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カテゴリー「佐藤春夫」の32件の記事

2017/10/17

佐藤春夫 女誡扇綺譚 五 女誡扇

 

 

           女誡扇

 

 

 私がいやがる世外民を無理に強いて、禿頭港(クツタウカン)の廢屋の中へ、今度こそ這入(はい)つて行つたのは彼がその次に南へ出て來た時であつた。多分最初にあの家を發見してから五日とは經てゐなかつたらう――世外民は當時くとも週に二度は私を訪れたものなのだから。

「さあ。今日こそ僕の想像の的確なことを見せる。運がよければ、君がそれほど氣に病む幽靈の正體が見られるかも知れないよ」

 私はかう宣言して、この前の機會と同じ時刻を撰んだ。そこに幽靈のゐないことを信じてゐる私は、しかし、自分の事を、高い雕欄(てうらん)のいい窪みを見つけて巣を營んでゐる双燕(さうえん)を驚愕させる蛇ではないかと思つて、最初は考へたのだが構はないと思つた。といふのはもしそこに一對の男女がゐるやうならば、自分はその時の相手の風態によつては、わざと氣がつかないふりをして、彼等をその家の居住者のやうに扱つて、自分達が無法にも闖入したのを謝罪しようと用意したからである。私たちはそれだからごく普通の足音をさせて、あの石の圓柱のある表からこの前の日のとほりに入口を這入つた。その時、さすがに私もちよつと立止つて聞き耳を立ててはみた。勿論どんな泉州(ツヱンチヤオ)言葉も聞かれはしなかつた。それだのに困つた事に、世外民は氣味惡がつて先に這入らないのだ。表の廣間のなかはうす暗くて、またこんな家のどこに二階への階段があるか、私には見當がつきにくい。しかし世外民は口で案内して、表扉を這入つて廣間の左或は右の小扉(ことびら)を開いてみたら、そこから上るやうになつてゐるだらう、といふのである.その廣間といふのは二十疊以上はあるだらう。四つの閉めた窓の破れた隙間からの光で見ると、他(た)には何一つないらしい。私は這入つて行つた。その時、思はず私が呻つたのは、例の聲を聞いたからではないのだ。ただの閉め切つた部屋の臭ひである。どんな臭ひとも言へない。ただ蒸(む)れるやうなやつで、それがしかし建物(たてもの)がいいから熱いのではない。割に冷たくつてゐて蒸れるとでもいふより外には言ひ方がない。この臭ひを、世外民は案外平氣らしかつた。天井を見ると眞白に粉(こ)がふいて黴(かび)がはえてゐる。その黴の臭ひだつたかも知れない。私たちは先づ右の扉を開けた。――果してすぐそこが階段であつた。幅二尺位(ぐらゐ)の細いのが一直線に少し急な傾斜で立つてゐる。それが上からの光で割に明るい。何も怖氣(おぢけ)がさすやうなものは一つもないが、また私は傳説をさう眼中におかないが、それでもやはりさう明るい心持にはなれないことは確(たしか)だ氣味が惡いと言つては言ひすぎるが、私はよく世外民をひつぱつて來たと思つた。私はひとりででも一度來てみる意志はあつたのだが、もしもひとりだつたらあまり落着いて見物はしにくいかと思ふ。それにしてもあんな傳説を迷信深く抱(いだ)いてゐる人人が、たとひそれは二人油連れであつた事が確でも、第一日によくまあここへ來たものだと言へる。いや、よくもここを撰ぶ氣になつたものだ。私はこの細い階段を戀人たちが互に寄りそひながらおづおづして、のぼつて行つた時を想像してみた。

[やぶちゃん注:「雕欄(てうらん)」(ちょうらん)は二階のテラスなどの彫刻を施した欄干(らんかん)のこと。]

 私は世外民を振り返つて促したなら、階段を昇り出した。そこには私の想像を滿足させることには、ごく稀にではあるがこのごろでもそこを昇降する人間があることは疑へなかつた。といふのは、それは何も鮮かな足跡はないのだが、寧ろ譬へば冬原(たうげん)の草の上におのづと出來た小徑(こみち)といふ具合に、そこだけは他(た)の部分より黑くなつて、白い塵埃のなかから、階段の板(いた)の色がぼんやり見えてゐるのであつた。二階には人のけはひはない。私は幽靈の正體は先づ見られさうにもないと思つた。二階ヘ出た。

 案外にそこは明るかつた。その代りどうしてだか急に暑くムツとした。人影のやうなものは何もなかつた。氣が落着いて來たので私は何もかも注意して見ることが出來たが、床の上にもまた人が步いたあとがあつて、それがまた一筋の道になつて殘つてゐる。L形(エルがた)になつた部屋の壁のかげから、光が帶になつて流れて來る。この部屋へ澤山の明るさを供給してゐるのは、その窓で、人の步いたあともまたその窓の方へ行つてゐる。壁のかげに誰かがピツタリと身をよせて隱れてゐるやうな氣もする。私はその窓の方へおのづと步いて行つた。我我の足元から立つ塵は、光の帶のなかで舞ひ立つた。顏に珍しく風が當つて、明るい窓といふのが開いてゐること、その壁に沿うて一つの臺があることが、 一時(じ)に私の目についた。臺といふのはごく厚く黑檀(こくたん)で出來たもので、四方には五尺ほどの高さの細い柱が、その上にはやはり黑檀の屋根を支へてゐる。その大きさから言つて寢牀(ねどこ)のやうに思はれた。

「寢牀だね」

「さうだ」

 これが私と世外民とが、この家へ這入つてからやつと第一に取交(とりかは)した會話であつた。寢牀には塵は積つてはゐなかつた――少(すくな)くとも輕い塵より外には。さうして黑檀は落着いた調子で冷冷(ひえびえ)と底光りがしてゐた。私は世外民を顧みながら、その寢牀の上を指さした。私の指が黑檀の厚板(あついた)の面(おもて)へ白くうつつた。

 世外民は頷いた。

 その寢牀の外には家具と言へば、目立つものも目立たないものも文字通りに一つもなかつた。話に聞いたあの金簪(きんさん)を飾った花嫁姿の狂女は、この寢牀の上で腐りつつあつたのではなからうか。それにしてはこれたけの立派な檀木(たんぼく)の家具を、今だにここに遺してあるのは、憐憫によつてではなく、やはり恐怖からであらう。

 寢牀のうしろの壁の上には大小幾疋かの壁虎(やもり)が、時時のつそりと動く。尤もこれは珍しい事ではない。この地方では、どこの家の天井にだつて多少は動いてゐる。内地に於ける蜘蛛ぐらゐの資格である。ただこの壁の上には、廣さの割合から言つて少少多すぎるだけだ。六坪ほどの壁に三四十疋(ぴき)はゐた。

 世外民はどうだか知らないが、私はもう充分に自分の見たところのもので滿足であつた。歸らうと思つて、歸りがけにもう一度窓外の碧(あを)い天を見た。その他(た)の場所はあまりに氣を沈ませたからだ、歸らうとして私はふと自分の足もとへ目を落すと、そこに、ちやうど寢牀のすぐ下に扇子(せんす)見たやうなものがある――骨が四五本開いたままで。私は身をかがめて拾つた。そのままハンケチと一緒に自分のポケツトのなかへ入れた。なぜかといふのに但世外民はいつの間には歸るために、私に世を向けて四五步も步き出してゐたからだ。

 世外民も私も下りる時には何だかひどく急いだ。表の入口を出る時には今まで壓へてゐた不氣味が爆發したのを感じて、我我は無意識に早足で出た。さうして無言をつづけてその屋敷の裏門を出た。

「どうだい。世外民君。別に幽靈もゐなかつたね。」

「うむ」世外民は不承不承に承認しはしたが「しかし、君、あの黑檀の寢臺の上へ今出て來た大きな蛾を見なかつたかね。まるで掌ほどもあるのだ。それがどこからか出て來て、あの黑光りの板(いた)の上を這つてゐるのを一目は美しいと思つたが、見てゐるうちに、僕はへんに氣味が惡くなつて、出たくなつたのだ」

「へえ。そんなものが出て來たか。僕は知らなかつた。僕はただ壁虎(やもり)を見ただけだ。君、君の詩ではないのか。幻想ではないのか」

 ――私は世外民があの寢牀(ねどこ)の上で死んだ狂女のことをさう美化してゐるのだらうと思つた。

「いいや、本當だとも。あんな大きな赤い蛾を、僕は初めてだ」

 私は步きながら、思ひ出してさつきの扇をとり出してみた。さうして豫想外に立派なのに驚き、また困りもした。

 その女持(をんなもち)の扇子といふのは親骨(おやぼね)は象牙で、そこへもつて來て水仙が薄肉(うすにく)に彫つてある。その花と蕾との部分は透彫(すかしぼり)になつてゐる。それだけでも立派な細工らしいのに、開(あ)けてみると甚だ凝つたものであつた。表には殆んど一面に紅白の蓮(はす)を描いてゐる。裏は象牙の骨が見えて――表一枚だけしか紙を貼つてゐないので、裏からは骨があらはれるやうに出來てゐたのだが、その象牙の骨の上には金泥(きんでい)で何か文章が書いてある。

「君」私はもう一度表を見返しながら世外民に呼びかけた。「玉秋豐(ぎようしうほう)といふのは名のある書家かね」

「玉秋豐? さ。聞かないがね。なぜ」

 私は默つてその扇子を渡した。世外民が訝しがつたのは言ふまでもない。私もちよつと何と言つていいかわからなかつた――私は無賴兒ではあつたが、盜んで來たやうな氣がしていけないのだ。私はそのままの話をすると、世外民は案外何でもないやうな顏をして、それよりも仔細にその扇をしらべながら步いてゐた――

「玉秋豐? 大した人の畫(ゑ)ではないが職人でもないな。不蔓不枝(ふまんふし)」彼はその畫賛を讀んだのだ。

「愛蓮説のうちの一句だね、不蔓不枝。――だが女の扇(あふぎ)にしちや不吉な言葉ぢやないか。蔓(つる)せず枝せざるほど婦女にとつて悲しい事はあるまいよ。どうしてまた富貴多子(ふうきたし)にでもしないのだらう――平凡すぎると思つたのかな」

「一たい幸福といふのは平凡だね。で、その富貴多子とかいふのは何だい」

「牡丹が富貴、柘榴が多子さ」世外民は扇のうらを返して見て、口のなかで讀みつづけながら「おや。これは曹大家の女誡の一節か。專心章だから、なるほど、不蔓不枝を選んだかな……」

 扇は案外に但世外民の興味をひいたと見える。それを吟味して彼がそんなことを言つてゐる間に、私はまた私で同じ扇に就て全く別のことを考へてゐた。

 その扇はうち見たところ、少くとも現代の製作ではない。さうしてその凝つた意匠は、その親が、愛する娘が人妻にならうとする時に與へるものに相當してゐる。―恐らく沈家(シンけ)のものに相違ないであらう。昔、狂女がそれを手に持つて死んでゐなかつたとも限らない。その扇だ。更に私は假りに、禿頭港(タツクウカン)の細民區の奔放無智な娘をひとり空想する。彼女は本能の導くままに悽慘な傳説の家をも怖れない。また昔、それの上でどんな人がどんな死をしたかを忘れ果ててあの豪華な寢牀(ねどこ)の上に、その手には婦女の道樂に就て明記しまた暗示したこの扇を、それが何であるかを知らずに且つ弄(もてあそ)び且つ飜(ひるがへ)して、彼女の汗にまみれた情夫に凉風(りやうふう)を贈つてゐる……。彼女は生きた命の氾濫にまかせて一切を無視する。――私はその善惡を説くのではない。「善惡の彼岸」を言ふのだ……

[やぶちゃん注:ここは注を敢えて最後に持って来た。

「玉秋豐」不詳。

「愛蓮説」宋の儒者周茂(一〇一七年~一〇七三年:茂叔は字。名は敦頤(とんい))の作。以下が全文。

   *

水陸艸木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明獨愛菊。自李唐賴、世人甚愛牡丹。予獨愛蓮之出淤泥而不染、濯淸漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益淸、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。予謂、菊花之隱逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。

(水陸草木の花、愛すべき者、甚だ蕃(おほ)し。晋の陶淵明、獨り、菊を愛す。李唐より來のかた、世人、甚だ牡丹を愛す。予、獨り蓮の淤泥(をでい)より出づるも、染まらず、淸漣に濯(あら)はるるも妖(えう)ならず、中(なか)、通じ、外、直(なほ)く、蔓(つる)せず枝(えだ)せず、香り、遠くして、益々淸く、亭亭(ていてい)としてうき植(た)ち、遠観すべくして褻翫(せつぐわん)すべからざるを愛す。予、謂(おもへ)らく、「菊は花の隱逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は華の君子たる者なり」と。噫(ああ)、菊を、之れ、愛するは、陶の後、聞く有ること、鮮(すくな)し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者、何人(なんぴと)ぞ、牡丹を、之れ、愛するは、宜(むべ)なるかな、衆(おほ)きこと。)

「曹大家の女誡」後漢の中国初の女性歴史家で作家の班昭(四五年?~一一七年?)の著になる『曹大家(こ)「女誡」』。班昭は曹世叔という人の妻であったことから、曹大家(たいこ)と尊称された。和熹太后に仕え、宮廷で教育係として重きをなし、兄班固の著わした歴史書「漢書」を彼の亡き後、引き継いで完成させたことでも知られる。「女誡」は彼女が婚期を迎えた自分の娘のために書き記した教訓書(女性教育書)であるが、当時の知識人に歓迎されて広く流布し、中国の女訓書の原型ともいうべきものとなった。「卑弱第一」「夫婦第二」「敬愼第三」「婦行第四」「専心第五」「曲從第六」「和叔妹第七」という構成と内容を持つ(「奈良女子大学学術情報センター」の解説を参考にした)。その「專心章」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る(本文は全百七十五字。リンク先の後には注解が附されてある)。個人サイト「兩漢魏晉學庵」の曹世叔妻伝の「専心第五」に以下のように訳されてある。

   《引用開始》

礼に、夫が再度妻を娶る道は記されているが、妻が再度夫に嫁ぐという文は無い。(※儀礼に曰く。父が生きている時は、母の為の服喪をどうして一年とするのか。最も尊い者が生きている時は、敢えて服喪を伸ばさないのである。父は必ず三年の喪に服して後に(後妻を)娶る。子の志を達する為である。)

故に夫は天であると言うのである。(※儀礼に曰く。夫は妻の天である。婦人が二夫に仕えないのは、天を二つに割る事はできないという事と同じである。)天から逃げる事はできず、夫から離れる事はできないからである。

行いが神祇の心に違えば、天はこれを罰し、行いが礼儀に違えば夫はこれを大切にしなくなる。

故に女憲に「一人(の夫)の心を得る事、これを永畢(一生添い遂げる)という。一人(の夫)の心を失う事、これを永訖(一生独り身で終える)という。」と言うのである。

これにより述べるならば、夫の心を得なくてはならないのである。

必要なのは、媚びへつらい適当に親しむという事ではない。本より夫に心を専らにし、容儀を正す事が第一である。

礼儀を守り潔白であり、道端の声を聴かず、横目で物を見る事無く、外に出ては艶やか過ぎず、家の中でも身なりに気を遣い、他人と群集まる事無く、家の前を見張る事が無い。これを心を専らにして容儀を正すという。もし、挙措が軽薄で、落ち着き無く周りを眺めたり聞き耳を立て、家の中では髪を乱して身なりを整えず、外に出ては艶めかしく媚を売り、言葉は道に外れ、見るべきでない物を見る。これを心を専らにして容儀を正す事ができないという。

   *

本小説に於けるキー・ポイントは、この主張の核心にある「女の再婚を決して許さぬ」誡である。]

2017/10/16

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その2) / 四 怪傑沈氏~了

 

 世外民といふ風變りな名を、私はこの話の當初から何の説明もなしに連發してゐることに氣がついたが、これは私の臺灣時代の殆んど唯(ゆゐ)一の友人である。この妙な名前はもとより匿名である。彼のペンネームである。彼の投稿したものを見て私はそれを新聞に採錄した。私は彼の詩――無論、漢詩であるが、その文才を十分解(かい)したといふわけではないが、寧ろその反抗の氣概を喜んだのである。しかし、その詩は一度採錄したきりだつた。當局から注意があつて、私は呼び出されて統治上有害だと言ふのでその非常識を咎められた。再度の投稿に對しては、私は正直にその旨を附記して返送した。すると、世外民は私を訪ねて遊びに來た。見かけは優雅な若者であつたが、案外な酒徒で、盃盤が私たちを深い友達にした。彼は臺南から汽車で一時間行程の龜山(クウソアム)の麗の豪家(がうか)の出(しゆつ)であつた。家は代秀才を出したといふので知られてゐた。その頃の私は、つまらない話だが或る失戀事件によつて自暴自棄に堕入(い)つて、世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ。この頃の私にいつも酒に不自由させなかつたのがこの世外民だ。だが私が世外民の幇間(ほうかん)をつとめたと誰(たれ)も思ふまい。第一に世外民は友をこそ求めたが幇間などを必要とする男ではなかつた。私はその點を敬してゐた。――この話として何(なん)の用もあることではないが、私の交遊錄を抄錄したまでである。彼が私との訣別を惜んで私に與へた一詩を覺えてゐる。――あまり上手な詩でもないさうだが、私にはそんなことはどうでもいい。

 

    登彼高岡空夕曛

    斷雲孤鵠嘆離群

    溫盟何不必杯酒

    君夢我時我夢君

 

[やぶちゃん注:最後の漢詩は底本では総ルビで縦に二句で二行であるが、前を一行空けで、かき、示した。漢詩をルビに従って漢字仮名交りで書き下してみる。

 

 彼(か)の高岡(かうかう)に登れば 空しく夕曛(せきくん)

 斷雲(だんうん)の孤鵠(ここう) 離群(りぐん)を嘆く

 溫盟(をんめい) 何ぞ杯酒を必(ひつ)とせんや

 君(きみ) 我を夢みむ時 我 君を夢みむ

 

起句の「夕曛」は落日の余光をいう。「鵠」は大型の白い水鳥。白鳥や鸛(こうのとり)に相当。「溫盟」心の籠った暖かな友情の契り。

「堕入(い)つて」ママ。何故か「堕」にはルビがない。「おちいつて」。]

2017/10/15

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その1)

 

    怪傑沈(シン)氏

 

 この風變りな一日の終りに私と世外民とは醉仙閣(ツイツエンコ)にゐた。――私たちのよく出かける旗亭である。

 これが若し私が入社した當時のやうな熱心な新聞記者だつたら、趣味的ないい特種でも拾つた氣になつて、早速「廢港ローマンス」とか何とか割註をして、さぞセンセイショナルな文字を罹列することを胸中に企ててゐただらうが、その頃は私はもう自分の新聞を上等にしてやらうなどとい考へは毛頭なかつた。每日の出社さへ滿足には勤めずにわが酒徒世外民とばかり飮み暮してゐた。諸君はさだめし私のの文章のなかに、さまざまな蕪雜(ぶざつ)を發見することだらうと覺悟はしてゐるが、それこそ私がそのころ飮んだ酒と書き飛ばした文字との覿面(てきめん)の報いであらう……。

[やぶちゃん注:「蕪雜」雑然としていてととのっていないこと。]

 ――で、私たちは醉仙閣で飮んでゐた。

 世外民は、禿頭港(タツタウカン)の廢屋に對して心から怪異の思ひがしてゐるらしい。さう言へばあの話はいかに支那風(しなふう)に出來がてゐる。廢屋や廢址(はいし)に美女の靈が遺つてゐるのは、支那文學の一つの定型である。それだけにこの民族にとつてはよく共感できるらしい。しかし、私はといふとどうもさうは行かない。私がそのうちで少しばかり氣に人つた點と言へば、その道具立(だうぐだて)が總てきくその色彩が惡くアクどい事にあつた。もしこれを本當に表現することさへ出來れば、浮世繪師芳年(よしとし)の狂想などはアマイものにして仕舞ふことが出來るかも知れない。そのなかにある人物は根強く大陸的で、話柄の美としてはそれが醜(しう)と同居してゐるところの野蠻(やばん)のなかに近代的なところがある。幽靈話とすればそれが夜陰(やいん)や月明(げつめい)ではなしに、明るさもこの上ない烈日(れつじつ)のさなかなのが取柄だが、總じてこの話は怪異譚(くわいいだん)としては一番價値に乏しい。それだのに世外民などは專らそこに興味を繫いでゐるらしい。いや、むしろ恐怖してさへゐる。彼は自分が幽靈と對話したと思つてゐるかも知れない。

 私は世外民の荒唐無稽好(ず)きを笑つてゐる。――といふのはそれに對しては私はもうとつくに思ひ當つたことがあるからだ。なぜ私はあの時すぐ引返して、あの廢屋の聲のところへ入込(いりこ)んでゐなかつたらうか。さうすれば世外民に今かうは頑張らせはしないのだ。それをしなかつたといふのも世外民があまり厭がるのと、それよりも空腹であつたのと、また億劫(おつくふ)な思ひをして行つてみるまでもなく解つてゐると信じたからだ。それもすぐに、さうと氣がついたのならよかつたのに、あんな判りきつた事が、なぜ一時間も經つてからやつと氣がついたといふのだらう。多分、あまりに思ひがけなく踏込(ふみこ)まうとするその刹那であつた爲めと、二階から響いて來た言葉が外國語だつたのと、それにつづいてあの老婦人の大袈裟な戰慄の身振りやら、ちよつと異樣な話やらで、全くくやしい事だが私も暫くの間は、多少驚かされたものと見える。本當に理智の働く餘裕はなかつたらしい。――廢屋だと確めて置いた家の中から人聲(ひとごゑ)がしたのであつてみれば、それはその家の住人でない誰(たれ)かが、そこにゐたのにきまつてゐる。その人のために我我は這入(はい)つて行くことを遠慮する理由は少しもなかつた筈だ。現に安平(アンピン)の家のなかにだつて網を繕つてゐた人間の聲がしても我我は平氣で闖入して行つた程だ。何のために我々は躊躇したか。世外民が「人が住んでゐるんだね」と言つたからだ。世外民は何故そんなことを言つたか。それはその時の彼の心理を考へなければならない。多分、聲が我我の踏み込んだ瞬間に恰もそれを咎めるがごとく響いた事が一つ――しかも、その言葉の意味は、あとで聞けば全く反對のものであるが。またあの廢屋は安平のものよりも數十倍も堂堂としてゐて荒れながらにもなほ犯しがたい權威を具へてゐた事。最後に一番重(おも)なる理由としてはそれが單に、女の若さうな玲瓏(れいろう)たる聲であつたが爲めに、若い男である世外民も私も無意識のうちに妙にひるんでゐたのである。さうして、その聲に就ては何の考へることをもせずに、ただびつくりして歸つて來てしまつたのである。

[やぶちゃん注:「玲瓏たる」宝玉を思わせるような美しい声の形容。]

「何(なん)にしても這入つて見さへすればよかつたのになあ。馬鹿馬鹿しい、誰が幽靈の聲などを聞くものか。生きて心臟のドキドキしてゐる若い女――多分、若くて美しいだらうよ、そんな氣がするな――それがそこにゐただけの事さ。――生きてゐればこそものも言ふのさ……」

「でも、むかしから傳はつてゐるのと同じ言葉を、しかも泉州(ツエンチヤオ)言葉を、それもそのたつた一言を、その女が何故(なぜ)我我に向つて言ふのだ」

 世外民は抗議した。

「泉州言葉は幽靈の專用語ではあるまいぜ。泉州人(ツエンチヤオナン)なら生きた人間の方がどうも普通に使ふらしいぜ。アハ、ハハ――それが偶然、幽靈が言ひ慣れた言葉と同じだつたのは不思議と言へば不思議さね。――でもたつたそれだけの事だ。君はあの言葉が我々に向つて言はれたと思ひ込むから、幽靈の正體がわからないのだよ。――他の人間に向つて言つた言葉が偶然我我に聞かれたのだ。いや。我我を外(ほか)の人間と間違へて、その女が言ひかけたのさ。さうと氣がついたから、たつた一言(ひとこと)しか言はなかつたのだ。君、何でもないよくある幽靈だぜ、あれや……」

「それぢや、昔からその同じ言葉を聞いたといふその人達はどうしたのだ」

「知らない」私は言つた・「それや僕が聞いたのぢやないのだからね。――ただ、多分は君のやうな、幽靈好きが聞いたのだらうよ。だから僕は自分の關係しない昔のことは一切知らないのだ。ただ今日の聲なら、あれは正(まさ)しく生きてる若い女の聲だよ! 世外民君、君は一たいあまり詩人過ぎる。舊(ふる)い傳統がしみ込んでゐるのは、結構ではあるが、月の光では、ものごとはぼんやりしか見えないぜ。美しいか汚いかは知らないが、ともかく太陽の光の方がはつきりと見えるからね」

「比喩など言はずに、はつきり言つてくれ給へ」一本氣な世外民は少々憤(おこ)つてゐるらしい。

「では言ふがね、亡びたものの荒廢のなかにむかしの靈が生き殘つてゐるといふ美觀は、――これや支那の傳統的なものだが、僕に言はせると、……君、憤つてはいかんよ――どうも亡國的趣味だね。亡びたものがどうしていつまでもあるものか。無ければこそ亡びたといふのぢやないか」

「君!」世外民は大きな聲を出した。「亡びたものと、荒廢とは違ふだらう。――亡びたものはなるほど無くなつたものかも知れない。しかし荒廢とは無くならうとしつつある者のなかに、まだ生きた精神が殘つてゐるといふことぢやないか」

「なるほど。これは君のいふとほりであつた。しかしともかくも荒廢は本當に生きてゐることとは違ふね。だらう? 荒廢の解釋はまあ僕が間違つたとしてもいいが、そこにはいつまでもその靈が橫溢(わういつ)しはしないのだ。むしろ、一つのものが廢れようとしてゐるその蔭からは、もつと力のある潑剌(はつらつ)とした生きたものがその廢朽を利用して生れるのだよ。ね、君! くちた木にだつてさまざまな茸(きのこ)が簇(むらが)るではないか。我我は荒廢の美に囚はれて歎くよりも、そこから新しく誕生するものを讃美しようぢやないか――なんて、柄(がら)にないことを言つてゐら。さういふ人生觀が、腹の底にちやんとしまつてある程なら、僕だつて臺灣三界(がい)でこんなだらしない酒飮みになれやしないだらうがね。だからさ、僕がさういふ生き方をしてゐるかどうかは先づ二の次(つぎ)にしてさ」

「成程。――ところがそれが禿頭港(クツタウカン)の幽靈――でないといふならば、その生きた女の聲と何の關係があるんだらう?」

「下らない理窟を言つたが僕のいふのは簡單なことなのだ。ね、我我の聞いたあの聲の言つたのは『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』云云(うんぬん)といふのだつたさうだね。それや無論誰(たれ)が聞いても人を待つてゐる言葉さ。で、あの場所の傳説のことは後(あと)にして、虛心に考へると、若い女が――生きた女がだよ、人に氣づかれないやうな場所にたつたひとりでゐて、人の足音を聞きつけて、今の一言を言つたとすれば、これは男を待つてゐるのぢやないだらうかといふ疑ひは、誰(だれ)にでも起る。あたりまへの順序だ。我我があの際(さい)、すぐさう感じなかつたのが反(かへ)つて不思議だ。あの際、僕があれを日本語で聞いたのだつたら一瞬間にさう感附くよ。そこであの場所だが、氣味の惡い噂があつて人の絶對に立ち寄らない場所だ。しかも時刻はといふと近所の人人がみな午睡(ごすゐ)をする頃だ。戀人たちが人に隱れて逢ふには絶好の時と所ではないか。――それも互によほど愛してゐると僕が考へるのは、それはいづれあそこからさう遠いところに住んでゐる人ではなからうが、それならあの家に纏はる不氣味千萬な噂はもとより知つてゐるのだらうから、迷信深い臺灣人がその恐ろしさにめげずに、あの場所を擇(えら)ぶといふところに、その戀人たちの熱烈が現れてゐる。それから、また僕は考へるね。そのふたりは大部以前から、あの時刻とあの場所とを利用することに慣れてゐるのだ。でない位(くらゐ)なら、そんないやな場所へ、女が先に來て待つ度胸も珍しいし、男だつてそれぢやあまり不人情さ。――君が、あの聲を聞いて咄嗟(とつさ)にそれをその住人のものと斷定してしまつたのも無理はないよ。彼等はそこをもう自分たちふたりの場所と信じ切つてゐるほど、その場所に安心し慣れ切つてゐるのだ。それならばこそ我我の足音聞いただけて輕輕しく、あんな聲をかけたりしたのだ。――あそこへは全く近よる人もないと見えるね。そのくせあの家は、女ひとりで這入つて行つても何の怖ろしい事もないほど、異變のない場所なのさ。若い美しい女――藝者(ゲイチア)の五葉仔(ゲフユア)のやうな奴かな。いや、若い女ではなくつて―――」

[やぶちゃん注:「藝者(ゲイチア)」「チ」の部分は実は擦(かす)れて縦棒一本とそこから右に直角に突き出た一本しか判読出来ない。現代の中国音の音写だと「者」は「ヂゥーア」であることから、取り敢えず「チ」で補っておいた

「五葉仔(ゲフユア)」不詳。中国の芸妓界の隠語か? 識者の御教授を乞う。一人前になる直前の芸妓、所謂、本邦の「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」・「舞妓(まいこ)」のようなものか? 或いはそれよりも若い「禿(かむろ)」か?

「―――」(三字分)はママ。但し、頭の一字分で改行であることから、植字工のミスかも知れない。]

「聲は若かつたがな」

「さ、聲は若くつても、事實は圖太い年增女(としまをんな)かも知れないな。でなけりや、やつぱり必ず若い熱烈なる少女か。――それはどうでもいい.判らない。しかし兎も角もさ、今日(けふ)のあの聲は不埓(ふらち)かは知らないが不思議は何もない生きた女のもので、あそこが逢曳(あひびき)の場所に擇ばれてゐたといふ事と、又それだから、あそこにはほんの噂だけで何の怪異もない事は、おのづと明瞭さ。僕は疑はない――ああ、這入つて見れやよかつたのになあ」

「例によつてそろそろ理窟つぽくなつたぞ。――理窟には合つてゐさうだよ。ただね、それが僕の神經を鎭めるには何の役にも立(たた)ない」

[やぶちゃん注:「立」のルビは「た」しかないが、特異的に補った。]

「さうかい。困つたね」

 世外民はやつぱりに私に同感しようとはしない。私は少しばかり、ほんの少しだが、忌忌(いまいま)しかつた。私は酒を飮めば飮むほど、奇妙に理窟つぽくなる。人を説き伏せたくなる。そこでお喋りになるといふごく好くない癖があつた。自分では頭が冴えてゐるやうな氣がするんだが、それは醉つぱらひの己惚(うぬぼ)れで傍(はた)で聞いたらさぞをかしいのだらう。私はつづけた。

「仕方ない。君は何とでも思ひ給へ。だが、今日の事實は怪異譚(くわいいだん)としてはまるで何の値打(ねうち)もないのだがなあ。禿頭港(クツタウカン)で聞いた話にしたつて、因緣話にはなつてゐるものか。――そんな見方をすれや、せいぜい三面特種の値打だ。寧ろ面白いのは、あんな荒つぽいいやな話のなかに案外、支那人というものの性格や生活といふものの現はれてゐることだ。……」

「夜中(やちう)に境界標(へう)の石を四方へ擴げる話か。――あれや、君、臺灣の大地主(おほぢぬし)のことなら、みんなあんな風に言ふんだ。あれこそ臺灣共通の傳説だよ。――現に」と世外民は酒で蒼くなつた顏を苦笑させて、

「僕の家のことだつてもさう言つてらあ!」

「へえ? これはなほ面白い。いづれはどこかに本當の例が、事實あつたのだらうがね。多分、あの沈(シン)家が本當だらう。それにしてもそいつをどこの大地主にも應用するところはえらい。實際、あの話はあらゆる富豪といふものを簡單明瞭に説明するからね。ふむ。さうかね。だがそれよりも僕にもつと面白いのは犂(からすき)でよぼよぼの老寡婦を突き殺す話だ。――僕はその沈の祖先といふのは粗野な惡黨でこそあるがなかなかの人傑(じんけつ)だつたやうな氣がするのだ。ね、さうでなければ道理に合はない。いかに淸朝の末期に近い政府だつて、また先(さき)が植民地の臺灣だからと言つて、さうさう腐敗した碌(ろく)でなしの役人ばかりをあとへあとへ派遣したわけではあるまい。それが皆(みんな)丸められるのだ。單に金(かね)の力だけではあるまい。沈にはきつと役人たちよりもえらい經營の才があつたのだ――まあ聞きたまへ、僕の玄宗だから・胡蘆屯(コロトン)附近と言へば、君、この島でも最もよく開墾された農業地だらう。『……いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ。……婆さん。さあどいた。畑といふものは荒して置くものぢやない。……本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ』か。さう言つてひらりと馬を下りて自分の手で突き殺したと言つたね。僕には強い實行力のある男の橫顏が見えるやうな氣がするんだ。さういふ男の手によつてこそ、未開の山も野も開墾出來るのだ。草創時代の植民地はさういふ人間を必要としたのだ。役人たちの目の利(き)いたものは、彼の事業を、政府自身の爲めに樂みにしてゐたかも知れないのだ。その報酬に惡德を見逃すばかりか、暗には奬勵してゐたかもかれないのだ。その男はちやんとそれを心得てゐた。その遺言が更に面白いではないか。『三十年すれば』いかに植民地正字でもだんだん行屆(ゆきとゞ)いて整つて來た擧句には、彼が折角開拓した廣大な土地を、今度は彼よりももつときい暴虐者が出て左右することを見拔いてゐたのだ。何と怖ろし識見ではないか――彼は政治といふものの根本義を、まるで社會學者みたいに知つてゐて、それを利用したのだ。人のものを掠奪してそれへすつかり仕上げをかけて、やれ田だのと畑だのと鍍金(めつき)をするのさ、そいつを賣拂(うりはら)つて金(かね)にへる。それから商賣をするんだね。全く商う賣といふものは世(よ)が開化した後(のち)の唯一の戰爭だからね。しかも安全な戰爭だ――元手の多い奴ほど勝つに定つてゐる。彼は自分の子孫たちに必勝の戰術を傳授して置いたのさ。奴の仕事は何もかも生きる力に滿ちてゐる。萬歳だ。ところでさ、そのやうな先見のある男でも、自然が不意に何をするかは知らなかつたのが、人間の淺ましさだ。繁茂してゐた自然を永い間かかつて斬(き)り苛(さいな)んだ結果に贏(か)ち得た富を、一晩の颶風(はやて)でやつぱりもとの自然に返上したといふのだから好(い)いな。態(ざま)を見やがれさ。――するとやつぱり因果應報といふことになるのかな。僕はそんなことを説教するつもりではなかつたつけな……」

[やぶちゃん注:「贏(か)ち得た」「贏」(音「エイ」)は「もう(儲)ける・あま(余)る・の(伸)びる・つつ(包)む・にな(荷)う・か(勝)つ」と訓じ、「余分に残る・残す・余分な残りもの」「利益を得る・儲ける・その利益や儲け」「賭(かけ)や競争で勝つ」の意がある。]

 私はいつの間にかひど醉つて來て、舌も纏れては來るし、段段冴えて來ると己惚れ(うぬぼ)れてゐた頭がへんにとりとめがなくなり、ふと口走つた――「花嫁の姿をして腐つてゐたつて? よくある奴さ。花嫁の姿をして死ぬ。それがだんだん腐つてくる、か。生きてゐる奴で冷たくなつて、だんだん腐つてくるのもある。金簪(きんさん)で飾つてさ、ウム」

 世外民はこれも亦いつもの癖で、深淵のやうに沈默したまま、私のをかしな言葉などは聞き咎めるどころか、てんで耳に入(はい)るらぬらしく、老酒(ラウチユウ)の盃(さかづき)を持ち上げたままで中空を凝視してゐた。

「世外民、世外民。この男の盃を持つてゐるところには少々魔氣(まき)があるて」

 

 *     *     *     *

    *     *     *

 

2017/10/14

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その2) / 三 戰慄~了

 

 その四氏ほど前といふのは、何でも泉州(ツヱンチヤオ)から臺灣中部の胡蘆屯(フロトン)の附近へ來た人で、もともと多少の資産はあつたさうだが、一代のうちにそれほどの大富豪になつたに就(つい)ては、何かにつけて隨分と非常なやり口があつたらしい。虛構か事實かは知らないけれどもこんなことを言ふ――例へば、或時の如き隣接した四邊(あたり)の田畑乃境界標(きやうかいへう)を、その收穫が近づいたところを見計(みはから)つて、夜(よる)のうちに出來るだけ四方へ遠くまで動かして置く。その石標(せきへう)を抱(だ)いて手下の男が幾人も一晩のうちに建てなほして置くのだ。次の日になると平氣な顏をして、その他人の田畑を非常な多人數で一時(じ)に刈入れにかかつた。所有者達が驚いて抗議をすると、その石標を楯に逆に公事(くじ)を起した。その前にはずつと以前から、その道の役人とは十分結託してゐたから、彼の公事は負ける筈はなかつた。彼は惡い役人に扶(たす)けられまた扶けて、臺灣の中部の廣い土地は數年のうちに彼のものになり、そこのどの役人達だつて彼の頤(おとがひ)の動くままに動かなければならないやうになつた、惡い國を一つこしらへた程の勢(いきほひ)であつた。一たいこの頃、沈(シン)は兄弟でそんなことをしてゐたのだが、兄の方は鹿港(ロツカン)の役所の役人と口論の末に、役人を斬らうとして却つて殺されてしまつた。これだつても、どうやら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだといふ噂さへある程で、兄弟のうちでも弟の方に一層惡性(あくせい)がある。實際、兄の方はいくらかはよかつたらしい。ある時、彼等のいつもの策で、隣(となり)の畑へ犂(からすき)を入れようとしたのだ。その時にはその畑に持主が這入つてゐるのを眼の前に見ながら、最も圖太(づぶと)くやりだしたのだ。といふのはその畑の持主といふのは七十程の寡婦だつた。だから何の怖れることもなかつたのだ。しかし第一の犂(からすき)をその畑に入れようとすると、場にあつたこの年とつた女は急に走つて來て、その犂の前の地面へ小さな體(からだ)を投げ出した。――助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子とがむかし汗を流した土地です。今は私ががかうして少しばかりの自分の食ひ代(しろ)を作り出す土地です。――この土地を取り上げる程なら、この老(おい)ぼれの命をとつて下さい!」

 沈(シン)の手下に働くだけに惡い者どもばかりではあつたけれども、さすがに犂(からすき)をとめたまま、土をさへ突(つ)かうとする者もなかつた。男どもは歸つてこの事を兄の沈に話すと、彼は苦笑をして「仕方がない」と答へたさうだ。弟の沈はその時は何も知らなかつた。しかし、その後(ご)二三日して見廻りに來て、馬上から見渡すと彼等の畑のなかにひどく荒れてゐるところがあるので作男どもを叱つた。するとそれが例の寡婦の畑だと判つて、初めてその事情を聞いた。なるほど、今もひとり老ぼれの婆さんがそこにゐるのを見ると、彼は馬を進めた。さうして近くに働いてゐた自分の作男に、言つた――

「犂(からすき)を持つて來い」

 主人の氣質を知つてゐるから作男は拒(こば)むことが出來なかつた。主人は再び言つた――

「ここの荒れてゐる畑ヘ、犂を入れろ。こら! いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ」

 老寡婦はこの前と同じ方法を取つて哀願した。作男が主人の命令とこの命懸けの懇願との板挾みになつて躊躇してゐるのを見ると、沈は馬から下りた。畑のなかへ步み入りながら、

「婆さん。さあ退(ど)いた。畑といふものは荒(あら)して置くものぢやない」

 さう言ひながら、大きな犂(からすき)を引いてゐる水牛の尻に鞭(むち)をかざした。婆さんは動かうとはしたかつた。

「本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ」

 言つたかと思ふと、ふり上げてゐた鞭を強(したゝ)かに水牛の尻に當てた。水牛が球に步き出した。無論、婆さんは轢殺(ひきころ)された。

「さあぐづぐづせずに、あとを早くやれ――。こんな老ぼれのために廣い地面を遊ばして置いてなるものか」

 いつもと大して變らない聲でさう言ひながら、この男は馬に乘つて歸つてしまつた。これほどの男だからこそ、その兄があんな死に方をした時にも、世間では弟の穽(おとしあな)に落ちたのだと言つて、でも自分の手に懸けないだけがまだしも兄弟の情(じやう)だ、などと噂したさうである。何(なに)にしても、兄が死んでしまつてから弟がその管理を一切ひとりでやつた。その後(ご)、その家は一層榮えるし、彼は七十近くまで生きてゐて――惡い事をしても報いはないものかと思ふやうな生涯を終る時に、彼は一つの遺言をしたのだ。その遺言は甚だ注意すべきものである。

「今から後(のち)、三十年經つたら我我の家族は、田地をすつかり賣り拂つて仕舞(しま)はなけりやならない。それから南部の安平(アンピン)へ行つてそこで舟を持つて本國の對岸地方と商賣をするのだ」

[やぶちゃん注:「仕舞(しま)はなけりやならない」は底本では「仕舞(しま)はなけやならない」であるが、読めないので、脱字と断じて特異的に「り」を挿入した。]

 その理由を尋ねようと思ふともう昏睡してしまつてゐた。しかし子供はその遺言を守つて、安平(アンピン)の禿頭港(ツクタウイカン)へ出て來たのだと言ふ。――この遺言の話はやつぱり沈(シン)の一族からずつと後(のち)に洩れたといふので皆知つてゐたが、あの一晩の颶風(はやて)が基(もと)で、それこそ颶風(はやて)のやうに沈家に吹き寄せた不幸の折から、世間の人人は沈家の祖先の遺言から、またその祖先のした惡行をさまざまに思ひ出して、因果は應報でさすがに天上聖母は沈の持舟(もちぶね)を守らない。――あの遺言こそまるで子孫に今日(けふ)の天罰を受けさせようと思つて、老寡婦の死靈(しりやう)が臨終の仇敵(きうてき)に乘り移つたのだとか、あの颶風(はやて)はその老寡婦が犂(からすき)で殺されてから何十年目の祥月命日であるとか、人人は沈家の悲運を同情しながらもそんなことを噂した。何にしても、大きな不運の後(あと)であとからあとから一時(じ)に皆、死に絶えてしまつて、遺(のこ)つた人といふのは年若い娘ひとりで、それさへ氣が狂つて生きてゐた。

 祖先にたとひどんな噂があらうとも、かうして生きてゐる纖弱(かよわ)い女をほつて置くわけにはいかないといふので、近隣の人人は、いつも食事くらゐは運んでやつた。それが永い間絶えなかつたといふのも、いはば金持の餘德とも言へよう。といふのは食事を運んでやる人たちは、その都度何かしら、その家のそこらに飾つてある品物の手輕なものを、一つ二づつこつそりと持つて來る者があるらしかつた。部屋にあつたものは自(おのづ)と少(すくな)くなり、さうなると近隣でも相當な家の人達はもうそこへ行かなくなつた――他人のものを少しづつ掠(かす)めてくるやうな人たちの一人と思はれたくないと思つて、自(おのづ)と控へるやうになつたのである。そのりにはまた、厚かましい人があつて、當然のやうな顏をして品物を持つて來てそれを賣拂(うりはら)つたりするやうな人も出て來た。下さいと言つて賴むと氣の違つてゐる人は、極く大樣(おほやう)にくれるといふことであつた。――「さあ、お祝ひに何なりと持つておいで」高價なものをさういふ風に奪はれて、やつぱりあの家では昔の年貢を今收めゐてゐるのだよなどと、口さがない人人は言つた。

 どういふ風に、娘は氣が違つてゐるのかといふのに、娘は刻刻に人の――恐らくは彼女の夫(をつと)の來るのを待つてゐるらしかつた。人の足音が來さへすれば叫ぶのだ――泉州(ツヱンチヤオ)言葉で、

「どうしたのです。なぜもつと早く來て下さらない?」

 ――つまり、我我が聞いたのと全く同じやうな言葉なのだ。彼女は姿こそ年とつたがそ聲は、いつまでも若く美しかつた! ――我我が聞いたその聲のやうに?

 ぞの聲を聞いて、人人は深い哀れに打たれながら、その部屋へ這入つて行くと、彼女は人人を先づ凝視して、それからさめざめと泣くのだ。待つてゐた人でなかつた事を恨むのだ。そこで人人は明日こそその當(たう)の人が來るだらうと言つて慰める。彼女はまた新しい希望をを湧き起す。彼女はいつも美しい着物を着て人を待つ用意をしてゐた。たしかに海を越えて來るその夫を待つてゐるのだといふことは疑ひなかつた。さういふ風にして彼女は二十年以上も生きてゐたのだらう―

[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。ここは行末であるが、私はここで改行と読んだ。]

「私が十七の年に、初めてこの家へ來たころには、その人はまだ生きてゐたものです」と、この長話を我我に語つた禿頭港(タツタウカン)の老婦人は言つた。――この婦人ももう六十に近いであらうが四十年位(くらゐ)前にこの家へ嫁に來たものと見える。「私は近づいてその人を見た事はありませんけれども、天氣の靜(しづか)な日などには、よく皆(みんな)が『またお孃さんが出てゐるよ』といふものだから、見ると走馬樓((ツアウベラウ)の欄干によりかかつて、ずつと遠い海の方を長いこと――半日も立つて見てゐるらしいやうなことがよくありました。夫を乘せた舟の帆でも見えるやうに思つたものですかねえ。いづれやつぱりその海が未えるからでせう、お孃さんのゐる部屋といふのは、あの二階ばかりで、外の部屋ヘは一足(ひとあし)も出なかつたさうです。皆はお孃さん、お孃さんと呼び慣はしてはゐましたが、その頃はもうやがて四十ぐらゐにはなつてゐるだらうといふ事でした。それが、何日(いつ)からかお孃さんの姿をまるで見かけなくなつたのです。病氣ででもあらうかと思つて人が行つてみると、お孃さんはそこの寢牀(ねどこ)のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪(きんさん)を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよ。――それが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお孃さんが生きてゐた時と同じやうに、凉しい聲でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたの聞いたのと少しも違はない言葉ですよ! だから死んでゐようなどとは露(つゆ)思はなかつただけにその人に一層びつくりしたとの事です。それから後(のち)にも、その聲をそこで聞いたといふ人は時時あつたのです。――お孃さんは病氣といふよりは、もしや飢ゑて死んだのではあるまいかと云ふ人もあります。といふのはその家のなかには、昔こここにあつた見事な樣々の品物が、もうに何一つ殘つてゐなかつたさうですから。さうして死骸に附いてゐた金簪(きんさん)は葬(とむらひ)の費用になつたと言ひます」

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その1)

 

 

    戰慄

 

 

 老婆は改めてやつと語り出した、初めはひとり言(ごと)めいた口調で……

「……さういふ噂は長いこと聞いてはゐました。けれどもその聲を本當に、自分が本當に聞いたといふ人を――見のは初めてです。若い男の人たちは、一たいそこへ近づいてはいけなかつたのです。貴方がたは最初、私にその裏口をおききになつた時に、私はほんたうはお留めしたいと思つたのですが、それには長い話がいるし、また昔ものが何をいふかとお笑ひになると思つたものですから……。それに今はもう月日も經つたことではあり、私もまさかそんなことがあらうと信じなかつたものだから……。でも、私は何か惡い事が起らねばいいと氣がかりになつて、實は貴方がたの樣子をこちらから見守つてゐたところです。――あれは昔から幽靈屋敷だといふので、この邊では誰(だれ)も近づく人のなかつたところなのです。――ごらんなさい。あそこの大きな龍眼肉(ゲンゲン)の樹には見事な實(み)が鈴生(すゞなり)りにみのるのですが、それだつて採りに行く人もない程です……」

 彼女は向うに見える大樹を指さし、自(おのづ)とその下の銃樓が目についたのであらう――

「昔はあの家は、海賊が覘(ねら)つて來るといふので、あの櫓(やぐら)の上に每晩鐡砲をもつて不寢番(ふしんばん)が立つた程の金持でした。北方の林(リン)に對抗して南方の沈(シン)と言へば、誰ひとり知らぬ人はなかつたのです。いいえ、まだつい六十年になるかならぬぐらゐの事です。大きな戒克船(ジヤンク)を五十艘も持つて、泉州(ツヱンチヤオ)や漳州(ヂンチヤオ)や福州(チウチヤオ)はもとより廣東(カントン)の方まで取引をしたといふ大商人で船問屋(ふなどにゃ)を兼ねてゐました。『安平港(アンピンカン)の沈(シン)か、沈の安平港か』とみんな唄つたものです。――御存じの通りそのころの安平港はまだ立派な港で、そのなかでも禿頭港(タツタウカン)と言へば安平と臺南(たいなん)の市街とのつづくところで、港内でも第一の船着(ふなつ)きでした。これほど賑やかなところは臺南にもなかつた程だといひます。――沈(シン)は本當に安平港の主(ぬし)だつたと見える。――沈家(シンけ)が沒落すると一緒に、安平港は急に火が消えたやうになりました。沈(シン)のゐない安平港は用がないと言つて來なくなつた船が澤山あるさうです。それに海はだんだん淺くなるばかりで、しかもいつの間にか氣がついた頃にはすつかり埋(うづ)まつてゐたのですよ。この急な變り方までが、まるで沈家にそつくりだと、今もよくみんなして年寄たちは話し合ひますよ。……沈の家ですか? それがまた不思議なほど急に、一度に、唯の一夏(ひとなつ)の、しかも只の一晩のうちに急に沒落したのです。百萬長者が目を開けて見ると乞食になつてゐたのです。夢でもかうは急に變るまい。他人事ながら考へれば人間が味氣(あぢき)なくなる――と、家の父はこの話が出るとよくさう言ひました。何でも沈の家ではその時、盛りの絶頂だつたのです。今の普請(ふしん)もついその三四年前に出來上つたばかりで、その普請がまた大したもので、石でも木でもみんな漳州(チンチヤオ)や泉州(ツヱンチヤオ)から運んだので、五十艘の持船(もちふね)がみんな、その爲めに二度づつ、そればかりに通うたといふ程ですよ。それといふのも沈家には、この子の爲めなら、双親(ふたおや)とも目がないという可愛い、ひとり娘があつて、それの婿取りの用意にこんな大がかりな普請をしたものださうです。それに美しい娘だつたさうです――私が見た時には、もう四十ぐらゐになつてもゐたし、落(おち)ぶれてれてへんになつてはゐましたが、それでもさう聞けばなるほどと思ふやうなところはありました……」

[やぶちゃん注:「戒克船(ジヤンク)」「戒」はママ。「戎克船」の誤りである。英語で“junk”であるが、元来はジャワ語で「船」の意。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により、船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つのが特徴。

「それに美しい娘だつたさうです」の「それに」は「それは」の誤植が疑われる感じはする。]

「そんなにまた、急に、どうして沈の家が沒落したのです?」世外民は、性急に話の重大な點をとらへてたづねた。

「ごめんなさい、私は年寄で話が下手で」――聞いてゐるうちに解つて來たが、この老婆が上品な中流の老婦人であつた。「怖ろしい海の颶風(はやて)だつたのです。陸でも崩れた家が澤山あつたさうです。それはさうでせう。-―ごらんなさい、あの沈(シン)の家の水門の石垣でさへあの角(かど)が吹き崩されたのださうです。さうしてそれを直すことさへもう出來なかつたので、今もそのままに殘つてゐるのですが、夜(よ)が明けてみてその石垣――そのころはまだ築いたばかりの新しい石垣の、あんなきな石が崩れ落ちてゐるのを見て、沈の主人は心配さうにそれを見てゐたさうです。運の惡い事に、その晩、宵のうちは靜かな滿月の夜でもあつたさうだし、沈の五十艘の船はみんな海に出てゐたのださうです。沈の主人は――五十位(ぐらゐ)の人だつたさうですが、崩れた石垣を見るにつけても、海に出てゐた持船(もちぶね)が心配だつたのでせう。船の便りは用意に知れなかつたさうですが、五日經つても十日經つても歸る船はなかつたさうです。ただ人間だけが、それも船出した時の十分の一ぐらゐの人數(にんず)かぽつぽつと病み呆けて歸つて來て、それぞれに難船の話を傳へただけでした。無事に歸つた船は只の一艘もなかつたさうです。尤も、人の噂では、港にゐて颶風(はやて)に出會はなかつた船も三艘や五艘あつたに相違ないが、友船(ともふね)が本當に難船したことから惡企(わるだく)みを思ひついて、自分達の船も難船して自分は死んだやうな顏をして、船も荷物も橫領したまま遠くへ行つてしまつて歸つて來なかつたものも、どうやらあるらしいと言ひます。現に何處(どこ)とかの誰(たれ)は廣東(カントン)で、死んだ筈の何の某(なにがし)に逢つたの、名前と色どりとこそ變つてゐたが沈(シン)の船の『躑躅(てきしよく)』とそつくりのものを廈門(ヱイムン)で見かけたなどと、言ふ人もあつたさうです。何(なん)にしても一杯に荷物を積み込んだ大船(おほふね)五十艘歸つて來なかつたのです。その騷ぎはどんなだつたか判るではありませんか。なかには沈自身の荷物ではないものも半分以上あつて、荷主(にぬし)は、みんな沈の家へ申し合せて押(おし)かけて、その償ひを持つて歸つたさうです。普請や娘の支度などで金を費(つか)つたあとではあり、それに派手な人で商ひも大きかつただけに、手許(てもと)には案外、金(きん)も銀も少(すくな)かつたと言ひます。人の心といふものは怖ろしいもので、かうなつて仕舞ふと、取るものは殘らず取立てても、拂つて貰へる可(べ)きものは何も取れない。そればかりか殆んど日どりまで定つてゐた娘の養子は斷つて來たさうです。もともと金持の沈と緣組をする筈で貧乏人の沈と緣を結ぶつもりではなかつたからでせう。……おお、、あそこに、いい日蔭か出來ました。あそこへ行つてまあ腰でもお掛けなさい」

 老婆は、ちやうど前栽(ぜんさい)に一本だけあつた榕樹が、少し西に傾いた日ざしによつてやや廣い影を造つたのを見つけて、さう言ひながら自分がさきに立つて小さな足でよちよちと步いた。今まで別に氣がつかずにゐたが、この老婆の家といふのも大したことはないが一とほりの家で、昔の繁華の地に殘つてゐるだけの事はあつた。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、この老婆は纏足であることがこの描写から判る。]

 樹(こ)かげで老婆は更に話しつづけた。彼女はよほど話好きと見えて、また上手でもある。ただ小さい聲で早口で、それが私にとつては外國語だけに聽きとりにくい場合や、判らない言葉などもある。私は後(のち)に世外民にも改めて聞き返したりしたが、更に老婆の説きつづけたことは次のやうである――

 前述のやうな具合で沈の家が沒落し出すと、それが緒(いとぐち)で主人の沈は病氣になりそれが間もなく死ぬと同時に、緣談の破れたことを悲しんでゐた娘は重なる新しい歎きのために鬱鬱としてゐた擧句、たうとう狂氣してしまふ。その娘を不憫に思つてゐるうちにその母親も病氣で死んでしまふ。全く、作り話のやうに、不運は鎖(くさり)になつてつづいた。

 一たいこの沈といふ家に就(つい)て世間ではいろいろなことを言ふ。

 

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2017/10/12

佐藤春夫 女誡扇綺譚 二 禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

    禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

 道を左に折れると私たちはまた泥水のあるところへ出た。片側町(まち)で、路に沿うたところには石垣があつて、その垣の向うから大きな榕樹が枝を路まで突き出してゐた。私たちはその樹かげへぐつたりして立ちどまつた。上衣を脱いで煙草へ火をつけて、さて改めてあたりを見まはすと、今出て來たこの路は、今までのせせつこましい貧民區よりはよほど町らしかつた。現に私たちが背を倚(よ)せてゐる石垣も古くこそはなつてゐるけれども相當な家でなければ、このあたりでこれほどの石垣を外圍(そとがこ)ひにしたのはあまり見かけない。さう思つてあたりを見渡すと、この一廓は非常にふんだんに石を用ゐてゐる。みな古色を帶びてそれ故(ゆゑ)目立たないけれども、このあたりが今まで步いて來たすべての場所とその氣持が全く違つて、汚いながらにも妙に裕かに感ぜられるといふのも、どうやら石が澤山に用ゐてあることがその理由であるらしい。

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。]

 この町筋――と云つても一町足らずで盡きてしまふが、この片側町の私たちの立つてゐる方方(はうばう)は、それぞれに石圍(いしがこ)ひをした五六軒の住宅であるが、その別の側、卽ち私たちが向つて立つた前方は例によつて、惡臭を發する泥水である。黑い土の上には少しばかりの水が漂うてゐて、淺いところには泥を捏(こねく)り步きながら豚が五六疋遊んでゐるし、稍深さうなところには油のやうなどろどろの水に波紋を畫(ゑが)きながら家鴨(あひる)が群れて浮んでゐる。この水溜の普通のものと違ふところは、これは濠(ほり)の底に涸れ殘つたものであることである。大きな切石がこの泥池のぐるりを御丁寧に取り圍んでゐる。しかも幅は七八間もあり、長さはと言へばこの町全體に沿うてゐる。深さは少くも十尺はある。この濠の向うには汀(みぎは)からすぐに立つた高い石圍ひがある。長い石垣のちやうど中ほどがすつかり瓦解してしまつてゐる。いや悉く崩れたのではないらしい。もともとその部分がわゴざと石垣をしてなかつたらしい。その角であつた一角がくづれたのに違ひない。落ち崩れた石が幾塊か亂れ重なつて、埋8うづ)め殘された角角(かどかど)を泥の中から現してゐる。その大きな石と言ひ巨溝と言ひ、恰も小規模な古城の廢墟を見るやうな感じである。いや、事實、城なのかも知れないのだ――崩れた石垣の向うのはづれに遠く、一本の竜眼肉(ゲンゲン)の大樹が黑いまでにまるく、靑空へ枝を茂らせてゐて、そのかげに灰白色の高い建物があるのは、ごく小型でこそはあれ、どうしたつて銃樓(じうろう)でなければならない。圓い建物でその平(たひら)な屋根のふちには規則正しい凹凸をした砦があり、その下にはまた眞四角な銃眼窓(じうがんそう)がある。

[やぶちゃん注:「竜眼肉(ゲンゲン)」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan。音写すると、一般に「龍眼」は「ロンガン」「リンギン」であるが、台湾語の入門書を見ると、台湾閩南語では「gîng-gíng」の発音表記があるから、或いは、春夫はこれを音写したつもりなのかも知れない。]

「君!」

 私は、またしても古圖をひらいてゐる世外民の肩をゆすぶつて彼の注意を呼ぶと同時に、今發見したものを指さした――

「ね、何だらう、あれは?」

 さう言つて私は步き出した、その小さな櫓(やぐら)の砦の方へ。――屋敷のなかには、氣がつくとほかにも屋根が見える。それの長さで家は大きな構(かまへ)だといふことがわかる。その屋敷を私は見たいと思つた。石圍ひの崩れたところからきつと見えると思つた。何でもいい、少しは變つたものを見なければ、禿頭港(タツタウカン)はあまり忌忌(いまいま)しすぎる。

 石垣のとぎれた前まで來ると、それを通して案の定、家がしかも的面(まとも)に見えた。いや、偶然にさう見るやうな意向によつて造られてゐたのである。また石圍ひの中絶してゐるのはやはりただ崩れ果てたのではなく、もとからそこが特にあけてあつた跡があがある。水門としてであらう。何故かといふのに濠(ほり)はずつとこの屋敷の庭の中まで喰入(くひい)つてゐて、崩れた石圍ひの彼方も亦、正しい長方形の小さい濠である。十艘の舢舨(サンパン)を竝べて繫ぐだけの廣さは確(たしか)にある。さうしてその汀に下りるために、そこには正面に石段が三級ある。――しかもその水は涸(かわ)き切つてしまつて、露(あら)はな底から石段まではどう見ても七尺以上の高さがある。――もしこの石段にすれすれになるほど水があつたならば、今は豚と家鴨(あひる)との遊び場所であるこの大きな空しい濠も一面に水になるであらう。それにしてもこれ程の濠を庭園の内と外に築いた家は、その正面からの外觀は、三つの棟(むね)によつて凹字形(あふじけい)をしてゐる。凸字形の濠に對して、それに沿うて建てられてゐる。正面に長く廣がつた軒は五間もあり、またその左右に翼(つばさ)をなして切妻を見せてゐる出屋(だしや)の屋根は各(おのおの)四間はあらう。それが總(さう)二階なのである。――一たいが小造りな平家を幾つも竝べて建てる習慣のある支那住宅の原則から見て、これは甚だ大きな住居と言へるであらう。私はくたびれた足を休める意味でしやがんだ序(ついで)に、土の上へこの家の見取圖をかき、それから目分量で測つた間數(けんすう)によつて、この建物は延坪百五十坪は優にあると計算した。一たい私は必要な是非ともしなければならない事に對してはこの上なくづぼらなくせに、無用なことにかけては妙に熱中する性癖が、その頃最もひどかつた。

「何をしてゐるんだい?」

 世外民の聲がして、彼は私のうしろに突立(つゝた)つてゐた。私は何故かいたづらを見つけられた小兒のやうにばつの惡いのを感じたので、立つて土の上の圖線(づせん)を踏みにじりながら、

「何でもない……。――大きな家だね」

「さう。やつぱり廢屋だね」

 彼から言はれるまでもなく私もそれは看て取つてゐた。理由は何もないが、誰(たれ)の目に見てもあまりに荒れ果ててゐる。澤山の窓は殘らずしまつてゐるが、さうでないものは戸そのものがもう朽ちて、なくなつてしまつたに相違ない。

「全く豪華な家だな。二階の亞字欄(あじらん)を見給へ。實に細かな細工だ。またあの壁をごらん。あおの家は裸の煉瓦造りではないのだ。美しい色ですつかり化粧してゐる。一帶に淡い紅色の漆喰(しつくひ)で塗つてある。そのぐるりはまたくつきりと空色のほそい輪廓だらう。色が褪せて白(しら)ちやけてしまつてゐるところが、却つて夢幻的ではないか。走馬樓(ツアウベラウ)の軒下の雨に打たれないあたりには、まだ色彩がほんのりと殘つてゐる」

[やぶちゃん注:「走馬樓(ツアウベラウ)」二階以上に付けられた回り廊下のこと。]

 私が延坪を考へてゐる間に、同じ家に就て世外民には彼の觀方(みかた)ががあつたのだ。彼の注意によつて私はもう一ぺん仔細に眺め出した。なるほど、二階の走馬樓――ヹランダの奥の壁には、淡いながらに鮮かな色がしつとり、時代を帶びてゐた。事實この廢屋は見てゐるほど、その隅隅から素晴らしい豪華が滾々と湧き出して來るのを感じた。たとへばその礎(いしづゑ)である。普通土間(どま)のなかに住んでゐる支那人の家は、その礎は一般にごく低い。地面よりただ一足だけ高くつくられてゐる。それだのに今我我の目の前にあるこの廢屋の礎は、高さ三尺ぐらゐはあり、やはり汀(みぎは)に揃つた切石で積み疊んであつた。もつと注意すると、水門の突當りにあたる場所には、その汀に三級の石段があることはもう知つてゐるが、その奧の家の高い礎にもやはり二三級の石段がある。その間口二間ほどの石段の兩側に、二本の圓柱(ゑんちう)があつて、それが二階の走馬樓(ツアウベラウ)を支へてゐるのだが、この圓柱は、……どうも少し遠すぎてはつきりとはわからないけれども、普通の外(そと)の柱よりも壯麗である。上の方には何やらごちやごちやと彫刻でもしてあるらしい。その根元にあたるあたり、地上にはやはり石の紬工で出來た大きな水盤らしいのが、左右相對(シンメトリイ)をして据ゑつけてある。――これらの事物がこの正面を特別に堂堂たるものにしてゐるのが私の注意を惹いた。私には、そこはこの家の玄關口ではないかと思はれて來た。

 そこで私は自分の疑問を世外民に話した――

「君、ここが正面、――玄關だらうかね」

「さうだらうよ」

「濠(ほり)の方にに向いて?」

「濠? ――この港へ面してね」

 世外民の「港」といふ一言(ごん)が自分をハツと思はせた。さうして私は口のなかで茫頭港(クツタウカン)と呼んでみた。私は禿頭港を見に來てゐながら、ここが港であつたことは、いつの間にやらつい忘却してゐたのである。一つには私は、この目の前の數奇(すき)な廢屋に見とれてゐたのと、もう一つにはあたりの變遷にどこにも海のやうな、港のやうな名殘(なごり)を搜し出すことが出來なかつたからである。この點に於ては世外民は、殊に私とは異つてゐる。彼はこの港と興亡を共にした種族でこの土地にとつては私のやうな無關心者ではなく、またそんな理窟よりも彼は今のさつき古圖を披(ひら)いてしみじみと見入つてゐるうちに、このあたりの往時の有樣を腦裡に描いてゐたのであらう。「港」の一語は私に對して一種靈感的なものであつた。今まで死んでゐたこの廢屋がやつと霊を得たのを私は感じた。泥水の濠ではないのだ。この廢渠(はいきよ)こそむかし、朝タ(てうせき)の滿潮があの石段をひたひたと浸した。走馬樓(ツアウベラウ)はきららかに波の光る港に面して展(ひら)かれてあつた。さうして海を玄關にしてこの家は在つたのか。――してみれば、何をする家だかは知らないけれども、この家こそ盛時の安平(アンピン)の絶好な片身(かたみ)ではなかつたか。私はこの家の大きさと古さと美しさとだけを見て、その意味を今まで全く氣づかずにゐたのだ。

 今まで氣づかなかつただけに、私の興味と好奇とが相縺(あひもつ)れて一時(じ)に昂(たかま)つた。

「這入(はい)つてみようぢやないか。――誰(だれ)も住んではゐないのだらう」私は息込(いきご)んでさう言つたものの、濠(ほり)を距(へだ)てまた高い石圍ひを繞(めぐら)してゐるこの屋敷へはどこから這入れるのだか、ちよつと見當がつかなかつた――道ばたの廢屋なら、さつき安平でやつたやうについ、つかつかと這入り込んでみたいのだが。後(のち)に考へ合せた事だが、入口が直ぐにわからないといふこの同じ理由が、この廢屋を、その情趣の上でも事實の上でも、陰氣な別天地として保存するのに有力であつたのであらう。

 その家のなかへ這入つてみたいといふ考へが、世外民に同感でない筈はない。世外民はきよろきよろとあたりを見廻してゐたが、我我が背をよせて立つてゐた石圍ひの奧に、家の日かげに臺灣人の老婆がひとり、棕櫚(しゆろ)の葉の團扇(うちは)に風を求めて小さな木の椅子に腰かけてゐるのを彼は見つけた。彼は直ぐにそこヘ步いて行つて、何か話をしてゐた。向側の廢屋を指さしたりしてゐる樣子で、そのふたりの對話の題目はおのづと知れる。

 世外民はすぐに私の方へ向つて歸つて來た。「わかつたよ、君。あの道を行つて」彼は言ひながら濠のわきにある道を指さして「向うに裏門があるさうだ。少し入組んでゐるやうだが、行けば解るとさ。――やつばり廢屋だ。もう永いこと誰(だれ)も住んでゐないさうだ。もとは沈(シン)といふ臺灣南部では第一の富豪の邸(やしき)だつたのださうだ。立派な筈さ」

 話しながら私たちはその裏門を搜した。世外民が不確(ふたしか)な聽き方をして來てゐたので、私たちはちつとまごついた。こせこせした家の間へ入り込んでしまつた。尋ねようにもあたりに人は見當らなかつた。このあたりは割に繁華なところらしいのだが、人氣のないのは、今が午後二時頃の日盛りで、彼等の風習でこの時刻には大抵の人間が午睡(ごすゐ)を貪つてゐるのである。私たちは仕方なしにいい加減に步いたが、もともと近いところまで來てゐた事ではあり、また目ざす家は聳えてゐたから自(おのづ)とわかつた。但(たゞし)、その家はあの濠あちらから見た時には、ただ一つの高樓であつたが、裏へ來て見ると、その樓(やぐら)の後(うしろ)には低い屋根が二三重もつながつてゐた。所謂(いはゆる)五落(らく)の家といふのはこんなのであらうが、大家族の住居(スマゐ)だといふことが一層はつきりすると同時に、あの正面の二階建が主要な部屋だといふことは確かだ。私たちは他(た)の場所よりも、あの走馬樓(ツアウベラウ)のある二階や圓柱のあつた玄關が第一に見たかつた。それ故、私たちは裏門を入るとすぐに、低い建物はその外側を廻つて、表へ出た。

 圓柱はやはり石造りであるた。遠くから、上部にごちやごちやあると見たものは果して彫刻で、二本の柱ともそこ纏(まつは)ちてゐる龍を形取(かたど)つたものであつたが、一つは上に昇つてゐたし、一つは下に降りようとしてゐた。雨に打たれない部分の凹みのあたりには、それを彩つた朱や金が黑みながらもくつきりと殘つてゐた。割合から言つて模樣の部分が多すぎて、全體として柱が低く感ぜられたし、また家の他(た)の部分にくらべて多少古風で莊重すぎるやうに私は感じた。しかし私と世外民とは、この二つの柱をてんでに撫でて見ながら、この家が遠見よりも、ここに來て見れば近(ちか)まさりして贅沢なのを知つた、細部が自(おのづ)と目についたからである。尤も、もし私に眞の美術的見識があつたならば、たかが殖民地の暴富者(ばうふしや)の似而非(えせ)趣味を嘲笑(あざわら)つたかも知れないが、それにしても、風雨に曝されて物每(ごと)にさびれてゐる事が厭味(いやみ)と野卑とを救ひ、それにやつとその一部分だけが殘されてあるといふことは却つて人に空想の自由をも與へたし、また哀れむべきさまざまな不調和を見出すより前にただその異國情緒を先づ喜ぶといふこともあり得る。況んや、私は美的鑑識にかけては單なるイカモノ喰ひなことは自ら心得てゐる。

 紬長い石を網代(あじろ)に組み竝べた床(ゆか)の緣(えん)は幅四尺ぐらゐ、その上が二階の走馬樓(ツアウベラウ)である。私たちはそこへ上つてみたいのだ。觀音開きになつた玄關の木扉(もくひ)は、一枚はもう毀れて外れてしまつてゐた。殘つてゐる扉(とびら)に手をかけて、私は部屋のなかを覗いた。――二階へ上(あが)る階段がどこにあるだらうかと思つて。支那家屋に住み慣れてゐる世外民には大たいの見當が判ると見えて、彼はすぐづかづかと二三步廣間のなかへ步み込んだ。

「××××、××××!」

 不意にその時、二階から聲がした。低いが透きとほつやうな聲であつた。誰(だれ)も居ないと思つてゐた折りから、ことにそれが私のそこに這入らうとする瞬間であつただけに。その呼吸が私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶやうな聲に思へたのは一層へんであつた。思ひがけなかつたのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留(と)めて、疑ふやうに二階の方を見上げた。それから彼は答へるが如くまた、問ふか如く叫んだ――

「××!?

「××!?

――世代民の聲は、廣間のなかで反響して鳴つた。世外民と私とは互に顏を見合せながら再び二階からの聲を待つたけれども、聲はそれつきり、もう何もなかつた。世代民は足音を竊(ぬす)んで私のところへ出て來た。

「二階から何か言つたらう」

「うん」

「人が住んでゐるんだね」

 私たちは聲をしのばせてこれだけのことを言ふと、這入つてくる時とは變つた步調で――つまり遠慮がちに、默つて裏門から出た。しばらく沈默したが出てしまつてからやつと私は言つた。

「女の聲だつたね。一たい何を言つたのだい? はつきり聞えたのに何だかわからなかつた」

「さうだらう。あれや泉州人(ツエンチヤオナン)の言葉だものね」

 

[やぶちゃん注:「泉州」現在の福建省の台湾海峡に面した港湾都市泉州市を中心とした広域地名。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じ、イスラム寺院・景教寺院などの遺跡もある。(グーグル・マップ・データ)。正確に音写するなら「チュァンヂォゥ」。]

 普通に、この島で全く廣く用ゐられるのは廈門(エイムン)の言葉で、それならば私も三年ここにゐる間に多少覺えてゐた――尤も今は大部分忘れたが、泉州の言葉は無論私に解らう筈はなかつたのである。

「で、何と言つたの――泉州言葉で」

「さ、僕にもはつきりと解らないが。『どうしたの? なぜもつと早くいらちしやらない。……』――と、何だか……」

「へえ、そんな事かい。で、君は何と言つたの」

「いや、わからないから、もう一度聞き返しただけだ」

 私

疲努と不審と寧腹たちはきよとんとしたまま、疲勞と不審と空腹とをごつちやに感じながら、自然の筋道として再び先刻(さつき)の濠に沿うた道に出て來た。ふと先方を見渡すと、自分たちが先刻そこから初めてあの廢屋を注視したその同じ場所に、老婆がひとり立つて、ぢつと我我がしたのと同じやうに濠を越してあの廢屋をもの珍しげに見入つてゐるのであつた。それが、近づくに從つて、今のさつき世外民に裏門への道を教へた同じ老婆だといふことが分かつた。

「お婆さん」その前まで來た時に世外民は無愛想に呼びかけた。「噓を教へてくれましたね」

「道はわかりませんでしたか」

「いいや。……でも人が住んでゐるぢやありませんか」

「人が? へえ? どんな人が? 見えましたか?」

 この老婆は、我我も意外に思ふほど熱心な目つきで私たちの返事を待つらしい。

「見やしませんよ。這入つて行かうとしたら二階から聲をかけられたのさ」

「どんなぬ聲? 女ですか?」

「女だよ」

「泉州(ツエンチヤオ)言葉で?」

「さうだ! どうして?」

「まあ! 何と言つたのです!?

「よくわからないが、『なぜもつと早く來ないのだ?』と言つたと思ふのです」

「本當ですか? 本當ですか! 本當に、貴方がた、お聞きになつたのですか! 泉州言葉で『なぜもつと早く來ないのだ?』つて!?

「おお!」

 臺灣人の古い人には男にも女にも、歐洲人などと同じく演劇的な誇張の巧みな表情術がある。その老婆は今それを見せてゐるが、彼女のそれはただの身振りではなく眞情が溢れ出てゐる。恐怖に似た目つきになり、氣のせゐか顏色まで靑くなつた。この突然な變化が寧ろ私たちの方を不氣味にした位である。彼女はその感動が少し鎭まるのを待ちでもするやうに沈默して、しかし私たちに注いだ凝硯をつづけながら、最後に言つた――

「早く緣起直(えんぎなほ)しをしておいでさい。――貴方がたは、貴方がたは死靈(しりやう)の聲を聞いたのです!」

 

2017/10/11

女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址


女誡扇綺譚   佐藤春夫

 

[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(じょかいせんきたん:現代仮名遣)は大正一四(一九二五)年『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。

 底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪(あやかし)の餌食にでもなったものか?)。

 現在、私はある理由から、あらゆることに対し、実は全く積極的な意欲を失っている。それでも行っている毎日の幾つかの電子化注は、翻刻は、ある種の感情を抜き去った自動作用であり、注は、ともすれば鬱屈する感性を意識的に逸らすために、その作業の閉じられた密室の中で、現実を孤独に遮断して思念した結果として吐き出しているような代謝物に過ぎないと断じてもよい。しかし、そうした誤魔化しにも遂に疲れてきた。しかし、ここで停滞するわけにも行かぬ。それは再起動自体の困難が容易に予想されるからである。この電子化は、そういう意味で敢えて自分に課すものである。

 以上の心理状態から、原則、注は附さないこととする。附け出すと「あれもこれも」となるのが私の悪い癖だからである。但し、本文表記等への強い疑義があった場合、及び、私が不学なために意味が判らない語、私が強い興味があることについては、例外的に附すこととする。一度、附した読みは原則、繰り返したくないが、中国音のそれは、前出が大分前の場合は、再度、振る程度の、読者への最低限の配慮は忘れないつもりではある。万一、読めない箇所はリンク先の底本で確認されたい。注は当該語句の含まれる形式段落の末に附した。

 そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城(シヤカムシヤ)址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼(せきかんろう)」の別名で「赤嵌楼」「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。その他、多数の現地の地名が出るが、注は省略する。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市((グーグル・マップ・データ))である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。

 なお、底本は総ルビであるが、私が読め、読みにブレが生じないと思った箇所はすべて振らず、極めてストイックな部分だけに限定した。字配や記号等の配置は、概ね、ブログのブラウザに合わせたので、底本通りではない。踊り字「く」は正字化し、また、傍点「ヽ」は太字で示した。

 底本をPDFでダウン・ロードし、安物ソフトで読み取らせてもたものの、底本の文字の劣化が激しいこと、旧字であることに加えて、総ルビが災いし、殆んど読み取れず、結局、ほぼ一からタイピングせねばならない仕儀となった。かく、これは、全く気儘で迂遠な電子化である。悪しからず。【2017年10月11日始動 藪野直史】]

 

 

     女誡扇綺譚

 

 

    赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

 タツタウカン――字でかけば禿頭港。すべて禿頭(タツタウ)といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港(アンピンカン)の最も奧の港といふことであるらしい。臺南(たいなん)市の西端れで安平の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの説明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港(カン)と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻(ろてき)の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距(へだた)つてゐる。沼を埋め立てた塵塚(ちりづか)の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀にそれもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊(へん)なのだが、私はその目、友人の世外民(せいがいみん)に誘はれるがままに、安平港(アンピンカン)の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。

 

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 人はよく荒廢の美を説く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平(アンピン)へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖(さうと)、鄭成功(ていせいこう)の雄志、新しくはまた劉永福(りうえいふく)の野望の末路も皆この一港市(かうし)に鬪聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを説かうとも思はないし、また好古家で且(かつ)詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。

 臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚(アンピンヒイ)の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞(は)が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうして、そこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國(ねつこく)のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。

[やぶちゃん注:「安平魚(アンピンヒイ)」条鰭綱ネズミギス目サバヒー亜目サバヒー科サバヒー属サバヒー Chanos chanosウィキの「サバヒー」によれば、『身がミルクのように白い色をしている』とあり、『台湾では大衆魚として古くから親しまれており』、『台南市の安平漁港周辺が有名な産地だったため』、「安平魚」と呼ばれた。『「サバヒー」とは「虱目魚」(白話字:Sat-ba̍k-hî)を閩南語』(びんなんご」閩南地方(現在の福建省南部)で話される言葉で、狭義には泉州・漳州・厦門など福建省南部で話されている言葉を指し、東南アジアでは「福建語」とも呼ばれる。広義には、狭義の言葉に加えて台湾・浙江省南部・広東省東部及び西部や海南省などで話される言語的に類似性の高い言葉の総称。ここはウィキの「閩南語」に拠った)『読みしたものである。名前の由来について、足立倫行著『アジア海道紀行』(文春文庫)の中では、この魚の両目が脂肪性の膜で覆われているためもともとは「塞目魚(サバヒー)」と呼びならわしていたものが、後に同じ音である「虱目魚」の字が当てられるようになったという説が紹介されている』。『サバヒーは産卵期になると、台湾の南部海岸一帯などに稚魚の群が大挙して押し寄せてくるため、その稚魚を捕獲して養殖することが古くから(鄭氏台湾の時代、つまり』十七『世紀頃から)行われてきた。日本統治時代の』二十『世紀初頭には養殖水産物の』実に八十五『%、終戦時から中華民国統治時代初期にあたる』一九四〇『年代後半には養殖魚の』六十『%近くをサバヒーが占めていたという記録も残っている』とある。『身は淡泊だが』、『ぱさぱさしており、小骨が多いといった特徴があるため、台湾では一般にサバヒー粥(虱目魚粥)やサバヒーの肉団子入りスープ(虱目魚丸)などの料理方法で供されることが多い。中でも台南地区のサバヒー粥は特に有名である』ともある。

「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。]

 トロツコの着いたところから、むかし和蘭人(オランダじん)が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城(シヤカムシヤ)を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽(ぜんさい)さへ型(かた)ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓(はびこ)つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破(わ)れて穴があいてないものはなく、その軒(のき)には巣でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が黑く集合して喋りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:「蔓(はびこ)つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]

 私たちは試みにその一軒のなかへ這入つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上(あが)つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる、傍(かたはら)に、この爺(おやじ)の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃(ごみ)を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平(アンピン)の廢屋を一時、官舍にしたらよからうといふ説があつたが尤もなことである)。

 赤嵌城址(シヤカムシヤし)に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎(いしずゑ)のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部(クラブ)の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取(とり)ひろげながら、所謂安平(アンピン)港外の七鯤身(こんしん)のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絶と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく説明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖(さうと)の址(あと)と言つたところで、その古(いにしへ)を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆(そそ)らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。

[やぶちゃん注:「七鯤身(こんしん)」臺南市街の沖にあった島或いは大きな砂洲の総称。T氏のサイト「中国耽美紀行」の「億載金城」に、大きいものから順に「一鯤身」(いちこんしん Yī kūn shēn)から「六鯤身」乃至「七鯤身」と称された、とある。]

 私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重(へ)二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城(シヤカムシヤ)の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それはどに安平(アンピン)の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限重なりつづく濁浪(だくららう)は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽(あふ)られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面(おもて)には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中に、無邊際(むへんざい)に重(かさな)りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉(えふ)の舢舨(サンパン)が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。

[やぶちゃん注:「舢舨(サンパン)」「舢舨」は広東語。中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種。]

 白く灼(や)けた眞晝の下(もと)。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜(へんぽん)と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃(げき)として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後(のち)、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯(おびや)かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世代民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。

「ウ、ウ、ウ、ウ――」

不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒(えんとう)や檣(ほばしら)なふどが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨(サンパン)はそれの艀(はしけ)で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。

「あの蒸汽はどこへ着くのだい」

 私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――

「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」

「あそこへか。――あんな遠くへか」

「さうです。あれより内へは來ません」

 私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――

「フム、これが港か!」

「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」

「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」

 丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身(こんしん)たる出島の一つであつたと見えて、地質は自(おのづ)から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度(たび)に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但(たゞし)、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口(かどぐち)にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹフランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人(かうじん)に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣(ひとけ)が絶えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣(べつやう)の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃(ヒエン)と呼げれてゐる胡弓をならし出した者があつた。

「月下の吹笛(すゐてき)よりも更に悲しい」

 詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。

 私たちは再び養魚場の土堤(どて)の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港(クツタウカン)なのである.安平(アンピン)見物を完(まつた)うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服(くうふく)を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。

[やぶちゃん注:「空服」はママ。]

 しかしトロッツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜の多い、不潔な入組(いりく)んだ場末といふより外には、一向何の奇(き)ありさうには見えなかつた。

 

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2017/06/26

サイト「鬼火」開設十一周年記念 佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版) 本文版

サイト「鬼火」開設十一周年記念(二〇〇六年六月二十六日開設)として、

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)の本文版

(ブログ・カテゴリ「佐藤春夫」で18回に分けて行った僕の電子化注から、概ね、校訂注を残して、他の多量の私注を除去したもの)を公開した。

2017/05/08

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その18) / 佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』~了

 

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 その翌日――雨月の夜の後の日は、久しぶりに晴やかな天氣であつた。天と地とが今朝甦へつたやうであつた。森羅萬象は、永い雨の間に、何時しかもう深い秋にも化つて居た。稻穗にふりそそぐ日の光も、そよ風も、空も、其處に唯一筋纖絲のやうに浮んだ雲も、それは自づと夏とは變つて居た。すべては透きとほり、色さまざまな色ガラスで仕組んだ風景のやうに、彼には見えた。彼はそれを身體全部で感じた。彼は深い呼吸を呼吸した。冷たい鮮かな空氣が彼の胸に這入つて行くのが、いかなる飮料よりも甘かつた。彼の妻が、この朝は每日のやうに犬どもを繫いで置けなかつたのも無理ではない。それはよい處置であつた‥‥遠い畑の方では、彼の犬が、フラテもレオも飛び廻つて居るのが見られた。百姓の若者がレオの頭を撫でて居た。音無しいレオは、喜んでするに任せて居る――太陽に祝福された野面や、犬や、そこに身を跼めて居る働く農夫などを、彼はしばらく恍惚として眺めた。日は高い。この景色を見るために、何故もう少し早く目が覺めなかつたらうとさへ、彼は思つた。

[やぶちゃん注:「雨月」(うげつ)は名月が雨で見られないことを指す。前章のシークエンスの夜は「全くその日はひどい風であつた。あるかないかの小粒の雨を眞橫に降らせて、雲と風自身とが、吹き飛んで居た」とあるから、前夜は早くに「あるかないかの」小雨だったものの、それは早々にやんでおり、前段で描写されるロケーションでは殆んど完全に雨は降っていない。それどころか、前段では何度かかなり丸い月がはっきりと顔を出し、月光さえも指している。まさにその印象的にその光りに照らされるシーンを「小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のばつくりと開けた巨きな口のフアンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た」と描写してさえいる。然るに、この冒頭にその夜を「雨月」と表現するのは私はおかしいと感ずる前章の厠のシーンは確かに既に未明の曉であつたと読める(月令から見ても臥待月・寝待月や宵町月以降であることが明らかであるように読める)。しかし、そう検証してみても、前日の天候状況を「雨月の夜」と表現するのは無理があると私は思うのである(その夜以前が連日の雨であったことは次章で明らかにされるけれども、わざわざ「その翌日――」と冒頭に言ってしまった以上、その以前の連夜の「雨月」と解することはこれ逆立ちしても出来ぬ)。寧ろ、ここにはこの家に入居した当初、妻が「淺茅が宿」と評し、主人公がここを「雨月草舍」と呼ぼうと応じた冒頭の雰囲気を、後付けで連関させ、まさに「雨月物語」的情趣を前章に漂わせんがために行った、かなり強引な処理であるように私には読める

「化つて」「かはつて(かわって)」。

「纖絲」「せんし」。非常に細い糸の一筋。

「跼めて」「かがめて」。]

 

 緣を下りて、顏をは洗うと庭を通ると白い犬が昨夜咥へて行つた筈の竹片は、萩の根元を轉がつて居た。彼は思はず苦笑した。それは、併し、寧ろ樂しげな笑ひであつた。

[やぶちゃん注:最初の一文は問題が多過ぎる(三箇所)ので逆にママで示した。定本では「緣を下りて、顏をうと庭を通ると白い犬が昨夜咥へて行つた筈の竹片は、萩の根元轉がつて居た。」(異同に私が下線を附した)となっている。]

 

 井戸端には、こぼれた米を拾はうとして――妻はわざわざ餘計にこぼしてやつたかも知れぬ、と彼は思つた――雀が下りて居た。彼の今までここらで見たこともないほどの澤山で、三四十羽も群れて居た。彼の跫音に愕かされると、それが一時に飛び立つて、そこらの枝の上に逃げて行つた。その柿の枝には雀とは別の名も知らぬ白い顏の小鳥も居た。さうして彼の家の軒端からのぼる朝の煙が、光を透して紫の羅のやうに柿の枝にまつはつた。雨に打ち碎かれて、果は咲かなくなつて居た薔薇が、今朝はまたところどころに咲いて居る。蜘蛛の網は、日光を反射する露でイルミネエトされて居た。薔薇の葉をこぼれた露は、轉びながら輝いて蜘蛛の網にかかると、手にはとる術(すべ)もない瞬間的の寶玉の重みに、網は鷹揚にゆれた。露は絲を傳うて低い方へ走つて行く、ぎらりと光つて、下の草に落ちる。それらの月並の美を、彼は新鮮な感情をもつて見ることが出來るのであつた。

[やぶちゃん注:「羅」定本では「うすもの」とルビする。

「薔薇」再確認しておく。「さうび(そうび)」である。]

 

 水を汲み上げようと繩つるべを持ち上げたが、ふと底を覗き込むと、其處には涯知らぬ蒼穹を徑三尺の圓に區切つて、底知れぬ瑠璃を靜平にのべて、井戸水はそれ自身が内部から光り透きとほるもののやうにさへ見えた。彼はつるべを落す手を躊躇せずには居られない。それを覗き込んで居るうちに、彼の氣分は井戸水のやうに落着いた。汲み上げた水は、寧ろ、連日の雨に濁つて居たけれども、彼の靜かな氣分はそれ位を恕すには充分であつた。

[やぶちゃん注:「徑」「わたり」と訓じておく。

「恕す」「ゆるす」。]

 

 妻の用意した食卓についた時には、彼の心は平和であつた。食卓には妻が先日東京から持つて來た變つた食物があつた。火鉢の上には鐡瓶が滾(たぎ)つて居た。さうして、陰氣な氣持は妻の言つたとほり、いやな天候から來たものだつた――と、彼は思つた。彼は箸をとり上げようとして、ふと、さつき井戸端で見た或る薔薇の莟の事を思ひ出した。

 「おい、氣がつかなかつたかい。今朝はなかなかいい花が咲いて居るぜ。俺の花が。二分どおり咲きかかつてね、それに紅い色が今度のは非常に深い落着いた色だぜ。」

 「ええ、見ましたわ。あの眞中のところに高く咲いたあれなの?」

 「然うだよ。一莖獨秀當庭心――奴さ」彼はそれからひとり言に言つた。「新花對白日か。いや、白日は可笑しい。何しろ彼等は季節はづれだ‥‥」

 「やつと九月に咲き出したのですもの。」

 「どうだ。あれをここへ摘んで來ないかい。」

 「ええ、とつて來るわ」

 「さうして、ここへ置くんだね」彼は圓い食卓の眞中を指でとんとんとたたきながら言つた。

 妻は直ぐに立上つたが、先づ白い卓布を持つて現れた。

 「それでは、これを敷きませう。」

 「これはいい。ほう! 洗つてあつたのだね。」

 「汚れると、あの雨では洗濯も出來ないと思つてしまつて置いてあつたの。」

 「これや素的だ! 花を御馳走に饗宴を開くのだ。」

 樂しげな彼の笑ひを聞きながら、妻は花を摘むべく立ち去つた。

[やぶちゃん注:「一莖獨秀當庭心」「新花對白日」前者には定本では「いつけいひとりひいでてていしんにあたる」、後者には「しんくわはくじつにたいす」とルビする(歴史的仮名遣変換した)。この前者は、盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ 七〇七年~七六〇年?)の「薔薇」の一節。中文ウィキの「全唐詩」の「卷百三十八」を参考に、一部、他のサイトのものと比較し、恣意的に訂正・加工して示す。

   *

 

  薔薇

 

 裊裊長數尋

 靑靑不作林

 一莖獨秀當庭心

 數枝分作滿庭陰

 春日遲遲欲將半

 庭影離離正堪玩

 枝上嬌鶯不畏人

 葉底飛蛾自相亂

 秦家女兒愛芳菲

 畫眉相伴采葳蕤

 高處紅鬚欲就手

 低邊綠刺已牽衣

 蒲萄架上朝光滿

 楊柳園中暝鳥飛

 連袂踏歌從此去

 風吹香氣逐人歸

 

   *

後者は、南北朝時代の南斉の詩人謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)の「詠薔薇詩」の一節。中文サイトの全詩集より引く。

   *

 

  詠薔薇詩

 

 低枝詎勝葉

 輕香幸自通

 發萼初攢紫

 余采尚霏紅

 新花對白日

 故蕊逐行風

 參差不俱曜

 誰肯盻薇叢

 

   *

なお、途中にある「奴さ」は『(って)「奴」(やつ)さ』の謂いであろう。

「それでは、これを敷きませう。」底本では「それでは、これを敷きましせう。」。「し」は衍字と断じて除去した。

「素的」「すてき」。素敵。

 なお、次のパートの直接話法の部分は一箇所(会話の最後)を除いて総て行頭から始まっているが、前例に徴して総て一字下げた。]

 

 彼の女は花を盛り上げたコツプを持つて、直ぐ歸つて來た。少し芝居がかりと見える不自然な樣子で、彼の女はそれを捧げながらいそいそと入つて來た。それが彼には妙に不愉快であつた。彼自身が、人惡く諷刺されて居たやうに感じられた。彼は氣のない聲で言つた。

 「やあ、澤山とつて來たのだなあ。」

 「ええ、ありつたけよ。皆だわ!」

 さう答えた妻は得意げであつた。彼にはそれが忌々しかつた。言葉の意味の通じないのが。

 「何故?。俺は一つでよかつたんだ。」

 「でもさうは仰言らないのですもの。」

 「澤山とでも言つたのかね‥‥。それ見ろ。俺は一つで澤山だつたのだ。」

 「ぢや外のは捨てて來ましせうか。」

 「いいよ。折角とつて來たものを。まあいい。其處へお置き。‥‥おや、お前は何だね――俺の言つた奴は採つて來なかつたのだね。」

 「あら、言つたの言はないのつて、これ丈しきあ無いんですよ! 彼處には。」

 「然うかなあ。俺は少し、底に斯う空色を帶びたやうな赤い莟があつたと思つたに。それを一つだけ欲しかつたのさ。」

 「あんな事を。底に空色を帶びたなんて、そんな難しいのはないわ。それやきつと空の色でも反射して居たのでせうよ。」

 「成程、それで‥‥?」

 「あら、そんな怖い顏をなさるものぢやない事よ。私が惡かつたなら御免なさいね。私はまた澤山あるほどいいかと思つたものですから‥‥」

 「さう手輕に詫つて貰はずともいい。それより俺の言ふことが解つて貰ひ度たい。‥‥一つさ。その一つの莟を、花になるまで、目の前へ置いて、日向へ置いてやつたりして俺は凝乎と見つめて居たかつたのだ。一つをね! 外のは枝の上にあればいい。」

 「でも、あなたは豐富なものが御好きぢやなかつたの。」

 「つまらぬものがどつさりより、本當にいいものが只一つ。それが本當の豐富さ。」彼は自分の言葉を、自分で味つて居るやうに沁み沁みと言つた。

 「さあ、早く機嫌を直して下さい。折角こんないい朝なのに‥‥」

 「然うだ。だから――折角のいい朝だから、俺はこんな事をされると不愉快なのだ。」

[やぶちゃん注:「いいよ。折角とつて來たものを。」底本は「いいよ。折角とつて來てものを。」。定本で訂した。

「詫つて」「あやまつて」と訓じておく。定本は「謝(あやま)つて」となっている。

「凝乎と」「じつと」。]

 

 彼は、併し、そんなことを言つて居るうちにも、妻がだんだん可哀想になつて居る。さうして自分で自分の我儘に氣がついて居た。妻の人示指には、薔薇の刺で突いたのであらう、血が吹滲んで居る。それが彼の目についた。しかし、そんな心持を妻に言ひ現す言葉が、彼の性質として、彼の口からは出て來なかつた。寧ろ、その心持を知られまい、知られまいと包んで居る。さうしてどこで不快な言葉を止めていいやら解らない。それが一層彼自身を苛立たせる。彼は強いて口を噤んだ。さて、その花を盛り上げたコツプを手に取上げた。最初は、それを目の高さに持上げて、コツプを透して見た。綠色の葉が水にしたされて一しほに綠だ。葉うらがところどころ銀に光つて居る。そのかげにほの赤い刺も見える。コツプの厚い底が水晶のやうに冷たく光つて居る。小さなコツプの小さな世界は綠と銀との淸麗な秋である。

[やぶちゃん注:「人示指」「ひとさしゆび」。定本「人差指」。

「吹滲んで」「ふきにじんで」。]

 

 彼はコツプを目の下に置いた。さうして一つ一つの花を、精細に見入つた。其處にある花は花片も花も、不運にも皆蝕んで居る。完全なものは一つもなかつた。それが少し鎭まりかかつた彼の心を搔き亂した。

[やぶちゃん注:「花片」「はなびら」。

「蝕んで」「むしばんで」。]

 

 「どうだ、この花は! もつと吟味してとつて來ればいいのに。ふ。皆蝕ひだ。」

 彼は思はず吐き出すやうにさう言つて仕舞つたが、又、妻が氣の毒になつた。急に、その中の最も美しい莟を一本拔き出すと、彼は言葉を和げて、

 「ああ、これだよ。俺の言つた莟は。それ、此處にあつた! 此處にあつた!」

 彼の言葉のなかには、妻の機嫌を直させようとする心持があつた。けれども、妻は答へようとはしないで、默つて彼の女自身の御飯を茶碗に盛つて居るのであつた。彼は橫眼でそれを睨みながら、妻の顏を偸視(ぬすみみ)た。このコツプを彼處へ、額の上へたたきつけてやつたなら‥‥。いや、いけない。もともと自分が我が儘なのだ。彼は仕方なく、寂しく切ない心をもつて、その撮み上げた莟を、彼自身の目の前へつきつけて眺めて居た。‥‥。その未だ固い莟には、ふくらんだ橫腹に、針ほどの穴があつた。それは幾重にも幾重にも重なつた莟の赤い葩を、白く、小さく、深く蕋まで貰いて穿たれてあつた。言ふまでもなくそれは蟲の仕業である。彼は厭はしげに眉を寄せながら、尚もその上に莟を觀た。

[やぶちゃん注:「蝕ひ」「むしくひ」。

「彼處」「あそこ」。

「撮み」「つまみ」。「摘」の誤字ではない。「撮」には「つまむ」の意があり、そう訓ずるし、定本でもこの漢字でそうルビしてある。

「葩」「はなびら」。

「蕋」定本では「しべ」とルビする。]

 

 はつと思ふと、彼はそれをとり落した。

 

 その手で、す早く、滾つて居る鐵瓶を下したが、再び莟を摘み上げると、直ぐさまそれを火の中へ投げ込んだ。――莟の花片はぢぢぢと焦げる‥‥。そのいこり立つた眞紅の炭を見た瞬間、

 「や?」

 彼は思はず叫びさうになつた。立上りさうになつた。それを彼はやつと耐へた――ここで飛び上つたりすれば、俺はもう狂人だ!さう思ひながら、彼は再び手早に、併しなるべく沈着に、火鉢で燒けて居る花の莟を、火箸の尖で撮み上げるや、傍の炭籠のなかに投込んだ。

[やぶちゃん注:「いこり立つた」火がぼっと燃え立った、の意。定本では「おこり立つた」と書き変えられているが、訂する必要性は、ない。何故なら、関西方言では広く、「火が燃え上がる」という意の動詞は「おこる」ではなく「いこる」であり、佐藤春夫は和歌山出身だからである。

「炭籠」「すみかご」炭を小出しにして室内に置いておく籠(かご)。炭入れ。炭取り。]

 

 彼はこれだけの事をして置いて、さて、火鉢の灰のなかをおそるおそる覗き込むと、其處には何もない。今あつたやうなものは何もない。愕き叫ぶべきものは何もない。彼は灰の中を搔きまわして見た。底からも何も出ない。水に滴(したた)らした石油よりも一層早く、灰の上一面をぱつと眞靑に擴がつた! と彼の見たのは、それは唯ほんの一瞬間の或る幻であつたのである。

[やぶちゃん注:「或る幻であつた」底本は「或る幻であた」。脱字と断じて底本で「つ」を補った。]

 

 彼は炭籠の底から、もう一度莟を拾ひ出した。火箸で撮まれた莟は、燒ける火のために色褪せて、それに眞黑な炭の粉にまみれて居た。さて、その莖を彼は再び吟味した。其處には、彼が初めに見たと同じやうに、彼の手の動き方を傳へて慄へて居る莖の上には、花の萼から、蝕んだただ二枚の葉の裏まで、何といふ蟲であらう――莖の色そつくりの靑さで、實に實に細微な蟲が、あのミニアチュアの幻の街の石垣ほどにも細かに積重り合うて、莖の表面を一面に、無數の數が、針の尖ほどの隙もなく裹み覆うて居るのであつた。灰の表を一面の靑に、それが擴がつたと見たのは幻であつたが、この莖を包(つつ)みかぶさる蟲の群集は、幻ではなかつた――一面に、眞靑に、無數に、無數に‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 ふと、その時役の耳が聞いた。それは彼自身の口から出たのだ。併しそれは彼の耳には、誰か自分以外の聲に聞えた。彼自身ではない何かが、彼の口に言はせたとしか思へなかつた。その句は、誰かの詩の句の一句である。それを誰かが本の扉か何かに引用して居たのを、彼は覺えて居たのであらう。

[やぶちゃん注:イギリスの詩人でロマン派の先駆者として知られ、版画家としても優れていたウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一七八九年刊の詩集“Songs of Experience”(「無垢の歌」)の中の一篇“The Sick Rose”(「病める薔薇」)。

   *

 

 The SICK ROSE

 

 O Rose thou art sick.

 The invisible worm,

 That flies in the night

 In the howling storm:

 

 Has found out thy bed

 Of crimson joy:

 And his dark secret love

 Does thy life destroy.

 

   *

壺齋散人(引地博信)氏のサイト「ウィリアム・ブレイクの詩とイラストの世界」のこちらで、訳とブレイクの絵附きの原典画像が味わえる。]

 

 彼は成るべく心を落ちつけようと思ひながら、その手段として、目の前の未だ伏せたままの茶碗をとつて、それを靜かに妻の方へ差し出した。その手を前へ突き延す刹那、

 「おお、薔薇、汝病めり!」

 突然、意味もなく、又その句が口の先に出る。

 

 彼はやつと一杯だけで朝飯を終へた。

 

 妻はしくしくと泣いて居た。嗟! また始まつたか、と心のなかで呟きながら。さうして食卓を片付けつつ、その花のコツプをとり上げたが、さてそれをどうしようかと思惑うて居た。あの蝕んだ燒けた莟は、彼が無意識に毮り碎いたのであらう――火鉢の猫板の上に、粉粉(こなごな)に刻まれて赤くちらばつて居た。彼はそれらのものを見ぬふりをして見ながら、庭へ下りようと片足を緣側から踏み下す。と、その刹那に、

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

[やぶちゃん注:「思惑うて」「おもひまどうて」。

「猫板」長火鉢の端の引き出しの部分に載せた板。名は、そこに猫が好んで蹲ることに由来する。]

 

 「フエアリイ・ランド」の丘は、今日は紺碧の空に、女の橫腹のやうな線を一しほくつきりと浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に小さく聳えて末廣に茂つた木の梢のところから、いとも輕々と浮いて出る。黃ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。何日か一日のうちに紫に變つた地の色は、あの綠の縱縞を一層引立てる。そのうへ、今日は縞には黑い影の絲が織り込まれて居る。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける。

[やぶちゃん注:「末廣」底本は「未廣」。定本から、誤植と断じて訂した。

「何日か」「いつか」。]

 

 「俺は、仕舞ひには彼處で首を縊りはしないかな? 彼處では、何かが俺を招いて居る。」

 「馬鹿な。物好きからそんなつまらぬ暗示をするな。」

 「陰氣にお果てなさらねばいいが。」

 彼の空想は、彼の片手をひよつくりと擧げさせる。今、その丘の上の目に見えぬ枝の上に、目に見えぬ帶をでも投げ懸けようとでもするかのやうに‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 井戸のなかの水は、朝のとほりに、靜かに圓く漾へられて居る。それに彼の顏がうつる。柹の病葉が一枚、ひらひらと舞ひ落ちて、ぽつりとそこに浮ぶ。其の輕い一點から圓い波紋が一面に靜にひろがつて、井戸水が搖らめく。さうしてまたもとの平靜に歸る。それは靜で、靜である。涯しなく靜である。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 薔薇の叢には、今は、花は一つもない。ただ葉ばかりである。それさへ皆蝕ひだ。ふと、目につくので見るともなしに見れば、妻は今朝の花を盛つたコツプを臺所の暗い片隅へ、ちよこんと淋しく、赤く、置いてある。それが彼の目を射る。「お前はなぜつまらない事に腹を立てるのだ。お前は人生を玩具にして居る。怖ろしい事だ。お前は忍耐を知らない。」

[やぶちゃん注:「漾へられて」「たたへられて」。

「病葉」「わくらば」。

「怖ろしい事だ。お前は忍耐を知らない。」底本は「怖ろしい事だお前は忍耐を知らない。」。脱字と断じて、定本で句点を補った。]

 

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 裏の竹藪の或る竹の或る枝に、葛の葉がからんで、別に風とてもないのに、それの唯一枚だけが、不思議なほど盛んに、ゆらゆらと左右に揺れて居る。さうしてその都度、葉裏が白く光る――それを凝と見つめて居ても‥‥。彼を見つけた犬どもが、いそいそ野面から飛んで歸つて、兩方から彼に飛び縋る。それを避けようと身をかわしても‥‥。どこかの樹のどこかの枝で、百舌が、刺すやうにきりきり鳴き出しても‥‥、渡鳥の群が降りちらばるやうに、まぶしい入日の空を亂れ飛ぶのを見上げても‥‥明るい夕空の紺靑を仰いでも‥‥何側の丘の麓の家から、細々と夕餉の煙がゆれもせず靜に立昇るのを見ても‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 言葉がいつまでも彼を追つかける。それは彼の口で言ふのだが、彼の聲ではない。その誰かの聲を彼の耳が聞く。それでなければ、彼の耳が聞いた誰かの聲を、彼の口が卽座に眞似るのだ。――彼は一日、何も口を利かなかつた筈だつたのに。

[やぶちゃん注:ここまでで朝から夕暮れまでが、主人公の意識の中で、瞬く間に経過している妙を味わいたい

「どこかの樹のどこかの枝で」底本は「どこかの樹のこかの枝で」。脱字と断じて定本で補った。]

 

 犬どもは聲を揃へて吠えて居る。その自分の山彦に怯えて、犬どもは一層吠える。山彦は一層に激しくなる。犬は一層に吠え立てる‥‥彼の心持が犬の聲になり、犬の聲が彼の心持になる。暗い臺所には、妻が竃へ火を焚きつける。また何處かから歸つて來た猫が、夕飯の催促をしてしきりと鳴く。はつと火が燃え立つと、妻の顏は半面だけ、眞赤に浮び出す。その臺所の片隅では、蝕ひの薔薇の花が、暗のなかで、ぽつかりと浮き出して居る。薔薇は煙がつて居る!

[やぶちゃん注:「犬の聲が彼の心持になる。」底本は最後の句点がなく、一字空け。脱字と断じて、定本で句点を補った。

「はつ」(傍点「ヽ」)は底本では傍点「ヽ」で「ぱつ」。

「暗」「くらやみ」と訓じておく。

「煙がつて」「けむたがつて」。]

 

 彼はランプへ火をともさうと、マツチを擦る。ぱつと、手元が明るくなつた刹那に、

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 彼はランプの心へマッチを持つて行くことを忘れて、その聲に耳を傾ける。マツチの細い軸が燃えつくすと、一旦赤い筋になつて、直ぐと味氣なく消え失せる。黑くなつたマツチの頭が、ぽつりと疊へ落ちて行く。この家の空氣は陰氣になつて、しめつぽくなつて、腐つてしまつて、ランプヘも火がともらなくなつたのではあるまいか。彼は再びマツチを擦る。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 何本擦つても、何本擦つても。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 その聲は一體どこから來るのだらう。天啓であらうか。預言であらうか。兎も角も、言葉が彼を追つかける。何處まででも何處まででも‥‥‥‥

2017/05/07

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その17)

 

    *    *    *

      *    *    *

 

 闇が彼の身のまはりに犇いて居た。それは赤や綠や、紫やそれらの隙間のない集合のやうでもあつた。重苦しい闇であつた。彼は闇のなかでマツチを手さぐり、枕もとの蠟燭に灯をともすと寢床から起き上つた。さうしてその燭臺を、隣に眠つて居る妻の顏の上へ、ぢつとさしつけた。けれども深い眠に陷入つて居る彼の女は、身じろぎもしなかつた。彼はしばらくその女の無神經な顏を、蠟燭の搖れる光のなかで、ぢつと視つめて見た。彼はこの時、自分の妻の顏を、初めて見る人の顏のやうに物珍らしげにつくづくと見た。

[やぶちゃん注:「寢床から」底本は「寢床らか」。錯字と断じて、訂した。定本も無論、「から」。]

 

 蠟燭の光はものの形を、光の世界と影の世界との二つにくつきりと分けた。その光のなかで見た人間の顏は、強い片光(かたひかり)を浴びて、その赤い光の強い濃淡から生ずる効果は、人間の顏の感じを全く別個のものにして見せた。彼は人間の顏といふものは――ただに自分の妻だけではなく、一般に――かうも醜いものであらうかと、つくづくさう感じた。それは不氣味で陰慘で醜惡な妙な一つのかたまりとして彼の目に映じた。女は枕元に、解きほどいた束髮のかもじを、黑く丸めて置いて居た。奇妙な現象には、彼はそのかもじを見た時にこれが――ここに眠つて居る女が自分の妻だつたのだと始めて氣がついた。

[やぶちゃん注:「かもじ」「髪文字」「髢」などと書き、所謂、添え髪・入れ髪のこと。日本髪を結う際に髪に添え加えて豊かにし結い易くするための人毛の鬘。]

 

 彼は燭臺を高く少し持上げたり、或は女の顏の耳の直ぐわきへくつつけて見たり、暫くその光の與へる効果の變化を實驗して遊ぶかのやうに、それをいろいろと眺めて居た。彼の妻はそんなことには少しも氣がつかずに眠つて居る。寢返りもしない。こんな女は、今若し喉もとへ劔を差しつけられても、それでも平氣で眠つて居るだらうか。いや、そんな場合には、いかに無神經なこの女でも、さすがに人間の本能として當然目を睜くであらう。さうでなければならない。彼はそんなことを考へた。さうして、若しやこの女は今、殺される夢でも見ては居ないだらうかとも思つた‥‥それにしても、こうした光の蠱惑から人間といふものはさまざまなことを思ひ出すものである。こんなことから、實際人を殺さうと決心した男が、昔からなかつただらうか。

[やぶちゃん注:「睜く」従来はこの漢字を「睜(みは)る」と春夫は訓じている。ここは「みひらく」と読んでおく。]

 

 「尤も、俺は今この女を殺さうとして居るわけではないのだが」

 彼は思はず小聲でさう言つた。自分自身の愕くべき妄想に對して、慌てゝ言ひわけしたのである。「それにしても俺は今何のためにこんなことをして居るだつけな」彼は氣がついたやうに、急に妻を搖り起した。

[やぶちゃん注:最初の直接話法は行頭から始まっているが、前例と以下のそれに徴して、一字空けを施した。]

 

 夜中である。

 

 妻はやつと目を覺したが、眩しさうに、搖れて居る蠟燭の光を避けて、目をそむけた。さうして半ば口のなかで、

 「また戸締りですか、大丈夫よ。」

 さう言つて、寢返りをした。

 「いゝや。便所へ行くんだ。ちよつとついて行つてくれ。」

 

 厠から出て來た彼は、手を洗はうとして戸を半分ばかり繰つた。すると、今開けた戸の透間から、不意に月の光が流れ込んだ。月はまともに緣側に當つて、歪んで長方形に板の上に光つた。不思議なことには、彼はこれと同じやうに、全く同じやうに月の差込んで居る緣側をちやうど今のさつき夢に見て、目がさめたところであつた。何といふ妙な暗合であらう。彼には先づそれが怪奇でならなかつた。さうして、今、自分達がかうして此處に立つて居ることも、夢のつゞきではないのか、ふとさう疑はれた。

[やぶちゃん注:「戸を半分ばかり繰つた。すると、」底本は「戸を半分ばかり繰つたすると、」。おかしいので、定本に従って句点を間に打った。

 なお、以下の会話文二つも前のように行頭から始まっているが、やはり一字下げた。]

 

 「おい、夢ではないんだね。」

 「何がです。あなた寢ぼけていらつしやるの。」蠟燭は彼の妻の手に持たれて、月の光を上から浴びせかけられて、ほんのりと赤くそれ自身の光を失うた。光の穗は風に吹かれて消えさうになびいたが、彼の妻の袖屛風の影で、ゆらゆらと大きく搖れた。風は何時の間にかおだやかになつて居たが、雲は凄じい勢で南の方へ押奔つて居た。小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のばつくりと開けた巨きな口のフアンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た。

[やぶちゃん注:「フアンタステイツク」fantastic。「空想的な・途方もない・法外な・風変わりな・異様な・奇妙な」であるが、ここは「奇体にして夢幻的な」の謂いでとっておく。]

 

 彼は手を洗ふことを忘れて、珍らしいその月を見上げた。それは奇妙な月であつた。幾日の月であるか、圓いけれども下の方が半分だけ淡くかすれて消え失せさうになつて居た。併し、上半は、黑雲と黑雲との間の深い空の中底に、研ぎすましたやうに冴え冴えとして、くつきりと浮び出して居た。その上半のくつきりした圓さが、何かにひどく似て居ると、彼は思つた。然うだ。それは頭蓋骨の臚頂のまるさに似て居る。さう言へば、その月の全體の形も頭蓋骨に似て居る。白銀の頭蓋骨だ。彼の聯想の作用は、ふと海賊船といふやうなものの事を思ひ出させた。彼はその月を飽かずに眺めた。ああ、これと同じ事が、全く同じことが、その時も俺はここにかうして立つて居た。雲の形も、月の形もこれとそつくりだつた。どこからどこまで寸分も違はない。そればかりかその時にもかう思つたのだつた。今と同じ事を思つたのだつた。遠い微かな穴の奧底のやうな昔にも、現在と全然同一な出來事が曾てもあつた‥‥茫然として、彼は瞬間的にさう考へた‥‥何時の日のことだつたらう‥‥何處でであつたらう‥‥

[やぶちゃん注:「幾日」定本では「いくか」とルビする。

 

「臚頂」「ろちやう(ろちょう)」で「頭の天辺(てっぺん)・頭頂」の謂いであるが、「臚」は「丸く膨らんだ腹」の意で、普通は「顱頂」と書き、定本ではそう書き直されてある。]

 

 空一面を飛び奔る雲はもう少しで月を呑まうとして居る。

 「もう、閉めてもいい?」

 妻は、寒さうにさう言つた。

 

 彼はその言葉で初めて我に歸つたのか、手を洗はうと身を乘り出した。その瞬間であつた。

 

 「や、大變!」

 「え?」

 「犬だ!」

 「犬?」

 彼は卽座に、手早く、戸締りに用ゐた竹の棒を引つつかむと、力任せに、それを庭の入口の方へ投げ飛した。彼の目には、もんどりを打つ竹ぎれからす早く身をかわして、いきなりそれを目がけて飛びかかると、その竹片を咥へたまま、眞しぐらに逃げて行く白犬が、はつきりと見えた。尾を股の間へしつかりと挾んで、耳を後へ引きつけ、その竹片に嚙みつ居た口からは、白い牙を露して、涎をたらたらと流しながら、彼の家の前の道をひた走りに走つて行く。月光を浴びて、房々した毛の大きな銀色の犬は、その織るやうな早足、それが目まぐるしく彼の目に見える。

[やぶちゃん注:「投げ飛した」「なげとばした」。

「露して」「あらはして」。

「涎」「よだれ」。]

 

 それは王禪寺といふ山のなかの一軒の寺の犬だつた。その形は明確に細密に、一瞬間のうちに彼には看取出來た。

 「狂犬だよ!」

 彼は自分の犬どもの名を慌ただしく呼んだ。呼びつづけた。其處らには居ないのか、犬どもは彼の聲には應じなかつた。妻には何事が起つたのか、少しも解らなかつた。併し、彼のさうするまゝに、彼の妻も聲を合せて犬の名を呼んだ。その甲高い聲が丘に谺した。七八度も呼ばれると、重い鎖の音がして、犬どもは、二疋とも同時に、いかにものつそりと現はれた。さうして鎖をぢやらんぢやらんと言はせながら身振ひして、主人の不意な召集を訝しく思ひながらも、彼等は尾をちぎれるほどはげしく振り、鼻をくんとならした。

[やぶちゃん注:「王禪寺」実在する。現在の神奈川県川崎市麻生区王禅寺(おうれんじ)にある真言宗星宿山蓮華蔵院王禅寺である。(グーグル・マップ・データ)。市外であるが、春夫の居宅から直線で北北西二・六キロメートルしか離れていない(丘陵の中にあり、「山のなかの一軒の寺」に一致する)。但し、ここまで犬が来るためには丘陵を回り込んだ場合は倍近くにはなる。しかし、中型犬では往復五キロ程度は散歩のレベルである。]

 

 月は雲のなかに呑まれてしまつた。

 

 彼は妻の手から燭臺を受け取るや否や、それを、犬どもの方へ差し出したが、一時に風に吹き消された。直ぐに、別にランプに灯をともし見たが、彼の犬には別に何の變事もないらしかつた。

 「ああ、愕いた、俺はうちの犬が狂犬に嚙まれたかと思つた。」

 彼は寢床へ這入つたが、妻にむかつて、今見たところのものを仔細に説明した。彼の妻は最初からそれを否定した。いかに明るくとも月の光で、そんなにはつきりと見える筈はない。それに王禪寺の犬は、成程、狂犬になつたのだ、けれども、もう一週間も十日も前に、そのために屠殺された。その時、村の人が、お絹が、

 「だから、お宅の犬もお氣をおつけなさい」

 とさう言つた。その事は、その時彼の女自身の口から彼に話した筈だつた。――妻は事を分けて、宥めるやうに彼に説明するのであつた。しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ。

 「犬の幽靈が野原をああして馳けまわつて居たのだ。さうして、さういふ靈的なものは俺にばかりしか見えないのだ‥‥」憂鬱の世界‥‥呻吟の世界‥‥靈が彷徨する世界‥‥。俺の目はそんな世界のためにつくられたのか。憂鬱な目には憂鬱の世界より外には見へない‥‥

[やぶちゃん注:「村の人が、」の箇所は底本では後に『村の人が、」』と鍵括弧がある。除去した。なお、定本では「村の人」ではなく、例の最初に案内人として登場し、よく話に来る『お絹が、』となっている。その方が自然である。

「事を分けて」条理を尽くして、筋道を立てて。

「しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ」ここまで、遠い過去の記憶が細かに異常なまでに鮮明に思い出せるのに、短期記憶が完全に失われていることが判る。病的な逆行性健忘症の特徴である。]

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