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カテゴリー「萩原朔太郎」の708件の記事

2020/06/01

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 昨日にまさる戀しさの / 萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形~了

 

   昨日にまさる戀しさの

 

昨日にまさる戀しさの

湧きくる如く嵩まるを

忍びてこらへ何時までか

惱みに生くるものならむ。

もとより君はかぐはしく

阿艶(あで)に匂へる花なれば

わが世に一つ殘されし

生死の果の情熱の

戀さへそれと知らざらむ。

空しく君を望み見て

百たび胸を焦すより

死なば死ねかし感情の

かくも苦しき日の暮れを

鐵路の道に迷ひ來て

破れむまでに嘆くかな

破れむまでに嘆くかな。

            ――朗吟調小曲――

 

[やぶちゃん注:初出は昭和七(一九三二)年一月号『古東多万』。

   *

 

   昨日にまさる戀しさの

 

昨日にまさる戀しさの

湧きくる如く嵩まるを

忍びてこらへ何時までか

惱みに生くるものならむ。

もとより君はかぐはしく

阿艶(あで)に匂へる花なれば

わが世に一つ殘されし

生死(せうじ)の果の情熱の

戀さへそれと知らざらむ。

空しく君を望み見て

百たび胸を焦すより

死ねば死ねかし感情の

かくも苦しき日の暮れを

鐵路の道に迷ひ來て

破れむ迄に嘆くかな

破れむ迄に嘆くかな。

 

   *

 以上で詩集「氷島」の詩篇本文は終わっている。]

 

[やぶちゃん注:ここに「詩篇小解」が纏めて入るが、各篇の末に配したので、同パート最後の以下の一行を除いて省略する。ここがノンブルの最後で「85」。]

 

 

詩集 氷 島  完

 

 

[やぶちゃん注:「85」をめくると、右ページは白紙。左ページ中央に以下が記されてある。実際はポイント落ち。署名に至ってはそれよりポイント落ち。]

 

 

 校正覺書

 

本書の假名遣並に用字辭の類は、凡て

著者平生の慣用に從ふこと前著に同斷。

 

            辻 野 久 憲

 

[やぶちゃん注:こういう校正者による但し書は珍しい。ある意味、『私は問題がある誤字としか思われない箇所を多数見つけて著者に示したが、著者自身がそのままでいいのだ、と言ったからそのままにしてある、私の校正ミスではない』と言いたいような感じが伝わってくるかも知れないが、実はこの人物、第一書房の普通の校正係ではないのである。辻野久憲(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)は京都府舞鶴市生まれの翻訳家・評論家である。第三高等学校から東京帝国大学仏蘭西文学科を卒業、昭和七(一九三二)年、東京帝国大学仏蘭西文学科卒業。同年、書肆第一書房に就職した。在学中から、萩原朔太郎も投稿した『詩・現実』の同人として参加、昭和五(一九三〇)年から翌年にかけては、伊藤整・永松定とジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を共訳してもいる。第一書房の発行していた『セルパン』の編集長や、第二次『四季』の同人でもあった。その他、『詩と詩論』・『コギト』・『創造』などの朔太郎の馴染みの雑誌にも小論や随筆を寄稿したが、胸膜炎を発症し、二十八の若さで亡くなった。

 補足しておくと、「前著」とは同じ第一書房から昭和三(一九二八)年三月に刊行した「第一書房版萩原朔太郞詩集」を指す。筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第二巻の「解題」の同書の解説に、同書の巻末には「校正について」と題して、以下の注記が載るとある。以下に引く。傍点「○」は太字に代えた。

   *

一、「ふる」は全部「ふる」となつてゐますが、これは著者獨得の用法で特に感じを出す爲です。

二、「べる」が「べる」となつてゐる處がありますがこれも著者の特に「むさぼり食ふ」と云ふ感じを現はす爲に用ひられたものです。

三、「かいい」が「かいい」となつてゐるやうに、著者獨得の用法は皆右の理由によるものです。

   *

これも辻野によるものであろう。寧ろ、朔太郎の詩想による特殊な表記や造語を逆に校正者として十全に尊重している感じがよく伝わってくるのである。

 以下、「奥付」だが、底本リンクで省略する。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 監獄裏の林

 

   監獄裏の林

 

監獄裏の林に入れば

囀鳥高きにしば鳴けり。

いかんぞ我れの思ふこと

ひとり叛きて步める道を

寂しき友にも告げざらんや。

河原に冬の枯草もえ

重たき石を運ぶ囚人等

みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。

暗欝なる思想かな

われの破れたる服を裂きすて

獸類(けもの)のごとくに悲しまむ。

ああ季節に遲く

上州の空の烈風に寒きは何ぞや。

まばらに殘る林の中に

看守の居て

劍柄(づか)の低く鳴るを聽けり。

               ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 監獄裏の林  前橋監獄は、 利根川に望む崖上にあり。 赤き煉瓦の長壘、 夢の如くに遠く連なり、 地平に落日の影を曳きたり。 中央に望樓ありて、 悲しく四方(よも)を眺望しつつ、 常に囚人の監視に具ふ。 背後(うしろ)に楢の林を負ひ、 周圍みな平野の麥畠に圍まれたり。 我れ少年の日は、 常に麥笛を鳴らして此所を過ぎ、 長き煉瓦の塀を廻りて、 果なき憂愁にさびしみしが、 崖を下りて河原に立てば、 冬枯れの木立の中に、 悲しき懲役の人々、 看守に引かれて石を運び、 利根川の淺き川瀨を速くせり。

 

[やぶちゃん注:「前橋監獄」現在も群馬県前橋市南町にある赤レンガの塀の続く前橋刑務所の前身。但し、本詩が公開された当時は既に前橋刑務所に改称していた(大正一一(一九二二)年十月)。しかし、朔太郎のそれは少年期の追懐(明治一九(一八八六)年十一月一日生まれ)であるから、おかしくはない。「今昔マップ」で見ると、朔太郎の言う通り、監視塔を中心としているのであろう、X字状の四棟の獄舎が配置されてあるのが判る。ウィキの「前橋刑務所」によれば、『群馬県庁本庁舎・前橋市役所本庁舎から南方へ』二キロメートル『弱、利根川東岸間際に位置し、北方を両毛線が通過する』。『歴史の古い刑務所であり、明治時代の開設時こそ市街地から離れた場所であったが、その後の都市化進行によって西側の利根川を除く三方を住宅地に囲まれる状態となっている』。明治二一(一八八八)年、現在位置に開設された。『建設時の全体レイアウトは監視塔を中心に』四『棟の獄舎が放射状に配置されるという、当時』、『アメリカで研究されていた刑務所構造を取り入れた先駆例であった』。『外堀に囲まれた赤煉瓦の正門・外壁は開設当初からのもので、細やかな部分に意匠が凝らされ、地元出身の詩人・萩原朔太郎の詩の題材ともなった。旧・網走監獄と並んで、古典的な「監獄」のイメージに相応しい外観や、かつて長期受刑者の収容先として知られた歴史などを併せ持ったことで、映画のロケーションなどにも多用されている。部分改築を受けつつも』、『築造後』百二十『年に渡り』、『供用されており、群馬県近代化遺産に指定されている』とある。

「囀鳥」は「てんてう(てんちょう)」。囀(さえず)る鳥。

「枯草もえ」は草が枯れて赤茶けているようすであろう。

「劍柄(づか)」「づか」は「柄」のみに対するルビである。「けんづか」で金属製のサーベル。なお、現在の刑務官は銃を持っているが、普段は携帯していない。

 本篇の初出は大正一五(一八二六)年四月号『日本詩人』。

   *

 

   監獄裏の林

 

監獄裏の林に入れば

囀鳥高きにしば鳴けり

いかんぞ我れの思ふこと

ひとり叛きて思惟する道を

寂しき友にも告げざらんや。

河原に冬の枝草もえ

重たき石を運ぶ囚人等

みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。

陰鬱なる思想かな

われの破れたる服を裂きすて

獸のごとくに悲しまん。

ああ季節に遲く

上州の空の烈風に寒きは何ぞや

まばらに殘る林の中に

看守のゐて

劍柄のひくく鳴るを聽けり。

          (鄕土望景詩、追加續篇)

 

   *

である。「枯草」ではなく、「枝草」となっている。或いは初出誌の誤植かも知れぬ。その後、先行する第一書房から昭和三(一九二八)年三月に刊行した「第一書房版萩原朔太郞詩集」に初めて「鄕土望景詩」群(全十一篇)の一つとして、第十番目に置いている。以下にそれを示す。なお、他の原「鄕土望景詩」十篇はこちらで昔一括して電子化しているので見られたい。

   *

 

   監獄裏の林

 

監獄裏の林に入れば

囀鳥高きにしば鳴けり。

いかんぞ我れの思ふこと

ひとり叛きて步める道を

さびしき友にも告げざらんや。

河原に冬の枯草もえ

重たき石を運ぶ囚人等

みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。

陰鬱なる思想かな

われの破れたる服を裂きすて

獸のごとくに悲しまむ。

ああ季節に遲く

上州の空の烈風に寒きは何ぞや

まばらに殘る林の中に

看守のゐて

劍柄(けんづか)の低く鳴るを聽けり。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 我れの持たざるものは一切なり

 

   我れの持たざるものは一切なり

 

我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。

獨り橋を渡るも

灼きつく如く迫り

心みな非力の怒に狂はんとす。

ああ我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ乞食の如く羞爾として

道路に落ちたるを乞ふべけんや。

捨てよ! 捨てよ!

汝の獲たるケチくさき名譽と希望と、

汝の獲たる汗くさき錢(ぜに)を握つて

勢ひ猛に走り行く自働車の後(あと)

枯れたる街樹の幹に叩きつけよ。

ああすべて卑穢なるもの

汝の非力なる人生を抹殺せよ。

 

[やぶちゃん注:「羞爾として」「羞爾」は「しうじ(しゅうじ)」と読ませるつもりであろうが、こんな熟語は一般には存在しない。「漂泊者の歌」の奇体な「滄爾」で指摘した通り、「爾」には熟語を形成する場合に「しかり・そのとおりである・そのように」と言った意味を修飾語(この場合は上の「羞」)に添える助字か、或いは「のみ・だけ」の限定・断定の助字の可能性が考えられるが、萩原朔太郎の他の造語を見ると、前者の意で「而」と同じ意味で用いているケースが多いことが判っている(「爾」と「而」は音も通底する)。則ち、「羞爾たり」という形容詞の造語の連用形で「さも恥ずかしいことと(感じながら)」の意である。なお、「羞而」ならば、熟語ではないが、例えば、「荘子」の「天地」篇の「吾非不知、羞而不爲也。」(吾は知らざるに非ず、羞じて爲さざるなり。)などを想起させるものともなる。

 にしても、私は個人的にはこのもの言いには共鳴感を感じない。所謂、禪の「無一物卽無盡藏」のようには喝破されない、汚穢に満ちた絶望という何ものも持たない絶対の渇望という構造が、だらだらとした表現の中でその剃刀の刃を完全に鈍麻させて、拒絶と抹殺が孰れも不徹底になってしまっているからである。萩原朔太郎はこれを「虛無の鴉」と並べることを好んだが、寧ろ、そちらを印象付けるための「咬ませ犬」的な損な役割を本篇は背負ってしまっているような気がする。

 初出は前の「虛無の鴉」と同じで、昭和二(一九二七)年三月号『文藝春秋』。

   *

 

   我れの持たざるものは一切なり

 

我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。

ひとり橋を渡るも

灼きつく如く迫り

心みな非力の怒に狂はんとす。

ああ我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ乞食の如く羞爾として

道路に落ちたるを乞ふべけんや。

捨てよ! 捨てよ!

汝の獲たるケチくさき錢(ぜに)を握つて

勢ひ猛に走り行く自働車の後(あと)

涸れたる街樹の幹に叩きつけよ。

ああすべて卑穢(ひわい)なるもの

汝の處生する人生を抹殺せよ。

 

   *

その後、本詩集に先行する昭和四(一九二九)年十月発行の「新潮社版現代詩人全集第九卷 高村光太郞集・室生犀星集・萩原朔太郞集」に載せた際にも初出とは変異がほぼなく、

   *

 

   我れの持たざるものは一切なり

 

我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。

ひとり橋を渡るも

灼きつく如く迫り

心みな非力の怒に狂はんとす。

ああ我れの持たざるものは一切なり

いかんぞ乞食の如く羞爾として

道路に落ちたるを乞ふべけんや。

捨てよ! 捨てよ!

汝の獲たるケチくさき錢(ぜに)を握つて

勢ひ猛に走り行く自働車のあと

枯れたる街樹の幹に叩きつけよ。

ああすべて卑穢(ひわい)なるもの

汝の處生する人生を抹殺せよ。

 

   *

となって、本篇が決定稿となる。

 なお、ここで一言言っておくと、「新潮社版現代詩人全集第九卷 高村光太郞集・室生犀星集・萩原朔太郞集」では本篇と先の「虛無の鴉」は実は表題「鄕土望景詩」パートに繰り込まれており、そこでは十三篇が「鄕土望景詩」詩群の決定稿のようになっている。ところが、本詩集の「詩篇小解」では(例えば「廣瀨川」の後のそれを参照)、朔太郎は本「氷島」に採った「鄕土望景詩」詩篇について、『鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。』と述べている。「五篇」というのは以上の四篇と「中學の校庭」である。もし、萩原朔太郎が「虛無の鴉」と本「我れの持たざるものは一切なり」を正統な「鄕土望景詩」詩篇として認識していたなら、ここは『五篇』ではなく、『七篇』でなくてはならないのである。即ち、萩原朔太郎は、「虛無の鴉」と「我れの持たざるものは一切なり」の二篇を――「鄕土望景詩」としてではなく、郷土に関わる重大な望郷詩篇或いは反望郷詩篇と理解していた――のであろうことを私は図らずもこれが証明しているように思うのである。

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 虛無の鴉

 

   虛無の鴉

 

我れはもと虛無の鴉

かの高き冬至の屋根に口を開けて

風見の如くに咆號せむ。

季節に認識ありやなしや

我れの持たざるものは一切なり。

 

[やぶちゃん注:この冒頭のそれは萩原朔太郎が偏愛した一節で、色紙にもよく書いたようである。私も複製ながら、津久井幸子氏蔵のそれを持っている。

 

Wareha

 

 初出は昭和二(一九二七)年三月号『文藝春秋』。

   *

 

   否定せよツ!!!

 

ああ汝はもと「虛無」の鴉

かの高き冬至の家根に口を開けて

風見(かざみ)の如くに咆號せよ。

季節に認識ありやなしや

我の持たざるものは一切なり。

 

   *

で、その後、本詩集に先行する昭和四(一九二九)年十月発行の「新潮社版現代詩人全集第九卷 高村光太郞集・室生犀星集・萩原朔太郞集」に載せた際に、改題して、

   *

 

   虛無の鴉

 

我れはもと虛無の鴉

かの高き冬至の家根に口をあけて

風見の如くに咆號(はうがう)せん。

季節に認識ありやなしや

我れの持たざるものは一切なり。

 

   *

とし、さらに本詩集で決定稿となった。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 無用の書物

 

   無用の書物

 

蒼白の人

路上に書物を賣れるを見たり。

肋骨(あばら)みな瘠せ

軍鷄(しやも)の如くに叫べるを聽く。

われはもと無用の人

これはもと無用の書物

一錢にて人に賣るべし。

冬近き日に袷をきて

非有の窮乏は酢えはてたり。

いかなれば淚を流して

かくも黃色く古びたる紙頁(ぺえぢ)の上に

わが情熱するものを情熱しつつ

寂しき人生を語り續けん。

われの認識は空無にして

われの所有は無價値に盡きたり。

買ふものはこれを買ふべし。

路上に行人は散らばり去り

烈風は砂を卷けども

わが古き感情は叫びて止まず。

見よ! これは無用の書物

一錢にて人に賣るべし。

 

[やぶちゃん注:「袷」(あはせ(あわせ))は裏地の附いた和服。ここは単衣(ひとえ)よりはマシなものであるが、「綿入れ」に対する語としての寒々とした効果を狙っている。

 初出は昭和五(一九三〇)年一月号『文藝春秋』。私は既に独立して七年前に電子化している。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 虎

 

   

 

虎なり

曠茫として巨像の如く

百貨店上屋階の檻に眠れど

汝はもと機械に非ず

牙齒もて肉を食ひ裂くとも

いかんぞ人間の物理を知らむ。

見よ 穹窿に煤煙ながれ

工場區街の屋根屋根より

悲しき汽笛は響き渡る。

虎なり

虎なり

 

午後なり

廣告風船(ばるうむ)は高く揚りて

薄暮に迫る都會の空

高層建築の上に遠く座りて

汝は旗の如くに飢えたるかな。

沓として眺望すれば

街路を這ひ行く蛆虫ども

生きたる食餌を暗欝にせり。

 

虎なり

昇降機械(えれべえたあ)の往復する

東京市中繁華の屋根に

琥珀の斑(まだら)なる毛皮をきて

曠野の如くに寂しむもの。

虎なり!

ああすべて汝の殘像

虛空のむなしき全景たり。

      ――銀座松坂屋の屋上にて――

 

[やぶちゃん注:「飢え」はママ(初出も同じ)。「沓として」は萩原朔太郎の思い込み誤用(初出も同じ)。無論「杳として」が正しい。ここは「はるかに遠く」の意。

「百貨店上屋階の檻に眠れ」る「虎」『「Vol.41 松坂屋・屋上遊園の歴史|松坂屋史料室」』(原資料(パンフレット画像)はこちら)に『1925年(大正1451日に、銀座店は百貨店初の試みである動物園を屋上に開設し、虎やライオンで人気を集めた』とある。本篇の初出は以下に出すが、昭和八年である。

 巨匠萩原朔太郎には「虎」が似合う。……惨めな私には場違いなところに飼われていた見すぼらしい「猿」が相応しかった。……その意味は……そうさ、私の中山省三郎氏訳の「航海 イワン・ツルゲーネフ」の私の注を見られよ…………

 初出は昭和八(一九三三)年六月発行の『生理』「Ⅰ」である。

   *

 

   屋上の虎

 

虎なり

茫漠として巨像の如く

百貨店上屋階の檻に眠れど

汝はもと機械に非ず

牙齒もて肉を食ひ裂くとも

いかんぞ人間の物理を知らむ。

見よ 穹窿に煤煙ながれ

工場區街の屋根屋根より

悲しき汽笛は響き渡る。

虎なり

虎なり。

 

午後なり

廣告風船(ばるうむ)は高く揚りて

薄暮に迫る都會の空

高層建築の上に遠く座りて

汝は旗の如くに飢えたるかな。

沓として眺望すれば

街路を這ひ行く蛆虫ども

生きたる食餌を暗欝にせり。

 

虎なり

昇降機械(えれべえたあ)の往復する

東京市中繁華の屋根に

琥珀の斑(まだら)なる毛皮をきて

曠野の如くに寂しむもの。

虎なり

ああすべて汝の殘像

虛空のむなしき全景たり。

       ――銀座松屋の屋上にて――

   *

最後の添書の「坂」の脱落はママ。]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 廣瀨川

 

   廣瀨川

 

廣瀨川白く流れたり

時されば皆幻想は消え行かむ。

われの生涯(らいふ)を釣らんとして

過去の日川邊に糸をたれしが

ああかの幸福は遠きにすぎさり

小(ちい)さき魚は瞳(め)にもとまらず。

                  ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:短詩ながら、恐らくは萩原朔太郎の詩の中でも最も抒情的なもので、一読、忘れ難い名篇である。

「廣瀨川」は群馬県渋川市・前橋市及び伊勢崎市を流れる利根川水系の一級河川。ウィキの「広瀬川(群馬県)」によれば、『群馬県渋川市で利根川から分かれ』、『前橋市街を南東へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市で利根川に合流する。合流点の至近には埼玉県深谷市との県境がある』。『戦国時代まで利根川の本流は広瀬川のあたりを流れていたといわれる。この古利根川は江戸時代には比刀根』(ひとね)『川と呼ばれ、利根川を利用した灌漑用水として整備された。上流部は広瀬用水、途中で分流・合流する桃の木用水と併せて広桃』(ひろもも)『用水、広瀬桃木用水とも呼ばれ』、『古くは江戸から物資などを運ぶ舟運などで栄えたが、現在では親水施設を整備し「水と緑と詩の町」として前橋市のシンボルとなっている』とある。広瀬川右岸の比刀根橋近くに本篇を刻んだ詩碑が建つが、川面に面するように道路と地下歩道通路の向こう側に建てられており、グーグル・ストリート・ビューでは碑の裏面(右手にのみ支える石柱が見え、建碑クレジットが確認出来る)しか見えない。なお、個人(松永捷一氏)サイト「高校物理講義のノートとつれづれの記」の「前橋の詩碑」の中の「廣瀬川」に『広瀬川の詩碑』とあって、詩碑前面の画像を載せ、『碑面の左側の柱は、旧萩原家の門柱の一本を記念として使用している』とある。碑の独特の形状と、昭和四五(一九七〇)年五月に『設置された』とあるので、これに間違いない。グーグル・マップ・データに切り替えると、ここの河岸で、広瀬川の現流域が確認出来る。

 後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」)の冒頭では、本篇をよりブルージ―にインスパイアした詩篇を掲げて、以下のように語り出している。

   *

 

物(もの)みなは歲日(としひ)と共に亡び行く。

ひとり來てさまよへば

流れも速き廣瀨川。

何にせかれて止(とど)むべき

憂ひのみ永く殘りて

わが情熱の日も暮れ行けり。

 

 久しぶりで故鄕へ歸り、廣瀨川の河畔を逍遙しながら、私はさびしくこの詩を誦した。

 物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――鄕土望景詩に歌つたすべての古蹟が、殆んど皆跡方もなく廢滅して、再度(ふたたび)また若かつた日の記憶を、鄕土に見ることができないので、心寂寞の情にさしぐんだのである。

 全く何もかも變つてしまつた。昔ながらに變らぬものは、廣瀨川の白い流れと、利根川の速い川瀨と、昔、國定忠治が立て籠つた、赤城山とがあるばかりだ。

   *

同散文詩はエンディングでも、

   *

 

物みなは歲日(としひ)と共に亡び行く――。

ひとり來りてさまよへば

流れも速き廣瀨川

何にせかれて止(とど)むべき。

        ――廣瀨河畔を逍遙しつつ――

 

   *

やや表現を変えたリフレインで終曲している。

 初出誌は未詳。現行知られた先行する初出は大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」である。以下に示す。

   *

 

   廣瀨川

 

廣瀨川白く流れたり

時さればみな幻想は消えゆかん。

われの生涯(らいふ)を釣らんとして

過去の日川邊に糸をたれしが

ああかの幸福は遠きにすぎさり

ちいさき魚は眼(め)にもとまらず。

 

   *

「ちいさき」はママ。]

2020/05/31

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 國定忠冶の墓

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽而(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴(ぶらい)の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しきかな。

久遠に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせむ。

          ――上州國定村にて――

 

【詩篇小解】 國定忠冶の墓  昭和五年の冬、 父の病を看護して故鄕にあり。 人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。 ひそかに家を脫して自轉車に乘り、 烈風の砂礫を突いて國定村に至る。 忠治の墓は、 荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、 暗き竹籔の影にふるえて、 冬の日の天日暗く、 無賴の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。 我れ此所を低徊して、 始めて更らに上州の肅殺たる自然を知れり。 路傍に倨して詩を作る。

 

[やぶちゃん注:「國定忠冶」(文化七(一八一〇)年~嘉永三(一八五一)年)は江戸後期の侠客。本名は長岡忠次郎。父は上野(こうずけ)国(群馬県)佐位(さい)郡国定村の中農与五左衛門。十七歳の時、人を殺(あや)め、大前田英五郎の許に身を寄せて博徒の親分として売り出した。博奕(ばくち)を業とし、縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めては私闘を繰り返した。天保五(一八三四)年、敵対する島村伊三郎を謀殺したことから、関東取締出役(所謂「八州廻り」。文化二(一八〇五)年に設置された幕府の役職。関東地方の無宿者・博徒などの横行を取締って治安維持強化を図り、幕領・私領の別無く村を回って警察権を行使する強大な権利が与えられていた。代官の手代・手付から八名(後に十人)を選任した)に追われる身となり、以降、一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、「関東通り者」の典型となった。逃亡・潜伏を繰り返すうち、同七年、信州の弟分の茅場長兵衛(兆平とも)を殺した信州やくざの原七(波羅七)を討つため、大戸(群馬県)の関所を破ったり、同十三年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋を履いた三室勘助を子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど、幕府の御膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。その間の逃亡や潜伏を支えたのは、一家の子分の力もあるが、忠治を匿った地域民衆の支持もあった。伝承によれば、同七年の「天保の大飢饉」の際には私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門(にしのめうえもん)と協力して、博奕のアガリで農業用水の磯沼を浚(さら)ったりした。忠治の存在は幕府にとって沽券に係わるものとなっていた。嘉永三(一八五〇)年夏、潜伏先の国定村で中気となり、隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中、捕らえられ、江戸に送られて勘定奉行の取調べられたが、罪状が余りに多過ぎるため、最も重い「関所破り」を適用されて磔(はりつけ)と決まった(宇右衛門も彼を匿った罪で打首となった)。磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々、道中行列を演技し、十四度まで槍を受けて衆目を驚かせた。忠治の対極にいた代官羽倉簡堂は「劇盗忠二小伝」(「赤城録」)を著し、『凡盜にあらずして劇盜』と評した。死後の忠治は、時代が閉塞状況となる度、国家権力と戦う〈民衆のヒーロー〉として映画や芝居などを通して甦った。墓は金城山養寿寺(群馬県伊勢崎市国定町)と善応寺(伊勢崎市)にある(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。萩原朔太郎が行ったのは前者で、ここ(グーグル・マップ・データ。同サイド・パネルの墓の画像はこちら)。サイト『「風雲児たち」に登場する人物の事典(第一期)』の「国定忠治」によれば、『萩原朔太郎は、 昭和』五『年冬に実家から』二十キロメートルも『離れた国定村まで』、『自転車で墓参りに行』き、本詩を詠んだと記す。これは正しいが、但し、初出の吟詠のクレジットは以下に見る通り、昭和八(一九三三)年一月である。

「蠶」「かひこ」と訓じでおく。

「閾(しきみ)」内外の境として門や戸口などの下に敷く横木。現在の敷居に当たる。戸閾 (とじきみ) 。

「悽而(せいじ)」陶淵明の「閑情賦」の中に用例があるが、それは「色慘悽而矜顏」(色は慘悽として顏を矜(きよう)す)であって、「顔の色は如何にも痛ましい感じで、泣いてさえいる」で、このような熟語は普通に使用されることはない。萩原朔太郎の勝手な造語の一つと考えてよい。以下の初出の「悽爾(せいじ)」も同様である。

「肅條」「しゆくでう(しゅくじょう)」であるが、意味不明。「蕭條」(せうでう(しょうじょう):ひっそりともの寂しいさま)の、やはり朔太郎お得意の例の思い込み誤用である。

 昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『自らのさだめを見さだめる』と題して以下のように述べておられる。底本の傍点「ヽ」を太字に代えた。

   《引用開始》

 ここには、「品川沖観艦式」におけるような、外的客体物への主観の投入、その融一化というより、もっと冷静に、主観と客観とは分離しているようです。いうまでもなく第一連では、寒々とした竹藪の影の「無頼の眠りたる」忠治の墓が描かれ、第二連では、ついに自らが墓石と化する日を、まざまざと見て、おのれの感懐(かんかい)をのべるのです。忠治の墓は、「路傍の笹の風に吹かれ」て、ひえびえと彼の眼前にあります。それは、現実の、歴史的時間の中に、非情にも「亡び尽」される一切の実存の姿にほかなりません。ここにおいて、彼は、巨大な、という形容さえこと足りぬ、外部現実の中に置かれた、実存の、のがれ得ぬ絶対的条件に直面し、自らのさだめを見さだめます。

  いかんぞ残生を新たにするも

  冬の蕭条(せうでう)たる墓石の下に

  汝はその認識をも無用とせむ。

 第一連の描写的記述の中に、「人生の貧しき惨苦を感ずるなり。」の感懐表白の一行が置かれたのと対比的に、この第二連の感懐表白体の中に挟まれた、「冬の蕭条たる墓石の下に」という一行のイメェジは、きわめて効果的で、「かの荒寥たる平野の中」の行とともに、けっして感覚的に多彩でもこまやかでもありませんが、その大づかみな抱え方において、よく前後の重い観念的詩句と均衡(きんこう)を保っています。そして、「日月我れを投げうつて去り」の一句が、陶淵明(とうえんめい)の「日月擲ㇾ人去」(「雑詩」其二)に基づくかどうかはともあれ、つづけて「意志するものを亡び尽せり。」と読むとき、それは詩句としての異常な緊張力のゆえに、読者を感動させるのを知ると同時に、やはりそこに、これまで見てきた萩原朔太郎という詩人の久しい間の詩業と、その精神の歴史がまざまざと甦(よみがえ)り、ほとんど劇的といっていい感動となって迫ってくるのを、おぼえずにはおれません。

   *

この絶賛は過褒ではない。

 初出は昭和八(一九三三)年六月発行の『生理』「Ⅰ」である。

   *

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽爾(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しいかな。

久遠(くゑん)に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせん。

   ――上州國定村にて、一九三三年一月――

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 中學の校庭

 

   中學の校庭

 

われの中學にありたる日は

艶めく情熱になやみたり。

怒りて書物を投げすて

ひとり校庭の草に寢ころび居しが

なにものの哀傷ぞ

はるかに彼(か)の靑きを飛び去り

天日直射して 熱く帽子の庇(ひさし)に照りぬ。

           ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:最終画面の強烈なハレーションが、我々のある種の普遍的追懐のへと収斂してゆく手法は見事と言わざるを得ない。萩原朔太郎は明治三三(一九〇〇)年(数え十五歳)三月に群馬県立師範学校附属小学校高等科を卒業し、四月に県立前橋中学校に入学した。明治三十七年三月に五年次生進級に際して落第し、翌年(二十歳)四月に進級、翌明治三九(一九〇六)年三月に卒業している。本篇については、case 氏のブログ「流体枷仔」(りゅうたいかせこ)の「萩原朔太郎『純情小曲集』「中學の校庭」小考」が驚異の解析力で初出からの推敲過程を推察されているので、是非、読まれたい。

 なお、そこにも訂正・削除がされて少し書かれてあるのだが、筑摩版萩原朔太郎全集第二巻(昭和五二(一九七七)年刊)の「解題」の「初出形及び草稿詩篇」に、この「中學の校庭」については、大正一二(一九二三)年一月号『薔薇』が初出であることが判明しているものの、当該雑誌を採集することが出来なかった旨の記載がある。従って、本当の初出形は私は示すことが出来ない。

 なお、大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」には「郷土望景詩の後に」という自解パートが巻末にあり、「Ⅳ 前橋中學」という条が最後にある。

   *

 

 Ⅳ 前橋中學

 

 利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。

 

   *

とある。「四つ葉(くろばあ)」の「くろばあ」は「四つ葉」三字に対するルビである。

 さらに、後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、

   *

 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ

 

  艶めく情熱に惱みたり

 

 と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絕えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。

 

   *

と強い呪詛として語られてある。

 以下、現在知り得るこれ以前の形である「純情小曲集」版のものを示す。

   *

 

   中學の校庭

 

われの中學にありたる日は

艶(なま)めく情熱になやみたり

いかりて書物を投げすて

ひとり校庭の草に寢ころび居しが

なにものの哀傷ぞ

はるかに彼靑きを飛びさり

天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。

 

   *]

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 動物園にて

 

   動物園にて

 

灼きつく如く寂しさ迫り

ひとり來りて園内の木立を行けば

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を食らひ

本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に

鐵鎖のつながれたる惱みをたえたり。

暗欝なる日かな!

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり。

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙みつきつつ

さびしき復讐を戰ひしかな!

いま秋の日は暮れ行かむとし

風は人氣なき小徑に散らばひ吹けど

ああ我れは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

[やぶちゃん注:「たえたり」はママ(初出も同じ)。ロケーションの動物園はどこのそれか不詳。

 初出は昭和五(一九三〇)年二月号『ニヒル』(創刊号)。

   *

 

   動物園にて

 

灼きつく如く寂しさ迫り

一人來りて園内の木立を行けり。

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を喰らひ

本能の蒼き瞳(ひとみ)に

鐵鎖のつながれたる惱みをたえたり。

暗欝なる日かな

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

いかんぞこの悲しきものを見るに耐えん。

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙み付きつつ

さびしき復讐を戰ひしかな。

今秋の日は暮れ行かんとし

風は人氣なき小徑に散りばひ吹けり。

ああその思惟を斷絕せよ

われは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

   *

「耐えん」もママ。]

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