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カテゴリー「柳田國男」の283件の記事

2019/06/28

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2) / 山島民譚集~完遂

 

《訓読》

 【竈】更ニ今一タビ馬蹄ト竃トノ因緣ヲ說クべシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竃門(ソウモン)ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌錄〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竃ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形狀ノ如何ニモ家々ノ竃ト似タルヨリ、竃ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竃ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳キ入ルヽコトヽナセシナラン。【ソウゼン場】越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。【勝善神】「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述べタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ說ク者多シ。所傳既ニ失ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輪ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜每ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此說ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、【權現】木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區區ノ說アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。【カウゲ】光月ノ輪ノ「クワウゲツ」ハ芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輪ヲ思ヒ寄セシモノナルべキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解說スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタバタト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輪トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明ラカナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルべシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、賴朝公ノ大根畝(ウネ)ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所數所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。【螺】其下ニ螺ノ潛メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉ノ上ニ赭山アリ。黑キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山(マダラヤマ)ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黑ク見ユル處二所アリ。【山癬】之ヲ山癬(ヤマタムシ)ト云フ。圓形ノ大キサハ四十步バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スべキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナドヽ云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルべキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡周匝(スサイ)村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。【蛇食】土人之ヲ蛇食(ジヤバミ)ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結毦錄[やぶちゃん注:底本では「結耗錄」であるが、これは誤字或いは誤植で、「結毦錄」(「けつじろく」と読む)が正しいので、特異的に訂した。]〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。【地下ノ寶】土人之ヲ解說シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルべシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。【サヘノカハラ】其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫(オハザマ)ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルべシ。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡[やぶちゃん注:ここも底本は「八呎鏡」であるが、流石に誤植と断じて特異的に訂した。]ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繫グコト無シ〔三國名勝圖會〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ狀況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒(エイアレ)減免ノ取扱ヒヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。【月】時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長、霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、【ダイダラボウシ】「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込ミアルナリ。

 

《訓読》

 【竈(かまど)】更に、今一たび、馬蹄と竃との因緣を說くべし。馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ。凡そ善く走るの馬、前蹄の痕、地に印するときに、後蹄の痕、反(そ)りて其の先に在り。故に軍中に良馬を稱して「跨竈(こそう)」とは云ふなり〔「一話一言」所引「獅山掌錄」〕。兩空と云ふこと、自分には解せざれども、馬の足跡の三邊、著(しる)くして[やぶちゃん注:非常にくっきりとしていて、しかも。]、中、空洞なるは、誠に竃の形と、よく似たり。之れに由りて、猶ほ想像すれば、馬醫等が馬の蹄を磨(と)ぎし岩を靈地として尊崇するや、其の形狀の、如何にも家々の竃と似たるより、「竃の神」と「馬の神」とは同一、又は、深き關係ありと信ずるに至りしには非ざるか。若し然りとすれば、後年、新たに馬ノ爲めの手術場を選定するに、亦、力(つと)めて、地形の竃に似たる處を求め、或いは廣敞(くわうしやう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「こうしょう」で「高くて広々としているさま」の意。]の地ならば、圓(まろ)く之れを劃(かく)して、其の三方を圍(かこ)ひ、恐らくは南の一方より馬を曳き入るゝことゝなせしならん。【そうぜん場】越後南蒲原地方にては、馬の蹄を切る爲には特定の用地、あり。之れを名づけて「そうぜん場」と云ふ〔外山且正君談〕。【勝善神】「そうぜん」は、即ち、前章に述べたる「蒼前神(さうぜんしん)」又は「勝善神(しやうぜんしん)」にて、今も猿屋の徒が祀る神なり。關東地方の村々にも、山野の片端に此の種の一地區を構ふるもの、多けれども、普通に之れを何と呼ぶかを、知らず。信州小田井の「光月(くわうげつ)の輪」は、中仙道の通衢(つうく)[やぶちゃん注:四方に通じた交通の便の良い道路。往来の多い街道。]に近くして、夙(つと)に其の奇を說く者、多し。所傳、既に失はると雖も、亦、一箇の「蒼前場」なるに似たり。今の北佐久郡御代田村と岩村田町の境は以前は原野なり。往來より些(すこ)し脇に一町ばかり[やぶちゃん注:約百九メートル]、眞丸(まんまる)に、幅二尺ほどの道、輪のごとくに附きたり。大勢の足を以つて蹈み附けたるがごとし。輪の内外は夏草などのびやかに生ひ茂りたるに、道とおぼしき處のみ、草、悉く偃(ふ)したり[やぶちゃん注:「伏されてある・倒されている」の意。うっひゃあぁつっ! ミステリー・サークルそのものじゃんか!! 面白れええぞ!。之れを「光月輪(くわうげつのわ)」と稱す。俗談に、『所の氏神、夜每に、馬を責めたまふ處なり。折りとして、轡(くつわ)の音など聞ゆ』と云へり〔「本朝俗諺志」一〕。此の說は諸書、若干の異同あり。或いは、『輪の中の草、夏に入れば、枯るる』と云ひ〔「和訓栞」(わくんのしほり)〕、或いは、『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕、或いは、『雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ』と云ひ、『其の附近、別に一輪ありて、馬を其の中に乘り入るれば、必ず死すとて、人、之れを怖ろしがる』と稱す〔百卷本「鹽尻」二十五〕。輪の大きさ及び數に就きても、區區の說あり、而も今は既に跡を留めざるがごときなり。【かうげ】「光月の輪」の「くわうげつ」は、芝原を「かゞ」又は「かうげ」と呼ぶ、古語より出で、之れに「月の輪」を思ひ寄せしものなるべきも、何が故にかゝる地貌(ちぼう)を呈するに至りしかは、之れを解說する能はず。近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど、山上の「農鳥(のうとり)」又は「農牛(のううし)」[やぶちゃん注:『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり。頂きより麓まで、數峯、起伏して畝のごとし。其の間に草の圓く枯るゝ所、數所あり。徑(わた)り四、五尺、遠望すれば、環のごとし。【螺】其の下に「螺(ほら)」の潛(ひそ)める爲め、此くのごとし、と云ふ。巖(いわほ)の上に天狗松あり、之れを伐れば、災ひあり〔「甲斐國志」三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり。黑き岩、斑(まだら)を爲すにより、名づけて「斑山(まだらやま)」と云ふ。地中に「螺(ほら)」を棲ましむるが故に、草木を生ぜず」と傳へたり〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組の太日向山には、山の草の圓形にして黑く見ゆる處、二所あり。【山癬】之れを「山癬(やまたむし)」と云ふ。圓形の大きさは四十步(ぶ)[やぶちゃん注:約百三十二平方メートル。畳換算で八十畳敷き相当。]ばかり、近づけば見えず、遠く望めば、瞭然たりと云ふ〔同上三十〕。今もありや否やを知らず。「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下の広義の「虫」類の内でも、特に地中に潜り潜む(冬眠や夏眠とは限らなくてよい。土中で孵化して地面から出現する種も含まれる)種類を指している。観察上は蛙・蛇・陸生貝類やミミズ・蟻・蟬或いはモグラなども皆、「蟄蟲」となろう。]より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。。【蛇食(じやばみ)】備前赤磐郡周匝村(すさいそん)の山には、山腹に之れに似たる圓形の地ありて、一町或いは二町[やぶちゃん注:約二メートル十八センチメートル。]の間、夏に入れば、草、枯(か)る土人、之れを「蛇食(じやばみ)」と名づけ、其の地、蛇毒ありて此くのごとしと云へり〔「結毦錄(けつじろく)」〕。土佐に於いて、土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺(じんぜんじ)の中に、一所、圓くして草の生ぜざる所あり。【地下の寶】土人、之れを解說して、『凡そ、土中に金銀あれば、草、生ぜざるなり』と云へり〔「土佐海」續編〕。此等の土地は、古今共に、必ずしも馬の祭場としては用ゐられず。唯だ、其の外觀の如何にも顯著なるが故に、苟(いやし)くも駒形信仰の行はるゝ地方に於いては、終に之れを輕々に看過する能はざりしなるべし。加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。【さへのかはら】其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ。八、九尺の間、圓形にして自然に角力場を爲せり〔「白山遊覽圖記」二〕。出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)ありて、山中に「天狗の相撲取場」と云ふ禿(はげ)あり。常に綺麗にして草木を生ぜず〔「三郡雜記」下〕。陸中の大迫(おはざま)の山に於いて「龍が馬場」と云ひしは、恐らくは之れと似たる處なるべし。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地も、平地にして狀況よく小田井の「光月の輪」と似たり。往古より、不淨あれば牛馬損ず、と言ひ傳へて、牛馬に草も飼はず、永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地なり〔「東作誌」〕。往來筋に接近して、人、よく之れを知る。【月】時として、月影、澤一面に見ゆることありと云へば、低濕の地なるがごとく、村の名を「池ケ原」と呼ぶに由つて案ずれば、以前の池の、漸(やうや)く、水、あせたるものか。東京の西郊などには、所謂、「井の頭」の泉、涸れて、羅馬(ローマ)の劇場のごとき形をして殘れるもの、處々に在り。信濃・美作の「月の輪」も亦、此の類ひなりとすれば、草の生長、霜雪の消え積る有樣、自然に他と異なるものありと云ふも、怪しむに足らざるのみならず、之れより推し及ぼして、更に第二の奇跡、【だいだらぼうし】「だいだらぼうし」の足跡をも、解釋し得るの見込みあるなり。

[やぶちゃん注:「馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ」これは中国由来だね。中文サイトの「跨竈」を見られよ。馬蹄の後は確かにその通り! しかし、「自分には解せざれども」に諸手を挙げて、賛成! 蹄は竈の形に確かに似ている。しかし、その二つの空隙は確かに判らんね。

「越後南蒲原地方」旧南蒲原郡。ウィキの「南蒲原郡」の地図で旧域を確認されたいが、現存する南蒲原郡(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、この表示域が概ね旧郡域)の他、三条市全域・長岡市の一部・加茂市の一部・見附市の一部・燕市の一部が含まれた。

「勝善神(そうぜんしん)」「蒼前神(さうぜんしん)」「勝善神(しやうぜんしん)」既出既注或いは「蒼前神」「勝善神」孰れも歴史的仮名遣を無視して「そうぜんしん」と読むのかも知れない。少なくともリンク先で引用した「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」の解説はそのように読めるからである。但し、「ちくま文庫」版は「勝善神」に『しょうぜんしん)』のルビを振っている。

「信州小田井」面倒なことに、長野県佐久市小田井と、長野県北佐久郡御代田町小田井が現存するが、以下の叙述から見て前者である。

「北佐久郡御代田村と岩村田町の境」長野県北佐久郡御代田町御代田の東西で、長野県佐久市岩村田の東北で、長野県佐久市小田井は接する。小田井は御代田を中に挟んで飛び地であるが、この謂い方と現在の地割から見ると、小田井の東の飛び地にそれはあったか。

「『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕「和漢三才図会」の「巻第六十八」の「信濃」の以下。所持する原本画像から電子化する。

   *

小田井 廣野也此野草芝中自成輪形而草不生雪亦

 不降積其輪大尺許經一町許呼曰髙月輪未知其所

 以也相傳曰向山名木幡山其峯在權現社此神乘馬

 夜出遊于此

○やぶちゃんの書き下し文

小田井 廣き野なり。此の野、草芝の中、自(おのづ)から、輪の形を成す。草、生えず。雪も亦、降り積もらず。其の輪、大いさ尺許り。經(さしわたし)一町許り。呼んで「髙月輪(かうげつのわ)」と曰ふ。未だ其の所以を知らざるなり[やぶちゃん注:どうしてそうなるのかという理由は判らない。]。相ひ傳へて曰ふ、『向ふの山を「木幡山」と名づく。其の峯に、權現の社、在り。此の神、馬に乘り、夜、出でて此に遊ぶ』と。

   *

「木幡山」は確認出来ないが、良安は「向ふの山」と言っており、私の比定地が正しいとすれば、まさに湯川の対岸の長野県佐久市横根のここがそれらしく見える(国土地理院図)。南山麓に神社も確認出来、また、この「峯」を南東に登ると、千百五十五メートルの「平尾富士」があり、山頂には神社もある。如何にもこれっぽい感じはする。

「雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ」そんなの、全然、不思議じゃないぜ、柳田先生。

『近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど』出ました! 柳田先生の落語!

『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり』「甲州南都留郡盛里村」は山梨県都留市盛里で、「北都留郡大原村」は山梨県大月市猿橋町であるから、現在の九鬼山であろう。標高九百七十メートルで、大月市の百蔵山で生まれた桃太郎が鬼退治にやってきた山と言う伝承を持ち、東北東六百メートル弱の位置に「天狗岩」もある。登山サイトを見ると、この天狗岩から北西に下る尾根辺りを「賴朝公の大根畝」と称したらしい。この辺りが頼朝の狩場であったという伝承があることに由るらしい。

『同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり』山梨県北杜市須玉町(すたまちょう)小倉(こごえ)。これは「甲斐国志」の巻之二十九の「山川部第十」にある。リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に電子化する。カタカナを平仮名に代え、句読点や濁点を加えて読み易くした。傍点「ヽ」は太字にした。

   *

一〔斑  山〕東は塩川[やぶちゃん注:原典は「鹽」とごちゃついた字体。現行も「塩川」。]、西は玉川[やぶちゃん注:現行では「須玉川」。]に界し、南は東向、大蔵、小倉諸村に跨り、北は津金山に續き、頗る高大にして兀山[やぶちゃん注:「こつざん」。禿げ山。]なり。赭土の間に、往々、黑岩ありて斑文[やぶちゃん注:「はんもん」。斑紋。]をなす。故に名づく。今、訛して曼荼羅山、萬鳥山、眞鳥山なども云へり。土俗、云、地中に螺(ほら)を棲ましむるに因りて、草木を生ぜずと。○東向村御林 長百五拾間、橫五拾四間[やぶちゃん注:縦二百七十二・七メートル、横約九十八メートル。]。

   *

「同郡淸哲村靑木組の太日向山」山名の読み不詳。この名では現認出来ないが、「同郡」(旧北巨摩郡)となれば、山梨県北杜市白州町白須の日向山(ひなたやま)か。

『之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり』「之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼」ぶ、とは本末転倒。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis は古くからオセアニア・東南アジア・日本で楽器(本邦では平安時代に既に見られる)として使用され、本邦では特に修験道の法具に用いた。ホラガイについては私の『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』を参照されたい。ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

「白田螺(しろつぶ)」「ちくま文庫」版は『しろたにし』とルビするが採らない。私はこれは「白い」「田」=陸地に居る「螺」(つび・つぶ:巻貝の総称)で、実はホラガイのやや小型化した妖怪(同じく崩落や地震を起こす)を指すと考えるからである。この読みに異論のある向きは、例えば「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「シロツブ」を見られたい。そこでは「越後野志」巻十四を引用元として、かく訓じている(但し、その場合のそれはアルビノのタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae)ではある)。無論、陸生貝類(有肺類)の誤認としてもよいが、純陸生のそれは日本本土では大型の個体は極めて少なく、しかもそのアルビノとなると、まず、ここで比定候補に挙げるべきものはない。

「備前赤磐郡周匝村(すさいそん)」「そん」はウィキの「周匝村」に拠った。それによれば、現在の岡山県赤磐(あかいわ)市河原屋(かわらや)・草生(しそう)・周匝(すさい)・福田(リンク先で河原屋地区から時計回りで川沿いに展開するのが判る)に当たるとある。草生地区(航空写真)は名前がそれらしくは見える。

「蛇食(じやばみ)」小学館「日本国語大辞典」に、山野で直径五~十メートルほどの円形に草木が生えない場所とあり、「俚言集覧」(十九世紀前期に成立したと考えられる国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著の「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られる。全二十六巻。これは先行する国学者石川雅望(まさもち)の古語用例集「雅言集覧」に対するものとして企画したもので、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。現行では後の幕末に井上頼圀・近藤瓶城(へいじょう)が五十音順に改めて増補刊行した「増補俚言集覧」(全三冊)が一般に使用される。江戸期の口語資料として重要。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)に載ることが記されてある。

「結毦錄(けつじろく)」儒者で博物学的本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達)が宝暦九(一七九六)年刊の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して以下に電子化する。同前の仕儀に記号も加えて読み易くした。但し、読みは一部に留めた。

    *

  「蛇ばみ」の事

備前周斉周匝(すさい)村と云村あり。その邉(あだり[やぶちゃん注:ママ。])の山に、夏に至れば、俄に山の半腹(はんふく)の処、一處[やぶちゃん注:両漢字表記の違いはママ。]、月暈(かさ[やぶちゃん注:「暈」ののみへのルビ。])の如く、一町餘も、草、枯れて、圓(まどか)にして、草、生(しやう)ぜず。春時は、草、生ずれども、夏に至れば枯(か)る。毎年(まいねん)此(かく)のごとし。土人、「蛇(じや)ばみ」と云。村田生[やぶちゃん注:不詳。松岡の門弟の学生か。]、物語に、『信州、「武藏野(むさしの)」と云[やぶちゃん注:「いふ」。]処あり。野中、夏に至れば、右の説の如く、圓(まろ)く圍(かこ)みの中(うち)、草を生ぜず。六、七十間(けん)[やぶちゃん注:百八~百二十七メートル。]、或いは半町[やぶちゃん注:五十九センチメートル。]餘(よ)も、かくのごとし。土人、「月の輪(わ)」と云』と。

    *

「土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺」高知県高知市東秦泉寺(ひがしじんぜんじ)・北秦泉寺・中秦泉寺附近(西に向かって展開している)であろう。

『加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ』私は白山に登ったことがないのでよく判らぬが、「ヤマケイ・オンライン」のこちらの「白山」の地図の東北部に「お花松原」があり、その西北には「地獄谷」が、白山方向に戻れば、「血の池」もあるので「さへのかはら」(賽の河原)も当然あろう。「角力場」は現認出来ない。

「出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)」山形県鶴岡市砂谷のここ金峯山はその東北(直線で一・三キロメートルで、登山実測例では一時間かかる)のここ

「天狗の相撲取場」確認出来ない。なお、この手の有意な空隙地をかく呼称するケースは日本各地に見られる。

『陸中の大迫(おはざま)の山』岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)大迫はここ(国土地理院図)。大迫を冠する地区は広いが、ここが本家っぽいから、この北後背地の何れかのピークか。

「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す」この地名は確かに現在の薩摩川内(さつませんだい)市五代町(ちょう)なのであるが、かなりややこしい感じがする。何故なら、この八咫鏡を祭神としていた鏡山(かがみやま)神社は、五代町に西で接する鹿児島県薩摩川内市小倉町にあったのであるが(ここは伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる)後に小倉町の八尾神社に合祀されて廃絶している。ところがこの八尾神社というのは、現在は鹿児島県薩摩川内市宮内町(五代町東で隣接)の新田神社の境外末社になっているのである。従って、この三つの町が候補地になろか。しかし、最後の新田神社は合祀の結果であるから、もう除外してよい。そうすると、現在の小倉町か五代町が比定候補地となる。私は心情的には、失われた小倉町にあった鏡山神社の跡地(位置不明)附近を比定したくはなる(以上はウィキの「新田神社(薩摩川内市)」を参考にはした)。「鏡野」なんて素敵な名なのになぁ。【二〇一九年六月三十日追記】最後の最後までお世話になってしまった。T氏より昨日メール来信。

   《引用開始》

六か月に渡る「山島民譚集」有難うございます。

余計な御世話として、「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野」の貴下註が面白く、『三國名勝圖會』の当該巻十三・十四の「薩摩國高城郡」の「水引」を読んでみました。

   *

鏡野【地頭館より酉方、四十町許、】 宮内村五代にあり、傳へ稱す、高古瓊々杵尊天降玉はんとするや、天照大神の御形見として親から皇孫に授け玉へる八咫(タ)鏡を齋き奉り玉ふ所なり、故に其名を鏡野といふ、今此原野の内周廻一町許、正圓(マンマル)の内艸の色他所に異りて四季共に生え茂り、霜雪にて枯るゝことなし、是其靈蹟なる故なりといへり、又年々火を以て、此野を燒ける例なるに、此一圓の所のみは、曾て燒る事なし、世人此傳を知らざる者見ても、艸色の異なるに驚くべし、邑人も常に尊ひ崇めて、牛馬を放ち繋がず、

[やぶちゃん注:以下、漢詩は一行二句表示であるが、ここのみ私が原典の訓点を加えて、その分、格好が悪くなったので、一段組みに直した。]

  鏡野叢       釋不石

 平野周遭似鏡圓

 春風春雨草綿々、

 人放火無煙起

 拍手同歌大有年、

   *

文章では、これだけですが、同じ巻十三にある図を見ると、「一之磧觀音堂」に「鏡野」と「小倉」(コクラ)の家並み及び川内川が描かれています。

推測するに、小倉川が川内川に流れ込む当たりの家並みが描かれ、其の奥に「鏡野」をもつ山があります。五代町と小倉町とは高城川右岸の山の稜線で区切られています。この位置関係をもとに国土地理院地図で見ると、七迫(ななさこ)の北にある「標高106.1」の山が「鏡野」を持つ山の候補となります(この山の北北東奥の「標高114」では川内川から見ると、手前のこの「標高106.1」が邪魔になるように思われます)。この山(奧の山でも)であれば、「五代」の人は五代、「小倉」の人は小倉と言ってもおかしくないと思います。

一番の収穫は「巻十三の図」に尽きます。

   《引用終了》

いや! この図はほんまに! ええなあ! 完結のT氏からのプレゼントや! みんな! 見なはれや!

『美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地』岡山県津山市池ケ原。北を肘川が貫通し、池沼が有意に多い湿潤な一帯であることが、地図からもよく判る。「月の輪」も残したかった地名だなぁ。

「不淨あれば牛馬損ず」「永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地」……窪地……馬が死ぬ……永く荒れ果てた地で、年貢の対象からも外されてきた、異常な不可触禁忌の一帯……これを読んだ時、私は妖怪「だり」を直ちに想起した。……窪地で、そこにいると突然、身体が不自由になり、動けなくなる。それを妖怪「だり」の仕業とする記載を遠い昔に読んだ。ウィキの「ヒダル神」に、『人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』とあるものである。八甲田山では一九九七年、野外演習中の陸上自衛隊員三人が窪地で昏倒して死亡する事故があった。 その原因については二酸化炭素或いは硫化水素の滞留による中毒による窒息死が推定されたように記憶している。ウィキの「ヒダル神」にも『植物の腐敗で発生する二酸化炭素』中毒起因説が仮定の一つとして挙げられてある(酸素(純粋酸素は極めて強毒である)ほどではないが、二酸化炭素も有毒気体である)。この〈ミステリー・サークル〉は、実はそうした自然が自ずと形成した危険地帯だったのではなかったか? と私が思ったことを、ここに最後に言い添えておきたい気がした。

 以上を以って、本「山島民譚集」の本文は終わる。以下、この後、底本ではここから「目次」が載るが、略す。次に奥附を字配・ポイントを無視して電子化しておく。]

 

 

山島民譚集

  ―日本文化名著集―

 

昭和十七年十一月廿五日 印 刷

昭和十七年十一月三十日 發 行

      五千部發行

  • 定價 貮 圓

 

出文協承認

 50.441

 (検印)

[やぶちゃん注:以上の三行は上部横書(上記通りの左から右書き)。検印は「柳」の一字で、下地添付紙は「丸に違い矢」の紋が印刷されたもの。]

 

著 者  柳 田 國 男(やなぎたくにを)

發行者  矢 部 良 策

     大阪市北區樋上町四五番地

印刷者  井 村 雅 宥

     大阪市浪速區稻荷町二丁目九三五

        (會員番號西大一一九二)

配給元  日本出版配給株式會社

發行所  株式会社 創 元 社

     (會員番號第一一五、五〇一號)

     大阪市北区樋上町四五番地

     振替大阪五七〇九九番

     電話北三六八六・三七〇八番

 

[やぶちゃん注:以上を以って柳田國男「山島民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月甲寅(こういん)叢書刊行会刊(「甲寅叢書」第三冊))の再版版である昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)の全電子化注を終わる。

 結局、年初から五ヶ月半もかかってしまった(当初は、せいぜい三ヶ月ぐらいの短期で仕上げるつもりだった。やはり注に拘り過ぎたのが元凶であった)。

 なお、本作には「ちくま文庫」版全集第五巻で「山島民譚集㈡(初稿草案)」と「山島民譚集㈢(副本原稿)」という二篇の〈続篇〉稿が載る。実際、内容的には本書の続篇として確かに読めるものではあるのだが(特に「山島民譚集㈡(初稿草案)」は初っ端から『第三 大太法師』のタイトルで突然『二一 いろいろの物の足跡』という柱から始まるのは、完全に「山島民譚集」の続編として始まる(柱数字の「二一」は不明。或いは本「山島民譚集」の小項目見出しを整理して数を減らし、さらに書式(後述)も全部書き変えるつもりであったものと思われる)、何より書法が全く異なり(平仮名漢字交じりの完全口語表現)、個人的に読んで受ける印象は続篇の額縁を附けた全くの別物という感じである。しかも草稿或いは推敲原稿であり、注記号があって注がない箇所が殆んどであったりと、作品として読むには不備不満が多い(電子化し出したら、その不完全で不満な箇所に、これまた、過剰な注を附けたくなるに違いない)。されば、今は全く食指が動かぬ。少なくとも、本年中にこれらに手を着けるつもりは全くないこと、将来的にやるとしても、全く注を附けないものとなろうことを言い添えておく。

 さても。ここまでお付き合い戴けた数少ない読者の方々、取り分け、たびたび多くの注での誤認や不明箇所を御指摘戴いたT氏には心から感謝申し上げるものである。藪野直史]

2019/06/27

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(46) 「光月の輪」(1)

 

《原文》

光月ノ輪  蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。【馬學退步】彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫養ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脫スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學說ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ賴リテ、生ヲ支ヘ職ヲ世(ヨヽ)ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ說キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈盛ナリシナルべシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、【野飼】野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繫ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スべキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。【聖德太子】聖德太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ說ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルべシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來タリテ祈禱ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。【猿橋】甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因緣アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、【駒爪石】附近ノ岩石ノ天然ノ形狀略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辨ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳說製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此說甚ダ奇ヲ衒フニ似タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繫ギテ、每囘同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歷史トシテ之ヲ受ケ入ルヽコトヲ得ルナリ。【馬蹄砥】延喜ノ左馬寮式ニ、季每ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、每年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天產ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ說明ヲ乞フべキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

 

《訓読》

光月(くわうげつ)の輪  蓋し、左右の馬寮(めりやう)が諸國の官牧を支配せし時代には、儼然(げんぜん)[やぶちゃん注:「厳然」に同じ。動かし難い威厳のあるさま。]として馬師・馬醫の職ありき。【馬學退步】彼の徒(と)、行ふ所の相馬の術[やぶちゃん注:馬の相(そう)を見ること。]・醫養の法、之れを我々の理學に由りて判ずれば、固より「マジツク」の域を脫する能はざるもの多かりしならんも、而も學說に由來あり、推理に系統ありて、幸ひに漸次の實驗を以つて之れを補正するを得しならば、終には一科の技藝として、永く世用(せよう)を完(まつと)うするものとなりしや、必(ひつ)せり。惜しきかな、王制、中ごろ、弛(ゆる)み、法規、行はれず、官に屬せし術者、四散して草莽(さうまう)に入りし[やぶちゃん注:野に下ってしまった。これもまた、馬の縁語になっていますね、柳田先生。]より、又、其の技を究むるの機會無く、僅かに土民が馬を愛するの情に賴りて、生を支へ、職を世(よゝ)にするを得るのみなれば、符呪(ふじゆ)[やぶちゃん注:怪しげな呪(まじな)いや、御札・御守りの類い。]を以つて未熟を補ひ、神異を說きて、平凡を蔽ふの傾き、世降ると共に、愈々、盛んなりしなるべし。されば彼の馬洗と稱して馬を沼川の水に入るゝ風習と、【野飼】野飼又は夏越(なごし)などと云ひて、一定の日、家畜を水邊に繫ぎ置く儀式と、水神を誘ひて牝馬に種付(たねづけ)せんとする迷信とは、何れか起原、何れか變遷と決すべき。必ずしも尋常進化の理法を以つて輕々に推論することを得ざるなり。例へば、駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ〔「浪華百事談」二〕。同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき〔同上七〕。太子の此の地方に關係あることは古來の說なれども、此の場合に於いては、單に所謂、厩師の開祖某と云ふに過ぎざるべし〔「猿屋傳書」〕。彼等が職とする所、時々、厩に來たりて祈禱を爲すに止まらず、或いは一定の水邊に居を占めて、農家の爲に馬の治療を引き受けてありしことも、略(ほ)ぼ之れを想像し得るなり。【猿橋】甲州の猿橋は、近國の猿牽共、集まり來たり、勸進して、其の架換(かけかへ)の費(つひへ)を辨ずること、古くよりの風なりきと聞く。此の橋下の碧潭も亦、恐らくは馬の醫術と因緣あるものならん。馬蹄石の由來のごときも、必ずしも解き難き謎には非ず。既に一區の靈場を指點(してん)して馬の保護者の宅(たく)する處なりとする風ある以上は、【駒爪石】附近の岩石の天然の形狀、略ぼ馬蹄に髣髴するものを覓(もと)め出だして、之れを神變の現出せしめたる所と推測するは、必ずしも巫覡(ふげき)の詭辨を煩はすことを要せずと雖も、少なくも、一部分の駒岩に在りては、更に一段と顯著に、恐らくは、實際。傳說製作者の眼前に於いて、馬の跡を其の岩の上に印するの現象、ありしならん。此の說、甚だ奇を衒(てら)ふに似たれども、然らず。石を以つて馬の蹄を磨するは、古代普通の風習なれば、村に住する馬醫等の其の仕事を托せらるゝ者、馬を神前の岩上に曳き來たり、特に之れが爲めに淨め置きたる場處に繫ぎて、每囘、同じ窪(くぼ)に於いて、馬の蹄を磨ぎしより、終には「神馬の蹄の跡」と云ふ物を生じたりとすれば、諸處の口碑の多數は、何等の誇張無き歷史として、之れを受け入るゝことを得るなり。【馬蹄砥】「延喜」の「左馬寮式(さまりやうしき)」に、季每(ごと)に請ふべき馬藥の中に、每年、馬蹄を作るの料砥(りやうし)[やぶちゃん注:砥石として準備しておく物。]二顆(か)とあり〔「延喜式」四十八〕。右馬寮(うまりやう)、亦、之れに準ず。安房・日向等の馬蹄硯は、勿論、天產にして、其の生成の由來は、岩石學者の說明を乞ふべきものならんも、他の一方に、右のごとき、砥石の古くなりて、形、相ひ似たるもの、磊々(らいらい)として[やぶちゃん注:石が多く積み重なっているさま]、到る處、人の目に見馴れたりとすれば、比較によりて、此くのごとき名を附與することの、決して不自然なる事態に非ざりしを知るなり。

[やぶちゃん注:「光月(くわうげつ)の輪」次の本書の最終段落で語られるので、ここでは注しない。

「夏越(なごし)」既出既注

「駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ」「大阪生魂神社」は現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「生魂」(いくたま)は通称。「南谷町(みなみたにまち)筋」柳田國男は「生魂(いくたま)神社の東」と言っているが、調べた限りでは正確には旧南谷町は神社の東北に当たるように思われる。現行、この遺跡はない模様であるが、この画面の上右半分辺りにあったものかと私は推定する。

「同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき」聖徳太子建立七大寺の一つとされる大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。「天王寺」は四天王寺の略称。生國魂神社の南南東一キロほどとごくごく近いことから、この「聖徳太子駒洗いの池」は同一伝承の分化に過ぎないのではなかろうか。私は寺の中にちんまりあったそれより、上記の方が原型のようには感ずる。因みに「き」の過去形が気になっていた。現在の同寺の境内には現存しないようである。なお、ウィキの「四天王寺」によれば、同寺は『天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗』(教学上にそれ。三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上を「南都六宗」と呼ぶ)・天台宗・真言宗)『兼学の寺であった』。『日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から』、昭和二一(一九四六)年、『「和宗」の総本山として独立している』とある。「四天王寺」公式サイト内の解説を見たところ、『戦前までは長らく天台宗に属していましたが、近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて』、上記の敗戦の翌年に『天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の「和」をいただいて』昭和二四(一九四九)年に独自の『「和宗」となりました』とあった。

「甲州の猿橋」山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:両岸の懸崖から刎ね木を何段にも重ね、それで橋桁を受けるもの)として知られる「甲斐の猿橋」。因みに、現在のものは昭和五八(一九八三)年着工で翌年の八月に完成したもので、総工費は三億八千三百万円である(リンク先のサイド・パネルの大月市教育委員会の説明板に拠る)。その事実確認や費用の単純換算比較は出来ぬにしても、嘗つての猿回しの芸をした人々の隆盛がいよよ偲ばれるではないか。私は幼稚園児だった頃(私は昭和三二(一九五七)年二月生まれである)、練馬の大泉学園の日蓮宗倍光山(ばいこうざん)妙延寺の縁日で見たのが、一度、絶滅した猿回しの最後であった。]

2019/06/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)

Surusumitoukotu

 熊谷氏ノ馬ノ首

駿國雜志卷二十五ヨリ

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプション。「駿國雜志」江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、旗本正章(知行六千石)の子。通称は大学。文化一四(一八一七)年九月、駿府加番となり、駿府城の守衛等を担った。任期は一年であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土等を調査した)が榊原長俊の著した「駿河国志」を元として天保一四(一八四三)年に完成させた全四十九巻の駿河国の地誌。底本や「ちくま書房」版は画像が著しく悪いので、国立国会図書館デジタルコレクションの静岡の明治四五(一九一二)完刊の吉見書店刊の同書の刊行本の第八冊(附図集成巻)のこちらからトリミングし、汚損を清拭して示した。

 

第百三十二圖

 磨墨首骨の図

  (巻之廿五

   九  二)

[やぶちゃん注:原典図のキャプションを電子化する。まずは右上キャプション。最後の( )は割注状に大きな一つの丸括弧の中に二行書き。柳田國男の「山島民譚集」では「磨墨首骨の図」(「図」は或いは「圖」にも見える)の一行のみで前後は全くない。以下では、しかし私は有意な異同は認めない。

 

図の如く苧縄を

以て耳穴より引

通し上を結ひ梁

の臍に掛たり

[やぶちゃん注:左上。「苧縄」は「をなは(おなわ)」で、麻糸を縒り合わせて作った縄のこと。「梁の臍」「はりのほぞ」。梁(構造物の上部からの荷重を支えるため、または柱を繫ぐために架け渡す水平材。特に、桁(けた:柱の上に懸け渡した横木)に対して直角に渡されたものを指す)の材を接合するための突起のこと。]

 

耳穴[やぶちゃん注:図の上部左右に二箇所。]

眼穴[やぶちゃん注:図の眼窩の左右に二箇所。]

齒[やぶちゃん注:図の下部の左右と最下部で三箇所。]

 

眼穴竪一寸七分

横一寸八分計

[やぶちゃん注:右下。「一寸七分」五・一五センチメートル。「一寸八分」四・八五センチメートル。]

 

首大さ先の尖より前歯迠

長一尺四寸牙歯迄八寸

[やぶちゃん注:左下。「一尺四寸」四十二・四二センチメートル。「八寸」二十四・二四センチメートル。]

 

《原文》

 【硯ノ水】大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絕エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒書(ムダガキ)ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムべキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グべキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰カハ智者ナリト謂フべシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因緣アリシカト思ハル。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、【馬ノ首】安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコノシユク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來タリテ暫ク其柱ニ繫ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得べシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繫櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルべシ。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(ミヽドリ)稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ヘ繫ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老樹名木誌〕。此說頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ揭ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戶人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハズレニ顏ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ插ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田鄕ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。【多田滿仲】多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。【馬塚】滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ每夜光明ヲ放ツ。和尙之ヲ禮スレバ馬首出現ス。【龍馬神】之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戶ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。【馬鬼】思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズべカラザル馬鬼ノ說ヲ起シ、或ハ南部ノ高架(タカホコ)ニ七鞍ノ大馬ヲ說キ、サテハ豐後直入郡朽網鄕(クダミガウ)ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黑嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス返スモ悲シミ且ツ歎ズべキコトナリ。

 

《訓読》

 【硯の水】大なる磐石(ばんじやく)の上の窪み、通例、稱して「神馬の足跡」とするものの中に、若(も)し、絕えず一泓(いちわう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「いちおう」。有意な大きさの水溜り。]の水を湛ふる處あれば、人は、又、之れを「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其の例、甚だ多し。昔の田舍者は本書の著者のごとく徒書(むだがき)の趣味は解し居(を)らざりし故に、硯と言へば、經文とか證文とか、いづれ、重要なる物を認(したた)むべき道具と考へたりしなり。之れと靈馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有り難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも實(じつ)よりも萬人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、斯(かか)る名を選定したる昔の誰かは、智者なりと謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長澤には、馬蹄の形に似たる石を神體とする社ありき〔「石見外記」〕。石見國は硯に似たり、竹生島は笙(しやう)のごとし、などと云ふ古諺(こげん)もあれば、此れも硯の水の信仰と多少の因緣ありしかと思はる。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社の御正體(みしやうたい)も亦、一箇の馬蹄石なり〔「駿國雜志」〕。此れは多分、安倍川の流れより拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を傳へ居(ゐ)たりしならん。此の地方に於いて、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此の村にも彼の村にも、其の遺跡、充滿す。前(さき)に擧げたりし多くの馬蹄石の外に、【馬の首】安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、數百年の間、家の柱に引き掛けたり。其の爲めに、此の家には、永く、火災無く、且つ、病馬・悍馬(かんば)[やぶちゃん注:性質の激しい荒馬。]を曳き來たりて、暫く其の柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病ひ又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之れに由りて思ふに、諸國に例多き駒留杉・鞍掛松・駒繫櫻の類ひは、恐らくは皆、此の柱と、其の性質・目的を同じくするものにして、之れを古名將の一旦の[やぶちゃん注:ある時のただ一度の。]記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)稻垣氏の邸内なる老松は、昔、此の家の先祖、山に入りて草を刈るに、其の馬、狂ふとき、之れを此の木へ繫げば、必ず靜止するにより、之れを奇なりとして、其の庭に移植すと云へり〔「大日本老樹名木誌」〕。此の說、頗る古意を掬(きく)する[やぶちゃん注:汲み取って(推し量って)理解する。]に足れり。更に一段の推測を加ふれば、此の種の靈木は亦、馬の靈の寄る所にして、古人は之れを表示する爲めに、馬頭を以つて、其の梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道にて、小笠郡相草(あいくさ)村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、【馬頭神】馬の髑髏(どくろ)を、一箇の石塔と共に其の中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり〔『東京人類學會雜誌』第百八號〕。百五、六十年前の江戶人の覺書に、羽前の芹澤と云ふ山村を、夜分に通行せし時、路傍の林のはずれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と、驚きて、更によく檢(けみ)すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる「山田の案山子(かかし)」なりし事を記せり〔寓意草下〕。此れも只だの鳥威(とりをど)しならんには斯(かか)る手數をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今、些(すこ)し古き處にては、攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)の什物に馬頭あり。【多田滿仲】多田滿仲、曾つて龍女の爲めに大蛇を退治し、其の禮として名馬を贈らる。【馬塚】滿信の代に、此の馬、死し、之れを塚に埋む。文明二年[やぶちゃん注:一四七〇年。]の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尙、之れを禮すれば、馬首、出現す。【龍馬神】之れを金堂の納めて「龍馬神」とすと云へり〔「和漢三才圖會」七十四〕。馬首出現とのみありては漠然たる不思議なれど、實は寺僧が塚を發(あば)きて頭骨を得來りしなり。村民、駒塚山頂の光物を怖れて戶を出づること能はざりしに、之れを金堂に鎭祭して、其の妖、熄(や)む、と見えたり〔「攝陽群談」三〕。【馬鬼】思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は古人のごとしくならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の說を起こし、或いは南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き、さては、豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社に、神馬、黑嶽山に入りて鬼と爲ることを傳ふるがごとき〔「太宰管内志」〕、寧ろ、國内の馬蹄遺跡をして其の眞を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯樂道の名譽の爲め、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。

[やぶちゃん注:「石見那賀郡石見村大字長澤」島根県浜田市長沢町(ちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。 現在、町内には長澤神社しか見当たらないが、それが「馬蹄の形に似たる石を神體とする社」の後身なのかどうか(或いはここに合祀されているとか)は判らない。引用が過去形だし。

「石見國は硯に似たり」石見国の形を馬鹿正直に古地図で見えも始まらない。「石見」の二字を結合して「硯」に似たりと言っている言葉遊びの類いである。

「竹生島は笙(しやう)のごとし」島の形が雅楽器の笙に似ている(とは私は思わない)ことから「笙」を分解して「竹生」島となったという、これまたまことしやかな島の名の語源説の一つだが、寧ろ、古来より「神を斎(いつ)く島」であったその「いつくしま」が「つくぶすま」と訛り、「ちくぶしま」となったとする説の方が遙かに腑に落ちる。

「駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社」駿府城址の南西の静岡県静岡市葵区駒形通にある駒形神社であろう。安倍川の左岸で川にも近い。

「安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村」静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷(いずみがや)(国土地理院図。右下方が丸子市街地が旧鞠子宿)。地図で見ると、山家と見えるが、実はここにある臨済宗吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は今川家七代当主に仕えた連歌師宗長(宗祇の弟子)が、京の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺め、余生を送った場所として知られ、借景や枯山水で国の名勝史跡にも指定されており、庵の前庭には北斗七星を模して配置した「七曜石」があって、古くから大名や文人が訪れた場所であった。

「陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)」岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取(みみどり)であろう。「美々鳥」の方が美しいのになぁ。

「稻垣氏の邸内なる老松……」「大日本老樹名木誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁)。

「遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道」「小笠郡相草(あいくさ)村」静岡県牧之原市相良がここで、「堀之内の停車場」というのは静岡県菊川市堀之内の東海道本線の菊川駅であろう。旧相草村は確かにその間(南東から北西に御前崎の根の部分を突っ切る形となる)の現在の菊川市南東部に当たるのであるが、この辺りは旧地名がごっそり消失してしまっており、この辺りとしか言いようがない。

『それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり』と言うか、馬の頭骨が極端に違ってたら、それこそ化け物でげしょう?!

「羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり」どうも昨今はこの風習は廃れたようで、ネット検索に掛かってこない。淋しい。

「羽前の芹澤」山形県長井市芦沢か。

「攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)」兵庫県宝塚市波豆(はず)字向井山ここは旧摂津国である)にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『平安時代中期に多田庄の領主であった源満仲の四男頼平が開山したと伝わる』。『当初』、『真言宗の寺院であり、長徳年間』(九九五年~九九八年)『には一条天皇の勅願寺となって寺領を有し栄えたと伝わる。しかし、鎌倉期以降は多田源氏の没落により』、『寺勢が傾き』、『衰退したという』。『江戸時代の初期には廃寺同様となっていたが、寛文年間』(一六六一年~一六七二年)の頃に『曹洞宗の寺院として再興され』た。現在も『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』が『寺宝として』あり、『雨乞いに使われる』とある。「多田滿仲」は既出既注「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話」の「普明寺の龍馬神」が、満仲と龍女の話から、ここで語られる普明寺住職玉岩和尚(室町時代の文明二年のこととするから彼は真言僧である)のものまでも総てしっかり語れていて、必見!

『「和漢三才圖會」七十四』巻第七十四「攝津」の「川邊郡」のここ(標題。左下最後の一行のみ)とここ。国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年の版本。什物の「馬頭」の部分のみを所持する原本で電子化する。

   *

馬頭【什物】康保四年冬滿仲公入能勢山遊獵時夢龍

女來曰川下池有大蛇與我爲仇數年願君退治矣爲

贈一龍馬也果一馬在側滿仲以爲奇異乘其馬伐喪

大虵焉滿仲逝去後至滿信【滿仲之孫】甚愛之馬亦死焉藤

原仲光【家臣】埋馬屍於山岳上建一宇號駒塚山峯堂

後土御門院文明二年三月十八日以後毎夜駒塚有

光輝於普明寺住持玉岩和尚到駒塚誦普門品忽震

雷而馬首出現焉和尚携還納金堂以爲龍馬神

○やぶちゃんの書き下し文

馬頭【什物。】 康保四年[やぶちゃん注:九六七年。]の冬、滿仲公、能勢(のせ)の山に入り、遊獵する時、夢に、龍女、來たりて曰はく、「川下の池に大蛇有り。我と仇(あだ)を爲すこと、數年なり。願はくは、君、退治したまへ。爲めに一龍馬を贈る」と。果して、一馬、側らに在り。滿仲、以つて奇異と爲して、其の馬に乘りて大虵(だいじや)を伐(う)ち喪(ほろぼ)しぬ。滿仲逝去の後、滿信【滿仲の孫。】に至り、甚だ之れを愛すも、馬も亦、死せり。藤原の仲光【家臣。】、馬の屍(しかばね)を山岳に埋み、上に一宇を建て、「駒塚山(くちやうさん)峯の堂」と號す。後土御門院の文明二年三月十八日以後、毎夜、駒塚に光有り、普明寺に輝く。住持玉岩和尚、駒塚に到りて、「普門品」を誦すに、忽ち、震雷して、馬の首、出現す。和尚、携(たづさ)へ還り、金堂の納む。以つて「龍馬神」と爲す。

   *

ここに出る能勢の山」は兵庫県川西市及び大阪府豊能郡豊能町(とよのちょう)・能勢町及び京都府に跨る妙見山の異名で、山頂には嘗つて行基建立と伝える為楽山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると、源満仲を遠祖とする能勢氏が領主となり、その地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である(ここはウィキの「妙見山(能勢)」に拠った)。この山、馬との強い絡みがあることが判る。

「南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き」既出既注。未だに「高架」は限定的にはどこだか判りませんが。

「豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社」大分県竹田市久住町大字仏原の宮處野(みやこの)神社。ここは嵯峨天皇を祭神の一柱としていることから、旧称を「嵯峨宮樣」と呼ばれていた。こちらの解説によれば、原型は『景行天皇がこの地方の土蜘蛛を征伐した際の行宮跡に天皇をお祭りしたことに始まると伝えられて』おり、『その後、平安時代に直入擬大領の女『腎媛』が嵯峨天皇の采女とな』って、『上皇崩御の後、故郷来田見に帰り』、『剃髪し』て『尼となり、恩賜の品を産土の境内に埋め』、『日夜勤仕する。女の兄はこれを見て哀れみ』、『景行官の傍らに神宮を造営した。これが現在の神社の起源で『嵯峨宮様』と呼ばれ』、『永くこの地方の人々に崇敬され、明治になって宮処野神社と改称された』とある。

「黑嶽山」同神社の後背地と思われるが、不詳。

「太宰管内志」以上は同書の中巻の「豐後之四」の「直入郡」の「○嵯峨天皇社」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四三(一九一〇)年日本歴史地理学会刊の版本)に書かれてある。えぇい! 序でだ! 視認して電子化するわな! 句読点や推定訓読を施して読み易くした。

   *

 ○嵯峨天皇社

〔社記略〕に、豐後國直入郡朽網鄕市村嵯峨、毎年十月十五日、當社に於いて神保會を行ふ。神官日野姓、此社に仕ふ。大友家、代々、神馬を献ず。大友政親[やぶちゃん注:文安元(一四四四)年~明応五(一四九六)年。室町・戦国時代の守護大名。豊後国大友氏第十六代当主。]の時に當り、神馬、放失し、畢んぬ。大友義鑑[やぶちゃん注:よしあき。戦国大名。文亀二(一五〇二)年~天文一九(一五五〇)年。同第二十代当主。]の時に至り、彼の馬、鬼に現じ、黑嶽山に住みて、晝夜を分かたず往來の人及び六畜[やぶちゃん注:馬・牛・羊・犬・豕・鶏の家畜。]等を取り食らふ。義鑑、此の事を聞き、將に黑嶽に狩らんとす。大友家臣大久保藏人(くらうど)・城後(じやうご)因幡二人、此の事を乞ひ請け、夜中、黑嶽の麓に到り、今の水越大草場に於いて、之れを待つ。黑嶽の上より、馬鬼、飛び來たり、城後を襲ふ。城後、長刀(なぎなた)を以つて、之れを貫き、大久保も亦、矢を放つ。羽を呑み、馬鬼、遂に死すとあり。〔森氏[やぶちゃん注:不詳。]云はく、〕嵯峨天皇社の祭を「かたげ市」といふ。祭の夜に參詣するもの、男女、みだりにあふことあり〔万葉集九卷〕に、『筑波嶺(つくばね)に登りて嬥歌會(かがひ)[やぶちゃん注:上代の東国地方で歌垣(うたがき)を指す語。]を爲(せ)し日に作れる歌』、『嬥歌は東(あづま)の俗語(くによりのこと)に「賀我比(かがひ)」と曰ふ』[やぶちゃん注:以上は一七五九番の前書と、後書の原注。]とあり、是れ、彼(か)の「嬥歌會」の遺風なるべしといへり。嬥歌會の事は日田郡五馬媛(いつまひめの)社の件(くだり)にも云へるを、かんむがふべし【嵯峨天皇の社の馬鬼の事は〔九州治亂記〕にも見えたり。さて、「かたげ市」と云ふは、かの神保會の事なるか、いまだ委しくも考へず。】。

   *

現在も宮處野神社の秋季大祭を「神保会(じんぼえ)」と称し、現行では毎年十月第二土曜日に行われている。先に引いたこちらの解説によれば、『県選択無形民俗文化財』に指定されており、これは『新任国司が有名神社へ神宝を奉った祭儀を』指す、「神宝会」に『由来すると云われている』とある。「五馬媛(いつまひめの)社の件」はここであるが、そこでも九月の祭礼の間、市が立っている間は、毎夜、男女が契る(野合であろう)ことが自由で、女性でも未婚既婚を問わず、既婚者の夫もこれを咎めないとあり(夫も他の女と交合するからとある)、それをやはり「かたげ市」と称するとする(古称は「かがひ市」であったかと推定している)。しかも、その最後の割注で筆者は、『こゝの方言にも男より、しひて女に交はるを「カタゲル」といふなり。是れなるべし』とも述べている。これは思うに「神保会」=「かがひ市」「かたげ市」なのではなく、神保会の「ハレ」の時空間に於ける神人交合の写しであり、これは近現代まで各地で「八朔の祭り」などと称して盛んに行われていたものである。それを「かがい」と呼んだのは如何にもお洒落ではないか。それで子供ができたらどうするかって? それは自分らの子と夫が認知するか、或いは「神の子」として秘かに処分するか、或いは「神の子」として村が責任を持つて共同で育てるのである。――自分の子を平気で捨てたり、虐待の末に殺す輩が跋扈している現代と――どっちが野蛮か――よく考えてみるがよかろう。]

2019/06/25

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(44) 「磨墨ト馬蹄硯」(1)

 

《原文》

磨墨ト馬蹄硯   源平合戰ノ語部(カタリベ)ガ磨墨ト云フ駿馬ヲシテ天下ニ有名ナラシメタルハ、亦誠ニ深キ用意ノ存スルモノアリシニ似タリ。此命名ハ察スル所單ニ毛ノ色ノ黑カリシ爲ト云フノミニ非ズ。東上總ノ硯村ノ口碑ガ之ヲ想像セシムル如ク、石上ニ印シタル馬蹄ノ跡ヲ以テ硯ニ譬フルコト常ノ習ヒナリシガ故ニ、乃チ此ニ思ヒ寄セタリシモノナリ。太夫黑ヲ一ニ薄墨ト稱ストアルモ同ジク此因緣無シトハ言ヒ難シ。何トナレバ此馬出デタリト稱スル房州太夫崎ノ海岸ニハ亦多クノ馬蹄石ヲ產スルナリ。即チ巨巖ノ表面ニ跡ノ存スルモノトハ別ニ、此ハ馬蹄ノ形ヲ打込ミタル石ノ小片ニシテ、世人之ヲ採リテ硯ニ製スル者少ナカラズト云フ〔千葉縣古事志〕。蓋シ其一端ノ深ク凹メル部分ヲ硯ノ海トスルトキハ、多分ノ工作ヲ加ヘズシテ之ヲ圓キ硯ニ用ヰ得べケレバナリ。日向ノ鵜戶濱(ウドノハマ)ニモ馬蹄石ヲ出ス。【自然硯】土地ノ人ハ之ヲ自然硯ト稱ス〔雲根志後篇〕。土佐ノ國產ニモ亦馬蹄石アリ。前年之ヲ墺太利ノ博覽會ニ出品セシコトアリ〔南路志續編稿草二十三〕。【陰陽石】甲州ノ駒ケ嶽ニモ所謂陰陽石ヲ多ク產ス。其陰石ノ一種ニ同ジ形ヲセシ物ヲ又馬蹄石トモ云ヘリ〔雲根志後篇〕。駿河ノ安倍川ノ溪ヨリ馬足石ト云フ硯石ヲ產セシハ古キ世ヨリノ事ナリ〔渡邊幸菴對話〕。同ジ川ノ支流藁科(ワラシナ)川ノ附近ニモ往々ニシテ小サキ馬蹄石ヲ出ス。或ハ片面或ハ兩面、恰モ馬蹄ヲ以テ踐ムガ如ク、色黑クシテ甚ダ堅キ美石ナリ、之ヲ割レバ石中ハ殘ラズ金星ナリ〔雲根志後篇〕。之ヲ硯トシテ願ヒ事ヲ書ケバ成就スト云フ俗信アリキ〔駿國雜志〕。蓋シ必ズシモ斯ル奇形ノ自然石ヲ以テ製セズトモ、圓キ硯ナラバ形似タルガ故ニ之ニ馬蹄ト銘ヲ打ツハ有リ得べキコトナリ。唯其硯ニ何カノ奇特ヲ附會セントスルニ至リシハ、ヤハリ亦神馬ノ崇敬ニ基スルモノト認メザルべカラズ。大和當麻寺(タエマデラ[やぶちゃん注:ママ。不審。誤植と断じ、訓読では現行通り、「たいまでら」に訂する。])ノ什物ノ中ニ、小松内大臣ガ法然上人ニ寄進シタリト云フ松蔭ノ硯ハ、硯筥ノ蓋ニ馬蹄ト書シテ野馬ノ繪ヲ蒔キタリ。硯ノ形ノ似タルガ故ニ馬蹄トハ名ヅケシナラント云ヘリ〔其角甲戌紀行〕。鎌倉鶴岡ノ八幡宮ニモ之ト同樣ノ馬蹄硯アリ〔集古十種〕。又別ニ源賴朝所持ノ品ト稱シ、上ニ雲ト片破月トヲ彫刻シタルモノアリ〔同上〕。【池月磨墨】天長元年ノ銘文アルニモ拘ラズ、何故カ人ハ之ヲ池月磨墨ノ硯ト名ヅケタリ。秩父吾野ノ子(ネノ)權現社ノ神寶ニモ一ノ馬蹄石アリシガ〔新編武藏風土記稿〕、此ハ硯ニ用ヰラレタリシヤ否ヤヲ知ラズ。

 

《訓読》

磨墨と馬蹄硯   源平合戰の語部(かたりべ)が、磨墨と云ふ駿馬をして、天下に有名ならしめたるは、亦、誠に深き用意の存するものありしに似たり。此の命名は、察する所、單に毛の色の黑かりし爲めと云ふのみに非ず。東上總の硯(すずり)村の口碑が之れを想像せしむるごとく、石上に印したる馬蹄の跡を以つて、硯に譬ふること、常の習ひなりしが故に、乃(すなは)ち、此れに思ひ寄せたりしものなり。太夫黑を一(いつ)に薄墨と稱すとあるも、同じく此の因緣無しとは言ひ難し。何となれば、此の馬、出でたりと稱する房州太夫崎の海岸には亦、多くの馬蹄石を產するなり。即ち、巨巖の表面に跡の存するものとは別に、此れは馬蹄の形を打ち込みたる石の小片にして、世人、之れを採りて、硯に製する者、少なからずと云ふ〔「千葉縣古事志」〕。蓋し、其の一端の深く凹める部分を硯の海とするときは、多分の工作を加へずして、之れを圓(まろ)き硯に用ゐ得べければなり。日向の鵜戶濱(うどのはま)にも馬蹄石を出だす。【自然硯(しねんけん)】土地の人は之れを「自然硯」と稱す〔「雲根志」後篇〕。土佐の國產にも亦、馬蹄石あり。前年、之れを墺太利(オーストリー[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版に従った。])の博覽會に出品せしことあり〔「南路志續編稿草」二十三〕。【陰陽石】甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕。駿河の安倍川の溪より、馬足石と云ふ硯石を產せしは古き世よりの事なり〔渡邊幸菴對話〕。同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕。之れを硯として、願ひ事を書けば、成就す、と云ふ俗信ありき〔「駿國雜志」〕。蓋し、必ずしも斯(かか)る奇形の自然石を以つて製せずとも、圓き硯ならば、形、似たるが故に、之れに「馬蹄」と銘を打つは、有り得べきことなり。唯だ、其の硯に何かの奇特(きどく)を附會せんとするに至りしは、やはり亦、神馬の崇敬に基(もとゐ)するものと認めざるべからず。大和當麻寺(たいまでら)の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ「松蔭の硯」は、硯筥(すずりばこ)の蓋(ふた)に「馬蹄」と書して野馬の繪を蒔(ま)きたり。硯の形の似たるが故に「馬蹄」とは名づけしならんと云へり〔其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」〕。鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕。又、別に源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり〔同上〕。【池月磨墨】天長元年[やぶちゃん注:八二四年。]の銘文あるにも拘らず、何故か人は之れを「池月磨墨の硯」と名づけたり。秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社の神寶にも一つの馬蹄石ありしが〔「新編武藏風土記稿」〕、此れは硯に用ゐられたりしや否やを知らず。

[やぶちゃん注:「東上總の硯(すずり)村」既出既注。千葉県いすみ市下布施(しもぶせ)硯https://maps.gsi.go.jp/#16/35.238337/140.355556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
国土地理院図。何故かリンクが不具合を起こすので、URLで示した(見える部分だけを左ペーストし、そのままティルト・アップ)

「房州太夫崎」既出既注千葉県鴨川市江見太夫崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「日向の鵜戶濱(うどのはま)」鵜戸神社のある宮崎県日南市宮浦の浜と思われるが、不詳。浜なら、南の根の湾奧であろうが、浜で「馬蹄石を出だす」というのはおかしいから、鵜戸神社周辺の岬の南・北・東の何れかの海岸線(航空写真を見ると、総て非常に荒い岩礁性海岸である)と推定する。これは「雲根志」の後篇の巻之三の「二」の「馬蹄石(ばていせき)」で、その一部に『日向國ウトノ濱にて自然硯(しねんけん)と云』(これだけである)とあったので、その読みで振った(引用底本は思潮社の「復刻 日本古典全集」版(昭和五四(一九七九)年刊)に拠った。以下同じ)

「南路志續編稿草」書名注は附けない約束だが、これは文化一二(一八一五)年の高知地誌大叢書「南路志」(高知城下朝倉町に住む武藤到和・平道父子が中心となって編纂した百二十巻にも及ぶ高知地誌の大叢書)を受ける形で、明治以降、高知県史誌編輯係によって編せられた近代のものと思われ(高知県文化財団埋蔵文化センターの公式報告書の注データから推定)、書誌学的には「南路志」自体とのダイレクトな連関性を私は認めたくないので、『「南路志續編」稿草』とはせず、全体を鍵括弧で括って差別化した。

『甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の一節。『大井川安部(あべ)川』(ママ)『にもこれを出す甲州駒嶽(こまがたけ)に同形同品のものあり此兩所ともに陰陽石(いんやうせき)をす馬蹄石(ばていせき)陰石の一種也陽石別條に出す考知るべし』(以下、前に引いた日向のそれに続く)とある。

「駿河の安倍川」安倍川(あべかわ)は静岡県静岡市葵区及び駿河区を流れる。ウィキの「安倍川」によれば、『清流としても有名で』、『その伏流水は静岡市の水道水にも使われて』おり、また『大河川でありながら』、『本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である』とあり、また、『「安部川」や「あべがわ」の表記もあるが、これらは誤りである』とある。ここ

『同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の冒頭。『相摸國府中藁科品』(ママ)『河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり此近邊に馬蹄石(ばていせき)あり大石に多し小石には稀なり或は片面にあり或は兩面踐(ふ)むが如し其堅き美石也是を破(やぶれ)は』(ママ)『石中不殘(のこらず)金星(きんせい)あり此邊の山中又河中に在』(で前注の大井川に続く)とある。抄録で面白くないってか? それじゃよ、全部やっといてやろうじゃあねえか! 句読点・送り仮名・濁点その他を振って訓読し、読み易くしといてやったっけな!

   *

     馬蹄石(ばていせき) 

相摸國府中、藁科品河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり。此の近邊に馬蹄石(ばていせき)あり。大石に多し。小石には稀なり。或いは片面にあり、或は、兩面、踐(ふ)むが如し。其れ、堅き美石なり。是れを破(やぶれ)ば、石中、殘(のこら)ず金星(きんせい)あり。此の邊りの山中、又、河中に在り。大井川・安部(あべ)川にも、これを出だす。甲州駒嶽(こまがたけ)に、同形同品のものあり。此の兩所、ともに陰陽石(いんやうせき)をす。馬蹄石(ばていせき)、陰石の一種なり。陽石、別條に出だす考へ、知るべし。日向國、「ウトノ濱」にて、「自然硯(しねんけん)」と云ふ。近江國石部宿(いしへのしゆく)の北、菩提寺(ぼだいじ)村の山中にあり、少し輭(やはらか)にて鼠色(ねずみいろ)なり。石、性、馬瑙[やぶちゃん注:ママ。](めのう)に似たり。里人云はく、『良弁僧都(りやうべんそうづ)、乘り給へる馬の足跡なり』と。同國石山寺子安(こやす)堂の下に馬蹄石あり。又、河内國下(しも)の太子(たいし)に、馬蹄石、有り。讚岐國陶村(すゑむら)にもあり。又、相摸國狐崎(きつねざき)に梶原(はじはら)が馬の足跡(あしあと)石といふものあり。大石上に、馬蹄、踏(ふむ)がごとし。又、大和國初瀨(はつせ)近邊、橫野(よこの)の石、越前江畑(ゑばた[やぶちゃん注:活字に不審があるが(実際には「ゐ■た」で判読不能)、これで採った。])といふ所の、江畑川の中なる大石、皆、馬蹄。數箇所あり。漢書に廣武(くはうぶ)の馬蹄谷(ばていこく)、馬(ば)蹄、石、踐(ふ)むがごとし、といへるも、今と同じかるべし。

   *

「大和當麻寺(たいまでら)」言わずもがな、奈良県葛城市當麻の二上山當麻寺。現在は真言宗と浄土宗の並立寺院。

の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ

「松陰の硯」公式サイト「當麻寺奥院」(浄土宗側運営)のこちらに、「平家物語」に由来が登場する「松蔭硯」の写真有り。私はこれ以上調べる気は、ない。悪しからず。

「蒔(ま)きたり」「蒔絵にしてある」の意。「蒔絵」とは器物の表面に、漆で文様を描いて金・銀などの金属粉や色粉を散らし埋め込んだ日本独自の漆工芸。多様な手法があり、奈良時代に始まる。

『其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」』宝井其角が元禄七(一六九四)年九月に紀州・摂州を中心に遊歴した際の日記風の糞のような短文。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの「紀行文集 続」(明治四二(一九〇九)年博文館刊「続帝国文庫」版)の当該記載)で読める。おう! これも次いでだ! 電子化しといてやろうじゃねえか!(歴史的仮名遣の誤りは総てママ)

   *

當朝寺(たへまでら)。奥院(をくのいん)にとまりて。

  小夜しぐれ人を身にする山居哉

當院にて靈寳(れいはう)什物(じうもつ)さまざまあり、中にも小松殿(こまつどの)、法然(ほうねん)上人へまゐらせられる松陰(まつかげ)の硯あり。箱の上に馬蹄(ばてい)と書(かい)て野馬(やば)を書けり。硯の形が蹄(ひづめ)に似たるゆゑなるべし。

  松陰のすゞりに息(いき)をしぐれ哉

   *

ロケーション・クレジットは記載から、九月二十四日より後の二十八日以前の近日。

『鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕』これかしらん(国立国会図書館デジタルコレクション)。「新編鎌倉志」の巻第一の鶴岡八幡宮の「神寶」にある(リンク先は私の電子化注)、

   *

硯箱(スヾリハコ) 壹合。梨地(ナシヂ)蒔繪(マキヱ)、籬(マガキ)に菊(キク)を金具(カナグ)にす。内に水入(ミヅイレ)筆管あり。共に銀にて作る。

   *
とあるのはこれであろう。

「源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり」こちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ。「天長元年」、読めますな)かな。

「秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社」埼玉県飯能市大字南にある天台宗大鱗山雲洞院天龍寺。通称、子権現(ねのごんげん)天龍寺で知られ、足腰守護を謳っているから、馬蹄石があって(あったとして)もおかしくはない。公式サイトはこちらであるが、「馬蹄石」の記載はない。]

2019/06/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(43) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(4)

Tatunosutego

海馬  タツノステゴ

 日東魚譜卷四ヨリ

[やぶちゃん注:図は「ちくま文庫」版の挿絵をトリミングしたもの。キャプションは原典では右から左書き。「日東魚譜」(原本は全八巻)は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、それよりも序についてみると、もっと古い版がある模様である)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの書写版では「巻三」所収で、明らかに図が異なる私のブログ・カテゴリ「日東魚譜」のこちらで本文を含めて全電子化訓読と注を施しておいたので是非参照されたい。

 

《原文》

 肥前五島ノ生月島ハ式ニ所謂生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリシト共ニ、後世マデモ海ニ臨メル一箇ノ產馬地ナリキ。甲子夜話ノ記スル所ニ依レバ、此島ノ岸壁ニ生ズル名馬草ト云フ植物ハ、牝馬之ヲ食ヘバ必ズ駿逸ヲ生ム。故ニ之ヲ求メントシテ足ヲ誤リ屢崖落ヲシテ死スル馬アリト〔續甲子夜話五十七〕。悲シイ哉馬ヤ、汝モ亦人ノ親ト其痴ヲ競ハンコトヲ欲スルナリ。但シコノ絕壁ノ端ニ生ズト云フ名馬草ハ果シテ如何ナル草カ、自分ハ唯寡聞ヲ恥ヅルノミナレドモ、【神馬草】此ト些シク名ノ似タル海邊ノ植物ニ神馬草ト云フ物ハアリ。萬葉集ナドニ所謂莫告藻(ナノリソ)、今モ正月ノ注連飾ニ用ヰル「ホダハラ」又ハ「ホンダハラ」ハ即チ是ナリ。「ナノリソ」ヲ神馬草ト書クハ、神ノ馬ナレバ騎ル勿レト云フコト、即チ莫騎(ナノリソ)ノ意ニ托シタルモノナリト云フ說アリ〔倭名砂〕。前ニ擧ゲタル重之ノ歌ノ

  チハヤフルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナ乘リソネ祟リモゾスル

ト云フ例モアレド、些シク信ジニクキ口合ナリ。又一說ニハ神功皇后征韓ノ御時、船中ニ馬ノ秣無クシテ海ノ藻ヲ採リテ之ニ飼フ。其時ヨリ此草ヲ神馬草ト呼ブト云ヘリ〔下學集、言塵集其他〕。羽後ノ古名所蚶潟(キサカタ)ノ浦ニテハ、皇后此渚ニ御船寄セタマヒシ時此事アリキト稱ス〔齶田乃苅寢〕。海草ヲ以テ馬ヲ養フト云フコトハ疑ハシケレド、例ヘバ馬醫ノ藥ノ料トスト云フガ如キ、何カ然ルべキ仔細ノ古クヨリ存セシ爲此名アルナランカ。要スルニ海ハ永古ノ不可思議ナリ。人ハ朝夕其渚ニ立チ盡スト雖、終ニ蒼波ノ底ニ在ル物ヲ知リ得ズ。【海ノ寶】故ニ萬ノ寶ハ海ヨリ出デテ海ニ復ルト考フル者多カリシナリ。殊ニ日本ノ如キ島國ノ人ハ斯ク思ハザリシナラバ却リテ不自然ナリ。近キ歷史ニ於テモ、例ヘバ鹿兒島縣ノ今ノ馬ノ種ハ異國ノ名馬ニ由リテ之ヲ改良スト稱ス。或年タシカ海門嶽ノ沖合ニ於テ歐羅巴ノ船一ツ難船ス。乘客ハ皆死歿シ、馬二頭陸地ヲ目掛ケテ泳ギ著キタリシヲ、取繫ギテ之ヲ領主ノ牧ニ放セリ云々。アマリ古キ代ノ事ニモ非ズト云ヘド、心カラカ聊カ傳說ノ香ヲ帶ビタル話ナリ。【海馬】海ノ中ニハ又海馬ト云フ物アリ。海馬ニハ大小全ク別箇ノ二種類アリ。大ハ即チ「トヾ」トモ云フ獸ニテ、北蝦夷ノ海馬島(トドジマ)其他、洋中ノ孤島ニ住ム物ナリ。土佐駒ノ高祖父ト稱スル海鹿ハ海驢(アシカ)ニ非ザレバ即チ此物ナルべシ。小サキ方ハ名ヲ龍ノ落子ナドトモ云フ一種ノ蟲ナリ。薩州上甑島串瀨戶ノ甑島大明神ノ社ニテハ、九月九日ノ祭ノ日ニ蜥蜴ニ似タル奇魚必ズ渚ニ飛上ル。土人之ヲ名ヅケテ龍駒ト云フト云ヘリ〔三國名勝圖會〕。漢名ヲ海馬トモ水馬トモ書キ、我邦ニテハ「アサノムシ」、「シヤクナギ」又ハ「タツノステゴ」ナドト云フ物ハ此ナリ。【子安ノ守】乾シ貯ヘテ婦人ノ產ヲスルトキ、之ヲ手中ニ持タシムレバ產輕シト云フ〔大和本草〕。沖繩ニテ「ケーバ」ト云フ物モ、首ハ馬ノ如ク身ハ蝦ノ如シ安產ノ守トスト云ヘバ同ジ物ナリ〔沖繩語典〕。此等ノ學說ハ其漢名ト共ニ支那ヨリ渡來セシモノトモ云フべシ。例ヘバ證類本草ニハ異物志ヲ引キテ、海馬ハ西海ニ生ズ大小守宮蟲ノ如ク形ハ馬ノ形ノ若シ云々、婦人難產ヲ主ル、之ヲ身ニ帶ブト云ヒ、神驗圖經ニハ頭ハ馬ノ形ノ如シ蝦ノ類ナリ、婦人將ニ產セントシテ之ヲ帶ブ、或ハ手ニ之ヲ持チ或ハ燒末シテ飮服スルモ亦可ナリト謂ヒ、異魚圖ニ之ヲ收メ暴乾シテ雌雄ヲ以テ對ト爲ス、難產及ビ血氣ヲ主ルト云ヘルガ如キ〔古名考五十三所引〕皆彼國ノ說ナリ。サレド日本ニテモ源平ノ時代ニ、貴人御產ノ後御乳付ノ具御藥ナドト共ニ海馬六ヲ箱ニ納レテ獻上セシコト見ユレバ〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日條〕、古クヨリ此信仰ハアリシナリ。此物越後ヨリ羽前ノ海岸ニ掛ケテハ之ヲ龍ノアラシ子ト云フ。浦々ノ小魚ニ交リテ稀ニ漁夫ノ網ニ入ル。形ハ一寸四五分ヨリ二寸ホド、頭ハ馬ニヨク似テ腰ハ曲リテ蝦ノ如ク尾ハ蜥蜴ト同ジ。雄ハ靑ク雌ハ黃色ナリ〔越後名寄十七〕。【鳥海山】出羽ノ鳥海山ハ頂上ニ鳥海ト云フ湖水アリ。不思議ナルコトニハ海馬亦此湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル龍ノ荒兒ト同物ナリ。或ハ海氣ノ雨ヲ釀ストキ此物雲ニ乘リテ空ニ騰リ山山ノ岩際ニ下ルナラント謂ヘリ。此地方ノ田舍人モ之ヲ難產ノ女ノ手ニ持タシム〔莊内物語附錄〕。古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ池ニ長サ六七寸ノ龍アリト云ヘリ。常民ハ敢テ登ラズ行人等獨リ往キテカノ龍ヲ取來ル。一年バカリノ内ハ生アリト見エテ、座敷ニ置キテ扇ニテアオゲバヒラリヒラリト竪橫ニナリテ畫ニ描ケル龍ノ如ク飛ブ。一年過ギテハ死スルニヤ扇ギテモ舞ハズト云ヘリ〔觀惠交話上〕。龍ト馬トハ兎ニ角ニ因緣深シ。【白馬釣龍】朝鮮ノ古傳ニテモ、扶餘縣ノ釣龍臺ハ昔蘇定方百濟征討ノ時、江頭ニ風雨ヲ起ス物ヲ退治セントテ、白馬ヲ餌トシテ淵ニ一龍ヲ釣リ得タリ。故ニ江ヲ白馬江ト名ヅケ岩ヲ釣龍臺ト云フコト、前章ニ一タビ之ヲ說キタリ〔東國輿地勝覽十八〕。龍ノ吟ズル聲ハ馬ノ嘶クニ似タリト云フ說アリ。帝釋天乘リタマフ龍馬ヲ伊羅波(イラハ)ト云フ。鼻長クシテ馬ノ如クナル龍ナリ〔塵添壒囊抄〕。況ヤ龍ハヨク牝馬ニ其胤ヲ假スコトアレバ、頭ノ馬ニ似タル海中ノ動物ヲ龍ノ捨子ナドト呼ブハ必ズシモ珍シカラズ。【甑及ビ竃】唯薩摩ノ甑島ノ神ガ年々此物ヲ贄ニ召シタマフト云フハ注意スべキ話ナリ。甑ハ即チ釜ノコトニテ釜ト竃トハドコ迄モ馬ト因緣アリ。而シテ此神ノ社頭ニモ亦甑ノ形ヲシタル一靈石ノ存スルモノアリシ也。

 

《訓読》

 肥前五島の生月島は「式」[やぶちゃん注:「延喜式」。]に、所謂、「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりしと共に、後世までも、海に臨める一箇の產馬地なりき。「甲子夜話」の記する所に依れば、『此の島の岸壁に生ずる「名馬草」と云ふ植物は、牝馬、之れを食へば、必ず、駿逸を生む。故に之れを求めんとして足を誤り、屢々、崖落(がけおち)をして死する馬あり』と〔「續甲子夜話」五十七〕[やぶちゃん注:こちらで原文全文を電子化済み。]。悲しい哉(かな)、馬や、汝も亦、人の親と其の痴を競はんことを欲するなり。但し、この絕壁の端に生ずと云ふ「名馬草」は果して如何なる草か、自分は、唯だ、寡聞を恥づるのみなれども、【神馬草(なのりそ)】此れと些(すこ)しく名の似たる海邊の植物に「神馬草」と云ふ物はあり。「萬葉集」などに、所謂、「莫告藻(なのりそ)」、今も正月の注連飾(しめかざ)りに用ゐる「ほだはら」又は「ほんだはら」は、即ち、是れなり。「なのりそ」を「神馬草」と書くは、『神の馬なれば、騎(の)る勿れ』と云ふこと、即ち、「莫騎(なのりそ)」の意に托したるものなりと云ふ說あり〔「倭名砂」〕。前に擧げたる重之の歌の[やぶちゃん注:ここ。そこで私は不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)の話を柳田國男に先んじてやってあるので、その注とリンク先の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照されたい。ここでは繰り返さない。]

  ちはやふるいづしの宮の神の駒ゆめな乘りそね祟りもぞする

と云ふ例もあれど、些しく信じにくき口合(くちあひ)[やぶちゃん注:「話を持って行くそのやり方」の意。]なり。又、一說には、神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり〔「下學集」・「言塵集」其の他〕。羽後の古名所、蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す〔「齶田乃苅寢(あきたのかりね)」〕。海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか。要するに、海は永古の不可思議なり。人は朝夕、其の渚に立ち盡すと雖も、終に蒼波(さうは)の底に在る物を知り得ず。【海の寶】故に、萬(よろづ)の寶は、海より出でて、海に復(かへ)ると考ふる者、多かりしなり。殊に日本のごとき島國の人は斯く思はざりしならば、却りて不自然なり。近き歷史に於いても、例へば、鹿兒島縣の今の馬の種は異國の名馬に由りて之れを改良す、と稱す。或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す。乘客は皆、死歿し、馬二頭、陸地を目掛けて泳ぎ著(つ)きたりしを、取り繫ぎて、之れを領主の牧に放せり云々。あまり古き代(よ)の事にも非ずと云へど、心からか、聊(いささ)か傳說の香を帶びたる話なり。【海馬(かいば)】海の中には、又、「海馬」と云ふ物あり。海馬には、大小、全く別箇の二種類あり。大は、即ち、「とゞ」とも云ふ獸(けだもの)にて、北蝦夷の海馬島(とどじま)其の他、洋中の孤島に住む物なり。土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」は海驢(あしか)に非ざれば、即ち、此の物なるべし。小さき方は、名を「龍(たつ)の落し子」などとも云ふ、一種の蟲[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下を総称する「むし」である。]なり。薩州上甑島(かみこしきじま)串瀨戶の甑島大明神の社にては、九月九日の祭りの日に、蜥蜴(とかげ)に似たる奇魚、必ず、渚に飛び上る。土人、之れを名づけて「龍駒」と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き、我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ物は、此れなり。【子安(こやす)の守(まもり)】乾し貯へて、婦人の產をするとき、之れを手中に持たしむれば、產、輕しと云ふ〔「大和本草」〕[やぶちゃん注:私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で全文電子化注済み。]。沖繩にて「けーば」と云ふ物も、『首は馬のごとく、身は蝦(えび)のごとし。安產の守とす』と云へば、同じ物なり〔「沖繩語典」〕。此等の學說は、其の漢名と共に、支那より渡來せしものとも云ふべし。例へば、「證類本草」には「異物志」を引きて、『海馬は西海に生ず。大小、守宮蟲(やもり)のごとく、形は馬の形のごとし』云々、『婦人難產を主(つかさど)る。之れを身に帶ぶ』と云ひ、「神驗圖經」には、『頭は馬の形のごとし。蝦の類なり。婦人、將に產せんとして、之れを帶ぶ、或いは、手に之れを持ち、或いは、燒末(しやうまつ)にして飮服するも亦、可なり』と謂ひ、「異魚圖」に之れを收め、暴(さら)し乾して、雌雄を以つて對(つい)と爲す。難產及び血氣を主る』と云へるがごとき〔「古名考」五十三所引〕、皆、彼の國の說なり。されど、日本にても、源平の時代に、貴人御產の後(のち)、御乳付(おちつけ)[やぶちゃん注:生まれた子に初めて母乳を飲ませること。]の具・御藥などと共に、海馬六つを、箱に納(い)れて獻上せしこと見ゆれば〔同上所引「山槐記」治承二年十一月十二日條[やぶちゃん注:ユリウス暦一一七八年十二月二十二日(グレゴリオ暦換算では十二月二十九日)。]〕、古くより、此の信仰はありしなり。此の物、越後より羽前の海岸に掛けては、之れを「龍のあらし子」と云ふ。浦々の小魚に交りて、稀に漁夫の網に入る。形は、一寸四、五分より、二寸ほど、頭は馬によく似て、腰は曲りて蝦のごとく、尾は蜥蜴と同じ。雄は靑く、雌は黃色なり〔「越後名寄」十七〕。【鳥海山】出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり。不思議なることには、海馬、亦、此の湖水にも住し、全く海に居る龍の「荒兒(あらしご)」と同物なり。或いは、海氣の、雨を釀(かも)すとき、此の物、雲に乘りて、空に騰(のぼ)り、山山の岩際に下るならん、と謂へり。此の地方の田舍人も、之れを難產の女の手に持たしむ〔「莊内物語」附錄〕。古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)[やぶちゃん注:旅人。他国の人。]等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる。一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず、と云へり〔「觀惠交話」上〕。龍と馬とは、兎に角に、因緣、深し。【白馬釣龍】朝鮮の古傳にても、扶餘縣の釣龍臺は、昔、蘇定方(そていはう)、百濟征討の時、江頭に風雨を起す物を退治せんとて、白馬を餌(ゑさ)として淵に一龍を釣り得たり。故に江を「白馬江」と名づけ、岩を「釣龍臺」と云ふこと、前章に一たび之れを說きたり[やぶちゃん注:ここで既出既注。]〔「東國輿地勝覽」十八〕。龍の吟ずる聲は、馬の嘶くに似たり、と云ふ說あり。帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり〔「塵添壒囊抄(じんてないなうしやう)」〕。況んや、龍は、よく、牝馬の其の胤(たね)を假(か)す[やぶちゃん注:仮りに与える。]ことあれば、頭の馬に似たる海中の動物を「龍の捨て子」などと呼ぶは、必ずしも珍しからず。【甑及び竃(かまど)】唯だ、薩摩の甑島の神が、年々、此の物を贄(にへ)に召したまふと云ふは、注意すべき話なり。「甑」は、即ち、「釜」のことにて、「釜」と「竃」とはどこまでも馬と因緣あり。而して、此の神の社頭にも亦、「甑」の形をしたる一靈石の存するものありしなり。

[やぶちゃん注:「名馬草」不詳。「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「生月学講座」第三十六の「御崎の牧」には、

   《引用開始》

 生月島北端の御崎地区は、古くは「牧」と呼ばれていました。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』によると、昔このあたりに住んでいた者達は、容貌は「隼人」と呼ばれる現在の鹿児島県辺りにいた種族に似ていて、騎射、すなわち馬に乗って弓矢を用いる事を好むとあり、相当古い時代から馬が飼われていた事が分かります。『風士紀』松浦郡値嘉郷の条にも、当時、値嘉島と呼ばれた平戸諸島は牛・馬に富むとされています。また平安時代の延長5年(927)に完成した法令書の『延喜式』の兵部省諸国馬牛牧条にある肥前国六牧の一つに、「肥前国生属(いきつき)馬牧」という牧場の名前が出てきますが、恐らくは生月に置かれた牧場を指すと考えられ、その最有力の候補地が御崎です。

 さらにここに中世に牧場が置かれた傍証として、源平合戦の頃、源頼朝が飼っていた当時最高の名馬と言われた池月(いけづき)がここで生まれ育ったという伝説があります。平安時代の終わり頃、関東に拠る源頼朝と、一足先に平家を破って京都を押さえた源(木曽)義仲との間で戦いが起こりますが、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍勢が関東から京都に攻め上り、義仲の軍勢と琵琶湖から流れ出る宇治川を挟んで睨み合いになります。その時、頼朝の家来である佐佐木高綱は、頼朝から譲り受けた池月に騎乗し、もう一頭の名馬・磨墨に騎乗する梶原景季と競争した末に、見事川を泳ぎきって先陣を果たし戦闘を勝利に導きます。「生月人文発達史」は後世の文書ですが、「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食べることは出来ないが、これを食べる馬は名馬となる。かの池月もこの草を喰い、また鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰ったので名馬となり、頼朝の所望に依って献上した」とあります。池月が生まれ育ったとする伝説は全国に分布しており、直ちに史実云々とする事は難しい所はありますが、馬の飼育が盛んだった所に伝説が残っている事は間違いないようです。なお、池月の名が訛って「生月」になったという説がありますが、源平合戦より遡ること350年の承和6年(839)に、唐(現在の中国)から帰国した遣唐使船が肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事が、貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』に掲載されていることから、以前から用いられていた事は確かです。

 御崎の牧は、松浦党に属する一部、加藤、山田の三氏が生月島を支配した中世や、有力なキリシタン領主である籠手田氏、一部氏が支配した戦国時代にも、これらの領主が保有する軍事力に伴って軍馬用の牧が設けられたと思われます。「生月人文発達史」によると、籠手田氏、一部氏が退去した後、平戸藩の直接統治となった江戸時代にも、御崎は御料馬牧場という藩営の牧場として使用されましたが、文政9年(1826)に平戸島の春日に牧場を設けたのに伴い、生月の馬牧は廃止されたとあるので、それに伴って島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われ、御崎集落が成立したと考えられます。そのため、かくれキリシタンの組織もそれぞれの出身集落に属しており、また集落内には神社を持たず、やはり出身集落によって白山、住吉両神社に属しているそうです。

   《引用終了》

引用文中に出る「御崎」は長崎県平戸市生月町(いきつきちょう)御崎(みさき)で、生月島の北端のここ(グーグル・マップ・データ)。「鯨島」は「げじま」と読むようで、その先端から五百メートル弱東北の直近の海上にある島。無人島。少なくとも、ここで語られている草は海藻ではなく、陸性の植物であるようにしか私には思われない。気になる。モデルとなる実在する草があるのではなかろうか?

『神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり』「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照。

「蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す」「蚶潟(きさかた)の浦」とは無論、方向の真逆な秋田県にかほ市の象潟(きさかた)である。現在は水田の中に百二の小丘が散在する平地の陸地だが、かつてはここは広大な潟湖であったことは、芭蕉の「奥の細道」御存じのことと存ずる。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の私の注などお読みあれ。文化元(一八〇四)年に発生した象潟地震(マグニチュード7クラスと推定される)で海底が隆起して広汎に陸地化が起こり、その後は干拓事業による水田開発の波に呑まれて「象潟」は消えてしまったのである。また、「蚶」の字が気になる方はやはり私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」の注をどうぞ。また、そこでは神功皇后の話もしてある。それは当地にある曹洞宗皇宮山蚶満寺(かんまんじ)の「縁起」に載る伝承で、神功皇后が三韓征伐の帰路(前の伝承は往路であった)、大時化(おおしけ)に遭遇して象潟沖合に漂着、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、その時、皇后は臨月近かったことから、清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終え、その後も象潟で半年を過ごし、翌年四月に出帆して筑紫の香椎宮に向かったという。ここはホンダワラを秣にしたのは、その折りのことと言うらしい。広大な潟で秣がなかったっていうのかなぁ? ただ、漂着する途中の日本海上でというのなら、これ、すこぶる腑に落ちるのだ。何故なら、ホンダワラ類は外洋表面を気泡を用いて漂流する「流れ藻」としても知られるからである。

「海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか」ホンダワラ類を馬が食うかどうかは知らない。しかし、ホンダワラ類は「玉藻(たまも)」(貴重な(「玉」)塩を産む藻)・「馬尾藻(ばびそう)」(藻形の類似から)・「銀葉草」等とも称し、各地で食用とされ、私も佐渡産のそれは大好物で丼で何杯も食べてしまう。しかも、馬にとって塩の欠乏は致命的で、死に至ることも稀ではない。さすれば、乾して塩分を落とさないままのホンダワラ類(例えば、最近は関東でも流通している東北の「ギバサ」ホンダワラ属アカモク Sargassum horneri)を与えれば、馬は食うと私は大真面目に思うのである。そこで笑ってる奴よぉ! 「岩手アカモク生産協同組合」公式サイト内のこの記事を見いや! 『千数百年以上にわたって出雲大社を守ってきた出雲の国造家では、力祝(杵でこねた程度の餅)にホンダワラを巻き上げます。歳徳神の馬に献ずるという意味で、神馬藻(ホンダワラ・アカモク)を用います。小笠原流家元が、年賀のお客に献ずる前菜は、三宝にホンダワラ又は布を敷き、その上に梅干、田作、干柿、勝栗等をのせた蓬莱盤です』。『現在の東京でも、門飾りにホンダワラを〆縄に使っているのを見ることができます』。『江戸時代初期にかけて全国各地で特産とされていた海藻を一覧できる書物に「毛吹草」(寛永』一五(一六三八)年『があります』が、『その中で紹介されたホンダワラは、和泉神馬藻(大阪)・「石津神馬藻」です。その当時は和泉(大阪)の特産品とされていました』とあった後に、『また、「疲れきった馬に海水と海藻あかもくを食べさせた。次の朝には元気になっていた」という神馬の由来にもなっています』とあるだに!!!(太字はやぶちゃん)

「或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す」「海門嶽」は「開聞岳」だ。私もこの話、事実(馬が生き残った話は知らない)として聴いたことが確かにあるのだが、今、調べてみても、事実史料が見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

「とゞ」一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」を参照されたい。

「海馬島(とどじま)」「かいばとう」とも。宗谷海峡のここにある島。ウィキの「海馬島(樺太)」によれば、樺太島(サハリン島)の南西沖にあり、晴れた日には、『宗谷岬や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロン(Moneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している』。『古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄』一三(一七〇〇)年の「松前島郷帳」では『西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政』二(一七九〇)年の最上徳内の「蝦夷国風俗人情之沙汰」では、『「トヾシマ」についてナヨシ』(名好郡は樺太島中部のこの附近であるが、測定起点位置がおかしいから、これは広義に南樺太のことを言っているようである。但し、海馬島は最短でも樺太からは五十キロメートル弱はある)『から南に』六『里ないしは』七『里離れた海上にある島としている』。その後の記載では「モシロヽ」「トヽモシリ」『として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげ』、嘉永七(一八五四)年刊の「蝦夷闔境輿地全図」に『おいても「トヽモシリ」として見える』。明治四二(一九〇九)年発行の「東亜輿地図」では「トドモシリ島」として記載されている』。『島内にのみ見られる種を含む』三百八十『種類の植物が自生しており、海馬島特殊植物群落地帯として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている』。『日本統治時代には本斗郡海馬村に属しており』、昭和一六(一九四一)年時点で七百五十一人の『居住者がいた』。昭和二〇(一九四五)年八月、不当なソ連軍の侵攻に『よって占領され』たが、『島民は略奪や暴行を恐れ』、『すでに島を脱出していた』とある。理解されている方が少ないが、南樺太の領有権の帰属先は如何なる条約に於いても「未定」のままなのであって、ロシアの所有権は国際的に認められていない。

『土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」』ここで既出既注。そこでは柳田國男は「海鹿」に「あしか」と振っている。

「海驢(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」及び次項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)(前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。但し、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」では「海驢」の異名としているので、柳田國男のこの謂いは和名漢字名としては混乱を招くだけである。但し、現行でも混同使用は相変わらず続いているから、柳田を批判は出来ない。

「薩州上甑島串瀨戶の甑島大明神の社」グーグル・マップ・データではここ(鹿児島県薩摩川内市上甑町中甑)だが、サイド・パネルの画像で見ると、恐るべきおいそれとは行けそうに見えないとんでもない場所に巨岩がそそり立っていて海に面したその前に鳥居がポツンとあるだけである。というより、実はこの明神は鳥居しかないのである(「串瀨戶」はこの位置から、岬(串)と瀬戸のカップリングが実に相応しい名称であることは判る)。薩摩川内市観光物産協会のサイト「薩摩川内市観光ガイド こころ」の「甑大明神」によれば、『甑』(「こしき」とは穀物を蒸す用器で、甕(かめ)に似た器の底に一つ或いは二つ以上の穴を開け、これを湯沸しの上に重ねて穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているものを指す。弥生時代以来、使われるようになり、平安以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって、江戸時代に「蒸籠(せいろう)」に引き継がれた。中国・東南アジアにも甑があって朝鮮の楽浪郡の遺跡からも発見されている。これらの孰れかが日本に伝来したものと思われるものの、その経路は実は明らかではない)『形の大岩が御神体で』、『祭日は、旧暦』九月九日とあり、『元来、甑大明神には社殿はなく、岩そのものを神として拝してい』たのであり、『祭儀も甑岩の近くにある平岩の上で行われてい』たとあって、この大岩がまさに『「甑島」地名発祥の地といわれてい』るとあった。ロケーションも祭りもともに個人的に激しく惹かれる。但し、現在はここから一・五キロメートルほど離れた中甑湾奧の集落にある甑島神社が通常参拝の遥拝所となっている。

「龍駒」「りゆうのこま」と訓じておく。これだと、伊予でのタツノオトシゴの異名方言でもある。

「三國名勝圖會」巻第三十「甑島郡」の「甑島」の神社パートの冒頭にある「甑島大明神」の条。ここここ(間に見開きで二コマ分、同島の浦の図が二葉入っている)。

と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。

『漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き』他の中国の本草書の漢名では「朝雲」「水鴈」「海蛆」「海蠍子」等がある。小野蘭山(口授)「重訂本草綱目啓蒙」第四十巻の「海馬」に拠る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁。次注も典拠は同じ)。

『我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ』他に「かいば」(「海馬」讃岐)・「みつちのこ」(「蛟之子」。讃岐)・「りゆうぐうのこま」(「龍宮之駒」。豊後)・「りゆうのこま」(「龍之駒」。豊後・伊予)・「たつのおろしご」(「龍之降子」。土佐)・「りゆうぐうのをば」(「龍宮之姨」か)・「じやのこ」(「蛇之子」か。この場合は「蛇」は「龍」の前段階のこと。加賀)・「うみうま」(長門)・「をくじのまへ」(意味不明。仙台)。「あさのむし」は不詳。「しやくなぎ」(しゃくなぎ)は私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」を参照。

『沖繩にて「けーば」』不審。調べてみると、使用頻度は低いらしいが、「うみんまぐゎー」(「海馬子」か?)である。そもそも母音の口蓋化で「けー」はやや不審であった。しかし確かに「沖繩語典」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)にそう出ている(「海馬」を当てている)。でも、どうもおかしいと感じる。そこでさらに調べたところ、しかし、或いはこれは「沖繩語辞典」の誤りなのではないか? と思うに至った。何故なら、琉球王府公用語の中に「けーば」を見出したからで(「琉球大学博物館 風樹館」のここ)、しかもそれは哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon のことなのだ。さてもだったら、少なくとも「首は馬のごとく」は大当たりで、「身は蝦(えび)のごとし」だってスケールは違うが、スタイルは拡大相似形だ。流石にデカすぎて「安の」御「守」り「とす」るわけにはゆかないけれども、古来、ジュゴンは沖縄で子育てをする海洋動物として知られていたはずで、それ(例えば骨)は安産のシンボルともなろうと思うのだ。大方の御叱正を俟つものではある。

「證類本草」本草書。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合冊し、それに約六百六十項の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称。しかし、「証類本草」の語は未刊のまま終わったらしい唐慎微の書を元に、一一〇八年に艾晟(がいせい)手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。

「異物志」漢の学者楊孚が南方地域の変わった事物を記載した書か。

「守宮蟲(やもり)」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「神驗圖經」不詳。

「燒末(しやうまつ)」焼いて砕いて粉末にしたもの。

「異魚圖」大陸のそれでは、不詳。仄峰に渡辺崋山筆の天保一一(一八四〇)年があるが、文脈上、違う。

『出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり』現在の鳥海山頂上から西方に下った最も古い登山路の中間の御浜(おはま)小屋(七合目)の南方下にある、標高千五百九十メートルのカルデラ湖である鳥海湖のことであろう(山形県飽海郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)所在)。但し、山頂ではない。鳥海山の標高は二千二百三十六メートル(新山ピーク)であるが、直線でも西へ三キロほど離れる。平均直径二百メートルほどの小さなものだが、人気のある景勝地である。本文の記す、「古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる」とか、それは『一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず』というわけの判らぬ似非フェアリー話は真面目に考証するのも馬鹿馬鹿しいが、しかし、ネットを調べると、複数の登山者の記載にここで「魚影を見た」とあるのを見かけた。高地の火山性湖には普通は魚は棲息しない。しかもここは冬は氷結し、残雪もかなりの期間残ようで、相応に生物には過酷な環境である(周囲の高山性植物種は多種で非常に多様性に富んでいるようだが)。誰かが違法に放った(国定公園内である点でも違法)ものか、両生類の誤認の可能性はあろう。或いは、根拠も資料もないのだが、嘗つて(或いは今も)ここに小型のサンショウウオ類の一種が棲息していた(いる)と仮定するなら、ここにタツノオトシゴ(サンショウウオを龍と比喩するのは如何にも自然である。西欧の高地系のサンショウウオは古伝承でサラマンダーやドラゴンに比喩されているからである)にに似た生き物がいたとするここの古い記載は虚言ではない可能性もあるように思われる。高地性サンショウウオ類は極めて限定された地域にしか棲まない(棲めない)種が多くおり、少しでも環境が変わったり、人為的に有意な数が捕獲されれば(サンショウウオ類は黒焼きにして精力がつくと古くから薬餌されてきた歴史がある)、簡単に絶滅してしまうのである。

「扶餘縣の釣龍臺」既出既注であるが、補足しておくと、崔仁鶴の「朝鮮伝説集」(日本放送出版協会)の要約が、ここに「白馬江と釣龍台」(韓国の忠清南道扶余郡)として以下のようにある。

   《引用開始》

唐の将軍蘇定方が、大軍を率いて、百済の都を陥落させた後のこと。戦勝を祝う中、大王浦にあった唐の兵船が突然流れ出し、いきなり吹き出した颱風で皆川に沈んでしまう、という事件が起きた。

蘇定方が日官(暦法官)に伺うと、日官は百済の守護神である江龍の怒りだと告げた。ではその退治法はないかと蘇が問うと、日官は、龍は白馬が大好きだから、それを餌にして釣り上げればよい、と答えた。

さっそく蘇は兵たちに命じて鉄の釣針に太い鉄線の釣糸を用意し、白馬を餌にして川の岸にある岩の上に座ってそれらを川に投げ入れた。はたして日官の言ったように、程無く白馬を捕ろうとした龍が釣れ、蘇らに捕らえられてしまった。

このような出来事があったので、蘇定方が龍を釣った場所を釣龍台といい、さらに錦江の扶余一帯の川を、白馬を餌に龍を釣ったとして、白馬江と呼ぶようになったのだという。

   崔仁鶴『朝鮮伝説集』(日本放送出版協会)より要約

   《引用終了》

以下も既出既注であるが、新たに附しておくと、「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は初唐の武将。定方は字。冀州武邑(河北省))の人で、太宗の貞観(六二七年~六四九年)頃より突厥・高句麗への外征や、西突厥の叛臣の阿史那賀魯の討伐で功を挙げた。六六〇年には左武衛大将軍として新羅の要請を受け、水軍を率いて百済の義慈王らを滅ぼした。翌年、遼東道行軍大総管として高句麗に進撃し、八月、平壌城を包囲している。帰国後には涼州安集大使として吐蕃や吐谷渾(とよくこん)を平定している。

「白馬江」既出既注。現在の大韓民国忠清南道扶余郡。「白馬江」(はくばこう)はこの郡域を東北から南西に貫通している川の部分名であろうと思われる。「釣龍臺」(ちょうりょうだい)の位置はハングルは読めないので判らない。なお、この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。

『帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり』帝釈天(たいしゃくてん)は梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一つとして東方を守る。忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。四天王は彼に仕えるともされる。もとヒンズー教の英雄神で神の代表者であったインドラが仏教に取り入れられたもの。東大寺・唐招提寺などに彫像があるが、柳田國男が言っているのは、もしかして、東寺の講堂にある、平安前期の密教系の作像と推定されている、「白象」に乗った木像帝釈天像の、「象」を「龍馬」と誤認したものではなかろうか?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(42) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(3)

 

《原文》

 遠州御前崎モ近海ニ著シキ大岬ナリ。突端ノ駒形大明神ハ是レ亦昔ノ牧馬ノ名殘ナランカト思ハル。此權現ノ古キコトハ一ノ證據アリ。【駒形三社】前ニ擧ゲタル伊豆ノ輕井澤ノ駒方神ノ如キ、手近ノ箱根ノ社トハ却リテ關係無ク、日下開山鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門ト云フ兩人ノ舍人司、遠州白和駒方(シロワコマガタ)ノ書ヲ以テ駒方祝(ハフリ)ヲ行フト言傳ヘ、其三社ノ御正體ハ中央白和王ニ右鵲王左鵲王ヲ合セ祀ルト云ヘリ〔伊豆志〕。白和ハ今ノ白羽村ニテ即チ御前崎ノ鄰村ナリ。御前崎ト海ヲ隔テヽ相對スル駿河ノ三保ニモ、安藝ノ馬島ト同ジク亦馬ヲ愛惜スル神ヲ祀レリ。今日ハ單ニ謠ノ羽衣トノミ聯想セラルヽ土地ナレドモ、三穗明神ハ實ハ熱心ナル馬ノ神ニテ深ク馬ヲ愛セラレ、【野飼】神前ノ松原ニハ野馬常ニ遊ビ居タリキ。此松原モ到頭開墾セラレテ桃ヤ甘蔗ノ畠ト成リ、舊領主德川公爵ヲシテ歎息セシメタリト云フ程ナレドモ、昔ハ此半島ノ風趣ヲ添フルモノハ松陰ニ遊ベル野馬ノ群ナリシナリ。村々ノ農家ニ於テハ馬疾ムトキハ此濱ニ曳キ來リ、神ノ保護ノ下ニ放牧シ置ケバ必ズ平癒スト信ジタリ〔駿國雜志〕。思フニ此慣習ハ必ズ諸國ノ野飼馬洗ナドノ行事ト關聯スル所アルナルべシ。昔ハ人間ノ醫藥モ尋常草根木皮ノ外ニ出デズ。病馬ヲ治スルノ術ニ於テ獨リ大奇法ノ存スルモノアランヤ。多クハ伯樂ガ神傳ニ託シテ其道ヲ靈祕ニシ、モシクハ村老ガアマリニ手段ノ平凡ナルヲ訝リテ之ヲ信心ノ力ニ歸スルガ如キ、何レモ極メテ自然ナル徑路ト言フべキモ、要スルニ新鮮ナル草ト水トヲ得テ休養セバ、普通ノ病馬ハ大抵其健康ヲ復スルコトヲ得シナランノミ。三河寶飯郡ノ小松原ト云フ處ノ、觀音寺ノ本尊馬頭觀音ハ行基ガ作ナリ。【初午】每年二月初午ノ日ニ參詣スル者、此山ノ隈笹ノ葉ヲ得テ歸ル。馬ノ煩フ時御影ヲ厩ニ揭ゲ此笹ヲ以テ飼フトキハ忽チ癒ユ〔諸國里人談四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕ノ熊野神社ハ、境内ニ一ノ馬蹄石アリ。牛馬熱ニ苦シム者アルトキハ、一束ノ草ヲ刈リ來リテ此石ノ上ニ置キ退キテヨク祈リ、サテ其草ヲ以テ病畜ニ飼フトキハ則チ治スト云フ〔長門風土記〕。美濃惠那嶽(エナダケ)ノ笹ノ葉ハ既ニ之ヲ述ブ。此等無名ノ植物モ只一步ヲ進メバ又カノ狐ケ崎ノ矢筈ノ笹ナリ。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(ナカバノ)左妻(ヒダリツマ)ニハモト左妻岩屋アリ。中古洪水ニ沒シテ今其處ヲ知ラズ。【窟ノ神】昔此巖窟ニ馬ヲ愛スル神イマシテ、屢橫根山ノ溪流ニ馬ヲ洗ヒタマフ。馬洗淵ノ今モ存セリ。其神人間ニ應接スルコト里俗ノ口碑ニ殘リ、葛城一言主ノ談ニ類ス。福地某ナル者曾テ此邑ニ在リテ馬ヲ獻ジ、古來此地ノ名馬ヲ出スコトヲ申スニ因リテ牧馬ノ命ヲ蒙リヌ。又伊賀次郞重國モ名馬ヲ本村ヨリ獻ジタリト言ヘバ、馬野ノ名空シカラザルニ似タリ〔三國地誌〕。【竈神】三保明神ノ馬ヲ愛シタマフコト誠ニ其由來ヲ知リ難シト雖、此地ハ鹽燒ク濱ナレバ夙ニ竃ノ神ノ信仰起リ、興津彥興津媛ノ說ナドニ感化シテ中世三社ノ神靈ヲ仰グニ至リシニハ非ザルカ。或ハ又單ニ一箇水ニ臨メル牧トシテ、深クモ牧神ノ德ヲ仰グニ至リシモノカ。後世ノ硏究ヲ須ツノ他ナキナリ。此半島ト相對シテ愛鷹山(アシタカヤマ)ニハ人ノ飼ハヌ野馬アリ。即チ愛鷹明神ノ神馬ナリト云ヘリ。非常ノ駿足ニテ人ハ容易ニ其姿ヲ見ルコト能ハズ〔駿國雜志〕。【九十九】或ハ傳フ、三保ト愛鷹トハ不思議ノ交通アリ野馬ノ數雙方ヲ合セテ常ニ九十九匹、曾テ增減アルコト無シ。三保ニ多ケレバ愛鷹ニ少ナク、愛鷹ニ多ケレバ三保ニ少ナシト云ヘリ〔本朝俗諺志〕。人モ知ル如ク愛鷹山ハ近キ世迄ノ幕府ノ牧場ナリキ。牧場ノ一方ガ高山ニ續キシ爲ニ、野飼ノ駒ノ逸出シ點檢ニ洩レタル者モ多カリシナラン。唯東海道ヲ越エ海ヲ隔テタル半島ノ松原ニ通フト云フニ至リテハ、即チ甲斐ノ黑駒同樣ノ神話ト見ザル能ハザルナリ。【馬神根原】勿論牧童ノ保護ヲ離レテ而モ熊狼ノ害ヲ免レ得シ程ノ野馬ナリトスレバ、必ズ荒ク且ツ逞シキ逸物ニ相違ナケレバ、稀ニ之ヲ思ヒ掛ケヌ谷間ナドニテ見タル人ハ、自然ニ神馬又ハ之ヲ率ヰル馬ノ神ノ信仰ヲ起シ、一方ニハ各自ノ凡馬ノ安全ヲ禱ルト共ニ、他ノ一方ニハ其蹄ノ跡ナドヲ尊崇セズニハ居ラレザリシナルべシ。

 

《訓読》

 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる。此の權現の古きことは一つの證據あり。【駒形三社】前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神のごとき、手近の箱根の社とは、却りて、關係無く、日下開山(ひのしたかいさん)鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門と云ふ兩人の舍人司(とねりのつかさ)、遠州白和駒方(しろわこまがた)の書を以つて、「駒方祝(はふり)」を行ふと言ひ傳へ、其の三社の御正體(みしやうたい)は、中央、白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀ると云へり〔「伊豆志」〕。白和は今の白羽村にて、即ち、御前崎の鄰村なり。御前崎と海を隔てゝ相ひ對する駿河の三保にも、安藝の馬島と同じく、亦、馬を愛惜する神を祀れり。今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地なれども、三穗明神は實は熱心なる馬の神にて、深く馬を愛せられ、【野飼】神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき。此の松原も到頭、開墾せられて、桃や甘蔗(かんしよ)の畠と成り、舊領主德川公爵をして歎息せしめたりと云ふ程なれども、昔は此の半島の風趣を添ふるものは、松陰に遊べる野馬の群れなりしなり。村々の農家に於いては、馬、疾(や)むときは、此の濱に曳き來り、神の保護の下に放牧し置けば、必ず平癒すと信じたり〔「駿國雜志」〕。思ふに、此の慣習は、必ず、諸國の「野飼」・「馬洗」などの行事と關聯する處あるなるべし。昔は人間の醫藥も、尋常、草根・木皮の外に出でず。病馬を治するの術に於いて、獨り大奇法の存するものあらんや。多くは伯樂が神傳に託して其の道を靈祕にし、もしくは、村老が、あまりに手段の平凡なるを訝りて、之れを信心の力に歸するがごとき、何(いづ)れも極めて自然なる徑路と言ふべきも、要するに、新鮮なる草と水とを得て休養せば、普通の病馬は大抵、其の健康を復することを得しならんのみ。三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音は、行基が作なり。【初午】每年二月初午の日に參詣する者、此の山の隈笹の葉を得て歸る。馬の煩ふ時、御影(みえい)を厩に揭げ、此の笹を以つて飼ふときは、忽ち、癒ゆ〔「諸國里人談」四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社は、境内に一つの馬蹄石あり。牛馬、熱に苦しむ者あるときは、一束の草を刈り來りて、此の石の上に置き、退(しりぞ)きて、よく祈り、さて、其の草を以つて病畜に飼ふときは、則ち、治すと云ふ〔「長門風土記」〕。美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ。此等、無名の植物も。只だ一步を進めば、又、かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹なり。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)には、もと、左妻岩屋あり。中古、洪水に沒して、今、其の處を知らず。【窟(いはや)の神】昔、此の巖窟に馬を愛する神いまして、屢々、橫根山の溪流に馬を洗ひたまふ。馬洗淵の今も存せり。其の神、人間に應接すること、里俗の口碑に殘り、葛城一言主(かつらぎひとことぬし)の談に類す。福地某なる者、曾つて、此の邑(むら)に在りて、馬を獻じ、古來、此の地の名馬を出すことを申すに因りて牧馬の命を蒙りぬ。又、伊賀次郞重國も名馬を本村より獻じたりと言へば、馬野の名、空しからざるに似たり〔「三國地誌」〕。【竈神】三保明神の馬を愛したまふこと、誠に其の由來を知り難しと雖も、此の地は鹽燒く濱なれば、夙(つと)に竃の神の信仰起り、興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)の說などに感化して、中世、三社の神靈を仰ぐに至りしには非ざるか。或いは又、單に一箇水に臨める牧として、深くも牧神の德を仰ぐに至りしものか。後世の硏究を須(ま)つの他なきなり。此の半島と相ひ對して、愛鷹山(あしたかやま)には人の飼はぬ野馬あり。即ち、愛鷹明神の神馬なりと云へり。非常の駿足にて、人は容易に其の姿を見ること能はず〔「駿國雜志」〕。【九十九】或は傳ふ、三保と愛鷹とは不思議の交通あり、野馬の數、雙方を合はせて、常に九十九匹、曾つて增減あること、無し。三保に多ければ、愛鷹に少なく、愛鷹に多ければ、三保に少なし、と云へり〔「本朝俗諺志」〕。人も知るごとく、愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき。牧場の一方が高山に續きし爲めに、野飼の駒の逸出し、點檢に洩れたる者も多かりしならん。唯だ、東海道を越え、海を隔てたる半島の松原に通ふと云ふに至りては、即ち、甲斐の黑駒同樣の神話と見ざる能はざるなり。【馬神根原】勿論、牧童の保護を離れて、而も熊・狼の害を免れ得し程の野馬なりとすれば、必ず、荒く、且つ、逞しき逸物に相違なければ、稀に之れを思ひ掛けぬ谷間などにて見たる人は、自然に神馬、又は、之れを率ゐる馬の神の信仰を起こし、一方には各自の凡馬の安全を禱ると共に、他の一方には、其の蹄の跡などを尊崇せずには居られざりしなるべし。

[やぶちゃん注:「遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる」既出既注。以下の叙述もそちらの私の注を参照されたい。

「前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神」ここ

「日下開山(ひのしたかいさん)」天下無双の強者、また、技量の優れた者のこと。現在はは主に横綱力士の代名詞である。天和二(一六八二)年、江戸幕府は武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、その使用の禁止令を布告したが、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し、「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さを見せた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」又は「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱力士を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここは尊大な自称尊称であろう。

「鎌倉彌左衞門」不詳。

「三國相傳」本来は「三国伝来」と同義で、天竺(インド)から中国又は朝鮮に伝わり、さらに日本に伝来してきた仏法を指す。前の「日下開山」と同じく神仏習合時代の自称尊称であろう。

「橫須賀與惣右衞門」不詳。「よそゑもん」と読んでおく。

「舍人司(とねりのつかさ)」ここは単に下級官人としての神職を指していよう。

「遠州白和駒方(しろわこまがた)」既注の御前崎市白羽(しろわ)に鎮座していた白羽神社元宮、現在の白羽神社のことであろう。

「書」神託の書と礼式の謂いと採り、それを私は「駒方祝(はふり)」という固有的名詞表現として採って鍵括弧を附した。

「白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀る」「静岡県神社庁」公式サイト内の白羽神社の由緒書きには、承和四(八三八)年二月に元宮である『岬の駒形神社より』ここへ遷ったとあり、「延喜式」に載る「白羽官牧」の『地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧』県『社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため』であるとある。『また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている』ともある。ここに出るのは、その古いプロトタイプに近い祭神像或いはその御影の名指しと思われる(現在の祭神はリンク先を見られたい)。

『今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地』インキ臭い学者の如何にもな謂いだな。専ら「羽衣伝説」でのみ知られる、でよかろうが。

「三穗明神」、静岡県静岡市清水区三保にある御穂(みほ)神社。。「みほ」の字は他に「御廬」「三穂」「三保」にも作る。ウィキの「御穂神社」によれば、『三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされ』、『「神の道」と称される』。『現在でも』、『筒粥神事では』、『海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に神の依りついたひもろぎは』、『松並木を通って境内にもたらされる』。『これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられている』とある。古くより祭神は大己貴命(大国主)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)とされるが、私はこの馬を愛する神とはこの二神とは無縁で、まさにその神迎えのアプローチの長いことから、そこに神の騎る神馬が必要だったのではなかったかと推理している。さればこそ、以下の「神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき」が自然に腑に落ちるのである。

「甘蔗(かんしよ)」これは同じ発音の「甘藷」(サツマイモ)の誤りであろう。「甘蔗」と書く場合はサトウキビ(単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum)を指す。ウィキの「サトウキビ」によれば、『世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限は、四国から伝播した遠州横須賀地区(静岡県掛川市南西部)とみられる』とあるものの、同地区は三保よりも以南である。或いは一時期、ここで植栽が試されたのかも知れないが、そのような資料を確認出来ない。

「舊領主德川公爵」徳川宗家第十六代当主(元は田安徳川家第七代当主)で静岡藩(明治二年八月七日(天保暦。グレゴリオ暦では一八六九年九月十二日)に成立したが、二年後の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に「廃藩置県」により廃藩となった。日本のグレゴリオ暦導入は一八七三年一月一日に当たる明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした時に始まる)初代藩主であった徳川家達(いえさと 文久三(一八六三)年~昭和一五(一九四〇)年)。従一位大勲位公爵。世間では「十六代様」と呼ばれた。第四代から第八代までの貴族院議長・ワシントン軍縮会議全権大使・昭和一五(一九四〇)年開催予定であった東京オリンピックの組織委員会委員長・第六代日本赤十字社社長・学習院評議会議長・日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けたが、拝辞している(ここはウィキの「徳川家達」その他に拠った)。

「三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音」これは愛知県豊橋市小松原町(ちょう)坪尻にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)であろう。ここは「小松原観音」とも呼ばれ、本尊は馬頭観音菩薩である。「行基が作なり」とあるのは当寺の伝承で天平四(七三二)年に行基が夢告を受け、翌年にこの小松原の海岸で一株の霊木を感得し、これを以って馬頭観音像を刻み、堂宇を建立したのを起源とすることから謂いに過ぎず、現在の本尊(御正体)は金銅馬頭観音像で銘は文永八(一二七一)年である。

「每年二月初午の日に參詣」現在も行われている。個人サイトと思われる「東三河を歩こう」の「馬頭観音二の午祭」のページに、『東観音寺のご本尊の馬頭観音のお祭りで、旧暦』二『月の午の日に開催され、本堂ではご祈祷が行われ、牛馬の飼い主が祈願を行う』。『境内では植木市・金魚市の他、多くの屋台が並』び、『また、この祭礼には、豊橋の民話「二ノ午大祭の絵馬」が伝えられている』(リンク先は同サイトの別ページ。荒馬鎮静の話なのでリンクさせておいた)。

『「諸國里人談」四』「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像の、ここここ

「長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社」山口県阿武郡阿武町惣郷はここ。現在、熊野神社はないが、熊野三所権現を祀る御山(おやま)神社があるから、ここであろうか(この神社の東北の同地区内に今一つの御山神社があるが、諸データとグーグル・マップ・データの画像を見る限りでは前者かと思われる)。「馬蹄石」は確認出来ない。

「美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ」こちら

「かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹」こちら

「伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)」三重県伊賀市中馬野。同地区を貫通する川が左妻川である。

「橫根山」不詳。国土地理院図を見ると、同地区や周辺には複数のピークはある。

「馬洗淵」北のピークを超えた直近の伊賀市奥馬野地区に「馬野溪」ならある(国土地理院図)。

「葛城一言主(かつらぎひとことぬし)」ウィキの「一言主」を引く。「古事記」の「下つ巻」に『登場するのが初出で』、雄略天皇四(四六〇)年、『雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある』。少し後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに『時代が下がっ』た「続日本紀」の巻二十五では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと』も『言われている』。さらに、弘仁一三(八二二)年成立の景戒(生没年不詳:奈良時代の薬師寺の僧)が書いた日本最初の説話集「日本霊異記」では、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』、「日本霊異記」『執筆の時点でも』、『まだそれが解け』てい『ないとある』。『また、能の』「葛城」では『女神とされている』。『葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となって』おり、『地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば』、『何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている』。『このほか』、「続日本紀」で流されたと『書かれている土佐国には、一言主を祀る』とされる『土佐神社があり』、『土佐国一宮になっている』。『名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある』とある。

「伊賀次郞重國」「長秋記」の天永二年(一一一一)八月二十一日の条に、上皇(白河法皇か)相撲御覧の際に相撲人の「三番、左、淸原重國」として見える伊勢平氏の清原重国は「伊賀住人、字首持、義親首入洛、仍此名流ㇾ世。」とあり、『彼が』源『義親』(河内源氏三代目棟梁源義家の嫡男であったが、対馬守に任ぜられた際に九州で略奪を働いて官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。しかし脱出して出雲国へ渡り、再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛(清盛の祖父)の追討を受けて誅殺された)『の首を持った五人の下人の一人だったことがわかる。おそらく伊賀国にあった正盛の私領を通じた郎等だろう』とある(個人サイト「千葉一族」のこちらに拠ったが、史料は論文等で確認して添えた)が、この人物か?

「興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)」ウィキの「かまど神」によれば、『日本の仏教における尊像』三宝荒神(日本特有の仏教における信仰対象の一つで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神)は、『かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている』。『また』、『近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに』、『春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている』。『神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である』とある。

「愛鷹山(あしたかやま)」静岡県東部にある、富士山の南隣りに位置する火山。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰(国土地理院図)を指す。三保の松原の東北で対するが、頂上からは直線でも富士市を挟んで約三十六キロメートル離れている。

「愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき」料理店「どんぶる家 伊豆海」のサイトの「沼津の歴史・文化の紹介 愛鷹三牧場 愛鷹牧の歴史」に、

   《引用開始》

古代の律令制国家のもと、全国各地に牧が置かれ、牛や馬が飼育された。

最初、牧は兵部省の管轄の下、国司が管理してきたが、十世紀初頭の駿河国には、岡野馬牧、蘇弥奈馬牧という二つの牧が置かれていた。岡野の岡宮、蘇弥奈は比奈という後世の地名に継承されたとも言われ、現在の沼津市から富士市にかけての愛鷹山南麓ではないかと推定されている。古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していくことにより愛鷹山の牧の施設・機能もなくなった。しかし、野生の馬は、生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け近世に至った。

近世に入ると、諸藩では独自に牧を設置・経営したが、江戸幕府自身も小金五枚、佐倉七枚、安房国の嶺五枚、駿河国の愛鷹三枚という合計二十箇所の牧を経営した。

古代・中世以来放置されていた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の準備・新設を進めていた享保期のことであった。

しかし、愛鷹明神神主奥津氏や農民たちは愛鷹山野馬が建久五年(1194)に源頼朝によって奉納された九十九頭の神馬に由来すること、今川義元・武田信玄・川毛惣左衛門・井出志摩守正次ら歴史の支援者たちも神馬・神領を安堵してきたことなどを理由に、牧設置に反対の意向を示したことにより上の歳月が流れた。

寛政八年(1796)同年十一月、幕府は神罰が下ることを恐れ執行に反対する奥津神主の主張を退け、牧の開設を断行した。

元野・尾上・霞野三牧の用地選定を行った、その年十二月から翌年二月にかけて、土手の築造をはじめとする牧場施設の建築が地元農民たちによって行われ寛政九年(1797)三月、はじめての捕馬が実施されたのである。

明治維新後は一部が明治政府に引き継がれ御料牧場になったほか、開墾され農地や宅地になったり、軍隊の演習場になったりした。

[やぶちゃん注:ここに「駿州愛鷹牧捕獲馬之図」(世古明夫氏所蔵)がある。]

愛鷹三牧場

愛鷹三牧場は、今から二〇〇年ほど前の寛政九年、江戸幕府によって設置された馬の三つの牧場で、明治初年に廃止されたため、期間はわずか八〇年ほどでしたが、江戸幕府の直営した全国的にも数少ない牧場でした。

牧場が出来る前の愛鷹山麓には、源頼朝が奉納した神馬が、半ば野生化し野馬となり数百頭が疾駆していました。この周辺もかつては三牧馬の一つがあった所です。

   《引用終了》

この解説で「九十九」の名数の意味が腑に落ちた。感謝申し上げる。]

2019/06/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(41) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(2)

 

《原文》

 駿馬ノ龍ヲ父トスルコト、近世ニ於テモ正シク其實例アリキ。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村ノ對岸ニ龍ケ池アリ。【鞍淵】此水ハ山中ノ靑鞍淵ト地下ニ相通ズト傳ヘラレ、曾テ領主ガ池水ヲ切落サントセシ時ニモ、掘ルニ從ヒテ底愈窪ミ、漫々トシテ終ニ其深サヲ減ゼザリキ。此池ニモ龍アリテ住ムガ故ニ、池ノ空ニ龍ノ形ヲシタル雲ノ折レ棚引クヲ見ルコトアリ。【野飼】酒井侯忠眞ノ治世ニ、成澤村ノ農長右衞門ガ家ノ女馬、此池ノ岸ニ野飼スル間ニ龍ノ子ヲ孕ミタリ。生レシ駒ハ鹿毛ノ駿逸ナリキ。忽チニ藩主ノ乘馬トナリ後ニ之ヲ公儀ニ獻ズト云フ〔三郡雜記下〕。士佐ノ果下馬(トサゴマ)ハ體コソ小サケレ、健カニシテ且ツ鋭キコトヨク彼國ノ人物ニ似タリ。其開祖モ亦水邊ノ牧ヨリ出デシモノニテ、一說ニハ牝馬ノ海鹿(アシカ)ト交リテ生ミシ子ナリト稱シ、ソレ故ニ性質チト順良ナラズトモ評セラル〔有斐齋剳記〕。此等ノ事實ヲ參酌シ、兼テ又多クノ池月ガ池ノ邊ヨリ生レ出シコトヲ思ヒ合ストキハ、我邦ニテ延喜式以來ノ諸國ノ牧場ノ海ニ臨メル地ニ多カリシハ、決シテ單ニ土居ヤ圍障ノ經費ヲ節約センガ爲ノミニ非ザリシコトヲ疑フ能ハズ。即チ斯クスレバ良キ駒ヲ產スべシト云フ經驗乃至ハ理論ノ確乎タルモノアルニ非ザレバ、島地岬端ヲ求ムルコト此ノ如ク急ナルべキ理無キナリ。俗說ノ傳フル所ニ依レバ、馬ハ應神天皇ノ御代ニ高麗國ヨリ初メテ之ヲ貢獻ス。【生駒山】之ヲ飼フべキ途ヲ知ラズ、山ニ放チタルニ依リテ其山ヲ生駒山ト云フ。其後高麗ヨリ人渡リテ申ス、岩石峯海ノ邊鹽風ニ當ル處ニ放チ飼ヘバ駿馬トナリテヨシト申ス。依リテサアリヌべキ處ヲ尋ネ、但馬國ノ海峯ニ斯ル處ヲ求メ得テ馬ヲ追放ツ。其後子ドモ多ク生レテ馬此國ニ充滿シケリ。故ニ多馬(タマ)ノ國ト號ス云々〔但馬考所引國名風土記〕。【島ノ牧】島ノ牧ニ至リテハ近世ニモ例甚ダ多シ。羽前ノ海上ニ飛島ナリシカ粟島ナリシカ、今モ共有ノ野馬山ニ多ク居リ、島人其用アル時ノミ繩ヲ携ヘ行キテ之ヲ捕ヘテ使ヒ、用終レバ復之ヲ放ツト云フ話ヲ聞キシコトアリ。伊豆ノ大島ニテハ里ニ飼フハ牛ノミナレドモ、八代將軍ノ時ニ放牧セシ野馬ノ子孫、三原山ノ中腹ニ永ク住ミテアリシト云ヘリ。津和野ノ龜井伯ノ始祖龜井琉球守玆矩ハ雄圖アル武將ナリキ。曾テ大船ヲ購ヒテ明國安南暹羅ナドト貿易セシ頃、多クノ驢馬野牛ヲ舶載シ來リテ之ヲ因幡湖山池(コナンイケ)ノ靑島ニ放牧ス。其種永ク盡キズ、寬永年中ニ至リテ尙其姿ヲ見タリト云フ〔漫遊人國記〕。瀨戶内海ニハ島ノ牧殊ニ多カリキ。熊谷直好ノ歸國日記ニ

  赤駒ニ黑ゴママジリ遊ビ來ル島ノ松原面白キカナ

ト詠ジタルハ、今ノ何島ノ事ナリヤハ知ラザレドモ、安藝ノ海中ニモ馬島ト稱シテ野馬ノ多キ一島アリキ。但シ之ヲ取還ラントスル者アレバ、其舟必ズ覆沒スト云ヘバ〔有斐齋剳記〕、世用ニ於テハ益無キナリ。播州家島(エジマ)ノ南方十五町ノ處ニモ、寬文ノ頃一ノ馬島アリテ牧ヲ設ケラル〔西國海邊巡見記〕。安藝賀茂郡阿賀町ヨリ一里ノ海上ニ、情島(ナサケジマ)ト云フ大小二箇ノ島アリ。大情ノ方ハ承應三年ニ藩ノ牧場ト定メラレ之ニ十匹ノ馬ヲ放ス。追々ニ繁殖シテ明曆ノ頃ニハ二十餘頭ニ達シタリ。後年其數ノ減ズルヲ以テ文化十四年ニハ更ニ一頭ノ月毛ヲ放ス。此月毛ハ廣島ノ東照宮ノ祭ノ神馬ナリキ。後ニ又牝馬二匹ヲ以テ其牧ニ加ヘタリト云ヘリ〔藝藩通志〕。讚州高松藩ニテハ慶安年中ニ大内郡ノ大串山ト云フ處ニ馬牧ヲ開キ馬ヲ放ス。大串山ハ島ニ非ズ、一里バカリ海中ニ突出スル半島ナリ。陸續キノ一面ニハ塹ヲ掘リテ馬ノ逸出スルヲ防ギタリ。此牧ハ良馬ヲ出サザリシガ故ニ終ニ之ヲ罷ムトアリテ〔讚岐三代物語〕、爰ニモ明カニ龍神信仰ノ末法ヲ示セリ。此序ニ申サンニ、大串山ノ串ハ半島又ハ岬ノコトナリ。地方ニ由リテハ之ヲ久慈又ハ久枝トモ書ケド、是レ恐クハ二字ノ嘉名ヲ用ヰシモノニテ、紀州ノ串本、長門ノ小串其他、串ト書スル例モ多シ。串ハ朝鮮語ニテモ亦半島若シクハ岬ヲ意味シ、本來「コツ」ノ語音ニ宛テタル漢字ナランカト云ヘリ。而シテ朝鮮ニテモ島又ハ串(コツ)ヲ馬牧トスルハ最モ普通ノ慣習ナリシナリ。其例ヲ擧グレバ限無シト雖、中ニモ大ナルハ全羅道大靜縣ノ加波島、慶尙道熊川縣南海ノ加德島、同ジク長髻縣ノ冬乙背串、忠淸道ニテハ瑞山郡ノ安眠串、奉安郡ノ和靈山串、大小山串梨山串薪串ノ四串、河川郡ノ金宅串、唐津縣ノ西ニ在ル孟串ノ如キモ皆古來ノ牧ナリキ〔東國輿地勝覽〕。獨リ日本内地ノミノ風習ニハ非ザリシコトハ此ダケニテモ容易ニ察スルコトヲ得ルナラン。

 

《訓読》

 駿馬の龍を父とすること、近世に於いても正(まさ)しく其の實例ありき。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり。【鞍淵】此の水は山中の靑鞍淵と地下に相ひ通ずと傳へられ、曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり。【野飼】酒井侯忠眞(ただざね)の治世に、成澤村の農長右衞門が家の女馬、此の池の岸に野飼する間に、龍の子を孕みたり。生れし駒は鹿毛(かげ)の駿逸なりき。忽ちに藩主の乘馬となり、後に之れを公儀に獻ずと云ふ〔「三郡雜記」下〕。士佐の「果下馬(とさごま)」は體こそ小さけれ、健かにして、且つ、鋭きこと、よく彼の國の人物に似たり。其の開祖も亦、水邊の牧より出でしものにて、一說には牝馬の海鹿(あしか)と交りて生みし子なりと稱し、それ故に、性質、ちと、順良ならずとも評せらる〔「有斐齋剳記(いうびさいたうき)」〕。此等の事實を參酌し、兼ねて又、多くの池月が池の邊より生れ出でしことを思ひ合すときは、我が邦にて「延喜式」以來の諸國の牧場の海に臨める地に多かりしは、決して單に土居(どゐ)や圍障(ゐしやう)の經費を節約せんが爲めのみに非ざりしことを疑ふ能はず。即ち、斯くすれば、良き駒を產すべしと云ふ經驗乃至は理論の確乎たるものあるに非ざれば、島地(しまち)・岬端(こうたん)を求むること此くのごとく急なるべき理(ことわ)り、無きなり。俗說の傳ふる所に依れば、馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す。【生駒山】之れを飼ふべき途(みち)を知らず、山に放ちたるに、依りて其の山を生駒山と云ふ。其の後、高麗より、人、渡りて申す、「岩石峯海の邊、鹽風に當たる處に放ち飼へば、駿馬となりてよし」と申す。依りて、さありぬべき處を尋ね、但馬國の海峯に斯る處を求め得て、馬を追ひ放つ。其の後、子ども、多く生れて、馬、此の國に充滿しけり。故に「多馬(たま)の國」と號す云々〔「但馬考」所引「國名風土記」〕。【島の牧】島の牧に至りては、近世にも、例、甚だ多し。羽前の海上に飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか、今も共有の野馬、山に多く居り、島人、其の用ある時のみ、繩を携へ行きて、之れを捕へて使ひ、用終れば、復た之れを放つ、と云ふ話を聞きしことあり。伊豆の大島にては、里に飼ふは牛のみなれども、八代將軍の時に放牧せし野馬の子孫、三原山の中腹に永く住みてありしと云へり。津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)は雄圖ある武將なりき。曾つて大船を購ひて、明國・安南[やぶちゃん注:現在のヴェトナム。]・暹羅(しやむ)[やぶちゃん注:シャム。現在のタイ。]などと貿易せし頃、多くの驢馬・野牛を舶載し來たりて、之れを因幡湖山池(こさんいけ)の靑島に放牧す。其の種、永く盡きず、寬永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]に至りて尙、其の姿を見たりと云ふ〔「漫遊人國記」〕。瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好(くまがいなほよし)の「歸國日記」に

  赤駒に黑ごままじり遊び來る島の松原面白きかな

と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安藝の海中にも馬島と稱して野馬の多き一島ありき。但し、之れを取り還らんとする者あれば、其の舟、必ず覆沒すと云へば〔「有斐齋剳記」〕、世用(せよう)に於いては、益、無きなり。播州家島(えじま)の南方十五町[やぶちゃん注:一キロ六百四十メートル程。]の處にも、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃、一つの馬島ありて、牧を設けらる〔「西國海邊巡見記」〕。安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり。大情の方は承應三年[やぶちゃん注:一六五四年。]に藩の牧場と定められ、之れに十匹の馬を放す。追々に繁殖して、明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の頃には二十餘頭に達したり。後年、其の數の減ずるを以つて、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年。]には更に一頭の月毛を放す。此の月毛は廣島の東照宮の祭の神馬なりき。後に又、牝馬二匹を以つて其の牧に加へたりと云へり〔「藝藩通志」〕。讚州高松藩にては、慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]に大内郡の大串山と云ふ處に馬牧を開き、馬を放す。大串山は島に非ず、一里ばかり海中に突出する半島なリ。陸續きの一面には塹(ほり)を掘りて、馬の逸出するを防ぎたり。此の牧は良馬を出ださざりしが故に、終に之れを罷むとありて〔「讚岐三代物語」〕、爰にも明らかに龍神信仰の末法を示せり。此の序でに申さんに、大串山の「串」は「半島」又は「岬」のことなり。地方に由りては之れを「久慈」又は「久枝」とも書けど、是れ、恐らくは二字の嘉名を用ゐしものにて、紀州の串本、長門の小串其の他、「串」と書する例も多し。「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんかと云へり。而して朝鮮にても、「島」又は「串(コツ)」を馬牧とするは、最も普通の慣習なりしなり。其の例を擧ぐれば限り無しと雖も、中にも大なるは、全羅道大靜縣の加波島、慶尙道熊川縣南海の加德島、同じく長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)、忠淸道にては瑞山郡の安眠串、泰安郡の和靈山串、大小山串・梨山串・薪串の四串、沔川(べんせん)郡の金宅串、唐津縣の西に在る孟串のごときも皆、古來の牧なりき〔「東國輿地勝覽」〕。獨り日本内地のみの風習には非ざりしことは此れだけにても容易に察することを得るならん。

[やぶちゃん注:「羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり」山形県東田川郡庄内町清川はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上川左岸の集落で、対岸の山の中腹に池が現存する(少し外れた北西にも別に小さな池沼があるが、航空写真に切り替えて見ると干上がっている可能性が濃厚であり、国土地理院図(後掲)ではこの小さな池自体が確認出来ない。雰囲気からすると、谷筋を堰堤で仕切った人工の滞水域のようにも見えるが、後の「成澤村」の注をも参照されたい)。但し、こちら側(最上川右岸)は山形県酒田市成興野(なりこうや)須郷(すごう)であり、調べても池の名は判らない(しかし有意な池であるから、名はあるはずである)。「山中の靑鞍淵」も判らぬが、池があるその上のピークは低く、流れも北の谷になるので、或いは、東北部に聳える山塊の大きな複数の谷(国土地理院図)の孰れかの淵を指すものかも知れない。

「曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり」この話、私は以前、全く別の江戸の奇談集で確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出した時は追記する。

「酒井侯忠眞」出羽庄内藩第四代藩主酒井忠真(寛文一一(一六七一)年~享保一六(一七三一)年)。天和二(一六八二)年に父忠義の死により家督を相続した。元禄六(一六九三)年には側用人に就任している。

「成澤村」ロケーションの続きから、国土地理院図で調べると、山形県酒田市成興野の北に成沢の地名を見出せる。ところが、この地区を北から流れる「又右ェ門川」(柳田國男の言う「農長右衞門」の名が冠された川だ)の中途部分が先のグーグル・マップ・データで確認出来る池のような溜まりなのである。ちょっと悩ましいが、しかし、ここは谷の途中が堰き止められたようなもので、地形的に見ても周囲に平地が殆んどない。駒を野飼いするスペースを池の周囲が有するのは、圧倒的に先の、ここの東南東にある大きな方であるから、私の同定は変更しない。

「果下馬(とさごま)」広義の「果下馬(かかば)」は所謂、現在のポニー(pony:肩までの高さが百四十七センチメートル以下の小さな馬)の元になった品種の一つ。柳田國男が振っている「とさごま」=土佐馬は小柄な馬で、山の坂道を良く歩くとされたが、既に純血種は絶滅してしまっている。個人サイトらしき「Private Zoo Garden」の「カカバ(果下馬)」によれば、中国広西チワン自治区原産で、丈は一メートルから一メートル二十センチメートルほどで、『毛色は茶褐色、赤茶色、乳白色などで、顔は広く、ロバに似た感じがする』。『古くは騎馬用などにも用いられたようであるが、婦女子の乗馬用などにも好まれていたようである』。『カカバは丈夫でおとなしい性格のため、近年まで使役動物としても用いられてきたが、現在では在来のものが少なくなっている』。『主に青草などを食べ、習性などはポニーの仲間と同じと思われる』。『カカバは「果下馬」と書かれるが、この名前は、体が小さいので』、『果樹の木の下を通り抜けることが出来るということ』に由来するとある。『また、現在、韓国で天然記念物に指定されている「済州馬」は、カカバと同種であると思われ、かつてカカバは朝鮮半島にも生息していたと考えられている』。『国内にもノマウマ (野間馬) などの小型の在来馬が生息しているが、いずれも生息数は少なく、保護されている』とある。貝原益軒の「大和本草」の巻之十六の「獸類」の「猿」と「貒(まみ)」(タヌキ)の間に「果下馬」がある。私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』のポリシーに従って電子化する。底本は「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプした(リンク先は目次のHTMLページ)。

   *

【外】大明一統志曰果下馬肇慶府瀧水縣出

 者爲最高不踰三尺長者有兩脊骨號雙脊馬健

 而能行是土佐駒ナルヘシ土佐駒ハ草ヲ食シテ能重

 キヲ䭾フ不要飼穀甚便于民用又范石湖カ桂海

 獸志ニモノセタリ與一統志所載略同是一統志ヨリ

 古書ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】[やぶちゃん注:この「外」とは、本書が主に拠るところの明の李時珍の「本草綱目」には載せないが、他の中国の本草書には載る種の謂いである。]

「大明一統志」に曰はく、『果下馬、肇慶府瀧水〔(らうすい)〕縣に出づる者、最と爲す。高さ三尺の長〔(たけ)〕に踰〔(こ)〕ゑざる[やぶちゃん注:ママ。]者、兩〔つながら〕、脊骨、有り、「雙脊馬」と號す。健かにして能く行く』〔と〕。是れ、「土佐駒」なるべし。土佐駒は草を食して、能く重きを䭾(を)ふ[やぶちゃん注:ママ。「負ふ」「擔ふ」であるから歴史的仮名遣は「おふ」でよい。]。穀を飼〔(かひばと)する〕ことを要せず、甚だ民用に便〔(びん)〕:なり。又、范石湖が「桂海獸志」にものせたり。「一統志」の載する所と、略〔(ほぼ)〕同じ。是れ、「一統志」より古書なり。

   *

・「大明一統志」は明の勅撰の地理書。一四六一年完成。全九十巻。

・「范石湖」南宋の政治家で詩人で「南宋四大家」の一人に数えられる范成大(一一二六年~一一九三年)の号。「桂海獸志」は恐らく彼が書いた桂林・広西の民俗誌の「桂海虞衡志」の中の獣類パートを指すものと思われる。

「海鹿(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。そこでも、アシカを「頭は馬のごとく」とか言っているが、全然違うっうの!

「土居(どゐ)」土塁。

「圍障(ゐしやう)」垣根・塀・柵。孰れも、所謂、人工のテキサス・ゲート。

「馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す」これっておかしいだろ! 「古事記」の素戔嗚尊が機屋に投げ込んだんは何の皮やねん!! 但し、ウィキの「馬」によれば、『先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期』(紀元後三世紀中頃)『ではないかといわれ』、四『世紀末から』五『世紀の初頭になって』、『漸く乗馬の風習も伝わったとされる』とある。因みに、応神天皇の在位期間は機械換算で二七〇年から三一二年。しかして以上は「日本書紀」の応神天皇十五(二八四)年八月六日の記載に無批判に拠ったもの。

   *

十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。

   *

「羽前の海上」「飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか」山形県酒田市飛島なら羽前。新潟県岩船郡粟島浦村の粟島は羽前ではない。馬の話もネットでは掛かってこない。ただ、柳田國男がいい加減な誤認で粟島を出したものではないようには思う。粟島と飛島は対馬海流の影響下にあり、南方系の文化北上のルートとしてダイレクトに繋がっているからである。但し、だから、これらの島に南の馬が運ばれてきたなどと軽々に言おうと言うのではない。

「津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)」(弘治三(一五五七)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国大名で、因幡鹿野(しかの)藩初代藩主。父は尼子氏家臣であった湯左衛門尉永綱。武蔵守。尼子氏の滅亡後、諸国を流浪し、天正元(一五七三)年、因幡国に来住、尼子氏再興を図る旧臣山中鹿之介幸盛に従って各地に転戦、同二年、幸盛の養女を妻に迎え、同じく尼子氏旧臣で幸盛の外舅に当たる亀井秀綱の家号を継いだ。後、幸盛とともに織田信長に属し、幸盛が死去すると、その部下を率いて羽柴(豊臣)秀吉に属した。同八年、因幡国に入り、鹿野城(現在の鳥取県気高郡鹿野町)に籠って毛利軍と戦い、秀吉の鳥取(久松山)城攻略に貢献、同国気多郡に一万三千八百石を与えられ、鹿野城主となる。その後、九州征討・朝鮮出兵にも従軍し、秀吉から琉球征服の朱印を得て、前代未聞の「琉球守」を称した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」では、家康方に属し、同国高草郡を宛がわれ、計三万八千石を領した。気多郡日光池や高草郡湖山池の干拓を手掛け、千代川左岸に延長二十二キロメートルにも及ぶ「大井手用水」を設けた。また、南方種の稲を栽培させ、桑・楮(こうぞ)の植樹に努めるなど、産業振興を図るとともに、文禄年間(一五九二年~一五九六年)から伯耆国日野郡に銀山を経営した。また、慶長一二(一六〇七)年から、三度に亙ってサイヨウ(現在のマカオ周辺)やシャム(タイ)に貿易船を派遣、家康とシャム国王の仲介にも努めている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」よった。さて、以下、ウィキの「亀井茲矩」によれば、『茲矩は東アジアへの関心に影響されてか、秀吉が中国大返しによって姫路城に戻った』六月七日の『翌日、毛利と講和したため』、『茲矩に約束していた出雲半国の代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ』、『「琉球国を賜りたい」と答えたため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという』。『琉球守』と『は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て』、『一度は許可されている。しかし豊臣政権として』は『琉球政策は島津氏を取次とする支配体系と』決した『ため、権益を有する島津家からの妨害もあって』、『茲矩の官職名は九州征伐の頃から小田原征伐の頃にかけて武蔵守となっている。その後、台州守の号を称したが、これは現在の中』『国浙江省の台州市のことである。ただし、文禄・慶長の役で明攻略が挫折した以降は』、『再び武蔵守を名乗っている』とある。

「因幡湖山池(こさんいけ)の靑島」鳥取県鳥取市北部にある、「池」と名に付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ汽水湖湖山池(こやまいけ)の南部に浮かぶ最大の無人島青島。陸地からは五百メートルも離れておらず、現在は青島大橋で陸と結ばれている。

「熊谷直好(くまがいなほよし)」(天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は江戸後期の周防国岩国藩士で歌人。鎌倉初期の名将熊谷直実の第二十四世を称した。ウィキの「熊谷直好」によれば、もとは『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身』。先祖の一人『熊谷信直の五男』『熊谷就真』(なりざね)『が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座』して『萩を追われ』、『岩国に一時』、『滞在し』た。『のち』、『一族が赦された際、就真の子』『正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった』が、その『子孫が直好であ』った。十九歳の時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられ』たが、文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移っ』て歌業に専念した。『歌集に「浦のしお貝」、著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。「歸國日記」も「赤駒に」の一首も不詳。

「安藝の海中」「馬島」広島県呉市三津口湾に馬島(まじま)という無人島はある。ここかどうかは知らぬ。

「播州家島(えじま)の南方十五町」、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合約十八キロメートル)にある家島(いえしま)諸島。東西二十六・七キロメートル、南北十八・五キロメートルに亙って大小四十余りの島嶼で構成されている(現在は諸島全域が兵庫県姫路市に属する)が、この家島は主島「家島」を含めて地元では「いえしま」ではなく、「えじま」と呼ばれるウィキの「家島諸島」にある。ここで言う「一つの馬島」は、示された方角と距離と牧を設け得る島の大きさから見て無人島「矢ノ島」しかない(航空写真をリンクさせたが、しかし、およそ現況は馬の飼えるような状態にはない)

「安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり」大情島(有人島)と無人島の小情島がある。広島県呉市阿賀町。なお、ここについては、ウィキの「情島」に、『江戸時代、広島藩はこの島に放牧場を設けた』。『そして阿賀の農民に管理させるため移住させている』とあった。但し、『昭和初期で人口約』百四十人で『柑橘栽培に従事してい』たが、『太平洋戦争時には』『大日本帝国海軍呉鎮守府が接収し』、『竜巻作戦(特四式内火艇)や伏龍の秘密訓練場となった』。『大戦末期には浮砲台として日向がこの沖に置かれ、呉軍港空襲により大破』した『戦後、帰ってきた元島民により』、昭和二二(一九四七)年時点では人口二百七人にまで伸びたものの、『以降』、『減少を続け』、二〇一〇年『現在で人口は』六世帯九人、高齢化率八十八・九%、『平地自体』が『極端に狭いという地形的制約から』、『今後の人口増を望むことが難しく、将来的には集落維持が困難になることが懸念されている』。『上水道施設は存在しておらず、各家庭』、『井戸を用いている』。『周辺は小型底引き網の漁場で』、『住民はいわゆる半農半漁』ではあるものの、『島内の漁業従事者は』二〇一〇年現在、ただ一人、農家は三世帯あるものの、『あくまで自給的なものに留まっている』ありさまである。

「讚州高松藩」「大内郡の大串山」この香川県東かがわ市の海岸線の二箇所の突出部の孰れか。西の鹿浦越岬の突出部或いは西の引田城跡(近くに「大池」「大安戸」と「大」の附く地名がある)辺りか? 「大串」の古称の名残がないために孰れとも言い難い(どちらも根を内陸の海浜線の平均線上からは岬まで一里ほどになり、それぞれ山を成している)。地元の郷土史研究家の御教授を乞う。

「二字の嘉名」発音を分解して二字を縁起の好さそうな当て字とすること。

『「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんか』現代韓国語で「串」は「꼬치」(ッコチ)で、「岬」は「갑」(カプ)だが、「~岬」のように地名の末尾に附けるときは、「곶」(ゴッ)。

「全羅道大靜縣の加波島」韓国語音写で「カバド」。ここ

「慶尙道熊川縣南海の加德島」「カドクド」。ここ

「長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)」この岬附近らしい。以下、地図上でのハングルは私には判らないので、大まかな位置推定であって大間違いかも知れぬのでご注意あれ。

「忠淸道にては瑞山郡の安眠串」この附近か

「泰安郡の和靈山串」「大小山串・梨山串・薪串の四串」孰れもこの半島の一画か。

「沔川(べんせん)郡の金宅串」「唐津縣の西に在る孟串」この半島部の北の先の附近か。よく判らぬ。悪しからず。]

2019/06/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(40) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(1)

 

《原文》

水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム   池月磨墨ハ名馬ノ最モ高名ナルモノニハ相違ナキモ、弘ク其名ノ諸國ノ傳說ニ採用セラルヽニ至リシ原因ハ別ニ又存ス。先ヅ第一ニ池月ハ池ヨリ生レシ者、即チ水ノ神ノ子ナリト想像セシムルニ最モ似ツカハシキ名前ナリ。池月ハ太ク逞シキ黑栗毛ナル馬ノ、尾ノ先チト白カリケルトアル昔ノ記錄ハ、各地ノ古傳之ヲ認メザル者多シ。事ノ外ノ荒馬ニシテ生類ヲ好ミテ食ヒケル故ニ生唼(イケズキ)ト云フトノ說ハ、殊ニ牽强附會ノ感アリ。其議論ハ兎モ角モ、其名ヲ耳ニ聞キテ先ヅ思フハ白クシテ光アル馬ノ毛ノ水ノ月ト緣アルコト、更ニ步ヲ進ムレバ龍馬ハ龍ノ胤ト云フ古來ノ俗信ナリ。此思想ハ申スマデモ無ク支那カラノ輸入ナレド、而モ日本ノ土ニ移シテ後ニモ國相應ノ美シキ花ヲ開ケルナリ。【長者】例ヘバ陸中鹿角郡小豆澤(アヅキザハ)ノダンブリ長者ノ如キハ、家富ミテ數百頭ノ馬ヲ山ニ放牧ス。山上ニハ池アリテ龍下リ住メリ。長者ガ駒此池ノ水ヲ飮ミテ龍馬ト成リシガ故ニ、今モ其故跡ヲ龍馬嶺ト云フ〔鹿角志〕。池月產地ノ一トシテ傳ヘラルヽ羽後ノ木直(キヅキ)ニテハ、昔百姓ノ家ニ一頭ノ牝馬ヲ飼ヘリシガ、夜ニ入リテ厩ノ中物騷ガシキコト屢ナリ。灯火ヲ挑ゲ行キテ見ルニ何物ノ影モ無カリシガ、朝每ニ厩ノ周ニ必ズ新ナル蹄ノ跡アリ。副馬嶽(ソウマガダケ)ノ神馬飛降リテ此家ノ牝馬ガ處ニ夜遊ビニ來リシナリト云ヘリ。其後此牝馬ニ七寸ノ駒生レタリ。池月ナリト傳ヘラレシハ此駒ノコトナルガ如シ。非常ノ荒駒ナレバ山ニ杙ヲ打チテ之ヲ繫グ。【ツクシ】仙北ノ名山大ツクシ小ツクシノ二峯ハ、即チ此杙ノ化シテ成レル山ニテ、「ツクシ」トハ杙又ハ標木ノコトナリト云ヘリ〔月乃出羽路四〕。厩ノ戶口ニ新シキ蹄ノ跡ト云フ話ハ我邦バカリノ物語ニハ非ズ。支那ニテモ大昔ヨリワザト牝馬ヲ水際ニ放チテ龍ノ出來心ヲ誘ヒシ例アリト聞ク。水中ノ靈物ガウマウマト人間ノ誘惑ニ罹リシ場合ニハ、必ズ其足跡ヲ岸上ノ砂ニ遺シタリトナリ〔南方氏神足考〕。磨墨太夫黑ノ徒ガ時トシテ巖窟ノ奧ヨリ飛出セリト傳ヘラルヽモ、思フニ亦龍馬ガ文字通リニ龍ヲ父トシテアリシコトヲ示スモノニテ、即チ神馬ハ河水ノ精ナドト云フ思想ヨリ一轉シテ、之ヲ龍ノ變形又ハ龍ノ子ト考フルニ至リシナランノミ。

 

《訓読》

水邊に牧を構へて龍種を求む   池月・磨墨は名馬の最も高名なるものには相違なきも、弘く其の名の諸國の傳說に採用せらるゝに至りし原因は、別に又、存す。先づ第一に池月は池より生れし者、即ち、水の神の子なりと想像せしむるに最も似つかはしき名前なり。「池月は太く逞しき黑栗毛なる馬の、尾の先、ちと白かりける」とある昔の記錄は、各地の古傳、之れを認めざる者、多し。事の外の荒馬にして、生類(しやうるい)を好みて食ひける故に生唼(いけずき)[やぶちゃん注:今まで注していないが、ここで言っておくと、「唼」(この場合の音は「サフ(ソウ)」は「啜る・啜り込んで食う・啄む」の意。]と云ふとの說は、殊に牽强附會の感あり。其の議論は兎も角も、其の名を耳に聞きて先づ思ふは、白くして光ある馬の毛の、水の月と緣あること、更に步を進むれば龍馬は龍の胤(たね)と云ふ古來の俗信なり。此の思想は、申すまでも無く、支那からの輸入なれど、而も日本の土に移して後にも國相應の美しき花を開けるなり。【長者】例へば陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)の「だんぶり長者」のごときは、家、富みて、數百頭の馬を山に放牧す。山上には池ありて、龍、下り住めり。長者が駒、此の池の水を飮みて龍馬と成りしが故に、今も其の故跡を「龍馬嶺」と云ふ〔「鹿角志」〕。池月產地の一つとして傳へらるゝ羽後の木直(きづき)にては、昔、百姓の家に一頭の牝馬を飼へりしが、夜に入りて、厩の中、物騷がしきこと、屢々なり。灯火を挑(かか)げ、行きて見るに、何物の影も無かりしが、朝每に厩の周りに、必ず新たなる蹄の跡あり。副馬嶽(そうまがだけ[やぶちゃん注:ママ。])の神馬、飛び降(くだ)りて、此の家の牝馬が處に夜遊びに來りしなりと云へり。其の後、此の牝馬に七寸(しちき)[やぶちゃん注:既注であるが、再掲しておくと、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(いつき)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、国産馬では有意に異常に大きい。]の駒、生れたり。池月なりと傳へられしは此の駒のことなるがごとし。非常の荒駒なれば、山に杙(くひ)[やぶちゃん注:「杭」の同じい。]を打ちて、之れを繫ぐ。【つくし】仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯は、即ち、此の杙の化して成れる山にて、「つくし」とは、杙、又は、標木のことなりと云へり〔「月乃出羽路」四〕。厩の戶口に新らしき蹄の跡と云ふ話は、我が邦ばかりの物語には非ず。支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕。磨墨・太夫黑の徒が、時として巖窟の奧より飛び出だせりと傳へらるゝも、思ふに、亦、龍馬が、文字通りに龍を父としてありしことを示すものにて、即ち、神馬は河水の精などと云ふ思想より一轉して、之れを龍の變形、又は、龍の子と考ふるに至りしならんのみ。

[やぶちゃん注:「陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)」現在の秋田県鹿角市八幡平小豆沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「だんぶり長者」秋田県と岩手県に跨る伝説。ウィキの「だんぶり長者」によれば、『主に、盛岡藩の鹿角郡の伝承であり、米代』(よねしろ)『川の名前の由来や、大日霊貴』(おおひるめむち)『神社の縁起を伝えている』。『昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現在の秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた』。『ある夜、娘の夢に老人が現れ』、『「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となって貧しいながら』、『仲睦まじく暮らした。ある年の正月、また老人が夢に現れ』、『「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。夫婦は川をさかのぼり』、『現在の米代川の源流に近い田山村(現在の岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた』。『ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で』二、三度、『触れた。目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された』。『夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた』。『年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り』、『小豆沢の地に大日霊貴神社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を大日霊貴神社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている』とある。佐藤友信氏の「だんぶり長者」について解説された「暁(あけ)の方から(4)」PDF)に、本伝承と龍馬の話が載る。

   《引用開始》

 『大日堂舞楽』に掲載されている「だんぶり長者物語」には「竜馬」というのが出てきます。だんぶり長者は霊泉のお礼に角が一本生えた黒馬をもらい、これを近くの山に放しておいたところ、日に数百里を走る馬が生まれたということです。この山には大きな沼があり時々天から竜が降りてきて水を飲むのですが、その水を飲んだ馬たちが「竜馬」になったのです。そこは「竜馬ヶ森」と呼ばれたとありますがその名は今はなく、代わりに「竜ヶ森」という山が青森・岩手・秋田三県に五つあります。青森県の田子町に一つ、岩手県八幡平市に二つ、大館市の北秋田市と鹿角市の境に一つずつです。

 物語では「南部馬」の優秀さを竜の血を引いているとでも言わんばかりですが、そこにはちゃんとした根拠があるようです。まず奥州藤原氏は毎年貢馬(くめ)として朝廷に糠部駿馬(ぬかのぶしゅんめ)を贈ったとあります。また戦国時代の武将たちは競って南部馬を求めたとありますから、その優秀さは折紙付きだったのです。その主産地が糠部というところだったようですが、ここは青森県の東部と岩手県の北部にかけての一戸から九戸の地名のあるところです。とくに三戸・五戸・七戸は名馬の産地として名高かったようです。そしてこの糠部と鹿角は境界を接して隣り合っていたのです。

 天明8(1788)年の徳川幕府の巡見使に随行した地理学者の古川古松軒(こしょうけん)は、来満峠から大湯を通って鹿角入りしたときに、「南部の地、辺鄙ながら馬のよきには皆みな驚きしことにて、日々数百疋の馬を見ることなるに見苦しき馬はさらになし。何れを見ても、一疋ほしきことなりとおもわぬ人もなし。東海道・中国筋の馬とは違いて、幾疋一所に置きてもはね合い喰い合うこともなく、乗りよく人などに喰いつくということを知らぬ体なり。南部立ての馬を以て海道第一と称せることもっとも道理なり」とその旅日記『東遊雑記』において絶賛していたようです。(関友征「葦名神社と南部馬」鹿角市文化財保護協会発行『上津野』No.37 より)

 巡見使一行は南部入りしてからずっと名馬の産地を通ってきていますので、この部分は鹿角も含めてこれまでの印象をまとめたものと考えられます。古川古松軒の印象を推測してみると、「南部入りしてからいい馬を随分たくさん見てきたが、ここにもこんなにいるとは驚きだなあ。どれを見ても見事な馬ばかりで見苦しい馬など一疋だっていやしない。どれでもいいから一疋欲しいなあ。私だけでなくみんなそう思っているようだな。ホントここの馬は日本一だ。」となるのではないでしょうか。ちなみに古川古松軒はめったに褒めることのない人だったそうですから、この賛辞は価値があります。

 ただ鹿角は鉱山資源も厳しく管理され馬改めも相当厳しかったようですから、名馬の産地と公にすることができなかったのではないでしょうか。昨年大湯ストーンサークル館で芦名神社の絵馬が公開されましたが、『上津野』を見ると、これは郷土史学習会による十年近くにわたる継続調査の集大成であったようです。これらを見ると鹿角の馬文化の奥深さがひしひしと感じられます。

 前回お伝えした八戸・三戸の「えんぶり」にも馬の烏帽子(えぼし)をかぶった太夫の舞がありました。ここから八戸・三戸から鹿角に至る幕府巡見使の通り道に沿って、南部馬の主産地と馬文化があったと思われます。「だんぶり長者物語」の黒馬は名久井郡から贈られたとあります。名久井は三戸郡にありますので、鹿角を経由して田山・盛岡方面に展開したとは考えられないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「龍馬嶺」不詳。秋田県秋田市上新城白山に竜馬山(りゅうばさん)が、秋田県由利本荘市北ノ股に竜馬山(りゅうばさん)があるが(国土地理院図)、先の鹿角からはひどく離れているから違う。

「羽後の木直(きづき)」秋田県大仙市の木直(きじき)地区

「副馬嶽(そうまがだけ)」不詳。但し、『「月乃出羽路」四』の当該部はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、そこ(右ページ一行目から始まる『○木直村』の条)には『副河の岳』とある。

『仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯』前注の指示した箇所には、『小杙(こづくし)大杙(をづくし)とて、今化(くゑし[やぶちゃん注:ママ。])て小山、小岑となれるあやしの物語もあれど、七寸(しちき)村と云ひつるよしは云々』とある。となれば、現在の木直地区の近くとなり、地図を見ると、秋田県大仙市南外(木直の南東直近)に「土筆(つくし)森山」と「土大(どだい)森山」があり(国土地理院図)、これではないかと私は思うのだが、如何?

「支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕」割注のそれは南方熊楠の「神跡考」の誤り。但し、これは柳田國男の誤りではなく、南方熊楠自身の誤りであるが、彼はたびたびこの誤りを犯しており、その原論文は英文「Footprints of Gods, &c.」(Notes & Queries 10s. ii. Jul. 23, 1904)であって、彼自身は誤りとは認識していないものと思う(邦訳題は南方熊楠によって「神跡考」とされているので書誌上では、やはり誤りであるが)。「南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)」を参照。所持する「南方熊楠選集」第六巻の邦訳によれば(同論文「Ⅱ」に出る)、

   *

また貴州では、人が竜駒を得ようとして牝馬を浜辺につれて来て交わらせるうち、そのたびに竜の足跡が現われるという(『淵鑑類函』二六巻二〇丁目)。

   *

という一文がそれ。「淵鑑類函(えんかんるいかん)」は清の康熙帝の勅撰で編纂された類書(百科事典)で一七一〇年成立。全四百五十巻で、書名は「古今の類書の奥深いもの」という意味。本書は詩文を作る際の用例集としても用いられ、江戸時代に日本にも伝えられた。中文サイトから原文を引く(巻二十六の「育龍駒」一節。巻二百三十五にも似たような文脈が出るが、「貴州」のはないのでこちらと採る。漢字の一部を恣意的に正字化した。引用元は全くの白文なので、句読点は私が勝手に附した。当てに成らぬ)。

   *

育龍駒 福建侯官縣有五花石坑、去夀山十許里、其石有、紅者綠者紫者惟艾綠色者最少。春貴州、養龍坑在兩山之中泓澄淵深蛟龍藏其下當。始和夷人立栁坑畔擇牝馬之貞者繫之已而。雲霧晦冥類有物蜿蜒跨馬腹上迨開霽。視馬傍之沙有龍跡者、是與龍遇矣。至產必生龍駒。明洪武間、夏幽主明昇獻良馬十匹一正白色乃得之於此者、振鬛一鳴萬馬辟易上乘之行夕月之禮於淸涼山正如躡雲而馳一塵不驚、賜名飛越峯命學士宋濓爲贊繪形藏焉。

   *

「うまうまと」は、これまた、柳田國男のオツでない洒落である。]

2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

2019/06/17

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鎌倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鎌倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

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