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カテゴリー「柳田國男」の275件の記事

2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

2019/06/17

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鐮倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鐮倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

2019/06/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(37) 「池月・磨墨・太夫黑」(4)

 

《原文》

 飛彈國[やぶちゃん注:ママ。「今昔物語集」の一本では「飛驒」を「飛彈」とする表記を見るが、今までも柳田國男は「飛驒」と記しているから、ここは誤植と断ずる。訓読では混乱するので特異的に訂した。]ニテハ池月ハ大野郡丹生川村(ニブカハ)大字池俣ヨリ出ヅト稱ス〔飛州志〕。池俣ハ乘鞍嶽西麓ノ村ナリ。恐クハ亦神聖ナル池アリシヨリノ村ノ名カ。乘鞍ト云フ山ノ名モ或ハ又馬ノ神ト緣由アリシモノナラン。池月ハ又近江ヨリ出デタリトノ說アリ〔越後名寄三十一〕。犬上郡東甲良村大字池寺ハ古クハ河原莊ノ内ニシテ、大伽藍アリシ地ナリ。名馬池月ハ此邊ニ生ル。池月ハ即チ池寺月毛ヲ略シタル名ナリ。而シテ磨墨ハ同ジ國伊香郡ノ摺墨鄕ニ於テ生レタルガ故ニ其名アルナリト云ヘリ〔淡海木間攫〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯ハ亦此地方ニテノ池月出生地ナリ。【爪石】同郡椿村大字小社牧久保ニ駒爪石アリ。徑(ワタリ)三尺バカリノ圓石ニシテ中央ニ爪ノ痕ニ類スル者存ス。池月此村ニテ育成セラレシ時蹈立テタル跡ナリト云フ〔伊勢名勝志〕。【駒ノ淵】然ルニ程遠カラヌ河藝郡河曲(カハワ)村大字山邊内谷ニモ同ジ傳說アリ。駒ノ淵ト稱スル周圍五十間餘ノ低地ハ即チ是ニシテ、以前幕府ノ官吏巡視ノ折之ヲ承認シ、右大將源賴朝卿之逸馬生唼出生之地ト云フ標木ヲ建テタルコトアリト云フ〔同上所引勢陽雜記〕。平蕪遠ク連ナル河内ノ枚方(ヒラカタ)ノ如キ土地ニ於テモ、尙池月ハ此地ニ生レタリト云フ口碑アレバ〔越後名寄所引寺島長安說〕、神馬ハ誠ニ至ラザル所無キナリ。更ニ中國ニ在リテハ安藝山縣郡原村大字西宗ノ四滿津(シマヅ)ト云フ處ヨリ磨墨出デタリト稱ス〔藝藩通志〕。或ハ又之ヲ池月ナリトモ云フ。【駒繫松】此村淨土ノ勇ケ松ハ、池月ヲ此樹ニ繫ギタリトテ古ヨリ其名高ク、神木トシテ崇メラル〔大日本老樹名木誌〕。石見鹿足郡藏木村大字田野原ニ早馬池アリ。池月此邊ヨリ出ヅト稱ス。元來野馬ニシテ池水ヲ泳グコト陸行ノ如シ。故ニ池月ト稱スト云フ。此地ハ山中ノ別天地ニシテ總稱シテ俗ニ吉賀ト呼べリ。吉賀鄕モト馬無シ。古今唯三名馬ヲ產スルノミ。磨墨ハ亦其一ナリト傳フ〔吉賀記上〕。但シ池月ハ或ハ長門須佐ノ甲山ニ生ルト云フ一說アル由ニテ、吉賀ノ故老ハ此一頭ノミハ隣國ノ口碑ニ割讓スルノ意アリシガ如シ〔同上〕。須佐ハ長門ノ東北隅ニシテ石見ト境スル山村ナレバ、龍馬ガ來往シテ其本居ヲ定メ得ザリシモノトモ解スルヲ得ン。而モ長門ノ通說ニ於テハ池月ノ生レタリシハ豐浦郡ノ御崎山ニシテ懸離レタル西隅ノ海岸ナルノミナラズ、磨墨モ亦同ジ牧ノ產ナリト主張スルナリ〔大日本老樹名木誌〕。【馬影池】之ト同時ニ石見ノ邑智郡出羽(イヅハ)村大字出羽ニ於テモ、馬影池ト云フ池アリテ亦池月此池ヨリ出ヅト傳フ。出羽ノ池月ハ誠ノ龍ノ駒ニテ、常ニ我影ヲ池ノ水ニ映シ又其池ノ水ヲ飮メリ〔石見外記〕。隱岐島ニテハ周吉郡ノ東海岸津居(ツヰ)ト云フ里ニ、牡池牝池ノ二ツノ池アリ。池ノ深サハ測リ知リ難ク岸邊ノ石ハ墨ノ如ク黑シ。白馬池月ハ則チ此水中ヨリ現ハレタリトアリテ、池ノ北ニ今モ駄島ナド云フ地名アリ。駄島ノ駄ハ牝馬ノコトナルべシ。【海ト馬】此池月ハ飛ビテ島前ニ渡リ、ソレヨリ大海ヲ泳ギテ出雲ニ來リシヲ、浦人之ヲ捕ヘテ亦鎌倉殿ニ獻上ス〔隱岐視聽合記〕。出雲ニ於テハ今ノ八束郡美保關村大字雲津ニ正シク其遺蹟アリ。池月ガ隱岐ヨリ渡リ著キシ時ノ蹄ノ跡岩上ニ殘レル外ニ、又自然ニ馬ノ姿ノ現ハレタル奇巖モアリト云ヘリ〔出雲懷橘談上〕。但シ雲津ハ夙ニ彼島渡航ノ船津ナリケレバ、二處ノ口碑ガ響ノ如ク相應ズルモ、特ニ之ヲ奇トスルヲ要セザルナリ。

 

《訓読》

 飛驒國にては、池月は大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)より出づと稱す〔「飛州志」〕。池俣は乘鞍嶽西麓の村なり。恐らくは亦、神聖なる池ありしよりの村の名か。乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん。池月は又、近江より出でたりとの說あり〔「越後名寄」三十一〕。犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺は、古くは河原莊(かはらのしやう)の内にして、大伽藍ありし地なり。名馬池月は、此の邊りに生る。池月は、即ち、「池寺月毛」を略したる名なり。而して磨墨は同じ國伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)に於いて生れたるが故に其の名あるなりと云へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯は亦、此の地方にての池月出生地なり。【爪石】同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保に「駒爪石」あり。徑(わたり)三尺ばかりの圓石(まるいし)にして、中央に爪の痕に類する者、存す。池月、此の村にて育成せられし時、蹈み立てたる跡なりと云ふ〔「伊勢名勝志」〕。【駒の淵】然るに、程遠からぬ河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷にも同じ傳說あり。駒の淵と稱する、周圍五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]餘の低地は、即ち、是れにして、以前、幕府[やぶちゃん注:江戸幕府。家康が清和源氏(新田氏)を祖と謳い、「吾妻鏡」を愛読書としたことは頓に知られる。]の官吏、巡視の折り、之れを承認し、「右大將源賴朝卿逸馬生唼出生之地」と云ふ標木を建てたることありと云ふ〔同上所引「勢陽雜記」〕。平蕪(へいぶ)遠く連なる河内の枚方(ひらかた)のごとき土地に於いても、尙ほ、池月は此の地に生れたりと云ふ口碑あれば〔「越後名寄」所引・寺島長安說〕、神馬は誠に至らざる所無きなり。更に中國に在りては、安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)と云ふ處より、磨墨、出でたりと稱す〔「藝藩通志」〕。或いは又、之れを、池月なりとも云ふ。【駒繫松】此の村淨土の「勇ケ松」、池月を此の樹に繫ぎたりとて、古へより、其の名、高く、神木として崇めらる〔「大日本老樹名木誌」〕。石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり。池月、此の邊りより出づ、と稱す。元來、野馬にして、池水(いけみづ)を泳ぐこと、陸行(りくかう)のごとし。故に池月と稱すと云ふ。此の地は山中の別天地にして、總稱して俗に「吉賀(よしが)」と呼べり。吉賀鄕、もと、馬、無し。古今、唯だ、三名馬を產するのみ。磨墨は亦、其の一つなりと傳ふ〔「吉賀記」上〕。但し、池月は、或いは、長門須佐(すさ)の甲山に生ると云ふ一說ある由にて、吉賀の故老は此の一頭のみは、隣國の口碑に割讓するの意ありしがごとし〔同上〕。須佐は長門の東北隅にして石見と境する山村なれば、龍馬が來往して其の本居(ほんきよ)を定め得ざりしものとも解するを得ん。而も、長門の通說に於いては、池月の生れたりしは、豐浦郡の御崎山にして、懸け離れたる西隅の海岸なるのみならず、磨墨も亦、同じ牧の產なりと主張するなり〔「大日本老樹名木誌」〕。【馬影池】之れと同時に、石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池アリテ、亦、池月、此の池より出づ、と傳ふ。出羽の池月は誠の龍の駒にて、常に我が影を池の水に映し、又、其の池の水を飮めり〔「石見外記」〕。隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり。池の深さは、測り知り難く、岸邊の石は、墨のごとく黑し。白馬池月は、則ち、此の水中より現はれたりとありて、池の北に今も「駄島(だしま)」など云ふ地名あり。「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし。【海と馬】此の池月は、飛びて島前(とうぜん)に渡り、それより大海を泳ぎて出雲に來たりしを、浦人、之れを捕へて、亦、鎌倉殿に獻上す〔「隱岐視聽合記」〕。出雲に於いては、今の八束(やつか)郡美保關村大字雲津に正(まさ)しく其の遺蹟あり。池月が隱岐より渡り著きし時の蹄の跡、岩上に殘れる外に、又、自然に馬の姿の現はれたる奇巖もあり、と云へり〔「出雲懷橘談」上〕。但し、雲津は夙(つと)に彼(か)の島、渡航の船津(ふなづ)なりければ、二處の口碑が響(ひびき)のごとく相ひ應ずるも、特に之れを奇とするを要せざるなり。

[やぶちゃん注:「大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)」現在の高山市丹生川町(にゅうかわちょう)池之俣(いけのまた)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「神聖なる池ありしよりの村の名か」上記地図を拡大して見ると、高い位置に「丹生池」、少し下がった位置に「土樋池」を見出すことは出来る。

「乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん」ウィキの「乗鞍岳」によれば、『飛騨山脈(北アルプス)南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高』三千二十六メートル『)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの』八『峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など』二十三もの『峰があ』るとし、「山名の由来と変遷」に項には、延喜元(九〇一)年成立の歴史書「日本三代実録」(編者は藤原時平・菅原道真ら)の貞観一五(八七三)年の条に、『飛騨の国司の言葉』として、『大野郡愛宝山に三度』、『紫雲がたなびくの見た』、『との瑞兆を朝廷に言上した』とあり、この山は『「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれ』て、『その当時から霊山として崇拝されていた』。『平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ』、正保二(一六四五)年頃には『乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている』。文政一二(一八二九)年の「飛州誌」では、『「騎鞍ヶ嶽」と記されていた』。『飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた』とある。『日本には同名の乗鞍岳が複数あ』るが、一般に『「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している』とされる。『信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた』。『最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」』。『魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている』とある。因みに、池之俣直近の下方にある旗鉾伊太祁曽(はたほこいたきそ)神社(旗鉾はここの地名(高山市岐阜県丹生川町旗鉾)を単に冠したものだったようである)があり、サイト「大屋毘古神・五十猛命」(「おおやびこがみ」「いたけるのみこと」と読んでおく)の「伊太祁曽神社」には、その神社所有の素敵な円空作の男女神像の画像がある。

「犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺」犬上郡甲良町(こうらちょう)池寺(いけでら)

「河原莊(かはらのしやう)」不詳。

「大伽藍ありし地なり」池寺の地名由来でもある(事実、広くない地域に現在も十余りの池塘が確認出来る)、同地区に現存する天台宗龍応山西明寺(さいみょうじ)のこと。金剛輪寺・百済寺とともに「湖東三山」の一つに数えられる名刹である。詳しくはウィキの「西明寺(滋賀県甲良町)」を参照されたい。

「伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)」湖北内陸の滋賀県長浜市余呉町(よごちょう)摺墨

「伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯」三重県鈴鹿市三畑町と思われるが、「鳩峯」は見当たらない。

「同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保」三重県鈴鹿市小社町(小社町)(周縁(特に町外の北)に「椿」を冠する施設多し)と思われるが、「牧久保」は見当たらない。

「河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷」三重県鈴鹿市山辺町かと思われるが、内谷は見当たらない。

「安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)」広島県山県郡北広島町西宗と思われるが、「四滿津(しまづ)」『此の村淨土の「勇ケ松」』は孰れも見当たらない。但し、引用元の「大日本老樹名木誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ上段頭)には確かにそう書かれてある。

『石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり』以下のこの周辺域の名馬輩出は既出既注島根県鹿足郡吉賀町田野原。吉賀町内の東方端。殆んどが山岳で、深い渓谷を成す。可能性としては、南の端の方の高津川沿いにある一本杉神社、及び、そこに附帯する施設「吉賀町水源会館」附近か。池は確かにある。

「長門須佐(すさ)の甲山」山口県萩市須佐と思われるが、「甲山」は見当たらない。

「豐浦郡の御崎山」「懸け離れたる西隅の海岸」と云う表現からは、山口県下関市吉母(よしも)にある小倉ヶ辻、通称「吉母富士(よしもふじ)」(標高三百八・六メートル)か。しかし、御崎山という別称は現在見られない。この東直近の岬は本州最西端の地である「毘沙ノ鼻」である。別にずっと北の山口県下関市豊北町大字神田上に御崎神社があるが、周辺に有意なピークが見当たらない(東直近の堂山は標高百三十五・一メートル。国土地理院図)。そもそもがこれ、「大日本老樹名木誌」のどこに乗ってるのか、判らなかった。

『石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池あり』島根県邑智郡邑南町(おおなんちょう)出羽(いずわ)

『隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり』現行では「男池」・「女池」とし、合わせて「津井(さい)の池」と呼ぶ以下の場所である(グーグル・マップ・データ国土地理院図)。八年前、隠岐に旅した際、行きたいと思いながら、足の悪い妻を連れては行けそうになかったので、行きそびれた場所である。何故、行きたかったか? 小泉八雲がこの話に触れているからである。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十七)』の本文(原文附き)と私のかなり詳細な注を見られたい。それで、ここに注する必要はなくなるからである。今回、サイト「京見屋分店」の「津井の池~サイノイケ~探訪」(男池探訪とそこにあった奇体な石等の画像複数有り)及びその続編「津井の池伝説」を見つけたので、是非、見られたい。

『「駄島(だしま)」など云ふ地名あり』現認出来ず。

『「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし』何故、柳田國男はわざわざこんなことを言っているのか? まさか、「駄馬」だから♀なんて考えじゃないよね? 「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を参照されたいが、「駄馬」の用法は正当ではなく、「駄」は荷を背負う耐久力のある馬の謂いである。

「島前(とうぜん)」隠岐島という島があると思っている人が多いが、これは隠岐諸島の総称であり、「島前」(「島前三島」と呼ばれる「知夫里島」(知夫(ちぶり)村)・「中ノ島」(海士(あま)町)・西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である)に対し、「島後」は「島前三島」から東の「島後水道」を隔てた「島後」(隠岐の島町)の一島から構成される。主な島はこの四島であるが、付属の小島は約百八十を数え、それらを纏めて「隠岐島」と呼ぶのである。

「八束(やつか)郡美保關村大字雲津」島根県松江市美保関町雲津。]

2019/06/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(36) 「池月・磨墨・太夫黑」(3)

 

《原文》

 武藏ニハ固ヨリ池月・磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳說ニ於テハ、亦池月此國ニ產セシコトヲ主張スルナリ。其說ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト書ケリ。【池田】源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。【駒牽澤】或日此沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等網ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鐮倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムべキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。【駒形神】弦卷山ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔日本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ產レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、【姥强力】蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一說ニ栃澤村ノ民五郞左衞門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルべシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ產シタリ。【明星】元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因緣ナキニシモアラズ〔遊囊賸記〕。尙此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

 

《訓読》

 武藏には、固より、池月・磨墨の遺蹟と云ふもの、甚だ多し。就中、西多摩郡調布村大字駒木野の傳說に於いては、亦、池月、此の國に產せしことを主張するなり。其の說に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。【池田】源平の頃に、村より西に當つて、多摩川の北岸、今の三田村大字澤井の地に「池田」と云ふ沼あり。【駒牽澤】或る日、此の沼の邊りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田と、同村大字畑中との境なる「駒牽澤」と云ふ處を過ぎて、駒木野の里まで馳せ來たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鐮倉將軍家に獻上す。後に高名の駿足池月と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり〔「新編武藏風土記稿」〕。一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたりと云ふ駿馬の話は、よく之れを聞く、それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。伊豆の田方郡弦卷山の中腹にも、池月・磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村の山より遙かに聲を合はせたりと云ふ。【駒形神】弦卷山の山中、其の跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば〔「日本山嶽志」〕、即ち前に擧げたる輕井澤の駒形權現と同じ物ならんか。駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶ほ、其の西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃澤の舊家米澤氏にては、磨墨は此の家の厩に產れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す〔「駿國雜志」二十五〕。一說に栃澤村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此の家は又、昔、名僧聖一(しやういち)國師を產したり。【明星】「元亨釋書」の傳記に、國師の母、手を擧げて明星を採ると夢みて孕むとあるは、因緣なきにしもあらず〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。尙ほ、此(ここ)より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と稱して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ〔「駿國雜志」同上〕。

[やぶちゃん注:「西多摩郡調布村大字駒木野」現在の東京都八王子市裏高尾町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。高尾駒木野庭園などの名にそれが残る。【公開同日夕刻:削除・追記】何時もお世話になっているT氏より、これは多摩川の右岸にある現在の東京都青梅市駒木町であると御指摘を受けた。同氏によれば、「西多摩郡調布村大字駒木野」は明治二二(一八九八九)年四月一日の町村制施行により、下長淵村・上長淵村・駒木野村・友田村・千ヶ瀬村・河辺村が合併し、神奈川県西多摩郡調布村が成立、昭和二六(一九五一)年四月一日に青梅町・霞村との合併により、「青梅市」が発足して「調布村」は消滅している。確かに、この位置だと、以下の柳田國男の言う「西」が適合する。全くの私の錯誤であった。T氏に感謝申し上げる。

「三田村大字澤井」多摩川の北岸にある東京都青梅市沢井と思われる(上記旧駒木野から直線で約六キロメートルほど西北の多摩川上流)【前記追記により同日夕刻改稿】

『「池田」と云ふ沼』沢井地区には現認出来ない。

「素絹(そけん)」練っていない生糸で作った粗悪な絹布のこと。

「伊豆の田方郡弦卷山」以下も合わせて、前に出た「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」の注で詳細に考証済み。私はここと推定した(国土地理院図)。

「安倍郡大川村大字栃澤」静岡県静岡市葵区栃沢ウィキの「磨墨塚」に、伝承の各項の一つとして静岡県静岡市葵区大間の「福養(ふくよう)の滝」(栃沢の北北西七キロメートル)を挙げ、『大間の部落は、静岡西部を流れる藁科川の水源付近。昔、毎年』五月五日『の午前十時頃になると』、一『頭の馬が福養の滝の滝つぼにつかり』、『毛並みを整えていたという。後に米沢家で飼われて駿馬「磨墨」となった。これに因んで、この滝は「お馬が滝」と呼ばれるようになった』とあり、また、『福養の滝は別名「御馬の滝」あるいは「磨墨の滝」とも呼ばれた。名馬「磨墨」は、実は藁科の里「栃澤」の生まれということに由来する。また、福養の滝は、古来から「雨乞の滝」としても有名で、智者山神社の信仰と深い関係がある』とあった。

「厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す」ネット検索では掛からない。孰れも現存しないか。

「聖一(しやういち)國師」鎌倉中期の臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)の諡号(しごう)。ウィキの「円爾」によれば、駿河国安倍郡栃沢(現在の静岡市葵区栃沢)に生まれる。『幼時より久能山久能寺』(静岡県静岡市清水区にある臨済宗補陀落山鉄舟寺の前身。当時は天台宗)で十八『歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒』『)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ。嘉禎元(一二三五)年、『宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした』。仁治二(一二四一)年、『宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち』、『上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく』、『真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き』、『禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる』。『なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である』十一月一日『を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている』。『没後の』応長元(一三一一)年、『花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた』。因みに、『博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされ』、『疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため』ともある。

「元亨釋書」は日本初の仏教通史で全三十巻。その著者である臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は円爾の孫弟子である。但し、私の持つ同書の電子データでは、ここに出るとする逸話が見当たらない。]

2019/06/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(35) 「池月・磨墨・太夫黑」(2)

 

《原文》

 磨墨ハ多數ノ故鄕ヲ併セ有スル點ニ於テモ池月ト容易に兄弟シ難キ馬ナリ。【引田】關東方面ニ於テハ此名馬ノ生レ在所ト云フモノ、一ツニハ下野上都賀郡東大蘆村大字引田ナリ。【釜穴】村ヲ流ルヽ大蘆川ノ摺墨淵ノ片岸ニ、釜穴ト稱スル入口八九間ノ洞窟アリ。磨墨ハ此洞ヨリ飛出セリト云フコトニテ、岩ノ上ニ大キサ七八寸深サ一尺ニ近キ蹄ノ痕アル外ニ、【駒留石】村ノ長國寺ノ境内ニモ亦一箇ノ馬蹄石アリテ、其名ヲ駒留石ト稱シタリ〔駿國雄志二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ヒコマ)村ハ元ハ彥間ト書ケリ。昔ノ牧ノ址ナルヲ以テ今ノ字ニ改メシナルべシ。土地ノ人ノ說ニテハ世ニ名高キ池月磨墨ハ共ニ此地ノ出身ナリト云フ〔山吹日記〕。上總國ニモ磨墨出デタリト傳フル地少ナクモ二處アリ。其一ツハ木更津ノ町ニ近キ疊池(タヽミイケ)ト云フ池、【硯】其二ハ則チ東海岸ノ夷隅郡布施村硯ト云フ地ナリ。硯ニテハ高塚山ト名ヅクル丘陵ノ頂上、僅カナル平ニ一本松ノ名木アル邊ヲ昔ノ牧ノ跡ナリト傳ヘ、愛宕ヲ祀リタル小祠アリ。此岡ノ中腹ニモヤハリ小サキ池アリテ、其水溜リノ如何ナル旱魃ニモ涸レザルヲ、或ハ磨墨ノ井ト稱ス。此地方ノ口碑ニ依レバ、磨墨ハ此牧ノ駒ナリシヲ平廣常取リテ鐮倉將軍ニ獻上スト云ヘリ〔房總志科〕。此ヨリ更ニ一日程ノ南方、安房ノ太海村ノ簑岡ト云フ海邊ノ牧モ、池月磨墨ノ二駿ヲ產セリト云フ名譽ヲ要求ス。而シテ村ノ名ニモ池月村磨墨村ノ稱呼アリキト言ヘド、今日ノ何ニ該當スルカ不明ナリ〔十方菴遊歷雜記五篇下〕。此海岸ヨリハ、兎モ角モ或名馬ヲ出セシコトノミハ事實ナルガ如シ。同ジ太海村ノ大字太夫崎(タイフザキ)ハ、義經ノ愛馬薄墨一名ヲ太夫黑ト云フ駿足ヲ出セシヨリノ地名ナリト云フ。【岩穴】岬ノ岸ニ不思議ノ巖窟アリ。深黑測ルべカラズ。太夫黑ハ則チ其洞ヨリ出デタリト云ヒ、【硯】附近ニハ硯トスべキ多クノ馬蹄石ヲ產シ、且ツ馬ノ神ノ信仰ヲ保存セリ〔千葉縣古事志〕。一說ニ賴朝石橋山ノ一戰ニ敗レテ此半島ニ落チ來タリシ際、太夫黑ヲ手ニ入レタリ。【名馬不死】後ニ此馬ハ獨リ故鄕ニ還リ來タリ、今モカノ洞ノ奧ニ住シテ不死ナリ。山麓ノ名馬川ノ岸ヨリ波打際ニカケテ、折々駒ノ足跡ノ殘レルヲ見ルハ、人コソ知ラネ龍馬ノ胤ノ永ク絕エザル證據ナリト云ヘリ〔遊歷雜記同上〕。然ルニ右ノ太夫黑ハ古クハ奧州ノ秀衡ガ義經ニ贈ル所ト稱シ、池月磨墨ト共ニ南部三戶ノ住谷ノ牧ニ產スルコト、同處ノ馬護神ノ天明元年ノ祠堂記ニ詳カナルニ〔糠部五郡小史〕、或ハ又越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱ニ生レタリト云フ說アリ〔越後名寄三十一〕。讚岐木田郡牟禮村ニテハ此馬終焉ノ古傳碑文ニ依リテ明白ナリ〔讚岐案内〕。結局何レガ眞實ノ話ナルカ、予ハ之ヲ決シ得ズ。

 

《訓読》

 磨墨は、多數の故鄕を併(あは)せ有する點に於ても、池月と容易に兄弟し難き馬なり。【引田】關東方面に於いては、此の名馬の生れ在所と云ふもの、一つには、下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)なり。【釜穴】村を流るゝ大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり。磨墨は此の洞より飛び出だせりと云ふことにて、岩の上に大きさ、七、八寸、深さ一尺に近き蹄の痕ある外(ほか)に、【駒留石】村の長國寺の境内にも亦、一箇の馬蹄石ありて、其の名を駒留石と稱したり〔「駿國雄志」二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ひこま)村は元は「彥間」と書けり。昔の牧の址なるを以つて、今の字に改めしなるべし。土地の人の說にては、世に名高き池月・磨墨は、共に此の地の出身なりと云ふ〔「山吹日記」〕。上總國にも、磨墨出でたりと傳ふる地、少なくも二處あり。其の一つは、木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」と云ふ池、【硯】其の二は、則ち、東海岸の夷隅郡布施村硯(すずり)と云ふ地なり。硯にては高塚山と名づくる丘陵の頂上、僅かなる平(ひら)[やぶちゃん注:平地。]に一本松の名木ある邊りを昔の牧の跡なりと傳へ、愛宕(あたご)を祀りたる小祠あり。此の岡の中腹にも、やはり小さき池ありて、其の水溜りの、如何なる旱魃にも涸れざるを、或いは「磨墨の井」と稱す。此の地方の口碑に依れば、磨墨は此の牧の駒なりしを、平廣常、取りて鐮倉將軍に獻上すと云へり〔「房總志科」〕。此れより更に一日程の南方、安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊の牧も、池月・磨墨の二駿を產せりと云ふ名譽を要求す。而して村の名にも池月村・磨墨村の稱呼ありきと言へど、今日の何に該當するか不明なり〔「十方菴遊歷雜記」五篇下〕。此の海岸よりは、兎も角も、或る名馬を出せしことのみは事實なるがごとし。同じ太海村の大字太夫崎(たいふざき)は、義經の愛馬「薄墨(うすずみ)」一名を「太夫黑(たいふぐろ)」と云ふ駿足を出せしよりの地名なりと云ふ。【岩穴】岬の岸に不思議の巖窟あり。深黑、測るべからず。太夫黑は、則ち、其の洞より出でたりと云ひ、【硯】附近には硯とすべき多くの馬蹄石を產し、且つ、馬の神の信仰を保存せり〔「千葉縣古事志」〕。一說に、賴朝、石橋山の一戰に敗れて此の半島に落ち來たりし際、太夫黑を手に入れたり。【名馬不死】後に此の馬は、獨り故鄕に還り來たり、今も、かの洞の奧に住して不死なり。山麓の名馬川の岸より波打際にかけて、折々、駒の足跡の殘れるを見るは、人こそ知らね、龍馬の胤(たね)の永く絕えざる證據なりと云へり〔「遊歷雜記」同上〕。然るに、右の太夫黑は、古くは奧州の秀衡が義經に贈る所と稱し、池月・磨墨と共に、南部三戶の「住谷(すみや)の牧」に產すること、同處の馬護神の天明元年[やぶちゃん注:一七八一年。]の「祠堂記(しだうき)」に詳かなるに〔「糠部五郡小史」〕、或いは又、越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)に生れたりと云ふ說あり〔「越後名寄」三十一〕。讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり〔「讚岐案内」〕。結局、何(いづ)れが眞實の話なるか、予は之れを決し得ず。

[やぶちゃん注:「下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)」栃木県鹿沼(かぬま)市引田(ひきだ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり』個人サイトと思われる「鹿沼見て歩き」の「磨墨ケ渕 引田」の記載と、ストリートビューでの確認から、この橋(「天王橋」)附近と思われる。上記ページにはサイト主が手書きで写して電子化した、鹿沼図書館蔵の禁帯出の藁半紙に謄写版で印刷された上沢謙二氏著になる「磨墨ケ渕」という冊子(昭和三二(一九五七)年七月二十二日クレジット)の全文があるので是非読まれたい。子供向けに書かれ、大阪中央放送局のラジオ番組(昭和二年九月から翌年にかけて放送)のために上沢氏が執筆されたものであるが、非常に素敵な内容である。

「長國寺」不詳。引田地区の天王橋の左岸東北約四百メートル位置に曹洞宗大盧山長安寺という寺ならある。この誤りかと思ったが、「駿國雜志」の当該箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)(右ページの十行目)を確認したところ、確かに「長國寺」とあって、わざわざ『真言』宗と割注もあり、しかも『淵より三四町、東』(三百二十八~四百三十六メートル)とあるから、ちょっと違う。しかし、そこでは山号が字抜けになっており、どうもなんとも怪しい感じはする。

「同國安蘇郡飛駒(ひこま)村」栃木県佐野市飛駒町

『木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」』千葉県木更津市朝日に畳ヶ池(たたみがいけ)として現存する。「畳ヶ池」については磨墨に関わる記載を見出せないが、別に、頼朝絡みの由来ならたっぷりある。「石橋山の戦い」から辛くも房州に遁走した源頼朝が、兵を募りつつ、北上した際、木更津の人々ここの水辺に畳を敷きつめ、もてなしの宴を開いたことによるという。以上は個人サイトと思われる中の「千葉の歴史の道 房総往還を歩く」に拠ったが、そこにはまた、『頼朝が畳ヶ池で数度』、『昼を取る時、長須賀にいる農民が小さな籠に綺麗なお弁当を作り』、『献上した』ところ、『頼朝はこの気持に大層喜び』、『その農民に』「小籠」という『名字を与えた』ともあり、また、『食事の時に箸を忘れ』、頼朝の家臣が、或いは『頼朝が』、『池に生えていた葦を箸替わりにしようと切った』ところ、『手を怪我した。怒った頼朝は「葦なんて生えなきゃいい」と言った。それ以降』、『この池に葦生えない。(地元の人が根から取った』『という話もある)』ともあった。

「夷隅郡布施村硯(すずり)」国土地理院図で発見した。千葉県いすみ市下布施の硯である。同地区には天台宗硯山(すっずりさん)長福寺という寺があるが、当寺公式サイト(ウエッブサイト・アドバイザーが危険リスクを表示するのでリンクはしない。私は山号の読みと磨墨の記載を確認するためにリスクを容認した)には、『平家により鎌倉に追われた源頼朝は、平家追討の援軍を求めて房総にやって来た折、当寺に立ち寄ったと言われています。時の住職との話の中で、未だ山号の無いことを知った頼朝は「山号を授けるので書くものを持て」とおっしゃいました。住職の差し出した硯のあまりの見事さに「硯山」とすることになりました。そのとき以来この寺は「硯山無量壽院長福寺」(すずりさんむりょうじゅいんちょうふくじ)が正式名称になりました』。『また、書状を認めていた折、近くの山で馬のいななきが聞こえ、平家の追手かも知れないと考えた頼朝は、手にしていた筆を境内の槙の枝に掛け(これで、筆掛けの槙といわれるようになりました)』(現存するとある)、『見てくるように家来に命令』しましたが、『家来の連れて来た馬は、全身真っ黒な立派な馬でした。すっかり気に入った頼朝は』、『その馬に「磨墨」という名を付け、可愛がったといいます。都内某寺に「磨墨の墓」があり、墓誌に「布施の郡より得た馬」と書かれているそうです』とあった。『都内某寺』とはどこやねん!? 宗派が違うから伏せてるのだろうけれど、ちょっとムカつく!

「安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊」『「十方菴遊歷雜記」五篇下』のここであるが(国立国会図書館デジタルコレクション)、その幾つかの道程の地名を考えるに、これは千葉県鴨川市太海のこの附近ではないか? 則ち、「簑岡」は「嶺岡」の誤認か古名なのではないかというのが私の推理なのである。ここから東の内陸にかけて、自衛隊駐屯地などのいろいろな施設名に「嶺岡」の旧地名が複数冠り、その果てに大山(不動尊)があるからである。

「太海村の大字太夫崎(たいふざき)」千葉県鴨川市江見太夫崎。次注参照。

「名馬川」「LocalWiki」の『名馬橋 名馬「太夫黒」の伝承のこる小さな橋』に地図附きで以下のようにある。『鴨川市江見の吉浦地区(大字・太夫崎)の旧道に架かる「名馬橋(めいばはし)」。この橋の名も源頼朝の伝承に因んでいるらしい』。『この橋が架かっているのは「名馬川(めいばがわ)」という小川』で、『地元の人からこんな話がのこっていると聞いた』として、『頼朝が太夫崎(たゆうざき)まで来た時に、洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけた。地名をとって「太夫黒(たゆうぐろ)」と名を付け、自身の乗る馬とした。この橋から少し上流に、波切不動があり、伝承の馬がいたのはそこにある洞穴だという』(ここ)。名馬橋の改修前の画像と記事もこちらにある

『南部三戶の「住谷(すみや)の牧」』既注であるが、再掲しておくと、「南部九牧」の一つである「住谷野牧」のこと。青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。

「越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)」新潟市北区太夫浜(たゆうはま)

「讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり」既出既注の佐藤継信と太夫黒の墓の伝承。再掲しておくと、現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。]

2019/06/11

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(34) 「池月・磨墨・太夫黑」(1)

 

《原文》

池月・磨墨・太夫黑   名馬池月ハ陸奧七戶立ノ馬ニテ鹿笛(シヽブエ)ヲ金燒ニ當テタル五歲ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言ヒ馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇例ヲ擧ゲンカ。奧州三戶ニ在リテハ池月ハ名久井嶽(ナグヰダケ)ノ麓ノ牧住谷野(スミヤノ)ニ於テ生ルト云フ。【龍住ム池】嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潛ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飮ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此說ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳說ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黑スべテ同ジ牧ノ產ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。【月山權現】是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(キツキ)ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又七寸(シチキ)トモ唱フ。池月生レ落チテ其長四尺七寸(ヨサカナヽキ)アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ說明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡日向(ニチカウ)村大字下黑川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。【池】村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ產ムト云フ。【馬塚】其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故鄕ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。【駒ケ池】其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地(ヤチ)ト云フ村ニモ之ト似タル傳說アリキ。【四十八沼】村ノ羽黑神社ノ境内ニ古クハ四十八箇ノ沼アリ。【竈】其最モ大ナルヲ親沼又ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因緣ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ヒソ)モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彥山ノ麓ナリ。彌彥ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト緣故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竃窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。【島ノ牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(カウダ)ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來タリテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彥神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ賴朝公ノ下文及ビ梶原ガ添狀、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好(イケズキ)ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

 

《訓読》

池月・磨墨・太夫黑(たいふぐろ)   名馬池月は陸奧七戶立(しちのへだち)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金燒(かなやき)[やぶちゃん注:焼印。]に當てたる五歲の駒云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸國に其の出生地と名乘る處、多し。今、試みに其の數箇例を擧げんか。奧州三戶に在りては、池月は名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。【龍住む池】嶽の頂きに池あり、龍あり、之(ここ)に潛み住む。一夜、月明に乘じて、牧の駒、登りて、其の水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍(よ)つて「池月」と名づく云々〔「糠部(ぬかべ)五郡小史」〕。此の說は、最も古記の所傳に近きがごときも、其の由來に、傳說の香(か)、高きのみならず、磨墨・太夫黑、すべて、同じ牧の產なりと稱するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方學者の輕信なり。【月山權現】是れ、恐らくは、山に月山權現を勸請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが爲めに、乃(すなは)ち、池月の名を推定せしならんのみ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其の長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも說明したり〔「月乃出羽路」〕。此の村に就きては、後に、猶ほ一つの話あり。同國飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川に於いては、池月は此の村の百姓與平なる者の先祖が獻上する所と稱す。【池】村に一處の古池あり。往昔、此の池より龍馬出でて、嘶き、與平が家の牝馬、之れに感じて、池月を產むと云ふ。【馬塚】其の母馬の塚は今も此の地に殘れり〔「三郡雜記」上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根も亦、同じ名馬の故鄕なりと傳へらる。此の村の地、以前は大なる沼にして、龍蛇、之(ここ)に住す。池月は、則ち、之れを父として生れしなり。【駒ケ池】其の後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ〔「山形縣地誌提要」〕。岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村にも、之れと似たる傳說ありき。【四十八沼】村の羽黑神社の境内に古くは四十八箇の沼あり。【竈】其の最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其の子なり。此の因緣を以つて、近世までも此邊に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることありと信ぜらる〔「新編會津風土記」〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)も亦、池月の生れたる地と稱す〔「越後名寄」三十一〕。即ち、彌彥山(やひこさん)の麓なり。彌彥の神は、或いは特に駒形と緣故多き神なりしか、此の山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、靈泉、湧出す〔「地名辭書」〕。【島の牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で來たりて住するあり。之れを、此の村の彌彥神社の神馬に獻じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之れを奉る。其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふるが、何よりの證據なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水邊を愛して住みし爲めなりと云ふ〔「能登國名跡志」〕。而して此の地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

[やぶちゃん注:「七戶立(しちのへち)」青森県上北郡七戸町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここ。これは「戸立(へだち)馬」のことで奥州最大の駿馬の産地であった糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の岩手県と青森県に跨る)の「戸(へ)」のつく名馬産地の産であることを示す一種のブランド的呼称で、鎌倉時代前期には既に知られていた。

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘(おび)き寄せるために吹く、鹿の鳴き声に似せた笛。本邦のそれは、竹や鹿の角に、鹿の胎児の皮や蟇蛙の皮を張って作った。

『「盛衰記」の本文』「源平盛衰記」(わたしは「じょうすいき」と読むことにしている)の巻第三十四」の「東國兵馬の汰(さた)並びに佐々木、生唼(いけずき)を賜ふ」「事」の一節。引用は示さない。何故なら、「日本文学電子図書館」(J-TEXT)の国民文庫版を加工用に用いたものの、私が多量に字を推定で規定し、読み易く勝手に推定で訓じたものだからである(私は「源平盛衰記」は前半分の活字本しか持っていない)。これは書誌学的に正規表現の原文ではないので、引用は避けられたいである。

   *

[やぶちゃん注:前略。]此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節、祕蔵御馬三匹也。生唼・磨墨・若白毛とぞ申しける。陸奥國三戶立(さんんへだち)の馬、秀衡が子に元能冠者が進めたるなり。太く逞(たくま)しきが、尾髮、あくまで足りたり。此の馬、鼻、强くして、人を釣りければ、異名には「町君」と付けられたり。生唼とは黑栗毛の馬、高さ八寸、太く逞しきが、尾の前、ちと白かりけり。當時五歲、猶もいでくべき馬也。是も陸奥國七戶立の馬、鹿笛を金燒きにあてたれば、少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ひければ生唼と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に參りて、

「君も御存知ある御事に候へども、弓矢取る身の敵に向ふ習ひは、能き馬に過ぎたる事なし。健馬に乘りぬれば、大河をも渡し、巖石をも落とし、蒐(あつむ)るも引くも、たやすかるべし。力は樊噲(はんくわい)、張良が如くつよく、心は將門、純友が如くに猛けれども、乘りたる馬、弱ければ、自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り。されば生唼を下し預りて、今度(このたび)、宇治河の先陣、つとめて、木曾殿を傾け奉り候ばや。」

と、傍若無人に、憚る所なく、申したり。

 佐殿、良(やや)案じ給けるは、

『我、土肥の杉山に、七人、隱れ居(ゐ)たりしに、梶原に助けられて、今、世に出づる事も、忘れ難き思ひなり、賜らばや。』

と思し召しけるが、又、案じて、

『蒲冠者も人してこそ所望申しつれ、景季が推參の所望、頗る狼藉なり。又、是れ程の大事に、馬に事闕(ことか)きたりと申すを、たばでも如何(いかが)有るべき。』

と、左右(さう)を案じて宣(のたま)ひけるは、

「景季、慥(まこと)に承れ。此の馬をば、大名小名・八箇國の者ども、内外につけて、所望ありき。就中(なかんづ)く大將軍に差し遣はす蒲冠者が、『ひらに罷(まか)り預らん』と云ひき。然(しか)れども、源平の合戰、未だ落ち居ず、木曾追討の爲めに東國の軍兵、大旨(おほむね)、上洛す。知んぬ、平家と木曾と一つに成りて大きなる騷ぎと成さなば、賴朝も打ち上ぼらん時は、馬なくても、いかゞはせん、其の時の料(れう)にと思ひて、誰々(たれたれ)にも給はざりき。是れは、生唼にも相ひ劣らず。」

とて、磨墨を、たびにけり。景季は生唼をこそ給らねども、磨墨、誠に逸物なりければ、咲(ゑ)みを含み、畏(かしこ)まつて罷り出づ。黑漆しの鞍を置き、舍人(とねり)、餘多(あまた)付けて、氣色(けしき)してこそ引かせたれ。

   *

「名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧住谷野(すみやの)」中世、南部氏がより馬産供給に応えるために形成した「南部九牧」の一つ「住谷野牧」で青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。「南部九牧」は他に「北野牧」(現在の岩手県九戸郡洋野町大野附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)・「三崎牧」(青森県九戸郡野田村)・「相内牧」(青森県三戸郡南部町相内)・「又重牧」(青森県三戸郡五戸町倉石又重及び五戸町等)・「木崎牧」(青森県三沢市及びその南の上北郡おいらせ町百石地区)・「蟻戸牧」(青森県上北郡野辺地町)」・「大間牧(青森県下北郡大間町)」・「奥戸牧(同大間町奥戸)」。

「地方學者」近世以前の研究者を指す。

「羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)」現在の秋田県大仙市南外(なんがい)木直沢(きじきざわ)附近かと思われる。

「七寸(しちき)」馬の丈(脚の先から肩までの高さ)を指す語を地名に転用したもの。因みに、以前に述べた通り。国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(き)」であるから、「七寸」一はメートル四十二センチメートルとなり、「四尺七寸」は国産馬では有意に異常に大きい。

「飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川」山形県酒田市下黒川

「羽前南村山郡西鄕村大字石曾根」山形県上山(かみのやま)市石曽根

「岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村」福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち)である(実際には三谷と谷地は別地名であるが、合わせた地名も通用している模様である)。捜すのに手間取ったが、「新編會津風土記」の巻之八十九の「河沼群之四」「靑津組」の「靑津組二十六箇村」の中に「谷地(ヤチ)村」があり、その「谷地村」の当該箇所(次の頁に跨り、「羽黑神社」の記載有り)の前書部分の鶴ヶ城からの距離、隣接する地名から推理した結果、ここに到ることが出来た。問題はグーグル・マップ・データではその羽黒神社が見当たらないことであった。しかし、この現行の「谷地」の地名が記された南直近には「馬洗場」、西直近には「山ノ神」という柳田國男が喜びそうな地名が残っていることが、まず判った。そうして谷地の東の三谷地区に「廣瀬神社」というのがあり、最も直近であるのだ、調べてみても、ここが旧羽黒神社であった痕跡はなかった。しかし、どうも無視出来ない。何故なら、この廣瀬神社の位置は現在の谷地地区の南西に当たり、「新編會津風土記」の「羽黑神社」の記載の、「未申ノ二町五十間ニアリ」(二百二十七メートル)に一致するからであった。私はこの神社こそがこの「羽黑神社」なのではないかと思う。そこには「祭神保食神ナリ」(うけもちのかみ)とあるから、現在或いは嘗つてこの廣瀬神社の祭神が保食神であった事実が判れば、と期待したのだが、ネットでは祭神は判らなかった。ところが、ランダムに検索を掛けてゆくうちに、個人サイトと思しい「会津名水紀行」のこちらに、会津坂下町の「広瀬神社目薬沼(ひろせじんじゃめぐすりぬま)」というのを発見、そこに『坂下町から塩川方面へ車で走ると、田んぼの中、右側にうっそうとした杜が見えてきます。その杜に囲まれるように広瀬神社があり』(これはグーグル・マップ・データを航空写真に換えると、まさにその通りであることが判る)、『いくつかの沼が神沼として点在しています』。『目薬沼とは広瀬神社神沼の一つで、他に親沼、竈沼などの名があります。眼疾に効能があるといわれており、当村はもとより青木、青津村の養水となり、古くより地方開発の水利の神としても祭られています』とあったのだ! 則ち、やっぱり「羽黑神社」は現在の廣瀬神社なのだ! しかも、柳田國男の叙述では、もう沼は全部なくなっちまったように読めたのだが、まだ、ちゃんと幾つか残っているんだ! これで決まり! 気持ちいいゾ!!!

「四十八沼」これは各地に認められる名数で、言わずもがな、「阿弥陀如来の四十八願」に掛けたものである。

「越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)」新潟市西蒲(にしかん)区岩室村樋曽。「彌彥山(やひこさん)」の北北東四キロメートル弱の山間部。

「米水浦(よねみづうら)」吉田東伍著の明治四〇(一九〇七)年冨山房刊の「大日本地名辭書」を調べたところ、ここにあった(左ページ上段中ほどから中段)。その記載から、弥彦山の東方直下の海岸、現在の新潟県長岡市寺泊野積であることが判明した。しかも同海岸の北には「竃窟(かまどのいはや)」=「男釜・女釜」(上記記載を見よ)という名勝として今もある。但し、「大日本地名辭書」の記載によると、海食洞であったが、記載時には既に一つは崩落して洞を呈していないとある。

「能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)」石川県七尾市能登島向田町(のとじまこうだまち)であろう。次に国土地理院図を見てもらおう。すると、向田町の北西の突き出た半島があるが、此の尖端の地名を見ると、「牧鼻」とあるのが判る。「牧」だ。「でも、向田町じゃなくて、少なくとも今は能登島曲(まがり)町でしょう?」と返すかね? ではもう一度、グーグル・マップ・データに戻ってもらおう。そこでこの半島の中央にある「能登島家族旅行村Weランド」をクリックするぞ! どう? 住所は? 「あれ? 石川県七尾市能登島向田町になってるぞ? これってグーグル・マップ・データの間違いじゃないの?」ってか? それじゃ、同施設の公式サイトの「アクセス」を見て貰おうか。どうよ? 住所のところに「石川県七尾市能登島向田町牧山」て書いてあるだろ。そこで国土地理院をよ~く見てもらうと、「牧鼻」からこの附近にかけて、点線が引かれてあるのが判るんだ。則ち、この半島の先端部の東北の半分の一帯が、向田町の飛び地になっていることが判るんだ。その理由は古い時代の取り決めか、近現代の地権者の問題なのか何かは、私は知らない。しかし、地名をごろうじろ! 「鼻」に「山」なんだ。考えてみりゃ、島に馬の牧場を設置するのは、海が自然のテキサス・ゲートとなって、馬の脱出の心配をする必要が一切いらないから、理に叶っているじゃないか!

「彌彥神社」これをぼんやりと読んでしまい、さっき出てきた、越後平野西部の弥彦山(標高六百三十四メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る彌彦神社(いやひこじんじゃ:住所は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦。ウィキの「彌彦神社」によれば、『正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など』、『関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる』とある。「万葉集」にも『歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている』とあり、ここが馬と関わるところの武人らとの関係が深い神社であることは言い添えておく)と勘違いしてはいけない! よく読んで! 柳田國男は「之れを、此の村の彌神社の神馬に獻じたりし」と言ってるんだ。「此の村」ってえのはこの能登島の旧向田村のことなんさ! 「そんな神社、ないよ?」ってか? ほれほれ! 石川県七尾市能登島向田町のここをご覧な! 「伊夜比咩神社」があるやろ、これ、「いやひめじんじゃ」や! 柳田が言っているのはこれやで!

「其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふ」鎌倉フリークの私としては、現存するならば是非、見たいものだ。

「古代の島の牧」中世、能登島には伊勢神宮領の「能登島御厨(のとじまのみくり(や))」(「御厨」は神饌の調進をする場所)や荘園が置かれていた。そもそもが「向田」とは、この伊勢神宮御厨としての「神田(こうだ)」から「向田」となったのである。ここに古代の馬の牧があったという記載は遂に調べ得なかったが、神饌には神馬も当然含まれるわけで、ここに古代に「能登島の牧」があったとしても何ら不思議ではないと私は思う。その証拠に「牧」を附した地名があるとも言えるのではないか?

2019/06/10

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(33) 「龍馬去來」(2)

 

《原文》

 【養生奇瑞】土佐ノ龍馬ノ生立ハ正シク人間ノ阪田公時又ハ武藏房辨慶ナドト其類ヲ同ジクシ、不倫ナル比較ニテハアレドモ遠ク釋尊誕生ノ古傳ニ線(イトスヂ)ヲ引クモノ、即チ自分ガ假ニ名ヅケテ鬼子(オニノコ)傳說ト云フモノ是レナリ。此口碑ヤ本來單ニ現出ノ稀有ヲ誇張セントスル動機ニ基クモノナルべキカ。鬼鹿毛既ニ絕代ノ珍トスべクハ、ソノ小栗判官ノ如キ伯樂ト遭遇センコトハ愈多ク有リ得べカラザル機會ナリ。此故ニ諸國ノ靈山ニハ往々ニシテ人界ノ羈絆ヲ超脫シタル龍馬ノ住スルモノアルナリ。同ジク土佐ノ幡多郡足摺山ノ緣起ニモ、山中ニ龍馬ケ原ト云フ處アリ、千場ケ瀧ノ上ナリ。此原ニハ每夜龍馬出デテ笹ノ葉ヲ喰ムト云ヒ〔西郊餘翰四〕、又長岡郡岡豐(ヲガウ)村大字瀧本ノ毘沙門堂ノ瀧ハ、高サ十七間バカリニシテ中程ニ一段ノ水溜リアリ、【岩ノ窪】其傍ニモ龍ノ駒ノ足跡ト稱スル岩ノ窪アリト傳ヘタリ〔土州淵岳志〕。阿波阿波郡林村大字西林ノ岩津ノ淵ノ側ニ在ル馬蹄石モ、石ノ面ニ殘レルハ爪ヲ以テ押シタルガ如キ形ナレバ、俗ニ又牛ノ爪石トモ云フ〔燈下錄〕。要スルニ只ノ馬ノ蹄ノ痕ニハ非ザルナリ。薩摩ノ薩摩郡鶴田村大字紫尾(シビ)ノ祁答院(ケタフヰン)神興寺ノ山ニモ胎生尾(タイシヤウノヲ)ト云フ岩アリ。紫尾八景ノ一トシテ此地ヲ詠ジタル詩ノ句ニモ

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

ナドト見エタリ〔三國名勝圖會〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山ノ嶺平(ミネノダヒラ)ニハ、岩ノ上ニ駒ノ右ノ蹄ノ跡ト赤兒ノ右ノ足跡ト殘レリ。其場處ヲ「ノゴハズ」ト呼ブハ、觸ルレバ忽チ雨降ルト云フ信仰ニ基クモノヽ如シ〔山陽美作記〕。【岩ノ窪】同國苫田郡神庭(カンバ)村大字草加部ニハ、賀茂川ノ東岸ノ岩ニ龍馬ノ爪ノ跡數多ト、竝ニ馬桶ト名ヅケタル岩ノ窪二箇處アリテ龍ケ爪淵ト稱ス。其附近ニハ龍神ノ社アリ。楢村ト云フ部落ノ地ニ屬ス。【雨乞】旱魃ニ雨乞シテ靈驗アリ〔東作誌〕。【龍ケ爪】同郡堀阪ト云フ地ニモ川ニ臨ミシ岩ノ上ニ馬蹄ノ跡アルヲ、龍ケ爪ト名ヅケテ參詣スル者多カリキ〔山陽美作記〕。同國英田郡大野村大字川上ノ增(マス)ケ乢(タワ)ニモ古ヘ天ヨリ下リシ龍駒ノ爪形ヲ石ノ上ニ遺スモノアリ。之ヲ駒ケ爪石ト稱ス〔東作誌〕。此トハ遙カニ懸離レテ、陸前名取郡秋保(アキフ)村大字新川(ニツカハ)ニハ龍駒(リユウク)ケ嶽アリ。東嶽ト相竝べリ。山上ニ樹ナク只茆草ヲ生ズ、鄕人曰ク山中ニ龍駒アリ常ニ出デテ草ヲ食ムト、仍テ其山ニ名ヅケタリ〔奧羽觀迹聞老志〕。加賀ノ白山ニ於テモ古來龍馬ヲ生ズト傳ヘ、土人往々ニシテ蹄ノ跡ヲ峻巖邃壑ノ間ニ見ル。石川郡吉野谷村大字佐良ハ白山ノ麓ニ在リ。村ノ南半里ニ丈溪ト云フハ石壁千仭ナリ。村民市平ナル者曉ニ行キテ小サキ馬ノ尾ト鬣ト甚ダ長キガ躍リテ谿ニ入ルヲ見タリ。岩角ヲ蹴ツテ飛ブコト平地ノ如ク、忽チ其影ヲ見失フ云々〔白山遊覽圖記七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町ノ善法寺ノ池ノ水ハ龍宮ニ通フト稱シテ數數ノ奇特アリ。本堂ノ西南山ニ入ルコト三町バカリニシテ龍ケ澤アリ。龍馬ノ蹄ノ跡ト云フモノ存スト云フ〔三郡雜記下〕。羽後地方ニテモ龍馬ノ傳說ノ少ナカラザルコトハ後ニ再ビ之ヲ說クべキガ、【駒爪石】北秋田郡ノ戶鳥内(トトリナイ)ト云フ地ニモ路ノ傍ニ駒爪石ト稱スル神馬ノ跡アル石ヲ、祠ノ中ニ安置シテ崇敬シテアリキ〔眞澄遊覽記三十二下〕。【沼】同郡萩生山(ハギナリヤマ)ノ山奧ニハ怖シキ一ツノ沼アリ。雨降リ風吹カントスル際ニハ龍馬現ハレテ其岸ヲ馳セアルク。山民之ヲ見テ日和ノ占ト爲セリト云ヘリ〔同上三十一〕。此等ノ馬ドモハ單ニ凡人ノ羈絆ヨリ超脫スト謂フニ止マラズ、獨立シテ既ニ一箇ノ神ナリシニ似タリ。假ニ然ラズトスルモ、少ナクモ其生死出沒ノ點ニ於テ、尋常市井ノ荷車ニ營々スル者トハ全ク其範疇ヲ異ニシタリ。即チ一言ニシテ言ハヾ、彼等ハ皆天ヲ其鄕里トスル者ナリシ也。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(オハザマ)町ノ橫岨山(ヨコガケヤマ)ノ頂上ニハ龍ケ馬場ト稱スル地アリ。町ヨリ南方ニ當リテ眺望良キ地ナリ。龍ケ馬場ト云フハ廣サ七八尺長サ三十間バカリノ白砂淸淨ノ一區ニシテ、雷ノ烈シク鳴ル日ニハ必ズ白馬ノ毛ノ如キ五寸乃至八寸ノ毛ヲ降ラス故ニ、此ノ如キ珍シキ名ヲ負ヘルナリ〔和賀稗貫二郡鄕村志〕。但シ此毛ハ白馬ノ毛ナリヤ否ヤ多少ノ疑アリ。現ニ馬ヲ重要視セザル江戶ノ市中ニモ澤山ニ降リシコトアリ。時ハ寬政五年ノ七月十五日、江戶小雨降リテ其中ニ毛ヲ交ヘタリ。丸ノ内邊ハ別シテ多シ。多クハ色白ク長サ五六寸、殊ニ長キハ一尺二三寸ニ及ブ。色赤キ毛モタマタマ有リ。太サハ馬ノ尾ホドノ物ナリ。江戶中ニ遍ク降リシコト、何獸ノ毛ニテ幾萬疋ノ毛ナルヤ不審ノ事ナリト云ヘリ〔北窻鎖談二〕。此ヨリモ遙カ前ノ年ニ、阿部伊勢守殿居間ノ十間バカリ脇ノ櫻ノ木へ雷落チ、木ニモ其邊ニモ長サ五六寸ノ毛夥シク降リタリ。主人之ヲ集メテ蠅拂ニセラレシトハ氣樂ナル話ナリ〔觀惠交話下〕。近クハ明治四十五年四月十八日ノ時事新報ノ記事ニ、伊豆ノ大島三原山ノ麓ニ此毛降ル。【火山毛】新シキ學問ニテハ之ヲ火山毛ト呼ブ由ナレドモ、布哇ナドノ土人モ之ヲ神ノ毛ト尊敬スルト聞クノミナラズ、更ニ他ノ一方ニハ馬ガ丸ノマヽ降リタリトノ話モアレバ、要スルニ天ハ何ヲ降ラスカ到底測リ知ルべカラズ。此モ江戶ニテノ出來事ナリ。【馬降ル】今ヨリ凡ソ百六十年ホドノ昔、江戶ニ大霰ノ降リシ日、旗本ノ橋本安房守ガ庭前ニ一頭ノ馬降リ來ル。龍ノ揚ゲタルモノナラントノ說アリキ。落ツルハズミニカ腰ノ骨ヲ痛メテアリシ故ニ療養ヲ加ヘタリトアリ。不思議ノ上ノ不思議ハ、此馬ハ背ニ娑婆世界ノ乘鞍ヲ置キテアリシト云フコトナリ〔寓意草下〕。

 

《訓読》

 【養生奇瑞】土佐の龍馬の生立(おひたち)は、正(まさ)しく人間の阪田公時(さかたのきんとき)又は武藏房辨慶などと其の類を同じくし、不倫なる比較にてはあれども、遠く釋尊誕生の古傳に線(いとすぢ)を引くもの、即ち、自分が假に名づけて、「鬼子(おにのこ)傳說」と云ふもの、是れなり。此の口碑や、本來、單に現出の稀有を誇張せんとする動機に基づくものなるべきか。「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんことは、愈々、多く有り得べからざる機會なり。此の故に諸國の靈山には往々にして人界の羈絆(きはん)[やぶちゃん注:「羈」も「絆」も繋ぎ止める意で、一般には「何らかの行動を起こす際の足手纏いとなること」を言うが、ここは単に「現存在に於ける種々の制約。現実的しがらみ」の意。]を超脫したる龍馬の住するものあるなり。同じく、土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起にも、「山中に龍馬ケ原と云ふ處あり、千場ケ瀧の上なり。此の原には、每夜、龍馬出でて、笹の葉を喰む」と云ひ〔「西郊餘翰」四〕、又、長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧は、高さ十七間ばかり[やぶちゃん注:約三十一メートル。]にして中程に一段の水溜りあり、【岩ノ窪】其の傍らにも「龍の駒の足跡」と稱する岩の窪みありと傳へたり〔「土州淵岳志」〕。阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵の側に在る馬蹄石も、石の面に殘れるは、爪を以つて押したるがごとき形なれば、俗に又、「牛の爪石」とも云ふ〔「燈下錄」〕。要するに、只だの馬の蹄の痕には非ざるなり。薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺の山にも「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩あり。「紫尾八景」の一つとして此の地を詠じたる詩の句にも、

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

などと見えたり〔「三國名勝圖會」〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)には、岩の上に駒の右の蹄の跡と、赤兒の右の足跡と、殘れり。其の場處を「のごはず」と呼ぶは、觸るれば、忽ち、雨降ると云ふ信仰に基くものゝごとし〔「山陽美作記」〕。【岩の窪】同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す。其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す。【雨乞】旱魃に雨乞ひして靈驗あり〔「東作誌」〕。【龍ケ爪】同郡堀阪と云ふ地にも、川に臨みし岩の上に馬蹄の跡あるを、「龍ケ爪」と名づけて參詣する者多かりき〔「山陽美作記」〕。同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」にも、古(いにし)へ、天より下りし龍駒の爪形を石の上に遺すものあり。之れを「駒ケ爪石」と稱す〔「東作誌」〕。此れとは遙かに懸け離れて、陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」あり。東嶽と相ひ竝べり。山上に樹なく、只だ茆草(かやくさ)を生ず。鄕人曰く、「山中に龍駒あり、常に出でて草を食む」と。仍つて其の山に名づけたり〔「奧羽觀迹聞老志」〕。加賀の白山に於いても、古來、龍馬を生ずと傳へ、土人、往くにして蹄の跡を峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)の間に見る。石川郡吉野谷村大字佐良(さら)は白山の麓に在り。村の南半里に「丈溪」と云ふは、石壁千仭なり。村民市平(いちへい)なる者、曉に行きて、小さき馬の尾と鬣(たてがみ)と甚だ長きが、躍りて谿(たに)に入るを見たり。岩角を蹴つて、飛ぶこと、平地のごとく、忽ち、其の影を見失ふ云々〔「白山遊覽圖記」七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺の池の水は、龍宮に通ふと稱して、數數(かずかず)の奇特(きどく)あり。本堂の西南、山に入ること、三町ばかり[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]にして、「龍ケ澤」あり。龍馬の蹄の跡と云ふもの存すと云ふ〔「三郡雜記」下〕。羽後地方にても、龍馬の傳說の少なからざることは、後に再び之れを說くべきが、【駒爪石】北秋田郡の戶鳥内(ととりない)と云ふ地にも、路の傍らに「駒爪石」と稱する神馬の跡ある石を、祠の中に安置して崇敬してありき〔「眞澄遊覽記」三十二下〕。【沼】同郡萩生山(はぎなりやま)の山奧には、怖しき一つの沼あり。雨降り、風吹かんとする際には、龍馬、現はれて、其の岸を馳せあるく。山民、之れを見て、日和(ひより)の占(うら)と爲せりと云へり〔同上三十一〕。此等の馬どもは、單に凡人の羈絆より超脫すと謂ふに止まらず、獨立して、既に一箇の神なりしに似たり。假りに然らずとするも、少なくも、其の生死出沒の點に於いて、尋常市井の荷車に營々する者とは全く其の範疇を異にしたり。即ち、一言にして言はゞ、彼等は皆、天を其の鄕里とする者なりしなり。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)の頂上には、「龍ケ馬場」と稱する地、あり。町より南方に當りて眺望良き地なり。「龍ケ馬場」と云ふは、廣さ、七、八尺、長さ三十間[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]ばかりの、白砂淸淨の一區にして、雷の烈しく鳴る日には、必ず、白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす故に、此くのごとき珍しき名を負へるなり〔「和賀稗貫二郡鄕村志」〕。但し、此の毛は白馬の毛なりや否や、多少の疑ひあり。現に、馬を重要視せざる江戶の市中にも澤山に降りしこと、あり。時は寬政五年の七月十五日、江戶、小雨降りて、其の中に、毛を交へたり。丸の内邊りは、別して多し。多くは、色、白く、長さ、五、六寸、殊に長きは、一尺二、三寸に及ぶ。色、赤き毛も、たまたま有り。太さは馬の尾ほどの物なり。江戶中に遍(あまね)く降りしこと、何(なん)の獸(けだもの)の毛にて、幾萬疋の毛なるや、不審の事なりと云へり〔「北窻鎖談」二〕。此れよりも遙か前の年に、阿部伊勢守殿、居間の十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかり脇の櫻の木へ、雷、落ち、木にも、其の邊りにも、長さ、五、六寸の毛、夥しく降りたり。主人、之れを集めて、「蠅拂ひ」にせられしとは、氣樂なる話なり〔「觀惠交話」下〕。近くは明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]四月十八日の『時事新報』の記事に、伊豆の大島三原山の麓に、此の毛、降る。【火山毛(くわざんげ)】新しき學問にては、之れを「火山毛」と呼ぶ由なれども、布哇(ハワイ)などの土人も、之れを「神の毛」と尊敬すると聞くのみならず、更に、他の一方には、馬が丸のまゝ降りたりとの話もあれば、要するに、天は何を降らすか、到底、測り知るべからず。此れも江戶にての出來事なり。【馬降る】今より凡そ百六十年ほどの昔、江戶に大霰(おもほあられ)の降りし日、旗本の橋本安房守が庭前に、一頭の馬、降り來たる。龍の揚げたるものならんとの說ありき。落つるはずみにか、腰の骨を痛めてありし故に、療養を加へたりとあり。不思議の上の不思議は、此の馬は、背に、娑婆世界の乘鞍(のりくら)を置きてありしと云ふことなり〔「寓意草」下〕。

[やぶちゃん注:「阪田公時(さかたのきんとき)」「今昔物語集」巻第二十八「賴光郎等共紫野見物語第二」(賴光の郎等共、紫野に物を見たる語(こと)第二)、「古今著聞集」「巻第九 武勇」の「源賴光、鬼同丸を誅する事」、「古事談」巻第六(藤原道長の私的な競馬(くらべうま)の相手役として登場)などに登場する武士で、姓を「酒田」、また「金時」とも書き、幼名を金太郎、源頼光四天王の一人とされ、実在の人物と言うが、後世の「御伽草子」や伝承では山姥の子と設定され、相模国足柄山で育った怪童で頼光に見出され大江山の酒呑童子の征伐などに加わったとする伝承上の人物。総体を抱え込んだ限定された個人としての実在性は低い。

『「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんこと』「小栗判官」は中世から近世にかけて流行した説経節や浄瑠璃などの語り物の貴種流離譚の主人公。知られたもののでは以下のような筋立てである。京三条高倉の大納言兼家の嫡子小栗判官は、北菩薩(みぞろ)池の大蛇の化身と契ったが、罪を得て、常陸に流される。やがて美女の照手姫と結ばれるが、姫の一族(横山。姫は養女)に毒殺されてしまう。死んだ小栗は閻魔大王の命で、善人のゆえに娑婆へ帰され、「餓鬼阿弥(がきあみ)」と名づけられた。藤沢の上人の配慮によって、生きたミイラの如き餓鬼阿弥は、車に引かれ、熊野本宮へと向かい、そこで三七日(みなぬか:二十一日)の間、湯に浸され、めでたく元の体に戻る。一方、照手姫は海に沈められるところを救われるものの、人買いの手に渡され、各地を転々として重労働に苦しめられるが、知らずに餓鬼阿弥の車を運び、後、小栗と再会して都へ行く。細部にかなりの紆余曲折があり、ヴァージョン違いも多いが、その中で、横山一党が小栗に馬芸を乞うて、人食い馬「鬼鹿毛」に乗せて謀殺しようとするシークエンスを指す。サイト「み熊野ねっと」の「小栗判官」「小栗判官3 人喰い馬」が現代語訳で判り易い。

「土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起」高知県南西部土佐清水市の、所謂、足摺岬の尖端近くにある丘の上に建つ、真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の縁起に由来するものかと思われる。

「千場ケ瀧」恐らく、「千万滝」ではないかと思われ、推定落差五十メートルで足摺岬の断崖の南西に近年まで、存在したが、今は滝自体(水流)は完全に消失しているらしい滝フリークのこだる氏のブログ「長野県の滝」の中の「高知県の滝 土佐清水市の滝(10)足摺岬の千万滝」に写真附きで五十年(記事は二〇一二年のもの)前にはまだ存在したことが、感懐を以って書かれてある。当地に残る案内板の写真に「千万滝」と書かれたそれから、この中心附近(グーグル・マップ航空写真)「千万滝」はかつて存在したと思われるから、「龍馬ケ原」はその画面の上部一帯(金剛福寺の門前の足摺岬先端部の根の部分相当或いは南西部分の崖上部)となろう。

「長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧」現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)滝本にある「毘沙門の滝」で「龍の駒の足跡」も現存する(地名は現在は清音)。「南国市」公式サイト内の「毘沙門の滝」の解説によれば(地図有り)、高さ三十メートル、三段に『わかれて落ちる滝で』、『中段には竜の駒の足跡といって、岩に大きな馬の蹄のような跡があ』ると明記されてある。『すぐ近くに毘沙門堂が建って』おり、『これは、昔弘法大師が大津の港に着いたとき、滝の音を聞いてここを訪ねて滝にうたれて身を清め、毘沙門天を彫刻しこれを祀ったのが毘沙門堂であると』されるとある。

「阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵」現在の岩津橋(いわづばし)附近か(ウィキの「岩津橋」にある Wikimedia OpenStreetMap のデータ)。同ウィキによれば、吉野川に架かる徳島県道百三十九号船戸切幡上板線の橋で、南岸は徳島県吉野川市山川町(ちょう)一里塚、北岸は同県阿波市阿波町乙岩津(おついわづ)である。

「薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺」現在、この寺は廃寺となって存在しない。現在の鹿児島県薩摩郡さつま町(ちょう)紫尾(しび)にある紫尾神社の境内地(推定。北直近)に寺の跡があるウィキの「紫尾神社(さつま町)」によれば、『旧くは「紫尾山三所権現」と称し』、『古くから祁答院七ヶ郷(山崎、大村、黒木、佐志、藺牟田、宮之城、鶴田)の総社として尊崇された』。なお、『当神社の拝殿の下から紫尾温泉の源泉が湧いていることから「神の湯」とも呼ばれている』とあり、さらに『社伝に、第』八『代孝元天皇の時代に開山され』、『「紫尾山」と号して創祀されたとも、また第』二十六『代継体天皇の時代に山中で修行をしていた空覚上人という僧の夢の中に神が現れ、「われはこの山の大権現なり、あなたが来るのを長い間待っていた。わがために社寺を建てて三密の旨を修し、大乗の法を広めよ」とのお告げがあり、翌朝上人が山頂に立つと尊い、いかめしい気があたりをつつんでいて』、『麓へ向かって』、『紫の美しい雲がたなびいていた。これを見た上人はこの山を紫尾山と名付けお告げに従い』、『山を下り、その麓を聖地と定め』、『社殿を建立「紫尾山三所権現」と称したという』。貞観八(八六六)年に『正六位上から従五位下へ昇叙された薩摩国「紫美神」に充てられるが』、『これを紫尾山の対麓に鎮座する出水市高尾野町唐笠木の同名神社に充てる説もある』。『上記紫尾山は神社の裏山に当たり、最初の社祠は紫尾山の山頂近くにあった。これを「上宮」と呼ぶのに対し、昔この山頂近くにあった社がたびたび暴風で倒壊し、また祭祀にも不便だったことから、当神社と出水市高尾野町唐笠木の同名神社の』二『か所に里宮として分祀し』て『「下宮」と呼んだといい』『(但し、薩摩郡さつま町柏原の「古紫尾神社」を下宮とする場合は「中宮」と呼ばれる)ともに紫尾山を信仰の対象とする山岳信仰を背景に建立された神社であったと思われ、当神社には中世に西国高野山の異名をとった「紫尾山祁答院神興寺」という供僧の坊が置かれ、修験者が群参したという』。『鎌倉、室町の両幕府に崇敬されたといい、江戸時代には薩摩藩主島津氏から尊崇され、この地域の鎮守神として社領の寄付や社殿の修復が行われた。また、寛永末年(』十七『世紀中頃)に当神社の神託によって永野金山が発見されたことで有名になった。このような金山発見のお告げをした神が座す社であるという伝承から、鉱山関係の参詣者が多かった。交通不便な場所に鎮座しているが、現在でも初詣には』一『万人ぐらいの人出で賑わう』とある(下線太字はやぶちゃん)。この記載から見る限りでは、近世初期には神興寺は廃されていたように読めてしまうのだが、そうではなかった巡礼者 rinzo 氏のブログ「薩摩旧跡巡礼」のこちらでは、この紫尾神社及び後背地の神興寺跡を実に丁寧に探索されており(画像多数。状態の非常によい(風化していない)馬頭観音像数体を見ることが出来る。必見! なお、これらから見ても、近世まで同寺は存在したことが素人にも推理出来る)、而してそこに以下のようにあったのである。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年))『に災害があった。それにより』、『神興寺の堂宇がことごとく荒廃し、ただ』、『権現廟だけが残っている状態となった』。『貞享二』(一六八五)『年四月、宮之城の真言宗寺院である神照寺の住持であった権大僧都快善という僧が』、『この山を訪れ、自らの閑居の地を占っていたのだが、この古跡のあまりの荒廃ぶりを哀れみ、資材を投じて当寺を再興し』、『朝は遠くの山を望んで心を澄まし、日が暮れると』、『温泉に入り』、『身を休め、日々』、『杖をついて徘徊し、春夏秋冬の風景を楽しみとしていた』とあり、さらに『元禄十』(一六九七)『年の春、紫尾八景を選び、狩野昭信に絵を頼み、それに諸山の僧侶が詩をつけ、一つの軸にして神興寺に納めた』。『その八景を胎生山』(本文に柳田國男が言う「紫尾八景」の『「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩』がある山であろう。但し、現在もその岩があるかどうかは不明)『・筆之山・錦之尾・両鹿勢・三日月山・光石・綾織山・陰陽師峯という』。『また、当山不動谷に奥の院を開き、そこから上宮権現に参詣する際』、『一歩一遍光明真言を唱え、また仁王経一万二千二百余巻を読誦した』とあって、途中で荒廃期はあったものの、戦国時代に復興し、その後、江戸中期までは神興寺はしっかり現存していたことが判るのである。

「曾生天馬世皆譚」「苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參」訓読を試みておく(底本には返り点のみ)。

曾つて天馬生ずるも 世(よ)皆(みな)譚(たん)たるのみ

苜蓿(もくしゆく)蹄痕(ていこん) 蘚(せん)に與(あた)へて參(しん)たり

一句目は、「天馬は最早、ただ語りのなかにのみにしかいない」ことを言ふ。「苜蓿」は飼い葉となるはずの、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の異名。「蘚」は苔、「參」はよく判らぬが、「相並ぶこと」「交々(こもごも)になっていること」で、『天馬がいなくなって久しいから、「うまごやし」も天馬の蹄の跡も、ただ空しく苔に塗れていることだ』の意で私はとる。誤読とせば、御教授あられたい。

「美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)」岡山県津山市横山はここ。航空写真を見ると、ど真ん中の丘陵部に有意に平たい土地が見えるが、これは近代の開墾のよう。

「のごはず」「拭(のご)はず」で不可触の謂いである。こうした禁忌の石の場合、残っている可能性は大きいはずだが、ネットでは掛かってこない。

『同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す』現在の岡山県津山市草加部。現行、地区の東を流れる川は「加茂川」の表記であり、現在は加茂川の東岸は津山市楢(後に出る旧「楢村」)であるが、「歴史的行政区域データセット」を「岡山県苫田郡神庭村」を見ると、旧神庭村の村域は加茂川東岸を舐めるように含んでいることが判る。残念ながら、ネット上には二種の龍馬絡みの岩の窪や「龍ケ爪淵」は掛かって来ない。

「其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す」同地区には「一寸鏡(ますかがみ)神社」という変わった名の神社が現存するが、龍神を祀っているというデータはない。そこから南西南に少し行った位置の川畔に鷹山稲荷大明神というのはある。

「同郡堀阪」岡山県津山市堀坂。先の草加部と楢の北直近の加茂川東岸部。これらが極めて接近して、しかも川の岸辺に存在することから、これは地質学上の岩石の性質やその浸食様態の説明(私は高い確率で甌穴であろうと思う)で解明し得るものと思われる。

『同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」』美作市川上。「乢」は山岳の尾根や山稜の窪んで低い場所などを指す語。サイト「遺跡ウォーカー」のこちらで、この川上地区には「桂坪乢」の地名が現存し、しかもこの周辺には柳田國男の嫌いな古墳が多数あることが判り、この「龍駒の爪形」というのも、そうした古墳絡みである可能性が窺われる。

『陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」宮城県仙台市青葉区新川(にっかわ)はここであるが、「龍駒ケ嶽」「東嶽」は現認出来ない。但し、国土地理院図で見ると、同地区内の東に麓の地名から見て、明らかに山岳信仰のあったと思われるピークが複数存在するから、この辺りがそれかと思われる。

「茆草(かやくさ)」茅(ちがや)。

「峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)」峻(けわ)しい巌(いわお)や幽邃なる渓谷。

「石川郡吉野谷村大字佐良(さら)」石川県白山市佐良。手取川の東岸。白山山頂から南西約二十キロメートルの位置にある。

「丈溪」不詳。この辺りの手取川は渓谷を成してはいる。

「羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺」これは現在の山形県鶴岡市下川関根にある曹洞宗龍澤山(りゅうたくさん)善寳寺(ぜんぽうじ)の誤りではないか? ウィキの「善寳寺」によれば、『姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池』(かいばみいけ)『に身を隠したという伝承が残り』、『龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める』とあるからである。因みに、この貝喰池、多くの方が御存じのはず。一九九〇年頃に、この池にいる鯉が「人面魚」として盛んに喧伝され、シミュラクラ「人面魚」の都市伝説の元祖となったからである。グーグル画像検索「貝喰池 人面魚」をリンクさせておく。ほら! 覚えてるでしょ?

「北秋田郡の戶鳥内(ととりない)」秋田県北秋田市阿仁(あに)戸鳥内。「駒形石」は現存するかどうか不明。

「同郡萩生山(はぎなりやま)」不詳。

「日和(ひより)の占(うら)」天候急変の予兆とすること。

「陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)」岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)を冠するこの一帯(ポイントはその中の大迫町大迫)。「橫岨山(よこがけやま)」の位置は不明。

「白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす」ここを読んだ途端、昔(中学・高校時代)、「未確認飛行物体研究調査会」の会長(会員はたった二名)であった私は、一九五二年十月十七日、フランス南西部のオロロン=サント=マリー(Oloron-Sainte-Marie)に「空飛ぶ円盤」が出現、それに伴って白い糸状のものが大量に降ったという事件を思い出した。これは「エンゼル・ヘア」と呼ばれ、写真にも撮られている(まんず、古参のUFO研究家なら知らない奴はモグリと言ってもいいほど知られた事件である)。個人ブログ「きよりんのUFO報告」の『1952年円盤群と「エンゼルヘア」降下事件』から引用させて戴くと、この毛、『降下して電線などに引っかかっても、やがて蒸発して消えてしまったと』されており、『フランスのUFO研究家エメ・ミシェル』(Aimé Michel 一九一九年~一九九二年)『は、彼の著書』(原本は「Lueurs sur les soucoupes volantes」(「空飛ぶ円盤の光り」。一九五四年刊)。邦題は「空飛ぶ円盤は実在する」(一九五六年高文社刊・田辺貞之助訳)。私も実はこれで読んだ。今も持っているが、積み上げた下方にあって、引き出すと、本の山の下敷きになるので諦めた)『にこう書いてい』るとして当該書を引用されておられる。

   《引用開始》

 オロロンとガイヤック-1952年10月

1952年10月17日金曜日、オロロンでは素晴らしい天気だった。空は青く、雲ひとつなかった。12時50分ごろ、オロロン中学の舎監長イーヴ・プリジャン氏は中学の二階にある自分の部屋で食卓へ向かおうとしていた。かたわらに女教員であるプリジャン夫人と三人の子供らがいた。

 部屋の窓はすべて町の北方へ向かって開かれ、広い景観を示していた。息子のジャン・イーヴメプリジャンは窓のところに立っていた。人は彼を食事に呼んだ。が、そのとき、彼が叫んだ。

 「パパ、来て御覧よ、変なものが見えるよ!」すべての家族が彼のそばへ行った。プリジャン氏は次のように語っている。

 「北の方、青い空の奥に、奇妙な格好の綿のような雲がただよっていた。その上に、細長い円筒形のものが、明らかに45度ばかり傾いて、真直ぐに南西の方へゆっくり移動していた。私はその高さを二千ないし三千メートルと見積もった。そのものは白っぽく、光がなく、輪郭がはっきりしていた。上の端から白い煙が前立のように吹き出していた」

 「その円筒形のものの前に少し距離をおいて、30ばかりのほかのものが同じ進路を通っていた。肉眼では、それらは煙の塊に似た不恰好な球の形をしていた。しかし、双眼鏡でみると、中が赤く、まわりが非常に傾斜した黄色っぽい輪のようになっている球をはっきり見ることができた。その傾斜は」と、プリジャン氏は念を押していう。「中央の球体の下の部分をほとんど隠していた。しかし、上の方ははっきり見えていた。その〈円盤〉は2つずつならんで別々の道をすすみ、全体として、速くみじかいジグザグをなしていた。その2つの円盤が離れると2つのあいだに電光形に白っぽい筋ができた。」

 「これらの奇妙なものはたくさんの筋をうしろへ残し、それがゆっくりと分解しながら地面の方へおりてきた。数時間のあいだ、木立や電話線や家々の屋根の上にふわりとしたものがひっかかっていた。」

 これは未知の器械の飛翔によってオロロンの野にまきちらされた〈聖母の糸〉(蜘蛛の糸)の奇妙な物語である。その糸は毛糸かナイロンに似ていた。そして、もつれて塊になり、すみやかにジェラチン状になり、それから昇華して、消え去った。多くの目撃者がそれをとり、速やかな昇華の現象を見ることができた。中学の体操教師は運動競技場から大きな糸束をもってきた。中学の教師たちは大いにあやしみ、火をつけてみたところが、セロファンのように燃えた。理科の教師プーレ氏はその糸を入念にしらべたが、分析をする暇がなかった。しかし、彼は棒にまきつけた10メートルばかりの糸が昇華し消失するのを観察することができた。(以下略)

10月27日ガイヤックのトゥールーズ街に住むドール婦人は鳥小屋で鶏たちがさわいでいるのに気がついた。彼女は眼を空へあげてみた。そしてオロロンの人々が10日前に見たのとまったく同じものを見た。(中略)45度に傾斜した前立のある円筒形がゆっくり南西へ向かって行き、それを20個ばかりの〈円盤〉が取り巻き、太陽にきらめきながら、2つずつジグザグ形にすみやかにとんでいく。唯一の相違は、ここでは2つずつ並んだ円盤の幾組かが時によると非常に低いところまで降りてきたことで、その高さは証人により三百ないし四百メートルと見積もられた。これが約20分ほどつづき、やがて葉巻も円盤も地平線に消え去った。

 すると、早くも白い糸のかたまりが降りはじめ。円盤が見えなくなってしまったあとまでも、長いこと落ちてきた。

   《引用終了》

ああっ! 懐かしい! 英文のUFOサイト「LUFORU」の「Oloron-Sainte-Marie, Pyrénées-Atlantiques, France, Europe」で「エンゼル・ヘア」の写真その他が見られる。軽蔑の眼で見ている読者諸君のために、後の「火山毛」の注でちゃんとそれに応じているので安心なされよ。

「北窻鎖談」「鎖」は「瑣」の誤り。江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。当該話は巻之二の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。頭の見出し用の「一」をカットした。

   *

寛政丑年[やぶちゃん注:寛政五年は癸丑(みずのとうし)で正しい。]七月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九三年八月十四日。]、江戶小雨(こさめ)降て、其中に毛を降らせり。丸の内邊は別して多かりしとぞ。多くは色白く長サ五六寸、殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたま有しとぞ。京へも親しき人より拾(ひろひ)とりし毛を送り越(こ)せしが、馬の尾のふとさの毛なり。江戶中にあまねく降りし事、何獸の毛にて幾万疋の毛なりや。いと不審の事なりき。

   *

「阿部伊勢守殿」前の寛政五(一七九三)年よりも「遙か前」の人物で「阿部」姓で「伊勢守」となると、調べたところでは、備後福山藩第二代藩主で阿部家宗家第六代阿部正福(まさよし 元禄一三(一七〇〇)年~明和六(一七六九)年)しかいない。

「蠅拂ひ」獣毛を束ねて柄をつけた蠅や蚊を追うための道具。後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた。払子(ほっす)に同じ。但し、其れとは別に、武具・指物(さしもの)として、棹の先端に犛(やく)の毛を纏めて短く下げたもの(「かぶろ」とも呼ぶ)があり、ここは後者で採るべきか。

「今より凡そ百六十年ほどの昔」本書の刊行は大正三(一九一四)年であるから、単純計算では宝暦四(一七五四)年前後となる。徳川家重・家治の治世。

「橋本安房守」不詳。

「火山毛(くわざんげ)」Pele's hair のこと。ウィキの「ペレーの毛」によれば、『火山の爆発の際に、マグマの一部が吹き飛ばされ』、『空中で急速冷却し』て『髪の毛のようになったもののことを言う。非常に軽いため数』キロメートル『先まで風で運ばれる。ペレーの涙』(Pele's tear。火山の爆発の際にマグマの小さな塊りが固結したガラス質の粒の噴出物。礫状意外に滴型を呈するものがあり、「火山涙(かざんるい)」とも呼ぶ)『と同じように、火山噴出物の一つである。火山毛(かざんもう)』『ともいう。ペレーはハワイに伝わる火山の女神のことである』。『おもに玄武岩質の火山ガラスからなる褐色の細い単繊維であり、典型的なものは断面が円形に近く、直径は』〇・五ミリメートルよりも『細』く、『長さは最大』二メートルにも『およぶことがある』。『キラウエアに限らず』、『ニカラグアのマサヤ火山等でも知られる』とある。……でもね……オロロンのはそれじゃないようだよ……一九五二年にヨーロッパ近縁で大規模な噴火は起こってないもん…………なお、これらの本邦での「ペレーの毛」の降下を、古文献から蒐集し、学術的に仔細に検証したものとして、『地学教育と科学運動』第六十八号(二〇一二年七月発行)の小泉潔氏の論文「江戸(東京)にペレーの毛が降った?」PDFで読める。必見!

2019/06/08

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(32) 「龍馬去來」(1)

 

《原文》

龍馬去來   馬蹄石ノ傳說ニハ更ニ今一ツノ根原アリ。カノ藤原廣嗣ガ愛馬ノ如キハ、單ニ乘手ガ一代ノ英傑ナリシノミニ非ズ、自分モ亦五百年ニ一タビ出現スル程ノ名馬ナリキ。天平十二年十月ノ頃ト買上ノ年月マデモ分明ナリ。【龍馬ノ嘶】廣嗣朝臣出デテ馬市ヲ見ルニ、墎(ウツロ)ノ中ニ在リテ一度ニ七聲ヅツ嘶ク馬アリ。高キ價ヲ拂ヒテ之ヲ買取リ飼育シテ見ルニ、紛レモ無キ龍ノ駒ナリキ。彼ハ此馬ニ乘リテ每日午後ヨリ一千五百里ノ路ヲ大和ニ往復シテ朝廷ノ公事ヲ勤メ、午前ハ太宰府ノ事務ヲ視タリト云フ〔古今著聞集二十〕。此話ハ惡クスルト彼ガ後任者大伴旅人ノ歌ニ

  龍(タツ)ノ馬モ今ハ得テシカ靑丹(アヲニ)ヨシ奈良ノ都ニ往キテ來ン爲

トアルヲ誤傳シタルモノナランモ〔萬葉集五〕、兎ニ角ニ九州ノ邊土ニハ斯ル神物ノ出デタリト云フ噂折々ハアリシナルべシ。即チ昔ノ人ノ英雄崇拜心ハ時トシテ馬ニモ及ビ、馬ノ中ニハ人間賢愚ノ差ヨリモ更ニ幾段カ烈シキ駿駑ノ相違アリト信ゼラレシナリ。【理想ノ名馬】平家琵琶流行ノ武家時代トナリテモ、此思想ハ常ニ存在シ、而シテ其名馬ノ名ハイツモ池月又ハ磨墨ニテアリキ。歷代ノ武士ガ名馬ニ憧憬セシ物語ハ無數ナリ。其極終ニハ怖ルべキ龍ノ駒ヲモ怖レザルニ至レリ。石州鹿足郡吉賀(ヨシガ[やぶちゃん注:ママ。])ノ谷ニハ古來馬ヲ產セズ、而モ一頭ノ駿馬相次ギテ此地ヨリ出デタリ。其二ツハ亦池月ト磨墨トニシテ次ニ徐ロニ之ヲ述べント欲ス。【名馬樋口】之ニ先ダチテ出デタルヲ樋口驪(ヒグチグロ)ト云フ。生レタル時長八寸ニ餘リ山野ヲ馳セ廻リテ口ヨリ常ニ火ヲ吐ケリ。困リテ火口トハ名ヅケシニテ、鹿足郡藏木村大字樋口ノ地名ハ寧ロ之ニ由ツテ起ルト云ヘリ。火口荒馬ナレバ人敢テ近ヅカズ。獨リ佐伯重行ナル者アリ、仙術ニヨリテ之ヲ御スルコトヲ得、之ニ乘リテ一日ニ石藝防ノ三州ヲ奔馳ス。朝廷聞シメシテ龍馬ノ獻上ヲ命ジタマヘドモ隨ハズ、一子小五郞ヲ人質トシテ終ニ之ヲ刑戮ス。重行遙カニ之ヲ察知シ、今ハ賴無シトテ此馬ニ乘リテ異國ニ立去ラントセシガ、馬鞭ノ影ニ驚キテ大字田野原河津ノ梅林ニ馳入リ、葛藟ニ蹶キテ倒レ死ス。【馬塚】今モ田ノ中ニ馬塚アリテ附近ニ龍馬ノ社ヲ祀ル。神體ハ馬ノ木像ナリ。此村永ク梅及ビ葛藟ヲ生ゼザルモ亦此因緣ノ爲ナリト云ヘリ〔吉賀記中〕。龍馬ヲ神ニ齋ヒシ近世ノ例ハ、阪本龍馬ノ鄕里ナル土佐ニモアリ。【池】又長岡郡十市村野村氏ノ系圖奧書ニ依レバ、同郡三里村大字池ノ百姓新兵衞、槇山生立ノ牝馬子ヲ孕ミタリシガ、腹ノ中ニテ既ニ嘶ク聲聞エタリ。永祿元年戊午ノ歲ノニ月初午ニ三足ノ駒生ル。【鬼鹿毛】鬼鹿毛ナルべシトノコトニテ豫テ打殺スべキ用意ヲシテアリシガ、生レ出ヅルヤ否ヤ馳セテ幸助ト云フ者ノ屋敷ニ飛ビ込ミタルヲ、大勢取卷キテ漸クノコトニテ之ヲ殺シ屍ヲ濱ニ棄ツ。【馬蘇生】然ルニ不思議ナル事ニハ此駒忽チ蘇生シテ厩ニ立返リ、平氣ニテ母馬ノ乳ヲ飮ミ、厩ヲ七遍廻リテ後終ニ南海ノ浪ニ走リ入リヌ。【祝神】野村氏ニテハ其龍馬ナルコトヲ知リテ家ノ祝神トシテ之ヲ祭リタリト云フ。近キ頃香美郡室丘ニアリタル龍馬ノ祠モ、多分ハ之ニ似タル異常ノ幼馬ナラント云フコトナリ〔土佐國群書類從九所錄龍馬祠記附錄〕。藤原廣嗣ノ愛馬ガ一度ニ七聲嘶キ、右ノ池村ノ龍馬ガ厩ヲ七度廻リタリト云フコトハ、偶合ニハ非ザルべシト思ハルヽ仔細アリ。前ニモ說キタル外南部ノ七鞍ノ怪馬ト同ジク、【妙見ト馬】北辰化生ノ古キ信仰ニ基クモノナルヤ略疑ナキナリ。美濃惠那山(エナサン)ノ頂上ニ馬ノ神アリ。九月九日ノ祭ニハ近鄕ヨリ多クノ凡馬ヲ牽キ登ル。社ハ池ノ側ニ七社列立ス。其池ノ岸ナル笹ノ葉ヲ取來リテ馬ニ飼ヘバ能ク病ヲ治スルコトヲ得ト信ゼラレタリ〔一宵話〕。此モ同ジ信仰ニ起因スルモノナルべシ。

 

《訓読》

龍馬(りゆうめ)去來   馬蹄石の傳說には、更に今一つの根原あり。かの藤原廣嗣が愛馬のごときは、單に乘手が一代の英傑なりしのみに非ず、自分も亦、五百年に一たび出現する程の名馬なりき。天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]十月の頃と買ひ上げの年月までも分明なり。【龍馬の嘶(いななき)】廣嗣朝臣、出でて、馬市を見るに、墎(うつろ)の中に在りて、一度に七聲づつ嘶く馬あり。高き價を拂ひて、之れを買ひ取り、飼育して見るに、紛れも無き龍の駒なりき。彼は此の馬に乘りて、每日、午後より一千五百里の路を、大和に往復して朝廷の公事を勤め、午前は太宰府の事務を視たりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。此の話は、惡くすると、彼が後任者大伴旅人の歌に[やぶちゃん注:とんでもないひどい誤り。後注参照

  龍(たつ)の馬も

     今は得てしか

        靑丹(あをに)よし

      奈良の都に

       往きて來(こ)ん爲(ため)

とあるを誤傳したるものならんも〔「萬葉集」五〕、兎に角に、九州の邊土には斯かる神物の出でたりと云ふ噂、折り折りは、ありしなるべし。即ち、昔の人の英雄崇拜心は、時として、馬にも及び、馬の中には、人間賢愚の差よりも更に幾段か烈しき駿駑の相違あり、と信ぜられしなり。【理想の名馬】平家琵琶流行の武家時代となりても、此の思想は常に存在し、而して、其の名馬の名は、いつも「池月」又は「磨墨」にてありき。歷代の武士が名馬に憧憬せし物語は無數なり。其の極(きよく)、終(つひ)には怖るべき龍の駒をも怖れざるに至れり。石州鹿足(かのあし)郡吉賀(よしが)の谷には、古來、馬を產せず、而も、一頭の駿馬、相ひ次ぎて此の地より出でたり。其の二つは、亦、「池月」と「磨墨」とにして、次に徐(おもむ)ろに之れを述べんと欲す。【名馬樋口】之れに先だちて出でたるを、「樋口驪(ひぐちぐろ)」と云ふ。生まれたる時、長(たけ)八寸(やき)に餘り[やぶちゃん注:蹄底から前脚肩位置までが一メートル四十五センチメートル超え。新生馬でこれはあり得ない。]、山野を馳せ廻りて、口より常に火を吐けり。困りて「火口(ひぐち)」とは名づけしにて、鹿足郡藏木村大字樋口の地名は、寧ろ、之れに由つて起こると云へり。火口、荒馬なれば、人、敢へて近づかず。獨り、佐伯重行なる者あり、仙術によりて、之れを御(ぎよ)することを得、之れに乘りて、一日に石・藝・防[やぶちゃん注:石見・安芸・周防。]の三州を奔馳(ほんち)す。朝廷、聞しめして、龍馬の獻上を命じたまへども、隨はず、一子小五郞を人質として終に之れを刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:死刑に処すること。]す。重行、遙かに之れを察知し、「今は賴み無し」とて、此の馬に乘りて異國に立ち去らんとせしが、馬、鞭の影に驚きて、大字田野原河津の梅林に馳せ入り、葛藟(かつるい)[やぶちゃん注:「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。]に蹶(つまづ)きて、倒れ、死す。【馬塚】今も田の中に馬塚ありて、附近に龍馬の社を祀る。神體は馬の木像なり。此の村、永く梅及び葛藟を生ぜざるも亦、此の因緣の爲めなりと云へり〔「吉賀記」中〕。龍馬を神に齋(いは)ひし近世の例は、阪本龍馬の鄕里なる土佐にもあり。【池】又、長岡郡十市村野村氏の系圖奧書に依れば、同郡三里村大字池の百姓新兵衞、槇山(まきやま)生立(おひたち)の牝馬、子を孕みたりしが、腹の中にて既に、嘶く聲、聞えたり。永祿元年戊午(つちのえうま)[やぶちゃん注:おかしい。元禄元年(一六八八年)は「戊辰(つちのえたつ)」である。干支を誤る資料は致命的に評価されない。「辰」で「龍」なんだから、わざわざ「午」にして墓穴を掘る必要なんかさらさらないのに「馬」鹿やなぁ。]の歲の二月初午に、三足(みつあし)の駒、生まる。【鬼鹿毛(おにかげ)】「『鬼鹿毛』なるべし」とのことにて、豫(かね)て打ち殺すべき用意をしてありしが、生れ出づるや否や、馳せて幸助と云ふ者の屋敷に飛び込みたるを、大勢、取り卷きて、漸くのことにて、之れを殺し、屍(しかばね)を濱に棄つ。【馬蘇生】然るに、不思議なる事には、此の駒、忽ち、蘇生して厩に立ち返り、平氣にて母馬の乳を飮み、厩を七遍廻りて後、終に南海の浪に走り入りぬ。【祝神】野村氏にては、其の龍馬なることを知りて、家の祝神(いはひがみ)として之れを祭りたりと云ふ。近き頃、香美郡室丘にありたる龍馬の祠も、多分は之れに似たる異常の幼馬ならんと云ふことなり〔「土佐國群書類從」九所錄「龍馬祠記」附錄〕。藤原廣嗣の愛馬が一度に七聲嘶き、右の池村の龍馬が厩を七度廻りたりと云ふことは、偶合には非ざるべしと思はるゝ仔細あり。前にも說きたる外南部(そとなんぶ)の七鞍の怪馬と同じく、【妙見と馬】北辰化生の古き信仰に基づくものなるや、略(ほぼ)疑ひなきなり。美濃惠那山(えなさん)の頂上に馬の神あり。九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る。社は池の側に七社、列立(れつりつ)す。其の池の岸なる笹の葉を取り來たりて馬に飼へば、能く病ひを治することを得と信ぜられたり〔「一宵話(ひとよばなし)」〕。此れも同じ信仰に起因するものなるべし。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は今まで本文に多数出現しているのであるが、初回は「駒ケ嶽」の最初で、その後、ここまでで十三回ほど出現している。今まで電子化しながら、私自身、『この読みはどうか?』と内心、ひどく気になっていたのだが、ここでそれに決着をつけることとした。根拠は小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項で、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、一貫して柳田國男はルビを振っていないから(「ちくま文庫」も全くルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりである。「駒ケ嶽」の最初にもその注を追加したので、読者の方々は私は「りゆうめ(りゅうめ)」と統一して読んでいるものと認識されたい。これは私自身のここまでの神経症的な内心の気持ちの悪さを払底するためのものであって、絶対的な柳田國男の著作の書誌学上の根拠があってのものではないから、それ以外で読みたい方は、どうぞ。但し、それで私に論議を吹っかけてこられても私は一切応じないので、悪しからず。

「墎(うつろ)」当初は柳田國男の「うつろ」のルビからも、馬市の「栅で囲った囲み」の意と読んだが、「墎」は牧場の柵ようなものではなく、城などの障壁を指すので不審に思っていたところ、後に示す「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(鎌倉中期の九条道家の近習伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。全二十巻七百二十六話。建長六(一二五四)年十月頃の原型の完成後、後年に増補がなされている)の所持する原文を見ると(後掲する)、「郭中に一聲に續けていばゆる馬のこゑ聞えけるを尋ねて」となっており、新潮日本古典集成版では、これに添え訳で『大宰府の中で』とあって、こちらの方が遙かに腑に落ちた。則ち、柳田國男の文章に從うなら、馬市に向かったが、向かっている時点で、何と、大宰府内全体に響き渡るほどの嘶きをその馬がした、のである。物語はこちらであってこそ異類奇談たるものとなる。

「一千五百里」「大宝律令」で定められた当時の「一里」は当時の「一町」=「三百歩」と規定されている。当時の距離単位は後代のそれより有意に短い設定であるため、当時の「一里」は現行のそれとは大きく異なり、僅か約五百三十三・五メートルであったと推定されている。されば「一千五百里」は約八百キロメートルとなる。馬鹿馬鹿しいとは思ったが試みに単純実測してみたところ、大宰府から平城京までは最短でも約六百キロメートル弱は有にあるから、ドンブリ勘定では問題のない事実距離と言える。

『「古今著聞集」二十』「卷第二十 魚蟲禽獸」の事実上の巻頭(前に「禽獸魚蟲も皆思ふ所有るに似たる事」として「禽獸魚蟲、其彙(ゐ)、且千(しやせん)、皆、言ふ能はずと雖も、各々思ふ所有るに似たる者なり」(鳥・獣・魚・蟲などのありとある生き物は、その種類(「彙」は「類い」の意)、これ、甚だ多い(「且」「千」ともに「多いこと」を示す)が、彼らは言葉を発することが出来ないとはいえどもそれぞれに人と同じく思い感じるところがあるように見える存在である)とあるが、これは「序」である)で六七三番目の「右近少將廣繼、宰府に下り、時の間に千五百里の道を通ふ龍馬を得たる事」である。新潮日本古典集成版(底本は九条家本系古写本(広島大学附属図書館蔵))を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

 右近少將廣繼[やぶちゃん注:「廣嗣」が正しい。前回既注。]朝臣、太宰少貳(だざいのせうに)になりて[やぶちゃん注:前回、注した通り、左遷。]、天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]、宰府にくだりけるに、十月の比(ころ)、郭中に一聲につづけて七聲いばゆる馬のこゑきこえけるを尋ねて、高直(かうぢき)に買ひとりて、いたはりかひければ、龍馬(りゆうめ)にてぞありける。それに乘りて、午の刻よりかみには都府の政(まつりごと)にしたがひ、午の時より後には朝家(てうけ)の公事(くじ)をぞ、つとめける。一千五百里の道を時の間(ま)に通ひける、直人(ただびと)にはあらず。つひかの少將は神となりて、鏡の尊廟(そんべう)[やぶちゃん注:現在の佐賀県唐津市鏡にある鏡神社(グーグル・マップ・データ・以下同じ)。]とぞ申すなる。むかしの館の跡も、かの社のほどにてなん侍るとぞ[やぶちゃん注:「今昔物語集」では広嗣の家は肥前国松浦郡にあったと記す。]。

   *

「後任者」トンデモ級の誤り。藤原広嗣は「太宰少弐」(大宰府の次官で大宰大弐(最高次官。親王が帥に任ぜられて不在であるのに権帥もいない場合は代理で府務を統率した)の下に位した)で、旅人は「太宰帥」であるから、これは狭義の「後任者」ではない。しかも誤りが致命的なのは、広嗣左遷されて大宰府に行ったのは天平九(七三七)年の末であるのに対し、旅人が大宰帥として現地に赴いたのは神亀四 (七二七) 年頃であるから、旅人の方が先に大宰府で勤務しているという二重の間違いを柳田國男は犯しているからである。

「大伴旅人」(天智四(六六五)年~天平三(七三一)年)は奈良時代の政治家・歌人で、大納言安麻呂の長男。かの「万葉集」編纂者と目される家持の父。養老二(七一八)年に中納言、同四年に征隼人持節大将軍(せいはやとじせつたいしょうぐん)に任ぜられ、隼人(古代の南九州を拠点としていた一部族。主として大隅・薩摩地方を居住していた。五世紀中頃以降、概ね大和朝廷に服属の意を示した。勇猛敏捷であったため、徴用されて宮門の警護・行幸の先駆けなどを勤めた。大宝令では「隼人司」が置かれ、六年交代で朝廷に勤番し、勤番後は畿内・近江・播磨などへの土着が許された。しかし、八世紀の初め頃、彼らは反乱を起こし、たびたび鎮圧軍が派遣された。後、大隅・薩摩の国司に大宰府官人が任命されるようになってから、次第に完全に律令支配体制に組み込まれてしまった)の反乱鎮圧に功があった。神亀四(七二七)年頃、大宰帥となって九州に下ったが、天平二(七三〇)年には大納言に昇進して帰京した。但し、翌年に没した。「万葉集」に長歌一首・短歌五十三首(これに巻第五の無署名歌を加える説もある)・漢文の序・書簡が、「懐風藻」に詩一篇が残る。歌は大宰帥になってからのものが殆んどで、漢文学の素養に基づいた構想を持ち(ここで掲げたものはその代表歌)、情感にあふれた人事詠に特色がある。

「万葉集」巻第五の「雜歌」の悲痛な「太宰帥大伴卿の相聞の歌」二首(八〇六・八〇七)の一番目である。二首とも示す。この前書様の部分はプライベートな女性(不詳)との書簡の一部の引用であって前書ではない(書簡は旅人のそれとするもの、その女性のものとの二説があるが、漢籍の故事に基づく謂いから、私は旅人自身のそれとしか思えない)。

   *

 伏して來書を辱(かたじけな)くし、具(つぶ)

 さに芳旨(はうし)を承はりぬ。忽ち漢(あま

 のがは)を隔つる戀を成し、復た、梁(はし)

 を抱(いだ)く意(こころ)を傷ましむ。唯だ、

 羨(ねがは)くは、去留(きよりゆう)に恙無

 (つつみな)く、遂に雲を披(ひら)くを待つ

 のみ。

   歌詞兩首 大宰帥大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)まも今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來(こ)む爲(ため)

現(うつつ)には逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢(いめ)にを繼ぎて見えこそ

   *

書簡中の「漢(あまのがは)を隔つる戀」は、奈良と筑紫と遠く隔たっていることを牽牛織女の天の川伝承に譬えたもの。「梁(はし)を抱く意」とは「荘子」(「盗跖篇」)や「文選」などに見える知られた故事を踏まえたもの。春秋時代、魯の尾生という青年が橋の下で女を待っていたが、川かさが増してもそこを去らずに待ち続け、橋脚を抱いたまま水に飲まれて死んだという。芥川龍之介の「尾生の信」で人口に膾炙する(リンク先は私の古い電子テクスト)。「去留」は行住坐臥で日常の生活の意。「遂に雲を披(ひら)く」は、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏の注に『文王が姜公に逢う』や、その不思議に『輝くこと』、『雲を披いて太陽を見るごとくだった、という故事』を踏まえたもので、『貴人に会う形容』とある。

「石州鹿足郡吉賀(よしが)の谷」現行では島根県鹿足郡吉賀町(よしかちょう)と濁らない。個人サイト「柿木あれこれ」で、なんと! ここの出典である「吉賀記」が全文電子化されてあった! その解説によれば、「吉賀記」はこの吉賀の地方誌で、『田丸の村吏尾崎太左衛門の書で、吉賀開発よりの事実を記したものです。氏は若年の頃より』、『ひたすら老父へ古き言傳を聞き、又』、『神社仏閣に詣でては来由を尋ね、旧家を尋ねては代々の文を捜し求め、また名勝の旧跡を』、『險阻の地でも、足を運び』、『その眺望の景を書き残しました。その後』、『渡辺源宝により追加・補筆されたものです』とあり、同町の『広報よしか』二〇一五年十二月号PDF)によれば、尾崎太左衛門(元文五(一七四〇)年~文化九(一八一二)年)は四十三年間の長きに亙って、この吉賀地区内の庄屋を勤め、地域住民の信望が厚かったとあり、また、この「吉賀記」は太左衛門が書いてから十年あまり後の(尾崎の死後)文政四(一八二一)年に、津和野藩士で代官にもなった渡辺源宝が補筆したものとある。

「樋口驪(ひぐちぐろ)」以上のサイトの「吉賀記」中巻に(手筆本を起こしたとあるので、漢字表記はママとしたが、改行部を繋げた。また、私が句読点や記号を附し、一部の注を私の注に代え、私の推定の読み(引用元にはカタカナ以外の読みはない)にと注も挟んだ)、

   《引用開始》

樋口驪(くろ) 仁安年中[やぶちゃん注:一一六六年~一一六八年。]、藝の佐伯上郷(さえきかみさと)後葉[やぶちゃん注:子孫。]重行籠(こめ)たる[やぶちゃん注:飼っていた。]媽馬[やぶちゃん注:母馬。]産(うみ)たる駒なり。其尺、八尺に餘(あまり)、形勢逞しく、常に山野に駆(く)す。則(すなはち)、口より火焔を吐(はき)、又、光明を放つ。故、「火口くろ」とも云(いひ)、人、恐れて近寄らず。或時、重行面前へ出(いで)て頭を垂れ、再拝の貌をなす。重行不臆(おくせず)、馭之(これをぎよし)、直(ただち)に飛行(ひぎやう)す。重行、心の儘也。因て重行、仙術、弥増し[やぶちゃん注:「いやまし」。]、石・藝・防の三國、一日に駆す。依之(これによつて)、禁庭、聴え、「件(くだん)の龍馬を献上せよ」[やぶちゃん注:「との」の欠脱字か。]宣旨有(あり)と雖、重行、勅命に不應(おうぜず)、依て、一子小五郎を長(ちやう)南四郎に仰(おほせ)て誅戮し給ふ。舊跡、河津に記す。此馬の口付(くちつき)馬角は[やぶちゃん注:「口付」は馬丁であるから「馬角」はその人物の名か。]山岳幽谷を迷ひ、杉ヶ峠馬角谷に迷亡すといふ。時の人、重行を「千軒太夫」といふ。右にいふ龍馬に乗り、一日に三國を馳す故に名有り。「吉賀七不思議」の内なり。

   《引用終了》

また、ここに出る「舊跡、河津に記す」は同中巻の以下を指す。

   《引用開始》

馬 舩(むまぶね)[やぶちゃん注:蹄の後を記した石の名か。] 佐伯上郷後胤重行、寵愛したる龍馬、帝都へ不献(けんぜず)。故に勅命に背(そむく)[やぶちゃん注:「に依つて」辺りの脱字か。]一子小五郎、帝都へ召質(めしじち)し、長南四郎國氏に仰(おほせ)て、罰し給ふ。此(これ)は仁安元年九月十八日、重行、仙術天眼を以て、悟(さとり)、此(これ)、小五郎ヶ嶽へ上り、一子あ血烟(ちけむり)[やぶちゃん注:意味不明。サイト主の判読の誤りが疑われる。]靉靆たるを見て、「今は頼りなし。異国へも立去(たちさら)ん」と馬に鞭打(うち)しかは、河津川の畦瀧[やぶちゃん注:「あぜだき」で滝の固有名詞か。]中へ落(おち)、腹・足を冷す。又、一策(ひとむち)馳(はせ)て、河津へ走り、梅林に蹶是(ケッシ[やぶちゃん注:ママ。これに躓き。])して死すとなん。馬舩、凡(およそ)、水、廿石餘(あまり)入(いる)打込(うちこみ)たる足跡、又、重行木履(ぼくり)の跡、瀧中に有(あり)。今、雨乞に験(しる)し新た也。此瀧、底を洗ひ清め、龍神を勧請し、雨乞す。「吉賀十ヶ旧跡」[やぶちゃん注:の一つ、の意。]なり。防州の内、小五郎ヶ嶽は帝都にて小五郎誅戮にあふを歎きたる故名と成(なる)となん。

   《引用終了》

また、同中巻の「樋口」村の条には、

   《引用開始》

樋口村 吉桝 いかぢ 中河内 下河内 岡

 往古、向井谷郷・高津銀弥、高津川の源を尋(たづね)て、此奥谷へ入り、大なる莧蕗[やぶちゃん注:「ひゆぶき」と読むか。双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の巨大なものととっておく。]を見て驚き、村と号し[やぶちゃん注:村の名と成し。しかし「ひゆぶき」から「ひぐち」は無理がある。]、八ヶ村の総名と成(なる)。又、大蛇か[やぶちゃん注:ママ。「が」か。]池・山峡を穿ち、沼水を抜(ぬく)。因て「樋口」[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]名、発(おこ)ると云(いふ)。 産物、牛の子。

   《引用終了》

とあって、柳田國男の解釈とは異なる(但し、柳田もこの転訛が怪しいことをやはり感じたものかとも思われる)。別に同書の上巻の方には(以下の馬の名の読みは総て引用元のもの)、

   《引用開始》

駒 三疋  「生食(いけつき)」田野原より出る。

「火口黒(ひくちくろ)」樋口より出る。

「馬角駒(ばかくこま)」福川にて生る。

追加

或説に、摺墨の名馬吉賀より出るといへり何れか、辨(べんじ)難し。追(おつ)て可正也(ただすべきなり)。又、「いけづき」は長州須佐甲山より出ると云(いひ)傳ふ。左もあらは、吉賀よりは「する墨」出し事、實正(じつしやう)ならんか。

   《引用終了》

「鹿足郡藏木村大字樋口」現在の島根県鹿足郡吉賀町樋口。吉賀町内の東方に当たる。

大字田野原河津」島根県鹿足郡吉賀町田野原。樋口の東隣りで、吉賀町内の東方端。ほとんどが山岳である。

「葛藟(かつるい)」「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。

「長岡郡十市村」高知県南国市十市(とおち)

「同郡三里村大字池」現在の高知県高知市池市が異なるが、先の十市地区の西方直近である。

「槇山(まきやま)生立(おひたち)」槇山産の。「槇山」は高知県高知市槇山町(ちょう)高知市池からは北西十キロメートル弱の内陸部

「三足(みつあし)の駒」奇形馬。チェルノブイリ以降、四足の畜類の奇形が盛んに画像で出て人々を恐懼させているが、実際には生物の奇形児はそれらに限らず、人でも、普通に(放射能汚染と無関係でも)実際には有意に多い。ただ、死産として父母にも見せずに処理してきた歴史があるのである。無論、放射能汚染をその大きな原因の一つとすることを私は積極的に肯定することは言い添えておく。

「鬼鹿毛(おにかげ)」名馬(武田信虎の愛馬)や霊馬(「新座市産業観光協会」公式サイト内の「鬼鹿毛の伝説」を参照。これは神に祀られているので是非読まれたい)の固有名詞でもあるが、この場合は、不吉な妖魅の馬(「鹿毛」は馬の毛色の代表色であるから、ここは全く単に忌まわしい「鬼馬」の謂いである)の謂いである。

「香美郡室丘」不詳。「土佐國群書類從」に当たることが出来ないのだが、或いは、現在の高知県香南市赤岡町のことかも知れない。

「美濃惠那山(えなさん)」長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈の最南端の山。標高二千百九十一メートル。ウィキの「恵那山」によれば、『恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣(えな)を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また、』「古事記」で『日本武尊が科野』(しなの)『峠(神坂峠』(みさかどうげ:木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高千五百六十九メートルの峠。恵那山から直線で東北約四キロ半の位置。ここ)『)で拝したのも恵那山の神である』。『江戸時代中期には毎年修験道者が礼拝に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして登山を行っていた』とはあるものの、その他、ネットで調べて見ても、この「頂上に馬の神」が祀られているとか、「九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る」に相当するような祭祀は現在は行われていない模様である(但し、次注参照)。

「社は池の側に七社、列立(れつりつ)す」「池」とあるが、山頂付近には現在、池はない。南東に尾根筋を三キロほど行った位置に「野熊の池」があるが、ネット上の幾つかの写真を見ても、「池の側」には祠は見られない。但し、サイト「YAMA HACK」の「恵那山|天照大神が生まれた歴史深い山!レベル別登山ルート4つ」には、『恵那山山頂には葛城社』・『富士社』・『熊野社』・『神明社』・『劍社』・『 一宮社の』七『つの社が祀られてい』るとはある。

「一宵話(ひとよばなし)」尾張藩藩校明倫堂の教授を務めた漢学者秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:号は滄浪)の考証随筆で、私も所持するのであるが、どうもここに柳田國男が解説するような部分を見出せない。巻之二の「龍の雲」に恵那山の話は追記で載るが、内容は以下と極めて簡略である。取り敢えず、吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化してその部分だけを示す(主文と追記の前半分は面白いが、恵那山とも馬とも全く関係がない呪(まじな)いに関わる奇談実話である)。

   *

比邊にては、美濃國惠那郡惠那山は、國中第一の高山なり。此山の祭りに、郡中の村々より、馬を引て登る事なり。其日には必大風雨する。是を土人の說(セツ)に、大勢(ゼイ)が登り二便(ベン)[やぶちゃん注:大便と小便であろう。]して、御山を穢(ケガ)から、神きたなくおぼして、洗ひ淨め給ふ雨なりといふ。是は神の御心とも覺へず。穢はしとおぼさば、祭うけ玉はぬがよし。客を請(シヤウ)じて、客の座敷よごせるを腹立るは、好(ヨキ)主人にはあらず。まして終日山中に居て、二便せぬものやほある。おもふに深山窮谷(シンザンキウコク)中に、欝蒸積充(ウツジヨウセキヂウ)する雲霧濕氣(ウソムシツキ)、數萬人の聲にひゞき動かされて、俄にさわぎ起るものならんかと、或人いへり。此亦理あり。

   *

万一、見落としていて見出せたなら、追記する。]

2019/06/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(31) 「御靈ト石」(2)

 

《原文》

 サテ此等ノ多クノ傳說ニ就キテ其馬主ノ生涯ヲ比較スルニ、一二ノ例外ヲ除キテハ極メテ著シキ第二ノ共通點アルカト思ハル。即チ彼等ハ單ニ一代一方ノ英俊ナリシト云フ外ニ、多クハイマダ齡ノ盛リニ於テ何レモ不自然ナル死ヲ遂ゲタル人ナリ。有餘ル生活力ヲ銷盡セズ、而モ執著ノ末成ラズシテ終ヲ取リタル人タチナリ。【念力】身ハ去リテ念力ヲ此世ニ留ムルニ必要ナル條件ヲ具ヘタル人々ナリ。思フニ我等ガ祖先ノ特ニ重要視セシハ此未了ノ念力ナリキ。昔ノ京都ノ八所ノ御靈ナドノ列名ヲ見レバ、共ニ其些シ以前ニ於テ、枉屈ヲ以テ死歿シタル貴族ナリシナリ。當時朝廷ノ公文ニハ、寃厲災ヲ爲スガ故ニ祭ルト書キテハアレド、恐クハ未ダ民間信仰ノ消息ニ精通セザリシ人ノ言ナルべキカ。復讐セラルヽ覺無キ下級ノ人民ガ、單ニ御氣ノ毒ナルヲ以テ神ニ祭ラント言フべキ道理無シ。然ラバ何故ニ斯ク迄弘キ信仰ガ行ハレタルカト問ハヾ、是レ全ク前代人ノ靈魂不朽ニ關スル槪念ガ此ノ如クナリシ結果ト言フノ外無キナリ。近キ頃ノ佐倉宗吾又ハ佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]ノ世直(ヨナホシ)大明神、サテハ伊豫ノ宇和島ノ和靈樣ノ如キ、若シ之ヲ以テ其人格ニ對スル景慕トスルナラバ、所謂上流ノ社會道德トハ或ハ合スべキモ、是レ要スルニ感謝ト祈禱トヲ混同シタル說ト謂フべシ。【御靈ノ祭】御靈系統ノ雜神ニ對シテハ、少ナクモ昔ハ謝恩ノ意味ノ祭アリシコトヲ聞カザルナリ。或ハ又神ノ憤怒ヲ和グル爲ニ祭ルト云フ者アラン。成程前ニ各地方ノ馬鬼ニ就キテ述べシガ如ク、神ノ「イキドホリ」ハ慥カニ存ス。併シ之ヲ我々ガ所謂怒リナリト言フコトハ難シ。例ヘバ甲ノ爲ニ害セラレテ乙丙丁ニ對シテ災ヲ爲ス神アリ。佛法ニ敎ヘラレタル我々ノ間ノ因果律ヲ適用スルトキハ、全然其外ニ立ツべキ現象ナリ。而シテ此災ヲ避ケンガ爲ノ祭ヲ、若シ贖罪ノ趣旨ニ出ヅル者ノ如ク說ク人アラバ、此モ亦罰ト祟トヲ同一視スルノ誤謬ヲ免レズ。蓋シ「タヽリ」ハ中世ノ用語トシテハ、神ノ怒又ハ之ニ基ク人ノ禍ヲ意味セリ。源重之ノ歌ニモ

  千早フルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナノリソネタヽリモゾスル

トアルナド其例ナリ。此歌ノ「ナノリソ」ハ、語ル勿レト云フ語ト神馬乘ル勿レト云フ語ト兩樣ニ用ヰタル掛ケ詞ナリ。【タヽリ】併シナガラ「タヽリ」ノ語原、及ビ最初ノ用法ハ之トハ異ニシテ、譬諭[やぶちゃん注:ママ。]ヲ「タトヘ」ト謂ヒ賞讚ヲ「タヽヘ」ト謂フト共ニ、「タヽリ」ハ單ニ神靈ノ語ヲ意味セシモノニ似タリ。彼ノ金屬ヲ熔ス爐ヲ「タヽラ」ト呼ブハ古キ日本語ニシテ、音ヨリ出デタル造語ナリトモ考ヘ得べキモ、此地名ガ深山淸淨ノ地ナドニ多ク、且ツ古クハ鑄物師ガ一種ノ巫覡ナリシ事ヲ思ヘバ、必ズシモ由無キ想像ニハ非ズ。畏多キコトナレドモ、大昔ノ皇后ノ御名ニ姬蹈鞴(ヒメタヽラ)ト申上グル方アリシモ、亦神ニ仕ヘタマヒシヨリノ御名カト思ハル。今日モ沖繩ニテハ「タヽリ」又ハ「神ターリ」ト云フハ、神ノ人ヘ託宣スルコトヲ意味スルナリ〔沖繩語典〕。而シテ此ノ古キ意味ニ於ケル「タヽリ」ノ神德ヲ、最モ著明ニ發揮スルニ適シタルハ、一念ノ力ノ强烈ナル人々ガ此世ニ生キ殘シタル御靈ナリ。【魂魄永住】幸ニシテ大ナル執著ヲ當代ニ留メタル名士タチナラバ、後世ノ佛敎徒ノ如ク、死スルヤ否ヤフイト極樂ニ向ヒ去ルガ如キ無責任ナル所業ハ敢テセズ、魂魄ト成リテ迄モ人間問題ヲ考慮シツヽアルナルべク、捨テヽ置ケバ或ハ災ヲ下スノ擧ニ出ヅルコトアランモ、賴ミヤウニ由リテハ勿論親切ナル世話奔走ヲ辭セザルナルべシ。【湊川】例ヘバ楠家ノ兄弟ハ、湊川ノ最後ニ際シテ何ト宣言シタリシカ。之ヲ根據ナキ妄想ト見ルコトハ、今人ト雖敢テセズ。我々現代人ノ理想モ亦復此ノ如キノミ。死シテ幽界ノ名士ト成ルコトヲ得バ男兒ノ能事ハ終レルナリ。尤モ此思想タルヤ、本來及ブ所甚ダ弘キモノナリキ。【戶神】例ヘバ眞言ノ佛法ニ於テ、獰猛無比ノ稱アル障礙神ノ義俠心ニ訴ヘテ境堺ノ守護ヲ委託スルコト、【人柱】或ハ其信仰ノ根原ナラントノ說アル門ノ側又ハ川ノ堤等ニテ人ヲ屠リ其靈魂ヲ利用シテ工作物ヲ防護セシムル慣習、即チ日本ナドニモ往々聞ク所ノ人柱ノ話、サテハ妖婆ノ輩ノ祕密ニ屬セシ物ヲ指シタル幼兒ノ指、食物ヲ見詰ムル所ヲ打斫リタル餓ヱタル犬猫ノ頸ナドガ、人ニ未然ノ善惡禍福ヲ教フルト云フガ如キモ、皆同ジ思想ニ屬スべカリシ者ナリ。【天滿宮】更ニ遠慮無キ斷定ヲ自ラ許スナラバ、彼ノ天滿大自在天神ノ信仰ノ如キモ、右ノ御靈ノ思想ヲ以テスルニ非ザレバ之ヲ解說スルコト能ハザルモノナリ。而シテ人間ニシテ能ク巖石ノ上ニ跡ヲ留メタリト云フハ、即チ此等ノ人々ノ乘馬ノ蹄ニ他ナラザルハ、誠ニ偶然ニハ非ザルナリ。【藤原廣嗣】古クハ菅公ト同ジク太宰府ノ官吏ニシテ靈死シタル藤原廣嗣、【新田義興】東京ノ附近ニテハ矢口ノ渡ニ千古ノ川浪ヲ咽バシメタル新田義興ノ如キ、何レモ馬ニ騎シテ白雲ト共ニ空中ヲ飛ビマハリ、終ニ恨ト言フ恨ハ悉ク報イ[やぶちゃん注:ママ。]去リ、猶靈ノ力ノ大ニ餘裕アルコトヲ示シタリ。而シテ其馬ノ足跡ニシテ若シ或岩石ノ上ニ在リトスレバ、神ト同ジク之ヲ祭ルハ極メテ自然ノ結果ニ非ズヤ。

 

《訓読》

 さて、此等の多くの傳說に就きて其の馬主の生涯を比較するに、一二の例外を除きては、極めて著しき第二の共通點あるかと思はる。即ち、彼等は單に一代一方(ひとかた)の英俊なりしと云ふ外に、多くは、いまだ齡(よはひ)盛りに於いて、何れも、不自然なる死を遂げたる人なり。有り餘る生活力を銷盡(しやうじん)[やぶちゃん注:消し(使い)尽くすこと。]せず、而も、執著の末(すゑ)成らずして終りを取りたる人たちなり。【念力】身は去りて、念力を此の世に留むるに必要なる條件を具へたる人々なり。思ふに、我等が祖先の特に重要視せしは、此の未了の念力なりき。昔の京都の「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」などの列名(れつみやう)を見れば、共に其の些(すこ)し以前に於いて、枉屈(わうくつ)[やぶちゃん注:「力で押さえつけること・抑圧すること」であるが、ここ受身形。]を以つて死歿したる貴族なりしなり。當時、朝廷の公文(くもん)[やぶちゃん注:律令時代の公文書(こうぶんしょ)の総称。]には、『寃(ゑん)、厲災(れいさい)を爲すが故に祭る』[やぶちゃん注:深い恨み(以上の「八所の御霊」の場合は今一つの無実の罪によるそれという意も同時に強く含んでいる)が災害と疫病を引き起こすが故に祭祀するものである。]と書きてはあれど、恐らくは、未だ民間信仰の消息に精通せざりし人の言なるべきか。復讐せらるゝ覺え無き下級の人民が、單に『御氣の毒』なるを以つて神に祭らんと言ふべき道理、無し。然らば、何故に斯くまで弘き信仰が行はれたるかと問はゞ、是れ、全く、前代人の靈魂不朽に關する槪念が此くのごとくなりし結果と言ふの外、無きなり。近き頃の佐倉宗吾、又は、佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]の「世直(よなほし)大明神」、さては伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」のごとき、若(も)し、之れを以つて、其の人格に對する景慕とするならば、所謂、上流の社會道德とは或いは合(がつ)すべきも、是れ、要するに、感謝と祈禱とを混同したる說と謂ふべし。【御靈の祭】御靈系統の雜神に對しては、少なくも、昔は、謝恩の意味の祭りありしことを聞かざるなり。或いは又、「神の憤怒を和(やはら)ぐる爲めに祭る」と云ふ者、あらん。成程、前に各地方の馬鬼に就きて述べしがごとく、神の「いきどほり」は慥かに存す。併し、之れを、我々が、所謂、「怒りなり」と言ふことは、難(かた)し。例へば、甲の爲めに害せられて、乙・丙・丁に對して災ひを爲す神あり。佛法に敎へられたる我々の間の因果律を適用するときは、全然、其の、外(そと)に立つべき現象なり。而して、此の災ひを避けんが爲めの祭りを、若(も)し、贖罪の趣旨に出づる者のごとく說く人あらば、此れも亦、罰と祟りとを同一視するの誤謬を免れず。蓋し「たゝり」は中世の用語としては、神の怒り、又は、之れに基づく、人の禍(わざは)ひを意味せり。源重之の歌にも

  千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする

とあるなど、其の例なり。此の歌の「なのりそ」は、「語る勿れ」と云ふ語と、「神馬乘る勿れ」と云ふ語と、兩樣に用ゐたる掛(か)け詞(ことば)なり。【たゝり】併しながら、

「たゝり」の語原、及び、最初の用法は、之れとは異にして、譬諭[やぶちゃん注:ママ。譬喩。]を「たとへ」と謂ひ、賞讚を「たゝへ」と謂ふと共に、「たゝり」は單に神靈の語を意味せしものに似たり。彼の金屬を熔(とか)す爐(ろ)を「たゝら」と呼ぶは、古き日本語にして、音(おと)[やぶちゃん注:鞴(ふいご)を踏む音のオノマトペイアの意と私は採った。]より出でたる造語なりとも考へ得べきも、此の地名が深山淸淨の地などに多く、且つ古くは鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事を思へば、必ずしも由(よし)無き想像には非ず。畏れ多きことなれども、大昔の皇后の御名に姬蹈鞴(ひめたゝら)と申し上ぐる方(かた)ありしも、亦、神に仕へたまひしよりの御名かと思はる。今日も沖繩にては、「たゝり」又は「神たーり」と云ふは、神の人へ託宣することを意味するなり〔「沖繩語典」〕。而して、此の古き意味に於ける「たゝり」の神德を、最も著明に發揮するに適したるは、一念の力の强烈なる人々が此の世に生き殘したる御靈なり。【魂魄永住】幸ひにして、大なる執著を當代に留めたる名士たちならば、後世の佛敎徒のごとく、死するや否や、「ふい」と極樂に向ひ去るがごとき無責任なる所業は敢へてせず、魂魄と成りてまでも人間問題を考慮しつゝあるなるべく、捨てゝ置けば、或いは災ひを下すの擧(きよ)に出づることあらんも、賴みやうに由りては、勿論、親切なる世話・奔走を辭せざるなるべし。【湊川】例へば、楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか。之れを根據なき妄想と見ることは、今人(きんじん)と雖も敢へて、せず。我々現代人ノ理想モ亦復(また)[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版に従い、「亦復の二字でかく読むこととする。]此くのごときのみ。死して幽界の名士と成ることを得ば、男兒の能事(のうじ)[やぶちゃん注:成すべきこと。]は終れるなり。尤も、此の思想たるや、本來、及ぶ所、甚だ弘きものなりき。【戶神】例へば、眞言の佛法に於いて、獰猛無比の稱ある障礙神(しやうげしん)の義俠心に訴へて境堺(きやうかい)の守護を委託すること、【人柱】或いは、其の信仰の根原ならんとの說ある門(もん)の側、又は、川の堤等にて、人を屠(ほふ)り、其の靈魂を利用して、工作物を防護せしむる慣習、即ち、日本などにも、往々聞く所の「人柱(ひとばしら)」の話、さては、妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指、食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸などが、人に未然の善惡禍福を教ふると云ふがごときも、皆、同じ思想に屬すべかりし者なり。【天滿宮】更に遠慮無き斷定を自ら許すならば、彼(か)の天滿大自在天神の信仰のごときも、右の御靈の思想を以つてするに非ざれば、之れを解說すること、能はざるものなり。而して、人間にして能く巖石の上に跡を留めたりと云ふは、即ち、此等の人々の乘馬の蹄に他ならざるは、誠に偶然には非ざるなり。【藤原廣嗣】古くは菅公と同じく、太宰府の官吏にして靈死(りやうし)[やぶちゃん注:死して御霊(ごりょう)となった怨念を持った死の意で、かく読んだ。]したる藤原廣嗣、【新田義興】東京の附近にては矢口の渡しに千古の川浪を咽(むせ)ばしめたる新田義興のごとき、何(いづ)れも馬に騎して白雲と共に空中を飛びまはり、終に恨みと言ふ恨みは悉く報い[やぶちゃん注:ママ。]去り、猶ほ、靈(れい)[やぶちゃん注:ここは「終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去」っているので、通常の読みとした。]の力の大に餘裕あることを示したり。而して、其の馬の足跡にして、若(も)し、或る岩石の上に在りとすれば、神と同じく之れを祭るは、極めて自然の結果に非ずや。

[やぶちゃん注:「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」平安以来、疫病や天災を齎(もたら)すものとして恐れられた八座の御霊神。貞観五(八六三)年五月に御霊会が修せられた六座、則ち(以下、引用を示していない記載は複数の辞書記載を参考にしたものである)、

①崇道天皇(早良(さわら)親王(天平勝宝二(七五〇)年~延暦四(七八五)年)。光仁天皇第二皇子で桓武天皇の同母弟。神護景雲二(七六八)年に出家したが,宝亀元(七七〇)年、父光仁天皇の即位により親王となり、天応元(七八一)年の桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。しかし、延暦四(七八五)年、長岡京造営の推進者藤原種継の暗殺事件に連座し、同年九月二十八日に皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉され、次いで淡路に流されたが、その途次、絶食して自死した。これは藤原氏が権力を握るに到る過程で起った一連の謀略的事件で、政争の渦に巻込まれた犠牲者であった。事件後、桓武天皇の皇子安殿(あて)親王(後の平城天皇)が皇太子となったが、桓武天皇・早良親王の生母高野新笠(たかののにいがさ)や藤原乙牟漏(おとむろ 桓武天皇の皇后で後の平城天皇・嵯峨天皇の生母)の死、悪疫の流行、皇太子の罹病など、不吉なことが相次いだ。皇室や藤原氏はこれを親王の祟りとして恐れ、同十九年に「崇道天皇」と追号して淡路から大和に移葬した)

②伊予親王(?~大同二(八〇七)年:桓武天皇の第三皇子。政治的能力に優れ、天皇の信頼も厚く、三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙され、式部卿・中務卿を歴任したが、藤原宗成(式家)が謀反を企て、謀り事が現れて捕えられるや、親王を首謀者と讒言した。そこで母藤原吉子(後述)とともに捕えられて大和川原寺に幽閉され、そこで母子ともに毒をあおって自死した。これも藤原諸家の勢力争いの犠牲となったもので、弘仁一〇(八一九)年に先に削られていた「親王」の号を復した)

③藤原吉子(よしこ/きつし ?~大同二(八〇七)年:前注の通り、桓武天皇の夫人で伊予親王の母。父は右大臣藤原南家是公(これきみ)。延暦二(七八三)年に無位から一気に従三位に叙せられ、夫人(ぶにん)となったが、先の通りの藤原氏の政争に巻き込まれて伊予親王とともに自死した。当時の人々の同情を集めたという。同じく後の弘仁十年にその祟りを恐れて「夫人」の号に復し、承和六(八三九)年九月に従三位が、同年十月にはさらに従二位が贈られている)

④藤原広嗣(?~天平一二(七四〇)年:奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合(うまかい)の子。天平九(七三七)年に従五位下、翌年、大養徳(やまと)守・式部少輔となったが、同年末に大宰少弐に左遷された。天平一二(七四〇)年、上表して政治の得失を論じ、僧正玄昉(げんぼう)や吉備真備らの専権を非難し、政府に排除するよう、直言したが、入れられず、同年九月に乱を起したが、敗れ、肥前松浦郡値嘉島(ちかのしま)で捕えられ、処刑された。後の天平勝宝二(七五〇)年になって、斬刑された松浦郡の、唐津にある鏡神社に、これまた、肥前国司に左遷された吉備真備(後述)によって、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。これは広嗣処刑の後に玄昉が筑紫に左遷され、そこで歿したことから、これを広嗣の怨霊のせいとし、彼の怨霊を鎮めるための建立であった。奈良市高畑町にある新薬師寺の西隣りに鎮座する鏡神社は、その勧請を受けたもの)

⑤橘逸勢(たちばなのはやなり:?~承和九(八四二)年)平安初期の官人で書家。入居(いるいえ)の子で、「橘奈良麻呂の乱」(彼が藤原仲麻呂を滅ぼし、皇太子大炊王を廃して黄文王を立てようと企てたが、密告によって露見、未遂に終わった事件)で知られる奈良麻呂の孫。延暦二三(八〇四)年、遣唐使に従って空海・最澄らと入唐。唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年に但馬権守となったが、「承和の変」(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢らが謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。事件後に藤原良房の甥である道康親王が皇太子となったことから、藤原良房の謀略とされている)で捕えられ,本姓を除かれて「非人逸勢」と卑称され、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。当時、六十余歳であったという。後の嘉祥三(八五〇)年になって罪を許され、正五位下の位階が追贈れ、仁寿三(八五三)年にはさらに従四位下が贈位された。当時、冤罪を負って死んだことから、逸勢は怨霊となったと考えられて、貞観五(八六三)年五月に行われた神泉苑御霊会で五柱の御霊の一柱として祀られた。彼は空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される書道の名人で、隷書を最もよくし、平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成ると言われているが、真跡として確認出来るものは今日殆んど伝わっていない)

⑥文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ 生没年未詳:平安前期の官人。承和六(八三九)年に従五位上、翌年に筑前守(同九年には「前筑前守」となっており、この間任を離れてはいたが、そのまま現地に留まって、来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している)となったが、承和十年、彼自身の従者であった陽侯氏雄(やこのうじお)が主人宮田麻呂が謀反を企てていると密告し(これは或いは新羅使との接触が関係しているとする説もある)、京及び難波宅の宮田麻呂の私邸が捜索を受け、兵具を押収、伊豆に配流された(彼の子らもそれぞれ流罪となっている)。真相は不明だが、前注に出た通り、貞観五年に行われた神泉苑御霊会で祀られており、当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことが窺われる)

の六柱に、後、

⑦吉備真備(きびのまきび 持統七(六九三)年或いは九(六九五)年~宝亀六(七七五)年:奈良時代の学者で政治家。霊亀二(七一六)年に入唐留学生となり、天平七(七三五)年に帰朝し、「唐礼」「大衍暦経」などの多くの書籍・器物を将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫病死したため、次第に宮廷内に重きをなした。先に出た天平一二(七四〇)年九月に起こった「藤原広嗣の乱」は真備らの失脚を目論んだもので、後の天平勝宝二(七五〇)年、真備は筑前守に左遷されている。しかし、翌三年、再び、入唐使として渡唐、同六年に帰朝、天平宝字八(七六四)年の「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」に功あり、従三位・参議・中衛大将となり、天平神護二(七六六)年に右大臣に上り詰めた。神護景雲三(七六九)年には「刪定律令」を編纂し、正二位となった。宝亀二(七七一)年、致仕した。地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは近世以前では彼と菅原道真のみである。波乱万丈ではあるが、他の七柱とは異なり、生前の後半生では復権しており、八十一歳の天寿を全うしている。しかも「御霊」とされたのは何故かと考えるに、彼が政治的手腕と才知にずば抜けていたこと以外に、強力な陰陽道のプロであったからではなかろうか。ウィキの「吉備真備」の「伝説」の項に以下のようにある。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」などに『よれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果て』、『食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した』とある(なお、『真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる』)。『また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる』。『中世の兵法書などでは、張良が持っていたと』される伝説の道家色の濃い兵法書「六韜(りくとう)三略」の『兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とし』ている。『また、真備は陰陽道の聖典』「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」を『唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたと』もされる。『金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表』わす。なお、かの『安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが』、「金烏玉兎集」は『晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている』ものの、『伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた』が、その『ときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書』「文殊結集仏暦経」を『中国に持ち帰ったが、その書が』真備がもたらした原「金烏玉兎集」であるということらしい。また「今昔物語集」には『玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし』、「刃辛抄」では、陰陽道の書「刃辛内伝」を『持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている』とあるからである。因みに、かなり知られた話であるが、「宇治拾遺物語」には、『他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある』のである)

と、「火雷神(ほのいかずちのかみ)」と習合された、

⑧菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三(九〇三)年:言わずもがなであるが、記述のバランスから注しておく。平安前期の官人。政治家・文人・学者として名が高い。是善(これよし)の子で、母は伴(とも)氏。本名は「三」(「みつ」か)、幼名を「阿呼(あこ)」と称し、後世、「菅公」と尊称された。従二位右大臣に至った。承和一二(八四五)年、父祖三代の輝かしい伝統を持つ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ、向学心も旺盛で、貞観四(八六二)年、十八歳で文章生(もんじょうしょう)となり、十五年後の元慶元(八七七)年には文章博士となった。その間、少内記に任ぜられて、多くの詔勅を起草し、また、民部少輔(みんぶのしょう)として朝廷の吏務に精勤する一方、文章の代作や願文(がんもん)の起草など、盛んな文章活動を続け、父是善の没(元慶四(八八〇)年)後は、父祖以来の私塾である「菅家廊下(かんけろうか)」を主宰し、宮廷文人社会の中心となった。仁和二(八八六)年に讃岐守に転出したが、翌年、宇多天皇の即位に際して起こった「阿衡(あこう)事件」(「関白」(この称号が事件の発端)藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争)には深い関心を寄せ、入京し、基経に良識ある意見書を提出、左代弁(この事件で後に罷免)橘広相(ひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのであった。寛平二(八九〇)年、国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢され、その後、参議・左大弁に登用され、朝政の中枢に携わることになった(その現実的政策としてよく知られるのは「遣唐使の廃止」である)。その間も官位は昇進を続け、中納言・民部卿・権大納言・春宮大夫(とうぐうだいぶ)・侍読などの任に就いている。寛平九(八九七)年、宇多天皇は譲位したが、その遺誡により醍醐天皇は藤原時平とともに道真を重用し、昌泰二(八九九)年、時平の左大臣に対して、道真を右大臣に任じている。しかし、当時の廷臣には、儒家としての家格を超えた道真の栄進を嫉む者も多く、昌泰三(九〇〇)年には文章博士三善清行から辞職勧告の諭しを受けているが、道真はこれを容れなかった。また、他氏を着実に排斥してきた藤原氏にとって、道真は強力な対立者と見做されており、延喜元(九〇一)年、従二位に叙してまもなく、遂に政権と学派の争いの中、時平の中傷によって大宰権帥(ごんのそち)に左遷されてしまう。その後。大宰府浄妙院(俗称「榎寺(えのきでら)」)で謹慎すること二年、天皇の厚恩を慕い、望郷の念に駆られつつ、配所で没した。その晩年が悲惨であっただけに、死後の怨霊に対する怖れは当時から非常に強かった。それに関わる説話は「大鏡」巻二の「時平伝」や「北野天神縁起」などに見られる。時平は延喜九(九〇九)年に享年三十九歳の若さで死去するが、道真の霊は死後、天満自在天となり、青竜と化して、時平を殺したと噂された(ここまでの主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「菅原道真」によれば、『菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず』、『道真の政敵藤原時平が』『病死すると、続いて』、延喜一三(九一三)年には『道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜』二三(九二三)年死去)、『次いで』、『その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長』三(九二五)年)死去)が『次々に病死』した。さらには「北野天神縁起絵巻」で知られる大災厄(カタストロフ)が起こる。延長八(九三〇)年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に『朝議中の清涼殿が落雷を受け』、「昌泰の変」に『関与したとされる大納言藤原清貫』(きよたか)『をはじめ』、『朝廷要人に多くの死傷者が出た』『上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された』とある。ウィキの「清涼殿落雷事件」は、より詳細なので引用すると、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、この日、『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において』、『太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後』一『時頃より』、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ』一『時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世』(たいらのまれよ)『も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく』、『死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』((みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡。紀蔭連』(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡した』。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、『大混乱となった。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は』、『清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後』(延長八年九月二十九日)『に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』とある。なお(以下の主文は再び小学館「日本大百科全書」に戻した)、道真はそれに先立つ、延喜二三(九二三)年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとして、その七十年後の正暦四(九九三)年)には正一位左大臣が、後の同年中には太政大臣が追贈されている。こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上、その子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟である忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる。清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と強く結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に北野天満宮を建立、道真が没した太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を、安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほどは、大災害が起きる度に「道真の祟り」として恐れられた。こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなったが、やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に「天神」は「学問の神」として信仰されるように至ったのである)

の二座を加えたものである。また、以上の御霊(怨霊)を祀った各神社をも指すが、特にこれらを「八所御霊(はっしょごりょう)」として纏め、現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入の上御霊神社及び中京区寺町通丸太町下ルの下御霊神社の両社に祭神として祀られたものがその代表である。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でも特に名高く、一方で京都御所の産土神(うぶすながみ)としても重要視された。

「佐倉宗吾」佐倉惣五郎(生没年未詳)の通称。江戸前期の義民。姓は木内。下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、「地蔵堂通夜(つや)物語」や「堀田(ほった)騒動記」などの実録文芸に伝えられるだけであるが、それらによれば、佐倉領主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)に、次いで国家老(くにがろう)に要求したが、拒否され、江戸に出て、藩邸に訴えても、取り上げられず、惣代六人で、老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎一人が将軍に直訴した(「通夜物語」は承応二(一六五三)年とする一方、「騒動記」では正保元(一六四四)と大きく異なっている)。この要請は実現されたものの、惣五郎夫妻とその男子四人は死刑に処せられた。しかし後、その祟りによって堀田家は断絶したというのである(実際には断絶しそうになったが、断絶などしていない。事実を記すと、堀田正信は後の万治三(一六六〇)年十月八日、突然、「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛で提出し、無断で佐倉へ帰城してしまい、幕法違反の無断帰城について、幕閣で協議がなされ、正信の上書や行動に同情的意見もあったものの、老中松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」(父・兄弟・妻子等の親族へ及ぶ処罰)に当たるが、狂人ならば免除出来るという理屈)で合意がなされ、同年十一月三日に処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。これは実は唐の松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたからともされるが、詳細は不明である)。しかし後年(正信の没後。正信は、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主酒井忠直に預け替えられたが、延宝五(一六七七)年に密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し、それが発覚、これによって嫡男正休(まさやす)と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主蜂須賀綱通に預け替えられた。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍徳川家綱死去の報を聞き、この再々配流先の徳島にて鋏で喉を突いて自死している)、正信の亡き父正盛の功績によって長男正休に、お家再興が許されており、正休は天和元(一六八一)年に大番頭、翌年三月には徳川綱吉の子徳松の側役に任じられ、一万石の所領を与えられ、吉井藩主となった。その後は奏者番となり、近江宮川藩に移封された。彼の子孫は明治までしっかり続いている)。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分二十六石余の記載があり、正徳五(一七一五)年成立の「総葉(そうよう)概録」が、堀田氏時代に「公津村の民、總五(そうご)、罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵りて死し、時々祟りを現はし、遂に堀田氏を滅す。因りて其の靈を祭りて一祠(いつし)を建て惣五宮と稱す」という説を伝えていることから、惣五郎の実在と処刑は否定し得ない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高一石につき一斗二升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は初期的であり、安永五(一七七六)年の「惣五摘趣(てきしゅ)物語」が、惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定し得ない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したと見るべきであろう(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『佐野常言の「世直(よなほし)大明神」』江戸中期の旗本佐野政言(さのまさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年)の誤りであろう。ウィキの「佐野政言」によれば、通称は善左衛門。『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室』がおり、十『姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし』、『代々』、『番士を務めた家であり、政言は』六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年『に致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督を相続(』五百『石)した』。安永六(一七七七)年に大番士、翌年には新番士となった。ところが、天明四(一七八四)年三月二十四日、『江戸城中で、若年寄・田沼意知に向かって走り出しながら「覚えがあろう」と』三『度叫んでから』、大脇差を抜いて『殿中刃傷に及んだ。その』八『日後に意知が絶命すると、佐野政言には切腹が命じられ、自害して果てた。葬儀は45日に行われたが、両親など遺族には謹慎が申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となったが、遺産は父に譲られることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、その後長く佐野家の再興はなかったが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために』、『藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を』、『意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事、等々』、『諸説あったが、幕府は乱心として処理した』。『田沼を嫌う風潮があった市中では』、『田沼を斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた』とある。

『伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」』安土桃山時代から江戸前期に生きた武将で伊達家家臣(家老)山家公頼(やんべきんより 天正七(一五七九)年~元和六(一六二〇)年)の御霊(みたま)に対する愛媛県宇和島を中心に四国・中国地方にある信仰及びその御霊を祀る和霊神社(愛媛県宇和島市和霊町(ちょう)のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「山家公頼」によれば、公頼は通称は清兵衛。『最初は最上氏に仕えていた』が、『後、伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・』一千『石)として付けられた』。『初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩』十『万石のうち』、三『万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり』、『幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした』。『こうした行為が秀宗や』、『桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた』。『また』、『公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった』。元和六(一六二〇)年、同年の一月の『大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が』公頼が『不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した』。『これは工事の進捗状況の報告』に於いて、『公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだ』もの『とされ』ている。同年六月二十九日、『秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が』、『山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた』。『享年』四十二であった。『この襲撃事件で』は、『公頼のみならず、次男と三男も斬殺され』、九『歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された』『(なお、あまりに幼子であったため』『井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子』三『人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった』。『長男は仙台にいたため無事』であった。ところが、『公頼の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し』(後の別引用参照)、『宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松の早世、秀宗の発病などは』、これ、『全て』、『公頼の祟りとして恐れられた』。『このため』、承応二(一六五三)年に『秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった』。但し、『怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり』、『宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている』。『公頼は財政難の宇和島藩において』、『質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせず』、『できるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた』。『ただ、そのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた』のであった。『遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約』六十メートル『の場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断され、抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど、領民に慕われたことが伺える』とあり、ウィキの「和霊神社」には、『当社の分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に日本各地にある』とある。他にウィキの「和霊騒動」もあり、かなり詳しい。それによれば、『事件後』、寛永九(一六三二)年、『秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃』元親『が圧死』し、『その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し』たため、『宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の』六『男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことを「清兵衛が怨霊となり』、『怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応二年に『檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年』六月、『神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした』。現在のそれは享保一六(一七三一)年、第五代『藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた』ものであるとある。

「源重之」「千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする」源重之(生没年未詳)は水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首」の彼のページによれば、『清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集』「重之の子の集」を残している。『康保四年』(九六七)『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三年』(九七五)『正月、左馬助となり、貞元元年』(九七六)に『相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年』(九九一)『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年』(九九五)『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年』(一〇〇〇)『頃、六十余歳かという』とある。この一首は「続詞花和歌集」の「巻十九 物名」に、

   たちまのくになるいつしの宮といふ
   やしろにてなのりそといふものを題
   にて人の歌よめといひければ

 千早ふるいつしの宮の神のこま夢なのりそねたゝりもぞする

とあるもの。以上は「群書類従」のグーグルブックスの画像から起こした。出石神社(いずしじんじゃ)は、「いづしの宮」は現在の兵庫県豊岡市出石町(ちょう)宮内にある出石(いずし)神社。旧但馬国一宮。柳田國男は何も言っていないが、「なのりそ」にはもう一つの意味が掛けられてある。則ち、海藻の「なのりそ」=「神馬草(藻)」である。則ち、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)である。「ほんだはら」は「ほだはら」で「穂俵」の漢字を当てて、その気泡体部が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。ここではそうした神饌として供されることも多い「神馬藻(ほんだわら)」もハイブリッド(「神馬」だぞ!)に掛詞となっていると考えてこそ、柳田國男の図に当たったと言うべきと私は思う。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文及び私の注も参照されたい。

「鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事」鋳物師は錬金的に「火」を自在に操り、「火」は「日」に通じ、彼らは古代より祭祀に用いたと考えられる銅鐸や鏡などの神具、仏教伝来以降も梵鐘などの仏具の製造に直接に関わっていたから、この謂いはすこぶる腑に落ちる。

「姬蹈鞴(ひめたゝら)」媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)のことであろう。「日本書紀」に登場する女神(人物)で、初代天皇神武天皇の初代皇后で、「古事記」の「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に相当する。ウィキの「ヒメタタライスズヒメ」によれば、『伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いて皇后となり』、第二『代天皇の綏靖』((すいぜん)『天皇』(実在性は乏しい)『を産んだとされている』。名の由来は諸説あるが、その一つに、『名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある』とし、『「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説』の他に、『金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある』。『小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」』(彼女の当初の名は「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ/ほとたたらいすすぎひめ)」である)『は陰部を指すとともに火床のことでもある』、『すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される』。『吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている』。但し、『本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった』。『彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという』。『「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある』とある。

個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ」の「沖縄の精神科の病院にはときどき神がかかった女性も診療にくる」に、蛭川立著「彼岸の時間 “意識”の人類学」(二〇〇二年春秋社刊)からの引用として、『沖縄の精神科の病院には、ときどき、神がかかった女性も診療にくる。そういうときには、この病院ではカルテに「カミダーリ」(巫病』(ふびょう:呪術者(シャーマン)が真にシャーマンになる過程(成巫過程)に於いて罹患する心身の異常状態を指す語)『)と書いて、近隣のユタを紹介したりもしていた。「ソゾ(』統合失調症『)には薬が効くけど、ターリ(巫病)には効かないからね、薬を出してもおさまらないさ」と、ドクターは語っていた』。『人がユタになるとき、沖縄ではだいたいある決まったコースをたどる。まず、「タカウマリ(高生まれ)」という先天的な資質(運命?)があると考えられている。そして、大人になってから「カミダーリ(神垂れ?神祟り?)」とか、「カミブリ(神触れ)」という、心身の異常を経験する。これはだいたい』二十歳から四十『歳ぐらいの女性に起こることが多い。病気や家庭の不和など、不幸な出来事がきっかけになる場合が多いが、特別なきっかけがなく』、『突然』、『起こることもある』。それは『医者に行っても治らない。自分でも意味が分からない場合は、ベテランのユタのところに相談に行く、先輩ユタは、お告げの主が誰なのか、何代前の祖先なのか、どういう神様なのかをみきわめ、それを拝むように指令する。守護霊的存在を特定してそれを拝むようになると』、『カミダーリはおさまり、かわりに必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり』、『病気を治したりすることができるようになる。こうしてユタが再生産される。はじめは日本人は戸惑うらしいのだが、必要なことは神の声が聞こえてきて助けてくれるというものらしい』。『カミダーリの症状は、妄想型の』『統合失調症』『の幻覚、妄想状態と似ているが、個々の点をみると』、『違っているところも多い。カミダーリは圧倒的に女性に多いし、同じ幻覚でも』統合失調症『では幻聴が多いが、カミダーリでは幻視が多い』。『アメリカでは近年、こうした巫病状態を霊的危機と呼んで、いわゆる精神病とは区別しようという考えも出てきている』とあった。

「楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか」楠木正成(永仁二(一二九四)年?~延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日)と弟の正季(?~兄に同じ)の兄弟。「太平記」巻第十六の「正成兄弟討死の事」のシークエンスを言っている。所謂、後世、「七生報国の誓い」と言われるようになるそれである。以下に引く(底本は新潮日本古典集成を参考に恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

正成、座上に居つつ、舍弟の正季に向かって、

「そもそも最期の一念に依つて、善惡の生を引くといへり。九界(くかい)[やぶちゃん注:仏教で言う如来の世界を除いた「迷い」の世界を指す。]の間(あひだ)に何が御邊の願ひなる。」

と問ひければ、正季、

「からから。」

と打ち笑うて、

「七生(しちしやう)まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。」

と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、

「罪業深き惡念なれども、われもかやうに思ふなり。いざ、さらば、同じく生(しやう)を替へて、此の本懷を達せん。」

と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥しにけり。

   *

「障礙神(しやうげしん)」呉音で読んだ(「ちくま文庫」版もそれ)。漢音なら、「しやうがいしん」である。謂わば、対極の二面性を持った荒神(こうじん)で、心を籠めて祀れば、その「義俠心」からそれを成就せんとする一方、少しでも不敬を働いたり、ないがしろにすることがあれば、逆に大きな障害(=障碍=障礙)を齎して、命さえ危うくなるタイプの古典的な荒ぶる神のことである。柳田國男は「眞言の佛法」と言っているが、代表的なそれは、天台宗の摩多羅神(またらじん:摩怛利神(またりしん))である。

「境堺(きやうかい)」特定の場所。後に出る建物の「門」や城壁とか、「川の堤」や橋である。道祖神や「塞の神」との属性との強い親和性が認められる。

『「人柱(ひとばしら)」の話』私の南方熊楠「人柱の話」(上)・(下)」(平凡社版全集未収録作品)を是非お薦めする。そこにもリンクさせてあるが、私の古いブログ記事「明治6年横浜弁天橋の人柱」も、知らない人は慄然とするであろう

「妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指」この日本語自体がよく判らないが、これは西洋の魔女の秘法か何かのように思われる。処刑された罪人の手を切り取ってミイラにしたものは西洋の黒魔術では、強盗がそれを持って家に侵入すれば、家人には盗人の姿が全く見えなくなるというのを読んだ記憶があるからである。

「食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸」蠱毒(こどく:古代中国に於いて用いられた動物を用いた呪術)の一つとして、よく知られたものである。本邦でも昔から知られていた。ウィキの「犬神」にも出る。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術』(蠱毒の異名)『が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつ』くが、『これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売ったという霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』とある。

「天滿大自在天神」没後の菅原道真を神格化した呼称。ウィキの「天満大自在天神」が異様に詳しい。

「新田義興」彼の以下の話は既出既注。]

2019/06/05

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(30) 「御靈ト石」(1)

 

《原文》

御靈ト石   甲州ノ馬蹄石ノ類ヲ聖德法王ノ故事ニ附會スルハ、特ニ此君ガ佛法ノ保護者ニシテ兼テ日本ノ伯樂ナリシ爲ニ、便宜多カリシト云フノミノコトニテ、必ズシモ他ニ類型無キ話ニハ非ザルコト勿論ナリ。【地方英雄】古風土記ニ國々ノ神アリシ如ク、個々ノ地方ニハ今モソレゾレノ史上人物アリテ、殆ド其傳說ヲ以テ一切ノ故迹ヲ統括支配スルガ如キ觀アリ。行基弘法ノ二祖師ノ足跡天下ニ遍キヲ以テスルモ、地方人ハ猶之ヲ爭奪シテ我ガ鄕ノ英雄ト爲サザレバ已マザラントス。泰澄大師ノ北陸ニ於ケル、役行者(エンノギヤウジヤ)ノ大和ニ於ケル、性空上人ノ九州南部ニ於ケルガ如キ、或ハ藤原千方ノ伊勢ニ於ケル、田邑將軍八幡太郞ノ奧羽ニ於ケル等ハ、勿論然ルべキ仔細モアリテ、或點ニ於テハ神以上ノ崇敬ヲ繫ギ得タリシナリ。此ガ爲ニ以前物ヲ知ラザル里人ガ、何デモ强力ナ和尙ガ來テトカ、又ハ昔一人ノ勇士ガアツテトカ云フヲ、聞ク方ノ人ヨリソレハ辨慶ノ事ナルべシトカ、此邊ノ事ナラバ山中鹿之介ニ相違無シトカ、無造作ニキメテシマヒ、其次ヨリハ其固有名詞ヲ以テ話シ傳へシム。恰モ何レノ御時カノ古墳調査掛ガ、革鞄ノ中ニ國造本紀ノ類ヲ携帶シ、到ル處ノ白骨ニ姓名ヲ附與シテアルキシト同一ノ御苦勞ナリ。其爲ノミニモ非ザルべキガ、多クノ馬蹄石ニモ亦英雄ノ昔語リヲ伴ヒ居リ、而モ一々ニ尤モラシキ因緣アリ。【日本武尊】先ヅ時代ヲ追ヒテ言ハヾ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(ウツツ)ノ内津神社ノ一ノ鳥居ノ跡ニハ、日本武尊ノ御馬ノ足跡アル馬蹄石存ス〔尾張誌〕。即チ「ウツヽナルカモ」ト仰セラレシ故迹ナリ。【龍ノ爪】美作間鍋山(カンナベヤマ)ノ長法寺ノ上ニハ岩ニ龍ノ爪ノ如キ跡アルヲ、或ハ鹽冶(エンヤ)判官ノ獻上セシ龍馬ノ蹄ト云ヒ、【和氣淸麿】或ハ又和氣淸麿ガ大隅ノ配所ヨリ龍馬ニ乘リテ諸國ヲ巡歷セシ折ノ馬蹄ノ跡トモ傳ヘタリ〔山陽美作記上〕。此地ハ淸麿ノ故鄕ト云フ備前ノ和氣郡ニ近キナリ。伊賀名賀郡比奈知(ヒナチ)村大字瀧原ノ高座山ニハ、方五尺バカリノ石ニ馬蹄ノ跡アルヲ千方(チカタ)ノ飛石ト云フ。【千方】此附近ニハ又千方ガ馬ヲ留メシト云フ馬留山アリ〔三國地誌〕。數多キ千方ノ故迹ノ一ツナリ。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(ヤトフ)ノ龍馬石ハ多田滿仲ノ乘馬ノ跡アルガ故ニ此名ヲ得タリト云ヒ〔攝陽群談〕、或ハ又同郡小田村大字久々知ニモ同ジ名ノ石アリト傳ヘタリ〔本朝國語〕。阿波阿波郡土成村大字土成ノ御所谷ハ、畏多クモ土御門院ノ御身ヲ隱シタマヒシ地ナリト稱シ數々ノ遺跡アリ。御馬ノ足跡ノ岩ノ上ニ殘レルモノアリト云フ〔阿波國徴古雜抄三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野ノ吉水院ノ境内ニハ九郞判官義經ノ駒ノ跡アリ〔本朝國語〕。此大將ハ全國少年ノ愛好スル人物ダケアリテ、北ハ津輕ノ突端ノ三厩(ミウマヤ[やぶちゃん注:ママ。])ヨリ、更ニ能登珠洲郡ノ三崎ニマデ馬蹄ノ跡ヲ印シタリ〔能登國名跡志〕。此等ハ綿密ナル義經記ニモ末ダ想像セザリシ史蹟ナリ。【三ツ石】陸中盛岡ノ東見寺ノ境内ニハ、同ジク此人ガ馬跡ヲ留メシ名石三ツ石アリ〔譚海十二〕。以前ハ人ノ拜祀セシ石ナルべシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ字ノ形ヲシタル大小三箇ノ石ニシテ、之ヲ拜ミシ梶原ハ是亦竃ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義經ニハ兎ニ角ニ馬ノ因緣ハ存スルナリ。【畠山重忠】畠山重忠ハ其舊領地タル秩父ノ一郡ニ於テハ今モ多クノ傳說ノ主ナリ。高麗川ノ上流吾野村大字阪元ニハ、重忠ノ厩ノ跡ト云フ深サ三間ホドノ洞窟アリテ、中程ノ岩ノ面ニ馬蹄ノ跡二ツアリ〔新編武藏風土記稿〕。此邊ハ石灰岩ノ層アルガ爲ニ殊ニ此種ノ奇巖ニ富メルナリ。【梶原景時】其畠山ヲバ讒言シタル梶原平三景時モ、亦駿州田上ノ岡ノ麓ノ岩ノ上ニ、最後ノ念力ヲ愛馬ノ跡ニ印シタリ。或ハ其馬ノ喰ミ殘シタル笹葉トテ、今ニ葉尖ヲ摘ミ虧キタル如キ笹ヲ生ズトモ言ヒ傳フ〔諸國旅雀〕。【磨墨】此馬ノ磨墨ナリシコトハ更ニ之ヲ說カント欲ス。【曾我五郞】相州箱根ノ三枚橋ヨリ五六町ノ東、僅カナル溝ニ架ケタル石橋ニ曾我五郞ノ馬ノ蹄ノ跡アリ。脚氣ノ祈願ニ驗アリテ來タリテ線香ヲ燒ク者多カリキ。東海道ノ繁華ナル往來ナルニ、迷惑ナル話ニハ若シ此石ヲ蹈ム者アレバ必ズ祟アリ。之ヲ他處ニ移シ去ラント企テテ又崇ラレシ者アリ〔著作堂一夕話〕。併シ今日ハ最早此石無シト見エテ電車ガ無事ニ通行シツヽアルナリ。【センゾク】武藏西多摩郡檜原(ヒノハラ)村千足(センゾク)ノ路傍及ビ谷間ニ各一箇ノ馬蹄石アルハ、曾テ此山村ニ落チ來リテ討死シタリト云フ平山伊賀守氏重ガ故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。但シ何レノ時代ノ人ナルカ知ラズ。奧州外南部ノ宇曾利山(カソリサン)ニハ九戶(クノヘ)地獄ト云フ處アリ。【九戶左近】昔九戶左近ナル者國主ニ楯突カントシテ却リテ爰ニ陷リテ死ス。其折ノ薙刀ノ跡ト共ニ岩ニ馬蹄ノ跡ヲ留メタリ〔眞澄遊覽記五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉ノ乘馬ノ跡ト稱スルモノ相州足柄下郡江浦村ノ五郞兵衞ガ屋敷内ニ在リキ。天正十八年小田原攻ノ折、此家ノ庭ヨリ城山ニ登ラントシテ馬ノ足スベリ、其跡永ク後世ニ遺リタリ。八九尺ニ四尺ホドノ大石ニシテ之ヲ馬蹄石ト名ヅク云々〔相州留恩記略三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(ヲカホ)村大字大畑ノ蹄ノ瀧ニ於テハ、瀧口ノ大岩ノ上ニ朝倉義景ガ乘馬ノマヽニテ驅ケ登リシト云フ蹄ノ跡アリ。此瀧ハモト附近ノ地名ニ由リテ竹箕ノ瀧ト呼ビタリシヲ、近ク明治ノ三十七年ニ、時ノ縣知事阪本彰之助氏ニ賴ミテ、今ノ名ヲ附ケテ貰ヒタリト云フ新名所ナリ〔吉田郡誌〕。

 

《訓読》

御靈(ごりやう)と石   甲州の馬蹄石の類を聖德法王の故事に附會するは、特に此の君が佛法の保護者にして、兼ねて、日本の「伯樂」なりし[やぶちゃん注:国政を馭したことへの馬に合わせた比喩。]爲めに、便宜多かりしと云ふのみのことにて、必ずしも他に類型無き話には非ざること、勿論なり。【地方英雄】「古風土記」に國々の神ありしごとく、個々の地方には、今もそれぞれの史上人物ありて、殆んど其の傳說を以つて一切の故迹を統括支配するがごとき觀あり。行基・弘法(こうぼふ)の二祖師の足跡、天下に遍きを以つてするも、地方人は猶ほ、之れを爭奪して、我が鄕の英雄と爲さざれば、已(や)まざらんとす。泰澄(たいちよう)大師の北陸に於ける、役行者(えんのぎやうじや)の大和に於ける、性空(しやうくう)上人の九州南部に於けるがごとき、或いは、藤原千方(ちかた)の伊勢に於ける、田邑(たむら)將軍・八幡太郞の奧羽に於ける等は、勿論、然るべき仔細もありて、或る點に於いては、神以上の崇敬を繫ぐ得たりしなり。此れが爲めに、以前、物を知らざる里人が「何でも强力な和尙が來て」とか、又は、「昔、一人の勇士があつて」とか云ふを、聞く方(はう)の人より、「それは辨慶の事なるべし」とか、「此の邊りの事ならば山中鹿之介に相違無し」とか、無造作にきめてしまひ、其の次よりは、其の固有名詞を以つて話し傳へしむ。恰も、何(いづ)れの御時(おんとき)かの古墳調査掛(がかり)が、革鞄の中の「國造本紀(こくざうほんぎ)」類を携帶し、到る處の白骨(はつこつ)に姓名を附與してあるきしと同一の御苦勞なり。其の爲めのみにも非ざるべきが、多くの馬蹄石にも亦、英雄の昔語りを伴ひ居り、而も、一々に、尤もらしき因緣あり。【日本武尊】先づ、時代を追ひて言はゞ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社の一の鳥居の跡には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御馬の足跡ある馬蹄石、存す〔「尾張誌」〕。即ち、「うつゝなるかも」と仰せられし故迹なり。【龍の爪】美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺の上には、岩に龍の爪のごとき跡あるを、或いは鹽冶(えんや)判官の獻上せし龍馬の蹄と云ひ、【和氣淸麿(わけのきよまろ)】或いは又、和氣淸麿が大隅の配所より龍馬に乘りて諸國を巡歷せし折りの馬蹄の跡とも傳へたり〔「山陽美作記」上〕。此の地は、淸麿の故鄕と云ふ備前の和氣郡に近きなり。伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山には、方五尺ばかりの石に馬蹄の跡あるを「千方(ちかた)の飛石(とびいし)」と云ふ。【千方】此の附近には又、千方が馬を留めしと云ふ馬留山あり〔「三國地誌」〕。數多き千方の故迹の一つなり。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)の龍馬石は、多田滿仲の乘馬の跡あるが故に此の名を得たりと云ひ〔「攝陽群談」〕、或いは又、同郡小田村大字久々知(くくち)にも同じ名の石ありと傳へたり〔「本朝國語」〕。阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷は、畏れ多くも土御門院の御身を隱したまひし地なりと稱し、數々の遺跡あり。御馬の足跡の岩の上に殘れるものありと云ふ〔「阿波國徴古雜抄」三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野の吉水院(きつすいゐん)境内には、九郞判官義經の駒の跡あり〔「本朝國語」〕。此の大將は、全國少年の愛好する人物だけありて、北は津輕の突端の三厩(みうまや[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版は『ミンマヤ』と振る。])より、更に、能登珠洲(すず)郡の三崎にまで、馬蹄の跡を印(しる)したり〔「能登國名跡志」〕。此等は綿密なる「義經記(ぎけいき)」にも末だ想像せざりし史蹟なり。【三ツ石】陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり〔「譚海」十二〕。以前は人の拜祀せし石なるべし。中古の石神は多くは「山」の字の形をしたる大小三箇の石にして、之れを拜みし梶原は、是れ亦、竃(かまど)の神の信仰に基くかと見ゆれば、義經には兎に角に馬の因緣は存するなり。【畠山重忠】畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり。高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元には、「重忠の厩の跡」と云ふ、深さ三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]ほどの洞窟ありて、中程の岩の面(おもて)に馬蹄に跡二つあり〔「新編武藏風土記稿」〕。此の邊りは、石灰岩の層あるが爲めに、殊に此の種の奇巖に富めるなり。【梶原景時】其の畠山をば、讒言したる梶原平三景時も、亦、駿州田上の岡の麓の岩の上に、最後の念力を愛馬の跡に印したり。或いは、其の馬の喰(は)み殘したる笹葉とて、今に葉尖(はさき)を摘み虧(か)きたるごとき笹を生ず、とも言ひ傳ふ〔「諸國旅雀」〕。【磨墨】此の馬の磨墨なりしことは、更に之れを說かんと欲す。【曾我五郞】相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕。併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり。【せんぞく】武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村千足(せんぞく)の路傍及び谷間に各(おのおの)一箇の馬蹄石あるは、曾つて此の山村に落ち來たりて討死したりと云ふ、平山伊賀守氏重が故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。但し、何れの時代の人なるか知らず。奧州外南部(そとなんぶ)の宇曾利山(かそりさん)には「九戶(くのへ)地獄」と云ふ處あり。【九戶左近】昔、九戶左近なる者、國主に楯突(たてつ)かんとして、却りて爰(ここ)に陷りて死す。其の折りの薙刀(なぎなた)の跡と共に、岩に馬蹄の跡を留めたり〔「眞澄遊覽記」五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉の乘馬の跡と稱するもの、相州足柄下郡江浦(えのうら)村の五郞兵衞が屋敷内に在りき。天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]、小田原攻めの折り、此の家の庭より、城山に登らんとして、馬の足、すべり、其の跡、永く後世に遺りたり。八、九尺[やぶちゃん注:約二・六メートル前後。]に四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]ほどの大石にして、之れを馬蹄石と名づく云々〔「相州留恩記略」三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」に於いては、瀧口の大岩の上に、朝倉義景が乘馬のまゝにて驅け登りしと云ふ蹄の跡あり。此の瀧は、もと、附近の地名に由りて「竹箕(たけす)の瀧」と呼びたりしを、近く明治の三十七年[やぶちゃん注:一九〇四年。本書の刊行は大正三(一九一四)年七月であるから十年前のホットな事実である。]に、時の縣知事阪本彰之助氏に賴みて、今の名を附けて貰ひたりと云ふ新名所なり〔「吉田郡誌」〕。

[やぶちゃん注:以下、人物は生没年や活躍期を再確認するために、選んで注した。弁慶や義経は誰でも知っているので注していない。特に引用を示さないものは、複数の信頼出来る記載を用いたものである。

「行基」(天智天皇七(六六八)年~天平勝宝元(七四九)年)は奈良時代の僧。和泉国生れ。俗姓は高志(こし)氏(百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派)。法相(ほっつそう)教学を学び、後、諸国を巡り、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し「行基菩薩」と敬われた。一時はその活動が「僧尼令」に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力、大僧正に任ぜられ、また、大菩薩の号をも賜った。

「弘法(こうぼふ)」弘法大師空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)は平安前期の僧で真言宗の開祖。讃岐生まれ。俗姓は佐伯。延暦二三(八〇四)年三十歳で渡唐し、長安青竜寺の恵果(けいか)から真言密教の秘法を受けた。帰国後、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を、京都に教王護国寺(東寺)を創建した。後世、その生涯に纏わる多くの説話伝説が生み出され、庶民信仰の対象となった。

「泰澄(たいちよう)大師」天武天皇一一(六八二)年~天平神護三(七六七)年)は奈良時代の修験者。越前生まれ。俗姓は三神。通称は「越(こし)の大徳(だいとこ)」。加賀白山の開創者とされる。飛鉢の術を使う能登島出身の臥(ふせり)行者と出羽の船頭であった浄定(きよさだ)行者を弟子とし、霊夢の導きによって養老元(七一七)年に彼らとともに白山に登頂、妙理大菩薩を感得したとする。五年後の養老六年には元正天皇の病を祈祷で療治し、天平九(七三七)年には疱瘡の流行を鎮(しず)めた。

「役行者(えんのぎやうじや)」(生没年不詳)役小角(えんのおづぬ)。七~八世紀の修験道の開祖とされる人物。賀茂一族(のちの高賀茂朝臣)の出で、大和国葛木上郡茅原村(現在の奈良県御所市)の生まれと伝えられる。大和の葛城山や生駒山で修行し、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)を弟子にし、呪術に優れた神仙となったとされ、後、多くの伝説が生み出された。「続日本紀」に登場する。

「性空(しやうくう)上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。「書写上人」の別名でよく知られる。三十六歳で出家し、比叡山の慈慧僧正に師事し、後に日向の霧島山で修行したが、康保四(九六七)年、播磨の書写山に天台三大道場の一つとなる円教寺(えんぎょうじ)を創建した。

「藤原千方(ちかた)」平安時代に鬼を使役したとされる豪族。同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされるが、「太平記」に出るその人物は遠く天智天皇の御世の設定で、話が合わない。「藤原千方の四鬼」伝説は三重県津市などに伝えられる。孰れにせよ、ここに並ぶ聖賢・超人・英傑の中では、有意に格落ちする架空性の頗る高い怪人である。但し、彼やこの四鬼が伊賀忍者のルーツとする伝承はある。私の「諸國里人談卷之三 千方火」の私の注を参照されたい。

「田邑(たむら)將軍」平安初期の武将坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。公卿で武人であった坂上苅田麻呂(かりたまろ)の子(次男或いは三男)。延暦一〇(七九一)年に征東副使に任命され、同十三年、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷を討った。同十五年、陸奥出羽按察使兼陸奥守、さらに鎮守府将軍となり、同一六(七六七)年には征夷大将軍に任命され、同 二十年二月、蝦夷討伐のため東北に向い、同年十月に平安京に凱旋した。翌年、「造(ぞう)陸奥国胆沢城(いざわのき)使」として陸奥に行き、さらに翌年、志波城(しはのき)を築いた。同 二十三年、再び征夷大将軍に任ぜられ。大同元(八〇六)年に中納言、同四年に正三位に叙せられた。弘仁元(八一〇)年には平城上皇の平城遷都に擬し、造宮使となった。同年、「薬子の変」が起こると、大納言に昇進した田村麻呂は美濃路を固め、上皇軍の鎮圧に努めた。没後に従二位が贈られている。ここに居並ぶ人物の中では実社会に於いて最高レベルの位を上り詰めた人物である。

「八幡太郞」平安後期の名将源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)。伊予守源頼義の長男。河内生れ。「八幡太郎」の通称でよく知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。ウィキの「源義家」によれば、比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して』「後三年の役」を『起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約』十『年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された』。『その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため』、『歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ』、「後三年の役」の『朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下』とある。

「山中鹿之介」戦国時代の武将山中幸盛(天文九(一五四〇)年?~天正六(一五七八)年)出雲生まれ。「亀井」姓ともする。通称は初め、「甚次郎」、後に「鹿之助」「鹿之介」「鹿介」とも記されるが、自署は孰れも「鹿介」と記されてある。尼子経久の家臣山中三河守満幸の子。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、尼子義久に仕え、伯耆尾高城を攻め落して勇名をはせた。同九年、尼子氏が毛利に敗れて降伏したが、幸盛は尼子再興に力を尽し、豊臣秀吉に支援を求めて、その中国征伐に従軍、播磨上月城に拠って毛利氏に対抗した。しかし天正六(一五七八)年に落城して捕えられ、毛利方へ送られる途中、備中阿井の渡し(現在の岡山県高梁(たかはし)市落合)で殺害された。

「國造本紀(こくざうほんぎ)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の巻第十に当たる一巻の書。「旧事本紀」は聖徳太子撰とする序文を有するが、平安初期に作られた偽書とされる。しかし、そのなかの巻第三「天神本紀」の一部、巻第五の「天孫本紀」と、この「国造本紀」は、他の如何なる文献にも見えない独自の所伝を載せている点で注目される。「国造本紀」は、大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下、全国で百三十余りの国造を列挙し、それぞれに国造任命の時期や初代国造の名を簡単に記したもので、それらの中には和泉・摂津・丹後・美作(みまさか)など、後世の国司を記載したところもあり、また「无邪志(むさし)」と「胸刺(むさし)」、「加我(かが)」と「加※(かが)」(「※」=「宜」の一画目の点を除去したもの)など、紛らわしいものもあるが、概してかなり信用できる古伝によっていると思われ、古代史研究の貴重な史料となっている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社」現在の春日井市坂下内津の内々(うつつ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「内々神社」によれば、『創建年代については不詳であるが、延喜式に記載された式内社で』、『東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという』とある。

「美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺」岡山県津山市井口にある天台宗金光山長法寺。背後の山は現在、「神南備山」(標高三百五十六メートル)と表記を変えている。「龍の爪」ような跡は残存しているかどうか不明。但し、サイト「津山瓦版」の同寺の紹介の中に、寺宝として「大蛇尾骨」とあって、『美作国山北の里に鵜田勘治光行と言う文武に秀でた若者がおり』、永久二(一一一四)年三月、『高野神社に参詣の途次、冨川の里(現戸川町附近)で郷士砂田庄司氏勝の娘亀千代を見初めた。やがて二人は深いつき合いをするようになったが、このことが氏勝の耳にはいり「不義密通はお家の御法度」、怒った氏勝は光行の家を攻め、皆殺しにしてしまった。光行の死を悲しんで亀千代は気が狂い、小田中在の渕に身を沈め、大蛇に化けて大洪水を起こし、家や田畑を流してしまった、と言う。この「大蛇尾骨」が秘宝として伝わっている。長さ』三十三『センチ、干ばつの時、雨ごいをすれば、たちまち雨が降るといい伝えられている』とあるのだ。悲恋の話であるが、どう見ても背後の山にある(あった)「龍の爪」との連関性が密な感じがしてならない。

「鹽冶(えんや)判官」鎌倉後期から南北朝にかけての武将で出雲守護であった塩冶高貞(?~興国二/暦応四年(一三四一)年)。後醍醐天皇の挙兵に呼応して鎌倉幕府との戦いに貢献、「建武の新政」の後は、足利尊氏に組みし、南朝方制圧に力を奮ったが、暦応四年三月に京都を出奔するや、謀反として北朝に追討され、同年翌月、出雲国で自害した。名浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(全十一段・。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。寛延元(一七四八)年八月大坂竹本座初演)に役転用されたことで一躍、名が有名になった(彼の通称が「大夫判官」であったことから、芝居では塩谷判官として使われた)。

「和氣淸麿(わけのきよまろ)」(天平五(七三三)年~延暦一八(七九九)年)は奈良末期から平安初期の廷臣。備前生まれ。本姓は磐梨別公(いわなしのわけのきみ)。孝謙天皇の頃、京に上り、武官として右兵衛少尉・従六位上の官位を得、天平神護元(七六五)年には勲六等を受けて「吉備藤野和気真人(きびのふじののわけのまひと)」の姓を賜わった。これらは恵美押勝(藤原仲麻呂)追討の功によるものと思われる。神護景雲三(七六九)年、悪僧道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位に就こうとした時、神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒す、として道鏡の野心を退けた。そのため、道鏡の怒りを買って大隅に流されたが、翌年八月に後ろ楯であった称徳天皇が崩御して道鏡が失脚、光仁天皇が即位すると、京に召し返され、和気朝臣の姓を賜わって、天応元(七八一)年、従四位下となった。その後、民部大輔・摂津大夫などを経て。延暦 一五(七九六)年には従三位となった。彼は吏務にも精通し、「民部省例」(全二十巻)を撰し、「和氏譜」を奏上、また、長岡京の造営が停滞していることを憂え、天皇に葛野(かどの:平安京)への遷都を進言したり、摂津大夫の際には治水工事を行なったり、延暦の初め頃(元年は七八二年)には神護寺の前身であった神願寺を河内に建立したりした。死後、彼の遺志によって、備前国の彼の私墾田百町は「百姓賑給田(しんごうでん)」として農民の厚生の料に当てられている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「備前の和氣郡」和気清麻呂は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)生まれであるが、旧和気郡は、もと、広域の藤原郡が延暦七(七八八)年に吉井川を境に、西側を磐梨(いわなし)郡、東側を和気郡として分割して設置されたもので、ウィキの「和気郡」にも、『当地は奈良・平安時代に活躍した和気清麻呂を輩出した地域であり、隣接する磐梨郡とともに豪族和気氏の勢力下にあった』。源順の「和名類聚鈔」には『坂長郷、藤野郷、益原郷、新田郷、香登郷の』五『郷が記載されている。なお和気郷は、和名抄では磐梨郡に所属している。郡衙の位置は藤野郷と推定されており、和気町藤野にある推定地には和気氏政庁跡の碑が建てられ、整備されている』とある。

「伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山」三重県名張市滝之原地区内の何れかのピーク。国土地理院図もリンクさせておく。

「攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)」兵庫県川西市矢問はここ。「龍馬石」がここにあるかどうかは知らぬ。それより、この「矢問(やとう)」という地名が引っ掛かった。非常によくデータとして参考させて貰っている国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「源満仲が住吉大社に祈念して、矢を放ったところ多田(兵庫県川西市市内)に居城を建てた伝説がある。これが「三ツ矢サイダー」の名前の由来にもなっている。福井市和田の和田八幡宮にも同様の伝説がある。もう一本、矢が放たれたはずだが、その場所はどこか?」(「多田」は「矢問」地区を囲むように現在地名として現存する)という質問と、その回答例が実に面白い!(馬や馬蹄とは関係ないけど。この矢問の西北直近(川向う)には、多田満仲と息子でかの名将源頼光の墓が一緒にあるぜよ!)

「多田滿仲」平安中期の武将源満仲(延喜一二(九一二)年(或いは翌年)~長徳三(九九七)年)。清和天皇の曾孫。正四位下・鎮守府将軍。摂津国多田に住んで「多田」を称した。摂津・越前・武蔵・伊予・美濃・下野・陸奥などの国守を歴任した。安和二(九六九)年、為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して、源高明失脚の因をつくり、藤原氏政権の確立に奉仕し、並びなき武人との声望を得、藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫に後の守護大名土岐氏がおり、子頼信の子孫に後の将軍頼朝及び新田・足利・佐竹・武田氏その他の有力豪族がいる。

「同郡小田村大字久々知」兵庫県尼崎市久々知(くくち)。同地区内の久々知須佐男(くくちすさのお)神社に天徳元年、多田満仲権進による旧妙見社の「矢文石」が現存する。由来不明であるが、一説に源満仲が摂津の国守として赴任した際、住吉の神の神託によりこの石に足を掛けて弓を射たところ、その矢の落ちた場所が、先の川西の多田であったとし、そこを多田源氏の発祥とする伝承があるという(のりちゃんずのサイト内の本神社の解説には、満仲の射た矢は、最後に九頭の大蛇の頭を射ぬいたとし、この蛇神は「九頭の明神」として崇め祭られたものだったが、この大蛇の血が引いた跡が「多くの田」のようになっていたことから、その地を「多田」と名づけたとある)。グーグル・マップ・データのサイド・パネルのこれが、その矢を射た石と思われる。但し、柳田國男の言うような、「乘馬の跡」なる石ではない。またまた瓢簞から駒で、この話、馬蹄石ではなく、神矢を放った際に踏みつけた石、その矢が落ちたところの石が原型なのではなかったか?

「阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷」徳島県阿波市土成町吉田椎ヶ丸にある土御門上皇御終焉地ともされる御所神社周辺から北の谷辺りか。ウィキの「御所神社(阿波市)」によれば、『創建年は不詳。椎ヶ丸古墳と呼ばれる前方後円墳の頂近くに鎮座。元は吹越神社と呼ばれ』、大正二(一九一三)年に『村内』二十八『社を合祀』し、昭和三二(一九五七)年に『御所屋敷に鎮座していた御所神社を合祀し、社名を現在の御所神社と改めた』。『当地は土御門上皇の終焉の地と伝えられており、その御神霊を奉っている』。「承久の乱」の『後、土御門上皇は後に阿波国に遷り、嘉禄三(一二二七)年に『土成町吉田の御所屋敷に行宮を営まれたと伝わる』。寛喜三(一二三一)年に三十七歳にして『この地で崩御された。崩御されたと伝わる場所には御所神社が鎮座し、上皇が腹を切った「御腹石」なる岩も残されている』とある。

「和州芳野の吉水院(きつすいゐん)」現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある?水(よしみず)神社(「?」は当神社の正式表記漢字で示した)。本来はは金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)であったが、明治の廃仏毀釈により神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する(ウィキの「吉水神社」に拠る)。しかし、ここの有名な石は「弁慶力釘」の石で、義経の追手に気づいた弁慶が傍にあった釘を二本抜き、表へ出ると、追手の真中にあった硬い岩に、力をこめて自身の親指で釘を打ち込んだというとんでもない代物で、話としては馬蹄石より遙かに迫力がある。「奈良の宿大正楼」公式サイトのブログの「吉水神社の弁慶力釘」で写真が見られる。

「津輕の突端の三厩(みうまや)」津軽半島東岸の青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩(みんまや)地区

「能登珠洲(すず)郡の三崎」石川県珠洲市三崎町。私は珍しくも三度も訊ねた場所である。

「義經記(ぎけいき)」室町前期成立と推定される軍記物。作者未詳全八巻。前半で源義経の幼少年時代の兵法修行や弁慶談・奥州下りを記し。後半では平家討滅後に頼朝の圧迫を受け、諸所を転々としつつ、辿り着いた奥州平泉の高館で自害するまでを描く。義経の生涯を述べながら、平家追討の武勇は数行記されているだけで、民間の義経伝説を集成したものとみられる。室町から江戸時代にかけて著しく成長をとげた「義経物(判官物)」の濫觴というべきもので、後代の文学や芸能への影響が大きい(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり』岩手県盛岡市名須川にある曹洞宗松峰山東顕寺。地図は同寺公式サイトのこちらで。但し、『「譚海」十二』とするが、私の所持するそれの同巻を縦覧してみたが、何故か見当たらない。発見し次第、電子化する。

「畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり」平安末期から鎌倉初期の名将で鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)。ウィキの「畠山重忠」によれば、『畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある』。『源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ』、子重保とともに謀殺された。『存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された』。謀略の顚末は私の「北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡」を参照されたい。

「高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元」旧入間郡(当初は秩父郡所属であったらしい)吾野村は、現在の埼玉県飯能市吾野

「重忠の厩の跡」不詳であるが、航空写真を見ると、四方を山林で囲まれており、痕跡が残っていないとは限らぬ気はする。

「駿州田上の岡」不詳。

「相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕」「三枚橋」から東へこの距離となると、この中央辺りとある。「著作堂一夕話」は曲亭馬琴の随筆(享和二(一八〇二)年夏に京阪に遊歴した際の雑記で、吉川弘文館随筆大成版で所持するので、それを参考に、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。巻上の二番目に出る。読みは一部のみを採用し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂し、読点を追加した。挿絵も添えた(左右に分離しているのを合成して接合した)。挿絵の後の小さなそれは本文の途中の「★」部分に入る馬蹄の後の小さな図である。【 】は割注。後半は関係がないが、次いでに電子化した。

   *

Isibasibatei

Batei

  ○駿馬の蹄迹(あしあと)東福寺の釜

箱根三枚橋の東五六町許(ばかり)に溝ありて、かたはらに湯本村掃除丁場(そうぢてうば)の定杭(じやうくひ)あり。この溝に三尺ばかりの石を五六枚わたして橋とす。北より二枚めの石に名馬の蹄跡(あと)とて、のこれり。そのかたち、★のごとし。相傳(あひつた)ふ、むかし、曾我五郞時致(ときむね)、駿馬に跨(またがり)て山をはせ下るに、鐮倉より使札(しさつ)[やぶちゃん注:使者に持たせて遣る書状。]有て、途(みち)にこゝに行あひぬ。時致、馬を石橋の半(なかば)にとゞむ。その馬蹄、石に入ること、四、五分、今なほ、存す。もし誤(あやまり)てこれを蹈(ふむ)ものは、かならず、祟ありけり。一人あり、件(くだん)の石をとりて、端の石とさしかへたりしに、その人に、はかに死す。里人、怕れて、復(また)、元のごとくせり。脚氣(かつけ)を患(うれふ)るもの、これに祈れば、たちまち、愈ゆ。よりて、常に橋のまへに線香の焚(たき)さしあり。これは祈願ある人、朝ごとに來りて拜す[やぶちゃん注:「と」の脱字か。]いふ。又、箱根權現一の鳥居の邊に釜ニあり。【高三尺許。】文永五年[やぶちゃん注:一二六八年。]【龜山院年號。】造る所にして。東福寺浴室の釜なり。別當法橋位(ほふきやうゐ)隆實とあり。【釜の緣に鑄つけたり。】よく人のしれるところなれば、圖せず。亦、湯本、畑(はた)の民家、正月、門に櫁(しきみ)をたつるなり。木の高サ六尺ばかりなるを二本伐(きり)とりて、十二月廿八、九日より、戸ごとに、これを建(たつ)ること、他州の門松におなじ。櫁は、元、橘の種類にして、めでたきものながら、今は佛家の香花(かうげ)ならで用ることなければ、しらざるものは、あやしみおもへり。

   *

「併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり」小田原電気鉄道の延長線となる箱根登山電車は、電力を供給するための設備として明治三一(一八九八)年に湯本茶屋発電所の建設が開始され、続いて翌一八九九年二月から軌道電化工事が開始された。橋梁改修・架替及び軌道敷設工事なども進められて明治三三(一九〇〇)年三月、全ての工事を完了、同三月二十一日から湯本駅までの全線で電車運転が開始されている(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月である)。恐らくは街道に併置された路面電車方式であったと思われるから、上記の「曾我五郞の馬の蹄の跡」の石橋を撤去して軌道をその上に新設せねばならなかったのであろう。これもまた、蒸気機関車に化けて本物のそれに突進して轢死した化け狸同様、文明が民俗空間を蹂躪してゆく一場面であったのだ。

「武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村字千足(せんぞく)」東京都西多摩郡檜原村のこの附近か。「千足」というバス停がある。

「平山伊賀守氏重」平安末期から鎌倉初期の武蔵七党の一つ「西党」(日奉(ひまつり)氏)の武将で多西郡舟木田荘平山郷(現在の東京都日野市平山)を領した平山季重(保延六(一一四〇)年?~建暦二(一二一二)年?)の子孫。ウィキの「平山季重」によれば、彼の子孫は鎌倉幕府の『執権北条氏の粛清をくぐり抜け、戦国時代に後北条氏に従』ったが、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉の「小田原征伐」で、この平山氏重は檜原城に籠城するも、落城し、『平山氏一族は滅亡し、残った一族も没落』したとある。ウモ氏のサイト「埋もれた古城」の「檜原城」のページがすこぶる詳しい。柳田國男のそっけない謂いは、あたかも架空人物であるかのように誤解を生みそうで、どうも氏重が可哀想に思える。

「宇曾利山(かそりさん)」青森県北東部の下北半島北部に位置する円錐形の火山と外輪山の総称。所謂「恐山」で「おそれやま」とも呼び、知られた「恐山」の名は、この地の菩提寺円通寺の山号に由来する。青森県むつ市大畑町のここ。最高峰は標高八百七十八メートルの釜臥山(かまふせやま)。私は念願だった仏ヶ浦への旅の途中、訪れたことがある。

「九戶(くのへ)地獄」「九戶左近」戦国から安土桃山時代の武将九戸左近将監政実(くのへまさざね 天文五(一五三六)年~天正一九(一五九一)年)。彼は現在の岩手県二戸市福岡城ノ内にあった九戸城を本拠として、数々の武勇を発揮し、北東北で有数の勢力を誇ったが、後継者問題を機に南部宗家と対立し、天正一九(一五九一)年、政実は五千の兵を以って蜂起した。苦戦した南部家当主信直から助けを求められた豊臣秀吉は討伐軍を編成し、六万五千もの兵で九戸城を包囲し、数日間の攻防の末、政実は「降伏と引き換えに城兵の命を救う」との討伐軍の和議を受け入れて投降、斬首され、一族郎党も皆殺しにされた。それがここで言う「地獄」である。詳しくはサイト「草の実堂」の「九戸一族とおかんの悲劇について調べてみた」がよい。その最期の凄惨さと、後の悲話のエピソードも伝えて、如何にも哀れである。

「相州足柄下郡江浦(えのうら)村」神奈川県小田原市江之浦。まあ、馬で行くんだから、どうでもいいですけど、恐らく山路を実測十キロメートル近くは遠征せにゃあかんでっせ、ここじゃ。その初めにスベってんじゃ、とっても無理でんがな、秀吉はん!

『越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」』福井県福井市花野谷町大畑町に「ひづめの滝」として命脈を保っている。我流天晴氏のブログ「我流天晴のじっとしてれないブログ」の「福井県の滝 ひづめの滝(蹄の滝)福井市大畑町」をどうぞ。滝フリークのブログ主も惹かれる雰囲気ではなかったそうです、はい。私も写真を見てそう思います、はい。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は越前の戦国大名。初め、孫次郎延景と称したが、天文二一(一五五二)年に将軍足利義輝の偏諱を得て義景とした。同十七年、父の死により跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和解して越前を平定した。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し、さらに天正元(一五七三)年、信長の攻撃を受けて居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移し、ここを小京都たらしめた風流人でもあった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

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