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カテゴリー「十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編」の39件の記事

2013/03/16

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 戸塚 /(掉尾) 「金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻」全篇終了

本記載を以って「金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻」の全篇の注釈附き電子テクスト化を終了した。



   戸塚

 

 去年(きよねん)の『金草鞋(かねのわらじ)』、伊豆の國の一見よりひきつゞき、箱根の七湯(なゝゆ)廻(めぐ)りから、江の島鎌倉をまはり、ながながの道中つゝがなく、心をなぐさめ、命の洗濯(せんたく)して、これから長生(ながいき)する種をまき、めでたく江戸へ歸(かへ)り道、今宵(こよひ)は戸塚の宿(しゆく)の中村屋にとまり、もはや、明日(あす)は江戸入(い)り。旅の名殘なれば、互ひにその身の無事をよろこび、酒くみかはして、めでたく、この紀行(きかう)の筆をとめけるぞ、またまた、めでたし、めでたし。

〽狂 達者(たつしや)にて

     りゝしく

 かへるあしもとは

これあつらへの

  紺(こん)のたびなれ

「女どもが、ひさしい願ひで、箱根の道中から戻りに、江の島鎌倉を見たいといつたが、これで、なにも言分(いひぶん)はあるまい。その代はり、誰(たれ)でも、これからは、儂(わし)がいふことを、なんでもきかねばならぬが、承知であらうの。」

「あいあい、それはもふ、あなたの方(ほう)からおつしやらぬ先(さき)に、妾(わたし)どもの方からもちかけませう。その代はりには、來年、また、伊勢參宮から大和廻(めぐ)りがいたしたうござりますから、つれていつてくださりませ。」

「それはこの『金草鞋』に伊勢參宮はあつたが、まだ、大和廻りや播州(ばんしう)廻りはない。それに、西國(さいこく)も長崎まで大阪から船路(ふなぢ)はあつたが、陸路(りくみち)がないから、おいおいに、かくであらう。」

「だんなの女子(おなご)は、申しつけておきました。」

 

[やぶちゃん注:「一見」漢字表記。「いつけん」と読ませているのであろう。

「中村屋」鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の脚注に、「金草鞋二編東海道」にも出てくる旅籠屋とする。最後にはやっぱりタイアップ広告であったか。]

 

 

 

   (掉尾)

 

年々(としどし)、あいもかはらぬ『金草鞋(かねのわらじ)』、幸ひに御評判(へうばん)をゑて、版元の、よく辛抱(しんぼう)、その喜び、すくなからず。今年、廿四編にいたる。なにとぞ、あいかはらず、御評判、よろしくねがひあげたてまつるにこそ。

 

おさまれぬ

  御代(みよ)とてかねの

          わらじまで

  長刀なりに

    きれぬめでたさ

 

[やぶちゃん注:最後の狂歌は、作家仲間でもあった山東京伝などが受けた寛政の改革での手鎖処罰出版差し止め辺りを皮肉ったものであろう。]

2013/03/15

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 離山

   離山

 

 鎌倉の名所古跡一見すみて、それより歸り道は、東海道(とうかいどう)の戸塚(とつか)の宿(しゆく)にいたるに、鎌倉より二里なり。鎌倉をいでゝ離山(はなれやま)といふ立場(たてば)あり。これより戸塚へ一里。

〽狂 旅笠の

ちらちらしろく

 木のまより

見ゆるは

 春(はる)の

  はなれ

   山みち

「はいはい、それ、あぶない、馬(むま)だ、馬だ、のつているおいらも、やつぱり馬だから、傍(かた)よれ、傍よれ。」

「イヤ、このお侍(さふらひ)さまは、『のつてゐる俺(おれ)も馬(むま)だ』といひなさつたが、あのお人は馬、儂(わし)は狸(たぬき)だ。なぜといふに、儂は金玉(きんたま)が大きいものだから、儂の渾名(あだな)を『狸』といふことを、この前、お地頭(ぢとう)さまがおきゝなされて、殿さまが私(わたし)をめされて、

『これ、これ、その方(ほう)は「狸」そうな、腹鼓(はらつづみ)をうて。』

とおつしやるから、いやともいはれず、仕方なしに腹をあけて、たゝいてお目にかけたら、

『さても、よくなる腹だ。その腹がほしい。俺にくれろ。』

とおつしやるから、

『これはあげられませぬ。私の體(からだ)へ造り附けにいたしてござりますから、はなされませぬ。』

といふと、

『いやいや、はなしてとらうとはいはぬ、俺がもらつて、その方へあづけておくが、それが承知なら、もはや、その方の腹ではないぞ、侍といふ者は、いつ何時(なんどき)、どのやうなことがあるまいものでもないから、腹も掛け替(が)へがなくてはならぬ。その掛け替への腹にするのだ。』

とおつしゃるから、

――こいつ、小氣味のわるいこと……

と思ひながら、御扶持(ごふち)をくださることだから、おうけ申しておきましたが、此節(せつ)きけば、お地頭さまに、なにか、間違ひがあつたといふこと。

『さあ、しまつた、掛け替えへの腹をきられてはたまらぬ。』

と、儂はそのまゝ、驅落(かけおち)して、このやうに當(あ)て無(な)しの旅へでかけました。後(あと)では大方(かた)、腹がなくなつたとて、儂は出臍(でべそ)でござるから、出臍を證據(しやうこ)に、腹の詮議(せんぎ)がきびしからうとおもひますから、めつたに臍をだしてはあるかれませぬ。」

[やぶちゃん注:狂歌は惜春の情を詠んでなかなかに風雅であると私は思う。既に掉尾に近く、そうした別れへの一九の思いも込められているのやも知れぬ。

「離山」鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の脚注には、『現在の大船駅東、松竹撮影所の辺にあった三つの丘(地蔵山、長山、腰山)の総称、一面のたんぼの中にあったので、戸塚から鎌倉へめざす旅人の目印であった。都市化した現在は、その面影はない』と、沢寿郎「つれづれの鎌倉」(一九七六年かまくら春秋社刊行)より引用されている。三つの山の名称は「新編相模国風土記稿」によるものであろう。松竹撮影所は消滅して記載が古くなってしまっているため、言い換えると、現在の鎌倉女子大学から鎌倉芸術館、更に大船中央病院及びその南西にある三菱電機を含む、大船五丁目から六丁目にかけてかつて存在した山で、今は五丁目の端にバス停の名として知られる程度である(昔からの住人であった私などには如何にも懐かしい響きの地名であるが、私が物心ついた頃でさえ、赤さびた貯蔵タンクだけが「離山」のイメージであった(そのタンクももうない)。鎌倉一」に、

離(ハナレ)山 山の内を西へ行て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄に當て獨立する童山、凡高さ三丈許、東西へ長き三十間餘、實にはなれ出たる山ゆへ名附、往來より二町を隔つ。享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取て駿州勢を待かけ防ぎ戰けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍て成氏朝臣新手二百餘差向たれど敵雲霞の如く押來れば終に打負、成氏朝臣を初とし、皆武州府中をさして落行と、【大草紙】に見へたるは此時なり。夫より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖此離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘のさまたげあれとも鍬鋤などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚有事を聞。されば、此山こそは上古の世の塋域に封築せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する伊所はいつくにも有て、大ひなる塚の有ものなり。爰の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村に、今も古塚の大ひなる數多あり。二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒をゆひ、一階低き所にて祭奠を行ふやうに造れるものなりといふ。偖また此塚山は何人の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有て、國分寺の舊礎も田圃の間に双び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有べし。是なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其慥成證跡はしらねど、後の考へにしるせり。

とある。当該項には絵図もあり、更に、私の「離山」についてのオリジナルな考証をもしているので、是非、参照されたい。]

2013/03/13

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 最明寺舊跡 亀の井

   最明寺舊跡 亀の井

 

 最明寺(さいめうじ)の舊跡は、山の内にあり。福源山禪興寺(ふくげんざんぜんこうじ)といふ關東禪院十刹(さつ)のその一なり。本願は、平時賴にて、昔は七堂伽藍大寺(てら)なりしといふ。明月院は最明寺の東にあり。上杉憲方(のりかた)の建立也。亀の井は、明月院の後ろにあり。鎌倉十井のその一つなり。

〽狂 せんしうの

 めいげつ

  いんの

 うしろには

これ

 ばん

  ぜいのかめの

    井もあり

「なんと、上(かみ)さん、こゝは田舍でも江戸がちかいから、よい男もおりおりは見なさるであらうが、私(わたし)のやうな色男はめつたにはあるまいの。」

「とんだことをいひなさる。なに、お前がよい男なものか。昨日(きのふ)も妾(わたし)の裏の掃溜(はきだめ)を掃除(そうぢ)したら、お前のやうな男が幾らも、ぞろぞろと出てうるさいから、皆、一つにかためて、川へながしてしまひました。お前も、そこにいつまでもゐなさると、川へながしてしまひますぞ。」

「そんなら、よもや、私独りをながす氣ではあるまい。お前、一緒にながされる氣か。どうだ。」

「妾(わたし)ではない。お前と一緒にながす物があります。私の所のしんだ婆(ばあ)さまが、ひさしく腰拔けでいましたが、その時つくった御厠(おかは)があるから、お前と、その御厠と一緒にながします。」

「さては。その『おかは』といふ女は、よい女か。何處(どこ)の者だ。なんにしろ、女ときいては、なんでも、かまはぬ。しからば、その『おかは』と我らが二人、その川へ浮き名をながすのか、これは、うれしい、うれしい。」

「やれやれ、この團子(だんご)には消炭(けしずみ)の火がくつついて、口の端を大きに火傷(やけど)をした。」

「あつやの。あつやの。」

「上さん、この邊に後家の質屋(しちや)はあるまいかの。どうぞ、儂(わし)を質にとつてもらいたい。利(り)もくふが、飯(めい)も大喰(ぐら)ひだ。」

「團子でもあがりませぬか。妾(わたし)が、この垢だらけな手でまるめたのでござります。」

 

[やぶちゃん注:「最明寺舊跡」本文にある通り、当時は禪興寺となっていた。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって住持がいた形跡がなく、時頼の死後、すぐに廃絶してしまったと考えられている。但し、その比定位置は現在は、ここに記されたような、また従来説の名月谷奥の狭い範囲ではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺である。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した新編鎌倉志三」には、『昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり』という状態で、明治初期に廃絶して、塔頭であった明月院のみが残った。

「上杉憲方」「長壽寺 明月院」に既注。

「亀の井」「亀」は原本絵図上の標題の表記。但し、「甕の井」が正しい。知られた十井の呼称では「瓶(つるべ)の井」の方が人口に膾炙している。現在の明月院境内にあり、岩盤を垂直に掘り抜いて作られたものみられるが、掘削時期は江戸期と推定されている。特に伝承は伝わらないが、鎌倉十井の中でも現在でも使用出来る数少ない井戸の一つである。

「御厠」簡易便器である「おまる」のこと。この少し抜けたチャラ男、女中のきっぷのいい尻まくりの剛毅なやり返しに対し、「おかは」を「お川」と言った女性名と聞き違えて、なおも文字通り、糞をまるような洒落でチャラチャラしまくるところが、なかなか面白いではないか。

「あついの、あついの」の台詞は、右の絵の犬の前にある。火傷をしたとぼやくボケが縁台の団子を持った男であろうから、この台詞は、犬の鳴き声をオノマトペイアしているように私は感ずる。]

2013/03/12

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 巨福山興國建長寺

   巨福山興國建長寺

 巨福山興國建長寺(こふくざんけんてうじ)は、鎌倉五山の一番目なり。本尊は濟田(さいだ)地藏尊なり。應行(おうぎやう)の作。古へは、この處(ところ)を地獄谷(ぢごくだに)とて、科人(とがにん)を刑罰(けいばつ)せしところなり。時賴の時、科人濟田といふもの、つねに地藏菩薩を信仰しけるが、きられんとせし時、守(まも)りにかけたる地藏の利生(りせう)ありて、たすかりたり。この地藏を本尊として、この寺、建立ありしなり。いたつて大寺(だいぢ)にて、境内、見所(どころ)おほし。
〽狂 くさなぎの
    けんてうじとや
 けいだいを
はらいきよめて
  ちりひとつなし
「世間の譬(たとへ)にも、きれいにはきちぎつたことを、『建長寺の樣(やう)だ』といひますが、それにひきかへて、私(わたし)の家(うち)の嬶(かゝあ)めが爺(ぢ)ぢむさいには、こまります。なんでもいきなりで、ついにお齒黑(はぐろ)をつけたこともない口から、鼠色(ねづみいろ)の涎(よだれ)をたらして、どこもかしこも、不掃除(ふそうぢ)できたないから、ときどき、儂(わし)が掃除してやりますが、こんなにひさしく旅へ出てゐるから、掃除してやる人がなくて、さぞかし、よごれてゐるであらう。はやくかへつて、掃除をしてやらうと思へば、それが樂しみでござります。」
「イヤ、お前こそさふ思つてゐなさらうが、お前の留守に、上(かみ)さまが、だれぞ、よい箒(ほうき)をこしらへて、掃除をしてもらはふもしれぬぞへ。」
「さやう、さやう、それもしれませぬ。『物臭者(ものぐさもの)の節句働(せつくばたら)き』といふことがあるから、そんな事のないうちに、私は、この節句前には、ぜひ、かへらうとぞんじます。」

[やぶちゃん注:「巨福山興國建長寺」の正式名は建長興国禅寺である。
「濟田地藏尊」「杉个谷 小袋坂」で既注。
「はきちぎつた」この「ちぎる」は動詞ラ行四段活用の動詞を造る接尾語で、他の動詞の連用形に付き、その意を強め、はなはだしく~する、盛んに~する、という意を表す。徹底的に掃き切った。
「建長寺の樣だ」事実、掃除の行き届いている様子を故事成句で「建長寺の庭を竹箒で掃いたようだ」と言う。開山蘭渓道隆は本寺を本邦初の純粋禅の道場とするため、宋の厳格な禅風をそのままに持ち込んでこのかた、境内は塵一つなく掃き清められてきたことに基づく成句。
「物臭者の節句働き」怠け者の節句働き。ふだん怠けている者が、世間の人が休む日に限って働くことを揶揄した成句。]

2013/03/11

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 丸山稻荷 新宮六木杉

   丸山稻荷 新宮六木杉

 

十二院は鶴が岡の西の方(かた)にあり。社僧(しやそう)なり。古へは二十五院ありしとなり。この内(うち)、莊嚴院(しやうごんいん)の後ろの山を狻踞峯(さんきよほう)といふ。山亭(さんてい)あり、この處(ところ)より見わたし、風景、いたつてよし。この邊りに丸山稻荷の宮(みや)あり。これも景致(けいち)なり。

〽狂 みな人へ

りせうを

 てらし玉ふ

     とて

月のまる山

 いなり

  たうとき

「儂(わし)は腹がへつてこたへられぬが、晝食(ちうじき)の握り飯を、さつき、何處(どこ)へかおとしてしまつた。ひもじくてならぬ。なんと、貴樣の握り飯を俺(おれ)に一つ、くれぬか。なに、もふ、皆、くつてしまつてない、といふか、噓(うそ)をつくの、貴樣は、しわい男だ。まだあることを俺がしつてゐるから、いふのだ。いよいよ、ないか。なくば、仕方がないから、俺がかくしてあるのを出してくひませう。人の腹のへつたのはこらへられるものだが、わが腹のへつたのは、どうも、こらへられぬ。」

新宮(しんぐう)の社(やしろ)は、坊中(ぼうちう)、我覺院(がゝくいん)の社より左の方(かた)へ二丁ばかりにあり、今宮(いまみや)といふ。社の後ろは谷ふかく、一本のふるき杉(すぎ)あり。大木(ぼく)にして根元(ねもと)より六本(ほん)にわかれ、そのたかきこと、十餘丈、径(わたり)三尺の老木(らうぼく)なり。

〽狂 見とれては

 うてうてんぐの

すみかともしらずに

 杉(すぎ)の古木(こぼく)なが

               むる

「この六本杉には、天狗(てんぐ)がすんでゐるときいたが、なるほど、見なさい、あれあれ、天狗の雛(ひよこ)が見へる。しかし、鳶(とんび)かしらぬ。天狗にしては鼻がひくいやうだ。」

「それはまだ、子どもだからのことさ。だんだん、成人(せいじん)するにしたがつて、あの鼻も大きくなるであらう。てうど、儂が鼻も、始めは唐辛子(とうがらし)の樣(やう)であつたが、だんだんとそれが、薩摩芋(さつまいも)の樣になつて、後(のち)には練馬(ねりま)大根(こん)のやうになつたが、今では、また、皺(しわ)がよつて、干(ほし)大根の樣になつたからはじまらない。」

[やぶちゃん注:「丸山稻荷」は鶴岡八幡宮境内の末社。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。現在の本殿西側の小さな丘の上に鎮座する。社伝によれば、建久二(一一九一)年の本宮造営の際に、現在の本宮の敷地内にあったものを、場所を譲って現在地に遷ったもので、古来からの地主神であるとする。本宮は山腹をかなり大きく切り崩して創建されたものであるが、この丘はこの地主神の神座(かみくら)として残ったものと思われる(以上は白井永二編「鎌倉事典」の「丸山稲荷社」の項を参考にした)。

「新宮六本杉」は「しんぐうろくほんすぎ」と読みを振る。この杉は現存しない。「新宮」は鶴岡八幡宮後方の雪下東谷にある境内外末社の今宮のことで、祭神は後鳥羽・土御門・順徳の三天皇。当初は承久三(一二二一)年の承久の乱で隠岐に流されて配流のまま没した後鳥羽院の怨霊を鎮めるために宝治元(一二四七)年に創建されたもの。「今宮」という名称には「新しい宮」という意味があることから「新宮」とも称した。室町時代にかけて別当職が置かれ、神領を有していた。この社の後ろにかつて一つの根から六本に分かれた六本杉と呼ばれた大木があったが、本笑話にも出る通り(本話は珍しく笑談の中で名所が巧みに解説されている)、この六本杉には天狗が住みついていたと言い伝えられていた(以上も白井永二編「鎌倉事典」の「今宮」の項を参考にした)。

「十二院」「古へは二十五院」雪ノ下に鎌倉時代から江戸時代まで存在した寺院、鶴岡二十五坊のこと。治承四(一一八〇)年十二月四日に鎌倉入りしたばかりの頼朝が僧定兼阿闍梨を上総国より召して最初の鶴岡供僧職に任じたのを濫觴とし、二十五坊が揃ったのは建久八(一一九七)年頃と推定されている。その後、室町になって鎌倉公方足利持氏が没した永享一一(一四三九)年頃より衰退し始め、成氏が古河へ去った後にいよいよ衰微し、天文初年(一五七三年)頃には七ヶ院にまで減じた。以下に二十五院を示すが、その内で頭に「〇」を附したものが、徳川家康によって文禄年間(一五九二年~一五九六年)に徳川家康が五坊を再興して十二坊となった。これが明治初年の廃仏毀釈まで存続した十二院である。

〇善松坊(香象院)・〇林東坊(荘厳院)・〇仏乗坊(浄国院)・〇安楽坊(安楽院)・ 座心坊(朝宝院)・〇千南坊(正覚院)・〇文恵坊(恵光院)・〇頓覚坊(相承院)・〇密乗坊(我覚院)・〇静慮坊(最勝院)・〇南禅坊(等覚院)・永乗坊(普賢院)・悉覚坊(如是院)・智覚坊(花薗院)・円乗坊(宝瓶院)・永厳坊(紹隆院)・実円坊(金勝院)・〇宝蔵坊(海光院)・南蔵坊(吉祥院)・慈月坊(慈薗院)・蓮華坊(蓮華院)・〇寂静坊(増福院)・華光坊(大通院)・真智坊(宝光院)・乗蓮坊(如意院)

鶴岡二十五坊については新編鎌倉志一」の「鶴岡八幡宮」の最後の方の十二箇院についての私の注で詳述してあるので参照されたい。また、廃仏毀釈時の様子などはウィキの「鶴岡二十五坊がよく解説しているのでお読み頂きたい。

「莊嚴院」林東坊。これは最も東谷の最も奥まった位置にあった。新編鎌倉志一」の私の注にあるs_minaga 氏の「相模鶴岡八幡宮大塔」から拝借した「鎌倉八幡宮社僧十二院図」と同氏の航空写真による幾つかの院の同定画像を参照されたい。

「狻踞峯」位置は何となくわかるが、現在、この呼称は失われているように思われる。ここが相応の観光地であったことが分かるが、まさに廃仏毀釈によって、今や全くの夢の跡となってしまったのであった。

「景致」「致」は趣きの意で、景色の有り様、山水風物の趣き(のよい)こと。景勝地。

「りせう」利生。「衆生利益(しゅじょうりやく)」の意。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「十餘丈」三十メートルを遙かに越える高さ。]

2013/03/09

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 杉个谷 小袋坂

   杉个谷 小袋坂

 

管領(くわんれい)の屋敷跡、今は田畑(でんはた)となり、その形(かたち)のこれり。杉が谷(やつ)辨財天の宮(みや)、その東にあり。こゝに俳諧師梅翁(ばいおう)の碑(ひ)あり。この邊の山の内小袋坂(こぶくろざか)の上なり。伽羅陀山(からだせん)といふは小袋坂にあり。

〽狂 ゑんめいの小ぶくろざかはかま

                 くらへ

 たから入こむめい所けんぶつ

旅人

「儂(わし)は昨日(きのふ)、どうした事か、にはかに鹽梅(あんばい)がわるくなつて、どうもあるかれませぬから、商人(あきんど)の見せ先(さき)をかりてやすんでゐたが、しきりに氣がとほくなって目をまはしましたが、なにか、ひいやりと咽喉(のど)へとほつたとおぼへて、氣がついて見ましたら、私(わたし)の傍(そば)に、うつくしい神(かみ)さまがいて、

『さてはお前、氣がつきましたか、いろいろしても、いかぬゆへ、これはいとしいこと、どふぞ、正氣にしてあげたいと、水をひとつ、妾(わたし)がふくんで、お前を妾の膝の上へだきあげて、口移しに水をあげましたら、お氣がつきました。』

といふから、その神さまを見るに、色が雪のやうにしろくて、目附きがよくて、口元がかはゆらしく、にこにことわらふ、その愛嬌(あいけう)の良さ、儂は首筋元(くびすじもと)からぞつとして、

『さてもさても、このやうな辨天さまのやうな、うつくしい女中(ちう)の口から、儂がこの、入齒(いれば)をした口へ口移しとは、ありがたい、もつたいない。』

と、あんまりうれしく、有頂天(うてうてん)になつて、とりのぼせ、また、目をひきつけましたら、今度は、

『口移しでもゆくまい、灸(きう)をすへるがよい。』

とて、袋艾(ふくろもぐさ)を一包(ひとつゝみ)、腹へすへられまして、氣はつきましたが、これ、御らうじませ、その灸の跡が、このとほりにくづれて、もうもう、ひりひりといたみまして、昨夜(ゆふべ)もよつぴて、ふせりませぬ。誰(たれ)でも、あるくとお前方(がた)も、この上、ひよつと、どういふことで、あそこの門(かど)先で目をまはすまいものでもないから、その時、灸はすへてくださるなと、先(さき)へことわつておいてから、目をまわしなさるがいゝ。儂は、とんだ目にあいました。」

[やぶちゃん注:笑談の部分は、何だか妙な話である。売春絡みの何か隠喩が隠れているようにも感じられるが、よく分からない。識者の御教授を乞う。

「杉个谷」は「すぎがやつ」と読みを振る。

「管領の屋敷跡」これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、

管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。

とある。「上杉民部の大輔憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。「上州平井」現在の群馬県藤岡市平井にあった山内上杉氏の本城。この城下町は高崎市山名根古谷地区まで及び、『関東の都』と呼ばれて繁栄した。

「杉が谷(やつ)辨財天の宮」現存しない。これについては、今回のテクスト化で非常にお世話になっている鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の鶴岡節雄氏の解題「名所記とそのカルチュア」の「名所・そのカルチュア」にある「そのⅠ 杉之谷弁財天」に、詳細な考証が記されてある。かなり長いものであるが、鶴岡氏も述べておられる通り、この名所は現在、ほぼ完全に忘れ去られたものであり、現行の鎌倉地誌や案内記にも記載が殆んどない(私もこれを読むまで、その全くと言ってよいほどに知らなかった。但し、引用に表われる蘭渓道隆の童子の逸話の原話は比較的人口に膾炙するものではある)。さすれば、鶴岡氏のこの記載は貴重な探査と記録であり、是非とも広く知られるべき内容であると確信し、全文を引用する(踊り字「〱」は正字化し、写真のページを示すアラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。但し、当該写真はや「さきにもあげた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記」などは底本をご購入の上、実見されたい。私の引用は著作権の侵害を意図するものではないが故に)。

   《引用開始》

本書「箱根鎌倉」編の「杉が谷」は、最近の鎌倉案内(ガイド・絵図)はもとより、『鎌倉の廃寺』というような専門的な研究書などにも、ほとんど見かけられない。しかし、鎌倉の古絵図(前述のうち『鎌倉絵図』『鎌倉勝概図』『鎌倉一覧図』など)には、本書記述の位置(山の内、管領屋敷の東)に、明らかに「杉ケ谷弁財天」、または「杉谷弁天」としるされている。現地の方がたにもお聞きしたが、容易にその所在を知ることができなかった。

 再三、鎌倉にを運んだ結果、はからずも建長寺塔頭龍峯院の門前、石階の傍らに立つ「杉之谷弁財尊天」の碑(八十一頁の写真)に、バッタリと出会うことができた。碑陰には「元禄十四巳年九月吉旦之内講中」とあった。龍峯院の峰藤耕雨師にお聞きしたところ、この碑の右手台上に堂があったが、大正十二年の大地震で崩壊、本尊は現在建長寺(龍王殿右側)に移されているとのことであった。峰藤さんの紹介で、その後、建長寺資料を保管している鎌倉国宝館の三浦勝男氏から、杉の谷弁天の縁起資料のご提供をいただく幸運を得た。ご提供いただいた資料中に、前述碑建立の翌年(元禄十五年九月)の縁起がある。その要旨を略記すると、およそ次のようなものである。

[やぶちゃん注:以下の「 」の引用部は、底本では全体が二字下げである。]

「杉谷山弁才尊天は弘法大師の作で、もと江の嶋岩くつの本尊であった。(伝によると、岩くつには大師の作三体あり、一体は今にあり、一体は光明寺に、-体はこの尊天であると)建長寺開山大覚禅師この尊天を請待し、十世、一山禅師、この尊天を祈願、玉雲庵を開基、これをまつる。元禄十四年、武陽不忍池の弁天を信じていた一庶民の杉山某なる者、夢に杉谷弁天をいのれとのお告げをうけ、三百余年すたれていた杉之谷弁天の宮を再興。ために霊験大いにあらわる。杉山某は沙門覚真なり」

 なお、明治十年の建長寺什物帳の記録では、この再造を元禄年度(年なし)東都(江戸)戸川弾正としている。沙門覚真と戸川弾正とがどのような関係かは判然しないが、不忍池の弁天を信仰していたという杉山某、沙門覚真も、あるいは江戸の人であったかもしれない。

 それはともかく、元禄十五年の縁起より、ちょうど半世紀後の宝暦二年(一七五二)江戸日本橋、須原屋から板行された『鎌倉物語』には、建長寺弁天について、次のような話がのせられている。

[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]

『鎌倉物語』-建長寺に絵嶋(ゑのしま)の弁才天十六童子(とうじ)の内童子ハ此寺に置といへりむかし蘭漢和尚(らんけいおしやう)らい朝の節(せつ)絵嶋弁才天より一童子を船中まで迎につかハされ鎌倉まで送(おく)りまいらせけるとなり扨らんけい此寺建立の時絵嶋弁才天らんけいにの給ふやう仏力とうとしとハいへども福神なくてハ法のはんじやう成がたからんか然バ童子をミやづかへ玉へとて三十二そうの美女をさづけ玉ふらんけい神のつげにまかせ蔵あづけ納所をぞまかなハせ玉ふさて諸事万宝(まんほう)をねがひ給ふに叶ざるといふことなし扨もいよいよ寺ほんじやうしけれ然る所に鎌倉中にらんけい美女をかくし置玉ふといふ説(せつ)ちまたにをほしその比の御台所此事いつハリにをいてハうたがひあらじ然ども人のもうあく鬼口ふさぐに所なし寺請に事よせて実(じつ)を見んとぞはかられける扨俄(にはか)に美(び)女二千人を催(もよを)し建長寺に参詣(さんけい)し給ふ然バくり(庫裡)めんざう(眠蔵)ゑんの下まで人ならずと云事なし然バ神女かくれかに所なく扨こそ御台所かの美女を求得たり御台所らんけいにの給ふやう和尚(おしやう)等(たつと)しといへども珍敷(めづらしき)ものをゑたりいかゞふしんおほしと有し時らんけいのいはく我破戒(はかい)のなんにあらず是絵嶋(ゑしま)の弁才天よりさづけ給ふ神女なりとて則神女をめし出し誠の姿(すがた)をあらハしめ玉へと有し時に俄に神女建廿丈斗の大蛇となりろう門を七重にまきて見せ玉へバ御台所ありがたし共おそろしとも只もとの姿と有し時又美女とぞなり玉ふ其時らんけい神女にのたまふ俄の事とハいひながら此人数を馳走して玉へと有しかバ神女則三千人に膳(ぜん)ぶわたしてほうらいの山をつき白玉のくわしをもってちそうし給ふかく俄の事といへども神女のなすわざ凡人の及所にあらずとぞの給ひける御台所ハうたがひをはらしてかへらしめ給へバ神女ハてんにあがり玉ふ扨こそ一童子の内福神ハ建長寺にいはゝれ玉ふと先立のかたりし也

 ところで、建長寺に隣る円覚寺にも龍神や江の島弁天ゆかりの「宿龍池」や「洪鐘弁天堂」があるが、さきにもあげた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記には、妙隆寺の鐘にまつわる次のような話がしるされている。

[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]

白井惣右ヱ門という人が、零落の妙隆寺に龍頭を掛けようとしたが、大勢寄っても容易に掛けられず因っているところへ、一人の女があらわれ、やすやすと掛け、わたしは龍宮から円覚寺の龍頭掛にきた者だが、一夜の宿をねがいたいと惣右ヱ門の家に入り、臼の中に入って上からむしろをかけてもらって寝、ゆうべこの臼の中に産をしたので、この子を育ててもらいたいといって立ち去った。その子の子孫が同家をついだので、六十一年目六十一年目に釣鐘供養があるとのことだ(要約)

 この話は、円覚寺の洪鐘祭(洪鐘弁天は江の島からうつされたもので六十一年ごとに江の島弁天と会うというお祭)の説話とも通ずるものがある。これらは、たとえ説話であろうと、建長寺や円覚寺、その他鎌倉の地に、江の島弁天が色濃く影をおとしていることに変わりはない。それはいわずもがな、江戸中期ころから、ほうはいと高まった江の島詣と深くかかわるものであろうし、杉之谷弁財尊天の碑や資料は、そうした足あとを明かすものといえよう。

 杉が谷弁天はいま忘れ去られようとしているが、名所記は、その記録をしるしつづけてきた。沢庵がしるした江戸初期の衰退を思うにつけ、名所旧跡の鎌倉の繁栄が、これら名所記のカルチュアと無関係とは思われないのだが。

   《引用終了》

最後に再度、本電子テクスト化に際しても大いに参照させて頂いている本書の校注者鶴岡節雄氏に深く敬意を表するものである。

「俳諧師梅翁の碑あり」「俳諧師梅翁」は談林派の祖西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二 (一六八二)年)のことであるが、この碑、現在は行方不明と思われる。

「伽羅陀山」円応寺の向かいの山上にあった佉羅陀山(からだせん)心平寺のことであるが、現存しない。「新編鎌倉志卷之三」に、

○地藏堂 地藏堂は、小袋坂(こふくろさか)より山の内へ行(ゆけ)ば右の方にあり。佉羅陀山(からだせん)心平寺と云ふ。建長寺の境内なり。【鎌倉大(をほ)日記】に、建長元年に、小袋坂の地藏堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄谷(じごくがやつ)と云し時より、地藏此の所にあり。濟田(さいた)地藏の根本なり。事は建長寺の條下にあり。

とあり、また「建長寺」の「佛殿」の項には、

佛殿 祈禱の牌を懸て、毎晨祈禱の經咒怠らず。本尊地藏、應行が作。相ひ傳ふ此寺建立なき以前、此の地を地獄谷と云、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田と云者、重科に依て斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。何の故かあると問ひけるに、濟田荅て曰、我れ平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕すと云ふ。依てこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦す。濟田此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背に刀の跡ありと云ふ。(以下略)

と由来を伝える。

「ゑんめいの小ぶくろざかはかま/くらへ/たから入こむめい所けんぶつ」この狂歌、勘でしかないが……何となく猥雑の臭いがする(これも一九先生に毒された所以か)。識者の御教授を俟つ。

「よつぴて」発音は「よっぴて」で副詞。「夜一夜(よっぴとい)」の変化した語で、一晩を通してずっと。夜どおし。夜もすがら。「よっぴとよ」「よっぴてえ」とも言い、今は「よっぴいて」が普通。]

2013/02/28

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 山之内圓覺寺

   山之内圓覺寺

 

瑞鹿山門覺寺(ずいろくさんゑんがくじ)は山之内にあり。鎌倉五山の二番目なり。本尊は寶冠(ほうくわん)の釋迦佛。諸堂の額は、皆、眞筆(しんひつ)なり。北條時宗の建立にて、開山は、宋國の佛光(ぶつくわう)禪師なり。境内に宿龍池(しゆくりやうち)、座禪窟、鹿巖(しゝがん)、虎頭岩(ことうがん)などいふ名跡あり。佛殿の南の方(かた)に、高さ八尺の大鐘(がね)あり。在(ところ)の人は、龍宮(りうぐう)よりあがりし鐘也といひつたへたり。

〽狂 みほとけのちかひを

   むすぶゑんがくじ

 かゝるりやくに

    おほがねのおと

參詣

「なんと、よいお寺。かうかうとしたものだ。昔、鎌倉の繁盛の時は、さだめて、今、江戸の淺草の奧山のやうに、豆藏(まめぞう)や見世物(みせもの)などが、この境内にもあつたらうから、さぞかし、その時分には、にぎやかなことであつたらう。」

「左樣(さやう)、左樣。今の奧山の『濱藏(はまぞう)』の先祖は、昔、この鎌倉にて、『由比(ゆひ)の濱藏』といつて、由比の濱に小屋をかけてゐたといふことでござりますが、いつでも、いざといふと、濱藏が出かけて一番に手柄をしたといふことでござります。」

「イヤお前、とんだことをいふ。何、戰(いく)さの時に豆藏が何の役にたつものでございます。」

「イヤイヤ、違(ちが)ひのないこと。和田合戰(わだがつせん)の時、敵は目にあまるほどの大軍、一度気(いちどき)におしよせきた處(ところ)に、北條方(がた)は、無勢(ぶせい)にて、

『これは、どうしてこの大敵(たいてき)をふせがふ』

と、うろたへまはる處へ、濱藏の先祖がきて、

『大敵、私(わたし)がしりぞけてお目にかけませう』

といつて、笊(ざる)をもつてとんで出たら、

『そりやこそ、ざるがまはる』

と、その大敵が皆、にげてしまつたといふことでござります。」

[やぶちゃん注:「眞筆」新編鎌倉志三」の「圓覺寺」の条に、総門及び仏殿の額は後光厳帝の、山門の額は花園帝の宸筆とある。なお、ここに載る円覚寺内の名所等については「新編鎌倉志卷之三」及び鎌倉四」の本文及び私の注を参照されたい。

「江戸の淺草の奥山」江戸中期ころから浅草寺境内の西側奥(裏手の後に五区と呼ばれた旧地)の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが盛んに行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保一三(一八四二)年から翌年にかけて江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町。現在の台東区浅草六丁目)に移転して来ると、そうした傾向は更に強まった(以上は主にウィキ浅草寺に拠る)。

「豆藏」手品・曲芸や滑稽な物真似などをして銭を乞うた大道芸人。

「今の奥山の濱藏」「由比の濱藏」何れも不詳。「濱藏」の漢字は推測で当てた。識者の御教授を乞う。

「笊がまはる」この「笊」は大道芸人が芸の後に投げ銭を貰うために客に持って回った笊のことであろう。]

2013/02/27

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松个岡 甘露井

   松个岡 甘露井

 

東慶寺(とうけいじ)は、松が岡といふ。圓覺寺(ゑんがくじ)の南にあり。禪宗にて尼寺なり。開基は北條時宗(ときむね)の妻、秋田城介(あきたじやうのすけ)の娘にして、潮音院覺山志道禪尼(てうおんいんがくさんしだうぜんに)といふ。第二十世の住職は、豐臣秀賴公の息女なり。佛殿の後ろにその石塔婆(せきとうば)あり。甘露の井も、この邊(へん)なり。鎌倉十井の内の、その一つなり。

〽狂 常盤(ときは)なる松が

   おかとてあぢ

        はへば

 ちとせを

   のぶる甘露井(かんろい)も

        あり

旅人

「これはうつくしいお比丘尼(びくに)だ。坊さまにしておくはおしいものだ。」

「この前、儂(わし)が奧州へいつたとき、ある旅籠屋(はたごや)で、

『飯盛(めしもり)をかをふ』

といつたら、

『こゝには飯盛はござりませぬ、比丘尼があります、よんで御らうじませぬか』

といふから、

『こいつはめづらしい。話の種だ、かつて見やう』

と呼びにやつて、見たところが、くろい頭巾(づきん)をかぶつて、つまらない顏附きの比丘尼、

『お勤めは幾らだ』

ときいたら、

『お布施は三百だ』

といふ。

『木綿の洗濯物をきてゐるものを、三百とは、あたじけない』

と思ひながら、ねて見たところが、どうも坊主くさくていやだから、すぐにねたふりをしてゐると、その比丘尼が、そつと儂が鼻へ手をあてゝ寢息をかんがへるから、

『こいつ、氣味のわるいおかしなことをする』

と思ひながら、いよいよねたふりをしてゐたら、やがて、その比丘尼がそつとおきて、後先(あとさき)を見まはし、頭巾をとつて、兩手で頭をごしごしとかいたが、その頭が毬栗頭(いがぐりあたま)で、

『さては今まで頭のかゆいのをこらへてゐたのか』

とおかしく、それなりでねてしまつたが、翌朝、そこをたつて、先の立場(たてば)の茶屋できいたら、あの宿(しゆく)の比丘尼は、麥一升づゝでうりますといつたものを、三百とられて、とんだ目にあつたことがあつたから、儂は、比丘尼には、こりはてたものさ。」

[やぶちゃん注:標題「松个岡」は「まつがおか」、「甘露井」は「かんろゐ」と読みを振っている。

「秋田城介」(あきたじょうのすけ)は名前ではなく、出羽国の秋田城を専管した国司の称号で、ここでは安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)を指す。彼は安達景盛の嫡男で北条時宗の父時頼の得宗専制体制に尽力した人物である。

「潮音院覺山志道禪尼」(建長四(一二五二)年~徳治元(一三〇六)年)は、現在の読みでは「かくさんに」と濁らない。彼女は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で滅ぼされた義景の三男泰盛の妹に当たる。覚山尼は時宗の臨終に際して弘安七年に落飾しているから、その翌年に実家安達家の滅亡の遭遇している。

「豐臣秀賴公の息女」天秀法泰尼。寛永年間から二十世として活躍、将軍家との特別な俗縁によって、江戸期を通じて守られた駆入寺法(縁切り寺法)の守護者と伝えられる尼である。

「甘露の井も、この邊なり」は頗る興味深い謂いである。詳細はかつて鎌倉攬勝考卷之一の「五名水」で考証したので詳細はそちらに譲るが、「鎌倉五名水」というのが別にあって、ある説にその一つを「甘露水」といい、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは実際に現在、訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、「新編鎌倉志」で初めて示されたところの名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

という記述を見出す。ここではっきりするのは、どうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、そうして、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったかが同定できなくなっていたことが分かるのである。さればこそ、私には一九の「この邊なり」という不定の謂いが、実に正確であると思うのである。

「飯盛」飯盛女。旅籠屋での接客をする女性のことを言うが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道で早くに見られ、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)であった。飯盛女を抱える旅籠屋を飯盛旅籠屋といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき二人までを許可している。なお、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、しだいに宿内や近在、とくに助郷村(すけごうむら:街道宿駅の常備人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたすために補助的に人馬を提供した宿駅近傍の郷村のこと)の農民を対象とするようになり、しばしば宿と助郷間の紛争の種となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。先の佐助稻荷 岩屋堂の私の注も参照のこと。

「比丘尼」これは元は歌比丘尼。熊野比丘尼、絵解比丘尼と称して、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人を起源とするが、江戸期には尼の姿で売春を行った低級私娼を指すようになった。

「あたじけない」通常は、吝嗇だ、しみったれだ、の謂いで用いるが、ここは原義の「欲が深い」の意である。

「洗濯物」汚れた衣服のこと。

「毬栗頭」髪を短く丸刈りにした頭。比丘尼私娼であるから、外見上、坊主であるかのように見えるように髪を短く刈り込んでいるのを黒頭巾で覆って隠していたのだが、恐らくは房事の最中も頭巾を附けたままであったがために、汗で蒸れて痒くなったのであろう。さすれば彼女は、心機一転売りを狙って俄か比丘尼私娼をコスプレした、飯盛女ででもあったのかも知れない。男の眼を気にして、そこはかとなく、哀れな気もしてくるではないか。]

2013/02/26

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 長壽寺・明月院

   長壽寺・明月院

 

 長壽寺(てうじゆじ)、龜(かめ)が谷(やつ)にあり。寶龜山(ほうきざん)といふ。源基氏(みなもとのもとうじ)公の建立。昔は伽藍、大寺(でら)なり。淨智寺(じやうちじ)は鎌倉五山の四番目なり。開山(かいさん)は宋の佛源(ぶつげん)禪師、本願は平師時(たいらのもろとき)なり。この向ひに明月院(めいげついん)といふあり。上杉憲方(うへすぎのりかた)の建立。この上の山を六國(こく)見といふ。これより見わたせば、安房、上總、武藏、下總、相模、伊豆の六國、一目(ひとめ)に見ゆるといへり。

〽狂 けいだいのきれいさ

   はうきざんなれば

 ばくばかりなる

  堂(どう)のほりもの

旅人

「上方(かみがた)の旅籠屋(はたごや)には、五右衞門風呂(ゑもんぶろ)といふがあつて、わるくすると、底板(そこいた)がういてあるから、それをとりのけてはいつて、直(じき)に釜で火傷(やけど)をするが、昨夜(ゆふべ)の宿(やど)も、その水風呂(すいふろ)でこまりはてた。」

「儂(わし)はまた田舍へいつたとき、水風呂へいつたところが、あんまりぬるいから、

『これこれ、ちつと、湯の下をたいてくだされ』

といふと、宿の男(おとこ)が、

『かしこまりました』

といつて、藁(わら)であみたてた御鉢(おはち)の蓋(ふた)のやうな大きな物をもつてきて、儂のはいつている頭の上からかぶせるから、

『これは、どうするのだ』

といふと、

『水風呂に蓋をしてたきます』

といふから、

『まつてください、その蓋を頭からきせられて、火をたかれたら、ゆでころされるであらう』

といふと、その男が、

『いやいや、この蓋の穴から首をだしておいでなされ』

といふから、よくよく見れば、その蓋の眞ん中に、首をだすほどの穴があいているゆへ、體は水風呂にいりてゐながら、蓋をして、蓋の穴から首ばかりだしてゐる、その可笑しさ。

『獄門のやうだ』

と大笑ひしたが、あるくと、いろいろな事があるものでござります。」

「獅子舞いがきた。しゝの十二文でまつてください。」

「江戸へいつたら、京橋(ばし)の南傳馬(みなみてんま)丁の仙(せん)女香(かう)をかつてきてくれと、隣りの娘にたのまれたから、かつてきてやらずばなるまい。」

[やぶちゃん注:「源基氏公の建立」長寿寺の開基については、基氏が父足利尊氏の菩提を弔うために建立したとするこの説の他に、実は足利尊氏自身を開基とする説もあり。詳しい寺の歴史は不明である。

「佛源禪師」大休正念の諡号。浄智寺は開山の経緯が特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも、任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。

「本願」開基。

「平師時」北条師時(建治(一二七五)年~応長元(一三一一)年)。第十代執権。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。

「上杉憲方」(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)は関東管領。法号・戒名を明月院天樹道合と言い、墓所は明月院に現存する。

「六國見」「りつこくみ」又は「りつこくけん」(現在の通称は後者が優勢で「ろっこくけん」とも呼ばれている)と読む。「新編鎌倉志卷之三」では「見」には「ミ」とルビを振る。

「ばくばかりなる」「ばく」は悪しき夢を食うという想像上の神獣「獏」。私は遠い昔、特別公開の折りに少しだけ拝観したきりで、長寿寺の荘厳具の中に獏が多数登場しているのかどうかについては知見を持たない。識者の御教授を乞うものであるが、もし、現在、それがないとすれば、この江戸末期の長寿寺の面影を知る上で非常に貴重な狂歌ということになる(獏が実際に長寿寺に彫られていなければ、この狂歌は狂歌としておかしから、恐らくあったと考えねばならぬ)。

「水風呂」茶の湯の道具である水風炉(すいふろ)に構造が似るところから、桶の下にかまどを取りつけて浴槽の水を沸かして入る形態の風呂を言う。まさにここで問題になっている五右衛門風呂は水風呂の一種である。通常は、海水を沸かした塩風呂やサウナのような形態の異なる蒸し風呂などに対して用いる語である。「すえふろ」とも読む。

「五右衞門風呂」竈の上に鉄釜を据え附けて下から火を焚いて直接に沸かす風呂。全体を鋳鉄で造ったタイプと湯桶の下部分に鉄釜を取り附けたタイプのものとがあり、入浴する際には浮いている底板を踏み沈めて入る。釜風呂。名称は石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたという俗説による。なお、ウィキの「石川五右衛門」によれば、彼は秀吉の甥豊臣秀次の家臣木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるも、秀吉の寝室に忍び込んだ際に香炉が鳴って捕えられ、三条河原で煎り殺されたとされるが、この「煎り殺す」というのは「油で揚げる」の意であると主張する学者もいるとある。また、『母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている』とあり、他にも、子供と一緒に処刑されることになっていたが、『高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている』。いや、『釜茹でではなく釜で焼かれた』という説も記されてある。

「御鉢」炊き上げた飯を入れておく木製の容器。飯櫃(めしびつ)。御櫃(おひつ)。

「獄門」獄門首、晒し首のこと。

「しゝの十二文」九九の四四十六を十二と誤る、絵の中の今、走り来たった感じの鈍愚な子守の小僧の台詞であろうか。右手中央の茶屋の床几の旅人は、その誤りを聴きつけて笑ってでもいるかのようにも見える。

「京橋の南傳馬丁の仙女香」は「美艶仙女香」という白粉(おしろい)。京橋南伝馬町の稲荷新道にあった坂本氏が販売していた。「歴史人公式ホームページ 歴史人 歴史人ブログ」の村田孝子氏の「大江戸娘のお洒落帖」の「第2回 美艶仙女香―嶄新な宣伝手法」に、以下の記載がある(アラビア数字を漢数字に代え、改行部を総て繫げ、記号の一部を変更させて戴いた)。

   《引用開始》

美艶仙女香が描かれた浮世絵は、今、確認しただけでも四〇点以上あり、歌川広重なども宿場のなにげない風景のなかに仙女香の宣伝をしているものもあります。また、浮世絵だけでなく、為永春水が天保三~四年(一八三二~三三)に書いた人情本「春色梅児誉美」にも、この美艶仙女香がいい薬が入った白粉として宣伝しています。当時の浮世絵、人情本などをたくみに使って広告をしたのでしょう。ただ、「春色梅児誉美」の書かれた頃は、まだ美艶仙女香も江戸の女性たちが大いに使用していたのでしょうが、天保十一年(一八四〇)に天保の改革が行われ、奢侈禁止令などが度々発令されたことによって、化粧もあまりおこなわれなくなりました。これだけいろいろなものに登場して、一世を風靡した「美艶仙女香」でしたが、まだ本物に巡り合っていません。どこかに眠っているのでしょうか。一度見てみたい気がします。

   《引用終了》

それにしても、なるほど。御当地タイアップではなく、こうした挿入広告という手法もあった訳だ。目から鱗。特に、これを呟いているのは、私には左側の中央で大きな俵を担いでいる人夫風の、如何にも実直そうな中年男のように思われ、同じような、しがない中年で、長屋の隣りの娘にそれとなく惚れている町人なんどが、ここを読めば、「儂も隣の娘に、一つ、美艶仙女香、買(こ)うたろ!」という気になったりしたのかも、知れないなあ……。]

2013/02/25

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 淨光明寺 荒居焰魔

   淨光明寺 荒居焰魔

 

淨光明寺(じやうくはうめうじ)の境内、慈恩院(ぢおんいん)に矢拾(やひろい)地藏あり。網引(あみひき)地藏は、この山中(さんちう)にあり。藤原の爲相(ためすけ)の塔、その後ろなり。景淸(かげきよ)土(つち)の牢(らう)は、化粧坂(けわいざか)の山際にあり。

〽狂 あみ引のぢぞうのまへの

   ちや屋にきてあとひき

 ぢざけのむぞたのしき

「なんでも、旅では、途方もなく錢(ぜに)をとられることがあるから、うつかりとは、のめぬ。それとも貴公方(きかうがた)のお振舞(ふるま)ひなら、うつかりとのんでもよい。」

「なに、旅へ出て、お振舞ひといふことがあるものか。なんでも、割合(わりあい)。先(さつき)に貴公がのんだ甘酒(あまざけ)の八文は、俺(おれ)がだしておいたから、よこしなさい。」

「貴公、きたないことをいふ。そういふと、昨日(きのふ)、渡錢(わたしせん)の二文、よこさつし、よこさつし。」

「イヤイヤ、あれは雪の下の團子(だんご)の錢四文さしひくと、そつちから二文釣りをとらねばならぬ。たつた今、勘定、さつし。それそれ、女がきた。エヘン、エヘン。」

「もふ一合(いちごう)やりたいが、いつそのこと一銚子(ひとてうし)、一銚子。」

それより姫(ひめ)が谷(やつ)、荒居(あらゐ)の焰魔(ゑんま)。口に幼な子の附紐(つけひも)をくわへゐるは、謂われあることなるべし。海藏寺(かいぞうじ)、本尊泣藥師(なきやくし)といふ。昔、この山中にて、毎夜、子どものなく聲あり。その地をほりて、この藥師をえたり。この門前に、底脱(そこぬけ)の井といふあり。

〽狂 たうとさはたぐひあらゐの

 ゑんまどうまいらぬ人も

      なきやくしなり

「もしもし、上(かみ)さん、荒居の焰魔さまは、これかの。焰魔さまは、お宿(やど)にござりますかへ。」                      

「今、奧に轉寢(うたゝね)をしてござりました。あそこへいつて、鰐口(わにぐち)をおたゝきなさると、じきにお目をおさましなさります。焰魔さまは、とかく鰐口がおすきで、妾(わたし)の鰐口をたゝいて見たいと、いつそ、妾をおはなしなさいませぬから、

『お前さまは、葬頭(そうづ)川の婆(ばば)さまといふお妾(めかけ)さまがあるから、その鰐口をおたゝきなされ』

といいましたら、

『いや、もふ、あの婆々のは鰐口ではない、木魚(もくぎよ)のやうに、ぼくぼくしていかぬ』

とおつしやりました。」

[やぶちゃん注:本章は以下の注で示した以外にも、海蔵寺の泣き薬師の由来譚など、珍しく踏み込んだ記載が散見される。一九が実際に踏査し、オリジナルに興味を持った一帯であったように見受けられる。

「慈恩院に矢拾地藏あり。」旧淨光明寺の塔頭。「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」に、

慈恩院 本堂の西の方にあり。地藏の立像を安ず。《矢拾地藏》是を矢拾(やひろひ)地藏と云ふ。相ひ傳ふ、源の直義の守り本尊なり。直義一戰の時分、矢種盡きけるに、小僧一人走り來つて、發ち捨てたる矢どもを拾ひ、直義に捧げける。怪しく思ひ、守りの地藏を見ければ、矢一筋錫杖に持モち添へけるとなり。今も錫杖は簳(やがら)なり。又直義の位牌あり。表に、當院の本願、贈正二位大休寺殿古山源公(こさんげんこう)大禪定門の、神儀。裏に、觀應元年二月廿六日とあり。又大塔宮(をほたふのみや)の牌も有しが、此牌は理智光寺にあるべき物也とて、院主是を送り遣し、今彼寺にあり。

とある。「直義一戰の時分」は、伝承では故北条高時の遺児時行の起こした建武二(一三三五)年七月の中先代の乱の時の話とする。さて、この「新編鎌倉志」には、この慈恩院の他に玉泉院・華蔵院の、都合三院の塔頭が現存するとあるが、「鎌倉市史 社寺編」には、「相模国風土記稿」にはないことから、『貞享以後天保までの間に三院とも廃絶したのである』とあり、この一九の叙述はもしかすると、その正式な塔頭としての慈恩院最後の記述であった可能性がある。

「振舞ひ」饗応。ともに旅人であるのに、「おもてなし」とは合点がいかぬ、と言っているのである。

「割合」割り勘。

「銚子」徳利。ここは二合徳利以上の大徳利のこと。

「姫が谷」不詳。浄光明寺から「これより」とあって「荒居の焰魔」(現在の円応寺)というルートから推すと、現在の泉ヶ谷を北へ登った二つの谷の何れかを指すように思われる。現在、この谷戸名は残っていないものと思われるが、如何にも響きのよい名ではある。

「口に幼な子の附紐をくわへゐるは、謂われあることなるべし」円応寺の閻魔は「子育て閻魔」の異称を持つ。円応寺のパンフレット(HATADA氏の「天空仙人ワールド」の「円応寺」よりの孫引き)によれば、『昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけようとした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れ、お堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまり、お堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ばした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事、小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった』とある(一部の表記を訂し、読点を追加した)。――但し、私の訪れた際の遠い記憶では、現在の閻魔像の口からは「幼な子の附紐」はぶら下がってはいないように思う。――ぶら下げておけばよいのに――とも思う。

「鰐口」仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。神社の社殿に使われることもあり、金口・金鼓とも呼ばれる。元来は金属製の梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を二つ合わせた形状で、鈴(すず)を平たく潰したような形状である。上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金(かね)の緒と呼ばれる布を編んだ綱が付属し、これで鼓面を打って誓願成就を祈念する(以上は、主にウィキの「鰐口」を参照した)。勿論、ここでの堂守のシャンな年増女(絵図左手に描かれた粋な女性を見る限り)のこの謂いは、鰐口を女性の会陰のシンボルに掛けている。女性が言っていると思うと、不思議に忌わしい猥雑感が薄まるから不思議である。

「葬頭(そうづ)川の婆さま」「葬頭川」の「そうづ」は「さんず」の訛ったもの、三途の川のこと。この「婆」とは三途の川で渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るとされる鬼女、奪衣婆(だつえば)のこと。ウィキの「奪衣婆」によれば、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた』とある。円応寺には閻魔王を始めとする十王像の他、この奪衣婆の像もある(先のHATADA氏のページで写真が見られる)。

「あの婆々のは鰐口ではない、木魚のやうに、ぼくぼくしていかぬ」打てば美事に嬌声を響かせる「鰐口」とずぼんずぼんと虚ろなる古びた「木魚」を年増と婆の下の塩梅に譬えたものである。相変わらずの下ネタながら、謂いは洒落ていると思う(ほどに猥雑至極の一九に私もかなり免疫になったことを自白する)。]

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