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カテゴリー「「甲子夜話」」の213件の記事

2020/02/04

甲子夜話卷之六 6 いちめ笠の說

 

6-6 いちめ笠の說

古畫に圖せる婦女の、深き笠の頂に隆きところある物を冒れる、多く見ゆ。此をいちめ笠と謂ふと聞けり。後或人の話れるは、今も吉野の奧より、木を用て作れる深き笠を出す。其名をおちめ笠と謂ふ。其故は、亂世に平氏の人落行て、此山中にて製し出せる物なれば、おちめ笠と云となり。然どもこれは後人の附會にして、おちめいちめは語音の轉訛なるべし。吉野に有るは古風の傳はりたるまでのことなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「冒れる」「かぶれる」。

「いちめ笠」市女笠。平安以降の代表的な女性用の被り笠。雨の日や旅行には貴人もこれを用いた。初期のものは傾斜が急で深く、頂きに巾子(こじ)と称する有意に突出した部分があるのが特徴であったが、後代になると、次第にそれが浅くなり、膨らんだ形に変っていった。元来は菅(すげ:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex)を用いた縫い笠と推定されているが、後には黒漆の塗り笠が普通になった。旅行に際しては、笠の縁に「牟子(むし)の垂衣(たれぎぬ)」と呼ぶ苧麻(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の薄い垂れ布を下げることもあり、衣服の裾をすぼめて折って、市女笠を被った姿は壺装束として知られている。名は、初め、市に出る物売りの女性が被ったことに由来する(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠る)。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が被っていたやつさ。

「話れるは」「はなされるは」。

「おちめ笠」この呼称は今に伝わっていない模様である。

2020/01/16

甲子夜話卷之六 5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

6-5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

天海僧正は、神祖の御時より眷注を被りし長壽の人なり。一日猷廟の御前にて柹を賜ふ。喫して其核を懷にするを御覽ぜられ、僧正何にするよと問はせられければ、持歸て植候と答ふ。仰に、高年の人無益のことにとありければ、天海申すは、一天四海を知しめさるゝ御方は、かゝる性急なる思召然るべからず。無ㇾ程この柹の生立上覽に呈せん迚、退出せり。年を經て、僧正柹を多く器に盛て獻上す。猷廟いづくの產物ぞと御尋ありしに、左候、これは先年拜受せし柿核の、生長して所ㇾ實なりと申上ければ、上を始め奉り、その席に有合ふ諸人、歎服せざるは無りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「大猷廟」徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年:将軍在位/元和九(一六二三)年から没年まで)。

「天海僧正」(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年:この生年が正しいとすれば実に数え百八歳)は、天台僧。号は南光坊。諡号は慈眼大師。会津出身。比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬し、江戸上野に寛永寺を創建、天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願した(完成は没後)。事蹟のよく分からない部分がある謎の家康のブレーンで、実は明智光秀が生き残って彼となったという珍説さえある。本篇が何時の出来事であるか不明であるが、家光が将軍職となった年だとしても、推定生年からは八十七歳である。

「眷注」特に目にかけてそばに置いたことを指すようである。

「核」「たね」。

「生立」「おひたち」。

「所ㇾ實なり」「所」は使役で「みのらしむるなり」「みのりせしむるなり」であろう。

2019/12/25

甲子夜話卷之六 4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

6-4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

神祖、京の丸山を駿府へ御移しなされ、福田寺を刱建ありしときの御歌とて、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の月かげ

其時の御用に掛りしとて、後藤庄三郞が家に傳ふ。又關原御陳前、高野山聖方總代常住光院へ賜りし、御眞蹟の色紙今に山に傳ふ。

 旅なれば雲の上なる山こへて

      袖の下にぞ月をやどせる

此外御寄附の品々ありと云【右、林氏の小錄を移寫す】。

■やぶちゃんの呟き

恐らくは条末にある割注は本条のみでなく、前の三条、「甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず」 2 定家卿詠歌」「同 3 詩歌降たる事」をも、内容からみて、総て含むものであろう。

「神祖」徳川家康。

「京の丸山を駿府へ御移しなされ」家康は江戸幕府開府(慶長八(一六〇三)年)以前には駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地にしたいという願いがあった。慶長四(一五九九)年、鷹狩をしていた家康が賎機山(しずはたやま:標高百七十一メートル。現在の静岡県静岡市葵区内。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))の麓で休憩した際、その辺りが京の円山の景色に似ているとして、翌慶長五年に京都円山の時宗慈円山安養寺の僧徳陽軒を招き、同山の南山麓に福田寺を創建した。境内には「流れ井」と称し、駿府城から湧水を引くなど、万事、京都風の設えとした。近くに鎌倉末期の文保元(一三一七)年創建の時宗安西寺があったことからその末寺となり、この一帯にも「丸山」という地名が与えられ、この福田寺の創建には金座役人として「駿河小判」の鋳造を担った後藤庄三郎光次が尽力した。福田寺は近代の明治四二(一九〇九)年になって安西寺に合併され、丸山の福田寺跡に安西寺を再興された。

「刱建」「さうけん」。創建に同じい。

「松高き丸山寺の流の井幾とせすめる秋の月かげ」本注で参考にさせて戴いた「安西寺」公式サイトのこちらによれば(古地図・写真有り)、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の夜の月

とし、慶長御(一六〇〇)年九月十三日に家康公が福田寺で詠んだ一首で、『この歌にちなみ、この地を丸山と言い、山号』が『「秋月山」とな』とあり、現在、『駿府の名水「流れ井」の傍らには』、宝暦三(一七五三)年に『建立された「流井の碑」が残ってい』るとある。

「後藤庄三郞」近世(江戸開府前)の金座の当主、以降、江戸幕府の御金改役(ごきんあらためやく)に与えられた名称。ウィキの「後藤庄三郎」によれば、『初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後』、『世襲制の家職となった』。文禄二(一五九三)年、『橋本庄三郎は徳川家康と接見し』、二年後の文禄四年には『彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが』、『疑問視されている』。『庄三郎の本姓は山崎との説もある』。『庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる』。『庄三郎は徳乗と家康に後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた』。『当時、判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造の構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが』、『庄三郎が江戸に下向した当時』、『鋳造された関八州通用の領国貨幣であるとされている。』。『後藤庄三郎光次は文禄』四『年に江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。この地は現在、日本橋本石町の日本銀行本店所在地にあたる』。また、慶長六(一六〇一)年には京都に、江戸幕府開幕後の慶長一二(一六〇七)年には駿府に、また、元和七(一六二一)年には佐渡に、『後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始した。さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。しかし』、『二代庄三郎広世以降は金座支配のみにとどまった。また、庄三郎光次は文禄五(一五九六)年三月付の『後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限りと宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に京都の後藤宗家も黙認したとされる』。『天領の金山から産出する公儀の吹金』(ふきがね:灰吹法(はいふきほう)による金・銀の抽出法による金銀の別称。金銀を鉱石などから、一旦、鉛に溶け込ませ、更にそこから金や銀を抽出する方法を言う)『を預り、小判に鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高』十『両につき金目五分であったが、後に後藤手代の取り分は吹高』一千『両につき』十『両と定められた』とある。

「關原御陳前」関ヶ原の戦いで「陳(ぢん)」(=陣)を張る前に。

「高野山聖方總代常住光院」「高野山聖方總代」の「常住光院」。江戸時代の高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の高野三方(三派)から成り立っていた。その当時の「聖方」の総代であった「常住光院」の謂いである。

「旅なれば雲の上なる山こへて袖の下にぞ月をやどせる」(「こへて」はママ)かの佐佐木幸綱のブログ「ほろ酔い日記」の「戦国武将の歌10 徳川家康 1543年(天文11)~1616年(元和274歳」に、『こんな歌とエピソードがあります。川田順『戦国時代和歌集』が引用する近藤重蔵』の「冨士之煙」に『出てくるものです。慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の戦陣において、高野聖(こうやひじり)の総代・高野山常光院の僧へ家康が与えた歌だというのです。本当でしょうか。日付を見てください。関ヶ原の戦いのその日のことです。陣中見舞いの品を持ってきた高野聖に、家康が書き与えたというのです』。『関ヶ原の戦いは、九月十五日午前八時ごろ本格的な戦闘がはじまり』、『午後四時ごろには終結したとされています。その夜、書き与えたのでしょうか』とされて、

 旅なれば雲の上なる山こえて袖の下にぞ月をやどせる  徳川家康

(軍旅であるから、雲の上にそびえる山をも越えてきて、今宵は、わが鎧の袖の下に月下の夜景をながめたことである)

「冨士之煙」の『著者・近藤重蔵は、信頼していい人物と思われます。クナシリ・エトロフの探険で知られる幕末の探検家で、著書も多くあります。彼によれば、「大権現様(徳川家康)御真筆の御色紙」が、当時は高野山常光院に現存していて、彼自身がそれを写した、とあります』とある。

2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

2019/08/05

甲子夜話卷之六 3 詩歌降たる事

 

6-3 詩歌降たる事

同上云。近時詩道降りて小巧を爭ふことになり、大雅の風は響を遏る計なり。然れども小巧ゆへ、よく言おゝせておもしろきこともあり。「隨園詩話」の中に見へし、人無キハ風趣官常、几琴書などは、前人の言ざる所を言て、世の中の事にいと切當なり。されど言たる迄にて餘味なし。唐の員半千が、冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己は、世態を言おおせて、又限りも無き餘情に咏歎を含めりと。

■やぶちゃんの呟き

「降たる」「くだりたる」。格調や品位が有意に下がってしまった。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「定家卿詠歌」を指すので、話者はまたしても、林述斎。

「小巧」「しやうこう(しょうこう)」小手先の修辞技巧。

「大雅」「たいが」。「詩経」の分類の一つ。三十一篇から成る。「詩経」の詩の六つの類型である六義(りくぎ:「詩経」の詩群をその属性・内容から分類した「風(ふう)」・「雅」・「頌」(しょう)に、表現法から分類した「賦」・「比」・「興(きょう)」を合わせた総称)の一つである「雅」を「小雅」(七十四篇)とともに構成する。周王朝の儀式・宴席などで歌われた詩で、周の歴史を主題とした叙事的内容のものもある。

「風」「ふう」。風流。雅(みやび)さ。但し、上記の「詩経」の六義の「風」(各地の民謡を集めた「国風(こくふう)」で百六十篇から成る)のそれも利かせた(「大雅」が宮廷の祝祭歌であるのに対し、こちらは土地に根ざした民衆の唄である)謂いであろう。

「響」「ひびき」。

「遏る」「とどめる」。「結滞してしまっている」或いは「絶えてしまっている」。

「計」「ばかり」。

「隨園詩話」清代の詩人袁枚の詩論。袁枚は前条の「定家卿詠歌」で既注。

「人無キハ風趣官常、几琴書」訓読すると、

 人 風趣無きは 官 常に貴(たふと)く

 几(き)に琴・書有る家は 必ず 貧し

である。但し、「隨園詩話」の巻十四には以下のように出る。

余有句云、「人無風趣官多貴。」。一時不得對。周靑原、對、「案有琴書家必貧。」。吳元禮、對、「花太嬌紅子必稀。」。

従って、これは最初の句が袁枚で、それに、袁枚の友人で工部侍郎であった周青原が対句して和したというのが正解である。なお、「案」(あん)は中国の台状の机や食盤のことで「几」とは同義的ではある。「案」は、一般に、長方形の板に、概して短い足が附いたものを指し、漆が施されているのが普通で、板上には菱形紋・雲気紋・動物紋などが描かれることがある。戦国時代の古墓から既に出土している。

「言ざる所を言て」「いはざるところをいひて」。

「切當」「せつたう(せっとう)」で、適切にして能(よ)く目的に適(かな)っていること。

「餘味」風雅な余韻。

「員半千」(六二一年~七一四年)は初唐末の官人で詩人。

「冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己」訓読すると、

 冠冕(くわんべん)醜(はづかしむ)ること無き士も 賄賂(わいろ) 知己を成す

で、「冠冕」は「冕冠(べんかん)」で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した冠(かんむり)。冠の上に冕板(べんばん)と呼ばれる長方形の木製の板状の物を乗せ、冕板前後の端には旒(りゅう)と称する玉飾りを複数垂らしたもの。旒の数は身分により異なる。全体の意味は恐らく、「高官たることを汚して恥をかくことがない士大夫(階級)の高潔に見える立派な人物であっても、賄賂とは必ず仲が良いものだ」との謂いであろう。これは員半千の五言排律(推定)「隴右途中遭非語」の一節。中文サイト「中華詩詞網」のこちらで全篇が読める。

「言おおせて」ママ。歴史的仮名遣では「言(いひ)おほせて」でなくてはおかしい。漢字では「果せる」「遂せる」と書く。

「咏歎」「詠嘆」に同じい。

 

2019/07/23

甲子夜話卷之六 2 定家卿詠歌

 

6-2 定家卿詠歌

同上云。定家卿を世に歌人とのみ思へり。歌は其苴餘にて、志のありし人とこそ思はるれ。

 苔の下に埋れぬ名を殘すとも

      はかなの事や敷嶋の道

これを以て其懷抱おしはかるべきなり。杜少陵の、名豈文章サンヤ、官老病と云も、詩人の詩には非ず。近時袁倉山が、每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章など作りしも、亦其流亞なり。

■やぶちゃんの呟き[やぶちゃん注:2019年7月26日全改稿。]

なお、袁枚の詩の「唯」の「〻」は、底本では踊り字「〱」であるが、私の判断で「〻」に代えた。近代以前の踊り字は通用の統一的規則はないから、これは静山の好みのそれであったと判断する。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「林子、古歌を辨ず」を指すので、話者は林述斎。

「苴餘」「しよよ(しょよ)」。見かけない熟語である。「苴」は当初、最悪の卑意である「塵・芥」かとも思ったが、それでは一世の歌人の彼にして自らかく比喩するのは、余りに哀しい。「詠草」と言うように、歌に草を掛けて「苴」の原義である「下草」の意で採るならば、謙遜としての「もて遊びの、詠み捨ての、価値のない、下萌えの雑草」、「余りものの、どうということのない戯れ、一抹の余技」というような意味ではないかと思われる(そう採っておく)。

「志のありし人とこそ思はるれ」ウィキの「藤原定家」の「政治家として」の項によれば、『定家は藤原道長の来孫(』五『代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった』。『定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受ける』『など』、『波乱に満ち』ており、『長年』、『近衛中将を務めながら頭中将にはなれず』、五十一『歳の時に』、『漸く公卿に達したが』、『それさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや』、『政務の中心に参画することを希望していたことは』、「明月記」などから『窺い知ることは可能である。そして』寛喜四(一二三二)年一月、『定家は二条定高の後任として』、七十一『歳にして念願の権中納言に就任する。当該期間の』「明月記」の記述は、『ほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって』、『定家がたびたび』、『上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。だが、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく』、『同年の』一二月十五日には『「罷官」(更迭)の形』『で権中納言を去ることになっ』でしまっている。『こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる』(「明月記」安貞元年九月二十七日の条)『藤原実資のよう』な『政治的な要職に就くことは』遂に『適わなかった』。『また』、二『代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元』(一二二五)年七月には、『同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の』十二『月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年』一『月に父が自分の妻を追い出し』、『権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している』。『その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず』、「次将装束抄」や「釋奠次第」など、『公事や有職故実の書を著した背景には』、『自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている』とあるのは、静山の意味深長な謂いが、決していい加減な憶測ではないことを物語っているように読める。

「苔の下に埋れぬ名を殘すともはかなの事や敷嶋の道」「拾遺愚草」の一五八三番(冷泉為臣編「藤原定家全歌集」一九七四年国書刊行会刊の番号)に、

 苔のしたにうつまぬ名をはのこすとも

    はかなのみちやしきしまの哥

とある。

「杜少陵」詩聖杜甫(七一二年~七七〇年:享年五十九)の号。

「名豈文章サンヤ、官老病」杜甫の五言律詩「旅夜書懷」(旅夜、懷(くわい)を書す)の頸聯。所持する岩波文庫版「杜詩」(第五冊所収)によれば、七六五年(数え五十四)の秋、忠州より長江を下った旅中の作とする。杜甫は先立つ七五八年に、宰相の房琯(ぼうかん)を弁護したことで粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市。洛陽の西二百七十キロメートル)司功参軍に左遷され、同年末に洛陽に一時戻るが、翌年、洛陽を中心とした関中一帯が飢饉に見舞われたことから、遂に官を捨て、食を求めて秦州(甘粛省天水市)を経て同谷(甘粛省隴南市成(せい)県)に移るが、餓えますます甚だしく、橡栗(ドングリ)や黄独(山芋の一種)などを食って凌いだ。翌七六〇年、蜀の桟道を越えて成都に赴き、杜甫草堂を建てる。七六四年、厳武の推薦によって節度参謀・検校工部員外郎となったが、心楽しまず、暇を願い出て草堂へ帰った。翌年であるこの七六五年一月には職を辞し、五月には草堂を離れ、雲安へと至ったが、病いのためにそこに留まった。その後も各地を遍歴、七七〇年、飢えた一族郎党を連れ、襄陽・洛陽を経、長安に帰らんとしたが、湘江の舟中で客死した。岩波の「杜詩」の詩形で示す。

   *

   旅夜書懷

 細草微風岸

 危檣獨夜舟

 星垂平野闊

 月湧大江流

 名豈文章著

 官應老病休

 飄飄何所似

 天地一沙鷗

   旅夜に懷ひを書す

  細草 微風の岸

  危檣(きしやう) 獨夜の舟

  星 垂れて 平野 闊(ひろ)く

  月 湧きて 大江 流る

  名は 豈に文章に著(あらは)れんや

  官は 應(まさ)に老病に休(きふ)すべし

  飄飄(ひやうひやう) 何の似たる所ぞ

  天地 一沙鷗(いつさおう)

   *

静山の「名豈文章サンヤ、官老病」ならば、

名は 豈に文章に著さんや

官は 因りて老病に休す

と訓読しており、その意は(岩波「杜詩」を一部参考にした)、

私のような者がどうして詩文によって名声を得られようか。〈反語〉

私のような老病人は官職を退いて休むのが身分相応というものだ。

「云も」「いふも」。

「詩人の詩には非ず」「この謂いは、ただの文人趣味の御目出度い詩人、似非詩人の詩句、感懐表出ではない」という意であろう。中国文学は古代から一貫して「仕官の文学」であり続けた。そこでインキ臭い「載道」(道に載っとる)と交互に波形を描いた一方の思想的潮流は、また「言志」(志しを言ふ)でもあった。道家的で自由自在に見える李白や李賀の生涯を見ても、「仕官としての文学」がその出発点であることは明白な事実であり、その志しの大半の挫折が遊仙的思想へと赴いて行ったのであったのを考えれば、ここで静山が言っている意味も腑に落ちる。

「袁倉山」清代の文学者で、「随園食単」で食通として知られる袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年)の別号。浙江省銭塘の人。貧乏士族の出身であったが、一七三九年、進士に及第し、江蘇省の諸県の知事を歴任して治績を挙げた蛾、一七五五年、三十八歳の時、父の喪に遇って官を辞し、江寧の小倉山(しょうそう)に屋敷を手に入れ、「随園」と名づけた。以後、豪奢な生活を送りつつ、在野の詩人として活躍した。詩は真情の発露を重んじる性霊説(せいれいせつ:個性を尊重し、人の性は自由に流露するときにこそ霊妙な働きを持つとするもの。清新軽俊を詩風として掲げ、袁枚の在野の立場が反映し、広範な階層の間に行われた)を唱えて、格律を重んじる古文辞派の流れを継ぐ宮廷派(格調派)の沈徳潜(しんとくせん)と詩壇を二分した。文は古文・駢文(べんぶん)ともに優れた。人生半ばにして早々と官職を離れた彼ではあったが、静山は彼もまた、詩文というものの本質〈士大夫の詩〉を持ち続けた人物であったと静山は言っているようである。

「每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章」は、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 唯(た)だ竹帛

名を立つるは 最も小なり 是れ 文章たり

静山の「〱」は「ただ」の「た」のただの繰り返しを示す踊り字と採った。いつも情報を戴くT氏の御指摘によって、「隨園詩話」の「巻一四」に以下のように出ることが判った(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらに基づく(一部加工)。見出し№「134」条)。

   *

餘幼「詠懷」云、「每飯不忘惟竹帛、立名最小是文章。」。先師嘉其有志。中年見查他山贈田間先生云、「語雜詼諧皆典故、老傳著述豈初心。」。近見趙雲松「和錢嶼沙先生」云、「前程雲海雙蓬鬢、末路英雄一卷書。」。皆同此意。

   *

これを少なくとも静山は、「餘」=余(袁枚)が幼き時に詠んだ「詠懷」という詩の一節との謂いで採っている。「餘幼」を詩人の名とも取れるが、よく判らぬ。「竹帛」(ちくはく)は「歴史に名を残すこと」を意味する。中国では紙の発明以前、竹簡や布帛に文字を記し、書(特に史書)を記したことに拠る。なお、T氏は上記の「隨園詩話」のそれが「唯」ではなく「惟」であることに着目され、静山は「唯」と記したものの、この字でよいかどうか疑問であったために、「〱」を圏点として附し、後で確認するつもりだったのではないかという推理をされておられる。また、「惟」ならば「ただ」ではなく、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 惟(こ)れ 竹帛

で強調限定となり、その方が腑には落ちる。

「流亞なり」『杜甫のその〈仕官の文学〉〈士大夫の心意気を忘れない詩人〉としての流れを「亞」(つ)ぐものである(無論、定家もまた)』の謂いか。

◆やぶちゃんの追記

 私は当初、全体の解釈の内、杜甫と袁枚を静山が貶めた存在として批判したというトンデモない解釈をしていた。T氏の情報とその解釈への疑問の指摘を受けて、以上を全面的に書き改めた。これは恐らく、私が激しい短歌嫌いであり、これまた、特に、現実の凄惨な俗社会と超越して乖離していることを当然の立場としていた藤原定家を激しい嫌悪対象としていることに始まった曲解であったことは明白である。T氏に心より感謝申し上げるものである。

2019/06/14

甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず

 

甲子夜話六

 

6-1 林子、古歌を辨ず

林氏云。「碧玉集」二、

 くだる世に生れあふ身は昔とて

      しのばむほどの心だになし

今其時を去る事又數百年なれば、昔を忍ぶ人の稀なるも怪しむべからず。近き世の一節あることさへ、今は語り合ふ友も少ければ、見るにつけ聞につけつつ語り候半。間中の慰寂に、筆まめに書とり玉へ。左あらば昔忍の草、此春雨におひひろごり申べし迚、ひたものひたもの慫慂なれば、又此册を書はじめけり。

■やぶちゃんの呟き

 最後は本巻の巻頭言となっている。

「林子」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「碧玉集」「碧玉和歌集」。室町後期から戦国期の下冷泉家の公卿で歌人の冷泉政為文安三(一四四六)年~大永(たいえい)三(一五二三)年)の家集。父持為は下冷泉家の祖。正二位・権大納言。後柏原天皇時代の歌壇で活躍し、本家集は後柏原天皇の「柏玉集」、三条西実隆の「雪玉集」とともに「三玉集」と称され、重んじられた。初名は成為であったが、足利義政より「政」の字を偏諱(へんき)を受けた。所持しないので歌の校合は出来ない。

「候半」「さふらはん」。

「間中」「かんちゆう」か。一般的ではないが人の命の「僅かの間」の意味か。

「慰寂」底本で編者は二字に『なぐさみ』と振る。

「ひたもの」副詞。ひたすら。やたらと。

甲子夜話卷之五 36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事 /甲子夜話卷之五~完遂

 

5-36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事

予久しく憶ふに、古へは歌はうたふことにて有けるを、今は哥はよみ出たる計にて、うたふことなし。流俗のうたふものは、別に其詞ありて殊にいやしければ、花前月下など哥よまんとき、其詞を弦詠せん迚、其頃名ありし山田檢校【豐一】に謀れば、山田乃予が爲に、三十一文字の歌章の筝曲を作りぬ。其後、家老長村内藏助が歸邑しけるにも、又同姓伊勢守が堺の奉行となり、其地に赴しときも、予餞別の歌をよみて、其祖筵にて侍妾に弦詠せしめければ、伊勢も長村も殊更に感悅して入興しける。長村を餞せしとき、

 鶯の谷より出て峰たかき

      霞にうつる春の初こゑ

伊勢を餞せしとき、

 住の江の松と久しきやがてまた

      岸による波かへりこん日も

然るにいつか世の中にても、風雅を好めるものは此筝曲を用るとぞ。林氏このことを面白き思立なりとて、度々激賞して、後には其本を知らぬやうにもなれば、記し置けと勸るまゝ玆にしるす。

■やぶちゃんの呟き

「山田檢校【豐一】」「豐一」は「とよいち」。宝暦七(一七五七)年生まれで、文化一四(一八一七)一四(一八一七)年没。江戸中期の音楽家で山田流箏曲の始祖。都名(いちな:もとは琵琶法師などがつけた名。名前の最後に「一」「市」「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする平曲の流派は一名をつけたので、「一方(いちかた)流」と呼ばれた。後には広く一般の盲人も用いた)は斗養一(とよいち)。号は勝善、幽樵など。尾張藩宝生流能楽師といわれる三田了任の子。幼時に失明。第二十八代惣録(江戸時代に検校・勾当の上にあって盲人を統轄した官職)長谷富(はせとみ)検校門下の山田松黒(しょうこく)に師事し、寛政九(一七九七)年一月、寺家村(じけむら)検校を師として検校に登官。寛政~享和年間(一七八九年~一八〇四年)にその作風が円熟し、その一門は、それまでの江戸の生田流を圧倒する勢力となった。文化一四(一八一七)年二月、第六十八代惣録に就任したが、その二ヶ月後に没した。河東節(かとうぶし:浄瑠璃の流派の一つで、享保二(一七一七)年に江戸半太夫の門から分かれた十寸見河東(ますみかとう)が創始したもの。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている)をはじめ、その頃、江戸で行われていた各種の三味線音楽に通じ、彼の作品は、三味線音楽を箏曲化した新しい種目の音楽と評価される。門下から多数の派が生れた。主作品は「初音曲」「葵の上」「長恨歌」「小督曲(こごうのきょく)」「熊野(ゆや)」(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。静山より三つ年上。

「乃」「すなはち」。

「家老長村内藏助」(明和四(一七六七)年~文政三(一八二〇)年)は肥前平戸藩藩士で家老。京都の儒者皆川淇園(きえん)に学び、後に江戸に出て、佐藤一斎と交わった。帰藩後、藩校維新館学頭などを務め、家老となった。名は鑒(てらす)、通称、内蔵介。著作に「乙丑西帰記」「蒙古寇紀」などがある学者でもあった。

「歸邑」「きいふ(きゆう)」。帰藩。

「同姓伊勢守」松浦忠(まつらただし)であろう。文化一〇(一八一三)年から文化一二(一八一五)年まで堺奉行を務めている。

「祖筵」「そえん」。旅に出る人を送る送別(餞別)の宴席。この「祖」は道祖神のことで「筵」は席(場所)で、旅に際してそれを祀ることが語源であろう。漢語。

「住の江」大阪市住吉  の古称で歌枕。松浦の堺奉行出向に洒落たもの。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

甲子夜話卷之五 35 小宮山木工進の事

 

5-35 小宮山木工進の事

享保中、御代官にて名高かりし小宮山木工進【昌世】は、元御廣敷の賤吏より拔擢せられ、幹事の才は衆にすぐれたるものなりしとなり。小金原御狩のとき、百姓勢子のはたらき方、思召の如くならず。樣々御指麾を傳ふれども、兎角におもはしからざりしとき、木工進召せとの仰にて御前に出ければ、しかしかと御指授ありける。畏り候迚、その儘乘返して下知すれば、有合數多の百姓どもを、手足を使ふ如く自由に引廻しけるとなん。又鴻臺へ成せ玉ひしとき、數日前より北條、里見などの事ある書を檢點して、其地理古戰の次第を硏究しぬ。御遊覽の日に至り、果して此地の事心得る者や有と問せ玉へば、昌世御案内申ながら、來歷戰場の樣子など、詳明に言上せしかば、深くめでさせ玉ひしとなり。又一日御郊遊のとき、昌世路傍に蹲踞して拜し奉る。今年は作毛いかゞあらんと御尋ありければ、昌世謹で豐稔に候とぞ答奉りける。翌日老臣進謁のとき、今年諸國不登と聞しが、昨木工進に問せ玉へば、豐熟なりと云。兼て聞しめす所とは違へり。いづれか實なるべきとの仰なり。老臣退て司農官を呼び、木工進を詰問せしむ。木工進申けるは、今年の凶荒は衆の知る所なり。上より實に豐凶を問玉はんには、上に執政あり、下に奉行あり。各其順次を以て某に問玉ふべし。その時は實を以て答申さん。昨の御遊、殊に御機嫌もうるはしく、御興がてら御言葉を玉はりしことと存候へば、臣も亦御興を添奉らんと思ひて、答奉りき。もし凶荒と申さば、御遊興の中、俄に御憂念をも生じ奉らんやと、斟酌して申上つるまでなりと申けり。其次第、老臣より言上せしかば、いと御機嫌なりしとなん。又月光大夫人、飛鳥山へ遊ばせ玉ひしが、道より驟雨降出しければ、先金輪寺に雨を避させ玉ひしに、程なく雨は止たれど、木履無くては、山上の芝地露滋く、いかゞあらんとありしに、陪從數百の女中の履、俄に辨ずべきにあらず。とやかくと人々申合うち、折節金輪寺修繕のことありて、匠作局より運置し杉の貫板あまた有しを、いつか木工進かりの木履に作り出して、立所に辨ぜり。大夫人の遊山、陪從の輩少しもさゝはらざりしとなん。其機智敏捷なる、皆此類なりしと。

■やぶちゃんの呟き

「小宮山木工進」「こみやまもくのしん」と読む。平凡社「世界大百科事典」によれば、江戸中期の代官。生没年不詳。初め「源三郎」、後に「木工進・杢進・杢之進」と称した。字は君延、号は謙亭。辻弥五左衛門守誠(もりのぶ)の四男として生まれ、小宮山友右衛門昌言(まさとき)の養子となった。太宰春台に古学を学び、享保六(一七二一)年閏七月に幕府代官となっ。下総佐倉・小金牧の開墾などに当たり、褒賞されたこともあるが、晩年は不遇であった。「地方凡例録(じかたはんれいろく)」には、辻六郎左衛門守参(もりみつ)とともに「地方の聖」としてあげられている、とある。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「御廣敷」「おひろしき」。江戸城本丸と西の丸の大奥の側に設けられていた大奥勤務の役人の詰所。広敷用人以下の役人が詰め、大奥の総ての事務を司った。

「小金原」現在の千葉県松戸市小金原(こがねはら)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御狩」第八代将軍吉宗のそれ。

「御指麾」「ごしき」。「指麾」は「指揮」に同じ。「麾」も「揮」ももとは軍勢の指揮を執る旗の意。

「有合數多の」「ありあふあまたの」。

「鴻臺」「こうのだい」。旧下総国の国府が置かれた、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「北條、里見」後北条氏と安房里見氏。両者は二次に亙る「国府台合戦」(天文七(一五三八)年、及び、永禄六(一五六三)年と翌年にかけての第二次合戦に大別される)の両雄。詳しくはウィキの「国府台合戦」を見られたい。

「作毛」稲の出来。

「不登」吉宗の問いであるので「ふとう」と音読みしておくが、訓じて「みのらず」とも読める。

「某」「それがし」。

「月光大夫人」第六代将軍徳川家宣の側室で、第七代将軍徳川家継の生母であった月光院(貞享二(一六八五)年~宝暦二(一七五二)年)本名は勝田輝子。家宣が死去して後、月光院と呼ばれた。父は元加賀藩士で浅草唯念寺住職勝田玄哲。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある区立公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都内の桜の名所の一つ。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。また、『「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(』二十五・七『メートル)よりも低い山ではないかとして』、二〇〇六年に『測量を行い、実際に愛宕山よりも低い』二十五・四『メートルであることを確認したとして』、『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが』、『採択されなかった』ともある。

「先」「まづ」。

「金輪寺」「きんりんじ」。飛鳥山北西直近の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。歴代江戸幕府将軍の御膳所を務めた格式ある寺院。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「辨ず」適切に素早く処理する。

「匠作局」「しやうさくのつぼね」。「匠作」は旧修理職(しゅりしき)、木工(もく)寮の唐名。

「運置し」「はこびおきし」。

「貫板」「ぬきいた」貫(ぬき:柱と柱との間を横に貫いて繫ぐ材木)に用いる板材。

2019/06/13

甲子夜話卷之五 34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

5-34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

憲廟御世、國用匱乏に及べる頃、蘭人の、銅に毒藥を塗り、幾度も燒返せば金に變ずると云奇方を識るもの渡來せり。勘定頭の荻原近江守など、荐りに此事を建言せしに、憲廟肯じ玉はず。金は煎して病藥に用ることあるものなり。誤りて毒製の金を用ゆるものあらば、人命に係るべきことなりとて、遂にその事を停めて、行はしめ玉はざりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「常憲廟」五代将軍徳川綱吉。

「匱乏」「きぼふ(きぼう)」。物資が不足していること。「匱」は「尽きる」の意。

「荻原近江守」荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)は旗本で、勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる。

「荐りに」「しきりに」。

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