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カテゴリー「篠原鳳作」の105件の記事

2017/04/04

では

之を以つて私は「鬼」を辭めて孤庵の日常へと歸らんとぞ思ふ――諸君の飴のやうに延びた蒼褪めた時間に――乾杯!…………

2014/11/22

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (後) 了 ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 芭蕉を崇拜してゐる人々の大部分は彼を大悟徹底の聖者のやうに思つてゐるが彼は決して、其のやうな悟達の人ではなかつた。

 野ざらし紀行(貞享元―二年、四十一歳―二歳)の一節に左の如きものがある。

『富士川のほとりをゆくに三つばかりなる捨

 子のあはれに泣くあり。(中略)袂よりく

 ひ物なげて通る

 

 猿を聞人捨子に秋の風いかに

 

 いかにぞや汝ちゝに憎まれたる歟母にうと

 まれたる歟ちゝは汝をにくむにあらじ、母

 は汝をうとむにあらじ只これ天にして汝が

 性のつたなきになけ

 路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである。

 芭蕉は道を求めたる人とは云ひ得ても決して悟道の人ではなかつたのである。

 嵯峨日記(元祿三年―四十七歳)によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある。

 彼は夢に泣く感傷の子であり又終日妄想散亂の氣になやむ云はゞ心氣耗弱の人であつた。

 彼は氣鬱症の傾向があつたらしい事、消化器系統の持病があつた事――從つて自體虛弱であつた事から推して彼は相當神經質であつたと思はれる。

 彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説、門人杜國との間に男色關係があつたとの説、等があるが、以上の彼の生理より推して自分はむしろ、芭蕉は性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつたと思ふ。

 彼は己れの身體虛弱なる事を自覺し隱遁者としての、俳諧者としての道をとり、又性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか。

 自分には彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれないのである。

 

 旅に寢て夢は枯野をかけめぐる

 

 是は彼の最後の吟詠であるが、寂寞の枯野をかけめぐる狂亂の夢――是が彼の一生であり彼の藝術であつたのである。

 彼は求道の人ではあつても悟道の人ではなかつた。

 彼は病的詩人であつて健康の詩人ではなかつた。

 

■やぶちゃん注

・『「野ざらし紀行」の一節に左の如きものがある……』「野ざらし紀行」の貞享元年(天和四(一六八四)年二月二十一日に改元)の秋、富士川河畔での一節。

   *

 富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵(こよひ)や散るらん、あすや萎(しを)れんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげて通るに、

 

  猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 

    いかにぞや汝、父に惡まれたるか、

    母に疎まれたるか。父は汝を惡むに

    あらじ、母は汝を疎むにあらじ。た

    だこれ天にして、汝が性(さが)の

    拙きを泣け。

 

   *

 語注を附す。

●「この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。」:この川の目くるめく早瀬の流れにこそこの世のなにがしかの望みのしがらみをかけて、誰か、ここで、この愛しい子の命を救うて呉れと――しかし、この子の父母らは浮世の荒波を凌ぐに耐え切れずなって――ここに儚い命の尽きるまでの間、その誰かに望みを託して捨て置いていったものか、の意。従来の訳では「かけて」を単に比喩とし、早瀬の無常にして無情なる流れに譬えた訳を採るが、ここでは山本健吉氏が「芭蕉全句」(講談社学術文庫)で指摘する、「源氏物語」「手習」の帖の「身を投げし涙の川の早やき瀨にしかがらみかけて誰かとどめし」『という浮舟の歌の文句を不完全に取り入れたものだ。この川の早瀬にしがらみをかけて、誰かこの子の命をとどめてくれるだろうと、もともとはかない人間の命の尽きるまでは生きてくれよと念じて、捨て置いた、という含みがある』という見解を私は強く支持し、訳した。但し、山本氏の推定する極めて濃厚な虚構説には私は逆に組み出来ない。

●「小萩がもとの秋の風」:「源氏物語」「桐壺」の帖で桐壺帝が、母の里方にある我が子若宮(後の光)の身の上を憐れんで、「宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそすれ」と詠んだのを踏まえ、秋風に吹き散らされんとする小萩の花にこの赤子の姿を譬えたもの。

●「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」私にはこれは強烈なリアリズムの中に潜む禅の公案として、ずっと以下のように愛誦してきた。

   *

……古来、文芸にあって猿の声に悲傷を感じるというあなた――その――あなたは――今――この秋風に響き渡っている――この――捨て子の泣き声を――どう聴くか?!……

   *

大方の御批判を俟つものではある。

 

・「路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである」――読みが浅いぜ、鳳作さん!

――芭蕉の怒りがまるで分かってないじゃないか?!

――あんたは小学生の「道徳」の授業でもやっているつもりかい?

――あんたなら、じゃあ、どうするんだ?

――どうしたら、普遍的な「天眞流露の」――この少年を全的に救う「愛の行動」となるっていうんだい?!

――その現場にあんた自身を実際に立たすこともせずに、鬼の首を取ったように芭蕉を指弾してるあんたこそ――

――「似而非悟道」のヒューマニストだ!

――口元軽く「愛」を囁く「單なる一エピゴーネン」だ!

――これこそ――生温い浪漫主義とか何とか

――真の覚悟を持った理論武装も出来なかった

――大正デモクラシーやプロレタリア文学運動

――否

――戦前から今現在に至るまで日本文芸思潮の膏肓(こうこう)に潜むところの――「害」であり――癌である!……と……私は好きな篠原鳳作に、ちょいと激しい「捨て臺詞」を吐き掛けたくなる部分なのである。

 

・「嵯峨日記によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある」これは元禄四(一六九一)年四月二十八日附の「嵯峨日記」の条に出る一節。杜国はこの前年元禄三年二月二十日に配流の地であった渥美半島保美の里に於いて数え三十四の若さで死去していた。

   *

  夢に杜國が事をいひ出して、悌泣(ていきふ)して覺(さ)む。

心神相(あひ)交(まじは)る時は夢をなす。陰(いん)盡きて火を夢見、陽(やう)衰へて水を夢見る。飛鳥(ひてふ)髮をふくむ時は、飛べるを夢見、帶を敷き寢にする時は、蛇を夢見るといへり。枕中記(ちんちゆうき)、槐安國(くわいあんこく)、莊周(さうしふ)が夢蝶(むてふ)、皆そのことはり有りて、妙を盡(つく)さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想(まうざう)散亂の氣、夜陰の夢またしかり。まことに、このものを夢見ること、いはゆる念夢(ねんむ)なり。我に志深く、伊陽の舊里(ふるさと)までしたひ來たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚の勞(らう)を共にた助けて、百日がほど、影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏(しんり)にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂(たもと)をしぼる。

   *

 杜国と芭蕉の関係については私の大部の「笈の小文」の杜国訪問の部分の評釈「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」を参照されたい。以下、語注を附す。

●「心神相交る時は夢をなす……」:以下の夢解釈理論は「列子」に基づく。

●「枕中記」:李既済(りきさい)撰の、「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」などの故事成句で知られる有名な唐代伝奇の一つ。私のブログ記事アクセス・ランキングの特異点の一つ『「枕中記」原文+訓読文+語注』を参照されたい。

●「槐安國」:やはり唐代伝奇の知られた一つ李公佐(りこうさ)撰の「南柯記(なんかのき)」で主人公が夢で訪れる不思議な国で、実は蟻の巣の世界。

●「莊周が夢蝶」:「荘子」(そうじ)の中の知られた「莊周夢爲胡蝶」(莊周、夢に胡蝶とと爲る)の一節。

●「妙を盡さず」決してこれは奇妙なことではないのだ。

●「念夢」いつも心に深く思い込んでいるがために見る夢。

 さて、この記述は寧ろ、異常なまでの芭蕉の杜国への愛情を示すものととってよい。ところが鳳作はこれを続く、芭蕉の「心氣耗弱」「氣鬱症の傾向があつたらしい」「相當神經質」の証左として掲げていることに注意したい。以下の叙述を見てもそうだが、鳳作には恐らく本質的な意味での同性愛に対する理解や親和性は殆んどと言ってよいほどなかったように見受けられ(宮古中学教諭時代には特に可愛がった男子の教え子たちがいるようだが、それらは彼らの芸術的才能への親近性がはっきり見てとれ、特にクナーベン・リーベの様相を呈しているようには私には読み取れない)、この引用の場違いな利用も、何となく分かるような気がするのである。

 

・「彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説」寿貞尼(?~元禄七(一六九四)年六月二日)については伊藤洋氏の「芭蕉DB」の寿尼」の解説が最も充実しているので以下に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に変えてある)。

   *

判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男(二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。

 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄七年六月二日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、六月八日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。

 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄七年六月二日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、「六月二日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。

 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

   *

以下、引用文中の「浅談」は『浅尾庵野坡のこと』(蕉門十哲の一人の志太野坡のこと)、「風律著『小ばなし』」については『風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない』と注され、さらに、「芭蕉の種」の部分について、『寿貞の子供達は猶子』という説があり、それについて『桃印(芭蕉甥)を父親とするという説』についても詳述されておられる(引用分量が多くなるのでリンク先をお読み戴きたい)。前の『●「次助兵衞」』の語注も併せて参照されたい。

 

・「門人杜國との間に男色關係があつたとの説」前の「嵯峨日記」の注を参照されたい。私はあったと思っている。芭蕉には同性愛傾向が非常に濃厚である。言わずもがな乍ら、江戸以前に於いて、本邦での若衆道は普遍的日常的であり、宗教的道徳的にも度を越さない限り許容される、至って正常なる恋愛形態であった。寧ろ、鳳作がそれを「異常性愛」、人ととして犯してはならない「罰」として殊更に忌避しようとしている感じが私には見てとれる。これは彼の父が熱心なクリスチャンであったこと、鳳作自身もキリスト教に強い親和性を持っていたことと無縁ではあるまい。何より鳳作のこの直後の「性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつた」の「さやうな虞れ」という謂いにそれが如実に示していると言ってよい。

 

・「性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか」「彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれない」この仮説や解釈は当時の精神医学の言説からみても聊かおかしい感じがする。寧ろ、その反対に、同性に対する強い衝動若しくは異性と同性双方に対する抑え難いほど強い性衝動を持っていたからこそ、それを自身の中で強く抑制しようとする意識が働いた人間、しかもそれを恐るべき意志の中で実行することが可能であった種類の人間であった、と考える方が私は理にかなっていると考えるのである。そうしたものの強い抑圧が、まさに当時のフロイト流の見解に一致し、芸術的な昇華を齎し、かの孤高にして詩情に満ちた連句や発句を生み出したのだ、と考える(述べる)方が、遙かに自然な気がするし、今の世の感覚から考えても、すこぶる腑に落ちると私は思う。大方の御批判を俟つものである。

 

・「旅に寢て夢は枯野をかけめぐる」鳳作はこの前年、昭和一一(一九三六)年四月刊の『句と評論』に掲載された「篠原鳳作 芭蕉小論」でも、「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」と記しており、この知られた句を鳳作は確信犯としてかく記憶違いしていたらしいことがここからも分かる。最後にまた私の評釈をリンクしておく。

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (中)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである。

 芭蕉は幻住庵記(元祿三年、四十七歳)に於て自ら『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』と述べてをり、芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり何れも芭蕉が身體虛弱であつたことを立證してゐる。

又、去來抄には、

『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』

とあり、彼が胃腸或は痔の病があり、すこぶる長雪隱であつた事を物語つてゐる。

 彼は消化器系統が弱かつたけれども酒も煙草も相當たしなんでゐた。

 

 飮みあけて花いけにせん二升樽

 たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾

 

 〇〇して彼が五十一歳にして落命したのも園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた。

 芭蕉は不眠症にも陷りがちであつたやうに思はれる。この事は彼の文章のはしばしや句にも現はれてゐる。

 

■やぶちゃん注

・「芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである」芭蕉の持病と直接の死因については二〇一三年の陰暦祥月命日の私の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」の評釈で考証したが、ここでその部分を改めてここに再掲しておく。

   *

 芭蕉は九月二十九日夜、激しい下痢症状を起こし、言葉を発することも出来ないほどに衰弱した。翌(この年の九月は小の月)十月一日に下痢二十余度、同二日三十余度、同三日三十余度と重い泄痢症状が持続し、三日には病床に伺候した弟子の手を握って放さず、悪寒と振顫、足先の冷感を訴えた。同五日、駕籠で之道亭から大坂南御堂前花屋仁左衛門の貸座敷に病床を移して、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛らが看病に当たり、また膳所・大津・伊勢などの門人らに危篤の報が告げられた。同六日には、やや小康を得、床から起き上がって庭を見たりしたが、この時、既に憔悴し尽くして顔は枯木のように痩せ衰えていたという。

 芭蕉の死因には諸説があり、当時は九月二十七日の園女(そのめ:彼女の事蹟とこの時詠まれた「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」についてはブログ記事を参照されたい。)邸の句会で供された茸の中毒と噂され、園女や門弟たちもそう信じていたとされるが、芭蕉だけが茸にあたったと考えるのは無理があり、彼の悪寒や頭痛を伴う症状は既にそれに先立つ九月十日晩方(前々日の九月八日に体調不良を押して伊賀を出発、前日に奈良を立って宵に大坂着という強行軍にも着目)から発症しており、それがまた波状的に繰り返し毎晩起っていることからも悪意に満ちた流言に過ぎないと思われる。「松尾芭蕉の病状より、病名を推定してください」というネットの質問に対する回答を参考にすると、一般に彼の命を奪ったと考えられる劇症型の下痢症状は食中毒か赤痢かと言われているものの、単なる食中毒にしては下痢・発熱・悪寒の持続期間が長過ぎること、この元禄二年に大阪では赤痢や腸チフスの流行は見られなかったことから、重度の心身疲労による免疫力低下に由来する、感染力はそれほど強くない感染性の腸炎の可能性か、感染症ではない潰瘍性大腸炎などが疑われているようである。後者についてみると、芭蕉には痔の持病があったが、現代では長い痔と思っていたものが実は潰瘍性大腸炎であったというケースがあって、芭蕉のように症状が収まったり強くなったりする緩解期と活動期が繰り返し起こる病態は潰瘍性大腸炎の所見によく似ているとある。何より接触した人々や看病人に同様の症状が出ていないとすれば、感染性の腸炎よりもこの潰瘍性大腸炎の疑いの方が濃くなる。そうした病態を長年放置し続け、しかも旅や門人間のいざこざに心労を重ねた結果として免疫力が低下、その状態で呼ばれた句会(園女邸に限らず数多い)で食べつけない、胃腸にストレスのかかり易い山海の珍味の類いを食した結果、何らかの菌又はウイルスに食物感染して食中毒に感染、しかしすでに腸の機能が衰えていたため、自然治癒力が働かず、度重なる下痢による脱水と栄養失調による体重減少で衰弱が進み、遂に死に至った――といった推定がリンク先の回答にはある。頗る首肯出来る推論であると私には思われる。

   *

 

・『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』「幻住庵記」の末尾の部分に現われる。以下、最終章を総て示す。

   *

 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞(らう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「樂天は五臟の神(しん)を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質(けんぐぶんしつ)の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。

 

  先づ賴む椎(しひ)の木も有り夏木立(なつこだち)

 

   *

・「樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」これは、

――白居易は詩を作るに五臓の気をすっかり使い果たしてしまい、詩聖杜甫はそのために痩せ細ってしまった。彼らに比ぶれば、私ごときは無芸無才にして愚鈍虚弱の性質(たち)ではあるが、それらは大小の差こそあれ、ともに夢、幻しの如きものではなかろうか。――

という謂いで、白楽天の部分は「白氏文集」の五言古詩「思舊」の中の一句「詩役五藏神」(詩は五藏(臟)の神を役す)に基づき、杜甫のところは、李白が律詩に拘泥する杜甫を揶揄して述べたとする詩の一節にある、「別來太瘦生。總爲從前作詩苦」(別來太(はなは)だ瘦生(さうせい)、總て從前に詩を作るの苦の爲なり)に基づく。自己を卑下しつつ、自身の分を弁えた上で、風狂の道に精進せんとする覚悟を述べたものである。

 

・「芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり」芥川龍之介が「枯野抄」の主素材としたことでも知られる「花屋日記」は、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)のこと。別名「芭蕉翁反古文(ばしょうおうほごぶみ)」「翁反古(おきなほご)」とも呼ぶ。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、偽書である。鳳作が本論を書いた頃には贋作であることはすでに知られていた。鳳作が引用するのは冒頭から直近の日記部の二十九日の条に出る。以下に岩波文庫小宮豊隆校訂「芭蕉終焉記 花屋日記」から引用する(現在、ネット上には本偽作の電子テクスト・データはない。一部に私の読みを歴史的仮名遣で平仮名で附した。片仮名のそれは原著のもの)。

   *

廿九日 芝柏(しはく)亭に一集すべき約諾なりしが、數日打續(うちつづき)て重食(ぢゆうしよく)し給しゆゑか、勞(いたは)りありて、出席なし。發句おくらる。

   秋ふかき隣はなにをする人ぞ    翁

 此夜より翁腹痛の氣味にて、泄瀉(せつしや)四五行なり。尋常の瀉ならんとおもひて、藥店の胃苓湯(いれいたう)を服したまひけれど、驗(しるし)なく、晦日(みそか)・朔日(つひたち)・二日と押(おし)移りしが、次第に度數重りて、終(つひ)にかゝる愁(うれひ)とはなりにけり。惟然・支考内議して、いかなる良醫なりとも招き候はんと申(まうし)ければ、師曰、我(われ)本元(もともと)虛弱なり。心得ぬ醫にみせ侍りて、藥方いかゞあらん。我(わが)性は木節ならでしるものなし。願くは木節を急(とみ)に呼(よび)て見せ侍らん。去來も一同に呼(よび)よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。夫(それ)より兩人消息をしたゝめ、京・大津へぞつかはしける。しかるに之道(しだう)が亭は狹くして、外(ほか)に間所(まどころ)もなく、多人數(たにんず)入(いり)こみて保養介抱もなるまじくとて、其所此所(ソココヽ)たちまはり、われしる人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衞門(みだうまへみなみきゆうたらうまちはなやにざゑもん)と云(いふ)者の、裏座敷を借り受けり。間所も數ありて、亭主が物數奇(ものすき)に奇麗なり。諸事勝手よろし。其夜すぐに御介抱まうして、花屋に移りたまひけり。此時十月三日也。(次助兵衞記)

   *

 語注を附す。

●「芝柏」:根来(ねごろ)芝柏。堺の商人。この元禄七(一六九四)年九月二十九日の夜、芭蕉の歌仙の俳席が大坂にあった芝柏亭で開催される予定であったが、体調を崩した芭蕉はこれに参加出来ず、前夜に作った名吟「秋ふかき」の発句だけを俳莚に届けた(この俳莚は流会になったものと推定される。リンク先は私の評釈)。

●「泄瀉」:下痢。漢方では非感染性消化不良及び消化機能低下を主因とした下痢、「下り腹」をいう(対する「痢疾」(りしつ)は、「しぶり腹」を主訴とするような感染性消化器疾患を主因とする下痢症状をいう)。

●「胃苓湯」:製薬会社の公式記載に、漢方の古典「古今医鑑」(こきんいかん)の「泄瀉門」(せっしゃもん)に収載されている古処方で、胃がもたれて消化不良の気味に処方する「平胃散」(へいいさん)と、喉が渇いて尿量が少なく、吐き気や浮腫みなどの症状に処方する「五苓散」(ごれいさん)とを、合方(がっぽう)したもので、水瀉性の下痢や、嘔吐の症状と口の渇き・尿量の減少といった症状を伴う人の、冷え腹・腹痛・急性胃腸炎・暑気あたり・食あたりに効果があるとある。

●「木節」:望月木節(もくせつ)。近江蕉門の一人。医師として末期の芭蕉の主治医を兼ねた。事実、芭蕉自らが彼の処方や治療を望んだとされている。

●「之道」槐本之道(えのもとしどう 万治二(一六五九)年?~宝永五(一七〇八)年)。本名久右衛門。大坂道修町(どうしゅうまち:現在の大阪府大阪市中央区道修町。薬種問屋街。当時、清やオランダから入った薬は一旦、この道修町に集められてその後に全国に流通していた。それらの薬種を一手に扱う「薬種中買仲間」がここに店を出していた。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが多い)の薬種問屋伏見屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。この元禄七年九月九日に伊賀から大坂に着いた芭蕉は、最初、酒堂(しゃどう:浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)近江膳所の医師で、菅沼曲水と並ぶ近江蕉門の重鎮であったが、この頃、大坂に移住していた)亭に入るが、後に之道亭に、その後、花屋仁左衛門方へと移っている。酒堂と之道はこの頃激しく対立しており、芭蕉は之道の同輩であった膳所の正秀らの懇請を受けて両者の和解を策すため、病体を押してこの大阪へ出向いていた。和睦は一応成功したように見えたが、実際には失敗であった。それを芭蕉も察していた事実は芭蕉終焉時の心理状態を察する上では非常に重要である。

●「御堂前南久太郎町」:現在の大阪市の中心的な産業地区である大阪府大阪市中央区船場(せんば)にある久太郎町通(どおり)。中央大通(おおどおり)が整備されるまでは南久太郎町通と呼ばれた。現在は大阪府大阪市中心部を南北に縦断するである国道御堂筋に面して大阪センタービルや「御堂」として知られる真宗大谷派難波別院などがある(厳密に言うと「御堂」は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が沿道にあることに由来する)。

●「花屋仁左衞門」:一般には宿屋とされるようであるが、事実は「花屋」とあるように御堂に花卉を納める出入りの花屋であった。その「裏座敷」とは花屋所有の貸座敷のことを指す。

●「次助兵衞」:伊賀上野から芭蕉が伴って来た下僕。一説によれば、彼の母は芭蕉の内縁の妻のような存在であった、この三月前に深川芭蕉庵で亡くなった寿貞(じゅてい ?~元禄七年六月二日)の連れ子であったともされる。ところが別説では、治郎兵衛は実は芭蕉が若き日にこの寿貞との間にもうけた実の子であったという驚天動地の説、また、芭蕉の甥桃印との不倫によって出来た子という説(私はこの説を一番信じている)もある不思議な人物である。

 

・「去來抄には、『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』とあり」「去来抄」を出典とするのは誤り。これは宝井其角の撰になる元禄七年刊の芭蕉七回忌追善集「三上吟」(さんじょうぎん)の、その冒頭に出る一節。今泉準一氏の『「三上吟」について』(明治大学教養論集百五十六号)のPDFデータより正字化して示す(熟語記号のダッシュは省略した)。今回、私自身初めて読んだ(下線はやぶちゃん)。

   *

 三上吟      懷舊のことは

先師道上の吟は馬夫ともか覺えて都鄙にわたり枕上の吟は所々の草庵に殘りて門葉(もんえふ)のかたみとたしなめりことさらに厨上の三吟とかやは和漢風藻の人々の得たる一癖と聞え侍るにや故翁ある御方にて會なかはに席を立て長雪隱に居られけるを幾度もめし出ける時やゝへて手洗口そゝき笑ふて云く人間五十年といへり我二十五年をは後架になからへたる也と元より心事の安樂止靜の觀念にいたりて風骨の吟身を脱肉せられけんこの詞厠上の活法ならすや老かさなり杖朽てさらぬ俤のみ今は義仲寺の柿の葉に埋もれ侍り其塚の上に笠をかけたる事をおもひ出て

  七とせとしらすやひとり小夜しくれ

        七吟をみたしぬ

歌吹海に在てといひし夜の雨も粟津によする浪の音に力を添ておもやりぬ然れとも誹言なけれは草の陰にはことはりかましく秋に堪たる落葉をしのひて牌前の塵をはらふのみ也其日これかれをあつむるにあるは侍官のさはり有旅に住なし病にふし心ンにつかはるゝやからはわたくしならす時移り人かはりて亡人の十指におらるゝ事いつをむかしをよむに廿人也花摘をよんでことに多し文集の酬和をしたへるためし驚神のはしと成て爰に一躰をほとこさんとすこの卷中に僧あり此僧の風狂を精進物になしてうき世の味をしらせかほに嵐雪もケ樣。かやうのすかたと成て候と一しほにとむらひ候へは冬の日のならひとて灯のもとに

        七吟をみたしぬ

[やぶちゃん注:以下略。続く連句及び漢詩は上記リンク先で読める。]

   *

因みに、これを鳳作が「去来抄」所収と誤ったのは、実はこれが芥川龍之介からの孫引きであったからではあるまいか?

 実は鳳作がこれを記す以前に第二次芥川龍之介全集が出ているのであるが、そこに載る芭蕉記」の草稿の中に「諧謔」と標題する一章があり(リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)、以下のように出るからである(内容的にも面白いので、やや長いが総て引いた。下線やぶちゃん)。

   *

 

       諧  謔

 

 芭蕉は世人の考へてゐるほど、もの寂しい人ではなかつたらしい。寧ろあらゆる天才のやうに、頗る諧謔を好んだやうである。かう云ふ事實を證明する例は「去來抄」等に傳へられた逸話の中にも乏しくない

 「我翁の常に歎美し給ひし狂歌あり。のぼるべきたよりなければ鳴神の井戸の底にて相果にける。讀み人知らず。」

 「三河の新城にて支考桃鄰同座せられけるに、白雪問ふ、故事は何と使ひ候て新しめ候やらん。翁曰、ある歌仙に、

      薦かぶり居る北の橋詰

     祐經は武運のつよき男にて

 敵打のあらまし事、かかる形容もありぬべし。多くの年月ねらひけるに果報いみじき工藤なり。建久四年五月二十八日まで生のびぬと可笑がり給ひしが、是さへ形見となる。」

 「翁、ある御方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出けるに、やや經て、手を洗ひ口漱ぎて、咲うて曰、人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり云云。」

 「支考云、嵯峨の落柿舍に遊びて談笑の序に、都には蕉門の稀なることを歎きしに、翁は例の咲ひ咲ひ、我家の俳諧は京の土地に合はず。蕎蓼切の汁の甘きにも知るべし。大根の辛みの速かなるに山葵の辛みの諂ひたる匀さへ、例の似て非ならん。此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、俳諧は今日の平話なることを知らば、始めて落柿舍の講中となりて、箸筥の名錄に入るべしとぞ。」

 のみならず芭蕉の俳諧にも諧謔を弄した句は勿論、地口や洒落の多いことは既に周知の事實である。それも世人の考へてゐるやうに、談林の影響のもとに作つた初期の句ばかりにとどまるのではない。元祿以後の句の中にもかう云ふ例は秋の野山の鶉のやうに散在してゐる。

     景淸も花見の座には七兵衞

       箕輪笠島も五月雨の折にふれたりとて、

     笠島やいづこ五月のぬかり道

     わが宿は蚊の小さきを馳走かな

       まだ埋火の消えやらず臘月すゑ京都を立出でて

       乙州が新宅に春を待ちて、

     人に家を買はせて我は年忘れ

       田家にありて

     麥飯にやつるる戀か猫の妻

       鳳來寺に參籠して、

     夜着一つ祈り出したる旅寐かな

       二月吉日とて是橘が剃髮入醫門を賀す、

     初午に狐の剃りし頭かな

       美濃路より李由のもとへ文の音信に、

     童顏に晝寐せうもの床の山

 殊に最後の「童顏」の句は芭蕉の大阪に示寂した元祿七年の作である。すると芭蕉は死に至る迄、諧謔を好んだと云はねばならぬ。

 晩年の芭蕉は幽玄を愛し、寂び栞を説いた[やぶちゃん注:ここで草稿は途切れている。]

   *

 若しくは別な誰かがやはり誤って伝えたものか。少なくとも原拠の「三上吟」から引いたのなら、こんな間違いはしようはずがないからである。

 

・「飮みあけて花いけにせん二升樽」前出の土芳編「蕉翁句集」に元禄四年の部に入れる。厳密な表記は、

 

呑明(もみあけ)て花生(はないけ)にせん二升樽(だる)

 

で、同じ土芳の「蕉翁全伝」(宝永年間成立か)には、

 

此句ハ尾張ノ人ノ方ヨリ濃酒一樽ニ木曾のうど・茶一種ヲ得ラレシヲひろむるトテ、門人多ク集テの時也

 

と注する(引用は岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠った。なお、『集テの』の「の」は中村氏が補訂されたものである)。

 

・「たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾」「紙衾」は「かみふすま」と読む。これは芭蕉の句の中では存疑の部に属するが、その中でもやや確実度が高い句であるよし、中村氏前掲書にある。これは「俳諧 一葉集」の句形で「畫贊」と前書がある。「その濱ゆふ」(素丸編・寛政五(一七九三)年序)では、

 

たのむぞよ寢酒なき夜の古紙子

 

で、「芭蕉袖日記」(素綾(そりょう)編・文化元(一八〇四)年刊)では、

 

たのしさや寢酒なき夜の紙衾

 

となる。

 

・「園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた」「菌」は「きのこ」と読む。俗説乍ら、周囲や園女(そのめ)自身もそう信じ込んでいたらしいことは本注冒頭に示した。

2014/11/21

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (前)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

芭蕉の生理   篠原鳳作   附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年一月刊の『傘火』に掲載された。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊の「篠原鳳作全句文集」を元としたが、恣意的に正字化してある。鳳作は前年昭和十一年九月十七日に鹿児島市加治屋町自宅にて心臓麻痺により満三十歳で急逝した(彼の死因については「篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月」の私の注を参照されたい)が、これはその未発表の遺稿である。子規の「芭蕉雑談」の引用部の正字表記は注に示す底本と校合した(それに合わせて鳳作の底本本文の「欲」も「慾」に代えてある)。傍点「・」は太字に、傍点「ヽ」は下線に、踊り字「〲」は正字に代えた。「一茶」は「一」「茶」の間に四字分の空隙があるが、詰めた。「〇〇」は判読不能字を示す(底本では右に『(不明)』と編者による傍注がある)。全体を二つに分けて、それぞれの末尾に私の注を附した。また本文中には「片輪者」「片輪」「不具者」という差別用語が頻出する。これらについては批判的視点から読解されんことを望むものである。

 なお、底本では『傘火』の同人であったと思われる朝倉南海男氏以下の附言が末尾に載る(朝倉南海男の著作権は存続しているかも知れないが、本稿の出自を示すものであり、欠かせないのでここに引用することとする。但し、これも正字化させて戴いた)。

   *

南海男言 <故鳳作氏の未發表原稿包を前にして>

 本文は氏の遺稿であり。多分『芭蕉小論』

 執筆當時の物であらうが單なる雜記である

 か書拔であるか詳でない、其の積りで讀ん

 で戴き度い。去日、篠原家に行つて反古の

 整理中發見したもので有る。次々に發表す

 る考へだ、期待され度い。氏としては發表

 を遠慮されて居られたのかも知れないが。

 同家の許可を得て掲ぐ。

   *]

 

   芭蕉の生理

 

『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罷りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

  ◇ 一、もち米一升  一、黑豆一升

 右今夕の夜食に成申侯間御いらせ傳吉にも

 たは御こし可被下候云々。

 ◇只今田舍より僧達三人參供俄に出し可申

 候貯無之供さふく候故にうめんいたし可申

 供そうめんは澤山有之候酒二升御こし賴入

 候云々。

とあり、且歿時の病は菌を喰ふてより起りしと云へば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此の手紙を以て大食の證となすは理由薄弱なりと雖も、手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説、當を得たる物ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はぎる者、往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや

 芭蕉妻を娶らず。其の他婦女子に關する事一切世に傳はらず。芭蕉戒行を怠らざりしか。史傳之を逸したるか姑く記して疑を存す。』

 正岡子規の『芭蕉雜談』にある右の一節を讀んで自分はひそかに微苦笑を禁ずる事が出來なかつた。

 大食家子規の芭蕉大食論なるが故にである。

 正岡子規が瞑目する直前まで非常な大食家であつた事は餘りに有名である。

 又、子規が妻帶しなかつた事は勿論だが、彼が女といふものを一生知らずに終つたといふ事も又確證ある事である。

 その獨身にして大食家なりし子規が芭蕉を評して

『多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者、往々にして非情の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。』

 と芭蕉を自分のともがらとして語つてゐるから、思はず微苦笑せざるを得ないのである。

 芭蕉が大食家であつたか、なかつたかは別として彼が『多情にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる物』であつた事は事實であらうと思う。

 芭蕉が五十一歳にして病歿するまで妻をめとらず獨身であつたといふ事は多くの芭蕉研究家達にはさほど重大視されてゐないが是は非常な重大事である。

『飮む。賭つ。買ふ。』は博徒の標語であるが、この三つの言葉位人生の全貌を簡潔に表現したものはあるまい。

 第一は食慾の滿足を意味し第二は鬪爭精神、或は優越感情の滿足を意味し第三は性急の滿足をいみしてゐる。

 飮んで賭たず、飮んで買はなかつたのが芭蕉の生活である。其故に彼は好物の酒をさえつゝしまんとしてゐたのだ。

 

    閑居の箴    貞享三年

 酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪   (四十三歳)

 

 飮んで賭たず、飮んで買はず、自然の寂寞の中に轉々反側したのが芭蕉である。

 芭蕉の俳句の力はこの禁慾的生活の寂寞に發する所が多いやうである。

 芭蕉は正妻をめとらなかつたのみならず女性に對しては嚴とした警戒的態度をとつてゐる。

『女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし』(俳諧掟)

 芭蕉は何故に正妻を娶らなかつたかは大きな研究問題である。子規の言の如く戒行を怠らなかつたのか。妾があつたのか、變態性慾者或は性的不能者であつたのか?

 何れもにはかに斷ずる事は出來ないが、尠くとも文章に現はれたる所に於ても、生活の體面上に於いても彼は嚴としてスイトシズム的態度をとつてゐたのである。

 正妻をもたず、女性に對し常に警戒的態度を持して自己の寂寞に徹した事が芭蕉の俳句に力あらしめた一源泉である事は疑ふ事は出來ない。心理學者の所謂、性慾の昇華せられたものが芭蕉の藝術であつたのではあるまいか。

 一茶の俳句の力は彼が『家なし』のむく鳥であつた事に發する。

 

 むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな   一茶

 

 芭蕉の俳句の力は彼が『家なし』であり又『妻なし』であつた二重の寂寞に發すると思ふのは誤りであらうか。『天才は狂人である』と云ふ言葉があるが自分は『天才とは片輪者である』と信ずる者である。生理的片輪者であるか、社會的片輪者であるかは問はない。この片輪が否應無しに天才を産むのである。

 芭蕉も亦片輪なりしが故に或は自ら求めて片輪たりしが爲に天才となり得たのである。

 

■やぶちゃん注

●「『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり……」:正岡子規の「芭蕉雜談」(ばしょうぞうだん)は新聞「日本」に明治二六(一八九三)年十一月から翌二十七年一月まで連載したもので、後に加筆して「獺祭書屋俳話」(だっさいしょおくはいわ)増補版に収録された。この評論は、この明治二十六年が芭蕉二百年忌に当り、旧派宗匠の間で芭蕉廟や句碑の建立が盛んに計画されていたことを受け、見かけの顕彰にばかりうつつを抜かし、正風を理解しようとしない宗匠連に対しての強い鬱憤から記されたものであった(子規が蕪村を高揚したことはよく知られているが、芭蕉の持つ詩情をも高く評価していた事実も忘れてはならない。但し、この「芭蕉雜談」は芥川龍之介に言わせれば、芭蕉に対する『偶像崇拜に手痛い一撃を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ』(芥川龍之介芭蕉雜記草稿「偶像」より)といった内容であったことは、以下の「補遺」を見ただけでもよく解る。リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)。引用部はその評論の最後の「補遺」の中に出る。私は「獺祭書屋俳話」を所持しないので、国立国会図書館蔵(弘文館明治三五(一九〇二)年刊増補三版)を視認、少々長いけれども簡潔な芭蕉の事蹟紹介を始めとして内容もなかなか面白いので、「補遺」総てを以下に電子化しておくこととする。誤植と思われる句点の一部を移動した。一部の難読部分に〔 〕で私の歴史的仮名遣による読みを附し、ものによっては簡単な語釈も添えた。傍点「ヽ」は太字、「〇」は下線に代えた(一部の打ち方がおかしいがママである)。

   *

         〇補遺

芭蕉に就きて記すべき事多し。然れども余は主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる處を指摘せし者にして爰に芭蕉に評論するの餘暇を得ざれば、一先づ筆を擱かんとす。乃ち、言ひ殘せし事項の二三を列擧してその題目を示し以て本談の結尾とせん。

一、松尾桃靑名は宗房正保元年伊賀國上野に生る。松尾與左衞門の二男なり。十七歳藤堂蟬吟公に仕ふ。寛文三年(廿歳)蟬吟公早世、乃ち家を出でて京師に出で北村季吟に學ぶ。廿九歳江戸に來り杉風に寄居す。四十一歳秋東都を發し東海道を經て故郷伊賀に歸り、翌年二月伊賀を發し、木曾路より甲州を經て、再び江戸に來る。此歳、月を鹿島に見る。四十四歳東海道より伊賀に歸る。翌年伊勢參宮、尋〔つい〕で芳野南都を見て須磨明石に出づ。木曾を經、姥捨の月を賞し三たび東都に來る。四十六歳東都を發し日光白河仙臺より松島に遊び、象潟を通り道を北越に取りて、越前美濃伊勢大和を過ぎ伊賀に歸り直ちに近江に來る。翌年石山の西幻住庵に入る。四十八歳伊賀に歸り京師に寓し冬の初め四たび東都に來る。五十一歳夏深川の草庵を捨てゝ上洛し、京師近江の間を徘徊す。七月伊賀に歸り九月大阪に至る。同月病に罹り十月十二日歿す。遺骸を江州義仲寺義仲の墓側に葬る。

 

一芭蕉が今杖を曳きしは東國に多くして西國に少なし。經過せし國々は山城、大和、攝津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相摸、武藏、下總、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、奧州、出羽、越前、加賀、越中、越後、播磨、紀伊、總て二十八ケ國なり。

芭蕉は所謂正風〔しやうふう〕を起したり然れども正風の興るもとより芭蕉一人の力に在らずして、時運の之をして然らしめし者な貞室の俳句時として正風に近き者あり宗因其角才丸〔さいまる〕、常矩〔つねのり〕等の俳句また夙〔と〕く正風の萌芽を含めり冬の日春の日等を編集せし時は正風發起の際なりと雖も此時正風を作す者芭蕉一人に非ず門弟子亦之を作す門弟子亦皆之を作すのみならず他流の人亦之を作す而して正風發起後と雖も芭蕉の句往々虛栗集的の格調を存。これ等の事實を湊合〔そうごふ:一つに纏めること。〕し精細に之を見なば正風の勃興は時運の變遷自ら然らしめし者にして、芭蕉の機敏唯能く之を發揮せしに過ぎざるを知らん。

芭蕉の俳句は單に自己の境涯を吟咏せし者なり。即ち主觀的に自己が感動せし情緒に非ずんば客觀的に自己が見聞せし風光人事に限りたるなり。是れ固より嘉す〔よみす:良しとする。褒める。〕べきの事と雖も全く己が理想より得來〔えきた〕る目擊以外の風光、經歷以外の人事を抛擲して詩料と爲さざりしは稍〔やや〕芭蕉が局量〔きよくりやう:度量。心の広さ。〕の小なるを見る。(上世の詩人皆然り)然れども芭蕉は好んで山河を跋渉したるを以て實驗上亦夥多〔かた:多過ぎるほどあること。夥しいさま。〕の好題目を得たり。後世の俳家常に几邊〔きへん〕に安坐して且つ實驗以外の事を吟せず而して自ら芭蕉の遺旨〔ゐし:前人の残した考え。〕を奉ずと稱す。井蛙〔せゐあ〕の觀る所三尺の天に過ぎず。笑はざらんと欲するを得んや。好詩料空想に得來りて或は斬新或は流麗或は雄健の俳句を作し世人を罵倒したる者二百年獨り蕪村あるのみ。

一、鳴雪翁曰く芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罹りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

[やぶちゃん字注:以下の引用は底本では全体が三字下げ。]

〇一もち米  一升   一黑豆  一升   一あられ見合〔みあひ:相応。適量。〕

 右、今夕〔こんせき〕の夜食に成申〔なりまうし〕候間、御いらせ〔「貸(いら)せ」貸して利息を取ること。〕傳吉にもたせ御〔お〕こし可被下〔くださるべく〕候云々

〇只今田舍より僧達二三人參候。俄〔にはか〕に出し可申候貯〔たくはへ〕無之〔これなく〕候さふく〔:寒(さぶ)く。〕候故〔ゆゑ〕にうめん〔:「入麺」「煮麺」。素麺を暖かく煮込んだ料理。〕いたし可申〔まうすべく〕候そうめんは澤山有之〔たくさんこれあり〕候酒二升御こし賴入〔たのみいれ〕候云々

とあり且つ沒時の病は菌〔きのこ〕を喰ふてより起りしといへば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此手紙を以て大食の證〔あかし〕となすは理由薄弱なりと雖も手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説當〔たう〕を得たる者ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。

一芭蕉妻を娶らず。其他婦女子に關せる事一切世に傳はらず。芭蕉戒行〔かいぎやう:仏道に於いて戒律を守って修行に励むこと。〕を怠らざりしか、史傳之を逸したるか、姑〔しばら〕く記して疑を存す。

一後世の俳家芭蕉の手蹟を學ぶ者多し。亦以てその尊崇の至れるを見る。

一芭蕉の論述する所支考等諸門人の僞作又は誤傳に出づる者多し。偶〻芭蕉の所説として信憑すべき者も亦幼稺〔えうち:幼稚。〕にして論理に外れたる者少なからねど。さりとてあながち今日より責むべきに非ず。

一芭蕉の弟子を教ふる孔子の弟子を教ふるが如し。各人に向つて絶對的の論理を述ぶるに非ず所謂人を見て法を説く者なり。

一芭蕉甞て戯れに許六が「鼾〔いびき〕の圖」を畫く。彼亦頓智を有す。稍萬能の人に近し。

一天保年間諸國の芭蕉塚を記したる書あり。曾てその足跡の到りし所は言ふを須〔ま〕たず四國・九州の邊土亦到る所に之れ無きは無し。余曾て信州を過ぎ路傍の芭蕉塚を撿〔けみ〕するに多くは是れ天保以後の設立する所に係る。今日六十餘州に存在する芭蕉塚の數に至りては、殆んど枚擧に勝〔た〕へざるべし。

一寛文中には宗房と言ひ延寶天和には桃靑芭蕉と云ふ。いつの頃か自ら

   發句あり芭蕉桃靑宿の春[やぶちゃん注:後注参照。]

と云ふ句を作れり。芭蕉とは深川の草庵に芭蕉ありしを以て門人などの芭蕉の翁と稱へしより雅號となりしとぞ。普通に「はせを」と假名に書く。書き續きの安らかなるを自慢せりといふ。桃靑といふ名は何より得來りしか詳ならず。余臆測するに芭蕉初め李白の磊落なる處を欣慕〔きんぼ:心から悦び慕うこと。〕し、李白といふ字の對句を取りて桃靑と名づけしには非ずや。後年には李白と言はずして杜甫を學びしやうに見ゆれども其年猶壯にして擅林〔これだと「せんりん」となるが、熟語としてはおかしい。談林派の別称である「檀林(だんりん)」の誤字かと思われる。〕に馳驅〔ちく:駆け回って競争すること。〕せし際には勢ひ杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思はる。

   *

「發句あり芭蕉桃靑宿の春」は、

 

發句なり松尾桃靑宿の春

 

が正しい。この句は「俳諧 はせを盥」(ばしょうだらい・朱拙/有隣編・享保九(一七二四)年刊)に載るもので、

 

  貞享年中の吟、素堂・其角と三ツもの有り

 

注してあることから、「延寶天和」の後の貞享年間(一六八四年~一六八七年)の作である。「金蘭集」(浣花井甘井(かんかせいかんい)編・文化三(一八〇六)年序)では、

 

發句あり松尾桃靑宿の春

 

の句形で載る。

 

 

●「酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪」前書「閑居の箴」の「箴」(しん)は、戒めの言葉の意。「俳諧 勧進牒」(かんじんちょう・路通編・元禄四(一六九一)年跋)には「深川雪夜」と前書、「蕉翁句集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年成立)では貞享三(一六八六)年とするから、これなら芭蕉は数え「四十三歳」である。「本朝文鑑」(支考編・享保三(一七一八)年後序)「閑居の箴」は支考がこの時附した題らしい)では以下のように前文が跗く(新潮日本古典集成富山奏校注「芭蕉文集」に載るものを正字化して示した)。

 

 あら物ぐさの翁や。日ごろは人の訪(と)ひ來るもうるさく、人にもまみえじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふなれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわりなしや。物をも言はず、ひとり酒のみて、心に問ひ心に語る。庵(いほり)の戸おしあけて、雪をながめ、または盃(さかづき)をとりて、筆を染め筆を捨つ。あら物ぐるほしの翁や。

 

●「俳諧掟」これは記載によれば、「芭蕉翁七書」(しちしょ・篤老編・享和元(一八〇一)年序)や「俳諧 一葉集」(いちようしゅう・仏兮(ぶっけい)/湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)にも載る、「行脚掟」(あんぎゃのおきて)という芭蕉が男の俳諧師の戒めとして記したものらしい。それによれば、最も早いものは宝暦一〇(一七六〇)年の「五七記」(ごしちき:俳人白井鳥酔が記した友人佐久間柳居の追善集で、その中に生前の柳居が門人を戒めた夜話二十四条と芭蕉の行脚掟十七条を添えたものが出る。)とある。この掟には異なったヴァージョンがあるらしく、「尾花沢市歴史散歩の会」の梅津保氏の芭蕉翁行脚十八ヶ條の掟に三種が載る。この内、まず最初に載るもの(最も古形のものか?)を以下に全文を正字化して引用させて戴く(読み易くするために句読点を加え、誤字と思われるものを訂し、表記の一部を他の二種から類推して整序、読みも歴史的仮名遣に代えて追加してある)。

   *

蕉翁行脚十八ヶ條の掟

一、一宿なすとも、故なき所には再宿すベからず、樹下石上(せきしやう)に臥すとも、あたゝめたる筵(むしろ)と思ふベし

一、腰に寸鐡たり共(とも)帶(たい)すベからず、惣(さう)じてものゝ命を取る事なかれ

一、君父(くんぷ)の仇(あだ)有る處へ門外にも遊ぶベからず、いたゞき蹈(ふま)ぬ心、しのばざる情あれバ也

一、魚鳥獸の肉を好んで食すべからず、美食珍味にふける者ハ、他事にふれやすきものなり、菜根を喰(くひ)てたるなすの語を思ふべし

一、衣類器財は相應にすベし、過ぎたるハよからず、足らざるもしからず

一、人の求(もとめ)なきに、おのが句を出すべからず。のぞみをそむくもしからず

一、たとひ険阻(けんそ)の境(さかひ)たり共、所労(しよらう)の念を起すベからず、起らバ途中より立(たち)歸るべし

一、故なきに馬駕籠(うまかご)に乘るべからず、一枝を、わがやせ足と思ふべし

一、好んで酒を呑(のむ)べからず、饗應によりてハ、かたく辭しがたく共、微醺(びくん)にして止ムべし、亂(みだり)に及(およば)ずの節、迷亂起罪の戒(いましめ)、祭りにもろみを用(もちゐ)るも酔(ゑひ)を惡(にく)んでなり、酒を遠ざかるの訓(くん)あり、つゝしむべし

一、船錢茶代、忘るベからず

一、夕(ゆふべ)を思ひ旦(あさた)をおもふべし、旦暮の行脚といふ事ハ好(このま)ざる事なり

一、人の短をあげて、己が長にほこるハ、甚だいやしき事なり

一、俳談の外、雜談(ざふだん)すべからず、雜だん出なバ、居眠りをして己が勞(らう)を養ふべし

一、女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙(しんしや)せバ、人を以て傳ふベし、惣(すべ)て男女の道は嗣(つぎ)を立てるのみなり、流蕩(りうたう)すれバ、心(こころ)熟一(じゆくいつ)ならず、此道は主(あるじ)へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

一、主(あるじ)あるものは一針一草たり共、取べからず、山河澤(たく)、皆(みな)主なり。慎むべし

一、山河旧跡親しく尋ね入るベし、新(あらた)に私(わたくし)の名を付べからず

一、一字の師たり共、忘るべからず、一句の理(ことはり)をも解せず、人の師と成(なる)事なかれ、人に教(おしふ)るハ、己れをなしたる上の事也

一、一宿一飯のぬしをも、おろそかにおもふベからず、さりとてこびへつらふ事なかれ、如斯(かくのごとき)の人ハ奴(やつこ)たり、只、此道に入る人ハ、此道の人に交(まじは)るベし

       十八ケ條終

   *

以下、リンク先の鳳作が引用した箇所と同一の箇所を改めて三種並べておく(頭の「一、」と読みは除去し、正字化、一部の表記を変更した)。

   *

《鳳作引用》

女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし

《前掲リンク先第一種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立てるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道は主へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

《前掲リンク先第二種》

女性の俳友ニ親しむべからず、師にも弟子にも入らぬもの也、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣じて男女の道ハ嗣を立テるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道ハ主へも敵ニしてなす、よくよく己をかへりみるべし

《前掲リンク先第三種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬ事なり、此道にしたしめば人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立つるのみなり、流蕩すれば心敦一ならず、此道は主一無適にしてなす能くよく己れを省むべし

   *

鳳作の引用は「親炙せば」の箇所を除けば、第三種の形に最も近い。「主一無適」(しゅいつむてき)とは宋の程朱学(ていしゅがく:程顥(ていこう)・程頤(ていい)及び朱熹(しゅき)の儒学解釈学。)に於ける修養説で、心を一つの事に集中させて他に逸らさないことをいう。「論語集注(しっちゅう)」の「学而」に拠る。

 

●「むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな」岩波文庫荻原井泉水編「一茶俳句集」によれば、「江戸道中」と前書があり、文政二(一八二〇)年の作とする。これが正しいとすれば五十六歳の時(既に柏原隠棲後)の句となるが、この前書といい、句柄といい、これは遡る二十年から四十以上の昔、奥深い信州から独り江戸に出でんとする折りの悲哀の一句としか読めない(因みに一茶が江戸に出たのは十五の時、二十五で立机するまでの十年の間の事蹟は不明である)。ウィキの「ムクドリ」の「人間との関係」に、『日本では、文学の中にムクドリがしばしば登場する。椋鳥は冬の季語と定められている。江戸時代、江戸っ子は冬になったら集団で出稼ぎに江戸にやってくる東北人たちを、やかましい田舎者の集団という意味合いで「椋鳥」と呼んで揶揄していた。俳人小林一茶は故郷信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて、「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」という俳句を残している。明治時代には、森鴎外が、日本=世界の中の田舎者という意味で、海外情報を伝える連載コラムに「椋鳥通信」というタイトルをつけた』とある(辞書は勿論、百科事典にだってこんな記載は載り得ない。私がウィキペディアを甚だ称揚する理由は、こうした美事な博物学的記載がそこにあるからである)。

2014/11/19

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅳ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして―― 了

三、結語

 新興俳句運動は生活から遊離して花鳥風月に遊んでゐた俳句をして、社會生活の現實面へひきもどして來た。

 是は芭蕉の所謂句と身とを一枚にする事である。

 然し其だけでは足らない。句と身と一枚にするのみならず共に「叫び」を與へなけれはいけない。背後の世界への希求を與へなければいけない。

 芭蕉に於てはこの希望はさびしをりとであつた。其は換言するならば自然の生命の消極的把握であつた。

 新興俳句はいかなる「叫び」を「希求」を持つべきか。

 其は身を持つて求めてゐるものでさへあれば何でもよからう。唯私はヴアイタリテイの世界へ叫ぶのみである。以上をもつてとりとめもない芭蕉論の結語としたい。

2014/11/18

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅲ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 呼びかけの形式はとらずとも、それに劣らず主觀を力強く吐露した句が芭蕉には、すこぶる多い。

 

野ざらしを心に風のしむ身かな

○露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ

○山路きて何やらゆかしすみれ草  (以上野ざらし紀行)

 寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき

○鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 春の夜や籠人ゆかし堂の隅

○父母のしきりに戀し雉子の聲

○蛸壺やはかなき夢を夏の月    (以上芳野紀行)

 あらたふと靑葉若葉の日の光り

 笠島はいづこ五月のぬかり道

○夏草やつはものどもが夢の跡

しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

○あかあかと日はつれなくも秋の風 (以上奧の細道)

 

 以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた。たとへば

 

 辛崎の松は花よりおぼろにて

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

 何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)

 五月雨をあつめて早し最上川

 

等である。

 芭蕉の比較的客觀句を拾つて見よう。

 

 三十日月(ミソカ)無し千とせの杉を抱く嵐

 秋風や藪もはたけも不破の閑

△あけぼのやしら魚白き事一寸

△海くれて鴨のこゑほのかに白し

 年くれぬ笠きて草鞋はきながら

 水取やこもりの僧の沓の音  (以上野ざらし紀行)

 枯芝ややゝかげろふの一二寸

△草臥れて宿かる頃や藤の花

 雲雀より上にやすらふ峠かな

 一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ

 ほとゝぎす消えゆく方や島一つ  (以上芳野紀行)

 蚤虱馬の尿するまくらもと

△涼しさやほの三日月の羽黑山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 荒海や佐渡によこたふ天の川

 月淸し遊行のもてる砂の上

 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

大體以上の如きものであるが、現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい。

 芭煮はたしかに感覺的にすぐれた才能を持つてゐたであらうが、其の作品に感覺的に優れた作品は乏しい。

 彼は感覺を現代の俳人ほどに重視しなかつたのである。「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」と彼はむしろ感覺を超えて直ちに自然の生命へ參入する事を第一としたからである。其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに其をしりぞけて

 

 古池やかはずとびこむ水の音

 

とした芭蕉である。「山吹や」と色彩を點じて句を生命の世界より現象の世界へ墮せしめる事を欲しなかつたのである。

 芭蕉にあつては句に色彩を點ずる場合と雖も「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」である。

 即ち感覺を感覺として終らしめず、更に背後の世界へ入る門たらしめてゐるのである。

 彼の句が總て其に成巧してゐるとは云はないが、唯其を旨としてゐたと云ふ事は云へると思ふ。

 彼は「句と我とを一にせよ」と説いてゐるが、更に彼は句と身と、そして背後の世界――イデヤの世界とを一たらしめんとしてゐるのである。

 

 しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

 鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲


  
是等の句に於ける蟬の聲、鷹一つ、泣く聲、蟾の聲――何れも單なる個的存在ではない。大いなる背後の世界へ融合する所のものである。云はゞ、蟬が鷹が泣聲が大きな光の暈をきてゐるのである。

 芭蕉は句を通して背後の世界へ參入しようとしたのである。

 芭蕉が多くの俳人を拔いて獨り千古の詩人たる所以は、實に此處にあるのである。

 句と身と一枚にすると云ふだけなら、一茶の如きは芭煮に匹敵しうるものであらう。然し一茶の句には背後の世界の輝きが乏しい。

 句と身と、そして背後の世界とが一體になつてゐると云ふ所が、芭蕉の芭蕉たる所以である。

 別言するならば、芭蕉の句には哲學し、宗教し、思慕する彼の魂がのりうつてゐるから偉いのである。

 新興俳句の缺點は淺い事にあると云はれるのは(花鳥諷詠句は尚勿論の事であるが)センスだけあつてフイロソフイがないからである。

 哲學しない藝術なんて要するに光らない螢である。芭蕉の哲學する精神、背後の世界を思慕する精神は、往往にして力強き主觀の吐露となり、自他に對する願望命令――即ち叫びの句となつてゐるのである。

 芭蕉に客觀の句がすくなく主觀の句、呼びかけの句が多いのはこの爲である。

 
 

[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。

 

・「野ざらしを心に風のしむ身かな」「野ざらし紀行」の題名にもなった以下の冒頭の一句。

   *

「千里に旅立ちて、路糧(みちかて)を包まず、三更月下無何(むか)に入る」と言ひけむ昔の人の杖にすがりて、貞享甲子(ぢやうきやうきのえね)秋八月、江上(こうしやう)の破屋をいづる程、風の聲、そゞろ寒げなり。

 

  野ざらしを心に風のしむ身かな

 

  秋十年(ととせ)却(かへ)つて江戸を指す故郷

   *

「千里に旅立ちて、路糧を包まず、三更月下無何に入る」の部分は、実際には「荘子」の「逍遙遊篇」の中にある「適千里者三月聚糧」(千里に適(ゆ)く者は三月糧を聚(あつ)む)と、五山文学の範とされた元の松坡宗憩(ずんばそうけい)撰になる禅僧の偈頌(げじゅ)集「江湖風月集」の中の偃渓広聞(えんけいこうぶん)の句「路不賷糧笑復歌 三更月下入無何」(路を賷(つつ)まず 笑つて復た歌ふ/三更月下 無何に入る)をカップリングしたもの。「三更」は午後十一時から午前一時、「無何」は「無何有(むかう)之郷」の略で自然体で何の作為動作も行わない、自由自在の無我の境地に入ることをいう。

「貞享甲子」貞享元(一六八四)年。

「江上の破屋」天和二(一一八三)年の焼亡の後に再建された第二次芭蕉庵。

「秋十とせ」芭蕉は寛文一二(一六七二)年に故郷伊賀上野を出発、この時まで十二年の間、江戸に住んでいた。因みにこの二句目は、中唐の詩人賈島(かとう)の詩「渡桑乾」(桑乾(さうけん)を渡る)、「客舍幷州已十霜 歸心日夜憶咸陽 無端更渡桑乾水 却望幷州是故鄕」(幷州(へいしふ)に客舍すること 已に十霜/歸心 日夜 咸陽を憶ふ/端 無くも更に渡る 桑乾の水/却つて幷州を望めば 是れ 故鄕)をインスパイアしたもので、愛すべき江戸蕉門らへの別れの挨拶句である。

 

・「露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」「露」は「霧」の誤り。「野ざらし紀行」で前掲の句に続いて、

   *

  關こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

 

   霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

   *

と出る句。「關」は箱根の関所。

 

・「死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ」大垣の谷木因(たにぼくいん)亭での句。

   *

 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、

 

死にもせぬ旅寢の果よ秋の暮

   *

「野ざらし紀行」は恐らくここで満尾とする予定であったものと推定されている。

 

・「山路きて何やらゆかしすみれ草」貞享二年三月中の句。「野ざらし紀行」では、伏見西岸寺での句の後に、

   *

   大津に至る道、山路をこえて

 

 山路來て何やらゆかしすみれ草

   *

と置くが、山本健吉氏は「芭蕉全句」で、後の熱田での歌仙発句として創られたものを、紀行では逢坂を越えて大津へ出る途中吟に仕立て直したものと推定されておられる。この句は「野ざらし紀行」序文で俳友山口素堂が『山路來ての菫、道ばたの木槿(むくげ)こそ、この吟行の秀逸なるべけれ』と称賛している句である(「道ばたの木槿」は大井川を越えてからの一句「道のべに木槿は馬にくはれけり」を指す)。新潮日本古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」で富山氏は、この素堂の絶賛から『察するに、この句は』『木槿の句』『と同様に、意識・心情の深さから、平凡な自然現象の中に、かえって純粋で深遠な自然の生命を感得した作品であることがわかる』と評されておられ、その見解が鳳作の論とよく合致して興味深い。

 

・「野ざらし紀行」前では「野晒紀行」と表記している。同一論文での不統一は珍しい。

 

・「寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「鷹一つみつけてうれしいらこ崎」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「春の夜や籠人ゆかし堂の隅」「籠人」は「こもりど」と読む。「笈の小文」には「初瀨」(長谷寺の初瀬観音)と前書。貞享五(一六八八)年三月二十日の夜の情景である。この前日、芭蕉は杜国とともに伊賀を発ってこの日に長谷寺を詣で、その夜に参籠した。この「籠人」は高貴な女人に違いなく、私は芭蕉の恋句(初瀬観音は恋の成就の祈願所として知られていた)として特に偏愛する一句である。

 

・「父母のしきりに戀し雉子の聲」「笈の小文」には「高野」と前書。貞享五年三月中の句。山本健吉氏前掲書によれば、『松尾家の宗旨は真言宗で、先祖の鬂髪(びんぱつ)も、芭蕉の故主蟬吟』(せんぎん:藤堂良忠。伊賀国上野の城代付き侍大将藤堂新七郎良清(良精とも)の三男で芭蕉は少年期に良忠の扈従として出仕していた(現在では芭蕉は農民出身とする見解が主流である)。参照したウィキの「蝉吟」によれば、『良忠が松永貞徳や北村季吟について俳諧を嗜んでいた縁で芭蕉も俳諧を始めたと』される。ところが寛文六(一六六六)年四月二十五日に蟬吟は二十五歳で夭折してしまい、『芭蕉は良忠の遺骨を高野山におさめ、それよりして無常を観じて故郷を出奔し、一所不在の身で俳諧に専念するようになったという』とある。)『の位牌もここの納骨堂に納めてあった。また、』この『先月二月十八日には伊賀の実家で亡父三十三回忌法要を営み、また母の没後五年』目でもあったことから、芭蕉が『高野山に登ったのは、父母の供養という意味があったのだろう』と記しておられる。一句は「玉葉和歌集」所収の吉野山で詠まれた行基の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をインスパイアするが、これにつき、個人ブログ「ぶらりぶらり見て歩記」の「今も生き続ける空海・高野山3」に、鶴田卓池の自筆稿本「柏青舎聞書」から以下の芭蕉自筆の長い遺文が載るのでこれを恣意的に正字化、読みを歴史的仮名遣にして追加し、読点も一部に加えて引用させて戴く。なおこれは山本氏の前掲書にも、文化七(一八一〇)年刊の士朗著「枇杷園随筆」に「高野登山端書」と仮題した芭蕉の遺文として一部を省略したほぼ同文のものが載っている。

   *

高野のおくにのぼれば、靈場さかんにして、法のともしび消る時なく、坊舍、地をしめて、佛閣、いらかを並べ、一印頓成(いちいんとんじやう)の春の花ハ、寂莫の霞の空に匂ひて、鐘の聲、鈴のひゞきも肝にしミておぼえ、猿の聲、鳥の啼(なく)にも腸を破るばかりにて、御廟(ごびやう)を心靜(しづか)に拜み、骨堂のあたりにたたずみて、倩(つらつら)おもふやうあり。此處(このところ)は多(おほく)の人のかたみ、集れる所にして、我(わが)先祖の鬢髮(びんぱつ)をはじめ、したしくなつかしきかぎりの白骨も、このうちにこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝなみだをとゞめかねて、

    父母の しきりに戀し 雉の聲           翁

   *

この雉子の声は実景であろうが、「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」(巣のある野を焼かれると雉子は身の危険を忘れて子を救おうとし、寒夜に巣籠る鶴は自身の翼で子を蔽って守るという故事、子を思う親の情の非常に深い譬えを受けていることは言うまでもない。

 

・「蛸壺やはかなき夢を夏の月」「笈の小文」では「明石夜泊」と前書。貞享五年四月二十日の作(但し、実際には明石には泊まらず、夜道を戻って須磨で泊まった)。安東次男氏は「芭蕉百五十句」で本句の「はかなき夢」を「源氏物語」の「明石」の帖にある、同じ卯月の一夜の相聞、

 一人寢は君も知りぬやつれづれと思ひあかしの浦さびしさを(明石の入道の娘の歌)

と、

 たび衣うら悲しさに明かし侘び草の枕は夢も結ばず(光源氏の返し)

に基づく一種の艶句として解釈され、諸家が『「夏の月」を当夜その場で出会った事実として、海底の蛸壺に情を寄せる式にたわいもなく読んでいる』『のは解釈とはいえない』と一刀両断しているのは、踝から胼胝(たこ)、基、目から鱗、痛快にして同感で、流石は正調安東節である。

 

・「あらたふと靑葉若葉の日の光り」私の評釈

 

・「笠島はいづこ五月のぬかり道」私の評釈

 

・「夏草やつはものどもが夢の跡」私の評釈

 

・「しづかさや岩にしみ入る蟬の聲」私の評釈

 

・「あかあかと日はつれなくも秋の風」私の評釈

 

・「以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた」ここまで鳳作はやや紋切型の二元論的な主観/客観の分類学に固執してしまっている気味がある。ここでその根本的な誤りに気づいるようだが、そうすると論が進まない。痛し痒しで続けているという気が私には少しする。しかし着眼点はやはり面白いと言えるし、この後の展開も必ずしも誤っているとは思わない。

 

・「辛崎の松は花よりおぼろにて」「野ざらし紀行」の句で、「湖水の眺望」と前書する句。恐らくは貞享元年四月中の句で、大津東今颪町にあった三上千那(せんな)の別院での作と推定される。千那は大津堅田の本福寺第十一世住職で大津蕉門の重鎮。山本氏前掲書によると初案は、

 

辛崎の松は小町が身の朧

 

であったらしく、改作して、

 

辛崎の松は花より朧かな

 

とするも、後の貞享元年五月十二日附千那書簡では、

 

辛崎の松は花より朧にて

 

でご記憶願いたいとしているとある。芭蕉の飽くなき推敲が思い知られる。

 

・「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」「笈の小文」の句で、「西河(にしかう)」という前書を持つ。貞享五年三月二十二日か二十三日頃の作と推定される。「西河」とは吉野郡川上村大字大滝にある「西河(にしこう)の滝」で吉野大滝とも称するが、実際には滝ではなく激流である。「古今和歌集」の紀貫之の「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり」を元とするものの、思い切ったオノマトペイアの視覚が聴覚へと一気に転ずるという、非常に斬新な一句となっている。鳳作が『主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句』とするのも故なしとしない。

 

・「何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)」「笈の小文」の句(前句「ほろほろと」よりも前に出る)。「伊勢山田」は前書。二月四日に伊勢神宮に参拝した際の感懐(山田はその後に興行を行った益光亭の地名らしい)。西行の「山家」に載る「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の本歌取りであるが、山本氏は前掲書でさらに西行の「ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」もインスパイアされているとされ、作句時期からも同感出来るが、山本氏はこれを益光亭の庭の実際の梅の花となさりたいようである(益光の付句「こゑに朝日を含むうぐひす」に拠るもの)。しかし寧ろ、山本氏も『この句の「匂」は神域から匂い出てくるものだから必ずしも花でなくてもよい』と前に記しておられるように、富山奏氏の前掲書で『現実に花の匂がしたにしても、一句は芭蕉の心象風景である』という評言を私はよしとしたいし、鳳作がこの句を敢えて引いたのもその『心象』にこそ目が止まったからに違いないと思われる。

 

・「五月雨をあつめて早し最上川」私の評釈

 

・「三十日(みそか)月無し千とせの杉を抱く嵐」「野ざらし紀行」貞享元年八月三十日の、偶然か、前の「笈の小文」の「何の木の」の句と同じ伊勢山田での句。本文とともに引く。

   *

 腰間(えうかん)に寸鐵をおびず、襟に一囊(いちなう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)あり、俗ににて髮なし。われ、僧にあらずといへども、髮なきものは浮屠(ふと)の屬(ぞく)にたぐへて、神前に入ることを許さず。

 暮て外宮(げくう)に詣ではべりけるに、一の鳥居の陰ほのくらく、御燈(みあかし)ところどころに見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり、深き心を起して、

 

  三十日月なし千年の杉を抱く嵐(あらし)

   *

「寸鐡」小刀(しょうとう)。武士でないことをいう。「一囊」僧が首に掛ける共感や布施を入れるための頭陀袋(ずだぶくろ)。「十八の珠」数珠。「塵」俗臭。「浮屠の屬」僧侶の類い。富山氏の注に『外宮の僧尼拝所には五百枝(いおえ)の杉と称する神杉の大樹があった』とある。

 

・「秋風や藪もはたけも不破の閑」美濃国の歌枕不破の関所跡(岐阜県関ヶ原市)で、実際に秋も末のことであった。言わずもがな、「新古今和歌集」の藤原良経の名歌「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」を実景の実感としてリアルに俳諧化している。

 

・「あけぼのやしら魚白き事一寸」十月、伊勢桑名の浜(山本氏によれば桑名の東郊外、浜の地蔵辺りで木曾川の河口付近とある)での吟詠。前文に、

 草の枕に寢あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出でて、

とある。初案は、

 

雪薄し白魚しろき事一寸

 

であったが、芭蕉は初五を「此五文字いと口おし」(「笈日記」)とし、「あけぼのや」と直している。透徹した鮮烈の印象句で私の偏愛する句である。

 

・「海くれて鴨のこゑほのかに白し」熱田での句。「野ざらし紀行」では、「海邊に日暮(ひくら)して」と前書、「俳諧 皺筥物語」(しわばこものがたり・東藤編・元禄八(一六九五)年跋)では、「尾張の國あつたにまかりける比(ころ)、人々師走の海みんとて船さしけるに」と前書する。「俳諧 蓬莱島」(よもぎじま・闌更編・安永四(一七七五)年刊)では巻末に「貞享岩塩臘月十九日」と記す(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)。これは「ほろほろと」とは逆に聴覚印象が夢幻的に視覚に転ずることによる、寂寥感の余韻醸成が実に美事である。

 

・「年くれぬ笠きて草鞋はきながら」十二月二十五日に故郷伊賀へ着いて後の感懐吟。「野ざらし紀行」には、「爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寢ながらに年の暮ければ、」と前文する。故郷の地にあっても敢えてそこを旅の宿りとするところに風狂の旅に生きんとする芭蕉の覚悟が込められていることに気づく。

 

・「水取やこもりの僧の沓の音」「野ざらし紀行」の奈良東大寺二月堂での修二会(しゅにえ)の句。安東次男氏の名評釈(私のブログ記事)をご覧あれ。

 

・「枯芝ややゝかげろふの一二寸」「笈の小文」故郷伊賀上野滞在中の一句。「曠野」では、

 

枯芝やまだかげろふの一二寸

 

の句形で載る。感懐をストイックに抑えた「やゝ」の方を私は採る。

 

・「草臥れて宿かる頃や藤の花」「笈の小文」には、吉へ向かう途次として、

   *

 旅の具多きは道ざはりなりと、物皆拂ひ捨たれども、夜の料にと紙子(かみこ)ひとつ、合羽(かつぱ)やうの物、硯・筆・紙・藥など、晝餉なんど物に包みてうしろに背負ひたれば、いとど臑(すね)よわく力なき身の、あとざまにひかふるやうにて 、道なほ進まず、ただ物うき事のみ多し。

 

  草臥(くたぶれ)て宿かる頃や藤の花

   *

と描かれてある。但し、実はこの句、元は、

 

  丹波市(たんばいち)、やぎと云(いふ)處、耳なし山の東に泊る

ほとゝぎす宿かる頃や藤の花

 

という夏の句として作った(書簡等によって確認出来る。後述)ものを、春の句に改案してここに恣意的に挿入したものであった。「草臥れて」という上五を選んだことで、これが芭蕉が好んだ「徒然草」第十九段の「藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」を念頭におきつつ、実体験の倦怠と旅愁を描いたものであるということが俄かに伝わってくるようになった。「ほとゝぎす」のままだったら、如何にもな句として最後にはこのシークエンスごと、捨てられていたように私には思われる。この「笈の小文」の構成自体も時間的な操作が加えられてあって(というよりこの句を一つネガティヴなアクセント史として配するためにといった方がよいように感じられる)、実際には吉野遊山のずっと後の四月十一日の吟であることが芭蕉の四月二十五日附猿雖(えんすい)宛書簡によって判明している。

 

・「雲雀より上にやすらふ峠かな」吉野へ参る途中の臍(ほぞ)峠(現在の奈良県の細峠。奈良から吉野に至る「吉野越え」と称されるルートの一つで、桜井から談山神社のある多武峰を通って吉野に至る。標高約七百メートル)に於いて三月二十一日頃、詠まれた句であるが、鳳作が引くのは「曠野」に載る句形で、「笈の小文」では(〔 〕は割注)、

   *

  三輪  多武峯(たふのみね)

  臍峠  〔多武峠より龍門(りゆうもん)へ越ゆる道なり。〕

 

雲雀より空にやすらふ峠かな

   *

個人的には「空に」の方が、天馬空を行くが如く突き抜けていて、遙かによいと思う。

 

・「一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ」「笈の小文」。「衣更」と前書。とすれば、四月一日の吟となる。現在の和歌山市南方の和歌の浦近くでの吟。文字通り「軽み」の重さが軽快に芭蕉の肩へふうわりとかかる小気味よい句である。因みに、「笈の小文」では杜国が、

 

 吉野出て布子賣たし衣がへ  万菊

 

とこの句に和して、載る。

 

・「ほとゝぎす消えゆく方や島一つ」須磨の鉄拐(てっかい)山(神戸六甲山南西にある。海抜二三七メートル。北に鵯越(ひよどりごえ)・南西に鉢伏山・南東の麓には一の谷という、源平の古戦場の直近)山頂より淡路島の方を遠望した際の吟とされる。これは「千載和歌集」夏之部の後徳大寺左大臣の「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ殘れる」の本歌取り乍ら、その声を裁ち入れて、その声が消えた彼方に島影(「鳥影」では断じてない)が幻のように浮かんでいるのである。さながら――マグリットの絵のように――

 

・「蚤虱馬の尿するまくらもと」私の評釈

 

・「涼しさやほの三日月の羽黑山」私の評釈

 

・「雲の峰いくつ崩れて月の山」私の評釈

 

・「荒海や佐渡によこたふ天の川」私の評釈

 

・「月淸し遊行のもてる砂の上」私の評釈

 

・「浪の間や小貝にまじる萩の塵」私の評釈

 

・「現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい」やや厳しい裁断である。というより、失礼ながら鳳作はこれらの句に潜んでいる感覚の夢幻的な自在にして驚くべきメタモルフォーゼ(私はそれこそ当時の新感覚派的なるものであったと言ってさえよいと考えている)が十分に呑み込めていないのではないかと私は深く疑っている。

 

・「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」前出の「祖翁口訣」の一節。

 

・『其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに……』この話、尤もらしく鳳作は書いているが、私も聴いたことはあるものの、どうも今一つ、私には不審に感じられるものであった。実際にかく書かれたものは本人は勿論、第一世代の門人たちの著作にも見当たらないようである。ただ、ウィキの「古池や蛙飛びこむ水の音」には、本句の初出は貞享三(一六八六)年閏三月刊の「蛙合」(かわずあわせ)で、次いで同年八月に「春の日」に収録されたものであるが、「蛙合」『巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる』。『「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池』と推定されており、元禄一三(一七〇〇)年の「暁山集」(芳山編)『のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。「山吹」は和歌的な伝統をもつ言葉であり、そうした言葉との取り合わせによる華やかさや、「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである』とあるので、こうしたシチュエーションもありかなという気はしている。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば『伝説』とした上で、所載するものとして元禄五年刊の支考の「葛の松原」を揚げておられる。原本画像を入手出来たが、読み下す意欲が湧かないので、いつもお世話になっているムーミンパパ氏の「葛の松原(支考著)」から引用させて戴いてお茶を濁すこととする(例によって恣意的に正字化した)。

   *

 弥生も名殘お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文字をかふ(う)むらしめむかとを、よづけ侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。しばらく論ㇾ之、山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實也。實は古今の貫道なればならし。

   *

なるほど、確かに、という感じではある。しかし、である。何より無心に、この、

 

  山吹や蛙飛び込む水の音

 

という句を眺めて見よう。山本氏はこれを思いっきり学術的且つギリギリ好意的に、『山吹と蛙の取合せは伝統的で、二物触発の上に、晩春の濃厚な季節情趣がただよい、句柄が重くねばっている』と評されている。しかしこれ、どう見ても私には、無能な日曜画家が目立とう精神で彩色をやらかしっちまった、お粗末な絵にしか見えないのである。どこかの曖昧宿に埃を被って斜めに傾いで掛かっているような絵だ。そもそもが上五と中七以下が、何ら、精神によって繋がっていない、如何にもヘンテコリンな句にしか私には見えないのである。そもそもが鳴く蛙は声は和歌の伝統にあっても、飛ぶ蛙の水音は歌語にはないはずである(少なくとも日本古典集成「芭蕉句集」で今栄蔵氏はそう断言しておられる)。

 ともかくも取り敢えず以下、同ウィキから引いて本句のデータを纏めておくと、「蛙合」の編者は『芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された』四十『句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである』とし、『一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は』貞享三年と見るのが定説であり、同年正三月下旬に、『井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われ』、『「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である』とある。

 気がつくのは寧ろ、初出と見て間違いない、

 

古池や蛙飛ンだる水の音

 

と、現行の、

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

の大きな印象の相違の方である。「飛んだる」はまさにウィキの最後で述べられている通り、談林派の受け狙いが見え見えの用字であって、その主眼はアッケラカンとした同派に媚びる低レベルな滑稽以外の何ものでもない。ところが「飛びこむ」とした途端に、この句は禅の公案のような静寂を湛えた水墨画に鮮やかに変容する。そうして先の其角の置いた「山吹や蛙飛び込む水の音」のけばけばしい黄色は言うに及ばず、まさしく「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくすべし」という「祖翁口訣」の戒めが美事にだぶってくるように私には思われるのである。この句を前にした門人たちは会心の笑みを漏らしたに違いない。違いないが、彼らの笑みは自ずと、談林の連中がバレ句のような低次元のいやらしい表現に浮かべていた軽佻浮薄な笑いとは、全く以って異なったものであったのである。

 

・「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」同じく「祖翁口訣」の一節。


・「成巧」「成功」の誤植。

2014/11/17

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅱ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

二、芭煮俳句の特色

 芭蕉の説く所はしばらく置いて芭蕉の句に即して彼の特色とする所を見てゆく事にしよう。

 芭蕉は旅の詩人と稱せられてゐるが彼の佳句はなる程多くは旅に於てなされたのである。其故今彼の句の特色を説くに際しては便宜上彼の三大紀行と稱せらるゝ野ざらし紀行(四十一歳―四十二歳)芳野紀行(四十四歳―四十五歳)奧の細道(四十六歳)に於て彼が自ら記載せる句からのみ材料を取る事にしたい。

 和歌が主觀を調べに託してのべるものであるとされたのに對し俳句は客觀の姿を借りて主觀をのべる所の具象詩であると觀念されて來た。ことにホトトギス派の如きは俳句より主觀的語句を出來るだけ排除し客觀寫生俳句なるものを標榜して來たのである。此等のホトトギス派及び其の亞流に對抗して「客觀よりも主觀を尊重すべき事花鳥風月よりも社會の實生活を尊重すべき事」を説いて勃興したのが新興俳句である。

 主觀尊重、生活尊重と云ふ限に於ては新興俳句運動は一種の「芭蕉の原始にかへれ」の運動と目する事も出來ると思ふ。

 芭蕉を單なる花鳥風月の徒と見てはいけない。唯芭蕉は天性の個人主義者であり、社會的自覺がなかつただけである。――是は當時の人としては餘儀ない事であつた。自己の生活を重んじ自己の生活に即した句――生活感情の句をつくると云ふ點に於ては芭蕉は何人にもひけをとらないのである。「句と我とを一にせよ」「句身一體」と云ふ事は芭蕉はよく説きもし自ら實踐もしてゐた。

 句を生活よりひき離し花鳥風月のものとしたのは芭蕉でなく蕪村なのである。

 この事は別の機會に説くとして、主觀尊重の芭蕉を説きたい。芭蕉には客觀の勝つた句より、主觀の勝つた句が遙かに多い事は勿論の事であるが、――他の俳人に是を見ずして芭蕉のみに是を多く見るのは――呼びかけの俳句、自他に對する願望命令の句である。主觀觀の最もあらはなる吐出である。三大紀行から「よびかけの句」を拾つて見よう。

 

○砧打つて我に聞かせよや坊が妻

 我衣(きぬ)に伏見の桃のしづくせよ

            (以上野晒紀行)

○旅人と我名呼ばれん初しぐれ

 いざ行かん雪見にころぶ處まで

 此の山のかなしさつげよ野老掘

 よし野にて櫻見せうぞ檜木笠

○若葉して御目の雫ぬぐはばや

            (以上芳野紀行)

○野を横に馬牽きむけよほとゝぎす

這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲

塚も動け我泣く聲は秋の風

 秋涼し手毎にむけや瓜茄子

           (以上奧のほそ道)

 

以上此處に記載しなかつた句まで加へると二十數句の多きに及んでゐるが、特に○印のものは佳句と思ふのである。この中で

 

 這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲

 

の句は社會的にさほど、もてはやされてゐないが、他の語句に劣らない佳句である。芭蕉は「調はずんば舌頭に千轉せよ」とリズムの重んずべき事を教へてゐる。

 芭蕉に於いては俳句は和歌と同樣「調ぶる」ものであつた。

 即ち、俳句は十七音を以て構成された音樂であつたのである。この句の中から下の調べの可憐な事をみよ。

    HAI IDEYO

    KAIYA GA SITANO

    HIKI NO KOE

 I音とO音との微妙な配置から生ずるこの句のリズムの可憐さは、幾度誦して飽かないものがある。恐らくリズムの點から云へば芭蕉俳句中の名句たるを疑はないのである。

 芭蕉は主情の詩人であり象徴の詩人である。而も彼の主情はしらべを通しての主情であり、しらべを通しての象徴であつた。當今俳壇に於て象徴を口にしつゝ而もしらべの何たるかを知らず、佶屈贅牙なる俳句をつくり自ら高しとせる如き者とは雲泥の差があるのである。

 さて上記○印の句は芭蕉の理想とせる 「さび、しをり」を得てゐるかと云へば何れも「さび、しをり」をそなへてゐるのである。

 たとえば蟾の句の如きも墨色の世界――而も一脈の生命のはやなぎのある墨色の世界 ――讀む者をして自然の生命の閑寂の殿堂へ奧深く誘引しないではをかないつやを含んだ墨繪の世界である。この讀む者を誘引してゆく力あるのがしをりの句である。さびしをりを完全に具へた佳句と云へよう。

 ○印の句中、只

 

 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 

の句は「さび、しをり」と云ふには餘りに強烈なる句である。「さび、しをり」といふ念慮をも斷つ絶對の境地に發する叫びの句と云ふべきであらう。

[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。

 

・「芳野紀行」「笈の小文」の別名。現在知られる紀行句文集「笈の小文」には当初、題名がなく、芭蕉の死後、近江蕉門の乙州がかくつけたもので、他にも「卯辰(うたつ)紀行」「大和紀行」「大和後の行記」「須磨紀行」などと呼ばれたが、現在は「笈の小文」以外、殆んど聴かれることがなくなった(なお、「笈の小文」というのは、「猿蓑」を撰した頃に芭蕉自らが厳選した理想的撰集を企画、その草稿の名称に芭蕉がつけたものが「笈の小文」で、全く別のものであった。かくつけたのは乙州の私意である、と中村俊定校注岩波文庫「芭蕉紀行文集」及び新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の解説などにある。何故、多様な別名が残るかというと、乙州のこの私意に対して批判的な蕉門門人らが再編する際に以上の別名を附したことによるのである)。各種記載などで吉野巡りが主体であることから「吉野紀行」の標記でも載るのであるが、漢字表記は厳密には鳳作が記す通り、「芳野紀行」(湖中ら編に成る「俳諧一葉集」(いちようしゅう・文政一〇(一八二七)年刊)に初出する標題)が正しい。

 

・「句と我とを一にせよ」「句身一體」例えば、最晩年の元禄七(一六九四)年一月二十九日附芭蕉高橋怒誰(どすい:本名、高橋喜兵衛。膳所に於ける芭蕉のパトロンの一人で幻住庵を芭蕉に提供した膳所藩重臣菅沼曲水の弟で、兄弟ともに近江蕉門の重鎮であった。)宛書簡に以下のようにある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」のものを正字化して使用させて戴いた。読みは私が歴史的仮名遣で附した)。

   *

一、御修業相進(ごしゆげふあひすすみ)候と珍重(ちんちやう)、唯(ただ)小道小枝(せうだうせうし)に分別動(ふんべつうごき)候て、世上の是非やむ時なく、自智(じち)物(もの)をくらます處、日々より月々年々の修業ならでは物我一智(ぶつがいつち)之場所へ至間敷存(いたるまじくぞんじ)候。誠(まことに)御修業御芳志賴母敷(たのもしき)貴意(きいの)事に令ㇾ感(かんぜしめ)候。佛頂和尚も世上愚人に日々聲をからされ候。御噂なども適々出申(たまたままうしいで)候。猶追而可申上候(なほおつてまうしあぐべくさふらふ)。此節書狀取重(とりかさなり)候。 頓首

    正月廿九日                    はせを

  怒誰雅丈

      貴存

   *

「物我一智」は禅語で物我一如(いちにょ)・物我一致などと同じい。自他の境目がない精神状態、即ち、菩薩行を修した境界(きょうがい)を指し、客観と主観が一つとなることをいう。「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、後、宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長で芭蕉よりも二十一年も長生きした。「奥の細道」では那須の黒羽の雲厳寺にあった佛頂の修業跡を訪ねて「啄木鳥も庵は破らず夏木立」と詠んでいる(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立』を参照されたい)。「雅丈」芭蕉がしばしば用いる脇付。函丈(かんじょう)を洒落れてひねったものか。函丈は「礼記」曲礼上の「席の間丈を函(い)る」に由来し、師から一丈も離れて座る意。通常は師又は目上の人に出す書状の脇付である。彼が目上であるかどうかは不詳。藩士である彼に敬意を示したものと思われる(尤も芭蕉は年下の門人で俳諧師であった去来などにもこの脇付を用いている)。「貴存」も書簡の宛名に添えて敬意を示す脇付。

 また、土芳の「三冊子」に芭蕉の言として(頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」であるが、「師の詞の有しも」は原文が「師の詞のおりしも」であるのを、やや腑に落ちない(「折しも私意を離れよ」でも意は通るが)ので頴原氏の注によって別本の記載に変更した。読みは私が歴史的仮名遣で附した)、

   *

師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百變百化す。しかれどもその境、眞草行(しんさうぎやう)の三ツをはなれず。その三ツが中にいまだ一二をも不盡(つきず)と也。生前折々のたはむれに、俳諧いまだ俵口(たはらぐち)をとかずとも云出られし事度々也。高くこゝろをさとりて俗に歸るべしとの教なり。常に風雅の誠をせめとりて、今なす處俳諧に歸るべしと云(いへ)る也。常(つね)風雅にゐるものは、思ふ心の色、物となりて句姿定(さだま)るものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば外に詞をたくむ。是則(これすなはち)常に誠を勤(つとめ)ざる心の俗なり。誠を勉むるといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知るべし。その心をしらざれば、たどるに誠の道なし。その心を知るは、詩の詠草の跡を追ひ、よく見知(みしり)て、即(すなはち)我(わが)心の筋押直し、爰に趣(おもむき)て自得するやうにせめる事を、誠を勤(つとむ)るとはいふべし。師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行(ゆく)と心得がほにして私(わたくし)の道を行(ゆく)事あり。門人よく己を押直すべき所也。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞の有しも私意を離れよといふ事也。この習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云は物に入てその微の顯(あらはれ)て情感(かんず)るなり、句となる所也。

   *

とあるのが参考となる。

 

・「砧打つて我に聞かせよや坊が妻」芭蕉四十歳、貞享元(一六八四)年九月中旬、吉野宿坊での吟。「野ざらし紀行」の真蹟復刻である安永九(一七八〇)年版「甲子吟行」では、

 

  ある坊に一夜をかりて

碪(きぬた)打(うち)て我にきかせよや坊が妻

 

と載る。「曠野」や明和版「野ざらし紀行」(明和五(一七六八)年)では中七の音数を合わせて、

 

きぬたうちて我にきかせよ坊がつま

 

とするが私は改悪と思う。但しこれは一説(山本健吉氏)に「曠野」の杜撰な編集に起因するものとも言われる。孰れにせよ、覚悟の字余りの呼びかけにこそ、この句の神髄はある。

 

 

・「我衣に伏見の桃のしづくせよ」貞享二年春三月、「野ざらし紀行」の後半、京都伏見の浄土真宗西岸寺での、当第三世上人宝誉上人(俳号、任口(にんこう)。松江重頼門で芭蕉とは旧知の仲であった。当時八十歳、翌年に入寂した)への挨拶句。

 

  伏見西岸寺任口上人に逢うて

わが衣に伏見の桃の雫せよ

 

桃は伏見の名産。

 

・「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」「芳野紀行」=「笈の小文」の冒頭を飾る名句。芭蕉四十三、貞享四年十月十一日の其角亭での餞別句会の世吉(よよし:百韻の初折と名残の折とを組み合わせた四十四句からなる連句形式。)の発句であった。「笈の小文」にはその脇句も引いて、

 

  神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、

 

  旅人と我名よばれん初しぐれ

   また山茶花(さざんくわ)を宿々に(やどやど)して

 

磐城(いはき)の住(ぢゆう)、長太郎といふ者、この脇を付けて、其角亭におゐいて關送りせんともてなす。

 

と載せる。「長太郎」は岩城国平(たいら)藩(現在の福島県いわき市)藩主内藤義概(よしむね)の次男義英(俳号、露沾(ろせん)。「笈の小文」ではこの直後にその露沾の餞(はなむけ)の句と彼の屋敷での餞別会が描出される)の家臣井手由之(ゆうし)。「千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、

 

  はやこなたへといふ露の、むぐらの宿は

  うれたくとも、袖をかたしきて、御とま

  りあれやたび人

たび人と我名よばれむはつしぐれ

 

と載り、この前書は謡曲「梅ヶ枝」(世阿弥作。管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る)の一節を引いたもので、「千鳥掛」原本には謠本通りの胡麻点がつけられてあるという。参照した山本健吉氏「芭蕉全句」には、『能の廻国の行脚僧の姿を自分に擬している気味合があり、句の姿そのものからも、芭蕉の心躍りが感得できる』と評されておられる。

 

・「いざ行かん雪見にころぶ處まで」貞享四年十二月三日、名古屋本町の書肆風月堂の主人夕道(せきどう)の亭での作と推定される。初案は真蹟詠草などにある、

 

  書林風月と聞きし其名もやさしく覺えて、

  しばし立寄りてやすらふ程に、雪の降出

  でければ

いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで

  丁卯臘月(ていばうらふげつ)初、夕道

  何がしに贈る

 

で、「笈の小文」や「曠野」で鳳作の引いた、

 

いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで

 

に改作した後、更に、「花摘」(其角編・元禄三(一六八九)年奥書)の、

 

いざさらば雪見にころぶ所迄

 

の形に決したものと推定されている。どの句形も私の偏愛する句である。

 

・「此の山のかなしさつげよ野老掘」貞享五年(九月三十日に元禄元年に改元)二月中旬、伊勢朝日山の西麓にあった菩提山神宮寺を訪れた際の吟。この寺は八世紀、聖武天皇の勅願によって行基が開山した古刹であったが、当時は既に荒廃していた(現存しない。個人サイト内の「伊勢への道」の「伊勢の寺」の中で、まさに「野老(ところ)掘」りに「かなしさ」を「つげよ」と声掛けしたくなる、「此の山の」現状が見られる)。「野老」は単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。「~ドコロ」と呼ばれる多くの種があるが、特にオニドコロ Dioscorea tokoro を指すことがある。参照したウィキの「トコロ」によれば、食用のヤマノイモなどと同属だが、『食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ』又はヒメドコロDioscorea tenuipes の栽培品種であるエドドコロ(学名はヒメドコロに同じ)が栽培されていた、とある。この句も私の好きな一句である。

・「よし野にて櫻見せうぞ檜木笠」「笈の小文」から引く。

 

 彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しをり)となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の 、いせにて出(いで)むかひ、ともに旅寐(たびね)のあはれをも見、且は我爲(わがため)に童子となりて、道の便りにもならんと、自(みづから)万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有(あり)。いでや門出(かどいで)のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。

    乾坤無住同行二人

 

よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠

 

よし野にてわれも見せうぞ檜笠  万菊丸

 

「万菊丸」は若衆道に興じた坪井杜国の仮りの名である。「かのいらご崎にてちぎり置し」については、私の芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねるを参照されたい(但し、分量膨大に附き、ご覚悟あれかし。急がれる方は最後の注部分のみをご覧になられることをお勧めする)。

 

・「若葉して御目の雫ぬぐはばや」貞享五年四月九日頃、奈良唐招提寺に於いて天平期の傑作として知られる日本最古の肖像彫刻鑑真和上の像を拝した折りの非常に美しい一吟である。「笈の小文」から引いておく。

 

 招提寺鑑眞和尚來朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御目(おんめ)のうち鹽風吹き入りて、つひに御目盲(しひ)させ給ふ尊像を拜して、

 

 若葉して御めの雫ぬぐはばや

 

・「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」評釈

 

・「這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲」私の評釈

 

・「塚も動け我泣く聲は秋の風」私の評釈

 

・「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」私の評釈

 

・「調はずんば舌頭に千轉せよ」「去来抄」の一節。以下に引用する(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」。読みは私が歴史的仮名遣で附した)、

   *

  卯の花に月毛の駒のよ明(あけ)かな

 去来曰、予此(この)趣向有リキ。句ハ有明の花に乗込(のりこむ)といひて、月毛駒(つきげこま)・芦毛馬(あしげのむま)ハ詞つまれり。「の」字を入れバ口にたまれり。さめ馬ハ雅がならず。紅梅・さび月毛・川原毛(かはらげ)、おもひめぐらして首尾セず。其後六(りく)が句を見て不才を嘆ず。實(げ)に畠山左衛衞門佐と云(いへ)バ大名、山畠佐左衛門と云ヘバ一字をかえず庄屋也。先師の句、調(ととの)ハずんバ舌頭に千囀せよと有しハ、こゝの事也。

   *

「さめ馬」白眼(さめ)馬。両眼の毛の白い馬のこと。

 

・「調ぶる」「しらぶる」と読む。「しらぶ(調ぶ)」の連体形。楽器の調子を合わせる・音律を整える、又は、音楽を奏でる・弾くべきもの、の意で鳳作は使っている。

 

・「佶屈贅牙」佶屈聱牙の誤り。]

2014/11/16

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅰ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

篠原鳳作 芭蕉小論

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年四月刊の『句と評論』に掲載された。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊の「篠原鳳作全句文集」を元としたが、恣意的に正字化してある。鳳作はこの発表の翌五月頃より時々首筋の痛みを訴え始め、発作的な嘔吐も繰り返すようになり、同年九月十七日、午前六時五十五分、鹿児島市加治屋町の自宅にて心臓麻痺により急逝した(彼の死因については「篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月」の私の注を参照されたい)。満三十歳であった。

 傍点は太字に代え、踊り字は「〱」は正字化した。一目瞭然の脱字誤植(誤りと思われるものも多数)が甚だしいが、総てそのままに電子化し(底本には不思議なことに一切、ママ注記がない)、途中に附した注の中でそれは指摘しておいた。また、ブログの一行字数の関係上、一部の字配を変更してある。

 粗削りながら、芭蕉の句世界に素潜りでダイヴしていて、批評眼もなかなかに血気盛んで興味深い。]

 

     芭 蕉 小 論

 

    目次

一、芭煮の句作精神

  さび、しをり、生命の消極的把握。

二、芭蕉の俳句の特色

  呼びかけの句、主觀句、客觀句。

  句身一體、背後の世界。

三、結語

  新興俳句に「叫び」を「希求」を與へよ。

 芭蕉ほど多數の人に依つて論ぜられた俳人は無いであらう。俳人、歌人、畫人、小説家等によつて百方説かれながら尚巍然としてそびゆる一大混沌(ケイオス)が芭蕉である。

 其の一大混沌(ケイオス)の芭蕉を、こゝに又私が説かうと云ふのである。「鳳作の文章には稚氣がある」とよく云はれるが、「稚氣なくして今更芭蕉を説くなどと云ふ大それた事は出來ないんだ」と自らの無暴に微苦笑を送りながらこの筆をとる。

 

一、芭蕉の句作精神

 芭蕉は二十一歳の折句作し初めてから五十一歳で病沒するまで、三十一年の長い間句作生活を送つてゐる。

 無自覺に貞德の風を模倣してゐた時代(二十一-三十三歳)宗因の風を學んでゐた時代(三十四-三十六歳)の事は問はない。三十六歳にして

 

 枯枝に烏のとまりけり秋の暮

 雪の朝ひとり乾鱈をかみ得たり

 

の句を作り自己の藝術に對し、朧氣ながら自覺を持ち始めてから後五十一歳にして

 

 秋ふかき隣は何をする人ぞ

 旅にねて夢は枯野をかけめぐる

 

の句を殘して瞑目するまで彼は十六年の間自己の道を歩きつゞけたわけであるが、この覺醒期に於て彼は何を目標として句作したであらうか。

 彼は

「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の

 ごとくすべし。折にふれて彩色なきにしもあ

 らず、心他門にかはりて、さびしをりを第一

 とす」(祖翁口訣)

 とさびしをりを目標とすべき事を彼は門人に教へてゐる。ではその寂びしをりとは何ぞや? 先づ彼をして語らしめよう。彼は臨終の折去來等に教へて

「汝此の後とても地を離るる事勿れ、地とは心

 は杜子美の老を思ひ、は寂は西行上人の道心

 をしたひ、調べは業平が高儀をうつし、いつ

 迄も我れ等世にありと思ひ、ゆめゆめ他に化

 せらるゝなかれ」(翁反古)

と云つてゐる。地とは「心の地ごしらへ――素養」の義であらうと思ふ。即ち彼は「寂びは西行上人の道心を慕へ」と云つてゐる。其故芭蕉の寂びとは西行の

  寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里

  とふ人も思ひえたる山里の寂しさなくば住み憂からまし

といふ歌にある寂しさと同意義であろうと思ふ。芭蕉自身も同じ心を

 

憂き我をさびしがらせよ閑子鳥

 

と詠じてゐる。憂きとは憂悶である。寂びしむとは憂悶をこえて自然の生命の閑寂にしたる心であらう。

 寂びとは芭蕉の心に映じたる自然の生命の色である。

 さて一應芭蕉の所謂寂びについて述べたから「しをり」にうつりたい。さびとは心の色、しをりとは心の姿――句の姿――である。芭蕉は

「句の姿は靑柳の小雨に垂れたるが如くにして折々微風にあやなすもよし」(祖翁口訣)

と云つてゐる。「靑柳の小雨に垂れた風情」がしをりである。

 芭蕉は又去來の

 

つまよぶ雉子のうろたへてなく

 

と云ふ句を

 

 妻よぶ雉子の身をほそうする

 

と添削して「去來汝はいまだ句の姿をしらずや、同じことも漸く云へば姿あり」と教へてゐる。

 この「身を細うする」と「なつかしく云ひとる」句の姿がしをりである。

 即ち寂びとは芭蕉の心に映じた自然の生命の色であるならば、しをりとは彼の心に映じた自然の生命の姿である。其故に寂びは句の色となり、しをりは句の姿となるのである。寂び、しをりとは、別言すれは芭蕉における自然の生命の把握の仕方である。

 兎も角、芭蕉は現象を現象としてみず、更に現象の奧に自然の生命を見た人である。唯其の見方が消極的だつただけである。

 我々は芭蕉に生命を把握すると云ふ事は學ばねはならぬ。然し其も消極的仕方に於てでなく、積極的仕方に於て把握せねばならぬ。芭蕉の寂び、しをりに對し私がヴアイタリチーを説く所以は此處にあるのである。

 

■やぶちゃん注

 

・「三十六歳」数え。延宝八(一六八〇)年。

 

・「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」深川の第一次芭蕉庵での句(この年の句は計十七句が残る)。これは「曠野」の句形で、正確には、

 

かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮

 

の表記。真蹟画賛や真蹟懐紙・真蹟色紙で伝存、「三冊子」その他にもこの句形で載ることから、最終決定稿と思われる(但し、今栄蔵校注新潮日本古典集成「芭蕉句集」によると、この真蹟類は天和期(一六八一年~一六八四年)の筆跡であるとし、改案の時期もその頃と推定されてある)。「泊船集」では、

 

  秋のくれとは

 

という前書を持つ。初案は真蹟自画賛の短冊や「俳諧東日記」(あずまにっき・言水編・延宝九年刊)などに載る、

 

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

 

であるが、この初案は延宝八年よりも以前の可能性もあり(ここは岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)、今栄蔵氏の注にもこの句形は「寒鴉枯木(かんあこぼく)」を「秋の暮」の寂しさに見立てる談林的作為が露出していると評されている。また、真蹟短冊には、

 

枯枝(カレエダ)に烏とまりたるや秋の暮

 

という句形も存在している。今氏は続けて、『成案「とまりけり」で見立ての心がやわらぎ、寂しさのすなおな詠嘆』へと変化していると解く。

 

・「雪の朝ひとり乾鱈をかみ得たり」同じく深川の第一次芭蕉庵での句。「鱈」は誤植。それが鳳作本人の誤記なのか、それとも原所載誌かは不詳(底本には「ママ」表記はないが、幾らなんでも底本の誤植とは思いたくもない)。これ、とんでもない誤りである(しかしこれ、鳳作自身の誤記なのかも知れぬ。何てったて「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」とあるもの)。前書も併せて「俳諧東日記」所収のそれを正確に表記すると、

 

  富家肌肉丈夫菜根

  予乏し

雪の朝(あした)獨干鮭(からざけ)を嚙み得タリ

 

である。六・七・五の破格の句である。前書は「『富家は肌肉(きにく)を喰(くら)ひ、丈夫は菜根を喫す。』、予は乏し。」と読む。真蹟短冊が残るが、それらは前句同様、この年よりも以前に記された可能性もある(これは前出今栄蔵氏の注に拠る)。明の洪自誠の随筆「菜根譚」の書名の由来として知られる修身の言説である、朱熹の撰した「小学」の「善行第六」末尾の、「汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。」(汪信民、嘗つて人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做(な)すべし、と言ふ。胡康侯はこれを聞き、節を擊つて嘆賞せり)――汪信民が「菜根を齧って暮らすことが出来得るとなれば、如何なる事をも成し得る。」と言った。胡文定はそれ聴いて、「尤もなことだ。」とその文言に感心して褒め讃えた。菜根は堅く筋が多いけれども、それを噛みしめてこそ、その滋養も味わい、真の価値が初めて解る――という謂いを受けて、前書と句も含めて漢文隊を模して諧謔した芭蕉庵入庵の覚悟の一句である。因みにこれは私も偏愛する芭蕉の一句である。

 

・「秋ふかき隣は何をする人ぞ」私の同句の評釈をリンクしておく。

 

・「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」「旅に病んで」のトンデモ誤記。私の評釈をリンクしておく。

 

・『「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれて彩色なきにしもあらず、心他門にかはりて、さびしをりを第一とす」(祖翁口訣)』「祖翁口訣」は「そおうくけつ」と読む。これは芭蕉が文書としては記さず、口伝の秘伝として伝えたものの謂いで、「俳諧一葉集」の「遺語之部」に「祖翁口訣」として載るものの、その実は「雪の薄」(眠浪編・安永六(一七七七)刊)に「麦浪よりの聞書き」として掲載されているもので、その内容も既に蕉門の他の俳人らによって記されてあるものも多く、恐らくは後世になって蕉門俳書類から抜粋、再構成されて「祖翁口訣」なるものとして広まったというのが現在の見解のようである(以上は国立国会図書館の「レファレンス共同データベース」の大阪府立中央図書館提供の管理番号OSPR12060106に拠った)。私自身、この全貌を知らなかった。以下、国立国会図書館蔵の沼波瓊音編「芭蕉全集」(大正一〇(一九二一)年岩波書店刊)を近代デジタルライブラリーによって視認して電子化した(踊り字は正字化した。最後の編者注は底本では全体がポイント落ちの字下げになっている)。

   *

 格に入りて格を出でざる時は狹く、又格に入らざる時は邪詠にはしる。格に入り格を出でゝはじめて自在を得べし。詩歌文章を味ひ心を向上の一路に遊び作を四海にめぐらすべし。

 千歳不易一時流行。

 他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかはりてさびしをりを第一とす。

 名人は地をよく調べし。折にふれてはあやふき處に妙有り。上手はつよき所におもしろみあり。

 等類作例第一に吟味すべし。

 古書撰集にまなこをさらすべし。

 我門の風流を學ぶ輩は、先づ鶴のあゆみの百韻、冬の日、春の日、猿みの、ひさご、あら野、炭俵等熟覽すべし。發句は時代時代をわかつべし。

 初心のうちは句數をもとむべし。夫より姿情をわかち大山をこえて向の麓へ下りたる所を案ずべし。六尺をこえんと欲するものはまさに七尺を望むべし。されば心高き時は邪路に入りやすからん。心低き時は古人の胸中を知ることあたはず。

 俳諧は中人以下のものとあやまれるは俗談平話とのみ覺たる故なり。俗談平話をたゞさんが爲なり。拙き事ばかり云を俳諧と覺たるは淺ましき事なり。俳諧は萬葉集の心なり。されば貴となく賤となく味ふ道なり。唐明すべて中華の豪傑にも愧る事なし。只心のいやしきを恥とす。

 手にをは專要なり。我國は手にをはの第一の國なれば、先哲の作を味ひ一字も麁末なることなかるべし。句の姿は靑柳の小雨にたれたる如くにして、折々微風にあやなすもあしからず。情は心裏の花をもながめ、眞如の月を觀ずべし。跗心は薄月夜に梅のにほへるがごとくあるべし。

(右の條〻祖翁口訣と云傳ふ。全部の眞僞はいかゝなれど、このうちに芭蕉の語含まれ居り且つこの口訣よく蕉門の要を得たる語にて棄難ければ、こゝに置く。)

   *

鳳作の引用と改めて並べておく。

〇(原文)他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかはりてさびしをりを第一とす。

●(鳳作)他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくにすべし。折にふれて彩色なきにしもあらず、心他門にかはりて、さびしをりを第一とす。

 

・『「汝此の後とても地を離るる事勿れ、地とは心は杜子美の老を思ひ、は寂は西行上人の道心をしたひ、調べは業平が高儀をうつし、いつ迄も我れ等世にありと思ひ、ゆめゆめ他に化せらるゝなかれ」(翁反古)』「翁反古」(おきなほご)は芥川龍之介が「枯野抄」でも主素材としたことで知られる、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)の別名である。「芭蕉翁反古文(ばしようおうほごぶみ)」ともいう。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、現在は完全な偽作であることが分かっている(「翁反古」(おきなほご)という松岡大蟻編になる天明三(一七八三)年刊の芭蕉書簡集があるがこれではない。因みにこちらも偽書)。この引用部も全体に嘘臭さがぷんぷんする。岩波文庫版小宮豊隆校訂本で確認したところ、「は寂は」の部分は衍字で、「寂びは」と書いたものであろう。「杜子美」は杜甫。

 

・「寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里」「新古今和歌集」巻第六の冬歌の「題しらず」。六二七番歌。

 

・「とふ人も思ひえたる山里の寂しさなくは住み」「山家集」九三七番歌であるが、御覧の通りの重大な脱字があり、正しくは、

 

とふ人も思ひ絶えたる山里の淋しさなくば住み憂からまし

 

である。直後に鳳作が「憂き我をさびしがらせよ閑子鳥」と引くが、そもそもが「嵯峨日記」の四月二十二日(元禄四(一六九一)年)の条に、

   *

二十二日 朝の間、雨、降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書して遊ぶ。その言葉

  喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飮む

  ものは樂しみをあるじとす。

  「さびしさなくばうからまし」と西上人

  の詠み侍るは、さびしさをあるじなるべ

  し。

  また、詠める

 

    山里にこは又誰(たれ)を呼子鳥(よぶこどり)

       ひとり住まむと思ひしものを

 

  ひとり住むほど、おもしろきはなし。

  長嘯隠士の曰く、「客は半日の閑(かん)

  を得れば、あるじは半日の閑を失ふ」と。

  素堂、この言葉を常にあはれぶ。予もまた

 

    憂き我をさびしがらせよ閑古鳥(かんこどり)

 

  とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。

   *

と本歌を引いた上で本句を記している。なお、本句については私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 -(マイナス)1 うきわれをさびしがらせよ秋の寺」の評釈をご覧になられたい。

 

・『「句の姿は靑柳の小雨に垂れたるが如くにして折々微風にあやなすもよし」(祖翁口訣)』前注の引用原文では(下線やぶちゃん)、

 句の姿は靑柳の小雨にたれたる如くにして、折々微風にあやなすもあしからず

・「芭蕉は又去來の……と教へてゐる」は「去来抄」の「先師評」中の一篇に基づく(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」)。

   *

  妻呼雉子の身をほそうする   去來

初ハ雉子のうろたへてなく也。先師曰、去來かくばかりの事をしらずや。凡句にハ姿といふ物有。同じ事をかくいへバすがた出來る物をと也。

   *

に拠る。「身をほそうする」という芭蕉の斧正した表現が、確かに美事、擬人的に切なげな感じを醸し出しているといえる。

 

・『「なつかしく云ひとる」句の姿』という鍵括弧の引用は「去来抄」の「故實」中の次の一篇の末尾に基づく(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」を用いたが、一部に読みを入れた)。

   *

先師曰く、世上の俳諧の文章を見るに、或は漢文を假名に和らげ、或は和歌の文章に漢字を入レ、辭あらく賤しく云(いひ)なし、或は人情を云(いふ)とても今日のさかしきくまぐまを探さぐり求め、西鶴が淺間(あさま)しく下れる姿有(すがたあり)。吾徒(わがと)の文章は慥かに作意を立(たて)、文字はたとひ漢字をかるとも、なだらかに云ひつゞけ、事は鄙俗(ひぞく)の上に及ぶとも、懷しくいゝとるべしとなり。

   *

2014/08/13

610000突破記念 「篠原鳳作全句集」 PDFファイル版 / 藪野直史句集「鬼火」 PDFファイル版

先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセス610000突破。

記念として、私が手がけた初めての、「篠原鳳作全句集」PDFファイル版を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開、及び私の句集「鬼火」のPDFファイル版をもサイト・トップに公開した。【2016年5月8日追記:正字が転倒する箇所があり、後者は削除した。】

やっぱり、俳句は縦書に限る――

2014/08/10

停滞にあらず 篠原鳳作全句集のオリジナルPDF版の作業中

実は、四、五日前から新しく買ったPDF作成ソフトでオリジナルの「篠原鳳作全句集」一括PDF版を作製中である。
ところがそれしかなかったから、よく読まずに買ったら、これがスタンダード版で編集機能がリンクしかないという噴飯物であった。
それ故にワードで補正してはその都度、PDF化するの繰り返しなのである。

本文の補正が出来ないから、リンクも最後の決定版に張るしかなく、ちょっと途方に暮れているんである。
ワードのルビをそのまま再現してくれるのは実に有り難いのであるが、リンクは再現出来ず、そのリンクも縦書の場合、リンク部分が二行に渡ると面倒であたら前の字数を増やさないといけなかったりするんである。
しかも一部の正字が表示出来なかったり、出来ても横倒しになってしまったりもするという聊かムズいものがあるんである。
それでも、やっぱりこの縦書は見た目が非常によいんである。向後、歌集や句集類は順次、PDFに移行させようとも思ってはいるんである。

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