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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の191件の記事

2018/09/11

譚海 卷之三 宇佐奉幣使

 

宇佐奉幣使

○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、

  かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを

[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]

譚海 卷之三 加茂祭

 

加茂祭

○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。

[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。

「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。

「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。

「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia kazinoki)とカジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。

「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。

「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens

「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。

「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。

「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。

「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。

「感賞」感心して褒め讃えること。

「御蔭山」下鴨神社の神体山。二百七十一メートルピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]

2018/09/01

譚海 卷之三 禁中失火等の事

 

禁中失火等の事

○禁中失火有(ある)歟(か)、又は霹靂(へきれき)宮内へ落(おつ)る事などあるときは、其日の御番(ごばん)の神社へ勅使をたてられ、其社を御封(ごふう)じ有(ある)也。靑竹にて神社の戸をとぢ、神主の者縛(ばく)につく事也。扨(さて)日限(にちげん)有(あり)て閉門をゆるさるゝとき、又勅使來りて神主の縛をとき、勅使と同前に神前に行向(ゆきむか)て神社の門ひらくに、内陣の際(きは)の空地(あきち)悉く春草(しゆんさう)を生じて有(あり)。わずかに一七日(ひとなぬか)斗(ばか)りの間をへし事なれども、草の高き事一二寸に及べる事とぞ。勅使此草を三莖(みくき)切取(きりとり)て箱におさめ、持參して歸らるゝ也、神國の不測奇特成(きどくなる)事なりといへり。

[やぶちゃん注:「御番(ごばん)の神社」京都御所には、こうした輪番制の守護担当神社があったとは知らなかった。然し、後半の草のひこばえ云々というのは、私は読んでいて、不審。毎度、そういうことがあるという書き方にしか読めないが、それでは、宮中の火災や落雷は初春にしか起こらんのかい?! それとも真夏や秋や真冬に火災や落雷があっても、そうした「春草」が生えるとんでもない奇瑞があるちゅうんかい?! 後者としか思えないのだが、だったら一年を通じてその季節を違えた奇瑞が出来することをこそ、緻密に細かく綴るべきであろう。どうもこの話、杜撰で眉唾臭い。或いは、そんなことが初春の季節の回禄や落雷が遠い昔にあって、そんなことがあって(それはちっとも奇妙なことではない)より、閉門繩縛された神主の家族に勅使がこっそり言い伝えの奇瑞を囁き、家族の者が、こっそり境内に入っては空き地に草(春でないときは、春の草らしいものを取り寄せて)を植え込んでいたのではないか? それなら、この話、私は頗る腑に落ちるのである。

譚海 卷之三 節分内侍所の大豆 御修法の護摩

 

節分内侍所の大豆

○節分の夜衆庶(しゆうしよ)内侍所に參入し、錢十二文を入れ追儺(つひな)の大豆(だいづ)を拜授しかへる事也、平日も所知の人に託し乞へば神符をえらるゝ也。

[やぶちゃん注:「節分」ここは旧暦の立春の前日(大寒の最後の日)。太陽暦では二月三日か四日。

「衆庶」一般庶民。

「追儺の大豆」「追儺」は本来は旧暦十二月三十日に大晦日に宮中で行われた「儺(な:鬼)やらい」の儀式で、現在の節分のルーツとされるものであるが、ここでは既に庶民の「節分」の行事が現在と同じ時期に行われるようになっていて、やはり今と同じ用途(鬼やらいの豆撒き用の豆)のそれを指している。]

 

 

御修法の護摩

○御修法(みずほふ)の護摩は、元日より七日まで御室(みむろ)にて行(おこなは)るゝ也。八日より禁中にて行るゝ事又一七日(ひとなぬか)ばかり也。その供物廿四時宿次(しゆくつぎ)にて關東へ每年通さるる事也。

[やぶちゃん注:「御修法」「みしゆほふ(みしゅほう)」或いは「みしほ」とも読む。「みずほふ(みずほう)」で読んだのは私の好みから。宮中限定で行われた密教の法会。真言宗に於ける「後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)」の略称。一月八日から七日間に亙って、国家平安と繁栄を祈って宮中の紫宸殿に於いて、金剛界・胎蔵界を隔年で修した。

「御室」ここは天皇の住居たる御所を敬って言った語。

「廿四時宿次」昼夜兼行の各宿場取り次ぎの最優先送達便のことと思われる。]

 

譚海 卷之三 禁裡附初て上着

 

禁裡附初て上着

○禁裏附(きんりづき)の衆關東より上着(じやうちやく)のときは、諸搢紳(しんしん)より祝詞を申越(まうしこさ)るゝ事也。使者にて來るもあり、自身來臨も有(あり)、家々に應じ答禮の例(ためし)有(あり)て、甚(はなはだ)わずらはしき事也。門内まで駕籠にて入るゝ有(あり)、門外にて下乘せらるゝ有、式臺迄人來るもあり、式臺の筵道(えんだう)に中立(なかだち)して迎ひ出(いづ)るを待ちて、祝詞を演説してかへるも有、履(くつ)を倒(さかしま)にして低頭して送り奉るもあり。關東より始(はじめ)て來(きたり)ては混漾(こんやう)として辨(べん)じがたければ、案内をよく覺えたる者をたのみ置(おき)て、差圖の如く應對する事也。内侍所(ないしどころ)の使者殊に驚く事也。神供(しんく)の洗米(せんまい)を菊桐金紋の文庫に入(いれ)、六位の使者烏帽子素袍(すはう)にて齋(いつき)し來(きた)る。内侍の方申越さるゝの趣、此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段(だん)演説し、金紋の文庫を指出(さしいだ)す事ゆゑ、取次のものあらかじめ意(い)得(え)ざれば、偏(ひとへ)に華音(くわおん)を聞(きく)ごとくにて當惑する事也、おくまは御供米の略語也。

[やぶちゃん注:「禁裏附」「禁裏付」とも書く。江戸幕府に於ける職名の一つで、天皇の住む禁裏御所の警衛及び公家の監察などを担当した。ウィキの「禁裏によれば、寛永二〇(一六四三)年九月に『明正天皇の譲位と後光明天皇の即位に伴って設置』された。『老中支配で芙蓉之間詰』、『千石高の御役目で、役料は千五百俵。定員は二名。但し、『配下として、各々』、『与力』十『騎と同心』四十名が配された。『勤務は当番制で、毎日』、『御所に参内し、御所にある御用部屋に詰めた。参内した後は、武家伝奏との折衝や、京都所司代や京都町奉行と武家伝奏との間の取り次ぎなどを行った。御用部屋にある用帳に天皇の「機嫌の様子」など禁裏における諸事を記録し、常と異なることがあれば』、『京都所司代に報告した。老中支配ではあるが、京都にいる間は京都所司代の配下として』、『万事において指示を受けた』。『他にも、口向(くちむき、くちむけ)』(天皇等の『日常生活を支える諸役人』の呼称)『や禁裏賄頭(きんりまかないがしら)』(『禁裏御所の会計・調度・食料などを管掌する』役人であるが、これは『幕府から派遣された』)『の統括、禁裏における金銭の流れの監督、禁裏の警衛、朝廷内部で発生した事件の捜査、内裏普請の奉行など、禁裏の全般』と『公家衆の行跡も監督し』た。『火事が発生すれば』、『発生場所が御所からどれだけ離れていても』、『与力とともに禁門の警備を行った』。御所等の門の『出入りを取り締まり、禁裏付』が発行した「通り切手」(通行証)『を持たない者の通行を禁じた』。『官位は昇殿を許されない地下官人クラスの従五位下だが、日常的には朝廷内で幕府を代表しているため』、権威・威勢は『相当なものがあった。正二位とか従一位の官位をもつ武家伝奏に連絡、相談がある場合は』、『「伝奏を呼べ」と御用部屋へ呼びつけた。また御所の外にあっても』、五摂家・宮家と『行き交う場合は』、『駕籠から飛び下』って、『お辞儀を』したが、大納言・中納言・参議や、『それ以外の堂上公家などに対しては、駕籠から下りず』、『そのまま』通行してしまったという。安永二(一七七三)年には、『口向役人による諸経費の不正流用・架空発注事件が発覚、大量の処分者を出』したことから、『それを受けて』、『口向を監督する機構の改革が行われ』、翌年、京都御入用(ごいりよう)取調役・御所勘使買物使兼御買物方(ごしょかんずかいけんおかいものかた)を新設して、『これらを禁裏付の支配下とした』とある(最後の二つの職名はややおかしい感じがしたので、調べて、一部を補足した)。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す(ここまで既注。向後は繰り返さぬし、読みも振らぬ。悪しからず)。

「筵道」「えだう(えどう)」とも読んだ。天皇や貴人が徒歩で進む道筋や、神事に祭神が遷御する際の道に敷く筵(むしろ)。筵の上に白い絹を敷く場合もある。

「混漾として辨じがたければ」「混漾」は私は見かけたことがない熟語であるが、「漾」も「混じる」の意があるから、各公家衆や役方連中の訪問や挨拶の式方が全く以ってまちまち、ごちゃごちゃしてどう対応(応対・返礼)してよいか判らぬので、の意であろう。

「内侍所」三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を安置した所。賢所(かしこどころ)とも呼ぶ。

「洗米」ここは神仏に供えるために洗って禊した米。「饌米」とも書く。

「素袍」「素襖」とも書く(但し、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」)。男性の伝統的衣服の一種。室町時代に発生した単(ひとえ)仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。

「齋(いつき)し」潔斎して。

「此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段」判り易く訓読表記したものを示す。

「此(こ)の度(たび)、上着(じやうちやく)、愛度(めでた)く存じ候ふ。仍(よつ)て相ひ祝ひ候ふて、「おくま」を進(しん)じ入(い)り致す」

であろう。

――今回、関東より、無事の御上洛、目出度く存知申し上げまする。依ってお祝いを申し上げまして、「御供米(おくま)」を御進上申しまする――

であろう。「おくま」=「御供米」とは「くましね」(奠稲・糈米)の略語で、神仏に供えるために洗い清めた米のこと。「かしよね」。

「取次のものあらかじめ意得ざれば」取り次ぎに出る配下の同心などが、禁裏附勤務の経験が殆んど全くなく、それが何を意味する式礼かを事前に知らないと。

「偏に」ただもう。

「華音」「くわいん(かいん)」と読んでもよい。中国語。]

2018/08/26

譚海 卷之三 公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

 

公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

○公家衆束帶の取まはしは、はだかにて稽古有(ある)事とぞ。着座は足うらを合して趺座(ふざ)す。幼稚より習(ならひ)て性(しやう)と成(なり)たるが如し。總て盛服の時は二便(にべん)とも失する事あたはず、夫(それ)故御會始又は公宴などは終日の事故(ゆゑ)、老人或は二便に堪(たへ)ざる人は大かた所勞を申立て缺席有(ある)也。公家衆參内の途中は裾をば卷(まき)て腰にはさまるる、大抵步行にて參内也。草履取斗(ばか)り具せられ、又は若黨を加へ具せらるゝも有(あり)、上﨟は駕籠にて唐門(からもん)の下までゆかるゝもあり。每日京都見物に諸國より上りたるものは、唐門の向ひに居て拜見する事也。いづれも門の下にて草履を沓(くつ)にはきかへ、笏を端(ただ)し裾を曳(ひき)て甃道(いしきみち)をねり入らるゝ。一進一止、步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて刻(とき)を移す事也。足取(あしどり)に家々の式(しき)ありて、足ぶみの拍子もかわれり[やぶちゃん注:ママ。]。遙(はるか)に進み入らるゝ迄、沓(くつ)の聲遠く門外へ徹して聞ゆる也。

[やぶちゃん注:標題の関係上、二条をセットで続ける。「公家稼業も楽じゃない」話。

「趺坐」足を組み合わせて座ること。

「二便」大便と小便。

「所勞」病気。

「唐門」宜秋門(ぎしゅうもん)か。位置や出入りの格式等については、夢見る獏(バク)ブログ気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録の「京都御所(京都史跡めぐり 大江戸散歩)を参照されたい。京都御所の六つの総ての門について書かれてあり、地図もある。

「端(ただ)し」礼式通りに持ち。

「甃道(いしきみち)」「いしだたみみち」とも読むが、どうも間延びして厭だ。

「步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて」一足出す歩き方についてさえ儀礼の式(約束事)があって。

「刻(とき)を移す」時間が有意にかかる。]

 

○所司代禁裏付(きんりづき)の武家など上洛のはじめは、第一束帶難儀せらるゝ故、極(きめ)て裝束付(そくたいづき)とて非藏人(くらうど)か北面衆の中をたのむ事也。參内の度每に此人を請(しやう)じて裝束してもらふなり。その度ごとに謝禮の目錄を遣はす事ゆへ、後々は自身に裝束をつけて出仕する事あれども、禁中簾内出入の俯仰(ふぎやう)に、多(おほく)は帶ゆるみ、はさみたる衣ぬけ落(おち)て狼籍に曳(ひき)ちらし、ひろごりありき、赤面に及ぶ事有(あり)。夫(それ)ゆゑうは帶(おび)を隨分かたく結びてぬけ落ぬやうにすれば、一日の進退みぐるしくもあらねど、背をかたく結びつむるゆへ、腹腰くびられてはなはだ息づかひくるしきもの也。たのみたる人に裝束つけてもらひ參内する日は、帶もゆるやかにさのみかたくむすびたる樣にも覺えねど、終日出入俯仰にも衣ぬけおちる事なしとぞ。裝束平生(へいぜい)の事に成(なり)たるゆゑ、着用の覺悟ある事成(なる)べし。延享年中關東にて法華八講御法事ありし時、御家門の近臣大名衆初めみな束帶にて詰られし折節、別事にて下向の公家衆拜見を許され、同樣に出仕ありしに、兩三輩いづれも下﨟の仁(じん)なりしかども、束帶の儀貌(ぎばう)雲泥にわかれて、優美成(なる)事ども成(なり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「武家の束帯男はつらいよ」話。

「所司代」京都所司代。京都の市政を管轄するため、安土桃山時代から置かれた。元は室町期の「侍所所司代」に由来する。職務は京都の防衛と治安維持、朝廷及び公家の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行の管理、近畿八ヶ国の天領に於ける訴訟処理、西国大名の監察等であった。定員一名で譜代大名から任ぜられた。

「極(きめ)て」訓は推定。決まって。

「自身に」配下の者に命じて自分で。

「俯仰」原義は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」であるが、ここは「立ち居振る舞い・起居(挙止)動作」の意。

「狼籍に」ばたばたになって見苦しい状態になるさま。副詞的用法であろう。

「たのみたる人」「賴みたる人」は依頼した人の意ではなく、束帯を着たり、着せることにごく馴れた、信頼出来る公家方或いはその礼式に精通した人物の意であろう。

「延享」一七四四年から一七四八年まで。

「延享二(一七四五)年三月十三日から十七日まで紅葉山御宮に於いて「御染筆法華八講」が執行されている。将軍は徳川吉宗(彼はこの半年後の九月二十五日に将軍職を長男家重に譲った)。]

2018/08/24

譚海 卷之三 中院通茂公關東逗留事

 

中院通茂公關東逗留事

○中院通茂(なかのゐんみちしげ)公、傳奏にて關東へ下向ありし此、臺德院公方樣(たいとくゐんくばうさま)通茂公へ古今傳授御所望ありしに、和歌堪能の人ならでは傳授成(なり)がたきよし言上に付(つき)、御氣色惡敷(あしく)、傳奏の御暇(おんいとま)出(いだ)されずして、龍の口傳奏屋敷に三年までをはせしに、種々京都よりも御詫ありて免ぜられ歸京ありしと也。彼公の集・後水尾院の御製集などにも此事見えたり。

[やぶちゃん注:「中院通茂」が武家伝奏に補任されたのは寛文一〇(一六七一)年九月で、延宝三(一六七五)年二月に伝奏の任を解かれている。この時代の将軍は第四代将軍徳川家綱である。ところが、次に出る「臺德院」とは第二代将軍徳川秀忠の法号であり、全くおかしいことになる。秀忠は寛永九(一六三二)年に没しているからである。また、通茂の事蹟にこのように江戸に半ば軟禁されたという記録はない。これは中院通村の誤りであり、その相手は第三代将軍徳川家光であるウィキの「中院通村によれば、『将軍徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である』とあり、中院通村は元和九(一六二三)年に武家伝奏に補任されたが、寛永七(一六三〇)年九月、前年の十一月に彼を信任していた後水尾天皇が勝手に興子内親王に譲位してしまい、この謀議を関知しながら、それを武家伝奏として幕府に報告しなかったという理由で武家伝奏を罷免された上、五年後の寛永一二(一六三五)年三月には、その正謀議参画の罪によって江戸へ召喚され、寛永寺に幽閉された。しかし、七ヶ月後の十月には天海の請願によって赦免されて帰京している。津村は、この通村の関係のない二つの事蹟を、ごちゃごちゃにした上、当事者たちの名もめちゃくちゃにして誤認していたのではなかろうか?

「龍の口傳奏屋敷」「龍の口」は現在の東京都千代田区丸の内1の「日本工業倶楽部ビル」が建つ附近の旧地名で、江戸城大手門外に当たり、伝奏屋敷があった。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/08/17

譚海 卷之三 元和の比堂上之風儀惡敷事

 

元和の比堂上之風儀惡敷事

○元和の此迄は公家衆無狀にして、洛外放縱に步行(ほぎやう)有(あり)。猪隈大納言殿・鳥丸光廣卿など放蕩にて、禁中の女房など誘引して遊山にでられし事度々に及び、關東より嚴敷(きびしき)御誡(おんいましめ)ありて、猪隈殿は首領ゆへ斬罪に處せられ、家斷絶せり。光廣卿も御咎(おとがめ)によりて暫く配流せられたり。女房は中院通村公のおば君にて、禁中に伺候せられしが、伊豆國へ配流に處せられたり、その事通村公の集に見えたり。

[やぶちゃん注:「元和の比堂上之風儀惡敷事」「元和(げんな)の比(ころ)、堂上の風儀、惡敷(あし)き事」。「元和」は一六一五年から一六二四年までで、徳川秀忠及び徳川家光の治世であるが、以下に見る通り、ここで語られる朝廷公家衆が絡んだ醜聞事件で、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇退位の引き金ともなった「猪熊事件」は慶長一二(一六〇七)年の出来事であり、当時は家康は大御所として健在(家康の将軍職辞任は慶長一〇(一六〇五)年四月)で、時制がおかしい。

「無狀」無作法なこと。

「猪隈大納言殿」「猪熊事件」で知られる乱脈公家猪熊教利(のりとし 天正一一(一五八三)年~慶長一四(一六〇九)年)のことと思われるが、彼は大納言或いは権大納言ではなく、最終位階・官職は正五位下・左近衛少将である(彼の父を権大納言四辻公遠とする説があることからの誤認か、或いは同事件に連座した(但し、処罰はなされず、蟄居の後、二年後には赦免されている)烏丸光広(後注参照)が後(まさに元和二(一六一六)年に権大納言となったことを混同したものかも知れない)ウィキの「猪熊教利」より引く。初め、『高倉範国の養子として、中絶していた高倉家の跡を継ぎ』、天正一三(一五八五)年に叙爵、同二十年に『侍従に任じられ』、慶長二(一五九七)年には『従五位上に叙された』。『山科言経が勅勘を蒙って摂津国に下った後、教利は山科を称していたが』、同三年、『徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため』翌年、『勅命により山科を改めて猪熊を家名とした』。『家名は平安京の猪熊小路に由来するか』。同五年には左近衛少将、さらに『正五位下に叙任』され、同六(一六〇一)年には県召除目(あがためしのじもく)で『武蔵権介に任じられ』、家康より二百石を安堵された。『教利は天皇近臣である内々衆』と呼ばれた者の一『人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた』。『政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある』。一方で、彼は在原業平や「源氏物語」の『光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった』。『また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」』『と称されていたという』。慶長一二(一六〇七)年二月、突如、『勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた』。そして、慶長一四(一六〇九)年七月、女官五名と烏丸光広(後注参照)ら公家七名との『密通が露顕した(猪熊事件)』が、『詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていた事が明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任』し、八月四日、『幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕らえ次第』、『京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は』、『当時』、『かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡』した。『一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう』が、『同月中に潜伏先の日向国で延岡城主・高橋元種により』、『召し捕られた』。九月十六日、『京都に護送後は二条に収監され』、十月十七日、『常禅寺で斬刑に処された』。享年二十七。『猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟・嗣良が再興した』とある。別により詳しいウィキの「猪熊事件もあるので参照されたい。朝鮮に亡命していたら、今頃、ますます半島からの反日感情が昂まったに違いないと思わせるヒップである。

「鳥丸光廣卿」公卿で歌人・能書家でもあった烏丸光広(からすまるみつひろ 天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)。ィキの「烏丸光広より引く。『准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ』。『経済的に恵まれた環境のもと』、僅か三歳で『従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て』、慶長一一(一六〇六)年、『参議に任じられて公卿に列したが』、三年後の同十四年に『起きた猪熊事件』『に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた』。しかしその二年後の同十六年四月には『勅免されて還任し』ている。その後、元和二(一六一六)年には『権大納言に進み』、同六年、『正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られ』ない。『後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は』慶長八(一六〇三)年に『細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される』。『本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた』。歌集に「黄葉和歌集」があり、著書には「耳底記」・「あづまの道の記」・「日光山紀行」・「春のあけぼのの記」、他に仮名草子「目覚草」『などがある。また、俵屋宗達筆による』「細道屏風」に『画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに』「東行記」などがある。以下、「逸話」の項より抜粋すると、寛永三(一六二六)年のこと、『勅使として江戸にいた光広は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上』し、『これにより、将門は朝敵の汚名を返上した』という。『光広は「当世にうつけ者が』二『人いる」として、「沢庵は歌の名人であるのに、身の丈を知らず、我らに添削を頼まれる。これが』一『人のうつけである。我らも自分の丈を顧みずに、沢庵の歌を直す。これもまた大きなうつけである」と話したという』。『光広は屋敷の前を通る牛飼を事あるごとに止め、その牛を雇って遊郭に通っていた。しかも、車の上に毛氈を敷き、酒肴を設けて自若として通っていたという』。俊才であったのだろうが、懲りないエロ男という感じもジワジワと来る奴である。

「中院通村」村上源氏中院家当主で後水尾天皇の第一の側近であり、反幕府派の公卿中院通村(なかのいんみちむら 天正一六(一五八八)年~承応二(一六五三)年)。彼は権中納言中院通勝(みちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)の子であるが、ウィキの「猪熊事件を見ると、「猪熊事件」の処罰者の中に中院通勝の娘権典侍中院局(『伊豆新島配流』となり、元和九(一六二三)年九月勅免とある)がいる。しかしだとすると、通村の姉妹であり、「おば君」ではない。或いはただの誤りか、或いは、他に連座して流された女房(総て伊豆配流で赦免も同時)に、新大典侍広橋局(広橋兼勝の娘)・中内侍水無瀬(水無瀬氏成の娘)・菅内侍唐橋局(唐橋在通の娘)及び命婦讃岐(兼安頼継の妹)がいるから、通村の伯母(叔母)に当たる人間がこの中にいるのかも知れぬが、これ以上は調べる気にならない。悪しからず。

「通村公の集」ウィキの「中院通村を見ると、『古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった』。『また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対し』、しばしば「源氏物語」の『進講を行っている。世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった』とあり、「中院通村日記」があるとするから、この日記辺りを指すか。]

譚海 卷之三 堂上潛行の事

 

堂上潛行の事

○諸搢紳(しんしん)洛中往來は禁止也。齒を黑め粉(こ)を傅(つく)る事も、凡(およそ)人に分ちやすき爲(ため)なりとぞ。皆近世の事也。微行(びかう)せらるゝ時は、深編笠大小刀、裏付上下(うらつきかみしも)を着する也。上下(かみしも)は純子(どんす)・もうるのたぐひを用ひらるゝ也。遊山に出られて途中にて支度せらるゝには、其所の寺へ使(つかひ)をよせて、某(それがし)三位(さんみ)にて候、懸合支度(かけあひじたく)仰付(おほせつけ)られ被ㇾ下(くだされ)とて、其まゝ座敷へ通らるれば、何にてもありあふものにて食事まかなひ出(いだ)す、是(これ)京都の寺々の課役と同事になりてある事也といへり。

[やぶちゃん注:「潛行」身分の高い人が身を窶(やつ)して密かに忍び歩きすること。文中の「微行」も同義。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。

「粉」白粉(おしろい)。

「純子」「緞子」に同じ。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「もうる」莫臥爾。糸に金や銀を巻きつけた撚糸(モール糸)を織り込んで文様を出した織物のこと。経に絹糸、緯に金糸を用いたものを「金モール」、銀糸を用いたものを「銀モール」と称し、後には金糸または銀糸だけを寄り合わせたものもこう呼称するようなった。名前はポルトガル語「mogol」が由来らしく、もともとはインドのモグール(ムガル)帝国で好んで用いられたことからとされる。漢字では「莫臥児」「回々織」「毛宇留」「毛織

などの字が当てられる。

「三位」公家は朝廷に仕える貴族・上級官人の総称で、天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家を指したことから、公家の別称となった。

「懸合支度」と一語と捉えた。以下の文から「交渉による着替え及びそれに付随する準備や合間の休憩・食事」の意と採る。]

譚海 卷之三 堂上領所の百姓の事

 

堂上領所の百姓の事

○公家衆知行所は、多分(たぶん)五畿内・丹波・近江などにあり。その領所の百姓甚(はなはだ)橫平(わうへい)なるものにて、應對成(なり)がたきほどの事也。若(もし)公事(くじ)等出來(しゆつたい)の時は、所司代へ内證より賴まるゝゆゑ、甚さばき仕(し)にくき事とぞ。夫(それ)ゆへ公家領入組(いりくみ)たる土地は、殊に六箇敷(むつかしき)迷惑成(なる)もの也。又禁裏の御知行所は八瀨(やせ)領の内にあり、これらの百姓言語同斷なるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「多分」多くが。

「橫平」横柄。

「公事」訴訟。刑事民事ともであるが、ここは概ね民事のそれ。

「内證」表向きでなく、内々に意向が伝えられることを言う。無論、領主である公家から所司代に対してである。

「八瀨」京都市左京区の一地区。(グーグル・マップ・データ)。比叡山の西麓、高野川に臨む景勝地で、桜の名所。古くは山門青蓮(しょうれん)房が支配し、中世には青蓮院門跡領八瀬荘であった。八瀬荘民は山門へ奉仕する一方で「八瀬童子」と称し、朝廷の駕輿丁(かよちょう)を務め、課役免除の特権を得ていた。また、杣夫(そまふ)として洛中で薪商売を行った(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。天皇の柩を担ぐ民とされ、伝説では最澄が使役した鬼の子孫ともされる八瀬童子」でも知られる地で(リンク先はウィキ。以下の引用もそこから。下線太字はやぶちゃん)、弘文天皇元(六七二)年の「壬申の乱」の『際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで』、『後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている』。『比叡山諸寺の雑役に従事したほか』、『天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座』(座(ざ):平安時代から戦国時代まで存在した、主に商工業者や芸能者による同業者組合。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに、営業や販売の独占権などの特権を認められた)『の最初の記録は』寛治六(一〇九二)年『であり、記録上確認できる最古の座と言われている』。延元元(一三三六)年、『京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷』十三『戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した』。『この功績により』、『地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し』、『天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした』。『比叡山の寺領に入会権を持ち』、『洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた』、永禄一二(一五六九)年、『織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え』、慶長八(一六〇三)年、『江戸幕府の成立に際しても』、『後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している』。『延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。これに対し』、『八瀬郷は再三に』亙って『復活を願い出るが』、『認められず』、宝永四(一七〇七)年になって、漸く『老中秋元喬知が裁定を下し、延暦寺の寺領を他に移し』、『旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し』、『徳をたたえる祭礼を行った。この祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている』(毎年十月の第二日曜日に行われる)とある。また、ウィキの「皇室財産を見ると、国立歴史民俗博物館の「旧高旧領取調帳データベース」よる幕末期の皇室領データの中に、「御料」地として「八瀬村」が入っている

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