フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「杉田久女」の344件の記事

2016/07/22

葉鷄頭   杉田久女

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年一月『電氣と文藝』に発表された俳人杉田久女の小説。久女、満三十歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 ……お読みになれば判るが、ここには久女という女性の驚くべき強烈な「個」が、匂い立っている(特に後半部)。思わず、身を引いてしまう読者も恐らく、確実に、いるであろう。私は自分が、この原稿を送られた『電氣と文藝』の編集人である長谷川零余子(作中の孤雁子は彼である)本人であったら、どう感じたか、ということを考えた。

 しかし、それでも私は、久女を愛して、やまない。――]

 

 

   葉鷄頭

 

 

 K市の東の町はづれ。屋敷町の黑塀や煉瓦塀のとぎれたところに、木柵をめぐらした四五百坪の花畠とも野菜畠ともつかぬ畠があつた。

 野菜畠の奧には荒塗の壁をもつた、垣根も、好もないむき出しの小家が一軒、紅がら塗りの粗末な格子を打ちつけた窓を、八月末の夕暮の冷めたい雨にうちぬらしつゝ、廣い野菜畠を側面にして建てられてゐた。砂まじりの畠の土は淡黃色に濕めつて、絶えまなしに雨を吸ひ込んでゐた。

 窓のすぐ下からは畠になつてゐて此家に附屬して借りてある幾坪かのゴチヤゴチヤした畠には艷々しい紫紺色の長茄子や、白綠色の水々しい白菜の縮れ葉やひとり生えの小南瓜の色付たのなどが、此夏休み中拔きもせずにうつちやつてあつた雜草の中に交じつてあつた。かうした茄子や白菜や、雜草の茂つた間々に挾まれて、向日葵だの葉コスモス、六七尺の葉鷄頭が七八本、たがやされた柔い地中の肥を吸ひあげてすくすくと人の樣に佇んでゐた。もうのび止まつて笠の樣に丸く茂つた葉鷄頭のテツペンには緋色と鮮黃の斑が刻みつけられてゐるのもあり、またまつ靑な儘でゐるのも、黑ずんだ紅色を淡く葉末にたゞよはしてゐるのもあつて、此すばらしい背の高い葉鷄頭の群れが卵色した荒壁や、格子窓の白い障子をバックとして、初秋らしい白い夕暮の細雨をあびてゐるのであつた。

 恰度其時。畠窓の障子が家の中から開けられて白い女の顏が浮んで直ぐに消えた。かと思ふと、裏口の方から、目笊を持つた三十位の束髮の女が現はれて、髮の毛の濡れるのを厭ふ樣に、袂の先をかざしつゝ葉鷄頭の間をすり拔けて白菜の前にかゞむのであつた。彼女の藍がゝつた立縞の着物に、紫陽花か何かを絞り風に染め出した夏帶を、キチンと高くお太鼓に結んだ引しまつた後姿と白い足袋の踵が地の上にくつきりと浮いて見えた。寶石(いし)をはめた肉付のいゝ手が、白綠色の縞をびつしりとしきつめた樣な白菜のうねをあちこち動いては、間引かれた小い菜が細い髭根に泥をつけたまゝ地に置かれた笊の中に拔いては入れ拔いては入れくりかへされた。暫くたつて一杯になつた綠色の笊を抱へて立ち上つた房子の、油氣のない前髮には、こまかい雨の玉がまき散らした樣に溜つてゐた。菜をぬいてゐた方の指輪の手で後れ毛をかきあげつゝまともに顏を上げた彼女の、大きい二皮目の瞼は、泣いたあとの樣な櫻色にすこし脹れぼつたく、瞳(め)は悲しさにうるんでゐたが、然も、興奮した中に混亂した入りくんだ色を現はしてゐたし、そげ氣味の赤味のない面長な頰、見詰めるのが癖の樣な冷めたい目色、やゝ詰まつた感じのする額、輪廓のはつきりした顏全體に何となく淋しい荒んだ憂鬱な表情が漂ふのであつた。彼女は何度となく葉鷄頭の頂き越しに、此畠の奧の家への通路となつてゐるポプラの並木の方を、振り返り振り返り、何かを待ち設ける樣な目付で心を殘しつゝうつむき勝ちな靜かな足取りで、笊をかゝへた中背の後姿を向日葵の陰の裏口へかくしてしまつた。

 それから小一時間もたつた頃、もう大分夕暮れらしい薄闇でぬりこめられた格子窓の中から、房子の顏が二三度待ちあぐねた樣に浮かみ出ては消えてしまつたころ、三臺の幌俥が此並木徑の入口に現はれた。

 さうして、畠をめぐらした木柵の一端の、扉もない通用門見たいな處の、畑とも路次ともつかないポプラの入口に梶棒を突き入れ樣として停まつた最初の俥の車夫は、

「この奧にも家らしいものが有る樣だから聞いて來ませう。多分さうでせう」と言つてずんずん並木をはひつて行つた。目のさめる樣な黍の葉の海を片手に見て小一丁許り入り込むと追ひ詰められた樣な奧のとこに、柿の立木を枝のみ切り拂つて其儘門柱にしたと云ふ樣な奇妙な扉(と)のない小い門が黑塀の隅つこに形ばかりにひつついてゐた。はげた小い門札の字を辿つてづかづかと玄關の叩キへ立つた車夫は「松田さんはこちらでございますか。へい。お客樣を停車場からお連れしましたんで」かう濁つた聲を掛ると奧から房子がそはそはと出て來て、玄關にあつた下駄をつつかけて門口迄出むかへるのであつた。

「おうい、こゝだとよう」今の俥夫がもとの場所へ步みつゝ手をあげてあひ圖をすると、三臺の幌俥の中からセルの袴をはいた夏羽織の男達が下り立つて、旅行カバンを下げた車夫達を先に、此葉鷄頭の家をさして步み出した。めいめいの傘で、兩方からづしりとトンネルの樣に垂れ被さつたポプラの濡れ枝を押しわける樣に次々としごいては並木の徑を辿る。其度毎に枝や葉をサラサラと傘にこすりつける音。ポトポと砂地に降る雨露の音。車夫達がピチヤピチヤと潦(にはたづみ)を踏みわたる草鞋の音。しごく度にゆるやかに跳ね返る枝と枝、葉と葉とが觸れあふ幽かな咡き。折々ポプラの幹にコツコツと突きあてつゝ傘を持つた狹くるしい並木の徑を過ぎる時の暗ぼつたい雨の日らしい感觸に浸りつゝ一步一步、柿の木の門へ近づいてきつゝあるのがはつきりと目に寫り出した時、彼女は燕の樣に身を翻して急いで門の中へ隱れてしまつた。どやどやと此狹い門内に押し込んで來た人々の目に最初にうつつたものは濡れた石疊の間や、硬い石ころ交じりの上に生えちらばつてゐる四五寸足らずの瘦せた葉鷄頭であつた。小人の樣にひねびた形をしつゝも早や靑い葉先に黃と紅をかつきりと刻みつけて玄關口に威張つてゐる葉鷄頭に心を止めて流し目にしながら、日和下駄をカチカチと氣忙しげに敷石の上に刻んで一番先に玄關をおとづれたのは、一行の中の主賓とも云ふべき孤雁子といふ三十少し上位の東京の俳人であつた。そこにはうす暗い障子の陰の疊に坐つてつゝましやかにほゝゑんで彼等を迎へてゐる房子の顏がくつきりと夕闇に浮き上つて見られるのであつた。[やぶちゃん注:「咡き」「ささやき」(囁き)。森鷗外に用例がある。「孤雁子」モデルは高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人長谷川零余子(明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)。本作の掲載誌『電氣と文藝』も彼が編集していた。推定で大正八(一九一九)年の八月末か(第二段落)。]

 ゴトンゴトンと二つ三つの旅行鞄や手荷物が玄關の板敷におかれて車夫達は皆歸つて行つてしまつた。孤雁子と他の二人の俳人達は電氣の灯つた八疊の座敷に通された。そこにはもう座布團が敷かれてあつて、座敷の隅には、白の十の字の上布に夏羽織を着流したお醫者らしい風采の三十七八位の男が一人、鷹揚な態度で彼等に會釋した。

「先年は誠に失禮申上げました。此度は又御多用のところをわざわざお立寄り下さいまして………さぞお疲れでいらつしやいませう」

「さあ、どうぞこちらへ」かう房子は床の正面の座布團へ孤雁子を招じつゝ三年振りの挨拶を感激に述べるのであつた。

「これは泡浪(はうらう)氏す」「こちらは銀川(ぎんせん)氏です」と孤雁子は、隣の體の大きい色の白い、比較的長い幅のある顏に眼鏡をかけて何となく梟の樣な感じのするやゝ猫脊の大學生風の泡浪を紹介した。も一人の銀川氏と云ふのは房子の住んでる此市から三時間許りで行ける某市の俳人で色の淺黑く頰骨の高い、顏全體も頭髮の刈り込みも四角い、巖の樣ながつしりした感じのする人だつた。之等の人々は此房子の先輩の人達で、東京の某誌の選者であるところの孤雁子も、他の二人も、雜誌の上では日頃から親しみを覺えてゐる人々のみであつたし一二度或る席上で逢つた事がないでも無かつたが改まつてかく近々と挨拶をとり交す樣な機會は之が初めてであつた。

 で、各自の間に挨拶が一通りすむと、最後にあの座敷の隅にひかへてゐた鷹揚な風采の男が、

「私は公孫樹と云ふ者ですが、房女さんとは始終御懇意にしてゐます。どうかよろしく」ぽつんぽつんとひきちぎつた樣な、まの暢びた調子で、おうやうに言ひ終つたとき、側にひかへてゐた房子は何といふ世間ばなれのした拙い調子で挨拶をする人だらうと、親しい公孫樹の爲めにくすぐつたい樣な氣まり惡さと、そのまののびた挨拶に強い親しみを覺え乍らみまもつてゐるのであつた。

 孤雁子が東京を出てから此九州を俳句施行してゐる長旅の話し。婦人俳句會が各地でさかんな事や、孤雁子の奧さんの柏女(かしは)さんが長い間神經痛の爲めに惱んでゐられる話なんどが彼と房子との間にプログラムの樣にとり交される。だが無口らしい初對面の男の人ばかりの中に唯一人交じってゐる主人役の房子も、社交的の人ではないので、一と通りの言葉が使ひ果されたあとは皆が離れ離れの樣な心持でポツンとセルの袴の膝に手をおいて妙に押しだまつてしまふのであつた。まづ正面に、キチンと坐り込んでゐる孤雁子の五分刈頭太く厚い唇眉毛が濃くて耳朶が特別に大きくてどこもかも太い線と感じを持つてゐる顏をかうして灯の下に近々と相對して眺め乍ら旅行中の話をきいてゐた房子には久しい間唯理智一點張りで利己的な人の樣に俳句とか人の評などを透して考へさせられてきた此人。血とか淚とかの全くない親しみのない、むしろ嫌ひな部類の人の樣に考へさせられて過して來たので、それとなく心の底では反抗的な心持さへもつてゐた此先輩の俳人が思ひがけなく訪れて來て自分の目前にあると言ふ事は非常にもの珍らしい事の樣にも思へたし、孤雁子の語る物靜かな低い聲の底には深い感情といふものが流れてゐると言ふ事を直覺して、今まで考へてゐた此人に對する心持をもう一度考へ直して見た許りでなく房子の受け入れ易い心ははじめて親しく打語らう此の客人を非常な好意をもつて快よく歡待しようとするのであつた。三年前にはじめて房子は東京の婦人俳句會の席上で孤雁子に逢うつたのであるが其時はろくろく挨拶をする暇もなかつた。其後孤雁子の夫人で名の知れ渡つた俳人である柏さんとはずつと親しい手紙の往復をして來たのであるが、かうして九州旅行の歸途突然他の俳人につれられて尋ねられた事は全く意外でもあり、常々客などのめつたにない旅ガラスの侘しい住家に氣のおける未知の人々を迎へるのは非常に肩のはつたきまりの惡い事の樣な心持がした。彼女はそんな事で興奮してゐたが、かん高い聲で靜かにうけ答へしてゐつゝある彼女の、女としては線の強過ぎるはつきりしたアウトライン、段のついた高い鼻、道具立ての大きい顏は恰度塑像の顏面を眺めてゐる時の樣な硬い冷たい感じがするのであつた。

 孤雁子は約一月にわたる長旅に各地の俳句會や歡迎會などで毎夜の樣に遲く迄ひき出される體を、そこへ投げ出し度い樣に疲れ切つてゐた。それをかうしてかたくるしく坐つてゐるといふ事、口を動かしたり俳句の話などをするのでさへも、實をいへば面倒臭くて堪まらない。お互にもつと寛ぎ度い。直ぐにも辭し去り度い樣な心持に滿たされつつ彼女を前にして體を支へてゐる事に苦痛をさへ感じて來た。

 無口な銀川、泡浪の二人は、てんきり口を開く事をしないでシヤチコバツた形をして畏(かしこ)まつてゐるし、亭主役やら幹事役やらに來てもらつておいた公孫樹氏も一向とり𢌞したり、こせついたりしない型の人だつたので、皆離れ離れの寄せ集めの樣な心持を相持して、煙草をむやみにふかしてゐる許りだつた。もつと寛ぎ度い、何となくギコチない座敷の空氣を破り度いと、張り切つた心にかうすぐと感じた房子は此座敷をはづさうとする前にこんな事を言ひ出した。[やぶちゃん注:「てんきり」呼応の副詞「てんから」に同じい。]

「東京の里の母が暫らく滯在してゐましたがつい先き程須磨の姊の處へ立ちました。母を送つた私はすぐ行き違ひにあなたをお迎へ致しました。折角かうしてお出であそばしましたのに、私は今、あなたをお迎へ致した嬉しい心持と母を送つた淋しい心とでいつぱいに成つて、私の心でない樣に亂れてゐます」

何のためらひもなくすらすらと、かう言ひ終つた房子は大きい瞳をいつぱいに見開いて、視線をまつすぐに孤雁子の上へ投げかけて今の彼女の心の中にある感情を、そつくりその儘彼の前へさらけ出してしまつた。そして、今迄初對面の客達に對してゐるといふつくろつた心持を投げすてゝ、ひたとまむきな感じをかざり氣なしにつき出した彼女の目は悲しさと嬉しさと混亂した色に打沈んで前後の事情をよく知つた公孫樹以外のお客達を却つてますますギコチない妙な心持に導いて行くのであつた。默り込んで、房子の立ち去つた疊の邊へ目を落して考へこんでゐる孤雁子の前にやがて房子がすり足でお茶をはこんで來た。丸い束髮の大きい影法師を疊に落して、再びはこんで來た、朱塗の菓子皿の栗饅頭は、房子が坐らうとする時に積み重ねてあつた三つの中の一つがころげ樣としたのを、房子は、氣づいて、一度襖のかげに持ち返つて正しくなほしてから靜かに再び運んで來た。孤雁子は此の房子の行動を注意深く見てゐたやうであつた。さうかうする中にS市のMと言ふ若い俳人もやつて來て狹い座敷の中は再び紹介やら挨拶やらに打ち賑はつた。背がずんぐりとして、針の樣な硬い黑い髮を角刈にした、色艷のよい、油つこい顏のMが、洋服のポケットから手巾(ハンカチ)を取り出して額の汗をふき乍ら、明日のS市の句會の打合せや時間を極めたりH市の句會の話しが出たりして、世間なれた樣なMの態度は、大に此きゆうくつな場面をやはらげるのに效があつた。煙草の煙のうづ卷いてゐる灯の下でぽつぽつと、隔のとれかゝつた會話が交される。そこへ今度はS港迄房子の母を送つて行つた良三が歸つて來た。良三は手にしたバナナと葡萄の籠を妻に渡して來客の名などきいた後、白がすりの浴衣の上に羽織をひつかけて座敷に現はれた。良三は房子よりも大分年が上の樣に、一寸見には見えてゐたが一體にヒヨロリと細長い背の高い男で、細長い幅の狹い色白の顏は、子供の樣に紅く、耳の生え下りからアゴへかけてへりどつた樣な濃い、髭が白い顏の外ワクの樣にグルリと生え茂つてゐた。心の底に何物をも藏してゐない單純性をもつた、突きつめた心持のよい眞面目な心の持主である良三は體の細い割合に大きい筒ぬけた樣な山家聲を太いのどぼとけから出して、硬くるしい程眞面目な、ていねいな挨拶を一人一人にするのであつた。彼の髮の毛は漆の黑さと手入れのよい油のしみた艷々しさとを以つてきれいにわけられてゐた。[やぶちゃん注:実際の久女の夫宇内は六歳年上であった。]

 人數の殖えた座敷の中には今迄と達つた賑やかな、世間話や雜談がとりかはされてゐるのを襖越しに聞きながら房子は後れてしまつた夕飯の仕度にごそごそと取かゝるのであつた。そこはあの窓に面した三疊の一ト間で、うす暗い十燭の灯の下にあそんでゐた十になる長女と、四つになる女の兒とがお腹がすいたらしくシヨンボリ坐つてゐるのを見て、チヤブ臺の上で夕飯を食べさせたりその傍の古疊に栗色のお膳を並べて、皿や吸物のお椀、茶椀るゐを一つ一つ据ゑてゆく。房子は悲しいとも恥かしいとも言ひ樣のないわくわくと、耳があつくのぼせ返る樣な心持で空腹も覺えず子等の言ふ事もろくろく耳にははひらなかつた。何一つ出さうにも、チグハグで皿器具類はなし、手は足りないし、常にこんな幾人ものお客に食事を上げるなどゝいふ事のめつたにない貧しい中學教師のくらしで、馴れもせず、それに何より彼女の當惑したのは、お客樣はせいぜい二人か夫をまぜて三人前位の仕度をしておいた爲めに五人もの人數が殖えたといふ事は房子を非常に當惑させた。いつの間にか日は暮れて外には、先刻よりも強い雨が降つてゐる。風も少しはあるらしく、窓障子にサツと降りつける事もあるし下の兒はねむたがつて、「お母さんお布團しいて頂戴」だの「抱いて」だのとぐづぐづ言ひはじめた。使ひもない電話もない、どうしたらと、こんな事を思ふ丈けでものぼせ返つてしまふ樣な心持でつい子供達へお給仕をしてやる時も、お膳立てなどにわくわくして、カチカチと茶碗や器具の音をさせたり、手からお椀の蓋をとり落したりする。大聲もたてない樣に注意してゐる靜かな中にさういふ風なカチリとした大音を立てる度毎に、房子は自分の心臟が破ぶれる樣なハツとした心持がして人も見てゐないのに一人頰を赤らめたり、後れ髮をくせの樣に、そゝくさと撫であげてきまりの惡るさをおしかくす樣にするのであつた。座敷の次ぎの六疊と、此暗い三疊の臺どころに閉ぢられた襖がしばしばあけられて、上の女の子が菓子盆を運んで出たり、お茶を入れ替へたりした。粗末な菓子鉢の中にはさつき良三が持つて歸つた果物がもられてゐた。座敷の中の六人の人々に花ゴザ製の夏座布團は一枚不足してゐた。上の女の兒が三疊の襖をあけて出這入りする度に八疊の座敷の一番端じっこに席を定めた孤雁子のところからは、三疊のうすぐらい電氣にてらし出されてゐる黃色い古障子や、襖の陰からチヤブ臺の半面が佗しげに見えてゐた。房子の姿は障子の間からは見えなかつたがカチリと觸れあふ茶碗の音や、子供の睡むさうにすねる聲、房子がすかしてゐる靜かな低い聲、何かゞ煮えつゝある樣な漫然とした匂ひ、それから臺所の石疊の上をこつこつと步るく房子らしい下駄の音、こんなものが孤雁子のじつとうつむいて坐つてゐる、さうして何かを見知らうとしてゐる眼に狹い家の事とて、ひそやか乍らも、手にとる樣に古障子の中の灯の下から聞えて來るのをきいて孤雁子は淋しい佗しい感じにひしひしと胸を打たれてしまふのであつた。殊に、カチリカチリと、時時打ちあふ瀨戸物の堪へ難い佗しさをもたらす音が彼れの心を極度に暗くした。

 三疊の灯の下にごとごとと、三人前の御馳走を、五つの膳にもりわけてゐた房子は、襖をあけてはひつて來た良三を見ると、

「あのね、お客樣がふえて私どうしたらいゝでせう。今からもう遲くてまにあはないし」

とかう訴へる樣にさゝやくのであつた。

「何、僕のはいゝよ。どうせ我々の樣な教師暮しでは大した事が出來ないつて事も、道具のない事も孤雁子は御承知だらう、それより早く上げた方がいゝよ」良三は神經の過敏な妻が悲しげな潤んだ目付でみつめてゐるのをなだめる樣に言ひ捨てゝ外へ出て行つたと思ふと暫らくして四五本のビールをかかへて歸つて來て、自分でコップや栓拔やを乘せたお盆をもつて座敷へ出た。まもなく粗末な膳部が揃はぬ勝ちの器をのせて皆の前へ子供の手で運ばれた。房子は襖のかげ迄運んだまゝで座敷へは、良三と長女の昌子とが交る交る据ゑてゐた。三人分と定めてつくつておいた料理の中にはどうしても五つの膳に融通の出來ないものもあつて公孫樹と、M氏との膳部は、正客の孤雁子と銀川、泡浪等の膳の上程賑かではなく、ほんの三品ばかりにチヨクがついてゐるばかりであつた。主の良三はおしまひに自分の箸や猪口、一寸した食物を盛つた皿をのせた盆を、自身で座敷へもつて出た。さうして「さあ、いかゞですか。どなたもお一つ」とビールをつぎわけたりして主人らしく振舞つて皆にすゝめるのであつた。良三が此夏、三河へ歸省した時、土藏の長持から探し出して持つて歸つた、古い俳畫だの四郎の雁の幅。畫帳。こんなものがお互の手から手へ移されて色々な話の絲口がひつばり出されるので無口な公孫樹だの泡浪などの間にも今はもう寛いだ親しみが取交はされる樣になつた。三河と美濃との國境に近いほんとの山村に生れて育つて來た良三は子供の時から好きだつた山步きや兎追ひの話、山中の住居では今も行灯が古めかしく灯されてすゝけた天井や太い梁を暗ぼつたく色彩つてゐる事や、秋の山上のツグミの鳥屋(トヤ)の物語、矢矧川べりの簗(やな)小屋で尺餘の生き鮎を、竹串にさした物を、靑芝を土ごと長細く切り取つたのに突き立てゝ爐の火であぶつて食べる事やそれからそれへと移つて行つて、良三の好きな魚釣の事に話がおちていつた時、孤雁子は

「釣の上手な人には魚は喜んで釣られませう。あなたの樣な釣好の人の心は魚に感應すると云ふ樣な事ではないでせうか」こんな事をいひかけた。それから又、「釣の面白味と云ふのは其の釣るといふ境地を味はふ事にあるのでせうか」かうも尋ねた。[やぶちゃん注:「鳥屋(とや)」「塒」とも書き、専ら、食用にするためにツグミなどの小鳥を捕獲するために山野に設けた小屋のことを言う。「矢矧川」「やはぎがは」と読む。矢作川(やはぎがわ)とも書き、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ一級河川で明治用水などにも使られている。モデルである久女の夫宇内の故郷は愛知県西加茂郡小原村松名(現在は豊田市に編入)であった。]

「さうですな。僕は大きな魚がひつかかつた時が一番愉快ですな」大きければ大きい程一番面白味が深いといふ樣な事を良三はいかにも面白さうに愉快げに言つて、二三杯のビールにもうまつ赤になつた細長い首筋を撫でまはしつゝ糸の樣な目を一層細くしてハツハツハと笑つては、皆んなのコップヘビールをせつせとつぎわけるのであつた。かうした話の應對の間にも、孤雁子の耳は子供の聲、茶碗の音、などに相變らず何ともいへぬもの淋しい氣分を誘はれて、灯の下に淋しい心持で坐つてゐるであらう房子を心に畫き整はぬらしい不揃の器物、膳の上にあらはれた貧しい主婦の心づくしと苦衷、こうしたものをひしひしと、感じないわけにはゆかなかつた。孤雁子は生活と云ふものに房子程迫つた日常を送つてもゐなかつたし彼の尋ねて步るいたり泊つたりした家は皆その土地その土地での上の部に屬する人達許りだつたので客としてかう言つた侘しい心持を味はふのは之がはじめてゞあつた。それだけに氣兼ねしてゐる樣子であつた。三年前に東京ではじめて逢つた時の房子はもつと若々しくてたしかに今よりも美しいものをもつてゐた。それだのに孤雁子が此座敷で顏と顏とをあはした最初の瞬間に彼の受取つた感じは、以前よりも甚だしく淋しい荒んだ表情に變つてゐて、頰のあたりも、きはだつてそげてゐた。女としては比較的鋭どい頭を持つてゐて感情家らしい彼女の性格や畫家の妻であるといふ藝術的な生活や、それから彼女が子供の時から移り住んで行つた樣な土地の變化から來る南國人らしい性格、俳句にあらはれた偏した性格、さういふ風なものに興味をもつて、九州旅行の歸路をわざわざ立寄つた(彼れはこの家の敷居をまたぐ迄に、房子の境遇は大變幸福な呑氣なもので、地方での舊家で山林や田畑などをもつてゐると聞いてゐる良三の田舍から、補助でもうけてゆつたりと暮してゐるのだらうと許り思つて來たのである)。ところが彼女の家には何一つ道具らしいものはない。路次とも肥料汲みの徑ともつかない狹い道の奧荒壁ぬりの小家に住んでゐる。そして彼女はまだ三十になつた許りの顏にやつれを見せて、井戸水を汲んだり竃の下を焚いたり、時には野菜風呂敷をかゝへて外出もするであらうし、重い子供をおんぶ羽織に包んで買物する時もあらう。流行におくれた着物や帶に身を包んでゐながらもむかしの氣品を落さずにゐる房子、文藝といふものに理解を持つてゐつゝ尚ほ貧しい家庭の間もゆるがせにしないで行く妻と、日曜には必らず魚釣に出かけて畫家にして畫をかゝない、しかし乍ら妻の趣味なり心持なりを理解してやつて家事の手傳をもしてゐるらしい善良な夫と、かう比較しても考へたり、目の前の暗い古障子のかげに坐つてゐる房子の柁しい姿を心に浮べ、菓子一つ買ひに行つた事もなく生活の苦痛をも知らぬ自分の妻や、孤雁子の俳句の弟子である實業家として名の高い某氏の夫人何女、のんきに句作してゆける東京の女流俳人の誰れ彼れ、そんな人達を一々房子の境遇に引き較べて孤雁子の頭は樣々な瞑想に陷ちて行つた。雨の音が靜まつて濕つぽい屋外の空氣が軒のかぶさつた靑桐の葉を透して靜かに室内へ流れこむ。灯の下の人々は互に談笑しつゝ先程迄のギコチない空氣はすつかり取り去られてしまつてゐたが房子はまだ座敷へ出て來なかつた。三疊のうす暗い光りのもとにぐづぐづ云ふ子を賺し隅つこの布團に二兒とも寢せてしまつた彼女は布團の裾の方にこゞむ樣に坐つて、高聲で八方へ受け答へしつゝある良三の聲も、靜かな落付た孤雁子の話し聲も遠い遠い世界の物音を夢の樣に洩れ聞く心地がした。[やぶちゃん注:「三年前に東京ではじめて逢つた時」久女の句は大正六(一九一七)年一月号の『ホトトギス』の「臺所雜詠」欄に初めて載ったが、その五月に初めて高浜虚子に逢っている。この時、零余子が一緒だった可能性は高い。因みに当時の久女は満で未だ二十六、七であった。]

 唯恐しさと恥かしさとでふやける樣に成つてゐる彼女の心はしんみりした雨の音に誘はれて、今日一日の出來事を走馬灯の樣に思ひ浮べる。今頃はもう周防の平野邊りを馳つてゐるらしい汽車の窓の母を思ひ出すと、折角あゝして東京から六十七にもなる老體を運んでまで娘に逢ひに來てくれたのに、今夜のお客を待つ爲めに送りもしなかつた事。手のない忙がしい夕餉をそこくにすまして出發(たた)せてしまつた母の、ポプラの並木を步いて行く切髮の後姿。房子を悲しませまいとわざと元氣さうに、口許に笑をふくみ乍らも落込んだ目の中をうるませて別辭をのべて乘り込んだ母を、忽として堤のかげへ乘せ去つた幌俥。今日のお客にと云ふので、立ちぎはの母はアベコべに手のない房子に手傳つて女郎花を活けてくれたり、手づから庖丁をとつて今夜のお料理迄煮たきしてあとの困らぬ樣にしておいて下さつた。あんなにもう年寄つていつ死んでしまふかもしれず、またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を房子は幾度考へても心の奧から殘念に思ひ、かうした物質上に豐かでない日常の有樣を貧乏馴れない里の母に見せつけて、母を何となく遠慮がちな心持に始終置いたことをすまなく思ふ心でいつぱいだつた。房子は皺の殖えた瞼の落ち込んだ母の顏を腦裡にしつかりゑがいて、色々でまぎれてゐた別離の悲しみをかうした獨りぼつちの今、甦る樣に痛切に覺えるのであつた。それと同時にも一つは、今日の珍客へ對して心いつぱいの饗應(もてな)しも出來ない許りか二人と思つたのが五人に殖えてまごついたり、座敷と臺所とが接近してゐる爲めに色々な物音が客の耳に侘しく聞えたりする事を、割合にふつくりと鷹揚に育てられて氣位ばかり高い、世馴れぬ房子には、それはそれは心細く氣恥かしく感じて自分の役にたゝぬまごつき樣も、長い間狹い穴の樣な家と境遇とにおかれて廣い世間と沒交渉で渡つてきた事から起る、かういふ場合のへマなさまざまのしくじりも皆つきつけられる樣にはつきりと感じて、腹立しい何ともいへぬ淋しさに捕へられてしまふのだつた。何よりも先づ彼女は、所帶といふものを持つてから十年近い今日迄に、こんなに貧しい者のみじめさを突きつけられた事はない樣に一圖に思ひ込んで、佗しい茶碗の音なんかを立てたりして折角の客人に貧乏臭い哀つぽい感を抱かせるであらう事を鏡の樣に自分の心に寫し得るのが一層辛らかつた。こんな思ひに耽りつゝそつと起き上つて燗を仕樣とするとどうした事か硝子の燗瓶の底がぬけて琥珀色の酒は一滴のこらずに、七輪の炭火を消して灰かぐらとなつてしまうたので、まあ何と云ふまの惡い、そゝつかしい事だらう。使はなし町は遠し澤山もとつてない酒をこんなにしてしまつて、房子はもう悲しいやら情けないやらハツと泣き出したい樣な心持でぼんとしてしまつた。もし之が自分のお客樣でなかつたら雨のふる外へ此儘逃げ出して、冷たい雨を頭からあびつゝかけまはり度い樣な、やるせない氣になり切つて暫くは目も動かさず疊の上へへたばつてしまつた。鷹揚に呑氣に十九の年迄そだてられて、振袖ざんまいで三河の山奧へ嫁して行つた房子は馴れない貧しい教師生活に喘ぎつゝも、一文の借金もせず持つて行つたキモノは皆着破つて辛抱しつゞけてきたが、いつ迄も世話女房らしい氣分になりきれない彼女は母の袂のかげに包まれかくれては過してゐた處女時代の樣な心持で今夜の樣な、世馴れた女には何でもない失敗である場合にも唯恥かしがつて、頰をそめたり、淚をこぼしたりするのであつた。恰度そこへ良三がはひつて來て「僕一人でおとりなしをしてゐては具合が惡いから房さんも出てくれないか」と引き立てる樣にいひすてゝまた座敷へと去つた。淚ぐんで默つて閉ぢられた襖を見つめてゐた房子はやがて氣を取り直して、三疊の隅に出し放してあつた夕方のまゝの鏡臺にむかつて、髮をかき上げたり、紛おしろいの刷毛で、うす紅く脹れた瞼をさつと一刷毛はきつけたりして漸く座敷へ出ていつた。[やぶちゃん注:底本では「またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を」の「送られ」の右に編者によるママ注記がある。「ぼん」馬鹿者・間抜けの意の方言と思われる。山口県で用例がある。福岡弁では「あんぽす」「あんぼんたん」がある。後者が濁っているのはここと親和性があると私は思う。]

「こんな茅屋(あばらや)へいらして下さいました事を私はどんなに嬉しく思つてますでございませう。嬉しくつて一生懸命におもてなし申上度く思ひ乍ら私の貧しさは、何一つ差し上げる事も出來ません。お詫にはどうぞこれを御覽あそばして」

 かういつて一枚の紙片を孤雁子の前へさし出した。彼女の顏にはもう淚は消えてぼうつと上氣したうす桃色の頰に惱ましげな微笑さへたゞよつてゐた。今迄つくろひ包まうとして恥かしがつてゐた貧しさを皆の前へ殘りなくさらけ出してしまつた後の、心安さと落付とで房子は、先きの心持とは異つたはつきりとした興奮した心持に成つてゐた。孤雁子が紙片を取り上げて見ると珍客に對して香りのいゝ酒もさし上げられないといふ佗しい心持を詠つた句が、打ち崩れた樣な散漫な字體でかいてあつた。孤雁子は默つてじつと見つめてから次席の銀川へ渡す。こんな目の前の事が一層房子には恥かしかつたが、もう現はれる處迄現はれつくした貧しさも今は氣樂に話す事が出來る樣に思へた。陽氣な房子の夫の話し聲に交じって、房子の興奮したかん高なやゝかすれた聲がとりかはされて俳句の話から話題は次第に房子の身の上話に移つて行つた。彼女は今はもう一座の中心となつて一生懸命にしやべりつゞけた。彼女は一事を語りをはらない中に早や次の話題へ孔雀の尾をひろげた樣に移つていつて、感情がたかぶると限りなく話を進ませてゆく。彼我の説を一丸にして話をまとめたり崩したりする、色々な事を根ほり葉掘り聞きたがる。

「私は俳句をやめ樣と今迄に何度思つたか知れません。本をよむ時間も研究する暇もない私には唯十七字をつくると云ふ事丈でも容易な事ではありません。私の樣に年中苦みつゞけて生活してゆく者には自分の刹那刹那の感情や思想をそのまゝ表現の出來るものは詩なり歌なり創作なりでなくては、生意氣の樣ですがとても自家の心持を述べつくす事も滿足する事も出來ません。俳句ではさういふものを作つて見ても不完全なものが出來易い。でも時間と餘裕のない私には、お野菜を下げて步いてゐる時とか、子供を守(もり)する時とかの少ない時間なので長いものは書けませんから俳句でも作つてわづかに滿足してなくてはなりません。色んな苦惱の爲めに胸がいつぱいになつてもの狂ほしい樣な淋しい心持におそはれる時、私は、強い明るい色彩、高調な張りきつたものがほしくなつてまゐります。灰色のものや穩かな弱い、力ないものでは私は、苦しい悲しい私は、到底滿足出來ないのです。ですけれど俳句は進めば進む程、わからなく迷つて來ました。私は何度俳句をすてゝぼろつぎでもしたり、破れた足袋穴の一足でもついだりする事が私の樣な身分の者には相應してゐるか知れないと考へたか知れないと考へたか知れませんけど、やつぱりやめられないで、苦しみつゝ句作して居ります」彼女は燒ける樣な打ち迫つた調子でたぐり出す樣に語りつゞけるのであつた。

「それでもあなたは、句作したり時々畫を書いたりなさる時間があるではありませんか」と孤雁子は雜誌などで見た二三の短い文章について尋ねて見た。

「いゝえ。文章はいつも夜中に起き出したりして書いたのでした。それでなくてさへ働き馴れない手の足りない事を考へますと餘裕はすこしもありません。けれども文藝を捨てゝしまつた後の私はどんなに淋しいでせう。私は物質的には何ものをも持ちません。私は社會的にも精神的にも孤獨です。ただ拙ない俳句を生み出す事によつてのみ小い自分を創り上げ度いと願つて努力してゐるのですが………」かういつて言葉をとぎらせてしまつた房子の顏には熱し切つた赤い血がサツと漲り走る音迄もきこえるかと思はれる許りに熱し、左の上唇は痙攣的に引つ吊つた樣な表情となつて目は大きく靑く燃えてゐた。頭は白熱的に灼れ、積極的に何に事もつきつめて行かうとする勢ひ、底深い淋しみを徹底的に見極め樣とする心持、性格と境遇との矛盾、其他樣々な書きつくせない精神的な惱みを語る時の興奮した態度にひきかへて、物質的方面の話しに移つてゆくと彼女の靑い目は幽欝な沈んだ色にとぢこめられて、少しも氣勢が上らない。子供を育て家事をとつてゆく貧しい一般的な妻の心持、さういつた境遇をあきらめるといふ心持にどうしても到達する事の出來ない彼女は、いつ迄たつても、今の自分に滿足し樣とはせず、或時は個性を曲げつけて迄も自分を引き下げ樣と無理無體に自分をしひたげて見樣としたり、或時には、のべつに刈り込まれ樣としてゐる自分といふものを、何物の拘束をもおそれず暢ばせる丈けのばして見たいと強い心になつて見たり、どうしてもあきらめられなかつた。迷惑さうな顏付をして坐つてゐた良三は、

「私の妻は油畫をすこし書きますが實にいゝ色を出す事がありますよ。然し畫いてゐる自分自身にそれがいゝのか惡いのか解らなくつて批評なんかすると却つていゝところを塗りつぶしてしまつたりします。どこかに感じのいゝ獨創的なところはありますがどの繪もどの繪も未成品で取留めがないのです。房子の俳句もきつとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と橫合から房子の話をかきまはす樣にこんな事を孤雁子に話すのであつた。話はいつか彼女が書いた短い文章の中の幼兒の事に移つて行つた。房子は突きつめた樣な目色をじつと疊におとして、熱した一語一語は日常の彼女の聲とはまるで違つたうるほひを持つて音樂の樣に響いてきた。今はもう隔ても全くとれてしまつたので、日頃人とあまり語つた事のない心の底の泉が湧き出る樣にその赤い厚い唇からはぐんぐん彼女の惱みと淋しみとが言葉となつてあふれ出るのであつた。

「私は鹿兒島の平の馬場と云ふところで生れました。それは五月の末で、あのまつ白な夏蜜柑の花がもうい小さい實になつて紫陽花の藍色の花があの町の到るところに咲き初める頃でした。さうして三つの年に、大地震の後の大垣へ父が任命されたので私共一家は引移つて行つた、それからと言ふもの私の運命は南へ南へと移つていつてあの絶海の孤島そこには龍宮の樣な王城と、灰色の厚い霧と、毒蛇と、紫の雲の樣な栴檀の花がちつてゐるせいの高い石垣をめぐらした榕樹の屋敷町、碧玉の色をした海。かうしたなつかしい記憶を刻みつけられた琉球に幾年かを住み、それからまた鱶の海を渡つて、芭蕉林と赤い花とに包まれてゐる臺灣の南部へも、領臺後まもなく私達は、父に從つて行つたのである。そこではまだ鐵道もない、或時には土人の駕にのり、或時にはトロッコにおされて、何里もに渡つたごろごろ石のやけつく樣なかわいた河原を、果しない雲の峰をながめつゝ走つた事もあり、或日は橋の落ちた濁流を土人のカゴカキに負はれて渡つたり、色のつよい明るい芥子畠を打過ぎたり、ずゐぶん子供心にも旅から旅へとおそろしい人少ない土地へ步るきまはつて行つたりして私の生來の多感な偏した性格は猶更らこんなに淋しい惱ましいものとなつてしまつたのである」こんな幼ない時の追懷を彼女は、熱心に物語つた。呑みかけたビールのコップを膝の上に支へられたまゝ目をつぶつた樣に、じいつときいてゐた孤雁子は、話のとぎれた時に、顏をあげて、「あなたはおいくつの時から大垣へお出ででしたか」と熱心な樣子で聞くのであつた。[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいるから、ここに書かれた内容は全くの事実と捉えてよい。「大地震」明治二四(一八九一)年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震のこと(現在の推定ではマグニチュードは八・〇程とされる)。「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。「榕樹」精霊キジムナーの住むとされるバラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

「私は三つか四つか、はつきりした事は覺えません。ですけれどもそれは大地震のあつた二年ばかり後でまだ參りたては、晝夜に何回となくおそろしい地震がありました。私はそのたんびに母の足にしつかとまとひついて泣きました」と房子は緊張した表情で答へた。

「さうですか、不思議ですね。私も子供の時、さうですね三つから七ツ位迄を大垣にゐた事があります。私は地震の起つた年の春頃、大垣を去つて國の方へ歸りました」孤雁子は眉間に立て皺をよせて思出深さうに瞬きながら語り出した。美濃の大地震を境として今こゝに相對してゐる二人の人達が大垣に住んでゐたと言ふ事は何となく奇異な興味深い事に思はれて、一座の人々は二人の話しに耳を傾けて居つた。孤雁子と房子の話は大垣を興味の中心として次第に水輪の樣に擴がつてゆく。

「私は幼い時でよく覺えてませんが、何でも、大垣小町とか名づけられてゐた美しい娘が兩腕を梁の下に組敷かれて不具乍らも命丈けは助かつた事だの、大きな龜裂(ひび)割れた大地へ呑まれる樣に人間ぐるみ陷ち込んでしまつた家の話だの怖ろしい事許り母から寢物語に聞かされました」房子のかういふ話に續いて、「私の住んでゐた家のあとに來た人達も地震に押し潰されて全滅してしまつたさうです。私達は堤に振つた竹藪のある家に住んでました。そこいら邊には泥龜が澤山ゐて、私はよく繩で縛り上げて父の飮殘したお酒を無理に口へつぎ込んだりして遊びました。それから又私には一つ違ひの聲の美しい妹がありましたが妹は五つの年に三日許り病(わづら)つて死んでしまひました。それは恰度お正月前で、仲よしの妹と私はいつも門の前の日當りのいゝ草の上なんかに坐つて『もういくつするとお正月が來る』なんて二人で幼い心持にいつぱいの樂しみを抱いて遊んでゐたのがふつと死んでしまつたのです。今でも大垣で妹とうつした古ぼけた唯一枚の寫眞を私は取りだして妹の事を思ひ出します」

 疊に目を伏せてゆつくりと低い音聲で語りつぐ孤雁子を理智一點張りの鐵の樣な心持の人、淚のない人といふ風に解してゐたがさうした話の中にも感情といふものがサツと浮かび出すのを見得るのであつた。此座敷には入つて來てから一度も聲を立てゝ笑はない、じいつとものを考へこんでゐる樣な無口な、山國の血をうけた人らしい此客人孤雁子を、房子は理性の底に深い感情を包んでもつてゐる人らしいと考へて見た。

「私達もあの河堤(かはづつみ)に住んで居りました。私は大垣といふとすぐに曼珠沙華とれんげと狐とを思ひ出します」と房子は遠いむかしの記憶を引よせる樣なうつとりとした目付で次の樣な話をした。懸命に續けた膳部だのビールの瓶をのせたお盆だのはもう綺麗に次の間へとりさげられてゐた。雨はいつの間にかやんだらしく此畠中の一軒家は靜かに更けてゆく。小いマジョリカ燒の灰皿はすひ殼でいつぱいになつてゐた。

「私は兄妹中で一番大きい鈴の樣な瞳の持主で、怒りつぽで、我儘で、そのくせ泣きむしな女の兒でした。私が一處にまゝごとでもして遊んでゐる時、強情を張つたり我儘言つたりすると、

『房ちやんはお母樣の子ぢやないのよ。明神さまの森(鹿兒島の)に捨てられて、オギアオギヤつて泣いてゐたのをお母樣が、お星樣のいつぱい光つてゐる暗い晩にひろつて來て育てゝあげたのよ』つて、兄や姊はよくからかつたものです。

『なあぜ?』と私が首をかしげると、

『だつて房ちやんの樣な大きな黑い目は家中に一人もゐないのだもの』

 こう言はれると私はそれがほんとの樣な氣がして、ぽろぽろと淚をこぼし乍ら、『うそようそよ』とかぶりをふるのでありました。私がかぶりを振るたんびに、ふさふさしたおかつぱさんの髮がばさりばさりと頰にあたる。私はほんとに心配して明神樣の森に捨てられてゐたかどうかを母に聞きたゞすのでした。堤の上の其家は郊外に近うございましたので毎日の樣に、私達は低い草山に遊びに行きました。其草山の處々にはまばらに松などが生えてゐましたが、足許をみつめて步いて行く私の目に水々しい土筆が、時々ひよつこり現はれる。そこで、

『まあお母さん、姊さん。房子の目は大きいから一番先きにつくしんぼが見つかつた』

 そんな時の私の頰には輝いた微笑が刻まれます。そして目の大きいのをどんなに心嬉しくも誇らしくも思つた事でございましたらう。それから又あなたは御承知かどうか知りませんが秋の彼岸の頃にこの草山にまゐりますと曼珠沙華の深紅の花が、葉も何にもない、孤りぽつちの樣に長い莖をぬきんで、淋しさうにぽつんぽつんと咲いてます。あの曼珠沙華の焰の樣な色と、不可思議な糸の樣な花辨とは羽子板の押繪なんかで見る、びらびらの簪をさした振袖のお姫樣の裾にもえてゐる狐火を思ひ出させるのでございました。實際にあの邊には狐が多かつたのでせうか。私は度々狐を見得たのでございませうか」

「紫雲英の紅でぬりつぶされた樣なたんぽゝを、摘んでは束ね束ね步いてゐると、まつ白いれんげが時々めにはひりました。

『白いれんげは狐の簪よ』

 幼な友達にかう囁かれて、私は摘みかけた手をひつこめてしまふ。かうした白い紫雲英の印象から得たまぼろしなのか」

「麥の穗がうれて淡黃色の光りの波を漂はすその中から、狐の尖つた顏がひよつこり目の前に浮き上つて房子をじいつと凝視(みつめ)て直ぐまた麥の浪に沈んでしまひました……」

「あれはほんとの出來事であつたのでせうか。それとも幼い私の幻覺が、蜃氣樓の樣に築き上げた眞實でせうか」房子は、こどもの樣に首をかしげて、皆を見まはし乍ら、そんな事を孤雁子に話した。「よく覺えてお出ですね。私は狐の事は、覺えがありませんけど、曼珠沙華や紫雲英は思ひ出しますよ。あなたが御遊びになつた山かどうか判りませんが、私の住んでゐた家の裏の方の山では鐵道の敷設工事が始まつてゐて、毎日鶴嘴を打ち込む音が聞かれました。そしてやつぱり秋になると掌(てのひら)の筋を血でそめたやうな眞紅(まつか)な曼珠沙華が雜草の中に一面に咲いてましたつけ」と孤雁子が言ふと「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にしますよ」「感じのいゝ花ですな。僕はどういふわけか、友切丸か何かで切りつけられた土蜘妹の精が地にひいて逃げていつた血潮の痕から咲き出た花。と言ふ樣な妖怪めいた感じをあの花から受けますがね」傍から二つの聲がかちあふ樣に放たれた。[やぶちゃん注:「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にします」古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされた。私が嘗て書いた「曼珠沙華逍遙」という記事を紹介しておく。]

「あなたは日比野のお孝さんといふ人を御存知ありませんか」孤雁子からかう聞かれて、

「私は其頃まだやつと四つか五つ位ゐだつたものですからよくは存じませんけど、お孝さんといふよそのお姊さんは一人ありました。その人は何でも色の淺黑い目の大きいしつかりとした顏立の人の樣に覺えてますけど、違ふかも知れません」と房子は、癖の樣に額髮をかきあげながら答へた。

「日比野のお孝さんはお母さんとたつた二人でひろいひろ家に住んでゐました。慥か御家老の家筋でした。私はお孝さんに可愛がられて毎日の樣に遊びにいつたり泊つたりしてました。快活な人でしたが細面ての綺麗なすらりとした人の樣に私は覺えてゐます」と孤雁子が言つた。

「たしか私の姊のお友達でした。大洪水(おほみづ)の出た時姊とお孝さんとが、塀に寄せてつないであつた小舟に乘つて遊んでゐて、どうしたはづみにか二人共落ち込んで大騷ぎした事を私はおぼろげに覺えてゐる位のものでございます」

「その兩方のお孝さんが全く同一の人で有つたとして、あなた方の中の一人が大垣に行かれて年寄つたお孝さんと、さういふ風な追懷談でも出るのだと、立派な小説になりますね」無口な公孫樹が、團扇の柄をいぢくりながら、面白さうに、下ぶくれの福々しい長い頰でにやにやと笑ひつゝ橫槍を入れた。

「ほんたうですね。かも知れませんわ。遊び友達のことをおつしやいましたので思ひ出しましたが大垣といふ處は鼬の多いとこでございますね」と房子が白い齒を出して笑ひながら言つた。

「さうですかなあ。私は細かしい記憶はあまりありません」孤雁子は相變らず靜かな低い聲でうつむきかげんにぽつつりと受け答へをする。いかにも疲れたといふ顏である。それだのに房子の方は輝いた目付、話亢つてやゝ上氣した仰向けの頰。かん高いすらすらと湧き出す樣に手まねをまぜたおしやべりすべてが孤雁子の容子と此の場合全然相違した對照を、並らべて眺めてゐる他の五人の人々は、興味深かさうにのつぺりした顏や、退屈げなしびれの切れた樣子、四角い顏や酒の醉が發してしきりに睡魔のおそふらしい細い目付や、苦蟲をかみつぶした鍾鬼樣見たいな顏やを灯の下にならべあつて互に押しだまつて聞いてゐる。房子はそんな事には一向おかまひなしに、色濃く押しよせて來る潮の樣な思出を尚ほもつきせず押しすゝめてゆくのであつた。[やぶちゃん注:「話亢つて」「はなしたかぶつて(はなしたかぶって)」。]

「其頃やつと步み初めた許りの弟が居た私は毎日の樣に『河野の叔母さん』とこへ遊びに行きました。其途中でいつも私は茶褐色の鼬が行く手の徑をすばしこく橫ぎつて藪に走りこむ、そのとたんに、ずるさうな目付で私の方をチラと見る。そんな淋しい細道を通らなくてはならなかつたのです。河野の叔母さんには子供が無かつたので私はよく叔母さんのお家に寢泊りしてゐましたが、そこは、銀杏の樹が覆ひかぶさつた古家で、秋も末の夜なんか風がない夜でもサラサラサラサラと限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ。幼い私は此銀杏の散る音をきくと堪まらなく悲しくなつて、『叔母さんとこへ泊り度い泊り度い』と寢床の中に坐つては泣き出すのでした。そんな時、叔母さんはきつと、私を抱いて厠へ行く緣側の戸を一枚くつて、

『あれを御覽なさい。向うの方に赤い灯が澤山見えるでせう。あれは狐のともすお提灯ですよ』と指さす。まつ闇らな田圃の向うの、あの曼珠沙華の小山へ續いてゐる道の方に黃色を帶びた赤い灯が二つ三つ。動くともなく動いてゐる。目の前には大銀杏が私をおびやかす幽靈の樣に黑く聳えてゐました。私は、其まゝじいつと目をつぶつて、叔母さんの寢衣の胸に顏を埋めて、靜かに背を叩かれながら、いつのまにか夢に入つてしまふ。[やぶちゃん注:「サラサラサラサラ」は底本では「サラ」の後に踊り字「〱」、その後また正字で「サラ」として再び踊り字「〱」の表記となっている。私は個人的に五十九になる現在までこの踊り字「〱」「〲」を自分の自筆の文章で用いたことは一度もなく、生理的に嫌いなのであるが、今回、ここに限っては「限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ」その音を表わすのに踊り字は効果的だ、と強く感じた。]

 それでも、こりずに、よく泊りに行つたものでございます。舞扇の樣な銀杏の葉が濕つたお庭に散り敷いてゐる中に、私はかゞんで襞のとつてある油やさんに、銀杏の葉を拾ひ入れたり、銀杏の實を燒いてもらつたり、私の大好きな、きんちようゐんのお饅頭をもらふのが何より嬉しうござんした。大垣について、一番私の悲しい思出は、弟の大怪我でございます。あれは丁度日淸戰爭の頃で、福島中佐(其頃の)が馬でシベリヤを橫斷された雙六を私らは買つて頂いたり、女中に連れられて、兵隊さんの汽車の盛んな送迎を見に行つたりしました。[やぶちゃん注:「油やさん」「油屋さん」で油屋の商人の前掛けに似ていることから、幼児の首から腹まで覆う一体になった前掛けを言う語。「あぶらいさん」「あぶちゃん」とも呼ぶ。「きんちようゐんのお饅頭」大垣名物の「金蝶園(きんちやうゑん)のお饅頭」の誤りであろう。岐阜県を代表する銘菓である。「金蝶園総本家」公式サイトの金蝶園饅頭ページをリンクさせておく。「福島中佐」陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~ 大正八(一九一九)年)のこと。最終階級は陸軍大将で情報将校。ウィキの「福島安正によれば、明治二五(一八九二)年、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長』らに報告している、とある。]

 それから後弟は高い處から落ちて、虛弱(かよわい)心臟や肺を叩きつけたのが原因(もと)で全く病弱な者と成つてしまひました。そして明治三十年の夏、父が領臺後まのない嘉義へ赴任して行くと直ぐあちらの淋しい病院で、六つで死んでしまつたのです。あれから最う二十何年かたちました。私の實家(さと)にも大垣でうつした色のあせた寫眞がたつた一枚大事にしまつてありまして、弟の面影を朧氣乍らも偲ばれるものは今はもうあれ許りでございます」[やぶちゃん注:「嘉義」中華民国台湾南部に位置する現在の嘉義市(かぎし)。ウィキの「嘉義市によれば、一八九五年(明治二十八年)の『下関条約により日本に割譲された台湾では、台湾総督府によりたびたび地方改制が実施された』が、一九〇六(明治三十九)年の嘉義大地震によって、『清代に建築された県城は東門を除いて全壊する。災害復興に際し総督府は都市計画を実施し新生嘉義市の建設に力を注ぐこととなる。近代都市として再生された嘉義市は商業及び交通の発展により、南部地域の中心都市としての地位を確立することとなった』とある。]

 かう長々と語り終つた房子の目には、淚が光つてゐた。孤雁子は默つて低い溜息をついた。共通點の多い幼時の大垣の話。殊に夭折した互の弟なり妹なりの淋しい物語りを繼ぎ合して考へて見た孤雁子は何となく傷ましい樣な心持がいつぱいに擴がつてゆく樣に感じるのであつたらう。他の者も皆押し默つて坐つて居た。次の間の柱時計はもう十二時をさしてゐたがワザと停めて有つたので鳴りはしなかつた。

 布團も何もない狹いこゝの家に三人の客を泊める事は出來ないので今夜は三丁許り隔てゐる公孫樹(ある病院のお醫者さん)の家へ皆な泊まる事に相談をきめて、公孫樹は用意の爲め一足先に歸つて行くしMも暇乞して立ち去つた。夫れから小半時して、細長い提灯をぶらさげた良三は三人の先に立つて並木道を送つて行くのであつた。雨はもうすつかりやんでしまつて、まつ黑い空、ポプラの並木の上にはまき散らした樣に銀河が橫はつてゐた。バスケットや鞄は房子の家へ明日の朝迄あづかる事にして、明日の句會の御約束などをしながら三人の俳人連は、着た切りの手ブラで、手拭一つ持たずに房子の家を辭し去らうとする。房子は座敷の電灯の紐を玄關迄のばして來て、暗い門口を照らした。濕つた砂地をサクサクとふみしめつゝポプラの並木を拔け樣とする三人の耳に、ぽとりぽとりと、まを置いて葉をまろび落ちる雨上りの露の、地上をうがつ音のみが夜更けらしい靜寂な響をつたへてゐた。良三のさげてゐる提灯の口の輪が、覆ひ被さつたポプラの濡れたまつ靑な葉の塊を次々に明るく色どつて、木の根の潦にチラチラうつつたり、黍畠の長細い葉をハガネの樣にギラギラと照し出したりするのであつた。一人八疊の座敷に取り殘された房子は、飮みさしの茶器だの吸殼の溜つた灰皿だの、座布團だのが亂れたまゝの其中にぐつたりと坐り込んで、其等の貧しい器物と乏しい食物を眺め乍ら魂のない人形の瞳の樣に冷めたく見開いた、硝子玉の樣な動かない瞳色(めいろ)であてもなく灯をみつめたまゝ淋しい感情に浸されて、靑ざめた頰を無意識に兩手でおさへつけてゐた。さうして靑い冷めたい瞳からぽとりぽとりと大粒の淚が止め度もなく頰を流れては頰から膝にしたゝり落ちた。それは自分を憐れむ情と客に對してブザマな自分の仕打を激しく責め苛む羞恥の念と、曝露され突きつけられた我が生活の貧弱さ、みじめさに對して我れと感じる呪はしい侮蔑の感じ、壓へ樣壓へ樣と努めてもあきらめきれない運命といふものに對しての憤懣。そんなものを撚り合はした心持が渦卷く樣にいつぱいに、硝子の樣な透きとほつた、刃の樣に冴え切つた頭の中に氾濫するのであつた。良三が畠をぬけて歸つて來て戸口をしめたり、吹き消した提灯を三疊の壁に掛けたりごとくするのに氣付もせず房子はいつ迄もくじつと動かずに物思ひに耽つてゐるのであつた。

 

河畔に棲みて(十九)~(二十七)   杉田久女 ~「河畔に棲みて」(完)

       十九

 

 翌日は朝から客などあつて房子は子猫の事は忘れてゐた。店へ行つた序に房子は子猫の爲めにイリボシを五錢程買つて歸つた。そして猫を探したが猫はどこにも見えなかつた。

 冷たい竃の中にやせた顏をうづめてこはばつて死んでゐる子猫を見出したのは其翌る朝だつた。

 房子の胸はいつぱいであの前々の夜間いたニヤアニヤアいふ鳴聲が耳について離れない。朝飯の時は皆子猫の死を語りあつてさすがに澄子も、その小さい目になみだを浮べるのであつた。竹の葉の靑々と吹き出した垣根の隅の土に透は小さい穴を掘つた。房子は、布でつつんだ子猫の亡骸を穴へ入れた。土をかぶせて地をならした上に、澄子は、野からとつて來た、色のあせかゝつた野菊や、赤のまんまをさした。[やぶちゃん注:「赤のまんま」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。]

 房子は二三日打沈んだ淋しい顏をして子猫の事を言ひ出しては、兄達に笑はれた。子猫の句がいつぱい手帖に認められた。[やぶちゃん注:杉田久女の初期秀句の一つと私の思うものにまさにこの時の一句「ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり」がある。]

 自分の弱い赤ん坊の運命を暗示されてゐる樣な不安さをも感じたのであつた。

 さうかうしてゐる中透は、かの就職の事について某氏の女婿で或炭礦長をしてゐる人の所へ逢ひに行く日が來た。透は、ホクホク喜んで出かけた。先達(せんだつて)のまゝの服裝で。けれども透の歸宅後の談は、良三夫婦の豫期を裏切るものであつた。兄も甚だ興奮した面持で話した。何でも履歷書にかゝれた透の前會社に知人があつて人物をしらべたところ勿論反對派の人々ではありあゝして去つた會社故よく言ふ筈は決してない。何か兄に不利な報告があつたと見へ「實は相應に責任あるところへ、來て頂く心組なりしところ右前會社の言もありそれを承知で責任をおあづけする事は出來ぬ。しかし御懇談もありし事故兎に角一時炭礦の方の事務に來てはどうだ。外には一寸あきがない」との話であつた。

「何も法律上の罪惡を冒した譯ではなし僕の將來發展の道迄前會社から掣肘されるわけはない」と透は頗る激して言つた。今の話の口はまるでお話しにならない待遇で、「工夫したつて二十圓やそこいらはとれる。まあ工夫頭の樣な仕事ですからね。僕は斷然斷はらうかと思つたが、あなたから斷はつてもらふのが至當だと思つて其儘歸つて來た」

 透は酒や女位の爲め、自分は何も天地に恥じる事はないと言ひ張つた。そして暗に、良三が外の運動を中止してあまり某氏へ信賴し過ぎた爲め今に至つて行くべき道はとぎれてしまつたといふ憤りを諷刺した。倂し良三は格別それに對して怒りも辯解もしなかつた。

「炭礦と云ふ處はあまりよいとこではありませんね」かう良三は言つたが透の性質の或る缺點は認めてゐた。そして今後もいくら自分が骨折つても、又々こんな以前の事の爲めに、ぶちこはれる樣では誠に困つたものだと、つくづく思つた。あなたも惡いのだと良三には言ひ切れなかつた。

 たとへ法律上の罪惡でないにしろ前會社に對しての兄のすてばちな態度は惡いと妹も思つた。折角十中八九まで先方も好意を持つて成立しさうに成つてゐたものが破れたのは全く兄の性癖の爲めだと房子も思つたが夫婦ともそこをあからさまに口に出しては言へないのは苦しい立場だつた。

 房子はむしろ、夫の苦心を十も知りつゝ、

「あなたが八方へ手を出して、もうすこし多く口をかけなかつたからですわ」と、透の言ひたげな事を言つてしまつた。

 兄妹二人からかう言はれて自分の苦心は全く消えてしまつた良三は、心中大に憤慨に堪へない樣だつたが、唯口をつぐんで、さつさと寢床へ入つてしまつた。

 透も自分で床をのべて寢てしまつた。房子は夫に對して一言でも兄が感謝でもしてくれたらと、思つて、一人吐息をついた。

 

      二十

 

 玄海から吹き通して來る凄じい夜風はまつ暗な田を越えて野の中に建てられた電車の停留所に突當つてはヒユウヒユウと鳴る。トタン張の屋根をガタガタと搖するのであつた。邊りには家一軒もない。

 うす暗い街灯停留所の、小緣の樣なところに二三人縮まつてかけて居る人を辛じて照らす許りであつた。

「寒い晩だなあ」と呟く樣に言つたのは透であつた。並んでゐた良三は「兄さんあなた御寒いでせう。私のこれをお着なさい」と自分の着て居るマントを脱がうとするのを透はおしとめた。

「何、もうぢき乘るのだからかまひません。あなたこそ、下りて大分あるから僕は房さんから眞綿をドツサリきせて貰つたから、町へ出ればこんなに寒い事はないんでせう」とどうしても聞かない。停留所と云つても、唯だ屋根と壁一方のみで三方は吹き放しでこの海風を遮ぎる何物もないのであるから風は着物を透し隙間から吹き込んで體溫をすつかり奪ひ取つてしまふ。骨身にしみて、冷たい冷たい耳なし風とさへあだなされてゐる風であつた。二人とも銘々くつたくさうに默り込んで、痛い樣に顏に突き當る風を浴びてゐると、町の方からの電車が向うの高處を徐々として下りて來る。靑い灯の幅を暗い線路に藁屋根に草土堤に投げて、浮き出る樣な明るさを窓いつぱいに漂はしながら停留所めがけて走つて來た。二人は待ち兼ねた樣立ち上つた。[やぶちゃん注:「耳なし風」確認出来なかったが、強く冷たい風で体温の低い耳介部分の感覚が消失し、引き千切られて無くなってしまったかのような感じするという謂いの呼称であろう。モデル・ロケーションの北九州の小倉は、関門海峡を挟んで、対岸の安徳天皇や平家一門を祀った赤間神宮(山口県下関市内)に近く、ここを舞台としたかの「耳なし芳一」伝承との親和性もあり、腑に落ちる呼称のようには思われる。「くつたく」現行では概ね否定構文でしか持ちられなくなった名詞なので注記しておくと、「屈託」で、「気にかかることがあるために心が晴れないこと。心理的に一つの対象に拘ってしまってくよくよすること」 或いは「心身ともに疲れてあきあきすること」である。ここは漠然とした比喩であるから、後者の意でとる方が自然である。]

 電車が彼等の前で停ると二人許りの人が下りた。

ぢあ行つて參ります」と良三は洋服の男の後から乘り込んだ。

 電車は透一人を殘して直ぐ海岸の方の線路へかけ去つた。今下りた人達が凍てた樣な下駄の音をコツコツと川添の道に立てゝ遠ざかつて行くのが可成隔てゝ迄も尚ほ聞えて來た。身を切る樣な風は透一人に益々吹き荒んだ。暗い灯の中に腕組して突立つた彼れは何だか背中から首すぢへかけて折々水をあびせられる樣な寒さを覺えたが電車に乘りさへすればと格別氣にもしなかつた。狹い海を渡つて此寒い夜にわざわざ自分の勤め口を求める爲めに、一日の疲れをも厭はず出掛て呉れた妹聟が氣の毒な氣もした。やつれた樣な髮をしてせつせと縫ひつゝ自分の事や樣々の事を案じつゝ溜息でもついてゐる樣な妹の顏もちらついた。ここへ來てからもう三月に成るのにいまだに口も定らず、妹夫婦が何ものも捨ておいて朝に晩に重荷の樣にして焦せつて呉れるのも氣の毒に堪へない。どんなつまらない處でもよいから一時的なものなりと年内に勤め先を見附けたいものだと彼は繰り返しこんな事を思つては溜息をついた。

 ボーオと云ふ長い電車の笛がぢき野の隅の丘の彼方で鳴つた。そして段々近づいて來た。電車はパツと幅廣な靑い光線を濱邊の松原に投げていよいよ曲り角へ其明るい總體をあらはした。さうして長い長い間――唯の十五分ながら――寒風に吹きさらされてゐた透を明るい扉の中に吸ひ入れて、又町へと馳せ出した。電車はいつぱい混んで居たので彼は戸口に立つてゐた。寒氣は中々やまなかつたがしめ切つてある爲め堪へ難い惡感はなかつた。町の灯を縫つて走つた電車はやがて透の下りるべきB驛へ停つた。透は電車から下りて幅の狹い賑かい街をドンドン步いた。年の暮が近づいたので、店々は球灯やビラを下げて何となく活氣づいて居た。厚い毛皮の襟卷やマントを着た人や、流行の肩掛にくるまつた女達が買物のつゝみをぶらさげて景氣よささうに笑ひながら步いて來る。サツササツサと行き違つて行く人々は皆何等かの職業と、家と、日當とを持つて居る樣に眺められた。鼻緒のゆるんだ桐柾の下駄を引ずりながら外套一枚も羽織らないで寒い思ひに堪へつゝ就職口を賴みに行きつゝある自身を透は如何にもみすぼらしい樣にヒシヒシ感じてゐるのであつた。今年の樣な寒い冬を迎へた事はない。東京から早く外套の金を送つて呉れればよいのに……彼はこんな事を考へつゝ洋食屋の軒の下をくゞりぬけた。厨と覺しい窓からは物を煎りつけるバタの甘さうな香氣が、あふれる樣に透の鼻先へ突當つた。其二階には瓦斯が明るくついて花などさゝれたテーブルが窓から見上げられる。透は馬鹿らしい樣な心地に駈られつゝ急に薄暗い橫丁へ這入つた。チリンチリンとゴム輪の車が鈴を鳴らして走つてきた。車の上には派手な友染を着たお酌の人形の樣にぬりたてたあでやかな顏や、上半身が蠟燭の灯で浮き出す樣に透の眼に映つて直ぐ又消えた。[やぶちゃん注:「賑かい街」はママ。]

 

       二十一

 

 一丁許り行くと角に小ぢんまりした二階建のそばやがあつた。透は一寸立停まつて考へて居たが、ツツと暖簾をくぐつて這入ると「いらつしやい」と丸髭の若い女が迎へたが透の顏を見ると、

「おや岡本さん。さあさあお上りなさいまし」と愛想よく言つて、

「あなた。岡本さんですよ」と奧の方に聲をかけた。どてら姿のそこの養子が出て來て透は快よく二階に通された。[やぶちゃん注:杉田久女(旧姓と本名は赤堀久(ひさ))の母方の旧姓は「岡村」である。]

やあ、先日は失禮しました。丁度僕は湯に入つてゝね、歸つて來て、君が來られたつていふからなぜお通ししなかつたつて言つてやつたんです」主人は如才なくこんな事を親しげな口調で語つた。

「いやどうあんな町中でバツタリ君に逢はうなんて思ひもよらなかつたよ。僕は三月も前からK市(ここ)へ來てたんだが」と透が言ふと、

「ふしぎなもんですね。臺灣でお別れしてからもう十二三年ですな、でもあなたは相變らず若い。どうですな此節も矢張り俳句はおやりですか」と主人は聞く。

 この蕎麥屋の若い養子と透とは臺灣にゐたころ同じ鐵道部へ勤めて、文學趣味が合ふ處から非常に親しくしてゐた。別れてからは長い間音信もしなかつたが、つい先達透は町中で「やあ岡本さんぢやありませんか」と呼びとめられて、意外の邂逅に驚いたのであつた。遠い親類先にあたる此家に養子に來た彼は晝は或官邊へ雇員として通つてゐる。一度是非遊びに來給へと言つて其日は別れた。

「時に、お勤口が定りましたか」と養子は親切げに尋ねた。

「どうも一向ないんで困つちまいましたよ。例の方もだめになつたし、妹達も氣の毒な程あちこち探して呉れるんだけど、中々無くつてね。僕はもうかうしてぶらぶら遊んで居るのが苦痛だよ。炭鑛の石炭掘でも工夫でも、もう何でもいいから腕つかぎりやつて見たくなつた。實際親切にされゝばされる程、妹の家にいつ迄厄介になるのも居づらいしね」透はつくづくかう言つた。落附いた聲で。

「だけど君炭鑛なんかへうつかりふみこんだらそれこそもうだめですよ。僕も實はよそながら一二ケ處聞き合して見るつもりだ。焦らず探せば是丈澤山な會社だもの空のないと云ふ事はない」と透を慰めるのであつた。言ひ附けてあつたと見えて下から、前の丸髷に赤い手柄の、丸々した若主婦が德利だの、蕎麥だの一寸した煮付の樣なものをのせた塗膳を運んで來た。

やあもうどうぞ奧さん、そんな心配はおいて下さい」透はかう言つて、主婦さんと挨拶など取り交した。氣の毒さうに辭退する透の、飮(い)ける口なのを知つた亭主は盃をとり上げて度々注ぐのであつた。まだ何となく寒氣がしてたまらない透は種物の蕎麥に藥味をほり込んで熱いのを食べ、酒も二合の餘流し込んだせゐか、いゝ按排に寒氣がやんで何だかボーツと頬の邊がほてるのを覺えた。[やぶちゃん注:「種物の蕎麥」「たねもののそば」とは蕎麦の上に天麩羅・鴨肉・玉子とじなどの種(たね)、即ち、具を既に載せてある蕎麦を指す。]

いつかう上りませんね。何もないが、ゆつくり上つて下さい」

 友達は心から隔意なく透をあしらつて、透が東京時代の俳句のホラなど話すのに合槌打つのであつた。

 

      二十二

 

 透が郊外の家へ歸つてきたのはまだ十時前だつた。良三はまだ歸つてなかつた。蠟燭を持つて玄關へ迎へた房子は兄の元氣の無い顏色を見ると「どうかなさつたの」と氣遣はしげに聞いたが兄は「ウン」と大儀げに言つたまま帽子を柱にかけて電灯の間へ上つて行つた。「何だか馬鹿に寒氣がしていかん」と言ひながら透は右の袂からアンチピリンの包を出した。[やぶちゃん注:「アンチピリン」(antipyrine)はピリン剤の一つで解熱・鎮痛・鎮静剤。ピリン疹や血液障害の副作用があるため、現行の市販薬ではアスピリン(aspirin)に主流が移っている。]

「風邪だらうと思ふんだが、房さん一寸水を呉れ」と言ふ。房子が煮ざましを持つて來ると透は一服呑んで、

「良三さんはまだか。遲いなあ、友達のとこで酒と蕎麥をよばれたら其當座は大分暖まつてたが」

「薄着だからおかぜをめしたのでせう。早くお休みなさいな。私家の中で縫つてても隨分寒かつたんですもの」と房子は炬燵にかけてあつた透の寢卷を出した。寢床には炬燵の嫌ひな透の爲め湯婆(ゆたんぽ)が入れてあつた。透が床の中へもぐり込むと房子は枕許へ來て肩をつめたり裾の方へ座布團をのせたり、押入の鞄をあけて透の體溫器を出して、透に渡したりした。

 透の風邪は翌日も矢張り熱があつた。透は房子の煮て呉れたお粥を少し食べた許りで寢通してゐた。

「兄さん醫者に診て貰ふ方がいゝぢやありませんか」と勸めてもまあもう一日經過を見ようと、矢張買藥を呑んで居た。熱が下らないので町から醫者に來て貰つたが今のところでは風邪らしいとの事だつた。十二月ももう二十日過ぎたので或日は慌しい樣な短日の日ざしがパツと透の寢てゐる障子を染める事もあつたが灰色の密雲が松原の邊りへ凝固した樣に垂れ下つて夕方からチラリチラリと粉雪が降り出す日もあつた。房子は凍てた樣な朝も早くから起きて透の粥を煮たり藥取りに町まで行つたりその歸りには重い氷をさげて歸つた。

 良三は二十五日迄は每日學校の方へ出なければならなかつたので房子は子供らの春着や、自分達の直しものやら山程、師走の用事を抱へつゝ看護に掛つてゐた。

 十二月の初めから夫婦は透の就職口を何でもかんでも年内に見付けなければと、重荷の肩にある樣な責任觀念から、益々不健康な赤ん坊の體を顧る暇もなくその方に奔走してゐた。透の病氣は運惡く數日の後チブスらしいと言ふ醫者の宣告を受けた。神經の鋭敏な透はさう言われる二三日前からしきりに「熱の按排がどうも唯の風邪ではない樣だが」と氣にして、何度となく體溫器を枕元からとり上げては腋へはさむのであつた。房子もないないそれを心配してゐたが愈々と成ると是非入院しなくてはならないが困つたと思つた。[やぶちゃん注:「チブス」(ドイツ語:Typhus)ここは水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症で高熱が持続して全身が衰弱する腸チフスのこと。詳細は、ごく最近の私が芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強しの「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」に附した注を参照されたい。]

「困つたなあ」醫者が歸つて行くと透はあふむきに天井をみつめたまま「僕だつてふだんならおいそれと入院するんだがどうも今の身では此上送金してもらふのもつらいし………」と聲をとぎらせるのであつた。熱にほてつた顏に淋しい屈託の色を浮べて當然の事を氣兼ねしてたゆたつてゐる兄の樣子を見て良三も房子も胸の痛い樣な氣がした。「でもね外の事とは違ひますもの、嚴しいたつてお父樣はきつと快よく出して下さるにきまつてますわ。心配なさらないで入院ときめませうよ。ねえ兄さん………」房子は慰める樣言つたが聲は打沈んでゐた。三人は思ひ思ひに沈默した。折角かうして賴まれながらまだ勤め口もない中に病人にしてしまつて申譯ない。多大な費用を更にまた送つて貰ふと言ふ事はいかにも言ひ難い氣の毒な事だと良三は思ひ詰めた。この郊外の村一帶はチブスの非常に多いところだ。ことに房子の井戸はどこからか汚水が流れ入つてよく濁る事もあつた。だが責任は食物の調理をする私にある。東京にも兄にも濟まない。と房子は房子で思ふのであつた。[やぶちゃん注:「たゆたつてゐる」躊躇(ためら)っている。この用法は今はあまり使わないので注しておく。]

 

       二十三

 

 遂々入院と定つた。だが氣丈な透は人力車で行くと言ひ張つた。[やぶちゃん注:「遂々」「たうとう(とうとう)」(到頭)と読む。当て字。]

 ふらふらする體を獨りで起き上つて房子の着せかけて呉れるシャツや綿入に手を通した。氷囊だの體溫計、手帳、そんなものを包んだハンカチを持つて、玄關へ下りた透は、良三と房子を見つめて「お二人とも大變お世話をかけました」と何だか暇乞の樣な言葉を殘して毛布にくるまつて俥に乘つた。外套を透に着せた良三は何も着ずに後の車に乘つた。

「兄さん氣を落さず御大事になさい」と房子はうるんだ聲でかう言つた。「さやうなら」と透も淋しげに見返つた。

 家の中へ這入つた房子は敷き放しの布團や、熱臭い襯衣(シャツ)などを兎に角一とまとめにしたり、埃をかぶつた藥瓶や、粉藥の袋を始末しつゝ今出しなに兄の殘して行つた言葉を思ひ出してホロリとした。催ほしてゐた雲は夕方から大きな牡丹雪をしきりに降らした。見る見る中に門前の苫船も河原の枯蘆も田も屋根も白く成つて行つた。兎に角大した異常もなく手順よく市立病院の隔離の一室へ落付いたと言つて良三が歸つて來たのはもう夕方近かつた。「行つて診察を待つ中何だか大變苦しくなつて見えてね。直ぐ部長が診てくれた。持つて行つた氷囊が役に立つて直ぐ落附いた。擔架で隔離の方へ行かれた」「兄さんは以前心臟が惡かつた事があるから熱がつゞくと心臟の方が心配だと部長が言つた」良三はせかせかと夕食を詰めつゝ話して又病院へ手續の爲め行かねばならなかつた。近處から十四五の男の子を賴んで來て透の敷いてた布團、新らしい寢卷、新聞紙其他ちよいちよいした入用の品を一まとめにして荷車にのせて病院へ行かせた。牡丹雪がどんどん降りつゝ日はもう暮れかけゐた。提灯や、蠟燭の用意をさせ、良三自身は電車で先へ行つて布團を受取るべく出掛けた。家の中は灯がついたが何だかそここゝに暗い隈がある樣で房子も子供らも非常な淋しさに襲はれた。子供らが皆寢てしまふと房子は、東京の兩親へこまごまと手紙を書いた(電報は既に良三から打つた)全く私の不注意から起ツた事で誠に申譯ない。と彼女は繰返し繰返し謝まつた。附添をつける事にしても、初めての病院の夜は淋しからうと思ひ遣つて房子は淚を流した。その日はもう元日が明後日といふさし迫つた夜であつた。正月の用意も餠搗も彼女の家ではする間がなかつた。

 翌日も朝から良三は病院に行つたり、東京へ自分も通知を出したり、入用の品物を買つて病院へ持つて行つたり、其暇々には、電車で郊外の家へ歸つて來て、正月の入用の物について、せめて〆飾(しめかざり)や餠位はと言ふので買ひ整へても來た。

 良三は昇汞水の手を嗅ぎながら「もう正月の仕度なんか此場合やめて、掃除もやめなさい。食器――兄さんの――類やすべて使はれたものは熱湯で消毒するんだね」[やぶちゃん注:「昇汞水」「しようこうすい(しょうこうすい)」は昇汞(塩化第一水銀)に食塩を加えて水に溶かしたもので毒性が強いが、かつてはよく消毒液として使用された。]

「なに僕は傳染なんかしない」

 かう言つて途中で買つて來た正宗を盃に二盃程飮んだ。今日たつた一日と言ふ今年最終の日をいか程あせつてもどうする事も出來ない。房子は、赤ン坊を背負つたまゝせめては臺處のガラクタでもしまつしようと思ひ立つて厨だけは心地よくすました。每年の年越の日は重詰も見事につくり活花もいけて打揃つて目出度く年を越すのであつたが今年は思はぬ透の病氣の爲め折角買つた木附(ぼくつき)の冬至梅も水仙も臺處の隅の瓶に浸けた儘だつた。

 夕方病院の拂ひを濟して歸つて來た良三は「お鏡餠だけは緣起直しに大きいのを買つて來た」と重いのに五升の重ね餠をさげて來た。

 兄さんはと聞くと「變つた事もないが何だか神經が興奮して種々氣にされるのが病氣に惡いね」と答へた。そして「兄さんにも淋しい正月だが小いお重ねを持つてつて上げる」と小餠の重ねを半紙に包んだ。水仙の花を持つて良三は出かけた。

 

       二十四

 

 敬神家の良三は小さいお神酒入れなども買つて來た。煮豆にお煮〆丈がやつと忙がしい中で煮られた。年越の夜ではあるが夫は病院が淋しからうと歸つて來ない。父を待ちくたびれた子達に夕飯をたべさして寢せて後房子は明け放つて掃除をした。雪はしんしんと暗い夜空に降つて積んで行つた。房子は寒さをも忘れて蠟燭の灯で緣をふいたり、玄關の叩きを洗ひ流したりした。それでもどうやらかうやら家中を氣持よく掃除し終つて床の間にはお供餠も飾られ梅も投込ながら插された。水引を掛けた根の附いた小松をコツコツと入口の柱に打附けた。晝の間に汲み込んで置いた風呂も焚きつけた。か樣にあれこれと働いた房子は、もう十時近い座敷の床に蠟燭をつけて、非常に敬虔な心持で八百よろづの神々へ祈をさゝげた。彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた。唯彼女の胸の中にある「神」に向つて、兄の病氣を祈り一家の無事を祈り、遠く父母の健康を祈つた。寒さは骨身にさす樣食事もせず十一時近く迄働き詰めてゐた房子の體中を包んだ。けれども彼女は燃える樣な熱誠を包んで、唯だ祈りをさゝげた。石膏のビーナスの胸像にも細い蠟燭が灯されてあつた。[やぶちゃん注:「彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた」久女や夫宇内(うない)がキリスト教に強く惹かれるようになるのは後の大正一〇(一九二一)年のことである(翌大正十一年二月に小倉メソジスト教会にて受洗した。同年十二月には夫宇内も受洗している)。「石膏のビーナスの胸像」画家で美術教師である夫のデッサン用のそれである。]

 彼女は夫の藝術的成功をビーナスの女神に祈りを捧げたのちしづかに、蠟燭を吹きけした。

 戸外の雪は餘程積つたと見えて庭前の樅の枝から折々ドサリと重い雪の塊がなだれ落つる音もした。

 外套の羽根も帽子もまつしろにして夫の歸つて來たのは夫れから間も無かつた。門口でコンコン下駄の齒をはたいた良三は「まだ起きてたのか。うん僕は病院で食べて來たよ」と言ひながら上つて「別に變つた事はないがどうも熱が非常に高い。檢鏡の結果愈々チブスと決定したが、正月でもあり發表は二三日のばしてもらふ事にした。何しろ心臟の事を醫者は非常に心配してゐる。だめだとは言はないが………」と沈んだ表情をして「あまりひどく東京へ知らせれば心配をよけいかけるし、かといつて萬一の事のあつた場合には申譯なし、輕率に來て貰ふのも遠方だから困るし……」

「意識はたしかなのですか」

「意識が確か過ぎて、行けば平常通り話されるし困るんだ。あの通り神經が鋭く成つてゐるから病人に餘り重く思はせ度くはなし」と良三は言つた。大變いゝ附添の婆さんだ、など話してた。良三は、「子供達に正月の羽根など買つてやらうと思つたんだが、可愛さうだから今から町へ行つて來る」と房子の留めるのも開かず、又外套をはおつて出て行つた。入れ違ひに東京から電報が來た。

 カネ五十オクルヨオダイシラセ大晦日と云ふのに兄重態入院の電報を突然受取つた兩親の驚きは如何許りであらう。病症が病症故にと房子は胸の痛くなるのを覺えるのであつた。房子一家はK市へ來てから唯の一度も入院する樣な大病を一家の中から出した事はなかつた。房子は衞生なんかといふ方は非常にさわいで氣を付ける方でもあつた。それに傳染病者を出して、この年の暮れのごたごたの中に弱い赤ん坊やヤンチヤな上の娘を抱へてこの心配の渦に飛入る事は何と思つてもまあとんだ大災難だとつくづく思つた。兄に萬一の事でもあつた時は猶更大變である。年老つた兩親が出て來る……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣死を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪して來て友も、妻も、家庭も皆すてゝ淋しい佗しい生活に堪へて來た兄が種々な佗しさを胸に疊んで死んで行くのかと思ふと彼女はたまらなく兄が可愛想で留度もなく淚が流れた。[やぶちゃん注:「留度」「留め處(ど)」。]

 

      二十五

 

 夫は十二時過ぎても歸つて來なかつた。電車は通はなくなつた。

 房子は晴い風呂場で火を焚きつゝ留度もなく泣いたり、父への手紙を書いたりした。兄はすつかり近來性格もぢみに變つて來た。今度こそ腕限り奮鬪すると言つてゐた。入院する時も父母へすまないと言つてためらつた位で、大熱で臥しつゝも父母の大恩を感謝しすまぬすまぬと言つてる兄をどうぞ可愛想だと思つて許して上げて下さい。萬一の場合あの佗しい心地の儘死なしては可愛想だ。一寸感動しても直ぐ熱の上る兄へ何卒ひどく叱つて下さるな、と彼女は淚にぬれつゝ美しい感情と淚とに充ちた長い手紙を書きつゞけた。

 戸をしめかゝつた、今年最終の夜の店々で子供達の喜ぶ玩具や、羽根や、美しいお菓子を買ひあつめた良三は電車が無いので半道の餘の暗い道をテクテク雪にまみれて歸つて來た。妻の房子はまだ起きて漸やう書き終つた手紙の上書をしてゐるところだつた。「遲いものだからもうどこの店もしめてるんだもの。でもよその子がお正月なのにうちの澄子だけしよんぼりしてゐるのも可愛想だからね」かう言つて風呂敷づゝみから種々取出した良三は袂からみ籖を出して「あまり今年は惡い年だしするから歸りにお祇園樣へおまゐりして祈願して來た。もう十二時過ぎて年は新たまつてゐるし本年の初參詣は僕だ」と珍らしく笑んで大吉と云ふみ籖を房子に渡した。

「だが考へ樣によつては僕等一家の危難を透さんが一人で背負つて下さつたのかも知れない。非常な打擊と心配と不幸を兄さんの爲め受けた樣思ふより我々は不幸中にも一家四人無事で怪我一つなく今年を終つた事を感謝しなくてはならない……」腕ぐみしてかう言つた良三の顏は大變嚴肅な引締つた目色であつた。二人の間に暫くおごそかな沈默がつゞいた。

「子供達を湯に入れてやらう」

 裸になつて、沸きすぎた湯を五六杯バケツでうめた良三は、眠い子供を抱いて房子が來ると一人づつ入れてやつた。湯殿の棚には蠟燭がゆらゆら燃えてゐた……

 正月の二日三日が一番危險とせられてゐた透の病氣も天佑か良三夫婦の熱誠が屆いたのか、正月の五日から、十數日目で初めて熱が下り初めた。一時は四十度三分などゝいふ高熱が續いた。危篤の電報さへ打てば兩親共直ぐ出立すると言ふ豫定だつた。良三の心痛ははたの見る目もいたはしい位で彼は責任と云ふ重い觀念を頭に漲らして出來る丈けの世話をした。透は少し熱が下がつて來ると高熱中の事はちつとも覺えが無かつた。熱は日每に順調に一分へり二分へり遲々として下つて行つた。倂し針の樣に尖つた神經が何事かに觸れる度又俄かに熱は、上つて行つたりした。流動物のみ攝取して、讀書は禁じられるし每日きつと午後から夕食の頃迄來て呉れる良三を待つのが何よりの樂しみだつた。

 房子は時々一人で病院に來ては蜜柑をもつて來て呉れたり枕元の椅子にかけて二時間位ゐ話して行つた。命がけで病んだ彼は、ひとりでに罪のすべてを許された。

「兄さんお父さんからお手紙でね、何も心配せず早く病氣を癒せつて言つて來ましたよ」と房子が來て言ふと彼れは鼻のみツンと高く瘠せ衰へた顏に皺を寄せるやう微笑したが目には淚がにじむ樣に光つた。姊や母からも、病人の心を興奮させぬ樣直接の音信は無かつたが度々手紙で案じて來たし、經費はをさめる期日におくれぬやうキチンキチンと送つて來た。例の蕎麥屋の養子も見舞に來た。房子からの細かい手紙で透の句兄弟某氏からも直ぐ見舞狀が來た。[やぶちゃん注:「句兄弟某氏」これが誰であるかは不詳であるが、モデルである、俳名を赤堀月蟾(げっせん)と称した久女の実兄は渡辺水巴門ではあった。]

 

       二十六

 

 妻のお芳も、良三の電報がつくと直ぐ兩親の許へ呼びよせられて病狀を語られたので看護に來たかつたがそれは許されず、非常に心痛しかつ良三夫婦に世話になつた禮をのべて來た。すべての狀態は圓滑になつて今は唯一日も早く透の快復を待つのみだつた。一體が至極強健な彼は快復期に入つては非常の早さであつた。妹から暮れに屆けてくれた水仙の花の淸淨さを透は朝に夕に眺め郊外の河畔の家がしきりに戀しくなると端書に病床中の有樣や、隣室の病人が昨夜死んで非常に貰ひ泣きしたとか窓の外に梅が咲いたとか云ふ樣な事を寢床の上で鉛筆の走り書きして附添婆さんに投函して貰つた。いかな雨の日も、寒い日も、雪の日も良三は入院中一日もかゝさず市外の家から電車で通つた。電車を下りてからまだ病院迄は十五六丁あつて道の泥濘でない日はめつたに無かつた。附添の婆さんへ心附けなども良三の手からとして出された。親切な附添の婆さんは實に行屆いた世話をまごゝろからして透はつひぞ一度も怒り度い事さへなかつた。

「全くよく命が助かつたものですね。僕は病前の禁酒や鰻などでウンと滋養物を取つたから身體が堪へられたと思ふ」と良三の來る度に透は語るのであつた。

 よい按排に某鐵工場の事務の主任にあきが出來たので世話し樣と言ふ人があつて、それこそ退院を大變せいて、一月の末には許された。郊外の電車を下りて房子の家迄一丁半許りを步いて、良三と歸つて來た透は疲れを覺えた。房子も子供も皆いそいそして彼れを出迎へた。六疊の間にはチヤンと布團が敷いてあつた。

「ほんとにお目出度うございました」と房子は言つたが目には淚がにじんでゐた。「伯父さんやせたのね」と澄ちやんもいたいたしさうに伯父を見てゐた。

「どうも今度はあなた方お二人に何とお禮を言つていゝか、僕は感謝してる」と透は言つた。

 明るい燈の下に、久し振りで、甦つた樣な透を取りかこんで一家は賑かな笑ひに充ちた。當分の中は服藥もし、天氣のよい暖い日は洋杖をついて、外套や首卷をし、母から送つてきた綿のドツサリ這入つた胴着や、羽織を着ぶくれて、そろりそろりと病院通ひする事もあり、町の潮湯へ行く事もあつた。

 こんな風で透は次第に快復しつゝあつたが房子の赤ん坊は、十二月の末から腸をこはしたり、輕い風邪を引いたりして、全くひよわな身體を冬枯の樣にいぢけさせて、肥るどころか次第次第に瘦せて來た。さすがに兩親とも氣附いたが、透の病院の騷ぎの爲め遂に哀れな赤ん坊は閑却されてゐた。絶えず腸をいためて粘液の樣なわるいわるい下痢をした。神經が鋭くなつて泣いては夜も目をさました。

「此子は死ぬのではないかしら」房子は每日かういふ怖れを抱いて居たが透も病院通ひも一人で出來、食物も、幾分手もかゝらなく成つて來たので、或日彼女は、町のお醫者樣へ連れて行つた。それはK市では指折りの小兒科醫で物質萬能のK市には珍らしい樣な高い人格者だつた。ストーブの焚かれてある診察室で、着物をぬがせた赤ん坊の、ほねぼねしい肋骨の邊や、蒼白な瘦せた皮膚の色。手も足も人形よりもつとしなしなと小い身入の惡いのを醫師は丁寧に診をはつて昨年來の容體を聞いてから「兎に角非常に御衰弱ですね。さうです。榮養不足です」お世辭もない醫師は信じた通り言つて滋養糖のこしらへかた、乳のうすめ方など、親切にこまごま教へて下さつた。眞綿でくるむ樣にして着物を着せ終つて、此病院の門を出た彼女は泣き度い樣な心地で無意識に電車通りを步いた。「此子はもう手遲れだ、死ぬかもしれない……」かう思ふと堪らなく可愛想で房子は、道行く人々がけげんさうに彼女の樣子を見て過ぎるのも知らず吐息をついた。藥屋でミルクや乳鉢や飴や、吸い口、ゴムの管の樣なものを買ひ揃へて房子は飛ぶ樣に家へ歸つた。

 

       二十七

 

「此子は助かるでせうか」房子はじつと灰色の雲を見詰めて言つた。「大丈夫。春が來て暖かくなれば屹度むくむく肥り出すよ」良三は信ずるやうかう言つた。「さうとも。命と言ふものは神の手で審判(さば)かれるものだ………」と透はひくい、倂し力の籠つた聲で同意するのであつた。

「快復の見込は充分ある」と信じ切つてゐる醫師からかう言はれたので房子は驚くべき熱心を以て、赤ん坊の不健康を癒す爲めに努力した。彼女は每日家の用事が一渡り片附くと家を締め、長女を連れて、おんぶ羽織をきて、電車で病院通ひをした。病院には病兒を連れた親達が、もうあふれるやう待つて居た。やつと自分の番が來て診察がすむと今度は藥取に暇がかゝつた。女中達に早く札を取らして置いておしやれしてゆつくり來て房子達より却つて先に、サツサと歸つてゆくやうな結構な身分の人達と違つて手の足りない中から何ものも投げ捨てゝ遠くから出て來る房子達には病院がよひが殆ど一日仕事であつた。そそくさと歸つて來て透の食事や、夕食の買物などにも、又步るかなければならなかつたが此場合そんな事は言つてられなかつた。飴やメリケン粉やをミルクに交ぜ合して丁度よいかげんに調合した光子の飮物を硝子器に入れてやると赤ん坊は口をコツクンコツクンと言はせて見てるまにクツクと吸ひへらして行くのであつた。赤ん坊の腸は藥と飮物の爲め次第に調へられては來たが、たまに一日でも藥を休むと翌日は必らず惡い徴候があつた。隔日每に出かけて二日分の藥をもらつては郊外へ歸つて來る房子はもう彼れ是れ一月近くなるのに格別好い方にも成らず、肥りもせないのがもどかしくてたまらなかつた。倂し此衰弱し切つた赤兒の腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で、一向效驗の見えない病人を約二月近く判を押したやう連れて行くと云ふ事は非常に根の入る仕事であつた。でも親切な醫師の盡力と房子の熱誠と、もう一つは自然の偉大な愛の力とに惠まれた爲め赤ん坊は一日は一日より、誠に遲々たる步みであつたが快癒の方へ向つて行つた。朝鮮人參なども殆ど每日のやうに小さい土鍋で、長火鉢の上に煎じ出されて、日に數回づゝ赤ン坊に飮まされた。[やぶちゃん注:底本では「腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で」の「ではなくては」の最初の「は」の右手に編者のママ注記があるが、私はそれほど奇異に感じない。]

 早く春が呉ればよい。暖くなつたら赤ン坊も肥り出すだらうと房子は春の復活のみ待つた。恐ろしく寒い日が又歸つて來て田の向うに見える貫(ぬき)足立(あだち)の連峰がまつしろになつたり、四五日は雪解の風が、郊外に吹きまくり電車へ辿る土堤はひどい泥濘になる事もあつたが、長い間寒冷に壓しつけられて地にくつつくやう矮さくなつてゐた庭先の菜は、目立つて綠色の葉を成長させた。そしてその間引きもせず、重なり合つた菜の葉の中にはどれも皆莟をもう潛めてゐるのであつた。春めいた何となく暖かい日が庭土に枯木の影を濃く落すやうな日が三四日も續くと此菜の赤ン坊とも云ふべき樣な菜は、一齊にめざめたやう、二三寸程の矮さい弱々しい薹をぬき出した。そして其細い莟の先には靑い莟をささげて、いかにも餘寒らしい淡い、小さい花辨を開く事もあつた。庭の隅にはいぢけたやうな蕗の薹がかたい顏を地上に現はしたりしてゐた。[やぶちゃん注:「貫(ぬき)足立(あだち)の連峰」現在の福岡県北九州市小倉南区の北端にある標高七一二メートルの貫山(ぬきさん)から同北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山(別名「霧が岳(きりがたけ)」)へ続く峰々のこと。「矮さく」「ちひさく(ちいさく)」(小さく)。]

 子供を背に負ぶつて川堤をブラブラしてゐると、頭を手拭でまいた漁師町の女達が手に手に食べる爲めの蘩蔞(はこべ)や芹などを携へて田圃の方から歸つてくる群れを見出した。磯の方から來る子供達の籠には砂まぶれの蜊(あさり)や、おごと言ふ藻や、靑海苔なんどが、いつぱいはみだすやう入れられてあつた。[やぶちゃん注:「おご」紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides の方言名。福岡など名産である「おきゅうと」の原料。同じ紅藻綱で刺身のツマや寒天の材料にする(但し、石灰処理をしないものは有毒(毒素は複数説有り)なので注意)オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla とは全くの別種である。]

 まだ冷たい川水に股まで入れて網打つ人、土堤の上から見てゐる人々にも何となく春めいた日ざしが漂ふやうにも見られたが、枯薄の根や塀かげにいぢけて萌え初めた草にも、河深く泊まつてゐる漁旗のはためきにも、餘寒が漂つてゐるのであつた。

 透が、ボツボツ拔け初めた頭髮を氣にして、わざと短かく刈り込まず、今迄と變つて油などつけて橫撫でになでつけては、某鐵工場へ每日出勤する樣になる頃には、赤ン坊も次第に藥に遠ざかつて、小さい腮の邊も肉がつきそめ、愛らしい笑顏も洩れるやうになつて來た。早く暖かなほんとの春が來ればよい。「春になつたら東京のおばあ樣のとこへ連れてつて上げませう」房子は、甦(い)き得た愛子(あいし)を抱いては頰ずりした。

 河畔の家に住む彼等一家族は、長い間の苦勞から追放され、二つの甦つた肉體を守りつゝ、ほんとにまじめに、地上に春が復活する喜びの日を待ちつゝ暮すのであつた。

 

 

[やぶちゃん注:最終文の「追放」には編者によって右にママ注記が附されている。

 第「二十四」章の末尾を二十八歳(執筆投稿された大正八(一九一九)年年初)の久女は、こう書いている(読み易く読みを加え、読点を打ち、〔 〕で語を補助した)。

   *

……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣(やう)〔に、まさに〕死〔といふもの〕を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪(へうらう)して來て友も、妻も、家庭も皆、すてゝ、淋しい、佗しい生活に堪へて來た兄が、種々(いろいろ)な佗しさを胸に疊んで〔其の儘に〕死んで行くのか、と思ふと、彼女は、たまらなく、兄が可愛想で、留度(とめど)もなく淚が流れた。

   *

……この二十七年後……久女は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、入院先であった福岡市郊外の大宰府にあった県立筑紫保養院に於いて、腎臓病(精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊坂本宮尾著「杉田久女」一九八頁より孫引き))のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった…………

2016/07/21

河畔に棲みて(十)~(十八)   杉田久女

       十

 

 透の就職について某實業家が愈々會見したいと云ふ知らせの來たのは十一月の中程であつた。其日は砂ぼこりの強い日であつた。透は妹に手傳つて貰つて、しつけを去つた新らしい羽織や袴を着た。

 肩幅の異常な迄ひろい中ぜいながらがつしりした體格の透は、髮も五分頭で、鬚も生えないたちなので打見たところ四十に二三年しか間のない男とは見えなかつた。

 すつかり仕度の出來た透は例の鞄の中から自分の名を書いた名刺だのハンカチーフの樣なものを取り出して袂に入れた。それから

「これは僕の運命の石だ」

と紫色の小袋に入れたものを内懷に祕めた。

アラまだあれを持つていらしたの」と房子も笑つた。

 それは透が前の會社へつとめる爲今日の樣にして重役へ會見に行く時、母が「これは運命の石ですよ、愈の時は袂の中で此石を握りしめて、しつかり談判なさい」と透に授けたもので、其實は何でもない唯の石だつたが其石が占をなして談(はなし)が整つたのであつた。透はその後十何年の今日も猶其石に因つて再び自己の運命を展かんとしつゝあるのであつた。落のない樣こまかい世話までやいて、緊張した透を送り出した房子は兄の歸宅のみが待たれた。明るい緣先で、房子は張板に赤や靑の布をつぎつぎに張りのばしたり、子供に乳を呑ましたり、割合にひま取る透を、何度も緣側から見やつたが透は晝近い頃やつと歸つて來た。[やぶちゃん注:最後の一文中の「何度も」は底本では「同度も」である。色々な読みを想定して見たが、このままでは読めないと判断、結果して、これは見た目から「何」と「同」の誤植と断じた。大方の御批判を俟つが、恣意的に「訂正」して示した。]

まあ御ゆるりでしたね」

 かう言つて飛出して行つた房子は、兄の顏を見た瞬間ホツと安心した。砂ぼこりでしろくなつた繻子の足袋をハンカチーフで拂つてから玄關を上りつゝ、

「歸りは電車に乘らずブラブラ來たから……だが隨分あるね。O坂の峠茶屋で田舍餠をパクついたが腹がへつてたせゐかうまかつた」透は機嫌よくこんな事まで言つて、房子の長女を笑はした。袴や羽織をぬぎすてゝ井戸端へ顏洗ひに行く兄の後から房子も追かけて色々と會見の樣子を聽くのであつた。

「行つたら客があつてね二十分程應接室にまたされたが……」

 某氏は氣易げに面會して今迄の職業だの、どういふ目的で當地へ來たのかと色々と聞いた。透は、當地方の有望な事をきゝ是非腕一本で働きたい。最初から多大な地位はのぞまないから腕ののばせる場所で働き度い希望をのべた。某氏は、唯今といつても空もなし自分は直接雇員の事については關與せないが近日中一方の長たる者へ紹介するから何とかなる事と思ふとの話しで、會見の時間は約四十分位だつたさうな。絹物づくめでもなく一見書生つぽの樣な風體の透の落付いた、そして急所急所に要領を得たキビキビした言葉などは、某氏に初對面の好感をあたへた樣で、

「履歷書も方々からこんなに澤山來てゐますが鈴木氏(良三)からの特別な依賴ある事ですからつて見せたがね、成程澤山來てるわい。まああの口付では十中八九は大丈夫だね」

 柔術できたへ上げた腕節を力(りき)ませつ透は得意げに笑つた。自分の談判の成功を誇る樣に……

 夕方良三は、細長い體をヒヨイヒヨイ飛ぶ樣な步み振りで急いで歸つて來ると、

どうでした、今日の結果は」と直ぐ透にきゝかけた。

やあお歸りなさい。まあ先達の話と大した違ひもないんですが」

 透はにこにことまた繰り返して話し出す。

「伯父さんはね。歸る時田舍のおばさんの店でお餠を五つもめし上つたのよ」と傍に遊んでゐた澄子が言つた。

それはよかつた。安心しました。十中八九は大丈夫でせう」

 良三はかう言つて成功を確信してゐるらしくうなづいた。

 

       十一

 

 會見の次第は直樣東京へ房子から知らしてやつた。そして三人共成功をやゝあてにして次の會見を待ちつゝ暮らすのであつた。

 釣は相も變らず每夜根氣よく續けられた。透のは、この禁欲的な世間と斷たれた淋しさ退屈さを紛れる爲めの魚釣であつたが良三のはほんとに好きの爲めに釣るのであつた。秋が深く成つて其邊一帶の岡の上にも河畔にも、櫨(はぜ)が紅葉し、河原薄は薄樺色に陽にかゞやき、野菊の花は星の樣に無數の花を至るところに點じてゐた。河原に橫たはる澤山の船も、遠山も、田も、房子の家を取り卷くすべての自然界のものは皆驚ろくべき高調な「秋の色彩」をのべて、どこを切り離しても皆これ立派な水彩畫であり、油畫であつた。けれども畫かなくては成らない畫家の良三は、終日の疲勞に、歸宅してからはもう再び繪筆を取る程の根氣はなかつた。俗務に追はれ、俗人にしひたげられつゝ不快な沈んだ顏色をして、裏金のついた重い靴をひきつゝ河畔を歸つて來る事もあつた。十年間彼は眞に感興にそそられて筆を取つた事など一度もない。スケッチ板は塵にまみれ、たまたま調色板にひねり出される繪具は皆、畫かないではかたくなつてしまふのであつた。忙がしい職務の爲のみでなく苦勞なしに育つて來た、相續者の地位にある彼れは、格別あせつて繪をかく氣にもならなかつた。一つには彼の體質が華奢過ぎる程、華奢に出來てゐるからでもあつた。天氣の好い日曜日など朝から海釣りに行かうとして、餌を買ひ步いたり、丹念にテグス(釣糸)や釣針のしまつをしてゐる良三を見ると房子は何だかあんまりな樣な心地がした。[やぶちゃん注:底本では第二文の「紛れる」の右に編者による、ママ注記がある。「調色板」は「てうしよくばん(ちょうしょくばん)」でパレット(フランス語/英語:palette)のこと。]

「釣にばつかり行つてらしてちつとも御畫きなさらないのね」妻の房子にこうづけづけと言はれるのが良三は一番氣がねだつた。外に道樂もたのしみもない良三には、房子のつくつて呉れる西洋料理を食べる事と釣とが最大の慰籍なのであつた。

「いゝぢやないか。活動一つゆかないんだもの、さうヤイヤイ言はれたつて繪なんかかけるものぢやあないよ」鉛の重石を作つてた良三は、頰の生えさがりつづいてゐる頰ひげの邊をなでつゝ定つてかう答へるのであつた。[やぶちゃん注:「定つて」「きまつて(きまって)」。]

「すきなものは釣るがいゝよ」

「何も、大した費用がかゝるのでもないから。道樂としてはよい道樂ですよ」机に頰杖突て見て居つつ透はいつも良三の方のひいきした。男同士二人は至極仲よく、釣の話を取交した。房子は現實生活の貧しい爲めにも時々は色々な佗しさを見出し、おなじお茶の水出の友達が皆社會の上流に屬する生活をしてゐるのに、自分丈がかういふ光彩のない生活の中に、貧とたゝかつて暮すと云ふ事を淋しく思ふ日もあつたが唯感激に生きてゐるといふ樣な彼の女は、夫等の苦勞よりも、惰性で活きてゆく樣な沈滯した中に、唯平凡と安逸とを貪つて暮して行く、そして輝いた藝術品一枚も畫かないで、次第次第に教師型になつてゆきつゝあるといふ事の方が悲しかつた。

 彼女は、只一圖に藝術的な生活を求め度いと夫のみ願つた。光輝ある藝術家として夫が立つならば富も入らない。榮譽も欲しない。

 彼女は、海軍中佐夫人になつてゐる彼女の實姊に貧しさをそしられた時も、決して貧と云ふ事を恥かしいとは思はなかつた。幾多の勳章のかがやいた胸よりも、彼女の爲めには唯一枚の畫、唯一本の繪筆を手にしつゝある藝術家を貴しと見たからである。彼女の大きな目は、美しい空想の爲め、黑曜石の樣に輝いてゐた事もあつた。又房子自身の性質も、まるで空想と詩との權化の樣なものであつた。よく悲しみよく泣き、よく大自然の懷に入つて、樂しむ事が出來た。倂し夫の良三は、趣味の人でもあり、淸淨な人格者でも有つたが、家を繼ぐと云ふ事を温厚な彼れは第一の目あてとしてゐたしどちらかと言ふと常識の勝つた堅くるしい人物なので、白熱的な藝術欲はなかつた。

 

       十二

 

 九年間是といふ病人も家内になし、平々凡々で押し通して來た彼等夫婦は、外出といへば必ず一緒に出る、客が來れば房子も出てもてなす。彼等の仲間でも一番幸福な家庭とされてゐた。又實際係累はなし、大した波瀾もなかつたし郊外に住んで、すきな野菜や花をつくつて樂しむ事の出來る彼等、繪についても四季の自然についても充分理解をもつた妻の房子と語り得る事は良三の滿足でもあつたし、何一つとして二人の間には祕密もなくほんたうに力と成りあふ世の旅路の伴侶であつた。けれども長い生活の斷片を底の底迄とり出して見る時、そこにはさうさういつもいつも平和のみは漂つてゐなかつた。不平もあれば爭もあつた。殊に房子は感じ易い非常に鋭敏な神經をもつた女で、天氣が曇れば心も曇る、浪の音をきけば孤獨に泣くと云ふ樣な、體は良三よりも丈夫なよい體をもつてゝ肉體に何のわづらひもない身でありながら心は絶えず樣々の感情に動搖されてゐた。

 姑息な沈滯した教師生活も嫌ひだつた。夫の繪をすこしもかゝないと云ふのが先づ第一番の不平だつた。相續者の妻としてあの汽車から何里か奧へ這入つた、山村の暗い大きな家に入つて因習と舊慣の中に多感の身をうづめねばならない運命に步一步近づきつゝあると云ふ事も彼女の爲には堪へがたい不安であつた。神を想つて信じ得ず、現實化しようとあせつても物質のみでは安心も出來ず、かと言つて世に對する執着もつよし奔放な思想にもかられた彼女には到底かゝる微温的な空氣の中に、憂愁なしには暮してゆかれなかつた。柔順(おとな)しい夫と、愛すべき子とにかこまれつゝも彼女はしきりに孤獨と憂欝に浸る事もあり、事ある每に、現實生活の不安を覺えた。他人に對してはめつたに爭つたりしない良三も母の死後家庭の紛爭などの爲めめつきり此頃は怒りつぽくなつて、一時赫つとする事もよくあつた。

 何でもないことで夫婦は、其針の樣な神經をお互に打ふるはしつゝ爭ふ日もあつた。

 でも透がこの家へ來てからは夫は妻の兄の手前爭つた事などめつたになかつたが何かの拍子で房子が夫に不平を洩した爲め良三はまつかになつて怒つた。それは夕食後の灯の下だつた。

 怒つたが良三は妻の兄の手前激しい言葉や罵る樣な事をする男ではなかつた。唯細面の顏を引しめて、

「どうせ僕は意氣地なしだから樫村さんの樣な出世は出來ない」と取つて括りつけた樣言ふのみであつた。樫村と云ふのは房子の姊の嫁入つた姓であつた。

「私だつて隨分長い間苦勞も心配も辛棒もしてますわ。何も私は勳章がほしかつたり月給の高いのを希望むんぢやあありません。もつともつと貧しくてもよいから、意義のある藝術生活に浸りたい……」

 房子は目にいつぱい涙をためて言つた。良三にも房子が虛榮の女でなく隨分辛棒してゐるのは判つてゐた。でも、彼女は時々我儘だ、あまり瞑想家だと心の中に思つた。

まあいゝぢやないか、喧嘩したつてしかたがない。何とかかんとか言つたつて君達の家庭は幸福なものだよ、子寶はあるし、國には財産もあるし、房子さんも、すこし位の事は女の方で折れなくちやあだめだ。僕の樣に酒も女もといふ夫でもやつぱり仕方がないんだもの。やつぱり家庭程よいものはないよ」

 透はかう呑み込んだ樣言ふのであつた。

 

       十三

 

 例の返事はまだ何とも無かつたが大概は成るものと安心してゐたので、再會見の通知を只管まつのみで其他の運動はしばらく手びかへの形だつた。

 河畔の家には每日每日柿や茸を賣りに來た。

 柿の好きな兄の爲め、房子は柿賣の女を門前に呼びとめて、柿を選る事も度々であつた。或日はゆるんだ樣な表情となり、或日は非常にまた印象のゆたかな顏ともなる大まかな彼女はきれいにお化粧して、漁師町に近い店々へ、兄や子供のおやつを買ひにゆく事もあつた。

 實費として食費を東京の父から每月十日前後には送つて來た。

 明確に何錢何厘と兄一人のものを割出すなんて事も出來なかつたし勿論兄の食費としてはそれは充分であつた。倂したとへ親身の兄でも一人殖えて見ればどこそこそれにつれて家の者の方も、體裁をまさねばならぬわけで、金錢には淡泊な房子もさういふこまかしい遣繰にひとり侘しい思ひを抱いた。實際每月のをはりにはすこしづゝの不足が出來て來た。一軒にゐてさうさう切り離す樣にも出來ない場合もあり、兎角生計が切り込みがちであつた。夫れに透は、布團も自分で敷く、顏洗ふ水も汲んで洗ふ風呂水も每日汲みこんでくれるし手のない時は赤ん坊も抱へてはもらへるけれども、それでも男一人殖えた家庭は洗濯にしろチヨイチヨイした雜用にしろ目にも留らぬことの爲め房子は朝から晩の十時過迄クツクと働かねばならぬ。

 五人家内の世話を手一つでしてゐるので、そろそろぬけそめた髮の毛の手入れなどもゆるゆるするひまはなかつた。

 川霧が降る樣に下りる晩も相變らず橋の上で釣つてゐた。

 子達を寢せつけてしまつた房子は、燈の下に夜なべの冬着をひろげつゝせつせと縫ふのであつた。

 時々、町の方へ行く電車が海邊の方から近づいて、停つては又靜かに走せ去る音を聞くのみで、田舍の夜はひつそりとしてゐた。

 臺所の竃の邊には、夜每にきゝなれた蛼(こほろぎ)が、引き入れられる樣な聲でとぎれとぎれにないてゐるのであつた。此頃から透にすゝめられて俳句と云ふものを作り初めた彼女は、虫の音をじいつと聞き入りながら、それをどういふ風に現はさうかなどしきりに考へるのであつた。或時には髯の長い虫が、パタリパタリと疊を飛んで來て句想にふけつてゐる房子の直ぐ前へじつとつくばつてゐた事もあつた。彼女は直ぐそれを「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」などゝ調も何もかまほずそして出來次第無數に手帳に書き入れた。[やぶちゃん注:「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」現存する実際の杉田久女の(リンク先は私の作成したPDF版全句集)にこの句はないが(これは小説であるからなくても不審ではない。また実際の句であったとしても、最初期のものであるから、後の久女の意に沿う句ではなかった故に句としては抹消された可能性も高い)、類型句に「蟋蟀も來鳴きて默す四壁かな」があり、初五の相似句では「燈に縫うて子に教ゆる字秋の雨」がある。因みに、杉田久女は「灯」と「燈」を句に於いては厳密に使い分けているので、本篇では底本の「灯」は「燈」としていない。]

 かうした靜かな彼女を再三驚かすものはけたたましい、くゞり戸の鈴の音だつた。

「房さん房さん。一寸灯を見せてくれ大きな奴がかゝつた」

 それは透の時もあり、良三の時もあつた。房子が蠟燭をつけて持つて行くと、氣味の惡い程大きい鰻のヌラクラもがくのを、ギユツトおさへて片手に、呑まれた針を引出したりしてゐた。或時は又川底の牡蠣殼や芥などに、糸を引かけて切つてしまつたりして、糸の附け替へに歸つて來る事もあつた。房子が仕事をかたづけて、兄の布團を六疊の間にのべたり、食卓の上に、二人が歸つて來てから一寸一口飮む爲め、殘りものゝ肴でも用意して、先に寢るのは十一時ごろであつたが、雨降りの夜か何かでなければめつたに其頃歸つて寢る事は、二人ともなかつた。二人の羽織の袖口の邊には鰻のヌラヌラが白く光つてゐた。

 よく釣れた夜は二人のをあはして大小十七八本も釣れた。中には一本で百目以上のが四本も交つてゐた。落鰻とはいふものゝ上手に料理すればたしかに、玄海灘一本釣のピチピチした鯛でもうなぎの味には適はない。[やぶちゃん注:「百目」三百七十五グラム。]

 

      十四

 

 鰻を料理するのはいつも透であつた。房子は火をバタバタ起した。兄妹は俳句のはなしや、もう某氏の返事もありさうだと云ふ事などそれからそれへと語りつゝ陸じく蒲燒をこしらへた。

 透も漸やう河畔の家に馴れて今は漂浪らしい淋しさも薄らぎ時々に寂寞を感ずる事もあつたが次第に落付いた心地に成る事が出來た。

 兩親――殊に母――には退屈まぎれに近況など始終知らせた。

 父からは例の如く、べからず流の謹嚴一方の訓戒めいた手紙が來たが母からの代筆はこまこまと家の事情や、一日も早く就職の定まるのを待つてゐる事や、近頃透から母へ宛てた手紙は以前の樣でなく大變優しい手紙で一同喜んでゐる。

 どうか早く母に安心の道を確定させてくれと云ふやうなことが認めてあつた。そして「某氏の方も有望らしけれど萬一不成立の時が無いとも限らぬ故御氣の毒ながら口は處々へかけて置いた方がよい」などゝも書き添へて在つた。透も、隨分志望者も多い世の中だから八方賴んでおく方が大丈夫だとの意見で良三に兄妹で言ひ出して見た事もあつたが良三は此頃つとめの方が每日忙がしかつたりして寸暇のない爲め、も一つは、

「あの人があれ丈迄斷言してゐるのだもの十中八九は誤りない」

と言つてあまり他へは手をひろげなかつた。恰度、其炭礦家の某氏が用事で上京されたりした爲め一層其方は延期された。透は節酒の苦痛もここへ來たて程ははげしく感ぜぬ樣成つたし釣等も非常によい影響をあたへた。知人もなし行き場所も見るとこもないK市の事故長年都會生活の強い濃い人間味の勝つた生活から急にこの、自然の懷に立ち返つた樣な日每日每。

 比較的精神的な良三夫婦の單純な質實な生活に入つたと云ふ事は透をしてたまたま現實の生活から脱し多少なりとも自己を反省し考慮し得る絶好の時であつた。彼は學校を出て今日迄唯酒や女や權勢富等の外に頭をつかふ事は餘りなかつた。靜かに瞑想する事もない。いつもいつも刹那刹那の歡樂を追つかけまはしてゐた。此頃の樣に頭を澄ませて超然と魚釣をしたり自然を觀察したり、何物をも澄んだ心持で見得る樣な頭に成り得た事は絶えて無かつた。さういふ意味から考へて、透の境遇が一時かゝる淋しいものに陷つてゐると云ふ事は却つて喜ばしい事であつた。

 透は精神的に生きるのである。たとへ前程のパツパとした生活はしないでも眞面目な、眞實味の籠つた態度で兄が生きる樣な事ならその方が遙に貴いと房子はかう考へたので有つた。透は朝早く起きて海邊を散步する。夜は外出など絶えてした事なくてでつぷりとつき出した下腹に力を入れて腹式呼吸をしなくては寢につかなかつた。[やぶちゃん注:太字「かう」は底本では「う」にしか傍点がない。傍点の脱落と断じ、特異的に「か」まで太字とした。]

「此頃は食事が大變うまい。夜も實によく寢る」

と彼はかう言つて、逞ましい肉付の肩の邊を撫でまはした。

「兄さん、いらした頃よりずつとお肥りなさいましたわ」

と房子は兄の立派な體格を見て言つた。

ウン。風呂へ行くと漁師達があんたの腹はどうしてさう太いのぢやと先日も聞くから腹式呼吸の事を話してやつたら感心してたつけ……」と透は笑つた。

 兄妹が何かと秋の夜の燈下で語つてゐる側に、良三は長く成つてうたたねしてゐる事が多かつた。

 さうでない時はそろそろ始りかけた試驗の採點などで追はれつゝあつた。

「房さん、ちつとは出來たかい。見せてごらん」

と透は時々催促しては、房子の俳句帖を見てやつた。其中にはまだ幼稚なものが多かつた。透は之に○だの◎だのつけて添削してくれた。彼女は忙がしい家事の傍ら或時は赤ン坊に乳をふくませながら或時は土堤を步みつつ作句するのであつた。

 

       十五

 

 河向うの堤の櫨もいつの間にかすつかり散つて、特殊な枝振をした其枯木のみが潮の引去つた河原の破舟の上へさし出てゐたりした。お宮の松の下邊には菜の綠色がのべられた。或朝丘の上の木の雜木や櫨の葉は一度にどつと散りつきて、雪を頂いた、紫色の三角形した帆柱山をはつきりと丘の背後に見出した事もあつた。

 刈りつくされた淋しい田の面。

 眺めの展けた田畠のここかしこを縫ふものは唯菜畠の生き生きした綠のみであつた。夜每に川面は深い霧がこめて沖へ出る船の艫聲や漁具などを船底へ投げつける音などもポツトリと聞えるのであつた。寒くなると此川上へ上つて來て――丁度房子の門前のところに ――海風を避けて冬中を凌ぐ烏賊(いか)舟の老船夫、それは家も女房も子もないほんとにひとりぼつちで此半分朽ちかけた小舟を一年中の家として住んでゐる侘しい老人だつた。外の船は皆出拂つた夜も此老舸子の舟一つは、苫の中からチラチラと灯かげをのぞかせて、どんな寒い夜も風の夜も此船の中に寢るのであつた。暗い寒い堤をコツコツと往來する人々は船を石崖にひつつけコトとも音のせぬ此すきまだらけの苫の燈を見て如何許り淋しい感に打たれる事であつたらう。河へ塵捨になど出る度房子は唯一つの此灯を暗い河面に見入つて、時には咳入るのさへも聞くのであつた。雨が降ると爺さんは柄の長い柄杓で船中にたまる水を搔い出してゐた。いつも頭に頭巾の樣なものを被つた、つぎはぎの胴着をきた赤銅色の小さい爺さんは、漁師町の方へ章魚などさげて賣りに行く事もあり、往來の人に馬刀貝(まてがい)を賣り付けてゐる事もあつた。ねぎられでもすると、

「當世は米だつて薪だつて前の何倍もする世の中だ。あほらしい考へて見んさい」老船頭は一こくにぶりぶり怒つて笊を仕まひ込んでしまふのであつた。薪を一把だの、小さい德利の石油壺をかかへて漁師町の方からトボトボ歸つて來る彼を見る夕方もあつた。[やぶちゃん注:「舸子」「かこ」舵取り。漁夫。「苫」は「とま」で、菅(すげ)や茅(かや)などで編んで作った舟覆いや、漁師が雨露を凌ぐのに用いる仮小屋のこと。]

 これらの舟にも老船頭の哀れな有樣にも心をひかれた房子は、見るもの聞くもの皆彼女の句の中に取り入れ樣と不相應に焦つた事もあつた。

 出嫌ひで瞑想好きの房子には拙いながらも俳句は忽ちに大好に成つてしまつた。河畔の家に東京の俳句雜誌が其後は每月配達される樣に成つた。

 夜寒がヒシヒシと迫つて來て、寒がりの透は、ぬいだ着物から座布團迄、布團の裾において寢る樣に成つた。荒れた庭の枯蔓はひまひまに透の手でひきはがされて川へ捨てられて、急に明るくなつた替り庭の面はあらはな寒さを覺えた。葉鷄頭も今は立ち枯れて、まつ赤な葉を朝々の霜に散らすのであつた。菜の成長も遲々として目立たぬ樣に成つていつた。

 生れて間もなく腸をいためたりなどして弱々しかつた赤ん坊は房子の乳の足りない爲めに尚更肥る事が出來なかつた。二つの乳はあふれる程張つた事は決してない。

 少し呑んではやめる。直きお腹がすく。また泣く。寢てもすぐ目がさめた。だらしなく呑むので腸もよくいためた。牛乳を補ひとして用ゐた事もあつたが結果がよくなかつた。乳の不足といふ事が一番の原因でよその子のドンドン肥つてゆくのに此子はいつ迄も生れた時の大きさと大差なかつた。榮養不充分の爲め一寸した呑み過しにも、衰弱した身體はぢき故障を起し易かつた。人形の樣な目鼻立の色白い此子は又人形の樣小さく髮の毛はシヨボシヨボと赤く少し生えてゐるのみであつた。[やぶちゃん注:「シヨボシヨボ」の傍点は三文字にしか附されていないが、下の三文字にも及ぼした。]

 

       十六

 

 人一倍子煩惱な房子が何故、此赤ん坊の榮養不足に心づかないで打すておいたものか。隨分久しい間、かはいさうに赤ん坊はいつも腹いつぱい母の乳を吸ふ事なしに飢ゑがちに暮して來た。全く房子の誤りであつた。

「なぜ此子はかう小さいでせうねえ。ちつとも大きくなりませんのね。どこか惡いのではないでせうか」と房子はそれでも度々氣にかけて夫や兄に話したが、

なあたちだよ。死(な)くなつたお婆樣みたいに小さなたちだ」と夫は無造作に答へた。

「房さんみたいに心配してゝは仕方ない。人間の子なんて、そんな弱い者ではないよ。別にどこつて惡いとこもなささうではないかね」と透も笑つた。

 さう言はれゝばそんな氣もしたが湯に入れる時など裸にして抱き上げると皮膚は靑白くて胴のまはりでも足でも人形の樣に小さくいたはしい樣な心地がした。一寸した物音にもよくおびえて、目をさました。房子は夜晝となく赤ン坊の寢てゐる時は話聲さへ氣をつけた。

 だけども度々目をさましてチビチビと呑むので夜中赤ン坊も母親もぐつすり寢込むと云ふ事は殆どなかつた。秋空の樣な澄んだ目をもつては居たが赤ン坊は實によく泣いた。その聲は小く疳高であつた。[やぶちゃん注:「チビチビ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 語る事の不可能な赤ン坊は、此悲しい泣聲によつて絶えず周圍の人々へ飢を訴へるのであつたが周圍の者は唯無意味な泣聲としか受取らずに、

みいちやんはよつぽど泣きみそね」と笑ふのみであつた。

 母親たる房子の不注意は勿論である。が母も父も、肉親の子の泣聲に耳を傾ける暇もない程一方には又兄の爲め朝に夕に心を勞した。その心勞もテキパキと外面にはあらはれてはこなかつたけれど、彼等夫婦は透と共に愁ひ、透と共に樂しむので、透の一身上の事が定まる迄はあけてもくれても、頭の上にものが押しかぶさつて居る樣で、氣に成つた。

 が房子には、何となく不健康な我子の樣子が朝夕直覺された。

 よその人の抱いてゐる赤ン坊を見かけると風呂やでも電車の停留所でも、

まあ御宅のお坊さんはいつお生れなさいましたの」とのぞき込む樣に問ひかけて、我子と見くらべるのであつたが彼女の赤ン坊より後に生れたと言ふ子らも皆クリクリと肥つて健康さうに笑つてゐた。房子は羨ましげにつくづくと見入る事が度々だつた。[やぶちゃん注:「クリクリ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 乳の不足と云ふ事は氣付なかつたが房子の赤ン坊をいたはる事は非常であつた。風の強い日は滅多に外へも連れて出なかつた。

 自宅で湯のない夜は冷たい子の手足を、湯をわかして温めて寢かした。海からの荒い風が絶えず吹きつけるので、夕方などは門口より外へは踏み出さなかつた。

 風邪一つひかなかつた爲め此日陰の花の樣な弱々しい小さな小兒は幸ひに、母親が、養育方針のあやまつてゐた事を氣付いて、醫者へ行く樣に成る日迄、奇蹟の樣に病氣もせず、いぢけたまま生きて行くのであつた。

 全くそれは天佑の樣なものであつた。もしこの弱々しい體に何等かの障りがあつたならこの子は、たやすく失はれてゐるのであつたらう。

 長女の澄子は、丈夫になつて每日空風にふかれつゝ茨の實や、薄の穗をぬいて外でのみ遊んでゐた。

 近所の下品なませた友達の中には入つてわるいくせを覺えるのを彼女は何より恐れたがそれは到底せきとめ得る事ではなかつた。遠く遊びに行つて歸らぬ澄子を案じて房子は、そここゝと長くく探𢌞る事も度々だつた。

 

       十七

 

 房子達が去年こゝへ移つて來た時、前の人の飼つて居た老猫がひとり此家に殘つてゐた。猫の好きでない房子は、格別憎みもせず、三度の食物は規則の樣に與へて居たが、家の中に上る事は絶對にさせなかつた。家付きの猫は唯食ブチをもらつてゐる許りで一向家人とは沒交渉な暮しをしてゐたが此年の夏、房子が産をする十日許り前に五疋の子を生んだ。

 長女を産する時大變重い産をした房子は此度の産で私は死ぬかも知れない、などゝ始終言つてたし里の母もわざわざ心配して遙々來て呉れる程で、良三も口に出しては言はなかつたが心配してた。そこへ安々と産をした猫を見て皆、よい前兆だと嬉しがつた。

 房子の産も今度は大變安々とすんだ。

 そのうち親猫は、每日猫の巣につききつて眺めてゐる長女を怖れたのか、又は時々來る洋犬を怖れたのか、或夜の中に五疋の子猫をつれていづこかへ行つてしまつた。

「親猫がかみころしたのではないかしら」

「犬にたべられたのだらう」

と皆は口々に噂して、生れた許りの子猫を案じた。しかし親猫は時々歸つて來ては、ものほしさうに土間につくばつて居た。其乳房はふさふさと垂れ下つて今も尚ほ子猫達に乳を呑ましてゐる事は判明した。猫の皿に食ものを入れてやるとさもお腹がすいた樣に、一粒も殘さずねぶつてしまふのであつた。そして又どこか出て行つた。

「子猫をどこかにかくしてゐるに違ひない」と皆は言ひあつた。

 二十日許りたつと、猫は、ぞろぞろ五疋の子猫をつれて、戻つて來た。暫くの中に子猫は皆大分大きくなつてどれこれも、可愛い顏をしてゐた。たつた一つ三毛のがゐてあとは四疋とも黑の斑があつた。犬をおそれて、土間に箱をうつしてやつたので子猫は、下駄にじやれついたり、コロコロかさなりあつて遊んだり下駄箱の橫に尿をしたりした。澄ちやんは、每日猫を抱いたりおんぶしたりして子猫と遊んだ。

 透が來て後も相變らず五疋の子猫はもらひ手もなし、親の乳をしやぶつてごろごろしてゐた。

「猫はきたないね。こんなに澤山居たつてしかたがないから捨てたらどうだ」と透は言つた。

「もうすこし大きくなつたら捨て樣と思つてるのですけど、まだ、何だか可愛さうですから」と房子は答へた。

「そんな事言つてゝは仕方がないよ。すてるなら今位ゐが丁度よい。僕が持つてつて捨てゝやらう」

 澄子も猫をすてるのは嫌だつたが、何疋も居てはあの一番きれいな三毛が肥らないと言はれて其氣になつた。そして或朝捨てにゆく伯父さんについて行つた。

 透は三疋の猫を風呂敷に包んで河向うの人家の傍へ持つて行つた。

 そして風呂敷から出してやると子猫達は自分の運命の迫つてゐる事も知らず、いつもの樣に三疋コロコロ上下になつてふざけまはつてゐた。澄子は持つて行つた、小皿の御飯を側において、子猫のなめにかゝつたのを見捨てゝ家へ引揚げた。其夜は、宵からしみる樣な時雨が絶え間なしに降つて、房子には、三疋の子猫の事が忘られなかつた。母親もしきりに、失はれた子猫を探しまはつてゐる樣子だつた。

「時雨るゝや松の邊に捨てし猫」房子は十燭の燈の下に、縫ひながら、捨てられた子猫の運命。何となくひよわな自分の子の事などがつぎくに考へられて、こんな句を手帳に書きつけた。[やぶちゃん注:この句に相当する句は現存の久女の句には、ない。]

 淋しい心地で猫の箱をのぞいて見ると猫は丸くなつて、親子寄りそつて暖かさうに淋しさうに寢て居るのであつた。

 

      十八

 

 それから一週間許りすると透は再び親猫と、も一疋の子猫とを捨てに行くと言ひ出した。家付きの親猫だしあとに一疋限りとなる三毛が可愛さうだ、と房子も言つたけど、透と良三は、

「なあに、こんな老猫はもう捨てた方がいゝよ。おまけに女猫だから又産むとせわだ」と言つた。

 房子も強ひて止めはしなかつたので遂々家付の猫は自分自身も、子等と離れ離れに追放される事となつた。透は例の通り風呂敷に親子二疋の猫をつゝんで、電車で、市中の、それも海邊裏のゴタゴタと小家がちな、とある路次へ持つて行つて捨てゝしまつたので再び歸つては來なかつた。恐らく二疋のものは、泥棒猫にでもなり終つて漂浪してしまつたのであらう。後にはいよいよ三毛がたつた一疋となつた。三毛の首には美しいよだれかけがかけられた。三度のご飯の上には鰹節をまぶつてやつた。けれども、今迄親の乳のみ吸つてゐた三毛は、あまりご飯をたべ樣とはしなかつた。彼はいかにも淋しさうにポツンとして、畜生ながらも戀しい親を探す樣ニヤアニヤア鳴くのであつた。[やぶちゃん注:久女はこの「三毛」を「彼」と呼称しているが、三毛猫は性染色体に依存する伴性遺伝の典型例で通常、♀は殆んどいない。ウィキの「三毛猫」によれば、オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群Klinefelter's syndromeと呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った場合に限って出現し、三毛猫のクラインフェルター症候群の♂の出生率は三万分の一しかない。そうした奇形個体でなかったとは断言出来ないが、この「三毛」(確かに三毛であったなら)は♀だったと考えた方が自然であり、それは外見上、容易に識別出来るから、寧ろ、ここで久女がこの「三毛」を♂、男として扱っているのは久女の病跡学的な興味、精神分析学的興味を私には喚起させるものである。]

 美しく毛を洗つてやり度いと思つてもそんな暇もなし、それにどうしたのか三毛の目は、だんだんやにが出る樣になつて、クシヤクシヤした、穢らしい目になつてしまつた。體のクリクリ丸かつたのが何だかゲツソリと瘠せて來た。

 房子が下駄をはいて土間へ下りる度、人戀しさうに、ニヤアニヤア鳴いて、着物の裾にすりつけて來る樣は哀れつぽく見えたがヤニだらけの目や竃の灰によごれた體を抱く氣にもなれなかつた。

 澄ちやんさへ此頃はもう抱かうとはしなかつた。男達は、見向ても見なかつた。ますます孤獨な子猫はやせおとろへた體をシヨンボリと、日もさしこまぬつめたい土間にすゑて、ひくい聲でニヤアニヤアないて居た。ぬくもりのさめぬ竃には入つて丸くかゞんで寢る事が子猫の爲めには一番の樂しみであつた。フチの缺けた小皿には忘れず、食物を入れてあつたが子猫はペロペロすこしなめて見て直ぐ、竃の中へかくれてしまふのであつた。

 夜寒がつゞくと子猫はますます淋しい有樣と成つて行つた。彼には唯親のぬくみと乳とを慕つたが冷たい土間と冷たい臥床が有るのみで長い夜中の寒さに、血の氣の少ない身を堪へがたかつた。けれども家の中には絶對に上げなかつたし哀れな猫の子はキツチリしめられた障子を押し破つては入る程の元氣ももうなかつた。

 房子はさすがに哀れに思つて日中は、箱に藁をあつくして其中に入れたまま庭の日當りにひなたぼつこをさせてやつた。子猫はそろそろ這ひ出して枯れた菊の根をごそごそ步いたりしたが大きな犬が垣根からは入つて脅かされる事もあつた。ツンと兩耳がやせ尖つて、はそ長く成つた。影ぼふしを、緣の直下の石の上にうすく引きつゝじいつと、坐つて動きもせぬ子猫を見ると房子は可愛さうでならなかつた。殊に夜寒がひしひしと夜なべの膝にもかんぜられる夜房子は、子猫がニヤアニヤアと訴へる樣になくのを聞くと土間に下りて行つて、赤ん坊のおしめの綿の入れたのでクルリと子猫をくるんでやつた。そして自分の懷の懷爐を子猫の中へ入れてやつた。ニヤアーと子猫は小い聲で鳴いては人戀しさうに、房子の手をなめるのであつた。寢しなにも一度下りて見に行つた房子は、子猫がいゝあんばいにおしめの中で丸くなつて暖まつて寢てゐるのを見て安心して寢た。

 夜中になると、戸外には雪の樣にまつしろい大霜が降りた。しんしんと月光が大地に凍てついて、それはそれは冷やかな夜であつた。[やぶちゃん注:「しんしん」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 子猫は何度も寢返りをした。そして床の中でおしつこを垂れた。

 懷爐は消えてしまつてぬれたおしめは水の樣に成つた。子猫はニヤアニヤアーと力なく鳴いたが家の人々は皆布團の中にぬくぬくと寢入てゐた。子猫は箱を出て竃の灰の中へは入つたが夕方焚いたその竃の灰はもう冷えきつてゐた。[やぶちゃん注:ここ以降は、 SE(サウンド・エフェクト)として傍点は久女の打ったままを原則とした。]

 子猫はつめたい灰の中へもぐりこむ樣に身をうづめてニヤアア、ニヤアー……と、ひくい聲で何かを求める樣に鳴いた。

 房子は時々日をさまして、子猫の哀つぽい鳴き聲を耳にしたが、睡いのと寒いのとで、氣にしつゝ見にも起きず、また寢入つてしまふのであつた……。

河畔に棲みて(一)~(九)   杉田久女

[やぶちゃん注:どうもここ数ヶ月、どうにも気分が滅入っていっこうに晴れやらぬ。

 さればこういう時は、極私的に、全く個人的に、誰のためでもない電子テクストをやらかそう。

 しかし、「誰のためでもない」とは言いつつも、自慰的仕儀は意に沿わぬ。

 されば、恐らくは現行では殆んど誰も読んだことのないもの、読みがたいもの、が、これ、よかろう。

 そうして原則、注は附さぬのだ。

 といっても結局、私の神経症的気分はそれを許さぬだろう。一部、どうしても附さねばならぬ、したい、と感じたものは本文内の段落末にストイックにポイント落ちで入れ込んではどうか。

 これはこれで、私の切なる欲望だから私には差し障りは、ない。

 さればこそ、これ以上は、気は重くは、なるまい、よ。

 

 まず、愛する俳人杉田久女の小説にしよう。

 

 「河畔に棲みて」は久女満二十八の大正八(一九一九)年に発表された、恐らくは彼女の処女小説である(久女の俳句が『ホトトギス』に初めて載ったのは大正六(一九一七)年一月で満二十六)。同年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたもので全二十七章である。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」が多用されているが、これはブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 因みに、この舞台となった旧居とロケーションを北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「板櫃川河口」で詳細に現認することが出来る。画像も豊富で本作を鑑賞するにすこぶる相応しい。是非、ご覧あれ。【2016年7月21日始動】]

 

 

 河畔に棲みて

 

       一

 

 房子は結婚後直ぐ夫の良三と一緒に、其つとめ先のK市へ來た。

 四人の兄妹の一番末つ子で何の不自由もなく大きく成つた彼女が俄かに田舍の教師の妻として質素な生活をしなければならぬと云ふ事は可成り房子に取つては苦しい努力であつた。が良三は長男で、其家と云ふのは田舍で相應な資産家であつたので、長女が生れる頃迄は彼等二人は至極呑氣な苦勞のない生活をしてゐた。處が結婚してから五年目の秋良三の大事な母親が死んで後は、彼の父は賤しい妾を引き入れ家の中は一時動搖し波瀾も樣々起つて良三夫婦も從來の樣に呑氣にのみはしてゐられなくなつた。はじめて悲しい辛い目にも逢つた。けれども何と言つても父の家とは三百餘里も離れて住つてゐたので直接其厭(いと)はしい渦の中にも卷き込まれず、心配も苦勞も、對岸の火事を見る樣な心地であつた。

 酒も煙草も呑まず眞面目一方の夫を持つた房子は、或時には女なみの不平も持つたが親子三人水入らずで、丈夫で、不自由勝の生活の中にも好きな繪を畫いたり、野菜や草花をつくつたり充分田園趣味を味はう事が出來る境遇に居ると云ふ事を樂しく思つて暮して來たのであつた。[やぶちゃん注:「不自由勝」の「勝」は、ともすればそうなり易い・そうであることの方が多い状態を表わす接尾語の「がち」である。]

 實際この九年間の彼女の生活には強ひて苦勞らしい苦勞と云ふものもなく平穩な單調な生活をかき亂されずにズツと來てしまつた。

 丁度其九年目の夏に房子は次女の光子を生んだ。

 長女の方はもう六つに成つてゐて格別手はかゝらなかつたけれども、産後の肥立が暫らく惡かつたのと乳が出なかつたりして赤ン坊に手のかゝる事は大變だつた。

 それに産前から雇つてあつた女中も、お宮詣りがすむとまもらく歸へしてしまはなければならなかつた。九月の末になると急に朝晩はうすら寒くなつて、引しまつた心持で房子は片手に赤ン坊を抱き抱へつゝ、おむつの洗濯もし裁縫もする。かなり忙がしい思ひをして暮すのであつた。[やぶちゃん字注:「まもらく」はママ。誤植或いは「奈」(な)と「良」(ら)の一部の仮名変体は似ているので校正者の誤読であろう。]

 十月に入つてからは天氣がズツとつゞいた。

 二丁許り下手で海へ注ぎ入る川添ひの房子の家では、緣先の日當りのよい庭に二畝ばかりの葱や、菜が植ゑられてあつた。畠のまはりには四五木の立木が朝顏の枯れ草を卷き付けたまゝ立つてゐた。

 其立木の枝から枝に竿を渡して小さい襦袢だの赤い着物だの、お襁褓だのが每日干された。畠の一方には、背の高い雁來紅が五六本秋晴れの遠山の藍を背景にして赤く燃えてゐた。[やぶちゃん注:「雁來紅」音は「ガンライコウ」で、雁の来る頃に紅くなることに由来する「葉鶏頭(はげいとう)」の別名であるが、ここは「はげいとう」と当て読みしたい。]

 かうした彼女一家の生活に突然變化を與へた者は、ヒヨツコリと此河畔の家を訪づれた房子の兄の透(トホル)であつた。

 最初、突然に東京の父から「透も今度暫らく御地に行く事と決定して出立した。委細は到着後本人に御聞下さるべし」

と云ふ例の簡單な、夫宛の手紙を讀んだ時、夫婦は顏を見合はして、

「まあどうしたんでせう」

「まだ口もしつかり定まつたのでもないのに……」と房子が言ふと「さうだ。折角遙る遙る來られて、長く遊ぶ樣にでもなるとお氣の毒だ……」と良三も訝かつた。

 長く離れて暮して居る此兄を大變氣兼ねの樣にも思へたし、今迄の水入らずの中に急に大人を一人交じへる事の色々の氣遣ひ、それから赤ン坊片手の忙がしさなど考へ合せて、こんな、不自由がちな、客布團一枚、勝一枚もろくろく無い樣な生活の中に、察しもなく押しかけるなんて、すこし無理だと房子は考へて、妙に沈んでしまつた。

 でも又やつぱり親身の情で三四年振りに兄に逢へるのは大變待ち遠しい心地もした。

「丁度明日あたりですね」

 房子は日附を指折つて見たり古い汽車の時間表を繰つたりした。

 

       二

 

 翌旦房子は朝から兄を待つた。

 低い岡をバックにして野原の片隅にたてられた電車の停留所は房子の家の緣側から近くに見えた。

 町の方から來る電車は五分問おき位に菜畠の間を走つて來て、玆の停留所に四人の人々を吐き出しては又海邊の方へ走(は)せ去るのであつたが、電車を下りて川堤を步いて來る人々の中にも遂に兄の姿は見出す事が出來なかつた。

 夜着く汽車に違ひないと獨りぎめにきめた房子は午後になるとおんぶ羽織に赤ン坊をしよつて電車で、町へ買物に出かけた。乾燥した秋の町には綠色の半襟をかけた美しい女が步いてゐたり、飾窓には、新柄の反物や帶地が陳列してあつたりした。幅の廣い電車通りの街には活動寫眞の廣告が囃し立て、通つて居た。町角にはもう靑い小蜜柑や靑柿などを賣る女達が並んでゐた。始終郊外にすつこんでめつたに出た事のない出嫌ひの房子には、かうした街の色彩なり感じなりがかなり鋭敏に受取られた。

 房子は一寸飾窓の前に立留まつて、子供用の緋繻珍(ひしゆちん)の帶の値など讀んだ後魚市場の方へ足を移した。[やぶちゃん注:「緋繻珍」現代仮名遣「ひしゅちん」は繻子織(しゅすおり:経糸或いは緯糸の孰れかが表面に長く渡る織り方。サテン)の地に多色の絵緯(えぬき)と呼ばれる緯糸で文様を織り出した滑らかで艶のある絹織物の、赤味の強いもの。「しゅちん」という呼称は七色以上の色糸を用いたので「七糸緞(しちしたん)」と呼ばれていたものの転訛とされる。中国伝来で室町末期から織られ、幕末から明治期には専ら、打掛や女帯に用いられた。]

 そしてあれこれと買ひ整へた重い風呂敷包をさげて又コツコツと野外の家へ歸つて來たのは三時過ぎてであつた。背中で寢てしまつた赤ソ坊をしよつたまゝ水を汲んだり兄を迎へる爲めの料理をするのであつた。けれども兄は遂に、最終の十一時何分かの汽車が、直ぐ川下の鐵橋を渡りつゝあるのを聞きをはつてから暫らくの後も彼女の宅に來ないでしまつた。

 その翌朝、房子はいつもの樣に夫を送り出して仕舞つてから長女の髮を梳いてやつたり、食卓の後かた付けをしたりしてゐるところに兄はヒヨツコリやつて來た。布團らしい大きな菰包と手提鞄と絹張の洋傘太い銀柄の洋杖(ステツキ)なぞをくゝり合はしたのと是丈の荷物を車夫が玄關の板敷に運ぶ間透は土間に立つてゐた。透は高下駄の新らしいのを履いて手にはも一本毛繻子の洋傘を持つてゐた。久し振で兄を見た刹那房子は此前東京で逢つた時よりも大變ふけて、着物などもあの贅澤やが着馴れた縞の銘仙のふだん羽織に、汽車で寢起した時のうす皺をよせてゐる樣が何だか兄の此頃の境遇を語る樣にも覺えられて、じつと、車夫に銀貨を出してやる透の背をみつめるのであつた。透は落付いた態度でズツと座敷へ通つた。

「兄さん。しばらく……さぞお疲れでしたでせう」

 房子が座布團をすゝめながら叮嚀にお辭儀をすると、

「やあどうも、今度はとんだお世話になります」

 透も一寸あらたまつて挨拶した。

 上の娘は外へ遊びに行つたし、赤ン坊は寢て仕舞つたので家の中は靜かだつた。久し振りに相對した兄妹の間には、東京の兩親のはなしやら其後の御互の消息やら、いろいろな話しが次から次へと語り續けられた。話が透の今度玆へ來る樣に成つた譯に落ちて行つた時、

「僕は最初父からK市へ兎に角行けと話のあつた時斷はつたんだ。まだ就職口がはつきり定まつたんでもなし、それに僕は官吏は嫌ひだしね、東京には俳句の友達も澤山居て、どこかに世話してやらうと言つても呉れたし……子供の二人も居る房子さん處へ押しかけて來るのも氣の毒だから、と言つたんだが」と透は答へて、

 當市へ來るのなら旅費もやらうし就職口のある迄の食費其他入用の物丈は不自由ない樣に送るから直ぐ立て、でないと一切以後は窮狀を告げて來てもかまはない。と一徹な父に足許から、鳥の立つ樣に言はれて、透も不承不承都を發つて來たのだ、などとも語つた。

「それで嫂さんはどうなすつたの?」と聞くと透は淋しく笑つて、

「うん、お芳か。K市へ來る事は知らしてないんだ……」

と答へるのであつた。

 

       三

 

 房子は驚いて

「まあどうして?」と聞くと

「僕は滿洲の方へ口を探しに行くから當分居所を定めずいつ歸るとも判らない。口が定まつたら呼びよせるとかう言つた丈けだ。何しろ父から話が有つてから三日目には發ったんだからね」

「そして嫁さんはどうなすつたでせう」と房子が熱心に聞くと、

「さあ里へでも歸つてるだらう……」透の顏は流石(さすが)に曇つて居た。何でも透は、家財も鷄も一切始末してしまふ事を言ひ置いて、自分は只房子の家へ持ち運ばれた菰包と手提鞄丈を身につけて、只一人見送る人もなく知友にも知らさず瓢然と旅へ出たのであつた。此失意の兄を目前に迎へた房子は、昨日迄の何となく水臭い心持を捨て、眞心から、淋しい透の心持に共鳴する事が出來た。やがて晝に成つたが、婢もなし買ひに出てもこの近所の店には野菜一つろくなものは無かつた。この遠來の客を迎へる初めての膳の上には只三品許りの貧しい皿が並べられてゐるのみであつた。

「兄さん。お話ばかりして居たのでほんとにお氣毒な樣に何も無いんですよ」房子は心から極り惡く思つてかう言つた。

「何結構だ。僕はもう今日からお客樣ぢやないこゝの人に成つたんだもの。僕も此節は手輕に暮しつけてるよ」かう氣サクに答へてまつさきにフライに箸を付けた透は、

「これは、家でしたのか」

「はあ……」透が一口食べて其儘皿へおいて終つたのを見ると房子は何だか、こんなもの食べられないと言はれた樣でドキンとした。それは昨夜のフライの揚げ直しだつたから……。食事が濟むと、透は退屈さうに表へ出て、潮の退いた川原を眺めたり、緣先へ立つたりした。房子が子供に乳を呑ましたり、コチコチと下駄の音をさせながら風呂水を汲み込むのを見遣りつゝ、兄妹中で一番末つ子の、子供の樣に思つてゐた妹がすつかりと主婦めいて來たのをつくづくと見守つたり、産をしたせゐかふけたなど思つて見た。

 家の中は古びた疊建具で、それに天井も柱も緣も黑つぼく塗つて有る爲め一層陰氣な感じがした。

 床の間には花のない花器が置かれてる許り。目ぼしい道具もなく總べての有樣が華やかな氣分は少しもなかつた。臺所の方から手を拭き拭き出て來た妹の顏を見ると透は緣の柱に身をよせたまゝ、

「隨分荒れた庭だなあ」と思つた儘をヅケヅケ言つた。

「エエ。手が屆かないものですから」と房子は笑ひながら答へたが立ち枯れた向日葵にも枯木にもいつぱいクルクル卷き付いてゐる蔓朝顏。それから隅の方に咲いてる石蕗の黃色い花。その向うに三畝許り蒔かれた柔い冬菜の綠色。風に搖れつゝある赤い竿の着物夫(それ)等の物にも土にもいつぱいに午後の秋日がさしこんでゐる樣は、所謂庭園らしく造りつけてない荒れた侘しい感じはするが其佗しい打沈んだ庭の面に、色彩に水彩畫的の豐富な調子が見出されるのであつた。房子はすべてに明るいパツとした強い刺激を漁つて派手に暮してゐた會社時代の透を思出して、この十年この方質素な貧しい生活の中に土臭いのを樂しみに暮して來た自分と、兄と非常な隔りのあるのを知ると共に、今この古柱に、漂浪の身を寄せて、いまだに歡樂の夢を追つてゐる樣な淋しい兄の目を見るのであつた。

 殊に手傳はせて庭先で解かれた菰包の中からは、綿の薄い布團や常着が、二三枚出て來た外には俳書のみだつた。大分前からのホトトギスや俳書が可成澤山あつた。

「外の物は皆賣つても惜しくは無かつたが俳書丈はをしかつたよ。まるで二足三文なんだもの。でも是丈はどうも手離しかねて持つて來た」と透は言つてゐた。

「あの鞄の中は着物?」と房子から聞かれると透はカラカラ笑つて、

「着物は着た切り雀さ。あの中は俳人の端書だの短册許りだ」

 房子は本を高く積み重ねては何度も何度も庭先から床の間へ運んだ。そして座敷の次の間を兄の間に定めた。透は例の鞄の中から蒔繪の硯箱や文鎭筆立の樣なものを取出して並べた。筆立の中には錐。萬年ペン。耳の穴を掃除する小道具の樣な類迄さゝれた。

 

       四

 

 長い間官吏生活を續けてゐた彼等の父に從つてあちこちと子供の時から移り住んで行つた彼等は、透の中學校を卒業して上の學校へ入る時分からはズツト離れて三年目に一度か四五年目にやつと逢ふ位のもので、しみじみと兄妹らしく語つた事は無かつたのが、かうして一緒に暮す樣に成つたので當分の間は朝から話許りしてゐた。

 殊に、秋雨がじめじめと際限もなく降り出して、良三の掘りかけた畠の隅の土にも菜畠にも、うそ寒さが漂ふ樣な日は、透は障子を閉め切つて机の傍に火鉢を引きよせつゝほどきものなどする妹としきりに語り續けた。

 透は本所の某會社に十年あまりも購買の方の主任を勤めて重役の一人から非常な信任を得、透自身も其重役の爲めには骨身惜まずにつとめた。才氣走つた彼は何事もテキパキと敏活に仕上げて行つた。

 或點は豪膽でもありどこ迄も男性的に出來上つてゐる活動家の透は隨分大酒も豪遊もして居たが會社の方の仕事丈は非常な熱心でやつてゐた。處が透を引立てゝくれる其重役が肺病で死んでしまつた後は急に日頃反對派のもの達が勢力を占め日頃の妬みを一時に逆寄せて來た。自我が強くて負けず嫌ひで、阿諛の下手な透は、邪魔者扱にしてるなと氣が付くと、重役でも何にでも反對に出た。時には殊更に突當つて行つた。會社の内情に一番精通してゐるのをカサに着て、中々降らなかつた。おしまひにはヤケ半分に休みつゞけたりした。

 度々申出たが辭職の願は取上げられなかつた。そして充分會社の方の準備の出來た頃十二月も押し迫つてから突然ポンと、辭職を強ひられた。豫期した事ながら彼は非常に憤慨して即刻やめてしまつた。夫婦の仲には、結婚してから六年めに成つても子供は遂になかつた。その故か、透と其妻のお芳との間は兎角圓滿を缺いた。一つは透の素行の惡いなどの點からもあるが、一つは又、早く兩親に別れて繼母の手に育つたお芳の性質のひがみ易い、一向優しみのない氣強い性質、柔順も涙も無いと言つた樣な彼女の性質が一層衝突を容易ならしめた。でも又仲のよい時は子の無い夫婦は隨分贅澤な身なりをして芝居見に出掛たり、凝つた料理を食べて𢌞つたり。或時の透の誕生日には、知人を二三十人も呼んで盛宴を張つたりした。透の洋服にプラチナ鎖が垂れゝばお芳の指にはダイヤの指環が光る。一流の料亭に遊び更かして二時三時頃上野の家へ歸る時には大つぴらに自動車を門先に乘り付けて芳子の心を搔き亂さした。かくの如くして或時は妻に氣の毒な憂ひを抱かしめる。彼れは又時々の妻の我儘も大目に見逃さなくてはならない時があつた。透と芳子との間が次第に危機に陷つた時彼等夫婦と、兩親との間も色々な事情の爲め甚だ圓滑を缺いて居た。透は母に隨分永い間我儘も言ひ心配も苦勞も山程かけた。一徹な子に嚴しい父を執成して幾分父の怒を慰さめ和げるものはいつも母であつた。透の酒色の爲めの出費や會社の不首尾は謹嚴な古武士の樣な父の決して喜ばぬ處だつた。遊興費はすべて母の手でつけられた。けれども透夫婦は面と向つては叱言など言はない父よりも、當然あれこれと父に叱らせぬ前に叱言を言ふ親切な母を父へ惡樣(あさいざま)に告げる樣にさへひがんだ。[やぶちゃん注:「搔き亂さした」底本には「亂さ」の右に編者によるママ注記が附されている(が、私は寧ろここは特に気にならない)。なお、「執成して」は「とりなして」と訓ずる。]

 

      五

 

 そして突然夫婦は、兩親に通知もせず巣鴨へ引移つて、いよく困る迄ハガキ一本出さなかつた。父は勘當すると激怒した。種々な事の爲め次々に家庭に心配が漂つた。夏房子のお産を心配して遙々K市へ來た母は、

「透等の事は寢てもさめても心配してる。K市邊は會社も多しどうかお前方夫婦の手で勤め口を探して呉れないか」としみじみ言はれて、房子夫婦は苦勞の多い、母の爲め、兄の就職口を探す事を快よく引受た。

 だがおとなしい靜かな性質の良三は、腕も切れる代りに酒も呑み遊びもすると云ふ樣な透の性質に思ひ至つた時、少し自分には荷が重過ると感じた。怖ろしい豫感をさへ抱くのであつた。妻の房子も同じ樣な氣持がして「兄さんもお酒さへ止めなされば申分ないけれど……」と言つた。

「もう今度こそ丸一年も遊び續けて懲り懲りしたから透も以前の樣な馬鹿な事はしますまいよ。それに萬一の事があつても私達が居る以上はお前達に迷惑のかゝる樣な事は決してしない」

 母はかう言つて呉々も賴んで行つた。其後或る官吏に一寸したあきのあつた事を透の許へ知らしてやると「自分は官吏は嫌ひだがどこか會社にでもあつた節は知らして呉れ」と言ふ返事が來た。透も最初の間は高賣してゐて、可成り方々の口もあつたのを皆氣に入らないで斷つて居たが居食に約一年遊び暮して中々思はしい口も無し九州の有望な景氣を母の口から聞き一徹な父へ母からとりなして貰つて絶對に酒なぞやめる約束で來る事と成つた。話上手な透の話を熱心に聞いて居た房子は、時々ほどき物の手を休めて兄の話に切り込んで行つた。[やぶちゃん注:「居食」「ゐぐひ(いぐい)」と読む。働かずに手持ちの財産でのみ生活していくこと。無為徒食。この私藪野直史のような輩を言う。]

「巣鴨にいらつしやつた時はどんな風に暮していらしたの」

「會社をやめた當座は夫婦で每日每日遊び步いたよ。芝居にも隨分よく出かけたね。それから好きな鷄も九羽許り飼つて居た。困るとはいふものゝ夫婦切りだし多少餘裕もあつたから晩酌も每晩やつたよ。食いたいものも喰つた」

 透は面白さうに答へてカラカラと笑つた。巣鴨時代は透も茶屋遊びなどは全くやめて割合に眞面目に成つたので芳子との仲も却つて不自由の無い時代より睦まじかつたらしい。飮食の欲望は可成盛んな透も金錢には至極淡泊で、有れば有る丈パツパと成丈派手に使ひたい方なので、二三年はやつて行ける筈の貯へもぢき乏しく成り掛けて來たらしい。[やぶちゃん注:「成丈」「なるたけ」で以下の「派手に使ひたい」に係る。]

「何しろ暇なものだから俳句に凝て暮した。大抵な句會には缺かさず出席もしたし知名な俳人達とも交際した」とは何よりの自慢らしく話した後で例の鞄を押入から持ち出した。中古の天鵞絨張の鞄の中からは、俳壇で一流と言はれる人々の短册二十枚が出た。[やぶちゃん注:「天鵞絨張」「ビロードばり」。]

 透は一々夫れを讀み聞かせたり、其短册を書いて貰つた時の有樣を話したりした。其短册の中には、俳巨人と言はれて全國の俳人達から活神樣の樣に敬はれてゐる某氏のも四五枚あつた。それから又透は、夫等著名の俳人の風丰(ふうぼう)や逸話をも聞かせた。俳巨人某氏の寫生文の有難味や、能樂の非常に得意な事。夫から某老大家の話自分と句兄弟である英新聞の記者某氏が江戸つ子肌で非常に透と意氣投合し且氣持の好い人物である事などをこまこま語つて後、自尊心の強い彼れは、自己の俳句界に於いての地位を殊に力説した。自己を相應に「認めらるゝ俳人」として自負してゐる彼は、「心を引締て愈々勤め口の決定する迄は俳人等とも交遊を斷つて只管(ひたすら)謹愼せよ」と父から文通さへ止められた事を唯一の遺憾とした。種々な事情の爲めに、

「朝晩往來してゐた俳人仲間へ一言の暇乞もせずに來てしまつた。俳句は自分の生命でもあるし變に夜逃げでもした樣思はれては僕として一番殘念だ」と彼れは切に訴へるのであつた。實際透の爲めには妻に無斷で遠地へ漂浪し初めた事よりも俳人仲間と交渉を斷つた事の方が餘程苦痛らしく見えた。房子は俳句も知らず、俳人仲間の名さへ初めて聞くのであつたが一體に文學趣味を持つてゐる彼女はもの珍らしく多大の興味を以つて、兄の寶物の樣大事がつてゐる短册や、手紙、端書の類を眺めるのであつた。[やぶちゃん注:「風丰(ふうぼう)」のルビは正しい。風貌と同義であるが、風貌の場合は歴史的仮名遣は「ふうばう」であるが、この「風丰」は「ふうぼう」である。]

 

       六

 

 兄を唯自我の念の勝つた理智一點の人間の樣に思つて居た房子は每日透と膝突き合はして語る中次第に兄を理解もし今の境遇に對して同情もよせた。兄の過去を憎めない心地もした。「兄さんもうお酒はやめて眞面目に今度は成つて下さい。お母さんも本當に心配していらしたわ。折角好いとこに勤めていらしたのに、惜かつたのねえ」と言ふと、

「なあに人間だもの七轉び八起だよ。僕は決して悲觀しない。吃度(きつと)今度はやつて見せる」と緊張した面持に成つて「だが隨分一時は無茶な事をやつたよ」と其當時の殆ど常識から考へては馬鹿らしい豪遊振や物質上のケパケバしい生活を得意げに語り出す事もあつた。夫は房子などの考へも及ばぬ現實味の勝つた世間臭い物だつた。

 其生活の中には精神的な安心も、愛も、敬虔な信仰もない。只爭鬪や、上辷のした歡樂のみがあつた。[やぶちゃん注:「上辷」「うはすべり(うわすべり)」。]

「兄さんの今迄の榮華はすべて泡錢や虛飾から出來上つてるのですね。自然覆る筈ですわ。あなたは夫で面白ろ可笑くお暮しでしたでせうが、いつも遊蕩費を負ふのはお母さんなのですもの、兄さんも最う昔とは違ふのですもの、今度こそは御兩親に心配かけないで下さいな。ねえ兄さん……」

 思ひ切つて、切り出した房子の聲は震へてゐた。只自己の歡樂のみを追うて年老つた父母の心配をも忘れ、いつまでも兩親の懷を當にしてパアパア湯水の樣に使つてしまふ透の生活は、あまり物質的であつた。もすこし淸い荒(すさ)まない兄にしたい。母の苦勞を減らしたいと彼女は熱心に思ひつゞけた。

 母への感謝は忘れてまだまだ母の愛が足りない、母は長兄のみ大事にすると言つて、透は自分から優しく只の一度もしないで、寧ろ母に突當る樣にして來たのであつた。

 房子は燃える樣な熱心で、或時はおめず屈せず、物質萬能の兄を罵り母の愛を説き、母の苦心を聞かせ、或時は涙を流して兄の荒んだ心持を純なものにしたいと願つた。だが兄は盛んに房子の説に反對し不平を並べもし、自己に都合のよい説をまうけていつかな彼女の精神的な心持を受入れようとはしなかつた。のみならず、話上手な議論好きな彼は、上手に理屈をくみ立てゝ往々房子へ肉迫して來た。[やぶちゃん注:「おめず」マ行下二段活用の自動詞「怖(お)める」(現行では使用頻度が低い)の未然形に打消の助動詞「ず」の連用形が附いたもの。]

 房子は充分心には思ひつゝ筋道立てゝ、縱橫に辯説を構へる兄を説得すべく出來能はなかつた。[やぶちゃん注:「出來能」「できよう」と訓じていよう。「よう」は「能(よ)く」の音変化だから「やう」(樣)ではない。]

 が自分の眞心と熱誠を以つて必らず、母の愛をつぎ込み、兄を幾分なりとも精神的にしたいと彼女は心の中に誓つた。房子は何でも率直に、言ふと云ふたちの女なので怖れず、自分の正しいと思ふ事はヅケヅケ言つた。倂し兄妹とも至極眞面目に各自の立場立場から爭ひ合つたにもかゝはらず、彼等は決して怒つてはゐなかつた。

 火の樣に熱して語りあつてゐると頭の上で、ポカリと電氣が點いた。隣りへ遊びに行つてゐた、長女の澄子が歸つて來て、

「お母さん御飯まだ?」

と催促する事もあつた。

「おやおやもう五時過ぎてますよ。伯父樣があまり強情おはりになるものだから」

と房子は笑ひながら、仕事を片附けてソソクサと夕飯の仕度にかかる事もあつた。

 夕方もう日の暮れ暮れに房子の夫が歸つて來ると、燈の下に賑かな食卓が持ち運ばれる。「謹愼中は酒は一滴も呑むべからず。衣は寒さに堪へ得、食は飢をふせぎ得れば足る」と言ふ樣な手紙を父からは、兄の許へ寄越して來た。母からも懇々賴みもあるので房子はわざと酒はめつたにつけなかつた。每夜の樣晩酌の二三合づゝ飮みつゝあつた透の爲めには夕の膳の上に盃を見ないと云ふ事は當分の中一番苦痛であつた。

 

       七

 

 房子の家では着物は極くかまはない方だつたが食物だけは割合に氣をつけてゐた。房子の父は非常な食道樂だつたので房子も自然食物を料理する事には興味を持つてゐた。一個の馬鈴薯一本の牛蒡をも彼女は樣々に工夫して料理した。

 或時には牛の舌が煮られる事もあり、豚のロースがテーブルに並ぶ事もあつた。一寸繪心の有る彼女は、料理の體裁なども氣をつけ色彩などにも注意して樣々に變化させ美化させる事に苦心した。貧しい厨ではあつたが萬事應用して行く事に興味を見出してこの粗末な卓上にも折々豐富な料理がならべられた。だが兄の透に取つては一寸一口、盃のふちへ唇を付けないと云ふ事が非常に淋しいものに思はれた。房子達は皆で兄さん兄さんと、精一ぱいまごゝろから大事にしては呉れたが、どうか飮まして呉れとは流石な彼も言ひ出しかねて、直樣お茶碗を取り上げた。[やぶちゃん注:「直樣」これで「ぢきさま(じきさま)」とも読むが、「すぐさま」で読みたい。直ちに。]

 寢ようとすれば布團しきにも來てくれ、嫌な感じは少しもなかつたが自分の家にゐて思ひ通りにするのとは萬事勝手も違ひ時々は解きすてた過去の家庭をなつかしいとも思つた。

 何か祝日とか日曜の夜とかは房子は兄を慰める意で、河畔の店へお酒買ひにいつた。そして酒飮の口にあふやうなものを二三品つくり添へた。わづか二合程の酒を、チビリチビリと樂しみつゝ機嫌よく飮んで呉れる兄を見ると房子は兄の樣な性質の男がかうしておとなしく淋しい生活を續けてゐるのを氣の毒にも思へた。

 子供は「伯父さん伯父さん」と馴付いて、透の散步へゆくにも湯に行くにも離れなかつた。良三も透を大事にしてくれた。一家はお互にいろいろな辛さを忍んで至極平和に、最初心配した樣な氣まづさもお互にあぢははず暮す事が出來た。

 夫の良三は、兄の就職口を奔走する爲めいろいろな手蔓を賴つて方々自ら賴み𢌞つた。

 野心も企圖も燃える樣な四十に手のとゞく男が、なす事もなくブラブラと日を送る事の無聊な苦痛や、妻に別れ家をすて友にも背いて、今は彼の最も貴しとする富や權力に遠ざかり、酒色をも顧ず唯あけても暮れても貧しい妹一人を話相手としてわづかに活きて行かねばならぬ彼の心中の寂莫は非常であつた。過去の失敗も失脚も運命とあきらめて、敝履の如く榮華を捨てゝしまつた彼れは、一面に於て夫れを一向意にも介せず、

「なあに」と至極呑氣にかまへてはゐたが其半面には都會人らしい非常に鋭敏な感情をも持つてゐた。感傷的ではなくどこまでも女々しい事は口にしない性質で、

「なあに、今に盛り返して見せる。吃度僕だつて、此儘朽ち果ててしまふ樣な意氣地なしではないんだ」と力を入れて言ふのであつたが、其明晰な頭は何事に逢着しても充分徹底的な判斷を下さないでは氣がすまなかつた。彼れは苦痛をも口に出さず、内心に深く深く刻みつけ考へ詰めもした。自信の強い、或時は圭角ある物言もする兄を房子は憎めないで却つて俳趣味のどこかにひそんだ、兎に角轉んでもつまづいても、何となく元氣があつてテキパキしてゐる兄の性質を「面白い性質」だと思つた。親達に優しくないのも一つは彼の淡泊な性質からだとも思へた。房子は透の襯衣(シヤツ)を洗濯したり、朝晩のチヨイチヨイした身のまはりの世話をも成丈(なるたけ)まめまめしくした。[やぶちゃん注:「敝履」「へいり」。弊履に同じい。破れた履き物。使い物にならない物の喩えとしても用いる語。「圭角」「けいかく」。「圭」は硬い宝玉の意で、玉石にある角(かど)から転じて、性質や言動に角(カド)があって円満でない様子を指す。]

 また兄の動靜を知らせる東京への手紙の中には「兄は丈夫で至極まじめで每日暮してゐる。以前の兄とは違つて、兄も今度こそ辛抱が出來るでせう」といつも兄の味方になつた。淋しい兄の爲めせめて俳人達との文通丈許して頂だき度いと房子は手紙の度に父へ賴んだが父は「出立後まだ一月にもならぬのにもう左樣な言を申樣では前途の謹愼も覺束ない」と却つて不興げな返事を兄妹に宛てよこした。一緒に讀んでゐた透は苦笑しつゝも強ひてとは言はず、此河畔の家に世と斷つて起居した。

 

      八

 

 十一月に入ると朝晩はめつきり寒く成つたが秋晴の爽かな日和が續いた。手の無い房子の爲めに晝は赤ン坊を抱へて呉れたり、長女を連れてたまには買物にも行つたり、又川向うの漁師町を見物に出かけたり、漁船の歸つて來るのを見に行つたりして日を消してゐた透は魚釣を初める事に依つて此禁慾的な生活の中に、一道のまぎれ場を見出し得たのであつた。

 日が高く上つて川向うの水神の小雨の邊がはつきり現はれる頃になるともう土堤の黃樺色した芒の中にも橫へられた河原の船にも、枯蘆の中にも、突出た石垣の上にも鯊(はぜ)釣の人達が、雨の降らない限りは吃度十三四人も見えて居るのであつた。午前中にたつ漁師町の競り場で小海老の餌サを買つて置く事は透の每日の定つた仕事の一つであつた。彼は押入の中のあの鞄をあけて、布で縫つた財布から白銅をつまみ出して、クルクル紙にくるんで、餅の羽織の袂へほり込んで、それから緣の庇へ吊つてある魚藍(びく)を下して行くのであつた。澄子はいつも草履をバタバタ言はせながら「本所の伯父さん」に吃度從いて行つた。[やぶちゃん注:「黃樺色」「樺色」は赤みの強い茶黄色であるから、それの強く黄色に偏移した色。薹のたった薄の穂であるから薄い鬱金(うこん)色といった感じである。]

 天氣のよい日堤に立つて川面を見てゐると上潮につれてグングン小河豚や鯊などのせり上げて來るのや、銀色した鯔(いな)が跳るのを見た。當地へ來てから初めての、釣には新米な透は、素早く呼吸を會得して朝つから釣てゝもダボ鯊一尾もよう釣らぬ下手な人々の貧弱な魚藍をのぞき𢌞つては餌サの付け鹽梅や、糸を引きあげる瞬間の呼吸等ををしへる事さへあつた。そして自分では小い河豚や鯊を釣つても「江戸子はこんな小魚は喰はないや」なんて、針からはづして川中へはふり込んでしまふのであつた。尤も透の呼吸は釣好きな良三に負ふところが多かつた。晝は河豚に餌を奪られてしまふので彼等二人は夜釣一方だつた。二人は釣竿と魚藍と、提燈を持つてすぐ前の川で釣るのであつた。釣れるものは、さし潮につれて上つて來る一年子二年子位な海鰤(ちぬ)やセイゴなどで、外には鰻が大變釣れた。釣りには月のない夜がよいので暗い堤に、二人の釣る提灯が時々場所を替へたり、一とつところで釣つたりするのが、房子の家の緣側からよく見えた。時には他の提灯が彼等の提灯に近よつて行く處も見えた。或時は庭の樅の梢を透して、漁師町へ渡る橋の中程に釣る彼等の提灯が霧の中にボーツと見えた。大抵の夜が十二時、一時頃迄。暗い水の上を見つめる樣にしてもう引くか引くかと只一本の糸に心を集中してしまふので、其間は何も考へない。引かゝつたり、時には逃したり、透の興味は只魚が釣れ樣がつれまいがすべてを忘れて、魚釣に一心を傾け盡すと云ふ事それ丈が、今の境遇に於いての唯一の活動でもあり努力でもあつた。寢坊な良三の方は却つて、釣竿を手にしたまゝゐ眠などして、透の樣に眞劍で釣りはしなかつた。[やぶちゃん注:「鯔(いな)」地方によって異なるが、一般的には出世魚である条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の成魚(「ボラ」と呼称)になる前の幼魚或いは成魚となる直前の段階十八センチから三十センチほどの大きさのものを指す。「海鰤(ちぬ)」「茅渟」の漢字表記の方がよい。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii のことであるが、後で久女は「黑鯛」と記すところを見ると、その成魚前の中小型のクロダイをかく呼んでいるように思われる。「セイゴ」やはり出世魚として知られるスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、関西では全長が四十センチ以下(一年物と二年物が含まれる)のものを一律に「鮬(せいご)」と呼ぶ。]

 時には電車に乘つて、市の西方の突堤などへ出かけ終夜荒い波を被ぶりつゝ釣りをする事もあつた。

 そういふ時は夕飯を早くすました透と良三は外套だの眞綿だのをかしな程色々着込んで、西洋乞食の樣な風をして出かけて行くので房子は、正宗の二合瓶に、一寸した折詰などを整へて渡す。夜通し防波堤の上で一睡もせず、釣りした二人は翌朝最初の電車の通ひ初めた頃疲れ切つて歸るのであつた。潮時になると途中一二ケ所防波堤のゴロゴロ岩は潮に浸されて陸へ歸る事は、潮の再びひく迄は不可能であつた。出迎へた房子は

「昨夜は如何でした。釣れましたか」と吃度聞いた。

 魚藍の中には黑鯛やアラカブ、目張、時には七八寸の海鰤が銀色の鱗を光らせて交つてる事もあり、生きた蟹がゴソゴソと魚藍の中で手足を動かす音もした。概して釣の成績は非常によかつた。[やぶちゃん注:「アラカブ」棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の九州方言。他に「がらかぶ」「がぶ」などとも呼ぶ。「目張」同じカサゴ亜目フサカサゴ科(又はメバル科)メバル属 Sebastes(シロメバル Sebastes cheni・アカメバル Sebastes inermis・クロメバル Sebastes ventricosus の三種がいる。アカメバルは「沖メバル」とも呼ぶが、沿岸域にも棲息する)。]

 

       九

 

 透の就職口に就いて或日良三は北九州でも指折りの某實業家を訪ねて行つた。其子息達が良三の學校に通つてゐたと云ふ樣な只ほんの淡泊(あつさり)した因緣を手(た)ぐつて正直細心な良三としては押づよく出かけて行つたのであつた。その某氏の經營してゐる宏大な學校を通り拔けて、松山の麓に其邸宅があつた。

 可成立派な應接室に通されて良三は、某氏から至極居心地のよい應接を受けた。透の事を切り出して賴むと「今どこと申して空もなし直ぐにと云ふわけには行かないが兎に角御話の趣は承知した。一應近日御本人に逢ひ度い」と言はれて先づ絶望する事はない、逢つて貰へば本人の如何な人物かと云ふ事も判るからと良三は喜んで歸つて來た。透も房子も、「逢つて貰へば又話しの進め樣もある」と喜んだ。

 逢ひに行くにしても今の透は袴も羽織(紋のもの)も持つて無かつた。房子は早速手紙を書いて東京に送つた。

「まだ成否は判らないけれども某氏は當縣でも屈指の實業家でもあり、學校の方の關係もある故兄上面會の上は決定せぬとも限らぬ」由を認めドンナ袴でもよいから一着送つて下さいと母の許へ賴んだ。

 折返し來た返事は房子の姊の代筆で、申越の物は取揃へて送るが母も中々色々と、出費も多し父上は一徹で中々苦勞も多い故兄上も、充分氣をつけて心を引締め、母の情けを充分心に刻みつけて貰ひたいとの意が、あまり露骨に書かれてあるのを透は例の「なあに」と云ふ氣質なので、

こんなに僕も身を苦しみ不自由も忍んでるのにさうさう子供の樣に辛棒辛棒と、大概程度もあるぢやあないか」と大變不機嫌な顏附で、「房さんも僕の味方に成つてちつとは僕の自由になる樣取計らうべきが、兄妹の情なのに、大小洩さず、監視的に、報告して、益々僕を檻に入れ樣とするんだね」

 房子に突掛る樣に言つた。

まあ兄さん。あんまりですわ、兄さんこそひがんで……」

 房子もむきに成つてむか腹を一寸立てた。だが二人の小い爭ひも直ぐ消えてしまつた。

それから三四日すると東京から小包と菰包が着いた。小包の中には、兄の外出着や新らしい袴。それから里の定紋の付いた黑紋付の羽織に紐もチヤンと揃へてあつた。外に、大變世話になるからとて、房子や子供達へめいめい色々と、美しいものが入れ添へてあつた。房子の好物の海苔の箱入もあつた。こまこました是等の送りものを一々見入つて居た房子は事滋い母が年寄りの手に、かうして何から何迄心配して整へて下さるのが勿體なくて涙のこぼれる樣な心地がした。

 菰包の方は布團とかいまきだつた。寒がりの透は、其癖ゴロゴロ寢卷を着て寢(やす)む事の出來ない性で嚴冬でも洗ひざらしの單衣一枚で毛布の柔かい布團にくるまつて寢る癖がついてゐたので此夜頃俄かに寒く成つて來たので初め持つて來た薄布團では足りなかつた。有難い母の情けが、あればこそ、彼は、小使錢からはきものかうして布團迄も送つて貰へるのであつた。

 父は或點に於ては非常に鷹揚で、かうした子供四人の世話から家事一切、總て母が細心に苦勞して行くのであつた。布團の中には更にまだ、縫はない絣の反物が裏地もそへて「これは、不斷着も澤山持つて行かなかつたから綿入にして着せて貰たい。倂し房さんも子持ちで忙がしからうから外へ縫ひに出してくれ」とて、仕立代までも添へられてあつた。母から自筆の手紙が來たが其中には、「透も不自由であらうが辛棒して呉れ。この三圓は小使に」と、小爲替が封入してあつた。手紙は短かいけれど母の温情は溢れる程に認められ流石の透も母の情がしみじみと胸にしみた樣であつた。

「兄さん御覽なさいな。この通りお母樣はあなたを案じていらつしやるのですわ! この夏からのお母樣の心配をお知りに成つたら兄さんも、今迄の樣にお母樣を水臭いなんて思はないで下さい」

 感激した房子は熱心に母の心持を説いた。そして、兄自身も、進んで老いた、長い間世と戰つて來たあの母を喜ばせてほしい。何も品物や金錢で喜ばせなくても母は唯眞心さへ捧げれば嬉しがるのだ。例へば手紙一つにしろ報告文の樣にせず母の氣の安まる樣優しく、老人に得心のゆく樣書いてほしい。子の爲めに若い時から苦勞し續けた母は、只わづかな注意で、母に優しくすれば母は滿足する。そんな事を色々に話した時透ははじめて「さうだ。僕は今迄格別親不幸したとは思つてなかつたが、自分から進んで喜ばせ樣なんて思つた事は一度もなかつた。母の得心する樣僕の氣持も書いて送らう」兄のすなほに答へるのを聞いて房子は非常に喜んだ。

2014/12/28

杉田久女全句集 附やぶちゃん注 (PDF縦書版)

「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」に「杉田久女全句集 附やぶちゃん注」(PDF縦書版)を公開した。今年一年かけたものの集大成。

……久女さん、暮れに間に合いました……

2014/12/27

PDF縦書版 杉田久女全句集 附やぶちゃん注 鋭意製作中

現在、PDF縦書版「杉田久女全句集 附やぶちゃん注」にとりかかっている。これが恐らく、今年最後の大物テクストとなるものと思われる。活字を大きくした関係上、作業中の現段階で総ページ数が500に近づいている。乞御期待――

2014/12/24

杉田久女句集 327 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅩⅩⅢ 昭和十四年(全) / 杉田久女全集全句公開終了

  昭和十四(一九三九)年

 

あせやすきにせむらさきの薺うち

 

英彦にて覺えし蝶にこと問はむ

 

[やぶちゃん注:絶唱、

 

蝶追うて春山深く迷ひけり

 

と遠く響き合う句である。]

 

  寶塚聖天に詣づれば

 

聖天の鐘が鳴るなりわらびつむ

 

[やぶちゃん注:「寶塚聖天」兵庫県宝塚市宝梅にある七宝山了徳密院。大阪浦江福島聖天了徳院別院として大正八(一九一九)年に元真言宗東寺派管長日下義禅によって建立された新しい寺である。通称「宝塚の聖天さん」。因みにこの句の後のこととなるが、この寺には神風特攻隊敷島隊に二名を出した第十期海軍甲種飛行予科練習生の慰霊碑を含む全国陸海空戦没者二百五十万の英霊を祀る光明殿(昭和五三(一九七八)年建立)があり、その殿上に配された零戦のレプリカでも知られる。同寺の公式サイトをリンクしておく。]

 

實を搖りて鈴かけわれにめぐむなり

 

鈴かけの大樹と成りて芽ぐむなり

 

春雷のうてば松魚節(かつぶし)折れちまふ

 

新樹かげ鈴成の實を仰ぎたつ

 

土濡れて鈴かけめぐむそよ風に

 

  一月振にて歸宅

 

トマト早や靑き實をつけ目當てよく

 

群れ通る工女盜むな紅苺

 

なりはひの苺積みのせトラックに

 

夕月まろし滿地の苺熟れみちて

 

大阪へ積み出す苺摘み急ぎ

 

鐘涼し松間を一人降りくれば

 

靑梅ちぎる小梯子移し次々に

 

手とどけど梢のみ梅ぬすむまじ

 

實梅もぐ徑もありて塚涼し

 

鐘涼し寶の塚に詣づれば

 

  武庫川にて

 

晝河鹿きゝつゝわたる橋の上

 

[やぶちゃん注:「武庫川」「むこがは(むこがわ)」は兵庫県南東部を流れる河川。兵庫県篠山市真南条地区付近を源とし、蛇行を繰り返しながら次第に南行、三田盆地を潤したのちに再び山峡に入り、武庫川渓谷を形成、宝塚市街西方で大阪平野の北西端へ出て南流、下流域では尼崎市と西宮市の境界を成しつつ、瀬戸内海に注ぐ。因みに先に出た「寶塚聖天」は、この河畔に建つ宝塚劇場の対岸から南西に約一・四キロメートルの位置にある(ウィキの「武庫川」に拠った)。]

 

ゆく水をせきとめべしや鮎躍る

 

[やぶちゃん注:「せきとめべしや」はママ。]

 

ゆるやかにせせらぐ水よ夕河鹿

 

月見草手にあり散歩月をめで

 

むしあつき戀も忍ばずひとへ帶

 

  高柳部隊を見送る

 

夏草を積むトラックは兵たん部

 

[やぶちゃん注:「高柳部隊」不詳。戦史の専門家の御教授を乞うものである。]

 

喜べど木の實もおちず鐘涼し

 

石角に林檎はつしとわがいかり

 

[やぶちゃん注:久女句集本文の最後を飾るに相応しい、久女らしい印象的一句である。……久女さん、誰が何と言おうと、私はあなたが好きです――――]





これを以って私のブログ・カテゴリ「杉田久女」
に於いての立風書房版「杉田久女全集」句集本文の全句の電子化を終了した。

杉田久女句集 326 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅩⅩⅡ 昭和十二年(全)

  昭和十二(一九三七)年

 

筆とればしづかにたのし塗火鉢

 

  圓山應擧墨繪

 

金屛の蛟竜雲に乘ずべく

 

[やぶちゃん注:重文の丸山応挙の「雲龍図屏風」(安永二(一七七三)年作・東寺観智院伝来)か?]

 

  山樂源氏物語屛風

 

爭へる牛車も宮も春がすみ

 

[やぶちゃん注:重文の狩野山楽の「車争図屏風」(四曲一隻・紙本着色・江戸時代十七世紀作・東京国立博物館蔵)であろう。九条家の「源氏の間」の襖絵を屏風に仕立てたもので、「源氏物語」「葵」の帖の知られた「車争い」のシーンを材としたもの(リンク先は国立博物館公式サイトの同屏風図)。]

 

  淸朝ひすい香爐

 

春怨の王妃がゆめをまのあたり

 

  信貴山緣起繪卷

 

百獸の戲畫おもしろしことに秋

 

[やぶちゃん注:国宝で奈良県生駒郡平群町の朝護孫子寺蔵で現在、奈良博物館寄託の「信貴山縁起絵巻」(リンク先は平群町公式サイト内)。]

 

今たのし雉子の玉子草にあり

 

雉子の雌(め)のぬくめゐたりしこの玉子

 

愛しけれきぎすの玉子手にとりて

 

押しとほす俳句嫌ひの靑田風

 

虛子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帶

 

[やぶちゃん注:同年十月の『俳句研究』に載った「靑田風」十句の内の二句。徹底した「虛子嫌ひ」の私の偏愛する二句である。]

 

一人寢の水色蚊帳に夢淸き

2014/12/23

杉田久女句集 325 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅩⅩⅠ 昭和十一年(全)

  昭和十一(一九三一)年

 

冬凪げる湖上の富士を見出けり

 

  横濱税關

 

屋上の冬晴にあり富士かすむ

 

[やぶちゃん注:既注したが、昭和七(一九三二)年八月に長女昌子さんは横浜税関長官房文書係雇として就職していた。]

 

街路樹の黄葉あたたかし電車まつ

 

夜の街に去年のなじみの菊うり女

 

まちあほす冬日の町の時計臺

 

  ユダともならず

 

春やむかしむらさきあせぬ袷見よ

 

[やぶちゃん注:久女満四十六歳のこの年の十月、彼女は突如、虚子によって『ホトトギス』から除名される。同月発行の『ホトトギス』上での除名社告『同人變更/從來の同人のうち、日野草城、吉岡禪寺洞、杉田久女三君を削除し、淺井啼魚、瀧本水/鳴兩君を加ふ。/ホトトギス發行所』(底本年譜引用の者を恣意的に正字化した)による一方的なものであった。既に『ホトトギス』には前年九月から全く入選しない状態が続いていたが(坂本宮尾氏の「杉田久女」に拠る)、除名理由は現在に至るまで明らかとなっていない。久女自身にも解らなかったのである。その辺りの真相は坂本宮尾「杉田久女」に詳しいので、一読をお勧めするが、この句については同書中に坂本氏の非常に素晴らしい解説と評釈がある。少し長いが、引用させて戴く(「Ⅵ 同人削除以後」の「一 失意の日々」の冒頭「ユダともならず」という見出しを持つ冒頭部である)。

   《引用開始》

 昭和十一年に同人除名の公告が出された後も、久女はいつの日にか虚子の勘気が解けて、同人に返り咲くことがあると思っていたのであろう。別の結社に移るということはしなかった。

 除名後に「俳句研究」に発表された作品をみよう。昭和十一年十二月号の自選十句のうち、

     ユダともならず

  春やむかしむらさきあせぬ袷見よ

 前書には、除名されてもホトトギスを裏切る者ではないという思いがこめられている。この句は言うまでもなく在原業平の、「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」の本歌取りである。業平は月が美しい春の夜に、自分ひとりは元のままであるのに、自身をとりまく状況はすっかり変わってしまったと嘆いている。久女の句からにじむ思いは、業平と同じく「我身ひとつはもとの身にして」という深い詠嘆である。

 紫という色は万葉の時代から情感をこめて詠まれてきた。大海人皇子(おおあまのおうじ)は額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に応えて、「紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あれ)恋ひめやも」(1―二一)(紫の色が美しく匂うように美しいあなたを、もし憎く思っていたなら、人妻と知りながら、どうして恋い慕うことなどあろうか)。また、麻田陽春(あさだのやす)は大伴旅人を送る別れの宴で、「韓人(からひと)の衣染(ころもそ)むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも」(4―五六九)(韓国の人が衣を染めるという紫のように、心にしみてあなたのことは忘れがたいことだ)と詠んだ。

 久女は紫色を純情のメタファーとして用いている。「むらさきあせぬ」の中七で万葉ゆかりの紫色に託して、俳句に、また虚子に対する彼女の変わらぬ思いを訴えている。

 同人除名が久女に与えた打撃は計り知れないものであった。蘇峰の孫、名和長昌氏はつぎのような少年時代の夏の出来事を伝えている。昭和十一年の七月に、久女は蘇峰の山中湖畔の別荘、双宜荘で家族のように温かくもてなされた。翌年、除名された傷心を抱えて彼女は蘇峰を慕って、ふたたび双宜荘を訪れた。その年は暑い夏で別荘は千客万来でどの部屋もいっぱいであったため、別の旅館に案内された。蘇峰にも冷たく扱われたと思いこんだ久女は旅館に上がらず、次第に激昂して、大声で叫び出し、駅員や駐在の巡査も出てくる騒ぎになった。結局久女は駅のベンチで一夜を明かして帰って行ったという(「双宜荘の杉田久女」)。突然の除名以来、久女は周囲から好奇の視線をあび、冷たい扱いをされ、もう誰も信じることができなくなっていたのであろう。なんとも痛ましい話である。

   《引用終了》

「蘇峰」は徳富蘇峰。虚子の序文が得られなかった久女は、虚子の渡欧中に両者に親しかった蘇峰(虚子はかつて、蘇峰の創刊した『国民新聞』の俳句欄の選者であり社員の一人であった)に句集出版を持ちかけていた(宮本氏の同書によれば実はこれが虚子の久女除籍の最後の動機でもあったらしい)。この名和長昌氏の話は――久女伝説とは切り離して――事実であったと私は思う。私は――駅のベンチに一夜を明かす――その久女の姿を――見たことがあるようにさえ感じるからである……]

 

歸朝翁横顏日やけ笑み給ふ

 

[やぶちゃん注:年譜に同年『二月、門司にて虚子の渡欧を送る』とある。例の虚子の没後の「墓に詣り度いと思つてゐる」(『ホトトギス』昭和二一(一九四六)年十一月)で捏造形成されることになる、おぞましき久女伝説の一つ、所謂「箱根丸事件」(の一部)があったとされる折りの送別吟であろう。この一句には『氣違ひじみ』(「墓に詣り度いと思つてゐる」の一節。但し、坂本宮尾氏の「杉田久女」より孫引き)た彼女の姿は全く見えてこない。]

 

粟の花そよげば峰は天霧らひ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「天霧らひ」は「あまきらひ」と読む。「霧らひ」は「きらふ(きらう)」で、霧や霞が一面に立ちこめるの意の上代語である。これは「霧が立つ」の意(他に「目が曇る」「涙で霞んではっきり見えない」の意がある)のラ行四段の自動詞「霧(き)る」の未然形に反復・継続の上代の助動詞「ふ」(ハ行四段と全く同じ活用をする)がついた連語であるが、平安以後には「語らふ」「住まふ」「慣らふ」「願ふ」「交じらふ」「守らふ」「呼ばふ」などの特定の動詞の活用語尾に残るだけで接尾語化してしまう。「霧らふ」もハ行四段活用の自動詞のように振る舞う語といえる。]

 

栗の花そよげば晴れぬ窓の富士

 

こぎいでて倒富士見えずほととぎす

 

[やぶちゃん注:「倒富士」は流石に「さかさふじ」と訓じていよう。]

 

灯さぬ水邊のキャンプ早も寢し?

 

[やぶちゃん注:「キャンプ」の拗音表記や「?」はママ。但し、底本の「?」活字は明らかに標記通りの半角である。初五は「ともさぬ」であろうが、索引は「ひ」の項にある。「?」は底本本文句表示の行の高さの中に納まっており、確信犯で句の一部、下五の末尾であって、例えば疑いを示す編者による附帯記号などではない(但し、表記が半角であるのはやや気にはなる)。無論、久女の句表現としては他に例を見ない異様異形なものである。しかし、この昭和十一年なればこそあったとしておかしくないのである。]

 

鳥の巣もぬれて赤富士見に出よと

 

嶺靑し妹と相みる登山驛

 

[やぶちゃん注:「妹」久女に妹がいたかどうかは不詳。「妹」は久女の句ではこの句にのみ出る特異点の漢字である。「登山驛」不詳。可能性としては箱根湯本か。]

 

  信州

 

杏熟れ桑照り四方は靑嶺晴

 

賑はしや市場はつゆの疏菜競(せ)る

 

わがたちゐピアノにうつり菊の前

 

雲海の夕富士紅し稻架の上

 

菊携げて笑みかほす目に情あり

 

花園に糞する犬をとがめまじ

 

旅に出てやむ事もなし柿と粟

杉田久女句集 324 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅩⅩ 昭和十年(全)

  昭和一〇(一九三五)年 

 

山頭の赫土さす日や小松曳

 

雪嶺の襞濃く晴れぬ小松曳

 

[やぶちゃん注:「小松曳」「こまつひき」と読み、平安時代の昔から正月初めの子(ね)の日に、野に出でて小松を引き抜いて遊んだ行事をいう。子の日の遊びで新年の季語。]

 

電車待つ未明(まだき)の北斗冴え返り

 

風呂焚くや石炭喜々と焰鳴りつつ

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

 

節分のくらき神樂に詣でけり

 

御廟所へ向ふ徑も笹鳴けり

 

陽炎へる老の歩みにそむくまじ

 

久方に笑み交す瞳も雛さび

 

古雛や花のみ衣(けし)の靑丹さび

 

[やぶちゃん注:「衣」の「けし」の読みは、動詞「着(け)す」の連用形から生じた古語。一般には「御衣(みけし)」の形で使われる。]

 

雛愛しわが黑髮を植ゑ奉る

 

とほくより櫻の蔭の師を拜す

 

わが袖にまつはる鹿のあしび雨

 

[やぶちゃん注:「あしび」ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ(馬酔木) Pieris japonicaは晩春の季語であるが、「あしび雨」という季語が存在するとは思われない。「あしび/雨」も無理がある。これは季語を出すための大胆な造語と思われる。]

 

叱られてねむれぬ夜半の春時雨

 

花過ぎし斑鳩(いかるが)みちの草刈女

 

名草の芽もゆるところに日は濃く

 

[やぶちゃん注:「名草」は辞書によれば、「めいさう(めいそう)」と読み、花が美しいとか薬効があるなどの理由で、よく知られている草の意とする。]

 

岩惣の傘ほしならべ若楓

 

[やぶちゃん注:「岩惣」広島県廿日市市宮島町南町にある旅宿「岩惣」か? 同旅館の公式サイトによれば、安政元(一八五四)年に初代岩国屋惣兵衛が厳島神社の管絃祭(旧六月十七日)の前後一ヶ月間に立つ市(いち)の賑わいに着目、奉行所より紅葉谷(現在のもみじ谷公園)の開拓の許可を受け、もみじ川に架橋して渓流に茶屋を設け、道行く人々の憩いの場としたのを始まりとする実に百五十年の歴史を持つ旅館である。「岩惣」という名も、この岩国屋惣兵衛の名前に因んだもので、旅館形式となったのは明治になって間もなくの頃のこととある。違っていたら、御教授方、よろしくお願い申し上げる。]

 

秋來ぬとサフイヤ色なす小鯵買ふ

 

舞下りて山田の鶴やなき交す

 

菊うりの少女まてどもこぬ日がち

 

緣の日のふたたびうれし黄豆菊

 

芝にあれば木の實もふらずよき日和

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art | Caspar David Friedrich | Miscellaneous | Иван Сергеевич Тургенев | 「プルートゥ」 | 「一言芳談」 | 「今昔物語集」を読む | 「北條九代記」 | 「新編鎌倉志」 | 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳 | 「明恵上人夢記」 | 「栂尾明恵上人伝記」 | 「澄江堂遺珠」という夢魔 | 「無門關」 | 「生物學講話」丘淺次郎 | 「甲子夜話」 | 「第一版新迷怪国語辞典」 | 「耳嚢」 | 「進化論講話」丘淺次郎 | 「鎌倉攬勝考」 | 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記) | 「鬼城句集」 | アルバム | ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」  | ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ | 中島敦 | 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 | 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 | 伊東静雄 | 佐藤春夫 | 八木重吉「秋の瞳」 | 北原白秋 | 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編 | 南方熊楠 | 博物学 | 原民喜 | 和漢三才圖會 蟲類 | 土岐仲男 | 堀辰雄 | 増田晃 | 夏目漱石「こゝろ」 | | 夢野久作 | 大手拓次詩集「藍色の蟇」 | 宇野浩二「芥川龍之介」 | 宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 | 富永太郎 | 小泉八雲 | 尾形亀之助 | 山之口貘 | 山本幡男 | 忘れ得ぬ人々 | 怪談集 | 映画 | 杉田久女 | 村上昭夫 | 村山槐多 | 松尾芭蕉 | 柳田國男 | 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 | 梅崎春生 | 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 | 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 | 橋本多佳子 | 武蔵石寿「目八譜」 | 毛利梅園「梅園介譜」 | 毛利梅園「梅園魚譜」 | 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 | 津村淙庵「譚海」 | 海岸動物 | 火野葦平「河童曼陀羅」 | 片山廣子 | 生田春月 | 由比北洲股旅帖 | 畑耕一句集「蜘蛛うごく」 | 畔田翠山「水族志」 | 神田玄泉「日東魚譜」 | 立原道造 | 篠原鳳作 | 肉体と心そして死 | 芥川多加志 | 芥川龍之介 | 芥川龍之介 手帳 | 芥川龍之介「上海游記」 | 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) | 芥川龍之介「北京日記抄」 | 芥川龍之介「江南游記」 | 芥川龍之介「河童」決定稿原稿 | 芥川龍之介「長江游記」 | 芸術・文学 | 萩原朔太郎 | 蒲原有明 | 藪野種雄 | 西東三鬼 | 詩歌俳諧俳句 | 諸國百物語 附やぶちゃん注 | 貝原益軒「大和本草」より水族の部 | 野人庵史元斎夜咄 | 鈴木しづ子 | 鎌倉紀行・地誌 | 音楽 | 飯田蛇笏