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カテゴリー「鎌倉紀行・地誌」の343件の記事

2016/12/16

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山

 

○大船山 村の中央常樂寺後の山を云、此山の北に連なれる小丘を柄杓山と云、其形に因て名とす、

[やぶちゃん注:水戸光圀「新編鎌倉志」(本書が強く依拠している先行書である。時に無批判に引用し、その誤りを遙かに遠く受け継いでもいる)、その「卷之三」に(リンク先は私のオリジナル電子テクスト注。私がこう、しつこく注するのは、さるサイトが、平然と私のこのテクスト本文をコピー・ペーストし、しかも自分が作ったものだと公言し、あろうことか、それらの無断転載を禁じているからである。私はこちらで具体的に対象サイト名を名指しして指弾しているので、是非、お読み戴きたい。なお、未だに当該サイト制作者からは一言の連絡も謝罪も、ない)、後で本書でも挙がる「常樂寺」の条があるが、その附図

 

Jyourakuji

 

に常楽寺本堂北東の後背地に「粟船山」のキャプションを見出せる。そもそもが常楽寺の山号自体が「粟船山(ぞくせんざん)」である。私の所持する「日本地誌大系」本の本図の印刷ブレは底本の挿絵中、最もひどいもので恐縮なのであるが、「粟船山」は辛うじて視認出来る。画像で判読不能の文字の補足しておくと、右手街道の上方には「自是東北岩瀨村今泉村道」、下方には「自是南鎌倉道」とあり、境内奥の池の中には右から左に「無熱池」とある。最早、誰もここ(グーグル・マップの航空写真データ)が「大船山」だとは知るまい。「風土記稿」の本文に従うなら、この図の平泰時墓と姫宮の背後にある上の切れたピーク部分が「柄杓山」(ひしゃくやま)ということになろうか。]

 

○離山〔浪奈禮也麻〕 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間三山並び立り〔高各二十間より三十間許に至る〕中央に在を長山〔形狀を以て名く〕、北方を腰山〔山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、〕南方を地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、〕と名づけ、概して離山と稱す、これ山足連續せざるを以なり〔皆芝山にて樹木を生ぜず、〕、享德四年六月管領成氏追討の時、鎌倉勢山麓に出張して京勢を支へしことあり〔【鎌倉大草紙】曰、六月、成氏爲退治、上總介範忠、京都の御教書御旗賜はり、東海道の御勢を引率し鎌倉へ發向す、鎌倉には木戸・大森・印東・里見等、離山に待懸けて、防ぎ戰ひけれども、打負ける〕文明中准后道興此山を見て和歌を詠ず〔【回國雜記】曰、離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな、〕

[やぶちゃん注:現在、この三つの「離山」は全く存在しない。しかし幸いにして、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(埼玉大学教育学部人文地理学研究室 谷謙二氏作製)になるここ明治末期の三山が崩される前の地図を現地図と対照して見ることが出来る現行の地誌書、例えば昭和四八(一九七三)年刊行の改訂八版「かまくら子ども風土記 中」の叙述では、明らかに、旧「松竹撮影所」前にあった北のピークは「離れ山」の一部とせず、「大船中央病院前」の南西から北へ伸びる丘陵を「離山」としている。しかし、今回、この旧地図を子細に観察するに、私は実は「離山」とはこの旧松竹撮影所前にあった北のピークを含めたものなのではないか、と疑い始めている。何故なら、旧地図を見ると、南端のピークが「地蔵」の頭のように一番高く、三・六メートルと表示し、その北の部分は如何にもなだらかで低いだらだらと胴の「長」い丘陵にしか見えず、その北端に「腰」高に少し高くなったピークが出る。仮に私がここの在の民であったなら、この総体を、わざわざ北一と南二で分断し、しかも「南二」を「三」に分けて「離山」とし、しかも北端のピークに名をつけぬということは到底、考えられない。この全体を「離山」と呼称するのが自然である。ともかくも、そう比定するなら、ここに出る南端の「地蔵山」とは、前掲の「かまくら子ども風土記 中」によって太平洋戦争中に切り崩されて、その土が現在の「大船中学校」一帯の田の埋め立てに用いられたとあり、中央の私が「長山」に比定する部分は、「三菱研究所」(現在の地図上の「三菱電子証明株式会社」)が建設される際にやはり切り崩されて消失したとある。そうして、同比較地図の別次期のそれを見ると、実に昭和二(一九二七)年以降の地図では、「松竹撮影所」(その頃は「競馬場」である)前の北のピークは南部分に先だって早くも完全に消失してしまい、「競馬場」に厩舎か建物が平地に建っていることが判るのである(これ)。「離山」の位置比定については大方の御叱正を俟つものではある。しかし、この私の思いつきを否定される場合、旧「松竹前」のピークに何故、名がつかず、古地誌に記載がないのかを、私が納得出来るように説明して戴くことを要求するものである。寧ろ、名があることが立証され、それが「腰山」でないのであれば、私は潔く引き下がるに吝かではない。

 また、ここでは室町までしか事蹟を遡っていないが、この「離山」は元弘三(一三三三)年の鎌倉新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がここで各方面担当の武将を集めて軍議をした地とも伝承されている。それを書かないのは花がないと私は思う。

 なお、私の小学生時代はここに赤錆びた二基のガス・タンクが少しだけ離れて屹立していた。だから「ガス・タンクの離れ山」と呼んでいたし、幼少なればこそ私は、『「山」がないのに「離れ山」というのは、きっと、あの二つの離れたガス・タンクを「離れ山」と見立てて呼んでいるんだ』と真面目に思い込んでいたことをここに告白しておこう……もう、そのガス・タンクも、影も形も、ない……遠き日の思い出に――

「八町」約八百七十三メートル。

「二十間より三十間」約三十七~五十四メートル。

「在を」「あるを」。

「洞井」「ほらゐ」と訓じておく。

「徑三尺」直径約九十一センチメートル。

「隧」「すい」。隧道。トンネル。

「景時が宅蹟は、此地にあらず」一般に伝承されるものは、方向違いの浄明寺の五大堂明王院の北山麓である。「新編鎌倉志」の「卷之三」に以下のように出る。

   *

○離山 離山(はなれやま)は山の内より西へ行けば市場村(いちばむら)也。村の出口に道二條あり。北は戸塚道、西は玉繩道。戸塚道の東に芝山あり。是を離山と云ふ。里老の云く、梶原平三景時が古城(ふるしろ)と。梶原が舊宅は、五大堂の北にあり。鶴が岡一の鳥居より、此の地まで、三十三町あり。

   *

「地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺」(三~一・八メートル:注意されたいが、これは塚の高さである。)「に至る、來由を傳へず、〕」現在、この地蔵像一体は「離山富士見地蔵尊」と称して、大船中学校の北西、鎌倉第三郵便局の道の反対の東方道路脇に祀られてある。

「享德四年」一四五五年。

「管領成氏追討」享徳の乱(享徳三年十二月から文明一四(一四八三)年まで三十年近く続いた室町時代の関東地方に於ける内乱)の初戦。享徳三年十二月二十七日に第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方(第八代将軍足利義政)、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(後に古河公方)方が三つ巴で争い、戦乱は関東一円に拡大、関東の戦国化の遠因となった(ここはウィキの「享徳の乱を参照した)。

「鎌倉大草紙」「かまくらおほぞうし」と読む。室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。ウィキの「鎌倉大草紙」によれば、康暦二/天授六(一三八〇)年より文明一一(一四七九)年)までの百年間の歴史を記しており、「太平記」を継承する、という意から「太平後記」の別称がある。全三巻。『戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の』一までは『全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の』二には『みられないことから、上巻から下巻の』一までと、下巻の二以降では『作者が異なる可能性も指摘されている』。『上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている』とある。

「成氏爲退治」「成氏退治の爲め」。漢文脈としては語順がおかしいが、成氏は目的語であって主語ではない。

「上總介範忠」守護大名で駿河今川氏の第五代当主今川憲忠(応永一五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。ウィキの「今川憲忠」より引く。第四代『当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった』。永享五(一四三三)年に『父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた』第六代『将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している』。『これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された』。康正元(一四五五)年には第八代『将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)』。寛正元(一四六〇)年『正月に駿河に帰国、翌年』三月二十日に『子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)』したとある。

「木戸」鎌倉府奉行衆の宿老の家系。

「大森」大森憲頼か。

「印東」印東下野守であろう。ウィキの「印東氏によれば、彼は『足利成氏から下野国天命を与えられ、守護職・小山持政を助けるよう命じられている』とあり、彼は永享一〇(一四三八)年の永享の乱に於いて、足利持氏とともに自害した鎌倉御所奉行の一人、印東伊豆守常貞の子か、ともある。

「里見」安房国の戦国大名里見氏の初代となったとされる里見義実(応永一九(一四一二)年~長享二(一四八八)年)か。但し、ウィキの「里見義実」によれば、彼は『近年では架空説、里見氏庶流出身説がある。子は里見成義・中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通・実堯兄弟が義実の実子であると考えられている』。言わずもがなであるが、『里見義実の安房入国伝説を基にして、江戸時代に曲亭馬琴によって書かれたのが』、かの「南総里見八犬伝」である。

「文明」一四六九年から一四八六年まで。室町末期。幕府将軍は第八代足利義政・足利義尚。

「准后道興」関白近衛房嗣の子で、幼少の頃から出家して聖護院門跡となった道興准后(どうこうじゅごう 永享二(一四三〇)年~大永七(一五二七)年)のこと。後に大僧正に任ぜられて准后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下であっても皇族同等の待遇を受ける公家に於ける位階の頂点の一つ。女性の尊位のように思われがちであるが、性別は問わない)となった。彼は文明十八(一四八六)年六月から翌年までの凡そ十箇月間、聖護院末寺掌握を目的として東国へ向かい、若狭国から越前・加賀・能登・越中・越後の各国を経て、本州を横断、下総・上総・安房・相模を廻って、文明十九年五月には武蔵から甲斐から奥州松島まで精力的に廻国した。後にその紀行を「𢌞國雜記」(本文の「回國雜記」のこと)として残した。

「離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな」「𢌞國雜記」の相模國パート内に、

   *

はなれ山といへる山あり。誠に續きなる尾上(おのへ)もみえ侍らねば、

  朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな

   *

と出る。

 

 最後に。

 幕末の文政十二(一八二九)年に八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長であった植田孟縉(うえだもうしん)の著わした「鎌倉攬勝考卷之一」の「山川」部に出る「離山」の本文と図を引く。かなりしっかりと書かれているからである。リンク先はやはり私の電子化注である。図は数少ない応時を偲ばせるものであるが、団子のように固まっており「離れ山」に見えないのが遺憾ではある。しかし、先の道興准后の歌も添えられており、古えの田を渡る風を嗅ぐことは出来る(今回は読みやすくするために、一部に私が読みを歴史的仮名遣で附した。《 》は私が挿入した小見出しである)。

   *

 

Hanare

 

離(はなれ)山 山の内を西へ行(ゆき)て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄(きたより)に當(あたり)て獨立する童山、凡(およそ)高さ三丈許(ばかり[やぶちゃん注:約九メートル。])、東西へ長き三十間餘、實(げ)にはなれ出(いで)たる山ゆへ名附(なづけ)、往來より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]を隔つ。《成氏追討古戰場》享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承(うけたまはり)て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取(ぢんどり)て駿州勢を待(まち)かけ防ぎ戰(たたかひ)けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍(よつ)て成氏朝臣新手(あらて)二百餘差向(さしむけ)たれど敵雲霞(うんか)の如く押來(おしきた)れば終(つひ)に打負(おしまけ)、成氏朝臣を初(はじめ)とし、皆武州府中をさして落行(おちゆく)と、【大草紙】に見へたるは此(この)時なり。夫(それ)より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋(みんをく)に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖(さて)此(この)離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘(こううん)のさまたげあれとも鍬鋤(くはすき)などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚(おほつか)有(ある)事を聞(きく)。されば、此山こそは上古の世の塋域(えいいき)に封築(ふうちく)せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する所はいつくにも有(あり)て、大ひなる塚の有ものなり。《上古の車塚(くるまづか)の説》爰(ここ)の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其(その)製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造(しもつけのくになすぐんくにのみやつこ[やぶちゃん注:現在の栃木県東北部の広域を支配した。])の古碑ある湯津上村(ゆづかみむら[やぶちゃん注:現在は大田原市の内。])に、今も古塚の大ひなる數多(あまた)あり。二級(きふ)に築(きづ)しもの多し。此所の山も夫(それ)に形相(けいさう)同じ、是(これ)は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒(らち)をゆひ、一階低き所にて祭奠(さいてん)を行ふやうに造れるものなりといふ。偖(さて)また此(この)塚山は何人(なんぴと)の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有(あり)て、國分寺の舊礎も田圃の間に双(なら)び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有(ある)べし。《丸子連多麻呂(まるこのむらじおほまろ)先祖の塚》是(これ)なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其(その)慥(たしか)成(なる)證跡はしらねど、後の考へにしるせり。

   *

 以下、上記の語句に簡単に注しておく(私のリンク先の古いものを抜粋・改稿した)

・「童山」は「小山」のことであろう。或いはまた、「わらはやま」と読むと、「はなれやま」と発音がやや似ており、その古称の可能性もあるかも知れぬ。

・「塋域に封築せし塚」墳墓に土を高く盛り上げて祭った祭壇(古墳)の意。

・「下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村」この碑は那須国造碑(なすのくにみやつこのひ)のことで、日本三古碑(田胡郡碑・多賀城碑・那須国造碑)の一つ。現在は栃木県大田原市湯津上の笠石神社の御神体として祀られている。碑身と笠石は花崗岩で、一五二字の碑文が刻まれ、持統天皇三(六八九)年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事蹟を息子の意志麻呂らが顕彰するために文武天皇四(七〇〇)年に建立された旨、記されている。延宝四(一六七六)年に僧侶円順によって発見され、その報を受けた領主徳川光圀が笠石神社を創建、碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提及び意志麻呂父子の墓と推定した前方後円墳上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣佐々宗淳(さっさむねきよ:ご存じ「水戸黄門」の「助さん」のモデルとされる人物)に命じている(以上は主にウィキの「那須国造碑」に拠った)。

・「二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。」こうした古形の古墳は二段に築いたものが多く、この離山が一段低い部分を持つ二段構造になっている点で同じだ、という意。これは前方後円墳のことで、「車塚」はその俗称。貴人が乗った牛車に見立てた謂いであろう。

・「早川今泉」の「早川」は、現在、相模国府若しくは高座郡衙が比定候補とされる綾瀬市早川字新堀淵を、「今泉」は高座郡海老名町上今泉、現在の海老名市上今泉のことか。

・「丸子連多麻呂」「万葉集」に防人として歌を残した相模国鎌倉郡出身の武士(もののふ)。丸子氏は古代日本の氏族の一つで紀伊国・信濃国・相模国などに点在する。大伴氏の支族とされる。

 なお、ここに記された「離山」前方後円墳説は植田のオリジナルな入れ込んだ記載で、極めて興味深い。添えられた離山の図も前方後円墳にしか見えない。ところが、この離山古墳説は現在、「鎌倉市史 考古編」やその他の鎌倉関連資料を披見しても、全くと言っていいほど登場しない。先に出た六国見山山頂部についても、かつては古墳説が囁かれ、古墳型をした山が、小袋谷の亀甲山、笛田の亀の子山と複数存在した。ところが(以下、先に私が既に述べた部分とダブるが、敢えて私の旧稿をそのまま示す)、この離山は大正初期にセメント用泥岩の採取のために北側の腰山部分が崩され、昭和初期には大船地区の田圃を埋め立てて都市化する計画によって離山全体の開鑿が進行した。第二次世界大戦中には完全に突き崩されて、その土で田圃が埋められて海軍の工場地となり、戦後は県営住宅や大船中学校が建てられた(以上の離山事蹟は平成二十一(二〇〇九)年刊の鎌倉市教育委員会編「かまくら子ども風土記」(第十三版)に拠った)。因みに申し上げておくと、この連綿と改稿されている「かまくら子ども風土記」は、その『連綿と改稿されている』点に於いて、非常に資料的価値の高い鎌倉地誌で、旧態然として辛気臭い「鎌倉市史」などとは比べ物にならない程、面白く信頼度も高いものである。それは古くから、地の私の小学校時代の恩師等がそこに関わり、民俗学的な聴き取りも漏らさず記すという、地道な積み重ねによるものであって、凡そアカデミズムの真似できない仕儀なのである。鎌倉研究の座右の一冊は、まずは「かまくら子ども風土記」というのが私の正直な感懐である。――それにしても、この鎌倉の古墳時代の遺跡の『見た目』貧弱さは、明らかに過去の近代の都市開発による文化遺産破壊を『なかったことにする』、さもしい仕儀のように、私には思えてならないのである。

 挿絵について、画中の詞書と歌を活字化しておく。

   *

 道興准后の記にはなれ山と

 いへる山あり誠に續きなる

 尾上もみえ侍らねば

朝まだき

   旅立さとの

      をち方に

 その名もしるき

     離山かな

   *

右端中央及び下部には囲み付きで、

   *

圓覺寺山   臺村

   *

とあり、右から左へ順に囲み付きで以下の村名と寺名が示されている。

   *

コブクロヤ村 今泉村 岩セ村 粟舩村 常樂寺

   *

山の上には、

   *

離山(ハナレヤマ)

   *

とある。]

2016/12/15

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅱ) 六國見

 

Rokkokken

 

○六國見〔呂久古計武〕 村の巽隅にある山を云〔登八町四十五間〕、山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり、頂上松樹の下に淺間の小祠あり、登臨すれば四望曠濶として豆相武房上下總の六州一瞬の内に入れり由て名とす、且西は富嶽東北は筑波山を遠望し郡中第一の壯觀なり、

[やぶちゃん注:掲げた「六國見眺望圖」は底本(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年~昭和八年雄山閣編輯局編雄山閣刊「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」)のそれが暗いので、時に校合している同コレクションの間宮士信等編になる「新編相模國風土記稿」(明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊。こちらには底本にない挿絵が含まれてもいる)のそれをトリミングし、汚損を清拭して用いた。前者も後者も保護期間満了であり、現在、同コレクションのパブリック・ドメインの画像の使用許可は不要となっている。この図は特殊な作りとなっており、右手前に東方向からの「六國見」山と「勝上見」を描き、全体はそこから南にやや回転した状態の鳥瞰図風のものを、改めて左手に「六國見」山と「勝上見」を再度描いて、眺望を描いているので注意されたい。キャプションはかなり読み易いので、電子化はしないが、「勝上見」は「しやうじやうけん」と読み、建長寺の半僧坊の上のピークで、正しくは「勝上巘」と表記し、現行では「勝上献(しょうじょうけん)」とする。所謂、「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」の東の末端のである(因みにこの「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」という名は虫唾が走るほど、嫌いである)。

「六國見〔呂久古計武〕」「ろくこ(つ)けん」は現在の鎌倉市高野(たかの)にある六国見山(ろっこくけんざん)。海抜百四十七メートル。

「巽隅」「たつみすみ」南東の境。

「八町四十五間」九百五十五メートル弱。

「山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり」私は今から三十九年前、二十歳の頃、ここに登り、未だ全く開発されていなかった現在の高野地区(完全な畑地で、その半分は既に打ち捨てられていた。擦れ違った巨大な竹籠を背負った老農婦から蜜柑を貰ったのを思い出す)に下り、そこから八重葎を潜って進むうち、恐ろしく古びた石段の痕跡を見出し、そこを下ったところが――何と――円覚寺舎利殿の真裏――であった。そっと殿内に入って、晩秋の夕陽の射したそこの静けさに堪能した。誰にも見つからず、門前の柵を潜り、私は藪野家の墓をお参りした上で(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であり、檀家は入場料を払う必要はないのである)を、何気ない風をして円覚寺山門を後にした(言っておくと、当時から既に舎利殿はその門前から先は侵入禁止であった)。]

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)

 

大船村〔於保布奈牟良〕曩昔此地瀕海にして粟を積たる船着岸せし緣故に因り、粟船村と唱へしと傳ふ〔【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々、此等に依て土俗此説を設けしなり、〕。粟船の地名は古書に往々見えたり〔【東鑑】寛元元年の條村民所藏永正十二年の勸進狀【北條役帳】村民所藏天正九年の文書足柄下郡板橋村民藏同十四年の文書等に見ゆ、則下の條に引用す、又【東鑑】建長五年の條【神明鏡】元弘三年の條に靑船とあるも當村を云へるなり、こは全く當時訛稱のまゝを偶記せしなるべし、〕。今の文字に改しは何の頃なりけん、既に正保の改には今の文字に作れり、江戸より行程十二里、小坂郷に屬す、元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻る時、當所を放火せしこと所見あり、〔【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり、〕天正九年八月當村の税錢增加の沙汰あり、當年十月を限り皆濟すべき由を令す〔舊家小三郎文書曰、十三貫八百九十四文、粟船段錢三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先年無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件、辛巳八月十七日、粟船代官百姓中、北條氏虎印、按ずるに御代替と云るに、天正九年氏直家督の時を指るなるべし、〕。此頃當村及び近郷の所々藍瓶錢の課役を出せり。十四年十二月不納せしにより更に催促の沙汰あり〔足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之、虎朱印あり、〕。東西二十町、南北八町許〔東、今泉村、西、小袋谷・岡本二村、南、山之内・臺二村、北、笠間村、〕民戸六十八、小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す〔【役帳】曰、案獨齋、二百六十貫三十四文、東郡粟船郷、〕。今御料及能勢靭負佐〔寶永七年御料の地を、村上主殿・村上壽之助に頒ち賜ひ、文化八年、松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年御料に復し、同六年裂て能勢氏に賜ふ、殘れる地今猶御料所あり、〕蜷川相模守親文〔古は御料所なり、元祿十一年長山彌三郎に賜ひ、文化八年、御料及び肥後守容衆の領地となりしに、文政四年蜷川氏に賜ふ、〕根岸九郎左衞門〔是も御料所なりしを文化十二年、父肥前守鎭衡に賜ふ、〕木原兵三郎〔享保の頃より知行す、是も初は御料所なり、〕等知行す、檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず〔幅二間、〕。

[やぶちゃん注:今回から、一部に句点を配して読み易くすることにした(底本には読点のみで句点はない)。

「大船村」現在の鎌倉市大船の一部。明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行により、大船村・小袋谷村・台村・今泉村・岩瀬村及び山内村が合併、「小坂村」が成立(現在の大船駅はその前年の明治二十一年十一月一日に既に開業している)、昭和八(一九三三)年二月十一日には小坂村が町制施行して「大船町」へ改称(同年四月二日には玉縄村を編入)、戦後の昭和二三(一九四八)年六月一日に鎌倉市へ編入された(ここはウィキの旧「大船町」に拠った)。

現在は、鎌倉市大船地区が該当する。「曩昔」「のうせき」。昔。以前。「曩」は「先に・以前に」の意。

「瀕海」「ひんかい」海に面していること。臨海。

「【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々」書き下すと、「【鎌倉志】に「常樂寺略傳記」を引きて曰く、『』古老、相ひ傳ふ、粟船を以つて村に號することは、山に依〔り〕て名を得たり。此の地、往時(むかし)、海濵たり。以て粟(あは)を載(の)する船を此(ここ)に繋ぐ。一夕、變じて山と化す。今の粟船(あはふね)山、是れなり」。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之三」の「常樂寺」の条を参照されたい。

「此等に依て土俗此説を設けしなり」「風土記稿」の作者がこの地名説に疑義を持っている感が窺える。

「【東鑑】寛元元年の條」「吾妻鏡」の寛元元(一二四三)年六月十五日の条に、

   *

十五日庚申 天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衞幷武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。

○やぶちゃんの書き下し文(〔: 〕は私の注)

十五日庚申(かのえさる) 天、霽(は)る。故前武州禪室〔:北条泰時。〕、周闋(しゆうけつ〔:一周忌。〕)の御佛事、山内粟船(あはふな)御堂〔:後の常楽寺。〕に於いて、之れを修せらる。北條左親衞〔:経時。〕幷びに武衞〔:時頼。〕參じ給ふ。遠江入道〔:朝時。〕、前右馬權頭〔:政村。〕、武藏守〔:朝直。〕以下の人々群集す。曼茶羅供(まんだらぐ)の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口と云々。此の供は、幽儀〔:故人泰時。〕御在生(ぞんしやう)の時、殊に信心を抽(ぬき)んずと云々。

   *

「永正十二年」ユリウス暦一五一六年。

「天正九年」ユリウス暦一五八一年。グレゴリオ暦はこの翌年から。

「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋附近。

「【東鑑】建長五年の條」これは思うに、建長六(一二五四)年の誤りではあるまいか? 同年六月十五日の条に、やはり泰時の忌日の記載があり、「十五日乙酉。霽。今日。迎前武州禪室十三年忌景。被供養彼墳墓靑船御塔」(十五日乙酉(きのととり) 霽る。今日、前武州禪室十三年の忌景(きけい)を迎へ、彼(か)の墳墓、靑船(あをふな)の御塔を供養せらる)とあるからである。

「神明鏡」「しんめいかがみ」と読む。神武天皇から後花園天皇までの年代記で上下二巻。作者未詳。南北朝時代末期(十四世紀後半)の成立かと推測され、永享二(一四三〇)年まで書き継がれているが、史実とは思われない記事がかなりあって、仏教色に富んだ伝承をとり入れている。時代が下るにつれて「保元物語」「平治物語」「平家物語」「太平記」などによった合戦譚の記事が目立つ。

「元弘三年」北朝の正慶二年で一三三三年。鎌倉幕府滅亡は同年五月二十一日(ユリウス暦七月三日でグレゴリオ暦換算では七月十一日相当)。

「正保」一六四五年~一六四八年。江戸幕府第三代将軍徳川家光の治世。

「改」改元の意か。ならば一六四五年。

「十二里」約四十七キロメートル。

「小坂郷」鎌倉郡谷(やつ)七郷(小坂・小林・葉山・津村・村岡・長尾・矢部。但し、異説蟻)の一つ小坂(おさか)郷。山内荘を中心とした鎌倉郡の大部分に当たる広域旧地名。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などと記録が残り、本「相模國風土記稿」では二十八ヶ村が相当すると記されている。現在は「小坂(こさか)」の地名で残る。ここは「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士(さとし)氏作成になる鎌倉郡内の地名紹介ページに拠った。

「【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり」正確には「五月十八日の卯尅に村𦊆・藤澤・靑舩・片瀨・十間酒屋、五十余ケ處に火を懸て敵三方より寄懸けたれば」である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認して訓読した。「村𦊆」は現在の藤沢市の「村岡」、「十間酒屋」はやや離れるが、現在の茅ヶ崎市十間坂の旧称か。

「段錢」「たんせん」と読む。鎌倉から戦国時代にかけて臨時に賦課された税。朝廷や幕府が即位・譲位・大嘗会・内裏造営・将軍宣下・大社造営などの費用に当てるため、臨時に田に対して段(「反(たん)」に同じ面積単位)ごとに賦課したもの。当初は米を徴収したので「段米」と称したが,次第に金銭に変っていった。

「三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先念無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件」上手く訓読出来ない。以下、力技で示すので、誤読は御指摘戴けると嬉しい。

   *

三が二に懸け、當年より進納致すべし辻[やぶちゃん注:不詳。「迚(とて)」の誤字か?]、此の外、三が一、上田(うへだ)の所え之れを遣さる。右、先年、無檢地の郷村、御代替(おんだひがはり)に就きて、當年、改められ候ふと雖も、其れ以來、打ち置てられ、只今、事、六かしき間(あひだ)、段錢の增分を以つて仰せ付けられ候ふ、米穀計(ばか)りは運送の苦勞、存(あ)るべくば、員數、相當次第たり。黃金・永樂・絹布の類、麻・漆等、有り合ひ候ふ物、遠[やぶちゃん注:不詳。「速(すみやかに)」の誤字か?]以つて之れを納むべし。然れば、十月晦日(みそか)、必ず、皆、濟み致すべき所、一札を捧ぐべき旨(むね)、仰せ出ださるものなり。仍つて件(くだん)のごとし。

   *

文中の「三が二」「三が一」は段銭を課す田の段(たん)数の歩合を示すか? 「上田」は後に出る「小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す」という人物のであろう。

「辛巳」「かのとみ」。後の編者の推定注から天正九(一五八一)年。

「北條氏虎印」当時の後北条氏は虎の朱印判(印の上部に突き出して、虎のうずくまる形を形象したもの)を用いた。

「天正九年氏直家督の時を指るなるべし」「指る」は「させる」。後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による小田原攻めで敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。

「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。既に「臺村」の条で見たように、この附近では藍染めを生業或いは副業とする百姓がいた。

「足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之」我流で訓読しておく。

   *

足柄下郡板橋村紺屋(こうや)藤兵衞が文書の寫しに曰く、「粟船云々、右の在所、不入(ふいり)と申し、紺屋役[やぶちゃん注:藍染め業者の元締めか。]、出でず候ふ由、曲事(くせごと)にて、堅く申し付け、取るべし。猶ほも兎角、申し出でず候へば、申し上ぐると云々。丙戌(ひのえいぬ)十二月二十五日、京(きやう)紺屋津田江雲、之れを奉る。

   *

「丙戌」で「虎朱印であるから、天正一四(一五八六)年。

「東西二十町、南北八町」東西約二キロ、南北約八百七十三メートル。現在の大船地区とほぼ同等である。

「上田案獨齋」後北条氏家臣で武蔵国松山城主上田朝直(ともなお 明応三(一四九四)年或いは永正一三(一五一六)年~天正一〇(一五八二)年)と思われる。彼の法名は安独斎宗調である。ウィキの「上田朝直によれば、『出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流』で、『当初は扇谷上杉家に仕えていたが同家が後北条氏に滅ぼされ、伯父・難波田憲重が戦死して松山城を奪われると、憲重の娘婿・太田資正が奪還して松山城に入った。その後、資正が太田氏宗家を継ぐために岩付城に戻ることになると縁戚である朝直に松山城を譲ることになる(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)が、朝直は資正から離反して後北条氏に従った』。『行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという』。天文一九(一五五〇)年頃には既に「安独斎」と号している。永禄二(一五五九)年頃には関東に出兵して来た長尾景虎(上杉謙信)に呼応し、一度、北条氏を離反しているが、永禄四(一五六一)年に『政虎(景虎)が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移され』たが、その後、永禄一二(一五六九)年に『武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の長則に家督を譲って隠居した』とある。

「今御料及」「いま、ごれうにおよぶは」と訓じておく。

「能勢靭負佐」「のせかげゆのすけ」と読むか。江戸後期(文政六(一八二三)年)の現在の戸塚区の田谷の知行者として同名が出る(昭和十六年橫濱市報・橫濱史料データによる)。「神奈川県神社庁」公式サイトの、後掲される大船にある熊野神社由緒のところに『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』とある(下線やぶちゃん)。この人物の末裔であろう(因みに、「肥前守領衛」は「鎮衛」(囊」の江戸町行根岸鎮衛(しずもり。リンク先は私の全千話電子化訳注)の誤りではなかろうか? 後注「根岸九郎左衞門」「父肥後守鎭衡」も参照されたい)。

「寶永七年」一七一〇年。

「村上主殿」「むらかみとのも」と読んでおく。不詳であるが、前の「能勢靭負佐」の注を参照。

「村上壽之助」不詳。村上主殿と併置してあるが、同族であるかどうかは不明。寧ろ、改めて「村上」と姓を記しているのは、寧ろ、無関係な人物であると考えた方が無難であろう。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。夭折。

「文政四年」一八二一年。

「蜷川相模守親文」幕末期の旗本。室町幕府政所執事代蜷川氏の後裔らしい。

「元祿十一年」一六九八年。

「長山彌三郎」現在の戸塚区の公田が、同じ元禄十一年に同姓同名の人物が知行地として与えられている(昭和十六年橫濱市報・橫濱史料データによる)。

「根岸九郎左衞門」不詳。しかし、気になる。何故なら、先に出した根岸鎮衛の通称は九郎左衛門だからである。

「父肥前守鎭衡」不詳。しかしますます気になる。根岸鎮衛は「肥前守」で、しかも「衡」の字は「衞」とあまりに似た字だからである。根岸鎮衛には息子衞肅(もりよし)がおり、彼が家督を継いでいる。嗣子が父と同じ通称を用いることはごく普通のことである。

「木原兵三郎」旗本の木原氏であろう。なお、新井宿村(あらいじゅくむら:現在の東京都大田区山王)は同氏の領地で延宝三(一六七五)年当時、木原兵三郎重弘が統治し、旱魃続きで困窮した農民が彼に年貢減免を訴えるも却下され、江戸幕府へ直訴に向かうが、今一歩のところで木原家中の者に捕えられ、翌年に江戸木原本邸に於いて斬首刑に処せられている。以下の「享保の頃より知行」したというのだから、この人物の後裔ではあろう。以上は彼らの「新井宿義民六人衆墓」があるウィキの「善慶寺大田区の記載に拠った。

「享保」一七一六年~一七三五年.

「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世末期。

「成瀨五左衞門」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。]

 

○高札場三

 

〇小名 △木曾免〔木曾義高、古墳の邊なり、〕 △大明神〔爰に稻荷社を祀る〕 △岡 △御壺ヶ谷 △檜垣 △赤羽根 △堂ノ前 △太子谷 △瀧ノ前 △谷堀 △池ノ谷 △尼ヶ谷 △花摘免

[やぶちゃん注:底本の「大日本地誌大系第四十巻」では「池ノ谷」が落ちているが、「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」を確認し、「△」(底本の添え記号)を補って追加した。

「木曾免」「花摘免」一般に地名に附された「免」は寺社寄進などとして特別に年貢の一部が免除されていた地区を指す。或いは、前者は悲劇の少年武将の特別な墓所の供物として、後者は例えば寺の供花(香華)として一般人の花摘みを禁じた地域ででもあったものか? 或いは、「臺村」の市場で鬻ぐ商品に「紅花」が出ていたことを考えると、この花は「紅花」でったものかも知れぬ。最早、こうした小字は失われ、その由来も知り得なくなりつつあるのは、まことに淋しい限りである。]

2016/09/05

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 小袋谷村

小袋谷村〔古布久呂也牟良〕 小坂郷に屬す、古は巨福禮と書す、【東鑑】仁治二年十二月の條に山内巨福禮と見えしは此地なり〔曰、十二月卅日癸未、前武州渡御于山内巨福禮別居、按ずるに前武州は執權北條泰時なり、別亭の蹟、今村内に傳へず、盖隣村大船村に、その亭跡彷彿たり、〕弘安七年九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕永正十六年四月北條新九郎入道早雲當村を箱根權現に寄附し、幼息菊壽丸の知行に宛行へり〔箱根金剛王院藏文書曰、箱根領所へ菊壽丸知行分、百三十貫文、小ふくろや、しんみやういんに被下、末に永正十六年四月廿八日菊壽丸殿、宗瑞華押、按ずるに、菊壽丸當時箱根別當坊にあり、〕此頃は今の如く小袋谷と唱へしなり、永祿二年に改し【役帳】にも幻菴知行の内に入れり〔曰、幻庵御知行、百二十一貫八十七文、東郡小袋谷、按ずるに、菊壽丸退隱の後、北條幻菴と稱す〕江戸より行程十二里餘、廣三十町袤八町〔東北、大船村、西、山崎村、南、臺村、〕民戸二十五〔外長吏三戸、〕檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、今松前彦之丞知行す〔古は御料所、元祿十一年、松前氏に賜ふ〕戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず〔幅二間〕

[やぶちゃん注:現在の鎌倉市小袋谷(こぶくろや:現行は「ぶ」と濁る)一丁目・二丁目及び大字(あざ)小袋谷として名を残すが(現在の「小袋谷」は鎌倉市台及び大船に挟まれた西北から東南にかけて長辺約一キロ、短辺百五十メートルほどの細長い小地域)、建長寺の山号に「巨福山(こふくさん)」とあり、そこから市街下る坂は「巨福呂坂(こぶくろざか)」であり、その西山上にある旧「巨福呂坂切通」の名からも判る通り、現在よりも遙かに広域を示す地名(これらを包含する山之内庄の内の字)であったことが判る。

「巨福禮」「と書す」とあるので判る通り、これで「こふくろ」と読むつもりらしいが、これでは「ろ」は難しい。「こぶくれ」であろう。他にも鎌倉時代から「小福禮」「巨福呂」「巨福路」或いは、現行に近い「小袋」(坂名)などとこの地域名は多様に表記されていた。地名由来であるが、こちらの「小袋谷あれこれ 小袋谷の地名について」という記事(PDF)によれば、『「コフクロ」のアタマにある「コ」は』美称の『修飾語ですので、「フクロ」の語源を調べてみますと、膨れるという意味の古語「フクル」から派生した語で「フクラ」や「フクレ」と同根だそうです。又「フクレ」が転化し「フクロ」になったとも言われ、さらに池川などの水に囲まれた袋状の地形という意味も持っています。又、中国古代の膨れるという意味の語が変化した漢字の中には、富や福があります。アイヌ語では袋のことをフクルと言うなど似た言葉があります』とある。

「【東鑑】仁治二年十二月の條」仁治二年は西暦一二四一年。以下は抜粋で途中も略されているので、全文を示す。

   *

○原文

卅日癸未。前武州參右幕下。右京兆等法花堂給。又獄囚及乞匃之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

卅日癸未(みづのとみ)。前武州、右幕下・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内巨福禮(こぶくれ)の別居の渡御す。秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

編者が注している通り、「前武州」は北条泰時。「右幕下」は源頼朝。「右京兆」は泰時の父北条義時。「法花堂」は大倉幕府後背の頼朝及び義時のそれぞれの法華堂(当時は石墓ではなくて本格的な御堂であった)。「乞匃」乞食。「三津藤二」三津氏は伊豆出身の豪族姓である。ここに出る「山内巨福禮」の泰時の別宅は私は北條泰時の墓のある現存する鎌倉市大船の常楽寺附近にあったものと考えるし、それは「盖(けだし)隣村大船村に、その亭跡彷彿(はうふつ)たり」というのがそれに相当するものと思う。

「弘安七年」一二八四年。

「九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕」これは「鎌倉市史 資料編第二」の「圓覺寺文書」の「一七 北條氏〔貞時〕公文所奉書(折紙)」である。一部に表記違い或いは誤字・省略があるので、改めて示す。

   *

圓覺寺知事申菜薗事、以正觀寺上畠〔除正觀寺、〕并小福礼中山上散在小畠等、可當寺菜薗之由候也、仍執達如件、

   弘安七年九月九日   業連

               (花押)

              眞性

               (花押)

              賴綱各

               (花押)

  寺奉行御中

   *

自己流に訓読すると、

   *

圓覺寺知事が申す菜薗(さいえん)の事、以つて正觀寺の上畠(うへばた)〔正觀寺は除く。〕并びに小福礼(こぶくれ)の中(うち)の山上に散在せる小畠等(とう)、當寺が菜薗とすべきの由(よし)、候ふなり、仍つて執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。

   *

で、申請許可についての連署役は佐藤業生・諏訪眞性・平賴綱である。ここに出る「正觀寺」というのは「しやうくわんじ(しょうかんじ)」と読む禅寺で(南北朝辺りで廃寺となったと思われ、現存しない)、貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、建武の初め(一三三四年)頃の『作製にかかると思われる円覚寺境内古地図』『(古伽藍図)に総門の両側に続く塀の西側に接して、正観寺と記した屋舎三棟から成る堂宇が見え』、『この寺は古く鎌倉時代かた存在した』とある寺である。

「永正十六年」一五一九年。

「菊壽丸」後に出る通り、北条早雲(伊勢盛時(宗瑞(そうずい))の四男(男子の末子)であった北条長綱(幻庵)(明応二(一四九三)年~天正一七(一五八九)年)のこと。以前にも注したが、ここではより仔細に注することとする。ウィキの「北条幻庵によれば、『箱根権現社別当。金剛王院院主』。『幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した』。『箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる』。ここに記された通り、「箱根神社文書」に、永正一六(一五一九)年四月二十八日、二十六歳の時、父から四千四百貫の所領を与えられたとあり、『この頃の名乗りは菊寿丸である』ともある。大永三(一五二三)年に『兄・氏綱が早雲の遺志』(早雲は永正一六(一五一九)年没)『を継いで箱根権現を再造営している。この時の棟札には』第三十九世『別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える』。『後に近江・三井寺に入寺し、大永四(一五二四)年に出家し、その直後か翌年に箱根権現第四十世別当になったと思われ、天文七(一五三八)年頃まで在職した。別当になった際に長綱、天文五(一五三六)年頃よりは『宗哲と名乗った』。天文一一(一五四二)年五月、甥(兄氏綱三男)の『玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆』(こづくえしゅう:後北条氏の家臣団の一つで南武蔵地域を支配していた組織集団。名は「衆」の中心が武蔵国小机城(武蔵国橘樹郡小机郷。現在の神奈川県横浜市港北区小机町)に拠ったことに由来する)『を指揮下に置くようにな』った。天文一二(一五四三)年からは『「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始め』るが、『これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる』。永禄二(一五五九)年二月『作成の「北条家所領役帳」』によれば、家中最大の五千四百五十七貫八十六文の所領を領有している。これは次に多い松田憲秀(二千七百九十八貫百十文)のほぼ倍に当たり、直臣約三百九十名の所領高の合計六万四千二百五十貫文の一割弱をたった一人で領有していたことになる。『このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ』、天文四(一五三五)年八月の武田信虎(信玄の父)との甲斐山中合戦、同年十月の『上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しており』、永禄四(一五六一)年三月の『曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言』する『など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた』。永禄三(一五六〇)年、『長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物か?)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。しかし程なく氏尭が没し』、永禄一二(一五六九)年には『武田信玄との駿河(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重』、三男長順(ちょうじゅん)らを『相次いで失ったため、同年に氏康の』七男北条三郎(後に上杉謙信の養子となって上杉景虎を名乗った)を『養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した』。永禄一二(一五六九)年』、『越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた』。彼は享年九十七という驚異的な長寿だったことになるが、ただ、『これは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として』、大永三(一五二二)年に『兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる』十五歳未満だった『可能性が極めて高いことを挙げている』(私もこの引用を読みながら強くそう感じた)。『これが事実とすれば享年は』十五年以上『若くなる。一説に文亀元年』(一五〇一年)『生まれという説があ』り、『また、没年に関しても現在では疑問視されて』いるが、孰れにせよ、『当時としては長寿な部類の人物であった』。なお、幻庵の死からたった九ヶ月後の天正一八(一五九〇)年七月、『後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡し』てしまう。『作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道』・『庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている』。『文化人としての幻庵の事跡は数多い』(以下、割愛したが、リンク先には歌会・連歌会などの細かなデータが載る)。『記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から』五代氏直に至るまで、『後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという』。「北条五代記」では『幻庵について「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで』五代『に仕え、武略をもて君をたすけ、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」と評している』とある。

「宛行へり」「あておこなへり」。

「しんみやういん」不詳。「神妙院」或いは「神明」宮か。台にならあるが、小袋谷地区では現認出来ない。

「被下」「下され」。

「永祿二年」一五五九年。

「改し」「あらためし」。

「役帳」以前に注した北条氏康の時代の「北條役帳」、「小田原衆所領役帳」のこと。

「幻菴」「菴」は「庵」に同じい。

「十二里」約四十七キロメートル。日本橋から直線で四十三キロメートルほどであるから、かなり正確な数値である。

「三十町」三キロ二百七十二メートル強。

「袤」「ぼう」と読み、南北の長さの意(因みに東西の長さは「広(くわう(こう))」と呼び、「広袤(こうぼう)」は幅と長さ或いは広さ(面積)の意としてもあった。

「八町」八百七十二メートル。以上からも、この幕末期でさえ、現在の小袋谷よりも遙かに広域であったことが判る。

「長吏」寺務を統轄する僧の他に、穢多又は非人及び非人頭を指す語であるが、ここは前者であろう。

「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「成瀨五左衞門」以前にも出た藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)成瀬五左衛門重治。慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「松前彦之丞」不詳。

「元祿十一年」一六九八年。

「二間」三メートル六十四センチ弱。]

 

○高札場

 

○戸部川 村西を流る〔幅八間、〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔當村・臺・岡本三村の持にて、臺村に詳なり、〕

[やぶちゃん注:「戸部川」既注。柏尾川の別称。

「八間」約十四メートル五十四センチ。]

 

○八幡宮 神職鈴木主馬〔鶴岡の社人にて兼帶す〕

[やぶちゃん注:昭和八(一九二三)年九月十日に現在の小袋谷にある厳島神社(後述される成福寺背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守で次項の「辨天社」のことである)に後に出る吾妻社と一緒に合併されて現存しないが(その前に関東大震災で全壊)、現在の厳島神社の建っている場所が旧八幡宮の跡地である。次の項の注も参照のこと。]

 

○辨天社 村持下同、

[やぶちゃん注:前注で示した通り、実はこれが現在の小袋谷の鎮守である厳島神社である。岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、『かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)』が、『関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された』とあり、『現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった』とある。社名が違うのは明治の悪法神仏分離令によるものである。]

 

○吾妻社

[やぶちゃん注:前注で述べた通り、関東大震災で崩壊後、現在の厳島神社と合併された。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、この『吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという』とある。この公会堂は以前に『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村』述べた「市場公会堂」(より北鎌倉駅に近く、線路の北側直近)は違うので注意されたい。市場公会堂よりも三百六十九メートル大船寄りの横須賀線南側直近にある。]

 

○成福寺 龜甲山法得院と號す、淨土眞宗〔西六條本願寺末、〕貞永元年創建す、本尊彌陀〔長二尺二寸餘源信僧都作、〕を安ぜり、開山は成佛と云ふ〔文永十一年十月八日寂す、寺傳云、成佛は北條泰時の末男にて、始は泰次と稱す、親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時泰次謁して彼宗に歸依し、遂に師資の約をなし、薙髮して名を成佛と改め當所の岩窟に在て、念佛修行の時、明星天子の靈告を感得し、當寺を起立すとなり、今堂後にある龜の窟は、卽成佛幽栖の跡なりと云、〕九世宗全に至り北條氏當宗退却の頃、豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕十一世西休の時慶長十七年舊地なるを以て此地に還住し、當寺を再建すと云ふ、【寺寶】△十字名號一軸〔親鸞筆、〕△聖德太子木像一軀〔親鸞、鎌倉常葉の坊舍にて午刻し、開山成佛に授與の物と云ふ、〕 △六字名號一軸〔蓮如筆、〕此余山崎女〔奥平家の女と云ふ〕の寄附ありし屛風一雙、膳椀〔蒔繪の模樣あり、〕一具を寺寶とす、又表門〔四足門なり、〕も山崎女隱宅の門を移し建しものと云ふ、△支院 西教寺、

[やぶちゃん注:「成福寺」は「じやうふくじ(じょうふくじ)」と読み、現在の鎌倉市小袋谷にある浄土真宗(鎌倉市内で唯一の浄土真宗の寺院である)亀甲山(きっこうさん)法得院成福寺。ここに示された通り、鎌倉幕府第三代執権北条泰時の末男子で天台宗の僧であった北条泰次(?~文永一一(一二七四)年)が貞永元(一二三二)年に創建した天台宗寺院であったが、泰次が親鸞に逢って帰依改宗、法号も「沙門院泰次入道」から「成仏(じやうぶつ(じょうぶつ))」に変え、真宗寺となったものである。

「二尺二寸」六十六センチ六十六ミリ。

「親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時」真宗の公式サイト内にも、親鸞は嘉禄三・安貞元(一二二八)年頃、長い東国布教の途次、鎌倉八幡宮にあった大蔵経を校写するために同宮寺に参籠しているとあり、岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、貞永元(一二三二)年に北条泰時の要請によって鎌倉に入って北条政子十三回忌供養の一切経五千巻の書写の校合に参加したとも伝えるとある。

「彼宗」「彼(か)の(淨土眞)宗」。

「師資」「しし」で、「師と頼むこと・師匠」或いは「師弟」の意。

「薙髮」「ちはつ」。「薙」は「刈る」の意で、髪を剃り仏門に入ること。「剃髪」に同じい。

「當所の岩窟」「龜の窟」(かめのいわや)と呼称するものが今も残る。サイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記で写真が見られる(下部地図リンクで寺の位置も判る)。先に注した小袋谷公会堂と横須賀線を挟んで南北の対称位置にある。

「明星天子」「みやうじやうてんし(みょうじょうてんし)」で、仏教の三光天の一つ。金星を神格化したもの。

「卽」「すなはち」。

「北條氏當宗退却」これは小田原北条氏のことなので注意されたい。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、『鎌倉にも浄土真宗の寺がいくつかあったが、「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として小田原北条氏による迫害を受けたため、武蔵や三浦に移っていったのだという』。『成福寺も例外ではなく、九世の宗全は、焼き討ちにあい、伊豆国の成福寺に逃れたと伝えられている』とある。

「豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕」静岡県伊豆の国市四日町に成福寺として現存する。但し、こちらは現在、真宗大谷派。鎌倉の方は本願寺派である。

「慶長十七年」一六一二年。

「十字名號」「歸命盡十方無碍光如來(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」。天親の「無量壽經優婆提舍願生偈」に基づく。仏壇本尊の「脇掛(わきがけ)」としての九字名号「南無不可思議光如來」(曇鸞の「讚阿彌陀佛偈」に基づく)が知られるが、それと同等に「脇掛」として掛けるものである。

「聖德太子木像一軀」先に引いたサイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記でやはり写真が見られる。

「鎌倉常葉の坊舍」「常葉」は「ときは」で「常盤」鎌倉大仏坂切通を梶原方向へ抜けた右手一帯の地名としか考えられない。調べてみると、真宗系資料(PDF)に、親鸞が鎌倉常盤(鎌倉大仏の北側)に建てられた坊舎に迎えられ、逗留していたという言い伝えがあることが判明した。考えてみると、確かにあの辺り、「一向堂」という地名もある(同リンク先にバス停「一向堂」の写真有り)。

「午刻」「後、(彫)刻し」の意ととっておく。

「六字名號」「南無阿彌陀佛」。「観無量寿経」の「下品下生」の一節。真宗ではこれ自体を「本尊」とすることも多い。

「此余」「このよ」。この他に。

「山崎女〔奥平家の女と云ふ〕」サイト「鎌倉ナビ」の成福寺に、『山門は四足門といって、江戸時代の初めごろからありますが、もとは山崎の館跡にあったものだそうです』『昔、山崎に宗高院という領主が住んでいました。土地の人の話によると奥平一族の女の人ということです』(女の領主の意であることに注意)。『この人がこの寺で教えを受けたとき、屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付してここに建てたのだと伝えられています』とある。この女性、前の「山崎」に出てきた時から、ずーっと気になっている……「隱宅」……どうも気になってならぬ……されば、調べてみると……!!!……『徳川家康の養女(孫)』?!……『キリシタン人脈』?!……「鎌倉、まぼろしの風景」の「194.崇高院様の山門成福寺鎌倉市小袋谷! この方の推理が正しいかどうかは別として、実に面白い! 必読也!!!

「西教寺」貫・川副の「鎌倉廃寺事典」に、『小袋谷、成福寺の支院。成福寺の客仏、虚空蔵菩薩は、西教寺の本尊であったという(住職談)』とあるのが唯一の情報。]

2016/01/13

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景名所一覧の鳥瞰図 / 全挿絵公開終了

 
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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景名所一覧の鳥瞰図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。私のソフトの読み取りサイズの限界を越えているため、斜めにして取り込んだものを水平に直したため、端に三角形の余白が生じているのは御寛恕願いたい。これでも右が一・五センチメートル、左が一センチメートルほど切れているが、辛うじて(「三浦」が少し欠けたが)文字貼り込み箇所は総てカバーしている)。画中上部中央右寄りに、

 

江戸名所図会所載 金澤勝槩一覧之図(かなさはしようかいいちらんのづ)

 

とあって、その左に、

 

能見堂(のうけんたう)

  より

平臨する

 所(ところ)の

   圖

   なり

 

というキャプションがあり、以下右手上から下への順で左方向に、

 

「三浦」

「二子山」

「東照大權現」

「陣屋」

「内川」

「円通寺」

「瀬戸明神」(横書・「瀬」「神」はママ)

「塩ハマ」(「塩濵」で塩田のこと)

「金竜院」

「東ヤ」(旅館「東屋」のこと)

「飛石」

「弁天」(「弁天島」のこと)

「照天櫻」

「上行寺」

「瀬戸橋」(「瀬」はママ)

「君ヶ崎」

「洲崎」

「天然寺」

「三艘浦」

「竜華寺」

「室の木」

「野島渡し」

「平泻」(「泻」はママ)

「村田」(横書)

「ゑほし島」(「烏帽子島」のこと)

「野島」

「町屋村」

「夏島」

「御所谷」(「御所が谷」のこと)

「猿島」

「房州」(遠望)

「鋸山」(遠望)

「金沢文庫旧跡」(「沢」」「旧」はママ)

「称名寺」(「称」はママ)

 

と名所が貼り込みになっている。この図は、極めて忠実に「江戸名所圖會」の「卷之二」にある図を写しとっている。私の所持する一九九六年ちくま学芸文庫刊の市古夏次・鈴木健一校訂「新訂 江戸名所図会二」から、図を引いておく。

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Em82

Em83

Em84

各名勝の仔細は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤案内以降の記事(カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」でそこに戻りながらならば順に読むことが可能)で確認されたい。

 なお、底本でこの下に配されてある、

「稱名寺の圖」は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅰ)

に(但し、これは非常に小さい)、

旅館「金澤千代本の圖」は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 旅館

の記事に追加で貼り込んでおいた。

 以上が、本誌の山本松谷挿絵総てである。これを以って二誌総てのそれを公開し終わった。]

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 逗子の図(三枚)

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 逗子の図(三枚)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。見開きにある三枚を分割して示す。上部にある一枚が最初の「逗子長者園及長者ヶ濵の圖」(上部欄外キャプション)、二枚目が底本の右下に扇形に配された「海水浴場の図」(右扇外キャプション)、三枚目は底本左下に配された「逗子日蔭の茶屋の圖」で、一枚目の「逗子長者園及長者ヶ濵の圖」には、右から、

 

「長者園」

「同園亭」(中央下)

「葉山御用邸」(中央上(西)方)

「長者ヶ崎」(左)

 

長者ヶ崎の根は機器の限界があり、切れてしまったが、三枚目の「逗子日蔭の茶屋の圖」で補っておいたのでそちらを見られたい。これは秋谷の尾根上から見た景としては自然ではある。無論、富士はデカめではある。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 葉山御用邸

と、

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 長者ケ崎

及び、

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 長者園

をリンクさせておく。]

山本松谷挿絵追加貼り込み分

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 鵠沼の図

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 鵠沼の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。上部欄外に「鵠沼の圖」というキャプションがあり、「東屋」の張り込み(同旅館の当該記事はこちら)。富士山頂が枠からはみ出て、高峰感を演出してはいる。]

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島参道の図(二枚)

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島参道の図(二枚)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の二枚。見開きのページにある四枚の内から当該の二枚をトリミングした(他二枚は岩本楼の図でに追加掲示した)。

 

一枚目の丸窓のものは江の島参道の「各旅館の圖」

二枚目のものは「貝細工商店の圖」

 

とそれぞれにキャプションがある。

 「各旅館の圖」は参道の手前海浜寄りと思われる。右側に手前から「ゑどや安五郎」(但し、の「旅館」には「江戸屋忠五郎」とあって異なる。本文が正しいのであろう)「さぬきや八郎右衞門」(本文に「讃岐屋八郎右衛門」〈「衛」はママ。以下同じ〉とある)「さかひや」(本文に「さかゐや平十郎」とある)、右手には「きたむらや」(本文に「北村屋忠右衛門」とある)という旅館の看板が並ぶ。「きたむらや」側手前には泊まっている御一行の講衆を示すところの幟が無数に掛かっており、「永代講」(これは二箇所見える)「小栗講」「大山講」「神田元講」(神田元町の講中の謂いか)「信心講」などと判読出来、その上の方には御愛嬌に「風俗画報」の旗指物も出る。

 「「貝細工商店の圖」の看板は奥が「貝細工販賣所」、手前のものが「名物」と上部左右にあって「貝細工おろし小賣所」とある。陳列棚にあるのは巻貝の大きいのは手前の客が吹いているように法螺貝(腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis で、二枚貝は如何にも帆立貝(斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis)のように見えるが、この時代は概ね現地調達でホタテガイ Mizuhopecten yessoensis 属は東京湾を南限とするので、恐らくは稍大きめに描かれていると考えるならば、房総半島以南に分布し、殻長さ十センチメートルほどの(大型個体もある)、驚くほど色彩変異の豊かでディスプレイ効果も高い、翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ科Mimachlamys属ヒオウギガイ Mimachlamys nobilis の類いではないかと思う。手前の店の右の棚の一番上にあるのは相模湾産の甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ Macrocheira kaempferi か。もしそうだとすれば(そうでないとこんあところにディスプレイする価値はない)、松谷は動物、少なくとも海産動物には詳しくなく、博物画の才もこの時はなかったものと見える(当時は未だ満二十八であった)。はっきり言って貝も蟹もステロタイプでテツテ的に拙であると言わざるを得ない。]

2016/01/12

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島お岩屋(龍窟)の図

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島お岩屋(龍窟)の図(見開き)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の二枚目。上部欄外中央に「江の嶋龍窟の圖」とキャプションがある。私のスキャン機器の関係上、上部を数ミリ、右手を大きく二・九センチメートルほどカットしてある。岩肌を強く示すためにコントラスト補正をしてある(左手の海の字透けは消えたが、逆に右手上部のそれが出てしまった。悪しからず)。

 右手上部の峰がぐっと下がったところが、江の島が縊れる切れっ戸の部分(中村屋本店と中村屋羊羹店が向かい合わせにあって裏道が合流する箇所)である。左手端には俎板岩で行われていた素潜りの鮑獲りの様子もちゃんと描き込んである。何より、画面左手奥(稚児が淵の石灯籠も見える)からまさに龍のようにお岩屋(龍窟)へと続く木道の棧道が強烈で、また、松と岩肌と波の砕ける描き込み方が、これまた、神がかっており、あたかも動画を見ているかのように「風」と「波浪」を感じる。これは少なくとも舟を漕ぎ出して実見しなくては描けないものである。江の島を描いた隠れた佳品の一つと私は思っている。]

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