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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の133件の記事

2017/09/08

譚海 卷之二 檢校勾當放逸に付御仕置の事

 

檢校勾當放逸に付御仕置の事

○同七年十月盲人檢校勾當の輩高利金子貸し候て、證文には廿兩壹步(ぼ)の書付を取(とり)、内々にて嚴敷(きびしく)返金をはたりし事露顯し、盲人數輩入牢に處せられ、僞(いつはり)をかまへ高利金子を貸し、人に難儀かけし事御吟味きびしく、浪人のるい高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し、召(めし)とられ究問(きうもん)あり。八丁堀住居(すまゐ)吉田主税(ちから)、神田佐久間町住居細川下野(しもつけ)などいふ浪人も入牢せられたり。過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども也。鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたりといへり。都(すべ)て壹兩年已來檢校勾當のくつわやにあそぶ事平日の樣に成(なり)、公然として人の目を憚らず、松の内・五節句・月見等まで、おほかたは座頭の客人なりといひあへり。後皆々家財居宅御取上追放あり、一時に寥々(れうれう)となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「同七年十月」前条の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年の十月である。

「檢校勾當」それぞれ盲官(視覚障碍を持った公務員)の階位。「卷之二 座頭仲間法式の事」の私の「檢校」の注を参照のこと。

「盲人檢校勾當の輩高利金子貸し」底本の竹内氏の補註によれば、『いわゆる座頭金で、江戸時代は盲人の生活保護の意味で、盲人の金貸には返済その他に』(返済者側に厳しく、視覚障碍者である貸主に有利な)『特別の規制があった。そのため盲人の貸業は一般化し、こうした暴利をむさぼるものもでてきたのであ』った、とある。

「證文には廿兩壹步の書付を取」一例としての高額貸金を挙げたものであろう。江戸後期の一両を平均として現在の五万円と換算するとしても百万円相当、その日歩(にちぼ)でこれを現行のように百分率ととるならば一日一万円(これを金額に対する実金額の利息と採るならば、「一分(ぶ)金」と採れ、その場合は一両の四分の一相当で一万二千五百円に相当する)となり、とんでもない高利となる。

「はたりし」既出既注であるが、「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「かまへ」「構へ」。企んで。証文の偽造操作や牽強付会の詐欺的解釈による恐喝などを指すのであろう。

「浪人のるい」「浪人の類」。

「高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し」「連及」は「関連して関わり合うこと」であるから、証文偽造など詐欺的行為の中では被害者である借り主までも連座して捕縛取り調べが行われたのである。

「過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども」これは直前の「浪人」を指すのではなく、暴利を貪った盲官であろう。幾らなんでも浪人が高利の金を借りて、贅沢の限りを尽くした豪勢な屋敷を造って住んだというのでは意味が通らぬからである。但し、この八丁堀の吉田主税や神田佐久間町の細川下野(しもつけ)などいった浪人らが、借り主ではなく、そうした盲官の手下として借金利息の取り立ての際の恐喝などを行っていたというのならば、相応に金儲けして私腹を肥やしていたというのなら判らぬでもないが、にしても浪人の身で「普請奢侈を極」めることは当時としては、まず考えられないからである。但し、敷地家屋の名義をその盲官の所有としていた場合は絶対ないとは言えないが、すぐ後で鳥山検校の屋敷の奢侈が語られている以上、そうは絶対に採れない。

「鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたり」ウィキの「検校によれば、『官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』(下線やぶちゃん)とあり、古くから読ませて戴いている高木元氏のサイト「ふみくら」の「江戸読本の研究 -十九世紀小説様式攷-」の「第二章 中本型の江戸読本 第四節 鳥山瀬川の後日譚」事件事実と後日談その後の文芸化の様相が余すところなく検証されている。必読!(本「譚海」の条も載る) それによれば、「瀨川」は吉原松葉屋の妓女で五代目瀬川とし、見請けは安永四(一七七五)年で、鳥山の処罰は安永七年とする。

「くつわや」既出既注であるが、再掲する。轡屋(くつわや)で遊女屋を指す。特に、揚屋(太夫・格子などの上級遊女を呼んで遊ぶ家。江戸では宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に廃れた)に対して遊女を抱えておく置屋(おきや)を指した。語源に就いては「日本国語大辞典」には三説を載せ、①『京都三筋町のい遊女町を開いた原三郎兵衛はもと秀吉の馬の口取りで、異名を轡といわれたので、遊女屋へ行くことを隠語で轡がもとへ行こうと言いなれたところから〔異本洞房語園・大言海〕』、②『伏見撞木町の町割が十字割で、轡の形をしていたので轡町と呼んだところから』〔俚言集覧〕及び同様に『大橋柳町に女郎屋があった時、十字割の町割をして轡丁と呼ばれたところから〔吉原大全〕』、③『遊女屋の亭主が遊女を使うのは、馬に轡をかけて使うように自在であるから〔類聚名物考〕』とある。

「松の内」正月、松飾りを飾って祝う期間。多くは正月七日又は十五日までを指すことが多い。正月七日までの松の内を「松七日」とも称する。因みに、吉原には正月元旦は登楼出来ない。当日、楼店は総て休日であったからである。また、前者の七日までの「松の内」の間は吉原では御祝儀の特異点として「紋日(もんび)」と呼び、この間は「揚げ代」が倍額となる特別高額期間であって、実際には客足が遠退き、その不利益分はそのすべてを各遊女たちが自腹で負担しなければならなかったとされる。されば、ここも七日までと採るべきである。ここは弥生屋氏のブログ「猫侍のつれづれ草~弥生屋書林ぶろぐ~」の「2017年を迎えて~吉原の御正月~」の記載を参照した。

「五節句」人日(じんじつ:一月七日)・上巳(じょうし:三月三日)・端午(五月五日)・七夕(しちせき:七月七日)・重陽(ちょうよう:九月九日)の各節気。諸資料を見るに、これらの日の揚げ代は前注の「紋日」と同額である。

「月見」ウィキの「によれば、各月の十五日は勿論のこと、特に旧暦八月十五夜の「中秋の名月」以外にも、「後(のち)の月」と呼ばれる九月十三夜(豆名月(まめめいげつ)・栗名月(くりめいげつ)とも呼ぶ)があり、その後、一年の収獲の終わりを告げるとされた「十月十日夜の月」(或いは「三の月」とも呼ぶ)の月見があった。特に江戸の遊里に於いては『十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった』とある。これも妓女の巧妙な一連の定期収入として欠かせない日であったことが判る。

「おほかたは座頭の客人なりといひあへり」揚げ代が倍額となって通常の大通も二の足を踏む時節なれば、彼らの想像を絶した莫大な蓄財が想像出来よう。

「一時に寥々となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ」最後がまた、山椒が利いている。]

2017/07/20

譚海 卷之二 豆州大島火をふりて燒たる事

○安永六年夏の比より、伊豆大島燒(やけ)はじめて、海南へ火もえ出(いづ)る事あり。房州瀕海の地はこの燒(やく)るひゞき、地にこたへて地震(なゐ)のごとく、津浪あるべしとて恐怖にたへず。此もゆる火光(くわかう)夜には品川沖或ははねだ邊まで天に映じて見えたり。翌年猶もゆる事たえず、やうやくにして止(やみ)たり。

[やぶちゃん注:これは伊豆大島三原山の安永の大噴火である。三原山の歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火の一つで安永六(一七七七)年から翌年にかけて発生した。ウィキの「伊豆大島」によれば(記載が総てグレゴリオ暦なので独自に旧暦換算もしておいた)、一七七七年八月末(安永六年七月下旬相当)に『カルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛』(かざんもう:「ペレーの毛」(英語:Pele's hair:「ペレー」はハワイに伝わる火山の女神の名。火山の爆発の際にマグマの一部が引き伸ばされて髪の毛状になったものを指す。主に玄武岩由来のガラス質からなる褐色の細い単繊維で、典型的なものは断面が円形に近く、直径は〇・五ミリメートルより細く、長さは最大二メートルにも及ぶことがある)やスコリア(英語:scoria:火山噴出物の一種で塊状を成す多孔質のガラス質物質の中でも暗色のものを指し、「岩滓(がんさい)」とも呼ぶ。主に玄武岩質のマグマが、噴火の際に地下深部から上昇、減圧することによってマグマに溶解していた水などの揮発成分が発泡したために多孔質となったものである)『の降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが』、翌一七七八年二月末頃(安永七年一月末から二月末相当)まで続き、同年四月十九日(安永七年三月二十二日)から『激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った』。五月末頃(安永七年六月下旬相当)には一旦、噴火が沈静化したものの、十月中旬頃(安永七年八月下旬相当)より再び噴火が激しくなり、十一月(安永七年九月中旬から十月中旬相当)には『再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが』、一七八三年(天明三年)から『大量の火山灰を噴出する活動が始まり』、一七九二年(寛政四年)まで実に最初の兆候から十五年ほどに亙って『噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で』一メートル以上に『達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた』とある(下線やぶちゃん)。私は一九八六年十一月二十一日に始まった大噴火(溶岩噴泉高度千メートル以上、噴煙高度一万メートルに達した)を、翌日の夜、友人の車で遊びに行った江ノ島から偶然に目撃した。海上に妖しく垂直に立ち上ぼるオレンジ色のやや太い火の柱をよく覚えている。

{ふりて」は「降りて」或いは「振りて」で「降らして」或いは「火を振り散らすようにして」の謂いであろう。「燒たる」は「やけたる」と訓じておく。
  
「海南」底本では「南」の下にポイント落ちで「邊」の訂正注がある

「地震(なゐ)」読みは私の推定

「品川沖」三原山山頂からは直線で百キロメートルほど。

「はねだ」羽田沖で九十五、六キロメートルほど。最初に注した私が見た江ノ島は六十四キロメートルほどである。]

譚海 卷之二 上總國笹栗幷山邊赤人の事

○上總の方言に、古城の跡又は陣屋などをきでと云(いひ)、城出(きで)と云(いふ)也。又山の邊郡といふ所のくりの木は、みな高さ四五尺程にて悉く實(み)のる、[やぶちゃん注:読点はママ。]笹栗と稱してその國の名物也。他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし。山の邊に限りて栗の大木なし。この山の邊は歌仙赤人の生國なり。大和の國にも同名あれど、上總國正統のよしその處の人いひ傳ふ。萬葉集に赤人の眞間の詠歌あるも、郷國ゆゑ往來して詠ぜしなるべしと云。

[やぶちゃん注:冒頭は前条の方言談と連関している。

「山邊赤人」(やまべのあかひと ?~天平八(七三六)年?)は言わずもがな、柿本人麻呂とともに歌聖と讃えられる万葉歌人。

「きで」「城出」不詳。「日本国語大辞典」には見出しとして「きで」はない。但し、余湖氏の優れた城跡サイトのこちらに千葉県にある「木出城(吉岡城・四街道市吉岡字木出)」(吉岡地区は(グーグル・マップ・データ))の記載があり、その説明の最後に『「木出」の地名は「城出」あるいは「城台」がなまったものではないかと考えられている』とあるから、この「きで」「城出」という語は確かに千葉に存在したことが判る。

「山の邊郡」上総国及び旧千葉県にあった山辺郡(やまべぐん)。位置はウィキの「山辺郡(千葉県)で参照されたい。

「笹栗」ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の中でも、現在の各栽培品種の原種で山野に自生するものを指す。「シバグリ(柴栗)」「ヤマグリ(山栗)」などとも呼ばれ、栽培品種はこれに比べて果実が大粒である。現在でもこの原種はごく一部で栽培されているとウィキの「クリにある。

「他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし」意味不詳。栗の木は喬木になるでしょう?! 後の「山の邊に限りて栗の大木なし」とも矛盾した謂いとしか読めぬ。そもそも私の家の裏山にも高木の自生の栗の木がゴマンとあるぞ! 「實とまる事なし」の意味も分らん(実の歩留まりが悪いということ?)! お手上げ! どなたか御教授あれかし!

「この山の邊は歌仙赤人の生國なり」千葉県安房郡鋸南町町役場公式サイト内のきょなんのむかしばなしの「田子の浦」に、「万葉集」の『山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にある、田子の浦は、勝山海岸という説があります。江戸時代の神代学者、山口志道が発表した説です。勝山の田子台の下の海が田子の浦と呼ばれていたこと、赤人が上総国山辺郡(東金市)出身であるらしいことなどが根拠です。昔から富士の名所の鋸南』で、『冬の晴れた日などは、対岸の富士山は、すばらしくきれいに見えます』とある。

「大和の國にも同名あれど」かつての大和国にあり、現在も奈良県に山辺郡として残る。旧郡域や位置はウィキの奈良県山辺郡を参照されたい。古代、この山辺郡内であった奈良県宇陀市の額井岳の麓に「赤人の墓」と伝える五輪塔が現存する。中村秀樹氏のブログ「奈良に住んでみました」ので墓の画像が見られる。

「赤人の眞間の詠歌」「万葉集」の「卷第三」の三首の挽歌(四三一から四三三番歌)を指す。

 

  勝鹿(かつしか)の眞間娘子(ままのをとめ)が

  墓を過ぎし時に、山部宿禰(すくね)赤人の作る

  歌一首幷(あは)せて短歌

 

古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帶解き交(か)へて 臥屋(ふせや)建て 妻問(つまど)ひしけむ 勝鹿の 眞間の手兒名(てこな)が 奥つ城(き)を こことは聞けど 眞木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我われは 忘らえなくに

 

   反歌

 

我も見つ人にも告げむ勝鹿の眞間の手兒名が奥つ城處(きどころ)

 

勝鹿の眞間の入江に打ち靡(なび)く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ

 

「勝鹿」は現在の東京都葛飾区や埼玉県北葛飾郡及び千葉県市川市真間などの江戸川流域を指す。「倭文幡(しづはた)」は中国伝来の唐織(からおり)に対して、本邦に古来から伝わる地味で落ち着いた織り物のこと。私は高校時代に「真間の手児名」の話を知り、大学一年の春、市川に住む友人の案内で真間を訪れ、手児名の井戸や霊堂を巡ったことがある。懐かしい思い出である。]

譚海 卷之二 伯州丈次郎岩の事

 

伯州丈次郎岩の事

○中國の北の海邊の方言に坂をたをと云(いひ)、きのこをなはと云(いふ)。四十里たをといふ處(ところ)伯州(はくしう)の内にあり、三坂也。又(また)丈次郎岩といふあり、高さ二三丈程あり、その下(した)蜂(はち)の巣の如く穴明(あき)たり。往來の人くゞり通る、出雲より石見へ通ふ北海也。

[やぶちゃん注:「たを」「日本国語大辞典」に「たお(歴史的仮名遣:たを)」、漢字の「撓」を当て、『①山頂の道のあるところ。峠』とし、『②山と山とのくぼまっているところ。鞍部』とした上で、方言の二番目(一番目は鞍部のそれ)として『山の峠』を挙げ、兵庫県・鳥取県・石見・山口県などの中国地方を採集地としている。「坂」の方言とはしないものの、「山の峠」は同時に「坂」である

「なは」「日本国語大辞典」には「なば」と濁音で載り、『「きのこ(茸)」の異名』と明記した上で方言として『①きのこの笠』(島根県)、『②きくらげ(木耳)』(福岡県)、『③まつたけ(松茸)』(奈良県と広島県)、『④きのこ類の総称』(中国及び九州・石見広島県山口県及び九州各地)を挙げており、中国地方から南に広く分布することが示されてある。

「四十里たをといふ處伯州の内にあり、三坂也」「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県中部及び西部域であるから、これは「三坂」と地名(坂名?)からは現在の鳥取県西伯郡大山町今在家(大山の西北)にある三坂峠が候補としてまず挙げられる。「峠データベース」のこちらで位置が確認出来る。しかし、最初の「四十里」坂(たお)の名を重視するならば、鳥取県日野郡日野町と岡山県真庭郡新庄村との間にある「四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)」というのも気になってくる。上記の三坂峠の別称には「四十里峠」というのは見当たらないことと、「里」は草書の「曲」の字と誤読とも思われなくもないからである。なお、伯耆国ではないが、同じ中国地方の島根県邑智郡邑南町と広島県山県郡北広島町を結ぶ峠に「三坂峠(みさかだお)」という峠が存在することも付記しておきたい。

「丈次郎岩」不詳。識者の御教授を乞う。島根県益田市匹見町道川下道川下に丈次郎城という城があったらしいが(城跡として残る)、ここは「出雲より石見へ通ふ北海」ではない山家であるから違う。

「二三丈」約六~九メートル。]

譚海 卷之二 濃州養老の瀧神社黃金竹の事

○美濃養老の瀧の邊に神社あり。その社(やしろ)のうしろに黃金竹(こがねたけ)といふもの年々二本づつ叢生す。壹年限かぎり)にて枯(かる)る、黃金の色にして異竹也。他所に移し植れども生ずる事なし、江戸へも持來(もちきた)りしを見しに、誠に其ことのごとし。

[やぶちゃん注:「美濃養老の瀧」現在の岐阜県養老郡養老町にある落差三十二メートル、幅四メートルの瀧。鎌倉時代の「十訓抄」の「第六」の「忠直を存ずべき事」 の第十八話にある「養老の孝子」や、同期の「古今著聞集」の「卷八」に載る「孝行恩愛 第十」等に記される瀧水が酒になったという親孝行奇譚の古伝承などでよく知られる。

「神社」養老神社。(グーグル・マップ・データ)。養老の滝の四百メートルほど下流の左岸に位置する。

「黃金竹(こがねたけ)」読みは日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の黄金竹」に拠った。同記載は本「譚海」のこの記載を原出処とする。なお、現在、黄金竹なる和名を持つ竹は実在する。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoidesの品種であるオウゴンチクPhyllostachys bambusoides f. holochrysa である。竹図鑑」同種解説によれば(リンク先に写真有り)、『マダケの黄金型』で、稈(かん:竹の中空になっている茎部分の植物学上の呼称)が黄色を呈し、『緑の縦縞が不規則に入る場合もある』。但し、現在、この竹が同地のみに特異的に植生しているなどということは確認出来なかった(ネット検索で掛かってこない)。画像を見る限り、黄金というほどのことはなく、寧ろ、普通に乾燥させた竹の色に似ているように私には見える。

「誠に其ことのごとし」事実、その噂通り、根づかなかったというのである。しかもその枯れたものを津村は実際に見たと言っている。植物の実見談として前の萩譚などとやはり連関した記載と言える。]

譚海 卷之二 藝州嚴島明神の鳥居

○藝州嚴島明神の鳥居は、萩とつゝじの樹とを以て建(たて)たる二柱なりとぞ。安永八年夏雷火にて燒亡せり。五百年來をへて希代のもの也しを、此度(このたび)燒亡せし事誠に惜むべき事也。

[やぶちゃん注:前二項と合わせて萩絡み(仙台は躑躅の名所でもあるからその絡みもある)で、以上の三本は明確な連関性の中で記された本書でも特異点の記載であることがはっきりと判る。しかし、萩と躑躅(ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron)を鳥居材とするというのはやはり不審である。調べてみると、現在の満潮時には海中にそそり立つ厳島神社の大鳥居(ここもそれを言っているとしか思われない)は楠(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora)製で、個人ブログ「樹樹日記」の厳島神社の鳥居によれば、通常では神社の鳥居には檜(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)が使われるが、この大鳥居は昔から楠と決まっているとある(ブログによれば仁安三(一一六八)年に平清盛が厳島神社を造営したその翌年にこの大鳥居の初代が造営されたとあるから、現在までは八百四十八年になる)。そこではその理由について『クスノキは昔から造船材料として使われたくらい水に強いので、脚が海に沈んでも大丈夫なようにクスノキを選んだのではない』かと推測されておられる。楠なんだ。やわな萩や躑躅なんぞではないぞ? 何だろう? この不審の萩材連投は?

「安永八年」一七七九年。徳川家治の治世。本書は寛政七(一七九五)年自序であるが、安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞奇譚をとり纏めたものであるから、「此度」は腑に落ちる。厳島神社公式サイト年譜にも確かに安永五年に大鳥居が落雷により炎上したとある。但し、「五百年來」とするが、初代の鳥居の建立の仁安四年から安永八年までは六百十年もある。]

譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事

○奧州仙臺宮城野の萩は、皆喬木にて火入(ひいれ)灰吹(はひふき)の具に造(つくり)たるものあり、往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染(そめ)なす事、萩の花ずりといへる事僞(いつはり)ならずと人のいひし。予近き頃松島にあそびてみやぎのを通りたるに、八月の末にして花すでに散(ちり)たりといへり。原町(はらのまち)といふ高き所より野をみつゝ行(ゆく)に、さのみ萩はらおほからず。はるかなる所なれば近く分(わけ)よりてみたらんには、さる事ありやしらず。但し又かく人のいへるは、今よりはるかに昔の事にや、奧州見聞の事はあこやの松といふものに記したれば、こゝに贅(ぜい)せず。

[やぶちゃん注:前の不審な京三十三間堂梁木の事奥州と萩絡みで連関するだけでなく、「往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染なす事、萩の花ずりといへる事僞ならず」というトンデモ記述でも似ている。但し、こちらは津村の実見体験であることを明記して記す点では、短いものの、「譚海」の中では一種の特異点とは言える。

「仙臺宮城野萩」「仙臺宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、細道」芭蕉(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。(グーグル・マップ・データ)で、以上から地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。ここで言う「宮城野」の「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギにはある。

「火入」煙草盆の中に組み込んで置く煙草の火種入れの容器。中に灰を入れ置いて火を熾(おこ)した切炭を中央に埋めておく。香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりと思われ、普通、火種を入れることから陶磁器製であり、萩の木で出来たそれというのはちょっと変わっていると私は思う。

「灰吹」やはり煙草盆の中に組み込んで置くもので、煙草を煙管で吸い終えた後、煙管の火皿部分に残った灰を打ち落とし入れるための筒状の容器。これも普通に見るそれは油抜きをした白竹或いは青竹製である。

「八月の末にして花すでに散たり」萩の開花時期は新暦の七月前後から九月前後までで、旧暦の八月末では遅いと新暦十月上旬頃になってしまい、ちょっと遅い。

「原町」「はらのまち」は現存する地名呼称とウィキの「原町(仙台市)の記載からかく読んでおいた。現在の宮城県仙台市宮城野区原町(はらのまち)を中心とした古い広域地名。現在の町域は(グーグル・マップ・データ)。以下、当該ウィキより引く。『かつて仙台市東部の広い範囲の町名に「原町」の名が冠されていた』。『仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町で、古くから多くの人が往き来していた。また、現在の宮城野区役所所在地の表記は「宮城野区五輪(ごりん)」であるが、この五輪は、かつて原町に含まれてい』て、昭和三(一九二八)年四月までは『宮城郡原町だった。その後、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名で広範囲において称されており、その面積は現在の青葉区と若林区の一部と宮城野区西部を占めていた』。『石巻街道の、仙台を出て最初にあった「原町宿(はらのまちじゅく)」が起源となっている。江戸時代には、塩竃湊から、舟入掘、七北田川、舟曳堀を経て苦竹まできた船荷が、牛車で原町宿の米蔵まで運ばれていた。以上のことから、原町は仙台の東のターミナルであった。のち、鉄道が開通してその地位を失ったものの、仙台の市街地拡大によって街の東端としての地位を得』ている、とある。

「あこやの松」底本の竹内氏の注に『津村淙庵の奥州紀行記』で現在、『写本が岩瀬文庫に残っている。二巻』とある。書名のそれは「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある千歳山(標高四百七十一メートル)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内のあこやの松(千歳山)の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。

「贅せず」必要以上の言葉は添えない。]

2017/07/19

譚海 卷之二 京三十三間堂梁木の事

○京都三十三間堂の梁は、六十六間通りたるものにて萩の樹なるよし、羽州秋田郡勝平山より出(いづ)といふ銘きりつけてありといへり。

[やぶちゃん注:「京三十三間堂」現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻町にあるそれは、正式名称を蓮華王院本堂と称し、近世以降は現在の東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院の境外仏堂となり、同院が現在も所有管理をしている。ここに記されているような三十三間堂の梁の素材・記銘についてはネット上では全く確認出来ない

「六十六間」これは「三十三間堂の一間(けん:これは距離単位の「間(けん)」ではなく、柱と柱の間を「一間(けん)」と呼ぶ建築用語)が通常距離単位の二間(けん)分に当たる」という説明から出た厳密な意味に於いては誤認識に基づく記載である。ウィキの「三十三によれば、『三十三間堂の名称は、本堂が間面記法』(けんめんきほう:奈良期から南北朝に用いられた建築の平面・規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は母屋と廂(ひさし)によって構成され、母屋の間口(梁行)柱間を「何間」と表わし、奥行(梁間)は通常は柱間二間であったから省略されて母屋に「何面」の廂が附いているかで表記された)『で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間』『の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が』三十三『あるのは本堂の内陣』(母屋)であって、『建物外部から見る柱間は』三十五である。現在は正面に七間の向拝(こうはい/ごはい:仏堂や社殿で屋根の中央が前方に張り出した部分の称)を付けているるが、これは慶安二(一六四九)年から四年頃に増築されたものである。『ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である』。しかも『三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく』、『その柱間も』、現在、『柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない』ものである。「三十三間堂の一間(柱間)は今日の二間(十二尺)に相当する」として堂の全長を「33×2×1.818で約120メートル」と『説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである』(但し、『実際の外縁小口間の長さ』は約百二十一メートルで、殆んど一致する)』とある。

「萩」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza であるが、不審。木本類ではあるが、凡そ梁に使える木ではない。伊原恵司氏の論文「古建築に用いられた木の種類と使用位置について」(PDF)を見る限り、ヒノキ・ヒバが圧倒的で次にツガ・マツ・ケヤキ・スギ・クリ等が並び、これらが素材の殆んどである。私の好きな人形浄瑠璃に「卅三間堂棟由來(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(文政八(一八二五)年初演)があるが、あれはまさに白河法皇の病気の原因を取り除くために三十三間堂の棟木に柳の大木を用いることになるという設定であるが、これは実際の伝承をインスパイアしたもので、ウィキの「三十三によれば、『後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ』、『「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された』とあるのだが、この芝居、見ながら、不思議に思ったことがある。柳の木は柔らか過ぎてとても梁には使えんだろうという不審であった。ここでまたしても不審が増えてしまった。何方か、私のこの波状的不審を解いては戴けまいか?

「秋田郡勝平山」現在の秋田県秋田市勝平(かつひら)地区。周辺(グーグル・マップ・データ)。ここに記された内容が事実なら、ネット上の検索に掛かってきてよさそうなものだが、ここから三十三間堂の梁材が供給されたという事実は出てこない。識者の御教授を乞う。]

2017/07/13

譚海 卷之二 奥州二本松人家杉引割ける中に人形ある事

○奧州二本松に所住の百姓某なるものの門前に、榎の木一もとあり。五六百年のものにて十圍(かかへ)に及べり。此百姓徴祿に成(なり)、此樹を伐(きり)たふし用に遣はんとす。杣人(そまびと)をやとひて伐らせける時、怪敷(あやしき)事ども有ければ杣人はいなみけれど、主人しひてたのみければ、終にきりたふし引(ひき)わりて見るに、片へらは朽(くち)て用にたゝず、片へらは生氣ありてその中に人の立(たち)たるかたちあり、さながら生(いき)たる如く、文理(もんり)鮮明にして鬢髮手足の掌のすぢまで分明に有(あり)ければ、主人もおそれて用に遣はず、家に祕しをさめて今に所持せり、正しく見たる人の物語也。

[やぶちゃん注:「奥州二本松」現在の福島県中通りの北に位置する二本松市。市の最西端に安達太良山(あだたらやま)が、中央部を鈎型に阿武隈川が縦断する。(グーグル・マップ・データ)。

「人形」「ひとがた」。木目にある染みのシミュラクラ。

「五六百年」本書刊行(寛政七(一七九五)年自序)時から機械的に換算すると、建久六(一一九五)年~永仁三(一二九五)年で、前は鎌倉幕府第一代将軍源頼朝が征夷大になり鎌倉幕府を開いたとされる年から二年後で、後ろは第八代将軍久明親王で執権は第九代北条貞時の頃となる。

「十圍」人体尺の両腕幅に相当する「比呂」(一比呂は百五十一・五センチメートル)で換算すると十五メートル十五センチ。

「片へら」「傍片(かたへら)」は対で一つとなっている対象物の一方。片方。かたっぺら。]

譚海 卷之二 同國相馬文内事

○又同國藤ケ谷(ふじがや)村といふ所に、相馬文内といふ郷士あり。平の將門の子孫にて、相馬家へも親類にて往來す。その家に所持の幕、つなぎ馬の紋なるものは將門より傳來せるもの也。公儀よりも指上(さしあげ)候樣に命ありし處、一石にても御知行頂戴仕候はば差上申べく候、此より外に家の系譜無ㇾ之(これなき)候よし申立(まうしたて)、その事止(やみ)たりとぞ。此幕土用干せし折節、地頭そのそばを馬上にて通(とほり)たるに落馬せしとぞ。

[やぶちゃん注:「同國藤ケ谷村」同じくまたまた前話の続き。現在の千葉県柏市藤ケ谷か。(グーグル・マップ・データ)。

「相馬文内」不詳ながら、「ぶんない」と読んでおく。但し、柏市公式サイト内の将門伝説と相馬氏によれば、現在の柏市を含んだ中世の旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られているとある。相馬氏は下総国北西部(現在の千葉県北西部)及びその後に陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した豪族で、始祖は桓武平氏良文流千葉氏庶流であった相馬師常。鎌倉初期の名武将千葉常胤の次男で父から相馬郡相馬御厨(みくり:現在の千葉県北西部の松戸から我孫子にかけての一帯)を相続したことに始まる。

「つなぎ馬の紋」杭に繫いだ馬を紋所として形象化したもの。相殿に将門を祀る東京都千代田区九段北にある神社築土(つくど)神社の公式サイト内の(6)将門の繋ぎ馬(つなぎうま)を参照されたい。将門が使用したという「繋ぎ馬」を描いた陣幕の画像もある。]

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