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カテゴリー「「甲子夜話」」の225件の記事

2020/09/04

甲子夜話卷之六 19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

 

6-19 神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

神祖の駿城に坐ましける頃、若き御旗下の面面、とかく二丁町と云花柳ある處に夜々參るよしを、板倉防州聞へ上しかば、上意に、二丁町に參るもの共、定めて夜は寐ずあるべし。さすれば何かの時は直にかけつけて味方はすべき也。夫式のことは捨置べしとの仰なりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「御坐」「おまし」。

「旗下」「はたもと」。

「二丁町」(にちうやうまち)「と云」(いふ)花柳」(くわりゆう)は駿府にあった二丁町遊郭のこと。ウィキの「二丁町遊郭」によれば、現在の静岡市葵区駒形通五丁目(グーグル・マップ・データ)付近で、静岡県地震防災センターがある辺りとある。『大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で』、一『万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いた』。天正一三(一五八五)年、『徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が』、『自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに』一『万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである』。『後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になった』。『駿府城下には町が』九十六『か町あり、その内』七『か町が遊廓であった。その内の』五『か町分が江戸へ移り、残った』二『か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する』が、『空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が僅かながらにひっそり佇んでいる』とある。

「板倉防州」板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。駿河国生まれで板倉勝重の長男。下総国関宿藩藩主。秀忠の将軍宣下に際して従五位下周防守に叙任され、大坂の両陣に従軍。書院番頭を経て、京都所司代となり、父勝重とともに名所司代として知られた。

「聞へ上しかば」ママ。「聞こえあげしかば」。「言ひ上ぐ」の謙譲語。申し上げる。

「直に」「ただちに」。

「味方すべき也」護衛に着くことが出来ようほどに。

「夫式」「それしき」。

「捨置べし」「すておくべし」。

甲子夜話卷之六 18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

 

6-18 文化の御製幷近世京都紳の秀逸

林氏云。京紳の歌も、近世は多くは依ㇾ樣畫胡廬の類なり。偶々人の傳るを聞中、秀逸とも云べきは耳底に殘りて、忘れたくも忘れられず。これぞ名歌とも云べき。

   春江霞     文化十二年 御 製

 月花の影も匂ひもこめてけり

      霞あやなす春の入江は

   落花        閑院美仁親王

 のどかなる春日なれども櫻花

      ちる木のもとは風ぞ吹ける

   五月雨

 さみだれのふるやのゝきにすくふ蜂の

      晴まを待てたゝんとやする

   春月       西洞院風月入道

 櫻には霞かねたる影見えて

      花より外は春のよの月

   郭公       裏松入道固禪

 いざゝらば月も入りけりほとゝぎす

      夢に待夜の枕さだめむ

   月前時雨     前中納言實秋

 床寒き寐覺の友の窓の月

      またかきくもりふる時雨哉

   月前雁

 雲霧もなくそら高くすむ月の

      南に向ふはつかりの聲

   夜雨

 つれづれの雨もいとはじあすは猶

      花の木のめやはるの手枕

■やぶちゃんの呟き

「林氏」お馴染みの林述斎。

「依ㇾ樣畫胡廬」「樣(やう)に依りて胡廬(ころ)を畫(ゑが)く」。決まりきった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描く」という凡庸なマニエリスムから、「手本の通りにだけ行って、少しも工夫されていないこと」を揶揄する故事成句。「胡蘆」が普通。小学館「日本国語大辞典」によれば、宋の太祖は、尚書陶穀の起草した制誥(せいこう)詔令(詔勅に同じ)は「様によって胡蘆を描くものだ」として重んじなかったので、穀は「堪ㇾ笑翰林陶学士、一生依ㇾ様画葫蘆」と詠じて自嘲したという「続湘山野録」などに見える故事からとし、『様式にのみたよって、真実みのない外形だけの瓢箪の絵を描く意で、表面の形状、先例の通りをまねて何ら独創的なところがないことのたとえ』とある。

「文化十二年 御 製」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年/在位: 安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。

「閑院美仁親王」閑院宮美仁親王(かんいんのみやはるひとしんのう 宝暦七(一七五八)年~文政元(一八一八)年)。歌道に造詣が深かったという。

「西洞院風月入道」公卿西洞院時名(にしのとういんときな 享保一五(一七三〇)年~寛政一〇(一七九八)年)。風月は号。従五位上・少納言・備前権介を経て桃園天皇に仕える。竹内式部に師事して神道・儒学及び尊王思想を学び、朝権の回復を志したが、前関白一条道香(みちか)・関白近衛内前(うちさき)らに弾圧され、式部門下の公卿二十余名とともに処罰され、免官・永蟄居(閉門の上、自宅内の一室に謹慎させ、生涯解除を認めないもの)を命ぜられた(宝暦事件)。

「裏松入道固禪」公家で有職故実家裏松光世(みつよ 元文元(一七三六)年~文化元(一八〇四)年)。内大臣烏丸光栄(からすまるみつひで)の五男。裏松益光の養子となった。固禅は法名。思想家竹内敬持と往来があり、前注に出た「宝暦事件」に連座し、江戸幕府の忌諱に触れ、遠慮(自主的な自宅軟禁で、夜間の秘かな外出は黙認された)の処分を受け、その二年後には「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰で永蟄居を命ぜられ、出家させられた。三十年の蟄居生活の間に「大内裏図考證」を著したが、天明八(一七八八)年に内裏が焼失し、その再建に当たって彼の著書の考證を参考とすることとなり、その功により、勅命により、赦免されている。

「前中納言實秋」不詳。

2020/08/18

甲子夜話卷之六 17 武州への天子來り玉ふこと有る考

 

6-17 武州への天子來り玉ふこと有る考

成島邦之助【司直】云。昔より武藏國へ天子の來り給ふ事は無き事なるに、此頃風と見出したり。承應三年九月、嚴廟右府御轉任の時、花町兵部卿宮下向ありて、雲光院を旅館とし、中川修理大夫館伴を勤めしこと、御日記に見ゆ【此雲光院は、淨土宗龍德山雲光院。光嚴敎寺とて、元馬喰町にあり。阿茶の局建立なれば、當時さぞ莊嚴なることにて有けん。今は深川靈巖寺の隣に移されたり】。兵部卿宮は後水尾帝の皇子にて、後光明帝御早世により、兵部卿宮御踐祚あり。後西院と申奉りし也。さあれば武州へ天子來り給ふも同じ事なりと云。此花町宮と申は、古くは櫻町宮とも云。今有栖川宮と云家なり。

■やぶちゃんの呟き

表題の「考」は「かう(こう)」と音読みしておく。

「成島邦之助【司直】」成島司直(なるしまもとなお 安永七(一七七八)年~文久二(一八六二)年)は儒学者・歴史家・政治家・文筆家・歌人にして江戸幕府奥儒者。東岳及び翠麓と号した。極官は従五位下・図書頭。幕府の正史である「御実紀」(通称「徳川実紀」)の編集主幹であった。ウィキの「成島司直」によれば、天保一二(一八四一)年七月十四日(一八四一年八月三十日)には「御実紀」の発起人にして統括であった静山とも懇意で本書にもしばしば登場する『林述斎が死去し、司直が公的にも正史事業の主宰者になる。さらに』、天保十四年四月には第十二代将軍徳川家慶の『日光東照宮参詣にも陪従』、『栄華の極みにあった』が、「御実紀」『完成直前の』天保一四(一八四三)年十月、『突如、御役御免と隠居謹慎を言い渡され、子の筑山まで連座で罰せられてしまう』。『御実紀調所』(「御実紀」編集本部に相当する)は『昌平坂学問所に移され、その正本全』五百十七『巻は、述斎・司直という史学界の両巨頭が不在のまま、同年』十二月(一八四四年初頭)、『家慶に献上されることとなった』。『その後、司直は、死までの』二十『年間近く、幕府に再び用いられることはなかった』。『失脚の理由は一切公表されず、現在でも憶測の対象になっている』。『木村芥舟によれば、家慶に寵用され、たびたび外政にも干渉したので、それを妬んで讒言した者がいたからだという』。『岡本氏足(岡本近江守)によれば、その妬んだ者とは目付の鳥居耀蔵であるという』『(ちなみに耀蔵は司直の元上司・林述斎の二男でもある)』。『山本武夫は、司直失脚は、天保の改革の主導者だった水野忠邦の失脚』(同年閏九月十三日)『の直後であることから、これと関係があるのではないか、と推測している』。後、嘉永二(一八四九)年十一月に、子の筑山が「御実紀」『副本を完成させたことで賞賜され、司直の存命中に成島家は名誉回復されている』とある。

「風と」「ふと」。

承應三年九月一六五四年十月相当。しかし、これは「承應二年」の誤りのようである。後注参照。

「嚴廟右府御轉任」「嚴廟」は第四代将軍徳川家綱の諡号「厳有院」の略。「右府御轉任」以下は彼が承応二(一六五三)年七月十日(「幕府祚胤伝」では八月十二日)に右大臣に転任(右近衛大将兼任如元)したことを指す。

「花町兵部卿宮」後の後西(ごせい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三年十一月二十八日(一六五五年一月五日)~寛文三(一六六三)年三月)。諱は良仁(ながひと)。幼名は秀宮。別名を花町宮(はなまちのみや)・花町殿と称した。ウィキの「後西天皇」によれば、『後水尾天皇の第八皇子。母は典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)』。元後水尾天皇の第四皇子であった『後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく』、『他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し』て『即位するまでの繋ぎ』『として』の即位であった。但し、『即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている』とある。なお、後西『天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説』『・江戸幕府説』『が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄』(綱宗の母が後西天皇の母方の叔母に当たる)『という天皇の血筋が問題視されたとする説がある』一方、『譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている』とある。以上、太字や下線部から、本文の「承應三年九月」は「承應二年九月」の誤りと思われる。月遅れの名代到着は問題ない。鎌倉時代からそうである。

「雲光院」現在は東京都江東区にある浄土宗龍山雲光院(グーグル・マップ・データ)。慶長一六(一六一一)年に徳川家康の側室阿茶局(戒名:雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)の開基。元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、火事等で度々、移転を繰り返し、天和三(一六八三)年に現在地に移転した。静山が本項を書いた当時は既に現在位置にあった。但し、花町兵部卿宮が旅所とした際、元の日本橋馬喰町にあったものかどうかは判らぬ。

「中川修理大夫」不詳。時制上からは豊後国岡藩三代藩主中川久清(慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)が相応しいが、「寛政重脩諸家譜」も見たが、彼は修理大夫になったことはない(彼の祖父久成や第八代藩主久貞は修理大夫であるが、時制が全く合わない)。

「館伴」「くわんばん(かんばん)」接伴役。御馳走役。

「莊嚴」「しやうごん(しょうごん)」。

「靈巖寺」先のグーグル・マップ・データの雲光隂の北西三百メートル弱の位置にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。

「後光明帝御早世」享年二十二。

「有栖川宮」後西天皇の第二皇子有栖川宮幸仁親王が寛文七(一六六七)年に高松宮を継承したが、後の寛文十二年に有栖川宮と宮号を変更している。

2020/07/28

甲子夜話卷之六 16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

 

6-16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

堂上と地下の贈答に、見るべきほどの歌は多く聞ず。十年前にも有しや、富小路三位貞直卿より、加藤千蔭へ給はりし消息の裏に、

 陰あふぐ心のはてはなきぞとほ

      くまなくみらむ武藏のゝ月

とありし時、千蔭の返しに、

 むさし野ゝを草が上も雲井より

      もらさぬ月の影あふぐ哉

これ等は京紳にも恥ざる咏なるべし【二條、林氏の册、抄錄】。

■やぶちゃんの呟き

「富小路貞直」宝暦一一(一七六二)年~天保八(一八三七)年)は江戸後期の公卿・歌人。伏原宣条(ふしはらのぶえだ)の子で富小路良直の養子。加藤千蔭(ちかげ)に和歌の添削を受け、本居宣長とも親交があった。正三位・治部卿(じぶきょう)。号は如泥。

「千蔭」「加藤千蔭」(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年)江戸中・後期の江戸生まれの歌人で国学者。幕臣で歌人の加藤枝直(えなお:本姓は橘)の三男。賀茂真淵に入門した。歌風は平明優雅で、村田春海(はるみ)とともに「江戸派」を代表した。書は「千蔭流」と呼ばれ、画や狂歌も巧みであった。著作に「万葉集略解(りゃくげ)」、家集に「うけらが花」などがある。

「二條」これは前の6-15 儒者の歌」と本条の意であろうか。

「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者で、林家第八代の林述斎であろう。

甲子夜話卷之六 15 儒者の歌

 

6-15 儒者の歌

儒士の歌と云ものは多くは無きものなるが、林羅山の歌は木下氏の編る「視今集」に載たり。又その弟永喜の歌とて、人の傳る所を錄す。

   心ちよからぬおりふし筆とりて

 殘すとは書をかねども水莖の

      跡やはかなき形見ならまし

   夏草

 しげりあひて道も夏野の草の葉の

      そよぐ方にや人通ふらん

■やぶちゃんの呟き

「林羅山」(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)は江戸初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、本名は信勝。出家後の号道春(どうしゅん)の名でも知られる。独学のうちに、朱子学に熱中し、慶長九(一六〇四)年と藤原惺窩と出逢い、翌年、彼が羅山を推挙して徳川家康に会い、二十三歳の若さで家康のブレーンの一人となった。慶長一二(一六〇七年)、家康の命により僧形となった。寛永元(一六二四)年には就任したばかりの第三代将軍徳川家光の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していった。

「木下氏」秀吉の正室高台院の義理の曾孫木下(豊臣)秀三。

「視今集」木下秀三撰「和歌視今集」。正徳元(一七一一)年成立。

「永喜」林永喜(えいき 天正一三(一五八五)年~寛永一五(一六三八)年)は羅山の実弟で儒学者・歌人。羅山とともに江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。兄に道学を、歌道家に和歌を学び、慶長九(一六〇四)年に藤原惺窩に対面して啓発を受けた。度々、漢和聯句会に参加し、慶長一三(一六〇八)年には一華堂乗阿と「源氏物語」について論争している。

「かねども」「兼ねども」か。

甲子夜話卷之六 14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

 

6-14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

京伶人多大和守【久敬】下りし折から、樂翁招てひたもの催馬樂を學ばれしに、大和歸京に臨みけるときかくなん、

 君にこそ拾はれにけれいせの海の

      なぎさによれるかひもなき身を

其時、樂翁の返し、

 打よする心計に日をふれど

      なぎさの玉は手にもとられず

一時の戲といへど風雅なることなり。大和も伶工には珍らしき風致なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伶人多氏」「多」(おほの)「大和守【久敬】」雅楽演奏家多久敬(おおのひさかた 明和九(一七七二)年~弘化二(一八四五)年)。

「老侯」「樂翁」白川藩藩主・老中松平定信(宝暦八(一七五八)年~文政一二(一八二九)年)。老中失脚は寛政五(一七九三)年。

「ひたもの」ひたすら。

「催馬樂」「さいばら」。古代歌謡の一つ。平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。笏拍子(しゃくびょうし:当初は二枚の笏を用いたが、後に笏を縦に中央で二つに割った形となった。主唱者が両手に持って打ち鳴らして用いる)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・箏(そう)・琵琶(びわ)などで伴奏した。

「伊勢」文化九(一八一二)年に定信は家督を長男の定永に譲って隠居(文化九(一八一二)年3月)隠居しているが、実際には藩政の実権は以前として掌握していた。定永の時代に久松松平家旧領伊勢桑名藩への領地替えが行われているが、これは定信の要望により行われたものとされている。定信の白川藩藩祖定綱以来の先祖の地は伊勢桑名であった。

「心計に」「こころばかりに」。

「戲」「たはむれ」。

2020/07/07

甲子夜話卷之六 13 京都公家流離の幷その和歌

 

6―13 京都公家流離のその和歌

林氏云。近年京より一奇人來りて和歌を唱へしに、忽人々風靡せられて、倍從するもの多かりしが、官より竊に沙汰あり、其人恐れて歸京しけり。實は武者小路家の子にて少將までに成し人とよ。年少豪邁放佚にて、三條とか五條とかの繁華の地にて、人を刃殺して廢嫡となりたるが、姓名を匿して東來せるとなん。銕山と號しける。唐伯虎、徐文長などの類にて、其人は兎も角も、文采はすぐれたることにて、其家に恥ざる才と思はる。惜しむべき人なり。傳へ聞し歌の中にて語記せるは、

   江鶉

 秋の日も入江の波は色くれて

      殘る尾花に鶉鳴なり

   冬杜

 木がらしの吹盡したるもりの中に

      なを枯のこるかしは手の聲

此二首などは近世の秀逸とも云べき詠なるべし。

■やぶちゃんの呟き

 私は和歌嫌いだが、この二首、静山が言う通り、なかなかいいと思う。特に後者は。因みに「なを」はママ。

「林氏」お馴染みの林述斎。

「竊に」「ひそかに」。

「武者小路家の子」「少將」「人を刃殺して廢嫡となりたる」「銕山」(てつざん)「と號しける」と並べられれば、調べようがあろうかと思うのだが、不詳。識者の御教授を乞う。

「唐伯虎」明代の文人にして畸人であった唐寅(とう いん 一四七〇年~一五二四年)。伯虎は字(あざな)、仏教に心を寄せたことから「六如」と号した。書画に巧みで「祝允明」・「文徴明」・「徐禎卿」と並んで「呉中の四才」と呼ばれたが、他の三人と異なり、生涯、官職に就くことが出来なかった。ウィキの「唐寅」によれば、父は『蘇州呉県の繁華街で営業していた肉屋』(或いは酒屋・飲食業)であったが、『幼少から利発であったため』。『教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため』、『人々の注目を集めた』。十六歳で『蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあって』『親友となった。文徴明の父、文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物で』十『歳年上だったが、生涯に渡る親友となった』。『青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが』生来の『享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず』、『一心不乱に勉学に励んだ結果』、一四九八年二十九歳の『時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため』、彼には『唐解元という呼び名も』ある。『科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが』、『思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆』(とぼく)『という人物が、嫉妬の余り』、『関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも』二『人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり』、『建物の』二『階から飛び降り』、『そのまま帰ってしまった』『という』。但し、温厚な『紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという』から、余程、毛虫のような厭な奴だったに違いない。『官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した』ことから、『明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから』、『唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという』。『唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが』、一五〇〇年頃から『周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである』という。一五一二年に『日本人商人・彦九郎に自作の詩を自署して贈っ』た「贈彥九郞詩」(京都国立博物館)が現存する』。一五一四『年に寧王の厚い招聘に応じて廬山やパン陽湖に遊びつつ』、『南昌に至った』が、『寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出』、一五一五年秋頃に『蘇州に帰った』。『その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生き』、五十四歳で『その生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう』とある。

「徐文長」明代の文人で畸人の徐渭(じょ い 一五二一年~一五九三年)。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮し、その作風は後世に大きな影響を与えたが、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど、破滅的で不遇な生涯を送った。ウィキの「徐渭によれば、『字』は当初は『文清、のちに文長と改めた』。『浙江省山陰県大雲坊』で、『現在の紹興市』『の生まれ』。『父徐鏓(じょそう)は四川夔州府(きしゅうふ)の知事をつとめ』、『徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった。正妻の子である二人の兄徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭が生まれたときは既にこの正妻は亡くなって』おり、『生後百日目で父が病死。後妻だった苗氏が嫡母となって徐渭を育てた』。六『歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文・古琴・琴曲・剣術などを学んだ』。十四『歳のときに嫡母が没し』、『精神的な支柱を失う』。二十歳の時、『ようやく童試に合格し秀才となる。その後』二十年間に八度も『郷試に臨』んだものの、『及第に至ることはなかったが、その間に多くの師友・学友を得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳鶴や泰州知事にのぼった朱公節などがいる』。二十代始め頃、『潘氏の婿となり長男徐枚をもうけた』。二十五『歳のときに兄徐淮が急死。そのすぐ後に十九歳の『若妻が亡くなるという不幸が重な』った。『科挙に受からず』、『役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが』、『生活は貧窮した』。『友人を頼って各地を転々とするうち』、三十二歳の時、『紹興に侵入した倭寇の討伐軍に剣術の師である彭應時』『や友人呂光升』『らと参加』し、『戦果を挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客(私設秘書)として迎えられた。この頃、名将として名高い戚継光や兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲は徐渭の文才を見抜き』、『様々な文章の代筆を依頼した。殊に』一五六〇『年に制作した「鎮海楼記」が高く評価され』、『褒賞を得る。これを元手に』四十『歳にして自宅となる酬字堂を建』てたが、二年後、『胡宗憲が不正事件』『に連座し』て『失脚』してしまう。『徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ、有力な後ろ盾を失い』、『生活は困窮』し、次第に『精神が不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるが』、『すぐに辞め』、『紹興に戻った』。その後、『自ら「墓志銘」を書き』、僅か二年の間に九回もの『自殺未遂を重ねた』。一五六六年のこと、『狂気から』当時の『妻である張氏を殺害』、七『年の獄中生活を送』ることとなった。その間、『知人』にして『パトロンで』も『あった張天復・元汴(げんべん)父子』が『減刑や釈放に奔走し』、『親身になって徐渭の救出を試みている』。『釈放』『後、紹興近くの名勝五泄山に友人らと滞在し「遊五泄記」』『を著し、その後に杭州、南京、宣府(河北省)など中国各地を遊歴。多くの人物と交遊』して『盛んに詩や画の制作、文筆を行った。北京では武将の李如松と面識を得て後に任地の馬水口(河北省)に賓客として厚遇された』。一五八二年、病いが『進行し』、『帰郷する』も、『家庭内不和で後妻・長男と別居となり』、『次男徐枳(じょき)と暮らす。門戸を閉ざし』、『誰とも会おうとはせず』、『遠出もすることはなかったが、制作意欲は旺盛で「西渓湖記」など多くの傑作を残した』。一五八七年、『再び、李如松に招かれたため』、『北京へ赴く途次、徐州で発病』、『やむなく自宅に戻る。徐枳のみが赴き』、『幕客となっている。後にこのとき徐枳が得た報酬を充てて徐渭の詩文集を編纂した』。一五九三年、『徐枳の岳父の屋敷に仮寓』し、自伝「畸譜」を『書き上げると、その年に没した。享年』七十三であった。『当時の文学界では華美で大仰な「台閣体」に対して古文復興運動の機運が高まり、李攀竜や王世貞ら古文辞派が唱える擬古主義が台頭しはじめていた。しかし、徐渭は古文辞派を批判し、自らの素直な気持ちを表現すべきであると主張。袁宏道は徐渭を敬愛し』、「徐文長伝」を『著している』。また、『劇曲家で古文辞派批判の急先鋒の湯顕祖も、彼の「四声猿」を『高く評価した』。「四声猿」は『異色作として後進に大きな影響を及ぼした』。『書は蘇軾・米芾・黄庭堅などの宋代の書に師法し、行書・草書に秀でた。袁宏道が「八法の散聖、字林の侠客」と評したように』、『自由奔放な書風を確立した。清の八大山人・石濤・揚州八怪らは徐渭の書風を強く敬慕し』ている。『画は牧谿など宋・元の花卉図を模範とし、やはり自由奔放で大胆な画風であった。陳淳とともに写意画派の代表とされる。徐渭は好んで水墨の花卉雑画』『を画き、自作の題詩を書き込んでいる。山水図はあまり画かなかった。その画風は』『後の大家に強い影響を与えた』とある。

「類」「たぐひ」。

「江鶉」「えのうづら」と訓じておく。

「冬杜」「ふゆのもり」。

2020/07/03

甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同

 

6-11 御留守居役依田豐前守の事蹟

依田豐前守は名高き人なり。町奉行勤役中の事等、世人の口碑に傳る所多し。晚年に御留守居となれり。常に親戚に語るには、我等やがて老耄すらん。其時は早く告聞せよ。是ぞ親類の好みなるべしと諄々言けり。先朝の時、松島と云へる大年寄、權威を後房に振ひ、誰有て咎る者も無りし頃、素人狂言する者等を、女乘物に載せて大奧に入れて、劇場の眞似をさせて常の樂とせり。老女の斷ある女乘物は、御廣敷御門の出入たやすき例なりしかば、一日、松島續合の女なりと稱して、彼狂言する輩を載たる乘物二十挺、御廣敷の門を入れんとす。その日豐州當直なりしが、番の頭を呼び、松島の親類書持出べしとなり。番の頭、其書付を持出れば、開き見て、松島の從弟までの續ある女は三人のみなり。女乘物三挺は通すべし。其餘は追返すべしと苦々しく指圖したれば、十七挺の乘物御門に入ることを得ず。其日の催し空しく成しとなり。又老職田沼氏の妾の、御内證の方【津田氏。後蓮光院と號】へ御實否を候ずるとて出ること有しとき、田氏に阿附せる輩、その取扱を上通にせんとす。そのとき豐州堅く執て肯ぜず。これ等の事より内外の首尾よからぬやうになり行き、遂に同僚より内沙汰にて、老病を以て辭職すべしと云事になりしとき、豐州近親を招き、かねがね我等老耄せば早く告られよと賴置しに、左は無くして、果して老耄を以て罪を得んとす。親族の甲斐も無き事よとて、歎息したるまでにて、己を擧たることを生涯云はざりしとなり。

 

6-12 同

此豐州の近親、ある日早朝に急用ありて、豐州の宅に至り謁を乞ふ。直に奧に通るべしとの答により、寢間の次まで來れば、豐州古き白小袖を着て、出て對面す。用談畢りて其人云ふ。常に白無垢を着せられ候や。豐州の答に、夜中は火事その佗いかなる急忙の事あらんも量られず。白小袖着すれば、夫らの時に雜人に混ぜざる爲なりと云。其氣象の高きも亦かくの如くなりし。

 

■やぶちゃんの呟き

6-11

「依田豐前守」江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。書院番依田政有の嫡男として生まれた。享保元(一七一六)年十四歳の時に第八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保一〇(一七二五)年に小姓組に入り、小納戸・徒士頭と昇進して目付となった。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中たちと反目し、天明二(一七八二)年に老齢を理由に致仕、翌年、享年八十一で逝去した。北町奉行在任中には、山県大弐・藤井直明・竹内敬持らが策動したとされる「明和事件」(幕府による尊王論者弾圧事件)の解決に手腕を振るい、彼らに死罪・獄門・遠島などの処分を下している。他にも札差と旗本の間で生じた対立が激しくなった際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力している。以上はウィキの「依田政次」に拠ったが、講談社「日本人名大辞典」には、将軍徳川吉宗の食事を試食する膳奉行となったが、医師が「問題なし」とした献上品の鶴を「新鮮ではない」といって食膳に出さなかったところ、この話に感心した吉宗に重用されたという事蹟が載る。ちょっと不審なのであるが、彼は実際には「和泉守」であるのに、諸史料や関連記載では確かにそこら中で「豊前守」とする点である。識者の御教授を乞うものである。【2020年7月4日追記】いつもお世話になっているT氏より以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

依田平次郎政次については、以下で事蹟が判ります。それを見ると。

叙任時の名乗りは和泉守で、その後に豊前守に改めていることが判る。
「寛政重脩諸家譜 第二輯」(514コマ)

叙任は宝暦二(一七五二)年十二月『二十一日依田平次郞政次作事奉行となる』(右下後ろから九行目)に連動して、同十二月二十四日『作事奉行依田平次郞政次從五位下に叙し和泉守と稱す』(左上五~六行目)
「国史大系」第十四巻「惇信院殿御實紀卷十六」(316コマ)(惇信院殿は徳川家重の戒名)

次いで、翌宝暦二(一七五三)年四月『作事奉行依田平次郞政次七日町奉行とな』るとあって(右上二行)、そこでの名乗りは「和泉守」になっている。

同「国史大系」第十四巻「惇信院殿御實紀卷十六」(320コマ)

明和三年(一七六四)二月十一日に『町奉行依田豐前守政次』『三百石加秩』(加秩(かちつ)は加増に同じ)とあり(左上本文後ろから七~八行目)、この時の名乗りは『豐前守』となっている。
同「国史大系」第十五巻「浚明院殿御實紀」(107コマ)(浚明院殿は徳川家治の戒名)

以後、天明二(一七八一)年十一月十一日致仕(『十一日留守居依田豐前守政次老免し寄合となる』)まで『豐前守』となっている。

同「国史大系」第十五巻「浚明院殿御實紀」(351コマ)

という事で、町奉行在任中に名乗りを変更したようです。

   《引用終了》

『老免』は「老耄を理由に辞職することを願い出てそれを許す」の意であろうか。さても、そこで「名乗り」について調べてみたところ、「江戸東京博物館」公式サイト内の「レファレンス事例集」の『大岡越前守忠相の官職名「越前守」などにみられる「○○守」という名称はどのようにつけられたのか?(2007年)』に、

   《引用開始》

  大岡越前守忠相、吉良上野介義央、などに見られる「○○守」「○○介」のことを「受領名」「官職名」などといいます。もともとは7世紀半ば以降の律令制において成立した国司の職名でしたが、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続きました。江戸時代においては、徳川家康が慶長11年(1606)に武家の官位執奏権を手に入れ、以降は将軍が朝廷に奏請する権利を持ちました(『徳川幕府事典』他より)。
 官職名は領地とは関係のない場合が多く、「近世武家官位の叙任手続きについて」(『日本歴史』第586号)によれば「家の慣例や“好み”により選択して申請し、それを幕府が許可するという仕組み」で、「贈答儀礼として、将軍に官位御礼を行い、朝廷に官金(物)が納められ」ました。
 『近世武家官位の研究』では「幕府より諸大夫を仰せ付けられると、即日に希望の名乗りを「伺書」という形で幕府に差し出し、決定された」例を挙げ、「同姓同名とならないか、老中など然るべき役職にある者の名前に抵触しないかなどを吟味し、支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めたのであろう」としています。伊達家や島津家が代々名乗ることの多い「陸奥」や「薩摩」、また幕府の所在地である「武蔵」などは名乗ることを憚られていたようです。

   《引用終了》

とあることから推測すると、当初の「豊前守」が同僚かそれ以上の上司或いは当時彼から見ると憚られる大名などの高位の人物の名乗りと同じであることから、政次がそうした理由で変更願いを出し、それが許されて名乗りが変わったもののように思われた。T氏に心より御礼申し上げる。

「勤役」「きんえき」。

「傳る」「つたふる」。

「告聞せよ」「つげきかせよ」。

「好み」「よしみ」。

「諄々」「じゆんじゆん」。よく分かるように丁寧に言い含め聞かせるさま。

「先朝」彼が大目付となった明和七(一七七〇)年は光格天皇の御代。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月甲子(きのえね)の夜の起稿で、次代の仁孝天皇の代である。これを将軍家の先代家治の意でとっても、齟齬はないが、普通、先の将軍を「先朝」とは言わぬだろう。

「松島」松島局(生没年未詳)は江戸幕府第十代将軍徳川家治の乳母であり、大奥の御年寄。本名は不詳。ウィキの「松島局によれば、元文二(一七三七)年、第九代将軍徳川家重の嫡男竹千代(後の家治)の乳母として召し出され、江戸城西の丸御殿へ入り、宝暦一〇(一七六〇)年に家治が第十代将軍に就任するに『伴って本丸御殿へ移り、将軍付き御年寄として大奥を取り仕切った』。『家治の将軍就任同年から』明和九(一七七二)年まで『長らく筆頭御年寄の地位に君臨し』、『絶大な権力を振るっていたが』、安永三(一七七四)年からは同じく将軍付き御年寄であった高岳が筆頭となっており、松島局は忽然と表舞台から姿を消した。生没年、墓碑なども明らかとなっていない』。『前将軍・家重の御次として仕えていたお知保の方を老中・田沼意次と共謀して家治の側室に推薦したと言われている。その後、大奥の女中であったお品の方を自分の養女にし、同様に側室に推薦したとされる。このお品は、家治の御台所』五十宮倫子(いそのみやともこ)『が京都から江戸へ下向する際に随行した女中であり、松島局・田沼派の権力拡大を危惧した御台所付き上臈御年寄・広橋が、その威光をはばかり、あえて於品を松島局の養女としてから側室に差し出したという説もある』とある。

「後房」大奥。

「誰有て」「たれありて」。

「咎る」「とがむる」。

「無りし」「なかり」。

「樂」「たのしみ」

「斷ある」「ことわりある」。事前に申し出て許可を得てある。

「御廣敷御門」「おひろしきごもん」。平川門から入った位置にあった大奥と外部にある唯一の入り口で、常時、厳しい警備が行われていた。

「續合」「つづきあひ」。直系の近親親族。

「載たる」「のせたる」。

「番の頭」「ばんのかしら」。

「親類書」「しんるいがき」。近親親族であることを記した証明書。

「持出べし」「もちいづべし」。

「田沼」田沼意次。

「妾」「しやう」。側室。

「御内證の方【津田氏。後蓮光院と號】」「號」は「ごうす」。蓮光院(元文弐(一七三七)年~寛政三(一七九一)年)は将軍徳川家治の側室。徳川家基の生母。俗名は知保、智保。父は津田宇右衛門信成。養父は伊奈忠宥。寛延二(一七四九)年より、大御所徳川家重の御次として仕え、宝暦一一(一七六一)年に家治付の中﨟となった。宝暦一二(一七六二)年に長男竹千代(後の家基)を出産するが、家治の正室倫子女王に子がいなかったため、大奥の松島局の勧めもあり、倫子の養子として育てられた。しかし、明和八(一七七一)年に倫子が死去して以降は、お知保の方は御部屋様(男子を生んだ正式な側室扱い)となり、家基とともに暮らしたが、その家基も安永八(一七七九)年に十八歳の若さで急死するという不孝に見舞われた。享年五十五で亡くなり、文政一一(一八二八)年には従三位を追贈されているが、これは御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(以上はウィキの「蓮光院」に拠った)。

「御實否を候ずる」何らかの仕儀について受諾を得ることか。

「出る」「いづる」。不審。大奥へ入るの意であろうが?

「田氏」田沼意次。

「阿附」「あふ」。相手の機嫌をとり、気に入られようとして諂(へつら)うこと。

「上通」下の者の意思や事情が上の者に通ずるようにすること。ここは大目付より下位の役職の者らが、大目付以上の上級職が許諾するように阿(おもね)って上申することであろう。

「執て肯ぜず」「とりてがへんぜず」。

「内沙汰」内密の私的な慫慂。或いは「老耄を以て罪を得んとす」とまで言っているところを見ると、田沼や将軍家からのお叱りや詮議・処罰があるやも知れぬというようなことを匂わせる、半ば脅迫染みた耳打ちなどもあったのかも知れぬ。

「己を擧たることを生涯云はざりしとなり」意味不明。識者の御教授を乞う。職務に於いて自身が正しいと考えることを果敢に実行したことを一度も表明或いは自慢しなかった、ということか。「となり」とあるから静山の誉め言葉ではなく、政次の周辺の心ある人々のそれであり、静山もそれに賛同したのであろう。

6-12

「その佗」「そのた」。「その他」に同じい。

「氣象」「氣性」に同じい。

2020/05/11

甲子夜話卷之六 10 水戶の瑞龍山の事

 

6―10 水戶の瑞龍山の事

水戶の瑞龍山と云るは、餘ほど高き處なり。この山上、西山義公を葬る。蓋公の遺命とぞ。彼家の老職、中山信敬は【備中守實文公の弟】友交の人ゆゑ聞しに、かの山は一岩石にして殊に峻し。その岩石を鑿て棺を穴中に容るとなり。その問しときは源文と諡したる黃門殿の時なりき。頃又聞く、彼藩の立原翠軒が云しは、穿坎に葬し畢りて、鑿碎の石屑を以て棺を塡む。十年に及ぶ頃には、必ず融化して、もとの天然岩石に歸すと云。誠に不朽の兆域なり。

■やぶちゃんの呟き

「瑞龍山」「ずいりゆう(りゅう)さん」。現在の茨城県常陸太田市瑞龍町(瑞竜町)にある水戸徳川家累代の墓所(グーグル・マップ・データ航空写真。その拡大)。阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面に当たる。ウィキの「瑞龍山」によれば、『現在は管理上の理由で一般には公開されていない』とある。『水戸藩第』二『代藩主徳川光圀が初代藩主徳川頼房の遺志を受け継ぎ』、寛文元(一六六一)年に『ここを墓地と定めた』。延宝五(一六七七)年には『伯父の武田信吉、生母谷久子の墓を改葬した。全山深い木々に覆われ、その所々に歴代藩主の墓がある』。『葬儀墓制は日本では珍しい』完全な『儒教の形式によるもので、螭首亀趺(ちしゅきふ:亀の胴体に竜の首が付いている台石)とよばれる墓の様式である』。『瑞龍山には累代藩主一族の墓以外に、朱舜水』(しゅ しゅんすい 万暦二八(一六〇〇)年~天和二(一六八二)年)『の墓がある。朱舜水は中国明代の儒学者であったが、明の滅亡に際して援助を求め』、『来日し、清の成立に伴い』、『亡命、帰化した。その後、光圀の招きで水戸藩を訪れ、水戸学思想に多大な影響を与えた』人物としてよく知られる。

「餘ほど高き處なり」標高は百三十四メートル。「茨城県教育委員会」公式サイト内の「水戸德川家墓所」の解説に拠った。そこにも仏教嫌いで知られた光圀(彼は生涯に一度しか旅をしなかった。それは鎌倉への旅であったが、途中、横浜の金沢付近では地蔵を破壊している)よろしく、『葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りは禁じられてい』たとある。

「西山義公」「にしやまぎこう」。水戸光圀のこと。「義公」は「諡(おくりな)」(本文の読みもそれ)で、「西山」光圀は元禄三(一六九〇)年に幕府からの隠居の許可を受けて、養嗣子綱條に水戸藩主を継ぎ、翌年五月に久慈郡新宿(あらじゅく)村西山(ここ。グーグル・マップ・データ。現在は常陸太田市新宿町(あらじゅくちょう)。サイド・パネルで一部復元された西山荘の様子が見られる)に建てられた隠居所「西山荘」に隠棲したことによる。

「蓋」「けだし」。まさしく。

「中山信敬」(なかやまのぶたか 明和元(一七六五)年~文政三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で水戸藩附家老。第五代水戸藩主徳川宗翰(むねもと)の九男で、第六代藩主徳川治保の弟。明和八(一七七一)年、八歳の時、先代中山政信の臨終の席でその娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した。安永八(一七七九)年に備前守、後に備中守に遷任した。文政二(一八一九)年、罹患していた中風を理由として、家督を三男の信情に譲って隠居するように命ぜられて藩政を退き、翌年、没した。参照したウィキの「中山信敬によれば、『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には『大田村からかつての松岡に知行替えをし』ており、『地位向上』のための『運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』、文化一三(一八一九)年)一月から『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』は『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって』、『家格向上に努めた』とあり、なかなかのやり手であることが判る。

「備中守實文公」これは水戸藩中興の祖と称せられる前に記した信敬の兄で第六代藩主であった徳川治保(はるもり 寛延四(一七五一)年~文化二(一八〇五)年)のことであるが、「文公」は彼の諡で正しいものの、「備中守」と「實」は誤りとしか思われない。後者は不明だが、前者は弟信敬の叙任と誤ったものであろう。

「峻し」「けわし」。

「鑿て」「うがちて」。

「穴中」「けつちゆう(けっちゅう)」と音読みしておく。

「容る」「いるる」。

「その問しときは」この「問」は以下「頃又聞く」(このごろまたきく)との対応から見ても、「聞し」(ききし)の静山に誤字か、或いは参考に使用している平凡社東洋文庫の誤植ではなかろうか? 何となく圧縮された言い方で判り難いのであるが、ここは――そういう異様な埋葬法であることを聞いた中で、最も古いものとして確かにそうした処理をしたというのは、「源文と諡したる黃門殿の」埋葬の「時」にそうした、ということを聞いたのが最初である――の謂いと私は採る。「源文と諡したる黃門」とは權中納言(黄門は中納言の唐名)であった第六代藩主徳川治保のことである。因みに「源」は徳川家康が自身は「源氏」の出身であることに拘った(彼の愛読書は「吾妻鏡」であった)ことからの姓である。

「彼」「かの」。

「立原翠軒」(たちはらすいけん 延享元(一七四四)年~文政六(一八二三)年)は水戸藩士。ウィキの「立原翠軒によれば、学者として第五代藩主徳川宗翰と次の第六代治保の二代に亙って仕えた。『本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹』(なりもと)の子『立原五郎久幹を祖とする立原氏』通称は甚五郎、『致仕後に翠軒と号』した。『父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所』(きょうしょ)、『孫には幕末の志士・立原朴次郎』(ぼくじろう)『や閨秀画家の立原春沙』(しゅんさ:杏所の長女)、子孫にはなんと、かの詩人にして建築家であった立原道造がいるとある。宝暦一〇(一七六〇)年に『荻生徂徠を祖とする古文辞学派(徂徠学派)・田中江南が水戸を訪れた折に』、既に師であった谷田部東壑(とうがく)とともに『その門に入った』。同十三年、『江南が去った後、江戸彰考館の書写場傭に任ぜられた。江戸にては文章を大内熊耳』(ゆうじ)、『唐音を細井平洲、書を松平』頼順(よりゆき)『に学んだ』。明和三(一七六六)年には、『編集員を命ぜられ』て『水戸史館に転じた』。天明六(一七八六)年六月、『彰考館総裁に進み、以後』、享和三(一八〇三)年に『致仕するまで』、かの「大日本史」の『編纂に力を注ぎ』、寛政一一(一七九九)年には「大日本史」の『紀伝浄写本』八十『巻を』「大日本史」編纂の遺命を残した第二代藩主『徳川光圀の廟に献じた。この間、混乱の生じていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本』などもしている(これらは「江水往復書案」・「史館雑事記」として今日に伝わっているものの原形本とされる)。『永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により』、『後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告し』、寛政五(一七九三)年には、『門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという』。但し、「大日本史」編纂に際しては、書名に国号を冠することや、論賛の是非について、『弟子の藤田幽谷と対立を深めていたともいわれている』(この対立と結果はリンク先に、以下、より具体的にしるされてある。また、そこにある「逸話」を魅力的。流石、道造の御先祖さまだねえ)。

「穿坎」「さくかん」。穿(うが)った坑(あな)。

「葬し畢りて」「さうしをはりて」。

「鑿碎」「さくさい」。鑿(うが)ち碎(くだ)くこと。

「石屑」「せきせつ」。石の屑(くず)。

「塡む」「はむ」と読む。「嵌(は)む」に同じで、「落とし入れる」「投げ入れる」の意。

「融化」「ゆうくわ(ゆうか)」。融(と)けて変化すること。溶け合って一つの物になること。ここは遺体がすっかり溶けて「天然」の「岩石に歸すと云」うのである。

「不朽」岩石に融和するからまさに遺体は腐らないのである。

「兆域」「てうゐき(ちょういき)」で「墓のある区域・墓所」の意。

2020/04/21

甲子夜話卷之六 9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

 

6-9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

林氏云。辛未年西征のとき、藝の宮嶋に舟行す。嚴嶋社の寶物を縱觀して時刻を移し、晝八半時頃に至り、彌山に登らんと云へば、藝侯より附し嚮導の者、承諾せずして云。此山に登ること晝九時を限る。それより後は人の登ることを許さず。必變ありとて、いかほど强れども肯ぜず。予姑く步して山麓に抵る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因て人をして嚮導者に云はしむるは、瀑源の邊まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべしとて、侍臣より奴僕まで十四五人許もつれて登り、瀑源に至り着て、從者に云には、前言は詐なり。此地再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めんと言ふに、從者唯諾すれども、心中に畏懼の意あるものありき。扨山路を攀躋るに隨て、息喘を發するものあり、嘔噦を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く氣分あしゝとて面菜色なるものあり、足軟緩して步みかぬるものあり。予笑て各路傍に留り、疾を養ふことを許す。次第に登りて山頂に至る頃ほひ、從ふもの僅に五六人なり。頂上の遠眺快甚く、折しも天朗晴にて、目中の山巒島嶼、千態萬狀を脚下に獻ず。平宗盛が納めし鐘を摩挲して、懷古の想を生じ、良久く徘徊する中に、山谷の間より縷々の雲を起す。予從者を顧みて、此膚寸の合ざる内に下山せん。いざいざと云て急ぎ山を下る。未だ半にも至らざるに、前山後峯隱顯明滅して、人皆雲中にあり。麓に近づく頃は雲烟深く鎖し、眼界浩として烟海の如し。やうやう來路を認て下る。初疾しものども、こゝの岩角かしこの辻堂より、一人二人づゝ馳付く。予笑て、敗軍の落武者殘卒の體、かくぞあるべしとて大哄す。山を下り民屋ある所まで走り行内、はや驟雨暴注して、滿身淋漓せり。遂に民屋に入り、雨を避し中の雨勢は、未曾有の大雨にて、見る内に道路泛濫に至れり。さきの嚮導者あきれはてゝ、かくあるべしと思へばこそ、止め奉りつれとて、幾度か物蔭にて從僕に言けるとぞ。やがて天乍晴、夕陽明媚、海波如ㇾ熨、乃舟に乘て玖波驛に投宿しぬ。是にて人の山に醉と云ことも、魑魅に逢と云ことも能解したり。最初に從者の疾を生じたるは、山禁を犯し刻限後れに登山すると云懼心より、我と疾を生ずるを、山に醉と云べし。又其禁と云もの徒然に非ず。天氣は晝後より多く變ずるものゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下の二ヶ所も同じ。]、剋の後るゝを禁ずるはもと理あることなり。深山は陰閉のものゆへ、常に人跡乏しき所を、人氣にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路奇險にして迷ひ易く、登降も便ならず。況や數丈の溪㵎、その間にある所にて、大風雨に逢へば、失足して谷へ墜るゆへ、その下の木梢にも掛るべし。是等を魔の所爲など云にぞ有ける。纔なる海島の彌山にてさへ、山氣を盪かして雲雨を生ぜり。能時分に見切りたる計にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も天狗出たるなど俗論あるべきなり。凡我心に疑無き時は、人事に障碍は無きものなり。一念の疑より己と障礙は引起すものにこそ。

■やぶちゃんの呟き

 これは非常に長く、しかも読みがなかなかに難しい。されば、私が特異的に歴史的仮名遣で読みの振れる語句や難読と思われる箇所に読みを附したものを以下に示し、後につぶやくこととする。二度手間するので、序でに読み易く、句読点・鍵括弧・記号を変更・追加し、さらにシチュエーションごとに段落を成形することとした。

   *

   林子(りんし)、宮嶋に山禁を犯し、瀑雨(ばくう)にあふ事

 林氏云(いはく)――

 辛未(かのとひつじ)年、西征(さいせい)のとき、藝(あき)の宮嶋に舟行(しふかう)す。嚴嶋社(いつくしましや)の寶物を縱觀(じゆうくわん)して時刻を移し、晝八半時(やつはんどき)頃に至り、

「彌山(みせん)に登らん。」

と云へば、藝侯(げいこう)より附(つき)し嚮導(きやうだう)の者、承諾せずして云(いはく)、

「此山に登ること、晝九時(ここのつどき)を限る。それより後は人の登ることを許さず。必(かならず)變あり。」

とて、いかほど强(しひ)れども、肯(がへん)ぜず。

 予、姑(しばら)く步(あゆみ)して山麓に抵(いた)る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因(より)て、人をして嚮導者に云はしむるは、

「瀑源の邊(あたり)まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべし。」

とて、侍臣より奴僕まで十四、五人許(ばかり)もつれて登り、瀑源に至り着(つき)て、從者に云(いふ)には、

「前言は詐(いつはり)なり。此地、再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めん。」

と言ふに、從者、唯諾(ゐだく)すれども、心中に畏懼(いく)の意あるものありき。

 扨(さて)、山路を攀躋(よぢのぼ)るに隨(したがひ)て、息喘(そくぜん)を發するものあり、嘔噦(おうゑつ)を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く、

「氣分あしゝ。」

とて、面(おもて)、菜色(さいしよく)なるものあり、足、軟緩(なんくわん)して步みかぬるものあり。

 予、笑(わらひ)て各(おのおの)路傍に留(とどま)り、疾(やまひ)を養ふことを許す。

 次第に登りて、山頂に至る頃ほひ、從ふもの、僅(わづか)に五、六人なり。

 頂上の遠眺、快(かい)甚(はなはだし)く、折しも、天、朗晴(らうせい)にて、目中の山巒(さんらん)・島嶼(とうしよ)、千態萬狀(ばんじやう)を脚下に獻ず。

 平宗盛が納めし鐘を摩挲(まさ)して、懷古の想(おもひ)を生じ、良(やや)久(ひさし)く徘徊する中に、山谷(さんこく)の間(かん)より縷々(るる)の雲を起す。

 予、從者を顧みて、此(この)膚寸(ふすん)の合(あは)ざる内に下山せん。いざ、いざ。」

と云(いひ)て、急ぎ、山を下る。

 未だ半(なかば)にも至らざるに、前山・後峯、隱顯・明滅して、人皆(ひとみな)、雲中にあり。

 麓に近づく頃は、雲烟、深く鎖し、眼界、浩(かう)として、烟(けむり)、海の如し。やうやう來路を認(みとめ)て下る。

 初(はじめ)、疾(やみ)しものども、こゝの岩角、かしこの辻堂より、一人、二人づゝ馳付(はせつ)く。

 予、笑(わらひ)て、

「敗軍の落武者・殘卒の體(てい)、かくぞあるべし。」

とて大哄(たいこう)す。

 山を下り、民屋ある所まで走り行(ゆく)内(うち)、はや、驟雨、暴注(ばうちゆう)して、滿身淋漓(りんり)せり。

 遂に民屋に入り、雨を避(さけ)し中(なか)の雨勢(うせい)は、未曾有(みぞう)の大雨にて、見る内に、道路、泛濫(はんらん)に至れり。

 さきの嚮導者、あきれはてゝ、

「かくあるべしと思へばこそ、止(と)め奉りつれ。」

とて、

「幾度か物蔭にて從僕に言ける。」

とぞ。

 やがて、天、乍(たちまち)晴(はれ)、夕陽、明媚(めいび)、海波、熨(のし)のごとく、乃(すなはち)舟に乘(のり)て玖波驛(くはのえき)に投宿しぬ。

 是(これ)にて、人の山に「醉(ゑふ)」と云(いふ)ことも、「魑魅(ちみ)に逢(あふ)」と云(いふ)ことも能(よく)解したり。

 最初に從者の疾(やまひ)を生じたるは、山禁を犯し、刻限後(おく)れに登山すると云ふ懼心(おそれのこころ)より、我(おのづ)と疾(やまひ)を生ずるを、「山に醉(ゑふ)」と云(いふ)べし。

 又、其禁と云(いふ)もの徒然(いたづら)に非ず。

 天氣は晝後(ちうご)より多く變ずるものゆへ、剋(とき)の後(おく)るゝを禁ずるは、もと、理(ことわり)あることなり。深山は陰閉(いんへい)のものゆへ、常に人跡(じんせき)乏(とぼ)しき所を、人氣(じんき)にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路、奇險にして迷ひ易く、登降(とうこう)も便(びん)ならず。況や數丈の溪㵎(けいかん)、その間(かん)にある所にて、大風雨に逢へば、失足(しつそく)して谷へ墜(おつ)るゆへ、その下の木梢(こずゑ)にも掛るべし。是等を「魔の所爲(しよい)」など云(いふ)にぞ有(あり)ける。纔(わづか)なる海島(かいとう)の彌山(みせん)にてさへ、山氣(さんき)を盪(うご)かして雲雨を生ぜり。能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も「天狗出(いで)たる」など俗論あるべきなり。

 凡(およそ)我心に疑(うたがひ)無き時は、人事に障碍(しやうがい)は無きものなり。一念の疑(うたがひ)より己(おのづ)と障礙(しやうがい)は引起すものにこそ。

   *

「宮嶋」安芸の宮島。

「瀑雨」激しい降雨。

「林氏」お馴染みの静山の年下(八つ下)の友人である江戸後期の儒者で林家第八代当主林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。冷徹な彼の面目躍如たるエピソードである。

「辛未年」文化八(一八一一)年。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年辛丑)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年辛巳(かのとみ)十一月十七日甲子の夜であるが、それ以降に「辛未」はない。従って遡る直近の、この年となるのが、こうした記録類の常識である。

「西征」単に西に向かって行く、旅すること。

「嚴嶋社」厳島神社。

「晝八半時頃」午後三時頃。

「彌山」広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高五百三十五メートルの弥山(みせん)(グーグル・マップ・データ航空写真)。古くから信仰の対象であった。

「藝侯」広島藩主。当時は第八代藩主浅野斉賢(なりかた)。

「嚮導の者」案内人。「嚮」(現代仮名遣「きょう」)は「向」に同じ。「向かうこと・向くkと・先にすること」。「鴻門之会」でやったじゃないか。

「晝九時(ここのつどき)」正午。

「山腹より瀑流ありて淸冽なり」白糸の滝(グーグル・マップ・データ)。

「再遊すべきならず」再び遊山することは出来ぬであろう。

「唯諾(ゐだく)」相手の言ったことをそのまま承諾すること。

「息喘」喘息。

「嘔噦(おうゑつ)」嘔吐。

「菜色(さいしよく)なる」青白くなる。蒼白になる。

「軟緩」急に足弱になって歩みがのろくなること。

「平宗盛が納めし鐘」治承元(一一七七)年に平宗盛が寄進した刻銘のある「宗盛の梵鐘」 は島の多々良潟(たたらがた。グーグル・マップ・データ。名前から推してもここで造ったことが判るが、或いは砂鉄が採れたのかも知れない)というところで宗盛が鋳造させたとされるものが、現在は山頂近くの弥山本堂(グーグル・マップ・データ)にある。

「摩挲(まさ)」手でさすること。撞いたのではない。

「縷々」細く長く途切れることなく続くさま。

「膚寸(ふすん)」「膚」(ふ)は指四本を並べた長さの意で、ほんの僅かな大きさ。特に切れぎれの雲を形容するのに用いられる。

「浩」広々としているさま。

「大哄」「おほわらひす」と読んでもいいが、儒者である彼は音読みしたろうと思う。

「暴注」激しくそそぐこと。

「淋漓」滴り落ちること。

「雨を避し中」「中」は「下山のちょうど半ば頃」の意で採る。

「泛濫(はんらん)」「氾濫」に同じい。洪水のようなありさまとなったことを指す。

「熨」平たく伸びた熨斗(のし)。

「玖波驛(くはのえき)」現在の広島県大竹市玖波(グーグル・マップ・データ)。宮島の南の陸の対岸。山陽道の宿駅であった。

「懼心(おそれのこころ)」「くしん」でもよい。

「陰閉」強い陰気の籠って充満していることであろう。

「人氣(じんき)にて動かすとき」人間が運動して、そこに陽気が発生する時。

「盪(うご)かして」「動かして」に同じ。この場合は、自然にその滞留している陰気を揺り動かす結果となり、の意。

「能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて」私自身の自然現象に対する判断に誤りがなく、丁度良い時分を見計らって下山しただけのことであって。

「俗論あるべきなり」馬鹿げた巷間の噂による理由付けが行われるだけのことである。

「障碍」「障礙」障害に同じい。

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