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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の205件の記事

2019/08/05

譚海 卷之三 薩摩曆の事

 

薩摩曆の事

○島津重豪朝臣、明和八年公儀へ御願有(あり)。その邦に天文臺を建(たて)らる。朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)に吉田靫負(かげひ)と云(いふ)人天學に精しく、御取立(おとりたて)にて改曆の事を仰付(おほせつけ)られ、牛込神樂坂に第を賜(たまは)り、高き所なれば殊更に司天臺を築(きづく)に及(およば)ずとて、其地にて測量の事を行(おこなは)れ、三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也。此時節、薩摩より願(ねがひ)ありて、家中一人、鞍負門人になり、隨身(ずいじん)して、曆學、稽古し、其うへ、上京して土御門家へ伺候し、彼(かの)家曆法、悉く傳へ、又、三年をへて、薩州へ歸れり。是より薩摩にても造曆の法、行るゝ也。近來(ちかごろ)、學校をも、その邦に建られ、上梁(じやうりやう)しぬと云(いへ)り。此朝臣、豁達(かつたつ)の人にして書も能書(のうしよ)也、京都にて某檢校平家琵琶に上手なるをも、二百石にて抱(かかへ)られたり。在城中に三重の閣を建られ、八仙卓の興行も時々ありとぞ。鎌倉賴朝卿の墓所をも再興せられし人也。

[やぶちゃん注:「薩摩曆」「さつまごよみ」。安永(一七七二年~一七八一年)頃から薩摩藩で領主及び重役に頒布した仮名暦。幕府天文方より、特例として認められたもので、他の当時の暦にはない独特の暦法を持つ。「薩州暦(さっしゅうれき)」とも呼ぶ。

「島津重豪」(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は薩摩藩第八代藩主で島津家第二十五代当主。第十一代将軍徳川家斉の御台所(正室)広大院の父。将軍家岳父として「高輪下馬将軍」と称された権勢を振るった一方で、諸学問やヨーロッパ文化に強い関心を寄せた「蘭癖大名」としても知られる。参照したウィキの「島津重豪」によれば、安永二(一七七三)年、『明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている』とある。

「明和八年」一七七一年。

「朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)」幕府派遣の宮中警護職。

「吉田靫負」ウィキの「天文方」(てんもんがた)の「吉田家」の項に、『佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年』(一七六四年)に『天文方に任』ぜられ、『宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した』とあり、そこに『吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂』と継承者を載せる。吉田秀長(元禄一六(一七〇三)年~天明七(一七八七)年)は「朝日日本歴史人物事典」によれば、『江戸中期の幕府天文方吉田家の初代。佐々木文次郎長秀と称していたが』、後に『秀長と改め』、『さらに』安永九(一七八〇)年、『本姓の吉田に復し』、『四郎三郎と改めた。宝暦暦の改暦準備で天文方が上京中に』、『西川正休の養子要人の暦作手伝を勤めた。宝暦』二(一七五二)年には『御用もないため』、『出仕におよばず』、『といい渡されたが』、『宝暦暦の欠陥が明らかになると』、明和元(一七六四)年に、『再び召し出され』、『天文方に任命され』、同六年に『宝暦暦の修正案をまとめ』(これが本文の「三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也」とあるのと一致する)、「修正宝暦甲戌元暦」・「修正宝暦甲戌元暦続録」など十四『巻を上呈した。この暦法は明和』八『年暦から用いられたが』、実は『独創性もなく』、ただ『定数を少々変えただけであった』とある。但し、彼に「靫負」の通称は見当たらない。

【2019年8月6日追記】いつもお世話になっているT氏より情報を頂戴した。先に結論を言うと、「吉田靫負」は前の引用に出た「吉田秀升(ひでのり)」で、「吉田秀長」の嫡子(嗣子)であったT氏の示して下さった「寬政重修諸家譜」卷第千二百九十八(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像。])に、

「吉田靫負」は初名を秀房(ひでふさ)、吉十郞、靫負とあって、『明和二年十二月二十八日より父』吉田秀長『に添』ひ『て新曆脩正の事をつとめ、』(中略)『明和四年閏九月十一日』、『天文方見習』ひ『となり、七年四月二十三日』、『さきにうけたまわりし脩正の事』、『成』る『により』、『黃金二枚をたまふ。安永八年十二月二十六日』、『天文方となり、天明七年十二月四日』、『遺跡を繼』ぐ[やぶちゃん注:以下、【 】は割注]『【時に四十三歳』、『廩米二百俵】』。『寬政元年八月十七日』、『さきに阿蘭陀永續曆の和解を改正し、且』、『彼』の『曆は天度に合』は『ざるのむねを述』べ、『別に考ふるところありて』「曆日永年捷見」『となづけし書を献ぜしかば』、『白銀七枚をたまはる。二年五月二十七日』、『御弓槍奉行に轉じ、天文方をかぬ。九年十二月二十七日』、『さきに京師におもむき、改曆の事をうけたまはり』、『つとめしにより黃金五枚をたまはる』とあった。

 一方、父「吉田秀長」は初名長秀(ながひで)で、後に文次郎、四郎三郎とあって、『延享三年』、『御徒にめしくはへられ、のち辭して處士となる。明和元年十一月十九日』、『めされて天文方とねり、廩米二百俵をたまひ、二年二月二十二日』、『測量のことをうけたまわり、京師におもむく。』(中略)明和『七年四月二十三日』、『さきに土御門家にをいて[やぶちゃん注:ママ。]、新曆製作あるところ、日食』(につしよく)、『差』(さしつか)『へるにより、秀長脩正すべきむねおほせをかうぶり、』(中略)『黃金三枚を賜ふ。安永八年十二月二十六日』、『御書物奉行に轉じ、九年五月二十七日』、『こふて家號を吉田にあらたむ』とあった。

以上から、T氏はメールで、

   《引用開始》

ということで「吉田親子」ともども明暦の改暦に携わっています。

「譚海」の「家中一人、鞍負門人になり」と言う部分は「吉田秀長」「吉田靫負」のいずれに弟子入りしたかは不明ですが、「明和八年公儀へ御願」から考えると、「吉田靫負」が実質、教えたものかと考えます。

   《引用終了》

と述べておられる。いつも不明箇所をT氏に助けられる。まことに有り難く、御礼申し上げるものである。

「天學」天体運行及び暦を作成する当時の天文学。

「司天臺」幕府天文方の観測施設。ウィキの「天文方」によれば、『渋川春海が天文方に任じられた翌貞享』二(一六八五)年に『牛込藁町の地に司天台を設置し』、元禄二(一六八九)年に『本所、同』一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転する。春海の没後、延享』三(一七四六)年に『神田佐久間町、明和』二(一七六五)年に『牛込袋町に移り、天明』二(一七八二)年には『浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時』(しげとき)『や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に渋川景佑』(かげすけ)『らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。その後、明治二(一八六九)年、天文方とともに浅草・九段の両天文台も廃止された、とある。

「土御門家」元来、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄で、土御門家がそれに当たっていた。「譚海 卷之一 江戶曆商賣の者掟の事」ウィキの「天文方」の引用を参照されたい。

「上梁」棟上げ。

「豁達」度量が広く、小事に拘らないさま。

「閣」底本では編者によってこの字の右に『(階)』と振られてある。

「八仙卓」清朝以前の中国料理の特徴的な正方形の食卓のこと。伝説上の八人の仙人に由来し、一辺に二人ずつで八名が正餐のテーブルであった。現在の中華料理店の円卓も八人掛けが標準である。

「鎌倉、賴朝卿の墓所をも再興せられし」島津重豪が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽墓である。ウィキの「島津氏」によれば、『島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿・源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の』三『国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の』四『ヶ国を有する守護職に任じられて以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代以降、薩摩藩主・島津氏は徳川将軍家と特別な閨閥家となり、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来』、『明治時代に至るまで家を守り通すことに成功した』。『島津姓については、諸説ありとし、忠久が』元暦二(一一八五)年八月十七日に、『近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元』(一一八五)年十一月二十八日の『文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ』、『島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については』、「島津国史」や「島津氏正統系図」に『おいて、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている』。『同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていること』が注目される。『忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく』、『荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している』とある通り、島津氏は源頼朝嫡流の血脈であるという家伝を保持し続けたのであった。『私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓」の私の注なども参照されたい。]

2019/07/23

譚海 卷之三 柳澤吉保朝臣の事

 

柳澤吉保朝臣の事

○柳澤甲斐守吉保朝臣、其家中興の人にて、和歌をも殊に好(このま)れ、靈元(れいげん)法皇の勅點を賜(たまはり)たるほどの事なり。其妾(しやう)は正親町(おほぎまち)大納言殿妹にて、和歌有職(いうそく)に達し、松陰日記(まつかげにつき)とて筆記せるものあり。甲斐守殿生涯殊寵(しゆちやう)、幷(ならびに)度々(たびたび)御成ありし事、致仕に至るまでをしるしたり、源氏物語りの體(てい)を模し、秀才の筆也。

[やぶちゃん注:「柳澤吉保」(万治元(一六五九)年~正徳四(一七一四)年)は上野国館林藩士の長男として江戸に生まれた。延宝八(一六八〇)年、館藩主徳川綱吉が第五代将軍となると、つき従って幕臣となった。元禄元(一六八八)年十一月には小納戸上席から、将軍親政のために新設された側用人に就任した。やがて老中となり、宝永元(一七〇四)年十二月に綱吉の後継として甲府徳川家の綱豊が決まると、甲府十五万石を領する譜代大名となった。後、大老(宝永三(一七〇六)年一月)。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は六義園に隠棲した。後代の実録本やドラマ等では悪辣な策謀家との風評が流布したが、綱吉に誠実に仕え、その意に従った側近であり、家中に荻生徂徠らの学者を召し抱えて、自らも北村季吟について古今伝授を受けた和歌好きであった。

「靈元法皇」霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年/在位:寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年)は歌人で能書家でもあった。譲位後の期間が長い。また、法皇となったのは正徳三(一七一三)年八月であるが、彼が史上最後の法皇となった。

「其妾は正親町大納言殿妹」ウィキの「柳沢吉保」によれば、『吉保の正室は、幕府旗本で柳沢氏と同じく甲斐源氏の一族であった曽雌』(そし)『氏の子孫である曽雌定盛の娘(曽雌定子)。側室は吉保生母・了本院(佐瀬氏)の侍女。飯塚氏(飯塚染子)、公家・正親町実豊もしくは正親町公通』(きんみち)『の娘(正親町町子』(延宝三(一六七五)年?~享保九(一七二四)年)『)がいる』とあり、ウィキの「正親町町子」には、『歌人』にして『文学者』という肩書を添えてあり、『出自については権大納言・正親町実豊と側室の田中氏との間の娘とする説があり、正親町公通の異母妹とされる。一方で』、『正親町公通を実父とし、公通と水無瀬氏信の娘の間の子とする説もある』。十六歳で『江戸に下り、将軍徳川綱吉の側近である柳沢保明(のち吉保)の側室となる。一大名の側室としては家格が高すぎるため、母方の姓である田中氏を名乗ったという。吉保との間に柳沢経隆・柳沢時睦の二男がいる』。『町子の実父を正親町公通にする説に立つと、公通は霊元天皇の使者として』、『たびたび江戸へ赴いており、柳沢吉保は霊元天皇から和歌の添削を受け、六義園十二境を定められ』、『参禅録の題を授けられるなど、霊元天皇は吉保に文芸面において影響を及ぼしている』。『また、この場合に町子の母となる水無瀬氏信の娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女として「常磐井」を名乗り、房子の伯母にあたる浄光院殿信子(鷹司信子)が将軍綱吉の御台所として江戸へ下向すると、常磐井は「右衛門佐局」と改名して信子に従』って『江戸へ赴き、江戸条大奥総取締役を務めている』。『このため、正親町公通を町子の実父とする説に立つと、町子はこうした両親の縁を背景に吉保の側室となったとも考えられている』。『なお、享保末年』(二一(一七三六)年)『以降に成立した』「柳営婦女伝系」では、『町子の出自について、右衛門佐局』((う)えもんのすけのつぼね 慶安三(一六五〇)年~宝永三(一七〇六)年:江戸前・中期の大奥女中(途中で紀州家に務めとして移っていた時期がある)。貞享四(一六八七)年に江戸城へ戻り、綱吉付き筆頭上﨟御年寄として大奥の総取締を担った)『の養子となった浪人の田中半蔵(のちに桃井内蔵助と改名)が後妻の姪を養女にしたもので、実父も分からない妓女であると記述されている』。『町子は公家的な教養を』持った『文学者としても知られ、吉保一代の半生を平安朝の』「源氏物語」に『倣って記した日記文学』「松蔭(まつかげ)日記(松家気(まつかげ))」を書いている。これは『江戸時代から秘本として知られて』いて、『江戸時代における宮廷文化の残滓として注目されている。「松家気(松かげ)」は松と松に絡みつき』、『花を咲かせる藤を指し、天皇や将軍・吉保など一連の人物を』、『松の木と藤に』喩え、『繁栄を願った意図があると考えられている』とある。]

2019/06/15

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

譚海 卷之三 田安中納言殿樂堪能

 

田安中納言殿樂堪能

○田安中納言殿は、風流好(ごのみ)古人に超(こえ)させ給へり。音樂は殊に好(このま)せ給ふ餘りに、天下の禁書を集め折衷し給ひて、中古斷絕の舞樂までも悉く興しをこなひ給ふ。その再興の舞樂を一書に集成有て、紅葉山の伶人多(おほ)氏に給はり、今その家につたへてあり。伶家にも此御事をば樂(がく)の聖(せい)成(なる)べしと沙汰しあへる程の事也。攝家より簾中嫁取ののち、その女房にみな音樂を教へ傳へさせましまして、時々女樂(ぢよがく)の合奏有。又西陣の織屋の女を召下(めしくだ)し、邸中にて織物をおらせ、堀川の染物する女をも召れて、機(はた)の模樣このみ染(そめ)させ給ひ、京都の女工をそのまゝ江戸にて調じさせ給へり。深川の屋敷に時々をはしまして、手ぬぐひを戴き、木綿の浴衣など着たまひ、下種(げす)のわざをもせさせ給ふとぞ、其處(そこ)もさながら田舍の住居の如く、ゐろりに燒火(たくひ)し手自(てづから)茶などをもせんじめされけるとぞ。和歌は萬葉の風を好みよみ給へり、岡部衞士(ゑじ)と云もの萬葉を執し、その注解の新意を著(あらは)せしも新たに出來たり。此等をも殊に寵し給ひて、衞士を大和廻りに遺し給ひ、往古名所の分明ならざるをも多く糺させ給へり。又猿樂の觀世流の謠の章の說を正し、詞をも直し改(あらため)させ給へり。高砂の能のあひの狂言のことばなどは、全く此卿の御作也とぞ。

[やぶちゃん注:「田安中納言」田安(徳川)宗武(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)第八代将軍徳川吉宗の二男。御三卿(ごさんきょう)田安家の祖で。国学者・歌人としても知られた。享保一四(一七二九)年元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任され、「徳川氏」を称し、明和五(一七六八)年には権中納言に累進した。幼少より学問を好み、国学者荷田在満(かだありまろ)を召し抱え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵(かもまぶち)を家臣とし、古典研究を深めて、三者互いに影響を与え合った。後の国学に与えた影響も大きい。歌集「天降言(あもりごと)」のほか、在満・真淵との歌論について議論の末に纏めた「歌体約言(かたいやくげん)」や、古典の注解評論である「伊勢物語註」「小倉百首童蒙訓」「古事記詳説」などを著し、また服飾・音楽・植物などの研究も行った、一種、博物学的好奇心の強い人物であったようである(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紅葉山」(もみじやま)は旧江戸城の西丸の東北にある丘。ウィキの「紅葉山」によれば、『本丸と西丸のほぼ中間にあたる。古くは「鷲の森」とも呼ばれた。現在は東京都千代田区に属し、皇居を構成する一部となっている』。『太田道灌の江戸城築城以前から存在し、元は古墳であったとする説』『もあるが』、『確証はない。また、目青不動(最勝寺)は、元は紅葉山にあったものが』、『道灌の江戸城築城時に城外に移されたと言われている。その後は日枝神社が置かれたが、江戸城拡張工事により』、『これも移転』した。『江戸幕府成立後の』元和四(一六一八)年、『紅葉山に徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である』四月十七日『には、将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の』一『つであった。また、秀忠以後の歴代将軍の廟所も紅葉山に設置された。また、寛永』一六(一六三九)年『には城内の文庫が富士見亭から紅葉山に移転・整備され、「紅葉山文庫」と称された。また、「紅葉山御社参」などの重要行事に備えて音楽を掌る楽所も設置されていた』。『紅葉山の警備・防災のために紅葉山火之番(留守居→寺社奉行支配)、霊廟の管理を行う紅葉山坊主、楽所の管理と演奏を行う紅葉山楽人、東照宮や各将軍の霊廟を掃除する紅葉山掃除之者が置かれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「伶人」雅楽を奏する楽人。

「多氏」の内、大和等畿内出身の一流に、有名な宮廷伶人である多臣自然麻呂(おおのじねんまろ/しぜまろ/じぜまろ ?~仁和二(八八六)年)を祖とする家系がある。自然麻呂は、宮中での公的な雅楽と右舞を創始し、三十九年間の長きに亙って「雅楽の一者(いちのもの)」の座を占め、今日まで宮中に伝わる神楽の形式を定めた人物とされる。

「攝家より簾中嫁取」宗武は、後陽成天皇の男系五世子孫で関白・太政大臣となった近衛家久の娘通姫(通子 享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年:院号は宝蓮院或いは法蓮院)を正室に迎えている(享保一八(一七三三)年に江戸城二の丸に入り、二年後の享保二十年に婚姻)。

「堀川」京の堀川通り。元禄期(一六八八年~一七〇四年)発祥の友禅染めで知られる。

「深川の屋敷」江戸切絵図で確認すると、田安中納言下屋敷は旧深川、現在の東京都江東区森下のこの附近にあった。

「岡部衞士」賀茂真淵のこと。岡部は本姓、衛士は通称。]

2019/06/14

譚海 卷之三 樂器の家々 琴(続き)

 

(樂器の家々 琴)[やぶちゃん注:前回の続きと採る。]

○きんは本朝に其傳(でん)絕(たえ)たる時、延寶の比(ころ)華僧心越禪師彈法を傳へ來り、再たびきんをひく事になりて、「琴經(きんけい)」抔(など)云(いふ)書、人の見る事に成(なり)たり。然れども今時の琴は甲を用ひず、爪にてひく事にて、調子も甚微音也。物を隔ては分明に聞得る事かたきやう也。土屋某の茶道小野田東川と云者心越の弟子にて、琴を能(よく)ならひ取たる故、四辻殿關東下向有て御願有、東川を召れ、傳奏屋敷にて琴の彈法東川より御傳授有、數月の後(のち)事畢(ことおはり)て歸洛有、以來堂上方にきん有と云。

[やぶちゃん注:「琴」「きん」筝との相違は門外漢の私(妻はプロ級だが。後述)がぐたぐた述べるよりは、サイト「中国語スクリプト」の『「琴」と「箏」の歴史と構造の違い【図説】』が詳しくヴィジュアル的もの最適なので、そちらを見られたい。

「延寶」一六七三年~一六八一年。次注参照。

「心越禪師」江戸初期に清から亡命した禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)。ウィキの「東皐心越」によれば、『俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある』。『詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく』、『文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。『明国浙江省浦江県で生まれる。幼くして仏門に帰依し』、『呉門の報恩寺において寿昌無明の法嗣となる』。一六七六年(延宝四年)、『清の圧政から逃れるため』、『中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。薩摩に入』った。『澄一禅師の招聘によって延宝』九(一六八一)年に『長崎の興福寺に住』したが、『黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど』、『各地を遊歴』したが、『外国人でありながら』、『日本国内を旅行したため』、逆に『清の密偵と疑われ』、『長崎に幽閉され』てしまう。天和三(一六八三)年、『水戸藩の徳川光圀』『の尽力により釈放』され、『水戸に』移って、『天徳寺に住し』、『篆刻や古琴を伝え』た。元禄七(一六九四)年、体をこわし、『翌年、江戸の菊坂長泉寺、相州塔之沢温泉などで療養するも回復せず、天徳寺に戻ると同年』九『月に示寂した。享年』五十八。『心越の禅風は明代中国禅の特徴である念仏兼修であ』り、『また』、『心越自身も黄檗僧との交流が深かった。このため』、『心越を黄檗宗とする資料も多いが、法系上は曹洞宗に属する。日本曹洞宗の開祖道元とは別系であり、心越の法孫は曹洞宗寿昌派を称した』とある。現行の「金沢八景」の命名者としても知られる。詳しくは私の光圀の「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の私の注や、植田孟縉(もうしん)の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の私の注(心越の漢詩、及び、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像を電子化掲載してある)を参照されたい。

「琴經」明の張大命纂になる琴学書。

「甲を用ひず、爪にてひく」「甲」は不詳。明らかに「爪」と差別化しているのだが、妻(五歳より琴を始め、画期的な現代邦楽研究所の第一期生にもなった(但し、卒業演奏の足を引っ張るのが嫌で、勿体ないことに、卒業一ヶ月前に退所した)に聴いたが、判らないとのことである。琴爪は別名「義甲(ぎこう)」とも呼ぶが、調べても「爪」との違いが判らない。識者の御教授を乞う。「調子も甚微音也」というところを見ると、大きく硬い素材か? 当初、鼈甲を考えたが、それでは却って柔らかな音になってしまうように思う。因みに、私の妻は三味線も所持するが、その撥は先端部分を鼈甲で蔽ってある。

「土屋某の茶道小野田東川」(おのだとうせん 貞享元(一六八四)年~宝暦一三(一七六三)年)は京生れの七弦琴の奏者。名は廷賓。先の心越が伝授した琴法を、杉浦正職(まさもと)から学ぶ。七弦琴の名人として知られ、その弾法を後世に伝えた。

「四辻殿」前回で注したが、室町家の別名で、花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。]

2019/03/29

譚海 卷之三 樂器の家々 琴

樂器の家々 琴[やぶちゃん注:字空けはママ。]

○樂器の内(うち)三絃はみな其(その)家有(あり)。和琴(わごん)は四辻殿(どの)、琵琶は菊亭殿、筝(さう)は藪(やぶ)殿其家也、門弟免許なき人は猥(みだり)に彈ずる事ならぬわざ也。持明院殿は朗詠・催馬樂(さいばら)其家也。和歌披講發聲等も門入(もんにふ)してならふ事也、私(わたくし)にはうたふ事成(なり)がたし。廣橋家は書法式の家也、世尊寺殿も文字法式免許を出さるゝ家也、又勅額を彫刻せらるゝ家もありとぞ。

[やぶちゃん注:「三絃」三味線。ウィキの「三味線」によれば、十六『世紀末、琉球貿易により堺に中国の三弦がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された』。『現存する豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。伝来楽器としての三弦は当道座』(とうどうざ:中世から近世にかけてあった男性盲人の自治的互助組織)。仁明(にんみょう)天皇(在位:天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁し、盲人を集め、琵琶・管弦・詩歌を教えた。人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。鎌倉時代に「平家物語」が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入ってゆき、室町時代に検校明石覚一が「平家物語」のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いて、久我(こが)家が本所(名目上の権利所有者)となった。江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。官位を得るためには、京都にあった当道職屋敷に多額の金子を持っていく必要があった。以上はウィキの「当道座』」に拠った)『の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三弦が義爪を使って弾奏していたのを改め』、『彼らが専門としていた「平曲(平家琵琶)」の撥を援用したのも』、『そのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。とくに石村検校は三味線の改良、芸術音楽化、地歌の成立に大きく関わった盲人音楽家であろうと言われる』とある。

「四辻殿」室町家の別名。花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。

「菊亭殿」今出川家の別名。藤原北家閑院流、西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は初めは千三百五十五石。

「藪(やぶ)殿」高倉家の別名。藤原北家閑院流、四辻家支流。藤原南家の祖藤原武智麻呂の子孫である藤原範季を祖とする。江戸時代の家禄は初めは百八十石。

「持明院殿」持明院家。藤原北家中御門流。藤原道長の次男藤原頼宗の曾孫藤原俊家の子である基頼の流れを汲む。家学は鷹匠・書道(筆道宗家)・神楽。江戸時代の石高は二百石。

「廣橋家」藤原北家日野流。家業は文学。江戸時代の家禄は八百五十石。

「世尊寺殿」世尊寺家。藤原北家九条流嫡流の摂政藤原伊尹の孫行成を祖とし、「三跡」「四納言」として知られた初代行成以降、代々、入木道(書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。以上、それぞれの家の内容はウィキのそれぞれに拠った。]

2019/03/15

譚海 卷之三 (「和哥宗匠家」の続き)

(目録に立項なし。前の「和哥宗匠家」の続き)

○爲家卿の末二條家と稱し、世々撰者の跡を繼(つぎ)相傳(さうでん)有(あり)しが、中古以來其家斷絶して二條家なし、世俗に二條家と稱するは、其家のを傳へたる斗(ばか)り也、二條家とはいひがたし、二條流と稱すべき事也。當時爲家卿の末は、上下冷泉家ばかり殘れり。剩(あまつさ)へ下冷泉家も他の人家督相續ありし故、今にては上冷泉家斗り爲家卿より血脈(けちみやく)相傳して斷絶なく、撰者の跡は只此一家なり。殊に爲家卿の後室阿佛尼其家の傳書を傳(つたへ)られて、上冷泉代々相傳ありし故、彼家には古書ことごとくありしを、近世冷泉家に放蕩の人有て、重代の書籍等を沽却(こきやく)せられしより、往々人間(じんかん)に散在したる事に成(なり)たり。仍(よつ)て其家の文庫敕封せられ、其人といへどもうかゞひ見る事あたはず。上冷泉家に敕封開覽といふ事有て、其人五十になれば敕使を玉はりて開封有、一生涯先祖の書籍披見を許さるゝ也。卒去あれば又封ぜられて見る事あはず[やぶちゃん注:「あたはず」の脱字か。]。享保年中萬葉集の長歌・短歌の事を、定家卿しるし置(おか)せられし眞蹟を、江戸の町人なら屋安左衞門といふ者買取所持せしを、公儀へ獻ぜしに、有德院公方樣、冷泉家の舊物なればとて、則(すなはち)爲久卿へ下し賜り、御禮として長歌を詠(よみ)て奉られし事有。此外爲家卿眞蹟の僻案抄(へきあんせう)などと云(いふ)もの、往々人間に有(ある)は、みな彼家の什器の散落せる也。

[やぶちゃん注:「爲家卿」藤原定家の三男である権大納言民部卿藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。母は内大臣西園寺実宗(さねむね)の娘。当初、蹴鞠により後鳥羽・順徳両院の寵を被ったことから、父定家を悲しませたが、建保(一二一三年~一二一九年)の頃から歌作に努め、「為家卿千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たにして精進を始めた。知家(蓮性(れんしょう))や光俊(真観)ら、反御子左(みこひだり)派の抵抗にも遇ったが、よくその地位を守った。後嵯峨院の撰集下命により、建長三(一二五一)年に「続(しょく)後撰和歌集」を撰し、その後、再度、単独撰集の命を受けたが、後に基家・家良(中途で逝去)・行家・光俊が撰者に追任され、文永二(一二六五)年に「続古今和歌集」を撰進した。その子為氏・為教・為相により、歌道家の三家分立となった。歌風は温雅平明にして「中道の人」として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じ、その及ぼした影響は大きいものがあった。絵画にも秀でた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。底本の竹内利美氏の「爲家卿の末」の注には、定家の『長子為氏が二条家、次子の為教が京極家、三子の為相が冷泉家を、それぞれおこし、和歌の流祖となった。阿仏尼』(貞応元(一二二二)年?~弘安六(一二八三)年:女房名は安嘉門院四条又は右衛門佐。桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫奥山度繁(のりしげ)の娘(または養女とも)。安嘉門院(後堀河天皇准母)に仕え、出仕中、十代で初恋失恋の失意から出家を決意して尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続け、三十歳の頃、藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ)『は為家の側室で、為相の母であったから、冷泉家に多く和歌の伝書が伝えられた。二条・京極両家はその後絶えて、冷泉家のみか近世までつづき、さらに為相四代の孫為伊』(ためまさ)『の子持為が分派して下冷泉家となった。そして、為相の正統も上冷泉家と呼ばれるに至った』とされる。

「沽却(こきやく)」売り払うこと。売却。

享保年中」一七一六年~一七三六年。

「なら屋安左衞門」奈良屋茂左衛門(もざえもん ?~正徳四(一七四一)年)は元禄時代、一代で富豪に成り上がった材木商。略称「奈良茂(ならも)」。豪商「紀文」と並び称せられた。姓は神田、名は勝豊、剃髪して安休と号した。「茂左衛門」は代々の通称で、勝豊は四代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、濡れ手に粟の大儲けをしたとされる。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉の治世の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。綱吉が没した翌年の宝永七(一七一〇)年には材木商を廃業し、安楽に暮らせる貸家業に転じた。死後の遺産は十三万二千両余で、内訳は家屋敷三十ヶ所(沽券高四万四千両余)、現金約四万八千両、貸金四万両であった。この莫大な遺産は長男広と次男勝屋が遊興に耽って散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「有德院公方」徳川吉宗。

爲久卿」上冷泉家第十四代当主冷泉為久(貞享三(一六八六)年~寛保元(一七四一)年)。正二位権大納言。武家伝奏を務めた。

「僻案抄」鎌倉時代の和歌注釈書。一巻。藤原定家著。嘉禄二(一二二六)年成立。父俊成から受けた口伝を含め、「古今和歌集」・「後撰和歌集」・「拾遺和歌集」の三代集の難語を考証・注解したもの。「僻案集」とも呼ぶ。]

2019/02/21

譚海 卷之三 和哥宗匠家

和哥宗匠家

○和歌宗匠家と稱するは、和歌堪能の仁(ひと)にあれば御製(ぎよせい)を直し被仰付(おほせつけられ)御製へをかけ奉るより、堂上一般に和歌の宗匠(そうしやう)と仰ぎ、詠藻を其仁へ見せ點を乞(こふ)るゝ事に成(なる)故、點勅許の人とも稱する也。世俗歌所(うたどころ)と覺えたるも此(この)事也。宗匠家と稱するは何れの家にも限らず、とかく堪能の仁あれば許(ゆるさ)るゝ也。普通には上冷泉(かみれいぜい)・飛鳥井(あすかゐ)兩家代々勅撰の家なれば、宗匠家と申也。禁裏御會(ごくわい)の和歌題は、此兩家の出(いだ)さるゝに限る事也。故に點削勅許なき人は、猥(みだり)に他の詠藻に點かくる事成(なり)がたき事也。内々讀歌直し貰ても、和歌相談と稱する事とぞ。

[やぶちゃん注:「上冷泉」冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家で、代々、近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで、冷泉流歌道を伝承する。参照したウィキの「冷泉家の「室町時代―江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。『冷泉為尹』(ためまさ)は応永二三(一四一六)年、『次男・持為に播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するために為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年『には勅勘を蒙り、再び地方に下った。このまま地下家として埋もれてしまう可能性もあったが、秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、『徳川家康の執成しによって都へ戻り』、『堂上家に戻る事が出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「飛鳥井」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「飛鳥井家」によれば、『鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。この二人によって、以後、飛鳥井家は二条家・冷泉家と並ぶ歌道家と目されるに至った(この挿入のみは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった』とある。

「御會」歌会を敬って言う語。]

2019/01/03

譚海 卷之三 年號の文字

○年號の文字は文章博士(もんじやうはかせ)より撰進する也、菅家(くわんけ)・江家(がうけ)かわるがわる[やぶちゃん注:「わ」はママ。]撰(えら)み奉る也。年號行(おこなは)るゝ間は、年號料とて公儀より其家へ別祿を百石づつ賜(たまは)る事也。

[やぶちゃん注:「文章博士」本来は文章道(もんじょうどう:律令制に於ける大学寮の一学科で主に中国の詩文及び歴史を学んだ)を担当した大学寮の教官。神亀五(七二八)年令外官として、儒家の経書(けいしょ)講究の明経(みょうぎょう)道から分離して設置された。定員一人。奈良時代末に淡海三船(おうみのみふね)が大学頭兼文章博士に任ぜられて以来、急速に権威が高まり、弘仁一一(八二〇)年には従来の正七位相当から従五位下相当の官となった。承和元(八三四)年の紀伝博士の廃止により、文章博士の定員は二人となり、この頃から天皇・皇太子の侍講をも兼ねるようになった。九世紀末から菅原・大江両氏の独占となったが、貴族社会の衰微とともに形式化した官職になり下がった。唐名を「翰林学士」と称する(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2018/11/20

譚海 卷之三 土御門家の事

 

土御門家の事

○土御門は陰陽博士(おんみやうはかせ)家也、因て改曆の事を掌る。其家、制作する所の測量の書器等あれども、古代の物にして、西洋の精密なるにしかざるゆゑ、今時(きんじ)は關東に測量所を置(おか)れ、御沙汰あれば空名(くうめい)を持(じ)するのみ也。

 又遠江三河より來る年始萬歳(ねんしまんざい)の免許も土御門より出す。文字は板行(はんぎやう)にて、土御門政所(まんどころ)の印有(あり)、三年に壹度つつ白銀一兩つつを出(いだ)し引替(ひきかへ)に登る、惣萬歳の名代(みやうだい)として一人上京する事也。道中關所川渡(かはわたり)等も此免許をもつて通る事也。

[やぶちゃん注:改行はママ。特異点である

「土御門家」安倍氏嫡流の土御門家のこと。室町時代の陰陽師安倍有世(ありよ嘉暦二(一三二七)年~応永一二(一四〇五)年:平安期のゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によれば、『安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様』、『本姓ではなく』、『家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり』、『若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり』、『庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』とある。

「陰陽博士家」ウィキの「陰陽博士を引く。『律令制で陰陽寮に設置された教官の』一『つ。陰陽師を教育することを掌った。定員』一『名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当』。「日本書紀」の持統天皇六(六九二)年の『条が初出。ただし、定員については』「続日本紀」の養老五(七二一)年に、大津首(おおつのおびと 生没年不詳)と津守通((つもり のとおる 生没年不詳)の『両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生』十『名を教育するのが役目であったが』天平二(七三〇)年に、『陰陽寮強化の一環として』、内三名を『陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田』四『町が与えられた』。『奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳』(しげおか)『氏などが、平安中期には惟宗』(これむね)『氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった』とある。

「改曆の事を掌る」陰陽博士やその直属の陰陽師はそうした教育職と並行して、中務省陰陽寮の機関官員としえ、占術もさることながら、天文・時・暦の編纂を主に担当する部署としての役割が目立ったものとなっていった。ウィキの「陰陽寮によれば、『四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している』。『博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦』三『博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ』。『因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている』。『飛鳥時代(』七『世紀後半)に天武天皇により設置され、明治』二(一八六九)年に『時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として』、『翌年』、『廃止された』とある。天文観測や時間管理の関係上、計測のための「測量」機器類が必需品であったのである。

「今時」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村淙庵の見聞奇譚をとり纏めたもの。

「測量所」江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関で、主に編暦を司った「天文方(てんもんかた)」のこと。ウィキの「天文方によれば、渋川春海が幕府最初の公定暦としての「貞享暦」を作製し(この瞬間に土御門家の役割は終わった)、その功績を認められて『天文方に任じられた翌』年の貞享二(一六八五)年に牛込藁町の地に司天台を設置した』が、元禄二(一六八九)年には本所、同一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転』した。『春海の没後』、延享三(一七四六)年に『神田佐久間町』へ、明和二(一七六五)年には『牛込袋町に移り』、天明二(一七八二)年になって、『浅草の浅草天文台(頒暦所』(はんれきしょ)『とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用され』ており、『高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に『渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。明治二(一八六九)年に『天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止され』た。従って、ここで言う「測量所」は「浅草天文台」ということになる。

「空名を持する」公的に暦を出すに当たって、朝廷の陰陽博士として、ただ名前だけを記した(貸した)のである。

「年始萬歳」三河萬歳(みかわまんざい)のこと。愛知県の西三河地方を根拠地として(正統な狭義の文化芸能としてのそれは愛知県西尾市上町(かみまち)の「森下万歳」(西野町万歳と、同県安城(あんじょう)市別所町の「別所万歳」の二つである。ここは予祝行事を生業とした広義の大道芸のそれであるが、そこに本文に出る「惣萬歳」はいて、そうした連中たちの元締めをしていたものであろう)、正月初頭に、主に関東・関西地方を門付けして回る祝福芸。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が一組となり、才蔵の打つ鼓の拍子に乗って祝言を述べ、滑稽な言葉のやり取りをし、舞を舞って祝儀を貰うもの。江戸時代には幕府の保護を受けて盛んに行われた。才蔵は、江戸の四日市に房総から集まる志望者より選び、一春の契約をした(主に三省堂「大辞林」に拠った)。

「板行」印刷物。

「つつ」「づつ」。後も同じ。

「白銀」銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形して紙に包んだもので、贈答用に用いた。通用銀の三分(枚)に相当する。少し後になるが、秤量貨幣の通用銀であった天保丁銀は十六匁で、これは一両の約四分の一であるから、三分だと、〇・七五両相当だから、もう一枚分の銀を足さないといけない。]

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