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カテゴリー「鎌倉紀行・地誌」の349件の記事

2018/08/24

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 今泉村

 

○今泉村〔伊麻伊豆美牟良〕 岩瀨村より分れし地なり〔大永二年の文書に、岩瀨鄕の内、今泉村。永祿中の物に岩瀨の内今泉と見ゆ。〕。されば、小坂鄕中なるべけれど、今、傳を失ふ。江戸より行程十二里。大永二年三月、北條左京大夫氏綱、當村に制札を出せり。これ、山ノ内明月院の所領たるを以てなり〔明月院文書曰、「制札。相州岩瀨鄕之内、今泉村竹木之事、從他鄕、剪取之事令停止畢。若於違犯輩者、可處罪科狀。仍如件。大永二年壬午三月七日。明月院傳藏主」。北條氏綱の華押あり。〕。永祿の頃も明月院領たり〔【役帳】曰、「明月院領。三十一貫九百七十文。東郡岩瀨之内、今泉。〕。家數二十。東西二十八町餘、南北十二町餘〔東、上之村。西、大船・岩瀨村二村。南、二階堂・山之内二村。北、公田・桂二村。〕。檢地は寶永七年、飯田彈右衞門・高倉伴左衝門、改む。新田あり。今、松平大和守矩典領す〔慶長中より加藤源太郎成之の采地なりしが、延享四年、御料となり、寶曆十二年、酒井平左衞門に裂賜ひ、御料の地、少しく殘れり。文化八年、子孫作次郎の時、御料を合て、一圓に松平肥後守容衆に賜ひ、文政四年六月、當領主に賜へり。〕。

[やぶちゃん注:現在の神奈川県鎌倉市今泉及び今泉台。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大永二年」一五二二年。室町幕府は第十代将軍足利義稙(翌年死去)であるが、既に戦国時代。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。

「小坂鄕」「小坂」は「おさか」と読む。「鶴岡社務職次第」では鎌倉郡谷七郷の一つに挙げられ、「遠佐可」と読まれている。「小坂郡」とも称され、「山内荘」を中心とした鎌倉郡の大部分の広域を含むまでに広がっていた。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などとする記録が残り、本「相模国風土記稿」では二十八ヶ村が相当されると記される広域地域であった。小坂郷としての中心は山内と推定される(「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士氏作成のこちらに拠った)。

「北條左京大夫氏綱」(長享元(一四八七)年~天文一〇(一五四一)年)は後北条氏第二代当主。ウィキの「北條氏綱」によれば、『伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる』。但し、『当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは』、『父の死後の』大永三年か大永四年から『である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を』二『代目と数える』とある。

「山ノ内明月院の所領」明月院へは現在の今泉台の住宅地の奥(南端)から尾根伝いに西南西に下ると、直近である。私は若い頃、二度ほど踏破したことがある。十二所の「お塔が窪」同様、「マムシ注意」の札が建っていた。

「明月院文書」「鎌倉市史」(正編)の「史料編 第三 第四」の「三九七」文書。

「明月院傳藏主」「三九七」文書編者注に『以心僧傳』とあるが、不詳。

「二階堂」現在の今泉台の奥から南に山越えすると、現在の鎌倉市二階堂地区である。

「寶永七年」一七一〇年。徳川家宣の治世。

「松平大和守矩典」川越藩四代藩主松平斉典(なりつね)の初名。既注

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「加藤源太郎成之」「関ヶ原の戦い」の際の家康の旗本として、御鉄砲頭に加藤源太郎の名が見える。彼か。

「延享四年」一七四七年。

「御料」幕府直轄領のこと。「今泉町内会」公式サイト内の年表に、加藤氏五『代目成像(なりやす)の代に幕府から咎めを受け改易となり』、『領地没収され』、『幕府直轄の御』料『となり、一部を残して酒井政栄の所領となる』とある。

「寶曆十二年」一七六二年。

「酒井平左衞門」不詳であるが、前注の酒井政栄の後裔であろう。

「裂賜ひ」「さきたまひ」。分割封地し。

「文化八年」一八一一年。

「合て」「あはせて」。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している(既注であるが、再掲した)。

「文政四年」一八二一年。]

○高札場

○小名 △小泉谷戸 △福泉 △中村 △のろけ谷戸

[やぶちゃん注:位置不明であるが、「のろけ谷戸」という名は気になる。]

○山 東南北の三方を包めり。東方の山上に秣場あり〔岩瀨・大船等の村々と入會の持なり。〕。山中を穿て、まゝ古瓦を得るといへり。村南山上に小塚あり。「鷹塚」と呼り。塚上に松樹あり〔圍一丈許。賴朝の鷹を埋し所と傳ふ。〕。

[やぶちゃん注:「秣場」「まぐさば」。馬草。農家にとって農耕馬牛の飼料の重要な供給地だから、「入會」地(いりあひち(いりあいち))、入会権(一定地域の住民が一定の山林原野(入会地)を共同で薪炭用・肥料用の雑木・雑草の採集等のために利用する慣習上の権利。用益物権の一つ)が行使されたのである。

「穿て」「うがちて」。掘ると。

「鷹塚」「かまくらこども風土記」によれば(以下の引用は第十三版)、現在の今泉白山神社(後に出る「白山社」。ここ(グーグル・マップ・データ))の『真南の山中に頼朝の鷹を埋めたという「鷹塚(たかづか)」といわれる小塚があります』(現在形で書かれている)。『大きな松が生えていたそうですが、今は、塚だけが残っています』とある。なかなか丹念に調べ歩いておられる武衛氏のサイト「鎌倉遺構探索」のこちらで、それらしい箇所が示されてある。必見。但し、サイト主が『鷹のお墓にしては大き過ぎるような気も』するとされており、以下の周囲「一丈」とあるのに比すと、その画像の塚は大き過ぎるようには見える。

「圍」「めぐり」と訓じておく。]

○林 字新山にあり〔一町三段三畝十步。〕。領主の雜木林なり。此餘、村民の持とする。雜木林あり〔二十二町一段二畝。〕、元文二年、金子覺右衞門、檢地す。是は御料に屬し、永錢を貢ず。

[やぶちゃん注:「元文二年」一七三七年。

「永錢を貢ず」年貢を納めたことを言う。]

○川 村内不動堂瀑布の下流なり〔幅三間許。〕。岩瀨村に沃て、砂押川と云。

[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチメートル。

「沃て」「そそぎて」。]

○神明宮 村持。下同。

〇八幡宮

〇一牛王社

○山神社

○荒神社

○子神社

[やぶちゃん注:以上の祠は廃絶したか、白山神社辺りに纏められている可能性が高い。]

○毘沙門堂 村の鎭守とす。建久元年、賴朝の建立と云ふ〔緣起に據に、賴朝上洛のついて、鞍馬寺に詣で、行基作の毘沙門に體あるを瞻禮し、其一體を請得て、鎌倉に歸り、此地に安ぜしなりと云へり。〕。本尊は行基、楠樹を以て作ると傳ふ〔長六尺許。臺座に「享祿五年九月廿八日 奉行□左衞門 名主長島彦右衞門」の銘ありしと云。是は當堂再建の時、再修の施主にて、彦右衞門が子孫、代々、村内の里正を勤め、今、「多時」と稱す。〕。祕して猥に拜する事を許さず、別に前立を置く〔長四尺六寸五分。〕。脇立には辨天〔長二尺九寸五分。〕・大黑〔長二尺六寸五分。各運慶作。〕を安ぜり。享祿五年九月再建棟札の寫を藏す〔其文に、「禪興寺莊園、相州山之内庄今泉村、毘沙門天王、自古造立、犬吉祥天音女、脇付幷修造再興。領主大勸進本願比丘 前禪興指月僧祗四十四歳 今泉寺□□華押 佛匠大藏長□□天堂棟上 享祿五壬辰九月廿七日」とあり。按ずるに、文中、當村を禪興寺庄園と記せしは、全明月院の本坊なるをもて、かく記せしにて、當村は元より、かの院領なること、論なし。當時明月院は、禪興寺塔頭なり。〕。

[やぶちゃん注:現在の白山神社。現在、参道入り口に「禪宗今泉寺」(「こんせんじ」と読む)の石碑が残り、参道左手には、建長寺の塔頭として今泉寺(こんせんじ)が建つが、これは昭和五二(一九八二)年に建立された新しい寺であって、この石柱の寺とは全く別物である。毘沙門天は現在、白山神社に祀られているが、この元の今泉寺は、これが本来祀られていた毘沙門堂(現存しないが、実際には現在では鎌倉時代以前から存在したと考えられている)の別当寺であったこと以外は、開山や沿革は不詳である。

「建久元年」一一九〇年。「かまくらこども風土記」は建久二年とする。

「毘沙門に體あるを瞻禮し」よく意味が判らぬが、この「體」は「てい」で、「それらしい立派な様子が感じられるもの」の意か。「瞻禮」は「せんれい」で、仰ぎ見て拝礼すること。

「享祿五年」一五三二年。「かまくらこども風土記」によれば、この銘は現在は見えず、修理した年号として宝永四(一七〇七)年のみが見えるとある。

「里正」庄屋。

「禪興寺」山ノ内の浄智寺の向かいの明月谷にあった禅寺であるが、現在は存在しない。本文でも述べている通り、現在ある明月院は同寺の塔頭の一つであった。元は北条時頼がここに建立した最明寺が廃寺となったのを、息子の時宗が再興したものが禅興寺であったが、明治の初めに廃寺となった。

「犬吉祥天音女」別本でも「犬」であるが、不審。「大」の誤字ではあるまいか?

「全明月院」「前」の誤りか、副詞で「まつたく」と訓じているか。]

△辨天社

△白山社

[やぶちゃん注:前に注した通り、現在の今泉白山神社。]

△別當今泉寺 壽福山と號す。臨濟宗〔鎌倉建長寺塔頭廣德院末。〕。享祿の棟札寫にも寺號見えたり。出山釋迦〔長九寸五分。行基作。〕を本尊とす。

[やぶちゃん注:寺に就いては既注。「出山釋迦」「出山(しゆつさん)の釋迦」像。二十九歳で出家した釈迦は、山に籠もって六年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。多くは水墨画禅画の画題として描かれるが、立像もある。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪・伸びた爪・浮き出た肋骨といった姿で造型されることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成されるのであった。

 以下は前の底本は改行せずに「△別當今泉寺」の後にベタで続いているが、改行し、ここに底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像にある不動堂の境内図をトリミング補正して示す。]

 

Imaizumihudou

 

[やぶちゃん注:図中キャプションは、右上から左上、左上から左下の順で電子化した。]

     
不動堂境内圖

男瀧

女瀧

前不動

不動堂

鐘樓

地藏堂

常念佛堂

別當稱名寺

 

○不動堂 今泉山と號す。弘仁元年、空海が創建の靈場と云ふ。石階三町許を攀緣して堂前に至る。本尊不動〔長二尺八寸。弘法作。前立及二童子あり。〕を安じ、大黑〔同作。長一尺二寸。像背に「承和元年」と彫る。〕を置。幷に石像なり。鎌倉繁榮の頃は代々の將軍、屢、參詣ありしとなり。後進の星霜を歷て、堂宇廢壞し、不動・大黑の二像も僅に窟中に安ぜしを、貞亭元年六月、直譽蓮入と云へる僧、宿願に依り、江島辨天に參寵し、靈夢を蒙り、此地の靈場を搜り得、村長永島氏と謀り、遂に再建の事を企て、三年にして堂宇落成せしとなり。 △鐘樓 元祿十五年鑄造の鐘をかく。 △常念佛堂 三尊彌陀を置く〔中尊、長二尺七寸五分。左右各長二尺六寸五分。幷に定朝作。〕。又、二十五菩薩あり〔各一尺六寸五分。同作。〕。 △地藏堂 △辨天社 今、廢社となり、脇士大黑・毘沙門及十五童子を合て、假に地藏堂中に置く。 △瀧 堂の南方にあり。二瀧、相對す。男瀧・女瀧と呼べり。 △岩屋 窟中に不動の石像を安ず。「前不動」と唱ふ。 △別當稱名寺 今泉山一心院と號す。淨土宗〔芝增上寺末。〕。古は密宗にて弘法大師の草創なり。中古、八宗兼學となり、圓宗寺と號せり〔按ずるに、上之村白山社神主の家系に、中納言法印の弟子寂心法師、寬文三年、當寺を開きしこと、見ゆ。盖、圓宗寺を開建せしなるべし。【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり。〕。後、本堂、廢壞し、此寺も無住となりしを、貞享元年六月僧蓮入〔單蓮社直譽と號す。寶永二年九月十二日寂。〕本堂を再建してこゝに住し、元祿六年、增上寺貞譽の時、彼末寺となり、今の山寺號を受くと云ふ。貞譽・祐天兩大僧正の名號二幅を什物とす。 ○榮泉寺 今圓山萬德院と號す。淨土宗〔岩瀨大長寺末。〕。開山存龍〔信蓮社貞譽と號す。天文十一年六月廿三日寂す。〕。本尊彌陀〔長二尺二寸五分。惠心作と云。〕 ○東光庵 淸光山と號す〔本寺、前に同じ。〕。本尊藥師〔長二尺二寸五分。行基作。〕を安ず。文明中、矢神右馬允某〔上杉氏の臣と云ふ。〕、開基す。後年、兵火に躍りしを、貞享三年九月、法譽是心〔作蓮社と號す。〕と云僧、再興して今の庵號を負すと云〔古鬼簿に、淸光山專修寺と記す。是、昔の寺號なるべし。〕。 ○地藏像 村東山中の徑側、岩腹に鐫れり。是は空海の彫せしなりと云。後年、首の缺崩れしより、俗に「首切地藏」と呼べり。

[やぶちゃん注:これは、本文内にも出る、現在の同地区にある浄土宗今泉山一心院称名寺(通称は今泉不動。(グーグル・マップ・データ))である。元は円宗寺という八宗兼学の寺で、空海が開いたと伝える不動堂の別当を兼ねていた。後年、廃絶したが、貞享元(一六八四)年に直誉蓮入が本堂を再興し、元禄六(一六九三)年、増上寺末寺となり、山号寺号を改めて浄土宗寺院となった。第二次世界大戦前は滝修行で賑わったらしい。私も十九の頃、この水で顔を洗ったが、洗った傍から、散歩していた土地の老人がにこにこしながら、「いい瀧でしょ。夏場には子供が水浴びしたりしてるんですがね。実はこれは背後の住宅地から流れ出てるんですよ。でも彼らには可哀想だから言わないことにしています。」と忠告して呉れた。チョー! 遅過ぎ!

「弘仁元年」八一〇年。サイト「鎌倉ん」高山記載称名寺の縁起では、弘仁九(八一八)年頃、『弘法大師が金剛峰寺を開いてから』二年後とする。それによれば、『弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、紫雲に包まれ光明のさす山に出会い』、『人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知った』。『大師がこの山に踏み入ると』、『忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み 大師の来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の像を刻み、密教道場の壇を築き』、『末世の衆生を救いなさい」と告げた』。『大師は、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り』、『伽藍の守護神として祭った』。『時に彼の翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」と傍の岩を穿ち』、『陰陽の滝をながし』、『村里に恩恵を与え、以後』、『金仙山を改め』、『今泉山と称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる』と縁起を記し、『称名寺は、初め』、『不動堂の別当で円宗寺と称し』、建久三(一一九二)年、『頼朝が征夷大将軍に就任の年』、『「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し』、『頼朝も深く信仰していた』。『その後、北条九代に至った貞享二年』(一六八四年)『の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏したところ』、『不思議にも、大黒天の背負い袋から毎朝』、二~三合の『米が漏れ出して』、『飢えの患いがなくなり、是から近郷の男女が帰衣し』、『お互いに協力、まもなく不動堂・阿陀堂の建立がなされた』。『時に元禄六年』(一六九三年)『芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の山号寺号請け、当時』より『修験者道場として著名』となるとともに、『現在の浄土宗寺院としてその基礎を確立した』とある。本文とは時制に若干の違いがあるが、誤差範囲内ではある。

「攀緣」(階段を)頼りにしてよじ登ること。

「幷に」どちらも。

「元祿十五年」一七〇二年。

「寂心法師」不詳。

「寬文三年」一六六三年。

「盖」「けだし」。

「【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり」新編鎌倉志卷之三の「○不動堂〔附男瀧 女瀧〕」に、

   *

不動堂は今泉村の内にあり。今泉山と額あり。不動の石像、弘法の作と云ふ。堂の向ふに瀧あり。高さ一丈計あり。南北に相ひ向て落つ。南を男瀧(をだき)と云、北を女瀧(めだき)と云ふ。寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。

   *

「榮泉寺」廃寺。位置不詳。

「東光庵」「淸光山專修寺」廃寺。位置不詳。

「古鬼簿」古い過去帳。言わずもがなであるが、寺院で檀家・信徒の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記しておく帳簿のこと。点鬼簿。

「鐫れり」「ほれり」。

「首切地藏」不詳。現存しないと思われる。江戸時代、博徒間で地蔵の首を懐に忍ばせておくと勝負に勝つというジンクスがあった。少なくとも、今泉から一山越えた直近の「百八やぐら」の地蔵群の首がないのは、皆、その難に遇ったものである。これは崖に彫られたもののようだが、小さなものなら、そうした結果と考えることも可能である。]

2018/08/21

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅱ) 大長寺(他) / 岩瀨村~了

 

[やぶちゃん注:本条は非常に長いので、読み易さを考えて鍵括弧や中黒を使用し、注を本文に、注など不要な方は飛ばして読めるよう、ポイント落ちで入れ込んだ。また、多数登場する鎌倉御府外の寺名や関係僧及びその出典等については、煩瑣なだけで、必要とする人も限りなく少数であろうからして、而も本文自体が読み難くなることから、それ等は原則、注さないこととする。大長寺はここ(グーグル・マップ・データ)。最初に、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から、添え図である「大長寺境内圖」を示し、そのキャプションを中央奥の仏殿から反時計回りに電子化しておく。]

 

Daityoujizenzu

 

   大長寺境内圖

[やぶちゃん注:右端中央にも同タイトル・キャプションがある。]

仏殿

吉祥水

北條氏墓

門山塔[やぶちゃん注:「開山塔」の誤記か。]

三社權現社

庭松院

中門

銀杏樹

鐘樓

方丈

梅 井

心蓮社蹟

 

○大長寺 龜鏡山護國院と號す。淨土宗〔京知恩院末。〕。天文十七年[やぶちゃん注:一五四八年。]五月の創建にして開山は存貞[やぶちゃん注:「そんてい」。]〔鎭蓮社感譽願故と號す。小田原の人なり。大道寺駿河守政繁の甥、大永三年[やぶちゃん注:一五二三年。]三月生る。成人の後、小田原傳長寺に投じて剃度し、後、飯沼弘經寺に掛錫して、法を鎭譽に嗣。舊里に歸て、傳聲寺に住す。天文十七年、當寺を建。又、四十八願[やぶちゃん注:阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八誓願。]に應て、四十八寺を創し、永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]、增上寺に轉住し、檀林の掟制三十三條を定。是より宗風、煽に起る。又、別時中[やぶちゃん注:別時念仏。特別の時日や期間を定めて称名念仏をすること。]、靈夢を感じ、傳法の規繩、法問の則儀を定め、一派の祖と稱せらる。其後、當寺二世靈譽圓治に、緣山[やぶちゃん注:増上寺のこと。増上寺の山号は三縁山。]の職を讓り、更に地方に遊化し、天正二年[やぶちゃん注:一五七六年。]九月當寺に歸遁し、明年五月十八日寂す。則、寺域に葬る。碑銘なきを以て、靈山寺前住秀海、其事實を撰し、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]、現住單定、碑を建。【傳燈總系譜】曰、鎭蓮社感譽存貞、號願故、相州小田原人。北條氏家臣大道寺某の甥也。初投同所傳肇寺剃髮、下于武江、師事杲譽、長後皈古里、住傳肇寺。天文中、爲堪檀越大道寺駿河守母追福、於武州河越、建蓮馨寺。又、於同州、開建平方馬蹄寺・小林寺・淸長命寺・高澤大蓮寺・見立寺、又、於信州更級郡綱島開安養寺。永祿六年、爲江增上寺第十世。傳法照々、遂成一派。天正初、仍檀主請、爲相州鎌倉郡大長寺及深谷專念寺開山第一祖。天正二年五月十八日寂す。〕、開基は玉繩城主北條左衞門大夫綱成[やぶちゃん注:北条綱成(つななり/つなしげ 永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年。後北条氏家臣。ウィキの「北条綱成」によれば、玉繩城主として北条家主力部隊「五色備(ごしきぞな)え」の内の最強として知られた「黄備(きぞな)え隊」を率いた(黄色地に染められた「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物を使用したことで知られる)。綱成与力衆は「玉縄衆」とも呼ばれた。父は今川氏家臣福島正成とされ、父の死後、『小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年』(一五二一年)『に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも』、天文五(一五三六)年に『父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという』二『説がある』。『氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され』、天文一一(一五四二)年に『為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第』三『代玉縄城主となった』。『しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため』、『綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は』、大永五(一五二五)年の『武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている』。『一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している』。天文六(一五三七)年)より『上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条氏の北条五色備では、黄備えを担当する』。天文一〇(一五四一)年、『氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった』。特に天文十五年の『河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し』て『敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍』、弘治三(一五五七)年の『第三次川中島の戦い(上野原の戦い)では武田方への援軍を率いて』、『上田まで進出し』、『上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕し』ている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄一二(一五六九)年十月六日の『武田信玄との三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという』。元亀二(一五七一)年の『駿河深沢城(静岡県御殿場市)の戦いも武田方に抗戦している』。同十月に『氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った』。病いのために享年七十三で死去、墓所は私の住む鎌倉市植木にある彼の開基になる曹洞宗陽谷山(ようこくざん)龍寶寺。]なり〔寺傳に、綱成、存貞の高德を欣慕し、城中に請て、功德鎭護の利益を問ふ。貞、無量壽經を説。綱成、兼て八幡を信ず。彌陀は其本地たるを以て、深く感喜し、一宇を建て、治國安民の祈願所とせんことを約す。偶、當所の靈地を得て買得し、山林東西三町餘、南北五町餘の寺域及餉田を附す。因て當寺を創し、感譽を開山第一祖とすと云。〕。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]九月十日、綱成の室、卒しければ〔法號大項院光譽耀雲と云ふ。〕、寺域に葬り、更に二十貫文の地を寄附す。綱成は天正十五年[やぶちゃん注:一五八七年。]五月六日卒す〔年七十三。道感院哲翁圓龍と號す。〕。二世は圓治〔秀蓮紅[やぶちゃん注:「紅」は別の刊本でもそうなっているが、これはどう見ても原典の「社」の誤記ではないかと強く思う。]雲譽と號す。永祿九年[やぶちゃん注:一五六六年。]、增上寺に轉住す。〕、三世は普光觀智國師〔貞蓮社源譽存應と號す。天正十二年[やぶちゃん注:一五八四年。]、亦、增上寺に轉ず。〕、四世は源榮〔星蓮社曉譽存阿凝信と號す。觀智國師の弟子。〕なり[やぶちゃん注:浄僧源栄(げんえい 天文二〇(一五五一)年~寛永一〇(一六三三)年)は。ウィキの「源栄」によれば、『俗姓や出自は不明だが、徳川家康に気に入られ、数々の寺の開山を務めた。源栄と家康の仲は親しい物であったらしく、駄洒落のやり取りをした記録』(本条に出る花下連歌的付合を指す)や、『数奇者として知られる源栄に茶器七種を下賜した記録が残る』とある。事蹟はリンク先に年譜形式で詳しいので参照されたい。戦後の農地改革までは門前の「家康お杖先の田」という農地があったという。例によって家康が鷹狩りの際、門前で杖を振り回し、その杖で指した土地を即座に大長寺に与え、それは凡そ三町歩(三ヘクタール)にも及んだという(「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)に拠る)。]。榮、住職たりし時、天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]小田原の役に、北條左衞門大夫氏勝[やぶちゃん注:北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男・北条綱成の孫。参照したウィキの「北条氏勝」によれば、『発給文書による初見は』天正一〇(一五八二)年五月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により、家督を継承したとみられる。翌』天正十一年の『文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている』。天正十年、』伊豆大平新城の守備につき、武田方の戸倉城攻略に参加。同年』六月に勃発した「本能寺の変」後、『甲斐・信濃の領有を巡って』、『北条氏が徳川家康と争った際には同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、黒駒での合戦で家康の家臣鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れている(天正壬午の乱)』。翌年には『上野厩橋城に入り』、四『月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣』、二年後の天正十四年にも『下野に出陣している』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが、家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出』、『本拠である相模玉縄城へ戻』って籠城した。その後、『玉縄城は家康に包囲されるが』、『戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により』(と大長寺の源栄をウィキは全く記さない。本文後文参照)、同年四月二十一日に『降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している』。『以後、家康に下総岩富』一『万石を与えられて家臣となり、領内検地などの基盤整備を進める一方』、「関ヶ原の戦い」などで功績を重ね、『徳川秀忠からの信頼も厚かった』とある。]、玉繩に籠城して降らず。當寺、檀緣の由緒あるを以て、東照宮の内命を蒙り、大應寺〔植木村龍寶寺、是なり。〕住僧良達と謀り、終に降參をなさしむ〔【北條五代記】等には、此事、良達のみ扱しと見ゆ。〕。御打入[やぶちゃん注:先に掲げた通り、玉繩城では包囲されたが、事実上の戦闘は行われず、無血開城でされたので、これは形式的な謂いである。]の後、此邊、御放鷹の時、兼て榮の才學を知し召れ[やぶちゃん注:「しろしめされ」。]〔三州大樹寺[やぶちゃん注:特異的に注する。現在の愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗成道山(じょうどうさん)松安院大樹寺大樹寺。徳川(松平)氏菩提寺。歴代当主の墓や歴代将軍(「大樹公」。「大樹」は征夷大将軍の唐名。後漢の時、諸将が手柄話をしている際、今に光武帝の功臣として知られる馮異(ふうい)は、その功を誇らず、却って大樹の下に退いた、という故事に基づく(「後漢書」「馮異伝」))の位牌が安置されている。]登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり。〕、屢、當寺へ[やぶちゃん注:「ちゆうひつ」。先払いして(蹕)立ち寄ること()。]あり、法儀を御聽聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ〔舊領は、玉繩岡本村なりしを、此時、願上て、門前にて替賜ひしと云ふ。〕。天正十九年、改て寺領五十石の御判物を賜ふ〔文祿元年三月の水帳[やぶちゃん注:「みづちやう」は「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。]を藏す。所謂、大半小[やぶちゃん注:「だいはんしやう」は本邦の古い面積単位。「大」は一反の三分の二・「半」は二分の一、「小」は三分の一で、当時の一反(現在の約四百坪・十アール相当)は三百六十歩(ぶ)であったので、それぞれ二百四十歩・百八十歩・百二十歩であった。一段の水田が畦によって六等分されているような場合に便利な単位であった。]の步數なり。〕。寺號、初は「大頂」と記せしを〔所藏雲版[やぶちゃん注:後の「【寺寶】」に図とともに掲載されている。]、天文十七年の銘及び天正小田原陣の制札に、「大頂寺」と記す。〕御判物の文面に今の文字に記し給ひしより改むと云〔傳云、東照宮、初て成せられし時、山號を御尋あり、龜鏡山と言上せしかば、僧は大長壽なるべしと、上意ありしとぞ。かゝる由緒を以て今の文字に改給ひしとなりと云ふ。〕又、或時、俄に成せられしと聞て、榮、急ぎ、門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ、御戲に「南無阿彌陀佛鳥は取らざり」と上意ありしかば、榮、取敢ず、「有がたのえかうえかうで日の暮るゝ」と附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に「記憶すべき」との命ありしとなり、慶長十三年[やぶちゃん注:一六〇八年。]、江戸營中にて淨蓮二宗論議の時、榮、本多上野介正純と共に奉行せられしと云〔「淨土日蓮宗論記」依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ。〕。貞宗院尼〔寶台院殿[やぶちゃん注:徳川秀忠の生母西郷局(お愛)の法号。彼女は天正一七(一五八九)年の没であるが、この号は三十九年後の寛永五(一六二八)年に与えられたもの。]の御實母。〕、玉繩に隱栖の頃、殊に榮を歸依せられしかば、戒を授け、遺言に任せ、導師を勤む。慶長十六年[やぶちゃん注:一六一一年。]、尼の爲に貞宗寺[やぶちゃん注:浄土宗玉繩山珠光院貞宗寺。本。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の町内である鎌倉市植木にあり、拙宅のごく直近。御建立の時、榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す。同年十一月、東照宮、藤澤御殿[やぶちゃん注:藤沢宿にあった徳川将軍家御殿(別荘)。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間(の附近(グーグル・マップ・データ))にあった。ウィキの「藤沢御殿」によれば、構築は藤沢宿が置かれる以前の慶長元(一五九六)年頃と推定され、明和三(一六五七)年に江戸で発生した「明暦の大火」に伴う江戸城再築のために取り払われた。]に御止宿の時、榮を召させられ、法義御談話あり。且、諸堂修理のため、銀若干を賜ふ〔【駿府記】にも、此事を載せ、源榮を幻惠に作る。曰、慶長十六年十一月十八日、路次御放鷹御着藤澤、及夜增上寺弟子玄惠上人出仕、有佛法御雜談、則、銀百枚賜之、彼堂以下上葺之料也。〕。又、江城或は駿府等へも屢召され、修學料三百石を賜ふ〔【洞漲集】にも此事を載す。〕。故に榮を中興と稱す。同十九年、三州大樹寺に轉住せり〔源榮、當寺住職中、江淺草正姨覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺[やぶちゃん注:三度出るのでこれは注しておく現在の神奈川県座間市座間に現存する浄土宗来光山峯月院宗仲(そうちゅう)寺ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、この地の領主内藤清成が、慶長八(一六〇三)年に実父竹田宗仲の菩提を弔うため、この大長寺第四世源栄上人を開山として創建したと伝える。但し、『当地には』、『平安時代に宗仲寺の前身として伝えらる良真院、鎌倉時代には渋谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当寺が建立されたと考えられてい』るとあり、元和三(一六一七)年の家康の柩を久能山から日光へと遷御する際には休息所として利用されたという。慶安二(一六四九)年には寺領七石四斗の『御朱印状を受領し』ているとある。]の開山となり、兼住す。元和二年[やぶちゃん注:一六一六年。]四月六日、大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隱し、寬永十年[やぶちゃん注:一六三三年。]十一月十日、同寺にて寂す。年八十三。〕。本尊、三尊彌陀〔彌陀は長二尺三寸。運慶作。[やぶちゃん注:運慶作は誤伝。但し、南北朝期の名品ではある(非公開)。]〕及如意輪觀音〔定朝作。長一尺。〕を置、又、大頂院[やぶちゃん注:大頂院(永正一三(一五一六)年?~永禄元(一五五八)年)は北条氏綱の娘で、玉繩城城主北条綱成の正室の戒名の院号。名は不詳。法号は大頂院光譽耀雲大姉。後に出る北条氏繁の母。]の木像〔一尺□五寸五分。〕、東照宮の御神影〔大猷院の御筆。增上寺十七世、照譽、奉納す。裏書に、「奉納大長寺。東照宮大權現御影。右家光公の御筆也。增上寺照譽華押」あり。〕、道幹君[やぶちゃん注:徳川家康の父松平広忠(大永六(一五二六)年~天文一八(一五四九)年)のこと(法号の一部)。]の御牌〔東照宮の仰により、安置し奉れりと云。牌面、昔は「瑞雲院應政道幹大居士淑靈」とありしを、東照宮二百回忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、「大樹寺殿贈亞相應政道幹居士」と記せり。〕、御代々の尊牌、及、傳通院殿[やぶちゃん注:徳川家康の生母於大の方。]・崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政三女であったお江(ごう)。母は織田信長の妹お市。三度に嫁したのが徳川秀忠。]・寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼[やぶちゃん注:家康の側室。名は須和。号は阿茶局。]等の牌を安ず。寬永十年、增上寺照譽〔十七世。〕、御供養金〔東照宮・台德院[やぶちゃん注:徳川秀忠。]・大樹寺殿、御供養料三十兩。〕、及、三祖〔感譽・雲譽・觀智國師を云。三代相繼て、增上寺に轉ず。〕の供養金〔三十兩。〕を寄附す〔後年に至ても退轉なかるべきの文書あり。〕。佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ〔寶永七年[やぶちゃん注:一七一〇年。]、知恩院尊統法親王[やぶちゃん注:有栖川宮幸仁親王の皇子。]、江の旅舘にて記す。〕。方丈は大頂院及北條氏繁室〔七曲殿と號す。〕[やぶちゃん注:七曲殿(ななまがりどの 生没年不詳)は北条氏康の娘で、従兄弟である玉縄城城主北条氏繁の正室となった。名は不詳。私の家の直近、玉繩城大手口七曲坂(私が役員を務める植木公会堂はまさにここにある)付近に居住したため、かく古呼称された。彼女の子である氏繁の次男が、先に示した玉繩無血開城をした北条氏勝である。]の殿宇を移し建しものと云。

[やぶちゃん注:以下は連続(各項の後は一字空け)しているが、読み難いので、各項ごとに改行した。]

【寺寶】

△四季詠歌短册四枚〔智恩院[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

△詩箋一枚〔春は、後柏原院[やぶちゃん注:後柏原天皇(ごかしわばら 寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年)は室町から戦国期の天皇]、夏は、九條忠榮公[やぶちゃん注:九条幸家(天正一四(一五八六)年~寛文五(一六六五)年)。藤原氏摂関家九条流九条家当主。関白・左大臣。忠栄(ただひで)は初名。]、秋は仙洞[やぶちゃん注:不詳。春を書いたとされる後柏原天皇は後土御門天皇の崩御によって即位しており、生前に譲位して上皇にはなっていない。]、冬は、八條桂光院[やぶちゃん注:八条宮智仁親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)八条宮(桂宮)家の初代、正親町天皇の孫で、誠仁親王第六皇子。]の筆と云。〕

△一枚起請一幅〔建曆二年[やぶちゃん注:一二一二年。]正月廿三日、源空[やぶちゃん注:法然。]が淨宗の安心起行、此一枚に至極する事を示せしものにして、靑蓮院尊鎭法親王[やぶちゃん注:(永正元(一五〇四)年~天文一九(一五五〇)年)は後柏原天皇の皇子。東山知恩院と百万遍知恩寺との本末争いに関わって、一度、青蓮院門跡を離れたが、後に帰住し、天台座主となった。]の眞蹟なり。〕

△短册一枚〔同筆。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]、大頂院卒せし頃、牌前へ手向し歌と云。〕

△山越彌陀二尊畫像一軸〔惠心筆。大道寺殿駿河守政繁寄附。〕[やぶちゃん注:「山越彌陀」は「やまごえのみだ」「やまごしのあみだ」と読む。阿弥陀如来の来迎図の一種。阿弥陀如来と菩薩とが山の向こうから半身を現して念仏する人のために来迎し、極楽に救いとろうとする様相を描写したもの。この図様は中国敦煌の壁画の中に既にあるが、本邦では浄土教のチャンピオンで「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)が比叡山横川(よかわ)で感得した形を伝えたものと伝える(ここは主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。「大道寺政繁」(天文二(一五三三)年~天正一八(一五九〇)年)は後北条氏家臣で北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。駿河守は通称。ウィキの「大道寺政繁」によれば、『大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。大道寺氏は後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた』。『諱』『の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から』一『字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている』。『父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられ』、『軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど』、『北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた』。天正一〇(一五八二)年、『甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を』、『武田氏滅亡戦の余波のまま』、『織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり』、『信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ』て、『最前線を担当』、『徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げ』た。『上野松井田城の城代であった』『政繁は』、天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上』、『兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した』。『その後、豊臣方に加えられ』、各地での旧主『北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し』、『最も働いたとされている』。しかし、七月五日の小田原城陥落後の同月十九日、『秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく』、『開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかったなど諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた』。『一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦』、『滅亡した』とある。]

△涅槃像一軸〔山角紀伊守定勝室寄附。〕[やぶちゃん注:(やまかどさだかつ 享禄二(一五二九)年~慶長八(一六〇三)年)は後北条氏、後に徳川氏家臣。紀伊守は通称。ウィキの「山角定勝」によれば、『北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した』。天正一〇(一五八二)年に『徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に』は『媒酌を務め』、天正十四年には『家康への使者として派遣されている』。天正十八年の『小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い』、『高野山に上った』。翌十九年に『氏直が没した』(氏直は翌天正十九年八月に秀吉と対面、赦免されて河内及び関東に於いて一万石を与えられ、豊臣大名として復活たものの、十一月に大坂で病死した。享年三十、死因は疱瘡と伝える)『後は徳川家康に仕えて相模国で』千二百『石を与えられている』。『隠居して』後、享年七十五で死去した。『嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた』とある。前注の同じ後北条家臣大道寺政繁とは明暗を分けているのが、頗る対照的である。]

△佛舍利七粒〔文政三年、釋迦の座像を作りて、其れ腹籠とす。事は傳來の記に詳なり。〕[やぶちゃん注:「文政三年」一八二〇年。「腹籠」「はらごもり」と読む。仏像の腹中に入れ籠(こ)めてあることを言う。一般には製作札・小さな観音像・経典などが封入されていることが多い。「傳來の記」本書ではカットされている。]

△九條袈裟一領〔紺地の金襴なり。觀智國師の傳衣と云。〕[やぶちゃん注:「觀智國師」先に出た通り、本大長寺三世普光観智国師。]

△倶利伽羅龍墨畫一軸〔巨勢金岡の筆と云。北條氏康寄附。〕[やぶちゃん注:「倶利伽羅龍」不動明王の立像が右手に持つ倶利迦羅剣(くりからけん)は貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるが、その剣には倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏いついてるが、それを描いたものである。「巨勢金岡」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室(おむろ)で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると、二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと、飛んで来て、絵の中に再び、納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり、筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であった、というエピソードが今に伝わる。彼の伝説は各所にあり、近場では現在の金沢八景の能見堂跡のある山に登り、その景観を描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)って筆を擲った、という「筆捨松」の話柄は明らかにこうした伝説のありがちな変形譚であって、実話とは信じ難い。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)」同「筆捨松」を参照されたい。]

△説相箱一箇〔蓮・菊・蒲萄[やぶちゃん注:「葡萄」に同じい。]・瓜・唐草等の彫あり。小田原彫と云。氏康室寄附。寺記に、「氏康公御臺樣御寄附、法器七品之内」とあり。[やぶちゃん注:「小田原彫」不詳。少なくとも、現代には残っていない模様である。]

 

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[やぶちゃん注:銅雲板の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下に図の刻印を電子化しておく。「旹」は音「ジ」で訓「とき」、「時」と同義。「天文十七戊申」(つちのえさる)年は一五四八年。□は私には判読出来なかった。ありがちなのは「歳」だが。識者の御教授を乞うものである。]

 

 相摸國東郡岩瀨邑

寄進龜鏡山護國院大頂寺

         如耒前

 

   施主

   北條左ヱ門大夫綱成

旹天文十七戊申□五月十日

 

△銅雲板一面〔長二尺六寸、幅二尺一寸五分。北條左衞門大夫綱成寄附。其図上の如し。〕[やぶちゃん注:前出。長さは約七十八・八センチメートル。幅は約六十三・二センチメートル。但し、残念ながら、この雲板は明治一六(一八八三)年に発生した火災(「鎌倉市史 社寺編」(昭和五四(一九七九)年第四版吉川弘文館刊)では明治十五年十二月とするが、先に示した新しい「こども風土記」版の記載を採用する)で旧本堂(現在のものは明治四四(一九一一)年の再建)とともに焼失し、現存しない。

△鎗二筋〔大道寺駿河守政繁所持と云。下に品同じ。〕

△轡一口

△鐙一掛

△鎗一筋〔北條新左衞門繁廣所持。〕[やぶちゃん注:(天正四(一五七六)年~慶長一七(一六一二)年)はウィキの「北条繁広」によれば、『北条氏繁の五男』とされ、『母は北条氏康の娘の七曲殿とされている』ものの、『年齢的に違うと』もされる。『兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる』。通称を新左衛門尉と称した。『小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で』、氏勝とともに『徳川家康に降伏した』。その後、『家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われ』、『その養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり』、慶長一六(一六一一)年)に『氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせ』た。『これに激怒した繁広は家康に訴訟』を起こしたが、その最中の翌慶長十七年六月に『駿府において死去した』。享年三七。『家康は繁広の』四『歳になる嫡男・北条氏長を召しだし』、『別個に』五百『俵取の旗本として遇した。北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った』。『菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で』あるとし、そこで、大長寺は大河内松平家(摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族で、室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家と称した。大名・旗本として複数家あって、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱などを輩出した)の菩提寺でもある、と記す。]

△制札一通〔豐太閤小田原陣の時、出す所なり。「相摸國東郡大頂寺」と記す。〕。此餘、名僧の筆蹟、古畫幅等、若干あり。

△三社權現社 中央に東照宮〔御座像三寸九分。源榮作。御臺座の裏に「爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺・宗仲寺、以永祝禱天下泰平矣。元和六年[やぶちゃん注:一六二〇年。]庚申四月十一日功畢 源榮」と彫す。〕、右に熊野、左に金毘羅を安置して鎭守とす。

△道祖神社 稻荷社〔豐岡稻荷と號す。〕 社稷明神社[やぶちゃん注:「社稷」は「しやしよく(しゃしょく)」と読み、「社」は「土地神を祀る祭壇」、「稷」は「五穀の神を祀る祭壇」の総称。大陸渡来の神で、元来は天壇・地壇や宗廟などとともに中国の国家祭祀の中枢を担った。元は本邦の産土神や田の神と集合したものと思われる。]

△鐘樓 文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。先に示した「鎌倉市史 社寺編」も文政三年だが、前掲の「かまくらこども風土記」は文政二年とする。]、現住、在譽單定、再鑄す。[やぶちゃん注:本「新編相模国風土記稿」(大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂)の成立は天保一二(一八四一)年である。]

△銀杏樹 本堂の前にあり。東照宮御手植と云傳ふ。[やぶちゃん注:残念ながら、先に示した明治一六(一八八三)年の火災で旧本堂とともに焼失、現存しない。]

△吉祥水 開山感譽、當寺草創の時、水に乏し。加持して此水を得たり。今に至て久旱にも涸れずと云ふ。

△梅ノ井 是も名水なり。

△北條氏墓 五基あり。一は北條綱成の室〔氏綱の女なり。牌に「大頂院殿光譽耀雲大姉 永祿元稔[やぶちゃん注:一五五八年。「稔」はしばしば見られる「年」の替え字。]戌午九月十日」〕、一は北條新左衞門尉繁廣〔表に「泰淸院殿惠雲常智大居士 慶長十七子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男 新左衞門尉繁廣」と彫す。〕、一は北條氏繁の室と云〔七曲殿と號す。五輪塔にて鐫字なし[やぶちゃん注:「鐫字」は「せんじ」。彫った字のこと。]。〕、一は「水月妙淸大姉」と彫る〔何人たるを傳へず、年月も詳ならず。下、同じ。〕。一は鐫字なし。

△支院

庭松院〔實應建と云。應は寬永十六年[やぶちゃん注:一六三九年。]九月十日寂す。本尊は彌陀座像長一尺三寸五分。宅間作。古は村内にありて、末寺なりしを、後年、境内に移す。其舊地、今に存す。〕[やぶちゃん注:「宅間」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師として、しばしば登場する。]

心蓮社蹟〔正保(しやうほう)元年[やぶちゃん注:一六四四年。]、本坊六世永感、開基す。本尊彌陀は長二尺一寸。惠心作。今、假に本坊に置く。〕

△中門 四足門なり〔右は二天門なりしを、永應二年[やぶちゃん注:一三九五年。]正月回禄の後に改造す。〕。「護國院」の額を扁す〔文政五年、智恩院尊超法親王の筆。〕。[やぶちゃん注:「二天門」左右に一対の仁王像を安置した寺の中門。仁王の代わりに多聞天と持国天を置く場合もある。「永應二年」一三九五年。「文政五年」一八二二年。「尊超法親王」(享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第八王子。幼名は種宮、諱は福道。文化二(一八〇五)年に空席となっていた知恩院門跡の相続が内定し、光格天皇の養子となって後に文化六年に徳川家斉の猶子となっている。文化七(一八一〇)年三月に親王宣下を受け、二ヶ月後に得度し、法諱を「尊超」と称した。は徳川将軍家の帰依を受ける知恩院門主を務めていた関係から、生涯、五回に亙って江戸を訪れ、時の将軍徳川家慶やその世子の徳川家祥らに授戒している。また、後には仁孝天皇や孝明天皇にも授戒している。教義の修学に励み、宮中で進講を行うほか、文才にも富み、書や彫刻を能くした。なお、彼は既に親王宣下を受けてから出家しているから、正確には尊超入道親王(にゅうどうしんのう)と呼ぶのが正しい。普通に耳にする法親王とは出家した後に親王宣下を受ける場合に限るからである。]

△總門 「龜鏡蘭若」の額をかく〔增上寺隆善大僧正筆[やぶちゃん注:第五十代便譽隆善法主。]。〕。

△下馬札 總門外に建つ。初、北條氏より建置しを、大樹寺殿、尊牌を安置の時、改建られしと云ふ。

△制札 下馬札に相對して立。天正小田原陣の制札なり。

[やぶちゃん注:以下、続くが、当時、大長寺末寺であった「西念寺」は現行では独立した寺院であるので、行空けした(というより、私の住んだ岩瀬のあのアパートを紹介して呉れたのは私の叔父の友人であった西念寺の住職であり、同和尚は新婚の時、私のいた部屋に住まっておられたという関係上、ちゃんと別立てにしたかったというのが本音である)。後の「彌陀堂」以下は、同格で並べた。]

 

〇西念寺 岩瀨山正定院と號す〔前寺末。〕。開山運譽〔慶蓮社と號す。天文三年[やぶちゃん注:一五三四年。]五月十八日寂す。〕。彌陀を本尊とす。

[やぶちゃん注:「岩瀨山正定院」は「がんらいざんしょうじょういん」(現代仮名遣)と読む。先の「かまくらこども風土記」によれば、開山の運誉光道が修行したと伝える、岩屋が現在の本堂の裏にあるが、事実は奈良から平安初期に築かれた横穴墓(おうけつぼ)である(なお、鎌倉時代に発生する「やぐら」とは外見は似ていても全く無関係である)。また、この寺には、有力な檀家で水田を寄附するなどした、江戸日本橋の刃物屋の大店「木屋(きや)」の主人が自分の姿を後世まで残したいとして作った、生人形(いきにんぎょう)風の夫妻の木造座像大小二体(妻のそれは非常に小さいフィギア大のもの)がある。これは顔の色を生き生きと綺麗に見せるために頭部の塗替えを容易にするため、首が抜けるようになっている。平安末から鎌倉期の寄木造り以降、こうした構造は珍しくもないが、年忌供養毎に行われたという、この首の塗替えのために珍事件が発生したという。これを昭和四八(一九七三)年刊の改訂八版「かまくらこども風土記」から引用する。先の新しい第十三版から引いてもいいが、結局、新訂のそれも、古い版のそれを踏襲して記事が書かれているのだから、まあ、殆んどそっくり真似しているわけだ。しかもこの改訂八版は、私の小学校時代(私は鎌倉市立玉繩小学校の卒業である)の恩師が半数近くを占めている。今の版のを電子化して、今の教育委員会から何か言われるぐらいなら(この程度の引用を問題視したら、鎌倉観光事業など、それだけで成り立たない。嘗て私の「新編鎌倉志」の電子化本文を無断転載した「鎌倉タイム」は未だに謝罪もなく、知らん振りしたままで平然と〈鎌倉のジャーナリスト〉を気取っている為体だ)今の版が真似している、私の恩師らのそれをこそ電子化転載しようと思った。以下に示す。「かまくらこども風土記 中」(当時のそれは全四巻)の「中」巻の「西念寺」の条の一部である。私が以上で纏めた枕のところから最後まで引く。

   《引用開始》

 ここの本堂に、おじいさんの坐像があります。これは木屋(きや)というおじいさんが自分の姿を後の世まで残したいと、顔も形もそっくりの木像を彫(ほ)らせたものだということです。このおじいさんは信心深く、寺のために水田を寄付したりして大変尽(つく[やぶちゃん注:底本は「つ」のみ。補った。])した人だといわれています。

 おもしろいことにはこの像の首が抜(ぬ)けるのです。いつまでも同じ顔色を残すには、どうしても塗(ぬ)り替(か)えをしなければなりません。そのために首が抜けるようにしてあったのです。それだけでは別に珍しいとはいえませんが、この首のために大事件が起こったのです。

 木尾というおじいさんがなくなってから、年忌のたびにこの首を塗り替える習慣になっていたのです。何回目かの法事のときのことでした。寺の人が首をふろしきにしっかり包んで、塗り替えのために江戸まで出かけました。神奈川を過ぎ、六郷[やぶちゃん注:(グーグル・マップ・データ)。]を渡って品川に来ると、日も暮れそうでした。そこで品川の宿場で泊まることにして、ある宿にわらじをぬぎました。一風呂浴びて疲れをとり、夕食をとりましたが、まだ寝(ね)るのも早いので、散歩に出ました。首がなくなっては大変なので、女中に預け、

「たいせつなものだから決してあけて見てはいけない。」

と言って出かけました。女中は見てはいけないと言われたので、かえって見たくなり、さわって見たり、さかさにしたりして、いたずらをしていたところへ、他の女中さんが来て話を聞いて、

「珍しい宝物でもはいっているにちがいない。」

と言ってふろしきをあけようとしました。

「でもふたりだけではもったいないから、みんなで見ましょう。」

と女中さんたちを呼び集めました。薄暗(うすぐら)いあんどんのそばで、ふたりの女中さんは胸をわくわくさせながら、ふろしきを解き始めました。他の女中さんたちも、どんな宝物だろうとかたずをのんでじっと見つめていました。箱のふたをそっとあけたとたん、

「キャッ。」

と言ったのは女中さんたちでした。箱の中からはまっさおな生首が、にらんだではありませんか。腰をぬかした者、気を失った者、二階からころげ落ちた者、女中さんたちは大あわてです。宿の主人も驚いていました。そこへちょうど帰って来た寺の人が、騒ぎのわけを聞いて笑いだしました。しかし、だれも木の首だとは信用しませんので、それではと二階へかけ上がり、首を持って来て、あんどんの光に当てました。それでも宿の人は信用しないどころか、逃げ出す人もありました。首の付けねに手をやり、

「このとおり木ですからご安心ください。」

と言われてやっとひとり、ふたりと目がさめ、どっと大笑いしたということです。

 皆さんも、この木尾の木像を見てごらんなさい、きっとびっくりすることでしょう。

   《引用終了》]

 

○彌陀堂 天文中、開基ありし一寺にて、阿彌陀院と號すと云ふ〔今、堂内に置る雙盤に「阿彌陀院」と彫す。〕。後年、衰微して小堂となれり。本尊は春日作なり〔長二尺三寸。〕。大長寺持。下同。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)も本書のデータとを転用するだけで、その他の情報が全く載らないから、位置も不明である。

「天文」一五三二年~一五五五年。

「春日」十二世紀後半の慶派の大仏師法師定慶(生没年不詳)がいるが、単なる伝であろう。]

○地藏堂 定朝の作佛を置〔長一尺七寸五分。〕。

[やぶちゃん注:同前で位置不明。

「定朝」定朝(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされるが、これも単なる伝と思われる。]

○不動堂 村持。

[やぶちゃん注:同前。位置不明。ここで「岩瀨村」は終わっている。]

2018/08/16

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅰ) (総論部)

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十九〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十一

 

  山之内庄

○岩瀨村〔以波勢牟良〕 小坂鄕に屬す、江戸より行程十二里、土俗は傳て賴朝の時世、奧州より岩瀨與一太郎と云者、捕はれ來り、後、こゝに居住せり。夫より地名となると云ふ。按ずるに、與一太郎は佐竹の家人にて、治承四年十一月、獲せられ、賴朝の見參に入しに、直言を述て恩免を蒙り、遂に家人に加へられし事【東鑑】に見えたり。仁治元年三月、當村を以て上之村證菩提寺域内新阿彌陀堂の料所に宛つ〔證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり。〕。正和二年巳來、堂料・供米等、給主矢田四郎左衞門尉盛忠、未進せしむるにより、文保元年十二月、更に公田十分一を村民に免許せられ、向來未進なく供料辨濟す可き旨、下知す〔上之村證菩提寺文曰、山内庄本鄕、新阿彌陀堂供僧等申、供米未進事、右岩瀨鄕給主矢田四郞右衞門尉盛忠、正和二年以來濟之由、就訴申尋下之處、如請文者、公田十分一、被免許于百姓等訖、於殘定田分者無未進云々、者主寺供料等者、難被免除之旨、先日沙汰畢、然則守本員數、可究濟之狀、下知如件、文保元年十二月十四日沙彌華押、左衞門尉平華押。〕。元弘三年十一月の沽券狀にも當村名見ゆ〔金澤稱名寺文書曰、賣渡相模國山内庄岩瀨鄕事、合百文者右所者自明年甲戌正月一日、至于明後乙亥十二月晦日、貮ケ年貮作買主可令知行上、爲御所修造料足、止公私萬雜事、所被沽却也、但未實檢候間、假令一年中得分、百參拾貫文、實檢以後、令不足者可被延年記、有□者重可被召錢賃、仍沽券如件、○元弘三年十一月二十四日、□眼華押、重能華押。〕。正平七年〔北朝文和元年。〕正月、將軍尊氏、當村を以て、島津周防守忠兼が勳功の賞に宛、行へり〔島津文書曰、下島津周防守、可令早領知相模國山内庄内岩瀨鄕事、右爲勳功之賞所宛行也、者早守先例可致沙汰之狀如件、正平七年正月十日、尊氏袖判あり。〕。文和三年六月宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり。因て狼籍を鎭むべき旨、尊氏・義詮等の下文あり〔島津防守忠兼申、相模國山内庄、岩瀨鄕幷倉田鄕事飯田七郞左衞門尉、卒多勢打入當所致合戰、殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下畢云々、爲實冑者尤似重科、鎭狼藉無相違候樣、可被致計沙汰申候、六月廿四日修理大夫殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國所領事、先度如令申候、任理非急速可有御沙汰候謹言、八月廿四日、左馬頭殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國山内庄、岩瀨鄕代官等、宇子御代官、殺害事、委細可有尋注候謹言、九月十二日、左馬頭殿、義詮華押。又曰、島津周防守申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、字子局官、飯田七郞左衞門、令殺害島津周防守代官、池田右衞門殿以下輩之條、無其隱候、以此旨可有御披霧候、恐惶謹言、文和三年十月廿七日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。又曰、島津周防守忠兼申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、去文和三年六月九日、宇子局代官、飯田七郞左衞門尉、打入當鄕、令殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下輩之條、無其隱候、若此條僞申候者、佛神御罰於可罷蒙候、可有御披露候、恐惶謹言、文和三年十一日廿日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。〕。永德三年十二月、左兵衞督氏滿、當所を鎌倉明月院の領に寄附す〔明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ。〕。至德三年三月、僧道光、當村の内、白河局の闕地を明月院に寄附あり。長祿元年五月、上杉兵部少輔房顯、當村諸役免除の事を下知す。これ、明月院領たるを以なり。大永二年の文書には明月院領岩瀨鄕の内、今泉村と記せり。さては此頃に至り、院領の地は別に分折して今泉村と唱へしこと知らる。天文四年三月、更に又、當村の内、孫四郎名田〔此地名、今、詳ならず。〕の地を、明月院に寄附の事あり〔明月院文書。是も全文は彼院の條に引用すれば、併せ見るべし。〕。永祿二年の頃は當村北條左衞門佐氏堯の知行なり〔【北條役帳】曰、左衞門佐殿知行百六十貫文、東郡岩瀨鄕。〕。同五年、蔭山長門守、當鄕の内を圓覺寺塔頭富陽庵に寄附せしこと、彼庵所藏の文書に見えたり〔圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし。〕。天正十五年七月、北條氏より當村中、軍勢の簡閲あり〔其文書、村民源兵衞家藏す。丁亥七月晦日、岩瀨小代官百姓中と見え、虎朱印を押す。〕。民三十九、廣十町袤四町許〔東、今泉村、西、笠間村、南、大船村、北、桂・公田二村。〕。延寶六年、成瀨五左衞門、檢地す。今、領主松平大和守矩典〔右は御料所なり。元祿十一年、地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりしを、元文二年、木原氏支族、賴母某に分地し、なべて四給となれり。又、御料の地も、後年、酒井雅樂頭親本に賜ひ、寛延二年、松平大和守朝矩に替賜しが、文化八年、一村すべて松平肥後守容衆に賜ひ、文政三年、今の領主に替れり。〕。塚宿より鎌倉への路、村の西南界にかゝれり〔幅二間。〕。

○高札場 ○小名 △瀧ノ臺 △瀧ノ谷 △五郎ノ谷 △入ノ谷 △ふりが谷

○山 南北二所にあり、何れも小山なり。○砂押川 南方を流る〔幅二間許。〕。此水を建て水田に濯漑す。板橋二を架す。一は切通橋、一は離山橋と云ふ。各小橋なり。

○稻荷社 保食・大己貴・大田・倉稻魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ。村の鎭守なり。村持。建久中、岩瀨與一太郎、奉行して建立すと傳ふ。幣殿・拜殿等あり。例祭九月廿九日。鶴岡職掌坂井越後、神職を兼ぬ〔越後が家傳に據に、祖時保、當社の神職なりしを、文治中、職掌に保せられ、彼地に移れり。後年、戰國の頃、爰に退住せしに、文祿中、復職す。故に兼職すとなり。〕。 △末社  若宮 ○神明宮 村持。下同。〇三島社 ○白山社 〇八幡社 ○貴船社 ○十二天社 〇諏訪社 〇靑木明神社 ○番場社 ○權現社 神號、詳ならず。 ○辨天社

[やぶちゃん注:岩瀬村総論部。因みに、私は教員になった当初(勤務先は本郷台の柏陽高校で、自転車で通勤していた)三年ほど、岩瀬の怖ろしく古いアパートに住んだ。懐かしい場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私が居たのは西念寺(実は、この近くには、昔、木舟(貴船)大明神という家が一軒あって、現在は通称で「木舟」及び「大明神」という家に分かれているが、その二件の家の間の山に「木舟大明神」という祠があり、これは以下に記す岩瀬与一太郎を祀っている、と「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)にあるのだが、そう言えば、アパートの近くの山の崖上にそんな赤い祠があったのを、今、思い出した)の東側を廻り込んだ谷戸の奥で、谷戸の奥には旧家と広大な栗林と池があり、アパートを出ると、左右に「自然風致地区」と「保存樹林」と書かれた柱が建っていた。春には巨大なウシガエルが無数にその池から這い出して来て(この岩瀬は日本で最初に食用のウシガエルの養殖地となったところであり、そのウシガエルの餌として、やはり本邦に最初にアメリカザリガニが齎された地であった。洪水で養殖池が決壊、ここから日本全国へウシガエルとアメリカザリガニが播種されたのである)、道路のあちこちに蹲っていた。栗林は蝉の巣窟で、夏の夜中でも気温が上昇するや、一斉に鳴き出し、それはもう、シンバルを鳴らすようなけたたましさであった。巨大なムカデ(二十センチメートル越えで部屋を走るザラザラという音が凄かった。菜箸で挟み、湯に漬けて往生して貰ったが、その湯がかかった腕は翌日蚯蚓腫れになった)やゲジゲジ(これはポットン便所――これが恐るべきことに、雨が降ると、便槽が増水し、ハネが上って来るシロモノなのであった――の隅にいた。体幹だけでやはり二十センチメートルはあり、脚も含めると、想像を絶するモンスターであった)にも出逢った。そういう何とも言えない意味でも忘れ得ぬ場所なのである。

「岩瀨與一太郎」岩瀬義正(生没年不詳)は常陸国(現在の茨城県)出身。常陸の豪族佐竹秀義(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年:清和源氏義光流。新羅三郎義光の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住み、佐竹を称したことに始まる佐竹氏の第三代当主)の家人(けにん)。治承四(一一八〇)年十一月の源頼朝による佐竹征討(佐竹氏は平家との縁が深かったことから、頼朝の挙兵に従はず、「富士川の戦い」の後、長年、佐竹と私怨から争っていた上総広常などの薦めによって頼朝は討伐を決した。当時の佐竹家惣領であった秀義の長兄佐竹義政は、広常の姦計によって征討戦の前の会見で殺害されている)では、金砂(かなさ)山に籠って防戦した。捕らえられた際、本来、力を合わせて平家を討つべき源氏の同族のたる佐竹氏を攻めたことを涙ながらに抗議し、これには頼朝も言葉を失い、彼を許して御家人の列に加えた。但し、秀義は辛くも逃げのび、後に彼も頼朝から罪を許され、家臣として列せられた。文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に於いては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げ、御家人に列せられている。「吾妻鏡」の治承四年十一月八日の当該部(末尾の別件をカットしたが、ほぼ全文である)条を引く。

   *

八日丙辰。被收公秀義領所常陸國奥七郡幷太田糟田酒出等所々。被宛行軍士之勳功賞云々。又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由。風聞之間。令廣常義盛生虜。皆被召出庭中。若可插害心之族。在其中者。覽其顏色。可令度給之處。著紺直垂上下之男。頻垂面落淚之間。令問由緒給。依思故佐竹事。繼頸無所據之由申之。仰曰。有所存者。彼誅伏之刻。何不弃命畢者。答申云。彼時者。家人等不參其橋之上。只主人一身被召出。梟首之間。存後日事逐電。而今參上。雖非精兵之本意。相構伺拜謁之次。有可申事故也云々。重尋其旨給。申云。閣平家追討之計。被亡御一族之條。太不可也。於國敵者。天下勇士可奉合一揆之力。而被誅無誤一門者。御身之上讎敵。仰誰人可被對治哉。將又御子孫守護。可爲何人哉。此事能可被𢌞御案。如當時者。諸人只成怖畏。不可有眞實歸往之志。定亦可被貽誹於後代者歟云々。無被仰之旨。令入給。廣常申云。件男存謀反之條無其疑。早可被誅之由云々。被仰不可然之旨被宥之。剩列御家人号岩瀨與一太郎是也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

 八日丙辰(ひのえたつ)。秀義の領所の常陸國奥七郡幷びに太田・糟田・酒出等の所々を收公せられ、軍士の勳功の賞に宛て行はらると云々。

 又、逃亡する所の佐竹家人十許りの輩、出來するの由、風聞するの間、廣常、義盛をして生虜(いけど)らしめ、皆、庭中に召し出さる。若し、害心を插(さしはさ)むべきの族(うから)、其の中に在らば、其の顏色を覽(み)て度(はか)らしめ給ふべきの處、紺の直垂(ひたたれ)の上下(かみしも)を著するの男、頻りに面を垂れ、落淚するの間、由緒を問はしめ給ふ。故(かれ)、佐竹の事を思うに依つて、頸(くび)を繼(つ)ぐに據所無(よんどころな)きの由、之れを申す。仰せて曰はく、

「所存有らば、彼の誅伏の刻(きざみ)、何ぞ命を弃(す)て畢(をは)らざるや。」

者(てへれば)、答へ申して云はく、

「彼の時は、家人等、其の橋の上に參らず[やぶちゃん注:佐竹義政は現在の茨城県東茨城郡美野里町大谷附近にあったと思われる大矢橋橋上で不意打ちされ、謀殺された。]、只、主人一身を召し出され、梟首するの間、後日の事を存じ、逐電(ちくてん)す。而るに、今、參上すること、精兵の本意に非ずと雖も、相ひ構へて拜謁の次(ついで)を伺ひ申すべき事有る故なり。」

と云々。

 重ねて其の旨を尋ね給ふ。申して云はく、

「平家追討の計を閣(さしお)きて御一族を亡ぼさるるの條、太(はなは)だ不可なり。國敵に於ては、天下の勇士、一揆の力を合せ奉るべし。而るに、誤り無き一門を誅せらるれば、御身の上の讎敵(しうてき)は、誰人(たれひと)に仰せて對治せらるべきや。將又(はたまた)、御子孫の守護は何人(なんぴと)たるべきや。此の事、能く御案を𢌞(めぐ)らさるべし。當時のごとくんば、諸人、只だ怖畏(ふい)を成し、眞實歸往の志[やぶちゃん注:本心からの帰順の意志。]、有るべからず。定めて亦、誹(そし)りを後代に貽(のこ)さるべき者か。」

と云々。

 仰せらるる旨、無くして入らせしめ給ふ。廣常、申して云はく、

「件(くだん)の男、謀反を存ずるの條、其の疑ひ無し、早く誅せらるべきの由と云々。

 然るべからざるの旨を仰せられ、之れを宥(なだ)められ、剩(あまつさ)へ、御家人に列す。岩瀨與一太郎と號すは是れなり、と云々。

   *

「仁治元年」一二四〇年。

「上之村證菩提寺」現在の横浜市栄区上郷町にある真言宗五峯山一心院證菩提寺。鎌倉市岩瀬の東北東二キロメートルほどの位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。頼朝が石橋山で挙兵した際、頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠の菩提を弔うために鎌倉の鬼門に当たる当地に建久八(一一九七)年(文治五(一一八九)年ともし、「相模國風土記稿」ではこれを採っている。ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像))に創建された。

「證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり」ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。左下後半)。

「正和二年」一三一三年。

「矢田四郎左衞門尉盛忠」不詳。

「文保元年」一三一七年。

「上之村證菩提寺文」直前のリンクの末行から次のページにかけて記されてある。

「元弘三年十一月」一三三三年。幕府滅亡の半年後である。鎌倉幕府は、元弘三年五月十八日から同月二十二日までの五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で、一三三三年六月三十日から七月四日に当たり、因みに、時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、一三三三年七月八日から七月十二日に相当する。

「沽券狀」「估券(状)」とも書き、文書の形式から「避文(さりぶみ)」「去状」とも称した。土地・家屋や特定の諸権利を売却する際、売主の発行する証文。令制では、土地売買の時、売主が沽券を出すのではなく、その地域の下級支配者である郷長などが、上級の官司(国郡司)に解文(げぶみ)を提出して許可をとった。平安中期には、売主が直接、買主に沽券を渡すようになったが、沽券の様式は、引き続き、解文の形式で書かれ、郷保(きょうほ)の担当役人などが証判を加えることが多かった。平安末期になると、売主だけの署名又は私的な証人が連署する沽券に変った。このような私券制に変ると、権利の証明や売買の保証のため、手継証文の交付や追奪担保文言の記入が必要となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「正平七年〔北朝文和元年。〕」一三五二年。正確には「正月」は北朝ではまだ観応三年(観応三年九月二十七日(ユリウス暦一三五二年十一月四日)に後光厳天皇の即位により、文和に改元している)。

「島津周防守忠兼」(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝にかけての武将で播磨国下揖保荘の地頭であった。元弘三(一三三三)年四月二十七日、足利高氏(後の尊氏)より、後醍醐天皇の勅命を伝えられ、「元弘の乱」に参戦したが、後に尊氏とともに建武政権から離反、畿内各地を転戦、「観応の擾乱」でも尊氏党に与(くみ)して活躍、歴戦の武功により、播磨布施郷・甲斐国花崎郷・相模国山内荘・同岩瀬郷等を領有した(以上はウィキの「島津忠兼」に拠った)。なお、彼の島津家は島津播磨家で、薩摩国島津氏の支族である越前島津氏(越前家)の忠行系である。

「文和三年」一三五四年。南朝は正平四年。

「宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり」「宇子ノ局」(「うねのつぼね」或いは「うすのつぼね」か。読みも判らぬ)以下の事件に関わった当事者らは孰れも不詳であるが、「小助の部屋/鎌倉郡(玉の輪)をたずねて」というページに、『足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼は池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させてい』たが、 この文和三(一三五四)年に『飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し』、『池田右衛門尉を殺害』、『島津忠兼の訴え』により、『足利尊氏は』、『次男で関東管領をつとめる足利基氏と江戸直重に処置を命じ』たとあり、この辺りから、次第に『関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようにな』ったと記されてある。事件処理に関わった関東管領方の人物は面倒なので注さない。

「永德三年十二月」一三八三年。南朝は弘和三年。

「左兵衞督氏滿」第二代鎌倉公方足利氏満.

「明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ」底本の前巻のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。左下から。後も同じなので注さない。

「至德三年」一三八六年。南朝は元中三年。この六年後の元中九/明徳三(一三九二)年、延元元/建武三年(一三三六)年(京を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った年)から五十六年間続いた南北朝時代は、南朝第四代の後亀山天皇が北朝第六代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一をみた。

「道光」不詳。

「白河局」不詳。

「闕地」闕所(地)。本来は死亡・逃亡・追放・財産没収などによって本来の所有者・権利者を欠く状態になった土地や所領を指した(跡継ぎがいないままに病没した者の土地などもかく称せられた)。参照したウィキの「闕所」によれば、『鎌倉時代以後、戦』さ『による敗者や犯罪を犯した者の土地などを没収することを闕所と称する事例が登場し、室町時代にはもっぱらこちらの意味で用いられるようになった。なお、この場合、対象者の全財産を没収することを「闕所」と称し、一部没収である「収公」との区分が付けられていた。前者の場合は戦いの勝者が、後者の場合は警察権の行使者が獲得し、その自由処分に任された。前者の代表的なものとして治承の乱の平家没官領、承久の乱の京方跡闕所、元弘の乱の北条高時法師与党人跡闕所などが挙げられる。後者の場合、通常は犯人を追捕検断し、裁判で有罪とした者が闕所を行うこととされていたが、多くの場合は裁判で闕所を決定した幕府が獲得し、実際に追捕検断にあたった地頭や荘官などが報償としてその一部の分与を受けた』。『闕所となった土地はその仕組上、警察・司法・軍事に関する諸権限を有していた幕府に集中することとなったが、幕府はその一部を自己の直轄領に編入し、追捕検断にあたった者に分与したものの、闕所によって御恩と奉公(土地給付とその見返りである御家人役負担)の考えに基づく主従関係が破綻することは望ましいものではなく、新しい領主を決定しなければならなかった。当然のように前述の一族や本主が給付を求めて訴え、それ以外にも希望者が殺到して幕府の頭を悩ませた』。「御成敗式目」には「承久の乱」の『闕所地(京方跡闕所)の処分が決定した後も』、『本主として権利を主張することを禁じたり』(第十六条)、『裁判中に闕所となることを期待して当事者を誹謗することを禁じたり』(第四十四条)『している。また、鎌倉時代後期には北条氏一族が各地の御家人の所領を奪った反動により、鎌倉幕府とともに同氏が滅亡すると、北条氏に所領を奪われた御家人たちが本主権を盾に闕所(北条高時法師与党人跡闕所)の給付を求めて後醍醐天皇の新政権に殺到した』。『室町時代になると、室町幕府の闕所処分に現地の守護なども関与するようになり、守護領国制形成にも影響を与えた。また、有徳人など所領を持っていない武士以外の人々に対しても』、『家屋敷や動産などを没収する闕所が行われるようになった』とはある。旧所有者である「白河局」が何者か判らぬので何とも言い難い。

「長祿元年」一四五七年。但し、「五月」とあり、正確には康正三年。長禄への改元は康正三年九月二八日である。

「上杉兵部少輔房顯」山内上杉家第十代当主で関東管領であった上杉房顕(ふさあき 永享七(一四三五)年~寛正七(一四六六)年)。鎌倉公方足利成氏によって暗殺された関東管領上杉憲忠の弟。

「大永二年」一五二二年。

「分折」「分析」の原義に同じい。分け割(さ)くこと。

「天文四年」一五三五年。

「永祿二年」一五五九年。

「北條左衞門佐氏堯」北条氏尭(うじたか 大永二(一五二二)年~永禄五(一五六二)年?)は後北条氏の一族。第二代当主北条氏綱の四男で、北条氏康の弟。ウィキの「北条氏尭」より引く。『三兄為昌の死後、叔父北条幻庵の後見を受けながら、上野平井城の城将を務めたり、房総半島に進軍するなど弘治年間から活躍するようにな』った。永禄三(一五六〇)年には『幻庵の長子三郎が死去したため』、『武蔵小机城主となり、翌年には長尾景虎の関東進出により』、『河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守している(小田原城の戦い)。一方で伊達氏の史料伊達文書から伊達氏と外交交渉を行っているなど』、『後北条氏において重要とされる将だった』が、永禄五年以降には『氏尭に関する史料が現在』、『見当たらないため、おそらくこの前後に死去したと思われる』。『長らく北条氏康の九男氏光と同一人物とされてきたが、佐脇栄智の研究で氏尭の生年がはっきりした結果、氏康と』七『歳しか違わないことや氏光の存在も明確になっているので、現在は氏綱の四男で氏康の弟という見方が支配的である。この問題は氏康の子供のうち、明確に生年がわかっているのは氏政、氏規と桂林院殿(北条夫人)ぐらいで後は諸説あることが問題の引き金になっている。一方で、氏康の六男(七男説もある)氏忠と氏光は氏尭の子で死後養子に出されたのではという説もある。また、娘は正木頼忠室になったという(北条氏隆の娘または田中泰行の娘とも)』とある。なお、以下の「蔭山長門守」による土地の寄付の記事が推定没年と一致する

「蔭山長門守」個人サイト「遠州古城めぐり」の「河津城」に、天正一八(一五九〇)年に河津城城主として豊臣水軍の大侵攻作戦に戦わずして降状したらしい蔭山長門守氏広とある人物と同一人かと思われる。

「圓覺寺塔頭富陽庵」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。右下。

「天正十五年」一五八七年。

「簡閲」総兵を召集して行う点呼。

「虎朱印」小田原北条第二代当主北条氏綱が初めて用いた朱印。「虎の印判」と呼ばれ、「祿壽應穏(ろくじゅおうおん)」と陽刻された方形の上部に飛び出して虎が蹲っている姿が描かれてある。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の『「天下布武」の朱印』のページに載る弘治二(一五五六)年)九月十四日北条家の虎朱印状が見易い。

「廣十町」「廣」(広さ)は「東西の長さ」を指す。一キロと九十メートル。

「袤四町」「袤」(ボウ)は「南北の長さ」の意。四百三十六メートル強。

「延寶六年」一六七八年。

「成瀨五左衞門」藤沢宿代官成瀬重治(「鎌倉市史 近世通史編」(平成二(一九九〇)年吉川弘文館刊)では成瀬重頼とし、ネットでも僧表記するページもある)。複数回、既出既注であるが、再掲しておくと、「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「今」本「相模国風土記稿」(天保一二(一八四一)年成立)が執筆されている頃。時系列がここだけ、進んでいるので注意。

「松平大和守矩典」「とものり」と読む。名君として知られる川越藩四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)の初名。詳しくはウィキの「松平斉典」を見られたい。隣りの今泉の町内会公式サイト内の年表によれば、今泉村が文化四(一八二一)年に『松平矩典の所領となる』とある。

「元祿十一年」一六九八年。

「地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりし」これは「元禄地方直(げんろくじかたなおし)」と呼ばれる、元禄期に江戸幕府が行った知行地再編成政策の一環に依るものである。ウィキの「元禄地方直」によれば、「元禄地方直」は『当時、勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主導で実施された』もの。元禄一〇(一六九七)年七月二十六日、『幕府は御蔵米地方直令を発令し』、五百『俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方直の方針を打ち出した』。同年八月十日には『新知行地からの収税は』翌元禄十一年から『行い、この年の冬に支給される切米は今までどおり受け取ること』、同八月十二日には、『知行地と蔵米の両方を給されている幕臣の中で支給額の合計が』五百『石以上の者も地方直が行われることも決められた』。翌元禄十一年七月三日に『地方直はほぼ完了したとして、翌日には新たな知行所が発表された』。対象者は五百四十二人の『旗本で、彼らに支給されてきた約』三十四『万俵の蔵米とほぼ同額の知行地が与えられることになった。新たな知行地は関東八ヵ国を中心に、三河国・遠江国・丹波国・近江国と広範囲に及んだ。大田南畝が編集した勘定所史料』である「竹橋余筆別集(ちっきょうよひつべつしゅう)」には、『誰がどの知行地に割り当てられたかが記載されており、また大舘右喜の「元禄期幕臣団の研究」によれば、武蔵国』二百三十六名・常陸国百七十二名・下総国百四十名・上総国八十三名・下野国九十八名・上野国九十四名・相模国八十五名(ここに上記の木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆が含まれていたのである)・伊豆八十一名・安房十名が割り振られている』。『この時期、蔵米地方直と同時に、地方直とは無関係な旗本の知行地(=領地)の割り替えも行われた。この割り替えは、約』二百人の『旗本たちの知行地を、一度上知(土地の召し上げ)した上で』、『代知割り(代りの知行地を与える)するという形でなされた』。『上知された土地の多くは関東の知行所で、中部・近畿地方の土地を代地として宛がわれた。その上で、幕府は天領と上知した旗本領の検地(元禄検地)も行った。当時は農業生産技術が発展し、農業後進地域であった関東地方の生産力も上昇していたこと、開墾可能な山林や荒れ地も検地したことで、石盛は大幅に高まった』。『元禄の地方直は、検地によって土地の石高を上げたことと、蔵米取の旗本には検地によって石高が上昇した土地を割り振ることで、石高上昇分の年貢収入+旗本に支給する蔵米の実質的削減』という二つの『効果によって財政改善が図られたのである』この「地方直」には、『江戸に隣接する地域や生産性の高い地域、広大な山林や多額の運上金が上がる地域を幕領に編入する』こと、『年貢米を江戸に運搬して旗本に配分する経費を削減する』こと、『旗本の領主権を制限して年』三割五分の『年貢徴収権に限定する』こと『などの目的があったとされる』。『当時の幕府は、天領からの年貢収入が年間』七十六万から七十七万両であったが、そのうちの三十万両余が『幕臣に支給する蔵米だった』。『天領から米を運搬する費用がかかる蔵米給付の方が幕府にとっての財政負担は大きい一方、当時の武士は蔵米取よりも知行取の方が格上と考えており、蔵米支給から知行取に変わることを旗本たちは出世ととらえ、幕府も知行取への変更を褒賞の一環としていた』。則ち、「地方直」は、『幕府にとって財政改善策であり、旗本にとっては格が上がる名誉な出来事という意味合いがあった』のであった。『しかし、知行取は凶作の年には石高分の収入を得られず(検見法の場合)、また収穫された米の運搬は領主の自己負担となるため、地方直は幕府だけが経済的に得するという批判は当時からあり、老中の戸田忠昌も凶作時の問題を考えて、稲作の後進地域である関東を旗本の知行地にすることに難色を示したという』。『徳川綱吉政権は、在地に密着した世襲の代官を処罰して勘定所から派遣された官僚的な代官を増やし、同時に代官や改易・減封処分された大名の処分後の領地・支配所の検地を実施、以前よりも生産性が増えた耕地の石高を増加させるなどの農政改革を行ってきた。綱吉が』『将軍に就任した』延宝八(一六八〇)年当時の天領の石高は三百二十六万二千二百五十石余・年貢量九十四万二千五百九十石余であったが、「地方直」の後の元禄一〇(一六九七)年には石高四百三十四万六千五百石余、年貢量百三十八万六千四百石余へと『増加している』。『また、歴史学者の所理喜夫たちによれば、地方直には旗本が知行地と密接な小大名となることを阻止し、官僚予備軍として再編成する効果もあったと評価している。知行所を与えられた旗本たちは、開幕当初から約』百『年間に領地の村民たちとの主従関係を強めていったが、それらの結びつき』が、この「地方直」を『行うことで全て無効化してしまうからである』とある。特に必要性を感じないので、木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆及び後の「木原氏支族」であった「賴母某」(たのもなにがし)は調べない。なお、前に出した「鎌倉市史 近世通史編」の「第二章 旗本領と元禄地方直し」の「岩瀬村における分類」(一四三頁)に非常に詳しい記載があるので参照されたい。因みに、そこに書かれた検地帳のデータを元にした計算によれば、岩瀬村での木原氏の石高は岩瀬村全体の五十九%で二百九十一石余り、菅谷氏・小浜氏がともに十三%で六十九石余り、松平氏が七十三石余り、とある。

「元文二年」一七三七年。

酒井雅樂頭親本」(さかいうたのかみちかもと)酒井親本(宝永二(一七〇五)年~享保一六(一七三一)年。上野前橋藩第八代藩主。ウィキの「酒井親本」によれば、越前敦賀藩第二代藩主酒井忠菊の長男として生まれたが、享保元(一七一六)年、前橋藩第七代藩主酒井親愛(ちかよし)の養子となった。享保五(一七二〇)年の親愛の隠居に伴い、家督を継いで、享保ⅵ(一七二一)年に従四位下・雅楽頭に昇叙されたが、享年二十七で死去した。

「寛延二年」一七四九年。

「松平大和守朝矩」(とものり 元文三(一七三八)年~明和五(一七六八)年)武蔵川越藩主。直基系越前松平家五代。彼の孫の直温(なおのぶ)の養子となったのが、先に出た松平矩典である。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している。

「文政三年」一八二〇年。

二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「瀧ノ臺」以下の「小名」は総て不詳。「ふりが谷」(ふりがやつ)は由来が気になる谷戸名である。

「切通橋」「離山橋」思うに、前者は山越えをして「高野の切通し」に向かう、現在の七久保橋(現在の岩瀬地区の南端の砂押川の最上流に架かる)で、後者は山越えをして、大船の離山へと向かう道に架かる、現在の砂押橋ではなかろうか。

「稻荷社」鎌倉市岩瀬一三九九、横浜方向に食い込んだ(グーグル・マップ・データ)にある、五社稲荷神社(五所明神)。後に出る通り、創建は建久年間(一一九〇年~一一九八年)で先に出た岩瀬与一太郎義正が創建したとされるが、現在のそれは天明二(一七八二)年に再建されたもの。その時は栗田源左衛門なる人物が中心になって、近隣の四十六もの村に呼びかけて再建させたと、先に示した「かまくらこども風土記」にはあり、神奈川県神社庁」公式サイト神社解説ページには、当時の『鎌倉郡の郡長であった栗田源佐衛門が』百一『両を投じて(栗田家』十五『両、岩瀬村有志』十五『両』、残りは『支配下の村より』七十一『両)天明の飢饉を乗り切るため』、『敢えて社殿を再建した。その頃の村社としては立派なもので』、『拝殿に壁画などもあり』、『近郷より多くの参拝があった』とある(但し、現在、拝殿の壁画は全く見えなくなってしまっている)。栗田は岩瀬の地の姓で、私のアパートの大家も栗田であったし、毎日通った風呂屋も栗田湯であった。

「保食」神は「うけもちいのかみ」と読む(現代仮名遣。以下同じ)。

「大己貴」神は「おおなむちのかみ」。大国主神の異名。

「大田」神は「おおたのかみ」。

「倉稻魂」神は「うがのみたまのかみ」。

「大宮姫」神は「おおみやのひめのかみ」。稲荷神。以上は皆、総て農業神・穀物神である。

「例祭九月廿九日」現在は八月の最終日曜日。

「時保」で名と採っておく。

「文治」一一八五年から一一八九年まで。

「文祿」一五九三年から一五九六年まで。

「神明宮」三つあるとあるが、以下に出る多くの社(やしろ)同様、現存するかどうかは、知り得ない。明治の無謀な合祀政策によって消失ものも多いであろう。因みに、私は神体を動かしてしまった近代合祀は神を失った不遜な人間の都合であり、そこに神はもういないと考えている。

「白山社」これは今泉の白山神社ではない。

「貴船社」これが、冒頭注で私が言ったそれであろう。]

 

2017/09/12

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅴ) 多聞院 木曾塚 他 /「新編相模國風土記稿卷之九十八」~了

 

[やぶちゃん注:今回より、句読点は底本のものではなく(底本には句点はない)、読み易さを考え、私の判断で自由に変更・追加することとした。]

○多聞院 天衞山福壽寺と號す〔山之内村瓜ケ谷に、觀蓮寺屋舗と唱る白田あり、當寺の持とす。觀蓮は、蓋、當寺の舊號にや。〕。古義眞言宗〔手廣村靑蓮寺末。〕本尊毘沙門〔長三尺、弘法作。〕。

[やぶちゃん注:古義真言宗で現在は大覚寺派で、正式には天衛山(てんえいさん)福寿寺多聞院と称する。本尊毘沙門天。北方を守護する神将毘沙門天は多聞天とも称するので、寺名の由来はそれ。ウィキの「多聞院(鎌倉市)」では、寺伝によれば、『多聞院は鎌倉市山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺が前身で、永享の乱』(永享一〇(一四三八)年に鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自害した)『で衰えた際に甘粕長俊』(玉繩北条氏家臣。後に出る「甘糟」氏と同じ。甘粕一族は相模平氏の出である)『が現位置に移転して名を改め、南介僧都を迎えて』天正七(一五七九)年に『創建したと伝えられている』。ここに記されているように、元は『鎌倉市手広の青蓮寺の末寺』であったが、昭和二五(一九五〇)年に『青蓮寺の前住職である草繋全宜』(くさなぎぜんぎ)『が京都大覚寺の門跡』(初代官長)『となったため、同寺の末寺となった』とある。東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」では、寺の創建以降の近世までの沿革は不分明であるとする。隣接する明治の神仏分離までは隣接する熊野神社の別当寺あった。この熊野社は前の『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他』に出ており、その冒頭に『村の鎭守なり。束帶の木像を安ず〔座像長八寸許。古は畫像を安ぜしと云ふ。其像は今舊家小三郎の家に預り藏す。〕。臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は、則、小三郎が祖なり。〕』とあるように、実はこの神社も、というかこの熊野社が先に永く甘粕家の篤い信仰を受けて栄え、それを管理する寺として多聞院が創建されたと考える方が自然なように思われる『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)』の「能勢靭負佐」の注で出したが、再掲しておくと、「神奈川県神社庁」公式サイトの熊野神社の由緒のところに、『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』(下線やぶちゃん)とある。

「白田」「はくでん」畑(はたけ)のこと。「白」は「水がなく乾いている」の意で、そもそもが「畠」という漢字は、この「白田」を合わせて合字として作られた国字である。]

○地藏堂 運慶の作佛を安ず〔長二尺餘。〕。村持。下同。

[やぶちゃん注:同寺には巣鴨(曹洞宗萬頂山高岩寺。本尊地蔵菩薩(延命地蔵))から移したとされる「とげぬき地蔵」木造地蔵菩薩立像が知られるが、造立は江戸時代であり、経緯から見ても、これではあるまい。他に木造地蔵菩薩半跏像と木造地蔵菩薩立像があるが孰れも江戸時代であるからこれも外れる(これらの仏像類のデータはウィキの「多聞院(鎌倉市)」に拠った)。これらとは別に木造地蔵菩薩立像(延命地蔵尊)があり、これは室町時代の造立と推定されているから、ここに示されたのはこれであろう。]

○不動堂 弘法の作佛を置〔長三尺餘。〕。

[やぶちゃん注:現在、多聞院には年代不詳の木造不動明王像と江戸時代の造立になる木造不動明王及び両脇侍立像(三体一組)がある。前者か。]

○觀音堂 十一面觀音を置。運慶の作なり〔長三尺。享保四年に記せる緣起に據に、染屋太郎太夫時忠の兒、三才の時、鷲に※搏せられ、其喰餘の骨を、此地に落せしかば、菩提のため、觀音を彫刻し、殘骨を御首中に納む。後、回祿に罹り、御首のみ燼餘に得しを、運慶、其模像を刻し、彼御首を胎中に納むとなり。是に鎌倉塔辻の故事に基き、作意せしなり。〕。祐天の名號一幅を藏す。

[やぶちゃん注:「※」「爴」の左右を逆転させた字。音「カク」で「摑(つか)む・攫(さら)う」の意。「搏」も「手で打って取る・対象に手を当てて素早く摑む」の意。「カクハク」と音読みしておく。なお、現在、同寺には木造十一面観音菩薩坐像及び木造十一面観音立像があるが、孰れも江戸時代の造立である。不審。

「據に」「よるに」。

「喰餘」「くひあまり」。或いは「くらひのこし」か。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「享保四年」一七一九年。縁起がこの年に書かれたものとすると、実はそれ以前(江戸初期)に造立されたものに縁起を合わせたとも考えられる(とすれば前の不審は解消するし、本書の作者も割注からそう考えていることが判る)。さすれば、前の疑問は解ける。但し、「かまくら子ども風土記」(平成二一(二〇〇九)年刊第十三版)の「多聞院」の項には、本尊毘沙門天の『脇には、山ノ内にあった岡野観音といわれる十一面観音があり、由井の長者の染屋太郎大夫時忠(そめやたろうたゆうときただ)の子の遺骨を納めたといわれてい』るとあり、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳」の同寺の記載には、『由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、その後、娘の残骨が六国見山の南で発見されたため、時忠は』、そ『の地に岡野観音堂を建立し、その菩提を葬ったと伝えられている』。『その堂に安置されていたのが胎内に娘の骨を埋めたという十一面観音』であったとし、『明治の神仏分離により多聞院に安置された』と移転経緯を記す。『染屋時忠の娘に関する伝説は』鎌倉の各地に散在し、来迎寺・魔の淵の地蔵(鎌倉宮参道の右側に現存。同サイト内の当該の地蔵の解説によれば、横を流れる川が嘗て「魔の淵」と呼ばれており、『青黒い水が流れ、多くの人がここに住む魔物の餌食になったため、杉本寺の住職の発願でここにお地蔵さまを安置したのだと』するが、別の『一説には、染谷時忠の娘が鷲にさらわれたとき、その血がしたたり落ちていた場所ともいわれている』ともある)・辻の薬師堂・妙法寺・六国見山及び塔ノ辻(本文にもこれを挙げるように、この場所が最も知られる染屋長者伝承地であると私は思っている)等『にも残されている』とある。

「染屋太郎大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」には、華厳宗の僧で東大寺開山の良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年)~宝亀四(七七四)年)の父とあるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠「の父」が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。良弁は相模国の柒部(漆部)氏の出身とも、近江国の百済氏の出身とも言われるが、後者の伝承では、赤子の時、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、法相宗の高僧義淵に拾われて弟子として養育されたとも伝えられる。これは時忠と思しい由比長者の伝承の中に、子どもを鷹に攫われて殺され、その屍骸の落ちた鎌倉の複数の箇所に供養の塔を建てたという「塔の辻」伝承と結構が類似するから、そこから派生した類型伝承の派生連が認められるように思われる。

「祐天」(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)浄土宗大本山増上寺第三十六世法主で、江戸のゴーストバスターとしても、とみに知られた人物。この寺、経緯や寺宝にいろいろな宗派が錯綜していて面白い。]

 

○木曾塚 義高の舊塚なり〔高さ二尺、周徑三尺餘。〕。上に五輪の頽碑あり。塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん。常樂寺の條、併見るべし〔此塚より少許を隔て、五輪の頽碑あり。由來を傳へず。〕。

[やぶちゃん注:常楽寺の裏山粟船山に残る木曾冠者義高の塚と伝えるもの。「五輪の頽碑」はかろうじて一部の残欠が残り、割注のある不詳の五輪塔もあるにはある。サイト「テキトーに鎌倉散歩」(名称で侮ってはいけない。どうして凡百有象無象の鎌倉案内サイトなどは足元にも及ばぬ非常に優れたサイトである)の「常楽寺」が勘所を押さえた画像も豊富にあって現状を確認するに最適である。必見。以下に注で示すように、ここは江戸時代につくられたもので、本当の義高の首塚ではない

「塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん」義高は政子によって逃がされたものの、入間川河原で捕えられて、首は鎌倉に送られ、常楽寺の南西三百メートルほどの位置にあった田圃の中の塚に葬られた。この経緯は私の「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」に詳しい。是非、読まれたい。先に挙げた「かまくら子ども風土記」によれば、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱が死去して綱吉が将軍となった年)に、『ある村人がこの塚』(元の塚の附近)『を掘ったところ、人骨の入った青磁(せいじ)の瓶(かめ)が出てきたので、常楽寺境内に塚を築き、これを納めた』と伝え、『これが現在の「木曾義高の墓」と呼ばれているもので』あるとし、『「木曾塚」と呼ばれた元の塚は周囲が』三メートル『ほどで、一本のエノキが植えられていたそうで』、『場所は大船中学校の東側にある栄町公園のあたりで』あったが、昭和一三(一九三八)年から翌年頃に『埋め立てられて、何も残ってい』ないとある。ここ(グーグル・マップ・データ。一画面に常楽寺と現在の木曾義高の墓が入るようにした)。]

 

○兒塚 六國見の南方山上にあり。上に石碑を建〔半は地中に陷入れり。面に悉曇の字、仄かに見ゆ。〕。染屋太郎大夫時忠が兒の墳なりと傳ふ。

[やぶちゃん注:宝篋印塔の基礎と笠だけの欠損した石塔が残る。

「陷入れり」「おちいれり」。

「悉曇の字」梵字の種字。]

 

○最藏坊塚 村北、白田間にあり。塚上に石人を置〔高四五尺。〕。鶴岡の職掌鈴木主馬が祖先の墓なりと云〔鈴木家傳を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中、鶴岡の職掌となり、戰國の間、永享中、當村に移住し、鶴岡社役を兼帶し、最藏坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めし、となり。故に今も熊野社の神職を兼ぬ。〕。

[やぶちゃん注:現在は多聞院境内に石塔らしきものは移されている個人サイト「小さな旅のアルバム」のこちらで画像が見られるが、見るも無残な状態で、「石人」なるものも現認出来ない。

「鈴木左近重安」詳細不詳。

「治承」一一七七年~一一八一年。

「永享」一四二九年~一四四一年。]

 

○北條泰時亭跡 【東鑑】仁治二年十二月の條に泰時巨福禮の別居と載す〔曰、十二月三十日前武州渡御于山内巨福別居。〕。巨福禮は、卽、隣村小袋谷なり。されど、彼村内に其舊跡を傳へず。當村大船山上に平衍の地あり〔濶八段餘。〕、亭跡のさま、彷彿たり。又、其東方、小名、大明神の田間に古井あり、近きあたりに檜垣・御壺谷と云小名あれば、此二所の内、泰時の邸跡なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「吾妻鏡」は仁治二(一二四一)年十二月三十日の条。

   *

卅日癸未。前武州、參右幕下・右京兆等法花堂給。又、獄囚及乞食之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後、渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

   *

卅日癸未(みづのとひつじ)。前武州、右幕下(うばくか)・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内(やまのうち)巨福禮(こぶくれ)の別居に渡御、秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

以上の「前武州」は北條泰時、「右幕下」は源頼朝、「右京兆」は北條義時のこと。「乞匃」は乞食。「秉燭以前に」灯を点すよりも前に。暗くなる前に。

「平衍」「へいえん」と読む。平らで有意に広いこと。

「濶八段餘」「ひろさ、はつたんあまり」。「段」は「反」に同じい。約七千九百三十四平方メートル以上。

「小名」「こな」で地名の小字(こあざ)のこと。

「大明神」位置も名も不詳。識者の御教授を乞う。

「檜垣」「ひがき」。檜の薄板を網代に編んで造った垣根で、これは普通の民間人の家には見られない高級なそれであるから挙げたものであろう。常楽寺の東方では御家人らの住居があったとも聞かない。同前。

「御壺谷」鎌倉であるから「おつぼがやつ」と読んでおく。「御壺」は通常、御所などの貴人の屋敷に設けられた中庭である。同前。]

 

○舊家小三郎 里正なり。甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏に屬せしと云へど、口碑のみにして、家系舊記等を傳へず。唯、家に舊き木牌を置けり。一は土佐守淸忠〔面に、道本禪門、背に、甘糟土佐守平朝臣淸忠、文明九丁酉天二月十一日と刻す。〕、一は備後守淸長〔面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣淸長、永正二乙巳天七月八日と刻す。按ずるに、【上杉家將士列傳】に、甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし。〕、一は佐渡守長俊〔面に、隨岫寶順禪定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午天三月十三日と刻す。〕等なり。長俊、始、太郎左衞門と稱せり。卽、永祿十年、常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕、天正七年鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕。是等、最古を徴するに足れり。又、玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり。此家の傳へに、大永六年十二月、北條氏綱が兵と、里見義弘、戸部川の邊に戰ひ、北條勢三十五人、討死す。かりて其首級を合せ堙し、榎を植て、標とす。此家の祖先某、其一にして、且、其魁たり。故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を傳へざれど、年代をもて推考するに、備後守淸長が男なるべし。又、天正十三年閏八月、圓覺寺廓架再興助力人の列に、甘糟外記の名あり。是も祖先のうちなりと云へど、系傳を失ひたれば、詳にし難し。古鞍一背を藏す。是、上杉氏授與の物と云ふ〔一通は天正九年、北條氏より、當村代官・百姓中に與へし物なり。全文は村名の條に註記す。其餘の數通は永仁・正和・應安・康曆・應永・永享等の文書、及、上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり。傳來の由來、詳ならず。〕。

[やぶちゃん注:古鞍の図が載る。以下は国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミングした。下部の居木(いぎ:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)を繫ぐ部品)と思われるものの左端には「永祿五年三月日」(永禄五年は一五六二年)の記銘が視認出来る。輪(恐らく前輪)の山形の海の中央にある紋は笹とは見えるものの、「上杉笹」のようには見えない。現物が見たいものだ。「二寸四分」は七センチ強で、これは書かれた位置から、輪の中央の楕円状に繰り抜かれた部分(州浜或いは鰐口と呼ぶ)の下部の間隙(左右幅)を指していると思われる。中央右手にあるのは花押のように見えるが、その手の知識を持たないので誰のものか判読は出来ない。識者の御教授を乞う。なお、「甘糟」は「甘粕」とも書き、「あまがす」「あまかす」二様に読む資料があるので、これらは皆、同一である。

「里正」(りせい)本来は律令制下に於いて霊亀元(七一五)年に施行された郷里(ごうり)制の下に於ける「里」の長を指す(国・郡・郷・里の四段階に変更したが、天平一二(七四〇)年には里が廃されて郷制となった。近世には「里正」は庄屋や村長をかく称した)。孰れにせよ、「先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏」(無論、扇谷上杉氏及び後北条氏である)「に屬せし」とあるからには土着の有力豪族である。

「家」現在、「甘糟屋敷」が大船宮前地区にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらに現在の訪問記が画像入りである。それに『甘糟家が大船に館を構えたのは、室町時代で当時上杉管領に仕えていた甘糟土佐守平朝臣清忠という人で、当時拝領した上杉家の家紋入りの鞍が保存されてい』るとあるから、ここに描かれた鞍は現存することが判る。『江戸時代には医者を輩出しており、江戸後期には大船村名主となり、当地では一番の資産家で駅へ行くのに他人の土地を通らずに行けたと云われて』おり、『現当主の小三郎氏は工学博士で甘糟株式会社社長を』務め、東京在住とある(平成一六(二〇〇四)年の記載)。この条の柱は「舊家小三郎」であるが、この現当主の名も「小三郎」である。

「文明九丁酉天二月十一日」一四七七年。「天」は日付の謂いであろう。この年は山内上杉氏の関東管領上杉顕定(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)が有力家臣であった長尾景春が古河公方と結んで離反、五十子(いらこ/いかご)の戦いで大敗退を喫し、古河から撤退せざるを得なくなった年である(道長尾景春の乱は文明一二(一四八〇)年に扇谷上杉家上杉定正の家宰であった名将太田道灌の活躍によって鎮圧され二年後の文明十四年には古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立し、三十年近くに及んだ享徳の乱が終息したが、山内家の上杉顕定の主導で進められたこの和睦に定正は不満があり、さらに道灌の名声が高まったことから忠臣であった彼に猜疑を抱くに至り、遂には主君定正によって道灌は暗殺されてしまう)。

「甘糟備後守平朝臣淸長」不詳。

「永正二」一五〇五年。

「甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし」これは越後上杉氏の家臣で越後上田衆の一人、甘糟景継(天文一九(一五五〇)年~慶長一六(一六一一)年)のことと思われる。彼は晩年に「清長」と改名しているからである。

「隨岫寶順禪定門」「ずいしゅうほうじゅんぜんじょうもん」(現代仮名遣)と読んでおく。

「甘糟佐渡守平朝臣長俊」先の「鎌倉手帳」の「高野の切通」に、『甘糟氏は玉縄北条氏に仕えた一族で、大船の鎮守熊野神社を勧請したのは甘糟家の祖先の甘糟長俊と伝えられている』とある。

「天正十壬午」一五八二年。

「永祿十年」一五六七年。

「常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕」ウィキの「常楽寺(鎌倉市)」に、『木造文殊菩薩坐像』とあり、『鎌倉時代の作で神奈川県の重要文化財に指定されている。秘仏として文殊堂に安置されており、毎年』一月二十五日『に行われる文殊祭の時以外は開帳されない』あって、その後に永禄十年に『甘粕長俊によって修理が施された』とある。

「天正七年、鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕」冒頭注参照。

「是等、最古を徴するに足れり」これらの記載は最も古い時代の甘糟氏の事蹟を引き出しており、これらの事実の証拠とする足るものである。

「玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり」現在の岡本の戸部橋の近くの、六体の地蔵と古い五輪塔などが祀ってある「玉繩首塚」のこと。史跡碑文「玉縄首塚由來」を電子化して示す。こちらの画像を視認させて貰った。最後の二人の記名は判読出来ないので近いうちに、現場に行って確認した上で追記する。但し、この碑文、重大な複数の誤りがある(後述)

   *

今を距る四百四十餘歳 大永六年(一五二六)十一月十二日南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府内に亂入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫) 豪士大船甘糟  渡内福原両氏と俱に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀擊し合戰數合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戰に於て甘糟氏以下三十有五人は戰禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その數を知らず  干戈收て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷關死守の靈を慰め怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 經云我觀一切普皆平等

   昭和四十二年八月 玉縄史跡顯彰會

   *

「距る」は「へだつる」或いは「へだてる」。「里見義弘」は父里見義堯(よしたか 永正四(一五〇七)年~天正二(一五七四)年)の誤り。嫡男義弘(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)は大永(たいえい)六(一五二六)年にはまだ生まれていない。義堯は安房の戦国大名で安房里見氏第五代当主。上杉謙信や佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権を巡って争い続けた。房総半島に全体に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた人物である。「北條氏時」(?~享禄四(一五三一)年)は早雲(伊勢盛時)の「孫」ではなく、子である。初代玉繩城主。ウィキの「北条氏時等によれば、享禄二(一五二九)年八月十九日附文書が残っており、それは『相模国東郡二伝寺(藤沢市)』(私の家のすぐ裏山である)『宛てのもので』、『この時には玉縄城主になっていたこと』が判るとある。大永六年十一月十二日(一五二六年十二月十五日)に『安房国の里見義豊』(義堯の兄。兄とともに参戦した。これは「鶴岡八幡宮の戦い」(或いは「大永鎌倉合戦」)と称するが、これは当初、里見軍が玉繩城を目標としたものの、まさにこの場所で激しい抵抗を受け、逆走して鎌倉に突入、その兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことに由来する)『が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされて』おり、この戦闘の直後、両陣営は『首を交換し』(碑文の「交易」はそれ)、『それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている』とある。……こう、書かれてあるが、ごく直近の私の得た情報では(私は現在、植木町内会の役員をしている)「首塚まつり」の方は、実は実行委員会の内紛によって存続が風前の灯らしい……いやはや……首級の泣き声が聴こえるようだ…………。「渡内ノ福原」「氏」は有力な土豪。私の毎日のアリスとの散歩コースに当たる場所に現在も子孫の方々が沢山住んでおられる。「邀擊」「えうげき(ようげき)」と読む。迎え撃つこと。迎撃。「兵燹」「へいせん」と読む。「燹」は「野火」の意。戦争による火災。兵火。「干戈收て」「くわんかをさまりて(かんかおさまりて)」で「干」は「楯(たて)」と「戈」は「矛(ほこ)」の意で武器・武力から、転じて「戦争」の意。「郷關」郷里。「怨親平等」敵も味方も等しく同じく扱うこと。「資養」人が自分自身の心を養うこと。死者の供養という点では恩讐による差はあってはならないという捉え方。「經」法華経。「我觀一切普皆平等」「がくわんいつさいふかいびやうどう」。「妙法蓮華経薬草喩品第五」に出る。「我、一切を観ること、普(あまねく)く皆、平等なり」の意。

「かりて」ママ。別本も見たが、同じ。「かくて」の誤りではあるまいか?

「堙し」音「イン」。土を被せて見えなくする。

「榎」現在も大きなエノキが聳えている。

「標」「しるべ」。

「其一」「そのひとり」と訓じておく。

「其魁」「そのかしら」と当て訓しておく。頭領。

「名諱」「メイヰ」と音読みしておく。通称や俗名及び「諱(いみな)」死後の称号或いは戒名。

「備後守淸長が男」清長の子。

「天正十三年」一五八五年。

「廓架」境内を区切る外壁のことか。

「甘糟外記」不詳。この資料元も不詳。少なくとも「鎌倉市史」資料編の円覚寺関連文書を縦覧してみたが、見当たらなかった。

「百姓中」「中」は「うち」で等(ら)の意であろう。

「全文は村名の條に註記す」「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)の本文に出る。

「永仁」一二九三年~一二九八年。鎌倉時代。甘糟氏族の古さが判る。また「多く鶴岡に關係するもの」とあるから、甘糟氏が古くから鶴岡八幡宮寺と強い関係を持っていたことが推測される。

「正和」一三一二年~一三一七年。これも鎌倉時代。

「應安」一三六八年~一三七五年。南北朝の北朝の元号。

「康曆」一三七九年~一三八一年。これも北朝の元号。

「應永」一三九四年~一四二八年。室町時代。

「永享」一四二九年~一四四一年。

「上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり」「を」はママ。別本も同じ。しかしこの助詞は繋ぎが悪い。或いは「(ニ)シテ」の約物の判読の誤りではなかろうか?]

 

Amagasukekura

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕終

 

2017/05/24

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅳ) 常樂寺

 

○常樂寺 粟船山と號す、臨濟宗【鎌倉建長寺末】北條泰時が開基の道場にして〔村民所藏、永正十二年、建長寺西來菴修造勸進狀に、常樂檀那武藏守權大夫泰時云々、〕【東鑑】に粟船御堂とある是なり〔【東鑑】の文下に引用す。又同書に、嘉禎三年十二月十三日、右京兆泰時爲室家母尼追福於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇、今日有供養儀云々と見えたるもの、其舊跡今別に存せされば、恐らくは當寺なるべく覺ゆ、但し當寺創建の年代を傳へず、又泰時が母尼、室家等の墳墓の事も、こゝに傳へもしなければ推考もて決し難し、〕仁治三年六月十五日泰時卒してこゝに葬す〔後に墳墓山あり。〕寛元々年六月信濃法印道禪を導師とし、奉時が小祥の佛事を修す〔【東鑑】曰、六月十五日、故武州禪室周闋御佛事、於山内粟船御堂、被修之、北條左親衛幷武衞參給、遠江入道前右馬權頭、武藏守、以下人々群集、曼茶羅供之儀也、大阿闍梨信濃法印道禪讃衆十二口、此供幽儀御在生之時、殊抽信心云々、〕同四年宋の蘭溪本朝に歸化し鎌倉に下向して龜谷山壽福寺に寓せしを、北條時賴建てこゝに居しめ、軍務の暇屢訪ひ來たりて禪道を學べり、〔【元亨釋書】道隆傳曰、以淳祐六年、乘商船、着宰府、本朝寛元四年丙午也、乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽、時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺、軍務之暇、命駕問道、〕隆こゝに任する事七年〔按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど、今此等の事寺家に傳へなし、又隆を開山と稱する事は、其始當寺は全き一宇の寺院たらず、泰時が持佛堂の如くなり、故に定まりたる、常住の僧はなかりしなり、されば【東鑑】にも、粟船御堂と記して、寺號を云はず、釋書に、時賴、隆を延て、常樂寺に居らしむと書せしは、全く追記の文にて、當時寺號を唱へし證とはし難し、泰時が歿後、時賴香花誦經等廢絶なからしめんが爲、隆を延てこゝに居らしめしと覺ゆれば、隆をもて住僧の始めと云ふべし、さては後傳へて、開山祖と思ひまがへるも理なきにあらず、志に云所は、全く梵僊が榜文に據て、ふと思ひ違へし訛なり、彼は福山の開山と云へるなり、榜文下に註記せり、合考して了解すべし、又按ずるに、當寺撞鐘、寶治二年の銘文に、初て寺號を見るに據れば隆が住するに及て一宇の寺院となし、寺號を唱ふる事も、こゝに草創せしなるべし、〕建長四年時賴建長寺を創する後、隆、福山に入て開山祖となる、五年六月故泰時が十三周の忌辰に値り、當寺にて追福の供養あり、又信濃僧正道禪を請て導師とす〔事は【東鑑】に見えたり、泰時墳墓の條に引用す、〕後建長寺の末となり、其寺領のうちを配當あり、されど當寺は彼開祖隆が出身の地なる故建長寺根本と稱せり、此頃の事が隆定規一篇を送り、凡て福山の法則に據るべき旨を寺僧に示す〔全文は寺寶の條に註記す、〕近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり。

[やぶちゃん注:「永正十二年」ユリウス暦一五一五年。足利幕府第十代将軍足利義稙(よしたね)の治世(明応の政変による逃亡からの帰還後)。

「嘉禎三年」一二三七年。今までもそうだが、細かいことを言い出すときりがないので、特に指摘しないが、「吾妻鏡」の引用は完全なものではなく、省略(時には誤植かと思われるもの)があるので注意が必要である(「吾妻鏡」については読み難い部分は極力、私のオリジナルな注を附してあるが、それでも読めないという方には、「吾妻鏡」のサイトはかなり多いけれども、私は現代語訳がかなり進行しており、注も堅実なサイト「歴散加藤塾」のこちらを強くお勧めする)。ここを書き下すと、「右京兆室家(しつか)の母尼(ははに)の追福の爲、彼(か)の山内の墳墓の傍らに於いて、一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。」で「室家の母」は親族である実母の意。生没年などの詳細は不詳であるが、泰時の母は御所に仕える女房で、名を「阿波局(あわのつぼね)」と伝える。但し、これはかの北条時政の娘で源実朝乳母・阿野全成の妻である「阿波局」とは同名異人であるので注意されたい。

「梵僊」鎌倉末に元から渡来し、南北朝期の日本で亡くなった臨済僧竺仙梵僊(じくせんぼんせん 一二九二年~貞和四/正平三(一三四八)年)。古林清茂(くりんせいむ)の法嗣。一三二九年(元徳元年:南宋の淳祐六年)六月、九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受けて明極楚俊(みんきそしゅん)に従って日本へ来た。一三三〇年(元徳二年)、鎌倉に下り、足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた。後、浄妙寺・浄智寺を経、京の南禅寺・建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺に於いて多くの弟子を養成した。公武からともに帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた人物であった。淨智寺に戻って、寺内に彼が建てた塔頭楞伽(りょうが)院にて示寂。彼が従った楚俊も建武三(一三三六)年、建仁寺の方丈で示寂している。

「仁治三年」一二四三年。

「寛元々年」一二四三年。「周闋御佛事」は「周闋(しゆうけつ)の御佛事」で一周忌のこと。引用の終りの部分は「此の供(ぐ)は、幽儀御在生の時、殊(こと)に信心を抽(ぬき)んずと云々。」と読み、「この供養は故人が存命中、殊に熱心に信心しておられた故に執り行われたものであるとのことである。」の意。

「蘭溪」蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年)は南宋から渡来した禅僧。建長寺にて示寂した。無明慧性(むみょうえしょう)の法嗣。寛元四(一二四六)年三十三歳の時、渡宋した泉涌(せんにゅう)寺の月翁智鏡(がっとうちきょう)の縁によって弟子とともに来日、筑前円覚寺や京の泉涌寺来迎院を経、鎌倉の寿福寺などに寓居、宋風の本格的臨済宗を広めた。この辺りのシークエンスも含めて「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注、及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「台家」「だいけ」。天台宗。

「宰府」大宰府。

「乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽」書き下すと、「乃(すなは)ち、都城に入りて泉涌寺の來迎院に寓(ぐう)し、又、相陽(=鎌倉)に錫杖(しやくじやう:赴くこと)す」。

「時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺」「時に了心、龜谷山(きこくさん:寿福寺の山号)に踞(きよ)す(住持として勤めていた)。隆、錫を席下に掛く」。「了心」は仁治(にんじ)年間(一二四〇年~一二四四年)前後の臨済僧大歇了心(だいかつりょうしん)のこと。退耕行勇の法嗣で渡宋の後に帰国、寿福寺や建仁寺の住持を勤めた。禅僧の衣服・礼典等を整備したとされる。

「來化」「らいげ」。仏法を広めるために大陸から来ること。概ね生きて国に戻れぬ覚悟であったから(帰った僧も兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:蘭渓道隆らの招きにより文応元(一二六〇)年に来日、時頼の招聘を受けて建長寺第二世となったが、弘長三(一二六三)年に強力な帰依者であった北条時頼が亡くなると支持者を失い、文永二(一二六五)年に帰国。元のスパイと疑われたことや、彼が日本語を殆んど学ぼうとせず、多くの御家人と意志疎通がなかったことにもよると思われる)のようにいるが)、事実上の「帰化」とも同義的と言えば言える。

「延居常樂寺」「延(ひ)きて常樂寺に居(を)らしめ」。「延きて」は「進んで・積極的に・招聘して」の意。

「命駕問道」「駕を命じて道を問ふ」。「駕」は貴人の乗り物。自ら寿福寺に車を向かわせて親しく問答したことを指す。

「按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど」「新編鎌倉志卷之三」にの常楽寺の項に(リンク先は私の電子テクスト注)、「按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時賴、隆蘭溪(りうらんけい)が來化を聞、延(ひ)いて常樂寺に居(を)らしむと有。此の寺(てら)元(もと)は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり」とある。この以下の本「相模國風土記稿」の考証割注は非常に優れたものであって、近代の鎌倉史研究に於ける常楽寺成立史を先取りするものと私は思う。現在、常楽寺は嘉禎三(一二三七)年の創建で開基を北条泰時、開山を栄西の高弟退耕行勇とする。これは、道隆が建長寺に移って以降、現在に至るまで、臨済宗建長寺派に老いては建長寺開山の道隆が最初に落ち着いた名跡であることから「常樂は建長の根本なり」と重視され続けてきていることによる誤認である。

「榜文」「はうぶん(ほうぶん)」「ひやうぶん(ひょうぶん)」或いは「ばうぶん(ぼうぶん)」と読み、告示文・触れ書きのこと。ここは以下に示される「定規」(ていき:文章化された規則・具体的規律)を指す。

「志に云所は」「(新編鎌倉)志に云ふところは」。

「訛」音で「クワ(カ)」と読んでおく。本来の話や考えなどの内容が、何時の間にか変わって、それが誤って慣用化されて流布されてしまうことを指す。

「福山」彼が常楽寺から移って開山となった巨「福山」(こふくさん)建長寺のこと。

「寶治二年」一二四八年。前年、宝治合戦で三浦氏が滅び、北条得宗による占有支配が確立した。

「及て」「およびて」。

「建長四年時賴建長寺を創する」一二五二年。「吾妻鏡」では建長三(一二五一)年から造営が開始さられ、建長五(一二五三)年に落慶供養が行われたとある。現在、公式には建長五年を創建としている。これは本格的な最終工期に入ったものと読めばおかしくはない。だからこそ「後、隆、福山に入」りて「開山祖となる」と続くと読めるからである。

「忌辰」「きしん」忌日に同じい。

「値り」「あたり」。

「近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり」江戸後期の寂れようが伝わってくる。]

【寺寶】

△定規二篇〔共に梓に鏤ばむ、〕一は道隆の書たり〔曰、光陰有限六七十歳、便在目前、苟過一生、灼然難得復本、既挂佛衣之後、入此門來、莫分彼此之居、各々當行斯道、儻以粟船上殿、爲名、晝夜恣情於戲、非但與俗無特、亦乃於汝何益、今後本寺主者、既爲衆僧之首、當依建長矩式而行、畫則誦經之外、可還僧房中客前坐禪初後夜之時、以香爲定式、領衆坐禪、二更三點可擊鼓房主歸衆方休息、四更一點、依復坐禪、至閑靜時方人寮、夜中不可高聲談論、粥飯二時、並須齊赴、不可先後、今立此爲定規、不可故犯、若有恣意不從之者、申其名來、可與重罰住山道隆華押〕

[やぶちゃん注:以上に限らず、以下での引用も、一部に脱落或いは誤判読又は誤植がかなり見られるが、それを訂正注すると厖大でしかも非常に読み難くなるので、誤りは誤りのママに電子化した必ず私の「新編鎌倉志卷之三」に載るそれらと対比されたい(ここ以下に引用されているものは概ね同書にも書かれてある)リンク先では私の訓読文と注も加えてあるので是非、参照されたい。

「梓に鏤ばむ」「あずさにちりばむ」。版木に刻む。「出版・上梓する」の意。昔、中国では梓(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata。但し、別な樹種を指すとする異説も多い)の木を版木に用いたところに由来する。]

一は梵僊の筆なり〔曰、常樂寺乃建長之根本也、開山板榜、切々訓誨、明如日月誠不可忽、今以晩來之者、似不知之、於輪番僧衆、多遊它所、今評定宜時々撿點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、卽時出院、各宜知悉、評定衆、前堂・柏西堂・都管・信都寺・興維那・習藏主・方首座・安首座・桂首座・用都聞・衣鉢胃淸、貞和丁亥三月二日 住山梵僊、華押、按ずるに、梵僊字笠仙、自號來々禪子、元の明州の人、元德二年二月、鎌倉に來り建長に寓す、后淨智・南禪・眞如の三寺に歷住、貞和三年建長に住して、二十九世の僧となる、后又淨智に再住し、同四月十六日寂す、〕

[やぶちゃん注:「貞和丁亥」「ぢやうわひのとゐ(じょうわひのとい)」は貞和三/正平二(一三四七)年。

「元德二年」一三三〇年。

「后」盛んに出るが、「のち」。「後に」の意。]

△硯一面〔佛光禪師牛澤の物なり、其圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「佛光禪師」無学祖元(嘉禄二(一二二六)年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。建長寺にて示寂。建長寺及び円覚寺に兼住、本邦の臨済宗に大きな影響を与えた。

「牛澤」意味不詳。識者の御教授を乞う。

 

Jyourakusuzuri

 

[やぶちゃん注:右のキャプション(活字化)「直經九寸三分」は約二十八センチメートル。以下、画像は視認底本としている国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして加工したものである。]

 

△佛殿 祈禱の額を掲ぐ、本尊三尊彌陀を安ず、傍に泰時の牌〔牌面に、過去觀阿靈の五字見ゆ、餘は磨滅して讀むべからず〕及其室〔牌面に、歿故淨覺靈位の字見ゆ、鬼簿に、淨覺禪定尼と記し、卒年を載せず、〕其女の牌〔歿故戒妙大姉靈位とあり、〕を置、殿前に銀杏の老樹あり〔圍一丈七八尺〕

[やぶちゃん注:「過去觀阿靈」北条泰時の法名は「觀阿」で、「新編鎌倉志卷之三」に「位牌に、過去觀阿禪門とあり」と記す。

「其室」不詳。泰時の継室であった安保実員(あぼ/あぶさねかず 生没年未詳)の娘か?

「其女」不詳。

「圍」「めぐり」。

「一丈七八尺」五・一五~五・四五メートル。蘭渓道隆お手植えの公孫樹とされる木が現存はする。]

△客殿 釋迦〔座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ、〕地藏〔中古建長寺門前の堂より移せりと云〕を置、圓鑑の額を扁す〔佛光禪師の筆、左に縮寫す、〕

[やぶちゃん注:「釋迦」木造釈迦如来坐像。南北朝時代の作。

「一尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「日蓮植髮の像」私はそのような伝承は知らない。]

 

Ennkan

 

[やぶちゃん注:右側に扁額の縦の長さ「八寸八分一厘」(二十六・九六センチメートル)、上部に「一尺六寸五分八厘」(六十六・〇五センチメートル)と手書きである。]

 

△鐘樓 寶治二年三月の鑄鐘を懸く、序文に據ば北條時賴祖父泰時追善の爲に、左馬允藤原行家に命じ、撰せしむる所なり〔其序銘曰、鎌縣北偏、幕府後面、有一仁祠、蓋家君禪閤、墳墓之道場也、境隔囂喧、足催坐禪之空觀、寺號常樂、自擬安養之淨刹、弟子、追慕難休、夙夜于苔壠之月、遺恩欲報、欣求於華界之雲、便鑄鳧吼之鐘、聊添鴈堂之飾、於是狂風韻遠、可以驚長夜之夢、輕霜響和、可以傳三會之曉、當時若不記錄者、後代誰得相識哉、仍課刀筆、以刻銘文、寶治二年戊申三月廿一日、左馬允藤原行家法師、法名生蓮作辭曰、偉哉斯器造化自然、陰陽炭調、山谷銅甄、鳧氏功舊、蒲牢名傳、入秋今報、應律今懸、響和靑女、聲驚金仙、動三千界、振九五天、於是先主、早告歸泉、爾來弟子、屢溺淚淵、深恩如海、淺報似涓、夙夜之志、旦夕未悛、桑門閑鎖、房墳墓邊、花鐘新鑄、安道場前、揚九乳韻、祈七覺緣、開曉獲益、長夜罷眠、下自八大、上至四禪、以此善種、萌彼福田、〕

[やぶちゃん注:以上も「新編鎌倉志卷之三」に載るそれと対比されたいリンク先では私の訓読文と注も加えてある

「鳧吼之鐘」例外的に注するが、「鳧乳」(ふにゅう)の誤り。「鳧乳之鐘」は梵鐘のこと。中国古代の音楽をつかさどる鳧氏(ふし)が最初に作ったとされることからで、「乳」は「九乳」で梵鐘に特徴的な上部にある九つの出っ張り部分を言う

「寶治二年」一二四八年。既注。

「據ば」「よれば」。]

△文殊堂 本尊の左右に不動・昆沙門を安ず〔【鎌倉志】に據れば、始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ。〕永祿十年五月住持九成の時甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾し、其事を木牌に記して胎中に收む〔曰、文殊御影色、御檀那被成候間奉拜事、永祿十丁卯年五月十八日、平正直、平長俊、各華押、相模國東郡粟船山常樂寺、住持比丘九成叟、沙門僧菊拜書と記す、按ずるに、長俊は舊家小三郎の祖なり、〕、秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり、左に縮寫す、

[やぶちゃん注:この「文殊堂」について、「鎌倉市史 社寺編」では、諸本は『明治初年英勝寺から移建したものであると』するが、『古老は山上からひいて来たといっている』とあり、本書でかく記す以上、明治の移築というのはおかしい。

「始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ」脱落があって意味が通じない。「新編鎌倉志卷之三」の当該条を読んで戴くと判るが、「文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持來り、體は本朝にて蘭溪作り續(つ)ぎたるとなり」なのである。

「永祿十年」一五六七年。室町幕府第十四代将軍足利義栄(よしひで)の治世というか、既に戦国時代。

「住持九成」「僧菊」住持の名。

「甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕」「鎌倉市史 社寺編」の「常楽寺」によれば、『口碑によれば上杉氏の臣、後に北条氏に属し』たとする、『この地方の豪族で、江戸時代には名主であった』とある。地元の「のり」氏のサイト内の「大船町内会管内の史跡めぐり」の「甘糟屋敷」を参照されたい。先の「大船村」の「熊野社」に出、後の「○舊家小三郎」にも記される。

「信施」「しんせ」。布施に同じい。

「秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり」「鎌倉市史 社寺編」は蘭渓筆は『疑わしい』とする。]

 

Syuukoudenn

 

△辨天社 客殿の後背に池あり〔色天無熱池と呼ぶ〕、其中島に勸請す、是江島辨天社に安ずる十五童子の一、乙護童子を祀れりと傳ふ〔其本體は建長寺に安じ、爰には其模像を置くと云、〕蘭溪江島に參寵の時、感得せしものなりとぞ〔建長寺西來庵永正十二年の勸進狀に、大覺禪師下向關東、江島一百日參籠、辨財天所感天童一人付與禪師也、居粟船常樂寺云々、故に江島には童子一體を缺と云傳ふ、〕相殿に志水荒神〔木曾冠者義高の靈を祀ると云、〕姫宮明神〔泰時の女を祀れりと云〕稻荷・天神等を祀れり、

[やぶちゃん注:「乙護童子」「おとごどうじ」。仏法を守るために姿を現す、童子の姿をした鬼神。乙護法(おとごほう)とも呼ぶ。

「永正十二年」一五一五年。]

△天神社

△北條武藏守泰時墓 客殿の背後山上にあり、【東鑑】建長六年六月北條時賴祖父泰時十三回の忌辰に値り、眞言供養を修せし條に、靑船御塔と見えしは是なり〔六月十五日、迎前武州禪室十三年忌景被供養彼墳墓靑船御塔、導師信濃僧正道禪、眞言供養也、請僧之中、中納言律師定圓、備中已講經幸、藏人阿闍梨長信等在之、爲此御追善御八講、自京都態所被招請也、相州御聽聞、〕按ずるに泰時は義時の長子なり、小字は金剛江間太郎或は相模太郎と稱す、建曆元年九月八日修理亮に任じ、建保四年三月廿八日式部少丞に迂り讃岐守を兼、固辭して州任に就かず、承久元年正月廿二日駿河守に任ず、十一月十三日武藏守に轉じ、三年洛に上り六波羅探題北方に居る、元仁元年六月鎌倉に歸り、廿八日、父に代りて執権の職を奉る。嘉禎二年十二月十八日、左京権大夫を兼、曆仁元年四月六日武藏守を辭し、九月廿五日、左京兆を辭す、仁治三年五月十五日薙髮して觀阿と號す、六月十五日卒。年六十、常樂寺と號す〔碑圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「建長六年」一二五四年。以下、「吾妻鏡」の書き下し文を示す(省略があるが、ここで示されたものを読み下す)。

   *

六月十五日。前武州禪室の十三年忌景(きけい)[やぶちゃん注:回忌。]を迎へ、彼の墳墓靑船(あをふね)の御塔(ごたう)を供養せらる。導師は信濃僧正道禪。眞言供養なり。請僧(しゆあそう)の中(うち)に、中納言律師定圓(ぢやうゑん)[やぶちゃん注:当時、歌人として知られた葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年)の子。]・備中已講(いこう)經幸(きやうこう)・藏人(くらうど)阿闍梨長信(ちやうしん)等、之れ、在り。此の御追福(ごついぶく)御八講(ごはちこう)の爲、京都より態(わざ)と招請せらるる所なり。相州[やぶちゃん注:北条時頼。]、御聽聞。

   *

「小字」「こあざな」。幼名。

「建曆元年」一二一一年。

「建保四年」一二一六年。

「州任」国守号のことか。

「承久元年」一二一九年。

「三年洛に上り六波羅探題北方と居る」)承久の乱の直後の承久三(一二二一)年六月十六日に泰時は六波羅探題北方に就任している。

「元仁元年」一二二四年。「六月」は改元前なので貞応三年が正確。

「嘉禎二年」一二三六年。

「曆仁元年」一二三八年。正確には嘉禎四年が正しい(暦仁元年改元は嘉禎四年十一月二十三日)。

「仁治三年」一二四二年。]

 

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[やぶちゃん注:図の右上に「高四尺五寸」(約一メートル三十五センチメートル)のキャプション(活字化)がある。]

 

△姫宮塚 佛殿後の山上にあり、老松二株あり〔圍一丈五尺〕、泰時が女の墳なりと云〔元は祠堂ありしが、頽廢して、神體は今辨天社に合祀す、西來庵永正勸進狀に大覺禪師居常樂寺、平泰時息女歸依佛法、號戒妙大姉、抽戒枝結常樂果と見ゆ、北條系譜を閲するに泰時三女を生む、長は足利義氏の室字、次は三浦若狹前司泰村、次は武藏守朝直に嫁す、此三女の内なるや、慥かなる所見なし〕

[やぶちゃん注:「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。]

△木曾冠者義高塚 姫宮塚の山腹にあり、小塚の上に碑を建【高三尺許】古塚は小名木曾免の田間にあり〔當寺の坤方、二町餘を隔、〕延寶八年二月廿一日村民〔石井氏、〕塚を穿ち靑磁の瓶を得たり、瓶中に枯骨泥に交りてあり、由て爰に塚を築き收藏せしと云〔舊地にも、今尚古塚あり、〕按ずるに義高は〔系圖義基に作る、今【東鑑】に從ふ、〕木木曾義仲の長子なり、壽永元年鎌倉に質たり、賴朝女を以て是に妻す、元曆元年義仲江州にて討れし時、賴朝後患を慮り誅戮せんことを謀る、義高伺ひ知て密に遁れ四月廿六日武州入間河原にて追手の兵、堀藤次親家が郎等藤内光澄に討る〔【東鑑】曰、元曆元年四月廿一日、自去夜殿中聊物忩、是志水冠者、雖爲武衛御聟、亡父已蒙勅勘被戮之間、爲其子其意趣尤依難度、可被誅之由、内々思食立、被仰含此趣於昵近壯士等、女房等伺聞此事、密々告申姫公御方、仍志水冠者𢌞計略、今曉遁去給、此間假女房之姿、姫君御方女房圍之出、而海野小太郎幸氏者、與志水同年也、日夜在座右片時無立志、仍今相替之、入彼帳臥、宿夜之下出髻云々。日闌後。出于志水之常居所、不改日來形勢、獨打雙六、志水好雙六之勝負、朝暮翫之、幸氏必爲其合手、然間至于殿中男女、只成于今、令坐給思之處、及曉綺露顯、武衛太忿怒給、則被召禁幸氏、又分遣堀藤次親家以下軍兵於方々道路被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給、廿六日甲午。堀藤次親家郎從、藤内光澄歸參、於入間河原、誅志水冠者之由申之、此事雖爲密議、姫公已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給、可謂理運、御臺所又依察彼御心中、御哀傷殊太、然間殿中男女多以含歎色云々、〕光澄首を携へ歸り實檢の後當村に葬りしなるべし、

[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」も完全に引いて訓読も附した、私の北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎をご覧あれ。私はこの二人が哀れでたまらぬ。

「木曾冠者義高」(承安三(一一七三)年?~元暦元年四月二十六日(一一八四年六月六日)。木曾義仲嫡男。

「古塚は小名木曾免の田間にあり」後掲される。

「坤方」「ひつじさるがた」。南西。

「二町」二百十八メートル。

「延寶八年二月」グレゴリオ暦一六八〇年。徳川家綱の治世であるが、この年の五月に彼は死去し、綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。

「石井氏」大船・玉繩地区の地の者に多い姓である。

「壽永元年」一一八二年。

「質」「じち」。人質。

「賴朝女」悲劇の長女大姫(おおひめ 治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)。寿永二(一一八三)年の春、頼朝と対立していた義仲は当時十歳(推定)の源義高を人質として鎌倉に送り、当時六歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ(義高と大姫は又従兄妹に当たる)。

「元曆元年」一一八四年。

「入間河原」「いるまがはら」。現在の狭山市入間川付近。

「堀藤次親家」「ほりのとうじちかいへ」。

「藤内光澄」「とうないみつずみ」。]

△大應國師墓 地後山麓にあり、五輪塔を立、師は延慶二年建長寺にて寂す、當寺は茶毘の舊跡なるが故に塔を建となり〔【高僧傳】を按ずるに國師名は紹明南浦と號す、駿州の人、正元年間入唐し、文永四年東歸す、七年、筑州興德寺に住持し、繼て大宰府の常樂寺洛の萬壽寺に轉住し、東山嘉元禪院の開祖となり、德治二年、建長寺に住し、十三世の職を董し、延慶二年十二月廿九日寂す、舍利を獲る無數、勅して圓通大應國師と諡す、弟子建長、崇福にあるもの、各舍利を奉じて塔を建建長の塔中、天源庵と云、今に支院たり、崇福の塔を瑞雲と云、〕

[やぶちゃん注:「大應國師」臨済僧で建長寺住持であった南浦紹明(なんぽしょうみょう/なんぽじょうみん 嘉禎元(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。出自は不詳乍ら、駿河国安倍郡の出身。勅諡号が「円通大應國師」。ウィキの「南浦紹明によれば、『幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び』、建長元(一二四九)年、『建長寺の蘭渓道隆に参禅した』。正元元(一二五九)年に『宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ』。文永四(一二六七)年、日本に帰国して建長寺に戻り(この時点では南溪道隆は未だ存命であった)、その後は文永七年に筑前国の興徳寺、文永九年には博多の崇福寺の住持を勤めた。嘉元二(一三〇四)年に『後宇多上皇の招きにより上洛し』、現在の京都市東山区にある東福寺塔頭の『万寿寺に入』った。徳治二(一三〇七)年になって鎌倉に戻って『建長寺の住持となったが』、その二年後、七十五歳で示寂した。没した翌年、『後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)』(しゅうほうみょうちょう 弘安五(一二八二)年~延元二/建武四(一三三八)年)は、鎌倉時代末期の臨済宗の『を経て関山慧玄』(かんざんえげん 建治三(一二七七)年~正平一五/延文五(一三六一)年)と『へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は』皆、『この法系に属する』とある。]

△門 粟船山の額を掲ぐ、黃檗僧木庵の筆なり、

[やぶちゃん注:「黃檗僧木庵」江戸前期に明から渡来した黄檗(おうばく)宗(曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている)の僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年)。寛文元(一六六一)年に山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、寛文四年、かの隠元の法席を継いだ。翌年には江戸に下り、第四代将軍徳川家綱に謁見して優遇され、江戸の紫雲山瑞聖寺を初めとして十余ヶ寺を開創、門下も五十余人に及び、寛文九年には将軍から紫衣を賜っている。延宝八(一六八〇)年二月、黄檗山の第三代法席を、やはり明から渡来した僧慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年~天和元(一六八一)年)に譲って山内の紫雲院に隠退、そこで亡くなった(以上はウィキの「木庵性瑫に拠った)。]

 

2016/12/16

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他

 

○大船山 村の中央常樂寺後の山を云、此山の北に連なれる小丘を柄杓山と云、其形に因て名とす、

[やぶちゃん注:水戸光圀「新編鎌倉志」(本書が強く依拠している先行書である。時に無批判に引用し、その誤りを遙かに遠く受け継いでもいる)、その「卷之三」に(リンク先は私のオリジナル電子テクスト注。私がこう、しつこく注するのは、さるサイトが、平然と私のこのテクスト本文をコピー・ペーストし、しかも自分が作ったものだと公言し、あろうことか、それらの無断転載を禁じているからである。私はこちらで具体的に対象サイト名を名指しして指弾しているので、是非、お読み戴きたい。なお、未だに当該サイト制作者からは一言の連絡も謝罪も、ない)、後で本書でも挙がる「常樂寺」の条があるが、その附図

 

Jyourakuji

 

に常楽寺本堂北東の後背地に「粟船山」のキャプションを見出せる。そもそもが常楽寺の山号自体が「粟船山(ぞくせんざん)」である。私の所持する「日本地誌大系」本の本図の印刷ブレは底本の挿絵中、最もひどいもので恐縮なのであるが、「粟船山」は辛うじて視認出来る。画像で判読不能の文字の補足しておくと、右手街道の上方には「自是東北岩瀨村今泉村道」、下方には「自是南鎌倉道」とあり、境内奥の池の中には右から左に「無熱池」とある。最早、誰もここ(グーグル・マップの航空写真データ)が「大船山」だとは知るまい。「風土記稿」の本文に従うなら、この図の平泰時墓と姫宮の背後にある上の切れたピーク部分が「柄杓山」(ひしゃくやま)ということになろうか。]

 

○離山〔浪奈禮也麻〕 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間三山並び立り〔高各二十間より三十間許に至る〕中央に在を長山〔形狀を以て名く〕、北方を腰山〔山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、〕南方を地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、〕と名づけ、概して離山と稱す、これ山足連續せざるを以なり〔皆芝山にて樹木を生ぜず、〕、享德四年六月管領成氏追討の時、鎌倉勢山麓に出張して京勢を支へしことあり〔【鎌倉大草紙】曰、六月、成氏爲退治、上總介範忠、京都の御教書御旗賜はり、東海道の御勢を引率し鎌倉へ發向す、鎌倉には木戸・大森・印東・里見等、離山に待懸けて、防ぎ戰ひけれども、打負ける〕文明中准后道興此山を見て和歌を詠ず〔【回國雜記】曰、離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな、〕

[やぶちゃん注:現在、この三つの「離山」は全く存在しない。しかし幸いにして、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(埼玉大学教育学部人文地理学研究室 谷謙二氏作製)になるここ明治末期の三山が崩される前の地図を現地図と対照して見ることが出来る現行の地誌書、例えば昭和四八(一九七三)年刊行の改訂八版「かまくら子ども風土記 中」の叙述では、明らかに、旧「松竹撮影所」前にあった北のピークは「離れ山」の一部とせず、「大船中央病院前」の南西から北へ伸びる丘陵を「離山」としている。しかし、今回、この旧地図を子細に観察するに、私は実は「離山」とはこの旧松竹撮影所前にあった北のピークを含めたものなのではないか、と疑い始めている。何故なら、旧地図を見ると、南端のピークが「地蔵」の頭のように一番高く、三・六メートルと表示し、その北の部分は如何にもなだらかで低いだらだらと胴の「長」い丘陵にしか見えず、その北端に「腰」高に少し高くなったピークが出る。仮に私がここの在の民であったなら、この総体を、わざわざ北一と南二で分断し、しかも「南二」を「三」に分けて「離山」とし、しかも北端のピークに名をつけぬということは到底、考えられない。この全体を「離山」と呼称するのが自然である。ともかくも、そう比定するなら、ここに出る南端の「地蔵山」とは、前掲の「かまくら子ども風土記 中」によって太平洋戦争中に切り崩されて、その土が現在の「大船中学校」一帯の田の埋め立てに用いられたとあり、中央の私が「長山」に比定する部分は、「三菱研究所」(現在の地図上の「三菱電子証明株式会社」)が建設される際にやはり切り崩されて消失したとある。そうして、同比較地図の別次期のそれを見ると、実に昭和二(一九二七)年以降の地図では、「松竹撮影所」(その頃は「競馬場」である)前の北のピークは南部分に先だって早くも完全に消失してしまい、「競馬場」に厩舎か建物が平地に建っていることが判るのである(これ)。「離山」の位置比定については大方の御叱正を俟つものではある。しかし、この私の思いつきを否定される場合、旧「松竹前」のピークに何故、名がつかず、古地誌に記載がないのかを、私が納得出来るように説明して戴くことを要求するものである。寧ろ、名があることが立証され、それが「腰山」でないのであれば、私は潔く引き下がるに吝かではない。

 また、ここでは室町までしか事蹟を遡っていないが、この「離山」は元弘三(一三三三)年の鎌倉新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がここで各方面担当の武将を集めて軍議をした地とも伝承されている。それを書かないのは花がないと私は思う。

 なお、私の小学生時代はここに赤錆びた二基のガス・タンクが少しだけ離れて屹立していた。だから「ガス・タンクの離れ山」と呼んでいたし、幼少なればこそ私は、『「山」がないのに「離れ山」というのは、きっと、あの二つの離れたガス・タンクを「離れ山」と見立てて呼んでいるんだ』と真面目に思い込んでいたことをここに告白しておこう……もう、そのガス・タンクも、影も形も、ない……遠き日の思い出に――

「八町」約八百七十三メートル。

「二十間より三十間」約三十七~五十四メートル。

「在を」「あるを」。

「洞井」「ほらゐ」と訓じておく。

「徑三尺」直径約九十一センチメートル。

「隧」「すい」。隧道。トンネル。

「景時が宅蹟は、此地にあらず」一般に伝承されるものは、方向違いの浄明寺の五大堂明王院の北山麓である。「新編鎌倉志」の「卷之三」に以下のように出る。

   *

○離山 離山(はなれやま)は山の内より西へ行けば市場村(いちばむら)也。村の出口に道二條あり。北は戸塚道、西は玉繩道。戸塚道の東に芝山あり。是を離山と云ふ。里老の云く、梶原平三景時が古城(ふるしろ)と。梶原が舊宅は、五大堂の北にあり。鶴が岡一の鳥居より、此の地まで、三十三町あり。

   *

「地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺」(三~一・八メートル:注意されたいが、これは塚の高さである。)「に至る、來由を傳へず、〕」現在、この地蔵像一体は「離山富士見地蔵尊」と称して、大船中学校の北西、鎌倉第三郵便局の道の反対の東方道路脇に祀られてある。

「享德四年」一四五五年。

「管領成氏追討」享徳の乱(享徳三年十二月から文明一四(一四八三)年まで三十年近く続いた室町時代の関東地方に於ける内乱)の初戦。享徳三年十二月二十七日に第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方(第八代将軍足利義政)、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(後に古河公方)方が三つ巴で争い、戦乱は関東一円に拡大、関東の戦国化の遠因となった(ここはウィキの「享徳の乱を参照した)。

「鎌倉大草紙」「かまくらおほぞうし」と読む。室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。ウィキの「鎌倉大草紙」によれば、康暦二/天授六(一三八〇)年より文明一一(一四七九)年)までの百年間の歴史を記しており、「太平記」を継承する、という意から「太平後記」の別称がある。全三巻。『戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の』一までは『全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の』二には『みられないことから、上巻から下巻の』一までと、下巻の二以降では『作者が異なる可能性も指摘されている』。『上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている』とある。

「成氏爲退治」「成氏退治の爲め」。漢文脈としては語順がおかしいが、成氏は目的語であって主語ではない。

「上總介範忠」守護大名で駿河今川氏の第五代当主今川憲忠(応永一五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。ウィキの「今川憲忠」より引く。第四代『当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった』。永享五(一四三三)年に『父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた』第六代『将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している』。『これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された』。康正元(一四五五)年には第八代『将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)』。寛正元(一四六〇)年『正月に駿河に帰国、翌年』三月二十日に『子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)』したとある。

「木戸」鎌倉府奉行衆の宿老の家系。

「大森」大森憲頼か。

「印東」印東下野守であろう。ウィキの「印東氏によれば、彼は『足利成氏から下野国天命を与えられ、守護職・小山持政を助けるよう命じられている』とあり、彼は永享一〇(一四三八)年の永享の乱に於いて、足利持氏とともに自害した鎌倉御所奉行の一人、印東伊豆守常貞の子か、ともある。

「里見」安房国の戦国大名里見氏の初代となったとされる里見義実(応永一九(一四一二)年~長享二(一四八八)年)か。但し、ウィキの「里見義実」によれば、彼は『近年では架空説、里見氏庶流出身説がある。子は里見成義・中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通・実堯兄弟が義実の実子であると考えられている』。言わずもがなであるが、『里見義実の安房入国伝説を基にして、江戸時代に曲亭馬琴によって書かれたのが』、かの「南総里見八犬伝」である。

「文明」一四六九年から一四八六年まで。室町末期。幕府将軍は第八代足利義政・足利義尚。

「准后道興」関白近衛房嗣の子で、幼少の頃から出家して聖護院門跡となった道興准后(どうこうじゅごう 永享二(一四三〇)年~大永七(一五二七)年)のこと。後に大僧正に任ぜられて准后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下であっても皇族同等の待遇を受ける公家に於ける位階の頂点の一つ。女性の尊位のように思われがちであるが、性別は問わない)となった。彼は文明十八(一四八六)年六月から翌年までの凡そ十箇月間、聖護院末寺掌握を目的として東国へ向かい、若狭国から越前・加賀・能登・越中・越後の各国を経て、本州を横断、下総・上総・安房・相模を廻って、文明十九年五月には武蔵から甲斐から奥州松島まで精力的に廻国した。後にその紀行を「𢌞國雜記」(本文の「回國雜記」のこと)として残した。

「離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな」「𢌞國雜記」の相模國パート内に、

   *

はなれ山といへる山あり。誠に續きなる尾上(おのへ)もみえ侍らねば、

  朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな

   *

と出る。

 

 最後に。

 幕末の文政十二(一八二九)年に八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長であった植田孟縉(うえだもうしん)の著わした「鎌倉攬勝考卷之一」の「山川」部に出る「離山」の本文と図を引く。かなりしっかりと書かれているからである。リンク先はやはり私の電子化注である。図は数少ない応時を偲ばせるものであるが、団子のように固まっており「離れ山」に見えないのが遺憾ではある。しかし、先の道興准后の歌も添えられており、古えの田を渡る風を嗅ぐことは出来る(今回は読みやすくするために、一部に私が読みを歴史的仮名遣で附した。《 》は私が挿入した小見出しである)。

   *

 

Hanare

 

離(はなれ)山 山の内を西へ行(ゆき)て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄(きたより)に當(あたり)て獨立する童山、凡(およそ)高さ三丈許(ばかり[やぶちゃん注:約九メートル。])、東西へ長き三十間餘、實(げ)にはなれ出(いで)たる山ゆへ名附(なづけ)、往來より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]を隔つ。《成氏追討古戰場》享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承(うけたまはり)て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取(ぢんどり)て駿州勢を待(まち)かけ防ぎ戰(たたかひ)けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍(よつ)て成氏朝臣新手(あらて)二百餘差向(さしむけ)たれど敵雲霞(うんか)の如く押來(おしきた)れば終(つひ)に打負(おしまけ)、成氏朝臣を初(はじめ)とし、皆武州府中をさして落行(おちゆく)と、【大草紙】に見へたるは此(この)時なり。夫(それ)より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋(みんをく)に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖(さて)此(この)離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘(こううん)のさまたげあれとも鍬鋤(くはすき)などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚(おほつか)有(ある)事を聞(きく)。されば、此山こそは上古の世の塋域(えいいき)に封築(ふうちく)せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する所はいつくにも有(あり)て、大ひなる塚の有ものなり。《上古の車塚(くるまづか)の説》爰(ここ)の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其(その)製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造(しもつけのくになすぐんくにのみやつこ[やぶちゃん注:現在の栃木県東北部の広域を支配した。])の古碑ある湯津上村(ゆづかみむら[やぶちゃん注:現在は大田原市の内。])に、今も古塚の大ひなる數多(あまた)あり。二級(きふ)に築(きづ)しもの多し。此所の山も夫(それ)に形相(けいさう)同じ、是(これ)は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒(らち)をゆひ、一階低き所にて祭奠(さいてん)を行ふやうに造れるものなりといふ。偖(さて)また此(この)塚山は何人(なんぴと)の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有(あり)て、國分寺の舊礎も田圃の間に双(なら)び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有(ある)べし。《丸子連多麻呂(まるこのむらじおほまろ)先祖の塚》是(これ)なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其(その)慥(たしか)成(なる)證跡はしらねど、後の考へにしるせり。

   *

 以下、上記の語句に簡単に注しておく(私のリンク先の古いものを抜粋・改稿した)

・「童山」は「小山」のことであろう。或いはまた、「わらはやま」と読むと、「はなれやま」と発音がやや似ており、その古称の可能性もあるかも知れぬ。

・「塋域に封築せし塚」墳墓に土を高く盛り上げて祭った祭壇(古墳)の意。

・「下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村」この碑は那須国造碑(なすのくにみやつこのひ)のことで、日本三古碑(田胡郡碑・多賀城碑・那須国造碑)の一つ。現在は栃木県大田原市湯津上の笠石神社の御神体として祀られている。碑身と笠石は花崗岩で、一五二字の碑文が刻まれ、持統天皇三(六八九)年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事蹟を息子の意志麻呂らが顕彰するために文武天皇四(七〇〇)年に建立された旨、記されている。延宝四(一六七六)年に僧侶円順によって発見され、その報を受けた領主徳川光圀が笠石神社を創建、碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提及び意志麻呂父子の墓と推定した前方後円墳上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣佐々宗淳(さっさむねきよ:ご存じ「水戸黄門」の「助さん」のモデルとされる人物)に命じている(以上は主にウィキの「那須国造碑」に拠った)。

・「二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。」こうした古形の古墳は二段に築いたものが多く、この離山が一段低い部分を持つ二段構造になっている点で同じだ、という意。これは前方後円墳のことで、「車塚」はその俗称。貴人が乗った牛車に見立てた謂いであろう。

・「早川今泉」の「早川」は、現在、相模国府若しくは高座郡衙が比定候補とされる綾瀬市早川字新堀淵を、「今泉」は高座郡海老名町上今泉、現在の海老名市上今泉のことか。

・「丸子連多麻呂」「万葉集」に防人として歌を残した相模国鎌倉郡出身の武士(もののふ)。丸子氏は古代日本の氏族の一つで紀伊国・信濃国・相模国などに点在する。大伴氏の支族とされる。

 なお、ここに記された「離山」前方後円墳説は植田のオリジナルな入れ込んだ記載で、極めて興味深い。添えられた離山の図も前方後円墳にしか見えない。ところが、この離山古墳説は現在、「鎌倉市史 考古編」やその他の鎌倉関連資料を披見しても、全くと言っていいほど登場しない。先に出た六国見山山頂部についても、かつては古墳説が囁かれ、古墳型をした山が、小袋谷の亀甲山、笛田の亀の子山と複数存在した。ところが(以下、先に私が既に述べた部分とダブるが、敢えて私の旧稿をそのまま示す)、この離山は大正初期にセメント用泥岩の採取のために北側の腰山部分が崩され、昭和初期には大船地区の田圃を埋め立てて都市化する計画によって離山全体の開鑿が進行した。第二次世界大戦中には完全に突き崩されて、その土で田圃が埋められて海軍の工場地となり、戦後は県営住宅や大船中学校が建てられた(以上の離山事蹟は平成二十一(二〇〇九)年刊の鎌倉市教育委員会編「かまくら子ども風土記」(第十三版)に拠った)。因みに申し上げておくと、この連綿と改稿されている「かまくら子ども風土記」は、その『連綿と改稿されている』点に於いて、非常に資料的価値の高い鎌倉地誌で、旧態然として辛気臭い「鎌倉市史」などとは比べ物にならない程、面白く信頼度も高いものである。それは古くから、地の私の小学校時代の恩師等がそこに関わり、民俗学的な聴き取りも漏らさず記すという、地道な積み重ねによるものであって、凡そアカデミズムの真似できない仕儀なのである。鎌倉研究の座右の一冊は、まずは「かまくら子ども風土記」というのが私の正直な感懐である。――それにしても、この鎌倉の古墳時代の遺跡の『見た目』貧弱さは、明らかに過去の近代の都市開発による文化遺産破壊を『なかったことにする』、さもしい仕儀のように、私には思えてならないのである。

 挿絵について、画中の詞書と歌を活字化しておく。

   *

 道興准后の記にはなれ山と

 いへる山あり誠に續きなる

 尾上もみえ侍らねば

朝まだき

   旅立さとの

      をち方に

 その名もしるき

     離山かな

   *

右端中央及び下部には囲み付きで、

   *

圓覺寺山   臺村

   *

とあり、右から左へ順に囲み付きで以下の村名と寺名が示されている。

   *

コブクロヤ村 今泉村 岩セ村 粟舩村 常樂寺

   *

山の上には、

   *

離山(ハナレヤマ)

   *

とある。]

 

○戸部川 西界を流る〔幅八間より十間に至る〕

[やぶちゃん注:柏尾川の別称。

「八間より十間」十四・五五から十八・一八メートル。]

 

○砂押川 北界を流れ戸部川に合す〔幅二間〕、板橋を架す、砂押橋と呼ぶ〔長二間餘〕此水を引て水田に灌漑す、

[やぶちゃん注:「二間」約三・六四メートル。]

 

○溜井二 一は小名池谷にあり〔濶一段許、元は三所ありしが今は其一をのみ存す、〕一は尼ヶ谷にあり〔濶七畝餘、爰も又三所ありしが、二は埋滅せしと云、〕

[やぶちゃん注:「井」とあるが、所謂、溜め池のことであろう。

「池谷」不詳。識者の御教授を乞う。

「濶」「ひろさ」。

「一段」「いつたん」。一反に同じい。約千平方メートル弱。

「尼ヶ谷」不詳。識者の御教授を乞う。

「七畝」「ななせ」。約六百九十四平方メートル。]

 

○熊野社 村の鎭守なり、束帶の木像を安ず〔座像長八寸許、古は畫像を安ぜしと云うふ、其像は今舊家小三郎の家に預り藏す、〕臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕古は安房國群房庄當社領たりしこと壽永二年の院宣に見えたり〔別當多聞院藏書曰、今熊野領安房國群房庄、令寄進後經年序云々、如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿、伊豫守高階華押、〕、建長二年更に彼地當社領として尼性智所務すべき由又院宣あり〔親熊野社領安房群房庄、任辨氏女讓、可領知之由、可被傳仰尼性智、者院宣如斯依言上如件、爲經恐惶謹言、建長二年十二月二十九日、謹上伊豫守殿、太宰權帥爲經□、按ずるに以上二通は年號、追記せしものなり、〕貞和二年又院宣を下され、社領安堵せしめられしと云〔新熊野社領安房群房庄事、相傳領掌不可有相違者院宣如斯依仰執達如件、貞和二年五月廿四日、亮大僧都御房權大納言華押〕例祭九月廿四日別當は多聞院にて、鶴岡職掌鈴木主馬神職を兼ぬ、

【末社】

△神明 古は字神明下にあり、寛永の頃甘糟右近亮時綱〔舊家小三郎が祖先〕此に移せり。△金毘羅 安永九年地頭長山氏勸請す。

△秋葉 三社權現 稻荷。

○神明宮 多聞院持。

○御嶽社 村民持。

○稻荷社 村持。

[やぶちゃん注:「舊家小三郎」項として本巻の最後に後掲される。「甘糟太郎左衞門尉平長俊」も事蹟はよく判らないが、そちらを参照されたい。

「臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕」「鎌倉市史 資料編第三・第四」の「補遺四〇」に全銘文が載る。

   *

(上部)

奉勸請

 熊野大權現

(下部)

 寛政二戌俊九月吉日

    再興佛工扇谷村

      後藤齋宮

        藤原義眞

(上部)

   天正七己卯四月吉日

(下部)

 甘糟太郎左衞門尉

      平長俊(花押)

   *

これによれば、勧請が「天正七年」(一五七九年)で、再興が「寛政二年」(一七九〇)年ということになる。

「群房庄」「ぐんぼうのしょう」(現代仮名遣)と読む。旧平群(へぐり)郡南部と旧安房郡北部に跨ってあった旧荘園名。中央付近(内房の先の舘山市の北部一帯)と思われる(グーグル・マップ・データ)。さて、「壽永二年」は一一八三年で、後白河法皇の院政期に当たるのであるが、筆者は誤認をしている。「鎌倉市史 社寺編」の「熊野神社」の項で、この庄はこの熊野神社の領ではなく、鶴岡八幡宮の所領であったとあるからである(当該書ではそれを証明する複数の資料(同「資料編」の資料番号)も挙げてある。実はこれらの文書は本来は鶴岡八幡宮宛のものであって、「熊野」はこの神社を指すものではないとする。そして、『これらの文書は恐らく康正』(こうしょう:一四五五年~一四五七年)『以後』、『鶴岡』八幡宮が衰微『したために流出し、熊野の名があるので、ここに奉納されたものであろう』と推理している。さらに言えば、後に記されている通り、この熊野社のかつての神職は鶴岡八幡宮の職掌であった鈴木主馬であるから、或いは、その後も鶴岡との関係が続いていたことから、こちらに、当時、既に古記録の類いとなってただ保管されていた文書の一部が移管保存されてあったものとも考えられるかも知れない。ただ、私は、では、これらの「今(新)熊野」とは、鶴岡八幡宮に付属するところのどの領域或いは何の資格(領)を指すのかが、今一つ、分らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「多聞院」は熊野神社の隣りに建っており、後に出る通り、この神社の別当寺であった。

「如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿」の本書編者の二箇所の判読不能字は「鎌倉市史 資料編第一」で最初の方が「給」後の方が「七」であることが判明している。

「建長二年」一二五〇年。

「任辨氏女讓」誤読。「鎌倉市史 資料編第一」では「辨」は「平」である。

「太宰權帥爲經□」同じソースで、判読不能字は「奉」である。

「貞和二年」一三四六年。

「神明下」不詳。識者の御教授を乞う。

「寛永」一六二四年から一六四五年。ネット情報では移したのは寛永二(一六二五)年である。

「甘糟右近亮時綱」不詳。

「安永九年」一七八〇年。]

2016/12/15

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅱ) 六國見

 

Rokkokken

 

○六國見〔呂久古計武〕 村の巽隅にある山を云〔登八町四十五間〕、山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり、頂上松樹の下に淺間の小祠あり、登臨すれば四望曠濶として豆相武房上下總の六州一瞬の内に入れり由て名とす、且西は富嶽東北は筑波山を遠望し郡中第一の壯觀なり、

[やぶちゃん注:掲げた「六國見眺望圖」は底本(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年~昭和八年雄山閣編輯局編雄山閣刊「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」)のそれが暗いので、時に校合している同コレクションの間宮士信等編になる「新編相模國風土記稿」(明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊。こちらには底本にない挿絵が含まれてもいる)のそれをトリミングし、汚損を清拭して用いた。前者も後者も保護期間満了であり、現在、同コレクションのパブリック・ドメインの画像の使用許可は不要となっている。この図は特殊な作りとなっており、右手前に東方向からの「六國見」山と「勝上見」を描き、全体はそこから南にやや回転した状態の鳥瞰図風のものを、改めて左手に「六國見」山と「勝上見」を再度描いて、眺望を描いているので注意されたい。キャプションはかなり読み易いので、電子化はしないが、「勝上見」は「しやうじやうけん」と読み、建長寺の半僧坊の上のピークで、正しくは「勝上巘」と表記し、現行では「勝上献(しょうじょうけん)」とする。所謂、「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」の東の末端のである(因みにこの「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」という名は虫唾が走るほど、嫌いである)。

「六國見〔呂久古計武〕」「ろくこ(つ)けん」は現在の鎌倉市高野(たかの)にある六国見山(ろっこくけんざん)。海抜百四十七メートル。

「巽隅」「たつみすみ」南東の境。

「八町四十五間」九百五十五メートル弱。

「山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり」私は今から三十九年前、二十歳の頃、ここに登り、未だ全く開発されていなかった現在の高野地区(完全な畑地で、その半分は既に打ち捨てられていた。擦れ違った巨大な竹籠を背負った老農婦から蜜柑を貰ったのを思い出す)に下り、そこから八重葎を潜って進むうち、恐ろしく古びた石段の痕跡を見出し、そこを下ったところが――何と――円覚寺舎利殿の真裏――であった。そっと殿内に入って、晩秋の夕陽の射したそこの静けさに堪能した。誰にも見つからず、門前の柵を潜り、私は藪野家の墓をお参りした上で(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であり、檀家は入場料を払う必要はないのである)を、何気ない風をして円覚寺山門を後にした(言っておくと、当時から既に舎利殿はその門前から先は侵入禁止であった)。]

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)

 

大船村〔於保布奈牟良〕曩昔此地瀕海にして粟を積たる船着岸せし緣故に因り、粟船村と唱へしと傳ふ〔【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々、此等に依て土俗此説を設けしなり、〕。粟船の地名は古書に往々見えたり〔【東鑑】寛元元年の條村民所藏永正十二年の勸進狀【北條役帳】村民所藏天正九年の文書足柄下郡板橋村民藏同十四年の文書等に見ゆ、則下の條に引用す、又【東鑑】建長五年の條【神明鏡】元弘三年の條に靑船とあるも當村を云へるなり、こは全く當時訛稱のまゝを偶記せしなるべし、〕。今の文字に改しは何の頃なりけん、既に正保の改には今の文字に作れり、江戸より行程十二里、小坂郷に屬す、元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻る時、當所を放火せしこと所見あり、〔【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり、〕天正九年八月當村の税錢增加の沙汰あり、當年十月を限り皆濟すべき由を令す〔舊家小三郎文書曰、十三貫八百九十四文、粟船段錢三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先年無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件、辛巳八月十七日、粟船代官百姓中、北條氏虎印、按ずるに御代替と云るに、天正九年氏直家督の時を指るなるべし、〕。此頃當村及び近郷の所々藍瓶錢の課役を出せり。十四年十二月不納せしにより更に催促の沙汰あり〔足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之、虎朱印あり、〕。東西二十町、南北八町許〔東、今泉村、西、小袋谷・岡本二村、南、山之内・臺二村、北、笠間村、〕民戸六十八、小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す〔【役帳】曰、案獨齋、二百六十貫三十四文、東郡粟船郷、〕。今御料及能勢靭負佐〔寶永七年御料の地を、村上主殿・村上壽之助に頒ち賜ひ、文化八年、松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年御料に復し、同六年裂て能勢氏に賜ふ、殘れる地今猶御料所あり、〕蜷川相模守親文〔古は御料所なり、元祿十一年長山彌三郎に賜ひ、文化八年、御料及び肥後守容衆の領地となりしに、文政四年蜷川氏に賜ふ、〕根岸九郎左衞門〔是も御料所なりしを文化十二年、父肥前守鎭衡に賜ふ、〕木原兵三郎〔享保の頃より知行す、是も初は御料所なり、〕等知行す、檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず〔幅二間、〕。

[やぶちゃん注:今回から、一部に句点を配して読み易くすることにした(底本には読点のみで句点はない)。

「大船村」現在の鎌倉市大船の一部。明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行により、大船村・小袋谷村・台村・今泉村・岩瀬村及び山内村が合併、「小坂村」が成立(現在の大船駅はその前年の明治二十一年十一月一日に既に開業している)、昭和八(一九三三)年二月十一日には小坂村が町制施行して「大船町」へ改称(同年四月二日には玉縄村を編入)、戦後の昭和二三(一九四八)年六月一日に鎌倉市へ編入された(ここはウィキの旧「大船町」に拠った)。

現在は、鎌倉市大船地区が該当する。「曩昔」「のうせき」。昔。以前。「曩」は「先に・以前に」の意。

「瀕海」「ひんかい」海に面していること。臨海。

「【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々」書き下すと、「【鎌倉志】に「常樂寺略傳記」を引きて曰く、『』古老、相ひ傳ふ、粟船を以つて村に號することは、山に依〔り〕て名を得たり。此の地、往時(むかし)、海濵たり。以て粟(あは)を載(の)する船を此(ここ)に繋ぐ。一夕、變じて山と化す。今の粟船(あはふね)山、是れなり」。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之三」の「常樂寺」の条を参照されたい。

「此等に依て土俗此説を設けしなり」「風土記稿」の作者がこの地名説に疑義を持っている感が窺える。

「【東鑑】寛元元年の條」「吾妻鏡」の寛元元(一二四三)年六月十五日の条に、

   *

十五日庚申 天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衞幷武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。

○やぶちゃんの書き下し文(〔: 〕は私の注)

十五日庚申(かのえさる) 天、霽(は)る。故前武州禪室〔:北条泰時。〕、周闋(しゆうけつ〔:一周忌。〕)の御佛事、山内粟船(あはふな)御堂〔:後の常楽寺。〕に於いて、之れを修せらる。北條左親衞〔:経時。〕幷びに武衞〔:時頼。〕參じ給ふ。遠江入道〔:朝時。〕、前右馬權頭〔:政村。〕、武藏守〔:朝直。〕以下の人々群集す。曼茶羅供(まんだらぐ)の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口と云々。此の供は、幽儀〔:故人泰時。〕御在生(ぞんしやう)の時、殊に信心を抽(ぬき)んずと云々。

   *

「永正十二年」ユリウス暦一五一六年。

「天正九年」ユリウス暦一五八一年。グレゴリオ暦はこの翌年から。

「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋附近。

「【東鑑】建長五年の條」これは思うに、建長六(一二五四)年の誤りではあるまいか? 同年六月十五日の条に、やはり泰時の忌日の記載があり、「十五日乙酉。霽。今日。迎前武州禪室十三年忌景。被供養彼墳墓靑船御塔」(十五日乙酉(きのととり) 霽る。今日、前武州禪室十三年の忌景(きけい)を迎へ、彼(か)の墳墓、靑船(あをふな)の御塔を供養せらる)とあるからである。

「神明鏡」「しんめいかがみ」と読む。神武天皇から後花園天皇までの年代記で上下二巻。作者未詳。南北朝時代末期(十四世紀後半)の成立かと推測され、永享二(一四三〇)年まで書き継がれているが、史実とは思われない記事がかなりあって、仏教色に富んだ伝承をとり入れている。時代が下るにつれて「保元物語」「平治物語」「平家物語」「太平記」などによった合戦譚の記事が目立つ。

「元弘三年」北朝の正慶二年で一三三三年。鎌倉幕府滅亡は同年五月二十一日(ユリウス暦七月三日でグレゴリオ暦換算では七月十一日相当)。

「正保」一六四五年~一六四八年。江戸幕府第三代将軍徳川家光の治世。

「改」改元の意か。ならば一六四五年。

「十二里」約四十七キロメートル。

「小坂郷」鎌倉郡谷(やつ)七郷(小坂・小林・葉山・津村・村岡・長尾・矢部。但し、異説蟻)の一つ小坂(おさか)郷。山内荘を中心とした鎌倉郡の大部分に当たる広域旧地名。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などと記録が残り、本「相模國風土記稿」では二十八ヶ村が相当すると記されている。現在は「小坂(こさか)」の地名で残る。ここは「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士(さとし)氏作成になる鎌倉郡内の地名紹介ページに拠った。

「【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり」正確には「五月十八日の卯尅に村𦊆・藤澤・靑舩・片瀨・十間酒屋、五十余ケ處に火を懸て敵三方より寄懸けたれば」である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認して訓読した。「村𦊆」は現在の藤沢市の「村岡」、「十間酒屋」はやや離れるが、現在の茅ヶ崎市十間坂の旧称か。

「段錢」「たんせん」と読む。鎌倉から戦国時代にかけて臨時に賦課された税。朝廷や幕府が即位・譲位・大嘗会・内裏造営・将軍宣下・大社造営などの費用に当てるため、臨時に田に対して段(「反(たん)」に同じ面積単位)ごとに賦課したもの。当初は米を徴収したので「段米」と称したが,次第に金銭に変っていった。

「三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先念無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件」上手く訓読出来ない。以下、力技で示すので、誤読は御指摘戴けると嬉しい。

   *

三が二に懸け、當年より進納致すべし辻[やぶちゃん注:不詳。「迚(とて)」の誤字か?]、此の外、三が一、上田(うへだ)の所え之れを遣さる。右、先年、無檢地の郷村、御代替(おんだひがはり)に就きて、當年、改められ候ふと雖も、其れ以來、打ち置てられ、只今、事、六かしき間(あひだ)、段錢の增分を以つて仰せ付けられ候ふ、米穀計(ばか)りは運送の苦勞、存(あ)るべくば、員數、相當次第たり。黃金・永樂・絹布の類、麻・漆等、有り合ひ候ふ物、遠[やぶちゃん注:不詳。「速(すみやかに)」の誤字か?]以つて之れを納むべし。然れば、十月晦日(みそか)、必ず、皆、濟み致すべき所、一札を捧ぐべき旨(むね)、仰せ出ださるものなり。仍つて件(くだん)のごとし。

   *

文中の「三が二」「三が一」は段銭を課す田の段(たん)数の歩合を示すか? 「上田」は後に出る「小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す」という人物のであろう。

「辛巳」「かのとみ」。後の編者の推定注から天正九(一五八一)年。

「北條氏虎印」当時の後北条氏は虎の朱印判(印の上部に突き出して、虎のうずくまる形を形象したもの)を用いた。

「天正九年氏直家督の時を指るなるべし」「指る」は「させる」。後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による小田原攻めで敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。

「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。既に「臺村」の条で見たように、この附近では藍染めを生業或いは副業とする百姓がいた。

「足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之」我流で訓読しておく。

   *

足柄下郡板橋村紺屋(こうや)藤兵衞が文書の寫しに曰く、「粟船云々、右の在所、不入(ふいり)と申し、紺屋役[やぶちゃん注:藍染め業者の元締めか。]、出でず候ふ由、曲事(くせごと)にて、堅く申し付け、取るべし。猶ほも兎角、申し出でず候へば、申し上ぐると云々。丙戌(ひのえいぬ)十二月二十五日、京(きやう)紺屋津田江雲、之れを奉る。

   *

「丙戌」で「虎朱印であるから、天正一四(一五八六)年。

「東西二十町、南北八町」東西約二キロ、南北約八百七十三メートル。現在の大船地区とほぼ同等である。

「上田案獨齋」後北条氏家臣で武蔵国松山城主上田朝直(ともなお 明応三(一四九四)年或いは永正一三(一五一六)年~天正一〇(一五八二)年)と思われる。彼の法名は安独斎宗調である。ウィキの「上田朝直によれば、『出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流』で、『当初は扇谷上杉家に仕えていたが同家が後北条氏に滅ぼされ、伯父・難波田憲重が戦死して松山城を奪われると、憲重の娘婿・太田資正が奪還して松山城に入った。その後、資正が太田氏宗家を継ぐために岩付城に戻ることになると縁戚である朝直に松山城を譲ることになる(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)が、朝直は資正から離反して後北条氏に従った』。『行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという』。天文一九(一五五〇)年頃には既に「安独斎」と号している。永禄二(一五五九)年頃には関東に出兵して来た長尾景虎(上杉謙信)に呼応し、一度、北条氏を離反しているが、永禄四(一五六一)年に『政虎(景虎)が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移され』たが、その後、永禄一二(一五六九)年に『武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の長則に家督を譲って隠居した』とある。

「今御料及」「いま、ごれうにおよぶは」と訓じておく。

「能勢靭負佐」「のせかげゆのすけ」と読むか。江戸後期(文政六(一八二三)年)の現在の戸塚区の田谷の知行者として同名が出る(昭和十六年橫濱市報・橫濱史料データによる)。「神奈川県神社庁」公式サイトの、後掲される大船にある熊野神社由緒のところに『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』とある(下線やぶちゃん)。この人物の末裔であろう(因みに、「肥前守領衛」は「鎮衛」(囊」の江戸町行根岸鎮衛(しずもり。リンク先は私の全千話電子化訳注)の誤りではなかろうか? 後注「根岸九郎左衞門」「父肥後守鎭衡」も参照されたい)。

「寶永七年」一七一〇年。

「村上主殿」「むらかみとのも」と読んでおく。不詳であるが、前の「能勢靭負佐」の注を参照。

「村上壽之助」不詳。村上主殿と併置してあるが、同族であるかどうかは不明。寧ろ、改めて「村上」と姓を記しているのは、寧ろ、無関係な人物であると考えた方が無難であろう。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。夭折。

「文政四年」一八二一年。

「蜷川相模守親文」幕末期の旗本。室町幕府政所執事代蜷川氏の後裔らしい。

「元祿十一年」一六九八年。

「長山彌三郎」現在の戸塚区の公田が、同じ元禄十一年に同姓同名の人物が知行地として与えられている(昭和十六年橫濱市報・橫濱史料データによる)。

「根岸九郎左衞門」不詳。しかし、気になる。何故なら、先に出した根岸鎮衛の通称は九郎左衛門だからである。

「父肥前守鎭衡」不詳。しかしますます気になる。根岸鎮衛は「肥前守」で、しかも「衡」の字は「衞」とあまりに似た字だからである。根岸鎮衛には息子衞肅(もりよし)がおり、彼が家督を継いでいる。嗣子が父と同じ通称を用いることはごく普通のことである。

「木原兵三郎」旗本の木原氏であろう。なお、新井宿村(あらいじゅくむら:現在の東京都大田区山王)は同氏の領地で延宝三(一六七五)年当時、木原兵三郎重弘が統治し、旱魃続きで困窮した農民が彼に年貢減免を訴えるも却下され、江戸幕府へ直訴に向かうが、今一歩のところで木原家中の者に捕えられ、翌年に江戸木原本邸に於いて斬首刑に処せられている。以下の「享保の頃より知行」したというのだから、この人物の後裔ではあろう。以上は彼らの「新井宿義民六人衆墓」があるウィキの「善慶寺大田区の記載に拠った。

「享保」一七一六年~一七三五年.

「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世末期。

「成瀨五左衞門」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。]

 

○高札場三

 

〇小名 △木曾免〔木曾義高、古墳の邊なり、〕 △大明神〔爰に稻荷社を祀る〕 △岡 △御壺ヶ谷 △檜垣 △赤羽根 △堂ノ前 △太子谷 △瀧ノ前 △谷堀 △池ノ谷 △尼ヶ谷 △花摘免

[やぶちゃん注:底本の「大日本地誌大系第四十巻」では「池ノ谷」が落ちているが、「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」を確認し、「△」(底本の添え記号)を補って追加した。

「木曾免」「花摘免」一般に地名に附された「免」は寺社寄進などとして特別に年貢の一部が免除されていた地区を指す。或いは、前者は悲劇の少年武将の特別な墓所の供物として、後者は例えば寺の供花(香華)として一般人の花摘みを禁じた地域ででもあったものか? 或いは、「臺村」の市場で鬻ぐ商品に「紅花」が出ていたことを考えると、この花は「紅花」でったものかも知れぬ。最早、こうした小字は失われ、その由来も知り得なくなりつつあるのは、まことに淋しい限りである。]

2016/09/05

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 小袋谷村

小袋谷村〔古布久呂也牟良〕 小坂郷に屬す、古は巨福禮と書す、【東鑑】仁治二年十二月の條に山内巨福禮と見えしは此地なり〔曰、十二月卅日癸未、前武州渡御于山内巨福禮別居、按ずるに前武州は執權北條泰時なり、別亭の蹟、今村内に傳へず、盖隣村大船村に、その亭跡彷彿たり、〕弘安七年九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕永正十六年四月北條新九郎入道早雲當村を箱根權現に寄附し、幼息菊壽丸の知行に宛行へり〔箱根金剛王院藏文書曰、箱根領所へ菊壽丸知行分、百三十貫文、小ふくろや、しんみやういんに被下、末に永正十六年四月廿八日菊壽丸殿、宗瑞華押、按ずるに、菊壽丸當時箱根別當坊にあり、〕此頃は今の如く小袋谷と唱へしなり、永祿二年に改し【役帳】にも幻菴知行の内に入れり〔曰、幻庵御知行、百二十一貫八十七文、東郡小袋谷、按ずるに、菊壽丸退隱の後、北條幻菴と稱す〕江戸より行程十二里餘、廣三十町袤八町〔東北、大船村、西、山崎村、南、臺村、〕民戸二十五〔外長吏三戸、〕檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、今松前彦之丞知行す〔古は御料所、元祿十一年、松前氏に賜ふ〕戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず〔幅二間〕

[やぶちゃん注:現在の鎌倉市小袋谷(こぶくろや:現行は「ぶ」と濁る)一丁目・二丁目及び大字(あざ)小袋谷として名を残すが(現在の「小袋谷」は鎌倉市台及び大船に挟まれた西北から東南にかけて長辺約一キロ、短辺百五十メートルほどの細長い小地域)、建長寺の山号に「巨福山(こふくさん)」とあり、そこから市街下る坂は「巨福呂坂(こぶくろざか)」であり、その西山上にある旧「巨福呂坂切通」の名からも判る通り、現在よりも遙かに広域を示す地名(これらを包含する山之内庄の内の字)であったことが判る。

「巨福禮」「と書す」とあるので判る通り、これで「こふくろ」と読むつもりらしいが、これでは「ろ」は難しい。「こぶくれ」であろう。他にも鎌倉時代から「小福禮」「巨福呂」「巨福路」或いは、現行に近い「小袋」(坂名)などとこの地域名は多様に表記されていた。地名由来であるが、こちらの「小袋谷あれこれ 小袋谷の地名について」という記事(PDF)によれば、『「コフクロ」のアタマにある「コ」は』美称の『修飾語ですので、「フクロ」の語源を調べてみますと、膨れるという意味の古語「フクル」から派生した語で「フクラ」や「フクレ」と同根だそうです。又「フクレ」が転化し「フクロ」になったとも言われ、さらに池川などの水に囲まれた袋状の地形という意味も持っています。又、中国古代の膨れるという意味の語が変化した漢字の中には、富や福があります。アイヌ語では袋のことをフクルと言うなど似た言葉があります』とある。

「【東鑑】仁治二年十二月の條」仁治二年は西暦一二四一年。以下は抜粋で途中も略されているので、全文を示す。

   *

○原文

卅日癸未。前武州參右幕下。右京兆等法花堂給。又獄囚及乞匃之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

卅日癸未(みづのとみ)。前武州、右幕下・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内巨福禮(こぶくれ)の別居の渡御す。秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

編者が注している通り、「前武州」は北条泰時。「右幕下」は源頼朝。「右京兆」は泰時の父北条義時。「法花堂」は大倉幕府後背の頼朝及び義時のそれぞれの法華堂(当時は石墓ではなくて本格的な御堂であった)。「乞匃」乞食。「三津藤二」三津氏は伊豆出身の豪族姓である。ここに出る「山内巨福禮」の泰時の別宅は私は北條泰時の墓のある現存する鎌倉市大船の常楽寺附近にあったものと考えるし、それは「盖(けだし)隣村大船村に、その亭跡彷彿(はうふつ)たり」というのがそれに相当するものと思う。

「弘安七年」一二八四年。

「九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕」これは「鎌倉市史 資料編第二」の「圓覺寺文書」の「一七 北條氏〔貞時〕公文所奉書(折紙)」である。一部に表記違い或いは誤字・省略があるので、改めて示す。

   *

圓覺寺知事申菜薗事、以正觀寺上畠〔除正觀寺、〕并小福礼中山上散在小畠等、可當寺菜薗之由候也、仍執達如件、

   弘安七年九月九日   業連

               (花押)

              眞性

               (花押)

              賴綱各

               (花押)

  寺奉行御中

   *

自己流に訓読すると、

   *

圓覺寺知事が申す菜薗(さいえん)の事、以つて正觀寺の上畠(うへばた)〔正觀寺は除く。〕并びに小福礼(こぶくれ)の中(うち)の山上に散在せる小畠等(とう)、當寺が菜薗とすべきの由(よし)、候ふなり、仍つて執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。

   *

で、申請許可についての連署役は佐藤業生・諏訪眞性・平賴綱である。ここに出る「正觀寺」というのは「しやうくわんじ(しょうかんじ)」と読む禅寺で(南北朝辺りで廃寺となったと思われ、現存しない)、貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、建武の初め(一三三四年)頃の『作製にかかると思われる円覚寺境内古地図』『(古伽藍図)に総門の両側に続く塀の西側に接して、正観寺と記した屋舎三棟から成る堂宇が見え』、『この寺は古く鎌倉時代かた存在した』とある寺である。

「永正十六年」一五一九年。

「菊壽丸」後に出る通り、北条早雲(伊勢盛時(宗瑞(そうずい))の四男(男子の末子)であった北条長綱(幻庵)(明応二(一四九三)年~天正一七(一五八九)年)のこと。以前にも注したが、ここではより仔細に注することとする。ウィキの「北条幻庵によれば、『箱根権現社別当。金剛王院院主』。『幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した』。『箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる』。ここに記された通り、「箱根神社文書」に、永正一六(一五一九)年四月二十八日、二十六歳の時、父から四千四百貫の所領を与えられたとあり、『この頃の名乗りは菊寿丸である』ともある。大永三(一五二三)年に『兄・氏綱が早雲の遺志』(早雲は永正一六(一五一九)年没)『を継いで箱根権現を再造営している。この時の棟札には』第三十九世『別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える』。『後に近江・三井寺に入寺し、大永四(一五二四)年に出家し、その直後か翌年に箱根権現第四十世別当になったと思われ、天文七(一五三八)年頃まで在職した。別当になった際に長綱、天文五(一五三六)年頃よりは『宗哲と名乗った』。天文一一(一五四二)年五月、甥(兄氏綱三男)の『玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆』(こづくえしゅう:後北条氏の家臣団の一つで南武蔵地域を支配していた組織集団。名は「衆」の中心が武蔵国小机城(武蔵国橘樹郡小机郷。現在の神奈川県横浜市港北区小机町)に拠ったことに由来する)『を指揮下に置くようにな』った。天文一二(一五四三)年からは『「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始め』るが、『これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる』。永禄二(一五五九)年二月『作成の「北条家所領役帳」』によれば、家中最大の五千四百五十七貫八十六文の所領を領有している。これは次に多い松田憲秀(二千七百九十八貫百十文)のほぼ倍に当たり、直臣約三百九十名の所領高の合計六万四千二百五十貫文の一割弱をたった一人で領有していたことになる。『このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ』、天文四(一五三五)年八月の武田信虎(信玄の父)との甲斐山中合戦、同年十月の『上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しており』、永禄四(一五六一)年三月の『曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言』する『など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた』。永禄三(一五六〇)年、『長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物か?)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。しかし程なく氏尭が没し』、永禄一二(一五六九)年には『武田信玄との駿河(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重』、三男長順(ちょうじゅん)らを『相次いで失ったため、同年に氏康の』七男北条三郎(後に上杉謙信の養子となって上杉景虎を名乗った)を『養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した』。永禄一二(一五六九)年』、『越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた』。彼は享年九十七という驚異的な長寿だったことになるが、ただ、『これは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として』、大永三(一五二二)年に『兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる』十五歳未満だった『可能性が極めて高いことを挙げている』(私もこの引用を読みながら強くそう感じた)。『これが事実とすれば享年は』十五年以上『若くなる。一説に文亀元年』(一五〇一年)『生まれという説があ』り、『また、没年に関しても現在では疑問視されて』いるが、孰れにせよ、『当時としては長寿な部類の人物であった』。なお、幻庵の死からたった九ヶ月後の天正一八(一五九〇)年七月、『後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡し』てしまう。『作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道』・『庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている』。『文化人としての幻庵の事跡は数多い』(以下、割愛したが、リンク先には歌会・連歌会などの細かなデータが載る)。『記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から』五代氏直に至るまで、『後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという』。「北条五代記」では『幻庵について「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで』五代『に仕え、武略をもて君をたすけ、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」と評している』とある。

「宛行へり」「あておこなへり」。

「しんみやういん」不詳。「神妙院」或いは「神明」宮か。台にならあるが、小袋谷地区では現認出来ない。

「被下」「下され」。

「永祿二年」一五五九年。

「改し」「あらためし」。

「役帳」以前に注した北条氏康の時代の「北條役帳」、「小田原衆所領役帳」のこと。

「幻菴」「菴」は「庵」に同じい。

「十二里」約四十七キロメートル。日本橋から直線で四十三キロメートルほどであるから、かなり正確な数値である。

「三十町」三キロ二百七十二メートル強。

「袤」「ぼう」と読み、南北の長さの意(因みに東西の長さは「広(くわう(こう))」と呼び、「広袤(こうぼう)」は幅と長さ或いは広さ(面積)の意としてもあった。

「八町」八百七十二メートル。以上からも、この幕末期でさえ、現在の小袋谷よりも遙かに広域であったことが判る。

「長吏」寺務を統轄する僧の他に、穢多又は非人及び非人頭を指す語であるが、ここは前者であろう。

「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「成瀨五左衞門」以前にも出た藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)成瀬五左衛門重治。慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「松前彦之丞」不詳。

「元祿十一年」一六九八年。

「二間」三メートル六十四センチ弱。]

 

○高札場

 

○戸部川 村西を流る〔幅八間、〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔當村・臺・岡本三村の持にて、臺村に詳なり、〕

[やぶちゃん注:「戸部川」既注。柏尾川の別称。

「八間」約十四メートル五十四センチ。]

 

○八幡宮 神職鈴木主馬〔鶴岡の社人にて兼帶す〕

[やぶちゃん注:昭和八(一九二三)年九月十日に現在の小袋谷にある厳島神社(後述される成福寺背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守で次項の「辨天社」のことである)に後に出る吾妻社と一緒に合併されて現存しないが(その前に関東大震災で全壊)、現在の厳島神社の建っている場所が旧八幡宮の跡地である。次の項の注も参照のこと。]

 

○辨天社 村持下同、

[やぶちゃん注:前注で示した通り、実はこれが現在の小袋谷の鎮守である厳島神社である。岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、『かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)』が、『関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された』とあり、『現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった』とある。社名が違うのは明治の悪法神仏分離令によるものである。]

 

○吾妻社

[やぶちゃん注:前注で述べた通り、関東大震災で崩壊後、現在の厳島神社と合併された。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、この『吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという』とある。この公会堂は以前に『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村』述べた「市場公会堂」(より北鎌倉駅に近く、線路の北側直近)は違うので注意されたい。市場公会堂よりも三百六十九メートル大船寄りの横須賀線南側直近にある。]

 

○成福寺 龜甲山法得院と號す、淨土眞宗〔西六條本願寺末、〕貞永元年創建す、本尊彌陀〔長二尺二寸餘源信僧都作、〕を安ぜり、開山は成佛と云ふ〔文永十一年十月八日寂す、寺傳云、成佛は北條泰時の末男にて、始は泰次と稱す、親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時泰次謁して彼宗に歸依し、遂に師資の約をなし、薙髮して名を成佛と改め當所の岩窟に在て、念佛修行の時、明星天子の靈告を感得し、當寺を起立すとなり、今堂後にある龜の窟は、卽成佛幽栖の跡なりと云、〕九世宗全に至り北條氏當宗退却の頃、豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕十一世西休の時慶長十七年舊地なるを以て此地に還住し、當寺を再建すと云ふ、【寺寶】△十字名號一軸〔親鸞筆、〕△聖德太子木像一軀〔親鸞、鎌倉常葉の坊舍にて午刻し、開山成佛に授與の物と云ふ、〕 △六字名號一軸〔蓮如筆、〕此余山崎女〔奥平家の女と云ふ〕の寄附ありし屛風一雙、膳椀〔蒔繪の模樣あり、〕一具を寺寶とす、又表門〔四足門なり、〕も山崎女隱宅の門を移し建しものと云ふ、△支院 西教寺、

[やぶちゃん注:「成福寺」は「じやうふくじ(じょうふくじ)」と読み、現在の鎌倉市小袋谷にある浄土真宗(鎌倉市内で唯一の浄土真宗の寺院である)亀甲山(きっこうさん)法得院成福寺。ここに示された通り、鎌倉幕府第三代執権北条泰時の末男子で天台宗の僧であった北条泰次(?~文永一一(一二七四)年)が貞永元(一二三二)年に創建した天台宗寺院であったが、泰次が親鸞に逢って帰依改宗、法号も「沙門院泰次入道」から「成仏(じやうぶつ(じょうぶつ))」に変え、真宗寺となったものである。

「二尺二寸」六十六センチ六十六ミリ。

「親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時」真宗の公式サイト内にも、親鸞は嘉禄三・安貞元(一二二八)年頃、長い東国布教の途次、鎌倉八幡宮にあった大蔵経を校写するために同宮寺に参籠しているとあり、岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、貞永元(一二三二)年に北条泰時の要請によって鎌倉に入って北条政子十三回忌供養の一切経五千巻の書写の校合に参加したとも伝えるとある。

「彼宗」「彼(か)の(淨土眞)宗」。

「師資」「しし」で、「師と頼むこと・師匠」或いは「師弟」の意。

「薙髮」「ちはつ」。「薙」は「刈る」の意で、髪を剃り仏門に入ること。「剃髪」に同じい。

「當所の岩窟」「龜の窟」(かめのいわや)と呼称するものが今も残る。サイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記で写真が見られる(下部地図リンクで寺の位置も判る)。先に注した小袋谷公会堂と横須賀線を挟んで南北の対称位置にある。

「明星天子」「みやうじやうてんし(みょうじょうてんし)」で、仏教の三光天の一つ。金星を神格化したもの。

「卽」「すなはち」。

「北條氏當宗退却」これは小田原北条氏のことなので注意されたい。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、『鎌倉にも浄土真宗の寺がいくつかあったが、「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として小田原北条氏による迫害を受けたため、武蔵や三浦に移っていったのだという』。『成福寺も例外ではなく、九世の宗全は、焼き討ちにあい、伊豆国の成福寺に逃れたと伝えられている』とある。

「豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕」静岡県伊豆の国市四日町に成福寺として現存する。但し、こちらは現在、真宗大谷派。鎌倉の方は本願寺派である。

「慶長十七年」一六一二年。

「十字名號」「歸命盡十方無碍光如來(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」。天親の「無量壽經優婆提舍願生偈」に基づく。仏壇本尊の「脇掛(わきがけ)」としての九字名号「南無不可思議光如來」(曇鸞の「讚阿彌陀佛偈」に基づく)が知られるが、それと同等に「脇掛」として掛けるものである。

「聖德太子木像一軀」先に引いたサイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記でやはり写真が見られる。

「鎌倉常葉の坊舍」「常葉」は「ときは」で「常盤」鎌倉大仏坂切通を梶原方向へ抜けた右手一帯の地名としか考えられない。調べてみると、真宗系資料(PDF)に、親鸞が鎌倉常盤(鎌倉大仏の北側)に建てられた坊舎に迎えられ、逗留していたという言い伝えがあることが判明した。考えてみると、確かにあの辺り、「一向堂」という地名もある(同リンク先にバス停「一向堂」の写真有り)。

「午刻」「後、(彫)刻し」の意ととっておく。

「六字名號」「南無阿彌陀佛」。「観無量寿経」の「下品下生」の一節。真宗ではこれ自体を「本尊」とすることも多い。

「此余」「このよ」。この他に。

「山崎女〔奥平家の女と云ふ〕」サイト「鎌倉ナビ」の成福寺に、『山門は四足門といって、江戸時代の初めごろからありますが、もとは山崎の館跡にあったものだそうです』『昔、山崎に宗高院という領主が住んでいました。土地の人の話によると奥平一族の女の人ということです』(女の領主の意であることに注意)。『この人がこの寺で教えを受けたとき、屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付してここに建てたのだと伝えられています』とある。この女性、前の「山崎」に出てきた時から、ずーっと気になっている……「隱宅」……どうも気になってならぬ……されば、調べてみると……!!!……『徳川家康の養女(孫)』?!……『キリシタン人脈』?!……「鎌倉、まぼろしの風景」の「194.崇高院様の山門成福寺鎌倉市小袋谷! この方の推理が正しいかどうかは別として、実に面白い! 必読也!!!

「西教寺」貫・川副の「鎌倉廃寺事典」に、『小袋谷、成福寺の支院。成福寺の客仏、虚空蔵菩薩は、西教寺の本尊であったという(住職談)』とあるのが唯一の情報。]

2016/01/13

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景名所一覧の鳥瞰図 / 全挿絵公開終了

 
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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景名所一覧の鳥瞰図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。私のソフトの読み取りサイズの限界を越えているため、斜めにして取り込んだものを水平に直したため、端に三角形の余白が生じているのは御寛恕願いたい。これでも右が一・五センチメートル、左が一センチメートルほど切れているが、辛うじて(「三浦」が少し欠けたが)文字貼り込み箇所は総てカバーしている)。画中上部中央右寄りに、

 

江戸名所図会所載 金澤勝槩一覧之図(かなさはしようかいいちらんのづ)

 

とあって、その左に、

 

能見堂(のうけんたう)

  より

平臨する

 所(ところ)の

   圖

   なり

 

というキャプションがあり、以下右手上から下への順で左方向に、

 

「三浦」

「二子山」

「東照大權現」

「陣屋」

「内川」

「円通寺」

「瀬戸明神」(横書・「瀬」「神」はママ)

「塩ハマ」(「塩濵」で塩田のこと)

「金竜院」

「東ヤ」(旅館「東屋」のこと)

「飛石」

「弁天」(「弁天島」のこと)

「照天櫻」

「上行寺」

「瀬戸橋」(「瀬」はママ)

「君ヶ崎」

「洲崎」

「天然寺」

「三艘浦」

「竜華寺」

「室の木」

「野島渡し」

「平泻」(「泻」はママ)

「村田」(横書)

「ゑほし島」(「烏帽子島」のこと)

「野島」

「町屋村」

「夏島」

「御所谷」(「御所が谷」のこと)

「猿島」

「房州」(遠望)

「鋸山」(遠望)

「金沢文庫旧跡」(「沢」「旧」はママ)

「称名寺」(「称」はママ)

 

と名所が貼り込みになっている。この図は、極めて忠実に「江戸名所圖會」の「卷之二」にある図を写しとっている。私の所持する一九九六年ちくま学芸文庫刊の市古夏次・鈴木健一校訂「新訂 江戸名所図会二」から、図を引いておく。

Em_81

Em82

Em83

Em84

各名勝の仔細は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤案内以降の記事(カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」でそこに戻りながらならば順に読むことが可能)で確認されたい。

 なお、底本でこの下に配されてある、

「稱名寺の圖」は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅰ)

に(但し、これは非常に小さい)、

旅館「金澤千代本の圖」は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 旅館

の記事に追加で貼り込んでおいた。

 以上が、本誌の山本松谷挿絵総てである。これを以って二誌総てのそれを公開し終わった。]

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