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カテゴリー「「甲子夜話」」の192件の記事

2018/09/11

甲子夜話卷之五 20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

 

5-20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

六玉川の歌に、高野の玉川は高野大師の歌とて、

 忘れても汲やしつらん旅人の

      高野の奧の玉川の水

此川毒水なればかく詠じたりと云。然ども不審なり。哥詞の中毒水のことなく、又六名勝の中に一つ毒水を入る可きようもなし。其上高野の邊の人は、常にかの玉川の水を飮む。然れば毒あるには非るべし。歌の意は、かくの如き名水を、旅人のことゆゑ、忘て常の水と思て汲やしつらんと、其水を賞て詠じたる也と、浴恩老侯の話られしは妙解と云べし。

■やぶちゃんの呟き

本条については私の「諸國里人談卷之四 高野の毒水」を参照されたい。そこで私が注した内容で、本質的には私の言いたいことは尽きている。

「浴恩侯」元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「六玉川」「むたまがは」。古歌に詠まれた六つの歌枕とされる「玉川」の総称。弘法大師空海・藤原俊成・藤原定家・能因らの歌に詠まれた六つの玉川を総称したもので、山城の井出・紀伊の高野山・摂津の三島・近江の野路(のじ)・武蔵の調布・陸奥(宮城)の野田にある「たまがわ」を指す。原初的には「魂の下る川」という古代祭祀上の「霊(たま)川」であったものと思われる。

「汲やしつらん」「くみやしつらん」

「哥詞」「かし」。

「中」「うち」。

「入る可きようもなし」「よう」はママ。「いるるべき樣(やう)もなし」。

「非るべし」「あらざるべし」。

「忘て」「わすれて」。

「思て」「おもひて」。

「賞て」「ほめて」。

甲子夜話卷之五 19 舜水歸化の後、言語の事

 

5-19 舜水歸化の後、言語の事

朱舜水、歸化年久しかりし後は、邦語をも用ひしが、兒言の如くありしと。一日或人塗に遇ふ。何れへ行たまふぞと問たれば、あす覺兵衞祝儀、肴かひゆくと答しと。又禁廷より内々に揮筆命ぜられしことありて、綿を賜りしとき、御所樣綿くれたと、人に語りしよし。さも有べきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「兒言」「じげん」。幼児語。

「一日」「あるひ」。

「塗」「みち」。路。

「覺兵衞」前に出した安積澹泊(明暦二(一六五六)年~元文二(一七三八)年)の通称。澹泊は号、諱は覚。所謂「水戸黄門」に登場する「格さん」(渥美格之進)のモデルとされる。ウィキの「安積澹泊によれば、水戸生まれで、『祖父・正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に水戸藩初代徳川頼房に仕え禄』四百『石であったが、父の貞吉は多病で』、『この禄を辞退し、寄合組となった』。寛文五(一六六五)年九月、澹泊が未だ十歳の頃、第二代『藩主徳川光圀が』、『朱舜水をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て』、『朱舜水に入門させた。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだ』が、翌年七月に『父が死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった』翌寛文七(一六六七)年)に『朱舜水が水戸を訪れると』、『再び教えを受け』、翌年、『朱舜水に従って江戸へ出た。しかし』、寛文一〇(一六七〇)年『春には痘瘡を病んで水戸に帰国した。澹泊が朱舜水のもとで学んだのは』三『年ほどであったが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金』三『両を図書費として与えた』。『水戸へ帰った澹泊は同年』二百『石で大番組を命じられ』、小納戸役・唐物奉行を歴任し、天和三(一六八三)年二十八歳の時、』『彰考館入りし』、『史館編修に任じられた』。元禄二(一六八九)年、『吉弘元常』(よしひろもとつね)『・佐々宗淳』(さっさむねあつ)『両総裁とともに修史義例の作成に関与』し、元禄五年には三百石となり、元禄六年には、『死去した鵜飼錬斎の後任として史館総裁に就任した』『(当時の総裁は』三名で『他は佐々宗淳・中村顧言)』元禄九年には『佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べ』ている。元禄一三(一七〇〇)年に光圀が死去し、翌十四年に第三代代『藩主徳川綱條』(つなえだ)『の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに』「義公行実」を編集、享保八(一七二三)年には、第四代藩主となっていた徳川宗堯(むねたか)の『命により、さらにこれを修訂』、した上、「常山文集」の『付録として印刷した』また、享保九年には、「義公行実」の付録として「西山遺事」を著した。元禄十四年、『総裁の職は元のままに』、『小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも宝永年間』(一七〇四年~一七一一年)『の筆削活動は目覚ましく、そのため』、『ほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという』。正徳四(一七一四)年に『総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった』。享保元(一七一六)年からは、『「大日本史論賛」の執筆を行』った(同五年完成)。「論賛」とは『史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である』(但し、文化六(一八〇九)年になって論賛は削除されたため、完成した現在の「大日本史」には存在しない)。享保六(一七二一)年、新番頭列、同七年には『新番頭に任じられたが』、『いずれも史館勤務は元の通りであった』。享保一二(一七二七)年からは徳川家康の伝記である』、「烈祖成績」の『編集を担当(同』十七『年完成)』した。享保一八(一七三三)年に致仕したが、『致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた』。『私的な面では菊づくりを趣味としていたという』。『明治時代になってから』、『大阪の講談師・玉田玉知が幕末の講釈師の創作であった』「水戸黄門漫遊記」の『中に主人公・光圀のお供役として澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名』、『大人気となった。この講談中で』、『同じくお供を勤める佐々木助三郎(助さん)のモデルである佐々宗淳は、やはり水戸藩で澹泊と同じく彰考館総裁を勤めた人物である(総裁は複数制であったので、ともに総裁であった時期もある)。澹泊の』十六『歳年上。なお、佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓碑文で安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している』とある。

「綿を賜りし」綿を褒美として下賜した。元は祭祀に用いた神聖な綿の下げ渡しであったものかと思われるが、例えば、先行する甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事には、江戸幕府が年始に於いて、大名・旗本などに対し、綿入れの小袖が下賜衣料として出てくる。

甲子夜話卷之五 18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

 

5-18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

大阪御城中御殿の張付は、金地に秋草の繪なり。長押の上も金張付にて、一處猷廟の御筆にて、鷄を墨畫にかかせ玉ふ有り。御戲筆なるべし。又あき御殿ゆゑ、席は鋪かずあれども、彼御筆の前には一疊を鋪てあり。人其處に到れば、御筆を拜すと云。

■やぶちゃんの呟き

「長押」「なげし」。

「張付」「はりつけ」。ここは布や紙等を張って仕上げた壁面や室内建具その他。

「金張付」「きんはりつけ」。

「猷廟」徳川家光。

「席」東洋文庫には『たたみ』とルビする。

「鋪かず」「しかず」。敷かず。

「鋪て」「しきて」。

2018/09/01

甲子夜話卷之五 17 松平周防守持鎗の事

 

5-17 松平周防守持鎗の事

松平防州【康任。石州濱田城主】に會したる次手に、予其家の持鎗靑貝柄の方は、世に神祖御手の形など云ふ。然るや否やと問ふ。答に否。其刃は如ㇾ此にて、嘗て賜りしものなり。國本に祕藏す。柄は二間半なり。當時持するものは其寫しにて、柄二間なりと云。

 

Matudairasuounoyari

 

■やぶちゃんの呟き

標題及び本文の「持鎗」は「もてるやり」或いは「もつやり」と訓じておく。

「松平防州【康任。石州濱田城主】」老中で石見浜田藩(現在の島根県浜田市)第三代藩主松平康任(やすとう 安永八(一七七九)年或いは翌年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「松平康任によれば、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中と幕府の重職を歴任した。『分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため、康定の婿養子となり』、『家督を相続』した。『文化・文政期の幕府の実力者水野忠成』(彼の義父忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なるもので、忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は、かの「田沼時代」を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる)『の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任する』。『忠成同様、賄賂には大変鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から』六千『両もの賄賂を受け取り、その結果、実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちに康任失脚の布石となってしまう』。『忠成死後、老中首座となったが、このころから』、閣内では『康任派と水野忠邦派の抗争が激化』し、天保五(一八三四)年に発生した仙石騒動』(出石(いずし)藩で発生したお家騒動)『において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた』。『また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられ』ているとある。さても、この松平家を辿ってみると(養子縁組が多いので、直血族ではない)、松井松平家初代松平康重(永禄一一(一五六八)年~寛永一七(一六四〇)年)なる人物に辿り着く。ウィキの「松平康重によれば、『駿河国三枚橋城主松平康親の長男』で、天正一一(一五八三)年三月の『元服の際に家康』(二十五歳年上)『から「康」の偏諱を授かり康次、のちに康重と改めた』。『家康が東海地方にいた頃』に当たる、天正一一(一五八三)年から同十八年にかけては、父『康親の跡を継いで』。『駿河国沼津城の守備役を務め、後北条氏に約』八『年間も対峙した「小田原征伐」後の天正十八年八月に『家康が関東に移されると、武蔵騎西』(きさい:現在の埼玉県加須市根古屋)に二『万石を与えられた』。文禄四(一五九五)年には『豊臣姓を与えられ』、後、常陸笠間三万石・丹波国篠山藩五万石と加増移封、元和五(一六一九)年には『大坂平野南方の要衝』であった『和泉岸和田に移封となっ』ている。『康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある』。『生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま』、『康親に嫁いだとされる』。『後に子孫も家康の「康」を通字として用いている』(太字やぶちゃん)と驚くべきことが書かれてあり、この家なら「家康の手形を擬えた」家康から賜った(これ或いは手ずから賜ったの転訛のようにも私には思われるのだが)「鎗」があると世間で囁かれても、これ、おかしくなわいな!

「靑貝柄」螺鈿細工。

「世に神祖御手の形など云ふ」世間では、鑓の先の部分が神君家康公の御手の形を模したものである、と噂申して御座る。

「二間半」四メートル四・五センチメートル。

「當時持するものは其寫しにて」現在、江戸上(或いは下)屋敷に所持するものはそれのレプリカで。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

甲子夜話卷之五 16 評定所食膳の事

 

5-16 評定所食膳の事

評定所にて奉行に出る食膳、平椀も味噌汁をいるゝと云。珍しき爲方なり。蓋古の遺るか。

[やぶちゃん注:「平椀」(ひらわん)は懐石食器の「四つ椀」の一つで、浅めの大振りな塗椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施されたもの。普通、これには煮物などが盛られる。形状は、参照茶道サイトの画像を見られたいが、そこに江戸中期の旗本で伊勢流有職故実研究家でもあった伊勢貞丈(享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の故実書「四季草」から、「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼる』ゝ『ゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり」と引かれてある。これが静山の言う古式の名残のヒントになるかも知れぬ。

「爲方」「しかた」。

「蓋古の遺るか」「けだし、いにしへの」習慣の「のこれる」もの「か」。]

甲子夜話卷之五 15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

 

5-15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

慶長中、林又三郞【道春の始名】浪人にて、始て神祖の二條御所に出たるとき、本多中書【忠勝】邂逅す。中書が曰。其もとの器量、天神と【天神とは菅相公を云】いかん。又三郞笑て不ㇾ答。中書御前に出て曰には、又三郞の器量天神とはいかんと問候に答不ㇾ申。其器量いかんと申上たれば、神祖も笑て答へ給はざりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「林又三郞」「道春」朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。又三郎は通称、羅山も出家後の道春(どうしゅん)も号で、諱は信勝(のぶかつ)。ウィキの「林羅山」によれば、『京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる』。『幼少の頃から秀才として謳われ』、文禄四(一五九五)年、『京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること』を拒否し、慶長二(一五九七)年に『家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた』。『家に帰ってからは』、『もっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した』。『独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき』、慶長九(一六〇四)年に儒学者藤原惺窩(せいか:公家冷泉為純の三男であったが、家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原及び籐(とう)を公称した)『と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると』、『四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で五行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので』、翌慶長十年、『羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった』。『家康は、惺窩の勧めもあり、こののち』、『羅山を手元に置いていくこととした』。『羅山は才を認められ』、二十三『歳の若さで』、『家康のブレーンの一人となったのであ』ったとある(太字やぶちゃん)。この後は「朝日日本歴史人物事典」から引く。慶長一二(一六〇七)年、家康の『命により』、『剃髪して道春と改称。この自ら排する僧形を余儀なくされたことは』、『思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年』、『批判を受けることになる。もっとも家康は』、彼に「大坂の陣」の口実とするため、『名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど』、『博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって』、『羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く』、『専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。また、この頃、『清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され』、『家康はそれを退けたという逸話があるが』、『秀賢らとの親炙などから』、『史実としては疑問視されている。この間』、『盛んに駿府と京都を往復しながら』、『以心崇伝らと古記録謄写』・出版・集書など、『京の学問の復興に努めた。元和』二(一六一六)年の『家康没後は』、『駿河御譲本の分割に尽力』、同四年からは、『活動の中心を江戸に置き』、『和漢の古典を講じながら』、教訓的仮名草子である「三徳抄」「巵言抄(しげんしょう)」などを書いて』、『諸大名家の教育に腐心』した。その他にも、『中国怪談集』「怪談全書」や「徒然草」の注釈書「野槌」の『執筆など』、『多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること』が多くなり、『朝鮮・オランダ・シャムとの通信に当たりながら』、『政治顧問の地位に』就いた。寛永七(一六三〇)年には『上野忍岡の賜地に学校設立を開始し』、同九年に「先聖殿」を完成させた。同十二年には、『各法制を整備しつつ』、「武家諸法度」(寛永令)を制定、その後も「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」に着手したが、『その知識の源泉であった膨大な蔵書も』、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)から一月二十日(三月四日)に発生)で邸宅もろとも焼失させてしまい、その数日後の一月二十三日に没した。

「本多中書」「忠勝」徳川家康の功臣にして上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩十万石初代藩主であった本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、五十数回の戦いに出て、一度も傷を受けなかったという歴戦の勇者として知られる。彼の官位は従五位下・中務大輔で、「中書」は中務省の唐名。

「慶長中」「始て神祖の二條御所に出たるとき」先に引用で示した通り、ウィキの「林羅山」によれば慶長一〇(一六〇五)年である。

「曰」「いふ」。

「其もと」「そこもと」。貴殿。当時の忠勝は数え五十八であるのに対し、林又三郎(羅山)は未だ二十三歳である。

「天神」「菅相公」「といかん」「菅原道真公の才智と比べたら、どの程度のものだと自分では思うか?」。

「笑て不ㇾ答」「笑ひて、答へず」。

「問候に答不ㇾ申」「問ひ候ふに、答へ申さず」。

「其器量いかん」「あの若造の器量はどれほどど思われまするか?」。

甲子夜話卷之五 14 小笠原嶋の事

 

5-14 小笠原嶋の事

修驗某に聞く。八丈島の南方百里許に無人島あり。一名を小笠原島と云。小大八十餘島あり。其中二島は大さ四國ほども有べしとなり。島に山多くして平地希なり。椰子、梅林、蘇木の類、その佗良材を産す。鳥は音呼(インコ)を始め、異禽多となり。此島を小笠原と云ことは、今尾張侯の家臣城代を勤る小笠原三九郞と云の先祖、民部大輔賴□【一字不詳】と云るが、神祖より賜りし地なりと云。三九郞所藏の記錄あり。其中に祖先の島に建たる碑文を載す。曰、大日本國、天照皇太神宮地、征夷大將軍源家康公幕下、小笠原民部大輔賴□領分。

此碑、二箇處に竪と云。思ふに大島二つの中にあるならん。此三九郞は彼修驗の檀家なる由。定て實事ならん。尚折を以て問糺すべし。

■やぶちゃんの呟き

「八丈島の南方百里許」「百里」は約三百九十三キロメートル。地図実測で八丈島から小笠原父島までは、七百キロメートルを越え、小笠原諸島最北の聟島でも六百キロメートルを越えるから、この数値は余りに過小である。小笠原諸島の現在(東京都特別区小笠原村)の主要な島は父島・母島・聟島・硫黄島・西之島・沖ノ鳥島・南鳥島で、東京都の南南東約一千キロメートルの太平洋上にあり、大小三十余島から成る総面積は約百四平方キロメートルである。

「其中二島は大さ四國ほども有べし」過大に過ぎて異界伝説レベル。小笠原で一番大きな硫黄島で二十三・七三、二番に大きな父島で二十三・四十五平方キロメートルしかない。因みに四国の総面積は一万八千二百九十七・七八平方キロメートルである。

「蘇木」「そぼく」。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連ジャケツイバラ属スオウウ(蘇芳・蘇方・蘇枋)Caesalpinia sappan 或いはジャケツイバラ亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis の別称(両者は分類学上では近縁種ではない)。

「その佗」「そのた」。「佗」=「他」。

「多となり」「おほしとなり」。

「小笠原三九郞」名古屋大学附属図書館二〇一六年度秋季特別展「旗本高木家の幕末」PDF)のデータに、尾張藩家臣に小笠原三九郞長盈(「ながみつ」か)なる人物がおり、高木貞臧(さだよし)の娘増が嫁入りしたのが、寛政四(一七九二)年とあった。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるから、この人物と見てよいか。

「と云の」「といふ」者「の」。

「民部大輔賴【一字不詳】」ウィキの「小笠原諸島」には、箇条書き形式の「歴史」の年譜があるので参照されたいが、それによれば、『北硫黄島には先史時代(』一『世紀頃)のものとみられる石野遺跡があ』り、『父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが』、『詳細な時代は不明』とする。天正二〇(一五九三)年、『信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で』三『つの無人島を発見する。しかしその根拠と』される「巽(たつみ)無人島記」の『記述には、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど』、『亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため』、『信憑性は低い』とある(太字やぶちゃん。以下、同じ)。静山の記す「民部大輔賴」というのは、この小笠原貞頼(?~寛永二(一六二五)年)なる人物である。ウィキの「小笠原貞頼」によれば、『安土桃山時代の武士。通称は、彦七郎・又七郎、民部少輔。徳川家の家臣で、小笠原諸島の発見者と伝えられる』。『信濃国守護の小笠原長時の孫(曾孫説もあり)、小笠原長隆の次男、松本城(深志城)城主・小笠原貞慶の甥にあたるとされる』。『後世(江戸時代中)に製作された小笠原氏の系図』「小笠原家譜」では、『当時の小笠原氏当主は』、天正七(一五七九)年に『父の長時から家督を相続した三男の貞慶で、父に先立って戦死した長隆の弟である、とされている』。「寛政重修諸家譜」に『よれば、同じく庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠(信興)が』元亀二(一五七一)年三月、『武田信玄に攻められた時』、『小笠原長隆・貞慶兄弟が同族と見られる「民部貞頼」とともにその救援に向かったという記録が残っている。また同時期の他史料にも「小笠原民部大輔」という人物が徳川氏に仕えていたという記録がある。ここから』、『「民部貞頼」=「小笠原民部大輔」=小笠原貞頼と考えて実在説を唱える人もいる』。『近年では』、天正一〇(一五八二)年七月に「天正壬午の乱」で『甲州入りした徳川家康が市川に逗留中、大聖寺(身延町)へ「小笠原貞頼」を代参させ』、『戦勝祈願したという記述が発見されている』とある。『その他、幕府の船手頭であった小笠原信元(幡豆小笠原氏)と同一視する見解もあるが、確証はない』とする。「小笠原民部記」によれば、永禄七(一五六四)年、『同族の幡豆』(はず)『小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した』。文禄二(一五九三)年の「文禄・慶長の役」の帰陣に際して、『「貞頼は小田原の陣以来』、『数度の戦功にもかかわらず』、『いまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば』、『見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は』三『つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている』。『また、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある』。その後、享保一二(一七二七)年になって、『貞頼の子孫を自称する浪人』小笠原貞任なる人物が現われ、「巽無人島記」の『記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た』。『「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また』、『これらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである』。『貞任の訴えにより幕府は一度渡航を許可したものの』(翌享保十三年に南町奉行大岡忠相が貞任に対して無人島渡航の許可を下し、それを受けて先遣隊が無人島へ派遣されたが、鳥羽を出航した後、行方不明となってしまっている)、『奉行所が再度調査した結果、貞任は』享保二〇(一七三五)年に、『探検の事実どころか、先祖である貞頼の実在も否定された。このため、貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けた』とある。時系列でも戻って、ウィキの「小笠原諸島」年譜に返ると、一六三九年七月二十一日(寛永十六年八月十七日)には、マティス・クワスト(Matthijs Quast)が『指揮するオランダ東インド会社所属のエンゲル号(Engel)とフラフト号(Graft)が』二』つの無人島を発見する。それぞれエンゲル島、フラフト島と命名され、エンゲル島は母島、フラフト島は父島と比定される。なおこの艦隊の副官は、後にタスマニア島とニュージーランドへ最初に到達したヨーロッパ人となる、アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)であった』とあり、寛文十年二月二十日(一六七〇年四月九日)、『紀州を出港した阿波国の蜜柑船が母島に漂着する。その後、長右衛門ら』七『人は八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告され』ており、二〇一六年『現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている』とあり、五年後の延宝三(一六七五)年にはこれらの『漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣』、『調査船富国寿丸は』三十六『日間にわたって』、『島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ』、『幕府上層部に披露され』、『これ以降、小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた』。一七〇二(元禄十五)年、スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号(Nuestra-Senora del Rosario)が西之島を発見し、ロザリオ島(Isla de Rosario)と命名する。以下、先の小笠原貞任の話となる。その後、天明五(一七八五)年刊の林子平の「三国通覧図説」に「小笠原島」という名称が現われ(但し、林子平は小笠原諸島を訪れてはいない)、十九世紀に入ると、『欧米の捕鯨船が寄港するようにな』った。一八二三(文政六)年九月、『イギリスブリストルの捕鯨船トランジット号(Transit)が母島に来航し、母島をフィッシャー島(Fisher island)、沖港をポートコフィン(Port Coffin)と命名する。トランジット号は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である』。一八二六(文政九)年、『イギリスの捕鯨船ウィリアム号(William)が父島の湾内で難破する。乗組員のほとんどは別の捕鯨船で父島を去るが、船員』二『名が父島に残留し、初めての定住者とな』ったという。一八二七(文政十)年六月、『イギリス軍艦ブロッサム号』『(HMS Blossom)が父島に来航』し、『艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行った』(『しかし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかった』とある)。一八二八(文政十一)年五月、『フョードル・ペトロヴィッチ・リュトケ(Фёдор Петрович Литке)が指揮するロシアの探検調査船セニャービン号(Сенявин)が父島に来航』、先の初定住者となった『ウィリアム号の船員』二『名もこの時』、『父島を後にした』。一八三〇年六月二十六日(文政十三年五月十日)、『ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人』五『人と太平洋諸島出身者』二十五『人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する』(以下、一八三五年(天保六年)に始まる、イギリスによる占領企図の経緯が記されてあるが省略する)。天保一一(一八四〇)年には、『陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら』六『名は』二『か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還』した。以下まだ記載は続くが、天保一二(一八四一)年に静山は亡くなっているので、詳細はここまでとする。後のエポック・メーキングな部分だけを引くと、文久元(一八六二)年、『幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ』、『アメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣』『し、測量を行』わせ、『また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ』て『同意を得』、文久二年五月を以って『駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告』、同年八月には、八丈島からの三十八『名の入植が開始され』たが、翌文久三年五月には、『生麦事件によって日英関係が悪化したことを受け、日本人移民』は『父島から撤収し』ている。明治維新後は、明治八(一八七五)年十一月に『明治政府が小笠原回収委員を明治丸で父島へ派遣』し、翌年三月、『小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)。内務省の管轄となる。日本人』三十七『名が父島に定住。内務省出張所』が設置された。

「竪と」「たつと」。建っていると。しかし、こんな碑があったともあるともネット上には記載がない。残念ながら、都市伝説の類いであろう。

「大島二つ」硫黄島と父島か。

「定て」「さだめて」

「問糺す」「とひただす」。

甲子夜話卷之五 13 水戸黃門卿、髑髏盃の事

 

5-13 水戸黃門卿、髑髏盃の事

水戸の常福寺の什寶に、髑髏盃を藏む。これは西山(せいざん)義公の故物と云。一升を容べし。公在世に此盃を常用せられしと。酒量知るべし。醉後は必ず唱歌し給ふ。其詞

 蓮の葉にやどれる露は、釋迦の淚か有難や。

 其とき蛙とんで出(イデ)、それは己(オレ)が小便じや

と、ざれ謠うたひ給ひしとなり。西山に老退せられし後の事なるにや。常福寺及彼公家の臣等所ㇾ云なりと聞く。又盃の故を尋るに、公少年時の卑僕あり。隨從年久し。然るに罪有て、勘氣せられ追放す。其後公の出行每には、必ず隱れながら隨て離れず。公も亦これを知れども見ざるふりに過られたり。然に或時、いかゞしてか公の目前に出たり。公心中これを憐といへども、逐去こと能はず、卽手打にせられ、死骸は久昌寺【公の母君の寺なり】に埋めよと命ぜられ、年月を待て其枯體を掘出させ、頭骨に金箔を施し、盃と爲られし也。是蓋彼僕の赤心潛行して至死不變の追懷を遂げしめ給ふなるべし。此物を今見るに、髑髏の表は公の手ずれにて琥珀の色をなし、殊に美なりと。常福寺の寓僧語れりと云。

■やぶちゃんの呟き

「常福寺」現在の茨城県那珂(なか)市瓜連(うりづら)にある浄土宗草地山蓮華院常福寺。ここ(国土地理院地図)。かるだ もん」氏のブログ「年年是好年 日日是好日」の「大人の♪いばらき おとぎ話2。 水戸のご老公にまつわる、お・と・なの話~その1で本話を採り挙げておられ(梗概の現代語訳が載る)、実際に常福寺を訪問されておられる(写真有り)。但し、ブログ主よろしく、私も常福寺の公式サイトの「寺宝」を見たが(リンク先記載のそれはアドレス変更で繋がらない)この「髑髏の盃」の記載は見当たらない。ものがものだけに、ブログ主も述べておられるように、『本当にあったとしても公開はされていないのかもしれ』ない。ところが、驚くべき記載がリンク先にはあるのである。『しかし「茨城の酒と旅」という本』(ブログの記載によれば、昭和四七(一九七二)年刊)『によると、著者は常福寺で実物は見せてもらえなかったものの、写真を見せてもらった』と載り、同書には、『日露戦争の時や太平洋戦争の時に出征の無事を祈って、地元の人がこの杯で飲んだ人たちがいる』『という逸話も書かれてい』るとあり、その『(写真で見た)髑髏杯は、頭蓋骨の上あごより上の部分(つまり下あごはない)で、額あたりから上の部分と下の部分の』二『つに分かれており、いずれも内側は赤く漆で塗られていて、液体が漏れないようになっている』らしい。そのため、『酒を注ぐと、まるで血をなみなみとたたえているように見える』のだろうと記されているとある。また、この書では『杯になった髑髏のいわれについては』本「甲子夜話」の内容とは異なる話を三つ載せてある、ともある。読んでみたい。なお、正直、この「甲子夜話」の話の「卑僕」の少年の水戸黄門の関係には、明らかに若衆道の匂いが強烈に香っている。

「西山義公」「西山」は徳川光圀の別号、「義公」は諡号。

「容べし」「いるべし」。注ぎ入れることが出来る。

「じや」ママ。

「西山」旧久慈郡新宿村西山に建設された彼の隠居所西山荘。現在の茨城県常陸太田市新宿町にあった。(グーグル・マップ・データ)。

「彼公家の」「かのこうけの」。

「臣等」「しんら」。

「所ㇾ云」「いふところ」。

「尋るに」「たづぬるに」。

「然るに」「しかるに」。

「出行每には」「しゆつかうごとには」。「每には」は「つねには」と訓じているかも知れぬ。

「隨て」「したがひて」。

「過られたり」「すぎられけり」。

「然に」「しかるに」。

「憐といへども」「あはあれむといへども」。

「逐去こと」「おひやること。。

「卽手打にせられ」「すなはち、てうちにせられ」。

「久昌寺」現在の茨城県常陸太田市新宿町にある日蓮宗靖定山久昌寺。(グーグル・マップ・データ)。先の西山荘ある同地区内の東直近である。

「公の母君」久昌院(慶長九(一六〇四)年~寛文元(一六六二)年)は常陸水戸藩初代藩主徳川頼房の側室。名は久。

「爲られし也」「せられしなり」。

「是蓋」「これ、けだし」。

「寓僧」住僧。「寓」(ぐう)は「仮の住まい」の意であるが、僧にとってはこの世はまさにそうだからこの謂いは腑に落ちる。

2018/08/31

甲子夜話卷之五 12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立幷西國衆寄進帳

 

5-12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立西國衆寄進帳

鍋島氏、關原の役に敗れて、やうやうに歸國し、色々に御詫をせしが、本領安堵なを覺束無き樣子により、足利學校を憑み、手を盡して陳謝し、久して後始めて御憤り解たりと也。此忝さに、圓光寺を【寺は京にあり。乃足利學校の本寺なり】、別に佐嘉の城下に新刱し、弟子を請て住職せしめ、今に其侯の壇緣第一の寺院たり。當年新創の時の寄進帳を、寺に祕藏するに、加藤、黑田の面々を始め、名高き輩は不ㇾ殘寄進に入りて、材木何千本、銅何百斤、銕何萬貫目などゝの寄附なりと云。足利學校の御眷顧を蒙るによりて、皆其爲めにしたることと聞ゆ。鍋嶋は敗軍の將なる故、止事を得ざるとも云べし。其餘御家に力を戮せたる輩まで、恐怖の餘りやはりかゝる事迄もせしは、當年御勢の雄偉なること、誠に推し知るべく、猛將と聞へし輩にても、諂諛風靡の有樣は、想ひの外なるものにて、人情はいつもかはらぬものなるべし。同上。

■やぶちゃんの呟き

最後の「同上」とは、前の「5-11 神君御花押の事」の末尾の「林氏」(林述斎)「話」の「同上」。

「鍋嶋勝茂」(天正八(一五八〇)年~明暦三(一六五七)年)は肥前国佐賀藩初代藩主。ウィキの「鍋島勝茂によれば、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男。天正一七(一五八九)年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜され、慶長二(一五九七)年からの「慶長の役」では『父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では当初、『西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし、父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に』、『黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた』。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では『幕府方に属した』。寛永一四(一六三七)年から「島原の乱」にも『出陣するが、家臣が軍律違反を犯したため』、『幕府に処罰され』てもいる、とある。

「足利學校を憑み」「憑(たの)み」。これは、鍋島勝茂の旧家臣の中に、足利学校第九世庠主(しょうしゅ:学頭。校長)で、徳川家康のブレーンともなった臨済僧三要元佶(さんようげんきつ 天文一七(一五四八)年~慶長一七(一六一二)年)がいたことによるものと思われる。ウィキの「三要元佶によれば、『現在、一般的には閑室元佶とよばれている』。『肥前国(現在の佐賀県)において』、『小城郡晴気城主・千葉氏の家臣・野辺田善兵衛の子として生まれる。父・善兵衛はもともと千葉胤連の家臣であったが、後の佐賀藩祖・鍋島直茂が、養家の千葉氏から実家の鍋島氏に復籍する際、胤連から直茂に与えられた』十二『人の家臣のうちの』一『人であった。なお、実弟・善兵衛も直茂の家臣となった』。『幼少時に都に上り、岩倉の円通寺で得度する。足利学校第』九『世の庠主となるが』、「関ヶ原の戦い」の『折には徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてた』。『江戸幕府開府後、以心崇伝とともに徳川家康のブレーンとして寺社奉行の任にあたり、西笑承兌』(さいしょう(せいしょう)じょうたい)『の後を引き継いで』、『朱印状の事務取扱の役目に就くなど、朱印船のことにも関わった。また、家康によって伏見の修学院に招かれ、円光寺の開山ともなり、伏見版の出版に尽力した』。『晩年は、鍋島直茂より』、『故郷に三岳寺を寄進され、家臣(寺侍)の谷口杢太夫(三岳寺の僧石井浄玄の実父)らを随えて、三岳寺に赴いた』とある人物である。

「久して」「ひさしくして」。

「解たり」「とけたり」。

「此忝さに」「このかたじけなさに」。

「圓光寺」現在の京都市左京区一乗寺にある臨済宗瑞巌山(ずいがんさん)圓光寺。南禅寺派の寺院。開山は閑室元佶、開基は徳川家康。ウィキの「円光寺京都市左京区)によれば、『当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた』。『家康の命により』慶長六(一六〇一)年に足利学校第九代庠主であった『閑室元佶を招き』、『伏見城下に円光寺を建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移』り、さらに寛文七(一六六七)年に『現在地に移された』。『円光寺は学校の役割も果たし、家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』(こうしけご)『貞観政要』(じょうがんせいよう、貞観参照)、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約』五『万個にのぼり』、これはまさに『日本最古の活字であり』、『重要文化財となっている』。『他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などがある』とある。公式サイト歴史も読まれたい。

「乃」「すなはち」。

「足利學校の本寺なり」こういう言い方は少なくとも現在の記載には認められない。上記圓光寺公式サイトによれば、『徳川家康は内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し』、『学校とし』、『圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず』、『入学を許した』とあるから、足利学校が本校で、こちらが分校というのなら、判る。一方、足利学校は寺ではなく、あくまで僧俗の学ぶ学校・文庫であり、歴代の庠主が概ね臨済僧であったことを考えれば、その庠主三要元佶が開山となった圓光寺は足利学校の「本寺」的存在であったとも言えるようには思う。

「佐嘉」「佐賀」。

「新刱」「しんさう(しんそう)」「刱」は「始める」の意。

「今に其侯の壇緣第一の寺院たり」先の引用に出た、現在の佐賀県小城市小城町池上にある三岳寺のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。

「加藤」加藤清正。

「黑田」黒田長政。

「銕」「てつ」。「鐡」に同じい。

「眷顧」「けんこ」。特別に目をかけること。贔屓(ひいき)。

「戮せたる」「あはせたる」。「戮」には「殺す」以外に「力を合わせる」の意がある。

「當年御勢の雄偉なること」当時の三要元佶の背後にあった家康のそれを指していよう。

「諂諛」「てんゆ」。諂(へつら)うこと。

2018/08/24

甲子夜話卷之五 11 神君御花押の事

 

5-11 神君御花押の事

昔の花押は、人々異體にして、いかにも五雲體の起本を失はざりしが、偃武の御世となりしより、下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり。因て世に其形を德川判と稱す。後水尾帝の御押二樣あり。内一つも正しく德川判なり。當時の主上まで御家の和風に傚ひ玉へば、その以下はさあるべきこと勿論。この一つにても風靡の大なるを見るべしと、林氏話。

■やぶちゃんの呟き

「五雲體」不詳。ウィキの「花押」にある、『江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を』五『種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの』五『分類を踏襲している』、その『分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』とするものを指すか。そのリンク先の説明によれば、「草名体(そうみょうたい)」は草書体に崩したもの、「二合体」は実名二字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化したもの、「一字体」は実名の一字のみを図案化したもの、「別用体」は文字ではない絵などを図案化したものを指し、最後の「明朝体」がまさにここに出た家康のそれで、上下に並行した横線を二本書き、その中間に図案を入れたものを指す。「明朝体」という呼称は明の太祖が、この形式の花押を用いたことに由来するとされ、家康が採用したことから、徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、「徳川判」とも呼ばれたとある。

「起本」基本。

「偃武」「えんぶ」とは、武器を伏せて使わないこと。戦争が熄(や)み、世の中が治まること。「書経」の「周書」の「武成篇」の中の語「王來自商、至于豐。乃偃武修文。」(王、商より來たり、豐に至る。乃(すなは)ち、武を偃(ふ)せて文を修(おさ)む。)に由来し、特に、慶長二十・元和(げんな)元(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」によって、江戸幕府が大坂城主羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、「応仁の乱」(東国にあってはそれ以前の「享徳の乱」)以来、実に百五十年近くに亙って断続的に続いてきた大規模な軍事衝突が終了し、江戸幕府は同年七月に元号を元和と改め、天下の平定が完了した事を内外に宣したことから、特に「元和偃武」と呼ばれた(以上はウィキの「元和偃武に拠った)。

「下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり」「昉れり」は「はじまれり」(「昉」は「夜が明ける」から「始める」の意)。サイト歴人マガジン個性あふれるデザイン】花押の歴史と武将たちが込めた意味が非常に良い。ぐだぐだ説明する必要がなく、一見にして開明!!!

「後水尾帝」在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年。彼の代を以って朝廷は江戸幕府の管理下に置かれた。

「林氏」林述斎。複数回既出既注。最初の「甲子夜話」初回へのリンクをし、もうこの注は示さない。

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