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カテゴリー「「甲子夜話」」の209件の記事

2019/08/05

甲子夜話卷之六 3 詩歌降たる事

 

6-3 詩歌降たる事

同上云。近時詩道降りて小巧を爭ふことになり、大雅の風は響を遏る計なり。然れども小巧ゆへ、よく言おゝせておもしろきこともあり。「隨園詩話」の中に見へし、人無キハ風趣官常、几琴書などは、前人の言ざる所を言て、世の中の事にいと切當なり。されど言たる迄にて餘味なし。唐の員半千が、冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己は、世態を言おおせて、又限りも無き餘情に咏歎を含めりと。

■やぶちゃんの呟き

「降たる」「くだりたる」。格調や品位が有意に下がってしまった。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「定家卿詠歌」を指すので、話者はまたしても、林述斎。

「小巧」「しやうこう(しょうこう)」小手先の修辞技巧。

「大雅」「たいが」。「詩経」の分類の一つ。三十一篇から成る。「詩経」の詩の六つの類型である六義(りくぎ:「詩経」の詩群をその属性・内容から分類した「風(ふう)」・「雅」・「頌」(しょう)に、表現法から分類した「賦」・「比」・「興(きょう)」を合わせた総称)の一つである「雅」を「小雅」(七十四篇)とともに構成する。周王朝の儀式・宴席などで歌われた詩で、周の歴史を主題とした叙事的内容のものもある。

「風」「ふう」。風流。雅(みやび)さ。但し、上記の「詩経」の六義の「風」(各地の民謡を集めた「国風(こくふう)」で百六十篇から成る)のそれも利かせた(「大雅」が宮廷の祝祭歌であるのに対し、こちらは土地に根ざした民衆の唄である)謂いであろう。

「響」「ひびき」。

「遏る」「とどめる」。「結滞してしまっている」或いは「絶えてしまっている」。

「計」「ばかり」。

「隨園詩話」清代の詩人袁枚の詩論。袁枚は前条の「定家卿詠歌」で既注。

「人無キハ風趣官常、几琴書」訓読すると、

 人 風趣無きは 官 常に貴(たふと)く

 几(き)に琴・書有る家は 必ず 貧し

である。但し、「隨園詩話」の巻十四には以下のように出る。

余有句云、「人無風趣官多貴。」。一時不得對。周靑原、對、「案有琴書家必貧。」。吳元禮、對、「花太嬌紅子必稀。」。

従って、これは最初の句が袁枚で、それに、袁枚の友人で工部侍郎であった周青原が対句して和したというのが正解である。なお、「案」(あん)は中国の台状の机や食盤のことで「几」とは同義的ではある。「案」は、一般に、長方形の板に、概して短い足が附いたものを指し、漆が施されているのが普通で、板上には菱形紋・雲気紋・動物紋などが描かれることがある。戦国時代の古墓から既に出土している。

「言ざる所を言て」「いはざるところをいひて」。

「切當」「せつたう(せっとう)」で、適切にして能(よ)く目的に適(かな)っていること。

「餘味」風雅な余韻。

「員半千」(六二一年~七一四年)は初唐末の官人で詩人。

「冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己」訓読すると、

 冠冕(くわんべん)醜(はづかしむ)ること無き士も 賄賂(わいろ) 知己を成す

で、「冠冕」は「冕冠(べんかん)」で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した冠(かんむり)。冠の上に冕板(べんばん)と呼ばれる長方形の木製の板状の物を乗せ、冕板前後の端には旒(りゅう)と称する玉飾りを複数垂らしたもの。旒の数は身分により異なる。全体の意味は恐らく、「高官たることを汚して恥をかくことがない士大夫(階級)の高潔に見える立派な人物であっても、賄賂とは必ず仲が良いものだ」との謂いであろう。これは員半千の五言排律(推定)「隴右途中遭非語」の一節。中文サイト「中華詩詞網」のこちらで全篇が読める。

「言おおせて」ママ。歴史的仮名遣では「言(いひ)おほせて」でなくてはおかしい。漢字では「果せる」「遂せる」と書く。

「咏歎」「詠嘆」に同じい。

 

2019/07/23

甲子夜話卷之六 2 定家卿詠歌

 

6-2 定家卿詠歌

同上云。定家卿を世に歌人とのみ思へり。歌は其苴餘にて、志のありし人とこそ思はるれ。

 苔の下に埋れぬ名を殘すとも

      はかなの事や敷嶋の道

これを以て其懷抱おしはかるべきなり。杜少陵の、名豈文章サンヤ、官老病と云も、詩人の詩には非ず。近時袁倉山が、每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章など作りしも、亦其流亞なり。

■やぶちゃんの呟き[やぶちゃん注:2019年7月26日全改稿。]

なお、袁枚の詩の「唯」の「〻」は、底本では踊り字「〱」であるが、私の判断で「〻」に代えた。近代以前の踊り字は通用の統一的規則はないから、これは静山の好みのそれであったと判断する。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「林子、古歌を辨ず」を指すので、話者は林述斎。

「苴餘」「しよよ(しょよ)」。見かけない熟語である。「苴」は当初、最悪の卑意である「塵・芥」かとも思ったが、それでは一世の歌人の彼にして自らかく比喩するのは、余りに哀しい。「詠草」と言うように、歌に草を掛けて「苴」の原義である「下草」の意で採るならば、謙遜としての「もて遊びの、詠み捨ての、価値のない、下萌えの雑草」、「余りものの、どうということのない戯れ、一抹の余技」というような意味ではないかと思われる(そう採っておく)。

「志のありし人とこそ思はるれ」ウィキの「藤原定家」の「政治家として」の項によれば、『定家は藤原道長の来孫(』五『代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった』。『定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受ける』『など』、『波乱に満ち』ており、『長年』、『近衛中将を務めながら頭中将にはなれず』、五十一『歳の時に』、『漸く公卿に達したが』、『それさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや』、『政務の中心に参画することを希望していたことは』、「明月記」などから『窺い知ることは可能である。そして』寛喜四(一二三二)年一月、『定家は二条定高の後任として』、七十一『歳にして念願の権中納言に就任する。当該期間の』「明月記」の記述は、『ほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって』、『定家がたびたび』、『上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。だが、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく』、『同年の』一二月十五日には『「罷官」(更迭)の形』『で権中納言を去ることになっ』でしまっている。『こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる』(「明月記」安貞元年九月二十七日の条)『藤原実資のよう』な『政治的な要職に就くことは』遂に『適わなかった』。『また』、二『代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元』(一二二五)年七月には、『同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の』十二『月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年』一『月に父が自分の妻を追い出し』、『権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している』。『その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず』、「次将装束抄」や「釋奠次第」など、『公事や有職故実の書を著した背景には』、『自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている』とあるのは、静山の意味深長な謂いが、決していい加減な憶測ではないことを物語っているように読める。

「苔の下に埋れぬ名を殘すともはかなの事や敷嶋の道」「拾遺愚草」の一五八三番(冷泉為臣編「藤原定家全歌集」一九七四年国書刊行会刊の番号)に、

 苔のしたにうつまぬ名をはのこすとも

    はかなのみちやしきしまの哥

とある。

「杜少陵」詩聖杜甫(七一二年~七七〇年:享年五十九)の号。

「名豈文章サンヤ、官老病」杜甫の五言律詩「旅夜書懷」(旅夜、懷(くわい)を書す)の頸聯。所持する岩波文庫版「杜詩」(第五冊所収)によれば、七六五年(数え五十四)の秋、忠州より長江を下った旅中の作とする。杜甫は先立つ七五八年に、宰相の房琯(ぼうかん)を弁護したことで粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市。洛陽の西二百七十キロメートル)司功参軍に左遷され、同年末に洛陽に一時戻るが、翌年、洛陽を中心とした関中一帯が飢饉に見舞われたことから、遂に官を捨て、食を求めて秦州(甘粛省天水市)を経て同谷(甘粛省隴南市成(せい)県)に移るが、餓えますます甚だしく、橡栗(ドングリ)や黄独(山芋の一種)などを食って凌いだ。翌七六〇年、蜀の桟道を越えて成都に赴き、杜甫草堂を建てる。七六四年、厳武の推薦によって節度参謀・検校工部員外郎となったが、心楽しまず、暇を願い出て草堂へ帰った。翌年であるこの七六五年一月には職を辞し、五月には草堂を離れ、雲安へと至ったが、病いのためにそこに留まった。その後も各地を遍歴、七七〇年、飢えた一族郎党を連れ、襄陽・洛陽を経、長安に帰らんとしたが、湘江の舟中で客死した。岩波の「杜詩」の詩形で示す。

   *

   旅夜書懷

 細草微風岸

 危檣獨夜舟

 星垂平野闊

 月湧大江流

 名豈文章著

 官應老病休

 飄飄何所似

 天地一沙鷗

   旅夜に懷ひを書す

  細草 微風の岸

  危檣(きしやう) 獨夜の舟

  星 垂れて 平野 闊(ひろ)く

  月 湧きて 大江 流る

  名は 豈に文章に著(あらは)れんや

  官は 應(まさ)に老病に休(きふ)すべし

  飄飄(ひやうひやう) 何の似たる所ぞ

  天地 一沙鷗(いつさおう)

   *

静山の「名豈文章サンヤ、官老病」ならば、

名は 豈に文章に著さんや

官は 因りて老病に休す

と訓読しており、その意は(岩波「杜詩」を一部参考にした)、

私のような者がどうして詩文によって名声を得られようか。〈反語〉

私のような老病人は官職を退いて休むのが身分相応というものだ。

「云も」「いふも」。

「詩人の詩には非ず」「この謂いは、ただの文人趣味の御目出度い詩人、似非詩人の詩句、感懐表出ではない」という意であろう。中国文学は古代から一貫して「仕官の文学」であり続けた。そこでインキ臭い「載道」(道に載っとる)と交互に波形を描いた一方の思想的潮流は、また「言志」(志しを言ふ)でもあった。道家的で自由自在に見える李白や李賀の生涯を見ても、「仕官としての文学」がその出発点であることは明白な事実であり、その志しの大半の挫折が遊仙的思想へと赴いて行ったのであったのを考えれば、ここで静山が言っている意味も腑に落ちる。

「袁倉山」清代の文学者で、「随園食単」で食通として知られる袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年)の別号。浙江省銭塘の人。貧乏士族の出身であったが、一七三九年、進士に及第し、江蘇省の諸県の知事を歴任して治績を挙げた蛾、一七五五年、三十八歳の時、父の喪に遇って官を辞し、江寧の小倉山(しょうそう)に屋敷を手に入れ、「随園」と名づけた。以後、豪奢な生活を送りつつ、在野の詩人として活躍した。詩は真情の発露を重んじる性霊説(せいれいせつ:個性を尊重し、人の性は自由に流露するときにこそ霊妙な働きを持つとするもの。清新軽俊を詩風として掲げ、袁枚の在野の立場が反映し、広範な階層の間に行われた)を唱えて、格律を重んじる古文辞派の流れを継ぐ宮廷派(格調派)の沈徳潜(しんとくせん)と詩壇を二分した。文は古文・駢文(べんぶん)ともに優れた。人生半ばにして早々と官職を離れた彼ではあったが、静山は彼もまた、詩文というものの本質〈士大夫の詩〉を持ち続けた人物であったと静山は言っているようである。

「每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章」は、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 唯(た)だ竹帛

名を立つるは 最も小なり 是れ 文章たり

静山の「〱」は「ただ」の「た」のただの繰り返しを示す踊り字と採った。いつも情報を戴くT氏の御指摘によって、「隨園詩話」の「巻一四」に以下のように出ることが判った(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらに基づく(一部加工)。見出し№「134」条)。

   *

餘幼「詠懷」云、「每飯不忘惟竹帛、立名最小是文章。」。先師嘉其有志。中年見查他山贈田間先生云、「語雜詼諧皆典故、老傳著述豈初心。」。近見趙雲松「和錢嶼沙先生」云、「前程雲海雙蓬鬢、末路英雄一卷書。」。皆同此意。

   *

これを少なくとも静山は、「餘」=余(袁枚)が幼き時に詠んだ「詠懷」という詩の一節との謂いで採っている。「餘幼」を詩人の名とも取れるが、よく判らぬ。「竹帛」(ちくはく)は「歴史に名を残すこと」を意味する。中国では紙の発明以前、竹簡や布帛に文字を記し、書(特に史書)を記したことに拠る。なお、T氏は上記の「隨園詩話」のそれが「唯」ではなく「惟」であることに着目され、静山は「唯」と記したものの、この字でよいかどうか疑問であったために、「〱」を圏点として附し、後で確認するつもりだったのではないかという推理をされておられる。また、「惟」ならば「ただ」ではなく、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 惟(こ)れ 竹帛

で強調限定となり、その方が腑には落ちる。

「流亞なり」『杜甫のその〈仕官の文学〉〈士大夫の心意気を忘れない詩人〉としての流れを「亞」(つ)ぐものである(無論、定家もまた)』の謂いか。

◆やぶちゃんの追記

 私は当初、全体の解釈の内、杜甫と袁枚を静山が貶めた存在として批判したというトンデモない解釈をしていた。T氏の情報とその解釈への疑問の指摘を受けて、以上を全面的に書き改めた。これは恐らく、私が激しい短歌嫌いであり、これまた、特に、現実の凄惨な俗社会と超越して乖離していることを当然の立場としていた藤原定家を激しい嫌悪対象としていることに始まった曲解であったことは明白である。T氏に心より感謝申し上げるものである。

2019/06/14

甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず

 

甲子夜話六

 

6-1 林子、古歌を辨ず

林氏云。「碧玉集」二、

 くだる世に生れあふ身は昔とて

      しのばむほどの心だになし

今其時を去る事又數百年なれば、昔を忍ぶ人の稀なるも怪しむべからず。近き世の一節あることさへ、今は語り合ふ友も少ければ、見るにつけ聞につけつつ語り候半。間中の慰寂に、筆まめに書とり玉へ。左あらば昔忍の草、此春雨におひひろごり申べし迚、ひたものひたもの慫慂なれば、又此册を書はじめけり。

■やぶちゃんの呟き

 最後は本巻の巻頭言となっている。

「林子」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「碧玉集」「碧玉和歌集」。室町後期から戦国期の下冷泉家の公卿で歌人の冷泉政為文安三(一四四六)年~大永(たいえい)三(一五二三)年)の家集。父持為は下冷泉家の祖。正二位・権大納言。後柏原天皇時代の歌壇で活躍し、本家集は後柏原天皇の「柏玉集」、三条西実隆の「雪玉集」とともに「三玉集」と称され、重んじられた。初名は成為であったが、足利義政より「政」の字を偏諱(へんき)を受けた。所持しないので歌の校合は出来ない。

「候半」「さふらはん」。

「間中」「かんちゆう」か。一般的ではないが人の命の「僅かの間」の意味か。

「慰寂」底本で編者は二字に『なぐさみ』と振る。

「ひたもの」副詞。ひたすら。やたらと。

甲子夜話卷之五 36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事 /甲子夜話卷之五~完遂

 

5-36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事

予久しく憶ふに、古へは歌はうたふことにて有けるを、今は哥はよみ出たる計にて、うたふことなし。流俗のうたふものは、別に其詞ありて殊にいやしければ、花前月下など哥よまんとき、其詞を弦詠せん迚、其頃名ありし山田檢校【豐一】に謀れば、山田乃予が爲に、三十一文字の歌章の筝曲を作りぬ。其後、家老長村内藏助が歸邑しけるにも、又同姓伊勢守が堺の奉行となり、其地に赴しときも、予餞別の歌をよみて、其祖筵にて侍妾に弦詠せしめければ、伊勢も長村も殊更に感悅して入興しける。長村を餞せしとき、

 鶯の谷より出て峰たかき

      霞にうつる春の初こゑ

伊勢を餞せしとき、

 住の江の松と久しきやがてまた

      岸による波かへりこん日も

然るにいつか世の中にても、風雅を好めるものは此筝曲を用るとぞ。林氏このことを面白き思立なりとて、度々激賞して、後には其本を知らぬやうにもなれば、記し置けと勸るまゝ玆にしるす。

■やぶちゃんの呟き

「山田檢校【豐一】」「豐一」は「とよいち」。宝暦七(一七五七)年生まれで、文化一四(一八一七)一四(一八一七)年没。江戸中期の音楽家で山田流箏曲の始祖。都名(いちな:もとは琵琶法師などがつけた名。名前の最後に「一」「市」「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする平曲の流派は一名をつけたので、「一方(いちかた)流」と呼ばれた。後には広く一般の盲人も用いた)は斗養一(とよいち)。号は勝善、幽樵など。尾張藩宝生流能楽師といわれる三田了任の子。幼時に失明。第二十八代惣録(江戸時代に検校・勾当の上にあって盲人を統轄した官職)長谷富(はせとみ)検校門下の山田松黒(しょうこく)に師事し、寛政九(一七九七)年一月、寺家村(じけむら)検校を師として検校に登官。寛政~享和年間(一七八九年~一八〇四年)にその作風が円熟し、その一門は、それまでの江戸の生田流を圧倒する勢力となった。文化一四(一八一七)年二月、第六十八代惣録に就任したが、その二ヶ月後に没した。河東節(かとうぶし:浄瑠璃の流派の一つで、享保二(一七一七)年に江戸半太夫の門から分かれた十寸見河東(ますみかとう)が創始したもの。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている)をはじめ、その頃、江戸で行われていた各種の三味線音楽に通じ、彼の作品は、三味線音楽を箏曲化した新しい種目の音楽と評価される。門下から多数の派が生れた。主作品は「初音曲」「葵の上」「長恨歌」「小督曲(こごうのきょく)」「熊野(ゆや)」(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。静山より三つ年上。

「乃」「すなはち」。

「家老長村内藏助」(明和四(一七六七)年~文政三(一八二〇)年)は肥前平戸藩藩士で家老。京都の儒者皆川淇園(きえん)に学び、後に江戸に出て、佐藤一斎と交わった。帰藩後、藩校維新館学頭などを務め、家老となった。名は鑒(てらす)、通称、内蔵介。著作に「乙丑西帰記」「蒙古寇紀」などがある学者でもあった。

「歸邑」「きいふ(きゆう)」。帰藩。

「同姓伊勢守」松浦忠(まつらただし)であろう。文化一〇(一八一三)年から文化一二(一八一五)年まで堺奉行を務めている。

「祖筵」「そえん」。旅に出る人を送る送別(餞別)の宴席。この「祖」は道祖神のことで「筵」は席(場所)で、旅に際してそれを祀ることが語源であろう。漢語。

「住の江」大阪市住吉  の古称で歌枕。松浦の堺奉行出向に洒落たもの。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

甲子夜話卷之五 35 小宮山木工進の事

 

5-35 小宮山木工進の事

享保中、御代官にて名高かりし小宮山木工進【昌世】は、元御廣敷の賤吏より拔擢せられ、幹事の才は衆にすぐれたるものなりしとなり。小金原御狩のとき、百姓勢子のはたらき方、思召の如くならず。樣々御指麾を傳ふれども、兎角におもはしからざりしとき、木工進召せとの仰にて御前に出ければ、しかしかと御指授ありける。畏り候迚、その儘乘返して下知すれば、有合數多の百姓どもを、手足を使ふ如く自由に引廻しけるとなん。又鴻臺へ成せ玉ひしとき、數日前より北條、里見などの事ある書を檢點して、其地理古戰の次第を硏究しぬ。御遊覽の日に至り、果して此地の事心得る者や有と問せ玉へば、昌世御案内申ながら、來歷戰場の樣子など、詳明に言上せしかば、深くめでさせ玉ひしとなり。又一日御郊遊のとき、昌世路傍に蹲踞して拜し奉る。今年は作毛いかゞあらんと御尋ありければ、昌世謹で豐稔に候とぞ答奉りける。翌日老臣進謁のとき、今年諸國不登と聞しが、昨木工進に問せ玉へば、豐熟なりと云。兼て聞しめす所とは違へり。いづれか實なるべきとの仰なり。老臣退て司農官を呼び、木工進を詰問せしむ。木工進申けるは、今年の凶荒は衆の知る所なり。上より實に豐凶を問玉はんには、上に執政あり、下に奉行あり。各其順次を以て某に問玉ふべし。その時は實を以て答申さん。昨の御遊、殊に御機嫌もうるはしく、御興がてら御言葉を玉はりしことと存候へば、臣も亦御興を添奉らんと思ひて、答奉りき。もし凶荒と申さば、御遊興の中、俄に御憂念をも生じ奉らんやと、斟酌して申上つるまでなりと申けり。其次第、老臣より言上せしかば、いと御機嫌なりしとなん。又月光大夫人、飛鳥山へ遊ばせ玉ひしが、道より驟雨降出しければ、先金輪寺に雨を避させ玉ひしに、程なく雨は止たれど、木履無くては、山上の芝地露滋く、いかゞあらんとありしに、陪從數百の女中の履、俄に辨ずべきにあらず。とやかくと人々申合うち、折節金輪寺修繕のことありて、匠作局より運置し杉の貫板あまた有しを、いつか木工進かりの木履に作り出して、立所に辨ぜり。大夫人の遊山、陪從の輩少しもさゝはらざりしとなん。其機智敏捷なる、皆此類なりしと。

■やぶちゃんの呟き

「小宮山木工進」「こみやまもくのしん」と読む。平凡社「世界大百科事典」によれば、江戸中期の代官。生没年不詳。初め「源三郎」、後に「木工進・杢進・杢之進」と称した。字は君延、号は謙亭。辻弥五左衛門守誠(もりのぶ)の四男として生まれ、小宮山友右衛門昌言(まさとき)の養子となった。太宰春台に古学を学び、享保六(一七二一)年閏七月に幕府代官となっ。下総佐倉・小金牧の開墾などに当たり、褒賞されたこともあるが、晩年は不遇であった。「地方凡例録(じかたはんれいろく)」には、辻六郎左衛門守参(もりみつ)とともに「地方の聖」としてあげられている、とある。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「御廣敷」「おひろしき」。江戸城本丸と西の丸の大奥の側に設けられていた大奥勤務の役人の詰所。広敷用人以下の役人が詰め、大奥の総ての事務を司った。

「小金原」現在の千葉県松戸市小金原(こがねはら)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御狩」第八代将軍吉宗のそれ。

「御指麾」「ごしき」。「指麾」は「指揮」に同じ。「麾」も「揮」ももとは軍勢の指揮を執る旗の意。

「有合數多の」「ありあふあまたの」。

「鴻臺」「こうのだい」。旧下総国の国府が置かれた、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「北條、里見」後北条氏と安房里見氏。両者は二次に亙る「国府台合戦」(天文七(一五三八)年、及び、永禄六(一五六三)年と翌年にかけての第二次合戦に大別される)の両雄。詳しくはウィキの「国府台合戦」を見られたい。

「作毛」稲の出来。

「不登」吉宗の問いであるので「ふとう」と音読みしておくが、訓じて「みのらず」とも読める。

「某」「それがし」。

「月光大夫人」第六代将軍徳川家宣の側室で、第七代将軍徳川家継の生母であった月光院(貞享二(一六八五)年~宝暦二(一七五二)年)本名は勝田輝子。家宣が死去して後、月光院と呼ばれた。父は元加賀藩士で浅草唯念寺住職勝田玄哲。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある区立公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都内の桜の名所の一つ。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。また、『「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(』二十五・七『メートル)よりも低い山ではないかとして』、二〇〇六年に『測量を行い、実際に愛宕山よりも低い』二十五・四『メートルであることを確認したとして』、『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが』、『採択されなかった』ともある。

「先」「まづ」。

「金輪寺」「きんりんじ」。飛鳥山北西直近の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。歴代江戸幕府将軍の御膳所を務めた格式ある寺院。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「辨ず」適切に素早く処理する。

「匠作局」「しやうさくのつぼね」。「匠作」は旧修理職(しゅりしき)、木工(もく)寮の唐名。

「運置し」「はこびおきし」。

「貫板」「ぬきいた」貫(ぬき:柱と柱との間を横に貫いて繫ぐ材木)に用いる板材。

2019/06/13

甲子夜話卷之五 34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

5-34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

憲廟御世、國用匱乏に及べる頃、蘭人の、銅に毒藥を塗り、幾度も燒返せば金に變ずると云奇方を識るもの渡來せり。勘定頭の荻原近江守など、荐りに此事を建言せしに、憲廟肯じ玉はず。金は煎して病藥に用ることあるものなり。誤りて毒製の金を用ゆるものあらば、人命に係るべきことなりとて、遂にその事を停めて、行はしめ玉はざりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「常憲廟」五代将軍徳川綱吉。

「匱乏」「きぼふ(きぼう)」。物資が不足していること。「匱」は「尽きる」の意。

「荻原近江守」荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)は旗本で、勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる。

「荐りに」「しきりに」。

甲子夜話卷之五 33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

 

5-33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

人魂、蟾蜍の說、前に云へり。又先年の事を思出せしは、鳥越の邸にて、群兒薄暮に乘じ、竿を以て蝙蝠の飛を撲つ。其時靑色なる光のもの、尾を曳きて飛來る。兒、皆、人魂なりと云て、相集て竿を以て打落す。靑光地に墮て猶光り有り。兒、足を以て踏で、而其ものを視に、豆腐の滓の如きものなりしと。是は何物のしかあるや。果して世に言ふ人魂か。

■やぶちゃんの呟き

「鳥越」平戸藩松浦家上屋敷(六義園・小石川後楽園などと並んで、江戸時代に造営された代表的な大名庭園の一つと謳われ、明治から大正にかけて多くの人々から親しまれた「蓬莱園」はその跡地であった)であろう。現在の東京都台東区鳥越の南直近の東京都台東区浅草橋の柳北公園の西北角に平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑があると、サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」のこちらにある。

「人魂、蟾蜍の說、前に云へり」「蟾蜍」は「ひきがへる」。「5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事」を指す。

「蝙蝠」「かはほり」。コウモリ。

「飛を撲つ」「とぶをうつ」。

「相集て」「あひつどひて」。

「靑光」「あをびかり」。

「視に」「みるに」。

「滓」「かす」。何らかの発光物質をコウモリが附着させて飛翔していたようである。これだけでは、それが自然物か人造物かは不詳。コウモリは雑食性であるから、ホタル(江戸であるから、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル科ヘイケボタル Luciola lateralis としておく)などを捕食し、その発行物質が附いたものか。ロケーションから見ると、同じルシフェリン(luciferin)-ルシフェラーゼ(luciferase)反応で発光するウミホタル(甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii)やヤコウチュウ(渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans)由来(海中の生物死骸等をコウモリが摂餌した際に附着した可能性を私は考えている)かも知れない。何らかの発光バクテリアやそれを共生させる発光植物類等も考え得るが、当時の江戸市中でそれらがコウモリに附着するほど有意に繁殖している場所を私は想起し得ない。

甲子夜話卷之五 32 長卷の事

5-32 長卷の事

眞田豐後守【幸善】語りしは、「大業廣記」の中に、小田原攻のとき、神君の御馬先に、長卷(ナガマキ)二百人とか三百人とかあり。其物は柄は三尺ばかり、刃は二尺ばかりのものと云ふ。今尾侯の家中、塚松彥之進と稱する人、この技の師範す。尾州居住と云。此兵器の用法は廣く傳へたきものなり。

■やぶちゃんの呟き

「長卷」「長巻の太刀」の略とされる。太刀の柄を一メートル余りの長さとしたもので、長大な野太刀の発生と同じく、斬撃戦用の武器として案出されたもの。江戸期に至って混同されたように、柄長で、石突(いしづき)をつけて、長刀(なぎなた)に類似したもので、また、長刀の形状発展にも影響したが、本来は太刀がその原形であるので、鞘はないものの、鐔を附け、長い柄には、一部分に組糸や革で巻き締めた柄巻(つかまき)も施される。「結城合戦絵詞」や、永正四(一五〇七)年成立の「細川澄元出陣影」に既に描かれることから、室町中期には盛行していたものと推定される(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「長巻」をリンクさせておく。

「眞田豐後守【幸善】」江戸後期の大名で、老中・信濃松代藩第八代藩主の真田幸貫(ゆきつら 寛政三(一七九一)年~嘉永五(一八五二)年)の初名。ウィキの「真田幸貫」によれば、『徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている』とある。静山より三十一歳下。

「大業廣記」樋口栄芳(人物不詳)著「国朝大業広記」(こくちようたいぎようこうき)。徳川氏の来由、および天文一一(一五四二)年の家康の誕生から、元和二(一六一六)年の死没(没後の諸供養等の記事含む)までの、家康の事跡を中心とした編年体史書。明和元(一七六四)年自跋。

「小田原攻」「攻」は「ぜめ」。天正一八(一五九〇)年二月から七月の豊臣秀吉が家康軍を主力部隊として後北条を攻めた小田原征伐。

「尾侯」徳川御三家中筆頭格の尾張侯。尾張徳川家。

「塚松彥之進」不詳。

甲子夜話卷之五 31 暹羅國の古書翰

 

5-31 暹羅國の古書翰

[やぶちゃん注:「暹羅國」は「しやむろこく(しゃむろこく)」でタイ王国の古名(一九三九年までの正式国名)。以下は特別にまず返り点と送り仮名(カタカナ)を除去し句読点のみ残したものを示し、後に訓点に従って訓読したものを附す。その場合、漢文訓読に従った最低限の送り仮名を附した。また、どうしても読みに不都合が生ずる部分には、今回のみ、特異的に〔 〕で送り仮名や句読点を推定で補った。なお、底本では「明公」「日本國」「國王」「貴國」「王」などに於いて知られた礼法書式としての「平出」(へいしゅつ/びょうしゅつ:改行して行頭出しにすること)や闕字(けつじ:当該尊敬対象の単語の前を一字(時に二字)分空けること)らしきものが行われており、それらが二行に亙る場合は、一字下げを採っているが、ブラウザでの不具合を考え、字下げは無視した。訓読では繋げて機械的に句点部で改行した。書翰冒頭の一字下げのみ再現した。]

或人暹羅國の古書翰を示す。珍しければ茲に載。

 

 暹羅國臣握浮哪詩握科喇語末耶屢匕提匹喇那納興沙動勑釐、謹致書于

日本國臣酒井雅樂頭臺下。   恭惟、

明公紀綱明肅、綜理調停、雄鎭一方、藩屛金湯鞏固、撫綏萬姓、閻閭歌頌歡騰。偉政素著、芳聲邁聞、我

國王深嘉焉。茲奉我

國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶令旨。謂人共一天、國分兩地。海外諸邦、惟惟我國與

日本國、稱爲上最。自古以海道舟楫未通之時、傳聞

貴國威望名重。今則遐邇輳集、舟車所至、稔知

貴國地雄人傑。信諸邦視若天淵之異。今幸

天與良緣、同結和好。喜溢望外。第爲滄溟參商、不能親炙耿光以快素願。雖商舟絡繹、曾未得

王音頻教、盛使特臨、使知國土昇平、

起居殊勝。亦籍令諸邦咸羨我兩國厚愛之雅聲、名何其重耶。歳癸亥特遣使進短札菲儀、問候致敬。使囘拜喜

華翰厚貺。雖知

貴國政平俗美、永盟通和之意、止據本价之口說。故未得其眞。於心似有歉然爾。玆荷

貴國王餘波、國治民安、五穀登盛。惟柬埔寨逆醜尚未順服。必欲整師征討、歸向而後已。謹顓坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅齎書。敢仗將此情由、轉啓

貴國王、詳知其意、視同一國、相期和好、與天地日月並久。更祈彼此使者、歲々無間、凡有所欲、惟命是聽。商舶所至、悉聽兩平交易、不致濡滯、依汛通歸。均祈一體是幸。外有鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐發舟。商販已經三載未囘。不知何望、鼎力維持遣歸。均感無涯、我

國王最喜貴地所產良驥。前年差人求買。未得其超絕者。煩爲留心搜求奇駿、許來役購買。務在必得以副我

國王素望之意。

明公輔佐忠誠。維持兩國、同于一家、功莫大焉、來役望賜囘音、依汛道歸。統惟

炤亮、不宣。

Kanboijiakokusi

   奉將

 敬意。筦留幸甚。

 

○やぶちゃんの書き下し文

暹羅國臣の握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐、謹〔み〕て〔、〕日本國の臣酒井雅樂頭台下に書を致す。

恭しく惟〔ふ〕れば、明公紀綱明肅、綜理調停、一方に雄鎭し、藩屛金湯鞏固、萬姓を撫綏し、閻閭歌頌歡騰す。

偉政素と著はれ、芳聲遙に聞ふ、我〔が〕國王深く嘉す。

茲に我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶の令旨を奉す。

謂ふ〔、〕人〔、〕一天を共にし、國〔、〕兩地を分つ。

海外の諸邦、惟惟〔、〕我國と日本國と、稱して上最と爲す。

古〔へ〕より海道舟楫〔、〕未だ通ぜざるの時を以〔て〕すら、貴國の威望〔、〕名重きことを傳聞す。

今は則〔ち、〕遐邇輳集し、舟車の至る所、貴國の地〔、〕雄に〔、〕人〔、〕傑なるを稔知す。

信に諸邦に視ふれば〔、〕天淵の異なるがごとし。

今〔、〕幸に〔、〕天〔、〕良緣を與へ、同じく和好を結〔ぶ〕。

喜望〔、〕外に溢る。

第第〔、〕滄溟參商なるが爲に、耿光に親炙して以〔て〕素願を快すること能はず。

商舟〔、〕絡繹すと雖〔も〕、曾て未だ王音〔、〕頻〔り〕に教へ、盛使〔、〕特に臨み、使〔ひす〕ることを得ず〔。〕

國土昇平、起居〔、〕殊に勝れるを知〔る〕。

亦〔、〕籍に諸邦をして咸〔、〕我〔が〕兩國厚愛の雅聲を羨〔ま〕しむるは、名〔、〕何ぞ其れ重きや。

歳の癸亥〔、〕特に使を遣して〔、〕短札菲儀を進め、問候〔、〕敬を致す。

使〔、〕囘る、華翰厚貺を拜喜す。

貴國〔、〕政〔、〕平〔らか〕に、俗〔、〕美に、永く通和の意を盟ふを知ると雖〔も〕、止止〔、〕本价の口說に據〔る〕。

故に未だ其〔の〕眞を得ず。

心に於て歉然たること有るに似たるのみ。

玆に貴國王の餘波を荷ひ、國〔、〕治〔ま〕り、民〔、〕安く、五穀登盛なり。

惟惟〔、〕柬埔寨の逆醜〔、〕尚〔、〕未だ順服せず。

必〔ず〕師を整〔へ〕て征討し、歸向して後〔、〕已〔め〕んと欲す。

謹〔み〕て坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅を顓〔く〕して〔、〕書を齎す。

敢〔へ〕て仗る〔、〕此の情由を將〔つ〕て、貴國王に轉啓して、詳〔か〕に其意を知らしめ、視ること〔、〕一國に同〔じ〕、和好を相〔ひ〕期し、天地日月と並びに久しからんことを。

更に祈る〔、〕彼此の使者、歲々〔、〕間無〔く〕、凡そ欲する所有らば、惟惟〔、〕命〔、〕是〔れ、〕聽〔か〕ん。

商舶の至〔る〕所、悉く〔、〕兩平〔、〕交易することを聽し、濡滯を致さず、汛に依〔り〕て通歸せよ。

均しく祈る〔、〕一體に是〔れ、〕幸。

外に鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐が發舟〔、〕有〔り〕。

商販〔、〕已に三載を經て〔、〕未だ囘〔らず〕。

知らず〔、〕何〔をか〕望〔み〕、鼎力〔、〕維持して遣歸〔するかを〕。

均しく無涯に感ず、我〔が〕國王〔、〕最〔も〕喜ぶ〔、〕貴地〔、〕產する所の良驥。

前年〔、〕人を差〔は〕して求〔め〕買ふ。

未だ其〔の〕超絕なる者を得ず。

煩しく〔、〕爲に心を留〔め〕て奇駿を搜求し、來役に購買ふことを許せ。

務〔め〕て必〔ず〕得て以〔て〕我〔が〕國王〔の〕素望の意に副ふに在〔り〕。

明公輔佐忠誠〔たり〕。

兩國を維持して、一家に同ぜば、功〔、〕焉より大なるは莫〔く〕、來役に望む囘音を賜〔り〕て、汛〔に〕依〔り〕て遣歸せよ。

統〔て〕惟〔ふ〕るに〔、〕炤亮せよ、不宣。

[やぶちゃん注:以下、添えた原典の画像の文字列を電子化する。なお、二ヶ所に打たれた大きな丸印は意味不明。本邦の花押みたような、シャムの公文書の印なのか? 識者の御教授を乞う。

 

 歳丙寅孟夏望日  謹書

   謹具

     花幔帕肆端

 

     白絞沙肆端

 

   敬意を奉將す。筦留〔、〕幸〔、〕甚し。

 

書の始に酒井雅樂頭とあるは、按るに忠世と云し人なり。初名は萬千代。寬永譜に據に、元和三年父重忠卒するにより、仰を蒙て遺跡三萬三千石を領し、厩橋の城を賜ふ。擧用らるゝこと日々に進んで、政務を與り聞く。公家武家の事を沙汰し、異國他邦のことを相謀る【下略】。寬永十三年卒す。年六十四。然れば翰末に歲丙寅と云ものは、吾寬永三年にして、猷廟御代嗣の後四年に當る。台廟いまだ御在世の時の事なり。

■やぶちゃんの呟き

 総ての語をテツテ的に読解してここにそれを記す力は私にはないし、そのつもりも、さらさら、ない。そもそも「甲子夜話」の電子化コンセプトは「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」なのでここでは特異的に気分次第なのである。しかし、それでも知らんぷりの知ったかぶりは嫌だから、相応の記載はしたつもりではある。まあ、しかし、この奇体なシャム国使節の漢訳された奉書の本文とそのケッタイな訓読の電子化とだけでも、やった意味は「ある」と私は勝手に納得している。恐らくは誰かがその内に私の杜撰なこれを見つけては正確な注解をものして呉れることであろう。それまで私が生きて居られるかは判らぬが、それを楽しみにしている。

「臺下」「だいか」。手紙の脇付の一つ。相手に対する敬意を表わす。

「握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐」長いけれど、これがそのシャム国の使節団団長の名前(官職や称号も含んだそれ)なのであろう。音で取り敢えず読んでおくと(歴史的仮名遣)、「アクフ(/ブ)ダシアクカラゴヒバツヤルシチダイ(/テイ)ヒツラナナウコウシヤドウライ(/チヤク)リ」辺りか。

「酒井雅樂頭」静山が後で記している通り、戦国から江戸前期の大名で老中・大老を務めた、上野那波藩主・伊勢崎藩主・厩橋藩(上野国群馬郡厩橋。現在の群馬県前橋市)藩主、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家第二代の酒井忠世(ただよ 元亀三(一五七二)年~寛永一三(一六三六)年)である。ウィキの「酒井忠世」によれば、『後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている』。『酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正』一六(一五八八)年に『後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉』し、天正十八年一月には『家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると』、『父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では六月の「会津征伐」、七月の第二次「上田合戦」に従った。慶長一〇(一六〇五)年に『将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり』、慶長十二年七月には『駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務め』ている。元和三(一六一七)年七月、『父重忠が死去して遺領の厩橋』三万三千石を『継ぎ、それまでの領地と併せて』八万五千石となった。元和九(一六二三)年、『秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わ』った。寛永九(一六三二)年五月には『松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移』ったが、その七『月に家光が増上寺へ詣でた際』、『中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが』、寛永一一(一六三四)年六月、『家光が』三十『万の大軍を率いて上洛した際』、翌七『月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり』、同年十二月には『登城が許され』、翌十二年二月に家光が『忠世を面謁』し、五月に『西の丸番に復職』したものの、『老中職からは退けられた』。寛永一三(一六三六)年三月に『大老に任じられたが、まもなく』六十五『歳で没』したとある。静山の示す通り、このシャム国使節団来訪は「寬永三年」「丙寅」(一六二六)年のことで、当時、彼は第三代将軍家光の老中の一人であった。なお、この当時、シャムには山田長政(天正一八(一五九〇)年頃?~ 寛永七(一六三〇)年)がおり、大佐級の軍人になっていたから、この使節団の背後には彼の長政の意図が働いているものとも思われる

「惟〔ふ〕れば」「かんがふれば」(考ふれば)と仮に読んだ。

「明公」高位者への尊称。底本では平出されている上に実は一字下げとなっている。これは最初なので平出と闕字を合わせたものと見ておく。なお、この当時の天皇は後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年三月~寛永六(一六二九)年十一月)である。無論、これは形式上で、その「王」の「配下」の事実上の支配者である家光をも暗に示唆する。

「紀綱明肅」で一語で、本邦の政(まつりごと)が道義的に正しく「綱」「紀」「肅」(粛)正(=「明」)されていることを示すものであろう。

「綜理」「総理」に同じで、全体を統合監督して管理処理すること。

「雄鎭」「ゆうちん」。一国を治めるに相応しい雄大なる勢力を有すること。

「藩屛」「はんぺい」。防備のための囲い。「国防」の意であろう。

「金湯」「金城湯池(きんじやうたうち(きんじょうとうち)」の略。「守りが非常に固く、攻めるのが難しい城」の形容から、転じて、「堅固にして他から侵害されることのない勢力範囲」の意。「漢書」の「蒯通(かいとう/かいつう)伝」に基づくもので、「湯池」は「熱湯を張り湛えた堀」のこと。

「萬姓を撫綏し」「ばんせいをぶすいし」。総ての国民を労わり、その生活を安定させ。

「閻閭」「えんりよ」。村里の門や都城内の区画のを指す語であるが、ここは本邦の都鄙或いは巷間の謂いであろう。

「歌頌歡騰す」「かしようくわんとうす」。人民は歌い褒め称え、歓びの声を高らかに挙げている。「鼓腹撃壌」を支配者賛美に変質させたもの。

「素と」「そと」。文字通り、そのままに。

「聞ふ」「きこふ」か。「聴こえてくる」の意か。

「我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶」やはり音を当ててみると、「フラウライシンレツマリンヒツフラウボツダシヤウシヂウクワフラウボツリシヤウコラウシヤク(セキ)カリクコンナクワリサイ(セイ)アシユツヒ(ビ)ヤ」か。シャムではこの年にアユタヤ王国(プラサートトン王朝)第二十七代プラーサートトーン王サンペット五世(一六〇〇年~一六五六年)が王位に就いている。「普臘」はその名に少し似ている感じがする。彼についてはウィキの「プラーサートトーン」を見られたいが、そこには、彼は『同時代にアユタヤ王朝に仕えた日本人傭兵山田長政』(彼はスペイン艦隊の二度に亙るアユタヤ侵攻を孰れも斥けた功績によって先のアユタヤ王朝の国王ソンタム(後述)の信任を得、シャムの王女と結婚し、第三位の官位と王からの賜名を授けられていたほどの高官であった)『と自身の即位をめぐって宮廷内で対立したため、これを左遷した後、密命によって毒殺したとオランダの史料は記している。更に』彼は、『反乱の恐れがあるとして日本人傭兵隊の本拠地と言えるアユタヤ日本人町を焼き払った。この事件以降、日本人勢力はアユタヤ王朝において軍事的・政治的な力を失い、二度と往時の権勢を取り戻すには至らなかった』とある。

「遐邇」遠い所と近い所、遠近。また、遠方も近辺も。後者であろう。

「輳集」「そうしふ」。一つ所に集まり来たること。

「稔知す」そうした認識が長年に亙って積まれてよく知られている。

「信に」「まことに」。

「視ふれば」「うかがふれば」か。比して見させて戴くならば。

「天淵の異なるがごとし」天と地もの違いがあるのと同じである。

「滄溟」「滄海」に同じ。

「參商」「しんしやう」。「參商之隔(しんしょうのへだて)」の略。「參」が現在のオリオン座の「参星」、「商」が蠍座の「商星」で、東西に遠く離れたこの二つの星は、空に同時に現れることはないということから、「距離が非常に離れているために、会う機会がないこと」を指す故事成句となった。別に、夫婦・家族が離別したり、不仲になることの悪い譬えとしても使われ、こちらの方が語源的には先で、古代中国の神話上の帝王嚳(こく:高辛氏とも呼ぶ)の二人の息子は仲が悪くて常に争いをしていたことから、父嚳が互いに遠く離れた参星と商星を掌らせたという伝説に基づくからである。

「耿光」「こうこう」。明瞭にちかちかと光り輝くこと。転じて、堂々として徳にすぐれていること。

「素願を快すること能はず」素懐(普段からの切なる願い)を遂げて心の底から喜ぶことが出来なかった。

「絡繹」「らくえき」。往来が絶え間なく続くこと。

「王音〔、〕頻〔り〕に教へ」本邦の王(この場合は形の上はやはりあくまで「天皇」を意味しつつも、実質上の支配者たる将軍を意識しているものと読まねばなるまい)の名声を頻(しき)りに拝聴して。

「盛使」厳かな正規の使者・使節団。

「籍に」「しきりに」か。

「咸」「みな」(皆)か。

「名〔、〕何ぞ其れ重きや」ここは「その名聞(みょうもの)たるや、どんなにか重いことでありましょうか」という強調形。

「歳の癸亥」「癸亥」(みづのとゐ/キガイ)は元和九(一六二三)年で、この寬永三(一六二六)年の三年前に当たる。但し、この時のシャム王はアユタヤ王国(スコータイ王朝)第二十四代ボーロマトライローカナートソンタム王ボーロマラーチャー一世(一五九〇年~一六二八年十二月十三日)であった。ウィキの「ソンタム」によれば、前君主であった『シーサオワパーク親王』『を処刑し、即位』した人物で、『ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかったところに、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人』六百『人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた』とある。なお、この時の奉書が何月であったか判らないが、この元和九年七月二十七日に家光は伏見城で将軍宣下を受けて、第三代将軍に就任している(満十九歳)

「短札菲儀」孰れも卑称の謙譲語で、「短札」は自身の書状を遜(へりくだ)って言う語、「菲儀」(ひぎ)は「薄謝」(如何にも粗末な礼物)の意。

「貺」音「キヤウ(キョウ)・カウ(コウ)」。「賜」に同じい。

「政」「まつりごと」。

「盟ふ」「ちかふ」(誓ふ)。

「止止」「ただただ」。

「本价」「ほんかい」。「我が方(シャム国)の使者」か。

「口說」「口頭の説明報告」か。

「歉然たる」「けんぜんたる」。「慊然」とも書き、「満足出来ないさま」の意。

「柬埔寨」「カンボジヤ」。カンボジア王国。当時の王政は弱体化しつつあり、ヴェトナムやシャムが侵攻を始めていた。

「逆醜」「逆らう下賤の輩(やから))」の謂いであろう。

「坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅」「コンナウジツモン通事アレツエツチヨクナワウヱエツ」「通事」の前が地名か官職か、後が名前か。

「顓〔く〕して」「うやうやしくして」と読んだ。礼を尽くして。

「齎す」「もたらす」。

「仗る」「よる」。「依る」で「頼む」の意。

「情由」「じやういう」。現在、以上で述べたところの現在のシャム国の置かれている事情。

「轉啓」事実上は本書簡の内容意図を天皇に上奏することであろう。言わずもがな、ひいては事実上の実権者たる将軍へ伝えることであるが、或いは、だから天皇に直ちに上「奏」され、その奉書着信の許諾を天皇に認められた上で、次に実務判断を下す将軍へと転送されるという本邦のシステムを存知した上で、「轉」と「啓」(絶対敬語のの「奏」の次位の語)が使われているのかも知れない。

「視ること」「我が国(シャム)を認識されること」の意。

「一國に同〔じ〕」「天皇の支配なさっておられる日本国と同じ天(あめ)の下にある一国として」の意か。

「並びに」同様に。

「間無〔く〕」「お時間をおとらせすることなく」の意か。

「兩平」「隔てなく平等に」の意か。

「濡滯」「じゆたい」。滞ること。遅れること。躊躇って遅れること。「遅滞」に同じ。

「汛に」不詳。「注ぐ」とか「増水」とか「水」に関わる漢字だが、これ、「迅」で「すみやかに」の意ではなかろうか?

「通歸」スムースに交流交易を開始することを指すか。

「鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐」例の如く音で示すと、「ランサイヤトンキンシヨウフ(/ブ)ナラウナビモクナウシヤブンテイリ」か。

「發舟」「出航」か。

「三載」三年。

「囘〔らず〕」「かへらず」。本国に戻って来ていない。

「鼎力」人に依頼や感謝する際に用いて「大いに力を尽くすこと」の意。

「良驥」「驥」は一日にして千里を走る名馬。駿馬。「なんだ、それが欲しかったのか、シャムの王様は」と思うかも知れぬが、ネットで見出し得た数少ない、当時の国外との交易公文書を見ると、本邦は朝鮮にも良驥を贈呈している。本邦が駿馬の産地であることは中国・挑戦・ヴェトナムなどの東アジア一帯によく知れ渡っていたものと思われ、それはまた、シャムでは山田長政を通じて、より詳しく伝えられていたと考えてよいのではあるまいか。

「差〔は〕して」「さしつかはして」。

「來役」「さしあたり来たるところの最初の正式な交易」のことを指すか。

「購買ふ」二字で「あがなふ」と読んだ。

「明公輔佐忠誠〔たり〕」王(天皇→将軍)輔佐役酒井雅楽頭への。

「焉より」「これより」。指示語。

「囘音」「お応え」(応答)か。

「遣歸」「使者を(よい返書を下賜下さって)送り返すこと」か。

「統〔て〕」「すべて」。

「炤亮」「せいりやう(しょうりょう)」。「洞察」の意。

「不宣」「ふせん」。手紙の末尾に記し、「書きたいことを十分に尽くしてはいない」という意を表す謙遜の結語。「不一」「不尽」に同じい。

「孟夏望日」陰暦四月十五日でグレゴリオ暦五月十日である。

「花幔帕肆端」「白絞沙肆端」「帕」の音は「パ」。よく判らぬが、私が最終的に至った推理結果は、これは奉書に添えた贈答品の目録ではあるまいか? 「肆端」は「四反」(したん)の替え字で、「花幔帕」「白絞沙」ともに高級絹織物の名称のように私には見えるのだが? 識者の御教授を乞う。

「奉將す」「奉行」(行ひ奉る)に同じい。

「筦留」「くわんりゆう(かんりゅう)」であるが、よく意味が解らない。「筦」は「司る」の意があるから、「本奉書を気にとどめて相応に処理すること」を指すか。

「按るに」「あんずるに」。

「據に」「よるに」。

「仰を蒙て」「おほせをかうむりて」。

「擧用らるゝ」「あげもちひらるる」。

「與り」「あづかり」。

「吾」「わが」。本邦の。

「猷廟」家光。

「御代嗣」「およつぎ」と訓じておく。

「台廟」秀忠。彼の戒名「台德院殿興蓮社德譽入西大居士」による尊称。

 なお、辻善之助校訂「史料 異國日記(十四)」(立教大学学術リポジトリPDFでダウン・ロード可能)の最後の方に、この文書と大炊頭藤原(土井)利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二一(一六四四)年:当時は老中で下総国小見川藩主。徳川家康の母方の従弟(家康の落胤説もある)に当たり、家康・秀忠・家光の三代に亙って老中(最後は大老)職を務め、絶大な権力を誇った)と雅楽頭藤原(酒井)忠世の返書二通(但し、総て白文)が載る。それを見るに、馬は確かに返礼として贈っているように書かれてある。

2019/03/29

甲子夜話卷之五 30 厭離穢土の御旗幷參州大樹寺閂の事

 

5-30 厭離穢土の御旗參州大樹寺閂の事

[やぶちゃん注:以下、長い二箇所の漢文体部分には訓点があるが、それを排除して、まず、白文で示し、後に( )で、訓点に完全に従った訓読文を添える形とする。やや読み難いので、訓読文では今まで本「甲子夜話」の電子化では一回もやっていないのだが、例外的に句読点を変更・増加し、送り仮名の一部を追加して送り、難読と思われる字には、これも極めて例外的に歴史的仮名遣で推定読みを添え、鍵括弧も添えた。静山の文はこれも特異的に改行した。

參州大樹寺登譽和尚傳云。永祿三年、東照神君出師不利、脫身奔走入大樹寺。時隨之者僅十八人。神君謂師曰。今日事急矣。當如之何。師曰。男兒當於死中求生計。豈可坐受窘辱乎。鳴呼檀越之有難者、係我法門之厄也。我雖沙門頗解兵策。能捨身命爲擁護、則敵不足懼矣。卽遣使近村招募兵士、得緇素五百人。乃設方略防守寺門。又以白布遽裁爲旗、大書之曰。厭離穢土欣求淨土。乃自揭旗、規度軍營處所。其指揮籌策、殆如宿將。神君見而壯焉。又云。從此之後、神君用兵、則必揭是旗而出、戰則必勝、攻則必取。平居無事、則納之烏漆匝、未嘗離其傍云。

(參州大樹寺の登譽和尚の傳に云ふ、『永祿三年、東照神君、師を出でて、利あらず、身を脫して奔走し、大樹寺に入る。時に之れに隨ふ者、僅に十八人。神君、師に謂ひて曰はく、「今日、事、急なり。當に之れを如何(いか)んとかす。」。師、曰はく、「男兒、當に死中に於いて生計を求むべし。豈に坐(ざ)ながら窘辱(くんにく)を受くべけんや。鳴呼、檀越(だんおつ)の難(なん)有るは、我が法門の厄に係れり。我れ、沙門と雖も、頗る兵策を解す。能く身命(しんみやう)を捨てゝ擁護を爲さば、則ち、敵、懼るるに足らず。」。卽ち、使ひを近村に遣はし、兵士を招き募るに、緇素(しそ)五百人を得。乃ち、方略を設け、寺門を防ぎ守らしむ。又、白布を以つて遽(には)かに裁して旗と爲し、大に之れを書きて曰はく、「厭離穢土欣求淨土」。乃(すなは)ち、自ら旗を揭げ、軍營の處所を規度(きど)す。其の指揮・籌策(ちうさく)、殆んど宿將のごとし。神君、見て、「壯なり。」とす。又、云はく、此れよりして後、神君、兵を用ひるとき、則ち、必ず、是の旗を揭げて出するに、戰へば、則ち、必勝、攻むれば、則ち、必取。平居、事は無きとき、則ち、之れを烏漆(うしつ)の匝(はこ)に納め、未だ嘗つて其の傍らを離さず、と云ふ。)

件の御旗のことは世普く所ㇾ知なり。御他界の後は、日光の神庫に納て、世々崇寶ありしと云。然にこの六七年前か、日光の何院とか火を失し、神庫も延燒して、此御旗も祝融の患に罹れりと聞く。又前書に云く。

寺有一僧。號曰祖同。勇悍多力能敵八十夫。時祖同介冑帶刀、爲神君御馬。敵兵方至已逼寺門。緘扃甚固欲入無從。神君曰、閉門拒之事似怯弱。言未訖、拔刀斫門關。祖同曰、此豈足以煩於君手耶。便進破鎖、奓戶而立。神君上馬。祖同執其馬勒而先登。從者十八人亦隨突出。雄壯威猛無敢近者。敵兵大潰神君得捷。其所斫門關、至今尚在大樹寺、刀痕宛然而存。

(寺に、一僧、有り。號して祖同と曰ふ。勇悍多力にして、能く八十夫に敵す。時に祖同、介冑(かいちう)して刀を帶び、神君の爲めに馬を御す。敵兵、方(まさ)に至りて已に寺門に逼(せま)る。緘扃(かんけい)、甚だ固くして入らんと欲すに從(よ)し無し。神君、曰はく、「門を閉(とざ)して之れを拒(ふせ)ぐは、事、怯弱(けふじやく)に似たり。言ふこと、未だ訖(をは)らざるに、刀を拔きて、門關を斫(き)る。祖同、曰はく、「此れ、豈に以つて君手(くんしゆ)を煩はすに足らんや。」。便ち、進みて鎖を破り、戶を奓(ひら)きて立つ。神君、馬に上る。祖同、其の馬の勒(くつわ)を執りて先登(せんとう)す。從ふ者、十八人、亦、隨ひて突き出づ。雄壯威猛、敢へて近づく者、無し。敵兵、大いに潰れて、神君、捷を得たり。其の斫る所の門關、今に至りて、尚ほ、大樹寺に在り、刀痕、宛然として存す。)

この門關も、亦五六年前大樹寺より持出たるとき、增上寺の方丈に於て拜見せり。このときの大僧正は敬譽典海と云て、予が少時より相識れる人なりし。因て見ることを得たり。凡木口にては三寸ばかり、長さは一間にもたらずと覺ゆ。神君の御太刀痕と云ものもさまで顯然たるにもあらず。然れば其時の有さまは、此門關にては知れず。唯急難の御時に、御勇氣の盛なるを以て相傳たる者ならん。因て予、僧正に言しは、此物は今幕下の歷々總て拜見すべきもの也。冀は其形狀を模寫ありて開梓せらるべし。然らば各遠く參州龍興の跡を拜觀し、英氣を長ぜんと申置たりしが、僧正も尋で遷化せしかば其事いかゞなりしにや。

■やぶちゃんの呟き

「參州大樹寺」現在の愛知県岡崎市鴨田町広元にある浄土宗成道山松安院(じょうどうさんしょうあんいん)大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大樹寺」によれば、『寺の言い伝えによれば』、永禄三(一五六〇)年の「桶狭間の戦い」で、『総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢』十八『名とともに当寺に逃げ込んだ。しかし』、『ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第』十三『代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末』、「厭離穢土 欣求浄土」の教え(絶対他力で只管、阿彌陀の大慈大悲の誓願を信じて来世の極楽浄土を冀(こいねが)う浄土宗の教えを「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という自力的意味に読み換えたもので、『登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすよう説得したとされる』)『を説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという』。『元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ』五百『人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる』。『しかし』、「桶狭間の戦い」『の直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない』とある。慶長七(一六〇二)年には『勅願寺とな』り、『家康の死に際しては』、第十七『代住職の了譽(りょうよ)が同席した。家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた』とある。

「閂」「かんぬき」。

「窘辱(くんにく)」辱めを受ける苦しみ。

「檀越(だんおつ)」檀家。

「緇素(しそ)」「緇」は出家者の衣の色である「黒」色を指し、「素」は在家者の衣の色である「白」色をいう。転じて、出家者と在家者の意。

「裁して」裁断して。

「規度(きど)す」奮起を促すための規範評語とし、軍紀を守ったということであろう。

「籌策(ちうさく)」計略。策略。

「宿將」経験に富んだ優れた将軍。老練なる武将。

「平居」非戦時。

「烏漆(うしつ)」烏の羽毛のように黒く、光沢を帯びた黒漆塗りのこと。

「祝融」祝融(しゅくゆう)は中国神話の「火の神」。炎帝の子孫とされ、火を司るとする。そこから、「火災に遇う」ことを「祝融に遇う」と喩える。

「介冑(かいちう)」鎧と兜。ここはそれらを装着すること。

「御す」「馭す」に同じい。

「緘扃(かんけい)」門を閉ざして堅く封じること。

「從(よ)し無し」「由無し」の同じ意でルビを振った。

「怯弱(けふじやく)」臆病。怯懦(きょうだ)。

「奓(ひら)きて」「開きて」に同じ。「奓」には「開ける」の意がある。

「勒(くつわ)」「轡」に同じい。

「捷を得たり」獲得するの意であるが、ここは戦に勝利することを指す。

「敬譽典海」浄土宗学僧にして増上寺第五十六世となった典海教誉のことかと思われる。俗姓は出島、号は演蓮社・教誉・光阿・義円。紀伊生まれ。大阪天満大信寺で剃髪、三田林泉寺の禀誉説典に師事、後、増上寺に入り、内外の経典を学び、増上寺学頭・連馨寺住職から、光明寺に転住、その後、増上寺住職となり、大僧正に叙された。文化六(一八〇九)年八十で入寂している(ここまで思文閣「美術人名辞典」に拠る)から、時期的にも合う。

「凡」「およそ」。

「木口」「こぐち」。木材を横切りにした面。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。

「御太刀痕」「おんたちあと」。

「開梓」「かいし」。公に板行(出版)すること。

「各」「おのおの」。

「龍興」これは本来は天子が国を起こして興隆させることを指すが、ここはそれを実質的に日本を収めた家康の出現に擬えたもの。

「申置たり」「まうしおきたり」。

「尋で」「ついで」。その時から間もなく。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であるから、典海教誉の入寂とも矛盾がない。

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