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カテゴリー「「甲子夜話」」の171件の記事

2018/07/21

甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事 / 甲子夜話卷之四~完遂

 

4-37 明安の頃風俗陵遲の事 

明安頃は風俗陵遲極りたる中に、又思ひよらぬことこそありける。是は享保中の遺老尚ありし故とぞ。畫工の狩野榮川、殊の外田沼氏の心に叶ひ、醫院の列にさへ陛りしが、年始に御流れ時服賜はるとき、醫師衆は無紋の服に白を重ねて下さる古例なり。是流品の外なりとして、御紋は下されぬ界限の古法、元日の御式にのみ殘れり。田沼氏榮川を贔屓の餘り、總醫官へ賜る品を御紋服にせんとて、同朋頭をして納戸頭を諷せしめ、納戸頭の意を以て、御紋服にはからふようにとし成たり。そのとき納戸頭勤めし某、承服せず。此局創りしより定れる例を破ることは、得こそ致すまじ。てさあらんに於ては、書付を以て下知せらるべし。老職の屹と下知せらるることならば、是乃上の令なれば、其時は畏り奉らんと、手堅く申張りしかば、其事沙汰無くなりしとなり。その頃田沼氏の權勢中外を傾し中に、某獨り屈せず。我守る所の官局の法を張りしは、信にけなげなることなり。又上州絹運上の一件より、土民服せず。徒黨を結び、都下へ訴に及ばんとす。其數百千に至り、中々代官等の手に合はず。既に訴人ども鋤鍬鎌など携へ出立する由の注進、所々より櫛の齒を引が如し。そのこと司農府より申出て、政府にも評議區々なりしが、遂に先手頭の鐵炮組を、淺草御門に出張せしめらるゝことに定り、政府より命を傳られしとき、先手頭の筆頭にてありし老人伺出けるは、訴の百姓ども御門外まで來り候はゞ、組の者をして利解を説聞せ、もしそれを承引なく、て御門内へ亂入するの勢あらば、御道具【御預り鐵砲等のこと】を以て打ひしぎ候半と申ければ、政府の面々、それほどには及ぶまじとの旨なりしかば、然らば此御用は御免を蒙るべし。參遠以來我々が先役ども、討死せし跡は兎も角も、左なくして御紋付御道具の前に、敵を通したる事は一度も無候と言切りければ、政府の衆中あきれて其事は止み、御徒目付を淺草御門に泊番申渡したりとなん。幸に訴人をなだむるものありて、出に及ばず無事になりぬ。柔懦の極りし世なりしが、此事傳へ聞しもの、流石は御譜第御旗本衆の氣概よと感心しつゝ、それに付ても、御徒目付の泊りは何事ぞ迚、政府の措置を笑はぬものはなかりけり。總て此頃は、世態人情なり下りたる極なりし中に、又如ㇾ此こともありしは、陰窮りたる時に陽を生じ、否極りし後は泰に至るの兆朕なる歟。幾程も無くして、寛政維新の御代に移り、衆賢彙進の盛時となりにき。

■やぶちゃんの呟き

これを以って「甲子夜話卷四」は終わっている。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。所謂、田沼時代。

「陵遲」(りようち(りょうち))の原義は「丘陵が次第に低くなること」であるが、転じて、「盛んであった物事が徐々に衰えてゆくこと」から「道義が薄れていくこと」の意となった。

「是は享保中の遺老尚ありし故とぞ」これは享保年間(一七一六年から一七三六年)の節を重んじた御大(おんたい)の方々がまだ存命であられたからであるとのこと。

「狩野榮川」(かのうえいせん 享保一五(一七三〇)年~寛政二(一七九〇)年)江戸中期の画家。狩野栄川古信の長男。狩野受川の養子となったが、養父の早世により、二歳で木挽町狩野家を継いだ。江戸城や御所の障壁画・朝鮮贈呈屏風などの制作に携わり、法印となった。将軍徳川吉宗や家治の厚遇を受け、奥絵師の中で木挽町狩野家の地位を最上位にまで押し上げた人物。

「醫院の列」中世・近世以降、僧侶に準じて儒者・仏師・絵師・連歌師・医師などに僧位と同じ法印・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の三階位が与えられたことを指す。ただ、ここではこれ以外に「總醫官」とも言っているとこから、医官としてそれらを授与される者が圧倒的に多かったと考えてよかろう。実際、私が諸本で見かけるのは殆んど医師である。

「陛りし」「のぼりし」。本寺の原義は土で出来た階(きざはし)で、屋外にあって館に導く階段である。

「年始」「御流れ時服」「おながれじふく」。江戸幕府で年始に大名・旗本などに対して、下賜された衣料。綿入れの小袖が与えられた。現在、目上の人から貰う使い古しの品や不用品を「御下がり」というのと原義は同じ。

「流品の外なりとして」意味不明。最低限の衣料の資とせよとして戴くのが「御流れ品」の主意であるから、紋付の小袖など贅沢の極みで、慮外の品であるという意味か。識者の御教授を乞う。

「界限の古法」厳しい制限(限界)を定めた神君家康公以来の古式ということか。

「總」「すべて」。

「同朋頭」(どうぼうがしら)若年寄に属し、同朋(将軍に近侍して雑務や諸芸能を掌った僧体の者。若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主・奥坊主の監督を掌った。

「納戸頭」(なんどがしら)。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士の一つで、将軍の手許にある金銀・衣服・調度の出納を掌り、大名旗本が献上した金銀・衣服、将軍の下賜下贈する金銀衣類一切を取り扱った。定員二名で元方(収蔵買入)と払方(下贈品)に別れていたから、ここは後者。

「諷せしめ」それとなく仄めかして伝えさせ。自分はあくまで関与していないという現在のもり・かけ・スパ汚れの安倍政権みたような、流石に陰で私腹を肥やした意次ならではの仕儀である。

「はからふ」処理する。

「し成たり」「しなしたり」。

「某」「なにがし」。静山殿、こここそ実名を明記して、永くその賄賂権勢意次に正面切って物申した御仁の心意気を伝え残すべきで御座った。

「此局」納戸方(なんどがた)。

「創りしより」「はじまりしより」。

「定れる」「さだまれる」。

「得こそ致すまじ」「得」は不可能の副詞「え」。それに打消意志の「まじ」を呼応させたところに、強烈な拒否感がよく評言されている。

て」「しひて」。

「書付」幕府内に於いて上役(特に将軍・老中・若年寄など)から下された命令書。老中御書付が一般的。平凡社「世界大百科事典」によれば、老中御書付は奉書紙を横半截した切紙の形で、伝達内容のみが記され、差出人や宛所の記載も省略されており(宛所の必要なものは文書の袖に記された),老中よりの口頭伝達を文字化した覚書としての性格を持っていた、とある。

「屹と」「きつと」。副詞。オノマトペイア「きと」の促音添加。「屹度」「急度」は当て字。確かに・必ず・間違いなく(~する・~である)。

「是乃」「これ、すなはち」。

「上」「かみ」。

「畏り」「かしこまり」。

「手堅く申張りしかば」「てがたくまうしはりしかば」。非常にきっぱりと(拒絶の意を)言い張りつつ申し上げたために。

「中外を傾し中に」「うちそとをかたむけしなかに」。幕府内外を問わず、意次の権勢に誰もが節操なく傾き靡いていた中にあって。

「信に」「まことに」。

「上州絹運上の一件」「絹一揆(きぬいっき)」或いは「絹運上騒動(きぬうんじょうそうどう)」とも称した、田沼時代の天明元(一七八一)年に上野国西部一帯から展開された絹市に対する課税反対を求める一揆。参照したウィキの「絹一揆」から引く。江戸『中期、上野国や武蔵国の農村では、養蚕業が盛んになり、生糸や絹織物が生産されるようになり、各地に絹市と呼ばれる市場が形成され、江戸や京都などの問屋から原料や商品の買い付けに訪れる買付人が増加していた。江戸幕府では元禄元年』(一六九八年)『と宝暦元年』(一七五九年)『に上野・武蔵の絹に対して課税を行う計画が立てられたが、この時は桐生などの絹織物生産地の反対があって中止された。ところが天明元年』(一七八一年)『になって地元の有力者である小幡(現在の甘楽町)の新井吉十郎他』二『名が他の賛同者の名簿とともに上野・武蔵の』四十七ヶ『所の絹市に対して』十ヶ『所の反物并絹糸貫目改所』(かんめあらためじょ:ここで製品・原料の量・質を検査し、買人から「改(あらた)め料」を徴収した)『を設置する申請が江戸幕府に出された。有力者たちは改所に関与して』、『絹の販売を独占しようと図り、一方田沼意次を中心とする江戸幕府首脳も米に依存した財政に対する限界から代わりの財源を求めており、絹製品の品質向上と運上に代わる改料確保につながるこの計画を許可したのである。そこで、幕府は現地に対して改所設置と』、反一疋に対して銀二分五厘、糸百目につき銀一分、真綿一貫目につき銀五分の『改料を買取人から徴収することが伝えられると、現地の農民はこれに強く反発した。しかも同様に反発した買取人たちも買取を拒否したために絹市が事実上停止してしまったのである。これに激怒した上野の人々は対策を講じ始めた。桐生などの上野国東部の人々は幕府に訴願を行って取消を求めようとした。だが、西部の人々は今回の改所設置の背景に西部の地主や商人達が』関わっていた『ことを知り』、『激昂』、『西部の人々は』八月二日の『上州藤岡での寄合をきっかけに一揆として蜂起』、八日に神流川(かんながわ)に『集まった人々は当初』、『江戸を目指すことも検討したものの、協議の結果、改所構想の申請者を追及する方針に変更した』。八月九日、『小幡の新井吉十郎の屋敷が打ち壊され、続いて他の申請者やそれに賛同した地主や商人の屋敷が打ち壊されただけではなく、七日市藩陣屋も攻撃され、更に一揆は今回の申請に許可を出した老中松平輝高が藩主を務める高崎藩に向かってなだれ込んだ。これに驚いた幕府は』八月十六日に『改所中止を決定して翌日には現地にも伝えられたが、この報が広まる直前の』八月十八日には『高崎城を包囲した一揆軍と高崎藩兵が衝突した。だが、直後に双方に改所中止が伝わったために一揆は解散したのである』とある。本条のこの部分は、この天明元(一七八一)年の八月二日の蜂起辺りから、八月九日の七日市藩陣屋への攻撃、八月十八日の老中松平輝高が藩主であった高崎藩への侵攻・衝突の期間の幕府内の混乱を描いていると考えてよかろう。

「櫛の齒を引が如し」「くしのはをひくがごとし」。櫛の歯は一つ一つを小さな鋸で挽(ひ)いて作ったところから、物事が絶え間なく続くことの譬え。

「司農府」幕府内の農政を掌る部局らしい。

「區々」「まちまち」。異なった意見がさまざまに出ること。

「淺草御門」江戸城外堀の神田川で最も隅田川寄り(神田川が隅田川に注ぐ手前)の番所、浅草見附があった枡形の浅草橋見附門。見附門にある橋は浅草寺に通じることから「浅草橋御門」「浅草口」とも呼ばれ、平時から警護人を置き、浅草観音や奥州方への街道を往来する人々を監視した。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、正確にはここに神田川対岸位置と思う)。

「定り」「さだまり」。

「伺出けるは」「うかがひいでけるは」。

利解」「理解」。

「説聞せ」「とききかせ」。

「候半」「さふらはん」。

「無候」「なくさふらふ」。

御徒目付」「おかちめつけ」。目付の指揮のもとに江戸城内の宿直・大名登城の監察・幕府諸役人の執務内偵等に従事した。徒目付(かちめつけ)・徒横目(かちよこめ)とも呼ぶ。

「泊番」「とまりばん」。宿直。

柔懦」「じうだ(じゅうだ)」。気が弱く意気地のないこと。「柔弱」の同じい。

「極り」「きはまり」。

「迚」「とて」。

「政府の措置を笑はぬものはなかりけり」いやいや、激甚災害の真っ最中に宴会を開いて記念写真を撮る輩に比べたら、遙かにマシで御座るよ、静山殿。

「世態」「せたい」「せいたい」孰れにも読む。世の中のありさま。世情。

「極」「きはみ」。

「如ㇾ此」「かくのごとき」。

「否極りし後は泰に至る」「易経」の言葉。「乾坤」「泰否」は宇宙のエネルギの相反的状態とその消長を前後対で著わしたもので、「泰否」は「泰」が生命の活動の隆盛を、「否」はその停滞・減衰を指す。それぞれの状態の極限は反対の状態を逆に生み出し、それによって宇宙というエネルギ体は永続するといった意味であろう。

「兆朕」「てうちん(ちょうちん)」。この「朕」は「兆」に同じ意で、これで「きさし・徴候」の意。

寛政維新の御代」田沼意次が失脚し(天明六(一七八六)年。八月二十七日、老中辞任)、翌年松平定信が老中就き、その在任中の天明七(一七八七)年から寛政五(一七九三)年の主導で行われた「寛政の改革」時代。

「彙進」(いしん)は元は同類の者が朝廷に進み出ること。そこから、類を以って集まることの意となり、ここは賢人たちが陸続と幕府に集まって来たことを指す。

2018/07/17

甲子夜話卷之四 36 寶曆に林氏自火のときの落首

 

4-36 寶曆に林氏自火のときの落首

寶曆の頃、林大學頭【諱、信充】宅より失火し、折節西北風強かりしかば大火となり、築地邊まで延燒せしことあり。其時の落書に、

 大學が孟子わけなき火を出して

      論語同斷珍事中庸

[やぶちゃん注:よりもちょっと前の話であるが、その頃は下賤の庶民でさえも、これだけの洒落を言える知識があったという、対称的な話柄として面白い。静山もそれを狙って敢えてここに配しているのである。

「寶曆」一七五一年から一七六四年。

「林大學頭【諱、信充】」林家四代林榴岡(りゅうこう 天和元(一六八一)年~宝暦八(一七五八)年)。

「孟子わけなき」「申し譯なき」の語呂合わせ。以下同じ。

「論語同斷」「言語道斷」のそれ。

「珍事中庸」「珍事中夭」(「中夭」は災難のことで「思い掛けない災難」の意)のそれ。]

甲子夜話卷之四 35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

 

4-35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

或人云。世の中の移り替るは、思の外の事あるものなり。此五六十年前、擧世の文盲になりしは、前にも後にも類無きことなりとなり。中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】、寶曆頃の奧儒者たりしとき、誰一人敬禮するものもなく、當直に出れば、若き小納戸衆など、孔子の奧方御容儀は美なりしや醜なりしやなど問て、嘲弄しけるとぞ。餘りに甚しきことならずや。明安の頃、節儉の政令嚴刻なりしとき、其旨を希ひし作事奉行より、昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべしと建言せしを、國用掌れる老職、水野羽州聞屆て、既に高聽に達せんとて、御用取次衆へ申けるに、取次衆、聖堂と云もの何なることを知らず。奧右筆組頭大前孫兵衞に、聖堂に安置あるは神か佛かと尋しかば、大前、たしか本尊は孔子とか云ことに候と答ければ、取次衆、其孔子と云は何なりやと又尋ければ、大前、論語とか申書物に出候人と承り候と答けるに、取次衆打うなづきて、鳴呼それにて分りたり、道理で聖堂崩しの沙汰を聞て、林大學が、唐へ聞へても御外聞がわるゐと申たりと聞及びぬ。さらば先暫見合せ置方なるべしとて、高聽に達せず。其こと止しとなり。かゝる時節もあればあるものかと、驚入たることなり。

■やぶちゃんの呟き

これは確かに頗る驚くべき文盲不学の為体(ていたらく)である。私もオロロイた!

「舉世」「きよせい(きょせい)」。世を挙げて総て。世間全体。

「中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】」(元禄一〇(一六九七)年~宝暦一一(一七六一)年)は江戸中期の儒者。江戸出身。深蔵は通称。本名は藤原明遠。父は幕府医官中村玄悦。父に医学を学び、室鳩巣に儒学を学んだ。初め、父を継いで玄春という医官であったが、儒者にならんとする思いが強く、数年の間は許されなかたったが、延享四(一七四七)年、西の丸奥医から晴れて奥儒者に転じ、深蔵と改め、将軍徳川家重に近侍した。室鳩巣に師事したが、朱子学墨守に固執せず、考証を重んじ、他学派の説も学んで、稲葉迂斎門下ともなった。寛延元(一七四八)年には朝鮮通信使と筆談で朱子学について議論している。「学山録」「読詩要領」「孟子考証」「学規口解」「通書解翼義」「読詩要領」「大学衍義考証」など多数の著作がある(以上は上谷桜池氏管理のサイト「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」のこちら(彼の墓)の解説に拠った)。

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで(但し、中村は上記通り、一七六一年没であるからそこまで)。徳川家重及び徳川家治の治世。

「小納戸」「こなんど」。若年寄支配で、将軍に近侍して理髪・膳番・庭方・馬方などの雑務を担当した。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。但し、この時期は田沼時代で「節儉の政令嚴刻なりしとき」というのとは、齟齬する。

「水野羽州」旗本で後に大名となった、老中で三河大浜藩主・駿河沼津藩初代藩主、沼津藩水野家第八代の水野忠友(享保一六(一七三一)年~享和二(一八〇二)年)であろあう。彼は明和六(一七六九)年に出羽守に遷任している。彼が老中格に異動するのは天明元(一七八一)年九月十八日であるが、この年は四月二日に安永十年から改元しているから、辛うじて齟齬しないと言える。

「聞屆て」「ききとどけて」。

「御用取次」御側御用取次(おそばごようとりつぎ)。将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。第八代将軍吉宗が側用人を廃止した代わりに、紀伊藩時代からの家臣有馬氏倫(うじのり)と加納久通を大名に取り立てて任命したことが始まり。その後は、旗本役である側衆の中から二~三人が命ぜられるようになり、側用人復活以降も置かれた(御側御用取次でない側衆は平御側(ひらおそば)と称した)。老中は将軍に直接物を言うことも出来たが、平常は御側御用取次を介したので、単なる連絡役以上の権力を持つようになった。老中の申し出であっても、内容によっては将軍に取り次げないと撥ねつけたともされ、江戸城内では、老中・若年寄と同様、坊主が先導して「シーシー」と制止の声を出して歩いた。そのため、御側御用取次から大名に取り立てられて若年寄になったが、まるで左遷されたようだったと述懐する者もいたという(イミダス時代劇用語指南に拠る)。

「奧右筆組頭」「奧右筆」は若年寄の支配で、将軍自身が発給する文書の作成などを担当し、概ね、江戸城本丸の御用部屋に詰めた。ウィキの「によれば、従来の書記担当官である右筆は「表右筆」と呼ばれた。奥右筆はこの頃は十七名程度おり、表右筆(三十名前後、後に八十名前後)の中から奥右筆に転じる事例が増え、後にはこの表右筆から奥右筆へと昇格するようになった。『享保年間の制によれば、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭が役高』三百石で役料百五十俵で『あったのに対して、奥右筆組頭は役高』四百石で役料二百俵』と歴然とした差があった。また、『一般の右筆においても表右筆が』百五十『俵の蔵米の給与であったのに対し、奥右筆は』二百『石高の領地の知行だった』。『奥右筆はまた、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で、その地位こそ低かったものの、実際は幕府の数多い役職の中でも特に重要な役職だった。現在で言うところの政策秘書に近い存在といえる』。但し、『奥右筆の中には幕閣(大老や老中)が集う会議で意見を述べることが許されていた者もいた』。『というのは、諸大名が将軍をはじめとする幕府の各所に書状を差し出すときには、必ず』、『事前に奥右筆によってその内容が確認されることが常となっていた。つまり、奥右筆の手加減次第で、その書状が将軍などに行き届くかどうかが決められるほどの役職だったのである。また、幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査・報告を行う職務も与えられていた。その報告によって幕府の政策が変更されたり、特定の大名に対して財政あるいは人的な負担を求められる事態も起こりえたのである』。『このため、諸大名は奥右筆の存在を恐れたともいう』とある。

「大前孫兵衞」不詳ながら、第五代将軍綱吉に仕えた同名の人物がいるから、その末裔か。

「論語とか申書物に出候人」「ろんごとかまうすしょもつにいでさふらふひと」。ブットだね!

「鳴呼」「ああ」!

「聖堂崩し」聖堂廃止。

「林大學」当時の大学頭は林家第五代林鳳谷(ほうこく 享保六(一七二一)年~安永二(一七七四)年)。

「唐」「もろこし」と訓じておく。

「わるゐ」ママ。

「先暫」「まづ、しばし」。

「見合せ置方」「みあはせおきかた」で一語か。ペンディングする対象。

「止し」「やみし」。

「驚入」「おどろきいり」。

2018/07/12

甲子夜話卷之四 34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

 

4-34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

德廟の御時、本多唐之助、疱瘡を患て沒したり。時、年十七以下なれば其跡たゝざる規定ゆへ、病死のことを、老職、密に御聽に入たるに、上意には、「疱瘡と云ものは面體のかはる者なり」と度々、仰あり。此御旨を心得て、かの家臣へ通じたれども、悟らざると覺て、其實を申出し故、御規定の如く、其家、たゝず。僅に小祿の苗跡を遺せる計になりたり。

■やぶちゃんの呟き

末期養子の連投であるが、こちらは「有德廟」徳川吉宗がわざわざ暗に誤魔化しを匂わせた上意を下して呉れたのに、それに心づかず、正直に報告してしまい、減封(御家断絶となったように見えるが違う。次注参照)となった不幸なケースである。

「本多唐之助」大和郡山藩第四代藩主本多忠村(ほんだただむら 宝永七(一七一〇)年~享保七(一七二二)年)の幼名。ウィキの「本多忠村によれば、享保二(一七一七)年、『父の死去により』、『跡を継ぐ。幼少のため』(数え八歳)、『幕府は郡山の重要性から忠村を別の領地に移封しようとしたが、将軍の徳川吉宗が許したため、移封を免れた』が、享保七(一七二二)年九月『晦日、天然痘のため』、『江戸で死去し、跡を弟の忠烈が継いだ』。享年十三歳。『松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていたのではないかとされるが、本多家中の者は忠村の死をそのまま幕府に報告したため、減封の上で幼少の弟・忠烈に継がせることとなった』とある(太字やぶちゃん)。清廉実直、と言うより馬鹿正直にして将軍の忖度を理解出来なかった凡愚な家臣故の悲劇と言うべきか。

「疱瘡」天然痘。

「患て」「わづらひて」。

「年十七以下なれば其跡たゝざる規定」ウィキの「末期養子によれば、『江戸時代初期には、大名の末期養子は江戸幕府によって禁じられていた』が、慶安四(一六五一)年に『幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届という手続きが必要であり(ただし、後に当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は』十七『歳以上』五十『歳未満とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかった』。十七『歳未満の者が許可されるのは』寛文三(一六六三)年、五十『歳以上の者が許可されるのは』天和三(一六八三)年に『なってからであった。それも当初は米沢藩の上杉綱憲の相続のように、全ての所領を相続できず』、『減知されるといった代償が存在した』(この場合がそれ[やぶちゃん注:太字やぶちゃん])。『その後もこの規準は公式には遵守されており』、享保四(一七一九)年に『安芸広島藩の支藩三次藩主浅野長経が公式上』十三『歳(実際は』十一『歳)のために末期養子が認定されず』、『改易となり、宗藩にあたる広島藩に所領が併合され、藩士は広島藩士に転籍している。また、元禄六(一六九三)年に『備中松山藩主水谷勝美が親族の水谷勝晴を末期養子としたものの、その直後に当の勝晴が正式な家督相続前に亡くなった際には、「末期養子の末期養子」は認められず、水谷家は改易となっている』。『このために、諸藩では早い段階で嗣子が不在か末期養子が適用できる年齢に満たない場合は、末期養子の適用が可能な年齢の一族を仮養子や中継ぎに立てることや、当主死亡を幕府に届けるのを遅らせた上で嗣子の年齢詐称を行ったりしている。後者の場合、何らかの理由を付けて認められるのが常であり、形骸化していた。より軽格の旗本御家人などの場合、当主の年齢が』十七『歳に満たないことが明らかであっても当人が』十七『歳と称した場合にそれを認める(勝小吉の勝家相続のケース)など、幕府側が露骨に不正を黙認した例もある。そういった備えが出来ないまま』、『末期養子の禁に抵触しそうな場合には、藩主のすり替えが、時には幕閣の示唆で行われたこともあった』とある。『こうしたすり替えは多くの場合、すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者を一族内から選び、藩内で内密に行われた』ともある。

「老職」老中。

「密に」「ひそかに」。

「御聽」「おきき」。将軍の御耳にお聞かせ申し上げること。

「面體」「めんてい」。

「仰」「おほせ」。

「悟らざると覺て」「覺(おぼえ)て」。折角の将軍の御配慮の真意を汲み取ることが出来なかったと思われ。

「其實」「そのじつ」。末期養子の正式な手続きを全く採らず、十三歳で病死した事実。

「苗跡」「みやうせき(みょうせき)」その家の名を以って代々所有し来たり、また、子孫に伝えるべき土地・財産・権利。

「計」「ばかり」。

甲子夜話卷之四 33 假養子願書を取替たる事

 

4-33 假養子願書を取替たる事

予が親類の一侯、在所に往とて、亡父の時、其弟の末家を繼せたるを假養子に願置て立しが、間もなく在所に於て沒したり。定て家頼抔の所爲か、假養子の願書を申下して、別人を願替て、沒後に、某氏、養子となり、養父の忌服を受たり。然ば假養子の願書は自筆調印の例なるが、印は人も押すべし。自筆は誰が書せしにや。近來の新事と云べし。

■やぶちゃんの呟き

末期養子のすり替え例(当主が既に死亡しているにも拘わらず、周囲の者がそれを隠して当主の名に於いて養子縁組を行って家督を存続させた違法行為)ではあろうが(ウィキの「末期養子を参照されたい)、この話、私が馬鹿なのか、今一つ、関係がよく呑み込めない。弟は継いでいた分家が困るから養子縁組に難色を示していたものか、或いは、家臣たちが理由は判らぬが実弟の養子縁組に実はもともと反対だったのか? どなたか、判り易く解説して下されよ。語注だけしておく。

「往とて」「ゆくとて」。

「末家」「ばつけ」。分家。

「立しが」東洋文庫版「立(たち)しが」とルビ。

「定て」「さだめて」。

「家頼」「家來」に同じい。家臣。

「願替て」「ねがひかへて」。

「然ば」「しからば」。

「假養子の願書は自筆調印の例なるが」仮養子願いの上申書は養父の本文自筆の上、本人の書き判が定めであるが。

2018/06/28

甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事

 

4-31 正月の門松、所々殊る事

正月門松を設ること諸家一樣ならず。通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり。筑前の福岡候支侯、肥前の佐嘉侯、對馬の宗氏、予が家も同じ。南部盛岡侯、岩城氏【出羽の龜田】なども同じ。又宗氏は門内に松飾あるが、玄關の方を正面に向けて立、松を用る所椿を用ゆ。予が家は椎の枝と竹とを立て、松を用ひず。是は吉例の譯あること也。又平戸城下の町家には每に十五日迄飾を置なり。又大城の御門松も世上とは異るように覺ゆ。今は忘れたり。安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云。此餘聞及ぶには、姫路侯の家中に、もと最上侯に仕たる本城氏は、松は常の如く拵て、表へ不ㇾ立、裏に臥して置く計なり。これは昔、門松を拵たる計にて戰に出、勝利を得たる古例と云ふ。又同家中に、もと名波家に仕たる力丸氏の門松は、一方計に立てゝ、左右には不ㇾ設。就ては上の橫竹なければ、付る飾も無し。是も半ば拵かけ、戰に出でゝ勝利の佳例と云。又直參衆の曽根内匠は竹を切らず、中より下の枝を去り、長きまゝにて立てゝ、末葉をつくる。横に結ぶ竹もこれに同じ【小川町に居と云】。又佐竹侯には門松なし。是も何か困厄の後、勝利の例と云。御旗本衆の岡田氏も門松なし。其故事は未だ聞ず。これは織田家家老の家なれば、古きわけもあるなるべし。又聞く。新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと。又予が若年の時、上野廣小路の一方は、大抵買女家にて、所謂私窩なり。此戸外にも皆内向きに立たり。其前道は登山の閣老、參政、大目附、御目付など往還あるに、私窠の業を押晴て目立つやうにせしはいかなることにや。その邊寬政中より業を改めて、尋常の商家となれり。

■やぶちゃんの呟き

「殊る」「ことなる」。

「福岡候支侯」この当時存在した福岡藩支藩は秋月藩。

「佐嘉侯」「さが」。佐賀藩主家鍋島氏。

「對馬の宗氏」対馬府中藩藩主家宗(そう)氏。

「是は吉例の譯あること」後に出るような、過去の招福の特異な出来事或いは伝家の伝承に由来するものであるという謂い。

大城」「だいじやう」か。本城の謂いであろう。

「安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云」旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた磐城平(いわきたいら)藩藩主家安藤氏。これは後の「甲子夜話卷之七」の「安藤家門松の事」で個別に語られている。フライングして本文を示す。特異的に読みを歴史的仮名遣で推定で振った。

   *

7-18 安藤家門松の事

前に安藤侯の門松は、故事あつて官より立ラルゝことを云へり。後此ことを聞くに、或年の除夕(ぢよせき)[やぶちゃん注:大晦日。]に、神君安藤の先某(さきのなにがし)と棊を對し、屢々負たまひ、又一局を命ぜらる。某曰、今宵は歳盡なり。小臣明旦の門松を設けんとす。冀くは暇を給はらんと。神君曰、門松は吏を遣(やり)て立(たつ)べし。掛念(けねん)すること勿れ、因て又一局を對せられて、神君遂に勝を得玉(えたまひ)しと。自ㇾ是(これより)して依ㇾ例(れいによりて)官吏來(きたり)て門松を立つとなり。又今安藤侯の門松を立(たつ)るとき、御徒士目附其餘の小吏來(きた)るに、其勞を謝するに、古例のまゝなりとて、銅の間鍋(かんなべ)[やぶちゃん注:燗鍋。「ちろり」のようなものであろう。]にて酒を出(いだ)し、肴は燒味噌一種なり。これ當年質素の風想ひ料(はか)るべし。

   *

ここに出る「先某」は、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)によれば(前の磐城平藩藩主家安藤氏の情報もここに拠る)、安藤重信(弘治三(一五五七)年~元和七(一六二一)年:三河出身。徳川家康・秀忠に仕え、「小牧・長久手の戦い」・「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で功を立てた名将。この間、慶長一六(一六一一)年には老中となっている)とある。以下、先に出た対馬藩宗家のそれは「松飾り」ではなく、「椿飾り」と呼ばれたこと、『しかも、門内に玄関を向いて立て』、『これは往来を背中にしているため』、「背中合わせの松飾り」と呼ばれたとある。この筆者『鳥越の平戸藩松浦家では椎の木の枝と竹を立てたため、「椎の木飾り」と』呼んだともある(引用元は三田村鳶魚「江戸の春秋」の「お大名の松飾り」)。

「拵て」「こしらへて」。

「計」「ばかり」。

「門松を拵たる計にて」立てる暇もなく、門の内側、家「裏」(いえうち:本文「裏」は「うら」ではなく「うち」と訓じていよう)に地面に横にして置いたまま「戰」(いくさ)「に出」(い)でたところが「勝利を得た」、その「古」吉「例」に基づく仕儀だというである。

「名波家」上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市及び佐波郡玉村町)に拠った戦国時代の那波氏のことか。

「不ㇾ設」「まふけず」。

「上の橫竹なければ」意味不明。一本だけ竹を立てるだけで、左右の横に竹を添えないということと採っておく。

「内匠」「たくみ」。

「困厄」難儀。

「新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと」(「不ㇾ出」は「いでず」だが、「表兆」は読みが判らん。「へうてう」か? 客へ示す予祝(自身の商売繁盛)の呪(まじな)いの意ではあろう)内を正面に立」(たつ)「る」というのは、廓内の往来方向ではなく、見世の入口の左右で廓内へ向けて逆向きに立てるということであろう。門松は「入口」であるから、福たる客には「出口」はない、客が出て行かない、繁盛する、という類感呪術的手法である。前に出した「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)には、これも「背中合わせの松飾り」の一例として書かれてあり、『三田村鳶魚は、お大名の松飾りの説明の中で吉原の門松も背中合わせに飾ると書いてい』るとし、『吉原では、松飾りを見世の方に向け』て立てた、『向こう側の店でも同じように立てるので、道の真ん中に背中合わせの形で立てられ』たあり、『そのため、「背中合わせの松飾り」と呼ばれ』たとする。『門松は、店先に相対するように』二~三間(三・六四~五・四五メートル)『離して立てた』とされ、『有名な清元の「北州(ほくしゅう)」に』は(大田蜀山人作詞という)し、

 霞のえもん坂 えもんつくろう初買(がひ)の

 袂(たもと)ゆたかに大門の

 花の江戸町京町や

 背中合はせの松飾り

とあるとあって、『このように門松が立てられてのは、お客さまが外に出ないようにというまじないだったよう』だとする(ここに「甲子夜話」の本条のことも記してある)。また、『この「背中合わせの松飾り」を詠んだ川柳が残されてい』るとして、

 門松を吉原ばかり向こふに見

 松飾り後ろを向ける別世界

と掲げられてある。

「買女家」「ばいぢよや(ばいじょや)」で、非公認の売春宿のことであろう。

「私窩」「しくわ(しか)」。「私窩子(しくわし(しかし))」で「淫売婦・売春婦」のことであるから、ここはその棲み家で同前。後の「私窠(しくわ(しか))」も同じい。

「登山」私は差別化するために「とうさん」と読む。登城(とじょう)のこと。

「閣老」幕府老中の異称。

「參政」各大名の家老の異称。

「業」「わざ」。幕府が禁じている私娼の商売。

「押晴て」「おしはれて」か。「おし」は強意の接頭語、「晴れて」は、正月の特殊な「ハレ」の時の儀式とは言え、非公認の犯罪である売春宿がかくも幕閣や御家人の眼に平然と立ち並んで「目立つやうに」あるのは如何なものか、と過去の静山は感じたと言うのである。

「邊」「あたり」。

「寬政」一七八九年から一八〇一年。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで、安永四(一七七五)年二月十六日に祖父松浦誠信(さねのぶ)の隠居により、満十五歳で家督を相続している。寛政の前の天明は一七八一年から一七八九年まで、その前の安永は一七七二年から一七八九年までだから、静山の曖昧宿の不快な記憶は安永後期から天明の初め頃であろうか。

2018/05/11

甲子夜話卷之四 31 西金居士極の事

 

4-31 西金居士極の事

畫家狩野氏、古畫の鑑札を出すに、西金居士と稱する者あり。西金と云人西土に有るを聞かず。無稽の言なりと洞齋語れり【佐竹侯の畫臣菅原氏。畫學に通ぜり】。後又、住吉内記が【廣尚】云しは、西とは漢土をさし、金とは金代のこと、居士は廣く其人と云如し。狩野家の所鑑を傍觀するに、畫趣と筆旨とを以て、西金と稱して必一人にあらずと云ふ。今試に狩野家鑑札の文を載す。曰、許魯齋像致一覽候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押と。是ますます可ㇾ笑は、許衡は元人なるに金人の畫あるべきや。餘り文盲なることなり。

■やぶちゃんの呟き

「西金居士極の事」「せいきんこじきはめのこと」。ここに書かれているように、「西金居士」というのは、中国には実在しなかった、日本人が捏造した架空の中国画家である。しかし、ここにあるように捏造は念が入っており、恰も過去に於いて、しかも本邦で生きていて、書画を描いたかのように「印章」まで作られ、印譜(但し、とんでもない偽書)にまで収録されているのである。「東京国立博物館」公式サイト内の東洋室研究員塚本麿充氏の『江戸時代が見た中国絵画(3)いくつもの「中国絵画史」へ―江戸の中国絵画研究―』という記事を読まれたい。いや、それどころか、近代以降、現在でも実在を信じている人が、日本のみならず、中国にもいるらしい。大村西崖編になる大正一〇(一九二一)年巧芸社刊「西金居士眞蹟十六羅漢」なるものが国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るし、中文の「百度百科」にも西居士」があり、南宋の画人で、寧波の出身であり、日本に絵が流れて残るとか、「浙江古代画家作品集」という図録に載る、というようなことが書かれてあるのである。これ、本当に架空の人物であるなら、国際的に、相当、罪作りなことである。「極」(きはめ)は見極め、鑑定のことらしい。

「狩野氏」室町幕府御用絵師狩野正信を始祖とする日本絵画史上最大の画派狩野(かのう)派。室町中期(十五世紀)から江戸末期まで約四百年に亙って、常に画壇の中心にあった専門画家集団。後の鑑定文に「養川院惟信」と出るから、これは狩野惟信(これのぶ 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)で、木挽町(こびきちょう)家狩野派第七代目絵師である。因みに、筆者松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜である。

「鑑札」鑑定書。

「云人」「云ふ人」。

「西土」後にも出るが「漢土」、中国のこと。

「洞齋」「佐竹侯の畫臣菅原氏」菅原洞斎(すがわらどうさい 宝暦一二(一七六二)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の狩野派の絵師。思文閣の「美術人名辞典」では(生没年もそれ)、江戸生まれで、『仙台侯に仕え、鑑定家としても知られる』とあるが、別なネット記載では、秋田佐竹藩士で名絵師谷文晁の妹(紅藍)の婿となった人とあった。よく判らぬ。滝沢馬琴の書簡の来信に同名がある。

「住吉内記」「廣尚」住吉広尚 (天明元(一七八一)年~文政一一(一八二八)年)は江戸後期の住吉派を起した画家。土佐絵の絵師住吉広行の長男で、父の跡を継いで幕府御用絵師となった大和絵の鑑定に優れていた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「金代」ここは一一一五年から一二三四年にかけて、中国の北半分を支配した女真族の征服王朝である金(きん)であろう。そうでないと最後の「可ㇾ笑は」(「わらふべきは」。失笑せざを得ないのは)が生きてこないからである。

「居士は廣く其人と云如し」これは「居士とは広く、ある人を指して「その人」と言うような汎称二人称のようなものに過ぎない」の意であるようだ。但し、本来は「居士」と言った場合は「処士(しょし)」と同義で、「学徳がありながら、官に仕えず在野にある人」への敬意を含んだ呼称である。

「所鑑」鑑定文書。

「必」「かならず」。

「一人にあらず」一人の絵師ではあり得ない。一応、そこは見抜いていたらしい。

「許魯齋像致一覽候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押」書き下すと、

 許魯齋の像は一覽致し候ふ所、「西金居士」が正筆にて候-畢(さふら)ひぬ。辰十一月四日。養川院惟信押(あふ)

最後は養川院惟信の花押であろう。「許魯齋」は後に出る許衡(きょこう 一二〇九年~一二八一年)で、彼は元初の学者(「魯斎先生」とも称した)である。「辰」狩野惟信の没年は文化五(一八〇八)年戊辰の一月五日であるから、寛政八年丙辰(一七九六)年か、それ以前の辰年であろう。

 

2018/04/21

甲子夜話卷之四 30 宇和嶋侯、御料理頂戴のとき豪飮の事

 

4-30 宇和嶋侯、御料理頂戴のとき豪飮の事

宇和嶋少將【伊達村侯】壯年の頃か、殿中饗應御料理頂戴ありしとき、御酒の酌に出たる御番衆に向ひ、御祝儀の御饗禮なり、これにて頂戴すべし迚、椀を出されけるに、御給仕の衆つぎかねて扣たるを、恩賜のものなり、是非と申ゆゑ、酌をせしに、滿椀を一息に飮ほし、今一つ迚二椀まで傾たり。その御番衆もあきれて御酌を引しと云。

■やぶちゃんの呟き

「宇和嶋侯」「甲子夜話卷之三 32 伊達村侯【遠江守】、人品の事」と同じく、伊予国宇和島藩第五代藩主伊達村候(だてむらとき 享保一〇(一七二五)年(或いは享保八年とも)生~寛政六(一七九四)年)のことであろう。そこにも『常に酒を好めり』と出る。

「椀を出されけるに、御給仕の衆つぎかねて扣たる」「扣たる」は「ひかへたる」。持参した大振りの茶椀(将軍家より拝領した恩賜の茶椀ではある)で、殿中饗応(将軍家がホスト)の席上では例のない、ある意味でホストへの失礼な仕儀であったことから、相手をした御番方が吃驚し、躊躇もしたのであろう。

「傾たり」「かたむけたり」。

「御番衆もあきれて御酌を引し」「引(ひき)し」。そのマイ椀が相当な量が入るものであったから、それを二杯まで一気飲みされては、万一、酔って粗相があっては酌をした御番方も咎められると考えて、三杯目を所望される前に、そそくさと退いたのだろう。

 

2018/04/09

甲子夜話卷之四 29 御當家御舊例、御年男の事

4-29 御當家御舊例、御年男の事

或人語る。都城にて年男の役は、老職年﨟の衆勤らるゝ也。舊式にて、年男を勤し人に、おしきの膳に椀を添、その上靑銅二貫文下さる。草履取にも、少し品は下れど、同じく膳椀、靑銅三百文下さるとなり。此事は、公方家いまだ御小身にてあられしとき、老職の人も、僕一人を隨て登城せし御吉例なるべし。又年男より、大奧のはした女中一人に、帶一筋を贈る。これも當年、僅の女中の中帶を乞求しものありしよりの佳例なりとぞ。又年男の居りと云もの出來て、上の御鏡餠と大さ一樣にして、御殿にあることなり。七種畢りて、上の御居りと一同に、年男へ賜はることなり。是も外方には聞ず。珍しき例なり。

■やぶちゃんの呟き

「年男」「としをとこ」。正月行事を司る役の男性。

「おしき」「折敷」。「をしき」が正しい。檜の折(へ)ぎ(薄く削った板)で作った縁(ふち)附きの盆。通常は方形で、食器などを載せる。

「靑銅二貫文」鳥目(ちょうもく:銅銭)二百文は一両の二十分の一。幕末で一万円相当。

「公方家」将軍家。ここは徳川家康のこと。

「隨て」底本編者は『したがへて』とルビする。

「はした」「端」。ごく下級の召使い。

「僅の」「わづかの」。ごく下級の、或いは、(人数が)数少ないの意であろう。

「乞求し」「こひもとめし」。

「年男の居り」「としをとこのすはり」。これで一語で、本文文脈から、特別仕立ての鏡餅の呼称であることが判る。

「七種畢りて」「ななくさをはりて」。人日の節句である一月七日(「松の内」の最終日に相当)が過ぎて。現行では通常、所謂、「鏡開き」は一月十一日に行われる。これはウィキの「鏡開きによれば、『元々は松の内が終わる小正月』(旧暦一月十五日)の後の一月二十日に『行われていたが、徳川家光が亡くなったのが』慶安四(一六五一)年四月二十日であったことから、それ以降は一月二十日を『忌日として避け、後に松の内』『後の』一月十一日 とされた、とある。

 

2018/03/30

甲子夜話卷之四 28 星野久務が事

 

4-28 星野久務が事

星野久務と云し坊主衆あり。質朴にして、常におかしきこと言ふ男なりき。その家は、御入國前よりの者なりと聞ゆゑ、予、或時、久務に久しき家なり迚賞しければ、久務手をふりて、是は御沙汰なしと云ふ。何かにと言へば、御推量も下され候へ。今雁間の御大名は、皆其始めは小身の御人達なり。然を今は城主、又は何萬石など御昇進にて、歷々の御勤なり。僕が家は、神祖の御始より奉仕候へども、今に坊主にて居候。古き次第知れ候ば、外聞宜しからずと云たり。予も一笑して止ぬ。後又人より聞に、參遠の頃より、子孫引續たる六尺多くありとなり。是亦憐れむべし。

■やぶちゃんの呟き

「星野久務」不詳。茶坊主なので「ほしのきゅうむ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「坊主衆」茶坊主衆。将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕及び来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに、芥川龍之介の養家芥川家は、この末裔であった。

「御入國前よりの者」神祖家康公が江戸の入府なされる以前からお仕えしていた者。

「聞ゆゑ」「きく故」。

「迚」「とて」。

「是は御沙汰なし」この場合の「沙汰」は「話題として取り上げること・噂にすること」の意で、「いえいえ! このことは少しもどなたもお取り上げになって語られることは、ないので御座います」の意。

「何かに」「いかに」。「どうしてじゃ?」。

「雁間」「かりのま」。江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ伺候席(しこうせき:控の間。)の一つで、『幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。老中や所司代の世子も』、『この席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名とは異なり』、『毎日』、『登城するため、幕閣の目に留まり』易く、『役職に就く機会が多かった』とある(ウィキの「伺候席」に拠る)。

「小身」「せうしん(しょうしん)」。身分が低いこと。俸禄の少ない下級武士。

「僕」古式に「やつがれ」と訓じたい。相手に対して遜った気持ちで用いられた謙遜の一人称。

「知れ候ば」「しれさふらへば」。知ってしまっておりますので。

「外聞宜しからず」ここはやや特殊な用法である。星野家が歴々の大名衆の祖のかつての有様を知っている故に、久務のことを悪しく言う者は恐らくあまりいない代わりに、何か家祖の情けない話を存じているかも知れぬと疑心暗鬼になり、煙たがる御仁が多く、結果的に彼の評判は悪くはないが、宜しくもないと言うのであろう。

「止ぬ」「やみぬ」。ここより後は一般の伝聞話で星野個人の話ではない

「參遠の頃より」遠江より江戸へ家康公とともに江戸へ従って参った頃から。

「六尺」「ろくしやく」は「陸尺」とも書き、武家に於いて、駕籠舁(か)き・掃除夫・賄(まかな)い方などの雑役に従った人夫の総称。江戸城内に於いても「六尺」の名で呼ばれ、奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など、実にその総勢は数百人に及び、彼らに支給するために天領から徴集した米を特に「六尺給米」と呼んだ(以上は平凡社「マイペディア」に拠った)。

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