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カテゴリー「「明恵上人夢記」」の54件の記事

2017/05/23

明恵上人夢記(オリジナル訳注) 54

 

54

一、建保七年正月、夢に云はく、京の邊近き處に住房有り。上師とともに此處に在り。師、忽ちに出でて外へ行き給ふ。予、御送りに庭へ下る。一丁許り行きて、上師止めしめ給ふ。予思はく、京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむと欲す。顧れば大きなる門有り。師に問ひて云はく、「住房は彼の門の處か。」答へて曰はく、「少しき肱折れて至る也。」卽ち其處より還る。心に思はく、上師、此處を出で、暫く勝れたる處に至りて、彼の處より本の住處へ還り給ふべき也と云々。

[やぶちゃん注:「建保七年正月」一二一九年。まさに、この建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に第三代将軍源実朝が公暁に暗殺されているが、暗殺日と内容(それらしい衝撃を語っていない点)から見て、この夢はそれよりも前の可能性が強い。

「上師」以前にも述べたが、彼が書く言った場合、かの文覚上人或いは母方の叔父で出家最初よりの師で伝法灌頂を受けている上覚房行慈で、それぞれの生没年は、

文覚 保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年七月二十一日

上覚 久安三(一一四七)年~嘉禄二(一二二六)年十月

であるから、文覚なら既に亡くなっており、上覚ならまだ存命である。この場合、軽々には孰れとも断ずることは出来ぬものの、最後の夢中での明恵の妙に現実的な主張からは、生きている上覚である可能性が高いように思われる。

「一丁」百九メートル。

「京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむ」難解である。これはまず後半は――師とともに新たに住まうべき、「在るべきまことの場所」「常住の地」後に出る「本」(もと)はその含みと読み、「京の邊近き處」の「本の」「住房」とは読まないということであるにこそ還りたい、還ろう――という謂いであろう。されば、前半は――京に近きところにてはそのような「在るべきまことの場所」はついぞ「知らない」、そのような場所は京(及びその周辺)にはない――という意味ではないか? たった「一丁」であってもそれは夢空間では一町が千里であってよいのである。

「肱折れて」「ひぢおれて」。角を曲がって。これは時空間の歪んだ表現であって、だからこそ前の私の一町千里的解釈と一致するものと考える。

□やぶちゃん現代語訳

54

 建保七年正月、こんな夢を見た。

 京の辺り、大内裏に近き所に住房がある。私は上師とともに此処に住まっている。

 師が、突然、その房を出て外へ行かれる。

 私は師をお送りするために庭へと降りた。

 二人して一町ばかり行くと、上師はそこで私をお停めになられた。

 私がその時、心に思ったことは、

『――京にはそのようなところはない――師をお迎えし、我らもともにその「まことの在るべき常住の地」に還ろう――』

という強い願いであった。

 後ろを顧みると、そこには大仰な如何にもな門があった。

 私は師に問うて尋ねた。

「住房はかの門のところでしょうか?」

 師は答へて仰せられた。

「――いや――少しき角を曲がって行きつく場所である。」

 そこで、しかし、師は私を従えて、その路上より、元の住房へと帰ってしまわれた。

 私は心に思った。

『上師は、この喧しく生臭い住房を出でて、一時、勝(すぐ)れたる「まことに在るべき」場所へとたどり着かれ、かの住房から、本(もと)「あるべきまことの」棲家へとお還りなさるべきである。』

と…………

 

2016/12/12

明恵上人夢記(オリジナル訳注) 53

 

53

一、廣博にして嚴麗(ごんらい)なる大きなる殿有り。海邊の山水殊勝也。此處より、住房は北の方に當れり。心中に、住處は即ち賀茂の山寺也と覺ゆ。

[やぶちゃん注:クレジットがない。「52」と連続するものと仮定するなら、次の「54」が「建保七年正月」とあるから、建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内の夢とすることは出来る。前後の夢との極端な違いは認められず、寧ろ、位置的な問題(この心象に於ける「賀茂の山寺」という感じと、「54」の「京の邊近き處に住房有り」とあるロケーションの面)と、住房の夢という共通性からは後者「54」との親和性が強いようにも思われる。

「廣博」]「こうはく」であるが、古くは「こうばく」とも読んだので、後者で採る。現行では「学識が広いこと」「該博」の意で專ら用いられるが、ここは物理的空間的に広々としていることを意味する。

「嚴麗」「嚴肅華麗」か。厳(おごそ)かにして高貴な美しさに満ちているさまと採る。

「賀茂の山寺」これは先の51に出た、「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、現在の京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)の後背地である仏光山のことと思われる(因みに、ここは同社の磐座(いわくら)があるとされる神域でもあった)。そこで注したように、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊がそこにはあった。東昇氏の論文『「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子』(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、

   *

佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>

   *

と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが、見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のこちらのページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は他の論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。また、「栂尾明恵上人伝記」の(私の電子化注テクスト。そこの注も参照されたい)によれば(下線太字やぶちゃん)、

   *

 同六年〔戌寅〕[やぶちゃん注:建保六(一二一八)年。]秋、聊か喧譁(かまびすし)き事有るにより、栂尾より賀茂(かも)の神山(かみやま)に移り給ふ。塔(たふ)の尾(を)の麓に四五間の庵室を結び、經藏一宇を立て、神主能久(よしひさ)之を施與(せよ)し奉る。是に暫く住み給ひけり。或人の許より、栂尾を住み捨て給ふ事なんど、歎き訪ひ申したりしかば、

  浮雲は所定めぬ物なればあらき風をもなにかいとはん

此の處をば佛光山(ぶつくわうざん)と名つけ給ひける爰に一年計り栖み給ひて、同法達(どうばうだち)を留守に置き、又栂尾へ歸り給ふ。

   *

とある。即ち、まさに私が想定した、本夢の閉区間内(建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内)に於いて明恵は、この「賀茂の山寺」へ移り、一年をそこで、「聊か喧譁」きことから遠く離れて」心静かに過ごしたのである。とすれば、この夢はその「賀茂の山寺」へ移る直前か、或いはその転住直後の明恵の心境を反映したものと採れる。その豪壮な殿宇は、京の都の内裏という政治的喧噪のシンボルであり、そこから「精神的に遠く離れた」「北の方」なる「賀茂の山寺」こそが安静安住の棲家であるという強い覚悟の表象がこの夢なのではなかろうか?]

 

□やぶちゃん現代語訳

53

 こんな夢を見た。

……非常に広大にして厳粛さと華麗さを兼ね備えた大きな殿宇がある。そこは海辺であって、しかも山水の景勝の地であった。その殿宇のあるところから、北の方に私の住房はあるのであった。しかし乍ら、私は心中に於いて、

『私の住まうべき処は、即ち、かの賀茂の山寺を措いて他には、ない。』

と明瞭に感じていたのである。

2016/09/04

明恵上人夢記(オリジナル訳注) 52

52

一、同九月十二日の夜、夢に云はく、熊野に詣で、其の道に宿所に宿る。心に思はく、義淵房(ぎえんばう)を本處(ほんじよ)に留め置く。此の如き旅所(たびしよ)にはさかくしくて大切なる物をと覺ゆ。他人は皆、隨從すと云々。十藏房(じふざうばう)、知音(ちいん)を尋ぬ。使者は之(これ)無き由を稱す。即ち、有りといへども、態(わざ)と隱すかと覺ゆ。又、新院、予に謁せむと仰す。即ち、見參に入る。予は賞(よろこび)を奉らず。後に人に語りて曰はく、「新院仰せて云はく、『我、明惠房に謁す。喜悦の思ひ深し。然れども、明惠房、語らずして頗る本意(ほい)無し』」と云々。

  案じて曰はく、之を知るべし。

[やぶちゃん注:「同九月十二日」「51」に続くととるならば、建保六(一二一八)年である。この夢は構造上は連続しない(深層心理学的には通底すると思われるが)三つの夢から成ると私は採る。一つは明恵自身を一人称とした熊野詣の夢、間に十蔵房を一人称とした情景を画面外の明恵が観察している夢、三つ目が新院へ拝謁した明恵に関わる映画的な夢である。

「義淵房(ぎえんばう)」底本注に『明恵の同行者の一人霊典』とあり、「歌集」パートの注に『明恵の弟子。治承四年(一一八〇)の誕生。もと高雄の住僧で、早くから明恵に師事したか。池坊覚園院に住む。建暦元年(一二一一)の八十華厳経書写に行弁』『とともに参加している。明恵の置文で知事』(寺で雑事や庶務を司る僧)『とされた。建長七年(一二五五)入寂。七十六歳』とある。

「本處(ほんじよ)」事実に即した意ならば、当時の明恵のいた前の「51」の前書に語られる「圓覺山の地」、注で、賀茂別雷神社の後背地で塔尾の麓に神主能久が建てて明恵に施与した僧坊となろう。

「さかくしくて」賢く、しっかりとしており、頼もしい者で。

「十藏房(じふざうばう)」不詳。ただ、この後に出る、「夢記」の中でも女性性の強く暗示される重要な夢の一つ、通称「善妙の夢」(承久二(一二二〇)年五月二十日の夢)で唐渡来の香炉を明恵に渡すのがこの十蔵房で、同夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように読めるから、私には弟子とは読めない

「使者」訪ねたのであるから、ここはその命を受けた用人・家来の謂いであろう。

「新院」底本注に『土御門院か。土御門天皇』(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)『第八十三代の天皇。諱は為仁』(ためひと)。『後鳥羽天皇の第一皇子。母は承明門院源在子』(源通親養女で法勝寺執行法印能円の娘)。後鳥羽天皇の譲位により三歳で『建久九年(一一九八)一月十一日受禅。承元四年(一二一〇)十一月二十五日』異母『弟守成親王(順徳天皇)に譲位。承久の乱』(承久三(一二二一)年六月)『後、土佐、次いで阿波に遷される。寛喜三年(一二三一)十月十一日阿波において崩じた。三十七歳』とある。この夢が建保六(一二一八)年九月十二日の夢であるならば、当時、彼は未だ二十一歳である。ここで夢の中の明恵が彼に終始、冷淡なこと、末尾の意味深長な「案じて曰はく、之を知るべし」の語などから察するに、この夢記述は(少なくとも末尾の有意に下げて記したそれなどは)明らかに、承久の乱のプレも最中も、一貫して父に批判的であり続け、乱後も幕府は乱の謀議に無関係として処罰しようとしなかった(彼の土佐・阿波への事実上の配流は隠岐に流された父への遠流を忍びなく思った彼の自発的要請であったし、阿波に移ったのも幕府がより都へ近い場所として配慮したからである)親幕的天皇であった彼への感情的な冷やかさのように思われる。夢自体のそれが乱の三年前だとすれば、これは予知夢であると明恵には認識され、だからこそこの意味深なる「案じて曰はく、之を知るべし」を書き添えたとすると、私は非常に腑に落ちるのである。大方の御批判を俟つものではある。]

 

□やぶちゃん現代語訳

52

 建保六年九月十二日の夜、こんな夢を見た。

   *

 第一の夢。

――……私は熊野に詣でて、その途次に、とある宿所(しゅくしょ)に宿っている。私が心の中に思うたことには、

『……義淵房を我が僧坊に留め置いてきてしまったが、このような淋しき旅の宿にあっては、彼こそしっかり者であり、頼もしく大切なる存在であるのに、何故に連れて参らなかったのであろう……』

と深く感じているのである。他の弟子は、これ、皆、随従しているのに…………――

   *

 第二の夢。

――……私の朋友の十蔵房が彼の旧知の親しい友の家を訪ねている。出て参った家の者は十蔵房に、

「本日只今ここに主人はおりませぬ。」

といった旨を述べ応えているのである。

 しかし、それを情景として見ている私明恵は、意識の中で、

『……明らかに家内に主人、十蔵房の旧友は居る。……居るにも拘らず、わざと「居ない」と隠しているのではないか?』

と強く感じている…………――

   *

 第三の夢。

――……土御門院さまが、畏れ多くも、私明恵めを「謁せん。」と仰せられているのである。

 されば、直ちに、土御門院さまに見参(げんざん)に与かったのである。

 しかし乍ら、私は顔を硬くしたまま、一切の祝辞も述べ奉らずに、執拗(しゅう)ねく黙りこくっているのである…………

 ……さても、暫く経って後のことである。私が誰かに以下のように語っている様子が映し出された……

「……土御門院さまは、あれから御傍(おそば)の者に仰せられて曰く、『我れ、かの名僧と評判の明恵房に謁を許した。我れ、逢(お)うことの出来、まことに喜悦の思い、これ、深(ふこ)う感じたものでった。然(しか)れども、かの明恵房、これ、一言も我れに語らずして、終始、黙りこくっておった。これ、すこぶる残念にして面白うないことであった。』と語ったと聞いた…………」――

   *

 最後の夢については、案ずるに、「このことをよく記憶しておかねばならぬ。」と言っておこう。

2015/12/30

明恵上人夢記 51

51

 建保六年八月十一日、梅尾の舊居を出づ。先づ樋口、樋口より、同十三日、賀茂の宿所に遷り、其の後、圓覺山の地に曳く。其の夜、夢に云はく、一堂を起し立つ。其の名を果海殿(くわかいでん)と曰ふ。普賢菩薩(ふげんぼさつ)を安じ奉る。其の堂の中に女房七八人有りと云々。

[やぶちゃん注:「建保六年」一二一八年。

「梅尾」の「梅」字はママ。底本凡例に慣用表記はそのままとした、とある。

「樋口」底本注に、『五条通の南の小路。明恵の庇護者の一人覚厳法師』『が樋口の名を冠して呼ばれることがある。同人を指すか』とする。

「圓覺山の地」「ゑんがくざん」と読んでおく。底本注に、『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』とある。賀茂別雷神社は「かもわけいかづちじんじゃ」と読み、現在の京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称である。「塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊」というのは現存しないが、論文「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、

   *

佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>

   *

と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。

「果海殿」この名を「渡海を果たす」と読む時は、明恵がこれまでに少なくとも二度決心し、断念せざるを得なかった(春日明神の神託と病いのためとされる)天竺(インド)渡海の切望の強烈な念が今も明恵の心底に凝結してあるようにも読めるし、逆に、「真理の海へと漕ぎ出ることを果たした」と読むなら、祀るのが普賢菩薩であることからも(老婆心乍ら言い添えておくと「菩薩」とは未だ修行者の謂いである)、まさに無限に満ちている仏菩薩の絶対智の大海原に漕ぎだした仏弟子たる明恵の爽快な心境を表わしているとも読める。後者の解釈はユング派好みではあろう。

「普賢菩薩」サンスクリット語「サマンタバドラ(Samantabhadra)」の漢訳。普(あまね)くあらゆる総ての時空間に現われ、絶対の理性による賢者として功徳を示し、修行者を守護し、仏の「律」を象徴する。仏の絶対「智」の象徴たる文殊菩薩とともに釈迦の脇侍として釈迦三尊の形で造形配置されることが多い。致命的におぞましく穢れた業火「ふげん」や「もんじゅ」とは大違いである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

51

 建保六年八月十一日、栂尾(とがのお)の旧居を出た。

 まず、樋口に向かいそこで二泊し、同十三日には、樋口より賀茂の宿所に遷(うつ)り、その後、円覚山(えんがくざん)の地に退いた。

 その夜、こんな夢を見た。

「一堂を創建して竣工させた。その堂の名を「果海殿(かかいでん)」と名づけた。御本尊として普賢菩薩を安じ奉った。ふと見ると、その堂の中に、雅な女房らが、七、八人、いるのであった……。

2015/06/05

明恵上人夢記 50

50

 建暦二年九月十九日の夜、夢に云はく、上師を以て大阿闍梨と爲し、灌頂(くわんぢやう)の道場に入りて五智の法水を浴む。其の作法、一々に皆具足せり。二つの大印を受け奉る。一つは五鈷(ごこ)の印、一つは獨鈷(とこ)の印也。其の印は皆内傳の印也。五鈷は常の印〔内傳五鈷の印〕の如し。獨鈷の印は内傳にして、中の指を立合せたるなりと云々。又、問ひ奉りて曰はく、「法花の法には釋迦・多寶の二尊を合せ行じて、正念誦(しやうねんず)にも兩尊の眞言を用ゐるか。」上師答へて曰はく、「正念誦に多寶中一尊の眞言を用ゐるべき也。惣て此の法は多寶を本と爲る也。」

[やぶちゃん注:底本では、この前に「49夢」までとは異なる別資料であることを示すマークが入っており、この「50夢」から「夢に母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々」までが同一資料となる(注には原典資料の書誌情報が載らない)。

「建暦二年九月十九日」西暦一二一二年。この年の一月二十五日、京都東山大谷で法然が亡くなっており(満七十八歳)、しかもこの夢の二ヶ月後の十一月には「摧邪輪」が完成している。

「上師」前の「49夢」(冒頭に述べた通り、「49夢」と、この「50夢」は異なる別資料であるが、私は特にその事実によってこの考え方を変えるつもりはない)で示した通り、ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈とする。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとあるから、この頃は未だ生きていたと考えられる。

「灌頂」今まで注していなかったので(但し、「夢記」では「灌頂」の語はここで初めて出る点で特異点である)、ここでウィキの「灌頂」を参照して注しておく。灌頂は『主に密教で行う、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことを』言い、元来は『インドで王の即位や立太子での風習である。釈迦の誕生日を祝う祭りである灌仏会もこれの一例であったが、インド密教において複雑化した。いくつかの種類や目的の別があり、場合によって使い分けられる』。本邦では八百五年に『日本天台宗の開祖である最澄が、高雄山の神護寺で初めて灌頂を行ったといわれる。また、最澄は渡唐の際に龍興寺の順暁から「秘密灌頂」を受け、後年、真言宗の開祖である空海が伝来した金剛界・胎蔵界の両部の』「結縁(けちえん)灌頂」も受けたとあり、対象者と目的によって結縁灌頂・授明灌頂等、種々の灌頂形態があるが、ここで言うのは、伝法(でんぼう)灌頂で、『金胎両部伝法灌頂ともいう。阿闍梨という指導者の位を授ける灌頂。日本では、鎌倉時代に覚鑁の十八道次第を先駆とし成立した四度加行』(しどけぎょう:真言密教に於ける初歩的階梯の四種の修行を指す。伝法灌頂を受けるための準備的修行で、十八道・金剛界・胎蔵界・護摩の四法を伝授されることを言う。)『という密教の修行を終えた人のみが受けられる。ここで密教の奥義が伝授され、弟子を持つことを許される。また仏典だけに捉われず、口伝や仏意などを以って弟子を指導することができ、またさらには正式に一宗一派を開くことができるとも』言い、『別名を「阿闍梨灌頂」、または「受職灌頂」ともいう。現在の中国密教やチベット密教の「伝法灌頂」は日本のものとは大きく異なり、チベット密教では主にタントラ経典の灌頂の際に「阿闍梨灌頂」を伴い、別尊立ての大灌頂の際にも「阿闍梨灌頂」を行なうことができる』。『ただし、日本には「阿闍梨灌頂」はあっても、密教の阿闍梨が守り継承するべき徳目を挙げた戒律である「阿闍梨戒」が無い。それに対して、中国密教やチベット密教には今も「阿闍梨戒」』『が伝わっているところから、一説によると、「阿闍梨戒」は伝わっていないのではなく、現時点では』『鎌倉時代に失伝したのではないかと見られている』とある。

「五智」密教で大日如来の智を五種に分けて説いたもので、①究極的実在それ自身である智(法界体性智)、②鏡のようにあらゆる姿を照し出す智(大円鏡智)、③自他の平等を体現する智(平等性智)、④あらゆる在り方を沈思熟慮する智(妙観察智)、⑤成すべきことを成し遂げる智(成所作智(じょうそさち)) の五つを指す(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「法水」「はふすい(ほうすい)」或いは「ほつすい(ほっすい)」と読み、仏法が衆生の煩悩を洗い清めることを水に喩えて言う語。法雨。灌頂では実際に頭頂に水を灌ぐことでそれをシンボライズする。

「其の作法、一々に皆具足せり」私はまず、ここに着目する。これは彼が実際に受けた伝法灌頂のフラッシュ・バック――ではない。であれば、こういう言い回しはしないと私は思うからである。即ち、これは全く新たな明恵の受けた伝法灌頂であったのだ。だからこそ夢の中の出来事なのに、恐ろしくリアルで定式に則った全き伝法灌頂であったと、明恵は心底、驚いているのである。

「五鈷」インド神話に於ける武器であったものを仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心を表す様に譬えて法具とした密教の法具ヴァジュラ( Vajra )、金剛杵(しょ)の一種である五鈷杵。柄の両端に、中央の刃の周囲に更に四本の刃が付随した計五鋒を持つ厳めしいもので、魔を払い、身を守る密教を代表する金剛杵の中では両先端が一鋒の独鈷(とっこ)やフォーク状の三鈷などに比すと最もインパクトが強い形状を成すものの一つである。忿怒や威嚇の形相を示す愛染明王・金剛夜叉明王などの明王像や金剛力士像も、この五鈷杵を持った姿で造形されることが多い。ここで明恵が「五鈷」と「獨鈷」の「印」を授けられるという以下の部分には、私は仏教上の基本義とは別に、明恵の中の極めて個人的な隠された神聖数的象徴が潜んでいるように思われてならない。「五」と「一」である。何故なら、この夢で彼はこの二つが自身の宗教的な唯一絶対の任務をシンボライズするものとして語られているように思えてならないからである(単なる法具としてのこの二つは極めてポピュラーなものであるにも拘わらず、明恵はここで敢えて「其の印は皆内傳の印也」としながら――「五鈷は常の印〔内傳五鈷の印〕の如」きもので、公的な知られた伝法の証、意味を指しているけれども、それに対し、今一つ授けられた「獨鈷の印」の方は私だけに命ぜられた「内傳にして」、それは私の両の「中の指を立合せた」ものを象徴しているのであると述べているように思えてならないからである。今、私にはこの「五」(先の五智と強い連関は感じる)と「一」の暗号の意味は分からない、分からないが、しかしこれは、尋常な謂いではないことが私には何か、直観されるものがあるのである。

「多寶」多宝如来。ウィキの「多宝如来によれば(下線部やぶちゃん)、『サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratna と言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする』。この如来は過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の一人とされ、『東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国、朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに』二体一組で『表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経』第十一章『見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく』。『釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった』とある。実は、先の五智に関わって、五智如来信仰というのがあり、真言密教などでは五智に大日如来(中央)・阿閦(あしゅく)如来(東方)・宝生如来(南方)・阿弥陀如来(西方)・釈迦如来(北方)を当てるが、例えば、秋田県能代市の浄土宗大窪山光久寺の公式サイト内の「本尊 五智如来」の頁を見ると、阿弥陀如来を尊崇する浄土宗にあっては『中央に阿弥陀如来、向かって右に釈迦如来、薬師如来、左に大日如来、多宝如来を安置』とあり、多宝仏は『本来は亡くなられたあとに「法華経」というお経が正しいことを証明してくれる仏さまといわれ』ると解説されてある。さて、この順列から見ると、釈迦如来は五智の内でも、鏡のようにあらゆる姿を照し出す智大円鏡智を、多宝如来は成すべきことを成し遂げる成所作智を、それぞれシンボルすることになる(また金剛界曼荼羅にも多宝如来は五智の一つとして描かれることがあるようである)。私はこれは明恵に課せられたものが、五鈷に示された公的な意味に於いて生きとし生けるものに対する全返照という釈迦の大義であり智であったとするならば、独鈷によって独り私的に命ぜられた使命こそが、当然に成すことを当然に成し遂げる、「あるべきようは」であったのではないか、という解釈を秘かにしたくなるのである。そうして後者こそが明恵にとってまさしく成し遂ぐるべき絶対の使命であることを黙示したのが、この最後のシーンではなかったか? 明恵が「法花の法には釋迦・多寶の二尊を合せ行じて、正念誦(しやうねんず)にも兩尊の眞言を用ゐるか。」――やはり普通通り、釈迦(公的天啓たる使命)と多宝(私的天啓たる使命)の両方の真言を誦しますか?――と問うたのに対し、上師は「正念誦に多寶中一尊の眞言を用ゐるべき也。惣て此の法は多寶を本と爲る也。」――そなただけの唯一の正念誦に於いてはこれ、多宝(私的天啓たる使命)その一尊の真言のみを専一に用いねばならぬのである。すべてこの霊験あらたかなる、そなただけの真正の誦法とはこれ、多宝をこそ本(もと)とするものであるからである――と述べているのではかろうか? 勝手な思い込みではある。大方の御叱正を俟つ。

「二尊を合せ行じて」先の多宝如来の注の下線部と合致する。

「正念誦」底本の編者注に、『五種念誦のうちの三摩地念誦』(さんまじねんじゅ)とある。「念誦」は真言宗で真言を繰り返し唱える修法で、その方法には①蓮華念誦(誦ずる声が自分自身の耳に聞こえる程度の声を出す最初期階梯の誦法)・②金剛念誦(唇と歯は閉じ合わせ、僅かに舌先のみを動かして真言を唱える誦法)・③三摩地念誦(舌を動かさずに心に於いて唱える誦法)・④声生(しょうせい)念誦(心中に蓮華を想い、その上に白い法螺貝があると観想してその貝から妙なる音声(おんじょう)が遍く世界に音楽的に響き渡る誦法)・⑤光明(こうみょう)念誦(口から光明を発しつつ唱える即身成仏の誦法。六波羅蜜寺の六体の阿弥陀如来が口中より出現している空也上人像はこの光明念誦を形象化したものである)があるとする。この五種の解説は大森義成「実修真言宗の密教と修行」(二〇一〇年学研刊)や正式な真言宗寺院のサイト及び真言僧のブログを複数参考にしたが、大森氏によれば、三摩地念誦は『舌すら動かさず、心の中で真言を唱える。そのときに心の中に「蓮華」と「月輪」』(月のことであるが「がつりん/がちりん」と読む)と梵字(原本では古代サンスクリット文字が入る)のア(密教では阿字本不生(あじほんぷしょう)と称し、宇宙のあらゆるものは「阿」という字音のなかに含められるとし、総てのものが本来、存在するものであって原理そのものが現れているのだとする、大日如来自身の内的悟達と同一であるとする思想。阿字観瞑想法の基本)『を迷走して、一体になりきる』と解説されておられる。]

 

□やぶちゃん現代語訳

50

 建暦二年九月十九日の夜、こんな夢を見た。

「上師上覚房さまを以って大阿闍梨となし、伝法灌頂(かんじょう)を受けるために道場に入堂し、五智の法水を浴びる。

 その作法たるや、これ、夢の中の出来事であるにも拘わらず、細かな部分まで定式通りであって、夢にありがちないい加減ところや、おかしなところなど、これ、一つとしてないのであった。

 私は伝法の証しとして、二つの大きな印(いん)を受け奉った。

 その一つは五鈷(ごこ)の印、今一つは獨鈷(とっこ)の印であった。

 その印はこれ、二つを合わせて、内密に伝授された証しとしての印なのであった。

 五鈷はこれ、こうした伝法灌頂にあって知られた印――真言宗一般の内伝の五鈷の印であった――と全く変わらぬものであった。

 しかしそれに加えられた今一つの独鈷の方の印の方は、これこそまことに秘かに内々に伝授されたものであって、それは仏さまの中指を、これ、ぴたりと縦に合わせた、実に凛々しい形をしているのである。……

 また、その折り、私はふと疑問に思って上覚房さまに問い奉ったことがあった。それは、

「――法華経読誦の修法には、これ、やはり釈迦・多宝の二尊を合わせて行じて、また、正念誦(しょうねんず)に於いても釈迦・多宝両尊の真言を用いるのですか?」

という疑義であった。

 すると上覚房さまは鮮やかにきっぱりと、こう、お答えになられたのである。

「正念誦にはこれ、まさに多宝一尊の真言をこそ用いねばならぬ! すべて、この法は多宝を本(もと)とするものだからじゃ。」

と……」

2015/01/28

明恵上人夢記 49

49

一、南都の修學者筑前房等、侍從房に來る。此の破邪見章(はじやけんしやう)を見せしむとて、又、上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり。其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。問題は「此の破邪見章」という謂いである(「破邪見章」は邪(よこしま)な誤った仏法解釈を論難して破り、それを明確な文章で明らかにすることの謂いであろう)。底本注は、あるいは「摧邪輪」かとし、後掲するように河合隼雄の「明惠 夢に生きる」でも、これを「摧邪輪」とする。その方が理解はし易い。とすると、「明惠 夢に生きる」のように、この「49」夢、ひいてはノン・クレジットで法然繋がりの「48」と、その前の年不詳の宙ぶらりんの「47」夢もひっくるめて、総ては「摧邪輪」執筆後の夢ということになり、これらの三つの夢記述は建暦二(一二一二)年十一月の「摧邪輪」執筆後のこととなる。しかし、そうなると底本で次の「50」が『建暦二年九月十九日の夜』で始まるのと合わなくなる。無論、前に述べた通り、底本自体が十六篇の継ぎ接ぎに過ぎないから、これを以って建暦二年説を退けることは出来ない。しかし、河合氏も述べておられる通り、『この夢が『擢邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくる』という点で非常に大きな問題を孕んでいることは言を俟たない。河合氏は建暦二年説に従って意見を述べておられるから後掲する引用を参照にされたいが、私個人としては、現在の主流とは思われるその解釈や解析に敬意と理解は表するものの、これらを、

「摧邪輪」執筆後の夢

としてしまうと、この三つの夢の内容は総合的に見て、如何にも、

リアルで科学的で論理的な様相を見せてくる/見せることとなってしまう
と思うのである。ところが、私のように、これらを総て

「摧邪輪」執筆前の承元元(一二〇七)年の十一月及びそれ以降、「選択本願念仏集」を読む前、即ち知られた「摧邪輪」の筆を執ろうと決心した前の夢

ととるならば、俄然、この三つの夢は、

夢らしい夢幻性を帯び、しかも孰れもが既に注した通り不可思議なる予知夢としても立ち現われてくる

ように思われるのである。大方の御批判を俟つものではある。

「南都」奈良。

「筑前房」不詳。「26」夢に不詳の「筑前殿」が出るが、同一人物かどうかは不詳。

「侍従房」表現から見て、人名ではなく寺院か公家屋敷か宮中かの部屋の室名のように思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。

「此の破邪見章」私は以上の観点から、これは「摧邪輪」そのものではなく、尊崇の念を持ちながらも明恵が法然の宗旨に疑念を抱き、それについて思うところを九年(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした承元元(一二〇七)年まで)に亙って書き溜めて来たところの(一朝一夕一ヶ月ばかりであの「摧邪輪」が総て書き上げられたのだとは私には思われないのである)、後の「選択本願念仏集」に対する批判文書である「摧邪輪」の、原「摧邪輪」とも言うべき草稿に類するものであったと採るものである。建暦二(一二一二)年十一月の執筆までの実に十四年の間(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした)、そういう草稿や原資料が一切なかったと考える方が、遙かに不自然であると私は思うのである。確かに、何度も述べるように、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは、法然の死後八ヶ月後、この建暦二年九月に平基親の序を附けて版本印行されたものによるものらしいが、しかしどう考えても、それまで明恵が何とも思わずにただ只管、法然を崇敬なしていたが、活字化された「選択本願念仏集」を読んだとたん、その宗旨が仏法を破壊するとんでもないもので、彼はとんでもない破戒僧だったのだだと初めて気づいた――などという愚鈍な明恵を主人公にするシチュエーションの方が、遙かに不自然である。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたか(不謹慎乍ら出来れば、死んでいてくれた方が夢としては、より面白いんだけどなぁ)。

「上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり」ここは言葉を発していないにも拘わらず、その心中で思ったことが不思議に上師に通じて、その通りになったという情景を描写しているものと読んだ。また、ここで直ぐに読まずにいて欲しいと明恵が心に念じて、有意な時間経過の後の夜になって徐ろに上師及び別な「人」がそれを読んだという如何にも迂遠な叙述が気になる。ここには実際の「摧邪輪」が、法然死後、「選択本願念仏集」を実見して義憤から書かれることの――私は――予知夢的表現であったのではないかと考えている(これが「摧邪輪」執筆後の夢となると、如何にもつまらない夢となる、という私の謂いが、少しはお分かり戴けることと思う)。

「其の御前に人ありて」もう一人、不詳人物が上師のすぐ前にいて、彼も親しくそれを読んだのである。この「人」、大変気になる。

「書」という表現は、確かに出来上がった「摧邪輪」の雰囲気はないとは言えない。しかしそれでも私は良いのである。私はこれを予知夢と解釈しているからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一、こんな夢を見た。

「南都の修学僧の筑前房らが、侍従房にやって来られた。

 私は、手元にある、この私の――法然らが布教するところの念仏衆の――その破邪見章(はじゃけんしょう)の論難について、是非とも、お見せしたいと思っていた。

 すると、その来訪された人々の中には、また、我が上師たる上覚房さまがおられ、私のその論難を綴ったものを手に取ってお読みになられようとした。

 その時、私は、心の中で、

『……上覚房さま、それは、どうか、今日これから、宵になってより、ご覧下さいまするように……』

と念じた。

 すると、上覚房さまは以心伝心を以ってそれを感受なされた。

 されば、ずっと後の夜になってから、上覚房さまはご覧になられた。

 その上師の御前(おんまえ)にも人――私の知らない人物であった――がおられたが、その方は、この私の念仏衆への論難の書を読まれ、随喜し、その後、感極まって大声を挙げてお泣きになっている。……

 上師上覚房さまは私に、

「――これはまっこと、えも言われぬ貴(とうと)き書であるぞ。」

と、おっしゃられる。……

 

[やぶちゃん補注:河合隼雄の「明惠 夢に生きる」より、本「48」「49」夢に対する解説部を引用しておく。

   *

 これらの夢は『夢記』の建永元年(一二〇六)の一連の夢の続きに、十一月の夢として記載されているものであるが、それ以前に十二月の夢が二十八日まで記されているし、奥田も指摘するように『夢記』の「記事に錯乱や順逆が考えられるから確かなことはいえない」のが実状で、これらの夢はいつのものか断定し難い。ただ、二番目の夢にある「破邪見章」が久保田らの推定するように『摧邪輪』のことであるならば、この二つの夢は『推邪輪』が執筆された建暦二年(一二一二)以後の夢ということになる。

 ここでどうして年代にこだわるのかと言えば、この夢が『摧邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくるからである。すなわち、明恵は『摧邪輪』の冒頭に、自分は年来、法然に深い仰信をいだいてきたし、いままでに一言も誹謗したことがなかったが、この『選択集』を読んで、これが念仏の真実の宗旨をけがしているのを知り恨みにさえ思っている、と記している。この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで、夢のなかで、法然に仏事の導師をして貰うとしてもあまり不思議はないと思われる。

 筆者としては、第二の夢の「破邪見章」は『推邪輪』ではないかと思われ、はじめの夢も『推邪輪』執筆後のものではないかと思う。そうすると、意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、無意識には法然を評価していたことになってくる。このように考えると、『行状』に記されていた、明恵の顔に「観音」とか「善導」とか書かれ、西方から光がくるという夢も、浄土教に対する明恵の高い評価を示しているものと思われて、ますます興味深く感じられる。もともと明恵は法然の『選択集』に書かれていることを非難しており、浄土教そのものや念仏などを否定しているのではないので、この夢も別に不思議ではないと言えそうであるが、やはり、明恵が根本的には華厳によっていることを考えると、注目すべきイメージであると言わねばならない。

 明恵が法然を評価する夢を見ている事実は、彼の内面の動きを示していて興味深いが、夢を見た年代を明確にできないので、断定的なことが言えず残念である。

 なお、この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく。

   *

「奥田」国文学者奥田勲。聖心女子大学名誉教授。明恵の「夢記」の研究者として著名。私はこの『この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで』の、「選択本願念仏集」を読むまでは目出度くも手放しで『法然を尊敬していた』という明恵の楽天的な姿を、これ、想像することが出来ないのである。]

明恵上人夢記 48

48

一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。一人の長高(たけたか)き僧有り。白衣(びやくえ)なる心地す。笠を著(つけ)たり。心に思はく、法然房也(ほふねんぼう)。我が佛事の導師すべし。其の聽聞の爲に來られ、我が房の中に入りて、饗應して二三日を過す。明日の佛事を、使者を以て白(まう)さく。「日來(ひごろ)、佛事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過(よ)ぎ了(をは)んぬ。今夜見參(げんざん)に入らむと欲す。明日は時畢(をは)りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲(た)るべき」由をと云々。

[やぶちゃん注:クレジットがない。大まかな推論は「47」夢の注で示しておいたが、この内容から再度、考証を試みたい。まず私はこの「明日の佛事」に着目する。これは恐らく、夢時間の中の法然来訪滞在の後の漠然とした不特定の「明日の佛事」では――ない――と私は読む。即ち、これは夢を見た日の明恵がその覚醒した翌日(或いはその日)に行われる明恵主宰の何らかの公的な「佛事」であったと私は読むのである。既に述べた通り、承元元(一二〇七)年(建永二年から同年十月二十五日に改元)秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任しており、まさしく遁世僧でありながら、頗る世俗的な国家宗教の只中にあって公的な「佛事」に忙しい日々を送っていたと考えてよい。これもそうした公的「佛事」だったのではないか? さればこそ、公的に追放配流されていた法然が、その公的「佛事」にやってくると約束することこそがあり得ないことであり、それだからこそまた逆に、明恵が夢として書き残したくなるところの、特異点としての夢の夢たる所以を見出し得るといえるのではあるまいか? 法然は承元元年の二月に讃岐国へ配流された(現地ではかなり自由に行動している)が、同年十二月には早くも赦免され、翌建暦元(一二一一)年には京の吉水に戻っている(その後、建暦二(一二一二)年一月二十五日に京の東山大谷で死去するまで京に居た)。そう考えると、現実に法然が赦免されてしまった後では、明恵がかく夢を見た際の彼自身の中での夢としての印象度は著しく減衰すると言ってよい。とすると、この赦免が十二月というのが俄然、私には特別に見えてくるのである。まさに、

 「48」夢は法然が未だ配流中の承元元(一二〇七)年の十一月中の夢

ではなかろうか? そう考えると、「47」夢が「十一月」(既に私は「47」も承元元(一二〇七)年十一月の夢と推測した)であることとも極めて自然に繋がるのである。そうしてしかもこれが「十一月」であることはさらに明恵にとって大きな意味を持って来るではないか! そう、これは実に後に、翌月に法然が赦免され、翌年には法然が都へと復帰することの予知夢とさえなっているという点である。これは実はまさに書き残されるべき特異点の夢だったということになるのである。

 但し、これについては、全く異なった説が河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には記されてある。端的に言えばそこにある説は、少なくともこの「48」と「49」(叙述上のニュアンスからは「47」も含まれる感じはする)夢は、「摧邪輪」が書かれた(建暦二(一二一二)年十一月以後(ということは同年一月二十五日の法然の死後(満七十八歳。明恵より四十歳年上)ということになり、この夢の法然は既に死んでいるということになる説である)というものである。それはそれで非常に説得力がある特に法然死後と考えるとこの「48」の映像の神秘度は逆に著しく光輝を増すからである)もので、私もそれをよく存じてはいるのだが、「47」以降の以上の私の見解は、あくまで私自身が読んだ際の第一印象を大切にして分析した結果であり、それらの学説の影響は受けていない(というか、受けないように意識して独自に考証した)。それが如何なるものであるかは、次の「49」の注で引用して示すことする。

「檜皮屋」檜皮葺(ひわだぶき)。屋根葺の手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を剥いだものを用いた本邦独特の施工方法である。

「法然上人」底本の注には、弟子喜海の「高山寺明恵上人行状」には『紀州より帰洛の途次、独りの老僧の説教によって法然の狭義に触れたとある。明恵は、『摧邪輪』を著わして法然を論難するなど、その教義に対しては厳しい批判を加えている』と「には」とはあるものの、これは頗る不十分な注釈で、以前のべたことを繰り返すなら、明恵は専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年成立)が出た六年後の建暦二(一二一二)年にそれを痛烈に批判する「摧邪輪」を著し(明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによる思われる)、発菩提心の欠落を指弾しているものの、四十も年上の法然という禁欲的な修行を積んだ大先輩の僧に対して明恵は、その生前は実は一貫してその修道心と学才に対し、非常に強い尊敬の念を持っていたことを述べなければ、だめである。前にも述べた通り、「摧邪輪」での法然に対する破戒僧としての誹謗は極めて激烈であるが、それと同時に、かねてより法然に対する「直き心」が明恵にはあった。だからこそ、この夢で法然が「我が佛事の導師」ともなり、「其の聽聞の爲に」わざわざ来たって逗留もするのである。次の「49」の補説で掲げるように、実はこの夢は「摧邪輪」が書かれた後の夢とする説の方が強い。しかしどうだろう? 寧ろ、私はこの夢に於ける法然と明恵の疑似的子弟関係や二人の間にある穏かさは、「摧邪輪」で売僧(まいす)レベルまで引きずり落した後に見た夢と、「選択本願念仏集」さえ未だ読んでおらず、聴こえてくる彼の説く戒律のいかがわしさが気になりながらも、「直き心」を以って一方で依然として修行の人法然を尊敬していた明恵の素直な心が現われていると読む方が、如何にも腑に落ちはしまいか?

「我が佛事の導師すべし」次の「49」に全文を示すが、河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には、ここについて『この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく』とある。

「明日の佛事を、使者を以て白さく」この直前に一度、法然は帰って、時間的なインターバルが入っているものか。

「結構」構成・善美を尽くして物を作ること・計画/企て・準備/用意/支度などの意があるが、ここは最後の意味で採った。

「忩々に」「忩」は、急ぐさま・俄なさま・慌てるさま。

「過(よ)ぎ」は私の読み。

「長高き僧」法然は特に身長が高いとは聞いていない。これも明恵の法然に対する尊崇の念の形象化ともとれる。

「白衣(びやくえ)なる心地す」読みは私のもの。ここの部分、表現が気になる。これは現実の「白衣」とは何か異なった、異様に薄い透明度の高いそれではなかろうか。所謂、ETの衣服のように、地球上の物質で出来ているとは思われない天の羽衣みたようなもの、である。

「明日の佛事」前で述べた通り、この夢を見た日の翌日か或いはその日の実際の公的な(例えば学頭を勤める東大寺の法会或いは公卿武士などの上流階級の私邸での修法など)があったのではなかろうか。即ち、これから実際に行われる仏事の内容や在り方に対するという意味でも、この部分にも予知夢的ニュアンスを私は感ずるのである。

「見參」「げざん」「げんぞう」「けんざん」とも読む。高貴な人や目上の人に拝謁すること・ 目下の者に会うこと/引見(いんけん)/対面、の意の他にも、節会(せちえ)や宴などに伺候した人の名を記して主君に差し出すことをも指すが、ここは対面・検閲の謂いであろう。

『「明日は時畢りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲るべき」由をと云々』この法然の台詞の意味が分からない。「時畢る」の「時」は「斎(とき)」で仏家の正式な一日唯一度の、午前中の正飯の意で採った。以下の、「其の以前は又、忩々爲るべき」の部分は――結局、私(法然)が検分をしても、結局、その準備は、明恵、そなたではまたしても大慌ての杜撰なものとなるに違いない――という意味で採ってみた。強引な力技でしかない。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

48

一、ある夢。

「一つの檜皮葺(ひわだぶ)きの庵がある。

 そこに一人の背の高い僧がおられる。

 すこぶる清澄なる白衣(びゃくえ)――あたかも天の羽衣ででもあるかのようなもの――を召されておらるるように見受けられた。

 笠も被っておられる。

――私は心の中で、

『……これは……かの法然房さまだ! 私の仏事の導師をなさってくれるためにここにおられるのだ!……』

と思った。

 やはりその通りで、法然上人さまは私の説教を聴聞されんがためにわざわざここへ来られたのであった。

 その後(のち)、親しく私の僧房の中へとお入りになられ、私は出来得る限りの誠意を以って饗応をなし、上人さまには、まことゆっくりと二、三日を過して戴いた。

 その後、上人さまは一度、かの檜皮葺きの庵へとお帰りになられたが、さても明日予定されてあるところの仏事について、御使者を以って私に、何と、

――日来(ひごろ)、そなたの仏事の準備は、いつもこれ、すこぶる慌てふためいて大急ぎにて、謂わば、やっつけ仕事で慌ただしゅう終わっておる。――今宵、我ら、そうした趣きをとくと見させてもらおうと存ずる。――明日は斎(とき)が終わったら直ぐに仏事となるはずじゃ。――さて……その以前の用意は、また、これ、……大急ぎの大慌ての杜撰ものとなるのであろうのぅ……

といった由を、この私に、告げられたのであった。……」

2015/01/27

明恵上人夢記 47

47

一、十一月、夢に云はく、二階の家有り。其の第二階に、種々(くさぐさ)、假(かり)の物有り。九品往生の圖を造ると云々。

[やぶちゃん注:「十一月」底本ではこの後の二条にはクレジットがない。しかも次の「48」の夢には何と、かの法然が登場し、しかもその次の「49」(これは全体を夢ではなく、実際の事実を記録した日記と読むことも出来るものであるが、ここでは敢えて夢として捉える)には、驚くべきことに、建暦二年十一月に明恵が撰述することになる、法然の「選択本願念仏集」(執筆自体は建久九(一一九八)年であるが、後に記す通り、明恵がそれを読んだのは法然死後の建暦二年九月と推定される)の論難書である「摧邪輪」の草稿ではなかろうかと思わせるような、『破邪見章』の文章を訪問僧や『上師』に見せるという、驚天動地の記述がある。なお、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると思われる。即ち、その書き上げの短期性と、その法然に対する激烈な誹謗からも彼の「選択本願念仏集」という活字化されたそれが、明恵の激しい怒りを喚起するものであったことは分かる。しかし、としても、明恵が「選択本願念仏集」を読んでいなくても、また、法然と直接の関係はなくとも、法然の元に集う修行者やそこに出入りした修学僧らから、法然の行状・言動・思想は稀代の学才の人明恵ならばこそ当然、知尽しており、「選択本願念仏集」に現われることになる破戒的なその宗旨をも、それ以前から既にして情報として知っていたと考える方が自然であると私には思われる。

 さて話を戻して何故、これが驚天動地かと言えば、実はその「49夢」の後の「50夢」は別ソース乍ら

 建暦二(一二一二)年九月十九日

の夢記述から始まっているからである。無論、底本自体が編者によってばらばらになった訳の分からない十六篇を恣意的に継ぎ接ぎに過ぎないのだから、これを云々するのは馬鹿げているとも言えよう。しかしアカデミストでない、一介の偏奇な夢の好事家に過ぎない私は敢えてここでは、お目出度くも無批判に、この編者の編集が時系列でなされていると――読み進めたい――のである。そうした馬鹿を許してみると、実にこれは、この「48夢」は前の「47夢」の建永元(一二〇六)年十二月八日以降の「十一月」に見た夢ということになり、そうなると後の「50夢」との連続性から考えるならば、この「48夢」は、

 承元元・建永二(一二〇七)年

 承元二(一二〇八)年

 承元三(一二〇九)年

 承元四(一二一〇)年

 建暦元・承元五(一二一一)年

五年間の孰れかの「十一月」ということになる(無論、時系列に従わない書き方を明恵は実際に行ってはいる。がしかし、この建永元(一二〇六)年の「十一月」というのは、十一月二十七日に栂尾に参って住するようになった特別な月であり、見てきたように、「42」からこの「46」まではかなり小まめに詳述しているのである(但し、時系列を前後するものはある)。しかも、この「47」の「十一月」の頭には「同」がないのである。

 以上から、私は、

●「47」以下「48」「49」の三つの夢は承元元・建永二(一二〇七)年から建暦元・承元五(一二一一)年の間に記述された夢

と採りたいのである。

 而して、ではこの閉区間の中で、それを絞ることは不可能であろうか?

 ポイントは本「47」の「九品往生」である。明恵は明らかに、区別的な往生の様相をここで夢に見ている。とすれば、ここで彼は往生の様相を区別化せざるを得ない何らかの状況的認識を「ことさらに」持ったと考えてよい。それはまさに念仏衆の、彌陀の誓願によって等しく往生することが定まっているという易行門認識故ではなかったか? とすれば、法然を先輩の修行僧として高く評価していた明恵であったが、後に「選択本願念仏集」を読んで発生することになる、聴こえてくる法然の浄土宗の宗旨への深い疑惑の念が既にこの夢に現われていると見るのが自然ではないか? 先に記した通り、明恵が実際に「選択本願念仏集」を目にしたのは建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると考えられるが、私は「摧邪輪」の成立年代から見て、その批判感情(この「九品九生」の図を明恵自らが「造る」というのを私はそのようなものとして見る。以下の注も参照されたい)が夢を形成するべく具体化していったのは寧ろ、法然と親鸞が配流になった承元元年以降ではなかったかと考えている。それは明恵が体制側の宗教者に厭がおうにも取り入れられるところの背景と、この法然・親鸞の配流とに密接な関係があると踏んでいるからである。畏敬していた法然が、破戒的布教を行い、それが公的に断罪されることはフロイト的な超自我を持ち出すまでもなく、明恵にとっては、そうなってしかるべきだという顕在的意識があったに違いない。しかし一方、彼は同時に、法然を崇敬出来る先師としても強く意識してもいたのである。しかして彼らの配流という現実は、明恵にとって、アンビバレントにして甚大な衝撃であったはずである。

 そうした明恵の意識の時間を測るとすれば、これは、

  承元元(一二〇七)年十一月

であると推定するのである(「48」以降でも再考する)。しかも、その年の秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任している。彼はまさに公的にも認められてしまった隠遁とは程遠い、現世的な宗教者に位置づけられてしまったのである。彼がこの「47」で「種々」「假の物」のある場所で、「九品往生」の図を自ら作ろうとするというのは、実はそうした事実と自身の現状に対する、微妙な「留保」的意識が夢に反映したのだとは言えないであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「第二階」とあるのは意味深長である。階層的区別のシンボルとしての権威としての「二階」か、新しい認識若しくは真の仏法の高みという絶対的上位概念としての「二階」か、一階が何であるかが示されないだけによく分からない。

「九品往生」阿弥陀如来の住む極楽浄土に再生(というよりも真に生まれたいと考える)したい願う者の、九つの往生の著しく細分化差別化された(というのは私の認識である)段階、九品の往生の仕方を称する。浄土三部経の「観無量寿経」に説かれるもので、如何にもな、往生の分類学として、上品上生 (じょうぼんじょうしょう)から上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生までの九品(くぼん)という往生の差(詳しくはウィキの「九品」を参照)が示されてある。聖道門としての華厳僧である明恵は自身には極めてストイックな戒律と厳しい修行を課した人物であるが、例えばウィキの「明恵」に、『かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀』(「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という)『により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』(これは一種の文字による曼荼羅であると中央公論社昭和五八(一九八三)年刊の「日本の名著5 法然」の明恵の解説の中にある。なお下線はやぶちゃん)、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』とあって、明恵がこの易行門に於ける衆生は等しく彌陀の大慈悲心によって救われるというセオリーを、「九品往生」に独自にインスパイアしていることが分かる(因みにウィキの「九品」によれば、本来の上品上生は、誠心・深心・廻向発願心の三種の心を発して往生する者を指し、それにはまた三種の者、『慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者』・『大乗方等経典を読誦する者』・六念処(信心する上で繰り返し心で念じるべき六つの法。詳しくはウィキを参照されたい)を修行する者、とあって、『その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば』、一日若しくは七日で『往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという』とある)。各種の鎌倉新仏教の新興思想は、そうした差別化された国家鎮護と上流階級の救済にのみ特化して腐敗していた平安旧仏教の粗い網目から徹底的に零れ落ちていた被圧的集団としての大衆という「衆生」をターゲットとした、易行プロパガンダを得意とした特異的宗教群であった。されば、ここで出る「九品往生」もまさにそうした明恵の創始した三時三宝礼を積極的に肯定するシンボルとして描写されていると考えるべきであろう。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

47

一、十一月、こんな夢を見た。

「二階建ての家がある。その二階部分には、凡そ私が見たこともない有象無象の、何とも言えぬ――私に言わせれば、仮りの相、真実の相とは思われないと感ずるところのものをも含む――仮の仏の物象を象ったものさえも多々置かれてあった。

 そこで私は独り、独自の「九品往生の図」を創り出そうとしているのであった。」……

2014/11/30

明恵上人夢記 46

これ、超難解な夢で、しばらく手をつけなかったのだが、今回、モスクワ大学日本語学科の教師で、明恵の「夢記」をロシア語訳しておられるウラジミール氏とのフェイス・ブックでの出逢いを記念し、昨夜来より挑戦してみたものである。



46

一、同十二月廿八日の夜、夢に云はく、覺雄闍梨(かくをうじやり)を僧正に、成辨之沙汰として成さしむ。さて、彼(か)の人の爲に水を湛へ了んぬ。誠に澄徹(ちようてつ)せるに、其の水の面に畫文(ゑもん)を書く。其の形

Myoue46

の如くなる文を書く。地をわりて廣益(くわうやく)一段許りに書けり。其の中に小さき魚等入りて、快く水上に遊戲し、際畔(さいはん)に候ふ。さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也と云々。

[やぶちゃん注:この夢は非常に難解である。私はシュールレアリスム的なロケーションの想定なしには、解釈はおろか、単に現代語訳することも不可能と考えている。

「同十二月廿八日」建永元(一二〇六)年十二月八日。栂尾に参って住するようになった十一月二十七日(当月は小)から数えて三十一日後(当該日を数えなければ丁度、一ヶ月後)のことである。当月は大の月であったから、小晦日の前日である。明恵の夢記述は白昼夢を除けば、その日の日記記載の後に記しており、これも通常考えれば、二十八日の夜から翌二十九日未明にかけての夢と読むべきであるから、寧ろ、明恵には年が改まる直前、一年の最後の日の前日という小晦日が強く意識されていたと考えるべきである。

「覺雄闍梨」不詳。底本に注なし(本夢には一切注がない)。「闍梨」は阿闍梨と同義(狭義の限定的なものもあるがここでは同義ととる)で、サンスクリット原義の「師」の謂いととってよかろう。但し、「覺」と「雄」の字をともに共有する人物で、「師」であり、「僧正」として密教の修法を主宰し得る人物が明恵の近くには一人いる。明恵の師である叔父上覚の師で、既に本夢記にも親しく登場している文覚である(彼はこの前年元久二(一二〇五)年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられて対馬国へ流罪となり、その途次の鎮西で客死している)。彼は「高雄の聖」とも呼ばれた。これは文覚と考えてよいと私は思う。

「成辨之沙汰として成さしむ」とあるから、法式全体の主催者は覚雄阿闍梨(文覚)であるが、その実際の修法は《文覚が明恵にその総てを執行させた》ということ、即ち、私は以下の「彼の人の爲に水を湛へ了んぬ」とあるものの、それはあくまで「彼の人」=法式主宰である文覚の、「爲に」=その命を受けて、「水を湛へ了んぬ」(水を眼前の修法を行う空間に湛え漲らせた)であり、その後の「畫文を書」いたのも不思議な文字(画像)「の如くなる文を書」いたのも、「地をわ」ったのも、「廣益一段許りに書」いたのも、そこに逍遙遊する魚らを見て「わざと池をほれるに似たる物哉」と「云」ったのも、「大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也」と言ったか心内に思ったのも、総て明恵であると解釈する。それは、これらの動作総てに渡って敬語が用いられていないからである。もしこれらの仕儀の一つでも主宰者の文覚自身が行った行為、言った言葉であったならば孫弟子である明恵が敬語なしにそれを表記することはあり得ないからである。但し、ここが大事な点なのであるが、それは同時に最初に前提条件として附されてあるように、以下総ての仕儀が「彼の人の爲に」行われた、僧正たる文覚の完全なる意志に従って執り行われたものであることをも意味している、ということである。これらは明恵の能動的な意志による行為と感懐及び観察でありなから、同時に師文覚のそれらとも完全に一体のものであるという点である。即ち、この夢の中で明恵がする行為の象徴する何らかの意味は、文覚によって既にして承認されていると、夢の中で修法を執行している明恵が確信している、ということを明示していると私は読むのである。

「水を湛へ了んぬ」前注で示したように、ここの映像化が難しい。「其の水の面」「地をわりて」「際畔」「池をほれる」「大きなる河」といった文字列を見てしまうと、具体的な地面や池のような具象的なものにイメージが引っ張られてしまうのであるが、どうもこれらの語彙は明恵によって厳密に選び出されて組み合わされた表現として私には映るのである。即ち、これは現実の修法が執り行われる護摩壇や祭壇の映像ではない。また、ヴァーチャルなリアリティを持った――黒々とした地面、そこを掘り割って造られた日本庭園、禅の心字池のようなもの、或いは何か水を湛える巨大な鉢なんどのような具象物――でも、ない。言うなら、これは寧ろ、前の「45」夢で私が想定したような、現実を超越した思惟世界の空間に明恵(及びその背後に在る一体化した文覚の意識)は浮遊しており、そこに水が湛えられ、水面(みなも)には漣が立っている(これは私の解。「誠に澄徹」(徹底的に澄んで透き通っている)とあるから、満々と湛えられ、微動だにしない完全に透明な純水とも読めるが、そうするとそれが「溜まった水」であると認知し難い――ここは専ら、この夢のイメージ化に対する私自身の要請である――からであり、そうした質感がないと、そもそもがその後の《その水面に文字を書く》ということもさらにイメージし難くなってしまうからである)。それが湛えてある「池」の底の部分に当たる「地」面はしかし、これも透明で見えないのである。見えないが、しかし「地」はあるのである。だからそれを「わり」、そこにかく、池のような溜まった「物」を創ることも出来るのである。説明がくだくだしくなったが、以上が、私がまず本夢を自分の脳の中に再構成するために必要とした最低条件であったのだと御理解戴きたい。

「畫文を書く」絵のような文字のような紋のようなものを、その水面に書く、のである(プライベート・フィルムではその不思議な文字の外縁から周りに向かって細かな漣を立たせたい)。

Myoue46_2

この文字、私は初めて目にした二十代の頃からずっと今に至るまで、

『「門」の略字を二つ横にくっつけたような感じだな』

と思い続けてきた。昨夜、寝る前に凝視してみたが、やっぱり、

『これって「門」か門のような絵を二つ並べたようにしか見えないよな』

と思いつつ、寝に就いた。今朝目覚めた瞬間、

『これって二つの「門」――聖道門と――浄土門、易道門――の二つじゃないか?』
という思いつきが閃いた。明恵はこの六年後の建暦二(一二一二)年、専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」を痛烈に批判する「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、発菩提心(ほつぼだいしん)の欠落を指弾しているものの――ここが私が最も引かれる明恵の「心直き」ところなのであるが――、法然に対して明恵は実はその修道心と学才に非常に強い尊敬の念を持っていたのであった。それゆえにこそ、「選択集」に示された「誤り」を正さずにはおれなくなって「摧邪輪」を書いたのであったし、明恵自身は終生、自己加虐的とも言える過酷な難行苦行を自身に課した、脱俗志向の強い人であったが、例えばウィキの「明恵」にあるように、彼の『打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』もあって、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』のである。即ち、明恵は、聖道門と易道門が両輪となってこそ、旧態然とした目の粗い笊でしかなかった国家鎮護の平安旧仏教から、真に衆生を残らず済度する鎌倉新仏教へと脱皮出来る/脱皮せねばならないと考えていたのではなかろうか? そう解釈するなら、この二つに見える「門」のようなものが実は――聖道門と易道門が合体して有機的な一体に融合したところの〈まことの仏性の中へと人々を導き入れるための「門」〉として示されてある――と読み説くことは出来ないであろうか?

「文」「文字」或いは「文章」。

「地をわりて廣益一段許りに書けり」前段との対称性から、これは「(その水を湛えている見えない「地」面部分を裁ち割って、(今度は、「水」の上の「門」のところではない)そこ、底(核心? 腑?)に「廣益」(広くこの仏国土と衆生たちに利益をもたらすこと。「益」は「法益」と同義と考えるなら、これは師が上堂や講義によって大衆に対して説法して教化する、それを広範に行うことを意味する語とも採れる)を象徴する章句を「一段」(ひと文章・一塊)書き込んだと解釈する。

「小さき魚」衆生の象徴というよりも、寧ろ、「荘子(そうじ)」の「秋水篇」に載る、「知魚楽」という呼称で知られる話柄を私は直ちに連想した。この原話は、私の偏愛するもので、教員時代には漢文で必ずと言ってよいほど採り上げた。以下の注に、原文と語注と私の現代語訳があるので参照されたい。――この魚らは心から楽しんでいるのであり、それをその見えない池の池畔に佇んで見ている明恵(同時に文覚)には全く同時にその魚らの心の楽しみが分かっている――という謂いであろう。

『さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也』これは、

――それを見ながら私明恵は、口を開いて、

①「わざと池をほれるに似たる物哉」(人がわざと池を掘って造ったものによく似ているなあ!」

――とはっきりと独り言を言った。

――さて、この夢の中の私が口を突いて述べた時、夢の中の私は心内に於いて、その自分の吐いた言葉を、

②「大きな、水が流れている河の中、その底を、わざわざまた、浚渫掘削し、こんな風になったという謂いである」

――と再度、感じたのである。

という一見、迂遠重複としか思われない叙述をしている点に着目すべきである。私自身の夢記述の体験から言うと、こういうまどろっこしいダブった記載法を採るのは、その台詞や言葉が非常に重要な意味を持つと、夢の中の私と覚醒時の私双方が、全く等価同様に感じた際に限られると思う。即ち、実はこのかったるい最後のだらだらして見える二文こそが、この夢の謂いたいところなのではなかろうか? 即ち、これは、

――普通、大河の底を掘って池を掘るなんてことは無用の用だ。

――しかし事実は、その無用の用にこそ、私の行為の真理は隠されているのだ。

――だからこそ、この魚ら(私明恵を含めた衆生)は心から楽しんでいるのである。

という安心立命の表現と私は採りたいのである(無駄で意味がないという謂いでネガティヴに解釈することも無論、可能であるが、私は明恵の場合、そう感じた激しく後退的で悲観的な夢については(見ていたとは思う)、明恵はあまり書き残そうとは思わなかったのではないかと感じている。]

 

■やぶちゃん現代語訳

46

一、同十二月廿八日の夜、見た夢。

『覚雄阿闍梨(かくゆうあじゃり)様を僧正として、私に一切を執り行なわさせる修法を修させておられる。

 まず、私は広大無辺な光に満ちた空間の中に漂っている。

 私は、徐ろにかの覚雄阿闍梨様のために、その空間に水を十二分に湛え終えた。

 そこに満たされた水は実に美しく透き通っていたのであるが、私はその透明な絹のような水の面(おもて)に一つの絵のような紋を書くのである。

 その字紋の形、

Myoue46_3

のような不思議な感じのものであったが、しかし、それを私は確かに意味を持った、そうしてその意味を理解して確かな「文」として書いたのである。

 次いで、今度は、その見えない水底の地面を裂き割って、その裂け目の部分に、広く民草を心から教化(きょうげ)するところの章句を、一くさり、書き込んだ。

 するとその私は裂き設けたその淵の中に小さな魚たちはすぅーっと入ってきて、如何にも気持ちよさそうに、その淵の水の中に遊戯し、時によってはその水際に佇んでいる私のところへまたすぅーっと寄り集ってきては如何にも楽しそうにそこに暫くいるのである。

 さて、そうした総てを見て私が口に出して言った言葉は、

「……何とも……人がわざわざ池を掘ったのに似てることだなあ!……」

という台詞であった。

 これは言い換えると、

――大きな川の中に、わざわざその川底を裂き割ってかくの如くに、「川の中に池を創った」ようなものだ――

という意味なのであった。…………』

2014/11/12

明恵上人夢記 45

45

一、同八日の夜、夢に云はく、成辨或る處に行くに、小兒、尋常(よのつね)なる、五六人許りありて、以ての外に之を敬重す。地へ下るれば着物を取りてはかせなんどすと云々。又、此處より見遣れば、海路を見渡すに、面白さ極り無しと云々。

[やぶちゃん注:この夢はやや奇異な箇所ある。それは「或る處」というロケーションの設定である。そこはどうも尋常な場所ではないということが細部の表現を見ると見えてくるのである。「小兒、尋常なる、五六人許りありて」の箇所、「尋常なる小兒、五六人許り」としなかったのは、そこが「尋常なる」場所でなかったことを意味しているということである。そこが不思議な「或る處」であったにも拘わらず、普通に現実世界にいるような庶民の子どもらがそこに五、六人いた、という謂いであると私は採る。そしてそこは次のシーンで「地へ下(お)」りるような場所、則ち、何処か非常に高い所なのである。しかもそこを「山」とか「塔」とか「高楼」と称していないという点にも着目したい。さらに「此處より見遣れば、海路を見渡すに、面白さ極り無し」と述べている箇所でも「此處」の具体な描写がないのである。ということは、そこは一種の高天原のような雲上の世界(但し、「地」面は存在する)なのであり、しかもシークエンスの最初は明恵も子どもらも、実は「地」に足を着いていない、その雲上世界のその上方の空間に浮遊しているという風に解釈するのが、最も自然にこの一連の記述を説明し得ると私は思うのである(但し、途中に「云々」があるから、最初の夢では一回、現世の地上に下ってとも解釈は出来る。しかしだとすれば、私は夢記述を「成辨或る處に行くに、此處より見遣れば、海路を見渡すに、面白さ極り無しと云々。此處には又、小兒、尋常なる、五六人許りありて、以ての外に之を敬重す。地へ下るれば着物を取りてはかせなんどすと云々」の順で記すように感ずるのである)。訳はそのようにした。大方の御批判を俟つものである。

「同八日」建永元(一二〇六)年十二月八日。栂尾に参って住するようになった十一月二十七日から数えて十一日後。前の「44」夢は「同十二月中旬」とあるところを見ると、明恵は夢記述を時系列通りには記していない(少なくとも現存するこの「夢記」の部分では)ことが分かり、また彼は夢を極めて明確に記憶しており、かなり後になってから纏めて記述する方式を(少なくともここでは)採っていた可能性が窺われる。ともかくも前の「44」夢は時系列を違えても、是非記しておきたかった彼にとっての特異点の夢であったということが、これによっても明らかとなるのである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

45

一、同十二月八日の夜、見た夢。

「私はある不思議な世界へと行く。私はそこで浮遊している。ところが、その空間には、およそ世間尋常の裸の童子らが、これ、五、六人ほど私と同じように浮遊しては遊んでいるのである。何故かは分からないのであるが、私は殊の外、この童子らを敬い丁重に扱っている。例えば彼らが、すうっと、その空中からその空間下の方にある地面へと降りて行った際には、私も一緒に舞い降りて行っては、そこにあった着物を執って童子らに着せて世話を焼いているのである。……

 また、ここより下界を見下ろしてみると、遙か遠くに水平線の見える海路を見晴らすことが出来、その面白さと言ったら、これ、極まりないといった美観なのである。……」

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