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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の100件の記事

2019/03/15

譚海 卷之三 (「和哥宗匠家」の続き)

(目録に立項なし。前の「和哥宗匠家」の続き)

○爲家卿の末二條家と稱し、世々撰者の跡を繼(つぎ)相傳(さうでん)有(あり)しが、中古以來其家斷絶して二條家なし、世俗に二條家と稱するは、其家のを傳へたる斗(ばか)り也、二條家とはいひがたし、二條流と稱すべき事也。當時爲家卿の末は、上下冷泉家ばかり殘れり。剩(あまつさ)へ下冷泉家も他の人家督相續ありし故、今にては上冷泉家斗り爲家卿より血脈(けちみやく)相傳して斷絶なく、撰者の跡は只此一家なり。殊に爲家卿の後室阿佛尼其家の傳書を傳(つたへ)られて、上冷泉代々相傳ありし故、彼家には古書ことごとくありしを、近世冷泉家に放蕩の人有て、重代の書籍等を沽却(こきやく)せられしより、往々人間(じんかん)に散在したる事に成(なり)たり。仍(よつ)て其家の文庫敕封せられ、其人といへどもうかゞひ見る事あたはず。上冷泉家に敕封開覽といふ事有て、其人五十になれば敕使を玉はりて開封有、一生涯先祖の書籍披見を許さるゝ也。卒去あれば又封ぜられて見る事あはず[やぶちゃん注:「あたはず」の脱字か。]。享保年中萬葉集の長歌・短歌の事を、定家卿しるし置(おか)せられし眞蹟を、江戸の町人なら屋安左衞門といふ者買取所持せしを、公儀へ獻ぜしに、有德院公方樣、冷泉家の舊物なればとて、則(すなはち)爲久卿へ下し賜り、御禮として長歌を詠(よみ)て奉られし事有。此外爲家卿眞蹟の僻案抄(へきあんせう)などと云(いふ)もの、往々人間に有(ある)は、みな彼家の什器の散落せる也。

[やぶちゃん注:「爲家卿」藤原定家の三男である権大納言民部卿藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。母は内大臣西園寺実宗(さねむね)の娘。当初、蹴鞠により後鳥羽・順徳両院の寵を被ったことから、父定家を悲しませたが、建保(一二一三年~一二一九年)の頃から歌作に努め、「為家卿千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たにして精進を始めた。知家(蓮性(れんしょう))や光俊(真観)ら、反御子左(みこひだり)派の抵抗にも遇ったが、よくその地位を守った。後嵯峨院の撰集下命により、建長三(一二五一)年に「続(しょく)後撰和歌集」を撰し、その後、再度、単独撰集の命を受けたが、後に基家・家良(中途で逝去)・行家・光俊が撰者に追任され、文永二(一二六五)年に「続古今和歌集」を撰進した。その子為氏・為教・為相により、歌道家の三家分立となった。歌風は温雅平明にして「中道の人」として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じ、その及ぼした影響は大きいものがあった。絵画にも秀でた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。底本の竹内利美氏の「爲家卿の末」の注には、定家の『長子為氏が二条家、次子の為教が京極家、三子の為相が冷泉家を、それぞれおこし、和歌の流祖となった。阿仏尼』(貞応元(一二二二)年?~弘安六(一二八三)年:女房名は安嘉門院四条又は右衛門佐。桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫奥山度繁(のりしげ)の娘(または養女とも)。安嘉門院(後堀河天皇准母)に仕え、出仕中、十代で初恋失恋の失意から出家を決意して尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続け、三十歳の頃、藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ)『は為家の側室で、為相の母であったから、冷泉家に多く和歌の伝書が伝えられた。二条・京極両家はその後絶えて、冷泉家のみか近世までつづき、さらに為相四代の孫為伊』(ためまさ)『の子持為が分派して下冷泉家となった。そして、為相の正統も上冷泉家と呼ばれるに至った』とされる。

「沽却(こきやく)」売り払うこと。売却。

享保年中」一七一六年~一七三六年。

「なら屋安左衞門」奈良屋茂左衛門(もざえもん ?~正徳四(一七四一)年)は元禄時代、一代で富豪に成り上がった材木商。略称「奈良茂(ならも)」。豪商「紀文」と並び称せられた。姓は神田、名は勝豊、剃髪して安休と号した。「茂左衛門」は代々の通称で、勝豊は四代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、濡れ手に粟の大儲けをしたとされる。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉の治世の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。綱吉が没した翌年の宝永七(一七一〇)年には材木商を廃業し、安楽に暮らせる貸家業に転じた。死後の遺産は十三万二千両余で、内訳は家屋敷三十ヶ所(沽券高四万四千両余)、現金約四万八千両、貸金四万両であった。この莫大な遺産は長男広と次男勝屋が遊興に耽って散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「有德院公方」徳川吉宗。

爲久卿」上冷泉家第十四代当主冷泉為久(貞享三(一六八六)年~寛保元(一七四一)年)。正二位権大納言。武家伝奏を務めた。

「僻案抄」鎌倉時代の和歌注釈書。一巻。藤原定家著。嘉禄二(一二二六)年成立。父俊成から受けた口伝を含め、「古今和歌集」・「後撰和歌集」・「拾遺和歌集」の三代集の難語を考証・注解したもの。「僻案集」とも呼ぶ。]

2019/02/21

譚海 卷之三 和哥宗匠家

和哥宗匠家

○和歌宗匠家と稱するは、和歌堪能の仁(ひと)にあれば御製(ぎよせい)を直し被仰付(おほせつけられ)御製へをかけ奉るより、堂上一般に和歌の宗匠(そうしやう)と仰ぎ、詠藻を其仁へ見せ點を乞(こふ)るゝ事に成(なる)故、點勅許の人とも稱する也。世俗歌所(うたどころ)と覺えたるも此(この)事也。宗匠家と稱するは何れの家にも限らず、とかく堪能の仁あれば許(ゆるさ)るゝ也。普通には上冷泉(かみれいぜい)・飛鳥井(あすかゐ)兩家代々勅撰の家なれば、宗匠家と申也。禁裏御會(ごくわい)の和歌題は、此兩家の出(いだ)さるゝに限る事也。故に點削勅許なき人は、猥(みだり)に他の詠藻に點かくる事成(なり)がたき事也。内々讀歌直し貰ても、和歌相談と稱する事とぞ。

[やぶちゃん注:「上冷泉」冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家で、代々、近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで、冷泉流歌道を伝承する。参照したウィキの「冷泉家の「室町時代―江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。『冷泉為尹』(ためまさ)は応永二三(一四一六)年、『次男・持為に播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するために為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年『には勅勘を蒙り、再び地方に下った。このまま地下家として埋もれてしまう可能性もあったが、秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、『徳川家康の執成しによって都へ戻り』、『堂上家に戻る事が出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「飛鳥井」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「飛鳥井家」によれば、『鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。この二人によって、以後、飛鳥井家は二条家・冷泉家と並ぶ歌道家と目されるに至った(この挿入のみは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった』とある。

「御會」歌会を敬って言う語。]

2019/01/03

譚海 卷之三 年號の文字

○年號の文字は文章博士(もんじやうはかせ)より撰進する也、菅家(くわんけ)・江家(がうけ)かわるがわる[やぶちゃん注:「わ」はママ。]撰(えら)み奉る也。年號行(おこなは)るゝ間は、年號料とて公儀より其家へ別祿を百石づつ賜(たまは)る事也。

[やぶちゃん注:「文章博士」本来は文章道(もんじょうどう:律令制に於ける大学寮の一学科で主に中国の詩文及び歴史を学んだ)を担当した大学寮の教官。神亀五(七二八)年令外官として、儒家の経書(けいしょ)講究の明経(みょうぎょう)道から分離して設置された。定員一人。奈良時代末に淡海三船(おうみのみふね)が大学頭兼文章博士に任ぜられて以来、急速に権威が高まり、弘仁一一(八二〇)年には従来の正七位相当から従五位下相当の官となった。承和元(八三四)年の紀伝博士の廃止により、文章博士の定員は二人となり、この頃から天皇・皇太子の侍講をも兼ねるようになった。九世紀末から菅原・大江両氏の独占となったが、貴族社会の衰微とともに形式化した官職になり下がった。唐名を「翰林学士」と称する(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2018/11/20

譚海 卷之三 土御門家の事

 

土御門家の事

○土御門は陰陽博士(おんみやうはかせ)家也、因て改曆の事を掌る。其家、制作する所の測量の書器等あれども、古代の物にして、西洋の精密なるにしかざるゆゑ、今時(きんじ)は關東に測量所を置(おか)れ、御沙汰あれば空名(くうめい)を持(じ)するのみ也。

 又遠江三河より來る年始萬歳(ねんしまんざい)の免許も土御門より出す。文字は板行(はんぎやう)にて、土御門政所(まんどころ)の印有(あり)、三年に壹度つつ白銀一兩つつを出(いだ)し引替(ひきかへ)に登る、惣萬歳の名代(みやうだい)として一人上京する事也。道中關所川渡(かはわたり)等も此免許をもつて通る事也。

[やぶちゃん注:改行はママ。特異点である

「土御門家」安倍氏嫡流の土御門家のこと。室町時代の陰陽師安倍有世(ありよ嘉暦二(一三二七)年~応永一二(一四〇五)年:平安期のゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によれば、『安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様』、『本姓ではなく』、『家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり』、『若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり』、『庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』とある。

「陰陽博士家」ウィキの「陰陽博士を引く。『律令制で陰陽寮に設置された教官の』一『つ。陰陽師を教育することを掌った。定員』一『名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当』。「日本書紀」の持統天皇六(六九二)年の『条が初出。ただし、定員については』「続日本紀」の養老五(七二一)年に、大津首(おおつのおびと 生没年不詳)と津守通((つもり のとおる 生没年不詳)の『両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生』十『名を教育するのが役目であったが』天平二(七三〇)年に、『陰陽寮強化の一環として』、内三名を『陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田』四『町が与えられた』。『奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳』(しげおか)『氏などが、平安中期には惟宗』(これむね)『氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった』とある。

「改曆の事を掌る」陰陽博士やその直属の陰陽師はそうした教育職と並行して、中務省陰陽寮の機関官員としえ、占術もさることながら、天文・時・暦の編纂を主に担当する部署としての役割が目立ったものとなっていった。ウィキの「陰陽寮によれば、『四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している』。『博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦』三『博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ』。『因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている』。『飛鳥時代(』七『世紀後半)に天武天皇により設置され、明治』二(一八六九)年に『時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として』、『翌年』、『廃止された』とある。天文観測や時間管理の関係上、計測のための「測量」機器類が必需品であったのである。

「今時」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村淙庵の見聞奇譚をとり纏めたもの。

「測量所」江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関で、主に編暦を司った「天文方(てんもんかた)」のこと。ウィキの「天文方によれば、渋川春海が幕府最初の公定暦としての「貞享暦」を作製し(この瞬間に土御門家の役割は終わった)、その功績を認められて『天文方に任じられた翌』年の貞享二(一六八五)年に牛込藁町の地に司天台を設置した』が、元禄二(一六八九)年には本所、同一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転』した。『春海の没後』、延享三(一七四六)年に『神田佐久間町』へ、明和二(一七六五)年には『牛込袋町に移り』、天明二(一七八二)年になって、『浅草の浅草天文台(頒暦所』(はんれきしょ)『とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用され』ており、『高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に『渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。明治二(一八六九)年に『天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止され』た。従って、ここで言う「測量所」は「浅草天文台」ということになる。

「空名を持する」公的に暦を出すに当たって、朝廷の陰陽博士として、ただ名前だけを記した(貸した)のである。

「年始萬歳」三河萬歳(みかわまんざい)のこと。愛知県の西三河地方を根拠地として(正統な狭義の文化芸能としてのそれは愛知県西尾市上町(かみまち)の「森下万歳」(西野町万歳と、同県安城(あんじょう)市別所町の「別所万歳」の二つである。ここは予祝行事を生業とした広義の大道芸のそれであるが、そこに本文に出る「惣萬歳」はいて、そうした連中たちの元締めをしていたものであろう)、正月初頭に、主に関東・関西地方を門付けして回る祝福芸。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が一組となり、才蔵の打つ鼓の拍子に乗って祝言を述べ、滑稽な言葉のやり取りをし、舞を舞って祝儀を貰うもの。江戸時代には幕府の保護を受けて盛んに行われた。才蔵は、江戸の四日市に房総から集まる志望者より選び、一春の契約をした(主に三省堂「大辞林」に拠った)。

「板行」印刷物。

「つつ」「づつ」。後も同じ。

「白銀」銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形して紙に包んだもので、贈答用に用いた。通用銀の三分(枚)に相当する。少し後になるが、秤量貨幣の通用銀であった天保丁銀は十六匁で、これは一両の約四分の一であるから、三分だと、〇・七五両相当だから、もう一枚分の銀を足さないといけない。]

2018/10/10

譚海 卷之三 靈社號の事

 

靈社號の事

○凡(およそ)人も卒去して神に祭る時は、其の靈社と稱し、その人歸依の神の番屋に祭る事也。靈社號は吉田殿より免許ある事也、宮號は敕許の外ならぬ事也といへり。

[やぶちゃん注:「吉田家」前条吉田家神代文字の私の引用注を参照されたい。]

譚海 卷之三 吉田家神代文字

 

吉田家神代文字

○吉田家に神代の文字といふ物を藏む。是は日向國霧島ケ嶽の絶頂の谷中に天の瓊矛(あめのぬぼこ)と云(いふ)物有(あり)て、夫(それ)に鏤刻(るこく)し有(ある)所の文字也といへり。一とせ其國の惠比須の宮の神主遠遊を好み、霧島ケ嶽にのぼりたるに、言傳ふる所の瓊矛なるもの谷中に有。全く華物(からもの[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。])の華表の如き物にして、ゑり付ある所の花文古筆めづらしきもの也。それにしるし付(つき)て有(ある)文字を摺寫(すりうつ)し、上京致し吉田殿へ持參し、引合見(ひきあはせみ)たき由願(ねがひ)けると人のかたりぬ。

[やぶちゃん注:「吉田家」卜部(うらべ)氏の流れを汲む公家。ウィキの「吉田家より引く。『京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲った事で知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務である事に因んで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った』。五代『兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て』、『勢力を拡大し』、『「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった』。九代兼見(かねみ)に至って、『織田信長の推挙により』、『堂上家の家格を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記』「兼見卿記」は『織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって』、寛文五(一六六五)年の『諸社禰宜神主法度で確定』し、『歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は』七百六十『石。明治維新後は良義が子爵に叙せられた。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている』とある。白河家の私の白川伯王家の引用注も参照されたい。

「天の瓊矛」元来は日本神話に登場する聖具「あめのぬぼこ」で、「古事記」では「天沼矛」、「日本書紀」では「天之瓊矛」或いは「天瓊戈」と表記されており、「古事記」によれば、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が別天津神(ことあまつかみ:天地開闢時に出現した五柱の神)らに、漂っていた大地の完成を命ぜられ、この「天沼矛」を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、この矛を渾沌とした大地に突き刺して掻き混ぜたところ、その矛から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となったとする(二神はこの島で「みとのまぐはひ」(交合)をして大八島と神々を生む。総てが判り易いフロイト的性的象徴であることは言うまでもない)。「日本書紀」本文には、「瓊」は「玉」のこと」とする注釈があり、そこでは「天之瓊矛」は「玉で飾られた矛」の意となる。但し、笨条のそれは、「日向國霧島ケ嶽の絶頂」に立つそれとあり、これは「天逆鉾(あめのさかほこ)」のことである。ウィキの「天逆鉾によれば、『日本の中世神話に登場する矛で』、『一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である』。これは前に注した「天沼矛」「天之瓊矛」が、『中世に到』って、『仏教の影響のもと』に『様々な解釈が生み出され』、その性質が変容したものである。仏教及び修験道の立場から書かれた神道書「大和葛城宝山記」(巻末に天平一七(七四五)年のクレジットと「興福寺の仁宗が之を記し傳ふ」と書かれているが、実際には鎌倉後期の真言系の僧によって書かれたとするのが通説)によると、『天沼矛を天地開闢の際に発生した霊物であり』、『大梵天王を化生したとし、独鈷杵と見なされ』、『魔を打ち返す働きを持つとして別名を天魔反戈』(あまのまがえしのほこ)『というとされている。更に天孫降臨した邇邇芸命』(ににぎのみこと:「日本書紀」では瓊瓊杵尊)『を瓊(宝石)で飾られた杵(金剛杵)の神と解し、「杵」を武器に地上平定する天杵尊』(あめのき(せ)のみこと)、別名、杵独王(きどくおう)としている。『一方で両部神道の』中世に書かれた神道書「天地麗気府録」では、『オノゴロ島に立てられた金剛杵であるとされ、これらの影響を受けた』「仙宮院秘文」では『皇孫尊は天沼矛を神宝として天下ったとされた。このため天沼矛=天逆鉾は地上にあると考えられるようになった』。『天逆鉾の所在については』「大和葛城宝山記」では『天魔反戈は内宮滝祭宮』(たきまつりのみや)『にあるとされている。伊勢神道(度会神道)の神道書』「神皇実録」では、『サルタヒコの宮処の璽(しるし)とされており』、「倭姫命世記」では、『天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されているとした。いずれも、伊勢神宮に保管されていると説く。なお』南北朝期に北畠親房が著した「神皇正統記」の中では、『オノゴロ島である宝山にあると結論づけている』。『一方で天逆鉾が、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないように』、『との願いをこめて』、『高千穂峰に突き立てたという伝承があ』り、『この天逆鉾は霧島六社権現の一社・霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町鎮座)の社宝』というが、『この矛の由来は不明である』。『古来、天逆鉾を詳しく調べようとした者はいなかったが、坂本龍馬が高千穂峰を訪れた際、何を思ったか』、『引き抜いて見せたというエピソードがある。このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している。なお、この天逆鉾は』、『のちに火山の噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカである。オリジナルは柄の部分は地中に残っており、刃の部分は回収され、島津家に献上され、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたが、その後も様々な人手を転々と渡って現在は行方不明となっている』。歴史学者喜田貞吉は、「神皇正統記」などに触発され、『霧島山降臨の話を作り出した修験者が高千穂峰の山頂に逆鉾を置いたと推察している』。『兵庫県高砂市の生石神社では境内の石の宝殿を、天逆鉾、鹽竈神社の塩竈とともに「日本三奇」と称している』とある。

「神代文字」(じんだいもじ)は鎌倉時代中期以来、しばしば、日本に漢字が渡来する以前から存在したと主張されてきた文字。神字(かんな)とも称する。特に江戸中期から国学者の中で、その存在を強く主張する者が多く現れた。対馬に伝わる日文(ひふみ)を支持した平田篤胤 の「神字日文傳」などが有名であるが、現在では、その存在は否定されており、その多くは、朝鮮のハングルをもとにして 十五世紀以後つくられたものとされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。私も全く信じない。]

譚海 卷之三 白河家

 

白河家

○白河家尋常には源姓を稱す、神祇伯に拜せらるゝ時は姓を捨て某王(なにがしわう)と稱する也。内侍所御神樂には白河殿歌をうたはるゝ也。神事の庭に座せらるゝに木偶人(でく)の如く、うたふ時に至りて聲を發せらるれば、はじめて其人なる事を知るといへり。

[やぶちゃん注:「白河家」とあるが、これは花山源氏を出自とする堂上家の白川伯王家(しらかわはくおうけ:単に白川家とも)のことであろう。ウィキの「白川伯王家」によれば、『花山天皇の皇孫の延信王』(のぶざねおう)『(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元』。『花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り』、『臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯』(じんぎはく/かみ(かん)づかさのかみ:律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁としての神祇官の長官)『に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた』。『白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない』。『非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である』。延信王は万寿二(一〇二五)年に『源姓を賜り』、『臣籍降下し』、寛徳三(一〇四六)年に『神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが』、『この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている』。『顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており』、『以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い』。『顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち』、『神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである』。なお、『「白川」の呼称は』十三『世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる』。『室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称し』、『吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』。『家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった』。『江戸時代の家禄は』二百『石。他に神祇領・神事料』百『石』であった。『明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶』した。]

2018/10/03

譚海 卷之三 大嘗會

 

大嘗會

○大嘗會(だいじやうゑ)前後三十日、禁中神事有(あり)、每夜曉に徹して事終る、宮中燈盞(とうせん)を點ずる事數百千にして、みな土器(かはらけ)に盛る也。殿々(とのもとのも)燈(ともし)なき所なし、翠簾(すいれん)重々(ぢゆうぢゆう)透(とほ)り照して、閃閃(せんせん)として羣螢(くんけい)の如し。白河吉田の兩神祇官、宮掖(きゆうえき)深處に在(あり)て神樂歌(かぐらうた)をうたふ。蕭然淸幽言語同斷なる事也とぞ。天子每朝寅の時高みくらに御(ぎよ)す、御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也、みじろかせ給ふ時に、玉體(ぎよくたい)暗(あん)に簾外にすきておがまれさせ給ふ。堂上の雜掌諸司番々に警固をつとめ、赤墀(せきち)の下に圓座をもふけて[やぶちゃん注:ママ。]其上に候す。假寐(かりね)すれば人長(ひとをさ)來り杖にてゆりおこす、夜明(よあけ)て膝のうへを見れば、かきあはせたる素袍(すはう)の袖に霜の痕(あと)鮮(あざやか)に有。南庭よりみゆる山上の寺々は、いづれもむしろこもにて蔽隱(おほひかく)す。大嘗會中鐘磬(しようけい)の聲を禁遏(きんあつ)せらるゝ也、公卿皆唐服を着せらるゝ也。

[やぶちゃん注:「大嘗會」大嘗祭(だいじょうさい)に同じ。天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じた。新嘗祭は毎年十一月に天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ自らも食す神人共食の祭儀で、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であったが、後に即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭儀として大規模に執り行うようになり、律令ではこれを「践祚(せんそ)大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(新嘗祭)と区別した。大嘗会は大嘗の節会(せちえ)で、嘗ては大嘗祭の後に三日間に亙る群臣を集めた饗宴を伴う節会が行われていたことに由来する。以上は主にウィキの「大嘗會を参考にした。

「燈盞」灯油を入れて火を灯す小皿。

「白河吉田」花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家白川伯王家と、卜部氏の流れを汲む公家吉田家。ウィキの「白川伯王によれば、室町時代に、代々、『神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』とある。

「宮掖」宮殿の脇の殿舎。皇妃・宮女のいる後宮。

「寅の時」午前四時頃。

「高みくら」「高御座」。天皇位を象徴する玉座で即位礼に於いて用いられるもの。ウィキの「高御座によれば、『平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された』とある。

「御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也」同じくウィキの「高御座によれば、『高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり』、『大陸文化の影響、と考える人がいるが』、「延喜式」巻第十六内匠寮に、『高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され』、『二種類の敷物を重ねる平敷であり』、『椅子ではない。伊勢奉幣の』際『の子安殿の御座や』、『清涼殿神事の』際『の天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する』とある。

「赤墀(せきち)」「丹墀(たんち)」と言う語があり、これは「宮殿の階上の庭・天子の宮殿」の意であるから、それであろう。ここは吹き曝しであることが以下の描写から判る。

「人長」それら「雜掌諸司」「人」の「長」(頭(かしら))の意であろう。

「素袍」直垂ひたたれ) の一種。裏を付けない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸ひもに革を用いる。

「鐘磬」梵鐘と磬(けい)。磬は法要の際の読経の合図に鳴らす仏具で、板状の鋳銅製のぶら下がったものを鉢で打ち鳴らす。

「禁遏(きんあつ)」禁じて停止させること。]

2018/09/11

譚海 卷之三 宇佐奉幣使

 

宇佐奉幣使

○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、

  かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを

[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]

譚海 卷之三 加茂祭

 

加茂祭

○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。

[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。

「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。

「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。

「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia kazinoki)とカジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。

「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。

「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens

「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。

「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。

「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。

「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。

「感賞」感心して褒め讃えること。

「御蔭山」下鴨神社の神体山。二百七十一メートルピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]

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