フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「芥川龍之介 手帳」の75件の記事

2017/05/23

芥川龍之介 手帳7 (1) 雍和宮

 

芥川龍之介 手帳7

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《7-1》のような表示はない。

 本「手帳7」の原資料は新全集の「後記」によれば、発行年・発行元不詳で、上下十二・四センチメートル、左右六・五センチメートルの左開き手帳と推測される手帳とある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳7」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。さらに、『この手帳に記されたメモと関わる作品は「手帳6」と重なるものが多い』とのみある。因みに、「手帳六」の構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)である。]

 

   七

 

○赤壁 黃瓦 綠瓦壁(半分) 大理石階 ○黃 赤 紫のラマ 黃色の帽(bishop) ○惜字塔(靑銅)

[やぶちゃん注:「ラマ」既出既注のチベット仏教のラマ僧。

「黃色の帽bishop)」「bishopは本来はカトリックの「司教」や英国国教会の「主教」であるが、ここで芥川龍之介はラマ僧の最高位の者を指して言っているようである。とすると、この人物はラマ教の新教派である黄帽派のそれである可能性が強い。同派は十四世紀の高僧ツォンカパがラマ教の教風改革を図り、厳格な戒律実践を主張し、「ゲルー(徳行)派」を興したが、彼は法会に際し、僧帽を裏返しに被って黄色を表に出したことからこの派を「黄帽派」と呼ぶからである。次の条の頭で龍之介は「和合佛第六所東配殿」と記しており、ここ以下の描写は北京市東城区にある北京最大のチベット仏教寺院雍和宮(ようわきゅう)である。同宮殿は清の康熙三三(一六九四)年に皇子時代の雍正帝の居館として建築されたが、一七二二年に雍正帝が即位した後、皇帝の旧居を他人の住居とすることが憚られたことなどから寄進されて寺院となったものである。私の芥川龍之介北京日記抄 一 雍和宮の本文及び私の注も参照されたい。]

 

○和合佛第六所東配殿 繡幔 3靑面赤髮 綠皮 髑髏飾 火焰背 男數手 女兩手 人頭飾(白赤) 手に幡 孔雀羽 獨鈷戟 4女に牛臥せるあり 上に男 牛皮を着たる小男 男に對す 2象首の女をふむもの 1馬に人皮をかけ上にまたがる 人頭逆に垂れ舌を吐しこの神 口に小人を啣 ○大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍) ○銅鑼 太鼓 赤 金

[やぶちゃん注:「和合佛」芥川龍之介は北京日記抄 一 雍和宮の本文では「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」と、歓喜天として出し、非常に関心を持って描出しており、この条のメモ全体が非常に有効な素材とされていることが判る。リンク先の私の「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」注以下も参照されたい。

「繡幔」「しうまん(しゅうまん)」は刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。

「幡」「はた」。

「獨鈷戟」「どくこげき(どっこげき)」。先端に独鈷杵(とっこしょ)を装着した槍で本来はインドの実戦用の武器であるが、仏教では各種の菩薩が邪気を払う法具として持ち、精進努力を怠らず、菩提心を貫くことを象徴するという。

「逆に」「さかさに」。

「啣」「くはふ」。咥(くわ)えている。

「大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍)」北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ」とある。]

 

○法輪殿 兩側ラマ席 黃綠の蒲團 中央に供米(boy 鯉 波)光背ニ鏡をはめた小像(金面) 正面に繡佛 前に白い法螺貝二つ 壁畫の下に山の如き經文あり 繡佛の後に五百羅漢あり 北淸事變の後本願寺大藏經を寄贈す

[やぶちゃん注:「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。雍和宮の建築群中、最も大きい。

「繡佛」「しうぶつ(しゅうぶつ)」。布地に刺繡で縫い現わした仏像。縫い仏(ぼとけ)。

「北淸事變」清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱の別称。日清戦争後、山東省の農民の間に起こった白蓮教の一派の武闘派秘密結社義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動してこれを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。]

 

○照佛殿(地獄極樂圖アリ)○第十四所西配殿 十處綏成殿 九處萬福殿(三階) 第八照佛殿 第七處法輪殿 第六所東配殿 五永祐殿 雍和宮 ラマ説碑 寧阿殿(ラマラツパをふく) 天王殿(布袋(金) 現妙明心 乾隆 御碑 石獅 槐)

[やぶちゃん注:「照佛殿」観光された方の記載には現在の雍和宮には「照佛樓」なるものがあるらしいので、それか?

「西配殿」後の「東配殿」とともに(個人サイト)で画像が見られる。

「綏成殿」「すゐせいでん」。建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。

「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。

「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。

「ラマ説碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。1744年(乾隆8年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。

「寧阿殿(ラマラツパをふく)」これは中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた四つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りと思われる。北京日記抄 一 雍和宮の本文でも、「それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり」と喇叭を吹くラマ僧を描写している。

「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一つ。通常のラマ教寺院と同じく、ここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす三世仏及び十八羅漢像が安置されている。

「現妙明心」不詳。経典類の総称か?]

 

○萬福 大栴檀木(ウンナン來) 七丈 片手に(右)嗒噠をかく 兩側に珊瑚樹(木製)あり 嗒噠をかく ○背後南海佛陀 龍 龍面人 鬼 鷗 鯉 海老 波 岩 陶佛大一小二

[やぶちゃん注:「大栴檀木」「だいせんぼく」であるが、私はビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album のことではないかと思う。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach があるが、中国ではビャクダン Santalum album のことを「栴檀」と称するからである。

「ウンナン」雲南省(地方)。

「七丈」約二十一・二一センチメートル。

「嗒噠」音なら「タウタツ(トウタツ)」であるが、ここでの意味が分からぬ。識者の御教授を乞う。

「南海佛陀」東南アジア経由で伝来したと思われる特徴を持った仏陀像のことか。]

 

○綏成殿 壁に千佛 三佛 賣不賣 首を切らると云ふ 萬福殿手前の樓上 馬面多頭の怪物(黃面 白面 靑面 赤面) 右足鳥 人をふみ左足、獸人をふむ 人頭飾 手に手 足 首 弓 鉞 坊主幕をとるにいくらかくれと云ふ 和合佛でないと云ふ あけてから 指爪があると云ふ ○關帝殿 (途中 石敷 コブシの大葉 赤壁)木像に衣をつくmogol 式 赤舌あり(左)

[やぶちゃん注:北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黃面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)」と出る。「萬福殿」(正しくは萬福閣)は法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にあるから誤りではない。

「木像に衣をつくmogol 式」仏像に実際の衣服を着せた着装像のことであるが、“mogol”は、インド古式の(モグール)ムガール式なのか、モンゴル式なのかは不明。もしかすると、ポルトガル語の“mogol”の意味で芥川は用いており、その衣服の素材を言っている可能性もあるかもしれない 所謂、金モールである ムガール帝国で好んで用いられた絹製紋織物の一種で、縦糸に絹糸を用い、横糸に金糸を使ったものが金モール、銀糸を使ったものが銀モールである。]

 

○ラマ畫師、西藏より來る (元明)七軒 30 or 40人 永豐號最もよし(恒豐號へ至る)一年に一萬二三千元賣れる 蒙古西藏に至る(佛□五萬)

[やぶちゃん注:「永豐號」「恒豐號」不詳。ラマ絵師の中で継承された名人雅号か?]

 

○大成門 赤 靑綠金天井 南側 石鼓あり 大理石段 欄も然り 碑に李鴻章の物あり 支那人教ふ 黃瓦 赤壁 白石階

[やぶちゃん注:「李鴻章」既出既注。]

2016/12/25

芥川龍之介 手帳6 (11) / 手帳6~了

 

○漢口のバンド プラタナス アカシア (支那人不可入)芝生 ベンチ 佛蘭西水兵 印度巡査 路の赤 樹幹の白 垣のバラ 讌月樓 水越ゆる事あり(大正四年?) Empire Holiday. 

[やぶちゃん注:「バンド」英語の“bund”で、埠頭のこと。

「讌月樓」現代仮名遣で「えんげつろう」であるが、不詳。因みに「讌」は「宴(うたげ)」の意である。旅館や料理屋よりも、女郎屋の名前っぽい気が私にはする。

「大正四年」一九一五年。芥川龍之介特派の六年前。

Empire Holiday」は五月二十四日を指している 即ち、これはEmpire Day”で“Commonwealth Day”の旧称、ヴィクトリア女王の誕生日であるイギリス連邦記念日である。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十四日の朝、廬山を出発、九江から大安丸に乗船して漢口に向かった。漢口到着は二十六日頃であるから、この記載は、溯上し終えた最後の日に纏めて記したメモかとまずは思われるしかし、実は彼は漢口から五月二十九日に長沙に出かけ、その後に洞庭湖を見たと思われ、新全集の宮坂覺氏の年譜では、再度、漢口に六月一日頃に戻っているらしい(年譜は推定で書かれてある)から、時系列を考えると、これはその時にそれら総てを纏め書きしたものとも思われる。]

 

○京漢線 車室――fan. 小卓 ベッドNo3. boyの□ 沿道――麥刈らる 靑草に羊群 墓の常緑 牛 驢 土壁

[やぶちゃん注:「京漢線」現在の鉄道路線である京広線(北京西から広州に至る路線で全長二千三百二十四キロメートル)の北側部分(北京から漢口までの間)。一九〇六年四月に開通した時点でこの路線を「京漢線」と呼称した。

fan」扇風機。

「□」は底本の判読不能字。

「驢」ロバ。]

 

○穴居門 方形アアチ 方形石積 門ニ對聯 門外ニ塀アリ 屋上即畑 ○赤土 草 ポプラア 層 ○鞏縣前殊に立派なり

[やぶちゃん注:「穴居門」不詳。

「鞏縣」現在の河南省鄭州(ていしゅう)市の県級市鞏義(きょうぎ)市。芥川龍之介は鄭州で京漢線を降りて隴海線(ろうかいせん)に乗り換え、洛陽に向かっているので通過している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○洛水 蘇岸の家 舟 偃師縣後風景明媚 ――後 洛水に沿ふ 旋風を見る 羊 畑 井戸 麥刈らる

[やぶちゃん注:「洛水」黄河の支流の一つである「洛河」のこと。古くは「洛水」の名で知られる。参照したウィキの「洛河」によれば、『華山西南部の陝西省洛南県を源とし、東の河南省に流れ込み、河南鞏義で黄河に入る。全長』四百二十キロメートルと、非常に長い』。『大きい河川ではないが、中国中部の歴史上最も重要な地区を流れているため、中国国内では非常に有名な河川である。洛河周辺の重要な都市は盧氏、洛寧、宜陽、洛陽、偃師、鞏義などがある。三国時代の曹植作の有名な「洛神賦」は洛水の女神に仮託して故人の情懐を述べ表している』とある。

「蘇岸」不詳。

「偃師縣」現在の河南省洛陽市にある県級市偃師(えんし)市。かの玄奘三蔵の出生地である。]

 

○忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林 (石龜 圍――龍 )建安二十四年洛陽城南 ○乾隆三十三年河南府知府李士适 ○丹扉 煉瓦壁 丹柵 柏 白馬 白羊

[やぶちゃん注:「忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林」

「建安二十四年」後漢の元号。二一九年。

「乾隆三十三年」清の元号。一七六八年。

「河南府知府李士适」(一七九八年~?)は日本語の音なら「リ シカツ」。但し、中文サイトで見ると、彼が河南府知府に任ぜられたのは、乾隆三十五年である。芥川龍之介が「五」を「三」に読み違えたか、或いは旧全集編者の誤読かも知れぬ。

「丹扉」「丹柵」丹(に)塗りの扉・柵の謂いであろう。]

 

○睿賜護國千祥庵 碑林 煉瓦門 草長し ○迎恩寺 麥の埃の香 薄暮 路の高低 大寺(タアシイ)だと云ふboy.

[やぶちゃん注:「睿賜護國千祥庵」「睿賜」とは唐朝の皇帝睿宗(えいそう)が創建したということか? 「千祥庵」は、Q&Aサイトの答えに、かつて洛陽にあった寺院で、解放前には古代の石刻を多く所蔵していたらしい、とある。

「迎恩寺」中文サイトを見ると、現在の洛陽市内に現存する模様。「福王朱常洵」(明朝の第十四代皇帝の三男)の事蹟を記した邦文のページに、洛陽の、この寺の名が出るが、同一かどうかは不明。

「(タアシイ)」はルビではなく、本文。「大寺」の中国語“dàsì”の音写であるが、正確には「ダァスゥ」である。]

 

〇龍門 25淸里 高梁一尺 麥刈らる 麻 驢六(藍) 步四(鼠) 小使二(白) 騾逐ひ(白衣藍袴) 那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)○十尸村は泥上の如し(村四つ) 裸の子供 皆指爪をいぢる 立て場の屋前 葭天井あり 刈しままの黍天井あり 燒餠(シヤオピン) 麻餠(マアピン)(汽車中) 糯の中に棗を入れしもの(チマキ式) 茹玉子 魚の油揚

[やぶちゃん注:「龍門」現在の河南省洛陽市の南方約十三キロメートルのところにある、後に出る伊河の両岸に存在する石窟寺院である龍門石窟のこと。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「龍門石窟」によれば、『北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した』四九四年から始まる非常に古い石窟寺院である。『仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期』(四九四年~五二〇年)『と呼ばれる時期の始まりである』。『龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった』。「魏書」の「釈老志」にも、五〇〇年に、『宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している』。『様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる』。最初期は五世紀末の『「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」』三窟(後出)の内、『実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、南と北洞の完成は唐の初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である』。『唐代には、魏王泰が賓陽』三『洞を修復し、褚遂良に命じて書道史上名高い』「伊闕仏龕碑を書かせ」、六四一年に『建碑した。初唐の代表は』、六五六年~六六九年『(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる』。『絶頂期の石窟が』、六七五年に『完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である』。『武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である』とある。因みに、芥川龍之介の配下と目された作家たちは芥川龍之介の生前から「龍門」と呼ばれたから、そういう意味でも彼にはここは何か親しみを感ずるものがあったのかも知れぬ。

25淸里」清代の一里は五百七十六メートルであるから、十四キロメートル強。

「騾」は、奇蹄目ウマ科ウマ属Equusのウマとロバの交配種ラバ(騾馬)Equus asinus♂× Equus caballus。因みにラバは不妊である。

「(ナイペンシロンメン)」及び「(シヤオピン)」「(マアピン)」は総てルビ。「那一邊是龍門」“nà yībiān shì lóngmén(ナ イピエン シ ルゥォンメン)で「ここら一帯が龍門です」の意。

「燒餠」は“shāobĭn”(シァオピィン)、「麻餠」は“mábĭn”(マァーピィン)。前者はうどん粉を練って薄くのしたものを焼いて表面にゴマをまぶしたもの。後者は甘い餡饅(あんまん)の一種かと思われる。

「步」不詳。「步兵」で軍服を着た人間のことか?

「騾逐ひ」ラバを追う農夫であろう。

「那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)」始めっから、例の教え子にオンブにダッコした。それによれば、意味は「あの辺りが龍門です」である。但し、通常なら「那邊是龍門」と言うところであるが、「一」を入れることによって場所を特定させるための、ワン・クッション効果が高まるという。教え子はここに『更にご参考までに申し上げれば、北方では「那邊」を「ネイビエン」と読むのが自然です(「一」が入った場合の発音と近いので敢えて付記しました)』と附記し、『蛇足ですが、もし「哪一邊是龍門」だと疑問文「どのあたりが龍門ですか?」なので要注意です』と教えて呉れた。これは「那」が第四声、「哪」は第三声で、声調によって意味が異なってくるからだそうである。さて、「那一邊是龍門」をピンインで表記すると“nà yī biān shì lóng mén”で、カタカナの最も近い表記は「ナーイービエンシーロンメン」だということである。謝謝!

「十尸村」不詳。村名としては何だか、洒落にならない気がするのだが。]

 

○洛水の渡し――伊水 對岸に香山寺あり 賓陽三洞(案内人曰中央ハ中央、右ハ右云々) 左の洞に竈あり 燻る事最甚し 洞に至る前もう一洞あり perhaps 蓮華洞 その洞前水を吐く所あり 石欄 靑石標 樹木 見物人支那人二三人 車にのりし女 乞食と犬と立て場に食を爭ふ 男は梅毒

[やぶちゃん注:「伊水」洛河の支流で洛陽の南方を流れ、龍門石窟を抜ける。先の龍門石窟の地図データを参照されたい。

「香山寺」龍門石窟の向い側の川岸に「香山」という山があり、石穴の数は少ないがやはり山腹に石窟がある。ここに白居易が長年住んだ香山寺があり、彼の墓所もここにある。

「賓陽三洞」「龍門」の注を参照。個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の河南省・龍門石窟~賓陽三洞の歴史~が画像もあり、歴史も詳しく載っている。

「竈」「かまど」。

「燻る」「くすぶる」。

「蓮華洞」龍門」の注を参照。やはり、個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の河南省・龍門石窟~蓮花洞~に解説があり、窟内の画像も素敵! 行ってみたくなった。]

 

○鴻運東棧囘々教 豚を忌む 道士ト店 北京の骨董屋 庭中に大鉢植 醋の匀 マアチヤンの群 星空 吉田博士の宿 アラビヤ字の軸 珈琲 棧房Chan (tsan) fan.

[やぶちゃん注:「鴻運東棧」ここで切れているのではあるまいか? これは恐らく旅館の名ではないか?

「囘々教」「豚を忌む」で判る通り、イスラム教のこと。

「道士ト店」の「ト」は表記通り、カタカナ「ト」であるが、ここで格助詞「と」がカタカナになるのはやや不自然にも思える。回教寺院の中に道士と売店の取り合わせというのも妙である。一つの可能性として「道士卜店」で、道士による占いを生業とする店舗という意味ではあるまいか?

「醋」「す」。酢。

「マアチヤン」は“merchant”(商人)の謂いか。

「棧房Chan (tsan) fan」は旅館の室房。「棧」の音をウエード式ローマ字で示した“chàn”(拼音“zhàn”:チァン)に、発音しやすい類似音表記である“tsan”を併記し、「房」の音“fáng”(ウエード式・拼音共通:ファン)を簡易表記で示したものであろう。即ち、「棧房」の中国音「チャンファン」のメモである。

 

○洛陽 停車場――支那町 不潔――石炭場――黑土――左に福音堂(米) 右に城壁――麥黃――乞食

[やぶちゃん注:「福音堂(米)」アメリカの宣教師が建てた教会の意か?]

 

○鄭州 兵營grey) 練兵 馬 乞食(臥) 室は白 龍舌蘭二鉢 白い拂子bedにかかる

[やぶちゃん注:「拂子」「ほつす(ほっす)」「ほっ」も「す」もともに唐音。元来はインドで虫や塵を払うための具で、獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもの。後世、中国・日本で僧が説法などで威儀を正すために用いる法具となった。]

 

○光はうすき橋がかり

 か行きかく行き舞ふ仕手は

 しづかに行ける楊貴妃の

 きみに似たるをいかにせむ

[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、芥川龍之介の遺稿を佐藤春夫が編集した昭和八(一九三三)年三月岩波書店から刊行された芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。私は既に同作を注附きで公開しており(HTML横書PDF縦書)、ブログ・カテゴリ「澄江堂遺珠」という夢魔」では徹底追及を進行中である。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずだからである。]

 

○光はうすき橋がかり

 靜はゆうに出でにけり

 昔めきたるふりなれど

 きみに似たるを如何にせむ

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、

 

光は薄き橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

 

と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]

 

○女ごころは夕明り

 くるひやすきをなせめそ

 きみをも罪に墮すべき

 心強さはなきものを

[やぶちゃん注:この一篇は、岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称する(これは正しい謂いではないので注意! それについては、やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」の冒頭注を参照されたい)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群の中に、

 

女ごころは夕明り

くるひやすきをなせめそ

きみをも罪に堕すべき

心強さはなきものを

 

相同の一篇が載る。]

 

○遠田の蛙きくときは(聲やめば)

 いくたび夜半の汽車路に

 命捨てむと思ひけむ

 わが脊はわれにうかりけり

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、

 

遠田の蛙聲やめば

いくたび■よはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫はわれにうかりけり

 

(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、旧全集未定稿詩篇の中にもこれがあり、そこでは何と! 最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]

 

 

○松も音せぬ星月夜

 とどろと汽車のすぐるとき

 いくたび

 わが脊はわれにうかりけり

[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]

 

○墮獄の罪をおそれつつ

 たどきも知らずわが來れば

 まだ晴れやらぬ町空に

 怪しき虹ぞそびえたる

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、

 

たどきも知らずわが來れば

ひがしは暗き町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

 

などとよく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来のである。]

 

○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず

[やぶちゃん注:「矮く」「ひくく」と訓じているか。不気味な七・五・七・五の定型文語詩であるが、分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採る。

 但し、この一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点から見ると、実は前の六篇の詩篇も含めて、「湖南の扇」のモデルとなった先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくるのである。

 

 以上で、芥川龍之介の手帳6は終わっている。]

 

芥川龍之介 手帳6 (10)

 

○天心第一女子師範學校 古稻田 white in black. 附屬幼稚園 附屬高等小學校 國民學校 green in wood. 門内はイボタの生垣 右美育園 草花 ○縫紉 樂歌 作文 國文 手工 硯墨 石磐 一齊に答ふ 〇二階 裁縫室 圖書室 女子白話旬報(机上) 石膏の果物 圖書少 用器畫の形 一級より二人を出し整理す ○議事會辨公室 董事禽辨公室――小學義會 ○不要忘了今日 我校的運動會(verse libre) ――小學作文 ○自治週刊 文會週報○study, essay, story, poetry. 私有財産Vermögen――Copy from a book. 新國語(Peking 來) ○寄宿舍 rape があるといけませんから ○蒙養部 白壁四方 柘榴 無花果 ブランコ 遊動圓木touching) 製作(貼紙) ダンベル ボオト 木馬 ブラン(藤の) 砂(大箱中)

[やぶちゃん注:「天心第一女子師範學校」「附屬高等小學校」及び「rape があるといけませんから」は先に引いた「雜信一束」の「七 學校」に出る。

white in black.」不詳。「古稻田」が黒で、その中に「天心第一女子師範學校」の白い建物があるという景観を描写したものか?

green in wood.」これは、「附屬幼稚園」「附屬高等小學校」「國民學校」の方は木立或いは林か森の中に緑色の建物としてあったというのであろう。

「イボタ」キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium の大陸亜種と思われる。

「美育園」保育園か。

「縫紉」「ハウヂン(ホウジン)」。裁縫。以下、「手工」までは学科(授業)名であろう。

「硯墨 石磐」反日であるから、生徒の使用している筆記用具は総て〈中国製の〉硯と墨と石板だというのであろう。

「女子白話旬報」当時、刊行されていた『北京女報』『女學日報』などと並ぶ女性雑誌の一つ。

「用器畫の形」意味不明。

「一級より二人を出し整理す」各クラスから選出した図書係か。

「議事會辨公室」職員室か職員用会議室か?

「董事會辨公室」「董事」(とうじ)は「取締役」のことだから、理事会室か理事会会議室か?

「小學義會」小学校の職員室は別にあるということか?

verse libre」はフランス語の“vers libre”の誤記で、「自由詩」のことであろうから、どこかに小学生の「不要忘了今日 我校的運動會」というそれが記されていたのであろう。

「自治週刊」「文會週報」不詳。或いは、同校内部で発行されていた政治的な自治週刊誌或いは同人総合週刊誌か? なお、この時、芥川龍之介は実は、若き日のかの毛沢東と、この長沙でニア・ミスしていた可能性もあるのである。

Vermögenはドイツ語で「財産がある」という意味であるから、「私有財産Vermögen」で、

「私有財産を持っている・保有する」という意味であろう。

Copy from a book.」本から書写したもの。

「新國語(Peking 來)」当時、北京で刊行されていた公的な中国語教科書か。

「蒙養部」初等幼児教育科の謂いか。ここに出る「幼稚園」や「小學校」との違いはよく判らぬ。中文サイトの「蒙養院」によれば、清の一九〇三年に創設され、六、七歳から入学、修業年限は四年とある。

touching」はここでは、みすぼらしく哀れな感じのする、の意か。

「ブラン」不詳。既に前出している「ブランコ」の脱字か。藤蔓で出来たブランコなら納得がゆく。]

 

○洞庭 入口は蘆林潭 水中に松見ゆ(冬は河故) 所々に赤壁風の山 帆影 水は濁れどやや綠色を帶ぶ 模糊として山影あり 税關にて造らせし浮標 船中香月氏と聊齋志異を談ず 湖上大筏見ゆ 扁山君山を左舷に望む (五時) 偏山の上に僧舍あり 遠く岳陽樓を見る(右) 「不潔なり 兵士大勢居り糞を垂る」と云ふ(香月氏) 君山は娥星女英の故地なり 岳州の白壁癈塔見ゆ 岳陽樓 三層 黃瓦に綠卍(最上屋) 樹左右 左に城壁連る

[やぶちゃん注:「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十九日に訪れているが、「長江游記」本文には全く現れない。やはり「雜信一束」で、

   *

 

       五 洞庭湖

 

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。

 

   *

芥川のこの記載はメモにある通り、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。大正一〇(一九二一)年五月三十日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。以上から見て、芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。

「蘆林潭」「ろりんたん」。地名。湘陰県蘆林潭。ここで湘江が洞庭湖に注ぐ。

「赤壁」湖北省の東部、武漢より下流の長江北岸に臨む地。後漢末の二〇八年に曹操と孫権の間で行われた「赤壁の戦い」の古戦場推定地であり、蘇軾の「赤壁賦」で夙に知られる名勝。ここは無論、「風の山」で「それらしい感じを与える山」である。

「香月氏」不詳。姓で「こうづき」であろう。

「扁山」ここ(教え子が送ってくれた画像)。

15676495_1135487239902432_782349522

「君山」ウィキの「洞庭湖に、『昔は洞庭湖の中に浮かぶ島であった君山(くんざん)』『は、現在は岸とつながっているが、かつて多くの道士が隠棲しており、湘江の女神・湘君が遊んだところとして知られる。現在は君山銀針という希少な中国茶の産地である。岳陽楼付近から船で渡ることができる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「五時」不詳。方位か?

「偏山」不詳。前の「扁山」と同じか。しかし位置的には「遠く岳陽樓を見る」というのはおかしくなる。何故なら、長江を遡上した場合は、まず「右」ではなく左手に「岳陽樓」を間近に見ることになるからである。この時、龍之介は船で長江を遡上したのではなく、洞庭湖の北の端辺りから船に乗ったのだろうか? この辺り、地形が錯雑していて、地図だけではどうも解き明かせない。どなたか、この私の一連の痙攣的不審を解いて戴けないだろうか? 以上のように注したところ、教え子が即日、先に示した画像とともに、以下の非常に興味深い見解をメールで呉れた。実は、この長沙と洞庭湖を訪れた芥川龍之介の行動は研究者の間でもブラック・ボックスで、よく判っていないようである。或いは以下の教え子の見解が芥川龍之介中国特派のこのやや不明な行程を明らかにする新開地となるようにも思われるので、本人の許可を得て全文を公開することとした。

   《引用開始》

 この芥川龍之介の洞庭湖通過は、長沙訪問の後に於けるものではなかったか。私の見たネット上の資料では、龍之介は長沙訪問の後、水路で漢口に戻り、そこから陸路(鉄道)で鄭州に向かったように見える。龍之介の記載は長沙訪問後、船が北上していた際のものではないか? 手帳上でも長沙の後に記載が出てくるのは、そのためではないか。しかも洞庭湖の南部、長沙方面から流れ込む湘江と洞庭湖が出会う「蘆林潭」の三文字の後に「岳陽」の記載が出て来るのだから、その確信は深まる。だとすれば、君山を左舷に見るのは自然だ。扁山というのは、岳陽楼の西南約七キロ、君山の東南東約五キロにある小さな島のことではないか(岳陽楼・君山・扁山の位置関係を示すために「百度地図」の画像写真を示す[やぶちゃん注:前掲の画像。])。ここでは「扁山」と「偏山」を同じものとして論を進める。さて、岳陽の遙か南から北上してくる船が、「君山」と「扁山」を視界に捉えた時、その船首が向いている方向によっては、「君山」と「扁山」を、ともに左舷に望むことがあっても不自然ではない。いやそれよりも、件の「百度地図」を衛星画像にしてみると、「扁山」の東側を多数の船が行き交っているのがわかる。すなわち、龍之介の乗った船が「扁山」の東を通過すれば、「君山」と「扁山」をともに左舷の視界に収めるのは自然なことである。船がその後で右舷に「岳陽楼」を見ることは、言うまでもない。いや、そもそも「岳陽楼」という、大自然の広大さに比べれば芥子粒の如くにちっぽけな建造物は、十分に近づかなければ、その姿を認め得ないのである。

 私が岳陽楼に船で向かったのは、たしか一九九七年の夏であった。妻と三才の娘と私を載せて重慶から長江を下ってきた大型客船は、洞庭湖の北端で停泊し、私はそこから小型船に乗り換えて岳陽楼に向かった。折しも、天を覆う霧雨と濃霧の中を進んでいく船からは、扁山はおろか君山さえも眼にすることはできなかった。方向感覚を奪う白い世界を船は往く。その時、突然、幕が開くかのように眼の前に現れたのが岳陽楼であった。私は今でも、その時の岳陽楼がこの世のものではなかったのではないか、再び陸路で向かっても二度と辿り着ける場所ではないのではないかと夢想し、恍惚としてしまうのである。龍之介が訪れた際の洞庭湖が情けない白け切った姿であったことを、私はとても残念に思う。

 《引用終了》

最後に。かく、私の不審を霧を払うように拭って呉れた教え子に、心から謝意を表するものである。

「娥星女英」これは中国神話中の女神「娥皇」(姉)と「女英」(妹)の判読ミスであろう。ウィキの「娥皇」によれば、『娥皇(がこう)は、古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥とも書かれた。姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える』とあり、位置的も符合する。

 

「岳州の白壁癈塔」不詳。

「岳陽樓」洞庭湖の東北岸に建つ、高さ二〇・三五メートルの三層木造建築の楼閣。眼下に広大な洞庭湖、北に長江を臨む雄大な景観で知られる。参照したウィキの「岳陽楼」より引く。『黄鶴楼、滕王閣と共に、江南の三大名楼のひとつとされ』、『後漢末、赤壁の戦いの後』、『呉の魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたものがこの楼の始まりとされる』。『唐代、岳州に刺史として左遷されてきた張説が』七一六年に『魯粛の軍楼を改修して』『岳州城(岳陽城)の西門とし、南楼と称した』。『「岳陽楼」の名もこの頃につけられた』。『張説が才子文人と共にこの楼で詩を賦してからその名が高まり』、『後に孟浩然や李白ら著名な詩人たちもここを訪れて詩を賦し』、『「天下の楼」とうたわれた』。『当時の楼は現在のものより小規模で背も低かったと言われる』。『現在の建物は清代の』『再建であり、その飛檐(反りの大きな軒)は清代建築に特徴的なものである』。杜甫の「登岳陽樓」(岳陽樓に登る)が最も知られる(引用元に載る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○酒じみの疊に蚊たかり居る空き間

[やぶちゃん注:中七字余りの俳句。]

 

○西村が文鳥の占を見て貰ふ

[やぶちゃん注:前に続いて私は中七字余りの俳句と採る。「占」は「うら」。所謂、本邦にもあった鳥占いである。現在の台湾でのそれをpu2898氏の動画(その後の別な方の別方式の投稿動画も有り)で見られる。]

 

○支那富豪金を銅貨にし(37俵)貯ふ 銀行はつぶるる故

 

鄭州 早川 島田 日華實業協會 災民施療所 (doc. 二人、Nurse 一人)(nurse 二人shankel)トラフオーム 75%(内地は15%)膀胱結石(二つ 一は大福大) 兵士多し トラフオームの老婆 一眼紫色 一眼治療前 治療は眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり 兵士のシャンケル AprilJuly, 平均300AprilJuly, 149. 新舊合せて)

[やぶちゃん注:「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州(ていしゅう)市。

「早川」不詳。

「島田」不詳。以下の「日華實業協會」の職員か。

「日華實業協會」「神戸大学附属図書館」のデジタル・アーカイブの「日華實業」に、大正六(一九一七)年に「神戸商工会議所」内に「日支実業協会」が設置され、大正一三(一九二四)年に「神戸日華実業協会」と改名したとある(現在も存続する)。但し、芥川龍之介の渡中は大正一〇(一九二一)年であり、まだ「日支實業協會」であったから、違うかも知れぬ。

「災民施療所」「日華實業協會」が運営する飢民を対象とした診療所か。

shankel」「シャンケル」はドイツ語の“kranker”(所謂、「クランケ」。実際にネィテイヴのそれは「クランカ」と聴こえる)、「患者・病人」の誤りではなかろうか?

「トラフオーム」トラコーマ(Trachoma)。クラミジア・トラコマチス(真正細菌界クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属Chlamydia trachomatis)を病原体とする急性及び慢性の角結膜炎。伝染性感染症で、主に目と性器に感染する。重症化すると失明する(現在でも世界で年間六百万人がこれで失明しているとウィキの「トラコーマにある)。

「膀胱結石(二つ 一は大福大)」芥川龍之介はその「災民施療所」を実際に見学し、そこでこの二つの膀胱結石を見せて貰ったのであろう。龍之介は、この手の標本を見るのが、実は好きである。

「眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり」「眶」は「まぶち」「まぶた」(瞼)と読む。ウィキの「トラコーマによると、トラコーマは重症化すると、『上眼瞼が肥厚することがある。その結果』、『睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる』とある。

AprilJuly, 平均300AprilJuly, 149. 新舊合せて)」この数値の違いの意味はよく判らない。]

 

○災童收容所 右胸に姓名を書きし紙札 白服 算 修身 讀本 先生白服

[やぶちゃん注:児童対象の養護施設らしい。これも或いは「日華實業協會」の事業の一つか。]

 

○乞食 臥老人 夜あひし乞童 全裸體の子供

 

○錢舜擧 終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)○錢舜擧 蕭翼蘭亭圖(元ノ兪紫文の書)○黃尊古 仿梅道人江山秋色圖○載士醇○蘆鴻滄館○曾國藩 日本畫の猿 安思翁?

[やぶちゃん注:「錢舜擧」(せんしゅんきょ)は元代の画家。浙江省呉興の生まれ。名は選、舜挙は字(あざな)、号に王潭・巽峯など。宋の景定年間(一二六〇年~一二六四年)に進士となったが、宋滅亡後は官途に就かなかった。詩・書画ともに巧みで、殊に人物・山水・花鳥画を能くした。生年未詳で、一三〇一年以後に没したと思われる(思文閣「美術人名辞典」に拠った)。

「終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)」現代仮名遣で「しゅうなんざんきめいず(しょうきかめいず)」と読む。疫病や悪霊を防ぐ勇壮な神鍾馗が自分の妹を嫁に出すという逸話に基づく。後世に作話されたものらしいが、加藤徹氏の「京劇城」に、落語みたような面白い京劇鍾馗嫁妹の分かり易い解説が載る。

「蕭翼蘭亭圖」これは「蕭翼賺蘭亭圖」(しょうよくたんらんていず)の脱字であろう。「賺」は「騙す」の意で、唐の太宗の使者蕭翼が山深い庵に住む僧辯才を訪ね、王羲之の知られた名筆「蘭亭序」を騙し取るという故事を画題としたもの。

「兪紫文」不詳。識者の御教授を乞う。

「黃尊古」清代の画家。

「仿梅道人江山秋色圖」不詳。ただ、ネット検索では明代の画家藍田叔の作に「仿梅道人山水卷」という書画があることだけは判る。

「載士醇」これは「戴醇士」の芥川龍之介の誤記か、全集編者の判読ミスではなかろうか。「戴醇士」(たいじゅんし)なら、清末の画家戴熙(たいき 一八〇一年~一八六〇年)の字である。ウィキの「戴熙によれば、『浙江省銭塘(現在の杭州市)出身』で、一八三二年に『進士となり、翰林院編修となった。広東学政、内閣学士を経て兵部右侍郎に至り、退官後は崇文書院の主講となった。太平天国の乱が発生すると団練』(だんれん:清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織。)『を組織して杭州の防衛にあたった』。一八六〇年に『太平天国軍が杭州を陥落させると、戴熙は池に身を投じて自殺した。死後、文節の諡号が贈られた』。『筆致は厳しく雄大である。また竹石小品や花卉画も善くした』。同じ清朝の画家湯貽汾(とう いふん 一七七八年~一八五三年)とともに『画名をはせ、「湯戴」と称された。『山水長巻』や『重巒密樹図』などの作品が残されている』とある。

「蘆鴻滄館」不詳。

「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。詳しくはウィキの「曽国藩を参照されたい。

「安思翁」不詳。]

 

2016/12/24

芥川龍之介 手帳6 (9)

 

○北海碑(墻門) 石階 筧 雜草 麓山寺碑亭(白かべ) ○劉中丞祠 崇道祠(コノ中ニ朱シアリ) 六君子堂 梧桐 芭蕉 ザクロノ花 ○劉人熈 湖南督軍都督 墓――半成

[やぶちゃん注:「北海碑」「北海」は盛唐の名臣で書家としても知られる李邕(りよう 六七八年~七四七年)のこと。玄宗の時、北海太守に任命されたことから、世に「李北海」と称された。ウィキの「李邕」によれば、『英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に』八百本に『のぼり、巨万の富を得たといわれる』。『晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた』とあり、これは彼「北海」の書いた麓山寺「碑」のことであろう。建碑は七百三十年で碑文は二十八行・各行五十六字から成るもので、書体は行書、『湖南省長沙の嶽麓書院に現存する。碑の篆額には「麓山寺碑」の』四字を『刻し、碑末の年記の次に「江夏黄仙鶴刻」とあるが、仙鶴とは李邕のことであるという。碑は宋代の頃から、剥落がひどく、拓本で佳品は稀である。麓山寺は嶽麓寺(がくろくじ)ともいわれることから、この碑を『嶽麓寺碑』ともいう』とある(下線やぶちゃん)。中文ブログのこちらで、碑が現認出来る。なお、麓山寺(ろくざんじ)は長沙市の岳麓山にある仏教寺院で、西晋の二六八年の建立。弥勒菩薩・釈迦如来・五百羅漢像・千手千眼観音菩薩を祀る(ここはウィキの「麓山寺」に拠った)

「墻門」「しやうもん(しょうもん)」建物の門口のこと。前の注のブログ写真を見ると、少なくとも現行では碑のための鞘堂の如きものがあって、その戸口の直近に碑が建っているのが判る。

「麓山寺碑亭(白かべ)」芥川龍之介が別な碑を誤認したのではなく、前の「北海碑」の私が鞘堂みたようなと言った建物を指すならば、中文ブログ写真で判る通り、現在は黄土色に塗られている(その写真を見るに、屋根は龍之介の来訪時のものかも知れぬが、壁はかなり新しい感じである。或いは、龍之介拝観当時とは場所が移っている可能性もあるか)。

「劉中丞祠」不詳。「劉中丞」は検索では中文サイトでかなり掛かるが、読めないので比定出来ない。次の「湖南大学岳麓書院数字博物館」の岳麓書院の紹介ページには見た感じでは、この祠はない。現存しない可能性もあるか。

「崇道祠」ウィキの「岳麓書院」によれば、一五二七年、長沙知府王秉良(へいりょう)が増築した建物で、南宋の優れた儒者朱熹を祀るもののようである(中文であるが、「湖南大学岳麓書院数字博物館」公式サイト内のこちらを見られたい)

「六君子堂」ウィキの「岳麓書院」に、一五二六年に六君子堂(朱洞・李允則・劉珙・周式・陳鋼・楊茂元)が学道許宗魯と知府楊表によって建立された、とある。「湖南大学岳麓書院数字博物館」の中に「改建六君子堂碑記」の画像と解説が載る。

「劉人熈」宮原佳昭氏の、清末から一九二〇年代にかけての教育行政について記された論文「近代における湖南省教育会について」の中に、湖南教育総会設立(一九〇七年)当初の会長は劉人煕であった、とある。また、サイト「小島正憲の凝視中国」の「上海の毛沢東 vs 北京の孔子」に、辛亥革命後の一九一四年に、『王船山に傾倒していた湖南開明派の劉人煕が船山学の普及のため、湖南省長沙の地に「船山学社」を創設した』。一九一九年に『劉人煕が死去したあと、閉鎖状態になっていたものを』、一九二一年、『湖南第一師範学校を卒業した毛沢東がマルクス主義の教育と宣伝のために「湖南自修大学」として再開した。もっぱら自学自習に重点が置かれており、最盛期には』二百人ほどの『学生が学んでいたという』。一九二三年、『危険思想を教えているという理由で、軍閥政府によって強制的に閉鎖された』とある「劉人煕」と同一人物であろう。

「半成」半分までしか出来ていないの謂いか?]

 

○愛晩亭 錢南園 張南軒 二南詩刻 ○岳麓寺(万壽寺) 古刹重光(赤壁) 設所釋氏佈教ダンモハン養成所 香積齋堂 山路 雲麓宮 望湘亭

[やぶちゃん注:「愛晩亭」ウィキに写真附きで「愛晩亭」がある。『湖南省長沙市にある亭』(四阿)。『醉翁亭、陶然亭、湖心亭と共に、江南四大名亭の』一つと『される。清代の』一七九二年、『当時の岳麓書院の院長であった羅典によって建立』された、とある。

「錢南園」清の官僚で画家でもあった錢灃(せんほう 一七四〇年~一七九五年)の号である。彼は湖南学政であったことがある。

「張南軒」南宋の儒学者(朱子学の濫觴のグループに属する)で政治家であった張栻(ちょうしょく 一一三三年~一一八〇年)の称の一つ「南軒先生」。ウィキの「張栻」によれば、『広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが』、『孝宗の信任は厚かった。後に王夫之は『宋論』のなかで張栻を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる』とある。ウィキの「岳麓書院」によれば、一一六五年、『湖南安撫使の劉珙は書院を修復する。張栻が書院教事に就任する』。一一六七年、『儒学者の朱熹はここに』於いて講義を行い、一一九四年には湖南安撫使となっていた『朱熹は書院を重修した』とある(下線やぶちゃん)。

「二南」不詳としたら、即座に教え子が調べて呉れた。中文サイトページに解説が載り、中文サイページで岳麓書院にある当該碑の写真が見られる。教え子がその一部を訳して呉れたので転載する。『傾斜した石畳を下ってゆくと、もう、愛晩亭は近い。愛晩亭に行く前に、まず、放鶴亭へ。そこには二南の詩碑がある。二南というのは張南軒と銭南園。張は道学者、銭は第一級の人物。屢々汚職官吏を弾劾した誉れ高い方々。詩や書画などにおいても名声を馳せている』。そうか、銭「南」園と張「南」軒で「二南」か。脳の硬直化した私はそれにさえ気づいていなかった。

「岳麓寺(万壽寺)」中文ウィキの「麓山寺」に、同寺は明の神宗から「万壽寺」の称を賜った旨の記載がある。

「古刹重光」不詳。現在は「重光寺」という寺院を長沙には見出せない。

「設所釋氏佈教ダンモハン養成所」不詳。「釋氏佈教」は、釈迦の教えである仏教に基づくの謂いであろうけれども、「ダンモハン」で検索を掛けると、悲しいかな、私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」しか掛かってこないのだ。

「香積齋堂」不詳。但し、「香積」(こうしゃく)とは「香気に満ちた世界」の意で、「維摩経香積品」によれば、そこに住む如来の名(香積如来)でもあるとされるから、ここはそれを斎(いつ)き祀る堂とも採れる。しかし、実はその「香りの満ちた場所」の意から転じて、禅宗では食事を調理する庫裡(くり)をも「香積」と呼び、また「齋」は本邦の「とき」であって、禅僧の御前中の一日ただ一回の食事を指す語でもある。龍之介が禅寺の厨(くりや)の名称をわざわざメモに記すとも思われぬので、一応、前者で採っておく。

「雲麓宮」現在の長沙市岳麓山にある道観(道教寺院)。ウィキに「雲麓宮」がある。明代の一四七八年に『吉簡王・朱見浚により創建された。当時は洞真観と称した』。嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間に『太守孫複と道士李可経は道観を再建』、隆慶(一五六七年~一五七二年)に『再建された際、関聖殿(前殿)、玄武祖師殿(中殿)、三清殿(後殿)の建立にあたっては、従来通り』、『復元することが求められた。明末、清兵入関の火難で、道観は両度焼き捨てられた』。清代の一六六二年、『長沙分巡道張睿は道観を再建した。乾隆年間』(一七三六年~一七九五年)『は道観を重修した』。一八五二年、『道観は戦災で壊された』。道光(一八二一年~一八五〇年)年間、『望湘亭が修築され』一八六二年には『望江亭、五岳殿、天妃殿、宮門を増築した。翌年、武当山太和宮道士の向教輝が資金を募り全面修復した』。この後の、一九四四年の『日中戦争の時、雲麓宮は日本軍の戦闘機で爆破された』。一九四六年、『道士鄔雲開と呉明海が資金を募』って『全面重建し、翌年に落成した』。一九五七年に地元政府が修復をしたが、『文化大革命の初め、神像、法器は徹底的な破壊に遭い、道士はしかたなく還俗した』。一九七六年、『関帝殿を修復』とある(下線やぶちゃん)。

「望湘亭」前の道観雲麓宮にある亭。前注下線部参照。]

 

〇二階 白 天窓 三段の書架 35万卷 經史子集 宋 元板は上海に送つた 元板の文選 北宋金刻本の捭雅 南宋本ノ南岳 總勝集 端方贈(巡撫時代の紀念) ○紺ノ馬掛子 金のメガネ 白皙 葉尚農(德輝) ○白壁 甎 天井高し 伽藍ノ感ジ ○板木ニ朱卜黑ト二種アリ ○高イ墻の屋根ニ小サナ木ガ生エテヰル ○入口 門(黑) 石敷 植木鉢 室輿四五(綠色の蔽) 皇帝畫像

[やぶちゃん注:「元板」彫琢した印刷用版木の原板の謂いであろう。

「捭雅」不詳。

「南岳」中身は判らぬが、中文サイトに『宋刻本』『南岳稿』という書か。

「總勝集」宋の陳田夫撰になる湖南の地誌「南嶽總勝集」。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のこちらで読める。

「端方」清末の満州族出身の官僚端方(ドゥワン ファン 一八六一年~一九一一年)。ウィキの「端方」によれば、一八八二年に『挙人となり、員外郎、候補郎中を歴任した。戊戌の変法を支持したが、戊戌の政変後には栄禄(ジュンル)と李蓮英の保護を受けて、処罰を免れた』。一八九八年、『直隷霸昌道に任命されたが、朝廷が北京に農工商局を創設すると、端方は召還されて局務を任された』。その折り、勧善歌を上呈して『西太后の称賛を受けて、三品頂戴を授かった』。『その後、陝西省に派遣され、按察使、布政使、巡撫代理を歴任した』。一九〇〇年、『義和団の乱により北京が』八カ国連合軍に『占領され、西太后と光緒帝は陝西省に逃れた。端方はその応対に功績があったとして、河南布政使に転任し、さらに湖北巡撫に昇進』、一九〇二年には『湖広総督代理となり、さらに両江総督代理や湖南巡撫を歴任した』。一九〇五年、『北京に呼び戻され、閩浙総督に任命されたが就任する前に、載沢(ヅァイジェ)・戴鴻慈・徐世昌・紹英(ショーイン)とともに外国へ立憲制度の視察に赴くように命じられた』(但し、『出発日に革命派の呉樾の自爆テロがあったため、出発は延期され、徐世昌と紹英が李盛鐸と尚其亨に交代し』ている)。十二月七日、『軍艦で秦皇島から上海に赴き』、十二月十九日に『アメリカ船で上海を出発した。五大臣は日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア=ハンガリー、ロシアの十ヶ国を視察し、翌年の』八月に『帰国した。帰国後、視察の結果を総括して、『請定国是以安大計折』を上奏し、日本の明治維新にならって憲法を制定することを主張した。さらに自ら編纂した『欧美政治要義』を献上した。これは立憲運動の重要な著作とみなされている』。『帰国後、両江総督となり』、一九〇九年に『直隷総督となった』。一九一一年、『清朝の鉄道国有化政策に対して四川省で保路運動が展開されると』、九月に『朝廷は四川総督の趙爾豊を解任し、端方に代理を命じた。端方は新軍を率いて資州に入ったが』、十一月二十七日に『新軍の反乱が起き、端方は刺殺された』。『端方は中国の新式教育の創始者の一人である。湖北・湖南巡撫にあったときには各道・府に師範学院を創設した。江蘇巡撫在任時には中国初の幼稚園「湖北幼稚園」と省立図書館を創設し、多くの留学生を派遣した。両江総督在任時には南京に南学堂(現在の南大学)を設立した』。『湖北幼稚園は張之洞が設置を計画し、後任の端方が』一九〇三年に『担当者を日本に派遣し、教材教具の購入と保母として日本人教習』三名を招請、『その中の元東京女子高等師範学校教諭だった戸野みちゑが初代園長に就任し』、一九〇四年に開園させている。戸野らは一八九九年に『公布された日本の「幼稚園保育及設備規程」を元に「湖北幼稚園開弁章程」を作成し、中国における公的な幼児・女子教育制度の先鞭となった』とある(下線やぶちゃん)。

「巡撫」明・清時代の地方長官職。「巡行撫民」の略で、当初は中央から派遣される臨時職であったが明の宣徳年間(一四二六~三五)頃から主要地方に常設され、省又はその一部を管轄するようになった。

「馬掛子」「馬掛兒(マアクワル)」(măguàér)のことであろう。日本の羽織に相当する上衣で対襟となったもので、「掛」は本来は「褂」が正しい。

「白皙」「はくせき」。皮膚が白いこと。

「葉尚農(德輝)」葉徳輝(一八六四年~一九二七年)は清末から民国初期の考証学者にして蔵書家。内藤湖南や徳富蘇峰など、多くの日本人と交流があったことでも知られる。以上は深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)に拠った。

「甎」音で「セン」と読み、「磚」「塼」の字も当てる。東洋建築に用いられた煉瓦 のこと。正方形や長方形の厚い板状のもので、周代に始まって漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。

「墻」「かき」。音は「シヤウ(ショウ)」。垣根。障壁。

「室輿」不詳。貴人の邸宅で、椅子の下部の脚下)に竿がついていて、時には座ったままで、移動可能なものを言うか(脚下としたのは轎のように中間部で出っ張っていては、却って座るのに不便であるからである)。識者の御教授を乞う。]

 

○家ノ大イナルハ木材卜石材多キニヨル

 

○大平亂以後十八省ノ巡撫湖南人トナル ソノ上米ヨク出來ル 故ニ町立派ナリ 學校モ多シ ――古川氏の話

[やぶちゃん注:「大平亂」太平天国の乱。清朝の一八五一年から一八六四年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天國」によって起きた。「長髪賊の乱」とも称する。

「古川氏」不詳。在中の現地日本人案内人であろう。]

 

○湖南長沙蘇家巷怡園 葉

[やぶちゃん注:「長沙蘇家巷怡園」の「怡園」(いえん)は、長沙に蘇家巷という小路にあった葉徳輝の邸のこと。先に示した深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)を参照のこと。]

 

○張繼堯〔湯(弟)〕ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る

[やぶちゃん注:「張繼堯」これは恐らく、清末から中華民国初期の軍人張敬堯(ヂャン ジンヤオ ちょうけいぎょう 一八八〇年~一九三三年)の誤りであろう。北京政府及び軍閥の安徽派に所属、後に北方各派・満州国に属した軍人で安徽省霍丘出身。武昌蜂起後の湖北で戦い、一九一五~一九一六年の護国軍の討伐等に参加、一九一八年には段祺瑞(だんきずい)の命を受けて湖南省督軍兼代理省長となったが、専横著しく、一九二〇年六月には直隷派の呉佩孚(ごはいふ)や馮玉祥(ふうぎょくしょう)及び趙恒愓(ちょうこうてき)らによって戦わずして職を追われた。その後、奉天派の張作霖を頼るも、一九二二年の第一次奉直戦争で奉天派が敗れるや、呉佩孚に寝返った。一九三二年には今度は満州国軍に所属、日本軍に連携した諜報活動に従事するも、国民党特務機関のヒットマンに刺殺された。

「湯(弟)」不詳。

「譚延闓」(タン ユエンカイ たんえんかい 一八七九年~一九三〇年)は湖南省茶陵県出身の軍人。一九一二年に袁世凱から湖南都督に任命されたが、同年八月の国民党成立後はこれに参加、国民党湖南省支部長となった。一九一三年の第二革命では省の独立宣言をするも失敗、その後、一九一五年の護国戦争勃発後は当時の湖南都督の専横に対する追放運動が湖南省で発生、一九一五年七月には、当時の湖南都督を追放、一九一六年八月に北京政府から湖南省長兼督軍に任命されている。その後の政権抗争で一時辞職するが、一九二〇年六月には湖南督軍張敬堯を追放、湖南省督軍兼省長に復帰している。しかし、今度は湘軍総司令趙恒愓ら湖南省軍内の権力者との内部抗争が激化、内乱に発展、それを鎮圧出来なかったために、同年十一月に辞職して湖南省から退いた。その後、一九二二年には孫文に接近、一九二三年に大元帥府内務部長から建設部長兼大本営秘書長となり、同年七月には、孫文から湖南省省長兼湘軍総司令に任命され、仇敵趙恒愓と激戦を展開した。趙恒愓は直隷派の呉佩孚から支援を受けて戦局は膠着したため、孫文の命により戦線を離れ、広東省へ向かい、広州での一九二四年の中国国民党第1回全国代表大会で中央執行委員会委員に選出された。孫文の死後も国民党の軍属とし活躍、蒋介石の北伐の後方支援を担った。一九二八年に初代国民政府主席や初代行政院院長を歴任している。実はこの芥川龍之介のメモの、「張繼堯」「ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る」というのは、彼の「湖南の扇」に、『「ああ、鳶が鳴いてゐる。」/「鳶が?………うん、鳶も澤山ゐる。そら、いつか張繼堯(ちやうけいげう)と譚延闓(たんえんがい)との戰爭があつた時だね、あの時にや張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて來たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて來てね………」』と利用されているのであるが、以上の二人の事蹟を時系列で並べて頂くと分かるのだが、二人がそれぞれの頭目として戦った「張繼堯と譚延闓との戰爭」に相当するものは、ない、と言ってよい。一九一五年の護国戦争及び一九二〇年六月の湖南督軍張敬堯追放時に接点があるが、前者を「張繼堯と譚延闓との戰爭」と呼称するには無理があり、後者は多くの記載が「戦わずして」「追放」という語を用いている。逢えて言うなら、後者によって名前が知られるようになった、この二人が、嘗て加わったところの護国戦争の惨状を、極めて乱暴な非歴史的な形で表現した、と取ることは可能かもしれない。筑摩全集類聚版の「湖南の扇」の脚注では「張繼堯」の表記を「張敬堯」の誤りとし、しかも、さらにそれを湘軍総司令「趙恒愓」の誤りととっているように読める。即ち、一九二三年の「趙恒愓と譚延闓との戦争」(中国で「譚趙之戦」と呼称)ととっている節(ふし)がある。そこでは確かに川面に死体累々たる惨状があったかも知れない(あったであろう)。しかし、それは、ない、のである。何故なら、この主人公及び芥川龍之介が中国に渡航したのは一九二一年だからである。芥川はもしかすると(本篇の執筆は一九二六年)、その後の軍閥抗争の事実と誤ったか、もしくは確信犯で擬似的虚構をここに持ち込んだのかもしれない。現在、この件については中国史の専門家に検討を依頼している(以上は私の「湖南の扇」の注を引いた。但し、残念ながら、二〇一六年十二月現在、依頼した方からの答えは、ない)。]

 

○日淸汽船の傍、中日銀行の敷地及税關と日淸汽船との間に死刑を行ふ 刀にて首を斬る 支那人饅頭を血にひたし食ふ ――佐野氏

[やぶちゃん注:これも「湖南の扇」で美事に利用されている。

「日淸汽船」清末から中華民国期にかけて、中国に於いて長江流域を中心に船舶を運航していた日本企業。

「中日銀行」不詳ながら、日本が資金を出した銀行であろう。

「佐野氏」不詳。]

 

○趙爾巽(前淸巡撫) 關口壯吉(理學士) 赫曦臺も聖廟を毀たんとするに反す 麓岳

[やぶちゃん注:「趙爾巽」(一八四四年~一九二七年)は清末民初の政治家。ウィキの「趙爾巽」によれば、『清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる』とある。詳細事蹟はリンク先を参照されたい。

「關口壯吉」不詳。浜松高等工業学校初代校長が同姓同名であるが、同一人物であるかどうかは分らぬ。

「赫曦臺」「かくぎだい」は岳麓山山頂にある。こちらのブログによれば、『「赫曦」というのは赤い太陽が昇るということです。当時、有名な哲学家である張栻の招きに応じて、朱熹は遠く福建省の崇安から長沙の岳麓書院に講義をしにお越しいただきました。長沙で』二ヶ月あまり『滞在して、朝はよく』、『張栻と一緒に岳麓山の頂上に登って日の出を見ていたんです。朝日が東からのぼって、その日差しがギラギラ光っていて、山、川や町などすべてのものは朝日に浴びています。このシーンを見るたびに、朱熹は興奮してたまらなくて、』「赫曦! 赫曦!」と『手を叩いて叫んでおりました。この故に、彼らが日の出を見るところを「赫曦」と名付けました。その後、栻はそこに舞台を作り上げ、記念の意を表すために「赫曦台」と命名』した、とある。以上のエピソードの時制は中文サイトによれば、宋の一一六七年で、その後、荒廃したが、清の一七九〇年に再興されている。

「聖廟を毀たんとするに反す」後の「麓岳」は岳麓山としか読めないから、さすれば聖廟とは「赫曦臺」であるが、そこを破壊しようとしたのは誰か、それに反抗したのは誰か、判らぬ。後者は麓山寺の僧たちか? 識者の御教授を乞う。]

2016/12/23

芥川龍之介 手帳6 (8)

 

○電報の爲に苦吟す 南軍々中の學者 ○樓上張之洞の寫眞 樓下胡弓の聲 ○廉 李鴻章と合はず 排日 後ニ親日

[やぶちゃん注:「南軍」国民党軍。

「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)は清末の政治家。直隷(河北省)南皮生まれ。一八六三年に進士とある。対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが、一八八一年には山西巡撫に抜擢され、次いで両広総督・湖広総督を歴任した。以下、ウィキの「張之洞」によれば、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)に於いては『唐景崧と共に台湾民主国を援助して台湾へ出兵した日本への抵抗を試みるなど強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた』。一八九三年には『自強学堂(後の武漢大学)を創立』、翌年に『自強軍を設立(後に袁世凱の新軍に編成)、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。また、湖北・湖南の産物を外国へ輸出、外貨など経済的裏付けを取り貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた』。一八九八年に『起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが』、一八九八年の著作「勧学篇」の中では『「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが』、一九〇〇年の『義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐・張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び』、翌年には『劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。上奏では教育改革を唱え』、一九〇四年に『「奏定学堂章程」として政府から発布』、翌年には久しく続いてきた『科挙の廃止、京師大学堂(後の北京大学)中心の近代教育整備に繋』げた。『日本との関わりは深く、変法運動と政変前後』の一八九八年に『中国を訪問した日本の元首相伊藤博文と漢口で会談、漸進主義を重視する伊藤と意気投合、日本からコークスを輸入し』、『八幡製鐵所に必要な鉄鉱石を日本へ輸出する契約を取り付けたり』、「勧学篇」の中でも、『日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し』、『西洋の学問を摂取すべきことを説いている』とある。

「廉」清朝の戸部郎中であった廉泉か?

「李鴻章」(一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となり、一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ね、北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年の間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」他を参照した)。]

 

○古琴臺(金 群靑)の額 舟 支那子供大勢 乞食 太湖石 煙草廣告 双樹――白壁に梧桐 亭――堂 山水淸音ノ額 女學生 梧桐

[やぶちゃん注:「古琴臺」現在の武漢市漢陽区の亀山の西の麓、月湖(ここ(グーグル・マップ・データ))の湖畔にある楼。ここ(グーグル・マップ・データ)。中国ツアー・サイト「アラチャイナ」の「漢陽の古琴台」に、当地のロケーションとともに、春秋時代の晋の大夫伯牙(はくが)と盟友鍾子期との「伯牙絶絃」の故事で知られる、この地に纏わる伝承が記されてある。

「梧桐」アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「太湖石」蘇州(現在の中華人民共和国江蘇省蘇州市)の主に太湖(江蘇省南部と浙江省北部の境界にある大きな湖で景観の美しさで知られる)周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。]

 

○兵工局 槍礮局 煙突林立 ○月湖 アシ ハス 汚 曇天胡蝶

[やぶちゃん字注:「兵工局」日本の陸軍の砲兵工廠(陸軍造兵廠の旧称。兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した工場。何故、そんな古い呼称を出したかって? 「こゝろ」フリークだからに決まってるじゃないか! 私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回』」を見られたい)のようなものであろう。

「槍礮局」「礮」は「砲」と同字であるから、恐らく銃砲や大砲などの製造工場であろう。

「月湖」前の条の「古琴臺」の注を参照されたい。]

 

○陸――町――舟(豕聲 芥山)――漢江 泥流に犬の屍骸

[やぶちゃん注:「豕聲」は恐らく「トンセイ」で「豚の鳴き声」、「芥山」はその附近に積まれた「ごみ(の)やま」であろう。]

 

○綠 virigian の葡萄 眞珠の neckrace. Diamond ring. 腕時計 diamond. Medaillon 金鎖白靴 黑靴下 白ヘ靑(淡)の太筋 メイランフアン風の歌 ○鳳蓮 西洋靴(黑) 白靴下

[やぶちゃん注:芸妓の描写であろう。

virigian」という綴りの単語は存在しない。これは直前の「綠」を説明しており、葡萄を形容しているとすれば、“verdure”で、滴るような緑色をした、の意味ではあるまいか?

neckrace」はママ。正しくは“necklace”。

Medaillon」は“Medallion”綴りの誤記。大メダル・肖像画などの円形浮き彫り、メダイヨンのこと。

「メイランフアン」清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形梅蘭芳(méi lánfāng 本名・梅瀾 méi lán 一八九四年~一九六一年)。京劇の名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」の旧版(「上海游記 八 城内(下)」で引用したもの。現在は削除・変更されている)によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した』。二十世紀『前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の』一九五六年、『周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた』。一九五九年、『中国共産党に入党』したが、二年後、『心臓病で死去』した。

「鳳蓮」芸妓の源氏名か。]

 

○上海の子供井戸を知らず 漢口の子供橋を知らず

[やぶちゃん注:前者は井戸を必要としないということか? 租界の拡大によって上水道が発達していたということだろうか? 或いはまた、かなり深く掘らないと、飲用可能な水は得られなかったのかも知れない。後者は、長江の激しい水位変化や洪水によって橋を架けても流されるために、古くから渡しを利用し、架橋されなかったということか? 孰れも識者の御教授を乞う。]

 

○長沙 モオタア(ボイ二人) 水陸洲 橘洲 中ノ島 ○女學生――白帽 髮切れる故 ――油紙の傘――寫生道具 ○柳並木(切られしまま) 黃蔡(鍔)兩人の墓の爲國費 道を造る 兩側の稻田 犬水中に入る ○自卑亭 黃瓦上ニ黑瓦

[やぶちゃん注:「長沙」湖南省の省都である現在の長沙市。長沙では反日感情が特に強く、龍之介は「長江游記」では全く語っていない。その雰囲気は後の雜信一束の以下で、よく伝わってくる。

   *

 

       七 學校

 

 長沙の天心第一女子師範學校並に附屬高等小學校を參觀。古今に稀なる佛頂面をした年少の教師に案内して貰ふ。女學生は皆排日の爲に鉛筆や何かを使はないから、机の上に筆硯を具へ、幾何や代數をやつてゐる始末だ。次手に寄宿舍もー見したいと思ひ、通辭の少年に掛け合つて貰ふと、教師愈(いよいよ)佛頂面をして曰、「それはお斷り申します。先達(せんだつて)もここの寄宿舍へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起した後ですから!」

 

   *

しかし、この長沙訪問があってかの名作湖南の扇が誕生したとも言えるのである(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)。

「モオタア」遊覧用の大型のモーター・ボートか。

「ボイ」ボーイ。

「水陸洲」長沙の長江にある中洲(以下の「中ノ島」はそのことであろう)で「橘子洲」の別名。以下の「橘洲」も同じであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「白帽 髮切れる故」意味不明。

「黃蔡(鍔)兩人」「不詳」として公開したところ、教え子から以下のメール情報を得たので引用しておく。『清から民国にかけての軍人または革命家である黄興(一九一六没)と蔡鍔(さいがく 一九一七没)の墓は、ともに岳麓山の麓にあります。それを言っているのではないでしょうか。私が岳麓山を散策したのは夏、そして晩秋の季節でした。彼らの墓には全く注意を払わずに通り過ぎました。丁度、岳麓書院の裏手は山になっており(市街からの高さにして百五十メートルといったところでしょうか)その中腹と言ってもいいような場所だったはずです。従って、道を造るといっても、直線的な所謂参道とでもいうべきものは思い出せないのではあるのですが……』。教え子に感謝!

「自卑亭」長沙の岳麓書院(次条注を参照)の入口にある。]

 

○湘南公立工業學校 惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房 ○成立大會 ○學達性天(コウキ)(靑へ金)○日本國旗 紙旗 紙花 黑ベンチ 白エンダン ○道南正脈 (金へ藍靑) 乾隆(白カベ) 周圍に龍 ○教室 hunting Cap. 電氣工學 ○米教師二人 ○閲書室 實習室(何もなし) ○庭は石ダタミに草 小さキ桐 石上ニハフ鷄 傘(飴色)干さる ○化學藥品室 iron-humonium, iron-salphate. 牡丹花の白瓶 詩あり

[やぶちゃん字注:「湘南公立工業學校」湖南公立工業専門学校のことであろう。ウィキの「湖南大学によれば、一九二六年二月一日に、『湖南公立工業専門学校・湖南公立商業専門学校・湖南公立法政専門学校が合併し』て、「省立湖南大学」が設立したとある。現在の湖南大学である。

「惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房」「惟(おもん)みるに、楚に材、有り。斯(ここ)に於いて盛(せい)たり」で「楚には確かな人材がある。ここに於いてこそ、それは最も多いのである」の謂いであろう。住友電工社長松本正義氏のブログの「中国・長沙への出張」に、長沙市内の「中国四大書院」(学校)の一つである「岳麓書院」(ウィキの「岳麓書院」を参照されたい)を訪問されたとあり、ここは北宋の開宝九年(九七六年)に開校され、宋・元・明・清を経、現在の「湖南大学」に受け継がれている、とある。そこに『書院の門に「惟楚有材」、「於斯為盛」と書かれた二枚の縦額が掲げられており、いかに、楚の国は人材が多かったか、また、岳麓書院が人材を輩出していったかを訪問者に告げているのが印象的で』あったと記され、この文句が、門の左右に白亜の地に黒々と記されている対聯の前での松本氏に写真が載る。「白堊號房」とは、「白い受付の建物」の謂いである。

「成立大會」不詳。岳麓書院の再興を意味する額文か?

「學達性天(コウキ)」岳麓書院にある、一六八七年に康熙帝が贈った額文。

「エンダン」「演壇」?

「道南正脈」岳麓書院にある、一七四三年に乾隆帝が贈った額文。

「小さキ桐」はママ。

iron-humonium」なる化学物質は存在しない。綴りの誤りと思われる。以下の“iron-”が衍字と考えるならば、“Iron ammonium sulfate”(硫酸アンモニウム鉄)が考えられ、 “iron-salphate”“iron sulfate”(硫化鉄)の誤りとも考えられる。]

芥川龍之介 手帳6 (7)

 

〇倚陶軒(李鴻章の別莊) 大花園――陶塘 豚 擣衣 柳 水 アカシア 濟良所(蕪湖) 自由廢業 南陽丸 水の差は漢口にても45尺位 桃冲鐵山――荻港

[やぶちゃん注:「倚陶軒(李鴻章の別莊)」「大花園」「倚陶軒」は「いとうけん」と芥川龍之介は読んでいることが、「長江游記 一 蕪湖」(蕪湖は後注参照)から判る。そこでは、『一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた』と鬱屈した感懐を記している。

「陶塘」筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注には、『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の同作への篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。但し、これは調べてみると、蕪湖市内にある鏡湖の古名であることが判った。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば(現在、このページは消失している模様である)、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が』十五万平方メートルもあり、平均水深が二メートル、『水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川は、かの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのであると私は思う。

「豚」これも「長江游記 一 蕪湖」で辛辣な中国批判をする枕に使われている。

「擣衣」「たうい(とうい)」と読む。砧 (きぬた) で衣を打つこと、その音である。

「アカシア」マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia の総称。

「濟良所」「長江游記 一 蕪湖」でも芥川龍之介によって解説されてあるが、筑摩全集類聚版「長江游記」の脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営の元売春婦を保護した機関のこと。官妓や公娼の中でも誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(以下の売春を「自由廢業」した女性)は、一般の仕事に就き難くかった。そこで、ここで手仕事や新時代の一般教養を習得させ、正業に就かせようとした。

「蕪湖」現在、安徽省第二の大都市となった蕪湖(Wúhú:ウホウ)は上海から約三百九十キロメートル、南京から約九十キロの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。

「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に「南陽丸“NAN YANG MARU”」と改名している。昭和一二(一九三七)年に『上海の浦東水道(Putong Channelで中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

「水の差は漢口にても45尺位」とは内陸の漢口(武漢)でも長江の水位の変化は、一・二~一・五メートルほどもあるというメモであろう。但し、これは何となく潮差を念頭に置いている記述のようだが、実際には武漢のような内陸では潮汐による水位変化ではなく、上流からの流入水量の変化によるものであろう。

「桃冲鐵山」現在の安徽省蕪湖市繁昌県桃沖村(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった鉄鉱と日本も当時の日本も出資した製鉄所のことであろう。「神戸大学経済経営研究所」公式サイト内の「新聞記事文庫」データベースの「製鉄業」にある『中外商業新報』大正五(一九一六)年八月四日附記事、東洋製鉄会社計画になる「製鐡創立決定 桃冲鐡鑛利用」を参照されたい。

「荻港」桃沖村の東にある、現在の桃沖村と同じ繁昌県の長江右岸の村、荻港鎮のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここから採掘した鉄鉱を長江から下して日本へ送ったものであろう。敢えて日本語で音読みするなら、「テキコウ」か。]

 

○小孤 竹樹 白壁 尼寺 ――飜陽湖 大孤山 ――廬山 ――赤土 塔(癈) 柳 紫の家 白壁 ――九江 水際の城壁

[やぶちゃん注:「小孤」現在の安徽省安慶市宿松県にある、長江(蕪湖の遙か上流)に浮かぶ島「小孤山」であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「安徽省旅行局」公式サイト内のここに写真があり、「白壁」に納得、さらにそこに現在、中国に残る唯一の「祖(まそ)廟」(航海や漁業の守護神として中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神)があるとあるので、「尼寺」も何となく納得してしまった

「飜陽湖」現行の読みに従い、「はようこ」と読んでおく。廬山の南東に広がる江西省北部・長江南岸にある中国最大の淡水湖。現在は「鄱陽湖」と書く。

「大孤山」中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜千四百七十四メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られ、また、後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。一九五九年に毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放されている。因みに私は、私が何故か「廬山」から真っ先に連想するのはそのことで、私は同志として毛沢東と対等に渡り合った彼が好きだからである。その彭徳懐の廬山での最後の笑っている映像が、私には何故かひどく印象に残って忘れられぬのである。なお、芥川は「長江游記」で、二章に渡って失望に満ちた皮肉な廬山実見記を綴っている。

「塔(癈)」廬山の東晋創建(三六六年)の古刹西林寺にある唐の玄宗の治世であった開元年間(七一三年~七四一年)に建てられた西林塔か。六角七層の塔で、宋の蘇東坡が訪れ、寺の壁に詩を残したことで知られる。現在は復興されているが、これはごく直近の再建のようであるから、「廢」は頷けるように思われる。

「九江」現在の江西省の長江右岸の九江市市街。廬山の北。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○兵士(帶劍 鼠服 白笠赤毛)民(ムギワラ帽 竹の天秤 黑日傘)○韮たば 支那軍艦(和舟) 竹筏 柳 纏足の女(ヌヒトリの靴、足極小)

[やぶちゃん注:「韮」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。]

 

○牛糞燃料 牧童 水牛 牛 アカシア ポプラア 野薔薇 麥黃 ○赤塗の椅子(籐の部分殘ス) Kuling Estate Head Coolie No.(黑へ白 麥藁帽)

[やぶちゃん注:“Kuling Estate Head Coolie No.”は、「長江游記」の「廬山(上)」に、『その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる』と使われている。“ kǔlì”は本来は「肉体労働者」の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫のこと。芥川一行は「轎子(きょうし)」というお神輿のような形をした乗物に乗って廬山登山をしているが、これは、お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐って、前後を四~2人で担いで客を運ぶものである。なお、これは日本由来の駕籠や人力車とは違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には四人持ちのものがあるらしい。「クーリー階級の頭(かしら)○番」(先の「」と「○」は任意の数字を示すもの)の英訳である。]

 

○紅白ウツギ 薊 除虫菊 野薔薇 ○大元洋行 石 赤ヌリ 窓 日章旗 オイルクロオスに花模樣あるあつし ○憐むべき租界 草 石 禿 家 支那町 ブリキ屋 煙草屋 ランプ屋 酒樓 マアケツト 安貧所

[やぶちゃん注:「紅白ウツギ」「長江游記 三 廬山(上)」に、『私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』と出る。そこで私は注して、

   *

和名の「ヤマウツギ」は、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギ Orixa japonica の別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には僅かにしか植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギ Deutzia gracilis 等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみで、しかも中文ウィキの「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata ごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。

   *

と注した。しかし、ここで今回、芥川龍之介は「紅白」と記しており、しかも『これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』という謂いが気になった。僅かにしか植生しないにしても、これはやはり、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaのウツギ類ではなくキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の仲間なのではあるまいか? 何故かというと、実にハコネウツギは実は一本の木に、白の花と有意に赤味を帯びた、まさに「紅白」の花が咲くからである。但し、私は廬山に行ったことがなく、この龍之介の謂いが、一本の木に紅白の花が咲いているの意味なのか、それが別々の木に咲いているのかは確認出来ない。ここでまた、これまでである。識者の御教授を俟つ。

「除虫菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギギク属シロバナムシヨケギク(白花虫除菊)Tanacetum cinerariifolium のこと。ウィキの「シロバナムシヨケギクによれば、『胚珠の部分にピレスロイド』(pyrethroid)『(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。地中海沿岸原産であり、セルビアで発見された』とし、日本への渡来は新しく、明治一九(一八八六)年とある。時に、このウィキの中文版は、Tanacetum coccineum という同属の別種をリンクしており、こちらは中国語名を「紅花除虫菊」と称し、中国全土にするとある。但し、名前から判る通り、これは実は非常に鮮やかな紅色を呈しており、大陸とある。但し、「長江游記 三 廬山(上)」には単に『薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した』とあるだけで、それが赤いとは書いてない。これだけ鮮やかなら、私は芥川龍之介なら必ず、日本とは違って「鮮やかに赤い」と形容するはずだと思う(芥川龍之介は花にはかなり詳しい)。ということは、やはり、白い本邦種と同じか、近縁種と考えるべきか。

「野薔薇」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ(野茨)Rosa multiflora のこと。標準的なものは樹高二メートル程度であるが、私自身、それを遙かに超えるものを何度も現認したことがある。

「大元洋行」「長江游記 三 廬山(上)」本文に出る。筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注に、『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で芥川龍之介が述べているように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光は、この旅館が一手に担っていたらしい。

「石 赤ヌリ 窓 日章旗」「長江游記 三 廬山(上)」の先の引用に続いて、『その草原が盡きるあたりに、の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである』とある(下線太字はやぶちゃん)。

「オイルクロオス」“oilcloth”。綿やネルなどの厚手の布地の表面にエナメルや桐油を塗った布。模様をつけたものもあり、防水性があって汚れが落ちやすいので、テーブル掛けや床張りに用いる。

「あつし」「厚子」「厚司」などと表記し、大阪地方で産出する厚地の綿織物。三省堂「大辞林」を引くと、それで作った衣服をも指し、多くは紺無地か大名縞で、前掛けや労働着として用いるとあった。当初は旅館「大元洋行」の番頭の前掛けか、などとも思ったが、前が「オイルクロオス」であるから、ここは旅館の個室或いは食堂のテーブル・クロスであろう。

「安貧所」これはキリスト教系の貧民救済を目的とした救貧院(英語:poorhouse)のことか?]

 

○香爐峯ニ白樂天 李白 ○分門關の瀧 (4 or 5日前虎來り牛小屋の犬をくふ)○山下 カヤの木 竹 枯カヤを天井にした路 ロバ 豚

[やぶちゃん注:「香爐峯ニ白樂天」言わずもがな、漢文でさんざんやった中唐の白居易の著名な以下の七言律詩を指す。

 

 香爐峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁

日高睡足猶慵起

小閤重衾不怕寒

遺愛寺鐘欹枕聽

香鑪峯雪撥簾看

匡廬便是逃名地

司馬仍爲送老官

心泰身寧是歸處

故郷可獨在長安

  

  香炉峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、

  草堂、初めて成り、偶(たまたま)東壁

  に題す

 日高くして睡るに足るも 猶ほ起くるに慵(ものう)し

 小閣に衾(ふすま)を重ね 寒さを怕(おそ)れず

 遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聽き

 香鑪峯の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る

 匡廬(きようろ)は 便(すなわ)ち是れ 名を逃(のが)るるの地

 司馬は 仍(な)ほ 老を送るの官たり

 心泰(やす)く 身も寧(やす)らかなるは 是れ 歸する處

 故郷 何(なん)ぞ獨り 長安にのみ在らんや

 

「李白」盛唐の詩仙李白の、これまた漢文でさんざんやった、かの七言絶句「望廬山瀑布」を想起したのであろう。

 

  望廬山瀑布

 日照香爐生紫煙

 遙看瀑布挂前川

 飛流直下三千尺

 疑是銀河落九天

 

   廬山の瀑布を望む

  日は香爐を照らし 紫煙生ず

  遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを

  飛流直下三千尺

  疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるか と

 

何? 意味? あんたね、高校の漢文、全部、やり直しな!

「分門關の瀧」不詳。廬山には多数の瀧があるが、中でも著名な滝は「三畳泉瀑布」で、落差は百五十五メートルに達する。但し、それがこれかも、はたまた、前の李白の「望廬山瀑布」がこの瀧かどうかも不明。識者の御教授を乞う。

「カヤ」本邦のそれは裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ(榧)Torreya nucifera であるが、中国には植生せず、同属そのものが分布しないようなので、葉が似た全くの別種(イチイ科 Taxaceae ではあるか)と思われる。]

 

○龍池寺 九江總商會 甘棠湖 ○煙水亭 鳶飛魚躍(黑へ金)――湖山主人 柳 壁に蔦 洗濯女 傘 水上 燕 浮草 〇一小亭 緑識廬山眞面目 且將湖水泛心頭 ○湖水 煙亭ヲ遠ザカルト白濁トナル ○小丘 草靑 麥黃 土赤 ○天花宮 (柳)煙水亭の正面 廬山 ○天花宮前古柳樹(槐)(藍へ金 白壁)漁翁

[やぶちゃん注:「龍池寺」中文サイト「壹讀」の「中國佛教十大名山之六:佛國凈土匡廬山」によって、廬山に多数あった寺の一つであることは判ったが、それ以外は不詳。

「九江總商會」当時の九江市商工会連合会のことか。

「甘棠湖」現在の九江市内にある大きな湖。面積十八ヘクタールに及ぶ景勝地。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「煙水亭」白居易が江州司馬に左遷されていた頃(八一六年~八一八年)に建てたとされる亭であるが、例えば、こちらの九江紹介ページの写真を見ていただくと分かるが、三国時代には呉の周瑜(しゅうゆ:後漢末期の武将で孫権に従い、赤壁の戦いで曹操軍を撃退した名将)が軍事訓練を行った場所ともされており、全島がまるで要塞のように壁と建物によって取り囲まれている(他のネット記載を見ると、島に入る道は一本橋のみだそうである)。恐らくはこれ(グーグル・マップ・画像データ。地図とはずれがあり、地図には煙水亭は何故か、載らない)。

「鳶飛魚躍(黑へ金)」「鳶飛魚躍」は「えんぴぎよやく」と音読みするか、或いは「鳶(とび)飛び、魚(うを)躍(おど)る」と訓ずる。「詩経」の「大雅」の「旱麓(かんろく)」の一節、「鳶飛戾天。魚躍於淵」(鳶は飛びて天に戾(いた)り、魚は淵に躍る)に基づく故事成句で、万物が自然の本性に従って自由に楽しんでいることの喩え。また、そのような天の原理の作用を指す。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによってそれぞれの適所を得ている譬えともなった。「黑へ金」とは黒地に金で、この文字が記されていたというのであろう。前の九江紹介サイトには、煙水亭の中には周瑜のタイル画や像などが置かれてあるとあるから、これもその一つか。

「湖山主人」不詳。

「一小亭」固有名詞ではなく、「小さな四阿(あずまや)」の意か?

「綠識廬山眞面目 且將湖水泛心頭」「綠識」不詳。「緑(みどり)なす」とは読めぬが、緑の景観が「廬山」の「眞面目」であり、「且つ將(ま)た」、その甘棠湖の「湖水」にそれが写って清らかな「心頭」(心)が泛(うか)ぶようだ、との謂いか? 大方の御叱正を俟つ。

「天花宮」「娘娘廟」とも称する寺。九江の南門湖と甘棠湖間の長提の南端にあり、清代一八七〇年の創建で、子宝をもたらす神さまとして信仰されたらしいが、ネットで調べると、現在は相当、ボロボロらしい。

「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。]

 

boy 來る――雨――麥黃 柳と民家 ――崖赤 草靑――人家の壁白――黃州の城壁――稍遠くに西洋館――川に赤き旗の小蒸汽――夏は水かぶる

[やぶちゃん注:「黃州」現在の湖北省黄岡(こうこう)市。九江から長江を遡上した際の景観メモである。]

 

○壁靑――帷白――床リノリウム――額山水の畫4 寫眞金黑――香姻廣告の娘々――寢床白キヤノピイ 夏蚊帳――ウアド 紫檀彫 戸に鏡 ――椅子(壁側)(小卓を挾む 小卓の下に銀色の啖壺)マホガニイ紛ひ ――大卓(中央)同上 ――机(ウと並ぶ) 鏡 置時計 引き出し ――戸靑――戸上に靑――電燈二個――入口に帽子かけ

[やぶちゃん注:この条、どこをメモしたものか、不詳。泊まった旅館のそれか。

「帷」「とばり」。カーテン。

「リノリウム」天然素材(亜麻仁油・石灰岩・ロジン・木粉・コルク粉・ジュート・天然色素等)から製造される主に床材に用いられる建築素材。リノリウム(linoleum)の名はラテン語の「亜麻」(linum)と「油」(oleum)から合成された語。

「香姻」煙草。

「娘々」「ニヤンニヤン(ニャンニャン)」と中国音で読んでおく。通常は中国の民間信仰の女神を指し、「娘娘」は「むすめ」の意ではなく、「母」「貴婦人」「皇后」などの意である。

「キヤノピイ」キャノピー(Canopy)。ここは寝台の装飾用天蓋のこと。

「ウアド」不詳。以下の「紫檀彫 戸に鏡」から考えると、衣装簞笥や衣装部屋を意味する“wardrobe”(ウァドローブ)のことか?

「マホガニイ紛ひ」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia の樹木は高級家具に用いられる。但し、っこは「紛ひ」(まがひ)で、似せて作った偽物。

「机(ウと並ぶ)」机が何故か「ウ」の字型に並んでいるという意か。]

 

○露地――南側ノ車――乞食 泥中臥――家口に金の赤の標札 眞珠 西洋庇 (四成里)

[やぶちゃん注:「泥中臥」泥の中に横たわっていることであろう。

「四成里」地名と思われるが、不詳。]

 

○白蘭花眞珠一對づつ兩房 下げず 西洋布(綠卵黃 淡靑卵黃) 金緣色眼鏡 金齒 腕輪 撞板(紫房) 太鼓(金屬) 劉海を分ける

[やぶちゃん注:芸妓の描写か。

「撞板」現行、寺院などに吊り下げられている雲板のことか? 寺院では礼式を告げるために打ち鳴らされるが、本来は打楽器である。中文ウィキの「雲板」をリンクさせておく。

「劉海」中国語で「前髪」のこと。]

 

○白壁の町 乞食 交番 ――石階 ――ラマ塔 赤煉瓦の寫眞屋 昭相館 (惟精顯眞樓)――石階total 4 or 5. 茶館 甘棠茶酒樓(三階) 何とか第一倶樂部 ――賣女――醉翁仙 蘇小坡 雲龍子 城壁 長江(漢口 舟 波白) 大別山 山頭樹二三本 禹廟 白壁 向うに煙突見えず 煙 煙突の見えるのも一つ 左手ハ鸚鵡洲 材木置場 その向うは黃麥 ――酒樓中へ燕 白羽黑羽の鳥とぶ 鳶 ○巡警 白服一 黑服一 boy 靑服

[やぶちゃん注:「甘棠茶酒樓」料理店の名であろう。「甘棠」は前の固有名詞の「甘棠湖」ではなく(時差があり過ぎるからである)、一般名詞であると私は思う。「甘棠」はバラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属 Malus の林檎類、或いは同属のズミ(酸実)Malus toringo あろう。

「醉翁仙」不詳。漢方調剤方にこの名はあるが、どうも違う気がする。中国の古小説の登場人物に出そうな名だ。なお、ナデシコ目ナデシコ科センノウ属スイセンノウ(醉仙翁)Lychnis coronaria があり、夏に五弁花が咲き、色は赤が多い(白もある)。漢名は花の色を酔った老爺の赤ら顔に喩えたものらしい。

「蘇小坡」不詳。同じく小説に出る人名っぽい。

「雲龍子」同前。武俠物のそれらしい感じはする。

「大別山」中国音で「ターピエシャン」。これは位置的に見て、現在の湖北省黄岡市の県給級都市である麻城市(武漢の東北)にある山であろう。(グーグル・マップ・データ)。標高千七百七十七メートル。

「禹廟」治水で知られる伝説の夏の聖王禹(う)を祀った廟。多くの場所に祀られている。

「鸚鵡洲」「あうむしう(おうむしゅう)」崔顥(さいこう)の七律「黄鶴楼」で知られる長江の中洲。附近(グーグル・マップ・画像データ)にあったらしい。画像を拡大して見ても現存しないようである。]

2016/12/22

芥川龍之介 手帳6 (6)

 

○汚水 煉瓦橋 靴を洗ふ女 菜花 家々 新樹 家鴨 鵞 朱欄の木橋(新橋) 城壁をくぐる 左 城壁に蔦 小木 竹林中の茶事 (綠楊村)舟に少女(玫瑰を髮にさせるもの) 牛糞を壁に貼るものあり(鳥打帽) ○勿用日貨(白、城壁) 墓 麥 柳 鳩 橋(大) 大虹橋(勿用日貨) 春柳堤 徐園 (徐寶山)乾の爲一夜ニ作ル 向うに湖心寺 やがて五亭橋 左にラマ寺(塔) 右に釣魚臺

[やぶちゃん注:ここは「江南游記」「二十三 古揚州(上)」「二十四 古揚州(中)」「二十五 古揚州(下)」の素材メモである。

「綠楊村」揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖(文字通り細長い人工湖で全長四・三キロメートル、湖面は凡そ三十ヘクタールあり、清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。ここ(グーグル・マップ・データ))湖畔南の村。銘茶の産地として知られる。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「勿用日貨」排日の落書。今も聴こえてくる「日本製品を用いるな!」である。

「大虹橋」痩西湖の入口に架かり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の「江南游記」の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。

「春柳堤」痩西湖の西岸にある。入口から小金山までの数百メートルの堤であるが、「揚州二十四景」の「長堤春柳」が、これである。

「徐園」筑摩全集類聚版の「江南游記」の脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下の個人ブログ「考古学用語辞典」の記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の「揚州有位“徐老虎”――徐宝山其人其事」(現在は消失しているようである)という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。そこに花園があるかないかは分からないが、私はこちらを採りたい。因みに、筑摩版の脚注及び本文で以下に「(徐寶山)」と出るのは徐宝山(一八六二年~一九一三年)という清末の軍人の姓名。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)で、革命党により暗殺されている。

「乾の爲」不詳。「乾期で水がなかったから」の謂いか、或いは方角が「乾」(いぬゐ:北西)であったから、「風水か何かの理由で」の謂いか?

「湖心寺」不詳。単に痩西湖の中心にある寺の意か? 現在の地図を見ると、中央の島に揚州法海寺という寺院があるが、これは後の「ラマ寺」である。因みに、私は「湖心寺」といったらもう、瞿佑(くゆう)の「剪燈新話(せんとうしんわ)」の「牡丹燈記」のロケーションとなる浙江省寧波にある月湖のそれであるが、そこはトンデモ方向違いだ。或いは芥川龍之介は、この法海寺の景に、あの「牡丹燈記」の湖心寺の雰囲気を感じたものかも知れぬ。

「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。一七五七年、この年の清の乾隆帝二度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から七メートル十三センチ、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。

「ラマ寺(塔)」法海寺。五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「塔」とは「喇嘛(ラマ)塔」のこと。チベット仏教(=ラマ教)様式の白い独特の形をした塔で、高さ約二十八メートル。乾隆帝によって一七八四年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。「揚州二十四景」の「白塔晴雲」はここである。

「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという』と、興味深いお話を綴られている。]

 

○姜大公在此間無禁忌 貧民くつ 川 鐘 材木 泥坊 無煙炭 舟(石炭、桐) 江天禪寺 ○門(布袋)――堂(大雄)――(藏經抄)

[やぶちゃん注:「姜大公在此間無禁忌」「江南游記 二十六 金山寺」に、『その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない』と使われている。「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。紀元前十一世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では「姜子牙」と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。されば「姜大公在此間無禁忌」とは「姜大公此に在る間(あいだ)、禁忌、無し。」で、「姜太公望呂尚様、ここに座(ま)しますに依って、一切の邪気、これ、その侵入を許さず。」といった呪文であろう。

「貧民くつ」貧民窟。「江南游記 二十六 金山寺」に描写される。

「無煙炭」炭化が進んで煤煙を出さないで燃焼する高品位の石炭。固定炭素の含有量が九十三から九十五%以上のもので、揮発分が少ないために短炎で燃える。非粘結性でコークス(粘結炭石炭の中で加熱すると軟化溶融を起こし、高温で揮発分を放出して硬い多孔質の凝結塊になる性質のもの)を約摂氏千度で乾留し、その揮発分の大部分を石炭ガスとして放出したあとに残る固体燃料。灰分を含んだ多孔質の炭素質で高温と鉱石還元に必要な一酸化炭素を発生する)にはならない。着火点が約摂氏四百九十度と、火は点きにくいものの、火力が強く、しかも一定温度を保って燃え続ける。

「江天禪寺」金山寺の正式名。鎮江市街西北約三キロの郊外にある寺で、東晋の三一九年に創建されたもの。唐代、この辺りで金を採掘したことから「金山寺」と呼ばれるようになったという。なお、芥川龍之介はこの「江南游記 二十六 金山寺」の中で、金山寺の印象を『何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である』として、何と、手帳の内容だとして、以下のように出している。

   *

「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」

   *

ところが、少なくとも、この手帳には、この記載は、ない。或いは中国行では別な備忘録があったものか? いや、これはどうも、叙述が少々面倒になった(或いは原稿規定字数をオーバーしそうなので)龍之介が、「手帳」と称して「早送り」をしでかしたというのが真相かも知れぬ。

「大雄」インドのジャイナ教(ベーダ聖典の権威を否定する無神論宗教で、アヒンサー(不殺生)をはじめとする禁戒・苦行の実践を説く。「ジャイナ」とは、『迷いに打ち勝った「ジナ」(勝利者)の教え』の意。インド以外には殆ど広がらなかった)の始祖マハーヴィーラ(仏典では釈迦よりも二十歳若いとしている)を指す語。

「藏經抄」正当な仏典群(経・律・論の三蔵を中心とした仏教聖典の叢書)を指す「大藏經」の「抄」録したものの謂いであろう。「大蔵経」は「蔵経」「一切経」「三蔵」とも称する。パーリ語で書かれた原始仏教聖典から、釈迦の説いた教えを指す「経(経蔵)」と「戒(律・律蔵)」に加えて、釈迦の弟子たちの教法に対する研究「論(論蔵)」をも含む。]

 

○治隆唐宋(赤壁) 龍 唐草 石龜 大祖像 明太祖高皇帝之位 朱金 臺 龍雲 ○西門外に高跳動あり その爲參詣少し

[やぶちゃん注:「治隆唐宋」現在の江蘇省南京市の東郊外にある明の孝陵の中の清代に再建された「碑殿」には清代の石碑が五基あるが、その中央の一基、一六九九年に康煕帝が南方を巡幸した際に題した文字を刻んだ「治隆唐宋碑」のこと。参照した「人民中国」公式サイト内の孝陵の紹介ページ(劉世昭氏の写真と文)によれば、碑文は『「朱元璋が国を治めた功績は、唐太宗・李世民と宋太祖・趙匡胤の功績を超えた」ことを称える内容』である、とある。そこに添えられた写真を見ると、同碑は「赤」い「壁」に見える。「龍 唐草 石龜」は同陵の羨道の左右に並ぶ石像や碑を支える神である。私も妻が南京大学で日本語教師をしていた時に訪れて見た(前者の碑も見たはずなのだが、記憶にない)。

「大祖像」不詳。この「大」は「太」の誤記か誤判読で、次に出る「明太祖高皇帝」朱元璋のことではなかろうか?

「高跳動」は“gāotiàodòng”(カオチヤオトン)。但し、正しくは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)である。正月に各地で行われた農民の遊戯芸能で、足に「高蹻・高脚」即ち「竹馬」を装着し、その上に立って演技をする仮装を伴った道化芝居である。十二人または十人を一組とした集団芸能。詳しくは私のサイト版「江南游記」の「二十八 南京(中)」の該当注を参照されたい。画像も添付してある。]

 

○コシヤマクレル トカサ Saito.

[やぶちゃん注:「Saitoは「齋藤」で、芥川龍之介の友人西村貞吉の旧姓である。齋藤(西村)貞吉は芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。このメモは長江游記 一 蕪湖」で生かされているが、要は西村貞吉の「言い間違い」を面白おかしくメモしたもので、彼は「子供の言動が大人びていて、小生意気である」の意の「こましゃくれる」を「こしゃまくれる」と、 鶏(にわとり)の「とさか(鶏冠)」のことを「とかさ」と思わず言ってしまう、というメモである。]

 

〇天蟾舞臺 Footlight. 床――brick. 胡弓鼓板琵琶(左) 左右ニclock. (一つ止まる)天聲人語(正面)――rose, acanthus. 三階 白亞 籐椅子 半圓形 黃銅の手すり 大きな電燈(3) 右左煙草の廣告 入口――大平門(赤へ白) 幕――蘇州銀行 三砲臺香姻 武松――黑、白――赤面 幕(左右へ) masklike face. 纏足 譚鑫培――孔明 ○布の門 屋外屋内 明暗 馬上 ○candle without fire. enameled basin. towel.

[やぶちゃん注:ここは戻って、「上海游記 九 戲臺(上)」に生かされたメモ類である。

「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名とされる(私の教え子の調査によれば、当時は現在位置とは少しずれたところにあった)。ここは一九一二年に建てられた歴史ある劇場で、中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。「天蟾」とは「月光」の意。

Footlight」舞台床の前縁に取り付けられた演技者を足もとから照らすための照明(言わずもがなであるが、「脚光を浴びる」の「脚光」とは、この「フットライト」のこと)。

brick」は煉瓦。

「鼓板」拍子木風の打楽器。

acanthus」は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科ハアザミ属 Acanthus の花の総称であるが、ここでは恐らく観賞用の Acanthus mollis である。

「太平門」中国語で「非常口」のこと。

「蘇州銀行」岩波版新全集の「上海游記」の神田由美子氏の注解によると、芥川が来中する前年の一九二〇年に蘇州で創設された蘇州儲蓄(ちょちく:「貯蓄」に同じい。)銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれたとする。しかしその後、一九二四年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』したとある。

「三砲臺香烟」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で「巻き煙草」のこと。当時の上海では、高級煙草はこの「スリー・キャッスル」と、英国王室御用達の“Westminster”(ウエストミンスター)に占められていた。

「譚鑫培」(Tán Xīn péi タァン シィンぺェイ たんきんばい 一八四七年年~一九一七年)は清末の京劇俳優。名は金福。湖北省江夏(武昌)の生まれで、父も「叫天子」(雲雀のような甲高い発声)で名を馳せた「譚叫天」と称された名優「譚志道」(老旦(老婆役)或いは老生(立役)を専らとしたという)として知られた。父の叫天に対し、譚鑫培は「小叫天」と称され、最初は武生(立回りを主とした立役)や武丑(ぶちゅう:立回りの三枚目)であったが、後には老生(善良な中高年の男役。付け鬚を着け、この鬚の色(黒・灰色・白)で年齢を表わす。現代京劇では「須生」とも称する)を演じ、清末の京劇を担った名優「同光十三絶」の一人に数えられている。本来、京劇の老生の節(唱腔:発生法。)は〈丹田の声を駆使した豪快さ〉をその特徴としたが、譚鑫培は〈悠揚曲折〉、感傷に富むそれを工夫し、所謂、〈譚派〉の風格を創造した(平凡社「世界大百科事典」の記載などを参考にした)。

「孔明」諸葛孔明。「老生」の代表格。芥川龍之介が老名優譚鑫培の演ずるそれを見たことは「上海游記」には記されていない、新発見の事実である。

enameled basin」は、これらが聴劇の看客に渡されるものであるとすれば、以下の「towel」、濡れたタオルを入れておく「琺瑯びきの水盤」と採れる。]

2016/12/09

芥川龍之介 手帳6 (5)

 

○泉 白雲泉 盃盂泉 ○魚樂 ギボシユ 玫瑰 佛 藻をとる男 ○トタンの管 玫瑰の落花 亭 呉中第一水 藻 龍髯

[やぶちゃん注:「白雲泉」先に続いて、天平山(蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる)山麓にある中唐の白居易(七七二年~八四六年)の命名による泉。天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉で、盛唐から中唐にかけて生きた作家で「茶経」を著したことから「茶聖」と呼ばれる陸羽(七三三年~八〇四年)が、この白雲泉を「呉中第一泉」と認定したと伝えられる。後の「呉中第一水」と同じ。現在は「白雲池」とするようである。

「盃盂泉」不詳。天平山には小さな池塘が沢山あるが、現行の案内図ではこの名を探し得なかった。或いは、龍之介の誤記か?

「魚樂」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」で龍之介は、「呉中第一泉」の『まはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない』と皮肉っている。

「ギボシユ」擬宝珠。ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花は夏であるから、咲いてはいない。

「玫瑰」既注であるが、再掲する。日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」を指していよう。

「藻をとる男」繁殖して悪臭を放つ藻を除去している者か。

「トタンの管」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」の「呉中第一泉」の描写で「その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐる」とある。

「龍髯」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花はこれも夏七月であるから、あの淡い紫の花は咲いていない。]

 

○窓 燈籠 窓外 藤 竹 萬笏朝天の一部 見山閣 ○莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休 〇七級塔

[やぶちゃん注:「萬笏朝天」これ自体は「空に突き出る万の笏」の謂い。「笏」は束帯などの公式正装の際に右手に持つ細長い薄板であるが、ここは所謂、中国の奇景の一つとしてしばしば見られる尖塔状の柱状節理の奇岩を指しているのであろう。

「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に、「呉中第一泉」に失望した直後、『しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。』と珍しく褒めている場所である。

「莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休」これは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」にも出る詩句である。しかしこれ、当該注でも示した通り、筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるらしい。暴虎馮河なれど、諸注のそうした態度が気に入らない。意地で読む。書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の橫磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣(おうまけん)が無いこと――

ああ! 倭奴(わど)を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

 後晋の軍人にして宰相であった景延広(八九二年~九四七年)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。「倭奴」は古代よりの中国人や朝鮮人の日本人に対する蔑称。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

「七級塔」不詳。七層塔の意か。]

 

○跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君 江蘇巡撫程德全

[やぶちゃん注:「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君」この詩句は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に以下のように出る。かの張継の「楓橋夜泊」で知られる寒山寺(蘇州中心部から西方五キロメートルの楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(五〇二年~五一九年)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(六二七年~六四九年)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある)へ見物に出かけた龍之介が、寒山寺をこき下ろす中で、『殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね』という中に、である。そこで私は、「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」と訓じ、「あなたはわざわざ海の遙か彼方から、この古き寺に、敬虔にも、過ぎし総ての過去の死者の魂を弔いに来られた。そのあなたを、この何もない私は、ただ、あの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って、送別するばかりです。」という意か。

「江蘇巡撫程德全」は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督であった程徳全(てい とくぜん 八六〇年~一九三〇年)。「巡撫」(じゅんぶ)は明・清代に存在した官職名で、清代では明の制度を踏襲し、巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した、とウィキの「巡撫」にある。ウィキの「程徳全」によれば、彼は清で貢生(明清代に生員(秀才:国子監の入試である院試に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得た者)の優秀な者で国子監で学ぶことを許可された者)となり、『主に黒竜江において政治的経歴を積み重ね、主に事務、文書起草の任に就』き、その後、黒竜江巡撫・奉天巡撫を経て、一九一〇年に『江蘇巡撫に異動した』。辛亥革命勃発後の一九一一年十一月には『周囲から推戴され、江蘇都督とな』り、翌年一月三日に『南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章炳麟(章太炎)、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織し』、同四月には『臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命された』。五月に『統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党』、民国二(一九一三)年の二次革命(第二革命)では『江蘇省の独立を宣言した。しかし、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏し』く、同年九月の『二次革命の敗北とともに、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った』とある。「江蘇巡撫」という片書からは、これが彼の詩句であるとすれば(すれば、である)、一九一〇年から翌一九一一年十一月前の作となるか。彼は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に出る。]

 

○途中村落 柳 鵞 鴨

[やぶちゃん注:「鵞」鵞鳥。ここで龍之介が嘱目したのは、カモ目カモ科マガン属サカツラガン Anser cygnoides を原種とする中国系家禽のそれ。]

 

○虎邱 海陵陳鐵坡重建 古眞孃墓 癈塔傾く 鴉嘸聲 パク 鳥ナリ(九官ノ一種) 御碑亭ト客殿

[やぶちゃん注:「虎邱」蘇州北西の郊外約五キロメートルに位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~紀元前四六三年)が父王闔閭(こうりょ ?~紀元前四九六年)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからともいう)。標高三十六メートル。五代の周の九六一年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記する。

「海陵陳鐵坡重建」不詳。「海陵」現在の江蘇省中部に位置する泰州市は古くは「海陵」と称した。「陳」は地区名の「陳鎮」誤りか(「蘇陳鎮」という地名が現在の泰州市にある)。「坡」は堤の意で地名によく使われる。「重建」は復興再建の謂いであろう。但し、虎邱や寒山寺とは南南東に百四十五キロメートルも離れている。

「古眞孃墓」真娘とは中唐の蘇州で歌舞の名手であった美妓の名。蘇州城西北郊外にあった武丘西寺(西武丘寺)に埋葬されたという。ここはその遺跡であろう。サイト「中国詩跡」の植木久行氏の「蘇州真娘墓詩跡考」に詳しい。

「鴉嘸聲」「カラスの、まさにその、声」の意か。但し、現代中国語では「パク」ではなく、「ヤーヤー」である。或いは「パク」は以下の「九官ノ一種」の「鳥」の名か、その声か?

「御碑亭」皇帝や高貴な人物の碑を建てた四阿(あずまや)のことであろう。]

 

○白壁 運河 新樹 蛙 鵲 北寺の塔 暮色 小呉軒

[やぶちゃん注:「鵲」「かささぎ」。スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラス(高麗鴉)とも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島ではごく一般的な鳥。

「北寺の塔」「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に二四七年から二五〇年頃に造立された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように「報恩寺」と名づけられた。孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(五〇二年~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、この時、芥川が登った現在の八角形九層塔は南宋時代の一一五三年の再建になるもので、高さ七十六メートルあり、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。私も登ったことがある。

「小呉軒」北寺にある清の第四代聖祖(康熙帝:一六五四年~一七二二年)及び第六代皇帝高宗(乾隆帝:一七一一年~一七九九年)が南巡の際に立ち寄った行宮の一部である。龍之介は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」で北寺『塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ』と珍しく非常に素直に感懐を綴っている。]

 

○酒棧 (京莊花雕) 白瓶(赤瓶上酒) 正方形の卓(タメ塗ハゲタリ) 同じやうな腰かけ 白壁 煤柱 土間 瘦犬 錫 筋(茶碗程の盃 底に靑蓮華) 辮髮の男 黑衣靑袴 深靑衣濃靑袴の杜氏 卓上の菜 電燈 天井比較的高し 豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男 中に醬油瓶アリ 菜は正方形の新聞紙上におく(二錢位) 田螺 梯子(呉城𨤍品 京莊紹酒) 驢の鈴 轎子のかけ聲 拳をうつ聲

[やぶちゃん注:「酒棧」(きゃくさん)は居酒屋。江南游記 二十一 客棧と酒棧の本文(題名ではない)では『酒棧(チユザン)』と中国音で読んでいる(現代標準語では「Jiǔzhàn」で「ヂォウヂァン」)。

「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」「花彫酒」という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と雅びやかな彩色を施して婚家へ持参したことによる。中文記事等を斜め読みすると、「京荘酒」というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は「恭しく奉る・厳かにして高品質の」と言った意味合いではなかろうか。「白瓶(赤瓶上酒)」も含め、江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた』とあり、さらに(改行部部を「/」で示した)『其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。/「何です、これは?」/「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」/島津氏は銅貨を二枚出した。/「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」/私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。』として、同「二十一 客棧と酒棧」(「酒棧」パートは後半半分)は終わっており、この「豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男」もちゃんと生かされている。このたった百五十七字のメモと記憶を文章映像に美事に仕立て上げてしまう芥川龍之介は、やはり凄いと私は思う。

「タメ塗リ」「溜め塗り」は漆塗りの一種で、朱漆・青漆などで下塗りをしてその上を木炭で艶消しした上、透漆を塗ったもの。下塗りの色が透けて見えるようになっている。江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『机や腰掛けは剝(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした』と出る。

「杜氏」不詳。或いは「とうじ」で、紹興酒の醸造責任者のことを指しているか。

「梯子」先に示した通り、「向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある」のであるから、それを順に積み上げ、また下ろすのに「梯子」が必要なわけである。

「呉城𨤍品」三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝呉をシンボルとした名であろう。「𨤍」は音「レイ・リョウ」で、古え、現在の湖南省にあった酃(れい)湖の水を使って醸した酒の名で、透き通った美酒「𨤍醁(レイリョク)」(「𨤍」は「醽」「𨣖」「𨠎」とも書く)というのがあったというから、「𨤍品」で美酒の謂いらしい。

「驢の鈴」驢馬につけた鈴。その音。

「轎子」「けうし(きょうし)」と読む。お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を八~二人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮に古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高い山の観光地などで見かけることがある。中国語では「Jiàozi」で「ジャオズー」。

「拳」拳(けん)遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。]

 

○對聯 獨立大道 共和萬歳 文明世界 安樂人家

[やぶちゃん注:「對聯」は「ついれん」と読み(中国語では「duìlián」(ドゥイリエン))、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評(或いはその皮肉)が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。江南游記 二十六 金山寺の冒頭に、『「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」/「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」』と出る。]

2016/09/29

芥川龍之介 手帳6 (4)

○孔子廟 門 池 杉 禮門black. 石獅 池 石橋 靑衣 テン足の老婆 女子 アバタ 塔 桑 門 毒ダミノ花 鐘 太鼓(大中小) 廊 煉瓦 廊 大イテフ 二三本 石階 龍 ○大成殿 群靑へ白 赤瓦 大廊 黃柱 黃壁 萬世師表 朱金 臭氣 蝙蝠の糞 異臭

[やぶちゃん注:「○大成殿」は底本では一見行頭に来て改行されているように見えるが、大成殿は孔子廟の正殿であるから、連続したものととった。

「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の一〇三五年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。

「テン足」纏足。

「女子 アバタ」後者は「痘痕(あばた)」である。「江南游記 十五 蘇州城内(下)」に「痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子」が登場する。

「大成殿」孔子廟の正殿。

「萬世師表」「万世の模範」という意味の成語。魏の文帝が孔子を褒め称える言葉として「師表」を用い、後に清の康煕帝が孔子廟に「萬世師表」(それで「孔子は永遠の師」の意となる)の額を掲げた。

「蝙蝠の糞」やはり、「江南游記 十五 蘇州城内(下)」で「戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黃色(きいろ)の壁、群靑に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。

 「何です、あれは?」

 私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。

 「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」

 島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。

 「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」

 「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」

 驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺靑(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新綠の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」と美事に素材化されている。]

 

○玄妙觀 觀後の畫□ 劍術(四人) 赤毛の槍 手品 秋になると虫の鳴き合せ

[やぶちゃん注:「玄妙觀」西晋の咸寧年間(二七五年~二八〇年)に創建された道教寺院。但し、玄妙観という呼称は元代以降のもの(それまでは真慶道院)。明の一三七一年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積四ヘクタールに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊と修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(これは主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観」の記載を参照した)。

「畫□」江南游記 十四 蘇州城内(中)に、玄妙観の「中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない」とあるから、これは玄妙観の中の後ろの方に安っぽい「書畫」を売っているというメモを、旧全集の編者が「書」を「畫」と誤判読した結果、後の「畫」が読めなくなってしまったのではあるまいか?

「劍術(四人) 赤毛の槍」江南游記 十四 蘇州城内(中)に、「堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた」と活写されるシークエンスのメモである。]

 

○北寺 七塔 桃色の壁 入口暗し カンテラの塔 所々の金佛 遙に瑞光寺の癈塔

[やぶちゃん注:「北寺」蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の太祖孫権(一八二年~二五二年)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。が母への報恩を目的に造立(二四七年~二五〇年頃)した通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた。

「七塔」北寺塔。諸注が孫権の建立とするこの塔の元自体は梁時代(五〇二~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、芥川が登った現在の八角形九層塔(私も登った)は南宋時代の一一五三年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ七十六メートル、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。

「桃色の壁」記」の私の注に掲げた教え子の写した塔内部の写真「北寺塔内階梯」を参照されたい。

「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の一三五一年の再建になる)の北側に聳える瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の二四一年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ四十三・二メートル。

 

○盲人の胡弓 轎子の美人 珠玉商 裝飾商多し 驢上の客

[やぶちゃん注:「轎子」「けうし(きょうし)」。お神輿のような形をした乗物。既注。]

 

○ホテル 野雉 三階 胡弓 朝のバラ賣り 靑衣の婆

[やぶちゃん注:「野雉」“yĕzhì(イエヂィー)は街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えた。後の上海游記 十四 罪に登場する。]

 

○天平山 山羊 犬與日奴不得題壁 高義園 天平地平 人心不平 人心平平 天下泰平

[やぶちゃん注:「天平山」は蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。

「犬與日奴不得題壁」訓読すると「犬と日奴とは壁に題することを得ず」で、「犬と日奴(日本人野郎)は壁に落書きするな」の意。これは有名な上海外灘“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)あった“Public Garden”パブリック・ガーデンの入口の看板「華人與狗不得入内」を逆手に取ったパロディである。(芥川龍之介「上海游記」の「十二 西洋」等の本文及び私の注を参照されたい)。この落書きは江南游記 十六 天平と靈巖と(上)に描写されている。

「高義園」天平山の麓にある林泉式庭園。林泉式とは泉水・築山・曲水・樹林など自然の景観を真似て造られた庭園を言う。江南游記 十七 天平と靈巖と(中)に出る。

「天平地平 人心不平 人心平平 天下泰平」これも反日落書き。日本語は勿論小気味よいのだが、これを拼音(ピンイン)で示すと、

“tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpíngpíng, tiānxiàtàipíng”

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピンピン、ティエンシィアタイピン)

若しくは、

“tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpiánpián, tiānxiàtàipíng”

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピェンピェン、ティエンシィアタイピン)

となってより美事である。因みに、後者は「平平」の部分の意味を「安らか」の意でなく、「整い治まる」として用いた際の読みを試みたものである。やはり江南游記 十七 天平と靈巖と(中)に出る。

 

○諸君儞在快活之時不可忘了三七二十一條

[やぶちゃん注:江南游記 十六 天平と靈巖と(上)に出る反日落書き。訓読するなら、「諸君、儞(なんぢ)、快活の時に在りて、三、七、二十一條を忘了(ばうりやう)すべからず」で、「三七二十一」は九九の掛け算で読む。「君たち! そこの、あなた、だ! この大事な時にあって、あの屈辱的な二十一ヶ条を忘れてはならない!」の意。本邦で言う通称「対華二十一ヶ条要求」のことを言っている(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)。大正四(一八一五)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約。第一次世界大戦に敗北したドイツの山東省での権益の日本継承・関東州租借期限延長・満鉄権益期限延長・漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)日中合弁化等を内容とした、あからさまな不平等条約であった。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した五月九日を国恥記念日と呼び、学生・労働者のストライキから、一八一九年の五四運動の火種となった(以上は主にウィキの「対華21ヶ条要求」を参照した)。]

 

○棗 栗 西瓜 枝豆(茹而干) 貝障 楓二抱

[やぶちゃん注:「棗」双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメZiziphus jujuba の実。中国北部原産の落葉高木で、果実を乾燥させて「干しなつめ」とし、漢方薬や菓子材料として利用される。

「茹而干」「ゆでてほす」。

「貝障」江南游記 十六 天平と靈巖と(上)で天平山白雲寺を見学した芥川龍之介がそれこそ前に出た「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」や多くの反日落書きを見、

   *

欄外の若楓(わかかへで)の枝が、雨氣(うき)に垂れたのを眺めながら、若い寺男の持つて來る、抹香臭い茶を飮んだり、固い棗(なつめ)の實を嚙つたりした。

 「天平山は思つたより好い。もう少し綺麗にしてあると猶好(よ)いが、――おや、あの山の下の堂の障子は、あれは硝子(がらす)が嵌まつてゐるのですか?」

 「いや、貝ですよ。木連(きつ)れ格子(がうし)の目へ一枚づつ、何とか云ふ貝の薄いやつを、硝子代りに貼りつけたのです。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とある、「貝障子」のことである。この「木連れ格子」とは屋根の妻(切妻や入母屋(いりもや)の屋根の側面の三角形の壁面部分)の飾りの一つで、格子の内側に板を張ったもの。狐格子・妻格子等とも呼称するもの。「何とか云ふ貝」は二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ(窓貝)Placuna placenta 若しくはその近縁種と推定する。円形で殻長は約八センチ。右殻は平らで薄く、白色半透明。熱帯の浅海に生息する。貝ボタンの材料とする一方、中国やフィリピンではここに出るように昔から、窓にガラスのように使用された。現在もアクセサリーや手工芸品(風鈴・モビール・トレー等)に用いられている。

2016/09/11

芥川龍之介 手帳6 (3)

○章炳麟 東南撲學 章太炎先生――元洪 剝製の鰐 古書 金石索の箱 眉薄く 眼細く 髭髯薄く 顏面黃に 背曲れり 緣なし金メガネ 黑衣 灰色の下着 毛皮をかけし籐椅子 鐵の門(ペンキぬり) 石だたみに水たまる boy案内す

[やぶちゃん注:「章炳麟」(しょうへいりん 一八六九年~一九三六年)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、一九一三年四月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、北京に戻ったところを逮捕され、三年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、一九一六年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると、孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、一九一九年の五・四運動には反対し、保守反動という批判を受けてもいる。これは彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対して師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。私の「上海游記 十一 章炳麟氏」を必ず参照されたい。ここに出るアイテムが多く使用されてあるからである。

「東南撲學」「とうなんぼくがく」。この場合の「撲」は「尽す・悉く・総て」といった意味合いであろう。従って、中国の「東南」(上海)にあって「学」問を学び「尽した・尽さんとする」人、の意であろう。

「章太炎」「しようたいえん(しょうたいえん)」章炳麟の号。

「元洪」清末から中華民国初期の軍人政治家黎元洪(れいげんこう 一八六四年~一九二八年)。第二代(一九一六年~一九一七年)及び第四代(一九二二年~一九二三年)の中華民国大総統を勤めた。清の軍人であったが、辛亥革命時の際には高度な政治的判断の中で反乱軍の大将に推挙され、自身も革命に積極的になり、また、その後の袁世凱死後の北洋軍閥混乱期にあっては対立した安徽(あんき)派・直隷(ちょくれい)派双方から、今度は傀儡として大総統に推されることとなったが、最後は政界から追われた。章炳麟とは中華民国初期の統一党が発展した一九一二年五月の共和党結党辺りで大きな接点がある。

「金石索」「きんせきさく」と読む。書名。金石学の研究書で清の馮雲鵬(ひょううんぽう)撰で一八二二年刊。「金索」と「石索」の部に分れ、「金索」は鐘鼎・雑器・印璽・鏡鑑など七部に分類され、「石索」には碑文を中心に画像石などが収録されている。]

 

○支那車掌 綠色の服 黃筋(二本)の帽 切符に赤鉛筆のlineをひく

 

○蘇州へ行つたら目をつぶつてつかんでも美人ですよ(村田氏の言)

[やぶちゃん注:中国の美人というと、蘇州美人・重慶美人・成都美人。大連美人などが挙げられるようであるが、この中でも中国の古典的な線の細い儚げな美人となると、蘇州美人を一番とする意見は多いようである。但し、芥川龍之介は「江南游記 二十 蘇州の水」で、「殘念なのは美人を見なかつた事だ」「一人も見ない。何でも村田君の説によると、目をつぶつて摑んでも、蘇州の女ならば別嬪ださうだ。現に支那の藝者の言葉は、皆蘇州語ださうだから、その位の事はあるかも知れない。處が又島津氏の説では、一體蘇州の藝者なるものは、蘇州語に一通り通じた上、上海へ出ようと云ふ候補生か、又は上海へ出ても流行らないので、歸つて來たと云ふ落伍卒(そつ)だから、碌な女はゐないさうだ。成程これも一理窟だね」と述べている。]

 

○嘉興 水にのぞむ城壁の廣告 橋 塔 桑畑

[やぶちゃん注:「嘉興」現在の嘉興市は浙江省東北部に位置し、西を杭州市と、東北を上海市と、北を江蘇省蘇州市と接し、南は銭塘江(せんとうこう)と杭州湾に面する。上海と杭州のほぼ中間点に当たる。古くから陸稲の産地であり、現在も江南最大の米の産地として知られる。南湖菱でも有名。ここに出るキーワードは「江南游記 二 車中(承前)」で明らかとなる。]

 

○白沙 堤上 馬鈴 靑袴黑衣 クモ 白壁 ヤモリ 南京虫 闇中の女 轎子 螢 蛙

[やぶちゃん注:「虫」はママ。西湖訪問のメモである。

「白沙」は西湖の北部を東北から西南方向に走る約一キロメートルの堤「白堤」の古称。東北の断橋と西南端の孤山を結ぶ。白居易(七七二年~八四六年)が杭州刺史であったときに造営したとされることからこの名があるが、古くは白沙堤と言った。

「轎子」「けうし(きょうし)」と読む。お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を八~二人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮に古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高い山の観光地などで見かけることがある。

「螢」は「江南游記  四 杭州の一夜(中)」に登場する巨大な種。リンク先の私の注を参照されたい。]

 

○水上のトンボ 浮草の花 水淺し

○兪樓 碧霞西舍(白壁、□桐)池 (龍のヒゲ、竹、藻) ○曲曲廊 伴坡亭

[やぶちゃん注:「□」は底本の判読不能字。

「兪樓」西湖にある、清末の考証学者兪樾(ゆえつ 一八二一年~一九〇七年:号は曲園)の別荘。「江南游記 六 西湖(一)」本文及び私の注を参照されたい。

「碧霞西舍」「江南游記 六 西湖(一)」の本文にも出るのであるが、その注で私は以下のように記した。――筑摩全集類聚脚注には『伴坡亭のことをこういった』とあり、神田由美子氏の岩波版新全集注解は一般名詞の注の必要を感じない「扁額」に注を附しておきながら、これを注さない。しかし、「扁額によれば碧霞西舍を見た後、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た」と芥川は述べており、もしこれが伴坡亭(後注参照)であるなら、芥川は「山の下の」別な建物を伴坡亭を誤認したことになる。山下のごてごてに「石刷」を飾った建物と「曲曲廊」と山上の「小軒」全体が「伴坡亭」とも思われない。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。――未だに不祥である。さらにさらに識者の御教授を乞うものである。

「龍のヒゲ」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus別名「リュウノヒゲ」とも言う常緑多年草。

「曲曲廊」「江南游記 六 西湖(一)」の本文にも出るが、そこでは「所謂」と龍之介は冠しており、これは固有名詞ではなく、ただ「曲折した廊下・階段」の謂いと読む。

「伴坡亭」「江南游記 六 西湖(一)」の本文に「東坡の古址にちなんだとか云ふ、伴坡亭」として出るが、筑摩全集類聚脚注・岩波版新全集注解ともに「兪楼内の亭」とのみ記し(筑摩版には兪楼の西方にあるとする)、「東坡の古址」なる蘇軾の所縁についての記載はない。ネット上にも伴坡亭についての邦文の記載も見当たらず、不詳である。西湖にお詳しい方の御教授を再度乞うものである。]

 

○樓外樓(菜館)――孤山(柳 梧 槐) 箸 杖 西瓜 杏 水邊に衣を洗ひ叩く男あり 舟をこぐ支那の女 鷄を洗ふ 鮒を釣る キヤラメル 赤衣紫袴の小兒二人 西洋セル地の支那服の女二人

[やぶちゃん注:「樓外樓」西湖湖畔に現在も建つ杭州料理の名店。一九一四年創業。

「菜館」中華料理店。

「孤山」白堤を東から西に進んだところにある島(低い山があり、狭義にはそこをかく呼ぶ)。芥川龍之介が西湖で泊まった新新飯店のある北山街と向き合うように浮かんでいる。

「梧」アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

「西洋セル地」これはオランダ語“serge”(セルジ)で「セル地」の「地」(布地)は当て字なので注意。主に梳毛糸(そもうし:羊毛から長い繊維を縒り分けた上でこれを梳いて、縮れを伸ばし、平行に並べて作った毛)を用いた薄手の毛織物。英語は同綴りで発音は「サージ」である。]

 

○湖心亭 三潭 支那人 胡弓 笛 支那人 蛇 龜 木に龜 ○放鶴亭 女學生(白衣黑袴) 柳絮 梅 柳 鵲 芦 南京藻 菱

[やぶちゃん注:「湖心亭」西湖の中にある三島の内、最も古い人工島で一五五二年に作られたという。

「三潭」一〇八九年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。芥川龍之介も見た現在あるものは八百年前のものとされ、高さ二メートルの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れるという。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。南宋の時に定めた西湖の名数「西湖十景」の一つ(但し、時代により異同があり、順序や表記も微妙に違うものがある)に「三潭印月」があり、これは天に「印」した月の「真影」の月影と、視野の可視範囲である灯籠の六十度角及び百二十度角からの灯影が西湖に「印」された二つの「投影」された、計「三つの月影」(月影一つと灯火の影二つ)という含みもあろうか。

「放鶴亭」「放鶴亭」西湖にある北宋初期の詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)の旧居。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、『孤山の北麓の大樹の茂みの中にあ』り、林逋が舟で遊行に出かけた最中に来客があった際には、留守居の童子が籠に伏せてあった鶴を放って林逋に合図させたことからこの名が付いたという。如何にも人界仙境の趣きではないか。「江南游記 十一 西湖(六)」を参照されたい。

「鵲」七夕伝説における織姫星と彦星の間を繫ぐ掛け橋となる、スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica。現代中国語では「喜鵲」と呼び、親しまれている。

「南京藻」「江南游記 十五 蘇州城内(下)」に附した私の注を引く。――他の作品でもそうだが、芥川がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく真正細菌シアノバクテリア門藍藻類の、

クロオコッカス目Chroococcales

プレウロカプサ目Pleurocapsales

ユレモ目Oscillatoriales

ネンジュモ目Nostocales

スティゴネマ目Stigonematales

グロエオバクター目Gloeobacterales

等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でも、

クロオコッカス目ミクロキスティス属 Microcystis

ネンジュモ目アナベナ属Anabaena

ネンジュモ目アナベノプシス属Anabaenopsis

等であるが、更に緑藻類の、

緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella

緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus

緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas

等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。]

 

○魚樂園 洗心亭 四角の池 欄 鯉 水、靑黑 茶 ○萬竿煙雨 羊 ○靈隱寺 栗鼠 支那僧(鼠色衣、エビ茶袈裟) 乞食叩頭拍胸臭脚 大雄寶殿の後 九里松 鳳林寺

[やぶちゃん注:「魚樂園」個人サイト「山と海」の「中国大陸の魚・第1号」の記事にある「杭州市西湖水域管理処・魚楽園」という現在の行政管理名称、及びそこから『みえた湖は、西湖五湖のうちの西里湖だった。ここはその西岸で、西湖賓館のすこし南側になる。魚楽園はこの養魚池と西里湖の釣り場の両方を管理している』という叙述(下線やぶちゃん)、次に西湖の遙か西南と思われる「洗心亭」が出ることから、この龍之介の言う「魚樂園」とは西湖の南端西岸とひとまず推理出来ると思う。

「洗心亭」これは恐らく、西湖南端から西南に直線で六キロほど離れた銭塘江北岸の五雲山の麓にある竹林「雲棲竹径」の中にある三つの亭の一つ(他は回龍亭・遇雨亭)ではあるまいか?

「萬竿煙雨」南画の極めて好まれる画題の一つ。竹林に霧雨が降って煙霞の立ちこめる景を写したものを指す。因みに「日本近代文学館」公式サイト内の複製販売品に芥川龍之介の描いた「萬竿煙雨之図」があり、大きな画像で見られる。この絵、或いは、この時の実景に基づくものか。

「靈隱寺」雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(三二六年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(九〇七年~九七八年)の中心であった当時は三千人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩で出来た岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた三百三十八体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の九五一年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。芥川は五月四日に霊隠寺を訪れているが、五日の夕方には上海に戻っている。「江南游記 十二 靈隠寺」の私の注から一部を引いた。

「乞食叩頭拍胸臭脚」これは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」に出て来る。蘇州の乞食の様態の会話から先だっての経験を思い出すところで、「靈隠寺の乞食の非凡さは、日本人には到底想像も出來ない。大袈裟にぽんぽん胸を叩いたり、地(ぢ)びたへ頭を續け打ちにしたり、足首のない足をさし上げて見せたり、――まづ、乞食の技巧としては、最も進歩した所を見せる。が、我我日本人の眼には、聊(いささか)藥が利きすぎるから、憐憫の情を催すよりも、餘り仰仰しいのに吹き出してしまふ。」という箇所である。因みに、「臭脚」は何かおかしい気がする。或いは「擧」辺りの編者の誤判読ではあるまいか?

「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。しかしこれも、後の解放直後に倒壊、内部の仏像も壊れた。現在見られるものは一九五六年に再建された新しいものである。「江南游記 十二 靈隠寺」を参照。

「九里松」個人サイト「ぽんずの杭州雑記」の歴史解説の「7.唐」に、

   《引用開始》

袁仁敬 この人は開元十三年(725)、玄宗皇帝によって杭州刺史(杭州の地方長官)に任命されます。3年間の在任期間中に、洪春橋から霊隠、天竺にかけての9里もの道沿いに松の木を植えさせ、それは「九里松」と呼ばれるようになりました。これらは防風そして雨を防ぐのに大変役立ったと言います。元の時代には銭塘十景に数えられたとのこと。現在にこの呼び名は伝わっています。

   《引用終了》

とあるのを指すのであろう。

「鳳林寺」「江南游記 十二 靈隠寺」に霊隠寺からの帰途に「鳳林寺一名喜鵲寺」を訪れたとある。詳しくはリンク先の本分と私の注を見られたいが(但し、寺についてはそちらでは私は注していない)、この寺は創建年代が正確には分かっておらず、白楽天も参禅した寺であったらしい。鈴木哲雄氏の論文「浙江の禅宗に関する資料」(PDF)の注(43)を参照されたい。]

 

○硤石――石山 ○嘉興 灣江水永 遠水牧童 ○双嬰孩牌香烟 無敵牌牙粉 ○仁丹 獅子牙粉

[やぶちゃん注:「硤石」「こうせき」で浙江省海寧市の地名・街道名。とすると、後の「石山」も地名ということだろうが、「石山」という文字を含む小村などはあるが、ピンとこない。不詳。

「灣江水永 遠水牧童」龍之介自身が漢詩風に情景をメモしたものか。

「双嬰孩香姻」現地の当時の煙草の銘柄。「嬰孩」は嬰児・乳児・赤ん坊のことであるから、「ツイン・キューピー」「双天使」といった「香姻」(煙草)名。

「無敵牌牙粉」歯磨き粉の商標。「無敵印歯磨き粉」。

「仁丹」は恐らく現代中国では通用しない商品名と思われる。

「獅子牙粉」日本の「ライオン歯磨き」の当時の公式販売商品名。「ライオン株式会社」公式サイト内のライオン最古のカタログを参照されたい。]

 

In Loving Memory of Oyoshi Minae. Beloved wife of W――. Died 26th July 1912 . Aged 39 Years. Gone but not forgotten.

[やぶちゃん注:芥川が嘱目した日本人夫人の墓碑銘であるらしい。没を「26th July 1912」とするが、これは明治四十五年である(明治四十五年はこの四日後の七月三十日に大正に改元されている)。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art | Caspar David Friedrich | Miscellaneous | Иван Сергеевич Тургенев | 「プルートゥ」 | 「一言芳談」 | 「今昔物語集」を読む | 「北條九代記」 | 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注 | 「新編鎌倉志」 | 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳 | 「明恵上人夢記」 | 「栂尾明恵上人伝記」 | 「澄江堂遺珠」という夢魔 | 「無門關」 | 「生物學講話」丘淺次郎 | 「甲子夜話」 | 「第一版新迷怪国語辞典」 | 「耳嚢」 | 「諸國百物語」 附やぶちゃん注 | 「進化論講話」丘淺次郎 | 「鎌倉攬勝考」 | 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記) | 「鬼城句集」 | アルバム | ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」  | ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ | 中島敦 | 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 | 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 | 伊東静雄 | 佐藤春夫 | 八木重吉「秋の瞳」 | 北原白秋 | 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編 | 南方熊楠 | 博物学 | 原民喜 | 和漢三才圖會 蟲類 | 土岐仲男 | 堀辰雄 | 増田晃 | 夏目漱石「こゝろ」 | | 夢野久作 | 大手拓次詩集「藍色の蟇」 | 宇野浩二「芥川龍之介」 | 富永太郎 | 小泉八雲 | 尾形亀之助 | 山之口貘 | 山本幡男 | 山村暮鳥全詩 | 忘れ得ぬ人々 | 怪談集 | 映画 | 杉田久女 | 村上昭夫 | 村山槐多 | 松尾芭蕉 | 柳田國男 | 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 | 柴田宵曲 | 梅崎春生 | 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 | 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 | 橋本多佳子 | 武蔵石寿「目八譜」 | 毛利梅園「梅園介譜」 | 毛利梅園「梅園魚譜」 | 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 | 津村淙庵「譚海」 | 海岸動物 | 火野葦平「河童曼陀羅」 | 片山廣子 | 生田春月 | 由比北洲股旅帖 | 畑耕一句集「蜘蛛うごく」 | 畔田翠山「水族志」 | 神田玄泉「日東魚譜」 | 立原道造 | 篠原鳳作 | 肉体と心そして死 | 芥川多加志 | 芥川龍之介 | 芥川龍之介 手帳 | 芥川龍之介「上海游記」 | 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) | 芥川龍之介「北京日記抄」 | 芥川龍之介「江南游記」 | 芥川龍之介「河童」決定稿原稿 | 芥川龍之介「長江游記」 | 芥川龍之介盟友 小穴隆一 | 芸術・文学 | 萩原朔太郎 | 蒲原有明 | 藪野種雄 | 西東三鬼 | 詩歌俳諧俳句 | 貝原益軒「大和本草」より水族の部 | 野人庵史元斎夜咄 | 鈴木しづ子 | 鎌倉紀行・地誌 | 音楽 | 飯田蛇笏