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カテゴリー「「甲子夜話」」の196件の記事

2018/10/10

甲子夜話卷之五 26 大坂の松飾

 

5-26 大坂の松飾

嚮に門松のことを云たり。後聞く、大阪は門松なし。町家はじめ繩を戸口に張るなり。因て七草迄の間を松の内とは云はで、しめの内と云ふ。又松を飾るも、小枝を戸口の柱に釘にて打つけ置くばかりと云。

■やぶちゃんの呟き

「嚮に」「さきに」。甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事を指す。私の家は、私の記憶する限り、松飾りは小枝を玄関や扉の柱に附けおくばかりである。

甲子夜話卷之五 25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

 

5-25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

神尾若狹守春央は、享保中の勘定奉行にて、人となり才智ありて威嚴なりければ、國用を辨ずるにおひては功績多かりしとなん。一年諸國を巡見せることありしに、その威名を聞傳へて、いかなる苛刻の事もあらんやと、土民ども安き心も無りしに、道すがら輿中より見渡したる計にして經過せり。然るに隱田ある所は、自ら訴へ出、沃土の免低かりしは、自ら免を上げて申出けるにぞ、多くの國益とはなりける。若州曾て堀江荒四郞を薦て、これにも所所巡察せしめ、賦税を增益せること多かりしとかや。其頃中國にてかくぞ落首しける。

    

 東からかんの若狹が飛で來て

    神尾                四郞

      野をも山をも堀江荒しろ

此荒四郞は農民より出て御徒組に入、遂に御旗本に列せしと云。

■やぶちゃんの呟き

「神尾若狹守春央」(かんを(かんお) はるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)は旗本で勘定奉行。ウィキの「神尾によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として』生まれた。『母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』った。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元』(一七三六)年、『勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行とな』った。『時に』八『代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元』(一七四四)年には、『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十年を通じて、『収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三(一七四六)年九月、『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として広く知られている(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極』(ほりえ あらしろう/ただとう)『と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある。

「擧る」「あぐる」。

「苛刻」「苛酷」に同じい。

「輿中」「こしなか」。

「計」「ばかり」。

「隱田」「かくしだ」。

「沃土」地味の肥えた土壌・土地

「免」石高や収穫高に対する年貢高の割合。

「自ら」配下の担当者を介さずに彼が直接に。

「堀江荒四郞」堀江芳極(ただとう 元禄一四(一七〇一)年~宝暦九(一七五九)年)は上記の通り、当時、勘定組頭(後、吟味役)であった。父は成芳、母は水戸家侍女某氏の養女。開幕当初からの代官の家筋であった。勘定から勘定組頭を経て、延享二(一七四五)年閏十二月に勘定吟味役へ昇進、勘定奉行神尾春央の下で、「享保の改革」後半に於ける、年貢増徴政策の実務担当者として活躍した。勘定組頭時代の延享元年には、神尾とともに上方・西国巡見に赴いた際には例の落首が伝えられるように、西国の農民たちに恐れられた。寛延元(一七四八)年閏十月に罷免されて小普請になり、出仕を停止されたが、間もなく許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「薦て」「すすめて」。

「若狹が飛で來て」「わかさ」は「未熟な野郎」を掛けるか。或いはこれを「神尾(の配下の)若さ(若い衆・子分)」として堀江四郎と読むことも可能であろう。但し、当時、堀江も既に四十三だから「若い衆」ではないけれど。

「荒しろ」「荒し」て米一粒だに残らぬという謂いであろう。

甲子夜話卷之五 24 九鬼松翁、享保殿中の物語

 

5-24 九鬼松翁、享保殿中の物語

享保の頃は、大廣間一同御禮のとき、隆暑祁寒などの折は、御大聲にて時氣の御諚ありて、いづれもさはりは無きやなどゝありしとぞ。今の九鬼泉州【隆國】の祖父松翁【長門守、隆邑】、九十一歳にて去々年終りしが、その人などは玉音を承りしとて語れりとなん。御晚年西城にて薨御の後、本城へ御機嫌伺登城のとき、殿中の靜なること人無きやうにありしとぞ。これ出仕の人々御德を仰慕して哀悼に堪ず、聲を出すものも無りし故なりしと。これも九十翁の物語なりときゝぬ。

■やぶちゃんの呟き

「大廣間」「おほびろま」。江戸城内最大の書院で、将軍宣下の儀式・武家諸法度追加法令の発布・年頭拝賀の式等の公的行事を行う最も格式の高い御殿。将軍が坐す「上段之間」以下、「中段之間」・「下段之間」・「二之間」・「三之間」・「四之間」・「五之間」・「納戸」が中庭を囲んで、合わせて五百畳で構成されていた。参照したブログ大江戸歴史散歩を楽しむ会の「江戸城表・大広間・控之間・松之廊下がよい。

「祁寒」「きかん」。厳しい寒さのこと。「祁」は「盛ん」の意。

「御諚」「ごぢやう」主君の仰せ。御言葉。ここは無論、徳川吉宗の時候のそれ。

「九鬼泉州【隆國】」摂津三田藩第十代藩主九鬼隆国(くきたかくに 天明元(一七八一)年~嘉永五(一八五三)年)。和泉守から後に長門守。静山より二十一歳歳下。

「祖父松翁【長門守、隆邑】」摂津三田藩第八代藩主九鬼隆邑(たかむら 享保一二(一七二七)年~文政三(一八二〇)年)。「去々年」(おととし)とあるから、珍しく、本条は文政五(一八二二)年の執筆であることが明確に判る記事である。ウィキの「九鬼隆邑」によれば、『官位は従五位下。長門守。号は松翁』。寛保三(一七四三)年、『兄で先代藩主の隆由』(たかより)『の死去に際し、その養嗣子として跡を継いだ』。天明五(一七八五)年十一月十四日、長男の隆張』(たかはる)『に家督を譲って隠居し』ている。『九鬼家に伝えられていた起倒流柔術を兄・九鬼隆由から学び、隆由の死後は鈴木邦教(滝野遊軒の弟子)から同流の柔術を学んだ』。『その後、長男の九鬼隆張に起倒流を伝え、以降は九鬼隆輝まで伝承が続いた。この、九鬼家の家伝となった起倒流の系統は起倒流九鬼派と呼ばれた』とあり、また、『隆邑(松翁)は、歴代藩主の中でも最も長命な人物であり』、文政二(一八一九)年正月十九日には九十歳の『祝賀が行われた。代々』、『三田藩の家老を務めた澤野氏により』、『明治初期に編纂された「九鬼史」(個人蔵)には』、「松翁樣九十歳御年賀御祝ニ付隆國公ヨリ白銀拾枚鯣壱折御祝被進之 松翁樣ヨリ御壽物トシテ御大小一腰被進其外夫々御壽物被進之 右ニ付家中一統ヘ御祝下賜夫々組合ヲ以御祝物獻之 御領下餠被下置 廿五廿六日御能拜見被仰付家中男女出頭ス老公ヨリ御染筆ノ石摺一枚ツゝ下賜」『とあり、領民には餅が配られ』、二『日間にわたり』、『能が演じられ』、『家中一同の観能が許された。なお、三田藩にかかる記録類において、能・狂言に関する記載は当該条文のみである。また、当該祝賀の実施場所については、藩主である九鬼隆国が』文政元(一八一八)年五月十九日に『三田に帰国し』、同三(一八二〇)年三月二十四日に『参府のため』、『三田を出立しているので、三田城陣屋の藩庁、もしくは三田城陣屋郭内の隆邑の隠居所であった御下屋敷の広間か』、『書院で行われたと考えられる』とあり、『九鬼松翁により「富貴是長命」と揮毫された長寿を寿ぐ書軸が今日に伝わっている』として、その『九鬼隆邑筆一行書「冨貴是長命」』画像(転載不可)がこちらで見られる

「西城にて薨御」吉宗は将軍引退から六年が経った寛延四(一七五一)年六月二十日に死去した。享年六十八(満六十六歳没)。死因は再発性脳卒中とされる(ここはウィキの「徳川吉宗」に拠った)。

2018/10/03

5-21 又林氏の説幷川村壽庵の事 / 5-22 壽庵が事蹟 / 5-23 又、芙岳を好む事

 

5-21 又林氏の説幷川村壽庵の事

後日に風と前條の事を林公鑑に語しかば、公鑑は、從來大玉川と配稱すること、後世拙俗の所爲にして、采錄に足らず。高野大師の歌は假托にて、其時世の語言風格に非ずと云へり。又是に付おかしき噺ありとて、公鑑の云しは、河村壽菴【南部産】と云し町醫師、風雅人にて、其人名山を好んで諸國を登涉せり。一年高野山に登りしとき、嚮導者毒水玉川を指點して、側へよらば毒に觸べし。遠く避けて通行すべしなど恐嚇して云けるを、耳聞ざる如くして水岸に立、やがて無人として水中へ私しければ、嚮導者あきれはてゝ一言も無しとなり。

■やぶちゃんの呟き

前の「浴恩侯、高野玉川の歌の解」を受けていたのをうっかり見逃していた。以下二条もこの「21」と連関するので、纏めて掲げることとした。

「林氏」「林公鑑」既出既注の林述斎のこと。

「川村壽庵」(?~文化一二(一八一五)年)は江戸後期の医師。本条々の紹介によって奇行で知られた。ウィキの「川村寿庵」によれば、『南部藩出身。医学の修行のため』、『江戸に登り』、安永四(一七七五)年に『江戸の町医者・川村快庵の跡目を相続する。その後は町医者として医業に精だし、弟子も取る一方で、安藤昌益や林述斎らとも交流したと言われる』が、『寿庵の生涯については現在も不明な点が多い』。以下は本条々の現代語訳であるが、これ幸い(以下で注を大幅にカット出来るので)なれば、そのまま引いておく。『往診は自宅から数里四方内と限り、かつ調剤は巳の刻を限りとし、時刻を過ぎれば』、『好きな笛を持って同好の士を訪ねて合奏を楽しみ、帰宅を忘れるのが常であった。清水公(徳川重好』(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年:第九代将軍徳川家重の次男で徳川御三卿の一つである清水徳川家の初代当主)『と見られる)が重病になり、寿庵を知る家臣が寿庵を推挙し、使者を遣って招いたが、往診に距離に限りがあると』、三度、『招かれても応じなかった。推挙した家臣は困惑し、自ら寿庵を訪ねてようやく往診を承諾させた。しかも往診の際には垢衣を』纏って『薬籠を肩にした老貧医姿で、周囲を愕然とさせたという』とある。

「風と」「ふと」。

「嚮導者」「きやうだうしや(きょうどうしゃ)」先達。案内人。

「指點」「してん」。指差して。

「觸べし」「ふるべし」。

「恐嚇」「きようかく」。脅かし嚇(おど)すこと。

「聞ざる」「きかざる」・

「無人」「ひとなし」。

「私しければ」勝手に入り込んでしまったので。

 

5-22 壽庵が事蹟

次でに公鑑の咄ありき。壽菴は奇男子と云べきものなり。石町邊に住し、我居處の四方、凡幾町と云定界を立て、その中の療治計して、その餘へは延致すれども往ず。分て懇交の人は、たまたまその外に刀圭執る事もあり。因てはいかなる王侯貴人より邀へても、峻拒して應ぜず。每日早旦より巳牌までに醫業畢るやうにして、鐘聲巳刻を報ずれば、笛を腰にして、出て管絃會集の許に行き、合奏して日を終ふ。性最樂を嗜み、樂器を貯ふること若干。名物と稱するものまで儲へぬ。又暇あれば書を看る。藏書も亦滿ㇾ庫。天明飢荒の時、鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る。卽時に庫を開き、數萬卷の書を一時售て金に換へ、脚力を馳て救ふ。これが爲に全活するもの數十人。後に人嗤て、足下は信を人に取ること久し。もし金借んと云はゞ、數百金も立處に集るべし。何の珍篇奇籍を售ことやあらんと云ければ、壽菴答て云。人の物を借りて救ふを誠意と云んや。我が物を以て救はざれば、我誠意を達するに非ずと。嗤し者愧服せり。壽菴常に頗る富めり。然るに綿入のときも帷子のときも、年々一二新調して餘贏あることなし。起臥内外同じ服を着す。時服過る比、其まゝ弟子奴僕に與へて、翌年に越るものなし。ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時、侍臣の中舊友ありて、頻に壽菴を推薦し、彼藩より召れける。例の事なれば、固辭して出ず。使价數囘に及ベども、遂に參らず。家司始悉その侍臣を責ること急なり。侍臣自ら壽菴が許に來り、もし藩命を奉ぜずんば、某罪を得て逭るべからず。故舊の情を以て某を救へと歎く。壽菴やむことを得ず、藩命を奉じ行く。藩にては名醫來れりとて、諸有司皆出て待つ。壽菴は一僕に藥籠を擔はせ、己は三伏晝夜を通して汗染はてたる帷子にて步み至れるを、人々覩て驚かざるものは無りしとなり。是を以て其氣槪を見るべし。公鑑年少のとき管絃の交際にて、今亡友の中にても指を屈する列なりとの物語なりけり。

■やぶちゃんの呟き

「石町」「こくちやう」で、現在の東京都中央区日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「凡」「およそ」

「幾町」一町は百九メートル。彼の定めた町数は知らないが十町を越えるとは思われない。十町を越えると、江戸城内に達してしまうからである。

「定界」「じやうかい」。

「計」「ばかり」。

「延致」その限界の外へと引き延ばして来診を依頼すること。

「往ず」「ゆかず」。

「分て」「わけて」。

「刀圭」「たうけい(とうけい)」原義は「薬を調合する匙」で、転じて医術・診断・施療のこと。

「邀へても」「むかへても」。迎えても。

「巳牌」底本東洋文庫『みのこく』とルビする。午前十時頃。

「畢る」「をはる」。

「性最」「せい、もつとも」。

「儲へぬ」「たくはへぬ」。

「滿ㇾ庫」「くらにみつ」。

「天明飢荒」天明の大飢饉。江戸中期の天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年にかけて発生した飢饉で、本邦近世では最大の飢饉とされる。ウィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は』先立つ一七七〇年代(明和・安永)から『悪天候や冷害により』、『農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が、七月六日(八月三日)には『浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった』。天明二(一七八二)年から三年に『かけての冬には』、『異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により』、『地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約』三十『年前の宝暦年間』に『凶作があったときの天気と酷似していた』という。『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』記して『いるが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が』十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』一七八〇年から一七八六年の十六年間で実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。

「鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る」前条で示した通り、川村は南部藩出身である。

「售て」「うりて」。

「馳て」「はせて」。

「嗤て」「わらひて」。

「金借ん」「かねかりん」。

「愧服」「きふく」。恥じて従うこと。

「餘贏」「よえい」。余り。残余。剰余。「贏余」とも言う。

「時服過る比」「じふく、すぎるころ」。合わせた服の季節が過ぎる頃には。

「ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時……」以下は前条の引用を参照。なお、調べてみると、徳川重好の墓碑銘の諡号は「德院殿」である。因みに家重の長男の第十代将軍徳川家治の諡号は「明院」であるから、静山はそこを混同した可能性が大きい。

「中」「うち」。

「彼藩」「かのはん」であるが、清水家は御三卿だから今一つピンとこない気もするが、そもそも「藩」と言う語は江戸時代には一万石以上の領地を与えられた大名の支配する領域とその支配機構を指したものの、「藩」の名は幕府による公称ではなく、江戸中期頃に漢学者儒学者が周の封建制度に擬えて大名を「藩屏(はんぺい)」と称したことに由来し、実は公称とされたのは明治になってからであるから、この違和感も時代劇の見過ぎとも言える。

「使价」「しかい」。招聘伺いの使者。

「始悉」「はじめ、ことごとく」。

「責る」「せむる」。

「某罪を得て逭るべからず」「それがし、罪を得て、逭(のが)るべからず」。

「三伏」「さんぷく」。「初伏」(しょふく:夏至(げし)後の三度目の庚(かのえ)の日)・「中伏」(ちゅうふく:四度目の庚の日)・末伏(まつぷく:立秋後初めての庚の日)の総称。最も暑い時期を指す語。

「汗染はてたる」「あせじみ果てたる」。

「覩て」「みて」。

「無りし」「なかりし」。

 

5-23 又、芙岳を好む事

壽菴は殊に芙岳を好み、幾度か登れり。居宅の樓上に架を作り、名は火見と稱し、實は眺岳の爲に設く。朝起れば、先づ架に上りて岳を看、それより日用の事に就く。生厓かはることなし。晚年本所に退居して人を避け、名山圖を刻行す。畫は文晁にかゝしめしが、山形はみづからの指點なりとぞ。岳に登るときは必魚味を携へ、窟室中にて用ゆ。道家叱すれども肯ぜず。岳巓は人の高聲禁ずると云に、いつも石に踞して笛を弄し、數曲を闋て山を下る。先達と呼ものも、如何ともすること能はざりしとなん。

■やぶちゃんの呟き

「芙岳」「ふがく」で「富岳」、富士山のこと。

「架」掛け渡した物見の木製の高台

「火見」「ひのみ」。底本のルビ。

「起れば」「おくれば」。

「生厓」「生涯」に同じい。

「文晁」江戸後期の奥絵師谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)。江戸下谷根岸の生まれ。狩野派・土佐派・南宗画・北宗画・西洋画などの手法を採り入れ、独自の画風を創出、江戸文人画壇の重鎮となった。田安徳川家に仕え、松平定信編「集古十種」の挿絵も描いている。渡辺崋山ら門人も多い。

「山形」「さんけい」でも「さんぎやう(さんぎょう)」でもよいが、私は「やまなり」と読みたい。

「指點なり」指図で描かせた。

「必」「かならず」。

「魚味」腥(なまぐ)さ物の魚類。

「窟室」岩室(いわむろ)。

「道家」「だうけ(どうけ)」。これは後に出る「先達」(せんだつ)で、山案内をする修験「道」の山伏の形(なり)をした者と私は採る。なまぐさものを山中で食することは一般に禁忌とされる。

「肯ぜず」「がへんぜず」。

「岳巓」「がくてん」。山頂。

「高聲」「こうせい」。

「云に」「いふに」。

「踞して」「きよして」或いは「こして」。しゃがんで。

「闋て」「をはりて」。話・音曲などの一つの区切りや話の纏まりを「ひとくさり」と言うが、あれは実は「一闋」と書く。ここは一曲を「演奏し終えて」の意。

2018/09/11

甲子夜話卷之五 20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

 

5-20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

六玉川の歌に、高野の玉川は高野大師の歌とて、

 忘れても汲やしつらん旅人の

      高野の奧の玉川の水

此川毒水なればかく詠じたりと云。然ども不審なり。哥詞の中毒水のことなく、又六名勝の中に一つ毒水を入る可きようもなし。其上高野の邊の人は、常にかの玉川の水を飮む。然れば毒あるには非るべし。歌の意は、かくの如き名水を、旅人のことゆゑ、忘て常の水と思て汲やしつらんと、其水を賞て詠じたる也と、浴恩老侯の話られしは妙解と云べし。

■やぶちゃんの呟き

本条については私の「諸國里人談卷之四 高野の毒水」を参照されたい。そこで私が注した内容で、本質的には私の言いたいことは尽きている。

「浴恩侯」元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「六玉川」「むたまがは」。古歌に詠まれた六つの歌枕とされる「玉川」の総称。弘法大師空海・藤原俊成・藤原定家・能因らの歌に詠まれた六つの玉川を総称したもので、山城の井出・紀伊の高野山・摂津の三島・近江の野路(のじ)・武蔵の調布・陸奥(宮城)の野田にある「たまがわ」を指す。原初的には「魂の下る川」という古代祭祀上の「霊(たま)川」であったものと思われる。

「汲やしつらん」「くみやしつらん」

「哥詞」「かし」。

「中」「うち」。

「入る可きようもなし」「よう」はママ。「いるるべき樣(やう)もなし」。

「非るべし」「あらざるべし」。

「忘て」「わすれて」。

「思て」「おもひて」。

「賞て」「ほめて」。

甲子夜話卷之五 19 舜水歸化の後、言語の事

 

5-19 舜水歸化の後、言語の事

朱舜水、歸化年久しかりし後は、邦語をも用ひしが、兒言の如くありしと。一日或人塗に遇ふ。何れへ行たまふぞと問たれば、あす覺兵衞祝儀、肴かひゆくと答しと。又禁廷より内々に揮筆命ぜられしことありて、綿を賜りしとき、御所樣綿くれたと、人に語りしよし。さも有べきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「兒言」「じげん」。幼児語。

「一日」「あるひ」。

「塗」「みち」。路。

「覺兵衞」前に出した安積澹泊(明暦二(一六五六)年~元文二(一七三八)年)の通称。澹泊は号、諱は覚。所謂「水戸黄門」に登場する「格さん」(渥美格之進)のモデルとされる。ウィキの「安積澹泊によれば、水戸生まれで、『祖父・正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に水戸藩初代徳川頼房に仕え禄』四百『石であったが、父の貞吉は多病で』、『この禄を辞退し、寄合組となった』。寛文五(一六六五)年九月、澹泊が未だ十歳の頃、第二代『藩主徳川光圀が』、『朱舜水をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て』、『朱舜水に入門させた。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだ』が、翌年七月に『父が死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった』翌寛文七(一六六七)年)に『朱舜水が水戸を訪れると』、『再び教えを受け』、翌年、『朱舜水に従って江戸へ出た。しかし』、寛文一〇(一六七〇)年『春には痘瘡を病んで水戸に帰国した。澹泊が朱舜水のもとで学んだのは』三『年ほどであったが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金』三『両を図書費として与えた』。『水戸へ帰った澹泊は同年』二百『石で大番組を命じられ』、小納戸役・唐物奉行を歴任し、天和三(一六八三)年二十八歳の時、』『彰考館入りし』、『史館編修に任じられた』。元禄二(一六八九)年、『吉弘元常』(よしひろもとつね)『・佐々宗淳』(さっさむねあつ)『両総裁とともに修史義例の作成に関与』し、元禄五年には三百石となり、元禄六年には、『死去した鵜飼錬斎の後任として史館総裁に就任した』『(当時の総裁は』三名で『他は佐々宗淳・中村顧言)』元禄九年には『佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べ』ている。元禄一三(一七〇〇)年に光圀が死去し、翌十四年に第三代代『藩主徳川綱條』(つなえだ)『の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに』「義公行実」を編集、享保八(一七二三)年には、第四代藩主となっていた徳川宗堯(むねたか)の『命により、さらにこれを修訂』、した上、「常山文集」の『付録として印刷した』また、享保九年には、「義公行実」の付録として「西山遺事」を著した。元禄十四年、『総裁の職は元のままに』、『小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも宝永年間』(一七〇四年~一七一一年)『の筆削活動は目覚ましく、そのため』、『ほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという』。正徳四(一七一四)年に『総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった』。享保元(一七一六)年からは、『「大日本史論賛」の執筆を行』った(同五年完成)。「論賛」とは『史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である』(但し、文化六(一八〇九)年になって論賛は削除されたため、完成した現在の「大日本史」には存在しない)。享保六(一七二一)年、新番頭列、同七年には『新番頭に任じられたが』、『いずれも史館勤務は元の通りであった』。享保一二(一七二七)年からは徳川家康の伝記である』、「烈祖成績」の『編集を担当(同』十七『年完成)』した。享保一八(一七三三)年に致仕したが、『致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた』。『私的な面では菊づくりを趣味としていたという』。『明治時代になってから』、『大阪の講談師・玉田玉知が幕末の講釈師の創作であった』「水戸黄門漫遊記」の『中に主人公・光圀のお供役として澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名』、『大人気となった。この講談中で』、『同じくお供を勤める佐々木助三郎(助さん)のモデルである佐々宗淳は、やはり水戸藩で澹泊と同じく彰考館総裁を勤めた人物である(総裁は複数制であったので、ともに総裁であった時期もある)。澹泊の』十六『歳年上。なお、佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓碑文で安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している』とある。

「綿を賜りし」綿を褒美として下賜した。元は祭祀に用いた神聖な綿の下げ渡しであったものかと思われるが、例えば、先行する甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事には、江戸幕府が年始に於いて、大名・旗本などに対し、綿入れの小袖が下賜衣料として出てくる。

甲子夜話卷之五 18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

 

5-18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

大阪御城中御殿の張付は、金地に秋草の繪なり。長押の上も金張付にて、一處猷廟の御筆にて、鷄を墨畫にかかせ玉ふ有り。御戲筆なるべし。又あき御殿ゆゑ、席は鋪かずあれども、彼御筆の前には一疊を鋪てあり。人其處に到れば、御筆を拜すと云。

■やぶちゃんの呟き

「長押」「なげし」。

「張付」「はりつけ」。ここは布や紙等を張って仕上げた壁面や室内建具その他。

「金張付」「きんはりつけ」。

「猷廟」徳川家光。

「席」東洋文庫には『たたみ』とルビする。

「鋪かず」「しかず」。敷かず。

「鋪て」「しきて」。

2018/09/01

甲子夜話卷之五 17 松平周防守持鎗の事

 

5-17 松平周防守持鎗の事

松平防州【康任。石州濱田城主】に會したる次手に、予其家の持鎗靑貝柄の方は、世に神祖御手の形など云ふ。然るや否やと問ふ。答に否。其刃は如ㇾ此にて、嘗て賜りしものなり。國本に祕藏す。柄は二間半なり。當時持するものは其寫しにて、柄二間なりと云。

 

Matudairasuounoyari

 

■やぶちゃんの呟き

標題及び本文の「持鎗」は「もてるやり」或いは「もつやり」と訓じておく。

「松平防州【康任。石州濱田城主】」老中で石見浜田藩(現在の島根県浜田市)第三代藩主松平康任(やすとう 安永八(一七七九)年或いは翌年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「松平康任によれば、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中と幕府の重職を歴任した。『分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため、康定の婿養子となり』、『家督を相続』した。『文化・文政期の幕府の実力者水野忠成』(彼の義父忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なるもので、忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は、かの「田沼時代」を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる)『の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任する』。『忠成同様、賄賂には大変鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から』六千『両もの賄賂を受け取り、その結果、実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちに康任失脚の布石となってしまう』。『忠成死後、老中首座となったが、このころから』、閣内では『康任派と水野忠邦派の抗争が激化』し、天保五(一八三四)年に発生した仙石騒動』(出石(いずし)藩で発生したお家騒動)『において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた』。『また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられ』ているとある。さても、この松平家を辿ってみると(養子縁組が多いので、直血族ではない)、松井松平家初代松平康重(永禄一一(一五六八)年~寛永一七(一六四〇)年)なる人物に辿り着く。ウィキの「松平康重によれば、『駿河国三枚橋城主松平康親の長男』で、天正一一(一五八三)年三月の『元服の際に家康』(二十五歳年上)『から「康」の偏諱を授かり康次、のちに康重と改めた』。『家康が東海地方にいた頃』に当たる、天正一一(一五八三)年から同十八年にかけては、父『康親の跡を継いで』。『駿河国沼津城の守備役を務め、後北条氏に約』八『年間も対峙した「小田原征伐」後の天正十八年八月に『家康が関東に移されると、武蔵騎西』(きさい:現在の埼玉県加須市根古屋)に二『万石を与えられた』。文禄四(一五九五)年には『豊臣姓を与えられ』、後、常陸笠間三万石・丹波国篠山藩五万石と加増移封、元和五(一六一九)年には『大坂平野南方の要衝』であった『和泉岸和田に移封となっ』ている。『康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある』。『生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま』、『康親に嫁いだとされる』。『後に子孫も家康の「康」を通字として用いている』(太字やぶちゃん)と驚くべきことが書かれてあり、この家なら「家康の手形を擬えた」家康から賜った(これ或いは手ずから賜ったの転訛のようにも私には思われるのだが)「鎗」があると世間で囁かれても、これ、おかしくなわいな!

「靑貝柄」螺鈿細工。

「世に神祖御手の形など云ふ」世間では、鑓の先の部分が神君家康公の御手の形を模したものである、と噂申して御座る。

「二間半」四メートル四・五センチメートル。

「當時持するものは其寫しにて」現在、江戸上(或いは下)屋敷に所持するものはそれのレプリカで。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

甲子夜話卷之五 16 評定所食膳の事

 

5-16 評定所食膳の事

評定所にて奉行に出る食膳、平椀も味噌汁をいるゝと云。珍しき爲方なり。蓋古の遺るか。

[やぶちゃん注:「平椀」(ひらわん)は懐石食器の「四つ椀」の一つで、浅めの大振りな塗椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施されたもの。普通、これには煮物などが盛られる。形状は、参照茶道サイトの画像を見られたいが、そこに江戸中期の旗本で伊勢流有職故実研究家でもあった伊勢貞丈(享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の故実書「四季草」から、「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼる』ゝ『ゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり」と引かれてある。これが静山の言う古式の名残のヒントになるかも知れぬ。

「爲方」「しかた」。

「蓋古の遺るか」「けだし、いにしへの」習慣の「のこれる」もの「か」。]

甲子夜話卷之五 15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

 

5-15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

慶長中、林又三郞【道春の始名】浪人にて、始て神祖の二條御所に出たるとき、本多中書【忠勝】邂逅す。中書が曰。其もとの器量、天神と【天神とは菅相公を云】いかん。又三郞笑て不ㇾ答。中書御前に出て曰には、又三郞の器量天神とはいかんと問候に答不ㇾ申。其器量いかんと申上たれば、神祖も笑て答へ給はざりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「林又三郞」「道春」朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。又三郎は通称、羅山も出家後の道春(どうしゅん)も号で、諱は信勝(のぶかつ)。ウィキの「林羅山」によれば、『京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる』。『幼少の頃から秀才として謳われ』、文禄四(一五九五)年、『京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること』を拒否し、慶長二(一五九七)年に『家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた』。『家に帰ってからは』、『もっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した』。『独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき』、慶長九(一六〇四)年に儒学者藤原惺窩(せいか:公家冷泉為純の三男であったが、家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原及び籐(とう)を公称した)『と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると』、『四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で五行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので』、翌慶長十年、『羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった』。『家康は、惺窩の勧めもあり、こののち』、『羅山を手元に置いていくこととした』。『羅山は才を認められ』、二十三『歳の若さで』、『家康のブレーンの一人となったのであ』ったとある(太字やぶちゃん)。この後は「朝日日本歴史人物事典」から引く。慶長一二(一六〇七)年、家康の『命により』、『剃髪して道春と改称。この自ら排する僧形を余儀なくされたことは』、『思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年』、『批判を受けることになる。もっとも家康は』、彼に「大坂の陣」の口実とするため、『名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど』、『博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって』、『羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く』、『専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。また、この頃、『清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され』、『家康はそれを退けたという逸話があるが』、『秀賢らとの親炙などから』、『史実としては疑問視されている。この間』、『盛んに駿府と京都を往復しながら』、『以心崇伝らと古記録謄写』・出版・集書など、『京の学問の復興に努めた。元和』二(一六一六)年の『家康没後は』、『駿河御譲本の分割に尽力』、同四年からは、『活動の中心を江戸に置き』、『和漢の古典を講じながら』、教訓的仮名草子である「三徳抄」「巵言抄(しげんしょう)」などを書いて』、『諸大名家の教育に腐心』した。その他にも、『中国怪談集』「怪談全書」や「徒然草」の注釈書「野槌」の『執筆など』、『多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること』が多くなり、『朝鮮・オランダ・シャムとの通信に当たりながら』、『政治顧問の地位に』就いた。寛永七(一六三〇)年には『上野忍岡の賜地に学校設立を開始し』、同九年に「先聖殿」を完成させた。同十二年には、『各法制を整備しつつ』、「武家諸法度」(寛永令)を制定、その後も「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」に着手したが、『その知識の源泉であった膨大な蔵書も』、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)から一月二十日(三月四日)に発生)で邸宅もろとも焼失させてしまい、その数日後の一月二十三日に没した。

「本多中書」「忠勝」徳川家康の功臣にして上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩十万石初代藩主であった本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、五十数回の戦いに出て、一度も傷を受けなかったという歴戦の勇者として知られる。彼の官位は従五位下・中務大輔で、「中書」は中務省の唐名。

「慶長中」「始て神祖の二條御所に出たるとき」先に引用で示した通り、ウィキの「林羅山」によれば慶長一〇(一六〇五)年である。

「曰」「いふ」。

「其もと」「そこもと」。貴殿。当時の忠勝は数え五十八であるのに対し、林又三郎(羅山)は未だ二十三歳である。

「天神」「菅相公」「といかん」「菅原道真公の才智と比べたら、どの程度のものだと自分では思うか?」。

「笑て不ㇾ答」「笑ひて、答へず」。

「問候に答不ㇾ申」「問ひ候ふに、答へ申さず」。

「其器量いかん」「あの若造の器量はどれほどど思われまするか?」。

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