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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の121件の記事

2017/06/11

譚海 卷之二 豐後國川太郎の事

○川太郎といふ水族(すいぞく)婦人に淫する事を好む、九州にてその害を蒙る事時々絶(たえ)ず。中川家の領地は豐後國岡といふ所也、その地の川太郎處女に淫する事時々也。その家の娘いつとなく煩ひつゝ健忘のやうになり臥床(ふしど)につく。是は川太郎に付(つか)れたり、力(ちから)なしとて親族かへりみず。川太郎に付るゝ時は誠に醫療術なし、死に至る事なりといへり。川太郎時々女の所へ來る、人の目には見へざれども、病人言語嘻笑(げんごきせう)する體(てい)にてしらるゝ也。親子列席にては甚だ尾籠(びらう)いふべからざるもの也といへり。加樣(かやう)なる事家ごとに有(ある)時は、川太郎を驅(か)る事あり。其法蚯蚓(みみづ)を日にほしかためて燈心(たうしん)になし、油をそゝぎ燈(ひ)を點じ、その下に婦人を坐しめ置(おか)ば、川太郎極めてかたちをあらはし出來(いでく)る也。夫(それ)を伺ひ數人あつまり川太郎を打殺(うちころ)し驅る、如ㇾ斯(かくのごとく)してその害少(すくな)しと云。川太郎など夜陰水邊(みづべ)にて相撲とる事は常の事也といへり。

[やぶちゃん注:「中川家の領地は豐後國岡といふ所也」これは豊後国(現在の大分県の一部)岡藩(おかはん:竹田藩とも呼ばれる)で、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)にあったそれであろう。当時の領地は豊後国大野郡・直入郡・大分郡に跨っており、小藩が分立した豊後国内では最大石高の藩であった。代々の藩主は「中川」氏で参照したウィキの「を見ると、「譚海」の内容時制(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚)からは、第八代藩主中川久貞か、第九第中川久持であろう。

「その家」の「その」は、川太郎に魅入られた家の、という意味。

「言語嘻笑する」誰もいないのに誰かと物語するように話をしては喜び笑うこと。処女であることから、河童淫猥伝承がある地で発生した、思春期性の心因性精神病の幻覚症状の一種である可能性が高いようには思われる。

「親子列席にては甚だ尾籠(びらう)いふべからざるもの也といへり」所謂、極めて性的な言葉を殊更に発したり、そうした行為を実際にして見せるのであろう。

「驅(か)る」と一応、訓じておいた。所謂、「駆除」「駆逐」で「追い払う」の意である。

「燈心」灯芯。この見えない河童を出現させる呪法は実に面白い。河童関連書ではあまり目にしたことがない。]

2017/05/21

譚海 卷之二 朝士笹山吉之助母堂の事

 

朝士笹山吉之助母堂の事

○官家の士に笹山吉之介なるもの有(あり)、その祖母は栗島通有と云(いふ)人の女(むすめ)にて、天壽[やぶちゃん注:底本には「壽」の右に『(樹)』とする。]院殿の侍女也。此天壽院と申(まうし)奉るは、豐臣秀賴公政所にて東照宮の御孫也。此祖母ある夜(よ)更(ふけ)て目ざめたるに、盜人(ぬすびと)藏の屋尻(やじり)をきる音を聞(きき)つけ、折しも吉之介御番の留守にて、孫を抱きゐられしが、ふところに抱(かかへ)ながら帶刀し、竊(ひそか)に土藏に入(いり)伺ひゐられけり。盜人ほどなく屋尻をきりすまし、穴よりはひ入(いる)處を祖母刀をぬきて盜人の首を切落(きりおと)し、死骸を穴より引入(ひきいれ)脇に片よせ置(おき)たるに、又一人穴よりはひ入(いる)ものあるを、また首を打落(うちおと)し前の如くして待居(まちゐ)られたり。ややしばらく音もなければ、最早盜人はなきかと穴よりのぞかれし時、頸(くび)をさし入(いる)る盜人と見合(みあひ)たるに、盜人大(おほき)におどろきいづちともなくにげうせぬ。是は盜人の大將なるべし。大坂戰場をへたる婦人は、格別膽(きも)のふとき事也と申(まうし)あへり。

[やぶちゃん注:「朝士」(てうし(ちょうし))「官家」幕府御家人のことであろう。

「笹山吉之助」不詳。「笹山吉之介」との違いはママ。ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」のに、笹山吉之助光官(みつのり:七十二歳・五百石・裏四番町)という名が出るが、同一人物かどうかは判らぬ。

「栗島通有」不詳。「くりしまみちあり」と一応、読んでおく。

「天樹院」(補正注で示した)徳川秀忠と継室江(ごう)の間に生まれ、豊臣秀頼・本多忠刻の正室となった千姫(慶長二(一五九七)年~寛文六(一六六六)年)の院号。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では祖父家康の命により、落城する大坂城から救出された。直後に秀頼と側室の間に生まれていた娘天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)が処刑されそうになった際には千姫は彼女を自らの養女にして命を助けている。姫は彼女を自ら元和二(一六一六)年に桑名藩主本多忠政の嫡男本多忠刻(ただとき)と結婚したが、寛永三(一六二六)年には夫忠刻・姑熊姫・母江が次々と没するなどの不幸が続き、結局、本多家を娘勝姫とともに出て江戸城に入って出家し、娘と一緒に竹橋御殿で暮らした。寛永二〇(一六四三)年には鎌倉の東慶寺の伽藍を再建している(「駆け込み寺」として知られる同寺には豊臣秀頼の娘の天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入って後に二十世住持となっている)。正保元(一六四四)年には家光の厄年を避けるために江戸城から移った弟徳川家光の側室夏(後の順性院)と、その後に生まれた家光の三男綱重と暮らすようになり、このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされている(以上はウィキの「千姫に拠った)。

「屋尻」戸締りしてある戸や窓或いは壁の裾などを指す。ここは後のシークエンスから見て、連子窓と思われる。そうした場所を切破って忍び入る窃盗・強盗の類いを「屋尻切(やじりきり)」と称した。

「戰場」「いくさば」と訓じておく。]

 

2017/05/12

譚海 卷之二 京極家士正木太郎太夫事

 

京極家士正木太郎太夫事

○戸田采女正(うねめのしやう)家の士に、正木太郎太夫と云(いふ)者あり。力量人にこへ劍術鍛錬なりしが、道の奧儀を祈請して遠州秋葉山に千日こもり、權現より鐡のくさりを授りえて歸る。此くさり魅魅魍魎盜賊の難等を避(さく)る事神(しん)有(あり)、因て諸人正木氏に懇望して、くさりを鑄(い)てもらひ、戸内(こない)にかけ災難を遁(のがる)るまじなひとするなり。此太郎太夫安永年中まで現在せし人也。

[やぶちゃん注:「京極家」「戸田采女正」この目次の「京極家」と「戸田」氏の関係性が私にはよく判らぬ後者は「正木太郎太夫」の絡みで美濃国大垣藩藩主の戸田家であることは間違いない(十一代に及ぶ藩主は二人を除いて総て「采女正」である)のだが。識者の御教授を乞う。

「正木太郎太夫」名前及び事蹟と没年から見て、剣客として知られた正木俊光(元禄三(一六九〇)年~安永五(一七七六)年)である。ウィキの「によれば、『剣術では正木一刀流、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫』。『大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子で』七歳で『居合(伝系は不明)を父親に学』び、十八歳で『古藤田俊定(弥兵衛。古藤田一刀流』三『代目)に学び、後に俊定の門人、杉浦正景(平左衛門。唯心一刀流)を師とした』。正徳三(一七一三)年二十三歳の時、『三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に香取時雄(金兵衛)に会い、先意流薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、信田重次(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた』。『俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した』。本話に彼が鋳造した鎖が出るが、まさに彼は自身で、宝暦年間(一七五〇年代)に「万力鎖」を発案している。これは長さ二尺三寸(六十九・六九センチメートル)の『鎖の両端に分銅を付けた捕縛用具で、正木流玉鎖、あるいは分銅鎖、正木鎖などともいう。分銅にはさまざまな形状があり、軽量で袖に入れて持ち歩ける。俊光はこの鎖の用法を研究して「守慎流」と称した。また、この鎖は秋葉権現から賜った秘器で、掛けておくだけで盗難・剣難除けの御利益があるとして、鎖を求所望する者のためにひとつひとつ祈祷して渡したという』(下線やぶちゃん)。『俊光は生まれつき大力で』、未だ十二歳の時に、『病気中にもかかわらず』八千五百斤(約二十五貫=約九十四キログラム)の『庭石を動かし』たと伝え、長じては七十斤二貫目(約七・五キログラム)以上の鉞(まさかり)を毎朝八百回振っても、顔色一つ変えなかった、とある。『あるとき、綾川という肥満体の力士と力比べをした。まず、俊光が腰を落としてふんばる綾川を抱き上げた。次に綾川が右手一本で俊光の帯を持ってつり上げた。俊光は「いまのは拙者の目方を見せたまで。今度は両腕でこい」といった。今度は綾川がどんなに腰を入れても』、『俊光の足は地面から離れなかった』といい、『これを「身体軽重自在の術」という』のだそうである。

「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。古くから山岳信仰の対象であり、中世以降は修験道の霊場となった。現代では専ら火伏せの神として知られるが、秋葉権現の眷属は天狗であり、義経伝説で彼が天狗から剣術の鍛錬を受けたとするように、人型で超人的な能力を持つ天狗と武術は密接な紐帯があった。

「權現」秋葉山に伝説を残す修験者の神格化された「秋葉三尺坊権現」のこと。白狐に乗り、不動明王と同じく剣と羂索を持った、烏天狗の姿で描かれることが多い。

「神(しん)」神妙なる効験(こうげん)。

「安永年中」一七七二年から一七八〇年。]

 

2017/05/01

譚海 卷之二 江戸三傳馬町天王由來の事

 

江戸三傳馬町天王由來の事

○江戸大傳馬町は、むかし寶田村と云(いふ)所也。小傳馬町は千代田村と云所にして、いづれも六本木と云(いひ)、奧州へ往來の馬繼(うまつぎ)也。さるに因(より)て傳馬の公役にあてられ、今も是をつとむる事也。常磐橋の内に千代田稻荷とてあるは、傳馬町より移し祀りたる也。又藤田明神社地に牛頭(ごづ)天王三所まします、則ち大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也。又加藤善三郎と云者、國初より傳馬町に住(ぢゆう)し、その居所北側の地は拜領屋敷也。東照宮御杖(おんつえ)にて畫(かく)し賜りける由をいふ。

[やぶちゃん注:「三傳馬町」「さんでんまちやう」と読んでおく。ウィキの「伝馬町」てんまちょう)によれば、『江戸幕府の本拠地であった江戸の場合、江戸城の大手門にほど近い日本橋を中心に五街道が整備され、日本橋の周辺に五街道向けの伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町』(現行読みは「にほんばしおおでんまちょう」。(グーグル・マップ・データ)。西北に小伝馬町が、図の下方中央が京橋地区)『・日本橋小伝馬町』(現行読みは「こでんまちょう」)『として地名が残る)』(孰れも中央区)。以下は江戸に限らぬ各地の伝馬町の属性であるが、興味深いので引いておく。『時代とともに、伝馬町の住人で実際に伝馬に関わるのは伝馬役所が置かれた町名主の家などに限定され、多くの地主や家持は金銭などの形で伝馬役を負担した。伝馬町は伝馬役の負担によって城下町の他の地域よりも過重な負担を強いられたが、反面において交通網の整備に伴って商店や問屋などが進出して商業地域として発展する場合もあった。また、地域によっては特定商品の専売権を与えられることで負担に対する見返りが享受される場合もあった』。

「寶田村」「たからだむら」と読んでおく。ブログ「神社と御朱印」の中央区日本橋大伝馬町にある寶田恵比寿神社宝田神社)」についての記事の中で、この『宝田神社は元々江戸城外にあった旧豊島郡宝田村(呉服橋御門付近)の鎮守であった』が(東京駅東北直近の附近(グーグル・マップ・データ))、『江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三村が移転を命ぜられ、宝田村の名主・伝馬役であった馬込勘解由は住民を引率して大伝馬町へ移住し、同町の名主を務めた』。『ちなみに馬込勘解由とは日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が名乗った名称である』とあるから、この場所が、ここで津村が言うように、ここが古くはもともと「寶田村」「千代田村」と言ったわけではない(但し、元の居住村の名をここに移って初期には再度、旧村名を用いた可能性は極めて高い)

「六本木」位置的に見ても離れているのでお分かりと思うが、これは現在の「六本木」(東京都港区六本木)とは無関係である。nsawc_nfws記事六本木地名由来の真相は?によれば、『古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうで』、これは『馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしい』とある。

「常磐橋の内に千代田稻荷とてある」橋としての常盤橋(ときわばし)は現在の東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川に架かるが、この周辺の地名と考えて良かろう((グーグル・マップ・データ))。「千代田稲荷」神社は現在、元の小伝馬町に戻っているようである。(グーグル・マップ・データ)。渋谷百軒店商店街HP管理チームによるブログ「渋谷百軒店コラム」のもう一つの千代田稲荷:小伝馬町の千代田稲荷神社によれば、この稲荷の鎮座地は、最初が江戸城で小伝馬町(A)から『不詳』の地へ移り、次に小伝馬町(A)に戻るも、その後、小伝馬町(B:現在地)に遷座したと推定されているから、まさに、このブログ記事の『不詳』とする場所こそがこの「常磐橋の内」と考えてよいように思われる。ブログ記者は既にそう推測されているのであるが、残念なことに、その常盤橋のどこであったかが判らないようである。同リンク先の神社由来の電子化資料によって(『是後奉仕せる社人窮困して他に社地を讓る 時に屢々異變あり 神慮なりと畏れ 天明年間 旧地に建立し 現在に至る』(恣意的に漢字を正字化し、読み易くするために字空けを増してある))、元の小伝馬町に戻ったのは天明年間(一七八一年~一七八九年)であることが判り、「譚海」は、まさに安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)の見聞内容に基づくのだから、この記事は、その検分閉区間の前半期の記録であることが判明するのである。

「藤田明神社」「牛頭(ごづ)天王」「三所」「大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也」「藤田神社」なる呼称は現存しないが、これは現在の神田明神の牛頭天王三社のことで、ウィキの「江戸祭礼氏子町一覧に、現在では旧南伝馬町の『江戸神社(天王一之宮)、大伝馬町八雲神社(天王二之宮)、小舟町』(こぶなちょう:日本橋小舟町。(グーグル・マップ・データ))『八雲神社(天王三之宮)とそれぞれ呼ばれ』ているとある。「正德」は一七一一年から一七一五年。面白いのは、この小伝馬町の牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。本地垂迹説では素戔嗚命の本地仏とされ、特に除疫神として信仰された。京都の八坂神社が有名)が、貸し出されたまま、戻って来ず、現在に至るまで小舟町にあることである。実に面白い。牛頭天王が怒らず、変事もないというのは、牛頭天王は小伝馬町を見限って、小舟町の方が永劫、居心地がよいということなんだろうか? そもそもが、何で小伝馬町の町人らは怒らなかったんだろう? 誰か、納得のゆく真相をお教え願えると嬉しい。

「加藤善三郎」不詳。

「國初」「くにはじめ」。徳川家康の江戸入府前後の武蔵国の初期から。

「杖にて畫し賜りける」家康公御自ら、自分の杖を以って地引きをし、加藤に屋敷地を下賜された。]

2017/04/29

譚海 卷之二 河州交野郡王仁墳の事

 

河州交野郡王仁墳の事

○河内國交野郡藤坊と云(いふ)處に大なる磐石(ばんじやく)あり。上古王仁(わに)の墓なるよし、水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり。此石深更には聲を發しけるとて、里人恐(おそれ)て夜は此あたりへかよひ侍らず、泣石(なきいし)といひならはせり。石の大さ四尺ばかりにして駁蘚を生(しやうじ)たり、千歳(せんざい)の石いと珍しき事也。

[やぶちゃん注:

「交野郡」(かたのこほり)は旧河内国及び大阪府にかつてあった郡。現在の大阪府の東北端に当たる。

「藤坊」現在の大阪府枚方(ひらかた)市藤阪。以下の王仁の墓は同所に現存する。

「王仁」(わに 生没年不詳)は百済から日本に渡来して「千字文」と「論語」を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物。「日本書紀」では「王仁」、「古事記」では「和邇吉師(わにきし)」と表記されてある。伝承では百済に渡来した中国人であるとされ、この場合は姓である「王」から楽浪郡の「王氏」とする見解があるが、王仁が伝えたとされる「千字文」が、王仁の時代には成立していないことなどから、史料解釈上、実在を疑問視する説も多い。詳しくは参照したウィキの「王仁」をどうぞ。

「此石深更には聲を發しける」これは頗る面白いではないか。そもそもが神道好きで、仏像を破壊するのが大好きだった変態ナショナリストのコウモン野郎が、渡来人とされる王仁を、更には本当に彼の墓なのかも判らずに、安易に石碑なんか建てるから、こんな怪異が出来(しゅったい)したんじゃないのかい?! 或いは「俺は王仁じゃない!」と主張するためにその墓の中の誰かは叫んでいるのかも知れぬ。そう考えた方が合理的だ! ウィキの「王仁」を御覧な。そもそもが王仁の墓なんて呼ばれるずっと以前からの伝承では、この藤坂村の『の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる』二『個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の』二人(アテルイとモレ)を『京都へ連行したが』、『帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある』とあるじゃないか! アイヌの怨念が叫ばせてるんだ! きっと!

「駁蘚」「ばくせん」と音読みしておく。「駁」(ハク)の原義は「いろいろな毛色の交じった斑(まだ)ら馬」のことで、ここは「入り交じること」であり、「蘚」はこの場合、苔や羊歯(しだ)及び地衣類、さらに種子植物のごく小型の雑草などの総称で、それらが入り混じってぎちゃごちゃと生え苔蒸し、八重葎となっていることを指すのであろう。]

2017/04/25

譚海 卷之二 武州玉川菊紋石の事

 

武州玉川菊紋石の事

○武州玉川の邊(あたり)、むら山と云(いふ)あたりより菊紋石をいだす。黑石にして菊花の白き文あり、甚(はなはだ)鮮(あざやか)なり、至(いたつ)てよき石には枝葉迄具(ぐ)し、宛然(ゑんぜん)たる花形を備(そなへ)たるあり。片々(へんぺん)うちくだきても皆然り、玉川水中に産する所の石也。

[やぶちゃん注:「武州玉川」現在の山梨県・東京都・神奈川県を流れる多摩川。

「菊紋石」凝灰岩の中の割れ目に結晶化した方解石が菊の花のように入って紋理を形成したもので、愛石家に珍重される。

「むら山」恐らくは中世の村山党の本拠地で、現在の東京都と埼玉県に跨る狭山丘陵付近の「村山郷」という旧称を多摩川河岸まで拡張した謂いであろう。青梅は菊花石(きっかせき)の産地として知られるから、現在の青梅市から羽村市附近か。

「宛然」まさにそっくりそのままであること。]

 

譚海 卷之二 下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

 

下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

○下野國萱橋と云(いふ)所は、佐竹五千石の領地也。其郷(がう)に藥師寺村と云有(あり)、往昔(むかし)諸國に藥師寺をおかれたる跡にて、今にその時の瓦時々土中より掘出(ほりいだ)すといへり。又武州甲州道中に、府中六所明神と云有、其近き所に國府寺今に殘(のこり)て有、此瓦も千年の物也。堂の雨(あま)だりに集め積(つみ)て有、好事(かうず)の者取去(とりさる)事あれば病惱(びやうなう)して異(い)有(あり)とて人(ひと)取(とる)事なし。大坂城中にも豐臣太閤築城の時のかわら往々あり、瓦文(かはらもん)に金(きん)をもちて菊桐(きくきり)の紋を燒付(やきつけ)たる物也。同城内に石の手水鉢(てうづばち)あり、甚だ大きなるもの也。本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ。又書院の雨だりに殘らず敷(しき)つめてある石は、三四寸の丸くひらたき石也、太閤の三合石と稱す。是も太閤此石の形を愛せられ、是をもちくるものには米三合づつ給はりにし故其名ありと云。

[やぶちゃん注:「下野國藥師寺」現在の栃木県南部の下野(しもつけ)市南河内地区に地名として薬師寺があり、下野薬師寺遺跡もある。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。ウィキの旧河内郡「南河内町」に『江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した』とある。「壹橋」は不詳だが、隣接した旧町名に下都賀郡石橋町(いしばちまち)があった。「壹橋」が「いちはし」と読むとすれば「石橋(いしはし/いしばし)」とは音が似通う。

「藥師寺」薬師如来は大乗仏教に於いて病気平癒等の現世利益に効験のある仏として古くから信仰されており、薬師寺と称する寺はかつて各地に建てられた。ウィキの「下野薬師寺跡」によれば、『栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち』、『当寺に左遷されたことでも知られる寺院である』。『下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている』。『薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる。日本には飛鳥時代までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来』、天武天皇九(六八〇)年十一月に、『天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである』。『「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願』から四年後の天武天皇一三(六八四)年に全国の五十二氏が『天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。その数年後以内』『には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆下毛野古麻呂の名も同年』十『月の条に登場する』。『下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」』『とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」』『と見える。また、下野市では下野薬師寺は』七『世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている』。『現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる』。『発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから』、七『世紀末の天武朝の創建であると推定されている』。「続日本紀」によれば、天平勝宝元(七四九)年に『全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで』五百町とされたとある。『奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の僧侶を統制した』。宝亀元(七七〇)年、『中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている』。道鏡は七七二年に当地で没したとされる(近くに墓がある)。『平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている』。それでも「日本三代実録」によると、貞観一六(八七四)年に『平安京紫宸殿において大般若経の伝読』が行われたが、その「金字仁王経」七十一部が五畿七道各国に一部ずつ配布された際、『当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の』一部が配置されており、『東国における当寺の位置付けの高さが窺われる』とある。鎌倉時代の建久四(一一九三)年には源頼朝より供僧三口が『寄せられたほか、鎌倉幕府からの積極的な後援がうかがわれ』、その後も『慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという』。『室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ』、暦応二(一三三九)年には「安国寺」と改名した。但し、『一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた』。『戦国時代、後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる』。『近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領』十石が寄進されており、『また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領』二十石が寄進された。この二つの寺は天和元(一六八一)年から享保四(一七一九)年にかけて『薬師寺の正統を争う訴訟を起こし』、議論の末、天保九(一八三八)年に、『「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する』『」という合意に達し現在に至っている』という。『発掘調査の結果』、『明らかとなった寺域は東西約』二百五十メートル、南北約三百三十メートルで、『伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そして』、『その北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である』。また、『中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認され』ているから、これだけの伽藍、瓦もたんと出ようというものである。

「府中六所明神」現在の東京都府中市宮町にある旧武蔵国の総社であった大国魂(おおくにたま)神社。ウィキの「大國魂神社」によれば、『武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれる』のことであろう。『古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの武蔵国の総社にあたる』。『当社は府中市中心部に鎮座するが、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡』で江戸時代も『府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた』。創建は景行天皇四一(一一一)年と伝えられ、『源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝祈願を』したといった伝承もある。因みにここの例祭は、暗闇の中で神輿渡御が行われていたことから「くらやみ祭」と呼ばれ、「ハレ」である当夜は近世まで男女の暗中での交合が許されていた。

「國府寺」昭和五〇(一九七五)年以降の発掘調査によって、先の大国魂神社境内の南北の溝と、旧甲州街道、及び、大國魂神社のすぐ北にある「京所道(きょうづみち)」に挟まれた、南北三百メートル東西二百ネートルの範囲が「国衙」であったことが判明している(以上はウィキの「武蔵国府跡」に拠る)。発掘調査で実際にここに語られている瓦が主要出土品として出ている

「此瓦も千年の物也」武蔵国府は奈良時代初期(平城京への遷都は和銅三(七一〇)年)から平安中期にかけて置かれていたから、良心的に捉えるなら、千年は誇張ではなく、寧ろ正確と言える(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記録である)。

「雨だり」雨だれが落ちる軒下。

「菊桐の紋」実際には豊臣秀吉が朝廷より下賜された桐紋のことであろう。実際に天皇家の菊紋と、それに次ぐとされる桐紋を合体させた紋はない。菊紋は菊を象ったものを装飾化することを許容された程度のもので、正規の家紋として認められたものではない。例えば大坂城天守閣の大棟や大破風などにある通称「太閤菊の紋」などを指しているのであろうが、復元物を見ても、天皇家の菊とは被らないように花弁の数が減らしてあり、デザインも大きく異なる。

「同城内に石の手水鉢あり、甚だ大きなるもの也」不詳(私は大阪城に行ったことがない)。識者の御教授を乞う。

「本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ」これは蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が京都市山科区にあった山科本願寺の第八世法主であった当時を指す。同寺の建立は文明一五(一四八三)年で、延徳元(一四八九)年に蓮如は五男の実如に本願寺を委譲して実如が第九世となっているが、蓮如はここで入滅しているから、この表現が正確であるとするなら、その六年間に造られた手水鉢ということになる(こちらの本願寺は天文元(一五三二)年に六角氏と法華宗徒によって焼き討ちされて消失した。現在、その跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っている)。]

 

2017/04/19

譚海 卷之二 河豚の油燈に用る事

 

河豚の油燈に用る事

○營中寢殿の燈火は、河豚(ふぐ)の油を用(もちゐ)ると也。ふぐの油はよく凝結するゆゑ、地震(なゐ)にもゆりこぼす事なし、市中に來る河豚のはらわたなきは、その膏油(あぶら)を絞り取(とる)爲(ため)にて拔取(ぬきとり)てこすゆゑ也。房總の海邊り毎日油二升を供すといへり。

[やぶちゃん注:内臓がないのは、単に有毒な内臓を除去してただけだけだろう、などと思い込んでいたところが、ブログ「書店」に『江戸時代、上流階級や宮中で行灯の油に河豚の脂が使われました』。『河豚の油は臭いが少なかった為に利用されたようです』とあった!

「營中寢殿」江戸城内の将軍の寝室。

「膏油(あぶら)」私は二字で「あぶら」と訓じたい。]

譚海 卷之二 因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

 

因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

○因幡國(いなばのくに)は巖邑(いはむら)にして生穀(しやうこく)の地至(いたつ)て少(すくな)し、山中の民は、家ごとに鷄雌雄數萬を飼(かひ)てその卵をとり、大坂へ鬻(ひさぎ)て生計(たつき)とする也。鷄に飼ふに五穀を用ひず、わらこもの濕地に置(おき)、久しくして蟲生ずるをとりて、鷄を飼ふ也。

[やぶちゃん注:標題の「鬻ぎ」は「ひさぎ」。「生計」は「たつき」と訓じたい。

「因幡國」現在の鳥取県東部。

「巖邑」岩多く、肥えた土の地面の少ない村落。

「生穀の地」主食にする穀類を生産する土地。

「數萬」「萬」は原典の誤字か、或いは失礼乍ら、底本の誤植であろう。「家ごと」に数万羽は飼えぬ! 思うに「番(つがひ)」辺りではあるまいか?

「わらこもの」「藁子物」か。藁のようなもの。]

譚海 卷之二 飛州笹魚の事

 

飛州笹魚の事

○飛驒國に笹魚(ささうを)といふもの有(あり)、竹に實(み)の如きもの細長く出來(いできた)る形そのまゝの魚也。水邊の竹に生じたる實は、水に落(おち)て年をふれば生化(しやうげ)して魚となり、流(ながれ)に遡るといふ。明和五年友人今井氏持參したるを見るに、竹に付たる實よく魚のかたちに似たり。

[やぶちゃん注:これは尋常な竹や笹の実ではなく、竹・笹類に生じた虫癭(ちゅうえい・虫瘤(むしこぶ)・英語gall(ゴール))である。恐らくは、有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目双翅(ハエ)目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科ササウオタマバエ(笹魚玉蠅)Hasegawaia sasacola の幼虫が形成するそれである。ササ類の側芽に長さ四~四十センチメートルにも及ぶ筍(たけのこ)に似た虫癭を作る。平凡社の「世界大百科事典」によれば、この虫癭は江戸時代から笹魚として知られており、この「笹魚」にはひとりでに谷川に落ちて岩魚(いわな)となるとする伝説があり、橘南谿の「東遊記」や木村蒹葭堂の「蒹葭堂雑録」などにもその記述が見られ、また、飛騨国第七代代官であった長谷川忠崇はこの伝説に疑問を持ち、その構造を調べ、骨も肉もなく焼いても魚の臭気のないことを確かめた上で『是れ竹の病ならん』と「飛州志」(延享二(一七四五)年頃成立)の中に記している、とある。yoas23氏のブログ「四季彩日記」の笹魚(ささうお)の写真が凄い(気持ち悪くはないが、インパクトは強いのでクリックは自己責任で)。これなら水に入って魚となるというのは、頗る腑に落ちるわい! 他に、サイト「北海道の虫えい(虫こぶ)図鑑」のササウオフシページは学術記載もしっかりしており、何より、驚かずに済む写真があるので、まずはこちらの閲覧をお薦めする。ホンマ! これは筍でんがな!

「明和五年」一七六八年。]

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