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カテゴリー「芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】」の19件の記事

2013/07/07

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の最後に附せられた旧所蔵者永見徳太郎氏の「河童原稿縁起記」復刻

[やぶちゃん注:永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の真昼銅座巡遊記」を参照した)。
 見開きの四〇〇字詰原稿用紙(罫色は橙色。但し、左下罫外には「10×20」とある。しかし、これは半ページの使用を示すものと思われ。上方罫外のノンブル用下線の位置が左右で中央に寄っていることからも二〇〇字詰を張り合わせたものではない。謂わずもがなであるが、芥川龍之介の原稿とは全く無縁な私も使用したことがあるような現在でも見かける普通の原稿用紙である(但し、左面の左罫外下方19マス辺りに「原稿用紙」と印刷されているものの商標・社名等はない)。一行字数を原稿に合わせた。〔 〕は挿入を示す。一部の読点は一字分をとらずに前の字の同一マスに打たれてある。署名の下に「德見」という落款が朱で押されている。]

 

 河童原稿縁起記

昭和二年七月十五日の朝芥川龍之介〔氏〕スグ

コイの電報が届けられた。田端の澄江堂の二

階にて雑談する前、是を永見氏に進呈しやう

と差出されたのが、この河童原稿であつた。そ

の日二人は夜おそくまで散歩して或一軒の甘い

物屋に入つた。その十日目が、彼氏のパライ

ソ昇天であつた。

歳月は二十数年が過ぎ、昨年の祥月命日、私

は君を偲び、とある店にて二椀のおしるこを

注文し、一ツは君の霊にとさゝげた。その時

たはむれの作歌を胸に染めた。

 ぱらいそに 河童聖人 おはすかや

  椀に汁粉盛り たてまつりてむ

 

    昭和三年春の花さく日

            德 見 記 (落款)

 

[やぶちゃん注:岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この日の夜、芥川は徳見に加えて、小穴隆一と沖本常吉(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)は郷土史研究家。島根県生。小説家協会・劇作家協会の書記を経て、昭和元・大正十五(一九二六)年に東京日日新聞社に入社、昭和一〇(一九三五)年に郷里津和野に移り、昭和四四(一九六九)年には柳田国男賞を受賞、と新全集人名解説索引の記載にある)と四人で亀戸に遊んだ、とある。]

2013/07/06

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 最終章 十七 / ブログ版完全電子化復刻完遂+僕の考える正しいトックの詩とは?

これを以ってブログでの芥川龍之介「河童」決定稿原稿の完全電子化復刻を完遂した。

また最後の最後に、大きな発見があった。それは「河童」の最後に示されるトックの詩について、現行のものは実は微妙な点に於いて、『本物のトックの詩』とは異なるという事実である。

その再現も注でしておいた。御笑覧あれ。――いや――僕と芥川龍之介にとっては「笑覧」どころではない――これはすこぶる大事な『誤りの訂正指摘』なのだと――僕は思っているのだ。確かに。


エールを呉れた教え子諸君及び画像転載許可を速やかにして呉れた国立国会図書館にこの場を借りて御礼申し上げる。

これから、HP版の作成及び僕の考える完全正当なる「河童」テクストの公開に向けて、最後のハングした岩山を頂上を目指して孤独に登攀する。随分、御機嫌よう。それではまた、きっとお逢いしましょう、芥川龍之介の、河童の国で…………(何故、こんな『変な』リーダを打つかって? それもお楽しみさ、♪ふふふ♪…………)



■原稿193(194)

     十七

 

[やぶちゃん注:5字下げ。「河童」最終章。本文は2行目から。]

 

 僕は河童の国から帰つて來た後、〈《暫くは》→いつも〉*暫くは*

々人間の皮膚の匀に閉口しました。我々人間

に比べれば、河童は実に淸潔なものです。の

みならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた

僕には如何にも気〈■〉**の悪いものに見えまし

た。これは或はあなたにはおわかりにならな

いかも知れません。しかし目や口は兎〈も〉**

も、この鼻と云ふものは妙に恐しい気を起さ

せるものです。僕は勿論出來るだけ、誰にも

[やぶちゃん注:最後の20行目20マス目に大きなインクの滴の痕がマス目中央にあり、そこから10行目20マス目下方へ向かって、滴の痕よりはっきり区別出来る薄さで有意に太いインク擦過痕が延びる。この汚損はこの9~10行目が書かれる以前の汚損と思われる。それぞれ、9行目末の「さ」も、また10行目末の「も」も、これらの汚損を避けるように書かれているように見受けられるからである。]

 

■原稿194(195)

會はない算段をしました。が、〈いつか我〉*我々人間*にも

いつか次第に慣れ出したと見え、〈一年〉*半年(はんとし)*ばかり

たつうちにどこへでも出るやうになり〈ま〉**〈し〉**

た。唯それでも困つたことは〈何〉**か話をしてゐ

るうちにうつかり河童の国の言葉を口に出し

てしまふことです。

 「君はあしたは家(うち)にゐるかね?」

 「Qua

 「何だつて?」

 「いや、ゐると云ふことだよ。」

[やぶちゃん注:

●「〈ま〉**〈し〉**た」この2字の書き変えは明らかにインクの滲み(手か何かに附着した半乾きのインクが点々と附着したようなもの)による汚損を訂したものである。この原稿の特に5行目までの下半分の部分には同様の汚損が十数ヶ所見受けられる。]

 

■原稿195(196)

 大體かう云ふ調子だつたものです。

 しかし河童の国から帰つて來た後、丁度一

年ほどたつた時、僕は或〈《負債》→事■〉*事業*の〔失敗した〕爲に………

(S博士は彼がかう言つた時、「その話はおよ

しなさい」と注意をした。何でもS博士の〈話に〉*〈に〉*

よれば、彼はこの話をする度に看護人の手に

も了(お)へない位、亂暴になるとか云ふことであ

る。)

 ではその話はやめませう。しかし或事業の

失敗した〈後〉爲に僕は又河童の国へ〈行き〉*帰り*たいと思ひ出

[やぶちゃん注:

●「〔失敗した〕爲に………」この部分、初出及び現行では何故かリーダが4マスに亙っており、

 失敗した爲に…………

となっている。原稿のそれは『今までと全く変わらない3マスを塞ぐリーダ』であるのにも拘わらず、である。ここは統一を図る原則から言えば、初出は『通常の3点リーダの2マス』とするべきである。但し、それを芥川が敢えてゲラ校で、特にこの「十七」章のみ、「僕」の精神病による狂気世界との懸隔を読者に暗示させる一方途として、「3点リーダの4マス・リーダ」を指定した、という可能性を完全には排除することは出来ない。その証拠に、この後の部分に出現する3箇所のリーダが総てこの『奇体な4マス・リーダ』だからである。

●「何でもS博士の」初出及び現行では、

 何でも博士の

で「S」はない。

●「〈話に〉*〈に〉*よれば、」の記号は間違いではない。ここは最初に、

 話は

と書いた。ところがどうも、そこの二字の上を下方向に何かで擦ってしまった結果、字が汚れた。それが気に入らなかったのか、抹消して右に吹き出しで「話に」と訂したのだが、またしても「に」の字を書き損なった。そこで芥川はそれをまた抹消し、そこからこの5行目下方罫外に向かって線を引いた。そこに「に」と訂そうとして書き損じたものらしい。校正過程で誰かが訂したものと思われ、初出及び現行は、

 話によれば、

と普通になっている。

●「河童の国へ〈行き〉*帰り*たい」は書いた直後に変更したものである。何故なら、次の原稿の一文以降では、この謂い方が問題とされているにも拘わらず、修正が全くないからである。]

 

■原稿196(197)

しました。さうです〈、〉**「行きたい」のではありま

せん。「歸りたい」と思ひ出したのです。河童の

国は当時の僕には故郷のやうに感ぜられまし

たから。

 僕はそつと家(うち)を脱け出し、中央線の汽車へ

乘らうとしました。そこを生憎巡査に〈つ〉**

まり、とうとうこの病院へ入れられた〈の〉**

す。僕はこの病院へはひつた当座も〈マツグやチヤツクのことを考〉*河童の国のことを〈考へ〉*思ひ*つづけました。医者のチヤツクはどうしてゐるでせう〈。〉? 哲学者のマツグ〈は〉**

[やぶちゃん注:

●「とうとうこの病院へ」は初出及び現行は、

 とうとう病院へ

である。「この」があった方が自然ではあるが、直後にも「この病院へはひつた当座も」とあり、ゲラ校で芥川自身が五月蠅いと判断して削った可能性がある。そもそも最初に強制入院させられたところから転院したと考えてもすこぶる『自然』であり、とすればこの方が正しい謂いともなろう。

●「思ひつづけました。」は初出及び現行は、

 想ひつづけました。

である。個人的趣味から言うと「想」でよいと思う。芥川がゲラ校で訂した可能性も否定出来ないし、芥川の用字法としても無理がない。]

 

■原稿197(198)

不相変七色の色硝子のランタアンの下に何か

考へてゐるかも知れません。殊に僕の親友だ

つた、嘴の腐つた学生のラツプは、―――或

けふのやうに曇つた午後です。〈僕はこんなこと〉*こんな追憶に耽*

つてゐた僕は思はず声を挙げようとしま〈し〉**

た。それはいつの間(ま)にはひつて來たか、バツ

グと云ふ漁師の河童が一匹、僕の前に佇みな

がら、何度(なんど)も頭(あたま)を下(さ)げてゐたからです。僕は

心をとり直(なほ)した後(のち)、―――泣いたか笑つたかも

覚えてゐません。が、兎に角久しぶりに河童

 

■原稿198(199)

の国の言葉を使ふこと〈を?〉**感動してゐたことは

確かです。

 「おい、バツグ、どうして來た?」

 「へい、お見舞ひに上つたのです。何でも御

病気だとか云ふことですから。」

 「どうしてそんなことを知つてゐる?」

 「ラディオのニウス〈を〉**知つたのです。」

 バツグは得意さうに笑つてゐ〈ました。〉*るのです。*

 「それにしてもよく來られたね?」

 「何、造作(ざうさ)はありません。〔東京の〕〈河〉**や堀割りは河童

[やぶちゃん注:

●「ラディオ」の促音は初出及び歴史的仮名遣版では、

 ラデイオ

である。]

 

■原稿199(200)

には往來も同樣ですから。」

 僕は河童も蛙のやうに水陸兩棲の動物だつ

たことに今更のやうに気がつきました。

 「しかしこの辺(へん)には川はないがね。」

 「いえ、こちらへ上つたのは水道の鐵管を拔

けて來たのです。〈」〉それからちよつと消火栓(せん)を

あけて………」

 「消火栓をあけて?」

 「檀那はお忘れなすつたのですか? 河童〔に〕も

機械屋(や)のゐると云ふことを。」

[やぶちゃん注:

●「消火栓をあけて………」前注で示した通り、初出及び現行は、

 消火栓をあけて…………

『奇体な4マス・リーダ』である。]

 

■原稿200(201)

 それから僕は二三日毎にいろいろの河童〈か?〉**

訪問を受けました。僕の病(やまひ)はS博士によれば

早発性痴呆〔症〕と云ふことです。しかしあの医者

のチヤツクは(〈甚だ〉これは甚だあなたにも失礼に当

〈かも知れ〉*のに違ひあり*ません。)僕は早発性痴呆症〔患者〕ではない、

〈あなたがた〉早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた

だと言つてゐ〈るのです。〉*ました。*医者の〈ヤ〉チヤツクも來

る位ですから、〈硝子会社〉学生のラツプや哲学者のマツ

グの〈尋ねて〉*見舞ひに*來たことは勿論です。が、あの漁

師のバツグの外に晝間は誰も尋ねて來ませ

[やぶちゃん注:

●「あなたがた」初出及び現行は、

 あなたがた自身

である。「自身」が入った方がよい。ゲラ校で芥川自身が挿入したものであろう。]

 

■原稿201(202)

ん。〈二三〉殊に二三匹一しよに來るのは夜(よる)、―――そ

れも月のある夜(よる)です。僕はゆうべも月明りの

中(なか)に〈硝子会社の〉*硝子会社の*社長のゲエルや哲学者のマツ

グと話をしました。のみならず音樂家のクラ

バツク〈《の》→は〉*にも*ヴァイオリンを一曲彈(ひ)いて貰ひま〈し〉**

た。そ〈れは〉ら、向うの机の上に黒百合(くろゆり)の花束(はなたば)

〈ある〉*のつてゐる*でせう? あれもゆうべクラバ

ツクが土産に持つて來てくれたものです。……

 (僕は後(うし)ろを振り返つて見た。が、勿論机の

[やぶちゃん注:

●「ヴァイオリン」の促音は初出及び歴史的仮名遣版では、

 ヴアイオリン

である。

●「持つて來てくれたものです。………」前注で示した通り、初出及び現行は、

 持つて來てくれたものです。…………

『奇体な4マス・リーダ』である。]

 

■原稿202(203)

上(うへ)〈それ〉には花束(はなたば)も何ものつてゐなかつた。)

 それからこの本も哲学者のマツグがわざわ

ざ持つて來てくれたものです。ちよつと最初

の詩を讀んで〈■〉**覽なさい。いや、あなたは河

童の国の言葉を御存知になる筈はあ〈り〉**〈ま〉**

ん。〈しか?〉*では*代りに讀んで見ませう。これは〈あの

悲しい詩人の〉*近頃出版になつた*トツクの全集の一册です。―――

 (彼は古い電話帳をひろげ、かう云ふ詩をお

ほ声に読みはじめた。)

―――〈熱帯〉*椰子*の花や竹の中に

[やぶちゃん注:

●「上(うへ)〈それ〉には」この部分、見ていると、芥川は前の原稿の続きがあることを忘れて、次の2行目の内容を書きかけて、気がつき、1マス目に「上」を入れて「それ」を抹消して続けたという事実が判明する。この部分、別に存在した河童の下書稿から筆写していた可能性を示唆するものではなかろうか?

●「―――〈熱帶〉*椰子*の花や竹の中に」の冒頭の「―――」は後から挿入したものである。その証拠に芥川の癖で3文字分のダッシュを引いた結果、実はその頭が(詩は2字下げにしかしていなかったために)、10行目上方罫外へと一字分、はみ出しているのである。また、抹消の「熱帶」であるが、実際には「帶」の字は第一画の横棒しかマスには書かれていない。しかし、文脈と「椰子」の書き換えからも、間違いないと判断して敢えて「帶」と入れたものである。大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿203(204)

   佛陀はとうに眠つてゐる。

 

   〈基督も〉路ばたに枯れた無花果と一しよに

   基督ももう死んだらしい。

 

   しかし我々は〈休〉**まなければならぬ、

   たとひ芝居の背景の前にも。

 

――(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだら

けのカンヴアスばかりだ。!)―――

[やぶちゃん注:

●「しかし我々は〈休〉**まなければならぬ、」この最後の読点は、初出及び現行では、

 しかし我々は休まなければならぬ

と存在しない。私は私の考えるこの詩の詩想からいって、この読点は打たれねばならないと考えている読点があるのが『唯一正当なトックの詩である』と、私は信じて疑わないのである。これは我鬼となった私の拘りであると言える。

●「――(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)―――」この部分は非常に問題がある。

 一つは、初出及び現行では、「背景も裏を見れば」が、
 その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!

となっていて、大きな相違を示している点である。――これは芥川龍之介自身がゲラ校正でそうしたもの――とは思いたいのであるが、私は個人的にここは、
×背景の裏を見れば
ではなく、
〇背景も裏を見れば
の方が詩想としてしっくりくるように思われるのである。大方の御批判を俟つが、私は勝手にそれが『唯一正当なトックの詩である』と思えてならないのである。
 次いで「カンヴァス」の促音はママ。初出及び現行は「カンヴアス」である。

 さて次に、ここも前後を挟むダッシュは後から加えられたものであって、しかも表記のように、最初のダッシュは2字下げの分にしか附されていない。ところが、現行では(実は初出にはこれはおろか詩の前後のダッシュもない。岩波旧全集はここを底本(初出『改造』版)によらず、この原稿と芥川龍之介自身の『改造』書入れに従って「――」、2マスダッシュを入れているのである)ここは、ダッシュなしで、前と同じ2字下げで、

  (その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)―――

となっているのである。私はこれは大きな誤りであると考えている。トックのこの詩は最後が散文調の( )附記のようになっているのである。それが『唯一正当なトックの詩である』と私は信じて疑わない。試みに以下に現行のそれと、私の考える『唯一正当なトックの詩』を示す。但し、ダッシュは一般的表記の二マス・ダッシュとし、ルビは排除するものとする。

   *   *   *

【歴史的仮名遣準拠現行版】

 

――椰子の花や竹の中に

  佛陀はとうに眠つてゐる。

 

  路ばたに枯れた無花果と一しよに

  基督ももう死んだらしい。

 

  しかし我々は休まなければならぬ

  たとひ芝居の背景の前にも。

 

  (その又背景の裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)――

 

【私藪野直史が唯一正当と考える詩形】

 

――椰子の花や竹の中に

  佛陀はとうに眠つてゐる。

 

  路ばたに枯れた無花果と一しよに

  基督ももう死んだらしい。

 

  しかし我々は休まなければならぬ、

  たとひ芝居の背景の前にも。

 

――(その又背景も裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)――

 

   *   *   *

 大方の御批判を俟つ。]

 

■原稿204(205)

 〈しかし〉*けれども*僕はこの詩人のやうに厭世的ではあ

りません。河童たち〈は〉**時々來てくれる限りは、

―――ああ、このことは忘れてゐました。あ

なたは僕の友だちだつた裁判官のペツプを覚

えてゐるでせう。あの〈■〉河童は職を失つた後(のち)、

ほんたうに発狂してしまひました。何でも今

は河童の国の精神病院にゐると云ふこ〈と〉**

す。僕はS博士さへ承知してくれれば、見舞

ひに行つてやりたいのですがね………(昭和二・

二・十一)

[やぶちゃん注:「河童」自筆原稿の最後である。この原稿に限って、ナンバリングが左端罫罫外上方(但し以下に示すように不完全)と左罫外3マス目左方と二箇所に打たれている。これは上のものがあまりに左側に寄せ過ぎて打ち損ね「04」となり、3ケタ目の「2」がなくなってしまったため、改めて下方に「204」と打ったものと考えてよい。最終行は10行目で、余白はない。実に無駄のない、芥川龍之介らしい掉尾の原稿ではないか!

●「あの〈■〉河童は」この抹消字は「男」と書きかけたようにも見える。

●「行つてやりたいのですがね………」先に述べた通り、現行及び初出は、

 行つてやりたいのですがね…………

『奇体な4マス・リーダ』である。

●「行つてやりたいのですがね………(昭和二・二・十一)」初出及び現行では、

 行つてやりたいのですがね………… (昭和二・二・十一)

とリーダの後に1マス空けてクレジットとなっている。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十六

■原稿184(185)

     十〈一〉**

 

[やぶちゃん注:「十六」は5字下げ。抹消数字は例えば「七」には見えない。有意に一画で強く横に引いている。「一」と考えて間違いない。本文は2行目から。]

 

 僕は〈トツクの自殺し〉*かう云ふ記事を讀ん*だ後、だんだんこの国

にゐることも憂欝になつて來ましたから、ど

うか我々人間の国へ歸ることにしたいと思ひ

ました。しかしいくら探して歩いても、僕の

落ちた穴は見つかりません。そのうちにあの

バツグと云ふ漁師の〈河〉**童の話には〔、〕何でもこの

国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本

を讀んだり、笛を吹いたり、〈靜〉**かに暮らし

てゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ね

 

■原稿185(186)

〈童《河》→に尋ね〉て見れば、或はこの国を逃げ出す途

もわかりはしないかと思ひましたから、早速

街はづれへ出かけて行きました。しかしそこ

へ行つて見ると、如何にも小さい家の中に〈や〉

をとつた河童どころか、頭(あたま)の皿も固ま〈ら〉**

い、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を

吹いてゐました。僕は〈最初は間〉*勿論間違*つた家へはひ

つたではないかと思ひました。が、念の爲に

〈前を尋ね〉*をきいて見*ると、やはりバツグの教へ〈れ〉てくれ

た年よりの河童に違ひないのです。

 

■原稿186(187)

 「しかしあなたは子供のやうですが〈。〉………」

 「〈そ〉お前さんはまだ知らないのかい? わたし

はどう云ふ運命か、母〈親〉**の腹を出た時には〈■〉

髮頭(しらがあたま)をしてゐたのだよ。それからだんだん年

が若くなり、〈■〉今ではこんな子供になつたのだ

よ。〈」〉けれども年を勘定すれば、生まれる前を

〈四〉**〈年〉としても、彼是〈百〉**十五六にはなるかも

知れない。」

 僕は〈狭い〉部屋の中を見まはしました。そこ

には僕の気のせゐ〈や〉**、質素な椅子やテエブル

 

■原稿187(189)

〈や〉**間に何か淸らかな幸福が漂つてゐるやうに

見えるのです。

 「あなたは〈《誰よりもの》→どうも外の〉*どうもほか*の河童よりも仕合せに

暮らしてゐるやうですね?」

 「さあ、それはさうかも知れない。わたしは

若い時は年〈と〉**りだつたし、〈年をとつた時は〉*年をとつた時は*

いものになつてゐる。從つて〈《■》→年〉**よりのやうに

慾にも渇かず、若いもののやうに色にも〈漁〉**

れない。兎に角わたしの生涯は〔たとひ〕仕合せではな

〈までも、安らかだらう。〉*にもしろ、*安らかだつたのに〔は〕違

 

■原稿188(189)

〈ないよ。」〉*あるまい。*

 「成程それでは安らかでせう。」

 「いや、まだそれだけでは〈明〉**らか〈では〉*には*ならな

い。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに

困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。〈」〉しかし

一番仕合せだつたのはやはり生まれて來た時

に年〈と〉**りだつたことだと思つてゐる。」

 僕は暫くこの河童と自殺した〈ラツプ〉*トツク*の話だ

の毎日醫者に見て貰つてゐる〈《タツパ》→ドツク〉*ゲエル*の話だの

をしてゐました。が、なぜか年とつた河童は

[やぶちゃん注:

●「《タツパ》」ここで芥川は「毎日醫者に見て貰つて」生にすこぶる執着しているところの、今まで全く登場していない「タツパ」という新手河童を登場させようとしていたことが分かる(次の「■原稿189(190)」の3行目の抹消をご覧あれ)。

●「年とつた河童」初出及び現行は、

 年をとつた河童

である。この後、これ以外に同じ表現が4箇所出現するが、いずれも同様の異同が認められるので、ゲラ校正での芥川自身による改訂と思われる。]

 

■原稿189(190)

余り僕の話などに興味のないやうな〈顏〉**をし

てゐました。〈僕は〉

 「ではあなたは〈《ほかの河童》→タツ〉*ほかの河童*のやうに格別生き

てゐることに執着を持つてはゐないのですね

?」

 年とつた河童は僕の顏を見ながら、靜かに

かう返事をしました。

 「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生ま

れて來るかどうか、一應父親に尋ねられてか

ら母〈親〉**の胎内を離れたのだよ。」

[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]

 

■原稿190(191)

 「しかし僕はふとした拍子に、この国へ轉げ落

ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から

出て行(ゆ)かれる路を教へて下さい。」

 「出て行かれる路は一つしかない。」

 「と云ふのは?」

 「それはお前さんのここへ來た路だ。」

 僕はこの荅を聞いた時になぜか身の毛がよ

だちました。

 「その路が生憎見つからないのです。」

 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顏

[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]

 

■原稿191(192)

を見つめました。それからやつと體を起し、

部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下

つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで

気のつかなかつた天窓(てんまど)が一つ開きました。そ

の又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向

うに大空(おほぞら)が靑あをと晴れ渡つてゐます。〈■〉

や、大きい鏃(やじり)に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐま

す。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び

上つて㐂びました。

 「さあ、あすこから出て行くが好い。」

 

■原稿192(193)

 年をとつた河童はかう言ひながら、さつき

の綱を指さしました。今まで僕の綱〈■〉**思つてゐ

たのは実は綱梯子に出來てゐたのです。

 「ではあすこから出さして貰ひます。」

 「唯わたしは前以て言ふが〈、〉〔ね〕。〈■〉出て行つて後悔

しないやうに。」

 「大丈夫です。〔僕は〕後悔などはしません。」

 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子

を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭(あたま)の

皿(さら)を遙か下に眺めながら。

[やぶちゃん注:前注通り、二箇所の「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。以上の最終行は20行目で余白なし。

●「唯わたしは前以て言ふが〈、〉 〈■〉〔ね。〕出て行つて後悔しないやうに。」この台詞の推敲は、当初恐らくは、

 唯わたしは前以て言ふが、

まで書いて、読点を抹消して次のマスから何か書こうとした(判読不能。マスの有意な左部分に強い縦の一画がある)が、やめて抹消、

 唯わたしは前以て言ふが、出て行つて後悔しないやうに。

その後、かなり後になってから「ね。」を挿入して、

 唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。

としたのではないかと思われる。何故かというと、この右吹き出しの挿入記号を含めて、この

 ね。

だけが原稿及び推敲に用いられたブラックではなく、かなり明るいブルー・ブラック系によるものであるからである。]

2013/07/05

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十五

□原稿169(170)

      〈九〉*十五*

 

[やぶちゃん注:「十五」は形の上では「九」を抹消しているので5字下げ(実際には6~7マス目に記載)。本文は2行目から。]

 

 それから彼是一週間の後、僕はふと醫者の

チヤツクに珍らしい話を聞きました。と云ふ

のはあのトツクの家に幽靈の出ると云ふ話な

のです。その頃〔に〕はもう雌の河童〈も〉**〈■〉**か外(ほか)へ

行つてしまひ、〈トツクの家は〉僕等の友だちの詩人の家も〈■〉

〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。何でも

チヤツクの話によれば、このステュディオでは寫

眞をとると、〈必ず〉トツクの姿もいつの間にか必ず

〔朦〕朧と〈寫?〉**の後ろに映つてゐると〔か〕云ふこと《〔で〕》〈なの〉で〕です。尤

[やぶちゃん注:

●「〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。」初出及び現行では、

 寫眞師のステユデイオに變つてゐました。

で、促音は措くとしても「或」の脱落は見逃せない。個人的な文体への趣味の物問題であるが、私は――私も――そして普通の芥川龍之介も、ここには「或」を入れたくなる。私は入っているのが正しいと思うし、芥川龍之介もそれが彼の真意であると思う。そもそもこの「或」は推敲の末に7行目上罫外に、わざわざ手書きで綺麗に罫を拵えて、そこに「或」と記しているのである。――ゲラ校正段階で最終的に龍之介自身が削除した――などということは、以上から私には絶対にあり得ないことだと直感されるのである。これは総ての校正から漏れたものと私は断ずるものである。

 

■原稿170(171)

〈《チヤツク》→ゲエル〉*チヤツク*は物質主義者ですから、死後の生命

などを信じて〈は〉**ません。現に〈《こ》→こ〉**の話をした時

にも〈目にた〉*悪意の*ある微笑を浮べながら、「〈《「幽靈》→「靈魂〉やは

り靈魂と云ふものも物質的存在と見えます

ね」などと註釈めいたことをつけ加へてゐまし

た。僕も幽靈を信じないことはチヤツクと余

〈《り》→《しかしこの国の心靈学協会は》→僕も幽靈を信じないことは〉*り変りません。けれども詩人の*トツクには親しみを感じてゐましたから、早速本屋の店へ

〈か〉**けつけ、〈新聞や雑誌掲げられた■〉*トツクの幽靈に関する記事*やトツ

クの幽靈の〈寫〉**眞の出てゐる新聞や雑誌を買つ

 

■原稿171(172)

て來ました。成程それ等の〈寫〉**眞を〈見〉**ると、ど

こかトツクらしい河童が一匹、老若男女の河

童の後ろにぼんやりと姿を現してゐま〔し〕た。し

かし僕を驚かせたのは〈かう云ふ〉*トツクの*幽靈の寫眞よ

りもトツクの幽靈に關する記事、―――殊にト

ツクの幽靈に關する心靈学協会の報告〔で〕す。僕

は可也逐語的にその報告を訳して置きました

から、左(さ)に大畧を掲げることにしませう。〈若し

この〉*但し括弧*の中にあるのは僕自身の加へた註釈な

のです。――

[やぶちゃん注:この原稿用紙には右下方罫外右の、13~14マス位置に斜めに、赤いゴム印で、

 

の字が押されている。意味は不明。これは次の原稿にもある。

●「左(さ)に」は初出及び現行は、

 下(しも)に

である。校正過程で変更されたものであろう。]

 

■原稿172(173)

   詩人トツク〔君〕の幽靈に關する報告。(心靈

学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号所載)

 わが心靈〈協〉學協会は先般自殺したる詩人トック

君の舊居にして〈《、》→■〉現在は××寫眞師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を

開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を畧す。)

 〈上記〉*我等*十七名の会員は〔心靈〔学〕協会々長ペツク氏と共に〕九月十七日午〈後十《二》→二

時〉*前十時三十分*〈同ステュディオに参集せり。〉*我等の最も信賴するメ*ディアム、ホツプ夫人を同伴し、該ステュディオの一室に參集〔せ〕り。ホ

[やぶちゃん注:前原稿注で示した通り、この原稿にも右下方罫外右の、14マス位置と、その斜めやや左下に、前原稿と全く同じ赤いゴム印で、

 

の字が2箇所に押されている。

●「心靈学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号」この変更は妙に気になる。この号数では不都合な理由が、芥川龍之介にはあったのではあるまいか?

●「トック」及び抹消も含めて3箇所の「ステュディオ」、「メディアム」の促音表記は総てママである。勿論、総て初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿173(174)

ツプ夫人は該ステュディオに入るや、既に心靈的

空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐す

ること数囘に及べり。夫人の語る所〈に〉**よれ

ば、こは詩人トツク君の強烈なる煙草を愛し

たる結果、その心靈的空気も亦ニコティンを含

有する爲なりと云ふ。

 我等会員〈《は》→も〉**ホツプ夫人と共に圓卓を繞りて

〈《坐せることは定例》→言を費するを待たざる可し。〉*默坐したり。*夫人

は三分二十五秒の後、極めて急劇〈に〉*なる*夢遊状態

に陷り、且詩人トツク君の〈靈魂〉*心靈*の憑依する所

[やぶちゃん注:

●「ステュディオ」「ニコティン」の促音はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「三分二十五秒」初出及び現行は、
 十分二十五秒
となっている。ゲラ校正での改訂か。トランス状態に陥るには確3分25秒よりは10分25秒の方が「リアル」とは言えるように思われる。]

 

■原稿174(175)

となれり。我等会員は年齡順に從ひ、夫人に

憑依せるトツク君の心靈と左の如き問答を開

始したり。

 問 君は何〈を〉故に幽靈に出づるか?

 荅 死後の名声を知らんが爲なり。

 問 〈死後■ 〉君――或は〈君等〉心靈〔諸君〕は死後も尚名声

を欲するや?

 荅 少くとも予は欲せざる能はず。然れど

も予の邂逅したる日本の〈或〉**詩人の如きは死後

の名声を輕蔑し居たり。

 

■原稿175(176)

 問 〈その詩人の名は〉*君はその詩人の姓*名を知れりや?

 荅 〈彼《は》→の名は〉*予は不幸*にも忘れたり。唯彼の好んで

作れる十七字詩の一章を記憶〈す〉**るのみ。

 問 その詩は如何

 荅 「古池や蛙飛びこむ水の音」

 問 君はその詩を佳作〈とする〉*なりと做す*や?

 荅 〈《必しも悪作ならざるべし。》〉*予は必しも惡作なりと做さず。*唯「蛙」を「河童」

とせん乎、〈一層佳作〉*更に光彩*陸離たるべし。

 問 〈その理由は如何?〉*然らばその理由は*如何?

 荅 我等河童は〈蛙よりも河童〉*如何なる藝術*にも河童を求

[やぶちゃん注:

●「知れりや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。

●「その詩は如何」はママ。初出及び現行は、

 その詩は如何?

と「?」がある。

●「古池や蛙飛びこむ水の音」初出及び現行では、

 「古池や蛙飛びこむ水の音」。

と句点有り。]

 

■原稿176(177)

むること痛切なればなり。

 〈座〉**長ペツク氏はこの〈当〉時に當り、我等十七名

の会員にこは心靈学協会の臨〈■〉**調査会にし

て合評会にあらざるを注意したり。

 問 〈《君等心靈》→諸君〉*〈唯〉心靈諸君*〈の如何に生活するか?〉*の生活は如何?*

 荅 〈無爲にして消光〉*諸君の生活と異*なること無し。

 〈荅〉** 然らば君は君自身の自殺せ〈る〉**を後悔す

るや?

 荅 必しも後悔せず。予は心靈的生活に倦

まば、更にピストルを取りて自活すべし。

[やぶちゃん注:最後の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「異なること無し」初出及び現行は、

 異(ことな)ること無(な)し

と、「な」を送っていない。

●「後悔するや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。]

 

■原稿

 問 自活〈は〉するは容易〈■〉なりや否や?

 トツク君の心靈はこの問に荅ふるに更に問

を以てしたり。こはトツク君を知れるものに

〈荅〉頗る自然なる應酬なるべし。

 荅 自殺するは容易なりや否や?

 問 〈君等〉*諸君*〈心靈〉の生命は永遠なりや?

 荅 我等〈心靈〉*の生命*に関しては諸説紛々として

〈解〉信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、

佛教、モハメツド教、拜火教、等〈儒教、〉*の諸*宗あるこ

とを忘るる勿れ。

[やぶちゃん注:最初の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モハメツド教」初出及び現行は、

 モハメツト教

である。

●「拜火教、等」はママ。初出及び現行には読点はない。]

 

■原稿178(179)

 問 君自身の信ずる所は如何?

 荅 予は常に懷〈義〉**主義者なり。

 問 然れども君は少くとも心靈の存在を疑

はざるべし?

 荅 〈《諸君の》→余は不幸にも諸君の如く〉*諸君の如く確信する能は*ず。

 問 君の交友の多少は如何?

 荅 〔予の交友は〕古今東西に亘り、〈無慮〉三百人を下らざるべ

し。その著名なるものを挙ぐれば、クライス

ト、マインレンデル、ワイニンゲル、………

 〈荅〉** 君〈は自殺者〉*の交友は*自殺者のみなりや?

[やぶちゃん注:

●この原稿には右上罫外に鉛筆書きで、

 棒組

という大書がある。棒組とは、活字組版に於いて版下を作成する際、レイアウトを無視して本文を決められた組み体裁でまず最初に全部組んでしまうことをいう校正用語。組んだものが棒のように細長くなるのでこの名がある。文字校正(棒組みのゲラは棒ゲラという)を済ませてから改めて正式なレイアウト通りに配置する。レイアウトが複雑且つ文字の直しによる大幅な組み替えが予測される場合に、この棒組みにすることが多い(以上は株式会社イーストウエストコーポレーションの「図解DTP用語辞典」の「棒組み」の記載に拠った)。ここは問答形式で問と答が一字下げで、台詞がそこからまた一字下げとなり、それがまた2行に及ぶ場合の字下げなどの問題があったからであろうか(実際には、2行目以降は字下げ無しで1マス目まで上がっている)。しかし、であれば、この問答が始まる「■原稿174(175)」にこそ附されていなくてはならないように思われ、不審である。識者の御教授を乞うものである。

●「君自身の信ずる所は如何?」初出及び現行は、

 君自身の信ずる所は?

である。前後の問の表現表記癖から判断して、原稿が正しいと断言出来る。]

 

■原稿179(180)

 荅 必しも然りとせず。自殺を弁護せるモ

ンテェ〈■〉**ユの如きは予が畏友の一人なり。唯予

〈自殺せざり〉*自殺せざり*し厭世主義者、―――シヨオペン

ハウエルの輩とは交際せず。

 問 シヨオペンハウエル〈の〉**健在なりや?

 荅 彼は〔目下〕心靈的厭世主義を〈講じ〉*樹立し*自活する

可否を論じつつあり。然れどもコレラも黴菌

病なりしを知り、頗る安堵せるものの如し。

 我等会員は相次いでナポレオン、孔子、ド

ストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、

[やぶちゃん注:6行目の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モンテェ〈■〉**ユ」「ダアウィン」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿180(181)

釈迦、〈ダンテ、〉デモステネス、ダンテ、千の

利休等の心靈の消息を質問したり。然れどもト

ツク君は不幸にも詳細に荅ふることを〈做〉**

ず、反つてトツク君自身に關する種々の〈消〉*ゴシ

ツプ*を質問したり。

 問 予の死後の名声は如何?

 荅 〈群小詩人の一人〉或批評家〈曰?〉は「群小詩人の一人」と言へり。

 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含

める一人なるべし。予の全集は出版せられしや

 

■原稿181(182)

 荅 君の全集は出版せられたれども、賣行

甚だ振はざるが如し。

 問 予の全集は三百年の後、―――即ち著作

權の失はれたる後、万人の購ふ所となるべ

し。予の同棲せる〈友〉女友だちは如何?

 荅 彼女は〈《目下弁護士のラツク君》→弁護士ラツク君の夫人と〉*書肆ラツク君の夫人と*なれり。

 問 彼女は〔未だ不幸にも〕ラツクの〈眼?〉義眼なるを知らざる

なるべし。予が子は如何?

 荅 國立孤兒院にありと聞けり。

 〈問〉トツク君は暫く沈默せる後、新たに質問を

 

■原稿182(183)

開始したり。

 問 予が家は如何?

 荅 某寫眞〈《師》→家〉**のステュデイオとなれり。

 問 予の机は如何になれ〈りや?〉*るか?*

 荅 如何なれるかを知るものなし。

 問 予は予の机の抽斗に予の祕藏せる一束

の手紙を―――然れども〈こは〉*こは*幸ひにも多忙な

る諸君の関する所にあらず。今やわが心靈界

〈の空には万朶の《黒?墨?》雲→《黒》→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。予は諸君と訣別

すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良な

[やぶちゃん注:

●「ステュデイオ」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「今やわが心靈界〈の空には万朶の《黒?墨?雲》→黒雲→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。」の部分は複雑で記号で総てを示し得ていない。ここで改めて推敲過程の推定を説明したい。因みに「徐(おも)ろ」というルビはママである。

 まず、芥川は、

 今やわが心靈界の空には万朶の

まで書いて、次に、

 黒

若しくは、その「黒」の(れっか)の下部に有意な横画らしきものが認められる点や「黒」の字がやや上部に書かれているところからは、

 墨

と書いた。恐らくは

 黒雲

のつもりであろう。ともかく気に入らなかった「黒」の字か、誤った「墨」の字を、

 黒

と訂したのである。しかし、結局、この表現全体が気に入らなくなって、

 今やわが心靈界の空には万朶の黒雲

総て抹消し、9行目1マス目右に、

 の

から始まる訂正を施そうとした。ところが、この「の」がまた気に入らずに再び抹消した。仕切り直しのためか、今度は改めて9行目左側冒頭から、

 は徐ろに薄暮に沈まんとす。

と続けたのであった。ところが、今度はこの「徐」の字が何故か気に入らなくなった(最終画辺りで文字が汚く潰れたためか?)。ところが、訂する余白がない。そこで、この字を潰した後、右上へと線を伸ばし、7~8行目上方罫外の余白に、

 徐

と吹き出しのようにして訂正し。ルビを振った。ところがそのルビは、

 おも

「む」がなかった。本文訂正部分は「ろ」しか送っていないから、原稿を見るとこれは、私が示した通り、

 徐(おも)ろに

となってしまうのである。初出及び現行では、

 徐(おもむろ)に

と「ろ」も吸収されている。恐らく校正過程で訂せられたものであろう。因みに私の印象では芥川は、「おもむろ」は「徐ろ」と送る傾向が強かったように思われる。されば芥川としてはこの原稿通りの「徐ろ」としたかったものと判断するものである。]

 

■原稿183(184)

る諸君。

 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に

覚醒したり。我等十七名の会員はこの問荅の

眞なりしことを上天の神に誓つて保證せんと

す。(尚又我等の〈賴〉信賴するホツプ夫人に對す

る報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に從

ひて支弁したり。)

[やぶちゃん注:以下、3行余白。]

2013/07/01

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十四 附 芥川龍之介カット入自筆原稿画像

■原稿146(147)

       十四

 

[やぶちゃん注:「十四」は4字下げ。本文は2行目から。]

 

 僕に宗教と云ふものを思ひ出させたのはか

う云ふマツグの言葉です。僕は勿論物質主義

者ですから、〈宗教《的》→《にはさ?》→などと云ふこと〉*眞面目に宗教を考へ*たことは一

度もなかつたのに違ひありません。が、この

時はトツクの死に或感動を受けてゐた爲に一

体河童の宗教は何であるかと考へ出したので

す。僕は早速学生のラツプにこの問題を尋ね

て見ました。

 「〈基〉それは基督教、佛教、モハメツト教、拜火

 

■原稿147(148)

教なども行はれてゐます。まづ一番勢〈■〉力のあ〈る〉**

のは何と言つても〈近〉**代教でせう。生活教と

も言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つて

ゐないかも知れません。〔この〕原語は Quemoocha

す。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に〈とれば

よろしい〉*当るでせう*quemoo 〈は「生きる」と《訳》→訳するもの〉*の原形(げんけい) quemalは單に「生きる」

と云ふよりも「飯を食つたり〔、〕酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。)

 「ぢやこの国にも教会だの寺〈(てら)〉(じ)〔院〕院だのは〈ない〉*ある*訣(わけ)〈ではない〉**のだね?」

[やぶちゃん注:

●「まづ一番勢〈■〉力のあ〈る〉**のは」は初出及び現行では、

 まづ一番勢力のあるものは

となっている。

●『quemoo 〈は「生きる」と《訳》→訳するもの〉*の原形(げんけい) quemalは單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり〔、〕酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。』は整序すると(読みは除去する)、

 quemoo の原形 quemalは單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。

とある。しかし現行では(初出は「交合」が「……」になっているので問題にしないが、恐らくは初出もそこを除けば以下と同じと推測される)、

 quemoo の原形 quemal の譯は單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。

と、「譯は」が入っている。これはゲラ校正での芥川の追加指示の可能性が高い。]

 

■原稿148(149)

 「常談を言つてはいけません。近代教の大(だい)寺

院などはこの国一の大建築で〈よ〉すよ。どうで

す、ちよつと見物に行つては?」

 或〈妙に〉生温(なまあたたか)い曇天(どんてん)の午後、ラツプは得々と僕と

一しよにこの大寺院へ出かけました。成程そ

れは〈《その国でも》→■■〉*ニコライ堂*の十倍もある大〈健〉〔建〕築(だいけんちく)です。のみ

ならずあらゆる建築樣式を一つに組み上げた

大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、髙

い塔や円屋根(まるやね)を眺めた時、何か無気味にさへ

感じました。實際それ等(ら)は天(てん)に向つて伸びた

[やぶちゃん注:

●「〈《その国でも》→■■〉*ニコライ堂*」非常に悔しいのであるが、抹消字が判読出来ない。最初の字はカタカナの「コ」のようにも見えるが……(当初、「ヨーロ(ツパ)」と書こうとしたのかとも考えたが、拡大して見ると「ヨ」ではなく、その下の縦線を長音記号と採るのにも無理があり、何より「ロ」では書き順がおかしくなる)。どなたか推理を試みてみて戴きたい。芥川はなんと書き換えようとしたのか?

 

■原稿148(149)

〈にさへ感じました。実際それ等(ら)は天に向つて

伸びた〉無数(むすう)の觸手(しよくしゆ)のやうに見えたもの〔で〕す。僕

等は玄関の前に佇んだまま、(〈その又僕《は》→等〉*その又玄関*に比

べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう

!)暫らくこの〈健〉**築よりも寧ろ途方(とはう)もない怪

物に近い稀代(きだい)の大寺院を見上げてゐました。

 大寺院の〈中(なか)〉*内部*も亦廣大です。〈《美》→コ〉*そのコ*リント風の

円柱(ゑんちう)の立つた中(なか)に〔は〕參詣人(さんけいにん)が何人も歩いてゐま

した。しかしそれ等は僕等(ら)のやうに非常に小

さく見えたものです。〈《僕》→ラツプは〉*そのうち*に僕等は〈嘴(くちばし)の〉*腰の*

[やぶちゃん注:

●この原稿の冒頭にはやや不審がある。前の原稿末から単純に続けてみると、

 實際それ等(ら)は天(てん)に向つて伸びた〈にさへ感じました。実際それ等(ら)は天に向つて伸びた〉無數(むすう)の觸手(しよくしゆ)のやうに見えたもの〔で〕す。

であるが、さらに単純に整序して初期原稿に復元してみると(読みは除去)、

 實際それ等は天に向つて伸びたにさへ感じました。

がそれとなる。しかし「伸びたにさへ感じました」というのは芥川らしからぬおかしな謂いである。もしかすると、芥川は単に頁替えの際に書き損じただけなのかも知れない。ただ極めて類似した書き換えを正式マス上で立て続けにしているというのは、やはり普通ではないとは言っておきたいのである。]

 

■原稿150(151)

〈反(そ)〉*曲(まが)*つた一匹の河童に出合ひました。するとラ

ツプはこの〈前?〉河童にちよつと頭(あたま)を下)さ)げた上(うへ)、丁

寧にかう話しかけ〈たのです。〉*ました。*

 「長(ちやう)老、不相変御〈がま〉*達者*〈い?〉のは何より〈も〉**

す。」

 相手の河童〈は〉**お時宜をした後(のち)、やはり丁寧に

返事をしました。

 「これはラツプさんですか? あなたも不相

變、―――(と言ひかけ〈な〉**がら、ちよつと〈狼狽〉言葉を

つがなかつたのはラツプの嘴(くちばし)の腐つてゐるの

[やぶちゃん注:

●「長(ちやう)老、不相変御〈がま〉*達者*〈い?〉のは何より〈も〉**です。」この部分、初出及び現行は、

 「長老(ちやうらう)、御達者(ごたつしや)なのは何よりもです。」

で、「不相變」が、ない。ゲラ校正で芥川が削ったものか?

 さて、私は何故、芥川がこれを削ったのかを推理してみたくなった。何故ならこの原型を見ると、以下のように別なラップの挨拶の台詞が立ち現われてくるように思われたからである(判読不審の「い」を「い」と確定する)。それは

 「長老、不相変御がまないのは何よりも」

という始まりを持つものである。そうしてこれを凝っと見ていると、この章の後文の(現行本文から引用)、

   《引用開始》

それからラツプは滔々と僕のことを話しました。どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に來ないことの辯解にもなつてゐたらしいのです。

   《引用終了》

おという箇所、また、ラップが長老から「僕」に生活教の聖書を見せて差し上げたか、と問われたのに対して、ラップが(現行本文から引用)、

   《引用開始》

 「いえ、……實はわたし自身も殆ど讀んだことはないのです。」

 ラツプは頭の皿を搔きながら、正直にかう返事をしました。が、長老は不相變靜かに微笑して話しつづけました。

   《引用終了》

と答えるシーンの描写などが思い出されて来るからである。即ち、ラップは上辺では生活教の信者ではあるものの、聖書さえ碌に読んだことのない、すこぶる附きの不勉強で不信心な信徒であることが暴露されるのである。とすれば、このラップの最初の挨拶の原型は、現行のような長老の長寿の言祝ぎなどではなく、ラップ自身の不信心、具体的には教会に永く参っていないことを詫びる

 「長老、不相變拜まないのは何よりもお詫び申し上げます。」

といった台詞ででもあったのではあるまいか? 長老の彼の台詞に対する「これはラツプさんですか?」やその末尾の「が、けふはどうして又……」といった応答(特にそのクエスチョンマークに)も、実は当初の、滅多に礼拝しに来ないラップが来たことへの、やや意外な印象が決定稿の長老の台詞に残ったもののように私には読めるのである。但し、「御がまない」という表記は芥川らしくない、稚拙な表記のようには思われる。が、そもそもこれは芥川の台詞ではなく、河童青年ラップの台詞なのであるから、私はそれもアリか、とも思うのである。――大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿151(152)

にやつと気がついた爲だつたでせう。)―――〈兎〉

あ、兎に角御丈夫〈と見〉らしいやうですね。が、け

ふはどうして又………」

 「けふはこの方(かた)〈を案内〉*のお伴を*して來たのです。この

方は多分御承知の通り、――」

 〈ラツプ〉それからラツプは滔々(とうとう)と僕のことを話しま

した。どうも又それはこの大寺院へラツプが

〈「〉多に來ないこと〈を〉**弁解にもなつてゐたら

しいのです。

 「就いてはどうかこの方(かた)〈に〉**御案内を願ひたい

[やぶちゃん注:「〈「〉」この8行目の2マス目の鉤括弧の消去は、次のような推理を可能にする。即ち、7行目で終る一文、

 それからラツプは滔々と僕のことを話しました。

の後、芥川は改行し、8行目に鍵括弧を打ってラップの台詞を入れようとした。しかし、考え直して、更なるラップの内実の暴露となる、

 どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に來ないことを

と続けたことを意味しているのではあるまいか?]

 

■原稿152(153)

〔と思ふ〕のですが。」

 長老は大樣(おほやう)に微笑しながら、まづ僕に〈挨〉**

をし、靜かに〈大寺院の中を見まは〉*正面の祭壇を指さ*ししました。

 「御案内と申しても、何も御役に立つことは

出來ません。〈■■〉*我々*〈の〉信徒の例拝するのは〈■〉正面

の祭壇にある『生命の樹(き)』です。『生命の樹』には御

覽の通り、金(きん)と綠(みどり)との果(み)がなつてゐます。あ

の金(きん)の果(み)を『善の果(み)』と云ひ、あの綠の果(み)を『惡の

果』と云ひます。………」

 僕はかう云ふ説明の〈中に〉*うち*にもう退屈を感じ

[やぶちゃん注:「靜かに〈大寺院の中を見まは〉*正面の祭壇を指さ*ししました」の部分はママ。「し」がダブっている。勿論、初出及び現行ではダブりはない。]

 

■原稿153(154)

出しました。それは折角の長老の言葉も古い

〈喩〉*比喩*(ひゆ)のやうに聞えたからです。〈《僕はし》→しかし〉*僕は*〔勿論〕熱

心に聞いてゐる容子を裝つてゐました。が、

時々〈大〉は大寺院(だいじいん)の〈中(なか)〉*内部*へそつと目をやるのを忘れ

ずにゐました。〈大寺院の内部は畧図(りやくづ)に《す》**ると、大体(だいたい)下(しも)に掲げる通りです。―――〉



Akussasie

[やぶちゃん注:ここ(7行目から8行目の3マス目以下8マス目まで)に以上の教会内部の簡単な図が描かれている(若しくは描きかけた状態)が、前の抹消と同時に絵全体にもぐちゃぐちゃに抹消線が引かれている。無論、初出及び現行にはない(当該画像は底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より挿絵部分のみをトリミングしたものである。原稿153(154)及び154(155)の全体画像は後注に掲載する。なお、これらの画像転載については国立国会図書館から使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら。]

 

 コリント風(ふう)の柱、ゴシク風(ふう)の〈フ〉*穹窿(きうりう)*〈セセツ

[やぶちゃん注:

●「〈フ〉*穹窿(きうりう)*」「フ」と判読したのは、芥川はここで「フアサード」と書こうとしたものと推定したからである。しかし、ファサード(façade)とは建築物の外装正面(側面・背面を指すことも可能であり、若しくはそのデザインを謂う場合もある)を指すものであって内部構造の謂いではないことから(実際にファサードと内部構造は一致すする場合もあれば、全く異なる場合もある)、芥川は止めて、かくしたのではなかったかと私は推理するものである。これは英語の碩学芥川龍之介に対して失礼な推理であろうか?]

 

■原稿(154(155)

シヨン風の祈〉*アラビアじみた市松(いちまつ)*模樣の床(ゆか)、セセツシヨン紛(まが)ひの

祈禱机(きたうづくゑ)、―――かう云ふものの作つてゐる調和

〈何か〉*妙に*野蛮(やばん)な美(び)を具(そな)へてゐま〈す〉*した*。しかし僕の

目を惹いたのは何よりも両側の龕(がん)〈にある〉*の中に*ある

〈十〉大理石の半身像です。〈それ等は何か〉*僕は何かそれ*等の像を

見知つてゐるやうに思ひました。それも亦不

思議〔で〕はありません。あの〈嘴(くちばし)の反〉*腰の曲(まが)*つた河童は「生

〈命〉命(せいめい)の樹」の説明を了(おは)ると、今度(ど)は僕やラツプ

と一しよに右側の龕(がん)の前へ歩み寄り、〈かう云〉その龕(がん)

の中(なか)の半身像にかう云ふ説明を加へ出しまし

[やぶちゃん注:以下に底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より原稿153(154)及び154(155)の全体画像掲げる(この画像転載については国立国会図書館から使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら
これによって、私が記号を附す基準や、私がどれだけ細かに原稿を再現し、注釈を加えているかということなども、国立国会図書館ホームページの底本画像を見ないでも比較出来るので、是非比較して(ブログの場合は拡大並置〈右クリックの別ウィンドウ表示〉で)ご覧戴きたいと思う。ブログのアップ可能な画像容量が1MBであるため、ぎりぎりの大きさまで縮小してあるが、それでもかなり細部まで観察出来るものと思う。

Akugen
 

●「龕(がん)〈にある〉*の中に*ある〈十〉大理石の半身像です」この抹消は興味深い。この生活教の大教会の聖徒を、芥川が「十」人以上想定していたことが、ここで明らかになるからである。実際に語られる聖徒の数は7人(但し、7人目が誰かは語られない。因みに、この7人目を私は夏目漱石であったと推理している。それについて興味のあられる御仁は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の当該注『7「第七の龕の中にあるのは……」』をお楽しみあれかし)。

●「〈それ等は何か〉*僕は何かそれ*等」画像と比較されると分かると思うが、実際には「〈それ等は何か〉」の最後の「か」は抹消線が延びていない。それでも補正した「僕は何かそれ」の「れ」が「か」のマスの相当位置に字数も一致して右書きされているので、文選工は過たず、「か」も外したはずである。

●「〈命〉命(せいめい)の樹」この「せい」のルビは、前行末の「生」にではなく、抹消した「〈命〉」に「せい」と附されている。

●「了(おは)る」ルビの「お」はママ。明らかに「お」で「を」ではない。無論、初出及び現行は正しく「了(をは)る」とルビされてある。]

 

■原稿155(156)

た。

 「これは我々の聖徒(せいと)の一人(ひとり)、―――〔あらゆるものに反逆し(はんぎやく)た〕聖徒ストリ

ントベリイです。この聖徒はさんざん苦しん

だ揚句(あげく)、スウェデンボルグの哲学の爲に〈哲〉救はれ

たやうに言はれてゐます。が、実は救はれな

かつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生

〈宗〉**を信じてゐました。―――と云ふよりも信

じる外はなかつたので〈す。〉*せう。*〈《勿論たは》→かな〉*この聖徒の*我々

に殘した「傳説」と云ふ本を讀んで御覽な〔さ〕い。こ

の聖徒も自殺未遂者(じさつみすゐしや)だつたことは聖徒自身告

[やぶちゃん注:

●「スウェデンボルグ」「ェ」は明らかな促音表記。初出及び歴史的仮名遣版では、「スウエデンボルグ」。

●「傳説」の鉤括弧は初出及び現行では

 『傳説』

と二十鉤括弧である。]

 

■原稿156(157)

白してゐます。」

 僕はちよつと憂欝になり、次の龕へ目を〈■〉

りました。次の龕(がん)にある半身像は口髭の太(ふと)い

独逸人です。

 「これはツァラトストラ〈を〉の詩人ニイチエです。そ

の聖徒(せいと)は聖徒自身の造つた超人に救ひを求め

ました。が、やはり救はれずに気違ひになつ

てしまつたのです。若し気違ひにならなかつ

たとすれば、或は聖徒の数へはひることも出

來なかつたかも知れません。〈」〉………」

[やぶちゃん注:

●「ツァラトストラ」「ァ」は明らかな促音表記。初出及び歴史的仮名遣版では、「ツアラトストラ」。]

 

■原稿157(158)

 長老はちよつと默つた後(のち)、第三の龕〈へ移り

ました。〉*の前へ案内し*ました。

 「三番目〈は〉**あるのはトルストイです。この聖

徒は誰(たれ)よりも苦行をしました。それは元來貴

族だつた爲に〈苦しみを見せ〉*好奇心の多い公衆に苦しみを見

*ることを嫌つたからです。この聖徒は事実

上信ぜられない基督を信じようと努力しまし

た。〈が、とうとう最後には如何に〉*いや、信じてゐるやうにさへ*公言(こうげん)した〈の〉

〔ともあつたの〕です。しかしとうとう晩年には悲壯な譃つき

だつた〈こ?〉**〈が?〉**堪へられないやうになり〈ま?〉**

[やぶちゃん注:

●「〈が、とうとう最後には如何に〉*いや、信じてゐるやうにさへ*公言(こうげん)した〈の〉こ〔ともあつたの〕です。」この一文は、芥川の脳内にあった最初の表現からの推敲過程で、非常に呻吟している様子――これはトルストイがというよりも、芥川龍之介自身が最後の救いとして求め、そして放棄したキリスト教への(「キリストへの」では断じてない!)アンビバレントな感情が私には窺われてならないのである。]

 

■原稿158(159)

た。この聖徒も時々書斎の梁(はり)に恐怖を感じた

のは有名です。〈しかし〉*けれども*聖徒の數にははひつて

ゐる位(くらゐ)ですから、勿論自殺したのではありま

せん。」

 〈僕は四の龕を見ると、*第四の龕の中の半身像*〈意外に《は》→も〉*我々日本人*の一人(ひとり)

です。僕はこの〈■?〉**本人の顏を見た時、〈意外の感に堪〉*さすがに懷し*さを感じました。

 「これは国木田独歩です。〈鐡道〉轢死する人足(にんそく)の心

もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかし

〈あなたには〉*それ以上の*説明は〈勿論〉あなたには不必要〈でせ

[やぶちゃん注:

●「この〈■?〉**本人」抹消字は「亻」(にんべん)である。全くの勘であるが、「作」ではあるまいか? 芥川は国木田独歩であるから「この作家」と書こうとしたのではなかったか?]

 

■原稿159(160)

ね。〉*に違ひあ〈■〉**ません。*では〈六番目〉*五番目*の龕(がん)の中を御覽下

さい。―――」

 「これはワ〈ア〉グネルではありませんか?」

 「さうです。国王の友だちだつた革命〈家〉**

す。聖徒ワグネルは晩年には食前(しよくぜん)の祈禱(きたう)さへ

してゐました。しかし勿論基督教〈〔徒〕〉よりも〈我々の

教徒〉*生活教の信*徒の一人(ひとり)だつたのです。〈」〉 〈その聖徒〉*ワグネル*の残

〈僕らはもうその〉*た手紙によれば、〈死は何度(なんど)〉*娑婆苦は*何度(なんど)〈死の〉*この*聖徒を

死の前(まへ)〈へ立たせ〉*に驅りやつ*たかわかりません。」

 僕等(ら)はもうその時には六の龕の前に立つ

[やぶちゃん注:

●「生活教の信徒の一人だつたのです。〈」〉」当初は長老のワグネルの解説はここで終って、次の行が一字空けて現在の次の段落の頭、「僕等はもうその」まで書かれてあったのである。ところが、ここで芥川は鍵括弧を抹消し、ワーグナーの自死願望をわざわざ附け加えたのだということが分かるのである。私は、生活教の「聖徒」に選ばれるためには、狂的な生活史の体験者であること加えて、『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない)男』である必要があるのだと考えている(その論証は『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』に詳しく記したので参照されたい)。この部分、ここまでだとルートヴィヒ二世の「狂王」の方の印象が強過ぎて、ワーグナーが聖徒(セイント)に選ばれるための必要絶対条件が示されていないのである。]

 

■原稿160(161)

てゐました。

 「これは聖徒ストリントベリイの友だち〔で〕す。子

供の大勢ある細君(さいくん)の代(かは)りに十三四の〈黑人の女〉*タイテイの*

女を娶(めと〈つ〉)つた〈株屋〉*商賣人*上りの佛蘭西の画家です。こ

の聖徒は太い血管(けつくわん)の中(なか)に水夫(すゐふ)の血(ち)を流してゐ

ました。が、唇を御覽なさい。砒素(ヒソ)か何かの

痕(あと)が殘つてゐます。〈」〉第七の龕(がん)の中(なか)にあるのは

………〈あとは〉もうあなたはお疲れでせう。ではどう

かこちらへお出(い)で下さい。」

 僕は實際疲れてゐましたから、〈ラツプと一〉*ラツプ〈の〉*****

 

■原稿161(162)

しよに長老に從ひ、香の匂(にほひ)のする廊下傳ひに

或部屋へはひりました。〈それはヴェヌスの像の

前に〉*その又小さい部屋の隅には*黒いヴェヌスの像の下に山葡萄(やまぶだう)が一ふさ〈■〉**じてあるので〈す〉**。僕は何の裝飾もない僧房

を想像してゐただけにちよつと意外に感じま

した。すると長老は僕の容子にかう云ふ気も

ちを感じたと見え、僕等(ら)に椅子を薦める前(まへ)に

半ば気の毒さうに説明しました。

 「どうか我々の宗教の生活教であることを忘

〈れずに下さい。我            〉

[やぶちゃん注:

●「ヴェヌス」抹消部も含めて二箇所とも「ェ」は有意な促音表記である。初出及び歴史的仮名遣の現行では「ヴエヌス」である。

●「〈■〉**じてある」の抹消字は「扌」(てへん)であるから、「捧げてある」としようとした可能性がある。

●最終行の抹消は特異である。「れずに下さい。我」まで書いて(これは次の通り、復元されるのだが)、まず、その「れずに下さい。我」に薄い先行抹消の波線が認められる。その後、「さ」の位置から濃い抹消の波線がさらに加えられている。ところが、その下部「我」以下の空欄に伸びるほぼ中心をうねる抹消の波線以外に5箇所ほど、違う短い曲線抹消線断片が重なって記されている。こういう神経症的な抹消線はこれまでには殆んど見られない。これはその短いものが前だったのか後だったのかは判然としないが、何か芥川の非常な逡巡苦吟の跡のようにも見えるのである。]

 

■原稿162(163)

れずに下さい。我々〈は〉**神、―――『生命の樹』の教

へは『旺盛(わうせい)に生きよ』と云ふのですから。〈」〉………ラ

ツプさん、あなたはこの〈方〉*かた*に我々の聖書をお

覽に入れましたか?」

 「いえ、………実はわたし自身も殆ど讀んだこ

とはないのです。」

 ラツプは〔〈頭(かしらの〉頭(あたま)の〕皿(さら)を搔きながら、正直にかう返事

をしました。が、長老は不相変靜かに微笑し

て話しつづけました。

 「〈ではでは〉*それでは*おわかりなりますまい。我々の

[やぶちゃん注:

●「我々の聖書をお覽に入れましたか?」ここは無論、初出及び現行では「御覽に」となっている。しかしここはどうみても真正のひらがなの「お」である。校正のどこかで直されたものかとも思われるが、このミスは実は芥川が当初、「聖書を御覽に入れしたか?」ではなく、「お見せしましたか?」と考えていた痕跡のようにも思われる。]

 

■原稿163(164)

神は一日(にち)のうちにこの世界を造りました。(『生

命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないこ

とはないのです。)のみならず〈《■》→■〉*雌(めす)*の河童(かつぱ)を造り

ました。〈《雌の河童》→しかし〉*すると雌の*河童は退屈の余り、雄の

河童を求めました。我々の神は〈《雌の》→この願ひ〉*この歎き*を憐

み、雌の河童の腦髓を取り、雄の河童を造り

ました。我々〈《の》→は皆〉の神はこの二匹の河童に『〈生《■》き〉*食へ(く)*

よ、交〈尾〉**せよ、旺盛(わうせい)に生(い)きよ』と云ふ祝福を与(あた)

へました。…………」

 僕は〈かう云ふ言〉*長老の言葉*のうちに詩人のトツクを思

[やぶちゃん注:

●「〈《■》→■〉*雌(めす)*の河童(かつぱ)を造りました」この抹消字が判別出来ないのは、芥川がどのように河童の国の生活教に於ける創世神話を構築しようとしたかが窺える部分であるだけに、残念である。敢えて記すと、「〈《■》→■〉雌」の最初の抹消字は「又」若しくは「女」、次に書き変えて抹消した字は「男」の書きかけのようにも見える。]

 

■原稿164(165)

ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕の

やうに無神論者です。僕は河童ではありませ

んから、生活教を知らなかつたのも無理はあ

りません。けれども〈トツクは河童でもあり、

生に〉*河童の國に生まれたト*ツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です〈。〉**僕は

この教へに從はなかつたトツクの最後を憐み

ましたから、〈手短かにトツクの話をした上、〉*長老の言葉を遮るやうにト*

クのことを話し出しました。

 「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」

 長老は〈唯歎息〉僕の話を聞き、深い息を洩らしまし

 

■原稿165(167)

た。

 「〈《■》→トツクさん〉*我々の運命*〈■〉定めるものは〔〈神意〉信仰と〕境遇と偶然と〈の〉

〈よる〉だけです。(尤もあなた〈方(がた)〉*がた*はその外(ほか)に遺傳

をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸に

も信仰をお持ちにならなかつたのです。」

 「トツク〔君〕はあなたを羨ん〈だ〉*でゐた*でせう。いや、僕

〈《も》→さへ〉**羨んでゐます。〈」〉ラツプ君などは年も若〈い〉**

し、………」

 「僕も嘴(くちばし)さへちやんとしてゐれば或は樂天的

だつたかも知れません。」

[やぶちゃん注:「トツク〔君〕」この君は初出及び現行にはない。わざわざ後から芥川は挿入しており、後に「ラツプ」にも「君」が附いている。自殺者だから長老への会話では憚って外したというのは苦しい主張だ。ここには「君」があるのが正しいと私は思う。それが主人公「僕」の優しさであるからだ。]

 

■原稿166(167)

 〈「〉長老は僕等にかう言はれると、もう一度深

い息(いき)を洩(も)らしました。しかもその目は涙ぐん

だまま、ぢつと〈《壁懸け》→燭台〉*黒いヴエヌス*を見〔つめ〕てゐるのです。

 「わたし〈は〉**実は、―――これはわたしの秘密で

すから、どうか誰にも仰有らずに下さい。―――

わたしも実は我々の神を信ずる訣に行かな

いのです。しかし〈今度〉*いつ*かわたしの祈禱は、〈――〉*―――

*

 丁度長老のかう言つた時です。突然部屋の

戸があいたと思ふと、大きい雌の河童〈か?〉**

 

■原稿167(168)

匹、いきなり長老へ飛びかかりました。〈《僕や》→ラツ

プや僕〉*僕等*がこの〔雌の〕河童を〈《押》→**さへや〉*抱きとめよ*うとしたのは勿

論です。が、雌の河童は咄嗟の間(あひだ)に〈■〉*床(ゆか)*の上(うへ)へ

長老を投げ倒しました。

 「この爺め! 〔けふも〕又〈《けふも酒を》→わたしを欺して行つ

たな〉*わたしの財布から一杯(ぱい)やる金(かね)を*盜んで行つたな!」

 十分ばかりたつた後(のち)、僕〈は〉**〈殆ど〉*實際*逃げ出さ

ないばかりに〔長老夫婦をあとに殘(のこ)し、〕大寺院の玄関を〈あと《に》→**し〉*下(お)りて行き*まし

た。

 「あれ〈は〉**はあの長老も『生命の樹』を信じない〈で〉**

 

■原稿168(169)

です〈。」〉ね。」

 暫く默つて歩いた後(のち)、ラツプは僕にかう言

ひました。が、僕は返事をするよりも思はず

大寺院を振り返りました。大寺院はどんより

曇つた空(そら)にやはり髙い塔や円屋根(まるやね)を無数の触

手(しよくしゆ)のやうに伸ばしてゐます。〈建〉何か沙漠の空に

見える蜃気楼の無気味さを漂はせたまま。……

[やぶちゃん注:以下、2行余白。

●この原稿の罫外左上方の5~6行の上部及び7~8行の上部には、非常に大きな赤インクの、手書きの文字か記号のようなものがある。一見すると前者には、

□の上にT字型若しくは「正」の字のようなものが突出して見え、□の中には何か下部が「士」のような漢字みたようなもの

が見える。また、後者には、

〇の中に左に「忄」のような、右に下部が「士」のような漢字みたようなもの

が見える。この二つは一見異なったもののように見えるが、拡大してよく見ると、

前者の□と後者の〇の中にある文字か記号はどうも同じ、右下部が「士」のような形の文字か記号である

ことが分かる。特殊な校正記号か若しくは校正者の校了・再校(要再校)又はその担当者の名前のサインかなどとも考えたが、不思議なことにどうしても判読出来ない(画像を回転させたりしてみたがどうしてもだめである)。校正経験者の御教授を乞うものである。]

2013/06/26

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十三

■原稿134(135)

     〈《六》→《九》→《八》→九〉十三

 

[やぶちゃん注:「十三」は5字下げに相当。御覧の通り、訂正が甚だしいが、これは何を意味するものか、以下、三箇所連続で「トツク」を「ラツプ」と書き間違えて訂している点も含めて今一つ、不審である。本文は2行目から。]

 

 僕等は〈ラツプ〉*トツク*の家へ駈〈つ?〉**つけました。〈ラツ

プ〉*トツク*は右の手にピストルを握り、〈血だらけにな〉*頭の皿(さら)から血*

を出したまま、〈す?〉**山植物の鉢植ゑの中に仰向

けになつて倒れてゐました。その又側には雌

の河童が一匹、〈ラツプ〉*トツク*の胸に顏を埋め、大声(おほこゑ)

を擧げて泣いてゐました。僕は雌の河童を抱

き起しながら、(一體僕は〈《皮》→河童の皮膚〉*ぬらぬらす*る河童の

皮膚に手を触れること〈は〉**余り好んではゐない

のですが。)「どうしたのです?」と尋ね〈ま〉**した。

 

■原稿135(136)

 「どうしたのだか、わかりません。〈唯〉**何か書

いてゐたと思ふと、いきなりピストルで頭を

打つたのです。ああ、わたしはどうしま〈せ〉**

う? qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」(これは河童の

泣き聲です。)

 「何しろトツク君は〈胃病〉*我儘*だつたからね。」

 〈医者のチヤツクは〉*硝子会社の社長の*ゲエルは〔悲しさうに〕頭(あたま)を振〈り〉**ながら、〈かう言ひました。〉*裁判官のペツプ*にかう言ひました。〈ペツ

プは〉*しかしペ*ツプは何も言はずに金口の巻〈草〉煙草に火を

つけてゐました。すると今まで跪いて〈、〉トツ

[やぶちゃん注:

●「qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」は初出及び現行では、

 qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r
とコンマが入る。現行は筆記体であるが、「r-」の「-」は同様にあって繋がっていない。

●「すると今まで跪いて〈、〉トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」この部分、ちょっと見ると、読点の下のマスに何かを書いて消したようにも見える。校正者もそう思ったものか、ここは初出及び現行では

 すると今まで跪いて、トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは

読点が生きている。しかし、よくここを読んでみて頂きたい。この読点は不要である(寧ろ、読点を打つならば「今まで、跪いてトツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」とした方がよい)。即ち、この芥川のぐるぐると書いた抹消線の意味が分かってくる。これは、この読点を不要と判断して抹消したのである! その証拠に抹消線は有意に読点にかかっているのである。芥川はこの読点を抹消するに際し、下手に小さな抹消をすると、抹消に見えないことを虞れ、わざわざ大きなぐるぐるを下のマスまで延ばし、『この読点は抹消』という意志を校正者に伝えようとしたのだ! 従って、この読点は現行『定本』からは抹消されてしかるべきである、というのが私の判断である。大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿136(137)

クの創口などを調べてゐたチヤツクは如何に

も醫者らし〈く〉**態度をしたまま、僕等五人に宣

言しました。(實は一人と四匹とです。)

 「もう駄目です。トツク君は元來胃病でした

から、それだけでも憂欝になり易かつたので

す。」

 「何か書いてゐたと云ふことですが。」

 哲學者のマツグは弁解するやうにかう独り

語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げま

した。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例

 

■原稿137(138)

外です。)幅の廣いマツグの肩越しに一枚の紙

を覗きこみました。

 「〈岩〉いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。

  岩むらはこごしく、やま水は淸く、

  藥〈草〉**(やくさう)の花はにほへる谷へ。」

 マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と

一しよにかう言ひました。

 「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊〈を〉です

よ。するとトツク君の自殺したのは詩人とし

ても疲れてゐたのですね。」

 

■原稿138(139)

 〈そ〉**こへ偶然(ぐうぜん)自動車を乗りつけたのはあの音

〈の〉家のクラバツクです。クラバツクはかう

云ふ光景(くわいけい)を見ると、暫く〈茫然と〉*戸口(とぐち)に*佇ん〈で〉**ゐま

した。が、〈マツグの〉*僕等(ら)の前(まへ)*へ歩み寄ると、怒鳴りつ

けるやうにマツグに話しかけました。

 「それはトツク〈〔君〕〉の遺言状ですか?」

 「いや、最後に書いてゐた詩です。」

 「詩?」

 マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*

〈紙〉*詩稿*を渡しました。クラバツクは〈トツク〉*あたり*には目(め)

[やぶちゃん注:

●「マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*〈紙〉*詩稿*を渡しました。」初出及び現行と異なる。まず、この原稿部分を整序してみると、

 マツグはやはり騷がずに髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

となるが、実際には初出及び現行は、

 やはり少しも騷がないマツグは髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

である。これは最終ゲラ校正で芥川が変更したもののように私には思われる。]

 

■原稿139(140)

もやらずに熱心にその詩〔稿〕を読み出し〈ま〉**〈た〉

**。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへし

ないのです。

 「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」

 「いざ、立ちて、………僕も亦いつ死ぬかわか

りません。………娑婆界を隔つる谷へ。………」

 「しかしあなたはトツク君とは〈藝術上の〉*やはり*親友

〔の一〈お〉人(ひとり)〕だつたのでせう?」

 「親友? トツクはいつも〈孤〉**独〔だつたの〕です。………娑

婆界を隔つる谷へ、………〈」〉唯トツクは不幸にも、

 

■原稿140(141)

………岩むらはこごしく………」

 「不幸にも?」

 「やま水は〈水〉淸(きよ)く、………あなたがたは幸福です。

………岩むらはこごしく。………」

 僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同

情しましたから、そつと肩(かた)を抱へるやう〈にゆ〉*にし*

部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこ

には二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らず

に笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代(かは)りに

子供の河童をあやしてやりました。するとい

 

■原稿141(142)

つか僕の目にも涙のたまるのを感じ〈まま〉まし

た。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云

ふものをこぼしたのは前(まへ)にも後(あと)にもこの時だ

けです。

 「しかしかう云ふ我侭な河童と一しよになつ

た家族は気の毒ですね。」

 「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」

 裁判官のペツプは不相変新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火を

つけながら、資本家のゲエルに返事を〈《し》→しま〉*してゐ

〔ま〕した。すると〈僕〉僕等を驚かせたのは音樂家のク

[やぶちゃん注:

●「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」岩波旧全集後記校異には、ここは原稿では、

 何しろあとのことを考へないのですから。

となっている旨の記載があるのだが、明らかに視認する限り、芥川は「も」に訂している。不審である。

●「裁判官のペツプは不相変、新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火をつけながら」の部分、初出及び現行は、

 裁判官のペツプは不相変、新しい卷煙草に火をつけながら

と読点が入る。無論、読点があった方がよい。]

 

■原稿142(143)

ラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を

握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。

 「しめた! すばらしい葬送曲(そうそうきよく)が出來るぞ。」

 クラバツクは細い目(め)を赫(かが)〈や〉やかせたまま、ち

よつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ

飛んで行きました。〈のみならずもう〉*勿論もうこの時*には鄰近

所の河童が大勢、トツクの家(うち)の戸口に集〈ま〉**

り、珍らしさうに家(うち)の中を覗いてゐるの〈で〉**

す。しかしクラバツクは〈かう云〉*この河*童たちを遮(しや)二

無(む)二〈押〉左右へ押しのけるが早〈か〉いか、ひらりと自

 

■原稿143(144)

動車へ飛び乗りました。〈と〉同時に又自動車は

爆音(ばくおん)を立てて忽ちどこかへ行つてしまひまし

た。

 「こら、こら、さう覗いてはいかん。」

 裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童

を押し出した後(のち)、トツクの家の戸をしめてし

まひました。部屋の中はそのせゐか急にひつ

そりなつたものです。僕〔等〕はかう云ふ靜かさの

中(なか)に〔―――〕高山植物の花の香(か)に交つたトツクの血(ち)の

匂(にほひ)〈を感じました。が、〉*の中(なか)に後始末(あとしまつ)のこ*となどを相談しま〔し〕た。し

 

■原稿144(145)

かしあの哲學者のマツグだけはトツクの死骸

を眺めたまま、ぼんやり何か考へてゐ〈ま〉ます。僕

はマツグの肩を叩き、「何を考へてゐるのです

?」と尋ねました。

 「河童の生活と云ふものをね。」

 「河童の生活がどうなのです?」

 「我々河童は何と云つても、河童の生活を完

うする爲には、………」

 マツグは多少羞(はづか)しさうにかう小声(こごゑ)でつけ加

へました。

 

■原稿145(146)

 「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ず

ることですね。」

 

[やぶちゃん注:以下、8行余白。]

2013/06/25

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十二

■原稿120(121)

       〈《九》→十〉*十二*

 

[やぶちゃん注:「十二」は5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には右罫外上方から14マスほどまで赤インクで、

 改造 三月号 芥川川氏つゞき

と大書してある(かなり滲んでおり、「つゞき」の周囲にはかなりの赤インクによる汚損がある)。また、「十二」に右には普通の鉛筆書きで、

 5で

とある。活字ポイントの校正指示のように見える。更に、この原稿ではナンバリングの直下に手書きの「121」が書かれているが、それはこれまでの黒鉛筆ではなく、青鉛筆による手書きで、これ以降の手書き番号もその青鉛筆によっている。ただ特異なのは、その右手、8行目罫外上方に、

 よ印120

と赤鉛筆で記されている点と、ナンバリング「120」の右肩に赤インクで、

 ך

大型のチェック(?)が入っている点である。]

 

 或割り合に寒い午後です。僕は〈《あ》→《余り退屈で》〉*「阿呆の言葉」も讀み*

〔飽きま〕したから、哲学者のマツグを尋ねに出かけま

した。すると或〔寂しい〕町の角に〈背〉蚊のやうに瘦せた河

童が一匹、ぼんやり壁によりかかつ〈て〉**ゐま

した。しかもそれは紛れもない、いつか僕の

〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つた河童なのです。僕はし

めたと思ひましたから、〈早速〉*丁度*そこへ通りかか

つた、逞しい巡査を呼びとめました。

 「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あ

 

■原稿121(122)

の河童は丁度一月ばかり前にわたしの〈銀時計〉*萬年筆*

を盜んだのですから。」

 巡査は右手の棒をあげ、(〈河童〉*この國*の巡査は劍

の代りに水松の棒を持つてゐるのです。)〈「〉**

い、〈こら〉**」とその河童へ聲をかけました。〈その〉*僕は*

或はその河童〈が〉**逃げ出しはしないかと思つて

ゐました。が、存外落ち着き拂つて巡査の前

へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだま

ま、〈《如何にも傲然》→巡査の顏や僕の〉*如何にも傲然と僕の顏や巡査の顏*をじろじろ見〈比べ〉てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、〈叮嚀に〉*腹の袋*

 

■原稿122(123)

から手帳を出して〈叮〉早速尋問にとりかかりまし

た。

 「〈君〉*お前*の名は?」

 「グルツク?」

 「職業は?」

 「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐま

した。」

 「よろしい。そこで〈■〉**の人の申し立てによれ

ば、君はこの〈時〉**〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つたと

云ふことだがね。」

[やぶちゃん注:「グルツク?」の「?」はママ。初出及び現行では、

 「グルツク。」

である。]

 

■原稿123(124)

 「ええ、一月ばかり前に盜みました。」

 「何の爲に?」

 「子供の玩具にしようと思つたのです。」

 「その子供は?」

 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎま

した。

 「一週間前に死んでしまひました。」

 「死亡證明書を持つてゐるかね?」

 瘦せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出

しました。巡査はその紙へ目を通すと、急に

 

■原稿124(125)

にやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。

 「よろしい。どうも御苦勞だつたね。」

 僕は呆氣にとられたまま、巡査の顏を〈■〉**

てゐました。〔しかも〕そのうちに〈もう〉瘦せた河童は何

かぶつぶつ呟きながら、僕等〈を〉**後ろに〔して〕行つて

しまふのです。僕はやつと気をとり直し、か

う巡査に尋ねて見ました。

 「どうしてあの河童を摑まへない〈ん〉**です?」

 「あの河〈■〉**は無罪ですよ。」

 「しかし僕の〈銀時計〉*萬年筆*を盜んだのは………」

 

■原稿125(126)

 「子供の玩具にする爲だつたのでせう。〔〈しかも〉*けれども*〕その

子供は〈もう〉死んでゐるのです。若し何か御不

審だつたら、刑法千二百八十五條をお調べな

さい。」

 巡査はかう言〈つ〉**すてたなり、さつさとどこ

かへ行つてしまひました。〈僕は〉*僕は*仕かたがあり

ませんから、「刑法千二百八十五條」を〈繰り返し〉口の中に

繰り返し、マツグの家へ急いで行(い)きま〔し〕た。哲

学者のマツグは〈不相変古色の色硝子のランタ〉*客好きです。現にけふも薄暗*

い部屋には裁判官のペツプ〈だの〉**医者のチヤツク

 

■原稿126(127)

や硝子会社の社〈会〉長のゲエルなどが集り、〈例

の〉*七色の*色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立

ち昇らせてゐました。〈僕は〉そこに裁判官のペツプ

が來〈た〉てゐたのは何よりも僕には好都合〔で〕す。僕

は椅子にかけるが早いか、〈早速にペツプに〉*刑法千二百八*

五條を檢べる代りに早速ペツプへ問ひかけま

した。

 「ペツプ君、甚だ失礼ですが〔ね〕、この国では罪

人を罰しないのですか?」

 ペツプは金口の煙草の煙を〈悠々〉まづ悠々と吹き

[やぶちゃん注:

●「甚だ失礼ですが〔ね〕、」初出及び現行は、この「ね」の挿入を無視して、

 甚だ失礼ですが、

となっている。]

 

■原稿127(128)

〔上〕げ〈た後〉*てから*〈つ〉如何にもつまらなさうに返事をしま

した。

 「罰しますとも。死刑さへ〈あ〉*行はれ*る位ですからね。」

 「しかし僕は一月ばかり前に、………」

 僕は委細を話した後、〔例の〕刑法千二百八十五條

のことを尋ねて見ました。

 「ふむ、それはかう云ふのです。〈■〉―――『如何な

る〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰す

ることを得ず』つまりあなたの場合〈で〉**言へ

[やぶちゃん注:

●「それはかう云ふのです。〈■〉」「す。」の句点は特に後から書いたようには見えない(インクの色から)から、この直下の抹消は字でない可能性が高い。芥川は句点を最終字と同じマスに打ち、その下のマスを空ける癖があるから、ここに字は書かないのである。ダッシュを引こうとしてペンがやや左寄りに入ってしまい、しかもそこで止めたペン先が右上へ少し跳ね上がってしまったため、抹消して仕切り直しのダッシュを引いたのではなかろうか。

●『如何なる〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰することを得ず』という刑法1285条の成文過程を見よう。当初のそれは、

 『如何なる罪を犯したりと雖も、その罪を行せるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を罰することを得ず』

であった。それを、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行ひたるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

としいった感じに直し、最終的に、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相当の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

と成文している。ところが実は、初出及び現行の刑法1285条は、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

なのである。即ち、芥川がわざわざ挿入指示をしてある「相当の」が脱落しているのである。これは実は旧全集後記の異同でも指摘はされているのである。が、しかし旧全集編集者は遂に初出を採って、現在まで河童国刑法1285条はこの誤りのままなのである。私にはその初出表現の採択理由の正統性が全く分からない。私はこの河童国刑法条文の誤りを今こそ正すべき時がきたと思っている。再度正字で示す。

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相當の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

これこそが正しい「河童國刑法千二百八十五條」である!]

 

■原稿128(129)

ば、その河童は嘗〈て〉**は親だつたのですが、今

は〔もう〕親ではありませんから、犯罪も自然と消滅

するのです。」

 「それはどうも不合理ですね。」

 「常談を言つてはいけません。〈我々は刻々

変〉だつた河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理で

す。さうさう、日本の法律では同一に見るこ

とになつてゐるのですね。それはどうも我々

には滑稽です。ふふふふふ〈」〉、ふふふふふ。」

 ペツプは卷煙草を抛り出しながら、気のな

[やぶちゃん注:太字「だつた」及び「である」は底本では傍点「ヽ」。]

 

■原稿129(130)

い薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出

したのは法律には緣の遠い〈ヤ〉**

ヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼〈鏡〉金を直し、〈「日本に〉*かう僕*〈尋

ねました〉*質問しました*

 「日本にも死刑〔は〕ありますか?」

 「ありますとも。日本では絞罪です。」

 僕は〈如何〉冷然と構えこんだペツプに多少〈の〉反感

〈持つ〉*感じ*てゐましたから、この機會に〈早速〉皮肉を浴

せてやりました。

 「この国の死刑は日本よりも文明的に出來て

 

■原稿130(131)

ゐるでせうね?」

 「それは勿論文明的です。」

 ペツプはやはり落ち着いてゐました。

 「この国では絞罪などは用ひません。〈大抵〉*稀に*

電気を用ひ〈《ます》→てゐ〉ることもあります。しかし大抵は

電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて

聞かせるだけです。」

 「それ〔だけ〕で河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあな

たがたのよりも微妙ですからね。」

 

■原稿131(132)

 「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。殺人

にもその手を使ふの〈です〉*があ*ります。―――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染ま

りながら、人懷(な)つこい笑顏(ゑがほ)をして見せました。

 「わ〈し〉たしはこの間〉**も或社會主義者に『貴樣は

〈泥坊〉*盜人(ぬすびと)*だ』と言はれた爲に〈もう少しで息が〉*心臟痲痺を起し*かかつ

たものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つ

てゐた或〈《画家》→小説家〉辯護士などは〈その男〉*やはり*その爲に死んで

しまつたのですからね。」

[やぶちゃん注:2箇所の現行と違う問題点がある。

●「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。」この「よ」は、芥川がわざわざ前の句点を抹消して推敲した結果

それは死刑ばかりではありませんよ。

としたのである。にも拘らず、初出及び現行は、

 それは死刑ばかりではありません。

である。ゲラ校正でまたも芥川が「よ」を削除指示したとは、私には思われないのである、これは校正ミスである可能性がすこぶる大きいと私は考えている。

●「染まりながら、」は初出及び現行は、

 染(そま)りながら、

である。これは校正ミスと断じてよいと私には思われるのである。]

 

■原稿132(133)

 僕はかう口を入れた河童、―――哲學者の〈ゲエル〉*

ツグ*をふりかへりました。マツグはやはりい

つものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、〈僕〉**

の顏も見ずにしやべつてゐるのです。

 「その〈男は〉*河童は*誰かに蛙だと言はれ、―――勿論

あなたも御承知でせう、この国で蛙〈と〉だと言

〈《る位甚しい侮辱のないこと》→るのは人非人の意味と云ふこと〉*れるのは人非人と云ふ意味になること位*は。―――

〈■〉**は蛙かな? 蛙ではないかな?と毎日考へ

てゐるうちにとうとう死んでしまつたもので

す。」

 

■原稿133(134)

 「それはつまり自殺ですね。」

 「〈ええ、つまり自殺〉*尤もその河童を蛙*だと言つたやつは殺すつ

もりで言つたのですがね。〈やはり〉あなたがたの〈国〉**

ら見れば、やはり〈自殺〉それも自殺と云ふ………」

 丁度マツグがかう云つた時です。突然その

部屋の壁の向うに、―――確かに詩人のトツク

の家に鋭いピストルの音が一発、〈何?〉空気〈の〉**〈■〉**

ね返へすやうに響き渡りました。

[やぶちゃん注:以下、2行余白。

●「空気〈の〉**〈■〉**」の判読不能字は漢字で「勹」まで書いて抹消している。何と書こうとしたのか? 「空気の」に続くのであるが、想起出来ない。判読及び推定の出来た方は是非、御一報あれかし。]

2013/06/24

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十一

■原稿113(114)

    十一

 

[やぶちゃん注:「十一」は4字下げ。本文は2行目から。以下の「×」(初出及び現行では「*」である)は5字下げ。]

 

 これは哲學者のマツグの書いた「阿呆の言葉」

の中の〈数節〉*何章(なんしやう)*かです。――

     ×

 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。

     ×

 我々の〈天〉**然を愛するのは自然は我々を憎ん

だり嫉妬したりしない爲もないことはない。

 

■原稿114(115)

     ×

 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しなが

ら、しかもその〔又〕習慣を〔少しも〕破らないやうに暮らす

ことである。

     ×

 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐ

ないものだけである。

     ×

 何びとも偶像を破壞することに異存(いぞん)を持つ

てゐるものはない。同時に又何びとも偶像に

なることに異存を持つてゐるものはない。し

 

■原稿115(116)

かし偶像の台座の上(うへ)に安んじて〈ゐられ〉*坐つて*ゐられるも

のは最も神々に惠ま〈ま〉れたもの、―――阿呆か、

悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章

の上へ爪(つめ)の痕(あと)をつけてゐました。)

     ×

 我々の生活に必要な思想は三千年前に盡き

たかも知れない。我々は唯古い〈《思想》→薪〉*薪(たきぎ)*に新らし

い炎(ほのほ)を加へるだけであ〈る。〉*らう。*

     ×

 我々の特色は我々自身の意識を超越するの

[やぶちゃん注:前の原稿と繋がらない。初出及び現行は、前の「■原稿114(115)」の「し」を受けて、
 しかし偶像の……
と続く。ゲラで訂されたものか。]

 

■原稿116(117)

を常としてゐる。

     ×

 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとす

れば、―――?

     ×

 自己を弁護することは他人を弁護すること

よりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。

     ×

 矜誇(ぎんこ)、愛慾、疑惑―――あらゆる罪は三千

年來、この三者から発してゐる。同時に又〔恐らくは〕あ

[やぶちゃん注:「矜誇(ぎんこ)」の読みはママ。初出及び現行は、

 矜誇(きんこ)

 

である。「矜」の音は「キヨウ(キョウ)/キン・ゴン/クワン(カン)」であり、「ギン」という音はないから芥川の誤記と考えてよい。しかしこの初出と現行の読みも実は一般的ではないのである。これは辞書を見ても「きようこ(きょうこ)」か「きようくわ(きょうか)」(「か」は「誇」の漢音)であって「きんこ」ではない(意味は「矜」「誇」ともに、ほこる、で、誇ること、自慢すること、いばることの意である)。私は秘かに――これは芥川龍之介のみならず、驚くべきことに文選工も植字工もゲラ校正担当者も全員、「矜」という字を「衿」という字と誤って「きん」「ぎん」(但し、「衿」も「キン・コン」で「ギン」という音はない)と読んでいるのではないか?――と疑っているのである。大方の御批判を俟つものであるが、いずれにせよ、ここの読みは「きようこ」とするべきであると私は思う。]

 

■原稿117(118)

らゆる德も。

     ×

 〈平和は〉物質的欲望を〈■〉**ずることは必しも平

和を齎さない。〔我々は〕平和を得る爲には精神的欲望

も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章

の上にも爪の痕を殘してゐました。)

     ×

 我々は人間よりも不幸である。人間は〈我々〉*河童*

ほど進〈歩〉**してゐない。(僕はこの〈一〉章を讀んだ

時、〈笑〉**はず〈微〉**つてしまひました。)

[やぶちゃん注:「物質的欲望を〈■〉**ずることは」この抹消字は(てへん)である。これを「持」と措定して推測するなら、芥川はもしかすると、最初、

 平和は物質的欲望を持つ

或いは、

 平和は物質的欲望を持たない

といったコンセプトで書こうとしたのではなかったか?

●「僕はこの〈一〉章を讀んだ時、〈笑〉**はず」は初出及び現行では

 僕はこの章を讀んだ時思はず

と、読点がない。ここは原稿通りに読点を打つべきである。]

 

■原稿118(119)

    ×

 成すことは成し得ることであ〈る。〉*り、*成し得る

ことは成すことである。〔畢竟〕我々の生活はかう云

〈盾〉**環論法を脱することは出來ない。―――

即ち不合理に終始してゐる。

     ×

 ボオドレエルは〈彼の人生観を〉*白痴になつた*後、彼の人生

観をたつた一語に、―――女陰の一語に表〈■〉**

た。〈それは〉*しかし*彼自身を語るものは必しもかう言

つたことではない。寧ろ彼の天才に、―――彼

 

■原稿119(120)

の生活を維〈持〉**するに足る詩的天才に信賴した爲

に胃袋の一語を忘れたことである。(この章に

もやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐまし

た。)

     ×

 若し理性に終始するとすれば、我々は〔当然〕我々

〔自身〕の存在を否定しなければならぬ。〈ヴォ〉理性を神

にしたヴォルテェエルの幸福に一生を了つたのは

即ち人間の河童よりも進化してゐないことを

示すものである。

[やぶちゃん注:余りの行なしで本章終わり。

●「〈ヴォ〉」促音表記はママ。

●「ヴォルテェエル」はママ。初出及び現行は普通に、

 ヴオルテエル

である。]

2013/06/23

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十 「……」と「――」は違う!

■原稿96

       十

 

[やぶちゃん注:「十」は4字下げ。本文は2行目から。]

 

 「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢ

やないか?」

 〈或〉 その火事のあつた翌日(よくじつ)です。僕は〈僕の家の長椅子に〉*卷煙草を

啣(くは)へなが*ら、僕の〈家(いへ)の〉客間(きやくま)〔の〈長〉椅子〕に〈尻〉腰(こし)を〈下(おろ)〉おろした学生

のラツプにかう言ひました。實際又ラツプは

右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つた嘴(くちばし)

も見えないほど、〈ぢつと〉*ぼんやり*床(ゆか)の上〈を〉*ばかり*見てゐたの

です。

〈 「どうしたと《云》→言ふのに。         〉

 

■原稿97

 「ラツプ君、どうしたねと言へば。」

 「いや、何、つまらないことな〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*。―――」

 ラツプはやつと頭(あたま)を擧げ、〈鼻〉悲(かな)しい鼻聲(はなごゑ)を出

しました。

 「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り

菫(すみれ)が咲いた』と〔何気(なにげ)なしに〕呟いたのです。すると僕の妹は

急に顏色(かほいろ)を變へたと思ふと、『どうせわたしは

〈と〉**り菫よ』と当(あた)り散らすぢやありま〈せ〉**んか

? 〈《そこへ》→そこへ〉*おまけに*又僕のおふくろも大(だい)の妹贔屓(いもうとびいき)で

すから、やはり僕に食つてかかるのです。」

[やぶちゃん注:

●「〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*」の部分は便宜上、かく表示したが、実際には二度目の書き換えの状態の「のだよ」の「の」はそのまま生かしておいて「のですよ」と最終的に丁寧表現に改めてある。]

 

■原稿98

 「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹

さんには不快なのだね?」

 「さあ、夛分雄の河童を〈追つかけ〉*摑まへ*ると云ふ意味

にでもとつた〈ん〉**でせう。そこへお〈く〉**くろ〈の〉**仲(なか)

惡い叔母(おば)も喧嘩の仲間入りをしたの〈で〉**すか

ら、愈大騷動になつてしまひました。〈それ〉*しか*

年中(ねんぢう)醉つ〔拂つ〕てゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけ

ると、誰彼の差別なしに毆り出したので〈す。〉

*す。*それだけでも〈弱つてゐる〉*始末のつか*ない所(ところ)へ僕の弟

はその間(あひだ)におふくろの〈財〉**布を盜む〈が〉**早い

 

■原稿99

か、キネマか何かを見に行つてしまひまし〈た。〉

た。僕は………ほんたうに僕はもう、………」

 ラツプは兩手(れうて)に顏(かほ)を埋(うづ)め、何も言はずに泣

いてしまひました。僕の同情したのは勿論で

す。〈が、〉同時に又家族〈主義〉*制度*に對する詩人のトツク

の輕蔑〈を思ひ出〉したのも勿論です。僕はラツプの肩を

叩き、一生懸命に慰めました。

 「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。〈■〉

あ勇氣を出し給へ。」

 「しかし………しかし嘴でも腐つてゐなけれ

 

■原稿100

ば、……」

 〈そんな〉*それは*あきらめる外はないさ。さあ、トツ

ク〈君〉の家へでも行かう。」

 「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。〈」〉僕はト

ツクさんのやうに〈奔放〉*大膽*に家族を捨てることが

出來ませんから。」

 「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」

 僕はあの音樂會以來、クラバツクとも友だ

ちになつてゐましたから、兎に角この大音樂

〈の〉**家へラツプをつれ出すことにしま〔し〕た。ク

 

■原稿101

ラバツクはトツクに比べ〈ると〉*れば*〈常人に近い暮らしを〉*遙かに贅澤に暮ら*してゐます。〈僕〉と云ふのは〈《何も会社の》→硝子〉*資本家のゲ*

ルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではあり

ません。唯いろいろの骨董を、―――タナグラ

の人形やペルシアの陶噐〈や〉**部屋一ぱいに並べ

た中(なか)にトルコ風(ふう)の長椅子を据ゑ、クラバツク

自身の肖像畫の下(した)にいつも子供たちと遊んで

ゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕

を胸へ組んだまま、苦(にが)い顏をして坐つてゐま

した。のみならずその又足もとには紙屑が一

 

■原稿102

面(めん)に散〈つて〉*らばつ*てゐました。ラツプ〈はクラバツクとは〉*も詩人のトツク*と一しよに度たびクラバツクには會つて

ゐる筈です。しかしこの容子に恐れた〈と〉**

え、けふは丁寧にお時宜をしたなり、默つて

部屋の隅に腰を〈下(おろ)し〉*おろし*ました。

 「どうしたね? クラバツク君。」

 僕は殆ど挨拶の代りにかう大音樂家へ問〈ひ〉

かけました〈。〉

 「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕

の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものになら

 

■原稿102

ないと言やがるんだ。」

 「しかし君は音樂家だし、………」

 「それだけならば我慢も出來る。僕〈のリイド

やシムフォニイは通俗〉*はロツクに比べれば、〈音〉*音樂家の名に價しないと

言やがるぢやないか?」

 ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べ

られる音樂家です。が、生憎超人倶樂部の会

員に〈は〉なつてゐ〈ませんから〉*ない關係上*、僕〈と〉は一度〔も〕話(はな)し

たことはありません。〈も〉尤も〈反〉嘴の反り〈上〉*上(あが)*

た、一癖あるらしい顏だけは度たび寫眞でも

 

■原稿104

見かけてゐました。

 「ロツクも天才には違ひない。しかしロツク

の音樂〈は〉**君の〔音樂に溢れてゐる〕近代的情熱〈がない。」〉*を持つ*てゐない。」

 「君はほんたうにさう思ふか?」

 「さう思ふとも。」

 するとクラバツクは立ち上(あが)るが早いか、タ

ナグラ〔の〕人形をひつ摑み、いきなり床(ゆか)の上(うへ)に叩(たた)

きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、

何か声を擧げて〈立ち〉*逃げ*ようとしました。が、ク

ラバツクは〈僕〉ラツプや僕にちよつと「驚くな」と云

 

■原稿105

ふ手眞似をした上(うへ)、今度は冷かにかう言ふの

です。

 「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐな

いからだ。僕はロツクを恐れてゐる。………」

 「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」

 「誰が謙遜家を氣どるものか? 一君たち

に気どつて見せ〈ても〉*る位ならば*〈何の役にも立たないぢ

やないか?〉*批評家たちの前(まへ)に気どつて見せて*ゐる。僕は―――クラバツクは天

才だ。〈ロツク〉その点ではロツク〈恐〉を恐れてゐない。」

 「では何を恐れてゐるのだ?」

[やぶちゃん注:

●「冷か」は初出及び現行では、

 冷やか

である。

●「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」というクラバックの辛辣な台詞、元は

 君が? それは空気

と書いた可能性を示唆する。即ち、現在の形とは全く違ったものが龍之介の脳内の最初の台詞だった可能性があるということである。]

 

■原稿106

 「何か正体の知れないものを、―――言はばロ

ツクを支配してゐる星(ほし)を。」

 「どうも僕には腑(ふ)に落ちないがね。」

 「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕

の影響を受けない。が、僕はいつの間(ま)にかロ

ツクの影響を受けてしまふのだ。」

 「それは君の感受性の………。」

 「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではな

い。ロツクはいつも安んじて〔あいつだけに出來る仕事をして〕ゐる。しかし僕

は苛(い)ら〈苛〉**々するのだ。それはロツクの目から

 

■原稿107

見れば、或は一歩の差かも知れない。けれど

も僕には十哩(マ〈■〉イル)も違ふのだ。」

 「〈そんな〉*しかし*先生の英雄曲(えいゆうき〔よ〕く)は………」

 クラバツクは〔細(ほそ)い目を一層細め、忌々しさうに〕ラツプを睨みつけました。

 「默り給へ。君などに何がわかる? 〈ロツク

は僕の〉*僕はロツクを*知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭(へいしんていたう)す

る犬(いぬ)どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」

 「まあ少し靜かにし給へ。」

 「若し靜かにしてゐられるならば、………僕は

いつもかう思つてゐる。―――僕等の知らない

 

■原稿108

何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る爲に

ロツクを僕の前(まへ)に立たせたのだ。〈《マツグはか

う?》→不思議にも〉*哲學者のマツグは*かう云ふことを何も彼も承知してゐ

る。いつもあの色硝子のランタアンの下(した)に古

ぼけた本ばかり讀んでゐる癖に。」

 「どうして?」

 「この〈マツグの〉近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ

本を見給へ。―――」

 クラバツクは僕に一册の本を渡す―――と

云ふよりも投げつけました。それから又腕を

 

■原稿109

組んだまま、突

つつ)けんどんにかう言ひ〔放ち〕ました。

 「ぢやけふは失敬しよう。」

 僕は〈やはり〉悄気返つたラツプと一しよにも

う一度往來へ出ることにしました。〈往來は不〉*人通りの*

夛い往來は不相變毛生欅(ぶな)の並み木のかげにい

ろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふ

こともなしに默つて歩いて行きました。する

とそこへ通りかかつたのは髮の長い詩人のト

ツクです。トツクは僕等の顏を見ると、腹の

袋から手巾(ハンケチ)を出し、何度も額(ひたひ)を拭(ぬぐ)ひました。

 

■原稿109下(110)[やぶちゃん注:後注参照。]

 「やあ、暫〈く〉らく會はなかつたね。僕はけふは

〔久しぶりに〕クラバツクを尋ね〔よ〕うと思ふのだが、………」

 僕はこの藝術家たちを喧嘩させては悪いと

思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたこ

とを婉曲(えんきよく)にトツクに話しました。

 「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバ

ツクは神経衰弱だからね。………僕もこの二三

週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」

 「どうだね、〈僕等〉*僕等*と一しよに散歩をしては?」

 「いや、けふはやめにしよう。おや!」

[やぶちゃん注:この原稿は左にナンバリングがなく、手書き鉛筆で、

 109下

とあり、ところがここまで振られている中央罫外の鉛筆書き通し番号が、

 110

となってズレ始める。ここ以下、表記のように標題を表示することとする。]

 

■原稿110(111)

 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の

腕を〈つか〉*摑み*ました。しかもいつか体中(からだぢう)に冷(ひ)や汗

を流してゐるのです。〈僕等(ら)は〉

 「どうしたのだ?」

 「どうしたのです?」

 「何(なに)、あの〈毛生欅(ぶな)の枝(えだ)の中(なか)に〉*自動車の窓の中(なか)か*ら綠(みどり)いろの猿(さる)が

一匹首を〈見〉**したやうに見えたのだよ。」

 僕は夛少心配になり、兎に角あの醫者のチ

ヤツクに〈トツク〉診察して貰ふやうに勸めました。し

かしトツクは何と言つても、承知する気(けしき)色さ

 

■原稿111(112)

へ見せません。のみならず何か疑はしさうに

僕等の顏を見比べながら、こんなことさへ言

ひ出すのです。

 「僕は決して無政府主義者ではないよ。それ

だけは〔きつと〕忘れずにゐてくれ給へ。………ではさや

うなら。〈」〉チヤツクなどは眞平御免(まつぴらごめん)だ。」

 僕等は〈思はず〉*ぼんやり*佇んだまま、トツクの後ろ姿

を見送つてゐました。僕等は―――いや、「僕

等は」ではありません。學生のラツプはいつの

間(ま)にか往來のまん中(なか)に脚(あし)をひろげ、〈股〉しつきり

[やぶちゃん注:

●「忘れずにゐてくれ給へ。………」のリーダは、初出及び現行では、

 忘れずにゐてくれ給へ。――

ダッシュになっている。細かいようだが、私はここはやはり原稿通り、「……」とすべきところと思う。何故か? ここの、最早、狂気に傾斜しているトックの他の台詞は、皆、リーダだからである! このリーダこそが、トックを摑まえてしまった狂気の標記そのものなのだと私は思うからである!
●『「僕等は」ではありません。』初出及び現行は、
「僕等」ではありません。
である。細かいようだが、これも私は原稿通り
「僕等は」であるべきだと思う。これはまさに芥川龍之介の龍之介らしい書き癖なのである!

 

■原稿112(113)

〈自〉ない自動車や人通りを股目金(まためがね)に覗いてゐるの

です。僕は〈ラツプ〉*この河童*も發狂したかと思ひ、驚い

てラツプを引き〈立て〉*起し*ました。

 「〈何をしてゐる?〉*常談ぢやない。*何をしてゐる?」

 しかしラツプは〈意外にも〉目をこすりながら、意外(いぐわい)に

も落ち着いて返事をしました。

 「いえ、余り憂欝ですから、〈股〉逆(さかさ)まに世の中を

眺めて見たのです。〈しかし〉*けれど*もやはり同じこと

ですね。」

[やぶちゃん注:以下、一行余白。]

2013/06/22

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 九 校正漏れの亡霊が無数に跳梁している!

■原稿79

       九

 

 

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には前章冒頭「■原稿69」同様、右罫外上方に赤インクで、

 芥川氏つづき

とある。また、6行目上方罫外に、

 80

という左上方のナンバリングと同じ数字(ノンブル)があるが、これは赤インクでなく本文とは微妙に異なるインクで書かれており、しかもそれが抹消線で消されて右(4~5行目上方罫外)に、

 79

と訂されてある。このナンバリングと同じ手書き数字は、

 109

まで続く。また、この頁の罫外ナンバリング・ノンブル「79」は20行目真上罫外上方と、やけに高い位置にあって、

 ך

型のチェック(?)が右肩に入っている。その左に「改造よ印」のゴム印が打たれ、その直下(罫外左)に本文とは異なるインクによる、

 改造よ印 79 より

と手書きで大書した文字が、ここははっきりと読み取れる(「■原稿69」の様態とコンセプトは似ている)。]

 

 しかし硝子會社の社長のゲエルは人懷こい

河童だつたのに違ひありません。僕は度たび

ゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶樂部

へ行き、愉快に一晩(ばん)を暮らしました。それは

一つにはその倶樂部はトツクの属してゐる超

人倶樂部よりも遙かに居心(いごころ)の善かつた爲〈で〉**

す。のみならず又ゲエルの話は哲學者のマツ

グの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせ

よ、僕には全然新らしい世界を、―――廣い世

 

■原稿80

界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金(じゆんきん)の匙

に珈琲(カッフエ)の〈コツプ〉*茶碗*をかきまはしながら、快活に

いろいろの話をしたものです。〈僕は〉

 〈殊に〉*何でも*或霧の深い晩(ばん)、僕は冬薔薇(ふゆばら)を盛(も)つた花

瓶(くわびん)を中(なか)にゲエル〈と〉**話を聞いてゐました。それ

は確か〈《天井も壁も》→室〉*部屋全體は*勿論、椅子やテエブルも白

い上(うへ)に〈金(きん)〉**い金の緣((ふち)をとつたセセツシヨン風の

部屋だつたやうに覺えてゐます。ゲエルはふ

だんよりも得意さうに顏中(かほじう)に微笑を漲らせた

まま、〈《五六年前にこの国》→丁度その頃Quorax *丁度その頃天下を取つてゐた Quorax 黨内閣のことなどを

[やぶちゃん注:この頁、異様に芥川自身によるルビが多い。

●「珈琲(カッフエ)」のルビの「ッ」は明らかに促音表記で有意に小さいが、無論、初出は同大である。現行新字新仮名表記では「カッフェ」である。]

 

■原稿81

話しました。クォラツクス〈黨と〉*と云*ふ言葉は唯意味

のない〈奇〉間投詞(かんたうし)ですから、「おや」とでも〈譯〉**す外

はありません。が、兎に角〈自由主義を〉*何よりも先*に「河童

全体の利益」と云ふことを〈振〉標榜(へうばう)してゐた政黨だ

つたのです。

 「クオラツクス黨〈か〉**支配してゐるものは〈あの〉

名高い〈ロツペ■〉政治家のロツペです。〈《ロツペは》→ビスマルクは〉*『正直は*最良の外交である』とはビスマルク〈■〉**言つた言〈葉〉**でせ

う。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼし

てゐるのです。………」

[やぶちゃん注:

●1行目の「クォラツクス」の「ォ」は「ク」と同じマスの右下に有意に小さく書いているので、かくしたが、実際には6行目で普通に「クオラツクス」と表記しており、この1行目のそれはもしかすると「クラツクス」と脱字したのに挿入表記したものともとれる。]

 

■原稿82

 「けれどもロツペの演説は……」

 「まあ、わたしの言ふことをお聞きな〈■〉〔さ〕い。あ

の演説〈の譃〉は勿論悉く譃です。が、譃と云ふこと

〈を〉**誰でも知つてゐますから、畢竟正直と〈同?〉**

ないでせう。それを一概に譃と云ふのはあな

〈方〉*がた*だけの偏見(へんけん)ですよ。我々河童(かつぱ)はあなた

〈《がた》→方〉*がた*のやうに、………しかしそれはどうでもよ

ろしい。わたしの話したいのはロツペのこと

です。ロツペはクオラツクス黨を支配してゐ

る、その又ロツペを支配してゐるものは〈フ?■〉

[やぶちゃん注:

●「畢竟正直と〈同?〉**らないでせう。」初出及び現行は、

 畢竟正直と變はらないでせう、

と読点である。これは、当然、この原稿通り、句点でよい。これは明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けている証しである!

●末尾の抹消2字「〈フ?■〉」の最初は、恐らく「フ」と思われ、「プウ・フウ」という新聞名(若しくはそれに類した名)を当初カタカナ表記しようとしたものと、私は推理している。]

 

■原稿83

 Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやは

り意味のない間投詞です。〈或は〉*若し*強いて訳(やく)すとすれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長

のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主

人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配

してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」

〈 「それは《―――どう失礼》→《僕には意外です。失礼      〉

 「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ませ

ん。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かた

をする新聞でせう。その社長のクイクイも

[やぶちゃん注:

●「訳(やく)すとすれば」初出及び現行は、

 譯(やく)すれば、

である。これは、当然、この原稿通りでよい! これもまた明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けているおぞましき証しの一例ではないか!

●「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ません。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。」特に指示しないが、ここ以下の三箇所は「勞動者」となっている(初出及び現行は「勞働者」に訂されている)。それよりもこの部分、初出及び現行は、

 けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。

である。2箇所の相違に着目されたい。初出及び現行は原稿が二文であるのに、「これは失禮かも知れませんけれども」と一続きで「知れません」の後の句点が、ない! また、「けれども」の後の読点は原稿には、ない! 再度、台詞を総て整序して示そう。

【原稿の「僕」の台詞】

 「けれども―――これは失禮かも知れません。けれどもプウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、………」

【初出及び現行の「僕」の台詞】

 「けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

一目瞭然! 否! 朗読してみたまえ! 極めて自然なのはどう考えても、『定本』の初出や現行の「河童」ではない! この原稿の台詞こそ、極めて自然な応答の台詞であることは言を俟たぬ! またしても校正漏れの亡霊の痙攣的な呪い以外の何ものでもない!

 

■原稿84

あなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

 「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論勞動者の味

かたです。しかし記者たちを支配するものは

クイクイの外はありますまい。しかもクイク

イはこのゲエルの後援を受けずにはゐられ

ないのです。」

 〈僕は〉ゲエルは〈不相変〉*不相変*微笑しながら、純金の匙を

おもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエル

を見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウフ

ウ新聞の記者たちに〈何か〉同情の起るのを感じまし

[やぶちゃん注:

●「プウフウ新聞の記者たちに」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿85

た。するとゲエルは僕の無言(むごん)に忽ちこの同情

を感じたと見え、〈前よりも快活に〉*大きい腹(はら)を膨(ふくら)ませて*かう言ふの

です。

 「何、プウフウ新聞の記者たちも全部勞動者

の味かたではありませんよ。少くと〈も〉**我々河

童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に

我々自身の味かたをしますからね。………しか

し更に厄介なことに〈も〉**このゲエル自身さへ

やはり他人の支配を受けてゐるのです。あな

たはそれを誰だと思ひますか? それはわた

●「何、プウフウ新聞の記者たちも」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。ここも校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿86

しの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」

 ゲエルはおほ声に笑ひました。

 「〈さう云ふ〉*それは寧*ろ仕合せで〈すね。」〉*せう。」*

 「〈《仕合》→《或は》仕合せかも知れません〉*兎に角わたしは滿足してゐます〈よ〉*。しかしこれも

あなたの前だけに、―――河童でないあなたの

前だけに手放しで吹聽出來るのです。」

 「するとつまりクォラ〈ク〉ツクス内閣はゲエル夫人

が支配〈の下(もと)に〉*してゐる*のですね。」

 「さあ、さうも言はれますかね。………しかし

七年前の戰爭などは確かに或雌の河童の爲に

[やぶちゃん注:「クォラ〈ク〉ツクス」の「ォ」は前の「ク」と同マスの右下にある。脱字に気づいて後から書き入れた可能性もある。]

 

■原稿87

始まつたものに違ひありません。」

 「戰爭? この国にも戰爭はあつたのです〈か〉

か?」

 「ありましたとも。将來もいつあるかわかり

ません。何しろ鄰国のある限りは、………」

 〈《僕は》→鄰国と云ふ〉僕は実際この時始めて河童の國〈に〉**國家的〈に〉孤

立してゐないことを知りました。〈■〉ゲエルの説

明する所(ところ)によれば、河童はいつも獺(かはうそ)〈と〉**假設

敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河

童に負けない軍備を具へてゐると云ふことで

 

■原稿88

す。僕はこの獺を相手に河童の戰爭した話に

少からず興味を感じました。(何しろ河童の強

敵に獺(かはうそ)のゐるなどと云ふことは「水〈考〉虎考畧(すゐここうりやく)」の著

者は勿論、「山島民譚志(さんたうみんたんし)」の著者柳田國男さんさ

へ知らずにゐたらしい新事実ですから。)

 「あの戰爭の起る前には勿論両国とも油断せ

ずに〈相手〉ぢつと相手を窺つてゐました。と云ふの

はどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたか

らです。そこへ〈或雌の河童が一匹(ぴき)〉*この國にゐた獺が*一匹(ぴき)、或河

童の夫婦を訪問しました。その又〔雌の〕河童〈の雌〉

[やぶちゃん注:「山島民譚志」はママ。「譚」は「集」の誤り。校正で訂されたものであろう。]

 

■原稿89

云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何

しろ亭主は道樂者でしたからね。おまけに生

命保險のついてゐたことも多少の誘惑になつ

たかも知れません。」

 「あなたはその夫婦を御存じですか?」

 「ええ、――いや、〈雄〉**の河童だけは知つてゐ

ます。〈その〉わたしの妻などはこの河童〈を〉**惡人のや

うに言つてゐますがね。しかしわたしに言は

せれば、〈寧ろ〉悪人よりも寧ろ雌の河童に摑まるこ

とを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……

 

■原稿90

…そこでその〈獺は〉雌の河童は亭主のココアの

茶碗の中へ靑化加里を入れて置いたの〈で〉です。そ

れを又どう間違へたか、客の獺に飮ませてし

まつたのです。獺は勿論死んでしまひま〈■〉

た。それから………」

 「〔それから〕戰爭になつたのですか?」

 「ええ、生憎その獺は勳章を持つてゐたもの

ですからね。」

 「戰爭はどちらの勝になつたのですか?」

 「勿論この国の勝になつたのです。三十六萬

 

■原稿91

九千五百匹の河童〔たち〕はその爲に健気にも戰死し

ました。しかし敵国に比べれば、その位の損

害は何ともありません。〈獺は〉*この*國にある毛皮〈の〉**

云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です〈よ。〉。わたしも〈こ〉**

の戰爭の時には硝子を製造する外にも〈《盛に《石》→消〉石炭殼

を戰地へ送りました。」

 「石炭殼を何にするのですか?」

 「勿論食糧にするのです。〈我々〉河童は腹さへ減れ

ば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」

 「それは―――どうか怒らずに下さい。それ

[やぶちゃん注:

●「〈《盛に《石》→消〉石炭殼」この部分は、「石」を消して書いた「消」の字が実際には抹消されていない。これは推測であるが、当初、芥川は決定稿の「石炭殼」をまず想起し、それを「消(し)炭」と書こうとしたのではなかったろうか?]

 

■原稿92

は戰地にゐる河童〈には〉たちには………〈《第一醜》この国では〉*我々の国*

醜聞ですがね。」

 「この國でも醜聞には違ひありません。しか

しわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞に

はしないものです。哲學者のマツグ〈が〉**言つて

ゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおの

づから消滅すべし。』………しかもわたしは利益

の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですから

ね。」

 丁度そこへはひつて來たのはこの倶樂部の

 

■原稿93

給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、

朗読でもするやうにかう言ひました。

 「お宅のお鄰に火事がございます。」

 「火―――火事!」

 〈マツグ〉*ゲエル*は驚いて立ち

上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き拂

つて次の言葉をつけ加へました。

 「しかしもう消〈え〉し止めました。」

 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに

近い表情をしました。僕は〈その顏〉かう云ふ顏を見る

 

■原稿94

と、いつかこの硝子會社の社長を憎んでゐた

ことに氣づきました。が、〈今は   ゲエル〉*ゲエルはもう今で*

〈もう〉大資本家でも何でもない唯の河童にな

つて立つてゐるのです。僕は花瓶(くわびん)の中(なか)の〔冬(ふゆ)〕薔薇(ばら)

の花を拔き、ゲエルの手(て)へ渡しました。

 「しかし火事は消えたと云つても、奧さんは

さぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰

りなさい。」

 「難有う。」

 ゲエルは僕の手を握(にぎ)りました。それから急〔に〕

[やぶちゃん注:

●「〈今は   ゲエル〉」ここ空欄3マス。ダッシュを引くつもりだったか?]

 

■原稿95

にやりと笑ひ、小声(こごゑ)にかう僕に話しかけまし

た。

 「鄰(となり)は〈僕の〉わたしの家作(かさく)ですからね。〈保〉火災保險の

金だけはとれるのですよ。」

 〈僕はこの時のゲエルの腹の満月のやうに張〉

 僕は〈未だにこの時〉*この時のゲエル*〈ゲエルの  〉*微笑を―――*輕蔑する

ことも出來なければ、憎惡〈を?〉**ることも出來な

いゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。

[やぶちゃん注:以下、一行余白。

●「〈ゲエルの  〉」空欄2マス。奇妙な線が抹消の波線の下に認められるが、芥川はダッシュは3マスであり、有意に反った奇妙な線でダッシュとは思われない。]

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