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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の169件の記事

2018/07/20

譚海 卷之二 攝州摩耶山燒亡の事 / 譚海 卷之二~完遂

 

攝州摩耶山燒亡の事

○天明元年攝州摩耶山上の堂塔燒亡せり。そののちひひといふもの出(いで)て人をとりくふとて、參詣登山する人なしとぞ。

[やぶちゃん注:これを以って「譚海 卷之二」は終わっている。

「天明元年」一七八一年。

「攝州摩耶山上の堂塔」兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある真言宗佛母摩耶山(ぶつもまやさん)忉利天上寺(とうりてんじょうじ)。摩耶夫人(釈迦の生母)を本尊とする日本唯一の寺。(グーグル・マップ・データ)。

「ひひ」「狒々」。しかし、ここに妖怪のそれが蔓延ったというのは不詳。識者の御教授を乞う。]

譚海 卷之二 丹後由良港さかさ沓の事

 

丹後由良港さかさ沓の事

○丹後の由良の湊にさかさ沓(くつ)と云(いふ)故事有。「つし王丸(わうまる)」といふ冠者(かじや)三莊太夫(さんしやうだいふ)が許(もと)をにげて京へ登る時に、雪中に沓を跡になしはきてにげたる故、雪につける足跡奧の方へ行(ゆき)けるやうに見えしかば、追手の者奧のかたをとめて求めし故、のがれて京へ入(いる)事をえたりといふ。

[やぶちゃん注:柴田宵曲の「奇談異聞辞典」に「逆沓(さかぐつ)」として、『丹後の由良の湊に「逆沓」という故事がある。つし王丸が、三荘太夫の許(もと)から脱出して京へ上る時、沓を前後逆にはいて、雪中を逃げた。そのため、雪についた足跡は奥丹後へ向かうように見え、追手は奥丹後方面を捜したので、つし王丸は無事に京へ入ることができた』とまるっきり本条を元にして記している。

「丹後の由良の湊」現在の京都府宮津市由良。(グーグル・マップ・データ)。

「つし王丸(わうまる)」「厨子王(づしわう)」のこと。山椒太夫(こちらは歴史的仮名遣「さんせうだいふ」)説話の彼である。

「とめて」「留めて」か。「心に留めて・注意して」か。]

譚海 卷之二 京師竹の皮駕籠舁の事

 

京師竹の皮駕籠舁の事

○京都にては竹の子の皮をすてず、日にほしてこまかに引さき、薪にまぜて用(もちふ)る也。又四方の山に風を隔(へだつ)るゆへ、京都は雨(あめ)竪(たて)に降る也。駕籠かくものも傘をさしてかごをかく也。

[やぶちゃん注:駕籠舁(か)きは普通は雨でも邪魔になるので傘はささない。しぶかないから、舁き棒に直角にきつく結わえておけば、こと足り、濡れずに済むということだろうか。]

譚海 卷之二 明智日向守墓幷石川五右衞門の手のかたの事

 

明智日向守墓幷石川五右衞門の手のかたの事

○京都三條通白川橋の出(で)はづれ、九町といふ所に弓屋と云(いふ)茶屋有。その裏に古き墳墓あり、是(これ)明智日向守の墓也とぞ。又山崎(やまざき)寶寺(たからでら)の門のはしらに人の手の跡あり。是は盜人石川五右衞門なる者の手のかた也といへり。

[やぶちゃん注:前者は明智光秀の首塚と伝えられる、現在の京都府京都市東山区梅宮町(ここ(グーグル・マップ・データ))にあるもの。但し、実際の首塚は粟田口附近にあったもので、ここは移転した供養地に過ぎない。

「山崎寶寺」京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある真言宗天王山又は銭原山(古くは「補陀洛山」と称した)宝積寺(ほうしゃくじ)。(グーグル・マップ・データ)。『聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があ』る、とウィキの「宝積寺にあった。この寺の「石川五右衞門なる者の手のかた」は現存しない模様。南西ごく直近にある大阪府三島郡島本町((グーグル・マップ・データ))にある水無瀬神宮神門にならば、「石川五右衛門の手形」が現存するから、これの誤伝かも知れぬ。ブログ「計画的日常譚」の「石川五右衛門の手形が! 水無瀬神宮に写真有り。どどんぱ氏によれば、『この神社に祀られた名刀を盗もうとしていた石川五右衛門が結局盗むことができず、手形だけを残して立ち去った』とある。]

譚海 卷之二 作州朝鮮人子孫ある事

 

作州朝鮮人子孫ある事

○美作國に朝鮮人の子孫の家三軒有(あり)。是は豐臣太閤朝鮮征伐の時とりこにして來たる子孫、をのづから彼國に住居して世家(せいか)に成(なり)たる也。此三軒のものをば、今に其所(そのところ)のもの唐人と呼(よばは)るよし。

[やぶちゃん注:「美作國」現在の岡山県東北部の津山市を中心とした一帯。(グーグル・マップ・データ)。

「世家」ある種の公的特権を持って世襲した家柄。

「唐人」読み不詳。「からびと」か「とうじん」か。]

譚海 卷之二 肥後國めもら主膳殿事

 

肥後國めもら主膳殿事

○肥後の圖にも米良(めら)主膳と稱するもの、一村の主人にて、近來まで年貢等も不持出(さしいださず)、深山中(しんざんちう)の一村に居たるものなり。五千石の知行に被仰付(おのせつけられ)、今は交代寄合(こうたいよりあひ)に入置(いれおか)れしと也。古來よりの所帶高(しよたいだか)いか程(ほど)といふ事を知らず、五千石は當時の御定高(ごじやうだか)也とぞ。

[やぶちゃん注:標題の「めもら」はママ。底本の竹内利美氏の注に、『肥後ではなく日向の米良氏。宮崎県米良谷』(米良村は(グーグル・マップ・データ))『は椎葉谷』(椎葉村は米良村の北に接する、(グーグル・マップ・データ))『とならび称される山の里で、一種の隠里であった。無年貢で、後にその主は五千石の交代寄合』(江戸幕府の職名で、一万石以下三千石以上の非職の旗本で幕府と特殊な関係にあった家系の者に限られた。老中支配で、身分格式は譜代大名に準じ、領地に常住したが、隔年に参勤交代した。凡そ三十余家があった)『になったという』とある。平凡社「世界大百科事典」の「米良荘」によれば、宮崎県中部を東流する一ッ瀬川の上流一帯を指す地域名で米良山地ともいう。行政的には西都市東米良地区と児湯(こゆ)郡西米良村に属する。山地は中生代の四万十(しまんと)層群に属する粘板岩と砂岩を主体にした九州山地を一ッ瀬川の本・支流が浸食したもので、高い所で標高千メートル内外であるが、谷の傾斜が急で、古くから、北方の椎葉とともに平野部から隔絶した地域として隠田集落的性格を持ち、独特の民俗を有した。古い時代の歴史は不詳ながら、十五世紀初め、肥後の菊池氏が後醍醐天皇の子孫を奉じてこの地に入山し,米良氏と改姓して支配したと言われている、とある。

「米良(めら)主膳」彼と相良藩との関係については、熊木大学寿PDF)の「3)研究成果」の「A)藩政期の支配関係」と「B)藩政期米良の社会経済構造」がよい。事実どうであったかは別として、米良氏自身は菊池氏の子孫であると信じていたらしく、『米良主膳則重の墓には、氏は菊池としるしている。米良氏は米良の山地によって明治の初めまでよく家運を支え、幕末には山中から勤王運動にのりだし』たと、宮本常一(つねいち)の「山に生きる人びと」(未來社『日本民衆史』二・昭和三九(一九六四)年刊)にはある。]

譚海 卷之二 紀州熊野鈴木三郎子孫の事

 

紀州熊野鈴木三郎子孫の事

○紀州熊野那智邊に鈴木三郞と稱する鄕士あり。則(すなはち)源九郞義經の家臣の末孫也。これも一村主人と尊(たつと)み、紀州御入國の時も立(たち)ながら式臺(しきだい)する程の事にて、一向年貢も指出(さしだ)す事なく、今に所住するとぞ。

[やぶちゃん注:「鈴木三郎」源義経に従い、源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍したが、衣川館で義経と最期をともにしたとされる武将鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主であ』った彼は、『平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる』。「義経記」には『義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか』、「源平盛衰記」でも『義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ』、「治承・寿永の乱」では『義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中』では、一度、幕府方に『捕らえられて、頼朝の前に引かれた』。その『時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。「義経記」に『よると、義経主従が奥州高館の衣川館で藤原泰衡の討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足を踏み外して痛めながらも熊野より到着し、源義経より佐藤兄弟(佐藤継信・佐藤忠信)の残した鎧を賜った』としている。文治五(一一八九)年閏四月三十日、泰衡は五百騎の『兵をもって、武蔵坊弁慶、重家、重清らわずか』十『数騎の義経主従を襲撃した(衣川の戦い)。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我らが優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重清兄弟が鼓と笛ではやしたて、弁慶はうたいながら』、『舞った。その後、重家、重清、弁慶は馬を並べて太刀を抜き、大声で喚きながら馬を駆けたために敵は秋風が木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる』。『重家は、逃げていく泰衡の郎党・照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩を斬りつけ、照井太郎を引き下がらせた。重家はその他にも左手に』二『騎、右手に』三『騎を斬り倒し』、七、八人に『手傷を負わせたところで』、『自分も深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉に太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる』。享年三十三歳、『重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三、『弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言いながら大勢の中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため』、『故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため』、『鈴木山重染寺を建てたと云われる』。但し、『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されて』おり、また『他に、平泉を脱した後、義経の命により』、『岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。

「紀州御入國の時も立ながら式臺する程の事にて」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)が駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩藩主となって入国した折り(元和五(一六一九)年))のことか。「立ながら式臺する」屋敷の玄関に設けられた板敷きの部分に立ちながらに礼したということか。

「一向年貢も指出す事なく、今に所住するとぞ」こんなことが許されていたとは、ちょっと信じ難いのだが?]

譚海 卷之二 元文年中武州秩父領山中隱里發見の事

 

元文年中武州秩父領山中隱里發見の事

○元文年中田中久五郞殿秩父領御代官の時、大雨の後山中より古き椀の類多く流れ出(いで)しまゝ、此奧に人家有(あり)やと尋られしに、未だ存ぜず候由申せども、不審に思はれ、手代兩人に申付(まうしつけ)、獵師五人鐡炮を持せ、鍋釜飯料(めしりやう)等迄用意し出(いだ)し候處、其夜は山中に寄宿し、明朝又々山ふかく分入(わけいり)たるに、豁然(かつぜん)たる一大村に至り、所のものに此村の主はいづくぞと尋ければ、向ひの門(もん)有(ある)家當所の殿さまに御座候と申候まゝ、卽刻歸り右の次第申候まゝ、久五郞殿江戸へ御伺(おんうかがひ)申上(まうしあげ)られ候處、猶又とくと穿鑿致候樣に仰付(おほせつけ)られ、久五郞殿人數千人斗り召つれ罷越(まかりこし)、例の如く山中に一宿し、翌朝右の村に至り、直(ただち)にさきの殿さまといへる家へ案内をこひ、主人に對面し、是までいづかたへみつぎ物差上(さしあげ)候や、此度(このたび)上意にて御尋被ㇾ成(おたづねなられ)候由申候時、只今迄一向何(いづ)かたへも貢物差出候事無ㇾ之(これなく)候が、年々貢物差上度(たく)心願(しんぐはん)有ㇾ之候へども、今まで幸便(こうびん)なくもだし罷在(まかりあり)候、難ㇾ有(ありがたき)事也とて御請申(おんうけまうし)ければ、則(すなはち)上(かみ)より竿(さお)を御入被ㇾ成(おいれなられ)、地面御吟味の所、大がい五千石程の地也(なり)、書上(かきあげ)には千石と申上候事也。武州といへども山中なれば此比(このころ)まではかく知れざる隱里(かくれざと)もありけり、珍しき事也とぞ。

[やぶちゃん注:「元文」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「田中久五郞」不詳。

「幸便」そこへ行く、又はそこへ何かを届けるのに好都合な機会。

「竿」検地の測定に用いる竿。]

譚海 卷之二 遠州見附冷酒淸兵衞事

 

遠州見附冷酒淸兵衞事

○遠州見付宿に植村淸兵衞と云(いふ)もの有。一名は冷酒淸兵衞と號する由、此由來は東照宮御敗軍の時、此者の先祖に酒御乞(おこひ)被ㇾ成(なられ)、あたゝめて參らせよとありしを、かやうの牽迫(ひつぱく)成(なる)際にてはあたゝめずと召せとて冷酒のまゝまゐらせしより此號有。今も二三年に壹度づつ江戸へ罷出(まかりいで)、御老中𢌞(ごらうちうまは)り致し、御禮申上候由、此(この)供(とも)の人足は片桐家より仕(し)たて出(いだ)す事、古例ある事なるよしいへり。

[やぶちゃん注:享和三(一八〇三)年成立の「遠江古蹟圖會」の「冷酒之由緒」に(国立国会図書館デジタルコレクションのから。但し、リンク先は写本)、『慶長年中、關ヶ原戦の砌り、神君御通行有ㇾ之(これある)節(せつ)、見附宿の側松原に出(いで)て酒賣者有(ある)折節、冬御陣なれば、軍卒も寒空(さむそら)を凌ぎて右の酒店(しゆてん)にて八文酒を飮(のみ)をる』。『家康公も酒店御立寄』になられ、家康に冷酒を勧めたことから、帰陣の後、帯刀御免となり、植村清兵衛と名乗り、毎年正月、江戸へ年頭の御礼に出るとあり、穴が一つある「アケヅノ箱」を伝来、家が没落に及ぶならば大公儀へ持出すべしとの墨付を添えているといったことが絵入りで書かれてある。

「遠州見付宿」現在の静岡県磐田市中心部。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「東照宮御敗軍」前の話では「関ヶ原の戦い」への出陣の途中とするが、中遠広域事務組合公式サイトし」十二冷酒清兵衛(ひやざけせいべえ)(磐田市)では、『家康をねらっていた武田方の武士に追われて、命か』ら『がら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を何とか追っ手から守らなければと、見付宿のあちこちに火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました』(この清兵衛訪問は二度目)。『武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。南を回れば水田で遠く、北は山道で追うこともできず、立ち往生していました。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、翌日、無事、浜松城へ帰ることができました』とある。菊蔵ブログ菊蔵の旅と歴史ブログの「徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 二十二話には「遠江古蹟圖會」と同じく関ヶ原出陣とした話とこれを併載してあるのでそちらも参照されたい。この実話伝には幾つかのヴァージョンがあるらしい。

「牽迫」「逼迫」。

「片桐家」豊臣家の家老で豊臣秀頼の傅役を務めたが、家康に協力的な立場をとり、方広寺鐘銘事件の際に大坂城を退出し、徳川方に転じた片桐且元から始まる片桐家(且元直系は明暦元(一六五五)年に無嗣断絶で絶えたが、大和小泉藩藩主となった弟片桐貞隆の家系が明治まで大名として存続している)。]

譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事

 

江戸深川にて川太郎を捕へし事

○安永中江戸深川入船町にて、ある男水をあびたるに、川太郞其人をとらんとせしを、此男剛力なるものにて、川太郞を取すくめ陸(おか)へ引上(ひきあげ)、三十三間堂の前にて打殺(うちころ)さんとせしを、人々詫言(わびごと)して川太郞證文を出(いだ)しゆるしやりたり。已來此邊にて都(すべ)て河太郞人をとる間數(まじき)由、其證文は河太郞の手判を墨にておしたるもの也とぞ。

[やぶちゃん注:「安永」一七七二年~一七八一年。

「江戸深川入船町」現在の東京都中央区入船。旧京橋区の京橋地域内。(グーグル・マップ・データ)。ああ、その頃には、まだ、江戸に河童が生き生きと生きて居たんだなぁ。

「川太郎」河童の異名。

「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。]

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