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カテゴリー「柳田國男」の93件の記事

2018/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一一

 

     一一

 

 隱れ里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。只どうしても些しく言はねばならぬのは、西日本の隱れ里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々其が尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。薩藩舊傳集には無宅長者の話がある。有馬と云ふ薩摩の武士、鹿籠(かご)の山中に入つて、四方の岩が屛風の如く取繞らす處を見つけ、獨り其内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國(かくれぐに)を見ることがある。地を淸め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねて其地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。[やぶちゃん注:←句点は底本にはないが、私が特異的に補った。]肥後では舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)と云ふ邊に昔仙家があつて、仙人の井と云ふが獨り遺つて居る。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見ると云ふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。

[やぶちゃん注:「薩藩舊傳集」「さっぱんきゅうでんしゅう」(現代仮名遣)と読む。薩藩叢書刊行会が「薩藩叢書」の第一編として明治四一(一九〇八)年に刊行したもの。

「無宅長者」不詳。しかしどうもこの話、胡散臭い。後に出る「鹿籠」というのは鹿籠村で現在の枕崎市であるが、ここには天和年間(一六八一年~一六八三年)に郷士有川夢宅なる人物によって鹿籠金山が発見されて、島津藩が開発している。「眞冬にも雪積らず」なんて言ってるが、もともと鹿児島のこの辺り、雪なんざ、十数年に一度降るか降らぬかだ。「暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた」ってのもイヤに金山と絡むぜ! 椀貸伝説なんぞより、そっちの方が文字通りの「金」気(きんき)がプンプンでおはんど! 柳田っつサ!

「日向」「霧島の山中」「隱國」不詳だけどね、しかし、このフレーズ、一目瞭然、「天孫降臨」「日向」「高千穂」「天の岩戸」じゃあねえの?! 柳田っサ! これはそっちの神話で解明した方がよかごはんど!

「肥後」「舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)」現在の熊本県合志(こうし)市幾久富(きくどみ)油古閑(あぶらこが)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「群塚」は不明。何だか、この名前、古墳群クサくね? しかも、柳田先生、先生の嫌いな、先生が椀貸伝承では結びつけるのを激しく嫌悪してた古墳が、この地域の北西には群れ成して、ありますゼ!(このグーグル・マップ・データを見よ! 地図上の右中央下(東南)部分が油古閑)

「佐渡の二つ山」既出既注。]

 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることのできぬ閑靜な山陰があるので、之に託して色々の話を傳へたものと見えるが、別に又同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつて甞て旅僧が之に入り宮殿樓閣を見たと云ふ話もある。尾張名古屋の隱里と云ふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某と云ふ若侍が、鷹狩に出て法(かた)の如き隱里を見たこと沙汰無草の中に見えて居る。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康永の參詣記にあると神都名勝志に之を引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬に由つて翌年の豐凶を占う風あること京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したと云ふ話が勢陽雜記に出て居る。近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷と謂ひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたと云ふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根に在つて亦一個の鼠の隱里であつたと云ひ、「昔此所に鼠ども集まり居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひをなし、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らいをまなぶ云々」と因幡民談にあるのである。

[やぶちゃん注:「鹽津村」現在の石川県七尾市中島町(なかじまちょう)塩津(しおつ)、七尾西湾の湾奧北の位置。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船隱し人隱し」不詳。

「同國小木の三船山」鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)字小木(おぎ)の御船神社のある丘のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近頃の市史」東京帝国大学教授上田萬年を顧問として大正四(一九一五)年から翌年にかけて刊行された「名古屋市史」全十巻。本「隱れ里」の初出は大正七年の『東京日日新聞』である。但し、同書を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、地名として出るそれは少しも「謎のやうな話」ではなかった。不審。

「安永三年」一七七四年。

「沙汰無草」「さたなしぐさ」。随筆。詳細書肆不明。

「伊勢」「山田の高倉山」不詳。関係あるかどうか知らんが、伊勢神宮北境内外の三重県伊勢市八日市場町に「神宮司庁神宮高倉山幼稚園」というのはある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「康永」南北朝期北朝方の元号。一三四二年から一三四四年まで。

「神都名勝志」東吉貞・河崎維吉(いきち)著。明治二八(一八九五)年吉川弘文館刊。

「多氣郡齋宮村」「さいくうむら」と読む。現在の三重県多気郡明和町の南半分に相当する。素敵な「齋宮(さいくう)の森」は明和町斎宮に一応「斎王(さいおう)の森」(ここ(グーグル・マップ・データ))として現存する。私は正直、「いつきのもり」と読みたかったなぁ。

「御影供」「みえく」と読む。東寺のそれは真言宗祖弘法大師御影供で、空海が入定(にゅうじょう)した三月二十一日(承和二(八三五)年)の「正(しょう)御影供」法会のそれ。これは祖師空海の御影を奉安し、その報恩謝徳のために修するものである。この叙述から見ると、東寺のそれでは隠れ里から何かの供物を搬入して供えたということらしいが、よく判らぬ。

「勢陽雜記」江戸後期の山中為綱の編輯になる伊勢地誌。

「近江」「犬上郡長寺の茶臼塚」現在の滋賀県犬上(いぬかみ)郡甲良町(こうらちょう)長寺(おさでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「茶臼塚」は不詳。

「東山靈山」ようわかりまへんけど、今の京都府京都市東山区下河原町の、京都東山霊山観音(りょうぜんかんのん)はんのあるとこ辺りでっしゃろか? ここでおす(グーグル・マップ・データ)。

「因幡岩美郡大路村の鼠倉」現在の鳥取市の、この附近(グーグル・マップ・データ)であろうと思われる、旧米里(よねさと)地区である。「鼠倉」と「米里」とは相性の好い地名ではないか。

「因幡民談」「因幡民談記」因幡国に関するものとしては最古とされる史書。貞享五・元禄元(一六八八)年完成し。全八部十巻。原本は焼失して現存しないが、写本が複数伝えられている。作者は鳥取藩の小泉友賢(元和八(一六二二)年~元禄四(一六九一)年)元は岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれたが、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになってそれに従い、因幡国へ移った。二十歳の頃、『京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ』。三十一歳から五年に亙って『鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った』という。彼は二十年を『費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集し』それを纏めたものが本書である(以上はウィキの「因幡民談記」に拠った)。電子化画像が複数あるが、管見下限りでは今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。孰れにせよ、これは所謂、「鼠浄土」譚の一つであることは間違いない。]

 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、ここでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。ただし鼠倉又は長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたと云ふ證據にはなるのである。攝陽群談の傳ふる所に據れば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。卽ち豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)の南に當つて、昔此地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるに足らずと云ふこと無しと雖も、終に亡滅して名のみ隱里と云へり。今も此地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふと云ふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記して居る。後世に至つて隱里の愈々人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、之に由つてせめて身の幸運を賴んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ケ窪でも、享保の始頃、ある百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふに之を知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。其家果して大に富み、後は千石餘の高持となつたと云ふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いて居た男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたと云ふ結末と、同調異曲の言傳へのやうである。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」岡田溪志が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年完成した摂津国の地誌。全十七巻。江戸時代の摂津地誌としては記述が最も詳しい。

「豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)」恐らくは現在の大阪府池田市木部町(きべちょう)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「武庫郡の打出」不詳。武庫郡は現在の西宮市の大部分と、尼崎市の一部及び宝塚市の一部に当るが、「打出」という地名は見出せなかった。

「笹ケ窪」既出既注であるが、再掲しよう。現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

2018/02/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇

 

     一〇

 

 椀貸の穴が水に接すれば龍宮と云ひ乙姫と云ひ、野中山陰に在るときは隱里と云ひ隱れ座頭と云つたのは、自分には格別の不一致とも思はれぬ。龍宮も隱里もともに富貴自在の安樂國であつて、容易く人間の到り得ぬ境であつた。浮世の貧苦に惱む者の夢に見うゝつに憧れたのは、出來る事なら立ち歸りにでも一寸訪問し、何か貰つて歸つて樂しみたいと云ふに在つたこと、兩處共に同樣である。否寧ろ龍宮は水中に在る一種の隱里に外ならぬ。話が長くなつたが此事を今些し言はうと思ふ。

 三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石と云ふ石は亦昔膳椀を貸したさうである。人の惡い者が返さなかつた爲に中止となつたこと例の通りである。鸚鵡石は人の言語を答へ返す故に起つた名で、是又國々に多い話であるが、椀を貸したのは爰だけかと思ふ。人のよく知る鸚鵡石は伊藤東涯翁の隨筆で有名になつた伊勢度會郡市之瀨の石であるが、此附近にも尚二三の同名の石があつた外に、江州の蒲生郡、越前敦賀の常宮浦、東國では伊豆の丹那村、武州御嶽の山中等にもあり、飛彈の高原郷で鳴石、信州伊那の市之瀨同じ更級の姨捨山で木魂石(こだまいし)、福島縣白河附近の小田倉村でヨバリ石、さては南津輕の相澤村でホイホイ石、西部にあつては、土佐の穴内の物言石、備後安藝山村に多い呼石の類、或は言葉石と云ひ答へ石と云ひ、又は三聲返しの石と云ふが如きも皆同じ物である。元は恐らく反響をコダマ卽ち木の精と信じた如く、人の口眞似するのを鬼神の所爲としたのであらうが、其はあまり普通の事と分つてから後は、いやコダマではなく返事をするのだとか、又は一度呼べば三度呼び返すとかいつて、強ひて不思議を保持せんとして居る。甚しきに至つては和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石、八月二十七日の祭の日に限り、人がこれに向つて「物もう」と言へば「どうれ」と應へるなどゝいつて、醴酒と芒の穗を供へたとさへも傳へて居る。

[やぶちゃん注:「三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石」現在の愛知県田原市福江町ではなく、その東方の愛知県田原市伊川津町(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。サイト「おでかけトヨタ」のこちらに『愛知県伊川津の山中にある岩石』とし、『岩が音を反響させる様子がおうむの人まねに似ていることから名づけられ』たもので、高さ・幅ともに約十五メートルほどあるという。『昔、この地方の郡司であった渥美大夫重国の娘玉栄(たまえ)には婚約者がい』たが、『婚約者の心が次第に離れてしまい』、『玉栄には憎しみの気持ちが芽生え』、『やがて』、『玉栄は母の形見の唐竹でできた横笛とともに岸上から投身自殺を図り、それ以来』、『この岩は笛の音だけは反響しないという昔からの言い伝えがあ』るとする。また、サイト「東三河を歩こう」の「鸚鵡石(おうむせき) 愛知県田原市伊川津町鸚鵡石」では画像で当地が見られる。

「伊藤東涯」(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は江戸中期の儒学者。名は長胤(ながつぐ)、東涯は号。知られた儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂二代目。古義学興隆の基礎を築き、父仁斎の遺した著書の編集・刊行に務め、自らも「訓幼字義」などを刊行した。中国語・中国制度史・儒教史などの基礎的な分野の研究にも力を入れ、また、新井白石・荻生徂徠らとも親交が深かった。彼の随筆は「秉燭譚」が知られるが、ざっと見たところでは見当たらない。発見し次第、追加する。

「伊勢度會郡市之瀨の石」現在の志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡石(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう(ここは旧度会郡域である)。「伊勢志摩きらり千選」のこちらこちらで詳しく説明されてある。

「越前敦賀の常宮浦」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「飛彈の高原郷」岐阜県北西部。現在の飛騨市神岡町・高山市上宝町・奥飛騨温泉郷附近に該当する。

「信州伊那の市之瀨」現在の長野県伊那市長谷市野瀬(はせいちのせ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福島縣白河附近の小田倉村」福島県西白河郡西郷村小田倉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南津輕の相澤村」青森県浪岡町大字相沢か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の穴内」高知県安芸市穴内(あなない)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石……」「卷第六十五」の「陸奥」にある以下。原本より訓読して引く。一部読みを歴史的仮名遣で補った。但し、「ものも(う)」のルビは原典のママ。【 】は割注。

   *

諏訪大明神 會津若松に在り【城内の鎭守と爲す。】

祭神 健御名鋒命(たけみなかたのみこと)【大巳貴(おほむなちの)命の子(みこ)。信州の諏訪と同じ。】

社の傍(かたはら)に神石有り。髙さ六尺、幅三尺許(ばかり)。籬(いかき)をを以つて之を圍ふ。八月二十七日、祭の日に限り、人、之れに向(むかひ)て、「物申(ものも)う」と謂へば、石、答へて、「誰(どれ)」と曰(い)ふの音、有り。此の日、醴酒(あまざけ)に芒(すゝき)の穗(ほ)を挿(はさ)んで、之れに供す。

   *]

 其鸚鵡石がさらに進んで膳椀借用の取次までもしたと云ふのである。是などは多分他の家具の岩屋などゝは異なり、地下にも水底にも通ずる穴が無かつたであらうから、コロボツクルとも土蜘蛛とも説明はし難かろうと思ふ。白山遊覽圖記に引用した異考記と云ふ書に、今より六百八十何年前の寛喜二年に、六月雪降りて七日消えず、國中大凶作となつた時、白山の祝(はふり)卜部良暢、窮民を救はんがために山に上つて斷食し、幣を寶藏石と云ふ岩に捧げて禱ること三日、忽ち白衣玉帶の神人現れ、笏をもつてその石を叩けば石門洞然と開いて、内は丹楹碧砌の美しい宮殿であつた。其時一條の白氣其中より出でゝ麓の方に靡き、村々の竹林悉く實を結んで餓ゑたる民、食を繋ぐことを得た云々。亞刺比亞夜譚の隱里の物語と、日を同じくして談ずべき奇異である。之に就いて更に考へるのは、上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれたことである。是は亦水で造つた仙俗二界の堺の塀であつたのが、時あつて二つに開くことあるべきを意味したものであらう。廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ケ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、其後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれは、隨意に奧に入り佛を拜し得る、之を山靈の所爲として居たさうである。日光の裏見の瀧などは十餘年前の水害の時迄は、水後にちやんと徑があつたが、又以前は此類であつたらう。美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧も、自分は嘗て往つて見たが、同じく亦水の簾が深く垂れ籠めてあつた。これを繪本西遊記風に誇張すれば、やがて又有緣の少數者にのみ許された隱里に他ならぬ。現に今昔物語の中の飛彈の別天地などは、浮世の勇士を賴んで猿神を退治して貰ふ程のしがない桃源ではあつたが、やはり導く者あつて跳つて入らねば、突破ることのできない程の瀧の障壁が構へられて居たのである。

[やぶちゃん注:「白山遊覽圖記」「しらやまゆうらんずき」と読む。文政一二(一八二九)年序・金(子)有斐(仲豹)撰になる加賀白山の紀行地誌。「国文学研究資料館」のこちらの画像で全篇が読める(但し、漢文白文。ADSLで表示に時間がかかるので引用箇所の探索は諦めた。ご自分でお探しあれ。悪しからず)。

「異考記」不詳。

「寛喜二年」一二三〇年。

「卜部良暢」不詳。読みは「うらべよしのぶ」或いは「うらべりょうちょう」(現代仮名遣)。

「丹楹碧砌」「たんえいへきぜい」。朱塗の柱と緑玉で出来た石畳。

「亞刺比亞夜譚」「アラビアンナイト」。

「上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれた」既出既注

「廣島縣山縣郡都志見の龍水山」ちくま文庫版全集でも『竜水山』となっているが、これは現在の広島県山県郡北広島町中原龍頭山(りゅうずやま)の誤りではなかろうか? ここ(グーグル・マップ・データ)。北広島町都志見(つしみ)の北境界外直近がピークである。

「高さ十二丈幅三丈」高さ三十六・三六メートル、幅九メートル十センチほど。

「美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧」岐阜県郡上市白鳥町(しろとりちょう)(前谷まえだに)にある阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)。(グーグル・マップ・データ)。

「繪本西遊記」文化三(一八〇六)序~天保八(一八三七)年頃に最終刊行か。口木山人(西田 維則)訳。大原東野(とうや)/葛飾北斎ら絵。

「今昔物語の中の飛彈の別天地」「今昔物語集」の「卷第二十六」の「飛彈國猿神止生贄語第八」(「飛騨の國の猿神(さるかみ)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる語(こと)第八)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。]

 此等の事柄を考へ合せて見ると、膳椀の貸借に岩穴あり塚の口の開いたのがあることを必要とし、中に人が居て出入を管理する筈と考へるやうになつたのは、或は信仰衰頽の後世心かも知れぬ。これを直ちに元和寛永の頃まで、その邊に姿を見せぬ蠻民がいた證據の如く見るのは、或は鳥居氏の御短慮であつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「元和寛永」一六一五年から一六四五年。

「後世心」「ごしやうごころ(ごしょうごころ)」。後生の安楽を願う心。来世の安楽の種になるような功徳(くどく)をしたいと思う気持ち。「後生気(ごしょうき)」とも言う。ここは要は信仰が廃れた結果として後世(ごぜ)だけでなく、専ら現世でも悪影響が及ぶことを恐れた人心の謂いであろう。]

2018/02/02

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九

 

     

 

 日本の長者の話には、往々にして福分の相續とでも謂ふべき思想を含んで居る。卽ち前期の長老は緣盡きてすでに沒落し畢り、その屋敷は草茫々として井戸ぐらゐより殘つて居らぬのに、後日其處へ來て偶然に埋めてあつた財寶を掘出し、又掘出すかも知れぬと思つて永い間人が探したこともあつて、其後半は傳説から現世生活にまで繫がつて居る。中にも黃金の鷄の類に至つては其物自體に靈が有るやうにも傳へられ、これを手に入れ得た者の幸運は申すに及ばず、或は其地底の啼聲を聞いて出世をしたなどゝ云ふ話もある。飜つて思ふに二つ岩の團三郎は貉ながらも昔の長者である。其手元から貸出さうと云ふ膳椀であつたとすれば、之を持傳へて果報にあやかりたいと思ふのは常の情である。飛彈の丹生川の鹽屋村で膳椀を貸した故跡の名を長者の倉と云うひ、或は伊勢の椀久塚其他に於て、長老が家の跡に築いたと云ふ塚に椀貸の話のあるのも、つまりは之を借りて一時の用を足す以外に、あはよくば永久に之を我物としようの下心が、最初から有つての上の占領とも見られぬことは無いのである。

[やぶちゃん注:「飛彈の丹生川の鹽屋村」現在の岐阜県高山市丹生川町(にゅうがわちょう)塩屋。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢の椀久塚」現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。]

 

 千葉縣印旛沼周圍の丘陵地方は、昔時右樣の食器貸借が最も盛んに行はれたらしい注意すべき場所である。就中印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中の岩穴は、入口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は疊七八疊の廣さに蠣殻まじりの石を以て積み上げてある。里老の物語に日く、往古此中に盜人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出て貸したと云ふことである。大竹の隣村福田村には此から借りたと云ふ朱椀が一通り殘つて居る由云々。茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮は、鬼怒川の岸に近い小さな岡の上にある。石段の右手に當つて口もとは四尺四方の平石で圍み、中は前の穴に數倍する古い窟がある。以前にはこの奧に井戸があつたと云ひ、隱れ人と云ふ者が爰に住んで居て、やはり篤志の椀貸をして居つたと云ふ。それから先は他の地方のと同じ話である。

[やぶちゃん注:「印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中」前者は千葉県成田市松崎附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者はそこから北へ三キロメートルほど行った成田市南羽鳥。ここ(グーグル・マップ・データ)。航空写真で見ると、一部が今も残るが、この二村の間には非常に多くの丘陵地が入り組んである(あった)ことがよく判る。

「大竹の隣村福田村」松崎の北に接する現在の千葉県成田市の福田地区。柳田先生、あなたは自分の椀貸伝承非古墳説に都合が悪いから言っていないのでしょうけれど、この旧八生村大竹から旧豊住村南羽鳥への直線上の、この地区の上福田には上福田岩屋古墳がありますぜ? 偶然、なんですかねぇ?

「茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮」思うに、これは現在の茨城県筑西市船玉周辺であろう。鬼怒川左岸にあり、しかも右岸の直近である、現在は茨城県結城市となっている久保田には八幡神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。これかも知れないし、ここに合祀されたのかも知れぬ(鬼怒川越えて合祀するというのは民俗社会的にはそう簡単には行い得ないが、近代なら、容易にやったろう)。ともかくも左岸の船玉地区には神社を地図上では現認は出来ぬ。しかしだ、実はそんなことはどうでもいいんだ。上の地図をよぅく、御覧な、この八幡神社と鬼怒川を挟んで南東八百メートル弱の対称位置に、ほぅれ、船玉古墳(ここはまた、確かに先生のおっしゃる通り、「鬼怒川の岸に近い小さな岡の上」ですねぇ)ってのがありますぜ、柳田先生? これもまたまた偶然なんですかねぇ?! 因みに、この古墳、先生の嫌いな鳥居龍蔵先生が明治期に既に調査報告されてますぜ! 実に偶然とは面白いことでござんすなぁ筑西市公式サイト内のこちらを参照されたい)。]

 

 盜人と云ひ隱れ人と云ふだけではまだ正體がよく分らぬが、さらに同縣關宿附近の長洲村に於て膳椀を貸したと傳ふる岩窟は、其名を隱れ座頭の穴と稱し、やはり前夜に賴んで置いて翌朝貸出したこと、及び里人の違約に起因して其事の絶えたと云ふ話を、弘賢隨筆には二人まで別々に報告をして居る。隱れ座頭は諺語大辭典によれば茶立蟲の異名とあり、又俗説には一種の妖恠とあつて、夕方迷藏戲(かくれんばう)をして遊ぶと隱れ座頭が出ると云ふ諺のあることを記して居る。菅江眞澄の文化年中の紀行を見ると、北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置し、眼を病む人は米を持參して祈願をかけ驗あり、此穴の中には又隱れ座頭と云ふ者住み、心直き者には寶を授けたりと童の語り草とせりとある。高田與清の相馬日記もこの時代に出來た紀行であるが、下總印旛郡松崎村の附近に三つの大洞穴があつて、其中に隱れ座頭と稱する妖恠の住んで居たと云ふ噂を載せて居る。然るにその松崎は前にいふ八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があると云ふ點まで似て居るから、疑も無く今日の土地の者が、盜人が椀を貸したと云ふ穴と同じであつて、また他の一二の書には此穴の名を隱里(かくれざと)と唱へて居るを見れば、隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる。

[やぶちゃん注:「同縣關宿附近の長洲村」「同縣」とあるが、それでは茨城県となるが、「關宿」は現在、千葉県野田市関宿町(せきやどまち)である(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、東で利根川を境に茨城県と隣接し、茨城県猿島(さしま)郡境町(さかいまち)とともに県境を越えた商業中心地ではあったし、次の注の引用からも県を超えた関宿一帯(埼玉県とも江戸川を隔てて西で接する)にこのような伝承があったことは確かである)。長洲村は不詳。識者の御教授を乞う。

「隱れ座頭」はウィキの「隠れ座頭」によれば、北海道・秋田県・関東地方を中心に、日本各地に伝えられている妖怪の一種で、子供を攫う、夜中に物音を立てる、人に福を授けるなど、地方により様々な性質の伝承がある、とする。『茨城県や埼玉県秩父地方では』、『子供が行方不明になることを「隠れ座頭に連れて行かれた」といい』、『秩父ではヤドウカイ』(夜道怪。「宿かい」「やどうけ」とも称する)『に捕らえられたともいう』。『実在の昆虫であるチャタテムシ』(昆虫綱咀顎目に属するチャタテムシ類。コチャタテ亜目 Trogiomorpha・コナチャタテ亜目 Troctomorpha・チャタテ亜目 Psocomorpha の三目に分かれ、有翅と無翅の種がいる)『の立てる音がモデルとの説もあり』、『かつてはスカシチャタテムシ』(チャタテ亜目ケチャタテ下目ホソチャタテ科Stenopsocus 属スカシチャタテ Stenopsocus pygmaeus のことであろう)『の羽音を耳にした人が「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』。『昭和に入ってからも人をさらうという話があり、昭和』十『年代には、東京の青梅市に疎開していた少女が行方不明となり、隠れ座頭に攫われたと大騒ぎになって一大捜査が行なわれた事例がある。その少女は無事に発見されたものの、その後も何度も行方不明になったという』。『神奈川県津久井郡では、夜中に箕を戸外に出すと、隠れ座頭が箕を借りて行ったり、踏みがら(精穀器具)で物を搗く音を立てるといい、そっと行ってみると隣の家で踏みがらを搗いていたりするという。千葉県印旛郡にも似た伝承があり、米搗きに似た音を立てることから狸の腹鼓ともいわれた』。『相州の津久井(現・神奈川県津久井郡)などでは踏唐臼(ふみからうす)の下に隠れている妖怪ともいわれた』。『隠れ座頭の語源は隠れ里ともいわれるが』、『これは隠れ座頭が広く奥羽・関東に渡って巌窟の奥に住む妖怪と信じられ、常人の目に見えない巌窟などの住民と考えられたことから、そのような地底の国が隠れ里と名づけられたことが由来とされている』。『本来の隠れ里は昔話などで理想郷のように語られることが通例だったが、人々の信仰が変化して怪物と解釈されるようになり、座頭の職業に若干の神秘性を伴って隠れ座頭の伝承になったものと考えられている』。『隠れ里にいった者は裕福になれるが、隠れ座頭の足音を聞いた者も裕福になれるとされる』。『茨城県では、隠れ座頭の餅を拾うと長者になるという』。『秋田県横手市でも福を授けるという伝承があり、隠れ座頭の姿はかかとのない盲人で、市の立つ日にこれを見つけると長者になるといわれた』。『また』、『北海道の熊石町(現・八雲町)の黒岩という集落にあった洞窟には、円空上人の作った地蔵尊が安置されているが、この洞窟に隠れ座頭が住んでおり、正直者が洞窟を訪れると宝物を授けたという』とある。

「弘賢隨筆」(ひろかたずいひつ)は幕府御家人の右筆で国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の考証随筆。全六十冊。当該部は所持しないので示せない。

「諺語大辭典」(げんごだいじてん)は既出既注であるが、再掲する。国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)の編になる明治四三(一九一〇)年有朋堂刊の俗諺の辞典。

「菅江眞澄の文化年中の紀行」多数ある(ウィキの「菅江真澄」を参照)ので比定出来ない。ただ、言えることは、文化年中(一八〇四年~一八一八年)には菅江は蝦夷地に渡航しておらず、これは伝聞或いは以前の蝦夷地探訪(天明八(一七八八)年から寛政四(一七九二)年の間)の際の追想と思われる。

「北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置」現在の北海道二海郡八雲町熊石黒岩町の「円空上人滞洞跡」。ここ(グーグル・マップ・データ)。「八雲町」公式サイト内のこちらに、寛文五(一六六五)年に『松前に渡った円空上人は約』二十『ヶ月を蝦夷地で過ごし、熊石地区黒岩の洞窟にも滞留し、いくつかの作物を残した。根崎神社のご神体・聖観音立像や北山神社、相沼八幡神社のご神体である二つの来迎観音像が円空仏である。(ただし、円空仏像は公開していない。)』とある。地蔵は現存しないと考えられる。

「高田與清の相馬日記」国学者、高田(小山田)与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年:武蔵国多摩郡小山田村生まれ。村田春海らに師事し、故実の考証学を専門とし、平田篤胤・伴信友とともに「国学三大家」と称された。天保二(一八三一)年には史館に出仕し、後期水戸学にも影響を及ぼした)が文化一四(一八一七)年八月十七日、神田川河畔を出発し、千葉まで旅行した際の十一日間の日記。題名は平将門が本拠とした城跡(現在の千葉県相馬郡)を訪ねる事が一応の目的であったことに由来する。「奈良女子大学学術情報センター」のこちらで原本画像全篇を視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる」柳田先生、そこまで鬼の首捕ったように指摘されるのであれば、序でに古墳もあると、なんで、仰らないかなぁ?

 

 隱里から器具を借りた話は此外にも段々ある。津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺の誤聞で、卽ち盜人とも隱れ座頭とも言うた同じ穴のことらしい。窟は大なる塚の下にあり、これを築造した石はこの地方には産せぬ石材で、これに色々の貝の殼が附いて居た。「村の者は隱里とてそのかみ人住める所にて、好き調度など數多持ちたり、人の客などありて願ひたるときは器を貸したり、今も其を返さで持ち傳へたるものありと云へり」とある。「相馬日記」より少し前に出た著書である。又同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹にも、隱里と稱して道具を村民に貸した窟がある。昔は此穴の中で夜更には米を搗く音がしたと云ふ。明治三十四五年頃土木工事の時、此附近から錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た。將門亂の時の落武者だと云ふことに決したさうである。又同郡酒々井(しゆすゐ)の町の北、沼に臨んで辨天を祭つてある丘の背面にも、同じ傳説ある窟があつて之を嚴島山の隱里と謂ふ。一名をカンカンムロとも呼ぶのは、この窟に入つて土の面を打つと、金石のやうな響がした爲である。維新以來この中に盜人も住み狐狸も住んで、今では到頭其址が分らなくなつた。

[やぶちゃん注:「津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とある」「譚海」は津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。京都生まれで、後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。私は同書の電子化注も手掛けているが、未だ「卷の二」の為体である。以下に原文(「卷の四」の「下總國成田石の岩屋の事」)を示す。一部に私が歴史的仮名遣で読みを附し、読点も追加してある(底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版)。

   *

下總成田不動尊の近きあたりに龍光寺と云(いふ)村有(あり)。夫(それ)に四つの井(ゐ)三つの岩やといふ物あり。此(この)井にて一村、飢渇に及(およぶ)事なし。岩屋は二つならびて大なる塚の裾に有(あり)、一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有。岩屋の入口の大さ壹間(いつけん)に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石(ねぶかはいし)の如きを、二つをもて、扉とせり。岩屋の内、皆、大なる石をあつめて組(くみ)たてたるもの也。其石に、みな、種々の貝のから付(つき)てあり、此石、いづれも壹間に壹尺四五寸の厚さの石ども也。岩屋の内、六、七間に五、六間も有、高さも壹丈四、五尺ほどづつ也。此村邊に、すべて、かやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壯大成(なる)ものを造(つくり)たる事にや、由緒、しれがたし。村の者は隱里とて、そのかみ、人住(すめ)る所にて、よき調度など、あまた持(もち)たり。人の客などありて、ねぎたる時は、うつはなど、かしたり、今もそれをかへさで、もちつたひたるものあり、といへり。

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「印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺」千葉県印旛郡栄町(さかえまち)龍角寺の内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。安食は現在はここ(グーグル・マップ・データ)で龍角寺の北西。はい、前のリンクした地図を見ましょう! 国指定史跡の岩屋古墳がありまっせ、柳田先生?! ウィキの「龍角寺岩屋古墳」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、方墳で、これは百十四基もある龍角寺古墳群の百五号古墳を指す、とある。『印旛沼北岸の標高約三十メートルの台地上に位置する。築造年代は古墳時代終末期の世紀前半頃との説と、七世紀中ごろとの説がある。これはこれまで岩屋古墳から検出された出土品が全くなく、主に横穴式石室の構造で築造時期についての論議がなされており、築造時代を推定する材料に欠ける上に、龍角寺古墳群内で岩屋古墳の前に築造されたと考えられる浅間山古墳の造営時期が、七世紀初頭との説と七世紀第二四半期との説があることによる』。『墳丘は三段築成で一辺七十八メートル、高さは十三・二メートル、幅三メートルの周溝と周堤が巡っている。同時期の大方墳である春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)をもしのぐ規模であり、この時期の方墳としては全国最大級の規模であり、古墳時代を通しても五世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の舛山古墳に次ぐ、第二位の規模の方墳である』。『南面には二基の横穴式石室が十メートル間隔で並ぶ。西側石室は奥行四・二三メートル、奥壁幅一・六八メートル、高さ二・一四メートルを測る。東側の石室は西側よりやや大きいが、現在は崩落している。石材は凝灰質砂岩で、この地方で産出される貝の化石を多量に含んだものである。被葬者は不明』一九七〇年に『墳丘と横穴式石室の測量調査が行われている』。『岩屋古墳は現在百十四基の古墳が確認されている龍角寺古墳群に属している。龍角寺古墳群は印旛沼北東部の下総台地上に、六世紀から古墳の造営が開始されたと見られており、当初は比較的小規模な前方後円墳や円墳が築造されていたと考えられている。その後、七世紀前半には印旛沼周辺地域では最も大きな規模の前方後円墳である浅間山古墳が造営され、岩屋古墳は浅間山古墳の後に造営された』。『浅間山古墳造営までの龍角寺古墳群は、丘陵内の印旛沼に面した場所に造られた古墳が多かったが、浅間山古墳以降は古墳群の北に当時存在した、香取海方面からの谷奥の丘陵上に築造されるようになった。岩屋古墳も香取海方面からの谷の奥に当たる場所に築造されており、これは印旛沼よりも香取海方面を意識した立地と考えられている』。『岩屋古墳以降、龍角寺古墳群ではみそ岩屋古墳など、方墳の築造が七世紀後半にかけて行われたと考えられている』。『岩屋古墳は測量の結果によれば一辺約七八メートル、高さ約十三・二メートルの方墳で、墳丘は三段築成されていて、一段目と二段目が低く三段目が高くなっている。墳丘周囲には南側を除く三方に約三メートルの周溝がめぐり、周溝の外側には外堤が見られる。これらを含めると』、『全体規模は百十メートル四方に達する。また』、『二〇〇八年に行われた測量調査により、墳丘南側の谷側から墳丘に向かって、斜路が作られていたことが判明した』。『埋葬施設である横穴式石室は墳丘の南側の裾部中央に二つあり、ともに羨道をもたない両袖式の玄室だけの構造である。東側の石室は長さ約六・五メートル、幅二メートル強、西側は四・二メートルである。石室は両石室とも木下貝層と呼ばれる印旛沼近郊の狭い範囲に露出する貝の化石を含む砂岩で築造されている。軟らかい石材であることもあって、長さ六十~百センチ、幅三十センチくらいに切った石を煉瓦を積むように互い違いに積み上げている。また』、『石室内で棺を置いたと思われる場所には、浅間山古墳の横穴式石室で用いられた茨城県筑波山近郊で産出される片岩を使用している。龍角寺古墳群で岩屋古墳以降に築造されたみそ岩屋古墳などの方墳では片岩は用いられることがなく、貝の化石を含んだ砂岩のみが用いられることからも、古墳の築造順は浅間山古墳、岩屋古墳、岩屋古墳以外の方墳という順序であったことが推定できる』。『岩屋古墳の横穴式石室は、古文書の内容から一五九一年(天正十九年)にはすでに開口していたと考えられており、開口していた石室をめぐって』「貸し椀伝説」『という伝説が伝えられるなど、民間信仰の対象となっていた。古くから石室が開口していたことと、本格的な発掘がまだ行われていないため、岩屋古墳からはこれまでのところ副葬品は全く発掘されていない』とある。

「同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹」現在の千葉県印旛郡栄町和田の南の、千葉県佐倉市下勝田(ここ(グーグル・マップ・データ))から同地区の南西に接する同町の直弥(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真)で、下勝田から続く写真の中央附近が今も田園地帯である。この北側であろう。

「明治三十四五年」一九〇一~一九〇二年。

「錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た」これってやっぱ「將門亂の時の落武者」なんぞではなくって、古墳の副葬品でしょう?!

「同郡酒々井(しゆすゐ)の町」現在の千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)はここ(グーグル・マップ・データ)だが、沼さえも現認出来ない。しかし、同町の北部には上岩橋大鷲神社古墳(ここ(グーグル・マップ・データ))とかありまっせ! 柳田先生?! そこれにこの直近には印旛沼新田という地名もあって、その西の川は北直近の印旛沼に繋がってる。印旛沼ならはっきり書くだろうから、この「沼」は印旛沼の南のこの印旛沼新田の附近に嘗てあったのではないかとも思ったりしたところが、「カンカンムロ」の方で検索に引っ掛かったぞ! やっぱり、古墳だ! 古墳! 「カンカンムロ横穴群」(グーグル・マップ・データ)だ! ここが「嚴島山の隱里」だと書いてある! 酒々井町教育委員会の『酒々井風土記「28 厳島山のカンカンムロ」』に詳しいぞ! 椀貸伝承も載ってるぞ! そんでもって、そこからの出土品の銅椀(七世紀後半と推定)の写真もそこにはあるぞえ! 柳田先生、「カンカンカムロ」の語源なんぞどうでもいい(というか、リンク先では『ある男が』借りた椀を『蔵に隠して返さずにいた。ところが』、『いつの間にか、蔵に隠したお椀とお膳は消えてしま』い、『それからというもの、いくらお願いしても品物が出てくることは無く、柏手の音が「カンカン」と「ほら穴」にひびくだけでした』。そこから、『そののち』、この『「ほら穴」は「カンカンムロ」と呼ばれるようになりました』とあって椀貸伝承と名称の因果が語られていて、こっちの方が腑に落ちる。柳田の言うように、わざわざこ『の窟に入つて土の面を打つ』何の必要があるというのか。序でに言えば、『金石のやうな響がした』のは、それこそ、その地下に古墳の玄室空間があったからかも知れんぞぅ)! これこそ椀貸の銅椀デッショウが!!

 

 利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る。村の名主藤沼太郎兵衞の先祖、下野から來てこの村を拓いた頃、村に隱里あつて饗應の時は此處から膳椀を借りた。故あつて十具を留め返さず、今なおその一二を存す、朱漆古樣頗る奇品だとある。弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ。前に出した常州眞壁郡船玉の隱れ人の穴も、茨城名勝志にはやはりその名を隱里と稱へて居る。同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院に、ここから借りて返さなかつた椀が大小二つあつた。内朱にして外黑く朱の雲形を描き、さらに金泥をもつて菊花及び四つ目の紋を書いてあつたと云ふ。四つ目の紋は我々にとつて一つの手掛である。越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)、「越の下草」と云ふ書には甲塚の隱里とある。百五十年前既に田の中の僅な塚であつたと言へば、今では痕跡すらも殘つては居るまい。他の多くの例では前日に賴んでおくと翌朝出て居たと云ふに反して、これは一度歸つて來て暫く經つて行けばもう出て居たと言つて居る。この點だけが一つの特色である。

[やぶちゃん注:「利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る」「利根川圖志」は下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)生まれの江戸末期の医師赤松宗旦(義知)(文化三(一八〇六)年~文久二(一八六二)年が著した、非常に優れた利根川の地誌で、私の愛読書でもある。以上は「卷二 利根川上中連合」の中に、「川妻」(現在の茨城県猿島(さしま)郡五霞町(ごかまり)川妻(かわつま)(ここ(グーグル・マップ・データ))附近)の項の後に、詳細な膳椀図とともに記されてある。私の所持する岩波文庫版(柳田國男校訂・昭和一三(一九三八)年刊)を読み込んでみたが、膳椀図の測定値の字が潰れてうまくないので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を取り込み、トリミングして示した。解説部は非常に読み易いので、電子化するまでもない。何より、膳椀図が詳細を極めて素晴らしい

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老婆心乍ら、敢えて注しておくと「畢てヽ」は「はてて」(果てて)で「使い終わって」の意、「置」の下は「けり」、「彈三郎狸」は先に出た団三郎狸と同じ。

「弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ」先に比定した千葉県野田市関宿町は茨城県猿島郡五霞町川妻から南東に七キロメートルほどであり、やや離れている。しかし、実は利根川の分岐点という地形的形状は異様に酷似した場所ではある。それを地図上で見るにつけ、ここは私も柳田の同一推定に賛同したくなる。

「茨城名勝志」小野直喜編で明三三(一九〇〇)年刊。

「同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院」現在の茨城県下妻(しもつま)市尻手(しって)にある真言宗文殊院。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)」既出既注

「越の下草」越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)生まれの武士で篤農家(農学者)宮永正運(みやながしょううん/まさかず/まさゆき 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)の著になる地誌三十二歳で五代目の家督を嗣ぎ、四十九歳で加賀藩より砺波・射水両郡の蔭聞横目役(かげききよこめやく:郡内の百姓の監視及び諸事の見分及び新田裁許を兼務した役らしい)・山廻役(やままわりやく:国境警備及び杉・欅・檜など樹木保全の見分役)を命じられ、新川郡を加えた越中三郡の産物裁許役をも兼ねた。著書に「荒年救食誌」「養蚕私記」「私家農業談」といった農学書があり、俳句もよくし、「桃岳句集」がある。「越の下草」は天明六(一七八六)年頃に書かれたもので、正運が加賀藩山廻役という役目柄、領内を広く廻ったことから、その折りの見聞を書き留めたもの。越中各地の地名由来・名所旧跡・神社仏閣の来歴・産物・山川湖池の様子から、伝説・奇談など、多岐多彩に亙る。流布本は三巻であるが、正運が編纂した稿本は六巻から成る。柳田の言うのは流布本で、稿本は東京大学史料編纂所で所蔵のそれ解読されて刊行されたのは一九八〇年のことであった(以上はウィキの「宮永正運に拠った)。]

 

2018/01/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八

 

     

 

 椀貸穴を以て龍宮の出張所の如く見た例はまだ幾らもある。前に擧げた信州上伊那郡松島村の龍宮塚はその一つで、同郡勝間村の布引巖と共に、やはり證文を差し入れて人々は穴の中から色々の道具を借りて居た。其でも終に返却を怠つた者の爲に、中止の不幸を見たことは同樣で、現に村の藤澤其某方に持ち傳へた古い一箇の盆は、龍宮の品であると云ふ話であつた。愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川と云ふ處の民、常に龍宮から種々の器物を借りて自用を足して居た中に、或時皆朱(かいしゆ)の椀を借りてその一箇を紛失した爲に、亦貸すことが絶えたと云ふ。利根川の流域にも多くの椀貸古傳が分布して居るが、其上流の上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧の如きは、瀧壺が龍宮に通ずると傳へて、是にも膳椀の借用を祈つたと云ふ。翌朝その望みの食具を出して置かれたと云ふ大きな岩が、今でも瀧壺の上に在る。龍宮の乙姫此水に住んで村民を守護せられる故に、膳椀を賴んでも貸して下されぬやうな祝ひ事は、神の思召に合はぬものとして中止するので、乃ち若い男女等はこの瀧に來て緣結びをも祈つたと云ふことである。

[やぶちゃん注:「信州上伊那郡松島村」既注

「同郡勝間村の布引巖」サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌 下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用開始》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(この中央(グーグル・マップ・データ))。ストリートビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』ようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える

「愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川」愛知県新城(しんしろ)市門谷(かどや)鳳来寺にある鳳来寺山はここであるが、小字などを調べたが、「瀧川」は確認出来なかった。識者の御教授を乞う。ただ、調べるうち、竹尾利夫氏の論文「奥三河の口承文芸の位相―椀貸し伝説をめぐって―」(PDF)の中に、宝永四(一七〇七)年刊の林花翁著の地誌「三河雀」の「朱椀龍宮の事」という一条を引いておられるのを見出した(「三河文献集成・近世編上」が引用元。なお、恣意的に概ね漢字を正字化し、ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   *

鳳來寺の麓滝川と云所に住る民、常に龍宮より種々の器物をかりて自用をたしぬ、有時皆朱の椀を借り來て、壱 つの椀を失て返さざりしゆへ、その後は更に借す事なし[やぶちゃん注:ここに竹尾氏による『(後略)』の注記がある。]。

   *

これについて竹尾氏は、『柳田国男によれば、文献的に椀貸し伝説の確認できるものとして』、宝暦七(一七五七)『年刊の「吉蘇志略」や』、安政二(一八五四)『年の自序をもつ「利根川図誌」に所収の話を掲げるが、管見の及んだ限りでは』、この「三河雀」の記載『が、記録に見える椀貸し伝説の最も古いものかと思われる。したがって、『三河雀』等に見えるように、遅くとも近世初期には、椀貸し伝説が今日伝承されるような内容の話として成立していたものと判断される』と述べておられるのは、非常に貴重な見解である。柳田國男はこのような「椀貸伝説」の伝承の具体的な成立濫觴時制の考証や、一次資料としての提示確認をここ以外でもはなはだ怠っているからである。

「上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧」現在の群馬県沼田市利根町追貝にある著名な「吹割の滝」(正式銘は「吹割瀑」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。群馬県沼田市利根町老神温泉「吟松亭あわしま」(私はここに泊まったことがある)の「吹割の滝」の解説ページに、

   《引用開始》

吹割の滝は、その昔「竜宮」に通じていると信じられていました。そのため、村で振舞ごとがあるたび吹割の滝を通じて竜宮から膳椀を借りたそうです。お願いの手紙を滝に投げ込むと前日には頼んだ数の膳椀が岩の上にきちんと置かれていました。ところが一組だけ返し忘れてしまったことがあり、それ以来膳椀を貸してもらえなくなったそうです。今でもそのとき返し忘れた膳椀は「竜宮の椀」と呼ばれ大切に保存されています。

   《引用終了》

とある。リンク先は商業サイトながら、瀧を中心とした写真も豊富なので、ご覧あれ。]

 蓋し斯んな淋しい山奧の水溜りに迄、屢〻龍神の美しい姫が來て住まれると云ふのは、基づく所は地下水と云ふ天然現象に他ならぬ。天の神が雲風に乘つて去來したまふと同じやうに、水の神は地底の水道を辿つて何處にも現れたまふものと信じて居たのである。殊に山陰や岩の下から造り出る泉の、絶えず盡きず淸く新しいのを見ては、朝夕其流れを掬み又は田に引いて居る人々は、之を富の神、惠の神と考へずには居られなかつた筈である。椀貸傳説の終局が何れの場合にも人間の淺慮に起因する絶緣になつて居るのも、言はゞ神德に對する一種の讃歎であり、遠くは鵜戸の窟の大昔の物語に始まつて、神人の永く相伴ふこと能はざる悲しい理法を説明した古今多くの神話の一分派で、稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬのである。

[やぶちゃん注:「鵜戸の窟の大昔の物語」「鵜戸の窟」は「うどのいはや(いわや)」と読む。現在の宮崎県日南市大字宮浦にある鵜戸神宮。同社は日向灘に面した断崖の中腹の海食洞の岩窟内に本殿が鎮座する。神社としては珍しい「下り宮」の形態を採っている(これは海底の龍宮という異界へのアクセスを示すものと私は思う。祭神(後述)の母である豊玉姫はしばしば龍宮乙姫と同一視されるからである)。ウィキの「鵜戸神宮」によれば、『「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し』、主祭神の名の「鸕鷀(う)」(日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと):彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)後の引用を参照)『が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充て』たものであるという。「みやざきの神話と伝承101」の「鵜戸の窟」には鵜戸神宮の由緒として、以下のような神話を記す((アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

 その昔、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)は、兄・海幸彦から借りた釣り針をなくした。それを捜しに出掛けたワタツミノミヤ(海宮)でトヨタマヒメと出会い、結婚。ヒメは鵜戸の窟で出産することになり、急いで鵜(う)の羽の産屋がつくられた。

 ヒメはミコトに告げた。「私のお産の後、百日を過ぎるまでは、私も御子も決してのぞいて見てはいけません」

 しかし、ミコトはその百日が長く、待てなかった。見てはいけないと言われればなおさらである。ついに九十九日目に葺萱(ふきかや)の戸の間から、一割(ひとわれ)のたいまつをともして、産屋の中をのぞいてしまった。

 ミコトがそこに見たのは、ヒメの姿ではなかった。海宮では言葉で表せないほど美しいヒメが、今は十六丈(約四十八メートル)ほどの大蛇となり、八尋(約十二メートル)のワニ[やぶちゃん注:言うまでもなく、大鮫。]の上に乗り、御子に乳を与えている姿であった。

 ミコトは大変驚き、恐ろしくなった。一方、ヒメは自分の本当の姿をミコトに見られたことを恥ずかしく思い、海宮に婦ることにした。ミコトが言葉をつくして引き留めようとしたが、それもかなわなかった。

 ヒメは御子のために左の乳房を引きちぎり、窟の腹に打ちつけて帰っていった。今も残る「乳房石(おちちいわ)」がこれ。そして海宮への扉も閉じてしまい、海宮へ行くことはできなくなった。

 ヒメが自分の蛇身の姿を見られた恥ずかしい思いの炎と、わが御子への恋しいあこがれの炎、そしてミコトに愛別された情炎、この三つの炎は今も絶えることなく燃え上がっている。霧島山の御神火がそうだと伝えられる。

 その後、海宮からは海神の大郎女(おおいらつめ)のタマヨリヒメが遣わされ、御子の養育にあたった。この御子がヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコトである。地神第五の神で、人皇第一代の天皇である神武天皇の父神にあたる。

   《引用終了》

ここは私も叔父(私の母は鹿児島の出身である)に連れられて行ったことがある。海に面した非常に好きな神社である。

「稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬ」「他ならぬ」かどうかは微妙に留保するが、この比較神話学的解釈は面白いと思う。但し、「他ならぬ」と断言するのであれば、その照応性を核心から解かなければ説得力はない。]

 塚の底や窟の奧に隱れ住んで人民の便宜を助けたと云ふ靈物には、他にも色々の種類がある。加賀の椀貸穴で古狐が椀を貸して居たことはすでに述べたが、それよりもさらに意外なのは佐渡の二つ岩の團三郎貉である。二つ岩は相川の山續き、舊雜太(さわた)郡下戸(おりど)村の内で又二つ山とも謂ふ。岩の奧に穴があつて貉の大一族が其中に住み、團三郎は卽ち其頭目であつた。折々化けて町へ出で來たり人を騙して連れて行くこともあるので、島民は怖れて其邊へ近よる者も少なかつたが、彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある。一説に最初は金を貸しあまり返さぬ者があるので後に膳椀だけを用立てたが、其も不義理な者が多い所から終には何も貸さぬことになつたと云ふ。兎に角至つて富裕な貉であつた。佐渡は元來貉の珍重せられた國で、每年金山の吹革の用に貉の皮數百枚づゝを買上げたと云ふのは、彼等に取つて有り難くも無いか知らぬが、俚諺にも「江戸の狐に佐渡の貉」と言ふ位で、達者で居ても相應に幅が利いたと思われ、砂撒き貉の話なども遺つて居る。右の團三郎などは二つ岩の金山繁昌の時代に、日雇に化けて山で稼いで金を溜め、後次第に富豪となると言ふが、しかも金を貸すのに利子を取つたと云ふ話はない。越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺は後に長岡の城下へ移つたが、元の寺の裏山に天文の頃、團三郎の住んで居たと云ふ故迹がある。衆徒瑞端と云ふ者を騙したこと霹顯し、時の住職より談じ込まれて佐渡へ立退いたとも言へば、他の一説には寛文年中まで尚越後國に居たとも言ふ。龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある。團三郎二度目に惡い事をしたによつて、庄屋の野上久兵衞村民を語らひ、靑杉の葉を穴に押込んで窮命に及ぶと、彼は赤い法衣を着た和尚の形をして顯れ來たり、段々の不埒を詫びてその夜の中に佐渡へ行つてしまつた。其跡は空穴となつて彼が用いた茶釜折敷(をしき)の類の殘つていたのを、關係者これを分取して今に持傳へて居る者もあると云ふ。

[やぶちゃん注:「佐渡の二つ岩の團三郎貉」「貉」は「むじな」。であるが、ここでは狸(たぬき)の異名。この団三郎狸は私の特に偏愛する佐渡の妖怪の親玉で、昨年の三月には、この団三郎を祀った二ツ岩神社へも行った(ブログ記事参照)。私の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」・及び同書の「窪田松慶療治に行事」「百地何某狸の諷を聞事」・「井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事」などの本文と私の注を是非とも参照されたい(同書は作者不詳(但し、佐渡奉行所の役人と考えてよい)で安永七(一七七八)年成立の佐渡に特化した怪談集である)。この中の二話と同一の話柄は根岸鎭衞の「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」にも載せられている(リンク先は私の古い電子化訳注)。

「彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある」辻正幸氏のサイト「狸楽巣(りらくす)」内の「禅達貉の伝説」(この禅達は団三郎の配下の化け狸の名であるが、子分のやることは親分の指示と考えてよかろう)に山本修之助編著「佐渡の伝説」の引用があり、そこに「膳椀を貸した善達貉」という話が載る。

   *

 徳和の東光寺にいる善達貉は、禅問答で有名だが、また膳椀を貸した話もある。

 むかし、人のおおぜいが集まる時には、膳や椀がたくさん必要であった。

 そんな時、この善達貉の棲む岩穴の前で、お願いをすると翌朝はかならずお願いしただけの膳や椀を揃えてくれた。そして、使ったあとは、かならず、その岩穴へ返さなければならなかった。

 村の人たちは、長い間。その恩をうけていた。

 その後、ある時、つい膳椀を返さない者があった。

 それからは、いくらお願いしても善達貉はかしてくれなかった。

   *

この東光寺(曹洞宗)は新潟県佐渡市徳和に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田は後に「妖怪談義」(昭和三一(一九五六)年刊)に載せる「團三郎の祕密」(初出は昭和九(一九三四)年六月発行の『東北の旅』)でも団三郎の金貸しの件に触れて、その後に別の膳椀貸しの話を述べているが、散漫な記述で読むに足らない。

「吹革」これはちくま文庫版全集では「ふいご」とルビする。「鞴」である。金の精錬に欠かせない。だから、もともといなかった狸(狐は現在もいない)を幕府は佐渡に持ち込んだのである。

「砂撒き貉の話」佐渡郡赤泊村(前注の徳和の近く)にある辻堂坂を夜通ると、砂を撒くような音がし、それは「砂撒(すなま)き狢(むじな)」の仕業だ、とする話が、「国際日本文化研究センター」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに載る。柳田はやはり後の「妖怪談義」に載る「小豆洗ひ」の中でもこの話にごく僅かに触れているが、これも読むに足らない。

「越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺」現在の新潟県長岡市日赤町に現存する浄土宗の寺。ウィキの「法蔵寺(新潟県)」によれば、『「日本歴史地名大系」では』応仁二(一四六八)年『に、妙見村の会水城主である石坂与十郎が三河国赤坂宿(現在の岡崎市)の法蔵寺の僧侶である入誉白鸚を招いて六日市で開創した。一方で』、『「大日本寺院総覧」では』、享禄四(一五三一)年に『越後国古志郡出身であった入誉が石坂氏の招きに応じて』、『帰郷して開山したとしている』。『その後、蔵王堂城主により蔵王に移転し、さらに長岡城築城に伴って、元和年間中に長岡城下の上寺町に移転するが、城地の都合で現在地に再々度移転した』とあって、柳田の言う事蹟は必ずしも当てにならないことが判る。されば、「元の寺の裏山」というのも本当にあったのかどうか、怪しい。団三郎伝説のプレ話であるが、私は誰かが後代に創作した可能性が高いように思う。とすれば、団三郎伝説の原型を考察する上では、この話は百害あって一利なしである虞れさえあることを述べておく。

「天文」一五三二年から一五五五年.

「衆徒瑞端」不詳。そもそもこの本土新潟での団三郎の話、ネット検索を掛けても、柳田以外の叙述が一向に出て来ない。団三郎が佐渡に渡る以前に新潟でこんな悪事を働いていた、それが露見して佐渡へ逃げた、という基本話柄が、事実、佐渡渡島以前に確かに本土に存在していたならば、それが今ではまるで知られていないということ自体、これ、おかしなことではあるまいか? ますますこの話、私は信じ難い。柳は年号まで出して妙に詳しく書いているが、一体そのソースはどこにある(あった)のか? 団三郎ファンとしては是非とも知りたい。御存じの方は、是非、御教授下されたい。

「寛文」一六六一年~一六七三年。佐渡金山の発見と開発開始は慶長六(一六〇一)年のことである。但し、戦国時代に現在の金山の山の反対側の鶴子銀山(佐渡鉱山の中でも最古とされる)で銀の採掘がなされていた。また「今昔物語集」の巻第二十六には「能登國掘鐡者行佐渡國掘金語第十五」(能登の國の鐡(くろがね)を掘る者、佐渡の國に行きて金を掘る語(こと))という段があり、佐渡で金が採掘出来ることは十一世紀後半には知られていたことが判っている(ここはウィキの「佐渡金山その他に拠った)。

「龍昌寺」新潟県長岡市六日市町にある曹洞宗のそれか。(グーグル・マップ・データ)。そんな以下に示された具体な話も今は伝わらないようである。ますます不審である。]

 越後の寺泊から出雲崎へかけての海岸では、春から秋のあいだの晴れやかな夕暮に、海上佐渡の二つ山の方に當つて雲にも非ず藍黑き氣立ち、樓閣城郭長屋廊下塀石垣などの皆全備して見えることがある。これを俗には二つ山の團三郎の所業と言つたさうである。相川の町などでも團三郎に連れられて彼が住む穴に入つて見た者は、中の結構が王公の邸宅の如く、家内大勢華衣美食して居るのに驚かぬ者はなかつた。ある醫者は夜中賴まれて山中の村へ往診に行き、此樣な立派な家は此邊に無い筈だがと思つて居たが、歸宅後段々考えてみて始めて二つ岩の貉の穴だつたことを知つたと云ふ話もある。或は又此穴の中の三日は浮世の三年に當ると云ふ浦島式の話もある。或は又此仙境で貰ひ受けた百文の錢は、九十九文まで遣つても一文だけ殘して置けば夜の中に又百文になつて居て、其人一生の間は盡きることが無いと云ふ話もある。主人公が貉であるばかりに特に珍しく聞えはするが、他の部分に於ては長者の福德圓滿を語り傳へた多くの昔語りと異なる所が無いので、其れではあまり變化らしくないとでも考へたものか、穴の中で見て來た事を人に語ると立處に命を失うと云ふ怖い條件を一寸添えてはあるが、しかも右申す如く既に世上の評判となつて居るのだから何にもならぬ。

[やぶちゃん注:以上の話は、概ね、先にリンクさせた私の「佐渡怪談藻鹽草」に尽きており、本土から見た佐渡に蜃気楼が見え、それが団三郎によるものだとする話柄もよく知られた話である。アカデミストの柳田國男は知られていない怪談集を一次資料として示すのを躊躇ったものかも知れぬ。尻の穴の小さい男だ。]

 

2018/01/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七

 

     

 

 自分が徒らに話を長くする閑人で無いことは、大急行の話し振りでも御諒察が出來るであらう。何分問題が込み入つて居るので今少し他の方面から𢌞つて見ぬと趣意が立たぬ。椀貸と無言貿易との關係を窺ふ爲に、是非とも考へて置かねばならぬのは、貸主に關する各地色々の言傳へである。愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山の麓の洞穴には、昔異人此中に住んで居て村の者に膳椀を貸したと云ふ話がある。是も前日に洞の前に往き口頭または書面にて申し入れて置くと、翌朝は數の如く出してあつたと言ひ、又橫着な者が返辨を怠つてから貸さなくなつたと傳へて居る。異人と聞くと何となく白髮の老翁などを聯想するが、他の地方には越中の家具借の池のやうに、美しい女神を説くものが多いのである。例へば信州木曾の山口村の龍ケ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松の樹を生じ形狀怪奇であつた。吉蘇志略には此事を記して「土人云ふ靑龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、後或其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩と云ふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るに皆意の如し、その後黠夫あり窺い見て大いに呼ぶ、水神水に沒して復見えずと濃陽志略に見えて居る。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)で、是も同じ書に山の半腹にある戸立石と云ふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、其末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女あり此岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後終にその事絶ゆとある。九州では宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷の百椀とどろと呼ぶ谷川の潭にも、水の中から美しい女の手が出て百人前の椀を貸したと云ふ處がある。この淵も亦龍宮へ續いて居ると云ふことであつた。或時馬鹿者が椀拜借に來て、その美しい手を引張つて見てから以後、爰でも永く椀を貸さなくなり、しかも今以て其水で不淨を洗へば祟りがある。

[やぶちゃん注:「愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山」現在の愛媛県松山市北斎院町の岩子山(いわこさん)緑地附近。(グーグル・マップ・データ)。

「信州木曾の山口村の龍ケ岩」旧長野県南西部にあった旧長野県木曽郡山口村。島崎藤村の出生地である馬籠宿で知られ、古来より関係の親密であった岐阜県中津川市と県を超えた合併をし、現在は岐阜県中津川市山口である。附近と思われる(グーグル・マップ・データ)が、「龍ケ岩」の現在位置は不詳。識者の御教授を乞う。

「吉蘇志略」尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。

「岐阜縣稻葉郡長良村大字古津」現在の岐阜市長良古津(ふるつ)。長良川北岸に位置する。(グーグル・マップ・データ)。

「黠夫」「かつふ」と読む。悪賢い男。

「濃陽志略」先に注した松平君山が宝暦六(一七五六)年に著わした美濃国の地誌「濃州志略」の別称。

「同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)」既出既注であるが、再掲する。現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。「津保川」は同地区の南端を流れる。

「宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷」現在の宮崎県延岡市北方町の荒谷(あらだに)地区。附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「百椀とどろ」「とどろ」は「滝」のことで、「轟く」が原義か。]

 此等の話だけを粗末に見ると、故坪井先生の珍重せられたコロボツクルの少女の手を窓越しに振つてから、アイヌとの交通が絶えたと云ふ北方の言傳へと、一寸似て居るやうにも思はれるが、日本で水の神を女體とすることは古く且弘い俗信であつた上に、浦島子傳より更に以前の神話から考へても、佛教並に支那の思想の附添へから推して見ても、龍宮は寶の國如意の國、最も敬虔にして且幸運なる者が、僅かに稀に通ふことのできる國と定まつて居たので、さてこそ斯樣な此方にばかり好都合な交通が、處々の水際に於て行はるゝものと考へ得るに至つたのである。是をしも譬へば蝦夷の妻娘でもあつたかのように想像することは、恐らくは當世の新人物と雖も、尚好い感じを起さぬであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「故坪井先生」自然人類学者坪井正五郎(文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)。理学博士。ウィキの「坪井正五郎によれば、『蘭方医・坪井信道の孫として江戸に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良』)。明治一〇(一八七七)年に『大学予備門に入り』明治一九(一八八六)年、『帝国大学理科大学動物学科』を卒業すると、そのまま『帝国大学大学院に進学』、『人類学を専攻、修了後の』明治二一(一八八八)年、『帝国大学理科大学助手』となったが、翌年より三年間、『イギリスに留学』、三年後に帰国すると、『帝国大学理科大学教授』となった。『日本の人類学の先駆者であり、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている』。明治三六(一九〇三)年の第五回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した』。第五回万国学士院大会出席のために『滞在していたロシア・サンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死』した。『人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育て』、また、『柳田国男と南方熊楠を結びつけ』た人物でもある。

「コロボツクルの少女の手を窓越しに振つてから、アイヌとの交通が絶えたと云ふ北方の言傳へ」こんちゃん氏のブログ「こんどう史科医院の裏ブログ」の「錬金術ともののけ姫 第3回 借りぐらしのアリエッティ」によれば、宗谷地方の伝説とある。それによれば、『その昔』、『アイヌとコロボックルが共存していたころ、コロボックルはアイヌに姿を見せることなく、アイヌの家の窓を通して鹿肉や魚などを置き、アイヌがそれをとって同じ場所に代価となる品物を置く、という形で交易をおこなっていた。ところがあるアイヌの男がどうしてもコロボックルを見たくなり、窓から品物が差し入れられたところで、それを持つ手を思い切り引っ張った。こうして、その手の主がたちまち家の中に引きずり込まれた。男が見るとそれはとても美しい少女だった』。『コロボックルたちはこの男の背信を怒り、もはやアイヌとは一緒に住めないと北の海の彼方に去って行ってしまった』とあるではないか! これはまさに精霊族と人間との無言交流・無言貿易の神話に他ならないではいか! 柳田國男は鳥居龍蔵の無言貿易という概念を民俗学的に排除するために、それをわざと問題にしていないのだとしか、私には思えない。こういう小手先でうやむやに逸らすのは、実に糞アカデミストの常套手段でしかないと私は強く思う。

「蝦夷の妻娘でもあつたかのように想像することは、恐らくは當世の新人物と雖も、尚好い感じを起さぬであらうと思ふ」柳田國男の差別意識の底が知れる、持って回った厭な言い回しではないか。]

 

2018/01/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 六

 

     

 

 山中共古翁の椀貸古傳についての解釋は傾聽の値がある。翁の意見では、昔は村々の佛堂の中に膳椀を藏するものが多かつたらしい。それは村の共同財産で、例へば庚申待の日には庚申堂の棚の中に在る品を取り出して使ふと云ふやうに、信仰と結合して考へられて居たものが、道具が散逸して後此樣な記憶に變つて行つたのであろうと云ふ。是は古墳の土器を借りたなどゝ云ふよりは勿論事實に近さうである。長い山路の半途に在る小屋の食器なども借りられた。地方によつては岩穴の中に藏置したかも知れぬ。虛實は不定であるが、幕府時代に加州侯家では、信濃飛彈の深山を通過して、江戸と往來する間道を用意して置かれたと云ふ説がある。その道筋に當る丁場々々には社又は佛堂が建ててあつて、其中に一通りの家具調度が匿してあつたとも傳へて居る。更に今一層傳説化した話には、滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村の山奧に、天狗谷と稱して如何な高德の聖も行くを憚るやうな物凄い大岩の上に、自然と佛具類備はり常行三昧の法の如くであつたのは、多分山の神の在すところであらうと言ひ、或は泉州槇尾山(まきのをさん)の奧にも佛具岩があつて、平生佛具の音がするなどと云ふのも、元は同じやうな器具保存法から起つた話とも見えぬことは無い。只如何せん穴や岩塚から貸出したものは、必ずしも椀や御器(ごき)のみに限られては居らぬので、多くの類例を陳列して行くと、何分これでは説明の付かぬものが出て來る。

[やぶちゃん注:「滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村」現在の滋賀県犬上郡多賀町河内。 ここ(グーグル・マップ・データ)。五僧峠も確認出来る。

「泉州槇尾山(まきのをさん)」大阪府和泉市槇尾山町にある槙尾山。標高六百メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 例へば前に擧げた飛彈國府の龜塚のごときも、一説には國府山(こふのやま)の城主文書を塚の口に差し入れて色々の器物を借りて居る中に、ある時紫絲威の鎧を一領借り出して還さなかつたので、以後塚の口は永く閉じ其城も亦衰へた。その鎧は當國一宮に納めて什寶となつて居ると云ふ。更に奇拔なのは美濃加納領の某村では、穴の口に願書を入れて置くと口中療治の處方書を附與したと云ふ例もある。但し此は靈狐であつて、土地の百姓の娘と少々譯があり、療治以外にも望みの者には書を書いて與へたとて、近郷にはその狐の筆跡が相應にあつたと云ふ。

 三重縣伊賀の島ケ原驛の附近に三升出岩(さんじようだしいは)と俗に謂ふ石があつた。この石を信ずれば每日米が三升づゝ出たと云ふことで、元は此側を通行する者五穀綿麻などを供へて拜したと云ふ。栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音は、鬼怒川の絶壁の中程に岩穴があつて、其中に弘法大師の安置したと云ふ金佛の觀音がある。此穴では三十三年に一度づゝ頂上から布を下げ其布に取附いて穴の中へ入り色々の寶物を取り出す例で、是を岩拜(いははい)と名づけて居た。同縣上都賀郡上永野の百目塚は、高さ七尺の塚であつたが平地のやうになり、僅に一基の石碑を以て其址を示して居る。村の熊野神社の寶物を埋めたと言ひ傳へ、又昔は此塚に一文の錢を供へると後に必ず百倍になつたので盲目塚と云ふ。ある氣短かの慾張りが一時に數百錢を供へて見たが效驗無く、却て本錢迄亡くしたのを憤つて其塚を發かんとし、大に祟を受けたと云ふから、多分其折以後例の通り恩惠の中止を見たのであらう。

[やぶちゃん注:「三重縣伊賀の島ケ原」現在の三重県伊賀市島ヶ原。附近(グーグル・マップ・データ)。

「三升出岩」柳田が過去形を用いているのが気になったが、やはり現存しない模様で、伝承も失われたか。

「栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音」現在の栃木県塩谷郡塩谷町佐貫にある真言宗佐貫観音院。ウィキの「佐貫観音院によれば、『江戸時代までは岩戸山慈眼寺観音院であったが、明治期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺となり、現在は宇都宮市篠井町の東海寺の別院となっている。本尊は鬼怒川河畔にある聖観世音菩薩』。『寺域には高さ』六十四メートルの『観音岩と呼ばれる大岩が聳え、その窟内にある「奥の院大悲窟」には四国讃岐国多度郡郡司であった藤原富正所有の念持仏、佩刀、弘法大師(空海)作の如意輪観音と馬頭観音の』二『仏、中将姫の蓮の曼荼羅、藤原秀郷や源義家の奉納品(太刀、武具、銅鏡など)が納められていたと云われる。現在、銅版阿弥陀曼荼羅と銅鏡は宇都宮市篠井町の東海寺にて保管されているという。また、この観音岩の壁面には「大日如来坐像」が線刻されており、この磨崖仏は周囲の自然環境とともに佐貫石仏の名称で国の史跡に指定されている。観音岩下部には磨崖仏の大日如来を中央とする左右に祠がある。磨崖仏に向かって左側の祠は「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり木造の御堂が建てられている。右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞穴内の小さな石造の祠となっている。観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っており、神の使いとしてまた長寿の象徴として珍重されている』とある。(グーグル・マップ・データ)。この「岩拜」も現在、行われているか(祭事スパンが長過ぎる)どうか、疑問である。

「同縣上都賀郡上永野」現在の栃木県鹿沼市上永野。(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「ひばらさんの栃木探訪」のこちらに、「百目鬼塚」(または「百目塚」)という塚がこの地区に存在し、塚の北方に熊野神社があって、この社の宝物を埋葬したのが、この塚の起源で、『人がこの塚に銭一文を賽銭として供すれば、後日必ず百倍になって戻ってくるというので、その奇瑞にあやかろうとする遠近の人々が、多数参拝した時代があった』ということが、小林友雄著「下野伝説集 あの山この里」(昭和五一(一九七六)年栃の葉書房刊)に載っているとある。但し、同地区を探しても現在、熊野神社を見出せないのが悩ましい。]

 此話などは、今では既に落語家も言ひ古した程の平凡事であるが、しかも立戾つて或時代に大阪の商人を狂奔せしめた泉州水間寺(みづまでら)の觀音の賽錢拜借、其又前型かと思はれる隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰などを考へ合せると、借りると云ふことが貰ふよりも更に有難かつた昔の人の心持もわかつて、椀貸の不可思議は到底手輕實用向の説明だけでは片付かぬことが知れるのである。關西の方の事はもう忘れたが、東部日本で最も普通な民間信仰は、齒の痛みに神佛の前から箸や楊枝を借り、小兒の百日咳に杓子を借り、子育てに枕を借り小石を借る等で、常に願が叶へば二つにして返す故に、靈驗ある堂宮の前には同じ品が非常に多く集まるのである。所謂椀貸も或は又此樣な意味を以て其由來を尋ぬべきものでは無いであらうか。

[やぶちゃん注:「泉州水間寺(みづまでら)の觀音」大阪府貝塚市水間にある天台宗の寺院。「賽錢拜借」とは、この寺にあった、賽銭を借用して翌年には倍返しする、という特殊な習俗を指している。同寺式サイトにその「利生(りしょう)の銭」の解説がある。『利生とは、仏様が衆生に与える利益のことで、「利生の銭とは」水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しする事によって、ご利益を頂戴するもの』とある。『現在では旧初午の日にご祈祷を受けられた方に「利生銭入り餅」が授与され』るとあって、『水間寺には三重の塔があるが、これが利生の銭に因縁の話がある。或る年』、『江戸の名も知れない廻船問屋が一貫の利生の銭を借りて帰ったが、なかなか返済に来ない。とうとう』十三『年目に』、『馬の背に』十三『年間の元利を揃えて参拝した。よって』、『この銭をもってこの塔を建立したという話である。後に』、『この人は網屋という人だと判明した』とある。『この水間寺の利生の銭については』『井原西鶴の「日本永代蔵」』『にも取り上げられている』とある。西鶴のそれは「日本永代蔵」の巻頭、巻一の「一 初午(はつうま)は乘つてくる仕合(しあはせ)」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来る。

「隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰」島根県隠岐郡西ノ島町にある焼火(たくひ/たくび)神社は明治までは焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と称したが、悪名高き廃仏毀釈によって(隠岐の島前など、全国的にも島嶼部でのそれは、寺院の焼却や僧の追放、果ては殺害未遂にまで発展するほどに苛烈であった)改名された。創建や縁起はウィキの「焼火神社を参照されたいが、同ウィキによれば、嘗て山上にあった「銭守り」の壺の話が載る。これは『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された』ものであったとされ、『かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから、』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録であ』った「板兒錄」という書にも『記載されるほど』、『著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の「年中御札守員數」『という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。]

 

2018/01/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 五

 

     

 

 また諸國の峠路には往々にして中宿と云ふものがあつた。雙方麓村から運んで來る荷物を爰に卸して、隨時に向から釆て居る荷物を運び歸り夫々名宛先へ屆ける風習が近頃まであつた。これも鳥居氏は自説に引き込まれるか知らぬが、やはり明白に勞力の節約を目的として始まつた文明的の運送契約である。その中宿の在つたと云ふ地は澤山あるが、秋田縣ではこれを易荷(かへに)と稱し、砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路、また生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠にも、このために無人の小屋が設けられて、單に下から運んで荷物を置いて還るのみらず、椀小鍋等の食器迄が一通り備へてあつた。小安村から仙臺領へ越える道にもこの中宿があつた。關東では野州日光町の人が栗山方面の山民に味噌や油を送り、彼から木地や下駄材を取るにもやは此中繼法を採用し、最近までも安全に交易が行はれて居た。甲州東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠、及び多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越などにも、共に百年前までは道半分の處にこの種の中宿があつた。信仰の力を以て相手の不正直を豫防せんとしたものか、後者には道祖神の宮があつて荷物は皆その宮の中へ入れて置き、前者も亦其地に雙方の村から祭る妙見大菩薩の二社があつて、そのために峠の名を大菩薩阪と呼んで居た。既に此の如く信仰までが彼此共通であつた位で、これを異民族間に始まつた無言貿易と同視し得ないのは分明なことである。

[やぶちゃん注:「中宿」一応、「なかやど」と訓じておく。ちくま文庫版全集でもルビはない。

「砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路」現在の秋田市上北手猿田砂子沢((グーグル・マップ・データ))の北西に上北手大杉沢という地名がある。それほど高くない丘陵を挟んではいるが、ここか。

「生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠」現在の秋田県仙北市田沢湖生保内((グーグル・マップ・データ)以下同じ)から秋田街道を、東の岩手県岩手郡雫石町橋場()への峠越え。これはかなりきつい山越えである。

「小安村」現在の秋田県湯沢市皆瀬(小安峡・小安温泉などの名が残る。から南東に宮城県栗原市へと山越えするルートか。これは相当、きつそうだ。

「栗山」栃木県日光市日向(東照宮の北方十三キロメートルほどの山中)の附近か(地図上に「日光市立栗山小中学校」の名を確認出来る)。

「東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠」山梨県北都留郡小菅村は。後に出る「大菩薩阪」(嶺・峠)はだから(山梨県甲州市塩山上萩原)、現在の甲州市の塩山の東北部からそこに抜けて、東京都の奥多摩町へと向かうルートである。

「多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越」東京都西多摩郡奥多摩町日原は。「秩父」「大宮」則ち、現在の埼玉県秩父大宮は

「妙見大菩薩」北極星を神格化した菩薩(道教の北極星信仰と結びついたもの)で、国土守護・除災厄除・招福長寿を司るとされる(仏教では実際には天部に配する)。本邦では特に眼病平癒を祈り、密教と日蓮宗に於いて祀られるケースが多いが、民間で単独で信仰されたことも多かった。]

 

 中宿に膳椀の類を備へて人の使用に任せると云ふことも例の多いことである。會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越にも近い頃まであつた。いわゆる日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた。丹後田邊の海上三里の沖にある御島、又は北海道の奧尻島のごとき、ともに食器・炊器とともに若干の米さへ殘してあつて、誰も管理する人はいなかつた。これは風波の難を避けて寄泊する船人のために存する舊慣で、丹後の方ではやはりその地に祭神不明の神社があつて、その社の中に藏置してあつたと云ふ話である。

[やぶちゃん注:「會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越」ルート

「日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた」これは当たり前ですよ、柳田先生。

「丹後田邊の海上三里の沖にある御島」「丹後田邊」は現在の舞鶴であるが、この島は不詳。識者の御教授を乞う。

「奧尻島」。]

 

 要するに通例人がいて管理すべき取引を、何かの都合で相手次第に放任して置いたとても、其㋾以て直に窮北未開民族の間に存する奇異なる土俗と同系のものと見ることは速斷である。但し今一段とその根源に遡つて、後世我々の間に行はれた人なし商ひも、最初は觸接を憎んだ異民族間の貿易方法を、學んだものだらうと云ふ假定は立ち得るかも知らぬ。しかも之を確實にする爲には別に證據材料が無くてはならぬ。府縣に散布して居る所謂椀貸傳説が、殘念ながらその證據には些ともならぬことは、是から自分がまだ言ふのである。鳥居氏がこんなあやふやな二つの材料を以て、日本にも曾て無言貿易の行われた論據とせられ、二つも材料があるからは殊に確かだと云ふ感じを、與へんとせられたのは宜しくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「些とも」「ちつとも(ちっとも)」。]

 

  家具を貸したと云ふ諸傳説において、最も著しい共通點は報酬のなかつたことである。唯一つの例外と言つた駿州大井川の楠御前でも、竹筒に二つの神酒は單に感謝の表示で、借料とは到底考へられぬのである。然らばこれ明らかに恩惠であつて對等の取引では無い。第二に注意すべきは文書を用いたと云ふ例である。小學教育の進んだ當節では、如何なる平民同士の間にも文書は授受せられるが、農人の大部分が無筆であつた前代に於ては、是は或智力の勝れた者の仲介を意味して居る。相手も亦手紙の讀めるえらい人又は神であつたと云ふことを意味して居る。語を換へて言へば、啻に今日の人の目にさう見えるのみでなく、この話を半ば信じて居た昔の田舍人に於ても、此不思議を以て信仰上の現象又は少なくとも呪術の致す所と考へて居たのである。從つて次々に尚述べるやうに、椀類の貸主に關する多くの言傳へは、無言貿易の相手方などゝは大分の距離がある。水の神と云ひ龍宮からと云ふ説明も、偶然ながら此傳説の成立ちと、其後の變化とに關する消息を漏らして居るやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「啻に」「ただに」。「唯に」と同じい。]

 

2018/01/15

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 四

 

     

 

 古墳では説明のつかぬ實例は決して是のみでは無い。ある府縣ではすでに水の底からも膳椀を借りていたのである。これも椀貸淵と云ふ名は普通は用いぬが、越中でも蓑谷山の絶頂にある繩池一名家具借の池には同じ話があつた。この池の神は靈蛇であつて、每年七月十五日には美女と化して池の上に出て遊ぶ。ある時貧しき民あつて人を招くに器のないことを歎いて居ると、忽然として朱椀十人前水の上に浮び出た。それ以後村人はこれに倣うて入用の度每に就いて借りることを例として居た處、遙か後世になつてある尼三人前の器を借りて十日も返さず、終に中盆二つを損じて不足のまゝ返したので、池水鳴動して大雨氾濫し、尼は居(いへ)覆へり命を損し、此不思議も亦止んだとある。尼が神罰を受けたというのは立山又は白山の登宇呂の姥の話と同系統の古傳であつて、面白い來歷のある事であるが、枝葉にわたるから玆には略しておく。

[やぶちゃん注:「繩池」(なはがいけ(なわがいけ))は現行では「縄ケ池」と表記し、現在の富山県南砺(なんと)市北野(きたの)蓑谷入会(みのたにいりあい)に位置する(ここは旧南砺波(となみ)郡城端町(じょうはなまち)の内であった)。ミズバショウ群生地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は高校一年の春に生物部(同年年末より演劇部を兼部)の遠出で一度行ったことがある。ここの龍(蛇)女伝説はサイト「龍学」のこちらに詳しい。それによれば、かの藤原俵藤太秀郷絡みで、しかも伝承の一つは彼自身が蛇の母が生んだ子であるという驚くべき内容を持つ。椀貸なんぞより遙かに面白い。必読。

「登宇呂の姥」「とうろのうば」。「止宇呂の尼」とも。禁制を犯して立ち入ろうとした女性が石と化した老女化石譚で、類型が名も酷似して「大峰の都藍尼(とらんに)」「白山の融(とおる)の姥」として伝承されている。]

 

 次に武藏の椀箱沼と云ふのは、今の埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木の中程にある沼で、形の細長い爲か一名を宮川とも呼んで居た。これも昔は農家來客の時に、椀具の借用望み次第であつたが、爰では必ず請求の旨を書面に認めて沼の中に投げ込むことになつて居たのが、他の地方の話と異なつた點である。山梨縣では南都留郡東桂村の鹿留川に同じやうな話がある。その地を御南淵(おなんぶち)と云ふのは多分もとは女淵であろう。村民必要に臨み膳椀何人前と書いてこれを附近の岩の上に置き、お賴み申しますといつて歸ると、翌朝は其數だけの品がちやんと河原に列べてある、返す時にも同じ場所に持つて行つて置けばよいのである。或時村民某面白半分に一人前だけ殘して返すと、それ以後はどう賴んでも決して貸さぬやうになつた。但し其膳は今でも寶物にして持ち傳へて居ると云ふことである。同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺の藪の中にある洞穴は、水邊では無いがやはり龍宮に通ずと云ふことで、亦村民に道具を貸して居た。是も望みの品と數とを紙に書いて穴の口に入れるのであつた。群馬縣では榛名の南の室田の長念寺の底無し井戸、是も龍宮まで拔けて居て寺の振舞の日には膳椀を貸した。入用を手紙に書いて前日に井中に落して置くと、其品々が夜の中に井の傍まで出してあつた。寺も井戸も現存しては居るが、やはり亦貸主を怒らせて夙に其慣例は絶えたと云ふ。

[やぶちゃん注:「椀箱沼」「埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木」「宮川」恐らくは埼玉県比企郡吉見町一ツ木のこの東西に膨らんだ河川風の部分か(グーグル・マップ・データ)。国土地理院図を見ると、東の細くなった南側に神社があることが判る。それで「宮川」なのかも知れぬ。

「認めて」「したためて」。

「山梨縣」「南都留郡東桂村の鹿留川」「御南淵(おなんぶち)」現在の山梨県都留市鹿留(ししどめ)のここ(グーグル・マップ・データ)。山梨日日新聞社・YBS山梨放送の「冨士NET」の「おな淵」を参照されたい。それによれば、淵の水深は約⁵メートルで、高さ約六メートルの滝もがある(リンク先に写真有り)。そこには『伝説によると、この淵近くの長者の家に奉公していた「おなん」という娘がお膳(ぜん)を壊し、淵に身を投げた。その後、村で人寄せがあるときなどの前日、紙に「お膳を十膳お貸しください」と書いて淵に浮かべておくと、翌朝お膳が浮かんでいた。ある時、借りたお膳を』五『膳しか返さなかったので、その後は貸してくれなくなったという。借りたとされるお膳が豊鏡寺(夏狩)に』一『膳残る』とあり、「膳は今でも寶物にして持ち傳へて居る」というのと一致する。また、柳田國男の「おなん」=「女」の短絡説とは伝承は違う(この短絡、柳田らしくないじゃないか!)。豊鏡寺は不詳であるが、「おなん淵」から西南西八百五十メートルほどの、都留市桂町(ここ(グーグル・マップ・データ))に曹洞宗の寶鏡寺があり、夏狩はその北直近の地名であるから、この寺の誤りではないかと思われる(夏狩地区には豊鏡寺という寺はないようであるから)。この一膳、機会があれば見てみたい気がする。

「同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺」原座の山梨県西八代(にしやつしろ)郡市川三郷町(いちかわみさとちょう)鴨狩津向(かもがりつむぎ)にある、曹洞宗の高前寺の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」のこちらに『西八代郡六郷町』(合併前の旧町名)『鴨狩津向の高前寺の下の洞穴は、ウボ穴といい、人寄りがあって多数の膳椀が必要の時、淵か川に行って頼むと、翌朝それだけの数が岸の岩の上においてある。用済の器具はよく洗ってお礼を言って岩に置くといつのまにかしまわれる。しかし、心のよくない者が返すときにその数をごまかしたり、壊して返したのでそれからは頼んでも貸さなくなったという。ここで貸してくれる器は竜宮皿といわれて竜宮がかしてくれるものだといわれた』とある。

「榛名の南の室田の長念寺」群馬県高崎市下室田町の長年寺の誤りと思われるここ(グーグル・マップ・データ)。この寺には「底無し井戸」はないが、榛名湖に繋がる或いは龍神が棲むとする井戸がある。個人ブログ「Tigerdreamの上州まったり紀行」の「木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-」を参照されたい。室田に別の「長念寺」があって「底無し井戸」もあるというのであれば、御教授願いたい。]

 

 近頃迄の學者には、此樣な變則の例を提出すると、それは訛傳だ眞似損ひだと、自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つたが、鳥居氏は我々同樣に新しい人だから、必ずもつと穩健な解答をせられるに相異ない。然らば右に列擧するが如き所謂椀貸傳説は果して如何なる方面から、日本の無言貿易土俗を説明するのであらうか。無言貿易の問題に付ては、自分は只グリイルソンの無言貿易論一册を讀んで見たゞけであるから深い事は知らぬが、何でも山野曠原を隔てゝ鄰り住む二種の民族が、互に相手と接觸することを好まず、交易に供したいと思ふ品物のみを一定の地に留めて置いて、迭る迭る出て來ては望みの交換品を持還る風習を言ふのである。日本で人無し商ひなどゝ稱して、主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた。鳥居氏は是も亦無言貿易であるやうに説かれたが、其ではあまりに定義が廣くなりはせぬか。土佐で自分等の目撃したのは路傍に草鞋とか餅、果物の類を臺の上に列べ、脇に棒を立てゝ錢筒を吊し、其下には三文または五文の錢の畫が描いてあつた。中央部の如く街道の茶店が發達せず、僅かの小賣のために人の手を掛けては居られず、幸ひ相手が貧人ながら信心の爲の旅行者であれば、其正直を賴りに右の如き人無し商ひをした迄で、本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「近頃迄の學者には」「自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つた」柳田國男先生、そのまま、あなたに鏡返し致します

「鳥居氏」「一」の冒頭に出した鳥居龍蔵を指す。

「グリイルソンの無言貿易論」イギリスの法律家で人類学者でもあったフィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン(Philip James Hamilton Grierson 一八五一年~一九二七年)が一九〇三年に刊行したThe Silent Trade(「沈黙交易」)。「一」の私の「無言貿易」の引用注も参照されたい。

「迭る迭る」「かはるがはる」。「迭」(音「テツ」。「交替に」の意。現代では「更迭」でしかお目にかからない)で「送」ではないので注意。

「主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた」あの……僕の地域やその周囲の農家では、沢山、今もやってんですけど……。

「本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ」これは確かに柳田國男先生に激しく同感する。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 三

 

    

 

 椀貸傳説の存在する地方には、往々にして借りて置いて終に返さなかつたのが是だと言つて、その一人前だけを持傳へて居る舊家がある。その物を見ると何れも模樣などの附いた立派な塗物であると云ふ。さうでなくても貸したのは多くは木具(きぐ)であつたと云ふが、德島縣だけには茶碗や皿を貸したことになつて居て、事に由ると其が素燒の氣味の良くない品であつたのかと思はれぬことも無い。飛彈の學者なども、昔は墓に其人の使用した臺所道具を埋めて居た所から、斯う云うふ話が起つたのかと説いて居る。しかし我々の祖先が木製の食器を用いて居たことゝ、木具の土中にあつては早く朽ちることゝを考へて見ると少し疑はしい。其よりも更に有力なる反對の證據は、膳椀を貸したと云ふ場所が必ずしも古墳ばかりでは無いことである。現に阿波でも家具の岩屋と稱して、この口碑を伴ふものに天然の岩窟が幾つもあり、假令天然で無くても墓穴では無い岩屋の中に、この話を傳へた例は各地に存するのである。

 例へば淡路の三原郡下内膳村先山の某寺で、あたかも上州館林の文福茶釜の如く、客來のある每に椀其他の雜具を借りたと云ふのは、天の磐戸とも稱した大洞穴であつた。淸めて穴の口に返して置けば何時の間にか取入れた。今から百六十年前の寛延年間まで貸したと云ふ。駿州吉原在にも膳を貸したと云ふ處が二箇所あり、[やぶちゃん注:底本は句点だが、ちくま文庫版で特異的に読点に訂した。]その一つは傳法村膳棚と云ふ畑地の中の小さな石塚、今一つは石阪と呼ぶ地の石の穴であると、山中共古翁は話された。美濃では稻葉郡古津村の坊洞、一名を椀貸し洞とも謂ふ村の後の山の下にある岩穴である。また一箇所は武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)の半腹に在る洞、この二つは後に水の神の話をする時に詳しく言ふ。越後では北蒲原郡加治山の一峰要害山と稱する山の半腹に在る窟で、其名を藏間屋(くらまや)と呼び、是は九十年前の文政年間まで貸していたさうである。ちやうど葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃には、まだ盛に實行して居たことになるのである。此岩窟は每年正月の元朝に震動し、山下の民其響の強弱によつて年の豐凶を卜したと云ふ説もあつて、頗る村の信仰生活と交渉して居る。能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである。

[やぶちゃん注:「淡路の三原郡下内膳村先山」現在の兵庫県洲本(すもと)市(淡路島の中央部)下内膳(しもないぜん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、この地区では両墓制(墓石のある「参り墓」と実際の遺体を埋葬する「捨て墓」の二つを有する墓制)が現在でも受け継がれているから、或いは、この「捨て墓」がこの「洞窟」なのではないかとも私には思われる

「某寺」同地区で大きな寺院は真言宗盛光寺であるが、柳田がわざわざ伏せた以上、軽々にこことは名指せないし、そのような「大洞穴」が境内にあるという資料もないから、或いは廃寺となった寺なのかも知れぬ。柳田が書いた当時で既に荒廃が著しく、存続が望めなかった有様なら、彼は「某寺」と言いそうな気もする。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「天の磐戸」確認出来ない。

「寛延年間」一七四八年から一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「駿州吉原」現在の静岡県富士市吉原。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「傳法村膳棚」現在の静岡県富士市伝法の内か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「石塚」「石阪」柳田先生、同伝法の字中村には伊勢塚古墳が現存しますぜ(ここ(グーグル・マップ・データ))! それに「いせづか」や「いしざか」は「いしづか」と発音も似てますぜ! これも偶然ですかねえ? 古墳だったとしたら、自然の「石の穴」じゃあ、ありませんぜ。さても、そもそもが柳田國男がこれを書いた頃には古墳時代以前の遺跡は殆んど学術的に精査されておらず、古墳なのに、ただの自然の洞窟や穴だと思われていたものが私は非常に多かったと思っている。されば、柳田が頻りに古墳でない場所の椀貸伝説を力説するこれらも、今は古墳やそれ以前の繩文や彌生の集落・住居・墳墓跡であった可能性が私は頗る高くなると踏んでいるのである。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「稻葉郡古津村」現在の岐阜市長良古津(ながらふるつ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。字坊ヶ洞が地名としては現存し、「坊ヶ洞山峰」「坊ヶ洞林道」の呼称もある。しかし、「村の後の山の下にある岩穴」の紹介は見当たらぬ。不思議。崩落して潰れてしまったのか?

「武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)」現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。

「北蒲原郡加治山の一峰要害山」現在の新潟県新発田市東宮内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藏間屋(くらまや)」不詳。

「文政年間」一八一八年から一八三一年。第十一代将軍徳川家斉の治世。

「葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃」葛飾北斎(宝暦一〇(一七六〇)年?~嘉永二(一八四九)年)の「北齋漫畫」は初編の序文によれば、文化九(一八一二)年秋頃に下絵が描かれており、文政より少し前であるから、正確な謂いではある。この謂いは、この要害山の蔵間屋の椀貸の絵を北斎が「北斎漫画」中に描いていることを意味するわけだが、私は所持していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像「山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 絵本の世界」(但し、一部)で見られるが、如何せん、目次や検索が出来ないので、暫く見て、諦めた。発見したら、リンクを張る。悪しからず。

「能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである」私は思うにこれは、私も何度か行ったことがある、現在の富山県氷見市大境にある「大境洞窟住居跡」のことではないかと考えているここ(グーグル・マップ・データ)。北直近に石川県の県境がある(因みに、この県境の鼻は「百海」と言って私の父の秘密の釣り場で、私もよく連れて行って貰った。人生で腐るほど鉄砲鱚を釣り上げたのもここだった)。そうして、その間の海岸の海水浴場の名を御覧な、「灘浦海水浴場」だろ? ということは、この洞窟のある大境は嘗て「灘の南村」と呼ばれてたんではないかい? 柳田國男さんよ!)。大境洞窟住居跡(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、六つの文化層を持つ繩文中期から中世にかけての永い時間をドライヴしてきた複合遺跡である。ウィキの「大境洞窟住居跡」によれば、『この住居跡は、氷見市大境漁港の近くにある白山神社裏手の洞窟内にあり』、大正七(一九一八)年に『社殿を改築しようとしたところ、骨や土器が出土した。その後、東京大学人類学研究室の柴田常恵らによって詳しい調査が行われ、縄文時代から中世にかけての土器、陶磁器や人骨、獣の骨が出土した。この時に実施された調査は、日本初の洞窟遺跡の発掘調査であるとともに、本格的な層位学的発掘調査の嚆矢となるものであった』(下線やぶちゃん)とある。柳田國男さんよ、これだとしたら、確かに元は自然の作った海食洞ではあろうが、これ、立派な人工の古代遺跡なんだぜ。天然自然の人の入らない穴ぼことは訳がちゃうんだ! まあ、許したろ。なんたって、この「隱れ里」は『東京日日新聞』大正七年二月から三月の連載だからな。鬼の首捕ったように、ここでこの洞窟を椀貸伝説の人工無抵触の自然洞窟として挙げてるあんたは、あんな辺鄙な糞ド田舎に、そんな繩文から中世に至る長大な時間軸を保持した洞窟文化があったなんて、これっぽっちも実は思ってなかったんじゃあないか? 正直に言いな! それがあんたの鄙を無意識に馬鹿にした中央アカデミズム的浅薄さだとは、これ、思わんかね?

いやいや! 癌はそんな根の浅い所にはない! この際だから、怒りついでに言っておこう!

あんたは《自分が民俗学の研究対象として採り挙げた対象を考古学者や歴史学者に横取りされるのが不快だった、されるんじゃないかといつも怖れていた》だけなんじゃないか?

寧ろ、《本来ならば学際的であるべき民俗学を、自分の学術領分として折口信夫と結託して勝手に線引きしてしまい、自分をアカデミックな数少ない新進の学問たる民俗学の「学者」として保身したかった》んじゃないのか?

そういうところをこそ、南方熊楠は痛烈に批判したんだよ。

《「伝承」を何より第一基本原理とし、自分の勝手で杜撰な解釈(思いつき)を伝家の宝刀のように思い込み、都合の悪いデータや性的な内容(こちらはお上を憚って)には、極力、目を瞑って見えないことにし、しかも、他の学問領域の科学的手法を積極的に自己の手法に組み入れようとはしないという、悪しきアカデミズムの領分・親分意識》

それが、日本の民俗学を、今のような鬼っこのような奇妙なものにしてしまったのではないか?

これだけはどっかで言っておかねばならない私の柳田國男への疑義なのである。

 同じ越中の西礪波郡西五位村大鳥倉には、少しばかり奇な一例がある。この村の山の上にも、近郷の民に器物を用立てたと云ふ深い洞穴があつて、その山の名をトカリ山あるいはカタカリ山またモトヾリ山ともいつた。かつて或農夫拜借の道具の立派なるに心を取られ、返却を怠つて居た者があつた。此家に生れた一人息子十五歳になる迄足立たず、夫婦之を悲しんで居ると、其年の秋の取入時に米俵を力にして始めて立つたので、悦びの餘りに更に一俵を負はせて見たら、其まゝすたすたと此山の方へ步み去り、跡を追ふも及ばず、終に洞穴の奧深く入つてしまつた。あつけに取られて立つて居ると、中では話の聲がする。一人が貸物は取つて來たかと問ふと、漸く元だけは取つて來たと答へた。これが元取山の名の起りである云々。

[やぶちゃん注:「西礪波郡西五位村大鳥倉」「モトヾリ」山現在の富山県高岡市福岡町(まち)五位(ごい)ではなく、その南東の高岡市福岡町鳥倉(とりくら)にある元取山(もとどりやま)。標高百九十五・七メートル。(グーグル・マップ・データ)。後半の展開が息子でなく馬という設定で今一つつまらぬ(その分、悲惨ではなくなりはする)が、フジパン」公式サイト民話の部屋の「伝説にまつわる昔話にあ富山県元取山(再話・六渡邦昭氏)も参照されたい。]

 

2018/01/06

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 二

 

     

 

 是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である。すこしづゝの異同に由つて分類をして見ると、第一に氣がつくのは讃州の大子殿の如く、その地に神樣があると云ふ點である。靜岡縣島田驛から一里の上流、笹ケ窪の楠御前と云ふのは、楠の茂つた森の中の祠であつた。此祠でも願によつて膳椀を貸したと云ふ。立派な朱の家具であつて、其が知らぬ間に宮の前の岩の上に置いてあつた。謝禮には竹の筒二つに酒を入れて社へ捧げたとあつて、僅ながら借賃を收められた珍しい例である。同縣安倍郡安東村のワンバコ樣は、熊野神社の東にある社地一坪ほどの小さな祠であつたが、やはり住民が膳椀に不足する場合に、借用の祈願すると翌朝必ず效驗があつたさうである。此地は靜岡市の郊外で、明治三十年に練兵場を設けた際、斯程の神樣を村の西谷某方の稻荷に合祀して、型なしにしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である」と云うのは誤りである。彼が挙げる古墳絡みの伝承の中には、現在のその古墳周辺に「椀貸伝説」があるからである。後で述べるように、柳田國男は古墳或いはその出土品と「椀貸伝説」を古い在野の研究者が結び付けていることを嫌っているから、こんないい加減なことを言っているとしか私には思えない。以下の私の柳田への批判を参照されたい。

「笹ケ窪」現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「楠御前」不詳。現存しないか。

「同縣安倍郡安東村」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「熊野神社」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「西谷某方の稻荷」近い位置に現存する稲荷は三加番(さんかばん)稲荷神社であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、ここは現在、安東ではなく、東草深町であり、本文の謂いから見ると、「西谷某」という個人の屋敷内の稲荷へ合祀したと読めるから、ここではないと思われるものの、この神社、調べてみると、祭神が保食大神(うけもちのおおかみ)で、これは伊勢外宮に奉祀する豊受大神と同神で、食料と衣料を司る神であるから、或いは? とも思われた。郷土史研究家の御教授を乞う。]

 

 ワンバコサマは後の埼玉縣の例を見ても分る如く、文字に書けば多分椀箱であらう。貸すのは神樣であつたらしいが、これも讃州と同樣に塚が一つあつて、櫻の古木がある爲に櫻塚とも呼んでいたさうである。神樣が塚に據られると云ふことは近頃餘り言はぬことであるが、此種の話に限つて塚があるのは注意すべき第二の點である。例へば飛彈吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町の龜塚一名椀塚、長野縣では上伊那郡松島の龍宮塚、富山縣では射水水戸田村大字市井の甲塚、三重縣では安濃郡曾根村東浦の椀塚、德島縣阿波郡西林村の箭塚、美馬郡郡里(こほさと)村友重の双塚等、何れも似たり寄つたりの昔話を語り傳へ、人の心が不正直になつた故に、今では貸さなくなつたと云ふこと迄が同じである。

[やぶちゃん注:「飛彈吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町」現在の岐阜県高山市国府(こくふ)町広瀬町。ここ(グーグル・マップ・データ)。「龜塚」「椀塚」という呼称は確認出来なかったが、この地区の南東部に「こう峠口(こうとうげぐち)古墳」(ひらがなはママ)という、築造推定六世紀後期とされる全長七十二・七メートルもある(飛彈地方最大で石室の大きさでは県下最大級)前方後円墳があり、鴻ノ宮遺跡・度瀬遺跡・広瀬石橋遺跡・広瀬十王堂遺跡・作料遺跡が約一キロメートルの間に連なっているから、思うに、ここ(グーグル・マップ・データ)がそれなのではないかと私は推定する。私は「ワンバコサマ」は古墳から出土した古墳時代の土師器(はじき:弥生土器の流れを汲む素焼きの土器)・須恵器(陶質土器。青灰色で硬い)がその伝承の濫觴の一つであると思っている。実際、以下の注を見て戴くと判るが、多くの「ワンバコサマ」伝承地が、古墳或いは古墳近くであるからである(事実、次の段落で柳田國男もそういう古い説を紹介している。但し、彼はそれを疑わしく思っていることが軽くいなした言葉の端からはっきり判る。「蝸牛考」での方言周圏論や非科学的な「海上の道」論なんどで都合のいいデータだけを提示し、自身の直感は大事にする癖に、他者の意見は常に留保し眇めで見る――明治のアカデミストの正体がよく判るというもんだ)

「上伊那郡松島」現在の長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島か。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴くと判るが、同地区の北北西の箕輪町中箕輪には松島王墓古墳があり、サイト「龍学」内のこちらに「龍宮塚の椀貸穴」として出るから、ここが確実にそれである。そこに昭八(一九三三)年山村書院刊の岩崎清美「伊那の伝説」よりの引用で(一部に私が推定で読みを補った)、

   *

中箕輪村松島の北の端(はず)れに瓢形(ひさご)の古墳があって、これを王塚と称して居る、敏達天皇の皇子頼勝親王の墓だと伝えられて居るが、それは分らない。その傍(かたわら)に龍宮塚と称(よ)ぶ小さい塚があって、その蓋石(ふたいし)の下が穴になりそれが龍宮まで届いて居ると云うのである。お客のある時、龍宮へ頼んで入用の膳椀を貸して貰うので大へんに重宝がられて居た所、一度借りたお椀を毀(こわ)したままで返さなかったために、それからは如何に頼んでも貸して呉れぬようになったと云って居る。

   *

とある。「敏達天皇」(五三八年~五八五年)は欽明天皇の子で第三十代天皇。「頼勝親王」不詳。別名松島王とする。

「射水水戸田村大字市井」現在の富山県射水(いみず)市市井(いちのい)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「甲塚」(「甲」はちくま文庫版全集に『かぶと』とルビ)は確認出来ないが、調べてみると、同地区の南の端に富山県史跡指定された大塚古墳という円墳があるの中央附近と思われる。グーグル・マップ・データの航空写真)。横穴式石室で五世紀頃の造立と推定され、高さ約六メートル、直径約三十五メートルある。ある解説によれば、明治時代にはこの近くに別に五基の古墳があった(大正期までに消滅)ともあるが、円墳と「甲塚」という呼称は相性がよい

「安濃郡曾根村東浦」三重県津市安濃町曽根。ここ(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「阿波郡西林村」現在の徳島県阿波市阿波町の南西の一角。この附近(グーグル・マップ・データ)。「箭塚」(ちくま文庫版全集に『やづか』とルビ)は確認出来ないが、調べると、同阿波町北岡には北岡西及び東古墳という円墳があることが判った。サイト「古墳マップ」の北岡東古墳の方の解説によれば、直径約十五メートル、高さ約五メートルで、埋葬空間は墳丘南東側に開口する両袖型の横穴式石室で、玄室部は天井を前後から斜めに持ち送る構造(段の塚穴型)になっており、近くの北岡西古墳とともに「段の塚穴型石室」の分布の東限となっているとある。この塚は次の段落でも語られている。「箭塚」の呼称は或いは出土した副葬品に鏃があったからではなかろうか。

「美馬郡郡里(こほさと)村友重」徳島県の旧美馬(みま)郡郡里町(こおざとちょう)で、現在の美馬市美馬町の東の半分に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「双塚」というのは恐らく美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある二基の古墳、国指定史跡の「段の塚穴」のことである。この古墳は、孰れも古墳時代後期(約千四百年前)につくられたと推定されるもので、約二十五メートルの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳を「太鼓塚古墳」、西の小さい古墳を「棚塚古墳」と呼んでいると「美馬市」公式サイト内のこちらに地図入り・写真入りで、ある。二つが「双」(なら)ぶ「塚」であるから、これは間違いない。]

 

 たしかハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」に、佛蘭西にも塚に賴んで鍋を借りて居たと云ふ話があつたと記憶する。小人が人間の無心を聽いて名劍を鍛へてそつと出して置くと云ふのも、多くは塚の邊であつたやうである。しかも日本だけの話で見ると、いわゆる椀貸の話が古塚に伴ふのは、その塚に口が開いて居た爲であるやうにも見える。例へば阿州などでは、少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る位で、現に右に申す西林の箭塚の如きも、元祿中まで椀を貸していたと云ふにも拘らず、百餘年前の著書に「瓢形にして後部に塚穴あり」とある。郡里村の双塚も亦二つの塚穴であつて、その中に以前は二つの髑髏があつたと云ふ。其他麻植郡森藤村の塚穴、那賀郡日開野(ひがいの)村の塚穴等、食器を貸したと云ふ話が古くからあつた。そこで阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である。

[やぶちゃん注:『ハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」』イギリス・ロンドン生まれの民俗学者エドウィン・シドニー・ハートランド(Edwin Sidney Hartland 一八四八年~一九二七年)のThe science of fairy tales : an inquiry into fairy mythology(「妖精物語学――妖精神話に就いての研究」。一八九〇年)。原著ならば「Internet Archive」のこちで画像で読める(フル・テクスト版も有り)。ざっと探しては見たが、原文では私には到底、歯が立たなかった。

「阿州」阿波国。徳島県。

「少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る」徳島ではないが、南に接する観音寺市坂本町には、まさに「椀貸塚古墳」という公式名の古墳さえ存在する。同市公式サイト内のこちらを参照。そこにはしっかり、昔話「椀貸塚伝説」の地としても知られている、とある。

「元祿」一六八八年から一七〇四年。

「百餘年前の著書」柳田にしては不親切。出典が記されていないので確認しようがない。「百餘年前」とあり、本論文は大正七(一九一八)年の作であるから、(かんせい)は天明・寛政・享和頃の作となる。出典を御存じの方、御教授を乞う。

「麻植郡森藤村」徳島県の旧麻植(おえ)郡森藤(もりとう)村で、現在の吉野川(よしのがわ)市鴨島町(かもじまちょう)森藤。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区にも三谷古墳・城ヶ丸古墳・向原古墳・壇古墳群がある。また、ここは銅鐸の出土地でもある。

「那賀郡日開野(ひがいの)村」現在の徳島県阿南市日開野町(ひがいのちょう)。(グーグル・マップ・データ)。この町の中央に鎮座する王子神社は数基の古墳からなる王子山古墳群がもとである。

「阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である」前の段落の私の柳田國男を批判した注を参照のこと。私は実際に使ったか使わなかったを問題にしているのではない。古えに塚を暴いたところ、立派な須恵器などを見つけて使用していたが、罰当たりなことと考えて戻した。そうした事実を濫觴としてこの伝承が形成されたと考えることが、何故、「一寸」「尤もらしく」は「聞える」が、何とも好事家が考えそうな巷説であると(少なくともここでは)柳田は言いたい口振りではないか。如何にもインク臭いいやらしい言い回しではないか。]

 

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