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カテゴリー「柳田國男」の80件の記事

2017/12/05

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(8) 縁切・不吉な橋その他

 更に東京附近にある數例を擧げて見れば、武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神の社の前は、嫁入には通行をしなかつた。是は神樣の名がモトスであつて「戾す」の音に近いからと説明されて居るが、同じく南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社に於ては、夫婦杉と稱ヘた二本の杉の木の前を嫁入の行列は避けて通らなかつた。此杉は幸にして後に枯れたが、此の如き俗信の起るに至つたのは、今から百九十年前の享保十三年三沼代用水の堀割の時二本の夫婦杉の中間に溝を掘つてから後であると云ふ。是は自分の結論の爲に入用たる一例である。八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂は、村の南部で大藏院と云ふ寺の前の坂であつたが、此坂でも之を通つて緣附いた者は必ず還されると傳へられて居た。以上の三件は共に新編武藏風土記稿に載つて居る。或方面の人には今でも有名な下板橋の緣切榎のことも同じ書中に記してある。是も岩ノ坂と稱する坂路の側で、其榎は第六天の祠の御神木であつた。今では此木の削り屑を戴いて歸り、別れたいと思ふ相手の者に窃(そつ)と服ませると忽ちだと信じ、背中合せの男女を描いた繪馬札を賣る店屋までが出來たさうだが、是は事ろ神の惡德を利用した江戸の人間の働きで、元は他の村々と同樣な困つた障碍であつた證據には、此地が仲仙道の往來であるにも拘らず、現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた。東京の眞中でも今の甲武線の水道橋停車場の附近に、つい近頃まであつた三崎稻荷の社は、一名を緣切稻荷と稱し、婚禮婿入に此前を通れば必ず離別するとて通らなかつたと江戸志にある。又王子の町から北に當る荒川の豐島の渡でも、嫁入婿取には決して之を渡らず、双方川向へ緣組をするに上の渡又は小代河岸へ迂囘(まはりみち)をしたと、遊歷雜記二編中卷にある。其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだと云つたさうであるが、其事實の有無は未定としても、此渡場の少し上に足立姫嫁入の時、父の宰相が特に架けさせたと云ふ橋の跡があつて、近昔まで橋杭が殘つて居たとあるのは、やがて亦此地も橋姫の勢力範圍であつたことを想像せしめる。新宿の西青梅街道の上、井頭(いのかしら)用水に架けられた淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る。 中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説があり、橋の名も元は姿不見橋と呼んだのを、何代かの將軍鷹野の時に是は吉くない名だと仰せられ、ちやうど橋の袂に水車小屋があつたので、淀の川瀨の水車の緣を以て淀橋と云ふ名を下すつた。其にも拘らず此橋でもやはり緣組を嫉み、廂髮の女學生上り迄が御嫁に行くのにどうしても爰を通過せず、えらい大𢌞りをしたり又は田の中の小路を步いたりして居つた。大正二年の十一月二十一日(自分が今此事を書いて居るのも四年目の同じ日であるのは又一つの不思議である)、右の水車の持主で淀橋銀行の頭取もして居る淺田さんといふ長者の家で、嫁御を東京から迎へるにどうしても此橋を渡らねばならぬ際、いつそ此序にと云ふわけで盛大な鎭祭を擧行し、自分も傳説を知つて居ると云ふ廉で其式に招かれて行つた。祭場は橋から下手へ掛けて水の上に大きな棧敷を構へ、あんな立派な祭は曾て見たことが無い。其時の神官の祝詞及び來賓名士の演説は奇天烈を極めたものであつた。さうして其次の日には何臺かの自働車はブーブーと、花嫁さんを乘せて花々しく此橋を渡つたのである。自分は單に民衆心理の研究から、窃かに其後の成績に注意して居ると、一年も經たぬ内に早近所では御嫁さんは病氣ださうなとか、其他色々の不吉な事ばかり噂をして居る。確かな人の話で其は全く虚誕と判明したが、しかもかの方面の人々が其後自由に此橋を通つて緣組して居るかどうか。自分などはやつぱりだらうと思つて居る。

[やぶちゃん注:「武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神」埼玉県比企郡吉見町江綱(えつな)に現存する元巣神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田が引く「新編武蔵風土記稿」(巻之百九十八)にある江綱村の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「元巢明神社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

村ノ鎭守ナリ。祭神詳ナラズ。當社ノ戾ノ訓ニ近キトテ、嫁娶ノトキハ社前ヲ避忌ト云。

   *

とある。しかし、個人サイト(サイト主は社会科の教員であられるようだ)「ばらさ日本史」の「流行神・元巣(はやりがみ・もとす)神社」の記載によれば、これが恵方へ後に逆転した時があったという。もともと『「元に戻る」にあやかって、病気平癒(元の健康体に戻る)や家出人の発見、離婚などを願う人々の信仰も水面下にはあったと』されるが、『俄然』、『注目をあびるのは近代になってからで、まさに「元巣」(つまり、戦地から元の巣である家に無事戻ってきてほしいの意)がゆえに急速に人々の信仰を集める、いわゆる「流行神(はやりがみ)」となって』いったというのである。以下、少し引用を続けさせて貰うと、『「流行神」とは、民俗学上の用語で、ある特定の時代背景の下、一過性の流行がみられる信仰対象のことで』、『特に、近代以降の度重なる戦争を背景に、表面的には武運長久を祈願しつつ、その実、弾丸除けや徴兵逃れ、出征兵士が無事に帰還することなどをひそかに祈る神社が流行し』、『有名なところでは、龍爪(りゅうそう)大権現[=穂積神社。静岡市]、方広寺半僧坊大権現[静岡県引佐町]、大山祇神社(おおやまつみ)[茨城県高萩市]、大魔王天神社[山梨県鳴沢村]、高越(こうつ)大権現[徳島県山川町]などがあり』、『埼玉県でも、この元巣神社をはじめ、同じ比企郡内の嵐山町にある鬼鎮(きじん)神社、同郡小川町の半僧坊』『などがあり』、『この他、戦時中には、出征兵士の武運長久を祈って、八幡神社を順に』八『つ参拝する「八幡八社参り」、それぞれの地域を代表する』八『つの神社を参拝していく「八村八社参り」、近隣』三十三『の神社を参拝する「三十三社」参り、神社などに参拝して千社札を貼り付けていく「千社参り」などが、個人や家族、隣組、青年団等でさかんにおこなわれ』たという(以下、同神社で発見された祈願者の名簿発見によって、太平洋戦争の戦局が悪化するにつれて、祈願者が膨れ上がっていったという事実が記されてある。必見!)。『実は、この元巣神社』は『日露戦争』『のころに、徴兵逃れの祈祷中に憲兵から踏み込まれ、神職が追放された上に、社名を地名に由来する「江綱神社」に強制的に改称されられたという歴史をもって』いるともある。『しかし、こうした国家の弾圧はあっても、人々の祈りまで圧殺することができなかったことは、前述の祈願者の数字が雄弁に物語って』おり、敗戦の年昭和二〇(一九四五)年十二月『には元巣神社の名称に復帰し』たともある。最後にサイト主は『元巣神社は、今は黙して語らず、といった雰囲気ですが、そのかみ、実は無数の人々の切実な願いや祈りで埋め尽くされていた場所だったのです』と記しておられる。

「南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社」現在の東京都足立区舎人に現存する舎人諏訪神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編武蔵風土記稿」(巻之百三十八)にある舎人町(「村」ではない)の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「諏訪社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

西門寺ノ持ナリ、此社地ニ夫婦杉ト唱ヘテ二樹アリシガ、三沼代用水堀割ノ時コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時、前ヲ過ルハキラヒシトテ、此道ヲ避ルト云。此杉、今ハ枯タリ。

   *

とある。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同神社の解説によれば、それ以前に具体的な因果伝承が存在することが判る。この神社、鳥居が社殿の前になく、神殿のに対して左斜めに位置にあるが(リンク先に画像有り)、『舎人諏訪神社の創建年代は不詳で』あるが、『毛長川の名称にまつわる伝承から新里毛長神社の男神に比定して女神とされて』いるとされ、「ブックレット足立風土記舎人地区」による舎人諏訪神社の由緒によれば、『昔、舎人に嫁いだ新里村(草加市、毛長川の対岸)の娘が、姑との不仲で川に入水し、後を追って夫も自害した。その川からは娘の長髪が見つかり、それを神体としたのが新里毛長神社で、その川も毛長川と呼んだという。舎人諏訪神社の社殿が鳥居に対して斜めに建っているのは、夫婦の霊を慰めるため、諏訪神社(男神)と毛長神社(女神)の方向に向けたためだという』とある。これはこれで私には別な意味で非常に興味深い。

「享保十三年」一七二八年。

「三沼代用水」見沼(みぬま)代用水(だいようすい)。享保十三年に幕府役人井沢弥惣兵衛為永が、新田開発のために武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井(武蔵国(現在の埼玉県さいたま市及び川口市にあった広大な沼を利用した、一種の灌漑用ダム)の代替用水路であった。流路は現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路の方が東京都足立区に、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至っている。参照したウィキの「見沼代用水」によれば、『埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている』とある。

「八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂」「忠生」は現代仮名遣で「ただお」と読む。現在の東京都町田市忠生の北に接する東京都町田市図師町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「釜田坂」はここ(グーグル・マップ・データを使用した「坂学会」による作成の水色部分)。参照した「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「鎌田坂」(別称に「釜田坂」とある)によれば、『木曽宿を横切り、図師原を貫き、鶴見川の河谷へ向かって下るのが鎌田坂で』、『坂の途中から矢倉沢街道(大山みち)が南西方向に分岐しているが、そこに縁切り不動があり、この坂を、たまに縁切り坂とも呼ぶことがある』とあって、但し、その『縁切り不動は、坂上の簗田寺に移されている』とある。とすれば、この坂の縁切呪術はその不動の呪力によるものであり、今は既にその呪力は失われているとも採れよう。

「大藏院」現認出来ない。

「下板橋の緣切榎」かなり有名であるから、多くの記載がある。ここは画像の豊富な、サイト「東京DEEP案内」の縁切榎 (東京都板橋区)をリンクさせておく。場所は東京都板橋区本町。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、この縁切伝承の起原には語の訛とするしょぼい定説があるとし、『江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この』二『本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち』、『「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい』とある。なお、流行り神対象となった初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存)、現在は三代目であるともある。

「岩ノ坂」「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「岩ノ坂」を参照されたいが、この坂は或いは、それ自体にも不吉な呪力があるのかも知れない。そこには『かつて坂の左側に榎の大木が聳え』、『奥に第六天社があった。今は反対側に移され』て「縁切榎」と呼ばれているが、『坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く』、『不気味な坂であったので』、『「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれた』とあるからである。

「第六天」ウィキの「第六天神社」より引く。『関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある』。『元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)』(仏道修行を妨げる天魔。三界の欲界の最高位で、且つ、六道の天道(天上界)の最下部とされる六欲天の第六天に住む、欲界の天主大魔王第六天魔王波旬(はじゅん)のこと。仏教で通常、天魔と言った場合は、狭義には彼を指す)『を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)』に『祭神を変更し』てしまった。「新編武蔵国風土記稿」には三百二十余社が、「新編相模国風土記稿」には百四十余社が、「増訂・豆州志稿」には四十余社の『「第六天神社」を確認でき』、『江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが』、『前述の神仏分離によって改称』や『他の神社』へ合祀され等してしまい、粗末な『祠のようなものも数えれば』、『現在でも三百余社あるものの』、『宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている』。『なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる』。『また、千葉県香取市の山倉大神は前述の神仏分離まで大六天王(第六天魔王と同一)を祀っており(現在では近距離に所在する真言宗山倉山観福寺に遷座)、大六天王社の総社とされていた』。『一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが』、『西日本では皆無となっている』。これは一説に、『戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためと』もされる。『なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない』。『この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に、東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合』『や宮城県名取市の第六天神社のようにそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある』。また、『さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社で』は『御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・烏天狗など天狗と関連付けられている』とあり、これはこれで、またまた私には興味深い事実である。

「現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた」先に挙げたサイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、文久弐(一八六二)年二月に実現した孝明天皇の妹和宮親子(ちかこ)内親王と第十四代将軍徳川家茂との結婚で、和宮降嫁の際、『「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話』が最も知られ、『この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、』第十『代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子』(閑院宮直仁親王の第六王女。京都所司代牧野貞通が朝廷と交渉して家治との縁組が決定され、寛延二(一七四九)年二月に京都を発ち、三月に江戸へ到着している)『の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい』とある。

「甲武線」現在の中央本線の旧称。

「江戸志」近藤義休の著になる江戸地誌「新編江戸志」。寛政年間(一七八九年から一八〇一年)の刊行。

「荒川の豐島の渡」隅田川(嘗ての隅田川は荒川の分流であるからこの謂いは正しい)の「六阿弥陀の渡し」の別称。六阿弥陀詣で(春秋の彼岸の入りや中日或いは彼岸のうちの一日(いちじつ)、江戸近郊の六ヶ所の阿弥陀如来を巡拝する行事。実際には物見遊山が主目的)で霊場を巡る際に必ず使う必要があったため、この名で呼ばれ、付近の地名から「豊島(としま)の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流二百メートルほどの、隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」と呼ばれる場所にあった。大正一四(一九二五)年の豊島橋架橋によって廃止されている。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「上の渡」隅田川の「豊島の渡し」の上流にあった「宮堀の渡し」。「神谷の渡し」とも称されたのを、柳田は略して「かみのわたし」としたものであろう。現在の新神谷橋付近にあって、主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小代河岸」「おだいがし」と読む。隅田川の「豊島の渡し」の下流にあった「小台(おだい)の渡し」のこと。「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあり、江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わい、参照したウィキの「隅田川の渡し」によれば、『江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「遊歷雜記」遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の同書の「二編中卷」を探して見たが、どこに載るのか見出せなかった。識者の御教授を乞う。

「其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだ」東京都足立区扇にある浄土宗龍燈山貞香院性翁寺の公式サイト内の由緒に、『寺伝の縁起や絵巻(ともに足立区文化財)などによれば』、『「性翁寺は六阿弥陀発祥の地にして根元の旧跡である。」』とし、『今からおよそ』千三百『年前の神亀』二(七二五)年、『この地に居住の足立之荘司宮城宰相』の『娘「足立姫」と下女』十二『人水死の難に遭った』。『父・荘司は悲嘆のあまり』、『諸国廻行に出て』、『熊野権現より霊木を授かり、海中に投げ入れると、霊木は当処へ流れ着いていた』。『(旧来、熊の木の地名あり)』。『この霊木を当地に行化の行基菩薩の御手で、六道流転化益に当たって六体の阿弥陀仏を彫刻し、六つの村里に安置して』十三人の亡き『女子のため』、『又、末代衆生利益のため』に行われるようになったのが、『六阿弥陀の始まりである』という。『なお、余り木をもって娘成仏の御影として阿弥陀一体を刻して、荘司屋敷の傍らに草庵を建立して安置したのが当寺開創であり、木余り如来の由縁である』。『その後』、明応元(一四九二)年になって、『当地に来た龍呑上人が姫の墓処の菩提樹の木に毎夜、龍燈のかかるのを見て、守護処に一寺改転を願い出て、龍燈山貞香院性翁寺と給わり、浄土宗寺院として開山され』、『以来、女人往生の霊場として春・秋彼岸の「江戸六阿弥陀巡り」が盛んとなった』とある。

「淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る」「姿不見橋」地名としては旧東京府豊多摩郡淀橋町。東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。現在は東京都新宿区北新宿二町目内。因みに、ヨドバシカメラの淀橋はこの地名に由来する。ウィキの「淀橋」によれば、『淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので』(後注参照)『、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)』。一説は、『姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた』、或いは、『放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と改名した』、別説では、『豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった』とか、『柏木、中野、角筈、本郷の』四つの村(四戸)の『境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した』というものがあるという。

「中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説」「中野区」公式サイト内のなかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか?に以下のようにある。一部のアラビア数字を漢数字に代えさせて貰った。

   《引用開始》

今は昔、応永の頃(一三九四~一四二七)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。

さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。

金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。

しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。

九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし[やぶちゃん注:中略。]

ところで、淀橋つまり姿見ず橋は、大正時代まで縁起の悪い橋とされ、婚礼などのめでたいことには絶対使われることはありませんでした。大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。これはまさに本文に出る話である。]、土地の旧家浅田氏が親族の婚礼のときに、民俗学者柳田国男に講演をお願いするなど盛大な浄め式を行いました。これは「淀橋の迷信打破」と称され、新聞などに報道され広く話題を呼んだそうです。

   《引用終了》

「淀の川瀨の水車の緣」ウィキの「城」に、『淀城の西と北側に直径九間』(約十六メートル)『の大型水車が』二『基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われている。当時山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた』とあるのを指す。

「淀橋銀行」まさに旧東京府豊多摩郡淀橋町に本店があった、大正期の私立銀行。ウィキの「淀橋銀行によれば、明治三〇(一八九七)年に『群馬県利根郡沼田町で沼田銀行』『の名称で設立』され、ここに出る話の翌年の大正三年には、『経営陣も入れ替わり、淀橋町に移転し、淀橋銀行に改称』したが、昭和二(一九二七)年の『金融恐慌の』煽りを受け、翌昭和三年に『名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)に営業譲渡後』、『解散した』とある。

「頭取」「淺田さん」不詳。

「自分などはやつぱりだらうと思つて居る」柳田國男は今現在も、婚礼の際には「やつぱり」相変わらず、忌避している「だらう」と推察しているのであると思われる。]

2017/11/07

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(7) せめぎ合う神と婚姻タブー

 

 諺語大辭典を見ると、京都などでは弘法樣の日(二十一日)に雨が降れば、天神樣の日(二十五日)は晴天、弘法樣の日が晴天なら天神樣の日は雨と云ふとある。是は他の地方でも廣く言ふことであるが、東京などでは今は金毘羅が天氣なら水天宮は雨、水天官が天氣なら金毘羅は雨と言つて居る由、つい此頃子供が女中から聞いたと言つて居た。然るに蠣殼町の水天宮も虎の門の金毘羅も、共に僅か百年ほど前に勸請した流行神で、之と比べると東京の天候の方が何千年古いか分らぬ。つまり是も形式の稍異なつた一の嫉で、最初から僧空海と菅原道眞との二人格が相爭つたことは有り得ぬのである。其に就て猶言ひたいのは、關東の各地に藤原時平を祀るといふ社の多いことである。是などは天神樣に對する反抗と云ふの外に、此邊で神に齋(いは)ふべき道理の無い人物である。前にも引いた譚海の卷十に下總佐倉領の酒々井(しゆすゐ)では、産土神が時平の大臣(おとゞ)である故に、一帶に天滿宮を祀らぬとある。下野下都賀郡小野寺村大字古江の鎭守は時平大明神である。而して其南鄰の安蘇郡犬伏町大字黑袴では菅原道眞を鎭守として居る爲に、昔から兩村の間に取結んだ緣組は一つも終りを完うしたものは無いと、安蘇史と云ふ近年の地誌に記して居る。日本の緣組などは至つてこわれ易いもので、殊に惡いとなつたら猶早く破れたであらうから、單純な迷信とも見られようがどうして又其樣な事になつたか、第一に古江の氏神がなぜ時平となつたかを考へて見ると、是は最初黑袴村の方で天神を村の境の守護神として祭り始めたからであらうと思ふ。是も類例を擧げて見なければ本意を知り難いが、通路の衝に祭る神樣に嫉みと云ふ神性があると考へた結果として、婚姻と云ふ如き緣喜を重んじしかも嫉妬の目的物となりやすい交通に、之を避けたと云ふのは人情の自然である。人類學會雜誌の第四十五號に、信州下伊那郡の伊賀良村と山本村竹佐との境に、二つ山と云ふ小山があつて其麓は縣道である。山を南北にするこの二箇村では緣組をすれば必ず末遂げずと言つて次第に通婚が絶えて居たのを、三州伊良湖の漁夫磯丸と云ふ歌人に歌を詠んで貰ひ、其後此患が無くなつたとある。岐蘇古今沿革志を見ると、右の二つ山は一名を恨山と謂ひ、飯田の城下ヘ出る古道は二つの山の間を通つて居た。高さ大小共に同じ程の二つ山で、西の方が少し低いかと思はれる。嫁入の行列は勿論のこと、其荷物ばかりでも此道を通つて行けばきつと離緣になるとて、常に𢌞り道をして行くとあつて、而も此書は磯丸が死んだ後に著されたものである。福島縣信夫郡宮代村の日枝神社には、源賴義の側室尾上の前が夫を慕つて來て死んだなどゝいふ口碑と石碑とがあるが、其附近の屋敷畠には弘安三年の文字ある今一つの碑があつて、何か由緣のある他の上﨟の墓だと傳へて居る。此村でも婚姻の者は此石塔の前を通ることを忌むので、後に之を中村某の屋敷内へ移したと、二十年ばかり前に出版した信達二郡村誌に出て居るが、今日はどうなつて居るかを知らぬ。

[やぶちゃん注:「諺語大辭典」(げんごだいじてん)は国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)の編になる明治四三(一九一〇)年有朋堂刊の俗諺の辞典。

「弘法樣の日(二十一日)」空海は承和二(八三五)年三月二十一日(ユリウス暦八三五年四月二十二日)に入定したことによる月命日。

「天神樣の日(二十五日)」菅原道真は承和十二年六月二十五日(八四五年八月一日)生まれで、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に没しており、生没の日付が孰れも二十五日であったことから、毎月二十五日を縁日とする。

「金毘羅」現在の東京都港区虎ノ門一丁目にある金刀比羅宮(ことひらぐう:万治三(一六六〇)年に讃岐丸亀藩初代藩主京極高和が芝三田の江戸藩邸内に讃岐の金毘羅大権現の分霊を勧請したのを起源とする)の縁日は毎月十日

「水天宮」東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮(文政元(一八一八)年に久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸三田の久留米藩江戸上屋敷内に久留米の水天宮の分霊を勧請したのを起源とする)の縁日は毎月五日

「流行神」「はやりがみ」。

「嫉」「ねたみ」。

「譚海の卷十に下總佐倉領の酒々井(しゆすゐ)では、産土神が時平の大臣(おとゞ)である故に、一帶に天滿宮を祀らぬとある」「酒々井(しゆすゐ)」は現在の千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「産土神」は「うぶすながみ」と読む。土地神。「卷の十」の「下總國佐倉領時平公の社祭禮の事」。以下。

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○下線佐倉領より南に、酒すいといふ所有、此地うぶすな、時平の大臣を祀れるよしにて、天滿宮をまつらず。しゆすひの領よほど廣き所にて、此近邊すべて皆然り。祭禮の日每年ありて、神輿をいだす、殊外にぎはへる事なり。三山とて千葉と大和田の間に、七ケ村あり、壹村に神輿壹づつありて、壹ケ年に神輿一づつ一村にて出す事なり。

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「下野下都賀郡小野寺村大字古江の鎭守」「都賀」は「つが」と読む。現在の栃木県栃木市岩舟町(まち)古江(ふるえ)に現存する時平神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「安蘇郡犬伏町大字黑袴では菅原道眞を鎭守として居る」栃木県佐野市黒袴町(くろはかまちょう。ここ(グーグル・マップ・データ))の西北西五キロ圏内に位置する、現在の栃木県佐野市天神町に鎮座する朝日森天満宮の分社か。ここ(グーグル・マップ・データ)。「佐野市」公式サイト内の「黒袴町」の由来に、『黒袴にある天満宮の祭神菅原道真公が、黒い袴を着用していたことによるといわれてい』るとあるからである。但し、地図上では黒袴地区の天満宮は現認出来ない。]

「安蘇史」「あそし」と読む。荒川宗四郎著明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊。旧安蘇郡は現在の佐野市の一部町域を除く全域と、日光市の足尾町各町及び群馬県桐生市梅田町の一部に相当する。

「衝」「しよう(しょう)」必ず通る道や地点。要所。

「信州下伊那郡の伊賀良」(いがら)「村と山本村竹佐」(たけさ)「との境に、二つ山と云ふ小山があつて其麓は縣道である」ここ(グーグル・マップ・データ)がロケーション。中央に「二ツ山」(「三ツ山」も北西にあり、この両地区がこの二つの山塊によって南北に分けていることが判る。航空写真に切り替えると、その様子が、より鮮明となる)があり、それを挟んで東北に「飯田市立伊賀良小学校」が、画面の左下に小さく地名の「竹佐」を確認出来る。県道は二三三号が「二ツ山」の東北山麓を、四九一号が西南部を通っている。

「三州伊良湖の漁夫磯丸と云ふ歌人」糟谷磯丸(かすやいそまる 明和元(一七六四)年~嘉永元(一八四八)年)は呪(まじな)い歌を得意とした、伊良湖の漁師の子(長男)である。「愛知県東海市」公式サイトのこちらによれば、彼が生まれた当時の『伊良湖村は貧しく、その上、』三十一『歳で父を亡くし、母は長い間病気でした。親孝行の磯丸は、母の病気が治るように』三年間、『近くの伊良湖神社に毎日お参りをし、そのかいあって』、『やがて母の病気は良くなりました。磯丸が和歌に興味を持ったのは、ちょうどこの頃で、伊良湖神社にお参りする旅人たちが歌を口ずさむのを聞き、その短い言葉の中に不思議な魅力を感じたためでした。磯丸は、もともと漁師で文字を書くことができませんでしたが、努力し』、『歌を作るようになりなりました。そして現在の亀山町に住んでいた大垣新田藩の役人、井本常(いもとつねかげ)に文字や和歌の教えを受け、「磯丸」という名前をもらいました。その後、吉田(現在の豊橋市)の女性の歌人、林織江(はやしおりえ)が伊良湖へ旅をしたときに』、『磯丸が世話をしたのがきっかけとなり、織江の先生であった京都の芝山大納言持豊(しばやまだいなごんもちとよ)の弟子になり、「貞良」の名前をもらい、ますます歌がうまくなっていきました』。『磯丸は旅が好きで、三河各地をはじめ、南信州、静岡、遠くは京都、伊勢、尾張、江戸なども旅をしています。また、田原の殿様に呼ばれ、田原城の月見で歌を詠んだこともありました』。『磯丸は、一生のうちに数万首の歌を作ったといわれています。中でも「まじない歌」は、当時の人々の暮らし向きや磯丸の人がらがよく表れています。磯丸が詠んだまじない歌は、人々の願いや困りごとなどを誠心誠意、心を込めて歌にしたものです。磯丸に歌を詠んでもらい、その歌を石碑にしたり、掛軸にして床の間に掛けると、不思議とその願いがかなったのです。磯丸は、その行く先々で歌を詠んでほしいと頼まれ、断ることもなく、それぞれの願いを歌にしていきました』。『老若男女、身分、貧富を越えて、多くの人々に愛された磯丸は』、『生まれた日と同じ』五月三日、八十五『歳で伊良湖の地で亡くなりました』。『磯丸を慕う人々は神様としてお祀りすることを願い出、それが許され』、『「磯丸霊神(いそまるれいじん)」の名前をもらいました。神様となった磯丸のために伊良湖の人たちは、「磯丸霊神の祠」をつくりました。この祠は、現在、伊良湖神社境内に「糟谷磯丸旧里」の石碑とともにあります』とある。

「患」「わずらひ」。悪因縁。

「岐蘇古今沿革志」(きそここんえんかくし)は明治二三(一八九〇)年に西筑摩郡長の要請によって元儒者で明治期の自由民権運動家となった武居用拙(たけいようせつ 文化一三(一八一六)年~明治二五(一八九二)年)が編纂した木曽地方の歴史地誌。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で読める。

「右の二つ山は一名を恨山と謂ひ、飯田の城下ヘ出る古道は二つの山の間を通つて居た。高さ大小共に同じ程の二つ山で、西の方が少し低いかと思はれる」この叙述から見ると、或いは現在、間を中央自動車道が通って、西を「三ツ山」、東を「二ツ山」と地図でなっている全体が、実は原「二ツ山」だったのかも知れない気がしてきた

「福島縣信夫郡宮代村の日枝神社」現在の福島県福島市宮代鍛治畑にある日枝神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。社伝によると、永承年間(一〇四六年~一〇五二年)に源頼義が奥州平定の際、当地に鎮守府を設け、近江国日枝山の神を奉斎、その後、康平五(一〇六二)年に嫡男八幡太郎義家が社殿を造営して国家鎮護を祈願したのが始まりとされる(「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の日枝神社に拠った。説明版の写真その他、必見! 住所が「屋敷畑」(後注参照)とあるが、これは「鍛治畑」の誤りである)。

「源賴義の側室尾上の前が夫を慕つて來て死んだなどゝいふ口碑と石碑とがある」この尾上(おのえ)の前伝説は東北地方に点在し、古浄瑠璃にもあるが、その内容は頼義の妻ではなく、子の義家と敵安倍貞任の一人娘との悲恋という構造になっている。「石碑」「がある」と柳田國男は言っているが、ネット上では確認出来なかった(前注のリンク先にもそれらしい記載はなく、今一つ、日枝神社を紹介したブログ記事にも出ない)。

「字屋敷畠」福島市宮代屋敷畑(やしきはた)として現存する。(グーグル・マップ・データ)。先の日枝神社のある東北で、川を挟んで隣接する。

「弘安三年」一二八〇年。

「今一つの碑」「後に之を中村某の屋敷内へ移した」「今日はどうなつて居るかを知らぬ」不詳。現存しないか。

「信達二郡村誌」既出既注。農民志田正徳著になる福島の信夫郡と伊達郡(こちらは一部のみが残存)の地誌「信達一統誌」を補完する形で、明治三六(一九〇三)年に出版された中川英右編・佐沢広胖訂になる地誌と推定される。]

2017/09/10

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(6) 対立する神々の祟り

 

 此例はまだいくらもある。中でも珍しいのは日次記事の三月の條に、京都の西の松尾の人は紀州の熊野へ參らず、熊野の人も松尾明神には參詣してはならぬ。此禁を破れば必ず祟があるとある。畏多いことであるが、伊勢の大廟にも、在原姓の者は參宮をしなかつたと云ふ話がある。其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた。京都粟田口明神社の坊官鳥居小路氏の如きは卽ち其家で、參宮が成らぬ故に別に此宮を建てたと粟田地誌漫錄に見え、上州群馬郡の和田山極樂院の院主も、先祖の長野右京亮が在五中將の末であつた爲に、今に至るまで伊勢大神宮に參詣かなはずと山吹日記と云ふ紀行にある。此外守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり、佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡いと云ふ話が、松屋筆記卷五十に出て居り、その平將門の子孫と傳ふる今の相馬子爵の先祖が、奧州から江戸へ參覲する道で、常陸の土浦を通る日は必ず風雨又は怪異があつたのは、將門に殺された叔父國香の墓が此町に在つて、國香明神と祭られて居たからだと新治郡案内にあるが如き、或は東京西郊の柏木村の人は、鎧大明神の氏子で其神は將門の鎧を御神體とすると傳ふる故に、敵の田原藤太秀郷の護持佛だつたと云ふ成田の不動へは參らなかつたと山中共古翁の日錄にあるが如き、何れも謎の如く又下手(へた)な歷史の試驗問題のやうであるが、實は皆此系統の話である。此頃出來た奈良縣高市郡志料に、此郡眞菅村の宗我神社は蘇我氏の祖神を祀つたかと思はれるが、俗には入鹿宮と稱して氏子等は今尚多武峯に參らぬ者が多いとある。是は多武峯には藤原鎌足の廟が有る爲であるが、更に注意すべきは此山から五六里も東、大和と伊勢の國境の高見山に、蘇我入鹿の首が飛んで來て神に祭つたと云ふ言傳へのあることである。此山の神を信心する者は多武峯に參ることの成らぬは勿論、卽事考と云ふ書の卷一には、鎌を持つて登つてさへ、必ず怪我をするか又は山が鳴るとある。是などは明白に山の爭が神の爭となつた一つの證據で、此近邊で秀でゝ居るのは此の二つの山のみである所から、多武峯の競爭者なら高見山は入鹿と云ふことになつたのであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「松尾」「松尾明神」現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。ここに記された禁忌に就いて柳田は子供向けに書かれた「日本の傳説」の「神いくさ」の中で以下のように、その禁忌の意味を分かり易く記している。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

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[やぶちゃん注:前略。]昔の人は氏神といつて、殊に自分の土地の神樣を大切にしてをりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お參りをするやうになつても、信心をする神佛(かみほとけ)は土地によつて定まり、どこへ行つて拜んでもよいといふわけには行かなかったやうであります。同じ一つの神樣であつても、一方では榮え他(ほか)の一方では衰へることがあつたのは、つまりは拜む人たちの競爭であります。京都では鞍馬の毘沙門樣へ參る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があつて、もとはこれを福惜(ふくを)しみの毘沙門などといつてをりました。せつかく鞍馬に詣(まゐ)つて授かつて來た福を、惜しんで奪ひ返されるといつて、鞍馬參詣の人はこの堂を拜まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るやうにしてゐたといひます。同じ福の神でも祀つてある場所がちがふと、もう兩方へ詣ることは出來なかつたのを見ると、仲の善くないのは神樣ではなくて、やはり山と山との背競(せくら)べのやうに、土地を愛する人たちの負け嫌ひが元でありました。松尾のお社(やしろ)なども境内に熊野石があつて、こゝに熊野の神樣がお降(くだ)りなされたといふ話があり、以前はそのお祭りをしてゐたかと思ふにも拘らず、こゝの氏子は紀州の熊野へ參つてはならぬといふことになつてゐました。それから熊野の人もけつして松尾へは參つて來なかつたさうで、このいましめを破ると必ずたゝりがありました。これなども多分双方の信仰が似てゐたために、かへつて二心(ふたごころ)を憎まれることになつたものであらうと思ひます。(都名所圖會拾遺。日次記事)

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「其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた」「伊勢物語」の第六十九段に、「齋宮(いつきのみや)なりける人」という呼称で登場し、業平らしき男と禁断の悲恋をする女性は、実在した第三十一代伊勢斎宮となった恬子内親王(てんし/やすらけいこ/やすこ 嘉祥元(八四八)年)頃?~延喜一三(九一三)年:父は文徳天皇で同母兄弟に惟喬親王がいる)。彼女は貞観元(八五九)年に清和天皇の即位に伴って斎宮に卜定され、貞観三(八六一)年に伊勢に下った。貞観八(八六六)年二月、母親の静子が亡くなったが、斎宮退下(たいげ)の宣勅は下らず、十年後の同十八年に清和天皇が陽成天皇に譲位したことによって、ようやく退下している。ここはウィキの「恬子内親王」を参照した。リンク先には「伊勢物語」のその箇所の梗概も載る。

「京都粟田口明神社」現在の京都市東山区粟田口鍛冶にある粟田神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の末社である大神宮のこと。「粟田神社」公式サイト内の「神社案内」によれば、『大神宮は元々、青蓮院の坊官である鳥居小路家の旧宅地の鎮護神でしたが、勧請された時期は不明です。鳥居小路家の先祖は高階師尚と云い、師尚の母が伊勢の斎宮であったときに在原業平と密通してできた子供でした。この為お伊勢さんのお怒りに触れてその子孫が伊勢に参宮しようとしても、途中で病気になったり、災難にあったりして参宮することができませんでした。そこで大神宮を宅地内に奉斎して参詣するようになったとのことです。その後、明治になって当社の境内に遷座されました』とあるから、旧来の鎮座位置は恐らく、南西直近の青蓮院門跡の近くであったと考えられる。なお、この『高階師尚』については、先のウィキの「恬子内親王」に、「伊勢物語」では、「狩の使」(内親王の従姉(紀有常女)の夫であり、平城天皇の孫でもあった在原業平と考えられている)の男『と「斎宮なりける人」はついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。が、「斎宮なりける人」を恬子内親王とみて、この一夜の契りにより』、『内親王が懐妊、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階峯緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚であるということが、古来流布されており、後の藤原行成の』「権記」『によると、行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王(後の後一条天皇)のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したとある。事実かどうかは別として、その後の尊卑分脈にもそのように記されている』とある。

「粟田地誌漫錄」不詳。

「上州群馬郡の和田山極樂院」現在の高崎市箕郷町にあった修験道の寺院で明治初めに廃寺となったが、それまでは時の権力者から「上野国年行事職」(上野国で寺院を統括する役職)に任命されるほど、上野国の中心的な寺院であった。「群馬県立文書館」のこちらの資料(PDF)に拠った。

「在五中將」業平の別称。在原氏の五男(彼は天長三(八二六)年、平城天皇第一皇子父阿保親王の上表によって臣籍降下して兄行平らとともに在原朝臣姓を名乗った)であったことに由来する。

「山吹日記」幕臣で塙保己一門の国学者奈佐勝皐(なさ かつたか 延享二(一七四五)年~寛政一一(一七九九)年:国学研究の拠点として塙が幕府に建議して作った和学講談所の初代会頭)が天明六(一七八七)年四月十六日に江戸を出発、五月二十三日まで武蔵・上野・下野の三国を旅し、名所旧跡の見学・探訪・調査を記した日記。

「守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり」奈良県大和郡山市番条町にある「中谷酒造」の公式サイト内の「第23 物部氏と善光寺 【アラカン社長の徒然草vol.31】」によれば、物部氏は丁未(ていび)の乱(五八七年)で蘇我氏に滅ぼされるが、その最後の当主が物部守屋であった。この守屋の霊魂は祟ったらしく、鎮魂のために特別な施設が必要とされて、善光寺が建てられたという説があるとする。『本堂一番奥の内々陣と呼ばれる祭壇の中心は守屋の霊魂が宿る守屋柱で』『その左側に本尊、右側に本田善光家族像があ』るが、『現代の参拝者の多くはその事実を知らず、ただ阿弥陀如来の御利益を求めているのが実態で』あると記す。これは善光寺公式サイトウィキの「善光寺」にも記されていないが、柳田のこの一節はそれをよく補完するものと読める。秘かに成された怨霊封じの寺にその封じられた人物の末裔が参っては、トンデモないことが出来(しゅったい)することは明らかであろう。これを読まれた守屋姓の方、ゆめゆめ善光寺をお参りすることなかれ。

「佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡い」神田明神は承平五(九三五)年に乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られ、この社の近くに葬られたことから、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受け、嘉元年間(十四世紀初頭)に疫病が流行した際、これが将門の祟りであるとされて供養が行われ、延慶二(一三〇九)年には当社の相殿神「平将門命」として祀られて現在に至っている。「田原藤太」秀郷は将門追討軍の将であった。

「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)が文化末年(一八一八年)から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に亙り、古今の書物の記事を抜き書きして考証・論評などを加えたもの。著江戸後期の随筆。元は全百二十巻であったが、現存は八十四巻。

「相馬子爵」本書「一目小僧その他」は昭和九(一九三四)年六月刊であるが、本稿「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月発行の『女学雑誌』であるから、これは旧陸奥相馬中村藩(陸奥国標葉(しめは)郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部相当)を治めた藩で、藩庁は中村城(相馬市。ここ(グーグル・マップ・データ))主で、当時、子爵家となっていた相馬家。初出当時の当主は旧相馬(陸奥)中村藩藩主相馬充胤の四男で、相馬家第三十代当主相馬順胤(ありたね 文久三(一八六三)年~大正八(一九一九)年二月一三日)。彼は精神疾患を患った中村藩の末代(第十三代)藩主であった異母兄相馬誠胤を不当に監禁したとして(病死後の再告発では毒殺したとする)、旧相馬中村藩士錦織剛清(にしごりたけきよ)により告発された精神病患者の扱いの問題を含んだスキャンダラスな「相馬事件」の当事者(順胤は錦織を逆に誣告罪で訴えた)でもあった。詳しくはウィキの「相馬事件」を参照されたい。ウィキの「相馬氏」によれば、相馬氏初代の相馬師常は鎌倉初期の名将『千葉常胤の次男で、師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる』が、『師常は常胤の子でありながら、「胤」の字を継承していない。伝承によると』、『師常は平将門の子孫である信田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする』。『しかし、将門の本拠地はもっと北の岩井で、支配圏は豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない』と疑義を呈している。ただ、相馬氏は家紋として「九曜紋」の他に「繋ぎ馬紋」も持っており、『この繋ぎ馬紋は今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』ものである(下線やぶちゃん)。

「參覲」「さんきん」。参勤交代。

「國香」平安中期の武将平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)。。桓武天皇の孫(或いは曾孫)平高望の長男で常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。別名(初名か)は平良望(よしもち)。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、宇多天皇の勅命により、姓を賜与され、『臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元』(八九八)年『に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる 生没年未詳:ウィキの「源護」によれば、『常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐ』って『度々争って』おり、『真樹はこの争いの調停を平将門に頼み』、『将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を』、護の息子扶(たすく)らが『野本にて待ち伏せて襲撃したと言われて』おり、『この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる』とある)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護より』、『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後』、『各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶に要撃された甥の平将門』(国香の弟(平良望三男)良将が将門の父)が、承平五年二月四日に反撃に出た際、居館石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼』(平良望の次男。国香の弟で良将の次兄)『に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』とある。

「常陸の土浦」茨城県土浦市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「國香明神」個人ブログ「将門ブログ」のこちらに、『【八幡神社(平国香の墓)】土浦市田中町』とあって、亀城公園から西四百メートルのところに「八幡神社」があり、『かつてここに「国香明神社」があり、そこにあった小五輪塔が平国香の墓といわれてい』たとし、『現在は、「八幡神社」の社殿内に一対の石造燈籠(外から拝見できます)があり、これが平国香の墓だと』されているという記載がある。恐らくここ(グーグル・マップ・データ)。

「新治郡案内」茨城県新治(にいはり)郡協賛会編明四四(一九一一)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で当該記載を視認出来る。

「柏木村」「鎧大明神」東京都新宿区北新宿にある鎧神社(よろいじんじゃ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区には広く「柏木」の地名が残ることがリンク先の地図から判る。新宿は江戸時代は江戸の西の果てであったから、ここは「東京西郊」と言ってもおかしくはない。同神社は醍醐帝の治世(八九八年~九二九年)に円照寺という寺が創建され、寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神創建されたと推定され、天暦(元年は九四七年)の初めに平将門の鎧を埋めたという伝承があるとウィキの「鎧神社」にある。

「山中共古翁の日錄」「共古日錄」既出既注であるが、再掲する。山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年 本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「奈良縣高市郡志料」奈良県高市郡編・大正四(一九一五)年奈良県高市郡刊。当該記載を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る。

 

「眞菅村」「ますがむら」と読む。文庫版全集にもルビはないが、これはルビ無しでは誤読する。

「宗我神社」「宗我」は「そが」と読む。現在の奈良県橿原市曽我町にある、正しくは宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ/そがにいますそがつひこ/そがのそがつひこ)神社。通称を今も「入鹿宮(いるかのみや)」と称し、古代豪族の蘇我氏に関係する神社として知られ、祭神も曾我都比古神(そがつひこのかみ/宗我都比古神)・曾我都比売神(そがつひめのかみ/宗我都比売神)である。ウィキの「宗我坐宗我都比古神社」によれば、『創建は不詳』であるが、「五郡神社記」では『推古天皇』(在位:五九三年~六二八年)『の時に、蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする』。『一方で社伝では、持統天皇』(在位:六九〇~六九七年)『が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とする』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「多武峯には藤原鎌足の廟が有る」多武峰(とうのみね)は現在の奈良県桜井市南部にある山とそれに付随して一帯に嘗て存在した寺院群を指す。その山頂は御破裂山(ごはれつざん)と称し、標高は六百十九メートルウィキの「多武峰によれば、「日本書紀」には、『飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が』、『「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」と』あり、また「日本三代実録」には天安二(八五八)年『「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている』とある。また、ここにある談山(たんざん)神社の祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)である(明治の神仏分離より前はここは寺で多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)と称した)。参照したウィキの「談山神社によれば、『鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇』七(六七八)年、『長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇』九(六八〇)年『に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した』。大宝元(七〇一)年には『十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が』、大化元(六四五)年五月に『大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる』とある。言わずもがなであるが、大化の改新で蘇我入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺したことによって、蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家は滅亡した(蘇我氏が亡ぼされたわけではないので注意)。

「高見山」奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)との境界にある標高千二百四十八・四メートルの山(グーグル・マップ・データ。中央付近に談山神社を位置させた)。三重県側の麓の松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔も存在するTetsuda氏のブログ「どっぷり!奈良漬」の入鹿の首はどこまで飛んだ?(産経新聞「なら再発見」第105回)で五輪塔の画像も見られる。筆者露木基勝氏の記事が全文引用されてあるが、入鹿の首が飛んだ場所として、まず、先の宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が挙げられており、昭和八(一九三三)年『発行の「大和の伝説」には、「昔、鎌足に打たれた入鹿の首は、現在の曾我の東端“首落橋”の附近にある家のあたりに落ちた。それで、その家を“おつて家”と呼ぶ」と記されている。地元の方の話では、曽我町の伊勢街道沿いに今もある民家の屋号が「おつて屋」で、かつてはその横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという』と記した後、ここの『すぐ隣の小綱(しょうこ)町には、入鹿神社がある。入鹿神社のあたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとの伝承があり、昔から入鹿びいきの土地柄である。小綱町の住民が、鎌足を祀(まつ)る談山(たんざん)神社へ行くと腹痛がおこるとの言い伝えが残っている』というまさにここの柳田好みの例が記されてある(下線やぶちゃん。以下同じ)。『入鹿の首が飛んだ場所は、県内にとどまらない。奈良県と三重県の県境にある高見山の三重県側の麓、松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。一説には、高見山まで飛んできた入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという』。『地元には面白い伝承が残っている。高見山に登る時には「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破って鎌を持っていくと必ずけがをする―とか。また、「五輪塔に詣(もう)でると頭痛が治る」などといわれたようだ(柳田が「即事考」から引用したものと同じ)。『五輪塔の場所から、少し高見山側に登っていくと、能化庵(のうげあん)と書かれた案内板が立っている。入鹿の妻と娘が入鹿を供養し首塚を守るため、尼となって住んでいた寺院跡だという』。『飯高町郷土史は、「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいは全く無関係なものなのかは不明」としながらも、「“火の気のない所に煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」と記している』とある。

「卽事考」竹尾善筑の文政四( 一八二一)年の随筆。同記載は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。]

2017/07/09

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(5) 神々の争い

 

 國玉の大橋の上で猿橋の話をすると災があり、又猿橋で國玉の事をつても同樣であつたと云ふ言傳へは、斯うして見ると謠の戒めの話と裏表を爲して居ることが判る。この二つの橋は共に甲州街道の上に在つて旅人によく知られて居た。さうして猿橋の方にもやはり橋の西詰に、諸國の猿曳が尊信する、俗に猿の神樣などゝ呼ぶ小社があつた。昔の神樣は多くは所謂地方神であつて、土地の者からは完全なる信仰を受けられても、遠國の旅客などには自由な批評が出來た爲であるか、往々にして甲地乙地何方の神が有難いと言ふやうな沙汰があつた。尚其上に此種の神々は當節の大神とは違つて、人間とよく似た感情又は弱點をも有つて居られた。況や失禮ながら其が御婦人であつたとすると、他方の女神の噂などを聽きたまふ時の不愉快は、中々謠を聞いて思出される位の徴弱なもので無かつた筈である。薩摩の池田湖は山川港に近い火山湖で、僅かな丘陵を以て内外の海と隔てられ風景の最も美しい靜かな水であるが、此湖の附近に於て海の話をすれば忽ち暴風雨が起ると傳へられて居たことが三國名勝圖會に見え、阿波の海部川の水源なる王餘魚瀧(かれひのたき)一名轟の瀧に於ては、紀州の那智瀧と此瀧とを比べ又は瀧の高さを測らんとすることを、神が最も忌み嫌ひたまふと云ふこと、燈下錄と云ふ書の卷十に見えて居る。斯う云ふことは昔から人のついしさうな事で、しかもごく僅かばかり劣つた方の神樣に取つては、甚だ面白くないことに相異ない。富士と淺間の煙競べと云ふことは今の俗曲の中にもあるが、古代の關東平野では、夙くより筑波と富士との對抗談があつたと見えて、常陸風土記には其に因んだ祖神巡國(おやがみくにめぐり)の話を載せ、勿論自國の筑波山の方が優れたやうに書いて居る。羽後に行くと鳥海山が富士と高さを爭つたと云ふ昔話がある。烏海はどうしても富士には敵はぬと聞いて口惜しさの餘りに山の頂上だけ大海へ飛んだ。それが今の飛島であると云ふ。前に引用した『趣味の傳説』には加賀の白山が富士と高さを爭ひ、二山の頂きに樋を渡して水を通して見ると、白山の方が少し低かつたので、白山方の者が急いで草鞋を脱いで樋の下に宛てがつて平らにした故に、今でも登山者は必ず片方の草鞋を山で脱いで來るのだと云ひ、三河の本宮山と石卷山は相對して一分も高さが違はぬ故に永久に爭つて居り、二つの山に登る者石を携へて行けば草臥れず、小石一つでも持降れば罰が當り參詣が徒爾となると云ふなどは、何れもよく似た山の爭である。此外越中舊事記に依れば婦負郡舟倉山の權現は能登の石動山の權現ともと御夫婦であつたが、嫉妬から鬪諍が起つて十月十二日の祭の日こは今でも礫を打ちたまふ故に、二つの山の間の地には小石が至つて少ないなどゝ云ふさうである。昨年秋の院展に川端龍子君の手腕を示した二荒山緣起の畫なども、やはり亦此山と上州の赤城山との丈競(たけくらべ)古傳を理想化したもので、是たどは最も著しい例であつて、今でも赤城明神の氏子たちは日光には參られない。舊幕時代には牛込邊の旗本御家人たちの赤城樣の氏子であつた者は、公命に依つて日光の役人になつた場合、氏神に參詣して其仔細を申し、自分だけ一時氏子を離れて集土(つくど)八幡又は市谷八幡の氏子となり、在役中の加護を願つたと云ふことが、十方菴の遊歷雜記五篇の中に見えて居る。

[やぶちゃん注:「國玉の大橋の上で猿橋の話をすると災があり、又猿橋で國玉の事をつても同樣であつたと云ふ言傳へ」本「橋姫」の冒頭を参照。

「猿橋の方にもやはり橋の西詰に、諸國の猿曳が尊信する、俗に猿の神樣などゝ呼ぶ小社があつた」「猿曳」「さるひき」。猿回しのこと。不詳。検索やグーグル・ストリートを試みたが、少なくとも現在はそこには存在しないのではなかろうか。

「池田湖」鹿児島県の薩摩半島南東部内陸の鹿児島県指宿市にある直径約三・五、周囲約十五キロメートルのほぼ円形を成す純淡水カルデラ湖で九州最大の湖。湖面標高六十六、最深部は二百三十三メートルあるため、最深部は海抜マイナス百六十七メートルでなる。湖底には直径約八百メートルで湖底からの高さが約百五十メートルもある火山を有する。参照したウィキの「池田湖」によれば、『古くは開聞の御池または神の御池と呼ばれており』、『龍神伝説がある』 とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三國名勝圖會」前段で既出既注

「阿波の海部川の水源なる王餘魚瀧(かれひのたき)一名轟の瀧」「海部川」は「かいふがわ」と読み、徳島県海部郡海陽町(かいようちょう)を流れる。この瀧は現在の海陽町平井字王余魚谷(かれいだに)にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、落差は十一メートルで、この滝の上流にはまた大小様々な滝が連続して存在し、総称して「轟九十九滝」と呼ぶそうである。個人ブログawa-otoko’s blogの「轟の滝」がよく書かれてあり、それによれば、現在の轟神社摂社とされる本滝神社の御神体「轟ノ滝」は以前は「鰈(かれい)明神」と呼ばれ、以下の話が伝承されているとして、ここで柳田が引く伝承を含めて記されてある。

   《引用開始》

・平井村にある轟瀧は鰈の瀧とも呼ばれ、此瀧壺である深い深い淵の中には大きな鰈が住んでいると言い伝えられている。(「粟の落穂」)

・樵夫(きこり)は、山上で切った材木を毎日此瀧に流し落として里へ出すのを恒としているが、数日を経ても沢山の材木残らず瀧壺にくくまれたままで川下へ流れ出ない事がある。材木が流れ出ない時は瀧壺の沼を加禮伊(かれい)明神で、瀧祭という神事を営むと忽ち数多の材木は流れ出ると云われている。(「阿波名所圖繪」)

・この加禮伊明神の御神火というものは、年毎に二三度、渓水に添うて川を下り、海に出ると紀州に渡り、日を経てお帰りになるという事である。谷筋、海浜の人達は「御神火のお渡り」と言って、丸い形の御神火を拝みに出る者も多いということである。この御神火は「鈴が峯の神火」であるとも言われている。(「粟の落穂」)

・「轟の滝の近くで紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物であり、那智の滝とどちらが大きいだろうとか、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあった。」(「燈下録」)

   《引用終了》

ブログ主は以上から、紀州熊野那智大社と海部鰈明神には何らかの繋がりがあったのではないかと推察され、『轟神社は深い山中に鎮座しているにもかかわらず「海運向上、航海の神」として祀られてい』ることから、『鰈明神の御神火は神を乗せて行き来する舟の灯り、または神事の灯りであったのではない』考察が附されてある。興味深い。なお、この「かれひ」であるが、海の神を祀るからといって滝壺に住んでいるというそれは海産のカレイ(硬骨魚綱カレイ目カレイ科 Pleuronectidae)であるはずはない訳で、たまたま昨日見ていたTV番組で、岡山ではヤマメ(サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種 ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou を「ヒラメ」と呼ぶことを知ったので、ここはその相似性から勝手に私は腑に落ちていた。なお、何故そう呼ぶかは、Q&Aサイトの回答によれば、渓流釣りの本に他の川魚と比較して体長の割りに広くて平たい感じがするからであろうと書かれてあったとあり、これも腑に落ちた。即ち、私の推測では、「山女魚」は平たい目であるから「平目」と呼び、それが海産魚の「鮃(ひらめ)」と混同され、それがまた形態の酷似する「鰈(かれい)」と誤認されるようになったのではないかという推理である。但し、「かれひ」或いは「かれい」は古語としては多様な意味と語源を孕んでいるから、もともとの原義は全く別な意味である可能性が高いようにも思われる。滝壺に棲息する「かれい」という魚(或いは仮想生物或いは神霊)の伝承は後代に縁起附けするために附加されたもののように私には見受けられるからである。

「燈下錄」文化年間(一八〇四年~一八一八年)に元木維然(蘆州)が書いた阿波の風物誌。

「常陸風土記には其に因んだ祖神巡國(おやがみくにめぐり)の話を載せ、勿論自國の筑波山の方が優れたやうに書いて居る」「常陸風土記」は奈良初期の和銅六(七一三)年(年)に元明天皇の詔によって編纂が開始され、養老五(七二一)年に成立した常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌。訓読原文も所持するものの、読むには注が必要と思われるので、個人サイト「神話の森」内の「訳・常陸国風土記」の『三、筑波郡 「握り飯、筑波の国」』を読まれるのがよかろうと存ずる。

「飛島」(とびしま)は山形県酒田市に属する酒田港から北西三十九キロメートル沖合にある山形唯一の有人島。グーグル・マップ・データのこちらで鳥海山との位置を確かめられたい。ウィキの「飛島」によれば、『島の名称の由来には、鳥海山の山頂が噴火によって吹き飛んで島になったという伝説に基づくとする考えもあるが、古地図には海獣の名前を冠した「トド島」「トンド島」と表記する例もあり、決め難い』とある。

「趣味の傳説」本「橋姫」の冒頭を参照。本書国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、ここに記されてあるのは別々な記載で、「加賀の白山が富士と高さを爭ひ、二山の頂きに樋を渡して水を通して見ると、白山の方が少し低かつたので、白山方の者が急いで草鞋を脱いで樋の下に宛てがつて平らにした故に、今でも登山者は必ず片方の草鞋を山で脱いで來るのだと云ひ」の方は「第二四 怨みは草鞋丈の厚さ」で、「三河の本宮山と石卷山は相對して一分も高さが違はぬ故に永久に爭つて居り、二つの山に登る者石を携へて行けば草臥れず、小石一つでも持降れば罰が當り參詣が徒爾となると云ふ」の方は「第一一 山と山との爭」でである。

「越中舊事記」天保年間(一八三〇年から一八四四年)に書かれた越中地誌。

「婦負郡舟倉山の權現」以下の話は国立国会図書館デジタルコレクションのの画像の「舟倉村」で視認出来るが、この「婦負郡」は誤りで旧「新川郡」が正しい。リンク先を確認されたい。恐らくは現在の富山市舟倉周辺と思われる。(グーグル・マップ・データ)。

「昨年秋の院展に川端龍子君の手腕を示した二荒山緣起の畫」本「橋姫」は大正七(一九一八)年一月号『女學雜誌』初出である。川端龍子はこの前年に「二荒山緣起」を発表している。同作に就いての当時の評言(文学博士松本亦太郎筆)が(PDF)で読める。如何なる絵かは私は知らぬ。

「赤城明神」群馬県の赤城山を祀る神社。ウィキの「赤城神社によれば、『群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が』百十八『社、日本全国では』三百三十四『社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。その中でも著名なものが、東京都新宿区赤城元町の赤城神社である』とあり、新宿にあ赤城神社ウィキ見ると(場所は(グーグル・マップ・データ))、『明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれ』、鎌倉時代の正安二(一三〇〇)年に上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治によって牛込早稲田にあった田島村に創建されたと伝わり、寛正元(一四六〇)年には江戸城を築城した太田道灌によって牛込台に移されたとある。その後、弘治元(一五五五)年、『現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた』(下線やぶちゃん。以下同じ)。「江戸名所図会」では『「赤城明神社」として紹介され』、牛込の鎮守と記されてある。

「集土(つくど)八幡」現在の東京都新宿区筑土八幡町にある筑土八幡神社。(グーグル・マップ・データ)。新宿区赤城元町の赤城神社の東方直近。

「市谷八幡」東京都新宿区市谷八幡町にある市谷亀岡(いちがやかめがおか)八幡宮。赤城神社の北一キロ強。

「十方菴の遊歷雜記五篇の中に見えて居る」既注であるが、再掲しておくと、小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中の見聞録。以下の話は同書の「第五篇」の「卷之中」の二十三番目にある「牛込赤城大明神開扉神禮」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の当該部分画像のここから次の頁にかけてで視認出来る。]

2017/07/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(4) 橋姫と謡曲

 

 それから今度は謠をうたつては惡いと云ふ言傳へをあらまし説明しよう。是も亦各地方に同じ例の多い事で、九州では薩州山川港の竹の神社の下の道、大隅重富の國境白銀坂等に於て、謠を謠へば必ず天狗倒しなどの不思議があつたことは三國名勝圖會に見え、越後五泉町の八幡社の池の側では、謠を謠へば女の幽靈が出ると溫故之栞第七號に見えて居る。又駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居るが、是は何故に特に杜若だけが惡いのか詳しいことは分らぬ。併し他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へぱ近頃出來た名古屋市史の風俗編に、尾張の熱田で揚貴姫の謠を決してうたはなかつたのは、以前此境内を蓬萊宮と稱し、唐の揚貴姫の墳があると云ふ妙な話があつた爲で、新撰陸奧風土記卷四に、磐城伊具郡尾山村の東光院と云ふ古い寺で、寺僧が道成寺の謠を聞くことを避けて居たのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた爲であると言つて居る。信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある理由などは、恐くはくだくだしく之を述べる必要も無いであらう。然らば立戾つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり、近代になつては「野宮」がいかぬと云ふことになつたのは抑如何。是は謠と云ふものを知らぬ若い人たちでも、源氏物語を讀んだことのある方にはすぐに推察が能ることである。つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉深い婦人、六條の御息所と云ふ人と賀茂の祭の日に衝突して、其恨の爲に取殺されたのが葵の上である。「野宮」と云ふのも所謂源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との爭ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。「三輪」を謠へば再び道が明るくなると云ふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名た三輪の神樣が人間の娘と夫婦の語ひをたされ、苧環(おだまき)の絲を引いて神の驗の杉木の上に御姿を示されたと云ふ話を作つたもので、其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある。併し何れにしても橋姫の信仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずつと古くからあるは勿論、源氏の時代よりも更に又前からあつたことは、現に其物語の中に橋姫と云ふ一卷のあるのを見てもわかるので、此には只どうして後世に、そんな話を憎む好むと云ふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。

[やぶちゃん注:「薩州山川港の竹の神社」現在の鹿児島県指宿市山川(やまがわ)福元にある竹山神社のことと思われる。鹿児島県神社庁公式サイト内の同神社の頁によると、創建は天和三(一六八二)年で、『岩石奇峯二山を神体としている』とした後に、『一説に谷山烏帽子嶽大権現大天狗ともいう。縁起によれば、隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪が伝えられている』とあるからである。場所はこちら(グーグル・マップ・データ)。なお、ずっと北の指宿市山川新生町の町中にも同名の神社があるが、これはこちらの分社か。

「大隅重富の國境白銀坂」文庫版全集では白銀に『しろがね』とルビを振るが、これは現在の鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市牟礼岡まで伸びる石畳の坂道白銀坂(しらかねざか)のことである。ウィキの「白銀坂」によれば、『坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた』。『江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約』四キロメートルであったが、現在はその内の約二・七キロメートルが残っている、坂の高低差は三百メートル以上もあって、『中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である』とある。如何にも天狗好みの坂ではないか。この中央付近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「天狗倒し」深山に於いて突然凄まじい原因不明の大音響が起こるが、行って見ても何らの形跡もない怪奇現象を指す。天狗の仕業とされた。

「三國名勝圖會」江戸後期、薩摩藩第十代藩主島津斉興(なりおき)の命によって編纂された領内地誌。天保一四(一八四三)年完成。書名の「三國」は薩摩国・大隅国と日向国の一部を含むことによる。特に神社仏閣についてはその由緒・建物の配置図・外観の挿絵まで詳細に記載されており、各地の名所風景を描いた挿絵も多い。全六十巻(以上はウィキの「三国名勝図会」に拠った)。

「越後五泉町の八幡社」旧新潟県中蒲原郡五泉町(ごせんまち)は現在は五泉市内。同所で最も知られる八幡社は宮町にある五泉八幡宮(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか?。

「溫故之栞」(おんこのしおり:現代仮名遣)は新潟の温故談話会の発行した地方民俗雑誌『越後志料温故之栞』。明治二三(一八九〇)年二月から明治二十六年一月まで三十六号を刊行している。

「駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居る」「杜若」は「かきつばた」(文庫版全集ルビ)。以下。

   *

駿河城内に、杜若といふ御長屋あり。爰にて杜若の謠をうたへば、かならずあやしき事あり。よつて駿河御番の衆には、杜若の謠は御法度のよし、御條目の一つに仰渡さるゝこと也。

   *

因みに、謡曲「杜若」は作者不詳(世阿弥や金春禅竹作説あり)。旅僧が三河の八橋 に行きかかると、杜若の精が現れて「伊勢物語」の話をし、在原業平の歌の功徳で成仏したことなどを語るもの。その判り易い梗概は「スーちゃんの妖怪通信」の島根県松江市の伝承「杜若の謡」が判り易いが、そこに書かれた妖怪「小豆研ぎ」との関連も面白い。そこにも記されている通り、この松江の怪奇伝承は小泉八雲が記している。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一八)』を参照されたい。

「揚貴姫」後の部分とともにママ。文庫版は両方とも普通に『楊貴妃』となっている。謡曲「楊貴妃」は金春禅竹作で、玄宗皇帝の命を受けた方士が亡き楊貴妃の霊を仙界の蓬萊宮に尋ね当てて貴妃の霊がかつての玄宗との愛などを語る、白居易の「長恨歌」をもととした唐物。

「新撰陸奧風土記」保田光則(やすだみつのり 寛政九(一七九七)年~明治三(一八七〇)年):陸奥仙台藩士で国学者。和漢の学に優れ、藩校養賢堂和学指南役及び藩主の歌道師範役を兼ねた)著。万延元(一八六〇)年刊。

「磐城伊具郡尾山村の東光院」現在の宮城県角田市尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった修験寺。現存しない。宮城県角田市観光情報ポータルサイト「ココカクダ」の「東光院跡」によれば、『東光院は本山派京都聖護院の大先達として、仙台の良覚院、丸森木沼の宗吽院とともに祈祷所として大きな役割を果し、伊具・名取・宇多も』三『郡を霞場(祈祷の縄張り的地域)として』、慶長一三(一六〇八)年に『伊達政宗に与えられた』。『東光院には安達ヶ原の鬼退治の伝説、安珍清姫の道成寺物語がある』とある。この「かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた」とする話は、調べてみると、現行の安珍清姫伝承とは異なる不審な展開のように思われる(何より「僧都」「三世」とあってはこの物語の安珍は死んでいないとしか読めぬ)。場所が少し離れるが(角田市尾山から西北西十一キロメートルほど。(グーグル・マップ・データ))、宮城県白石市不澄ケ池にある真言宗延命寺には「安珍地蔵尊(ころり地蔵尊)」なるものがあり、その寺にある解説板に、本寺の伝承についての言及が以下のようにある(杜のイーグルス氏のブログのこちらにある画像を視認した)。

   *

修行僧安珍については、各地に種々の伝承が残っている。伊具郡尾山村(現在の角田市尾山)東光院の寺伝によると、東光院第三世安珍が二十七歳の折、紀州熊野山三山への修行行脚の途中、紀州真砂庄司(しょうじ)の佐夜姫(清姫)に恋慕されるが、修行のためとそれを拒む。

 佐夜姫は安珍恋しさのあまり、日高川に身を投じ、その霊魂が妖怪となり、後々までもたたりをなしたという。

(伊具郡尾山風土記書上) 

 歌舞伎「道成寺物語」では、安珍が道成寺の釣鐘に身を隠すが、大蛇と化した清姫に鐘もろとも巻き付かれ、その煩悩の火によって焼死したという。さらに一説に、この僧安珍は白石生まれと伝えられ、その悲報を伝え聞き、供養のために造立したのがこの地蔵尊といわれ、いつのころからか「ころり地蔵尊」と呼ばれ参詣されるようになったという。

   *

「道成寺の謠」私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclという特設サイトを持っている。謡曲の「道成寺」はこちら

「信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある」「笈埃隨筆」(きゅうあいずいひつ)は江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)の作。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

     ○山姥

 越後より信州善光寺へ參詣するに、上道下道あげろ越とて、三筋の大難所ありて、多くの谷峯を越ゆる也。或は葛を以て橋となせる川など有て、なかなか容易に至り難き道なれば、本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたりとす。則あけろと云。糸魚川より五里上の村中に一つの林あり。昔山姥の住家なりとて、古松は兩枝相さゝへ鳥居の形に似たり。此邊にて山姥の謠を吟ずる事を堅く禁止すといふ。【案ずるに、上道下道あけろの三道とは不審。上道則上路ならんか。尋ぬべし。此謠曲も善光寺へ參る道すがら山姥に逢しといへりとぞ。】

   *

筆者百井も不審に思っているように、「上道下道あげろ越とて、三筋の大難所」と言いつつ、「本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたり」とある以上は、「上道」・「下道」・「あげろ越」という別個な三通りの参道があるのではなく、「上道」は「則」ち「上路」(あげろ)なのであり、その上り下りのある、途中の峠を「あげろ越」と称する難道の参道が「本道」以外に今一本あると言っているのだと私は思う。ここに出る謡曲「山姥」は、世阿弥作と推定されるもので、京で「山姥の山廻り」という曲舞(くせまい)を美事に演したことから「百ま(「萬」或いは「魔」)山姥」と呼ばれた遊女が従者を連れて善光寺参りを志し、越中越後の国境にある境川から上路山を越えんとするも、山中で急に日が暮れてしまって困り果てていると、そこに年嵩の女が現われ、一夜の宿を貸してくれる。女は自ら山姥であることを明かし、遊女のまさにかの曲舞を今宵の月の上がった夜半に舞うてくれることを乞うて消える(この中入の前後にもう少し展開がある)夜更けに舞いを奏でると、山姥が異形の姿を現し、己が深山幽谷での妖魔としての境涯を語り、しかも仏法の深遠な理りを説いて、まことの「山廻り」のありさまを表わして舞いつつ、姿を消すというストーリーである。

『前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり』本橋姫」冒頭の私の注を参照。謡曲「葵の上」はシテを六条御息所の生霊とする「源氏物語」の「葵」に基づく怨霊物で世阿弥以前の作。

「野宮」謡曲「野宮」。「ののみや」と読む。金春禅竹作ともされる。旅僧が嵯峨野の野宮の旧跡を訪れ,一人の女と会い、光源氏がこの野宮に六条御息所を訪問したことなどを語って鳥居の陰に消える。夜となって弔いをする僧の前に車に乗った御息所の霊が現われ、正妻葵上との車争いのことなどを語って、嘗ての恋の喜びと悲しみを舞うもの。

「抑如何」「そもいかん」。

「能る」「かなふる」か。文庫版全集では平仮名で『できる』となっている。

『「三輪」を謠へば再び道が明るくなる』やはり橋姫」冒頭を参照。謡曲「三輪」は作者不明。シテは三輪明神の神霊。大和の三輪に住む玄賓(げんぴん)僧都のもとに一人の女が来、衣を一枚恵んで欲しいと願う。僧都が与えてその棲家を聞くと、三輪山の杉の辺りと言って消える。僧都が三輪山を訪ねると、神木の杉に先に女に与えた衣が掛かっており、その裾に神託の和歌が託してあった。やがて、巫女の姿を借りた神霊が烏帽子・狩衣の男の衣装で現われて三輪明神に纏わる上古の伝説を物語るという趣向。

「苧環(おだまき)」紡いだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。

『其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある』。謡曲「三輪」のエンデイングは以下。

   *

神樂

シテ 〽天の岩戸を引き立てて

地  〽神は跡なく入り給へば 常闇(とこやみ)の世と早なりぬ

シテ 〽八百萬(やおよろず)の神達 岩戸の前にてこれを歎き 神樂を奏(そお)して舞ひ給へば

地  〽天照太神(てんしよおだいじん) 其時に岩戸を 少し開き給へば

地  〽また常闇の雲晴れて 日月(じつげつ)光り輝(かかや)けば 人の面(おもて)白々(しろじろ)と見ゆる

シテ 〽面白やと 神の御聲(みこえ)の

地  〽妙(たえ)なる始めの 物語

地  〽思へば伊勢と三輪の神 思へば伊勢と三輪の神 一體 分身(ふんしん)の御事(おんこと) 今さら何(なに)と岩倉(いはくら)や その關の戸の夜(よ)も明け かく有難き夢の告げ 覺(さ)むるや名殘(なごり)なるらん 覺むるや名殘なるらん

   *

「橋姫と云ふ一卷」「源氏物語」(五十四帖)の内の第四十五帖。第三部の一部である「宇治十帖」の第一帖で主人公薫は十九から二十一歳。世の無常を感じて出家を志す薫が宇治の八の宮(光源氏の異母弟)を訪ねる。三年の後に再訪した薫は、彼の二人の姫君(大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ))を見て心動かされ、出家を決意した八の宮は彼に二人の娘を託すが、その夜、薫は弁(べん)の乳母(めのと)から柏木臨終のさまを聴き、自分の出生の秘密を知って暗澹たる思いとなるといった展開の帖である。]

2017/05/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)

 

 近年の國玉の橋姫が乳呑兒を抱いて來て、之を通行人に抱かせようとした話にも亦傳統がある。此類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んで居た。ウブメは普通には産女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓たどを夜分に外に出して置くと、ウブメが血を掛けて其子供が夜啼をするなどゝ云ふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものと云ふが、別に又兒を抱いた婦人の形に姿などにも描き、つい賴まれて抱いてやゝ重いと思つたら石地藏であつたと云ふやうな話もある。是も今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話を載せ、「此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子産ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いて居る。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づ之に遭へば喰はれぬ迄もおびえて死ぬ程に畏れられて居たにも拘らず、面白いことには産女にも往々にして好意があつた。例へば和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔此寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より産女の幽魂現れ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女の爲に囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。此寶塔は卽ち其金を費して建つたものである。夷堂橋の北の此寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までも有つたと云ふ。加藤咄堂氏の日本宗教風俗志には又こんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産(うぶ)の玉と稱する物は、是も此寺の昔の仕持で日行と云ふ上人、或時途上で頗る憔悴した婦人の赤兒を抱いて居る者が立つて居て、此子を抱いてくれと云ふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは水のやうであつた。上人は名僧なる故に少しも騷がす御經を讀んで居ると、暫くして女の言ふには御蔭を以て苦艱を免れました。是は御禮と申して呉れたのが此寶物の玉であつた。今でも安産に驗ありと云ふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。此例などを考へて見ると、謝禮とは言ふけれども實は之を呉れる爲に出て來たやうたもので、佛法の功德と云ふ點を後に僧徒が附添へたものと見れば、其他は著しく赤沼黑沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能として居なかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちと成つて現れたのも、自分には意外とは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「ウブメ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種で「姑獲鳥(うぶめ)」などとも表記された妖怪「産女(うぶめ)」。やや内容がダブる箇所があるが、ウィキの「産女」を引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話」これは産女伝承の現存する最古ののもので、「今昔物語集」「卷第二十七」の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうそど)平季武(たひらのすゑたけ)産女(うぶめ)に値ふ語(こと)第四十三)である。以下に示す。小学館の日本文学全集版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、しかも読み易く追加(送り仮名など)を加えたオリジナルのものである。□は欠字。■は脱文が想定される箇所。

   *

 今は昔、源の賴光の朝臣(あそむ)の美濃の守にて有りける時に、□□の郡(こほり)に入りて有りけるに、夜(よ)る侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。警固の武士の詰所。]に數(あまた)の兵(つはもの)共集まり居て、萬(よろづ)の物語りなどしけるに、

「其の國に渡(わたり)[やぶちゃん注:比定地は確定的ではないが、参考にした小学館版の注では『飛騨川と木曽川の合流地付近』の「今渡(いまわたり)の渡し場」ではないかと推定している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ふ所に、産女有りけり。夜に成りて、其の渡り爲(す)る人有れば、産女、兒を哭(な)かせて、『此れ、抱(いだ)け抱け』と云ふなる。」

など云ふ事を云ひ出でたりけるに、一人有りて、

「只今、其の渡に行きて、渡りなむや。」

と云ひければ、平の季武と云ふ者(も)の有りて云く、

「己(おのれ)はしも、只今(なり)也とも、行きて渡りなむかし。」

と云ひければ、異者共(ことどももの)有りて、

「千人の軍(いくさ)に一人懸け合ひて、射給ふ事は有りとも、只今、其の渡をば、否(え)や渡り給はざらむ。」

と云ければ、季武、

「糸(いと)安く行きて渡りなむ。」

と云ひければ、此く云ふ者共、

「極(いみ)じき事侍りとも、否(え)不渡給(わたりたま)はじ。」

と云ひ立ちにけり。

 季武も、然許(さばか)り云ひ立ちにければ、固く諍(あらそ)ひける程に、此の諍ふ者共は十人許り有りければ、

「只にては否不諍(えあらそ)はじ。」

と云ひて、鎧・甲・弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う筒或いは箱状の武具。箙(えびら)。]、吉(よ)き馬(むま)に鞍置きて、打ち出での大刀(たち)[やぶちゃん注:近年、新たに鍛えたばかりの新しい太刀。]などを、各々取り出ださむと、懸けてけり。亦、季武も、

「若し否不渡(えわたら)ずは、然許(さばか)りの物を取り出ださむ。」

と契りて後(のち)、季武、

「然は一定(いちぢやう)か。」[やぶちゃん注:「先の約束に間違いないな?」。]

と云ひければ、此く云ふ者共、

「然(さ)ら也。遲し。」

と勵ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡錄を負ひて、從者も■■■。■■■、

「■■■何でか知るべき。」[やぶちゃん注:従者は現場には従っていないから、「連れざりけり」辺りか? なおも、この台詞は「確かにそこに行って、確かにそこを渡って、そうして戻ってきたということをどのように我々が知り得よう。何をその証拠するのか?」と賭けをした同僚らのある者が不満と疑義を述べているのであるから、「ある者」が主語で、「渡れるを何でか知るべき」辺りか?]

と。季武が云く、

「此の負ひたる胡錄の上差(うはざし)の箭(や)[やぶちゃん注:胡錄の上に突き出すように目立って装飾的に差した実戦用の単純な征矢(そや)でない鏃部分が特殊な矢。鏑(かぶら)矢や雁股(かりまた)の矢。]を一筋、河より彼方に渡りて、土に立てて返へらむ。朝、行きて見るべし。」

と云ひて行きぬ。

 其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇みたる、三人許り、

「季武が渡らむ一定を見む。」

と思ひて、竊(ひそ)かに走り出でて、

「季武が馬の尻に不送(おく)れじ。」

と走り行きけるに、既に季武、其の渡に行き着きぬ。

 九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころほひ)なれば、つつ暗(くら)[やぶちゃん注:真っ暗闇。]なるに、季武、河を、ざぶりざぶり、と渡るなり。既に彼方に渡り着きぬ。此れ等[やぶちゃん注:こっそりつけて来た三人。]は、河より彼方の薄(すすき)の中に隱れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着きて、行縢(むかばき)[やぶちゃん注:「向か脛(はぎ)に穿(は)く」の意で、旅や狩猟などの際に足を被った布また革。平安末期頃から武士は狩猟・騎乗などの際には腰から足先までの、有意な長さを持った鹿皮のそれを着用したが、ここはそれ。]走り打ちて、箭(や)拔きて[やぶちゃん注:地面に。]差すにや有(あ)らむ。

 暫し許り有りて、亦、取りて返して、渡り來(く)るなり。其の度(たび)聞けば、河の中程にて、女(をむな)の音(こゑ)にて、季武に現(あら)はに、

「此れ、抱(いだ)け、抱け。」

と云ふなり。亦、兒ちご)の音(こゑ)にて、

「いがいが。」[やぶちゃん注:赤ん坊の泣き声のオノマトペイア。]

と哭(な)くなり。其の間、生臭き香(か)、河より此方(こなた)まで薰(くん)じたり。

 三人有るだにも、頭(かしら)の毛太りて怖しき事、限り無し。何(いか)に況んや、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なか)ばは死ぬる心地す。

 然(さ)て、季武が云ふなる樣、

「いで抱かむ。己(おのれ)。」[やぶちゃん注:「己」は相手を見下した卑称の二人称。]

と。然れば、女、

「此(こ)れば、くは。」「くは」は当時の口語で「そら!」「さあ!」という相手に注意を促させる感動詞。

とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受けて取りければ、亦、女、追々(おふお)ふ、

「いで、其の子、返し得しめよ。」

と云ふなり。季武、

「今は返すまじ。己。」

と云ひて、河より此方の陸(くむが)に打ち上(あが)りぬ。

 然て、館(たち)に返りぬれば、此れ等も尻に走り返りぬ。

 季武、馬より下(お)りて、内に入りて、此の諍ひつる者共に向ひて、

「其達(そこたち)、極じく云ひけれども、此(か)くぞ□□の渡(わたり)に行きて、河を渡りて行きて、子をさへ取りて來たる。」

と云ひて、右の袖を披(ひら)きたれば、木(こ)の葉なむ、少し有りける。

 其の後(のち)、此の竊かに行たりつる三人の者共、渡の有樣を語りけるに、不行(ゆか)ぬ者共、半(なかば)は死ぬる心地なむ、しける。然て、約束のままに懸けたりける物共、皆、取り出だしたりけれども、季武、取らずして、

「然云(さい)ふ許り也。然許りの事、不爲(せ)ぬ者やは有る。」

と云ひてなむ、懸け物は皆、返し取らせける。

 然れば、此れを聞く人、皆、季武をぞ讃めける。

 此の産女と云ふは、「狐の、『人謀らむ』とて爲(す)る」と云ふ人も有り。亦、「女(をむな)の、子、産むとて死(しに)たるが、靈(りやう)に成りたる」と云ふ人も有り、となむ語り傳へたるとや。

   *

「和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來」寺島良安の百科事典「和漢三才圖會」は私も所持するが、「卷第六十七」の「相模」国の地誌に載るそれはごく短く、次に掲げる「新編錬倉志」のそれと比しても、電子化する価値を認めないので省略する。「新編錬倉志卷七」の「大巧寺(ダイギヤウジ)」の条にある「産女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ)」を引いておく(リンク先は私の完全電子化注)。なお、本文に出る「夷堂橋」などもリンク先を参照されたい。お望みとあらば、案内し、語りもしよう。

   *

産女の寶塔 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢ひ、𢌞向に預つて苦患(くげん)を免れ度き由を云ふ。日棟これが爲に𢌞向す。産女、金(しんきん)一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり。

金」は「施しのための金」を指す。ここでは、自身の廻向のための布施。この一連の説話については、「お大功寺」(現在安産祈願る。祖母結核名古屋後、間借いわ因縁であ公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。

「苦艱」「くげん・くかん」。つらい目に遇って苦しみ悩むこと。艱難(かんなん)。苦患。

「加藤咄堂氏の日本宗教風俗志」仏教学者(但し、僧籍は持たなかった)で作家の加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)が明治三五(一九〇二)年に森江書店から刊行した書で、以上の記載は「第二篇 地方志」の「第二章 東海道志」の「第六節 安房、上總」の(国立国会図書館デジタルコレクション画像。左端の最後から四行目以降から次頁にかけて)に書かれている。

「上總山武郡大和村法光寺」千葉県東金(とうがねし)市田中にある日蓮宗宝珠山法光寺。現在も寺宝の水晶玉が「ふぶすな(産)の玉」と称されて安産のお守りとして崇められていることがネット情報から確認出来た。(グーグル・マップ・データ)。

「能として居なかつた」「能」は「よし」と訓ずる。]

 

2017/03/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(2)

 

 さて自分が爰に御話したいと思ふのは、是程馬鹿げた埓も無い話にも、やはり中古以前からの傳統があると云ふ點である。其は今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士、京都からの歸りに近江の勢田橋の上で、婦人に絹で包んだ小さな箱を託せられ、是をば美濃方縣郡唐の郷段の橋の酉詰に居る女に屆けてくれとの賴みであつたのを、うつかり忘れて家まで持つて還り、今に屆けようと思つて居るうちに細君に見咎められ、嫉深い細君は窃かに之を開けて見ると、箱の中には人間の眼球、其他の小部分が毛の附いたまゝむしり取つて入れてあつたので、夫婦とも大に氣味を惡るがり、主人は早速之を段の橋へ持參して行くと、果して婦人が出て居て之を受取り、此箱を開けて見たらしい、憎い人だと言つて凄い顏をして睨んだ。其から病氣になつて還つて程も無く死んだとある。勢田橋は御承知の如く昔から最も通行の多かつた東路の要衝であるが、しかも此橋の西詰には世にも恐しい鬼女が居て、屢〻旅人を劫かしたことは、同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る。又神から神へ手紙を送るのに人間の手を借りたと云ふのも、古くからの話である。例へば宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某、不思議な女の手から書狀を貰ひ、山奥に入つて鬼形の者に之を渡して、一生食べても盡きない米一斗を受取つた話があり、三國傳記卷十一には比叡山の僧侶が、日吉二宮の文を愛宕の良勝と云ふ地主の仙人へ持參して福分を授かつた話がある。其話が日本だけに發生したもので無いことは、支那でも酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人、呉江の神の書翰を託せられて濟河の神の處へ使に行き、寶刀を貰つて歸つた話もあり。まだ其他にも古い處に是に似た話が有つたのを見ても分る。

[やぶちゃん注:「今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士……」これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「美濃國紀遠助値女靈遂死語第廿二」(美濃國紀遠助(きのとほすけ)女(をむな)の靈(りやう)に値(あ)ひて遂に死ぬる語(こと)第廿二」である。以下に示す。複数の所持するものを校合して読み易く書き直した。

   *

 今は昔、長門の前司藤原の孝範と云ふ者、有りき。其れが下總(しもつさ)の權の守と云ひし時に、關白殿に候(さぶらひ)し者にて、美濃の國に有る生津(いくつ)の御庄(みしやう)と云ふ所を預かりて知りけるに、其の御庄に紀の遠助と云ふ者、有りき。

 人、數(あまた)有りける中(なか)に、孝範、此の遠助を仕ひ付けて、東三條殿の長宿直(ながとのゐ)に召し上(のぼ)せたりけるが、其の宿直、畢(は)てにければ、暇(いとま)取らせて返し遣りければ、美濃へ下りけるに、勢田(せた)の橋を渡るに、橋の上に女(をむな)の裾取りたるが立てりければ、遠助、

「怪し。」

と見て過る程に、女の云く、

「彼(あ)れは、何(いづ)ち、御(おは)する人ぞ。」

と。然れば、遠助、馬より下(お)りて、

「美濃へ罷る人也。」

と答ふ。女、

「事付(ことづけ)申さむと思ふは、聞き給ひてむや。」

と云ひければ、遠助、

「申し侍りなむ。」

と答ふ。女、

「糸(いと)喜(うれ)しく宣ひたり。」

と云ひて、懷(ふところ)より小さき箱の絹を以つて裹(つつ)みたるを引き出(いだ)して、

「此の箱、方縣(かたがた)の郡(こほり)[やぶちゃん注:旧岐阜県方県郡(かたがたぐん)。現在の岐阜市の一部であるが、以下の地名や橋の位置は不詳。]の唐(もろこし)の郷(さと)の收(おさめ)の橋の許(もと)に持て御(は)したらば、橋の西の爪(つめ)に女房御(おは)せむとすらむ。其の女房に此れ奉り給へ。」

と云へば、遠助、氣六借(きむつかし)く思(おぼ)えて、

「由無き事請(ことう)けをしてける。」

と思へども、女の樣(さま)の氣怖(けをそろ)しく思(おぼ)えければ、難辭(いなびがた)くて、箱を受け取りて、遠助が云く、

「其の橋の許に御はすらむ女房をば、誰(たれ)とか聞(きこ)ゆる。何(いづ)くに御はする人ぞ。若(も)し不御會(おはしあは)ずは、何(いづ)くをか可尋奉(たづねてたてまつるべ)き。亦、此れをば、誰(た)が奉り給ふとか申すべき。」

と。女の云く、

「只、其の橋の許に御したらば、此れを受け取りに其の女房、出で來なむ。よに違(たが)ふ事不侍(はべら)じ。待ち給ふらむぞ。但し、穴賢(あなかしこ)、努々(ゆめゆめ)此の箱開けて不見給(みたまふ)な。」

と。此樣(かやう)に云ひ立てりけるを、此の遠助が共なる從者(じうしや)共は、女有るとも見えず。只、

「我が主(あるじ)は馬より下(お)りて由無(よしな)くて立てるえを。」

と見て、怪しび思ひけるに、遠助、箱を受け取りつれば、女は返りぬ。

 其の後(のち)、馬に乘りて行くに、美濃に下(くだ)り着きて、此の橋の許(もと)を、忘れて過ぎにければ、此の箱を不取(とら)せざりければ、家に行き着きて、思ひ出だして、

「糸(いと)不便(ふびん)也ける。此の箱を取らせざりける。」[やぶちゃん注:「たいそう悪いことをしてしまった。この箱を渡し損なってしもうた。」。]

と思ひて、

「今故(いまことさら)に持ち行きて、尋ねて取らせむ。」[やぶちゃん注:「今故に」は「そのうちに時改めて」の意。]

とて、壺屋立(つおやだち)たる所[やぶちゃん注:自分の個室風の部屋。]の、物の上に捧げて置きたりけるを、遠助が妻(め)は嫉妬の心、極(いみ)じく深かりける者にて、此の箱を遠助が置きけるを、妻(め)、然氣無(さるけな)くて見て、

「此の箱をば女に取らせむとて、京より態(わざ)と買ひ持て來たりて、我れに隱して置きたるなめり。」

と心得て、遠助が出でたる間(あひだ)に、妻(め)、蜜(ひそ)かに箱を取り下(おろ)して、開けて見ければ、人の目を捿(くじ)りて數(あまた)入れたり。亦、男の𨳯(まら)を、毛少し付けつつ、多く切り入れたり。

 妻(め)、此れを見て、奇異(あさま)しく怖しく成りて、遠助が返り來たるに、迷(まど)ひ呼び寄せて見すれば、遠助、

「哀れ、『不見(みる)まじ』と云ひてし物を。不便(ふびん)なる態かな。」

と云ひて、迷ひ覆(おほ)ひて、本(もと)の樣(やう)に結びて、やがて卽ち、彼(か)の女の教へし橋の許(もと)に持ち行きて立てりければ、實(げ)に女房、出で來たり。遠助、此の箱を渡して、女の云ひし事を語れば、女房、箱を受け取りて云く、

「此の箱は、開(あ)けて見られにけり。」

と。遠助、

「更に然る事、不候(さぶらは)ず。」

と云へども、女の氣色、糸(いと)惡氣(あしげ)にて、

「糸(いと)惡しくし給ふかな。」

と云ひて、極(いみ)じく氣色惡(あ)しげ乍ら、箱をば受け取りつれば、遠助は家に返りぬ。

 其の後(のち)、遠助、

「心地、不例(れいなら)ず。」

と云ひて、臥しぬ。妻(め)に云く、

「然許(さばか)り『開くまじ』と云ひし箱を、由無(よしな)く開(あ)けて見て。」

とて、程無く(ほどな)死にけり。

 然(しか)れば、人の妻(め)の、嫉妬の心の深く、虛疑(そらうたが)ひせむは、夫(をうと)の爲に此(か)く吉(よ)からぬ事の有る也(なり)。嫉妬の故に、遠助、思ひ懸けず、非分(ひぶん)に[やぶちゃん注:道理に反して。]命をなむ失ひてけり。女(をむな)の常の習(ならひ)とは云ひ乍ら、此れを聞く人、皆、此の妻(め)を惡(にく)みけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る」例えば、前掲話の直近では同じ「卷第二十七」の「從東國上人値鬼語第十四」(東國より上る人、鬼に値(あ)ふ語(こと)第十四)が勢田の橋及びその付近をやはりロケ地としている(但し、後半が欠文)。

「劫かした」「おびやかした」。

「宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某……」これは「宇治拾遺物語」の一般に第百九十二話(「卷十五」の第七話)とされる「伊良緣世恆毘沙門の御下文を給はる事」(伊良緣世恆(いらえのよつね)、毘沙門(びしやもん)の御下文(おんくだしぶみ)を給はる事)である。以下に同前の仕儀で示す。

   *

 今は昔、越前國に伊良緣の世恆といふ物有けり。とりわきてつかふまつる毘沙門に、物もくはで、物のほしかりければ、

「助け給へ。」

と申しける程に、

「門(かど)にいとをかしげなる女の、『家主(いへあるじ)にもの言はん』との給ふ。」

といひければ、

「誰(たれ)にかあらん。」

とて出であひたれば、土器(かはらけ)に物を一盛り、

「これ、食ひ給へ。物ほしとありつるに。」

とてとらせたれば、悦びてとりて入れて、ただ、すこし(く)ひたれば、やがて飽(あ)き滿(み)ちたる心(ここ)ちして、二三日は物もほしからねば、これを置きて、物のほしきをりごとに、すこしづつ、食ひてありける程に、月比(ごろ)、過ぎて此物も、失(う)せにけり。

「いかがせむずる。」

とて、又、念じ奉りければ、又、ありしやうに[やぶちゃん注:「在りし樣に」。先と同じように。]、人の告げければ、始めにならひて、惑(まど)ひ出でてみれば、ありし女房のたまふやう、

「これ下し文奉らん。これより北の谷、峯(みね)百町を越えて、中に高き峯あり。それに立ちて『なりた』と呼ばば、もの出で來なん。それにこの文(ふみ)を見せて、奉らん物を受けよ。」

と言ひて去(い)ぬ。この下し文をみれば

「米二斗わたすべし。」

とあり。やがてそのまま行きて見ければ、實(まこと)に高き峯あり。それにて、

「なりた。」

と呼べば、おそろしげなる聲にていらへて、出で來たる物あり。見れば、額に角おひて、目一あるもの、あかきたうさぎ[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]したるもの出で來て、ひざまづきて、ゐたり。

「これ、御下し文なり。この米、得させよ。」

といへば、

「さる事候ふ。」

とて、下文をみて、

「是は二斗と候へども、一斗をたてまつれとなん候ひつる也。」

とて、一斗をぞ、とらせたりける。そのままに請け取りて、歸りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗、盡きせざりけり。千萬石とれども、只おなじやうにて、一斗は、失せざりけり。

 これを國守(くにのかみ)ききて、こ世恆を召して、

「其袋、我に得させよ。」

といひければ、國の内(うち)にある身なれば、えいなびずして[やぶちゃん注:断わり切れずなくて。]、

「米百石の分(ぶん)、奉る。」

と言ひて、取らせたり。一斗、取れば、又、出で來(き)出で來(こ)しければ、

「いみじき物まうけたり。」

と思ひて、持たりける程に、百石取り果てたれば、米、失せにけり。袋斗(ばか)りに成りぬれば、本意(ほい)なくて、返し取らせたり。世恆がもとにては、又、米一斗、出で來にけり。かくて、えもいはぬ長者にてぞありける。

   *

「三國傳記」室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月 十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計 三百六十話を収める。ここで読めるが、表示に時間がかかるので、探すのは諦めた。悪しからず。

「日吉二宮」筑摩版全集では「ひえ」と現代仮名遣でルビする。これは現在の滋賀県高島市新旭町深溝にある日吉二宮(ひよしにのみや)神社のことか。よく判らぬ。

「酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人……」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。中文サイトのものを加工して示す。

   *

平原縣西十里、舊有杜林。南燕太上末、有邵敬伯者、家於長白山。有人寄敬伯一函書、言、「我江使也、令吾通問於濟伯。今須過長白、幸君爲通之。」。仍教敬伯、「但於杜林中取樹葉、投之於水、當有人出。」。敬伯從之、果見人引出。敬伯懼水、其人令敬伯閉目、似入水中、豁然宮殿宏麗。見一翁、年可八九十、坐水精床、發函開書曰、「裕興超滅。」。侍衛者皆圓眼、具甲胄。敬伯辭出、以一刀子贈敬伯曰、「好去、但持此刀、當無水厄矣。」。敬伯出、還至杜林中、而衣裳初無沾濕。果其年宋武帝滅燕。敬伯三年居兩河間、夜中忽大水、舉村俱沒、唯敬伯坐一榻床、至曉著履、敬伯下看之、床乃是一大龜也。敬伯死、刀子亦失。世傳杜林下有河伯塚。

   *]

 そんなら此類の諸國の話は、支那から若くは和漢共通の源から起つて、段々各地に散布し旦つ變化したと解してよいかと言ふと、自分は容易に然りと答へ得ぬのみならず、又假にさうとしても、何故に我々の祖先が其樣な話を信じて怖れたかに就ては、新たに考へて見ねばならぬ事が多い。手紙の託送を命ぜられた人が其爲に命に係はる程の危險に陷り、其が一轉すれば又極端の幸福を得るに至ると云ふのには、何か仔細が無くてはたらぬ。今日の如く教育の行渡つた時代の人の考へでは、文字も言語も輕重は無いやうに見えるかも知らぬが、田舍の人の十中の九迄が無筆であつた昔の世の中に於ては、手紙は其自身が既に一箇不可解たる靈物であつたのである。支那でも日本でも護符や呪文には、讀める人には何だ詰らないと云ふやうな事が書いてある。恰も佛教の陀羅尼や羅馬教の祈禱文が、譯して見れば至つて簡單なのと同じである。「いろはにほへと」と書いてあつても無學文盲には、「此人を殺せ」とあるかとも思はれ、「寶物を遣つてくれ」とあるかとも思はれ得る。是がこの奇拔な昔話を解釋するに必要なる一つの鍵である。併しまだ其前に話さねばならぬことがあるから、其方を片付けて行かうと思ふ。

2017/01/03

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)

 

 橋姫

 

 橋姫と云ふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つて居た美しい女神のことである。地方によつては其信仰が夙く衰へて、其跡に色々の昔話が發生した。是を拾ひ集めて比較して行くと、些しづゝ古代の人の心持を知ることが出來るやうである。私は學問の嚴肅を保つ爲に、煩はしいが一々話の出處を明かにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、斯う云ふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。

 山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)に、俗に國玉(くだま)の大橋と稱する橋がある。大橋などゝ云ふ名にも似合はぬ僅かな石橋で、甲府市中の水を集めて西南に流れ、末は笛吹川に合する濁川と云ふ川に架つて居る。今の國道からは半里ほど南であるが、以前は此筋を往還として居たらしい。一説には大橋ではなく逢橋であつたと云ひ、又行逢橋と云ふ別名もある。元は山梨巨摩八代三郡の境であつたと甲斐國志にあるが、果してさうか否かは知らぬ。百五六十年前に出來た裏見寒話と云ふ書の第六卷に次のやうな話がある。此橋を通行する者が橋の上で猿橋の話をすると必ず怪異がある。猿橋の上で此橋の話をしても同樣である。昔武藏國から甲州へ來る旅人があつた。猿橋が通る際にふと國玉の大橋の噂をした處がそこヘ一人の婦人が出て來て、甲府へ行かるゝならば此文一通國玉の大橋まで屆けて下されと云つた。其男之を承知して其手紙を預つたが、如何にも變なので途中でそつと之を披いて見ると、中には此男を殺すべしと書いてあつた。旅人は大いに驚き早速其手紙を殺すべからずと書改めて國玉まで携へて來れば、此橋の上にも一人の女が出て居つて、如何にも腹立たしい樣をして居たが、手紙を開いて見て後機嫌が好くなり、禮を敍べて何事も無く別れた。取留も無き話なれど國擧りて之を言ふ也とある。又今一つの不思議は、此橋の上で謠の『葵の上』を謠ふと忽ち道に迷ひ、「三輪」を謠ふと再び明かになると、是も同じ書物の中に書いてある。

[やぶちゃん注:謡曲名の鍵括弧の違いはママ。文庫版全集では孰れも「 」。但し、私はこの謎の違いを柳田は特に読者に喚起したのだと読む。

「山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)」現在の甲府市国玉町(くだまちょう)。恐らくは、この「大橋五条天神社」のある附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。残念ながら、現存しない。ウィキの「国玉の大橋」を参照されたい。但し、その記載はこの柳田國男の「橋姫」の記載に大幅に依拠しているのでネタバレを嫌う方にはお勧めし兼ねる

「濁川」「にごりがは」。

「巨摩」「こま」。

「八代」「やつしろ」。

「甲斐國志」文化一一(一八一四)年に完成した甲斐国の地誌。全百二十四巻。編者は甲府勤番松平定能(さだまさ)。

「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番野田成方(しげかた)が記した地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。

「猿橋」同じ旧山梨郡内、現在の大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる優れた形状を成す刎橋(はねばし)の名。ウィキの「猿橋」によれば、江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。国玉の大橋より遙か三十五キロ東方に位置する。]

 

 此話の單純な作り話で無いことは、第一にその鍔目の合はぬことが之を證據立てる。旅人がわざわざ書面を僞作して正直に持つて來たのもをかしく、其を見て橋姫が悦んだと云ふのも道理が無い。恐くは久しく傳へて居る中に少しづゝ雙化したものであらう。明治二十年前後に出版せられた山梨縣町村誌の中には、現に又更に變つた話になつて居て、此橋の上を過るとき猿橋の話を爲し或は「野宮」の謠をうたふことを禁ず、若し犯すときは必ず怪異あり。其何故たることを知らずとある。六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』中にある話は又斯んな風にも變化して居る。或人が早朝に國玉の大橋を渡る時に、「野宮」を謠へば怪ありと云ふことを思出し、試みに其小謠を少しばかり諷つて見た處、何の不思議も起らず二三町ほど行過ぎたが、向から美しい一人の婦人が乳呑兒を抱いてやつて來て、もしもし甚だ恐入りますが足袋のこはぜを掛けます間一寸此兒を抱いて居て下さいと言ふ。それでは私が掛けて上げようと屈みながらふと見上げると、忽ち鬼女の樣な姿になり眼を剝いて今にも喰附きさうな顏をして居たので、びつくりして一目散に飛んで歸り、我家の玄關に上るや否や氣絶した云々。是も小説にしては乳呑兒を抱けと言つたなどが、餘りに唐突(だしぬけ)で尤もらしく無い。

[やぶちゃん注:「鍔目の合はぬ」「鍔目」は「つばめ」で「鍔際(つばぎわ)」、刀身と鍔の接する箇所のこと。先の伝承のここかしこに、論理的整合性がない理解不可能な部分があることを差している。

「山梨縣町村誌」明治二十五年から二十七年(一八九二年~一八九四年)にかけて山梨市郡村誌出版所から刊行された「山梨県市郡村誌」(全三巻)のことかと思われる。

「野宮」(ののみや)は、先に出た「葵上」とは六条御息所の嫉妬と妄執をテーマとする点で共通するので大きな不審はない。時制的な経過から、現在的で強烈な生霊を主題とする「葵上」が、より夢幻能としての穏やかな「野宮」に入れ替わったのは逆に私は腑に落ちる。但し、その鬼女が後に出る妖怪姑獲鳥(うぶめ)風のものに変性する辺りには、本伝承の核にある、先に出た「金輪」に現われるような、女を鬼と成す強烈な嫉妬の情念のパワーが未だに潜在していることを逆に示すものと言えよう。

「諷つてみた」「うたつてみた」。

「六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』」明治末年から大正初年(明治四五(一九一二)年頃から大正二(一九一三)年頃か)にかけて編まれたものらしい。本「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月の『女學世界』である。

「二三町」二百十九~三百二十七メートル。]

 

 さてどうして此樣な話が始まつたかと云ふことは、我々の力ではまだ明白にすることは難しいが、此とよく似た話が眞似も運搬も出來ぬやうな遠國に分布して居ることだけは事實である。不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある。陸中遠野の某家の主人が、宮古へ往つて歸りに閉伊川の原臺の淵の脇を通ると、若い女が來て一通の手紙を託し、遠野の物見山の沼に行き手を叩けば名宛の人が出て來るから渡して呉れと言つた。請合ひはしたものゝ氣に掛つて如何しようかと思ひながら來ると、道で又一人の六部に出逢つた。六部は其手紙を開いて見て、此を持つて行けばきつと汝の身に大きな災難がある。私がよい樣に書直してやらうと言つて別の手紙をくれた。其を携へて沼へ行き手を叩くと、果して若い女が出て書狀を受取り、其禮にごく小さな石臼を一つ與(く)れた。此臼に米を一粒入れてまはすと下から黃金が出る。それで後々は富裕の身代になつたと云ふ話である。羽後の平鹿郡大松川の奧に黑沼と云ふ景色の好い沼がある。沼尻に小さい橋があつて月夜などに美しい女神が出ることが折々あつた。昔此邊の農夫が伊勢參りの歸りに、奧州の赤沼の脇に休んで居たら、氣高い御姫樣が出て來て手紙を預け出羽へ行つたら之を黑沼へ屆けて下さい。其御禮には是をと紙に包んだ握飯のやうな重いものをくれた。此男は黑沼の近く迄來た時に、大きた聲で赤沼から手紙をことづけられたと呼ぶと、振袖を着た美しい女が出て之を受取り、大姉君の音信(たより)は嬉しいと、是も同じやうな紙包をくれたので、後に此二包を市に持出して錢に代へようとすると、汝(おまへ)一人の力ではとても錢では持つて還られまい。金で持つて還るがよいと貧つて山のやうな黃金をくれたので、忽ちにして福萬長者になつたと云ふ。此話は雪の出羽路と云ふ紀行の卷十四に出て居る。

[やぶちゃん注:「不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある」以下。一部に平仮名で私が読みを振った。カタカナのそれは原文のルビ。

   *

二七 早池峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、この川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山(ものみやま)の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで來るべしとなり。此人請け合ひはしたれども路々(みちみち)心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部(ろくぶ)に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災(わざはひ)あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教(おしへ)の如く手を叩きしに、果して若き女出でゝ手紙を受け取り、其の禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘(マハ)せば下より黃金出づ。此寶物(タカラモノ)の力にてその家稍富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻りに自ら囘りて、終(つひ)には朝毎(ごと)に主人が此の石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜たまりてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁(カタハラ)にあり。家の名を池の端と云ふもその爲なりと云ふ。

   *

「羽後の平鹿郡大松川の奥」「黑沼」現在の秋田県横手市山内大松川にある。(グーグル・マップ・データ)。この伝承考と現況に就いては、個人ブログ「神が宿るところ」の黒沼(秋田県横手市)がよい。

「雪の出羽路」「雪の道奥雪の出羽路」かの菅江真澄が享和元(一八〇一)年に津軽から出羽に入った際の記録。]

 

 この二つの愉快な話とは反對に、氣味の惡い方面が國玉の大橋とよく似て居るのは、福山志料と云ふ書に採錄した備後蘆品郡服部永谷村の讀坂の由來談である。昔馬方が空樽を馬に附けて歸つて來る道で、一人の男に出逢つて一通の手紙を賴まれ、何心なく受取つたが屆け先の名を聞いて置かたかつたことを思ひ出し、ちやうど此坂路で出逢つた人に其狀を讀んでもらつた。名宛が怪しいので封を剝して文言を讀むと「一、空樽つけたる人の腸一具進上致候」と書いてあつた。さては河童の所業に相違なし、なるだけ川のある處を避けて還れと教へちれ、迂路をして漸く危害を免れた。其よりして此坂を讀坂と呼ぶやうになつたとある。卽ち手紙を讀んだ坂と云ふ意味である。此話に馬と空樽とは何の緣(ゆかり)も無いやうであゐが、河童は久しい以前から妙に馬にばかり惡戲(いたづら)をしたがるものである。六七年前早稻田大學の五十嵐教授が學生に集めさせて、『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中にも豐後九十九峠の池の河童、旅の馬方の馬を引込まうとしてあべこべに取りて押へられ、頭の皿の水が飜れて反抗する力も無くなり、寶物を出しますから命ばかりは助けて下さい、手前の家は峠の頂上から細道を七八町入つた處にあります。そこへ此二品を持つて行つて下されば必す寶物と引換へますと言つて渡したのがやはり一通の手紙と樽であつた。此馬方は字が讀めたので、途中で樽の臭の異樣な事に心付いて手紙を開いて見ると、「御申付の人間の尻子百個の内、九十九個は此男に持參致させ候に付御受取被下度、不足分の一個は此男のにて御間に合せ被下度候。親分樣、子分」とあつたので、喫驚して逃げて來た。それより此峠の名も九十九峠と書くやうになつた云々。

[やぶちゃん注:「福山志料」福山藩(主に備後国(現在の広島県東部)南部、備中国南西部(岡山県南西部)を領有)儒官で儒医でもあった菅茶山(かんさざん)の手になる福山藩の地誌。文化六(一八〇九)年成立。

「備後蘆品郡服部永谷村の讀坂」「蘆品」は旧郡名で「あしな」と読み、この村は現在の広島県福山市駅家町(えきやちょう)服部永谷(はっとりながたに)で、現在は地区(グーグル・マップ・データ)。「讀坂」(よみざか)の位置は不明。

「空樽」文庫版全集は「あきだる」とルビする。

「腸一具進上致候」「はらわた、いちぐ(:一揃え。)、しんじやういたしさふらふ」。

「五十嵐教授」五十嵐力(いがらしちから 明治四(一八七四)年~昭和二二(一九四七)年)は国文学者。但し、彼が新設の早稲田大学文学部国文科主任教授とあるのは大正九(一九二〇)年で、本初出の後である。昭和九(一九三四)年六月単行本刊行時ならば正しい。

「『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中」の「豐後九十九峠の池の河童」「趣味の傳説」は五十嵐力著として大正二(一九一三)年に二松堂書店から刊行されている。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来。本書の「小序」によれば、明治四十年頃から数年間、五十嵐が担当した早稲田大学文科の「作文」の講義のレポートが元であり、書いた学生の姓名も一覧で記されてある。「九十九峠」は「つくもたうげ」であるが、位置が判らぬ。当初、別名「九十九(くじゅうく)曲がり」とも呼ばれる現在の熊本県阿蘇郡高森町(まち)にある高森峠かと思ったが((グーグル・マップ・データ))、リンク先の本文に出る豊後の「高瀨村」とは(グーグル・マップ・データ)で、方向違いである。識者の御教授を乞う。]

2017/01/02

柴田宵曲 妖異博物館 「一つ目小僧」

 

 一つ目小僧

 

 南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧は、出雲の方にさういふ畸形児のあつたのを、かねがね養つて居られたのださうだから、畸ではあつても妖怪ではない。長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とあるが、一つ目小僧の話も澤山ありさうに見えて、存外少いやうである。

[やぶちゃん注:「一つ目小僧」未だ作業中であるが、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で「一つ目小僧その他」の電子化注を進めている。

「南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧」第一章「化物振舞」を参照のこと。

『長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とある』明治三三(一九〇〇)年の「四月短歌會」の一首、

 

      化物

 ものゝけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事の無き

 

である。]

 四谷の通りに小嶋屋喜右衞門といふ者があつた。麻布の武家に鶉を賣つたところ、代金が不足だから屋敷で渡さうといふことなので、吉右衞門が近所までついでのあるのを幸ひに鶉を屆けた。中の口の次にある八重の部屋に通され、暫くこゝに控へて居れと云つて、鶉は奧へ持つて待つたが、普請前の家らしく、天井や疊に雨漏りの痕があり、敷居鴨居も下り、襖なども破れてゐる。吉右衞門は心の中に、大分不勝手の家のやうだが、小判で拂はなければならぬ鶉の代を、無事に拂つてくれればいゝが、などと考へて煙草を吹かしてゐると、いつの間にかその部屋に十歳ぐらゐの小僧がやつて來た。しかも床の間に掛けてある紙表具の掛物を、くるくると上に卷き上げては、手を放してはらはらと落し、また卷き上げて放す。同じ事を何遍となく繰り返すので、喜右衞門も遂に見かねて、さういふ惡いたづらはせぬものだ、今に掛物が痛んでしまふ、と云つた。その時小僧が一言、默つてゐろ、と云つてふり返つたが、小僧の顏には目が一つしかない。喜右衞門はわつと云つて倒れたなり氣を失つたのを、屋敷の者が驚いて、駕籠に載せて家まで送り返し、鶉の代は先方から屆けて來た。その後も度度使をよこして、氣分はどうかなどと尋ねてくれたが、その使の者の話に、實は自分の屋敷には、一年に四五度ぐらゐ怪しい事がある、この春も殿樣の御居間に小さい禿が坐つて、菓子簞笥の菓子を食べてゐるので、奧方が何者ぞと云はれたら、默つてゐろと云つて消え失せたといふ話である。必ず世間に沙汰せぬやうにして貰ひたい、といふことであつた。喜右衞門も二十日ばかりで元氣になり、その後は何も變つたこともなかつた。平秩東作はかういふ話を「怪談老の杖」に書いて、最後にその屋敷の名も聞いたが、よくない事だから記さぬ、と附け加へてゐる。

[やぶちゃん注:「平秩東作」(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者。

「怪談老の杖」平秩の怪談集で現存するのは四巻。推定で宝暦四年成立か。その「卷之一」の「小島屋怪異に逢(あひ)し話」。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

   ○小島屋怪異に逢し話

四ツ谷の通に小島良書右衞門と云人、麻布なる武家方へ鶉を賣けるが、代物不足なれば、屋敷にて渡すべしといふに、喜右衞門、幸御近處迄用事あれば、持參すべしとて、鶉を持行けるが、中の口の次に八疊敷の間のある所に、爰にひかへをれとて、鶉をば奧へもち行ぬ、座敷の體も普請前の家居と見へて、天井、疊の上に雨漏の痕ところどころかびて、敷居、鴨居も、爰かしこさがり、ふすまも破れたる家なり、鶉の代も小判にて拂ふ程なりしかば、喜右衞門心の内に、殊の外不勝手らしき家なるが、彼是むづかしく云はずに、金子渡さるればよきがと、きづかひながら、たばこのみ居けり、しかるに、いつの間に來りたるともしらず、十ばかりの小僧、床にかけありし紙表具の掛ものを、上へまきあぐる樣にしては、手をはなしてはらはらと落し、又はまきあげ、いく度といふ事なくしたり、喜右衞門心に、きのどくなる事かな、かけものなど損じて呵られなば、我等がわざにかづけんもしらず、と目も放さで見て居けるが、あまりに堪(こらへ)かねて、さるわるあがきはせぬものなり、いまに掛もの損じ申べし、といひければ、かの小僧ふり歸りて、だまつて居よ、と云ひけるが、顏を見れば、眼たゞひとつありて、わつといふて倒れ氣を失ひけるを、屋敷の者ども驚きて、駕にのせ宿へ送り返し、鶉の代をばあのかたより爲ㇾ持おこされ、そののちも度々便などおくりて心よきやなど、懇に尋られける、その使の者の語りけるは、必ず沙汰ばしし給ふな、こちの家には、一年の内には、四五度づゝも怪しき事あるなり、此春も、殿の居間に小き禿なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ居たりしを、奧方の見て、何者ぞ、といはれければ、だまつて居よ、といふて、消てなくなりたりときけり、必だまつて居たまへ、なにもあしき事はせぬ、と語りぬ、喜右衞門は廿日ほどもやみて快氣し、其のちは何もかはりたる沙汰なかりけり、其屋敷の名も聞しかど、よからぬ事なれば、障りてしるさず、

   *

「呵られなば」は「しかられなば」(叱られたりしては)、「沙汰ばしし給ふな」の「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転じたもの。上の語をとり立てて強調する意を表わす。禁止・命令などの文中に用いられることが多い。]

 この話は「半七捕物帳」の中に「一つ目小僧」として使はれてゐるから、知つてゐる人が多いかも知れぬ。捕物帳の性質上、怪談に終始するわけに往かぬので、明屋敷を利用する一種の騙りとし、一つ目小僧で喜右衞門を脅して、駄鶉とすり替へる話になつてゐる。勿論一つ目小僧は妖怪でなしに、片目の小僧按摩で、それが繪具で口を割つたり、象牙の箸を牙にしたりして、威し役を勤めたのである。「怪談老の杖」のは化物屋敷で、一つ目小僧以外にも怪事があつたのを、一切を騙りに轉じて惡黨連中を作り、半七をして名をなさしめたのが作者の趣向であらう。

[やぶちゃん注:岡本綺堂作「半七捕物帳」の「一つ目小僧」は大正一三(一九二四)年七月一日号『サンデー毎日』に初出。作品時制は嘉永五(一八五二)年八月で、ロケーションは四谷伝馬町という設定である。新字新仮名で「青空文庫」のこちらで読める。私は実は総て読んでいる特異的な半七のファンである。]

 江戸に陸野見道といふ流行醫者があつた。或時番町邊の澤といふ家から、内室の病氣を見て貰ひたいといふ使が來たので、四五軒病家を𢌞つた末、日暮になつて漸くその家の玄關に立つた。取次の者の話によれば、主人は公用で出かけて居りますが、もしおいで下さいましたならば、この段を申し上げて、暫くお待ち下さるやう、申し置いて出ました、追付け歸宅致しますから、先づお通り下さいまし、といふことである。はじめて來た家で主人不在なのは困つたが、そのまゝ歸るのも如何かと思つて座敷に通り、その家の樣子などを見てゐると、型の如く十二三の小僧が茶や煙草盆を運んで來る。その立居振舞ひが甚だ氣が利いてゐるので、そなたの名は何と申すかなど、如才なく言葉をかけて手を執つたところ、恥かしさうに赤面して次の間へ逃げて行つた。然るに振り向いた小僧の顏は三尺ばかりもあつて、一つの目が額に在り、鼻が小さくて口が大きい。普通の人ならこれだけで逃げ出すところであつたらうが、見道はなかなか剛氣者で、小僧が消え失せた後も、その座敷に坐つてゐると、やがて主人が歸つて來た。内室の病狀などを一應話した上、時にお顏色が何となくすぐれぬやうにお見受け致すが、どうかなされたかと尋ねたので、見道も小聲になつて、先刻かやうの事があつたと話した。主人は笑つて、さては例の坊主が出て、例の顏を御覽なされたか、いつもいつも罷り出て、知らぬ人を脅しまするが、今日はどんな事でありましたらう、こんな顏ではござらなんだか、といふうちに、主人の顏も三尺ばかりになり、口は耳の根まで裂け、額に一つある目の光りも、前の小僧の比ではない。さすがの見道も魂が身に添はぬ有樣で、玄關に走り出て、居睡りしてゐる供の者を起したけれど、皆已に歸つたらしく、草履取りがたゞ一人ぽつんとしてゐる。何事かございましたかと尋ねるのに答へもせず、駈け出したものの、道の暗いのに困惑してゐると、大丈夫でございます、提燈はここにあります、といふ草履取りの言葉の下から、道は俄かに明るくなつた。これは不思議だと草履取りの方を見れば、その顏がまた三尺ばかりで、「まなこは日月のごとくかゞやき」とあるから、一つ目ではなかつたと見える。見道は遂に昏倒して何もわからなくなつた。

 見道の家の方では、初めて行つた家から主人の歸らぬのを不審がり、提燈をつけて迎へに行つたところ、晝とは打つて變つた荒屋敷なのに仰天して、近所の町家で樣子を聞くと、あの化物屋敷を御存じないとは、近頃田舍からおいでになりましたか、久しい荒地で、狐狸の住み場所になつてゐる、恐ろしい所でございます、といふことであつた。晝來た時は立派な屋敷であつたのに、さては妖怪の所爲であつたかと、なほ主人の行方を尋ねて千駄谷、大番町あたりを來るうち、鮫ケ橋の物さびしい藪道に、俯伏しに倒れてゐる見道を發見した。介抱の結果、正氣には還つたが、一日二日は茫然としてものも云はず、一箇月以上たつて漸く人竝になつた。これは古狸の惡戲だといふことになつてゐる(怪談登志男)。

[やぶちゃん注:「怪談登志男」「くわいだんとしをとこ」と読む。慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)書いた怪談集。寛延三(一七五〇)年序。私は活字本を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。主人公「陸野見道」の読みは現代仮名遣で「おかのけんどう」か。]

 大體の筋道は化物振舞に似てゐるけれど、三度まで長い顏を見せる趣向は、「再度の怪」の條に記す通り「搜神記」以來の手口である。荒屋敷の舞臺には「怪談老の杖」の材料も一服ぐらゐ盛つてあるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「再度の怪」この後の四つ後の条。お待ちあれかし。

「搜神記」世紀の中国は東晋の干宝が著した志怪小説集。]

 以上の常套を破つたのは「常世百物語」にある「一眼一足の化生」であらう。月明かな秋の夜、十五六ばかりに見える喝食が、足早に前の山を駈け下る。容顏美麗ではあるが、目が一つ、足もまた一本しかない。これは叡山の話で、目擊者も一人二人にとゞまらぬらしいが、狐狸の惡戲などではなくだんだん遡れば叡山一流の稚兒物語に歸著する。一つ目小僧の槪念に當て嵌らぬやうでもあり、一つ目といふところから漫然看過しがたいやうでもある。

[やぶちゃん注:「常世百物語」東都隠士烏有庵(詳細事蹟不詳)著の怪談集「万世百物語」か。全五巻。元禄一〇(一六九七)年刊の「雨中の友」の改題本。以下、同「二」にあるそれを「叢書江戸文庫」版を元に正字化して示す。挿絵も附加する。読みは独自に正しく歴史的仮名遣で附した。一部に読みに不審はあるが、注は附さぬ。文体の気品は他の比ではなく素晴らしい。挿絵があるが、面白くないので省略することとした。

   *

 

      一眼一足の化生

 

 あだし夢、叡山中堂に近きあたり、禪學院といふありけり。あまりに中堂にとなり火難あやうしとて、寛文の頃、料など給はりて寺地を五町ばかりへだて移されたりけり。何の權僧都(ごんのそうづ)とかや、はじめて遠國(をんごく)より住(ぢう)し、山のさた覺束(おぼつか)なきほどなり。また弟子に少納言の帥里境坊(そつりぼう)といふなんありける。秋の夜月のあかきころ、近院の衆徒入院(じゆゐん)の悦びにあつまり、酒たふべて遊びける。おりあしう師弟子ともに一度に厠にぞ行きける。山の習(ならひ)、所廣きにまかせ、厠(かはや)に作り崖(きし)にむかひて、戸などいふものもなくいとはれやかなり。月はことさらにさへて、椎柴(しひしば)なら樫(かし)などすべての木草に露きらめきわたり、天にすむうさぎなどいふものゝ毛さきもかぞへつべき。何にくまなき夜のさまなり。まへの山を十五六にも見ゆるかつじきの、あしばやにかけくだるをみれば、顏はめでたけれど目ひとつなるが、厠の口に近寄りて、そとたゝずむ。こはいかにと見れば足もまたひとつなり。おもてあはするよりぞとさむけたち、いかにふためともみられんや。なみなみならばきへも入るべきを、此人尋常にたがひ、法(のり)のみちすぐれて、いとたうときすぎやうじやにて、ことにたゞ人ならねばか、本性(ほんじやう)よくねんじてあられける。かのものまた引き返して、峯にかけのぼり、それよりは行方(ゆきかた)しらずぞなりぬ。帥(そつ)がみたりしも、もとより所のかはりたるに形と時とつゆたがはざりしふしぎなりかし。かれは修行のわかさにぞ、こゑたてぬばかりにおどろきかけ出し、肝きへぬべくありつれと、人にわかわかしうかたるべき事にもなしと、師弟子どもにたがひにかうともいはず。さらぬ風情にもてなし座にぞかへられける。されども何となく心にはかゝりて、それよりものがたりもしめやかならず。賓人(まらうど)のもてなしさへおのづからおろそかになりける。いかに氣もすみ給はずや、夜もやうやうふけぬ。「いざまかでなむ」とて、みなみな歸りにけり。院に仕候の供人(くにん)竹本玄俊(げんしゆん)といへる老法師、此樣を見て、「あやしみいひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ。まだ山のほどおぼつかなくおはしなんが、今宵のやう見奉るに、いちでう一眼(ぐわん)一足をみ給ふにや」と、ほゝゑみて問ふ。僧都おどろき、「さていかにぞや。我れ葛河(かつらがは)に住みける程いく度かあらき行(ぎやう)をもなし、おそろしき山をたづねてこもりしが、かゝるあやしきものいまだみず。扨て常にも出づるにや。何のわざぞ」ととふ。少納言もうちきゝ、「今までは我がおくしたる念ゆへにきつねたぬきやうのたぶらかしにぞとおもひし。そこにもみさせ給ふうへ語り出し、おそろしき事のかぎりをもみつ」と、侘びあへる。玄俊聞きて、「一眼一足といへるばけもの、此山にたへて久しき事にて、常は西谷北谷のあいにて、人はおほくみつといひし。されど何の害をなすこともなければ、しれるものはあやしともおそれず。これにあはれなる事候ふは、慈覺大師の御時にてやありけん、橫川禪定院(よかはぜんじやうゐん)に治部卿(じぶきやう)といへる學徒いまそかりける。止觀(しくわん)の學びおこたらず。禪定の窓(まど)の前には三蜜の月あきらかならん事をねがひ、わかきが中にはすぐれたるじちほうの人なれば、末いかならんかしこさともてはやさる。師の御坊もことなるものにぞあいせられける。また西谷の今の行光坊に萬里殿(まてどの)の末の御子於房丸(おふさまる)といへる、やんごとなき人住まれける。優に色あるさますぐれければ、山塔(さんとう)のわかき人々たぐひなき上﨟の筋にめであひ、また家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば、よみすてのたんざくまで、すき人のたぐひはたうときたからのやうにめでけれど、師の御坊腹あしき人にて、たへて他の出入りもゆるさず、ねたみあはれけるとなり。一日大會(だいゑ)の時、治部卿何たるすくせにか、見初めける日よりわりなうおもひまどひ、ちづかの文のたよりをもとめ、細布のあひがたき戀をもしつるに、兒(ちご)もあはれなる方にひかれ、人目の關守いかにしてしのばれけん。ふかうなれむすばれけるを、師の御坊きゝつけ、例のはらあしうにくきものゝしかたと、せちにいかりせめられける。あまりにつよふいさめ給ふとて、いかなる事かせられたりけん。あやまりのかうじて、終になきものにせられける。よさまにはつねの習にいひなし、死骸をふかう埋まれけれど、かくれなきさがなき人のいひあはれぶを、治部卿、かくと聞くより身もあられず、おくれて何せん命ぞと湖水のあわときへける。そのうらみたえずやありけん。今にその執(しう)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも罪ふかき物語なり」といひし。

   *]

 伊澤蘭軒が病家を往診した歸り、若黨を從へて兩夜の道を步いて來ると、筍笠をかぶつた童子がうしろから來て、眉を竝べて步きながら、蘭軒に向つて何度も「こはくはないか」と問うた。蘭軒は何も答へなかつたが、先に立つた若黨はその顏を一目見るなり、傘と提燈を拗り出した。童子の目は額の眞中に一つしかなかつたといふのである。この一つ目小僧は河童の化けたもので、蘭軒を脅さうと試みたのであるが、蘭軒は近視のために童子の面を見得ず、一瞥した若黨が恐怖したことになつてゐる。蘭軒はこの事を一笑に附し、これを傳へた鷗外博士も科學者の立場から、「河童が存在するか。又假に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」と眞面目に述べた。

[やぶちゃん注:「伊沢蘭軒」(安永六(一七七七)年~文政一二(一八二九)年)は医師で儒者。以上は森鷗外の史伝「伊沢蘭軒」の「その百九十」の冒頭に出る。青空文庫で読まれたい。

「額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」「額の中央」という位置にやや問題はあるが、先天性奇形の一つで必ずしも稀ではない「単眼症」(cyclopia:サイクロピア)はこれに明らかに相当する。殆んどは出生直後に死亡し、生存率は頗る低いものの、「胎生學上に有りやうがない」という鷗外医師の言葉は誤りである。]

 蘭軒の近親は次男の柏軒に傳はり、その柏軒にもまた怪しい道連れの男に言葉をかけられる話がある。これは獺の怪が恐るべき面貌を見せたのに、柏軒が近視で見得なかつたらしい。父子二代の近視に、似たやうな怪談が傳はるといふのも、興味ある事實であらうが、こゝで蘭軒を脅さうとした一目小僧が、少しく型變りである點に、吾々は特に興味を感ずる。一つ目小僧を認めぬ鷗外博士が、他に類せぬ話を傳へてゐるのが、偶然ながら頗る面白い。

2016/12/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(13) 蛇と盲目 / 鹿の耳~了

 

     蛇と盲目

 

 さうすると、自分などの斯ういふ思ひ切つた假定説のやうなものを批評する場合に、昔からよく聞く「めくら蛇におぢず」といふ俗諺なども、今一度とくと其起原を考へて見る必要はあるまいか。元來目あきが蛇を畏るゝ道理も、實はまだ明白でも何でも無いのだが、我々の流儀ではそれを究めようとはしない。單に畏れて居るか否かを問うて、靜かに其事實の何物かを語るを待つだけである。併し少なくも盲の蛇を畏れざる所以を、なんにも知らぬからであらうと速斷したのは誤りで、彼等は此通り蛇に關する珍らしい知識を、昔から持つて居たといふ事實が擧がつたのである。從つて行く行く彼等の蛇をおぢなかつた積極的原因も、改めて又發見せられるかも知れない。

 今だつてもう少しは分つて居るのである。第一には全國に弘く分布する琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである。卽ち盲人には何かは知らず、特に所謂クラオカミに由つて、すき好まれる長處のあるものと想像されて居たのである。第二には勇士の惡蛇退治に、似合はぬ話だが折々目くらが出て參與して居る。九州で有名なのは肥前黑髮山下の梅野座頭、是は鎭西八郎の短刀を拜借して、谷に下つて天堂岩の大蛇を刺殺したと稱して、其由緒を以て正式に刀を帶ぶることを認められて居た。しかもよほど念の人つた隱れた理由の無い限り、人は到底盲人を助太刀に賴む氣にはなり得まい。卽ち彼等には一種の神力を具へて居たのである。

 西國の盲僧たちには、寺を持つて其職務を世襲した例が多い。よその目くらを取子とする以前に、成るべく其實子の目が潰れてくれることを、親心としては望んだであらう。卽ち曾ては自ら目を傷けて、神に氣に入る者と成らうとした時代が、有つたと想像し得る根據である。耳の方ならば猶更差支がなたかつたわけである。昔信仰の最も強烈であつた世の中では、神に指定せられて短かく生き、永く祀らるゝことを欣幸とした者は多かつた。其世が季になつて死ぬことだけは御免だと考へ始めた頃には、よくしたもので八幡の放生會の如く、無期の放し飼ひが通則として認められた。耳切團一が信仰の爲、又同時に活計の爲に、深思熟慮の上で自ら耳を切つて來たとしても、自分たちは之を恠まうとは思はぬ。又さう迄せずとも話は成立したのである。

 然し彼等如何なる機智巧辯を以てするとも、我々の間に之を信ぜんとする用意が無かつたならば、畢竟は無益のほら吹きに過ぎぬ。ところが我々は忘れたるが如くにして、實は無心に遠き世の感動を遺傳して居た。鹿を牲とすれば耳が割けて居り、獅子を舞はしむれば忽ち相手の耳を喰ひ切り、記念に巖石に姿を刻めば、耳を團扇の如く大きくせざるを得ず、さうして盲人を見ると永く水の神の威德と兇暴とに對して、一喜一憂するを禁じ得なかつたのである。之を無意識にしかも鋭敏に、測量し得た者が色々の歌を物語り、又散々の言ひ習はしを作つて、久しく我々の多數を導いて居たのである。前代は必ずしも埋もれ果てたとは言はれない。例へば耳に關し又目に就いて、普通の同胞が信じ且つ説いて居る小さな知識の中にも、日本の固有信仰の大切な「失はれたる鏈」を、引包んで假に隱して居る場合が、まだ幾らでもあるらしいのである。

       (昭和二年十一月、中央公論)

[やぶちゃん注:「琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである」不学にしてそのような例を私は知らないが、「橋」「淵」で「座頭」なら、水辺から蛇神(弁財天に習合した蛇体の宇賀神)との連関伝承は当然の如く生まれるであろうとは思われる。適切な伝承事例を見出したら、追記する。

「クラオカミ」「闇龗(くらおかみ)」。「くら」は「谷」、「おかみ」は「竜神」の意とする。記紀神話で、高龗(たかおかみ)とともに水を司る竜神。京都の貴船(きぶね)神社奥宮の祭神として知られる。ウィキの「淤加美神」によれば、「淤加美神(おかのかみ)」或いは「龗神(おかみのかみ」は、『罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神で』、「古事記」では「淤加美神」、「日本書紀」では「龗神」と表記するとし、『日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記」及び「日本書紀」の一書では、『剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』、日本書紀の『一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされ』、「古事記」に『おいては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしている』。『貴船神社のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られており、また、全国に「意加美神社」などと称する神社がある。 祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている』とある。「闇」の字から視覚障碍者との関連が持ち出されたものか。

「肥前黑髮山下の梅野座頭」先行する「生目八幡」に既出既注であるが、最後なので、再録しておく。現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。

「鎭西八郎」源為朝。

「天堂岩」先の古賀氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」では「天童岩」と表記されてある。

「欣幸」「きんかう(きんこう)」幸せに思って喜ぶこと。

「季」「すゑ」。末。

「活計」「たつき」。生業。

「團扇」「うちは」。

「水の神」視覚障碍者→琵琶→弁財天→水神という連想。

「鏈」「くさり」。鎖。]

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