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カテゴリー「柳田國男」の249件の記事

2019/04/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(13) 「駒ケ嶽」(3)

 

《原文》

 サテ此ヨリ愈駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。【嶽又ハ岳】「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルべキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ說明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ說ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。【野馬】其報告ハ區々ニシテ或ハ靑ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小說別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル想像ノ產物ナリトモ見ルコトヲ得べシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黑ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消ヘ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津槍枝岐(ヒノエマタ)ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ說アリ〔地名辭書〕。同國西頸城(にしくびき)郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形狀アリテ明ラカニ存ス。故ニ山ノ名トス。【石馬】俚俗ノ說ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。

 

《訓読》

 さて、此れより、愈々、「駒ケ嶽」の本論に入らんと欲するなり。諸國の名山に駒ケ嶽と云ふもの多きは人の善く知る所なり。【嶽又は岳】「だけ」は只の「山」又は「峯」と云ふ語とは別にして、「神山」又は「靈山」を意味する日本語かと思はる。「蟲送り」又は「雨風祭(あめかぜまつり)」に、山に神を送るを「だけのぼり」と云ふこと、奧州に多し。東國にては、秩父・甲州などの御嶽(みたけ)、木曾の御岳山(おんたけさん)の類ひあり。沖繩に於いても「だけ」は悉く、神の山なり。駒ケ嶽と云ふがごとき山の名は、固より偶然に出で來たるべき者に非ず。故に、今の人が此れに無頓著なるとは正反對に、昔の人は、色々と其の命名の由來を說明せんと試みたり。駒ケ嶽に駒の住むと云ふ說は、北海道渡島の駒ケ嶽にも存す。文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]の八月、松前侯の御隱居、人を彼の地に遣はし、其の噂の實否を確めしむ。【野馬】其の報告は區々(まちまち)にして、或いは、靑と栗毛と二頭の牝馬を見たるは、野飼(のがひ)の逸(いつ)し去りて、幸ひに熊の害を免れしならんと言ひ、又は、古來、一雙の神馬住むと傳へたれば、試みに牝馬を繋ぎ置きて、之れを誘はんと獻策せしものあり〔「兎園小說別集」上〕。併し、此等は、山の名、先づ、知られて、後に生じたる想像の產物なり、とも見ることを得べし。見きも、見ざりきも、要するに、個々の人の言(いひ)なればなり。木曾の駒け嶽に於いては、或いは、中腹以上の雪の中に、先づ、消えて、黑く見ゆる箇處(かしよ)、駒が草食む形に見ゆるが故と云ひ〔「本朝俗諺志」〕、又は、此の山の東面に、駒の形をしたる大石ありて、春は此の石の處より、雪、消へ始むるが爲めに名づく、とも云ふ〔「新著聞集」〕。會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽にては之れと反對に、夏秋の際、消え殘りたる雪の形、駒に似たりと稱し、越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽にも同じ說あり〔「地名辭書」〕。同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽は信濃との境の山なり。山中の洞(ほら)に駒の形狀ありて、明らかに存す。故に山の名とす。【石馬】俚俗の說に、源義經の馬、此に至り、石に化す、と云へり〔「越後野志」六〕。陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽は、彼(か)の地方、馬神(うまがみ)信仰の中心たり。神馬、今も此の山中に住むと云ひ、昔、名馬の骨を此の山頂に埋めたりと傳へ、或いは又、殘雪の形が駒の形に似たる故の名なりとも稱す〔「奧羽觀迹聞老誌(おううかんせきぶんらうし)」〕。前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり。

[やぶちゃん注:「蟲送り」主として稲の害虫(浮塵子(うんか:昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目 Homoptera に属する一群で、特にその中のハゴロモ(ウンカ)上科Fulgoroidea或いはその中のウンカ科Delphacidae に属する種群が多い。セミに似るが、体長は一センチメートル以下で、触角の基部が太い。日本に約百種棲息し、多くはイネ科植物を食べる。ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科トビイロウンカ属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus が代表的な食害種)や、二化螟蛾(鱗翅目チョウ目ツトガ(苞蛾)科ツトガ亜科メイガ科Chilo suppressalis):和名は本邦の大部分の地域で成虫が年に二回発生することに拠る)の幼虫等)を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏の頃、定期的に行う例と、害虫が大発生した時に臨時に行うものとがある。一例を示すと、稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明(たいまつ)を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓を叩きながら、田の畦道を巡って村境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは、消滅した、と考えたのである。「風邪の神送り」や「厄病送り」などと一連の行事で、呪術のなかでは鎮送呪術に含まれる。害虫は実在のものであるが、非業の死を遂げた人の霊が浮遊霊となり、それが害虫と化したという御霊信仰的側面もあって、非業の死を遂げたと伝えられる平安末期の武将斎藤別当実盛の霊が祟って虫害を齎すという故事に付会させて、帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く所もある。虫送りを「さねもり祭り」などと呼ぶのはそれに由来する。初夏の風物の一つとして、子供の行事にしていた所も多い。近年は農薬の普及に伴って虫害も少なくなり、この行事も急速に消滅してしまった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠り、生物種はオリジナルに附した)。

「雨風祭(あめかぜまつり)」前の「虫送り」の風水害版。風雨の害を避けるために行われる呪術的行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり焼いたりする。特に東北地方での呼称。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭」も見られたい。

「だけのぼり」フレーズ検索「だけのぼり 風雨祭 東北」を掛けたが、確認出来ない。

「秩父・甲州などの御嶽(みたけ)」「秩父」のそれは埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町との境にある御岳山(おんたけさん:標高千八十・四メートル。木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛上人が開山した)。「甲州」のそれは赤石山脈(南アルプス)北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る甲斐駒ヶ岳(標高二千九百六十七メートル)。

「木曾の御岳山(おんたけさん)」長野県木曽郡木曽町王滝村と岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三千六十七メートルの御嶽山

「北海道渡島の駒ケ嶽」現在の北海道森町・鹿部町・七飯町に跨る標高千百三十一メートルの北海道駒ヶ岳。渡島半島のランド・マーク。江戸時代の旧称は内浦岳。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この山の名に関して言えば、大沼方面から見たそれが、馬が嘶いている姿に似ていることに由来すると言われている。これウィキの「北海道駒ヶ岳」の同方面からの画像)。私はこの山容がとても好きである。

「文政八年の八月、松前侯の御隱居……」これは割注にある通り、「兎園小説」シリーズの中の、滝澤馬琴一人の編集になる概ね彼による考証随筆「兎園小説別集」の上巻の中の一条「内浦駒ケ岳神馬紀事」に基づく記載である。「松前侯の御隱居」というのは蝦夷地松前藩第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)のこと。ウィキの「松前道広」によれば、寛政四(一七九二)年に隠居し、長男章広に家督を譲っているが、九年後の文化四(一八〇七)年、藩主時代の海防への対応や元来の遊興癖を咎められて幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられた(この背景には元家臣の讒言があったともされる。文政五(一八二一)年にこれは解かれた)。当時、満七十一であったこの爺さん、大の馬好きで、駒ヶ岳の神馬の話を聴き、興味津々、ここにある通り、藩内の者を使って情報を収集、牝馬を囮にして捕獲を試みようとしたりしたのを、以前から江戸で知り合いであった馬琴が聴き付け、手紙をものして(原書簡が引用されてある)、古今の神馬の祟りの例などを挙げて遠回しに諌めた顚末が記されてある。「幸ひに熊の害を免れしならん」の部分は、百姓が放牧していた馬が逃げ出し、岳の中段より上に登ってしまった、極めて人目につきにくい個体で、また『駒ケ岳は靈山の事故、山の德によつて熊にも取られ申さず』と記している。

「新著聞集」前に引いた「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部(終りの部分がそれ)が読める。

「會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽」福島県南会津郡檜枝岐村にある標高二千百三十三メートルの会津駒ヶ岳

「越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽」新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る標高二千三メートルの越後駒ヶ岳。「室谷」(「むろだに」か)の地名は現認出来ない。

「同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽」現在の新潟県糸魚川市市野々(いちのの)の奥にある標高千四百八十七・四メートルの頸城駒ヶ岳

「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」本条の冒頭の段落の「赤澤山」の注で私が指摘した、岩手県胆沢郡北上市和賀町の標高千百二十九・八メートルの駒ヶ岳である。やはり、そこで私が推理した通り、この峰続きの地図上では無名のピークの孰れかが、「赤澤山」なのであった。

2019/04/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)

 

《原文》

 深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯(アンドミネ)ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目擊セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置都田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。【山中ノ馬】木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所錄天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程ニ、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ說アリ〔新著聞集所引寬文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳說ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獸ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハソウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。【山ノ神田ノ神】麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳說ハ、ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルべシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。【鍵引】此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文(ジユモン)ヲ唱ヘツヽ田面ノ方へ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水溫故〕。【山神祭日】神ノ出入リノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊曆二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ緣日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原(カワハル)村大字木庭(コバ)ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ入ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。【十二神】越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然リ〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ槪シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代嶽、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。【大山祇】田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如クー定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。【日待】新曆五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。【歸リ馬】馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。【出駒入駒】カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルべシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ緣ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ人ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。【白色ノ忌】常陸那珂郡柳河(ヤナガハ)村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。

 

《訓読》

 深山の奧に於いて、生きたる白馬を見たり、と云ふ話も亦、多し。紀州熊野の安堵峯(あんどみね)の中腹に、「千疊」と云ひて、數町の間[やぶちゃん注:一町は約百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートルほどか。]、草の低く連なりたる平(たいら)あり。如法(によほふ)の[やぶちゃん注:そこらにある普通の。]荒山中(あらやまなか)なるにも拘らず、古き土器の破片と共に、古代の戰爭に關する口碑の斷片を殘存す。其の一區域を或いは「馬の馬場」と名づく。時として、白馬の馳せありくを目擊せし者あり〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)にも、山中に權現の神馬住みて、其の姿は見たる人無けれども、社殿又は社頭の土に蹄(ひづめ)の跡を殘し行くことあり〔「三國名勝圖會」〕。美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺は、本尊は阿彌陀にして、靈異、多し。近所出火の節は、堂の前にて、馬七、八疋に乘りたる者、集まり、何やら、囁(ささや)くごとく、本堂に聞こえ、又、馬の足跡を土の上に殘すと云ふ〔「山陽美作記」上〕。【山中の馬】木曾の駒ケ嶽に不思議の駒の居(ゐ)ることは、頗る有名なる話なり。或いは、至つて小なる馬にして、狗(いぬ)ほどの足跡を土の上に留むと謂ひ〔「蕗原拾葉」所錄「天明登攀記」〕、或いは又、偉大なる葦毛の馬の、尾も鬣(たてがみ)も、垂れて、地に曳き、眼の光は、鏡を懸けたるがごとく怖しきが、人影を見ながら、靜々(しづしづ)と嶺の中央まで昇り行く程に、俄かに、雲、立ち蔽ひ、行方を知らず、其の蹄の痕を見れば、尺以上ありき、と云ふ說あり〔「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」〕。今、若(も)し、此等の傳說に基きて、馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば、そは、多くの山中の馬の毛色、白かりしと云ふ事實を、過當(かたう)に[やぶちゃん注:許容されるレベルを越えて過剰に。]輕視する者なり。日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり。自分の信ずる所に依れば、白馬は、即ち、「山の神」の馬なり。【山の神・田の神】麓の里人、時として之れを見たり、と云ふ傳說は、やはり亦、山神(やまがみ)が里に降(くだ)りて祭を享(う)くると云ふ信仰の、崩れたるものなるべし。『「山の神」と「田の神」とは同じ神なり』と云ふ信仰は、弘(ひろ)く全國に分布する所のものなるが、伊賀などにては、秋の收穫が終りて後、「田の神」、山に入りて「山の神」と爲り、正月七日の日より、「山神」は再び里に降りて「田の神」となると云ふ。【鍵引(かぎひき)】此の日には多くの村に「鍵引」と云ふ神事あり。神木(しんぼく)に注連(しめ)を結(ゆ)ひ、頌文(じゆもん)を唱へつゝ、田面(たのも)の方へ、之れを曳くわざを爲すなり〔「伊水溫故」〕。【山神祭日】神の出入りの日は地方に由りて異同あり。木曾の妻籠(つまごめ)・山口の邊りにては、舊曆二月と十月の七日を以つて「山の講の日」と稱し、「山の神」を祭る。甲府の山神社の緣日は正月と十月との十七日なるが〔「甲陽記」〕、甲州の在方にては、十月十日を以つて「田の神」を祭る〔「裏見寒話」〕。肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)にては十一月九日に「山の神」を祭る〔「菊池風土記」〕。佐渡にては二月九日を「山の神」の日として、山に入ることを愼み、「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」と信ず〔「佐渡志」五及び「鏃石考(ぞくせきかう)」〕。【十二神】越後魚沼地方にては一般に二月十二日にて、從つて、「山神」の祭を「十二講」と呼び〔「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」〕、明治以後は、一般に、山神祠(やまがみのほこら[やぶちゃん注:私がこれを音で読むのが厭なのでかく当て訓した。])の名を「十二神社」と改めたり〔「北魚沼郡誌」〕。會津の山村に於いては、或いは、正月十七日に「山神講(やまがみこう)」を營み、又は、二月九日を「山の神の木算(きかぞ)へ」と稱して、戒めて、山に入らぬ例もあれど、多くは亦、正月十二日を以つて、其の祭日と爲し、「十二山神(やまのかみ)」と云ふ祠も處々に多し〔「新編會津風土記」〕。十二日を用ゐる風(ふう)は隨分、廣く行はれ、磐城相馬領のごときも亦、然り〔「奧相志(おうさうし)」〕。秋田縣にては平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤の「田の神」など、四月と十二月との十二日に、古くより之れを祭りしのみならず〔「雪乃出羽路」〕、今も、槪して、二月と十月との十二日を以つて、『山の神」・「田の神」交代の日』と爲せり〔山方石之助氏報〕。此の地方には、北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり。【大山祇(おほやまづみ)】「田の神」を高山の頂(いただき)に祀るは、一見、不思議のごとくなれど、出羽などにて「山の神」と云ふは、單に山に住む神の義にして、大山祇には限らざりし由なれば〔「雪乃出羽路」〕、「田の神」、任務終りて、靜かに山中に休息したまふを、往きて迎ふるの意味なりしならん。此等の事實を考へ合すときは、深山の白馬も、以前は右のごとく、ー定の日を以つて、里人に現はれしには非ざるか。駿河の奧山なる安倍郡梅ケ島村の舊家市川氏に、繪馬の古板木を藏す。もとは二枚ありき。【日待(ひまち)[やぶちゃん注:村の近隣の仲間が特定の日に集まり、夜を徹して籠り明かす行事。通常は家々で交代に宿を務め、各家からは主人又は主婦が一人ずつ参加する。小規模の信仰的行事(講)で、飲食をともにして楽しく過ごすのが通例である。]】新曆五月と十一月と春秋二季の日待の日に、村民、此の板木を借りて、紙に刷り、其の畫(ゑ)を村社の前に貼り置くを習ひとせり。【歸り馬】馬の畫は、右向きと左向きとの二種にて、今、殘れる板木の左向きなるは、之れを「歸り馬」と呼び、秋の祭に用ゐらるゝものなり〔「仙梅日記」〕。陸中遠野にも、之れに似たる繪馬の板木を刷りて出だす家、多し。春の農事の始まるに先だちて、之れを乞ひて、田の水口(みなぐち)に立て、神を祭ると云へり〔佐々木繁氏談[やぶちゃん注:「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネーム。]〕。【出駒(でごま)・入駒(いりごま)】かの繪錢(ゑせん)の出駒・入駒が、之れと關係ありや否やは兎も角も、此の馬の、「田の神」・「山の神」の乘用なりしことのみは、先づは疑ひを容るゝの餘地、なかるべし。二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども、古くは、山に人る日の祭なりしこと、古歌を以つて之れを證するに難からず。【白色の忌】常陸那珂郡柳河(やながは)村附近にては、二月八日の午前と十二月八日の午後よりと、白き物を屋外に出すことを戒むる俗信あり〔『人類學會雜誌』第百五十九號〕。此の日は他の地方と同樣に、山に入ることを愼むを見れば、即ち亦、「山神」の祭日にして、白き物を忌むは、則ち、白馬を村に飼はざると同趣旨の風習なることを知る。

[やぶちゃん注:「紀州熊野の安堵峯(あんどみね)」奈良県吉野郡十津川村上湯川(和歌山県境ごく直近)にある標高千百八十四メートルの安堵山(あんどさん)(国土地理院図)。次注も参照されたい

「南方熊楠氏報」当該内容の部分は確認出来なかったが、明治四四(一九一一)年四月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡で恐らく(書き方から)始めて南方が柳田にこの「安堵峯」の話をしており、その後もここで得た伝承を柳田宛の書簡で披露しているから、この時期に南方から得た情報であろうと思われる。因みに、当該書簡で南方は、この峰の名前について、『西牟婁郡兵生(ひょうぜ)』は『二川村の大字』で、『ここに当国』(紀伊国)『第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という』と由来を記している。

「薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)」は鹿児島県南さつま市金峰町(ちょう)尾下(おくだり)他にある本岳・東岳・北岳からなる標高六百三十六メートル(北岳)の連山。地元では美人が寝た横顔に見えることから「美人岳」という別名で親しまれる。山頂直下西に金峰神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺」不詳。岡山県津山市戸川町に浄土真宗妙願寺があるが、ここは通称は「鶴山御坊」で、山号は「法雲山」で違う。但し、本尊は阿弥陀如来(浄土真宗だから当然)で、この寺、美作国の触頭(ふれがしら)を務めた有力な寺ではある。「山陽美作記」に当たらぬと判らぬ。

「木曾の駒ケ嶽」長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる標高二千九百五十六メートル山で、木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずもがなであるが、「駒」を名に持つ山は概ね、融雪期の山肌に現れる馬型をした残雪に基づき(山容の場合もある)、ここ木曽駒ヶ岳でも雪解け期には幾つかの雪形が見られ、それらが古くから農業の目安にされてきた経緯がある。特に山名の元にもなった駒(馬)は中岳(標高二千九百二十五メートル)の山腹に現われるものを特に指す。

『「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」』同書「勝蹟編篇第六」の「信州駒が岳馬化して雲に入る」。寛文四年は一六六四年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部が読める。

「馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば」柳田先生、そんな人は、いませんよ。そんな動物、いませんもの。

「日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり」柳田先生、冬毛のライチョウ(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta)、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の冬毛は頭部が灰白色或いは白出、尾の先端も白いですし、特に鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus には全身が白い個体もいますぜ?!

「鍵引(かぎひき)」個人ブログ「愛しきものたち」の「伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)」に解説と写真が載る(地図有り)。それによれば、『三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている』。『「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で』「『山の神と共々』、『農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ』」『と祈って今尚』、『行われている』。『その現場には中々』、『出遭う事は出来』ない『が、その場所を後から訪ねることは出来』るとして、『先ずは』、『滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る』、その『神事の行われる「山の口」の大ケヤキ』の写真が示される(神事の痕跡が明瞭)。『この地、西高倉の「カギヒキ」は例年』一月七日『に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う』。『両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている』。『又』、『この西高倉では、縄は掛け渡されることなく』、『片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない』とある。検索では他の地方のそれも散見される。

「木曾の妻籠(つまごめ)」現在の長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山口」岐阜県中津川市山口。県境を越えるが、実は妻籠の西直近。

「肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)」旧上益城(かみましき)郡河原(かわはら)村、現在の熊本県阿蘇郡西原村河原の内であることしか判らない。この「かわはる」の読みも不審。郷土史研究家の御教授を乞う。

「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」「矢根石(やのねのいし)」本邦では、縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器を指す。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。ここで改めて説明するより、私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」「同パート2」「同パート3」を見られた方がビジュアル的にも手っ取り早い。なお、ここにあるように、これらを神々の武器と採り、暴雨風や落雷或いは禁忌を破る者が出た時、天からそれが振ってくると信じた、石器天降説は古くからあった。

「鏃石考(ぞくせきかう)」書名注は附けない約束だが、これは私の好きなの奇石収集家で本草学者であった木内石亭(きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の著作である。

「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」「文化庁」公式サイト内の「浦佐毘沙門堂の裸押合(はだかおしあい)の習俗」で、宝暦(一七五一年~一七六四年)期に書かれた当地域の記録資料であることが判った。

『「山神」の祭を「十二講」と呼び』「十二山神(やまのかみ)」菊地章太氏の論文「十二山ノ神の信仰と祖霊観」(「上」・「中」・「下」・「拾遺」四部構成で孰れも総てPDFでダウン・ロード出来る)が非常に詳しい。

「磐城相馬領」現在の福島県相馬市・南相馬市・双葉郡の内の、旧標葉(しめは)郡と旧相馬郡に相当する(リンクはそれぞれのウィキで、そこにある旧郡域図で位置が判る)。

「平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤」現在の秋田県横手市山内(さんない)平野沢

「北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり」「田代岳」は秋田県大館市早口で、標高千百七十八メートル。「東鳥海山」は別名「権現山」で標高七百七十七メートルで、その名は単に山容が西方の鳥海山に似ていることによるもの。秋田県湯沢市相川麓沢

「大山祇(おほやまづみ)」大山祇の神。小学館「日本大百科全書」より引く。狭義には、『記紀神話で』伊耶那岐・伊耶那美『の子、また磐長姫(いわながひめ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として語られる神』で、「古事記」では「大山津見神」、「伊予国風土記」逸文では「大山積神」と『記す。本居宣長』は「古事記伝」の中で、『山津見とは山津持(やまつもち)、すなわち』、『山を持ち、つかさどる神のことであるという賀茂真淵』『の説を紹介している』。「伊予国風土記逸文では、『仁徳』『天皇のとき』、百済『国より渡来、初め摂津国御島(みしま)(大阪府三島)に座し、のち』、『伊予国御島(愛媛県今治』『市大三島(おおみしま)町)に移り、現在の大山祇』『神社に祀』『られたと記し』、「釈日本紀」では、『現在の静岡県三島市大宮町の三嶋』『大社の祭神としても記している』。但し、現在、各地の神社に祀られてある大山祇神は、そうした神話とは関係なのない、広義の意の「山の神」として一般に信仰されてきた神である、とある。

「安倍郡梅ケ島村」現在の静岡市葵区梅ヶ島

「二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども」初午は本来その年の豊作祈願が原型であたが、それに稲荷信仰が強く結びついた結果、専ら、稲荷社の祭りのように転じてしまったものである。

「常陸那珂郡柳河(やながは)村」茨城県の旧那珂郡にかつて存在した村であるが、現在、村域は、ひたちなか市・那珂市・水戸市の三つに分離している。この附近(旧村名を継いでいる水戸市柳河町をポイントした)。

2019/04/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(11) 「駒ケ嶽」(1)

 

《原文》

駒ケ嶽 又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。【駒形神】例ヘバ武藏北足立郡尾間木(ヲマキ)村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三軀ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黑駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ禱リテ驗アリ〔風俗問狀答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追(ノマオヒ)ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。【龍馬ト星ノ神】昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。【石馬】越前大野郡ノ穴馬谷(アナマダニ)ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上(クジヤウ)領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨクヨクノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ、鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ賴ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈挨隨筆八、有斐齋劄記〕。陸中腹膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

 

《訓読》

駒ケ嶽 又、白馬のみを神と祀りたる社あり。【駒形神】例へば、武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社は、神體は三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり、本地は正觀音(しやうかんのん)におはします〔「新編武藏風土記稿」〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神には、末社に白駒の神と黑駒の神とありて、牛馬の病ひに禱(いの)りて驗(げん)あり〔「風俗問狀答」〕。磐城相馬中村の太田神社は、土地の人は「妙見樣」と云ふ。有名なる「野馬追(のまおひ)の祭」を行ふ社なるが、其の社の神も、毛色は不明なれども一つの龍馬なり。【龍馬と星の神】昔、平將門逆心の時、一夜、客星(かくせい)[やぶちゃん注:流星。]落ちて、化して龍馬となる。之れを妙見菩薩と尊崇して、土地の鎭守と爲すと傳ふ〔「行脚隨筆」上〕。【石馬】越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)にては、岩穴の遙か奧に石馬を祀りてあり。乃(すなは)ち、「穴馬」と云ふ村の名の起原なるが、此の石馬は人作(じさく)の物に非ざるがごとし。上・下穴馬村は以前の郡上(くじやう)領にして、九頭龍川の源頭、十里に亙りたる山村なり。よくよくの旱年(ひでりどし)には、此の洞の奧に入り込み、鞭を以つて、石の馬を打つときは、必ず、雨、降る。但し、其の鞭を執りたる者は、遲くも三年の内に死するが故に、八十、九十の老翁を賴みて、其の役を勤めさせたりと云ふ〔「笈挨隨筆」八、「有斐齋劄記(いうひさいさつき)」〕。陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山の頂上には、鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき〔「仙臺封内風土記」〕。如何なる信仰に基けるものなるかは知らず、此の山には又、「天狗佛」と稱する羽の生えたる佛像をも安置してありきと云ふことなり。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正觀音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正観音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

「磐城相馬中村の太田神社」福島県南相馬市原町区(はらまちく)中太田字舘腰(たてこし)にある相馬太田神社

「野馬追(のまおひ)の祭」ウィキの「相馬野馬追」によれば、『相馬野馬追』『は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である』。『馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からな』り、『東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの』一『つとして紹介される場合もある』。『起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門』『が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』。『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練』を『一切取り締ま』ったが、『この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた』。「戊辰戦争」で『中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五(一八七二)年に『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治一一(一八七八)年には、『内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』とある。

「越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)」旧福井県大野郡和泉(いずみ)村、現在の福井県大野市朝日のこの附近。サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺3」の「第10回 穴馬 【あなま】 轆轤師が定着し、落人伝説をはぐくんだ風土」が詳しいが、ここに出る「石馬」については触れられていない。岩窟や石の馬は最早、存在しないのだろうか?

『「笈挨隨筆」八』ちょっと判り難いので言っておくと、巻之八の「神泉苑」の雨乞の関連で文中に出る。そこでは、『美濃の郡上西に穴馬村という山に穴あり。深さ三里、中に馬有り』として以下の話が載る。

「陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町西根はここ。「赤澤山」というのは国土地理院図でも見当たらないが、一つ気になるのは、同地区の西の境界のごく直近にある岩手県胆沢郡北上市和賀町岩崎新田の駒形神社奥宮という駒ヶ岳のピーク(標高千百二十九・八メートル)で、「遠野文化研究センター」公式サイト内の「駒形神社奥宮」を見ると、奥宮の堂内には『白馬と黒馬の神像が祀られていました。藩政時代には白馬が盛岡藩・黒馬が仙台藩の神像だったと聞きますが、藩境が取り払われた現在はどうなのでしょうか。それに白馬が親子です』。『なにか意味があるのか気になります』。『現在このお駒堂を守っている水沢駒形神社の山下宮司によると、「晴れを願う時は白い馬に、雨を願う時は黒い馬に祈る」らしく、晴れを望む人が多かったので白馬の神像を二体奉納したのだそうです』。『水も晴天も農業には欠かせないものです。お駒堂から見下ろす北上盆地は黄金色で、昔の今も人々が変わらず願い続けている通りの実りの秋の風景でした』。『盛岡・仙台両藩の水争いの出発地点から豊作を見守るお駒さまたちも安心していることでしょう』とあって、現在の新しい馬の像の写真があるのである。或いはこれが柳田國男がここで言うそれなのではないか? と思わせるのである。柳田は「鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき」と過去の助動詞を用いているから、或いは、これがその後裔なのかも知れないと感じるのである。但し、遂にここ或いはこの周辺に赤沢山は現認出来なかったし、「天狗佛」も検索ではヒットしなかった。これもまた、識者の御教授に委ねるしかあるまい。【2019年4月23日追記】本条の後の段落で「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」が出、その直後に「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」と述べていた。「駒ヶ岳」と「赤澤山」は別な山であった。そちらにリンクさせた国土地理院図を見て戴きたいが、駒ヶ岳の峰続きの何れかのピークが「赤澤山」なのであった。]

2019/04/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(10) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(5)

 

《原文》

 保呂羽山ノ神樂ノ歌ガ、梓巫ノ徒ヨリ學ビシモノニ非ザルコトハ、亦之ヲ立證スルコト難カラズ。【田植歌】岩代會津ノ伊佐須美神社ノ田植歌十二段ノ中ニモ

  繫ギタヤ繫ギタヤ、葦毛ノ駒ヲ繫イダ。

  白葦毛ノ白ノ駒ヲ、高天原ニ繫イダ。

  大明神ノ召サウトテ、葦毛ノ駒ヲ早ウ引ク。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

ト云フ歌アリ〔中古雜唱集〕。然ラバ海ノ都ト此世トノ交通ニ鰐ヲ用ヰシト同ジク、天ト地トノ往來ニハ特ニ靈アル白ノ駒ヲ選バレシモノニテ、從ヒテ人間ノ雜役ニハ之ヲ用ヰルコトヲ遠慮セシモ尤モ自然ノ事ト謂フべシ。人ノ靈ニ在リテハ矢口ノ渡ノ新田義興ノ如キモ、尙又白キ馬ニ乘リテ靑空鮮カニ現ハレタリ。【白旗】空ヲ行クモノ山ヨリ降ル者ヲ白カリシト想像スルハ、單ニ詩トシテ美シキノミニ非ズ、多クノ白旗傳說ナドト共ニ、先年西洋ニテ流行セシ所謂天然現象說ヨリ之ヲ解釋スルモ亦差支無シ。日本ニ於テハ佛敎ノ方ニモ多ク此傳說ヲ利用シタリトオボシ。支那ニテモ始メテ經文ヲ輸入セシ馬ノ白カリシコトヲ言ヘド、此ヨリモ今一段我邦ノハ之卜緣深シ。昔信濃ノ筑摩ノ湯ノ村ニ住ム信心者ノ夢ニ、明日ハ觀世音此湯ニ入浴ニ來ルべシト云フ豫告アリ。年ハ三十前後、髯黑ク綾藺笠(アヤヰガサ)ヲ著テ、節黑ナル胡箙(ヤナグヒ)ニ皮ヲ卷キタル弓ヲ持チ、紺ノ襖(アヲ)ニ夏毛ノ行縢(ムキバキ)ヲハキ、葦毛ノ馬ニ乘リタル人ガ觀音ナリト敎ヘラル。卽チ法(カタ)ノ如キ田舍者ノ風俗ナリ。翌日ニナリテ果シテ其通リノ人來リタレバ、一同有難ガリテ之ヲ拜ム。其男ハ元來觀世音ニハ非ザリシ故、勿論非常ニ面喰ヒタリシモ、根ガ氣ノ善キ御侍ト見エテ、サテハ身共ハ觀音デ御座ツタカト、此ガ菩提ノ種トナリテ直チニ剃髮シテ法師トナリ了ル〔宇治拾遺物語六〕。上野國ノ馬頭主ト云フ武士ナリキト云ヘリ。【馬頭觀音】上野ハ下野ノ誤聞ナルカモ知レザレド、兎ニ角馬頭觀音ノ信仰ヲ聯想セズニハ過グシ難キ一話ナリ。

 

《訓読》

 保呂羽山(ほろはやま)の神樂の歌が、梓巫(あづさみこ)の徒より學びしものに非ざることは、亦、之れを立證すること難からず。【田植歌】岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社の田植歌十二段の中にも

  繫ぎたや繫ぎたや、葦毛の駒を繫いだ。

  白葦毛の白の駒を、高天原(たかまのはら)に繫いだ。

  大明神の召さうとて、葦毛の駒を早う引く。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

と云ふ歌あり〔「中古雜唱集」〕。然らば、海の都と此の世との交通に鰐(わに)[やぶちゃん注:鮫。]を用ゐしと同じく、天と地との往來には、特に靈ある白の駒を選ばれしものにて、從ひて、人間の雜役には之れを用ゐることを遠慮せしも、尤も自然の事と謂ふべし。人の靈に在りては、「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり。【白旗】空を行くもの、山より降る者を白かりしと想像するは、單に詩として美しきのみに非ず、多くの白旗傳說などと共に、先年、西洋にて流行せし、所謂、「天然現象說」より之れを解釋するも亦、差し支へ無し。日本に於いては、佛敎の方にも多く此の傳說を利用したりとおぼし。支那にても、始めて經文を輸入せし馬の白かりしことを言へど、此れよりも今一段、我が邦のは之れと、緣、深し。昔、信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に、「明日は、觀世音、此の湯に入浴に來たるべし」と云ふ豫告あり。「年は三十前後、髯(ひげ)黑く、綾藺笠(あやゐがさ)を著けて、節黑(ふしぐろ)なる胡箙(やなぐひ)に、皮を卷きたる弓を持ち、紺の襖(あを)に、夏毛の行縢(むきばき)をはき、葦毛の馬に乘りたる人が觀音なり」と敎へらる。卽ち、法(かた)のごとき田舍者の風俗なり。翌日になりて、果して其の通りの人來たりたれば、一同、有り難がりて、之れを拜む。其の男は元來、觀世音には非ざりし故、勿論、非常に面喰ひたりしも、根が氣の善き御侍と見えて、「さては。身共(みども)は觀音で御座つたか」と、此れが菩提の種となりて、直ちに剃髮して法師となり了(おは)る〔「宇治拾遺物語」六〕。上野國(かうづけのくに)の馬頭主(ばとうぬし)と云ふ武士なりきと云へり。【馬頭觀音】上野は下野(しもつけ)の誤聞なるかも知れざれど、兎に角、馬頭觀音の信仰を聯想せずには過ぐし難き一話なり。

[やぶちゃん注:「岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社」現在の福島県大沼郡会津美里町宮林甲にある伊佐須美神社(同神社公式サイトの地図)。ここで柳田國男が挙げる「田植歌」は同神社で現在も七月十二日に催される「御田植祭」のそれで、公式サイトによれば、『この祭りは伊佐須美神社最大の祭りであると同時に、伊勢神宮の朝田植、熱田神宮の夕田植と並び、伊佐須美神社の昼田植と称され、日本三大「御田植祭」の一つと数えられています』。『地元の小中学生など町民が町中を掛け声響かせながら練り歩く勇壮な「獅子追い」から始まり、農家の長男が女装して踊る伝統の「早乙女踊り」が奉納され、そのほか「神輿渡御」「田植え式」が繰り広げられます』。『三町青年会(第一仲若・上若・北若)が率いる太鼓台が一堂に会す太鼓台宮登りや、佐布川地区の長男に代々継承され、早乙女に扮して踊る早乙女踊、仮面獅子を先頭に群童が町内を駆け巡る獅子追神事、古代歌謡「催馬楽」が詠われる中、神子人形と共に進む神輿渡御などは必見です』とあり、現在、国重要無形民俗文化財に指定されている。

『「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり』新田義興(元弘元/元徳三(一三三一)年~正平一三/延文三(一三五八)年)は南北朝時代の武将。父は新田義貞。南朝方に属した。従五位下・左兵衛佐。正平七/文和元 (一三五二)年に弟義宗とともに関東で足利方と戦い、一時は鎌倉を占拠したが、後、多摩川の矢口ノ渡しで敵に謀られて自死した。ここはそれを脚色した浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」の四段目の「頓兵衛住家の段」で馬に乗った義興の霊が出現するシーンを指して言っているものと思われる(私は同作は未読未見。ウィキの「神霊矢口渡」を参照した)。

「天然現象說」気象及び光学的自然現象。

「信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に……」「宇治拾遺物語」の「信濃國筑摩(つくま)の湯に、觀音、沐浴(もくよくの)事」。以下。

   *

 今は昔、信濃國に筑摩(つくま)の湯といふ所に、萬(よろづ)の人の浴(あ)みける藥湯(くすりゆ)あり。そのわたりなる人の夢に見るやう、

「明日(あす)の午(むま)の時に、觀音、湯浴み給ふべし。」

といふ。

「いかやうにてか、おはしまさんずる。」

と問ふに、いらふるやう、

「年、三十ばかりの男の、鬚(ひげ)黑きが、綾藺笠(あやゐがさ)[やぶちゃん注:藺草(いぐさ)を綾織りに編み、裏に布を張った笠。中央に髻(もとどり)を入れる巾子形(こじがた)という突出部があり、その周囲に藍革(あいかわ)と赤革の帯を垂らして飾りとする。武士が狩猟・旅行・流鏑馬などの際に着用した。]きて、ふし黑なる胡籙(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢の柄の節の下を漆で黒く塗った矢を差した箙(えびら:矢を盛って背負う器具。)]、皮卷きたる弓持ちて、紺の襖(あを)[やぶちゃん注:ここは狩衣と同義。]着たるが、夏毛の行縢(むかばき)[やぶちゃん注:夏季に捕えた鹿の毛革(この時期には黄色に白い斑点が鮮やかに出る)で作った、乗馬時に騎手が腰に附けて前に垂らした着用具。]はきて、葦毛(あしげ)の馬に乘りてなん來べき。それを觀音と知り奉るべし。」

といふと見て、夢さめぬ。

 驚きて、夜明けて、人々に告げまはしければ、人々、聞きつぎて、その湯に集まる事、限りなし。湯をかへ、めぐりを掃除(さうぢ)し、しめ[やぶちゃん注:注連縄。]を引き、花香(くわかう)を奉りて、居集(ゐあつ)まりて待ち奉る。

 やうやう午(むま)の時過ぎ、未(ひつじ)[やぶちゃん注:午後二時頃。]になる程に、ただ、この夢に見えつるに露(つゆ)違(たが)はず見ゆる男の、顏より始め、着たる物、馬、何かにいたるまで夢に見しに違はず。萬の人、にはかに立ちて額(ぬか)をつく。

 この男、大きに驚きて、心も得ざりければ、萬の人に問へども、ただ拜みに拜みて、その事といふ人なし。僧のありけるが、手を摺りて額(ひたひ)にあてて、拜み入りたるがもとへ寄りて、

「こはいかなる事ぞ。おのれを見て、かやうに拜み給ふは。」

と、こなまりたる[やぶちゃん注:少し訛った。]聲にて、問ふ。

 この僧、人の夢に見えけるやうを語る時、この男、いふやう、

「おのれは、さいつころ、狩りをして、馬より落ちて、右の腕(かひな)をうち折りたれば、それをゆでんとて、まうで來たるなり。」

といひて、と行きかう行きする程に、人々、尻(しり)に立ちて、拜(をが)みののしる。

 男、しわびて[やぶちゃん注:どうにも対応に困って。]、『我が身は、さは、觀音にこそありけれ。ここは法師になりなん』と思ひて、弓・胡籙(やなぐひ)・太刀(たち)・刀、切り捨てて、法師になりぬ。

 かくなるを見て、萬の人、泣きあはれがる。

 さて、見知りたる人出で來ていふやう、

「あはれ、かれは上野國(かむづけのくに)におはする、『ばとうぬし』にこそいましけれ。」

といふを聞きて、これが名をば、「馬頭觀音」とぞいひける。

 法師になりて後(のち)、橫川(よかは)に登りて、かてう僧都[やぶちゃん注:覚超か。源信の弟子。長元七(一〇三四)年、七十五で入寂。]の弟子になりて、橫川に住みけり。その後(のち)は土佐國に去(い)にけりとなむ。

   *

本文は「新潮古典文学集成」の大島武彦校注「宇治拾遺物語」(昭和六〇(一九八五)年刊)及び岩波文庫渡辺綱也校訂(一九五一年刊)の二種を参考にし、注は一部で前者の頭注を参考にした。この話は「今昔物語集」の巻第十九「信濃國王藤(わうどう)観音出家語第十一」(信濃國王藤(わうどう)、観音出家する語(こと)第十一。「やたがらすナビ」のこちらで読める)や「古本説話集」の六十九(同じく「やたがらすナビ」のこちらで読める)に同話が収められてある。観音や地蔵は現世利益の菩薩であることから、人間の姿に垂迹すると信じられていたらしいと大島氏の評注にあった。

「上野は下野の誤聞なるかも知れざれど」根拠不詳。識者の御教授を乞う。]

2019/04/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(9) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(4)

 

《原文》

 神垂迹ノ起原ハ決シテ後世ノ緣起ニ說クガ如キ明確ノモノニ非ザリシハ勿論ナリ。分身自在ノ天竺ノ佛タチトハ異ナリ、本ノ社アル神々ニ於テハ決シテ勸請ノ地ニ永逗留ハシタマハズ、一定ノ日ニ降リテ祭ヲ享ケヤガテ又還リ往キタマヒシナリ。所謂每朝神拜ノ思想起リテ後、如在ノ神ハ終ニ常在ノ神トナリ、狹ク小サキ祠ノ中ヲ以テ神ノ住所ノ如ク考フル者出デ來レリ。是レ決シテ本來ノ信仰ニハ非ザリシナリ。【神馬用途】阿波ニ於ケル丹生明神ハ其馬ヲ殘シテ往カレタルガ、抑神馬ノ神ニ用立チシハ全ク其往來ノ此ノ如ク繁カリシ爲ナリ。此說ハ必ズシモ根據ニ乏シキ臆說ニハ非ズ。沖繩諸島ノ如キハ、今モ村々ノ神ハ甚ダ多ク社ノ數ハ甚ダ少ナシ。【嶽】年々日ヲ定メテ神ノ降ル場處ヲ「ダケ」又ハ「オガン」ト謂フ。高山ノ頂又ハ人ノ蹈マザル一區ノ林地ナリ。「オガン」ハ即チ拜林ニシテ此處ニ於テ神ヲ祭リ拜スルナリ。【ウポツ山】大島ニ於テハ之ヲ「オガミ」山、又ハ「ウポツ」云ヒ、祭ノ日ニハ此山ヨリ出デテ又此山ニ歸ル。神馬ニ乘リテ現ハルヽコモ亦稀ナラズト云ヘリ〔人類學會雜誌第百九十五號昇氏〕。【山ノ神】遙カニ懸離レタル羽後ノ平鹿郡ノ保呂羽(ホロハ)神社ハ、東北地方ニ於テ威力ノ最モ盛ナル山ノ神ノ一ナリ。十一月七日ノ祭ニ歌フ神樂ノ曲ノ章句ニ

  東方(アヅマ)ヨリ今ゾ寄リマス長濱ノ葦毛ノ駒ニ手綱ヨリカケ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

ト云フ歌アリ〔風俗問狀答〕。「ヨリカケ」ハ「ユリカケ」ノ轉訛ナルべシ。寄リマストハ神靈ガ巫女ニ託シタマフ事ナリ。【梓巫】其神ガ葦毛ノ駒ニ乘リ長濱ヅタヒニ東ノ方ヨリ降ラルルサマヲ歌ヒタルモノナルガ、此歌ハ中央部ノ諸國ニテハ所謂梓神子(アヅサミコ)ノ歌トシテ傳ヘラレタリ。鴉鷺合戰物語ニ、「カンナギ」梅染ノ小袖ヲ着テ座敷ニ直リ、梓ノ弓ヲ打扣キテ天淸淨地淸淨ヲ唱ヘ、只今寄セ來タル所ノ亡者ノ冥路(ヨミヂ)ノ談リ、正シク聞カセタマヘト言ヒテ歌フ歌、

  ヨリ人ハ今ゾ寄リマス長濱ヤ葦毛ノ駒ニ手綱ユリカケ

トアリ〔嬉遊笑覽所引〕。謠ノ葵ノ上ニ神子ガ六條ノ御息所(ミヤスドコロ)ノ口ヲ寄セントシテ唱フル詞モ之ト全ク同樣ナリ。之ニ由リ見レバ人ノ生靈亡靈モ亦馬ニ乘リ來タリテ巫女ニ託セシナリ。巫女ヲ「ヨリマシ」又ハ「ヨリマサ」ト云フコトハ社ノ神子モ所謂縣神子(アガタミコ)モ區別無カリキ。後者ノ梓ヲ業トスル者ノ如キハ單ニ拜處ヲ一定セザル移動的ノ巫女ト云フニ過ギズ。【賴政】例ノ賴政塚ノ傳說ノ如キハ恐クハ此徒ノ名ヨリ起リシモノナラン。同ジ保呂羽山ノ神樂ノ曲ニ、

  ヨリマサバ今寄リマサネサハラ木ノサハラノ山ニサハリ隈ナク

ト云フモアリ。寄ルトナラバ直チニ寄リタマヘト言フ意味ナルヲ、誤リテ神靈又ハ託女其物ヲ「ヨリマサ」ト謂フト解シタル結果、其祭場ヲ以テ源三位入道ノ首塚ナリトスルガ如キ說ハ起リシナルべシ。

 

《訓読》

 神垂迹(すいじやく)の起原は、決して、後世の緣起に說くがごとき明確のものに非ざりしは、勿論なり。分身自在の天竺の佛たちとは異なり、本(もと)の社ある神々に於ては、決して勸請の地に永逗留(ながとうりう)はしたまはず、一定の日に降(くだ)りて、祭を享(う)け、やがて又、還り往きたまひしなり。所謂、每朝神拜の思想起りて後、如在(によざい)の神は終に常在の神となり、狹く小さき祠の中を以つて、神の住所のごとく考ふる者、出で來たれり。是れ、決して、本來の信仰には非ざりしなり。【神馬用途】阿波に於ける丹生(にふ)明神は其の馬を殘して往かれたるが、抑々(そもそも)神馬の神に用立ちしは、全く、其の往來の此くのごとく繁かりし爲めなり。此の說は、必ずしも根據に乏しき臆說には非ず。沖繩諸島のごときは、今も村々の神は甚だ多く、社の數は甚だ少なし。【嶽】年々、日を定めて神の降る場處を「ダケ」又は「オガン」と謂ふ。高山の頂(いただき)、又は、人の蹈まざる一區の林地なり。「オガン」は、即ち、「拜林(はいりん)」にして、此處に於いて神を祭り、拜するなり。【ウポツ山】大島に於ては之れを「オガミ」山、又は「ウポツ」云ひ、祭の日には此の山より出でて、又、此の山に歸る。神馬に乘りて現はるゝ、こも亦、稀れならずと云へり〔『人類學會雜誌』第百九十五號・昇氏〕。【山の神】遙かに懸け離れたる羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社は、東北地方に於いて威力の最も盛んなる山の神の一つなり。十一月七日の祭に歌ふ神樂(かぐら)の曲の章句に

  東方(あづま)より今ぞ寄ります長濱の葦毛の駒に手綱よりかけ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

と云ふ歌あり〔「風俗問狀答」〕。「よりかけ」は「ゆりかけ」の轉訛なるべし。「寄ります」とは神靈が巫女に託したまふ事なり。【梓巫(あづさみこ)】其の神が葦毛の駒に乘り、長濱づたひに東の方より降らるるさまを歌ひたるものなるが、此の歌は中央部の諸國にては、所謂、梓神子(あづさみこ)の歌として傳へられたり。「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」に、「かんなぎ」、梅染(うめぞめ)の小袖を着て、座敷に直(なほ)り、梓の弓を打ち扣(たた)きて『天、淸淨、地、淸淨』を唱へ、『只今、寄せ來たる所の亡者の冥路(よみぢ)の談(かた)り、正しく聞かせたまへ』と言ひて歌ふ歌、

  より人は今ぞ寄ります長濱や葦毛の駒に手綱ゆりかけ

とあり〔「嬉遊笑覽」所引〕。謠(うたひ)の「葵の上」に神子(みこ)が六條の御息所(みやすどころ)の口を寄せんとして唱ふる詞も之れと全く同樣なり。之れに由り、見れば、人の生靈・亡靈も亦、馬に乘り來たりて、巫女に託せしなり。巫女を「よりまし」又は「よりまさ」と云ふことは、社の神子も、所謂、「縣神子(あがたみこ)」も、區別、無かりき。後者の梓を業(なりはひ)とする者のごときは、單に拜處を一定せざる、移動的の巫女と云ふに過ぎず。【賴政】例の賴政塚の傳說のごときは、恐らくは、此の徒(と)の名より起りしものならん。同じ保呂羽山の神樂の曲に、

  よりまさば今寄りまさねさはら木のさはらの山にさはり隈なく

と云ふもあり。『寄るとならば、直ちに寄りたまへ』と言ふ意味なるを、誤りて神靈又は託女(たくぢよ)其の物を「よりまさ」と謂ふと解したる結果、其の祭場を以つて「源三位入道の首塚なり」とするがごとき說は起りしなるべし。

[やぶちゃん注:「羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社」現在の秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山(グーグル・マップ・データ)にある保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)。社伝によれば天平宝字元(七五七)年に大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請し、現在地に創建したとする。秋田県に所在する式内社三社の内の一つで、中世には修験道の霊地として周囲より崇敬を集めていた。ここで柳田國男が言う「十一月七日の祭に歌ふ神樂」というのは、現在、重要無形民俗文化財に指定されている。文化庁のデータベースの「保呂羽山の霜月神楽」によれば、『平鹿郡大森町波宇志別神社の十一月七日の祭りに行なわれる湯立』(ゆたて)『神楽の一種で、保呂羽山、御岳、高岡の三山の神霊を勧請して、神主家の神楽座において、古風な神事芸が徹宵して行なわれる。祭壇近くに二つの湯釜を置き、天井には種々の形の幣やしめ縄を張りめぐらす。まず』、『神おろし、招魂、祝詞などの前行事の後、「五調子」「湯加持」「天道舞」「伊勢舞」「保呂羽山舞」などの曲がつぎつぎに舞われる。この芸能は湯立神楽として、組織が大きく、形式もよく整い、地方的にも特色あるものである』とある。

「風俗問狀答」「諸國風俗問狀答」(しょこくふうぞくといじょうこたえ)。江戸末期に、幕府の御用学者であった屋代弘賢が、諸国に、風俗に関する木版刷りの質問状を送って答えを求めた。それが風俗問状であり、それに対する答書が風俗問状答である。後世、散逸していた答書を集成して「諸国」の文字を冠した。屋代弘賢は宝暦八(一七五八)年生まれ、天保一二(一八四一)年に八十四歳で死去、最終的な地位は表御右筆勘定格であった。問状の発送は文化一〇(一八一三)年から二、三年の間であったろうと推測されているが、発送の目的や発送先、答書の数などは明らかでない。「古今要覧稿」の資料集めのためではないかとされている。柳田國男は本作発表の二年後の大正五(一九一六)年、それまでに五種ほどの答書の存在を知って、民俗の通信調査として先駆的な業績を評価し、未発見の答書の発掘を呼びかけた。現在までに二十一種(別に異本一種)が発見されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」室町期の物語で動物同士を擬人化した擬似軍記物の異類小説である。一条兼良作とも伝えられる。祇園林の鴉である東市佐(ひがしのいちのすけ)真玄(まくろ)が、中鴨(なかかも)の森の鷺である山城守津守正素(つもりまさもと)の娘を思い染め、所望するが、拒まれ、仲間を集めて中鴨を攻める。黒い鳥の真玄方には鵄(とび)出羽法橋(ほっきょう)や鶏(にわとり)漏刻博士が、白い鳥の正素方には鶴(つるの)紀伊守や青鷺信濃守らが集い、一大合戦となるが、結局、鴉方が敗れ、鴉の真玄は高野山に登り、仏法僧の手で出家、勝者の正素も、ともに念仏修行するという筋(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『謠(うたひ)の「葵の上」』能「葵上」(あおいのうえ)は世阿弥の伝書「申楽談儀」にも記載があり、近江猿楽系の古作を世阿弥が改作した曲とされる。出典は「源氏物語」の「葵」の帖で、高貴な女性の心理の深層に潜む嫉妬の恐ろしさを、みごとな詞章・作曲・華麗な演出の妙で見せる名作。物の怪に苦しむ光源氏の正妻葵上は、舞台先に延べられた一枚の小袖で表現する。臣下の者が巫女(ツレ)を呼び出し、祟っている者の正体を現わす呪法を命じる。六条御息所の生霊(前シテ)が登場、昨日の花は今日の夢となった元皇太子妃としての華やかな生活との別れや光の愛の衰えを嘆き、興奮に身を委ねて葵上を打ち据え、賀茂の祭で葵上から屈辱を受けたその破(や)れ車に乗せて、彼女を連れ去ろうとする。病状の急変に横川小聖(よかわのこひじり:ワキ)が招かれ、祈り始めると、鬼形(きぎょう)となった生霊(後シテ)が現われ、法力と争い、葵上を取り殺そうとするが、ついに屈服し、恨みの心を捨てて終わる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2019/04/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(8) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(3)

 

《原文》

 蓋シ都鄙多クノ神體ノ製作ハ比較的後代ノモノナリトスルモ、其形狀特性ノ如キハ漫然タル空想ニ由リテ新タニ之ヲ附加セシモノニハ非ズシテ、ヤハリ神ノ示現ニ關スル當初ノ歷史ヲ表ハサント力メシモノナラン。【神ノ降臨】其證據ニハ神ガ馬ニ騎リテ降臨シタマヒシコトヲ傳說スル場合ニハ、其馬ノ毛モ亦多クハ白ナリ。【神ノ林】前ニ述べタル一二ノ例ノ外ニ、美作苫田郡一宮村大字西田邊ノ駒林ハ、慶雲三年ニ中山神ガ白馬ニ乘リテ來現セラレタル故跡ナリ。二町ヲ隔テヽ上林ト下林トアリ。其年ノ九月二十三日ニ神ハ此林ヨリ五町北ノ霧山ト云フ處ニ入リタマフ云々。林ヲ駒林ト云フコト、竝ビニ例年九月ノ神事ニ白馬ヲ用ヰルハ其爲ナリ〔作陽志〕。新羅ノ大昔ニ蘇伐公ガ白馬ノ林間ニ跪拜スルヲ見テ、卵ニ籠レル赫居世ヲ拾上ゲシト云フ話モ何ト無ク思ヒ合サル。日本ニテモ淸キ林ニハ此類ノ神話多シ。【境塚】伊勢ノ飯南郡川俣谷、即チ今日ノ宮前村大字作瀧(サクダキ)ニテハ、村ノ境ニ祓塚(ハラヒヅカ)アリテ其北ヲ賀瀨川流ル。其川ノ中流ニ立ツ大石ノ上ニ、昔天照大御神白馬ニ騎リテ降リタマヒ、國ノ堺ヲ定メタマヘリト云フ口碑アリ〔勢陽俚諺十〕。此石ハモトハ多分白クシテ馬ノ形ニ似タリシガ故ニ斯ル傳說ヲ生ゼシナルべシ。【石馬】阿波名西郡神領村白桃名(シロモヽミヤウ)ノ一部ヲバ御馬原ト謂ヒ、丹生(ニフ)明神ノ乘捨テラレシト云フ石馬アリ。鞍鐙皆具シテ膝折伏セテ見返リタル形、ヨク見レバ鬣ノ筋マデアリアリトシテ、些シ遠クヨリ望メバ誠ニ生ノ馬ノ通リナリ。此地ハ元ヨリ村ノ山野ナルガ、村人此石ヲ尊崇シテ木草ヲ採ラヌ爲ニ、自然ニ林ヲ爲シテ終ニ石馬ヲ遠望スル能ハズ。【老翁】傳ヘ謂フ昔一人ノ老翁白馬ニ乘リテ此原ノ柴刈男ニ現ハレ、我ハ大和ノ丹生明神ナリ、由アリテ跡ヲ此地ニ垂レ五穀ヲ守ルべシト仰セラレ、乃チ天ニ歸リタマフ。神馬ハ之ニ伴フコト能ハズ、御跡ヲ顧ミツヽ石ト化シタルガ即チ是ナリ〔燈下錄〕。【熊野權現】岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(クマンダウ)ノ熊野三社ハ、數多キ奧羽ノ熊野ノ中ニテモ殊ニ有難キ神ナリ。八幡太郞義家戰捷ヲ祈ル爲ニ建立セシ社ナリト傳フ。【駒形】其折ニ愛馬ノ連錢葦毛ヲ奉納シテ神馬トシ之ヲ駒形原ニ放牧ス。此葦毛ハ後ニ天ニ昇リ雲中ニ嘶クコト七日、仍テ之ヲ馬頭觀音ト祀リ、更ニ此原ニモ右ノ三社ヲ勸請ス。【三寶荒神】今ノ耶麻郡鹽川村ノ三寶荒神社ハ即チ是ナリト云フ〔新編會津風土記所引緣起〕。三寶荒神ハ竃ノ神ナリ。馬ト竈トノ關係アルコトハ前ニモ一タビ之ヲ述ブ。後段ニモ猶詳カニ攻究セント欲スル所ナリ。

 

《訓読》

 蓋し、都鄙、多くの神體の製作は、比較的、後代のものなりとするも、其の形狀・特性のごときは、漫然たる空想に由りて新たに之れを附加せしものには非ずして、やはり、神の示現(じげん)に關する當初の歷史を表はさんと力(つと)めしものならん。【神の降臨】其の證據には、神が馬に騎りて降臨したまひしことを傳說する場合には、其の馬の毛も亦、多くは白なり。【神の林】前に述べたる一二の例の外に、美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林は、慶雲三年[やぶちゃん注:七〇六年。]に中山神が白馬に乘りて來現(らいげん)せられたる故跡なり。二町を隔てゝ上林と下林とあり。其の年の九月二十三日に、神は此の林より五町北の霧山と云ふ處に入りたまふ云々。林を駒林と云ふこと、竝びに例年九月の神事に白馬を用ゐるは其の爲なり〔「作陽志」〕。新羅の大昔に、蘇伐公(そばつこう)が白馬の林間に跪拜(きはい)するを見て、卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)を拾ひ上げしと云ふ話も、何と無く思ひ合さる。日本にても、淸き林には此の類ひの神話、多し。【境塚(さかひづか)】伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷、即ち、今日の宮前村大字作瀧(さくだき)にては、村の境に祓塚(はらひづか)ありて、其の北を、賀瀨川、流る。其の川の中流に立つ大石の上に、昔、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、白馬に騎りて降りたまひ、國の堺を定めたまへりと云ふ口碑あり〔「勢陽俚諺」十〕。此の石は、もとは、多分、白くして、馬の形に似たりしが故に斯(かか)る傳說を生ぜしなるべし。【石馬】阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)の一部をば「御馬原」と謂ひ、丹生(にふ)明神の乘り捨てられしと云ふ石馬あり。鞍・鐙(あぶみ)、皆、具して、膝、折り伏せて見返りたる形、よく見れば鬣(たてがみ)の筋までありありとして、些(すこ)し遠くより望めば、誠に生(なま)の馬の通りなり。此の地は、元より村の山野なるが、村人、此の石を尊崇して、木草(きくさ)を採らぬ爲めに、自然に林を爲して、終に石馬を遠望する能はず。【老翁】傳へ謂ふ、昔、一人の老翁、白馬に乘りて此の原の柴刈男(しばかりをとこ)に現はれ、「我は大和の丹生明神なり、由ありて、跡を此の地に垂れ、五穀を守るべし」と仰せられ、乃(すなは)ち、天に歸りたまふ。神馬は之れに伴ふこと能はず、御跡(みあと)を顧みつゝ、石と化したるが、即ち、是れなり〔「燈下錄」〕。【熊野權現】岩代河沼(かはぬま)郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社は、數多き奧羽の熊野の中にても、殊に有り難き神なり。八幡太郞義家、戰捷(せんせふ)[やぶちゃん注:戦勝に同じい。]を祈る爲めに建立せし社なりと傳ふ。【駒形】其の折りに、愛馬の連錢葦毛(れんせ(ぜ)んあしげ)[やぶちゃん注:葦毛に銭を並べたような灰白色のまだら模様のあるもの。グーグル画像検索「連銭葦毛」をリンクさせておく。]を奉納して神馬とし、之れを「駒形原」に放牧す。此の葦毛は後に天に昇り、雲中に嘶(いなな)くこと七日、仍(より)て之れを馬頭觀音と祀り、更に、此の原にも右の三社を勸請す。【三寶荒神】今の耶麻(やま)郡鹽川村の三寶荒神社は、即ち、是れなりと云ふ〔「新編會津風土記」所引「緣起」〕。三寶荒神は竃(かまど)の神なり。馬と竈との關係あることは前にも一たび之れを述ぶ。後段にも猶ほ、詳らかに攻究せんと欲する所なり。

[やぶちゃん注:「美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林」岡山県津山市西田辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「駒林」は現認出来ない。

「中山神」現在は「なかやま」と呼ばれるが、昔は「ちうさん」であったらしい。前の西田辺の南西近くの、現在の岡山県津山市東一宮に美作國一之宮中山神社があるが、これはサイト「玄松子の記憶」の同神社の記載によれば、『備前と備中の堺の山』である『吉備の中山から勧請したもので、美作国が備前国から分立した和銅六(七一三)年四月三日に創立されたらしい。但し、社伝では慶雲四(七〇七)年『四月三日の創祀とされている』。『吉備の中山には、備中一宮の吉備津神社と備前一宮の吉備津彦神社がある』とされ、さらに、『チウサンの音読みに関して、中国『山海経』に登場する鉄の国・中山経の影響とする説がある』。『祭神は、現在、鏡作神とされているが、金山彦命とする説もあり、産鉄の神である』とする。加えて興味深いことに、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に『「中山の猿神」として登場する猿神社は、境内の後方』五十メートル『の岩の上にあり、崇敬者の奉納した赤い猿の縫ぐるみが多く祀られている』。『昔、中山の猿神に、娘の生贄を捧げていたが、ある猟師が、犬をけしかけ、この猿を殺してしまった。その時、猿神が宮司に神がかり、

「今後、生贄を止める」と誓ったという』とあるのである。猿である。柳田國男の本書での考証と関係があるかどうかは分らぬが、「馬」と「猿」の親和性の強さが窺える話ではないか。

「上林」位置や読み不詳。「下林」との関係で、「うへばやし」と「しもばやし」と仮に読んでおく。

「霧山」現在の岡山県津山市西田辺霧山であろう。列石・巨石の古代遺跡があることがサイト「遺跡ウォーカー」の「霧山遺跡」(地図有り)で判明。

「蘇伐公(そばつこう)」次注参照。

「卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)」赫居世居西干(きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)は斯蘆(しろ)国(新羅の初名)の初代の王(在位:紀元前五七年?~四年)。姓を朴、名を赫居世とする。ウィキの「赫居世居西干」によると、「三国史記」の「新羅本紀」に『よれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮』『の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という』六『つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部(または辰韓六部』『)と呼ぶ』。『楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)』(これが「蘇伐公(そばつこう)」である)『がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると』、『中から男の子が出てきた』『ので、村長たちはこれを育てた』、十『歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために』六『村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は』十三『歳であり、前漢の五鳳元年(前』五七『年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって』五『年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(』「三国史記」では右脇とする『)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した』。「三国遺事」の「王暦」「新羅始祖赫居世」の『条の伝える建国神話は、骨子は』「三国史記」と『同じであるが』、『細部に違いがみられ』、『天から降りてきた』六『村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下ったので見に行った。白馬が跪いている様が伺えたが、そこには紫(青色)の卵があっただけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことに因んで赫居世王と名づけ、居瑟邯』『(きょしつかん、コスルガム)と号した。王となったとき赫居世は』十三『歳であり、同時に同じく神秘的な出生をした閼英を王妃とし、国号を徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)』『とした。国号についてはあるいは斯羅(シラ)・斯盧(シロ』『)ともいう』。「三国遺事」や「三国遺事」に『よると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ』。『在位』六十一『年にして』『死去し、虵陵に葬られたという』「三国遺事」に『よれば、赫居世が死んで昇天して』七『日後に、遺体が地に落ちてバラバラになった。国人がこれを集めて葬ろうとしたが』、『大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という』。『赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある』、「三国遺事」の『指定する訓によれば』、『「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という』。「三国遺事」に『よれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある』。『また』、『赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるため』、『そのまま「朴」になったとも考えられている』とある。人の起原や昔話の古形(例えば「かくや姫」等)には卵生説話は洋の東西を問わず、かなり見られるものである。

「伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷」「今日の宮前村大字作瀧(さくだき)」現在の三重県松阪(まつさか)市飯高町(いいたかちょう)作滝(さくだき)

「祓塚(はらひづか)」久保憲一氏のブログ「私、水廼舎學人です」の「榊塚(お祓塚)」によって現存することが判った。それによれば、国道百六十六『号線、旧作滝村と旧赤桶村の境界に「立て道」が通っています』。『この道の延長線上に「お祓塚」と呼ばれる塚があります』(『他にもう一つ』、『「お休み塚」という塚もあります』)。『そのまた延長線上の川中に』、『国分け伝説の「礫(つぶて)石」があるのです』。『これらを結ぶ線が昔々伊勢神宮領と大和領間の国境だったのです』。『おそらくこのお祓塚でお祓いをして神宮領と大和領を行き来したのでしょう』。『この辺一帯は「久保切」と言い、私の先祖が住んでいたとも言われています』。『亡父は此処から多くの土器やヤジリを収集しました』。『今この一帯は縄文遺跡「宮の東遺跡」とも呼ばれています』。『この「お祓塚」は別名「榊塚」とも言われており、どうやら明治の末頃まで榊の大木が繁っていたそうです』。『もはや榊の木はなく、茶の木が塚を覆っています』。さても『「榊」の語源は「逆木」であった、というお話』があり、『柳田國男「日本の伝説」(昭和』一五(一九四〇)年三國書房刊)『によると』、三十『年ほど前までは、この男石(礫石のこと)の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました』。『伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭にしておいでになつたのを、ちよつと地に挿して置かれたものが、そのまま成長して大木になつた』。『それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びてゐるといひました』。『この木を「さかき」といふのも、逆木の意味で、ここがはじまりであつたと土地の人はいつております』とある。地図上では恐らくこの附近に存在するものと思われる(「礫石」の表示と画像有り)。

「賀瀨川」不詳、不審。作滝地区の北を流れるのは櫛田川であり、この名は倭姫命が櫛を落としたことに由来する古名で、「賀瀨川」という別名は持たない模様である。支流の名か? 「勢陽俚諺」の十巻を見ればいいのであろうが、三箇所の画像データは検索が出来ず、探すのにあまりに時間がかかるので諦めた。悪しからず。

「石馬」「いしうま」か「せきば」か読みに迷う。

「阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)」awa-otoko 氏のブログ「awa-otoko’s blog」の「大宜都比売命の御馬石(神山町 神領)」に、『古より神石として尊信せるのみならず、その古伝と能く符号せるを見れば、即ち大宜都比売命』(おおげつひめ:伊耶那岐・伊耶那美の子で、素戔嗚尊に惨殺された食物神の女神)『の来臨の霊地にして、阿波の国 開開闢の原地と考えられるべし』という前置きの後、『神山町神領』『上一宮大粟神社から南にある丹生というところに神代から伝わっている「御馬石」というものがあります』。『口碑によると』、『神代の昔、大宜都比売命が粟の国へ御来臨の時の遺跡で、即ち大神の乗用にあてられた神馬が化して石になったものと言い伝えられ、俗に御馬と称えて尊信されているのであります』。『この御馬石は昔より阿波に伝わる数々の文献に記載され、多くの参拝者があったと伝わります』。『●「丹生内有石、形似臥馬、名馬石。」(阿波志)』。『●「名西郡神領村の内白桃といふところに、馬石あり、其形は、彫りなせる馬の如し。大きさ常體の馬ほどなり。色は、薄黒く、河原毛に類す。尤も、鞍置馬にて、手綱まで粲にて、野中に乗り捨てたる形なり。」(阿州奇事雑話)』。『●「御馬石は、名西郡神領村御馬原といふところにあり、鞍鐙など、皆具して、膝を折り、伏し、見かへりたる形、少し遠ざけ見れば、誠に生けるかと疑はる。此所、野原ありしを、神石をかしこみて、木草を刈らず、自ら林をなし、遠方より今は見えざりし。即ち、近くに見るに、馬石の自然にして独座せり、首尾、鬣すぢなど妙なり。」(燈火録)』。『●「當村丹生内山へ大神御出あらせられる。(中略)其節、御馬に召され、候處、折節天火(をりふしてんか)にて、頻りに御馬近く山焼け来り、候に付、御召馬を石となし給ひける』。『今、其名馬の姿に相顕はれ、これを御馬石と申し、唯今、舊跡に御座候云々。」(上一宮大粟神社 神官 阿部氏に伝わる舊記)』と引用され、『このように数々の文献に記されていた御馬石に興味が湧くのは私にとって必然。阿波開闢の地をこの目で実際に見てみようと現地の方に聞きこみを開始致しました』とあって、苦心惨憺の末、遂に! 山中に、その御馬石(ポニーのような石がある!)を発見されるに至る過程が、写真附きで記されてあるのである! 必見!!! 位置としては現在の徳島県名西郡神山町(かみやまちょう)のこの附近であろうかと思われる。

「丹生(にふ)明神」「播磨国風土記」逸文に見える神で、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売(にうつひめ)神社の祭神。丹生都比売神・爾保都比売命(にほつひめのみこと)とも呼ぶ。伊耶那岐の娘とも、天照大神の妹ともされる。水銀産出に関わる神で、高野山の地主神として高野明神とともに祀られるているという。但し、前注引用の大宜都比売とは異なる神である。

「岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社」現在の福島県会津若松市河東町(かわひがしまち)熊野堂(くまのどう)村内甲(むらうちこう)にある熊野神社であろう。

「駒形原」「耶麻(やま)郡鹽川村」自信はないが、或いは候補地の一つは福島県喜多方市塩川町新江木字駒形附近(ここはYahoo!地図データ)ではないか?  但し、「三寶荒神社」らしきものは現認出来ない。]

2019/04/11

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(7) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(1)

 

《原文》

馬ニ騎リテ天降ル神 或家又ハ或地方ニ於テ白馬又ハ葦毛ヲ飼ハザル風習ハ、何レモ神祇ノ信仰ニ基クモノナルコトハ略確實ナルガ、其由來ニ至リテハ表裏相容レザル二種ノ說明アリ。即チ一ハ白馬ハ神ノ乘用ナルガ故ト謂ヒ、他ノ一ハ神此毛ノ馬ヲ好ミタマハズト謂フモノナリ。神ガ白馬ヲ好ミタマハヌ故ニ氏子モ之ヲ嫌フト云フ說ハ、近世ノ人ニハ通用宜シケレドモ、ソレダケニ思想新シト見エタリ。有馬又ハ讚岐ニ於テ別段ノ來歷ヲ必要トシタルヲ見テモ明ラカナルガ如ク、淸クシテ美シキ白馬ヲ神ノ惡ミタマフト云フハ何分ニモ不自然ナリ。【齋忌】此ハ疑無ク忌ト云フ語ノ意味ガ時世ト共ニ變遷シタル結果ニシテ、多クノ森塚巖石等ニ就キテモ之ニ似タル例アリ、即チ元ハ神ノ物トシテ其淸淨ヲ穢スマジトシタル忌ヨリ、轉ジテ神ガ枝葉ヤ土石ヲ採リ去ルヲ惜シムト云フ風ニ考ヘシト同ジク、神ガ凡人ノ之ヲ持ツヲ忌ムヲ自分モ欲セラレザルガ故ト察スルニ至リシナリ。多クノ社ノ神ガ白キ馬ノ嫌ヒデ無カリシ證據ハ今更之ヲ列擧スルニモ及ブマジ。神馬トシテ之ヲ奉納スル風習ハ弘ク行ハレ居タリシノミナラズ、御神體ニモ騎馬ノ像イクラモ有リテ、其馬ノ毛色若シ分明ナリトスレバ大抵ハ白ナリ。【騎馬神像】此序ニ言ハンニ、諸國ノ御神體ニ騎馬ノモノ多キハ決シテ輕々ニ見ルべキ現象ニハ非ズ。佛像ニモ勝軍地藏ノ如キハ必ズ馬上ノ御姿ナリ。此等ハ中世ノ武家ガ今ノ人ヨリモ馬ヲ愛シタリシ爲ナドト簡單ニ解釋シ去ル事能ハザル事實ナリ。

 

《訓読》

馬に騎(の)りて天降(あまくだ)る神 或る家又は或る地方に於いて、白馬又は葦毛を飼はざる風習は、何れも神祇の信仰に基づくものなることは略(ほぼ)確實なるが、其の由來に至りては、表裏相容れざる二種の說明あり。即ち、一つは「白馬は神の乘用なるが故」と謂ひ、他の一つは「神、此の毛の馬を好みたまはず」と謂ふものなり。神が白馬を好みたまはぬ故に、氏子も之れを嫌ふと云ふ說は、近世の人には通用宜(よろ)しけれども、それだけに「思想、新し」と見えたり。有馬又は讚岐に於いて別段の來歷を必要としたるを見ても明らかなるがごとく、淸くして美しき白馬を神の惡(にく)みたまふと云ふは、何分にも不自然なり。【齋忌(さいき)】此れは疑ひ無く「忌(いみ)」と云ふ語の意味が、時世と共に變遷したる結果にして、多くの森塚・巖石(いはほいし)等に就きても之れに似たる例あり。即ち、元は神の物として其の淸淨を穢(けが)すまじとしたる忌(いみ)より、轉じて、神が枝葉や土石を採り去るを惜しむと云ふ風に考へしと同じく、神が、凡人の之れを持つを忌むを、自分も欲せられざるが故と察するに至りしなり。多くの社の神が白き馬の嫌ひで無かりし證據は、今更、之れを列擧するにも及ぶまじ。神馬として之れを奉納する風習は弘く行はれ居たりしのみならず、御神體にも、騎馬の像、いくらも有りて、其の馬の毛色、若(も)し、分明なりとすれば、大抵は「白」なり。【騎馬神像】此の序でに言はんに、諸國の御神體に騎馬のもの多きは、決して輕々に見るべき現象には非ず。佛像にも勝軍地藏(しようぐんぢざう)のごときは、必ず、馬上の御姿なり。此等は中世の武家が今の人よりも馬を愛したりし爲め、などと簡單に解釋し去る事、能はざる事實なり。

[やぶちゃん注:「齋忌」狭義には祭りの前に行う物忌み、神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ることを指す。

「勝軍地藏」時代的には鎌倉時代以後に武家の間で信仰された、これに祈れば戦に勝つという地蔵の一種。小学館「日本国語大辞典」には、『一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという地蔵菩薩。鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているもの。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などをまぬがれるという』とする。]

2019/04/09

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(6) 「毛替ノ地藏」(2)

 

《原文》

 一體馬ノ毛色ト云フモノハ如何ナル程度ニ迄變化シ得ルモノナルカ、自分ハ聊カモ之ヲ實驗シタルコトハ無ケレドモ、葦毛ハ兎ニ角黑ヤ栗毛ノ類ノ馬ガ一朝ニシテ白馬トナルト云フニ至リテハ、之ヲ傳說ト見ルノ外無キナリ。藝州嚴島ノ神馬ハ平日ハ厩ニ繫ギ明神遊幸ノ折ハ之ヲ儀杖ノ列ニ加フルモノナリ。此神馬ハ如何ナル毛色ノ馬ヲ獻納シテモ、次第ニ毛ヲ替ヘテ一二年ノ間ニハ必ズ純白トナルト信ゼラレタリ〔藝藩通志〕。此等ハ特ニ此宮ノ神德ニ由リテノミ說明スルコトヲ得べキ話ナリ。之ト近キ一例ハ尾張國ニモアリキ。【熊阪長範】愛知郡天白(テンパク)村島田ノ東方ナル定納山(ヂヤウナウヤマ)ト云フニ、熊阪長範ノ厩ノ跡ト云フ處アリテ、今モ其小字ヲ厩内(マヤノウチ)ト呼べリ。【地藏】古クハ程遠カラヌ路傍ニ有名ナル地藏堂アリ。長範ガ白キ馬ヲ盜ミ來レバ、一夜ノ中ニ之ヲ黑馬ニシテ本ノ主ノ眼ヲ暗マス。此地藏ヲ毛替地藏ト稱ヘシハ此ノ如キ不名譽ナル靈驗アリシ爲ナリト云フ。【雨乞】或ハ又雨地藏トモ名ヅケテ能ク雨乞ノ祈願ヲ容レタリトモ傳ヘタリ〔尾張志〕。熊阪長範ハ謠ニテハ越前ノ人ト稱スレドモ或ハ又信州上水内郡信濃尻(シナノジリ)村大字熊阪ヲ以テ其鄕里トスル說アリ。野尻ノ湖水ノ岸ヨリ見ユル峠ヲ長範阪ト云ヒ、其山ヲモ今ハ長範山ト云フ。長範ハ此山中ニ隱レ住ミ夜ハ里ニ出デテ馬ヲ盜ム。其馬ヲ月毛ハ栗毛ニ染メ栗毛ハ黑ニ塗替ヘテ、再ビ市ニ曳出シ之ヲ賣飛バス。其染場ノ跡ト云フ地アリテ礎永ク殘リタリ。【盜泉】多分ハ隣村ナドヨリノ惡評ナランモ、野尻ト熊阪トノ間ヲ流ルヽ關川ノ水ハ、之ヲ飮メバ盜心ヲ生ズべシト唱ヘラレテアリキ〔眞澄遊覽記三〕。但馬養父郡大藏村大字堀畑ニモ長範屋敷ト云フ小字アリ。長範曾テ此地ニ住ムト傳ヘテ泉アリ。此ニハ染物ノ口碑ハ存セザルモ、此水ヲ飮ム者ハ盜心ヲ生ジ、馬牛ニ飼ヘバ性惡シクナルト云フ俗信アリテ、今モ之ヲ用ヰル者ナシ〔但馬考〕。長範ホドノ大盜人ガ刷子ヲ持チテ内職ヲシタリトモ思ハレザレドモ、兎ニ角馬ノ毛ヲ替フルト云フ話ハ彼ト何カノ因緣アルべシ。【染屋】或ハ一種ノ染工ヲ賤シキ部落トシテ取扱ヒシ遺風ナルカモ測リ難ケレド、之ヲ神佛ノ力ニ基クトスルモノニ至リテハ、恐クハ亦彼ノ七驄八白ノ思想ト關係アルべク、兼テ又神馬ノ毛ノ色ヲ選ビタリシ大小ノ神社ノ古例ヲ說明スルモノトモ見ルコトヲ得べキナリ。【田村將軍】磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺ノ觀世音ハ、カノ田村將軍ノ祈願ニ因リ千ノ矢ヲ放チタマヒシ本尊ト云ヘリ。十四五里四方ノ人民牝馬ヲ牽來リ、其牝馬ノ生ム駒ノ牝牡毛色ヲ此靈佛ニ祈願スレバ、願ノ通リノ駒ヲ得ル奇瑞アリ。凡ソ此邊ヨリ出ル駒ニハ良馬多シトノコトナリキ〔行脚隨筆上〕。

 

《訓読》

 一體、馬の毛色と云ふものは如何なる程度にまで變化し得るものなるか、自分は聊かも之れを實驗したることは無けれども、葦毛は兎に角、黑や栗毛の類いの馬が、一朝にして白馬となると云ふに至りては、之れを傳說と見るの外、無きなり。藝州嚴島の神馬は、平日は厩に繫ぎ、明神遊幸の折りは、之れを儀杖(ぎじやう)の列に加ふるものなり。此の神馬は、如何なる毛色の馬を獻納しても、次第に毛を替へて、一、二年の間には必ず純白となると信ぜられたり〔「藝藩通志」〕。此等は特に此の宮の神德に由りてのみ說明することを得べき話なり。之れと近き一例は尾張國にもありき。【熊阪長範(くまさかちやうはん)】愛知郡天白(てんぱく)村島田の東方なる定納山(ぢやうなうやま)と云ふに、「熊阪長範の厩の跡」と云ふ處ありて、今も其の小字を「厩内(まやのうち)」と呼べり。【地藏】古くは、程遠からぬ路傍に有名なる地藏堂あり。長範が白き馬を盜み來たれば、一夜の中に之れを黑馬にして本の主(あるじ)の眼を暗(くら)ます。此の地藏を「毛替(けがはり)地藏」と稱へしは、此くのごとき不名譽なる靈驗ありし爲めなりと云ふ。【雨乞】或いは又、「雨地藏」とも名づけて、能く雨乞の祈願を容(い)れたりとも傳へたり〔「尾張志」〕。熊阪長範は謠(うたひ)にては越前の人と稱すれども、或いは又、信州上水内郡信濃尻(しなのじり)村大字熊阪を以つて其の鄕里とする說あり。野尻の湖水の岸より見ゆる峠を「長範阪」と云ひ、其の山をも今は「長範山」と云ふ。長範は、此の山中に隱れ住み、夜は里に出でて、馬を盜む。其の馬を、月毛は栗毛に染め、栗毛は黑に塗り替へて、再び、市に曳き出だし、之れを賣り飛ばす。其の染場の跡と云ふ地ありて、礎(いしづえ)、永く殘りたり。【盜泉】多分は隣村などよりの惡評ならんも、野尻と熊阪との間を流るゝ關川の水は、之れを飮めば盜心(たうしん)を生ずべしと唱へられてありき〔「眞澄遊覽記」三〕。但馬養父(やぶ)郡大藏村大字堀畑にも「長範屋敷」と云ふ小字あり。長範、曾つて此の地に住むと傳へて、泉あり。此(ここ)には染物の口碑は存せざるも、此の水を飮む者は盜心を生じ、馬牛に飼(か)へば[やぶちゃん注:牛馬の飲用水として与えると。]、性(しやう)惡しくなると云ふ俗信ありて、今も之れを用ゐる者なし〔「但馬考」〕。長範ほどの大盜人が、刷子(はけ)を持ちて内職をしたりとも思はれざれども、兎に角、馬の毛を替ふると云ふ話は彼(かれ)と何かの因緣あるべし。【染屋】或いは、一種の染工(せんこう)を賤しき部落として取り扱ひし遺風なるかも測り難けれど、之れを神佛の力に基づくとするものに至りては、恐らくは亦、彼(か)の「七驄八白」の思想と關係あるべく、兼ねて、又、神馬の毛の色を選びたりし大小の神社の古例を說明するものとも見ることを得べきなり。【田村將軍】磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺の觀世音は、かの田村將軍の祈願に因り千の矢を放ちたまひし本尊と云へり。十四、五里四方の人民、牝馬を牽き來たり、其の牝馬の生む駒の、牝・牡・毛色を此の靈佛に祈願すれば、願ひの通りの駒を得る奇瑞あり。凡そ此の邊りより出づる駒には良馬多しとのことなりき〔「行脚隨筆」上〕。

[やぶちゃん注:「愛知郡天白(てんぱく)村島田」現在の愛知県名古屋市天白区島田はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、その東に少し離れた「天白公園」も天白町大字島田とあるので、この周辺だろうと思われるが、既に市街地化が進んでおり、山らしいものは見えない。愛知県名古屋市緑区定納山があるが、位置がずっと南方で違い過ぎる。検索ワード「定納山 長範」で調べても掛かって来ない。但し、天白区島田には曹洞宗地蔵寺があり、熊坂長範所縁として、毛替地蔵が現存する。同寺公式サイトによれば、嘉吉二年(一四四二)年に福井の大本山永平寺から樵山和尚が当地に来て、島田山広徳院として建立した寺とし、「毛替地蔵(けがえじぞう)」は、『昔、このあたりに熊坂長範(くまさかちょうはん)という大泥棒がいたそうです。ある日、金持ちの馬を盗み、売ろうと馬市に出掛けましたが、見つかって売れません』。『そこで、お地蔵様に「この馬を何とか売らせて下さい」と一心に願ったそうです』。『すると』、『一夜にして馬の毛色が変わり、売れども』、『人に怪しまれません。恩義を感じた長範はこのお金を貧しい人に分け与えました。それ依頼、この地蔵様は「毛替地蔵」とよばれるようになったそうです』。『今も美しい髪を願う人はもとより、子供さんのこと、仕事のことで悩む人々が、このお地蔵様のもとへ数多く訪れています』とある。小学館「日本大百科全書」の「熊坂長範」によれば、『生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に』よれば、七『歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った』が、承安四(一一七四)年の『春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚』『は、義経』『モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。謡曲』「烏帽子折(えぼしおり)」や「熊坂」、能狂言「老武者、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」は『長範を扱って有名』とある。なお、この毛替地蔵は「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)の作とされる。

『「熊阪長範の厩の跡」と云ふ處ありて、今も其の小字を「厩内(まやのうち)」と呼べり』池田誠一氏の「名古屋幻の古代道路/歴史紀行9」(PDF)の「(3)古代駅家の跡?」に、『島田の少し東、鳴海丘陵のふもとの天白公園の北に、奈良から平安時代の中頃までの陶器がたくさん散布していた遺跡があります。石薬師 B 遺跡と名付けられたこの遺跡は、散布している大量の平安時代陶器の中に緑釉陶器が含まれていたため、古代の公的な施設の跡ではないかと推定されています。『尾張志』では、島田村の項に、「此厩之内という地名は上古駅家のありけむ旧地にやあらむ…」と、地名の「厩(うまや)」からいうと古代の道路の駅家だったのではないかとし、現地の広さもそれに当たるとしているのです』。昭和5七(一九八二)年、『この地を発見、調査した三渡俊一郎氏(その後名古屋考古学会会長)は、この遺跡からは平安時代後期に大量に流通した山茶碗が出土しないことに注目しました。出土物が奈良から平安中期という古代幹線道路が維持されていた時期に当てはまることからも、ここは山田郡の両村駅に比定できると考えたのです。島田は、古渡と推定した新溝駅の次の駅家の候補地として、名古屋の古代道路を考える上での重要な地点になりました』とあることで、この旧地名を確認出来る

「信州上水内郡信濃尻(しなのじり)村大字熊阪」現在の長野県上水内(かみみのち)郡信濃町(まち)大字熊坂国土地理院図で見ると、この熊坂の南方直近、野尻湖北方に「長範山」を確認出来、そのすぐ南が現在の野尻峠(こちらはグーグル・マップ・データ。以下同じ)であるから、この別称か、その北方に連なる峠を「長範阪」と呼んだものかも知れない。

「野尻と熊阪との間を流るゝ關川」地名と川名の両方で残る

「但馬養父(やぶ)郡大藏村大字堀畑」現在の山陰本線養父駅のある兵庫県養父市堀畑(ほりはた)であろう。

『「長範屋敷」と云ふ小字あり』確認出来ない。

「長範ほどの大盜人が、刷子(はけ)を持ちて内職をしたりとも思はれざれども」南方熊楠ばりのおちゃらかしの洒落である。

「染工(そめこう)を賤しき部落として取り扱ひし遺風」藍染め業者は「青屋(あおや)」「藍染め屋」「紺掻(こんかき)」等と呼んだが、中世以降から江戸中期まで、関西地方、殊に京都に於いて差別視されていた。京都町奉行は当初はこの青屋に牢番や死刑囚の処理などの「青屋役」を課していたのである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺の觀世音」これは現在の福島県田村郡小野町(おのまち)小戸神日向(おとかみひむき)にある浄土宗東堂山満福寺の誤りである(本尊は阿弥陀如来であるが、脇侍が観音菩薩と勢至菩薩で、本堂と別に観音堂があり、観音信仰の霊場でもある次注参照)。ここ

「かの田村將軍の祈願に因り千の矢を放ちたまひし本尊と云へり」「小野町史 民俗編」PDF)の六〇〇~六〇一ページに同寺の記載があり、その「縁起」の部分に、開山伝承として、平安初期の延暦二〇(八〇一)年に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐の際、『霧島岳(大滝根山)を根城として悪逆非道の限りを尽くしていた悪党大多鬼丸一味の退治に先立ち、日頃』から『信心』していた『観音菩薩に「能救世苦」の祈願をし、出陣したところ』、たちどころに、『全山鳴動』して『士気百倍』、『連戦連勝した』とあり、『戦死した将兵』や『愛馬の追善供養と観音さまへの感謝の心から、法相宗』の『高僧徳一を勧請して大同二年(八〇七)』、『榧(かや)の木の一木彫りの観音像を作り』、『開山したと伝える』とある。さらに、『馬の守護神として、東堂山は県内各地から信心され、絵馬なども沢山奉納されたであろう。中でも洋人曳馬図は、県の重要文化財にも指定されている立派なものである』とあり、馬との強い親和性のある寺であることも判った(太字下線は私)。]

2019/04/07

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(5) 「毛替ノ地藏」(1)

 

《原文》

毛替ノ地藏 白馬ト葦毛トノ混同ハサマデ古クヨリノ事ニハ非ザルべシ。萬葉集ニハ大分靑馬ト書キテ「アシゲウマ」、和名鈔ニハ說文ヲ引キテ葦毛ハ靑白雜毛ノ馬也ト謂ヒ、又漢語抄ヲ引キテ靑馬ナリトモ見ユ。新撰字鏡ニハ驄ハ馬白色又靑色、阿乎支馬(アヲキウマ)ト釋シタリ。葦毛ノ漢字ヲ驄ト云フモ亦同ジ理由ニ基クモノナリ。驄ハ即チ葱(ネギ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]ノコトニテ、本白クシテ末靑ク其色ノ最モ美シキヲ葱ニ譬ヘタルナリ〔相驥經二其他〕。併シ葦毛モ必ズシモ一種ニハ非ザリシガ如ク、現今葦毛ト呼ブ馬ノ中ニハ靑ヨリモヨホド灰ニ近キモノアリ。古クハ源平盛衰記ナドニモ靑葦毛白葦毛ト云フ語折々見ユ。【白馬節會】朝廷新年ノ儀式ニ有名ナル白馬節會ニハ、後世ハ葦毛ノ駒ヲ曳クヤウニナリタルガ、日本語ニテハ、白馬節會ヲ「アヲウマ」ノ節會ト訓マセタリ。伴信友翁ノ說ニ依レバ、此節會ニハ最初ハ今日ノ「アヲ」即チ鐵駿馬(クロミドリ)[やぶちゃん注:三字へのルビと採る。]ヲ曳キタリシガ、後ニ白馬ヲ用ヰルコトヽナリ、更ニ葦毛ヲ以テ之ニ換ヘラレタルナラント云フコトナレドモ〔比古婆衣九〕、未ダ安心シテ之ニ從フコト能ハズ。白馬ヲ神聖ナル物トスルハ、本來支那ノ思想ナガラ、我邦ニテモ頗ル古キ代ヨリノ風ナリ。或ハ白馬ヲ馬ノ性ノ本ナリト謂ヒ、地ニ白馬アルハ天ニ白龍アルガ如シトモ言フ說アリ。天子ニ限リテ之ヲ用ヰラルヽト云フモ恐クハ其爲ナラン。素問ノ書ニモ馬ヲ西方ノ白色ニ配シ、其類ハ金、其穀ハ稻、天ニ上リテ大白星ト爲ルト說キタリ〔弘賢隨筆五十七〕。思フニ白馬ノ珍重セラレタル根本ハ、ヤハリ純粹ノ物ノ得難カリシ爲ニシテ、其爲ニ又夙クヨリ葦毛ヲ以テ之ニ代用スルノ必要ハアリシナランカ。而シテ葦毛バカリガ白馬ノ代リトシテ用ヰラレタルモ、單ニ其色ノ美シク且ツ最モ近カリシ爲ノミニ非ズ、此馬ノ毛ガ年ト共ニ變化シテ恐クハ追々白勝チニ成ルコトヲ實驗シタル結果ナラント思考ス。【七驄八白】所謂七驄八白ノ說ハ古クハ埤雅ト云フ書ニ見エタリ。葦毛ハ八歳ニナレバ色變ジテ白馬トナルヲ謂フナリ〔華陽皮相其他〕。駿府ノ猿屋傳書ノ馬ノ毛色ノ說ニモ葦毛ノミハ全ク別物ニシテ五行ニ配スべカラズト謂ヘルハ、此馬ノ毛色ノ屢變リテ不定ナルヲ不思議トシタル爲ナルべシ。

 

《訓読》

毛替(けがへ)の地藏 白馬と葦毛との混同は、さまで古くよりの事には非ざるべし。「萬葉集」には、大分、「靑馬」と書きて「あしげうま」、「和名鈔」には「說文」を引きて『葦毛は靑白雜毛の馬なり』と謂ひ、又、「漢語抄」を引きて『靑馬なり』とも見ゆ。「新撰字鏡」には『驄(そう)は、馬、白色。又、靑色。阿乎支馬(あをきうま)』と釋したり。葦毛の漢字を「驄」と云ふも亦、同じ理由に基づくものなり。「驄」は、即ち、「葱(ねぎ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]」のことにて、本(もと)、白くして、末、靑く、其の色の最も美しきを葱に譬へたるなり〔「相驥經(さうききやう)」二・其の他〕。併し、葦毛も必ずしも一種には非ざりしがごとく、現今、葦毛と呼ぶ馬の中には、靑よりも、よほど、灰に近きものあり。古くは「源平盛衰記」などにも「靑葦毛」「白葦毛」と云ふ語、折々見ゆ。【白馬節會(あをうまのせちゑ)】朝廷新年の儀式に有名なる「白馬節會」には、後世は葦毛の駒を曳くやうになりたるが、日本語にては、「白馬節會」を『「あをうま」の節會』と訓(よ)ませたり。伴信友翁の說に依れば、此の節會には最初は今日の「あを」、即ち、鐵駿馬(くろみどり)[やぶちゃん注:三字へのルビと採る。]を曳きたりしが、後に、白馬を用ゐることゝなり、更に、葦毛を以つて之れに換へられたるならんと云ふことなれども〔「比古婆衣(ひこばえ)」九〕、未だ安心して之れに從ふこと、能はず。白馬を神聖なる物とするは、本來、支那の思想ながら、我が邦にても頗る古き代よりの風なり。或いは「白馬を馬の性(しやう)の本(もと)なり」と謂ひ、「地(ち)に白馬あるは、天に白龍あるがごとし」とも言ふ說あり。天子に限りて之れを用ゐらるゝと云ふも、恐らくは其の爲めならん。「素問(そもん)」の書にも、馬を西方の白色に配し、其の類は「金」、其穀は「稻」、天に上りて「大白星」と爲ると說きたり〔「弘賢隨筆」五十七〕。思ふに、白馬の珍重せられたる根本は、やはり、純粹の物の得難かりし爲めにして、其の爲めに又、夙(はや)くより、葦毛を以つて、之れに代用するの必要はありしならんか。而して、葦毛ばかりが白馬の代りとして用ゐられたるも、單に其の色の美しく、且つ、最も近かりし爲のみに非ず、此の馬の毛が年と共に變化して、恐らくは、追々、白勝(しろが)ちに成ることを、實驗したる結果ならんと思考す。【七驄八白(しちそうはつぱく)】所謂、「七驄八白」の說は、古くは「埤雅(ひが)」と云ふ書に見えたり。「葦毛は、八歳になれば、色、變じて、白馬となる」を謂ふなり〔「華陽皮相」其他〕。駿府の「猿屋傳書」の馬の毛色の說にも、『葦毛のみは、全く別物にして、五行に配すべからず』と謂へるは、此の馬の毛色の、屢々(しばしば)變りて不定なるを不思議としたる爲めなるべし。

[やぶちゃん注:(見出し「毛替の地藏」は出現する後の段落で注する)『「和名鈔」には……』「和名類聚鈔」の巻十一の「牛馬部第十六 牛馬毛第百四十九」に、

   *

騘馬 「説文」云、騘【音、「聡」。「漢語抄」云、「騘」、靑馬也。黃騘馬、葦花毛馬也。「日本紀私記」云、「美太良乎乃宇万」。】靑白雜毛馬也。

   *

とある。この「騘」は「驄」の異体字である。「美太良乎乃宇万」は「みだらをのむま」と読む。原稿、「靑馬」=「白馬」と同義と解釈されている。

「白馬節會」しばしば古語の難読字とされる「あを(お)む(う)まのせちゑ(え)」。奈良時代頃から行われた宮中の年中行事で、正月七日、天皇が紫宸殿又は豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、左右の馬寮(めりょう)から引き出された二十一頭の「青馬(あおうま)」を検閲する儀式。「青馬」は白又は葦毛の馬で、この日に青馬を見れば、その年の邪気を避けられるという中国の風習に倣ったものであった。以前は発音通りに「靑馬」と書いていたが、村上天皇(在位:延長四(九四六)年~康保四(九六七)年)の時、表記を「白馬」と書き改めた。但し、読みは以前の「あを(お)うま」のままであり、馬の色が変わったのではなく、ただ、上代の色彩感が平安時代になって変化して白を重んじるようになった行事の日本化の結果であるという。平安時代には儀式も整い、初めに「御弓奏(みたらしのそう)」・「白馬奏(あおうまのそう)」が行われ、後に諸臣に宴が設けられた。平安末頃から行事自体が衰え、「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)で中絶したが、明応元(一四九二)には再興され、明治初年まで行われた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「伴信友」(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)江戸後期の若狭生れの国学者で歌人。小浜藩士伴平右衛門の養子となり、藩侯酒井家に仕えたが、四十九歳の時、病気により致仕、以後、専ら学問に努めた。本居宣長の没後の門人。古典の考証を得意とし、仮名(かな)の各種字体を集め、その字源を明らかにし、また、神代文字の存在を否定した。ここに引く「比古婆衣」は考証随筆で全二十巻。伴信友の書き残したものを死の翌年から幕末・明治にかけて刊行したもの。国史・言語・故事などについての考証を集成する。

「素問」現存する中国最古の医学書とされる「黄帝内経(こうていだいけい)」の一部。前漢に成立したとされ、古くは「鍼経」九巻と「素問」九巻があったとするが、これら九巻本は孰れも散逸して現存せず、現在は唐の王冰(おうひょう)の編纂した「素問」と「霊枢(れいすう)」が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め、幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから「素問」と呼ばれ、問答形式で記述されている。「霊枢」は「鍼経」の別名とされ、「素問」が基礎理論的なものであるのに対し、「霊枢」は実践的・技術的に記述されているという(以上はウィキの「黄帝内経」に拠った)。

『馬を西方の白色に配し、其の類は「金」、其穀は「稻」、天に上りて「大白星」と爲る』馬と五行思想はここに書かれているのとはかなり齟齬するが、私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」が一つの通例説の参考にはなる。因みに、この古書記載よりも、後の『駿府の「猿屋傳書」の馬の毛色の說』として出す、『葦毛のみは、全く別物にして、五行に配すべからず』として「此の馬の毛色の、屢々(しばしば)變りて不定なるを不思議としたる爲め」という柳田國男の説明の方が遙かにしっくりくる。

「此の馬の毛が年と共に變化して、恐らくは、追々、白勝(しろが)ちに成ることを、實驗したる結果ならんと思考す」この柳田國男の考察は妙に民俗学的に辛気臭くなく、プラグマティクで共感出来る。

「七驄八白(しちそうはつぱく)」「河童駒引」の「猿舞由緖」で既出既注。

「埤雅」北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明した書。]

2019/04/05

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(4) 「白馬ヲ飼ハヌ村」(2)

 

《原文》

 村ニ白馬ヲ置カシメザル理由ニ至リテモ、地方ニ由リ些シヅツノ相違アリ。武藏入間郡高麗村大字新堀(ニヒホリ)大宮ニテハ、今モー般ニ白毛ノ馬ヲ飼ハズ。【白髭】此村ハ上代高麗人ノ殖民地ニシテ、祖神トシテ白髭明神ヲ祀レリ。其氏子ナルガ故ヲ以テ村人モ白馬ヲ忌ムナリト云フ〔東京人類學會雜誌第二百十六號柴田氏〕。【若宮八幡】橫濱市本牧町本鄕ノ若宮八幡宮ノ神體ハモト白馬ニ乘リタル神像ナリキ。此地ノ農民ハ夫ガ爲ニ嚴ニ白馬ニ乘ルコトヲ戒メタリ〔新編武藏風土記稿〕。【海邊ノ牧】本牧ハ即チ一箇海邊ノ馬牧ナレバ、此ノ如キ口碑ノ存スルハ偶然ニ非ザルべシ。【天智天皇】大隅囎唹郡東志布志村大字安樂ノ山口六社明神ハ天智天皇ヲ祀ルト傳ヘラル。此天皇ノ傳說ハ弘ク鹿兒島縣ノ南海岸ニ分布シテ此ハ其一例ナリ。此神社ノ境内ニ於テハ昔ヨリ白馬ニ騎ルコトヲ固ク戒ム。其禁ヲ犯セバ必ズ災アリ。白馬ハ此神ノ乘用ナリシガ爲ナリト言ヒ傳フ〔三國名勝圖會〕。【白山】【黑駒】之トハ正反對ニ薩摩川邊郡川邊(カハナベ)村大字淸水ノ白山權現ノ神體ハ、黑キ馬ニ騎リタマヘル像ナルガ故ニ、村中ノ民ヲシテ白馬ヲ飼ハシメズ〔同上〕。【平家谷】土佐ノ山中ニハ平家隱里ノ傳說多シ。【白旗】之ト伴ヒテ又所謂白旗傳說アリ。日向ノ那須山ナドニテハ山櫻ノ花ノ盛リヲ見テ源氏ノ旗影カト誤リシト傳ヘタルニ、【白鷺】此地方ニテハ、何レモ白鷺ノ飛ビ揚ルヲ白旗ト見誤リテ一族悉ク自殺シタリト語リ傳ヘタリ〔土佐州郡志〕。此國兩家村ノ平家谷ナドハ、此因緣ヨリ今以テ所謂不入山(イラズヤマ)ノ禁令固キノミナラズ、白馬ヲ曳キ又ハ白キ手拭モテ頰冠リシタル者ハ、此山ヲ過グルコト能ハズト云フ〔土佐國古雜志〕。白旗ト白鷺ニ就キテハ最モ多クノ傳說アリ。白キ衣ヲ著タル老女ヲ白鷺ト思ヒテ射殺シ、其他色々ノ物ニ見誤リテ後ノ災アリシ話ノ多キハ、何カ仔細アルコトナルべシ。

 

《訓読》

 村に白馬を置かしめざる理由に至りても、地方に由り些(すこ)しづつの相違あり。武藏入間郡高麗(こま)村大字新堀(にひほり)大宮にては、今もー般に白毛の馬を飼はず。【白髭】此の村は上代、高麗人(こまびと/こまうど)の殖民地にして、祖神として白髭明神を祀れり。其の氏子なるが故を以つて、村人も白馬を忌むなり、と云ふ〔『東京人類學會雜誌』第二百十六號・柴田氏〕。【若宮八幡】橫濱市本牧(ほんもく)町本鄕の若宮八幡宮の神體は、もと、白馬に乘りたる神像なりき。此の地の農民は夫(それ)が爲に、嚴に白馬に乘ることを戒めたり〔「新編武藏風土記稿」〕。【海邊の牧】本牧は、即ち、一箇[やぶちゃん注:一つのれっきとした。]、海邊の馬牧(うままき)なれば、此(かく)のごとき口碑の存するは偶然に非ざるべし。【天智天皇】大隅囎唹(そお)郡東志布志(ひがししぶし)村大字安樂(あんらく)の山口六社明神は、天智天皇を祀ると傳へらる。此の天皇の傳說は、弘(ひろ)く鹿兒島縣の南海岸に分布して此れは其の一例なり。此の神社の境内に於いては、昔より白馬に騎(の)ることを固く戒む。其の禁を犯せば、必ず災ひあり。白馬は此の神の乘用なりしが爲なりと言ひ傳ふ〔「三國名勝圖會」〕。【白山】【黑駒】之れとは正反對に、薩摩川邊郡川邊(かはなべ)村大字淸水(きよみづ)の白山權現の神體は、黑き馬に騎りたまへる像なるが故に、村中の民をして白馬を飼はしめず〔同上〕。【平家谷】土佐の山中には平家隱里(かくれざと)の傳說、多し。【白旗】之れと伴ひて又、所謂、白旗(しらはた)傳說あり。日向(ひうが)の那須山などにては、山櫻の花の盛りを見て、源氏の旗影かと誤りしと傳へたるに、【白鷺】此の地方にては、何(いづ)れも白鷺の飛び揚るを白旗と見誤りて、一族悉く自殺したりと語り傳へたり〔「土佐州郡志」〕。此の國、兩家村の平家谷などは、此の因緣より、今、以つて、所謂、「不入山(いらずやま)」の禁令、固きのみならず、白馬を曳き、又は、白き手拭(てぬぐひ)もて頰冠(ほおかむ)りしたる者は、此の山を過ぐること能はずと云ふ〔「土佐國古雜志」〕。白旗と白鷺に就きては、最も多くの傳說あり。白き衣を著たる老女を白鷺と思ひて射殺(いころ)し[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は『射チ殺シ』とするが、従えない。]、其の他、色々の物に見誤りて、後の災ひありし話の多きは、何か仔細あることなるべし。

[やぶちゃん注:「武藏入間郡高麗(こま)村大字新堀(にひほり)大宮」現在の埼玉県日高市高麗本郷(グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「橫濱市本牧(ほんもく)町本鄕の若宮八幡宮」之は現在の横浜市中区本牧和田にある本牧神社内の境内社である若宮八幡宮(鎌倉幕府成立以前から本牧に祀られていたとされ、源頼朝や惟康親王など崇敬を受けた。海岸に流れ着いた大日孁女貴命(おおひるめのみこと=天照大神)像を、弘長三(一二六三)年に奉斎して本郷村の総鎮守としたと伝える)を指すと考えられる。但し、かつてはここではなく、北東海浜の「十二天社」地区にあった丘の上にあったもので、ここもその旧地と考えねばならない。詳しい経緯はウィキの「本牧神社」を見られたいが、ここには例祭として「お馬流し神事」があり、『茅を編み込んで作った』、「お馬」と『呼ばれる馬頭亀体の人形に厄災をのせて、根岸湾に流す 神事で』、室町時代の永禄九(一五六六)年から『行われていると伝えられている。お馬は旧本牧六ヵ村と呼ばれる間門、牛込、原、宮原、箕輪、台にひとつずつ、計』六『体が「やぶ」という屋号をもつ氏子によって製作され、例祭初日の』「お馬迎え式」と『呼ばれる儀式と共に神社に奉納される。翌日』、「お馬送り式」の『儀式と共に奉戴車に乗せられたお馬は、本牧漁港から祭礼船に載せ替えられ、根岸湾の沖合で流される。お馬を流した祭礼船は、各船が競い合って港へと戻る』。『お馬流しは「ハマの奇祭」と呼ばれることもあるが』、『國學院大學伝統文化リサーチセンターによる調査は、その起源は鎌倉時代に本牧にある和田山が軍馬の放牧地であった地域的特性に関わっている、と指摘している』とある。本文の「馬牧」のそれである。

「大隅囎唹(そお)郡東志布志(ひがししぶし)村大字安樂(あんらく)の山口六社明神」現在の鹿児島県志布志市志布志町安楽にある山宮神社の旧称。ウィキの「山宮神社」によれば、『社伝によると』、和銅二(七〇九)年の創建で、大同二(八〇七)年に近隣の六社を『合祀して「山口六社大明神」と名乗っていた』が、明治二(一八六九)年の廃仏毀釈以降は『現在の山宮神社に改称』したとする。『現在』、『建築物などは新しくなっているが』、『宝物は平安時代からの物も含め多数にのぼり、かなり古くに創始された神社ではないかと思われる』とある。

「天智天皇を祀る」上記ウィキによれば、祭神は天智天皇・持統天皇・玉依姫・大友皇子・乙姫・倭姫とある。

「此の天皇の傳說は、弘(ひろ)く鹿兒島縣の南海岸に分布して此れは其の一例なり」古賀達也氏の論文『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』がよい。

「薩摩川邊郡川邊(かはなべ)村大字淸水(きよみづ)の白山權現」場所は既出で、現在の鹿児島県南九州市川辺町清水であるが、同明神社は確認出来ない。

「日向(ひうが)の那須山」不詳。但し、高い確率で、平家落人伝説の地で、後に那須氏が支配した宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)の域内或いはその周辺(東直近県外(熊本県八代市泉町樅木)には同じ落人伝説で知られる五家荘(ごかのしょう)がある)もにある山の異名ではないかと思われる。

「此の國、兩家村の平家谷」文脈から「此の國」は土佐としかとれないから、安徳天皇が落ちのびたとされて墓もある、高知県高岡郡越知町(おちちょう)としか思われないが、ここを「平家谷」とは呼ばないように思う。「兩家村」とは合併して「越知村」となった越知村・野老山(ところやま:と読むか)村を指すか。

「不入山(いらずやま)」癖地(くせち-:所有したり、立ち入ったりすると不幸があると信じられている土地)の一つで、入ると出られなくなるといい、行くことを忌む山。四国地方に多い。藩命で入山を禁止した保護山林もこう呼ぶ。]

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