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カテゴリー「柳田國男」の135件の記事

2018/04/17

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 四~六 / 柳田國男「一目小僧その他」全電子化注~完遂

 

     四

 

 この通り、加賀と越前の熊谷彌惣左衞門稻荷は、共に松島の新左衞門同樣に江戸還りであります。ところがその淺草の熊谷稻荷の緣起も、現在あるものと古くからのものとは、よほど違つて居るのであります。第一には稻荷の名でありますが、江戸總鹿子大全といふ元祿年中の書には、明瞭に熊谷彌惣左衞門稻荷とありますのに、江戸砂子の方には熊谷安左衞門稻荷とあります。現在の多くの書物の安左衞門は、すべて江戸砂子によつたものと思はれます。

[やぶちゃん注:「江戸總鹿子大全」元禄三(一六九〇)年に板行された江戸の地誌。藤田利兵衛(生没年も事蹟も不詳)著。先行する藤田の江戸地誌「江戸鹿子」の、藤田自身による増補版。本文は全六巻で「江戸鹿子」と同じだが、当時の人気絵師菱川師宣の挿絵が挿入され、「江戸鹿子」以上に好評を博した。

「江戸砂子」江戸中期に俳人菊岡沾涼が書いた江戸の地誌。「江戸砂子溫故名跡志」とも称する。享保一七(一七三二)年刊(編集に八年をかけている)。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。]

 

 そこで江戸砂子の話を又簡單に申し上げると、年代は大分食ひ違つてをりますが、越前の大守、或年三日三夜の大卷狩を企てられたところ、その前夜に、御先手を勤める熊谷安左衞門のところへ、一匹の老狐がやつて來て言ふには、どうか今度の卷狩には、私どもの一族だけは是非お宥しを願ひたいと、是は狐にも似合わぬ利己主義な話でありますが、どうか私の一族だけは助けて下さいと賴みました。そこで安左衞門が、お前の一族だか、他の狐の一族だか、その區別がどうして人間にわかるかといつたところが、私の一族は尾の尖がちょつと白いからわかります。どうか尾の尖の白い狐は許して下さいといつて歸りました。そこで早速殿樣に話し、殿樣も亦人の好い方で、それでは助けてやらうといふことになつて、翌日からの狩には、白い尻尾を立てゝ見せた狐だけは助けてもらふことが出來ました。この安左衞門も後にやはり何かの理由で浪人をして、これも江戸に出て、白銀町に住んでをりました。ところが小傳馬町の藥師堂の前に住む障子作り、建具職の忰の長次郎といふ者が、ある日淺草觀世音に參詣して、手洗場の附近で、一見したところ田舍者らしき若い夫婦の者と喧嘩して歸つて來た。さうしたらその晩から狐がついて、大騷ぎになりました。俺は越前の國の狐である。無禮をしたからこの男に取憑いた。どんなことをしたつて落ちないぞと、頻りに威張つてゐるそばから、併し若しこの近所に熊谷安左衞門といふ人がをりはしないか。この人には曾て狩場の恩があるから、その人が來ると俺は如何ともすることが出來ないといつた。搜して見たところ白銀町の、何れひどい裏長屋でありませうが、熊谷安左衞門という浪人が住んで居た。是非々々お願ひ申しますといつて賴んで連れて來たところが、狐は平身低頭をして早速に落ちて立退いたといふのは、何だか豫め打合せでもして置いたやうな話であります。爰に至つてかこの熊谷安左衞門が狐を追ひ落すといふことが評判になつて、小石川のさる御大家に抱へられて立身したといふ話であります。その結果最初には紺屋町邊の宮大工の店から、小さいお宮を買つて來て家に祀つてをつたが、後程なく淺草觀世音の境内に、熊谷稻荷として祀ることになつた、といふのが江戸砂子の説であります。江戸砂子が有名な著書である如く、この話も一般に非常に有名な話であります。武江年表にもちやんと出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「白銀町」現在の東京都新宿区白銀町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紺屋町」東京都千代田区神田紺屋町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「武江年表」斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)江戸後末期から明治の文人。名は幸成(ゆきなり)が江戸府内外に起った事柄を編年体に記したもの。全十二巻。正編八巻は嘉永元(一八四八)年に、続編四巻は明治十一年成立。正編は天正一八(一五九〇)年の徳川家康の関東入国から嘉永元(一八四八)年まで、続編は同二年から明治六(一八七三)年までで、江戸の地理の沿革や風俗の変遷、巷談・異聞などを記録している。]

 

 寛文三年[やぶちゃん注:一六六三年。]六月十五日(淺草志には寛文二年)淺草に熊谷安左衞門稻荷社を勸請と、武江年表の中には出て居ります。それから四十五六年も經つて、また同じ年表の寶永四年[やぶちゃん注:一七〇七年。]九月四日の條には、熊谷安左衞門卒す、墓は新堀端橫町本法寺にありとあつて、辭世の歌一首を掲げております。

     拂へども浮世の雲のはても無し曇らば曇れ月は有明

人に狐などをつけて置きながら、是は又餘りにす濟まし返つた辭世の歌だと思はれますが、狐と彼との關係とてもやはり一つの傳説で、ごくごく確かな話とはいへないのであります。第一に先程申す如く、この浪人の名字が熊谷だといふことは餘程疑はしいのであります。現にこの辭世の歌の刻んである本法寺の墓を見ますと、何處にも熊谷といふ名字は書いてないのであります。石碑の表は夫婦で、男の方は山本院東雲日賴居士とあつて、本來山本といふ名字であつたことが想像出來るのであります。淺草の熊谷稻荷の傍にも、元は一つの石碑がありました。この石碑には山本院一中日賴とあつて、妻妹の戒名と連名になつておりました。兎に角に曇らばくもれ月は有明の歌をよんだ安左衞門といふ人は法華の行者でありまして、淺草の觀世音の境内にお稻荷さまを建てた人としては似つかはしくないのであります。又寛文三年に稻荷の堂を建てたといふ人が、四十五年後の寶永四年まで生きて居たといふのも、可なり有得べからざることであります。どうも少し長命すぎる。恐らくは同じ人ではなからうと思ひます。それから本法寺の石碑の方には、女房と二人名を並べ、更に淺草觀音にあつたのは妹と三人連名になつて居るのでありますが、是等の點から考へますと、どうやらこの法華の行者が狐使ひで、女房と妹を助手にしてをつたのではないかと思ふのであります。もしさうでなくしてこれが熊谷安左衞門の墓であるとしたならば、女房は兎に角、妹まで出るわけがないのであります。つまり女房とか妹とかの口を借りて、五十年からさきの歷史を語らうとしますれば、話はするたびに少しづゝ、變つて來るのも決して不自然ではないのであります。外國では屢試みられた社會心理の實驗でありますが、人を二十人か三十人一列に並ばせて置いて、簡單な百語か百五十語の話をこちらの一端で話してそれを順々に次の人に傳へさせ、後に他の一端に於て言はせて見ると、もう非常に違つて來るのであります。かやうに隣同士が一列を爲して、口から耳へ卽時に傳へても、それが二十人からの人になると、もう元の形は無くなるのであります。ましてや數十年の久しきに亙つて、何度も同じ事をくり返して話すのであります。同じと思つて居るうちにいつの間にか違つて來るのは、是は寧ろ當然といつてよいのであります。

[やぶちゃん注:「新堀端橫町本法寺」先に示したsunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」の「その3」によって、この寺は台東区寿二丁目(地下鉄銀座線田原町駅近く)にある日蓮宗長瀧山本法寺であることが判っている(ここ(グーグル・マップ・データ)。sunekotanpako氏のページには同寺に現存する「熊谷安左衛門廟處碑」及び「熊ヶ谷彌三郎之碑」なる写真が掲載されてある。但し、『安左衛門の墓はわからなかった』と記されておられる)。それにしても「新堀端」というのは、現在の東京都渋谷区広尾附近(ここ(グーグル・マップ・データ))の旧地名で、これではまるで位置が合わない。寺が移転した可能性はあるが、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の詳細事蹟を見るに、そのような事実はない。ところが、松長氏の「本法寺の縁起」の最後には、

   《引用開始》

社伝曰、熊谷安左衛門ハ当寺の檀家ゆへ、初め浅草観音寺内へ勧請せしを、又当寺へ勧請する所なり。熊谷安左衛門墓も当寺にあり。江戸志

毎年十一月廿九日・晦日、脊属祭。盗賊除守札出る。江戸図説

安左衛門ハ元越前の住人にして、山本勘助か甥なり。父を山本図書と云。安左衛門もはしめハ、山本三郎兵衛武頼と云。故ありて氏を熊谷に改む。則当寺の檀家なり。安左衛門、はしめ此社を浅草観音の境内に勧請して、法華経を石に彫りておさむ。其後、故ありて神鉢其外霊宝なと、当寺に移し勧請す。安左衛門か納むる所の縁起、かれか娘の書写せし家の系図も此社に納めてありと云。改撰江戸志(御府内寺社備考より)

   《引用終了》

とあり、「本法寺にある熊谷稲荷」の項には、

   《引用開始》

江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸者に参詣多しと書かれているように世に名高い稲荷である。 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありその中でも人間に福徳をわかつ狐として白狐だけが稲荷大明神の御本尊にえらばれる資格があると云われている。

白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語り継がれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所しかないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。(本法寺掲示より)

   《引用終了》

とあるのである。]

 

     五

 

 現在傳はつて居るところの、淺草の熊谷稻荷の緣起なるものは、近頃印刷になつた色々の書物に出てをりますが、これは確かに一種の改良であり、又整頓であつたかと思はれます。それを搔いつまんで申しますと、昔近江の國伊吹山の麓に山本圖書武了(たけのり)といふ武士が住んでゐた。越前の太守朝倉義景に仕へてをつた。あるときの狩の前夜、白髮の老人入り來つて、やつがれはこの一乘ケ谷の地に永年の間住居する一城小三太宗林といふ狐でござる。一女おさんなる者唯今懷胎して身重く、明日の狩倉の鏃[やぶちゃん注:「やじり」。]を免れんこと覺束ない。どうか御家に傳はるところの傳教大師祕傳の「一の守り」を御貸しあつて、當座の危難を救はしめ玉へとわりなく賴んだ。狩倉の御人數として何たる不心得なことであつたか、快く承引して狐安全の護符を與へたとは、主人に對しては相濟まぬ話であります。ところがその後裔に山本武朝といふ者浪人をして、これもやはり江戸に出て大傳馬町に住し、その名を熊谷安左衞門と改めた。

[やぶちゃん注:「山本圖書武了」不詳であるが、「文化遺産オンライン」の「紙本着色熊谷(くまがい)稲荷縁起絵巻 附(つけたり)紙本墨書熊谷稲荷縁起」に、ここに書かれた伝承が彼の名ととともにそっくり出ているから、かなり知られた伝承であったことが判る。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は戦国大名。孝景の子。初め、孫次郎延景と称していたが、天文二一(一五五二)年、将軍足利義輝の偏諱を得て、義景と名乗った。同十七年、父の死により、跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和し、越前を平定。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し(姉川の戦い)、さらに天正元(一五七三)年には信長の攻撃を受け、居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移してここを小京都たらしめた人物としても知られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「山本武朝」不詳。]

 

 その隣町の小傳馬町の藥師堂の前に住む建具屋半左衞門の一子長右衞門――長右衞門の親が半左衞門は少々おかしい――寛文五年[やぶちゃん注:一六六五年。]七月二十三日と、これは日まではつきり出てをります。その日にこの若い者に狐がついて、口走つていふのには、この者は町人の分際として、夏足袋に雪駄をはき、杖などをついたりして實に不埒な奴である。さうして觀音堂の水産において、我に手水をかけておきながら、却つて喧嘩をしかけて、杖で此方を打つた。憎い奴だからこの男についたといひました。註釋を加えると又理窟になりますが、寛文五年頃に夏足袋に雪駄をはいた町の若者といふのは非常に信じにくい。かういふ亂暴なアナクロニズムは、よくよくお粗末な大衆文藝家でもやれない藝であります。

 それからなほその狐がいふには、俺は越前一乘ケ谷の小三太宗林の一類で越中安江の中の郷に住む宗庵といふ狐の子息、宗彌といふ狐である。山本家に對しては我が先祖にとつて狩庭(かりば)の恩がある。さうして熊谷安左衞門こそは山本家の嫡流であるから、その下知には從はなければならぬと告白した。そこで又早速その熊谷安左衞門を賴みに行きまして、來てもらふと忽ち退散したといふことで、そのときには白狐ではなく、黑白斑の大狐が姿を現はして逃げて行つたと謂つて居ります。それから早速その翌日に淺草觀世音の境内へ祠を建てたといふのが、現在の熊谷稻荷だと新緣起には見えて居るのであります。

[やぶちゃん注:「越中安江の中の郷」不詳。]

 

 我々がこの話の不思議さを了解するため、或はこの話の意味を知るために、先づ問題にしなければならぬのは、昔朝倉義景の時代に在つて、狐が夜分にやつて來て護符を貸して下さいといつたという樣な、さういふ隱密の事件を全體誰がいつまでも記憶してをつたかといふことであります。正面から見て最も主要な歷史家は、小傳馬町の建具屋の忰、夏足袋雪駄の長右衞門であります。その次にはこの浪人の山本氏、卽ち熊谷安左衞門君でありますが、これはきわめて樂な地位であつて、默つてやつて來て、成程そんなこともあつたやうだといふ顏さへして居ればよかつたので、積極的には別に大して働いて居りません。つまり誰が一番この話を保存するに盡力したかといふと、狐が人に憑いて言ふことを眞に受けることの出來た周圍の人々といふことになるのであります。さういふ人々の社會が、三百年前の奇なる史實を、斯くして兎に角に不朽にして呉れたといふ斷定に歸するので、少しぐらいの食違いはさうやかましくいふことも出来ないわけであります。

 

     六

 

 全體江戸の狐狸は、よく昔から北國筋へ往復してゐるのであります。例へば前の三州奇談の中に今一つ、有名な藤兵衞駕籠屋の話があります。これは上州茂林寺の文福茶釜の守鶴、小石川傳通院の宅藏司、江州彦根の宗語狐、或は鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつたといふ類の話と、日を同じくして談ぜらるべきものであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」のそれは正編の「卷之三」の「霾翁の墨蹟」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで全文が読める。「霾」は本文を読んで貰うと判るが、本来は音「バイ・マイ」で、訓は「つちふる」(風が土砂を巻きあげて降らせる)、或いは「つちぐもり」(巻き上げられた土砂で空が曇ること)であるが、実は漢字の分解で、「雨」ふるを知る霊力を持った「狸」の意の号である。

「文福茶釜の守鶴」言い方が後の併置の謂い方と比しておかしい。「文福茶釜」は群馬県館林市の曹洞宗青竜山茂林寺に伝わる伝説で、現在も同寺には狸が化けたとされる茶釜が伝わっているが、守鶴は狸の名ではなく、応永元(一三九四)年から正長元(一四二八)年の間、当寺の住持であった僧の名である。その守鶴が愛用した茶釜が、一度水を入れると、一昼夜汲み続けても水がなくならないという伝説が伝えられており、それが文福茶釜と名指されるようになったのである。

「宅藏司」現行、通常は「澤藏司」(たくぞうす)と表記するのが正しい。東京都文京区小石川にある浄土宗無量山伝通院(でんづういん)に伝えられる、僧に化けたとされる狐の名。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作から』、『その才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後』、『一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと戸外で仏法を論じていたという』という妖狐譚である。

「宗語狐」俳人路通絡みの妖狐譚に出る宗語という老人に化けた狐。前に出た「諸国里人談」の巻之五の「九 氣形部」の「宗語狐」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る(但し、草書)。

「鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつた」かなり知られたもので、「耳囊 卷之八 狸の物書し事」を参照されたい。]

 

 是も金澤城下の淺野といふところに、山屋藤兵衞といふ駕龍舁[やぶちゃん注:「かごかき」。]が、通し駕籠[やぶちゃん注:途中で駕籠の乗り継ぎをせず、目的地まで直行すること。]で客を送つて江戸まで出て來た。その歸りに淺草橋場の總泉寺から、年とつた坊さんを京都の大德寺まで送り屆けることになつて、武州深谷の九兵衞といふ男を相棒として、再び通し駕籠で北國筋を歸つて來た。そのときもやはり建長寺の狸のお使僧と同じ樣に、所々の宿屋では書を書いて人に與へる。その字が今日まで殘つてゐるのです。さうして泊りを重ねて加賀の宮の腰といふ宿場にかゝつて休んでゐると、非常に強い犬が駕籠の中へ首を突つ込んで、その坊さんを引き出して咬み殺してしまつた。吃驚して介抱すると、坊さんの正體は貉であつたといふのであります。さうしてその貉が金を澤山持つてゐる。しかし引き取るものがないので、二人の駕籠屋がこれを持つて、橋場の總泉寺へ來て話をしたところが、總泉寺でいうにはもう二百年も前から、あの老僧は我が寺に住んでゐた。さうして是非京都へ行きたいと言ふので送り出したが、命數は免れ難く、いよいよ道途に於て終りを取るといふ夢の告が既にあつた。その金はお前たちの方へ取つておけといふので、忽ちこの二人が金持になつた云々という奇談であります。

[やぶちゃん注: 「金澤城下の淺野といふところ」先に出た「「三州奇談」の「淺野稻荷」との親和性が強いことが判る。

「淺草橋場の總泉寺」現在は東京都板橋区にある曹洞宗妙亀山総泉寺。この寺は当初は浅草橋場(現在の台東区橋場。ここ(グーグル・マップ・データ)。浅草寺の東北方)にあった。

「加賀の宮の腰」現在の石川県金沢市金石。この附近(グーグル・マップ・データ)。にしても(確かに本文では「北陸道を經てのぼりける」とはあるが)私は何だか変に思う。駕籠屋二人に里心がついて、一度、金沢に戻ってから回るということで請け負ったものか?]

 

 それから又一つ、越中の滑川[やぶちゃん注:「なめりかは」。]在の百姓八郎兵衞といふ者、家貧しくして營みを續け難く、親子三人で北國街道を辿つて江戸へ出ようとした途中、狐がお産をするのを見て、憐れんでその狐の子を介抱してやつた。それから難儀をしいしい武州へ入つて來て、熊谷から少し南の鴻の巢の宿へかゝつたが、食物がなくて路傍の茶店に休んでゐると、そこへ一人の見なれぬ老僧がやつて來て、お前はまことに善人だから餅をくれようといつて、店先から餅を買つて三人の者に食はせた。その老僧が立ち去つてから、茶店の亭主がいふには、お前さんは何か善いことをして來ましたね。あの人は四五年前からこの土地をあるいてゐる不思議な坊さんだが、どうも狐らしいといふ評判である。あの人から物を貰つた者は必ず立身する。私も一つお前さんに緣を繫いで置かうといつて、江戸へ行つたらどこそこへ訪ねて行くやうにと紹介狀などを書いてくれた。斯うして早速の便宜を得て、江戸は駒込の何とかいふ處に住んで、段々に榮え金持になつたといふのであります。これ等は北國往還の旅人と、武州の狐との間に結ばれる因緣話の、最も普通の一つの型なのであります。狐が旅行をすることは前にも申しました。大和の源九郎狐[やぶちゃん注:「三」で既出既注。]と同じ話は、隨分諸國にありまして、その話なら自分の國にもあるといふ人によく出逢ひますが、その中でも一番有名なのは、秋田の城址の公園にある與次郎稻荷、これもやはり飛脚になつて、始終江戸へ往來をして居た。佐竹家には大事な狐でありましたが、或時新庄とか山形とかで、人のかけた鼠の油揚のわなにかゝつて殺されたのであります。獸類の悲しさには、殺されることを知りながらもそれを避けることが出來なかつた。跡には状筥[やぶちゃん注:「じやうばこ(じょうばこ)」。文箱(ふみばこ)。]が殘つて居て、その状筥だけ江戸の藩邸へ屆いたといふ話であります。また因幡の鳥取にも、どの飛脚よりも達者に、短い期限で江戸に往復して居た狐の話があります。同じ例は三つや四つではないのです。ところが武州の熊谷堤でも犬に食はれて正體を現はしたという狐の飛脚の話があるのです。何に出てゐたか、今はちよつと見當りませぬが、その狐の化けた飛脚の名前が熊谷彌惣左衞門であつて、後にそれを稻荷さまとして淺草に祀ることにしたといふことが出て居たのであります。

[やぶちゃん注:以上の前半の話、出典不詳。私は何かで読んだ記憶があるのだが、思い出せない。

「與次郎稻荷」この伝承はサイト「日本伝承大鑑」の「與次郎稲荷神社」に詳しい。

「熊谷堤」熊谷桜堤 (くまがやさくらつつみ)のことであろう。現在の埼玉県熊谷市の荒川左岸の堤防の内、荒川大橋付近から下流、約二キロメートルの区間。江戸以前の天正八(一五八〇)年頃、熊谷堤(現在の熊谷桜堤とは別の位置で、もっと現在の駅の位置に近かった)が築かれ、その後、桜が植えられ、江戸時代には既に桜の名所として有名であった。現在のそれは、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 それからこれと關係があるかないか、まだ私には斷言は出來ないのでありますが、右の熊谷堤の近くの熊谷の熊谷寺の境内に、やはり熊谷彌惣左衞門といふ稻荷さまがあります。一名を奴稻荷と申しております。近い頃の言葉でヤツコといふのは、子供の頭に剃り殘した鬢の毛のことで、上方で謂ふビンツであります。だから今日では、ヤツコといふのは卽ち子供を意味するとこぢつけて、專ら小兒の疱瘡その他を守護する神となつてをります。信心する者は、その子供を十三までとか十五までとか年期を限りまして、稻荷樣の奉公人にすると謂つて奉公人請證文を書いて稻荷さまに納めます。さうするとその子供は、非常に身體が丈夫になると申します。面白いことには、子供をこの熊谷彌惣左衞門の奉公人にした以上は、決して親が叱つてはいけない。これは非常に深い意味のありさうなことで、子供は親の折檻に伏すべき者ではあるが、一たび熊谷稻荷の家來にした上は、親でも之を支配するわけには行かぬといふわけであつたのかも知れませぬ。兎に角に叱つてはいけないといふ奇異なるタブーに、一つの不思議が潛んで居るのであります。

[やぶちゃん注:「熊谷寺」「ゆうこくじ」と音読みする。埼玉県熊谷市仲町にある浄土宗蓮生山(れんせいざん)熊谷寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 更に今一つの不思議は、熊谷彌惣左衞門といふ名は、この熊谷の町では正に狐の名といふことに明瞭に認められて居るのであります。この點に關しても、早くからの口碑があります。熊谷家の中興の祖で、みな樣十分御承知の熊谷次郎丹治直實が、戰場に臨んで敵手強しと見る場合には、必ず何處からともなく、一人の武士が現はれて加勢をする。そして我こそは熊谷彌惣左衞門といつて大いに働いて、戰が濟むと忽ち居なくなつてしまふ。或時次郎直實があまりに不思議だと思つて御身はそも誰ぞと訊きますと、ちやうど徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話の如く、我は君の家を守護するところの稻荷である。これから後も火急の場合あらば、彌惣左衞門出合へと呼はりたまへ、必ず出でゝ御奉公申すべしと答へて消え失せたといふ話であります。これは色々の書物に出てをりますが、最も人のよく知つて居るのは木曾路名所圖會であります。今から百三十年前の享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]頃に世に出た書物でありますが、その内容はそれほど新しくはないので、私の知る限りに於ては、少くもそれから尚百年近く遡ることが出來るのであります。信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)の熊谷家といふのは、あの邊で有名な舊家でありますが、その家に熊谷傳記といふ書が傳はつて居ります。先代の熊谷次郎太夫直遐(なほはる)が、明和年間[やぶちゃん注:一七六四年~一七七二年。]に書き改めたもので、ずつと前からの記錄だと言つて居りますが、是にもやはり右にいふ彌惣左衞門狐のことが書いてあります。全體熊谷といふ名字は、三河にも信濃にも大分廣く分布して居つて、何れも元は武藏の熊谷から轉住した家です。或は何かの信仰と關係した家では無かつたかと思ふのは、別に政治上の原因でこの一族を、斯樣に弘く移動せしめたものが無いからであります。少なくともこの家の人たちは何れも信心深く、かつ熊谷彌惣左衞門の實は稻荷であることを信じて居ました。他の地方の舊い熊谷家では現在も稻荷を信じ居るかどうか。私は追々に尋ねて見たいと思つて居ります。

[やぶちゃん注:「徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話」「徒然草」第六十八段。

   *

 筑紫に、なにがしの押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:古い官名。諸国の治安の維持に当たった。]などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)[やぶちゃん注:大根。]を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづつ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來りて、圍み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)二人、出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日ごろ、ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年ごろ賴みて、朝な朝な、召しつる土大根らに候ふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。

   *

「木曾路名所圖會」安永九(一七八〇)年に「都名所圖會」を出版して大いに当てた読本作者で俳人の秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)が文化二(一八〇五)年に出版した木曾路を中心とした名所図会。六巻七冊。

「信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)」の附近(グーグル・マップ・データ)。ここは、南北朝の文和二(一三五三)年に、埼玉熊谷氏の一族であった熊谷貞直が戦乱の中を流れ着き、切り拓いた地であるという。個人ブログ「府右衛門記」の「熊谷家伝記のふるさと 坂部」に拠る。

「熊谷家傳記」前有注のリンク先に、『その初代熊谷(くまがい)貞直から』十五『代直遐(明和』五『年)までの』四百十五『年間にわたって書き継がれた日記であり、その当時の様子がわかる貴重な資料で』、『江戸時代に編集』されたとある。]

 

 兎に角にこれから考へて見ると、熊谷彌惣左衞門の通稱は、如何にも中世の勇士らしく嚴めしい又物々しい名前ではありますけれども、實はそれは狐自身の選定、狐の趣味、狐の理想でありました。ところが狐のことであれば致し方がないといふものゝ、この彌惣左衞門といふ通稱には差合ひがあつたのであります。熊谷家の系圖を調べて見ると、直實の子が小次郎直家で、その子が平内次郎直道、直道の次男に熊谷彌三左衞門尉直朝といふのがあつて、それが本家を繼いでをります。卽ち嫡流第五代の主人公が彌三左衞門であつたことは知らずに、さしもの靈狐も畜類の悲しさには、系圖などの吟味も行屆かずして、平氣でいつ迄も彌惣左衞門の昔話をして居りました。

 私の唯今考へて居るのは、不思議は決して一朝にして出現するものでなく、その由つて來るところは、久しく深く且つ複雜なるものがあるといふことであります。この書を御讀みになる方の中に、もし熊谷の一統に屬する人があつたならば、何と思はれるか知りませんが、どうも熊谷家には、何かといふとこの彌惣左衞門といふ通稱を用ゐたいといふ傾向が、昔からあつたやうに私は感ずるのであります。それは恰も鈴木といふ家の人がよく三郎と名づけられ、あるひは龜井という苗字には屢〻六郎と名乘る人が多いのと同じやうに、家に專屬した一種の趣味、又は隱れたる性癖ではないかと思ひます。

 私の以前親しくして居た先輩に、農學士で熊谷八十三君といふ人があります。是は讃州高松[やぶちゃん注:底本は「長州」となっているが、ちくま文庫版全集ではかく訂されているので、それに従った。なお、特に示さないが、この後もかなり書き換えられている。]の熊谷氏では無かつたかと思ひますが、確かではありません。香川景樹の高弟で、浦の汐貝といふ有名な歌集の作者、熊谷直好という人は通稱は熊谷八十八でありまして、是は周防の熊谷氏でありました。

 そこでたつた一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、凡そこの世の中に、「人」ほど不思議なものはないと。

        (昭和四年七月、東京朝日講堂講演)

[やぶちゃん注:「熊谷八十三」(くまがいやそぞう 明治七(一八七四)年~昭和四四(一九六九)年)は東京帝大農科卒で、愛知県立農業学校教諭・東京府立園芸学校長・農事試験場技師・園芸試験場場長を経て、元老西園寺公望の執事となった。ワシントンにあるの桜を育てたのは彼である。

「熊谷直好」(くまがいなおよし 天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は周防国岩国藩士で歌人。初名は信賢。通称は八十八・助左衛門。平安末期の武将熊谷直実の二十四世と称した。参照したウィキの「熊谷直好」によれば、『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身。熊谷信直の五男・熊谷就真が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座、萩を追われて岩国に一時滞在し、のち』、『一族が赦された際、就真の子・正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった。この子孫が直好である』。十九歳での時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられる』。文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移った』。歌集「浦のしお貝」の外、『著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。

 以上を以って、単行本「一目小僧その他」(昭和九(一九三四)年六月小山書院刊)の本文は終わっている(但し、原本ではこの後に「索引」が載る)。

 二〇一六年二月十五日の自身の誕生日始めた「一目小僧その他」の電子化注を、二年二ヶ月にして遂に完遂した。お付き合い戴けた数少ない読者の方に、心より御礼申し上げるものである。【藪野直史 二〇一八年四月十七日記】]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 一~三

 

   熊谷彌惣左衞門の話

 

     一

 

 私の小さな野心は、これまで餘程の𢌞り路をしなければ、遊びに行くことの出來なかつた不思議の園――この古く大きく又美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけて見たいといふことであります。吾々は彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]がまことによい安息所であることは昔から知つて居るけれども、そこへ踏み入るためには今日ではいろいろの手數があつて煩はしい。型と名づくるものゝ澤山を承認しなければなりませぬ。

 幽靈は井戸のほとり、いつも柳の下に出るといふのは、泥鰌のやうでをかしな話、狸の小僧の酒買ひなどは、粉雪のちらちらとする寒い晩を待たなければならぬ。東京で怪譚を夏の夜のものと致したのは、多分白小袖と散らし髮の聯想でありましようが、これも亦不自由な話であります。第一に不思議を夜の世界に限るものとし、それを更に際立たせる爲に、丑三つの鐘がゴーンなどと、餘計な條件を設けることになつて、却つてその他の時刻、眞晝間や宵の口には、得體の知れぬものが飛び𢌞る結果を見るのであります。

 吾々の不思議の園は荒れました。一筋の徑(こみち)は雜草に蔽はれて、もはやプロムナードに適しなくなりました。鏡花先生のことに愛せられる靑い花のありかゞ、愈〻不明にならうとして居るのであります。これはまことに大なる人生の疲れでなければなりませぬ。そこで私どもは今一度、あらゆるこれまでの樣式から脱け出して、自在に且つ快活に、所謂靑天白日下の神祕を求めなければならぬのでありますが、それには殘されたるもう一つの入口、卽ち、丁度この吾々の社會の方へ向いた、まだ開かれない大通りがあるやうに私は思ひます。今回の催しは言はゞそのための土地測量のやうなものであります。

 それ故にもし諸君の中に、今時そんな問題に苦勞をしてゐる人間があらうとは「不思議な話」だという人が、もしあったならば、もうそれだけでも道が切り開かれたことになるのであります。少なくとも差當つて、今晩の目的は達せられたわけであります。

 

     二

 

 しかし理窟を言ふことは、不思議な話には甚だ似つかはしくない。不思議はたゞ感ずべきものであります。だから私はこゝに型を破つて、試みに出來るだけ事實材料ばかりを敍べてみたいと思ひます。

 話は吾々が尊敬する泉鏡花氏の御郷里から始まります。加賀國は鏡花門徒の吾々にとつて、又一個のジエルサレム[やぶちゃん注:「エルサレム」のこと。]の如き感があるが、この地方の舊いことを書いたものに、三州奇談といふ一書があつて、既に活版になつてをります。その中に金澤城外淺野山王權現境内のお稻荷さまのことが書いてあります。これは元前田家の家中の小幡宮内といふ人の屋敷にありましたのを、後に爰へ移して今以て繁昌して居るのであります。その起原をかいつまんで申すと、明曆年中のこと、前田侯の家來に熊谷彌惣左衞門[やぶちゃん注:「くまがひさうざゑもん(くまがいそうざえもん)」。ちくま文庫版のルビから。しかし「くまがい」はやや問題がある。後注参照。]、本姓は渡邊といふ人があつた。知行は三百石、弓の達人でありました。或年の山科高雄(そんな處は無い)の御狩の日に、この渡邊彌惣左衞門御供をして、孕める一匹の白狐を見つけ、あまりの不便さにわざと弓を射損じて、其命を助けてやりました。それ故に殿の不興を蒙つて彌惣左衞門、浪人となつて隣國の越前に行つて住みました。ところが前に助けてやつた牝狐が恩返しに、彼を武州秩父に棲むところの夫の狐のところへ紹介し、それから段々手蔓を得て江戸に出て淺草邊に侘住居をしてをると、白狐は之に授くるに奇術を以てし、能く諸々の病を治すことが出來た。仙臺の殿樣の御簾中[やぶちゃん注:「ごれんぢゆう(ごれんじゅう)」(濁らなくてもよい)。公卿・将軍・大名などの正妻を敬っていう語。]、彼が名を聞いて召して其異病を加持させられたところ、卽座に效を奏して祿五百石に取り立てられ、子孫を渡邊三右衞門といふとあります。その渡邊氏がお禮のために、淺草觀世音の境内に熊谷稻荷といふのを建立したといふのであります。金澤の方では右申す渡邊の舊友小幡正次なるもの、その話を聞いて、自分もその稻荷を祀つて同樣の利益にあづからうといふので、淺草觀世音境内の稻荷を勸請して邸内に祀つて居た。小幡宮内はその正次の子孫でありましたが、狐を祀るといふなどは馬鹿げてゐると、その稻荷の祠を取り潰したところ、さつそく祟を受けて小幡の家は斷絶、それで本家小幡氏の領地淺野村の百姓たちが、その事あつてから約五十年の後、寶永四年四月に、再び祀つたのがこの山王權現社のお稻荷さまだといふことになつてをります。

 まるつきり跡形の無いことでは無い證據には、確かに近い頃まで淺草觀音の境内に熊谷稻荷がありました。唯今では他の社と合祀せられて千勝神社[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「千勝」に『せんしょう』とルビする。しかしこの神社、いろいろと問題がある。後注参照。]となりましたが、江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「淺野の稻荷」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「明曆年中」一六五五年~一六五八年。

「高雄」私の所持する「三州奇談」ではこの二字に『タユ』とルビする。

「寶永四年」一七〇七年。

「千勝神社」柳田國男の言う通りに調べてみたが、現在は千勝神社は見当たらぬ。そこで、ネット検索を掛けて行くうちに、sunekotanpako 氏のブログ『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「奴伊奈利神社 その3」に出逢った。そこには『浅草寺境内にあったという熊谷稲荷はその後どうなってしまったのだろうか』と、sunekotanpako 氏が調べてみたところが、『地図で浅草寺一帯を隈なく探しても千勝神社は見つからなかった。また、浅草三社神社に千勝神社が合祀されたという事実があるわけでもなく、いろいろ調べた結果』、この熊谷稲荷は『同じ台東区の寿2丁目、地下鉄銀座線田原町駅近くにある日蓮宗の長瀧山本法寺に移転していることがわかった』とされ、現地を訪ねておられる。そこで熊谷稲荷の由来についての解説を転写され、『《江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した』。『この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸誌に参詣頗る多しと書かれているように世に名高い稲荷である』。『稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありそのなかでも人間に福徳をわかつ福狐(ふっこ)として白狐(びゃっこ)だけが稲荷大明神の御眷属にえらばれる資格があると云われている』。『白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語りつがれているが』、『熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所だけしかない』、『きわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。》』とあり、『柳田のいう千勝神社に合祀された話など微塵もない』し、『それにしても、なんだか妙な内容の案内文だ』とされ(同感)、『《稲荷を祀った狐》とはなにか。「狐を祀った稲荷」、あるいは「稲荷に祀られた狐」というべきなのではないのか。その後の文面から考えると後者が正しいと思われる。ところが、白狐だけが稲荷大明神の眷属に選ばれる資格がある、という文章が続くとなると、祀られているのが狐なのか、それとも稲荷大明神――おそらく倉稲魂命――なのかどちらかわからなくなってくる。思うに、稲荷神とともに眷属である白狐を祀った神社と考えればよいのだろう』。『それはいいとして、一方では、常々疑問に思っていたことが氷解した案内でもあった。その疑問とは、世間一般の稲荷神社に奉納されている狐の置物のことで、これがいわゆる狐色をしたものをわたしは一度も見たことがなかったからにほかならない』と語られておられる。sunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」は実に全六回に及ぶ実地探訪に拠る考証記事で、熊谷市熊谷字仲町の熊谷(ゆうこく)寺境内にある伊奈利(いなり)神社、通称「奴伊奈利(やっこいなり)」を訪問する「その1」に始まり、ここで柳田國男の本「熊谷彌惣左衞門の話」が引かれる。引かれるのは、この「二」章よりも後も含まれている)、ここで引用させて戴いた、そして『熊谷弥三左衛門とは何者か』で始まる・6と続く。最後にはタタラ製鉄へと結ばれていく、非常に興味深い考察で、全文を読まれんことを強くお薦めするものである(ブログは全部を続けて読めるようにはなっていないので、上記のリンク・クリックで読まれた方が楽かとは思う)。【2018年4月18日:上記注の一部を削除し、以下を追記する。】以上を公開した翌日である今日、いつも不明点や誤りを指摘して下さるH・T氏が千勝神社(「千勝」は「せんしょう」ではなく「ちかつ」と読むようである。以下のリンク先参照)が浅草寺内に実際に存在していたことをお伝え下さった。一つは、国立国会図書館デジタルコレクションにある「南無觀世音 金龍山緣起正傳」(「金龍山」は浅草寺の山号)で、これは明四五(一九一二)年四月芳林堂刊の浅草寺の詳細な解説書なのであるが、その一〇〇頁目(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では75コマ目。ここ)で、そこには(読みは一部に留めた。句読点を独自に補った。下線太字は私が附した)、

   *

    千勝神社

榧木(かやのき)八幡宮の左側(さそく)に、千勝社(ちかつしや)あり。千勝明神、琴平神(ことひらじん)、天滿宮、愛宕社(あたごしや)、淡島社(あはしましや)、姥宮(うばみや)、姫宮、一之大神(いちのだいじん)、西宮稲荷(にしみやいなり)、熊谷稲荷(くまがやいなり)の十社を合祀(がふき[やぶちゃん注:ママ。])し奉る。千勝大神(ちかちだいじん)と稱し奉るは、猿田彦命にして、道祖神だうそしん)にまします。又、琴平神社は大巳貴神(おほなもちのかみ[やぶちゃん注:ママ])、金山彦神(かなやまひこがみ)、崇德天皇を稱(たゝ)へまつる神號にて、天滿宮は菅原道眞卿を祭り、愛宕社は火産靈神(ほむすびのかみ)、大巳貴神(おほなむちのかみ[やぶちゃん注:これは正しい。])、又、粟島神社は大巳貴(おほなむち)少、彦名神(すくなひこなのかみ)にましまし、姥宮姫宮は、彼(か)の淺茅ケ原の一ツ家(や)の姥の親子なり。一之大神は所謂、一の權現にして、西の宮、熊谷(くまがや)と稱へまつる稻荷の大神は、倉稻魂神(さうとうこんじん)にして、豐受姫(とようけひめ)の別の御名と知り奉るべし此中にて、姥宮、西宮稻荷、熊谷稻荷に就ては、昔よりの緣起あれば、之を左に記し奉るべし

   *

とあるのである。因みに、頭に出る「榧木八幡宮」が浅草寺境内にあった「御府内寺社備考」の「御府内備考續編卷之二十八」の「寺院部四 天台宗 金龍山淺草寺」の中に列挙された社名の中に、

   *

○榧木八幡宮 壱間四方

 八幡太郎義家卿榧ヲ立給フト申傳候。此後ニ榧之木有之。

   *

とある(但し、こちらからの孫引き(一部を恣意的に正字化))から、まず間違いない。更に、国立国会図書館デジタルコレクションの「南無觀世音 金龍山緣起正傳」の次の76コマ目77コマ目には、熊谷稲荷の縁起が載り、そこにはまさに柳田國男が本記載の中で語っている内容がみっちりと纏めて書かれているのである。

 また、H・T氏は別に、文学散歩系の個人サイト「東京紅團」(実はここはお恥ずかしいことに私が毎日必ず巡回するサイトである)の「川端康成の「浅草紅団」を歩く-5-」にアップされてある「昭和14年の浅草絵図(一部)」の中に「千勝神社」ある(浅草寺の本堂に向かって左にある二天門の北側直近)のであった(当該サイトはトップ・ページにしかリンクを許していないので、そこにある目次を探されたい)。そこに書かれた解説によって、千勝神社は第二次世界大戦の戦災によって焼失し、再建されなかったことも判った。

 なお、以上によって sunekotanpako 氏の〈千勝神社浅草寺内非在説〉は誤りであったことになるが、sunekotanpako 氏の検証探訪の意義の重要さは聊かも減じていない。

 ともかくも、御指摘下さったH・T氏に改めて御礼申し上げたい

「江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居る」「江戸名所圖會」の「卷之六 開陽之部」の「淺草寺」の条(流石に長い)の中に(【 】は二行割注部)、

   *

熊谷稻荷(くまがやいなり)祠【本堂の後(うしろ)の方(かた)にあり。熊谷(くまがや)安(やす)左衞門といへる人、勸請す。來由(らいゆ)ハ繁(しげ)きいとひてこ〻に畧(りやく)す。内陣(ないぢん)に狩野周信(かのちかのぶ)の筆(ふで)の橋弁慶(はしべんけい)の掛繪(かかけゑ)あり。】

   *

とある。]

 

     三

 

 私は今からもう十數年も前に、早川孝太郎君と協力して「おとら狐の話」といふ書物を世の中に出したことがあります。おとらは三州長篠の古城のほとりに棲んで、今でもあの附近の農村に非常な暴威を逞しうする[やぶちゃん注:「たくましうする(たくましゅうする)」。]老狐であります。老狐が暴威を振ふといふことはさもあるべしとしても、それにおとらなどゝいふ名のあるのは不思議では無かろうか。私は物ずきな話でありますが、之を問題にして大いに苦勞しました。しかし不思議には相違ないけれども、さういふ例は諸國に至つて多いのであります。例へば三河の隣の尾張小牧山の吉五郎、山中藪の藤九郎、同じくその近所の御林のおうめにおりつなど、これがみな男女の狐であります。中でも殊に有名なのは、大和の源九郎狐、これは諸國里人談にも出ておりまして、その女房は伊賀の小女郎という牝狐だといつて、色々の優しい話がある。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。

「おとら狐の話」大正九(一九二〇)年玄文社の『炉辺叢書』の二として早川孝太郎との共著として出版されている。本「熊谷彌惣左衞門の話」は昭和四(一九二九)年七月に、朝日新聞社主催の「民衆講座夏季特別講演会「不思議な話の夕」で講演したもので、翌八月発行の『變つた實話』に載ったものが初出であるらしい。ちくま文庫版全集第六巻ではたまたま、本「一つ目小僧その他」の後に、同書の柳田國男執筆部分のみが収録されている。但し、私は電子化するつもりはない。悪しからず。

「諸國里人談」俳人菊岡沾凉(せんりょう)著になる随筆。寛保三(一七四三)年刊。次の段で紹介される「源九郎狐」は、「諸國里人談」の「卷之五」の「九 氣形部」の二番目にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

○源九郎狐(小女郎狐)

延寶のころ、大和國宇多に源五郎狐といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民屋これをしたひて招きける。何國より來り、いづれへ歸るといふをしらず。或時關東の飛脚に賴まれ、片道十餘日の所を往來七八日に歸るより、そのゝち度々往來しけるが、小夜中山にて犬のために死せり。首にかけたる文箱を、その所より大和へ屆けゝるによりて此事を知れり。又同じ頃、伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に、小女郎狐といふあり。源五郎狐が妻なるよし、誰いふとなくいひあへり。常に十二三ばかりの小女の貌にして、庫裡にあつて世事を手傳ひ、ある時は野菜を求めに門前に來る。町の者共此小女狐なる事をかねて知る所なり。晝中に豆腐などとゝのへ歸るに、童どもあつまりて、こぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾、あへてとりあへず。かくある事四五年を經たり。其後行方しらず。

   *

最後の「莞爾」は「につこり」と読んでおく。おきたい。]

 

 この源九郎狐は人に賴まれて、飛脚となつて江戸との間を始終往來してをつたところ、ある年小夜の中山で犬に食はれて死んだ。けれどもその持つていた狀箱ばかりは完全に先方へ屆いたともいふのであります。甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました。それから陸前松島の雄島の稻荷さま、これは新右衞門樣と申して現在でも信心せられてをりますことは、松島見物にお出でのお方は多分御承知であらう。非常に靈驗のあらたかなお稻荷さまで、久しく江戸へ出て歸つて來た、留學の狐でありました。私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります。

[やぶちゃん注:「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました」この部分、ちくま文庫版全集では「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、」が完全にカットされている。或いは、なくなっておらず、実在したことを知った柳田國男が単行本化(講演から五年後の昭和九(一九三四)年六月小山書店刊)した際に削除したものか。しかし、本当に当時、現存したのだろうか? 調べてみると。現在、甲府城跡の南東の角に似たような名の「庄城稲荷大明神」がある(第二次世界大戦の戦災で焼失後に移設)が、この稲荷の由来を調べても、ここに書いてあるような奇譚はなく、約八百年の昔、甲斐源氏の祖一条次郎忠頼が、一条の庄小山の地(現在の舞鶴城)に館を築いた際に守護神として祀った社で、忠頼亡き後、武田時代を経て、貴賤の隔てなく厚い信仰を得、徳川時代となり、家康が新城をこの地と定めた折りに庄城神社の一部を「稲荷曲輪(くるわ)」と命名、維新後も庶民の信仰の念厚く、その先達として、地元桜盛会(現在の桜北自治会)が明治以来、今日まで崇敬してきた、と個人サイト武田家史跡探訪」ページにある。しかし、これだけ創建とその後の信仰や庇護の経緯が明らかになっていては、逆にここで柳田國男が言うような奇譚が入り込む余地は逆になくなると思うから、私はこの稲荷は違うと思う。或いは、柳田國男が講演した際、甲府在住或いは出身の来場者が、この稲荷がそれだと考えて(誤認して)、「今もある」と柳田國男に強く抗議したのかも知れない。厭になった柳田が、それをろくに検証せずにカットした可能性もあるように思われる。「いや! この庄城稲荷大明神にここに書かれた話がある!」と言われる方は是非とも御教授下されたい。

「陸前松島の雄島の稻荷」松島湾東奥の松島港の南方に浮かぶ雄島(架橋で陸と接続する。私の好きな島である)にある新右衛門稲荷。江戸後期の頃、江戸からの便船が暴風に巻き込まれ、乗り合わせていた白狐に救われたという話から、海難防止の守り神として知られる。

「私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります」不詳。発見したら追記する。]

 

 是はきつと何かの理由のあることゝ思ひますが、それを論究して居るとお約束に背く。先づ今囘は省略しておきますが、兎に角に祀つてもらふことの出來るほどの狐ならば、名が有り時としては苗字があるのは、言はゞ當世の當然であります。

 たゞ一つの不思議は、この場合においては熊谷彌惣左衞門は、祀られる狐の名ではなくして、これを祀つた人の名前と認められることであります。この點だけが他の例と違つてゐる。それがど何處まで他の色々の狐の信仰と、一致するかといふことが問題であります。

 加賀の隣の福井縣では、南條郡南日野村大字淸水といふ、北國街道の傍の村に、同じく熊谷彌惣左衞門稻荷といふのがありました。その由緒を記したものはいろいろありますが、越前國名蹟考に書いているのは、加州藩の浪人で苗字は不明、通稱を彌惣左衞門といふ者夫婦、この村に來たつて高木某といふ村の舊家に、二三年厄介になつて居ました。その後夫婦は江戸へ出て行くことになつて、途中武州熊谷の堤にさしかゝつたとき、一匹の白狐に出逢ひ、その白狐の依賴を受けて、淺草の觀世音の境内に、新たに建立して祀つたのが今の熊谷稻荷である。後年前の高木の主人次左衞門が江戸へ出て來て、兼て世話をしたことのある加州浪人彌惣左衞門を訪ねたところが、その稻荷のために大分工面がよくなつている。それならば自分も祀りたいと、勸請して歸つたのがこの越前淸水村の熊谷彌惣左衞門稻荷であるといふのであります。このとき高木氏が國へ歸る途すがら、二匹の白狐が後先になつて附いて來たが、その一つがやはり途中で犬にくはれて死んだ。それだから今のは後家だといふことも書いてあります。

[やぶちゃん注:「南條郡南日野村大字淸水」現在の福井県南条郡南越前町西大道附近と思われるが((グーグル・マップ・データ))、熊谷彌惣左衞門稻荷(「彌惣左衞門」は「やそゑもん」と読むのであろう)というのは現存しない模様である。

「越前國名蹟考」福井藩右筆井上翼章の編になる越前地誌。文化一二(一八一五)年完成。]

 

2018/04/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎まで / ダイダラ坊の足跡~了

 

     九 大人彌五郎まで

 

 是までに大切な我々が創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜に基づいて、後漸く徴にして且つ馬鹿馬鹿しくなつた。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を囘避して外海に向わはんとしたかの如き姿がある。壹岐の名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先つて、まづ此島の御津浦に上陸なされたと稱して、太宰管内志には御津八幡の石垣の下にある二石と、此浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述して居る。何れも其大さ一尺一二寸、爪先は東から西に向いて居る。信徒の目を以て見れば、それ自身が神の偉勳の記念碑に他ならぬのだが、しかも壹岐名勝圖誌の錄するところでは、此島國分の初丘(はつをか)の上に在るものは、大は則ち遙かに大であつて、全長南北に二十二間[やぶちゃん注:四十メートル。]、拇指の痕五間半[やぶちゃん注:十メートル。]、踵の幅二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]、少し凹んで水づいて居るとあるが、これは昔大(おほ)といふ人があつて、九州から對馬[やぶちゃん注:底本では「對島」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]に渡る際に足を踏み立てた跡だと謂ひ、しかも村々にも同じ例が多かつたのである。それ迄はまだよいが、肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭では、切支丹伴天連と稱する恠物があつて、海上を下駄ばきで生月(いけづき)その他の島々に跨いだとも謂つて居る。卽ち古く近江の石山寺の道場法師の故迹と同じく、殘つて居るのは下駄の齒の痕であつたのである。

[やぶちゃん注:「壹岐の名神大社」(みやうじんたいしや(みょうじんたいしゃ))は壱岐島のほぼ中央に位置する、長崎県壱岐市芦辺町(あしべちょう)住吉東触(ひがしぶれ)にある住吉神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの同神社によれば、『社伝によれば、住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触に上陸して三神を祀ったのに始まるという(これを以て「日本初の住吉神社」を称している)。その後、神託により現在地に遷座した。『延喜式神名帳』では名神大社に列した。その他にも長崎県下筆頭神社を名乗っている』とある。

「御津浦」現在の壱岐志摩西部の湯本湾か、その南の半城湾と思われる。

「太宰管内志」江戸後期の福岡藩の国学者で地誌学者の伊藤常足(安永三(一七七四)年~安政五(一八五八)年)が六十八歳の時、九州各地の歴史を纏めたもの。全八十二巻。三百冊もの資料を読み解き、実に三十七年もの歳月をかけて完成した労作。福岡県鞍手郡にある「鞍手町歴史民俗博物館」公式サイト内のこちらのページを参照した。

「御津八幡」御津浦の正確な位置が不明なのであるが、長崎県壱岐市勝本町本宮西触にある、本宮八幡神社か? ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、他にも「八幡」を称する神社は壱岐島内に少なくとも後三つはある。

「壹岐名勝圖誌」江戸時代末の文久元(一八六一)年に編纂された壱岐島地誌。当時の壱岐島を治めた第十代平戸藩主松浦熙の命により、十一年の歳月をかけて作成された。全二十五巻。

「國分の初丘(はつをか)」長崎県壱岐市芦辺町国分。この附近(グーグル・マップ・データ)の丘陵であろう。

「肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭」現在の長崎県平戸市平戸島(現在、陸と架橋)の北部にある大きな湾。この湾の入り口附近(グーグル・マップ・データ)。

「生月(いけづき)」薄香湾の西方洋上にある大きな島(現在、平戸市生月島で平戸島と架橋)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 それから南へ下つては肥後鹿本郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石の如き、共に大人の足跡といふのみで、神か鬼かのけぢめさへ明瞭で無い。其の名の早く消えたのも怪しむに足らぬのである。ところが是から東をさして進んで行くと、諸處に恰かも群馬縣の八掬脛[やぶちゃん注:「やつかはぎ」。既出既注。]の如く、神に統御せられた大人の名と話が分布して居る。阿蘇明神の管轄の下に於ては鬼八法師、又は金八坊主といふのが大人であつた。神に追はれて殺戮せられたといふかと思ふと、塚あり社あつて永く祀られたのみならず、その事業として殘つて居るものが、悉く凡人をして瞳目せしむべき大規模なものであり、しかも人間の爲には功績があつて、或はもと大神の眷屬であつたやうにも信ぜられたのであつた。

[やぶちゃん注:「肥後鹿本郡吉松村の北」現在の熊本県熊本市北区植木町轟附近かと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石」「阿久根」は鹿児島県の北西部にある現在の阿久根市。ここ(グーグル・マップ・データ)。「阿久根市」公式サイトのこちらに『「阿久根七不思議」と呼ばれるものがあり』、『江戸時代末に書かれた「三國名勝圖會」によると、「阿久根七奇」として「光礁」「隔岡の塩田」「大人の足形」「黒神岩」「岩船」「小潟崎穴」「尻無川」が挙げられて』おり、またまた、大正四(一九一五)年に『発行された「出水風土記」によると、前述のものに「五色濱」「鍋石」「龍の化石」のうち』、『一つを七不思議に加える場合もあるとされてい』るとある。「波留の大石」という名は出ないものの、この「大人の足形」には(写真有り)『市内山下地区の八幡神社前にある大きな石にある約』六十センチメートル『程の人の足型のくぼみをそう呼』ぶとあって、『伝説によると、この地方に住んでいた天狗が』、『村人たちにけしかけられて阿久根大島まで飛ぼうとしたときに踏み台にした石だと伝えられて』おり、『「天狗の足跡」とも呼ばれてい』るというのがそれであるようにも思われる。]

 

 其矛盾の最初から完全に調和せぬものであつたことは、更に日向大隅の大人彌五郎と、比較して見ることによつて明白になるかと思ふ。彌五郎は中古に最も普通であつた武家の若黨家來の通り名で、それだけからでも神の從者であつたことが想像せられる。而うして大人彌五郎の主人は八幡樣であつた。大隅國分の正八幡宮から、分派したらうと思ふ附近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作つて之を大人彌五郎と名け、神前に送り來つて後に破却し又は燒棄てること、恰も津輕地方の佞武多(ねぶた)などと一樣であつた。さうして其行事の由來として、八幡宮の大人征服の昔語を傳へて居るのである。或は其大人の名を、大人隼人などゝ説いたのも明白なる理由があつた。卽ち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く參與せられ、其記念として今日の正八幡があるのだといふ在來の歷史と、斯うすれば確かに稍一致して來るからである。

[やぶちゃん注:「日向大隅の大人彌五郎」ウィキの「弥五郎どんによれば、「弥五郎どん」は「大人弥五郎」「弥五郎様」とも呼ばれ、『九州南部、宮崎県と鹿児島県に伝わる巨人伝説(大人伝説)。およびこれを祀ってこの地方で行われる年中行事・神事である』。『「大人弥五郎」は ダイダラボッチのように山ほどもある大男であったとされている』。『弥五郎のモデルとなった人物や、伝説の起源は明らかではないが、言い伝えでは、弥五郎とは奈良時代の』養老四(七二〇)年に『勃発した「隼人の反乱」の際、律令政府に対抗した隼人側の統率者であったとする説が最も広まっている。後にこの戦いで敗北した隼人達の霊を供養する放生会が行われたが、これが現在の「弥五郎どん祭り」の起源となったとされている』。『他に』三百『歳の長寿を生き、大臣として』六『代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物、武内宿禰であるとする説がある』(私はこれを果敢な隼人族の反乱を大和朝廷の捏造された歴史に組み込むための戦略、或いは虚説によって本来の姿を残すための逆の戦略であったのではないかと考えている)。『「弥五郎どん祭り」、または「弥五郎様祭り」は、宮崎県内の』二『地域と、鹿児島県内の』一『地域で毎年』十一『月に開催されており、巨大な弥五郎の像が作られ町内を練り歩く。なお、これら』三『地域の弥五郎は、兄弟であるとする設定が与えられている』(宮崎県都城市山之口町にある円野神社(的野正八幡宮)で行われる長男とされる「山之口弥五郎どん祭り」及び日南市にある田ノ上八幡神社で行われる三男とされる「弥五郎様」はリンク先を見て戴きたい)。さて、次男とされる、曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」の「弥五郎どん」は身長四メートル八十五センチメートルで、『白い顔に黒髭を生やし、梅染めの茶色い衣を纏い、腰に』二『本の刀を差し、両手で鉾を持つ。「浜下り(はまくだり)」行事』(隼人族の霊を慰めるため、放生会をするようにという宇佐神宮の託宣によって始まったとされるもの。五穀豊穣・豊漁祈願を願い、鹿児島神宮から隼人塚を経て御神幸地へとお下りする大隅一ノ宮鹿児島神宮御神輿行列を模したものであろう)『の先頭に立って練り歩く』ものである。既に注で述べたが、この曽於市大隅町岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私はこの「弥五郎どん」の祭りを見たことがない。私は死ぬ前に一度、必ず、この弥五郎どんを見たいと思っている

「和銅養老」間に「神龜」を挿んで、七〇八年から七二四年までの期間を指す。]

 

 大人隼人記といふ近代の傳記には、國分上小川の拍子橋(ひやうしばし[やぶちゃん注:底本では「ひやうばし」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。])の上に於て、日本武尊大人彌五郎を誅戮したまふなどゝ謂つて居るさうだ。其屍を手切り足切り、爰に埋め彼處に埋めたといふ類の話は、今も到る處の住民の口に遺つて居るのだが、しかも一方に於ては大人は尚靈であつて、足跡もあれば山作りの物語も依然として承繼せられるので、それほど優れた神を何故に兇賊とし、屠つて[やぶちゃん注:「はふつて(ほうって)」。]後また祭らねばならなかつたかの疑は、實はまだ少しも解釋せられては居なかつた。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈[やぶちゃん注:六十メートル六十センチメートル。]周五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]餘、他の一つは略其半分である。相距ること一町ばかり、これも昔大人彌五郎が草畚[やぶちゃん注:「ひもつこ」。ちくま版のルビに拠った。草藁で編んだもっこ。]で土を運んだ時に、棒が折れて飜れて[やぶちゃん注:ちくま版では『こぼれて』とひらがなで書かれている。意味は判るが、しかし、「飜」は「こぼれる」とは訓じない。]此塚となつたといふ點は、富士以東の國々と同じである。獨り山を荷うて來たのみで無い。日向の飫肥(おび)の板敷神社などでは、稻積彌五郎大隅の正八幡を背に負ひ、此地に奉安して社を建てたと謂ひ、やはり其記念として行ふ所の人形送りは、全然他の村々の濱殿下りの儀式、隼人征討の故事といふものと一つである。それから推して考へて行くと、肥前島原で味噌五郎と謂ひ筑豐長門において塵輪と謂ひ、備中で溫羅といひ美作で三穗太郎目崎太郎と謂ひ、因幡で八面大王などゝ傳へて居る恠雄、それから東に進むと美濃國の關太郎、飛彈の兩面の宿儺(すくな)、信州では有明山の魏石鬼(ぎしき)、上州の八掬脛、奧羽各地の惡路王大武丸、及びその他の諸國で簡單に鬼だ強盜の猛なる者だと傳へられ、殆ど明神の御威德を立證する爲に、此世に出てあばれたかとも思はれる多くの惡者などは、實は後代の神戰[やぶちゃん注:「かみいくさ」、]の物語に、若干の現實味を鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]するの必要から出たもので、例へば物部守屋や平將門が、死後に却つて大いに顯れた如く、本來はそれほど純然たる兇賊では無かつたのかも知れぬ。それは改めて尚考ふべしとしても、少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた證據がある。而うしてそれが殺戮せられて神になつたのは、また別の理由があつたのである。

[やぶちゃん注:「大人隼人記」不詳。識者の御教授を乞う。

「國分上小川の拍子橋」現在の霧島市国分上小川。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在は川も橋もない。吉留だいすけ氏のブログ「吉留だいすけの「日新タ」日記」の「寄り道(シリーズ第30弾:霧島市上小川)」に写真入りで記事が載る。必見。『熊襲の頭、川上梟師(タケル)がここにかかっていた橋で拍子をとったとのことでつけられた拍子橋があったとされる場所』があり、『この近くで日本武尊によって殺されたとも伝わる(女装して熊襲を倒すという話)』とあり、『近くに隼人の末裔「弥五郎」の体の一部が祀られた枝宮神社もある』とある。

「大隅市成村諏訪原の二子塚」鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの方の「二子塚の田の神」でこの「二子塚」が現存することも判った。写真(但し、二子塚の全景は判らない)もあり、地図もある。

「日向の飫肥(おび)の板敷神社」現在、日南市飫肥にある田ノ上八幡神社(旧称に改称された)。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの詳細な記載も参考になり、そこには「稻積彌五郎」及び稲津弥五郎という名も見出せる。

「塵輪」ちくま文庫版では『じんりん』とルビする。

「溫羅」ちくま文庫版では『おんら』とルビする。

「少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた」柳田國男は八幡神の使いとなった点や、或いは天皇の即位式に於ける隼人舞(最後に犬狼のように屈辱的に吠えて言祝ぐのだ!)などを根拠としているのかも知れぬが、私はそれは隼人族が大和朝廷に隷属させられたことの「證據」でこそあっても「忠實なる神僕であつた證據」だなどとは天地が引っ繰り返っても思わないとここに述べておく。

 

 もう長くなつたから兎に角に此話だけの結末をつけて置く。我々の巨人説話は、二つの道をあるいて進んで來たらしい跡がある。其一方は夙に當初の信仰と手を分ち、單なる古英雄説話の形を以て、諸國の移住地に農民の伴侶として入來り、彼等が榾火の側に於て、兒女と共に成長した。他の一方は因緣深くして、春秋の神を祭る日每に必ず思出し又語られたけれども、爰でも信仰が世と共に進化して、神話ばかりが舊い型を固守して居るといふことは難かつた。卽ち神主等は高祖以來の傳承を無視する代りに、之を第二位第三位の小神に付與して置いて、更に優越した統御者を、其上に想像し始めたのである。名稱は形である故に、固より之を新たなる大神に移し、一つ一つの功績だけは古い分から之を下﨟の神におろし賜はつたのである。菅原天神が當初憤恚(ふんい)[やぶちゃん注:「恚」は怒ること。]激怒の神であつて、後久しからずしてそれは眷屬神の不心得だから、訓誡してやらうと託宣せられ、牛頭天王が疫病散布の任務を八王子神に讓られたというが如き、何れも大人彌五郎の塚作りなどゝ、類を同じくする神話成長の例である。幾ら大昔でもそんな事は有得ないと決すれば、恐らくは又次第に消えて用ゐられなくなることであらう。

[やぶちゃん注:柳田國男の見解は、官僚的な構造支配で総て片が着くとでも考えているらしい。彼は支配階級が最も畏れた御霊の信仰形態の強力な核心の恐ろしさを全く認識していないように私には見える。あんたがこんなことを書いた十四年も後、第二次世界大戦が勃発した際、昭和天皇は崇徳院の御陵に侍従を送り、アメリカに味方されぬようにおろおろと祈らせた事実を教えてやりたい気がした。

 

 村に淋しく冬の夜を語る人々に至つては、其點に於て稍自由であつた。彼等は澤山な自分の歴史を持たぬ。さうして昨日の向ふ岸を、茫洋たる昔々の世界に繫ぎ、必ずしも分類せられざる色々の不思議を、其中に放して置いて眺めた。一旦不用になつて老嫗の親切なる者などが、孫共の寢付かぬ晩の爲に貯へて居た話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があつた。卽ち童話と民譚との境は、渚の痕の如く常に靡き動いて居たのである。而して若し信じ得べくんば力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]これを信じようとした人々の、多かつたことも想像し得られる。傳説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なる注意の産物であつた。卽ち岩や草原に殘る足形の如きものを根據としなければ、之を我村ばかりの歷史の爲に、保留することが出來なかつた故に、殊にさういふ現象を大事にしたのである。而して我が武藏野の如きは、兼て逃水堀兼井の言ひ傳へもあつた如く、最も混亂した地層と奔放自在なる地下水の流れを有つて居た。泉の所在は度々の地變の爲に色々と移り動いた。郊外の村里には曾て淸水があるに由つて神を祭り居を構へ、それが又消えた跡もあれば、別に新たに現れた例も亦多い。此の如き奇瑞が突如として起る每に、或はかのダイダラ坊樣の所業であらうかと解した人の多かつたことは、數千年の經驗に生きた農夫として、些かも輕率淺慮の推理では無かつた。説話は卽ち之に基づいて復活し、又屢〻其傳説化を繰返したものであらうと思ふ。

        (昭和二年四月、中央公論)

[やぶちゃん注:「昭和二年」一九二七年。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 八 古風土記の巨人

 

     八 古風土記の巨人

 

 さう考へるとダイダラ信仰の發祥地で無ければならぬ九州の島に、却つて其口碑のやゝ破碎して傳はつた理由もわかる。卽ち九州東岸の宇佐と其周圍は、巨人神話の古くからの一大中心であつた故に、同じ古傳を守るときは地方の神々は其勢力に捲き込まれる懸念があつたのみならず、一方本社に在つては次々の託言を以て、山作り以上の重要なる神德を宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなつてしまふので、寧ろ之を語らぬのを有利とする者が多くなつたのである。是は決して私の空漠たる想像説では無い。日本の八幡信仰の興隆の歷史は、殆ど一つ一つの過程を以て、之を裏書きして居ると言つてよいのだ。

 之を要するに巨人が國を開いたといふ説話は、本來此民族共有の財産であつて、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認も是から出て居た。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれて居たので、其證跡は足跡よりも尚鮮明である。諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。「諾」は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、「册」は伊奘冊尊(いざなみのみこと)。]二尊の大八洲生は説くも畏こいが、今殘つて居る幾つかの古風土記には、地方の狀況に應じて若干の變化はあつても、一として水土の大事業を神に委ねなかつたものは無いと言つてよろしい。其中にあつて常陸の大櫛岡の由來の如きは寧ろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の國引きの物語、さては播磨の託賀郡の地名説話の如き、目を閉じて之を暗んず[やぶちゃん注:「そらんず」。]れば、親しく古へ人の手を打ち笑ひ歌ふを聽くが如き感がある。まだ知らぬ諸君の爲に、一度だけ之を誦して見る。曰く、右託加(たか)と名づくる所以は、昔大人ありて常に勾(まが)りて行きたりき。南の海より北の海に到り、東より(西に)巡る時に此ところに來到りて云へらく、他のところは卑くして常に勾り伏して行きたれども、此ところは高くあれば伸びて行く。高きかもといへり。かれ[やぶちゃん注:故に。]託賀(たか)の郡とは曰ふなり。その踰(ふ)める迹處[やぶちゃん注:「あとどころ」。]、しばしばに沼と成せり(以上)。私の家郷もまた播磨である。さうして實際斯う語つた人の後裔であることを誇りとする者である。

[やぶちゃん注:「常陸の大櫛岡の由來」既出既注

「播磨の託賀郡の地名説話」以下の引用は「播磨風土記」の「託賀(たか)の郡(こほり)」。岩波文庫版の武田祐吉氏の訓読を示す。太字下線は柳田國男の読みや表記と異なる箇所。但し、ちくま文庫版全集では幾つかの補正がなされていて、以下にごく近い。

   *

託賀(たか)の郡(こほり)、右、託加(たか)と名づくる所以(ゆゑ)は、昔大人(おほびと)ありて常に勾(かゞ)まりて行けり。南の海より北の海に到り、東より巡り行きし時、この土(くに)に來到(きた)りて云ひしく、「他(あだ)し土(くに)は卑(ひく)ければ、常に勾まり伏して行きしに、この土(くに)高ければ申(の)びて行く。高きかも」と云ひき故(かれ)、託賀(たか)の郡(こほり)といふ。その踰(こ)えし迹處(あとどころ)、數々沼と成れり

   *

ちくま文庫版全集では「卑くして」を「いやしくして」と読んでいるが、この訓読はおかしい気がする。同全集では「しばしばに」を「數々」直しているが、そこには『あまた』とルビする。武田先生は直接体験過去で訓読されておられ、風土記の性質としては、その方が遙かによいと感ずる。]

 

 證據は斷じて是ばかりでは無かつた。南は沖繩の島に過去數千年の間、口づから耳へ傳へて今も尚保存する物語にも、大昔天地が近く接して居た時代に、人は悉く蛙の如く這つてあるいた。アマンチユウ[やぶちゃん注:現代仮名遣では「アマンチュウ」。]は之を不便と考へて、或日堅い岩の上に踏張り、兩手を以て天を高々と押上げた。それから空は遠く人は立つて步み、其岩の上には大なる足跡を留めることになつた。或は又日と月とを天秤棒に擔いで、そちこちを步き𢌞つたこともある。其時棒が折れて日月は遠くへ落ちた。之を悲しんで大いに泣いた淚が、國頭本部(もとぶ)の淚川となつて、末の世までも流れて絶えせずと傳へて居る(故佐喜眞興英君の南島説話に依る)。アマンチユウは琉球の方言に於て、天の人卽ち大始祖神を意味して居り、正しく此群島の盤古であつた。さうして是が赤道以南のポリネシヤの島々の、ランギパパの昔語と近似することは、私はもう之を架説するの必要を認めない。

[やぶちゃん注:「國頭本部(もとぶ)の淚川」現在の沖縄県国頭(くにがみ)郡本部町(もとぶちょう)は(グーグル・マップ・データ)。同地区貫流する最も川幅の広いそれは満名川(まんながー)であるが、「涙」は沖縄方言で「なだ」であり、不詳。

「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。既出既注であるが、再掲する。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。

「盤古」(ばんこ)は中国の古代神話に登場する神。この世界を創造した造物主であるとされ、その世界創造については二通りの異なる伝承が残されている。一つは「天地分離型」と呼ばれるもので、それによれば、太初の世界は、上も下もないどろどろしたカオス状態にあり、盤古は、その中から生まれた。その後、天地が押し開かれると、陰陽二気のうちの清らかな「陽気」が天に、濁った「陰気」が地になった。彼は天と地の間に立って双方を支え続けたが、天は日に一丈ずつ高くなり、また、地は日に一丈ずつ厚くなったため、それにつれて盤古の身長も一丈ずつ伸びてゆき、遂には天と地は果てしなく隔たることになったとするものである。今一つの伝承は、「死体化生(けしょう)型」とグループされるもので、それによれば、この世の初めに既に盤古は居た。そして盤古が死んだ際、その体の各部が変化して世界を構成する諸物と成り、両眼は日月に、体は大地に、血液は川に、筋肉の筋(すじ)は大地の襞に、皮膚は田畑に、髪や髭は星に、体毛は植物に、歯や骨は岩石にと、それぞれ変化したとするものである。この二タイプの世界創造神話は、本来、同一の系統に属すものなのか、或いは、全く別の伝承が同じ盤古の名に依って語られるようになったものなのかは、現在、明らかではない(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ランギパパの昔語」ニュージーランドの先住民であるマオリ族の世界創造神話に登場する「ランギ」と「パパ」の二神の名(マオリ族は東ポリネシアのソサエテ諸島のタヒチ島・クック諸島・マルケサス諸島からニュージーランドに十一世紀頃に移住してきた)。Es Discovery製作のサイト内の「世界の神々」の中のマオリの神話:天空神ランギ・大地母神パパによれば、彼らの、その『神話で説かれている原初の世界は『混沌と無の世界』であり、暗闇の中でのポーといううめき声に合わせて世界の動きが起こり、そこから光・熱・湿気が生み出され、世界最初の二神である天空神ランギと大地母神パパが出現した』とする。彼らは『その他の神々や天地の間にある万物を創造したが、二人があまりに親密で仲良くしっかりと固く抱き合っていたため、天と地が近づきすぎて』、『光が届かず』、『ずっと暗闇に覆われたままであった。二人が生み出した子供の神々、タネやタンガロア、ロンゴらは、世界に光と昼を取り戻すためには、親である二人を引き離すか殺すかしかないと考え、森の神タネの『天空を遥か上にして、大地を足元に置くため、二人を無理やりにでも引き離そう』という提案に賛成した。唯一、嵐と風の神であるタウヒリだけが、父母を引き離すことに反対していた』。『密着してがっちりと抱き合っている天空神ランギと大地母神パパを引き離すことは簡単ではなかったが、森の神タネが頭を母の大地に押し付けて、足で父の天空を激しく蹴り上げることによって何とか二人を引き離した。父母は引き離された悲しみを訴えて泣いたが、二人が引き離されたことで、暗闇の世界に光が差して』、『昼の時間が回復されたのである。母パパの嘆きの溜息は霧となって天空(夫)へと上がり、父ランギの涙は大雨になって大地(妻)に降り注いだの』]だった、とある。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郎といふ神の名

 

    七 太郎といふ神の名

 

 自分等が問題として後代の學者に提供したいのは、必ずしも世界多數の民族に併存する天地創造譚の些々たる變化では無い。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時から又如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、若しくは之に近い名を以て呼び始めたかといふ點である。京都の附近では廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し、乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水は、京羽二重以下の書に之を説き、長さ六尺ばかりの指痕分明也とあつて、今の長野新田の大道星は卽ち是だらうと思ふが、去つて一たび播州の明石まで踏出せば、もうそこには辨慶の荷塚(になひづか)があつて、奧州から擔いで來た鐵棒が折れ、怒つてその棒で打つたと稱して頂上が窪んで居た。だからダイダ坊などはよい加減の名であらうと、高を括る人もあるいは無いと言はれぬが、自分だけはまだ決してさう考へない。畿内の各郡から中國の山村にかけて、往つては見ないが大道法師、ダイダラ谷ダイダラ久保等といふ地名が、竝べてよければ幾らでも玆に擧げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬ故に、大人といふ普通名詞で濟まして置き、辨慶が評判高ければあの仁でもよろしとなつたのであらう。笠井新也君が池田の中學校に居た頃、生徒にすゝめて故郷見聞錄を書かせた中に、備前赤磐郡の靑年があつて、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師(ざうぶつし)といふ者が來て、山から山を跨いで去つた。それで土人が其足跡を崇敬すると述べて居る。耶蘇教傳道の初期には、何れの民族にも斯んな融合はあつたものである。

[やぶちゃん注:「廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し」所持する「都名所圖會」の「卷之四 右白虎」の「遍照寺山」(へんじょうじやま)の項に、『大道法師足形池』として、割注で『廣澤の巽』(南東)『三町』(約三百二十七メートルほど)『ばかりにあり』と記し、添えられた『廣澤池 遍照寺旧跡』にある「足形池」から見て、その位置は現在の広沢の池の南東池畔、京都府京都市右京区嵯峨広沢町、或いはその池畔直近の嵯峨広沢池下町の広沢公園附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水」乙訓郡(おとくにぐん)は京都府(山城国)の郡。現行は京都府で大山崎町(おおやまざきちょう)一町であるが、旧郡は京都市伏見区の一部と南区の一部及び西京区の一部、向日市と長岡京市の全域を含んだ。「大谷」は不明で「足跡淸水」から逆に辿れるだろうと思ったが、甘かった。それも見出せない。識者の御教授を乞う。

「京羽二重」「きょうはぶたえ」(現代仮名遣)と読み、貞享二(一六八五)年に水雲堂狐松子が著した全六巻六冊から成る、実用性を重視した京都の地誌及び観光案内記。

「長野新田の大道星」探すのに苦労した。「長野新田」は現在の京都府京都市西京区大枝東長町附近であることが判った。埼玉大学教育学部谷謙二(人文地理学研究室)氏の提供になる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」の、ここの左の古地図に「長野新田」とある。なお、この大道星(だいどうぼし)という字地名は現在も残っていることが、京都市の墓地区画整理関連の文書から判明した。

「笠井新也君」(明治一七(一八八四)年~昭和三一(一九五六)年)は現在の徳島県美馬市脇町の生まれの教師で考古学・古代史研究者・阿波郷土史家。國學院大學師範部国語漢文歴史科卒(特待生で首席卒業)。卒業後は帰郷して、県立高等女学校(現在の城東高校)や県女子師範学校などの教職を勤めながら、歴史・民俗の研究・論文執筆に取り組んだ。明治四四(一九一一)年には長野県上田中学校に転じ、さらに翌明治四十五年には大阪府池田師範学校(後の大阪学芸大学学芸学部 (現在の大阪教育大学教育学部)の母体の一つ)とに移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説を纏めるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。特に邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和であり、奈良県桜井市にある最古の前方後円墳とされてきた全長二百七十二メートルの箸墓古墳が女王卑弥呼の墓であると最初に提唱したことで知られる。以上は「徳島県立博物館」公式サイト内のこちらの記載を参照した。

「備前赤磐郡」(あかいはぐん(あかいわぐん))は岡山県にあった旧郡。現在の岡山市の一部・赤磐市の大部分・和気郡和気町の一部を含んだ。「地神山」は不詳。異名か。識者の御教授を乞う。]

 

 紀州の百餘の足跡はその五分の一を辨慶に引渡し、殘りを大人の手に保留して居る。美作の大人足跡も其一部分を土地の恠傑目崎太郎や三穗太郎に委讓して居る。西は備中備後安藝周防、長門石見などでもただ大人で通つて居る。それから四國へ渡ると讃州長尾の大足跡、又大人の蹴切山がある。伊豫でも同じく長尾といふ山の麓に、大人の遊び石といふ二箇の巨巖があつた。阿波は劔山々彙を繞つて、もとより數多い大人樣の足跡があり、或は名西地方の平地の丘に、山作りの畚の目から、こぼれて出來たといふものも二つもある。土佐でも幡多高岡の二郡には、色々此例があつて何れも單に大人田、若しくは大人足跡で聞えて居た。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間は無いのかと思ふと、豈に測らんや柳瀨貞重の筆錄を見ると、却つて阿波に近い韮生(にろう[やぶちゃん注:底本では「みろう」とルビするが、調べてみると、「にろう」であり、ちくま文庫版全集もそうなっているので、特異的に訂した。])郷の山奧に、同名の巨人は悠然として隱れて居た。卽ち此筆者の居村なる柳瀨の在所近くに、立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石があつて、前の二つはダイドウボウシ之を棒にかつぎ、降石は袂に入れて此地まで步いて來ると、袖が綻びてすつこ拔けて爰へ落ちた。それで降石だと傳へて居たのである。

[やぶちゃん注:「目崎太郎」「三穗太郎」孰れもダイラダボッチの実在性を高めるために、漢字のそれらしい実在人物らしい表記仕立てとしたものと考えてよい。

「讃州長尾」旧香川県大川郡長尾町(ながおちょう)。この附近一帯(グーグル・マップ・データ)。

「蹴切山」不詳。識者の御教授を乞う。

「伊豫でも同じく長尾といふ山」不詳。識者の御教授を乞う。

「劔山々彙」徳島県中部南方に位置する徳島県の最高峰(標高千九百五十五メートル)の剣山(つるぎさん)を中心とした周囲の山々の意(隠田集落村である祖谷(いや)はこの地帯の西方である)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山彙」は「さんゐ(さんい)」と読む普通名詞で、山系や山脈を成すことなく、孤立している山々の集まり、山群を指す

「名西地方」徳島県名西郡(みょうざいぐん)。現在の石井町(ちょう)・神山町の外、旧郡域は徳島市の一部・板野(いたの)郡上板町(かみいたちょう)の一部を含んだ。現在の郡域はここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐」「幡多」高知県幡多郡は現在、大月町・三原村・黒潮町のみであるが、旧郡域は宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、及び高岡郡四万十町の一部を含んで、土佐国内の郡で最大の面積を有し、南海道でも紀州に牟婁郡に次いで広大な郡域を持っていた。

「高岡」現する郡。旧郡域(高知西部中央地区)はウィキの「高岡郡」を参照されたい。

「柳瀨貞重」土佐の郷士柳瀬貞重(居住地韮生郷)。香美郡韮生郷の小領主で山田家臣。山田家の滅亡後に太西・川窪の両家を通じて長宗我部国親の麾下に属した。彼は韮生郷を中心に安芸郡から幡多郡までの古文書・記・伝承などを編纂した「竹木筆剰」などを残している。

「韮生(にろう)」現在の香美市の北東部、奥物部県立自然公園(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺。

「筆者の居村なる柳瀨」現在の高知県香美市物部町柳瀬。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石」不詳。]

 

 そこで私たちは、是ほどにして迄も是非ともダイドウボウシでなければならなかつた理由は何かといふことを考へて見る。それには先づ最初に心づくのは、豐後の嫗嶽の麓に於て、神と人間の美女との間に生まれた大太(だいた)といふ怪力の童兒である。山崎美成の大多法師考に引用する書言字考には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹴と傳ふるものは、疑ふらくはこの皹童(あかゞりわらは)のことかと言つて居る。證據はまだ乏しいのだから冤罪であつては氣の毒だが、少なくとも緒方氏白杵氏等の一黨が、この大太を家の先祖とせんが爲に、頗る古傳の修正を試みた痕は認められる。成程後に一方の大將となるべき勇士に、足跡が一反步もあつては實は困つたもので、山などはかついで來なくとも、別に神異を説く方便はあつたのであらう。しかしどうして大太といふが如き名が附いたかと言へば、やはり神子にして且つ偉大であつたことが、その當初の特徴であつた故なりと、解するの他は無いのである。

[やぶちゃん注:「豐後の嫗嶽」「嫗嶽」は「うばだけ」。宮崎県との県境の、大分県豊後大野市に山頂を持つ祖母山(そぼさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百五十六メートルで、宮崎県の最高峰。ここに記された伝承は、個人サイト「戦国 戸次氏年表」のこちらのページに詳しい。

「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大多法師考」不詳。読んでみたい。

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「皹童(あかゞりわらは)」「皹」は「あかぎれ・ひび」の意。この伝説はM.Shiga氏のサイト「パノラマ風景写真で観光する大分県」の「緒方川原尻橋周辺の風景 緒方三郎物語 伝説」に詳しいので参照されたい。

「緒方氏」日本の氏族。平安後期以降、豊後国大野郡や直入郡を本拠地とし、豊後国南部に勢力を伸ばした大神(おおが)氏の後裔氏族。大友氏が入国する以前からの豊後国に於ける有力な在地武士の一族で、大野川・大分川流域の大野・直入両郡を本拠地として、豊後国南部に勢力を伸ばした。参照したウィキの「大神氏」によれば、『大神氏は中世期の豊後における在地武士の一族として栄えるが、惟基については祖母岳大明神の神体である蛇が人間と交わって生まれたとの伝説が』「平家物語」や「源平盛衰記」に『見え、それによると惟基の』五『代の孫が緒方氏の祖、緒方惟栄』(おがたこれよし 生没年不詳)『となる。因みに、惟栄は』養和元(一一八一)年に『豊後国目代を追放』され、元暦元(一一八四)年には『平家についた宇佐神宮を焼き討ちにするなど、従来の支配階級に代わり』、『武士勢力による支配を強めた。治承・寿永の乱(源平合戦)に際して源氏につき、葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍した』とある。ウィキの「緒方惟栄」によれば、『豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し』、『祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟』とある。「平家物語」に登場し、『その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後』、養和元(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった』。寿永二(一一八三)年に『平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる』。また、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる』とある。

「白杵氏」ウィキの「臼杵氏」によれば、『大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た』。『鎌倉時代に臼杵惟直(直氏)には男子が無く、すでに近隣の有力豪族であった大友氏の一族になっていたかつての庶家・戸次氏から、戸次貞直の子の直時を婿養子に迎えた。これにより臼杵氏の嫡流も大神姓から大友系へと変わり、大友氏に従属する立場となった』。『戦国時代の当主・臼杵長景は臼杵庄水ヶ谷城主で、大友義鑑の加判衆を務めるなど、大友氏の重臣として活動した。その死後、家督を継いだのは長男の臼杵鑑続で』二十『年の長きに渡って加判衆を務め、幕府や朝廷との交渉等、大友氏の外交を担った。鑑続には男子がいたが幼少のため、弟の臼杵鑑速が跡を継いで、加判衆を務めた。鑑速は大友義鎮(宗麟)の重臣として活動し、吉岡長増・吉弘鑑理らと「豊後三老」と称された。この頃は外交だけではなく、筑前国や豊前国に侵攻してきた毛利氏への対応や、明や李氏朝鮮との対外貿易にも携わった』。天正二(一五七四)年『の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。しかし』、天正六年の『耳川の戦いに出陣した統景は島津軍に敗れて討死した。統景の討死により、その従兄弟の臼杵鎮尚が家督を継いだ。鎮尚は侵攻する島津氏に抵抗して臼杵城の攻防戦にも参加している。また同じく統景・鎮尚の従兄弟の臼杵鎮定は、宗麟死後大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると、大友氏を退出して上洛。その後、行方不明となり、戦国武将としての臼杵氏は完全に滅亡した』とある。

「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。]

 

 柳亭種彦の用捨箱[やぶちゃん注:「ようしやばこ」。]には、大太發意(だいたぼつち)は卽ち一寸法師の反對で、是も大男をひやかした名だらうと言つてある。大太郎といふいみじき盜[やぶちゃん注:「ぬすつと」と読んでおく。]の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り、烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて、いたつて有觸れた[やぶちゃん注:「ありふれた」。]名だから不思議も無いようだが、自分は更に溯るつて、何故に我々の家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入つて來てちやうど太の字と郎の字を宛てゝもよくなつたが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)だのといふ貴人の御名があつたのを、丸で因みの無いものと斷定することが出來るであらうか。筑後の高良[やぶちゃん注:「かうら(こうら)」。]社の延長[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに『年間』と入る。]の解狀[やぶちゃん注:「げじやう(げじょう)」。律令制で下級官司が上級官司又は太政官に差し出す上申文書。]には、大多良男[やぶちゃん注:「だいだらを(だいたらお)」。]と大多良咩[やぶちゃん注:「だいたらひめ」。]のこの國の二神に、從五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の人聞菩薩朝記には、豐前の豬山にも大多羅眸神[やぶちゃん注:「だいたらばうしん(のかみ)」と読むか。]を祭つてあつたと述べて居る。少なくもその頃までは、神に此樣な名があつても恠まれなかつた。さうして恐らくは人類の爲に、射貫き蹴裂き[やぶちゃん注:「いぬき・けさき」。後者はちくま文庫版に拠る読み。]といふやうな奇拔極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡は又其宣誓の證據として、神聖視せられたものであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「柳亭種彦の用捨箱」柳亭種彦の江戸後期の考証随筆。天保一二(一八四一)年刊。三巻三冊。「俳諧用捨箱」の外題を付した後摺本もある。近世初期の市井の風俗や言語などについての考証が大部分を占め、概ね刊年の明確な俳書を援用して実証し、また古版本の挿絵や古画を模写・透写して多数載せて画証としており、所説の信憑性が高い。引用資料中には現存不明のものもあり、資料的価値も高い。なお、一般名詞としての「用捨箱」とは箱の中を仕切って、必要な文書と用済みの文書を区分けして入れるようにしたものを指す語である。

「盜の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り」「宇治拾遺物語」の巻三にある「大太郎盜人事」(大太郎盜人(だいたらうぬすびと)の事)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて」「源平盛衰記」巻二十二「大太郎烏帽子」。ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の『「源平盛衰記」巻二十二甲斐国の住人大太郎(烏帽子商人)』で原文が読める。

「足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)」古代皇族の名によく見られる。

「筑後の高良社」福岡県久留米市の高良山にある高良大社(こうらたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「延長」九二三年~九三一年。

「宇佐八幡の人聞菩薩朝記」「人聞菩薩朝記」は「にんもんぼさつてうき(にんもんぼさつちょうき)」と読むものと思われる。仁平二(一五二)年頃に書かれたとされる、現在、京都府八幡市の石清水八幡宮が所蔵するもので、宇佐八幡の縁起が記されてある、最古の縁起書。神仏習合によって、宇佐では八幡大菩薩に対し、人聞(にんもん:神母)菩薩が比定創成されて民衆に信仰された。

「豐前の豬山」大分県豊後高田市臼野と同県豊後高田市城前の境にある猪群山(いのむれやま)か。(グーグル・マップ・データ)。標高四百五十八メートル。山頂にある巨石群で知られ、「飯牟礼山」とも書く。ウィキの「猪群によれば、『大分県の北東部にある国東半島に位置し、国東半島の中心である両子山から見ると北西の方角にあたる。猪群山という名前は、イノシシが群れるほどに多かったことに由来するといわれる』。『山頂は南北に分かれ、北峰の頂上付近に巨石群がある。この山の最高地点は北峰より約』十メートル『高い南峰にあ』り、『中腹には飯牟礼神社の中宮がある』。『北峰の頂上付近にある巨石群は、斜め上方に向かってそびえる高さ約』四・四メートルの『神体石を中心に、東西』に三・三メートル、南北に楕円状に四十二メートルにも及ぶ十六基もの『巨石が並ぶ。さらにその外側には』『円状に』『直径約』七十メートルに達する二十四基の『石が配されている。登山路から頂上の巨石群への入口には陰陽石と呼ばれる一対の巨石が門のように立っている。一帯は、「オミセン」と呼ばれる聖域で、女人禁制の地であった。なお、現在は女性も立ち入ることができる』。『この巨石群はストーンサークル(環状列石)であると言われるが、配列に歪みがあり』、『整った楕円状ではないことや、石の間隔が一定でないことなどから、ストーンサークルと呼ぶべきではないとの指摘もある。巨石群の周囲には楕円状に土塁と溝が走っているが、これは』明治三九(一九〇六)年に『山火事から守るため』、『防火壁として築造されたものであるとされる』ものの、『それ以前から遺構があった可能性も残されている』。『神体石は、伝承によれば、山幸彦と海幸彦神話で知られる山幸彦が、龍宮から持ち帰った潮盈珠(しおみちのたま)、潮乾珠(しおひのたま)を置いた場所であるとされる。そのため、神体石の上部の窪みには、満潮時には水が満ち、干潮時には水が乾くという。また、窪みには金魚が住んでおり、この金魚を見た者は盲目になるとも伝えられる。この巨石群は、古代の巨石信仰の遺跡であるとする説、中世の仏教信仰の霊場跡であるとする説、中世の砦跡であるとする説、自然地形であるとする説等がある。また、卑弥呼の墓とする俗説もある』とある。この山が柳田國男がここで言う「豐前の豬山」かどうかは分らぬが、この巨石群はまさにダイダラボッチに相応しいアイテムであると私は思う。

「大多羅眸神」不詳。ネット検索にはこの文字列では全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

 

2018/04/15

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 六 鬼と大人と

 

     六 鬼と大人と

 

 高木誠一君の通信によれば、福島縣の海岸地方では、現在は單にオビトアシト(大人足跡)と稱へて居る。しかも其實例は極めて多く、現に同君の熟知する石城双葉の二郡内のものが、九ケ處まで算へられる。其面積は五畝步から一段まで、何れも濕地沼地であり、または溜池に利用せられて居る。鐵道が縱斷してから元の形は損じたけれども、久ノ濱中濱の不動堂の前のつゝみ、それから北迫(きたは)の牛沼のごときは、大人が此二ケ處に足を踏まへて三森山に腰をかけ、海で顏を洗つたといふ話などがまだ殘つて居るといふ。

[やぶちゃん注:「高木誠一」(明治二〇(一八八七)年~昭和三〇(一九五五)年)は磐城(現在の福島県浜通り及び福島県中通りの白河郡と宮城県南部に当たる地域の旧称)の郷土史研究家。既出既注であるが、思うところあって再掲する。「いわき Biweekly Review 日々の新聞社」公式サイト内の第九十二号の「その時代のドキュメント」によれば、高木氏はここに出る「平町」、現在の福島県いわき市平(たいら)北神谷(きたかべや)の農家の長男として生まれた。『旧制磐城中に入学したが、「農家の長男に学問はいらない」と』二年で『退学させられ、小学校で代用教員を務めたあと、家業の農業に従事しながら、農政学や民俗学と関わることになる』。『その転機となったのは』明治四〇(一九〇七)年の『柳田国男との出会い』で(高木氏二十歳)、以後、『柳田の薫陶を受け続け』、昭和一〇(一九三五)年には『高校教師の岩崎敏夫、山口弥一郎、甥の和田文夫などとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げる。その関係で、渋沢敬三、宮本常一などとも交流し』た。なお、「石城北神谷誌」が『高木自身の手で書かれ、脱稿したのが』大正一五(一九二六)年七月、『その後、岩崎と和田が中心となり、編集・校正をし』たものの、『戦時中という異常事態のなか、思うように作業が進まなかった』。『が、岩崎と和田の「何とか本として出したい」という執念が実を結び』、「磐城北神谷の話」として上梓されたのは実に脱稿から二十九年後の昭和三〇(一九五五)年十二月のことであった。しかし『残念なことに、校正の最終段階に来て高木が病のために床に伏し、仮綴じした校正紙を見ただけで、他界してしまった。高木はそのとき、痩せ衰えた両手を布団の上に合掌して「ありがとうございました、渋沢先生によろしく」と言ったという。本が完成したのは、死後』三ヶ月後のことであった、とある。執念の史家としてここに特に記しておきたい。

「石城」旧郡。現在のいわき市の大部分。

「双葉」福島県浜通り現存する、福島第一原子力発電所事故によって大半の地域が帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準備区域に指定されているあの地域である。旧郡はいわき市の一部も含まれた。

「五畝步から一段」「畝步」は「せぶ」と読む。畝(せ)は単純に歩(坪)の倍量単位でここは畝と同じで、一畝は九十九・一七平方メートルで、この値は一アール=百平方メートルに非常に近いので、五百平方メートルで普通車十台を並べたぐらい。「一段」は「いつたん(いったん)」で「一反」に同じ。一反は十畝で十アールだから、前の小さな足跡の二倍。

「久ノ濱中濱の不動堂」福島県いわき市久之浜町久之浜中浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。「不動堂」は確認出来ない。

「北迫(きたは)の牛沼」「きたは」はママちくま文庫版全集では「きたば」。或いは福島県南相馬市鹿島区塩崎北迫(きたさく)か? ここ(グーグル・マップ・データ)で、同地区や周辺には湖沼が散在はする。

「三森山」福島県いわき市四倉町(よつくらまち)八茎(やぐき)の三森山(みつもりやま)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高六百五十六メートル。]

 

 宮城縣に入ると伊具郡狼山(からうざん)の巨人などは、久しい前から手長明神として祀られて居た。山から長い手を延ばして貝を東海の中に採つて食うた。新地村の貝塚は卽ち其貝殼を棄てた故跡などゝいふ口碑は、必ずしも常陸の古風土記の感化と解するを須ゐいない[やぶちゃん注:「もちゐない」。用いない。]。名取郡茂庭の太白山を始めとして、麓の田野には次々に奇拔なる印象が、多くの新しい足跡とともに散亂して居たのである。但し大人の名前ぐらゐは、別に奧州の風土に適應して、發生して居てもよいのであるが、それさへ尚往々にして關東地方との共通があつた。例へば觀迹聞老志は漢文だからはつきりせぬけれども、昔白川に大膽子と稱する巨人があつて、村の山を背負つて隣郷に持運んだ。下野[やぶちゃん注:「しもつけ」。]の茂邑山(もむらやま)は卽ち是であつて、那須野の原には其時の足跡があるといふ。但し其幅は一尺で長さが三尺云々とあるのは、是も少しばかり遠慮過ぎた吹聽であつた。

[やぶちゃん注:「伊具郡狼山(からうざん)」現在の福島県相馬郡新地町(しんちまち)及び宮城県伊具郡丸森町に跨る山で、標高は四百二十メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。新地町には貝塚があり、大正一三(一九二四)年の調査によって、約四千年前の縄文後期の遺跡であることが判明している。非常に古くから貝塚が知られていたことは、ここにそのまま新地町小川字貝塚という地名があることからも判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「名取郡茂庭の太白山」宮城県仙台市太白区茂庭にある。標高は三百二十一メートルほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「觀迹聞老志」「奥羽観蹟聞老志」(おううかんせきぶんろうし)が正式名。享保四(一七一九)年に完成した全二十巻から成る仙台藩地誌。台藩四代藩主伊達綱村の命により、藩の儒者で絵師でもあった佐久間洞巌が編纂したもの。

「大膽子」「だいたんし」と読んでおく。

「下野の茂邑山」茂邑は旧那須郡武茂村(むもむら)のことか? 現在の那珂川町馬頭一帯に相当し、近くには高鳥山・女体山・薬師岳などがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは、個人のブログの「奥羽観蹟聞老志」の「太白山」を読み解いているこのページを参照した。まさにここに書かれている「大膽子」の部分である。必見!]

 

 尤も大膽子を本當の人間の大男と信ずる爲には、實は三尺二尺といつて見ても尚少しく行過ぎて居た。だから惡路王大竹丸赤頭という類の歷史的人物は、後に其塚を開いて枯骨を見たといふ場合にも、脛の長さは三四尺に止まり、齒なども長さ二寸か三寸のものが、精々五十枚ぐらゐまで生え揃うて居たやうにいふのである。從つて名は同じく大人と謂つても、近世岩木山や吾妻山に活きて住み、折々世人に怖ろしい姿を見せるといふ者は、言はゞ小野川谷風[やぶちゃん注:「おのがは・たにかぜ」。ちょっとした小川や渓谷を渡る風のような規模の小さいものの謂いであろう。]の少し延びた程で澤山なのであつた。それが紀伊大和の辨慶の如く、山を背負ひ巖に足形を印すといふことも、見やうによつては愈々以て尊び敬ふべしといふ結論に導いたかも知れない。卽ち近江以南の國々の足跡面積の限定は、一方に於ては信仰の合理的成長を意味すると共に、他の一方には時代の好尚に追隨して、大事な昔話を滑稽文學の領域に、引渡すに忍びなかつた地方人の心持が窺はれると思ふ。若しさうだとすれば中世以來の道場法師説の如きは、また歷史家たちの此態度に共鳴した結果と言つてもよいのである。

[やぶちゃん注:「惡路王」平安前期に坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物。蝦夷(えみし)の族長阿弖流為(あてるい)の訛ったものとの見方もある。達谷窟(たっこくいわや:岩手県平泉町に現存)を巣窟としたと言われ、これを討った田村麻呂は、そこに京の鞍馬寺を模して九間四面の精舎を建立、多聞天の像を安置したと伝える。文治五(一一八九)年九、,源頼朝は平泉を攻略、藤原泰衡らを討ち滅ぼした後、この窟に立ち寄り、田村麻呂の武勇譚を聞いている(「吾妻鏡」)。現在、茨城県桂村の鹿島神社と同県鹿島町にある鹿島神宮には、田村麻呂が納めたという悪路王の木造の首級が伝えられており、前者は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に徳川光圀が修理したものである。これらの事実は、蝦夷社会に広がった鹿島神に、悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大竹丸」(おほたけまる)は伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝承される鬼神。文献によっては「鈴鹿山大嶽丸」「大武丸」「大猛丸」などとも表記され、「鬼神魔王」とも称される。山を黒雲で覆って、暴風雨や雷鳴・火の雨を降らせるなど、神通力を操ったとする。坂上田村麻呂伝説が色濃く残る東北に、この鈴鹿山大嶽丸の説話が持ち込まれたことで、達谷窟の悪路王伝承と結びついたともされる。詳しくは参照したウィキの「大嶽丸」を読まれたい。

「赤頭」は「あかあたま」で、鳥取県西伯(さいは)郡名和村に伝わる伝説に登場する、非常な力自慢の男のことか。その怪力は米俵を一度に十二俵纏めて運ぶほどであったとする。ウィキの「赤頭によれば、その伝承は、『昔、赤頭が観音堂でひと休みしていたところ』、四、五『歳程度の男の子が現れ、観音堂の柱に五寸釘(ごすんくぎ)を素手で刺しはじめた。その力もさるものながら、今後は素手で釘を抜き取ったかと思うと、やがて釘を刺す、抜くを繰り返して遊び始めた。しかも、よく見ると素手どころか、使っているのは指』一『本のみだった。赤頭は「子供に負けるか」とばかりに自分も釘を刺すが、怪力自慢の彼でも、両手で釘を刺すのがやっとで、抜き去るのは到底無理だった。男の子はその情けない様子を笑いつつ、どこかへと去っていった』。『赤頭の死後、村の若者たちの何人かは、彼にあやかって怪力を授かろうと彼の墓に集まるようになった。ところが』、『夜になると、墓の』ところにいた『者たちの背中に』、『大変な重みが伝わり、とても我慢ができなくなった。その様子はまるで、目に見えない重石のようなものが背中に乗せられ、何者かがそれを背中に押しつけてきたようだったという』というものである。]

 

 奧羽地方の足跡の段々に小さくなり、且つ岩石の上に印した例の多くなつて行くことは、不思議に西部日本の端々と共通である。自分などの推測では、これは巨人民譚の童話化とも名づくべきものが、琵琶湖と富士山との中間において、殊に早期に現はれた爲では無いかと考へる。しかも山作りの一條の其後に附添した插話で無かつたことは、略確かなる證據がある。會津柳津(やないづ)の虛空藏堂の境内には有名なる明星石があつて、石上の足跡を大人のだと傳へて居るに、猪苗代湖の二子島では鬼が荷のうて來た二箇の土塊が、落ちて此島となると稱し、其鬼が怒つて二つに折れた天秤棒を投込んだという場處は、湖水の航路でも浪の荒い難所である。卽ち足跡は大抵人間より少し大きい位でも、神だから石が凹み、鬼だから山を負ふ力があつたと解したのである。眞澄遊覽記には、南秋田の神田といふ村に、鬼步荷森(おにのかちにもり)があると記して、繪圖を見ると二つの路傍の塚である。あんな遠方までも尚大人は山を運んであるいた。さうして少なくとも其仕事の功程に由つて判ずれば、鬼とは謂つても我々のダイダラ坊と、もともと他人では無かつたらしいのである。

[やぶちゃん注:「會津柳津(やないづ)の虛空藏堂」現在の会津の西方、福島県河沼郡柳津町(ここ(グーグル・マップ・データ))。只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂。本堂の前は舞台になっていて「柳津の舞台」として名勝とされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。kankeさんのマイページを参照。石といっても、川岸にある大きな岩塊であることが判る。

「猪苗代湖の二子島」不審不詳。現在の猪苗代湖には北西湖岸近くの翁島しか存在しない。或いは、岩礁のような小さな、地図にも載らぬものなのか?(航空写真を拡大して見ると、そういったものはある) 識者の御教授を乞う。

「眞澄遊覽記」江戸後期の旅行家(というより探検家)にして博物学者菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の奥州を中心に、蝦夷地の探訪も行っており、その膨大な探査著述は百種二百冊ほどもあり、ここで柳田國男が言っている「眞澄遊覽記」というのは単独の書名ではなく、それら総てを総称するものである。詳しい事蹟はウィキの「菅江真澄がよろしい。

「南秋田の神田といふ村」「鬼步荷森(おにのかちにもり)」不詳。但し、「步荷」は「ぼっか」で背負子(しょいこ)のことであるから、ダイダロボッチの山作り伝承との親和性が感じられる。]

2018/04/14

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 五 一夜富士の物語

 

     五 一夜富士の物語

 

 話が長くなるから東海道だけは急いで通らう。此方面でも地名などから、自分が見當を付けて居る場處は段々あるが、實はまだ見に行く折を得ないのである。遠州の袋井在では高部の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と稱する涌水の地があるのを、山中共古翁は往つて見たと言はれる。見附の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水の溜まる凹地があつて、それは大ダラ法師の小便壺と謂つて居たさうである。尾張の呼續町の内には大道法師の塚といふものがあることを、張州府志以後の地誌に皆書いて居る。日本靈異記の道場法師は、同じ愛知郡の出身である故に、彼と此と一人の法師であらうといふ説は、主として此地方の學者が聲高く唱へたやうであるが、それも辨慶百合若同樣の速斷であつて、到底一致の出來ぬ途法もない距離のあることを、考へて見なかつた結果である。

[やぶちゃん注:「遠州の袋井在」「高部」静岡県袋井市(グーグル・マップ・データ)であるが、「高部」も「狐塚」も不詳。識者の御教授を乞う。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「磐田原の赤松男爵の開墾地」「磐田原」は現在の静岡県磐田市内の磐田原(いわたはら)台地。静岡県南西部の天竜川東方の洪積台地で、対岸の三方原台地と同じように、天竜川の古い扇状地の隆起したもの。東西約 四キロメートル、南北十三キロメートルで、磐田原礫層と赤土層から成り、地下水面が深く、開拓は遅れた。現在は東名高速道路が通り、磐田原パーキングエリアが設置されている。台地南端には多くの大小古墳群が散在するほか、遠江国国府の所在地や東海道の宿駅の見付があり、その付近の中泉には遠江国分寺跡がある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「赤松男爵」は「日本造船の父」と呼ばれる旧幕臣で軍人政治家で貴族院議員であった赤松則良(天保一二(一八四一)年~大正九(一九二〇)年)。戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流し、江戸脱走を試みるたが果たせず、徳川家臣らとともに静岡藩へ移った。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くした。明治元(一八六八)年、徳川家所縁の地であった磐田原の払い下げを受け、その開墾に力を注いだ。その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進、主船寮長官・横須賀造船所長・海軍造船会議議長を歴任し、明治二二(一八八九)年には開庁した佐世保鎮守府の初代長官ともなった。明治二〇(一八八七)年に男爵を叙爵、貴族院議員も務め、大正六(一九一七)年に辞職した。明治二六(一八九三)年に予備役となった後は、現在の静岡県磐田市見付へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家を建造した(以上はウィキの「赤松則良」及び「静岡県観光協会」の「ハローナビしずおか」のこちらを参照した)。旧赤松邸はここ(グーグル・マップ・データ)。

「大ダラ法師の小便壺」位置不詳。

「尾張の呼續町」現在の愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。関係ないが、私の妻のかつての実家のそばである。

「張州府志」元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に編集され、宝暦二(一七五二)年に完成した尾張藩最初の藩撰地誌で、それ以降の地誌に大きな影響を与えた。

「日本靈異記の道場法師」上巻の「第三 得雷之憙令生子強力在緣」(「雷(かみ)の憙(むかしび)を得て生ましめし子、強き力(ちから)在る緣」。「憙(むかしび)」とは好意)に出る道場法師(どうじょうほうし 生没年不詳)。原典はこちら(但し、漢文で全白文)にあり、こちらに全現代語訳がある。ウィキの「道場法師」から引いておくと、飛鳥時代の僧で「日本霊異記」に於いて「道場法師」の名で登場する。『尾張国愛知郡の出身』。六『世紀後半敏達天皇の代、農夫であった父親が農作業の途中落ちてきた雷の命を助け、その結果、強力(ごうりき)の子として生まれた』。十『歳の頃、上洛して皇居の北東隅に住んでいた力のある王族と力比べをして勝った。その後元興寺(飛鳥寺)の童子となり、鐘楼堂にすむ人食い鬼(がごぜ)を退治した。このときの鬼の髪の毛が元興寺に伝わっている。その童子は元興寺の優婆塞(うばそく=在家のまま仏道修行をするもの)となった。王族が元興寺が所有する田に引水するのを妨害したが、童子はこの妨害を排除し』、『衆僧に出家・得度することを許され、道場法師と称されるようになったという』。「今昔物語集」には、『道場法師の孫娘の話が記述されており、道場法師の怪力は男には伝わらず、女方に伝わったことが語られている』。同書では『孫娘も愛知郡出身と記述されており、少なくとも聖武天皇の時代まで一族は愛知郡で暮らしていたものとみられる(ただし、氏名の記述はない)』とある。]

 

 例へば丹羽郡小富士に於ては、やはり一箕(き)[やぶちゃん注:「み」。穀物の選別や運搬に使う農具で、竹皮・藤皮・桜皮などを編んで平らな容器状にし、周囲に竹や細木を結んでU字状の縁をつけたもの。]の功を缺いた昔話があり、木曾川を渡つて美濃に入れば、いよいよ其樣な考證を無視するに足る傳説が、もう幾らでも村々に分布して居るのである。通例其巨人の名をダヾ星樣と呼んで居るといふことは、前年「民俗」といふ雜誌に藤井治右衞門氏が書かれたことがある。此國舊石津郡の大淸水、兜村とかの近くにも大平(だゞひら)法師の足跡といふものがあると、美濃古鏡考から多くの人が引用して居る。里人の戲談に此法師、近江の湖水を一跨ぎにしたと謂ふとあることは有名な話である。

[やぶちゃん注:「丹羽郡小富士」旧丹羽郡富士村のことか。現在の愛知県犬山市には尾張富士がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「前年」本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。

「藤井治右衞門」岐阜県出身か在住の研究者か。こちらの『岐阜県教育会雑誌』の(大正四(一九一五)次の目次に複数回、同名が見える。

「石津郡の大淸水、兜村」石津郡は岐阜県にあった旧郡。ウィキの「石津郡」によれば、『多芸郡を挟んで東西で飛地状態となっていた。のちに西部が上石津郡を経て養老郡、東部が下石津郡を経て海津郡となった』。『現在の以下の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない』として、大垣市の一部・海津市の一部・養老郡養老町の一部とする。但し、「大淸水」及び「兜村」は不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃古鏡考」不詳。]

 

 奇談一笑といふ書物には何に依つたか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思ふものを載せて居る。古[やぶちゃん注:「いにしへ」。]大々法師(だゞぼふし)といふ者あり。善積郡の地を擧げて悉く掘りて一箕となし、東に行くこと三步半にして之を傾く。その掘る處は卽ち今の湖水、其委土(すてつち)[やぶちゃん注:「捨て土」。]は今の不二山なりと。而うして江州に在る所の三上(みかみ)鏡岩倉野寺等の諸山は、何れも箕の目より漏り下るものといふとある。孝靈天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したといふことは、隨分古くから文人の筆にする所であつたが、それが單に噴火の記事を傳へたのなら、恐らく此樣には書かなかつたであらう。卽ち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るといふことは當時至つて普通なる信仰であつた故に、詳しい年代記として當然に之を錄したといふに過ぎなかつた。日本紀略には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に皷[やぶちゃん注:「つづみ」。鼓に同じ。]を鳴らすが如き音が聞えた。人ありて曰ふ、伊豆國西北の二面、自然に增益すること三百餘丈、更に一島を爲す。則ち皷の音の如きは神此島を造りたまふ響なりと。伊豆の西北には島などは無く、大和の都まで音が聞える筈も無いのに、正史に洩れて數百年にして此事が記錄に現れた。しかも日本の天然地理には、斯う感じてもよい實際の變化は多かつた。乃ち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあつたのである。

[やぶちゃん注:「奇談一笑」西田維則 (いそく ?~明和二(一七六五)年:江戸中期の儒者。近江の人であるが、京都に住み、中国の白話小説を翻訳。漢文の用例集なども著わしている。訳書に「通俗西遊記」等)の作。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここにある「江州湖水」の最終行から次の頁の話。漢文であるが、訓点が打たれているので読み易い。

「善積郡」「よしづみのこほり/よしづみぐん」。但し、「奇談一笑」では『善澄郡』である。また、このような旧郡は古代の記載にはないようである。「古事類苑」の「地部十五」「近江國」の「郡」にある「近江國輿地志略」では(リンク先の本文を少しいじった)、

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近世俗間の軍記に【「江源江鑑」「淺井三代記」「織田軍記」「太閤記類」】善積郡を多く載す。近江の土俗も亦これをいふものおほし。ともに虛僞孟浪の言なり。「三正史」「六國史」「諸實錄」、善積郡の名をあぐるものをみず。「拾芥抄」に『十二郡』としるし、その十二郡の名の下に、『勢多・善積』としるす。是をもつて郡名とおもへるにや。勢多・善積は郷の名にして、「順和名抄」に、勢多は栗本郡の下にのせ、善積は高島郡の下にしるせり、是を正説とすべし。「東鑑」のごとき中世の實紀なり、是亦、善積の庄をのせて、善積郡をしるさず。是、善積郡なきこと、あきらかなり。ことごとく書を信ぜば、書なきにはしかず。正史實録を除て、稗雜の書をとらんや。いはずして明なり。

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「三上(みかみ)」現在の滋賀県野洲(やす)市三上にある、「近江富士」として知られる標高四百三十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鏡岩」甲賀市土山町の巨岩。鈴鹿峠を三重県側に少し下ったところにあると「甲賀市」の「土山町」のページにある。ここは坂上田村麻呂の鬼退治で知られるところらしい。その話もリンク先にある。

「倉野寺」不詳。現在の滋賀県や三重県内にはこんな名の山はない。識者の御教授を乞う。

「孝靈天皇の御治世」治世は不確か。「日本書紀」にあるものを機械的に西暦当てはめると、紀元前二九〇年から二一五年。

「日本紀略」平安後期の歴史書。全三十四巻。編者・成立年ともに未詳。神代から後一条天皇までの歴史を漢文の編年体で記したもの。神代は「日本書紀」、神武天皇から光孝天皇までは「六国史」からの抄録、それ以降は各種の日記・記録に拠っているが、「六国史」の欠を補う重要史料とされる。

「天武天皇の十三年十月十四日」ユリウス暦六八四年十一月二十六日。例えば、この年に富士山が噴火した古記録はない。

「三百餘丈」三百丈で九百九メートル、三百五十丈で凡そ一キロメートル。]

 

 琵琶湖の附近に於て、此信仰が久しく活きて居たらしいことは、白髭明神の緣起などが之を想像せしめる。木内石亭は膳所の人で、石を研究した篤學の徒であつたが、その著雲根志の中に次の如く記して居る。甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境の山路に、八尺六面ばかりの巨石があつて、石の上に尺ばかりの足跡が鮮かである。寶曆十一年二月十七日、此地を訪ねて之を一見した。土人いふ、これは昔ダヾ坊といふ大力の僧あつて、熊野へ通らうとして道に迷ひ、此石の上に立つた跡であると。ダヾ坊は如何なる人とも知らず、北國諸所には大多(おほた)法師の足跡といふものがあつて、是も如何なる法師かを知る者は無いが、思ふに同じ人の名であらうと述べて居る。自分の興味を感ずるのは、ダヾ坊といふ樣な奇妙な名は是ほど迄弘く倶通して居りながら、却つて其證跡たる足形の大さばかり、際限もなく伸縮して居ることである。

[やぶちゃん注:「白髭明神の緣起」滋賀県高島市鵜川にある白鬚神社。全国にある白鬚神社の総本社とされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白鬚神社」公式サイト内で「白鬚大明神縁起絵巻原文」が読める。同神社の祭神は猿田彦命で、縁起に彼が『其鼻長七咫、背丈七尋、亦口もかくれ所も赤くてれり。眼は八咫の鏡をかけたらんやうにてりかゝやく事、赤かゝちに似たり』という巨魁であったことを指すのであろう。「七咫」(ななあた)の「咫」(音「シ」)は日本の上代の長さの単位で、開いた手の親指の先から中指の先までの長さに当たるから、「一咫」は凡そ十七センチメートルに当たるとして一メートル二十センチメートルの鼻。「七尋」(ななひろ)は通常は一尋が六尺とされるから、十二メートル七十三センチメートル弱。

「木内石亭」「著雲根志」木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)は本草学者で奇石収集家。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)生まれ。捨井家に生まれたが、母の生家である木内家の養子となった。養子先の木内家は栗太郡山田村(現在の草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄であった。幼い時から珍奇な石を好み、宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃から、物産学者津島如蘭に本草学を学び、京坂・江戸その他各地の本草家や物産家と交流、物産会でも活躍した。「弄石社」を結成して奇石を各地に訪ね、収集採集も盛んに行った。これら収集歴訪をもとに、独自に鉱石類を分類して発刊したのが奇石博物誌として名高い「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)であった。当時流行の弄石の大家ではあるが、その態度はすこぶる学究的で、「石鏃人工説」を採るなど、実証的見解を示し、我が国の鉱物学・考古学の先駆的研究を果たしたと評される。シーボルト著の「日本」(Nippon:一八三二年~一八八二年)の中の石器・勾玉についての記述は彼の業績の引用である。津島塾では大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木木村蒹葭堂と同門であり、宝暦六(一七五六)年に江戸に移って田村藍水(栗本丹洲の実父)に入門した時には、同門下の一人であった平賀源内らとも交流している。以上の話は「雲根志」(私の愛読書である)の「後編卷之三」巻頭にある「足跡石(あしあといし)」に所収する。

「甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境」現在の滋賀県甲賀市土山町鮎河と南で接する土山町黒川との間。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「寶曆十一年」一七六一年。]

 

 そこで試みにこの大入道が、果して何れの邊まで往つて引返し、若しくは他の靈物に其事業を讓つて去つたかを、尋ねて見る必要があるのだが、京都以西はしばらく後𢌞はしとして北國方面には自分の知る限り、今日はもうダイダ坊、或は大田坊の名を知らぬ者が多くなつた。併し三州奇談といふ書物の出來た頃までは、加賀の能美郡の村里にはタンタン法師の足跡といふ話が傳はり、現に又其足跡かと思はれるものが、少なくも此國に三足だけはあつた。所謂能美郡波佐谷の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬ處があつた。其次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡といふ田の中に、是も至つて鮮明なる足跡が殘つて居た。下に石でもある爲か、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかつた。今一つは越中との國境、有名なる栗殼[やぶちゃん注:「くりから」。倶利伽羅(峠)。]の打越にあつた。何れも長さ九尺幅四尺ほどゝあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小さゝだが、其間隔は共に七八里もあつて、或は加賀國を三足に步いたのかと考へた人もある。勿論其樣な細引[やぶちゃん注:「ほそびき」。麻などを縒(よ)って作った細い繩。細引き繩。]の如き足長は、釣合ひの上からも到底之を想像することを得ないのである。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「大人足跡」の前段部。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(左頁)から視認出来る。迷亭ブログ「下町じゅ現代語訳がある。

「加賀の能美郡」石川県能美郡は川北町(かわきたまち)のみであるが、旧郡域は能美市・小松市の大部分・白山市の一部を含む。

「能美郡波佐谷」石川県小松市波佐谷町(はさだにまち)。(グーグル・マップ・データ)。

「河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡」石川県金沢市木越町(きごしまち)(グーグル・マップ・データ)。「光林寺の跡」は不詳だが、同地区に光蓮寺という似た名前の寺は現存する。]

2018/04/13

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛

 

     四 百合若と八束脛

 

 上野國では三座の靈山が、初期の開拓者を威壓した力は、却つて富士以上のものがあつたかと想像せられる。乃ち其峰每に最も素朴なる巨人譚を、語り傳へた所以であらう。例へば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだといふ上﨟の故郷で、我民族の間に殊に美しく發達した二處の水の神の交通を傳ふる説話の、注意すべき一例を留めて居る沼であるが、是もダイラボツチが赤城山に腰を掛けて、うんと踏張つた足形の水溜りだといふ口碑がある。榛名の方では又榛名富士が、駿河の富士よりも一もつこだけ低い理由として、其傍なる一孤峰を一畚(ひともつこ)山と名けて居る。或はそれを榛名山の一名なりとも謂ひ、今一畚足らぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも傳へる。其土を取つた跡が、あの閑かな山中の[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『伊香保の』となっている。榛名湖のことであろう。]湖水であり、富士は甲州の土を取つて作つたから、それで山梨縣は擂鉢の形だと、餘計な他所の事まで此序を以て語つて居る。此山の作者の名は單に大男と呼ばれて居る。榛名の大男は曾て赤城山に腰をかけて、利根川水で足を洗つた其折に臑(すね)に附いて居た砂を落したのが、今の臑神の社の丘であるとも謂ふ。

[やぶちゃん注:「上野國」「三座の靈山」上毛三山。赤城山・榛名山・妙義山。

「多野郡の木部の赤沼」現在の群馬県高崎市木部町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊香保はここから北北西に二十七キロメートルほど、赤城山は東北に三十二キロメートルほど。但し、鏑川の右岸ではあるが、現在、「赤沼」は見当たらない。

「一畚山」(ヒトモッコやま)は榛名山(標高千四百四十九メートル)南西の榛名湖に少し突出した麓のピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は千百四十メートルほどだが(榛名山との高低差は三百九メートル)、榛名湖(標高千八十四メートル)の湖面からの比高は五十六メートルしかなく、見たところは湖岸の丘陵といった感じである(例えば、こちらの個人の画像を)。「畚」(もっこ)は「ふご」とも読み、藁・繩・竹・蔓などを用いて網状に編んだ蓆(むしろ)状の平面の四隅に、吊り綱を二本附けた形状の運搬用具。古くは主に農作業で土砂を運搬するのに使用された。

「臑神の社」いろいろ調べてみたが、この社(やしろ)は現在のどこを指すのか、不詳。識者の御教授を乞う。但し、「臑神」というのは直ちに「荒脛巾神」、則ち、本邦の民間信仰的な古形の神の一柱である「あらはばき」を想起させはするウィキの「アラハバキ」によれば、この神名は一般には「脛(はぎ)」に佩く「脛巾(はばき)」(脛巾裳(はばきも)。臑(すね)当てのこと。旅や作業などの際に臑に巻き附けて紐で結び、臑を防備する一方、動き易くした実用的装具。古くは藁や布で作った。後世の脚絆)の『神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが』、『後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた』。また、近代の『神仏分離以降は「脛」の字から』後の日本神話に登場する長髄彦(ながすねひこ)=『長脛彦を祀るともされた』。『荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある』。また、『荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」』『と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである』。『これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説』『もある』。『氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。しかし、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したという説と、氷川は「ピカワ」から転訛したという説を双方とって、両者に全く繋がりはないという説もある(しかし、シカワ説もピカワ説も格別有力な説というわけではない)』。『氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない』とある。なお、リンク先に詳述される「東日流外(つがるそとさんぐんし)三郡誌」に基づく見解は、同書の偽書性が確実であることから、私は引用していない。]

 

 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太(だいだ)といふ無雙の強力があつて、足を以て蹴開いたといふ話がある。仲仙道の路上から此穴のよく見える半年石(はんねじ)といふ處に、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、其時の記念なりと傳へられた。緘石錄といふ書には、大太は南朝の忠臣なり、出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱すとあるが、如何なる行き違ひからであらうか、貝原益軒の岐蘇路記を始とし、此地を過ぐる旅人は、多くは之を百合若大臣の足跡と教へられ、あの石門は同人が手馴らしの鐵の弓を以て、射拔いた穴だといふ説の方が有力であつた。百合若は舞の本によれば、玄海の島に年を送り、とても關東の諸國までは旅行をする時をもたなかつたやうに見えるが、各地に其遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る。如何なる順序を經てさういふことになつたかは、茲で簡單に説き盡すことは不可能だが、つまりは村々の昔話に於て、相應に人望のある英雄ならば、思ひの外無造作にダイダラ坊の地位を、代つて占領することを得たらしいのである。

[やぶちゃん注:「半年石(はんねじ)」中山道から視認出来るとならば、この範囲内(中央に妙義山)である(グーグル・マップ・データ)。妙義山の最高峰は表妙義稜線上の相馬岳で千百三・八メートルであるが、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山の千百六十二・一メートル。しかし、ここは前者であろう。ここに書かれた伝承は、今、ネット検索を掛けると、悉くが柳田國男のこの記載からの孫引きとしか思えないものばかりである。中には勝手に「はんねんいし」などという誤った読みを振っているものもある。こんな世も末の世界では既に、その由緒の「石の窓」(妙義は見上げる限り、奇岩奇石は多く、登ったことはないが、山容は好きだ。室生犀星が「生姜のようだね」と言ったのは言い得て妙である)も「半年石」も大太の「足跡」というのも消えてしまったものかも知れない。但し、後で引く貝原益軒の「岐蘇路記」には、『松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり』とあり、この「坂本」とは現在の横川の北、軽井沢へ越える一帯の北の地名であるから、この「半年石(はんねじ)」は、松伊田附近から北西を越えて軽井沢に行く手前の旧中山道添い(グーグル・マップ・データ)にある(あった)と限定出来る。【2018年6月20日追記:現在、電子化注作業中の 諸國里人談卷之三」の「妙義」で、調べているうちに、ここに出る「石の窓」に相当するもの、及び「半年石」に相当するものが、現存することが判明した。そちらを是非、読まれたい。

「緘石錄」恐らくは江戸期の随筆と思われるが、不詳。柳田國男は諸作で引用している。

「大太は南朝の忠臣」「出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱す」原典が不詳なので、調べようがない。こんな人物は私は知らない。

「貝原益軒の岐蘇路記」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年:名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ)が享保六(一七二一)年に刊行した木曾路の紀行文。当該項を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像から先を起こす。読みは一部に留めた。下線太字は私。

   *

○松井田より坂本へ二里、松井田、家數四百軒ばかり。此地を松枝(えだ)共云。此間に橫川と云所に關所あり。箱根の關のごとく往來のあやしき人をとむ。妙義山は松井田の南、道の左に有。此山は松井田より坂本の西まで、凡五里ばかりつゞきたる岩(いは)山也。故(かるがゆゑ)に山上には草木(くさき)なし。他所(たしよ)にはなき程の珍しき山也。麓の高き所に堂有、其前坂の上に二町程なる町有。民家きれい也。妙義山へ參詣する者の休息する所也。馬もあり。町の東の家より東の方を望めば、上州、武州、眼下に見えて好(よき)景也。町より石の階(かい)を登りゆけば堂有。妙技法師を安置せし所也。靈驗ありとて關東の人民は甚(はなはだ)尊敬渇仰(そんきやうかつかう)をなす。故に人の參詣常に多して繁盛の地也。堂の前側(かたはら)に別當の寺有。堂の前に薪敷(しき)衣着たる女巫(かんなぎ)、常に二十餘人並居(なみゐ)たり。參詣の人女巫に逢(あひ)て、御託(たく)をきかんといへば、託をのべて各々其人の行さきの吉凶を告(つぐ)る。妙技法師は、比叡の山の法牲坊尊意(ほつしやうばうそんい)也という延喜帝の御時の人なり。此山を白雲山(はくうんざん)と號す。奧(おくの)院へ麓より一里有。中の嶽(たけ)と云。道さがしといへり。尤靈地なりと云。此山世に類なき寄異成(なる)形樣(ありさま)なれば神靈ある事むべなり。かかる名山には必靈あり。故に祈ればしるしあり。 松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり。凡ゆり若大臣と云人古書に見えず。世俗のいひ傳ふること、信じがたし。但日本武尊をあやまりてかくいひ傳へけるか。此邊(へん)は日本武尊とおほ給ひし道也。又豐後築前にも百合若大臣の古跡有。強力武勇ありてつよ弓引し人なりといひ傳ふ。日本武尊筑紫にも下り給ひ、武勇はなはだすぐれたる人なれば、若此人をや、かくいひ傳へけん、いぶかし。然れ共世に云傳るは、嵯峨天皇の御宇に、四條左大臣公光の子百合若(ゆりわか)大臣九州の總司として下り、豐後に住せられしといへば、日本武尊とは時代ちがへり。

   *

ここに出る「百合若大臣」は伝説や物語上の貴種流離譚の主人公。幸若舞や説経節の「百合若大臣」の英雄として活躍し、後には浄瑠璃や歌舞伎、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる物語では、嵯峨天皇の時、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣して大勝、帰途に玄海の孤島で一休みしていた間に、家臣の別府兄弟の悪計によって置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死の虚偽報告を成し、九州の国司となった。しかし、百合若の形見に残した「緑丸」という鷹が孤島に飛来し、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国を果たし、九州を支配していた別府兄弟を成敗、宇佐八幡宮を修造して日本国将軍となるというものである。この伝説は本来、山口県以南に分布するもので、九州を本貫(ほんがん)とする説話が、諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われる。伝説には諸種があり、例えばここに出た「百合若の足跡石」という巨石を伝えたり、別称「ダイダラボウシ」の名をもって祀られた「百合若塚」なども存在する。孰れもここで柳田が問題とする巨人伝説を踏襲するものであるから、必ずしも柳田が百合若と絡むのを奇異に感ずるのは当たらない。その他にも、鷹の緑丸に関わる遺跡も多く、鷹を神使とする民俗の影響が考えられる。また、壱岐島には「イチジョー」という巫女(みこ)が、天台や「ボサの祭り」と称する、毎月二十八日に神楽として語る「百合若説経」と称するものもあり、これは五十センチメートルほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、たたきながら行うもので、病人平癒の祈禱にも同じことをするという。そこではかつては「百合若」以外も語ったらしいが、今は他には残っていないという。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混淆はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡(大分県大分市にある柞原八幡宮。本社は宇佐八幡宮の豊後国への分祀社と見て間違いない)での本地物になっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人部(あまべ)の伝承と八幡信仰の関与があると考えてよい(以上は小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「舞の本」中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。幸若舞は曲舞(くせまい)の一流派の後裔で、室町期に流行した。

「その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る」Nachtigall Blaue氏のブログ「碧風的備忘録」のこちらに、宮城県栗原市栗駒にある鳥合(ちょうごう)神社の緑丸の伝承が、奥羽ではないが、近接する「新潟県聖籠町(せいろうまち)」公式サイト内のこちらにも、町名の由来が緑丸に関わることが記されてある。

 

 自分の是からの話は大部分が其證據であつて、特に實例を擧げる迄も無いのだが、周防の大島の錨ケ峠の近傍には、現在は武藏坊辨慶の足跡だと稱するものが殘つて居る。昔笠佐の島が流れようとした時に、辨慶こゝに立つて踏張つて之を止めたといふのである。紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)とは、同じく辨慶が畚(ふご)に入れて荷うて來たのだが、廣瀨峠で朸(おこ)が折れて、落ちて此土地に殘つたと謂ひ、大和の畝傍山[やぶちゃん注:「うねびやま」。]と耳成山[やぶちゃん注:「みみなしやま」。]、一説には畝傍山と天神山とも、やはり萬葉集以後に武藏坊がかついで來たといふ話がある。朸がヤーギと折れた處が八木の町、いまいましいと棒を棄てた處が、今の今井の町だなどゝも傳へられる。そんな事をしたとあつては、辨慶は人間でなくなり、從つて此世に居なかつたことになるのである。實に同人の爲には有難迷惑な同情であつた。

[やぶちゃん注:「周防の大島の錨ケ峠」大島はここ(グーグル・マップ・データ)。「錨ケ峠」(いかりがとうげ)は不詳。

「笠佐の島」大島の西方に浮かぶ小島。

「紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)」この附近(グーグル・マップ・データ)。現在の和歌山県御坊市湯川町丸山と、その西南に接する和歌山県日高郡美浜町和田地区

「廣瀨峠」不詳。

「朸(おこ)」「おうご」「おうこ」とも呼ぶ。荷物に差し通して肩に担ぐ天秤(てんびん)棒のこと。

「ヤーギ」折れる音のオノマトペイアらしい。]

 

 それは兎も角として信州の側へ越えてみると、亦盛んにダイダラ坊が活躍して居る。戸隱參詣の道では飯綱山の荷負池が、中陵漫錄にも出て居て既に有名であつた。此以外にも高井郡沓野の奧山に一つ、木島山の奧に一つ、更級郡猿ケ番場の峠にも一つ、大樂法師の足跡池があると、信濃佐々禮石には記して居る。少し南へ下れば小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山にも、其間二十餘丁[やぶちゃん注:二~三キロメートル弱。]を隔つて二つの大陀(だいだ)法師の足跡があり、何れも山頂であるのに夏も水氣が絶えず、莎草科の植物が茂つて居る。昔巨人は一跨ぎに此山脈を越えて、千曲川の盆地へ入つて來た。其折兩手に提げて來たのが男嶽女嶽の二つの山で、それ故に二蜂は孤立して間が切れて居るといふ。

[やぶちゃん注:「飯綱山の荷負池」「飯綱山」は「いひづなやま(いいづなやま)」、「荷負池」は「におひいけ(においいけ)」。長野県北部の、長野市・上水内郡信濃町・飯綱町に跨る山(標高千九百十七メートル)でここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「荷負池」は不詳。識者の御教授を乞う。

「中陵漫錄」水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。同書は所持するが、当該記事を発見出来ない。発見し次第、追記する。

「高井郡沓野」現在の長野県下高井郡山ノ内町(旧高井郡沓野(くつの)村)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「木島山」長野県下高井郡木島平村のそれ(グーグル・マップ・データ)か?

「更級郡猿ケ番場の峠」長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃佐々禮石」「科野佐々禮石」(しなのさざれいし)。江戸末期の橘鎮兄(たちばなちんけい/しづえ)著になる信濃国の地誌。万延元(一八六〇)年成立。刊本は大正二(一九一三)年。

「小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山」この中央付近と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「莎草科」「ささうか(さそうか)」。単子葉直物綱イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae のカヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)の類。

「男嶽女嶽」(をだけ・めだけ)はここ(グーグル・マップ・データ。「男山」「女山」と表記されている)。]

 

 東部日本の山中には此類の窪地が多い。それを鬼の田又は神の田と名づけて、或は蒔かず稻の口碑を傳へ、又或は稻に似た草の成長を見て、村の農作の豐凶を占ふ習ひがあつた。それが足の田・足の窪の地名を有つことも、信州ばかりの特色では無いが、松本市の周圍の丘陵に其例が殊に多く、大抵は亦デエラボツチヤの足跡と説明せられて居るのである。その話もして見たいが長くなるから我慢をする。只一言だけ注意を引いて置くのは、爰でも武相の野と同じやうに、相變らず山を背負うて、其繩が切れて居ることである。足跡の濕地には甚だしい大小があるに拘らず、落し物をして去つたといふ點は殆ど同一人らしい粗忽である。小倉の室山に近い背負山は、デエラボツチヤの背負子[やぶちゃん注:「しよいこ(しょういこ)」。]の土より成ると謂ひ、市の東南の中山は履物の土のこぼれ、倭村の火打岩は彼の庭石であつたといふが如き、何れも一箇の説話の傳説化が、到る處に行はれたことを示すのである。

[やぶちゃん注:「小倉の室山に近い背負山」現在の長野県安曇野市三郷小倉にある室山はここ(グーグル・マップ・データ)。「背負山」は不詳。識者の御教授を乞う。

「倭村」長野県の旧南安曇郡倭村(やまとむら)。現在の松本市梓川倭。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打岩」(ひうちいは)不詳。]

 

 但し物草太郎の出たといふ新村の一例のみは、或はダイダラ坊では無く三宮明神の御足跡だといふ説があつたさうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異とも見えるが、さういふ變化は既に幾らでも例があつた。上諏訪の小學校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長といふ諏訪明神の御家來と傳ふる者もあれば、又デイラボツチだといふ人もあつて、舊神領内には數箇所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡から出來たといふ窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、單に給仕人又侍者を意味し、實際は必ずしも手の長い人たることを要しなかつたが、所謂荒海の障子の長臂國、長脚國の蠻民の話でも傳はつたものか、さういふ怪物が海に迫つた山の上に居て、或は手を伸ばして海中の蛤を捕つて食ひ、或は往來の旅人を惱まして、後に神明佛陀の御力に濟度せられたといふ類の言ひ傳へが、方々の田舍に保存せられて居る。名稱の起りはどうあらうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業を爲し遂げた者は、必ず亦非凡なる體骼を持つて居たらうといふ極めてあどけない推理法が、一番の根源であつたことは略確かである。それが次々に更に畏き[やぶちゃん注:「かしこき」。]神々の出現によつて、征服せられ統御せられて、終に今日の如く零落するに至つたので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、曾て一度はそれぞれの黃金時代を、もつて居たものとも想像し得られるのである。

[やぶちゃん注:「物草太郎」(ものくさたらう)は渋川版「御伽草子」の一つである貴種流離譚「物くさ太郎」の主人公。信濃国筑摩郡「あたらしの郷」(次注参照)に「物くさ太郎ひじかす」という無精者が寝て暮らしていた。あまりの物ぐさぶりに驚きあきれた地頭が、村人に彼を養うように命令するが、やがて京の国司から村に夫役がかかった際、この夫役を物くさ太郎に押しつける。京に上ると、人が変わったようにまめまめしく働き、夫役を無事に務めて、妻となるべき女性を探し求め、清水寺の門前に立ち、見初めた貴族の姫と恋歌の掛け合いの末、勝って結ばれる。貴族となった太郎は、やがて仁明天皇の孫が善光寺に申し子して授かった子であることが判明、信濃の中将に任ぜられて帰国、百二十歳まで生き、死後、彼は「おたかの明神」に、妻は「朝日の権現」として祀られたとする。昔話の「隣の寝太郎」と同系統の説話であるが、怠け者で貧しい男が巧智を用いて長者の婿になるという寝太郎型の昔話では、物語の舞台が農村に限定されているため、知恵の優位を強調することで物語を展開させているのに対し、こちら物語では、後半部の舞台を農村から都へ移すことで意外性に満ちた波瀾万丈の物語となっている。つまり、太郎の行動、則ち、農村での「物くさ」から、都での「まめ」への極端な行動の変化を通じて、農村と都では社会システムとそれを支える価値や倫理観が異なっていることを語り示しているとされる。さらに、この「物くさ」と「まめ」の対立的な行動の背後には、中世人の「のさ」という行動原理が貫いているとの解釈もなされている。中世の農村では、日頃から養っていた乞食などを、実際の犯罪者の身代わりに立てて処理するという習慣があり、その習慣が、この物語における「物くさ太郎」の養育と夫役の関係にも反映されているとみることもできる(以上は「朝日日本歴史人物事典」の小松和彦氏の解説に拠る)。

「新村」現在の長野県松本市新村(にいむら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三宮明神」神武天皇の第一皇子日子八井命(ひこやいのみこと)か。]

 

 故に作者といふ職業の今日の如く完成する以前には、コントには必ず過程があり種子萌芽があつた。さうしてダイダラ坊は單に幾度か名を改め、其衣服を脱ぎ替えるだけが、許されたる空想の自由であつた。例へば上州人の氣魄の一面を代表する八掬脛(やつかはぎ)といふ豪傑の如きも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛の亞流であり、又長臑彦・手長足長の系統に屬する樣に見えるが、その最後に八幡神の統制に歸服して、永く一社の祀りを受けて居ると云ふ點に於ては、依然として西部各地の大人彌五郎の形式を存するのである。しかも曾ては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌われた巨人が、僅かに貞任・宗任の一族安倍三太郎某の、その又殘黨だなどと傳説せられ、繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をしたといふ樣な、花やかならぬ最後を物語られたのも、實は亦無用な改名に累された[やぶちゃん注:「わづらはされた」。]ものであつた。八掬脛はさう大した名前ではない。一掬を四寸としてもせいぜい三尺餘りの臑である。だから近世になると色々な講釋を加へて、少しでも其非凡の度を恢復しようとした跡がある。例へば此國の領主小幡宗勝、每日羊に乘つて京都へ參觀するに、午の刻[やぶちゃん注:正午。]に家を立つて申の刻[やぶちゃん注:午後三時から五時。]には到着する。依て羊太夫の名を賜はり、多胡の碑銘に名を留めて居る。八束小脛は其家來であつて、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶが如くであつたのを、或時晝寢をして居る腋の下を見ると、鳥の翼の如きものが生えて居た。それを挘り取つてから隨行が出來ず、羊太夫も參觀を怠るやうになつて、後には讒言が入つて主從ながら誅罰せられたなどと語り傳へて愈々我ダイダラボチ[やぶちゃん注:ママ。ちくま文庫版では『ダイダラボッチ』。]を小さくしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」を意味するが、英語に取り入られると、特に笑いを含んだ冒険・空想物の短編小説を指すようになった。

「八掬脛(やつかはぎ)」「越後国風土記」(逸文)に(【 】は二行割注)、

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美麻紀の天皇[やぶちゃん注:崇神天皇。]の御世、越の國に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づけき【その脛の長さ八掬ありて、力多くいたく強し、これ出雲の後なり。】。その屬(たぐひ)多かりき。

   *

「一掬」(ひとつか)は、人が掌を握った拳の幅を指す単位で、「八掬」は概ね八十センチメートル相当か。身長が大きくないのに、脛だけが長いと採れ、それは胴が短く、足が長い種族ということになり、土蜘蛛に等しく、長臑彦(ながすねひこ)の名とも合致する。

「手長足長」(てながあしなが)。ウィキの「手長足長」より引く。『秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神』『として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられ』、室町時代に編纂された「大日本國一宮記」によると、『壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』(本条)。また、十一世紀に成立した、かの「大鏡」には、『硯箱(すずりばこ)に蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院(』十『世紀末)の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは王圻』(おうき)の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」にも』、『この障子の絵についての記述が見られる』。』『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姫物語繪卷」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる』が、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと』「山海經」、『あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。

「大人彌五郎」(おほひとやごらう)は本「ダイダラ坊の足跡」の最終章「大人彌五郎まで」で語られるが、主として九州南部に伝わる巨人伝説の主人公の名である。鹿児島県大隅町の岩川八幡神社の祭りには、大人弥五郎の人形が登場することが知られており、こうした弥五郎人形は、ヤマトタケルに滅ぼされた隼人族の長であるとする伝承がある。これは八幡信仰と結びついたものだが、その他にも、悪い病気を追放する牛頭天王と結びつき、邪霊を払う弥五郎人形が、村境まで送られて焼かれてしまう祭事も存在する。実は、その鹿児島県大隅町岩川とは私の母の故郷なのである

「安倍三太郎某」康平五(一〇六二)年九月に源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任を衣川・鳥海・厨川の柵で破り、貞任を殺して宗任を降伏させ、前九年の役が終わるが、その安倍氏滅亡の際、配下の大将安倍三太郎が残党を従えて群馬と福島の県境の尾瀬に逃げ延び、百六十年もの間、そこに住みつき、その後、群馬県旧水上町大字藤原へと移ったとする伝承が残る。

「繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をした」不詳。識者の御教授を乞う。

「小幡宗勝」多胡羊太夫(たごひつじだゆう)の名で伝承される人物。ウィキの「多胡羊太夫により引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『奈良時代天武天皇の時代(六七二年~六八六年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。 多胡碑によれば、「和銅四年』(七一一)年『に近隣三郡から三百戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり』、『「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である』。『名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。「羊太夫伝説」では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)』。『上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』『伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』。『斎藤忠「日本古代遺跡の研究 文献編」によれば、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(五八七年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。中臣羽鳥連は、その子、中臣菊連の娘が、貴種を求める上野国の地方豪族車持国子(男性)に嫁ぎ、その娘・与志古が天智天皇の采女に上がり、藤原鎌足に下賜され、藤原不比等が生まれたとしているため、多胡羊太夫の郡司就任には藤原氏の影響があったとする説もある。(吉田昌克説)』。『考古学者尾崎喜左雄(元群馬大学教授)は、「(伝承によれば、多胡碑のある多胡郡には)帰化人が多かったはずなのに(多胡羊太夫がいたとされる群馬県高崎市)吉井町付近にはそれを思わせる大きな古墳がないのは不思議だ」と同時代の他の地区との間に文化的差異があったことを指摘している』。但し、『遺物については多胡碑のほか、須恵器や上野国分寺の瓦などの焼き物と若干の銅製品、石碑、石仏が出土しているだけであり、また各地に伝わる古文書・伝承にも、時系列や情報の混乱(おそらく江戸時代に多胡碑が全国に紹介された後、羊太夫伝承が偽造された、もしくは他の民間伝承と混交したのであろう)が認められるため、モデルとなる人物がいたとしても、伝説通りに実在したかについては疑問視されている』。『なお、この伝説では、羊太夫は広域にわたる大規模な反乱を起こしているが、「続日本紀」にはそれに類する記録は見当たらない』。『吉田昌克によれば、中央集権の律令政治に勢力を持ちすぎた邪魔な地方豪族の国司や郡司を解体したことが歴史上の事実であり、羊太夫伝説で高麗若光の讒言により攻められたなどは、江戸時代に羊太夫伝説として再構成された時の単なる口実ではないかと』する説もあるらしい。『多胡碑によると「和銅四年に近隣三郡から三百を切り取り』、『「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある』わけだが、『多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている』。『「羊」が人名であるとした場合、その正体は』、『藤原不比等本人であるとする説(関口昌春提唱)』、『「羊」は物部氏の祖神の名である経津主の転であり、物部氏の後裔であるとする説(吉田説)』、『秦氏に連なる渡来人とする説。(久保有政説)』、『「火」を神聖視した伝承が羊神社にあることから、ゾロアスター教に関係がある、中央アジア系渡来人であるとする説』、『キリスト教関係の遺物が多胡碑から発見されたことから景教(ネストリウス派キリスト教)教徒説』や『ユダヤ人系キリスト教徒説。(日ユ同祖論説)』『など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、その逸文も発見されていない。 流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない』。但し、『久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している』。『「日本書紀」によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、臣下に当たる「羊」が三百戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる』。以下、「羊太夫伝説」の項。『伊藤東涯による「盍簪録」(一七二〇年(享保五年))や青木昆陽による『夜話小録』(一七四五年(延享二年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような「羊太夫伝説」がみられる。こ』こ『で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされ』、『この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの「羊太夫伝説」にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである』。『昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる』。『しかし、「羊太夫伝説」のなかには、著しい差異がみられる古文書もあ』り、『「神道集」(文和・延文年間・一三五二年~一三六一年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(四〇〇年〜四〇五年)の人として登場』し、『この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている』。『また、六八七年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる』。『伝承では、羊太夫の従者である八束小脛は神通力を持ち、大いに太夫を助けたとされる。また一部の伝承によっては、山の知識に優れていたとも、馬術にすぐれていたともされる。このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説がある』。『他にも』、その『正体については、山岳信仰の現れとして山神・天狗の類であった説、名前通り土蜘蛛、つまり蝦夷であったという説、役小角に縁のある修験者であったり、鉱山を探す山師であったり、高い呪力を持つシャーマンであったりと諸説あり、伝承によっては、男であったり男装の乙女、物の怪ともされる』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『ある時期に、渡来人や蝦夷等の協力が得られなくなったことが、羊太夫伝説が指し示す事実であるとする説もある』。『里見郷の上里見神山における伝承では、八束小脛は、榛名山の女天狗であり、銅鉱山を羊太夫に教えたのも小脛の仕業との話も伝わる』。『そのバリエーションには、全てを与える代わりに自分を裏切ったら全てを失うと請願を立てさせた話、銅鉱石から金を作り出した伝説(利根川流域上流(草津、沼田付近)には銅鉱床があるため、洪水で流された黄銅鉱、黄鉄鉱がしばしば河原で見つかり、砂金と間違われるという)、羊太夫が討伐された後、彼の財産であった金銀財宝がたちまち錆び腐った等の話もある(おそらく黄鉄鉱などを金や銀と間違えたことをさす話であろう)』。『類似するものとして、「日本書紀」神功皇后九年(二〇九年)の条に「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。……層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話がある』。『久保有政は、松浦静山がその著書の中で、多胡碑のかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、また碑の下からは十字架も発見されたと書き記していることを挙げ、羊太夫とネストリウス派キリスト教との関連性を指摘する』。『「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語であって』これは『「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味し、十字架刑に処せられたイエス・キリストの頭上にかかげられた言葉であるとされ、「INRI」(この場合、Iesusの頭文字である。)とも記されることがある。久保は、これについて東方キリスト教の残滓が日本まで到達したことを示すものであろうとしている』。『また「INRI」について、ヘブライ語は筆記においては母音が省略され子音のみ表記されるため、「INaRI」と母音を補い、稲荷信仰との関連も指摘されている。しかし、この説の根拠となる遺物に関しては、江戸時代にキリスト教信者によって捏造された可能性が否定できない他、語呂合わせ的な主張でもあり、説を補強する確かな遺物でも発見されない限り、この説を取ることは困難である』とある。]

2018/04/12

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 三 關東のダイダ坊

 

     三 關東のダイダ坊

 

 自分たちは先づ第一に、傳説の舊話を保存する力といふものを考へる。足跡がある以上は本當の話だらうといふことは、論理の誤りでもあらうし、又最初からの觀察法では無かつたらうが、兎に角に斯んなをかしな名稱と足跡とが無かつたならば、如何に誠實に古人の信じて居た物語でも、さう永くは我々の間に、留まつて居なかつた筈である。東京より東の低地の國々に於ては、山作りの話は漸く稀にして、足跡の數はいよいよ多い。卽ち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の傳説の巨人を引連れて、新たに此方面に移住した結果とも、想像せられぬことは無いのである。けだし形狀の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味も無くダイラボツチと名付けたやうな彗口も、或時代には相應に多かつたと見なければ、説明のつかぬ程の分布があることは事實だが、大本に溯つて、若し巨人は足痕を遺すもの也といふ教育が無かつたら、到底是までの一致を期することは出來ぬかと思ふ。

 上總・下總は地名なり噂話なりで、ダイダの足跡の殊に遍ねき地方と想像して居るが、自分が行つて見たのは一箇處二足分に過ぎなかつた。旅はよくしても中々そんな處へは出くはせるもので無ない。上總では茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落を少し登つた傾斜面の上の方に、至つて謙遜なるダイダツポの足跡が一つ殘つて居た。足袋底の型程度の類似はもつて居るが、此邊が土ふまずだと言はれて見ても、なる程と迄は答へにくい足跡であつた。面積は僅かに一畝と何步、周圍は雜木の生えた原野なるに反して、此部分のみは麥畠になつて居た。爪先は爰でも高みの方を向いて居る。土地の發音ではライラツポとも聞える。兩岸[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『川の両岸』とある。]の岡から岡へ一跨ぎにしたと言ふのであるが、向ひの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することが出來なくなつて居る。たゞ其の少しの地面のみが別の地主に屬し、左右の隣地を他の一人で持つて居る事實が、多分以前は除地であつたらうことを、想像せしめるといふだけである。

[やぶちゃん注:「茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落」現在の千葉県茂原市立木。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「除地」「よけち」(「じょち」とも読む)。江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地の内、寺社の境内や特別な由緒のある土地を指す。従来は検地を受けなかったが、次第に検地された上で、検地帳に「除地」として登録されるようになった。起源は中世寺社境内の免租地を除地といったことにあるらしい(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 

 埴生郡聞見漫錄を見ると、この地方の海岸人がダンダアといふのは、坊主鮫とも稱する一種の恠魚であつた。それが出現すると必ず天氣が變ると傳へられた。或は關係は無いのかも知れぬが、事によるとダイダ坊も海から來ると想像したのではあるまいか。常陸の方では、風俗畫報に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔千波沼(せんばぬま)邊に住める巨人なりといふ。土人いふ此人大昔千波沼より東前池(ひがしまへいけ)まで、一里餘の間を一跨ぎにし、其足跡が池となつたと言ひ傳ふる假想の者だとある。其足跡の話は吉田氏の地名辭書にも見え、或は椎塚村のダツタイ坊などの如く、そちこち徘徊した形跡は勿論あるが、それを古風土記の大櫛岡の物語が、其儘殘つて居たものと解することは、常陸の學者には都合がよろしくとも、他の方面の傳説の始末が付かなくなる。自分はさういふ風に地方々々で、獨立して千年以上を持ち傳へたやうには考へて居ないのである。

[やぶちゃん注:「埴生郡聞見漫錄」深川元儁(もととし 文化七(一八一〇)年~安政三(一八五六)年):江戸後期の国学者・蘭学者。平田篤胤に国学を、幡崎鼎(はたざきかなえ)に蘭学を学んだ。郷里の上総地方の本草調査や研究を行い、漢学・詩文にも優れた)の著になる埴生郡(はにゅうぐん/はぶぐん)の見聞記。埴生郡は現在の茂原市の一部・長生郡長南町の大部分・長生郡睦沢町の一部(以上、旧上埴生郡)、及び、成田市の一部・印旛郡栄町の一部・茨城県稲敷郡河内町の一部(以上、下埴生郡)に相当する広域である。

「風俗畫報」明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌。大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特に「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言える。同誌の「茨城方言」は明治四〇(一九〇七)年七月発行ではないかと思われる(柳田國男の「野草雜記・野鳥雜記」の記載内容から推定)。

「千波沼(せんばぬま)」茨城県水戸市の偕楽園内にある千波湖のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人のブログ「コツコツ歩き隊!」の「偕楽園と千波湖を歩く(2)」によれば、現在、同湖の遊歩道に「ダイダラ坊の伝説」という案内石柱があり、それを電子化しておられた。整序して連続させて以下に示す。

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千波湖をつくったのはダイダラ坊という巨人だ、と言い伝えられている。ダイダラ坊は現在の内原町大足に住んでいた。村が朝房山のために日陰になり、村人の困っているのを見たダイダラ坊は、山を村の北方に移してしまった。ところが、その跡に水がたまって洪水になったため、指で小川をつくって水を流し、その下流に掘った沼が千波湖だという。

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「東前池(ひがしまへいけ)」この名称では残っていないか、池自体が消失しているのかも知れない。識者の御教授を乞う。

「吉田氏の地名辭書」「大日本地名辭書」。明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された。

「椎塚村」水戸の遙か南方(でも巨人なら十数歩)の茨城県稲敷市椎塚か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「古風土記」の一書である「常陸國風土記」。

「大櫛岡の物語」水戸市塩崎町にある「大櫛(おおくし)の岡」で、「茨城県生活環境部生活文化課」作成になるこちらによれば、文献に記載された貝塚としては世界最古の貝塚とされる縄文前期に形成された大串貝塚遺跡がある。ここにはその貝塚に纏わる巨人伝説が知られている。「常陸國風土記」の「那賀郡」の条に(武田祐吉編の岩波文庫版から引用する)、

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平津(ひらつ)の驛家(うまや)[やぶちゃん注:古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。後の宿駅。]の西一二里に岡あり。名を大櫛(おほくし)といふ。上古(いにしへ)に人あり、體(かたち)極めて長大(おほ)きに身は丘壟(をか)の上に居りて、蜃(うむぎ)[やぶちゃん注:蜃気楼を吐いて見せるとされる伝説上の巨大な蛤。]を採りて食ひき。その食へる貝、積聚(つも)りて岡と成りき、時の人大きに朽ちし義(こゝろ)を取りて、今大櫛(おほくし)の岡(をか)といふ。その踐(ふ)みし跡は、長さ四十餘步、廣さ二十餘步あり、尿(ゆまり)[やぶちゃん注:小便をすること。それで地面に穴が開いたのである。]の穴趾(あと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]は、二十餘步許なり。

   *

とある。]

 

 下野では又鬼怒川の岸に立つ羽黑山が、昔デンデンボメといふ巨人の落して往つた山といふことになつて居る。此山に限つて今尚一筋の藤蔓も無いのは、山を背負つて來た時に藤の繩が切れた爲だといふのは、少々ばかり推論の繩が切れて居る。或は此山に腰を掛けて、鬼怒川で足を洗つたと謂ひ、近くに其時の足跡と傳ふる二反步ばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼と呼ばれて居る。足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)、信州などの例と一致して居る。

[やぶちゃん注:「羽黑山」現在の栃木県宇都宮市宮山田町にある羽黒山。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は水準点で四百五十八メートル(但し、最高地点は標高四百七十メートル以上四百八十メートル未満のピーク)。ウィキの同山の記載によれば、『羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある』とある。

「少々ばかり推論の繩が切れて居る」落した後に本体の山をどこへ運んだかという後段の本筋が切れているということか。

「土地の名も葦沼と呼ばれて居る」栃木県宇都宮市芦沼町。(グーグル・マップ・データ)。但し、沼は見当たらない。他にも芦沼の少し北には、デンデンボメが肘(ひじ)をついたと伝える栃木県塩谷郡塩谷町(しおやまい)肘内(ひじうち)もあるここ(グーグル・マップ・データ)。

「足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)」国立国会図書館デジタルコレクションの。]

 

 枝葉にわたるが足を洗ふといふ昔話にも、何か信仰上の原因があつたのでは無いかと思ふ。私の生まれた播州の田舍でも、川の對岸の山崎といふ處に、淵に臨んだ岩山があつて、夜分其下を通つた者の怖ろしい經驗談が多く流布して居た。路を跨いで偉大なる毛脛が、山の上から川の中へぬつと突込まれたのを見たなどゝ謂つて、其土地の名を千束と稱するが、センゾクは多分洗足であらうと思つて居る。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗ひといふ恠物を説くことは人がよく知つて居る。深夜に天井から足だけが一本づゝ下がる。之れを主人が𧘕𧘔[やぶちゃん注:「かみしも」。裃。]で盥を採つて出て、恭しく洗ひ奉るのだといふなどは、空想としても必ず基礎がある。洗はなければならなかつた足は、遠い路を步んで來た者の足であつた。卽ち山を作つた旅の大神と、關係が無かつたとは言はれぬのである。

[やぶちゃん注:兵庫県神崎郡福崎町(ふくさきちょう:柳田國男の生地)の山崎(やまさき)。(グーグル・マップ・データ)。

「千束」「せんぞく」と読む。柳田國男の引用もある観光情報 (平成二十七年五月号・PDF)によれば、この大きな足の出たとする崖の上は「播磨國風土記」で神が降臨したとする「神前山」であるとあり、『大足伝説はこのことと無家系ではないかもしれない』とある。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 二 デエラ坊の山作り

 

     二 デエラ坊の山作り

 

 松屋筆記には又斯んな話を書いて居る。著者は前の煎茶僧と略同じ時代の人である。曰く、武相の國人常にダイラボツチとて、形大なる鬼神がいたことを話する。相模野の中に在る大沼といふ沼は、大昔ダイラボツチが富士の山を背負つて行かうとして、足を踏張つた時の足跡の窪みである。又此原に藤といふものゝ少しも無いのは、彼が背負繩にするつもりで藤蔓を搜し求めても得られなかつた因緣を以て、今でも成長せぬのだと傳へて居る云々。自分は以前何囘もあの地方に散步して此事を思ひ出し、果して村の人たちが今ではもう忘れて居るか否かを、確かめて見たい希望を持つて居たが、それを同情して八王子の中村成文君が、特に我々のた爲に調べてくれられた結果を見ると、中々どうして忘れてしまふどころでは無かつた。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」「まつのやひつき(ひっき)」と読む。江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風の随筆。元は全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えてある。その語句は約一万に及び、国語・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、膨大なので探していない。但し、サイト「Shonan Walk」の「湘南の昔話」の「15.でいらぼっちのお話 /(相模原市)」に、デイラボッチが地団駄踏んで出来た沼を「鹿沼(かぬま)」と「菖蒲沼(しょうぶぬま)」とし、両方で「じんだら沼」と呼ばれたこと、犢鼻褌(ふんどし)を引きずりながら藤蔓を探すために相模野中を歩き回った結果出来た窪地を「ふんどし窪(くぼ)」と名づけたということが昔話に出るとある。また、鹿沼と菖蒲沼は『JR横浜線の淵野辺駅前にあり』、「松屋筆記」に『相模野の大沼として紹介されているのが、この沼のことと言われてい』るとある。また、「ふんどし窪」が『あったのは、下溝の県立相模原公園の付近にあたり、 藤づるを切るために、鎌(カマ)を研いだというので、鎌とぎ窪とも言われてい』たともある。『このほか、相模原には、矢部の村富神社付近、旭中学校(橋本)の西側、 向陽小学校(向陽町)の北側に、でいらぼっちの足跡と伝えられるくぼ地が』かつてあり、神奈川『県内には、横浜市磯子区・鶴見区・神奈川区、逗子市沼間、横須賀市長沢などに、でいらぼっちの尻餅(しりもち)をついた跡や、足跡といわれるくぼ地が』存在したともある。鹿沼の方は、神奈川県相模原市中央区鹿沼台の鹿沼公園ここ(グーグル・マップ・データ))、県立相模原公園(神奈川県相模原市南区下溝)はそこから四キロメートル弱南に位置する(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「中村成文」「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。]

 

 右の大沼とは同じで無いかも知れぬが、今の橫濱線の淵野邊停車場から見える處に、一つの窪地があつて水ある時には之を鹿沼と謂つて居る。それから東へ寄つて是も鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり、二つの沼の距離は約四町[やぶちゃん注:四百三十六メートル。]である。デュラボッチは富士山を背負はうとして、藤蔓を求めて相模野の原ぢうを搜したが、どうしてもないので殘念でたまらず、ぢんだら(地團太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だといふ。又此原の中程には幅一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、南北に長く通つた窪地がある。デエラボツチが犢鼻褌を引きずつてあるいた跡と稱し、現にその地名をふんどし窪ととなへて居る。境川を北に渡つて武藏の南多摩郡にも、之と相呼應する傳説は幾らもある。例へば由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路に、池の窪と呼ばるゝ凹地がある。長さは十五六間[やぶちゃん注:二十八~二十九メートル。]に幅十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ほど、梅雨の時だけは水が溜つて池になる。これもデエラボツチが富士の山を背負はんとして、一跨ぎに踏張つた片足の痕で、今一方は駿河の國に在るさうだ。成ほど足跡だといへばさうも見えぬことはない。又同郡川口村の山入といふ部落では、繩切と書いてナギレと訓む字(あざ)に、附近の山から獨立した小山が一つある。これはデエラボツチが背に負うてやつて來たところ、繩が切れて爰へ落ちた。その繩を繋ぐ爲にふぢ蔓を探したが見えぬので、大にくやしがつて今から此山にふぢは生えるなと言つたさうで、今日でも山は此地に殘り、ふぢは成長せぬと傳へて居る。但し其ふぢといふのは葛のことであつた。巨人なればこそ其樣な弱い物で、山でも擔いで持ち運ぶことが出來たのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり」距離を測って航空写真で探したが、最早、そのような沼はないようである。

「由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路」神奈川県南多摩郡にあった旧由井村は現在、東京都八王子市に編入しており、東京都八王子市小比企町(こびきまち)としてここ(グーグル・マップ・データ)にある。後者も同じく東京都八王子市宇津貫町(うつぬきまち)として編入して現存しており、前者の南東である(ここ(グーグル・マップ・データ)。現行の同地域は近いが、接触はしていない)。

「同郡川口村の山入」神奈川県南多摩郡の旧川口村(上と下があった)は、やはり現在は東京都八王子市に編入されている。「山入」は不詳だが、八王子市川口はここ(グーグル・マップ・データ)。南北に丘陵があるのが判る。

ふぢといふのは葛のこと」通常の「藤」はマメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda であるが、「葛」はマメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属 Pueraria montana 変種クズ Pueraria montana var. lobata である。葛の蔓は真っ直ぐに横に伸びるので、採取や使い易さでは葛蔓であるが、強靱さでは、より太くなる藤蔓か。]

 

 甲州の方ではレイラボツチなる大力の坊主、麻殼(をがら)の棒で二つの山を擔ひ、遠くへ運ばうとしてその棒が折れたという話が、日本傳説集にも甲斐の落葉にも見えて居る。東山梨郡加納岩村の石森組には、其爲に決して麻は栽ゑなかつた。栽ゑると必ず何か惡い事があつた。其時落ちたといふ二つの山が、一つは鹽山であり他の一つは石森の山であつた。或知人の話では、藁の莖で二つの土塊を荷なつて行くうちに、一つは拔け落ちて鹽山が出來たと謂ひ、其男の名をデイラボウと傳へて居た。デイラボウは其まゝ信州の方へ行つてしまつたといふことで、諸處に足跡があり又幾つかの腰掛石もあつた。

[やぶちゃん注:「レイラボツチ」山梨に於けるダイダラボッチの異名。YAMANASHI DESIGN ARCHIVEを参照。「鹽山」(広域地名としては「えんざん」であるが、山名としては現行では「塩ノ山」で「しおのやま」のようである)の地図もある。

「麻殼(をがら)」通常は「皮を剥いだ麻の茎」(盂蘭盆の門火をたくときなどに用いるあれ)を指すが、ここは植物種を言っているから、古くから植物繊維を採るために広く栽培された「苧麻(ちょま)」で知られるイラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea を指すように私には感じられる或いは、狭義の植物種としてのツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus であるが、ここは前者でよかろう。前者は「紵(お)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」「苧麻(まお)」など、異名も多い。

「日本傳説集」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)の名著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。当該記載は同書の「巨人傳説及兩岳背競傳説第二」の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。高木は熊本県生まれで、東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授・東京高等師範学校教授・愛媛師範学校教授・大阪外国語大学教授を歴任した。大正元(一九一三)年から翌年にかけては柳田国男とともに雑誌『郷土研究』を編集、欧米、特にドイツの研究方法に拠った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した(以上はウィキの「高木敏雄高木敏雄に拠る)。

「甲斐の落葉」山中共古(きょうこ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年:本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)の著。ウィキの「山中によれば、明治一九(一八八六)年に山中は甲府教会(現在の甲府市中央。旧桜町)の牧師となって山梨県各地で伝道活動を行う一方、当地の庶民生活史を見聞、その成果を『東京人類学会雑誌』へ発表、それを後に纏めたもので、『山梨県の道祖神祭りや山梨独自の節供人形である』「かなかんぶつ」(甲斐国の郷土玩具で江戸後期から明治中期頃までに流行した端午の節句に於ける節供人形(節供飾り)。通称は「おかぶと(さん)」と呼び、別称で「甲斐(甲州)かなかんぶつ」または単に「面」や「兜面」とも呼ばれた。現在では廃絶した。詳しくは参照したウィキの「を見られたい)など、『同時代に廃れつつあった民俗事例を記録しており、山梨県民俗史研究の嚆矢として評価されている』とある。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で自筆本(明治三四(一九〇一)年序)が読める。]

「東山梨郡加納岩村の石森組」現在の山梨県山梨市下石森周辺の旧村名と思われる。「石森組」は石森山のことで、(グーグル・マップ・データ)。塩ノ山はここから東北へ四・七五キロメートル離れるYAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらも参照。]

 

 我々の祖先はいつの世からとも無く、孤山の峯の秀麗なるものを拜んで居た。飯盛山といふのが、その最も普遍した名稱であつた。御山御嶽として特に禮拜する山だけは、此通り起原が尋常で無いものゝ如く、説明せられて居たやうに思はれる。後には勿論之を信ずる能はざる者が、所謂大話(おほばなし)の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きを置いたのは麻殼葛[やぶちゃん注:「をがら・くづ」。]の蔓の點では無かつたらう[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに「か」が入る。それが正しいと私も思う。実利上の「麻殼(おがら)」が何故育たぬか・育てることが禁忌かということを伝承上で合理化することが最初の出発点であろう。]と思ふ。六かしく言ふならば此種巨人譚の比較から、どの位まで精密に根原の信仰が辿つて行かれるか。それを究めてみたいのが此篇の目的である。必ずしも見かけほど呑氣な問題では無いのである。

 

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