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カテゴリー「「甲子夜話」」の152件の記事

2017/09/08

甲子夜話卷之四 18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

 

4-18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

享保中、小金原にて鹿狩し玉ひし時、松平乘邑、其御用掛りにて御供なり。松平能登守乘賢は西の御附なりしが、後年西にて御狩あらんときの心得に、見置べしとの御旨にて、これも從行せり。御場に堀切したる所へ至らせ玉ひし時、此堀越せと御諚ありければ、乘邑御言下に馬を乘戾し、引返して一さんに堀を超したる體の花やかなるに、有合人々、我知らず聲を出して感ぜり。乘賢は立たる馬を其儘に堀を超させけり。そのとき能登が馬はよく仕込たる馬よと上意あり。その實は、馬術は乘賢の方よほど優りけるとぞ。然れども、時に取て乘邑の騎法目ざましくして、大にはへたりとなり。兩人の氣性、風度の違ひ、多くは此類にて、文質亦かくの如くなりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「乘邑」複数回既出既注であるが、たまには再掲しておこう。松平左近将監乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。

「乘賢」「のりかた」と読むが、これは「父子」が正しいとするなら、乗邑の三男、美濃岩村藩第三代藩主で岩村藩大給松平家第四代松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の誤りである。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。因みに、美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。彼は乗政系大給松平家で、乗邑の曽祖父である乗寿の代に分かれた家系で、父子関係にはない。しかし乍ら、以下の「西の御附」から見ると、後者と採れ(後注参照)、静山の記憶の齟齬が感じられる。

「享保」一七一六年から一七三六年。

「小金原」江戸幕府が現在の千葉県北西部の下総台地に軍馬育成のために設置した放牧場小金牧(こがねまき)のことで、これは徳川吉宗が享保一〇(一七二五)年と翌年の二回、ここで行った鹿・猪等を狩った大規模な鹿(しし)狩りである「小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)」の孰れかでのエピソードである。ウィキの「小金原御鹿狩によれば、『享保の改革を進めた吉宗にとっては、指揮体制の強化、新田開発の視察の意味もある。小金牧は江戸の西に比べ平坦で、家康や家光が狩を行った東金方面や同じ幕府の牧の佐倉牧より江戸に近く、農耕地に囲まれたながら農耕地でない小金牧は、大規模な鹿狩の場所として適していた』。第一回目は享保十年三月二十七日に行われており、これがここでの『確実な記録のある最初の大規模な鹿狩であるが、翌年の本格的実施に向けての準備の意味合いか、記述は少ない。丑の刻に江戸城を出て、両国橋で乗船、小菅で上陸、小金の牧に入った』。鹿八百余頭、猪三頭、狼一頭、雉子十羽を『獲った。生類憐れみの令以降の鹿の増加が伺える』。二度目のそれは丁度、一年後の享保十一年三月二十七日で、先立つ二月十八日に『狩の責任者任命の記録がある。前年と同じ闇夜での移動であり、満月の晩より鍛錬の効果は大きい。記録は前年より詳細である。伊達羽織を着た供を連れ』、丑の刻(午前二時前後)に出立、『松戸宿で休息、先に来ていた家臣等が出迎え、狩場の牧に入った。当日は紫の紗をかけた笠等、富士山麓で狩を行った源頼朝に習った服装であった』。『狩場では御立場を拠点として狩を行った』。御立場は高五丈(約十五メートル)、方百八十間(約三百二十メートル)の『台状に土を盛った山で、将軍の居場所にふさわしい調度品が』既に配されてあった。この時は鹿四百七十頭、猪十二頭、狼一頭を獲って、鷹狩も行っている。未の刻(午後二時前後)に『狩は終わり、来た道を通』って『千住大橋から舟で両国橋』を経て、戌の刻(午後八時前後)に帰城している。「東葛飾郡誌」掲載の「下総国小金中野牧御鹿狩一件両度之書留」には、この時、同行した九人の名前のほかに騎馬二百四人、幕府の七百九十四人を含め、徒歩千三十六人と記されてある、とある。とんでもない規模の鹿狩りであることが判る。

「西の御附」徳川家重の御附き。私が先に誤りとした松平乗賢ならば、享保九(一七二四)年にまさに西丸(長福丸。後の徳川家重附)若年寄になっており、これを正しいとすると、「父子」が誤りということになる(乗賢も能登守であった)。私の認識に誤りがあるのか? 識者の御教授を乞う。

「見置べし」「みおくべし」。参考に供するために見学しておくように。

「堀切」「ほりきり」。牧馬のためのテキサス・ゲート用の堀であろう。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

「御言下に」「おんげんか」。仰せの言葉を賜ったその直後に。「言下に否定する」

「體」「てい」。

「有合」「ありあふ」。居合わせている。

「立たる馬を其儘に堀を超させけり」「立(たて)たる馬」は、馬を前脚を上げさせて真っ直ぐに立ち上がらせる「棹(竿)立ち」「棒立ち」にさせ、後ろ脚だけで跳躍させて、助走をつけずに堀を一気に乗り越したのである。

「はへたり」歴史的仮名遣は誤り「映(榮)えたる」。

「風度」ここは名詞で「ふうど」。態度容姿など、その人の様子。人品。風采。風格。

「文質」「ぶんしつ」。「文」は「飾り」の意で、外見の美と内面の実質。表に現れた優れた学識・態度・容貌等と、内面の素朴な人柄を指す。

2017/07/20

甲子夜話卷之四 17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

 

4-17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

大岡越州の、山田奉行より德廟の御鑑を蒙り、寺社奉行までに陛りしことは、世の人知る所なり。其人才智も衆に勝れたりしが、常に儕輩に對して松平左近將監計は、其才智の敏捷なること梯しても及ぶべからずと云しとなり。その故は、事もつれて入組、いかんとも斷案しがたき公事訴訟の類を、數日を費して調べ、漸條理貫通するやうになりたることを持出て、左監へ申せば、其半にも至らぬ内に、此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得かと、先より申さるゝことの、いつも露違ふこと無りしとぞ。左候と云へば、夫にてよし。今日は事多ければ、詳に承るに及ばずなどありしこと、常の事なりしと云。かゝる神妙の才、亦世に出べしとも思はれずと、人に語りしとなり。又神尾若狹守、享保中司農の長官にて、種々の功績ありしこと、これも亦人の能知れる所なり。若狹守の申たるは、左近將監ほど人をよく使ふ人は無し。あの如く使はれては、誰にても働らかねばならぬと云ける。その故は、あるとき若州病より起て登營し、左近に謁すれば、病氣快やとの尋なり。若州いやとよ未だ全く快らず、此節御用差支べしやと存ずるまま、押て出勤せしと答へしかば、左近色を正くして、其許出勤せずとて御用の支あるべしやと、苦々しく申されければ、若州も失言を悔て退きぬ。扨若州、朝散して家に歸れば、左近より使なり。書札を披讀すれば、病後食氣も未だ薄かるべし。此品調理ほゞよく覺へたれば、分ち進ずとて、鱚の製したるを小重に入れて送りしとなり。

やぶちゃんの呟き

「大岡」御存知、名奉行大岡越前守忠相(延宝五(一六七七)年~宝暦元(一七五二)年)。千七百石の旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれたが、貞享三(一六八六)年満九歳で同族の旗本大岡忠右衛門忠真の養子となって忠真の娘と婚約した。第五代将軍徳川綱吉の時代に寄合旗本無役から元禄一五(一七〇二)年に書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務め、宝永元(一七〇四)年には徒頭、三年後の宝永四年には使番、翌宝永五年に目付に就任、幕府官僚として成長、第六代将軍家宣の時(正徳二(一七一二)年一月)に遠国奉行の一つである山田奉行(伊勢奉行)に就任した。七代将軍徳川家継の時代の享保元(一七一六)年には普請奉行となって江戸の土木工事や屋敷割りを指揮、同年八月に吉宗が将軍に就任すると、翌享保二年に江戸町奉行(南町奉行)となった(以上はウィキの「大岡に拠った)。

「神尾」「かんを」と読む。旗本神尾若狭守春央(かんおはるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)。ウィキの「神尾春央によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』とある。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み』、元文元年(一七三六)年に勘定吟味役、翌年には勘定奉行となった。時に『徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に』延享元(一七四四)年には『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十『年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、ここに出る『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三年九月に『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため』、彼の影響力は著しく減衰した。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして』『広く知られている』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある(この最後の落書のエピソードは本「甲子夜話」が出典)。

「乘邑」松平左近将監(さこんのしょうげん)乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中(享保八(一七二三)年就任)。複数回既出既注

「御鑑」「御感」の誤字であろう。

「陛りし」「のぼりし」。

「儕輩」「さいはい/せいはい」仲間。同輩。同僚。

「計は」「ばかりは」。

「梯」底本では『てい』とルビする。梯子(はしご)のこと。

「入組」「いれくみ」。

「公事訴訟」「くじそしよう」。現在の民事事件の裁判。

「類」「たぐひ」。

「漸」「やうやく」。

「持出て」「もちいでて」。

「其半にも至らぬ内に」「其半」は「そのなかば」。報告内容の詳細な説明が半分も終わらないうちに。

「此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得か」「この公事訴訟案件はそこからこれこれのように推移して、このように結果したものと推測される。さればこれこれといったような裁きを、貴殿は決せられのではないかと推察するが、如何?」。

「先より申さるゝこと」これから拙者がお話しようとした経緯の推移とその結審案を、みるみるうちに簡潔に推測なされて申される、その内容は。

「露違ふこと無りし」「つゆたがふことなかりし」。仰せられた内容には、ほんの少しも違っていることがなかった。

「詳に」「つまびらかに」。

「出べし」「いづべし」。

「享保中」一七一六年~一七三六年。

「司農」(しのう)は中国古代の官名で農政を司ったことから、幕府の財政担当業務の長官であった勘定奉行の別称。

「能知れる」「よくしれる」。

「起て登營し」「起て」は「たつて」。病身を無理におして登城し。

「快や」「よきや」。底本のルビに従った。

「尋」「たづね」。

「差支べしや」底本ではルビして「さしつかゆべしや」と読んでいる。

「押て」「おして」。

「其許」「そこもと」。

「支」「つかへ」。

「悔て」「くひて」。

「朝散」「てうさん(ちょうさん)」は江戸城を下がること。

「使」「つかひ」。

「病後食氣も未だ薄かるべし」病み上がりで食欲もまだあまりないことと推察仕る。

「此品調理ほゞよく覺へたれば」この品はちょっとばかり上手く料理(つく)ることが出来たと思うたによって。

「鱚」高い確率で条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica である。身は脂肪が少なく柔らかい白身で美味とされる。白鱚の旬から見てもこのシークエンスは夏と思われ、病み上がりの贈答で「製したるを小重に入れて送りし」とあることからも、これは酢塩でしめたものと推察される。

2017/07/07

甲子夜話卷之四 16 享保の頃は士風の強きを育せし事

4-16 享保の頃は士風の強きを育せし事

享保の頃の重職は、士風の手強きを育てらるる心あつきことゝ見へたり。左近へ御役人の某が建言せしとき、今日は御用ありとて坐を起んとせられしかば、その御役人、左近の裾をひかへ、申上候事も御用に候と申ければ、左近起れずして其事を聞終れり。その後その同寮に左近逢れて、某はよくぞ我等を押へて存寄申盡され候とて、感賞せられしとなり。松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか、蓮池通りを行しとき、西城の通御ありて御門を打たるに心付れず、御門までかゝられしに、固めに立ける同心恐怖して、留めもせずありしかば、番所に居し同心、聲を厲しくして、能登殿でも通すことはならずと呼ける。その後營中にて、能登守其組の御先手頭に逢はんとありしかば、頭も恐れながら謁しけるに、此頃蓮池番所にありし同心、心掛よろし、褒置申べしとありしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「育せし」「育て」標題は「いく」、本文は「そだて」。

「重職」幕府の大老や老中など。老職に同じい。

「左近」既出既注の松平左近将監松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主で老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って享保の改革を推進した辣腕。

「起ん」「たたん」。

「逢れて」「あはれて」。

「某」「なにがし」。

「存寄申盡され」「ぞんじよりまうしつくされ」。

「松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか」「乘賢」が正しい。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。「加判」は老中、「參政」はその下の若年寄のことで、乗賢は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。

「蓮池通り」本丸とその西側に広がる西丸(現在の皇居)を隔てる蓮池濠の西丸側の通り。

「西城の通御」西日本の大名の参内か。

「御門」どの門か私には不詳。若年寄時代ならば、位置的に見て西丸裏門か。

「立ける」「たちける」。

「留め」「とめ」。

「居し」「をりし」。

「厲しく」「はげしく」。

「呼ける」「よばひける」と訓じておく。

「御先手頭」「おさきてがしら」。複数あった先手組(さきてぐみ:江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした)の組頭。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、時代によって『組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』たという。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

「褒置申べし」「ほめおきまうすべし」。

2017/06/11

甲子夜話卷之四 15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

4―15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

竜紋を麻上下の代りに用ることも、左近始められしと云。一日着して德廟の御前に供せらる。そのとき左近の上下は何なるやと御尋なり。是は龍紋にて候。家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候と申上らる。夫より世の中竜紋の上下を用始めしと云。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」引き続き、前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。彼は左近衛将監であった。

「竜紋」「りゆうもん(りゅうもん)」は「竜門」「流紋(りうもん(りゅうもん)」などとも書き、絹の平織物の一種。羽二重に似るが、やや厚手で、江戸時代、帯・袴・羽織・裃などに用いられた。武士の裃にそれを用いた濫觴は乗邑だと静山は記すのである。

「上下」「かみしも」。裃。

「德廟」吉宗。

「家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候」乗邑はまず、竜紋の裃を作らせて家臣に下賜して、具合を見た。すると麻よりも「保」(もち)がよい(厚地であるから擦り切れにくいという謂いか)、とって「悦候」(よろこびさふらふ)であったから、彼もそれを着用したというのであろう。

 

2017/05/21

甲子夜話卷之四 14 同人、物數奇多き事(松平乗邑譚その2)

 

4-14 同人、物數奇多き事

左近は胸次の不凡ゆへにや、物好にて一時にせられしこと、後に傳ること多し。駕籠の腰、昔は高くて出入むづかしゝと也。左近好みて際を淺く造られしより、人々それに倣ひ、今は一統の形同じやうになりたり。大小の鞘をしのぎに削り、丸きより帶留りよきやうにし、そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも、其好みなり。昔は左近形と云しが、今は名を知るものもなし。八寸の脚を半短くして、物すへと名づけ、常に用らる。今は工人尋常に作り出して、低(ヒク)八寸と云。硯蓋を脚付にし、遠州透を彫り、朱漆にしたるを、有明盆と名づけ、大小掛を松樹の俤にして、印籠までかゝるやうにしたるなど、世にもてはやせり。襖を腰通り一枚、別色の紙にて張たる。天井を四方の𢌞り一枚通り、これも別紙にて張たるなど、させることもなけれど、風趣あるものなり。今はその本を知るものさへも無しと、林氏語れり。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。 彼は左近衛将監であった。

「物數奇」「ものすき」。風流で、しかもプラグマティクな数寄者であったこと。

「胸次」「きようじ」。胸中。常の想い。

「不凡」「ぼんらざる」。

「一時に」ちょっと。

「傳る」「つたはる」。

「しのぎに削り」刀の大小の(ここは)鞘の、刀身の棟と刃との中間で鍔元(つばもと)から切っ先までの稜(りょう)を高くした「鎬(しのぎ)」の相当箇所を、通常は「丸」いのであるが、そこを削り上げさせて、「帶留りよきやう」(帯から抜けおちぬように鋭角に)仕上げ。

「そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも」その鞘の鋭角的に削った鎬相当の片面箇所の表面に、サメやエイ或いはチョウザメなどの魚皮革を剝いで乾かしたものを装飾や滑り止めとして貼り付けたもの。チョウザメのそれは「菊綴」と称した。私の古い投稿記事チョウザメに画像がある。

「八寸」「はつすん(はっすん)」は懐石料理などで用いる八寸(二十四センチメートル)四方の器で、一般に赤杉の木地で作った盆状のもの。これに三種から五種の珍味などを少量ずつ盛って載せて供する。この頃のそれは高い脚がついていたものらしい今の八寸は脚などはないか、あってもごく低いものであるから、まさにこの時の乗邑の改良が今、当たり前となっているということになる

「半」「なかば」。

「硯蓋」「すずりぶた」。

「脚付」「あしつき」。

「遠州透」「ゑんしうすかし」。池に囲まれた庭のイメージを透かし加工で模したものとも言われる、幾何学的な文様を組み合わせた細工模様。庭のイメージから、安土桃山から江戸前期の茶人で造園家として知られた小堀遠州の名を冠している。

「朱漆」「しゆうるし」。

「大小掛」刀掛け。

「俤」「おもかげ」。

「張たる」「はりたる」。

「その本を知るものさへも無し」それが松平乗邑殿の発案の風流であることを知る者とて一人もおらぬ。

「林氏」林述斎。

 

2017/05/12

甲子夜話卷之四 13 松平乘邑、茶事の事

 

4-13 松平乘邑、茶事の事

松平乘邑は、茶事を好まれける。原田順阿彌と云し同朋頭、これも茶事に精くして氣に入、折々招かれしが、あるとき茶會にて順阿彌詰なりしとき、會席に柚みそ出たり。其後順阿彌申には、此間は御庭の柚とり立にて、格別の香氣なりと云。乘邑何ゆへ庭の柚と云ぞとありしかば、御路次へ入りたるときと、退去のときと、御庭の柚實の數違へりと答へぬ。油斷のならぬ坊主よと乘邑云れしとなり。それほど懇意なりしが、或時政府にて、何か茶事の咄ありしとき、乘邑の云はれし數奇事を、順阿彌感じ入て、扨々御手に入候と申けるを、乘邑怒られ、不禮なりとありければ、順阿彌恐れて、四五日病を稱して籠りける。その後同寮の者へ、順阿彌見へず、何如と、乘邑申されければ、病に候と答ける。最早病も快かるべし、出候へとありければ、翌日より出勤しけるとなり。その嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」既出既注

「原田順阿彌」本名原田孝定。検索を懸けると、本話の訳が幾つか出る。

「同朋頭」「どうぼうがしら」。幕府の職名で、若年寄に属して同朋(将軍や大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代以降、一般に「阿弥」号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の江戸城内での役職の一つとして規定され、若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主(城中で大名や諸役人の給仕を担当。同朋よりも格上)・奥坊主(特に江戸城奥向きにあって、茶室を管理し、将軍の茶や諸侯の接待・給仕などを担当した坊主。小納戸(こなんど)坊主とも称した。無論、表坊主よりも格上)の監督を掌った。

「詰」「つめ」。松平乗邑の屋敷で行われた茶会に呼ばれたことととる。茶事(ちゃじ)を「つめた」は茶会業務に従事したことの謂いでろうが、ホストの差配業務に徹していては茶菓子は食はれまい。

「柚みそ」底本では編者は「柚(ゆ)みそ」とルビする。柚子味噌。

「何ゆへ庭の柚と云ぞ」「何故、我が屋敷の庭の柚子と言えるのじゃ?」。

「路次」底本では「ろじ」とルビするが、私は「ろし」と清音で読みたい。なお、ここは茶室へ向かう路地であろう。

「油斷のならぬ坊主よと乘邑云れし」ここは鋭い観察眼を褒めた側面もあるものの、それ以上に寧ろ、風流の道を旨とする茶人のくせに、抜け目なく、庭の柚子の実の数なんぞを数える、謂わば、「徒然草」の柑子に囲いをするような俗僧に同じい、いやな一面をも感じとって、「油斷」「ならぬ」と言ったものと私は解する。

「數奇事」「すきごと」。茶事に関わる意見。

「扮々御手に入候」「さてさておんてにいりさふらふ」。「いやはや! お手の入ったご立派なる謂いで御座るな。」。

「同寮の者」順阿弥の同僚。

「快かるべし」「よかるべし」。乗邑は自身の怒り故の仮病と判っているから、「ああ。あれで発した病か。それならもう恢復したはずじゃ」と言って、暗に許すから「出て参れ」という意を含ませているのである。

「嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ」「嚴剛」(げんがう)は格別に厳格なことであるが、「その厳格さもまたガチガチの一辺倒なのではなく、硬軟美事に使い分けるらるるさま、「かくの如」しであったとのことである、というのである。

2017/05/04

甲子夜話卷之四 12 白熊

 

4-12 白熊

下野を領する御旗本衆の村長、白熊の子を捕て養置しが、今年三歳なりとて、その地頭の屋敷に持來れるを見し人の物語に、大さは狗の大ぶりなるほどなり。總體純白にて、月の輪計黑毛なりとなり。

■やぶちゃんの呟き

 食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus のアルビノと考えてよいと思うが、その場合、胸部の三日月形或いはV字形の白い斑紋部(正常個体でもこれがない個体もいる)だけが逆に黒いというのは嘘臭いというか、嘘である。或いは飼い主が墨塗りしたんではあるまいか? なお、ツキノワグマのアルビノは実際に本邦にいる!。例えば、個人ブログ「クマにあいたい☆」の「ミナシロ」によれば、『ミナシロとは、全身真っ白なツキノワグマでミナグロ(全身真っ黒)と一緒で胸に月の輪がなく、マタギの間では 神の使いとして伝えられていて、絶対に獲ってはならないとされている』とあり、『実際、ミナシロはツキノワグマのアルビノ個体らしいのだ』が、『全国的にも珍しいこのクマが、岩手県の北上山系では』百年以上前から『ちょくちょく目撃されて』いると記す。実際に、その剥製が「遠野市民センター」に現存するとあって、ブログ主はそれに逢いに行った。現在は『傷みがひどいので』十年ほど『前から展示してないらし』いが(当該記事は二〇〇七年八月二十四日投稿のもの)、学芸員の案内で特別に『収蔵室に連れて行って』貰い、現物を見た(記事中に写真有り!)。記されたデータによれば、このアルビノ個体は昭和四五(一九八〇)年五月二十八日に『遠野市の国道で捕獲』されたもので、♀で推定三歳、捕獲時の体重は五十五キログラムとある。『当時の関係者はこれをツキノワグマだと思わなかったそうで、剥製業者も北極グマのように仕立ててしまったらし』いという(学芸員の談話)。『日焼けして毛が黄色くなってしまったけれど、月の輪は確かに無い。ツメも真っ白。目と鼻はピンクだった』と観察を記しておられる。また学芸員によれば、『岩手県内にあと』二体の『ミナシロの剥製があるらしく』、『一つは住田町の公民館という噂で』、『もう一つは県立博物館に保管されているらしい』とある。しかし、『これまでちょくちょく目撃例のあったミナシロ君』も『最近は目撃されてない』らしいともある。さらに、『アルビノ個体は遺伝子異常によるものとされている』が、『なぜ北上山系に多いのかという理由』として、『奥羽山系と隔絶された立地条件により個体群の近親交配などによるものではないかと言われて』いたと記し、「『それが、近頃目撃されないってコトは』『生態系が回復しているってこと?』『だったらいいんだけど』……」と期待を述べられた上、平成一二(二〇〇〇)年の『農林水産省の調査では』『奥羽山系と北上山系のツキノワグマでは骨格の作りが違うことがわかって』おり、『分析の結果によると奥羽のクマは北上に比べて①上あごや鼻骨が長くて②上あごの幅や両目の感覚は短いという傾向があるらしい』という情報も与えて呉れた。感謝!

 しかし、嬉しいことに! 今も「ミナシロ」はいるらしいぞ! サイト「信州ツキノワグマ研究会」このサイト自体が必読!)の中の、岩手大学大学院連合農学研究科の斉藤正恵氏の「白いけもの考(3)~<特別寄稿>しろいツキノワグマ「パンダ」のご紹介~」(リンク先に茨城県自然博物館の「クマの企画展(熊~森のアンブレラ種~)」に展示された剥製写真有り!)によると(二〇〇八年十二月十八日の記事)、冒頭から、『岩手県の北上高地で行動追跡を行なっているアルビノのツキノワグマについてご紹介します』と始まるからだ! そこで語られているアルビノ個体は二〇〇二年『生まれのようです。それからクマ関係者による捕獲作戦が始まり』、二〇〇四年『の夏にようやく捕獲されました。捕獲してくれたハンターの菊地さんは、パンチメタル式の捕獲ワナのなかにいる背中は黒く腹が白い動物を見て、思わず「パンダだ!」と叫んだそうです。そんなことからこの白いクマは「パンダ」と名づけられました。パンダはメスで』、体重は三十五キログラムほどで、『この個体はとてもおっとりとした性格のようで、人が近づいてもそれほど威嚇もせず、ワナの中で仰向けになって寝たり、でんぐり返しをしていました。そのせいで背中だけ真っ黒になっていたのでしょうか。パンダの目は赤く、鼻や肌のほか肉球はピンク色で、典型的なアルビノ個体の特徴を有していました。あの特有のクマ臭さもなく、ダニなどもほとんどついていませんでした』とあり、『電波発信機をつけて放獣し、パンダの行動追跡が始まりました。私が以前追跡していたメス個体と同様に、パンダは捕獲された集落付近のいわゆる里山で一年中生活していました』。そうして、二年後の二〇〇六年の初夏に再びこの「パンダ」が再捕獲された、とあるのである。『あの得意のでんぐり返しで私たちを出迎えてくれました。パンダの体重は』四十二キログラム『になっており、この年に出産した形跡が見受けられたものの』、『すでに乳は出ませんでした。子供はどうしてしまったのでしょうか・・。現在、この個体の追跡は後輩が行なっていますが、パンダは今も北上高地の里山で暮らしています』とあるのである! また、『ところで余談ですが、北上高地ではこれまで数頭のアルビノ個体が確認されています。過去の新聞をみると、狩猟された白いツキノワグマとその黒いコグマの写真が掲載されています。また、県内の博物館にはアルビノ個体の剥製も所蔵されています。ところが』、『剥製職人さんがホッキョクグマと勘違いしたらしく、ちょっとツキノワグマらしからぬ姿になっています』とある。以下、二〇〇三年五月十日附『岩手日報』朝刊の『岩手の白いクマが遺伝子調査』という記事が示されてある。以下、その記事。『岩手県内の北上山地では過去約』四十年間で六例も『白いクマが確認され、非常に頻度が高い。これらのツキノワグマは、色素を作ることができない遺伝子を両親から受け継いだアルビノ固体(白子体)と考えられる。同じ岩手県内でも奥羽山系では白いクマは確認されておらず、全国的にもほとんど例がない。岩手県内のツキノワグマの推定生息数は約』千『頭にすぎないので、北上山地でのアルビノ固体の頻度は非常に高い。盛岡市厨川の独立行政法人森林総合研究所東北支所は、「生息地が分断されている」、「奥羽山地など他のクマとの交流が無くなった」等によって、近親交配の可能性があると推測、遺伝子調査を始めることになった。県内各地で保存されている「白いクマ」の剥製の体毛や頭骨などからデオキシリボ核酸(DNA)を抽出し、アルビノ個体の確認、近親交配の有無などを分析する予定』とある(下線やぶちゃん)。「ミナシロ」よ! 永遠なれ!!!

「村長」「むらをさ」。

「捕て」「とりて」。

「養置しが」「やしなひおきしが」。

「今年三歳なり」捕獲から三年であるから三歳以上と考えるべきである。なお、ネット上の情報では、ツキノワグマの平均寿命は野生状態で二十四年、飼育下では三十三年生きた個体もいるとする。

「狗」「いぬ」。

「總體」「さうたい」。全身。

「計」「ばかり」。

 

甲子夜話卷之四 11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

 

4-11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

「著聞集」に鬼に瘤を取られたると云こと見ゆ。是は寓言かと思ふに予が領内に正しく斯事あり。肥前国彼杵郡佐世保といふ處に、八彌と云農夫あり。左の腕に瘤あり。大さ橘實の如し。又名切谷と云る山半に小堂あり。觀音の像を置く。坐体にして長一尺許。土人夏夜には必ず相誘てこの堂に納涼す。一夕八彌彼處にいたる。餘人來らず。八彌獨り假睡す。少くして其像を視るに、其長稍のびて、遂に人の立が如し。起て趺坐を離る。八彌が前に來て曰。我汝が病患を銷せん迚、八彌が手を執て、かの瘤をひく。八彌その痛に堪ず、忽驚ざむ。夢なるを知て、見るに瘤なし。人疑ふ、八彌常に大士を信ずるにあらず。亦患を除の願ありしに非ず。然るにこの靈驗あること不可思議なり。かゝれば、昔鬼に瘤を取られしこと寓言とも言がたし。

■やぶちゃんの呟き

「著聞集」「古今著聞集」であるが、知られた〈瘤(こぶ)取り譚〉は該当する話柄がないので、これは先行する「宇治拾遺物語」の誤認と思われる。それは既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』そこでは「甲子夜話」の本話も紹介されてある)の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「寓言」「ぐうげん」実際には起った事実ではない、創作されたたとえばなし。

「彼杵郡」「そのぎぐん」。

「佐世保」現在の長崎県佐世保市内。

「八彌」「はちや」と読んでおく。

「大さ」「おほきさ」。

「橘實」「たちばなのみ」。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana の果実。現在では酸味が強く、生食には向かないため、砂糖漬けやマーマレードなどの加工品にされる。

「名切谷」「なきりだに」。佐世保市名切ちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。同地区のバス停名として現存する。

「云る」「いへる」。

「山半」「やまなかば」と訓じておく。

「小堂あり」「觀音の像を置く」不詳。佐世保市内には静山が再建した福石観音堂なるものが現存するが、位置が違うし、由来にもそれらしい話は出ない((グーグル・マップ・データ))。

「相誘て」「あひさそひて」。

「彼處」「かしこ」。

「假睡」「かりね」と訓じておく。

「少くして」「すこしくして」。

「其長稍のびて」「その丈(たけ)、稍(やや)伸びて」。

「人の立が如し」「ひとのたつがごとし」。

「起て」「おきて」。

「趺坐を離る」「ふざをはなる」。結跏趺坐していた位置から離れて歩いてくる。

「銷せん」「しやうせん」。「消せん」で「治してやろう」の意。

「執て」「とりて」。

「痛」「いたみ」。

「堪ず」「たへず」。

「忽驚ざむ」「たちまちめざむ」。瞬時に目覚めた。

「知て」「しりて」。

「大士」「だいし」。菩薩の意訳。ここはここの観音菩薩のこと。

「患を除」「わづらひをのぞくの」

「願」「ぐわん」。

甲子夜話卷之四 10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

 

4-10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

享和の初、西城いまだ御幼き時【御年十】、淺草寺に御成、彼處にて童子の相撲上覽あり。其頃奥毉快菴法眼【吉田氏】、予が病を診に來れる次手に問たれば、懷中より童子の名を出して示せり。

[やぶちゃん注:以下、下線(本文で言う「右點」)は底本では、右傍線であって、しかも頭の部分は有意に左方向に反っている。そのように読み換えて戴きたい。]

東方 福 鼠【年十】  西方 山 彦【年十】

   河 鵆【年八】     金 簾【年九】

   神樂岡【年八】 預り  隅田川【年八】

   待乳山【年十二】    初舞臺【年十】

   玉之井【年十】     花 傘【年十】

   呉服鳥【年十二】    朝日山【年十】

   初瀨山【年九】     喜見城【年十】

   汐 衣【年十三】    友 鶴【年十二】

   亂獅子【年十四】    赤兎馬【年十四】

關  龍 王【年十四】    虎 王【年十四】

     重て上覽のとき

   出世奴【年十】     酒中花【年十】

   白 瀧【年十】     大酒盛【年十一】

   舞 扇【年十二】    水 車【年十一】

   玉芙蓉【年九】 無勝負 稻 妻【年十二】

          行司 木村源之助【年十三】

          呼出 追灘金太郎【年九】

右點あるは勝のしるしなり。其時西城の御目付同姓大膳【今伊勢守】、此事を取扱たり。是より聞けり。いかにも御幼稺の御慰には勇ましき御事なりけり。

■やぶちゃんの呟き

 並ぶ四股名は読み方は判らぬ。特異な漢字のみを注した。

「享和」一八〇一年から一八〇四年の三年。

「若君」「享和の初」(はじめ)「西城いまだ御幼き時【御年十】」後の第十二代将軍となる徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)。数え十歳であるから正確な時制は享和二(一八〇二)年に特定出来る。寛政五(一七九三)年に第十一代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれたが、長兄竹千代が早世したため、将軍継嗣となった。天保八(一八三七)年、四十五歳になってやっと将軍職が譲られたが、それでも家斉が大御所として強大な発言権を保持し続けた(家斉の死は四年後の天保一二(一八四一)年で、それ以後、老中首座であった水野忠邦を重用、旧家斉派を粛清して「天保の改革」を行なわせたが、知られる通り、厳しい綱紀粛正を伴った緊縮財政政策は世間では支持されなかった。言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明派の蘭学者を弾圧してもいる(蛮社の獄))。

「彼處」「かしこ」。

「奥毉」「おくい」。「奥醫」に同じい。

「快菴法眼【吉田氏】」吉田快庵。生没年不詳乍ら、ネット上の資料にはその名が散見される。

「次手」「ついで」。

「問たれば」「とひたれば」。

「河鵆」「かはちどり(かわちどり)」であろう。

「預り」引き分けの一種ウィキの「相撲)より引く。『文字通り、勝負結果を行司もしくは審判委員が「預かり置く」ことで、物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用された。日本相撲協会発行の星取表には大正までは「△」の記号で記載されたが、戦後痛み分けが「△」の記号で記載されるようになったため近年作成される星取表にはカタカナで「ア」と表記されることもある。ひとつには、江戸時代の幕内力士は多くが有力大名のお抱えであり、その面子を傷つけないための配慮措置でもあった。記録上は引き分けとしながらも、実際の取組で優勢であった側に、番付編成面で優遇を与える「陰星」(完全に』一『勝扱いにする場合を「丸星」』、半勝半負扱いの時は『「半星」と呼んだ)もあった。特に丸星の場合、星取表の右上の、勝ち数を表記するところに「●」を加えた場合もある』。『大正頃まで、大部屋同士の意地の張り合いや、大坂相撲と東京相撲との対抗心から来るいざこざも多く、これらをなだめる方便としても預り制度は存続した。また、東西制の導入で優勝争いが勝ち星の合計で争われるようになると、自分の側に優位になるようにと控え力士が物言いをつけるケースも多くなり、その対処としての「預り」も増えた』。『昭和の東西合併に伴う規則改正で大正末期に取り直しの制度が設けられたことにより、『勝負預り』は制度としては廃止されたが、昭和以後』、二『度だけ預りが記録されている』。『祭りでの素人相撲大会などでは、決勝戦や結びの一番は、どちらが勝っても必ず「預り」でしめる慣例になっているものも多い。神事としての相撲に豊作凶作を占う意味もあるため、幸不幸が地域内で偏らないようにするためである』とある。

「待乳山」「まつちやま(まっちやま)」。

「喜見城」「きけんじやう(きけんじょう)」であろう。これは須弥山(しゅみせん)の頂上の忉利天(とうりてん)にある帝釈天の居城の名である。七宝で飾られており、庭園では諸天人が遊び戯れるとされる。

「赤兎馬」「せきとば」であろう。「三国志」「三国志演義」などに登場する、名将の騎した名馬、一日に千里を走る駿馬(しゅんめ)の類を指す。「赤」は「汗血馬」の血の色とも、「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる

「關」大関。相撲では明治中期まで大関が最高位であった。

「無勝負」引き分けの一種ウィキの「勝負より引く。『無勝負(むしょうぶ)は、相撲で廃止された制度の一つで、文字通り「勝負無し」とする裁定。記録上は引き分けの一種の様に扱われる』。『現在の大相撲ではどんなにもつれた勝負でも、行司は“必ずどちらかに軍配をあげなければならない”ことになっているが、江戸時代には、勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司が「ただいまの勝負、無勝負」と宣言して軍配を真上にあげて、そのあと袴の中にいれてしまうことで、勝敗の裁定をなしにすることができた。この場合は、星取表に「ム」とカタカナで記入することとなっていた。その点で、物言いがついたあとに勝敗を決めない『預り』(星取表にはカタカナで「ア」)や、水が入って動かない『引分』(星取表には「×」)、一方が負傷して勝負続行が不可能な場合の『痛み分け』(星取表には「△」)とは異なる』。『この制度は江戸相撲では江戸末期に廃止されたらしく』、元治二(一八六五)年二月『場所での記録を最後に登場しない。明治期にはすでに行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないように定められた。一方で大坂相撲では明治時代にはまだ存続しており、当時の成績表にも記録が残る。大坂で廃止されたのは大正初期であった』とある。

「行司 木村源之助」ウィキの「行司の「引退した主な行司」の「十両格」に二代目『木村源之助』の名を見出せる。

「呼出 追灘金太郎」坪田敦緒氏の優れたサイト「相撲評論家之頁」の「大相撲東風西雅」の十三話『「呼出」のはなし』の中で、この条が取り上げられており、そこで『「呼出 追灘金太郎 年九」』『という記述があり、これが「呼出」が出てくる最古の例のようです。 「甲子夜話」そのものは著者が』六十『歳を過ぎた』文政四(一八二一)年『から書き始められたものですが、それより』二十『年も前の記録ですから、恐らくはもとになる資料があったと思われます』とある。なおそこで坪田氏は、この浅草寺での父家斉と子家慶の童子相撲上覧を享和二 (一八〇二) 年九月十八日と特定しておられる

「御目付」幕府のそれは江戸城本丸及び西の丸に置かれ、定員十名、役高は千石で、若年寄支配。

「同姓大膳【今伊勢守】」同姓とあるからには松浦であろうが、不詳。

「取扱たり」「とりあつかひたり」。

「幼稺」「えうち」。幼稚に同じい。

 

甲子夜話卷之四 9 秀賴の異事

 

4-9 秀賴の異事

[やぶちゃん注:以下の漢文部分は送り仮名(カタカナ)を含めた訓点が附されてあるが、返り点のみを再現し、書き下し文(一部に読点と読みを追加して読み易くした)を( )で示した。]

大阪落城の時、豐臣秀賴は潛に薩摩に行れたりと云一説あり。此こと異域にも聞へたると見えて「涌瞳小品」に【第三十に見ゆ。明の朱國禎著す】、賴兵敗走入和泉焚ㇾ城而死。又有逃入薩摩(賴(らい)か兵、敗走して和泉に入り、城を焚(やき)て死す。又、逃(にげ)て薩摩に入(いる)と言ふ者、有り)と。入和泉(和泉に入る)とは誤聽なり。又何にてか見たりし、落城のとき、神祖天守に火かゝりたるを御覽ありて、早や御動坐あるべしと仰出さるゝ故、左右より未だ秀賴の否知れ不ㇾ申と言上せしに、天守に火かゝれば落城なりとの御諚にて、卽御動坐ありしと。又或人曰。秀賴薩摩に行し後、大酒にて處々にてこまりたり。酒の負債多くありしと。因みに云ふ、今高崎侯の居間、襖に秀賴の畫とてあり。金地に老松を繪き、其上へ總體明間もなく簾を繪く。簾外に見たる體なり。尤着色なり。其筆雅樂助、山樂などゝ見ゆ。

■やぶちゃんの呟き

 豊臣秀頼(文禄二(一五九三)年~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))の生存説については、ウィキの「豊臣秀頼の「生存説」から引いておく(注記号を省略した)。『大阪が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説がある』。「日本伝奇伝説大辞典」の『星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで』、『以下のとおり記述されているが、どれも伝説的な逸話である』。『平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されており、生存の噂が流布していた』。『『採要録』には薩摩国谷山に元和はじめ浪士が住み着き、国主からの家に住んでいたが酒好きでいつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている』。『鹿児島市下福元町に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓』二『基もあるという』。昭和四二(一九六七年)から翌年にかけて、『鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し』、四十五『歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり』、『長じて立石領初代領主・木下延由となったとする説を唱えた』。旧日出藩主木下家第十八世当主木下俊煕氏はその著「秀頼は薩摩で生きていた」(昭和四三(一九六八)年新峰社刊)で、『秀頼は宗連といい、日出藩木下家が落ち延びた秀頼と国松を密かに庇護したこと、それを疑った幕府が松平忠直を隠密として配流したという内容の生存説を出し』ている。豊臣正統十四世を自称する木場貞幹は『歴史と旅』(昭和五八(一九八三)年八月臨時増刊号)で『「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している』。江戸時代の小説「真田三代記」(幕末近くに成立した実録体小説。後に同名の長編講談となり、明治まで大いに流行ったようで、そこからまた、「真田十勇士」「猿飛佐助」の派生長編講談が生まれた)の第百七十八節の『「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら』百五十『名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている』とある。

「潛に」「ひそかに」。

「涌瞳小品」(ゆうどうしようひん)は「明の」内閣首輔を勤めた「朱國禎」(しゅこくてい 一五五七年~一六三二年)の著。同書の「卷三十」の「倭官倭島」の条に以下のようにある(中文の「維基文庫」のものを加工した)。

   *

關白、倭之官號、如中國兵部尚書之類。平秀吉者、始以販魚、醉臥樹下、別酋信長爲關白、出山畋獵、遇吉衝突、欲殺之。吉有口辯、自詭曾遇異人、得免。收令養馬、名曰木下人。吉又善登高樹、稱曰猴精。信長漸委用、合計奪二十餘州。後信長爲奇支所殺、吉討平之、遂居其位。丙戌年擅政、盡並六十六州。其主山城君、懦弱無爲。壬辰破高麗、改天正二十年爲文祿元年、自號大閣王、以所養子孫七郎爲關白。

日本原六十八島、各據其地、至平秀吉、始統攝之。及老且病、子秀賴尚幼、托於婦父家康代攝其位。吉死、家康止以和泉、河二島歸賴。賴既成立、索其位於家康。不與、忿還其女、致爭鬥。賴兵敗、走入和泉、焚城而死。又有言逃入薩摩者。其位遂歸於家康、傳其子爲武藏將軍。倭俗簡易、寸土屬王。倭民住屋一編、闊七尺。歳輸銀三錢。耕田者、粟盡入官、只得枯稿。故其貧者、甚於中國、往往爲通倭人買為爲賊、每名只得八錢。其人輕生決死、飲食甚陋、多用湯、日只二餐、以苦蓼搗入米汁爲醋。其地多大風、夏秋間風發、瓦屋皆震、人立欲飛。乍寒乍暖、氣候不常。其暑甚酷、一冷即挾纊。九月以後卽大雪、至春止矣。大小終日圍爐、婦人齒盡染黑、閨女亦然。以雪、孩子穿紅繡紗、踐於雪中、不惜。其酋長喜中國古書、不能讀、不識文理、但多蓄以相尚而已。亦用銅錢、只鑄洪武通寶、永樂通寶、若自鑄其國年號、則不能成。法有斬殺、無決配。倭人傷明人者斬。倭王見明人、卽引入座。我奸民常假官、詐其金。留倭不歸者、往往作非、爭鬥、賭盜、無賴。有劉鳳岐者、言自三十六年至長崎島、明商不上二十人、今不及十年、且二三千人矣。合諸島計之、約有二三萬人。此輩亦無法取歸、歸亦爲盜、只講求安民之策可也。

   *

「賴か」送り仮名は「」でママ。秀「賴が」。

「御動坐あるべし」「ごどうざあるべし」「御」は自敬表現(或いは記者の尊敬語)で、「戰は終わったから陣屋へ戻ろう」の謂いであろう。

「仰出さるゝ」「おほせいださるる」。

「否」「いなや」。

「不ㇾ申」「まうさず」。

「言上」「ごんじやう」。

「御諚」「ごじやう」。きっぱりとした仰せ。

「卽」「すなはち」。

「高崎侯」上野群馬郡(現在の群馬県高崎市)周辺を了した高崎藩主。江戸後期は大河内松平家。

「總體明間もなく」「さうたいすきまもなく」主対象の松以外の空間全面、殆んど隙間もなく。

「簾」「すだれ」。

「簾外」「れんぐわい」。

「見たる體なり」「(松を)見たる體(てい)なり」。

「尤」「もつとも」。着色画であることから、秀頼などの素人絵ではないという判断からか。

「雅樂助」室町後期の狩野派絵師狩野雅楽助(かのううたのすけ 文亀年間(一五〇一年~一五〇三年)?~天文八~一〇(一五三九~一五四一)年)?)。

「山樂」安土桃山から江戸初期の狩野派絵師狩野山楽(さんらく 永禄二(一五五九)年~寛永一二(一六三五)年)。

 

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