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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の136件の記事

2018/01/07

譚海 卷之二 牛をつかふ飼付等の事

 

牛をつかふ飼付等の事

○牛をつかふに左へやらんとする時は、チヤイと云ふ、右へやらんとすれば、ヒヤウセと云(いひ)、止(とめ)んとおもふ時はヲウと云(いふ)。牛は夏の間はあそばせておく也。秋に入(いる)月のころはじめて遣ふに、はじめは手にのらず、それを手に入(いる)るには、棒を以て牛のひたひを兩人してをさへてなつくる也。その時やゝもすれば、人をはね返す、はなはだ力有(あり)、剛力(がうりき)のものならではあやうし、又あるゝ牛は角(つの)をきる也。めうしは角斷(たち)易(やす)し、刀にて角を切るは内は空濶にしてやすくきらるゝ也。とれたる跡はわづかに一寸程心(しん)有(あり)、それがかたまる間は綿にて包みおく也。又のびる事なし。雄牛は角斷がたし、骨よりつゞき生じてあれば也。をうしのあるゝものはせんかたなし。牛は角をもつてあたひを定む、角の前へ生(おひ)たるは最上也、價(あたひ)も貴(たふ)とし、左右へ生たるは其(その)次(つぎ)也、うしろへ生たるは藪くゞりとて下品也、其外さまざまある角も皆下品也。

 

[やぶちゃん注:標題の「牛をつかふ飼付」は「牛をつかふ」法及び「飼付(かひつけ)」法(「等の事」)で後者は「飼い馴らす方法」の謂いであろう。

「遣ふに」調教に入るが。

「はじめは手にのらず、それを手に入(いる)るには」最初は容易に言うことを聴かず、(てこずる。)それを言うことを聴くようにさせるには。

「ひたひ」「額」。

「兩人してをさへてなつくる也」左右からその棒で押さえてなつかせる、言うことをきくようにさせるのである。恐らくはその状態で先に出た「チヤイ」「ヒヤウセ」「ヲウ」の動作を強制調教するのであろう。

「やゝもすれば、人をはね返す、はなはだ力有(あり)、剛力のものならではあやうし」以下、文脈が標題同様に洗練されておらず、ジョイントも悪い。「ややもすれば、人を跳ね返す」ような、「甚だ力」の「有」(ある)、「剛力の者」でないと制御出来ず、非常に危険な牛がいる場合があり、「又」そのように荒れる「牛は」止むを得ず「角(つの)を」截(き)らねばならない場合も出てくる、とったニュアンスであろう。「止むを得ず」と私が入れたのは以下の通り、角が品評のポイントだからである。但し、除角(じょかく)しないと、複数飼っている場合には他の牛に危害が及び、飼っている人間にとっても危険で、現代の牧畜業では除角は当然のこととして大抵の品種で行われている。但し、闘牛用や黒毛和牛の場合はしない。後者は「繋ぎ飼い」ではなく、ある程度の面積の牧場で「放し飼い」されるケースが多く、その場合、角があった方が捕まえ易いという理由が一つあるらしい(最後の部分はQ&Aサイトの回答を参考にした)。

「めうしは角斷(たち)易(やす)し」「雄牛は角斷がたし、骨よりつゞき生じてあれば也」不審。私の知る限りでは、♂♀でこのような区別はないはずである(但し、♂♀の性質上の違いはあろう)。除角は激しく吹き飛び出すほどの出血を伴い、牛自体も激しい痛みが感じる。現代でも、予後が悪いと、牛自体の寿命を縮めるほどリスクの高い仕儀である。

「内は空濶にして」牛の角は洞角(どうかく:horn:ホーン)と称し、前頭骨の角突起(骨で出来た芯)と角鞘(蛋白質の一種であるケラチンン(Keratin)とでできた鞘)から成っており、中にはスポンジ状の骨があって、その内部には血管が多く通っている。一番外側の部分は皮膚が硬くなったもので、人間の爪と同じである。因みに牛の角は前頭骨の側面から生える。「空濶」は有意な空洞になっているということであるが、これは正しい。牛の角は生すぐに成長し始め、六ヶ月齢以降は前頭洞が発生し、角内部が空洞化(角突起の含気骨化)を始めるとされている。最後の部分は森田茂・高階明日華・干場信司三氏の論文「子牛の成長に伴う角形状の変化」(PDFでダウン・ロード可能)に拠った)。

「又のびる事なし」牛の角は生涯、伸び続けるが、除角すると、後から再生することはない。

「をうしのあるゝものはせんかたなし」「雄牛の荒るるものは詮方なし」。

「あたひ」「價」。

「角の前へ生(おひ)たるは最上也、價も貴(たふ)とし、左右へ生たるは其(その)次(つぎ)也、うしろへ生たるは藪くゞりとて下品也、其外さまざまある角も皆下品也」やはり先に参考にしたQ&Aサイトの回答に、角の形や大きさが肉質を反映しているという迷信がつい最近まで信じられていたこと、今もまだ信じている人が多いかも知れない、ともあった。ただ、角の形は遺伝的な要素が大きいから、特徴的な角を見ただけで○○系統の牛だと判るともあった。]

2018/01/04

譚海 卷之二 江戸芝居座本市村・中村等の事

 

江戸芝居座本市村・中村等の事

○市村羽左衞門(うざゑもん)親の代迄は、竹之丞と號せしを、竹の字諱(いみな)奉りて今の名にかへたり。市村竹之丞は元來佐竹家の家老眞壁掃部之介(まかべかもんすけ)といふ人の譜代の家來筋也。此眞壁は天曆の比(ころ)、常陸大掾國香(ひたちだいじようくにか)とて平將門に討れたる人の後胤也。仍(よつ)て前年掃部之介出府せられしとき、羽左衞門由緒あるに付(つき)目見(めみ)へ致度(いたしたき)旨、眞壁へ願(ねがへ)けれ共、今は河原(かはら)ものの事ゆへいかゞとて、系圖にも其次第無ㇾ之(これなき)由挨拶有(あり)て其事(そのこと)止(やみ)たり。實は眞壁系圖にも、竹之丞事(こと)分明にある事也とぞ。又中村勘三郎先祖は、阿州蜂須賀(はちすか)家の家臣にて中村右近といへるもののよし。

 

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の「市村羽左衞門」の注に、『江戸三座』(幕府から興行特権を認められていた江戸の三大歌舞伎劇場。初め四座であったが、正徳四(一七一四)年に山村座が廃絶して以後、中村・市村・森田の三座となって明治初年まで続いた)『市村座の座頭を代々つとめた。真壁氏譜代の末流であることを申立てても、役者は河原者』(江戸時代に於ける役者を始めとして、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などを包括した蔑称。「河原乞食(こじき)」とも称した。本来は中世に村落の周縁圏外に相当する川の河原に仮住まいした人々の称で、十二世紀頃から天災・戦乱・貧困などによる流浪民・逃散民の中で、非課税地の河原に逃れた者を呼称したのが起源である。零細な農耕・行商・屠畜・皮革加工・染色・清掃・死体埋葬等に従事したが、特に滑稽を主とした猿楽の系統を引く雑芸能を生業とする者も多かった。近世に入ると、彼らの一部は独立した職業として確立されたが、大半は厳格な身分制度のもとで四民の下の制外者(にんがいもの)扱いにされて差別された。しかし、寺社の権力等を背景として種々の特権を得たグループもあり、特に諸芸能の勧進(かんじん)興行は河原で催されることが多かったことから、河原者がその興行支配権を握り、説経・浄瑠璃・傀儡等に地方の新芸能等も加わって、近世の庶民芸能の殆んどが河原者集団やその圏内で発展した。京都四条河原で行われた出雲の阿国の歌舞伎踊りはもっとも有名であるが、こうしたことから、劇場が河原を離れた後も「河原者」という呼称が芝居関係者に対する差別語として用いられ続け、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)『で四民の下とされたので、みとめられなかったというのである。中村勘三郎は中村座の座頭である』とある。ここにある歌舞伎役者の名跡のルーツがどえらい武人であったというのは、典型的貴種流離譚であり、しかもその末裔が、貴種流離譚を舞台で演じることが多いわけだから、これは嵌り過ぎと言えば嵌り過ぎである。

「市村羽左衞門親の代」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の二十年余りに亙る見聞記録で、この場合の叙述上の当代(執筆時。刊行時には以下に見る通り、没しているが、「親の代」以下の叙述から彼に比定されるの「市村羽左衞門」は九代目市村羽左衛門(享保九(一七二四)年~天明五(一七八五)年)となる。彼が父八代目羽左衛門(後述)の死去により羽座衛門を襲名したのは宝暦一二(一七六二)年で、無論、同時に市村座の座元を相続した。しかしその後、火事や先代からの借金のために天明四(一七八四)年、市村座は事実上の倒産閉場となり、控櫓(ひかえやぐら:江戸で興行権をもっていた先に示した江戸三座が、負債その他の事情から興行が出来なくなった場合,代行して興行する権利を持った興行業者を指す。中村座は都座、市村座は桐座、森田座は河原崎座と決っていた)の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎(十代目か。九代目はこの年に没している)の勧めにより、羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じ、その中で「猿まわしの猿」に扮し、「娘道成寺」の所作事を演じたが、同年八月に没している(ここはウィキの「市村羽左衛門(9代目)」その他リンク先ウィキに拠った)。さて、その九代目市村羽左衛門の「親の代」は八代目市村羽左衛門元禄一一(一六九八)年~宝暦一二(一七六二)年)ということになる。ウィキの「市村羽左衛門 (8代目によれば、『芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから』(下線やぶちゃん)、元禄一六(一七〇三)年、『父を後見人として』五『歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元とな』った(初舞台はその二年後の宝永二(一七〇五)年)。『その後、座元と役者を兼ね』、『江戸の芝居に重きをなすようになる。本文に「竹の字諱奉りて今の名にかへたり」とあるのは、元文二(一七三七)年のこと、将軍家若君竹千代(後の第十代将軍徳川家治(元文二年五月二十二日(一七三七年六月二十日)~天明六(一七八六)年の幼名)の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名したことを指す。後、寛延元(一七四八)年に名も『「羽左衛門」と改めた。以後』、『市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る』こととなったのである、とある。

「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏であろう。この譜代の家来「眞壁掃部之介」という名は、同姓同通称の名を、同藩で宝暦七(一七五七)年に発生した経済政策(藩内での銀札発行)の失敗に端を発する秋田騒動に見出せる。当該騒動の始末として宝暦六(一七五六)年十一月に同藩家老が御役追放・蟄居となっているが、その家老の名が「真壁掃部助」である。但し、先の市村羽左衛門の事蹟とは時制が全く前後して合わないから、彼ではない。しかし、少なくともこの叙述は、その家老真壁掃部助の先祖の家来が、市村羽左衛門名跡の最初の人物のルーツであったことを意味していると考えてよかろう。しかもその真壁が平国香の末裔とするのだから、話としては浄瑠璃のようにブットんで面白いことは面白い。

「天曆」九四七年から九五七年誤り(次注参照)

「常陸大掾國香」平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)は平安中期の武将。平高望の長男。常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、『宇多天皇の勅命により平姓を賜与され』て『臣籍降下し、上総介に任じられ』、『父の高望とともに昌泰元』(八九八)年に『坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾であ』ったその源護から『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶』(たすく)『に要撃された甥の平将門が』、承平五(九三五)年二月に『反撃に出た際、居館の石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』。

「平將門」「新皇」を名乗った特異点の東国の反逆児。生年未詳で「承平天慶の乱」に於いて藤原秀郷・平貞盛らによって天慶三(九四〇)年に誅伐された。

「中村勘三郎」この場合も厳密には「譚海」の「当代」を考えねばならぬから、九代目中村勘三郎(明和二(一七六五)年~天明五(一七八五)年)か、十代目(?~文化七(一八一〇)年)であろう。

「阿州蜂須賀家」阿波国の国人蜂須賀氏。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名で、彼の代になってからまず織田信長の配下に属し、歴史の表舞台に登場した。後に秀吉の与力として活躍、その子の蜂須賀家政と共に秀吉直臣となって、阿波一国を治める大名へと立身した(ウィキの「蜂須賀氏」に拠る)。

「中村右近」中村右近太夫重勝(?~慶長一九(一六一四)年)は戦国武将。阿波海部城主・大西城主。ウィキの「中村重勝」によれば、『父は尾張国中村郷の領土を持ち、海部城主をつとめた中村重友で、豊臣政権の三中老のひとりである中村一氏の末弟とされる』。『徳島藩の蜂須賀家の家臣として』五千五百『石を与えられ、父の重友に代わり』、『海部城に配置され』、慶長三(一五九八)年には『牛田氏に代わ』って『大西城主となる』。『朝鮮出兵に従軍し、大坂冬の陣では』二百『人を率いて出陣』、『本町橋の夜襲戦で戦死した』。『「東都劇場沿革誌料」等によれば』、『歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・初代中村勘三郎と同一人物とする説や、重勝の息子や孫とする説があるが』、『明確ではない』とある。]

2017/12/14

譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事

 

江戸非人・穢多公事に及(および)たる事

○同年夏品川溜非人がしら松右衞門缺落(かけおち)せし事有。是は享保年中より、非人のものは穢多(ゑた)團左衞門支配に仰付られ、博奕(ばくち)に耽る非人は、團左衞門より高利の金子をかり、返濟に迷惑し、缺落(かけおち)せしもの多く、その催促、左衞門より非人小屋頭の者をはたり、返濟延引に及(およぶ)ものをば、團左衞門處へ呼(よび)よせ、牢の如きものに入置(おれおき)、はたる事に成(なり)しゆへ、小屋頭も、たまらず、缺落致し、そのさいそく、又、團左衞門より松右衞門へきびしく申(まうし)かけ、松右衞門も、たまらず、缺落せし也。淺草溜(あくさため)のかしら善七事、數年、團左衞門が無道を惡(にく)みをり、因(よつ)て萬事(ばんじ)、貴(じつ)かたに勤め、安永元年の春、淺草溜燒失の節も、御普請金、上(かみ)より出され候外(ほか)、善七、私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し、萬事、嚴重に再興いたし、御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美の上、善七、願(ねがひ)を申上(まうしあげ)、團左衞門無法の致(いたし)方について、支配の非人、年々、難澁、離散致し、御用も勤(つとま)りかね候次第を申上、御吟味に相成(あひなり)、團左衞門事は金子の義、承知不ㇾ申(まうさざる)分に申上、團左衞門支配の手代數人、不屆に相成、入牢被伸仰付(おほせつけられ)、右御裁許、相濟(あひすむ)迄、團左衞門を善七に御預(おあづけ)に相成候。右に付(つき)、古來は、非人ゑたの支配に無ㇾ之(これなき)候間、穢多支配御免被ㇾ下(くだされ)候樣に願上(ねがひあげ)、善七、由緒書(ゆいしよがき)等(とう)、指上(さしあげ)候。右由緒には、善七先租は、本國常陸佐竹義宣家臣車丹波守と申(まうす)事、申立候也。

 

[やぶちゃん注:「同年夏」前条を受けるが、その前条がまた、その前の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年夏である。

「非人頭松右衛門」現在の南品川三丁目附近が品川宿北宿の外れとなるが、江戸時代、ここにある真言宗海照山品川寺(ほんせんじ)の脇には松右衛門を名乗る非人頭の役所(屋敷)と「品川溜(ため)」(「「溜(ため)」は重病や幼少の犯罪人を平癒若しくは成長するまで収容した施設。非人頭の配下の者はそこでそうした収容者たちの面倒をここで見た)があり、彼は江戸の北の一方の雄「浅草溜り」の非人頭で、ここに出る車善七と江戸を二分する被差別民の統率者であった。hakyubun氏の「旧聞アトランダム」の「江戸六地蔵 (2)―6 品川寺 品川松右衛門と投込み寺」によれば、彼ら非人頭の配下の仕事は溜めの『御用役であり、また浅草弾左衛門』(ここの出る「團左衞門」と同一人物)『配下の長吏の采配で鈴ヶ森刑場の管理、罪人仕置き手伝い、あるいは江戸流入の潰れ百姓(野非人)の刈込みや追い返し、盗人やキリシタン、捨て子などの見張りなど、司法に拘わる』最下級役人としての仕事をこなしていた。

「缺落(かけおち)」貧困や悪事などのために居住地を離れ、行方をくらますこと。

「享保年中」一七一六年から一七三六年。

「非人」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「非人」の注を参照されたい。

「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「穢多」の注を参照されたい。

「團左衞門」江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領、穢多頭(えたがしら)。「彈左衞門」の表記の方が一般的。ウィキの「弾左衛門」にから引く。『江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した』。『また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた』。『戦国時代において、関東の被差別民の有力者は小田原近在の山王原の太郎左衛門であり』。『弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかった(ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる)。ところが』、天正一八(一五九〇)年『に後北条氏が滅亡し、代わって徳川家康が関東の支配者とな』ると、『小田原太郎左衛門は後北条氏より出された証文を根拠に』、『引き続き』、『被差別民の支配権を主張したが、家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという』。『弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、遊女屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した』。宝永五(一七〇八)年『に京都の傀儡師・小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴え』、『これに勝訴したため、傀儡師・歌舞伎も弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。特に』正徳三(一七一三)年『初演の歌舞伎十八番の一つ』「助六」は、二代目市川團十郎が『弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は』、宝永六(一七〇九)年に『死去した弾左衛門集誓をモデルにしたといわれている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した』(享保七(一七二二)年)。『非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれるにいたった(ただし、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり』、『陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)』。『身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工などの製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式』一『万石、財力』五『万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった』。「弾左衛門由緒書」等に『依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり』、治承四(一一八〇)年、『鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て』、『中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている』。『弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸』内『)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち』三百から四百人もの『役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない』。『幕末に活躍した第』十三『代弾左衛門は、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって』、慶応四年一月(一八六八年)に配下六十五名と『ともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと』、明治二二(一八八九)年に死去した、とある。また、底本の竹内氏の注に、『江戸のエタ支配頭団左衛門が、非人支配を一時かねた時の話で、非道をとがめられて、罰せられた。しかし車前七はエタ支配を返上したというのである』ともある。「火方御役儀祝儀に三芝居の座中參入の事」で私が示した注を再度、引いておくと、当該条の底本注には、『近世ではエタ非人などの賤民は特別に頭目を設けて自治的支配をさせた。浅草の車善七と品川の松右衛門は江戸の非人頭であった。町人百姓外なので、芝居役者も一応はその支配下に入ったのである』とある(「乞兒」は「乞食」と同義で「子」の意ではない)。部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「非人」によれば、非人の長吏頭であった弾左衛門(言葉上の誤解を生む嫌いがあるので注しておくと彼は、穢多・非人集団内の長であり支配者だったのであって、差別支配をしていた武士階級の側の上位支配者ではない)の支配下にあった四人(一時期は五人)の有力な非人頭の中でも、ここに出てくる車善七は特に有力で、享保四(一七一九)年以降になると、弾左衛門や各地の長吏頭の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返したが、しかし弾左衛門を超える経済力・政治力(江戸中期まで弾左衛門は歌舞伎を興行面でも支配していた)を持っていなかった彼ら非人たちは、結局、最後まで弾左衛門の支配下に置かれ続けた、とある。なお、同サイト内には車善七のルーツを武家とする自筆の上申書『「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保一〇(一八三七)年)』が載る(千代松は車善七の幼名)必読である。そこには、また『非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えてい』るともある(下線太字やぶちゃん)。「弾左衛門を超える経済力・政治力」というのは、江戸中期まで弾左衛門が歌舞伎を興行面でも支配していたことを指す。但し、同サイトの「歌舞伎と部落差別の関係」には、『歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大』すると、『歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざし』、宝永五(一七〇八)年に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、遂に「独立」を果たしたものの、『しかし、歌舞伎役者は行政的には依然』、『差別的に扱われ』、『彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受け』、『歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことで』あった、とある。因みに、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録であるが、そうした昨日までの弾左衛門の旧支配構造の記憶は江戸のある階級以下の人々にとっては、未だに隠然たる力を持つものであったに違いないことは想像に難くない。

「はたり」「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「實かたに」堅実に。

「安永元年の春」「燒失」これは恐らく、明和九年二月二十九日(グレゴリオ暦一七七二年四月一日)に発生した「明和の大火」の類焼であろう。同年は十一月十六日(一七七二年十二月十日) 改元して安永となった。

「私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し」私財を投入致し。

「御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美」第十代将軍徳川家治から。

「佐竹義宣」(よしのぶ 元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年))は戦国から江戸前期の武将で出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男で、母は伊達晴宗の娘(伊達政宗は母方の従兄)。北条氏政や伊達政宗と戦い、常陸の南方(みなみかた)三十三館(国人領主三十三氏)を謀殺、江戸重通(しげみち)から水戸城を奪って居城とし、五十四万石余の大名となった。しかし、石田三成派であった義宣は、「関ヶ原の戦い」で徳川家康からその曖昧な態度を憎まれ、慶長七(一六〇二)年に出羽二十万石に転封させられた。久保田城を居城とし、土豪勢力を排除して藩体制を確立した。石田三成がかつて福島正則らに殺害されようとした際には救助するなど、律義な性格の持ち主であったという。

「車丹波守」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で佐竹氏家臣の車斯忠(くるま つなただ ?~慶長七(一六〇二)年)。常陸国車城主で、「車丹波」の名で知られた。ウィキの「車斯忠によれば、文明一七(一四八五)年に『岩城常隆が車城を攻め、岩崎二階堂氏系の車氏』『の一族である砥上某を滅ぼした』。『常隆は弟・隆景(好間三郎)を車城に配し、佐竹氏領侵攻のための拠点とした。この隆景が車氏(岩城氏系車氏)を名乗り、斯忠は隆景の曾孫にあたる』。『常陸車城主・車兵部大輔義秀の子として誕生。佐竹北家』四『代当主・佐竹義斯から偏諱を受けたと思われる』。『父・義秀は岩城氏の対佐竹氏最前線として抗していたが、後に佐竹氏に降り、斯忠は半ば人質同然として佐竹義重に仕える。義重に重用され』、『次第に側近として力を持つようになったと思われる』。元亀二(一五七一)年七月、『同じく側近として佐竹氏を支えていた和田昭為が白河結城氏の下に逃亡』『して以降は智謀を武器に』、『多くの外交工作を行った。また武勇にも優れていたが、反面』、『民政面では不手際が多く、そのことで城主の任を解かれ、一時』、『追放されたこともあったと伝わる。そのため』、『岩城氏に属して伊達氏との戦に在陣していた記録も残っている』。慶長五(一六〇〇)年の『徳川家康の会津征伐を前にして佐竹氏を離れて、上杉景勝の下で陸奥国福島城・梁川城に在番しているが、これは名目上中立の立場をとる佐竹氏が上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒であった斯忠を送り込んだものとも言われている。同年の関ヶ原の戦いの後に佐竹氏に復帰するが、戦後仕置きにおいて常陸水戸』五十四『万石から出羽国秋田』十八『万石への移封に反発』、『徹底抗戦を唱え、妹婿の大窪久光や馬場政直らと水戸城奪還を企てるものの』、失敗し、『捕らえられ』、『磔刑に処せられた』とある。『咳をしたため』、『発見され』、『捕らえられたと伝わっており、そのためか』、『捕らえられた場所(車塚)で「咳の神様」を祭っている。幕末時代に吉田松陰が水戸に訪れた時、車塚に通りかかり、この話に深く感動したという。また、近くには吉田城跡があり、佐竹氏時代の車丹波守の居館と推定される』。『なお、嫡男(弟とも)の善七郎は、江戸浅草の非人頭「車善七」の初代であるという説がある』と、最後にしっかりと記されてあった。]

2017/09/08

譚海 卷之二 檢校勾當放逸に付御仕置の事

 

檢校勾當放逸に付御仕置の事

○同七年十月盲人檢校勾當の輩高利金子貸し候て、證文には廿兩壹步(ぼ)の書付を取(とり)、内々にて嚴敷(きびしく)返金をはたりし事露顯し、盲人數輩入牢に處せられ、僞(いつはり)をかまへ高利金子を貸し、人に難儀かけし事御吟味きびしく、浪人のるい高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し、召(めし)とられ究問(きうもん)あり。八丁堀住居(すまゐ)吉田主税(ちから)、神田佐久間町住居細川下野(しもつけ)などいふ浪人も入牢せられたり。過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども也。鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたりといへり。都(すべ)て壹兩年已來檢校勾當のくつわやにあそぶ事平日の樣に成(なり)、公然として人の目を憚らず、松の内・五節句・月見等まで、おほかたは座頭の客人なりといひあへり。後皆々家財居宅御取上追放あり、一時に寥々(れうれう)となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「同七年十月」前条の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年の十月である。

「檢校勾當」それぞれ盲官(視覚障碍を持った公務員)の階位。「卷之二 座頭仲間法式の事」の私の「檢校」の注を参照のこと。

「盲人檢校勾當の輩高利金子貸し」底本の竹内氏の補註によれば、『いわゆる座頭金で、江戸時代は盲人の生活保護の意味で、盲人の金貸には返済その他に』(返済者側に厳しく、視覚障碍者である貸主に有利な)『特別の規制があった。そのため盲人の貸業は一般化し、こうした暴利をむさぼるものもでてきたのであ』った、とある。

「證文には廿兩壹步の書付を取」一例としての高額貸金を挙げたものであろう。江戸後期の一両を平均として現在の五万円と換算するとしても百万円相当、その日歩(にちぼ)でこれを現行のように百分率ととるならば一日一万円(これを金額に対する実金額の利息と採るならば、「一分(ぶ)金」と採れ、その場合は一両の四分の一相当で一万二千五百円に相当する)となり、とんでもない高利となる。

「はたりし」既出既注であるが、「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「かまへ」「構へ」。企んで。証文の偽造操作や牽強付会の詐欺的解釈による恐喝などを指すのであろう。

「浪人のるい」「浪人の類」。

「高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し」「連及」は「関連して関わり合うこと」であるから、証文偽造など詐欺的行為の中では被害者である借り主までも連座して捕縛取り調べが行われたのである。

「過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども」これは直前の「浪人」を指すのではなく、暴利を貪った盲官であろう。幾らなんでも浪人が高利の金を借りて、贅沢の限りを尽くした豪勢な屋敷を造って住んだというのでは意味が通らぬからである。但し、この八丁堀の吉田主税や神田佐久間町の細川下野(しもつけ)などいった浪人らが、借り主ではなく、そうした盲官の手下として借金利息の取り立ての際の恐喝などを行っていたというのならば、相応に金儲けして私腹を肥やしていたというのなら判らぬでもないが、にしても浪人の身で「普請奢侈を極」めることは当時としては、まず考えられないからである。但し、敷地家屋の名義をその盲官の所有としていた場合は絶対ないとは言えないが、すぐ後で鳥山検校の屋敷の奢侈が語られている以上、そうは絶対に採れない。

「鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたり」ウィキの「検校によれば、『官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』(下線やぶちゃん)とあり、古くから読ませて戴いている高木元氏のサイト「ふみくら」の「江戸読本の研究 -十九世紀小説様式攷-」の「第二章 中本型の江戸読本 第四節 鳥山瀬川の後日譚」事件事実と後日談その後の文芸化の様相が余すところなく検証されている。必読!(本「譚海」の条も載る) それによれば、「瀨川」は吉原松葉屋の妓女で五代目瀬川とし、見請けは安永四(一七七五)年で、鳥山の処罰は安永七年とする。

「くつわや」既出既注であるが、再掲する。轡屋(くつわや)で遊女屋を指す。特に、揚屋(太夫・格子などの上級遊女を呼んで遊ぶ家。江戸では宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に廃れた)に対して遊女を抱えておく置屋(おきや)を指した。語源に就いては「日本国語大辞典」には三説を載せ、①『京都三筋町のい遊女町を開いた原三郎兵衛はもと秀吉の馬の口取りで、異名を轡といわれたので、遊女屋へ行くことを隠語で轡がもとへ行こうと言いなれたところから〔異本洞房語園・大言海〕』、②『伏見撞木町の町割が十字割で、轡の形をしていたので轡町と呼んだところから』〔俚言集覧〕及び同様に『大橋柳町に女郎屋があった時、十字割の町割をして轡丁と呼ばれたところから〔吉原大全〕』、③『遊女屋の亭主が遊女を使うのは、馬に轡をかけて使うように自在であるから〔類聚名物考〕』とある。

「松の内」正月、松飾りを飾って祝う期間。多くは正月七日又は十五日までを指すことが多い。正月七日までの松の内を「松七日」とも称する。因みに、吉原には正月元旦は登楼出来ない。当日、楼店は総て休日であったからである。また、前者の七日までの「松の内」の間は吉原では御祝儀の特異点として「紋日(もんび)」と呼び、この間は「揚げ代」が倍額となる特別高額期間であって、実際には客足が遠退き、その不利益分はそのすべてを各遊女たちが自腹で負担しなければならなかったとされる。されば、ここも七日までと採るべきである。ここは弥生屋氏のブログ「猫侍のつれづれ草~弥生屋書林ぶろぐ~」の「2017年を迎えて~吉原の御正月~」の記載を参照した。

「五節句」人日(じんじつ:一月七日)・上巳(じょうし:三月三日)・端午(五月五日)・七夕(しちせき:七月七日)・重陽(ちょうよう:九月九日)の各節気。諸資料を見るに、これらの日の揚げ代は前注の「紋日」と同額である。

「月見」ウィキの「によれば、各月の十五日は勿論のこと、特に旧暦八月十五夜の「中秋の名月」以外にも、「後(のち)の月」と呼ばれる九月十三夜(豆名月(まめめいげつ)・栗名月(くりめいげつ)とも呼ぶ)があり、その後、一年の収獲の終わりを告げるとされた「十月十日夜の月」(或いは「三の月」とも呼ぶ)の月見があった。特に江戸の遊里に於いては『十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった』とある。これも妓女の巧妙な一連の定期収入として欠かせない日であったことが判る。

「おほかたは座頭の客人なりといひあへり」揚げ代が倍額となって通常の大通も二の足を踏む時節なれば、彼らの想像を絶した莫大な蓄財が想像出来よう。

「一時に寥々となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ」最後がまた、山椒が利いている。]

2017/07/20

譚海 卷之二 豆州大島火をふりて燒たる事

○安永六年夏の比より、伊豆大島燒(やけ)はじめて、海南へ火もえ出(いづ)る事あり。房州瀕海の地はこの燒(やく)るひゞき、地にこたへて地震(なゐ)のごとく、津浪あるべしとて恐怖にたへず。此もゆる火光(くわかう)夜には品川沖或ははねだ邊まで天に映じて見えたり。翌年猶もゆる事たえず、やうやくにして止(やみ)たり。

[やぶちゃん注:これは伊豆大島三原山の安永の大噴火である。三原山の歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火の一つで安永六(一七七七)年から翌年にかけて発生した。ウィキの「伊豆大島」によれば(記載が総てグレゴリオ暦なので独自に旧暦換算もしておいた)、一七七七年八月末(安永六年七月下旬相当)に『カルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛』(かざんもう:「ペレーの毛」(英語:Pele's hair:「ペレー」はハワイに伝わる火山の女神の名。火山の爆発の際にマグマの一部が引き伸ばされて髪の毛状になったものを指す。主に玄武岩由来のガラス質からなる褐色の細い単繊維で、典型的なものは断面が円形に近く、直径は〇・五ミリメートルより細く、長さは最大二メートルにも及ぶことがある)やスコリア(英語:scoria:火山噴出物の一種で塊状を成す多孔質のガラス質物質の中でも暗色のものを指し、「岩滓(がんさい)」とも呼ぶ。主に玄武岩質のマグマが、噴火の際に地下深部から上昇、減圧することによってマグマに溶解していた水などの揮発成分が発泡したために多孔質となったものである)『の降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが』、翌一七七八年二月末頃(安永七年一月末から二月末相当)まで続き、同年四月十九日(安永七年三月二十二日)から『激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った』。五月末頃(安永七年六月下旬相当)には一旦、噴火が沈静化したものの、十月中旬頃(安永七年八月下旬相当)より再び噴火が激しくなり、十一月(安永七年九月中旬から十月中旬相当)には『再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが』、一七八三年(天明三年)から『大量の火山灰を噴出する活動が始まり』、一七九二年(寛政四年)まで実に最初の兆候から十五年ほどに亙って『噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で』一メートル以上に『達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた』とある(下線やぶちゃん)。私は一九八六年十一月二十一日に始まった大噴火(溶岩噴泉高度千メートル以上、噴煙高度一万メートルに達した)を、翌日の夜、友人の車で遊びに行った江ノ島から偶然に目撃した。海上に妖しく垂直に立ち上ぼるオレンジ色のやや太い火の柱をよく覚えている。

{ふりて」は「降りて」或いは「振りて」で「降らして」或いは「火を振り散らすようにして」の謂いであろう。「燒たる」は「やけたる」と訓じておく。
  
「海南」底本では「南」の下にポイント落ちで「邊」の訂正注がある

「地震(なゐ)」読みは私の推定

「品川沖」三原山山頂からは直線で百キロメートルほど。

「はねだ」羽田沖で九十五、六キロメートルほど。最初に注した私が見た江ノ島は六十四キロメートルほどである。]

譚海 卷之二 上總國笹栗幷山邊赤人の事

○上總の方言に、古城の跡又は陣屋などをきでと云(いひ)、城出(きで)と云(いふ)也。又山の邊郡といふ所のくりの木は、みな高さ四五尺程にて悉く實(み)のる、[やぶちゃん注:読点はママ。]笹栗と稱してその國の名物也。他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし。山の邊に限りて栗の大木なし。この山の邊は歌仙赤人の生國なり。大和の國にも同名あれど、上總國正統のよしその處の人いひ傳ふ。萬葉集に赤人の眞間の詠歌あるも、郷國ゆゑ往來して詠ぜしなるべしと云。

[やぶちゃん注:冒頭は前条の方言談と連関している。

「山邊赤人」(やまべのあかひと ?~天平八(七三六)年?)は言わずもがな、柿本人麻呂とともに歌聖と讃えられる万葉歌人。

「きで」「城出」不詳。「日本国語大辞典」には見出しとして「きで」はない。但し、余湖氏の優れた城跡サイトのこちらに千葉県にある「木出城(吉岡城・四街道市吉岡字木出)」(吉岡地区は(グーグル・マップ・データ))の記載があり、その説明の最後に『「木出」の地名は「城出」あるいは「城台」がなまったものではないかと考えられている』とあるから、この「きで」「城出」という語は確かに千葉に存在したことが判る。

「山の邊郡」上総国及び旧千葉県にあった山辺郡(やまべぐん)。位置はウィキの「山辺郡(千葉県)で参照されたい。

「笹栗」ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の中でも、現在の各栽培品種の原種で山野に自生するものを指す。「シバグリ(柴栗)」「ヤマグリ(山栗)」などとも呼ばれ、栽培品種はこれに比べて果実が大粒である。現在でもこの原種はごく一部で栽培されているとウィキの「クリにある。

「他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし」意味不詳。栗の木は喬木になるでしょう?! 後の「山の邊に限りて栗の大木なし」とも矛盾した謂いとしか読めぬ。そもそも私の家の裏山にも高木の自生の栗の木がゴマンとあるぞ! 「實とまる事なし」の意味も分らん(実の歩留まりが悪いということ?)! お手上げ! どなたか御教授あれかし!

「この山の邊は歌仙赤人の生國なり」千葉県安房郡鋸南町町役場公式サイト内のきょなんのむかしばなしの「田子の浦」に、「万葉集」の『山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にある、田子の浦は、勝山海岸という説があります。江戸時代の神代学者、山口志道が発表した説です。勝山の田子台の下の海が田子の浦と呼ばれていたこと、赤人が上総国山辺郡(東金市)出身であるらしいことなどが根拠です。昔から富士の名所の鋸南』で、『冬の晴れた日などは、対岸の富士山は、すばらしくきれいに見えます』とある。

「大和の國にも同名あれど」かつての大和国にあり、現在も奈良県に山辺郡として残る。旧郡域や位置はウィキの奈良県山辺郡を参照されたい。古代、この山辺郡内であった奈良県宇陀市の額井岳の麓に「赤人の墓」と伝える五輪塔が現存する。中村秀樹氏のブログ「奈良に住んでみました」ので墓の画像が見られる。

「赤人の眞間の詠歌」「万葉集」の「卷第三」の三首の挽歌(四三一から四三三番歌)を指す。

 

  勝鹿(かつしか)の眞間娘子(ままのをとめ)が

  墓を過ぎし時に、山部宿禰(すくね)赤人の作る

  歌一首幷(あは)せて短歌

 

古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帶解き交(か)へて 臥屋(ふせや)建て 妻問(つまど)ひしけむ 勝鹿の 眞間の手兒名(てこな)が 奥つ城(き)を こことは聞けど 眞木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我われは 忘らえなくに

 

   反歌

 

我も見つ人にも告げむ勝鹿の眞間の手兒名が奥つ城處(きどころ)

 

勝鹿の眞間の入江に打ち靡(なび)く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ

 

「勝鹿」は現在の東京都葛飾区や埼玉県北葛飾郡及び千葉県市川市真間などの江戸川流域を指す。「倭文幡(しづはた)」は中国伝来の唐織(からおり)に対して、本邦に古来から伝わる地味で落ち着いた織り物のこと。私は高校時代に「真間の手児名」の話を知り、大学一年の春、市川に住む友人の案内で真間を訪れ、手児名の井戸や霊堂を巡ったことがある。懐かしい思い出である。]

譚海 卷之二 伯州丈次郎岩の事

 

伯州丈次郎岩の事

○中國の北の海邊の方言に坂をたをと云(いひ)、きのこをなはと云(いふ)。四十里たをといふ處(ところ)伯州(はくしう)の内にあり、三坂也。又(また)丈次郎岩といふあり、高さ二三丈程あり、その下(した)蜂(はち)の巣の如く穴明(あき)たり。往來の人くゞり通る、出雲より石見へ通ふ北海也。

[やぶちゃん注:「たを」「日本国語大辞典」に「たお(歴史的仮名遣:たを)」、漢字の「撓」を当て、『①山頂の道のあるところ。峠』とし、『②山と山とのくぼまっているところ。鞍部』とした上で、方言の二番目(一番目は鞍部のそれ)として『山の峠』を挙げ、兵庫県・鳥取県・石見・山口県などの中国地方を採集地としている。「坂」の方言とはしないものの、「山の峠」は同時に「坂」である

「なは」「日本国語大辞典」には「なば」と濁音で載り、『「きのこ(茸)」の異名』と明記した上で方言として『①きのこの笠』(島根県)、『②きくらげ(木耳)』(福岡県)、『③まつたけ(松茸)』(奈良県と広島県)、『④きのこ類の総称』(中国及び九州・石見広島県山口県及び九州各地)を挙げており、中国地方から南に広く分布することが示されてある。

「四十里たをといふ處伯州の内にあり、三坂也」「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県中部及び西部域であるから、これは「三坂」と地名(坂名?)からは現在の鳥取県西伯郡大山町今在家(大山の西北)にある三坂峠が候補としてまず挙げられる。「峠データベース」のこちらで位置が確認出来る。しかし、最初の「四十里」坂(たお)の名を重視するならば、鳥取県日野郡日野町と岡山県真庭郡新庄村との間にある「四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)」というのも気になってくる。上記の三坂峠の別称には「四十里峠」というのは見当たらないことと、「里」は草書の「曲」の字と誤読とも思われなくもないからである。なお、伯耆国ではないが、同じ中国地方の島根県邑智郡邑南町と広島県山県郡北広島町を結ぶ峠に「三坂峠(みさかだお)」という峠が存在することも付記しておきたい。

「丈次郎岩」不詳。識者の御教授を乞う。島根県益田市匹見町道川下道川下に丈次郎城という城があったらしいが(城跡として残る)、ここは「出雲より石見へ通ふ北海」ではない山家であるから違う。

「二三丈」約六~九メートル。]

譚海 卷之二 濃州養老の瀧神社黃金竹の事

○美濃養老の瀧の邊に神社あり。その社(やしろ)のうしろに黃金竹(こがねたけ)といふもの年々二本づつ叢生す。壹年限かぎり)にて枯(かる)る、黃金の色にして異竹也。他所に移し植れども生ずる事なし、江戸へも持來(もちきた)りしを見しに、誠に其ことのごとし。

[やぶちゃん注:「美濃養老の瀧」現在の岐阜県養老郡養老町にある落差三十二メートル、幅四メートルの瀧。鎌倉時代の「十訓抄」の「第六」の「忠直を存ずべき事」 の第十八話にある「養老の孝子」や、同期の「古今著聞集」の「卷八」に載る「孝行恩愛 第十」等に記される瀧水が酒になったという親孝行奇譚の古伝承などでよく知られる。

「神社」養老神社。(グーグル・マップ・データ)。養老の滝の四百メートルほど下流の左岸に位置する。

「黃金竹(こがねたけ)」読みは日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の黄金竹」に拠った。同記載は本「譚海」のこの記載を原出処とする。なお、現在、黄金竹なる和名を持つ竹は実在する。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoidesの品種であるオウゴンチクPhyllostachys bambusoides f. holochrysa である。竹図鑑」同種解説によれば(リンク先に写真有り)、『マダケの黄金型』で、稈(かん:竹の中空になっている茎部分の植物学上の呼称)が黄色を呈し、『緑の縦縞が不規則に入る場合もある』。但し、現在、この竹が同地のみに特異的に植生しているなどということは確認出来なかった(ネット検索で掛かってこない)。画像を見る限り、黄金というほどのことはなく、寧ろ、普通に乾燥させた竹の色に似ているように私には見える。

「誠に其ことのごとし」事実、その噂通り、根づかなかったというのである。しかもその枯れたものを津村は実際に見たと言っている。植物の実見談として前の萩譚などとやはり連関した記載と言える。]

譚海 卷之二 藝州嚴島明神の鳥居

○藝州嚴島明神の鳥居は、萩とつゝじの樹とを以て建(たて)たる二柱なりとぞ。安永八年夏雷火にて燒亡せり。五百年來をへて希代のもの也しを、此度(このたび)燒亡せし事誠に惜むべき事也。

[やぶちゃん注:前二項と合わせて萩絡み(仙台は躑躅の名所でもあるからその絡みもある)で、以上の三本は明確な連関性の中で記された本書でも特異点の記載であることがはっきりと判る。しかし、萩と躑躅(ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron)を鳥居材とするというのはやはり不審である。調べてみると、現在の満潮時には海中にそそり立つ厳島神社の大鳥居(ここもそれを言っているとしか思われない)は楠(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora)製で、個人ブログ「樹樹日記」の厳島神社の鳥居によれば、通常では神社の鳥居には檜(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)が使われるが、この大鳥居は昔から楠と決まっているとある(ブログによれば仁安三(一一六八)年に平清盛が厳島神社を造営したその翌年にこの大鳥居の初代が造営されたとあるから、現在までは八百四十八年になる)。そこではその理由について『クスノキは昔から造船材料として使われたくらい水に強いので、脚が海に沈んでも大丈夫なようにクスノキを選んだのではない』かと推測されておられる。楠なんだ。やわな萩や躑躅なんぞではないぞ? 何だろう? この不審の萩材連投は?

「安永八年」一七七九年。徳川家治の治世。本書は寛政七(一七九五)年自序であるが、安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞奇譚をとり纏めたものであるから、「此度」は腑に落ちる。厳島神社公式サイト年譜にも確かに安永五年に大鳥居が落雷により炎上したとある。但し、「五百年來」とするが、初代の鳥居の建立の仁安四年から安永八年までは六百十年もある。]

譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事

○奧州仙臺宮城野の萩は、皆喬木にて火入(ひいれ)灰吹(はひふき)の具に造(つくり)たるものあり、往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染(そめ)なす事、萩の花ずりといへる事僞(いつはり)ならずと人のいひし。予近き頃松島にあそびてみやぎのを通りたるに、八月の末にして花すでに散(ちり)たりといへり。原町(はらのまち)といふ高き所より野をみつゝ行(ゆく)に、さのみ萩はらおほからず。はるかなる所なれば近く分(わけ)よりてみたらんには、さる事ありやしらず。但し又かく人のいへるは、今よりはるかに昔の事にや、奧州見聞の事はあこやの松といふものに記したれば、こゝに贅(ぜい)せず。

[やぶちゃん注:前の不審な京三十三間堂梁木の事奥州と萩絡みで連関するだけでなく、「往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染なす事、萩の花ずりといへる事僞ならず」というトンデモ記述でも似ている。但し、こちらは津村の実見体験であることを明記して記す点では、短いものの、「譚海」の中では一種の特異点とは言える。

「仙臺宮城野萩」「仙臺宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、細道」芭蕉(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。(グーグル・マップ・データ)で、以上から地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。ここで言う「宮城野」の「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギにはある。

「火入」煙草盆の中に組み込んで置く煙草の火種入れの容器。中に灰を入れ置いて火を熾(おこ)した切炭を中央に埋めておく。香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりと思われ、普通、火種を入れることから陶磁器製であり、萩の木で出来たそれというのはちょっと変わっていると私は思う。

「灰吹」やはり煙草盆の中に組み込んで置くもので、煙草を煙管で吸い終えた後、煙管の火皿部分に残った灰を打ち落とし入れるための筒状の容器。これも普通に見るそれは油抜きをした白竹或いは青竹製である。

「八月の末にして花すでに散たり」萩の開花時期は新暦の七月前後から九月前後までで、旧暦の八月末では遅いと新暦十月上旬頃になってしまい、ちょっと遅い。

「原町」「はらのまち」は現存する地名呼称とウィキの「原町(仙台市)の記載からかく読んでおいた。現在の宮城県仙台市宮城野区原町(はらのまち)を中心とした古い広域地名。現在の町域は(グーグル・マップ・データ)。以下、当該ウィキより引く。『かつて仙台市東部の広い範囲の町名に「原町」の名が冠されていた』。『仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町で、古くから多くの人が往き来していた。また、現在の宮城野区役所所在地の表記は「宮城野区五輪(ごりん)」であるが、この五輪は、かつて原町に含まれてい』て、昭和三(一九二八)年四月までは『宮城郡原町だった。その後、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名で広範囲において称されており、その面積は現在の青葉区と若林区の一部と宮城野区西部を占めていた』。『石巻街道の、仙台を出て最初にあった「原町宿(はらのまちじゅく)」が起源となっている。江戸時代には、塩竃湊から、舟入掘、七北田川、舟曳堀を経て苦竹まできた船荷が、牛車で原町宿の米蔵まで運ばれていた。以上のことから、原町は仙台の東のターミナルであった。のち、鉄道が開通してその地位を失ったものの、仙台の市街地拡大によって街の東端としての地位を得』ている、とある。

「あこやの松」底本の竹内氏の注に『津村淙庵の奥州紀行記』で現在、『写本が岩瀬文庫に残っている。二巻』とある。書名のそれは「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある千歳山(標高四百七十一メートル)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内のあこやの松(千歳山)の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。

「贅せず」必要以上の言葉は添えない。]

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