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カテゴリー「「甲子夜話」」の157件の記事

2018/01/11

甲子夜話卷之四 4-23 奥州に掘得たる古鈴

 

4-23 奥州に掘得たる古鈴

 

Suzu

[やぶちゃん注:図のキャプションなどを活字化し、注しておく。

・上図

鈴上に、「片面」。鈴左に「大如圖八文目九分三厘」。頭は「大いさ、圖の如し重さ」と読む。

図は鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」。同左下に「孫」の(へん)の「系」。

上部は本文にある通り、他に「壽延長」の文字が配されているとならば、上部左右にそれらの孰れかの一部(恐らくは「壽」と「長」か)が見えているはずであるが、恐らくは見にくくなるだけなので省略したものであろう

「八文目九分三厘」(「文目」は「匁」(一匁=三・七五グラム)と同じ(は三十三・四八七五グラム。現在の一円玉三十三枚或いは百円玉七枚弱だから、かなり大きな鈴であることが判る。

・下図

鈴上に、「底」。鈴下に一行目「地古銅ト見ユ」二行目「上金ノ燒ツケナルベシ金色存ス」三行目「内ノ鳴丸」。鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」、同左下に「孫」の(へん)の「系」。

図は上部右に「子」。同左に上部が少し切れた「孫」。下部右に「榮」、同左下に上部が少し切れた「盛」。

反時計回りに読むと、本文に出る通り、「子孫盛榮」(子孫繁栄の意)と読める。

「鳴丸」は「めいぐわん(めいがん)」或いは「なりだま」「ならしだま」と訓じているかも知れぬ。]

 

近藤重藏【號、正齋】嘗て話て曰。奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村と云あり。其處に八幡社あり。其社地より一小鈴を掘出す。其鈴に八字を刻す。福壽延長子孫盛榮の文也。傳言ふ。彼地は往昔金商橘次信高なる者の宅址にして、義經の遮那王と申せしとき、鞍間より隨從して陸奧に下り、秀衡のもとに入れしとき、先づ此地に置き、尋で秀衡に寄託すと云。此鈴は其宅趾の邊を過しとき得たりとなり。想ふに橘次が舊物なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「近藤重藏【號、正齋】」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は幕臣で探検家。ウィキの「近藤重蔵」他によれば、間宮林蔵・平山行蔵(こうぞう)とともに「文政の三蔵」と呼ばれた。明和八(一七七一)年、御先手組与力『近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ』、八『歳で四書五経を諳んじ』、十七『歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯』に六十余種千五百余巻もの『著作を残している』。』父隠居後の寛政二(一七九〇)年、『御先手組与力として出仕』、『火付盗賊改方としても勤』めた。寛政(一七九四)年には、『松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格』している。寛政七(一七九五)年には長崎奉行手付出役となり、二年後の寛政九年に江戸へ帰参した後も『支払勘定方、関東郡代付出役と栄進』した。翌寛政十年、『幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱』に任命され、四回に亙って『蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に』あったロシアの標柱を抜き去り、『「大日本恵土呂府」の木柱を立て』た。『松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させ』たが、享和三(一八〇三)年、『譴責により小普請方』に下った(理由不詳)。しかし、文化四(一八〇七)年に『ロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い』、『再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り』を果たし、『その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索』した。『江戸に帰国後、将軍・家斉に謁見を許され』、その際に『札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた』。文化五(一八〇八)年には『江戸城紅葉山文庫の書物奉行とな』ったが、『自信過剰で豪胆な性格が見咎められ』、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷』となった。『この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた』、『重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた』という。文政四(一八二一)年、『小普請入差控を命』ぜられ、『江戸滝ノ川村に閉居』した。ところが、文政九(一八二六)年、長男の近藤富蔵が『屋敷の敷地争いから町民』七『名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に』お預けとなってしまう。その三年後の文政十二年に逝去し(享年五十九歳)、死後三十一年も経過した万延元(一八六〇)年になってやっと赦免されている。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年であるから、この執筆時は恐らく存命で、不遇を託っていたものと思われ、字背に静山の彼への追懐が偲ばれるように私には思われる。

「話て曰」「はなしていはく」。

「奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村」宮城県旧栗原郡金成町で、現在の栗原市金成。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八幡社」現在、その栗原市金成地区にある金田(かねだ)八幡神社と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「宮城県神社庁」公式サイト内のこちらによれば、平城天皇の大同二(八〇七)年に『坂上田村麻呂が再び奥州に下向し、ここにら金神金山彦神を祀った。これが、八幡宮の地主神である。(太田南畝「一話一言」所収、金田八幡記録)』天喜四(一〇五六)年八月、『陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が金田城の鬼門鎮護のため』、『勧請したと伝えられ、金田荘の総鎮守として崇敬された。その後』、寛治(一〇八七年~一〇九四年)の頃に、『藤原清衡がこれを再興したと伝えられる。当社の社家は日枝神社と同様に、従五位下清原業隆でその子孫十二代を経て紀伊守祐隆が』天授二(一三七六)年に『羽黒派修験道に入り』、『紀伊守宥義と称し、その四世から清浄院と改め代々別当をつとめた』とある(下線やぶちゃん)。

「福壽延長」幸福で長命であること。

「文」「ぶん」。文字。

「傳言ふ」「いひつたふ」。

「金商」鉱物の金を商うこと。

「橘次信高」「きつじのぶかた」。所謂、「金売吉次(かねうりきちじ)」の名で知られる平安末期の商人。ウィキの「金売吉次」によれば、吉次信高・橘次末春とも称される。「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに登場する伝説的人物で、『奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三條の橘次と云(いひ)し金商人」、「源平盛衰記」では「五條の橘次末春と云(いふ)金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」として出る。「平治物語」によれば、『義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある』という。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では』『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では吉次の方から話を持ちかけるシチュエーションをとる。『吉次は義経と共に奥州へ向か』い、『下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず』全く以って『不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている』から、『吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない』。従って『現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ』、『殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲』となり、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。

「義經の遮那王と申せしとき」源義経(平治元(一一五九)年~文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)の「牛若丸」は彼の幼名で、義経は十一歳の時、鞍馬寺(現在の京都市左京区)へ預けられたが、その稚児名を「遮那王(しゃなおう)」と称した。

「鞍間」鞍馬寺。

「入れし」「はひられし」と訓じておく。

「尋で」「ついで」。次いで。

「過し」「よぎりし」。本文を見るに、どうも近藤がこの鈴を持っているように読めるから、附図もあり、細かな記載から見ても、これは彼がそこを「通り過ぎた」際に発掘したものと読んでおく。本来、社地なのだから、神社に渡す(奉納する)べきものではある。いけませんよ、近藤さん!

2018/01/10

甲子夜話卷之四 4-22 川柳點

 

4-22 川柳點

川柳と云る點者あり。輕浮鄙猥の事ながら、十七字の内に、自在に含蓄したることを言おゝせたる手際は、其徒の右に出るものは非るべし。恐多もあれど、餘りに事態を言協たると思へば、

 

 あんかうを寺につるして大さはぎ

 

浮薄の極にはあれど、かゝる口先眞似もならぬことなるべし。曩日白川侯首輔たりしとき、

 

 爲になる伴頭いとこ同士にて

 

侯頻りに節儉の令を下されし頃、

 

 あの人の奢は駕籠の棒計

 

『柳樽』と云書、數卷刻布す。世人の翫も宜なり。

■やぶちゃんの呟き

 川柳句の前後を一行空けた。

「川柳點」「點」は本文に出る「點者(てんじや(てんじゃ)」で、点者とは連歌・俳諧・狂歌・雑排・川柳(後述)などに於いて、その出来を評して点をつけ、その優劣を判定する者を指し、彼ら葉その際に「点料」という報酬を受け、それを生業(なりわい)とする者たちを指す。「川柳」は柄井川柳(からいせんりゅう 享保三(一七一八)年~寛政二(一七九〇)年)で、江戸中期の前句付けの点者。川柳(発句ではなく、前句付けから五七五の付句(連歌・俳諧の付合(つけあい)に於いて前句に付ける五七五の句)のみが独立した、基本、十七文字(字余り・字足らず・破調も有り)で無季の短詩。切れ字の制約もなく、滑稽・諷刺を旨とし、口語の詩として流行した)の創始者で、その名(号)がそのままその滑稽詩の名となった。本名は正道、通称を八右衛門と称した。ウィキの「柄井川柳」によれば、『柄井家は代々』、『江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で』宝暦五(一七五五)年に『家を継いで名主となった』。当初は『談林派俳諧の点者であったと』もされる』『が定かではない』。宝暦七年八月二十五日(一七五七年十月七日)に『前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合』(まんくあわせ」享保期(一七一六年~一七三六年)以後、特に江戸で盛行した雑俳の興行形態の名称。呼称は一回の興行で一万句前後もの応募句があったことによる。また、その興行の度(たび)に勝句(高点句)を印刷し、入選者に配った刷り物をもかく呼んだ)『を興行している』。『これ以降』、月三回、五の『つく日に句合を興行している』。宝暦十二年十月十五日(一七六二年十一月三十日)の句合せでは総句一万句を『超し、その流行ぶりがうかがえる』。『新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め』、『江戸における前句付作者にこのまれた』。明和二(一七六五)年七月、『呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された』川柳の句集「誹風柳多留」(第一編。柄井川柳が前句附興行の「万句合」で選んだ句の中から、呉陵軒可有が掲載作を選考、柄井川柳が編纂に携わった。コンビのそれになるものは二十四編までで特に評価が高い。同題でその後も幕末までほぼ毎年刊行された)『は、川柳評前句付の流行に拍車をかけた。後、前付句が独立して川柳と呼ばれるようになった』。辞世の句は、

 

 木枯らしや跡で芽をふけ川柳

 

『であったと伝えられている』。『なお、川柳の号は』十六『世(尾藤川柳)まで受け継がれ』た。『柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地』が東京都台東区蔵前四丁目とされ、現在、『「川柳発祥の地」の碑が』建つ、とある。

「輕浮」「けいふ」。軽佻浮薄。考えや行動などが軽はずみで、気分が浮(う)わついているさま。

「鄙猥」「ひわい」。「卑猥」に同じ。下品で猥(みだ)らなさま。

「言おゝせたる」「いひおおせたる(いいおおせたる)」。謂い遂(おお)せる。言い尽くす。如何にも上手く的確に表現している。

「徒」「と」。同好の輩(やから)。

「非る」「あらざる」。

「恐多もあれど」「おそれおほくもあれど(おそれおおくもあれど)」。内容が(諷刺に過ぎたり、下品であるからして、)失礼極まりない面は確かにあるのであるが。

「事態」詠んだ対象や状況。

「言協たる」「いひかなひたる(いいかないたる)」。謂い適った。確かに言い得て妙な表現ではある。

「あんかうを寺につるして大さはぎ」魚の「鮟鱇」ではあるが、それを殺生禁断の寺で吊し切りにするというのではなく、「安康」(天下太平で無事なこと・安泰)に引っ掛けて、例の豊臣秀頼が家康の勧めによって京都の方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中に「国家安康」の字句が、家康の名を分断していて徳川氏を呪詛していると非難、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させたあの事件の「鐘」を吊るすに掛けたものであろう。或いはそこから更に、大言壮語するくせに臆病な武者を嘲って言う「鮟鱇武者」「鮟鱇侍(ざむらい)」も秘かに利かせて、近世武士階級をも風刺しているのかも知れない。

「極」「きはみ(きわみ)」。

「曩日」「さきのひ」。「先の日」で過ぎし日の意。

「白川侯」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。

「首輔」は将軍補佐の意であろう。定信は天明七(一七八七)年に老中上座となり、翌天明八年に将軍輔佐を兼ねた。その後、「尊号一件」(朝廷と幕府との間に発生した閑院宮典仁(すけひと)親王への尊号贈与に関する紛議事件)を主因として寛政五(一七九三)年七月二十三日を将軍輔佐を辞任している。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、定信の辞任から十八年も過ぎており、柄井川柳の死後三十一年が経過している。静山は他の記事で定信を相応に評価しているにも拘わらず、ここでは柄井川柳の批評精神をも実に素直に評価している点であることに注意したい。

「爲になる伴頭いとこ同士にて」「伴頭」番頭。営業活動や家政全般を取り仕切った店(国政)の万事を預かった老中首座及び将軍補佐職の定信に掛けた。「いとこ同士」とは、定信が第八代将軍側吉宗の次男田安家初代徳川宗武の子であり、彼の主君であった第十一代将軍徳川家斉の実父が吉宗の四男で一橋徳川家初代当主宗尹の四男徳川治済であったことを指すのであろう。正しくは「いとこ」ではなく「はとこ」であるが、これは不敬を咎められた際の逃げ道であろう。

「侯頻りに節儉の令を下されし頃」定信の敢行した寛政の改革は緊縮財政と風紀取締りによって経済・文化が停滞した。

「あの人の奢は駕籠の棒計」「あのひとのおごりはかごのぼうばかり」。寛政の改革の大号令で節約を旨とした結果、大々名の駕籠も質素を強いられ、精々、見ても判らぬ大名駕籠の棒に良材を使うしかなかったという皮肉であろう。

「柳樽」先に注した「誹風柳多留」。

「云書」「いふ書」物。

「刻布」板行。

「翫も」「もてあそぶも」。

「宜なり」「うべなり」。尤もなことであった。

 

2018/01/07

甲子夜話卷之四 4-21 大女の手痕

 

Syukon

4-21 大女の手痕

文化丁卯、大女の手痕を人より示す。これ段成式、謝在杭の書にも見ゆ。一奇なり。その女、生國下總國小金村百姓新七の娘にて、品川本宿南二丁目鶴屋の内に在り。名は蔦野、年二十三、長ケ頂上迄五尺八寸五分。

■やぶちゃんの呟き

「文化丁卯」文化四年。一八〇七年。

「段成式」(八〇三年?~八六三年?)は唐の詩人で博学を以って知られた文人政治家。憲宗・穆宗期の宰相であった段文昌の子。父の功により、校書郎に任じられ、尚書郎・吉州(今の江西省吉安)刺史・太常少卿を歴任した。ここで静山が言っているのは恐らくは彼の著作中、最も知られる随筆集「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(二十巻・続集十巻)のことであろう。私は全訳本を所持するが、類似記事を探すのが面倒なので調べていない。悪しからず。

「謝在杭」謝肇淛(しゃちょうせい 一五六七年~一六二四年)は明朝の文人政治家。在杭は字(あざな)。南京刑部主事・兵部郎中・工部屯田司員外郎を経て、広西按察使に任ぜれた。官位は広西右布政使に至った。ここで静山が言っているのは恐らくは彼の著作中、最も知られる随筆集「五雑組」(全十六巻)ではないかと思われる。

「下總國小金村」下総国葛飾郡(現在の千葉県松戸市大谷口付近)の旧小金(こがね)城のあった辺りか。(グーグル・マップ・データ)。

「品川本宿南二丁目」目黒川河口附近。こ(グーグル・マップ・データ)。

「蔦野」「つたの」であろう。

「長ケ」「たけ」。無論、背丈。

「五尺八寸五分」約一メートル七十七センチメートル。

2018/01/04

甲子夜話卷之四 4-20 敬信夫人、婚儀の御時の事

我曾祖松英君の養女を、乘賢養子の能登守乘薀に嫁しけり。これを敬信夫人とす。林氏は此夫人の襁褓より鞠養せられし人なれば、夫人の舊事を能知りて談ぜり。夫人新に嫁せられしとき、其當日に禮儀畢りて、その舅なる乘賢【此時加判】伴ひて表に出で、親類衆に引合せ、又御先手頭、奧御右筆組頭、御同朋頭等、其事扱たりとて招れ、饗應ありしが、其席へも伴ひ引合せ、世話に成しなど會釋ありしと云。實に世風の質實なること、今の薄俗より見れば、驚く計のことなり。又その婚儀一宗の簿册數卷あり。兩家の家來、互に掛合ことは少くして、多くは皆雙方賴の御先手衆同士の掛合なり。それ故に、禮儀も手重きことにて、中々今の世の省略を專らとする類に非ず。是等にても其時俗を見るべきなり。必竟事を省んとしては、さまざまあらぬこと迄も、鄙劣に相議するやうに成り行て、いつか擧ㇾ世家來同士の談計の世風に成り堅まりしなるべし。林氏話。

■やぶちゃんの呟き

「我曾祖松英君」松浦静山の曽祖父で肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)。「松英」は「しょうえい」(現代仮名遣)で彼の法号(松英院殿)。

「敬信夫人」篤信は千本倶隆の娘を養女としており、それが彼女。「敬信」は落飾後の法名(敬信院)。彼女は享和元(一八〇一)年五 月十日に没している(吉村雅美長崎県学術文化研究費研究成果報告書 松浦静山の学問ネットワークと平戸藩―蓮乗院の日記から―(PDF)に拠る)。

「乘賢」前条で既出既注。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。

「能登守乘薀」既出既注。美濃岩村藩第三代藩主で松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。敬信夫人は彼の正室。

「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。彼の父はまさにこの松平乗薀なのである(寛政五(一七九三)年に林錦峯の養子となって林家を継いだ)。さればこそ以下の叙述も頷ける。但し、叙述から見て、彼は敬信の子ではなく、乗薀の側室(前原氏)の子のように読める。

「襁褓より」「襁褓」は「むつき」でおむつのこと。林述斎の幼時より。

「鞠養」「きくよう」(現代仮名遣)とは大切に慈しんで育てること。

「加判」老中の別称。

「其事扱たりとて」よく判らぬが、乗賢が奏者番・若年寄の時代及び老中になってより、担当し、関係した部下らであるからと、の意であろうか。

「世話に成し」これは、「その節はいろいろと世話になった」という意味にとれるが、それでは夫人を連れての挨拶としておかしく、寧ろ、この過去形の「し」は叙述時制からの林や静山の用いたものであって、寧ろ、「向後、拙者ともども、この妻も合わせてよろしくお頼み申す」ととった方が私は素直に読める。大方の御叱正を俟つ。

「世風」「せいふう」。当時の武家一般の風俗・風紀。

「計」「ばかり」。

「一宗の簿册」不詳。婚儀記録一式記録冊子の謂いか。

「掛合ことは少くして」「掛合」は「かけあふ」。よく判らないが、婚儀の式次第に於いて、家来衆らの動きや担当などは、それぞれ別個に協議談合して決めるという場面は驚くほど少なくて。

「賴の」「たのみの」。信頼している。

「御先手衆同士の掛合」それぞれの御家の警護担当者である先手組(さきてぐみ)の方々同士の打ち合わせ。

「手重き」厳重できっちりとしていること。

「類」「たぐひ」。

「時俗」「じぞく」。時の堅実なる風俗・風紀。

「必竟事を省ん」「ひつきやう、ことをはぶかん」。

「鄙劣に」「ひれつに」。卑劣。品性や行動が卑しくて下劣なさま。

「相議する」「あひぎする」。

「擧ㇾ世」「よをあげて」。

「談計」「だんばかり」。己(おの)がことしか考えぬ浅智恵の談合ばかり。

「話」「はなす」。

2017/12/14

甲子夜話卷之四 4-19 乘賢の時世、儉素の話

能登守乘賢の嫡子、飛彈守乘恆は、部屋住にて病歿せり。其附を勤たりし者の話なりとぞ。飛州住居の明り障子は、次の間よりして、皆諸方呈書の封紙もて張れり【父加判ゆへ呈書多くあるなり】。因て所々に人名斜めに見へしとなり。日々髮を結ふに膏油を用ひず。美男掌と【草也】云ものを、鬢水入に浸して用ゆる計なり。又髮に用ゆる元結と云もの、紙捻なり。其紙捻は、草履取の某と云し奴よく作れりとて、其もの作ることになり、年々の暮に、靑銅三百文づゝ、其褒美とて有司より渡せりと云。當年世風の質素なること、これにて推量るべし。又乘賢の供頭勤めしもの、家貧しくして、いつも純黃の八丈紬の羽折計を着したり。乘賢登城の時、御門々の同心ども、遙に其黃紬の色を見て、乘賢たるを知る目印となりしとなり。今の世とはかくまで物事違たることなりと。是等の事ども皆林氏の談話なり。

■やぶちゃんの呟き

「能登守乘賢」これはのような誤認疑惑はなく、確かに美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)である。

「飛彈守乘恆」松平飛騨守乗恒(のりつね 享保九(一七二四)年~元文五(一七四〇)年)は美濃国岩村藩の嫡子で第二代藩主松平乗賢の次男。官位は従五位下。岩村藩嫡子として育てられ、元文元(一七三六)年に徳川吉宗に御目見した。元文三(一七三八)年には叙任するが、家督相続前の元文五(一七四〇)年に十六歳で早世した。代わって、本家の下総国佐倉藩から乗薀が養子に迎えられ、嫡子となっている。

「次の間よりして、皆」居間の本間は勿論、次の間から全部。

「呈書の封紙」諸役方から上呈される書簡の包封紙。

「加判」老中のこと。本来は、文書に判を加えたり、連判・合判したりすることであるが、それが公文書に花押(かおう)を加えるような重職の意を示すこととなり、鎌倉幕府では執権の副官である連署、江戸幕府では将軍直属の政務一般の総理をした老中の意となった。

「膏油」そのまま読むなら「かうゆ(こうゆ)」で、「膏」は粘性の強い半固形状の油塊、「油」は液体状の油を指すが、ここは単に髪を整えるとともに髪型を保持するための鬢付けのそれで、二字で「あぶら」と訓じてよい。当時のそれは植物油・晒木蠟(さらしもくろう:ハゼノキ(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)の果皮から圧搾して得た油脂を漂白或いは脱色したもの)・丁子(ちょうじ:バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum。現在のクローブのこと)その他、複数の香料で製した純植物性の固練(かたね)りの専用髪油であった。他にも多様な香料を配合したものが使用された。廣野郁夫氏のサイト「木のメモ帳」の続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのかを参照されたい。

「美男掌」底本には『びなんかづら』とルビする。これはアウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica の異名。常緑の蔓(つる)性木本で、古くはこの蔓から粘液を採って整髪料に使っていたことによる。同じく前の廣野氏の続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのかを参照されたい。

「鬢水入」「びんみづいれ」。

「計なり」「ばかりなり」。

「紙捻」「こより」。

「草履取「ざうりとり」。

「靑銅三百文」現代に換算すると、三千五百円前後か。

「有司」役方。納戸方。

「八丈紬」「はちぢやうつむぎ」黄八丈のこと。黄色地に茶や鳶(とび)色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名があるという。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術が齎されていたため、絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。

「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

2017/09/08

甲子夜話卷之四 18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

 

4-18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

享保中、小金原にて鹿狩し玉ひし時、松平乘邑、其御用掛りにて御供なり。松平能登守乘賢は西の御附なりしが、後年西にて御狩あらんときの心得に、見置べしとの御旨にて、これも從行せり。御場に堀切したる所へ至らせ玉ひし時、此堀越せと御諚ありければ、乘邑御言下に馬を乘戾し、引返して一さんに堀を超したる體の花やかなるに、有合人々、我知らず聲を出して感ぜり。乘賢は立たる馬を其儘に堀を超させけり。そのとき能登が馬はよく仕込たる馬よと上意あり。その實は、馬術は乘賢の方よほど優りけるとぞ。然れども、時に取て乘邑の騎法目ざましくして、大にはへたりとなり。兩人の氣性、風度の違ひ、多くは此類にて、文質亦かくの如くなりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「乘邑」複数回既出既注であるが、たまには再掲しておこう。松平左近将監乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。

「乘賢」「のりかた」と読むが、これは「父子」が正しいとするなら、乗邑の三男、美濃岩村藩第三代藩主で岩村藩大給松平家第四代松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の誤りである。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。因みに、美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。彼は乗政系大給松平家で、乗邑の曽祖父である乗寿の代に分かれた家系で、父子関係にはない。しかし乍ら、以下の「西の御附」から見ると、後者と採れ(後注参照)、静山の記憶の齟齬が感じられる。

「享保」一七一六年から一七三六年。

「小金原」江戸幕府が現在の千葉県北西部の下総台地に軍馬育成のために設置した放牧場小金牧(こがねまき)のことで、これは徳川吉宗が享保一〇(一七二五)年と翌年の二回、ここで行った鹿・猪等を狩った大規模な鹿(しし)狩りである「小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)」の孰れかでのエピソードである。ウィキの「小金原御鹿狩によれば、『享保の改革を進めた吉宗にとっては、指揮体制の強化、新田開発の視察の意味もある。小金牧は江戸の西に比べ平坦で、家康や家光が狩を行った東金方面や同じ幕府の牧の佐倉牧より江戸に近く、農耕地に囲まれたながら農耕地でない小金牧は、大規模な鹿狩の場所として適していた』。第一回目は享保十年三月二十七日に行われており、これがここでの『確実な記録のある最初の大規模な鹿狩であるが、翌年の本格的実施に向けての準備の意味合いか、記述は少ない。丑の刻に江戸城を出て、両国橋で乗船、小菅で上陸、小金の牧に入った』。鹿八百余頭、猪三頭、狼一頭、雉子十羽を『獲った。生類憐れみの令以降の鹿の増加が伺える』。二度目のそれは丁度、一年後の享保十一年三月二十七日で、先立つ二月十八日に『狩の責任者任命の記録がある。前年と同じ闇夜での移動であり、満月の晩より鍛錬の効果は大きい。記録は前年より詳細である。伊達羽織を着た供を連れ』、丑の刻(午前二時前後)に出立、『松戸宿で休息、先に来ていた家臣等が出迎え、狩場の牧に入った。当日は紫の紗をかけた笠等、富士山麓で狩を行った源頼朝に習った服装であった』。『狩場では御立場を拠点として狩を行った』。御立場は高五丈(約十五メートル)、方百八十間(約三百二十メートル)の『台状に土を盛った山で、将軍の居場所にふさわしい調度品が』既に配されてあった。この時は鹿四百七十頭、猪十二頭、狼一頭を獲って、鷹狩も行っている。未の刻(午後二時前後)に『狩は終わり、来た道を通』って『千住大橋から舟で両国橋』を経て、戌の刻(午後八時前後)に帰城している。「東葛飾郡誌」掲載の「下総国小金中野牧御鹿狩一件両度之書留」には、この時、同行した九人の名前のほかに騎馬二百四人、幕府の七百九十四人を含め、徒歩千三十六人と記されてある、とある。とんでもない規模の鹿狩りであることが判る。

「西の御附」徳川家重の御附き。私が先に誤りとした松平乗賢ならば、享保九(一七二四)年にまさに西丸(長福丸。後の徳川家重附)若年寄になっており、これを正しいとすると、「父子」が誤りということになる(乗賢も能登守であった)。私の認識に誤りがあるのか? 識者の御教授を乞う。

「見置べし」「みおくべし」。参考に供するために見学しておくように。

「堀切」「ほりきり」。牧馬のためのテキサス・ゲート用の堀であろう。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

「御言下に」「おんげんか」。仰せの言葉を賜ったその直後に。「言下に否定する」

「體」「てい」。

「有合」「ありあふ」。居合わせている。

「立たる馬を其儘に堀を超させけり」「立(たて)たる馬」は、馬を前脚を上げさせて真っ直ぐに立ち上がらせる「棹(竿)立ち」「棒立ち」にさせ、後ろ脚だけで跳躍させて、助走をつけずに堀を一気に乗り越したのである。

「はへたり」歴史的仮名遣は誤り「映(榮)えたる」。

「風度」ここは名詞で「ふうど」。態度容姿など、その人の様子。人品。風采。風格。

「文質」「ぶんしつ」。「文」は「飾り」の意で、外見の美と内面の実質。表に現れた優れた学識・態度・容貌等と、内面の素朴な人柄を指す。

2017/07/20

甲子夜話卷之四 17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

 

4-17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

大岡越州の、山田奉行より德廟の御鑑を蒙り、寺社奉行までに陛りしことは、世の人知る所なり。其人才智も衆に勝れたりしが、常に儕輩に對して松平左近將監計は、其才智の敏捷なること梯しても及ぶべからずと云しとなり。その故は、事もつれて入組、いかんとも斷案しがたき公事訴訟の類を、數日を費して調べ、漸條理貫通するやうになりたることを持出て、左監へ申せば、其半にも至らぬ内に、此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得かと、先より申さるゝことの、いつも露違ふこと無りしとぞ。左候と云へば、夫にてよし。今日は事多ければ、詳に承るに及ばずなどありしこと、常の事なりしと云。かゝる神妙の才、亦世に出べしとも思はれずと、人に語りしとなり。又神尾若狹守、享保中司農の長官にて、種々の功績ありしこと、これも亦人の能知れる所なり。若狹守の申たるは、左近將監ほど人をよく使ふ人は無し。あの如く使はれては、誰にても働らかねばならぬと云ける。その故は、あるとき若州病より起て登營し、左近に謁すれば、病氣快やとの尋なり。若州いやとよ未だ全く快らず、此節御用差支べしやと存ずるまま、押て出勤せしと答へしかば、左近色を正くして、其許出勤せずとて御用の支あるべしやと、苦々しく申されければ、若州も失言を悔て退きぬ。扨若州、朝散して家に歸れば、左近より使なり。書札を披讀すれば、病後食氣も未だ薄かるべし。此品調理ほゞよく覺へたれば、分ち進ずとて、鱚の製したるを小重に入れて送りしとなり。

やぶちゃんの呟き

「大岡」御存知、名奉行大岡越前守忠相(延宝五(一六七七)年~宝暦元(一七五二)年)。千七百石の旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれたが、貞享三(一六八六)年満九歳で同族の旗本大岡忠右衛門忠真の養子となって忠真の娘と婚約した。第五代将軍徳川綱吉の時代に寄合旗本無役から元禄一五(一七〇二)年に書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務め、宝永元(一七〇四)年には徒頭、三年後の宝永四年には使番、翌宝永五年に目付に就任、幕府官僚として成長、第六代将軍家宣の時(正徳二(一七一二)年一月)に遠国奉行の一つである山田奉行(伊勢奉行)に就任した。七代将軍徳川家継の時代の享保元(一七一六)年には普請奉行となって江戸の土木工事や屋敷割りを指揮、同年八月に吉宗が将軍に就任すると、翌享保二年に江戸町奉行(南町奉行)となった(以上はウィキの「大岡に拠った)。

「神尾」「かんを」と読む。旗本神尾若狭守春央(かんおはるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)。ウィキの「神尾春央によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』とある。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み』、元文元年(一七三六)年に勘定吟味役、翌年には勘定奉行となった。時に『徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に』延享元(一七四四)年には『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十『年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、ここに出る『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三年九月に『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため』、彼の影響力は著しく減衰した。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして』『広く知られている』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある(この最後の落書のエピソードは本「甲子夜話」が出典)。

「乘邑」松平左近将監(さこんのしょうげん)乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中(享保八(一七二三)年就任)。複数回既出既注

「御鑑」「御感」の誤字であろう。

「陛りし」「のぼりし」。

「儕輩」「さいはい/せいはい」仲間。同輩。同僚。

「計は」「ばかりは」。

「梯」底本では『てい』とルビする。梯子(はしご)のこと。

「入組」「いれくみ」。

「公事訴訟」「くじそしよう」。現在の民事事件の裁判。

「類」「たぐひ」。

「漸」「やうやく」。

「持出て」「もちいでて」。

「其半にも至らぬ内に」「其半」は「そのなかば」。報告内容の詳細な説明が半分も終わらないうちに。

「此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得か」「この公事訴訟案件はそこからこれこれのように推移して、このように結果したものと推測される。さればこれこれといったような裁きを、貴殿は決せられのではないかと推察するが、如何?」。

「先より申さるゝこと」これから拙者がお話しようとした経緯の推移とその結審案を、みるみるうちに簡潔に推測なされて申される、その内容は。

「露違ふこと無りし」「つゆたがふことなかりし」。仰せられた内容には、ほんの少しも違っていることがなかった。

「詳に」「つまびらかに」。

「出べし」「いづべし」。

「享保中」一七一六年~一七三六年。

「司農」(しのう)は中国古代の官名で農政を司ったことから、幕府の財政担当業務の長官であった勘定奉行の別称。

「能知れる」「よくしれる」。

「起て登營し」「起て」は「たつて」。病身を無理におして登城し。

「快や」「よきや」。底本のルビに従った。

「尋」「たづね」。

「差支べしや」底本ではルビして「さしつかゆべしや」と読んでいる。

「押て」「おして」。

「其許」「そこもと」。

「支」「つかへ」。

「悔て」「くひて」。

「朝散」「てうさん(ちょうさん)」は江戸城を下がること。

「使」「つかひ」。

「病後食氣も未だ薄かるべし」病み上がりで食欲もまだあまりないことと推察仕る。

「此品調理ほゞよく覺へたれば」この品はちょっとばかり上手く料理(つく)ることが出来たと思うたによって。

「鱚」高い確率で条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica である。身は脂肪が少なく柔らかい白身で美味とされる。白鱚の旬から見てもこのシークエンスは夏と思われ、病み上がりの贈答で「製したるを小重に入れて送りし」とあることからも、これは酢塩でしめたものと推察される。

2017/07/07

甲子夜話卷之四 16 享保の頃は士風の強きを育せし事

4-16 享保の頃は士風の強きを育せし事

享保の頃の重職は、士風の手強きを育てらるる心あつきことゝ見へたり。左近へ御役人の某が建言せしとき、今日は御用ありとて坐を起んとせられしかば、その御役人、左近の裾をひかへ、申上候事も御用に候と申ければ、左近起れずして其事を聞終れり。その後その同寮に左近逢れて、某はよくぞ我等を押へて存寄申盡され候とて、感賞せられしとなり。松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか、蓮池通りを行しとき、西城の通御ありて御門を打たるに心付れず、御門までかゝられしに、固めに立ける同心恐怖して、留めもせずありしかば、番所に居し同心、聲を厲しくして、能登殿でも通すことはならずと呼ける。その後營中にて、能登守其組の御先手頭に逢はんとありしかば、頭も恐れながら謁しけるに、此頃蓮池番所にありし同心、心掛よろし、褒置申べしとありしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「育せし」「育て」標題は「いく」、本文は「そだて」。

「重職」幕府の大老や老中など。老職に同じい。

「左近」既出既注の松平左近将監松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主で老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って享保の改革を推進した辣腕。

「起ん」「たたん」。

「逢れて」「あはれて」。

「某」「なにがし」。

「存寄申盡され」「ぞんじよりまうしつくされ」。

「松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか」「乘賢」が正しい。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。「加判」は老中、「參政」はその下の若年寄のことで、乗賢は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。

「蓮池通り」本丸とその西側に広がる西丸(現在の皇居)を隔てる蓮池濠の西丸側の通り。

「西城の通御」西日本の大名の参内か。

「御門」どの門か私には不詳。若年寄時代ならば、位置的に見て西丸裏門か。

「立ける」「たちける」。

「留め」「とめ」。

「居し」「をりし」。

「厲しく」「はげしく」。

「呼ける」「よばひける」と訓じておく。

「御先手頭」「おさきてがしら」。複数あった先手組(さきてぐみ:江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした)の組頭。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、時代によって『組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』たという。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

「褒置申べし」「ほめおきまうすべし」。

2017/06/11

甲子夜話卷之四 15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

4―15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

竜紋を麻上下の代りに用ることも、左近始められしと云。一日着して德廟の御前に供せらる。そのとき左近の上下は何なるやと御尋なり。是は龍紋にて候。家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候と申上らる。夫より世の中竜紋の上下を用始めしと云。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」引き続き、前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。彼は左近衛将監であった。

「竜紋」「りゆうもん(りゅうもん)」は「竜門」「流紋(りうもん(りゅうもん)」などとも書き、絹の平織物の一種。羽二重に似るが、やや厚手で、江戸時代、帯・袴・羽織・裃などに用いられた。武士の裃にそれを用いた濫觴は乗邑だと静山は記すのである。

「上下」「かみしも」。裃。

「德廟」吉宗。

「家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候」乗邑はまず、竜紋の裃を作らせて家臣に下賜して、具合を見た。すると麻よりも「保」(もち)がよい(厚地であるから擦り切れにくいという謂いか)、とって「悦候」(よろこびさふらふ)であったから、彼もそれを着用したというのであろう。

 

2017/05/21

甲子夜話卷之四 14 同人、物數奇多き事(松平乗邑譚その2)

 

4-14 同人、物數奇多き事

左近は胸次の不凡ゆへにや、物好にて一時にせられしこと、後に傳ること多し。駕籠の腰、昔は高くて出入むづかしゝと也。左近好みて際を淺く造られしより、人々それに倣ひ、今は一統の形同じやうになりたり。大小の鞘をしのぎに削り、丸きより帶留りよきやうにし、そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも、其好みなり。昔は左近形と云しが、今は名を知るものもなし。八寸の脚を半短くして、物すへと名づけ、常に用らる。今は工人尋常に作り出して、低(ヒク)八寸と云。硯蓋を脚付にし、遠州透を彫り、朱漆にしたるを、有明盆と名づけ、大小掛を松樹の俤にして、印籠までかゝるやうにしたるなど、世にもてはやせり。襖を腰通り一枚、別色の紙にて張たる。天井を四方の𢌞り一枚通り、これも別紙にて張たるなど、させることもなけれど、風趣あるものなり。今はその本を知るものさへも無しと、林氏語れり。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。 彼は左近衛将監であった。

「物數奇」「ものすき」。風流で、しかもプラグマティクな数寄者であったこと。

「胸次」「きようじ」。胸中。常の想い。

「不凡」「ぼんらざる」。

「一時に」ちょっと。

「傳る」「つたはる」。

「しのぎに削り」刀の大小の(ここは)鞘の、刀身の棟と刃との中間で鍔元(つばもと)から切っ先までの稜(りょう)を高くした「鎬(しのぎ)」の相当箇所を、通常は「丸」いのであるが、そこを削り上げさせて、「帶留りよきやう」(帯から抜けおちぬように鋭角に)仕上げ。

「そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも」その鞘の鋭角的に削った鎬相当の片面箇所の表面に、サメやエイ或いはチョウザメなどの魚皮革を剝いで乾かしたものを装飾や滑り止めとして貼り付けたもの。チョウザメのそれは「菊綴」と称した。私の古い投稿記事チョウザメに画像がある。

「八寸」「はつすん(はっすん)」は懐石料理などで用いる八寸(二十四センチメートル)四方の器で、一般に赤杉の木地で作った盆状のもの。これに三種から五種の珍味などを少量ずつ盛って載せて供する。この頃のそれは高い脚がついていたものらしい今の八寸は脚などはないか、あってもごく低いものであるから、まさにこの時の乗邑の改良が今、当たり前となっているということになる

「半」「なかば」。

「硯蓋」「すずりぶた」。

「脚付」「あしつき」。

「遠州透」「ゑんしうすかし」。池に囲まれた庭のイメージを透かし加工で模したものとも言われる、幾何学的な文様を組み合わせた細工模様。庭のイメージから、安土桃山から江戸前期の茶人で造園家として知られた小堀遠州の名を冠している。

「朱漆」「しゆうるし」。

「大小掛」刀掛け。

「俤」「おもかげ」。

「張たる」「はりたる」。

「その本を知るものさへも無し」それが松平乗邑殿の発案の風流であることを知る者とて一人もおらぬ。

「林氏」林述斎。

 

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