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カテゴリー「柳田國男」の215件の記事

2019/02/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(4)

 

《原文》

川牛   淵ハ兎ニ角ニ怖シキ處ナリ。アノ紺靑ノ水ノ底ニハ動物學ノ光モ未ダ透徹シ得ザルガ如ク、此外ニモ非常ナル物之ニ住ムト云ヘリ。【犀】例ヘバ信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獸住ム。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ゴフクジ)ノ古傳ニハ、此邊古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乘リテ下降シ、巖石ヲ切開キテ今ノ流ト爲シタリト云ヒ〔日本宗教風俗志〕、【蹴裂】或ハ又泉小太郞犀ニ乘リテ三淸路(サンセイヂ)ノ岩ヲ突破リ、又水内橋(ミノチバシ)ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀口ト云フ處ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ〔信濃奇勝錄〕。近江ニテハ今ノ愛知郡葉枝見(ハエミ)村大字新海ノ川尻ニ、昔ハ深キ淵アリテ犀龍住メリ。弘安中黑井覺海ナル者此地ニ來リテ件ノ犀龍ヲ亡シ、淵ヲ埋メテ田地ト爲シ新開村ト號シ、己モ新開氏ヲ稱セリ。【道ノ神】同ジク東淺井郡虎姫(トラゴゼ)村大字大寺、正八幡ノ境内ニ昔ヨリ犀ケ窪ト云フ處アリ。今ハ田地ノ字トナル。曾テハ此地大ナル淵ニシテ老犀住ミテ往來ノ人ヲ惱マス。淺井備前守ノ家士ニ入海彦之庄司ト云フ者、彼ノ犀ヲ捕ヘテ既ニ之ヲ殺サントス。犀誓ヒテ此地ヲ去ルトアレバ、此亦謝罪ヲ以テ助命ヲ得タルナルべシ。彦根町長光寺裏ノ外濠ヲ犀ケ淵ト云フ。【盡キヌ泉】水湧キ出デ大旱ニモユルコトナシ。北靑柳村大字長曾根等ノ堰水ト爲ス〔以上淡海木間攫〕。遠江濱松ノ北方ニモ、犀ト云フ獸ノ出デタルニ困ツテ犀ケ崖ト呼ブ處アリ。三方原南端ノ壁ニシテ樹木ニ隱レテ下ヲ流ルヽ水アリ。元龜ノ有名ナル古戰場ナリ〔遠江風土記傳〕。東京ニテハ早稻田ノ西北ニ亦一箇ノ犀ケ淵アリテ、現ニ百年バカリ前マデ、時々「サイ」ノ出現セシコトアリ。高田ノ面影橋ノーツ上流ニシテ但馬橋ノ下ナリ〔十方菴遊歷雜記三編中〕。今ハ附近ニ下宿屋ナド出來タレド、ツイ先頃マデハ物凄キ魔所ナリキ。薄暮ニ水中ヨリ半身ヲ顯ハスヲ遠ク望ミ見タル者アリト稱シ、或ハ幅三間バカリノ小川ナレバ獸トシテハ調子ガ合ハヌヨリ、「サイ」ト稱スル惡魚ナドトモ記載シタル者アリ。日本ニハ犀ハ居ラヌ筈ナリ。【水牛】犀ハ山野ニ住ム獸ナレドモ、別ニ水犀ト稱シテ三本ノ角アル者ハ水牛ニ似タリト支那ノ書ニ見ユル由、朝鮮ニテハ犀ヲ誤ツテ水牛ノコトヽ解スル者アリト云ヘリ〔雅言覺非三〕。日本ニテモ或ハ亦此誤訓ヲ傳ヘタルモノカ。但シ臺灣ノ外ニハ今ハ犀ト誤ルべキ水牛モ存在セザレバヨホド不思議ナリ。【道祖土】蓋シ「サヘ」又ハ「サヘト」ハ、往古境ノ神ヲ祭リシ畏ロシキ場處ノコトナレバ、或ハ此ガ爲ニ「サイ」ト云フ怖ルべキ一物ヲ作リ出シ、之ヲ處々ノ碧潭ニ住マシムルニ至リシヤモ亦測ルべカラズ。

 

《訓読》

川牛(かはうし)   淵は兎に角に怖しき處なり。あの紺靑(こんじやう)の水の底には動物學の光も未だ透徹(とうてつ)し得ざるがごとく、此の外にも非常なる物、之(ここ)に住む、と云へり。【犀】例へば、信濃の犀川には「犀」と云ふ獸(けもの)、住む。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)の古傳には、此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)、犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したりと云ひ〔「日本宗教風俗志」〕、【蹴裂】或いは又、泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀るとも語り傳へたり〔「信濃奇勝錄」〕。近江にては、今の愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)の川尻に、昔は深き淵ありて、「犀龍」、住めり。弘安中[やぶちゃん注:一二七八年~一二八七年。]、黑井覺海なる者、此の地に來りて件(くだん)の犀龍を亡ぼし、淵を埋(うづ)めて田地と爲し、新開村と號し、己(おのれ)も新開氏を稱せり。【道の神】同じく東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡(しやうはちまん)の境内に昔より犀ケ窪(さいがくぼ)と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる。曾つては此の地、大なる淵にして、「老犀」住みて、往來の人を惱ます。淺井(あざい)備前守の家士に入海彦之庄司と云ふ者、彼(か)の犀を捕へて、既に、之れを殺さんとす。犀、誓ひて、「此の地を去る」とあれば、此れ亦、謝罪を以つて助命を得たるなるべし。彦根町長光寺裏の外濠(そとぼり)を犀ケ淵(さいがふち)と云ふ。【盡きぬ泉】水、湧き出いで、大旱(おほひでり)にもゆることなし。北靑柳村大字長曾根等の堰水(せきみづ)[やぶちゃん注:人為的に水を堰き止めて灌漑用の水とすること。]と爲す〔以上、「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖(さいががけ)と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]の有名なる古戰場なり〔「遠江風土記傳」〕。東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕。今は附近に下宿屋など出來たれど、つい先頃までは、物凄き魔所なりき。薄暮に、水中より半身を顯はすを、遠く望み見たる者ありと稱し、或いは、幅三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]ばかりの小川なれば、獸としては調子が合はぬより、「サイ」と稱する惡魚などとも記載したる者あり。日本には犀は居らぬ筈なり。【水牛】犀は山野に住む獸なれども、別に「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり〔「雅言覺非」三〕。日本にても、或いは亦、此の誤訓を傳へたるものか。但し、臺灣の外には、今は犀と誤るべき水牛も存在せざれば、よほど不思議なり。【道祖土(だうそど)】蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず。

[やぶちゃん注:「信濃の犀川」長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。これ(グーグル・マップ・データ)。一般に、松本市島内で奈良井川と合流して以降の、下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部(上高地に至る)は「梓川(あずさがわ)」と呼ばれる。

『「犀」と云ふ獸(けもの)』残念ながら、具体的な形状を記したものが殆んど見当たらない。引用元の「日本宗教風俗志」(加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年:仏教学者で作家)著で明三五(一九〇二)年森江書店刊)の当該部は(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。ここの関連叙述や寺の由来(次注参照)からは牛に似ている妖獣という感じは臭ってはくるが、以下の説話では、俄然、龍である

「東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)」現在の松本市大字内田のに現存(グーグル・マップ・データ)する。真言宗の古刹で、金峯山(きんぽうさん)牛伏寺(ごふくじ:「うしぶせ寺」とも呼ぶ)。同寺公式サイトのこちらによれば、『信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し』、『寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来』するとある。以下、「牛伏寺縁起物語」より引く。『寺伝によると、天平勝宝七』(七五六)年、『唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京し』たと伝え、『この不思議な因縁により』、『寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像を』祀るとする。『古来より』、『牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、法燈壱千三百年を今日に継承』しているとある。一方、ウィキの「牛伏寺には別に、『寺伝では聖徳太子が』四十二『歳の時』、『自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという』とあり、また、『以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には』、『牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは』天文三(一五三四)年のことと記す。公式サイトがそれや、以下の「此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)』(不詳。但し、次注に引用する童話との親和性が強い)、『犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したり」という伝承を記さないのは、やや不審ではある。現在の犀川からは南東に十二キロメートル近く離れているが、その伝承に拠るなら、その間に大きな湖(次注の童話引用も参照のこと)があったとなら、頷けることは頷ける。しかし、加藤咄堂の叙述には誤魔化があり、ここは犀川(その上流の梓川)から東へ分岐した奈良井川及び田川の上流から東へずれた位置で、彼の犀川の上流にこの牛伏寺があるというのは、地理的に正しくない。

「泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀る」こちらの『伝説「犀龍と泉小太郎」のあらすじ』によれば、『昔、安曇野から松本平にかけては、まんまんと水をたたえた湖であった。そこの主の犀龍と山向こうの池の白龍王との間に生まれた日光泉小太郎は、湖のほとりに住む老夫婦に人間の子として育てられた。小太郎は、湖の水をなくして豊かな郷土をつくりたいと願っていた。その後、ここ、ダムの地尾入沢で再び逢った親子は心が通じ合い、犀龍は背中に小太郎を乗せ、山清路の岩盤を打ち破って湖の水を日本海へ落とし、この地を豊かな平野にした。小太郎は年老いてこの平が一望できる仏崎の洞穴へかくれ、今も里人をあたたかく見守っているということです』とある。同リンク先には詳しい童話がこちらから四回に渡って記されてあるので読まれたいが、そこには、大きな湖について、『安曇平(あずみだいら)は、高い山から落ちる水がたくさん集まって、まるで海のような、大きな大きな湖で』、『北は佐野坂(さのさか)から、南は塩尻(しおじり)まで、十何里』もある巨大なものであったとあり、そこに『犀竜(さいりゅう)という主の女神様が、水の底深くに住んでいました』とし、『また、はるか高井(たかい)のむこうの高梨(たかなし)の池には、白竜王(はくりゅうおう)という、同じように竜の姿をして、口に立派なひげをはやした神様が住んでいました』。『この二人の神様が雲を呼んで行ったり来たりしているうちに、いつしか一人の男の子をもうけました』。『男の子は、きれいな泉のほとりで生まれたので、泉の小太郎(こたろう)と名付けられ、ぜひ人間の子として育てたいという白竜王の願いで、放光寺山(ほうこうじさん)に住む正直者のおじいさんとおばあさんにあずけられました』とあって、犀龍とは龍の姿をした女神であるとする。そのコーダ部分では、『自分を育ててくれた大切なおじいさんとおばあさんをなくしてしまった小太郎』『の悲しみを知った犀竜』『は、自分勝手な考えで、ひどいことをしてしまった』(彼らの糧であった魚を獲れなくしてしまったことが前に記される)『私をゆるしておくれとわびると、「お前はやっぱり人間の子。おじいさんの言いつけどおり世のため、人のために生きておくれ。わたしも力になります」と、小太郎を自分の背に乗せて、天高く舞い上がりました』。『そして、湖をつっきり、屏風のような山清路(さんせいじ)』(本文と表記違い)『の巨岩をぶちやぶり、白竜王(はくりゅうおう)と一緒に次々と山をくずし、越後(えちご)のむこうまで川道を作りました。湖の水は、海にむかってながれこみ、ついに底があらわれ、ここに広い安曇平(あずみだいら)が生まれました』。『湖がなくなり、すむ場所がなくなった犀竜(さいりゅう)と白竜(はくりゅう)は、残った力をみんな小太郎(こたろう)にさずけ、「わたしたちはいつまでもお前とこの土地の人々を守っていますよ」と言い残し、松本平(まつもとだいら)をひとめで見わたせる仏崎(ほとけざき)の岩穴に姿を消してしまいました』。『山をもくずす力をもらった小太郎(こたろう)は、有明山(ありあけやま)のふもとに家をつくり、湖の底を平らにならして、田んぼをつくりました。それ以来、安曇野(あずみの)の里ではたくさんのお米がとれるようになり、村人は犀竜と小太郎(こたろう)のおかげで豊かな土地になったことを喜び、小太郎(こたろう)もいつまでも幸せにくらしました』という豊饒起源説話となっている優れた伝承である。是非、全篇を読まれたい。因みに、もうお分かりであろうが、松谷みよ子の昭和三五(一九六〇)年作の「龍の子太郎(たつのこたろう)」は、この信州・上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野に伝わる民話「泉小太郎」を中心に、秋田の民話など日本各地に伝わる民話を組み合わせて再話したものである(ウィキの「龍の子太郎」を参照されたい)。

「信濃奇勝錄」(井出道貞・井出通(とおる)著。明二〇(一八八七)年刊)の当該箇所はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)」現在の滋賀県彦根市新海浜(しんがいはま)(グーグル・マップ・データ)。「新海浜自治会」公式サイト内のこちらの「新海<しんがい>の名前の由来」によれば、『愛知川(えちがわ)の川口右岸にあり、西は琵琶湖に面した平たんな地。集落は浜堤上にある。新開村とも書く。村名は、新たに開いた村という意味。愛知川の河尻に深淵があって竜が住んでいた。弘安年中、黒井氏覚懐』(本文と表記違い)『という人物がこの竜を滅ぼし淵を埋めて田地を開き、新開村と名付け、また自らも新開氏と称したという地名伝説があ』るとある。

「新開氏を稱せり」但し、サイト「戦国大名探究」の「新開氏」によれば、『新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し』、『開発領主になったのは、平安末期のころと思われる』とある。

「東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡」現在の滋賀県長浜市五村(ごそん)附近がこの地名に当たる(グーグル・マップ・データ。以下、同じ。「虎姫」はJR西日本北陸本線の駅「虎姫駅(とらひめえき)」として滋賀県長浜市大寺町細田に残る)が、この周辺には「八幡神社」を呼称する現存神社が多数あり、限定比定は難しい。「境内に昔より犀ケ窪と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる」というのがヒントであるが、ネットでは網に掛かってこない。現地の郷土史研究家の御教授を切に乞うものである。

「淺井(あざい)備前守」かの北近江の戦国武将浅井長政(天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)。

「入海彦之庄司」読みさえも不詳。ネット検索にも掛からないのでお手上げ。「入海」姓は「いるみ」・「にゅうかい」・「いりうみ」等の読み方がある。柳田はルビを振っていないし、「ちくま文庫」版全集も振らないから、取り敢えず、「いりうみのひこのしょうじ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「彦根町長光寺裏」現在の滋賀県彦根市錦町にある真言宗薬王山長光寺。伊賀忍者所縁の寺で、開山は能賢。井伊家老臣で駿河武士の名門の出であった三浦與右衛門元貞の勧めにより、元和二(一六一六)年十月に薬師如来を奉じて、二間口七間の薬師堂を建立したのを創建とする。フェイスブックの「薬王山長光寺」の公式ページによれば(当然ながら、リンク先は Facebook に入っていないと見られない)、『二世玄英の時、薬師堂が善利川の洪水で大破したため、寛永三年に二代城主井伊直孝の命により、元彦根山上の觀音堂を移し、薬師堂を改築、四世玄雄の時、寺を医王寺と改め、六世玄廣に至り、長光寺と改稱し』たとある。『三浦與右衛門元貞(彦根藩老臣三浦内膳家先祖)は、徳川家康の戦忍びとして、伊賀組(伊賀十人組、伊賀忍者隊)の元締めとなり』、『戦場を駆け抜けた忍術上手として知られており、最後は井伊家で』三千五百『石の知行を得て』おり、『元貞は、井伊家の初代直政がたいへん可愛がった重臣で』、もとは『与三郎元貞と』称して、『今川義元に仕えてい』た『が、義元が桶狭間の一戦で織田信長に敗れてのち、徳川家康に召し抱えられ』たとある。天正一〇(一五八二)年、『家康は、配下に掌握した伊賀衆の内、井伊直政付属分と足軽』二十『人組の支配を元貞に命じ』、翌天正十一年十一月には、『甲州若子原の戦功が認められ、家康は元貞を井伊直政に与え』『た。以降、元貞は身命を惜しまずに直政に忠勤を励み、長久手、小田原、九戸、関ケ原、大阪夏の陣に参戦して活躍し』たとある。忍者所縁の寺なればこそ、「外濠(そとぼり)」があるのが腑に落ちたと思ったら、地図を拡大して見ると、境内の西北と東北部分に水路が現存することが判り、更に、境内の南西の外の直近に彦根城土塁跡なるものがあるので、これは彦根城自体の外堀であったのであろう

「北靑柳村大字長曾根等」現在の琵琶湖東岸にある滋賀県彦根市長曽根町。長光寺の南西一キロメートル強の位置にある。

『遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜の有名なる古戰場なり』最後の部分は「三方ヶ原の戦い」を指す。「浜松市」公式サイト内のこちらに、『犀ヶ崖は浜松城の北側およそ』一キロメートルの位置『にある断崖。三方ヶ原古戦場として』昭和一四(一九三九)年『に、静岡県の史跡に指定されて』おり、『現在は長さおよそ』百十六メートル、『幅およそ』二十九〜三十四メートル、『深さおよそ』十三メートルとある。但し、「三方ヶ原の戦い」当時のスケールは、『はっきり』とは『分か』らないとする。元亀三年十二月二十二日(一五七三年二月四日)の「三方ヶ原の戦い」で『武田信玄に大敗した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込』んだが、『家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れ』た。『その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲』、『地理に詳しくない武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したという物語として知られてい』るという。また、『遠州大念仏はこの戦没者の供養のためとされてい』るともある。

『東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで発見した。「十方庵遊歴雑記三編」(十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん 宝暦一二(一七六二)年~天保三(一八三二)年:小日向水道端(現在の文京区小日向一丁目)のる浄土真宗本法寺の地中にある廓然寺の四代目住職。本書は隠居後の約十八年間を費やして廻った江戸市中や東海方面の紀行文。全五編)の卷の中」の第「六拾四」の「拾遺高田の十景」の三条目で、なかなか興味深い。何故なら、ここではその『もの凄』き『惡魚』の様態がつぶさに語られているからである。目撃したのは神田川のこの橋附近に釣に来た楽山翁なる人物とその家族で、日時は文化一一(一八一四)年の夏であった(読点・記号を追加し、読みは私が勝手に振った(カタカナのそれは原本のルビ)。踊り字「〲」は「々」に代えた。必ず、原本を確認されたい)。

   *

一、 「犀が淵の月光」といふは、田島橋の下にして、此淵に惡魚住(すみ)て、今も猶(なほ)もの凄し、左(さ)はいへ、逆流(ぎやくりふ)[やぶちゃん注:「げきりふ」と読んで「激流」の意ではあるまいかと疑ったが、或いは、蛇行する川を「逆流」ととったものかも知れぬ。当時の神田川がこの辺りで蛇行していたことは後の注と引用を参照されたい。]に目明(めあきらか)の胗朧[やぶちゃん注:これは恐らく「朎朧(れいろう)」の誤りであろう。月の光で明るく照らされること。]たる風色、又、一品たり、去(いに)し文化十一年甲戌(きのえいぬ)の夏、楽山翁は、家族六、七輩を同道し、此(この)川筋に釣せんとして不圖(ふと)爰(ここ)に來(きた)り、川端に彳(たたずみ)して逆流の一際(ひときは)すさまじく渦(うづ)まくよ、と見えしが、忽然として、水中より、怪獸、あらはれたり、その容體、年經し古猫(ふるねこ)に似て、大(おほき)さ、犬に等しく、惣身(そうみ)白毛(しろげ)の中に赤き處ありて、班に[やぶちゃん注:「斑(はだら)に」(まだらに)の誤記か?]、兩眼、大きく、尤(もつとも)丸(まる)し、口、大きなる事、耳と思ふあたりまで裂(さけ)、口をひらき、紅(うれなゐ)の舌を出(いだ)し、兩手を頭上へかざし、怒氣、顏面にあらはれ、人々に向ひて白眼(ニラミ)し樣なり。水中と間と、隔(へだつ)といへども、その間、纔(わづか)、三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]餘(あまり)、頭上、毛髮永く[やぶちゃん注:ママ。]垂下(たれさが)りて目を蔽ひ、腹と覺しきあたり迄、半身w水上へ出(いだ)し、しばらく、彼(かの)人々を見詰(みつめ)、にらみしかば、思ひもふけず[やぶちゃん注:「意想外に」の意でとっておく。]、恐怖せし事、いふべからず。耳はありや、なしや、毛髮、垂覆(たれおほ)ひし故、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、頓(やが)て、水中へ身を隱し失せたりしと、若(もし)此時、樂山翁のみならば、件(くだん)の妖怪、飛(とび)かゝりやせんと彌(いよいよ)恐怖し、宿所へ歸りて、件の怪物を見しまゝ𤲿(ゑが)きとゞめ、文をも作り、詩を賦して、筥(はこ)に收めたり、蓋(けだし)、彼(かの)怪獸の容體を𤲿きし樣は、獺(カワウソ)の功(カウ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「劫」が正しく、歴史的仮名遣は「コウ」である。]を經しものか、又、世に傳ふ川童(カツパ)などといふものにや、𤲿(ゑ)にて見るさへ、身の毛彌(いよいよ)立(たつ)ばかりぞかし、况や、思はず眞(まこと)怪物にあひたる人をや、珍といふべし、然るに、岡田多膳老人は如是(によぜ)と稱して佛學を好めり、性(しやう)として、斯(かか)る怪談を好(このめ)るが、物好(ものずき)にも、心づよく、彼(かの)怪獸を見屆(みとどけ)んと兩度まで獨行(どくかう)し、彼處(かしこ)の川端に躊躇(ちうちよ)せしかど[やぶちゃん注:この場合は「待機していたけれども」の意。]、出遇(であは)ざりしと咄(はな)されき、是(これ)によつて、土人、惡魚栖(すめ)りと巷談(かうだん)す[やぶちゃん注:噂話をするようになってしまった。]、しかれども、月光の晴明(せいめい)にして雅景なるは一品なるものおや[やぶちゃん注:ママ。]、

   *

この「但馬橋」は現在の高田馬場駅の南西直近の神田川に架かる田島橋の前身。ChinchikoPapa氏のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」の「落合の歴史を見つめる田島橋」に当時のこの橋の附近の様子が細かに語られてあるので、必見。それによれば、『田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった』とあり、『いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した』、「富士見茶屋抄」『という句集が残って』おり、『その中に、田島橋はこう詠まれている』として、

     田島橋の鶴

  田鶴(たづ)啼(なく)や尾花にわたる浪の色

  かげろうにねぶりこけるな橋の田鶴

が掲げられている。則ち、ツルがやってきてもいたのである! 以下、『神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は』、今はアブラコウモリ(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus:日本に棲息する中で唯一の住家性コウモリで、最も身近なコウモリである)『の格好の営巣地となっている』とある。因みに、先の注を終わった直後に発見したのだが(残念! 視認電子化が大幅に短縮出来たのに)、ChinchikoPapa 氏は同ブログの「下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎」で「十方庵遊歴雑記」のそれを引用(但し、一部、判読を誤っておられるようだ)され、詳細な検証を行っておられた。江戸時代の地図も示されて、淵の位置をさえ、ある程度、限定されておられ、』『少なくとも』、『犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの』「淵」『ということになるのだろう』。『川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川』:『ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった』。『田島橋の少し上流には』、『水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の』「波底」『へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅』『のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の』「波底」『に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば』、『田島橋のすぐ下流の下落合』六十七『番地、あるいは下落合』三十六『番地あたりの流域ということになるだろうか』。――『犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ』――『という伝承は』――『この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな』――『という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた』――『そんな気が強くするのだ』。『しかし、それではバンザイする化けネコ』『のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し』、『怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた』……『とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが』……。『楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう』と記しておられる。アイヌ語にまで及ぶ智のドライヴが素晴らしい。ただ、ここらで言っておきたいのだが、柳田國男の言い方は、この但馬橋の近くの「犀ケ淵」に出現したものが「サイ」「犀」と呼ばれた、と断言しているのであるが、少なくとも、十方庵敬順は、それを「犀」・「サイ」という化け物だ、とは実は一言も言っていないのである。確かに、「十方庵遊歴雑記」のエンディング部分は流言飛語となって、淵の名をとってそう呼ばれていたかも知れぬが、しかし正確さこそは考証の一大事だ。柳田に騙されてはいけない。そもそもが、ここで十方庵敬順は「河童」の名さえ出しているのである。何故、柳田はここでこの貴重な怪物の容姿描写を含め、こんなにオイシイ話の引用を異様なまでに端折ってしまったのか? 柳田は或いは、十方庵の考証に嫉妬したのではなかろうか? とさえ思えてくるのである。閑話休題。ここに出現した怪物の正体は何か? 私は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

ではないかと認識している。因みに、同種はごく最近に絶滅したとされる。他に、

鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

や、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

であってもよい。

「小川」先の引用から、柳田國男のこの茶化した言い方は全く見当外れであることが判明してしまう。柳田らしからぬ、読者へのリップ・サーヴィスなんぞするから、こんな墓穴を掘るのだ。

「日本には犀は居らぬ筈なり」脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum・クロサイ属クロサイ Diceros bicornis)、インド北部からネパール南部(インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis)に分布している。

『「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり』ウィキの「サイ」の「文化への影響によれば、「國語」の「越語 上」に、『今、夫差、衣水犀之甲者億有三千』とあるのに対して韋昭が附した注に、『犀形似豕而大。今徼外所送』、『有山犀、水犀』とあるとする(注部分から引用)。本文では、『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つとされる』(但し、ここには要出典要請がかけられている)。『平安末期の国宝』「鳥獣人物戯画」の『乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに』、『水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも』、『水犀が描かれている。世界遺産』『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。明の李時珍の偉大な本草書「本草綱目」の「獸之二」「犀」の「集解」には、

   *

時珍曰、犀出西番・南番・滇南・交州諸處。有山犀・水犀・兕犀三種、又有毛犀似之。山犀居山林、人多得之。水犀出入水中、最爲難得。並有二角、鼻角長而額角短。水犀皮有珠甲、而山犀無之。

   *

と出る。

「臺灣の外には」本書が刊行された大正三(一九一四)年時点では、台湾は日本領であった。一八九五年(明治二十八年)に日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾となっていた。太平洋戦争で敗北した日本が「サンフランシスコ講和条約」及び「日華平和条約」締結によって、台湾の権利・権限・請求権を正式に放棄するまでそれは続いたのである。

「犀と誤るべき水牛」ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arneeウィキの「スイギュウによれば、インド・タイ・ネパール・バングラデシュ・ミャンマーに自然分布』し、『家畜と交雑したと考えられている個体群がインド』・インドネシア・カンボジア・スリランカ・タイ・バングラデシュ・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・『ラオスに分布』する。また、『家畜が野生化した個体群がアルゼンチン』・オーストラリア(ノーザンテリトリー)・チュニジア・『ヨーロッパなどに分布』するとし、但し、『有史以前はアフリカ大陸北部から黄河周辺にかけて分布していたと考えられている』とある。いずれにしても、言わずもがな、本邦には分布しない。

「道祖土(だうそど)」道祖神を祀る場所の意であろう。

『蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず』この見解は非常に興味深い。先のChinchikoPapa氏が、アイヌ語に継承された原日本語とする「サイ」(サイェ)が「巻・渦」の意とするのとも驚くほどよく一致するからである。塞の神や道祖神は村の辺縁部の辻に置かれる場合が多い。これはつまり、運命共同体である村と、別な世界(他村・異国・外国・幽明界)との通路が複数ある場所であり、そこはそうした異界から漂ってきた、いろいろな妖気・邪気が渦を巻くところでもあるからである(それを逆手に利用したものが本来の辻占なのである)。

2019/02/13

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(20) 「河童ト猿ト」(3)

 

《原文》

 【猿猴淵】猿ノ水中ニ住ムト云フコトハ何分ニモ信ジ難キ話ナレドモ、兎ニ角昔ノ人ハ此ノ如キ一種ノ猿ヲ見聞セシ者多カリキト覺シク、今モ府縣ノ地名ニ猿ケ淵又ハ猿猴淵ナドト云フモノ少ナカラズ。例ヘバ

  石見美濃郡匹見下村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂エンコウ淵

  下野下都賀郡富山村大字富田猿淵

  武藏入間郡南高麗村大字下直竹猿淵

  越前足羽郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作苫田郡東一宮村大字東一宮猿淵

等ノ如シ。【エンコザル】我々ノ幼時ニハ、文人畫ニ畫カルヽ一種手ノ長キ猿ノミヲ「エンコザル」ト呼ビタリキ。猿猴ノ月ヲ捉フル話ハ必ズシモ物ノ譬ニハアラズ。大和ノ猿澤池ノ如キハ昔多クノ猿集リ手ト手ヲ組ミテ梢ヨリ水ノ月ヲ取ラントセシガ、最初ノ猿手ヲ放チシ爲悉ク池ニ落チテ死ス。其猿共ヲ埋メテ驗ノ松ヲ栽ヱ今モ存スト云ヘリ〔所歷日記〕。其顚末ノ越中駒見(マミ)ノ狼婆ト似タルハ一奇ナリ。【水ノ月】右ノ猿猴淵ト云フ地名ノ由來モ、恐クハ亦此物水底ノ月ヲ採ラントセシ故跡ナドト明スル老人アルべケレド、實際ハヤハリ他ノ地方ノ河童淵又ハ川子淵ト同樣ニ、其地ニハ曾テ此ノ如キ猿ノ住ミシ時代アリシモノト解スべキナリ。【中山神】美作ノ猿淵ハ一宮中山神社ノ猿ナルべシ。此社ノ猿ハ今昔物語以來有名ナリ。今モ明神ノ神使トシテ崇敬セラレ、一宮村ノ贄殿谷(ニエドノダニ)又ハ同郡西苫田村大字小原ニ猿ノ祠アリ。每月十二日ノ夜ニ宮ノ靈猿必ズ黑澤山ニ登リ佛殿ノ中ニ宿ス。風雨霜雪ノ夜ト雖缺クコトナシ。【通夜猿】之ヲ名ヅケテ通夜猿ト云フ。一宮村大字東田邊ノ石原川ニモ猿淵アリ(或ハ前ノ猿淵ト同ジキカ)。一宮神社ノ使ノ猿此村ノ湯原山王ニ來ルトキ、每ニ此淵ニ入リテ齋浴スル故ニ此名アリト云フ〔作陽志〕。若狹遠敷(ヲニフ)郡宮川村大字加茂ト、同郡野木村大字上野木トノ境ノ山ノ麓ニ、猿陪淵ト云フ處アリ。【賀茂明神】太古賀茂明神降臨ノ折ニ之ニ供奉シタル白猿此淵ニ姿ヲ現ハス。淵ノ底ニハ明神ノ冠石(カンムリイシ)ト云フ一箇ノ小石アリ。【雨乞】旱魃ノ年ニハ雨乞トシテ水中ヨリ右ノ小石ヲ抱キ上グレバ驗アリ〔若狹郡縣志〕。此等ノ白猿又ハ靈猿ハ御伽噺ノ中ノ猿ノ如ク、水ノ中ニ入ルコトヲ意トセズ。恐クハ卽チ安藝ノ淵猿ヤ三河ノ河猿ト同族ニシテ、其昔何カ然ルべキ由緖アリテ、土地ノ者ヨリ永ク尊崇ヲ受クルニ至リシナランカ。而シテ其尊崇ノ起原ニ至リテハ後ニ猶アリ。

 

《訓読》

 【猿猴淵】猿の水中に住むと云ふことは、何分にも信じ難き話なれども、兎に角、昔の人は此(かく)のごとき一種の猿を見聞(みきき)せし者多かりきと覺しく、今も府縣の地名に「猿ケ淵」又ハ「猿猴淵」などと云ふもの、少なからず。例へば、

  石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)エンコウ淵

  下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)猿淵

  武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)猿淵

  越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮猿淵

等のごとし。【エンコザル】我々の幼時には、文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿のみを「エンコザル」と呼びたりき。猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕。其の顚末の越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)と似たるは一奇なり。【水の月】右の猿猴淵と云ふ地名の由來も、恐らくは亦、此の物、水底(みなそこ)の月を採らんとせし故跡などと明する老人、あるべけれど、實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり。【中山神】美作の猿淵は一宮中山神社の猿なるべし。此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なり。今も「明神の神使」として崇敬せられ、一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原に猿の祠(ほこら)あり。每月十二日の夜に、宮の靈猿、必ず、黑澤山に登り、佛殿の中に宿す。風雨霜雪の夜と雖も、缺(か)くことなし。【通夜猿】之れを名づけて「通夜猿」と云ふ。一宮村大字東田邊(ひがしたなべ)の石原川にも猿淵あり(或いは前の猿淵と同じきか)。一宮神社の使ひの猿、此の村の湯原山王に來たるとき、每(つね)に此の淵に入りて齋浴(さいよく)する故に此の名あり、と云ふ〔「作陽志」〕。若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓に、猿陪淵(さるべのふち)と云ふ處あり。【賀茂明神】太古、賀茂明神、降臨の折りに、之れに供奉したる白猿、此の淵に姿を現はす。淵の底には「明神の冠石(かんむりいし)」と云ふ一箇の小石あり。【雨乞(あまごひ)】旱魃の年には雨乞として、水中より右の小石を抱き上ぐれば、驗(しるし)あり〔「若狹郡縣志」〕。此等の白猿又は靈猿は、御伽噺(おとぎばなし)の中の猿のごとく、水の中に入ることを意とせず。恐らくは、卽ち、安藝の淵猿や三河の河猿と同族にして、其の昔、何か然るべき由緖ありて、土地の者より永く尊崇を受くるに至りしならんか。而して、其の尊崇の起原に至りては、後に、猶ほ、あり。

[やぶちゃん注:「石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾」現在の島根県益田市匹見町落合矢尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、以下もそうだが、淵名が残るかどうかまでは調べていない。悪しからず)。

「同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷」現在の島根県江津市桜江町長谷か。但し、北の区域外に「山中」の地名が別に残る。

「土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本」現在の土佐山田町北滝本

「同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)」現在の高知県土佐清水市宗呂

「下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)」現在の栃木県栃木市大平町富田か。ただ、現行のこの附近には河川がない。二キロほど東に永野川があるが。

「武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)」現在の埼玉県飯能市下直竹

「越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門」現在の福井県福井市下毘沙門町(ちょう)

「美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮」現在の岡山県津山市東一宮

「文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿」グーグル画像検索「手長猿 文人画」を見られたい。

「猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕」書名注は付けない原則だが、この「所歷日記」というのは、江戸小伝馬町牢屋奉行で国学者でもあった石出吉深(いしでよしふか 元和元(一六一五)年~元禄二(一六八九)年)が書いたもので、寛文四(一六六四)年に成立した。官務の疲れを癒すために有馬温泉に湯治した際の紀行見聞記である。ウィキの「猿沢池」によれば、この池は『興福寺が行う「放生会」の放生池として』、天平二一(七四九)年に『造られた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である』とし、『猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという』とあり、『猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国』(毘舎離(びしゃり)・吠舎離とも表記し、古代インドの十六大国の一つであったヴァッジ国内にあった商業都市国家。『リッチャヴィ族(離車族)の住んでいた地域で、自治制・共和制が敷かれ、通商貿易が盛んで、自由を尊ぶ精神的雰囲気があったと言われている』。『釈迦の時代においてもよく知られた商業都市であり、仏典にも数多くその名が見られ、仏教教団自体にも強い影響を与えており、仏教僧団を意味する「サンガ」(僧伽)という言葉は、元々はこの地域に発生した商工業者の同業組合や共和制を意味する言葉であり、その仕組みを仏教教団側が採用したことから、仏教僧団がこの名で呼ばれるようになった』。『初期仏教教団における特異な在家信徒(後に出家)である遊女アンバパーリーが住んでいたことや、仏教経典の第』二『回結集が行われたことで有名。ここはウィキの「毘舎離」に拠った)『の猴池(びこういけ)から来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている』とする。放生池で入水自殺した采女もなんだかなと思うが、ここで柳田が言っているのはその入水した采女塚なのではないかなどと考えてみたりもしたが、笹本正治氏の論文「猿沢池が血に染まる――伝承と場のイメージ――PDF)の猿沢の池の「名前の由来解釈」によれば、『元禄九(一六九六)年の自序を持つ『行嚢抄』[やぶちゃん注:江間氏親の旅の見聞を記した紀行文。]は、猿沢池の名称由来の一つを、昔この池の辺に猿が多く集まり、池の水に映っていた月影を見て、影を取ろうと手に手を取って組み、池に臨んだが、一疋の猿が手を離したので、猿が多く池の水の中に入って溺死した。それから猿沢と名づけた。溺死した猿を埋めたしるしとして、池の傍に松があると説明する(『古事類苑地部一二』一三一二頁)』とあった。柳田の記載はこれに基づくものであろう。

「越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)」既出既注。なお、現行の地名は「こまみ」であり、「ちくま文庫」版でも『こまみ』と振る。但し、サイト「日本姓氏語源辞典」の「万見(まんみ)」には、『富山県富山市。富山県富山市駒見(コマミ(旧:万見))発祥。室町時代から記録のある地名。地名と姓はマミと発音した』。この「万見」姓は『戦国時代・安土桃山時代の武将である織田信長の家臣として安土桃山時代に記録』があり、『古くは「まみ」と読んだのかも知れぬ』とあるので、柳田のルビが正統。ただ、既出部では柳田はルビを振っていない

「實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり」無論、言うまでもなく、霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae のテナガザル類(通臂猴のモデル)は本邦には今も昔も棲息せず、『インド東端を西限、中国最南端を北限とし、バングラデシュ・ミャンマー・インドシナ半島を経て、マレー半島からスマトラ島、ジャワ島西部、ボルネオ島に至る地域』を分布域とする。但し、『千年ほど前には黄河以北にも生息していたことが中国の文献に記載されて』は『いる』とウィキの「テナガザルにはある。

「一宮中山神社」現在の岡山県津山市一宮にある、美作国一宮中山神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中山神社」によれば、『社名は現在』は『「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも』呼んだ。ここには境内に「猿神社」があり(リンク先は同ウィキの画像)、祭神は猿多彦神で『本殿裏に鎮座』し、「今昔物語集」等の『記述は』、『この猿神社に由来するものと伝える』とあり(次の注のリンク先の方が詳細)、柳田も「此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なりと記すが、その「今昔物語集」の「巻第二十六」の「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと) 第七(しち))は、既に私の「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」で電子化しているので、そちらを参照されたい

「一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原」個人サイト「戸原のトップページ」の中の「中山神社」に、『当地には猿にかかわる伝承が幾つかあり、管見したものとして』と前振りをなさって、柳田が示す「作陽志」の「苫南郡神社部」からとして、『猿休 華表を去ること十三町、石有りて猿の腰懸と名づく。往年、津山の士人、採りて仮山に安ず、其の夜怪異無数、其の人大いに怖れ本拠に還す』(「猿休」は「さるやすみ」と読むか。以下を含め、国立国会図書館デジタルコレクションの「作陽志」の当該部の画像が見られる。但し、一部(画面左端の「贄殿谷」(以下、後のページに続く)の条の「宇治拾遺物語」の引用等)を除き、総て漢文)。『旧説によれば、猿を以て一宮(当社)の使獣と為す。是故、贄殿谷に猿祠有り。小原村亦之有り。今、道祖神と為す、蓋し道祖神は猿田彦命に因みて付会し名付けしものにて笑ふべし』。『又、黒沢山の僧云、曾て一宮に異猿有り、毎月十二日夜』、『黒沢山に上りて仏殿に寝る。雨風霜雪の夜と雖も之に関わらず。名づけて通夜猿と云』ふ、とあり、また、「美作風土略」(宝暦一二(一七六二)年成立)の「中山神社」の項には、『此宮の使者は猿也。吉備の宮(吉備津神社)に使いする事』、『ままあり。さだまれる休所ありて、稀に見たる人も有り』とある。また、サイト主は、この中山神社及び周辺地域の猿神伝承について、『猿は山の神の使いであり(日吉神社等)、古代象形文字で、神を』「申」『(シン・サル)と記すように神(ここでは山の神)そのものともされる』『また、山の神は農耕に必要な水をもたらす水の神でもあり、里にあっては田の神・農耕の神となるという』。『この説話の原姿は、里の女(巫女)が神(山神=水神)を迎えて豊かな水の供給と穀物の豊饒を祈願し、その妻となって御子を産むというもので、時代が下るにつれて、到来する神が生贄を求める邪神に、巫女が生贄となる女性へと変化したものという』。『当社の猿神祭神説は、伝承にいう神顕現以前の素朴な山の神信仰をあらわしているのかもしれない』と述べておられ、極めて肯んぜられる見解と思う。「贄殿谷」という地名は、この中山神社本殿裏手にある「猿神社」のある旧地名ではあることが、サイト主は、『社殿左手に立つ猿神社と染め抜かれた赤い幟から、細い地道を約』五『分ほど進んだ左手の山腹に鎮座する小祠』で、『道から祠までは、折れ曲がった参道(山道)を登るが、手すりがあり』、『難路ではない』とされ、『栞によれば、「今昔物語』二十六『巻にみえる中山の猿の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神として信仰をうけ、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る」』とする。「同郡西苫田村大字小原」の方は、岡山県津山市小原に「西苫田公民館」の名を現認出来る(グーグル・マップ・データ)。但し、こちらに猿の祠が現存するかどうかは判らぬ。

「一宮村大字東田邊の石原川」岡山県津山市一宮東田辺(グーグル・マップ・データ)。但し、現行のここは中山神社の北西一・七キロメートルの位置にあり、大きな河川は周辺にない。柳田は「或いは前の猿淵と同じきか」というのは、ずっと手前の中山神社近くにあった猿淵で沐浴したと推定したことを指すものである。

「湯原山王」不詳。「作陽志」のこちらに(返り点は省略した)。

   *

山王權現 在東田邊村此村之氏神也祭祀九月八日封内方廿間

   *

とあるのがそれか? 但し、柳田の引用は同書の「部」の「石原川」(返り点は省略した)。

   *

石原川 在東田邊村此川有猿淵俗獼猴者一宮使獸也爲神奉使湯原山王【在此村】則每浴齋于此因名源出於黑澤又遠保谷惠比谷【出於黑澤山硯岩】等溪水會此川入田邊川

   *

「若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓」中心部附近であろう(グーグル・マップ・データの航空写真)。現在の福井県小浜市加茂及び福井県三方上中郡若狭町武生の間に丘陵がある。

「賀茂明神」上記のリンクの地図に「加茂神社」を現認出来る。因みに、南方熊楠の「十二支考 猴に関する伝説」(大正九(一九二〇)年)に、

   *

 猴を神使とせる例、『若狭(わかさ)郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿供奉(ぐぶ)す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州(ごうしゅう)伊香(いか)郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野(しもつけ)より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。

   *

「明神の冠石(かんむりいし)」不詳。]

2019/02/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)

 

《原文》

 猿ガ河童ニ勝ツト云フコトハ今ハアマリ聞カヌ話ナレド、其由來ハ中々複雜ナルモノアルニ似タリ。此事ハ獨リ西國地方ノ俗信ナリシノミニアラズ、江ニテモ河童ノ災ヲ避クル爲ニハ猿ヲ飼ヒ置クヲ可トスルノ説アリキ〔竹抓子四〕。【厩ノ猿】自分ノ推測ニ依レバ、是レ厩ニ猿ヲ飼ヒテ牛馬ノ災ヲ拂フ古來ノ慣習ト因緣アルモノヽ如シ。仍テ今少シク其問題ヲ講究セント欲ス。【河猿】蓋シ近代ノ河童ニモ頗ル猿ニ似タル特徵ハアリシナレド、中古ハ猶一段此二ツノ物ガ接近シ居タリト覺シク、或ハ今ナラバ直ニ河童ト呼ブべキ水底ノ怪物ヲ、河猿又ハ淵猿ト名ヅケタリシ例アリ。例ヘバ遠江榛原郡ニハ河猿ト云フ怪獸住ス。水ノ岸ニ現レ出ル物ニテ、馬之ニ遭ヘバ忽チ斃レ死ス。何レノ川筋ニテモ河猿出レバ馬ノ種ハ絶ユ。恐ラクハ馬ノ疫病神ナランカト云ヘリ〔三河雀〕。【釜淵】【釜猿】毛利公爵ノ祖先ガマダ藝州ノ吉田ニ在リシ頃、其臣下ニ井上元重通稱ヲ荒(アラ)源三郞ト云フ武士アリ。時ハ天文三年ノ八月、吉田川ノ釜淵ノ水底ニ入ツテ、人畜ヲ害スル淵猿ト云フ怪物ヲ退治シ、武勇ノ名ヲ天下ニ施セリ。源三郞七十人力アリシモ淵猿ニハ百人力アリ。【頭ノ皿】唯幸ニシテ怪物ノキハ全ク頭ノ中央ノ窪ミニ水ノアル爲ナルコトヲ前以テ知リシガ故ニ、取敢ズ其首ヲ摑ミテ左右ニ振リ廻ハシ、水ヲ翻シテ之ヲ無力トシタル後、容易ニ生擒シ得タルハ最モ智慮アル手段ナリキ〔老媼茶話〕。但シ此淵猿ハ所謂怠狀立ヲシテ釋放セラレタリヤ否ヤ、後日譚ノ傳ハラヌハ遺憾ナリ。【虬】此話ハ大昔仁德天皇ノ御代ニ、吉備ノ川島河ノ淵ニ於テ笠臣ノ祖縣守ト云フ勇士ガ虬(ミヅチ)ヲ退治セシ顚末トヨク似タレドモ多分ハ偶合ナルべシ。武家高名記陰德太平記志士淸談等ニモ之ヲ載錄ス〔南方熊楠氏報〕。藝藩通志ノ高田郡吉田村釜淵ノ條ニハ、荒源三郞ガ猳摑(カハタラウ)ヲ生獲シタル故跡ナリト見エタリ。

 

《訓読》

 「猿が河童に勝つ」と云ふことは、今はあまり聞かぬ話なれど、其の由來は、中々、複雜なるものあるに似たり。此の事は、獨り、西國地方の俗信なりしのみにあらず、江にても河童の災ひを避くる爲めには猿を飼ひ置くを可とするのありき〔「竹抓子」四〕。【厩の猿】自分の推測に依れば、是れ、厩に猿を飼ひて牛馬の災を拂ふ古來の慣習と因緣あるものゝごとし。仍つて、今少しく、其の問題を講究せんと欲す。【河猿(カハザル)】蓋し、近代の河童にも頗る猿に似たる特徵はありしなれど、中古は、猶ほ一段、此の二つの物が接近し居(ゐ)たりと覺しく、或いは今ならば直ちに「河童」と呼ぶべき水底の怪物を、河猿又は淵猿と名づけたりし例あり。【釜猿(カマザル)】例へば、遠江榛原(はいばら)郡には「河猿」と云ふ怪獸、住す。水の岸に現れ出づる物にて、馬、之れに遭へば、忽ち、(たふ)斃れ死す。何れの川筋にても「河猿」出づれば、馬の種は絶ゆ。恐らくは「馬の疫病神」ならんか、と云へり〔「三河雀」〕。【釜淵】毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃、其の臣下に井上元重、通稱を荒(あら)源三郞と云ふ武士あり。時は天文三年の八月、吉田川の釜淵の水底(みなそこ)に入つて、人畜を害する「淵猿」と云ふ怪物を退治し、武勇の名を天下に施せり。源三郞、七十人力ありしも、「淵猿」には百人力あり。【頭の皿】唯だ、幸ひにして怪物のきは、全く頭の中央の窪みに水のある爲なることを、前以つて知りしが故に、取り敢へず其の首を摑みて、左右に振り廻はし、水を翻(ひるがへ)して、之れを無力としたる後(のち)、容易に生け擒(ど)りし得たるは、最も智慮ある手段なりき〔「老媼茶話」〕。但し、此の淵猿は、所謂、怠狀立てをして釋放せられたりや否や、後日譚の傳はらぬは遺憾なり。【虬(みづち)】此の話は、大昔、仁德天皇の御代に、吉備の川島河の淵に於いて、笠臣(かさのおみ)の祖、縣守(あがたもり)と云ふ勇士が虬(みづち)を退治せし顚末と、よく似たれども、多分は偶合(ぐうがふ)なるべし。「武家高名記」「陰德太平記」「志士淸談」等にも之れを載錄す〔南方熊楠氏報〕。「藝藩通志」の高田郡吉田村釜淵の條には、荒源三郞が「猳摑(カハタラウ)」を生獲したる故跡なり、と見えたり。

[やぶちゃん注:「遠江榛原(はいばら)郡」静岡県榛原郡は現存するが、近代の郡域は遙かに広域。ウィキの「榛原郡」で確認されたい。

「河猿」ウィキの「川猿によれば、『川猿(かわざる)は、遠州(静岡県)の榛原郡に伝わる妖怪。その名の通り、川辺に住む妖怪で』、『名前は「猿」だが、猿よりむしろカワウソや河童に近い種とされ』、『体中に魚の臭気がある』。『子供の姿となって人を化かすこともある他、馬は川猿に会っただけで倒れて死んでしまうと言われ、馬の疫神として恐れられていた』。『また人間から害を加えられた際には、相手の体中の皮膚や肉をかきむしって重傷を負わせてしまう』。『弱点は目と股で、ここに矢を受ければたちまち力が弱まってしまう』。『性格的には本来は臆病者だが、自分を助けてくれた人間の顔は忘れないという』とある。

『「馬の疫病神」ならんか』私はここを読みながら、嘗て電子化注した「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」を思い出していた。そこでは、『馬に「頽馬(だいば)」と云ふ病ひ有りて卒死(そつし)するが、尾張・美濃邊にては是を「ギバ」と云ひ、「斃(たふ)るゝ」を「かける」と云ふ。土俗は、此の「ギバ」と云(いふ)は、一種の魔物(まぶつ)有りて、馬の鼻より入りて、尻に出づれば、馬、忽ち斃ると云ひ傳ふる事也』で始まるのであるが、そこで私は実際の馬の病気、有毒植物の摂取や吸血性昆虫及びウィルス感染症の可能性を指摘した。是非、一読されたい。

「毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃」ウィキの「毛利氏」によれば、鎌倉末期に『越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)』『の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう』:『高田郡吉田村吉田』、現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(ここ(グーグル・マップ・データ))『)を分与し』、『分家を立てる』。『時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり』、『安芸の所領は間接統治という形をとったが』、『南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治』『するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた』。『戦国時代、毛利元就が出ると』、『一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道』十『か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した』。『元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか』八『か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す』。『しかし』、慶長五(一六〇〇)年、輝元が「関ヶ原の戦い」で『西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の』二『か国に減封される』。『江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら』、『国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た』。『江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功』を『奏し』、『長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後は公爵、貴族院議員などを輩出している』とある。

「井上元重」井上氏は毛利家の有力家臣の一族であったが、後に元就によって、多くが粛清された。この元重はその中の一人である。ウィキの「井上就澄」の記載に粛清の経緯と彼が殺されたことが出るので、引用すると、井上就澄(?~天文一九(一五五〇)年)『は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は安芸井上氏当主・井上元兼』(系図を調べると、この父の前当主井上光兼の弟に、後に出る元重の兄井上元有がいる)、『兄に井上就兼』。『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後』三十『余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断。毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文一九(一五五〇)年七月十二日、『井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに』、『安芸井上氏の粛清が始まり』、翌七月十三日、『兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が』三百『余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの』、『力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち』三十『余名が粛清されることとなった』(太字下線はやぶちゃん)とある。

「天文三年の八月」一五三四年。同旧暦八月一日はユリウス暦九月八日。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ奇談集。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注している。その「老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)」を参照されたい。

「虬(みづち)」の柳田國男の別記事の記載で既出であるが、ここでちゃんと注しておくと、本来は中国で、龍の一種(或いは幼体)を指し、「虯」が正字とされる。龍の子で、二本の角を有するとも、幼体ではなく、龍の一種で逆に角がないものを言うとも、また龍総体の異名ともする。本邦では「蛟」などと一緒くたにされて、広く、水怪の異名として用いられる。

「仁德天皇の御代」在位は仁徳天皇元年~仁徳天皇八十七年とする。機械的換算では三一三年から三九九年とする。

「吉備の川島河」現在の岡山県西部を貫流する高梁川に比定されている。の流域(グーグル・マップ・データ)。

「笠臣(かさのおみ)」吉備氏の後裔。ウィキの「吉備氏」によれば、七『世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した』とあるが、『小野里了一は、吉備氏の祖として同氏の伝説に残されていたのは吉備武彦であり、吉備津彦命・稚武彦命弟は王家系譜とのつながりを作為するために吉備武彦の名前を割って作った創作上の人物とする。また、笠臣と下道臣と上道臣が吉備武彦を祖と仰ぐ集団(吉備勢力)であったのは事実だが、元々「吉備氏」と称する同一の氏族集団であった裏付けも不確かで、下道真備(吉備真備)が初めて「吉備」姓を名乗った人物であった可能性すらあるとする』とある。

「縣守(あがたもり)と云ふ勇士」以下に掲げる、この「日本書紀」に載る虬(みづち)を退治の一節以外には確かな情報はない模様である。

   *

、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇悍而力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寬民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」を参考に訓読してみる。

   *

 是の[やぶちゃん注:仁徳天皇六十七年。三七九年。]、吉備の中つ國、川嶋河の派(かはまた)に、大なる虬(みづち)有りて、人を苦しましむ。時に路人(みちゆきひと)、其の處に觸れて行けば、必ず、其の毒(あしきいき)に被(をかさ)れて、以つて多く死亡せぬ。是(ここ)に、笠臣(かさのおこ)の祖縣守(あがたもり)、人と爲(なり)、勇-悍(たけ)くして、力、(こは)し。派-淵(ふち)に臨みて、三つの全瓠(おほしひさご)[やぶちゃん注:欠損のない瓢簞(ひょうたん)の意か。]を以つて水に投げて曰はく、

「汝、屢々毒を吐きて路人を苦しましむ。余、汝、虬を殺さむに、汝、是の瓠を沈めば、則ち、余、避(さ)らむ。不--沈(えじづめざ)れば、仍りて、汝の身を斬らむ。」

と。時に、水虬、鹿に化(な)りて、以つて、瓠を引き入る。瓠、沈まず。卽ち、劒(つるぎ)を舉げて水に入りて虬を斬る。更に、虬の黨類(ともがら)を求む。乃ち、諸虬の族、淵底の岫穴(ゆきかふいはや)に滿(いは)めり。悉く、之れを斬る。河水、血に變りぬ。故に其の水を號(な)づけて「縣守の淵」と曰ふ。此の時に當りて、妖-氣(わざはひ)、稍(やや)動きて、叛(そむ)く者、一二(ひとりふたり)、始めて起こる。是に天皇、夙(はや)くに興(お)き、夜(おそ)く寐(い)ねて、賦(みつぎ)を輕くし、斂(をさめもの)を薄くして、以つて民-萌(おほみたから)を寬(ひろ)くし、德を布(し)き惠(うつくしび)を施して、以つて困窮(くるしくたしな)きを振ひ、死(も)を弔ひ、疾(やむもの)を問ひ、以つて孤孀(やもをやもめ)を養ふ。是れを以つて、政令(まつりごと)、流行(しきなが)れて、天下、太平(たひら)ぎぬ。廿餘年(はたとせあまり)、事、無し。

   *

「南方熊楠氏報」平凡社版選集別巻の柳田國男との往復書簡集を縦覧したが、今のところ、見出せない。発見したら、電子化する。

「高田郡吉田村」現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(グーグル・マップ・データ)。

「猳摑(カハタラウ)」この「猳」は豚を意味するから、豚を摑み奪うという意に見える。ただ、少し気になるのは、中国の伝説上の動物で、猿に類した妖獣で、人間の女性を攫(さら)って犯すとされる、「玃猿(かくえん)」には「猳国(かこく)」という異名があることである。他に「馬化(ばか)」とも言うのが気になる。一応、ウィキの「玃猿を引いて参考に供しておく。「本草綱目」に『よれば、猴(こう。サルのこと』『)より大きいものと』し、「抱朴子」では、八百年生きた獼猴(みこう:現在の哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta に比定)『が「猨」となり、さらに』五百年『生きて玃猿になるとある』。「本草綱目」では『「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されて』おり、『玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある』。一方「捜神記」や「博物志」には、『「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は』七尺(約一・六メートル)『ほどで、人間のように歩く。山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず』、十『年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという』。『このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある』。『南宋時代の小説集』「夷堅志」には、『「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった』。三『日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い、拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという』。「神異経」に『よれば、西方にいる「𧳜」』(とりあえず「チュウ」と読んでおく。以下に出る「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」にも記す)『はロバほどの大きさだが』、『猴に似ており、メスばかりでオスがいないので、人間男性を捕えて性交して子を孕むとあり』、『(玃猿と同じ行動をするが性別が逆である)、玃猿に類するものと考えられている』。『日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ』、「和漢三才図会」にも『「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)』『」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。黒ん坊とは黒く大きなサルのようなもので、長い毛を持ち、立って歩く。人語を解する上に人の心を読むので、人が黒ん坊を殺めようとしても、黒ん坊はすばやく逃げるので、決して捕えることはできないという』。『また』、江戸後期の随筆「享和雑記」にも『「黒ん坊」の名がある。それによれば、美濃国根尾(現・岐阜県本巣市)の泉除川に住む女のもとには、夜になると幻のような怪しい男が訪れ、しきりに契ろうとしていた。村人たちはその者を追い払おうと家を見張ったが、見張りのいる夜には現れず、見張りをやめると現れた。そこで女は鎌を隠し持っておき、例の男が現れるや鎌で斬りつけると、男は狼狽して逃げ去った。村人たちが血痕を辿ると、それは善兵衛という木こりの家のもとを通り、山まで続いていた。善兵衛のもとには以前から黒ん坊が仕事の手伝いに来ており、それ以降は黒ん坊が現れなくなったため、この事件は黒ん坊の仕業といわれた』。但し、「享和雑記」の『著者は、これを』「本草綱目」に『ある玃猿に類するものとし、その特徴について』、「和漢三才図会」と『ほぼ同じことを述べているため』、「享和雑記」は「和漢三才図会」を『参考に書かれたものと見られている』、『しかし』、「和漢三才図会」では、『前述のように「玃の属だろうか」と書いてあるにすぎないため、黒ん坊と玃猿を同一のものとは言い切れないとの指摘もある』とある。「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」は私の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類で電子化注しているので、参照されたい。]

2019/02/09

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(18) 「河童ト猿ト」(1)

 

《原文》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童ヲ「エンコ」又ハ「エンコウ」ト云フ地方ハ、出雲石見周防長門伊豫土佐等ナリ。九州ニテモ河童ニ出逢ヘリト云フ者ニシテ、其大サモ形モ共ニ猿ノ如クナリシト報告スル者多シ。【河童言語】或ハ又全身ニ短キ毛アリ、人間ヲ詭カサントスル時ハ最初ニハ人ノ如ク物ヲ言ヘドモ、之ヲ聞返セバ二度目ニハ「キイキイ」ト云フバカリニテ、何ノ事カ判ラズトモ云ヒ、又悲シミテ泣ク聲マルデ猿ナリキト傳フル地方アリ〔水虎考略〕。然ルニ一方ニハ又河童ト猿トハ仇敵ナリト云フアリ。河童ハ猿ヲ見レバ自然ニ動クコトガ不能トナル。【猿牽】猿モ此物ヲ見レバ捕ヘズニハ承知セヌ故ニ、猿牽ガ川ヲ渡ル時ニハ用心ノ爲是非トモ猿ノ顏ヲ包ムト云フ事ナリ〔笈挨隨筆二。加藤淸正ガ肥後ノ領主タリシ時寵愛ノ小姓ヲ八代川ノ河童引込ミテ殺ス。淸正大ニ之ヲ憤リ、早速令ヲ領内ニ下シテ多數ノ猿ヲ集メ、河童討伐ヲ計畫ス。【河童首領】河童ハ到底猿ノ敵ニ非ザリケレバ、之ヲ聞キテ大恐慌ヲ引起シ、中ニモ河童九千ノ頭目ニ其名ヲ九千坊卜呼ブ者、一族ヲ代表シテ或僧ニ仲裁ヲ賴ミ、永ク人間ニ害ヲ加フマジキ旨ヲ約束シテ、僅カニ鬼將軍ノ怒リヲ解クコトヲ得タリト云フ〔本朝俗諺志〕。

 

《訓読》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童を「エンコ」又は「エンコウ」と云ふ地方は、出雲・石見・周防・長門・伊豫・土佐等なり。九州にても「河童に出逢へり」と云ふ者にして、「其の大きさも形も共に猿のごとくなりし」と報告する者、多し。【河童言語】或いは又、「全身に短き毛あり、人間を詭(たぶら)かさんとする時は、最初には人のごとく物を言へども、之れを聞き返せば、二度目には『キイキイ』と云ふばかりにて、何の事か判らず」とも云ひ、又、「悲しみて泣く聲、まるで猿なりき」と傳ふる地方あり〔「水虎考略」〕。然るに、一方には又、「河童と猿とは仇敵なり」と云ふあり。河童は、猿を見れば、自然に動くことが不能となる。【猿牽】猿も、此の物を見れば、捕へずには承知せぬ故に、猿牽(さるひき)が川を渡る時には、用心の爲、是非とも猿の顏を包む、と云ふ事なり〔「笈挨(きゆうあい)隨筆」二〕。加藤淸正が肥後の領主たりし時、寵愛の小姓を、八代川の河童、引き込みて殺す。淸正、大いに之れを憤り、早速、令を領内に下して、多數の猿を集め、河童討伐を計畫す。【河童首領】河童は、到底、猿の敵に非ざりければ、之れを聞きて、大恐慌を引き起こし、中にも河童九千の頭目に其の名を「九千坊」と呼ぶ者、一族を代表して或る僧に仲裁を賴み、永く人間に害を加ふまじき旨を約束して、僅かに鬼將軍の怒りを解くことを得たりと云ふ〔「本朝俗諺志」〕。

[やぶちゃん注:「笈挨隨筆」は、京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男であったが、蓄財に関心なく、安永初年から天明末年まで(一七七二年~一七八一年)、身を六部に窶(やつ)し、笈(おい)を背負って諸国を遍歴して諸国を漫遊、寛政六(一七九四)年に没した(生年は不詳)百井塘雨(ももいとうう)が書いた諸国奇談集。柳田のそれは、その「巻之一」の「水虎」(「かつぱ」と訓じておく)で、引用部分は短い(下線部)が、結構、百井は全体を力を入れて書いている。以下に吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に読点や記号を追加し、私の推定で読みを附した(底本は一部にカタカナで振る他は一切ルビがない)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○水 虎

右の佐伯の曰[やぶちゃん注:前話「山神の怪異」の末の附記に出る。「豐後杵築」の出身の「佐伯玄仙」なる人物。幸い、私はそれを総て「柴田宵曲 妖異博物館 そら礫」の注で電子化している。お暇な方は読まれたい。]、「田舍人は心猛く、加樣(かやう)の事をもものともせず、豐前の國中津の府と云ふ城醫(じやうい)の家に、書生たりし時、其家の次男、或時川岸を通りけるに、水虎(かつぱ)の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝(かはうそのきも)などの及べきかはとて、頓(やが)て手ごろなる石をひとつ提げ、何氣なく後(あと)の出る所をばねらひ濟(すま)して打落(うちおと)しけるに、何かはもつてたまるべき。キャツトと叫び沈みけり。扨は中(あた)りぬる事と見𢌞すに、水中動搖して、水、逆卷(さかまき)、怖しかりしかば、逃(にげ)て歸りぬ。夫(それ)より、彼(か)のものに取付(とりつき)て物狂はしくなり、家根(やね)にかけり、木にのぼりて、種々(いろいろ)と狂ひて手に合(あは)ず、細引(ほそびき)もて括(くく)り置けれども、すぐに切(きり)てければ、鐵(かね)の輪を首に入れて、鐵鎖(かなぐさり)をもて牛部屋の柱にしばり付たり。既に一月餘(ひとつきあまり)に成(なり)しかば、鐵輪(かなわ)にて首筋も裂破(さけやぶれ)たりしが、さらに退(たちのく)べき氣色なし。彼是(かれこれ)五十日計(ばかり)なり。或時、近き寺に大般若[やぶちゃん注:大般若会(だいはんにゃえ)。「大般若波羅蜜多経」を講読・転読する法会。古くは国家鎮護が目的で奈良・京都の大寺院で行われた。]有(あり)て、其札を家每に受たり。此家にも受來たり、先(まづ)彼(かの)ものに戴かせければ、身震ひして、卽時に除(のぞけ)たり。誠に不思議の奇特(きどく)、尊(たつと)き事いふ計りなし。始(はじめ)て此經廣大の功德を目前覽たりし」と語りける。もまた、まのあたり知たりしは、日向下北方村の常右衞門といふ人、十二三才の頃、川に遊びて、「河童に引込れし」と、連(つれ)の子供走り來て、親に告げたり。おりふし、神武の官の社人、何の河内と云(いふ)人、其(その)座に聞て、頓(やが)て其川に走り行(ゆき)、裸に成て、脇差を口にくはへて、彼(かの)空洞(ほら)[やぶちゃん注:後文から深い淵のことである。]に飛入り、水底(みなそこ)に暫く有(あり)て、其子を引出し來り、水を吐かせ、藥を與へ、やうやうにして常に返り、今に存命也。然るに、翌日、其空洞の所、忽ち淺瀨と成りにけり。所々の川には必ず空洞の所あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕(とる)事を恐る。また、卒爾(そつじ)に石などを打込(うちこむ)事を禁ずるなり。彼邊(かのあたり)の川渡らんとするものは、河童の來りたる、往(ゆき)たるを能く知るなり。又曰、此ものは誠に神變(しんぺん)なるものなり。生(いき)たる逢へば必(かならず)病む。知らずといへども、身の毛立(だつ)なり。たとへ石鐵砲など不意に打當(うちあつ)る事有れど、其死骸を見たるもの、なし。常に其類を同して行來(ゆききた)り、又は一所に住(ゆく)ものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つゐに人の手に渡らざると覺えたりと語る。かく恐ろしきものなれど、又、それを壓(ヲス)ものあり。猿を見れば、自ら動く事、能はず。猿もまた、そのものありと見れば、必ず、捕(とらへ)んとす。故に猿引(さるひき)川を渡るときは、是非に猿の顏を包(つつむ)といへり。日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ。彼邊は水へん[やぶちゃん注:「水邊」。]計(ばかり)にあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云(いふ)。是は菅神(かんじん)の御詠歌なるよし、此歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。

    兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら

肥前諫早兵揃村に鎭座ある天滿宮の社家に申傳へたり。扨此社を守る人に澁江久太夫といふ人あり。都(かつ)て水の符を出す故に、もし川童の取付たるなれば、此人に賴みて退(しりぞく)るなり。こゝに一奇事有(あり)。然れども、我、慥(たしか)に、その時、其所(そこ)にあらず。後年、聞傳へたるなれば、聊か附會の疑心なきにもあらず。彼飛彈山の天狗桶の輪にはぢかれし類ひにも近ければ[やぶちゃん注:原話を示せないが、天狗は人の思惑等を事前に察知してしまうものだが、たまたま人のそばにあった桶の箍(たが)が錆びて緩んだか、パンと外れたのに、全く気付くことが出来ず、それに当たって弾き飛ばされたというシチュエーションの話であろう。山男の酷似した話なら、ごまんとある。]、云(いは)ずしてやまん事、勝(まさ)らんとおもへども、又、よき理(ことわり)の一條あり。見ん人、是を以て其餘の虛説とする事なかれ。只、この一事、氣機[やぶちゃん注:五行の気の運動。]の發動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽(めばえ)すは、我も不ㇾ知(しらざる)の理(ことわり)をとりて、無念無想の當體(たうたい)[やぶちゃん注:ありのままの本性。]を悟入すべし。同州宮崎花が島[やぶちゃん注:現在の宮崎県宮崎市花ケ島町(グーグル・マップ・データ)。]の人語りしは、先年、佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獸を打步(うちあり)きて山野を家とせり。或日、例の鳥銃を携て、水鳥を心がけ、山間の池に行。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。『得たり』と心によろこび、矢頃(やごろ)よき所に下居(くだりゐ)て、既にねらひをかけるに、かの水神、水上(みづのうへ)に出(いで)て、餘念なく、人ありとも知らず、戲れ遊び居たり。『扨は折あしき事哉(かな)』と、にがにが敷(しく)おもひ、頓(やが)て鐵砲をもち待居(まちゐ)たり。きせるをくはへながら、筒先を當て、『此(この)矢先ならんには、たとひ惡鬼邪神、もしは、龍虎の猛(たけ)きとても、何かははづすべき』と獨り念じて居たりしが、『いやいや、よしなき事也(なり)』と取直(とりなほ)すに、如何はしけん。[やぶちゃん注:句点は底本のママ。]計らずも、「ふつ」と引がねに障(さは)るや否や、「どう」と響きて、ねらひ、はづれず。かのものゝ胴腹(どうばら)へ中(あた)りしと見えて、「はつ」と、火煙、立のぼる。「こは叶(かな)はじ」と、打捨(うちすて)て、飛(とぶ)がごとくに立歸りけり。歸宅の後も、さして異變も無りしかば、心に祕して人にも語らず。又、彼(かの)地へも年を越しても行ざりけり。かくて何の障りもなく、或時、友連打(つれうち)よりて、酒吞み遊びて、たがひに何かの物語りに、此人、思はず此事を語り出し、「世にはおそろしき事も有ものかな。夫より、二、三年、一向、彼所へ至らず。さらに打(うつ)べき心もなかりけるに、不運なる水神かな。自然(おのづ)と引がねにさはり、放(はなた)れ出(で)たるには、我も驚きたり」と語るや否、「ウン」とのつけに反返(そりかへ)り、又、起直りて云樣(いふやう)、「扨々、今日唯今はいかなるものゝ所爲(しよゐ)なる事を知らざりしに、此者の仕業と聞て、其仇(あだ)を報ずるなり」と罵りかゝり、終(つひ)に病(やまひ)と成りて死したりと云。誠に此事は論ぜずして口外にせざれば、人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問(とふ)に、問ふ人其數を知れば、鬼も知り、無心に摑んで人其數を知らざれば、鬼もまた其數を知らずといふも、同日の談なり。

   *

「九千坊」筑後川の河童の頭目として人口に膾炙しており、火野葦平「河童曼陀羅」にも多くに(十一篇ほど)その名が登場している(リンク先は私のブログ・カテゴリ。全篇電子化注済み)。]

2019/02/06

南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)

 

[やぶちゃん注:本電子化は、本日公開した『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の注の必要上から急きょ電子化したものである。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠った。クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。

 詳注を附す気はないが、私の躓いた部分を先に冒頭で示すと、

・『Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)』というのは、哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ウマグマ Ursus arctos pruinosus である。チベットに棲息し、和名は走る様子が「馬」に似ることに基づく。

・「燧(すい)を鑚(き)りて」は、例の木同士の揉みきりや火打ち石を用いて発火することを指す。

・「籙字」は「ろくじ」でその言語を記すための特殊な符号(文字)のこと。

・「黿」現行ではこれは、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指し、スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis とは異なるマルスッポン属の模式種で、我々の知っている本邦のスッポンの三倍弱の大きさがある。

「越張の封泥」不詳。「封泥」古代中国に於いて、貴重品を収めた箱や竹簡や木簡文書の封緘に用いた粘土塊(縛った紐の結び目などに柔らかいうちに押印して開封の有無を確認した)を指すが、「越張」は不明。軽々に「越の張」という地名とも断じ得ない。

・「格殺(かくさつ)」手で打ち殺すこと。殴り殺すこと。

・「葫蘿蔔」そう訓じているかどうかは別として、「大根」と並列されており、「にんじん」(野菜のニンジン)のことと思う。

・「シビトバナ」「石蒜」「シタマガリ」「カウラバナ」最後の異名を除いて、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名である。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。

・「吹弾」(すいだん)とは、笛などを吹き、琴などを弾くこと。音楽を演奏すること。]

 

 

  南方熊楠より柳田国男宛

    明治四十四年九月二十二日

‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり、魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろベルシアとインドに旅せし人なり) は Count Wieihorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出づ。発刊の年は忘る。その中に収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。

[やぶちゃん注:以下の一段落の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 インドの森中に猴(さる)棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バッタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、猿猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。

 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Prizhezalsky, ‘Mongolia, the Tangut Country and the Solitude of Nothern Tibet,’Londonm 1876,vol.ii, p. 249 に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressu クングーレッス(人熊の義)と言う。顔扁たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に良く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入ってTangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる能皮を見るに、高さ四フィート半、喙挺(ぬき)んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後部長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。

 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)なり、大英博物館にあり。支那の熊なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫(つか)む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆(ゆうひ)は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あらざるの臣をもってこれに誓う」と『本草綱目』に出づ。

 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなほだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)

 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」[やぶちゃん注:名論文「神跡考」の誤り。]という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、細目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。

 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもっとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八-五五九頁によれば、ボルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong bula(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐(あざむ)かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで通行く者おのおのその虚言家を誚(そし)りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを滅するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者燧(すい)を鑚(き)りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。

 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本革綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬(か)むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)

 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書く vol. I, pp. 201-202 に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。蒙古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの籙字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき[やぶちゃん注:ママ。]、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、白駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるという。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛(ラマ)僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、黿怪をなすこと多く見え、『録異記』に、腹の下赤きものは黿(げん)となし、白きものは鼈(べつ)となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大黿あって常に深き潭(ふち)にあり、号(なづ)けて黿潭となす。よく魅を作(な)し病を行(はや)らす。戴道柄(たいどうへい)なる者あり、よくこれを視見(うかが)い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大黿あり、径長(わたり)丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺(かくさつ)するに、病める者は立ちどころに愈ゆ。また小黿あり、出でて列び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、黿の条に出でたり)。

 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺(ただ)した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge, ‘The of the Egyptians,’1904m vol. ii, p.376 によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒(ダークネス)の諸力、および夜叉邪 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。

 当田辺町から二里ばかり朝来(あつそ)村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。Nasinoheso この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。

 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰(こ)えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田権(ごん)の頭(かみ)、檜杖(ひづえ)の冠者などという旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石を

なげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのことをいうと見えたり。

 山男、鋸の目をたつる音忌むということば、前に申し上げたと思う。

 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。

[やぶちゃん注:以下の引用一段落は、底本では全体が二字下げ。]

野尻を去ること四里、立町(たちまち)の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を禱る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型った物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛彈の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目がない。一番終りの村人が「ここは一年が十三カ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除になる、と里人は信じておる。

 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。

 dorit de cuissage (腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。

 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かいし謹んで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁(はつよめ)を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に鳴呼の国人妻を娶りて美なれば兄に薦めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)

 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」[やぶちゃん注:後の「神跡考」。]はおいおい三、四回または六、七回に訳出し差し上ぐべく候。

 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 

 前文のガウライ(河童) はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。

 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では何故か全体が二字下げである。]

この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイ Guernsey (英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古語を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。

 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古志、佳談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。

 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢谷にカシャソボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方(せんかた)なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。よって村の大日堂に之き護摩の符を貿い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困しむ、と。

 また丸三(まるさん)という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯れに人を弄するなり、と。

 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。

 小川孝七という男、日高郡南部(みなべ)奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。

 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂(まろ)村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。

 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困しますこと、『酉陽雑爼』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑爼』手近になくば抄して進ずべく候。

 ロシアにも水魔を祭るに馬屍を水に按ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上

 

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)

 

《原文》

 九州ノ河童ニ付テハ更ニ一異アリ。曰ク河童ハ夏バカリノ物ナリ、冬ハ山中ニ入リテ「ヤマワロ」(山童)トナルト〔西遊記其他〕。山童ヲ目擊シタル者ハ愈少ナケレド、昔ハ往々ニシテ之ニ遭遇シタル者ノ記事アリ。【足跡】山ニ入リテ其足跡ヲ見ルガ如キハ殆ド普通ノ不思議ナリキ。山童ハ童ト謂フハ名ノミニシテ隨分ノ大男ナリ。川小僧輩ノ中々企ツルコト能ハザル大入道ナリシナリ。【木ノ子】但シ此トハ或ハ別種カト思ハルヽ山ノ神ノ部類ニ、「セココ」〔觀惠交話〕、又ハ木ノ子ナドト稱スル物アリ〔扶桑恠異實記〕。愛ラシキ童形ニシテ群ヲ爲シテ林中ニ遊ビ杣木地挽(キヂヒキ)ノ徒ニ惡戲ス。山男ト同ジク木ノ葉ヲ綴リテ着ルトモアレド、或ハ又靑色ノ衣服ヲ着テアリトモ云ヒ、ヨホド動物バナレノシタル者ナリ。【カシヤンボ】紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅエノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此中ノ或家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來タリテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。【足跡】試ミニ小屋ノ口ニ灰ヲ撤キ置ケバ、水鳥ノ如キ足趾一面ニ其上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方(ミナカタ)氏ハ言ハルレドモ末ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ住ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見ヘタリ。之ニ反シテ九州ノ南部ニテハ、冬季山ニ住スル彼ヲモ亦河童ト稱ス。薩州出水鄕ノ獵師八右衞門、夜山ニ入リテ辨當ヲ使ヒテアリシトキ、闇ノ中ヨリ四五本ノ手出デテ食ヲ求ム。【鰯】八右其河童ナルコトヲ知リ持チ來タリシ海鰮(イワシ)ヲ與ヘテ其禮ニ猪ヲ追ヒ出サシメ、結局僅カナル食物ヲ以テ大キニ利得ヲシタリ。次ノ夜モ亦此通リナリシガ、手多クシテ海鰮足ラズ、乃チ戲レニ榾(ホダ)ノ火ヲ最後ノ者ノ掌ニ載セタルニ、聲ヲ放チテ走リ去リ、ソレヨリ山ドヨミ樹木ノ折レ倒ルヽ音頻リニシテ物凄ジクナリタレバ遁ゲ還ル。其後山ニ入レドモ河童百方妨ヲ爲シ、獵物無ケレバ終ニ其業ヲ罷メタリト云ヘリ〔水虎錄話〕。【山男】此話ハ他ノ諸國ニテハ常ニ山男ニ就キテ語リ傳ヘラル。奧州ニテ有名ナル白髮水ノ傳ニモ、白キ石ヲ燒キテ餅ヲ求ムル山男又ハ山姥ニ食ハセシト云フコトアリ〔遠野物語〕、山稼ギノ者ノ焚火ノ傍ニ立寄ルト云フ話ハ、山人トシテハ決シテ珍シキ例ニ非ズ。唯之ヲ名ヅケテ河童ト云フヲ以テ奇ナリトス。又日向地方ニ於テモ、河童冬ハ山ニ入リテ棲ムト云ヒ之ヲ山童トハ言ハズ。其形狀宛モ熊野ノ「カシャンポ」ノ如ク、又「セココ」木ノ子ナド呼バルヽ物ニ似タリ。【墨斗】杣人ノ墨斗(スミツボ)ヲ欲シガルコト甚シク、天壺ト云フ物ヲ怖ル。天壺トハ高鍋邊ノ方言ニテ苧ヲ編ミテ造リタル器ナリ。山ニ入ル者常ニ之ヲ肩ニシテ行ク。墨斗ヲ天壺ノ上ニ載セテ差出セバ河童驚キテ飛ビ退クト云ヘバ〔水虎錄話〕、彼縣ニテハ之ヲ見タル人多キナルべシ。然ルニ一方ニハ同ジ地方ニテ、河童ハ夏ニナルト海邊ヨリ山手ニ向フガ如ク語ル者アリ。初夏ノ雨ノ夜ニ數百群ヲ爲シ、ヒヨウヒヨウト鳴キテ空ヲ行ク者ヲ河童ノ山ニ入ルナリト言ヒ、秋ノ央ニナリテ同ジ聲ヲシテ海ノ方ニ鳴キ過グルヲ、河童山ヲ出デ來ルト云フ。曾テ其姿ヲ見タル者無シト云ヘバ、思フニ二種ノ渡鳥ナルべシ〔鄕土硏究二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方ノ河童ハ、每年四五月ノ頃筑後川ノ流ヲ溯リ、豐後ノ日田ヲ經テ阿蘇ノ社僧那羅延坊(ナラエンバウ)ガ許ニ伺候スト云フ。是モ亦同ジ鳥ノ聲ナドニ由リテ起リタルナランカ。那羅延坊ハ古クヨリ俗ニ河童ノ司ト稱ス。代々人ニ賴レテ河童ヲ鎭ムル祈禱ヲ爲シ、又折々近國ノ田舍ヲ巡回ス〔水虎考略後篇所引蓬生談〕其由緖ハ久留米ノ尼御前ヨリモ古キガ如シ。何ハトモアレ九州ノ河童ハ、眷屬大群ヲ爲シ且ツ移動性ニ富ムコトヲ以テ一特色トス。佐賀白山町ノ森田藤兵衞ナル者、曾テ對馬ニ渡リ旅宿ニ在リ。夜分家ノ前ヲ通行スル者ノ足音曉ニ至ルマデ止マザルヲ怪シミ、明日亭主ニ向ヒテ何故ニ斯ク人通リ多キヤト問ヘバ、亭主ノ答ニアレハ皆河童デゴザリマス。【海ト河童】河童日中ハ山ニ居リ夜ニ入レバ海ニ行キテ食物ヲ求ムルニテ、人間ニハ害ヲ爲サズト云ヘリ〔水虎新聞雜記〕。今ヨリ八九十年以前、日高謙三ト云フ人日向ノ耳川ノ上流ナル一山村ニ往キテ滯在セシニ、每夜四更ノ頃ニ及べバ恠シキ聲川上ニ起リ、暫クアリテ對岸ニ達シ忽チ又下流ニ去ル。曙ノ比ハ復ビ岸ニ沿ヒテ還ルガ常ナリ。土地ノ人ノ明ニ、是ハ河童ガ山ヲ下リ海ニ浴スルナリト也〔日州水虎新話〕。此輩ハ何レモ山ノ方ヲ本居トスル河童ナルカ、然ラザレバ亦何ゾノ鳥ノ聲ノ誤リテ斯ク信ゼラレタルモノ也。河童群ヲ爲シテ來去スト云フ者ハ、末ダ曾テ其姿ヲ見タリト言ハズ。高鍋附近堤ノ番人、永年此河童ノ聲ヲ聞キテ曾テ之ヲ見シコト無シ。或士ノ勇氣アル者深夜ニ物陰ニ之ヲ覗ヒ、聲ヲ的ニシテ闇ニ鐵砲ヲ放シタルニ、一發ニシテ忽チ行方ヲ知ラズト云フナド〔水虎錄話〕、如何ニモ鳥ラシキ話ナリ。【ヒヤウスヘ】サレバ河童ヲ「ヒヤウスヘ」ト云フハ其鳴ク聲ノヒヤウヒヤウト聞ユル爲ト云フノ如キ、未ダ何分ニモ信ヲ執ル能ハズ。某地方ノ山中ニ住スル「セコ子」ハ、二三十群ヲ爲シテ往來シ、其語音ヒウヒウトノミ聞ユト云ヘリ〔觀惠交話〕。但シ此「セコ子」ハ、顏ノ眞中ニ大キナ眼ガ一ツナリト云ヘバ、アマリ當ニモナラヌ話ナリ。

 

《訓読》

 九州の河童に付きては、更に一異あり。曰はく、『河童は夏ばかりの物なり、冬は山中に入りて「ヤマワロ」(山童)となる』と〔「西遊記」其の他〕。山童を目擊したる者は愈(いよいよ)少なけれど、昔は往々にして之れに遭遇したる者の記事あり。【足跡】山にいりて、其の足跡を見るがごときは殆んど普通の不思議なりき。山童(ヤマワロ)は「童(わろ)」と謂ふは名のみにして、隨分の大男なり。「川小僧(カハコゾウ)」輩(やから)の、中々、企(くはだ)つること能はざる、大入道なりしなり。【木ノ子】但し。此れとは或いは別種かと思はるる山の神の部類に、「セココ」〔觀惠交話〕、又は「木ノ子」などと稱する物、あり〔「扶桑恠異實記」〕。愛らしき童形(どうぎやう)にして、群れを爲して林中に遊び、杣(そま)・木地挽(きぢひき)の徒に惡戲(いたづら)す。「山男」と同じく、木の葉を綴(つづ)りて着るともあれど、或いは又、靑色の衣服を着てありとも云ひ、よほど動物ばなれのしたる者なり。【カシヤンボ】紀州熊野にては、河童は冬は山に入つて「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]と云ふ物になると云ふ。「カシャンボ」は、六、七歳ほどの小兒の形(なり)、頭は芥子坊主(けしばうず)にして、靑き衣を着(ちやく)す。姿は愛らしけれども、中々、惡事を爲す。同國東牟婁郡高田村に高田權頭(ごんのかみ)・檜杖(ひづえの)冠者など云ふ舊家あり。此の中の或る家へ、每年の秋、河童、新宮川を上(のぼ)りて、挨拶に來たる。姿は見えざれども、一疋來たる每(ごと)に、一つの小石を投げ込みて著到を報じ、それより愈(いよいよ)山林に入りて、「カシャンボ」と成る、といへり〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」、牛馬の害を爲すこと、多し。或いは、木を伐りに山に入りし者、樹に繋ぎ置きたる馬を取り隱され、漸くにして之れを見出でたれども、馬、苦惱すること甚しく、大日堂の護摩札を請ひ受けて、僅かに助け得たることあり。或いは、水邊より出で來たりて、夜々(よなよな)牛小屋を襲ひ、涎(よだれ)のごとき物を吐きて、牛の身に塗り附け、之れを苦しむ。【足跡】試みに、小屋の口に灰を撤き置けば、水鳥のごとき足趾(あしあと)、一面に其の上に殘れり〔同上〕。「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(みなかた)氏は言はるれども、末だ確證を知らず。兎に角、夏の間、里川(さとがは)の水に住む者をも、同じく「カシャンボ」とも呼ぶ、と見へたり。之れに反して、九州の南部にては、冬季、山に住する彼をも、亦、「河童」と稱す。薩州出水(いづみ)鄕の獵師八右衞門、夜(よ)、山に入りて辨當を使ひてありしとき、闇の中より、四、五本の手、出でて、食を求む。【鰯】八右(やう[やぶちゃん注:私の勝手な読み。])、其の河童なることを知り、持ち來たりし海鰮(いわし)を與へて、其禮に猪を追ひ出さしめ、結局、僅かなる食物を以つて、大きに利得をしたり。次の夜も亦、此(この)通りなりしが、手、多くして、海鰮、足らず、乃ち、戲れに、榾(ほだ)[やぶちゃん注:焚き物にする木の切れ端。]の火を最後の者の掌に載せたるに、聲を放ちて走り去り、それより山どよみ、樹木の折れ倒(たふ)るゝ音、頻りにして、物凄じくなりたれば、遁げ還る。其の後(のち)、山に入れども、河童、百方、妨(さまたげ)爲し、獵物(えもの)無ければ、終に其の業を罷めたり、と云へり〔「水虎錄話」〕。【山男】此の話は他の諸國にては常に「山男」に就きて語り傳へらる。奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳にも、白き石を燒きて、餅を求むる「山男」又は「山姥(かまうば)」に食はせし、と云ふことあり〔「遠野物語」〕、山稼ぎの者の焚火(たきび)の傍らに立ち寄ると云ふ話は、「山人」としては決して珍しき例に非ず。唯、之れを名づけて「河童」と云ふを以つて、奇なり、とす。又、日向地方に於いても、河童、冬は山に入りて棲むと云ひ、之を「山童」とは言はず。其、形狀、宛(あたか)も熊野の「カシャンポ」のごとく、又、「セココ」・「木ノ子」など呼ばるゝ物に似たり。【墨斗】杣人(そまびと)の墨斗(すみつぼ)を欲しがること甚しく、天壺(てんつぼ)と云ふ物を怖る。天壺とは高鍋邊(あたり)の方言にて苧(からむし)を編みて造りたる器なり。山に入る者、常に之れを肩にして行く。墨斗を天壺の上に載せて差し出せば、河童、驚きて飛び退く、と云へば〔「水虎錄話」〕、彼(か)の縣にては、之れを見たる人、多きなるべし。然るに、一方には同じ地方にて、河童は夏になると海邊より山手に向ふがごとく語る者あり。初夏の雨の夜(よ)に、數百、群れを爲し、「ひようひよう」と鳴きて、空を行く者を「河童の山に入るなり」と言ひ、秋の央(なかば)になりて同じ聲をして海の方に鳴き過(す)ぐるを、「河童、山を出で來たる」と云ふ。曾て其の姿を見たる者無しと云へば、思ふに、二種の渡り鳥なるべし〔『鄕土硏究』二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方の河童は、每年四、五の頃、筑後川の流れを溯り、豐後の日田(ひた)を經て、阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)が許に伺候すと云ふ。是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか。那羅延坊は古くより俗に河童の司(つかさ)と稱す。代々、人に賴れて、河童を鎭むる祈禱を爲し、又、折々、近國の田舍を巡回す〔「水虎考略後篇」所引・蓬生談〕其の由緖は、久留米の尼御前(あまごぜ)よりも古きがごとし。何はともあれ、九州の河童は、眷屬、大群を爲し、且つ、移動性に富むことを以つて、一特色とす。佐賀白山町の森田藤兵衞なる者、曾て對馬に渡り、旅宿に在り。夜分、家の前を通行する者の足音、曉(あかつき)に至るまで止まざるを怪しみ、明日(あくるひ)、亭主に向ひて、「何故(なにゆゑ)に斯(か)く人通り多きや」と問へば、亭主の答へに、「あれは、皆、河童でござります。【海と河童】河童、日中は山に居り、夜に入れば、海に行きて食物(くひもの)を求むるにて、人間には害を爲さず」と云へり〔「水虎新聞雜記」〕。今より八、九十年以前、日高謙三と云ふ人、日向の耳川(みみかは)の上流なる一山村に往きて滯在せしに、每夜、四更[やぶちゃん注:凡そ現在の午前一時又は二時から二時間。]の頃に及べば、恠(あや)しき聲、川上に起こり、暫くありて、對岸に達し、忽ち、又、下流に去る。曙(あけぼの)の比(ころ)は、復(ふたた)び岸に沿ひて還るが常なり。土地の人の明に、「是れは、河童が山を下り海に浴するなり」と也〔「日州水虎新話」〕。此の輩(やから)は、何れも、山の方を本居とする河童なるか、然らざれば亦、何ぞの鳥の聲の誤りて、斯く信ぜられたるものや。河童、群れを爲して來去(らいきよ)すと云ふ者は、末だ曾て其の姿を見たりと言はず。高鍋附近堤の番人、永年、此の河童の聲を聞きて、曾て之れを見しこと、無し。或る士の、勇氣ある者、深夜に物陰に之れを覗(うかが)ひ、聲を的(まと)にして闇に鐵砲を放したるに、一發にして忽ち行方を知らずと云ふなど〔「水虎錄話」〕、如何にも鳥らしき話なり。【ヒヤウスヘ】されば、河童を「ヒヤウスヘ」と云ふは、其の鳴く聲の「ひやうひやう」と聞ゆる爲(ため)と云ふのごとき、未だ何分にも信を執る能はず。某地方の山中に住する「セコ子」は、二、三十、群れを爲して往來し、其の語音、「ひうひう」とのみ聞ゆ、と云へり〔「觀惠交話」〕。但し、此の「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなりと云へば、あまり當(あて)にもならぬ話なり。

[やぶちゃん注:『「ヤマワロ」(山童)』ウィキの「山童」を引く。『山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州をはじめとする西日本に伝わる山に出る妖怪。河童(かっぱ)が山の中に入った存在であるとも言い伝えられている。熊本県芦北郡では』、「やまわろ」のほかに、「やまんもん」「やまんと」「やまんわっかし(山の若い衆)」「やまんおじやん(山の伯父やん)」など、また、『同県球磨郡では』「山ん太郎」「やまんぼ(山ん坊)」『とも呼ばれる』。「山𤢖(やまわろ)」『とも記される。「山𤢖」(さんそう)とは本来、中国に伝わる妖怪の名である』(次のリンク先の「山𤢖(やまわろ)」も参照のこと)。寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」には(リンク先は私の電子化注。但し、「𤢖」の字を当時は表記出来なかったので「やまわろ」でページ内検索されたい)、本邦産のそれについては、『九州の山奥に住み、姿は』十『歳程度の子供のようで、頭には柿褐色の長い頭髪を生やし、全身が細かい毛に覆われている。胴は短く』、二『本の長い脚で直立して歩き、人の言葉を話すという特徴の記述がある。同書(杏林堂版)では筑前国(福岡県)や五島列島に山童がいるとも記されており、姿は人のようで顔はまるく、髪は赤くて長く目にまでかかり、耳は犬のようにとがり、鼻の上に目が一つあり、カニやトコロ、コウゾの根を食すという特徴も記されている』。『熊本県では、山童は大工仕事に使われる墨壺(すみつぼ)が嫌いで、山の仕事場の周囲に墨壺をつかって墨の線を打っておくと近寄って来ることはないとされている』(本記載の内容にある)。『山中で樵(きこり)の仕事を手伝ってくれることがあり、そんな時に礼として酒やにぎり飯をあげると繰り返し手伝ってくれるという。山童に渡す礼の品物は、必ずはじめに約束した物でなければならず、違う物を渡すと山童は非常に怒る。また、仕事前に礼を渡すと食い逃げをされてしまう事もあったという。熊本県葦北郡では山仕事が多いとき「山の若い衆に頼むか」と言って山童に頼むという』。『河童と同じく、相撲をとったり、牛や馬に悪戯を働くことを好むともいう。また、人家に勝手にあがりこんで風呂に入ってゆくこともあったという』。『山童などが入浴をした湯船には脂(あぶら)が浮いて汚れ、とても臭かったという』。『天狗倒しや山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされることが多いが、西日本では山童の仕業とされることもある。天狗倒しのような現象(大きな木が倒れて来るような音を発する)は山童自身が発しているとされ、熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、畚』(もっこ)『から土を落とす音や、ダイナマイトによる発破の音までもさせたという話がある』。『ただし、天狗の仕業さとれる事が皆無というわけではなく熊本県小国など、山童の伝承が無く、天狗の仕業であるとしている地域も見られる』。以下、本文の記載に出る「山童と河童の渡り」の項。『西日本各地で、河童(かっぱ)が山に移り住んで姿を変えたのが山童(やまわろ)であるという伝承が確認されている。多くは、秋の彼岸どきに河童が山に入って山童となり、春の彼岸どきに川に戻って河童になるとされている』(これは思うに「田の神」が「山の神」と成る民俗学で知られたライフ・サイクルの零落変形譚であろう。後の引用で柳田もそれを指摘している)。『熊本県 ガラッパは秋の彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになる』。『熊本県球磨郡 川ん太郎と山ん太郎とは』、二月一日(太郎朔日(たろうついたち):中国・四国・九州などで古く旧暦二月朔日を指す語。一月十五日の小正月から起算して、初めての朔日であるところから言う。「ひとひ正月」「初ついたち」とも呼ぶ)『に入れ替わる』。『熊本県水俣 ガラッパは』、六月一日(氷朔日(こおりのついたち)陰暦六月一日。昔、宮中で冬にできた氷を氷室(ひむろ)から取り出して群臣に賜はる儀式がこの日行われた。民間では、正月の餅を凍(し)み餅にしておいて、この日に炒って食した。「氷室の朔日」とも呼ぶ)『に山から川へと入れ替わる』。『和歌山県』では、『ガオロは秋の彼岸に山に入ってカシャンボになり、春の彼岸に川に戻ってガオロになる』と言い、『奈良県吉野』では、『川太郎は秋の彼岸に山に入って山太郎になり、春の彼岸に川に戻って川太郎になる』と言う。『民俗学者・柳田國男は「川童の渡り」』(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)『という文章などで、このような河童と山童の季節による変化を、田の神(里・川)と山の神の信仰が季節ごとに変化をしたこと、また、そのとき多くの地域で鳥のような声が聴かれることから、渡り鳥などに関連した日本の季節の変化を示しているものではないかと論じている』(後注参照)。『河童や山童は山へ行き来する際』、「オサキ」(後文参照)『を通って集団で移動をすると言われる。河童や山童は人間がこの通り道に家を建てると怒り、壁に穴をあけてしまったりしたという。また、川に戻る山童たちを見に行こうとすると病気になると言われていた』。「オサキ」とは「尾先(おさき)」で、『山から下ってくる地形や場所を意味しており、家を建設するのに向かない土地とされている』。『熊本県阿蘇郡小峰村では山童たちが移動する通り道を「通り筋」(とおりすじ)と表現している』。『飛騨地方(岐阜県)ではヤマガロともいい、山に入って来る樵から弁当を奪うなどの悪戯を働くという』。『また、山童に類する妖怪には』「セコ」・「カシャンボ」。「木ノ子」『などがある。宮崎県西米良村に伝わるセコは夕方に山に入り、朝になると川に戻るという』。『また、熊本県阿蘇郡小峰村では山童に対して「ヤマワロ」と呼ぶと山童が怒ると考えられており、「セコ」という敬称を使うものであると言い伝えられていた』とある。

「西遊記」は江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)。当該記事は「巻之五」冒頭の「山童(やまわろ)」。以下に、岩波新古典文学大系版を元に、恣意的に漢字を正字化して示す。読みは一部を除き、除去し、記号を追加した。

   *

   山童

 九州、極西南の深山に俗に「山わろ」といふものあり。薩摩にても聞しに、彼(かの)國の山の寺といふ所にも「山わろ」多しとぞ。其(その)形、大なる猿のごとくにして、常に人のごとく立(たち)て步行(あり)く。毛の色、甚(はなはだ)黑し。此(この)[やぶちゃん注:「このところの」の意であろう。]寺などには每度來りて食物を盜みくらふ。然れども鹽(しほ)ケ有ものを甚嫌へり。杣人など山深く入りて木の大きなるを切出す時に、峯を越へ谷をわたらざれば出(いだ)しがたくて、出しなやめる時には、此山わろに握り飯をあたへて賴めば、いかなる大木といへども輕〻と引かたげて、よく谷峯をこし、杣人のたすけとなる。人と同じく大木を運ぶ時に、必ずうしろの方に立て人より先に立行(たちゆく)事を嫌ふ。飯をあたへて是をつかへば、日〻來り手傳ふ。先ヅつかい終りて後に飯をあたふ。はじめに少しにても飯をあたふれば、飯を食し終りて迯(にげ)去る。常には人の害をなす事なし。もし此方より是を打ち、或ひは殺さんとおもへば、不思議に祟りをなし、其人發狂し、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]大病に染み、或は其家俄に火もへ出など、種〻の災害起りて、祈禱醫藥も及(およぶ)事なし。此ゆへに人みな大(おほい)におそれうやまひて、手ざす事なし。

 此もの、只、九州の邊境にのみ有りて、他國に有る事を聞(きか)ず。冬より春、多く出(いづ)るといふ。冬は山にありて「山操[やぶちゃん注:ママ。]」といひ、夏は川に住みて「川太郞」といふと、或人語りき。然れば川太郞と同物にして、所によりて名の替れるものか。

   *

「木ノ子」ウィキの「木の子」によれば、『木の子(きのこ)は、近畿地方に伝わる妖怪』。『奈良県の吉野地方や兵庫県の山間部や森の中にいるとされる妖怪で、同じく山にいる妖怪である山童の一種』。『外観は』二、三歳から三、四歳『ほどの子供のような姿で、木の葉で作った衣服、または青い色の衣服を着ている』。『人間がその姿を見るとまるで影のようで、いるかいないかはっきりしないという』。『普段は群をなして遊んでいる』。『樵や山で仕事をしている人々にはその姿をたびたび見かけられており、彼らにとってはそれほど珍しくない存在という』。『しかし油断をしていると、弁当を盗まれるなどの悪戯をされてしまい、そんなときには棒を持って追い払うという』とある。

「セココ」小学館「大辞泉」に「セコ」の見出しで載り、『日本の妖怪。子供の姿で人々に悪戯をする。九州地方を中心とする伝承で、河童が山に登ったものとされ、「セココ」「セコドン」「セコンボ」「カリコボ」「ヤマンタロウ」などとも呼ばれる』とある。

「杣(そま)」木樵(きこり)。

「木地挽(きぢひき)」木地を粗挽(あらび)きし、その木地のままで、盆・椀・玩具などの細工をする職人。「木地屋」「きじびき」。

「芥子坊主」頭髪を真ん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。ケシ(キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum)の果実に似ていることに由来する。

「南方熊楠氏報」明治四四(一九一一)年九月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡に拠る。直接の当該部分は後半であるが、全体が河童と密接な関係を持ち、柳田は他の部分からも南方から与えられた情報を恰も自分がオリジナルに見出したかのように流用していることから、やや長いが、全文をこちらで電子化したので、読まれたい。

「大日堂」南方熊楠の前記書簡に出る。和歌山県西牟婁郡にあった旧富田(とんだ)村(現在は白浜町内。ここ(グーグル・マップ・データ))にある、大日如来を安置してある堂。熊楠は『村の大日堂』と書いているので、村持ちのもので、現行、確認は出来ない。

『「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(ミナカタ)氏は言はるれども、末だ確證を知らず』上記の書簡の後の翌月、同明治四十四年十月八日発信の南方熊楠の柳田國男宛書簡の中に、

   *

前書申し上げしカシャンボ(河童)は火車のことなるべし。火車の伝、今も多少熊野に残るにや、一昨年南牟婁郡辺に死せる女の屍、寺で棺よりおのずから露われ出て(生きたる貌にて)、葬送の輩駭(おどろ)き逃げしということ、『大阪毎日』で見たり。河童と火車と混ずること、ちょっと小生には分からず。

   *

とあるのに基づく。「火車」は「化車」とも書き(私はこの「化」は後代の当て字と思っている)、悪行を積み重ねた末に死んだ者の遺体を葬場や墓場から奪うとされる妖怪で、全国的に分布する。正体を妖怪「猫又(ねこまた)」とすることが多い。以前に注で述べた通り、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」でもさんざん出て、注も何度もしてきたが、ここではもう、決定版として先に示した勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)を読まれるに若(し)くはない。

「薩州出水(いづみ)鄕」現在の鹿児島県出水市(グーグル・マップ・データ)。

「鰯」「海鰮(いわし)」「イワシ」という種はいない。本邦では条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei に属する、

ニシン科 Clupeidae ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus

ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres

及び、

カタクチイワシ科
Engraulidae カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus

の三種を「イワシ」と非生物学的に通称総称している。

『奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳』「遠野物語」「白髮水」伝説というのは、中古にあったとされる大洪水に纏わる怪奇伝承。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人」の「二八」話と注を参照されたい。

「天壺」どうも形状がイメージできない。識者の御教授を乞う。

「高鍋」現在の宮崎県の中央部の太平洋側にある現在の児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。

「苧(からむし)」イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaの皮から採った靭皮繊維。ウィキの「カラムシ」によれば、『麻などと同じく非常に丈夫で』、『取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また』、『荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部』(はとりべ・はとり・服部)『を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三年)の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は』、『衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また』、『上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』し、『この他、江戸時代の有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった』。『国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料であり、福島県会津地方の昭和村で栽培され、本州唯一の産地となっている』とある。

「阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)」神仏習合期の社僧とするが、修験道の山伏である。由来は判らぬが、ここにある通り、彼らは古くから河童の司・主(あるじ)とも言われ、代々、河童を鎮める力を持っているとして、河童封じの呪符などをも発行していたらしい。名前は仏教の那羅延天(ならえんてん:漢訳仏典に於けるバラモン教・ヒンドゥー教の最高神の一人ヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写)由来であろう。「是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか」とは、旧暦四、五月という初夏の季節に、那羅延坊のいる阿蘇神社に元に集まるという設定には、ある種のこの広域地域をルートとする「渡り鳥」の大きな群れの鳴き声が関係しているのではないかという推理である。実は本書が刊行される二ヶ月前の、大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に柳田國男は「川童の話」という短い記事を書いており(後の「妖怪談義」に収録。後の注で電子化する)、先に出した「川童の渡り」(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)でもそうなのだが、「ヒョウスヘ」という河童の異名の一つを、実在する渡鳥ムナグロ(胸黒:チドリ目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva Gmelinウィキの「ムナグロによれば、本邦へは『旅鳥として春と秋の渡りの時期に全国に飛来する。本州の中部以南の地域では、越冬する個体もある。南西諸島や小笠原諸島では、普通に越冬している』とある。鳴きYou Tube MankoMizudoriムナグロ Pacific Golden Plover が鳴くを聴かれたい。う~ん、さて?)に比定する説(但し、柳田は非常に用心深くそれを支持することを留保してはいる)が示されてあるのである。

「蓬生」は恐らく情報提供者の姓と思われる(読みは「よもぎう」(現代仮名遣)か)。「水虎考略後篇」は正篇完成の十九年後の天保一〇(一八三九)年に、再び古賀侗庵が、より多くの文献から河童譚を集めたものである。

「久留米の尼御前(あまごぜ)」久留米に伝承される尼御前(あまごぜ)と呼ばれる女河童で、筑後川(古くは千歳川とも言った)の河童を総支配していたという女傑河童で、伝承の一つでは、平清盛の正妻時子、二位の尼が変じたものともされるらしい。これは、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「伝説紀行」にある「巨瀬川の尼御前カッパ」に詳しいが、福岡県宗像郡東郷村(現在の宗像市)、北九州市門司区大積に伝わる海の妖怪に「海御前」(うみごぜん/あまごぜ)という河童の女親分の伝承もあり、これは同じ平家の剛将能登守教経の妻(或いは母親という説もある)が変じたとするもので、藪野直史野人周年記念+ブログ・アクセス六十七万突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注は彼女を主人公とした一人称小説である。未読の方は、是非、どうぞ。因みに火野作品集「河童曼荼羅」全篇電子化注てあ

「佐賀白山町」現在の佐賀県佐賀市白山。地図はいらないだろう。

「水虎新聞雜記」思うに、これは「すいこしんぎきざつき」と読むのではなかろうか。この本については、柳田國男は大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に発表した「川童の話」という短い記事なので、総て以下に電子化する(底本は「ちくま文庫」版全集を使用した。読みは一部に留めた)。

   *

   川童の話

 以前数年間鹿児島におられた石黒忠篤氏は、鳥の声に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聴いてその話をせられたことがある。その説ではムナグロ(胸黒?)という大きな千鳥の類の群だということである。『水虎考略』後篇の巻三に、日向高鍋の某村において、土堤普請(どてぶしん)の番小屋の側を、夜分になると水虎数百群をなして通る。ある人ぜひその姿を見んと思い、樹蔭に隠れ窺いたれどもどうしても見ることならず。次の夜鉄砲を持参し程を見定めて一発すれば忽然として声を潜めた。水虎の鳴声は飄々(ひょうひょう)と聞える。日州で川童をヒョウスエと呼ぶのはこのためだとある。尾花・石黒二君の説と合致しているが、ヒョウスエの称呼の由来に至ってはいまだただちには信じがたい。

 右の『水虎考略』は後篇の方はあまり世に流布しておらぬ。第三巻の新聞雑記というのは天保年間にある書生が下手な漢文で筆録した三十篇の川童話である。このついでにその中から二三耳新しい箇条を書き抜いておこう。(一)肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を教えてくれる。その言う通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じるとはなはだ怖しい。子供等は時々親に頼み川童を喚んで御馳走をする。その姿小児等の目には見えて父母には見えず。ただ物を食べる音ばかりして帰る時には椀も茶碗も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に来ていた天草の女中の談。(二)佐賀白山町の森田藤兵衛なる者かつて対馬に渡り宿屋に泊っていると、夜分に宿の附近を多人数の足音がして終夜絶えなかった。翌朝亭主にどうしてこう夜歩きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は昼は山におり夜は海へ出て食を求めるので、このごとく多くいても別に害はせぬものだと語った。(三)肥前では人の川童のために殺さるる者あれば、その葬(とむらい)には火を用いしめず。衣類から棺まで白い物を用いさせぬ。これを黒葬といい、黒葬をすればその川童は目潰れ腕腐って死ぬものだという。(四)佐賀高木町の商家の娘十一二歳の者、寺子屋の帰りに隣家の童子に遇い、観成院の前の川で遊ぼうと約束しておいて、家へ戻って食事をし出て行こうとする時、親がこれを聞いて用心のために竈(かまど)の神様を拝ませ、荒神様(こうじんさま)守りたまえとその子の額に竈の墨を塗って出した。約束の童子つくづくと娘の額を見て、お前は荒神の墨を戴いて来たからもう一緒に泳ぎたくないといって憮然として去ったとある。それで川童であることが顕われた。この本にはまだ数十件の川童の話が載せてある。

   *

「今より八、九十年以前」「日州水虎新話」の書誌が不明で、「日高謙三」なる人物も判らぬが、柳田國男のこの書き方からみて、本書刊行(大正三(一九一四)年七月)から逆算でよいようだ。とすれば、一八二四(文政七)年から一八三四(天保五)年でとなる。

「日向の耳川(みみかは)」河口は(グーグル・マップ・データ)。

『「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなり』柳田國男の「一目小僧」の「三」に、以下のようにある(引用は目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)より。私の注もそのまま引いた)。

    *

 又國は何處であるか知らぬが、有馬左衞門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んで居た。三四尺程にて眼は顏の眞中に只一つある。其他は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連れ立ちありく。人之に逢へども害を爲さず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣共は語りけり。言葉は聞えず聲はヒウヒウと高くひびく由なりと、觀惠交話と云ふ書に出て居る。是も同じ時代の事である。

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」「ありまさゑもんのすけどの」と読む。不詳。

「セコ子」「せここ」と読むようだ。それにしても、ウィキもたいしたもんだ。柳田が「國は何處であるか知らぬ」とうっちゃらかしたものが、ちゃんと判る。ィキの「セコ」から引く。「セコ」とは二、三歳ほどの『子供の妖怪で、河童が山に登ったものとされ』、『鹿児島県以外の九州地方と島根県隠岐郡に伝わっている』。『外観は一般には、頭を芥子坊主にした子供のようだとも、猫のような動物とも、姿が見えないともいう。島根の隠岐諸島では』一歳ほどの『赤ん坊のような姿で、一本足ともいう。古書『観恵交話』では、一つ目で体毛がないが、それ以外は人間そっくりとされる。但し民間伝承上においては、セコが一つ目という伝承は見受けられない』。『妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、一つ目と二つ目のものが存在する。夜中に、山を歩いていると、楽しそうな声や音が聞こえるのは、このセコによるものとされる。夜は木の周りで踊っているという』(以下注記号を省略した)。『人に対して様々な悪戯を働くともいう。島根県では石を割る音や岩を転がす音をたてるという。宮崎県では山中で山鳴りや木の倒れる音をさせたり、山小屋を揺すったりするという。大分県では山道を歩く人の手や足をつかんでからかう、牛馬に憑く、人をだまして道に迷わせる、怪我を負わせる、人が山に入るときに懐に焼き餅を入れていると、それを欲しがるなどといわれる』。前述の観恵交話では二十~三十人ほどで『連れ立ち、大工の墨壺を欲しがるという。基本的にこちらから手を出さない限り直接的な害はないが、悪戯を受けた際は鉄砲を鳴らす、経を読む、「今夜は俺が悪かった」などと言い訳をするなどの方法が良いという。セコはイワシが嫌いなため「イワシをやるぞ」と言うのも効果があるという』。『山と川を移動するとき「ヒョウヒョウ」「キチキチ」「ホイホイ」などと鳴くという。この「ホイホイ」は、狩猟で獲物を刈り出す勢子(せこ)の掛け声「ほーい ほーい」を真似ており、セコの名はこの勢子が由来とされる。大分では日和の変わり目に群れをなして「カッカ」と鳴きながら山を登るといい、セコが通る道に家を建てると、家の中には入ってこないがその家が揺すられたり、石を投げつけられたりするという』。『熊本県では、セコは老人のような声から子供のような声まで出し、木こりはその声によってセコの機嫌を知るという』。『島根県隠岐諸島では、セコはカワコ(河童)が秋の彼岸に山に入ったものとされる。「ヨイヨイ」「ホイホイ」「ショイショイ」などと鳴き、イタチのように身が軽いので、こちらで鳴き声が聞こえたかと思えば、すぐに別のほうからも鳴き声が聞こえるという。足跡は』一歳ほどの『赤ん坊のものに似ているという。また、セコは年老いた河童のことで、川や溝を一本足で歩くともいわれる』とある。この一歳児の足跡というのは「座敷童子(ざしきわらし)」との連関性を私は強く感じる。

   *]

2019/02/02

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(16) 「河童ニ異名多シ」(2)

 

《原文》

 【カハノトノ】九州ノ或地方ニテハ、河童ヲ「カハノトノ」ト呼ブト聞ク。南ハ日向大隅邊ニテハ之ヲ「ヒヤウスヘ」ト云ヒ、【水神】又「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)ト云フ。此等ハ何レモ尊敬ヲ極メタル稱號ニシテ、正シク一般ノ河童動物ヲ否定スルニ足ルモノナリ。【ガメ】之ニ反シテ越中富山ニ於テ河童ヲ「ガメ」ト稱スルハ、卽チ之ヲ龜又ハ鼈ノ部類ニ屬スルモノト認メタルガ爲ナルコト、曾テ越後新潟ニ於テ捕ヘタリト云フ河童ノ寫生ヲ見テモ想像ニ難カラズ。【カハツソウ】佐賀縣ニテハ河童ヲ「カハツソウ」ト云フ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」ハ川ノ僧ノ義ニモ非ズ、【川濯神】水ノ神タル川濯神(カハスソガミ)トモ直接ノ關係無ク、全ク河童ヲ以テ川獺(カハウソ)ノ類ト考ヘタル爲ノ名稱ナルガ如シ。出雲ニテ昔ノ「エンコウ」ヲ今ハ川獺ト爲セルコトハ前ニ述べタリ。川獺ハ小獸ナレドモ亦淵ノ底ニ住ミテ惡事ヲ爲ス。馬ヲ害セシ話ハ未ダ聞カザルモ、人ヲ騙カシテ水ニ引込ムナドト傳ヘラル。海ニモ亦獺ノ住ム地方アリ。【ウミカブロ】佐渡ノ兩津町附近ニテハ、海瀨ハケシカラヌ詐術ヲ以テ人ノ命ヲ奪フト信ゼラレ、其一名ヲ「ウミカブロ」、卽チ海ノ童兒ト云フトアレバ〔佐渡志〕、通稱ニ於テモ亦河童ト相似タリ。播州明石ノ海岸ナドニテハ、今日「ガタロ」ト云フ物ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此外ノ異名ニシテ由來ノ尚不明ナルハ、熊野又ハ但馬ニテ「ガウライ」、【テガワラ】北陸ノ或地方ニテ「カワラ」、「ガワラ」又ハ「テガワラ」。此ハ或ハ「川ワラハ」ノ義ナランカ。【ミヅシ】加賀能登其他ニ於テ河童ヲ「ミヅシ」ト云フコト〔本草啓蒙〕、【メドチ】サテハ陸中陸奧ニ於テ之ヲ「メドチ」ト云フニ至リテハ〔南部方言集〕、猶數段ノ討究ヲ重ヌルニ非ザレバ其理由ヲ明白ニスルコト難シ。【ミンツチ】「アイヌ」ノ古言ニハ、河童トヨク似タルモノヲ「ミンツチ」ト云フ由ハ次ニ言ハントス。【コマヒキ】而モ江差、松前ノ舊城下ニ於テハ、又河童ヲ「コマヒキ」ト呼ビシ時代アリ〔サヘヅリ草〕。此事ニ就テモ後ニ猶考察ヲ加フべキ機會アルナリ。

 

《訓読》

 【カハノトノ】九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く。南は日向・大隅邊にては之れを、「ヒヤウスヘ」と云ひ、【水神】又、「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)と云ふ。此等は何(いづ)れも、尊敬を極めたる稱號にして、正(まさ)しく一般の河童動物を否定するに足るものなり。【ガメ】之れに反して、越中富山に於いて河童を「ガメ」と稱するは、卽ち、之れを、「龜(かめ)」又は「鼈(すつぽん)」の部類に屬するものと認めたるが爲なること、曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず。【カハツソウ】佐賀縣にては河童を「カハツソウ」と云ふ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」は「川の僧」の義にも非ず、【川濯神(かはすそがみ)】水の神たる「川濯神(かはすそがみ)」とも直接の關係無く、全く、河童を以つて「川獺(かはをそ)」の類ひと考へたる爲の名稱なるがごとし。出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり。川獺は小獸なれども、亦(また)、淵の底に住みて、惡事を爲す。馬を害せし話は未だ聞かざるも、人を騙(たぶら)かして水に引き込むなどと傳へらる。海にも亦、「獺(をそ)」の住む地方あり。【ウミカブロ】佐渡の兩津町附近にては、「海瀨(ウミヲソ)[やぶちゃん注:私の推定訓で妖怪名と捉え、カタカナ表記した。]」は「けしからぬ詐術(さじゆつ)を以つて、人の命を奪ふ」と信ぜられ、其の一名を「ウミカブロ」、卽ち、「海の童兒」と云ふ、とあれば〔「佐渡志」〕、通稱に於いても亦、河童と相似たり。播州明石の海岸などにては、今日、「ガタロ」と云ふ物は河童には非ずして、鮫の事なりと云ふ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此の外の異名にして由來の尚ほ不明なるは、熊野又は但馬にて「ガウライ」、【テガワラ】北陸の或る地方にて「カワラ」、「ガワラ」又は「テガワラ」。此れは或いは「川わらは」の義ならんか。【ミヅシ】加賀・能登其の他に於いて河童を「ミヅシ」と云ふこと〔「本草啓蒙」〕、【メドチ】さては、陸中・陸奧に於いて之れを「メドチ」と云ふに至りては〔「南部方言集」〕、猶ほ、數段の討究を重ぬるに非ざれば、其の理由を明白にすること、難し。【ミンツチ】「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)は次ぎに言はんとす。【コマヒキ】而(しか)も江差・松前の舊城下に於いては、又、河童を「コマヒキ」と呼びし時代あり〔「さへづり草」〕。此の事に就きても、後(のち)に、猶ほ、考察を加ふべき機會あるなり。

[やぶちゃん注:「カハノトノ」『九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く』もと一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」の第八巻「妖怪」所収の千葉幹夫「全国妖怪語辞典」には、福岡県(同辞典は県別表示)の項に「カワトノ」があり、『水の怪。川殿。久留米市、河童を川殿、コウラウワロウ、ガッパ、カワッパなどといっていた(『浜萩』/『民俗語彙』)』とあり、「大分」の項には「カワノモノ」という類似する水怪の名が出、その中に『玖珠』(くす)『郡で河童のこと』とする(玖珠郡は大分の中西部。ここ(グーグル・マップ・データ))。同じ「日本民俗文化資料集成」第八巻所収の丸山学の「河童考」には、大分県の平坦な地区で「カワントン」「カワンヒト」「カワンモン」「カワンヌシ」という類似呼称があるとあるから、九州山脈の河川周辺の一部でこの「川の殿」系の河童異名があったことが判る。

「ガメ」私は富山に六年間いたが、「ガメ」なんて言う呼称は聴いたことがない。河童は「カッパ」であった。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」にも「カッパ」(上新川郡大田村採取)と「ミズチ」(羽咋郡堀松村)が挙がるだけで、「ガメ」は載らない。後者「ミズチ」には『河童のこと』。『河辺に淵端某という旧家で疳の薬を売っていた。この家の先祖が駒引に失敗した河童から助命の礼として製法を伝授されたものという(「郷土研究」一 - 四/石川純一郎『河童の世界』)』とさえあった。柳田はこれを見落としていたか、或いは「ミズチ」という名では都合が悪かったのか? しかし、これはもう、立派な駒引失敗製薬法伝授譚ではないか。ここより前に出すべき立派な一例じゃあないか! 「ガメ」で「富山に河童はいない」と断じて富山を早々に煩瑣な探索対象から外した〈柳田國男の嘘〉が見えた。なお、同辞典には石川県の項に「ガメ」を挙げ、『河童のこと』とする。採取地を『能美郡中海村遊船泉寺』とする。【2019年2月4日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、高崎正秀「河童俗伝」(『民族』昭和三(一九二八)年七月発行所収)に、富山県上新川郡太田村採取の『河童をこの辺ではガメという。ガメの親方をカーラボーズという。昔、便所で尻を撫でるやつがいたので引捕らえると腕が抜けた。カーラボーズの腕だった。返す代わりに薬の製法を教えてもらった』とあること(言うまでもないが「カーラボーズ」は「甲羅坊主」であろう)、昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の岡田建文(けんぶん)著「動物界靈異誌」が、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、その「河童」の章の「二」に、『河童の呼稱くらゐに各地さまざまである動物は他に無い。一番普通なのが川太郎、カツパ、カハコ、などである。越中では「ガメ」と云ひ、美作ではゴンガメと呼んで居る。河童には甲羅があると云ふとあるが、ガメと云ひゴンガメと云ふ上はその地方の河童は甲羅があるのであらう。』(太字は原本では傍点「」)とある。T氏はメールに『ともに「山東民潭」後のものですが、柳田は越中の河童の呼称である「ガメ」を何処(書物又は人)で知ったのでしょうか』? とされておられる。因みに、岡田建文(生没年未詳)なる人物は、柳田國男とかなり親しかった、相当に変わった人物のようで(恐らくは柳田より年上)、SIGNAL-9ブログ野菊のハッカーによれば、島根県松江出身で、『松陽新聞』の記者を経て、心霊関係の雑誌『彗星』を発行していた心霊主義者で、出口王仁三郎の大本教に傾倒し、『彗星』でもその普及に務めたが、『柳田國男の証言に依れば(柳田自身は断言していないのだが)、おそらく東京の空襲』(昭和一九(一九四四)年から翌年にかけてのそれ)『で死亡したのだろう』言っているとあり、その情報元は柳田國男のエッセイ「作之丞と未来」(昭和二四(一九四九)年・旧全集には不載で私は未見)で、別な箇所で『柳田は「空襲のさなかに別れたまま、消息不明になった旧友の岡田蒼溟翁」』(岡田の雅号)『の思い出を哀切を持って懐かしんでいる』とあり、柳田の「炭燒日記」に出る彼の訪問を抜粋されている(これは全集で確認した)。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌を見ると、冒頭画像では、著作権者不明による文化庁長官裁定の記載があるものの、画面左コンテンツの「公開範囲」では、『保護期間満了』の明記がなされていることから、何らかの形で死亡確認がなされているものかとも思われる。T氏に感謝するとともに、続けて本書刊行(大正三(一九一四)年)以前の越中での河童呼称「ガメ」の情報を俟つものである。

「龜(かめ)」爬虫綱カメ目潜頸亜目 Cryptodira に属するカメ類(カメ目 Testudines の中には本邦に棲息しない曲頸亜目 Pleurodira のヘビクビガメ科 Chelidae・ヨコクビガメ科 Pelomedusoidae が含まれる)。

「鼈(すつぽん)」潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種の、噛みついたらなかなか離さないという危険な習性を考えると、河童と同様の危険生物として腑に落ちる。それにあまり知られていないが、スッポンは地上では恐るべき速さで走ることが出来、それはなかなかドキッとするものなのである。なお、ウィキの「スッポン」によれば、『かつて日本ではキツネやタヌキといった動物と同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた』ともあった。

「曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず」例の「水虎考略」の『越後國新潟鄕所出寛政甲寅秋』に実見したとする『水乕』(すいこ:「水虎」で河童の異名。なお、引用は部分)とある図であろう(リンク先は前に出した「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のそれ)。こりゃ、確かにスッポンだわ。

「川濯神」(かはすそがみ)」「川濯」は「川の水で濯(すす)ぐ」で、本来は川で行われる「禊(みそぎ)」を司る神のこと。河川の神・治水の神などの「水の神」ともなる。代表的な神は瀬織津姫(せおりつひめ)であろう。ウィキの「瀬織津姫」によれば、『神道の大祓詞』(おおはらえのことば)『に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される』が、「古事記」「日本書紀」には『記されていない』。『水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である』。「倭姫命世記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」「中臣祓訓解」に『おいては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮』(あらまつりのみや)『の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される』。『饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と関係があり、天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。「西宮」の地名由来の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。天照大神との関わりは、謎が多い』。他に『宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている』。『祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり』、『長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく』。『熊野神社を遡り調べると』、『熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし』、『北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した』とある。

「川獺(かはをそ)」既出既注の、もとはキツネ・タヌキ・アナグマ(ムジナ)同様、実在する生物としてのカウワソを妖異を成す妖怪(妖獣)として捉えたもの。但し、そこでは柳田は「河獺」と表記している。前に出た、室町中期の文安元(一四四四)年に成立した著者未詳の百科事典的国語辞書「下學集」には、既に、

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(獺)老而二河童一也(卷之上「氣形門」獺の項)

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とあることが、增子和男氏の論文「獺怪譚の盛衰をめぐって(上)」に出る(この非常に興味深い論文全三篇(上・中・下)は「早稲田大学リポジトリ」のこちらで総てをダウン・ロード出来る)。そこで增子氏も引いておられるが、江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本「古今百物語評判」の「卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事」(リンク先は私が昨年終えた「古今百物語評判」全電子化注の一つ)で、山岡は、

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「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり)のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ。」

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評している。即ち、カワウソが人を騙すルーツは增子氏も指摘されている通り、中国の伝奇小説「搜神記」辺りに求められるわけである(前のリンクの私の注で「太平廣記」の「搜神記」を出典とする当該原典本文も全文示してある)……因みに、現代に河童が居なくなったのは、或いは、我々日本人が、ネコ目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウ Lutra lutra nippon 絶滅させたからかも、知れないな……

『出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり』前のリンク先と同じ「河童ノ詫證文」の冒頭。

「ウミカブロ」「カブロ」は「禿(かむろ)」で髪を短く切りそろえた子供の標準的な髪型で、転じて「子ども・児童」の意となった。

「海瀨(ウミヲソ)」古くからしばしば、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類にこの漢字を当てる。「海禿」も極めてアシカに相応しい。表情も人間的なミミクリーがある。本草学者小野蘭山口述の名著「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)にも「海獺」を「アシカ」に同定している(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原典の当該ページの画像)。他にも哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris にもこの漢字を当て、難読問題で出したりするが、北海道ならまだしも、対馬暖流が包む佐渡にはラッコは無理である。

「内藤吉之助」昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となった。これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようだ)が、「青空文庫」で柳田國男「故郷七十年」として電子化されてある。その「明石のカワカムロ」という回に、この名前が出る。

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    明石のカワカムロ

 

 京都はガタロウで通用するとして、丹波の由良川あたりでは何というか。中部地方では河童(かわらべ)の系統でカワランベ、カラランベというのが多く、九州では少し発音を違えてガラッパ、またはカワッパ、カワトノなどと呼ぶ所が多い。

 面白いことに、東西の中間にエンコというのが入りまじっている。すなわち瀬戸内海の両側、山陰、山陽、四国ではエンコという所がある。猿(えん)の字をあてているが、淵猴とも書くことがある。

 その他に、カワゴ(川子)という所がある。エンコを使わない所ではゴウゴとか、カワゴとかいって、これが大分多く行われている。カワゴは河童と同じで、童が児になっただけの違いである。今では川の字をあてたり、河の字を書いたりしているが、漢字の概念ではこれは解釈できないことである。なぜなら日本ではカワというのは水汲み場、水使い場のことをいうのである。水の流れている所、どうどう流れている所ではない。今でも九州あたりでは、流れている筑後川などという方はカワラといい、水汲み場の方をカワとよんで区別している。沖縄あたりでは川がちっともないが、カワという言葉はあり、それは水使い場を指している。

 水使い場を意味するカワという言葉と、童子という言葉を結びつけた河童の名称が、全国に少しずつ違えて三十幾つかある。関東地方の東部のようにカワガッパとはっきりいっている所もある。つまり「水の童子」「水汲み場にあらわれる怪童」といった心持は、全部に共通し、非常にひろく行われているのである。

 河童の名前の中で今も探している名前が一つある。神崎郡の名家で、川辺(かわなべ)(神崎郡市川町)に近い屋形(やかた)出身の、かつて京城大学教授をしていた内藤吉之助という人があった。この人のお父さんは久三郎といって、私を大変世話してくれた人であった。その内藤教授がまだ東大の学生だったころ、「明石の河童は海にいるんです」と話したことがあった。何というのかきくと「カムロ、カワカムロといっています」ということだった。それ以来私は、明石の人にあうといつも聞いてみるが、今以て内藤君の話を裏書きする証拠をつかめずにいるのである。

 なぜこの言葉に心をひかれるかというと、遠く離れた沖縄にあるのである。沖縄では河童のことをカワカムロともインカムロともよんでいる。カムロというのは禿だから、頭を小さめにした毛髪の短い子供、切り髪にした童子にほかならない。沖縄のカワは水汲み場のことであるから、水汲み場にいる子供という意味になる。またインカムロのインというのはこちらの海ということだから、沖縄では海にも河童がいるということになる。所によっては沖縄でもいろいろによぶが、童子(どうじ)と見ている点と、それから九州と同じように、たくさん集まっていたずらをするという点はよく似ているのである。

 海に河童のいる話は、この明石のカワカムロと、もう一つ常陸の那珂(なか)の港の海で河童をとった話が『善庵随筆』に書いてある。

 この方はいつもうつむいて、四つ足で歩いているので、まるで亀みたいなものということになっている。

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内藤吉之助(明治二七(一八九四)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者で、訳書にエンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」がある。詳しい事蹟は私が参照した法制史学者著作目録選(WEBにある、「内藤吉之助教授」(PDFを参照されたい。しかし、これを読むと、なんだか変だ。ここではっきり柳田國男は「内藤吉之助は明石では軟骨魚類の鮫(サメ)のことを河童と呼ぶ」と語ったことになっているではないか? 柳田、呆けたか? 私は人の命を奪うことがある危険なサメを時に馬や人を襲うことがある「河童」と呼ぶのは腑に落ちることなのだ。しかも、今も覚えているのだ、一九九二年月八日、瀬戸内海で貝(タイラギか)の潜水漁をしていた方が襲われている。回収された潜水服の一部の咬み痕と当時の水温から、襲ったのは体長五メートルほどの、サメの中でも人を襲った記録が多いホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザCarcharodon carchariasと結論されているのだ。因みに、引用した柳田國男の「故郷七十年」の「明石のカワカムロ」は、前後にも河童関連の話が語られており、河童の異名を問題としているここの有意な参考ともなるので、以下に引用しておく(この文章は私は所持しておらず、今回初めて読んだ)。「明石のカワカムロ」の直前の「河童考」。

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    河童考

 

 この間漫画家の清水崑君に会ったとき、「清水君、君はよくないね。白い女河童なんか描いて、河童をとうとうエロチックなものにしてしまって……。河童には性別はないはずだよ」というと「いや議論をすると長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまった。

 河童という言葉はもともと仮名でカワランベ、即ち川の子供ということなのだから、男女があってはおかしいのではないかと思う。しかし九州などには河童が婿入りをしたという話もあるが、大体において性の問題はないように思う。

 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行ったころから、二、三年位が絶頂であった。今でも崑君なんかが利用している『水虎考略』、これは必ずしも珍しい本ではないが、「河童は支那にいわゆる水虎なり」という説からこの本が出来、写本も出ている。その中に大変値打があると思う話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはこうだとか、みんな違った河童が描いてある。幕末に朝川善庵という学者があって、この人の本から引用しているものもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで亀の子のようなものから、褌をしめて素裸になってつっ立っているものなど、五つくらいあったと思う。

 後に内閣文庫を探していたら、同じ『水虎考略』といいながら四冊本になったのが見つかった。一冊はもとのそれを入れ、あとの三冊は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰体になっていた。多くは九州の話だったが、それは面白い本であった。九州のは群をなしていて、一匹で独立しているのではない。極端な場合には、馬の足型だけの水溜りがあれば、千匹もいるなどという。とにかく狭い所に群をなしているものらしい。東北や関東では九州とは違って一匹ずつの話が多い。河童はこんなに種類は違いながら、名前はどこでも全部、童児、ワラワという言葉がついているのである。

 私の郷里の方ではガタロウ(河太郎)とよぶが、この区域は存外広くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の『東海道中膝栗毛』が出たころから、河太郎という名称に、差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛という豪奢な者が出て、通称河太郎といっていたので、それに気兼ねをしたため、ガタロウといいにくくなったものであろう。京都あたりでは何といっていたか、やはりガタロウといっていたのではないかと思う。

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次に、「明石のカワカムロ」の次の「駒ヶ岩の河太郎」と「二篇を続けて引用する。

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    駒ヶ岩の河太郎

 

 私が『民族』という雑誌を出していたころ、亡くなった早川孝太郎君が、天竜川と大井川との流れについて調べたことがあった。ことに天竜の流れの水の神様のことは丹念に報告してあった。その中に、水の神様から保護を受けている家が、何かの折に神様と縁切れになるという話がある。

 この家では年に一度だけ川から来る人に助けてもらっていたが、その人ははじめに、「俺は蓼が嫌いだから、決して蓼を食わしてくれるな」と固く申入れがしてあった。ところが、あの付近では、ゴンゲノボウといって田植のすんだ時、客を招いてご馳走をするが、ちょうどそのころ蓼がよく育っていて、何処の家でも食膳につけていた。この家でもうっかり蓼をご馳走の中に入れて出したので、川の客も口にしてしまった。するとそれを喰べるや否やとび上って、大声を張りあげ、何か怒鳴ったまま川へとび込んでしまい、それっきりその家へは寄りつかなくなった。それからは今までのように融通してもらえなくなって、とうとう旧家が一軒亡びてしまったという話である。川から来る人は河童だというのである。天竜川辺では河童のことをカワランベとよんでいるが、カワランベは信州の北部の方まで、こういう所が多い。松本の田中磐君という若い民俗学者の調査によると、信州ではどの流れにも必ずといってよいほど椀貸伝説があり、その中には河童から品物を借りる話もあるということである。水の神様から特別に恩恵をうけていたが、たった一つの条件を守らなかったために、幸せを失ってしまったという話の筋で、昔話の重要な趣向である。

 辻川あたりでは河童はガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。水が渦を巻いているので引き込まれるが、あわてないで、少しじっとしていると、流れのまにまに身体が運ばれ、浅瀬へ押し流されて、浮び上ることができる。そこであまりバタバタすると、渦の底へ引きこまれてしまうのだった。鰻のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであった。

 最近の写真でみると、市川べりの駒ヶ岩の頭がほんの少ししか見えなくなっている。岩の頭を欠いで火打石を採ったりしたため、小さくなったのでもあろう。あるいは市川の流れが変って岩が砂に蔽われたものか、子供のころの流れはもっと川幅が広かったことを憶えている。あの付近の人は今でもガタロがいるといっているであろうか。

 

    河童と虬

 

 河童の名前は全国を通じて、河の字と子供という意味の言葉をつけたカワランベ(河童)とかカワコゾウ(河小僧)カワタロ(河太郎)などというのが三十何種かあるが、それ以外に能登半島の東海岸と鹿児島県の南端薩摩湾の指宿あたり、それからとんで北には津軽の北端から北海道へかけて、別系統の名前が残っている。すなわちM音ではじまる河童の呼名である。

 能登ではミズシンといい、土地の人は水の神様だからミズシン(水神)というのはあたり前だといった気持で呼んでいるらしい。鹿児島ではミツドンといい、これは虬(みずち)のことだといっている。虬は何だかわからないけれども、虫扁の字を書くので蛇の一種だと思っているらしいが、ミズシンと関係あるものであろう。

 北の青森県にはメドチという言葉が残っている。外南部あたりではいわないらしいが、津軽のことを書いた古いものの中に平尾魯仙という人の本がある。明治のごく近くになって出来た本だが、この中にメドチのことが詳しく書いてある。河童とは違うなどということもあり、メドチという一種の動物がいるように思っているらしい。ところがこのメドチ、ミズシン、ミツドンは、他地方の河童と同じような性格や話をもっているのである。日本の北と南と真中と、三カ所離れたところに同じようにM音ではじまる似たような名前があって、お互の間に往き来がない。それでこの三つが別々のところにあるというだけでも、かつて河童のことを水神(みずしん)といった時代があるだろうということが証明できるように思っているのである。

 メドチ、ミズチ等の「ち」は、「霊あるもの」の意で、虬は「水の霊」のことをいうのであろう。しかしまだ形がはっきりしていないのに、虫扁に書いてしまったので、この漢字に影響せられて、これは蛇に違いないということになった。蛇は水の中で棲息しないが、虬(みずち)、蛟(みずち)は水中に棲む。土の底に虬がいるといったりする。また日本人はよく間違えて、大蛇も水の底にいるようにいう。この問題はもう少し手掛りを見つけたいと思うが、まだ解決するに至らない。

 河童でもう一つ、戦の時に人手が足りなくて、藁人形を拵え、手の代りに横に竹を一本通して、人間にし、戦に勝ったという話がアイヌにも残っている。飛騨では大工仕事に手が足りなくて藁人形を作り、使って用がなくなると、そこらあたりのものに、とってよいといって水の中に放したという話になっている。そのために、そこらあたりにいる子供までとってしまうのだというのである。虬の手は行き抜けだというが、これもミズチすなわち河童であろうという一つの例である。

 足利時代に流行った「猿猴月をとる」という猿が片手を極端に伸ばしている画題があるが、これが中間にあって、そんな極端な藁人形の行き抜けの手が考え出されたものではなかろうか。

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因みに、「みずち」(歴史的仮名遣「みづち」。古くは「みつち」で清音。「み」は「水」、「つ」は格助詞、「ち」は「霊」の意とされ「水の霊」「水の神」の意)は他に「蛟」「虯」「螭」と書いたりする(但し、これらはそれぞれ異なった龍の種類を指す漢字で本来は別箇なものである)。古代人が恐れた想像上の動物で、水中に棲息し、蛇に似た形をしており、角と四肢をもち、毒気を吐いて、人を害するという、龍の一種である。

『熊野又は但馬にて「ガウライ」』河童に似ており、河童の変異体ともされる、紀伊南部(現在の和歌山県)などで伝承される、妖怪カシャンボ(「カシャボ」とも)がいるが、ウィキの「カシャンボ」によれば、『山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力』で、六、七『歳ほどの子供程度の背丈で』、『頭に皿をかぶり(頭は芥子坊主のようともいう』『)、青い衣を身に着けており』、『犬はその姿を見ることができるが、人間の目には見えない。人間の唾を嫌うらしい』。『和歌山県東牟婁郡高田村(現・新宮市)のある家では、毎年新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが』、『家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという』。『性質は河童と変わらず』、『悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという』。『和歌山県西牟婁郡富里村(現・田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと』、『河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている』。二〇〇四年の『春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され』、四『本足の動物では有り得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された』。『國學院大學民俗学研究会が』昭和五二(一九七七)年に『発刊した『民俗採訪』によれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる』とある(下線太字やぶちゃん)。『カシャンボの名称は、悪戯者であることから「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」』、『火車 (妖怪)、頭(かしら)などを由来とする説がある』とある。

「ミヅシ」先の柳田の「河童と虬」に出た「虬(ミヅチ)」のようにも見えるが、寧ろ、御霊的神名をわざと欠損させることでそれを封ずる手法から見れば、「これは水神(ミヅシン)」のそれであろうという気がする。しかし引用を「本草啓蒙」とするが、これは先に出した小野蘭山の「本草綱目啓蒙」としか思えないのだが、調べ方が悪いのか、どこに載っているのか判らぬ。

「メドチ」千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の青森県の項に「メドチ」と出、『河童のこと。十和田――猿のような顔で体が黒く髪をさらった被った十歳位の子供という。女の子に化けて水中に誘う。人間に子を生ませる』。『紫尻の人を好む』(「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の青森県八戸市の「河童」・「メドチ」の記載によれば、「紫尻(むらさきけつ)」とは『紫いろの斑点が比較的濃く尻に見える』人を指すという。蒙古斑の残存する人か?)『相撲が好きだが』、『腕を下に引くと抜ける、麻幹(おがら)』(皮をはぎ取った麻の茎。これは高い確率で、それが、お盆の迎え火・送り火を焚くのに用いられ、供物に添える苧殻箸とすることと関係があると私は見た)『にとける』。『左甚五郎が木屑に人の尻でも食えといって水に話したという伝説がある。八戸市櫛引では七日盆』(なぬかぼん:七月七日に墓掃除・井戸替え・女の髪洗いなどをして、盆を迎える準備とすること。「盆始め」「七日日(なぬかび)」とも呼ぶ)『には馬をとるという。駒引に失敗、もう取らぬと約束したが』、『生きていけないので滝の明神様に』、『この日だけと願って許されたという』。『一旦見こまれると逃げられず、友達や親戚に化けてきて必ず川に連れ込む。生まれつきの運命だという』とあって、その後に、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷(たに)の響(ひびき)」の一節が紹介されているが、これは私が電子化注している「谷の響 五の卷 七 メトチ」であるので、是非、原文を読まれたい。私はその注で「メトチ」は底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『津軽では河童のことをメドチといった。ミヅチ(水の霊)の訛語』とあるとし、しかし、ウィキの「河童」によれば、『水蛇(ミヅチ)の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメ、北海道ではミンツチカムイなどがある』とあるとした。

『「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)』ウィキの「ミントゥチ」によれば、『ミントゥチ(mintuci)またはミントゥチカムイ(mintuci kamuy)は、アイヌに伝わる半人半獣の霊的存在』。『河童に類する妖怪ともいわれる』。『方言によってはミムトゥチ(mimtuci)』、『ミントチ(mintoci)』『と発音される。日本語の文献では「ミンツチ」と表記されることも多い』。『伝説によれば、江戸時代に本土の人々がアイヌと交易を行うために船で北海道を訪れたとき、その船に乗って疱瘡神(疱瘡を司る疫病神)が北海道へやって来て』、『多くのアイヌの人々が病死した』。『当時』、『アイヌの世界を治めていた神・オキクルミは』、六十一『体のチシナプカムイ(ヨモギを十字に組んだ人形)を作り、それらに命を与えて疱瘡神と戦わせた(この人形はオキクルミではなくアイヌの人々が作ったという説もある』『)。この』六十一『体の内の』六十『体は戦死したが、最後に残ったチシナプカムイの大将によって、疱瘡神は全滅した。この戦いで水死したチシナプカムイがミントゥチになったという』。『背格好は』三『歳から』十二、三『歳の人間の子供と同程度で』、『頭には髪があって河童のような皿はなく、肌の色は紫か赤に近く、足型は鳥か鎌の形に似ている』。『両腕が体内でつながっており、片腕を引っ張ると両腕ともに抜けてしまうという、河童と同じ身体的特徴もある』。『土地によって多少の容姿の違いがあるともいい、石狩川では頭が禿げて男女の区別があるもの、十勝平野東部の池田町では小さな老婆だか』、『老爺だか』、『わからない姿で、ときどき「フンッ」という大きな音をたてるという』。『ミントゥチは魚族を支配する神でもあり、漁師たちに漁運を授けるが、それと引き換えに水死者の犠牲も増えるという』。『石狩地方ではミントゥチが魚をたくさん捕らせてくれたが、その代わり』、『毎年必ず何人かを殺すので、人々が日高の静内(現・新ひだか町)のほうへ移って欲しいと頼んだところ、水死者はなくなったが、魚も捕れなくなったという』。『山の狩猟で獲物をもたらすものとも信じられている』。『ミントゥチが若者に化けて』、『若い娘のいる家に婿入りし、その家に猟運や幸をもたらすともいうが、怒らせると』、『その地域一帯の食料の霊を一緒にさらって行ってしまうという、恐ろしい面もある』。『旭川や沙流川』(さるがわ:北海道日高振興局管内を流れ、太平洋に注ぐ一級河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。二〇〇四年には国土交通省が行っている全国一級河川の水質調査で一位に選ばれている)『では、ミントゥチが人を守護するという話もある』。『本土の河童と同じように悪戯者ともいわれ、人間や牛馬を水中に引き込んだり、人に憑いたり』、『女に憑いて男を誘惑するという』。『釧路では、濃霧の夜などに不意に前方に人影が現れ、呼びかけにも答えずに前へ歩いていくことがあり、その足跡が鳥のようなので妙だと思っていると、その人影が消えて背後に回り、ミントゥチが隙をついて水中に引きずり込んでしまうという』。『ミントゥチという呼称は、本土の伝承にある蛟(ミヅチ)が由来といわれる』。『アイヌの古老によれば、ミントゥチとは本土の人間が河童種として呼ぶ呼称であり』、『アイヌは「山側の人」の意で「シリシャマイヌ」と呼ぶという』。『禿頭という特徴や「山側の人」という異名から、山の神の性質も兼ね備えているとの説もある』とある。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の北海道の項に「ミンツチ」として出、『湖または川に棲む半人半獣の霊物』で、『三尺ほどの芥子坊主頭を煙管ででも打てば死ぬという』とある。

「さへづり草」原則、引用書名の注は附さないことにしているが、題名の表記も内容も知らない書物なので、注する。ウィキの「さへづり草」その他によれば、「さへづり草」は『和漢の故事、地名人名の由来、俳諧俳人についての噂話、芝居の役者の伝記、動植物の名義、世間の風俗、風評、地理などを書きつづった』随筆で、江戸末期から明治に生きた俳人加藤昶(「えい」と読んでおく。名前では「あきら」「とおる」「いたる」「ひさし」等と読める。なお、もとは田中弥二郎であったものを母方の姓にし、名も改めたもの。恐らく彼は江戸幕府の下級官吏であったと推定されている。後の別な引用を参照)で、『号は雀庵のほかに堤隣翁、千声などが存在し、俳諧では升金、篠廼舎、白鴎などの号を持つ』。明治八(一八七五)年十二月に数え八十一歳で没した。『天保年間から文久』三(一八六三)年までの約三十年間に『雀庵が「見聞に任せて座右消閑にものしたるもの」を』明治四三(一九一〇)年に『室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行された』とある。「西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース」の「筆蔵」(加藤が執筆に関わっている)の書誌の備考には、『加藤雀庵/本名田中弥二郎後加藤昶と改む、明治八乙亥年十二月十日歿す、行年』(ぎょうねん:満年齢に同じ)『八十、辞世、花七日人も七日のひと流れ、南千住真養寺に葬る』とあり、別に「さへづり草」は『十一(以上火にやけたり)より二百三十七巻マ』デ『アリ』、『皆』、『二冊ヨセナリ、大抵』、『抄録ニ自考ヲ加ヘタルモノ多』シ『ト雖モ』、『取ル』ベ『キモノハ幾多モナシ、今』、『売物トナリタルヲ』、『井上頼圀』、『買得タリ、雀菴ハ幕府ノ軽』(かろ)『キ給人ナル』ベ『シ』。『俳諧師也』。『加藤昶』、『雀菴ト号ス』。「藤の長房」ナド『種々ノ名アリ、地震ノ記ナ』ド『ハ実際ノコト多シ、大風』(たいふう)『ノ記モアリ』「コロリ」『モアリ、明治五年ノ記アリ、其年七十七才ナリ、初メ深川ニ居リ、其後』、『三ノ輪、橋辺、等ニ移リ、明治ノ後ハ』、『又』、『三ノ輪ニ居テ、此ノ没シタルニヤ』、『其後ノコト見ヘ』ズ」と記す。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(15) 「河童ニ異名多シ」(1)

 

《原文》

河童ニ異名多シ  河童トハ本來何物ナルカ。少クモ我々ノ多數ハ之ヲ何物ナリト信ジツヽアルカ。此問題ニ答ヘンガ爲ニハ、是非トモ順序トシテ河童ノ別名又ハ方言ヲ比較セザルべカラズ。予ハ此迄ハ便宜上東京語ヲ用ヒテ之ヲ「カツパ」ト呼ビタレドモ、是レ單ニ此物ノ名稱ノ一種ニシテ、比較的弘ク採用セラレテアル者ト云フニ過ギザルナリ。【ガタロ】予ガ如キモ幼時之ヲ「ガタロ」ト稱ヘタリ。「ガタロ」ハ恐クハ川太郞ノ義ナラン。「カツパ」ハ卽チ川童(カハワツパ)ニシテ、「ワツパ」トハ小兒ヲ意味スル近世ノ俗語ナリ。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及ビ九州ノ一部ニテハ「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張ニテハ「カワランべ」又ハ川小僧、【川小法師】伊勢ノ山田ニテ川小法師、【川原小僧】同ジク白子ニテ川原小僧ト云ヒ〔物類稱呼二、本草綱目釋義四十二其他〕、【カウラワロウ】筑前ニ「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後ニ「ガアラツパ」ナドト云フモ同ジ事ニテ、要スルニ此物ノ人間ニ比シテ形小ナルコトヲ意味スルノミ。【カウゴ】備前・備中等ニ於テ之ヲ「カウゴ」ト呼ブハ、出雲ニ於テ河子ト稱スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カハコウ」ト云ヒ、岡田ニテハ「ガウコ」ト云フ。同國吉備郡川邊村ノ川邊川ノ流レニ河子(カハコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元龜年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ツタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小兒ヲ嚇スヤウニナリテ、終ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕。同ジ地名ハ遠近ノ諸國ニモ亦多ク存ス。

  備前兒島郡藤大字天城川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷村大字栃谷カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下小字川子石

  武藏比企郡七鄕村大字越畑川後石

ノ如キハ其例ナリ。【神護石】近年評判ノ「カウゴ」石ナル者ハ、勿論悉ク河童ノ故跡ナリトハ云フ能ハズ。或者ハ革籠石(カハゴイシ)ト書シ又ハ香合石(カウゴフイシ)ト書シテ、其形狀ノ革籠又ハ香合ニ似タルガ故ノ名稱トシ、【神功皇后】或者ハ皇后石ト書キテ神功皇后ノ御遺跡ナドト言ヒ、其他ニモ區々ノアレド要スルニ古クヨリ土地ノ人ノ注意シ尊敬シ居タル石ニシテ、尋常ノ場所ニ非ザリシコトノ外、何等確乎タル明ヲ見出ス能ハズ。而シテ神籬(ヒモロギ)對山城ノ八釜シキ石ノ圓形ノ圍障ハ、此「カウゴ石」ト無關係ナルコトハ次第ニ明白トナレリ。

 

《訓読》

河童に異名多し  河童とは、本來、何物なるか。少くも、我々の多數は、之れを何物なりと信じつゝあるか。此の問題に答へんが爲には、是非とも、順序として、河童の別名、又は方言を比較せざるべからず。予は此れまでは、便宜上、東京語[やぶちゃん注:東京方言。]を用ひて之れを「カツパ」と呼びたれども、是れ、單に此の物の名稱の一種にして、比較的弘(ひろ)く採用せられてある者と云ふに過ぎざるなり。【ガタロ】予がごときも、幼時、之れを「ガタロ」と稱へたり。「ガタロ」は、恐くは「川太郞(かはたらう)」の義ならん。「カツパ」は、卽ち、「川童(カハワツパ)」にして、「わつぱ」とは「小兒」を意味する近世の俗語なり。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及び九州の一部にては「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張にては「カワランべ」又は「川小僧」、【川小法師】伊勢の山田にて「川小法師」、【川原小僧】同じく白子(しろこ)[やぶちゃん注:現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]にて「川原小僧」と云ひ〔「物類稱呼」二、「本草綱目釋義」四十二其の他〕、【カウラワロウ】筑前に「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後に「ガアラツパ」などと云ふも、同じ事にて、要するに、此の物の、人間に比して、形、小なることを意味するのみ。【カウゴ】備前・備中等に於いて、之れを「カウゴ」と呼ぶは、出雲に於いて「河子(カハゴ)」[やぶちゃん注:私の推定訓で、カタカナ書きとした。]と稱するに同じく、「川の子」と云ふ義なること疑ひなし。備中にても松山にては「カハコウ」と云ひ、岡田にては「ガウコ」と云ふ。同國吉備郡川邊(かはべ)村の川邊川の流れに「河子(かはこ)岩」あり。元の名は「吉田岩」、元龜年中[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]、松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども、後世には、『「カハコ」が出て引くぞ』などと小兒を嚇(おど)すやうになりて、終(つひ)に此の名に改まりしなり〔「備中話」十一〕。同じ地名は遠近(をちこち)の諸國にも亦、多く存す。

  備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷(くみたに)村大字栃谷(とちだに)カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石

  武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石

のごときは其の例なり。【神護石(かうごいし)】近年評判の「かうご」石なる者は、勿論、悉く河童の故跡なりとは、云ふ能はず。或る者は「革籠石(かはごいし)」と書し、又は「香合石(かうごふいし)」と書して、其の形狀の革籠又は香合に似たるが故の名稱とし、【神功皇后(じんぐうくわうごう)】或る者は、「皇后石」と書きて「神功皇后の御遺跡」などと言ひ、其の他にも區々の[やぶちゃん注:さまざまな。]あれど、要するに、古くより土地の人の注意し尊敬し居(をり)たる石にして、尋常の場所に非ざりしことの外、何等、確乎たる明を見出だす能はず。而して神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)、此の「かうご石」と無關係なることは次第に明白となれり。

[やぶちゃん注:この章、「ちくま文庫」版は読むに堪えない。何故なら、新仮名に否応なしに変換しているため、河童の地方名を平然と変換しているからである。それこそ柳田國男が見たら、淋しそうに微苦笑するだろう。例えば(「→」の下が「ちくま文庫」版で書き直された表記)、

カハタロウ→カワタロウ

カウラワロウ→コウラワロウ

ガアラツパ→ガアラッパ

カウゴ→コウゴ

ガウコ→ゴウコ

である。例えば、最後の「カウゴ」の「コウゴ」、「ガウコ」の「ゴウコ」への書き換えは無条件に本当に正しい(歴史的仮名遣の機械的な現代仮名遣への変換を絶対真理定則とすること。にしたって柳田國男自身が「カハタラウ」とすべきを「カハタロウ」としている誤りを変換者はどうするのか? これは取りも直さず、実は確かに「かはたろう」(「かわ」ではなく、だ)と当地の人間が発音していた可能性を排除できないぞ?!)と言えるのだろうか? 「ちくま文庫」の編者は実際にそれぞれの現地に赴いて、その発音を実地に聴取して変換したのだろうか? 私は、こうして民俗資料は変形してゆくのかも知れぬと、そら恐ろしい気がしたものである。

「白子(しろこ)」現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「備中」「松山」現在の岡山県高梁(たかはし)市内山下(うちさんげ)ここ。にあった備中松山城に由来する古地名。

「岡田」現在の岡山県倉敷市真備町岡田か。ここ

「同國吉備郡川邊村」岡山県倉敷市真備町川辺。ここ

「松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども」「高梁市」公式サイト内の「備中松山城の沿革」に、永禄四(一五六一)年に『安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城』(なりわかくしゅじょう)『(現高梁市成羽町)城主の三村家親(みむらいえちか)が備中松山城を攻め、尼子氏の加番吉田左京亮(よしださきょうのすけ)を討ち破り、備中松山城主とな』ったとある人物であろうか。

「備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石」現在の岡山県倉敷市藤戸町天城。ここ。その倉敷川左岸のどこかと思われる。

「美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩」岡山県岡山市北区建部町鶴田。ここ。但し、地図を拡大して見て戴けば判る通り、同地区の中心部で旭川は堰き止められて、上流部に旭川湖が出来ているから、この地区は大きく変化しているものと思われる。「年貢田」の地名の読みは不明。「ねんぐだ」と一応は読んではおく。

「丹後熊野郡久美谷村(くみたに)大字栃谷(とちだに)カハゴ石」京都府京丹後市久美浜町栃谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃北安曇郡八阪村川古石」長野県大町市八坂ここ。この地区内の現在の狭義の八坂地区は、地区東端の犀川の方ではなく、中央の国土地理院図のここで、この八坂地区の西を南流する川が流れており、推理するに、この川辺附近ではなかろうか。但し、ウィキの「八坂村(長野県)」を見ても、明治八(一八七五)年二月に『筑摩県安曇郡大平村・相川村・切久保村・大塚(だいづか)村・野平村・舟場村・左右村・槍平(うつぎだいら)村および丹生子村の一部(枝郷菅の窪)が合併して八坂村となる』とあり、「八阪」の表記は見られない。柳田國男の誤記の可能性もある。

「甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石」山梨県南都留郡富士河口湖町船津は河口湖南岸のここ「山梨日日新聞社 YBS山梨放送」の共同サイト「富士山NET」の「地名の由来は?=大富村(おおとみむら)」によれば、近世、富士北麓の河口湖南岸にあった船津村と小立村の二村が、明治八(一八七五)年に合併して大富村となった。この村名は、『往古』、『この地方を流れていたといわれている大田川(おおたがわ)の』「大」『と、南』の『空にそびえる富士山の』「富」『を合成したと伝えている』。当初は『都留郡に属し』、明治一一(一八七八)年から、『郡名変更により』、『南都留郡に所属』し、明治二二(一八八九)年には『分村して船津村、小立村とな』ったが、昭和三一(一九五六)年には』、『再度』、『合併して河口湖町の地区となる』。その後、二〇〇三年十一月、『河口湖町、勝山村、足和田村が合併して富士河口湖町とな』ったとある。この記載からは、柳田の記す「船津村大字大富」という地名は、実は大富村時代の近代に新たに与えられた大字地名であることが判る。さて、上記リンク先の船津地区は、国土地理院図で見ても、小流れ一つ、見出せない。その遠い昔にここに流れていたという幻しの川「大田川」の河童だったのか? いや、待てよ? しかし、河口湖があるぞ? 池に住む河童が大きな湖に住んでいたっておかしか、ない。そこで調べてみると、河口湖には河童伝承があることが判った。しかも、腕を取られたのでもなく、咎められたのでもないのに、家内の炙り魚を盗んだお詫びに、自発的に! 万能膏薬の製法書きを置いて行ったという驚天動地の話が載るのである! 「富士五湖観光連盟」の公式サイト富士五湖ぐるっとつながるガイド」の「かっぱめし」のページから引く。『昔々、河口湖には河童が住んでいて、人間ともうまくやっていた。人々は、河童には神通力があり、何にでもよく効く万能薬を持っているとも信じていたという。河口湖には、河童にまつわるいくつもの伝説が、今も伝えられている』。『ある年のこと、湖畔の庄屋さんの家に誰かが忍び込み、保存用のあぶり魚を持ち去っていくという出来事が続いたそうな。あぶり魚が無くなった日は、決まって辺りが濡れているので、庄屋さんの家では「どうやら河童の仕業らしい」と、諦めていたそうな』。『ある晩のこと、庄屋さんは、囲炉裏のそばで巻紙を見つけたそうな。「こんなところに誰が置きっぱなしにしたんだろう?」不思議に思って広げてみると、河童膏の作り方が書いてあったそうな。「さては、河童があぶり魚を盗んだお礼にと、置きみやげをしていったのだな」。そう思った庄屋さん、試しに作ってみたところ、病気や傷、腫れものにも、効果てきめん!』 『庄屋さんはこの薬のおかげで、大金持ちになったとさ』。『これは、河口湖に伝わる河童伝説のひとつ、「河童の膏薬」というお話。実際に、かつて河口湖周辺では、はまぐりの貝殻に入れられた塗り薬「河童膏」が売られていて、名薬として人気を博したと言う』というのだ! これ、この地名を出す以上、柳田國男は河童伝説を知っていたはずだ。だのに、何故、書かなかったのか? 人も怒らず、腕も斬られず、自身の謝罪意識から秘薬の製法を人間に伝えたというコンセプトが、今までの骨接ぎコンセプトの定式と、全然、マッチしないからだ。こういう都合の悪い例を除去するのは彼の得意とするところで、「蝸牛考」の「方言周圏論」でも、合致しないカタツムリの呼称をわざと採録していなかったりするのだ。これはそれこそ現在、データ操作や捏造で科学論文を書いて指弾されるのと、全く同等なのであって、柳田國男の「民俗学」なるものが、フロイトの汎性論的「精神分析学」のように、今一つ、どこか、胡散臭いものを感じさせる所以である。

「相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石」神奈川県中郡大磯町高麗(こま)の花水川右岸のどこかであろう。

「武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石」埼玉県比企郡嵐山町越畑(おっぱた)。ここ。地区の南西端を市野川が流れる。さても。「ちくま文庫」版全集の編者がいい加減な仕儀で読みを振っていることが判った。この「越畑」にはルビがない。誰がこれをルビ無しで「おっぱた」と読むか? 現地を知る人以外は「こしはた」としか読まんだろ!

「神護石(かうごいし)」『近年評判の「かうご」石』「神籠石」とも書き、現代仮名遣では「こうごいし」。福岡県久留米市高良大社を廻(めぐ)る切石(きりいし)列石を、古く「神籠石」と呼んでおり、九州から瀬戸内一帯に見られる山を廻る列石遺跡を、この名で呼ぶようになった。高良大社のそれから、神域を示す施設、ここに言う「神籬(ひもろぎ)」とする説もあったが、近年の調査により、古代の山城であることが判明した。福岡・佐賀・山口・岡山・香川で十三ヶ所が判明している。山の尾根や斜面に数キロメートルにも亙って列石や土塁を築き、門が設けられている。朝鮮式山城(やまじろ)との密接な関係があると考えられ,時代も同じ六世紀後半から七世紀頃に構築されたものと推定されている(以上は平凡社の「マイペディア」と「世界大百科事典」をカップリングした)。

「神功皇后」記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。父は開化天皇の曾孫である気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば、仲哀天皇八年に、天皇の熊襲(くまそ)征討に従い、筑紫に赴いたが、天皇が急死、翌年には、自ら、兵を率いて新羅(しらぎ)を征服、百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させたとする。帰国後に応神天皇を出産、国政を六十九年に亙ってとりしきり、百歳で没したという伝説の女傑。彼女に纏わる伝承地や遺跡とするものは西日本に数多く見られる。

「革籠」「かわご」(現代仮名遣)は、竹や籐(とう)などで編んだ上に皮革を張った蓋付きの籠。後には紙張りの箱や行季なども、かく称した。

「香合」「こうごう」(現代仮名遣)は、香を収納する蓋付きの小さな丸い円盤状の容器。

「神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)」:「神籬(ひもろぎ)」とは、「ひ」は「霊」を、「もろぎ」は「籬(まがき)によって神を守る」の意とされ、神霊が憑依している山・森・老木などの周囲に常磐木を植え。玉垣を結んで、神の座、「神籬(ひもろぎ)」とした(或いはそう見なされた)ものを指す。「山城(やまじろ)」は古代から中世辺りまでの実用的な山寨(さんさい)、防衛装置として山の地形を利用したり、植林したり、石垣を積んで「山城(やまじろ)」・砦としての主に実用的軍略上の目的で建造されたもの。古くより、各地の山や丘陵地に存在する遺跡を神道家や国学者は何かというと、そうした遺跡を「神籬」と断じてきたが、近世・近代以降、その中の有意なものが、欠損した古墳や実用的な住居、特に城砦跡であることが判明してきた。そうした議論や発掘による論争を指して言っているものであろう。]

2019/02/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(14) 「諸國河童誌ノ矛盾」

 

[やぶちゃん注:以下のパートには二枚のキャプション附きの挿絵がある。最初のキャプションは(右から左へ表記)、「水ノ海ニテ捕ヘタル河童」(水(みと)の海にて捕へたる河童)、次のそれは、「相撲ヲ好ム筑後川ノ河童」(相撲(すまふ)を好む筑後川の河童)である。思うに、孰れも以下の本文に出る、昌平坂学問所の儒者古賀侗庵(こがどう(とう)あん 天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年:名は煜(いく)、字は季曄(きよう)、通称は小太郎。侗庵は号。古賀精里(せいり:佐賀藩士で藩主鍋島治茂に仕え、藩校弘道館教授)の三男。幼少より父について学び、寛政八(一七九六)年、父に従って江戸に移住後、文化六(一八〇九)年に幕府儒者見習に抜擢され、父子ともに昌平黌に出仕し、文化十四年に儒者に昇進、天保一二(一八四一)年に布衣(ほい)を許された(六位叙位者相当の認可を言う)。家学の朱子学を奉じ、西洋事情・海防問題にも深い関心を示し、しばしば建言した。主著に「劉子論語管窺記」「海防臆測」「学迷雑録」等)が、同門下で、関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)や、幕臣で「寛政譜」編纂に携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された、河童遭遇者からの聞取情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせて、文政三(一八二〇)年に一冊に纏めた、本邦初の河童考証資料集「水虎考略」が原図とは思われる。なお、後にこれには、江戸城御殿医で著名な本草学者でもあった栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年:私はサイトの「心朽窩旧館」で「栗氏千蟲譜」の水族パートや、ブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で彼の諸作の電子化注を行っている)が、各地で捕獲・目撃されたとされる河童の写生図などを多数付け加えている(ここまでは諸辞書及び「岩瀬文庫コレクション」の「水虎考略の解説等に拠った)。「水虎考略」は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらで宮内庁書陵部蔵本全篇を画像で視認出来る。但し、一枚目は明らかに、それの三十四コマ目の図であるが、後者のそれは、七コマ目図に似ているものの、両手の手先の描き方や、頭部の皿の周囲の頭髪(「水虎考略」のそれは有意に長く、ふさふさしている)に有意な違いが認められるので、少なくともそれを元に描き直したものと推定する(出所不明)さて、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものは画像がひどく粗く、提示するに躊躇する代物である。しかし、宮内庁書陵部蔵本の画像は掲載には宮内庁書陵部の許可が必要で(実際には許可を示さずに掲げているページを散見するが)、ここにそれらを代わりに示すのは面倒なので、しない。その代わり、一枚目は、恐らく上記の丹洲が多色で描き直したものがウィキの「河童」にパブリック・ドメインそして添えてあるので、それを代わりに掲げた。しかし、二枚目は同一と思われる無許可で使用可能な鮮明な絵図を見出し得ないので、仕方なく、まだマシな(但し、顔つきや柳田の言う「華美ナル」褌(ふんどし)等は識別が全く出来ない)「ちくま文庫」版柳田國男全集第五巻(一九八九年刊)に載るものを、OCRで取り込んで示した。前者は申し分ない(但し、文章が周囲に配されていて、原図とははっきりと異なる)ない画像であるが、後者は是非とも「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の七コマ目を視認されたい。細部までよく判る。

Kappa_water_imp_1836

ノ海ニテ捕ヘタル河童

 

Tikugogawa

相撲ヲ好ム筑後川ノ河童

 

《原文》

諸國河童誌ノ矛盾  サテモ此世ノ中ニ河童ト云フ一物ノ生息スルコト、既ニ動カスべカラザル事實ナリトスレバ、次デ起ルハ其河童ハ動物ナリヤ、ハタ又鬼神ナリヤト云フ一問題ナリ。此問題ノ解決ニ付キテモ、諸國ニ於ケル河童捕獲ノ記錄ハ尚且ツ有力ナル資料ナリ。今ヨリ僅カニ百餘年ノ前、卽チ文化文政ノ頃ハ、人間ト河童トノ交涉最モ頻繁ナル時代ナリキ。露西亞ノ「ガローニン」ガ遭厄日本記事ニスラ、河童ノ題目ヲ看過セズ。【河童硏究】天下ノ一奇書水虎考略ガ世ニ公ニセラレタルモ亦此前後ノ事ナリ。所謂太平ノ餘澤ナリシカ否カ、九州地方ノ河童ニ就キ系統的ノ硏究ヲ試ミシ人アリ。此書ハ則チ其人ノ手ニ成リシモノ也。ソレヨリ少シ以前ニ常陸水ノ海濱ニ於テ漁夫ノ網ニ掛リテ一頭ノ河童捕殺セラル。其又數十年ノ前ニハ越前某村ニ於テ河童ヲ生擒シ之ヲ將軍家ニ獻上セシ者アリ。河童ノ生メル子ハ頗ル人間ノ赤兒トヨク似タリト謂ヘリ。更ニ寬永某歳ノ昔ニ於テモ、豐後ノ日田ニテ捕ヘタリト云フ河童アリ。此等ハ何レモ立派ナル寫生ノ繪圖アリテ今日ニ傳ハリ、殆ド疑ヲ容ルべキ餘地無キニモ拘ラズ、何分ニモ合點ノ行カザル一點アリ。卽チ諸國ノ河童ノ形狀及ビ生活ニハ地方ニヨリ餘程ノ相違アルコト是ナリ。【河童ノ毛】例ヘバ九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚褐色ニシテ總身ニ毛アルニ反シテ、三河越前等ノモノハ靑黑クシテ毛無ク、所謂「オカツパ」ノ部分ニノミ人間ノ小兒ト同ジキ毛ヲ頂ケリ。豐前北部ニ於ケル報告ニ依レバ、河童ハ海月又ハ白魚ノ如ク、水中ニ在ツテハ透明ニシテ形ヲ見ル能ハズト云フニ、【甲良】常陸ノ海ノ河童ハ眞黑ニシテ而モ背ニハ頑丈ナル甲良ヲ被レリ。琉球ニテハ河童ヲ「カムロー」ト云フ。水陸兩棲ノ動物ニシテ形三四歳ノ童子ノ如ク、面ハ虎ニ似テ鱗甲アリト云フニ〔沖繩語典〕、和漢三才圖會ニ記述スル九州中國ノ川太郞ハ、十歳バカリノ小兒ノ如ク裸形ニシテ能ク立行シ人語ヲ解ストアリ。【顏色】予ハ河童ノ顏色ハ靑黑キモノト信ジ居タルニ、陸中其他ニ於テハ其面朱ノ如ク赤シト言傳フ〔遠野物語〕。越後新潟ノ河童ニ至ツテハ常ニ龜ト同ジク匍行スル怪物ナルニ反シテ、九州ノ河童ノ人ト相撲ヲ取ル事ヲ好ム者ハ往々ニシテ華美ナル犢鼻褌ヲヒケラカシテ闊步スルアリ。此等ハアマリニ顯著ナル差異ニシテ、到底單ニ河童文明ノ地方的優劣ノミヲ以テ之ヲ明シ去ルコト能ハザルニ似タリ。而シテ右ノ如キ記述ノ矛盾ヲ解決スルノ方法ハ唯一ツアルノミ。卽チ今迄ノ人ガ河童ナリト認メテ寫生シタル物ノ一二又ハ全部ハ正眞ノ河童ニテハ非ザリシコト是ナリ。例ヘバ常陸ノ漁夫ガ海上ニ於テ打殺セシ動物ノ河童ナリシコトハ如何ニシテ之ヲ知リタルカ。何レノ地方ニテモ予ハ河童ト云フ者ナリト名乘リタル河童ハ有ルマジケレバ、此ノ如キ誤リタル想像ハ有リ得べキ道理ナリ。總體此物ノ特性又ハ生活狀態ニ關スル吾人ノ視察ハ、未ダ十分ニ精細ナリト言フコト能ハズ。河童ノ記錄ハ諸國共ニ豐富ナルニモ拘ラズ、此ニモ亦頗ル著シキ相違ノアリ。故ニ若シ記述ノ些カニテモ區々ニ亙レル部分ヲ不確實ナリトシテ排除ストセバ、此物ノ存在ハ次第ニ茫漠トナリ行クヲ免レ難シ。【記錄乏シ】殊ニ河童出現ノ事實ノ書史ニ見ユルモノ、甚シク近世ノ二三百年間ニ偏レルコトハ、誠ニ凡庸ノ歷史家ニ取リテハ大ナル疑ノ種ナリトス。下學集以前倭名鈔以後、歷代ノ語彙ニ其名目ヲ揭ゲズ、渡來發現等ノソレラシキ記事ヲ見出ス能ハザルガ爲ニ、今後尚幾多ノ臆ヲ存立セシメ得べキ餘地アリ。併シナガラ前ニ列擧セル多クノ馬引失敗記ヲ見テモ明瞭ナルガ如ク、何人モ認メザルべカラザル一事アリ。何ゾヤ。曰ク、諸國ノ碧潭ニ棲ミテ、時々馬又ハ人ノ子ヲ水ニ引込マントスル物ハ河童ナリ。

 

《訓読》

諸國河童誌の矛盾  さても、此の世の中に「河童」と云ふ一物の生息すること、既に動かすべからざる事實なりとすれば、次いで起こるは、「其の河童は動物なりや、はた又、鬼神なりや」と云ふ一問題なり。此の問題の解決に付きても、諸國に於ける河童捕獲の記錄は、尚ほ且つ、有力なる資料なり。今[やぶちゃん注:本書の刊行は大正三(一九一四)年。]より僅かに百餘年の前、卽ち、文化・文政[やぶちゃん注:一八〇四年~一八三〇年。]の頃は、人間と河童との交涉、最も頻繁なる時代なりき。露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」にすら、河童の題目を看過せず。【河童硏究】天下の一奇書「水虎考略」が世に公にせられたるも亦、此の前後の事なり[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、文政三(一八二〇)年成立で本書刊行の九十四年前。]。所謂、太平の餘澤なりしか否か、九州地方の河童に就き、系統的の硏究を試みし人あり[やぶちゃん注:冒頭に注した通り、古賀侗庵は佐賀出身。]。此の書は、則ち、其の人の手に成りしものなり。それより少し以前に、常陸(ひたち)水の海濱に於いて、漁夫の網に掛りて、一頭の河童、捕り殺せらる。其の又、數十年の前には、越前某村に於いて、河童を生擒(いけど)りし、之れを將軍家に獻上せし者あり。河童の生める子は頗る人間の赤兒(あかご)とよく似たりと謂へり。更に、寬永某歳[やぶちゃん注:寛永は一六二四年から一六四五年まで。]の昔に於いても、豐後(ぶんご)の日田(ひた)[やぶちゃん注:現在の大分県日田市(グーグル・マップ・データ)。]にて捕へたりと云ふ河童あり。此等(これら)は何(いづ)れも立派なる寫生の繪圖ありて、今日に傳はり、殆ど疑ひを容(い)るべき餘地無きにも拘らず、何分にも合點の行かざる一點あり。卽ち、諸國の河童の形狀及び生活には地方により餘程の相違あること、是れなり。【河童の毛】例へば、九州筑後川流域の河童は肌膚(きひ)、褐色にして、總身に毛あるに反して、三河・越前等のものは、靑黑くして、毛、無く、所謂「おかつぱ」の部分にのみ、人間の小兒と同じき毛を頂(いただ)けり。豐前北部[やぶちゃん注:現在の福岡県東部と大分県北部。]に於ける報告に依れば、河童は海月(くらげ)又は白魚(しらうを)のごとく、水中に在つては透明にして、形を見る能はずと云ふに、【甲良(かふら)[やぶちゃん注:「甲羅」。「ら」は恐らく「そのような状態にあること」を示す接尾語であるので、「良」「羅」も当て字。]】常陸の海の河童は、眞黑にして、而(しか)も、背には頑丈なる甲良を被れり。琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ。水陸兩棲の動物にして、形(なり)、三、四歳の童子のごとく、面(おもて)は虎に似て、鱗甲(りんかふ)[やぶちゃん注:鱗を伴った或いは鱗状の甲羅の意。]あり、と云ふに〔「沖繩語典」〕、「和漢三才圖會」に記述する九州・中國の「川太郞(かはたらう)」は、十歳ばかりの小兒のごとく、裸形(らぎやう)にして、能く立行(りつかう)し、人語を解す、とあり[やぶちゃん注:私の寺島良安漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎(かはたらう)」の項を参照されたい。私の膨大な注を附してある。なお、同書は正徳二(一七一二)年頃の成立であり、河童の博物学的記載としては先駆的なものである]。【顏色】予は河童の顏色は靑黑きものと信じ居(ゐ)たるに、陸中其の他に於いては、其の面(おもて)、朱(しゆ)のごとく赤し、と言ひ傳ふ〔「遠野物語」[やぶちゃん注:私が先般行った『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童』の「五九」を指しているようだが、そこでは、『外(ホカ)の地にては河童の顏は靑しと云ふやうなれど、遠野の河童は面(ツラ)の色(イロ)赭(アカ)きなり』であって「朱(しゆ)のごとく赤し」などとはなっていない。或いは佐々木喜善が語った時にはそう言ったのを柳田は記憶していて、かく書いたものかも知れない。]〕。越後新潟の河童に至つては、常に龜と同じく匍行(ほかう)する[やぶちゃん注:這いずって(匍匐(ほふく)して)歩く。但し、この語は「土壌がわずかずつ、斜面の下方へ移動すること」を指す語である。]怪物なるに反して、九州の河童の、人と相撲を取る事を好む者は、往々にして、華美なる犢鼻褌(たふさぎ)[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]をひけらかして闊步するあり。此等は、あまりに顯著なる差異にして、到底、單に河童文明の地方的優劣のみを以つて、之れを明し去ること、能はざるに似たり。而して、右のごとき記述の矛盾を解決するの方法は唯一つあるのみ。卽ち、今までの人が「河童なり」と認めて寫生したる物の一、二、又は全部は、正眞(しやうしん)の河童にては非ざりしこと、是れなり。例へば、常陸の漁夫が海上に於いて打ち殺せし動物の河童なりしことは、如何にして之れを知りたるか。何れの地方にても、「予は河童と云ふ者なり」と名乘りたる河童は有るまじければ、此(か)くのごとき誤りたる想像は有り得べき道理なり。總體、此の物の特性又は生活狀態に關する吾人(ごじん)[やぶちゃん注:我々。]の視察は、未だ十分に精細なりと言ふこと、能はず。河童の記錄は諸國、共に豐富なるにも拘らず、此(ここ)にも亦、頗る著しき相違のあり。故に、若(も)し、記述の些(わづ)かにても區々(くく)に亙(わた)れる部分を「不確實なり」として排除すとせば[やぶちゃん注:ここは「小さなこと・細部のとるに足らない部分にまで拘わって、全体を『不確実なものだ』と批判することを言っている。]、此の物の存在は、次第に茫漠となり行くを免(まぬか)れ難し。【記錄乏し】殊に河童出現の事實の書史に見ゆるもの、甚しく近世の二、三百年間に偏(かたよ)れることは、誠に凡庸の歷史家に取りては大いなる疑ひの種なりとす。「下學集(かがくしふ)」以前、「倭名鈔(わみやうせう)」以後、歷代の語彙に其の名目を揭げず、渡來・發現等のそれらしき記事を見出だす能はざるが爲に、今後、尚ほ、幾多の臆を存立せしめ得べき餘地あり。併しながら、前に列擧せる多くの馬引(うまひき)失敗記を見ても明瞭なるがごとく、何人(なんぴと)も認めざるべからざる一事あり。何ぞや。曰はく、「諸國の碧潭(へきたん)に棲みて、時々、馬又は人の子を水に引き込まんとする物は河童なり。」。

[やぶちゃん注:『露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」』ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人で探検家学者ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин:ラテン文字転写:Vasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)の著になる作品にオランダ語重訳の「遭厄日本紀」。ウィキの「ヴァシーリー・ゴロヴニーンによれば、彼は一八〇七年から一八〇九年にかけて、『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行な』ったが、一八一一(文化八)年、『軍により』、『千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れ』たところ、『国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉され』てしまった。『ゴロヴニーンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。その二年後、文化一〇(一八一)三年、『ディアナ号副艦長ピョートル・リコルド』『の尽力により、ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに』、『ゴロヴニーンは解放された(ゴローニン事件)。帰国後の』一八一六年、『日本での幽閉生活を』「日本幽囚記」『という本にまとめ、この本は欧州広範囲で読まれた』。文政八(一八二五)年には』、『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことでも知られる』とある。私は当該訳書を持たないので、「河童」がどのように書かれているのかは知らない。

 

「白魚」原典にルビはない。「ちくま文庫」版は『シラウオ』と編者が振る。現行では条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ Salangichthys microdon(体長八センチメートル。日本では北海道から九州北部に分布)・イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(日本固有種。同じく北海道から九州北部に分布。シラウオに似ており、体長も同じほどで、特に前記のシラウオと区別せずに漁獲・流通がなされている)・アリアケシラウオ Salanx ariakensis(体長十五センチメートルほどにもなる大きな種で、有明海と朝鮮半島に分布する。有明海沿岸域では漁獲し食用にされていたが、現在は漁獲が激減し、絶滅が心配されている)・アリアケヒメシラウオ Neosalanx reganius(体長5cmほどの小型種で、丸い頭部とずんぐりした体型をしており、後に挙げるシロウオに似ている。世界でも有明海に注ぐ筑後川と熊本県の緑川及び緑川支流の浜戸川だけにしか分布しない固有種である。さらに二つの生息地では、体長や鰭の大きさなどに差があり、それぞれが独立した地域個体群と考えられている。川の下流域に生息するが、食用にされていないにもかかわらず、個体数が減り続けている。減少の理由は筑後大堰などの河川改修や汚染などによる河川環境の変化と考えられている)が本邦産種であるが、全くの別種で、しかもシラウオ類に見た目が似ている条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、それも挙げておく必要がある。孰れも半透明であるが、死ぬと白くなるところから「白魚」をである。但し、九州地方では前者のシラウオ(報告は豊前北部であり、注した通り、現在の福岡県東部と大分県北部に当たるので、シラウオかイシカワシラウオである)を指すとまず考えてよい。

『琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ』非常に不愉快である。後の部分を見ても「河童」の異名を出すに、頭書を掲げている。この沖縄のケースでは、川ではなく井戸に住む妖怪で、形象が語られておらず(残っていない)、私は河童との有意な差を見出せるようにも思われる点でも、これは【カムロー】と頭書に出すのが当然である。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、金城朝永氏の「琉球妖怪変化種目(一)」(『郷土研究』昭和六(一九三一)年五月発行所収)からの要約として、『カムワーは井戸に住んでいて、子供などが井戸をのぞくと引き入れてしまう。古井戸をのぞくと水面の影をカムローに取られ』、『病気になる』とあり、「カムワー」という別呼称があることが判る。さらに、柳田國男が、この呼称に冷たい理由を推測するに、「カムロー」を安易に「川郎」辺りの転訛と思い込んでいる節が感じられるのであるが、沖縄移住ブログ」の「沖縄妖怪」の「カムローによれば、『目撃例がほとんどないのに、名前だけは知られている妖怪がカムローです』。『カー(井戸)に住んでいる妖怪といわれていて、子供が井戸の中を覗いていると、井戸の奥へ引きずり落してしまうという恐ろしい妖怪です』。『カムローは、それ以外にもいたずらをします。たとえば、古い井戸を覗くと、中に潜んでいたカムローが、水面に映る影を奪い取ってしまうため、その子供は病弱になってしまうといいます』。『昔は、産湯から生活用水、死後には湯灌(ゆかん)の水としても使われた井戸水ですから、そこにカムローのような不思議な妖怪が住んでいたとしても当然なのかもしれません』とあるのだ。柳田さんよ、「川」じゃあねえよ! 「井戸」なんだよ! その点でも頭書が必要だよ!

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約 三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「倭名鈔」「和名類聚鈔(抄)(わみょうるいじゅ(う)しょう)」の略。平安中期の歌人(三十六歌仙の一人)で文人学者であった源順(みなもとのしたごう)の撰になる本邦初の漢和辞書。承平年間(九三一年~九三八年)に醍醐天皇の皇女勤子内親王に献じられた。十巻本と二十巻本の二種がある。意義分類により「天地部」より「草木部」に至る部類別に漢語を標出し、出典を示し、類音字や反切によって音注を施した上で、漢文で説明を加え、和名を万葉仮名で記す。項目は事物の名称(名詞)が大部分で、百科事典的性格をも備えている。完成以後、広く知られてかなり汎用されていたらしく、後の辞書類にも大きな影響を与え、江戸時代の本草書等でも、対象物名称や同定をこれに溯って記載するものも多い。国語学的には勿論、古代文化の研究にも重要な資料である(以上は諸辞書等を綜合して記した)。]

2019/01/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(13) 「河童ノ詫證文」(4)

 

《原文》

 元來詫證文ナルモノハ勝チタル方ノ言分ヲ何處マデモ通シ得ルモノナレバ、右ノ如ク至極念入ナルモ別ニ不思議トスルニ足ラザレドモ、苟クモ仁賀保金七郞ノ名ヲ揭グルニ於テハ、其眞僞ヲモ問フコト無ク、常ニ疫病神總員ノ營業ヲ禁止シ得ト云フニ至ツテハ、聊カ過酷ノ嫌無キニ非ザルナリ。唯舊來ノ緣故如何ニ拘ラズ勝チタル者ヲ以テ保護者ト賴ムハ、言ハヾ封建時代ノ餘風ナリ。「ヒヤウスヘ」ノ社、又ハ「エンコウ」ノ宮ノ御札ノ如キモ、要スルニ近世海船ノ國旗ト同ジク、一種庇護ノ權力ヲ標識スル徽章ニ他ナラズ。而シテ又相手ガ文字ニ疎キ河童ナルコトヲ考慮シ、今一段簡單ナル方法ヲ以テ之ヲ表示シタル例アリ。昔三河ノ某地、淸水權之助ナル人ノ領内ニ於テ、河童馬ヲ襲ハントシテ亦大ニ失敗シ、助命ノ條件トシテ約束ヲ爲ス。【紅手拭】卽チ手拭ノ端ヲ紅ク染メタルヲ持ツ人ニ對シテハ害ヲ加フマジト云フコトナリ。是ヨリ以後此附近ノ人民ハ我モ我モト紅手拭ヲ携帶スルコトヽナレリト云ヘバ〔水虎考略後篇二所引〕、此モ亦稍濫用セラレタリト見エタリ。又一アリ。此話ノ異傳ナルカ否カヲ知ラザルモ、同ジ三河國ニ設樂(シダラ)某ト云フ強力ノ勇者アリ。「カハツパ」ト組合ヒ取ツテ押ヘ突殺サントシケル時、「カハツパ」下ヨリ言ヒケルハ、命ヲ御宥シ候ハヾ御子孫竝ニ御一家ノ分殘ラズ水ノ難ヲ遁レシメ申スべシ。【河童一黨】日本國中ノ「カハツパ」ハ皆我等ガ一類ニテ候間、何方ニテモ我等ガ御約束申シタリト聞キ候ハヾ、川ニテ守護仕ルべシト言ヒケル故、然ラバ宥ス、證據ハ如何トアリシカバ、乃チ歌ヲ教ヘタリ。

  「ヒヤウスヘ」ハ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

 【設樂氏】設樂氏元ハ菅原氏ナリ。之ニ因ツテ設樂氏ノ人ハ川ノ難無シ。又此歌ヲ唱フレバ他氏ノ者モ難ヲ遁ルト云ヘリ〔落穗餘談四〕。此河童ハ別ニ馬盜人ニテモ無カリシ如クナルニ、兎ニ角ニ大ナル言質ヲ取ラレタリ。右ノ「氏ハ菅原」ノ歌ノ如キハ、河童自筆ノ手形ヲ眼ノ前ニ突附ケタルニ比ブレバ、幾分證據力ニ乏シキモノナリシナランモ、若シ律義ナル河童ナラバ夫ノミニテモ以前ノ約束ヲ思出サシムルニハ十分ナリシナリ。世間尋常ノ疱瘡神ノ如キハ、居ル筈モ無キ昔ノ勇士ノ名ヲ署シテ人ノ門ニ張リ置ケバ、【サヽラ三八】サテハ此家ハ鎭西八郞爲朝閣下ノ御宿ナルカト言ヒテ通リ過ギ、又ハ此家ニモ「サヽラ」三八殿ガ同居シテゴザルノカト、碌々家ノ内ヲ覗キモセズニ歸リ去ルヲ常トセリ。之ヲ思ヘバ人ノ方ガ遙カニ人惡シ。如何ニ相手ガ害敵ナリトハ言ヒナガラ、每回此手段ヲ以テ彼ヲ欺クナリ。但シ印刷シタル降參狀又ハ謝罪ノ口供ハ決シテ此類ノ陰險ナル策ニ非ズ。汝ノ一類ニハ曾テ此ノ如ク敗北ノ恥ヲ晒セシ者アル也。人間ハ決シテ侮リ得べカラザル動物ナルゾ。馬モ亦然リ。心得違ヒヲスルコトナカレト豫戒スル迄ノ事ナリ。河童ニシテ若シ文字アリトセバ、馬屋、牛小舍ノ守護トシテ、此ホド穩當且ツ適切ナル警備手段ハ、決シテ他ニ求ムルコトヲ得べカラザルナリ。

 

《訓読》

 元來、詫證文なるものは、勝ちたる方(かた)の言分(いひぶん)を何處(どこ)までも通し得るものなれば、右のごとく、至極、念入りなるも、別に不思議とするに足らざれども、苟(いやし)くも仁賀保金七郞の名を揭ぐるに於ては、其の眞僞をも問ふこと無く、常に疫病神(やくびやうがみ)總員の營業を禁止し得(う)と云ふに至つては、聊(いささ)か過酷の嫌(きらひ)無きに非ざるなり。唯(ただ)、舊來の緣故如何(いかん)に拘(かかは)らず、勝ちたる者を以つて保護者と賴むは、言はゞ、封建時代の餘風なり。「ヒヤウスヘ」の社、又は「エンコウ」の宮の御札のごときも、要するに、近世海船の國旗と同じく、一種庇護の權力を標識する徽章(きしよう)に他ならず。而して又、相手が文字に疎(うと)き河童なることを考慮し、今一段、簡單なる方法を以つて、之れを表示したる例あり。昔、三河の某地、淸水權之助なる人の領内に於いて、河童、馬を襲はんとして、亦。大いに失敗し、助命の條件として約束を爲(な)す。【紅手拭(あかてぬぐひ)】卽ち、手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ、と云ふことなり。是より以後、此の附近の人民は、我も我もと、紅手拭を携帶することゝなれり、と云へば〔「水虎考略」後篇二・所引〕、此れも亦、稍(やや)濫用せられたりと見えたり。又、一あり。此の話の異傳なるか否かを知らざるも、同じ三河國に設樂(しだら)某と云ふ強力(ごうりき)の勇者あり。「カハツパ」と組み合ひ、取つて押へ、突き殺さんとしける時、「カハツパ」、下(した)より言ひけるは、「命を御宥(おゆる)し候はゞ、御子孫竝びに御一家の分(ぶん)殘らず、水の難を遁(のが)れしめ申すべし。【河童一黨】日本國中の「カハツパ」は、皆、我等が一類にて候間(さふらふあひだ)、何方(いづかた)にても、我等が御約束申したりと聞き候はゞ、川にて守護仕(つかまつ)るべし」と言ひける故、「然(しか)らば宥(ゆる)す、證據は如何(いかん)」とありしかば、乃(すなは)ち、歌を教へたり。

  「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

 【設樂氏】設樂氏、元は菅原氏なり。之れに因つて、設樂氏の人は川の難、無し。又、此の歌を唱(とな)ふれば、他氏の者も難を遁る、と云へり〔「落穗餘談」四〕。此の河童は、別に馬盜人(うまぬすびと)にても無かりしごとくなるに、兎に角に大いなる言質(げんち)を取られたり[やぶちゃん注:事前の確認・取り決め・契約・交渉などに於いて、後で証拠となるような言葉や証書を相手から引き出すこと。]。右の「氏は菅原」の歌のごときは、河童自筆の手形を眼の前に突き附けたるに比ぶれば、幾分、證據力に乏しきものなりしならんも、若(も)し、律義なる河童ならば、夫(それ)のみにても、以前の約束を思ひ出さしむるには、十分なりしなり。世間尋常の疱瘡神(はうさうがみ)[やぶちゃん注:疱瘡を齎(みたら)すとされた悪神。]のごときは、居(を)る筈も無き昔の勇士の名を署(しよ)して、人の門に張り置けば、【さゝら三八(さんぱち)】「さては此の家は鎭西八郞爲朝閣下の御宿なるか」と言ひて通り過ぎ、又は「此の家にも「さゝら」三八殿が同居してござるのか」と、碌々(ろくろく)、家の内を覗きもせずに、歸り去るを常とせり。之れを思へば、人の方が、遙かに、人惡(ひとわる)し。如何に相手が害敵なりとは言ひながら、每回、此の手段を以つて彼(かれ)を欺(あざむ)くなり。但し、印刷したる降參狀、又は、謝罪の口供(こうきよう)は、決して、此の類の陰險なる策に非ず。「汝の一類には、曾て、此(か)くのごとく、敗北の恥を晒(さら)せし者あるなり。人間は決して侮り得べからざる動物なるぞ。馬も亦、然り。心得違ひをすることなかれ」と豫戒(よかい)するまでの事なり。河童にして、若(も)し、文字ありとせば、馬屋・牛小舍の守護として、此れほど、穩當、且つ、適切なる警備手段は、決して、他に求むることを得べからざるなり。

[やぶちゃん注:「近世海船の國旗と同じく」この「近世」は近代の意。船首旗・艦首旗に於ける国籍を示す国籍旗。

「手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ」と河童が誓約したとならば、赤は決して元来は河童が忌避する色なのではないということになる(考えて見れば、しばしば河童の顔は赤いともされる)。謂わば、水中で目立つ色という、観察する河童側から見て、極めてプラグマティクな理由が最初であったものとここでは推察される。

『「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原』殆んど変わらぬ形で既出

「設樂氏」「元は菅原氏なり」三河国の武士であるが、これは近世以降の自称と思われる。平凡社「世界大百科事典」によれば、『近世の所伝では菅原氏末裔とするが,在庁官人三河伴氏一族とみられる。設楽郡中設楽郷』(現在の東栄町)『を名字の地とする説もあるが』、『不明。源義家に従って』、「後三年の役」に『出陣した資兼が系図以外での初見』で、「保元の乱」の『義朝方に設楽兵藤武者がある。鎌倉時代には一族富永氏とともに三河守護足利氏の被官で』、『足利氏所領奉行番文に太郎兵衛入道がみえる。室町前期には将軍近習の一員として諸記録に散見し』、伯耆・周防『などで所領給付をうけた』とある。

さゝら三八(さんぱち)」ブログ戦国ちょっといい話・悪い話まとめに、『佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で』、『福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けた』ところ、『助けた男が疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬から助けて下さったお礼にあなたの家には二度と出入りしませんといった事から』、『各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げる』ようになったとあり、『三八は疱瘡除け伝説になるほどの美肌の持ち主で在ったと伝わるが』、『この時代、風土病や流行病がすぐに治療できないので』、『年齢性別問わず』、『流行病の痕で多少アバタ顔であった。大名家の娘ともなると』、『嫁ぎ先に支障をきたすので』、『大名家では特に娘の肌に気を使った』。『この三八の噂を聞きつけた森忠政が娘(九右衛門の娘とも)のために佐々良三八の家の看板を譲ってほしいと三八を家に招いた』。『三八は家宝にしていた家の札をなぜか譲ってしまい』、その『祟りで』、『人前では出歩けないほど』、『酷い荒れ肌になってしまったとい』い、一方、『その後、忠政の娘はとても肌がきれいな女に育った』という。『伝説の類だが』、『戦国後期』の『妖怪、怪談話』としては、『割合と有名なまじない伝説』で、『疫病、難病の魔除けに佐々良三八の宿だったり』、『住処と書いてまじないにする風習が元禄頃から全国各地に広がった』とある。研」怪異・妖怪伝承データベースにも、須田元一郎氏の「九州北部の伝説玩具」(『旅と伝説』昭和一〇(一九三五)年八月発行所収)に、福岡県での採話として要約で、『名護屋山三郎の家来に、佐々良三八という美男がいた。ある時』、『路上で』一『人の男が多くの犬に囲まれて弱っているのを助けた。この男が疱瘡神で、お礼にあなたの名前の出ている家には決して這い入りませんと誓った。だから』、七『穴のあわび貝に「佐々良三八様御宿」と書いておけば、疱瘡にかからない』とある。

「鎭西八郞爲朝」言わずと知れた剛弓引きの源鎮西八郎為朝(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は源為義の八男で、「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)に敗れ、逃亡したが、捕縛、但し、武勇を惜しまれて助命され、八月二十六日、肘を外し、自慢の弓を射ることが出来ないようにされて、伊豆大島に流刑となったが、伊豆七島を支配するに至った。前注のリンク先によれば、後、『八丈島では疱瘡が全く流行らなかった』ことから、『源為朝が疱瘡神を倒したとして三八同様』、『この時代』、『疱瘡除けの札として人気があった』とある。

口供(こうきよう)」罪人の口から罪状を述べること。また、その筆記録。「口書き」とも言う。

「豫戒(よかい)」前以って警戒すること。予(か)ねてより用心すること。]

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