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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の117件の記事

2017/04/29

譚海 卷之二 河州交野郡王仁墳の事

 

河州交野郡王仁墳の事

○河内國交野郡藤坊と云(いふ)處に大なる磐石(ばんじやく)あり。上古王仁(わに)の墓なるよし、水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり。此石深更には聲を發しけるとて、里人恐(おそれ)て夜は此あたりへかよひ侍らず、泣石(なきいし)といひならはせり。石の大さ四尺ばかりにして駁蘚を生(しやうじ)たり、千歳(せんざい)の石いと珍しき事也。

[やぶちゃん注:

「交野郡」(かたのこほり)は旧河内国及び大阪府にかつてあった郡。現在の大阪府の東北端に当たる。

「藤坊」現在の大阪府枚方(ひらかた)市藤阪。以下の王仁の墓は同所に現存する。

「王仁」(わに 生没年不詳)は百済から日本に渡来して「千字文」と「論語」を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物。「日本書紀」では「王仁」、「古事記」では「和邇吉師(わにきし)」と表記されてある。伝承では百済に渡来した中国人であるとされ、この場合は姓である「王」から楽浪郡の「王氏」とする見解があるが、王仁が伝えたとされる「千字文」が、王仁の時代には成立していないことなどから、史料解釈上、実在を疑問視する説も多い。詳しくは参照したウィキの「王仁」をどうぞ。

「此石深更には聲を發しける」これは頗る面白いではないか。そもそもが神道好きで、仏像を破壊するのが大好きだった変態ナショナリストのコウモン野郎が、渡来人とされる王仁を、更には本当に彼の墓なのかも判らずに、安易に石碑なんか建てるから、こんな怪異が出来(しゅったい)したんじゃないのかい?! 或いは「俺は王仁じゃない!」と主張するためにその墓の中の誰かは叫んでいるのかも知れぬ。そう考えた方が合理的だ! ウィキの「王仁」を御覧な。そもそもが王仁の墓なんて呼ばれるずっと以前からの伝承では、この藤坂村の『の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる』二『個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の』二人(アテルイとモレ)を『京都へ連行したが』、『帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある』とあるじゃないか! アイヌの怨念が叫ばせてるんだ! きっと!

「駁蘚」「ばくせん」と音読みしておく。「駁」(ハク)の原義は「いろいろな毛色の交じった斑(まだ)ら馬」のことで、ここは「入り交じること」であり、「蘚」はこの場合、苔や羊歯(しだ)及び地衣類、さらに種子植物のごく小型の雑草などの総称で、それらが入り混じってぎちゃごちゃと生え苔蒸し、八重葎となっていることを指すのであろう。]

2017/04/25

譚海 卷之二 武州玉川菊紋石の事

 

武州玉川菊紋石の事

○武州玉川の邊(あたり)、むら山と云(いふ)あたりより菊紋石をいだす。黑石にして菊花の白き文あり、甚(はなはだ)鮮(あざやか)なり、至(いたつ)てよき石には枝葉迄具(ぐ)し、宛然(ゑんぜん)たる花形を備(そなへ)たるあり。片々(へんぺん)うちくだきても皆然り、玉川水中に産する所の石也。

[やぶちゃん注:「武州玉川」現在の山梨県・東京都・神奈川県を流れる多摩川。

「菊紋石」凝灰岩の中の割れ目に結晶化した方解石が菊の花のように入って紋理を形成したもので、愛石家に珍重される。

「むら山」恐らくは中世の村山党の本拠地で、現在の東京都と埼玉県に跨る狭山丘陵付近の「村山郷」という旧称を多摩川河岸まで拡張した謂いであろう。青梅は菊花石(きっかせき)の産地として知られるから、現在の青梅市から羽村市附近か。

「宛然」まさにそっくりそのままであること。]

 

譚海 卷之二 下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

 

下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

○下野國萱橋と云(いふ)所は、佐竹五千石の領地也。其郷(がう)に藥師寺村と云有(あり)、往昔(むかし)諸國に藥師寺をおかれたる跡にて、今にその時の瓦時々土中より掘出(ほりいだ)すといへり。又武州甲州道中に、府中六所明神と云有、其近き所に國府寺今に殘(のこり)て有、此瓦も千年の物也。堂の雨(あま)だりに集め積(つみ)て有、好事(かうず)の者取去(とりさる)事あれば病惱(びやうなう)して異(い)有(あり)とて人(ひと)取(とる)事なし。大坂城中にも豐臣太閤築城の時のかわら往々あり、瓦文(かはらもん)に金(きん)をもちて菊桐(きくきり)の紋を燒付(やきつけ)たる物也。同城内に石の手水鉢(てうづばち)あり、甚だ大きなるもの也。本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ。又書院の雨だりに殘らず敷(しき)つめてある石は、三四寸の丸くひらたき石也、太閤の三合石と稱す。是も太閤此石の形を愛せられ、是をもちくるものには米三合づつ給はりにし故其名ありと云。

[やぶちゃん注:「下野國藥師寺」現在の栃木県南部の下野(しもつけ)市南河内地区に地名として薬師寺があり、下野薬師寺遺跡もある。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。ウィキの旧河内郡「南河内町」に『江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した』とある。「壹橋」は不詳だが、隣接した旧町名に下都賀郡石橋町(いしばちまち)があった。「壹橋」が「いちはし」と読むとすれば「石橋(いしはし/いしばし)」とは音が似通う。

「藥師寺」薬師如来は大乗仏教に於いて病気平癒等の現世利益に効験のある仏として古くから信仰されており、薬師寺と称する寺はかつて各地に建てられた。ウィキの「下野薬師寺跡」によれば、『栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち』、『当寺に左遷されたことでも知られる寺院である』。『下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている』。『薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる。日本には飛鳥時代までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来』、天武天皇九(六八〇)年十一月に、『天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである』。『「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願』から四年後の天武天皇一三(六八四)年に全国の五十二氏が『天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。その数年後以内』『には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆下毛野古麻呂の名も同年』十『月の条に登場する』。『下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」』『とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」』『と見える。また、下野市では下野薬師寺は』七『世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている』。『現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる』。『発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから』、七『世紀末の天武朝の創建であると推定されている』。「続日本紀」によれば、天平勝宝元(七四九)年に『全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで』五百町とされたとある。『奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の僧侶を統制した』。宝亀元(七七〇)年、『中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている』。道鏡は七七二年に当地で没したとされる(近くに墓がある)。『平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている』。それでも「日本三代実録」によると、貞観一六(八七四)年に『平安京紫宸殿において大般若経の伝読』が行われたが、その「金字仁王経」七十一部が五畿七道各国に一部ずつ配布された際、『当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の』一部が配置されており、『東国における当寺の位置付けの高さが窺われる』とある。鎌倉時代の建久四(一一九三)年には源頼朝より供僧三口が『寄せられたほか、鎌倉幕府からの積極的な後援がうかがわれ』、その後も『慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという』。『室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ』、暦応二(一三三九)年には「安国寺」と改名した。但し、『一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた』。『戦国時代、後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる』。『近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領』十石が寄進されており、『また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領』二十石が寄進された。この二つの寺は天和元(一六八一)年から享保四(一七一九)年にかけて『薬師寺の正統を争う訴訟を起こし』、議論の末、天保九(一八三八)年に、『「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する』『」という合意に達し現在に至っている』という。『発掘調査の結果』、『明らかとなった寺域は東西約』二百五十メートル、南北約三百三十メートルで、『伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そして』、『その北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である』。また、『中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認され』ているから、これだけの伽藍、瓦もたんと出ようというものである。

「府中六所明神」現在の東京都府中市宮町にある旧武蔵国の総社であった大国魂(おおくにたま)神社。ウィキの「大國魂神社」によれば、『武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれる』のことであろう。『古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの武蔵国の総社にあたる』。『当社は府中市中心部に鎮座するが、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡』で江戸時代も『府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた』。創建は景行天皇四一(一一一)年と伝えられ、『源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝祈願を』したといった伝承もある。因みにここの例祭は、暗闇の中で神輿渡御が行われていたことから「くらやみ祭」と呼ばれ、「ハレ」である当夜は近世まで男女の暗中での交合が許されていた。

「國府寺」昭和五〇(一九七五)年以降の発掘調査によって、先の大国魂神社境内の南北の溝と、旧甲州街道、及び、大國魂神社のすぐ北にある「京所道(きょうづみち)」に挟まれた、南北三百メートル東西二百ネートルの範囲が「国衙」であったことが判明している(以上はウィキの「武蔵国府跡」に拠る)。発掘調査で実際にここに語られている瓦が主要出土品として出ている

「此瓦も千年の物也」武蔵国府は奈良時代初期(平城京への遷都は和銅三(七一〇)年)から平安中期にかけて置かれていたから、良心的に捉えるなら、千年は誇張ではなく、寧ろ正確と言える(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記録である)。

「雨だり」雨だれが落ちる軒下。

「菊桐の紋」実際には豊臣秀吉が朝廷より下賜された桐紋のことであろう。実際に天皇家の菊紋と、それに次ぐとされる桐紋を合体させた紋はない。菊紋は菊を象ったものを装飾化することを許容された程度のもので、正規の家紋として認められたものではない。例えば大坂城天守閣の大棟や大破風などにある通称「太閤菊の紋」などを指しているのであろうが、復元物を見ても、天皇家の菊とは被らないように花弁の数が減らしてあり、デザインも大きく異なる。

「同城内に石の手水鉢あり、甚だ大きなるもの也」不詳(私は大阪城に行ったことがない)。識者の御教授を乞う。

「本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ」これは蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が京都市山科区にあった山科本願寺の第八世法主であった当時を指す。同寺の建立は文明一五(一四八三)年で、延徳元(一四八九)年に蓮如は五男の実如に本願寺を委譲して実如が第九世となっているが、蓮如はここで入滅しているから、この表現が正確であるとするなら、その六年間に造られた手水鉢ということになる(こちらの本願寺は天文元(一五三二)年に六角氏と法華宗徒によって焼き討ちされて消失した。現在、その跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っている)。]

 

2017/04/19

譚海 卷之二 河豚の油燈に用る事

 

河豚の油燈に用る事

○營中寢殿の燈火は、河豚(ふぐ)の油を用(もちゐ)ると也。ふぐの油はよく凝結するゆゑ、地震(なゐ)にもゆりこぼす事なし、市中に來る河豚のはらわたなきは、その膏油(あぶら)を絞り取(とる)爲(ため)にて拔取(ぬきとり)てこすゆゑ也。房總の海邊り毎日油二升を供すといへり。

[やぶちゃん注:内臓がないのは、単に有毒な内臓を除去してただけだけだろう、などと思い込んでいたところが、ブログ「書店」に『江戸時代、上流階級や宮中で行灯の油に河豚の脂が使われました』。『河豚の油は臭いが少なかった為に利用されたようです』とあった!

「營中寢殿」江戸城内の将軍の寝室。

「膏油(あぶら)」私は二字で「あぶら」と訓じたい。]

譚海 卷之二 因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

 

因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

○因幡國(いなばのくに)は巖邑(いはむら)にして生穀(しやうこく)の地至(いたつ)て少(すくな)し、山中の民は、家ごとに鷄雌雄數萬を飼(かひ)てその卵をとり、大坂へ鬻(ひさぎ)て生計(たつき)とする也。鷄に飼ふに五穀を用ひず、わらこもの濕地に置(おき)、久しくして蟲生ずるをとりて、鷄を飼ふ也。

[やぶちゃん注:標題の「鬻ぎ」は「ひさぎ」。「生計」は「たつき」と訓じたい。

「因幡國」現在の鳥取県東部。

「巖邑」岩多く、肥えた土の地面の少ない村落。

「生穀の地」主食にする穀類を生産する土地。

「數萬」「萬」は原典の誤字か、或いは失礼乍ら、底本の誤植であろう。「家ごと」に数万羽は飼えぬ! 思うに「番(つがひ)」辺りではあるまいか?

「わらこもの」「藁子物」か。藁のようなもの。]

譚海 卷之二 飛州笹魚の事

 

飛州笹魚の事

○飛驒國に笹魚(ささうを)といふもの有(あり)、竹に實(み)の如きもの細長く出來(いできた)る形そのまゝの魚也。水邊の竹に生じたる實は、水に落(おち)て年をふれば生化(しやうげ)して魚となり、流(ながれ)に遡るといふ。明和五年友人今井氏持參したるを見るに、竹に付たる實よく魚のかたちに似たり。

[やぶちゃん注:これは尋常な竹や笹の実ではなく、竹・笹類に生じた虫癭(ちゅうえい・虫瘤(むしこぶ)・英語gall(ゴール))である。恐らくは、有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目双翅(ハエ)目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科ササウオタマバエ(笹魚玉蠅)Hasegawaia sasacola の幼虫が形成するそれである。ササ類の側芽に長さ四~四十センチメートルにも及ぶ筍(たけのこ)に似た虫癭を作る。平凡社の「世界大百科事典」によれば、この虫癭は江戸時代から笹魚として知られており、この「笹魚」にはひとりでに谷川に落ちて岩魚(いわな)となるとする伝説があり、橘南谿の「東遊記」や木村蒹葭堂の「蒹葭堂雑録」などにもその記述が見られ、また、飛騨国第七代代官であった長谷川忠崇はこの伝説に疑問を持ち、その構造を調べ、骨も肉もなく焼いても魚の臭気のないことを確かめた上で『是れ竹の病ならん』と「飛州志」(延享二(一七四五)年頃成立)の中に記している、とある。yoas23氏のブログ「四季彩日記」の笹魚(ささうお)の写真が凄い(気持ち悪くはないが、インパクトは強いのでクリックは自己責任で)。これなら水に入って魚となるというのは、頗る腑に落ちるわい! 他に、サイト「北海道の虫えい(虫こぶ)図鑑」のササウオフシページは学術記載もしっかりしており、何より、驚かずに済む写真があるので、まずはこちらの閲覧をお薦めする。ホンマ! これは筍でんがな!

「明和五年」一七六八年。]

譚海 卷之二 遠州海木幷天狗火の事

 

遠州海木幷天狗火の事

○遠州邊に天狗火(てんぐび)と云ものあり。土人是に逢(あふ)時は甚(はなはだ)恐怖叩頭俯伏(ふふく)して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども、人一度呼(よぶ)時はたちまち眼前へ飛來(とびきた)る。此(この)火にあふものおほく病惱(びやうなう)すと云(いふ)。又同所さがら等の海邊には、時々異材奇木を漂着し來(きた)る事有(あり)。相良(さがら)の名主某が座敷は、黑檀(こくたん)の樹を床(とこ)の柱にしたり、漂着の物成(ある)由をいへり。

[やぶちゃん注:標題「海木」は「かいぼく」と読んでおく。

「天狗火」ウィキの「天狗火」より引く。『神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火』で、『主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ』、『神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる』。『夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう』。『人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという』。『遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている』(下線やぶちゃん)。『愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという』。また、『同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという』 。『しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという』とある。

「さがら」「相良」現在の静岡県牧之原市相良町(さがらちょう)。(グーグル・マップ・データ)。

「黑檀」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros に属する熱帯性常緑高木の数種に与えられている総称。インド・スリランカなどの南アジアからアフリカに広く分布する。本黒檀(セイロン・エボニー/イースト・インディアン・エボニー)Diospyros ebenum が最も知られる最高級種で、インドやスリランカを原産とする。他にインドネシア原産の縞黒檀(マカッサル・エボニー/カリマンタン・エボニー)Diospyros celebica・ラオスなどの東南アジア原産の斑入(ふいり)黒檀(ブラック・アンド・ホワイト・エボニー/ペール・ムーン・エボニー)Diospyros malabarica・ラオスやベトナムなどの東南アジア原産の青黒檀(ムン・エボニー/ブラック・アンド・ホワイト・エボニー)Diospyros mun などがある。]

譚海 卷之二 相州大山瀑布の事

 

相州大山瀑布の事

○相模國酒匂(さかは)の川上を、半里斗りのぼりて大山を望(のぞむ)時は、遙に嶮岨より落(おつ)る瀑布あり。木(こ)の間に隱れてたしかに見わからね共(ども)、甚(はなはだ)大(おほき)なる瀧なり、那智の瀧に亞(つ)ぐほどのもの也。子安(こやす)より登る路に有(ある)大瀧とは別のもの也、蝮蝎(うはばみ)おほき所にして至りがたし、只(ただ)冬月春初の際行(ゆき)てみる也。さかはより二里餘有(あり)と云(いひ)、大山のうしろにつきたる瀧也。

[やぶちゃん注:「相州大山瀑布」現在の大山阿夫利(あふり)神社の背後にある二重滝のことであろう。落差は十六メートル。「那智の瀧」は落差百三十三メートルにも達するものであり、ここのそれに次ぐという謂いはトンデモない誇大広告である。津村、神社から金でも貰ったか?

「子安」旧子安村。現在の大山阿夫利神社の参拝道の手前に当たる伊勢原市子易。

「子安より登る路に有大瀧」参道を登る最初に現われる「愛宕滝(あたごたき)」のことか。現行のそれは五メートルほどしかなく、「大瀧」では毛頭、ない。]

譚海 卷之二 志摩國風俗の事

 

志摩國風俗の事

○志摩國の俗に、其人死すれば、第七々日(だいなななぬか)に至り、山伏を招じ法事の法事をなし、座敷に土を築(きづき)て山形を造り、松杉どの枝を折(をり)て山へ挿みおきて、呪誦勤行(じゆじゆごんぎやう)終れば、一家の男女(なんによ)集りて、その松杉の枝をぬきとり、六道所生(ろくだうしよせい)の驗(しるし)となし、生天畜生(しやうてんちくしやう)などの果(くわ)をうらなふ事なり。其後絶(たえ)て年忌佛事等を修(しゆ)する事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「第七々日」四十九日。

「六道所生の驗」六道に生まれ変わることのシンボル。

「生天畜生などの果」六道の三善道たる「修羅・人間(じんかん)・天上」界に仏果によって生まれ変わったか、或いは三悪道たる「畜生・餓鬼・地獄」界に応報によって堕したかを占うという意味であろう。]

譚海 卷之二 和州春日神官葬禮の事

 

和州春日神官葬禮の事

○和州春日の社の神主等卒去の時は、先(まづ)仲間にて神道の祭儀をもちて葬送の禮をなして、其後其人所持の扇子を興福寺へおくれば、興福寺にて此扇子をうづめ、葬禮を修し戒名を書(かき)て來(く)る。因て春日の神主の墓碑には、神道の位記と佛家の戒名を合せ誌(し)するゆゑ、名字甚(はなはだ)長く書(かか)るゝ事也。

[やぶちゃん注:「和州春日の社」現在の奈良県奈良市春日野町(かすがのちょう)にある春日大社。ウィキの「春日大社によれば、社伝では神護景雲二(七六八)年に『藤原永手が鹿島の武甕槌命』(たけみかずちのみこと)及び、現在の千葉県香取市香取の香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)と、現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡(ひらおか)神社に『祀られていた天児屋根命』(あめのこやねのみこと)と比売神(みめがみ)を併せて、御蓋山(みかさやま)の麓に『四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている』とあり、また、『藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺』(藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願って鎌足発願(ほつがん)の釈迦三尊像を本尊として天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)を起源とする、現在の奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗寺院)『との関係が深く』、弘仁四(八一三)年、『藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった』。十一世紀末からは『興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった』とある(下線やぶちゃん)。]

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