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カテゴリー「津村淙庵「譚海」」の212件の記事

2020/08/18

譚海 卷之三 小倉殿の事

 

小倉殿の事

○近世小倉殿と聞えしは、詩文章に名ある御方(おんかた)にて、南郭文集はじめ、諸人の集に往々贈答の事見えたり。此相公ばかりは、昔繪にある如く頰つらに髭を長く生(はやし)て、束帶の體(てい)など異形に見えられけるとぞ。

[やぶちゃん注:「小倉殿」羽林家の家格を有する公家小倉家。藤原北家閑院流。西園寺家一門の洞院家庶流。家業は神楽。江戸時代の家禄は百五十石。鎌倉時代に従一位・左大臣であった洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:太政大臣・西園寺公経の子)の二男権中納言公雄(きんお 生没年未詳。出家したのは文永九(一二七二)年)が創設した。

「南郭文集」「南郭先生文集」享保一二(一七二七)から宝暦八(一七五八)年にかけて刊行された、江戸中期の儒者で漢詩人の服部南郭の撰になる漢詩文集。四編・四十巻・二十四冊。服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は京都生まれ。江戸で柳沢吉保に歌人として仕え、荻生徂徠に学んだ。吉保没後は私塾を開いて、「経世論の太宰春台」に対して、「詩文の南郭」として徂徠門下の双璧と称された。享保九年には「唐詩選」を校訂して出版し、唐詩流行の端緒を作った。]

2020/07/28

譚海 卷之三 細川家和哥の事

 

細川家和哥の事

○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。

[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。

「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。

「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。

「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。

「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]

2020/07/03

譚海 卷之三 烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

 

烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

○烏丸(からすまる)光廣卿又連歌などを好(このま)れ、玄旨法師の門弟となり、澤庵・江月などと云(いふ)大德寺の僧徒と往來密にして、漢和の百韻など度々興行有。光廣卿殊に禪學に入られけるゆゑ、詠歌其氣を帶(おび)てあらき作意也。其上連歌の餘執(よしふ)に引(ひか)れて、はいかい體(てい)にながれしゆゑ、詠歌半(なかば)はたゞごと歌になり、俗語をまじへよまれしまゝ、狂歌の風に落(おち)たり。玄旨法印の和歌も半は狂歌まじれり。若狹守長嘯子(わかさのかみちやうしやうし)・牡丹花老人(ぼたんくわろうじん)など右の窩窟(くわくつ)をまぬかれず、小堀遠州などの詠歌も同じやうのことなり。朝廷に和歌の道すたれしより、東野州(とうやしう)などと云(いふ)人專ら委任し、地下(ぢげ)の歌よみ盛(さかん)に成(なり)て、古今傳(こきんでん)などと云(いふ)事を私(わたくし)に考へ、二條流の說などをまじへて興行せしより、古今の讀(よみ)まちまちにわかれ、却て深祕不可說ある事の樣にとりはやしぬる事になりぬ。西三條家など雷同せられて、搢紳(しんしん)過半地下の歌よみになびきよられしかば、又一旦は和歌の道さかんの樣に見えぬれど、まつたく歌道亂世によりて地に落たる災(わざはひ)也と人のいへり。

○古今の傳と云(いふ)事は、二條家斷絕ののちは、上冷泉殿御家に傳へられたるのみ古來の正說とする事也。天子古今御傳受のとき、宗匠をめされて聽聞(ちやうもん)ある時は、そば聞(ぎき)と云(いひ)て、壹人(ひとり)昵近(ぢつこん)の公卿を許され、始終御傍にて承る事也。是を古今傳受せらるゝとはいはね共、自然其公卿の家に其說のこりとゞまりて、世にひろまる事とも成(なり)ぬるよし。

○光廣卿禪に入られける故にや、放蕩なる人にて、寐所(しんじよ)なども晝夜枕席(ちんせき)を收(をさむ)る事なく、眠(ねむり)來(きた)ればいつにても入(いり)て寐られけるとぞ。後陽成院禁裏の高どのより公卿の屋敷をえいらん有けるに、殊に破損して見苦敷(みぐるしき)家有(あり)、誰(た)が家ぞと勅問有(あり)、光廣卿の宅の由を申上(まうしあげ)ければ、餘り荒たるとて修覆仰付られけるとぞ。【但(ただし)光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし】

[やぶちゃん注:「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)「元和の比堂上之風儀惡敷事」に既出既注なので、参照されたい。江戸前期の公卿で准大臣烏丸光宣の長男で、官は正二位権大納言に至り、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ人物で能書家としても知られるが、ここにある通り、私生活はトンデモ法外なる公卿である。

「玄旨法師」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「澤庵」知られた安土桃山から江戸前期にかけての臨済僧沢庵宗彭(そうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)。

「江月」(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は江戸初期の臨済僧で茶人。津田宗及(そうぎゅう:安土・桃山時代の堺生まれの豪商で茶人。信長・秀吉の茶頭となった)の子。名は宗玩(そうがん)。別号に欠伸子。和泉の人。大徳寺住持となり、皇室を始めとして上流階層の帰依を得、特に茶道を好み、父津田宗達及び小堀遠州について奥義を究めた。

「大德寺」京都市北区にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は竜宝山。開創は正中元(一三二四)年、開山は宗峰妙超、開基は赤松則村。後醍醐天皇から勅額を賜り、五山の一となったが、後、その位を辞し、在野的寺格を保った。「応仁の乱」で焼失したが、堺の豪商の帰依を得て一休宗純が再建。多数の塔頭があり、有名な茶室・茶庭も多い。

「はいかい體(てい)」「俳諧」の「體」。「はいかいたい」でもよいが、私は批判がましい謂いであるところから「てい」と読んでおきたい。

「若狹守長嘯子」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。

「牡丹花老人」(嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)は室町中期の連歌師・歌人で歌学者。准大臣中院通淳(なかのいんみちあつ)の号。京生まれ。若くして出家し、連歌師宗祇より伝授された「古今和歌集」・「源氏物語」の秘伝を、晩年に移住した堺の人々に伝え、「堺伝授」の祖となった。「古今和歌集古聞」など、講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては宗祇・宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」などが伝わる。「牡丹花」は「ぼたんげ」とも読むらしい。

「窩窟(くわくつ)」以下にも下卑て非難めいた謂いで、寧ろ、江戸の歌人としても名を馳せた筆者津村であるとは言え、こうした畳掛けが彼自身の嫌らしさを感じさせるところである。

「小堀遠州」(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)は江戸初期の茶人で遠州流の祖であり、また、江戸幕府の奉行として建築・土木・造園を手がけたことでも知られる。名は政一。近江国小堀村(現在の長浜市)生まれ。初め、豊臣秀吉に仕え、後、徳川家康に従い、父正次の死後は家を継ぎ、近江小室一万石を領して遠江守に任ぜられた。早くより古田織部に茶の湯を学び、品川御殿作事奉行の任にあった寛永一三(一六三六)年には同御殿で第三代将軍徳川家光に献茶し、ここから、所謂、将軍家茶道師範の称が起った。和歌・書・茶器鑑定にも優れ、陶芸も指導した。

「東野州」東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年頃)は室町前期の武家の歌人。法名は素伝。従五位下下野守であったことから「東野州」と称せられた。東国の武門の名家千葉氏の支流の東益之(とうのますゆき)の子で美濃国郡上領主。宝徳元(一四四九)年から二条派の堯孝(ぎょうこう)、冷泉派の正徹に歌を学び、翌年、正式に堯孝に入門した。この頃の歌についての話を書き留めたものが「東野州聞書」である。幕府の命で東国に転戦し、晩年は美濃に帰った。篤学で古典に詳しく、文明三(一四七一)年には、かの宗祇に「古今和歌集」や「百人一首」などを講じている。特に「古今和歌集」の秘説を切紙(きりがみ)に記して伝えたが(次注参照)、これが「古今伝授」の初めとして、後世、重視された。但し、彼は実際には当時の歌壇では大物と目されてはおらず、その死後、宗祇が自身の権威附けのために宣伝して、著名になったと考えられている。なお、「伊勢物語」・「新古今和歌集」・「拾遺愚草」などの講説も現存する。

「古今傳」「古今伝授」。歌学用語で「古今伝受」とも書く。「古今和歌集」の解釈上の問題点を。師匠から弟子へ教授し。伝えていくことで、「三木三鳥」などと呼ばれる同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説とし、これを短冊形の切り紙に書き、秘伝として特定の弟子に授ける、所謂、「切り紙伝授」が特に有名であるが、本来は同集全体についての講義を行うことで、証本を授与することもあったらしい。その萌芽は、藤原俊成が藤原基俊に入門し、「古今和歌集」についての教えを受けたことを本源とする。俊成は息子の定家にこれを伝え、定家は「僻案抄」ほかを著わして、若干の弟子にこれを教えている。伝授の形式は、基俊・俊成・定家以来の教えを伝えていると称する東常縁が宗祇に伝授した時から整えられた。宗祇以後、「御所伝授」(宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院)、「堺伝授」(宗祇-肖柏-宗伯)、「奈良伝授」(肖柏-林宗二(りんそうじ))などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが、中世の神秘思想の影響を受けて、室町以降、空疎な内容や末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ、近世の国学者らから批判を受けたものの、文化史的な意義は見逃せない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「二條流」中世に於ける和歌の流派である二条派。藤原北家御堂流の御子左家(みこひだりけ)は藤原俊成・定家・為家と和歌の家系としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていたが、為氏の庶弟為教(ためのり)・為相(ためすけ)と相続を巡って不和となり、為教は京極家に、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世(ためよ)、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(後の南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(後の北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立し、勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまった。その後、秘伝は、先に出た東氏を経て、三条西家(藤原氏で公家)に伝わり、明治を迎えた。世に言う「古今伝授」がこれである。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家・宮家・堂上家・地下家にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家・烏丸家も二条派に属する(以上はウィキの「二条派」に拠った)。

「深祕不可說」禅宗で言う教外(きょうげ)別伝に引っ掛けたものであろう。

「西三條家」三条西家に同じ。藤原北家閑院(流嫡流の三条家の分家である現在の嵯峨家(正親町三条家)の、そのまた、分家。大臣家の家格を持つ公家。「西三条家」とした時期もある。前注に示した通り、室町から明治に至るまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めていた。

「搢紳」官位が高く、身分のある人。「笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)む」の意から。

「上冷泉殿御家」ウィキの「冷泉家」の「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。冷泉為尹(ためまさ)は応永二三(一四一六)年に次男持為(もちため)に『播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するため』、『為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り』、『地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年には『為満が勅勘を蒙り、再び地方に下った。上冷泉家の家督は中山家から為親が新たに当主として迎えられ』、『冷泉為親を名乗る』。『しかし秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、徳川家康の執り成しに『よって前当主であった為満が都へ戻り』、『再び当主となることが出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め』、『公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『為満の復帰により』、『為親は上冷泉家の当主でなくなったが』、『別に新たに中山冷泉家を興せることとなり、その新たな堂上家の当主となった』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「枕席」寝具一式。

「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。以下の話は在位中の江戸時代、慶長一四(一六〇九)年七月に起きた「猪熊事件」(侍従猪熊教利による女官密通事件)に光広が連座して勅勘を下し(官停止・蟄居)、慶長一六(一六一一)年四月にそれを勅免して還任した後のことであろう。

「えいらん」「叡覽」。

「光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし」この割注、意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うと記したいが、実際には、私は判ろうとする気持ちが起こらないのである。この辺りの津村、正直、全く、面白くなく、ゲロが出るほど生理的に厭だからである。]

2020/04/18

譚海 卷之三 應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

 

應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

○應仁一亂後戰國に入(いり)て、京師住居數度兵火の災にかゝり、(住居(すみゐ)成(なり)がたきにより、)諸公卿大半緣に付(つき)て諸國へ寄食せられしかば、禁中參仕の人少く、朝廷衰微極り、殘り留(とどま)る公卿朝夕の煙を立(たて)かね、色紙短册等を書寫し、ついぢの上にかけて、行路の人に賣(うり)あたへ、漸々(やうやう)衣食せられける事也。和歌の道も亂世に隨(したがひ)て衰へ、ただ連歌のみ盛(さかん)にもて興ずる事とせしは、時勢のいそがはしきにつるゝ風俗成(なる)べし。依(より)て撰集の沙汰は止(やみ)て連歌の撰起り、「新つくば集」などと云(いふ)もの出來(いでき)たり。紹巴法橋(ぜうはほつきやう)など云もの、筑紫より連歌をもて京師に來り、終に志を得て名を傳ふる事に成たり。當時の諸將武人連歌を嗜(たしな)まざる人なく、松永彈正(だんじやう)人の許(もと)にて連歌せしに、「薄(すすき)にまじる蘆(あし)の一むら」と云(いふ)句に付(つけ)わづらひて、沈思(ちんし)したる折(をり)しも、二三度宿所(しゆくしよ)より來りて密事(みつじ)にさゝやく事ありしが、猶案じ入(いり)て「古池の淺きかたより野と成(なり)て」と付(つけ)て、やがて「火急の事出來(いでき)ぬ」とて立歸るに、「何事にや」と傍(かたはら)の人尋(たづね)しかば、「以前より宿所へ野伏蜂起してよせ來るよししらせ侍り、急ぎ罷向(まかりむかひ)て追(おひ)ちらし侍らん」とて歸りけるよし。さるにてもかくはげしき中(なか)にて、かくまで連歌をすけるも、一時の風俗なりけりと人のかたりし。

○紹巴法橋一とせ松島一見に仙臺へ下りし比(ころ)、紹巴が名を傳へ聞(きき)て、こゝかしこにて招き、數會の一座ありけり。政宗卿一日(いちじつ)城中にて片倉小十郞と閑話の序(ついで)申されけるは、「此比(このごろ)京都より紹巴下りて連歌殊に盛に翫(もてあそ)ぶと聞(きけ)り、紹巴をめして我も連歌して見ん」とて呼(よば)れければ、やがて紹巴來りて謁しける。折しもほととぎす鳴(なき)ければ、政宗卿、「なけきかふ身が領分の郭公(ほとぎす)」と發句(ほつく)せられけるに、小十郞傍にありてあぐらかきて居ながら、「脇(わき)仕(つか)ふまつりたり」とて、「なかずばだまつて行けほとゝぎす」といひければ、紹巴をかしくや思ひけん第三に、「どふ成(なれ)と御意(ぎよい)にしたがへ時烏(ほととぎす)」と付(つけ)たる由、誠に三句迄「ほとゝぎす」をつゞけたる、をかしき事に覺(おぼえ)れど、「身が領分の時鳥」とある詞(ことば)、誠に一國の主(あるじ)の句成(なる)べし。「だまつてゆけ時鳥」といへるも、社稷(しやしよく)の臣の心顯れて、主人たりとも放埒ならば其まゝにをくまじと覺ゆる志(こころざし)、句の上にあらはれたり。紹巴は此二句の「時鳥」を重ねたるを弄(ろう)して、「どふ成と御意に隨へ」といへる詞を付たるなれども、さすがに連歌に身をよせて食を人に乞ふ志、下(しも)に顯(あらはれ)て哀也(あはれなり)と人のかたりし。

[やぶちゃん注:今回は直接話法が多いので、読み易さを狙って、特異的に鍵括弧を施した。

「應仁亂後」「応仁の乱」は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年に一応の決着を見た。ここでも津村が明言しているように、「応仁の乱」が室町幕府の権力が崩壊し、戦国時代が始まったという古くからの説が一般的であるが、近年では幕府の権威は「明応の政変」(明応二(一四九三)年四月に細川政元が管領となり、将軍が足利義材(よしき・後の義稙(よしたね))から足利義遐(よしとお。後の義澄)へと代えられ、以後、将軍家が義稙流と義澄流に二分された)頃まで一応保たれていたという見解もあり、「明応の政変」以降を戦国時代の始まりとする説もある。但し、「応仁の乱」以降、身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない(以上はウィキの「応仁の乱」他に拠った)。

「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ついぢ」築地。柱を立てて板を芯とし、両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。公家方は屋敷の周囲にこれを巡らすのが通例であったことから、公卿方の代名詞ともなった。「新つくば集」室町後期の準勅撰連歌集「新撰菟玖波集」。南北朝時代の正平一一/文和五(一三五六)年に関白二条良基が救済(ぐさい)の協力を得て撰した堂上方の準勅撰連歌集「菟玖波集」(全二十巻)に擬して作られた。飯尾宗祇を中心に兼載・肖柏・宗長らが参加した。全二十巻。明応四(一四九五)年成立。一条冬良(ふゆら)の「仮名序」がある。永享以後約六十年間の二千句余を集め、作者は心敬・宗砌(そうぜい)・専順・大内政弘・智蘊(ちうん)・宗祇・兼載・宗伊・能阿・行助・三条西実隆・肖柏ら二百五十名余に及ぶ。宗祇時代の連歌を代表し、「菟玖波集」とともに連歌史上、重要な集である。大内政弘の奏請により、勅撰に準じた。

「法橋」法橋上人位の略。律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位で、法印・法眼とともに貞観六(八六四)年に制定された。後に一般の僧にも授けられるようになり、人数も次第に増加し、さらに仏師や絵師にも叙任されるに至った。

「筑紫より連歌をもて京師に來り」不審。出羽国の大名で最上氏第十一代当主にして出羽山形藩初代藩主で、伊達政宗の伯父に当たる最上義光(よしあき)の家臣の兵法家としてしられた堀喜吽(きうん ?~慶長五(一六〇〇)年)という御伽衆がおり、彼は筑前生まれで「筑紫喜吽」とも称し、連歌にも長じて、紹巴とも同座しているので、混同したものか? 彼は慶長の「出羽合戦」の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死している。

「松永彈正」戦国大名松永久秀(永正五(一五〇八)年~天正五(一五七七)年)。連歌を好んだ。

「政宗」仙台藩藩祖伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。やはり連歌を好んだ。

「片倉小十郞」伊達家家臣で伊達政宗の近習であった片倉景綱(弘治三(一五五七)年~元和元(一六一五)年)の通称。後に軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏初代。

「社稷の臣」元来は古代中国で天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)で、そこから転じて「国」の意。

「をく」ママ。]

2020/02/04

譚海 卷之三 本願寺卽位の料を獻ず

本願寺卽位の料を獻ず

○後柏原院の御時、戰鬪打つゞき、既に御卽位の禮行るべき樣なかりしに、本願寺より御卽位料として三千貫の鏡を獻ぜしに付て、御卽位の禮調へられ、此賞に仍(よつ)て門跡の號を賜り、大僧正に任ぜられたりとぞ。是より代々本願寺相襲(さうしふ)して、門跡と稱する事に成(なり)たりとぞ。又一度は御卽位料毛利家より奉りける事有といへり。

[やぶちゃん注:「後柏原院」後柏原天皇(寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年/在位:明応九(一五〇〇)年~没まで)。彼は明応九(一五〇〇)年十月二十五日に後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかし、「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年まで約十一年間に亙って継続した)後の混乱のため、朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は二十六年に及んだが、即位の礼を挙げるまで実に二十一年を待たなくてはならなかった。第十一代将軍足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金し、それを天皇の即位の礼の費用に当てることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王とは認められない。儀式を挙げなくても、私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など、無駄なことである」と反対し、群臣も同意したため、この献金は沙汰止みとなり、期待される主要な献金元であるはずの室町幕府や守護大名も逼迫していたため、資金はなかなか集まらなかった。費用調達のため、朝廷の儀式を中止するなど、経費節約をし、幕府や本願寺九世実如(長禄二(一四五八)年~大永五(一五二五)年:蓮如の五男)の献金を合わせることで、即位二十二年目の大永元(一五二一)年三月二十二日、漸く即位の礼を執り行うことが出来た。但し、この時も、直前に将軍足利義稙(よしたに:第十代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して、開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行、警固の責を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった、とウィキの「後柏原天皇」にある。]

2020/01/16

譚海 卷之三 御讓位の節の事

御讓位の節の事

○往古は天子の寶璽(ほうじ)六つありしが、亂世をへて悉く紛失せりとぞ。今世もし一つを得て奉る人あれば、宮人に拜せられるゝといへり。天明五年[やぶちゃん注:ママ。]春、筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)と云所にて、地を掘て金印壹を得たり。倭奴國王(かんのわのなのこくわう)の四字有、後漢孝武帝[やぶちゃん注:ママ。]賜るもののよし。當時筑紫に熊襲(くまそ)有て、使を通じたるに賜りたる者にやと云り。

○御讓位の時、院の御所へうつらせ給ふ御供に、時の關白殿束帶にて、三種の神寶を隨身(ずいじん)有。同じ院の御所へ參られ、直に又新帝へ神寶を御渡有由にて、關白殿引返し神寶を持歸り、禁中へ納めらるゝ也。院の御所へ御移の時鳳輦(ほうれん)也。舁(かく)所の棒四角に稜ありて、殊に重きやうす也。數十人にて舁事にして、舁人は皆地子(ぢし)免許の町人勤(つとむ)る也。是は前年出火の時火内裏に及しに、駕輿丁間にあはざる事ありしを、京都の町人走り參り、鳳輦を舁てのけ奉りし勞によりて、長く地子免許ありしより、今に鳳輦をば此町人かく事になれりとぞ。京都の町人地子免許の者は、門に諸役免許の札をかけ置也。

[やぶちゃん注:目録から、二つを並べて採った。

「天明五年春」金印の発見は現在は天明年間(一七八一年~一七八九年)とし、或いは天明四年二月二十三日(一七八四年四月十二日)に限定する説もあるウィキの「漢委奴国王印」に拠る)。

「筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)」これは博多湾に突き出た現在の福岡県福岡市東区大字志賀島(しかのじま)の叶浜(かのうがはま)(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「漢委奴国王印」には、大正三(一九一四)年に『九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には』大正一二(一九二三)年に『「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された』。しかし、その後、第二次世界大戦後、二回に亙って『志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された』。『ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく』、『新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない』。後に二回、『福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている』とある。しかし、「福岡市博物館」公式サイト内の「金印」によれば、『出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎(かなのさき)」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲(あずみ)家に伝わる『筑前国続風土記附録』の付絵図の描写によるものでした』とあって、さらに『金印の出土地は中山平次郎が推定したように石碑から海に向かって右斜め前に行ったところとするのが妥当のようです』とある。現在の「金印公園」は東区大字志賀島内であり、リンクの地図でも判る通り、現在の叶浜よりもやや南東の位置にある。まあ、古くはこの金印公園から現在の大字叶浜一帯を「叶浜」と呼んでいたと考えれば、齟齬はない。因みに、「叶う」というのは「大きな船が停泊することが叶う浜」という意味であろうという記載を個人ブログ「ひもろぎ逍遥」のこちらで見出せた。また、ウィキによれば、『水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち』、『金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に』人為的に『隠されていた』(太字下線は私が附した)ということになる。『発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は』「後漢書」に『記述のある金印とはこれのことであると同定し』、「金印弁」という『鑑定書を著している』とある。ここに出る「後漢書」のそれは「卷八十五」の「列傳卷七十五 東夷傳」にある、

   *

建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

(建武中元(けんぶちゆうげん)二年、倭奴國(わのなのくに)、貢を奉じて朝賀す。使人、自ら「大夫」と稱す。倭國の極南の界(さかひ)なり。光武、賜ふに印綬を以つてす。)

   *

を指す。「建武中元二年」は紀元後五十七年に相当する。また、ウィキには『九州王朝説』(歴史学者古田武彦によって戦後に提唱された七世紀末まで九州に日本を代表する王朝「邪馬台国」があり、太宰府がその首都で、それが倭国の前身であるとする説。但し、現在は学問的にも邪馬台国論争でも支持されていない)『では、皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い』『(金印は陪臣に与えるものでない)こと』、『及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはなく、卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり』、『倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が使われ続け、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたとし、従って「漢委奴國王」印の最後の所有者は卑弥呼であったと』している(いた)とある。

「後漢孝武帝」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)の誤り

「筑紫」(ちくし/つくし)福岡県のほぼ全域を指す古称であるが、さらに古くは九州全体或いは九州中南部を称する語でもあった。ここは後者で採るべきか。

「熊襲(くまそ)」記紀の伝承では、九州中南部に住み、長く大和朝廷に服属しなかった種族とされ、「風土記」では球磨噌唹(くまそお)と連称しており、「くま」は肥後国球磨郡地方を、「そお」は大隅国噌唹郡地方を指す。熊襲はこれらの地方に勢力を揮った種族と考えられるが、確かなことは不明で、人種・民族の系統も不詳ながら、隼人(はやと)族(古代南九州に居住していた部族。主として大隅・薩摩地方を根拠地としていた。五世紀中頃には大和朝廷に服属し、勇猛敏捷であったため、徴発されて、宮門の警衛や行幸の先駆などを勤めた)と同一種族で、南方系民族とする説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

【二条目】

「隨身」身辺に供としてつき従うこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩で担(かつ)ぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会・御禊(ごけい)・朝覲(ちょうきん)・節会などの晴れの儀式の行幸に用いた。

「地子(ぢし)免許」「地子」は「ちし」とも読み。律令制下に於いては、諸国の官有地を農民に貸し付けて上納させた地代を指し、定額は収穫の五分の一であった。位田・職田・没官(もつかん)田・乗田など、地子を納める田を「輸地子田」といった。荘園制下の地子は、田地に課せられる年貢に対して、公事、殊に畑や屋敷に課せられる税を意味し、銭による納入の場合が多かった。江戸時代に於いては、地子は専ら、町屋地に課せられる税の意に用いられ、銀或いは銭を以って納めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそれを納める義務を朝廷から公式に免除されたことを指す。

「前年」「さきのとし」で、広義の記載時よりも前の年の謂いで、これは宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に京都で発生した「宝永の大火」であろう。禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上し、九条家・鷹司家を始めとする公家の邸宅や、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした四百十七ヶ町、一万三百五十一軒が焼けた。天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に発生した天明の大火でも御所が延焼しているが、本篇は「譚海」の「卷三」所収なわけだが、底本の竹内利美氏の解題によれば、「卷二」から「卷四」は最新記事でも天明五年が下限であるから、それではない。

「丁間」「ちやうかん(ちょうかん)」或いは「ちやうけん(ちょうけん)」であろう。「丁」は「町」で「町屋」、庶民の住む区画の謂いで、「間」はその街路の幅のことと思われる。ここは鳳輦が大き過ぎて、町屋の間を抜けて避難する(本文の「のけ」(退く))際に難渋したのを、その町人たちが自発的に担いで渡し、ことなきを得たことを指していよう。]

2019/12/25

譚海 卷之三 山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

○營中の重器に、凡河内躬恆(おほしかふちのみつね)が所持の山下水といふ箏(こと)有。眞(まこと)に貫之が眞蹟にて、足曳の山下水は行かよひことのねにさへながるべらなりと云(いふ)和歌しるしあり。又蟬丸所持の琵琶といふものあり、又王羲之(わうぎし)・佐理(すけまさ)卿の眞蹟有。羲之は弘法大師にかよひ、佐理卿は東坡居士に似たりといへり。小倉色紙(おぐらしきし)は赤人の田子の浦の歌ありとぞ。神功皇后のゑびらのうつしといふもの有、京都の寺に本(もと)あるをうつさせられしと也、竹にてこしらへたる物也。又さかつらと云ゑびらは重器にて、殊に拜見成難(なりがた)き事也とぞ。豐臣太閤より進ぜられし十文字の鑓(やり)は、五三の桐の紋あり。又虎の皮のなげさやの鑓は、鎭西八郞爲朝の矢の根也とぞ。儲君(ちよくん)御持鑓(ごじやり)もその如くに、下取[やぶちゃん注:「取」には編者竹内利美氏により脇に『(板)』と補正注が有る。「したいた」。]うちて奉るとぞ。新古ともに分ちがたき程の出來也。只古身(ふるみ)は少しやせて見ゆるばかり也。御旗印は金の扇子也。長さ九尺、ほねのわたりは壹間なり。にくろめにて中の十本はくじらの骨也。東照宮御所持の御手槍は、御庭御步行(おんありき)にも隨身(ずいじん)ある事也とぞ。

[やぶちゃん注:「凡河内躬恆」(生没年未詳。一説に、貞観元(八五九)年頃~延長三(九二五)年頃とも)は平安前・中期の歌人。諸国で目(さかん)・掾(じょう)などの地方官を務め、延喜二一(九二一)年に淡路権掾(あわじのごんのじょう)となっている。この間、「古今和歌集」の撰者となり、同集には紀貫之に次ぐ六十首もの歌が採られている。三十六歌仙の一人。

「箏」ここは近世以後の代字(当て字)の「琴」と同義であろうと踏んで「こと」と訓じた。ここで言うそれが現在も残っているかどうかは私は不詳。同名異物の徳川秀忠が娘和子の嫁入り道具として作った琴「山下水」があるので注意されたい。

「蟬丸」平安前期の歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともされる謎の人物で、逢坂の関辺りに住んだ盲目の僧。「後撰和歌集」(天暦(九四七年~九五七年)末年頃には完成したか)以下に四首入集し、「今昔物語集」巻二十四・「平家物語」巻十一などにその名が見え、能及び近松門左衛門の浄瑠璃に「蝉丸」がある。琵琶の名手で、逢坂関明神に祀られてある。

「王羲之」(三〇七年~三六五年)は東晋の「書聖」とされる書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(現在の山東省)出身。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。子で書家の王献之とともに「二王」と称される。

「佐理(すけまさ)」藤原佐理(天慶七(九四四)年~長徳四(九九八)年)は平安中期の公卿で能書家。藤原北家小野宮流で摂政関白太政大臣藤原実頼の孫、左近衛少将藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書の達人として知られる。

「小倉色紙」藤原定家筆と伝えられる「小倉百人一首」の色紙。「明月記」の嘉禎元(一二三五)年の条に、定家が嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇以下百人の和歌を書いた記事があり、世に称する「小倉色紙」はこれに相当すると言い、それならば、定家七十四歳の折りの書となるが、現存する複数の色紙は後世に筆写したものもあり、疑問な点が多い。

「五三の桐の紋」桐紋の内で一般的な、花序につく花の数が三・五・三である「五三桐(ごさんのきり/ごさんぎり)」。これウィキの「桐紋」の画像)。

「なげさや」貂(てん)・豹・虎などの毛皮を袋として鞘を包んで上端を長く垂らした投鞘(なげざや)のこと。

「儲君(ちよくん)」皇太子(東宮・儲王(もうけのきみ)の異名。

「下取→下板」不詳。鎗の刀身の下部(柄に差す上部)に板を打ち付けたものか。

「古身」刀身部か。

「壹間」一メートル八十二センチメートル弱。開いた扇子の横最大長であろうか。

「にくろめ」不詳。煮黒目(にぐろめ)か。硫化カリウム溶液を浸けて化学変化で黒に色上げしていく技法で、溶液の濃度や浸ける時間によって黒の濃さを調整することが出来る。]

2019/08/05

譚海 卷之三 薩摩曆の事

 

薩摩曆の事

○島津重豪朝臣、明和八年公儀へ御願有(あり)。その邦に天文臺を建(たて)らる。朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)に吉田靫負(かげひ)と云(いふ)人天學に精しく、御取立(おとりたて)にて改曆の事を仰付(おほせつけ)られ、牛込神樂坂に第を賜(たまは)り、高き所なれば殊更に司天臺を築(きづく)に及(およば)ずとて、其地にて測量の事を行(おこなは)れ、三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也。此時節、薩摩より願(ねがひ)ありて、家中一人、鞍負門人になり、隨身(ずいじん)して、曆學、稽古し、其うへ、上京して土御門家へ伺候し、彼(かの)家曆法、悉く傳へ、又、三年をへて、薩州へ歸れり。是より薩摩にても造曆の法、行るゝ也。近來(ちかごろ)、學校をも、その邦に建られ、上梁(じやうりやう)しぬと云(いへ)り。此朝臣、豁達(かつたつ)の人にして書も能書(のうしよ)也、京都にて某檢校平家琵琶に上手なるをも、二百石にて抱(かかへ)られたり。在城中に三重の閣を建られ、八仙卓の興行も時々ありとぞ。鎌倉賴朝卿の墓所をも再興せられし人也。

[やぶちゃん注:「薩摩曆」「さつまごよみ」。安永(一七七二年~一七八一年)頃から薩摩藩で領主及び重役に頒布した仮名暦。幕府天文方より、特例として認められたもので、他の当時の暦にはない独特の暦法を持つ。「薩州暦(さっしゅうれき)」とも呼ぶ。

「島津重豪」(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は薩摩藩第八代藩主で島津家第二十五代当主。第十一代将軍徳川家斉の御台所(正室)広大院の父。将軍家岳父として「高輪下馬将軍」と称された権勢を振るった一方で、諸学問やヨーロッパ文化に強い関心を寄せた「蘭癖大名」としても知られる。参照したウィキの「島津重豪」によれば、安永二(一七七三)年、『明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている』とある。

「明和八年」一七七一年。

「朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)」幕府派遣の宮中警護職。

「吉田靫負」ウィキの「天文方」(てんもんがた)の「吉田家」の項に、『佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年』(一七六四年)に『天文方に任』ぜられ、『宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した』とあり、そこに『吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂』と継承者を載せる。吉田秀長(元禄一六(一七〇三)年~天明七(一七八七)年)は「朝日日本歴史人物事典」によれば、『江戸中期の幕府天文方吉田家の初代。佐々木文次郎長秀と称していたが』、後に『秀長と改め』、『さらに』安永九(一七八〇)年、『本姓の吉田に復し』、『四郎三郎と改めた。宝暦暦の改暦準備で天文方が上京中に』、『西川正休の養子要人の暦作手伝を勤めた。宝暦』二(一七五二)年には『御用もないため』、『出仕におよばず』、『といい渡されたが』、『宝暦暦の欠陥が明らかになると』、明和元(一七六四)年に、『再び召し出され』、『天文方に任命され』、同六年に『宝暦暦の修正案をまとめ』(これが本文の「三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也」とあるのと一致する)、「修正宝暦甲戌元暦」・「修正宝暦甲戌元暦続録」など十四『巻を上呈した。この暦法は明和』八『年暦から用いられたが』、実は『独創性もなく』、ただ『定数を少々変えただけであった』とある。但し、彼に「靫負」の通称は見当たらない。

【2019年8月6日追記】いつもお世話になっているT氏より情報を頂戴した。先に結論を言うと、「吉田靫負」は前の引用に出た「吉田秀升(ひでのり)」で、「吉田秀長」の嫡子(嗣子)であったT氏の示して下さった「寬政重修諸家譜」卷第千二百九十八(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像。])に、

「吉田靫負」は初名を秀房(ひでふさ)、吉十郞、靫負とあって、『明和二年十二月二十八日より父』吉田秀長『に添』ひ『て新曆脩正の事をつとめ、』(中略)『明和四年閏九月十一日』、『天文方見習』ひ『となり、七年四月二十三日』、『さきにうけたまわりし脩正の事』、『成』る『により』、『黃金二枚をたまふ。安永八年十二月二十六日』、『天文方となり、天明七年十二月四日』、『遺跡を繼』ぐ[やぶちゃん注:以下、【 】は割注]『【時に四十三歳』、『廩米二百俵】』。『寬政元年八月十七日』、『さきに阿蘭陀永續曆の和解を改正し、且』、『彼』の『曆は天度に合』は『ざるのむねを述』べ、『別に考ふるところありて』「曆日永年捷見」『となづけし書を献ぜしかば』、『白銀七枚をたまはる。二年五月二十七日』、『御弓槍奉行に轉じ、天文方をかぬ。九年十二月二十七日』、『さきに京師におもむき、改曆の事をうけたまはり』、『つとめしにより黃金五枚をたまはる』とあった。

 一方、父「吉田秀長」は初名長秀(ながひで)で、後に文次郎、四郎三郎とあって、『延享三年』、『御徒にめしくはへられ、のち辭して處士となる。明和元年十一月十九日』、『めされて天文方とねり、廩米二百俵をたまひ、二年二月二十二日』、『測量のことをうけたまわり、京師におもむく。』(中略)明和『七年四月二十三日』、『さきに土御門家にをいて[やぶちゃん注:ママ。]、新曆製作あるところ、日食』(につしよく)、『差』(さしつか)『へるにより、秀長脩正すべきむねおほせをかうぶり、』(中略)『黃金三枚を賜ふ。安永八年十二月二十六日』、『御書物奉行に轉じ、九年五月二十七日』、『こふて家號を吉田にあらたむ』とあった。

以上から、T氏はメールで、

   《引用開始》

ということで「吉田親子」ともども明暦の改暦に携わっています。

「譚海」の「家中一人、鞍負門人になり」と言う部分は「吉田秀長」「吉田靫負」のいずれに弟子入りしたかは不明ですが、「明和八年公儀へ御願」から考えると、「吉田靫負」が実質、教えたものかと考えます。

   《引用終了》

と述べておられる。いつも不明箇所をT氏に助けられる。まことに有り難く、御礼申し上げるものである。

「天學」天体運行及び暦を作成する当時の天文学。

「司天臺」幕府天文方の観測施設。ウィキの「天文方」によれば、『渋川春海が天文方に任じられた翌貞享』二(一六八五)年に『牛込藁町の地に司天台を設置し』、元禄二(一六八九)年に『本所、同』一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転する。春海の没後、延享』三(一七四六)年に『神田佐久間町、明和』二(一七六五)年に『牛込袋町に移り、天明』二(一七八二)年には『浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時』(しげとき)『や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に渋川景佑』(かげすけ)『らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。その後、明治二(一八六九)年、天文方とともに浅草・九段の両天文台も廃止された、とある。

「土御門家」元来、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄で、土御門家がそれに当たっていた。「譚海 卷之一 江戶曆商賣の者掟の事」ウィキの「天文方」の引用を参照されたい。

「上梁」棟上げ。

「豁達」度量が広く、小事に拘らないさま。

「閣」底本では編者によってこの字の右に『(階)』と振られてある。

「八仙卓」清朝以前の中国料理の特徴的な正方形の食卓のこと。伝説上の八人の仙人に由来し、一辺に二人ずつで八名が正餐のテーブルであった。現在の中華料理店の円卓も八人掛けが標準である。

「鎌倉、賴朝卿の墓所をも再興せられし」島津重豪が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽墓である。ウィキの「島津氏」によれば、『島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿・源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の』三『国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の』四『ヶ国を有する守護職に任じられて以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代以降、薩摩藩主・島津氏は徳川将軍家と特別な閨閥家となり、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来』、『明治時代に至るまで家を守り通すことに成功した』。『島津姓については、諸説ありとし、忠久が』元暦二(一一八五)年八月十七日に、『近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元』(一一八五)年十一月二十八日の『文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ』、『島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については』、「島津国史」や「島津氏正統系図」に『おいて、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている』。『同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていること』が注目される。『忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく』、『荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している』とある通り、島津氏は源頼朝嫡流の血脈であるという家伝を保持し続けたのであった。『私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓」の私の注なども参照されたい。]

2019/07/23

譚海 卷之三 柳澤吉保朝臣の事

 

柳澤吉保朝臣の事

○柳澤甲斐守吉保朝臣、其家中興の人にて、和歌をも殊に好(このま)れ、靈元(れいげん)法皇の勅點を賜(たまはり)たるほどの事なり。其妾(しやう)は正親町(おほぎまち)大納言殿妹にて、和歌有職(いうそく)に達し、松陰日記(まつかげにつき)とて筆記せるものあり。甲斐守殿生涯殊寵(しゆちやう)、幷(ならびに)度々(たびたび)御成ありし事、致仕に至るまでをしるしたり、源氏物語りの體(てい)を模し、秀才の筆也。

[やぶちゃん注:「柳澤吉保」(万治元(一六五九)年~正徳四(一七一四)年)は上野国館林藩士の長男として江戸に生まれた。延宝八(一六八〇)年、館藩主徳川綱吉が第五代将軍となると、つき従って幕臣となった。元禄元(一六八八)年十一月には小納戸上席から、将軍親政のために新設された側用人に就任した。やがて老中となり、宝永元(一七〇四)年十二月に綱吉の後継として甲府徳川家の綱豊が決まると、甲府十五万石を領する譜代大名となった。後、大老(宝永三(一七〇六)年一月)。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は六義園に隠棲した。後代の実録本やドラマ等では悪辣な策謀家との風評が流布したが、綱吉に誠実に仕え、その意に従った側近であり、家中に荻生徂徠らの学者を召し抱えて、自らも北村季吟について古今伝授を受けた和歌好きであった。

「靈元法皇」霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年/在位:寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年)は歌人で能書家でもあった。譲位後の期間が長い。また、法皇となったのは正徳三(一七一三)年八月であるが、彼が史上最後の法皇となった。

「其妾は正親町大納言殿妹」ウィキの「柳沢吉保」によれば、『吉保の正室は、幕府旗本で柳沢氏と同じく甲斐源氏の一族であった曽雌』(そし)『氏の子孫である曽雌定盛の娘(曽雌定子)。側室は吉保生母・了本院(佐瀬氏)の侍女。飯塚氏(飯塚染子)、公家・正親町実豊もしくは正親町公通』(きんみち)『の娘(正親町町子』(延宝三(一六七五)年?~享保九(一七二四)年)『)がいる』とあり、ウィキの「正親町町子」には、『歌人』にして『文学者』という肩書を添えてあり、『出自については権大納言・正親町実豊と側室の田中氏との間の娘とする説があり、正親町公通の異母妹とされる。一方で』、『正親町公通を実父とし、公通と水無瀬氏信の娘の間の子とする説もある』。十六歳で『江戸に下り、将軍徳川綱吉の側近である柳沢保明(のち吉保)の側室となる。一大名の側室としては家格が高すぎるため、母方の姓である田中氏を名乗ったという。吉保との間に柳沢経隆・柳沢時睦の二男がいる』。『町子の実父を正親町公通にする説に立つと、公通は霊元天皇の使者として』、『たびたび江戸へ赴いており、柳沢吉保は霊元天皇から和歌の添削を受け、六義園十二境を定められ』、『参禅録の題を授けられるなど、霊元天皇は吉保に文芸面において影響を及ぼしている』。『また、この場合に町子の母となる水無瀬氏信の娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女として「常磐井」を名乗り、房子の伯母にあたる浄光院殿信子(鷹司信子)が将軍綱吉の御台所として江戸へ下向すると、常磐井は「右衛門佐局」と改名して信子に従』って『江戸へ赴き、江戸条大奥総取締役を務めている』。『このため、正親町公通を町子の実父とする説に立つと、町子はこうした両親の縁を背景に吉保の側室となったとも考えられている』。『なお、享保末年』(二一(一七三六)年)『以降に成立した』「柳営婦女伝系」では、『町子の出自について、右衛門佐局』((う)えもんのすけのつぼね 慶安三(一六五〇)年~宝永三(一七〇六)年:江戸前・中期の大奥女中(途中で紀州家に務めとして移っていた時期がある)。貞享四(一六八七)年に江戸城へ戻り、綱吉付き筆頭上﨟御年寄として大奥の総取締を担った)『の養子となった浪人の田中半蔵(のちに桃井内蔵助と改名)が後妻の姪を養女にしたもので、実父も分からない妓女であると記述されている』。『町子は公家的な教養を』持った『文学者としても知られ、吉保一代の半生を平安朝の』「源氏物語」に『倣って記した日記文学』「松蔭(まつかげ)日記(松家気(まつかげ))」を書いている。これは『江戸時代から秘本として知られて』いて、『江戸時代における宮廷文化の残滓として注目されている。「松家気(松かげ)」は松と松に絡みつき』、『花を咲かせる藤を指し、天皇や将軍・吉保など一連の人物を』、『松の木と藤に』喩え、『繁栄を願った意図があると考えられている』とある。]

2019/06/15

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

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