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カテゴリー「柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」」の14件の記事

2017/05/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「大和の瓜」

 

 大和の瓜

 

 大和國から瓜を馬に積んで京へ出る者があつた。宇治の北にある成らぬ柿の木といふ木の下まで來ると、皆瓜の籠を馬から下ろして、暫くその蔭に涼んでゐるうちに、積んで來た瓜を取り出して、少しつつ食ひはじめた。そこへどこからやつて來たか、帷子に平足駄を穿き、杖をついた老人が現れて、扇を使ひながら皆の瓜を食ふのを見守つてゐたが、その瓜を一つ私にも食べさせてくれませんか、咽喉がかわいて堪らないのです、と云ひ出した。瓜を運ぶ下人達は、氣の毒だから上げたいが、これは私どもの物ではない、人に賴まれて京へ持つて行くのだから上げるわけに往かぬ、とすげなく斷つた。

 

 老人は、あなた方は情けを知らぬとか、年寄はいたはつてやるものだとか、ぶつぶつ云つてゐたが、そのうちに、下さらぬものは仕方がない、よろしい、私が瓜を作つて食ひませう、と云つたかと思ふと、木片を拾つて地面を畑のやうに掘り、下人達の食ひ散らした瓜の種をそこに埋めた。はじめの間は笑談半分に見てゐた下人達も、その種が間もなく二葉を出し、蔓を延してあたり一面の瓜畑になるのを見ては、びつくり仰天せざるを得なかつた。老人は澄ましたもので、自分がその瓜を取つて食ふだけでなしに、下人達にも食べろと云ふ。通行人にも勸める。あるほどの瓜を食べ盡してしまつたら、それでは皆さん失禮、と云つて老人はどこかへ立ち去つた。大分暇を潰したから、吾々も出かけようといふので、下人達が見ると、籠の中の瓜は一つもない。瓜をこゝに作ると見せて、籠の中から持ち出したのかと騷いでも追付かぬ。空の籠を馬に積んで大和へ引返すより外はなかつた。

[やぶちゃん注:以上は、以下に述べられる通り、「今昔物語集」の話で「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十しじふ))である。「外術」(げじゅつ)は(歴史的仮名遣では実は「げじゆつ」でよい)外道(げどう)の術で、魔法。幻術のこと。「下術」とも書く。

   *

 今は昔、七月許(ばか)りに、大和の國より、多くの馬(むま)共に瓜を負(お)ほせ烈(つら)ねて、下衆(げす)共多く京へ上りけるに、宇治の北に、不成(なら)ぬ柿の木と云ふ木有り。其の木の下の木影(こかげ)に、此の下衆共、皆、留(とど)まり居(ゐ)て、瓜の籠共をも皆、馬より下(おろ)しなどして、息(やす)み居て、冷(すず)みける程に、私(わたくし)に[やぶちゃん注:自分らが食う分として]、此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有(あ)らむ、年極(いみ)じく老いたる翁の、帷(かたびら)に中(なか)を結ひて[やぶちゃん注:単衣(ひとえ)の薄物を纏い、その腰の辺りを紐で結わいて。]、平足駄(ひらあしだ)を履きて、杖を突きて出で來たりて、此の瓜食ふ下衆共の傍らに居(ゐ)て、力弱氣(ちからよはげ)に扇(あふぎ)、打ち仕ひて、此の瓜食ふを、まもらひ居たり[やぶちゃん注:凝っと見守り続けている。]。

 暫し許り護りて、翁の云く、

「其の瓜一つ、我れに食はせ給へ。喉(のど)乾きて術無(ずつな)し。」

と。瓜の下衆共の云く、

「此の瓜は、皆、己等(おのれら)が私物(わたくしもの)には非ず。糸惜(いとほ)しさに[やぶちゃん注:気の毒に感ずるから。]一つをも可進(たてまつるべ)けれども[やぶちゃん注:差し上げたいとは思うけれども。]、人の京に遣す物なれば、否不食(えくふ)まじき也。」

と。翁の云く、

「情け不座(いまさ)ざりける主達(ぬしたち)かな。年老いたる者をば、哀れと云ふこそ、吉(よ)きことなれ、然(さ)はれ、何(いか)に得させ給ふ[やぶちゃん注:「(愚痴は)さてもそれまでとして、ではでは……そなたらは……どのようにして私に……その瓜どもを得させてくれりょうかのぅ?」。後の妖術の仕儀を暗示させる不思議な予言めいた謂いである。]。然らば、翁、瓜を作りて食はむ。」

と云へば、此の下衆共、

「戲言(たはぶれごと)を云ふなんめり。」

と、

「可咲(をかし)。」

と思ひて、咲(わら)ひ合ひたるに、翁、傍らに木の端(はし)の有るを取りて、居たる傍らの地を掘りつつ、畠の樣(やう)に成しつ。

 其の後(のち)に、此の下衆共、

「何に態(わざ)を此れは爲(す)るぞ。」[やぶちゃん注:何の真似をこの爺いはするつもりなんだ?」。]

と見れば、此の食ひ散したる瓜の核(さね)共を取り集めて、此の習(なら)したる[やぶちゃん注:平らに均(なら)した。]地(ぢ)に植ゑつ。其の後ち、程も無く、其の種瓜(たねうり)にて、二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、

「奇異(あさま)し。」

と思ひて見る程に、其の二葉の瓜、只(ただ)[やぶちゃん注:無暗に。急速に。]、生ひに生ひて這凝(はびこりまつは)りぬ。只、繁りに繁りて、花、榮(さ)きて、瓜、成りぬ。其の瓜、只、大きに成りて、皆、微妙(めでた)き瓜に熟しぬ。

 其の時に、此の下衆共、此れを見て、

「此は神などにや有(あ)らむ。」

と、恐れて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云く、

「主達(ぬしたち)の食はせざりつる瓜は、此(か)く瓜作り出だして食ふ。」

と云ひて、下衆共にも、皆、食はす。瓜、多かりければ、道行(みちゆ)く者共をも呼びつつ、食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢(は)てつれば、翁、

「今は罷(まか)りなむ。」

と云ひて、立ち去りぬ。行方(ゆきかた)を不知(し)らず。

 其の後(のち)、下衆共、

「馬に瓜を負(お)ほせて、行かむ。」

とて、見るに、籠は有りて、其の内の瓜、一つも、無し。其の時に、下衆共、手を打ちて奇異(あさま)しがること限り無し。

「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我等が目を暗(くら)まして不見(み)せざりける也けり。」

と知りて、嫉(ねた)がりけれども、翁、行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆、大和へ返りてけり。道行ける者共、此れを見て、且つは奇(あや)しみ、且つは咲(わら)ひけり。

 下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は不被取(とられ)ざらまし。惜みけるを翁も※(にく)みて此(か)くもしたるなんめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「惡」。]

 其の後(の)ち、其の翁を遂に誰人(たれひと)と不知(し)らで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この老人は何者であつたか、誰に聞いてもわからなかつたが、「今昔物語」はこの話に外術(げじゆつ)といふ言葉を使つてゐる。「列仙傳」の左慈なども時にこの手段を用ゐた。曹操が大勢の臣下を連れて郊外に遊んだ時、左慈はどこからか酒と脯(ほしにく)を持つて來て百官に振舞つた。曹操その出所を怪しみ、人を派して調べさせたら、宮中の藏に入れてあつた酒も脯も悉くなくなつてゐた、といふやうな話がある。

[やぶちゃん注:「左慈」既出既注

 以上の話は調べてみたが、「列仙傳」の中には何故か見当たらない。その代わり、「搜神記」の「第一卷」のこの話ならば、よく知っている。下線部太字部分がそれである。

   *

左慈、字符放、廬江人也。少有神通。嘗在曹公座、公笑顧眾賓曰、「今日高會、珍羞略備。所少者、松江鱸魚爲膾。」。放曰、「此易得耳。」。因求銅盤貯水、以竹竿餌釣于盤中、須臾、引一鱸魚出。公大拊掌、會者皆驚。公曰、「一魚不周坐客、得兩爲佳。」。放乃復餌釣之。須臾、引出、皆三尺餘、生鮮可愛。公便自前膾之、周賜座席。公曰、「今既得鱸、恨無蜀中生薑耳。」。放曰、「亦可得也。」。公恐其近道買、因曰、「吾昔使人至蜀買錦、可敕人告吾使、使增市二端。」。人去、須臾還、得生薑。又云、「於錦肆下見公使、已敕增市二端。」。後經餘、公使還、果增二端。問之、云、「昔某月某日、見人於肆下、以公敕敕之。」。後公出近郊、士人從者百數、放乃賚酒一罌、脯一片、手自傾罌、行酒百官、百官莫不醉飽。公怪、使尋其故。行視沽酒家、昨悉亡其酒脯矣。公怒、陰欲殺放。放在公座、將收之、卻入壁中、霍然不見。乃募取之。或見于市、欲捕之、而市人皆放同形、莫知誰是。後人遇放于陽城山頭、因復逐之。遂走入羊群。公知不可得、乃令就羊中告之、曰、「曹公不復相殺、本試君術耳。今既驗、但欲與相見。」忽有一老羝、屈前兩膝、人立而言曰、「遽如許。」。人即云、「此羊是。」。競往赴之。而群羊數百、皆變爲羝、並屈前膝、人立、云、「遽如許。」。於是遂莫知所取焉。老子曰、「吾之所以爲大患者、以吾有身也、及吾無身、吾有何患哉。」。若老子之儔、可謂能無身矣。豈不遠哉也。

   *

私はこの話全体がすこぶるつきに大好きなのである。だから、ちょっと今までなく、語りたいのである。前の部分は曹操(原文は「曹公」であるが、左慈の事蹟を調べると、これは曹操であろうと比定されている)の催した宴会での魔術で、その食卓の上の銅盤に釣り糸を垂らして曹操が足りないから欲しいといった鱸(すずき)を二尾も釣りあげ、次に、その膾に添えるために、遠く離れた僻地蜀(しょく)の生姜を持ってこさせ、序でに、「蜀に錦を買いに使者として出してあるから、その者にもう二反(たん)追加せよと言いつけよ」と難題を出す。左慈は一寸出て直きに生姜を持って帰って参り、伝言を伝えたと言う。一年後に帰って来た使者は二反多く買ってきており、その訳を聴けば、使者は「ずっと以前の何月何日に店で逢った方が公の御命令だと言って、追加の二反を買わせましたので。」と答えたという中型爆弾程度の仰天エピソードである。この話(但し、「搜神記」では「沽酒家」(百人の役人が全員ぐでんぐでんに酔ってしまったというのだから、都城中の酒屋という酒屋総ての謂いであろう)で柴田の言う「宮中」ではない)の後は、而して操は、酒を妖術で全部奪い取ったこと知って怒り、危険人物として左慈を密か殺そうとして捕えんとした。ところが、彼はすっと壁の中に消えてしまい、町を捜索させれば、町中の人間がみんな左慈となってしまっていて見分けがつかないという始末。後に陽城山の辺りで彼を見かけたという情報を受け、捕縛に向かわせると、今度は左慈は羊の群れの中に逃げ込んでしまう。捕り手が「曹公は貴君を殺そうと思ってはおられません。ただ、貴君の術を試してみようというだけのお気持ちに過ぎません。今はもうそれもよぅく分りましたから、どうか、もう、ただただ、お目にかかりたいばかりで。」と下手に出て、油断させたところが、一疋の年取った牡羊が前脚を折り曲げ、人間のように立ち上がると、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と喋った。捕り手はすかさず、「あれが左慈だッツ!」と叫んで皆して競うようにその直立した牡羊のところへ走り寄ろうとしたところが、同時に数百の羊が、総て牡羊に変じて、同じように前脚を屈めながら、人のように後ろ足立ちし、それがまた同じように、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と声をそろえて喋った。そのために、結局、どれを捕縛すればよいか判らなくなってしまった、というメガトン級痛快エピソードでシメてある個人的にはこの羊のシークエンスが好きで好きでたまらないんである!。最後の評言は、老子の言葉をまず引く。「私が最も大きな患(わずら)いとしていることは、私に肉体があることである。私から肉体が無くなるに及べば、さても、私に何の憂いが残ろうものか。」。そうして、左慈もこのような境地に遠くない存在であったのではなかろうか、と締めくくっている(梗概には竹田晃氏訳の昭和三九(一九六四)年東洋文庫版「捜神記」を参考にした)。]

 

「今昔物語」の瓜の話はそれほど大規模なものではないが、多分「探神記」にある徐光の話から來てゐるのであらう。徐光は三國時代の呉に奄つて、種々の術を行つた者である。或家に瓜を乞うた時、主人が惜しんで與へなかつたので、それでは花を貰ひたいと云つた。地面に杖を立ててその花を植ゑたら、忽ち蔓が伸び、花開いて實を結ぶ。これを採つて自ら食ひ、見物人にも與へたことは「今昔物語」と同樣である。然る後商人がその瓜を採つて賣りに出たが、中身は全部空であつた。

[やぶちゃん注:以上は前の注で私が引いた「搜神記 第一卷」の左慈の話の後の三つ目にある徐光の逸話の前半部である。そこだけ引く。

   *

呉時有徐光者、嘗行術於市里。從人乞瓜、其主勿與、便從索瓣、杖地種之、俄而瓜生、蔓延、生花、成實、乃取食之、因賜觀者。鬻者反視所出賣、皆亡耗矣。

   *]

 

 この話が支那でも後になつて「聊齋志異」に入つた時は、瓜から梨に變つてゐた。卓に梨を積んで市に賣らうとする者に對し、道士が一顆を乞うたけれども、與へようとしない。道士は、一車數百顆のうちたゞ一顆を乞ふに過ぎぬのだと云ひ、傍人もまた小さいのを一つ遣つたらいゝぢやないか、と忠告したに拘らず、頑強に讓步せぬ。途に或者が錢を出して一箱を買ひ、それを道士に渡した。道士は大いに感謝の意を表し、吾々は決して物吝(をし)みはせぬ、これはあなたに上げませう、と云ふ。折角あるものを食べたらよからうと云つても、いや、私はこの種で梨を作り、それから澤山食べます、と云つて澄ましてゐる。種から芽を生じ、樹が茂つて實がなるまでの過程は、瓜の場合と變りがない。あるだけの實が衆人によつて食ひ盡されてしまふと、入念に樹を伐り倒し、枝葉の類を肩に据いで悠々と步み去つた。梨の持主も見物の中にまじつて、ぽかんとして道士の業(わざ)を見てゐたが、道士がゐなくなつてから車の上を見れば、あれだけ積んであつた梨が一つもない。そこに置いた手綱までがなくなつてゐる。憤然として迹を追はうとする時、ずたずたに切られた手綱が垣根の下に棄ててあるのが目に入つた。彼が入念に木を伐り倒すと見えたのは、この手綱を斷ち切つたのであつた。

 

 この話は徐光の話よりも「今昔物語」の方に似てゐる。梨の種を蒔く前にも、梨を食つてしまつた後にも、「今昔物語」にないものが加はつてゐるのは、あらゆる話が簡單より複雜に赴く一例と見てよからう。已に「搜神記」に徐光の話がある以上、「今昔物語」が逆輸入されて、「聊齋志異」の話になつたと解する必要もあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは「第一卷」の「種梨」。まず原文を示す。

   *

 

 種梨

 

 有郷人貨梨於市、頗甘芳、價騰貴。有道士破巾絮衣、丐於車前。郷人咄之、亦不去。郷人怒、加以叱罵。道士曰、「一車數百顆、老衲止丐其一、於居士亦無大損、何怒爲。」。觀者勸置劣者一枚令去、郷人執不肯。肆中傭保者、見喋聒不堪、遂出錢市一枚、付道士。道士拜謝、謂眾曰、「出家人不解吝惜。我有佳梨、請出供客。」。或曰、「既有之、何不自食。」。曰、「吾特需此核作種。」。於是掬梨大啗。且盡、把核於手、解肩上鑱、坎地深數寸、納之而覆以土。向市人索湯沃灌。好事者於臨路店索得沸瀋、道士接浸坎處。萬目攢視、見有勾萌出、漸大、俄成樹、枝葉扶疏;倏而花、倏而實、碩大芳馥、纍纍滿樹。道人乃即樹頭摘賜觀者、頃刻向盡。已、乃以鑱伐樹、丁丁良久、乃斷、帶葉荷肩頭、從容徐步而去。初、道士作法時、郷人亦雜眾中、引領注目、竟忘其業。道士既去、始顧車中、則梨已空矣。方悟適所俵散、皆己物也。又細視車上一靶亡、是新鑿斷者。心大憤恨。急跡之。轉過牆隅、則斷靶棄垣下、始知所伐梨本、即是物也。道士不知所在。一市粲然。

 異史氏曰、「郷人憒憒、憨狀可掬、其見笑於市人、有以哉。每見郷中稱素封者、良朋乞米則怫然、且計曰、『是數日之資也。』。或勸濟一危難、飯一煢獨、則又忿然計曰、『此十人、五人之食也。』。甚而父子兄弟、較盡錙銖。及至淫博迷心、則傾囊不吝、刀鋸臨頸、則贖命不遑。諸如此類、正不勝道、蠢爾郷人、又何足怪。」。

   *

次に例によって、遺愛の名訳柴田天馬氏のそれを示す。原文と天馬訳を見ると宵曲が説明を避けるために、論理的に翻案した箇所(瓜を貰った道士の台詞とその後)があることが判る。底本はいつもの通り、昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫版を用いた。注以下はポイント落ちで全体が二字下げである。

   *

 

 種梨(しゅり)

 

 郷(いなか)の人が梨を市で売っていた。たいそう甘くて芳(におい)がよかったから、たちまち値段が高くなった。すると破巾(やれずきん)、袈衣(やれぬのこ)の道士が、車の前に、もらいにきた。郷の人は叱ったが、道士は行かなかった。郷の人は怒って、ますますどなりつけた。すると道士は、

 「ひと車に数百顆(なんびゃく)とあるのじゃがな。老衲(ろうのう)は、その中の、たった一つをくださいというので、あんたにはたいした損でもないに、なぜ、そう怒りなさるのじゃ」

 と言った。見ている人たちが、劣者(わるいの)を一つやって行かせなさいと、すすめたけれど、郷(いなか)の人は聴かなかった。店の中にいた雇人は、やかましくて、たまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にやった。すると道士は拝謝(おじぎ)をして、みんなに向かい、

 「出家人というものは、吝惜(けち)ということを知りませんのじゃ。わしに、よい梨がありますで、それを出して、お客さんがたに、あげたいと思いますじゃ」

 と言うので、ある人が、

 「あったら、なぜ自分で食わないんだ」

 と言うと、

 「わしは特に、この核をもらって、種にしようと思いましたからじゃ」

 と言って、梨を握って食ってしまい、その種を手に取ると、肩の鑱(すき)をおろして、地面を何寸か掘り、それを入れて土をかぶせ、市の人たちに向かって、かける湯をくれと言った。すると、好事者(ものずき)が路店買って熱い湯をもとめ、道士にやった。道士は、それを受けとって、掘った処を浸(ひた)た。みんなが見つめていると、勾(まが)った萠(め)が出て来る。だんだん大きくなる。にわかに樹となる。枝葉が茂る。たちまちにして花が咲く。たちまちにして実がなる。大きい芳馥(においのい)いのが、鈴なりに、なったのである。そこで道士は樹から摘みとり、見ている人たちに分けてやった。樹上の梨は、すぐになくなった。すると道士は鑱(すき)で樹を伐るのであったが、良久(しばらく)丁々(とんとん)やっているうちに、切れたので、葉のついたまま肩に荷い、静かに行ってしまった。

 初め、道士が法術をやりだした時、郷(いなか)の人も、やはり大ぜい中にまじって、首を長くして見入っていた。商売を忘れてしまっていたのである。道士が行ってしまってから車の中を見ると、梨は、もうなくなっていたので、いま俵散(わけてやっ)たのが、みんな自分の物であったのを、やっと悟ったのである。そして、よく見ると、車の靶(かじ)が一つ無くなっている。それは新たに切りとったものであった。たいそう、くやしがって、急いで迹をつけて行った。そして牆(へい)の隅(かど)を曲がると、切りとった靶が垣下(ねがた)に棄ててあった。で、道士の伐り倒した梨の木が、すなわち、これであったことを知った。道士の行くえはわからなかった。市じゅう粲然(おおわらい)をしたのである。

 

  注

 

一 衲は、ころも、のこと。それで僧のことを、衲子という。老衲は、年をとった僧という意。

二 詩の小雅に、伐木丁々、とある。丁々は、木を伐る音である。トウトウとよむ。

三 俵散とは、分ち与うることである、俵は、分つことで、たわらというのは、和訓である。

四 粲然とは、白歯を出して大笑することで、穀梁伝に「軍人みな粲然として笑う」とある。

 

   *

一つ、柴田宵曲の梗概訳で気になることがある。それは天馬氏が「靶(かじ)」と訳されている部分を宵曲は「手綱」(たづな)と訳している点である。「彼が入念に」梨の「木を伐り倒すと見えたの」が実はふにゃふにゃの手綱の繩だったというのは、おかしくはないだろうか? そこで調べてみると、この原文にある「靶」は、第一義が確かに牛や馬の引く車の「手綱」であるが、今一つ、そうした荷車・牛馬の牽引する車に乗る際に手を懸ける「握り」・「取っ手」・「柄」の意あったのである(因みに現代中国語では専ら、あの矢を射る同心円状の「的」の意)。そこで、はた! と私は膝を打ったのである。天馬氏の「かじ」というルビが腑に落ちたのである。これは、荷馬車の馭者台のような場所に乗り込む際に手を掛けるための「木製の取っ手」か、或いは手綱を引っ掛けておいて、それを引いて牛馬に進行や停止の合図を伝える「木製の棒状の楫(かじ)」なのではあるまいか? それなら小さくても「棒状でしっかりした木」であるからである。

 なお、「聊齋志異」の訳では辛気臭くてすこぶる人気がない、最後の作者蒲松齡の評言(天馬氏は思い切って一括割愛しておられる。事実、確かにだいたいが退屈な内容で、折角の志怪本文の面白さが殺がれる)は、

――まんまと騙された田舎者の愚かな様子が手にとるように見え、市中の人々に彼が笑われたのは当然と言うべきである。こうしたことはよく見かけることで、田舎の素封家と呼ばれる人が、朋輩から米を分けて呉れ頼まれると、渋面(しぶづら)をして、「これは、それ、○○日分にも相当する大事な糧(かて)だぞ!」と升(ます)でかっちり量っていやいや出すものである。或いは、災難に遇った人を援けるようにとか、貧しい者に飯を与えるように勧めると、やはり同じようにむっとして、「これは、これ、十人分、五人分に相当する大切な食物だぞ!」と升で量ってしぶしぶ出すものである。甚だしきは父や子や兄弟に対してですら、細かく算盤(そろばん)を弾きさえする。しかし、一たび、賭博や女色に溺れると、財布の底の塵まで払っても一向に平気なほどの浪費家になってしまい、そのために青龍刀や鋸を頸に当てられても命を贖う遑(いとま)もないほどに入れ込んでしまうのである。かくの如きの話の類いは、これもまた、数え上げるに、枚挙に遑がないほどに多く、この話も、かくも、ケチな田舎者の被ったことなればこそ、今さら、怪しむには足らぬことではないか。――

といった意味であろう。訳には所持する平凡社「中国古典文学大系」四十巻「聊斎志異 上」の松枝茂夫氏の訳を参考にしつつ、オリジナルに訳した。ここには漱石の「こゝろ」の「先生」のような田舎者に対する強い嫌悪感情が窺われ、作者の何かの私的な原体験に基づくトラウマがあるような感じがする点ではすこぶる興味深いとは言える。

 

2017/03/12

柴田宵曲 續妖異博物館 「雷公」

 

 雷公

 

 元和年間に大風雨があつた時、潤州延陵縣に鬼が墮ちて來た。身の丈二丈餘り、眞黑で猪のやうな顏をしてゐる。角(つの)五六尺といふのは少し長過ぎるやうだが、一丈餘りの肉翅(にくし)があり、豹の皮の褌を腰に纏うて居つた。手足の爪は皆金色で、その聲雷の如しとある。田に働いてゐた男が驚いて役人に知らせ、その邑(むら)の令がわざわざ觀に行つて、その圖を作つたりしたが、その後また雷雨があつた際に翅を持つて飛び去つたと「錄異記」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「元和年間」唐の憲宗の治世に使用された元号。八〇六年から八二〇年。

「潤州延陵縣」現在の江蘇省丹陽市延陵鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二丈」一丈は三・〇三メートルだから、三メートル十センチ弱。

「五六尺」一・六~一・八メートル。確かに身長に比して長過ぎて邪魔だ。

「肉翅」羽毛ではない、肉の一部である翼らしい。蝙蝠の伸縮性のある飛膜のようなものか。

「錄異記」唐末から五代十国時代にかけての道士で著述をよくした杜光庭(八五〇年~九三三年)の伝奇小説集。以上は「太平廣記」の「雷一」に「錄異記」よりとして引かれた「徐誗」(これは発見した村人の名らしい)と題するもの。以下に中文サイトのものを加工して示す。

   *

唐潤州延陵縣茅山界、元和春、大風雨。墮一鬼。身二丈餘。黑色、面如猪首、角五六尺。肉翅丈餘。豹尾。又有半服絳、豹皮纏腰、手足兩爪皆金色。執赤虵。足踏之、瞪目欲食、其聲如雷。田人徐誗、忽見驚走、聞縣。尋邑令親往覩焉。因令圖寫。尋復雷雨、翼之而去。

   *]

 日本の雷はいつ頃から太鼓を背負つた鬼の形になつたか知らぬが、翅のことは見當らぬやうである。反對に支那の雷には太鼓の話がない。要するに雷の所持品が問題になるのは墮ちた場合に限るので、雲を蹈んで天上を駈け𢌞る時の事はわからぬから、一斑を以て全豹を推す類であらう。但支那の書物には雷に關する材料が少くないから、その中の變つたのを少し擧げて見る。

[やぶちゃん注:「一斑を以て全豹を推す」(いつぱんをもつてぜんぴやうをおす)は豹の毛皮には斑(まだら)の模様があるが、その斑の一つを見るだけで、それを持つ一匹の豹全体が美しいかどうかを判断するということから、物事の一部分によって全体を推量することのたとえ。「晋書」の「王献之傳」を出典とするが、ここはフラットな謂いでなく、安易にごく一部で全体の属性を推量することが危うい、と柴田は言っているのである。]

 第一に唐の沈既濟の撰んだ「雷民傳」といふものがある。雷民は即ち雷の子孫であるが、どうして雷の子孫などがこの土に生れたかといふと、昔雷雨があつて晝も冥(くら)くなつた時、陳氏の庭に大きな卵がころがつてゐた。これを何かで覆つて置いたら、數箇月たつて卵が破れ、嬰兒が出て來た。これが雷の子であつたらしく、母親の雷が戸を敲いて庭に現れ、室に入つてその子に乳を飮ませる。一年餘りしてその子がものを食べるやうになつたので、もう來なくなつたが、陳氏ではこれを己れの子として育て、義といふ名を付けた、といふのである。雷民は祖先の雷を敬ひ、每(つね)に酒肴を供へたりしてゐる。勿論後々まで雷と交渉があつて、雲霧の暗く立ちこめた夕方を、その邊の人は雷耕と呼んでゐるが、明方に野へ出て見れば、必ず何者かの耕した跡がある。これを嘉祥としてよろこぶとか、雨後に落ちてゐる黑石を雷公墨と稱し、訴訟の場合には、これを普通の墨にまぜて書けば勝つとか、自ら他と異なる風習があつた。或時大雷雨の際、空中に豕首鱗身の者が現れたのを、刀を揮つて斬つたことがあり、その者は地に落ちて血を流したが、雷鳴は益々激しく、夕方に至り途に雲を凌いで見えなくなつた。その後刀を揮つた者の家は火災が頻りに起るので、雷民の父兄から擯斥されて追ひ出されてしまつた。已むを得ず山へ行つて家を造つても、火災はこゝまで追駈けて來る。崖に穴を穿つて住むやうにしたら漸く止んだ。雷民が雷の圖を作る場合には、必ず豕首鱗身に描くさうである。「錄異記」のも猪のやうな顏をしてゐたといふから、支那の雷公は日本のと大分風采が違ふらしい。

[やぶちゃん注:「沈既濟」(しんきさい 七五〇年?~八〇〇年?)は中唐の伝奇作家・歴史家。呉県(江蘇省蘇州)の生まれで、学者として知られ、徳宗の時に宰相楊炎の推薦によって史官となった。七八一年、楊炎の失脚によって処州(浙江省麗水)司戸参軍として左遷されたものの、数年後に楊炎の政敵が失脚、再び都に戻って礼部員外郎となっている。彼の作品では「枕中記」が最も人口に膾炙している。私の黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他をお読み戴きたい。

「雷民傳」私は不学にして知らぬ。ただ、極めて酷似した内容のものを「太平廣記」の「雷二」の「陳義」に見出せる(「投荒雜錄」なるものを出典とすると最後にあるが、同話である)。前の仕儀で示す。

   *

唐羅州之南二百里、至雷州、爲海康郡。雷之南瀕大海。郡葢因多雷而名焉。其聲恒如在簷字上。雷之北高、亦多雷、聲如在尋常之外。其事雷、畏敬甚謹。每具酒殽奠焉。有以彘肉雜魚食者、霹靂輒至。南中有木名曰棹。以煮汁漬梅李、俗呼爲棹汁。雜彘肉食者、霹靂亦至。犯必響應。牙門將陳義傳云、「義卽雷之諸孫。昔陳氏因雷雨晝冥、庭中得大卵、覆之數月、卵破、有嬰兒出焉。目後日有雷扣擊庭、入其室中、就於兒所、似若乳哺者。歳餘。兒能食、乃不復至、遂以爲己子。義即卵中兒也。又云、「嘗有雷民、畜畋犬、其耳十二。每將獵、必笞犬、以耳動爲獲數。未嘗偕。動。一日、諸耳畢動。既獵、不復逐獸。至海傍測中嘷鳴。郡人視之。得。十二大卵以歸、置於室中。後忽風雨、若出自室。既霽就視、卵破而遺甲存焉。後郡人分其卵甲、歳時祀奠、至今以獲得遺甲爲豪族。或陰冥雲霧之夕、郡人呼爲雷耕。曉祝野中。果有墾跡。有是乃爲嘉祥。又時有雷火發於野中、每雨霽、得黑石、或圓或方、號雷公墨。凡訟者投牒、必以雷墨雜常墨書之爲利。人或有疾、即掃虛室、設酒食。鼓吹旛葢。迎雷於數十里外。既歸。屠牛彘以祭、因置其門。隣里不敢輒入。有誤犯者爲唐突、大不敬、出猪牛以謝之。三日又送、如初禮。又云、「嘗有雷民、因大雷電、空中有物、豕首鱗身、狀甚異。民揮刀以斬、其物踣地、血流道中、而震雷益厲。其夕凌空而去。自後揮刀民居室、頻爲天火所災。雖逃去、輒如故。父兄遂擯出、乃依山結廬以自處、災復隨之。因穴崖而居、災方止。或云、其刀尚存。雷民圖雷以祀者、皆豕首鱗身也。

   *

冒頭の「雷州」は恐らく現在の広東省湛江市雷州市であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「豕首鱗身」「ししゆりんしん」と読んでおく。「豕」は訓「いのこ」で猪或いは豚のこと。まあここはイノシシとしておこう。]

 卵から生れた雷の子が陳義になつたのは、いづれ大昔の事に相違ないが、もう少し後になつて、雷州の雷民以外にも雷と交渉を生じた話がある。或村の老婆の娘が田圃で食事をしてゐた時、忽ち眞暗になつて大雨が降り來り、晴れたと思つたら、娘はもうゐなかつた。老婆は號哭して方々尋ね步いたけれど、その行方は皆目わからない。一箇月餘りの後、また天地晦冥になつて一しきり強い雨が降つたが、霽れてから庭を見ると、種々の御馳走を列べた席が設けられ、行方不明になつた娘が盛裝してそこに現れた。老婆が驚喜していろいろ尋ねるのに對し、私は今雷師の妻となつて、これから其方へ行かうと思つてゐる、親族が非常に多く、盛大な婚姻の式を擧げたが、一度人間に逢つて來いと云つて返してくれた、今度行けば再び歸ることはありますまい、と云つた。老婆がお婿さんに逢ふことは出來ぬかと聞いたら、それはむづかしいといふ答へであつた。幾晩か泊つた末、一夕風雨晦冥の事があつて、それきりすべての消息は絶えてしまつた(稽神錄)。――老婆と一緒に暮らす娘が突然姿をくらまし、やがて盛裝して歸つて結婚したことを告げ、數日にして去つてしまふなどは、現代にも珍しい話ではない。その去來に必ず風雨を伴ふに至つては、雷族と結婚した者に限られた現象であらう。

[やぶちゃん注:「號哭」「がうこく(ごうこく)」大声をあげて泣き叫ぶこと。「号泣」「慟哭」に同じい。

「稽神錄」五代十国時代から北宋にかけての政治家で学者・書家であった徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年:篆書によく通じ、篆書を中心とした「説文解字」の校訂者として知られる)の撰になる志怪小説集。以上の話は「第一卷」の「番禺村女」(番禺村(ばんぐうそん)の女(むすめ))という条である。同仕儀で示す。

   *

庚申歳【案、庚申當宋建隆元年。】番禺村有老姥與其女餉田。忽雲雨晦冥、及霽、乃失其女。姥號哭、求訪、鄰里相與尋之不能得。後月餘、復云雨晝晦、及霽、而庭中陳列筵席、有鹿脯、乾魚、果實、酒醢、甚豐腆。其女盛服而至。姥驚喜持之、女自言、爲雷師所娶、將至一石室中、親族甚眾、婚姻之禮、一同人間。今使歸返、而他日不可再歸矣。姥問、「雷郎可得見耶。」。曰、「不可得。」。字留數宿、一夕復風雨晦冥、遂不可見矣。

   *

割注の「建隆元年」が正しければ(事実、干支は庚申)、ユリウス暦九六〇年の出来事である。]

 雷車を推すといふ話も日本になくして支那にある話の一つである。「搜神後記」に周といふ人が都に出る途中、日暮れの路傍に小さな新しい家があり、一人の女が門に立つて居つたが、周を見て、もう日が暮れますと云ふ。この家に一夜の宿を乞ふと、夜の八時頃に外から子供の聲で、その女の名を呼び、雷車を推せといふ命令だと傳へた。女は周に挨拶して出て行つたが、夜が明けて見たら家も何もなく、新しい塚があるばかりであつた。この塚の主である女は何者か、何の因緣で雷車を推さなければならぬか、「搜神後記」はこれらに就いて何も書いてない。雷車なるものがどこに在つて、これを推すとどうなるのか、さつばりわからぬのである。

[やぶちゃん注:「搜神後記」四世紀、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」を後補する書で、かの「桃花源記」が採録されていることから東晋の陶淵明の著作とされるが、仮託と考えてよい。但し、六朝志怪の面目は備えており、同時代の作であることは疑いがない。「第五卷」の以下。同前の仕儀で示す。

   *

永和中、義興人姓周、出都、乘馬、從兩人行。未至村、日暮。道邊有一新草小屋、一女子出門、年可十六七、姿容端正、衣服鮮潔。望見周過、謂曰、「日已向暮、前村尚遠。臨賀詎得至。」。周便求寄宿。此女爲燃火作食。向一更中、聞外有小兒喚阿香聲、女應、「諾。」。尋云、「官喚汝推雷車。」女乃辭行、云、「今有事、當去。」。夜遂大雷雨。向曉、女還。周既上馬、看昨所宿處、止見一新塚、塚口有馬尿及餘草。周甚驚惋。後五年、果作臨賀太守。

   *

「永和」これは東晋の穆帝の治世で使用された元号で三四五年から三五六年。言っておくと、高校生に中島敦の「山月記」の原典「人虎傳」などを読ませると、最後に高い地位に就いたとあるのだから、その怪異体験が出世を予兆しているのだなどと言った生徒がいたが、これは当時の志怪や伝奇の常套的な形式、マニエリスムとしての額縁なのであって、官職就任と怪異体験には直接の因果関係はない。]

 元和年間に建州の山寺に一宿した者が夜半に目をさますと、門外がびどくやかましい。窓から覗いて見たら、數人の者が斧を揮つて雷車を造りつゝあつた。そのうちに肌寒くなつて嚏をしたら、あたりは眞暗になり、その人は兩眼とも盲になつてしまつたと「酉陽難俎」にある。人間の見るべからざるものを窺つた爲、かういふ祟りを受けたらしい。これなどは作業中を一瞥したに過ぎぬが、「廣要記」にある話は暴雨の際に雲中から落ちて來たものがある。村女九人が一つの車を護つて居り、王老の女阿推――亡くなつてから半歳ばかりたつた女もその中に在つた。王は悲喜交々到るといふ有樣で、母親や妹も出て來て、話は容易に盡くべくもなかつたが、仲間が頻りに促すので、また車に戾つた。車が地を離れるに從つて雲がこれを蔽ひ、次いで雷聲が起る。はじめて雷車たることを知つたとある。

こゝに村女とあり、半歳前に亡くなつたともあるので、「搜神後記」の記事と結び付きさうな氣もする。

[やぶちゃん注:「建州」現在の福建省建甌(けんおう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「嚏」「くさめ」。くしゃみ。

 以上の「酉陽雜俎」は「卷八」の「雷」の以下。

   *

元和末、止建州山寺中。夜中、覺門外喧鬧、因潛於窗欞中觀之。見數人運斤造雷車、如圖畫者。久之、一嚏氣、忽斗暗、其人兩目遂昏焉。

   *

「廣要記」不詳。されば、原文も探り得ない。]

 さうかと思ふと、またこんな話もある。北都介休縣の民が晉祠の軒に宿つたところ、夜半に門を敲いて、介休王、暫く霹靂車をお貸し下さい、これこれの日に介休の麥を收めてしまひたいのです、といふ聲が聞える。暫くして人が出て來て、霹靂車は今忙しいから貸すことは出來ない、といふ大王の話を傳へた。けれども借りに來た方はなかなか引き下らず、繰り返して歎願するので、遂に人が五六人、燭を秉(と)つて廟の後から現れた。介山の使者は馬に乘つたまゝ門を入り、旗のやうなものを授かつた。旗はすべて十八枚あつて、一枚每に稻妻のやうな光りを發する。かういふ情景を目擊した男は急いで家に歸り、麥は早く刈り取つた方がいゝ、今に大風雨が來るといふことを近村に觸れ𢌞つたが、誰も信ずる者がない。自分のところだけさつさと麥を刈り收め、親戚等と共に高い丘の方へ避難してゐると、果してその日の午頃に至り、介山上に起つた雲氣が忽ちに天を蔽ひ、すさまじい大雷雨になつた。千餘頃(けい)の麥は全くめちやめちやになり、數村の民は妖としてこれを訴へたと「酉陽雜俎」に見えてゐる。霹靂車も雷車も大体似たものであらうが、愈々出でて愈々わからなくなつて來る。

[やぶちゃん注:「北都」唐代の太原府のこと。以下の注参照。

「介休縣」東洋文庫版今村与志雄氏の注によれば山西省介休県とする。現在の山西省晋中市介休市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「晉祠」(しんし)は同じく今村氏の注によれば、『山西省太原[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の西南』の『縣甕(けんおう)山麓にある。晋水の水源』で『周の武王の弟であり、唐に封ぜられた唐叔虞(しゅくぐ)を祭祀する』とある。

「千餘頃」「頃」(けい)は中国の面積単位で「一頃」は 約 66,667 平方メートルであるから、「千頃」で六十七平方キロメートル。因みに八丈島は七十平方キロメートルである。

 以上は「酉陽雜俎卷八」の「雷」の以下。同前。

   *

李墉在北都、介休縣百姓送解牒、夜止晉祠宇下。夜半、有人叩門云、「介休王暫借霹靂車、某日至介休收麥。」良久、有人應曰、「大王傳語、霹靂車正忙、不及借。」。其人再三借之、遂見五六人秉燭、自廟後出、介休使者亦自門騎而入。數人共持一物如幢扛、上環綴旗幡、授與騎者曰、「可點領。」。騎者卽數其幡、凡十八葉、每葉有光如電起。百姓遍報鄰村、令速收麥、將有大風雨、村人悉不信、乃自收刈。至其日、百姓率親情據高阜、候天色及午、介山上有黑雲氣如窯煙、斯須蔽天、注雨如綆。風吼雷震、凡損麥千餘頃。數村以百姓爲妖訟之、工部員外郎張周封親睹其推案。

   *]

「聊齋志異」の「雷曹」は樂雲鶴なる者が壯士に伴はれて天界に遊ぶ話である。その中に二頭の龍の駕車に乘り、貯へた水を雲間に注ぐところがある。壯士は卽ち雷曹で、三年間地上に謫せられ、今その期限が滿ちたものとわかつた。別るゝに臨み、駕車の長い繩につかまらせ、これで下りればいゝと云ふ。樂頗る危ぶんだが、雷曹笑つて心配はないと云ふ。その言に從つたら、忽ちにして地に達し、然もそこは自分の村の外れであつた。繩は次第に縮まつて雲中に收まり、また見えなくなつた。久しい旱(ひで)りの頃で、十里内外のところはろくに雨が降らなかつたが、樂の村だけは彼が天上から注いだ水で、溝が一杯になつてゐた。――この話は童話的要素があつて甚だ面白い。樂が天上で袖に入れて來た星屑を机の上に置くと、晝は黑い石のやうだが、夜に入れば光明煥然として四壁を照らすなどといふのも、童話的要素の附錄と見るべきものである。

[やぶちゃん注:原文は以下。同前。

   *

樂雲鶴、夏平子、二人少同里、長同齋、相交莫逆。夏少慧、十歳知名。樂虛心事之、夏亦相規不勌、樂文思日進、由是名並著。而潦倒場屋、戰輒北。無何、夏遘疫卒、家貧不能葬、樂鋭身自任之。遺襁褓子及未亡人、樂以時恤諸其家、每得升斗、必析而二之、夏妻子賴以活。於是士大夫益賢樂。樂恆産無多、又代夏生憂内顧、家計日蹙。乃嘆曰、「文如平子、尚碌碌以沒、而況於我。人生富貴須及時、戚戚終歳、恐先狗馬填溝壑、負此生矣、不如早自圖也。」。於是去讀而賈。操業半年、家貲小泰。

一日、客金陵、休於旅舍。見一人頎然而長、筋骨隆起、彷徨座側、色黯淡、有戚容。樂問、「欲得食耶。」其人亦不語。樂推食食之、則以手掬啗、頃刻已盡。樂又益以兼人之饌、食復盡。遂命主人割豚肩、堆以蒸餅、又盡數人之餐。始果腹而謝曰、「三年以來、未嘗如此飫飽。」。樂曰、「君固壯士、何飄泊若此。」。曰、「罪嬰天譴、不可説也。」。問其里居、曰、「陸無屋、水無舟、朝村而暮郭也。」。樂整裝欲行、其人相從、戀戀不去。樂辭之。告曰、「君有大難、吾不忍忘一飯之德。」。樂異之、遂與偕行。途中曳與同餐。辭曰、「我終歳僅數餐耳。」。益奇之。次日、渡江、風濤暴作、估舟盡覆、樂與其人悉沒江中。俄風定、其人負樂踏波出、登客舟、又破浪去、少時、挽一船至、扶樂入、囑樂臥守、復躍入江、以兩臂夾貨出、擲舟中、又入之、數入數出、列貨滿舟。樂謝曰、「君生我亦良足矣、敢望珠還哉。」。檢視貨財、並無亡失。益喜、驚爲神人、放舟欲行。其人告退、樂苦留之、遂與共濟。樂笑云、「此一厄也、止失一金簪耳。」。其人欲復尋之。樂方勸止、已投水中而沒。驚愕良久。忽見含笑而出、以簪授樂曰、「幸不辱命。」江上人罔不駭異。

樂與歸、寢處共之。每十數日始一食、食則啖嚼無算。一日、又言別、樂固挽之。適晝晦欲雨、聞雷聲。樂曰、「雲間不知何狀。雷又是何物。安得至天上視之、此疑乃可解。」。其人笑曰、「君欲作雲中遊耶。」。少時、樂倦甚、伏榻假寐。既醒、覺身搖搖然、不似榻上、開目、則在雲氣中、周身如絮。驚而起、暈如舟上。踏之、耎無地。仰視星斗、在眉目間。遂疑是夢。細視星嵌天上、如老蓮實之在蓬也、大者如甕、次如瓿、小如盎盂。以手撼之、大者堅不可動、小星動搖、似可摘而下者。遂摘其一、藏袖中。撥雲下視、則銀海蒼茫、見城郭如豆。愕然自念、設一脱足、此身何可復問。俄見二龍夭矯、駕縵車來。尾一掉、如鳴牛鞭。車上有器、圍皆數丈、貯水滿之。有數十人、以器掬水、遍灑雲間。忽見樂、共怪之。樂審所與壯士在焉、語衆云、「是吾友也。」。因取一器授樂、令灑。時苦旱、樂接器排雲、約望故、盡情傾注。未幾、謂樂曰、「我本雷曹、前誤行雨、罰謫三載、今天限已滿、請從此別。」。乃以駕車之繩萬尺擲前、使握端縋下。樂危之。其人笑言、「不妨。」樂如其言、飀飀然瞬息及地。視之、則墮立村外。繩漸收入雲中、不可見矣。

時久旱、十里外、雨僅盈指、獨樂里溝澮皆滿。歸探袖中、摘星仍在。出置案上、黯黝如石、入夜、則光明煥發、映照四壁。益寶之、什襲而藏。每有佳客、出以照飲。正視之、則條條射目。一夜、妻坐對握髮、忽見星光漸小如螢、流動橫飛。妻方怪咤、已入口中、咯之不出、竟已下咽。愕奔告樂、樂亦奇之。既寢、夢夏平子來、曰、「我少微星也。君之惠好、在中不忘。又蒙自天上攜歸、可云有緣。今爲君嗣、以報大德」。樂三十無子、得夢甚喜。自是妻果娠、及臨蓐、光輝滿室、如星在几上時、因名「星兒」。機警非常、十六歳、及進士第。

異史氏曰、「樂子文章名一世、忽覺蒼蒼之位置我者不在是、遂棄毛錐如脱屣、此與燕頷投筆者、何以少異。至雷曹感一飯之德、少微酬良友之知、豈神人之私報恩施哉、乃造物之公報賢豪耳。」。

   *

柴田天馬氏の訳文「雷曹」を先の角川文庫版で示す。

   *

 

 雷曹(らいそう)

 

 楽雲鶴(らくうんかく)と夏平子(かへいし)の二人は、小さいころから同じ里(さと)に住み、大きくなっては同じ斎(しょさい)で勉強する、莫逆(したしい)い交わりであった。

夏は小さいときから賢く、十歳になると、もう名を知られていたので、楽は、すなおな気持ちで、彼を、うやまい、夏も、たがい規(ただ)しあって、倦まず、はげましてくれる。それで楽の学問も日に日に進歩し、夏と碧で、名亮られるようになったのだが、二人とも試験運が潦倒(わる)くて戦輙北(らくだい)した。

 まもなく、夏は病気にかかって死んだが、貧乏で葬ることができないのを、楽は進んで引き受け、あと残った襁褓子(あかご)と未亡人に対し、ときどきその家に行って恤(めぎ)む。一升でも一斗でも、手に入るごとに、きっと二つに分けてあたえる。それを頼(たより)に、夏の妻子は生きてゆくのだった。

 そんなことから、士大夫(がくしゃ)たちは、ますます楽を賢良な人だといって尊敬したのであるが、もともと楽の財産は多くもなかったのに、夏に代わって暮らしむきの心配をしてやるので、家計が日に日にに苦しくなってきた。

 彼は嘆息した、

 「平子ほどの文章家でさえ、つまらなく死んでしまうのに、おれなんかが、どうなるものか。人生富貴つかむのは時がたいせつだ。年じゅう、ぐずぐず心配しているだけでは、犬や馬より先に、のたれ死にをして、この生命にそむくことになるだろうから、早く考えたほうがよい」

 彼は読書をやめて賈(あきんど)なり、半年ほど、あきないをして、いくらか楽になったのである。

 ある日、金陵に旅をして旅舎(はたご)に休んでいると、背の高い、筋骨の隆起(もりあが)った人が、そばを、うろうろしているのを見た。薄黒い顔色をして、悲しそうなようすなので、

 「食いたいのですか」

 と聞いたが、黙っているのだ。楽が食いものを推しやって、お食べなさいと言うと、その人は手ですくって、ぺろりとたいらげた。楽は、また二人まえの食事をやったが、また、すぐに食ってしまった。で、楽は、あるじに言いつけ、豚の肩肉を切り、蒸餅を、つみあげて出させた。それは何人まえかの食事なのだが、その人は、また、あまさず食ってしまい、やっと果腹(まんぷく)したらしく、

 「三年このかた、こんなに食い飽きたことはありません」

 と礼を言った。楽が、

 「きみのような、りっぱな男が、どうして、こんなに、うろついてるのかね」

 と聞くと、

 「天罰を受けているのです。話せません」

 と言った。楽が、また里居(すまい)をたずねると、

 「陸に屋(いえ)なく、水に舟なしで、朝は村、暮(より)は郭(いしがき)です」

 と言った。やがて楽は支度をして旅舎を出たが、その人は、なごり惜しげに、ついてくるので、楽は、来るなと、ことわった。

 すると、

 「きみには、大難がある。ぼくは、一飯の親切を忘れることができない。きみの大難を黙って見てはいられないのだ」

 と言った。楽は、ふしぎ思って、とうとう、いっしょに行くことにしたが、途中で食事をともにしようと思って引っぱると、

 「ぼくは、一年に数(なんど)しか食わないのです」

 と言ってことわるので、楽は、ますます、ふしぎに思うのだった。

 次の日、長江を渡るときにわかに風波が起こって、幾そうかの估舟(あきんどぶね)は、ことごとく、くつがえり、楽も、その人も、ともに江中に沈んだが、やがて風が静まると、その人は楽を負い、波を踏んで出てきて、楽を、その船に助け入れ、臥(ね)て番をしていろ、と言いつけてから、また江中に飛びこんだ。どうするのかと思っているうちに、両手に貨(しなもの)を夾(はさ)んで出てきて、舟の中に投げ入れ、また水にはいったのである。何度かはいって、何度か出た。品物は舟いっぱいに並べられた。

 楽は、感謝して、

  「きみは、ぼくを生かしてくれた。それで充分だ。品物の、かえることまで望みはしないよ」

 と言いながら調べて見た。品物は少しもなくなっていないのだ。楽は、ますます驚いて、神人(かみ)だと思ったのである。やがて、舟を出して行こうとすると、その人は別れを告げるので、楽は苦(しい)て引きとめ、とうとういっしょ江を渡りながら、楽はにこにこして、

 「今度の災難は、金の簪を一本失っただけで、すんだ。ありがとう」

 と言った。すると、その人は、また探そうとする。楽が、とめようとしたときには、もう水中に飛びこんで見えなかった。楽は驚いて、しばらく水面を見ていると、たちまちにこにこしながら水から出てきて、簪を楽にわたし、

 「お望みどおりに、うまく探せた」

 と言うのだった。江上の人たちで、ふしぎがらぬ者はなかった。

 楽はその人といっしょに帰り、寝室をともにして暮らすのであったが、彼の食事は十幾日ごとに、やっと一度で、食うとなると、数えきれぬはど食うのである。

 ある日、また別れると言うのを、楽は固(しい)て引きとめたが、それは、ちょうど、雨の降りそうな暗い昼で雷(かみなり)の音が聞こえていたから、楽は、

 「雲のなかは、どんなようすだろう。雷とは、またどんな物かな。なんとかして天上に行ってみることができたら、疑いが解けるのだが」

 と言った。すると、その人は、

 「きみは、雲中の遊びを、しようというのか」

 と言って笑った。

 しばらくすると、楽は、ひどく、だるくなったので、榻(ねだい)に俯(うつぶ)して、うたた寝をした。やがて目がさめたが、身体が、ゆらゆらして、榻の上のようではない。目をあけると、雲の中にいて、まわりは絮(わた)のようである。驚いて立ちあがると、舟の上みたいに目まいがするし、踏んでみても、やわらかで、地めんはないのだ。上を見ると、星が目の前にあるので、夢だと思った。よく見れば、星は、蓬(つと[やぶちゃん注:花托(かたく)の意。])のなかにある蓮の実のように、雲の中に嵌(は)めこまれていた。大きいのは甕(かめ)ぐらい、次は瓿(つぼ)ぐらいである。手でゆすぶってみた。大きいのは堅くて動かなかったが、小さいいのは、ぐらぐらして、摘み取れるようだったから、その一つを摘んで袖の中にしまった。

 雲を押しわけて見おろすと、蒼茫(はてのない)銀海のようで、城郭が豆ぐらいに見える。楽は驚いて、もし足をすべらせたら、自分は、どうなるかしれないと思うのだった。

 と、二つの竜が、夭矯(はね)ながら、幌車(ほろぐるま)を引いてきた。尾を振るたびに、牛鞭を鳴らすような音が響くのである。

 車の上の器(うつわ)は、すべて、周囲が何丈もある大きなもので、水が満々と貯えてあった。数十人が器を持って水をすくい、まんべんなく雲なかに撒いていたが、ふと楽を見つけて、みんな、ひどく怪しむのであった。楽が、仲間を、よく見ると、その中に大食の壮士がいた。彼は、みんなに向かい、

 「これは、わしの友だちだ」

 と言い、一つの器を楽にわたして水を撒かせた。そのときは、ひどい旱(ひでり)が続いていたから、楽は器を受け取って雲を排(ひら)き、故郷の方を望んで、こころ尽くしの水をそそいだのである。

 まもなく、彼は楽に向かい、

 「わしは、もとは雷曹(かみなり)だが、あやまって雨を降らした罰で、三年の間、下界に謫(や)られ、今、やっと期限が満ちたのだ。これで別れよう」

 と言うと、車につけた一万尺もあろうかと思われる、長い繩の一端をつかみ、それにすがって、おりろと言った。楽は、あやぶんだが、彼が笑いながら、

 「だいじょうぶだ」

 と言うので、言われたとおりにした。するすると、またたくうちに地上についた。見ると、村はずれに落ちて立っているのだ。繩は、だんだん雲の中におさまって見えなくなったのである。

 そのときは長い旱が続いていて、せっかくの雨も、十里以外は、わずかに指のかくれるほどであったが、楽の里(むら)だけは、溝や小川が満ちあふれるほどに降った。

 家に帰って、たもとを探ると、摘んできた星は、そのままあった。たもとから出して机の上に置いたが、昼は黒ずんで石のように見えながら、夜になれば、光り輝いて、あたりを照らすのである。楽は、ますます宝として、大事にしまっておき、佳(よ)い客があるごとに、それを出して酒席を照らしたが、まともに見つめると、光のすじが目を射るようであった。

 ある夜、妻は、星と向きあって髪を結っていた。と星の光は、だんだん螢のように小さくなって、すっと流れた。妻が怪しんで、あっと言ったときには、もう口の中にはいっていた。吐きだそうとしたが、出なかった。とうとう喉を通ってしまった。

 妻は驚いて、楽のところに走ってゆき、そのことを告げたので、楽も、ふしぎなことだと思った。やがて寝てから、夢に夏平子が来て、

 「ぼくは少微星なのだ。きみの親切は、こころの中で忘れるひまもない。それに、天上から連れ帰られたのは、縁があるというものだから、きみの嗣(よつぎ)になって大恩に報いたいと思う」

 と言った。楽は三十になって子がなかったから、夢をみて、ひどく喜んだ。

 妻ははたして娠(みおも)になって、子どもの生まれる時には、光が部屋じゅうに輝き、星が机の上にあるときのようであった。で、星児(せいじ)と名づけたが、非常に賢く、十六歳で進士の試験に及第したのである。

   *

流石、天馬空を行くが如き名訳と存ずる。]

 狂言の「針立雷」は田舍𢌞りの藪醫者が天上から墜落した雷を療治する話である。雷は腰の痛みもすつかり癒えて天上するまでになつたが、醫者に拂ふ藥代の持ち合せがない。水損旱損のないやうにしてやる約束で天上してしまふ。日本にも雷に關する話は大分あるが、支那のやうに人間と交渉を生ずる話はあまり見當らぬ。「針立雷」などはその少い中の一つとして、記憶して置いてよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:「針立雷」「はりだていかづち」と読む。個人ブログ「クリコの観能日記」ので黒川能のそれを画像附きで楽しめる。]

 支那の雷にはかういふ卑小なのは少いが、「子不語」中の一話などは、こゝに擧げて置くのに恰好のものかも知れぬ。杭州に萬姓の富家があり、大厦高樓をつらねて居つたところ、一日雷が落ちた。恰も萬の家に産婦があつたので、その穢(けがれ)に觸れた雷公は昇天出來なくなり、已むを得ず高い木の上に蹲つて居つた。「子不語」の傳へる雷公の風采は、雞の如き爪、尖つた嘴で、手に錐を持つてゐるといふのだから、日本のとは大分違ふ。下から見てゐる連中には何者とも知れなかつたが、漸くにして雷公とわかつたので、萬は笑談半分に、どうだ、誰かあの錐を取つて來る者はないか、賞銀は十兩出すぞ、と云ひ出した。皆默つて尻込みする中に、聲に應じて現れたのは瓦屋であつた。彼は日暮れの暗がりに紛れて攀ぢ登り、雷公が睡つてゐるのに乘じ、その錐を偸んで來た。萬が手に取つて見ると、鐡でもなければ石でもない。まぶしいやうに光つて居り、長さは七寸ばかりで、先が甚だ鋭く、石を刺すことが泥の如くである。折角手に入れたものの、人間には使ひ途がないので、いつそ刀に作り直したらよからうといふことになり、鐡工に命じて火に入れさせたら、忽ち一陣の靑姻と化し去つた。俗に天火は人火を得て化すといふ、信(まこと)に然りと書いてある。

[やぶちゃん注:これは「小不語」の「卷八」にある「雷錐」である。以下に以前の仕儀で示す。

   *

杭州孩兒巷有萬姓甚富、高房大廈。一日、雷擊怪、過婦房、受汙不能上天、蹲於園中高樹之頂、雞爪尖嘴、手持一錐。人初見、不知爲何物、久而不去、知是雷公。萬戲諭家人曰、「有能得雷公手中錐者、賞銀十兩。」。眾奴嘿然、俱稱不敢、一瓦匠某應聲去。先取高梯置牆側、日西落、乘黑而上。雷公方睡、匠竟取其錐下。主人視之、非鐵非石、光可照人、重五兩、長七寸、鋒棱甚利、刺石如泥。苦無所用、乃喚鐵工至、命改一刀、以便佩帶。方下火、化一陣靑煙、杳然去矣。俗云、「天火得人火而化。」。信然。

   *

うむ! これは確かに能狂言「針立雷」の真正大陸版の趣きがある!]

 雷の奇譚を列擧すれば容易に盡きぬであらう。もう一つ「子不語」にあるのは、黃氏の老婆が獨り室内に坐つてゐると、突然劇しい風雨になり、霹靂一聲と同時に、左側の壁の下に置かれた器物が室中に移動し、壁を離るゝこと四五尺のところに止まつた。この壁を塗つた白い壁土は、厚さ三分ぐらゐに過ぎなかつたが、これもまた壁を離れ、四五尺ばかりの距離に直立し、寸毫の壞れたところもなかつた。老婆は驚きの餘り氣絶し、暫くして蘇つたが、何に擊たれたかわからず、家の中を點檢しても、その外にこれといふ被害はなかつた。

[やぶちゃん注:これは「續不子語」の「卷九」にある「雷異二則」の最初の事例である。例の仕儀で以下に示す。

   *

滁州某村有黃氏嫗獨坐室中、午後風雨暴至。忽霹靂一聲、左壁下諸器物皆移置室中、離壁四五尺、壁上白泥厚不過三分、亦離壁四五尺、植立如堵、絲毫不損。嫗驚樸、良久乃蘇、不知所擊何物,其家亦無他異。

   *]

 かういふ話は雷公が姿を現すものよりも或意味に於て恐ろしい。「劇談錄」にも元積といふ人の別莊が出來上つたばかりの時、疾風甚雨があり、油を入れた甕が六つ七つ、霹靂一聲と共に梁上に整列し、油は一滴もこぼれなかつた話がある。その年主人が亡くなつたといふのを見れば、これは明かに凶兆であつた。

[やぶちゃん注:「劇談錄」唐の康餅の伝奇小説集。これは「太平廣記」の「卷第三百九十四 雷二」に「劇談錄」からとして、以下のように出る。中文サイトから今回は校注部(丸括弧部分)を含め、例の仕儀で引く。それだと「元積」はかの知られた中唐の詩人元稹である可能性があるか?

   *

唐元稹(「稹」原作「積」、據明抄本改)鎮江夏。襄州賈墅(明抄本「墅」作「塹」)有別業。構堂、架梁才畢、疾風甚雨。時各輸油六七甕、忽震一聲、甕悉列於樑上、都無滴汙於外。是年稹卒。

   *

2017/03/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「はしがき」+「月の話」

 

 績妖異博物館

 

 

 はしがき

 

 笑談から駒が出た形で「績妖異博物館」が出版される運びになつた。然も今度は怪談季節の眞最中である。前卷の終りにあつた靑蛭房主人の呪文が、どうやら若干の效力を發揮したらしく思はれる。

 由來續篇と銘打つたものに、面白いもののあつたためしがない。いつそ別の書名にしたらどうだといふ説も出たが、さうむやみにいゝ名前が案出される筈もなし、書名は内容を左右するに足るものでもないから、續篇は續篇らしく面白くない所以を明かにした方がよからうといふことで、既定方針通り進むことにした。

 尤も續篇と云つたところで、話の續きでないのは勿論、話の方角も大分變つてゐる。前卷にも支那の話を引合に出さぬことはなかつたが、今度はその色彩がよほど強く、時には支那を主にしたのではないかと思はれる箇所が出て來た。日本の話にしても、前卷の主流であつた江戸時代より、少し遡つたところに話題を求めた。もし「續妖異博物館」が「妖異博物館」に比して何か違ふところがあるとすれば、先づこの點に歸すべきであらう。またその程度の變化もないとしたら、わざわざ二册の書物を作る必要がないことになる。

 支那の志怪と日本の妖異譚との關係は、支那料理と日本料理のやうなものである。似て意ゐるやうで違ひ、違ふかと思へば似てゐる。昔からその間に交流のあつた消息は、貧弱なこの博物館の陳列だけ見ても、或點までは看取し得るかも知れぬ。

[やぶちゃん注:本「續 妖異博物館」は、電子化注済みの青蛙房(せいあぼう)から先に刊行した「妖異博物館」(昭和三八(一九六三)年一月二十五日刊)の続編として、同じ青蛙房から、丁度、半年後の同年七月二十五日刊行された

「靑蛭房主人」昭和三〇(一九五五)年に出版社青蛙房を創業した岡本経一(きょういち 明治四二(一九〇九)年~平成二二(二〇一〇)年)。岡山県生まれで、岡本綺堂の書生となり、後に彼の養子になった。正編で特異的にしばしば近代物に岡本綺堂の作品を挙げていたのには、柴田の、養子であった彼へのサーヴィスが見て取れるのである。

「呪文」岡本氏は著作権が存続しているので、「あとがき」(『昭和三十八年初春』と記す)の全文を示すことは出来ないが、恐らくはその最終段落の頭にある次の一節『それにしても、今どきこんな本を書く奴も出す奴もないだろうと、著者と出版者は相かえりみて苦笑した。柴田さんは書いてしまうと、後は一向に氣にしない人である。わたしも本造りには夢中になるが、發賣してしまうと賣行きは氣にしない方である。しかし、「妖異博物館」と大きく外題を据えて、續編、續々編を狙ったのは我ながら慾がふかい。願わくは、天狗や河童や、その他もろもろのお化けの眷族の御加護をもって讀者諸賢にエレキが通じますように』を指しているものと思われる(この後のコーダでは『スーダラ大將』『お呼びでない?』『ハイ、それまでよ』『無責任時代』という、辛うじて私の世代以上で理解出来るチャチャを入れて擱筆しておられる。当該出版物の出版社社長の「あとがき」自体が珍しい上に、なかなか面白い内容で、電子化出来ないのが惜しいほどである。なお、正編の冒頭の私の注で記したように、正編「はしがき」によれば当初、柴田宵曲自身は本書の外題を「奇談類考」といったような辛気臭いもので考えていたのを、青蛙房からの指示でかく事大主義的なものに変えたと推定出来、それと、この岡本氏の謂いは頗る一致を見るのである。因みに『續々編』は出ておらず、ちょっと淋しい。]

 

 

 

 月の話

 

 月に關する奇譚を集めたら、恐らく一部の書をなすであらう。その中からいくつかこゝに並べて見る。

 王先生なる者が烏江のほとりに住んで居つた。妖ではないかなどと蔭口を利く者もあつたが、里中に火事が起つた時、この人が出かけて聲をかけたら、忽ち火が消えたといふ事件があつて、それ以來皆が尊敬するやうになつた。長慶年間に楊晦之といふ男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いてゐたのでその門を敲いた。先生は黑い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくゑ)に向つてゐる。晦之が再拜して鄭重に挨拶しても、輕く一揖するのみであつた。倂し晦之を側に坐らせての暢談は容易に盡きさうにもないので、晦之は一晩泊めて貰ふことになつた。先生の娘といふのが出て來たが、七十ばかりで頭髮悉く白く、家の中でも杖をついてゐる。これはわしの娘ぢやが、惰(なま)け者で道を學ばぬものぢやから、こんな年寄りになつてしまつた、と云ひ、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であつたが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを優し、室内はどんな小さなものでもはつきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかつた。

[やぶちゃん注:「烏江」後に「呉楚」が出るから、かの垓下(がいか)で敗れた項羽が自刎して美事な最期を遂げた、長江沿いの渡し場「烏江」(うこう)と採っておく。現在の安徽省巣湖市和県烏江鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長慶年間」中唐末期の第十五代皇帝穆宗の治世で使用された元号。ユリウス暦八二一年~八二四年。

「楊晦之」「ようくわいし(ようかいし)」と読んでおく。

「一揖」「いちいふ(いちゆう)」と読む。中国の古式の礼の一つ。両手を胸の前で組み、これを上下或いは前に進めたりしてする挨拶

「暢談」「ちやうだん(ちょうだん)」と読み。心おきなくのびのびと語り合うこと。

「八月十二日」旧暦であるから暗くなる前の夕方には月は没してしまう。]

「宣室志」に書いてあるのは右の通りであるが、「酉陽雜狙」や「列仙全傳」ではこれが唐居士になつてゐる。訪問者は楊隱之といふので「宣室志」に似てゐるが、夜になつて居士が娘を呼び、片月子を持つて來いと命ずる。片紙のやうなものを持つて來て壁に貼り付けると、居士はこれに向つて禮拜し、今夕客あり、光明を賜ふべしと云ふや否や、室内は燭を置いたやうに明るくなつた。時代は同じ長慶年間だから、一つの話が二樣に傳はつてゐるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「宣室志」(せんしつし)は唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る。これは同書の「王先生」。中文サイトのものを加工して示す。

有王先生者、家於烏江上、隱其跡、由是里人不能辨、或以爲妖妄。一日、里中火起、延燒廬舍、生卽往視之、厲聲呼曰、「火且止、火且止。」。於是火滅。里人始奇之。長慶中、有弘農楊晦之、自長安東遊呉楚、行至烏江、聞先生高躅、就門往謁。先生戴玄綃巾、衣褐衣、隱几而坐、風骨淸美。晦之再拜備禮、先生拱揖而已、命晦之坐其側。其議論玄暢、迥出意表。晦之愈健慕、於是留宿。是日乃八月十二日也。先生召其女七娘者、乃一老嫗也、年七十餘、髮盡白、扶杖而來、先生謂晦之曰、「此我女也、惰而不好道、今且老矣。」。既而謂七娘曰、「汝爲吾刻紙、狀今夕之月、置於室東垣上。」。有頃、七娘以紙月施於垣上。夕有奇光自發、洞照一室、纖毫盡辨。晦之驚嘆不測。及曉將去、先生以杖畫地、俄有塵起、天地盡晦、久之塵斂、視其庭、則懸崖峻險、山谷重疊、前有積石盡目。晦之悸然背汗、毛髮豎立。先生曰、「陵谷速遷、吾子安所歸乎。」。晦之益恐、灑泣言曰、「誠不知一旦有桑田之變、豈仙都瞬息、而塵世已千歳乎。」。先生笑曰、「子無懼也。所以爲娯爾。」於是持帚掃其庭、又有塵起。有頃、塵斂、門庭如舊。晦之喜、卽馳馬而去。

   *

柴田が「月」とは無縁なところからカットしてしまった、翌朝の晦之が体験する驚天動地の王先生の遊びのシークエンスが、とても素敵!

 「酉陽雜狙」版の同シークエンスは「卷二」の「五 壺史」の中の次の一条。同前の仕儀で示す。

   *

長慶初、山人楊隱之在郴州、常尋訪道者。有唐居士、土人謂百歳人。楊謁之、因留楊止宿。及夜、呼其女曰、「可將一下弦月子來。」。其女遂帖月於壁上、如片紙耳。唐卽起、祝之曰、「今夕有客、可賜光明。」。言訖、一室朗若張燭。

   *

「列仙全傳」(「有象(ゆうしょう)列仙全傳」が正しい書名)は明代に書かれた仙人伝。私は所持せず、ネット上でも見当たらぬので原典は示せない。以下、同じ。]

 周生は唐の大和中の人で、洞産山に廬を結んで居つたが、道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時廣陵の舍佛寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて來る。恰も中秋明月の夜であつたから、皎々と澄み渡る月を見て、自ら月世界の話になり、吾々のやうな俗物でも、月世界に到ることが出來るでせうか、と云ひ出した者があつた。周生は笑つて、その事ならわしも師に學んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂に入れることが出來る、君はそれを信ずるか、と云つた。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構はず、一室を空虛にし、四方から固く戸を鎖し、數百本の竹に繩梯子を掛けさせ、わしは今からこの繩梯子を上つて月を取つて來る、わしが呼んだら來て御覽、と云ふ。人々は庭を步きながら樣子を窺つてゐると、先刻まで晴れてゐた空が忽ち曇り、天地晦冥になつて來た。その時突如として周生の聲が聞えたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐つてゐて、月はわしの衣中に在る、と云ふ。どうかその月をお見せ下さい、と云はれて、周生が衣中の月をちょつと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るやうに感ぜられた。君はわしを信ぜぬやうであつたが、今は信ずるか――周生は落ち着き拂つてかう云つた。人々再拜して失言を謝し、月の光りを收めて貰ふやうに頼む。よつてまた戸を鎗す。天地は依然晦冥であつたが、暫くたつと最初の通り明皎々たる月夜に還つた。實に驚くべき幻術である。繩梯子を上つて天界に到るあたりは、仙宮の桃を取りに行く「聊齋志異」の偸桃に似てゐるかと思ふ。この話も「宣室志」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「宣室志」のそれは「周生」。以下。

   *

唐太和中、有周生者、廬於洞庭山、時以道術濟呉楚、人多敬之。後將抵洛穀之間、途次廣陵、舍佛寺中。會有三四客皆來。時方中秋、其夕霽月澄瑩、且吟且望、有説開元時明皇帝遊月宮事、因相與嘆曰、「吾輩塵人、固不得至其所矣。奈何。」。周生知曰、「某常學於師、亦得焉、且能挈月致之懷袂、子信乎。」。或患其妄、或喜其奇。生曰、「吾不爲明、則妄矣。」。因命虛一室、翳四垣、不使有纖隙。又命以箸數百、呼其僮繩而架之。且告客曰、「我將梯此取月去。聞呼可來觀。」。乃閉戸久之。數客步庭中、且伺焉。忽覺天地曛晦、仰而視之、卽又無纖雲。俄聞生呼曰、「某至矣。」。因開其室、生曰、「月在某衣中爾。請客觀焉。」。因以舉之、其衣中出月寸許、忽一室盡明、寒逼肌骨。生曰、「子不信我、今信乎。」。客再拜謝之、願收其光。因又閉戸、其外尚昏晦、食頃方如初。

『「聊齋志異」の偸桃』は「卷三」の第一項「偸桃」(とうたう(とうとう))。以下。

   *

童時赴郡試、春節。舊例、先一日、各行商賈、綵樓鼓吹赴藩司、名曰、「演春」。余從友人戲矚。是日遊人如堵。堂上四官、皆赤衣、東西相嚮坐。時方稚、亦不解其何官。但聞人語嚌嘈、鼓吹聒耳。忽有一人、率披發童、荷擔而上、似有所白、萬聲洶動、亦不聞爲何語。但視堂上作笑聲。即有青衣人大聲命作劇。其人應命方興、問、「作何劇。」。堂上相顧數語。吏下宣問所長。答言、「能顛倒生物。」吏以白官。少頃復下、命取桃子。術人聲諾、解衣覆笥上、故作怨狀、曰、「官長殊不了了。堅冰未解、安所得桃。不取、又恐爲南面者所怒。奈何。」。其子曰、「父已諾之、又焉辭。」。術人惆悵良久、乃云、「我籌之爛熟。春初雪積、人間何處可覓。惟王母園中、四時常不凋謝、或有之。必竊之天上、乃可。」。子曰、「嘻、天可階而升乎。」。曰、「有術在。」。乃笥、出繩一團、約數十丈、理其端、望空中擲去、繩即懸立空際、若有物以掛之。未幾、愈擲愈高、渺入雲中、手中繩亦盡。乃呼子曰、「兒來。余老憊、體重拙、不能行、得汝一往。」。遂以繩授子、曰、「持此可登。」子受繩、有難色、怨曰、「阿翁亦大憒憒。如此一線之繩、欲我附之、以登萬仞之高天。倘中道斷、骸骨何存矣。」。父又強嗚拍之、曰、「我已失口、悔無及。煩兒一行。兒勿苦、倘竊得來、必有百金賞、當爲兒娶一美婦。」。子乃持索、盤旋而上、手移足隨、如蛛趁絲、漸入雲霄、不可復見。久之、附一桃、如碗大。術人喜、持獻公堂。堂上傳示良久、亦不知其真偽。忽而繩落地上、術人驚曰、「殆矣。上有人斷吾繩、兒將焉托。」。移時、一物墮。視之、其子首也。捧而泣曰、「是必桃爲監者所覺、吾兒休矣。」。又移時、一足落、無何、肢體紛墮、無復存者。術人大悲、一一拾置笥中而合之、曰、「老夫止此兒、日從我南北游。今承嚴命、不意罹此奇慘。當負去瘞之。」。乃昇堂而跪、曰、「爲桃故、殺吾子矣。如憐小人而助之葬、當結草以圖報耳。」。坐官駭詫、各有賜金。術人受而纏諸腰、乃扣笥而呼曰、「八八兒、不出謝賞、將何待。」。忽一蓬頭僮首抵笥蓋而出、望北稽首、則其子也。以其術奇、故至今猶記之。後聞白蓮教能爲此術、意此其苗裔耶。

   *

柴田天馬氏の訳(角川文庫昭和五三(一九七八)年改版九版)で以下に示す。

   *

 

 偸桃(とうとう)

 

子どものころ、郡(ふ)に行ったことがあり。それは、ちょうど立春であった。

 古くからのしきたりで、立春の前の日、各行商賈(あきんどたち)は彩楼(やたい)を作り、笛太鼓で藩司(ふせいし)にねりこむ。それを彼らは演春と名づけていた。

 自分は友人について、それを見物に行ったのである。

 その日、役所の前は、遊び歩いている人たちが、垣根のように、ぐるりと取りまいて、堂の上には四人の役人が、みな赤い着ものをきて、東西に向かいあって腰かけていた。自分は、まだ幼かったから、それが、どんな役人か、わからず、ただ、そうぞうしい人声と、やかましい笛太鼓を聞いているだけであった。

 たちまち、披髪(おかっぱ)の子どもを連れた人があって、荷物をになって進みでた。何とか言ってるらしいのだが、人声が騒がしいので、何を言っでいるか、聞こえなかった。

 すると、堂上(ひろま)で笑い声が起こった。そして、黒い着ものの下役が大きな声で、芸をやれと言いつけた。その人は、言われるままに始めようとして、聞くのであった。

 「どんな芸を、して、ごらんにいれましょう」

 堂上(ひろま)の役人たちが、顔を見あって話しあうと、下役が、おりてきて、得意なものは何か、とたずねた。男は答えた、

 「顚倒(あべこべ)な物を、出すことができるのでございます」

 で、下役は、それを役人に申しあげ、しばらくすると、また、おりてきて、

 「桃を取ってこい」

 と言いつけた。術人(てずまし)は、はいと言って着ものをぬぎ、それを箱にかぶせてから、わざと恨めしそうなようすをして、言うのだった、

 「お役人なんて、とても、わからないもんだ。氷が、まだ、とけもしない今ごろ、どこにだって、桃の手に入るようなところなんか、あるはずほない。けれども、取ってこないと、また、お役人に、おこられるだろうし、さあ、どうしたら、いいものか」

 すると、その子が言った、

 「父(ちゃん)は、はいと言っちまったんじゃないか。ことわれや、しないや!」

 術人(てずまし)は、しばらくの間、惆悵(かなし)そうなふうだったが、やがて言った、

 「おれは考えたよ。とっくりとな。今は、まだ春の初めで、雪が、つもっているんだから、人間には、どこにだって、探すところなんか、ありやしないが、王母のお庭は、年じゅう、葉が枯れるなんてことのないところだ。もしかすると、あるかもしれない。どうしたって、天上で盗むのが、よかろうぜ」

 子どもは言った、

 「えっ! はしごをかけて、天に登れるのかい?」

 と、おやじは、

 「術が、あるからな」

 と言って箱をあけ、なかから数十丈もあろうと思われる、一かたまりの繩を取りだし、端を、そろえると、空中を望んで投げあげた。と、繩は、まるで何かにかかったように、空際(なかぞら)に、かかっていた。まもなく、いよいよ繩をくりだすにつれて、いよいよ高くなり、繩の先が、雲の中にはいって見えなくなったのと同時に、手の中の繩も尽きてしまった。

 すると、おやじは、子どもを呼んで言った、

 「せがれや! おいで! おれは、な、年をとっちまって身体が重いから、行かれない。おまいに行ってもらおうよ」

 で、繩を子どもにわたし、

 「これを持てば、登れるからな」

 と言った。

 子どもは繩を受けとったものの、困った顔をして、うらめしそうに言った、

 「ほんとに、憒々(わからな)い、ちゃんだ。こんな一本の繩に、あたいを、つかまらして、なん万仭(まんじゃく)もある高い天に登らせようなんて。途中で繩が切れでもしたら、こなみじんに、なっちまわあ!」

 すると、おやじほ、おどかしたり、すかしたりするのだった、

 「おれは口をすべらしてしまったから、くやんでも追いつかないんだ。おまい、行ってくれろよ。だがな、せがれ、いやがるんじゃない。もし、桃を盗んできたら、きっと百両のご賞(ほうび)があるから、おまいに、きれいな婦(かみさん)をもらってやる」

 子どもは、そこで、繩を持って、するすると登りはじめた。手が移る。足がついて行く。まるで蛛(くも)が糸を伝うように、空に入って行って、とうとう見えなくなってしまった。

 と、しばらくして、桃が一つ落ちてきた。盎(わん)のような大きさである。術人(てずまし)は喜んで、それを持って広間にのぼり、役人に差しあげた。広間の人たちは、手から手にそれを回して、しばらくの間、見ていたけれど、桃の真偽は、わからなかった。

 たちまち、繩が地上に落ちてきた。術人は驚いて叫んだ、

 「あぶない! 空に誰かいて、わしの繩を切ってしまった! せがれは何に託(たよ)るのだ!」

 そのうちに、落ちてきた物があるので、駆けよって見ると、せがれの首だった。おやじはそれを捧げて、泣きながら言うのである、

 「こりやあ、きっと、桃を偸(ぬす)んだのを、番人に、さとられたにちがいない。せがれは、だめだ!」

 それから、また、しばらくすると、片足が落ちてきた。そしてまもなく、足や身体が、ばらばらになって落ちてきた。もう残っているものはないのである。

 術人(てずまし)は、ひどく悲しみ、いちいち拾って箱に入れると、ふたをして言うのだった、

 「こいつは、おやじの一人っ子で、毎日、わしについて、南や北を歩きまわっておりましたが、今日、思わずも、仰を受けて、こんな災難にかかりました。どれ、しょって行って埋めてやりましょう」

 そして、堂(ひろま)にのぼって、ひざまずき、

 「桃のために、せがれを殺してしまいました。もしも、わたくしを、あわれとおぼしめしますなら、葬いの金をお助(す)けなさってくださいまし。当結草以図報(しんでもごおんはかえ)します」

 腰かけていた人たちは、驚きもし、あやしみもして、おのおの術人(てずまし)に金をやった。術人は、金を受けとって腰につけてから、箱をたたいて言うのだった、

 「八々児(はちはち)よ! 早く出て、ごぼうびのお礼を申しあげろ。何を、ぐずぐずしてるんだ」

 と、おかっぱの子どもが、箱のふたを押しあけて首を出し、北に向かって、おじぎをした。

 それは、せがれであった。

 ふしぎな術だから、今になっても、まだ、それを、おぼえているが、あとで聞くと、白蓮教の者が、よく、この術をやるそうだから、この男も、白蓮教の苗裔(しそん)、かと思われる。

   *

底本ではこの後に語注が続くが、特にその「七」(注記号は話の末に打たれてある)が面白い。以下に引く。『接(つ)ぎ』は注全体がポイント落ちなため、ルビではなく、本文がこうなっている

   *

この話は、聊斎自身の所見であるところに、格別の興味を引かれるわけだが、まさか聊斎が本気になって書いたのではなく、多少――どころじゃない――大いに修飾を加えたものだろう。実際、今日このごろ、こんな話を、まじめにする人があっても、真に受ける人はなさそうに思われるが、あに、はからんや、昭和十一年十二月二十七日付の報知新聞紙上にあるインドの修行者「ヨギ」の魔法は、ここに訳出したものと、ほとんど同じで、イギリス人ブランケット氏が親しく目撃し、かつ写真にまで撮って、天下に公表したのだというから、おもしろい。よって下に、北米イングルウッド市で行なわれたインド・ヨギ、ハレットのロープトリックなるものを転載し、この話と、いかに類似しているかを、紹介しょうと思う。「ヨギが、一本の綱を空中にバッと投げると、綱は、さながら立木のように、地上に直立する。すると、一人が、スルスルと綱を登ってゆく、と見るまに、少年の手が、足が、首が、バラバラになって、しかも、血に染まって落ちてくる。だが、平然たるヨギほ、バラバラに地上に落ちた少年の肉体を、接(つ)ぎ合わせるや、たちまちにして、また、もとの元気な少年になるのだ」うんぬん。

   *

この話は「聊齋志異」の中でも私がすこぶる附きで偏愛するものである。]

「列仙全傳」の莫月鼎は潮州の人で、鬼魅を自由に驅使するのみならず、天象を支配することが出來た。西湖に舟を泛べて酒を酌み交してゐた際、眞夏の太陽の暑いのに困じて、雲を起してくれぬかと賴むと、彼は舟を岸に著けて獨り上陸し、どこからか木の實の殼を一つ拾つて來た。それを盃に浮べたら、見る見るうちに黑雲が起つて日光を蔽ひ去つたさうである。或年の中秋に蕃釐觀の道士が知人を招いて、觀月の酒宴を催さうとした。あいにく雲が出て折角の興がさめかけた時、道士は觀内に月鼎の寄寓してゐることを思ひ出し、彼をこの席に招くのを忘れた爲、その怒りを買つたものであらうと氣が付いたので、直ぐ人を遣はして月鼎を招き陳謝の意を表した。月鼎は何も云はず、微笑しながら手を擧げて天上を指す。今までひろがつてゐた雲は忽ちに消え、十分に清興に耽ることが出來た。

[やぶちゃん注:「蕃釐觀」「ばんりくわん(ばんりかん)」と読んでおく。道観(道教の寺院)の固有名詞。]

 同じ書にある翟天師にも月の一條があつた。或江のほとりで月をめでてゐる時、弟子の一人が卒然として、月の中には何がありますかと問うた。天師は笑つて手を擧げて月を指したが、弟子どもはその意を解することが出來ぬ。各々自分の指の形に從つて月の面を覗いて見よと云はれ、天師の通りにやつて見たら、多くの金殿玉樓が軒を連ね甍(いらか)を竝べて月の面に聳えてゐた。倂し眸(ひとみ)を定めて再び見直した時は、樓殿の形は已に消えて見えなかつた。

[やぶちゃん注:「翟天師」「てきてんし」と読んでおく。]

 古人は月と云へば直ちに月宮殿を想像し、その裏に在る天女の姿を心に描いたらしい。「竹取物語」のかぐや姫も元來月の都の人で、暫時の生を地上に托したのである。「竹取物語」の末段に近くなつて「子の刻ばかりに、家のあたり晝の明さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あはせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より人雲に乘りて降り來て、地より五尺許りあがりたる程に立ち連ねたり」と書いたのは、日本の月の文學の中に在つて永く異彩を放つに足るものであらう。謠曲「羽衣」の天女も月宮殿裏に在つて「奉仕をさだめ役をなす」天少女(あまおとめ)の一人であつた。「池北偶談」の中に月夜に露坐して仰いでゐると、うるはしく著飾つた女子が鶴の背に乘り、宮扇を持つた一人がこれを衞つて、ゆるゆると月の中に入つて行つたとある如き、やはり月宮殿裏の天少女の姿でなければならぬ。

[やぶちゃん注:以上の「竹取物語」のシークエンスは、一般に「かぐや姫の昇天」と称されるパートの月の国からの来臨部分、同作でも圧巻のシーンである。少し長くなるが、柴田の賞讃するように、本朝最古の幻想文学の白眉と称してよい場面であるので、月帰還までの全文を以下に阪倉篤義校訂の岩波文庫版(一九七〇年刊)で引く。読みは一部に限った。一部は私が〔 〕で読みを入れ、阪倉氏の記号による右補訂箇所はそのまま原文と差し替えた。一部に句点を追加した。【 】は別伝本で補った。踊り字「〱」は正字化した。「返々」は「かへすがへす」と訓ずる。

   *

 かゝる程に、宵うち過ぎて、子の時ばかりに、家のあたり晝の明(あか)さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十あせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空(ぞら)より人、雲に乘りて下(お)り來て、土(つち)より五尺ばかり上(あが)りたる程に、立ち列(つら)ねたり。これを見て、内外(うちと)なる人の心ども、物におそはるゝやうにて、あひ戰はん心もなかりけり。からうじて思ひ起して、弓矢をとり立てんとすれども、手に力もなくなりて、萎(な)えかゝりたる。中に、心さかしき者、ねんじて射んとすれども、外(ほか)ざまへいきければ、あれも戰はで、心地たゞ痴(し)れに痴れてまもり合へり。

 立てる人どもは、裝束の淸(きよ)らなること、物にも似ず。飛(とぶ)車一つ具(ぐ)したり。羅蓋(らがい)さしたり。その中に王とおぼしき人、家に、

「宮つこまろ、まうで來(こ)。」

と言ふに、猛(たけ)く思ひつる宮つこまろも、物に醉(ゑ)ひたる心地して、うつ伏(ぶ)しに伏(ふ)せり。いはく、

「汝(なんぢ)、をさなき人、いさゝかなる功德(くどく)を翁(おきな)つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下(くだ)しゝを、そこらの年頃、そこらの金(こがね)給ひて、身をかへたるがごと成りにたり。かぐや姫は、罪(つみ)をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきおのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限(かぎり)果てぬればかく迎ふるを、翁は泣き歎く、能(あた)はぬことなり。はや出したてまつれ。」

と言ふ。翁答へて申す、

「かぐや姫を養ひたてまつること廿餘年に成りぬ。かた時との給ふに、あやしくなり侍りぬ。又異(こと)所にかぐや姫と申す人ぞおはすらん。」

と言ふ。

「こゝにおはするかぐや姫は、重き病(やまひ)をし給へば、え出でおはしますまじ。」

と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛車(とぶくるま)を寄せて、

「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおはせん。」

と言ふ。立て籠(こ)めたるところの戸、すなはち、たゞ開(あ)きに開きぬ。格子どもゝ、人はなくして開きぬ。女抱(いだ)きてゐたるかぐや姫、外(と)に出ぬ。え止(とゞ)むまじければ、たゞさし仰(あふ)ぎて泣きをり。竹取心惑(まど)ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、

「こゝにも心にもあらでかく罷(まか)るに、昇(のぼ)らんをだに見おくり給へ。」

と言へども、

「なにしに、悲しきに見おくりたてまつらん。我をばいかにせよとて、捨てゝは昇り給ふぞ。具して出でおはせね。」

と、泣きて伏せれば、心惑ひぬ。

「文を書おきてまからん。戀しからんをりおり、とり出でて見給へ。」

とて、うち泣きて書く言葉は、

「此國に生まれぬるとならば、歎かせたてまつらぬほどまで【侍るべきを】、侍らで過ぎ別れぬること、返々本意(ほい)なくこそおぼえ侍れ。脱ぎおく衣(きぬ)を形見(かたみ)と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨てたてまつりてまかる、空よりもおちぬべき心地す。」

と、書きおく。

 天人の中に持たせたる箱あり。天(あま)の羽(は)衣入れり。又あるは不死(ふし)の藥(くすり)入れり。ひとりの天人言ふ、

「壺(つぼ)なる御藥(くすり)たてまつれ。穢き所のものきこしめしたれば、御心地惡しからむ物ぞ。」

とて、もて寄りたれば、わづか嘗な)め給ひて、すこし形見とて、脱ぎおく衣(きぬ)に包まんとすれば、ある天人包ませず、御衣(みそ)をとり出でて着(き)せんとす。その時にかぐや姫、

「しばし待て。」

と言ひて、

「衣着(きぬき)つる人は心異(こと)になるなり。物一(ひと)こと言いひおくべき事あり。」

と言ひて、文書く。天人、

「おそし。」

と心もとながり給ひ、かぐや姫、

「もの知らぬこと、なの給ひそ。」

とて、いみじく靜かに公(おほやけ)に御文(ふみ)たてまつり給。あわてぬさま也。

[やぶちゃん注:以下、の書簡部分は底本では全体が一字下げ。]

「かくあまたの人を賜ひて止(とゞ)めさせ給へど、許さぬ迎へまうで來て、とりゐてまかりぬれば、くちをしく悲しき事。宮仕(づか)へ仕(つか)うまつらずなりぬるも、かくわづらはしき身にて侍れば。心得ず思(おぼ)しめされつらめども、心強(つよ)くうけたまはらずなりにし事、なめげなる物に思(おぼ)しめし止(とゞ)められぬるなん、心にとゞまり侍りぬる。」

とて、

  今はとて天の羽衣きるをりぞ君をあはれと思ひいでける

とて、壺の藥そへて、頭中將呼びよせて、たてまつらす。中將に天人とりて傳(つた)ふ。中將とりつれば、ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほしく、かなしと思(おぼ)しつる事も失せぬ。此衣(きぬ)着つる人は物思ひもなく成りにければ、車に乘りて百人ばかり天人具して、昇りぬ。

   *

「五尺」約一メートル半。

『謠曲「羽衣」』「丹後風土記」逸文に代表される所謂「羽衣伝説」に基づく能。一説に世阿弥作とされるが、信じ難い。柴田の引用は、後半の地で、

白衣黑衣(びやくえこくえ)の天人(てんにん)の。數(かず)を三五(さんご)にわかつて。一月夜々(いちげつやや)の天乙女(あまをとめ)。奉仕(ほうじ)を定め役(やく)をなす

とあるところの一節。これによれば、この白衣と黒衣を着分けた天乙女たちが十五人ずつに分かれて、旧暦の一ヶ月間、夜毎(よごと)に定められた役目として、専ら月の満ち欠けを司っているという説明譚にもなっていることが判る。

 

「池北偶談」清第一の詩人とされる王漁洋(士禎)の随筆。全二十六巻。以上は「談異」の「卷二十六」の「月中女子」である。今までと同じ仕儀で示す。

   *

德州趙進士仲(其星)、嘗月夜露坐、仰見一女子、妝飾甚麗、如乘鸞鶴、一人持宮扇衞之、逡巡入月而沒。此與予前所記二事相類。羿妻之事、信有之矣。

   *]

 月を懷ろにして還る周生の話は奇拔であるが、それだけ月が小さなものになつてゐることを否み難い。苛も天界の月ならば、造かにこれを仰望して、時に金殿玉樓の竝ぶのを見るぐらゐが恰好のところと思はれるが、月世界旅行の夢は古今を通じてあり、それがいろいろな文學に現れてゐる。「列仙全傳」の羅公遠などもその一つである。

[やぶちゃん注:ウィキの「公遠から引く。生没年未詳の唐の玄宗に仕えた道士。「新唐書」では「羅思遠」とするが、唐代の伝奇小説では「羅公遠」と記す。『鄂州の出身。幼いころから、道術を好んでいたという。州の刺史に、人間に化けた白龍を叱りとばし、その正体を見せたことから見いだされた。刺史の推薦で長安に赴き、張果、葉法善に冷笑された。手に握った碁石の数当てをさせられたが、二人の手から気づかれずに、碁石を自分の手に移したため、二人と同列とされた』。『月までの橋をかけ、玄宗を月宮に連れて行った話(玄宗はこの時、霓裳羽衣の曲を編み出したとされる)が残っている』(柴田が後の段落で語っている)。『また、三蔵法師(不空金剛)と術比べをし、雨の祈祷をした話や、竹の枝を七宝如意に変えた話、玉清神女を操り、三蔵法師の操る菩薩や金剛力士を出し抜き、その袈裟を奪った話が伝えられている』。『羅公遠は玄宗に、隠形の術を乞われ、皇帝がすることでないと強く諫めた。玄宗が詰問したところ、逃げて柱の中に隠れた。玄宗が柱を破壊すると、礎石に入り、とりかえても別の石に入った。石を壊しても、その一つ一つに羅公遠の姿が入っていた。玄宗がわびを入れ、やっと姿をあらわした。しかし、結局、羅公遠は術を伝え、それが不完全なものであったために、玄宗は彼を殺してしまった』。『数年後、宦官の輔仙玉が蜀の地で羅公遠と会った。彼は、「お上は、なんとひどいことをされる」と話し、玄宗に伝言を頼んだという』。その後、再び玄宗と会い、「三峯歌」八首を『進講した。玄宗が修行したところ、精力が充実してきたという。その後、羅公遠はまた立ち去った』。七五六年の「安史の乱」『勃発後、玄宗が蜀の地に出奔した折り、羅公遠は再度あらわれ、成都まで送っていった後、去っていった。玄宗の蜀出奔を予言していたと言われる』。「広異記」には『天狐と術比べをし、捕らえて新羅に送ったという説話が残っている』。]

 開元の某年、宮中に觀月の酒宴が催された時、玄宗皇帝は良夜の淸光を仰ぎ、かやうな晩に月宮殿に到り得たら、さぞ愉快であらうと獨語された。羅公遠は帝の側に侍してゐたが、それは造作もない事でございます、もし御意とあらば只今からでも御案内致しませう、と申し上げたので、直ちに月世界に遊ばれることになつた。羅公遠は座を立つて緣先に出ると、持つてゐた杖を空に投げる。杖は化して浮橋となり、銀のやうに光り輝いたが、その端は遠く雲に隱れてゐて、どこまで續いてゐるかわからない。羅公遠は玄宗皇帝を誘うて浮橋を渡り、忽ちに月宮殿に到つた。宮裏には畫にかいたやうな仙女が數百人居り、光り輝く衣裝を著て霓裳羽衣(げいしやううい)の曲を御覽に入れた。二人が月宮を辭して歸る時、例の浮橋は步むに隨つて消え、無事歸著すると共に影も形もなくなつてゐたさうである。

 玄宗皇帝はこの時の記念として、親しく月宮殿で見物された霓裳羽衣の曲の大體を伶人に傳へ、それに摸した一曲を作らしめられた。白樂天は「長恨歌」の中で「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」と云ひ、また「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」と二度までこの曲名を用ゐてゐるが、月世界旅行の記念だと思ふと、そこに無限の趣致を生ずるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「長恨歌」は高校の漢文で読んでいるはず(授業でやらない教師は読めないし意味も分らないのだと馬鹿にしてよい)だが、一応、訓読を示しておく。

「漁陽鼙鼓動地來。驚破霓裳羽衣曲」

 漁陽(ぎよやう)の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり

 驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲

「漁陽」は安禄山の根拠地。「鼙鼓」は騎兵が馬上で打ち鳴らす攻め太鼓。なお、曲としての「霓裳羽衣曲」は改元年中(七一三年~七四一年)に楊敬述が作曲したもので、元は「婆羅門(ばらもん)」と言った。白居易には別に「霓裳羽衣歌」という長詩もある。

「風吹仙袂飄飄擧。猶是霓裳羽衣舞」「飄飄」は「飄颻」の、「是」は「似」の誤り

 風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄飄(へうえう)として擧がり

 猶ほ霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり。

この前だけなら校正ミスも疑われるが、二ヶ所あるのは柴田の責任が免れぬ。冒頭の一篇のコーダなだけに甚大な瑕疵と言わざるを得ない。]

 

2017/02/27

柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」

 

 小さな妖精

 

 小泉八雲の書いた「ちん・ちん・こばかま」は小さな妖氣の漂ふお伽噺である。美しいけれども無性だつた女の子が、長じて立派な士と結婚する。士が戰ひに行つたあとの家庭は、寂しいと同時に氣樂なものであつたが、その家庭に測らずも不思議な事が起つた。小さな物音に目を覺ました彼女の枕許に、背の高さ一寸そこそこの小人が何百人も踊つてゐる。彼等は主人公の士が祭日に著るやうな上下を著け、小さな大小をさし、此方を見ながら笑ふ。「ちん・ちん・こばかま、よもふけさふらふ、おしづまれ、ひめぎみ、や、とんとん」といふ歌を何遍も何遍も繰り返してうたふのである。この歌の文句は今の人には少し耳遠いから、八雲に從つてその意味を書いて置いた方がいゝかも知れぬ。「私等はちん・ちん・こばかまです――時もおそうございます、おやすみなさい、姫君樣」

[やぶちゃん注:「無性」「ぶしやう」で無精なこと。

 以下の話は小泉八雲の「ちりめん本」童話Chin Chin Kobakama(明治三六(一九〇三)年刊)。“Internet Archive”こちらで美しい「ちりめん本」原画像で原文が読め、ダウンロードも出来る。]

 言葉は丁寧のやうでも、彼等が自分をいぢめるつもりであることはよくわかつた。彼等は彼女に向つて意地の惡い顏付もするからである。勇氣を起してつかまへようとしたが、すばしこくて捉へられぬ。追ひ拂はうとしても逃げず、依然として「ちん・ちん・こばかま」を歌ひ、彼女を嘲るのをやめない。彼等が小さな化物だとわかつた時、彼女は急に恐ろしくなつたが、現在武士の妻になつてゐる以上、そんな事は誰にも打ち明けられぬ。小人どもは毎晩午前二時頃に姿を現し、夜の明けるまで歌ひ且つ踊る。彼女は眠られぬためと恐怖とで遂に病氣になつた。そのうちに主人公が歸つて來た。彼女から病氣の原因を聞いた主人公は、寢間の押入れに隱れて樣子を窺ふことになつた。「ちん・ちん・こばかま」はその夜も出て踊つたので、士は一刀を拔いて斬り付けた。小人の群れは一時に消え、あとには一つかみの古楊枝が疊の上に殘つた。

 若い武士の妻は無性で爪楊枝を始末せず、疊の間に突きさして置いた。疊を大切にする化物達が腹を立てて、彼女を苦しめたのだといふ委細がわかると、この話の妖氣は忽ち消えて、例の教訓が殘る。彼女は主人公から叱られ、古い爪楊枝は燒き棄てられる。「ちん・ちん・こばかま」の歌は再び聞かれなくなつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「ちいちい袴」には以下のようにある。『ちいちい袴(ちいちいばかま)またはちいちい小袴(ちいちいこばかま)は、新潟県佐渡島に伝わる民話』で以下の通り。『その昔のこと。一人暮しの老婆が夜に家で糸を紡いでいたところ、四角張った顔の袴姿の子男が現れ』『「お婆さん淋しかろう。わしが踊って見せましょう』」『と言って

「ちいちい袴に 木脇差をさして こればあさん ねんねんや』」『と唄いながら、どこかへと消えてしまった』。『老女は気味悪く思って家の中を捜したところ、縁の下に鉄漿付け用の楊枝があった。これを焼き捨てたところ、このような不思議な出来事が起きることはなくなった』。『昔から、鉄漿付けの楊枝は古くなると焼き捨てるものだといわれる』。『岡山県、大分県にも同様の民話がある』。『近年の文献によっては、この話に登場する小男は、楊枝が化けた付喪神(器物が化けた妖怪)と解釈されている』とし、以下の本小泉八雲の「ちんちん小袴」の梗概が載る。なお、小泉八雲のChin Chin Kobakamaの最後にはごく短かく、今一つの教訓話が添えられており、そこではやはり無精な女の子が梅の種を畳に挟んで放置しておいたところ、夜中に振袖姿の小さな女たちが現れて踊り、少女の眠りを妨げて懲らしめたという。「ちりめん本」はそこをも丁寧に絵を添えていて、実に掬すべき愛書となっている。強く、ダウンロード(無論、無料)をお薦めするものである。「ちりめん本」版原画像を底本にして、以下に幾つかの英文テクストを校合して原文を示す。

   *

 

CHIN CHIN KOBAKAMA

 

THE floor of a Japanese room is covered with beautiful thick soft mate of woven reeds. They fit very closely together, so that you can just slip a knife-blade between them, They are changed once every year, and are kept very clean, The Japanese never wear shoes in the house, and do not use chairs or furniture such as English people use. They sit, sleep, eat, and sometimes even write upon the floor. So the mats must be kept very clean indeed, and Japanese children are taught, just as soon as they can speak, never to spoil or dirty the mats.

   Now Japanese children are really very good. All travelers, who have written pleasant books about Japan, declare that Japanese children are much more obedient than English children and much less mischievous. They do not spoil and dirty things, and they do not even break their own toys. A little Japanese girl does not break her doll. No, she takes great care of it, and keeps it even after she becomes a woman and is married. When she becomes a mother, and has a daughter, she gives the doll to that little daughter. And the child takes the same care of the doll that her mother did, and preserves it until she grows up, and gives it at last to her own children, who play with it just as nicely as their grandmother did. So I,― who am writing this little story for you,―have seen in Japan, dolls more than a hundred years old, looking just as pretty as when they were new. This will show you how very good Japanese children are; and you will be able to understand why the floor of a Japanese room is nearly always kept clean,― not scratched and spoiled by mischievous play.

   You ask me whether all, all Japanese children are as good as that? Well―no, there are a few, a very few naughty ones. And what happens to the mats in the houses of these naughty children? Nothing very bad ― because there are fairies who take care of the mats. These fairies tease and frighten children who dirty or spoil the mats. At least-they used to tease and frighten such mischievous children. I am not quite sure whether those little fairies still live in Japan,― because the new railways and the telegraph have frightened a great many fairies away. But here is a little story about them:―

ONCE there was a little girl who was very pretty, but also very lazy. Her parents were rich and had a great many servants; and these servants were very fond of the little girl, and did everything for her which she ought to have been able to do for herself. Perhaps this was what made her so lazy. When she grew up into a beautiful woman, she still remained lazy; but as the servants always dressed and undressed her, and arranged her hair, she looked very charming, and nobody thought about her faults.

   At last she was married to a brave warrior, and went away with him to live in another house where there were but few servants. She was sorry not to have as many servants as she had had at home, because she was obliged to do several things for herself, which other folks had always done for her. It was such trouble to her to dress herself, and take care of her own clothes, and keep herself looking neat and pretty to please her husband. But as he was a warrior, and often had to be far away from home with the army, she could sometimes be just as lazy as she wished. Her husband's parents were very old and good-natured, and never scolded her.

   Well, one night while her husband was away with the army, she was awakened by queer little noises in her room. By the light of a big paperlantern she could see very well, and she saw strange things What?

   Hundreds of utile men, dressed just like Japanese warriors, but only about one inch high, were dancing all around her pillow. They wore the same kind of dress her husband wore on holidays ,―(Kamishimo, a long robe with square shoulders), ― and their hair was tied up in knots, and each wore two tiny swords. They all looked at her as they danced, and laughed, and they all sang the same song, over and over again,―

      "Chin-chin Kobakama,

                    Yomo fuké soro,―

       Oshizumare, Hime-gimi! ―

     
Ya ton ton!" ―

Which meant: ―"We are the Chin-chin Kobakama; ― the hour is late; Sleep, honorable noble darling!"

   The words seemed very polite; but she soon saw that the little men were only making cruel fun of her. They also made ugly faces at her.

   She tried to catch some of them; but they jumped about so quickly that she could not. Then she tried to drive them away; but they would not go, and they never stopped singing

      "Chin-chin Kobakama,….."

and laughing at her. Then she knew they were little fairies, and became so frightened that she could not even cry out. They danced around her until morning;― then they all vanished suddenly.

   She was ashamed to tell anybody what had happened ― because, as she was the wife of a warrior, she did not wish anybody to know how frightened she had been.

   Next night, again the little men came and danced, and they came also the night after that, and every night ― always at the same hour, which the old Japanese used to call the "Hour of the Ox"; that is, about two o'clock in the morning by our time. At last she became very sick, through want of sleep and through fright. But the little men would not leave her alone.

   When her husband came back home, he was very sorry to find her sick in bed. At first she was afraid to tell him what had made her ill, for fear that he laugh at her. But he was so and coaxed her so gently, that after a while she told him what happened every night.

   He did not laugh at her at all, but looked very serious for a time. Then he asked:―

      "At what time do they come?"

   She answered: ―"Always at the same hour ― the 'Hour of the Ox.'"

   "Very well," said her husband,― "to-night I shall hide and watch for them. Do not be frightened."

   So that night the warrior hid himself in a closet in the sleeping room, and kept watch through a chink between the sliding doors.

   He waited and watched until the "Hour of the Ox." Then, all at once, the little men came up through the mats, and began their dance and their song:―

      "Chin-chin Kobakama,

       Yomo fuké soro……"

They looked so queer, and danced in such a funny way, that the warrior could scarcely keep from laughing. But he saw his young wife's frightened face; and then remembering that nearly all Japanese ghosts and goblins are afraid of a sword, he drew his blade, and rushed out of the closet, and struck at the little dancers. Immediately they all turned into-what do you think?

Toothpicks!

   There were no more little warriors ― only a lot of old toothpicks scattered over the mats.

   The young wife had been too lazy to put her tooth picks away properly; and every day, after having used a new toothpick, she would stick it down between the mats on the floor, to get rid of it. So the little fairies who take care of the floor-mats became angry with her, and tormented her.

   Her husband scolded her, and she was so ashamed that she did not know what to do. A servant was called, and the toothpicks were taken away and burned. After that the little men never came back again.

――――――

THERE is also a story told about a lazy little girl, who used to eat plums, and afterward hide the plum-stones between the floor-mats. For a long time she was able to do this without being found out. But at last the fairies got angry and punished her.

   For every night, tiny, tiny women ― all wearing bright red robes with very long sleeves,― rose up from the floor at the same hour, and danced, and made faces at her and prevented her from sleeping.

   Her mother one night sat up to watch, and saw them, and struck at them,― and they all turned into plumstones! So the naughtiness of that little girl was found out. After that she became a very good girl indeed.

――――――

 

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「ちんちん・こばかま」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認することが出来る。]

 かういふ小さな妖精は、西洋のお伽噺にはよく出て來るから、西洋人には却つてわかりいゝかも知れぬが、日本にはあまり同額がない。「黑甜瑣語」にあるのは、秋の夜のつれづれに獨り家に居ると、疊の間から筆の長さぐらゐの小人が三四人出て、そこらを駈け𢌞つて戰ふ。煙管でこれを打てば、皆消えてなくなつたが、暫くしてまた一人出て來た。今度は鎧冑に身を固め、大將軍の風がある。弓に矢をつがへて放つのを、また煙管で拂つたが、その時矢に射られたと思つたのは、恐らく自分の煙管で傷つけたのであらう。その時以來一眼になつた。――この小人は「黑甜瑣語」の著者も、どうやら幻想と解してゐるやうである。

[やぶちゃん注:以上は「黑甜瑣語」は「第一編卷之四」にある「棚谷家の怪事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。確かに最後のところで筆者人見蕉雨は『心鬱の祟りならんか』と述べている。悪くない。私は一読、平安末から鎌倉初期頃に描かれた私の好きな絵巻「病草紙」の、小法師の幻覚を見る男の絵、詞書に、

   *

なかごろ持病もちたるおとこありけり やまひおこらむとては たけ五寸ばかりある法師の かみぎぬきたる あまたつれだちて まくらにありと見みえけり

   *

とあるのを鮮やかに思い出した。熱性マラリアによる脳症のそれというより、私はこれは重篤な精神疾患による幻覚症状と思っている。]

「聊齋志異」の「小獵犬」は、僧院に在つて蚤蚊に苦しめられ、夜ろくろく睡り得ぬ人が、食後、橫になつてぼんやりしてゐると、小さな武士が馬に乘つて出て來た。臂にとまらせた鷹は蠅ぐらゐの大きさである。この武士が室内をぐるぐる駈け𢌞つてゐるうちに、また一人現れた。前の武士と同じやうな行裝をしてゐるが、この方は大蟻ぐらゐの犬を曳いてゐる。やがて室内には何百人といふ武士が、各々鷹を携へ犬を曳いて現れ、一齊に活動をはじめた蠅や蚊は鷹を放つて捕らせる。獵犬は牀と云はず、壁と云はず攀じ登つて、蚤や虱を退治する。瞬く間に一掃してしまつた。寢たふりをしてぢつと見てゐると、今度は黃色の著物に平らな冠をかぶつた人が出現した。これは王者の如く別の腰掛に倚る。今まで活動してゐた武士達は、悉くその周圍に集まり、獲物を獻上するやうであつたが、何を云つてゐるのか少しもわからない。黃衣の人が輦(てぐるま)に登ると同時に、武士達は慌しく馬にまたがり、紛紛としていづれへか走り去つた。その有樣は歴々と目に殘つてゐるけれど、何の痕跡もない。自分の身邊を見𢌞しても、一切が夢のやうである。たゞ夢でない證據には、壁のところに小さな犬が一疋殘つてゐた。急いでこれをつかまへ、硯箱の中に飼ふことにしたが、飯粒などは匂ひを喚ぐだけで顧みず、寢室に登り、著物の縫目を尋ねて蚤虱の類を獵る。お蔭で僧院のさういふ蟲類は全く驅除された。犬はどこかへ行つてしまつたかと思ふと、依然この室内にぢつとしてゐる。或時晝寐をした際に、ついその人の下敷きになつて死んでしまつた。「池北偶談」の記すところも、ほゞこれと同じである。黃衣の人が朱衣であるのと、一疋取り殘された獵犬が下敷きの厄に遭はぬ點が、僅かに違つてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:これは私の偏愛する清代の志怪小説集である、蒲松齢の「聊齋志異」の「卷四」の「小獵犬」である。中文サイトにある原文を加工して、まず、引く。

   *

山右衞中堂爲諸生時、厭冗擾、徙齋僧院。苦室中蟲蚊蚤甚多、竟夜不成寢。食後、偃息在牀、忽一小武士、首插雉尾、身高兩寸許、騎馬大如蜡、臂上靑鞲、有鷹如蠅、自外而入、盤旋室中、行且駛。公方凝注、忽又一人入、裝亦如前。腰束小弓矢、牽獵犬如巨螘。又俄頃、步者、騎者、紛紛來以數百輩、鷹亦數百臂、犬亦數百頭。有蚊蠅飛起、縱鷹騰擊、盡撲殺之。獵犬登牀緣壁、搜噬蝨蚤、凡罅隙之所伏藏、嗅之無不出者、頃刻之間、決殺殆盡。公僞睡睨之。鷹集犬竄於其身。既而一黃衣人、著平天冠、如王者、登別榻、繫駟葦篾間。從騎皆下、獻飛獻走、紛集盈側、亦不知作何語。無何、王者登小輦、衛士倉皇、各命鞍馬、萬蹄攢奔、紛如撒菽、煙飛霧騰、斯須散盡。公歷歷在目、駭詫不知所由。躡履外窺、渺無蹟響。返身周視、都無所見、惟壁磚上遺一細犬。公急捉之、且馴。置硯匣中、反復瞻玩。毛極細葺、項上有小環。飼以飯顆、一嗅輒棄去。躍登牀榻、尋衣縫、齧殺蟣蝨。旋復來伏臥。逾宿、公疑其已往、視之、則盤伏如故。公臥、則登牀簀、遇蟲輒噉斃、蚊蠅無敢落者。公愛之、甚於拱壁。一日、晝寢、犬潛伏身畔。公醒轉側、壓於腰底。公覺有物、固疑是犬、急起視之、已匾而死、如紙翦成者然。然自是壁蟲無噍類矣。

   *

次に、やはり、私の偏愛する柴田天馬氏(パブリック・ドメイン)の訳を角川文庫版(年昭和五三(一九七八)年改版十五版・新字)で示す。注などいらぬ。充分、天馬節で判り、同時に楽しめる。

   *

 

 小猟犬

 

 山西の衛中堂がまだ諸生であった時、やかましいのを厭って、書斎を僧院に移したが、部屋(へや)には、虫(なんきんむし)や、蚊(か)や、蚤(のみ)が、ひどく多かったので、一晩苦しんで寝つかれず、食後に、牀(ねだい)で休んでいると、首に雉(きじ)の尾を插した、二寸ばかりの身のたけの小さな武士が、蜡(ろうむし)ぐらいの大きさの馬に乗り、腕に青い鞲(ゆごて)をかけ、それに蠅(はえ)ほどの鷹(たか)をとまらせて、外からはいって来ると、部屋の中をぐるぐる駆けまわるのだった。

 公が、じっと見ていると、また一人はいって来たが、やはり前のような装いで、腰に小さな弓矢をつけ、大きさが蟻(あり)ほどの野犬をひいていた。また、しばらくすると、歩(かち)の者、騎馬の者が数百人紛々とやって来た。鷹もやはり数百羽、犬もやはり数百匹だった。そうして蚊や蠅が飛びたつと、鷹を放って、ことごとく撲殺(うた)せ、野犬は寝台に登って壁をよじ、あらゆるすきまに隠れているのを、すっかり嗅ぎだし、しばらくの間に、ほとんど殺し尽くしたが、鷹や犬はねたふりをして見ている公のからだに、集ったり隠れたりするのだった。

 そのうちに、黄色い衣をき、平天冠(へいてんかん)をつけた王さまのような人が、ほかの寝台に登って、馬を葦篾(あんぺら)の上につながせると、従っている騎兵はみな馬から下りて、飛(つばさ)あるもの、走(あし)あるものをたてまつり、おそばに群れつどったが、どういうことを言っているか、わからなかった。

 まもなく、王が小さな輦(くるま)に登(の)ると、衛士はみな、あわただしく馬にまたがり、駒を並べてはせゆくありさまは、山椒の実をまきちらしたようで、土けぶりをたてて、たちまち、いなくなってしまった。

 公は、ありありと見てはいたものの、どこから来たのか、わからないので、履(くつ)をはいて出て見たがあとかたもなかった。帰ってきて見まわしたけれど、何も見えず、ただ壁瓦(かべかわら)の上に一匹の小犬が残されているだけだった。

 公は急いでそれを捉(つか)まえた。慣れているのだ。すずり箱の中に置いて、よく見ると、毛がたいそう細やかで、首に小さな環(わ)がはめてあった。飯粒をやったが、ちょっと嗅いで捨ててしまい、寝台に飛びあがって衣縫(ぬいめ)をさがし、蝨や蟣(たまご)をかみ殺すと、すぐに、また帰って来て寝ころんでいた。

 一晩すぎた。公は、それがもう、どこへか行ってしまったろうと思いながら見ると、もとのように丸くなって伏(ね)ていた。そして公が寝ると、寝台のむしろにあがって来て、虫を見さえすれば、食い殺した。蚊でも蠅でも、もらすことはなかった。

 公は犬を愛すること拱壁(たま)よりもはなはだしかったが、ある日、昼寝をしていて、犬が身のまわりに潜伏(もぐりこ)んだのを知らず、目をさまして寝がえったので腰の下に圧しつぶしてしまった。公は、きっとそれが犬だったろうと思い、急いで起きて見ると、紙を剪(き)ってつくったように、平たくなって死んでいた。しかし、それからは、虫(なんきんむし)が無噍類(たえた)のである。

   *]

 以上の三つの話は、恐らく相互に關係はなからう。小人がすべて武士であるのも偶然の類似と思はれる。「ちん・ちん・こばかま」の歌も愉快でないことはないが、憾むらくは規模が小さい。一室に鷹犬を放つて害蟲を除くの壯快なるに如かぬ。

2015/06/20

竹靑(蒲松齡「聊斎志異」柴田天馬譯)

 
 
[やぶちゃん注:昨年の五月に始めながら、既に一年近く更新をしていない、このブログ・カテゴリ「聊斎志異」の底本を変更(かえ)、公開の方式(しかた)もPDF横書版とワード文書縦書版とすることにした。
 
 一義(ひとつ)は、ルビ・タグでブログ公開することが、異様に労多くして実少ないと感じた故(から)である。しかも私のブログではルビ・タグを含むHTMLテクストを一寸でも修正(なお)そうとしようもんなら、表示(みため)がぐちゃぐちゃになってしまうのである。当初、PDF縦書のみで考えたが、一部の漢字が横転するのが如何にも気持ちが悪い。そもそもが天馬訳を横書で読むこと自体が私に言わせれば、邪道(あっちゃなんねえはなし)だからでもある。
 
 次に、底本の問題である。
 
 実は電子化を始めた直後に、toumeioj3氏のブログ「武蔵野日和下駄」の「柴田天馬訳の聊斎志異について(2)」を図らずも発見(みいだし)、そこで天馬氏の訳文が、角川文庫版ではこれ、実におぞましいほどに、いじられ、改変されている事実を知ったからである(これは最早、改竄と断じてよい)。それで実は、一気に底本としていた角川文庫版への信頼(シンパシイ)が失せ、同時に、「聊斎志異」電子化の意欲(やるき)も完膚無きまでに折れてしまったというのであった。……週に一度、妻のリハビリの迎えに下界に下りるだけの謫仙人(しまながし)たる私は、この数年、新たに書籍(ほん)を求めること自体をしなくなっており、新たに先行する天馬訳の諸本を入手して仕切り直すというような律義(かたぎ)な意思(おもい)も動かなかったのであった。……
 
 そのうち、先般(さきごろ)、ふと、すっかり御厄介になっている国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの中に、抄本(ばっすいやく)乍ら、戦前の豪華絢爛(きんきらきん)の天馬訳があることを知り、漸くやる気が復活(もどっ)たという訳である。
 
 かくして底本は、同ライブラリーの大正一五(一九二六)年第一書房刊に変えた。しかも当然(あたりきしゃりき)、正字正仮名版であって、その点でもこれ、打込(タイピング)しても頗る心地好(むねがす)くんである。
 
 踊り字「〱」「〲」は正字化した。但し、底本は総ルビであり、これはまた、まともにやるとなると、とんでもなく時間がかかるので、天馬訳の真骨頂の箇所、及び、難読或いは読みが振れると私が判断したもののみのパラルビとしたことはお許し願いたい。但し、原文と照応させてみて明らかに意味が通らず、誤植と断ずることが出来たものは注せずに訂した(例えば、原文が「兩月」であるのに「雨月(ふたつき)」とあるようなケース)。最後の注は本文とは一行空けて配した。原典ではポイント落ちで各注一行が二字下げ、二行目以降は一字下げであるが、本文と同じにした。出来上った形は頗る角川文庫版に酷似(そっくり)だが、遙かに正統(まっとう)な天馬訳の電子化であると私は秘かに自負しているんである。原文は従来通り、中文繁体字の「維基文庫」から引いている(柴田氏が底本としたものとは微妙に異なる箇所がある)。……しかしルビ附けが面倒なことには変わりがない。これも次の回の公開が何時になるかは知れぬ。……
 
 手始めに、如何にも御洒落な色塗りで翻案(インスパイア)し、不遜にも中国人に読んでもらうことを末尾で望んでる太宰治の訳や、怪奇談玄人(ホラー・テラー)田中貢太郎訳など、電子テクストがごろごろしている「竹青」を、ここで敢えて持ってくることにした。この如何にも大陸的な乾性(ドライ)な、而して湿性(ウェット)なところはしっかり濡れてる天馬氏の自在奔放(てんまそらをかけるがごとき)それと、是非とも比較して戴きたいためである。なお、本「竹靑」では例外的に第一段落目の「呉王廟」の後に( )本文中にポイント落ちの二行割注が入るが、同ポイント( )で示した。【二〇一五年六月二十日 藪野直史】]

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2014/05/28

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 宅妖

 宅妖たくよう

 大司寇だいしこう一の甥にあたる長山の李翁の家には、あやしいことが多かった。
 あるとき、見ると、広間に大きな肉紅色の春櫈こしかけがおいてあるのだ。李の家には、もとから、そんな物はなかったから、怪しみながら近よってなでてみると、手につれて曲るぐあいが、まるで肉のようにやわらかだった。李は驚いてあとずさったが、ふりかえって見ると、四足を動かして、だんだん壁の中にはいって行った。
 また、きよらかな、ながい、白い棒が壁に立てかけてあるのを見て、近よって、それを持とうとすると、ぐにゃりと倒れて、うねうね壁にはいって行き、やがて見えなくなってしまった。
 康熙十七年、王俊升おうしゅんしょうという秀才が、その家で子弟に教えていたが、ある日暮れ、燈火をつけてから、靴をはいたまま寝台に寝ていると、三寸ばかりの小人が外からはいって来て、ちょっとひとまわりして、また、行ってしまった。しばらくすると、二つの小さな腰かけをになってきて座敷にすえた。それはまるで子どもたちがつかう玉蜀黍とうもろこししんでこしらえたもののようだった。また、しばらくすると、二人の小人が、一つの棺をかついではいって来た。棺は長さがやっと四寸ばかりのもので、それを腰かけの上においた。そして、まだかたづかないうちに、一人の女が数人の廝婢めしつかいをつれてやって来た。みんな前のような小人ばかりである。女は※衣もふくをきて、麻ひもで腰をしぼり、頭を白い布でつつんでいたが、袖で口をおおい、おうおうと泣く声ほ、大きな蠅のようだった。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。]
 王は、しばらく見ているうちに、からだに霜がかかったように、ぞっとしてきたので、わっといって駆けだそうとした。が、寝台の下にころげ落ちたまま、わなわなして、立つことができなかった。
 うちの人たちは、その声を聞きつけて、みんな集まったが、部屋の小さな人物は、もう見えなかった。

  注

一 清朝の刑部尚書である。

■原文

 宅妖

長山李公、大司寇之姪也。宅多妖異。
嘗見廈有春凳、肉紅色、甚修潤。李以故無此物、近撫按之、隨手而曲、殆如肉耎。駭而卻走。旋囘視、則四足移動、漸入壁中。
又見壁間倚白梃、潔澤修長。近扶之、膩然而倒、委蛇入壁、移時始沒。
康熙十七年、王生俊升設帳其家。日暮、燈火初張、生著履臥榻上。忽見小人、長三寸許、自外入、略一盤旋、即復去。少頃、荷二小凳來、設堂中、宛如小兒輩用梁䕸心所製者。又頃之、二小人舁一棺入、僅長四寸許、停置凳上。安厝未已、一女子率廝婢數人來、率細小如前狀。女子※衣、麻綆束腰際、布裹首、以袖掩口、嚶嚶而哭、聲類巨蠅。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。但し、原参考引用元では「※衣」を「衰衣」とする。]
生睥睨良久、毛森立、如霜被於體。因大呼、遽走、顛床下、搖戰莫能起。
館中人聞聲畢集、堂中人物杳然矣。

[やぶちゃん注:私は個人的にこの掌篇の怪異を殊の外、偏愛している。それはその怪異が何らの動機も不吉の前兆ともされずに、ただ投げ出されてあるからである。真に恐ろしい幽霊屋敷、怪談のとはかくなるものをいうと私は信じて疑わないからである。]

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 辛十四娘

 辛十四娘しんじゅうしじょう

 広平こうへいひょう秀才は正徳のころの人で、若い、気がるな酒のみだった。
 あるとき、朝早く歩いていると、美しい娘が、小奚奴ボーイ一を従え、露を踏み、履襪たびをぬらして行くのに会い、いい女だと思ったのである。
 夕がた、酔って帰って来る道ばたに故蘭若ふるでらがあって、その中から出て来たのは、さっきの麗人であった。馮の来るのを見ると、すぐ身をかえして中にはいった。
 馮は、ひそかに考えた、美しい娘が禅寺にいるはずはないと。で、驢馬ろばを門につなぎ、怪しい娘を見届ける気で中にはいった。垣はたえだえにくずれ落ち、階上には細草おぐさが毛氈を敷いたようにはえている。馮がぶらついていると、身なりの小ぎれいな、ごましおの老人が出て来て、
 「客人は、どこから来られたのじゃ」
 聞く。馮は、
 「ふと、この古寺に来たので、ちょっと、うかがいたいと思ったんです。老人はなんでここにこられたんです?」
 「わしは、寄るべがないので、しばらくこの寺を借りて、家内・子どもを落ちつかせているのです。来てくださったんだから、お酒がわりにお茶でもいれましょう。お寄りなされ」
 すすめられてはいって行くと本殿のうしろに一かまえの庭があって、石の路が、きれいに掃除されて草もなく、部屋にはいると、簾幌カーテン牀幌ねだいがけから、香霧が、噴きつけるように漂ってくるのであった。やがて席につくと老人は、
 「わしの姓はしんといいますじゃ」
 と言って姓字をのべた。
 馮は酔いに乗じて、
 「娘ごは、まだ、おつれあいがないと聞きましたので、みずからはからず、鏡台をあげたいと思って来たんです」
 辛は、にこにこしながら、
 「家内に相談してみますでな」
 と言うので、馮は筆を求めて詩を作った。それは、

  千金玉杵せんきんぎょくしょをもとむ。
  いんぎんに手みずからもつ。
  雲英うんえいにもし意あらば、
  みずからため元霜げんそう

 というのである。主人は笑って、そばのものにそれをわたした。しばらくするとじょちゅうが来て、辛に何かささやいた。辛は馮に、待っていてくれとあいさつしてたちあがり、幕を引きあげて奥にはいっていった。そして、こそこそ三口四口話して出てきた。馮は、きっと、よい返事があるだろうと思っていた。しかし、辛はすわりこんで笑いばなしをするばかりで、ほかの事は何も言わないのだ。馮は耐えられなくなって、
 「どうです。聞かせてください」
 と言うと、辛は、
 「あなたは、えらいかたです。久しくしたっているのです。しかし私の考えは言えませんじゃ」
 馮は、かたく話してくれと頼んだ。すると辛は、
 「子どもは十九人で、嫁にいったのが十二人あります。かたづけるのは家内まかせで、わしは取りあわんことになっていましてな」
 と言うのである。
 「小生は、今朝小奚奴をつれて露にぬれながら歩いていた人がほしいんです」
 辛は答えなかった。二人は黙って向かいあっていた。すると、奥からやさしい声が聞こえてきたので馮は酔いに乗じて簾をかかげ、
 「妻にもらえんければ顔でも見て、それで、満足しましょう」
 と言った。簾の鉤の動く音を聞くと、内では、みんな立ちあがって、驚きながめるのであった。そのなかに、袖を振り、かみをかたむけ、すらりと立って帯をいじりながら、はいってくる人を見ている紅い着ものの人がいた。
 部屋じゅうが騒ぐのをみて辛は怒った。そして数人の下男に言いつけ、馮を外に突き出した。馮は酒がいよいよまわってきたので、草の中に倒れてしまった。すると瓦や石が雨のように乱れ落ちてきたが、幸いにしてからだには当たらなかった。
 しばらくていると、驢馬がまだ路ばたで草を食っているのが聞こえたので、起きあがって驢馬にまたがり、ふらふらしながら行くのであったが、おぼつかない夜だったので、途を誤って谷あいにはいった。狼が歩いたりふくろうが鳴いたりするのである。馮は、ぞっと身の毛をよだたせ、うろうろ見まわしたがどこだか少しもわからなかった。と、はるかに木だちの中から、燈火がちらちらもれているので、たぶん村落だろうと思って、そこをさして馳せつけると、仰いで見るような高い門があった。鞭で門をたたくと中で、
 「どこのかたです。こんな夜中においでになったのは」
 と聞く人があった。馮が路に迷ったのだと言うと、
 「お待ちなさい、主人に申しますから」
 馮は足をならべてくぐいのように待っていたが、しばらくするとかんぬきをははずして扉を開き、たっしゃそうな下男が出て来て、馮に代わって驢馬をひいてくれた。
 案内に従って中にはいった。たいそうりっぱな部屋で、座敷には燈火が輝きわたっていた。しばらくすわっているうちに、婦人が出て来て、姓名をたずねた。馬が名を告げると、ややあって数人の靑衣こしもとが一人の老夫人を助けて出て来た。そして、
 「郡君ぐんくん四がおいでです」
と言った。馮が起立して、うやうやしく拝礼しようとするのを老夫人は止めて座につかせ、自分もすわって、
 「おまえは馮雲子ひょううんしの孫ではないかね」
 と言うので、馮が、
 「そうです。どうしてごぞんじなんです」
 と聞くと老夫人は、
 「おまえは、わたしのとお甥なのじゃ。わしは鐘漏並歇としをとっ五て老いさきがないのに、骨肉しんみのなかでいながら、とんとぶさたをしていますじゃ」
 と言うので、馮は、
 「わたしは小さいときに父を失ったもんですから、わたしの祖父のころの人は、十人のなかで一人も知らないくらいなんです。まだお会いした事がありませんが、どうぞ教えていただけませんか」
 と言うと、老夫人は、
 「おまえ、いまにわかるよ」
 と言うので、馮はふたたび聞かなかった。そして向かいあったまま考えていた。すると老夫人が、
 「おまえ、こんな夜ふけにどうしてここへ来たのです」
 馮は胆力を誇ろうと思って、今夜であった事を詳しく話した。老夫人は、にこにこして、
 「たいへんよい事じゃ。まして、おまえは人に知られた秀才じゃから、縁者の恥になりほせぬ。野狐なぞがいばることはでけんのじゃ。おまえ心配するにおよばん。わしが、うまく呼んであげるからの」
 馮は、はいはいと礼を言った。老夫人は側の者に、
 「わしは辛家の女の子を知らんが、そんなに、よいかの」
 すると腰元が、
 「あれには十九人娘があって、都翩々有風格みなひとがらでございます。あなたが娶りたいとおっしゃるのは、何番めですかしら」
 馮は言った、
 「年が、かれこれ十五あまりなんです」
 「それは十四番めの娘でございます。三月ちゅう、母親について郡君あなたをお寿いわいにまいりましたのに、どうしてお忘れあそばしたんです?」
老夫人は、にこにこして
 「そんなら、蓮のはなった高いくつをはいて、履のなかに香くずをいれ、しゃでうえをいて歩いていたのかえ?」
 「そうでございます」
 そこで、
 「あのこは、おめかしが、うまいのだね。そしてほんとに美しかったよ。甥の賞鑒めききは、あやまっとらん」
 と言って老夫人は腰元に向かい、
 「小狸をやって呼んで来さしなさい」
 腰元は、はいと言って部屋を出たが、しばらくたってからはいって来て、
 「辛家の十四娘を呼んでまいりました」
 と言った。
 すぐ紅衣の娘が来て老夫人の前にひれふし、拝礼しようとするのを老夫人は引きとめて、
 「ゆくゆくは、うちの甥嫁じゃ、女中の礼をしなさるな」
 娘は立ちあがって、紅衣の袖を低く垂らし、すらりと立っている、その髪をなでつけて、耳環をいじりながら、
 「十四娘、近ごろうちにいて、どんなことをしてじゃ」
 「ひまな時には、ただ挑繡ぬいとりをしております」
 と答えたが、ふりむいて馮を見ると、はにかんで不安そうな顔をしていた。
 老夫人が、
 「これは、わしの甥で、熱心におまえと縁ぐみをしたがっているのじゃ。なぜ路に迷わせたり、一晩じゅう谷を歩かせるようなめに、あわしたのだえ?」
 と言うと、娘は、うつむいたまま黙っていた。
 「わしがお前を呼んだのは、ほかではない。甥のために、仲人をしようと思うてじゃ」
 娘が黙っているばかりなので、老夫人はねだいを掃除して、ふとんを敷くように言いつけ合巹とこいりをさせようとするのだった。娘は、はにかみながら、
 「帰って父や母に申します」
 「わしがお前のために、仲人をするのじゃ。なんのまちがいが、ありましょうぞ」
 「父母は、郡君あなたのおおせにそむくようなことはありますまいが、こんなに早々では、わたくし、おおせにしたがえません」
 おだやかな顔つきなのだが、どこやらに強い気持ちが漂っていた。老夫人は、にこやかに、
 「小娘ながら志を動かせぬのは、まったく、わたしの甥嫁ほどある」
 と言って娘の頭上から金のかんざしの一つを抜いて馮にわたし、家に帰って吉日をきめるように言いつけた。そして腰元に娘を送りかえさした。遠くの方で鶏のうたうのが聞こえるのである。老夫人は下男に命じて驢馬をひかせ、馮を送り出させた。数歩の外に出て、ふりかえると、村舎いなかやはもうなくなって、ただ松、ひさぎがくっきり黒く、蓬の穂が墓をおおっているはかりだった。馮は、しばらく考えてから、やがてそこが薛尚書せつしょうしょの墓であることに気づいた。薛尚書というのは、もと、馮の祖母の弟であったので、馮を甥と言っていた。馮はゆうれいにあったのだと悟ったが、十四娘が何者であるかわわからなかったので、嘆息して帰ってから、心の中で、でたらめに日どりをきめて待ってはいたが、幽霊の約束が頼みになるとは思われなかった。それでまた蘭若てらに行ってみると、荒涼たる殿宇おどうがあるばかりである。土地の人に聞くと、寺内でときどき狐を見かけると言った。馮はひそかに、もし、あんな麗人がもらえるなら、狐でも、いいと思った。
 やがてその日が来た。馮は思い切れないで、家や路を掃除させ、かわるがわる下男をやってながめさせたけれども、夜半になっても音さたがなった。馮は望みを失ってしまったが、にわかに、門外が騒がしいので、急いで出てみると、ぬいとりをしたほろが庭にとまって、腰元が娘を助け下ろし、靑廬しきじょうちゅうにすわらせた。しかし常例の妝奩きょうだいなどはなくて、ただ二人の髯の長い男が、酒甕ぐらいの大きな撲満ぜにがめ六を一つかつぎこみ、肩を休めると、それを部屋の隅に置いたのである。
 馮は麗人を得たの喜んで、それが異類あることなどは少しも気にしなかった。あるとき女に、
 「君の家では、なぜ死鬼しんだものをあんなに尊敬するんだね」
 と聞くと女は、
 「薛尚書へきしょうしょは今では五都巡環使ごとじゅんかんしで、何百里の間の間の幽霊も狐も、みな尚書に従っているんです。それでお墓にお帰りになる時はまれなんです」
 馮は蹇修なこうど七を忘れなかった。あくる日、お墓に行って祭りをして帰ってくると、二人の腰元がいわいに来て、貝や錦を机の上に置いて帰った。馮が女に言うと、女はそれを見て、
 「これは郡君の物ですわ」
 と言った。
 村に楚という銀台ぎんだい八があって、その公子は小さいときから馮といっしょに学問をした仲でたいそう相狎こころやすかったので、馮が狐の妻をもらったというのを聞いて、披露のしゅうぎ九をおくった。そして披露宴に来て、祝い酒を飲んで帰ったが、数日後また手紙で招いた。女は馮に、
 「いつか公子が来た時、わたし壁の穴から、のぞいて見たんですが、猿のような目で鷹のような鼻で、長くつきあう方ではありません。行ってはいけませんよ」
 と言うので、馮は招宴に行かなかった。すると、あくる日、公子は約束にそむいたといって責めに来て新作をせた。そこで馮は遠慮のない批評をしたが、嘲笑わるくちがまじっていたので、公子は、ひどく恥じ、いやな思いをして帰っていった。その晩、馮がねまで笑いながら話をすると、女は悲しそうに、
 「公子はおおかみのようなかたで、れては、いけないんです。あなた。あたしの言うことを聞かないから、いまに災難が来ますよ」
 と言うのであった。
 馮は、それを聞くと笑いながら謝った。そしてその後、公子に会うごとにお世辞を言って機嫌をとったので、前のへだても少しずつとけていった。
 おりから提学ていがく一〇の試験があった。公子は第一番だったので、へらへら喜んでいた。[やぶちゃん特例注:原文は「會提學試、公子第一、生第二」とあるから、馮は次席であったんである。これを訳から落すとちょっと以下の展開が摑みにくくなるので特に注した。]
 ある日、公子は使いをよこして馮を迎えた。いっしょに飲もうというのである。馮は断わったが、しきりに招くので、しかたなしに出かけて行った。来てみると、それは公子の初度たんじょう一一いわいだった。賀客が満ちあふれ、盛大な宴会が開かれていた。公子は高慢な顔をして試験のかきものを出して馮に見せた。親しい学友たちは肩をかさねて歎賞した。そのうちに酒が幾まわりかして、広間では音楽がかなでられ、笛や鼓の音が入り乱れて、客も主もたいそう楽しかった。と、公子は馮に向かって、
 「ことわざに、場中文じょうちゅうぶんを諭ぜずということがあるが、このことばのあやまりであることをいま知ったよ。ぼくが君より上に出られたわけはだね、はじめの数語が少しまさっていたからなんだね」
 公子がこう言うと、一連の人たちは、みんなほめたたえたが、馮は酔っていたので、こらえきれず大笑した、
 「はっ、はっ、はっ。 君は今になっても、まだ文章のためにこうなったと思ってるのか?」
 馮のことばを聞いて一座の人たちは色を失った。そして、公子は、気が結ぼれるほど恥じもし怒りもした。そのうちに客はだんだん去ってしまった。馮も、やはり逃げるように帰ったが、酒がさめてから後悔して女に話した。女は、わびしげな顔をして、
 「あなたは、ほんとに郷曲いなか儇子あわてもの一二なのね。君子に対して軽はずみなことをすれば、自分の徳をなくなすし、小人に対してすれば自分の身を殺すことになりますのよ。あなたには遠からずさいなんが来るでしょう。あたし、あなたのおちめを見てはいられませんから、これぎり、別れたいと思うんです」
 女は真剣なのである。馮は心配して泣いてあやまり、後悔していると言うと、女は、
  「もしも、あたしを留めようと思うんだったら、これからは、戸を閉めて遊び仲間と手を切る、むだな酒は飲まないと、はっきり約束をしてください」
 と言うので、馮はまじめに女のことばに従ったのである。
 十四娘は勤倹な一面灑脱しゃだつなたちであった。毎日縫いものや織りものに精を出していて、時には里帰りをすることもあったが、泊まってくることはなかった。また、暮らしの金を払った残りは撲満ぜにがめに投げ入れるのだった。こうして毎日、門をしめ、たずねて来る者があれは、下男に言いつけて、ことわらせた。
 その翌日、楚公子から手紙が来たが、女は焼き捨てて馮に聞かせなかった。またその翌日、馮は城内にくやみに行って、死んだ人の家で公子に会った。すると公子は馮の手を取って、飲みに来いと、ひどく誘うのだった。さしつかえがあるからと言って、ことわったが、公子は圉人ばていくつわをひかせてつれて行った。
 公子の家に来ると、すぐ洗腆さけさかな一三いつけた。馮は、また早く帰りたいと言ったけれども、公子は、無理に引きとめ、家の姫を出してことかせ音楽をやらせるのであった。
 馮は根がかまわないたちだったし、先ごろから家に閉じこもって、ひどくいらいらしていたところへ、いきなり、ひどく飲んだので気が大きくなり、なんの考えもなく、酔い倒れてしまった。
 公子の妻の玩氏がんしは、ひどい焼きもちやきで、腰元や妾に化粧をさせないほどだった。二、三日前、女中が公子の書斎にはいっているところを玩氏につかまり、杖で頭を打たれ、頭が裂けて即死してしまった。公子は馮が嘲弄したというので、馮に遺恨をふくみ、毎日しかえしを考えているところへ、この事があったので、酔わして無実の罪に落とそうとはかり、馮が酔って寝ているのに乗じて、女中の死骸を寝台のそばにきこんだ。そして扉を閉めて、行ってしまった。
 馮は朝まだきに酒がさめ、はじめて自分が卓の上に寝ているのに気がついた。起きて枕や寝台をさがし歩いていると、何やら、やわらかいものが足にさわった。手でなでてみると人間なのである。馮は主人が、子供を伴睡とぎによこしたのだろうと思って、また、それを踏んでみたけれども動かないのだ。馮はたいそう驚いて、部屋の外に出て、どなった。すると下男たちが、みんな起きてきた。彼らの持っている燈火で照らし出されたのは女の死骸だった。下男たちは馮を下手人だと言って騒ぎたてた。そこへ公子が出てきてその場を調べ、氷河が逼奸ごうかんしようとし女中を殺したのだと言い張って、馮に無実の罪をきせ、馮をとらえて広平の役所に送った。
 翌日、はじめて、その事を知った十四娘は澘然さんぜんとして、[やぶちゃん特例注:「澘然」は正しくは「潸然」(サンゼン・センゼン)で、涙が流れるさま、さめざめと涙を流すさま、の意。]
 「今日のことがあろうとは早くから知っていた」
 と言った。そして日取りを考えては、獄中の馮に金をおくってやるのであった。
 馮は府尹ふちじに調べられたが、言いひらきができなかった。朝夕拷問を受けるので、皮肉がすっかり落ちてしまった。そこへ女が会いに来た。その顔を見ると、胸がふさがって物も言えなかった。女は落し穴の深いのを知り、冤罪えんざいに服して刑をまぬかれるようにすすめた。馮は泣いてそれに従った。女の行き来を人は咫尺ちかくにいながら見ることができなかった。
 女は帰ってくると部屋にこもって泣いていたが、急に女中をどこかへやって、何日かひとりで暮らしていた。そして仲人婆さんに頼んで、禄児という良家の娘を買った。じゅうごになる花のように美しい娘であった。寝起きから、飲み食いまでをともにして、その、かあいがりようといったら、ほかの子供たちとは、まるで違っていた。
 馮は誤殺を承認したので、絞殺に擬せられた。そのたよりを持って帰った下男は、声もでないほど泣くのであったが、女はそれを聞いても平気で、気に止めぬようであった。が、死刑の日がきまると、女は、はじめて、あわてふためき、夜も昼も出歩いて足を休める間もなかった。そして、いつも寂しいところで泣いていた。寝も食いもしないほどだった。
 ある日、夕がた、狐の腰元が、ひょっこり帰って来た。女はすぐに起ちあがり、手を引きあって人のいないところに行き、ひそひそと話していたが、出て来たときには、すっかり、にこやかになっていて、ふだんのように家事をかたづけていたのであった。
 翌日、下男が獄舎に行くと、馮はことづけたのである、奥さまに一度来て、長の別れをするようにと。で下男はそのとおりを伝えたのであるが、女は、いいかげんな返事をして、少しも悲しまず、平気でいたから、家の者は、ひそかに、むごいと言って非難するのだった。
 楚銀台は免職されて、平陽の観察が特に聖旨を奉じて馮生の事件を裁くことになった、といううわさがわくように言い伝えられた。下男はそれを聞くと喜んで奥さまに知らせた。女も喜んで下男を役所にやって探らせた。下男が行った時には、馮はもう獄舎から出されていて、たがいに悲しんだり喜んだりしているとき、突然、公子が捕まってきた。ただ一鞠ひとしらべですっかり事情がわかったので、馮は許されて家に帰り、妻を見ると、はらはらと涙を流す、女もまた相対して泣くのであった。
 しかしなんで上聞に達したかが、どうしてもわからないので馮が不思議がると、女は笑って腰元を指さし、「これが、あなたの功臣なの」
 と言った。馮は驚いて、わけをたずねた。
 これより先、女は腰元を都にやって、馮の冤罪を宮廷のお聞きに達しようとしたのである。腰元は都についたが、宮中は神さまが守護しているので、御溝おほり一四のあたりをうろつくばかりで、幾月かはいられなかった。で、腰元は、やりそこないはしないかと心配し、一度帰って相談しようと思っていると、天子が大同府に御幸みゆきになるということを聞いたので、腰元は先に行って流れわたりの遊女になって待っていた。そし天子の寵愛を受けたのである。天子は腰元が風塵よのつねの者のようでないのを疑われた。すると腰元は涙を流すので、天子が、どんな、つらい事があるのかと聞かれると、腰元は申し上げた、
 「わたくしは原籍が広平で、生員しゅうさい馮某の娘なのでございます。父が冤罪で牢獄に入れられ死にそうになっておりますので、とうとうわたくしを勾欄くるわに売るようなことになったのでございます」
 花のような顔から、涙の露が、ほろほろこぼれ落ちるのである。帝はあわれに思って、百両の金を賜わった。そして、おたちになる時、冤罪の顚末てんまつを、こまかにおたずねになり、紙と筆を出して姓名を書きとめてから、ともに富貴を受けようではないか、とおっしゃった。
 腰元は申し上げた、
 「ただ父子おやこが、いっしょになりたいと思うばかりでございます。華膴ぜいたくをいたそうとは存じません」
 天子は、うなずいて、おたちになった。
 腰元が事情を話すと、馮は涙に目をひからせ、急いで腰元を拝したのである。
 それからまもなくのことだが、女は、だしぬけに言うのであった。
 「あなたと縁を結ばなかったなら、あたし、どこへいったって心配なんかなかったと思いますわ。あなたがつかまった時あたし戚眷間しんるじゅうを奔走したんですが、一人だって相談にのってくれる人がなかつたんです。その時の悲しさといったら、まったく、お話もできないくらいです。今度塵世よのなかを見て、つくづくいやになりました。あなたのためによいつれあいをいときましたから、あたし、これでお別れいたします」
 それを聞くと馮は泣き伏したまま起きあがらなかった。それで女は思い止まったのである。その夜、禄児を馮の侍寝とぎにやったけれど、馮は拒んで納れなかった。朝になって見ると、十四娘の容光が、めっきり落ちていた。そして一月あまりもすると、だんだんふけて半年ほどたったら、まっ黒ないなかのばあさんみたいになってしまった。けれども馮はだいじにして少しも変わらなかった。すると女は、また別れ話を持ち咄して、
 「あなたには、もういつれがあるじゃありませんか、なんで、こんな鳩盤ばあさん一五に用があるんですの?」
 と言った。しかし馮は前のように、ただかなしみ泣くばかりであった。それから、また一月)ほどして、女はにわかに病気になった。飲み食いもせず、弱って閨闈ねやに寝ているのである。馮は父母にかしずくように侍湯薬かんびょうしたが、まじないもききめがなく、とうとう死んでしまった。馮は死ぬほど悲しんで、腰元に賜わった金で、とむらいをすましたが、数日後、腰元も見えなくなったので、禄児を本妻にした。
 その年がすぎると男の子ができた。しかし毎年不作が続いて、家はだんだん落ちぶれて行くのだ。夫婦ともくふうがつかないので、向かいあって悲しむばかりだったが、ふと思いだしたのは部屋の隅の撲甕ぜにがめあった。十四娘がその中に銭を投げ入れるのをつねづね見ていたが、いまでも、まだあるかと思って、そばに行き、豉具とうふつぼ一六やしおつぼなどが、いっぱい並べて置いてあるのを取りのけて、はしでその中を探ってみたが、堅くて箸ははいらぬのだ。仕方がないので打ち割ると、金があふれ出たので、とみに豊かになったのである。
 その後、下男が太華たいかに行ったら、十四娘が靑騾あおうまに乗り、腰元が駿馬にまたがってついてくるのに会った。下男が胆をつぶしてあきれていると、
 「馮さまはごぶじかえ?」
 と、たずねた。
 「ご主人にいっておくれ。あたしは、もう仙人になっています。喜んでくださいまし、とね」
 言ってしまうと見えなくなった。

  注

一 奚は下男。小奚奴は僮すなわち童僕のこと。ボーイと訳しておく。唐の李駕は、小奚奴に古錦囊を負わせ、句を得るとその中に投入したという。[やぶちゃん特例注:この「李駕」は「李賀」の誤りである。]
二 むかし温嶠という人が、妻をうしなって後妻をさがしているおりから、おばの劉氏が、娘のつれあいを見つけてくれと頼んだ。娘を見ると、姿もよしりこうらしくもあるので、住い婿は得がたいが、自分ぐらいでよいか、ときくと、おばは、おまえのようなのは、とても望むことはできないだろう、と答えたのであった。その後、温嶠は報告して、門地や官等が自分より少しも劣らないのを見つけたと言い、結納に玉の鏡台を送ってやった。おばはたいそう喜んだ。それで、いよいよ結婚をする時になって、婿が温嶠自身なのを見た娘は、紗の扇を開きながら、笑って、あたし、もとから、この人だろうと思っていたんですと言った。それから、婿を自薦することを、鏡台をおくる、というのである。
三 昔、裴航という人が、藍橋を過ぎ、のどがかわいたので、ある家の婆さんに、飲むものをくださいといったら、婆さんは娘の雲英に一碗の飲みものを持って来さして、航に飲ました。美しい娘であった。航が妻に欲しいというと婆さんが、あたしは仙人になる霊丹を持っているが、それをく玉製の杵と臼とがないので困っている。もし玉の杵と臼とを持ってきたら娘をあげましょうと答えた。そこで藍航は方方たずねて、やっと玉製の杵と臼とを手に入れ、それを婆さんにやって雲英を娶った。もちろん婆さんは霊丹を飲んで仙人となった。藍航と雲英も、のち、やはり仙人となった。[やぶちゃん字注:「く」は底本では「搗(つ)く」でルビではない。これは底本の注がポイント落ちであるためにルビが読み難くなるためであるが、私のテクストでは同ポイントとしているので向後はこれらをルビ化し、本注記も略すこととする。]
四 漢の武帝が、王太后母蔵児を尊んで、平原郡君としたのが、郡君の始めである。
五 魏の田予が「年七十を過ぎて位にいるのは鐘鳴り漏尽きて夜行くがごとし罪人なり」と言ったので、老人のことを、鐘漏、というようになった。
六 土でこしらえ銭を入れる穴がある、満ちるとうちわって出す、それで撲満というのである。今の貯金玉と思えばよい。
七 伏義の臣蹇修は媒をつかさどっていた。
八 宋史職官志に「銀台天下の奏状を掌収す」とある。通政司である。
九 婚礼後三日めに開く宴会である。
一〇 提学とは、提督学改すなわち学政使のことで、各省の教育をつかさどり、三年を期として、省内をめぐって試験をするのである。
一一 初度は出生した日のことで、誕生の祝日のことをいう。
一二 荀子に、郷曲優子、とあって、注に、軽薄巧慧の子なり、とある。
一三 洗は清潔にすること。腆は厚くすること。書経に、洗腆致用致酒、とある。
一四 長安の御溝は、楊溝ともいう、楊を上に植えてあるからだ。また羊が角で垣墻をいためるのを防ぐために、溝をほって羊をへだてるようにしてあるから、羊溝とも禁溝ともいうのである。そして、終南山の水を引いてあるのが、宮中を通ってくるおんで、御溝ともいう、と中華古今の注にある。
一五 唐の任瓌が、妻の杜正倫をおそれて、女には、三の畏るべき時代がある。その一つは、少妙にして生き菩薩のような時だ。その一つは、児女満前にして九子魔母のような時だ。その一つは、五、六十になって薄く妝粉を施し、あるいは靑く、あるいは黒く、鳩盤荼のような時だ、といった。鳩盤荼というのは、鬼の名である。
一六 豉または豉豆ともいう。黒大豆を蒸してわらで覆い、かびが出たら水をまぜかめに入れて泥で封をしておき、久しくそのままにしておくのである。黴が出てから塩、薑、椒を加えて、甕に入れる遣り方もある。各種の大豆でつくられる。ここでは豉具を、豆腐壺、としておく。[やぶちゃん字注及び特例注:「水をまぜ」の部分、「水を(まぜ)」とあるが丸括弧を除去した。下の「(かめ)」に引かれた記号の衍字と思われる。これは今は比較的知られるようになった、私が殊の外好む調味料「豆豉トウチ」である。ご存じない方はウィキの「豆チ」を参照されたい。]

■原文

 辛十四娘

廣平馮生、正德間人。少輕脱、縱酒。
昧爽偶行、遇一少女、著紅帔、容色娟好。從小奚奴、躡露奔波、履襪沾濡。心竊好之。
薄暮醉歸、道側故有蘭若、久蕪廢、有女子自内出、則向麗人也。忽見生來、即轉身入。
陰念、麗者何得在禪院中。縶驢於門、往覘其異。入則斷垣零落、階上細草如毯。彷徨間、一斑白叟出、衣帽整潔、問、
「客何來。」
生曰、
「偶過古刹、欲一瞻仰。翁何至此。」
叟曰、
「老夫流寓無所、暫借此安頓細小。既承寵降、有山茶可以當酒。」
乃肅賓入。見殿後一院、石路光明、無復蓁莽。入其室、則簾幌床幙、香霧噴人。坐展姓字、云、
「蒙叟姓辛。」
生乘醉遽問曰、
「聞有女公子、未遭良匹。竊不自揣、願以鏡臺自獻。」
辛笑曰、
「容謀之荊人。」
生即索筆爲詩曰、

 千金覓玉杵
 殷勤手自將
 雲英如有意
 親爲擣玄霜

主人笑付左右。少間、有婢與辛耳語。辛起慰客耐坐、牽幕入。隱約三數語、即趨出。生意必有佳報、而辛乃坐與嗢噱、不復有他言。生不能忍、問曰、
「未審意旨、幸釋疑抱。」
辛曰、
「君卓犖士、傾風已久。但有私衷、所不敢言耳。」
生固請之。辛曰、
「弱息十九人、嫁者十有二。醮命任之荊人、老夫不與焉。」
生曰、
「小生祇要得今朝領小奚奴帶露行者。」
辛不應、相對默然。聞房内嚶嚶膩語、生乘醉搴簾曰、
「伉儷既不可得、當一見顏色、以消吾憾。」
内聞鉤動、群立愕顧。果有紅衣人、振袖傾鬟、亭亭拈帶。望見生入、遍室張皇。
辛怒、命數人捽生出。酒愈湧上、倒蓁蕪中。瓦石亂落如雨、幸不著體。
臥移時、聽驢子猶齕草路側、乃起跨驢、踉蹡而行。夜色迷悶、誤入澗谷、狼奔鴟叫、豎毛寒心。踟躕四顧、並不知其何所。遙望蒼林中、燈火明滅、疑必村落、竟馳投之。仰見高閎、以策撾門。内有問者曰、
「何處郎君、半夜來此。」
生以失路告。問者曰、
「待達主人。」
生累足鵠竢。忽聞振管闢扉、一健僕出、代客捉驢。
生入、見室甚華好、堂上張燈火。少坐、有婦人出、問客姓字。生以告。逾刻、靑衣數人、扶一老嫗出、曰、
「郡君至。」
生起立、肅身欲拜。嫗止之坐。謂生曰、
「爾非馮雲子之孫耶。」
曰、
「然。」
嫗曰、
「子當是我彌甥。老身鐘漏並歇、殘年向盡、骨肉之間、殊多乖闊。」
生曰、
「兒少失怙、與我祖父處者、十不識一焉。素未拜省、乞便指示。」
嫗曰、
「子自知之。」
生不敢復問、坐對懸想。嫗曰、
「甥深夜何得來此。」
生以膽力自矜詡、遂一一歷陳所遇。嫗笑曰、
「此大好事。況甥名士、殊不玷於姻婭、野狐精何得強自高。甥勿慮、我能爲若致之。」
生稱謝唯唯。嫗顧左右曰、
「我不知辛家女兒、遂如此端好。」
靑衣人曰、
「渠有十九女、都翩翩有風格。不知官人所聘行幾。」
生曰、
「年約十五餘矣。」
靑衣曰、
「此是十四娘。三月間、曾從阿母壽郡君、何忘卻。」
嫗笑曰、
「是非刻蓮瓣爲高履、實以香屑、蒙紗而步者乎。」
靑衣曰、
「是也。」
嫗曰、
「此婢大會作意、弄媚巧。然果窈窕、阿甥賞鑒不謬。」
即謂靑衣曰、
「可遣小貍奴喚之來。」
靑衣應諾去。移時、入白、
「呼得辛家十四娘至矣。」
旋見紅衣女子、望嫗俯拜。嫗曳之曰、
「後爲我家甥婦、勿得修婢子禮。」
女子起、娉娉而立、紅袖低垂。嫗理其鬢髮、捻其耳環、曰、
「十四娘近在閨中作麼生。」
女低應曰、
「閒來只挑繡。」
囘首見生、羞縮不安。嫗曰、
「此吾甥也。盛意與兒作姻好、何便教迷途、終夜竄谿谷。」
女俛首無語。嫗曰、
「我喚汝、非他、欲爲阿甥作伐耳。」
女默默而已。嫗命掃榻展裀褥、即爲合巹。女然曰、
「還以告之父母。」
嫗曰、
「我爲汝作冰、有何舛謬。」
女曰、
「郡君之命、父母當不敢違。然如此草草、婢子即死、不敢奉命。」
嫗笑曰、
「小女子志不可奪、真吾甥婦也。」
乃拔女頭上金花一朵、付生收之。命歸家檢曆、以良辰爲定。乃使靑衣送女去。聽遠雞已唱、遣人持驢送生出。數步外、歘一囘顧、則村舍已失、但見松楸濃黑、蓬顆蔽冢而已。定想移時、乃悟其處爲薛尚書墓。薛故生祖母弟、故相呼以甥。心知遇鬼、然亦不知十四娘何人。咨嗟而歸、漫檢曆以待之、而心恐鬼約難恃。再往蘭若、則殿宇荒涼。問之居人、則寺中往往見狐狸云。陰念、『若得麗人、狐亦自佳』。
至日、除舍掃途、更僕眺望、夜半猶寂。生已無望。頃之、門外譁然。屣屣出窺、則繡幰已駐於庭、雙鬟扶女坐靑廬中。妝奩亦無長物、惟兩長鬣奴扛一撲滿、大如甕、息肩置堂隅。生喜得麗偶、並不疑其異類。問女曰、
「一死鬼、卿家何帖服之甚。」
女曰、
「薛尚書、今作五都巡環使、數百里鬼狐皆備扈從、故歸墓時常少。」
生不忘蹇修、翼日、往祭其墓。歸見二靑衣、持貝錦爲賀、竟委几上而去。生以告女、女視之、曰、
「此郡君物也。」
邑有楚銀臺之公子、少與生共筆硯、相狎。聞生得狐婦、餽遺爲餪、即登堂稱觴。越數日、又折簡來招飮。女聞、謂生曰、
「曩公子來、我穴壁窺之、其人猿睛而鷹準、不可與久居也。宜勿往。」
生諾之。翼日、公子造門、問負約之罪、且獻新什。生評涉嘲笑、公子大慚、不懽而散。生歸、笑述於房。女慘然曰、
「公子豺狼、不可狎也。子不聽吾言、將及於難。」
生笑謝之。後與公子輒相諛噱、前郤漸釋。
會提學試、公子第一、生第二。
公子沾沾自喜、走伻來邀生飮。生辭、頻招乃往。至則知爲公子初度、客從滿堂、列筵甚盛。公子出試卷示生。親友疊肩歎賞。酒數行、樂奏作於堂、鼓吹傖儜、賓主甚樂。公子忽謂生曰、
「諺云、『場中莫論文。』此言今知其謬。小生所以忝出君上者、以起處數語、略高一籌耳。」
公子言已、一座盡贊。生醉不能忍、大笑曰、
「君到於今、尚以爲文章至是耶。」
生言已、一座失色。公子慚忿氣結。客漸去、生亦遁。醒而悔之、因以告女。女不樂曰、
「君誠郷曲之儇子也。輕薄之態、施之君子、則喪吾德、施之小人、則殺吾身。君禍不遠矣。我不忍見君流落、請從此辭。」
生懼而涕、且告之悔。女曰、
「如欲我留、與君約、從今閉戸絶交遊、勿浪飮。」
生謹受教。
十四娘爲人勤儉灑脱、日以紝織爲事。時自歸寧、未嘗逾夜。又時出金帛作生計。日有贏餘、輒投撲滿。日杜門戸、有造訪者、輒囑蒼頭謝去。 一日、楚公子馳函來、女焚爇不以聞。翼日、出弔於城、遇公子于喪者之家、捉臂苦邀。生辭以故。公子使圉人挽轡、擁之以行。
至家、立命洗腆。繼辭夙退。公子要遮無已、出家姬彈箏爲樂。
生素不羈、向閉置庭中、頗覺悶損、忽逢劇飮、興頓豪、無復縈念。因而酣醉頽臥席間。
公子妻阮氏、最悍妒、婢妾不敢施脂澤。日前、婢入齋中、爲阮掩執、以杖擊首、腦裂立斃。公子以生嘲慢故、啣生、日思所報、遂謀醉以酒而誣之。乘生醉寐、扛尸床間、合扉徑去。
生五更酲解、始覺身臥几上。起尋枕榻、則有物膩然、紲絆步履、摸之、人也。意主人遣僮伴睡。又蹴之、不動而殭。大駭、出門怪呼。廝役盡起、爇之、見尸、執生怒鬧。公子出驗之、誣生逼奸殺婢、執送廣平。
隔日、十四娘始知、潸然曰、
「早知今日矣。」
因按日以金錢遺生。
生見府尹、無理可伸、朝夕搒掠、皮肉盡脱。女自詣問。生見之、悲氣塞心、不能言説。女知陷阱已深、勸令誣服、以免刑憲。生泣聽命。女還往之間、人咫尺不相窺。
歸家咨惋、遽遣婢子去。獨居數日、又託媒媼購良家女、名祿兒、年已及笄、容華頗麗、與同寢食、撫愛異於群小。
生認誤殺擬絞。蒼頭得信歸、慟述不成聲。女聞、坦然若不介意。既而秋決有日、女始皇皇躁動、晝去夕來、無停履。每於寂所、於邑悲哀、至損眠食。
一日、日晡、狐婢忽來。女頓起、相引屏語。出則笑色滿容、料理門戸如平時。
翼日、蒼頭至獄、生寄語娘子一往永訣。蒼頭復命。女漫應之、亦不愴惻、殊落落置之。家人竊議其忍。
忽道路沸傳、楚銀臺革爵、平陽觀察奉特旨治馮生案。蒼頭聞之喜、告主母。女亦喜、即遣入府探視、則生已出獄、相見悲喜。俄捕公子至、一鞫、盡得其情。生立釋寧家。歸見闈中人、泫然流涕、女亦相對愴楚、悲已而喜。然終不知何以得達上聽。女笑指婢曰、「此君之功臣也。」
生愕問故。
先是、女遣婢赴燕都、欲達宮闈、爲生陳冤。婢至、則宮中有神守護、徘徊御溝間、數月不得入。婢懼誤事、方欲歸謀、忽聞今上將幸大同、婢乃預往、偽作流妓。上至句闌、極蒙寵眷。疑婢不似風塵人。婢乃垂泣。上問、「有何冤苦。」婢對、
「妾原籍隸廣平、生員馮某之女。父以冤獄將死、遂鬻妾句闌中。」
上慘然、賜金百兩。臨行、細問顛末、以紙筆記姓名、且言欲與共富貴。婢言、
「但得父子團聚、不願華膴也。」
上頷之、乃去。
婢以此情告生。生急拜、淚眥雙熒。
居無幾何、女忽謂生曰、
「妾不爲情緣、何處得煩惱。君被逮時、妾奔走戚眷間、並無一人代一謀者。爾時酸衷、誠不可以告愬。今視塵俗益厭苦。我已爲君蓄良偶、可從此別。」
生聞、泣伏不起。女乃止。夜遣祿兒侍生寢、生拒不納。朝視十四娘、容光頓減、又月餘、漸以衰老、半載、黯黑如村嫗、生敬之、終不替。女忽復言別、且曰、
「君自有佳侶、安用此鳩盤爲。」
生哀泣如前日。又逾月、女暴疾、絶食飮、羸臥閨闥。生侍湯藥、如奉父母。巫醫無靈、竟以溘逝。生悲怛欲絶。即以婢賜金、爲營齋葬。數日、婢亦去、遂以祿兒爲室。
逾年舉一子。然比歳不登、家益落。夫妻無計、對影長愁。忽憶堂陬撲滿、常見十四娘投錢於中、不知尚在否。近臨之、則豉具鹽盎、羅列殆滿。頭頭置去、箸探其中、堅不可入、撲而碎之、金錢溢出。由此頓大充裕。
後蒼頭至太華、遇十四娘、乘靑騾、婢子跨蹇以從、問、
「馮郎安否。」
且言、
「致意主人、我已名列仙籍矣。」
言訖、不見。

異史氏曰、「輕薄之詞、多出於士類、此君子所悼惜也。余嘗冒不韙之名、言冤則已迂、然未嘗不刻苦自勵、以勉附於君子之林、而禍福之説不與焉。若馮生者、一言之微、幾至殺身、苟非室有仙人、亦何能解脱囹圄、以再生於當世耶。可懼哉。」

2014/05/08

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 鞏仙


 鞏仙きょうせん

 鞏道人きょうどうじんとばかり、名も字もなし、またどこの人ともわからなかった。あるとき、王にまみえたいと願ったけれど、閽人もんばん一が取りつがなかった。ちょうどそこへ中貴人じじゅう二が出て来たので、おじぎをして頼んだのである。中貴人じじゅう二は、そのいやしげなようすを見ていはらわせたが、やがて、また来たので、中貴人は怒って逐いもし打たせもした。そして人けのないところまで来ると、道人は、にこにこしながら百両の黄金を出し、逐って来た者に頼んで中貴人に言わせるのだった、
 「言うてくれ、わしは、もう王さまに会わんでも、いいとな。ただ後苑おくにわ花木うえきや楼台などが、よい景色だと聞いているので、わしをつれて遊ばしてくれさえすれば、まんぞくするとな」
 そして、逐って来た者へも白銀をまかなったのである。その人は喜んで中貴人に、そのとおり報告した。  中貴人もやはり喜んで道人をつれ、後宰門から入れてくれた。道人は、いろいろな景色を、すっかりへめぐつたうえ、中貴人について楼上に登った。そして中貴人がいまし、窓に寄りかかっているところを、道人が押したので、中貴人は、ただからだが楼の外へ落ちてゆくのを覚えているうちに、細いかつらが腰にからんで、宙につるされた。下を見ると、高深とおいので、目まいがするばかりなのだ。そのうちに、どことなく葛の切れる音がするので、ひどく恐れて、大きな声でどなった。まもなく数人のじじゅうが来て、ひどく驚いたのであった。それが地面からたいそうはなれているのを見て、楼に登ってみんなで見まわすと、葛の一端が楼につながれていた。しかし、ほどいて、それを引きあげるには、葛が細くてもてないのだ。あちこちと道人をさがしたけれど、いないのである。みんなは手をつかねたままくふうがなかったので、魯王に申しあげた。王は来てみてたいそうふしぎがり、楼の下に茅を敷き、またその上にわたを敷くように命ぜられた。そうしてから蔦を断ち切ろうというのである。やっと、それがすむと、からんでいた葛は、ひとりでに切れたが、よく見れば地面をはなれることが尺にも足らぬほどなので、みんな一度にふきだした。
 王は道士のいるところをたずねてみよ、と命ぜられた。しょうという秀才の家に泊まっていると聞いて、そこに行ってたずねると、遊びに出たまま、まだ帰らない、ということだった。が、やがて途中で会ったので、引きつれて、王に謁見させた。王は宴を開き座を賜わってから、作劇てじなを見せてくれと言われた。
 道土は、
 「臣は草野の匹夫ひっぷで、何もできないのですが、かかる優寵を受けましたからは、女楽じょがくをたてまつって大王の寿を祝したいとぞんじます」
 と言って、袖をさぐつて美人を取り出し、それを下に置いて、王に向かっておじぎをした。道士は美人に言いつけて瑤池ようちの宴のひとまくらせ、王の長寿を祝させた。女が登場して数語をうたうと、道士はまた一人を取り出した。その美人は、自分が西王母せいおうぼ三だとそう言った。まもなく王母の侍女の董雙成とうそうせい許飛瓊きょひけい四など、あらゆる仙姫が、つぎつぎにみんな出てきた。そして最後に職女しょくじょがきて拝謁し、一襲ひとかさねの天衣を献じた。絢爛けんらんたる金色の光りが一堂にてりはえたのである。王はにせものだろうと思って、それを見たいと言われた。道士は急に、
「いけません!」
 と言ったが、王はきかずに、とうとう手にとって見たのである。それは、まったく縫いめのないで、人工ではつくることのできないものであった。道士は、わびしげに、
 「臣は誠を尽くして大王のお目にかけたいと思い、しばらくのあいだ、これを天孫たなばた六から借りてまいったのに、いまや人間の濁気に染まってしまいました。どうして故主もちぬしにかえせましょう」
 と言った。王はまた、歌っている者たちは、すべて仙姫だろうと考えて、その中の一、二人を留めたいと思った。そしてよく見ると、すべて宮中の楽妓だったのである。で、前からおぼえているのでもない今の曲を、どうして、うたったのだろうと思って聞いてみると、楽妓たちはぼうぜんとして、自分でもわかりません、と言うのだった。
 道士は、天衣を火にかけて焼いたのち、それを袖の中に納めた。もう一度それをさがさせると、もうなかった。
 それから、王は深く道士をそんけいし、府内に留めておこうとすると、道士は、
 「野人の性として、宮殿は藩籠おりのように思われ、かってな秀才の家が、かえって、ましでござります」
 と言って夜中になるごとに、必ず、そこに帰るのであるが、引き止められると、やはり、宮殿に泊まってゆくこともあった。酒宴の席などで、たわむれに、四時の花木をあべこべに咲かせたりなどもするのであった。
 あるとき王が、
 「仙人でも、やはり情を忘れることはできないと聞くが、そうかな?」
 と聞かれたら、
 「あるいは、仙人はそうかもしれません。しかし臣は仙人ではないのですから、心は枯れ木のようなものです」
 と答えた。
 ある夜、府中に泊まったので、王は若い楽妓に命じて道士を見に行かせた。楽妓は部屋にはいって、たびたび呼んだが返事がないので、燭をつけてみると、寝台の上にすわっていた。ゆすると、をびかりとさせたが、すぐにまた、ふさいでしまった。また、ゆすると、いびきをはじめ、押すと手のままに倒れて、寝こんでしまった。雷のようないびきである。額をほじいてみると指にこたえるほどかたく、鉄の釜のような音がした。楽妓は帰って王に申しあげた。王ははりで刺してみたが、鍼もはいらなかった。で、また押したが、重くて、ゆすれないのだ。十人あまりで持ちあげて床に投げだすと、千斤もする大きな石を、地面に落としたようだった。夜があけてから、のぞいて見ると、やはり地面に寝ていたが、目をさまして、笑いながら言った、
 「ぐつすり寝こんで寝台から落ちたのも覚らなかったとみえる!」
 女たちは、道士がすわっている時や寝ている時など、よく、戯れにでるのであったが、なではじめは、やはりやわらかで、二度めになでるときは、鉄石のように、かたかった。
 道士はしょう秀才の家に泊まっていたが、よく終夜帰ってこないことがあるので、尚が戸をしめ、朝になってから戸をあけてみると、道士はもう部屋へやの中に寝ているのだった。
 これより前のことであるが、尚は曲妓うたひめ恵哥けいかとよい仲で、嫁にゆきましょう、めとろうと誓いあっていたのである。恵はたいそう歌がうまくて、絃索いとではならしたものであった。と、魯王が、その評判を聞いて供奉ぐぶに召し入れたので、とうとう情好いとが絶えてしまった。尚は、たえず恵哥のことを思って、うみちがないのを苦にしていたが、ある夜、道士に向かい、
 「恵寄を見ませんでしたか」
 と聞くと、
 「いろんなおんなをみんな見たけれど、だれということは知らんじゃ」
と、答えた。そこで尚が恵寄の顔や年を話すと道士は思いついたので、尚は一言つたえてくれと頼んだ。
道士は笑って、
 「おれは世外人よすてびとじゃから君の塞鴻ふみづかい七はできん!」
 と言った。それでも尚が、しつこく哀願すると、道士は袖をひろげ
 「やっかいだなあ。ぜひあいたければ、この中にはいりなさい」
   と言うので、尚は、のぞいてみた。中はいえのように大きくて、腹ばいになってはいると、光明あかりが透きとおっていて、庁堂やくしょのように広かった。そして机や寝台などないものはなく、中にいて少しもうっとうしい気がしないのある。
 道士は王府に行って王と対奕ごをうちながら、恵哥が来たのを見て、袍の袖でちりを払うようなふりをした。すると、恵哥は、もう袖の中にはいっていた。しかし他人には見えなかった。
 尚はひとりですわって考えこんでいたが、たちまち美人がのきから落ちてきたので、見ると、それは恵哥だった。二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至ひつっいてはなれなかった。
 尚は言った。
 「今日の奇縁は、書いておかなければならないね。おまえと連句をやろうじやないか」
で、壁に書いたのが、  「侯門は海に似久しくゆくえがわからなかった」
と、いうのであった。恵は続けた、
 「だれが知ろう、粛郎に今また逢おうとは」
尚は言った、
 「袖のなかの乾坤てんちは、ほんとに大きい」
 恵は言った、
 「離れている人も、思っている女もことごとく包容する」
 書いてしまった時、角一〇に淡紅色の着ものをきた五人の人がはいってきた。それは、みんな知らぬ人たちで、黙って恵哥をつかまえて行ってしまった。尚は驚き疑うばかりで、さっぱり、わけがわからなかった。道士は帰ってから、尚を呼び出して情事ようすを聞いたが、尚は、かくして、すべてを言わなかった。道士は微笑して衣をぬぎ、袂をうらがえして尚に見せた。よく見ると、しらみのような、かすかな字のあとがある。それは壁に題した句なのだった。
 それから十数日ののち、また袖の中に入れてもらい、前後を合わせて三度も中にはいった。あるとき恵哥が尚に、
 「おなかが動くのよ。あたし、ひどく心配だから、いつもきれで、しつかり腰際したばらをしばってるの。王府は耳目ひとめが多いから、もしも臨蓐おさん一一のときがくれば、泣く児を容れるようなところはどこにもありゃしないわ。ねえ、鞏仙人と相談して、あたしがお産の時には、助けてくださいな!」
 尚は承諾して家に帰り、道士を見て、床にひれ伏したまま起きなかった。道士は引きおこして言うのだった。
 「あんたの言うことは、わしにはもう、わかっとるじゃ。まあ、心配せんでもよい。あんたの宗祧ちすじは、これだけなのじゃから、力ぞえをせずには、おれんよ。しかし、これからは、もうはいってはならん。わしが、あんたに報ゆるゆえんは、もともと私情ではないのじゃ」
 それから数月ののち、道士は外からはいってくると、にこにこして言った、
 「公子わかだんなをつれてきた。早う襁褓むつきを持ってきなさい」
 尚の妻はたいそう賢い女で、年は三十近くであったが、何度も身ごもったけれど、生きているのは、ただ一人で、たまたま生まれた女の子は、ひと月で死んでしまったときであったから、尚のことばを聞くと喜んで、自分で出てきた。
へそ  道士は袖をさぐって嬰児を取り出した。よく寝ていて、へその緒も、まだ切ってはなかった。尚の妻が受けとって抱いてから、呱々こことして泣くのであった。
 道士は着ものをぬいで言った、
 「産の血が着ものについた。これは道門では最もいやがることなのじゃ。いま君のために二十年の着ふるしを一日にして捨てねはならん」  尚は道士に衣をかえさせた。道士は言いつけた、
 「その古い物を捨ててはならんよ。銭ほどのきれを焼けば、難産をなおし死胎をおろすことができるでの」
 尚は道士のことばに従って、血のついた衣をしまっておいた。
 道士は、それから長いあいだいたが、あるとき突然、尚に言った。
 「しまってある古い着ものは、自用に少しばかり残しておきなされ。わしが死んだあとでも、忘れてはならんよ」
 尚は道士のことばを不吉だと思った。道士は黙って行ってしまったが、王府にはいって謁見し、
 「臣は死にます」
 と言うので、王が驚いて問われると、道士は言った、
 「これは有定数じょうみょうで、しかたのないことです」
 しかし王は、ほんとにしなかったから、むりに引き留めて手談一局ごをいちめん闘わしたのである。それがすむと道士は急に立ちあがった。王が、また止めると、道士は外の家においてくれと願うので、願いのままに許された。道士は駆けて行って寝てしまった。見ると、もう死んでいた。王は棺をととのえてていねいに葬ってやられた。尚は弔いに行って哀哭した。そして、いつかのことばがまえに告げたのだということを、はじめて悟ったのであった。
 かたみの衣をお産に使うと、すぐに、ききめがあるので、もらいに来る者の絶え間がなかった。はじめのうちは、やはり汚れた袖をやっていたが、やがて襟を切るようになっても、ききめがないということはなかった。道士の言いつけを聞いていたので、妻に、きっと、難産があるのだろうと思い、血のついた布を掌ほど切りとってだいじにしまっておいた。
 と、魯王のきにいりの妃が産気づいて三日も生まれなかった。医者がくふうに困っていると、ある人が尚のことを王に申しあげた。王は、すぐ尚を召された。布の一剤いっぷくで生まれたので、王はたいそう喜んで、銀や綵緞どんすなどを、たくさん贈られた。けれども、尚は、ことごとく、ことわって受けなかった。
王が望みを問われると、尚は言った、
 「申しあげられません」
 で、ふたたび問われると、尚は頓首とんしゅして言った、
 「もし、いただけれは、臣と旧交のある楽妓恵哥を賜われば満足いたします」
 王は恵哥を呼んで、年を問われた。恵哥は言った、
 「あたしは十八で王府にはいり、今で一四年になります」
 王は恵哥が歯長としをとっているのを見て、群妓うたひめたちをみんな呼び集め、尚の選むにまかされたのである。しかし尚は一人も好きなのはないというので、王は笑って、
 「おろかな書生じゃ。十年も前に婚嫁の約束をしておいたのかな」
 尚は、ありのままをお答えした。すると王は輿や馬をりっぱにしたくさせ、尚がことわった綵緞どんすで、恵哥のために着ものを作り、王府から送り出してやられた。
恵哥の生んだ子どもは、秀生しゅうせいと名づけられた。秀とは袖の意味なのである。この時十一になっていたが、日ごとに鞏仙人の恩を思い、清明の節には、そのお墓に詣ることを、おこたらなかった。
 久しく四川しせんに旅をしていた者が、途で道人に会った。すると道人は一巻の書を取り出して、
 「これは魯王府中の物である。来る時に急いでいたので、まだお返しもせずにいる。持っていって返してくだされ」
 と言った。
 旅の人は帰ってきて、道人はもう死んだのだということを聞き、王に、とどけなかったので、尚が代わって、そのことを申しあげた。王が開いてごらんになると、それははたして道士が借りていったものであった。あやしんで墓を発けてみると、棺は、もぬけの空であった。
 その後、尚の長子は若死にをして、そのあとを秀生が受けついだので、尚は、ますます鞏仙人の先見に服したのであった。

  注

一 閽人とは、門の開閉をつかさどる人。
二 前漢、季広伝に「上、中貴人をして広に従わしむ」とあり、注に内臣の貴幸者なりとある。
三 東華至真の気が化して、木父すなわち東王父となり、西華至妙の気が化して、金母すなわち西王母となった。王母は崖嶺(こんろん)の圃、闇風(ろうふう)の苑におり、千里の城、十二の玉機があって、左には瑤池を帯び、右には翠水がめぐっているという。
[やぶちゃん字注:「こんろん」「ろうふう」はママ。ルビではない。注はポイントが小さいための仕儀と思われる。向後はこの注を略す。]
四 董双成も許飛瓊も、ともに王母の侍女である。
五 郭翰が、暑月に織女の下降するのを見たが、その衣に縫いめがないので、たずねると、天衣は、もと、鍼線のつくるところではないからだと言った。ということが、霊性録に出ている。
六 史記天官書に、織女は、天女孫也、とある。
七 昔、王仙客の愛人無双が、塞鴻に手紙を託して、王仙客にとどけたという唐小説がある。
八 西遊記のなかに、悟空等を袖の中に入れる仙人のことが出ている。
九 崔郊に婢があったが、はなはだ端麗で音律をよくした。貧乏になってから、婢を連帥千※の家に鬻(ひさ)いだが、郊は思慕やまなかったのである。やがて寒食の節になり、婢は崔の家にきて郊にあい、柳の陰に立って馬上で泣くのだった。崔は詩を贈って言うのであった、「公子王孫後塵を逐う、疑珠垂涙羅布を湿す、侯門一たび入って深きこと海のごとし、これより粛郎これ路人」と。公はその詩を見て、令して崔生を召し、婢に命じて帰(とつ)がしめたということが、全唐詩話に見えている。
[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「頁」。]
一〇 童子のかむる冠の意味。
一一 産蓐に臨むということ。昔は草を敷いて産をした。蓐は、草を敷くこと。
一二 王積薪が、ある夜村の宿に泊まって、女が碁を打っているのを壁ごしに聞いた。翌朝見ると碁の具がないので、たずねると、手談で打ったのです、と答えたということが、群仙伝にある。それから碁のことを、手談というようになった。
[やぶちゃん特別注:この場合の「手談」とは囲碁の打つ手を言葉で言うことではなく、仙術を持った者がヴァーチャル・リアリティの仮想の盤に石を打つ音が聴こえたととるべきであろう。
 私はこの話柄が忘れられない。十七の時、この話を読んだ時に、尚秀才が恵哥と再会したシーンの『二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至ひつっいてはなれなかった』という訳文にどきどきし乍らも、すっかり魅了されてしまったからである。だからちょっとだけ語注しておきたい欲求を押さえられない。「綢繆」は「ちうびうしんし(ちゅうびゅうしんし)」と音読みし、「綢繆」の原義は纏わりつくこと・糸などを絡めて結ぶことで、そこから男女が睦み合うこと・馴れ親しむことの意となった。「臻」は「極」と同義で「至」と同じい語であるから、これはもう、男女がくんずほぐれつ(男色も相応に出る「聊斎志異」の中では必ずしも男女である必然性はないのであるけれども)、エクスタシーがその極点に達するということであろうと私には思われるのである。凡愚の十七の私が直感的に感じた何かは、決して誤りではなかったのではあるまいか?]

■原文

  鞏仙

鞏道人、無名字、亦不知何里人。嘗求見魯王、閽人不爲通。有中貴人出、揖求之。中貴見其鄙陋、逐去之。已而復來。中貴怒、且逐且扑。至無人處、道人笑出黃金二百兩、煩逐者覆中貴、
「爲言我亦不要見王。但聞後苑花木樓臺、極人間佳勝、若能導我一游、生平足矣。」
又以白金賂逐者。其人喜、反命。
中貴亦喜、引道人自後宰門入、諸景俱歷。又從登樓上。中貴方凭窗、道人一推、但覺身墮樓外、有細葛繃腰、懸於空際。下視、則高深暈目、葛隱隱作斷聲。懼極、大號。無何、數監至、駭極。見其去地絶遠、登樓共視、則葛端繫櫺上。欲解援之、則葛細不堪用力。遍索道人已杳矣。束手無計、奏之魯王。王詣視、大奇之、命樓下藉茅鋪絮、將因而斷之。甫畢、葛崩然自絶、去地乃不咫耳。相與失笑。
王命訪道士所在。聞館於尚秀才家、往問之、則出游未復。既、遇於途、遂引見王。王賜宴坐、便請作劇。道士曰、
「臣草野之夫、無他庸能。既承優寵、敢獻女樂爲大王壽。」
遂探袖中出美人、置地上、向王稽拜已。道士命扮「瑤池宴」本、祝王萬年。女子弔場數語。道士又出一人、自白、
「王母」。
少間、董雙成、許飛瓊、一切仙姫、次第俱出。末有織女來謁、獻天衣一襲、金彩絢爛、光映一室。王意其僞、索觀之。道士急言、
「不可。」
王不聽、卒觀之、果無縫之衣、非人工所能製也。道士不樂曰、
「臣竭誠以奉大王、暫而假諸天孫、今爲濁氣所染、何以還故主乎。」
王又意歌者必仙姫、思欲留其一二。細視之、則皆宮中樂妓耳。轉疑此曲、非所夙諳、問之、果茫然不自知。
道士以衣置火燒之、然後納諸袖中、再搜之、則已無矣。
王於是深重道士、留居府内。道士曰、
「野人之性、視宮殿如藩籠、不如秀才家得自由也。」
毎至中夜、必還其所。時而堅留、亦遂宿止。輒於筵間顛倒四時花木爲戲。王問曰、
「聞仙人亦不能忘情、果否。」
對曰、
「或仙人然耳。臣非仙人、故心如枯木矣。」
一夜、宿府中、王遣少妓往試之。入其室、數呼不應。燭之、則瞑坐榻上。搖之、目一閃即復合。再搖之、齁聲作矣。推之、則遂手而倒、酣臥如雷。彈其額、逆指作鐵釜聲。返以白王。王使刺以針、針弗入。推之、重不可搖。加十餘人舉擲床下、若千斤石墮地者。旦而窺之、仍眠地上。醒而笑曰、
「一場惡睡、墮床下不覺耶。」
後女子輩毎於其坐臥時、按之爲戲、初按猶軟、再按則鐵石矣。
道士舍秀才家、恆中夜不歸。尚鎖其戸、及旦啟扉、道士已臥室中。
初、尚與曲妓惠哥善、矢志嫁娶。惠雅善歌、絃索傾一時。魯王聞其名、召入供奉、遂絶情好。毎繫念之、苦無由通。一夕、問道士、
「見惠哥否。」
答言、
「諸姫皆見、但不知其惠哥爲誰。」
尚述其貌、道其年、道士乃憶之。尚求轉寄一語。
道士笑曰、
「我世外人、不能爲君塞鴻。」
尚哀之不已。道士展其袖曰、
「必欲一見、請入此。」
尚窺之、中大如屋。伏身入、則光明洞徹、寬若廳堂、几案床榻、無物不有。居其内、殊無悶苦。
道士入府、與王對弈。望惠哥至、陽以袍袖拂塵、惠哥已納袖中、而他人不之睹也。
尚方獨坐凝想時、忽有美人自簷間墮、視之、惠哥也。兩相驚喜、綢繆臻至。
尚曰、
「今日奇緣、不可不誌。請與卿聯之。」
書壁上曰、
「侯門似海久無蹤。」
惠續云、
「誰識蕭郎今又逢。」
尚曰、
「袖裏乾坤眞箇大。」
惠曰、
「離人思婦盡包容。」
書甫畢、忽有五人入、八角冠、淡紅衣、認之、都與無素。默然不言、捉惠哥去。尚驚駭、不知所由。道士既歸、呼之出、問其情事、隱諱不以盡言。道士微笑、解衣反袂示之。尚審視、隱隱有字蹟、細裁如蟣、蓋即所題句也。
後十數日、又求一入。前後凡三入。惠哥謂尚曰、
「腹中震動、妾甚憂之、常以緊帛束腰際。府中耳目較多、倘一朝臨蓐、何處可容兒啼。煩與鞏仙謀、見妾三叉腰時、便一拯救。」
尚諾之。歸見道士、伏地不起。道士曳之曰、
「所言、予已了了。但請勿憂。君宗祧賴此一線、何敢不竭綿薄。但自此不必復入。我所以報君者、原不在情私也。」
後數月、道士自外入、笑曰、
「攜得公子至矣。可速把襁褓來。」
尚妻最賢、年近三十、數胎而存一子。適生女、盈月而殤。聞尚言、驚喜自出。道士探袖出嬰兒、酣然若寐、臍梗猶未斷也。尚妻接抱、始呱呱而泣。道士解衣曰、
「産血濺衣、道家最忌。今爲君故、二十年故物、一旦棄之。」
尚爲易衣。道士囑曰、
「舊物勿棄卻、燒錢許、可療難産、墮死胎。」
尚從其言。居之又久、忽告尚曰、
「所藏舊衲、當留少許自用、我死後亦勿忘也。」
尚謂其言不祥。
道士不言而去。入見王曰、
「臣欲死。」
王驚問之、曰、
「此有定數、亦復何言。」
王不信、強留之。手談一局、急起。王又止之。請就外舍、從之。道士趨臥、視之已死。王具棺木以禮葬之。尚臨哭盡哀、始悟曩言蓋先告之也。
遺衲用催生、應如響、求者踵接於門。始猶以污袖與之。既而翦領衿、罔不效。及聞所囑、疑妻必有産厄、斷血布如掌、珍藏之。
會魯王有愛妃、臨盆三日不下、醫窮於術。或有以尚生告者、立召入、一劑而産。王大喜、贈白金、綵緞良厚、尚悉辭不受。王問所欲、曰、
「臣不敢言。」
再請之、頓首曰、
「如推天惠、但賜舊妓惠哥足矣。」
王召之來、問其年、曰、
「妾十八入府、今十四年矣。」
王以其齒加長、命遍呼群妓、任尚自擇。尚一無所好。王笑曰、
「癡哉書生。十年前訂婚嫁耶。」
尚以實對。乃盛備輿馬、仍以所辭綵緞、爲惠哥作妝、送之出。
惠所生子、名之秀生。秀者袖也、是時年十一矣。日念仙人之恩、淸明則上其墓。
有久客川中者、逢道人於途、出書一卷曰、
「此府中物、來時倉猝、未暇璧返、煩寄去。」
客歸、聞道人已死、不敢達王。尚代奏之。王展視、果道士所借。疑之、發其冢、空棺耳。
後尚子少殤、賴秀生承繼、益服鞏之先知云。

異史氏曰、「袖裏乾坤、古人之寓言耳、豈眞有之耶。抑何其奇也。中有天地、有日月、可以娶妻生子、而又無催科之苦、人事之煩、則袖中蟣蝨、何殊桃源雞犬哉。設容人常住、老於是郷可耳。」

2014/05/07

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 妾撃賊


 妾撃賊しょうげきぞく

益都えきと西鄙せいひに某という貴家いえがらの金持ちがあった。一人のめかけをおいていたが、すこぶる美人で、本妻からいじめられむちうたれながら、謹んで仕えている、その心根をあわれに思った某は、ときどきそっと慰めいたわってやった。妾が少しもうらみがましいことを言わないのが、いっそういじらしかったのである。
 ある夜、数十人の集団強盗がへいを乗りこえてはいっで来た。入り口のとびらを激しく突くので、こわれそうになったが、某と本妻とはあわてまよい、ただふるえるばかりで、どうすることもできなかった。
 戸はまさに、こわれようとしている。
 妾は黙って、そっと起きた。閣の中で、しきりに、そこらをさぐつていたが、やがて一本の挑水木杖てんびんぼうをさぐり当てると、いきなりかんぬきを抜いて飛び出した。盗賊の一群が蓬蓆あさのように入り乱れているただなかに立った妾の、白い細い手が動くと、ぼうは風を鳴らして、四、五人の盗賊を一なぎに打ち倒した。目にもとまらぬ早わざである。賊団は、きもをつぶして、みんな浮きあしになり、逃げ出そうと騒ぐのであるが、高い牆がそびえているので、駆けあがることができず、つまずき倒れて、わあわあ言いながら、気ぬけのようになっていた。
 妾は杖を地に突き、にっこり笑って、
 「こいつらはいまかたづけてしまわないと、また賊になるだろうが、あたしは、おまえたちを殺しはしないよ。虫けらを殺したんじゃ、あたしの顔にかかわるからね」
 そして逃がしてやったのである。
 某は、びっくりした。どうして、そんなに強いのだ、と聞くと、妾は恥ずかしそうに、つつましく答えたのである、  「わたくしの父は、もと槍棒の師範を致しておりましたので、すっかり秘術を伝えられたのでございます。百人やそこらの相手なら、なんでもございません」
 妾の話を聞いて、いちばんひどく驚いたのは本妻だった。今まで見さかいもなく打ったり叩いたりしたのを思うと、冷や汗が流れるのだ。で、それからは妾をかあいがり、まったく今までの態度を一変するようになった。が、妾は、やはり忠実に仕えて、少しも本妻に対する礼儀を失うようなことはなかった。ある時隣のかみさんが、妾に向かい、
 「ねえさんたら、あれだけのどろぼうを、まるで豚か犬ころみたいになぐりつける腕まえがありながら、なぜ、おかみさんに、おとなしく打たれていたのさ」
 と言うと妾は答えた、
 「それが妾の身分ですもの。何も言うことはありませんわ」
 聞き伝えた人たちは、ますます妾の賢さをほめたのであった。

■原文

 妾擊賊

益都西鄙之貴家某者、富有巨金。蓄一妾、頗婉麗。而冢室凌折之、鞭撻橫施。妾奉事之惟謹。某憐之、往往私語慰撫。妾殊未嘗有怨言。
一夜、數十人踰垣入、撞其屋扉幾壞。某與妻惶遽喪魄、搖戰不知所爲。
妾起、嘿無聲息、暗摸屋中、得挑水木杖一、拔關遽出。群賊亂如蓬麻。妾舞杖動、風鳴鉤響、擊四五人仆地。賊盡靡、駭愕亂奔。牆急不得上、傾跌咿啞、亡魂失命。
妾拄杖於地、顧笑曰、
「此等物事、不直下手插打得。亦學作賊。我不汝殺、殺嫌辱我。」
悉縱之逸去。
某大驚、問、
「何自能爾。」
則妾、
「父故槍棒師、妾盡傳其術、殆不啻百人敵也。」
妻尤駭甚、悔向之迷於物色。由是善顏視妾。妾終無纖毫失禮。鄰婦或謂妾、
「嫂擊賊若豚犬、顧奈何俛首受撻楚。」
妾曰、
「是吾分耳、他何敢言。」
聞者益賢之。
異史氏曰、「身懷絶技、居數年而人莫之知、而卒之捍患御災、化鷹爲鳩。嗚呼、射雉既獲、內人展笑。握槊方勝、貴主同車。技之不可以已也如是夫。」

2014/05/06

言っとくが

柴田天馬訳蒲松齢「聊斎志異」の注を原則、附さないのは――これ――やりだしたら僕の性格からして、とんでもないことになることが解っているから、である。「西湖主」の例外的な注をご覧頂ければお分かりであろう。悪しからず、だ。だってさぁ、ルビ・タグだけでもこれ、結構、面倒なんだぜ(おまけにここのブログのHTML編集は後から編集しようとするとタグがめちゃめちゃになって全部やり直さなくてはならないというさらなる面倒もあるのであるんである)――まあ、電子化している僕が何より「聊斎志異」を精読出来て、すこぶる面白いからいいけどね――

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