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カテゴリー「「甲子夜話」」の140件の記事

2017/04/29

甲子夜話卷之四 6 白烏の事

 
 
4-6 白烏の事

天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守に【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白鳥を視ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て遂に打殺すことなり。其ゆへは白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。

■やぶちゃんの呟き

 この話は最近、私が電子化した柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」にも出る。参照されたい。

「白烏」本文にある通り、白いアルビノのカラスであるので注意されたい。白鳥(はくちょう)ではないのでご注意あれ

「天明」天明は九年までで、グレゴリオ暦では凡そ一七八一年から一七八九年。

「獲て」「とりて」。

「然に」「しかるに」。

「翌年京都大火し、禁闕も炎上す」「禁闕」は「きんけつ」で皇居のこと。御所も回禄したとなると、これは尋常の記録に残らない火災ではないから、これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した大火災、所謂、「天明の大火」のことと考えてよかろう。ということは白鴉の献上は天明七年のこととなる。「末か」と疑問詞を添えているし、末頃とは言えるから問題はない。ウィキの「天明の大火」によれば、『出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしのたいか)とも呼ばれた。単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)というと、通常はこの天明の大火のことを指す』。『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都はこの前後にも宝永の大火と元治のどんどん焼けで市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』。三十日未明、『鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝で、『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失した町は千四百二十四町、焼失家屋は三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一ヶ寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名に及んだとする。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名『はあったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している』とある。

「松平信濃守」「【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】」松平忠明 (ただあき 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)。豊後岡藩(現在の大分県の一部にあり、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市))第八代藩主中川久貞の次男であったが、旗本松平忠常の養子となり、本丸書院番頭(ばんがしら)となった。寛政一一(一七九九)年には蝦夷地取締御用掛筆頭として幕府直轄地となった東蝦夷地に向かい、アイヌの保護・道路の開削・樺太東西海岸の探査などを指揮した。享和二(一八〇二)年には駿府城代となったが、駿府で自害した(自害理由は調べ得なかった)。

「逐索め」「おひもとめ」。

「打殺す」「うちころす」。射殺する。

「兆」「きざし」。

「忌て然り」「いみてしかり」。忌んでそのように処置致すのである。

「咲たりしが」「わらひたりしが」。逆接或いは余韻を残す接続助詞「が」で擱筆しているのは今までの「甲子夜話」では特異点である。

 

2017/04/25

甲子夜話卷之四 5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事

 

4-5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事

先年、甲州惠林寺の僧、信玄の遺物甲冑等を携て江都に出しことあり。予これを見んことを欲して、月桂寺に往てかの僧に面し、且其戎器を見るに、兵火の燼餘かと疑ひ問たれば、否らず、嘗て此寺兵亂にて燒れし後、甲州神祖の御領となりて、寺御修造あり。そのとき此等の甲冑はもと信玄の遺物なり、長く寺に藏むべしとて、神祖より賜り傳ふとなり。神祖の御文か時の老職の添翰か附てありしと覺ふ。明細に寫して藏め置しが、戊寅の火に燒亡す。可ㇾ惜。

■やぶちゃんの呟き

 前段に続く神祖家康の信玄絡みの逸話。

「惠林寺」(ゑりんじ)は現在の山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗乾徳山(けんとくさん)恵林寺。甲斐武田氏の菩提寺である。ウィキの「恵林寺によれば、天正一〇(一五八二)年三月、『織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)によりで武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため』、『織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、『碧巌録』第四十三則の偈を発して快川紹喜は火定したといわれる。後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺偈として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺偈でなく後世の脚色である可能性を指摘している』。さて、同年六月、『本能寺の変により信長が討たれ、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て三河国の徳川家康が甲斐を領する。武田遺臣を庇護した家康は織田氏による焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、恵林寺を再建した』とある(下線やぶちゃん)。

「江都」「えど」。

「月桂寺」現在の東京都新宿区河田町にある臨済宗正覚山月桂寺であろう。ウィキの「月桂寺新宿区)によれば、同寺の創建は、寛永九(一六三二)年、市ヶ谷に建てられた庵が基になっているとし、『その後、同庵は当地に移転し、円桂山平安寺とな』り、さらに、『小弓公方家・足利頼純の娘で、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた月桂院の篤い帰依を受けた』。『月桂院からは』百石の『朱印地を受け』、明暦元(一六五五)年に『彼女が死去した際には同寺で葬儀が行われ、寺号も正覚山月桂寺と改めたと言われている』。この寺は『江戸時代には臨済宗の関東十刹の一つに数えられる格式ある寺院になった』とある(下線やぶちゃん)。

「戎器」(じゆうき(じゅうき))は戦さに用いる武器・武具を言う。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「否らず」「しからず」。

「燒れし」「やかれし」。前注の織田信忠による焼き討ち。

「寺御修造あり」前注の下線部参照。

「藏む」「をさむ(おさむ)」。収蔵する。

「老職」老中職。

「添翰」「そへかん」と読んでおく。添え状。由来を認めた鑑定証のようなものであろう。

「附て」「つけて」。

「戊寅」「つちのえとら/ぼいん」。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月起筆で、何も冠せずにかく書く以上は、直近の戊寅ということになるから、文化一五・文政元(一八一八)年で、この年、恵林寺は蔵を焼くような大きな回禄に遭ったのであろう。

甲子夜話卷之四 4 甲州初て御手に入て神祖命令の事

 

4-4 甲州初て御手に入て神祖命令の事

甲州神祖の御手に入たる初に、令を出し給には、甲州の政は何事も信玄の致置候所に違ふ可からず。但毒箭を軍用に施し候こと計は、停止たるべしとなり。甲州の人民、立所に神祖の御厚德に伏し奉りしと云。いかさま合戰の勝負は武士の常なり。敵毒を以て人を苦しまするは武の道に非るべし。仰感も餘りある御事なり。

■やぶちゃんの呟き

「神祖」徳川家康。家康は天正一〇(一五八二)年の天正壬午(てんしょうじんご)の乱(甲斐・信濃・上野に於いて行われた主に徳川家康と北条氏直の戦い)後、国主不在(実効支配していた河尻秀隆は本能寺の変後に発生した旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆によって三井弥一郎に天正十年の六月十八日に殺害されていた)となっていた甲斐を支配下に置いた。

「政」「まつりごと」。

「信玄」武田信玄晴信(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年)。因みに、彼が父信虎を駿河に追放し、武田家第十九代として家督を相続して甲斐守護も継承したのは天文一〇(一五四一)年六月であった。信玄はさんざん家康を苦しめたが、それだけに戦国武将としての信玄の戦略や戦術は家康のメソッドに対して大きな影響を与えた敵将でもあった。

「但毒箭を軍用に施し候こと計は、停止たるべしとなり」「但(ただし)、毒箭(どくや)を軍用に施(ほどこ)し候(さふらふ)こと計(ばかり)は、停止(ちやうじ)たるべしとなり」。

「敵毒を以て人を苦しまするは」読み方がよく判らぬ。「敵」(かたき)とても「毒を以て人を苦しまするは」の意でとっておく。

「仰感」「ぎやうかん(ぎょうかん)」。仰いで君恩に感ずること。

 

2017/04/24

甲子夜話卷之四 3 會津領大地震の事【文政四年】

 

4-3 會津領大地震の事【文政四年】

會津侯の御預地、奧州大沼郡大石組と云處、高四千石計り、屬村十八九あり。人員男女合三千六七百も有り。山谷間の村なり。此處、辛巳十一月十九日、地震つよく、百三十軒ほど震壞れ、大破小破三百軒餘、人若干死亡、牛馬も損傷せり。夫より打續き晝夜いく度ともなく震りて、其ゆりよう左右前後には震はず、地上に突あげ、又地下に突さぐる如くにて、山谷鳴動し、山々裂崩、其あたりなる沼澤の沼と云大沼ぬけぬべきさまに付き【此沼周一里餘と云ふ】、人々不安、殊に雪中なれば諸人の難苦一方ならず。侯の役人出張て力を盡と雖ども爲ん方なく、領主より神社に令して祈禱せしめ、就中土津社には別て重祭あり。翌月十二日頃より地震も止み、鳴動も靜になり、諸人安堵の所、當正月四日又々地震、去冬よりも強く、鳴動も又盛んにて、大石組の村々、人の住居成り難きに至り、悉く其民を他處に移せり。時は大雪、處は山谷、老少男女四千に近き人を取扱、並に牛馬等の始末まで困難云計なし。諸人雪の上に薦筵(コモムシロ)或は席(タヽミ)を敷て日を渉る。此末いかになるべきやと衆庶安堵せずとなり。侯より御勘定所へ屆に及べりと云。

■やぶちゃんの呟き

「文政四年」「辛巳」(かのとみ)は一八二一年。この地震はネットのQ&Aサイトの回答によれば、マグニチュード五・五から六・六の直下型地震と推定されている。当時の陸奥会津藩は第七代藩主松平容衆(かたひろ)であるが、この翌年にわずか満十八歳で死去している。

「大沼郡大石組」こちらによって旧「大石組」の位置が判る。現在のこの中央の只見川左岸附近である(グーグル・マップ・データ)。

「震壞れ」「ゆりこはれ」。

「裂崩」「さけくずれ」。

「沼澤の沼」現在の福島県大沼郡金山町にあるカルデラ湖である沼沢(ぬまざわ)湖。ウィキの「沼沢によれば、『福島県会津地方の西部に位置し、かつては「沼沢沼」と呼ばれていた。湖水面高約』四七五メートル、面積約三・一平方キロメートル、水深約九十六メートルで、約四万五千年前と約五千四百年前の『大規模な噴火によって誕生した、新しいカルデラ湖である。カルデラ湖をさらに外輪山が取り囲む二重カルデラ地形のように見えるが、外側の外輪山様の地形は鮮新世の上井草カルデラからなり、沼沢カルデラとは無関係であるが上井草カルデラの新期の活動と見ることもある。カルデラを形成した大規模噴火の前後にも溶岩ドームなどを形成した小規模な噴火を何度も起こしており、これら一連のカルデラや溶岩ドーム群を総称して沼沢火山と呼んでいる』とある。

「周」「めぐり」。

「出張て」「でばりて」。

「力を盡と雖ども」「ちからをつくすといへども」。

「土津社」「はにつしや」は現在の福島県耶麻郡猪苗代町にある土津神社。陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る。

「當正月四日」余震記録は確認出来ないが、翌文政五年。

「取扱」「とりあつかひ」。避難誘導し。

「御勘定所」幕府のそれ。会津藩内には天領が多くあり、幕府の勘定所は蔵入地(幕府直轄領)と知行地に跨る業務を担当する郡奉行系統の職務が含まれ、そのなかには治安・治水業務が含まれていた。

 

2017/04/23

甲子夜話卷之四 2 御臺所御歌、近衞公返歌幷詩歌の事

 

4-2 御臺所御歌、近衞公返歌詩歌の事

當御臺所は陽明家の御養女なり。日光山二百年御神忌勅會のとき、近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】登山ありて、それより出府なり。登城御對顏、奧迄も通られたるよし。滯府中、御臺所より、螢を籠え入て贈り玉へるときの御詠とて傳聞す。

 めづらしき光りならねど時をしる

      淺ぢが宿の螢なりけり

   左大臣家のかへし

 言の葉の玉をもそへてをくりこす

      螢ぞやどの光りなりけり

此左府、鶴山と號せらる。器量ある人にて、文學にも長ぜられたりと聞く。其詩に、

[やぶちゃん注:以下の漢詩は総て底本では全体が一時下げ。]

  眞珠菴見盆梅

幾程盆梅始吐ㇾ芳。淸標不ㇾ競百花場。先教好鳥爭春信。未ㇾ使遊蜂竊晴香去蛾眉醉夢。吹來龍笛吟腸。慇懃調護避風雪。唯恐東君妬親粧

  又

培艱壺中別有ㇾ天。春魁獨占衆芳先。蘂含殘雪影愈潔。枝奪落霞色更妍。月桂讓ㇾ香多呈ㇾ媚。海棠分ㇾ艷未ㇾ論ㇾ眠。逋仙元有梅花癖。吟賞相親淨几邊。

  又

幾歳栽培能養成。順ㇾ天致ㇾ性自敷ㇾ榮。影隨姑射氷肌疲。香入羅浮春夢驚。綠萼濃呈千朶色。瓊容淡點十分淸。名花元是江南種。移得盆中子細評。

【殘雪、薄霞、月桂、海棠、皆梅名也。順ㇾ天致ㇾ性柳文語】

又よまれし哥ども世に傳へし中に、

 色に出て花野の秋にたくふらし

      蟲も千ぐさの聲のさかりは

いかにも新らしき趣向、これらをや秀逸とは申べき。この人宮中饗應の日、緋の直垂に打刀をぞさゝれける。これは足利家より讓られし故とぞ。京紳にて此裝束せらるゝは、陽明家の外に無しと云。惜哉、去年世を早うせられき。

■やぶちゃんの呟き

「當御臺所」第十一代軍徳川家斉の正室近衛寔子(このえただこ 安永二(一七七三)年~天保一五(一八四四)年)。後の広大院。実父は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)、実母は側室市田氏(お登勢の方(慈光院))。ウィキの「広大院によれば、『最初の名は篤姫』(知られた後の第十三代将軍家定の正室天璋院が「篤姫」を名乗ったのはこの広大院にあやかったもの)、『於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と』三歳で婚約、『薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された』。第十代将軍『徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである』。『このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため』、『幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から』十三年後の寛政元(一七八九)年に行われた。茂姫は天明元(一七八一)年十月頃に、『豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は公家や宮家の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前』『に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙』(つねひろ 宝暦一一(一七六一)年~寛政一一(一七九九)年:従一位・右大臣)『の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった』とある(下線やぶちゃん)。当時、満四十二歳

「陽明家」近衛家の別称。宮中の門の一つである陽明門に因むもの。「近衛」も京都近衛の北、室町の東に邸宅を構えたことに由来する。

「日光山二百年御神忌勅會」文化一二(一八一五)年四月に挙行された東照宮二百回神忌。

「近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】」近衛基前(もとさき 天明三(一七八三)年~文政三(一八二〇)年)は父は近衛経熙の子。母は有栖川宮職仁親王の娘董子。この会見の折りは右大臣か左大臣。寔子より十歳年上

●以下、漢詩を我流で書き下しておく。但し、全部、意味が判っていて訓読している訳ではない。これといって深く惹かれ、意味を探りたい部分もない。されば細かな語注は附さぬ。悪しからず。判らないとどうにもならぬ箇所のみ先に附言しておくと、「逋仙」は宋代の隠逸詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)のこと。詩は作る傍から捨てたとされ、現存するものは少ないが、奇句多く、「山園小梅」の「疎影橫斜水淸淺 暗香浮動月黃昏」(疎影 橫斜(わうしや) 水 淸淺(せいさん) / 暗香(あんかう) 浮動 月 黃昏(わうこん))の二句は梅を詠んだ名吟とされる(「山園小梅」全詩はウィキの「林逋を参照されたい)。「姑射」は不老不死の仙人が住むされる山。藐姑射(はこや)山。「羅浮」とは広東省増城県北東に実在する山(標高一二九六メートル)であるが、大洞窟があって、古来そこには仙人が住むとされた仙境である。「瓊容」は珠玉のような美形。美しい梅花或いはそこにおかれた露の比喩か。

   *

 

  眞珠菴、盆梅を見る

幾程(いかほど)の盆梅 始めて芳(かんばし)きを吐く

淸標(せいひやう) 競はず 百花の場(ば)

先づ 好鳥をして春の信(まこと)を爭はしむ

未だ 遊蜂をして晴香を竊(ぬす)ましめず

蛾眉を點じ去つて 醉夢を醒まし

龍笛を吹き來たらせて 吟腸を惱ます

慇懃(いんぎん)たる調護(てうご) 風雪を避らしめ

唯だ 恐る 東君 親粧(しんせう)を妬(ねた)むを

 

  又

培艱(ばいかん)の壺中 別に天有り

春魁(しゆんくわい) 獨り衆芳先を占(し)む

蘂(しべ) 殘雪を含んで 影 愈(いよい)よ潔く

枝 霞に奪はれ落ちて 色 更に妍(うつく)し

月桂 香を讓り 多く 媚を呈し

海棠 艷を分ちて 未だ眠(ねぶ)りを論ぜず

逋仙(ほせん) 元(もと) 梅花の癖 有り

吟賞して相ひ親しむ 淨几(じやうき)の邊(ほとり)

 

  又

幾歳 栽培 能く養成す(やうじやう)す

天に順ひ 性(しやう)を致し 自(おの)づから榮を敷く

影 姑射(こしや)に隨ひて 氷肌 疲れ

香 羅浮(らふ)に入りて 春夢 驚く

綠萼(りよくがく) 濃呈(のうてい) 千朶(せんだ)の色(いろ)

瓊容(けいよう) 淡點(てんてん) 十分の淸(せい)

名花 元 是れ 江南の種(しゆ)

盆中に移し得て 子細 評せり

 

   *

「順ㇾ天致ㇾ性柳文語」『「天に順ひて性(しやう)を致し」とは柳の文の語(ご)。』「柳」は中唐の詩人柳宗元のこと。彼の「種樹郭橐駝傳(しゅじゅかくだでん)」という文の一節である。正確にはその「能順木之天、以致其性焉爾」(能(よ)く木の天に順(したが)ひ、以つて其の性を致すのみ)という表現を短縮したもので、木を育てるということは「木本来の持っている天然自然に従って、その内に持って生まれて「在る」ところの生きんとする性質(働き)を導いてやるだけのことに過ぎぬ」という謂いであろう。

「たくふ」「比ふ」「類ふ」で「似せる・匹敵させる」の謂いであろう。

「直垂」「ひたたれ」。

「打刀」「うちがたな」と訓ずる。室町時代以降は「刀(かたな)」と言った場合、日本刀ではこの「打刀」を指すと考えてよい。主に馬上合戦用である「太刀」とは異なり、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀で、反りは「京反り」と称して刀身中央で最も反った形を呈する。これは腰に直接帯びた際に抜き易い反り方で、対人戦闘の際の実用性を考えてあるものである。長さも概ね成人男性の腕の長さに合わせたものが多く、これも即戦時の抜き易さが考慮されている。

「惜哉」「をしきかな」。

「去年」「こぞ」。この一語によって「甲子夜話卷之四」のこの部分は「甲子夜話」起筆から一ヶ月半以内に記されたものであることが判る。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月十七日の甲子夜を起筆とするが、近衛基前はその「前年」の文政三(一八二〇)年に逝去しているからである。されば、ここまでの記載は実に、その閉区間内(大晦日までは旧暦で四十三日間)に書かれたものであることが判り、静山の非常に意欲的な本書の記述スピードがここで知れるのである。

2017/04/19

甲子夜話卷之四 1 薩摩の榮翁俠氣、越侯これを懼るゝ事

 

甲子夜話四

 

 

4-1 薩摩の榮翁俠氣、越侯これを懼るゝ事

松平榮翁【薩摩老侯、名重豪】人となり豪氣あり。一日ある席にて越侯と相會し、何か興に乘じて榮翁云は、若今一戰に及ん時あらば、我軍卒を率ひ、一方を指揮せば、人に後は見せじ、と威猛だかになつて云はれければ、越侯甚恐怖して、潛に餘人に向ひ、彼人は重て相會する人に非ずと云ける。坐客指て越侯の怯儒を笑しとなり。今の武家は此類の人多かるべし。

■やぶちゃんの呟き

「薩摩の榮翁」「松平榮翁【薩摩老侯、名重豪】」薩摩藩第八代藩主で「蘭癖大名」の島津重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)。第十一代将軍徳川家斉正室広大院の実父。「榮翁」は号。詳しくはウィキの「島津重豪」などを参照されたい。

「越侯」不詳。加賀藩藩主を指しているのであれば、同時代の藩主は第十代藩主前田治脩(はるなが 延享二(一七四五)年~文化七(一八一〇)年)ではある。

「若」「もし」。

「彼人は重て」「かのひとはかさねて」。

「指て」「さして」。

「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

 

2017/04/18

甲子夜話卷之三 33 松平肥前守【治茂】、文才の事 / 甲子夜話卷之三~了

 

3-33 松平肥前守【治茂】、文才の事

述齋話る。肥前少將治茂も、近世の國持の内にては見所あり。白川侯當路のとき、世人風靡する中獨り屈せず。間柄なればとて、國元より尺牘を贈て、時事を議す。その氣燄想ふべし。宮中にて營中にて奏者番習禮のとき、一度したるまでにて、再びせずして本席に戾る。因て脇坂淡路守呼返せば、今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなりとて、囘顧もせず引退たり。又昌平の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番の史打よりてくゝりたり。これ宮中にては坊主、兩山にては案内僧のくゝれは遂に自身くゝりたること無故なり。しどけ無き所に大家風の體ありき。又寬裕の所あり。家臣ども他行して遲く歸るときは、言を托して溜池邸に行き遲刻せりと云【溜池邸には養母の圓締院住る】〕。それは聞流して咎めず。時として笑ふて云。皆々は溜池と云よき行所あり。我等は行所無しと。又身持に手堅きことどもあり。その中、袴は夜ふけても脱ぐことなし。奧に居ても然り。臥床に入るとき始て袴を脱げり【述齋の妹は肥州の妻なり】〕。かゝる古風なる人も、今は稀なり。此侯、文詩に長じたるは格別のことなり。彼家士古賀彌助【淳風】召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず。人始て服せり。此侯、始めは、佐嘉の支家鹿嶋二萬石にて勤められ、予が先人政功君と同席にてありしが、後本宗を嗣れたり。故に予も若き頃は懇會して、江城より長崎の地にても、屢行交せり。因て江都に在るときも、予が邸に來られ、祖母夫人と先君のこと申出られて、舊時を語られき。其質厚篤なることなりき。其容體は腰をそらせ、鳩胸にて、足は棹の如く立て步する人なり。因て殿中にても、人其容體はおかしがりたり。又一種の癖あり。手水をせらるゝ時、湯次の水を何遍ともなく替るほど、長く爲られたり。

■やぶちゃんの呟き

「松平肥前守【治茂】」「肥前少將治茂」当初、肥前国鹿島藩第五代藩主、後に肥前国佐賀藩第八代藩主(経緯は後注で示す)であった「佐賀藩中興の祖」と呼ばれる鍋島治茂(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)である。彼は肥前守で左近衛権少将であった。但し、どうも後の人物関係(「養母の圓締院」「述齋の妹は肥州の妻なり」等)が上手く一致しないところがある。識者の御教授を乞うものである。

「述齋」林述斎。

「話る」「かたる」。

「白川侯」松平定信。

「當路」「要路に当たる」の意で、重要な地位についていること。言わずもがな、定信は老中首座で将軍輔佐であった。

「尺牘」「せきとく」。手紙のこと。古来、中国で一尺四方の牘(木の札)を書簡に用いたことに由来し、本邦では狭義には漢文体書簡のみを指した。

「氣燄」「きえん」。「気炎」に同じい。

「脇坂淡路守」播磨龍野藩第八代藩主で龍野藩脇坂家十代で、寺社奉行から老中となった脇坂安董(やすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)であろう。

「今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなり」これは再応の礼として確かに敷居に手をついたのである。それは確かなことだ、と言う謂いであろう。

「囘顧もせず引退たり」底本には「『みかへり』もせず引」(ひき)「『しりぞき』たり」と「昌平」昌平黌。

の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番「兩山」徳川家菩提寺の増上寺と寛永寺。

「大家風の體」「たいかふうのてい」。

「他行」「たぎやう」。

「言を托して」ここは「言い訳として」の意で、しかもそれ真っ赤な嘘でわけである。

「養母の圓締院」不詳。

「古賀彌助【淳風】」鍋島治茂に仕えた儒学者古賀精里(こがせいり 寛延三(一七五〇)年~文化一四(一八一七)年)。「淳風」(「あつかぜ」か)は字(あざな)、「彌助」は通称。ウィキの「古賀精里によれば、『佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え』、安永一〇・天明元(一七八一)年に『藩校弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した』。『闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の統制をはかり、徂徠学を斥けた』。寛政八(一七九六)年、四十七歳の『時に抜擢されて昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士といわれた。三人はいずれも懐徳堂の中井竹山と親交があり、老中松平定信の寛政の改革に際して、相互に影響を与えたとされる(寛政異学の禁)』。『性格は「厳密寡黙」と頼山陽に評され、精里の詩は学者らしい観念的な詩である』とある。

「召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず」古賀が昌平黌に召し出されるまでは、彼の文才を藩内の誰彼は実は評価しておらず、古賀の誇大誇張と思っていたが、幕府に招聘されて後も、彼の文才は降(さが)るどころか、いよいよ名声の高まったことを謂うのであろう。

「佐嘉の支家鹿嶋二萬石」佐賀は古くは「佐嘉」の表記が主に使われていた。佐賀鹿島藩は鹿島(現在の佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩。鍋島治茂は佐賀藩第五代藩主鍋島宗茂の十男で、宝暦九(一七五九)年に第四代鹿島藩主鍋島直郷の養子となり、宝暦一三(一七六三)年に第五代鹿島藩主となったが、明和七(一七七〇)年に主藩の第七代佐賀藩主鍋島重茂が三十八歳で死去、嗣子が無かったため、その跡を継いで、第八代藩主となった経緯がある。

「予が先人政功君」静山の実父松浦政信(享保二〇(一七三五)年~明和八(一七七一)年)のことか。第八代藩主松浦誠信の三男であったが、家督を継ぐことなく、三十七歳で早世した。

「本宗」「ほんそう」。宗主家。自身の出自である佐賀藩主鍋島主家のこと。前注参照。

「嗣れたり」「つがれたり」。

「行交せり」「ゆきかはせり」。

「立て步する」「たててあゆまする」。

「湯次」「ゆつぎ」は「湯桶」(ゆとう)」に同じ。手水(ちょうず:便所)を使った後、手洗いをする際に用いた、ぬるま湯を入れた木製の容器。注ぎ口と柄があり、多くは漆塗りである。それを侍者に注がせて洗うのであるが、それを何杯も継ぎ足しさせるほど、しつこく洗浄したというのである。彼にはやや病的な潔癖症があったものかも知れない。

 

甲子夜話卷之三 32 伊達村侯【遠江守】、人品の事

 

3-32 伊達村侯【遠江守】、人品の事

宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】も一種の人物なり。寬政の初、米澤老侯とともに、數年國事に心を用ひしとの特賞を蒙り、恩賜などありし人なり。若き時より、遂にいづ方に臥か知るものなし。其にあるかと思へば、いつか表に居、又表かと思へば、奧に居るやうのことなりしとなり。又は朝早く近侍起出て見れば、夜具も片付てあり。庭を見れば、樹林の蔭など緩步して居るなど云類のことなり。文學など深く窮めしにもあらねど、儒士を貴び、世に名あるものは、延致して懇遇せられき。一日、常に出入の儒士、いつも案内なく近習の詰所へ通ることなれば、その如くに來りしに、一人も見へず。あまり不思議なれば、あちこち見あるく中に、少將出られて案内し、居間へ通さる。自身爐火に茶を煖て出され、或は戸棚より酒肴などとり出し、もてなされける。更に不思議に堪ざりしかば、今日はいかなることよと云しに、芝の御山、火防の命被りて在るが、此節一般流行の風邪に、家臣ども皆感冒して、外向の人員、常數を備ること能はず。よりて近習の者までも、風に冒されざる分をして、皆その缺を補ひ、火防人員を缺くこと無しと云。其官事を重んぜらるゝこと如ㇾ此。一年、國元往來の海中、風濤の變ありしとき、主人に兩三人付添、早船にて逃れしに、本船は破壞して多の人溺死せしことあり。その後參觀交代に、その海を過る每に、舟を留めて、小石百千に一字づゝ法華經を親書して、海底に抛たり。その下を恤の意深きことも亦如ㇾ此。常に酒を好めり。酣なるに及では、興に乘じて紙を展べ、字を作る。書は拙なれども、少しも拘らずして、擘窠書を作らるるを、今も傳る所多し。髮は世に云糸鬢なりき。京紳參向し御大禮ありしとき、かの糸鬢へ糸にて釣りを掛け、冠を着、大橫刀を佩られ、裝束振も聊取繕ふこともなき擧動なりしを、鷹司家見られて、武家の裝束姿と見へて、殊勝なるは、宇和島少將なりと感賞せられしと云。

■やぶちゃんの呟き

「伊達村【遠江守】「宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】」伊予国宇和島藩第五代藩主伊達村候(だてむらとき 享保一〇(一七二五)年(或いは享保八年とも)生~寛政六(一七九四)年)。ウィキの「伊達村候によれば、享保二〇(一七三五)年に父の死去により跡を継ぎ、外祖父で前話の主人公伊達宗村の父第五代仙台藩主伊達吉村から偏諱を賜って「村候」と名乗った。しかし、『新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。これらの朝廷の努力もあり、表面的には同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残った』(この険悪な仲であった二人を敢えて連続して記して、素知らぬ風をしている静山も面白い)。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団』二十五『か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦年(一七五四)年からは民政三か条を出して民政に尽力し、宝暦七(一七五七)年末には『紙の専売制を実施』、寛延元(一七四八)年には『藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』とある。「耳囊」のそれは之四 大名其識量ある事である。私の電子化訳注でお読みあれ。

「米澤老侯」第八代上杉重定(享保五(一七二〇)年~寛政一〇(一七九八)年)であろうか。しかしこの男、かなり劣悪な藩主である。ウィキの「上杉重定を参照されたい。

「いづ方に臥か知るものなし」「臥か」「ふするか」藩主でありながら、今何処で寝ておられるかを誰も知らない。

「云類」「いふたぐひ」。

「延致」「えんち」。「延」も「致」も「招く・引き来させる」であるから、招致・招聘に同じい。

「出入」「でいり」。

「煖て」「あたためて」。

「芝の御山」芝の増上寺のことか。

「火防」「ひぶせ」。幕命による防火警備。

「備る」「そなふる」。

「過る」「すぐる」。

「親書」自ら筆を執って書くこと。

「抛たり」「なげうちたり」。

「下」「しも」。家来。

「恤」「あはれむ」。

「酣」「たけなは」。

「拘らずして」「こだはずして」。意に介することなく。

「擘窠書」底本には「はくくわしよ」と編者によるルビがある。これは格子を切った紙に書を書くことを指す。碑文や墓誌を刻むことが盛んになり、その影響から紙に桝目を切ってそこに漢字を記すことが流行り、それがまた後に作品様式の一つとして定着したものらしい。

「糸鬢」「いとびん」。近世の男性の髪形の一つ。月代(さかやき)を広く左右に下まで剃り下げ、鬢を細く糸のように残して、髷(まげ)をこれまた頭のずっと後方に低く結ったもの。一般には中間(ちゅうげん)や侠客などに好まれた。

「京紳」「けいしん」と読んでおく。京の公家衆。「參向し御大禮あり」とあるから、これは所謂、「武家伝奏」の面子であろう。学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が伝奏に任ぜられた(但し、江戸後期には幕府も形式上のことであったことから、公家側の人選もいい加減なものになってはいたらしい)。

「大橫刀」非常に長い(この場合は正式な儀式であるので)「太刀」であろう。

「佩られ」「おびられ」。

「裝束振」「しやうぞくぶり」。

「聊」「いささか」。

「鷹司家」「たかつかさけ」。五摂家の一つで、江戸後期から幕末にかけてはこの鷹司家当主が関白を務めることが多かったから、伝奏役も同家の者が選ばれたものであろう。

 

甲子夜話卷之三 31 仙臺宗村大言の事

 

3-31 仙臺宗村大言の事

仙臺中將宗村は氣象高き人なりしとぞ。登城謁見の時、いつも首のさげ方高かりければ、一日同席の人々其事を申けるに、我等が首は實檢に入時、三方に載せて出べきことゆへ、其高さにてよきほどなりと云て、何知らぬふりにてありければ、皆人口を閉たりと云。

■やぶちゃんの呟き

「仙臺宗村」「仙臺中將宗村」仙台藩第六代藩主伊達宗村(だてむねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。父で先代藩主であった伊達吉村(仙台藩「中興の英主」と称せられた名君)の四男(長兄・次兄は早世し、三兄の村風(むらかぜ)は既に分家を興していたことに拠る)。寛保三(一七四三)年に乳より家督を譲られた。ウィキの「伊達宗村によれば、『父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった』とあるが、満三十七で死去している。また彼のかなり知られたエピソードとして、延享四(一七四七)年八月十五日のこと、『江戸城内の厠で、熊本藩主・細川宗孝が旗本板倉勝該に斬られて死亡した』(これは何と、紋所を見間違えた誤認による刃傷であった)。『宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている』という話がある。

 

甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事

 

3-30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事

佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし。止水の如く、海潮の深さいつにても極りてあることなりとぞ。故に海岸の岩石に、積年の鹹凝りて、一帶の白色を成せり。近年一湊地震にてゆり崩れ、海波淺くなりしに、海面より尺餘もかの白帶出たり。是にて地震に地の下りたるを驗すと云。羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云。西洋の説に、地は實したるものゆへ、橫へ震することは無く、唯上下へゆることに言しは宜なり。

■やぶちゃんの呟き

「佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし」というのは無論、誤認である。恐らくは対馬海流の強い影響下にあること潮の満ち引きが視認し易い砂浜海岸があまり多くないことなどから、潮汐現象を明確に視認し難く、このような誤伝が伝わったものであろう。

「鹹」「しほ」。塩。海塩。

「凝りて」「こりて」。

「一帶」「ひとおび」と訓じておく。

「一湊地震」「一湊」は「いちみなと」と訓じてここで切っておく。これは佐渡島の小木(おぎ)の湊(みなと)付近で、享和二年十一月十五日(グレゴリオ暦一八〇二年十二月九日)で発生した佐渡小木地震(享和佐渡地震)のことを指していよう。ウィキの「佐渡小木地震によれば、この地震はマグニチュード六・五から七・〇と推定されるもので、「大日本地震史料」によると、「小木町は総戸数四百五十三戸が殆んど全潰し、出火して住家三百二十八戸、土蔵二十三棟、寺院二ヶ所を焼失、死者十八名に達し、『湊は、地形変じて干潟となった」と記録されている』(「一話一言」「佐渡年代記」)が、『隆起した時刻と地震の時系列を示す資料は不十分で『佐渡年代記』には巳刻』(午前十時頃)『に所々破損する程度の地震が起こり、未刻』(午後二時頃)『に大いに震い』、『御役所を始め』、『人家に至るまで破損に及んだという。なお、金鉱山の坑夫たちは数日前から異常を察知し』、『坑道に入らずにいたため』、『犠牲者は無かったと伝えられている』。『実際に小木半島の海岸では約』二メートルもの『隆起が生じたと考えられており、露出した中新世の枕状熔岩を見ることができる』とある。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年で十九年も前であるが、彼は文化三(一八〇六)年に家督を譲って隠居しており、例えば隠居前の聴き書きや隠居直後のそれに基づくとするなら、この「近年」は不自然な謂いとは私には思われない

「地震に地の下りたるを驗すと云」「地震」のため「に地」面の」位置が遙か下の、元の海中であったところまで「下」(さが)「りたるを驗」(けみ)「す」(現認した)。

「羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云」「入海の水皆干て」は「いりうみのみづ」、「みな」「かはきて」と訓じておく。これは文化元年六月四日夜四ツ時(グレゴリオ暦一八〇四年七月十日午後十時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震、象潟地震によって象潟が隆起して陸地化してしまったことを指す。この地震は鳥海山の噴火活動と連動したものと考えられ、マグニチュードは推定で、七・〇越えか、その前後とされる。ウィキの「象潟地震によれば、本荘藩及び庄内藩領内周辺では潰れた家屋は五千五百軒余、死者は三百六十六人に及び(夜間であったために、倒壊家屋の中で多くの被害者が出た)、象潟・遊佐(ゆざ)・酒田などでは『地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が』七〇%に達した、とある。

「地は實したるものゆへ」「實」は「さね」か? 所謂、根本がある・根がしかりと張っているものであるから、の謂いで採る。だから「橫には震」(ゆ)「することは無く、唯」「、上下へ」のみ「ゆる」というのであろう。これは単なる人体の地震の際の感じ方からの印象表現のようにも見えるが、ネットのQ&Aサイトの回答を見ると、プレート間の歪みが溜まり易い日本列島では、押し合って断裂が起こる逆断層が多く、押し合った結果であることから縦にズレることが多い.とし、その場合、物理的にも縦揺れ成分が多いと考えられるとする。因みに逆断層であっても横ズレの成分が多い場合は、横揺れの感じが強くえすることはあるかも知れないといった趣旨の内容が書かれてあった。

「宜なり」「うべなり」。

 

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