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カテゴリー「「甲子夜話」」の217件の記事

2020/05/11

甲子夜話卷之六 10 水戶の瑞龍山の事

 

6―10 水戶の瑞龍山の事

水戶の瑞龍山と云るは、餘ほど高き處なり。この山上、西山義公を葬る。蓋公の遺命とぞ。彼家の老職、中山信敬は【備中守實文公の弟】友交の人ゆゑ聞しに、かの山は一岩石にして殊に峻し。その岩石を鑿て棺を穴中に容るとなり。その問しときは源文と諡したる黃門殿の時なりき。頃又聞く、彼藩の立原翠軒が云しは、穿坎に葬し畢りて、鑿碎の石屑を以て棺を塡む。十年に及ぶ頃には、必ず融化して、もとの天然岩石に歸すと云。誠に不朽の兆域なり。

■やぶちゃんの呟き

「瑞龍山」「ずいりゆう(りゅう)さん」。現在の茨城県常陸太田市瑞龍町(瑞竜町)にある水戸徳川家累代の墓所(グーグル・マップ・データ航空写真。その拡大)。阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面に当たる。ウィキの「瑞龍山」によれば、『現在は管理上の理由で一般には公開されていない』とある。『水戸藩第』二『代藩主徳川光圀が初代藩主徳川頼房の遺志を受け継ぎ』、寛文元(一六六一)年に『ここを墓地と定めた』。延宝五(一六七七)年には『伯父の武田信吉、生母谷久子の墓を改葬した。全山深い木々に覆われ、その所々に歴代藩主の墓がある』。『葬儀墓制は日本では珍しい』完全な『儒教の形式によるもので、螭首亀趺(ちしゅきふ:亀の胴体に竜の首が付いている台石)とよばれる墓の様式である』。『瑞龍山には累代藩主一族の墓以外に、朱舜水』(しゅ しゅんすい 万暦二八(一六〇〇)年~天和二(一六八二)年)『の墓がある。朱舜水は中国明代の儒学者であったが、明の滅亡に際して援助を求め』、『来日し、清の成立に伴い』、『亡命、帰化した。その後、光圀の招きで水戸藩を訪れ、水戸学思想に多大な影響を与えた』人物としてよく知られる。

「餘ほど高き處なり」標高は百三十四メートル。「茨城県教育委員会」公式サイト内の「水戸德川家墓所」の解説に拠った。そこにも仏教嫌いで知られた光圀(彼は生涯に一度しか旅をしなかった。それは鎌倉への旅であったが、途中、横浜の金沢付近では地蔵を破壊している)よろしく、『葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りは禁じられてい』たとある。

「西山義公」「にしやまぎこう」。水戸光圀のこと。「義公」は「諡(おくりな)」(本文の読みもそれ)で、「西山」光圀は元禄三(一六九〇)年に幕府からの隠居の許可を受けて、養嗣子綱條に水戸藩主を継ぎ、翌年五月に久慈郡新宿(あらじゅく)村西山(ここ。グーグル・マップ・データ。現在は常陸太田市新宿町(あらじゅくちょう)。サイド・パネルで一部復元された西山荘の様子が見られる)に建てられた隠居所「西山荘」に隠棲したことによる。

「蓋」「けだし」。まさしく。

「中山信敬」(なかやまのぶたか 明和元(一七六五)年~文政三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で水戸藩附家老。第五代水戸藩主徳川宗翰(むねもと)の九男で、第六代藩主徳川治保の弟。明和八(一七七一)年、八歳の時、先代中山政信の臨終の席でその娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した。安永八(一七七九)年に備前守、後に備中守に遷任した。文政二(一八一九)年、罹患していた中風を理由として、家督を三男の信情に譲って隠居するように命ぜられて藩政を退き、翌年、没した。参照したウィキの「中山信敬によれば、『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には『大田村からかつての松岡に知行替えをし』ており、『地位向上』のための『運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』、文化一三(一八一九)年)一月から『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』は『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって』、『家格向上に努めた』とあり、なかなかのやり手であることが判る。

「備中守實文公」これは水戸藩中興の祖と称せられる前に記した信敬の兄で第六代藩主であった徳川治保(はるもり 寛延四(一七五一)年~文化二(一八〇五)年)のことであるが、「文公」は彼の諡で正しいものの、「備中守」と「實」は誤りとしか思われない。後者は不明だが、前者は弟信敬の叙任と誤ったものであろう。

「峻し」「けわし」。

「鑿て」「うがちて」。

「穴中」「けつちゆう(けっちゅう)」と音読みしておく。

「容る」「いるる」。

「その問しときは」この「問」は以下「頃又聞く」(このごろまたきく)との対応から見ても、「聞し」(ききし)の静山に誤字か、或いは参考に使用している平凡社東洋文庫の誤植ではなかろうか? 何となく圧縮された言い方で判り難いのであるが、ここは――そういう異様な埋葬法であることを聞いた中で、最も古いものとして確かにそうした処理をしたというのは、「源文と諡したる黃門殿の」埋葬の「時」にそうした、ということを聞いたのが最初である――の謂いと私は採る。「源文と諡したる黃門」とは權中納言(黄門は中納言の唐名)であった第六代藩主徳川治保のことである。因みに「源」は徳川家康が自身は「源氏」の出身であることに拘った(彼の愛読書は「吾妻鏡」であった)ことからの姓である。

「彼」「かの」。

「立原翠軒」(たちはらすいけん 延享元(一七四四)年~文政六(一八二三)年)は水戸藩士。ウィキの「立原翠軒によれば、学者として第五代藩主徳川宗翰と次の第六代治保の二代に亙って仕えた。『本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹』(なりもと)の子『立原五郎久幹を祖とする立原氏』通称は甚五郎、『致仕後に翠軒と号』した。『父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所』(きょうしょ)、『孫には幕末の志士・立原朴次郎』(ぼくじろう)『や閨秀画家の立原春沙』(しゅんさ:杏所の長女)、子孫にはなんと、かの詩人にして建築家であった立原道造がいるとある。宝暦一〇(一七六〇)年に『荻生徂徠を祖とする古文辞学派(徂徠学派)・田中江南が水戸を訪れた折に』、既に師であった谷田部東壑(とうがく)とともに『その門に入った』。同十三年、『江南が去った後、江戸彰考館の書写場傭に任ぜられた。江戸にては文章を大内熊耳』(ゆうじ)、『唐音を細井平洲、書を松平』頼順(よりゆき)『に学んだ』。明和三(一七六六)年には、『編集員を命ぜられ』て『水戸史館に転じた』。天明六(一七八六)年六月、『彰考館総裁に進み、以後』、享和三(一八〇三)年に『致仕するまで』、かの「大日本史」の『編纂に力を注ぎ』、寛政一一(一七九九)年には「大日本史」の『紀伝浄写本』八十『巻を』「大日本史」編纂の遺命を残した第二代藩主『徳川光圀の廟に献じた。この間、混乱の生じていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本』などもしている(これらは「江水往復書案」・「史館雑事記」として今日に伝わっているものの原形本とされる)。『永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により』、『後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告し』、寛政五(一七九三)年には、『門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという』。但し、「大日本史」編纂に際しては、書名に国号を冠することや、論賛の是非について、『弟子の藤田幽谷と対立を深めていたともいわれている』(この対立と結果はリンク先に、以下、より具体的にしるされてある。また、そこにある「逸話」を魅力的。流石、道造の御先祖さまだねえ)。

「穿坎」「さくかん」。穿(うが)った坑(あな)。

「葬し畢りて」「さうしをはりて」。

「鑿碎」「さくさい」。鑿(うが)ち碎(くだ)くこと。

「石屑」「せきせつ」。石の屑(くず)。

「塡む」「はむ」と読む。「嵌(は)む」に同じで、「落とし入れる」「投げ入れる」の意。

「融化」「ゆうくわ(ゆうか)」。融(と)けて変化すること。溶け合って一つの物になること。ここは遺体がすっかり溶けて「天然」の「岩石に歸すと云」うのである。

「不朽」岩石に融和するからまさに遺体は腐らないのである。

「兆域」「てうゐき(ちょういき)」で「墓のある区域・墓所」の意。

2020/04/21

甲子夜話卷之六 9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

 

6-9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

林氏云。辛未年西征のとき、藝の宮嶋に舟行す。嚴嶋社の寶物を縱觀して時刻を移し、晝八半時頃に至り、彌山に登らんと云へば、藝侯より附し嚮導の者、承諾せずして云。此山に登ること晝九時を限る。それより後は人の登ることを許さず。必變ありとて、いかほど强れども肯ぜず。予姑く步して山麓に抵る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因て人をして嚮導者に云はしむるは、瀑源の邊まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべしとて、侍臣より奴僕まで十四五人許もつれて登り、瀑源に至り着て、從者に云には、前言は詐なり。此地再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めんと言ふに、從者唯諾すれども、心中に畏懼の意あるものありき。扨山路を攀躋るに隨て、息喘を發するものあり、嘔噦を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く氣分あしゝとて面菜色なるものあり、足軟緩して步みかぬるものあり。予笑て各路傍に留り、疾を養ふことを許す。次第に登りて山頂に至る頃ほひ、從ふもの僅に五六人なり。頂上の遠眺快甚く、折しも天朗晴にて、目中の山巒島嶼、千態萬狀を脚下に獻ず。平宗盛が納めし鐘を摩挲して、懷古の想を生じ、良久く徘徊する中に、山谷の間より縷々の雲を起す。予從者を顧みて、此膚寸の合ざる内に下山せん。いざいざと云て急ぎ山を下る。未だ半にも至らざるに、前山後峯隱顯明滅して、人皆雲中にあり。麓に近づく頃は雲烟深く鎖し、眼界浩として烟海の如し。やうやう來路を認て下る。初疾しものども、こゝの岩角かしこの辻堂より、一人二人づゝ馳付く。予笑て、敗軍の落武者殘卒の體、かくぞあるべしとて大哄す。山を下り民屋ある所まで走り行内、はや驟雨暴注して、滿身淋漓せり。遂に民屋に入り、雨を避し中の雨勢は、未曾有の大雨にて、見る内に道路泛濫に至れり。さきの嚮導者あきれはてゝ、かくあるべしと思へばこそ、止め奉りつれとて、幾度か物蔭にて從僕に言けるとぞ。やがて天乍晴、夕陽明媚、海波如ㇾ熨、乃舟に乘て玖波驛に投宿しぬ。是にて人の山に醉と云ことも、魑魅に逢と云ことも能解したり。最初に從者の疾を生じたるは、山禁を犯し刻限後れに登山すると云懼心より、我と疾を生ずるを、山に醉と云べし。又其禁と云もの徒然に非ず。天氣は晝後より多く變ずるものゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下の二ヶ所も同じ。]、剋の後るゝを禁ずるはもと理あることなり。深山は陰閉のものゆへ、常に人跡乏しき所を、人氣にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路奇險にして迷ひ易く、登降も便ならず。況や數丈の溪㵎、その間にある所にて、大風雨に逢へば、失足して谷へ墜るゆへ、その下の木梢にも掛るべし。是等を魔の所爲など云にぞ有ける。纔なる海島の彌山にてさへ、山氣を盪かして雲雨を生ぜり。能時分に見切りたる計にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も天狗出たるなど俗論あるべきなり。凡我心に疑無き時は、人事に障碍は無きものなり。一念の疑より己と障礙は引起すものにこそ。

■やぶちゃんの呟き

 これは非常に長く、しかも読みがなかなかに難しい。されば、私が特異的に歴史的仮名遣で読みの振れる語句や難読と思われる箇所に読みを附したものを以下に示し、後につぶやくこととする。二度手間するので、序でに読み易く、句読点・鍵括弧・記号を変更・追加し、さらにシチュエーションごとに段落を成形することとした。

   *

   林子(りんし)、宮嶋に山禁を犯し、瀑雨(ばくう)にあふ事

 林氏云(いはく)――

 辛未(かのとひつじ)年、西征(さいせい)のとき、藝(あき)の宮嶋に舟行(しふかう)す。嚴嶋社(いつくしましや)の寶物を縱觀(じゆうくわん)して時刻を移し、晝八半時(やつはんどき)頃に至り、

「彌山(みせん)に登らん。」

と云へば、藝侯(げいこう)より附(つき)し嚮導(きやうだう)の者、承諾せずして云(いはく)、

「此山に登ること、晝九時(ここのつどき)を限る。それより後は人の登ることを許さず。必(かならず)變あり。」

とて、いかほど强(しひ)れども、肯(がへん)ぜず。

 予、姑(しばら)く步(あゆみ)して山麓に抵(いた)る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因(より)て、人をして嚮導者に云はしむるは、

「瀑源の邊(あたり)まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべし。」

とて、侍臣より奴僕まで十四、五人許(ばかり)もつれて登り、瀑源に至り着(つき)て、從者に云(いふ)には、

「前言は詐(いつはり)なり。此地、再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めん。」

と言ふに、從者、唯諾(ゐだく)すれども、心中に畏懼(いく)の意あるものありき。

 扨(さて)、山路を攀躋(よぢのぼ)るに隨(したがひ)て、息喘(そくぜん)を發するものあり、嘔噦(おうゑつ)を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く、

「氣分あしゝ。」

とて、面(おもて)、菜色(さいしよく)なるものあり、足、軟緩(なんくわん)して步みかぬるものあり。

 予、笑(わらひ)て各(おのおの)路傍に留(とどま)り、疾(やまひ)を養ふことを許す。

 次第に登りて、山頂に至る頃ほひ、從ふもの、僅(わづか)に五、六人なり。

 頂上の遠眺、快(かい)甚(はなはだし)く、折しも、天、朗晴(らうせい)にて、目中の山巒(さんらん)・島嶼(とうしよ)、千態萬狀(ばんじやう)を脚下に獻ず。

 平宗盛が納めし鐘を摩挲(まさ)して、懷古の想(おもひ)を生じ、良(やや)久(ひさし)く徘徊する中に、山谷(さんこく)の間(かん)より縷々(るる)の雲を起す。

 予、從者を顧みて、此(この)膚寸(ふすん)の合(あは)ざる内に下山せん。いざ、いざ。」

と云(いひ)て、急ぎ、山を下る。

 未だ半(なかば)にも至らざるに、前山・後峯、隱顯・明滅して、人皆(ひとみな)、雲中にあり。

 麓に近づく頃は、雲烟、深く鎖し、眼界、浩(かう)として、烟(けむり)、海の如し。やうやう來路を認(みとめ)て下る。

 初(はじめ)、疾(やみ)しものども、こゝの岩角、かしこの辻堂より、一人、二人づゝ馳付(はせつ)く。

 予、笑(わらひ)て、

「敗軍の落武者・殘卒の體(てい)、かくぞあるべし。」

とて大哄(たいこう)す。

 山を下り、民屋ある所まで走り行(ゆく)内(うち)、はや、驟雨、暴注(ばうちゆう)して、滿身淋漓(りんり)せり。

 遂に民屋に入り、雨を避(さけ)し中(なか)の雨勢(うせい)は、未曾有(みぞう)の大雨にて、見る内に、道路、泛濫(はんらん)に至れり。

 さきの嚮導者、あきれはてゝ、

「かくあるべしと思へばこそ、止(と)め奉りつれ。」

とて、

「幾度か物蔭にて從僕に言ける。」

とぞ。

 やがて、天、乍(たちまち)晴(はれ)、夕陽、明媚(めいび)、海波、熨(のし)のごとく、乃(すなはち)舟に乘(のり)て玖波驛(くはのえき)に投宿しぬ。

 是(これ)にて、人の山に「醉(ゑふ)」と云(いふ)ことも、「魑魅(ちみ)に逢(あふ)」と云(いふ)ことも能(よく)解したり。

 最初に從者の疾(やまひ)を生じたるは、山禁を犯し、刻限後(おく)れに登山すると云ふ懼心(おそれのこころ)より、我(おのづ)と疾(やまひ)を生ずるを、「山に醉(ゑふ)」と云(いふ)べし。

 又、其禁と云(いふ)もの徒然(いたづら)に非ず。

 天氣は晝後(ちうご)より多く變ずるものゆへ、剋(とき)の後(おく)るゝを禁ずるは、もと、理(ことわり)あることなり。深山は陰閉(いんへい)のものゆへ、常に人跡(じんせき)乏(とぼ)しき所を、人氣(じんき)にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路、奇險にして迷ひ易く、登降(とうこう)も便(びん)ならず。況や數丈の溪㵎(けいかん)、その間(かん)にある所にて、大風雨に逢へば、失足(しつそく)して谷へ墜(おつ)るゆへ、その下の木梢(こずゑ)にも掛るべし。是等を「魔の所爲(しよい)」など云(いふ)にぞ有(あり)ける。纔(わづか)なる海島(かいとう)の彌山(みせん)にてさへ、山氣(さんき)を盪(うご)かして雲雨を生ぜり。能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も「天狗出(いで)たる」など俗論あるべきなり。

 凡(およそ)我心に疑(うたがひ)無き時は、人事に障碍(しやうがい)は無きものなり。一念の疑(うたがひ)より己(おのづ)と障礙(しやうがい)は引起すものにこそ。

   *

「宮嶋」安芸の宮島。

「瀑雨」激しい降雨。

「林氏」お馴染みの静山の年下(八つ下)の友人である江戸後期の儒者で林家第八代当主林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。冷徹な彼の面目躍如たるエピソードである。

「辛未年」文化八(一八一一)年。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年辛丑)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年辛巳(かのとみ)十一月十七日甲子の夜であるが、それ以降に「辛未」はない。従って遡る直近の、この年となるのが、こうした記録類の常識である。

「西征」単に西に向かって行く、旅すること。

「嚴嶋社」厳島神社。

「晝八半時頃」午後三時頃。

「彌山」広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高五百三十五メートルの弥山(みせん)(グーグル・マップ・データ航空写真)。古くから信仰の対象であった。

「藝侯」広島藩主。当時は第八代藩主浅野斉賢(なりかた)。

「嚮導の者」案内人。「嚮」(現代仮名遣「きょう」)は「向」に同じ。「向かうこと・向くkと・先にすること」。「鴻門之会」でやったじゃないか。

「晝九時(ここのつどき)」正午。

「山腹より瀑流ありて淸冽なり」白糸の滝(グーグル・マップ・データ)。

「再遊すべきならず」再び遊山することは出来ぬであろう。

「唯諾(ゐだく)」相手の言ったことをそのまま承諾すること。

「息喘」喘息。

「嘔噦(おうゑつ)」嘔吐。

「菜色(さいしよく)なる」青白くなる。蒼白になる。

「軟緩」急に足弱になって歩みがのろくなること。

「平宗盛が納めし鐘」治承元(一一七七)年に平宗盛が寄進した刻銘のある「宗盛の梵鐘」 は島の多々良潟(たたらがた。グーグル・マップ・データ。名前から推してもここで造ったことが判るが、或いは砂鉄が採れたのかも知れない)というところで宗盛が鋳造させたとされるものが、現在は山頂近くの弥山本堂(グーグル・マップ・データ)にある。

「摩挲(まさ)」手でさすること。撞いたのではない。

「縷々」細く長く途切れることなく続くさま。

「膚寸(ふすん)」「膚」(ふ)は指四本を並べた長さの意で、ほんの僅かな大きさ。特に切れぎれの雲を形容するのに用いられる。

「浩」広々としているさま。

「大哄」「おほわらひす」と読んでもいいが、儒者である彼は音読みしたろうと思う。

「暴注」激しくそそぐこと。

「淋漓」滴り落ちること。

「雨を避し中」「中」は「下山のちょうど半ば頃」の意で採る。

「泛濫(はんらん)」「氾濫」に同じい。洪水のようなありさまとなったことを指す。

「熨」平たく伸びた熨斗(のし)。

「玖波驛(くはのえき)」現在の広島県大竹市玖波(グーグル・マップ・データ)。宮島の南の陸の対岸。山陽道の宿駅であった。

「懼心(おそれのこころ)」「くしん」でもよい。

「陰閉」強い陰気の籠って充満していることであろう。

「人氣(じんき)にて動かすとき」人間が運動して、そこに陽気が発生する時。

「盪(うご)かして」「動かして」に同じ。この場合は、自然にその滞留している陰気を揺り動かす結果となり、の意。

「能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて」私自身の自然現象に対する判断に誤りがなく、丁度良い時分を見計らって下山しただけのことであって。

「俗論あるべきなり」馬鹿げた巷間の噂による理由付けが行われるだけのことである。

「障碍」「障礙」障害に同じい。

2020/04/19

甲子夜話卷之六 6-8 相州大山の怪異の事

6-8 相州大山の怪異の事

山嶽は靈あるもの也。嘗我内の一小吏、人と共に相州の大山に登り、麓の旅店に憩ゐたるに、又二人づれにて來るものあり。此時巳に夕七つに過ぐ。二人山に陟らんとして、阪を步むこと常ならず。足逶迤として不ㇾ進。かくすること兩三度なり。店主及諸人の曰。暮に及んで山に入こと有べからず。必ず異事あらんと。二人曰、今夕山半に宿し、明日頂上に登ん爲なりとて、遂に陟る。其あとにて人皆言ふ。彼必ず變を招かん。察するに人を害する者にして、登山に託して遁るゝならんと云しに、山行四五町も上らんと思ふ頃ひに、俄に雷鳴あつて、大雨盆を傾るが如し。暫時にして天晴る。時已に黃昏に過ぐ。皆言ふ。これ直事ならず迚、明朝山に陟り行に、半途に至らざる中、前日二人の著せしおゆづりと云もの、山樹の枝に懸り有て、二人は在らず。皆云、果て山靈の爲に失はれしならんと。是小吏諸人と同伴して目擊せし所なり。彼二人の内、一人は女なりしと云き。如ㇾ是なれば、壽菴が芙嶽に陟れるに、魚肉を携へ笛を弄しても、其身不善事なきときは、山靈の怒を惹ことなきか。

■やぶちゃんの呟き

「嘗」「かつて」。

「相州の大山」神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高千二百五十二メートルの山。古くから山岳信仰の対象とされ、山頂に大山石尊大権現と称し、巨大な岩石を磐座(いわくらとして祀った阿夫利神社上社があり、中腹に阿夫利神社下社と大山寺が建つ。江戸中期からは大山御師(おし)の布教活動により「大山講」が組織され、庶民は盛んに「大山参り」を行い、山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えた。また、同山では天狗信仰も盛んで、阿夫利神社には大天狗・小天狗の祠があり、日本の八天狗に数えられたという「大山伯耆(ほうき)坊」の伝承が伝わる。

「夕七つに過ぐ」夏場と仮定すると、不定時法だと、午後五時を有意に回った頃(そこから午後八時までの間となるが、後で「黃昏」と出る)。定時法なら、午後五時前後。

「陟らん」「のぼらん」。

「阪」坂。

「逶迤」「いい」。これは「斜めに行くさま」・「曲がりくねって続くさま」・「不正なさま」を言う語。ふらふらとして如何にも心もとない足運びであることを指す。

「不ㇾ進」「すすまず」。

「兩三度」二、三度試みようとしていること。

「曰」「いはく」。

「今夕」「こんゆう」。

「山半」「やまなかば」。

「登ん」「のぼらん」。

「陟る」「のぼる」。

「人を害する者にして」人に何らかの危害を加えた咎人であって。

「託して」かこつけて。言い訳にして。

「遁るゝならん」「のがるるならん」。

「山行」「さんかう」。

「四五町」四百三十七~五百四十五メートル。二人の後ろ影が仄かに見えていたのであろう。

「頃ひ」「ころほひ」。

「傾る」「かたむくる」。

「黃昏」「たそがれ」。

「直事」「ただごと」。

「迚」「とて」。

「陟り行に」「のぼりゆくに」。

「彼」は三人称ではなく、あの二人ずれがこの時間に登るという仕儀全体を指す。

「半途」「はんと」。登り行く道の途中。頂上までの行程の半ば。

「中」「うち」。

「著せし」「ちやくせし」。

「おゆづり」不詳。識者の御教授を乞う。

「果て」「はたして」。

「山靈」「さんれい」と読んでおく。

「如ㇾ是」「かくのごとく」。

「壽菴」江戸後期の医師で奇行で知られた静山とは同時代人の川村寿庵(?~文化一二(一八一五)年)。「5-21 又林氏の說川村壽庵の事 / 5-22 壽庵が事蹟 / 5-23 又、芙岳を好む事」を参照。

「芙嶽」富嶽。富士山。

「不善事なき」「善(よ)からざる事なき」。

「怒」「いかり」。

「惹ことなきか」「惹(ひく)ことなきか」。

甲子夜話卷之六 7 前載、交暈の遺事

6-7 前載、交暈の遺事

前册に云たる正月廿一日交暈のことは、人々の所見異なり。予が上邸より他へ使者に出たるもの、四つ時頃常盤橋の外にて見たるは、司天官の圖の如くなりしと。其始は二暈虹の如くにして、日輪は常に不ㇾ異。還塗豐嶋町に至る頃は、暈の色總じて白く、雨曇の交りたる處、色日出の輝けるが如しと。又九つ頃、同邸の一夫が猿屋町の邊にて見しは、我が頂上に當りて、相撲のかたやほどなる圓形の白き雲あり【卽暈なり】。其圓中は蒼々色なり。此外に淺草御門の上に當り、虹の如きもの輪をなし半ば見へたり。又別に本所竪川の上に當り、同く虹の如きものあり。靑紅色にて、少く色薄し。其後本所の地に行たるに、これを見れば、かの暈も分散してもとの形に非ず。此時八つ時過なるべしと云。

■やぶちゃんの呟き

「前册に云たる正月廿一日交暈のこと」巻第五の二番目の「文政五年春、日に交暈ある事圖」。文政五年正月二十一日(グレゴリオ暦一八二二年二月十二日)に発生した「交暈」(かううん(こううん))、暈(かさ)現象のこと。原理はウィキの「暈」を見られたい。

「予が上邸」平戸松浦藩家上屋敷。現在の東京都台東区浅草橋にある都立忍岡(しのぶがおか)高等学校(グーグル・マップ・データ)やその南の柳北公園等のある一帯にあった(蓬莱園という名園で知られた)。「古地図 MapFanで秋葉原駅を探し、そこを拡大して東北東にずらして行くと、忍岡高・柳北公園を見出したら、そこを中央にして隠すと、下方の切絵図に逆さまに「松浦壱岐守平戸藩上屋敷」の文字が見えてくる。

「四つ時頃」午前十時前後。

「常盤橋」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。日本銀行の前。右上部に忍岡高校を配した。

「司天官の圖」「文政五年春、日に交暈ある事圖」で私が作成し直した図を再掲しておく。

 

Image_20200419083101

 

「不ㇾ異」「ことならず」

「還塗」「くわんと」。帰り道。静山の使者が使いを済ませて帰る途中。

「豐嶋町」これは現在の今の東神田附近の内で、都立一橋高等学校(グーグル・マップ・データ)北西部外の、神田川沿いの旧町名である。「古地図 MapFanで一橋高校を探し、それを中央で隠すと、現在の「美倉橋」が「新(あたらし)シ橋」となり、その南詰から神田川に沿って六区画の「豊島町」を確認出来る。

「雨曇」「あまぐも」。

「交りたる」「まじはりたる」。

「九つ頃」正午前後。

「猿屋町」浅草猿屋町であろう。現在の台東区浅草橋二・三丁目(グーグル・マップ・データ)。平戸藩上屋敷の南東三百メートルの直近。

「相撲のかたや」「相撲の方屋」。相撲の土俵場。

「卽」「すなはち」。

「蒼々色なり」「さうさうたるいろなり」と訓じておく。青みを帯びた色であった。

「淺草御門」現在の浅草橋の南詰(グーグル・マップ・データ)にあった。

「見へたり」ママ。

「竪川」「たてかは」。現在の首都高速七号小松川線の真下を流れる運河である竪川(グーグル・マップ・データ)。江戸城から見て本所を縦(東西)に貫通して流れることから、この名となった。

「八つ時過」午後二時過ぎ。

2020/02/04

甲子夜話卷之六 6 いちめ笠の說

 

6-6 いちめ笠の說

古畫に圖せる婦女の、深き笠の頂に隆きところある物を冒れる、多く見ゆ。此をいちめ笠と謂ふと聞けり。後或人の話れるは、今も吉野の奧より、木を用て作れる深き笠を出す。其名をおちめ笠と謂ふ。其故は、亂世に平氏の人落行て、此山中にて製し出せる物なれば、おちめ笠と云となり。然どもこれは後人の附會にして、おちめいちめは語音の轉訛なるべし。吉野に有るは古風の傳はりたるまでのことなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「冒れる」「かぶれる」。

「いちめ笠」市女笠。平安以降の代表的な女性用の被り笠。雨の日や旅行には貴人もこれを用いた。初期のものは傾斜が急で深く、頂きに巾子(こじ)と称する有意に突出した部分があるのが特徴であったが、後代になると、次第にそれが浅くなり、膨らんだ形に変っていった。元来は菅(すげ:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex)を用いた縫い笠と推定されているが、後には黒漆の塗り笠が普通になった。旅行に際しては、笠の縁に「牟子(むし)の垂衣(たれぎぬ)」と呼ぶ苧麻(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の薄い垂れ布を下げることもあり、衣服の裾をすぼめて折って、市女笠を被った姿は壺装束として知られている。名は、初め、市に出る物売りの女性が被ったことに由来する(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠る)。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が被っていたやつさ。

「話れるは」「はなされるは」。

「おちめ笠」この呼称は今に伝わっていない模様である。

2020/01/16

甲子夜話卷之六 5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

6-5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

天海僧正は、神祖の御時より眷注を被りし長壽の人なり。一日猷廟の御前にて柹を賜ふ。喫して其核を懷にするを御覽ぜられ、僧正何にするよと問はせられければ、持歸て植候と答ふ。仰に、高年の人無益のことにとありければ、天海申すは、一天四海を知しめさるゝ御方は、かゝる性急なる思召然るべからず。無ㇾ程この柹の生立上覽に呈せん迚、退出せり。年を經て、僧正柹を多く器に盛て獻上す。猷廟いづくの產物ぞと御尋ありしに、左候、これは先年拜受せし柿核の、生長して所ㇾ實なりと申上ければ、上を始め奉り、その席に有合ふ諸人、歎服せざるは無りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「大猷廟」徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年:将軍在位/元和九(一六二三)年から没年まで)。

「天海僧正」(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年:この生年が正しいとすれば実に数え百八歳)は、天台僧。号は南光坊。諡号は慈眼大師。会津出身。比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬し、江戸上野に寛永寺を創建、天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願した(完成は没後)。事蹟のよく分からない部分がある謎の家康のブレーンで、実は明智光秀が生き残って彼となったという珍説さえある。本篇が何時の出来事であるか不明であるが、家光が将軍職となった年だとしても、推定生年からは八十七歳である。

「眷注」特に目にかけてそばに置いたことを指すようである。

「核」「たね」。

「生立」「おひたち」。

「所ㇾ實なり」「所」は使役で「みのらしむるなり」「みのりせしむるなり」であろう。

2019/12/25

甲子夜話卷之六 4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

6-4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

神祖、京の丸山を駿府へ御移しなされ、福田寺を刱建ありしときの御歌とて、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の月かげ

其時の御用に掛りしとて、後藤庄三郞が家に傳ふ。又關原御陳前、高野山聖方總代常住光院へ賜りし、御眞蹟の色紙今に山に傳ふ。

 旅なれば雲の上なる山こへて

      袖の下にぞ月をやどせる

此外御寄附の品々ありと云【右、林氏の小錄を移寫す】。

■やぶちゃんの呟き

恐らくは条末にある割注は本条のみでなく、前の三条、「甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず」 2 定家卿詠歌」「同 3 詩歌降たる事」をも、内容からみて、総て含むものであろう。

「神祖」徳川家康。

「京の丸山を駿府へ御移しなされ」家康は江戸幕府開府(慶長八(一六〇三)年)以前には駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地にしたいという願いがあった。慶長四(一五九九)年、鷹狩をしていた家康が賎機山(しずはたやま:標高百七十一メートル。現在の静岡県静岡市葵区内。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))の麓で休憩した際、その辺りが京の円山の景色に似ているとして、翌慶長五年に京都円山の時宗慈円山安養寺の僧徳陽軒を招き、同山の南山麓に福田寺を創建した。境内には「流れ井」と称し、駿府城から湧水を引くなど、万事、京都風の設えとした。近くに鎌倉末期の文保元(一三一七)年創建の時宗安西寺があったことからその末寺となり、この一帯にも「丸山」という地名が与えられ、この福田寺の創建には金座役人として「駿河小判」の鋳造を担った後藤庄三郎光次が尽力した。福田寺は近代の明治四二(一九〇九)年になって安西寺に合併され、丸山の福田寺跡に安西寺を再興された。

「刱建」「さうけん」。創建に同じい。

「松高き丸山寺の流の井幾とせすめる秋の月かげ」本注で参考にさせて戴いた「安西寺」公式サイトのこちらによれば(古地図・写真有り)、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の夜の月

とし、慶長御(一六〇〇)年九月十三日に家康公が福田寺で詠んだ一首で、『この歌にちなみ、この地を丸山と言い、山号』が『「秋月山」とな』とあり、現在、『駿府の名水「流れ井」の傍らには』、宝暦三(一七五三)年に『建立された「流井の碑」が残ってい』るとある。

「後藤庄三郞」近世(江戸開府前)の金座の当主、以降、江戸幕府の御金改役(ごきんあらためやく)に与えられた名称。ウィキの「後藤庄三郎」によれば、『初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後』、『世襲制の家職となった』。文禄二(一五九三)年、『橋本庄三郎は徳川家康と接見し』、二年後の文禄四年には『彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが』、『疑問視されている』。『庄三郎の本姓は山崎との説もある』。『庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる』。『庄三郎は徳乗と家康に後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた』。『当時、判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造の構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが』、『庄三郎が江戸に下向した当時』、『鋳造された関八州通用の領国貨幣であるとされている。』。『後藤庄三郎光次は文禄』四『年に江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。この地は現在、日本橋本石町の日本銀行本店所在地にあたる』。また、慶長六(一六〇一)年には京都に、江戸幕府開幕後の慶長一二(一六〇七)年には駿府に、また、元和七(一六二一)年には佐渡に、『後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始した。さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。しかし』、『二代庄三郎広世以降は金座支配のみにとどまった。また、庄三郎光次は文禄五(一五九六)年三月付の『後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限りと宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に京都の後藤宗家も黙認したとされる』。『天領の金山から産出する公儀の吹金』(ふきがね:灰吹法(はいふきほう)による金・銀の抽出法による金銀の別称。金銀を鉱石などから、一旦、鉛に溶け込ませ、更にそこから金や銀を抽出する方法を言う)『を預り、小判に鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高』十『両につき金目五分であったが、後に後藤手代の取り分は吹高』一千『両につき』十『両と定められた』とある。

「關原御陳前」関ヶ原の戦いで「陳(ぢん)」(=陣)を張る前に。

「高野山聖方總代常住光院」「高野山聖方總代」の「常住光院」。江戸時代の高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の高野三方(三派)から成り立っていた。その当時の「聖方」の総代であった「常住光院」の謂いである。

「旅なれば雲の上なる山こへて袖の下にぞ月をやどせる」(「こへて」はママ)かの佐佐木幸綱のブログ「ほろ酔い日記」の「戦国武将の歌10 徳川家康 1543年(天文11)~1616年(元和274歳」に、『こんな歌とエピソードがあります。川田順『戦国時代和歌集』が引用する近藤重蔵』の「冨士之煙」に『出てくるものです。慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の戦陣において、高野聖(こうやひじり)の総代・高野山常光院の僧へ家康が与えた歌だというのです。本当でしょうか。日付を見てください。関ヶ原の戦いのその日のことです。陣中見舞いの品を持ってきた高野聖に、家康が書き与えたというのです』。『関ヶ原の戦いは、九月十五日午前八時ごろ本格的な戦闘がはじまり』、『午後四時ごろには終結したとされています。その夜、書き与えたのでしょうか』とされて、

 旅なれば雲の上なる山こえて袖の下にぞ月をやどせる  徳川家康

(軍旅であるから、雲の上にそびえる山をも越えてきて、今宵は、わが鎧の袖の下に月下の夜景をながめたことである)

「冨士之煙」の『著者・近藤重蔵は、信頼していい人物と思われます。クナシリ・エトロフの探険で知られる幕末の探検家で、著書も多くあります。彼によれば、「大権現様(徳川家康)御真筆の御色紙」が、当時は高野山常光院に現存していて、彼自身がそれを写した、とあります』とある。

2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

2019/08/05

甲子夜話卷之六 3 詩歌降たる事

 

6-3 詩歌降たる事

同上云。近時詩道降りて小巧を爭ふことになり、大雅の風は響を遏る計なり。然れども小巧ゆへ、よく言おゝせておもしろきこともあり。「隨園詩話」の中に見へし、人無キハ風趣官常、几琴書などは、前人の言ざる所を言て、世の中の事にいと切當なり。されど言たる迄にて餘味なし。唐の員半千が、冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己は、世態を言おおせて、又限りも無き餘情に咏歎を含めりと。

■やぶちゃんの呟き

「降たる」「くだりたる」。格調や品位が有意に下がってしまった。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「定家卿詠歌」を指すので、話者はまたしても、林述斎。

「小巧」「しやうこう(しょうこう)」小手先の修辞技巧。

「大雅」「たいが」。「詩経」の分類の一つ。三十一篇から成る。「詩経」の詩の六つの類型である六義(りくぎ:「詩経」の詩群をその属性・内容から分類した「風(ふう)」・「雅」・「頌」(しょう)に、表現法から分類した「賦」・「比」・「興(きょう)」を合わせた総称)の一つである「雅」を「小雅」(七十四篇)とともに構成する。周王朝の儀式・宴席などで歌われた詩で、周の歴史を主題とした叙事的内容のものもある。

「風」「ふう」。風流。雅(みやび)さ。但し、上記の「詩経」の六義の「風」(各地の民謡を集めた「国風(こくふう)」で百六十篇から成る)のそれも利かせた(「大雅」が宮廷の祝祭歌であるのに対し、こちらは土地に根ざした民衆の唄である)謂いであろう。

「響」「ひびき」。

「遏る」「とどめる」。「結滞してしまっている」或いは「絶えてしまっている」。

「計」「ばかり」。

「隨園詩話」清代の詩人袁枚の詩論。袁枚は前条の「定家卿詠歌」で既注。

「人無キハ風趣官常、几琴書」訓読すると、

 人 風趣無きは 官 常に貴(たふと)く

 几(き)に琴・書有る家は 必ず 貧し

である。但し、「隨園詩話」の巻十四には以下のように出る。

余有句云、「人無風趣官多貴。」。一時不得對。周靑原、對、「案有琴書家必貧。」。吳元禮、對、「花太嬌紅子必稀。」。

従って、これは最初の句が袁枚で、それに、袁枚の友人で工部侍郎であった周青原が対句して和したというのが正解である。なお、「案」(あん)は中国の台状の机や食盤のことで「几」とは同義的ではある。「案」は、一般に、長方形の板に、概して短い足が附いたものを指し、漆が施されているのが普通で、板上には菱形紋・雲気紋・動物紋などが描かれることがある。戦国時代の古墓から既に出土している。

「言ざる所を言て」「いはざるところをいひて」。

「切當」「せつたう(せっとう)」で、適切にして能(よ)く目的に適(かな)っていること。

「餘味」風雅な余韻。

「員半千」(六二一年~七一四年)は初唐末の官人で詩人。

「冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己」訓読すると、

 冠冕(くわんべん)醜(はづかしむ)ること無き士も 賄賂(わいろ) 知己を成す

で、「冠冕」は「冕冠(べんかん)」で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した冠(かんむり)。冠の上に冕板(べんばん)と呼ばれる長方形の木製の板状の物を乗せ、冕板前後の端には旒(りゅう)と称する玉飾りを複数垂らしたもの。旒の数は身分により異なる。全体の意味は恐らく、「高官たることを汚して恥をかくことがない士大夫(階級)の高潔に見える立派な人物であっても、賄賂とは必ず仲が良いものだ」との謂いであろう。これは員半千の五言排律(推定)「隴右途中遭非語」の一節。中文サイト「中華詩詞網」のこちらで全篇が読める。

「言おおせて」ママ。歴史的仮名遣では「言(いひ)おほせて」でなくてはおかしい。漢字では「果せる」「遂せる」と書く。

「咏歎」「詠嘆」に同じい。

 

2019/07/23

甲子夜話卷之六 2 定家卿詠歌

 

6-2 定家卿詠歌

同上云。定家卿を世に歌人とのみ思へり。歌は其苴餘にて、志のありし人とこそ思はるれ。

 苔の下に埋れぬ名を殘すとも

      はかなの事や敷嶋の道

これを以て其懷抱おしはかるべきなり。杜少陵の、名豈文章サンヤ、官老病と云も、詩人の詩には非ず。近時袁倉山が、每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章など作りしも、亦其流亞なり。

■やぶちゃんの呟き[やぶちゃん注:2019年7月26日全改稿。]

なお、袁枚の詩の「唯」の「〻」は、底本では踊り字「〱」であるが、私の判断で「〻」に代えた。近代以前の踊り字は通用の統一的規則はないから、これは静山の好みのそれであったと判断する。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「林子、古歌を辨ず」を指すので、話者は林述斎。

「苴餘」「しよよ(しょよ)」。見かけない熟語である。「苴」は当初、最悪の卑意である「塵・芥」かとも思ったが、それでは一世の歌人の彼にして自らかく比喩するのは、余りに哀しい。「詠草」と言うように、歌に草を掛けて「苴」の原義である「下草」の意で採るならば、謙遜としての「もて遊びの、詠み捨ての、価値のない、下萌えの雑草」、「余りものの、どうということのない戯れ、一抹の余技」というような意味ではないかと思われる(そう採っておく)。

「志のありし人とこそ思はるれ」ウィキの「藤原定家」の「政治家として」の項によれば、『定家は藤原道長の来孫(』五『代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった』。『定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受ける』『など』、『波乱に満ち』ており、『長年』、『近衛中将を務めながら頭中将にはなれず』、五十一『歳の時に』、『漸く公卿に達したが』、『それさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや』、『政務の中心に参画することを希望していたことは』、「明月記」などから『窺い知ることは可能である。そして』寛喜四(一二三二)年一月、『定家は二条定高の後任として』、七十一『歳にして念願の権中納言に就任する。当該期間の』「明月記」の記述は、『ほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって』、『定家がたびたび』、『上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。だが、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく』、『同年の』一二月十五日には『「罷官」(更迭)の形』『で権中納言を去ることになっ』でしまっている。『こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる』(「明月記」安貞元年九月二十七日の条)『藤原実資のよう』な『政治的な要職に就くことは』遂に『適わなかった』。『また』、二『代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元』(一二二五)年七月には、『同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の』十二『月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年』一『月に父が自分の妻を追い出し』、『権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している』。『その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず』、「次将装束抄」や「釋奠次第」など、『公事や有職故実の書を著した背景には』、『自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている』とあるのは、静山の意味深長な謂いが、決していい加減な憶測ではないことを物語っているように読める。

「苔の下に埋れぬ名を殘すともはかなの事や敷嶋の道」「拾遺愚草」の一五八三番(冷泉為臣編「藤原定家全歌集」一九七四年国書刊行会刊の番号)に、

 苔のしたにうつまぬ名をはのこすとも

    はかなのみちやしきしまの哥

とある。

「杜少陵」詩聖杜甫(七一二年~七七〇年:享年五十九)の号。

「名豈文章サンヤ、官老病」杜甫の五言律詩「旅夜書懷」(旅夜、懷(くわい)を書す)の頸聯。所持する岩波文庫版「杜詩」(第五冊所収)によれば、七六五年(数え五十四)の秋、忠州より長江を下った旅中の作とする。杜甫は先立つ七五八年に、宰相の房琯(ぼうかん)を弁護したことで粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市。洛陽の西二百七十キロメートル)司功参軍に左遷され、同年末に洛陽に一時戻るが、翌年、洛陽を中心とした関中一帯が飢饉に見舞われたことから、遂に官を捨て、食を求めて秦州(甘粛省天水市)を経て同谷(甘粛省隴南市成(せい)県)に移るが、餓えますます甚だしく、橡栗(ドングリ)や黄独(山芋の一種)などを食って凌いだ。翌七六〇年、蜀の桟道を越えて成都に赴き、杜甫草堂を建てる。七六四年、厳武の推薦によって節度参謀・検校工部員外郎となったが、心楽しまず、暇を願い出て草堂へ帰った。翌年であるこの七六五年一月には職を辞し、五月には草堂を離れ、雲安へと至ったが、病いのためにそこに留まった。その後も各地を遍歴、七七〇年、飢えた一族郎党を連れ、襄陽・洛陽を経、長安に帰らんとしたが、湘江の舟中で客死した。岩波の「杜詩」の詩形で示す。

   *

   旅夜書懷

 細草微風岸

 危檣獨夜舟

 星垂平野闊

 月湧大江流

 名豈文章著

 官應老病休

 飄飄何所似

 天地一沙鷗

   旅夜に懷ひを書す

  細草 微風の岸

  危檣(きしやう) 獨夜の舟

  星 垂れて 平野 闊(ひろ)く

  月 湧きて 大江 流る

  名は 豈に文章に著(あらは)れんや

  官は 應(まさ)に老病に休(きふ)すべし

  飄飄(ひやうひやう) 何の似たる所ぞ

  天地 一沙鷗(いつさおう)

   *

静山の「名豈文章サンヤ、官老病」ならば、

名は 豈に文章に著さんや

官は 因りて老病に休す

と訓読しており、その意は(岩波「杜詩」を一部参考にした)、

私のような者がどうして詩文によって名声を得られようか。〈反語〉

私のような老病人は官職を退いて休むのが身分相応というものだ。

「云も」「いふも」。

「詩人の詩には非ず」「この謂いは、ただの文人趣味の御目出度い詩人、似非詩人の詩句、感懐表出ではない」という意であろう。中国文学は古代から一貫して「仕官の文学」であり続けた。そこでインキ臭い「載道」(道に載っとる)と交互に波形を描いた一方の思想的潮流は、また「言志」(志しを言ふ)でもあった。道家的で自由自在に見える李白や李賀の生涯を見ても、「仕官としての文学」がその出発点であることは明白な事実であり、その志しの大半の挫折が遊仙的思想へと赴いて行ったのであったのを考えれば、ここで静山が言っている意味も腑に落ちる。

「袁倉山」清代の文学者で、「随園食単」で食通として知られる袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年)の別号。浙江省銭塘の人。貧乏士族の出身であったが、一七三九年、進士に及第し、江蘇省の諸県の知事を歴任して治績を挙げた蛾、一七五五年、三十八歳の時、父の喪に遇って官を辞し、江寧の小倉山(しょうそう)に屋敷を手に入れ、「随園」と名づけた。以後、豪奢な生活を送りつつ、在野の詩人として活躍した。詩は真情の発露を重んじる性霊説(せいれいせつ:個性を尊重し、人の性は自由に流露するときにこそ霊妙な働きを持つとするもの。清新軽俊を詩風として掲げ、袁枚の在野の立場が反映し、広範な階層の間に行われた)を唱えて、格律を重んじる古文辞派の流れを継ぐ宮廷派(格調派)の沈徳潜(しんとくせん)と詩壇を二分した。文は古文・駢文(べんぶん)ともに優れた。人生半ばにして早々と官職を離れた彼ではあったが、静山は彼もまた、詩文というものの本質〈士大夫の詩〉を持ち続けた人物であったと静山は言っているようである。

「每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章」は、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 唯(た)だ竹帛

名を立つるは 最も小なり 是れ 文章たり

静山の「〱」は「ただ」の「た」のただの繰り返しを示す踊り字と採った。いつも情報を戴くT氏の御指摘によって、「隨園詩話」の「巻一四」に以下のように出ることが判った(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらに基づく(一部加工)。見出し№「134」条)。

   *

餘幼「詠懷」云、「每飯不忘惟竹帛、立名最小是文章。」。先師嘉其有志。中年見查他山贈田間先生云、「語雜詼諧皆典故、老傳著述豈初心。」。近見趙雲松「和錢嶼沙先生」云、「前程雲海雙蓬鬢、末路英雄一卷書。」。皆同此意。

   *

これを少なくとも静山は、「餘」=余(袁枚)が幼き時に詠んだ「詠懷」という詩の一節との謂いで採っている。「餘幼」を詩人の名とも取れるが、よく判らぬ。「竹帛」(ちくはく)は「歴史に名を残すこと」を意味する。中国では紙の発明以前、竹簡や布帛に文字を記し、書(特に史書)を記したことに拠る。なお、T氏は上記の「隨園詩話」のそれが「唯」ではなく「惟」であることに着目され、静山は「唯」と記したものの、この字でよいかどうか疑問であったために、「〱」を圏点として附し、後で確認するつもりだったのではないかという推理をされておられる。また、「惟」ならば「ただ」ではなく、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 惟(こ)れ 竹帛

で強調限定となり、その方が腑には落ちる。

「流亞なり」『杜甫のその〈仕官の文学〉〈士大夫の心意気を忘れない詩人〉としての流れを「亞」(つ)ぐものである(無論、定家もまた)』の謂いか。

◆やぶちゃんの追記

 私は当初、全体の解釈の内、杜甫と袁枚を静山が貶めた存在として批判したというトンデモない解釈をしていた。T氏の情報とその解釈への疑問の指摘を受けて、以上を全面的に書き改めた。これは恐らく、私が激しい短歌嫌いであり、これまた、特に、現実の凄惨な俗社会と超越して乖離していることを当然の立場としていた藤原定家を激しい嫌悪対象としていることに始まった曲解であったことは明白である。T氏に心より感謝申し上げるものである。

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