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カテゴリー「「甲子夜話」」の149件の記事

2017/06/11

甲子夜話卷之四 15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

4―15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

竜紋を麻上下の代りに用ることも、左近始められしと云。一日着して德廟の御前に供せらる。そのとき左近の上下は何なるやと御尋なり。是は龍紋にて候。家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候と申上らる。夫より世の中竜紋の上下を用始めしと云。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」引き続き、前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。彼は左近衛将監であった。

「竜紋」「りゆうもん(りゅうもん)」は「竜門」「流紋(りうもん(りゅうもん)」などとも書き、絹の平織物の一種。羽二重に似るが、やや厚手で、江戸時代、帯・袴・羽織・裃などに用いられた。武士の裃にそれを用いた濫觴は乗邑だと静山は記すのである。

「上下」「かみしも」。裃。

「德廟」吉宗。

「家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候」乗邑はまず、竜紋の裃を作らせて家臣に下賜して、具合を見た。すると麻よりも「保」(もち)がよい(厚地であるから擦り切れにくいという謂いか)、とって「悦候」(よろこびさふらふ)であったから、彼もそれを着用したというのであろう。

 

2017/05/21

甲子夜話卷之四 14 同人、物數奇多き事(松平乗邑譚その2)

 

4-14 同人、物數奇多き事

左近は胸次の不凡ゆへにや、物好にて一時にせられしこと、後に傳ること多し。駕籠の腰、昔は高くて出入むづかしゝと也。左近好みて際を淺く造られしより、人々それに倣ひ、今は一統の形同じやうになりたり。大小の鞘をしのぎに削り、丸きより帶留りよきやうにし、そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも、其好みなり。昔は左近形と云しが、今は名を知るものもなし。八寸の脚を半短くして、物すへと名づけ、常に用らる。今は工人尋常に作り出して、低(ヒク)八寸と云。硯蓋を脚付にし、遠州透を彫り、朱漆にしたるを、有明盆と名づけ、大小掛を松樹の俤にして、印籠までかゝるやうにしたるなど、世にもてはやせり。襖を腰通り一枚、別色の紙にて張たる。天井を四方の𢌞り一枚通り、これも別紙にて張たるなど、させることもなけれど、風趣あるものなり。今はその本を知るものさへも無しと、林氏語れり。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。 彼は左近衛将監であった。

「物數奇」「ものすき」。風流で、しかもプラグマティクな数寄者であったこと。

「胸次」「きようじ」。胸中。常の想い。

「不凡」「ぼんらざる」。

「一時に」ちょっと。

「傳る」「つたはる」。

「しのぎに削り」刀の大小の(ここは)鞘の、刀身の棟と刃との中間で鍔元(つばもと)から切っ先までの稜(りょう)を高くした「鎬(しのぎ)」の相当箇所を、通常は「丸」いのであるが、そこを削り上げさせて、「帶留りよきやう」(帯から抜けおちぬように鋭角に)仕上げ。

「そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも」その鞘の鋭角的に削った鎬相当の片面箇所の表面に、サメやエイ或いはチョウザメなどの魚皮革を剝いで乾かしたものを装飾や滑り止めとして貼り付けたもの。チョウザメのそれは「菊綴」と称した。私の古い投稿記事チョウザメに画像がある。

「八寸」「はつすん(はっすん)」は懐石料理などで用いる八寸(二十四センチメートル)四方の器で、一般に赤杉の木地で作った盆状のもの。これに三種から五種の珍味などを少量ずつ盛って載せて供する。この頃のそれは高い脚がついていたものらしい今の八寸は脚などはないか、あってもごく低いものであるから、まさにこの時の乗邑の改良が今、当たり前となっているということになる

「半」「なかば」。

「硯蓋」「すずりぶた」。

「脚付」「あしつき」。

「遠州透」「ゑんしうすかし」。池に囲まれた庭のイメージを透かし加工で模したものとも言われる、幾何学的な文様を組み合わせた細工模様。庭のイメージから、安土桃山から江戸前期の茶人で造園家として知られた小堀遠州の名を冠している。

「朱漆」「しゆうるし」。

「大小掛」刀掛け。

「俤」「おもかげ」。

「張たる」「はりたる」。

「その本を知るものさへも無し」それが松平乗邑殿の発案の風流であることを知る者とて一人もおらぬ。

「林氏」林述斎。

 

2017/05/12

甲子夜話卷之四 13 松平乘邑、茶事の事

 

4-13 松平乘邑、茶事の事

松平乘邑は、茶事を好まれける。原田順阿彌と云し同朋頭、これも茶事に精くして氣に入、折々招かれしが、あるとき茶會にて順阿彌詰なりしとき、會席に柚みそ出たり。其後順阿彌申には、此間は御庭の柚とり立にて、格別の香氣なりと云。乘邑何ゆへ庭の柚と云ぞとありしかば、御路次へ入りたるときと、退去のときと、御庭の柚實の數違へりと答へぬ。油斷のならぬ坊主よと乘邑云れしとなり。それほど懇意なりしが、或時政府にて、何か茶事の咄ありしとき、乘邑の云はれし數奇事を、順阿彌感じ入て、扨々御手に入候と申けるを、乘邑怒られ、不禮なりとありければ、順阿彌恐れて、四五日病を稱して籠りける。その後同寮の者へ、順阿彌見へず、何如と、乘邑申されければ、病に候と答ける。最早病も快かるべし、出候へとありければ、翌日より出勤しけるとなり。その嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」既出既注

「原田順阿彌」本名原田孝定。検索を懸けると、本話の訳が幾つか出る。

「同朋頭」「どうぼうがしら」。幕府の職名で、若年寄に属して同朋(将軍や大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代以降、一般に「阿弥」号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の江戸城内での役職の一つとして規定され、若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主(城中で大名や諸役人の給仕を担当。同朋よりも格上)・奥坊主(特に江戸城奥向きにあって、茶室を管理し、将軍の茶や諸侯の接待・給仕などを担当した坊主。小納戸(こなんど)坊主とも称した。無論、表坊主よりも格上)の監督を掌った。

「詰」「つめ」。松平乗邑の屋敷で行われた茶会に呼ばれたことととる。茶事(ちゃじ)を「つめた」は茶会業務に従事したことの謂いでろうが、ホストの差配業務に徹していては茶菓子は食はれまい。

「柚みそ」底本では編者は「柚(ゆ)みそ」とルビする。柚子味噌。

「何ゆへ庭の柚と云ぞ」「何故、我が屋敷の庭の柚子と言えるのじゃ?」。

「路次」底本では「ろじ」とルビするが、私は「ろし」と清音で読みたい。なお、ここは茶室へ向かう路地であろう。

「油斷のならぬ坊主よと乘邑云れし」ここは鋭い観察眼を褒めた側面もあるものの、それ以上に寧ろ、風流の道を旨とする茶人のくせに、抜け目なく、庭の柚子の実の数なんぞを数える、謂わば、「徒然草」の柑子に囲いをするような俗僧に同じい、いやな一面をも感じとって、「油斷」「ならぬ」と言ったものと私は解する。

「數奇事」「すきごと」。茶事に関わる意見。

「扮々御手に入候」「さてさておんてにいりさふらふ」。「いやはや! お手の入ったご立派なる謂いで御座るな。」。

「同寮の者」順阿弥の同僚。

「快かるべし」「よかるべし」。乗邑は自身の怒り故の仮病と判っているから、「ああ。あれで発した病か。それならもう恢復したはずじゃ」と言って、暗に許すから「出て参れ」という意を含ませているのである。

「嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ」「嚴剛」(げんがう)は格別に厳格なことであるが、「その厳格さもまたガチガチの一辺倒なのではなく、硬軟美事に使い分けるらるるさま、「かくの如」しであったとのことである、というのである。

2017/05/04

甲子夜話卷之四 12 白熊

 

4-12 白熊

下野を領する御旗本衆の村長、白熊の子を捕て養置しが、今年三歳なりとて、その地頭の屋敷に持來れるを見し人の物語に、大さは狗の大ぶりなるほどなり。總體純白にて、月の輪計黑毛なりとなり。

■やぶちゃんの呟き

 食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus のアルビノと考えてよいと思うが、その場合、胸部の三日月形或いはV字形の白い斑紋部(正常個体でもこれがない個体もいる)だけが逆に黒いというのは嘘臭いというか、嘘である。或いは飼い主が墨塗りしたんではあるまいか? なお、ツキノワグマのアルビノは実際に本邦にいる!。例えば、個人ブログ「クマにあいたい☆」の「ミナシロ」によれば、『ミナシロとは、全身真っ白なツキノワグマでミナグロ(全身真っ黒)と一緒で胸に月の輪がなく、マタギの間では 神の使いとして伝えられていて、絶対に獲ってはならないとされている』とあり、『実際、ミナシロはツキノワグマのアルビノ個体らしいのだ』が、『全国的にも珍しいこのクマが、岩手県の北上山系では』百年以上前から『ちょくちょく目撃されて』いると記す。実際に、その剥製が「遠野市民センター」に現存するとあって、ブログ主はそれに逢いに行った。現在は『傷みがひどいので』十年ほど『前から展示してないらし』いが(当該記事は二〇〇七年八月二十四日投稿のもの)、学芸員の案内で特別に『収蔵室に連れて行って』貰い、現物を見た(記事中に写真有り!)。記されたデータによれば、このアルビノ個体は昭和四五(一九八〇)年五月二十八日に『遠野市の国道で捕獲』されたもので、♀で推定三歳、捕獲時の体重は五十五キログラムとある。『当時の関係者はこれをツキノワグマだと思わなかったそうで、剥製業者も北極グマのように仕立ててしまったらし』いという(学芸員の談話)。『日焼けして毛が黄色くなってしまったけれど、月の輪は確かに無い。ツメも真っ白。目と鼻はピンクだった』と観察を記しておられる。また学芸員によれば、『岩手県内にあと』二体の『ミナシロの剥製があるらしく』、『一つは住田町の公民館という噂で』、『もう一つは県立博物館に保管されているらしい』とある。しかし、『これまでちょくちょく目撃例のあったミナシロ君』も『最近は目撃されてない』らしいともある。さらに、『アルビノ個体は遺伝子異常によるものとされている』が、『なぜ北上山系に多いのかという理由』として、『奥羽山系と隔絶された立地条件により個体群の近親交配などによるものではないかと言われて』いたと記し、「『それが、近頃目撃されないってコトは』『生態系が回復しているってこと?』『だったらいいんだけど』……」と期待を述べられた上、平成一二(二〇〇〇)年の『農林水産省の調査では』『奥羽山系と北上山系のツキノワグマでは骨格の作りが違うことがわかって』おり、『分析の結果によると奥羽のクマは北上に比べて①上あごや鼻骨が長くて②上あごの幅や両目の感覚は短いという傾向があるらしい』という情報も与えて呉れた。感謝!

 しかし、嬉しいことに! 今も「ミナシロ」はいるらしいぞ! サイト「信州ツキノワグマ研究会」このサイト自体が必読!)の中の、岩手大学大学院連合農学研究科の斉藤正恵氏の「白いけもの考(3)~<特別寄稿>しろいツキノワグマ「パンダ」のご紹介~」(リンク先に茨城県自然博物館の「クマの企画展(熊~森のアンブレラ種~)」に展示された剥製写真有り!)によると(二〇〇八年十二月十八日の記事)、冒頭から、『岩手県の北上高地で行動追跡を行なっているアルビノのツキノワグマについてご紹介します』と始まるからだ! そこで語られているアルビノ個体は二〇〇二年『生まれのようです。それからクマ関係者による捕獲作戦が始まり』、二〇〇四年『の夏にようやく捕獲されました。捕獲してくれたハンターの菊地さんは、パンチメタル式の捕獲ワナのなかにいる背中は黒く腹が白い動物を見て、思わず「パンダだ!」と叫んだそうです。そんなことからこの白いクマは「パンダ」と名づけられました。パンダはメスで』、体重は三十五キログラムほどで、『この個体はとてもおっとりとした性格のようで、人が近づいてもそれほど威嚇もせず、ワナの中で仰向けになって寝たり、でんぐり返しをしていました。そのせいで背中だけ真っ黒になっていたのでしょうか。パンダの目は赤く、鼻や肌のほか肉球はピンク色で、典型的なアルビノ個体の特徴を有していました。あの特有のクマ臭さもなく、ダニなどもほとんどついていませんでした』とあり、『電波発信機をつけて放獣し、パンダの行動追跡が始まりました。私が以前追跡していたメス個体と同様に、パンダは捕獲された集落付近のいわゆる里山で一年中生活していました』。そうして、二年後の二〇〇六年の初夏に再びこの「パンダ」が再捕獲された、とあるのである。『あの得意のでんぐり返しで私たちを出迎えてくれました。パンダの体重は』四十二キログラム『になっており、この年に出産した形跡が見受けられたものの』、『すでに乳は出ませんでした。子供はどうしてしまったのでしょうか・・。現在、この個体の追跡は後輩が行なっていますが、パンダは今も北上高地の里山で暮らしています』とあるのである! また、『ところで余談ですが、北上高地ではこれまで数頭のアルビノ個体が確認されています。過去の新聞をみると、狩猟された白いツキノワグマとその黒いコグマの写真が掲載されています。また、県内の博物館にはアルビノ個体の剥製も所蔵されています。ところが』、『剥製職人さんがホッキョクグマと勘違いしたらしく、ちょっとツキノワグマらしからぬ姿になっています』とある。以下、二〇〇三年五月十日附『岩手日報』朝刊の『岩手の白いクマが遺伝子調査』という記事が示されてある。以下、その記事。『岩手県内の北上山地では過去約』四十年間で六例も『白いクマが確認され、非常に頻度が高い。これらのツキノワグマは、色素を作ることができない遺伝子を両親から受け継いだアルビノ固体(白子体)と考えられる。同じ岩手県内でも奥羽山系では白いクマは確認されておらず、全国的にもほとんど例がない。岩手県内のツキノワグマの推定生息数は約』千『頭にすぎないので、北上山地でのアルビノ固体の頻度は非常に高い。盛岡市厨川の独立行政法人森林総合研究所東北支所は、「生息地が分断されている」、「奥羽山地など他のクマとの交流が無くなった」等によって、近親交配の可能性があると推測、遺伝子調査を始めることになった。県内各地で保存されている「白いクマ」の剥製の体毛や頭骨などからデオキシリボ核酸(DNA)を抽出し、アルビノ個体の確認、近親交配の有無などを分析する予定』とある(下線やぶちゃん)。「ミナシロ」よ! 永遠なれ!!!

「村長」「むらをさ」。

「捕て」「とりて」。

「養置しが」「やしなひおきしが」。

「今年三歳なり」捕獲から三年であるから三歳以上と考えるべきである。なお、ネット上の情報では、ツキノワグマの平均寿命は野生状態で二十四年、飼育下では三十三年生きた個体もいるとする。

「狗」「いぬ」。

「總體」「さうたい」。全身。

「計」「ばかり」。

 

甲子夜話卷之四 11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

 

4-11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

「著聞集」に鬼に瘤を取られたると云こと見ゆ。是は寓言かと思ふに予が領内に正しく斯事あり。肥前国彼杵郡佐世保といふ處に、八彌と云農夫あり。左の腕に瘤あり。大さ橘實の如し。又名切谷と云る山半に小堂あり。觀音の像を置く。坐体にして長一尺許。土人夏夜には必ず相誘てこの堂に納涼す。一夕八彌彼處にいたる。餘人來らず。八彌獨り假睡す。少くして其像を視るに、其長稍のびて、遂に人の立が如し。起て趺坐を離る。八彌が前に來て曰。我汝が病患を銷せん迚、八彌が手を執て、かの瘤をひく。八彌その痛に堪ず、忽驚ざむ。夢なるを知て、見るに瘤なし。人疑ふ、八彌常に大士を信ずるにあらず。亦患を除の願ありしに非ず。然るにこの靈驗あること不可思議なり。かゝれば、昔鬼に瘤を取られしこと寓言とも言がたし。

■やぶちゃんの呟き

「著聞集」「古今著聞集」であるが、知られた〈瘤(こぶ)取り譚〉は該当する話柄がないので、これは先行する「宇治拾遺物語」の誤認と思われる。それは既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』そこでは「甲子夜話」の本話も紹介されてある)の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「寓言」「ぐうげん」実際には起った事実ではない、創作されたたとえばなし。

「彼杵郡」「そのぎぐん」。

「佐世保」現在の長崎県佐世保市内。

「八彌」「はちや」と読んでおく。

「大さ」「おほきさ」。

「橘實」「たちばなのみ」。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana の果実。現在では酸味が強く、生食には向かないため、砂糖漬けやマーマレードなどの加工品にされる。

「名切谷」「なきりだに」。佐世保市名切ちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。同地区のバス停名として現存する。

「云る」「いへる」。

「山半」「やまなかば」と訓じておく。

「小堂あり」「觀音の像を置く」不詳。佐世保市内には静山が再建した福石観音堂なるものが現存するが、位置が違うし、由来にもそれらしい話は出ない((グーグル・マップ・データ))。

「相誘て」「あひさそひて」。

「彼處」「かしこ」。

「假睡」「かりね」と訓じておく。

「少くして」「すこしくして」。

「其長稍のびて」「その丈(たけ)、稍(やや)伸びて」。

「人の立が如し」「ひとのたつがごとし」。

「起て」「おきて」。

「趺坐を離る」「ふざをはなる」。結跏趺坐していた位置から離れて歩いてくる。

「銷せん」「しやうせん」。「消せん」で「治してやろう」の意。

「執て」「とりて」。

「痛」「いたみ」。

「堪ず」「たへず」。

「忽驚ざむ」「たちまちめざむ」。瞬時に目覚めた。

「知て」「しりて」。

「大士」「だいし」。菩薩の意訳。ここはここの観音菩薩のこと。

「患を除」「わづらひをのぞくの」

「願」「ぐわん」。

甲子夜話卷之四 10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

 

4-10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

享和の初、西城いまだ御幼き時【御年十】、淺草寺に御成、彼處にて童子の相撲上覽あり。其頃奥毉快菴法眼【吉田氏】、予が病を診に來れる次手に問たれば、懷中より童子の名を出して示せり。

[やぶちゃん注:以下、下線(本文で言う「右點」)は底本では、右傍線であって、しかも頭の部分は有意に左方向に反っている。そのように読み換えて戴きたい。]

東方 福 鼠【年十】  西方 山 彦【年十】

   河 鵆【年八】     金 簾【年九】

   神樂岡【年八】 預り  隅田川【年八】

   待乳山【年十二】    初舞臺【年十】

   玉之井【年十】     花 傘【年十】

   呉服鳥【年十二】    朝日山【年十】

   初瀨山【年九】     喜見城【年十】

   汐 衣【年十三】    友 鶴【年十二】

   亂獅子【年十四】    赤兎馬【年十四】

關  龍 王【年十四】    虎 王【年十四】

     重て上覽のとき

   出世奴【年十】     酒中花【年十】

   白 瀧【年十】     大酒盛【年十一】

   舞 扇【年十二】    水 車【年十一】

   玉芙蓉【年九】 無勝負 稻 妻【年十二】

          行司 木村源之助【年十三】

          呼出 追灘金太郎【年九】

右點あるは勝のしるしなり。其時西城の御目付同姓大膳【今伊勢守】、此事を取扱たり。是より聞けり。いかにも御幼稺の御慰には勇ましき御事なりけり。

■やぶちゃんの呟き

 並ぶ四股名は読み方は判らぬ。特異な漢字のみを注した。

「享和」一八〇一年から一八〇四年の三年。

「若君」「享和の初」(はじめ)「西城いまだ御幼き時【御年十】」後の第十二代将軍となる徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)。数え十歳であるから正確な時制は享和二(一八〇二)年に特定出来る。寛政五(一七九三)年に第十一代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれたが、長兄竹千代が早世したため、将軍継嗣となった。天保八(一八三七)年、四十五歳になってやっと将軍職が譲られたが、それでも家斉が大御所として強大な発言権を保持し続けた(家斉の死は四年後の天保一二(一八四一)年で、それ以後、老中首座であった水野忠邦を重用、旧家斉派を粛清して「天保の改革」を行なわせたが、知られる通り、厳しい綱紀粛正を伴った緊縮財政政策は世間では支持されなかった。言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明派の蘭学者を弾圧してもいる(蛮社の獄))。

「彼處」「かしこ」。

「奥毉」「おくい」。「奥醫」に同じい。

「快菴法眼【吉田氏】」吉田快庵。生没年不詳乍ら、ネット上の資料にはその名が散見される。

「次手」「ついで」。

「問たれば」「とひたれば」。

「河鵆」「かはちどり(かわちどり)」であろう。

「預り」引き分けの一種ウィキの「相撲)より引く。『文字通り、勝負結果を行司もしくは審判委員が「預かり置く」ことで、物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用された。日本相撲協会発行の星取表には大正までは「△」の記号で記載されたが、戦後痛み分けが「△」の記号で記載されるようになったため近年作成される星取表にはカタカナで「ア」と表記されることもある。ひとつには、江戸時代の幕内力士は多くが有力大名のお抱えであり、その面子を傷つけないための配慮措置でもあった。記録上は引き分けとしながらも、実際の取組で優勢であった側に、番付編成面で優遇を与える「陰星」(完全に』一『勝扱いにする場合を「丸星」』、半勝半負扱いの時は『「半星」と呼んだ)もあった。特に丸星の場合、星取表の右上の、勝ち数を表記するところに「●」を加えた場合もある』。『大正頃まで、大部屋同士の意地の張り合いや、大坂相撲と東京相撲との対抗心から来るいざこざも多く、これらをなだめる方便としても預り制度は存続した。また、東西制の導入で優勝争いが勝ち星の合計で争われるようになると、自分の側に優位になるようにと控え力士が物言いをつけるケースも多くなり、その対処としての「預り」も増えた』。『昭和の東西合併に伴う規則改正で大正末期に取り直しの制度が設けられたことにより、『勝負預り』は制度としては廃止されたが、昭和以後』、二『度だけ預りが記録されている』。『祭りでの素人相撲大会などでは、決勝戦や結びの一番は、どちらが勝っても必ず「預り」でしめる慣例になっているものも多い。神事としての相撲に豊作凶作を占う意味もあるため、幸不幸が地域内で偏らないようにするためである』とある。

「待乳山」「まつちやま(まっちやま)」。

「喜見城」「きけんじやう(きけんじょう)」であろう。これは須弥山(しゅみせん)の頂上の忉利天(とうりてん)にある帝釈天の居城の名である。七宝で飾られており、庭園では諸天人が遊び戯れるとされる。

「赤兎馬」「せきとば」であろう。「三国志」「三国志演義」などに登場する、名将の騎した名馬、一日に千里を走る駿馬(しゅんめ)の類を指す。「赤」は「汗血馬」の血の色とも、「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる

「關」大関。相撲では明治中期まで大関が最高位であった。

「無勝負」引き分けの一種ウィキの「勝負より引く。『無勝負(むしょうぶ)は、相撲で廃止された制度の一つで、文字通り「勝負無し」とする裁定。記録上は引き分けの一種の様に扱われる』。『現在の大相撲ではどんなにもつれた勝負でも、行司は“必ずどちらかに軍配をあげなければならない”ことになっているが、江戸時代には、勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司が「ただいまの勝負、無勝負」と宣言して軍配を真上にあげて、そのあと袴の中にいれてしまうことで、勝敗の裁定をなしにすることができた。この場合は、星取表に「ム」とカタカナで記入することとなっていた。その点で、物言いがついたあとに勝敗を決めない『預り』(星取表にはカタカナで「ア」)や、水が入って動かない『引分』(星取表には「×」)、一方が負傷して勝負続行が不可能な場合の『痛み分け』(星取表には「△」)とは異なる』。『この制度は江戸相撲では江戸末期に廃止されたらしく』、元治二(一八六五)年二月『場所での記録を最後に登場しない。明治期にはすでに行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないように定められた。一方で大坂相撲では明治時代にはまだ存続しており、当時の成績表にも記録が残る。大坂で廃止されたのは大正初期であった』とある。

「行司 木村源之助」ウィキの「行司の「引退した主な行司」の「十両格」に二代目『木村源之助』の名を見出せる。

「呼出 追灘金太郎」坪田敦緒氏の優れたサイト「相撲評論家之頁」の「大相撲東風西雅」の十三話『「呼出」のはなし』の中で、この条が取り上げられており、そこで『「呼出 追灘金太郎 年九」』『という記述があり、これが「呼出」が出てくる最古の例のようです。 「甲子夜話」そのものは著者が』六十『歳を過ぎた』文政四(一八二一)年『から書き始められたものですが、それより』二十『年も前の記録ですから、恐らくはもとになる資料があったと思われます』とある。なおそこで坪田氏は、この浅草寺での父家斉と子家慶の童子相撲上覧を享和二 (一八〇二) 年九月十八日と特定しておられる

「御目付」幕府のそれは江戸城本丸及び西の丸に置かれ、定員十名、役高は千石で、若年寄支配。

「同姓大膳【今伊勢守】」同姓とあるからには松浦であろうが、不詳。

「取扱たり」「とりあつかひたり」。

「幼稺」「えうち」。幼稚に同じい。

 

甲子夜話卷之四 9 秀賴の異事

 

4-9 秀賴の異事

[やぶちゃん注:以下の漢文部分は送り仮名(カタカナ)を含めた訓点が附されてあるが、返り点のみを再現し、書き下し文(一部に読点と読みを追加して読み易くした)を( )で示した。]

大阪落城の時、豐臣秀賴は潛に薩摩に行れたりと云一説あり。此こと異域にも聞へたると見えて「涌瞳小品」に【第三十に見ゆ。明の朱國禎著す】、賴兵敗走入和泉焚ㇾ城而死。又有逃入薩摩(賴(らい)か兵、敗走して和泉に入り、城を焚(やき)て死す。又、逃(にげ)て薩摩に入(いる)と言ふ者、有り)と。入和泉(和泉に入る)とは誤聽なり。又何にてか見たりし、落城のとき、神祖天守に火かゝりたるを御覽ありて、早や御動坐あるべしと仰出さるゝ故、左右より未だ秀賴の否知れ不ㇾ申と言上せしに、天守に火かゝれば落城なりとの御諚にて、卽御動坐ありしと。又或人曰。秀賴薩摩に行し後、大酒にて處々にてこまりたり。酒の負債多くありしと。因みに云ふ、今高崎侯の居間、襖に秀賴の畫とてあり。金地に老松を繪き、其上へ總體明間もなく簾を繪く。簾外に見たる體なり。尤着色なり。其筆雅樂助、山樂などゝ見ゆ。

■やぶちゃんの呟き

 豊臣秀頼(文禄二(一五九三)年~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))の生存説については、ウィキの「豊臣秀頼の「生存説」から引いておく(注記号を省略した)。『大阪が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説がある』。「日本伝奇伝説大辞典」の『星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで』、『以下のとおり記述されているが、どれも伝説的な逸話である』。『平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されており、生存の噂が流布していた』。『『採要録』には薩摩国谷山に元和はじめ浪士が住み着き、国主からの家に住んでいたが酒好きでいつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている』。『鹿児島市下福元町に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓』二『基もあるという』。昭和四二(一九六七年)から翌年にかけて、『鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し』、四十五『歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり』、『長じて立石領初代領主・木下延由となったとする説を唱えた』。旧日出藩主木下家第十八世当主木下俊煕氏はその著「秀頼は薩摩で生きていた」(昭和四三(一九六八)年新峰社刊)で、『秀頼は宗連といい、日出藩木下家が落ち延びた秀頼と国松を密かに庇護したこと、それを疑った幕府が松平忠直を隠密として配流したという内容の生存説を出し』ている。豊臣正統十四世を自称する木場貞幹は『歴史と旅』(昭和五八(一九八三)年八月臨時増刊号)で『「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している』。江戸時代の小説「真田三代記」(幕末近くに成立した実録体小説。後に同名の長編講談となり、明治まで大いに流行ったようで、そこからまた、「真田十勇士」「猿飛佐助」の派生長編講談が生まれた)の第百七十八節の『「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら』百五十『名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている』とある。

「潛に」「ひそかに」。

「涌瞳小品」(ゆうどうしようひん)は「明の」内閣首輔を勤めた「朱國禎」(しゅこくてい 一五五七年~一六三二年)の著。同書の「卷三十」の「倭官倭島」の条に以下のようにある(中文の「維基文庫」のものを加工した)。

   *

關白、倭之官號、如中國兵部尚書之類。平秀吉者、始以販魚、醉臥樹下、別酋信長爲關白、出山畋獵、遇吉衝突、欲殺之。吉有口辯、自詭曾遇異人、得免。收令養馬、名曰木下人。吉又善登高樹、稱曰猴精。信長漸委用、合計奪二十餘州。後信長爲奇支所殺、吉討平之、遂居其位。丙戌年擅政、盡並六十六州。其主山城君、懦弱無爲。壬辰破高麗、改天正二十年爲文祿元年、自號大閣王、以所養子孫七郎爲關白。

日本原六十八島、各據其地、至平秀吉、始統攝之。及老且病、子秀賴尚幼、托於婦父家康代攝其位。吉死、家康止以和泉、河二島歸賴。賴既成立、索其位於家康。不與、忿還其女、致爭鬥。賴兵敗、走入和泉、焚城而死。又有言逃入薩摩者。其位遂歸於家康、傳其子爲武藏將軍。倭俗簡易、寸土屬王。倭民住屋一編、闊七尺。歳輸銀三錢。耕田者、粟盡入官、只得枯稿。故其貧者、甚於中國、往往爲通倭人買為爲賊、每名只得八錢。其人輕生決死、飲食甚陋、多用湯、日只二餐、以苦蓼搗入米汁爲醋。其地多大風、夏秋間風發、瓦屋皆震、人立欲飛。乍寒乍暖、氣候不常。其暑甚酷、一冷即挾纊。九月以後卽大雪、至春止矣。大小終日圍爐、婦人齒盡染黑、閨女亦然。以雪、孩子穿紅繡紗、踐於雪中、不惜。其酋長喜中國古書、不能讀、不識文理、但多蓄以相尚而已。亦用銅錢、只鑄洪武通寶、永樂通寶、若自鑄其國年號、則不能成。法有斬殺、無決配。倭人傷明人者斬。倭王見明人、卽引入座。我奸民常假官、詐其金。留倭不歸者、往往作非、爭鬥、賭盜、無賴。有劉鳳岐者、言自三十六年至長崎島、明商不上二十人、今不及十年、且二三千人矣。合諸島計之、約有二三萬人。此輩亦無法取歸、歸亦爲盜、只講求安民之策可也。

   *

「賴か」送り仮名は「」でママ。秀「賴が」。

「御動坐あるべし」「ごどうざあるべし」「御」は自敬表現(或いは記者の尊敬語)で、「戰は終わったから陣屋へ戻ろう」の謂いであろう。

「仰出さるゝ」「おほせいださるる」。

「否」「いなや」。

「不ㇾ申」「まうさず」。

「言上」「ごんじやう」。

「御諚」「ごじやう」。きっぱりとした仰せ。

「卽」「すなはち」。

「高崎侯」上野群馬郡(現在の群馬県高崎市)周辺を了した高崎藩主。江戸後期は大河内松平家。

「總體明間もなく」「さうたいすきまもなく」主対象の松以外の空間全面、殆んど隙間もなく。

「簾」「すだれ」。

「簾外」「れんぐわい」。

「見たる體なり」「(松を)見たる體(てい)なり」。

「尤」「もつとも」。着色画であることから、秀頼などの素人絵ではないという判断からか。

「雅樂助」室町後期の狩野派絵師狩野雅楽助(かのううたのすけ 文亀年間(一五〇一年~一五〇三年)?~天文八~一〇(一五三九~一五四一)年)?)。

「山樂」安土桃山から江戸初期の狩野派絵師狩野山楽(さんらく 永禄二(一五五九)年~寛永一二(一六三五)年)。

 

2017/05/01

甲子夜話卷之四 8 佐州金山の奇事

 

4-8 佐州金山の奇事

或人曰。佐渡金堀の穴の水かひ人足に往くは、皆微罪ある者どもなり。其中歸府して今當地に居ものあり。其語しとて聞く。佐渡の金穴、地中に堀下ること凡十四五里程なり。其間縱橫に岐路ありて、其下に一道を通ず。其行くこと數里なるべしと。計るに海底に入ること尤深く、又其奧は、越後の地方の地底に堀及ぶべき里程なりと。

■やぶちゃんの呟き

 本文の三箇所の「堀」は佐総てママ。なお、佐渡金山の坑道の総延長は現在、約四百キロメートルに及ぶが、海底下までは掘られていないし、無論、本土まで届いてなどはいない。ただ、この最後の「越後の地方の地底に堀及ぶべき里程なり」というのは延べの採掘総延長距離を指していようだから、佐渡と本土は三十キロメートルほどしか離れていないから、実はおかしくはないと言える。

「金堀」底本では編者により『かなほり』とある。しかし標題は明らかに「金山(きんざん)」であろう。後の「金穴」は「かなあな」と読むのか? 私は「きんざん」「きんほり」「きんけつ」の方がしっくりくるのだが。

「水かひ」坑道に湧き出る地下水を掻き出す労役であろう。

「其中」「そのうち」。

「居もの」「をるもの」。

「語し」「かたりし」。

「十四五里」五十五~五十九キロメートル弱。この深さは誇大に過ぎる。現在の調査では約八百メートルである。

 

甲子夜話卷之四 7 加州の家風は儉遜なる事

 

4-7 加州の家風は儉遜なる事

加州の家風はさまざま他と殊なることある内に、大家の威に誇らずして、官家を敬する意の感ずべき事あり。火事あるとき、途中にて御使番衆橫道より出ることあれば、行列をいづれと云場所も無く橫に切らせて通すことの速なるは、他に無きことと云。たとへば、駕籠の前にても跡にても、その外先徒の間、挾箱の間、跡供などは云までもなし、何にても御使番衆の馳來る所へ、押足輕兩人走り來り立て、その中を通す作法なり。或人途中にて見しが、誠に見事なることなりしと云。一日、池の端の中町にて、林祭酒と行遇ふ。此處は通り殊に狹くして、大名の行列にては通難き程なり。此時加州の先箱を雁行にして、徒士皆雁行に供を立て直ほし、道を半分讓りて行たり。祭酒は小勢なれども、少しもさはらず其半分を通れりとぞ。いかにも公平なることにて、大より小へ屈する作法、却て大家の體を得、見事に有しと林氏話れり。又四品以上しぢら熨斗目を着る中に、加侯は平織の熨斗目にてしぢらに非ず。登營のときも如ㇾ此。これは極貴ゆへ、却て五位と紛れぬ故もあるか。御三家もしぢらになきのしめ折折着せらる。

■やぶちゃんの呟き

「加州」加賀国の加賀藩前田家。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月で、当時の藩主は加賀前田家十二代の第十一代藩主前田斉広(なりなが)。

「儉遜」倹素(倹約)にして謙遜の謂いか。或いは単に「謙遜」の謂いか。

「官家」「くわんけ(かんけ)」で、ここは幕府やその官僚・関係者を指していよう。

「御使番」元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣(ほい)格(六位叙位相当)と見なされた。で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』とある。

「速なる」「すみやかなる」。

「跡にても」後にても。

「先徒」「さきかち」。

「挾箱」「はさみばこ」。

「跡供」「あととも」。

「押足輕」(おしあしがる)は中間・小者を指揮する役目の足軽。

「池の端の中町」池之端仲町。現在の東京都台東区池之端(いけのはた)一丁目の旧称。不忍池の西方から南方向一帯。(グーグル・マップ・データ)。

「林祭酒」何度も出た静山の友人で林家第八代林大学頭(だいがくのかみ)述斎。「祭酒」は大学頭(幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職)の唐名。

「行遇ふ」「ゆきあふ」。

「通難き程なり」「とほりがたきほどなり」。

「雁行」空を飛ぶ雁の列から、斜めに並んで行くこと。ここは二列縦隊の行列を少し斜めにずらした形で間に入れ、幅を短くしたことを指す。

「話れり」「かたれり」。

「四品」「しほん」は「四位」と同義で、官位が四位以上の位階であること。

「しぢら熨斗目」「しぢらのしめ」は「しじら」は「縬」と書き、経(たて)糸の張り方を不均衡にしたり、太さの事成る糸や、織り方の違う組織を混ぜて織ることで、表面に「しぼ」(細かいちぢれた感じの様態)を作った織物を言う。「熨斗目」は熨斗目小袖で、練貫(ねりぬき:生糸を経糸,練糸を緯(よこ)糸にした絹織物)の一種で、普通は経糸をやや粗く織ったものを指す)で仕立てた小袖(本来は厚い装束の下に下着として着用されたものを言う)で、江戸時代には武家の礼装の裃(かみしも)や素襖(すおう)の下に着た。

「平織」「ひらをり」。経糸と緯糸を交互に交差させて織る最も単純な織り方で製した織物。

「登營」江戸城への登城。

「極貴ゆへ」「ごくたふときゆへ」と訓じておく。

「却て」「かへつて」。

「しぢらになきのしめ」縬織りではないシンプルな熨斗目。

「折折」「をりをり」。

「着せらる」「ちやくせらる」。

2017/04/29

甲子夜話卷之四 6 白烏の事

 
 
4-6 白烏の事

天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守に【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白鳥を視ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て遂に打殺すことなり。其ゆへは白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。

■やぶちゃんの呟き

 この話は最近、私が電子化した柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」にも出る。参照されたい。

「白烏」本文にある通り、白いアルビノのカラスであるので注意されたい。白鳥(はくちょう)ではないのでご注意あれ

「天明」天明は九年までで、グレゴリオ暦では凡そ一七八一年から一七八九年。

「獲て」「とりて」。

「然に」「しかるに」。

「翌年京都大火し、禁闕も炎上す」「禁闕」は「きんけつ」で皇居のこと。御所も回禄したとなると、これは尋常の記録に残らない火災ではないから、これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した大火災、所謂、「天明の大火」のことと考えてよかろう。ということは白鴉の献上は天明七年のこととなる。「末か」と疑問詞を添えているし、末頃とは言えるから問題はない。ウィキの「天明の大火」によれば、『出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしのたいか)とも呼ばれた。単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)というと、通常はこの天明の大火のことを指す』。『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都はこの前後にも宝永の大火と元治のどんどん焼けで市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』。三十日未明、『鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝で、『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失した町は千四百二十四町、焼失家屋は三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一ヶ寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名に及んだとする。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名『はあったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している』とある。

「松平信濃守」「【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】」松平忠明 (ただあき 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)。豊後岡藩(現在の大分県の一部にあり、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市))第八代藩主中川久貞の次男であったが、旗本松平忠常の養子となり、本丸書院番頭(ばんがしら)となった。寛政一一(一七九九)年には蝦夷地取締御用掛筆頭として幕府直轄地となった東蝦夷地に向かい、アイヌの保護・道路の開削・樺太東西海岸の探査などを指揮した。享和二(一八〇二)年には駿府城代となったが、駿府で自害した(自害理由は調べ得なかった)。

「逐索め」「おひもとめ」。

「打殺す」「うちころす」。射殺する。

「兆」「きざし」。

「忌て然り」「いみてしかり」。忌んでそのように処置致すのである。

「咲たりしが」「わらひたりしが」。逆接或いは余韻を残す接続助詞「が」で擱筆しているのは今までの「甲子夜話」では特異点である。

 

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