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カテゴリー「「明恵上人夢記」」の66件の記事

2018/07/17

明恵上人夢記 67

 

67

一、同廿四日の夜、夢に云はく、解脱の御房、來り給ふ。予、行水の爲に御湯帷(おんゆかたびら)を借り奉る。心に無禮(むらい)の思ひを作(な)す。卽ち、申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す。時に、一つの作りたる蓮花を與へ、又、紙の裹物(つつみもの)を賜はる。此の蓮花は邪輪の如し。心に思はく、先日、又、賜はりきと思ふ。

[やぶちゃん注:「同廿四日」前条からの続きとして、「66」の四日後の承久二(一二二〇)年九月二十四日と採る。

「解脱の御房」底本注によれば、既に七年前に没している法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)である。ウィキの「貞慶によれば、『祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる』。『祖父信西は』「保元の乱」(一一五六年)の『功により』、『一時権勢を得たが』、「平治の乱」(一一五九年)では『自害させられ、また父藤原貞憲も土佐に配流された』。『生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り』、十一『歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ』。寿永元(一一八二)年、『維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って』建久四(一一九三)年、『以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し』、『弥勒講式を作るなど』、『弥勒信仰をいっそう深めていった』。元久二(一二〇五)年『には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。しかし、法然に師事したのが』(『その時は既に亡くなっていたが』)『貞慶の叔父(父貞憲の弟)の円照(遊蓮房)であった』ともある。承元二(一二〇八)年、『海住山寺に移り』、『観音信仰にも関心を寄せた』。彼の没後の建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され』て『行ったとあるように』、『慶円三輪上人とは無二の親友であった』とある(下線太字やぶちゃん)。明恵が法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしていること、明恵が建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすまでは、四十歳も年上の法然を非常に高く評価し、尊敬もしていた事実と強い親和性を持つ人物であると言える。なお、明恵の歌に、

   解脱上人の御許へ、花嚴善知識の曼荼羅、

   かきて送りたてまつり給ひけるついでに

 善知識かきたてまつるしるしには 解脱の門に入らむとぞ思ふ

という一首がある。底本注によれば、「花嚴善知識の曼荼羅」とは、「華厳経入法界品」に『説く、善財童子の求法を描いた曼荼羅』とある。

「行水」これは禊(みそぎ)を暗示させるものであろう。

「湯帷(ゆかたびら)」「湯帷子」。平安以後の上層階級で入浴時又は入浴後に着た麻の単 (ひとえ)麻や木綿でしつらえた。ここは入浴(禊)の際のそれであろう。

「無禮(むらい)の思ひ」湯帷子を借りたことを無礼なことであったとする、明恵の内心忸怩たる思いを指すと採る。

「申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す」懇請した湯帷子が貰えたのか、貰えなかったのかは書かれていない。無論、貰えたのであろうが、寧ろ、夢の中では、その湯帷子が「作り物の蓮華」及び「裹物」に変ずるのだとした方が私は「夢」らしいという気がする。

「此の蓮花は邪輪の如し」「邪輪」は「よこしまな誤った法説」の意であり、前に「一つの作りたる蓮華」とあるから、これは「作り物」「紛い物」の偽の「蓮華」で、法然の専修念仏の虚説をシンボライズする黒アイテムであろうか? 則ち、ここで貞慶がその似非物の蓮華を明恵に与えるのは、専修念仏への論難を明恵が正当に受け継ぐことの象徴であり、「裹物」は正法(しょうぼう)の白アイテムであろうように私には見える。]

□やぶちゃん現代語訳

67

承久二年九月二十四日の夜、こんな夢を見た――

 解脱の御房が私のもとへと来られた。

 私は、その時、禊(みそぎ)の行水をしようとしたが、自分の湯帷子(ゆかたびら)が何故か手元になかったため、解脱上人さまの御湯帷子を、乞うて、借り申し上げた。が、しかし、そのことについて、内心、無礼な気が強くしてならなかった。

 そこで、言上申し上げて、強いて請うて、その御湯帷子を上人さまの御形見に擬(なぞら)えて、頂戴したい旨、強く望んだのであった。

 すると、その時、上人さまは、一つの、如何にも作りものであることが判然としたちゃちな蓮花を私に与え、また、紙で包んだ「ある物」を賜はられた。

 この蓮花はまさに邪輪――邪法――そのもののようなものなのであった。

 私はその時、心の中で、確かに、思ったのだ。

『先日もまた、これを私は、上人さまから、確かに、賜はったのであったなあ。』

と。

 

2018/07/14

明恵上人夢記 66

 

66

 初夜の行法、子夜の行法、後夜の坐禪、早朝の行法、餘時の隨意の坐禪。

               朝合三度

 承久二年 同八月十一日 遮失顯德

            三時始之

一、七月、

一、同九月廿日の夜、夢に云はく、大きなる空の中に羊の如き物有り。變現窮り無き也。或るは光る物の如く、或るは人躰(じんたい)の如し。冠を着け、貴人の如く、忽ちに變じて下賤の人と成り、下りて地に在り。其の處に義林房有り、之を見て之を厭(いと)ひ惡(にく)む。予之方へ向ひて將に物云はむとす。予、心に思はく、是は星宿の變現せる也。予、之を渇仰(かつがう)す。願はくは不審を決せむ。卽ち、予に語りて曰はく、「多く人之(の)信施を受くべからず。」。卽ち、之を領ず。予、問ひて云はく、「予の當來之(の)生處(せいしよ)は何所(いづこ)か。」。答へて曰はく、「忉利天(たうりてん)也。」。問ひて曰はく、「彼(か)の天に生じて、已に五欲に就著(しゆうぢやく)せずして、佛道を修行せむか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。天の云はく、「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか。」。答へて曰く、「尓也。」。心に思はく、『後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる。』と思ふ。又、白(まう)して言はく、「常に此(かく)の如く護持せしむべし。」。答へて曰はく、「尓也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:底本注に、『以下』、ずっと後の「同八日の夜、山の峯に於いて、遙かなる海の上を見ると云々」『まで「明恵上人夢記」と題する一冊』とある。冒頭部は明恵が自身に課した厳重な勤行既定のメモであるが、それが夢の前に配されていることは、その覚悟が、その後に見た自身の夢と密接な関係性を持っていると明恵が強く認識していることを示している。

「初夜」通常ならば、初夜は六時(仏家に於いて一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の六つに分けたもの。この時刻ごとに念仏や読経などの勤行を行う)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のことである。

「子夜の行法」「子夜」は「しや」と読んでおく。「子(ね)の刻」のことで午前零時頃に行う勤行。「中夜」は現在の午後十時頃から午前二時頃までの広汎な時制を指すので、それと同じと考えてよい。

「後夜の坐禪」現在の午前四時頃に行う座禅。「朝合三度」はこれの左注と採るならば、朝と合わせて三度の座禅ということか。ということは、朝は二度定期の坐禅を行っているということであろうか。よく判らない。

「餘時」その他の時間。

「承久二年 同八月十一日」ユリウス暦一二二〇年九月九日。「承久の乱」の前年である。

「遮失顯德」よく判らぬが、「遮失」が「遮二無二」の「遮」と同義であるとすれば、「失を断ち切る」の意で「不断に」の意か。「顯德」は仏法の徳を顕かにすると採れば、そうした厳しい徹底した勤行をこの日、「三時始之(三時(さんじ)、之れを始む)」(「三時」は先の六時の晨朝 ・日中・日没 の昼三時と初夜・中夜・後夜の夜三時を指すから、イコール、全日を指す)で、完全に隙間なく開始したという意か。

「一、七月」以下何も書かれていないから、前の時制よりも前の七月に見た夢を記そうとして、そのままになったものか。

「同九月廿日」ユリウス暦十月三十日。

「義林房」既出既注であるが、再掲しておく。明恵の高弟喜海(治承二(一一七八)年~建長二(一二五一)年)の号。山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事して華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵一次資料として重要な明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は彼の手になる。弟子には静海・弁清などがいる(以上はウィキの「喜海」に拠る)。この奇妙な挿入シークエンスは、明恵のこの弟子に対するというよりは、彼に代表される諸々の明恵の弟子たち総てに対する、明恵の潜在的な不満或いは心的複合(コンプレクス)がシンボライズされているように読める。

「渇仰」深く仏を信じること。咽喉の渇いた者が水を切望するように仏を仰ぎ慕う意。「かつぎやう(かつぎょう)」と読んでもよいが、私は一律、「かつごう」と読むことにしている。

「不審」何故に、わざわざ私の現前にかくも現われたのだろうという明恵の疑問。

「信施」信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施。「しんぜ」と読んでもよいが、濁音化はこの語の場合、私は生理的に嫌いである。

「領ず」諒承した。

「忉利天」仏教の世界観に現れる天界の一種。忉利はサンスクリットのトラーヤストリンシャ (或いはその俗語)の漢音写。「三十三天」と意訳する。須弥山(しゅみせん)の頂上には、帝釈天(インドラ)を統領とする三十三種の神が住んでおり、中央に帝釈天、四方にそれぞれ八天がいるので、合計三十三天となる。殊勝殿や善法堂をはじめ、数々の立派な建物・庭園・香樹などを備わり、一種の楽園としてイメージされている。釈迦の母が、死後、ここに転生したため、釈迦が彼女に説法するために、一時、ここに昇り、帰りに三道宝階によって地上へ降ったとされる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五欲」原義は眼・耳・鼻・舌・身が存在することから生ずる五種の欲望。色欲・声欲・香欲・味欲・触欲であるが、判り易く別に示されるものは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲である。

「尓(しか)也」その通りである。請けがう台詞。

「當來之生處は何所か」来たるべき来世の私の生まれ変わることになっている時空間は何処か?

「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか」「お前は自身の脳味噌を焼かないことはないか?」か。所詮、「人としての下らぬ智などを惜しまぬことはないか?」、さらには「人としての命を失ってしまうことを惜しむような気持ちはないか?」という意味で採る。

「後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる」――『「死後の後生が仏法に則(そく)して善きものとなる」と心から信じているならば、この現在の仮象でしかないお前がどうなろうとよいのが真理である。現世に於いて、相対的な他者に対して、何かの存在であろうなどという考えることは、それこそ、全く無意味なことである』と仰っておられるのであろう。――という意味か。]

□やぶちゃん現代語訳

66

◎初夜の行法・子夜の行法・後夜の坐禅(朝と合せて三度となる)・早朝の行法・その他の時間の随意の坐禅

◎承久二年 同年八月十一日 徹底した厳格な勤行(それを日々完全に始動した)

 

○七月にこんな夢を見た――

[やぶちゃん注:以下、記載なし。]

 

○同承久二年九月二十日の夜、こんな夢を見た――

 

……大きな虚空の中(うち)に、羊の如き「なにもの」かが存在しているのが見える。

 それは――変現の窮りなき、しかし、確かな存在――である。

 それは、或いは「光るもの」のようでもあり、また、或いは人間の姿のようでもある。

 冠(かんむり)を被り、貴人の如くであったかと思えば、忽ち変じて下賤の民草の姿ととなり、そうして地上へ下って、「しっか」と立った。

 その附近には、私の弟子義林房が立っていたのが見えるのであるが、その「なにもの」かは、これを見て、義林房のことを――或いは、そこに義林房いることを――何故か、厭(いと)い憎んでいることが、ありありと私には感ぜられた。

 そうして、その「なにもの」かは私の方に向かって、まさに何かを言わんとした。

 その時、私が心に思ったことは、

『これは! 仏菩薩を守護なさる星宿の変化示現(へんげじげん)されたものである! 私は、それを心から信ずるものである! 願わくは、「何故に、かく畏くも、私の現前に現われなさったものか?」という、大いなる疑問を、これ、明らかにせずんばならず!』

という切実な思いなのであった。

 すると、直ちに、「そのお方」は私に仰せられた。

「あたら、多く人の信施(しんせ)を受けてはならない。」

 私は即座に、その命を肯(がえん)んじた。

 そうして私は「そのお方」にお訊ねした。

「私めの、来たるべき来世の存在する所は何処(いづこ)にて御座いますか?」

と。

 「そのお方」は答えて仰せられた。

「忉利天(とうりてん)である。」

と。

 「そのお方」は即座に再度、私にお問いになれた。

「汝(なんじ)は、かの忉利天に転生し、既に五欲に執着することなくして、正しき仏道を修行する覚悟があるか?」

と。

 私は答へて申し上げた。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 「天の星宿の権現なるお方」が、また、お問になられた。

「汝は汝の脳髄が焼き尽くされて消滅することを恐れぬか?」

と。

 お答えした。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 その瞬時、私が心に思ったことは、

『これは――「後生(ごしょう)が仏法に則(そく)して善(よ)きものとなる」と心から信じているのであるならば、この現世のお前という存在がどのようになろうと、そんなことは、どうでもよいことなのである。現世に於いて他者の前にあって、何らかの存在であろう、ありたい、などと思うことは、これ、全く無意味なことなのである――という真理を仰せられているのだ!』

という確信であった。

 そうして「そのお方」は最後に、また、仰せられた。

「常に、かくの如く、正法(しょうぼう)を護持するがよいぞ。」

と。

 私は自信を持ってはっきりと答えた。

「その通りで御座います!」

 

 その瞬間、私は夢から醒めていた。

 

2018/05/14

明恵上人夢記 64・65

 

64

一、夢に、殊勝なる殿に到る。池等、處々二三ありと思ふ。悦びの意の朋友等、之在り。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「63」夢との連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三或いは十四日以降の夢としておく。

「殊勝なる」格別に設計されて手入れも行き届いた。

「之在り」「これ、あり」。]

□やぶちゃん現代語訳

 こんな夢を見た。

 格別に勝れた建築で手入れも行き届いている仏殿に辿りつく。

『心を静謐にさせる池なども、ところどころ、二つも三つも配されているではないか。』

と瞬時に判った。

 傍らには、心底から悦びの思いを湛えている朋友らが、ともにあるのである。

 

 

65

一、夢に、母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「64」の連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三日或いは十四日以降の夢としておく。本記載を持って、一つのパートが終わっており、以下は連続した記載ではない。但し、次の冒頭には「承久二年 同八月十一日」のクレジット記載があるから、時系列上の連続性は問題がない。

「母堂」明恵は治承四(一一八〇)年正月、数え九歳で母を失っており(病死)、八ヶ月後の九月には父平重国(元は高倉上皇の武者所の武士)が上総で敗死している。因みに、「63」で示した、明恵が自身にとって最も安定的で問題のない修法とする「仏眼法」とは、実は密教の女神である「仏眼尊」「仏眼仏母」を観想する修法であり、「仏眼仏母」は般若の智慧を象徴した神格で、仏陀を出生させる母であるともされ、一切諸仏の母とさえされる存在なのである。胎蔵界曼荼羅遍知院中央一切如来知印の北方、並びに釈迦院中央釈迦牟尼仏の北方列第一位に在って、菩薩形で結跏趺坐している。息災延命を祈る修法の本尊とされる。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(一九八七年京都松柏社刊)で、この明恵が若き日より強く指向し続けた仏眼仏母との一体感は、強烈にストイックな修行者としての明恵の修行の中にあってさえ、実は『愛人としても体験されたのではないかと思われる。もちろん、ここで愛人といっても、それは母=愛人の未分化な状態であり、性心理學的表現で言えば、母子相姦的関係であったと言える』と述べておられる。この見解に私は激しく共感するものである。ここで明恵の母が尼僧の姿であるのは、実は明恵の永遠の愛人=母=原母=仏眼仏母であることを意味しているのではあるまいか?

「常圓房」底本注に『明恵の姉妹の一人』とある。さて、実は河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」でこの短い夢を明恵の特異点の夢として挙げ、分析しておられる(河合氏はこれら「63・64・65」夢を同一時制内で見たものと捉え、建保七年(一二一九)七月十三日の夢と推定されておられる)。ここでは、それを総て引用させて戴く

   《引用開始》

 常円房は明恵の姉妹である。この夢は数多くの明恵の夢の記録のなかで、唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢である(父親の夢は一つも記録されていない)。これは非常に珍しいことで、特に明恵のように十九歳という若いときから夢を記録していると、たとえ両親が死亡していても、夢には両親が少しは顔を出すものである。九歳のときに乳母の夢を見ているが、あるいは、十九歳までは彼も家族の夢をよく見たのかも知れない。十六歳で出家したとき、釈迦が父に、仏眼仏母が母になって、肉親としての父母は、彼の内界においてあまり意味をもたなくなったのであろう。ところが、ここでは突如として、母がその娘と共に登場している。

 これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう。遠くに旅立つ人が両親に挨拶に帰るように、このようなことは夢に割とよく生じることである。これは時に妨害的にはたらき、深層への旅立ちや、未知の女性との接触を、何らかの方法で肉親(特に母親)が妨害する夢として生じてくる。

 明恵の場合は、そのような意味でなく挨拶、あるいは、慰めの意味で母に会ったのであろう。母は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志したであろう。

   《引用終了》]

□やぶちゃん現代語訳

65

 こんな夢を見た。

 母上に謁する。

 母上は尼の姿なのである。

 そうして、その場には私の姉(妹)の常円房が、母上の前にいるのである……。

 

明恵上人夢記 63

 

63

一、其の十三日、かの行法の後、□夢想を轉じて見せばやと思ふに、内野(うちの)の如くなる處にて二三丁許りを隔てて上皇を見奉る。□□□□□隱し奉る。卽時に片方へ行きて諭し□□□□□處に到る。今は此(ここ)にとも□□□□□思ふ。隱しおほせつと□□□□□。

[やぶちゃん注:□は判読不能部分。これだけあると、最早、訳しようがないが、一応、逐語的には訳しておいた。

「其の十三日」ここまでの流れと、前の「62」夢の原注に従うなら、「62」夢の翌日、承久元(一二一九)年七月十三日の夢となる。通常の人間の夢は(少なくとも私の場合は)日を続けて見た夢だからといって、それに同一人物が登場したとしても、それが一連の夢(解釈)として連続しているものではない。しかし、明恵のような特異な人物の場合、その連関性を積極的に認めてもよいようには思う(「積極的に認めなくてはならない」というわけではない)。しかし、この場合、同じ「院」=「上皇」=後鳥羽上皇が登場しているのには、かなり強い強連関性のメッセージが表わされている、と夢を見た明恵自身は当然、考えた。だからこそ、書きとめていると言える。

「かの行法」これ以前で彼が自身に課した「行法」について述べているのは「42」であり、十三年前の建永元(一二〇六)年十二月一日より開始している(詳細はそちらを参照)。そこで明恵は、その行法を「宝楼閣法」と「仏眼法」と称しており、「宝楼閣法は二つの刻限に修して、朝と夕、仏眼法も二つの刻限に修し、こちらは後夜(ごや)と」し(私の訳で示す)、「但し、午後の部の始める時刻は孰れも、宵の口を修法の開始としている。これは本修法が基本的には己れ自身のためにする行法であるが故であり、さればこそ、式礼の如く強いて、修するに吉凶の時を占って撰ぶということをしていない。そもそも、これらは遙か以前より私が個人的に行なってきた修法であって、今まで一度たりとも不都合なることはなかったが故である」と述べているから、この午前四時に修めた「仏眼法」の後に一睡した時の夢という風に読める。しかも、この時、明恵はこの「仏眼法」が「遙か以前より私が個人的に行なってきた修法で」、「今まで一度たりとも不都合なることはなかった」私の精神に(即ち、夢にも)活性的な力を持つものであったから、それを修した後に徐ろに夢見すれば、どうも昨日までの夢見の落ち着きが悪いのを、「夢想を轉じて見」ることが出来ると思った=半可通な夢を転じて見てみたい「と思」って、寝に就いた、と読むことが出来るのではあるまいか? 何? 今までだって彼が見た夢は皆、その修法を終えてからの夢だったのではないのかって? それは大きな誤りだ。今までの私の注にも述べているが、彼が見る夢は、休息のごく短い間の観想中のものもあり、時には覚醒時幻覚のようにして見たものも既に含まれているのだよ。そういう半可通なことを言うあんたは、私のこの「明恵上人夢記」を読んできていないことがバレたね……哀しいことに……。

「内野」京都市上京区南西部の旧地名。平安京大内裏のあった所。

「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。

「□□□□□隱し奉る」目的語は不詳だか、敬語から後鳥羽院の目から隠したことは判る。

「片方」不詳。少なくとも以下に敬語が全く使用されていない以上、単に後鳥羽院本人の方という意味ではあり得ない

「諭し」補語(誰に)も目的語(何を)も不詳。]

□やぶちゃん現代語訳(丸括弧内は判読不能部。一部は仮想の自然と思われる語を補ってみた)

63

 その翌日の十三日のこと、何時もの通りの仏眼法まで総てを終えた後で、

『(さても。どうも昨日までのすっきりしない)夢想を転じて見てみたいものだ。』

と思って一睡した。その時、こんな夢を見た。

 大内裏の内野(うちの)のようなところである、二、三町ほど隔てて、後鳥羽上皇さまを見申し上げている。

 私は(思わず、(  )を)隠し申し上げた。

 そして、直ちにとある一方へ行って(  )を諭(さと)し、(  )の処(ところ)に到ったのである。

 その時、

『今は此処(ここ)にとも(に(  )であろう)。』

と私は思ったのである。

『よかった。隠し遂(おお)せることができたのだ。』

と(  )。……

 

明恵上人夢記 62

 

62

  
七月十二日か

一、夢に、將に史廳を出でむとす。然るに、心に任せて怖畏無し。其の夜、院之中に見參に入らむと思ふ。

[やぶちゃん注:「60」夢を私は建保七年二月二十九日とした。これがそれに繋がるものとすれば、承久元(一二一九)年七月十二日の夢となる。この年は建保七年であったが、四月十二日(ユリウス暦一二一九年五月二十七日)に改元している。因みに、前にちょっと述べたが、この年は年初の建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に鶴岡八幡宮社頭にて第三代鎌倉幕府将軍源実朝が公暁に暗殺されている。或いは少なくとも「55」以下の夢の意味には、この事件の影が潜んでいる(分析の際の解釈素材としての潜在性がある)可能性もないとは言えないとは私は考えている。

「史廳」(してう(しちょう))はよく判らぬが、これは直後に「然るに、心に任せて怖畏無し」というのだから、出たその「史廳」なる場所は、通常の人なら怖れ畏まってすごすごと退出する場所と採って初めて文意が(そことは)繋がると思う。とすれば、私はこれは、検非違使(京都の犯罪や風俗取締りなどの警察・裁判業務を統括担当した長官)が執務を行う役所を略称する「使廰」ではないかと読んだ。但し、初めは左右衛門府内(後に左のみ)に置かれていたが、それも、ウィキの「検非違使によれば、『平安時代後期には』『検非違使庁における事務は』検非違使別当(検非違使庁長官。同疔を統括するものの、実務の責任者である検非違使ではない。ここはウィキの「別当に拠った)『の自宅で行われるようになった』。『平安時代末期になると』、『院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると』、『次第に弱体化し』た、とある。さても、六波羅探題は、ご存じの通り、この二年後の承久三(一二二一)年に後鳥羽院が起した「承久の乱」の後に、幕府がそれまでの京都守護を改組して、京都六波羅の北と南に設置した出先の警察・裁判機関(但し、「探題」と呼ばれた初見は鎌倉末期で、それまでは単に「六波羅」と呼ばれていたであり、まさにこの夢の前後の時制が、京の武装警護集団や刑事警察・裁判機構が幕府側の管理主体へと大きく移行される過渡期の前史に当たっていることが判る(ここではウィキの「六波羅探題も参照した)。

「院」この時制が正しいならば、後鳥羽上皇の院政期である。明恵は建永元(一二〇六)年に後鳥羽院から栂尾山高山寺の別所を賜わっており、先の「56」夢では、自身の自信作「摧邪輪」を後鳥羽院に進上しようとしている点から見ても、彼が後鳥羽院と親しみ、直接に接触する機会が多かったことが判る。とすれば、この夢は実は、明恵が何かを後鳥羽院に奏するために、確信犯の覚悟を持って(それが現実の朝廷方懲罰機関である「史庁」がシンボルするものである)、後鳥羽院に「見參」しようとしていると読め、私はそれは、後鳥羽院へある諫言するためであったのではないか、と読む。即ち、後鳥羽院が近い将来、鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げようとしていることを、明恵は感じ取り、それを諫めるための「見參」ではないと読むのである。「承久の乱」の発生は承久三(一二二一)年五月十四日は後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣に火蓋を切る。わずか二年後である。そもそも、この年初の実朝暗殺以降、幕府と朝廷の関係は急速に悪化し、幕府からの宮将軍の要請も後鳥羽上皇の拒絶にあっているのである。しかし、明恵にそれを後鳥羽院が明かしたり、口を滑らすことは考え難い。しかし、聡明にして鋭い明恵はそれを第六感的には漠然と感知し得た。されば、この夢は、おぞましき朝廷方の完敗と三上皇らの配流に終わる「承久の乱」の予知(警戒)夢なのではないか? と私は思うのである。]

□やぶちゃん現代語訳

62

  
(承久元年七月十二日のことか)

 こんな夢を見た。

 今しも、私は大きな覚悟を持って、世間に怖れられている検非違使庁の門を胸を張って出ようとしているのである。しかし、私は心にまかせて、そうした朝廷の武威に対し、何らの畏怖も、これ、全く感じていないのである。

 歩きながら、

『今夜、後鳥羽院の御殿の中(うち)に、拝謁するために入ろう。』

と強く思っていた。……

 

2018/04/19

明恵上人夢記 61

 

61

又、夢に、上師、死人(しびと)の頭(かうべ)を持てり。半頭(はんづ)なり。今、之を見るに、汝之(の)母方之(の)祖母之(の)後世(ごぜ)、之を訪(とぶら)ふべしと云々。

[やぶちゃん注:「60に続いており、大項目としての59の三つ目に当たる。「60の冒頭注と全く同じ様態(状況・属性)である。必ず、「60の冒頭注を参照のこと。

「死人の頭(かうべ)」「かうべ」は私の読み。「かしら」や「あたま」でもよいが、ここは生首ではなく、私は古い頭蓋骨、それも「半頭」、則ち、頭骨、しゃれこうべの上辺の「鉢」の部分だけなのだ、と私は読む。本夢はホラーなのではない。だから、髑髏(どくろ)の左右の半面なんかでは絶対にあり得ないし、一見すると、古い土器のように見えるものなのだと、私は一読した瞬間、イメージされた。明恵の母方の祖母の、既に葬られて久しい以前の、既に朽ち欠けた瓦(かわらけ)のようになった、それなのだ、と私は強く思うのである。そのように訳した。

「汝之母方之祖母」私はここにきて、やはり「上師」を上覚房行慈としてよかったのだと確信した。何故なら、彼は明恵の母方の叔父で、出家当初からの師だからである。

 

□やぶちゃん現代語訳

61

 また、こんな夢も見た。

 

 上覚上師が、その手に、何か瓦(かわらけ)のようなものを持っておられる。

 それは、よく見ると、死人(しびと)の小さな髑髏(しゃれこうべ)の一部なのであった。

 そうして、それは、髑髏の上の方の半分、鉢のところに当たるものなのであった。

 そして、上師が私に、徐ろに命ぜられた。

「――今、私は、この遺骨を見たのであるが、明恵よ、この――汝の母方の祖母の後世(ごぜ)――これを、しっかりと弔わねばならぬ……」…………

 

明恵上人夢記 60

 

60

 此は後日之夢と覺ゆ

又、夢に、上師、靈鷲山(りやうじゆせん)に在り。予、共に之(これ)に侍り。卽ち、見奉るべき由、心に之を庶幾(しよき)する間(あひだ)也。

[やぶちゃん注:この条は前の「59」夢の箇条「一」の中に含まれて(底本では「一」は最上部で以下、一字下げ表示)いるのであるが、示した通り、「59」の条との間に小文字で「此は後日之夢と覺ゆ」とあり、これは、「これは後日に見た上師関連の夢であったと記憶している」の謂いであり、この「59」に始まる部分(実はもう一夢ある)は上師上覚房行慈が登場する夢であったが故に、上師が登場するこの近場で見た夢三つ纏めて記載したのだということが判る(その間に別な夢を見ていると考えるのが自然であり、とすれば、以下で私が「62」から「65」とする四つの夢(「65」の後は記録が一回切れており、別な時期の夢記載と思われる)が、この「59」「60」及び次の「61」夢に挟まっている場合の分析・解釈の余地を残す必要がある)。明恵は無論、それらが強い連関性を持った夢と思ったが故にかく纏めたのであり、その関連附けを意識する必要は当然ある(夢自体が関連があるかどうかよりも、明恵が関連附けをしたがった事実の持つ意味に於いて遙かに、である)が、必ずしも、我々はそう理解する必要はない。特に「59」が判読不能箇所があり、今一つ、夢の内容が判然としない以上、まずは独立した夢として分析するのがよいであろう。

「後日」「59」夢を私は建保七(一二一九)年二月二十九日としたから、その翌日以降に見た夢となる。

「靈鷲山」(りょうじゅせん)はインドのビハール地方のほぼ中央、古代「マガダ国」の都であった「王舎城」ラージギルの東北にある山で、釈迦が「無量寿経」や「法華経」などを説いた地として知られる。中央付近(グーグル・マップ・データ)。但し、ここは報身(仏陀となるための因としての行を積んだその報いとしての完全な功徳を備えた仏身)となった釈迦(如来)が法華経を説いた現世に出現した霊的な時空間であって、遠い未来に現実世界が毀損しても、釈迦如来は未来永劫、ここに常住して法を説き続ける、とされるから、ここでは「浄土」世界と同義と採ってよい。

「庶幾」心から強く願い望むこと。]

 

□やぶちゃん現代語訳

60

(明恵自注:これは先の夢を見た、その後日に見た別な夢と記憶する。)

 また、こんな夢も見た。

 

 上覚上師は、今まさに、霊鷲山山頂におられる。

 しかも私も、なんと、ともにそこに、上覚上師に従っているのである。

 則ち、今より何が起こるか、しっかりと見届け申し上げことが出来るのだという思いが湧き上がってきて、私は心に、それを切に望み願っているのである。

2018/03/31

明恵上人夢記 59

 

59

一、同廿九日の夜、夢に云はく、上師の御頸の邊に不快の氣有り。予をして之を探らしむ。卽ち、云はく、「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず。」と云々。不文菩薩戒羯磨文(こんまもん)三□□□□□各七八人許り、其の機根に應じて之を講授すべし。喜悦して覺め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「□」は判読不能或いは虫食い。字数は私のいい加減な推定(底本は一つの長方形)であるので信用されないように。

「同廿九日」「58」に続くと考えるなら、建保七(一二一九)年二月二十九日である。

「上師」私は既にほぼ一貫して、これを母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈としてきた。ここでも同じ立場を採る。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂していると考えられることから、この頃は未だ生きていたと考えてよい。

「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず」これは明恵の台詞ではなく、上師の台詞と採る。何故なら、そうであってこそ最後の「喜悦して覺め了(をは)んぬ」が生きてくると考えたからである。「滅」は煩悩や苦悩の消滅及びその先にある「滅度」、即ち、悟りの境地としての「涅槃」と採る。

「云々」は明恵が夢の続きを忘れてしまった場合に多く用いる。ここで切れて、後の夢とは無縁なケースもあるが、ここはしかし、最後の「喜悦」が利いているから、私は夢の中間部がごっそり忘れられてしまい、その最後がこうだったという形で採りたい。そのつもりで訳も読まれたい。

「不文菩薩戒羯磨文」不詳。頭の「不文」がなければ、「菩薩戒羯磨文」は「瑜伽師地論」から、彌勒菩薩が説いたとされる受戒法を抄出して三藏法師玄奘が訳したものである。解説としては『印度學佛教學研究』(第五十四巻第二号平成一八(二〇〇六)年三月発行)の吉村誠論文玄奘の菩薩戒―『菩薩戒羯磨文』を中心に―(PDF)が詳しい。ウィキの「菩薩によれば、『菩薩戒は菩提心や仏性に基づくものとされ、形式よりも動機や心を重視する傾向がある』とある。明恵好みである。「不文」は取り敢えず、不立文字(文字にすることが出来ない奥義)の意で採った

「之を探らしむ」というのは、素手で、直接に、患部に触れて探るのでは、あるまい、と私は推理した。則ち、ある種の超常的能力によって観想・透視させようとしたのだと思う。そう採って訳を読まれたい。

「機根」仏の教えを聞いて悟りを開くための基盤となる宗教的性質や能力。

「講授すべし」上師から、その特殊な秘儀としての「菩薩戒羯磨文」の講説を受けるのがよい。]

 

□やぶちゃん現代語訳(脱落があるので上手く訳せない。悪しからず)

59

 同年二月二十九日の夜、こんな夢を見た。

 

 上覚上師が、御頸(おくび)の辺りに、何やらん、不快の気配を感じておられる。そこで、私を呼んで、その不快な辺りを探らせなさった。しかし、即座に上師は、

「御房は、今、最早、滅に入っておるので、このような世俗の者の体の痛みなどという瑣末なことに関わることはできぬようになっておる。だから、この私の下らぬ首筋の不快感を止めるなどという馬鹿げたことはやれぬ。」

と仰せられた……。

……不立文字としての「菩薩戒羯磨文(ぼさつかいこんまもん)」を三…………各々、七、八人ばかりで、それぞれの者が、今、達しているところの機根に応じて、その奥義の菩薩戒を講授するのがよい、と私は感じた……そうして……心の底から……喜悦した……

 

……というところで目覚め、夢は終わった。

 

2018/02/19

明恵上人夢記 58

 

58

一、同二月廿七日の夜、夢に云はく、上師、賀茂に於いて、一帖の紙上をふまへて、墨を以て之に點ず。神主、傍に在りて之を見る。卽ち、兩人共に相(あひ)談話すと云々。案じて云はく、釋迦・明神と云々。

 

[やぶちゃん注:前の「57」を建保七(一二一九)年と推定したので、これも同年二月二十七日と採っておく。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたことになる。

「賀茂」既に注した通り、賀茂別雷神社の後背地の塔尾の麓に賀茂別雷神社の神主松下能久が建てて明恵に施与した僧坊がある。ここはそこであろう。

「神主」松下能久と採る。

「ふまへて」「強く押さえて」と採る。

「墨を以て之に點ず」限り無く濃い墨の一点を真っ白な紙にただ一つ確かに打った。これは永遠の時空間のシンボルと私は採る。だからこそ、そこに居合わせた二人が真の実在を示すところの神仏と認識されるのである。これはそういう意味では、前の「56」と強い確信の連関を有しているように思われる。]

□やぶちゃん現代語訳

58

 同年二月二十七日の夜、こんな夢を見た。

 

 上師上覚房さまが、賀茂の僧坊に於いて、一帖の大きな紙を広げられてそれを強く押さえておいて、墨を以ってこれに、

――タン!

と一点を打たれた。

 神主の松下能久さまが、その傍らに在られて、これを凝っと見ておられる。

 と、その直後、御両人ともに、互いを正視せられ、徐(おもむろ)にお互いに何かを談話なさっている……。

 夢の中で、その時、私は思った。

『――これは――上覚房さまと能久さま――ではない。……御釈迦様と大明神様なのだ――』と……。

 

2018/01/04

明恵上人夢記 57

 

57

一、夢に云はく、神主、使者を遣はして云はく、「何(いか)にしてか只(ただ)御分別無き。此へ來(きた)らしめ給ふ事候べし哉(かな)。卽ち、早々に來るべき由を念願(おもひねが)ふ也と思ふ。」と云々。卽ち、賀茂之山寺へ入るべき由也と云々。神主は卽ち大明神也と云々。

[やぶちゃん注:クレジットがないが、見た目は、前の「56」が建保七(一二一九)年(推定)「二月十九日」とあり、次の「58」が「同二月廿七日」と始まっていることから、同年二月二十日から二十六日の孰れかの夢記述とまずは採ってよかろう。「云々」は今までの夢記述に徴すると、夢を以下の部分を忘れてしまったことを指し、また、一夜の夢で複数見た場合にもこれを以って前の夢と区別する意味を持つ場合もあるが、ここは明らかに連関したもので、前者と考えてよい。

「神主」底本編者注に、『賀茂能久。賀茂別雷神社』(かもわけいかづちじんじゃ。京都の上賀茂神社(これは通称)のこと)『の神主。嘉応元年(一一六九)の誕生。建保二年(一二一四)九月九日に神主に補された。承久の乱後鎮西に流され、貞応二年(一二二三)六月十日没。五十五歳』とある。講談社の「日本人名大辞典」によれば、彼は後鳥羽上皇の近臣であり、承久の乱では幕府軍と実戦でも戦っていた。このため、六波羅に捕らえられて太宰府に流罪となったのであった。この時、四百年続いた同神社の斎院も廃絶している。ふと思ったのだが、或いはこの事実とこの夢は関係しているのではないか? 神に奉仕すべき神聖な処女が永遠に失われた今、明恵以外に新たな神への真の潔斎した奉仕者はいないと言っているのではあるまいか?

「賀茂之山寺」現存しない賀茂別雷神社に付随した別当寺であろう。「山寺」とあるから、同神社の後背地か。さすれば、これはまさに「5に出た「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、底本注で『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』というそれではあるまいか?

「大明神」これは本地垂迹説に基づくものである。賀茂別雷神社の祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であるが、この神名は記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命によれば、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』とある。先の「56」では明恵は自身の強力な鎌倉新仏教のシンボルたる法然(浄土宗)への論難書「摧邪輪」(ざいじゃりん:邪輪(よこしまなる法説)を打ち摧(くだ)く)が重要なアイテムとして出てきている。まさに今、強力は正しい仏法の力を以って、正邪を果敢に裂き分けるべき力を持っているのは「摧邪輪」を書名とした明恵以外にはないことを、仏が垂迹して賀茂別雷命の明神として夢に現れて示現したのだ、と明恵は解釈しているのではるまいか?

□やぶちゃん現代語訳

57

 こんな夢を見た。

 

賀茂別雷神社の神主賀茂能久殿が使者を遣わしておっしゃることには、

「どうして! そのように、ただもう! 勘所の御決心をお下しになられる御覚悟がおありで無いのか! ここへ御来臨なられて「在る」ことがなんとして「在る」べきことなんで御座いますのに! そうなのですよ! いち早く、何より早々に! ここへこそ御来臨あるべきことをこそ心の底から切に思い、願(ねご)うておるということを祈念致いておるで御座る!」

と……。則ち、彼は、

「直ちに! 賀茂の山寺へあなたは入らねばならない使命がある!」

と……。

……おや? おお! かの神主は、人、ではない! 賀茂能久殿その人ではないぞ! まさしく! 即ち「大明神」そのものなのであった! と……。

 

 

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