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カテゴリー「「一言芳談」【完】」の142件の記事

2013/04/08

一言芳談 一四五 / 奥書 / 「一言芳談」了

本ブログを以って――「一言芳談」やぶちゃん再構成補注ブログ版――を完了した。まさに同行二人として毎日ともに歩んで、欠かさずに感想を述べてくれた友に感謝するものである。ありがとう。



   一四五

 

 有(あるひと)いはく、遁世といふは、ふかく人をいとふべからず。但し、ゆゑなく人をおそるゝ、又、僻因(ひがいん)なり。いま、いとふゆゑは、ふかく名利(みやうり)をいとふゆゑなり。抑(そもそも)又、凡夫(ぼんぷ)の行人(ぎやうにん)は獨身(どくしん)にして、難治(なんぢ)なる故に、いたく名利をもよほさぬ。同行一兩人、あひかまへて、したしむべきか。それも多くならば、かたがた難あるべきなり。

 

○人をいとふべからず、一向に人をいとふもひがごとなり。ひとり住めば懈怠になるを、よき師友にそへば、わが心をはげます因緣なり。かの西仙房の事、公尊阿闍梨の事を見るべし。黑谷、明惠両上人の伝にあり。又ひとへに塵俗にかじはれば緣にふれて道心もさめやすし。處靜なればおのづから道もおこなはるゝなり。

 佛話經云、比丘在聚落身口精勤、諸佛皆憂、

 比丘在山息事安臥、諸佛皆喜。永嘉曰、

 未得道而先居山、但、見其山必忘其道。

かくのごとく、佛祖の教誡、おのおの一義によるものなり。

 法然上人云、ひとりゐて念佛申されずば、同行と共行(ぐぎやう)して申すべし。共行して申されずば、ひとりこもりゐて申すべし、云々。

 

[やぶちゃん注:標注の漢文は続いた文であるが、全体が一字下げであるで、かくの如く配しておいた。

「僻因」捻くれた考え方。

「抑又、凡夫の行人は獨身にして、難治なる故に、いたく名利をもよほさぬ。」どうも意味が摑めない。Ⅱで大橋氏は、

『思うに、凡夫の修行者は、一人ではやりにくいから、それほどには名誉とか利欲といった心をおこさせないのです。』

と訳しておられるが、私にはこの訳でも、何か腑に落ちないでいる。一人では正しい念仏の行法を修しにくいから、複数でやる。複数でやる場合は、相互に相手の心を慮るから、自然、名誉や利欲に走るような心を、逆に起こさせにくいという便(びん)がある、という意味か?……それでもやはり不審である……識者の御教授を乞うものである。

「西仙房」不詳。識者の御教授を乞う。

「公尊阿闍梨」不詳。「鶴岡八幡宮年表」の応長元(一三一一)年五月二十三日の条に『この日、別当道珍、公尊を供僧職に補任す』とあるが、別人であろう。識者の御教授を乞う。

「黑谷」法然。

「明惠」(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)は華厳宗の僧。諱は高弁。栂尾(とがのおの)上人とも呼ばれる。父は平重国。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖とされる。彼の名が師友に添う例の注ではあっても、ここに、しかも、法然と名を並べて登場していることに、私は驚きと不思議な因縁を隠せぬのである――それが何故、不思議な因縁であるかは――今は語らない。――しかし近日中には――その意味がお分かり頂けるであろう――。彼は四十歳も年上の法然を、非常に高く評価し、尊敬もしていたが、建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすや、その内容を正法に反するものとして義憤を発し、法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著しているのである(翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしている)。

「佛話經云、比丘在聚落身口精勤、諸佛皆憂、比丘在山息事安臥、諸佛皆喜。永嘉曰、未得道而先居山、但、見其山必忘其道。」Ⅰの訓点を参考に書き下しておく。

 

「佛話經」に云はく、「比丘、聚落(じゆらく)に在れば、身口、精勤なるも、諸佛、皆、憂ひ、比丘、山に在りて事を息めて安臥すれば、諸佛、皆、喜ぶ。」と。永嘉曰く、「未だ道を得ずして、先づ山に居(きよ)せば、但だ、其の山を見て必ず其の道を忘る。」と。」

 

 

 

「佛話經」は単に仏説の経、ブッダの教えを記した古仏典といった謂いであろうか。本引用が具体的に何という経によるものかは不詳。識者の御教授を乞う。

「永嘉」は永嘉玄覚(ようかげんかく 六六五年~七一三年)で唐初の禅僧。禅宗六祖慧能の直弟子。「六祖壇経」の内容を再構成した「証道歌」という日本の曹洞宗で現在でも読まれている経の作者であるとされているが、歴史学的な証拠は存在しない。また、その他、玄覚の生涯については殆んど記録が残っておらず、詳しいことは分かっていない(以上はウィキ永嘉玄覚に拠った)。]

 

 

 

  依輔定所望難去早速馳筆

  于時寛正第四載孟夏上弦之比

        頽齡五十五

        洛下田畔野叟 朱印

 

○是は慶安年中、板行本の奥書なり。輔定、なに人ぞ、考見るべし。或云、江州佐和山に古本有。徹書記の筆也。是はその本の奥書なり。朱印に正徹とありとぞ。

 

[やぶちゃん注:Ⅲは最後の二行がなく、二行ほど空いて、

 

一言芳談卷之下終   慶安元年林甚右衞門刊

 

とある(Ⅱも同じコンセプト)。また示した標註はⅠにはなく、Ⅱの脚注にあるものを起こした。Ⅱでは更に大橋氏によって、この『慶安年中云々」は、慶安元年林甚右衛門刊を指す』とある。ところが不思議なことに、Ⅱには注はもとより、訳者解題の版本流伝の解説中にも、このⅠにある「頽齡五十五/洛下田畔野叟 朱印」の部分の記載がない。

 Ⅱの訓点(Ⅰ・Ⅲは白文)を参考に漢文部分を書き下しておく。

 

  輔定(すけさだ)の所望、去り難きに依つて早速に筆を馳(はし)らす。

  時に寛正第四載の孟夏、上弦の比(ころ)。

 

「寛正第四載」西暦一四六三年。室町時代で幕府将軍は足利義政。

「慶安元年」慶安元年は西暦一六四八年。正保五年二月十五日に改元された。幕府将軍は徳川家光。

「田畔野叟」が雅号であるが、正徹の現存するそれにはないものと思われる。

「徹書記」「正徹」正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)は室町中期の臨済僧で歌人。道号は清巌(岩)、庵号は招(松)月庵。石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現在の岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。俗名は正清。和歌を冷泉為尹と今川了俊(貞世)に学んだ。応永二一(一四一四)年に出家して法号を正徹と号した。京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼称された。室町幕府六代将軍足利義教に忌避されて謫居(たっきょ)となる。そのためか、「新続古今和歌集」に正徹の歌は入集していない。義教の没後は歌壇に復帰して活躍。歌人のみならず古典学者としても評価をされており、義政に「源氏物語」の講義を行った事蹟が知られる。二万首近くの詠歌が現存する室町期最大の歌人で、歌風も際立って特色があり、二条派からは異端視されたものの、藤原定家を尊崇し、時に前衛的・象徴的・夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。門下には心敬らがいる。家集に「草根集」、歌論に「正徹物語」がある。古典学者としては「源氏物語」の研究のほか、「伊勢物語」などの物語類や藤原定家などの歌人の家集などの古典籍の書写を行っており、現存の伝本流布にも貢献している。中でも正徹の書写した「徒然草」は現存最古の写本として重要なものであり、彼が『つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也』として両書を同じ文学形態として初めて認めた点で文学史家としての優れた着眼点を持っていたと言える(以上はウィキの「正徹」に拠った)。]

一言芳談 一四四

   一四四

 

 敬佛上人のもとにて、人々、後世門(ごせもん)の事につきて、あらまほしき事ども、ねがひあひたりけるに、或人云〔椎尾四郎太郎〕、法門(ほふもん)なき後世物語(ごせものがたり)、云々。上人感じて云、いみじくねがへり。その髓(ずゐ)を得たる事、これにしくべからず。

 

○法門なき後世物語、あながちに經釋(きやうしやく)を引かず、さのみ問答にも及ばず、直(ぢき)に生死無常の事をかたりて、道心をはげまんとなり。

○いみじくねがへり、よきねがひやうなり。

○その髓を得たり、後世者の最要(さいえう)をいひ得たりとなり。達摩(だるま)、二祖の見處(けんじよ)をほめて、汝得吾髓とのたまひし事、傳燈錄に見ゆ。

 

[やぶちゃん注:標注の「汝得吾髓」は「汝、吾が髓を得たり」と読む。

「敬佛房」「三十六」に初出し、本書に多く登場するが、伝不詳。法然・明遍の両人の弟子とされる。

「後世門」浄土についてのこと。

「あらまほしき事」かくあってほしいという、各々の理想染みたこと。

「ねがひあひたりけるに」かくありたいと、経文や法語を交えてしきりに云々していたところ。

「或人云〔椎尾四郎太郎〕」Ⅰには割注はない。この「椎尾四郎太郎」についてはⅡで『伝未詳』とあるが、『歎異抄』の教学史的研究」(竜谷大学仏教文化研究叢書十七・矢田了章他共同研究)に、当時の法然浄土教に属する念仏集団についての叙述の中で、「一言芳談」『は、法然・明遍・敬仏・明禅・聖光など多くの語録を収集している。このなか、一四五条の三分の一を占めているのが敬仏の語録である』とし、この条を挙げて、『「或云く」とあり、その註に「椎尾四郎太郎」と一人の人物が登場する。この「椎尾」の姓は、常陸真壁の椎尾氏を意味し、真壁出身の真仏の「椎尾弥三郎」と同姓である。同時代であることからも、敬仏の弟子でもあった真仏と密接な関係にあった眷属に間違いはなく、関東の親鸞門弟周辺でも、このように念仏聖の語録が収集し伝えられていることが窺える。この敬仏は弘願本『法然聖人絵』や、無住の『沙石集』にも登場し、敬仏の後世者としての人気が高かったことがわかる』とある。

「法門なき後世物語」Ⅱで大橋氏は「後世物語」に注され、『平凡な、あのよの話。前世・現世に対し、後世・来世といい、法然上人は「ただ念仏の一行をもて、すなはち後世に付属流通せしむ」(『選択本願念仏集』)と述べ、『広決瑞決集』巻三に「念仏は只一向に後世の為のみにあらず、かねてはまた現世の祈ともなる」とあるのは同意』と記される(私は馬鹿なのか、これが『同意』であることがよく分からない)。「広疑瑞決集」とは法然の孫弟子敬西房信瑞という僧が建長八(一二五六)年に書いたもので、現在の諏訪市上原に拠点を置いた諏訪氏の一族の上原敦広なる人物の疑問に信瑞が答えた問答集である(長野県立歴史館 歴史館たより二〇〇二春号の記載に拠る)。

――「経文などを引用したり、くだくだしい法論などを抜きにしたあの世の物語を!」――の請いである。

「二祖」私の大好きな慧可(えか 四八七年~五九三年)。雪舟の絵で著名な「雪中断臂」「慧可断臂」(慧可が嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会して弟子入りを請うたが、達磨が断わるも、慧可は達磨の背後の雪中に立ち尽くし、遂には自らの左腕を切り落として入門を許されたとされる)の中国禅宗の二祖。

「見處」見地。見極め。断臂した慧可の覚悟が俗情や世知によるものではないこと。

「汝得吾髓」探し方が悪いらしく、所持する「傳燈錄」の電子テクスト・データから当該箇所が発見出来ないので、「サイト禅宗祖師」慧可大祖禪師にあるテクストを参考に引用する。

 

達磨祖師曰、「時將至矣、汝等盍各言所得乎。」

時有道副對曰、「如我所見、不執文字、不離文字、而爲道用。」

祖曰、「汝得吾皮。」

尼總持曰、「我今所解、如慶喜見阿〔門人人人。〕佛國、一見更不再見。」

祖曰、「汝得吾肉。」

道育曰、「四大本空、五陰非有、而我見處、無一法可得。」

祖曰、「汝得吾骨。」

最後、慧可禮拜、依位而立。

祖曰、「汝得吾髓。」

 

この部分について、個人ブログ「真実の自己を求めて」の汝得吾髄(その1)に谷口清超著「正法眼蔵を読む 葛藤の巻」を参考にされた現代語訳がある(一部を省略、句読点を追加し、改行を施させて戴いた)。

   《引用開始》

 達磨大師は曾て門人達にこう言われた。

「将に伝法の時が来たと思う。お前達夫々悟りの極致を言ってみよ。」

 すると門人道副が、こう言った。

「私の今の境地は文字に因われず、しかも離れることなく、時に応じて真理を活用するということです。」

すると達磨は、

「お前は吾が皮を得た。」

と言われたのである。

 次に尼総持は、こう述べた。

「私の今の悟りの境地は阿難尊者がかの阿しゅく如来の国土を一見して、さらに二度と見ようとはなさらなかったような心境です。」

すると達磨は、

「お前は私の肉を得た。」

と言われた。

 第三に道育が、こう言った。

「地水火風などのあらゆる現象は本来空であり、五蘊(色受想行識)は本来あるものではありません。従って私の悟りは、現象はなしということです。」

すると達磨は、

「お前は私の骨を得た。」

と言われたのである。

 そして最後に、慧可は、達磨の前で三拝して、又、もとの自分の席に戻って無言のまま立ったのである。

 すると達磨は、こう言われた。

「お前は私の髄を得た。」

 こうしてその後、達磨は慧可を二祖として法を伝え、袈裟を授けたのであった。

   《引用終了》

しばしば、お世話になっている「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」の汝得吾髄でも、『達磨大師が自らの弟子達に各々得たところを示すように促した。二祖となる慧可大師はただ達磨大師を三拝し、自位に戻っただけであったが、達磨は慧可に対し、「吾が髄を得たり」として評した』とある。

「傳燈錄」中国の禅宗史書の一つ。三十巻。蘇州承天寺の道原の作。北宋の景徳元 (一〇〇四)年に真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから、「景徳伝灯録」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序を持つ。過去七仏に始まり、インドの二十八代・中国の六代を経て北宋初期に至る総計一七〇一人の祖師の名と伝灯相承(そうじよう)の次第を述べた書。北宋時代における禅の興隆とともに士大夫の教養書の一つとなり、禅本の権威となった。仏祖の機縁問答を「一千七百則の公案」と呼ぶのは,本書に収める仏祖の数字に基づく(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載に拠った)。]

一言芳談 一四三

   一四三

 

 敬佛房、奥州の方、修行のとき、寄宿しける在家(ざいけ)の四壁、大堺(おほざかひ)みなやぶれて、住み荒らせる體(てい)なり。そのゆゑをとふに、亭主こたへて云、名取郡(なとりのこほり)にうつりすむべきゆゑなり、云々。敬佛房、これをきゝて落涙し、同行(どうぎやう)に示して云、欣求(ごんぐ)の心あらば、自然(じねん)に穢土(ゑど)を執(しふ)すべからず。才覺(さいかく)にいはれけるなり。

 

○四壁、家の四方の壁なり。

○大堺、屋敷のさかひの垣(かき)などなり。

○名取郡、奥州の郡の名なり。名所なり。

 

[やぶちゃん注:「名取郡」同名の郡が昭和六三(一九八八)年まで宮城県南部にあった。明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、名取市・岩沼市(吹上・吹上西・阿武隈・大昭和などを除く)・仙台市太白区及び青葉区の一部(茂庭・新川など)・若林区の一部(沖野・下飯田・三本塚・井土以南)に当たる。七世紀に設置されたと推定される郡で、かつては和銅六(七一三)年に陸奥国に丹取郡を置いたとする『続日本紀』の記事が、「名取」を「丹取」と誤記したものだとする説が有力だったが、現在では否定されている(丹取郡(にとりのこおり)は和銅六(七一三)年に当時の陸奥国最北の郡として、後の名取郡よりも遙かに北方である現在の宮城県大崎市辺りを中心に設置された郡。神亀五(七二八)年頃に分割・廃止された)。天平元(七二九)年十一月十五日の日付で、陸奥国名取郡から昆布を納めたときの荷札の木簡が、平城宮から見つかっている。また、郡の字は付されていないものの、郡山遺跡から出た土師器の坏に「名取」と記されたものがある。「名取」の名の文献上の初見は、「続日本紀」天平神護二(七六六)年十二月三十日の条にある名取竜麻呂の改姓記事であるが、郡名「名取郡」としては神護景雲三(七六九)年三月十三日の条、

神護景雲三年三月辛巳○辛巳。陸奧國白河郡人外正七位上丈部子老。賀美郡人丈部國益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奧臣。安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。會津郡人外正八位下丈部庭蟲等二人阿倍會津臣。磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。牡鹿郡人外正八位下春日部奧麻呂等三人武射臣。曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。黑川郡人外從六位下靭大伴部弟蟲等八人。靭大伴連。行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。磐瀨郡人外正六位上吉彌侯部人上磐瀨朝臣。宇多郡人外正六位下吉彌侯部文知上毛野陸奧公。名取郡人外正七位下吉彌侯部老人。賀美郡人外正七位下吉彌侯部大成等九人上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉彌侯部足山守等七人上毛野鍬山公。新田郡人外大初位上吉彌侯部豐庭上毛野中村公。信夫郡人外少初位上吉彌侯部廣國下毛野靜戸公。玉造郡人外正七位上吉彌侯部念丸等七人下毛野俯見公。竝是大國造道嶋宿禰嶋足之所請也。

の、『名取郡人外正七位下吉彌侯部老人』に『上毛野名取朝臣』を賜姓したとする記事が最も早い。元来は名取川及び支流の広瀬川が宮城郡との境であったが、近世初期には広瀬川支流の竜ノ口沢が境界線となり、青葉城を含む土地が宮城郡へと編入された(以上は主にウィキ名取郡」等に拠ったが、「続日本紀」の引用部はJ-TXTS 日本文学電子図書館続日本紀巻第廿九にあるものを恣意的に正字化して引用した)。Ⅱの大橋氏注には『山道・海道の合する要衝の地で』あったとする。しかし、本話では、敬仏房はこの「名取郡」を西方浄土の謂いとして置換している。

「欣求の心あらば、自然に穢土を執すべからず。才覺にいはれけるなり。」――欣求浄土のみ心のままにあれば、この穢土に対し、自ずと執着しなくなるものなのである。『近々、名取郡(なとりのこおり)に移り住むことになっておりますゆえ』とは、これ、我ら念仏者に対し、機転を利かせてお答えになられたのじゃ――

……しかし恐らく、かく涙して讃じた敬仏房に対して、この在家の主(あるじ)は微苦笑せざるを得なかったには違いあるまい……。]

2013/04/07

一言芳談 一四二

   一四二

 

 或人の云、後世者(ごせしや)は、したき事をとゞむるなり。心にしたき事はみな惡事なるがゆゑなり。

 

○したき事をとゞむるなり、寶雲經云、心相是大患之本也。不令是心得自在。

 平泰時の歌に、世を海のあまの小舟(をぶね)の綱手繩(つなでなは) 心のひくに身をなまかせそ。

 

[やぶちゃん注:「寶雲經云、心相是大患之本也。不令是心得自在。」書き下す。

 「寶雲經」に云はく、「心相(しんさう)は是れ、大患の本なり。是の心をして自在を得せしめず。」と。

「寶雲經」六世紀の南梁の扶南沙門曼陀羅仙僧伽婆羅(まんだらせんさんぎゃばら)訳述になる「仏説宝雲経」七巻。

「心相」心の姿。心の様。心のはたらくさま。

「平泰時」鎌倉幕府第三代執権北条泰時(寿永二(一一八三)年~仁治三(一二四二)年)。以下の和歌は不詳。識者の御教授を乞う。]

一言芳談 一四一

   一四一

 

 乘願上人云、佛法には、德をかくす事をば、よき事にいひたれども、外(ほか)に愚を現ずれば、又、懈怠(けだい)になる失あり。たとへば、道場へは入らずして、寢所(ねどころ)にゐて、念佛せんとするほどに、しばらくこそあれ、ねぶりならへる所なるがゆゑに、のちにはやがて、ねいるがごとし。されば凡夫は、とにかくに、すすまじとするを、すすめんために、助業(じよごふ)は大切(たいせつ)なり。

 

○乘願上人云、此詞また肝要なり。前に人目に立つ事をいましめらるる言多けれども、あまりに人目をしのび、世にしたがひすぐれば、眞實の懈怠者になるなり。過不及(くわふきふ)の間をはからふべし。

○助業、念佛のものうき時、たすけすゝむるわざを助業といふなり。經をよみ、佛を觀じ、禮拜をし、六時禮讚などをつとむる事なり。

 

[やぶちゃん注:この条は想像通り、「一四〇」の如何にもな附帯条であって、「一言芳談」には不要な一条であると私は断じて憚らない。称名以外の必然性を説くこれは、鮮やかに教団組織化という俗化変質への敷衍を正当化して支持するものだからである。私は敢えてⅡの大橋俊雄氏の訳をここに全文示しおきたい。私は私の訳を、この条に限って全くしたいと思わないからである。

   《引用開始》

 仏の教えには、徳はおもてに出さず、秘かにおこなうのがよい(陰徳)とされているが、ことさらに愚か者のように振舞えば、かえって、それが身につき、仏道の修行をなおざりにするようになってしまう。

 喩えていえば、道場に入らず、寝所で念仏しようと思っていたものの、それは初めばかりで、しばらくすると、そこは眠る場所であるため、やがて、寝てしまうようなものです。

 それゆえ、凡夫はそれはさておき、念仏がなおざりになりがちなのを、そうならないためにも、念仏以外の他のつとめをすることも大切なのです。

   《引用終了》

――私は眠くなったら寝る。――少なくとも私は寝ながら念仏をすることは出来ない。―私が念仏者なら(間違えては困るが、これをテクスト化している私は無神論者であり、如何なる神も仏も信じてはいない)起きている間だけしか念仏は出来ない。――それを法然は正しいと言うであろう。――いや――何より――何も考えずに眠っていることは、これといった徳を積んでいる訳ではないけれども、悪しきところもない――と明禅法印も言っているのである(「十六」)。……

「助業」浄土門では往生を可能にするところの読誦(どくじゅ)・観察・礼拝・称名・讚歎供養(さんたんくよう)の五つを正行(しょうぎょう)と呼ぶが、その中でも称名を特に正定業(しょうじょうごう)とし、その他の四種の行為を助業と呼ぶ。]

一言芳談 一四〇

   一四〇

 

 乘願上人云、善導を仰がん人は、名号よりほかのことは行ずべきにあらず。さればとて、よりこん所の善根の、念佛の障碍(しやうげ)とならざらんほどの事をば値遇結緣(ちぐけちえん)すべきなり。きらへばとて、いまいましき事の樣にはおもふべからず。行ずべければとて、念佛のいとまを入るべからず。

 

○よりこん所の善根、緣ありてなすべきもろもろの善事なり。一家の人などの堂をたて、佛をつくり、經をかき、僧をも供養せんにはちからを加へ、緣をむすぶべし。念佛をもさまたげず、專修もやぶれず、これ法然上人の御義なり。

○きらへばとて、餘善をきらふことはひたすら念佛せんがためなり。餘善にとがあるにはあらず。

○行ずべければとて、念佛を主人のごとくし、餘善を眷屬とすべし。

 

[やぶちゃん注:「乘願上人」宗源。「七十四」「一一七」「一三〇」に既出。

「よりこん所の善根の、念佛の障碍とならざらんほどの事をば値遇結緣すべきなり」「よりこん」は「寄り來ん」か「依り來る」で(私は後者を採る)、「値遇」は縁あって仏縁ある対象にめぐり逢うことであるから「結緣」とは同義的。

――依って来たるところの善い行いを成す機縁で、念仏申すことの妨げとならない程度のことである場合は、それは仏・菩薩が世の人を救うために手を差し伸べて縁を結ばんとするのであるから、善きまことの機縁として作善しても構わない――

の意。

「きらへばとて、いまいましき事の樣にはおもふべからず」直前の部分を受けて、

――だから、作善は悪しき自力の穢れであると断じて、忌み嫌い、避けて慎むべきものであると殊更に思うようなことがあってはならぬ――

の意。

「行ずべければとて、念佛のいとまを入るべからず」そうした作善の許容を受けながらも、最後には、

――だからと言って『何かやるべき、やらねばならぬ「善行」があるから』と称して、念仏を修することを、それらの行為のために費やすということは、決してあってはならないことである――

と言うのである。私は最後の一文のみが法然や乗願の眼目であると信じたい(が、残念ながら乗願にとってはそうではなかった。次の「一四一」参照)。実際には『何かやるべき、やらねばならぬ「善行」』などというものは――ない――のである。さればこそ、「標註」群はおぞましい。これらの注はあってはならぬ注であると私は確信するものである。
 

 私のラフな推論をここで述べておきたい。相対世界に於いてしか定立し得ない善悪の二元論という矛盾を、メタな論理によって超克しようとした人物が、かつて、いた。それが伝教大師最澄であり、その論駁こそが「末法燈明記」に他ならなかったのだ。また一方、宗派としてその論理矛盾を個の悟りへと投企(捨象)することによって、超論理的解決を求めようとしたのが禅であった。しかし、それらの論理矛盾を認知していた法然は、一切衆生の救済という浄土教の核心によって、それを相対世界の無効化によって、一挙に解消しようと試みたのではなかったか? ところが、相対的なものでしかない善を否定することは、仏教の「布教」という側面では頗る都合が悪い。さればこそ、さもしい「善」を全否定することが出来なかったのである。それが例えば本条に現われるような、一見、作善を肯定する謂いとなって現われ出でた。しかし、しかもそれを「個」の問題として、どうしても突き詰めなければならなかった一人の男が、彼の弟子の中に、いた。それこそが親鸞であった。彼は自らを救い難い凡夫の中でも、さらに救い難い破戒の存在であると自覚することによって、しかもそうした自己存在をも救うものこそが、弥陀の絶対の慈悲としての本願であるという、極北に辿り着いたのである(だからこそ彼は「教行信証」の中で「末法燈明記」を延々と引用したのである)。しかしながら、それは親鸞個人の内的な叫びであって、結局、真宗教団という集団の組織化のためには、遂に個の叫びとして封印されざるを得なかったのである。所詮、衆生という存在を組織体として認めるためには、哀しい絶対の孤独な叫びとしてしか、それを吠えることは、結果、出来なかったのである、と私は思うのである。――相対的善悪の中に在ることは煩悩でありながらも、実に「そのように在る」ことが安穏であることを――知っていた。――絶対の真理という認識こそが――実は現世に於いては「見かけの絶対の孤独な無明」の中にあるのと同義にしか見えぬ――ということを――『最澄や法然や親鸞は知っていた』のだ――と私は思うのである。……これはそれこそあらゆる批判を受ける破戒の言説(ディスクール)であろう。……しかし私は確かにそう思うのである。

一言芳談 一三九

   一三九

 

 顕眞座主(けんしんざす)云、轆轤(ろくろ)かまへたることぞ。

 

○轆轤かまへたることぞ、佛願の重罪を接したまふことは大木を引くに轆轤をかまへたらんがごとし。繪詞傳第十九に物語あり。

 

[やぶちゃん注:「顕眞座主」(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)は天台僧。号は宣陽房、父は美作守右衛門権佐(うえもんのごのすけ)藤原顕能(あきよし)。母は参議藤原為隆の娘。比叡山で天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲、浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされる(参加者については異説あり)。翌文治三(一一八七)年には勝林院で不断念仏を始めている。建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任、最勝会(金光明最勝王経を講じて国家の安泰を祈願する勅会)の証義も勤めさせられ、権僧正の位に昇った(以上は主にウィキ顕真に拠った)。

「轆轤かまへたることぞ」Ⅱの大橋氏の訳はこの主語を「阿弥陀仏の本願は、」と補って訳しておられる。

「轆轤」重い物の上げ下ろしに用いる滑車。

「佛願の重罪を接したまふこと」私が馬鹿なのかこの部分、意味が分からない。識者の御教授を得たい。是非、お願いする。

「繪詞傳」「法然上人行状絵図」のこと。個人ブログ「いとーの部屋」のにあるのがそれか?(正字化して引用させて戴いた)

上人かたりての給はく。淨土の法門を學する住山者ありき。示云。われすでに此教の大旨を得たり。しかれども信心いまだおこらず、いかにしてか信心おこすべきとなげきあはせしにつきて、三寶に祈請すべきよし教訓をくはへて侍しかば、かの僧はるかに程へてきたりていはく。御をしへにしたがひて祈請をいたし侍しあひだ、あるとき東大寺に詣たりしに、おりふし棟木をあぐる日にて、おびたゞしき大物の材木ども、いかにしてひきあぐべしともおぼえぬを轆轤をかまへてこれをあぐるに、大木おめおめと中にまきあげられてとぶがごとし。あなふしぎと見る程に、おもふ所におとしすへにき。これを見て良匠のはかりごとなをかくのごとし。いかにいはんや彌陀如來の善巧方便をやとおもひしおりに、疑網たち所にたえて信心決定せり。これしかしながら、日頃祈請のしるしなりとかたりき。其後兩三年をへてなん。種々の靈瑞を現じて往生をとげける。受教と發心とは各別なるゆへに、習學するには發心せざれども、境界の緣を見て信心をおこしけるなり。人なみなみに、淨土の法門をきき念佛の行をたつとも、信心いまだおこらざらん人は、たゞねんごろに心をかけてつねに思惟し、また三寶にいのり申べきなりとぞ仰られける。]

一言芳談 一三八

   一三八

 

 敬日房(きやうにちばう)云、かまへて、念佛に氣味おぼえよ。

 

○氣味おぼえよ、わが念佛のこゑ耳に入りて、信をもよほし、罪を滅し、妄念をはらふ。そのほかあまたの德あり。西要抄(さいえうせう)にも念佛の氣味知りたる人はいとまれなりとあり。

 

[やぶちゃん注:「敬日房」既出。読みなども含め、「八十一」の私の注を参照のこと。

「かまへて」副詞で「心を配って、必ず」の謂い。心して。

「氣味」この場合は、香りと味や物事の趣、味わい、の謂いで、念佛の醍醐味の謂いである。

「西要抄」既出。読みなども含め、「一一七」の私の注を参照のこと。]

一言芳談 一三七

   一三七

 

 ある人云、眞實に往生せんと思はば、人をもかへりみず、物にもいろはずして、ただ念佛すべし。利生(りしやう)は還來穢國(げんらいゑこく)を期(ご)すべし。

 

○人をもかへりみず、他を教化(けうげ)せんとも思はず。

○物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず。

○還來穢國、善導の御釋(おんしやく)に、還來穢國度人天(げんらいゑこくどにんてん)とあり。極樂より立歸りて衆生を利益(りやく)する義なり。

 

[やぶちゃん注:――仏法や利生などを云々するのは、これ、お前が極楽に一度行って、そして戻ってからにせよ――実に実に、いい台詞である。

「いろはずして」「いろふ」は「綺ふ・弄ふ」などと書き、①関わり合う。関与する。②口出しする。干渉する。③言い争う。さからう、といった意味を持つ。ここは①でよい。

「利生」「利益衆生(りやくしゅじょう)」の略。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「還來穢國」、中国南北朝期の僧で中国浄土教の開祖とされる曇(四七六年?~五四二年?)が「浄土論註」巻下で説いた往還回向の内の還相回向のこと。「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者を、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを指す。「往生浄土の相状」の略である往相回向が、自分の善行功徳を他の者に廻らしつつ、他の者の功徳として、共に浄土に往生しようとの願い、即ち、一切衆生がともに極楽往生しようとする願いという極楽への普通のベクトルに対する逆ベクトル、極楽往生して仏となった者が再び衆生を済度するためにこの穢土に帰還することを指す。

「物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず」この標註、ぶっ飛んでいて、実によい。

「善導」(六一三年~六八一年)は唐代の僧で浄土教の大成者。

「御釋」善導の「法事讚」巻下の冒頭の「転経分」の第一段末尾に、

 下、高に接ぎて讚じていへ。

 願はくは往生せん、願はくは往生せん。佛と聲聞・菩薩衆、同じく舍衞に遊び祇園に住し、三塗を閉ぢ六道を絶たんと願じて、無生淨土の門を開顯したまふ。人天大衆みな來集して、尊顏を瞻仰して未聞を聽く。佛を見たてまつり、經を聞きて同じく悟を得、畢命に心を傾けて寶蓮に入る。誓ひて彌陀の安養界に到り、穢國に還來して人天を度せん。願はくは、わが慈悲際限なくして、長時長劫に慈恩を報ぜん。衆等、心を囘して淨土に生ぜんとして、手に香華を執りてつねに供養したてまつれ。

とある(ウィキ・アーカイブ法事讃のものを正字化して示した)。]

一言芳談 一三六

   一三六

 

 行仙房云、あひかまへて、ひじるべきなり。往生のさはりの中に、貪愛(とんあい)にすぎたるはなし。衆惡(しゆあく)のさはり、色貪(しきとん)をさきとす云々。

 

〇ひじるべしとは塵俗を出でよとなり。

〇貪愛、財色の二に通ず。

 淨心誠觀云、夫欲修道於三業中、先斷財色二種。若不貪財、即無諂諍、若不貪色、即無熱腦。

 

[やぶちゃん注:聖たる聖者が言わずもがなにこれを言わねばならなかったのは、その欲に縛られない聖者は、行仙房を含め、頗る少なかったからだと言える。Ⅰでは――まさにこの条が「用心」の章の最後――即ち「標註一言芳談抄」の掉尾にあるのである。……

「行仙房」「五十三」「五十五」「一一四」に既出。平清盛の異母弟で平家滅亡後も生き延びた平頼盛の孫とされる。

「貪愛」「色貪」Ⅰはともに「どんあい」「しきどん」と濁音。Ⅱ・Ⅲを採った。「とんない」とも読む。対象に執着し、むさぼり愛着する心。貪欲。怒りの心たる「瞋(しん)」と真理に対して無知である心を謂う「癡(痴)」の三大煩悩たる三毒の一つ。行仙房は往生の最大の妨げとなるものをこの「貪」(物欲・色欲)であるとしているが、仏教では諸悪の根源として一般には「癡」を挙げている。「色」について述べるにはまず五下分結(ごげぶんけつ)・五上分結(ごじょうぶんけつ)を示す必要がある。一切衆生が生成死滅を繰り返す三界(さんがい:欲界・色界・無色界。)に衆生を結びつけようとする束縛、即ち煩悩の異名をかく言い、五下分結と五上分結を合わせて十結(じゅっけつ)という。これをメタにしたものが三毒ということになろうか。

五下分結は、我々の在る欲界に我々を束縛している欲たる煩悩を指し、

①身見(しんけん:自己存在が不変に存在すると錯覚すること。)

②疑惑(ぎわく:釈迦に対して疑義を抱くこと。)

③戒取(かいしゅ:対象に捉われること。拘り。)

④欲貪(どんよく:貪ること。)

⑤瞋恚(しんに:怒り。)

である。以下が五上分結で、こちらは欲界を越えた上級ステージである色界・無色界に至った者をも拘束する欲たる煩悩を指す。

⑥色貪(しきとん:色界(三界の一。欲界の上で無色界の下にある世界。欲界のように欲や煩悩はないが、無色界ほどには物質や肉体の束縛から脱却していない世界。色界天。色天。四禅を修めた者の生まれる天界とされ、初禅天から第四禅天の四禅天よりなり、さらに一七天に分ける)への執着。

⑦無色貪(むしきとん:無色界(三界の一。色界の上にあり、肉体・物質から離脱し、心の働きである受・想・行・識の四蘊(しうん)のみからなる世界。さらに四天に分けられ、その最上の非想非非想天を有頂天ともいう)への執着。

⑧掉挙(じょうこ:心の昂揚。)

⑨我慢(がまん:慢心。)

⑩無明(むみょう:最後の最後まで僅かに残るところの無明の闇。微妙曖昧模糊たる無知。)

本文で言う、「貪愛」「色貪」はともに⑥に相当し、まさに完全には物質や肉体の束縛から脱却していないために生ずる微妙なる対象への物欲・色欲の執着を指している。なお、十結をすべて断滅させて初めて聖者・聖と呼ばれる(以上の五下分結と五上分結については、主にブログ「ブッダへ至る道」の五下分結と五上分結[仏教の基礎知識(7)]等の記載を参考にさせて頂いた)。

「ひじる」聖る。名詞「ひじり(聖)」の動詞化。戒律を厳しく守る。

「淨心誠觀云……」以下、Ⅰの訓点やⅡの大橋氏の注にある書き下し文を参考に書き下す。

 「淨心誠觀」に云はく、「夫(そ)れ、道を三業(さんごふ)の中に修せんと欲せば、先づ財色二種を斷て。若(も)し財を貪らざれば、即ち、諂諍(てんじやう)、無し。若し色を貪らざれば、即ち、熱腦(ねつなう)、無し。

・「淨心誠觀」「浄心誡観法」唐代の南山律宗の開祖道宣(五九六年~六六七年)の書。

・「三業」身業・口業(くごう)・意業。身・口・心による種々の行為。

・「諂諍」へつらいやおもねりと、いさかいや争い。

・「熱腦」熱悩。激しい心の苦悩、身を焼くような心の苦悩。]

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