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カテゴリー「松尾芭蕉」の300件の記事

2016/08/09

行脚怪談袋   芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事 付 多吉夫婦が靈魂の事 / 行脚怪談袋~了

  芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事

  
  多吉夫婦が靈魂の事

 

芭蕉備後伯耆の方より、因幡長門を越えて中國を廻國なし、夫れより赤間ケ關より、船にて豐前の小倉に着き、夫れより佐賀の城下に至つて、宿評(しゆくひやう)と云へる儒者の方に數日逗留なし。當所に於て俳諧一流に名を上げ、肥後の國を經て筑後に到り、同國元崎と云へる村に晝休みなすに、其の頃は秋の初め方。未だ暑氣甚だ敷ければ暫らく凌ぎ、扨日も傾きければ、今は暑さも薄くなりし儘、主の者に暇乞ひして、秋月(あきづき)の城下へ至らんと申す。主是聞いて止めて申しけるは、旅人(りよじん)今程より、秋月へ至り給はんとならば、決して無用也。其のゆゑは、當所より秋月の城下へ迄は二里也。半道はかならず夜中にならん、時にまだ秋月よりこなたに、小佐川(をさがは)と云へる川の候が、尤も土橋(どばし)かゝりて、旅人の通行なす事也。然る所去年の半より夜に入り候得ば、此の川上より、いと瘦せがれたる男出で、土橋の上にたゝずみ、河下の方をはるかに見やりて、名殘(なごり)をしげに悲しみ叫ぶ事毎夜也。是を聞く者おぢ恐れずと云ふ事なし、右に付(つき)夜分に及び候へば、誰れ通る者もあらず、諸人の通行の邪魔と成れり。旅人(りよじん)若しも秋月へ至り給はゞ、必らず右の變化に逢ひ給はんと申しければ、ばせをとうて申さるゝは、其の變化は人間を害なすや否哉(いなや)、亭主答へて、只出でゝかなしみ叫ぶのみ、かつて人にはかまひ候はずといふ。芭蕉是を聞きて申されけるは、右の物語の如くんば、つらつらかんが見るに、化生(けしやう)の者なるべし、我れ古人には及ばざれ共、定家の道(みち)をしたひ、俳道發句の道に通じたれば、萬一變化のために怪しき事あらば、秀句をもつて是をさとさん、是鬼神をも和らぐる歌道の妙なり。況んや是等(これら)の變化(へんげ)に於てをや、何條(なんでう)の事かあるべき、我れ諸國をめぐるも、俳道の一語を世上に知らさんがためなり、併し今宵某(それがし)かの小佐川へ至りなば、覺えし俳道を以て件(くだん)の變化を喩(さと)すべしと申されければ、亭主是を聞いて、もしふたゝび旅人(りよじん)の詞のごとく、變化念(ねん)をさつて出でずんば、所の幸ひ通行の悦びたらんと申しければ、芭蕉則ち右の亭主を案内につれ、小佐川ヘいそぎけるに、亭主兎ある松原にて芭蕉に申しけるは、是より此の野邊をば御出であらば、小佐川へ出で申す也。殊更日も暮れがたに成り候得ば、變化の出でるにもはや間も候まじ。我等は是より御暇乞ひ申し立歸り候也。旅人(りよじん)若し變化を御見屆けあらば、又候此方(このはう)へ御歸りあれ、待入り候也。され共能く能く御心付られ候得と申し置きて、亭主は我が家へ歸りける。ばせをは亭主の教へにまかせ、右の野邊を半道程たどり行くに、渡し三十間もあらん川ありて、正面に土橋をかけ渡せり。芭蕉是こそ小佐川成らん、變化はいづれより出でるや、よくよく見屆けんと、彼の土橋の中頃と覺しき所へあがり、川の體を見るに、向ふは古木生茂り、此方は今きたる野邊(のべ)にて、川岸には蘆葭(あしよし)のたぐひの草生茂(おひしげ)り、水の流れは靜かなれども、ふかき事底をしらず、人家にはとほざかれぱ、いとどしづかにして、空は秋の夕暮に、實にも哀れの氣色也。右の枯れあしの中に、破れ損ぜし捨(すて)ふねの在りしを見て、

 

  枯蘆の中に淋しや捨小船  ばせを

 

と吟じつゝ變化の出るをまち居りしに、程なく暮六つにおよび、亥の刻計りにもなりし頃、其の夜は七月四日にて、月もいまだほのくらきに、遙か川上の蘆生茂(おひしげ)りし水中より、靑色(あをいろ)の玉光りを放ちて、二丈計り上へ立ちのぼり、又舞下りなどして、其の玉程なく土橋の上へ來り、ばせをが前に三間(さんげん)ほど向ふへ落ちけるが、一むらの烟りとなりて消え失せるとひとしく、右の所にまぼろしのごとく、一人の男顯れたり。芭蕉扨こそ變化の物よと、能く能く透(すか)し見るに、其の男身には白衣類を着(ちやく)し、頭のかみをみだして、面の色靑ざめ、五體(ごたい)は瘦せおとろへて、見る影もなきが、川下の方を遙かにのぞみ、いと細やかなる手を出して、川下をまねき、糸のごとき聲をあげて、お幸お幸、何とて爰へは來られざるぞ、早此の所へ來(きた)るべしと呼びければ、愚か川下に聲あつて、我等其の所ヘ至り度き事山々なれども、前世の罪科まうしふの雲となりて中(なか)を遮ぎり、其の所へ行く事叶はず。あらなつかしさよと。歎く聲幽かに聞ゆ、是を聞くとひとしく、彼(か)の男いと哀れなる聲を上げて、泣きかなしむ事しきり也。其の音聲いやみあつて二度と聞くべきにあらず、芭蕉もけしからざる事と思ひしが、如何にも仔細あるべき事と、かの怪しき男に向つて申されけるは、扨々心得ぬ事哉。汝異形のすがたにて、夜中と云ひ此の土橋の上ヘ來り、荐(しき)りに泣悲(なきかな)しむ事、案ずるに此の世を去りしものゝ執念と見えたり。抑もいかなる事ぞと詞(ことば)をかくれば、彼の男是を聞いて、芭蕉の方をしげしげと見やりけるが、淚をはらはらと流し答へて申す樣、夫れに御座あるは此の世の人にてましますか、能くもとひくれ給ふ物哉(かな)、我等事は何をか包み申さん、御察しの通り、此の世の陽人(やうじん)に非ず冥途の陰人なり、我れ此の所へ毎夜顯れ、かく悲歎をなす事其のゆゑあり、某は是より一里、秋月の城下の町人、多吉と申す者にて候ひしが、若氣の至りにて。去者(さるもの)の妻と密通なし、人目を忍び、互ひの思ひに二世かけての契約(けいやく)をなせしが、去年(きよねん)夏の事、兎(と)ても秋月にありては、互にそふべき事も能はずと、兩人申し合せて立ちのきしに、後より追手の者懸り、計らずも此の所に於て大勢の者に取りかこまれ、既に繩目(なはめ)の恥を受けたりしに、彼の亭主若い者にて、大いに立服し、某(それがし)は此の川上へ、右の女は此の川下へ連行(つれゆ)き、汝等誠に不屆者也。依(よつ)て兩人ともにしづめにかくる也。されども同じ場所ヘ一所にしづめんも口惜しく、川上川下へ分けてしづめむと、兩人ともに身に大いなる石をせおはせられ、川の上下の深みへ投込(なげこ)まれ、底のもくづとなり果てたり。その死に及んで兩人諸共、かゝる事にて冥途へおもむく段、一つ所に死せん事叶はざりしを殘念よと、思ふ執念深く忘るゝ事なく、靈魂愛じやくの巷(ちまた)にまよひ、われは川下へ行きて、逢はん事を思ふといへども、行かんとすれば、そのくるしき事限りなし、また行かざれば、愛慕の念にくるしむ。川下にても、右のくるしみにや、なつかしく床しとの聲は聞え候得ども、一所にいたる事能はず、我等あまりのゆかしさに、靈魂此の土橋のうへに顯れ、毎夜川下の女を戀慕ひ申し候、哀れ御人(おひと)の御情(なさけ)をもつて、我等を川下へ連行(つれゆ)き、右の女に合せ給はれかし、偏ヘに願ひ存ずる也と、身を震はして戀ひこがれ、悲しげに叫ぶ聲いと物淋しく覺えたり。ばせをは此の由を聞きて、是愛慕の念にほだされて、本來空に歸らずして、靈魂苦しみ迷ふならん、併(しか)し教訓なしてさとらせんと、芭蕉聲をあららげ、彼の化生を呵して申しけるは。汝何の體ありて川下へ至り、女に逢はんとはなげくぞ、既にその方は死せし身の上、魂は天に歸り魄は此の水中にあり。然るに汝左樣にさまよひ出でるは、死後の砌り女を戀ひこがれ、同所に身まからん事の本意(ほい)なさよと思ふ心の故に、其の念のかたまる處の陰氣(いんき)、未だ空(くう)に歸らず、是執念の深きゆゑにして、まさしく人間の陽心にあらず、ほとんど陰鬼の類ひなり。斯くのごとくの上は、何とて望みの如く、右の女に見えらるべき、見えずして苦しむは、汝等がしやばにて邪(よこしま)をなし、且(かつ)非業(ひごふ)の死をとげし、ことごとくうかまざるが故也。あゝ人間の性は空(くう)より來り空に歸る、如斯き上は、仇もなく恨みもなく、愛も無く慕(ぼ)もなし。すみやかに念をひるがヘして、本來空に歸れよ。併(しか)し我が數年功をつみし俳句の利(り)にて、再び汝が執念を、女の執念に合集(がつしふ)させしめんとて、ばせを高らかに、

 

  川上と此の川下や月の友 ばせを

 

と吟じければ、芭蕉の教訓に靈魂感服やなしけん。且つ亦右のいとくにやよりけん。彼の男と見えしは、又一つの陰火と化し、遙か川下へいたると等(ひと)しく、又川しもよりも陰火飛來り、二つの玉(たま)合集(がつしふ)してはまた放れ、はなれては復合ひ、廻り廻る事數度(すど)なりしが、二つの陰火(いんくわ)縺れあうて、遙かの空へ飛去りけり。芭蕉は奇異の思ひをなし、其の後暫く窺ふといへ共、さらに怪しき事なければ、それより元崎へ立歸(たちかへ)り、右の亭主にしかじかと物語り、明晩よりは決して變化出でまじと申しけるが、はたして翌晩より、その時分彼の所を通れど、何の怪異もなきは、不思儀なりとぞ申しける。

 

行脚怪談袋

 

■やぶちゃんの呟き

・「小佐川」不詳。福岡県京都郡みやこ町勝山長川(ながわ)という地名を見出せるが、ここは秋月とは離れ過ぎていて、候補地からは外れる。識者の御教授を乞うが、どうもこれは最後芭蕉の句の読まれた、現在の江東区大島町の小名木(おなぎ)川をフェイクしたものではあるまいか?

・「多吉夫婦」「夫婦」と呼んでやっているところに筆者の優しさが現われている。

・「宿評(しゆくひやう)と云へる儒者」不詳。実際の芭蕉の関係者には似たような名の人物はいないと思う。

・「筑後に到り、同國元崎と云へる村」不詳。築後の秋月から二里前後を地図上で調べたが、それらしい町は現存しない。識者の御教授を乞う。

・「秋月(あきづき)の城下」現在の福岡県朝倉市野鳥にあった、当時は福岡藩支藩秋月藩の藩庁で黒田氏が居城していた秋月城の城下町。

・「半道」「はんみち」で一里の半分、半里のこと。凡そ二キロメートル。

・「三十間」五十四・五四メートル。地図を見る限り、こんなに広い川は現在の秋月より北の二里圏内には、ないように思われる。

・「川の體」「體」は「てい」。様子。

・「枯蘆の中に淋しや捨小船」中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)には「存疑の部」の一三二番に、

 

枯芦の中にさびしや捨小舟

 

と出る。底本は「芭蕉翁句解参考」(何丸(なにまる)著・文政一〇(一八二七)年刊)で「追加山峰より」の中に出す、と脚注がある。芭蕉にしては平板でショボくさい。

・「暮六つ」「七月四日」とあるから午後八時直前辺り。

・「亥の刻」午後十時前後。

・「二丈」六メートル強。

・「三間」五メートル四十五センチ強。

・「白衣類」個人的には「びやくえのるい」と訓じたい。

・「お幸」「おさき」か「おさち」か「おこう」か。

・「荐(しき)りに」「頻りに」に同じい。

・「契約(けいやく)」かくルビがあるが、個人的には「ちぎり」でよい。

・「床し」何とも言えず心が惹かれるであるが、「行かし」(ゆきたい)の意も強く含む。次の「ゆかしさ」も同じ。そもそもこの形容詞は動詞「行く」の形容詞化したもので「床」は当て字である。

・「併(しか)し教訓なしてさとらせんと」は底本では「併(しか)し教訓なくてさとらせんと」となっている。意味が通らないので、誤植と断じて「く」を「し」に代えた。大方の御叱正を俟つ。

・「見えらるべき、見えずして」「見」は孰れも「まみ」と訓ずる。

・「合集(がつしふ)」発句選集の合集(がっしゅう)に掛けてある。

・「川上と此の川下や月の友」遂に最後は流石に真正の芭蕉の句を持って来た。「續猿蓑」の「龝之部」冒頭の「名月」に出る、

 

  深川の末、五本松といふ所に船をさして

川上とこの川しもや月の友       芭蕉

 

元禄五(一六九二)年或いは翌六年の作とされる。「五本松」とは、現在の江東区大島町で小名木川(家康の命で開鑿された人工の運河)の川端及びその流域に当たる。古来、この「川上」で同じ「月」を眺める、そ「の友」とは、芭蕉の盟友であった俳人山口素堂であろう(他説もあるが、芭蕉が「友」と呼ぶのは私は彼しかいないと思う)。なお、本句は、「泊船集」(風国編・元禄一一(一六九八)年)では、

 

  深川の五本松といふ處に船をさして

川上とこの川しもと月の友       芭蕉

 

の句形で載る。

 

・「不思儀」ママ。

2016/08/04

行脚怪談袋 其角猫の戀發句を吟ぜし事 付 たばこ屋長兵衞猫のむくいの事

  其角猫の戀發句を吟ぜし事

  
たばこ屋長兵衞猫のむくいの事

 

其角も其の頃名高き俳人也。生國(しやうこく)は武州江戸下町にて、父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫也。一人の男子(なんし)を持ち、幼少より無類の才智そなはりて、父母の寵愛なのめならず、されども彼(かれ)成長するに隨ひて、父が職を好まず、自分の好ける道なればとて、廿一歳の時其揚(きやう)と云へる俳人の門人となり、其の道に出精(しゆつせい)するに隨ひ、俳語諸人に秀でゝ、扨こそ世間に名をあらはしけり。其角が隣家に長兵衞と云へる多葉粉屋(たばこや)ありけり。此の長兵衞がはゝ至つて猫を愛し、誠(まこと)に猫四五疋の内一疋にても見えざれば、下女小者(こもの)に申し付け、あなたこなたと尋ねさせける。長兵衞はうるさき事に思ひけれども、母の至つて秘藏するゆゑ、其の儘指置(さしお)きける、然る所に、右のはゝ風の心ちとありしが次第に差(さし)おもり、醫藥のしるしもあらず重病となりしが、終に養生叶はず空しくなりぬ。その後長兵衞が大切にして嗜なみ置きし鯛の鹽辛(しほから)を、彼の猫夜中(やちう)に殘らず喰ひて後、その壺をじやらして居りけり。長兵衞物音に目をさまして、かの所へ行きて見るに、右の始末故大いに怒り、我れさへも大切にして嗜(たし)なみ置きしを、盜み喰ふとは、畜生(ちくしやう)乍ら餘りにくきやつ也。飼ひ置いて何の益かあらんと、即座にかの猫を繩にてしばり棒をもつて打殺しけり。其角は翌日に至り長兵衞が方へ行き、年久敷く飼ひ置きしねこの、ぬすみ喰ひをなしたるゆゑに、たちまち憎しみをうけ、打殺されし事、猫の身と思ふべからず、人間とても左のごとく、今日まで實正(じつしやう)にて宜(よろ)しく、崇めると雖も、人も明日にもぬすみ、惡徒(あくと)なす處を見付られなば、其のつみを得ん事うたがひなしと、其の心を思ひつゞりて、

 

  うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ  其角

 

と口ずさみけり。句體はちがへども、是は此のせつ詠みし發句なり、其後に亭主長兵衞は、右の腕首しきりに痛み出しけるが、うみもやらず只(たゞ)はれ出で、數多(あまた)の外科(げくわ)に見せて、さまざまの良藥を付けると云へ共、其の印し更になくして、後には腕に猫の毛の樣なる物はえ出で、その痛み時どりしてたへがたかりしかば、長兵衞今は起きて居る事もあたはず、病ひの床にふしけるが、實にも不思議なるは、その翌年、かの猫を打ちころしたる月日もたがはず、病死しけり。是を聞く人奇異のおもひをなして、實に實に是(これ)は先達(せんだつ)て打ころせしねこのむくいならんと、皆云ひあへり。尤もねこ一疋にて、かほどの事はあるまじき事なれども、此の長兵衞甚だ殺生をこのみ、あまたの鳥獸(てうじう)をころせし因果ならん。

 

■やぶちゃんの呟き

・「其角」蕉門十哲の第一の門弟とも称せれるも、早くから華街に足を踏み入れて蕉門きっての放蕩児ともされた宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。本名は竹下侃憲(ただのり)。ウィキの宝井其角などによれば、江戸下町の堀江町(現在の東京都江戸川区堀江町(ほりえちょう)。一説に於玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町附近)とも)で『近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り』、『俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める』。『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾』蘐園(けんえん:徂徠の別号。「蘐」は「茅(かや)」。住所の茅場町に因む)塾『を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある』。一方、徂徠が厳罰に処した「赤穂事件」では浪士側を公然と支援支持したことでも知られているのが面白い。『永年の飲酒が祟ってか』、享年四十七歳の若さであった。

・「父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫」前注通り、名前の地位が事実と異なる。この「神戸」はルビがないが、「こうべ」以外に「がうど(ごうど)」とも読める。

・「なのめならず」「斜(なの)めならず」(「ななめまらず」とも訓ずる)で並一通りでない、格別だ、の意。

・「其揚(きやう)」不詳。芭蕉以前にそのような師がいたというのも少なくとも私は知らない。

・「じやらして」「戯(じゃ)らす」で「じやれる・弄(もてあそ)ぶ」の意。「猫じゃらし」「じゃら」である。

・「うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ」これも其角の句ではないしかもこれは幾ら何でもひどい。何故なら、其角と対立していた支考の句だからである。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の、「猫 戀 附 胡蝶」のパートの二句目に出る、

 

 うき戀にたえてや猫の盗喰(ぬすみぐひ)

 

で、「たえてや」は「堪へでや」の意の表記の誤りであろう。「句體はちがへども」というのは、この一句の意味は、季節の折りから、猫は恋に忙しく、食欲さえも失うほどに恋い焦がれる。それでも食わずんば、恋どころか、命も危うい。さればこそ、こんな思いもかけぬ深夜に盗み喰いをしているのであろう、されば一つ、許してやろうぞ、という意であろうから、それが、教訓染みて、しかも暗に猫を撲殺した長兵衛を難ずる内容となっているのを言っているのであろう。それにしてもここまで徹底して作者を間違えている事実は、この偽書の筆者が確信犯でこのフェイクを成していることがはっきりしてくる。これは逆に俳諧史に精通している人物が判ってやっているトンデモ本なのだということが見えてくると言えるのである。

・「うみもやらず」パンパンに腫れているのに膿が出る徴候もなく。悪性腫瘍が疑われるか。

2016/08/02

行脚怪談袋   嵐雪上州館橋に至る事 付 僧狐に化さるゝ事

  五の卷

 

  嵐雪上州館橋に至る事

  
 僧狐に化さるゝ事

 

此の嵐雪も天和(てんな)年中の誹人なり。生國は上州山田郡依田村のむまれ、父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す。嵐雪稚名を喜太郎と云ひしが、幼少より才知人に勝れ、衆人のほめものに成り、十四歳の時江戸へ出(い)で、鎌倉河岸(がし)に緣家の者在りしに便りて、能き家職(かしよく)も仕覺えて、江戸に於て一身代を取立てさせんとの父が了簡なり。緣家の者共是(これ)によりて、喜太郎を近所の紺屋へ奉公に遣はし、十四歳より十七歳迄、彼(か)の方に於て其(その)職を覺えさせるに、元來器用なる者故、委敷くその職の道を仕覺え、今は家職の片腕にも成るべき所に、彼の喜太郎右の紺屋の隣家に、嵐丁と云へる俳人あり。能く俳道に達して、門人も數多(あまた)ありけるが、喜太郎も隣家故、隙あれば嵐丁方へ至りしが、後は俳道の附合も覺え。甚だ面白き事に思ひ、其の後は只管(ひたすら)に彼れが方へとのみ行きて、家職の事うとくなりしが、終には是迄覺えたる紺屋の職を捨て、嵐町が門人となる。父母も事を傳へ聞き、こゝろならず思ひしかども、至つて深き志しの由を聞きて、是も一つの藝なるべしと、その儘指置きけるが、はたして喜太郎四五年の内に、あつぱれの俳人となり。評とくを嵐雪と號し、師の嵐丁(らんちやう)は程なくして身まかりしが、嵐雲其の跡をつぎ、宗匠となりしが、又も自分の及ばざるを思ひ、芭蕉翁の門人となり、是よりいよいよ其の道にかしこく、俳力嵐丁に彌(いや)まして、世にその名を顯はしけり。嵐雪ある時古郷をしたひ。今は父母も古人となりしと云へ共、親類の者あれば、上州に至り彼の方(かた)を便り、父母の石碑をも拜せんと。江戸下町を出でゝ、板橋を通り上州へ越え、同國衣までの里、玉川の上館(うへたて)はしにいたる、此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分、始めて此の橋を掛けられしより、今に破損等あれば、その領主より修複ある事也。橋の長さ一町にして、らんかんきぼうしありて、いとはなばな敷(し)き橋也。然る所此の橋詰(はしづめ)に旅僧(たびそう)と見えて、高らかに經を讀みていたり。嵐雪が此の所に來る頃は、いまだ早朝にして、日も漸う東海に上るころなれば、霧頻(しき)りに深くして、通る人もあらず。されども僧は一心に經を讀誦(どくじゆ)なし居ける。嵐雪是を見て、此の僧は定めて大願の事にても有るべしと、世捨人の身とて、殊勝さよと取りあへず。

 

  ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉  嵐雪

 

と吟じ、程なく僧の傍に至り見るに、こはいかに彼の僧頭(かしら)と五體(ごたい)を草の蔓(つる)にてくるくるとまかれ、手も後手(うしろで)になして居(ゐ)ける、自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず、只(ただ)目をねむり一心に阿彌陀經を讀誦す。嵐雪其の僧のをかしげなるを、心得ぬ事におもひ、則ち僧に問うて申す樣、貴僧は見れば旅人(りよじん)なるらんが、いまだ人通りさへなき早朝といひ、殊に草蔦(くさつた)の類をもつて身をからめられ、一心に經を讀誦する體、心得ぬ事かなと、高らかに問ふに、僧はなほ一言の返事もせず居たりける故、嵐雪は彌々(いよいよ)不審(ふしん)し、手をとつて僧をゆすぶる。僧是によつて目をひらきて、嵐雲をしかじかと見、その後自分の身に蔦かづらの卷きたるを見、大きに驚く體(てい)なり。嵐雪更に心得ず僧にそのゆゑを問ふ。僧嵐雪に尋ねけるは、その元は何れの人ぞ、旅人(りよじん)なりとことふ。僧又夜あけしやと問ふ、嵐雪しかりと云ふ。其の時僧不思議の思ひをなす氣(げ)にて語りけるは、某は諧國修行の六部なるが、是より下野(しもつけ)の方(かた)へ至らんが爲めに、昨日此の先の野邊(のべ)を、こなたへ急ぎ申す所、日もかたむき空くらくなりしゆゑ、袋(ふくろ)よりだんごを取出し、食せんと存じ候所、傍より大きなる狐飛來り、右の袋をくはへて逃げ行かんと致せしを、我れ追ひかけ、杖を以て彼の狐をしたゝかに打ちのめし、終に袋を取かへし候ひて、其の後團子も食し終り、道二三町も野邊を行く所に、既に日も暮れに及びし故、里へ出でむもはるばるなれば、野宿せんと腕を枕にして、兎(と)ある木陰に休み居(ゐ)しが、先の方より大勢の供廻りを召され、いかにも大名の御入部(ごにふぶ)の如く、行列正しくふり來られ候が、御供の面々我等が休み居(ゐ)しを見て、此の僧は膽(きも)のふときやつ哉、起直りもせず、寢て居る事の無禮さよ、いはゞ慮外者なりと、大勢の面々われを取りまくにより、われらは、道の傍なれば御邪魔にも成るまじと、伏せり居候由を申すと云へ共曾て聞入れられず、大勢をり重なり、我れを高手小手にいましめ、殿の御前(ごぜん)へ引出せり。殿は乘物の戸をひらかせ、甚だいかり給へる顏色(がんしよく)にて、諧國修行の身として、おそるべきを恐れず、禮儀をも知らざるの段、大膽至極(だいたんしごく)なり。此のもの其の分にすべからず、我が前にて首をはね申すべしとの仰せなりしかば、傍の面々敷皮(しきかは)をもち來り、それへ某を乘せ、御駕脇(おかごわき)の人、氷のごとくなる刀(かたな)をぬいで、我れらが後ヘ立ちたり、我等かなしく、ひたすらに詑言(わびごと)なすといへども、たれ聞入(きゝい)れらるゝ者もなければ、今は某もおもひ切り、とても叶はぬ處也と、兩手を合せ目を塞(ふさ)ぎ、一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦なせしに、殿は右の太刀取りを呼ばられ、何やらん告げ給ふ樣(やう)にて、手間取り候ひしが、其の後かの太刀取(たちとり)立歸り、我等をばゆすりうごかされ候ゆゑ、據(よんどころ)なく目をひらき見しに、太刀とりにはあらずして其許なり。野邊にはなく此の橋のうへなり、殿を初め大勢の供まはりと見えしは消えうせ、からめられし繩と覺えしは、ケ樣の蔦かづらのたぐひ也。是を思ひ合(あは)するに、昨夕方打ちたゝきし狐のそのはらいせをせんと、かりに大家の供廻りの體(てい)にもてなし、我らをばかし候なりと、おぞけふるひ、扨々(さてさて)ひやひなる目にあひしものかなと語りければ、嵐雪も奇異の思ひをなして行過ぎにけりとぞ。

 

■やぶちゃんの呟き

・「嵐雪」蕉門十哲中の最古参の一人であった服部嵐雪(はっとりらんせつ 承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:芭蕉より十歳年下)。但し、晩年には芭蕉とは不協和音が多くなって接触が少なかった。なお、本文はまたしても事実と相違することが散見する。ウィキの「服部嵐雪」により引くので比較されたい(一部の記号を変更した)。『幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村』(こえなみむら:現在の兵庫県南あわじ市榎列小榎列(えなみこえなみ))出身。『松尾芭蕉の高弟。雪門の祖』。『服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった』。延宝元(一六七三)年に『松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人とな』った。延宝六(一六七八)年の『不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が二句入集したのが作品の初見』。延宝八(一六八〇)年には『同門宝井其角の「田舎之句合」に序を草し、「桃青門弟独吟廿歌仙」に入集、以後「虚栗(みなしぐり)」、「続虚栗」などに作品を採用され』ている。元禄元(一六八八)年には「若水」を刊行し、同年』に『立机して宗匠となり』、同三(一六九〇)年には『「其帒(そのふくろ)」を刊行して俳名を高めた』。しかしやがて自分勝手な俳諧点業を興行したり、芭蕉の「かるみ」の撰集「別座敷」(元禄七(一六九四)年刊)を批判したりしたため、芭蕉の怒りを買った(以上の一文のみはウィキではなく、一九八九年岩波文庫刊堀切実編注「蕉門名句選(上)」の解説を参考にした)。

『作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し』、元禄五(一六九二)年三月三日の桃の節句には『「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた』。それでも元禄七(一六九四)年十月二十二日に『江戸で芭蕉の訃報を聞く』や、『その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった』。『その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した』。嵐雪自身の辞世の句は、

 

 一葉散る咄(とつ)ひとはちる風の上

 

である。「咄」は禅語で「喝」に同じい。

・「上州館橋」上州館林。現在の群馬県南東部にある館林市(たてばやしし)市内としか思われないが、「館林」を「館橋」と旧称したことを確認出来ないので不審。

・「天和(てんな)年中の誹人なり」「誹人」はママ。問題ない。問題なのは致命的に芭蕉と同様に天和(一六六一年から一六八四年)中の俳人とするトンデモ部分である。

・「生國は上州山田郡依田村」上野国山田郡は現在の群馬県東部に存在した郡であるが、「依田村」というのは確認出来ない。「依」の字を含む村名はなく、あるのは富田村・下新田村である。そもそもが誤りで前注通り、嵐雪の生国は淡路国三原郡小榎並村で全くの方向違いである。ところが、天保六(一八三五)年記とする「芭蕉記」(で画像と活字化したものが読める)には、

   *

                  嵐雪

右生國ハ上州山田郡依田村父ハ百姓にて河部喜門といふ

嵐雪稚名喜太郎といふ先生嵐丁(ランテイ)門人後ニばせを門弟ニ成

   *

とあり、こうした虚説が一部に明確にあったことが判る。

・「父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す」誤り。前注通り、現行の定説では父は武士で服部喜太夫高治と称した(「喜」の字のみ一致)。前注引用の「芭蕉記」とは一致する。

・「稚名を喜太郎」前注に従えば幼名は「久馬之助」「久米之助」であるが、嵐雪は長男であるから、幼名としては父の「喜」の字を受けてこの名であってもおかしくはないとは言え、前注引用の「芭蕉記」とも一致する。

・「十四歳の時江戸へ出(い)で……」以下の記載は何に拠ったものか不詳。虚説と断じて無視した方が無難である。

・「嵐丁」前注引用の「芭蕉記」には確かにそう出る。しかし事蹟不詳。

・「嵐町」ママ。名は書き換え字をしばしば用いるので、安易に誤植と断ずることは出来なぬ。

・「衣までの里」不詳。識者の御教授を乞う。

・「玉川の上館(うへたて)はし」不詳。識者の御教授を乞う。

・「此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分」天正一二(一五八四)年に北条氏政(天文七(一五三八)年~天正一八(一五九〇)年)の子氏直が館林城の長尾氏を攻め、翌年に落城、館林城は北条氏規に与えられ、館林領は北条氏の直轄領となっている。

・「此の橋」本篇のロケーションであるが、不詳。識者の御教授を乞う。

・「一町」約百九メートル。

・「きぼうし」擬宝珠。

・「ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉」またしても嵐雪の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「龝之部」の「虫 附鳥」のパートの冒頭に出る、向井去来の才媛の妻で、去来没後に剃髪して「貞松」と称した可南(かな)の、

 

 きぼうしの傍(そば)に經よむいとゞかな 可南

 

という句であるが、この句の「ぎぼうし」は橋の欄干の擬宝珠ではなく、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta を指すと解釈されている(因みに本属の和名は「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」の転訛であるが、これはこの植物の莟又は包葉に包まれた若い花序が、柱飾りの擬宝珠に似ることに由来する)。

・「自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず」「自分」はかく底本ではルビを振るが、私は「おのづと」と訓じたいところである。

・「その元」「そこもと」と同じい。武士が用いた二人称。そなた。

・「ことふ」答ふ。

・「六部」「ろくぶ」。「六十六部」の略で、法華経を六十六部書写し、全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧。鎌倉時代から流行した。江戸期には単に諸国の寺社に参詣する巡礼又は遊行聖(ゆぎょうひじり)を広く指した。白衣に手甲・脚絆・草鞋(わらじ)掛けで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を背負い、六部笠(藺(い)で作られたもので中央と笠の周囲の縁(へり)を紺木綿で包んだもの)を被った姿で諸国を廻った。但し、江戸期にはそうした巡礼姿で米銭を請い歩いた乞食も多くいた。

・「二三町」二百十九~三百二十七メートル。

・「御入部(ごにふぶ)」領主が、その領地・任地に初めて入ること。入府。

・「其許」「そこもと」。前掲。

・「ひやひなる目」形容動詞の口語形で「非愛」の転訛した「ひやい」であろう。危ない・危険だの意。

 

 にしても、嵐雪も感心するほどに「一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦な」したにも拘わらず、狐の妖術が破られ、開明することがなかったのはちょっと不審である。私は気に入らない。

2016/08/01

行脚怪談袋   芭蕉備前の阿川(あがは)にて難儀事 付 何と無く仇を報ずる事

行脚怪談袋下目錄

一芭蕉備前の阿川にて難儀事

  
何と無く仇を報ずる事

一嵐雪上州館僑に至る事

  
僧狐に化さるゝ事

一其角猫の戀發句吟ぜし事

  
煙草屋長兵衞猫の報いを請くる事

一芭蕉筑前の小佐川を越ゆる事

  
多吉夫婦靈魂の事

 
 
 

行脚怪談袋下

  四の卷

  芭蕉備前の阿川(あがは)にて難儀事

  
何と無く仇を報ずる事

 

扨芭蕉は岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方(かた)へと急ぎしに、備前岡山の先に丑まど云へる所あり。此の丑まどを越ゆれば、阿川と云ふ川あり、此の川は上は同國曾根川(そねがは)續き、下は海へ連なる、左程の大川にはあらざれども、波あらく瀨早し、然るに、備前より備後へ渡る海道なれば、旅人を通さんがために、所の者ども船を出して船わたしする、此の時ばせを此の所の渡し場へ來かゝり、ふねに乘りてむかふの岸へわたらん事を思ふに、未だ早朝の事なりしが、乘合の旅人もなし、船も岸へ着きて船頭とてもをらず、芭蕉思ふ樣(やう)は、いまだ早朝なれば渡し初まらずと覺ゆる也。此の岸に立ち居んも如何(いかゞ)なり、いづれへなりとも暫く休足(きうそく)なさんと、彼是(かれこれ)と見合す所に、酒屋と覺しき家只一軒見世をひらきありしかば、是幸ひとばせをは其(その)見勢(みせ)へ立寄りて申しけるは、我等は此の渡しを越える者なるが、いまだわたしも始まらずと覺え候間、始まる頃まで、此の見世に休足させ給はれと、則ち右の店の端に腰打ちかけ、渡しの方を見やりてぞいたりける。然る所に渡し場の船頭共と見えて、凡そ十四五人彼の酒やへどろどろとおし入り、酒を所望して出させて、いづれも數盃のみしゆゑ、大勢の事なれば、洒代多分なり、かの者共代物を拂ふ時に及びて、三百錢程も不足也。洒やの主(あるじ)此の不足なるが故に、合點なさずして申す樣、其許達には前々(まへまへ)より多分の酒代(さかだい)借りられ、甚だ迷感也。其の上今日(けふ)も早朝より來(きた)られ、復候三百錢からんとの事、存じの外(ほか)なる事、且つまた早朝よりも斯く代物(だいもつ)の不足有りては、其の日一日の不吉なり。是非に三百文を出され候得、左(さ)なきに於ては、我等其許達の船頭へ、此の頃のかけを申し達し、すぐに寄らばともかくも、萬一には、諸人を渡して船頭より取らるゝ船賃を、引取り申さんと甚だ立腹をなしければ、船頭共は大きに困り入り、三百文出し度きには一錢もなし。又遣はさねば頭(かしら)の者へ訴られん事を恐れて、すべきやうなく見えけるが、其の中に一人、芭蕉が唯一人默然として居たるをちらりと見やり、殘りの十四人の者へ何やらさゝやきけるが、程(ほど)もあらせず芭蕉が側へづかづかと來り、さも大へいに立はだかりばせをに向ひて申す樣は、我等は當(たう)渡りの船頭どもなるが、今(いま)思はずも酒をのみ過ごし、代錢(だいせん)三百文不足なり。右に付近頃無心(こゝろなき)には候得共、御持合せあらば、三百文我等に御借(か)し給はれかし、何分賴み入ると、差つけがましく申しければ、芭蕉は是を聞きて、何れにも知らざる者、殊更借しくれよとは嗤(わら)はんとの事、然るうへは何のよしみもなき者どもなれば、無益の事に思ひ、殊更諸國修行の事、路錢(ろせん)とても貧しく遣ひ切りし故、三百文をくれん事は詮なき事と、則ち答へて申す樣は、我等は諸國修行の身、最も貧家(ひんか)の者なれば、路錢とても不自由也。據所なき御所望、有合せだに致しなば否(いな)とは申すまじきが、右の通りに候得ば、此の儀に於ては御斷り申し候と言ふ。彼の者共是を聞いて、無法にも大きにいかり、諸國修行も致さるゝ者が、多分の貯へなしと云うてなるものか、殊に人體(じんたい)より姿かつかうと云ひ、賤しき人とは見えず、然らば三百錢位ゐなき事は有るべからず、無きと申さるゝは僞りなり、我等も男なり。斯く申し出しては、是非乞ひ請けでおくべきや、愈々(いよいよ)借されすんばケ樣にして貰ひかゝると、大の男が尻引(しりひつ)からげ、熊の如きの腕をさしのぶ。ばせを大きに驚きしに、懷中へ手を入れさがし出さんとする、芭蕉彌(いよいよ)驚き、こは狼藉也とふりはなすに、殘りの十四人の者共も、おなじく腕をまくりて、ばせをへ取つて懸らんとする氣色(けしき)也。酒屋の亭主旅人の難義を見て、急ぎ中へわけ入り、彼の者共を押止(おしとゞ)め申しけるは、其許達は、興さめたるふるまひを致さるゝ物哉(かな)、誰れ人か未だ見す知らずの者に、大切なる金錢をくれるものあらんや、無體至極(むたいしごく)也と云へども、かの者ども曾(かつ)て聞き入れず、亭主ももてあましけるが、扨(さて)了簡(れうけん)なし、彼らに向ひて申す樣、其許等わづか三百文にて、斯(か)くみだれに及ぶ事、旅人の手前氣の毒千萬也、右に付三百文不足の處は、明日迄相待ち申すべし、右によりしづまりめされよと申しければ、大勢の者ども此の詞を聞き、然る上は明日まで待ちくれ候へと約束し、彼の者共は渡しの方へ出で行きけり。亭主後にて芭蕉に申すは、扨々不埒なる者共にて候。併し貴公の貸しあたへられざるを、此の上心にもかけ、渡し場のせついかなる僻事(ひがごと)か致し申さん、隨分心を付け給へとぞ申しける。ばせをも尤もなりとて答ふ。扨渡し場も始まり、彼是の旅人(りよじん)便船なせば、芭蕉も同じく汀へ至り、かの船に乘りけり。其の船頭はあやにくと、ばせをに錢(ぜに)を借りかけし男也。芭蕉は是はとは思ひけれども。早船も二三間(げん)河中(かはなか)へ出でければ、何知らぬふりにて乘りいたりしに、案の如くに彼(か)の船頭は、後(あと)より來りし外の船の船頭をまねきて、そのふねに大勢の乘合を移し。芭蕉一人此の船に殘し置き、川半へなると、船頭芭蕉が首を押へ、汝先刻能くも我等にかの錢を貸さゞりしぞ、其の御禮斯くの如くと、既に又懷中の物を取らんとす、ばせをあわやとおもひしが、遉(さす)が發句狂歌に名を得たる頓智才覺のもの、大いに笑ひて申しけるは、我等こそ諸國を修行の貧者(ひんしや)、何一文もたくはへあらん。されども我れに無心懸けられ、我れ貧によつてあたへざる事、げにも情なきに似たり。依之(これによつて)貴殿へ右然るべき金まうけ教へ申さん。その手段は、今(いま)晝(ひる)のうちに、岡山家の侍といつはり、京都四條の芝居の役者ども兩人、備後の方に越えんとて、此所の渡し場へかゝるべし。此の役者兩人して懷中に金子五百兩貯へたり。是我等岡山の城下より、此の後迄(あとまで)同道なして來るゆゑ。能く知り侍る所也。足下(そくか)何卒此者を待請けて、唯兩人船へのせ、ケ樣に川中に至らんせつ、如何敷(いかゞし)き申し事なれ共、右兩人ともに討殺(うちころ)し、彼の金子をうばひ取り、死がいは此の川へはめ給はゞ、誰れ知る者なく、手もぬらさず、幸福の身と成り給はん。かく告げし我等にも、此の先の何某(なにがし)と云へる方に待つべき間、金子二三十兩も給はば候へ、最早おし付(つけ)此の渡しヘ來(きた)るべし、何卒ケ樣に成して仕とげ給ふべし、我等三百文を用立てざる替りなりと、其の役者兩人の侍に出立(たちいで)し恰好衣類の色迄の、誠しやかに告げければ、邪欲貪取りの船頭、此事を實事(じつごと)と思ひ、大いに悦び、ばせをがえり元をはなし、却つて一禮して申す樣、御人には能くこそ告げ給へり。我れ人間と生れ、ケ樣の船頭なす事心うく思ひ、何卒樂の身の上とならん事を思へども、金子なければ是非もなき事也。何分いか樣の儀を成しても、金子を得んと思ふ所、夫れこそ一段の事なり。もし首尾よく仕とぐる事あらば、足下の宿(やど)へ尋ね行き、此の一禮申すべし、延引ならば惡(あし)かるべし。早速元の渡し場へ歸り侍ち出づるべしと、ばせををいぎ向ふの岸に上げ、自分はあわてたる體(てい)にて急ぎ其の船をこぎ戾し、元の渡し場へ立歸(たちかへ)る。ばせをからきさいなんをのがれ。岸へ上るや否や早足(はやあし)に其の所を立去り、備後の三吹(みふき)の方に至る。扨かの船頭は元の渡し場へ歸り、皆々は又も渡すに、自分は右の了簡有れば、曾て船を出さず、かの侍來るや否やと窺ふ所に、芭蕉が詞にたがはず案の如く衣類より恰好、我がまつ侍兩人來り、けんぺいに船を呼寄する、得手に帆と、かの船頭は己れが船をこぎ寄せ。右の侍兩人のみを乘せて、かひがひ敷く棹さし、則ち舟をこぎ出す程もあらせず、船川中にいたりし頃、彼の船頭は仕すましたりと、棹を打捨てゝづかづかと來(き)て、左右の手にさむらいの胸ぐらをつかみ、侍とは僞り誠は京都の役者にして、兩人金子五百兩を所持なしたらん。此方へ渡すべしと、既に懷中に手を入れんとするに、右の侍は大いにいかり、汝不屆千萬(ふとどきせんばん)なる者かな。我等はたれとかおもふ。岡山の家中にて名を得し相澤又七米澤(よねざは)民部(みんぶ)と云ふ者也。然るを役者抔と云ひなすのみか、却つて五百兩のきん子を所持なすがゆゑに、うばひ取らんとの事共、其の分にしてなり難し、言語同斷の賊(ぞく)、武士の手なみ是見よと、兩人船頭の兩手を取り、やはらの手にて彼の者を打落し。ねぢふせ上へのし懸り、兩人が刀の下緒(さげを)をつるべ、あはや繩となし、かの船頭を高手小手にいましめ、刀の胸打(むねうち)に。はつしはつしと打伏(うちふ)せ。その後船の艗(とも)に立ちあがり、此の船の船頭、我等にふとゞきをなす故により、斯くのごとくにいましめたり。外(ほか)の船頭來り、此のふねを向ひの岸へ着くべしと、高聲(かうじやう)に呼(よば)はる。此の詞に外のせん頭ども大いに驚き、急ぎ彼のふねへ入替り、あなたの岸へつけたり。其の後兩人の侍は此の渡しの船頭を呼付け。かの船頭が委細の手段(しゆだん)を語り、何樣(なにさま)ふとゞき成る次第なれば、其の分に成りがたしと云ふ。船頭も大きにおどろきしが、され共我が寄子(よせこ)の者なれば、色々にあやまり、夫れにても叶はねば、近所の町人どもを賴みて扱ひに懸け、樣々(さまざま)の事にて、船頭よりあやまり證文を出し、漸(やうや)く貰ひ受けしも、右體の無法者故、所追放にぞなしたり。右此の侍はばせを岡山より渡し手前まで同道なして來りしゆゑ。岡山の武士と知れしが、態(わざ)と役者なりとかのせん頭へ告げ、其の上にも五百兩の金を所持なせし抔と、跡方(あとかた)もなき啌事を言ひ聞かせ、彼等にケ樣の無法をさせ、却つて難儀を請けさせて、自分へ樣々(さまざま)ゆすりをいたせし仇(あだ)を、報ずべき頓そくの氣てん也。扨またばせをは、備後の三吹に至り、とある野邊を通りしに、頃は春の半、其の日はいと空も長閑(のどか)にて、暖氣(だんき)を催(もよ)ふし、右の原の傍に蕗の薹の賑々敷(にぎにぎし)く出でたるを見て、其の上阿川(あがは)にてせん頭の我れにひどくもあたりしを、だましすかし來れるよしをふくみ、強力なる船頭と云へども、頓智の志しには相手にたゝずと、

 

  投入れや梅の相手に蕗の薹

 

と一句を吟ず。是自分を梅にたとへ、船頭をふきにたとへたる也。此の物語りかのせん頭の事も、ばせをのちに聞及び、廻國をはりて後に、門人へ是を咄せりと。扨々此の物語り、ばかばか敷(し)き事どもなり。ばせをこけにしたる噺(はな)しなり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

・「備前の阿川(あがは)」不詳。現在の牛窓(次注)を越えた西にも東にもこの名を持つ河川はない(河川の旧称も管見したが、ない)。そもそもが「岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方(かた)へと急ぎしに、備前岡山の先に丑まど云へる所あり。此の丑まどを越ゆれば、阿川と云ふ川あり、此の川は上は同國曾根川(そねがは)續き、下は海へ連なる、左程の大川にはあらざれども、波あらく瀨早し、然るに、備前より備後へ渡る海道なれば、旅人を通さんがために、所の者ども船を出して船わたしする」という叙述自体が奇異である。ここで芭蕉は「岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方へと急」いだというのなら西に備中を横断して備後へ、或いは北に中国山地を山越えして伯耆へ向かわねばならないのに、岡山のずっと手前、東の牛窓を越えるというのは山陽道を戻ってしまっていることになるからである。そもそもが仮託の偽書なれば、同定すること自体に意味はあまりないのであるが、これほどひどい地理的矛盾は私には不可解にして不快である。「曾根川(そねがは)」(河川の旧称も管見したが、ない)という河川も当然の如く、現認出来ないのである。識者の御教授を乞う。この注の末も参照のこと。

・「丑まど」牛窓。岡山県南東部の旧邑久(おく)郡。現在は瀬戸内市内。直線で岡山の西南西二十一キロメートルに位置する。

・「二三間(げん)」三・七~五・五メートル弱。

・「右然るべき」「みぎ(、)しかるべき」。

・「邪欲貪取り」ママ。「り」がなければ「じやよくどんしゆ」(「貪取」は貪(むさぼ)り取ること)でリズムがよい。「どんとり」では如何にもお洒落でない。

・「えり元」襟元。

・「延引ならば惡(あし)かるべし」ぐずぐずしていていると(彼等が別な船に乗って渡ってしまって襲う機をあたら逃してしまうので)よろしくない。

・「三吹(みふき)」この地名も不祥。宿をとる以上、宿場でなくてはならないが、備後にはこのような宿駅はない。

・「けんぺいに」「權柄」。傲慢・尊大なさま。

・「得手に帆」「江戸いろはかるた」にある故事成句「得手に帆を揚ぐ」。「得手に帆を掛ける(上げる)」などとも称する。「得手」とは、最も得意とすることを意味し、追い風に帆を揚げるように「得意とすることを発揮できる絶好の機会に恵まれ、それを逃がすことなく利用し、自分の思うように事態を進めさせようとすること」を指す。

・「程もあらせず」大した手間も時間かけずに、間もなく。

「仕すましたり」「しすましたり」。まんまと思う通りにやり遂げたもんだ。

・「相澤又七」不詳。

・「米澤(よねざは)民部(みんぶ)」不詳。

・「やはら」柔術。

・「刀の下緒(さげを)」刀の鞘を着物の帯に結び付け、鞘が帯から抜け落ちないようにし、同時に不意に差している刀を奪われないようにするための鞘に装着して用いる紐のこと。素材は絹や皮革(主に鹿革)が用いられた。解いた長さは通常は約七尺強(二メートル二十センチメートル)あるので、人を縛って拘束するのに用いるには充分な長さがある。

・「つるべ」「連るぶ」で、本来は並べ連ねるの意であるから、二三重に重ねて強靭な拘束用の縛り紐となし、の謂いととっておく。

・「あはや」これは感動詞ではなく、「足速(あはや)」(スピードの速いこと)の副詞的用法で、「あっという間に」の意でとっておく。

・「高手小手」「たかてこて」と読む。両手を後ろに回して、首から繩をかけ、二の腕から手首まで厳重に縛り上げてしまうこと。

・「刀の胸打(むねうち)」棟打(むねう)ち。我々は通用、「峰打ち」と言っているが、正しくは「むねうち」である。

・「艗(とも)」舳(へさき/とも)に同じい。中国では船の船首に想像上の水鳥である鷁(ゲキ:白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた)の形を置いて飾りとしたことによる。

・「此の渡しの船頭」舟渡しの船頭の元締め。

・「かの船頭」悪心を起こして二人の侍を襲った船頭。

・「其の分に成りがたし」この場合の「其の分」とは、罪咎(つみとが)として軽く許し得る許容範囲で、それを逸脱している、最早、問答無用の斬り捨て御免のレベルである、と言っているのであろう。

・「寄子(よせこ)」元締めが纏めて支配している正規の人足としての配下の船頭の一人の謂いであろう。

・「所追放」これは私刑であると判断出来るので、所属する水主(かこ)集団及び居住地からの追放措置である。

・「跡方(あとかた)もなき」事実無根の。

・「啌事」「そらごと」(空言・虚言)と読ませていようが、用法としては誤りで、「啌」(音は「カウ(コウ)」には「叱る・怒る声」「漱(すす)ぐ」「喉の塞がる病い」の意以外にはない。

・「頓そく」「頓」智「即」妙の略か。但し、本来は「即妙」は「当意即妙」(素早くその場面に適応して機転を利かすこと)が正しく、「頓智即妙」という四字熟語は常用四字熟語ではない。

・「氣てん」機転。

・「強力」「がうりき」。力の強いこと。

・「投入れや梅の相手に蕗の薹」またしても芭蕉の句ではない。「續猿蓑」「卷之下」の「春之部」の、「梅  附柳」の五句目に出る、伊賀蕉門の一人で藤堂藩士であった友田良品(りょうぼん ?~享保一五(一七三〇)年)の、

 

 投入(なげいれ)や梅の相手は蕗のたう      良品

 

で、「投入」は古華道で自然に限りなく似せて花を生ける手法を指す(現在の壺形・筒形の背の高い花器に生けた「投げ入れ」は近代の用語である)。参照した伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「續猿蓑 巻之下 春の部脚注」によれば、句意は『投入れに梅の花を使うとすれば、相棒にフキノトウを使うと投入れに似つかわしい』とある。余り、面白い句とは思われない。

・「ばせをこけにしたる噺(はな)しなり」やや気になる。前で「扨々此の物語り、ばかばか敷(し)き事どもなり」と書いた話柄全体を批判した上で、かく言った場合、これは俳聖芭蕉自身を「虛仮(こけ)にした」(馬鹿にした)とんでもない話だ、という意でとれるからである。即ち、偽書を書いて筆者自身が、自分が書いた(素材は如何にも別な人物で幾らもありそうではあるから彼の純粋な創作ではない可能性が高い)このトンデモ咄を自ら空言だと否定するという、入れ子的でメタな捩じれを持った発言だからである。さればこそ、先に述べた地理矛盾の不信もやはり確信犯なのかと疑われてくるのである。

2016/07/28

行脚怪談袋   芭蕉翁備前の森山を越ゆる事 付 猅々の難に逢ふ事

  三の卷

 

 

  芭蕉翁備前の森山を越ゆる事

   
猅々の難に逢ふ事

 

ばせを京郡を立ちて播州へ越え、一國を執行(しゆうぎやう)せんとなして、備中を過ぎて夫れより備前に懸り、同國岡山にしるべの俳人ありければ、是へ越えんが爲めに、其の道すがら、同所森山(もりやま)の麓を通りけるが、此の所は東は遙かの谷、西は何丈とも知れぬ高き山なり。日も未だ高きゆゑに、ばせをは何の心も付かず、此の所を越える。然るにばせをが被り居たるもじの頭巾、風もふかぬに遙かの谷へ落ちて、二丈計り下の木の枝にかゝりたり。芭蕉是を見て、常々被りたる頭巾、此の儘失はん事本意なき事と思ひ、何れにも谷へ下りとり來らんと、山がつのふみ分けし道にや、少し平かなる所有りける所を、つたひつたひやうやうかの木一本へ至て、頭巾を取らんとすれども、小高き木の枝なりしかな下より取る事あたはず、登り取らんには谷際なれば、あぶなからん事をあやぶみ、詮方なき儘、かたはらなる枯木を手折りて、我がつゑヘ羽織のひもをもつてくゝり付け、是を棹として、件(くだん)の枝へ懸りし頭巾を取らんとなせども、いかゞ枝へ懸りけん、兎角して取られざりしが、芭蕉棹を取直し彼の枝をしたゝかに打ちて、ふるひをとさんとなしける。枝うつ音かしこへ聞えける所に、遙かにあなたの木の茂みより、こだまに響きて、うんとうなる聲聞えしが、芭蕉は心得ぬ事に思ひ、既に頭巾をも取りたりければ、暫し立休らひて、又森詠(なが)め居りけるが、俄かにさしも生茂りし大木の、悉く梢迄ゆらぐと見えしに、右の木のすき間より、其のさま三尺許りの首を出す、その面(おもて)の赤き事(こと)朱のごとし、眼(まなこ)は血をそゝぎたるが如く、眞半(まはん)なるまぶち、大き成る目の玉をいからし、ばせををちらりと見る。口と覺しきも耳元迄さけ、眞黑なる牙をはみ出(だ)し、暫しはためらひ居たりしが、惣身はまがふべくもなき大いなる猿なれども、其の丈け七尺に餘る。からだの毛黑く白まじりて班(ぶち)なりし、なほなほ芭蕉をにらめ守り至る。ばせをは今更大いに驚き、是かならず惡獸(あくじう)の類ならん。近々(ちかぢか)とならば決して彼れが爲めに害せられんと、頭巾を片手に持ちながら、身を替して、上の麓の方へいつさんによぢ登る、かの變化(へんげ)は是を見て森を飛出で追(おひ)かけしに、ばせをの運(うん)や強かりけん、かの化物(けもの)とある木の根にまろび、遙かの谷底へ落入りしかば、ばせをはからき命を拾ひ、右の獸(けだもの)谷へ落入りし事、諸天善神の我れをすくひ給ふ處なり、獸もし谷へ落入らずんば、我れ彼れが爲めに害せられ、此の處の土と成るベきに、げにもあやふき事なりと、猶もいそぎ上の麓に上り、何時(なんどき)にやと日足(ひあし)を見れば、今だ晝八つ頃の樣子なれば、是より岡山の方へ懸らん、道法(みちのり)六里と聞けり、日の有る内に急がんと、猶も獸の追來らんかと跡を見歸り急ぎけり。其の後は變化も來らず。兎や角なす内に、六里を經て人里へ出でたり、是岡山へ取付く里也。此の所にて日も漸う西の山にかたむきぬ。芭蕉は大いに悦び急ぎ岡山の城下へぞ至りける。その後ばせをは當城下のしるべのの者、俳人眞田玄蕃(さなだげんば)が方へいたる。此の玄蕃評(ひやう)とくを荊口(けいこう)と云へり[やぶちゃん字注:「荊」の(くさかんむり)は底本では(へん)の上につく。以下、同じ。]。玄蕃ばせをを來(きた)ると聞きて、舊友のよしみを思ひ、急ぎ迎へて對面し、足下には竹馬の同樣の友、吾妻(あづま)にて別れしより、再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに、能くも遙々御尋ねに預かる事、有難さよと申しければ、芭蕉是を聞きて、諸國俳道執行の爲めに出でし由を語る、荊口も是を聞きて、然れば頃日(このごろ)の旅の御つかれも御座有るべし。先づ我が方に落着(おちつか)れ草臥(くたびれ)をも休め給へと、わりなく申しければ、ばせをかれが方に敷日逗留す。頃は春の半ばにて、殊に雨ふりつゞき、庭前(ていぜん)の靑柳に雨のたゝまる風情いと興有るにより、ばせをは主の荊口と諸とも、緣先に酒盛して四方山(よもやま)の物語りをなす。此の時芭蕉同國森山にて異形(いぎやう)の變化に出あひ、あやふき目(め)をなせし由を語りける。荊口是を聞いて其の異形の物かならず世に云ふ猅々(ひゝ)なるべし。我等も先年(せんねん)京都(きやうと)より、此所へ立越えんが爲め、森山へ通り懸りしに、日もいまだ白晝(はくちう)なれば、心をゆるめてとある岩角(いはかど)に腰打懸(うちか)け、腰より火打を出したば粉(こ)をくゆらし居たる所に、遙か後(あと)の方より、其の丈一丈計りの人の如き物、白き衣類を着し近付き來る、我れは人かと思ひしが、其の樣のすごくすさまじさ、心付傍なる木陰に隱れ、右のものを能く能く窺ひ見るに、白き衣類とおもひしも衣類にあらず變化の色なり。夫れのみにあらず、面の赤き事紅(べに)のごとし、われらも大きにおどろき、若し姿を見せば、必らず彼れの爲めに害せられんと心付き、急に茂りし大木に上り、枝葉のこもりたる所に隱れ、身を縮め息をつめて遁(のが)れん事を思ふ所に、程なくかの變化右のあたりへ間近く來(きた)り、大(だい)の眼(まなこ)を血をそゝぎたる如くに見開き、我が隱れし傍にあなたこなたとうかゞひ、若(も)し見付からばひと嚙みになさん氣色(けしき)にて、其のあやふき事云ふばかりなかりしが、されども、我が運の強き處にややよりけん。彼の變化終にわれを見付け出さずして、またむかふの方をうかゞひたりしが、とかうして先ヘ行過(ゆきすご)す、我れ見付られん事を恐れ、猶も深く隱れて、良(やゝ)しばらく其の所に在りしが、いつ迄隱れあるべきにもあらず、されば氣味惡けれども、そろそろかの木のうへより下り立ち、かたはらをうかがひみるに、彼の變化は何(いづ)れへか行きしやらん見えず。其の所にをらざれば、扨は己れが住家(すみか)へ歸りしものならんと悦び、彼(か)の物の先へ行過ぎたれば、我れもまた先へ行かん事然るべからずと、夫れより元來る道へ引返し、前夜に一宿なせしか嘉笛(かてき)と云へる里へ至り、則ちその宿へ行く、宿の亭主も不審顏してとひけるは、旅人には今朝岡山へ至らんと立ち給ひしが、かの處へは行き給はず、また此の所へ立歸り給ふ事不思議さよと云ふ。我等答へて申すは、ふしぎの所尤もなり、我等今朝此の所を立ちて、今日中(こんにちぢう)に岡山の城下へ到らんと、森山の山道を急ぐ所に、か樣のものに出合ひ、まづかくの次第なる體(てい)にて、あやふき場所をのがれたり。かの者先の方(かた)へ行過ぎし故、我れかれに又も逢はん事をおそれ、先へは行かずして此の所ヘ歸りしと語りしに、亭主是を聞いて扨々夫れはひあひな目に逢ひ給ふものかな、右の變化は、猅々と申す猿の二千歳を經て通力(つうりき)を得たる獸ならん。其のゆゑは彼の森山には、至つて猿の澤山なる所故、同所のもの是をからんが爲めに、六七人かの山にわけ入りて、右の獸を見て、はうはうの體(てい)にて逃歸(にげかへ)り、所の老人に此の由を告げるに、夫れは猅々なるべしと申したり。貴所の逢ひ給ふもかならず其のたぐひに候べし、されども此の獸は快朗のせつは出でざるよしなれば、貴意所もし氣床惡敷く思ひ給はゞ、四五日此の處に逗留あり、曇(くも)らざる日を待ちて岡山へ越え給へと申すに付、某其詞に隨ひ、二三日ち過ぎてくわいらうの日、嘉笛(かてき)の宿を立ちて當所へ至り候に、森山の途中にてあやしき事なかりき、我れの猅々に出合ひし物語りと芭蕉翁のあひ給ひし事と、その危(あやふ)き事相似たりと語りしかば、芭蕉是を聞きて思はず手を打ち、扨々我等兩人ともに右のごとくは、佛神(ぶつじん)に請(う)けられたりと申すべし。何れにも悦ばしき次第と、ばせを盃をあげ、春雨(はるさめ)の題ぞ取りて、

 

  噺しさへ調子あひけり春の雨  ばせを

 

と一吟をなし、その外逗留數(す)日の内、種々(しゆじゆ)の物語りをなし、其の後芭蕉は荊口に暇乞ひし、岡山を立ちて、夫れより備後伯耆の方へ廻國せられぬ。そのとき餞別に

 

  千金の春も一兩日に成りけり  荊口

 

■やぶちゃんの呟き

・「猅々」「ひひ」。猅々猿(ひひざる)。猿の老成した巨怪。

・「ばせを京郡を立ちて播州へ越え」芭蕉は西国を行脚していない。但し、芭蕉には「奥の細道」を究め、中部地方も概ね経巡ったことから、西国遍歴を企図していたことは間違いないから、芭蕉もこれには微苦笑することであろう。

・「執行(しゆうぎやう)」修行に同じい。

・「森山」現在の岡山の東北十七キロメートルほどの位置にある、岡山県岡山市東区の標高三百五十一メートルの大森山附近のことか。ここなら後で「岡山の方へ」「道法(みちのり)六里」というのとも概ね合致するからである。

・「もじの頭巾」「もじ」とは夏の衣や蚊帳などに使う「綟」「綟子」か(但し、だとすると歴史的仮名遣は「もぢ」である)。麻糸で目を粗く織った布で出来た頭巾。

・「二丈」六メートル強。

・「晝八つ頃」不定時法であるが、後に「春の半ば」と出るので午後二時半前頃に当たる。

・「眞田玄蕃(さなだげんば)」不詳。全体がトンデモ仮構であるから架空の人物であろう。最後の句の「荊口」の私の注も参照のこと。

・「評(ひやう)とく」「表德號(へうとくがう(ひょうとくごう)」のこと。本来は高徳の人の徳行を表わす号や雅号を指すが、近世では通人めかして号をつけることが流行した。ここでは単に俳号の謂いである。

・「再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに」「あとふ」は「能(あた)ふ」の転訛。再び相見(まみ)ゆることも叶うまいなあ、と思うておったところが。

・「わりなく」ここは中世以後の用法で「親しく」の意。

・「雨のたゝまる」「雨の疊(たた)まる」で雨が積み重なる、しきりに降り注ぐ、の謂いであろう。

・「嘉笛(かてき)」とても素敵な地名であるが、不詳。識者の御教授を乞う。かの大森山近くでは、少し似た感じがする風流な地名として現在の岡山県備前市香登(かがと)がある。また大森山周辺には現在、「可」を頭に持つ地名も散在する。

・「ひあひな目」「非愛な目」で危険な目の謂いであろう。但し、だとすれば歴史的仮名遣は「ひあい」で誤りである。

・「噺しさへ調子あひけり春の雨」芭蕉の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の「春雨 附 春雪 蛙」のパートの、

 

 物よわき草の座とりや春の雨       荊口

 咄さへ調子合けり春のあめ        乃龍

 春雨や唐丸(たうまる)あがる臺どころ  游刀

   なにがし主馬が武江の

   旅店をたづねける時

 春雨や枕くづるるうたひ本        支考

 はる雨や光りうつろふ鍛冶が鎚      桃首

 淡雪や雨に追るるはるの笠        風麥

 行(ゆき)つくや蛙の居る石の直(ロク) 風睡

 

の三句目、乃龍(ないりゅう:事蹟不詳)なる人物の句である。前が荊口の句であるのはやはり偽書であることを暗に示すポーズのようにも思われる。

・「千金の春も一兩日に成りけり」不詳。

・「荊口」蕉門の俳人には宮崎荊口なる人物が実在する。本名は宮崎太左衛門で、大垣藩百石扶持の藩士であった。一家で蕉門に入り、七部集に出る「此筋(しきん)」・「千川(せんせん)」・「文鳥(ぶんちょう)」というのも皆、荊口の宮崎荊口息子たちである。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り』を見て戴くと分かるが、「奥の細道」の最終局面に当たる「大垣入り」で芭蕉は、「露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる」と述べており、そこにはこの宮崎一家が立ち並んで、かの死をさえ賭した旅からの師の帰還、生還を拝むが如く、出迎えているのである。

2016/07/27

行脚怪談袋   去來伊勢參と同道の事 付 白蛇龍と成る事

  去來伊勢參と同道の事

   
 白蛇龍と成る事

 

此の去來もその頃世に聞えたる俳師(はいし)也。生れは洛中五條の人、住所は洛外の九條なり、去來一とせ用事有りて、紀州和歌山の城下へ至り、諸用を達し、其の後歸洛に就き、同國新宮の野邊を通りし時、傍の木陰に年の頃廿四五にして、瘦枯れたる男色靑ざめたるがよろめき出で、去來を招く、去來何用にやと立寄りければ、彼の男告げて申しけるは、某儀は當國堺島邊の者に候が、誠や日本に生れ、神の惠みを請けながら、此のまゝ邊鄙に一生ををへんも殘念の事かな、何卒近國にてもあれば、伊勢太神宮へ參詣仕度く、頻りに思ひ出で候まゝ、四五日以前古郷を隱れ出でたれぞも、連(つれ)とても無之(これなく)候へば、唯一人此の所へ參り候處、前世にて惡行や強かりけん、神も我等の參詣を悦び給はずやらん、五體甚だしびれ、一足も步行(あゆみ)ならず、依つて詮方なく此の木の陰に打ちふし、罷在り候て、何卒旅人にても通り給へかし、此の事を告げて如何樣にも賴み申すべしと、昨日晝頃よりけふ迄相待つといへども、折りふし一人も人通りなし、此の故に食事とてもならず、只今迄苦しみ居る所、貴所樣(きしよさま)の御通り有る事、誠に我等が爲めに幸ひ也。右の次第に候得ば、近頃の御賴みには候得共、何卒馬なりとも、駕(かご)なりとも御雇ひ下され、伊勢古津(ふるつ)の岸まで御送り給はれかし、たとひ身は叶はずとも、何卒伊勢へ參詣仕りたし、何にても人一人御すくひ被下候儀、偏へに賴み入ると願ひける。去來は是を聞き、最も慈悲深き者なりければ、氣の毒なる事に思ひ、則ち答へて申す樣、如何樣人家なき所にての急病、我等ごとき旅人(りよじん)にても賴み給はずんば、誰れも世話をなす者有らざるべし。殊更左樣の病氣ながら、是非伊勢ヘ參られんとの志し。げにも殊勝に存する也。心安かるべし、我れ等駕をやとひ來り、勢州吉津迄送るべしと、わざわざ二三里も元の道へ立歸り、駕をやとひて來り、彼の男を乘せ、送り申すべしと云ふに、かの男甚だ悦び則ちかごに乘りて、紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく古津へいたりける。この古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也。大木(たいぼく)生ひ茂り岸石(がんせき)そびえたり。東は伊勢へ出でる山道、西は我が來る道也。此の物すごき所に至りて、彼の男駕より出で、去來に向ひて申す樣、忝なや我が望みの所へ參りたり、旅人には是より御歸下さるべし、此の二三日の御禮は言葉にも盡しがたく、然れども一禮すべき便りなし、此の禮は末々永く謝し申すべしと云ふ。去來心えぬ事と思ひ、其の者に向つて申す樣、此の所はうみ山の間にて人家とてもなし。殊更物すごき所なり。然るを貴殿いづれを便りに落付(おちつき)給ふと問ふ。其の時かの男答へて申す樣は、御不審は御尤も也。今は何をか包み申すべき。我れ誠は人間にあらず、實は山野にやどる蛇なり。我れかりそめに生れ、今年今月今日まで、既に一千年を經る、此の故に天帝より命(めい)を受けて、此度天上に至り變じて龍と成り候、扨また貴公を御賴み申し候は、惣體ケ樣に出化(しゆつけ)とぐるには、先づ山に百年、海に百年、その後人道(じんだう)に交らずんば、出化とげがたし、我れ二百歳が間山海(さんかい)には住みたれども、未だ人道に交らず、此のゆゑに伊勢參と變じ、かりにその許に便り、人道にまじはる所なり。すでに今人間海山三つの執行(しゆぎやう)とげたれば、出化仕るなり。時(とき)至れば片時も相待つ事成りがたし、貴所かまへて驚き給ふ事なかれ、我れ今こそ雲井(くもゐ)に登り候と、云ふ詞(ことば)もをはらずして、彼のをとこの姿は消えて一つの白蛇とヘんじけるが、其の蛇南のうみ岸へ至り、うねりを返し頭を上げて、遙か空を詠むれば、不思儀やこはいかに、さばかり晴渡りし空、暫時が間に黑雲おほひて、四方一時にくらやみとなりて、しんどうはげしく、風雨おびたゞしくおこり、その物すさまじき事云ふ計りなく、一むらの黑雲白蛇のうへにおほひけると見えしが、たちまち虹のごとくなる姿となり、海底(かいてい)波をかへし、雲井遙かによじ登る。黑雲(くろくも)風に隨つて段々に晴渡り、南の空のみ稻妻てんだうしてすさまじき氣色なり、駕の者共恐れて、かたはらに伏しまろび、去來もおどろきねぶりいたりしが、漸うありて目をひらき、さてはかの白蛇たゞ今こそ通力を得て、天上なしたると。遙かに見やれば、消え行く雲に稻妻のひらめくを見る、

 

  稻妻や雲にへりとる海の上  去來

 

と口ずさみ、奇異の思ひを成して其の處を立ちさりしが、實(げ)に此の龍の雲井にて守りん、去來次第々々に幸ひを得て、有德(うとく)の身となりくらせしと語り傳ふ。

 

 

■やぶちゃんの呟き

・「古津」「紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく」着いた、その「古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也」とロケーションを示すが、これに見合った場所で「古津(ふるつ)」という地名を現認出来ない。識者の御教授を乞う。

・「おどろきねぶりいたりしが」驚いて目を瞑っていたが。

・「稻妻や雲にへとる海の上」実は底本ではこの句は、

 

 稻妻や雲にへとる海の上

 

となっている。調べてみると、この句は(またしても、である)去来の句ではなく、「續猿蓑」の「龝之部」に載る、

 

  稲妻

独いて留守ものすごし稲の殿     少年一東

稲妻や雲にへりとる海の上       宗比

明ぼのや稲づま戾る雲の端       土芳

いなづまや闇の方行(ゆく)五位の聲  芭蕉

 

の「宗比(そうひ)」なる人物(事蹟不詳)の句で、「へ」の脱落であることが判った。されば特異的に原文の「へとる」を「へりとる」と訂した。

2016/07/26

行脚怪談袋 芭蕉翁大内へ上る事 付狂歌に得手し事

  二の卷

 

  芭蕉翁大内へ上る事

   
狂歌に得手し事

 

芭蕉廻國の砌り、美濃路を經て近江に入り、義仲寺へ詣で、夫(そ)れより草津大津を越え京都へ入る、先づ洛外四條仲屋の何某(なにがし)と云へるは、當所に隱れなき有德(うとく)人、殊更俳道に事をこのみ、支考の門人なれば、かねてばせををもしたひける。此のゆゑにばせを、彼(か)の者の方に尋ね至り案内を乞ふ。亭主折節在宿にて、ばせをの來るよしを聞き、大いに悦び急ぎ立出でゝ自ら伴ひ入り、初對面の禮義をのべ、其の後(のち)仲屋申しけるは、我れは當所に住居し、世を幸ひに暮し、何不足なく侍る故、多くの家人に萬(よろづ)を預け、我れはつれづれを慰めんと、又好きの道ゆゑ支考に隨ひしより、俳道の事を少しまなべり、右支考の物語りにて、翁の事も聞侍る、誠にたぐひなき御方(おんかた)と承知奉りぬ。こひ願くば、暫(しば)しが間御逗留あり、俳道も明らかに御教ヘを請け申し度しと、わりなくぞ願ひける。ばせをも此の由を聞き、世事の儀にかゝはりなく、一入此の道心(こゝろ)を寄せらるゝ事、誠に殊勝の次第なれば、我等も諸所廻國の草臥(くたびれ)も候へば、暫し此のたちに休足(きうそく)致し候べし、御世話賴み侍るとて、是より仲屋方にとゞまる事數日(すじつ)、好める道故俳諧發句の祕傳を聞くに、ばせをも逗留のつれづれに、發句等の切字十七字のつゞり、其の外俳諧の道口傳を、逸々(いちいち)に語り聞せけるに、其の教へ誠に顯然たり。仲屋甚だばせををしたひ、數日物語りに及ぶ。此の間逗留の節の事なり、當(たう)大内(おほうち)において、東の芭蕉當(たう)洛中四條仲屋方に逗留の由を聞し召され、かれはその上不角此方の俳人の由聞及ぶ、何卒招き寄せ、其の鍛鍊の程をも御聽聞あらんかしと、院より仰せ出さるゝに出(いだ)さるゝに付、御諚(ごぢやう)の趣き、大内より仲屋方へ申し達せられける。仲屋是を聞きて、芭蕉にかくと告げる。ばせをも御諚なればもだしがなきゆゑ、御使とともに大内へこそ至りける。程なくばせをを階下へ御招(まね)ぎ有るに、ばせを謹んできざ橋の本へ平伏してひざまづき居たる處に、殿(でん)の脇に伺公の殿上人(てんじやうびと)、芭蕉にのたまひける、すまごとやひがしの方は荒夷(あらえびす)と號して、歌道俳道の類ひに達せし者、甞てあらずと思ひしに、今其方は東國生れにて、その道にかしこき事、おそらく世の人の及ぶ所にあらずと傳へ聞けり、今幸ひに洛中にあるよしを院にも聞(きこ)しめされ、よつて召寄せらる處なり、かつは御慰みにもあれば、此の方より一句の題を出すべし、是によそへて汝がむねに得手(えて)し發句を巡ね、指上(さしあげ)候べしと、院より春月梅(しゆんげつのむめ)と云へる三つの題を給はりければ、十七字の内に、此の三つをあらはし申すべしとの御諚なり、其の時ばせを少しもおくしたる氣色もなく、さして案じる體(てい)もあらず。

 

  春もやゝ景色とゝのふ月と梅  ばせを

 

右の通り一句の發句へ、春月梅と三つの題を現はし、吟じて指上げければ、院を初め奉り、御側の殿上人誠に即席の秀句、おどろき入りしと感ぜられ、此の時に翁と云へるを給はる。此の故に世の人ばせを翁と云ひ傳へしとかや、其の道にいたつてかしこきは、右の藝にて世をわたる習ひ也。その節は古人と成りしかども、不角法印、ばせをのごとく、大内へ召れ、禁裏より仰せ出さるるは、其方譁(やさ)しくも俳道發句に達せし由、何卒定家が綴りし百首の内に、後德大寺左大臣の歌に、

 

  郭公(ほとゝぎす)啼きつるかたをながむれば

       たゞ有明の月ぞ殘れる

 

此の歌を發句十七文字に直さるべきやとの御諚あり。其の節不角暫(しば)し思案の體(てい)にて、其の後右の歌の心を發句に取りて、

 

  扨はあの月が啼いたか時鳥

 

と吟じて奉りければ、各々御感(ぎよかん)淺からず、御賞美(しやうび)として法印の官を賜はりしとかや、此の事あまねく世の人の知り拾ふ所也。扨(さて)芭蕉は御暇を乞ひ、内裏を出でゝ仲屋がかたへ立歸り、其の後仲屋方にても、ばせをを會主(くわいしゆ)として百韻の連歌(れんか)を始む、此の時もばせをいと面白き付合をなす、中にも、

 

  僕が狂歌を手つだうてやる

 

と云ふ前句に

 

  德利の酢ついで半分のみにけり

 

とおどけまじりにして、前句の心へひたつけ、句體(くたい)ははなれてつけゝれば、諸人皆打笑ひて興を催ふし、其の後(ご)皆々ばせをへのぞみ、

 

  下より上へつるし下げたり

 

と云ふ題を出し、先生は此の道にあまねくかしこければ、何にても此の題ヘ一句をつけて見給へかしと云ふ。芭蕉是は難題かなとて、暫らく句案なせしが、かたはらの筆をとりて、其の題の次に書付(かきつけ)て出(いだ)されける其の句に、

 

  風鈴のおもはずに見る手水鉢  ばせを

 

と吟じければ、仲屋を初め一座の物各々感じ入りしとかや、その後數日(すじつ)逗留の内、百韻數度興行す。芭蕉もあらゆる秀句をつらね、早一ケ月を越えしかば、ケ樣にいたづらに日を送るも如何(いかん)て、是より江州(ごうしう)の方へ廻國せんと、仲屋をもしきりに立出ん事を望む。亭主もその止るまじきを知り、然らば廻國をはり、又候御出でを待ち候と云へば、ばせをは翌日旅の用意をぞいたし、仲屋が門(かど)を立出でる。此の時なかや芭蕉を見送りしが、冬の初めなれば、

 

  此頃の氷ふみわる名殘かな

 

と一句を吟ず。ばせを甚だ是をほめられし也。是も仲屋其の道に深く學びし故也。此の仲屋何某と云へるも、名は知れね共、表德は杜國といへり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

・「不角此方の俳人」不角(ふかく)以来の名立たる俳諧宗匠。「不角」とは後の叙述からも江戸中期の俳諧師で松永貞徳の流れを汲む岡本不卜(ふぼく 寛永九(一六三二)年~元禄四(一六九一)年:貞門の石田未得に学び、同門の雛屋立圃(ひなやりゅうほ)や芭蕉らと交わった)門下の立羽不角(たちばふかく 寛文二(一六六二)年~宝暦三(一七五三)年)としか読めないが、彼は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十八も若く、貞門派よりもさらに通俗的な句風を志向、現在確認されている最古の句でも天和三(一六八三)年で、寧ろ、芭蕉の死後に知られるようになり、他流批判甚だしく、蕉門の宝井其角ともやり合ったりしたから、ここもまたトンデモ錯誤である。ただ、参照したウィキの「立羽不角」によれば、『大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようにな』り、元禄一六(一七〇三年)には『備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により』、この年の七月に法橋(ほっきょう:僧綱(そうごう)の最下位。法印・法眼(ほうげん)の下)『の地位を賜っ』ているから、公家に知られた江戸の俳諧師ではあったようである。

・「御諚(ごぢやう)」貴人の仰せ。

・「すまごとや」不詳。「すまんことやれど」の謂いか? お手上げ。識者の御教授を乞う。

・「其方は東國生れにて」彼は今や知らぬ人とてない伊賀上野(現在の三重県伊賀市)生まれであるから、ここも筆者の脳味噌を疑うヒド過ぎる誤りである。

・「法印」上記の通り、法橋の誤り。

・「扨はあの月が啼いたか時鳥」竹内玄玄一の「続俳家奇人談」の「巻中」の「瓢水居士」の句として、

 

 さてはあの月が啼いたか時鳥

 

と掲げる。瓢水(貞享元(一六八四)年~宝暦一二(一七六二)年)は松木淡々(まつきたんたん)門下。瓢水に至っては不角より二十二も、芭蕉より四十も若い。

・「德利の酢ついで半分のみにけり」不詳。現行の芭蕉の句としては知らぬ。

・「風鈴のおもはずに見る手水鉢」不詳。同前。

・「此頃の氷ふみわる名殘かな」確かにこれは貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の旅の途次、名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ出立するのを見送った際の坪井杜国の句ではある。

・「表德」「表徳号」のこと。ここは雅号。但し、芭蕉の愛した杜国の屋号は「仲屋」ではないし、そもそもが彼は京の商人ではなく、名古屋御園の米穀商である。ここまでど素人を馬鹿にした嘘だらけの無惨累々たるを見ると、仮託偽書の確信犯を糞狙いしたものとしか言いようがない。

2016/07/25

行脚怪談袋   支考四條河原に凉む事 付 狸人に化くる噺し

  支考四條河原に凉む事

    
狸人に化くる噺し

 

支考といへるも、芭蕉時分の俳人なり、是世の人の知る所也。生國は近江の者にて、住所は京都なり、或時支考同所三條町笠屋といへる町人の方(かた)ヘいたり、右の者共と同道して、時に夏の暑さを忘れんがため、四條河原の茶屋へ凉みに至り、酒肴(さけさかな)を好みて出ださせ、河原より吹上げる風に身をひやして、四方山(よもやま)の物語りに數盃をかたむく、しかる所へ此の茶屋の給仕の女、年頃も十六七と見えしが、そのよそほひ柳の枝に花を吹かせしにひとしく、せんけんとして美しき事いふばかりなし、支考を初め座中の人々その美麗なるを譽めて、汝はこのちや屋の親ぞくの者か、又は抱への女子(ぢよし)なるかと尋ねけれど、此の女いと恥しげなる體にて、唯打笑ふのみ。一言の答へもなし。連れの中に一人、此の女の身の上を茶屋の亭主に問ひける、時に主(あるじ)申す樣、されば其の事にて有之(これあり)、甞て座敷ヘ出でゝ酒飯の給仕を望む。我れは存ぜぬ女子にて候へば、不審におもひ、いづれ如何なる者にてかく現はれ出でるぞと、其の住所問へ共答へず。人々申し合せとらへんと仕るに、かげろふか稻妻のごとくにて、さらさら手にたまらず、打捨て置けばまたあらはれて、客の座敷へ出で、自(みづか)らてうしを取りて酌を致す也。されども、何の生化(しやうけ)も仕らず、却(かへつ)て調法成る女子にて候ゆゑ、うち捨て置き申す也と語り、何れにも狐狸の類ひに候べし、正體を存じ度(たき)物なりとぞ申しけるが、かの男是れを聞き、いか樣是は怪しき事也とて、座敷へ歸り見るに、彼の女また出でたり。右の男支考を初め、大勢の者どもにも此の次第を告げる。酒も半に及び、互にさいつおさへつ盃のもめる段に及びて、彼の女子(をなご)にあひを賴む。女辭する事もなく、一獻を請くれば、其の時大勢の者云ひ合せて、かれに酒をしひ、醉ひつぶして正體を見屆けんと計りける。怪女は此のたくみをば知らずして、わらはがあひをして貰ひたし、爰にてもつけざしを賴む抔と、盃の數重なるを、甞てめいわくとも思はず、かの女子は引請け引請け呑むほどに、すでに一升程も呑みをはる。され共醉ひたる體ならず、平生(へいぜい)の顏色にて居ければ、諸人(しよにん)けしからぬ事やと思ふ所に、其の中に一人の者申しけるは、女の身としてかく大酒なし、顏色(がんしよく)も違(たが)はず以前の如く成るは、彌々(いよいよ)もつて心えぬ物、變化のたぐひ也。然る上は斯樣(かやう)の酒にて、今いかほど呑ませたればとてやくにたゝずと、側にありし吸物椀のふたを出して、かの女子(をなご)にのまさんと、一献(こん)のみて其の盃をすぐに右の女にさすに、物をも云はず盃を請けて、又重ねて呑む事十餘盃に及ぶ。一座の面々大きに驚きしが、さすが大酒(たいしゆ)なせし故にや、彼(か)の女子(をなご)頭をたれて居たりしが、其のまゝ横にたふれ、前後もしらず寢入(ねいり)けり、其のいびきすさまじき事大方ならず、亭主も來りて此の體を見、能(よ)き時節也。しばりからげんとて、繩を持ち來り後手(うしろで)に搦め、か

たはらにつなぎ置きけり。是を見て大勢また酒盛を始めけるに、支考盃を請けて、

 

  生醉をねぢすくめたる凉み哉  支考

 

と吟じける。扨(さて)彼(か)の女子は暫くが間醉に性を失ひ、一(いつ)すゐの内に思はず姿をゐらはし見るに、そのさま犬の如くなる古狸(ふるたぬき)にてぞありける。大勢是を見て、扨こそかくあるべしと、手を打ちしが、その後亭主に告げて、彼(か)の化物來るといへども、さして害なければ、目を覺ましなばはなし遣(つかは)し然るべしと、申し置きて、皆々その所を歸りしが、亭主も其の詞の如く、翌日にいたりて放ちかへしけり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

 ここに出る「生醉をねぢすくめたる凉み哉」は支考の句ではない。芭蕉七部集の一つである「續猿蓑」の「夏之部」にある「納涼」の、「漫興 三句」、

 

 腰かけて中に凉しき階子(はしご)哉 洒堂

 

 凉しさや緣より足をぶらさげる    支考

 

 生醉をねぢすくめたる凉かな     雪芝

 

とある、蕉門の広岡雪芝(せっし 寛文一〇(一六七〇)年~正徳元(一七一一)年)の句である。やはり本作、かなり杜撰と言わざるを得ない。因みに雪芝は芭蕉の生地伊賀上野で山田屋という屋号で酒造業を営んでいた。服部土芳・窪田猿雖らは従兄弟(いとこ)である。

2016/07/24

松尾芭蕉を主人公とする怪談集「行脚怪談袋」原文 電子化始動 /  芭蕉翁美濃路に越ゆる事 付 怪しき者に逢ふ事

行脚怪談袋

 

[やぶちゃん注:作者不詳で著作年代も不詳の、松尾芭蕉に仮託した諸国怪談物。冒頭から芭蕉を寛文より天和年中(一六六一年から一六八四年)の俳人とするトンデモ本の類いである(芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七(一六九四)年に没しており、延宝五(一六七七)年か翌年辺りで俳諧宗匠として立机、蕉風開眼の「古池や蛙飛びこむ水の音」が貞享三(一六八六)年であるから筆者の怪しさは半端ではない)。異本も頗る多い。

 実は私は古書の活字本を二十代の頃に手に入れ、読んだ記憶があるのであるが、二、三日前から書棚や書庫を探っても見つからない。恐らくは押入れの中に積み上げたジュラ紀並の古層で化石化してしまっているものかと思われ、そうすると、何だか、無性に電子化したくなってしまった。昨日、ネットで調べていたところが、ごく最近、現代語訳が出たらしい。さてもさても! あのトンデモ本さえも現代語訳でないと読めない日本人になってしまったかと思ったら、ますます憤りの濁った泥坊主というか、鬱勃たるパトスというかが、これ、ふつふつむらむらと湧き上がっててしまったのである。されば、シンプルな電子化のみで、不遜ながら、カテゴリ「松尾芭蕉で起動することとした。

 底本は「宗祇諸國物語」同様、大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(楽天居の上下に冊六巻本)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。踊り字は「〱」「〲」は正字化した。読みは底本に附されたものの中でも、難読或いは振れそうなもののみを選択した。句の前後は一行空けを施した。

【2016年7月24日 藪野直史】]

 

行脚怪談袋上目錄

一 芭蕉翁美濃路に越ゆる事

  
 怪しき者に逢ふ事

一 支考四條河原に凉む事

  
 狸人に化くる事

一 芭蕉翁大内へ上る事

  
 狂歌に得手し事

一 去來伊勢參と同道の事

  
 白蛇龍と成る事

一 芭蕉備前の森山を越ゆる事

  
 猅々の難に逢ふ事



 


行脚怪談袋上

 

  一の卷

 

  芭蕉翁美濃路に越ゆる事

   
 怪しき者に逢ふ事

 

抑も芭蕉翁と申すは、日本(ひのもと)に名を得し俳人にて、寛文より天和年中の人也。此翁の一句に、

 

  物言へば唇寒し秋の風

 

是は芭蕉翁、延寶年中我が俳道を諸國にひろめんが爲めに、一年行脚の如くにさまをかへ、日本六十六ケ國を廻國せり。右の内尾州より美濃路に懸り、同國倉元山(くらもとやま)の麓を通りけるに、頃は秋の半(なかば)にて、山中いとも枯れ枯(が)れしく、木の葉黃に染(そ)み草は生ひしげれどもかげうすく、さゝ吹く風は身にしみじみと、木がらしに似たり。翁此の淋しき山道を、あなた遙かに見やり、誠(まこと)や春夏は浦のとまやの景色迄も、物浮き浮きしく人心を晴らす、秋多は早(はや)よろづ景色變りて、物枯れたる有樣、されば古しへ定家寂蓮に西行の三夕(さんせき)も、各々秋の鉢の淋しき體(てい)をよみ侍る。叉此の四季を人間(にんげんん)に譬(たと)へて見れば、一歳寄(より)十(とを)有(ある)五六迄は春なり、卅有餘よりすゑは秋多におもむけば、段々元氣おとろへ、精心(せいしん)やせるの道理にて、我れも今四十餘(よ)を得る五十に近し、是れ秋の末ならん。おしつけ我が身も冬となり、風に此世を誘はれ行かんはかなさよと、山のけしきを我が身にたとへて、心細くも唯一人、寂暮(さびくれ)たる山道を、たどりたどり行く程に、日も西山に沈み、在りし草木もほの暗く思ふ所に、不思議や遙かの谷底にて、かん馬のおとかまびすしく、太刀打の體(てい)、耳もとに聞えければ、翁思ふ樣、此の所は倉元山の山中にして、人の住むべき所とも覺えず、殊更かゝる太平の代(よ)に、此の谷底にてかん馬の音なす事、若(も)し山賊のやから成るか、山賊とても海逍にこそ居るべきに、遙かの谷底にて太刀打する理窟なし。是まさしく狐堤變化(こりへんげ)の類ならん。何にてもあやしき事也。世の人の物語りにも成らんと、山傳ひに半町程かの谷底ヘ下り見るに、下は松柏茂り底のとまりを知らず。其の上につたひ下るべき道もなければ、ばせをも詮方なく、とある岩角(いはかど)に腰打懸けて、しばし下を窺ひ居るに、かん馬の音暫時にしてしづまるとひとしく、何方よりか來りけん。其の體ばうぜんたる武者一騎、緋おどしの鎧を着し、鹿の角にて鍬形打つなる甲を被り、金作(こがねづく)りの太刀を佩き、手に一本の矢を携へ、忽然とあらはれ出で、芭蕉翁の二三間向ふに立居ける。芭蕉翁不思議の事におもひ、右の武者に問ふて云く。今世の豐かにして、又此の所は山中の谷底(たにそこ)にて、人の在るべき所にあらず、然るに、其の元は甲冑を帶(たい)し、此の邊に在るこそ不思議なれ、抑も、いかなる人ぞといふ。武者は是を聞いていと哀れ成る體(てい)にて、泪をはらはらと流し申しけるは、我れ翁を見るに、一和(いつわ)の道に心を寄せ、春は花を賞し秋は月に心を寄せ給ふ。句案にのみ埋みて、忿惡邪橫(ふんあくじたわう)を心と仕給はず、誠に佛法法力の手綱たり。然るが故に我れ翁の爰へ來り給ふをあこがれて、扨こそからはれ出でたり。我等何をか包み申さん。我れ事は其の昔、壽永元曆年中此の山續の木曾路より、朝日將軍義仲にかしづき、粟津の原にて討死せし今井四郎兼平が亡念にて候、我れ忠勤を勵んで命を捨てしとは言(いへ)ども、存生の軍場にて、多くの人を討取りしに依り、しゆらの苦患遣瀨なく、生々世々生を替ふる事あたはず、何卒翁の教訓をも得、叉は佛果をも此の後遂げ得たし、二つには、此の矢の根なり。是こそは木曾源氏に於て、澤上(たくじやう)の矢の根とて十本の矢の根有り。是亦澤上と號するは、人王(にんわう)三十九代天智天皇未だ御即位あらざる内、木の九殿と申すに御座在り、此の節諸國の朝敵追ばつの爲めに、澤上速(たくじやうそく)と言へる者に申し付けられ、此の矢の根十本をうたせらる。澤上そのせつ申し上げるは、此の矢の根決して敵方へ放ち給ふな、陣中の寶(たから)と仕給へ、必らず必ず敵亡ぶべしと言へり。天皇敵を誅ばつし給ふに、此の矢の根陣中の守護神と成りて不思議有り、其の後ゆゑ有つて木曾源氏に傳はれり。然る所木曾沒落の砌(みぎ)り、此の矢の根一本うせたり。不吉と思ふ所、はたして主君義仲粟津が原にて討死あり。餘類さんざんに成りて、兎角いふ某(それがし)も粟律のみぎりにて自害せり。主君は粟津の一ケ寺へはふむりて、義仲寺と號す。且また右の矢の根九本は、義仲寺へ納まり、我れ一本不足成るを、黃泉(くわうせん)の下迄深くなげきしが、しゆらの苦げんの内にても、つひには此の矢の根を尋ね得たり。何卒義仲寺へ納めんが爲めに賴み候なり、足下(そくか)四五日の内には、義仲寺の邊へいた給はん。ねがはくば此の品をかの寺へ納めたび給ヘと、則ち右の矢の根を芭蕉翁の前へ置き、其の後芭蕉に向ひて、人道一和の教訓を請(う)け、その上又申す樣(やう)、足下若し義仲寺へ至り給はゞ、何卒某等(ら)が佛果をもとひくれらるゝ樣に、住職へ傳へ給はるべし、是のみ賴み入ると云ふに、芭蕉も奇たいの事に思ひ、逸々(いちいち)承はり屆け候由を答へて、夢にや有りけんうつゝにやありなん。あらはれし武者と見えしは、一向(ひとむか)ひの木草と成り、秋風の身にしむる計りにて、あたりを見れば矢の根計りで殘りける。芭蕉はうつかりと立居(たちゐ)たる所に、告げし矢の根殘りし上は、疑ふ可らず、木曾家の武者現はれ出で、我れに此の義を賴むとのこと也と、武者の立ち居たる方を見やり、高々と覺え得たる御經を讀誦して追善をなし、兼てうかみし事成れば、一句つらねし其の發句にこそ、

 

  物いへば唇寒し秋の風 ばせを

 

と讀誦の唇へそよ吹く風のしみしを、即座に吟ぜしとかや、扨(さて)ばせをは、夫れより四五日の内、近江路へ懸り、義仲寺(ぎちうじ)へいたり、住僧にしかじかの事を語り。一本の矢の根を渡し。十本の數(かず)揃へける。是等の供力(くりき)にや、芭蕉の遺言にて、義仲殿と後合(うしらは)せに翁を葬ふりしと、世にかたり傳へたり。

2016/06/30

俳人芥川龍之介   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:底本は飯田蛇笏「俳句文芸の楽園」(昭和一〇(一九三五)年交蘭社刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認して電子化した。踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、芥川龍之介「芭蕉雑記」の引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので引用終了箇所に注意されたい。以下、少し語注を施しておく。なお、蛇笏が多く引用している「芭蕉雑記」及び草稿を含めた全文を私が電子化しているので、未読の方は参照されたい。

 形式第一段落の「遉に」は「さすがに」と訓ずる(「流石に」に同じい)。

 同段落の小穴隆一の「二つの繪」の強烈な回想引用の中の「縊り」であるが、原本(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)を私は所持するが、これは同書の「死ねる物」の一節乍ら、原文は、『芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたというふ話を聞いたときのはうが凄く感じた』で正確な引用ではなく、脚色がなされている。なお、この原文により、「縊り」は「くびくくり」と読むのが正しいことが判る。

 同段落の「羸弱」は「るいじやく(るいじゃく)」で、衰え弱ることを意味する。

 同段落末の「流眄」は「りうべん(りゅうべん)」で、流し目で見ることの意。

 第二段落に出る「西谷勢之介」(明治三〇(一八九七)年~昭和七(一九三二)年)は詩人で、『大阪時事新報』『大阪毎日新聞』『福岡日日新聞』などで記者を続け、大正一二(一九二三)年に大阪で『風貌』を創刊主宰、翌年、詩集「或る夢の貌」を発表。昭和初期にかけては佐藤惣之助の『詩の家』や中村漁波林の『詩文学』に属す一方、『文芸戦線』『不同調』などに詩や随筆を寄稿、昭和三(一九二八)年に発表した「虚無を行く」が野口米次郎に認められ、師事した。著書に詩集「夜明けを待つ」の他、「俳人漱石論」「俳人芥川龍之介論」(昭和七(一九三二)年立命館出版部刊)「天明俳人論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠る)。

 「三つの窻」「窻」は「窓」。自裁直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表された私の偏愛する作品。本文に出る他の作品に比べると知名度はやや落ちると思われるので、電子テクストであるが、リンクさせておく。

 第五段落「犬牙錯綜」犬の牙の如くに互いに食い違ったり、入り組んだりしていること。

 同「剔刳」は「てつこ(てっこ)」で、「刳」も「えぐる」で「剔抉(てっけつ)」に同じい。

 第六段落「如上」は「じよじやう(じょじょう)」で、前に述べた通り、の意。

 同「前者は最後まで表面化さなかつた」はママ。「前者」即ち「運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想」「は最後まで」俳句作品には「表面化さ」せ「なかつた」の意である。「せ」の脱字が疑われる。

 同「決河の勢」「けつかのいきほひ(けっかのいきおい)」と読み、河川の水が溢れて堤防を切る如き猛烈な勢いの意で、勢いの甚だ強いことの譬えである。

 同「唾咳みな金玉抵に」「唾咳」は「だがい」で、「つばき」と「せきばらい」で普段の日常的で些末な感懐の比喩であるが、一般には「咳唾(がいだ)」である。「抵に」(ていに)はそれらと相当にの意で、一茶の句作が日常茶飯の月並句と珠玉の句の創作の滅茶苦茶な玉石混淆状態にあることを指す。

 同「終ひに行くに所な足疲れ衣破れて」ママ。「行くに所なく」の「く」の脱字であろう。

 第九段落「韓紅」は濃い赤色で、普通なら「からくれなゐ(からくれない)」と訓ずるところだが、飯田蛇笏はお読み戴ければ分かる通り、極めて佶屈聱牙な読みを好む俳人であるからして(俳句作品でも然り)、ここは敢えて「かんこう」と音読みしておく。その方が、本文の文脈にもしっくりくる。

 同「波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖」この自画像は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画を以下に示す。

 Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw  


 同「第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、/霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介/と沈痛に吟じてゐる」は、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五」で現物画像を見ることが出来るので、是非参照されたい。

 第十一段落『「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた』の「人物」とは萩原朔太郎であり、ここに記されたことは「噓説」なんぞではなく、概ね事実である(但し、「蔭口」ではない)。何よりも当の詰め寄られた萩原朔太郎が「芥川龍之介の死」の「11」で描いているからである(リンク先は私の古い電子テクスト)。未読の方は、是非参照されたい。

 第十三段落「寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」の一文はやや読み難いが、――「寧ろ」、「龍之介的芭蕉を現出」せしめんとして、「餘りに是れ」を「力」(つよ)「めんとする」過剰にして異常なる「氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」――という謂いであろうと読む。

 第十五段落「灼耀」「しやくやく」光り輝くさま。「赫奕(かくやく)」に同じい。

 最終段落冒頭の「決河の勢ひで漲り出た――」のダッシュは後半が空白になっている。植字ミスと断じてダッシュを延した。

 同前「燦」「さん」。輝いて鮮やかなさまを謂う。]

 

 

      俳人芥川龍之介

 

 重患のはげしい痛苦で、泣きわめきながら文稿をつゞつた不敵な魂の持主である正岡子規と、どうした因緣か齡を同じうして現世を去つていつたのは芥川龍之介であつた。子規と龍之介といふ人物との對照は、又別に相常興味ある問題を構成し得べきものでもあるのだが、それはそれとして、一脈相通ふところのものが看破されるのは、その不敵なたましひの有りやうである。遉に龍之介も子規といふ人物のそのたましひに次第にひかれてゆく心のすがたを見せた。小穴隆一氏の「二つの繪」によると、げにも「精も根も盡きはてた」又、「縊りの眞似をする彼よりも、押入の中でげらげら、獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある」ところの龍之介であつたがために、此の羸弱と而して、ヂャールやべロナールが愈々助長せしめる慘憺たる心身の崩潰が、子規の如きそれへ流眄をはげしくしたにちがひなかつたらうことも肯ける。

 芥川龍之介の思想の中には、絶ず兩つの極面が向ひあつてゐて、それが、時に人知れぬ火花を散らすことがあつたと同時に、又多くは明鏡の如くはつきり文藝作品の上に立像を現出し來つたものゝやうである。いさゝか物故した者へ鞭觸れるかの感じで、愉快ではないけれども、故人西谷勢之介の如き、よく龍之介を理解し、龍之介を惜しむに人後に落ちなかつたものであることは、その遣著「俳人芥川龍之介論」に照らして明瞭なことであるわけだが、名の示すその通りに、餘りに俳句に觸れてのみものを云うた點にも因ることだらうけれども、龍之介の思想を觀察、檢討して其の點に觸るゝ所が見えなかつたことが、吾人をして若干の遺憾を感ぜしめた。しかも勢之介は云つてゐる。

 「傳へきくところによれば、芥川龍之介はその文人としての本領を俳道に置いてゐたとのことである。小説家としての彼が、大正昭和の文壇に最も光榮ある足跡をのこし去つたことを想ひ見るとき、右の言葉は誇張されてゐるやうであり、疑惑せずに居られぬ向もあるけれども、その凡ゆる文藝作品とよくよく吟味すれば、筆者必ずしも不當とは考へられないのである。(「俳人芥川龍之介論」緒言)と。

 この邊の觀察力に缺くるところなく油斷ない彼の研究をもつてしてゞある。

 龍之介の思想に於ける兩つの極面の現はれとして、具體的な證左をあげて云へば、一つは「三つの窻」のやうな運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想であり、一つは「羅生門」乃至「鼻」。いよいよ圓熟の域にすゝんで猶同系たる「鼠小僧次郎吉」のやりな、技巧畢竟天衣無縫の感あらしめるところの彼が明鏡的天才の絢爛さをかき抱く純悴に文藝的な思想である。さうして、此の間に介在して犬牙錯綜、血みどろな人生の葛藤を剔刳するところのものは、彼が漱石的影響のもとに、そのおほらかな天分に乘じた「鼻」の如き初期の作品から、世間彼をめざして云ふこころの所謂、「私小説」への轉換期作品に、たまたまこれを觀るのであるが、その最も顯著なるものゝ一つとして永遠に人心を衝くところのものは 「藪の中」である。であるから、龍之介の思想的全面容から見て、彼が漱石から出て常に漱石を思ひ漱石を忘れなかつたにも拘はらずその作品の或る深刻さが、哲理的背景をひそめて、どこやらに詩的な香味をたゞよはす點に於て、(例ヘば「二つの窻」の如き)故國木田獨步を思はせるものがあつた。「偸盜」や「河童」のやうな作品をのぞく以外には、多く短篇に於てその天分を發揮したことも相通ずるものがあつたのである。

 そこで、世間これを餘技と稱し、龍之介自ら微苦笑をもつて迎へながら、時に甘んじて餘技的態度をかまへながら、その実、滿を引いてはなつに怠りなかつたところの彼の俳句に就いて見るのだが、素より龍之介の俳句は龍之介なりに、幾分でも、龍之介が心臟からつたはつて流れいづるところの血潮そのもので血塗られぬ筈はないであらう。この故に、如上龍之介が思想的背景のもとに、俳句作品の二つの面影は生涯の扉を閉めた内にあざやかな姿をとゞめて鑑賞をほしいまゝにせしめてをる。だが、ここに最も注意すべきことは、前者は最後まで表面化さなかつた。これは俳人芥川龍之介に見る驚くべき事實であつた。(驚くべきことであつてその實彼にとつては驚くべからざることである所以はこの稿の終りに至りて了解し得ると信ずる)だが、さきに事實に就いてだけ云へば、これは斷末魔に至つて、決河の勢をもつてはち切れてゐるのである。俳人として左樣な例は決して多くはない、けれども少くとも小林一茶に就いて見れば的確なるものを示してゐる。一茶が天分を恣にして唾咳みな金玉抵に(この點龍之介は正反對であるが)濫作をつゞけて、終ひに行くに所な足疲れ衣破れて、郷里信濃の柏原の里にたどりついたとき、

   これがまあ終ひの栖か雪五尺   一茶

と、滂沱たる萬斛の血淚をしつてゐる。その人とその藝術の違ひこそあつたにせよ、各、個々の思想を背景として、斷崖の上に起ち、全裸のすがたをぶち出し、眞つ赤な心臟を割つて見せた點に至つては斷じて機を一つにする。龍之介にも亦これがある。

 龍之介の俳句を批判するとして彼自らの作品を直下に論ずべきは當然すぎる當然である。と同時に克明に彼が俳句道に生くる根本義を物語りその識見を披き得るところのものは、俳句史上、最大の標的松尾芭蕉に對する彼の見地に照らすことが第一である。幸にも彼は「芭蕉雜記」といふ好文献を遺してをる。就いてこれを見ると、

(一)「芭蕉の説に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば、如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に從へば齋藤茂吉氏の『アララギ』へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり『赤光』や『あら玉』を著はすのは『これは卑しき心より我上手なるを知られんと……』である。

と、及び、

(二)「しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――『我俳諧撰集の心なし。』芭蕉の説に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことゝ思はなければならぬ。然らばこの『何か』は何だつたであらう?』

と、及び、最後に、

(三)「芭蕉は大事の俳諧さへ『生涯の道の草』と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも『空』と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集をあらはすのさへ、實は『惡』と考ヘる前に『空』と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉のやうに詩を題した。がその木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのでなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥には、いつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?」

とで結んでゐる。

 (一)(二)(三)は筆者が假りに之れが段階を追ふの順序として、はつきりさせる爲だけに附けたものであつて、「芭蕉雜記」の筆者の爲業ではない。近代に生を享けて、小説家著述業者芥川龍之介が彼のぎらぎらした心頭に、鬼才龍之介の盛名はよし微塵であれ、芭蕉のこの流轉的心像に逢着してこれが深くも深く關心を買ふべく餘儀なくせられたのは、まことに當然のなりゆきでなければならぬ。龍之介が俳句道にたちあがるや、彼の不敵なる魂が、氣壓さるべきでないと手向ふものゝ、さうした精進にひるみは見せないものゝ、いつしか、此の流轉的心像にぶちあたつて不覺にも泣きぬれたる姿であるのである。

 小穴氏稿するところの限りない悲哀「二つの繪」が示す、その奧底に渺々として橫たはる所のものは果して何であつたか? 死直前の作「齒車」を賞讃する批評家もあつたし、その他、若干のベロナール乃至ヂャールをブラスする阿修羅の作品によつて鵜呑みされる甚だ非阿呆(?)の龍之介ファンが尠なからず散在したやうに見受けられもしたが、其等の盛名的外郭によることよりも故人龍之介が韓紅なる心臟を裂いて、はつきりと示すところのものは、小穴氏の主觀は小穴氏の主觀として、一事實としての盤上に盛られた「二つの繪」そのものでなければならなかつた。第一の繪の、波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖と第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介

と沈痛に吟じてゐるのである。

 だが、「芭蕉雜記」は總ての速斷をゆるさない。

 更に、同記第四項「詩人」に於て例の、

   人聲の沖にて何を呼やらん   挑鄰

   鼠は舟をきしる曉       翁

の「曉」の附句で、許六がこれを、

 「動かざること大山の如し」と賞讃したとき、芭蕉が起き上りて曰ふことに、

 「此曉の一字聞きとゞけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし、此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宜へり。予が云ふ、是須磨の鼠よりはるかにまされり(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん。これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる貌のみにて、善惡の差別もなく、鮒の泥に醉たるごとし、其夜此句したる時、一座のものども我遲參の罪あると云へども、此句にて腹を醫せよと自慢せしと宜ひ侍る。」

 と云ふ、此處の消息に就いて、龍之介はどう觀てゐるかといふと、

 「知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目は、ありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に『この句にて腹を醫せよ』と大氣熖を擧げた勢ひには――世捨人は少時問はぬ、敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。」

と云ふのが彼の論斷である。凡そ、この種の論稿に於て一とくさりの皮肉は忘れることのなかつた彼にして、正直正銘、ひらき直つた態度で、かうまで喝破したものは、果して幾何か有り得る? と云へようと思ふ。實に是れは芭蕉その人を物語るよりも、龍之介彼自身を多く物語るものでなければならぬ。文人龍之介といふものゝ眞骨頂を、爰に分明に認らるゝのである。前に、不敵なたましひの持主として筆を起した、その不敵さ――彼云ふところの流俗に對する輕蔑、藝術に對する惰熱それは直ちに轉換してもつて、彼の面上に冠すべきものであるのではないか。筆者は、さうした古典味から類推することよりも、もつと生ま生ましい、人間龍之介を描き得る自信をもつ。彼、元氣旺盛なりし頃「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた。善哉河童居士、よし、その擧は空しい噓説であつたにしたところで、寒骨、鶴のごとき瘦軀を指して臆面ない、熾烈なる詩人的たましひの嚴存は、分明に居士に認めて餘りあるものである。

 閑話休題として、さて龍之介の「雜記」は、

 「芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないだらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか? 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」と、結んでゐるのである。

 芭蕉をば十分に理解してゐる龍之介ではあるに相違ない。それは、前掲(一)(二)(三)の説述に照らしても合點されるところでなければならぬ。而も、その「詩人」(第四)の項に於て、「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは、芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。――とする龍之介その人の矛盾に照らして見ても、芭蕉のそれを、我自身に結ばうとする、――一歩をすゝめて云へば、寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。即ち、芭蕉文藝が搔き抱く流轉相に對して反撥する彼自身の矛盾をば、敬虔に、素直に熱をこめて、而して賢明に告白するところのものでなければならぬ。鏡に向へば、忽然として其處に、「羅生門」なり「黃雀風」なり、「傀儡師」なり「夜來の花」「沙羅の花」「邪宗門」等々々斷翰零墨も亦「點心」たり「百艸」たることに於て、天下百萬の愛讀者を擁する彼れ龍之介が、彼の面前に現はれ出るのであつた。枯枝に點ずる鴉を見、人生を大夢と觀ずる飄々たる風羅坊と相對して、餘りにも絢爛たる存在の龍之介がこの豪勢さである。然もよく是を理解しこれに深く共鳴し、その途をさへたどらうとする龍之介その人であればこそであつた。

 龍之介一代の俳句作品を通じて、誰でもが直下に見得るところのものは、素晴らしい表現的技巧の冴えであつた。俳句以外の文藝作品に於て、彫心鏤骨の形容詞を賞讃の上に冠せられたことは、事新たに説くまでもないことだが、この形容詞は俳句作品の方面にも亦最もしつくりと据わるものでなければならなかつた。(否、寧ろそれに過ぎてあたら珠玉に血塗つたことさへ筆者はよく知つてゐる。)一々例を擧げて云へば、その的確なるものは枚擧に遑ないことであるが、この稿にはさうした煩はしいことを避ける。だが、唯、早く發表され若しくは上梓を得た其等のものゝ中から如何に多く次ぎ次ぎに現はれ來つた彼の著述の中に改竄されたそれを發見し得るかと云ふことだけを述ベておく。

 小説に於て金石文字たり、俳句に於て天衣無縫たらしめよりとする、その彫心鏤骨の精進にあたつて、絶えず心を來往する灼耀たるもの影の一つに、俳人芭蕉その人があつたことは、既に述べた通りである。而してその芭蕉的影響が、近代人の中に聳えた近代人龍之介の雙びない尖鋭の神經に美妙にも若干のゆとりを加へ、若しくはめまぐるしく拍車を加へた。彼謂ふところの「僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」心境から、巖をしぼれる雫のやうに、滴りおちた彼の俳句作品であるに相違なかつた。彼が、人生の大團圓に於て、日常文人生活の惱みであり、さうして、實に前述の「二つの繪」である大關門の扉が細目に突つ放なされたとき、そこに、

   水洟や鼻の先だけ暮れのこる   龍之介

かぎりない寂然たる天地が覗かれた。

 これ即ち、決河の勢ひで漲り出た――と云ふよりもむしろ潜みに潜んだ鬼才龍之介の、最も恐るべき、驚くべき方面の、一極面の思想を背景とするものが、玉の如く凝つて如實にぶち出されたのである。尚、一度「二つの繪」によれば、「二つの繪」の筆者がこの天才の最後の場面、納棺に際してちらつと一瞥したところ、胞衣と一緒にした幼名が「龍之介」ではなく「龍之助」であつたかもしれぬ、と云ふ。それを讀んだとき、果然、芥川龍之介は最後を燦として此方へ光つた。筆者はあくまでも「龍之介」に左袒するものである。(昭和九、九、二一)

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