四万名を乗せた、七百二十六から九百艘の軍船という大群であった。現在の知見から見ても、ここに記され数値はすこぶる穏当である。

「主上」後宇多天皇。

「仙院」上皇のこと。ここは後深草院(本院)及び亀山院(新院)の二人を指す。

「同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る」元軍は十月五日、対馬の小茂田浜(こもだはま:長崎県対馬市厳原(いずはら)町小茂田)に初侵攻した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験や神徳を説いた寺社縁起。本「北條九代記」の依拠する作品の一つ)『によると、対馬守護代・宗資国』(そう すけくに)『は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた』。そのうち七、八艘の大型船より千名ほどの『元軍が上陸したため、宗資国は』八十余騎で『陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも』四人を『射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦』(小茂田地区の旧称)『を焼き払ったという』。『同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し、博多へ出航している』。「高麗史」の「金方慶傳」によると、『元軍は対馬に入ると』、『島人を多く殺害した』。『また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑』「金方慶墓誌銘」にも『「日本に討ち入りし、俘馘』(ふかく)『(捕虜)が甚だ多く越す」『とあり、多くの被害を島人に与えた』。『この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている』(「高祖遺文錄」の日蓮書状より)。――去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古國ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、對馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉(さうまじよう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)。――『この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている』。『この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた』。『同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女』二百人を『高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している』(下線やぶちゃん)。以下、筆者は文永の役の惨状を何故か、語らない。されば、くだくだしく注するのもなんであるが、ウィキの「元寇」の「文永の役」の項の「壱岐侵攻」(十月十四日)・「肥前沿岸襲来」(同月十六~十七日)、「博多湾上陸」(同月二十日)から「赤坂の戦い」及び「鳥飼潟の戦い」(以上の二戦闘が「文永の役」の主戦闘とされる)等は必読であろう。

「筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ」ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓』」では『鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている』とある。

「蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る」ウィキの「元寇」によれば、これらの主戦闘に於いて終日、激戦が繰り広げられたが、『元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられ』、『やがて、日が暮れたのを機に、元軍は戦闘を』解いて帰陣した。「高麗史」の「金方慶傳」には、『この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった』とする。金方慶が(以下、注記号を除去した)、

――『「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」』

と戦闘の継続を強く主張すると、総司令官クドゥンは、

――『「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」』

と答えたという。『このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで』一ヶ月も『掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)』。『このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した』。『元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料』である「金剛仏子叡尊感身学正記」(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき:鎌倉時代に真言律宗を開いた僧侶叡尊の自伝)は、『「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」と記している』。「身延中興の三師」のひとりに数えられる室町時代の日朝の「安国論私抄」に『記載されている両軍の戦闘による損害は、元軍の捕虜』二十七人、首級三十九個、『その他の元軍の損害を数知れずとする一方、すべての日本人の損害については戦死者』百九十五人、『下郎は数を知れずとある』。その後、十一月二十七日に『元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還した』とある。

「同月」良心的に前の私の修正を受けても、これでは文永一一(一二七四)年十月としか読めないのであるが、これも年も月も完全な誤りである。「本院」後深草院が第二皇子である「熈仁(ひろひと)」を東宮に立て」たのは、建治元(一二七五)年十一月五日である。この立太子は、亀山上皇(後の大覚寺統)で天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(後の持明院統)が幕府に働きかけた結果の、幕府の斡旋によるものであった。

「大宮(おほみや)の女院」後嵯峨天皇中宮西園寺姞子(きつし)。

「抖藪(とそう)」既出既注であるが、再掲しておく。「抖擻」とも書く。梵語“dhūta”の訳で音字は「頭陀」。衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄に保つこと、また、その修行を指す。

「嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)」この上もない慶事にして喜ばしく、最上の歓喜に値いすること。]

2016/12/13

北條九代記 卷第十 北條政村卒去 付 山階左大臣薨去

 

      ○北條政村卒去  山階左大臣薨去

 

同十年五月七日、北條左京〔の〕大夫政村、卒去せらる。是、遠江守義時の四男なり。年六十九。同六月に北條重時の四男武藏守義政を執權として加判せしむ。相摸守時宗、是を擧(きよ)して政村の替(かはり)に居(す)ゑらる。門族の中、一家は別離の淚に沈みて、後會(こうくわい)の時なき事を歎き、一家は勢名(せいめい)の花開きて前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事を喜ぶ。一枯(こ)一榮(えい)、世間、皆、斯(かく)の如し。同八月、京都には山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)公、今年五十七歳にして薨ぜらる。西園寺の一家にして、當今(たうぎん)新院の舅と成り、後宇多、伏見兩帝の外祖なれば、威勢を當代に振(ふる)ひて、榮華その身に餘り、官位俸祿に付きても、不足なる事なしといへども、定(さだま)れる死業(しごう)は遁る〻に地(ところ)なく、限れる命根(めいこん)は保つに賴(たより)を失ひ、佛神の冥力(みやうりき)、此所(こ〻)に空しく、耆扁(ぎへん)が醫術、徒(いたづら)に手を拱(こまね)き、少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き、屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り、一朝の草露(さうろ)、落ちて二度(ふたたび)歸らず。三泉の叢塚(さうちよ)、埋(うづも)れて又、開かず。親疎遠近(しんそゑんきん)、哀(あはれ)を催し、悲(かなしみ)の色を含みけり。今年の秋の比、蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)、來朝して、筑紫(つくし)の博多に著きにける。この由、六波羅へ告來(つげきた)る。鎌倉へ早馬を立てて、伺はせられしかば、卽ち禁中へ奏せらる。「年來、日本より遂に牒書(てふしよ)の返狀(へんじやう)をも遣されず。然るを、每度、使者を奉る。是、朝貢(てうこう)の式禮にもあらず。和親の信と云ふにもあらず。只、本朝に風儀を窺ひ、弊(つひえ)に乘りて討取(うちと)らんとの爲なるべし。重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり。京、鎌倉へ參るには及ばず」とて、太宰府より舟を出させ、超良弼を追返(おひかへ)されたり。蒙古の王、大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る。この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり。

 

[やぶちゃん注:「同十年五月七日」前段の後嵯峨法皇崩御は前の年文永九年を受けた表現。ユリウス暦一二七三年。

「北條左京大夫政村」既注であるが、逝去記事なので再掲しておく。以下、主にウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)は義時五男(本文の「四男」は誤り。彼には兄に泰時・朝時・重時・有時がいる。但し、総て異母兄。政村の母は出生当時の義時の継正室であった伊賀の方で、彼女との間では最初の男子である)。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰は』、『すぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなく』、『あくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。しかし、『母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって、政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという』。ここに記されるように、次期連署は『兄重時の息子北条義政が引き継い』で同六月十七日に就任している。ある意味、非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。

「武藏守義政」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、以上に見るように、叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任ぜられ、執権北条時宗を補佐した。なお、彼が「武藏守」となるのは文永一〇(一二七三)年の七月で、この話柄内時制(政村死去の五月と連署就任当時の六月)の官位は未だ「左近衞將監」である。

「擧(きよ)して」推薦して。

「前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事」「ぜんせい」はママ。前世(ぜんせ)から享ける応報としてのそれがかくなる幸運・慶事であったこと。

「同八月」十六日。

「山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)」洞院(とういん)家の祖で、従一位左大臣であったことから「山階左大臣」と号した洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。ウィキの「洞院実雄」によれば、娘三人が、それぞれ、三人の天皇、第九十代亀山天皇(皇后佶子(きつし)。第九十一代後宇多天皇生母)・後深草天皇(愔子(いんし)。第九十二代伏見天皇生母)・伏見天皇(季子(きし)。第九十五代花園天皇生母)の妃となって権勢を誇った。娘たちは孰れも皇子を産み、それぞれが後に即位したことから、結果的には三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父に相当することとなった(「結果的には」と添えたのは、孫に当たる彼ら三人の即位は皆、彼の死後のことだからである)

「當今(たうぎん)新院」今上帝亀山天皇と彼の兄後深草院。

「冥力(みやうりき)」神妙な<る御加護。

「耆扁(ぎへん)」世に希な名医を指す一般名詞。元は伝説の名医「耆婆(ぎば)」と「扁鵲(へんじゃく)」のこと。前者は古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師ジーヴァカで、釈迦の弟子の一人でもあった。多くの仏弟子の病気を癒し、父王を殺した阿闍世 (あじゃせ:アジャータシャトル) 王をも信仰に入らせたとされる。後者は「韓非子」や「史記」にその事蹟を記す、古代中国漢代以前の伝説的名医の名。

「少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き」旱(ひでり)で水がごく僅かになってしまった魚が、遂には水が干上がってしまい(死して干物となり)。

「屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り」屠殺場(ば)の羊が柵に追い詰められて万事窮し(哀れに殺され)。

「三泉の叢塚(さうちよ)」「三泉」は死後の世界を意味する死者の国たる黄泉(こうせん/よみ)のことで、「三」は大きな数値を意味するから、「地下のずっと深いところ」に「死者の魂」去って、それを追悼する「塚」(墓)は必ず「叢(くさむら)」に「埋(うづも)れて」しまい、二度と「開かず」というのである。

「親疎」故人と特に親しかった方々も、また、庶民も含んだ、そうでない者どもも。

「今年の秋の比」誤り趙良弼の率いた蒙古使節団の初回は文永八(一二七一)年九月(日本への使節団としては五度目)で、この時は四ヶ月ほど大宰府に滞在した後、返書を受け取れず、大宰府からの日本人使節とともに帰国しており(この時を指すとしたら、「秋」は正しいが、この本文の時制は文永十年であるから誤りとなる)。次の第六回蒙古使節団もやはり趙良弼が率いたが、それは翌文永九(一二七二)年(四月或いは十二月と定かでない)のことで(この時は一年ほど大宰府に滞在の後、やはり、返書を受けられず、空しく帰国している)、この叙述を二回目のものとすると(その可能性が高い)、今度は年号も季節も誤りとなる。

「蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)」(ちょう りょうひつ 一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。既注であるが、再掲しておく。ウィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲(Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった(下線やぶちゃん)。なお、第六回使節団が不首尾に終わったことについては、ウィキの「元寇」に、「元朝名臣事略」の『野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという』と記し、また「賛皇復県記」にも、『南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある』そうである。禅宗を深く信仰し、その擁護を図った北条得宗家を考えると、これはかなり腑に落ちる説であると私は思っている。

 

「重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり」本条の拠ったのは林鵞峯の「日本王代一覧」のようだが、今調べて見たが、事実、そうした通達を趙良弼にしたという記録は、そこには載らない。或いはこれ、筆者が後の掟破りの使者斬首(建治元(一二七五)年に来日した第七回使節団。時宗は彼らに逢わずに龍の口で処刑している。なお、そうした処断を幕府は元に通告しておらず、それを知らずに四年後の弘安二(一二七九)年にやってきた第八回使節団は博多で同じく斬首されている)を少しでも正当化するため、かく創作した可能性もある。時頼を死んだと見せて、回国させちゃうくらいの作者だ。それぐらいの操作はしそうだ。そもそもこの辺り以降は最早、「吾妻鏡」の記載がなくなってしまうから、公家の日記ぐらいしか、信頼出来る資料が、これ、ない。

「蒙古の王」既注のモンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)のこと。チンギス・カンの四男トルイの子。

『大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る』ウィキの「元寇」によれば、クビライは、第六回の訪朝から帰った趙良弼の日本侵攻への反対意見に一旦は従ったが、翌一二七三年(文永十年)になると、『前言を翻し、日本侵攻を計画』、『侵攻準備を開始した。この時点で、元は南宋との』五年に及んだ『襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また』、『朝鮮半島の三別抄』(さんべつしょう:高麗王朝の軍事組織で、元は私兵集団であったが、元軍の高麗侵攻に際しては事実上の高麗の正規国軍となったともされる)『も元に滅ぼされており、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのであ』った。一二七四年(文永十一年)一月、『クビライは昭勇大将軍・洪茶丘』(こう ちゃきゅう/こう さきゅう 一二四四年~一二九一年):祖国高麗及び元に仕えた軍人。クビライに重用された。彼の売国奴的行為(現在の大韓民国に於いてさえも彼は祖国の裏切者として非難されている)の背景はウィキの「洪茶丘を参照されたい)『を高麗に派遣し、高麗に戦艦』三百艘の『建造を開始させた』。『洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・人夫』実に三万五百人余りを『動員した』。『洪茶丘の督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電の如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという』。同年五月には『元から派遣された日本侵攻の主力軍』一万五千名が『高麗に到着』している。『同月、クビライは娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固に』した。同六月、『高麗は元に使者を派遣し、戦艦』三百艘の『造船を完了させ、軍船大小』九百艘を『揃えて』、『高麗の金州に回漕したことを報告』、同八月、『日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗に着任し』ている。この総司令官忽敦率いる、総計二万七千~四万の兵を乗せた七百二十六~九百艘に及ぶ軍船が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航したのは、同一二七四年(文永十一年)十月三日のことであった。

「この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり」ウィキの「元寇」によれば、この前、『執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた』。文永八(一二七一)年、『北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた』。『当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった』。『これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次』、『九州に土着していくこととなる』。『九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている』。文永九年には、『異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた』。また、「高麗史」によると、『日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった』という。同年七月、『高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた』。『曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した』。『高麗国王・元宗は』『クビライに対して曹子一の無実を訴え』、『解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された』とある。文永十年十一月には幕命を受けた少弐資能が、『戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発し』ている、とある。]

2016/11/30

北條九代記 卷第十 一院崩御 付 天子二流 竝 攝家門を分つ

 

      〇一院崩御  天子二流  攝家門を分つ

 

同二月十七日、一院後嵯峨〔の〕法皇、崩御あり。寶算(はうさん)五十三歳、初(はじめ)、御位を後深草院に讓り給ひて後も、なほ、院中にして政事(せいじ)を聞召し給ふ事、二十餘年、世聞、物靜(ものしづか)にて、天下四海、穩(おだやか)なりければ、宸襟(しんきん)、御物憂(う)き事もおはしまさず。御遊(ぎよいう)、歌の會、諸方の御幸(ぎよかう)に月日を送らせ給ふ。御(ご)果報、いみじき天子にて渡(わたら)せ給ふ。この分にては何時(いつ)まで存(ながら)へさせ給ふとも、愈(いよいよ)、めでたき御事なるべしと雖も、人間(にんげん)愛別の歎(なげき)、四大離散の悲(かなしみ)は誰(たれ)とても遁(のが)まるじき習(ならひ)なれば、忽(たちまち)に無常の風、荒く吹きて、有待(うだい)の花、萎落(しぼみおち)させ給ひ、鼎湖(ていこ)の雲、治(をさま)りて、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふこそ悲しけれ。御遺勅ありけるは、「これより後の皇位は、新院後深草院と、當今龜山院と、御兄弟の二流、代々(かはるがはる)卽位あるべし」と仰せ置(おか)れしと、世には申し傳ふれども、實(まこと)には北條時宗、朝廷を分けて、二流とし、其勢(いきほひ)を薄くし奉らんが爲に、かの二流、代々(かはるがはる)、御治世あるべしと、計(はからひ)申しけるとぞ聞えし。是より以前、後鳥羽院、承久の亂の時、西園寺公經卿(さいおんじのきんつねのきやう)、志を鎌倉に通(かよは)し、左京大夫北條義時に心を合せて、京都の手術(てだて)を計(はか)られしかば、天下、静(しづま)りて後に、義時、其志を感じて西園寺を推擧し、禁中の事を執賄(とりまかな)はせ參らせしかば、公經卿より、子孫、榮え、官位高く昇進し、大相國(だいしやうこく)に經上(へあが)り、太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)、後嵯峨院の中宮となり、この御腹(おんはら)に後深草、龜山兄弟を生み參(まゐら)せらる。是等も皆、關東の計(はからひ)に依(よつ)て、この西園寺を執(しつ)せらる〻所なり。又、往初(そのかみ)は、攝政關白になり給ふは近衞殿、九條殿、只、二流なりけるを、四條〔の〕院仁治三年に良實公、關白になり給ふ。是(これ)、二條殿の御先祖なり。後嵯峨〔の〕院寛元四年に實經公、關白となり給ふ。是、一條殿の御先祖なり。後深草院建長四年に兼平公、攝政となり給ふ。是、鷹司殿の先祖なり。今に傳へて五攝家とは申習(まうしなら)はしける。是も鎌倉最明寺時賴入道の執權せむより、攝政關白の御家を數多に分けて權威を磷(ひすろ)げ參らせける所なり。今、又、相摸守時宗、執權の世に當(あたつ)て、天子の御位をも、二流に分ち奉り、變る變る、王位を繼がせ奉る事、偏(ひとへ)に皇孫、兩岐にして、王威(わうゐ)を恣(ほしいま〻)にさせ奉るまじき方便(てだて)なり。只、西園寺の家のみ、殊に當時は天子の御外戚となり、淸華(せいくわ)の家には肩を竝(なら)ぶる人なく、權威、高く輝きて、朱門金殿、甍(いらか)を磨き、榮昌(えいしやう)、大にす〻みて、紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)、軒(のき)を合せたり。如何なる王公大名といへども、禮を厚く、敬を盡し、その心を取りて、崇仰(そうがう)せらる。出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける。

 

[やぶちゃん注:標題中の「攝家門を分つ」の「門」は「かど」と訓じている。

「同二月十七日」文永九年(ユリウス暦一二七二)。前章後半の「二月騒動」(同年一月)を受けているので「同」となる。グレゴリ暦換算では三月二十七日。

「寶算(はうさん)」天皇の年齢を言う場合の尊称。

「宸襟(しんきん)」天子の御心(みこころ)。

「御(ご)果報」仏教的な前世からの御果報、の謂い。

「有待(うだい)」「うたい」とも読む仏語。「人間の体」の意。衣食などの助けによって初めて「待」(頼みとして期「待」されること)が「有」(保たれて「有」る)ものであるところから、かく言う。

「鼎湖(ていこ)」中国の伝説上の皇帝で五帝の第一とされ、漢方の始祖的存在である黄帝の亡くなった場所で盛大にして豪華な葬儀もそこで行われたという地の後の称。皇帝はここから龍に乗って登仙したともされるから、この「雲、治りて」はその情景を後嵯峨院の葬送の儀が滞りなく行われたことに擬えたものであろう。

「蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふ」「蒼梧」は湖南省寧遠県にある山で、中国古代の五帝の一人である舜の墓があるとされる地であるから、ここも前の「鼎湖、雲、治りて」との対句表現で後嵯峨院が、春霞とともに(前に示した通り、旧暦二月十七日でグレゴリ暦換算では三月二十七日である)白玉楼中の人となって永遠に去ったことを示す。

「承久の亂の時」ユリウス暦一二二一年。

「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。既注であるが再掲しておく。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。

「大相國(だいしやうこく)」太政大臣。

「太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)」公経の子西園寺実氏の長女大宮院(おおみやいん)姞子(きつし)。

「四條〔の〕院仁治三年」四条天皇の一二四二年。

「良實公、關白になり給ふ」弟に第四代鎌倉将軍藤原頼経を持った二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は、西園寺公経の推挙で同年一月二十日に関白宣下を受けている。但し、公経が死去とともに朝廷は実父(次男)でありながら、仲の悪かった九条道家に掌握されてしまい、不本意ながら、父の命で寛元四(一二四六)年一月に関白を弟一条実経に譲った。ところが寛元四(一二四六)年の宮騒動で父道家は失脚し、道家の死後(建長四(一二五二)年)、再び勢力を盛り返して、弘長元(一二六一)年には再び関白に返り咲いた。その後、文永二(一二六五)年に再び弟の一条実経に関白職を譲ってはいるものの、以後も彼は内覧として朝廷の実権を掌握し続けた。

「後嵯峨〔の〕院寛元四年」一二四六年。前注参照。

「後深草院建長四年」一二五二年。

「兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は関白近衛家実四男。

「磷(ひすろ)げ」既出既注。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意で「擦れて薄くする」「力の集中を弱らせる」の意。

「變る變る」「代わる代わる」。

「兩岐にして」二流に分岐させて(内部で対立を起こさせて朝廷のコアの部分をも弱体化させ)。

「淸華(せいくわ)の家」狭義の「清華家(せいがけ)」は公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する格式の家系を指す。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る当時の七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「榮昌(えいしやう)」栄華。繁栄。

「紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)」紺色で美しく彩色したかのように見える豪華な軒や、宝玉を彫琢して作られた階(きざはし)。孰れも貴人の絢爛たる豪邸を指す。

「その心」西園寺家当主の御心。

「を取りて」に取り入って。

「崇仰(そうがう)」崇(あが)め奉り、ありがたく拝み申し上げること。

「出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける」西園寺家に出入りするというだけのことで、その人々までも、他の人々はそれだけでも「眉目」(みめ:面目・名誉の意)として、羨ましく思うたのであった。]

2016/11/26

北條九代記 卷第十 將軍惟康源姓を賜る 付 大元使を日本に遣 竝 北條時輔逆心露顯

 

      ○將軍惟康源姓を賜る  大元使を日本に遣す

        北條時輔逆心露顯

 

同七年十一月、將軍惟康、從三位に叙し、左中將に任じ、源姓(げんしやう)を賜ふ。位署(ゐしよ)、既に鎌倉に到著す。將軍家、御拜賀の御爲に、鶴岡八幡宮に參詣あり。路次の行列は先蹤(せんしよう)にまかせられ、供奉の輩(ともがら)、銛(きら)を研(みが)き、花を飾り、奇麗の出立(いでたち)、傍(あたり)を耀(か〻やか)し、見物の貴賤、巷(ちまた)に盈(み)ちたり。近年、太平の驗(しるし)なりと、諸人喜ぶ事、限りなし。異故(ことゆゑ)なく下向ありて、その夜は殿中に舞蹈(ぶたう)、酒宴、既に曙に及べり。大名、諸人、上下共に榮樂萬歳(えいらくまんざい)を歌ひ、數獻(すこん)、酣興(かんきよう)を盡されけり。

この年、蒙古の使者、趙良弼等(ら)、本朝筑前國今津に著岸し、牒狀(てふじやう)を呈す。兎にも角にも日本を討取(うちと)るベしとの祕計なるべしと、公家武家共に憤(いきどほり)思召しければ、中々、返狀にも及ばず。博多(はかたの)彌四郎と云ふ者を差添(さしそ)へて歸遣(かへしつかは)されしかば、蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す。

北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり。京都鎌倉の間(あひだ)は櫛(くし)の子(こ)を引くが如く、飛脚、每日に往來し、九國二島(じとう)の事に於いて纖芥(しんがい)計(ばかり)も隱(かくれ)なし。諸国、自(おのづから)、是(これ)に伏(ふく)して、天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし。狼藉亡命の輩(やから)、山野の間にも身を隱すに賴(たより)なく、一夜の宿も借す人なければ、自(おのづから)、皆、亡びて、在々所々、萬戸(ばんこ)樞(とぼそ)を閉ぢず、千門開けて、女、童(わらは)、商人(あきんど)までも手を指す者もあらざれば、淳朴厚篤(じゆんぼくこうとく)の世の中なりと、上下、心易くぞ思ひける。

然る所に同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し。同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり。義宗、俄(にはか)に軍兵(ぐんぴやう)を催し、六波羅南の方、式部大夫時輔が館(たち)に押寄(おしよ)せて、時輔を初(はじめ)て、家中の上下、一人も殘らず討亡(うちほろぼ)す。思(おもひ)も寄らざる俄事(にはかごと)に、侍、中間原(ちうげんばら)、周章彷徨(あはてうろた)へ、物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく、逃落(にげお)ちんとのみする程に、草葉を薙(な)ぐが如く、皆、打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、死骸は此處彼處(こ〻かしこ)に臥亂(ふしみだ)れ、紅血(こうけつ)は縦橫(じうわう)に川を流せり。邊(あたり)近き民屋(みんをく)の男女、こはそも何事ぞとて騷立(さわぎた)ちて逃惑(にげまど)ひしかども、手間も入らず、打靜(うちしづま)り、義宗、靜(しづか)に馬を入れられければ、今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべきと、足を翹(つまだ)て手を握り、危(あやぶ)みけるも多かりけり。かの時輔は相摸守時賴の長男にて、鎌倉相州時宗の兄なりしが、関東の執權は我こそと思はれしに、舍弟時宗に家督を取られ、年來、鬱憤を含み、逆心を企て、内々その用意ある由、誰(たれ)とは知らず、時宗に告申(つげまう)しける故に、先(まづ)、義宗を上洛せしめ、事の有樣を伺はせ、叛逆の事、忽に露(あらは)れて、時輔、既に討たれたり。鎌倉にも、北條朝時の孫左近〔の〕大夫公時(きんとき)、同じく朝時の六男中務〔の〕大輔教時等(ら)、時輔に一味同心して、時宗を討たんと計りける。此事、今は隱(かくれ)なく露れしかば、公時、教時、一所に寄合(よりあ)うて、「京都の事に何如(いかゞ)、心許(こころもと)なし」と、その左右を待ちりる間(あひだ)に、時宗の討手(うつて)、透間(すきま)なく込掛(こみか)けて、一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり。近隣、大に騷ぎしかども、事、速(すみやか)に落居(らくきよ)しければ、頓(やが)て音なく靜りけり。天運の命ずるに依らずして、非道の巧(たくみ)を企つる者は、天必ず、罸(ばつ)を施し、鬼(き)、既に罪をうつが故に、亡びずと云ふことなし。運を計り、命を待つとは、君子の智德を云ふなるべし。中御門〔の〕左中將實隆、この謀叛に與(くみ)せられたりと聞えしかば、出仕を留められ、暫く籠居(ろうきよ)しておはしけり。關東より如何に申付けられんも知難(しりがた)しとて、その方樣(かたさま)の人は、易(やす)き心もなかりしかども、武家の人々、何程の事かあるべきとて、宥免(いうめん)の沙汰に及びしかば、軈(やが)て殿上(てんじやう)の出仕をぞ致されける。

 

[やぶちゃん注:内容の相異に鑑み、特異的に段落を設けた。

「北條時輔」(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)は時頼の長男。既注であるが、再掲しておく。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると(本章では時制順序が逆に見えるような書き方になっているので注意)、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。

「同七年十一月」文永七(一二七〇)年であるが、「十一月」は「十二月」の誤り。この十二月二十日に惟康は源姓賜与されて臣籍降下し、正三位(「從三位」も誤り)・左近衛中将となった。征夷大将軍宣下は文永三(一二六六)年 七月に済んでいる。

「位署(ゐしよ)」官位・姓名の下賜が記された公文書。

「路次」私の趣味で「ろし」と清音で読んでおく。途中の沿道。

「先蹤(せんしよう)」先例。

「銛(きら)を研(みが)き」「銛」は刀剣類の鋭いことで、武家将軍の武具の鋭利にして厳かであることを形容していよう。

「異故(ことゆゑ)なく下向ありて」何の想定外の事態も発生することなく、滞りなく拝賀の式が済んで御所へお戻りになって。

「榮樂萬歳」雅楽の唐楽に隋の煬帝作とも唐の則天武后の作ともされる祝祭舞曲としての「万歳楽」があるが、ここは皆で歌っているところからは、当時一般で歌われた言祝ぎ歌の一つか。識者の御教授を乞う。

「酣興(かんきよう)」「酣」は「たけなわ」で「酣」自体が「酒を飲んで楽しむこと」や「ある事象の経過の中の最も盛んな時点」(後に「それを少し過ぎた時点」に転じた)を指す。ここは「感興の限り」の意でよい。

「この年」となると、文永七(一二七〇)年になるが、誤りで、元使として趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて百人余りを引き連れて到来したのは、翌文永八年の九月十九日である。なお、これは既に五回目の使節団(前章の私の「菅原宰相長成」の注を参照)であり、そこを筆者は完全に省略してしまっているために、前条から見ると二度目のように見えてしまう。二度目から四度目の使節団とそれに対する幕府の処置については、ウィキの「元寇」を参照されたい。

「趙良弼」(一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。ィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった。

「博多(はかたの)彌四郎」あたかも、この男一人が趙良弼に従って渡元してフビライに会見したかのように書いてあるが、大間違いである。前注に示した通り、この時は大宰府から日本人使節団が送られたのであり(但し、そこに博多弥四郎なり者がいなかったかどうかは断言出来ない)、ここにも混乱がある。これは思うに、第三回と第四回の元側の使節団に関わった日本人と混同している可能性が高い。ウィキの「元寇」を見ると、第三回は文永六(一二六九)年で、正使は第一回と同じヒズル(黒的)とし、高麗人の起居舎人潘阜らの案内で、総勢七十五名の使節団が対馬に上陸したものの、使節らは日本側から拒まれたため、対馬から先に進むことが出来ず、日本側と喧嘩になった際に、対馬の島民であった「塔二郎」と「弥二郎」という二名を捕らえ、これらとともにに帰還している。『クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた』。『クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させたという』(下線やぶちゃん)。『宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した』と言い、『これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという』。そして、元側の第四回使節団は、文永六(一二六九)年の九月に、まさにその捕えた「塔二郎」と「弥二郎」らを、首都燕京(後の大都)から『護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来』、『今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した』とあるからである。この「北條九代記」の「彌四郎」と、この「彌二郎」、如何にも似ている名ではないか? 書かれてある「蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す」という内容と事実が合致してもいるのである。

「北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり」これは、かの「二月騒動」の直前で文永八(一二七一)年十一月二十七日のことである。冒頭は、かの連署を勤めた故「北條重時には(=からは)孫」に当たるところの、の意。北条「義宗」(建長五(一二五三)年~建治三(一二七七)年)は第六代執権北条長時嫡男で赤橋流北条氏第二代当主。ここに出る通り、二月騒動の京方での征討を任されて、美事に時輔方を滅ぼした。ちなみにこの二月騒動の年に嫡子の久時が生まれており、五年後の建治二(一二七六)年)には鎌倉に戻り、翌年、評定衆に任ぜられるたが、その直後に享年二十五の若さで没している。

「櫛(くし)の子(こ)を引くが如く」「子」は「歯」に同じい。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩えである。

「九國二島(じとう)」九州及び壱岐・対馬の二島。

「纖芥(しんがい)」細かな芥(ごみ)。転じて、「ごく僅かな」ことの喩え。

「天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし」天下の正しき御政道について、その良し悪しを論(あげつら)うような議論をする者は、これ、一人としていなかった。

「狼藉亡命の輩(やから)」乱暴狼藉を働いた不届き者や、ある種の乱や犯罪或いは生活上の困窮などから、本来の一族や支配地から抜け、逃亡した者ども。

「賴(たより)なく」頼りとするような者もおらず。

「借す」「貸す」。江戸時代まで「貸借」の両字は互換性があった。

「在々所々」あちらでもこちらでも。どこでも。

「萬戸(ばんこ)」総ての家屋屋敷。

「樞(とぼそ)を閉ぢず」枢(くるる)を落して戸締りなどする必要がないほどの安全であることを言う。

「女、童(わらは)、商人(あきんど)までも」か弱い女子どもは勿論、大金を持っている商人に対しても。

「手を指す者」悪事をせんと手を出す者。

「淳朴厚篤」かざりけがなく素直であり、人情にあつく誠実なこと。

「同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し」文永九(一二七二)年一月五日。

「同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり」既に述べた通り、実はこの四日前の二月十一日に、まず鎌倉で名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王側近の中御門実隆のお召しが禁ぜられて事実上の軟禁となった。そこから時宗は早馬を仕立て前年末に六波羅探題北方に就任していた北条義宗に対し、同南方の北条時輔の討伐命令が下されたのである。

「中間原(ちうげんばら)」身分の低い家来ども。雜兵(ぞうひょう)ら。「ばら」は「輩」で、人を表わす語に付いて二人以上同類がいることを示す複数形の接尾語。

「周章彷徨(あはてうろた)へ」四字へのルビ。

「物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく」武器を執って攻めてきた者らに立ち向かう余裕もまるでなく。

「手間も入らず」瞬く間に。

「今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべき」「今現在は、かくもあっと言う間に方がついて静かにはなったれど、この後(あと)、また、一体、どんな兵乱が起こるのであろうか?」。民草の恐れ戦く心内語である。

「足を翹(つまだ)て」爪先立って。これからずっと先をおっかなびっくり覗くような姿勢、心が不安定で穏やかでないことを譬えるのであろう。

「忽に」「たちまちに」。

「左近〔の〕大夫公時」北条(名越)公時(嘉禎元(一二三五)年~永仁二(一二九五)年)は年生まれ。二月騒動で誅殺された名越時章(ときあきら)の子。弓と鞠に優れ、御鞠奉行となり、文永二(一二六五)年には引付衆となっていた。この時、父と叔父教時が時宗方に討たれたが、この公時は叛意なしと認められて縁座を免れ、しかも翌年には評定衆に昇り、その後も引付頭人・執奏を勤めているから、以下の「一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり」は嘘。恐らく筆者は父時章と誤認したのであろう

「中務〔の〕大輔教時」既出既注

「落居(らくきよ)」落着。

「鬼(き)」悪しき企みを罰せずにはおかぬ恐ろしい鬼神。

「運を計り、命を待つ」自己に与えられた運命を冷静に認識し、且つ、天命を心穏やかにして待つ。

「中御門〔の〕左中將實隆」前将軍宗尊親王の側近。それ以外の事蹟は不詳。ここ以下のロケーションは京都。

「その方樣(かたさま)の人」実隆の一家の者たち。

「武家の人々」幕府方。

「何程の事かあるべき」何をしたというほどのこともなく、また、そのような権力や人脈も持ち備えている大物でもなかろうからに。

「宥免(いうめん)」赦免。]

2016/11/24

北條九代記 卷第十 蒙古牒書を日本に送る

 

      ○蒙古牒書を日本に送る

 

文永五年十二月、京都富小路(とみのこうぢ)新院の御所にして、一院五十の御賀あり。伶人、舞樂を奏し、終日の經營、善、盡し、美、盡せり。軈(やが)て御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ。この比(ころ)、六合(りくがふ)、風、治(おさま)り、四海、浪、靜(しづか)にして、萬民淳化(じゆくわ)の惠(めぐみ)に歸して、京都邊鄙(へんぴ)、悉(ことごと)く太平の聲、洋々たり。一院、新院、今は叡慮も穩(おだやか)にて、姑射仙洞(こやせんとう)の綠蘿(りよくら)を分けて、洛中洛外の御幸(ごかう)、鳳車(ほうしや)の碾(きし)る音までも治(をさま)る御世(みよ)の例(ためし)とて、最(いと)徐(ゆるやか)にぞ聞えける。

斯る所に、蒙古大元の、狀書を日本に送り、筑紫の宰府(さいふ)に著岸(ちやくがん)す。卽ち、關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる。當今(たうぎん)、勅を下し、菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)に返簡(へんかん)を書(か〻)しめ、世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)、是を淸書す。然れども武家内談の評定あり。蒙古の書面、頗る無禮なりとて、返狀に及(およば)れず。昔、隋の大業三年に、日本朝貢(てうこう)の使者、国書を擎(さ〻)げて來れり、其文章に、「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇、御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり。今蒙古の狀書にも又、是、無禮の文章あり。返狀に及ばざる、誠に理(ことはり)ぞ、と聞えける。

 

[やぶちゃん注:特異的に二段に分けた。なお、前段は以下に示す通り、実際には行われていないことを見て来たかのように綴っている、本書でも痛恨の大きな瑕疵部分であり、後半も何だか、ヘンだぞ!(後注参照)

「牒書」「てふしよ(ちょうしょ)」本邦ではかつての奈良・平安時代には官府間に交わされる往復文書を指したが、ここは正式な返答を求めた(国外からの)公式文書の謂いである。

「文永五年」ユリウス暦一二六八年。

「京都富小路」

「新院」後深草院。

「一院五十の御賀あり」この後の「一院」後嵯峨院五十の慶賀のパートを筆者は「日本王代一覧」(慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書)及び「五代帝王物語」(鎌倉後期に書かれた編年体歴史物語。作者は未詳)によって記しているらしいが(湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)に拠る)、一九七九年教育社刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記(下)」には、この部分の現代語訳の直下に、『(事実は蒙古の国書が伝えられたため行われなかった)』とある。

「軈(やが)て」そのまま。まもなく。

「御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ」あたかも、この五十の慶賀の式の場かその直後に出家し、法皇となったかのようにしか読めないが、これも誤りである。後嵯峨上皇はこれより(そもそもこの慶賀は行われていないのだから、こう書くこと自体が無意味なのであるが)二ヶ月前の文永五(一二六八)年十月に出家して法皇となっている

「六合(りくがふ)」天と地と四方。天下。

「淳化(じゆくわ)」手厚く教え、感化すること。邪念を取り去ること。

「姑射仙洞(こやせんとう)」上皇・法皇の御所。仙洞御所。「姑射山」(こやさん)は元は中国で不老不死の仙人が住むという藐姑射(はこや)山のことを指した。「仙洞御所」というのは、それを語源とした長寿を言祝ぐ尊称なのである。

「緑蘿(りよくら)を分けて」色鮮やかな生き生きと繁茂する蔦を父子で仲良く分け合って。

「鳳車(ほうしや)」前出の増淵訳では、割注で『屋根の頂に金銅の鳳凰を付けた牛車』とある。ここは上皇や法皇がお出かけになる際に乗用されるそれを指す。

「碾(きし)る」「軋る」。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)」菅原(高辻)長成(元久二(一二〇五)年~弘安四(一二八一)年)は文章博士・侍読などを務めた。一応、菅原道真の末裔である。なお、この後の第四回の使節団が来た際(文永六(一二六九)年九月)、彼が起草したモンゴル帝国への服属要求を拒否する返書案がウィキの「元寇に現代語訳で載るので引いておく。

   《引用開始》

「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。

本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。

(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。

およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。

知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。よく考えよ」

   《引用終了》

叙述から見て、「北條九代記」の筆者は、第一回の使節団と、この第四回を一緒くたにしているように私には感じられて仕方がない。

「返簡(へんかん)」返書。

「世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)」(建保三(一二一五)年~建治二(一二七六)年)は代々書家で名はせた世尊寺流九代の公卿で歌人。摂津守・左京権大夫などを経、正三位に至る。能書家として知られ、種々の書役を務めている。

「武家」鎌倉幕府。

「返狀に及れず」返書は幕府の意向で拒否することとしたのである。

「隋の大業三年」「大業」は「たいぎよう(たいぎょう)」で、隋の煬帝の治世の年号。西暦六〇七年。

「朝貢(てうこう)」外国人が来朝して朝廷に貢ぎ物を差し上げること。

「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇。御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり」先の湯浅氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、この後段部分も「日本王代一覧」「五代帝王物語」や「将軍記」(本書の筆者と目される浅井了意の作)に拠っているとされ、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起)『(甲本)には、趙良弼が持参した牒状の内容が記されている』と注されてあるのだが(私は「八幡愚童訓」を所持しないので牒状の内容は確認出来ない)、この「北條九代記」記載、なんか? おかしくね? 逆だべよ! ウィキの「遣隋使」の「二回目」(まさに六〇七年)から引いておく。遣隋使の第二回は「日本書紀」に記載されており、推古一五(六〇七)年に『小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている』。『倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという』(下線やぶちゃん)。『なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている』。『小野妹子(中国名:蘇因高』『)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している』。『百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている』。『裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』に』以下のように、ある。

『「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」』

『「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境内安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』』。

『これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある』。『なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される』とある。「八幡愚童訓」を見る機会があれば、また加筆する。]

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