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カテゴリー「柳田國男」の155件の記事

2018/09/28

柳田國男 炭燒小五郞が事 一二 / 炭燒小五郞が事~了

 

      一二

 果しも無い穿鑿は、もうこの位で一旦中止せねばならぬ。他日若し幸ひに機會があつたら、宇佐の根原が男性の日の神であり、其最初の王子神が、賀茂大神同系の別雷であり、次の代の若宮が火の御子であり炭の神であつて、所謂鍛冶の翁は其神德の顯露であつたと云ふことの、果して證明し得べきや否やを究めて見たいと思ふ。現在の祠官たちの承認を得ることは難いが、八幡には今尚闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]せられざる若干の神祕があるらしく、是は只その一端だけである。自分の試みは單に文字記錄以外の材料から、どの程度まで大昔の世の生活が、わかるであらうかと云ふ點にあつて、殊に奈良の京以後突如として大に盛になつた宇佐の信仰が、本來は南日本の海の隈[やぶちゃん注:「くま」或いは「すみ」。]島の蔭に、散亂して住んで居た我々の祖先の、無數の孤立團體に共通した、至つて單純なる自然宗教から出たもので無いかどうかを知りたかつたのである。託宣集や愚童訓別本を見ると、宇佐の山上には最も神靈視せられた巨大なる三石(みついし)があつた。火の神とは傳へて居らぬが、寒雪の中にも暖味[やぶちゃん注:「あたたかみ」。]ありといひ、又は金色の光を放つて王城の方をさすとも謂つて居る。而うして三箇の石は竃の最初の形であり、從つて火神の象徵であることは既に認められて居る。之に由つて所謂三寶荒神の思想も起つた。沖繩諸島に於ても御三物と稱して三石を火の神に祀つて居る。只未だ其起源に關しての説を聽かぬが、三箇の略同じ大きさと形の石が、引續いて海からゆり揚がる時は之を奇瑞として拜したやうである。この二つの信仰には恐らくは脈絡があるであらう。卽ち南島の從兄弟たちは、未だ石凝姥(いしこりどめ)天日一箇(あめのまひとつ)の恩澤に浴せざる以前から我々とよく似た方式を以て、根所[やぶちゃん注:「ねどころ」。]の火に仕えて居たのである。炭燒長者の話がいと容易に受け入れられた所以である。

Isigakijimahinokami_2

[八重山石垣島藏元の火の神

 三つ石の一つが今折れて居る]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遺老説傳には與那覇親雲上(よなはのをやくもい)鄭玖[やぶちゃん注:「ていきゆう」。中国から帰化した三十姓の子孫。沖縄方言では「よなは・ぺーちん」と読む。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらの「黄金の俵」を参照。]、或日未明に久米村から、首里の御所に朝せんとして、浮繩美御嶽(うきなはみおたけ)の前を過ぎ、一老人の馬に炭二俵を積んで來るに逢うた。老人はいて玖をして家に引返さしめ且つ其炭俵を與へて去る。後に侍僮をして之を焚かしめやうとするに、どうしても燒けず、よく見れば炭は悉く黃金であつたと謂ふ。信州園原の伏屋長者(ふせやのちやうじや)が半燒けの炭を神棚に上げて置くと、それが忽ちに金に化したと云ふのと、全く同日の談であつたが、黃金を産せぬ島では、殊に此不思議は大きかつたことゝ思ふ。卽ち干瀨(ひぜ)[やぶちゃん注:沖縄・奄美地方で島の周辺に広がる珊瑚礁を指すが、現地では「ひし・びし・ぴー・ぴし」が一般的な読み方である。]の練絹を以て取圍んだ蓬萊山に在つても、父が炭燒藤太で無ければ、其子は金賣吉次であり得ないと云ふ理窟が、はつきりと其世の人の頭にはあつた。但し我々は今が今まで、もう之を忘れてしまつて居たのである。

 

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 一一

 

      一一

 歌の豐後の炭燒小五郞が妻は、容みにくしと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]都方の上﨟であつた。弘い世間に夫(をつと)と賴む人が無いので、日頃信仰の觀世音の靈示に從ひ、遙々と都の山賤[やぶちゃん注:「やまがつ」。]を尋ねて來たと云ふのが、物語の最も濃厚な色彩を爲して居るが、是は所謂佛法の影響であつて、又中代[やぶちゃん注:中世。]の趣味であらう。信心深い男女の間の前世の約束と云ふ單簡な語で、省略してしまつた身の運[やぶちゃん注:「うん」。]家の幸福の説明は、話に此ほどの共通がある以上は、後に來たつて附け加はつたものとは考へられぬ。況や其背後にはどこ迄も火の神の思想と古い慣習が、殆ど無意識に保存せられて居たのである。阿波の糠の丸長者の娘の嫁入には、觀音の代りを守の神の白鼠がつとめた。陸中の話では旅の六部に教へられて、月の十五日の朝日の押開(おつぴら)き[やぶちゃん注:限定された「日の出」の時刻のことであろう。]に、九十九前の眞ん中の土藏の屋の棟を見ると、紫の直埀[やぶちゃん注:「ひたたれ」。]を着た小人の翁が三人で、旭[やぶちゃん注:「あさひ」。]の舞を舞うて居た。うつぎ[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]の弓に蓬の箭[やぶちゃん注:「や」。]をはいで之を射ると、小人は眼又は膝を射られて忽然として消え去り、それから家の運は傾いた。或は又路に三人の座敷ワラシ[やぶちゃん注:底本は「ワラジ」。青森県南部地方には「座敷わらし」の異形として、草鞋作りの爺婆の家にその草鞋を一足取って履いた「わらし」、「わらじわらし」が棲むという伝承はあるが(サイト「古里の民具 雪靴ミニぞうり編むの「わらじわらしの昔話を参照)、そこでも「草鞋(わらぢ)」と「童子(わらし)」は厳然と区別された語として用いられているのであるから、ここは「ワラシ」の誤植と採って訂した。ちくま文庫版も『座敷ワラシ』である。]かと思ふ美しい娘に逢ひ行く先をきくと、この山越えあの山越えて、雉子の一聲の里へ行きますと、幸運の住家を教へてくれる。それが宮古の島ではユリと稱する穀物の精と現れて、女性を炭燒の小屋に導くのである。沖繩本島に於ては又變じて雀(クラー)になつて居る。折目の祭の日に下男の言ふまゝに、新米で飯を炊いだのが惡いと謂つて、夫に追出された女房が、こゝに隱れかしこに遁げて去りかねて居ると、斯う謂つて雀は彼女を導いた。

  クル、クル

  クマネスダカラン(ここには住まはれぬ)

  ヤンバルヤマカイ(山原山へ)

  タンヤチグラカイ(炭燒のクラヘ)

さうして炭燒の妻に爲つて、忽ち金持になつたのであるが、この古い古い公冶長系統の一節もまた袋中上人所傳の外であつた。

[やぶちゃん注:「公冶長」「論語」の「公冶長」で知られる公冶長、公冶長(こうやちょう 生没年未詳)は春秋時代の儒者(「公冶」が姓)。ウィキの「公冶長」によれば、『公冶長は鳥と会話が出来るという特殊能力が備わっており、その力によって死体の場所を知ることができたが、かえって犯人と疑われて獄中入りとなった。が、雀の言葉を理解できることを実証してみせたために釈放され』、その人格をかっていた孔子は『本人の罪ではないと』して彼に『自分の娘を嫁がせた、という話が見える』とあり、この宮古のそれとの強い親和性が窺える。]

 第二に注意することは、炭燒を尋ねて來た女性に、別に一人の同行者があつた點である。宮古島の舊史には鄰婦を伴ひとあり、佐々木君の話の一つには下女を連れて行くとあるが、今一つの方では三つになる男の子を附けて離別したことになつて居る。或は又前の男が貧乏をしてから、其子をつれて薪を賣りに來たともある。何か仔細のあつたのが、もう忘れられたものと思はれる。佐喜眞君のおばあさんの話では、沖繩では女は妊娠の間に追出され、炭燒にとついでから男の子が生れたことになつて居る。零落の夫がもとの妻であることを知らずに笊を賣りに來ると長者の子供が彼に向つて惡戲をした。女房に向つて御宅の坊ちやまが、惡さをなされて困りますと謂ふと、今まで知らぬ顏をして居たのがもうたまらなくなつて、自分の子供まで見知らぬとは、何と云ふ馬鹿な人だと歎息したので、始めて昔の妻子かと心付き、其まゝひつくりかへつて死んでしまつたとある。此樣な何でも無いこと迄が、手近の琉球神道記とは似ないで、遠い雪國の村の話と、一致しようとして居るのは何故であらうか。

 不思議はまだ是ばかりで無い。沖繩では斯うして恥じて死んだ男を、其まゝそこに埋めて、上に庭の飛石を置き、それから茶を飮む度に一杯づゝ、その石に灌いで手向にしたとある。其點が亦附いてまはつて居るのである。不運な前夫が知らずに來て、元の妻の世話になることは、何れの話も一樣であるが、奧州では單に勸められて下男に爲り、炭竃長者の家で一生を終つたとある。之に反して江州由良の里では、箕作[やぶちゃん注:「みつくり」。]の翁は長者の臺所に來て食を乞ひ、別れた女の姿を見て耻と悔とに堪へず、忽ち竃の傍に倒れて死んだのを、後の夫に見せまい爲に、下人に命じて其まゝ竃の後に埋めさせた。それが此家の守り神となつたと謂ひ、それを竈神の由來と傳へて居る。淸淨を重んずる家の火の信仰に、死を説き埋葬を説くのは奇恠であるが、越後奧羽の廣い地方に亙つて、醜い人の面を竃の側に置くことが、現在までの風習であるから、是には尚さう傳へらるべかりし、深い理由があつたのであらう。廣益俗説辨の地名には何に由つたか知らぬが、三寶荒神の始めは、近江甲賀[やぶちゃん注:「こうか」。]郡由良の里、百姓の夫婦と其婢女と、三人を祀つて竃の神にしたと云ふ、別の傳承を載せて居る。由良は通例海邊の地名であるから、近江は誤で無いかとも思ふ[やぶちゃん注:私も読んだ際、そう思った。]が、何か尚此方面に、人の靈を火の靈として崇拜する、昔の理由が隱れて居るやうにも思ふ。

 若し此推測にして誤無くば、宮古の炭燒の話の發端に、二人生れた赤子の中で、女の

方は額に鍋のヒスコを附けてあるから、一日に糧米七升の福分を與へ男の兒は其事が無かつたから乞食の運ときめたと、神々の談合が有つたと謂ひそれ故にこそ今に至る迄、生れ子の額には必ず鍋のヒスコを附ける也と、北の島々で宮參りの日に、紅で犬の字を描き、又は作り眉をするのと、よく似た風習を説明しようとして居るのは、是も同じく竃の神の信仰に基づくもので、竈と炭との關係を考へ合せると、假令京都近くの書物に傳はつた話には見えなくとも、長者を炭燒とした話の方が、一段古い樣式であつたと考へてよろしい。

 謠の蘆苅の元の型は、今昔と大和と二つの物語に見え、その贈答の歌は既に拾遺集にも採擇せられて居る。それが純然たる作爲の文學で無かつたことは、大和物語に於ては前の夫が、上﨟の姿を見知つて我身の淺ましさを耻ぢ、人の家に遁げ入つて竃の後にかゞまり匿れたとあるのを見てもわかる。芦[やぶちゃん注:ママ。]を苅つて露命を繫いだと謂ふのも、必ずしも「あしからじ」又「あしかりけり」の二つの歌が先づ成つて、これを能困法師の流義で難波の浦に持つて行つたと解することが出來ぬかと思ふのは、全然同種の近江の話に箕作の翁と謂ひ、沖繩に於ては笊を賣りに、奧州に於ては草履を賣りに、或はマダ木[やぶちゃん注:「まだぎ」。マダノキ。被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目シナノキ科シナノキ属オオバボダイジュ Tilia maximowicziana の異名。本邦固有種と思われ、北海道・本州の東北地方・北陸地方・関東地方北部に分布し、山地の落葉樹林内に植生する。古くは樹皮の繊維を縄・布・和紙の原料とした、材は建築材・器具材として利用される。ウィキの「オオバボダイジュ他を参考にした。]の皮を剝ぎ又は薪を苅つて、これを背負うて賣りに來たと謂ふのが、同じやうな詫びしい姿を思はせ、事によると肥後の薦編みや蓆織り長者、羽前の藁打ち長者の因緣を引くかとも思はれる上に、更に偶合としては餘りに奇なることとは[やぶちゃん注:「と」はママ。衍字の可能性が大きいが、ママとする。]、豐後の内山附近にも蘆苅と云ふ部落があり、同じく臼杵の深田村では、小五郞の子孫と稱して蘆苅俊藏氏あり、さらに同じ苗字が弘く宇佐地方に迄も及んで居ることである。曾て後藤喜間太君が寫して示された、豐後海部郡の花炭の由緖書には、小五郞七十八代の後裔草苅左衞門尉氏次の名を錄し、豐鐘善鳴錄には長門國にも、草苅氏と云ふ一門が分れて居たと記してある。所謂山路(さんろ)の草苅笛の故事を辿れば、蘆苅は寧ろ誤では無いかと思つたが、現に之を名乘る舊家がある以上は、爭ふべき餘地がない。更に進んで其舊傳を、究めて見たいものである。

[やぶちゃん注:「蘆刈」私の好きな叙事伝説の一つである。小学館「日本大百科全書」より引く。一部の読みを除去し、不審な箇所は訂した。『摂津国(大阪府)難波に住む夫婦が貧困のため別れて、女は上洛後に主人に仕え、北の方の死後に後妻となる。しかし』、『昔の夫が忘れられず、難波へ祓(はらい)の口実で赴くが、すでに行方不明であった。たまたまもとの家の近くで芦を担う乞食が通ったので呼び止めると、前夫であった。哀れを催し』、『芦を高く買い、食物を与える。前夫は下簾の間からかいまみて、その貴人がかつての妻とわかり、恥じて竈の後ろに隠れる。捜させると、男は「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞ住みうき」と詠んだので、女は「あしからじとてこそ人の別れけめなにか難波の浦の住みうき」と返して、着物を与えさせた。有名な和歌説話でもあり、もっとも古い文献では』「大和物語」百四十八段に載る。その他にも、「古今和歌六帖」・「拾遺和歌集」・「今昔物語集」(巻第三十の「身貧男去妻成攝津守妻語第五」(身貧しき男の去りたる妻(め)、攝津守の妻と成れる語(こと)第五)、「宝物集」(巻二)、「源平盛衰記」(巻三十六)にも見え、謡曲「芦刈」(零落して葦売りをしている難波浦の住人日下(くさか)左衛門が都へ上って立身した妻と再会)にもなり、御伽草子の「ちくさ」にもある。「神道集」巻七の四十二の『「芦刈明神事(あしかりみょうじんのこと)」は』、『その本地譚(ほんちたん)で』、同巻八の四十六の「釜神事」と『ともに竈神(かまどがみ)の由来を語る話としてあったものであろう。その本地譚は、男が恥じて海に投身すると』、『女も後を追う結末から、その後』、二『人が海神の力で顕現したのが芦刈明神で、本地は男が文殊菩薩、女は如意輪観音としてある。炭焼長者の再婚型で、福分のある女と別れた夫が死して、女に竈の後ろに埋められる話もこの類型で、夫を荒神様として祀る昔話が多い』。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 一〇

 

      一〇

 南の島々の金屬の始めは、鑛物に豐かでなかつたばかりに、非常に我々の島よりはおくれて居た。それにも拘らずいつの間にか、炭燒長者は早ちやんと渡つて住んで居る。自分が本文の炭燒太良の話を書いて後、佐吉眞(さきま)興英君は其祖母から聽いたと云ふ、山原(やんばる)地方の炭燒の話を、南島説話に於て發表せられた。大體に於て宮古島の例とよく似て居て、此も亦女房の福分が、二度目の夫(をつと)を助けたことを説くらしいが、濱の寄木(よりき)の神樣から、赤兒の運勢を洩れ聽くことゝ、鍋のヒスコ[やぶちゃん注:不詳。文脈からは鍋底の煤(すす)とは思われる。]を額に塗る風習を、説明しようとした部分は落ちてしまつて、其代りとして前の夫が、死んで竃の神と爲つた點を詳しく傳へて居る。沖繩と宮古と二處の話を重ね合はすれば、ちやうど琉球神道記の江州由良里(ゆらのさと)の物語に近くなるから、或は之を以て慶長の初め頃に、袋中上人一類の内地人から、聽いて記憶して居たものとみる者が有るか知らぬが、其では合點が行かぬ節々が少なく無い。殊に長老となるべかりし貧困なる第二の夫(をつと)が、炭燒であつたと云ふ一條が、沖繩と宮古とにはあつて、中世京都附近に行はれた物語には見えず、而も千里の海山を隔てた奧州の田舍で、現に口から耳へ傳承する話には、炭燒が又出て來るのは、如何にしても不思議である。

[やぶちゃん注:「琉球神道記」江戸前期の倭国の浄土僧袋中良定(たいちゅうりょうじょう 天文二一(一五五二)年~寛永一六(一六三九)年)の琉球滞在体験を元に書かれた仏書。序文によれば慶長一〇(一六〇五)年の完成で、慶安元(一六四八)年には版本の初版が開板されている。ウィキの「琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)より引く。これは『琉球王国に渡った』、『倭僧の袋中良定』(陸奥国磐城郡出身。仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在し、その滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからずに帰国した後は、京都三条の檀王法林寺を始め、多くの浄土寺院の創建や中興を行った。ここはウィキの「袋中に拠った)『が著した書物である。神道記と題しているが』寧ろ、『本地垂迹を基とした仏教的性格が強い書物となっている。また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料でもある』。『本書は後述のような構成を持って書かれているが』「古代文学講座十一 霊異記・氏文・縁起」では、『この構成について、仏教をインド・中国から説明し、さらに琉球伽藍の本尊仏を説明、最終巻で琉球の神祇に顕れた本地垂迹を説明することにより、琉球の神祇が真言密教と深く関係していると説くことを意図し、書かれたものだと述べている。以上の様な内容のため、神道記とは題しながらも、琉球の神祇について書かれているのは最終の巻第』五『のみとなっている』。『本書は大きく』二『種類に分類することができる。第』一『は袋中良定の自筆した京都五条の袋中庵に所蔵されている稿本、第』二『はその後作られた版本で』、両者には有意な違いが認められる(リンク先では具体な違いが検証されてある)。前掲書によれば、『本書に袋中良定の直接見聞したと思われる記事が散見されることから、本書の記事が袋中良定の聞書的な性格を持つものだと考察している。このため、後の時代の書物と本書の記事を比較することで』、『琉球における風俗の変遷を知ることができる貴重な史料となっている』。著者である袋中良定は浄土宗の僧侶で、その伝記』「袋中上人絵詞伝」に『よれば、明への渡航を望んで琉球まで来たが』、『琉球より先への乗船を許す船が見つからず』、三『年間この地に留まった』後、『日本へ帰国したのだと言う。また』、「中山世譜 巻七」には万暦三一(一六〇三)年。和暦で慶長八年)に扶桑の人である僧袋中なる者が三年の間琉球に留まり、「神道記」一部を著して還った、と『あり、袋中良定が琉球に滞在していた』三『年の間に本書が著されたことが分かり、序文の記述を裏付けている』。『しかし、稿本の奥書のみに見える部分には「この』一『冊、草案あり。南蛮より平戸に帰朝、中国に至る、石州湯津薬師堂において之を初め、上洛の途中、しかして船中これを書く、山崎大念寺において之を終える。集者、袋中良定』慶長十三年十二月初六 云爾」『とあり、序文とは成立年が相違している』。昭和五三(一九七八)年角川書店刊の横山重「書物捜索 上」では序文が万暦三十三年(一六〇五年/慶長十年)、奥書が慶長十三年(一六〇八年)『となっていることから』、『本書の製作年代は簡単には決定できないと述べた上で、序文が明の元号である万暦となっているのは、袋中良定が琉球に滞在していた時に書かれたからであろうと推測している』。『また、稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が大きく異なっている』。『稿本の序文には「帰国の不忘に備える」とあり、本書が備忘録的な意味で書かれたことを窺わせるが、版本の序文では国士黄冠位階三位の馬幸明に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と懇願され、本書を作成したと記している。袋中が入滅した西方寺の』「飯岡西方寺開山記」にも、『馬幸明に懇願された袋中が、旅行中の身であることを理由にこれを』一旦は『断ったが、頻りに懇願された』ことから、本書五巻と「琉球往来」一巻を『著したと記されている』。『この馬幸明と言う人物は琉球王国の士族と考えられているが』、よく判らない。或る説では、『馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、しかも黄冠の中では最上位となる位階三位であることから、中山王府の高官ではないかと推測』されている。『さらに袋中自筆の』「寤寐集(ごびしゅう)」には、『馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず』、『乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと』、『翌朝』、『この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話が』載ることから』、『馬幸明』は『在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと』もされる(以下、本書の成立年代と執筆動機の現行での定説が記されるが、略す)。「琉球神道記」の構成は『巻第』一『は三界、巻第』二『は竺土、巻第』『三は震旦、巻第』四『は琉球の諸伽藍本尊、巻第』五『は琉球の神祇』となっている。最終巻の内容は、波上権現事・洋ノ権現事・尸棄那権現事・普天間権現事・末吉権現事・天久権現事・八幡大菩薩事・天満大政威徳大自在天神事・天照大神事・天妃事・天巽・道祖神事・火神事・権者実者事・疫神事・神楽事・鳥居事・駒犬事・鹿嶋明神事・諏訪明神事・住吉明神事・キンマモン事となっているが、調べて見たところ、柳田國男の言う「由良の里」の物語は「火神事」の内容かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から読める。

 奧州方面の炭燒長者は、佐々木喜善君がその幾つもの例を採集して居る。今に書物になつて出るであろうが、さし當りの必要のために、二つだけ話の大筋を揭げておく。一つは和賀郡に行はれているもの、他の一つは佐々木君の居村、上閉伊郡六角牛(ろつこうし)山の山口で、物知りの老女が記憶して居た話である。

㈠ 木樵が二人山に泊つて同じ夢を見る。二人の家には男と女の兒が生れたが女の兒は鹽一升に盃一つ、男は米一升の家福だと、山の神の御告げがあつたと思うて目がさめた。翌日還つて見ると果して子が生れて居る。成長の後夫婦となつて家が繁昌した。女房は一日に鹽を一升使ひ、盃にほ酒を絶さず[やぶちゃん注:「たやさず」。]、大氣[やぶちゃん注:「たいき」。気が大きいこと。]で出入の人々に振舞をするので、小心の夫は之を見かね、離緣をしてしまふ。女房は出て行つたが、腹がへつたので大根畠に入つて大根を拔くと、其穴から酒が涌き出たので、

    ふる酒の香がする

    泉の酒が涌くやら

と歌いつゝ、女房は其酒を飮んで、元氣になつて行くうちに日が暮れる。山に迷つて一つ家の鍛冶屋に無理にとめてもらふ。翌朝見ると鍛冶場の何もかもが皆金である。それを主人に教へて町へ持出し、賣つて長者になつたら、其あたりが町になつた。後に薪を背負うて賣りに來た父と子の木こりがあつた。それは女房の先の夫であつたと謂ふ。

㈡或鍛冶屋の女房、物使ひが荒くて弟子たちに迄惜しげ無く錢金を與へる。夫の鍛冶屋はこの女房を置いては、とても富貴にはなれぬと思うて、三つになる男の子をそへて離別する。女房は道に迷うて山に入込み、炭竃の煙を見つけて炭燒小屋に辿りつく。小屋のヒホド(爐)に小鍋が掛つて居る。主人が還つて來たから泊めてくれと謂ふと、今夜此飯を二人で食へばあすはもう食ふ物が無いと當惑するので、明日は又何とかしますと、それを二人でたべて寢る。翌日女房は懷から金を出して、これで米を買うて來て下され。そんな小石で何の米が買はれべ。インニェこれは小石で無い。小判と謂ふ寶物だ。こんな物が寶なら、をれが炭燒く竃のはたは、みんな小判だと謂つて笑ひながら、それでも買物に町へ出た。其あとで女房が往つて見ると、誠に炭竃のまはりには黃金が山のやうだ。之を運ぶ

と小屋が一杯になつて、入口から外へ溢れる。そこへ町から爺が還つて來る。一俵の米が殘り少なくなつて居るから、わけを聞くと途中で腹がへつたので、俵から米をつかんで食ひ食ひ來た。後からも人が附いて來るから、其人にも一つかみづゝ投げてやりながら來たと謂ふ。その人といふのは自分の影法師のことであつた。さういふ風の人なれども女房はきらはず、次の日から其金で米を買ひ木こりや職人を呼んで、家倉小屋を數多く建てさせ、そこで炭燒長者と呼ばれるやうになると、其邊も村屋になつた。ところが先夫の鍛冶屋は女房を出してから、鎌を打とうとすれば鉈になり、鍬と思えば斧になる。けちが附いてろくな仕事もできないので、乞食になつてしまひに炭燒長者の門に來る。女房がそつと見ると元の夫であつたから、米三升をやつて無くなれば又來よと謂つて返す。それから長者の夫にも話して、共々にすゝめて下男にする。何も知らぬから悦んで、一生この炭燒長者の所で暮してしまふ。

[やぶちゃん注:この二話は柳田の言う通り、民俗学者佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年三元社刊)にカップリングされた「炭焼長者」一話となって収録されている。末尾には『和賀郡黒沢尻町辺にある話、家内の知っていた分』(所持する一九九三年ちくま文庫版に拠る)という但し書きが附されてあり、ジョイントは悪くなく、躓かずに読める。]

 同じ老女の話したうちには、右の二つの物語が一つに續いて居るのもある。挿話があつてあまり長いから抄錄しなかつたが、それにも大根を拔いた穴から甘露のやうな酒が出て、之を賣つて自ら長老の女主となつたとあり、卽ち一方には田山小豆澤のダンブリ長者の話とつゞき、他の一方には三郡の蕪燒笹四郞の蕪を食べた話とも緣をひく。殊に面白いのは先夫に福分が無くて、藁に黃金を匿して、草履を作つて來いと謂つて渡すと、夜中に寒いので其藁を金と共に、ヒホド(爐)に燃してしまふ。握り飯の中に小判を入れて遣ると、歸りに沼に下(お)りて居る鴨を見かけて、其むすび[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を投げつけてしまふ。女房はさてさて運の無い人だと歎息して、すゝめて我家の下男とする。さうして酒屋長者の家で一生を終るといふのである。但し此方では長者は獨身の女主で、黃金は發見せずに酒の泉を發見した。第一の話は後の夫が鍛冶屋、第二の話だけは炭燒であるが、やはり亦前の亭主を鍛冶屋にして居る。他の類例を集まる限り集めてみたら、必ず變化の中から一定の法則が、見出されることゝ信ずる。要するに話を愛した昔の人の心持は、一種精巧なる黃金の鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の如きものであつた。

 

2018/09/27

柳田國男 炭燒小五郞が事 九

 

      九

 宮古群島の金屬の由來に關しては、現に二通りの古傳を存してゐる。其一つは首邑[やぶちゃん注:「しゆいふ(しゅゆう)」。その地方の中心の村。]平良(ぴさら)[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『ひらら』とルビ。サイト「癒しの島 宮古島」のこちらによると、『沖縄では「平良」と書けば普通は「たいら」と読みます。平良市は町だった時は「たいらちょう」でしたが、市制施行するときに他の市町村の「平良」(たとえば那覇市首里平良町、東村字平良、具志川市平良川など)と区別するために、「平良」の宮古方言である「ピサラ」を日本語に直訳したのです。つまり、「ピサ」(平たい)=「ひら(平)」、「ラ(土地)」=「ら(良)」です。この市名』「ひらら」『は、市制施行と同時に定められ』、『今日に至ってますが、今でも平良のことを「たいら」という人が多いのです』とあることから、底本通りとした。但し、底本は実は拡大してみても「ぴ」か「び」かは実は判然としない。]の船立御嶽[やぶちゃん注:現行現地音「ふなた(或いは「ふなだ」)てぃうたき」。「御嶽」は沖縄で神を祀る聖所のこと。]に屬するもので、昔久米島の某按司[やぶちゃん注:「あじ」又は「あんじ」。ちくま文庫版は『あんじ』とする。琉球諸島に嘗て存在した称号及び位階の一つ。王族の内で王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家に当たり、日本の宮家に相当する。他に按司は王妃・未婚王女・王子妃等の称号としても用いられた。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた(ここはウィキの「按司」に拠った)。]の娘、兄嫁の讒[やぶちゃん注:「ざん」。]によつて父に疎まれ、海上に追放されて兄と共にこの地に漂着したが、かねこ世の主[やぶちゃん注:太字「かねこ」は底本では傍点「ヽ」。「かねこよのぬし」で王の固有名+尊称と採る。]に嫁して九人の男子を産み、後に其子どもに扶けられて老いたる父を故鄕の島に訪れた。父は先非を悔いて親子の愛を盡し、還るに臨みて鐵と其技藝の傳書を以て、引出物として娘に取らせた。其兄は之に由つて初めて鍛冶の工み[やぶちゃん注:「たくみ」。]を仕出し、ヘラカマ[やぶちゃん注:農具の「へら」(現地音では「ひーら」「ふぃーら」等)と「鎌」(現地では「いらな」「いらら」等と呼ばれているらしい)。「へら」は甘藷の苗の植え付け・草取り・収穫等に使用し(Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「イララ・ヒーラ・プフィザス 沖縄諸島のミニチュア農具遺物」に拠る)、ブログ『万鐘ももと庵「沖縄・アジアの食と音楽」』の「沖縄の農作業に欠かせないヘラ」で現在使用されている「へら」及び古いそれが画像で見られる。底本の後の方に出るその画像を段落末に示した。そこでは「ウズミビラ」と出る。]等を作つて島人の耕作を助けた故に、永く其恩澤を仰いで、兄妹の遺骨を此御嶽に納めたと謂ふのである。今は主として船路の安泰を禱るやうになつたが、男神をカネドノ、女神をシラコニヤスツカサと唱へて、其功績を記念して居る。第二には伊良部(いらぶ)の島の長山御嶽此はもう祭は絶えたらしいが、やはり神の名はカネドノであつた。鐵を持渡り侯[やぶちゃん注:「さふらふ」。]故にカネドノと唱え申候とある。大和からの漂流人で、久しく此地に住んで農具を打調えて村人に與へた。仍て作物の神として其大和人を祭るのだと傳へて居る。鐵渡來前の島の農業は、牛馬の骨などをもつて土地を掘り、功程[やぶちゃん注:「こうてい」。仕事の量。作業の程度。]はかどらず不作の年が多かつた。それが新たなる農具の助によつて、五穀豐かに生産し、渡世安樂になつたとあるのは、多分は現實の歷史であらう。荒れたる草の菴の炭燒太良[やぶちゃん注:「すみやきだる」。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらに拠った。]が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋(かまにや)[やぶちゃん注:「嘉播親」「嘉播の親」とも書くようであり、「かはにや」「かばにゃ」とも読むようである。有力者の尊称と思われる。]となつたのを、ユリと稱する穀靈の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴[やぶちゃん注:「たたら」。]の魅力が、殊に偉大であつたことを認めねばならぬが、しかも鐵無き此島に鐵を持込んだ人々は、謙遜にも自分の功勞は之を説立てず、炭燒奇瑞の古物語を、そつと殘して置いて又次の或島へ、いつの間にか渡つて往つてしまつたのである。

[ウズミビラ、木製の農具

 マミクと云ふ硬い木で作る]

Uzumibira

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションを前に[ ]で示した(以下、同じ)。「マミク」はムクロジ目ムクロジ科カエデ属クスノハカエデ(楠葉槭)Acer oblongum var. itoanum。琉球(奄美以南)・台湾に分布し、方言名で「ブクブクギー」(葉を水中で揉むと泡が立つことに由来)とも呼ぶ。絶滅危惧類(VU)。]

 宮古の炭燒長者は、島最初の歷史上の人物、仲宗根豐見親(なかそねとよみをや)[やぶちゃん注:生没年不詳。宮古島の首長。「豊見親」は首長の尊称。空広(そらびー)ともよばれ、後世、「玄雅(げんが)」の字(あざな)が贈られた。十五世紀中頃に生まれ、十六世紀中頃に没したと伝わるが、経歴は殆んど不明。十五世紀末期頃に宮古島の覇者となり、やがて首里の王権に臣従して地位を安堵されたという。八重山に「アカハチ・ホンガワラの乱」(一五〇〇年)が起こると、国王軍に加勢して勲功を挙げ、宮古の初代の頭(かしら)に任ぜられた。その子孫は後世、忠導(ちゅうどう)氏と呼ばれ、代々頭職に就任して宮古島きっての勢家となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]が六代の祖と傳へられる。之を事實としても西曆十四世紀の人である。沖繩本島に於てもちやうど其の少し前に、鐵器輸入のあつたことが、半ば物語化して語り傳へられて居る。察度王[やぶちゃん注:「さつとわう(さっとおう)」は琉球王(察度王統初代)。一三二一年生まれで一三九五年没。在位は一三五〇年~一三九五年。奥間大親(うふや)の子。母は羽衣伝説の天女とされる。浦添按司(うらそえあじ)となり、後、英祖王統に代わって中山(ちゅうざん)王となった。明の太祖洪武帝の要請により、明と外交関係を結び、進貢貿易を始め、東南アジア・朝鮮との貿易にも尽力した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]が未だ其志を得ずして、浦添城西の村に詫しく住んで居た時、勝連(かつれん)按司(あんじ)の姫、夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]英風[やぶちゃん注:「えいふう」優れた教化とその風姿。]に傾倒して、往いて[やぶちゃん注:「ゆいて」。「ゆきて」の音便形。]之にかしずくこと、政子の賴朝に於けるが如くであつた。王の假屋形は庭にも垣根にも、無數の黃金白銀が恰も瓦石の如く、雨ざらしになつて轉がつて居た。それを新奧方が注意しても、笑うて顧みなかつたと傳へられる。其後鐵を滿載した日本の船が、牧港(まきみなと)[やぶちゃん注:沖縄県浦添市北部の地名。「まちなと」とも読む。ウィキの「牧港」によれば、『源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった事が地名の由来とされて』おり、牧港の「テラブのガマ」(以下の地図で確認出来る)と『呼ばれる洞窟にも同様の伝説が残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、現在は「牧港」という港は存在しない。]に入つて繫つた[やぶちゃん注:「かかつた」。停泊した。]時に、察度は乃ち右の金銀をもつて、殘らず其鐵を買取り、農具を製作して島人に頒ち與へ、一朝にして人心を收攬したと謂ふのは、興味ある傳説では無いか。琉球の史家が此記事に由つて、然らば我島にも昔は金銀を産したかと、有りさうにも無いことを想像して居るのは、寧ろ孤島の生活の淋しさを同情せしめる。島の文化史の時代區劃としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋(たういも)よりも重大であつた。所謂金宮(こがねみや)の夢がたりを傭ひ來るに非ざれば、説明することも六かしい程の、何かの方便を盡して、兎に角に農具は改良せられた。單に鐵を載せた大和船の漂着だけでは、文明の進化は見ることを得なかつた筈である。然らば此島現在の金屬工藝には、何人が先づ參與したのか。言ひ換へれば久米島按司が、宮古の娘に與へた卷物は、最初如何なる船に由つて、南の島へは運ばれたのであるか。それはもう終古[やぶちゃん注:「しゆうこ」。永遠。]の謎である。今はたゞ僅かに殘つて居る釜細工(かまざいく)の舞の曲と、其行裝(いでたち)と歌の文句に由つて、彼等が旅人であり、物珍しい國から來たことを、窺ひ知るの他は無いやうになつた。江戸で女の兒が手毬の唄に、

    遠から御出でたおいも屋さん

    おいもは一升いくらです

    三十五文でござります

    もちつとまからかちやからかぽん

と謂ふのがあるが、之に附けても思ひ出される。斯う云ふ輕い道化は鑄物師(いもじ)たちの身上(しんしやう)であつて、後に口拍子に眞似られたのではあるまいか。眞の芋賣りならば遠くからは來ない。所謂「取替(とりか)へべえにしよ」の飴屋なども、潰れた雁首や剃刀の折れを、集めて持つて行くだけは古金買ひと聯絡があつた。併しもう忘れられようとして居る。此等に比べると沖繩の舞は[やぶちゃん注:底本は「舞舞」。衍字と見て除去した。ちくま文庫版は以上が『これらに比べると釜細工という沖縄の舞は』となっている。]、まだ明瞭なる由緖を保ち、道具箱などは内地の鑄懸屋の通りであつた。或は流れ流れて金賣吉次の、是も淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶれ)ること。零落。]の一つの姿であることを、推測しても差支へがないのかも知らぬ。

 水に乏しい南の島々では、黃金を鳥に擲つ話は既に聞くことが出來ぬ。しかも大なる[やぶちゃん注:「おほいなる」]淸水に接近して、所謂カンジャーの石小屋を見ることは多い。カンジャーは固より鍛冶から出た語であらうが、沖繩では鍋釜其他一切の鑄物を扱ふ者を總括して斯う呼んで居る。自分は南山古城[やぶちゃん注:南山城(なんざんぐすく)跡。沖縄県糸満市大里にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に近い屋古[やぶちゃん注:「やこ」。「大里」の異古名。「糸満市大里自治会」公式サイト内のこちらに、元来は『大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来』、『人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称したという記述がある』とある。以下の嘉手志川という地名からもここ(前の南山城跡の東北直近)である。沖縄県国頭郡大宜味村に屋古の地名があるが、そこではないので注意されたい。]の嘉手志川(かてしがは)、或は石垣島の白保(しらほ)などで、幾度か好事の情を以て其小屋を覗いて見たが、曾て工人の働いて居る者に出逢はなかつた。恐らくは村から村へ、今も僅かな人數が移りあるいて、淡い親しみを續けて居るのであらう。彼等が炭の由來と黃金發見の信仰に付て、現に如何なる記憶を有するかは、自分の之を知らんとすること、恰も渴する者の泉を想ふ如くである。琉球國舊記等の書に依れば、炭には木炭と輕炭の二種があつて、輕炭を俗に鍛冶炭とも曰ふ。大工𢌞(だいくざこ)村[やぶちゃん注:サイト「村影弥太郎の集落紀行」の「大工廻」では「だくじゃく」と読んでいる。『現在は大字の全域が米軍の軍用地』であるとある。]に炭燒勢頭地(せとぢ)と謂ふ田地あつて、勢頭親部(をやぶ)始めて之を製すと云ふ傳へあり。後世鄰邑の宇久田(うくだ)[やぶちゃん注:同じくサイト「村影弥太郎の集落紀行」の「宇久田」によれば、現在の『嘉手納飛行場の滑走路付近』とある。]と共に、每年二種各二百俵の炭を王廷に貢した。其年代は不幸にして既に明白で無いが、三山併合よりも古いことでは無さそうだ。

[やぶちゃん注:「三山併合」一四二九年に第一尚氏王統の尚巴志王(しょうはしおう)が三山統一を行い、現在、これを以って「琉球王国」は成立したと見做されている。]

Yakonokatesi

[屋古嘉手志井[やぶちゃん注:ママ。]の下段

 瓦葺の小屋はカンジヤヤー]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションの「井」は「川」の誤植であろう。]

 但し鍛冶以外の炭の用途も、勿論無かつたとは言はれぬ。島の神道[やぶちゃん注:広義の神信仰。琉球は独立国であり、そのニライカナイ信仰も独自で魅力的なものである。日本の大和朝廷と結びついた国家の「神道」という政治的単語に成り下がった語で表現するのには私は強い不満がある。]に於ては火の神は卽ち家の神で、所謂御三物(おみつもの)の地位は、内地の近世の竈神[やぶちゃん注:「かまどがみ」。]卽ち三寶荒神よりも、遙かに高く且つ重かつた。今は僅かに神壇の中央に、三塊の石の痕を留むるのみであるが[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『今はわずかに、火床の中央に、三塊の石の痕(あと)を留むるのみであるが』となっている。]、以前は祖先の火を此中に活けて[やぶちゃん注:「いけて」。]、根所(ねどっころ)の神聖を保存したものと思はれる。火鉢の御せぢ(筋)は恐らくは之を意味し、火靈の相續は亦炭に由つて、爲し遂げられたかと想像する。此想像にして誤無くんば、冶鑄技術の輸入は、則ち火神信仰の第二次の興隆であつて、民に鋼鐵の器を頒ち賜ふが故に、其威德は愈旺盛となり、終に王家をして之に據つて、能く民族統一の偉業を完成せしめたのである。之に反して内地の軻遇都智神(かぐつちのかみ)は、恩澤未だ洽(あまね)からず、又雄族[やぶちゃん注:有力氏族。]の之を支持するもの無く、天朝の傳承は寧ろ宣傳に不利なりし爲に、次第に其聲望を降して、終には炊屋(かしきや)[やぶちゃん注:厨。台所。]の一隅に殘壘を保つに至つたが、是が果して東國九州の偏卑に住む民の信仰であり、殊には筑紫の竈門山(かまどやま)の神などの、教へ導きたまふ所のものと、一致して居つたか否かは問題である。而も此くの如き地方的の大變化が、薪を一旦炭にしてから、再び之を利用する技術の有無に原因して居るとしたら、渺たる一個の小五郞の物語も、其の暗示する所は亦頗る重大である。

Syurigotenhigamisanza

[首里御殿の火神の三座

 各三つの石、前に置くは香爐]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遠野物語の中には、深山無人の地に入つて、黃金の樋(ひ)を見たと云ふ話があるが、其が火と關係あるか否はまだ確實で無い。併し少なくとも火神の本原が太陽であつたことだけは、日と火の聲の同じい點からでも之を推測し得るかと思ふ。日本には火山は多いが、我民族の火の始は、之に發したのでは無かつたらしい。天の大神の御子が別電(わけいかづち)であつて、後再び空に還りたまふと云ふ山城の賀茂、又は播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、此國のプロメトイスが霹靂神(はたゝがみ)であつたことを示して居る。宇佐の舊傳が同じく玉依姫を説き、頻に又若宮の相續を重ずるは、本來天火の保存が信仰の中心を爲して居た結果では無かつたか。岩窟に火の御子を養育すれば、第一の御惠は必ず炭と爲つて現はれる。炭はまどろむ火であるが故に、之を奉じて各地に神裔を分つ風が先づ起り、金屬陶冶の術は則ち此に導かれたものでは無からうか。南太平洋の或民族、例へばタヒチの島人などの火渡りは、燃ゆる薪の中に石を燒いて、之を大きな竪坑に充たし、神系の貴族たちは列を作つて、其上を步むのであつた。日本に於いても大穴牟遲神(おほあなむち)の、手間(てま)の山の故事のように、赤くなる迄石を燒く習[やぶちゃん注:「ならひ」。]があつたとすれば、或種の重く堅い石が、猛火の中に滴り落ること、其石が凝つて再び色々の形を成すことは、所謂奧津彦(おきつひこ)奧津媛(おきつひめ)、卽ち炭火の管理に任じた者には、殊に遭遇しやすき實驗であつて、之を神威の不可思議と仰ぐは勿論、更に進んで其便益の大なることを諒解した場合には、必ずや新たに無限の歌を賦して、火の神の恩德をたゝえんとしたことであらう。之を要するに炭燒小五郞の物語の起原が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であつたとすれば、爰に始めて小倉の峰の菱形池(ひしがたのいけ)の畔に、鍛冶の翁が神と顯れた理由もわかり、西に鄰した筑前竃門(かまど)山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ傳へられた事情が、稍明らかになつて來るのである。所謂父無くして生れたまふ別雷の神の古傳は、至つて僅少の變化を以て、最も弘く國内に分布して居る。神話は本來各地方の信仰に根ざしたもので、其の互に相容れざる所あるは寧ろ自然であるにも拘らず、日を最高の女神とする神代の記錄の、此れほど大なる統一の力を以てするも、尚覆ひ盡すことを得なかつた一群の古い傳承が、特に火の精の相續に關して、今尚著しい一致を示して居ることは、果して何事を意味するのであらうか。播磨の古風土記の一例に於て、父の御神を天日一箇命(あまのまひとつのみこと)と傳へて、乃ち鍛冶の祖神の名と同じであつたことは、恐らくは此神話を大切に保存して居た階級が、昔の金屋であつたと認むべき一つの根據であらう。火の靈異に通じたる彼等は、日を以て火の根原とする思想と、いかづち[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]と稱する若い勇ましい神が、最初の火を天より携へて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたと云ふ信仰を、持傳へ且つ流布せしむるに適して居たに相違ない。宇佐は決して此種の神話の獨占者では無かつたけれども、彼宮の神の火は何か隱れたる事情あつて、特に宏大なる恩澤を金屬工藝の徒に施した爲に、彼等をして永く其傳説を愛護せしむるに至つたので、炭燒長者が豐後で生れ、後に全國の旅をして多くの田舍に假の遺跡を留めて置いてくれなかつたなら、獨り八幡神社の今日の盛況の、板木の理由が説明し難くなるのみで無く、我々の高祖の火の哲學は、永遠に不明に歸してしまつたかも知れない。然るに文字の記錄を唯一の史料として、上古の文明を究めんとする學者が、誤り欺き獨斷するに非ざれば、則ち絶望しなければならなかつた問題の眼目を、斯く安々と語つて聽かせ得る者が、隱れて草莽の間に住んで居た。さうして滿山の黃金が天下の至寶なることに心付かず、之を空しき礫に擲ちつゝ、孤獨貧窮の生を營んで居た。新しい學問の玉依姫は、今や訪ひ來たつて彼が柴のを叩いて居るのである。

[やぶちゃん注:このエンディングは柳田國男にしては文学的で悪くない。]

2018/09/25

柳田國男 炭燒小五郞が事 八

 

      八

 金屋が神と其舊傳とを奉じて、久しく漂泊して居た種族であるとしても、彼等と宇佐の大神との因緣は、此だけではまだ見出されないのである。又眞野長者を中心とした連環の物語が、其の不文の記錄から出たと云ふことも單に一箇の推測であつて、炭燒の一條が果して最初より是と不可分のものであつたか否かには疑がある。自分はたゞ此ほど奇拔にして且つ複雜な話が此ほどの類似を以て各地に偶發することは無いと信じ、何人かゞ運搬してあるいたとすれば、それは炭燒の業と最も親しかつた者が、古く信仰と共に或地方から持つて出たので、之を豐後とすれば比較的鍔目[やぶちゃん注:「つばめ」。]が合ふように思ふだけである。但しまだまだ解きにくい難題がいくらもある。

 例へば芋掘藤五郞の、イモは鑄物師と見てもよいが、奧州三戸(のへ)郡の是川(これかは)村には、蕪燒笹四郞(かぶやきさゝしらう)と爲つて同じ奇談が、路の行く手のヤチ[やぶちゃん注:「谷地」等と漢字表記し、草などの生えた湿地の意。普通に使用するが、青森の方言としてもある。]の鴨に、花嫁の二分金(ぶきん)を打ち付けることから、後に發見した大判小判を洗ふこと迄、あとは大抵其まゝで傳はつて居る。親の讓りのたつた一枚の畠地から、朝夕蕪ばかりを掘つて來て、燒いて來て食つて居たと云ふ點だけが違つて居る。遠くかけ離れて肥後の菊池の米原(よなばるの)長者、是も名前が薦編(こもあ)みの孫三郞であつたのと、鳥が白鷺であつた點を除けば、長谷の觀世音の夢の告げと云ふことまで、符節を合したる小五郞であつた。黃金發見者の職業は、只何と無く少し替へて見たのかも知らぬが、肝要な點である爲に看過することが出來ぬ。尤も肥後の方では程遠からぬ玉名郡の立願寺(りふぐわんじ)村に、匹石野(ひきしの)長者の舊記があつて、恰も中間の飛石を爲しては居る。此長者は貧しい炭燒別當であつた。花嫁は内裏の姫君、同じく觀世音の御夢想に由つて、女房十二人侍四人を從へて堂々として押掛けたまふ。但し此には水鳥の飛立つことは無く、靑年は只一つの石塊をツチロ[やぶちゃん注:辞書類では見当たらぬ語であるが、恐らくは薦編みの際に用いる糸巻のような中央に窪みのある錘、「ツチノコ」「ツツロ」のことではなかろうか? 「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」の「椎木の薦上の薦編み」のページに木製のそれが使用されていることが確認出来る(写真有り)。また、神野善治氏の「手工用具」PDF)に『俵や菰、背負い袋を編むときに俵編み』(工具名。俵や菰を作製する編み台。リンク先に有り。)『と共に用いる。ツチノコ・ツツロなどという』とある。但し、「只一つの石塊を」用いてとあるところは、或いは、素材である藁や薦を加工し易くするために叩く「藁打ち槌(つち)」ことのようにも当初は思えた。しかも前記の神野氏の解説では、その「藁打槌」のことを鹿児島では「ワラウツゴロ」「ワラウチゴロ」と呼ぶとあるのである。]として、其炭薦を編んで居たとある。そのツチロはどこから持つて來たかと問うと、斯樣なる石塊は此山中に何程もあり、炭燒が家では水石[やぶちゃん注:「すいせき」。ここは泉水を作っている用材石と庭石の意であろう。]踏石まで皆此なりと答へ、乃ちそれが黃金であつたと謂ふ。此長者は早く退轉して、長者屋敷には瓦や礎が殘り、又例の糠(ぬか)の峰、小豆塚等の遺迹の他に、金糞塚と稱して鐵滓[やぶちゃん注:既出。「かなくそ」。]多く出る塚もあつた。鐵の滓が出ただけでは、之を以て黃金發見者の實在を證することが出來ぬ次第であるが、よく似た話は羽前の寶澤(はうざは)村にも有つて、藤太の相續人が建てたと云ふ石寶山藤太寺[やぶちゃん注:山形県山形市上宝沢(かみほうざわ)にある住吉神社(ここ(グーグル・マップ・データ))はブログ「蟻行記」の「住吉神社と炭焼藤太」に、同神社は『神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった』とある。同ブログは記事も必読。]は、是も炭燒男の語として、こんな石が三國の寶であるなら、私が山屋敷では藁打つ石まで、みんなこの石だと謂つたのに基くと傳へて居る。偶然の一致では無かつたやうである。而も炭燒が薦を編んだ、藁を打つたと云ふことも、よく考へてみると仔細があるらしい。卽ち單に炭を包む爲だけに斯んな物を作つたのでは無く、金屋は一般に其製品の輸送に付て[やぶちゃん注:「ついて」]、特に薦を大切にしたかと思ふ。江州長村(をさむら)の鑄物師の神は、豐滿明神(ほうまんみやうじん)と稱へて其音は宇佐の御伯母神[やぶちゃん注:「おほんはくのははのかみ」か(しかし、どう読んでみても、ちっとも音通ではないが)。ウィキの「八幡神」によれば、『アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられて』おり、『宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされて』、『比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある』とある。]に近いが、もと高野(かうや)より移りたまふと傳へて居る。其時此地の米を獻上し、十符(とふ)の菅薦(すがごも)を二つに切つて下された。今に至る迄其由緖を以て、鑄物師は五符の薦を以て包むと云ふ。其意味はまだよく分らぬが、荷造りにも作法のあつたことを謂ふのであらう。江戸深川の釜屋堀[やぶちゃん注:底本は「金屋堀」であるが、調べてみると、地名としては「釜屋堀」が正しい。ちくま文庫版もそうなっているので、ここは本文を訂した。]の鑄物師は、上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた。當日の神事のツク舞の柱に、高く結附けられる徑[やぶちゃん注:「わたり」。]八尺の麻布の球は、必ず鍋釜を包裝する藁の殘りを納めて、其心(しん)につめたと云うふ話がある。此ばかりの材料から推測をするのは大膽であるが、宇佐神宮の以前の御正體(みしやうたい)が、黃金であつたと謂ひ、薦を以て之を包んだと謂ふ神祕なる古傳は、卽ち亦薦編みの孫三郞が、後終に米原長者と耀くべき宿緣を、豫め説明して居たものかとも考へられるのである。

[やぶちゃん注:今回、調べものをするうちに、すわさき氏のサイト内に「炭焼き小五郎/芋掘り藤五郎/運命の結婚/いざり長者」炭焼長者(再婚型)/丁香と海棠」「炭焼長者(父娘葛藤型)轆角荘の由来/薯童伝説/月の中の天丹樹の話」という本「炭焼き長者譚」の世界的でしかも膨大な資料集成を見出した。是非、ご覧あれ。

「上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた」「當日の神事のツク舞」現在、当該の大宮神社の兼務神社の一つに、市原市五井中央西にある上宿・宿大神社(しゅくだいじんじゃ)というのがあるが、「大宮神社公式サイト内の同神社の解説によれば、この神社は万治二(一六五九)年に『現在の鎮座地に移った』もので、『万治二年、五井の宿割りをした際に用いられた縄と、幣束を社殿に納め』、『五井宿の守り神として祭られた。また、塩焼き業に欠かせない竈を守る神として崇敬を集め』、『宿割荒神とも呼ばれる』とあり、現在の『宿大神社の例祭日は、十二月一日で』、『例祭日には、つくめまい(筑摩舞とも)と呼ばれる舞が演じられ、鍋釜市が開催されたと伝えられる(現在の五井大市』(ごいおおいち:三百五十余年の歴史があるという)『の起源)。つくめ舞は、現在行われていないため』、『詳細は不明であるが、文書には以下のように記されている』。『市街の中央に高さ二丈余りの大柱二本を組』み『建て、柱の頂上には麻布にて周囲八尺余経二尺許の球形を』『造り、太き麻縄二本を結び』、『以て階梯とし』、『多人数をしてそれを左右に引かしめ、舞人は獅子の仮面を冠り』、『白衣の装束を着し、頂上に昇りて舞を奉すを以て例とす。世俗に之を五井のツクメ舞と称せり』。『ツクメ舞が盛大に行われていた頃、万治年間より、五井は大きく発展し始めた。万治元年八月一日、深川の釜六・釜七という金物屋が鍋釜市を開いたのが、徐々に盛大に行われ、五井宿の守護神として尊崇を集めていた当社の祭礼と重なり、現在の五井大市へと発展していったと言われている』。『当社は、江戸時代の五井宿の地頭神尾家の崇敬も厚く、神尾家の紋入りの祭器具や調度品の寄進もあったと伝えられている。明治』一七(一八八四)『年の火災により焼失し』、『今に残されていない。その後』同年内に再建され、昭和七(一九三二)年の『修繕を経て』、『今に至っている』とある(ごくこじんまりとした小社である。リンク先に写真有り)。]

 孫三郞も小五郞も、畢竟するに常人下賤の俗稱である。此物語の盛に行はれた時代には、家々にそんな名の下人が多く使はれて居た。それ程の者でも長者になつたと云ふ變轉の面白味もあつたか知らぬが、尚大人彌五郞(おおひとやごらう)などの旁例を考へ合せると、特に八幡神の眷屬として、其名が似つかはしい事情があつたやうに感ずる。併し其點までは今は深入りせぬことにしよう。炭燒男の名としては既に列擧した藤次藤太の外に、尚阿波の糠の丸長者の傳説に伴うて、攝津大阪には炭燒友藏が住んで居た。長者の一人娘は父に死別れて後、家の守護神なる白鼠に教へられ、遙々海を越えて尋ねて來て嫁となる。奇妙に光る石塊を井戸の傍に出て洗つて見て、是が黃金ですかと謂つた若者が、曾てあの大阪に住んで居たと謂ふのは、今更の滑稽である。

[やぶちゃん注:「大人彌五郞」柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎までを参照されたい。そこでも書いたが、鹿児島県曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」というのがある。私は大の祭り嫌いであるが、この岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私は若き日の母が見た「弥五郎どん」の祭りを、死ぬ前に一度、必ず、見たいと思っている。]

 大隅鹿屋(かのや)鄕大窪村の山で、からかねを[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を發見したと云ふ觀音信者の炭燒は、初の名が五郞藏であつた。炭は暖い國に來るほど、段々と不用になる。故にもう是が日本の炭燒長者の、南の端であつても不思議は無いのだが、佐多の島泊(しまどまり)の山に新たなる意外が起らんとしつゝある如く、更に又波濤の千海里を隔てゝ、世にも知られぬ寂寞たる長者が住んで居た。宮古の島の炭燒太良(すみやきだら)は卽ち是であつて、事は本文に既に詳かに述べてあるが、自分が爰に問題として見たい唯一つの點は、冬も單衣ですむやうな常綠の島に在つて、尚且つ炭を燒きつゝ終に長者となることが、信じ得べき物語であつた根本の理由である。

 

柳田國男炭燒小五郞が事 七

 

      七

 例へば江戸周圍の平原の如きは、村が少ない爲か採鑛地が遠い故か、いつ迄も金屋の移動が止まなかつたやうである。尤も鍛冶屋の方だけは國境の山近くに、領主の保護を受けて二戸三戸づゝ、さびしく土着した者が農村の中にまじり、由緖は記憶し技藝は忘れてしまつて、後は普通の耕作者になつて居るが、鑄物師の部落は佐野の天明(てんみやう)武藏の川口等、取續いて土着して居た者は至つて稀であつて、他の大部分の工人等の、地方の需要に應じて居た者は、空しく遺跡のみを殘留して、皆どこへか立ち去つてしまつた。現在武藏相模の中間の樹林地に、カナクソ塚などゝ云ふ名のある小さい塚の、附近から多量の鐵の滓を發掘するものが多いのは、何れも鐵の生産地とは關係無く、他に想像の下しやうも無い彼等の仕事場である。又カネ塚又はカナイ塚と稱して、小さな封土の無數にあるのも、或は之を庚申の祭場に托する人もあるが、他の府縣に在るカネイ場と云ふ地名と共に、是も金を鑄る者の假住の地であつたらしい。彼等は單に在來の塚に據つて、露宿の便宜を求めたのか。仕事の必要から時として自ら之を構へたか。はた又別に信仰上の動機でもあつたものか。之を決定することはまだ六かしいが、兎に角に是が塚の名になつて殘るのには、單に稍長い滯留のみで無く、或期間を隔てゝ繰返し、同じ場處に訪ひ寄ること、富山の藥屋や奧州のテンバ[やぶちゃん注:嘗て山間や水辺を漂泊して川漁や竹細工などを生業とした民「サンカ」「山窩(さんか)」の別称。恐らくはその放浪形態に基づく「転場」である。]のやうな、習性があつたことを想像せしめる。殊に金吹きの勞作には、人の手を多く要した。今のイカケ屋のやうな小ぢんまりとした道具では旅は出來なかつた。猿蓑集[やぶちゃん注:蕉門の最高峰の句集とされる俳諧七部集の一つ「猿蓑」(松尾芭蕉監修/向井去来・野沢凡兆編/宝井其角序/内藤丈草跋)。元禄四(一六九一)年刊。]の附合の中に、

     押合うて寢ては又立つかり枕

     たゝらの雲のまだ赤き空

 とあるのは、おそらくは貞享[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]頃までの、武藏野あたりの普通の光景であつて、或は妻子老幼をも伴のうた物々しいカラバン姿が、相應にい印象を村の人に與へた結果ではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:「猿蓑」の引用は正確な表記では、

 押合て寢ては又立つかりまくら   蕉

  たゝらの雲のまだ赤き空     來

で、謂わずもがなであるが、前句が芭蕉の、付句が去来の作である。

「カラバン」砂漠を隊を組んで行く隊商の意の英語“caravan”(キャラヴァン。ペルシャ語の「旅行者の一団」の意が語源)、ある目的のために隊を組んで各地を回るその様態。]

 タヽラと云ふ地名も亦無數に殘つて居る。此徒は燃料の豐富なる供給を要とした他に、尚水邊に就てその臨時の工場を開設せねばならぬ事情が有つたと見えて、沼地の岸、淵川の上などに、タヽラと呼ばるゝ地があつて、前代の金屋の事業を語り、さうで無くても鐵の澤を掘り出すものが多く、しかも其主はもう行方を知らぬのである。水の神が鐵を怖れると云ふ話、或はそれと反對に、釣鐘其他の金屬の器を、極度に愛惜すると云ふ物語は、踏鞴師(たたらし)のことに重きを置くべき言傳へであるが、今は一般の俗間に弘く分布して居るのも、何ぞの因緣らしく考へられる。炭燒藤太が將に運勢の絶頂に辿り付かんとするとき、必ず水鳥の遊ぶ水の邊を過ぎて、天下の至寶を無益の礫[やぶちゃん注:「つぶて」。]に打たずんば止まなかつたのは、所謂隴畝[やぶちゃん注:「ろうほ」。「壟畝」とも書く。「畝(うね)と畦(あぜ)・田畑」転じて「田舎・民間」。]に生き送つた單純な人々には、寧ろ聊か皮肉に失したる一空想であつた。或は此話が金を好むこと彼等に越えた者の、草枕の宵曉[やぶちゃん注:「よひあかつき」。]に靜かな水の面を眺めつゝ、屢想ひ起し語り傳へた昔の奇談であつたとしても、尚今一段と丁寧なる説明、例へば其鳥は神佛の化する所にして、夫婦を導いて新たなる發見の端緖を得せしめたと云ふ類の、信心の奇特などを附け加へる必要があつたかと思ふが、旅の金屋は亦之を爲すにも適して居たやうである。關東地方に於けるカナイ塚の築造、殊に其保存と尊敬は、或はまだ宗教的の起原を證するに足らぬかも知れぬが、次第に北に進んで下野の山村に入れば、金井神若くは家内(かない)神社などゝ書く神が著しく多くなり、福島宮城山形の三縣に於ては、其數が更に加はつて、その或ものは鍛冶鑄物師の筋を引く家に、由緖を以て祭られ、他の大部分は普通の村に、只の祠(ほこら)となつて祭られて居る。卽ち此徒の第二の業體、若くは少くとも旅行の補助手段が、斯う云ふ特殊の信仰の宣傳であつたことは、これでもう疑が無いのである。中部日本の金屋の神は、今は唯霜月八日の吹革(ふいご)祭に、近所の小兒たちが蜜柑を拾ひに參加するだけであるが、海南屋久島(やくのしま)などに行けば、鍛冶屋神は村中から信ぜられて居た。白齒[やぶちゃん注:「しらは」。嘗て女性は結婚すると鉄漿(かね=お歯黒)をつけたことから、「未婚女性」の意。]のうちに身持ちになる女があれば、此神に賽錢を納めて鐵滓(かなくそ)を申請け來り、此に唐竹(たうちく)[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科トウチク属トウチク Sinobambusa tootsik。]と柳との葉を加へ、煎じてその婦人に飮ましめる。魔性蛇體などの種ならば忽ちに下りてしまひ、人の子であれば何の障[やぶちゃん注:「さはり」。]もないと謂つたさうである。屋久では此神を槖籥神(とうやくしん)、又は金山大明神と呼ぶと謂ふが、他の島々ではどうであらうか。中國地方の鐵産地に於ては、多くの村に金鑄護(かないご)又は金屋子といふ祠あり。金屋既に去つて後も、神のみは留まり、此も學問ある神官に由つて、金山彦命などと屆けられて居るが、人は依然として之をカナイゴサンと稱へるのである。備後の双三郡[やぶちゃん注:「ふたみぐん」。現在の三次(みよし)市の大部分に相当する。]に行はるゝバンコ節は俚謠集にも出て居る。曾てタヽラの作業の折に歌つたものが、遺つて昔を語るのである。

    たゝら打ちたや、此ふろやぶへ

    鹽と御幣で、淨めておいて

    いはひこめたや、かないごじんを

山脈を隔てゝ出雲の大原郡にも、又別種のタヽラ歌がある。

    ヤーむらげ樣がナーよければナー

    炭燒さまもよけれ

    イヤコノ世なるでナ

    その金が金性がよいわ

ムラゲは鎔爐[やぶちゃん注:「ようろ」溶鉱炉。]のことであるらしい。炭燒樣も爰ではもう祭られる神であつた。

[やぶちゃん注:「バンコ節」これは踏鞴(たたら)を踏んで風を起こし続けるのを担当した「番子(ばんこ)」の労働唄と思われる。数日に及ぶ絶え間ない連続作業で、交代で踏鞴番を代わったことから、現在の「かわりばんこ」の語が生まれたとされている。

「俚謠集」文部省文芸委員会編の大正三(一九一四)年国定教科書共同販売所刊。当時の文部省が全国の府県提出を命じて蒐集した俗謡集成(但し、東京・大阪を始めとして十五府県は提出されなかったのでそれを欠き、歌詞に特徴のあるものを採用し、一般的なものと猥褻なものは省き、手毬歌・子守歌等の童謡に類するものは一二の例外を除いて採用しなかった、と緒言にあって、なんとなく面白い)国立国会図書館デジタルコレクションの画像縣」で視認出来る。最後に『是は昔たゝらに唄ひしもの』『(雙三郡)』とある。

「此ふろやぶへ」「このふろやぶへ」であるが、「ふろやぶ」というのが判らぬ。「風呂」は「炉」の意があるが、だとすると「藪」は複数の炉が集合している箇所を指すか。或は「ふろ」は「ふうろ」の短縮形であるから、「風露」で「風と露」、「この風が冷たく、露がおりるこの山間(やまひ)の藪の辺りへ」の意とも採れなくはない。識者の御教授を乞う。

柳田國男 炭燒小五郞が事 六

 

     六

 津輕最上其他の炭燒藤太が、遠く西海の濱から巡歷して來たことは、最初より之を疑ふことを得なかつたが、然らば何人が何樣の意趣に基いて、此話を運搬してあるいたかに就ついては、解答は今以て容易で無い。自分が試に揭げた一箇の推定は、所謂金賣吉次を以て祖師と爲し、理想的人物と仰いで居た一派の團體、卽ち金屬の賣買を渡世とした旅行者の群に、特に歌詞に巧なりと云ふ長處があつて、之に由つて若干生計の便宜を、計つて居たのでは無いかと云うふに在つたが、現存の資料は必ずしも之を助けるのみで無い上に、全體に亙つて世上の忘却が甚だしく、年代の雲霧は頗る我々の回顧を遮るものがある。尚辛抱い後の人の硏究に、委付するの他は無いのであ

 この自分の想像の第一の手掛りは、加賀の芋掘(いもほり)藤五郞の傳説であつた。野田の大乘寺の西田圃にある二子塚(ふたこづか)を、藤五郞夫婦の墓と稱して、寬政九年[やぶちゃん注:一七九七年。]には記念の石塔を建て、近年は又之を市中の伏見寺に移したのみならず、金澤市史には之を富樫(とがしの)次郞忠賴[やぶちゃん注:永延元(九八七)年に加賀国司となり、善政を敷いたとされる人物。]の事だと迄謂つて居る。卽ち津輕と同じやうに、大半はもう歷史化して居るので、最早口碑とも謂はれぬか知れぬが、而もその黃金發見の顚末に至つては、全然豐後の小五郞と異なる所が無いので、之を土地の人かぎりの賞翫に委ねて置くわけには行かぬのである。藤五郞芋を掘つて、細々の煙を立つる賤が伏屋[やぶちゃん注:「しづがふせや」。]に、大和初瀨の長者の娘、觀世音の御示しによると稱して押掛け嫁にやつて來る。長者の名を生玉右近萬信(いくたまうこんまんのぶ)と謂ふのは、或は又滿能では無いだらうか。姫の名は和五[やぶちゃん注:「わご」。]と謂ふとある。和五は和子[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]であつて單にお孃さまも同じことだ。藤五郞は芋を掘る處の土が皆黃金であるのに、それが寶であることをちつとも知らなかつた。或時父の右近が贈つた一包の砂金を以て、田に居る雁に打付けて還つて來た。妻女の注意を受けて始めて山に入り、莫大の黃金を持ち還つて、それを近くの金洗澤で洗つた。金澤の名もこれより起り、兼六公園の泉の水は卽ち其故迹である。遠州濱松の近くにも、藤五郞とは謂はぬが、やはり一人の芋掘長者が居た。奈良の某長者の信心深い娘が、遙々と嫁に來てから一朝にして長者になつた。鴨江寺[やぶちゃん注:「かもえじ」。]の觀世音は芋掘長者の一建立(いつこんりふ)で、附近には尚黃金千杯朱千杯の噂もある。鴨江と謂ふからには、鴨の話も有つたのであらうが、書いたものには遺つて居らぬ。紀州の湯淺に近い小鶴谷(こつるや)の芋掘長者、是は正しく廣川に遊ぶ鷗に、小判を打ち付けて居るところを、多くの人に見られた。何で其樣な勿体ないことをするかと戒められると、うちの芋畑にこんな物なら、鍬で搔寄せる位あると謂つたので、其自慢から芋掘長者の字(あざな)が出來たとは、少し六つかし過ぎた説明である。此家の嫁は京から來た。隅櫓(すみぐら)長者と謂ふのは角倉(すみのくら)の聞き誤りか、信州園原の炭燒吉次も、京の角倉與一の遠祖であると傳へ、やはり炭から富を得た話の筋を引いて居る。但し此婦人の内助の功は傳はらず只大さうな衣裳持ちで、山の屋形で土用干しをすると、淡路の海まで照りかゞやき、魚が捕れぬと云ふ苦情が來たなどゝ、花やかな語り草を殘して居るだけである。

 芋掘りも一人で山中に入り、土に親しむ生活をして居るから、幸運ならば黃金を得たかも知れぬが、自分だけは此イモを鑄物師(いもじ)のイモであらうと考へて居た。卽ち炭を燒く者ともと同じ目的で、必ずしも世に疎く慾を知らぬ爲では無く、寧ろ現實の生活には滿足せぬ連中が、我境涯で夢想し得る最大限の福分、乃至は文字通りの過去黃金時代を、記憶し且つ語らざるを得なかつた結果が、自然に印象深く歌と爲り昔話と變じて、歳月の力に抵抗して來たのでは無いかと思つた。金賣吉次の黃金專門も、既に亦一つの空想であつた。あの頃に假に金賣りと云ふ職業があつたにしても、それは後世の金屋(かなや)と同樣に、タヽラの助けに由つて有利に古金類(ふるかねるゐ)を買集め得る者を除く外、さういふ旅行者は想像することが出來ぬ。吉次の遺迹と云ふ地が京都平泉、奧州路の宿驛附近の他に、最上苅田の山奧の鑛山にも、庄内會津越後などの山村にも、下野の國府の近くにも、下總印旛沼の畔にも、武藏の片田舍にもあれば、京から西の安藝の豐田郡に迄分散して、兩立せざる色々の記念を留めて居ることは、卽ち彼自身が運搬自在なる假想の人物であつた一つの證據で、更に推測を進めて見れば、中古實在の鑄物師に、吉を名乘に用ゐた人の多かつたことゝ、何ぞの關係があるやうにも思はれる。

 金屋の旅行生活は、一方諸國に刀鍛冶の名工が輩出し、鏡や色々の佛具の技藝が著しく進んだ後まで、尚持續して居たやうである。地方の需要に應じて製品の輸送の煩しさを省くの利はあつたが、原料の蒐集が甚だしく不定な爲に、生産を擴張することは六かしかつたので、便宜を得る每に土著を心掛けたらしく、近畿の諸國を始として、中部日本には金屋と稱する小部落が多く、其住民が以前漂泊者であつたことは、彼等が忘れた場合にも尚證據がある。源三位賴政禁中に恠鳥[やぶちゃん注:「けてう」。]を退治した時、仰を蒙つて百八箇の金燈爐(かなとうろ)[やぶちゃん注:底本は「爐」は「鑢」(工具の「やすり」)であるが、誤植と断じて訂した。]を鑄て奉り、功を以て諸役免許の官符を賜はつたと謂ふ類の由緖書は、些少の變化を以て殆ど之を持傳へざる家も無く、何れも只の百姓から轉業したものとは考へられて居らぬ上に、尚鎌倉時代の東寺文書にも、金屋等が此大寺の保護の下に、五畿七道に往反して鍋釜以下、打鐵鋤鍬の類より、更にその序を以て布米などをも賣買し、利潤の一部を寺へ年貢に備進して居たことが、明瞭に見えて居る。甑(こしき)[やぶちゃん注:昔、強飯(こわいい)などを蒸すのに使った器。底に湯気を通す数個の小さい穴を開けた鉢形の素焼きの土器で、湯釜の上に載せて使用した。後の蒸籠(せいろう)に相当する。]が廢れて鍋釜の弘く行はるゝに至つて、彼等の大半は鐵の鑄物師と爲り、鑄懸(いかけ)と稱する一派の小民は、亦其中から次第に分れて、鑄工[やぶちゃん注:底本は「銅工」。ちくま文庫版を採った。]が地方の需要に據つて、諸國の空閑[やぶちゃん注:「くうかん」。空いていること。]に定住の地を求めて後も、依然として遷移の生活を續けて居た。所謂イカケ屋の天秤棒(てんびんぼう)の、無暗に細長く突出して居たことは、卽ち近江美濃等の多くの金屋村の文書に、「兼て又海道鞭打(むちうち)三尺二寸は、馬の吻料(くちれう)たるべし云々」とあるのと、必ずその根原を一にするものであつて、是亦此種の鑄物師の、久しく自由なる旅人であつた一つの證據である。

 鋤鍬其他の打物類も、もとは兼て鑄物師の受扱ふ所であつた。鑄物師も鍛冶も等しく金屋と呼ばれ、金屋神はその共同の守護神であつた。東海道の金谷驛は古くからの地名で、金谷の長者一人娘を水神に取られ、金(かね)を湯にして池に注いだと云ふ口碑なども殘つて居て、卽ち亦一箇の金賣吉次かと思はれるが、後世此地の名産は矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]だけであつた。釘鍛冶庖刀鍛冶などの手輕なる作業は、各自踏鞴(たゝら)を獨立し原料を別にする迄も無く、土地の工人の不自由勝ちな設備を以て、田舍の入用だけを充して居た痕跡は、今日の金物店にも殘つて居る。旅をしてあるけばまだ其以上に、臨時のホド[やぶちゃん注:「火床(ほど)」。鍛冶用の簡単な炉。]も選定せねばならず、又燃料用の炭から燒いてかゝる必要もあつた。斯ういふ生活が遠國偏土に於ては、かなり久しく尚續いて居たのである。

2018/09/24

柳田國男 炭燒小五郞が事 五

 

      五

 天皇潛幸の畏れ多い古傳は、かの炭燒藤太の出世譚と同じく、亦弘く東北に向つて分布して居る。富士淺間(せんげん)の御社に於ては、竹取物語の一異説として、かくや姫は聖德太子の御祖母なりと傳ふること、廣益俗説辨に擧げられ[やぶちゃん注:「卷三 神祇」の「富士淺間神(あさまのかみ)は赫夜姫(かくやひめ)を祀ると云(いふ)説、附富士山、孝靈帝御宇に現ずる説」。(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分の画像)の右頁の終りから三行目を見よ。]、有馬皇子が五萬長者の姫を慕ひ、下野に下つて暫く奴僕に身をやつしたまふといふことは、慈元抄[やぶちゃん注:室町時代に書かれた教訓譚。]にこれを錄して居るが、其よりも更に類似の著しいのは、岩代苅田宮(かりたのみや)の口碑である。是は物語と謂ふよりも寧ろ現存の信仰であつた。用明天皇或年此國に幸したまひ、玉世姫を娶りて一人の皇子を儲けたまふ。妃薨じて白き鳥と化したまふ。祠を建てゝ祀り奉り白鳥大明神と謂ふ。水旱疾疫に祈りて必ず驗あり、土人は今も白鳥を尊崇して、敢て之に近づく者も無いとある。後世の學者には此説の正史と一致せざるを感じ、白鳥の靈に由つて日本武尊の御事ならんと論ずる者があつた。社傳も亦漸く之に從はうとして居るが、鄕人古來の傳承は、尚容易に動かすことを得ないやうである。此地方には一帶に、鵠(くゞひ)[やぶちゃん注:白鳥の古名。]を崇敬する白鳥明神の例が多い。柴田郡[やぶちゃん注:底本は「柴田村」。ちくま文庫版で訂した。]では平(たひら)村の大高山神社、之に隣する村田足立(あしたて)二處の白鳥社は、相連繫してよく似た傳説を奉じている。但し緣起は何れも三百年來の京都製であつて、殊に別當寺と神主側と互に相容れざる言立をして居るのは怪しいが、双方の偶然に一致して居る箇條は、却つて最も荒唐信ずべからざる部分、卽ち乳母が稺き[やぶちゃん注:「をさない」。]皇子を川の水に投じたるに忽ち白鳥と化して飛び揚り去りたまふと云ふ點に在る。此の如き一見無用なる悲劇は、固より後人の巧み設くべき物語で無い上に、苅田宮の方にも同じく兒宮(ちごのみか)子捨川(こすてがは)投袋(なげぶくろ)などの舊跡があつて、此と共通なるきれぎれの口碑の今も有るを見れば、何か尚背後に深く隱れたる神祕が有るのであらう。それは又別の折に考へるとして、兎に角に御父を用明天皇、御母の名を玉倚媛(たまよりひめ)とする尊い御子(みこ)が、此地に祭られたまふ神なりと弘く久しく信ぜられて居たことだけは偶然の一致では無かつたらうと思ふ。以前平の隣村、金瀨宿(かながせじゆく)の總兵衞と云ふ者の家には、古風なる一管の笛を藏して居た。其先祖某、或時林に入りて大木を伐り、其空洞の中より之を見出したと傳へ、笛頭には菊の紋が彫つてある。是れ卽ち山路(さんろ)用ゐる所の牧笛なるべしと、土地の人たちは謂つたとあるから、あの物語の爰でも歌はれて居たことは疑が無いのである。

[やぶちゃん注:以上の伝承については、福田晃氏の論文「白鳥・鷹と鍛冶―二荒山縁起の「朝日の里」を尋ねる―」がたいへん参考になる。]

 長者の娘、容顏花のごとくにして、終に内裡[やぶちゃん注:「だいり」。内裏。]に召され、妃嬪[やぶちゃん注:「きひん」。妃と嬪。天子の第二・第三夫人、或いは、天子に仕える女官のこと。]の列に加はつたと云ふ話は、備後の靹津[やぶちゃん注:「とものつ」。]の新庄太郞、常陸の鹿島の鹽賣長者等其例少からず、古くは又實際の歷史であつたかも知れぬが、特に之を用明天皇に係け[やぶちゃん注:「かけ」。]まつるに至つては、乃ち亦豐後の影響なることを感ずるのである。炭燒藤太の舊住地の一つ、陸前の栗原郡に於ては、姉齒(あねは)の松の古事に托して、美女の途[やぶちゃん注:「みち」。]に死したる哀話を傳へて居る。氣仙(けせん)高田の武日(たけひの)長者が姉娘であつたと謂ふ。妹は後に代りて京に上らんとして、姉が墓の松に對して涕泣したと稱して、紙折坂[やぶちゃん注:「しをりざか」。]の地名もある。用明帝の御代の事と謂ひ、側に神通山用明寺があつた。陸中鹿角(かづの)郡小豆澤のダンブリ長老は、蜻蜓[やぶちゃん注:「だんぶり」。蜻蛉(とんぼ)類の古い総称。]に教えられて酒の泉を發見し、之に由つて富を積んだと謂ふ有名な長者である。唯一人ある愛女[やぶちゃん注:「愛娘」同様に「まなむすめ」と訓じておく。]を皇后に召されて、寂寞の餘りに財寶を佛に捧げたと云ふことが、是亦眞野長者の生涯に似通うて居るが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]地に於ては之を繼體天皇の御時と傳へて居る。嶺を隔てゝ二戸(のへ)郡の田山に於ても、田山長者の事蹟は全く是と同じく、是は唯大昔の世の事とばかりで、何れも既に至尊巡狩の傳へは存せず、いよいよ本[やぶちゃん注:「もと」。]の緣は薄れて居るが、尚此物語の獨立して起つたので無いことは、之を推測せしむる餘地があるのである。

 其理由の一つとして算へてよいのは、所謂滿能長者[やぶちゃん注:「まんのうちやうじや」。]の名が、遠く本州の北邊まで知れ渡つて居たことである。蜻蜓長者(だんぶりちやうじや)の例を見てもわかるやうに、大凡長者の名前ほど、變化自在なものは無い筈であるのに、説話中の長老の極度の富貴に住する者は、往々にして其名が滿能であつた。自分が始めて炭燒藤太の話を書いた後、八戸(のへ)の中道等(なかみちひとし)君が同處のイタコから、正月十六日のオシラ神遊びの詞曲を聽いて、手錄した所の一篇にも、やはり「まんのう」長者とあつた。イタコは奧州の村々に於て、桑の木で刻んだ男女の神に仕へ、神託を宣る[やぶちゃん注:「のる」。]を業とする盲目の女性である。世を累ねて曾て文字無く、授受を苟くもせぬ[やぶちゃん注:「いやしくもせぬ」。いい加減には決してしない。]彼らの經典に、尚この名稱を存して居るのは、尋常流行の章句と同一視することが出來ぬのである。但し此曲に説く所は、炭とは何のゆかりも無い養蠶の起原であつた。長者の厩第一の駿馬せんだん栗毛、たゞ一人ある姫君に戀慕して命を失ひ、其靈は姫を誘ひて上天し、後に白黑二種の毛蟲となつて現れたのを、十二人の女房と八人の舍人(とねり)、こかひ母、桑取り王子と爲つて之を養ふと謂ふのが其大要で、之に續いて春駒によく似た文段がある。干寶[やぶちゃん注:底本は「于」であるが、誤植なので訂した。]が搜神記は中央の學者等に取つても、手に入り易い平凡の書では無かつたのに、如何なる徑路を經𢌞つていつの時から、それと同じい話が北奧の地にばかり、斯うして姫見嶽の長者の名と結合しつゝ、巫女の祕曲には編入せらるるに至つたか。誠に過去生活の不可思議は、窺ふに隨つて益々其渺茫を加ふるが如き感がある。

[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、中国の伝説の一つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとする「蚕馬(さんば)」「蚕女」「馬頭娘」伝説と、奥州の「おしらさま」伝承との係わりを言っている(但し、私は「おしらさま」は本邦で独自に平行進化したもののように思われてならない)。その最も古形とされるのが、東晋の文人政治家干宝(?~三三六年)が記した私の偏愛する「捜神記」の巻十四にある話で、私は既に柳田國男 うつぼ舟の話 三の注で原文を電子化してある。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 四

 

 

 溯れば源は尚遙かである。神が人間の少女を訪らひ[やぶちゃん注:「とぶらひ」。]たもふということは、豐後においては嫗嶽(うばだけ)の麓に、花の本の[やぶちゃん注:「はなのもと」。段落末注参照。]神話として夙く之を傳へて居る。神裔は永く世に留まり、卽ち緖形氏(をがたうぢ)の一族と繁衍[やぶちゃん注:「はんえん」。「繁栄」に同じい。]したと謂ふ。緖形はまた大神田(おがた)とも書くものあり、大和の大三輪(おほみわ)の古傳と、本は一つであらうと謂ふ説も、尚其據り所無しとせぬのであるが、更に之を隣國宇佐神宮の信仰に思ひ合せるときは、先づ其脈絡關係の殊に緊切なるものあるを認めざるを得ぬ。八幡は最も託宣を重んじたまふ大神であつた。歷史の錄する所に從へば、其巫女の言[やぶちゃん注:「げん」。]は時代を逐うて進展し、現に朝家に在つては年久しく宗廟の禮を以て之を齋ひ[やぶちゃん注:「いはひ」。]祀られてあるが、當初は單にある尊き御母子の神と信ぜられ、必ずしも記紀に傳ふる所の應神天皇の事蹟とは一致せず、恰も山城の賀茂に於て別雷神(わけいかづちのかみ)とその御母とを祀るが如く、玆にも亦玉依姫は、其姫大神の御名であつた。大隅正八幡宮の如きは、後に宇佐より分れたまふ御社かと思ふのに、其社傳に於ては別に神祕なる童貞受胎の説があつて、頗る高麗百濟の王朝の出自と相類し、直接に日神をもつて御父とすと迄信じられて居た。是れ日本の國家の未だ公けに認めざりし所ではあるが、少なくとも以前の信徒の多數に、此の如く語り傳へる者はあつたのである。眞野の長者が放生會の頭(とう)に選ばれて、門前に榊を樹てられた[やぶちゃん注:「たてられた」。]時、流鏑馬(やぶさめ)の古式を知る者無くして、誰にてもあれ此神事を勤め得たらん者を、一人ある娘の聟に取らうと謂ふと、乃ち山路が進み出でゝ、始めて射藝を試みるといふ一段は、後に百合若大臣(ゆりわかだいじん)の物語にも、取り用ゐられたる花やかな場面で、此曲に聽き入つた豐後人の胸の轟きは想像にも餘りがあるが、其よりも更に驚くべかりしは、愈第三の矢を引きつがへて、第三の的にかゝらんとしたまふ時しも、天地震動して八幡神は神殿を搖ぎ出でたまひ、君の御前に畏まつて、自ら敬を十善の天子に致したまふと云ふ條である。卽ち神よりも尊い御身が、斯んな草苅童の姿を假りて、暫く長者の家に止まりたまふと云ふことが、果して尋常文藝の遊戲として、古人の口の端に上るべきものであつたか否かは、詳しく説明するまでも無いのである。宇佐が古來の傳統に基いて、次々に四所八所の若宮(わかみや)王子神(わうじがみ)を顯し祀り、遠い東方の郡縣に、絶えず活き活きとした信仰を運んで居たことを考へると、其力が山坂を越えつゝ、南鄰の國々へも早くから、斯うして進んで居たことは疑が無い。要するにもと山路が笛の曲なるものは、神が人間界に往來したまふ折の警蹕[やぶちゃん注:「けいひつ」。天皇や貴人の通行などに際し、声を立てて、人々を畏まらせて「先払い」をすること。]の音であつたのを、佛法が干涉して神子を聖德太子と解せしめんとしたゝめに、是を何のつきも無く[やぶちゃん注:何らの曰く所縁もなく。]、用明天皇には托するに至つたのである。

[やぶちゃん注:「花の本の神話」三輪山直系の大蛇の化身伝承「嫗嶽大明神伝説」で、これは「平家物語」巻第八の「緒環」の章でも語られている、緒方惟栄(これよし 生没年不詳:豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し、源範頼の平家追討軍に船を提供し、「葦屋浦の戦い」で平家軍を打ち破った武将)をその神裔とする。個人サイト戦国 戸次年表」の「嫗嶽大明神伝説を参照されたい。]

 此推定を更に確めるものは、姫の名の玉世であつた。宇佐の姫神の御名を玉依姫と傳へた理由は、久しい間の學者の問題であつて、或は之に由つて山に祀つた御神を、海神(わたつみ)の御筋かと解する者さへあつたが、神武天皇の御母君が、同じく玉依と云ふ御名であつたことは、唯多くの例の一つと謂ふばかりで、前にも云ふ如く賀茂でも大和でも、凡そ神と婚して神子をまうけたまふ御母は、皆此名を以て呼ばれたまふのである。玉依は卽ち靈託であつた。人間の少女の最も淸く且つ最もさかしい者を選んで、神が其力を現したまふことは、日本神道の一番大切なる信條であつた。神の御力を最も深く感じた者が、御子を生み奉ることも亦宗教上の自然である。今日の心意を以て之を訝るの餘地は無いのである。眞野長者が愛娘も、玉世であつた故に現人神(あらひとがみ)は乃ち訪ひ寄られた。それが亦八幡の古くからの信仰であつた。

 或は又別の傳へに、姫の名を般若姫と謂ふものがある。周防大畠に般若寺があつて、姫の廟所なりと謂ふ説と關係があらうと思ふが、尚さうしなければならぬ第二の必要は、姫の母長者の妻を亦玉世姫と謂ふ故に、之を避けんとしたものであつて、爰にも此物語の古い變化が認められる。烏帽子の插話に於ては、長者の妻は其夫に向つて、「御身十八自ら十四の秋よりも、長老の院號蒙つて、四方に四萬の藏を立て」と謂ひ、山中に炭を燒いた以前の生活は、もう之を忘れしめられて居るやうであるが、此點は恐らく豐後人の承認し能はざる改訂であつたらう。長者の物語は其性質上、斯うして際限も無く成長し、後には繪卷の如く幾つかに切り放して、纏めて見れば一致せぬ箇條が、現れて來るのを普通とはするが、今若し母と子と二人の玉世の、何れが先づ知られたかを決すべしとすれば、自分は躊躇無く話の發端であり、發生の動畿の不明であり、且つ類型の少ない炭燒の婚姻を以て、神を聟とした玉世の姫の奇緣よりも、一つ前から存在した場面なりと認める。然らば宇佐の玉依姫の故事も、此には適用が無かつたかと謂ふと、それは唯記錄に現れてからの八幡の信仰が、第二の玉世の物語に近かつたと云ふのみで、神を尋ねて神に逢ふと云ふ更に古い炭燒口碑が尚古く存し、時の力で十分に人間化して、斯うして久しく殘つて居たとも、考へられぬことは無いのである。炭燒はなるほど今日の眼から、卑賤な職業とも見えるか知らぬが、昔は其目的が全然別であつた。石よりも硬い金屬を制御して、自在に其形狀を指定する力は、普通の百姓の企て及ばぬ所であつて、第一にはタヽラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知つた者だけが、其技藝には與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]居たので、之を神技と稱し且つ其祖を神とする者が、曾てあつたとしても少しも不思議は無い。扶桑略記の卷三、或は宇佐の託宣集に、この郡厩(うまや)の蜂(みね)菱潟(ひしかた)の池の邊に、鍛冶(かぬち[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『かじ』。])の翁あつて奇瑞を現ず。大神(おほみわ)の比義[やぶちゃん注:「ひぎ」。]なる者、三年の祈請を以て之を顯し奉る。乃ち三歳の小兒の形を現じ、我は是れ譽田(ほんだ)天皇なりとのりたまふとある。若し自分などが推測する如く、比義は最初の巫女の名であつたとしたら、貴き炭燒小五郞が玉世姫の力に由つて顯れたと謂ふのは、極めて之に近い神話から、成長して來た物語と見ることができるのである。

2018/09/23

柳田國男 炭燒小五郞が事 三

 

      三

 前代の地方人が傳承に忠實にして、はなはだ創作に拙であつたことは、四箇所の炭燒長者の名が悉く藤太であつたと云ふやうな、些細な點からも窺ふことが出來る。是が心あつての剽窃であつたならば、寧ろ名前ぐらゐは變へたであらう。然るに幾つかの山川を隔てゝ信州園原の伏屋長者(ふせやちやうじや)なども、先祖は金賣吉次で其父は亦炭燒藤次[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『炭燒藤太』。]であつた。阿智川(あちがは)の鶴卷淵は亦例の通り、鶴は飛び立ち小判は沈むという故迹であつて、是も物語の要點はすべて皆、豐後の長者譚の第一節と異なる所が無い。豐後の眞野長者は小五郞であるが、それは炭燒の子に養はれてから後の名で、童名はやはり藤治と呼ばれて居たとある。數多の國所を經𢌞つて、此だけの月日を重ねて後迄、話の興味とはさして關係も無ささうな、名前すらも變化をしなかつたと謂ふのは、恐らくは歌の口拍子の力であらう。

 此序に尚少しばかり、名前の點に付て考へてみたいのは、同じ盆踊りの歌でも筑前朝倉郡に現存するのは、藝州に於て臼杵の小五郞を説くに反して、別に「豐後峰内炭燒又吾」と謂ひ、「又吾さんとも謂はれる人が、こんな寶を知らいですむか」ともうたうて居た。峰内は卽ち三重の内山觀世音の地をさしたものらしく、今も彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]に傳はつて居る長者の記錄では、又吾は小五郞を養育した親の炭燒の名であつて、爰に亦一代の延長を見るのである。大野郡の三重と海部[やぶちゃん注:「あま」。]郡の深田とは、山嶺を隔てゝ若干の距離がある。長者が船著きの便宜の爲に、海に臨んだ眞名原(まなばる)の地に、居館を移したと云ふのは説明であるが、然らば兩處で炭を燒いて居たと云ふ言ひ傳へは成立せぬ。兎に角に蓮城寺と滿月寺と、二箇の佛地の緣起には矛盾があり、之を流布した者の間にも、近世東西本願寺の如き爭奪のあつたことが、稍推測し得られるやうである。其上に更に一つの錯綜は、周防大畠浦の般若寺の方からも加はつて居るらしいが、是はまだ目が屆かず、且つ直接に炭燒の話とは緣が無いから殘して置く。之を要するに豐後の本國に於ては、却つて後代の紛亂があつて、昔の物語の單純なる樣式は、別に四方に散亂した首尾整然たらざる斷片の中から、次第に之を辿り尋ねるの他は無いやうになつたものと考へられる。

 舞の本の「烏帽子折」[やぶちゃん注:「えぼしをり(えぼしおり)」。]の中に、美濃の靑墓(あをばか)の遊女の長[やぶちゃん注:「をさ(おさ)」。]をして語らしめた一挿話、卽ち山路(さんろ)が牛飼ひの一段は、文字の文學として傳はつた最も古い眞野長者であらう。用明夫皇職人鑑[やぶちゃん注:「ようめいてんわうしよくにんかがみ(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」近松門左衛門作の時代物浄瑠璃で全五段。宝永二(一七〇五)年大坂竹本座初演。出語りで出遣い方式及びからくりを用いた舞台機構が、当時、評判となった。]を始めとし、近世の劇部は概ね範を此に採り、現に豐後に行はるゝ長者の一代記の如きも、或は飜つて其説に據つたかと思ふ節があるが、固より必ずしも之を以て、久しい傳承を改めざりしものと信ずるには足らぬのである。長者の愛娘が觀世音の申し兒であつて、容色海内に隱れ無く、天朝百方に之を召したまへども、終に御仰せに從はなかつたと謂ふのは竹取以來の有りふるしたる語り草ながら、之を假り來たつて後に萬乘の大君が、草苅る童に御姿をやつして、慕ひ寄りたもふと云ふ異常なる出來事を、稍實際化しようとした所に文人らしい結構がある。然るに其皇帝を用明天皇とした唯一つの理由は、生れたまふ御子が佛法最初の保護者、聖德太子であつたと謂はんが爲であつたらうに、其點に付ては何の述ぶる所も無い。しかも牛若御曹司の東下(あづまくだ)りの一條に、突如としてこの長物語を傭ひ[やぶちゃん注:「やとひ(やとい)」。]入れたには、何らかの動機があつた筈である。今は章句の蔭に隱れて居る笛の曲に、山路童(さんろわらは)[やぶちゃん注:真野長者伝承に於いて花人(はなひと)親王(後の用明天皇)が真野長者の草刈り童となって名乗ったとされる名。「山路が笛」という成句もあり、恋心を寄せさせる道具とされる。]の神祕なる戀を、想ひ起さしむる節があつたか。或は海道の妓女たちが、眞野長者の榮華の物語を、歌にうたつて居た昔の習慣が、斯うして半ば無意識に殘つて居るのか、はた又金賣吉次三兄弟の父が、かの幸運なる炭燒であつたと云ふことが、將に漸く信ぜられんとする時代に、最後の烏帽子折の詞章は出來たのであらうか。何れにしても此中に保存せらるゝ、山路と玉世姫の世にも珍しい婚姻は、卽ち長者[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「長者」の前に『豐後の』という限定が入る。]の大なる[やぶちゃん注:「おほいなる(おおいなる)」。]物語の一節であつて、而も或時に語部(かたりべの)[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「語部」の前に『中世の』という限定が入る。]の興味から、早既に著しい改作を加へて居たことを知るのである。

 

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