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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の196件の記事

2018/11/20

譚海 卷之三 土御門家の事

 

土御門家の事

○土御門は陰陽博士(おんみやうはかせ)家也、因て改曆の事を掌る。其家、制作する所の測量の書器等あれども、古代の物にして、西洋の精密なるにしかざるゆゑ、今時(きんじ)は關東に測量所を置(おか)れ、御沙汰あれば空名(くうめい)を持(じ)するのみ也。

 又遠江三河より來る年始萬歳(ねんしまんざい)の免許も土御門より出す。文字は板行(はんぎやう)にて、土御門政所(まんどころ)の印有(あり)、三年に壹度つつ白銀一兩つつを出(いだ)し引替(ひきかへ)に登る、惣萬歳の名代(みやうだい)として一人上京する事也。道中關所川渡(かはわたり)等も此免許をもつて通る事也。

[やぶちゃん注:改行はママ。特異点である

「土御門家」安倍氏嫡流の土御門家のこと。室町時代の陰陽師安倍有世(ありよ嘉暦二(一三二七)年~応永一二(一四〇五)年:平安期のゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によれば、『安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様』、『本姓ではなく』、『家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり』、『若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり』、『庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』とある。

「陰陽博士家」ウィキの「陰陽博士を引く。『律令制で陰陽寮に設置された教官の』一『つ。陰陽師を教育することを掌った。定員』一『名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当』。「日本書紀」の持統天皇六(六九二)年の『条が初出。ただし、定員については』「続日本紀」の養老五(七二一)年に、大津首(おおつのおびと 生没年不詳)と津守通((つもり のとおる 生没年不詳)の『両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生』十『名を教育するのが役目であったが』天平二(七三〇)年に、『陰陽寮強化の一環として』、内三名を『陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田』四『町が与えられた』。『奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳』(しげおか)『氏などが、平安中期には惟宗』(これむね)『氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった』とある。

「改曆の事を掌る」陰陽博士やその直属の陰陽師はそうした教育職と並行して、中務省陰陽寮の機関官員としえ、占術もさることながら、天文・時・暦の編纂を主に担当する部署としての役割が目立ったものとなっていった。ウィキの「陰陽寮によれば、『四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している』。『博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦』三『博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ』。『因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている』。『飛鳥時代(』七『世紀後半)に天武天皇により設置され、明治』二(一八六九)年に『時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として』、『翌年』、『廃止された』とある。天文観測や時間管理の関係上、計測のための「測量」機器類が必需品であったのである。

「今時」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村淙庵の見聞奇譚をとり纏めたもの。

「測量所」江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関で、主に編暦を司った「天文方(てんもんかた)」のこと。ウィキの「天文方によれば、渋川春海が幕府最初の公定暦としての「貞享暦」を作製し(この瞬間に土御門家の役割は終わった)、その功績を認められて『天文方に任じられた翌』年の貞享二(一六八五)年に牛込藁町の地に司天台を設置した』が、元禄二(一六八九)年には本所、同一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転』した。『春海の没後』、延享三(一七四六)年に『神田佐久間町』へ、明和二(一七六五)年には『牛込袋町に移り』、天明二(一七八二)年になって、『浅草の浅草天文台(頒暦所』(はんれきしょ)『とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用され』ており、『高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に『渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。明治二(一八六九)年に『天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止され』た。従って、ここで言う「測量所」は「浅草天文台」ということになる。

「空名を持する」公的に暦を出すに当たって、朝廷の陰陽博士として、ただ名前だけを記した(貸した)のである。

「年始萬歳」三河萬歳(みかわまんざい)のこと。愛知県の西三河地方を根拠地として(正統な狭義の文化芸能としてのそれは愛知県西尾市上町(かみまち)の「森下万歳」(西野町万歳と、同県安城(あんじょう)市別所町の「別所万歳」の二つである。ここは予祝行事を生業とした広義の大道芸のそれであるが、そこに本文に出る「惣萬歳」はいて、そうした連中たちの元締めをしていたものであろう)、正月初頭に、主に関東・関西地方を門付けして回る祝福芸。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が一組となり、才蔵の打つ鼓の拍子に乗って祝言を述べ、滑稽な言葉のやり取りをし、舞を舞って祝儀を貰うもの。江戸時代には幕府の保護を受けて盛んに行われた。才蔵は、江戸の四日市に房総から集まる志望者より選び、一春の契約をした(主に三省堂「大辞林」に拠った)。

「板行」印刷物。

「つつ」「づつ」。後も同じ。

「白銀」銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形して紙に包んだもので、贈答用に用いた。通用銀の三分(枚)に相当する。少し後になるが、秤量貨幣の通用銀であった天保丁銀は十六匁で、これは一両の約四分の一であるから、三分だと、〇・七五両相当だから、もう一枚分の銀を足さないといけない。]

2018/10/10

譚海 卷之三 靈社號の事

 

靈社號の事

○凡(およそ)人も卒去して神に祭る時は、其の靈社と稱し、その人歸依の神の番屋に祭る事也。靈社號は吉田殿より免許ある事也、宮號は敕許の外ならぬ事也といへり。

[やぶちゃん注:「吉田家」前条吉田家神代文字の私の引用注を参照されたい。]

譚海 卷之三 吉田家神代文字

 

吉田家神代文字

○吉田家に神代の文字といふ物を藏む。是は日向國霧島ケ嶽の絶頂の谷中に天の瓊矛(あめのぬぼこ)と云(いふ)物有(あり)て、夫(それ)に鏤刻(るこく)し有(ある)所の文字也といへり。一とせ其國の惠比須の宮の神主遠遊を好み、霧島ケ嶽にのぼりたるに、言傳ふる所の瓊矛なるもの谷中に有。全く華物(からもの[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。])の華表の如き物にして、ゑり付ある所の花文古筆めづらしきもの也。それにしるし付(つき)て有(ある)文字を摺寫(すりうつ)し、上京致し吉田殿へ持參し、引合見(ひきあはせみ)たき由願(ねがひ)けると人のかたりぬ。

[やぶちゃん注:「吉田家」卜部(うらべ)氏の流れを汲む公家。ウィキの「吉田家より引く。『京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲った事で知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務である事に因んで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った』。五代『兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て』、『勢力を拡大し』、『「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった』。九代兼見(かねみ)に至って、『織田信長の推挙により』、『堂上家の家格を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記』「兼見卿記」は『織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって』、寛文五(一六六五)年の『諸社禰宜神主法度で確定』し、『歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は』七百六十『石。明治維新後は良義が子爵に叙せられた。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている』とある。白河家の私の白川伯王家の引用注も参照されたい。

「天の瓊矛」元来は日本神話に登場する聖具「あめのぬぼこ」で、「古事記」では「天沼矛」、「日本書紀」では「天之瓊矛」或いは「天瓊戈」と表記されており、「古事記」によれば、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が別天津神(ことあまつかみ:天地開闢時に出現した五柱の神)らに、漂っていた大地の完成を命ぜられ、この「天沼矛」を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、この矛を渾沌とした大地に突き刺して掻き混ぜたところ、その矛から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となったとする(二神はこの島で「みとのまぐはひ」(交合)をして大八島と神々を生む。総てが判り易いフロイト的性的象徴であることは言うまでもない)。「日本書紀」本文には、「瓊」は「玉」のこと」とする注釈があり、そこでは「天之瓊矛」は「玉で飾られた矛」の意となる。但し、笨条のそれは、「日向國霧島ケ嶽の絶頂」に立つそれとあり、これは「天逆鉾(あめのさかほこ)」のことである。ウィキの「天逆鉾によれば、『日本の中世神話に登場する矛で』、『一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である』。これは前に注した「天沼矛」「天之瓊矛」が、『中世に到』って、『仏教の影響のもと』に『様々な解釈が生み出され』、その性質が変容したものである。仏教及び修験道の立場から書かれた神道書「大和葛城宝山記」(巻末に天平一七(七四五)年のクレジットと「興福寺の仁宗が之を記し傳ふ」と書かれているが、実際には鎌倉後期の真言系の僧によって書かれたとするのが通説)によると、『天沼矛を天地開闢の際に発生した霊物であり』、『大梵天王を化生したとし、独鈷杵と見なされ』、『魔を打ち返す働きを持つとして別名を天魔反戈』(あまのまがえしのほこ)『というとされている。更に天孫降臨した邇邇芸命』(ににぎのみこと:「日本書紀」では瓊瓊杵尊)『を瓊(宝石)で飾られた杵(金剛杵)の神と解し、「杵」を武器に地上平定する天杵尊』(あめのき(せ)のみこと)、別名、杵独王(きどくおう)としている。『一方で両部神道の』中世に書かれた神道書「天地麗気府録」では、『オノゴロ島に立てられた金剛杵であるとされ、これらの影響を受けた』「仙宮院秘文」では『皇孫尊は天沼矛を神宝として天下ったとされた。このため天沼矛=天逆鉾は地上にあると考えられるようになった』。『天逆鉾の所在については』「大和葛城宝山記」では『天魔反戈は内宮滝祭宮』(たきまつりのみや)『にあるとされている。伊勢神道(度会神道)の神道書』「神皇実録」では、『サルタヒコの宮処の璽(しるし)とされており』、「倭姫命世記」では、『天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されているとした。いずれも、伊勢神宮に保管されていると説く。なお』南北朝期に北畠親房が著した「神皇正統記」の中では、『オノゴロ島である宝山にあると結論づけている』。『一方で天逆鉾が、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないように』、『との願いをこめて』、『高千穂峰に突き立てたという伝承があ』り、『この天逆鉾は霧島六社権現の一社・霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町鎮座)の社宝』というが、『この矛の由来は不明である』。『古来、天逆鉾を詳しく調べようとした者はいなかったが、坂本龍馬が高千穂峰を訪れた際、何を思ったか』、『引き抜いて見せたというエピソードがある。このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している。なお、この天逆鉾は』、『のちに火山の噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカである。オリジナルは柄の部分は地中に残っており、刃の部分は回収され、島津家に献上され、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたが、その後も様々な人手を転々と渡って現在は行方不明となっている』。歴史学者喜田貞吉は、「神皇正統記」などに触発され、『霧島山降臨の話を作り出した修験者が高千穂峰の山頂に逆鉾を置いたと推察している』。『兵庫県高砂市の生石神社では境内の石の宝殿を、天逆鉾、鹽竈神社の塩竈とともに「日本三奇」と称している』とある。

「神代文字」(じんだいもじ)は鎌倉時代中期以来、しばしば、日本に漢字が渡来する以前から存在したと主張されてきた文字。神字(かんな)とも称する。特に江戸中期から国学者の中で、その存在を強く主張する者が多く現れた。対馬に伝わる日文(ひふみ)を支持した平田篤胤 の「神字日文傳」などが有名であるが、現在では、その存在は否定されており、その多くは、朝鮮のハングルをもとにして 十五世紀以後つくられたものとされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。私も全く信じない。]

譚海 卷之三 白河家

 

白河家

○白河家尋常には源姓を稱す、神祇伯に拜せらるゝ時は姓を捨て某王(なにがしわう)と稱する也。内侍所御神樂には白河殿歌をうたはるゝ也。神事の庭に座せらるゝに木偶人(でく)の如く、うたふ時に至りて聲を發せらるれば、はじめて其人なる事を知るといへり。

[やぶちゃん注:「白河家」とあるが、これは花山源氏を出自とする堂上家の白川伯王家(しらかわはくおうけ:単に白川家とも)のことであろう。ウィキの「白川伯王家」によれば、『花山天皇の皇孫の延信王』(のぶざねおう)『(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元』。『花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り』、『臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯』(じんぎはく/かみ(かん)づかさのかみ:律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁としての神祇官の長官)『に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた』。『白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない』。『非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である』。延信王は万寿二(一〇二五)年に『源姓を賜り』、『臣籍降下し』、寛徳三(一〇四六)年に『神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが』、『この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている』。『顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており』、『以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い』。『顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち』、『神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである』。なお、『「白川」の呼称は』十三『世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる』。『室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称し』、『吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』。『家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった』。『江戸時代の家禄は』二百『石。他に神祇領・神事料』百『石』であった。『明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶』した。]

2018/10/03

譚海 卷之三 大嘗會

 

大嘗會

○大嘗會(だいじやうゑ)前後三十日、禁中神事有(あり)、每夜曉に徹して事終る、宮中燈盞(とうせん)を點ずる事數百千にして、みな土器(かはらけ)に盛る也。殿々(とのもとのも)燈(ともし)なき所なし、翠簾(すいれん)重々(ぢゆうぢゆう)透(とほ)り照して、閃閃(せんせん)として羣螢(くんけい)の如し。白河吉田の兩神祇官、宮掖(きゆうえき)深處に在(あり)て神樂歌(かぐらうた)をうたふ。蕭然淸幽言語同斷なる事也とぞ。天子每朝寅の時高みくらに御(ぎよ)す、御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也、みじろかせ給ふ時に、玉體(ぎよくたい)暗(あん)に簾外にすきておがまれさせ給ふ。堂上の雜掌諸司番々に警固をつとめ、赤墀(せきち)の下に圓座をもふけて[やぶちゃん注:ママ。]其上に候す。假寐(かりね)すれば人長(ひとをさ)來り杖にてゆりおこす、夜明(よあけ)て膝のうへを見れば、かきあはせたる素袍(すはう)の袖に霜の痕(あと)鮮(あざやか)に有。南庭よりみゆる山上の寺々は、いづれもむしろこもにて蔽隱(おほひかく)す。大嘗會中鐘磬(しようけい)の聲を禁遏(きんあつ)せらるゝ也、公卿皆唐服を着せらるゝ也。

[やぶちゃん注:「大嘗會」大嘗祭(だいじょうさい)に同じ。天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じた。新嘗祭は毎年十一月に天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ自らも食す神人共食の祭儀で、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であったが、後に即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭儀として大規模に執り行うようになり、律令ではこれを「践祚(せんそ)大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(新嘗祭)と区別した。大嘗会は大嘗の節会(せちえ)で、嘗ては大嘗祭の後に三日間に亙る群臣を集めた饗宴を伴う節会が行われていたことに由来する。以上は主にウィキの「大嘗會を参考にした。

「燈盞」灯油を入れて火を灯す小皿。

「白河吉田」花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家白川伯王家と、卜部氏の流れを汲む公家吉田家。ウィキの「白川伯王によれば、室町時代に、代々、『神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』とある。

「宮掖」宮殿の脇の殿舎。皇妃・宮女のいる後宮。

「寅の時」午前四時頃。

「高みくら」「高御座」。天皇位を象徴する玉座で即位礼に於いて用いられるもの。ウィキの「高御座によれば、『平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された』とある。

「御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也」同じくウィキの「高御座によれば、『高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり』、『大陸文化の影響、と考える人がいるが』、「延喜式」巻第十六内匠寮に、『高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され』、『二種類の敷物を重ねる平敷であり』、『椅子ではない。伊勢奉幣の』際『の子安殿の御座や』、『清涼殿神事の』際『の天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する』とある。

「赤墀(せきち)」「丹墀(たんち)」と言う語があり、これは「宮殿の階上の庭・天子の宮殿」の意であるから、それであろう。ここは吹き曝しであることが以下の描写から判る。

「人長」それら「雜掌諸司」「人」の「長」(頭(かしら))の意であろう。

「素袍」直垂ひたたれ) の一種。裏を付けない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸ひもに革を用いる。

「鐘磬」梵鐘と磬(けい)。磬は法要の際の読経の合図に鳴らす仏具で、板状の鋳銅製のぶら下がったものを鉢で打ち鳴らす。

「禁遏(きんあつ)」禁じて停止させること。]

2018/09/11

譚海 卷之三 宇佐奉幣使

 

宇佐奉幣使

○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、

  かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを

[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]

譚海 卷之三 加茂祭

 

加茂祭

○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。

[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。

「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。

「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。

「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia kazinoki)とカジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。

「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。

「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens

「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。

「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。

「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。

「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。

「感賞」感心して褒め讃えること。

「御蔭山」下鴨神社の神体山。二百七十一メートルピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]

2018/09/01

譚海 卷之三 禁中失火等の事

 

禁中失火等の事

○禁中失火有(ある)歟(か)、又は霹靂(へきれき)宮内へ落(おつ)る事などあるときは、其日の御番(ごばん)の神社へ勅使をたてられ、其社を御封(ごふう)じ有(ある)也。靑竹にて神社の戸をとぢ、神主の者縛(ばく)につく事也。扨(さて)日限(にちげん)有(あり)て閉門をゆるさるゝとき、又勅使來りて神主の縛をとき、勅使と同前に神前に行向(ゆきむか)て神社の門ひらくに、内陣の際(きは)の空地(あきち)悉く春草(しゆんさう)を生じて有(あり)。わずかに一七日(ひとなぬか)斗(ばか)りの間をへし事なれども、草の高き事一二寸に及べる事とぞ。勅使此草を三莖(みくき)切取(きりとり)て箱におさめ、持參して歸らるゝ也、神國の不測奇特成(きどくなる)事なりといへり。

[やぶちゃん注:「御番(ごばん)の神社」京都御所には、こうした輪番制の守護担当神社があったとは知らなかった。然し、後半の草のひこばえ云々というのは、私は読んでいて、不審。毎度、そういうことがあるという書き方にしか読めないが、それでは、宮中の火災や落雷は初春にしか起こらんのかい?! それとも真夏や秋や真冬に火災や落雷があっても、そうした「春草」が生えるとんでもない奇瑞があるちゅうんかい?! 後者としか思えないのだが、だったら一年を通じてその季節を違えた奇瑞が出来することをこそ、緻密に細かく綴るべきであろう。どうもこの話、杜撰で眉唾臭い。或いは、そんなことが初春の季節の回禄や落雷が遠い昔にあって、そんなことがあって(それはちっとも奇妙なことではない)より、閉門繩縛された神主の家族に勅使がこっそり言い伝えの奇瑞を囁き、家族の者が、こっそり境内に入っては空き地に草(春でないときは、春の草らしいものを取り寄せて)を植え込んでいたのではないか? それなら、この話、私は頗る腑に落ちるのである。

譚海 卷之三 節分内侍所の大豆 御修法の護摩

 

節分内侍所の大豆

○節分の夜衆庶(しゆうしよ)内侍所に參入し、錢十二文を入れ追儺(つひな)の大豆(だいづ)を拜授しかへる事也、平日も所知の人に託し乞へば神符をえらるゝ也。

[やぶちゃん注:「節分」ここは旧暦の立春の前日(大寒の最後の日)。太陽暦では二月三日か四日。

「衆庶」一般庶民。

「追儺の大豆」「追儺」は本来は旧暦十二月三十日に大晦日に宮中で行われた「儺(な:鬼)やらい」の儀式で、現在の節分のルーツとされるものであるが、ここでは既に庶民の「節分」の行事が現在と同じ時期に行われるようになっていて、やはり今と同じ用途(鬼やらいの豆撒き用の豆)のそれを指している。]

 

 

御修法の護摩

○御修法(みずほふ)の護摩は、元日より七日まで御室(みむろ)にて行(おこなは)るゝ也。八日より禁中にて行るゝ事又一七日(ひとなぬか)ばかり也。その供物廿四時宿次(しゆくつぎ)にて關東へ每年通さるる事也。

[やぶちゃん注:「御修法」「みしゆほふ(みしゅほう)」或いは「みしほ」とも読む。「みずほふ(みずほう)」で読んだのは私の好みから。宮中限定で行われた密教の法会。真言宗に於ける「後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)」の略称。一月八日から七日間に亙って、国家平安と繁栄を祈って宮中の紫宸殿に於いて、金剛界・胎蔵界を隔年で修した。

「御室」ここは天皇の住居たる御所を敬って言った語。

「廿四時宿次」昼夜兼行の各宿場取り次ぎの最優先送達便のことと思われる。]

 

譚海 卷之三 禁裡附初て上着

 

禁裡附初て上着

○禁裏附(きんりづき)の衆關東より上着(じやうちやく)のときは、諸搢紳(しんしん)より祝詞を申越(まうしこさ)るゝ事也。使者にて來るもあり、自身來臨も有(あり)、家々に應じ答禮の例(ためし)有(あり)て、甚(はなはだ)わずらはしき事也。門内まで駕籠にて入るゝ有(あり)、門外にて下乘せらるゝ有、式臺迄人來るもあり、式臺の筵道(えんだう)に中立(なかだち)して迎ひ出(いづ)るを待ちて、祝詞を演説してかへるも有、履(くつ)を倒(さかしま)にして低頭して送り奉るもあり。關東より始(はじめ)て來(きたり)ては混漾(こんやう)として辨(べん)じがたければ、案内をよく覺えたる者をたのみ置(おき)て、差圖の如く應對する事也。内侍所(ないしどころ)の使者殊に驚く事也。神供(しんく)の洗米(せんまい)を菊桐金紋の文庫に入(いれ)、六位の使者烏帽子素袍(すはう)にて齋(いつき)し來(きた)る。内侍の方申越さるゝの趣、此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段(だん)演説し、金紋の文庫を指出(さしいだ)す事ゆゑ、取次のものあらかじめ意(い)得(え)ざれば、偏(ひとへ)に華音(くわおん)を聞(きく)ごとくにて當惑する事也、おくまは御供米の略語也。

[やぶちゃん注:「禁裏附」「禁裏付」とも書く。江戸幕府に於ける職名の一つで、天皇の住む禁裏御所の警衛及び公家の監察などを担当した。ウィキの「禁裏によれば、寛永二〇(一六四三)年九月に『明正天皇の譲位と後光明天皇の即位に伴って設置』された。『老中支配で芙蓉之間詰』、『千石高の御役目で、役料は千五百俵。定員は二名。但し、『配下として、各々』、『与力』十『騎と同心』四十名が配された。『勤務は当番制で、毎日』、『御所に参内し、御所にある御用部屋に詰めた。参内した後は、武家伝奏との折衝や、京都所司代や京都町奉行と武家伝奏との間の取り次ぎなどを行った。御用部屋にある用帳に天皇の「機嫌の様子」など禁裏における諸事を記録し、常と異なることがあれば』、『京都所司代に報告した。老中支配ではあるが、京都にいる間は京都所司代の配下として』、『万事において指示を受けた』。『他にも、口向(くちむき、くちむけ)』(天皇等の『日常生活を支える諸役人』の呼称)『や禁裏賄頭(きんりまかないがしら)』(『禁裏御所の会計・調度・食料などを管掌する』役人であるが、これは『幕府から派遣された』)『の統括、禁裏における金銭の流れの監督、禁裏の警衛、朝廷内部で発生した事件の捜査、内裏普請の奉行など、禁裏の全般』と『公家衆の行跡も監督し』た。『火事が発生すれば』、『発生場所が御所からどれだけ離れていても』、『与力とともに禁門の警備を行った』。御所等の門の『出入りを取り締まり、禁裏付』が発行した「通り切手」(通行証)『を持たない者の通行を禁じた』。『官位は昇殿を許されない地下官人クラスの従五位下だが、日常的には朝廷内で幕府を代表しているため』、権威・威勢は『相当なものがあった。正二位とか従一位の官位をもつ武家伝奏に連絡、相談がある場合は』、『「伝奏を呼べ」と御用部屋へ呼びつけた。また御所の外にあっても』、五摂家・宮家と『行き交う場合は』、『駕籠から飛び下』って、『お辞儀を』したが、大納言・中納言・参議や、『それ以外の堂上公家などに対しては、駕籠から下りず』、『そのまま』通行してしまったという。安永二(一七七三)年には、『口向役人による諸経費の不正流用・架空発注事件が発覚、大量の処分者を出』したことから、『それを受けて』、『口向を監督する機構の改革が行われ』、翌年、京都御入用(ごいりよう)取調役・御所勘使買物使兼御買物方(ごしょかんずかいけんおかいものかた)を新設して、『これらを禁裏付の支配下とした』とある(最後の二つの職名はややおかしい感じがしたので、調べて、一部を補足した)。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す(ここまで既注。向後は繰り返さぬし、読みも振らぬ。悪しからず)。

「筵道」「えだう(えどう)」とも読んだ。天皇や貴人が徒歩で進む道筋や、神事に祭神が遷御する際の道に敷く筵(むしろ)。筵の上に白い絹を敷く場合もある。

「混漾として辨じがたければ」「混漾」は私は見かけたことがない熟語であるが、「漾」も「混じる」の意があるから、各公家衆や役方連中の訪問や挨拶の式方が全く以ってまちまち、ごちゃごちゃしてどう対応(応対・返礼)してよいか判らぬので、の意であろう。

「内侍所」三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を安置した所。賢所(かしこどころ)とも呼ぶ。

「洗米」ここは神仏に供えるために洗って禊した米。「饌米」とも書く。

「素袍」「素襖」とも書く(但し、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」)。男性の伝統的衣服の一種。室町時代に発生した単(ひとえ)仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。

「齋(いつき)し」潔斎して。

「此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段」判り易く訓読表記したものを示す。

「此(こ)の度(たび)、上着(じやうちやく)、愛度(めでた)く存じ候ふ。仍(よつ)て相ひ祝ひ候ふて、「おくま」を進(しん)じ入(い)り致す」

であろう。

――今回、関東より、無事の御上洛、目出度く存知申し上げまする。依ってお祝いを申し上げまして、「御供米(おくま)」を御進上申しまする――

であろう。「おくま」=「御供米」とは「くましね」(奠稲・糈米)の略語で、神仏に供えるために洗い清めた米のこと。「かしよね」。

「取次のものあらかじめ意得ざれば」取り次ぎに出る配下の同心などが、禁裏附勤務の経験が殆んど全くなく、それが何を意味する式礼かを事前に知らないと。

「偏に」ただもう。

「華音」「くわいん(かいん)」と読んでもよい。中国語。]

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