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カテゴリー「「明恵上人夢記」」の75件の記事

2018/08/15

明恵上人夢記 78

 

78

一、同十一月十三日の夜、夢に云はく、此の比(ころ)、一向に坐禪す。一頭の大きなる獮猴(みこう)有りて、予に馴(な)る。予、之に教へて禪觀を修せしむ。獮猴、教へに隨ひて禪法を學ぶ。定印(ぢやういん)を結びて結跏坐(けつかざ)す。然れども、坐法、少し直(なほ)からずと云々。又、予、洛陽の大路に出づ。然れども、一身にして從ふ所無し。道を知らざれば、推量して至らむと欲す。至る所は淸水寺(きよみづでら)等なり。見渡すに、終(つゐ)に知るべき由、之を覺ゆと云々。又、一つの大きなる殿、有り。其の前に、池、有り。水、減少して穢(けが)れ濁る。小蟲等、之(これ)、有り。其の家、釣殿の如きを水に造り懸けたり。其(それ)もゆるぎて全(まつた)からずと云々。

  合せて曰はく、此(これ)、行法を修せず

  して、寶樓閣、あれたるなり。池は樓閣

  の前の池也。坐禪に鎭護無き也。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月十三日と採る。三パートに分かれるが、これが実際に同夜に見た三つの別な夢だったのか、或いは孰れか又は総てが連続した夢あったかは不明である。しかし、明恵はこれらの三つの内容を綜合して解釈し、最後に夢分析を添えているのである。特に最初の猿の坐禅の比喩は何か非常に面白いものであり、最後の明恵の短い夢分析から考えると、既存の平安旧仏教の堕落したさまが猿に換喩されているような感じを受けないでもない。ともかくも、最後の夢分析部分は、相当に自由に敷衍的な訳させて貰った。御不満の方は、御自由に御自身の訳をなさるるがよかろう。

「此の比(ころ)、一向に坐禪す」拘ることはないのかも知れぬが、これは既に夢の記述部分である。確かに既に見てきた通り、この最近の明恵は実に、早暁からその翌日早暁に至るまでの間に三度或いはそれ以上の坐禅による観想を実際に行っているのであるが、ここは現実のその実際の自分の事実の謂いなのではなく、〈夢の中の明恵〉もまた、夢の時空間の中で、一心不乱に坐禅行を行っている存在なのである。私はこうした、現実の明恵と夢の中の明恵の自己同一性(アイデンティティ)が完璧に保たれていることが、夢を有意味なものとして捉えることの明恵の正当性を保障し、明恵はまた、さればこそ、自身の見る夢を謎めいたものとせず、その解釈は難解な作業であるなどとも微塵も思っていない事実を伝えているものと思うのである。

「獮猴(みこう)」霊長目オナガザル科マカク属ニホンザル Macaca fuscata を指していると思われる。なお、現行ではこの漢語は種としてはオナガザル科マカク属タイワンザル(台灣獼猴)Macaca cyclopis を指すようである。

「禪觀」「止観」に同じい。仏教に於ける代表的な観想法。「止」は精神を集中して心が全き静寂となった状態を指し、「観」は対象を在るが儘に観察することを意味する。「止」は「観」の準備段階とされる。孰れも持戒とともに仏教徒の重要な実践法とされる。

「結跏坐」「結跏趺坐(けっかふざ)」に同じい。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、坐法の一つ。両足の甲をそれぞれ反対の腿の上にのせて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を乗せる降魔坐(ごうまざ)と、その逆の吉祥坐の二種がある。蓮華坐とも呼ぶ。

「淸水寺(きよみづでら)等」「等」としながら、清水寺だけを出して示したのには、非常に重大な意味があるわけだが、判らぬ。しかし、明恵には末尾の夢分析から見ると、判然としていると読める。なお、当時の清水寺は法相宗が本宗(現在もそう)で、真言宗との兼宗であった。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗中興の祖である。]

□やぶちゃん現代語訳

78

 承久二年十一月十三日の夜、こんな夢を見た――

   ○一

 夢の中の私は、最近、只管(ひたすら)一心に坐禅をしている、現実の私と同じなのであった。

 一頭の大きな猿がいて、私に馴れている。

 私は、この猿に禅観の何たるかを教え、而してそのやり方を教授した。

 猿は、私の教えに随って、禅の観想法をしっかりと学んだ。

 そうして、定印を結んで結跏趺坐した。

 しかし、その坐法を見るに、今少し、正しくないのであった……。

   ○二

 また、こんな夢を見た――

 私は、京の大路に出ている。

 しかし、私の心の中をどんなに隈なく調べてみても、

――何処(いずこ)へ

――何のために

行こうとしているのか、これが、

――全く以って判らない

のである。

 当然のことながら、向かうべき道をも知らぬのであるから、私は、

『ここは、ともかくも、観想の中で推量して、その「何処か」に至ることとしよう。』

と思うた。

 すると、至るべき所は、

――清水寺(きよみずでら)など

であることが直ちに感知された。

 その時! 大路に立っている私の意識の中に都の全景が、

――豁然と開いた!

 それを見渡した瞬間、

『遂に! 私は「それ」を知ることが出来た!』

という認識が生じ、それを確かに感得した……。

   ○三

 また、こんな夢も見た。

 一つの大きな寝殿造りの屋敷がある。その前庭に池がある。

 しかし、池の水はすっかり減ってしまっていて、ひどく穢(けが)れていて、完全に濁っている。小さな生き物どもが、その腐れ水の中で、しきりに蠢いているのも見える。

 池には、釣殿の如きものが、泥水の中に造り懸け渡してある。しかし、それも、半ば支柱がゆるんで、ちゃんと建っておらず、水のないごみ溜めのような中に傾(かし)いでいる……。

 

◎私明恵の以上の夢に就いての分析

 これらの夢の三つの内容を綜合して考えてみると、これは、現在の本邦の大寺院の仏教僧らが、あるべき正しい行法を執り行っていないが故に、古えより続く、三宝の一つたるべき荘厳(しょうごん)の仏寺の楼閣が、これ、精神的に致命的に荒廃している、ということを意味しているのである。最後の部分の屋敷に出てきたのは、仏閣の楼閣にあるべき荘厳(しょうごん)の池、広大無辺の仏智と慈悲心を湛えているはずの池、なのである。その池が汚れきって、毒虫に満ち満ちているとは、即ち、第一の猿の坐禅の姿勢が決定的に間違っているのと同様、現在の多くの僧侶らの行っている観想そのものが、致命的誤っているということ、今の世の大半の僧らの似非行法では、とてものこと、真の観想に至るべき心の鎮静と、正法(しょうぼう)のまことの御加護はないのだ、ということなのである。

 

2018/07/26

明恵上人夢記 77

 

77

一、同十一月八日の夜、夢に云はく、説戒之(の)時、每日、人數(にんず)、倍(ばい)する也。常住之(の)人の外に、客僧、加はると思ふ。又、人、有りて云はく、「然(しか)なり。」と云々。又、溫室(うんじつ)に入りて、數多(あまた)の人數(にんず)と沐浴すと云々。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月八日と採る。

「説戒」(せっかい)は受戒(出家や在家の者など、それぞれの立場で守るべき戒を受けること)を求める者に戒律を説くことであるが、特に半月毎に同じ地域の僧を集め、戒本を読み聞かせ、自身を反省させ、罪を告白させる集まりを謂う。布薩(ふさつ)とも呼ぶ。

「客僧」「かくそう・きゃくそう」(現代仮名遣)二様に読める。私は「かくそう」(特に原義はそれがよい)と読みたい口である。原義は「修行や勧進のために旅をしている行脚僧」であるが、他に「余所の寺や在俗の家に客として滞在している僧」を指す。ここは原義に加えて派生の意も含むと採った方が自然な気がする。

「溫室」寺院で湯浴(あ)みをするための建物。湯殿であるが、実用的なそれよりも行の一環として僧に湯浴みをする場所と採った方が、「沐浴」の意とともに私には腑に落ちる。鎌倉時代のそれは、概ね、湯を湛えたものが配置された蒸し風呂形式のもので、湯槽に入る形ではないので注意されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

77

 承久二年十一月八日の夜、こんな夢を見た――

 説戒の時、毎日、前の日の倍の人数が、これ、押し寄せて来る。常住の僧の以外に、数多の客僧(かくそう)が、これ加わっていると思われる。また、ある人の側にあって曰く、「その通りである。」と……また、温室(うんじつ)に入っても、そこには、これまた、驚くほど数多(あまた)の人々がいて、彼らとともに、私も沐浴するのであった……

 

明恵上人夢記 76

 

76

一、同十一月七日の夜、夢に、一つの大きなる池、有り。廣博(こうばく)也。上師有りて、樋口の女房に仰せて云はく、「此の池へ躍(をど)るべし。」【水、連(つら)なる時に躍る心地す。】。然るに、此の女房、飛ぶ鳥の如く、橫さまに飛びて、此の池に入る。後に來れる時、其の衣服(えぶく)、濕(うる)はず。上師等(ら)、之を御覽ず。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月七日と採る。

「廣博」池が非常に広く大きいのであろうが、本来、この熟語は「知識・学問が多方面に亙っていること」の意である。或いは、この池は正法(しょうぼう)の深遠な「仏智」の池なのかも知れない。但し、エンディングで、入水した「樋口の女房」が、その水に全く濡れそぼっていなかったというシーンが如何なる意味を示しているのかは、全く分らない。しかし、彼女が一滴も濡れていないというコーダが稀有驚愕の霊験的事態である(明恵は勿論、上師にとっても)ことは、確かであるように思われる。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「樋口の女房」底本に『覚厳』(かくごん)法師『の妻か』とある。底本の他注では彼を明恵の庇護者の一人とする。彼は「55」に登場する。

「水、連(つら)なる時に躍る心地す」ここは覚醒時の明恵自身の補注割注であるが、ちょっと意味が採り難い。「私は『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入ったと判るはずだ』という心持ちでいたことを思い出す。」という夢の中の明恵の意識の流れを覚醒時の明恵が補足細述したものか?

□やぶちゃん現代語訳

76

 承久二年十一月七日の夜、こんな夢を見た――

 一つの非常に大きな池がある。対岸がはっきり見えぬほどに広く深いのである。

 上師がおられ、そこにいた樋口の女房に仰せられることには、

「この池へ躍(おど)り入るがよい。」

と。

[明恵注:この時、私は、『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入った証しである』という、覚醒時の今の私には今一つ、よく意味は解らないのだが、確かに、そういう確信的な心持ちでいたことを、今、思い出す。]

 ところが、この女房は、あたかも飛ぶ鳥のように、美しく横ざまに――さっと――飛んで、この池に――すうっと――波も立てずに入った。

 しばらくした後、彼女が私たちの前に、再び姿を現わし来った時、何と、その衣服は、これ、全く濡れていなかったのである。

 上師らも、これを確かに、ご覧になられたのである。

明恵上人夢記 75

 

75

一、又、此の比(ころ)、夢に、兩人の女房有り。其の形、顏は長く、白き色なり。兩人同意して、上皇に、能々(よくよく)予之(の)御氣色(おんけしき)、吉(よ)かるべき事を申し入(いる)る。之に依りて、御感(ぎよかん)有る由、語らる、と云々。

 又、大きなる土器(かはらけ)の如き星あり。予を護り給ふ由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:「此の比」「74」夢が承久二(一二二〇)年(推定比定)十月二十七日で、しかもその前は殆んど日を置かずに夢記述が示されてあって、次の「76」夢が同年(推定比定)十一月七日であるから、十月二十七日前後というよりは、承久二(一二二〇)年十月二十八日から十一月六日までの九日(同年十月は大の月)の間の夢とするのが自然な気がする。但し、二夢連続で記載されているものの、それが連続して見られた夢であったかどうかは、判らない。しかし別な折りの夢であったとしても、同じ条にかく纏めて、「一」の頭を置かなかったということは、この二つの夢が、明恵にとっては、ある種の強い連関(親和性)を持って記憶されていたことを強く示唆するものではあろう。

「女房」後に上皇云々とあるから、後宮の女官である。

「其の形、顏は長く、白き色なり」女性的な観音菩薩の造顔に似ているように思われる。

「上皇」後鳥羽上皇。「承久の乱」の勃発は、この七ヶ月後の承久三(一二二一)年五月十四日のことである。この時期、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係は最悪の状態にあった。明恵が朝廷方に強いシンパシーがあり、乱では後鳥羽上皇方の敗兵を匿っており、乱後も、朝廷方についた貴族や武家の子女・未亡人たちを保護するため、承応二(一二二三)年に山城国に比丘尼寺善妙寺(高山寺別院で高山寺の南にあったが、早期に廃絶して現存しない。現在の右京区梅ヶ畑奥殿町内の(グーグル・マップ・データ))を造営したりしていることは言わずもがなである。私の栂尾明恵上人伝記 63 承久の乱への泰時に対する痛烈な批判とそれに対する泰時の弁明の前後なども参照されたい。

「御氣色」表情や態度に現れた心のさまであるが、ここは仏者としての心底(しんてい)と採ってよかろう。「御」は「女房」の明恵への敬意の接頭語なので訳さなかった。

「土器」素焼きの杯(さかずき)と採る。]

□やぶちゃん現代語訳

75

 また、承久二年の十月末から十一月の初めの頃、こんな夢を見た――

 二人の女房がいる。その顔形は、長く、抜けるように白い色をしている。

 その二人が二人ながら同意して、後鳥羽上皇に、よくよく、拙僧の心のさまが、めでたく正法(しょうぼう)に基づいて善(よ)きことを奏上し申し上げた、と語り、これをお聴きになられたによって、上皇さまは大いにご感心遊ばされた由を、私に語って下され……

 

 また、同じ頃、別にこんな夢も見た――

 非常に大きな土器(かわらけ)のような星が中天に輝いているのを見た。

 それを眺めながら、私は、

「ああっ! あの御星(おんほし)は、私をお護り下さっている!』

と思って……

明恵上人夢記 74

 

74

一、同廿七日の夜、前(さき)の如く、一向に三時、坐禪す。上師在りて、予の爲に、不倫の如き僧等(ら)五人、之を殺害(せつがい)す。殺生罪之躰(せつしやうのつみのてい)に非ず、と覺(おぼ)ゆと云々。

[やぶちゃん注:前に徴して承久二(一二二〇)年十月二十七日と採る。「73」の翌日というか、後半の暁方の覚醒夢を見た日の夜である。これもまた、明恵自身の決めた前夜と同じ修行法を繰り返しており、やはり同じく座禅中の覚醒夢であるだけに、「73」と本夢との連関性は、より強いように私には思われる。しかも、

――自分の師が手ずから血に染めて、彼、明恵のために、売僧(まいす)を五人も殺害するのを目撃し、しかも、それを見ている明恵は、その師匠の殺人行為を仏教最大の五悪の筆頭であるはずの「殺生の罪」には当たらぬ正法(しょうぼう)に背かぬ正当な行為であると認識する――

という、一見、驚愕極まりない内容なのである。しかし、これは、見ている明恵が「五人」の破戒僧は実際の僧ではない、反仏教的な何らかのシンボルであることを認識しているということに他ならないと読める。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「不倫」仏者として踏み行うべき道から外れていること。女犯(にょぼん)に限る必然性はこの場合、全くないであろうと私は読む。]

□やぶちゃん現代語訳

74

 承久二年十月二十六日の夜、前夜と同様、只管(ひたすら)に夜を徹して座禅をする。その間に、またしてもこんな覚醒夢を見た――

 上師がおられる。

――その尊(たっと)き上師が 何と!

――他でもない

――私こと、明恵のために

――破戒に等しい行いを成していた僧ら五人を

――これ、殺害なさるのを

――見た。

――しかし、それを目撃しながら、

――私は

『これは殺生の罪に当たるものでは――ない――』

と確かに自覚し、平然としていられた……

 

明恵上人夢記 73

 

73

一、同廿六日の夜、一向に、三時、坐禪す。夢に、一つの大きなる山より、懸樋(かけひ)、通ふ。其の源は遼遠にして、予の頂(いただき)の上に當(あた)る。水、殊に偉大(とほじろし)と云々。又、其の曉、一つの大きなる蟲有り。形、蜈(むかで)の如し。崎山の尼公の手を、させり。十藏房、有りて、之を去らむと欲すれども、能くせず。高辨、之を去らむと欲すれば、逃れて奧へ入らむと欲す。卽ち之を拂ひ去る。

[やぶちゃん注:前に徴して、承久二(一二二〇)年十月二十六日と採る。

「一向に」只管(ひたすら)に。

「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という。則ち、夜を徹して座禅したのである。

「偉大(とほじろし)」底本のルビ。このような形容詞は私は聴いたことがない。非常に強く畏れ多い偉大なる精神のパワーを以って脳天から脳髄及び全身に滲み徹ってくることを謂うか。

「形、蜈(むかで)の如し」形は百足(むかで)に似ているが、百足ではないのである。

「崎山の尼公」底本注に『湯浅宗重女。崎山良貞室』とある。明恵の母の妹の信性尼(伯母とする記載もある)。既注であるが、再掲しておくと、崎山良貞(?~元久元(一二〇四)年)は明恵の養父で、紀州有田川下流域を支配した豪族。明恵の庇護者でもあり、彼の没後、未亡人であった彼女によって、良貞の屋敷が寺として明恵に寄進されてもいる。

「十藏房」「52」夢に既出であるが、不詳。ただ、そこでも記した通り、この少し後に出る、「夢記」の中でも女性性の強く暗示される重要な夢の一つ、通称「善妙の夢」(承久二(一二二〇)年五月二十日の夢。以下で記載時制が逆転している)で唐渡来の香炉を明恵に渡すのがこの十蔵房で、同夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように読めるから、私には弟子とは読めない

「高辨」明恵の法諱。]

□やぶちゃん現代語訳

73

 承久二年十月二十六日の夜、只管、三時通して、座禅した。その最中、こんな覚醒夢を見た――

 一つの大きな山から、長大な筧(かけい)が通っている。

 その筧の源は遙か遠くであって、その下端は私の頭の頂きの上に当たってある。

 そこを流れ下って落ちる水は、これ、殊の外、何か、強く、畏れ多く、偉大な精神の力を以って、私の身内に深く徹して滲み渡ってくることが感じられ……

 

 また、その暁方に、やはりこんな別の覚醒夢を見た――

 一つの異様に大きな虫がいる。形は、蜈蚣(むかで)に似ている。

 崎山の尼君の手を、刺した。

 傍らに十蔵房がいて、これを除き去ろうとしたけれども、上手く出来ない。

 私こと高弁が、これを除き去ろうとすると、その虫は逃げて、奧の方へと逃げ入ろうとする。

 しかし、私は、首尾よく、これを払い去ることに成功する。

明恵上人夢記 72

 

72

一、同廿四五日の比(ころ)、夢に云はく、暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)を持ちて上師に奉る。又、小分(こわけ)に分ちて【茶碗の小器に盛る。】、我が處に置く。義覺房、之を持ちて、散動巡行すと云々。

[やぶちゃん注:「71」からの続きとしてその一週間ほど後の承久二(一二二〇)年十月二十四日或いは翌二十五日に見た夢と採る。内容的に前の「71」との親和性がすこぶる強い印象を受ける。というよりも、「71」夢の続きのような形で、「71」で上師(上覚房行慈)から衆生を済度するせよとして賜った「沙糖」(砂糖)に対するもの(儀礼的返礼ではなく、そうした使命を授けられたことへの明恵の応答(覚悟)の表明)として、「暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)」(後注参照)の献上はあるように読める。

「暑預(やまのいも)」正しくは「薯蕷」で「やまのいも」。古くは「薯蕷」と書いた。単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica甘味との親和性があり(多くが苦い野老(ところ)(ヤマノイモ属 Dioscorea のトコロ類)に対したものとして「苦くない」のである)、「71」の「沙糖」との連関が認められる

「甘葛(あまづら)」一般的にはブドウ科 Vitaceae に属する蔓(つる)性植物(ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata など)のことを指しているとされる一方、甘茶蔓(スミレ目ウリ科アマチャヅル属アマチャヅル Gynostemma pentaphyllumのことを指すという説もある。参照したウィキの「アマヅラによれば、『甘味料のひとつで』、『砂糖が貴重な時代には水飴と並んで重宝された』とし、『縄文時代の貝塚の中から出土されており、この頃から甘味料として利用されたと思われる。安土桃山時代になり』、『砂糖の輸入が活発になると』、『都市部でアマヅラの需要はほぼなくなり、さらに、江戸時代に砂糖の大量供給が実現すると』、『全国的にアマヅラを作るところは少なくなった』。『清少納言は、『枕草子』でかき氷のうえにアマヅラをかけて食べる描写を書いている』(「枕草子」の「物尽くし」の章段の一つ、「あてなるもの」(上品なもの)」の段で「削(けづ)り氷(ひ)にあまづら入れて、新しき金(かな)まりに入れたる」と出る。「金まり」は金属製の御椀)。その蔦(ツタ)の場合の造り方は、『ツタを伐採し、さらに』三十『センチ間隔に切り取』り、その『切り取ったツタの一方に口を当てて息を吹き込み、中の樹液を採取』して、その『樹液を煮詰め』、『水分を飛ばし、粘りのあるシロップ状に』する、とある。まさに「71」の「沙糖」との強力な対応性が認められる

「義覺房」底本の注によれば、明恵歌集に頻出し(彼の歌と思われるものも四首載る)、別に「六因義覺房」とも称し、『伝未詳』であるが、歌の詞書から、『高雄における明恵の同輩』とする。

「散動巡行」不詳。飛び躍るように巡り歩くことか。雀躍歓喜の法悦を示すものか?]

□やぶちゃん現代語訳

72

承久二年十月二十四日か、二十五日の頃、こんな夢を見た――

 私は、薯蕷(やまのいも)と甘葛(あまずら)を持って、これらを上師に奉った。

 しかし、上師はそれらをも小分(こわけ)にお分けになられ――それぞれ茶碗のような小さな器にお盛りになられた――、またしても――先の砂糖と同じく――私の所に置かれるのであった。

 同輩の義覺房は、このそれぞれが盛られた器を左右に手に持って、驚くばかりの跳び撥ね方でもって辺りを巡り歩き……

明恵上人夢記 71

 

71

一、同十八日、初夜の行法の時、幷(あは)せて我が事を祈念して、加被(かび)を蒙るを望む。其の道場觀(だうじやうくわん)の時に一つの好相(がうさう)を得たり。上師、忽ちに來りて、筒に沙糖(さたう)を盛り、「汝、八寒八熱の衆生を利せよ。是(これ)故に之を與ふる也」と云々。

[やぶちゃん注:「70」からの続きとして承久二(一二二〇)年十月十八日と採る。本条は、就寝中の夢ではなく、観想行を行っていた最中に見た脳内の幻視映像である。

「初夜の行法」六時(既注)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のこと。

「加被(かび)」仏・菩薩・神が慈悲の力を加えて衆生を助けて願いをかなえること。「御加護」に同じい。

「道場觀」不動明王を観想するもの。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。

「上師」前例に従い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「筒」丈の低い相応に大きな筒、円筒状の丸い鉢のようなものであろう。

「沙糖」甘露(サンスクリット語アムリタの訳語で「不死」「天酒」とも訳される。インド神話では諸神の常用する飲物で、蜜のように甘く、飲むと不老不死になるというギリシャ神話で神々の飲む不老長寿の赤色の酒「ネクター」のようなもので、「仏教の教法」にも譬える)の判り易いメタファーであろう。

「八寒八熱」八寒地獄(頞部陀(あぶだ)地獄・尼剌部陀(にらぶだ)地獄・頞哳吒(あたた)地獄・臛臛婆(かかば)地獄・虎虎婆(ここば)地獄・嗢鉢羅(うばら)地獄・鉢特摩(はどま)地獄・摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄)と八熱地獄(等活地獄・黒縄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱(炎熱)地獄・大焦熱(大炎熱)地獄・阿鼻(無間(むげん))地獄)。それぞれの責め苦様態等はウィキの「八大地獄を参照されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

71

承久二年十月十七月の夜、初夜の行法(ぎょうほう)の際、行法とともに、私の修行僧としての存在の正しい在り方を祈念して、仏の御加護を蒙らんことを望んだ。その後、不動明王を観想する道場観(どうじょうかん)を行っている最中、意識の中で、一つの仏の来臨を感じさせる感覚を得た。それを以下に記す――

 上師が、突如、来られて、筒に砂糖を堆(うずたか)く盛って、それを私に差し出だされ、

「そなた、八寒八熱に堕ちた衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せよ。さればこそ、これをそなたに与えるのである。」

と仰せられ……

2018/07/21

明恵上人夢記 68・69・70

 

68・69・70

一、同十月三日の夜、夢に云はく、木像の不空羂索(ふくけんざく)觀音は卽ち變じて生身(しやうじん)と爲り、小卷の大般若を賜はる。法の如く頭上に戴き、淚を流して喜悦すと云々。

一、同【正月】

一、同十月十七月の夜、夢に云はく、生身の釋迦一丈六尺許りの身に見參に入ると云々。上師、又、房(ばう)之(の)傍(かたはら)に在りと云々。

一、同夜、夢に、數輩(すはい)の同行(どうぎやう)とともに一處に行き、一身に覺えずして谷を下(くだ)る。上らむと欲すれども攀(よ)づることを得ず。うつぎの如き木に上らむと欲すれども、木弱くして能くせず。一人の無根の大童(おほわらは)有り。無根の大童、上より躍り下りて、具して上らむと欲すれども、我、之を受けず。此の下の道へ出でて、平地より登らむと欲して、卽ち、行く。漸(やうや)く、人家の下の如きに行き出でたる心地す。覺むるに、卽ち、宿物(よるのもの)を蒙れる夢の中に覺むる所也。

[やぶちゃん注:またしても、間に「一、同【正月】」(「正月」の意味は不詳。当初、閏月に対する「正月」かと思ったが、承久二年には閏月はない。或いは、ここで明恵は九ヶ月も前の同年正月に見た夢を、仮初、思い出したのかも知れぬ。しかし、しれが確かな夢記述、覚醒時の自分の意識が介在して変更していないという確証に疑問があって、結局、記述しなかったのかも知れない。私自身、そうした形で過去に見た夢を記載するのを止めた経験が何度もあるからである)という夢記述なしの条が挟まるので、以上を纏めて示した。しかし、最初の夢と「十月十七日」のそれは、仏菩薩が「生身」で現前するという点で強い親和性が認められるし、最後の夢は「十月十七日」と同夜(前後は判らぬ。例えば、私が明恵なら、釈迦の生身の夢を後に見たとしても、先にそれを記録するであろうからである)に見た夢であるから、併置するのが自然である。

「同十月三日」前条からの続きとして「67」と同じ承久二(一二二〇)年と採る。

「不空羂索(ふくけんざく)觀音」濁音は底本のルビである。現行では「ふくうけんさく」「ふくうけんじゃく」である(私は清音を好む)。三昧耶形(さんまやぎょう:密教に於いて仏を表わす象徴物を指す)は羂索(狩猟用の投げ繩或いは両端に金具を付けた捕縛繩)・開蓮華。尊名の「不空」とは「むなしからず」で「心念不空の捕縛索条をもってあらゆる衆生を洩れなく救済する観音」の意である。

「大般若」玄奘訳の「大般若波羅蜜多經」のこと。全六百巻。別々に成立した般若経典類(「仁王経」と「般若心経」を除く)を集大成したもの。空の思想を説き、真実の智慧(般若)を明らかにしているものとされる。

「一丈六尺」約四メートル八十五センチメートル。

「上師」既注通り、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈ととっておく。嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているから、この頃はまだ生きていたと思われる。

「一身に覺えずして」自分自身でそうしようと思っているわけではない(意識していない)のにも拘わらず、何故か判らないが。

「うつぎ」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata。山野の路傍や崖などの日当たりの良い場所に植生する。

「無根の大童(おほわらは)」「無根」は当初、髪を結っていないことかと考えたが、それでは「大童」と屋上屋であるから、ここは大きな裸の男子の童子であるが、男根がない(私が見た複数の菩薩像では内側に螺旋状に貫入しているのであって、去勢ではない)の意と採る。大方の御叱正を俟つ。されば、私はこれを仏・菩薩・明王などの眷属の童子と読むのである。

「宿物(よるのもの)を蒙れる夢」よく判らぬ。「宿物(よるのもの)」を旅宿・夜具の意と解するならば、旅の中にあって夜となってしまって宿屋も仮寝する臥所さえも得られない折りに、図らずも、暖かい寝床と夜具を得たような心持ちの夢という譬えであろうか?]

□やぶちゃん現代語訳

68

承久二年十月三日の夜、こんな夢を見た――

 木像の不空羂索觀音(ふくうけんさくかんのん)が、即座に、変じて生身(しょうじん)の御姿となられ、小さな巻物になった「大般若経」を私に賜はられた。

 私はそれを定法(じょうほう)の通りに頭上に戴き、涙を流して喜悦した。……

 

同(正月。)の夢[やぶちゃん注:以下、空白。]

 

69

承久二年十月十七月の夜、こんな夢を見た――

 生身(しょうじん)の釈迦であらせられる。その丈(たけ)は一丈六尺ほどもあられ、その身を確かに私めが見申し上げるという光栄を得、御釈迦様のおられるその僧房に入って行く……。

……我が上師もまた、その房の傍らに在られるのが見えた。……

 

70

前の夢を見たのと同じ夜、別に、こんな夢も見ていた――

 何人かの同行僧とともに、とある高い山に行った。

 自分自身、何故か判らないままに、私は谷をいっさんに下っているのであった。

 かくあればこそ、その目的が判らぬ故に、不思議に思って、

『ここは、不随意の下山に反して、登ろう!』

と欲したのであったが、いっこう、攀(よ)じ登ることが出来ない。

『よし! ここにある空木(うつぎ)のような木にとり着いて上ろう!』

と欲したのであったが、その木は軟弱で、私の身を支え得ずして、やはり攀じ登ることが出来ないのであった。

 すると、遙か頭上の崖の上に、一人の男根のない、髪を結わずざんばらにした童子がいるのが見えた。

 その無根の大童は、

「ずん!」

と、上より躍り下ってきて、私の体を支え、ともにそこを上らんとする仕草をしたのだけれども、私は、これを断った。

『この私のいる場所の、さらに下の方に道がある。よし! そこを下って、全くの平地に徹底して下(くだ)り、改めて自身の力だけで、一から登ろう!』

と欲して、直ちに彼方の下方へと行った。

 暫くすると、やっとのことで、人家の下のような至って平たい場所に行き出(い)でたという気持ちがした。

   *

というところで、夢から醒めた。

 さても、その覚醒した瞬間、私は「夜の物(よるのもの)」を予期せず受け取ったような心持ち――旅中にあって夜となり、宿屋も仮寝する臥所さえも得られぬ折り、思いもしない、暖かい寝床と夜具を魔法のように得たような心持ち――の夢の内から、目覚めたような気持ちがしたのである。

 

2018/07/17

明恵上人夢記 67

 

67

一、同廿四日の夜、夢に云はく、解脱の御房、來り給ふ。予、行水の爲に御湯帷(おんゆかたびら)を借り奉る。心に無禮(むらい)の思ひを作(な)す。卽ち、申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す。時に、一つの作りたる蓮花を與へ、又、紙の裹物(つつみもの)を賜はる。此の蓮花は邪輪の如し。心に思はく、先日、又、賜はりきと思ふ。

[やぶちゃん注:「同廿四日」前条からの続きとして、「66」の四日後の承久二(一二二〇)年九月二十四日と採る。

「解脱の御房」底本注によれば、既に七年前に没している法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)である。ウィキの「貞慶によれば、『祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる』。『祖父信西は』「保元の乱」(一一五六年)の『功により』、『一時権勢を得たが』、「平治の乱」(一一五九年)では『自害させられ、また父藤原貞憲も土佐に配流された』。『生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り』、十一『歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ』。寿永元(一一八二)年、『維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って』建久四(一一九三)年、『以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し』、『弥勒講式を作るなど』、『弥勒信仰をいっそう深めていった』。元久二(一二〇五)年『には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。しかし、法然に師事したのが』(『その時は既に亡くなっていたが』)『貞慶の叔父(父貞憲の弟)の円照(遊蓮房)であった』ともある。承元二(一二〇八)年、『海住山寺に移り』、『観音信仰にも関心を寄せた』。彼の没後の建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され』て『行ったとあるように』、『慶円三輪上人とは無二の親友であった』とある(下線太字やぶちゃん)。明恵が法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしていること、明恵が建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすまでは、四十歳も年上の法然を非常に高く評価し、尊敬もしていた事実と強い親和性を持つ人物であると言える。なお、明恵の歌に、

   解脱上人の御許へ、花嚴善知識の曼荼羅、

   かきて送りたてまつり給ひけるついでに

 善知識かきたてまつるしるしには 解脱の門に入らむとぞ思ふ

という一首がある。底本注によれば、「花嚴善知識の曼荼羅」とは、「華厳経入法界品」に『説く、善財童子の求法を描いた曼荼羅』とある。

「行水」これは禊(みそぎ)を暗示させるものであろう。

「湯帷(ゆかたびら)」「湯帷子」。平安以後の上層階級で入浴時又は入浴後に着た麻の単 (ひとえ)麻や木綿でしつらえた。ここは入浴(禊)の際のそれであろう。

「無禮(むらい)の思ひ」湯帷子を借りたことを無礼なことであったとする、明恵の内心忸怩たる思いを指すと採る。

「申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す」懇請した湯帷子が貰えたのか、貰えなかったのかは書かれていない。無論、貰えたのであろうが、寧ろ、夢の中では、その湯帷子が「作り物の蓮華」及び「裹物」に変ずるのだとした方が私は「夢」らしいという気がする。

「此の蓮花は邪輪の如し」「邪輪」は「よこしまな誤った法説」の意であり、前に「一つの作りたる蓮華」とあるから、これは「作り物」「紛い物」の偽の「蓮華」で、法然の専修念仏の虚説をシンボライズする黒アイテムであろうか? 則ち、ここで貞慶がその似非物の蓮華を明恵に与えるのは、専修念仏への論難を明恵が正当に受け継ぐことの象徴であり、「裹物」は正法(しょうぼう)の白アイテムであろうように私には見える。]

□やぶちゃん現代語訳

67

承久二年九月二十四日の夜、こんな夢を見た――

 解脱の御房が私のもとへと来られた。

 私は、その時、禊(みそぎ)の行水をしようとしたが、自分の湯帷子(ゆかたびら)が何故か手元になかったため、解脱上人さまの御湯帷子を、乞うて、借り申し上げた。が、しかし、そのことについて、内心、無礼な気が強くしてならなかった。

 そこで、言上申し上げて、強いて請うて、その御湯帷子を上人さまの御形見に擬(なぞら)えて、頂戴したい旨、強く望んだのであった。

 すると、その時、上人さまは、一つの、如何にも作りものであることが判然としたちゃちな蓮花を私に与え、また、紙で包んだ「ある物」を賜はられた。

 この蓮花はまさに邪輪――邪法――そのもののようなものなのであった。

 私はその時、心の中で、確かに、思ったのだ。

『先日もまた、これを私は、上人さまから、確かに、賜はったのであったなあ。』

と。

 

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