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カテゴリー「柳田國男」の75件の記事

2017/05/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)

 

 近年の國玉の橋姫が乳呑兒を抱いて來て、之を通行人に抱かせようとした話にも亦傳統がある。此類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んで居た。ウブメは普通には産女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓たどを夜分に外に出して置くと、ウブメが血を掛けて其子供が夜啼をするなどゝ云ふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものと云ふが、別に又兒を抱いた婦人の形に姿などにも描き、つい賴まれて抱いてやゝ重いと思つたら石地藏であつたと云ふやうな話もある。是も今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話を載せ、「此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子産ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いて居る。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づ之に遭へば喰はれぬ迄もおびえて死ぬ程に畏れられて居たにも拘らず、面白いことには産女にも往々にして好意があつた。例へば和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔此寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より産女の幽魂現れ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女の爲に囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。此寶塔は卽ち其金を費して建つたものである。夷堂橋の北の此寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までも有つたと云ふ。加藤咄堂氏の日本宗教風俗志には又こんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産(うぶ)の玉と稱する物は、是も此寺の昔の仕持で日行と云ふ上人、或時途上で頗る憔悴した婦人の赤兒を抱いて居る者が立つて居て、此子を抱いてくれと云ふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは水のやうであつた。上人は名僧なる故に少しも騷がす御經を讀んで居ると、暫くして女の言ふには御蔭を以て苦艱を免れました。是は御禮と申して呉れたのが此寶物の玉であつた。今でも安産に驗ありと云ふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。此例などを考へて見ると、謝禮とは言ふけれども實は之を呉れる爲に出て來たやうたもので、佛法の功德と云ふ點を後に僧徒が附添へたものと見れば、其他は著しく赤沼黑沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能として居なかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちと成つて現れたのも、自分には意外とは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「ウブメ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種で「姑獲鳥(うぶめ)」などとも表記された妖怪「産女(うぶめ)」。やや内容がダブる箇所があるが、ウィキの「産女」を引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話」これは産女伝承の現存する最古ののもので、「今昔物語集」「卷第二十七」の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうそど)平季武(たひらのすゑたけ)産女(うぶめ)に値ふ語(こと)第四十三)である。以下に示す。小学館の日本文学全集版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、しかも読み易く追加(送り仮名など)を加えたオリジナルのものである。□は欠字。■は脱文が想定される箇所。

   *

 今は昔、源の賴光の朝臣(あそむ)の美濃の守にて有りける時に、□□の郡(こほり)に入りて有りけるに、夜(よ)る侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。警固の武士の詰所。]に數(あまた)の兵(つはもの)共集まり居て、萬(よろづ)の物語りなどしけるに、

「其の國に渡(わたり)[やぶちゃん注:比定地は確定的ではないが、参考にした小学館版の注では『飛騨川と木曽川の合流地付近』の「今渡(いまわたり)の渡し場」ではないかと推定している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ふ所に、産女有りけり。夜に成りて、其の渡り爲(す)る人有れば、産女、兒を哭(な)かせて、『此れ、抱(いだ)け抱け』と云ふなる。」

など云ふ事を云ひ出でたりけるに、一人有りて、

「只今、其の渡に行きて、渡りなむや。」

と云ひければ、平の季武と云ふ者(も)の有りて云く、

「己(おのれ)はしも、只今(なり)也とも、行きて渡りなむかし。」

と云ひければ、異者共(ことどももの)有りて、

「千人の軍(いくさ)に一人懸け合ひて、射給ふ事は有りとも、只今、其の渡をば、否(え)や渡り給はざらむ。」

と云ければ、季武、

「糸(いと)安く行きて渡りなむ。」

と云ひければ、此く云ふ者共、

「極(いみ)じき事侍りとも、否(え)不渡給(わたりたま)はじ。」

と云ひ立ちにけり。

 季武も、然許(さばか)り云ひ立ちにければ、固く諍(あらそ)ひける程に、此の諍ふ者共は十人許り有りければ、

「只にては否不諍(えあらそ)はじ。」

と云ひて、鎧・甲・弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う筒或いは箱状の武具。箙(えびら)。]、吉(よ)き馬(むま)に鞍置きて、打ち出での大刀(たち)[やぶちゃん注:近年、新たに鍛えたばかりの新しい太刀。]などを、各々取り出ださむと、懸けてけり。亦、季武も、

「若し否不渡(えわたら)ずは、然許(さばか)りの物を取り出ださむ。」

と契りて後(のち)、季武、

「然は一定(いちぢやう)か。」[やぶちゃん注:「先の約束に間違いないな?」。]

と云ひければ、此く云ふ者共、

「然(さ)ら也。遲し。」

と勵ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡錄を負ひて、從者も■■■。■■■、

「■■■何でか知るべき。」[やぶちゃん注:従者は現場には従っていないから、「連れざりけり」辺りか? なおも、この台詞は「確かにそこに行って、確かにそこを渡って、そうして戻ってきたということをどのように我々が知り得よう。何をその証拠するのか?」と賭けをした同僚らのある者が不満と疑義を述べているのであるから、「ある者」が主語で、「渡れるを何でか知るべき」辺りか?]

と。季武が云く、

「此の負ひたる胡錄の上差(うはざし)の箭(や)[やぶちゃん注:胡錄の上に突き出すように目立って装飾的に差した実戦用の単純な征矢(そや)でない鏃部分が特殊な矢。鏑(かぶら)矢や雁股(かりまた)の矢。]を一筋、河より彼方に渡りて、土に立てて返へらむ。朝、行きて見るべし。」

と云ひて行きぬ。

 其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇みたる、三人許り、

「季武が渡らむ一定を見む。」

と思ひて、竊(ひそ)かに走り出でて、

「季武が馬の尻に不送(おく)れじ。」

と走り行きけるに、既に季武、其の渡に行き着きぬ。

 九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころほひ)なれば、つつ暗(くら)[やぶちゃん注:真っ暗闇。]なるに、季武、河を、ざぶりざぶり、と渡るなり。既に彼方に渡り着きぬ。此れ等[やぶちゃん注:こっそりつけて来た三人。]は、河より彼方の薄(すすき)の中に隱れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着きて、行縢(むかばき)[やぶちゃん注:「向か脛(はぎ)に穿(は)く」の意で、旅や狩猟などの際に足を被った布また革。平安末期頃から武士は狩猟・騎乗などの際には腰から足先までの、有意な長さを持った鹿皮のそれを着用したが、ここはそれ。]走り打ちて、箭(や)拔きて[やぶちゃん注:地面に。]差すにや有(あ)らむ。

 暫し許り有りて、亦、取りて返して、渡り來(く)るなり。其の度(たび)聞けば、河の中程にて、女(をむな)の音(こゑ)にて、季武に現(あら)はに、

「此れ、抱(いだ)け、抱け。」

と云ふなり。亦、兒ちご)の音(こゑ)にて、

「いがいが。」[やぶちゃん注:赤ん坊の泣き声のオノマトペイア。]

と哭(な)くなり。其の間、生臭き香(か)、河より此方(こなた)まで薰(くん)じたり。

 三人有るだにも、頭(かしら)の毛太りて怖しき事、限り無し。何(いか)に況んや、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なか)ばは死ぬる心地す。

 然(さ)て、季武が云ふなる樣、

「いで抱かむ。己(おのれ)。」[やぶちゃん注:「己」は相手を見下した卑称の二人称。]

と。然れば、女、

「此(こ)れば、くは。」「くは」は当時の口語で「そら!」「さあ!」という相手に注意を促させる感動詞。

とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受けて取りければ、亦、女、追々(おふお)ふ、

「いで、其の子、返し得しめよ。」

と云ふなり。季武、

「今は返すまじ。己。」

と云ひて、河より此方の陸(くむが)に打ち上(あが)りぬ。

 然て、館(たち)に返りぬれば、此れ等も尻に走り返りぬ。

 季武、馬より下(お)りて、内に入りて、此の諍ひつる者共に向ひて、

「其達(そこたち)、極じく云ひけれども、此(か)くぞ□□の渡(わたり)に行きて、河を渡りて行きて、子をさへ取りて來たる。」

と云ひて、右の袖を披(ひら)きたれば、木(こ)の葉なむ、少し有りける。

 其の後(のち)、此の竊かに行たりつる三人の者共、渡の有樣を語りけるに、不行(ゆか)ぬ者共、半(なかば)は死ぬる心地なむ、しける。然て、約束のままに懸けたりける物共、皆、取り出だしたりけれども、季武、取らずして、

「然云(さい)ふ許り也。然許りの事、不爲(せ)ぬ者やは有る。」

と云ひてなむ、懸け物は皆、返し取らせける。

 然れば、此れを聞く人、皆、季武をぞ讃めける。

 此の産女と云ふは、「狐の、『人謀らむ』とて爲(す)る」と云ふ人も有り。亦、「女(をむな)の、子、産むとて死(しに)たるが、靈(りやう)に成りたる」と云ふ人も有り、となむ語り傳へたるとや。

   *

「和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來」寺島良安の百科事典「和漢三才圖會」は私も所持するが、「卷第六十七」の「相模」国の地誌に載るそれはごく短く、次に掲げる「新編錬倉志」のそれと比しても、電子化する価値を認めないので省略する。「新編錬倉志卷七」の「大巧寺(ダイギヤウジ)」の条にある「産女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ)」を引いておく(リンク先は私の完全電子化注)。なお、本文に出る「夷堂橋」などもリンク先を参照されたい。お望みとあらば、案内し、語りもしよう。

   *

産女の寶塔 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢ひ、𢌞向に預つて苦患(くげん)を免れ度き由を云ふ。日棟これが爲に𢌞向す。産女、金(しんきん)一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり。

金」は「施しのための金」を指す。ここでは、自身の廻向のための布施。この一連の説話については、「お大功寺」(現在安産祈願る。祖母結核名古屋後、間借いわ因縁であ公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。

「苦艱」「くげん・くかん」。つらい目に遇って苦しみ悩むこと。艱難(かんなん)。苦患。

「加藤咄堂氏の日本宗教風俗志」仏教学者(但し、僧籍は持たなかった)で作家の加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)が明治三五(一九〇二)年に森江書店から刊行した書で、以上の記載は「第二篇 地方志」の「第二章 東海道志」の「第六節 安房、上總」の(国立国会図書館デジタルコレクション画像。左端の最後から四行目以降から次頁にかけて)に書かれている。

「上總山武郡大和村法光寺」千葉県東金(とうがねし)市田中にある日蓮宗宝珠山法光寺。現在も寺宝の水晶玉が「ふぶすな(産)の玉」と称されて安産のお守りとして崇められていることがネット情報から確認出来た。(グーグル・マップ・データ)。

「能として居なかつた」「能」は「よし」と訓ずる。]

 

2017/03/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(2)

 

 さて自分が爰に御話したいと思ふのは、是程馬鹿げた埓も無い話にも、やはり中古以前からの傳統があると云ふ點である。其は今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士、京都からの歸りに近江の勢田橋の上で、婦人に絹で包んだ小さな箱を託せられ、是をば美濃方縣郡唐の郷段の橋の酉詰に居る女に屆けてくれとの賴みであつたのを、うつかり忘れて家まで持つて還り、今に屆けようと思つて居るうちに細君に見咎められ、嫉深い細君は窃かに之を開けて見ると、箱の中には人間の眼球、其他の小部分が毛の附いたまゝむしり取つて入れてあつたので、夫婦とも大に氣味を惡るがり、主人は早速之を段の橋へ持參して行くと、果して婦人が出て居て之を受取り、此箱を開けて見たらしい、憎い人だと言つて凄い顏をして睨んだ。其から病氣になつて還つて程も無く死んだとある。勢田橋は御承知の如く昔から最も通行の多かつた東路の要衝であるが、しかも此橋の西詰には世にも恐しい鬼女が居て、屢〻旅人を劫かしたことは、同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る。又神から神へ手紙を送るのに人間の手を借りたと云ふのも、古くからの話である。例へば宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某、不思議な女の手から書狀を貰ひ、山奥に入つて鬼形の者に之を渡して、一生食べても盡きない米一斗を受取つた話があり、三國傳記卷十一には比叡山の僧侶が、日吉二宮の文を愛宕の良勝と云ふ地主の仙人へ持參して福分を授かつた話がある。其話が日本だけに發生したもので無いことは、支那でも酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人、呉江の神の書翰を託せられて濟河の神の處へ使に行き、寶刀を貰つて歸つた話もあり。まだ其他にも古い處に是に似た話が有つたのを見ても分る。

[やぶちゃん注:「今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士……」これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「美濃國紀遠助値女靈遂死語第廿二」(美濃國紀遠助(きのとほすけ)女(をむな)の靈(りやう)に値(あ)ひて遂に死ぬる語(こと)第廿二」である。以下に示す。複数の所持するものを校合して読み易く書き直した。

   *

 今は昔、長門の前司藤原の孝範と云ふ者、有りき。其れが下總(しもつさ)の權の守と云ひし時に、關白殿に候(さぶらひ)し者にて、美濃の國に有る生津(いくつ)の御庄(みしやう)と云ふ所を預かりて知りけるに、其の御庄に紀の遠助と云ふ者、有りき。

 人、數(あまた)有りける中(なか)に、孝範、此の遠助を仕ひ付けて、東三條殿の長宿直(ながとのゐ)に召し上(のぼ)せたりけるが、其の宿直、畢(は)てにければ、暇(いとま)取らせて返し遣りければ、美濃へ下りけるに、勢田(せた)の橋を渡るに、橋の上に女(をむな)の裾取りたるが立てりければ、遠助、

「怪し。」

と見て過る程に、女の云く、

「彼(あ)れは、何(いづ)ち、御(おは)する人ぞ。」

と。然れば、遠助、馬より下(お)りて、

「美濃へ罷る人也。」

と答ふ。女、

「事付(ことづけ)申さむと思ふは、聞き給ひてむや。」

と云ひければ、遠助、

「申し侍りなむ。」

と答ふ。女、

「糸(いと)喜(うれ)しく宣ひたり。」

と云ひて、懷(ふところ)より小さき箱の絹を以つて裹(つつ)みたるを引き出(いだ)して、

「此の箱、方縣(かたがた)の郡(こほり)[やぶちゃん注:旧岐阜県方県郡(かたがたぐん)。現在の岐阜市の一部であるが、以下の地名や橋の位置は不詳。]の唐(もろこし)の郷(さと)の收(おさめ)の橋の許(もと)に持て御(は)したらば、橋の西の爪(つめ)に女房御(おは)せむとすらむ。其の女房に此れ奉り給へ。」

と云へば、遠助、氣六借(きむつかし)く思(おぼ)えて、

「由無き事請(ことう)けをしてける。」

と思へども、女の樣(さま)の氣怖(けをそろ)しく思(おぼ)えければ、難辭(いなびがた)くて、箱を受け取りて、遠助が云く、

「其の橋の許に御はすらむ女房をば、誰(たれ)とか聞(きこ)ゆる。何(いづ)くに御はする人ぞ。若(も)し不御會(おはしあは)ずは、何(いづ)くをか可尋奉(たづねてたてまつるべ)き。亦、此れをば、誰(た)が奉り給ふとか申すべき。」

と。女の云く、

「只、其の橋の許に御したらば、此れを受け取りに其の女房、出で來なむ。よに違(たが)ふ事不侍(はべら)じ。待ち給ふらむぞ。但し、穴賢(あなかしこ)、努々(ゆめゆめ)此の箱開けて不見給(みたまふ)な。」

と。此樣(かやう)に云ひ立てりけるを、此の遠助が共なる從者(じうしや)共は、女有るとも見えず。只、

「我が主(あるじ)は馬より下(お)りて由無(よしな)くて立てるえを。」

と見て、怪しび思ひけるに、遠助、箱を受け取りつれば、女は返りぬ。

 其の後(のち)、馬に乘りて行くに、美濃に下(くだ)り着きて、此の橋の許(もと)を、忘れて過ぎにければ、此の箱を不取(とら)せざりければ、家に行き着きて、思ひ出だして、

「糸(いと)不便(ふびん)也ける。此の箱を取らせざりける。」[やぶちゃん注:「たいそう悪いことをしてしまった。この箱を渡し損なってしもうた。」。]

と思ひて、

「今故(いまことさら)に持ち行きて、尋ねて取らせむ。」[やぶちゃん注:「今故に」は「そのうちに時改めて」の意。]

とて、壺屋立(つおやだち)たる所[やぶちゃん注:自分の個室風の部屋。]の、物の上に捧げて置きたりけるを、遠助が妻(め)は嫉妬の心、極(いみ)じく深かりける者にて、此の箱を遠助が置きけるを、妻(め)、然氣無(さるけな)くて見て、

「此の箱をば女に取らせむとて、京より態(わざ)と買ひ持て來たりて、我れに隱して置きたるなめり。」

と心得て、遠助が出でたる間(あひだ)に、妻(め)、蜜(ひそ)かに箱を取り下(おろ)して、開けて見ければ、人の目を捿(くじ)りて數(あまた)入れたり。亦、男の𨳯(まら)を、毛少し付けつつ、多く切り入れたり。

 妻(め)、此れを見て、奇異(あさま)しく怖しく成りて、遠助が返り來たるに、迷(まど)ひ呼び寄せて見すれば、遠助、

「哀れ、『不見(みる)まじ』と云ひてし物を。不便(ふびん)なる態かな。」

と云ひて、迷ひ覆(おほ)ひて、本(もと)の樣(やう)に結びて、やがて卽ち、彼(か)の女の教へし橋の許(もと)に持ち行きて立てりければ、實(げ)に女房、出で來たり。遠助、此の箱を渡して、女の云ひし事を語れば、女房、箱を受け取りて云く、

「此の箱は、開(あ)けて見られにけり。」

と。遠助、

「更に然る事、不候(さぶらは)ず。」

と云へども、女の氣色、糸(いと)惡氣(あしげ)にて、

「糸(いと)惡しくし給ふかな。」

と云ひて、極(いみ)じく氣色惡(あ)しげ乍ら、箱をば受け取りつれば、遠助は家に返りぬ。

 其の後(のち)、遠助、

「心地、不例(れいなら)ず。」

と云ひて、臥しぬ。妻(め)に云く、

「然許(さばか)り『開くまじ』と云ひし箱を、由無(よしな)く開(あ)けて見て。」

とて、程無く(ほどな)死にけり。

 然(しか)れば、人の妻(め)の、嫉妬の心の深く、虛疑(そらうたが)ひせむは、夫(をうと)の爲に此(か)く吉(よ)からぬ事の有る也(なり)。嫉妬の故に、遠助、思ひ懸けず、非分(ひぶん)に[やぶちゃん注:道理に反して。]命をなむ失ひてけり。女(をむな)の常の習(ならひ)とは云ひ乍ら、此れを聞く人、皆、此の妻(め)を惡(にく)みけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る」例えば、前掲話の直近では同じ「卷第二十七」の「從東國上人値鬼語第十四」(東國より上る人、鬼に値(あ)ふ語(こと)第十四)が勢田の橋及びその付近をやはりロケ地としている(但し、後半が欠文)。

「劫かした」「おびやかした」。

「宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某……」これは「宇治拾遺物語」の一般に第百九十二話(「卷十五」の第七話)とされる「伊良緣世恆毘沙門の御下文を給はる事」(伊良緣世恆(いらえのよつね)、毘沙門(びしやもん)の御下文(おんくだしぶみ)を給はる事)である。以下に同前の仕儀で示す。

   *

 今は昔、越前國に伊良緣の世恆といふ物有けり。とりわきてつかふまつる毘沙門に、物もくはで、物のほしかりければ、

「助け給へ。」

と申しける程に、

「門(かど)にいとをかしげなる女の、『家主(いへあるじ)にもの言はん』との給ふ。」

といひければ、

「誰(たれ)にかあらん。」

とて出であひたれば、土器(かはらけ)に物を一盛り、

「これ、食ひ給へ。物ほしとありつるに。」

とてとらせたれば、悦びてとりて入れて、ただ、すこし(く)ひたれば、やがて飽(あ)き滿(み)ちたる心(ここ)ちして、二三日は物もほしからねば、これを置きて、物のほしきをりごとに、すこしづつ、食ひてありける程に、月比(ごろ)、過ぎて此物も、失(う)せにけり。

「いかがせむずる。」

とて、又、念じ奉りければ、又、ありしやうに[やぶちゃん注:「在りし樣に」。先と同じように。]、人の告げければ、始めにならひて、惑(まど)ひ出でてみれば、ありし女房のたまふやう、

「これ下し文奉らん。これより北の谷、峯(みね)百町を越えて、中に高き峯あり。それに立ちて『なりた』と呼ばば、もの出で來なん。それにこの文(ふみ)を見せて、奉らん物を受けよ。」

と言ひて去(い)ぬ。この下し文をみれば

「米二斗わたすべし。」

とあり。やがてそのまま行きて見ければ、實(まこと)に高き峯あり。それにて、

「なりた。」

と呼べば、おそろしげなる聲にていらへて、出で來たる物あり。見れば、額に角おひて、目一あるもの、あかきたうさぎ[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]したるもの出で來て、ひざまづきて、ゐたり。

「これ、御下し文なり。この米、得させよ。」

といへば、

「さる事候ふ。」

とて、下文をみて、

「是は二斗と候へども、一斗をたてまつれとなん候ひつる也。」

とて、一斗をぞ、とらせたりける。そのままに請け取りて、歸りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗、盡きせざりけり。千萬石とれども、只おなじやうにて、一斗は、失せざりけり。

 これを國守(くにのかみ)ききて、こ世恆を召して、

「其袋、我に得させよ。」

といひければ、國の内(うち)にある身なれば、えいなびずして[やぶちゃん注:断わり切れずなくて。]、

「米百石の分(ぶん)、奉る。」

と言ひて、取らせたり。一斗、取れば、又、出で來(き)出で來(こ)しければ、

「いみじき物まうけたり。」

と思ひて、持たりける程に、百石取り果てたれば、米、失せにけり。袋斗(ばか)りに成りぬれば、本意(ほい)なくて、返し取らせたり。世恆がもとにては、又、米一斗、出で來にけり。かくて、えもいはぬ長者にてぞありける。

   *

「三國傳記」室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月 十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計 三百六十話を収める。ここで読めるが、表示に時間がかかるので、探すのは諦めた。悪しからず。

「日吉二宮」筑摩版全集では「ひえ」と現代仮名遣でルビする。これは現在の滋賀県高島市新旭町深溝にある日吉二宮(ひよしにのみや)神社のことか。よく判らぬ。

「酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人……」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。中文サイトのものを加工して示す。

   *

平原縣西十里、舊有杜林。南燕太上末、有邵敬伯者、家於長白山。有人寄敬伯一函書、言、「我江使也、令吾通問於濟伯。今須過長白、幸君爲通之。」。仍教敬伯、「但於杜林中取樹葉、投之於水、當有人出。」。敬伯從之、果見人引出。敬伯懼水、其人令敬伯閉目、似入水中、豁然宮殿宏麗。見一翁、年可八九十、坐水精床、發函開書曰、「裕興超滅。」。侍衛者皆圓眼、具甲胄。敬伯辭出、以一刀子贈敬伯曰、「好去、但持此刀、當無水厄矣。」。敬伯出、還至杜林中、而衣裳初無沾濕。果其年宋武帝滅燕。敬伯三年居兩河間、夜中忽大水、舉村俱沒、唯敬伯坐一榻床、至曉著履、敬伯下看之、床乃是一大龜也。敬伯死、刀子亦失。世傳杜林下有河伯塚。

   *]

 そんなら此類の諸國の話は、支那から若くは和漢共通の源から起つて、段々各地に散布し旦つ變化したと解してよいかと言ふと、自分は容易に然りと答へ得ぬのみならず、又假にさうとしても、何故に我々の祖先が其樣な話を信じて怖れたかに就ては、新たに考へて見ねばならぬ事が多い。手紙の託送を命ぜられた人が其爲に命に係はる程の危險に陷り、其が一轉すれば又極端の幸福を得るに至ると云ふのには、何か仔細が無くてはたらぬ。今日の如く教育の行渡つた時代の人の考へでは、文字も言語も輕重は無いやうに見えるかも知らぬが、田舍の人の十中の九迄が無筆であつた昔の世の中に於ては、手紙は其自身が既に一箇不可解たる靈物であつたのである。支那でも日本でも護符や呪文には、讀める人には何だ詰らないと云ふやうな事が書いてある。恰も佛教の陀羅尼や羅馬教の祈禱文が、譯して見れば至つて簡單なのと同じである。「いろはにほへと」と書いてあつても無學文盲には、「此人を殺せ」とあるかとも思はれ、「寶物を遣つてくれ」とあるかとも思はれ得る。是がこの奇拔な昔話を解釋するに必要なる一つの鍵である。併しまだ其前に話さねばならぬことがあるから、其方を片付けて行かうと思ふ。

2017/01/03

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)

 

 橋姫

 

 橋姫と云ふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つて居た美しい女神のことである。地方によつては其信仰が夙く衰へて、其跡に色々の昔話が發生した。是を拾ひ集めて比較して行くと、些しづゝ古代の人の心持を知ることが出來るやうである。私は學問の嚴肅を保つ爲に、煩はしいが一々話の出處を明かにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、斯う云ふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。

 山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)に、俗に國玉(くだま)の大橋と稱する橋がある。大橋などゝ云ふ名にも似合はぬ僅かな石橋で、甲府市中の水を集めて西南に流れ、末は笛吹川に合する濁川と云ふ川に架つて居る。今の國道からは半里ほど南であるが、以前は此筋を往還として居たらしい。一説には大橋ではなく逢橋であつたと云ひ、又行逢橋と云ふ別名もある。元は山梨巨摩八代三郡の境であつたと甲斐國志にあるが、果してさうか否かは知らぬ。百五六十年前に出來た裏見寒話と云ふ書の第六卷に次のやうな話がある。此橋を通行する者が橋の上で猿橋の話をすると必ず怪異がある。猿橋の上で此橋の話をしても同樣である。昔武藏國から甲州へ來る旅人があつた。猿橋が通る際にふと國玉の大橋の噂をした處がそこヘ一人の婦人が出て來て、甲府へ行かるゝならば此文一通國玉の大橋まで屆けて下されと云つた。其男之を承知して其手紙を預つたが、如何にも變なので途中でそつと之を披いて見ると、中には此男を殺すべしと書いてあつた。旅人は大いに驚き早速其手紙を殺すべからずと書改めて國玉まで携へて來れば、此橋の上にも一人の女が出て居つて、如何にも腹立たしい樣をして居たが、手紙を開いて見て後機嫌が好くなり、禮を敍べて何事も無く別れた。取留も無き話なれど國擧りて之を言ふ也とある。又今一つの不思議は、此橋の上で謠の『葵の上』を謠ふと忽ち道に迷ひ、「三輪」を謠ふと再び明かになると、是も同じ書物の中に書いてある。

[やぶちゃん注:謡曲名の鍵括弧の違いはママ。文庫版全集では孰れも「 」。但し、私はこの謎の違いを柳田は特に読者に喚起したのだと読む。

「山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)」現在の甲府市国玉町(くだまちょう)。恐らくは、この「大橋五条天神社」のある附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。残念ながら、現存しない。ウィキの「国玉の大橋」を参照されたい。但し、その記載はこの柳田國男の「橋姫」の記載に大幅に依拠しているのでネタバレを嫌う方にはお勧めし兼ねる

「濁川」「にごりがは」。

「巨摩」「こま」。

「八代」「やつしろ」。

「甲斐國志」文化一一(一八一四)年に完成した甲斐国の地誌。全百二十四巻。編者は甲府勤番松平定能(さだまさ)。

「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番野田成方(しげかた)が記した地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。

「猿橋」同じ旧山梨郡内、現在の大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる優れた形状を成す刎橋(はねばし)の名。ウィキの「猿橋」によれば、江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。国玉の大橋より遙か三十五キロ東方に位置する。]

 

 此話の單純な作り話で無いことは、第一にその鍔目の合はぬことが之を證據立てる。旅人がわざわざ書面を僞作して正直に持つて來たのもをかしく、其を見て橋姫が悦んだと云ふのも道理が無い。恐くは久しく傳へて居る中に少しづゝ雙化したものであらう。明治二十年前後に出版せられた山梨縣町村誌の中には、現に又更に變つた話になつて居て、此橋の上を過るとき猿橋の話を爲し或は「野宮」の謠をうたふことを禁ず、若し犯すときは必ず怪異あり。其何故たることを知らずとある。六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』中にある話は又斯んな風にも變化して居る。或人が早朝に國玉の大橋を渡る時に、「野宮」を謠へば怪ありと云ふことを思出し、試みに其小謠を少しばかり諷つて見た處、何の不思議も起らず二三町ほど行過ぎたが、向から美しい一人の婦人が乳呑兒を抱いてやつて來て、もしもし甚だ恐入りますが足袋のこはぜを掛けます間一寸此兒を抱いて居て下さいと言ふ。それでは私が掛けて上げようと屈みながらふと見上げると、忽ち鬼女の樣な姿になり眼を剝いて今にも喰附きさうな顏をして居たので、びつくりして一目散に飛んで歸り、我家の玄關に上るや否や氣絶した云々。是も小説にしては乳呑兒を抱けと言つたなどが、餘りに唐突(だしぬけ)で尤もらしく無い。

[やぶちゃん注:「鍔目の合はぬ」「鍔目」は「つばめ」で「鍔際(つばぎわ)」、刀身と鍔の接する箇所のこと。先の伝承のここかしこに、論理的整合性がない理解不可能な部分があることを差している。

「山梨縣町村誌」明治二十五年から二十七年(一八九二年~一八九四年)にかけて山梨市郡村誌出版所から刊行された「山梨県市郡村誌」(全三巻)のことかと思われる。

「野宮」(ののみや)は、先に出た「葵上」とは六条御息所の嫉妬と妄執をテーマとする点で共通するので大きな不審はない。時制的な経過から、現在的で強烈な生霊を主題とする「葵上」が、より夢幻能としての穏やかな「野宮」に入れ替わったのは逆に私は腑に落ちる。但し、その鬼女が後に出る妖怪姑獲鳥(うぶめ)風のものに変性する辺りには、本伝承の核にある、先に出た「金輪」に現われるような、女を鬼と成す強烈な嫉妬の情念のパワーが未だに潜在していることを逆に示すものと言えよう。

「諷つてみた」「うたつてみた」。

「六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』」明治末年から大正初年(明治四五(一九一二)年頃から大正二(一九一三)年頃か)にかけて編まれたものらしい。本「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月の『女學世界』である。

「二三町」二百十九~三百二十七メートル。]

 

 さてどうして此樣な話が始まつたかと云ふことは、我々の力ではまだ明白にすることは難しいが、此とよく似た話が眞似も運搬も出來ぬやうな遠國に分布して居ることだけは事實である。不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある。陸中遠野の某家の主人が、宮古へ往つて歸りに閉伊川の原臺の淵の脇を通ると、若い女が來て一通の手紙を託し、遠野の物見山の沼に行き手を叩けば名宛の人が出て來るから渡して呉れと言つた。請合ひはしたものゝ氣に掛つて如何しようかと思ひながら來ると、道で又一人の六部に出逢つた。六部は其手紙を開いて見て、此を持つて行けばきつと汝の身に大きな災難がある。私がよい樣に書直してやらうと言つて別の手紙をくれた。其を携へて沼へ行き手を叩くと、果して若い女が出て書狀を受取り、其禮にごく小さな石臼を一つ與(く)れた。此臼に米を一粒入れてまはすと下から黃金が出る。それで後々は富裕の身代になつたと云ふ話である。羽後の平鹿郡大松川の奧に黑沼と云ふ景色の好い沼がある。沼尻に小さい橋があつて月夜などに美しい女神が出ることが折々あつた。昔此邊の農夫が伊勢參りの歸りに、奧州の赤沼の脇に休んで居たら、氣高い御姫樣が出て來て手紙を預け出羽へ行つたら之を黑沼へ屆けて下さい。其御禮には是をと紙に包んだ握飯のやうな重いものをくれた。此男は黑沼の近く迄來た時に、大きた聲で赤沼から手紙をことづけられたと呼ぶと、振袖を着た美しい女が出て之を受取り、大姉君の音信(たより)は嬉しいと、是も同じやうな紙包をくれたので、後に此二包を市に持出して錢に代へようとすると、汝(おまへ)一人の力ではとても錢では持つて還られまい。金で持つて還るがよいと貧つて山のやうな黃金をくれたので、忽ちにして福萬長者になつたと云ふ。此話は雪の出羽路と云ふ紀行の卷十四に出て居る。

[やぶちゃん注:「不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある」以下。一部に平仮名で私が読みを振った。カタカナのそれは原文のルビ。

   *

二七 早池峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、この川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山(ものみやま)の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで來るべしとなり。此人請け合ひはしたれども路々(みちみち)心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部(ろくぶ)に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災(わざはひ)あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教(おしへ)の如く手を叩きしに、果して若き女出でゝ手紙を受け取り、其の禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘(マハ)せば下より黃金出づ。此寶物(タカラモノ)の力にてその家稍富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻りに自ら囘りて、終(つひ)には朝毎(ごと)に主人が此の石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜たまりてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁(カタハラ)にあり。家の名を池の端と云ふもその爲なりと云ふ。

   *

「羽後の平鹿郡大松川の奥」「黑沼」現在の秋田県横手市山内大松川にある。(グーグル・マップ・データ)。この伝承考と現況に就いては、個人ブログ「神が宿るところ」の黒沼(秋田県横手市)がよい。

「雪の出羽路」「雪の道奥雪の出羽路」かの菅江真澄が享和元(一八〇一)年に津軽から出羽に入った際の記録。]

 

 この二つの愉快な話とは反對に、氣味の惡い方面が國玉の大橋とよく似て居るのは、福山志料と云ふ書に採錄した備後蘆品郡服部永谷村の讀坂の由來談である。昔馬方が空樽を馬に附けて歸つて來る道で、一人の男に出逢つて一通の手紙を賴まれ、何心なく受取つたが屆け先の名を聞いて置かたかつたことを思ひ出し、ちやうど此坂路で出逢つた人に其狀を讀んでもらつた。名宛が怪しいので封を剝して文言を讀むと「一、空樽つけたる人の腸一具進上致候」と書いてあつた。さては河童の所業に相違なし、なるだけ川のある處を避けて還れと教へちれ、迂路をして漸く危害を免れた。其よりして此坂を讀坂と呼ぶやうになつたとある。卽ち手紙を讀んだ坂と云ふ意味である。此話に馬と空樽とは何の緣(ゆかり)も無いやうであゐが、河童は久しい以前から妙に馬にばかり惡戲(いたづら)をしたがるものである。六七年前早稻田大學の五十嵐教授が學生に集めさせて、『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中にも豐後九十九峠の池の河童、旅の馬方の馬を引込まうとしてあべこべに取りて押へられ、頭の皿の水が飜れて反抗する力も無くなり、寶物を出しますから命ばかりは助けて下さい、手前の家は峠の頂上から細道を七八町入つた處にあります。そこへ此二品を持つて行つて下されば必す寶物と引換へますと言つて渡したのがやはり一通の手紙と樽であつた。此馬方は字が讀めたので、途中で樽の臭の異樣な事に心付いて手紙を開いて見ると、「御申付の人間の尻子百個の内、九十九個は此男に持參致させ候に付御受取被下度、不足分の一個は此男のにて御間に合せ被下度候。親分樣、子分」とあつたので、喫驚して逃げて來た。それより此峠の名も九十九峠と書くやうになつた云々。

[やぶちゃん注:「福山志料」福山藩(主に備後国(現在の広島県東部)南部、備中国南西部(岡山県南西部)を領有)儒官で儒医でもあった菅茶山(かんさざん)の手になる福山藩の地誌。文化六(一八〇九)年成立。

「備後蘆品郡服部永谷村の讀坂」「蘆品」は旧郡名で「あしな」と読み、この村は現在の広島県福山市駅家町(えきやちょう)服部永谷(はっとりながたに)で、現在は地区(グーグル・マップ・データ)。「讀坂」(よみざか)の位置は不明。

「空樽」文庫版全集は「あきだる」とルビする。

「腸一具進上致候」「はらわた、いちぐ(:一揃え。)、しんじやういたしさふらふ」。

「五十嵐教授」五十嵐力(いがらしちから 明治四(一八七四)年~昭和二二(一九四七)年)は国文学者。但し、彼が新設の早稲田大学文学部国文科主任教授とあるのは大正九(一九二〇)年で、本初出の後である。昭和九(一九三四)年六月単行本刊行時ならば正しい。

「『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中」の「豐後九十九峠の池の河童」「趣味の傳説」は五十嵐力著として大正二(一九一三)年に二松堂書店から刊行されている。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来。本書の「小序」によれば、明治四十年頃から数年間、五十嵐が担当した早稲田大学文科の「作文」の講義のレポートが元であり、書いた学生の姓名も一覧で記されてある。「九十九峠」は「つくもたうげ」であるが、位置が判らぬ。当初、別名「九十九(くじゅうく)曲がり」とも呼ばれる現在の熊本県阿蘇郡高森町(まち)にある高森峠かと思ったが((グーグル・マップ・データ))、リンク先の本文に出る豊後の「高瀨村」とは(グーグル・マップ・データ)で、方向違いである。識者の御教授を乞う。]

2017/01/02

柴田宵曲 妖異博物館 「一つ目小僧」

 

 一つ目小僧

 

 南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧は、出雲の方にさういふ畸形児のあつたのを、かねがね養つて居られたのださうだから、畸ではあつても妖怪ではない。長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とあるが、一つ目小僧の話も澤山ありさうに見えて、存外少いやうである。

[やぶちゃん注:「一つ目小僧」未だ作業中であるが、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で「一つ目小僧その他」の電子化注を進めている。

「南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧」第一章「化物振舞」を参照のこと。

『長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とある』明治三三(一九〇〇)年の「四月短歌會」の一首、

 

      化物

 ものゝけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事の無き

 

である。]

 四谷の通りに小嶋屋喜右衞門といふ者があつた。麻布の武家に鶉を賣つたところ、代金が不足だから屋敷で渡さうといふことなので、吉右衞門が近所までついでのあるのを幸ひに鶉を屆けた。中の口の次にある八重の部屋に通され、暫くこゝに控へて居れと云つて、鶉は奧へ持つて待つたが、普請前の家らしく、天井や疊に雨漏りの痕があり、敷居鴨居も下り、襖なども破れてゐる。吉右衞門は心の中に、大分不勝手の家のやうだが、小判で拂はなければならぬ鶉の代を、無事に拂つてくれればいゝが、などと考へて煙草を吹かしてゐると、いつの間にかその部屋に十歳ぐらゐの小僧がやつて來た。しかも床の間に掛けてある紙表具の掛物を、くるくると上に卷き上げては、手を放してはらはらと落し、また卷き上げて放す。同じ事を何遍となく繰り返すので、喜右衞門も遂に見かねて、さういふ惡いたづらはせぬものだ、今に掛物が痛んでしまふ、と云つた。その時小僧が一言、默つてゐろ、と云つてふり返つたが、小僧の顏には目が一つしかない。喜右衞門はわつと云つて倒れたなり氣を失つたのを、屋敷の者が驚いて、駕籠に載せて家まで送り返し、鶉の代は先方から屆けて來た。その後も度度使をよこして、氣分はどうかなどと尋ねてくれたが、その使の者の話に、實は自分の屋敷には、一年に四五度ぐらゐ怪しい事がある、この春も殿樣の御居間に小さい禿が坐つて、菓子簞笥の菓子を食べてゐるので、奧方が何者ぞと云はれたら、默つてゐろと云つて消え失せたといふ話である。必ず世間に沙汰せぬやうにして貰ひたい、といふことであつた。喜右衞門も二十日ばかりで元氣になり、その後は何も變つたこともなかつた。平秩東作はかういふ話を「怪談老の杖」に書いて、最後にその屋敷の名も聞いたが、よくない事だから記さぬ、と附け加へてゐる。

[やぶちゃん注:「平秩東作」(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者。

「怪談老の杖」平秩の怪談集で現存するのは四巻。推定で宝暦四年成立か。その「卷之一」の「小島屋怪異に逢(あひ)し話」。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

   ○小島屋怪異に逢し話

四ツ谷の通に小島良書右衞門と云人、麻布なる武家方へ鶉を賣けるが、代物不足なれば、屋敷にて渡すべしといふに、喜右衞門、幸御近處迄用事あれば、持參すべしとて、鶉を持行けるが、中の口の次に八疊敷の間のある所に、爰にひかへをれとて、鶉をば奧へもち行ぬ、座敷の體も普請前の家居と見へて、天井、疊の上に雨漏の痕ところどころかびて、敷居、鴨居も、爰かしこさがり、ふすまも破れたる家なり、鶉の代も小判にて拂ふ程なりしかば、喜右衞門心の内に、殊の外不勝手らしき家なるが、彼是むづかしく云はずに、金子渡さるればよきがと、きづかひながら、たばこのみ居けり、しかるに、いつの間に來りたるともしらず、十ばかりの小僧、床にかけありし紙表具の掛ものを、上へまきあぐる樣にしては、手をはなしてはらはらと落し、又はまきあげ、いく度といふ事なくしたり、喜右衞門心に、きのどくなる事かな、かけものなど損じて呵られなば、我等がわざにかづけんもしらず、と目も放さで見て居けるが、あまりに堪(こらへ)かねて、さるわるあがきはせぬものなり、いまに掛もの損じ申べし、といひければ、かの小僧ふり歸りて、だまつて居よ、と云ひけるが、顏を見れば、眼たゞひとつありて、わつといふて倒れ氣を失ひけるを、屋敷の者ども驚きて、駕にのせ宿へ送り返し、鶉の代をばあのかたより爲ㇾ持おこされ、そののちも度々便などおくりて心よきやなど、懇に尋られける、その使の者の語りけるは、必ず沙汰ばしし給ふな、こちの家には、一年の内には、四五度づゝも怪しき事あるなり、此春も、殿の居間に小き禿なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ居たりしを、奧方の見て、何者ぞ、といはれければ、だまつて居よ、といふて、消てなくなりたりときけり、必だまつて居たまへ、なにもあしき事はせぬ、と語りぬ、喜右衞門は廿日ほどもやみて快氣し、其のちは何もかはりたる沙汰なかりけり、其屋敷の名も聞しかど、よからぬ事なれば、障りてしるさず、

   *

「呵られなば」は「しかられなば」(叱られたりしては)、「沙汰ばしし給ふな」の「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転じたもの。上の語をとり立てて強調する意を表わす。禁止・命令などの文中に用いられることが多い。]

 この話は「半七捕物帳」の中に「一つ目小僧」として使はれてゐるから、知つてゐる人が多いかも知れぬ。捕物帳の性質上、怪談に終始するわけに往かぬので、明屋敷を利用する一種の騙りとし、一つ目小僧で喜右衞門を脅して、駄鶉とすり替へる話になつてゐる。勿論一つ目小僧は妖怪でなしに、片目の小僧按摩で、それが繪具で口を割つたり、象牙の箸を牙にしたりして、威し役を勤めたのである。「怪談老の杖」のは化物屋敷で、一つ目小僧以外にも怪事があつたのを、一切を騙りに轉じて惡黨連中を作り、半七をして名をなさしめたのが作者の趣向であらう。

[やぶちゃん注:岡本綺堂作「半七捕物帳」の「一つ目小僧」は大正一三(一九二四)年七月一日号『サンデー毎日』に初出。作品時制は嘉永五(一八五二)年八月で、ロケーションは四谷伝馬町という設定である。新字新仮名で「青空文庫」のこちらで読める。私は実は総て読んでいる特異的な半七のファンである。]

 江戸に陸野見道といふ流行醫者があつた。或時番町邊の澤といふ家から、内室の病氣を見て貰ひたいといふ使が來たので、四五軒病家を𢌞つた末、日暮になつて漸くその家の玄關に立つた。取次の者の話によれば、主人は公用で出かけて居りますが、もしおいで下さいましたならば、この段を申し上げて、暫くお待ち下さるやう、申し置いて出ました、追付け歸宅致しますから、先づお通り下さいまし、といふことである。はじめて來た家で主人不在なのは困つたが、そのまゝ歸るのも如何かと思つて座敷に通り、その家の樣子などを見てゐると、型の如く十二三の小僧が茶や煙草盆を運んで來る。その立居振舞ひが甚だ氣が利いてゐるので、そなたの名は何と申すかなど、如才なく言葉をかけて手を執つたところ、恥かしさうに赤面して次の間へ逃げて行つた。然るに振り向いた小僧の顏は三尺ばかりもあつて、一つの目が額に在り、鼻が小さくて口が大きい。普通の人ならこれだけで逃げ出すところであつたらうが、見道はなかなか剛氣者で、小僧が消え失せた後も、その座敷に坐つてゐると、やがて主人が歸つて來た。内室の病狀などを一應話した上、時にお顏色が何となくすぐれぬやうにお見受け致すが、どうかなされたかと尋ねたので、見道も小聲になつて、先刻かやうの事があつたと話した。主人は笑つて、さては例の坊主が出て、例の顏を御覽なされたか、いつもいつも罷り出て、知らぬ人を脅しまするが、今日はどんな事でありましたらう、こんな顏ではござらなんだか、といふうちに、主人の顏も三尺ばかりになり、口は耳の根まで裂け、額に一つある目の光りも、前の小僧の比ではない。さすがの見道も魂が身に添はぬ有樣で、玄關に走り出て、居睡りしてゐる供の者を起したけれど、皆已に歸つたらしく、草履取りがたゞ一人ぽつんとしてゐる。何事かございましたかと尋ねるのに答へもせず、駈け出したものの、道の暗いのに困惑してゐると、大丈夫でございます、提燈はここにあります、といふ草履取りの言葉の下から、道は俄かに明るくなつた。これは不思議だと草履取りの方を見れば、その顏がまた三尺ばかりで、「まなこは日月のごとくかゞやき」とあるから、一つ目ではなかつたと見える。見道は遂に昏倒して何もわからなくなつた。

 見道の家の方では、初めて行つた家から主人の歸らぬのを不審がり、提燈をつけて迎へに行つたところ、晝とは打つて變つた荒屋敷なのに仰天して、近所の町家で樣子を聞くと、あの化物屋敷を御存じないとは、近頃田舍からおいでになりましたか、久しい荒地で、狐狸の住み場所になつてゐる、恐ろしい所でございます、といふことであつた。晝來た時は立派な屋敷であつたのに、さては妖怪の所爲であつたかと、なほ主人の行方を尋ねて千駄谷、大番町あたりを來るうち、鮫ケ橋の物さびしい藪道に、俯伏しに倒れてゐる見道を發見した。介抱の結果、正氣には還つたが、一日二日は茫然としてものも云はず、一箇月以上たつて漸く人竝になつた。これは古狸の惡戲だといふことになつてゐる(怪談登志男)。

[やぶちゃん注:「怪談登志男」「くわいだんとしをとこ」と読む。慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)書いた怪談集。寛延三(一七五〇)年序。私は活字本を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。主人公「陸野見道」の読みは現代仮名遣で「おかのけんどう」か。]

 大體の筋道は化物振舞に似てゐるけれど、三度まで長い顏を見せる趣向は、「再度の怪」の條に記す通り「搜神記」以來の手口である。荒屋敷の舞臺には「怪談老の杖」の材料も一服ぐらゐ盛つてあるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「再度の怪」この後の四つ後の条。お待ちあれかし。

「搜神記」世紀の中国は東晋の干宝が著した志怪小説集。]

 以上の常套を破つたのは「常世百物語」にある「一眼一足の化生」であらう。月明かな秋の夜、十五六ばかりに見える喝食が、足早に前の山を駈け下る。容顏美麗ではあるが、目が一つ、足もまた一本しかない。これは叡山の話で、目擊者も一人二人にとゞまらぬらしいが、狐狸の惡戲などではなくだんだん遡れば叡山一流の稚兒物語に歸著する。一つ目小僧の槪念に當て嵌らぬやうでもあり、一つ目といふところから漫然看過しがたいやうでもある。

[やぶちゃん注:「常世百物語」東都隠士烏有庵(詳細事蹟不詳)著の怪談集「万世百物語」か。全五巻。元禄一〇(一六九七)年刊の「雨中の友」の改題本。以下、同「二」にあるそれを「叢書江戸文庫」版を元に正字化して示す。挿絵も附加する。読みは独自に正しく歴史的仮名遣で附した。一部に読みに不審はあるが、注は附さぬ。文体の気品は他の比ではなく素晴らしい。挿絵があるが、面白くないので省略することとした。

   *

 

      一眼一足の化生

 

 あだし夢、叡山中堂に近きあたり、禪學院といふありけり。あまりに中堂にとなり火難あやうしとて、寛文の頃、料など給はりて寺地を五町ばかりへだて移されたりけり。何の權僧都(ごんのそうづ)とかや、はじめて遠國(をんごく)より住(ぢう)し、山のさた覺束(おぼつか)なきほどなり。また弟子に少納言の帥里境坊(そつりぼう)といふなんありける。秋の夜月のあかきころ、近院の衆徒入院(じゆゐん)の悦びにあつまり、酒たふべて遊びける。おりあしう師弟子ともに一度に厠にぞ行きける。山の習(ならひ)、所廣きにまかせ、厠(かはや)に作り崖(きし)にむかひて、戸などいふものもなくいとはれやかなり。月はことさらにさへて、椎柴(しひしば)なら樫(かし)などすべての木草に露きらめきわたり、天にすむうさぎなどいふものゝ毛さきもかぞへつべき。何にくまなき夜のさまなり。まへの山を十五六にも見ゆるかつじきの、あしばやにかけくだるをみれば、顏はめでたけれど目ひとつなるが、厠の口に近寄りて、そとたゝずむ。こはいかにと見れば足もまたひとつなり。おもてあはするよりぞとさむけたち、いかにふためともみられんや。なみなみならばきへも入るべきを、此人尋常にたがひ、法(のり)のみちすぐれて、いとたうときすぎやうじやにて、ことにたゞ人ならねばか、本性(ほんじやう)よくねんじてあられける。かのものまた引き返して、峯にかけのぼり、それよりは行方(ゆきかた)しらずぞなりぬ。帥(そつ)がみたりしも、もとより所のかはりたるに形と時とつゆたがはざりしふしぎなりかし。かれは修行のわかさにぞ、こゑたてぬばかりにおどろきかけ出し、肝きへぬべくありつれと、人にわかわかしうかたるべき事にもなしと、師弟子どもにたがひにかうともいはず。さらぬ風情にもてなし座にぞかへられける。されども何となく心にはかゝりて、それよりものがたりもしめやかならず。賓人(まらうど)のもてなしさへおのづからおろそかになりける。いかに氣もすみ給はずや、夜もやうやうふけぬ。「いざまかでなむ」とて、みなみな歸りにけり。院に仕候の供人(くにん)竹本玄俊(げんしゆん)といへる老法師、此樣を見て、「あやしみいひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ。まだ山のほどおぼつかなくおはしなんが、今宵のやう見奉るに、いちでう一眼(ぐわん)一足をみ給ふにや」と、ほゝゑみて問ふ。僧都おどろき、「さていかにぞや。我れ葛河(かつらがは)に住みける程いく度かあらき行(ぎやう)をもなし、おそろしき山をたづねてこもりしが、かゝるあやしきものいまだみず。扨て常にも出づるにや。何のわざぞ」ととふ。少納言もうちきゝ、「今までは我がおくしたる念ゆへにきつねたぬきやうのたぶらかしにぞとおもひし。そこにもみさせ給ふうへ語り出し、おそろしき事のかぎりをもみつ」と、侘びあへる。玄俊聞きて、「一眼一足といへるばけもの、此山にたへて久しき事にて、常は西谷北谷のあいにて、人はおほくみつといひし。されど何の害をなすこともなければ、しれるものはあやしともおそれず。これにあはれなる事候ふは、慈覺大師の御時にてやありけん、橫川禪定院(よかはぜんじやうゐん)に治部卿(じぶきやう)といへる學徒いまそかりける。止觀(しくわん)の學びおこたらず。禪定の窓(まど)の前には三蜜の月あきらかならん事をねがひ、わかきが中にはすぐれたるじちほうの人なれば、末いかならんかしこさともてはやさる。師の御坊もことなるものにぞあいせられける。また西谷の今の行光坊に萬里殿(まてどの)の末の御子於房丸(おふさまる)といへる、やんごとなき人住まれける。優に色あるさますぐれければ、山塔(さんとう)のわかき人々たぐひなき上﨟の筋にめであひ、また家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば、よみすてのたんざくまで、すき人のたぐひはたうときたからのやうにめでけれど、師の御坊腹あしき人にて、たへて他の出入りもゆるさず、ねたみあはれけるとなり。一日大會(だいゑ)の時、治部卿何たるすくせにか、見初めける日よりわりなうおもひまどひ、ちづかの文のたよりをもとめ、細布のあひがたき戀をもしつるに、兒(ちご)もあはれなる方にひかれ、人目の關守いかにしてしのばれけん。ふかうなれむすばれけるを、師の御坊きゝつけ、例のはらあしうにくきものゝしかたと、せちにいかりせめられける。あまりにつよふいさめ給ふとて、いかなる事かせられたりけん。あやまりのかうじて、終になきものにせられける。よさまにはつねの習にいひなし、死骸をふかう埋まれけれど、かくれなきさがなき人のいひあはれぶを、治部卿、かくと聞くより身もあられず、おくれて何せん命ぞと湖水のあわときへける。そのうらみたえずやありけん。今にその執(しう)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも罪ふかき物語なり」といひし。

   *]

 伊澤蘭軒が病家を往診した歸り、若黨を從へて兩夜の道を步いて來ると、筍笠をかぶつた童子がうしろから來て、眉を竝べて步きながら、蘭軒に向つて何度も「こはくはないか」と問うた。蘭軒は何も答へなかつたが、先に立つた若黨はその顏を一目見るなり、傘と提燈を拗り出した。童子の目は額の眞中に一つしかなかつたといふのである。この一つ目小僧は河童の化けたもので、蘭軒を脅さうと試みたのであるが、蘭軒は近視のために童子の面を見得ず、一瞥した若黨が恐怖したことになつてゐる。蘭軒はこの事を一笑に附し、これを傳へた鷗外博士も科學者の立場から、「河童が存在するか。又假に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」と眞面目に述べた。

[やぶちゃん注:「伊沢蘭軒」(安永六(一七七七)年~文政一二(一八二九)年)は医師で儒者。以上は森鷗外の史伝「伊沢蘭軒」の「その百九十」の冒頭に出る。青空文庫で読まれたい。

「額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」「額の中央」という位置にやや問題はあるが、先天性奇形の一つで必ずしも稀ではない「単眼症」(cyclopia:サイクロピア)はこれに明らかに相当する。殆んどは出生直後に死亡し、生存率は頗る低いものの、「胎生學上に有りやうがない」という鷗外医師の言葉は誤りである。]

 蘭軒の近親は次男の柏軒に傳はり、その柏軒にもまた怪しい道連れの男に言葉をかけられる話がある。これは獺の怪が恐るべき面貌を見せたのに、柏軒が近視で見得なかつたらしい。父子二代の近視に、似たやうな怪談が傳はるといふのも、興味ある事實であらうが、こゝで蘭軒を脅さうとした一目小僧が、少しく型變りである點に、吾々は特に興味を感ずる。一つ目小僧を認めぬ鷗外博士が、他に類せぬ話を傳へてゐるのが、偶然ながら頗る面白い。

2016/12/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(13) 蛇と盲目 / 鹿の耳~了

 

     蛇と盲目

 

 さうすると、自分などの斯ういふ思ひ切つた假定説のやうなものを批評する場合に、昔からよく聞く「めくら蛇におぢず」といふ俗諺なども、今一度とくと其起原を考へて見る必要はあるまいか。元來目あきが蛇を畏るゝ道理も、實はまだ明白でも何でも無いのだが、我々の流儀ではそれを究めようとはしない。單に畏れて居るか否かを問うて、靜かに其事實の何物かを語るを待つだけである。併し少なくも盲の蛇を畏れざる所以を、なんにも知らぬからであらうと速斷したのは誤りで、彼等は此通り蛇に關する珍らしい知識を、昔から持つて居たといふ事實が擧がつたのである。從つて行く行く彼等の蛇をおぢなかつた積極的原因も、改めて又發見せられるかも知れない。

 今だつてもう少しは分つて居るのである。第一には全國に弘く分布する琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである。卽ち盲人には何かは知らず、特に所謂クラオカミに由つて、すき好まれる長處のあるものと想像されて居たのである。第二には勇士の惡蛇退治に、似合はぬ話だが折々目くらが出て參與して居る。九州で有名なのは肥前黑髮山下の梅野座頭、是は鎭西八郎の短刀を拜借して、谷に下つて天堂岩の大蛇を刺殺したと稱して、其由緒を以て正式に刀を帶ぶることを認められて居た。しかもよほど念の人つた隱れた理由の無い限り、人は到底盲人を助太刀に賴む氣にはなり得まい。卽ち彼等には一種の神力を具へて居たのである。

 西國の盲僧たちには、寺を持つて其職務を世襲した例が多い。よその目くらを取子とする以前に、成るべく其實子の目が潰れてくれることを、親心としては望んだであらう。卽ち曾ては自ら目を傷けて、神に氣に入る者と成らうとした時代が、有つたと想像し得る根據である。耳の方ならば猶更差支がなたかつたわけである。昔信仰の最も強烈であつた世の中では、神に指定せられて短かく生き、永く祀らるゝことを欣幸とした者は多かつた。其世が季になつて死ぬことだけは御免だと考へ始めた頃には、よくしたもので八幡の放生會の如く、無期の放し飼ひが通則として認められた。耳切團一が信仰の爲、又同時に活計の爲に、深思熟慮の上で自ら耳を切つて來たとしても、自分たちは之を恠まうとは思はぬ。又さう迄せずとも話は成立したのである。

 然し彼等如何なる機智巧辯を以てするとも、我々の間に之を信ぜんとする用意が無かつたならば、畢竟は無益のほら吹きに過ぎぬ。ところが我々は忘れたるが如くにして、實は無心に遠き世の感動を遺傳して居た。鹿を牲とすれば耳が割けて居り、獅子を舞はしむれば忽ち相手の耳を喰ひ切り、記念に巖石に姿を刻めば、耳を團扇の如く大きくせざるを得ず、さうして盲人を見ると永く水の神の威德と兇暴とに對して、一喜一憂するを禁じ得なかつたのである。之を無意識にしかも鋭敏に、測量し得た者が色々の歌を物語り、又散々の言ひ習はしを作つて、久しく我々の多數を導いて居たのである。前代は必ずしも埋もれ果てたとは言はれない。例へば耳に關し又目に就いて、普通の同胞が信じ且つ説いて居る小さな知識の中にも、日本の固有信仰の大切な「失はれたる鏈」を、引包んで假に隱して居る場合が、まだ幾らでもあるらしいのである。

       (昭和二年十一月、中央公論)

[やぶちゃん注:「琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである」不学にしてそのような例を私は知らないが、「橋」「淵」で「座頭」なら、水辺から蛇神(弁財天に習合した蛇体の宇賀神)との連関伝承は当然の如く生まれるであろうとは思われる。適切な伝承事例を見出したら、追記する。

「クラオカミ」「闇龗(くらおかみ)」。「くら」は「谷」、「おかみ」は「竜神」の意とする。記紀神話で、高龗(たかおかみ)とともに水を司る竜神。京都の貴船(きぶね)神社奥宮の祭神として知られる。ウィキの「淤加美神」によれば、「淤加美神(おかのかみ)」或いは「龗神(おかみのかみ」は、『罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神で』、「古事記」では「淤加美神」、「日本書紀」では「龗神」と表記するとし、『日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記」及び「日本書紀」の一書では、『剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』、日本書紀の『一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされ』、「古事記」に『おいては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしている』。『貴船神社のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られており、また、全国に「意加美神社」などと称する神社がある。 祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている』とある。「闇」の字から視覚障碍者との関連が持ち出されたものか。

「肥前黑髮山下の梅野座頭」先行する「生目八幡」に既出既注であるが、最後なので、再録しておく。現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。

「鎭西八郎」源為朝。

「天堂岩」先の古賀氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」では「天童岩」と表記されてある。

「欣幸」「きんかう(きんこう)」幸せに思って喜ぶこと。

「季」「すゑ」。末。

「活計」「たつき」。生業。

「團扇」「うちは」。

「水の神」視覚障碍者→琵琶→弁財天→水神という連想。

「鏈」「くさり」。鎖。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(12) 盲の效用

 

     盲の效用

 

 それにも拘らず、座頭が此話をすると人がさも有りなんと考へたのは、單に話術の巧妙ばかりでも無かつたと見えて、今では何處に行つても彼等だけで此話を持切つて居る。まだ他の府縣にもあるだらうと思ふが、自分の今知つて居るのは磐城の相馬にも一つ、堂房(ダイボ)の禪師堂樣といふ池の神が、或時信心の盲に目をあけて遣つて、斯んなことを教へたといふ話である。自分は近いうちに小高の一郷を湖水にする企てがある。それを人にいふと汝の命を取るぞと、堅く戒めて置いたが本人は身を捨てゝ里人に密告した。小高の陣屋では之を聞いて、領内に命じて澤山の四寸釘を打たせ、それを四寸置きに丘陵の周圍に差込ませた。蛇は鐡毒の爲に死して切れ切れとなり、それの落ち散つた故跡として、今に胴阪角落村耳谷などゝいふ地名がある。しかも折角目の開いた盲人は旋風に卷上げられて行方知れず、琵琶塚ばかりが後代に遺つて居る。此邊から實際鐡の屑が出るといふのは、或は此話が鍛冶屋との合作であつたことを語るものかも知れぬ。

 伊豆では又三島の宿の按摩の家へ、夜になると遊びに來る小僧があつた。後に來て言ふには、我は此山を七卷半卷いて居る大蛇である。毎日往來の人馬に踏まれる苦しさに、大雨を降らせて此邊を泥海にして出て行かうと思ふ。御身一人は遁れたまへ。人に語ると命を取ると謂つた。人助けの爲に其祕密を明かし、山に銕の杭を繁く打込んで終に大蛇を殺させたが、一村は難を逃れて按摩は死んだ。其石像を作つて香火永く絶えずといふのは、果して今もあるかどうか。兎に角に此山とは箱根のことであつたらしく、話が按摩になつてはもう關係も薄いが、實は水土の神の蛇體は、佛教の方では琵琶を持つ女神で、且つ夙くから琵琶を彈く者の保護者であつた。座頭の地神經は其神德をたゝへた詞である。農家が四季の土用に彼を招いて琵琶を奏せしめたのも、最初の目的は其仲介に由つて、神の御機嫌を取結ばう爲であつた。故に村民は言はゞどんな話を聽かされても、默つて承認せねばならぬ關係に在つたのである。

 盲人が此技藝に携はつてからの、歷史だけはもう大分わかつて居る。今更そんな事を述べて居れぱ只の編輯になつてしまふ。それよりも理由が知りたいのは、どうして日本に入つて琵琶が當道の業となつたかである。何故に盲が大蛇の神の神職を獨占したかである。此疑問に對しては耳切團一の話が、やはり有力なる一つの暗示であつた。自分の想像では生牲の耳を切つて、暫らく活かして置く慣習よりも今一つ以前に、わざと其目を拔いて世俗と引離して置く法則が、一度は行はれて居たことを意味するのではないかと思ふ。日向の生目八幡に惡七兵衞景淸を祭るといふなども、或は琵琶法師の元祖が自製の盲目であつたといふ幽かな記憶に、ローマンスの衣を著せたものとも解せられぬことは無い。兎に角に此徒が琵琶の神卽ち水底の神から、特別の恩顧を得た理由が、目の無いといふ點に在つたことだけは略確かであつた。

[やぶちゃん注:「磐城の相馬」福島県相馬市及び南相馬市。

「堂房(ダイボ)の禪師堂樣といふ池の神」不詳。識者の御教授を乞う。

「小高」「おだか」。旧福島県相馬郡小高町(おだかまち)。現在は南相馬市内の小高区北東部に相当する。太平洋に面した地区で阿武隈高地を町の西端とする。附近(グーグル・マップ・データ)。

「小高の陣屋」小高城。ウィキの「小高城を参照されたい。

「四寸」約十二センチメートル。

「胴阪」不詳。識者の御教授を乞う。

「角落村」不詳。識者の御教授を乞う。

「耳谷」ウィキの「行方郡 福島県(「行方」は「なめかた」と読む)に、陸奥中村藩領の「旧高旧領取調帳」(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう:明治初期に政府が各府県に作成させた江戸時代に於ける日本全国の村落の実情を把握するための台帳)に「小高陣屋」内に「耳谷村」の名を確認出来、現在も南相馬市小高区耳谷(みみがい)として地名が残る。(グーグル・マップ・データ)。やはり「桃太郎の誕生」にも引用されているが、そこでは「みみがやつ」とルビされている。

「琵琶塚」不詳。関係があるかどうかは不明ながら、小高町には横穴式の浪岩(なみいわ)古墳群がある。(グーグル・マップ・データ)。

「三島の宿の按摩の家へ、夜になると遊びに來る小僧があつた。……」この話も「桃太郎の誕生」に出るが、そこでは出典を石井研堂著「國民童話」としている。石井研堂(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は民間の文化史家著。「明治文化研究会」の設立に関わり、錦絵の研究などでも知られた。同書は正しくは「日本全國國民童話」で同文館から明治四四(一九一一)年に刊行されている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇が読めるが、その「」が当該箇所である「伊豆」「富士七卷の大蛇」がそれ()。

「銕」「てつ」。鉄。

「果して今もあるかどうか」不詳。検索では見当たらない。

「水土の神の蛇體は、佛教の方では琵琶を持つ女神で、且つ夙くから琵琶を彈く者の保護者であつた」「水土」に文庫版全集では『みずち』とルビするが、これは当て訓で、「蛟(みづち)」のことである。「夙くから」は「はやくから」。弁才天が、出自不明の蛇神である宇賀神と習合するのは中世以降のことである。

「地神經」を参照。

「四季の土用」四立(しりゅう:立夏・立秋・立冬・立春の総称)のそれぞれの直前約十八日間を指す。

「取結ばう」「とりむすばう」。取り結ぼうとする。予祝行事の中に組み入れられているから、それがどんな下らない荒唐無稽で馬鹿げたものであっても、或いは、その琵琶法師が人間的に厭な奴でったとしても「默つて承認せねばならぬ關係に在つた」というのである。

「當道」既注。ここは狭義のそれで、特に室町時代以降、幕府が公認した盲人たちによる自治組織を指す語。

「日向の生目八幡に惡七兵衞景淸を祭る」先行する生目八幡及び、その前の三月十八日の本文及び私の注を参照のこと。

「琵琶法師の元祖」既に出した、後に盲目となったとされる「惡七兵衞景淸」をそれに比定しているのである。頼朝暗殺や謡曲にもされた娘との関わりなど、悲劇の武将である彼の(一説に自ら目を抉ったともされるところが「自製の盲目」で、能のそれはまた「ローマンスの」香りとも言い得る。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(11) 山神と琵琶

 

     山神と琵琶

 

 村の人は村に居て聽く故に、大抵は土地ばかりの舊事蹟と考へたのである。さう考へさせることも亦有力なる技術であつた。座頭辭し去つて數百年の間、それが物々しく保存せられ、次第に近郷の人々に承認せられると、再び説話は其土地に土著するのである。今日ではもう信じにくいといふことは、少しも農民をうそつきとする理由にはならぬ。古くからある物は誰だつて粗末にはしない。

 一例を擧げると羽前の米澤から、越後の岩船郡に越える大利峠(おほりたうげ)、一名折峠又蛇骨峠座頭峠ともいふ。頂上には大倉權現が祭つてある。昔々一人のボサマ、日暮れて此嶺に獨宿し寂寞の餘に琵琶を彈じて自ら慰めた。時に女性の忽然として現れ來る者あつて、曲を聽いて感歎止まず、且つ語りて曰く、我は此山中に久住する大蛇である。近く大海に出でんとすれぱ、關の一谷は水の底となるであらう。必ずあの村に長居はしたまふな。又命にかけて此事を人に洩らしてはならぬと告げた。それにも拘らず夜明けて關谷に下るとき、意を決して之を村の人に教へたので、盲人は立ちどころに死し大蛇も亦村人の爲に退治られた。其盲人が頂上の祠の神であるともいへば、或は惡蛇の靈を祀るといふのは、兩方とも眞實であらう。最近の傅説では大倉權現は盲女おくらの怨靈、獵夫鯖七の女房にして禁肉を食つて蛇となる者とも謂つて居るさうである。

 然るに同じ米澤から更に他の一人の座頭が、北に向つて大石田越といふ山路で、略同樣の功を立てゝ死して亦神に祀られて居る。大石田に於ては森明神といふのが其盲人の靈であつた。或時山中を過ぎて一老翁に逢ひ、琵琶の一曲を所望せられ、傍の石に坐して地神經を彈じたとある。老人感歎してさて曰く、謝禮の爲に教へ申すべし、今宵は必ず大石田に宿りたまふべからず云々、それから後は例の如く、村民は何とかして恩人の命を助けようと、唐櫃の中へ三重四重に隱して置いたが、開けて見たれば寸々に切られて死んで居たといふ。

 越後では尚小千谷の町の南はづれ、那須崎の地藏堂にも同じ話があつた。盲人は蛇の害の迫れることを語るや否、血を吐いて忽ち死んだが、里の人たちは早速手配をして、鐡の杭を山中の要路に打込み、豫め防遏することを得たりと誌されて居る。大蛇に取つては鐡類は大毒であつた。故に大利峠の蛇精の女なども、一番嫌ひたものは鐡の釘だと、うつかり座頭に話した爲に退治られたと言ひ、關谷の村には鍛冶屋敷の迹さへあつた。信州では山に法螺崩れと蛇崩れとがあつた。蛇崩れの前兆には山が夥しく鳴るので、直ちに檜木を削つて多くの橛(くひ)を作り、それを其山の周圍に打込むと、蛇は出ること能はずして死んでしまひ、年經て後骨になつて土中から出る。それを研末して服するときは瘧病を治すなどゝも謂つた。卽ち盲目の教を待たずして、既に之を防ぐの術は知られて居たので、或は座頭が其受賣をしたのだと思ふ者があつても、さう立派に反對の證據を擧げることは出來なかつたのである。

[やぶちゃん注:太字「うそつき」は底本では傍点「ヽ」。

「羽前の米澤」現在の山形県米沢市。

「越後の岩船郡」現在も新潟県岩船郡(いわふねぐん)としてあるが、本書執筆時はに村上市も含まれた。

「大利峠(おほりたうげ)、一名折峠又蛇骨峠座頭峠」「頂上には大倉權現が祭つてある」不詳。新潟県岩船郡関川村金丸にある蛇崩山のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)。個人サイト「登山日記 静かな山へ」の蛇崩山を読むと、この辺りには大蛇伝説があるとあり、それらしい気にはなってくるのだが)。識者の御教授を乞う。この話や後の話は、柳田國男の「桃太郎の誕生」の「米倉法師」の「七 狼と座頭」にも引かれてあり、そこではこの話の出典を「行脚隨筆」とする。これは恐らく、江戸中期の曹洞宗の僧である泰亮愚海(たいりょうぐかい 生没年未詳:越後高田の林泉寺・長命寺、上野(こうずけ)沼田の岳林寺などの住持を勤めた)の著になる(文化年間(一八〇四年~一八一八年)刊か)随筆と思われる。

「關」湯沢温泉の下流にある岩船郡関川村か?

「最近の傅説では大倉權現は盲女おくらの怨靈、獵夫鯖七の女房にして禁肉を食つて蛇となる者とも謂つて居る」「最近の」と断っているのにも拘わらず、ネット上では掛かってこず、不詳。識者の御教授を乞う。

「大石田越」「おほいしだごえ」。米沢から遙か北の、山形県北東部にある北村山郡大石田町(おおいしだまち)へと抜けるルートであろう。

「略」「ほぼ」。

「森明神といふのが其盲人の靈であつた」「大石田町」公式サイト内の、おおいしだものがたり 第四十二話 盲(めくら)の琵琶法師(びわほうし)が大石田を救った伝説についてに詳述されている。必読! それによれば、哀しいかな、『森の明神」の所在は不明で、この伝説そのものも語り継がれてい』ない、とある。「桃太郎の誕生」にも引かれ、そこではこの原話は江戸後期の国学者人見蕉雨斎(ひとみしょううさい)の随筆「黒甜瑣語(こくてんさご)」に出ると記されてある。

「地神經」「ぢじんきやう(じしんきょう)」盲僧の弾ずる琵琶の曲名。地鎮や地味増長を期したもので、地神を供養するために琵琶を弾奏しつつ、「地神経」(サンスクリット語の仏典を義浄が漢訳した「金光明最勝王経」の内の「堅牢地神品第十八」の略称)を称えるもの。

「小千谷」現在の新潟県小千谷(おぢや)市。

「那須崎の地藏堂」不詳。「桃太郎の誕生」では「茄子崎」とするが、これも見当たらぬ。識者の御教授を乞う。

「杭」「くひ(くい)」。

「防遏」「ばうあつ(ぼうあつ)」で、侵入や拡大などを防ぎとめること。

「大利峠の蛇精の女なども、一番嫌ひたものは鐡の釘だと、うつかり座頭に話した爲に退治られた」岩船郡関川村の大里峠に伝わる、この女性の人であったというプレ話を含む、酷似した琵琶法師に纏わる大蛇伝説が、サイト「龍学」の「蛇になったお里乃」に載る。必見!

「法螺崩れ」山崩れを、巨大化して山に登った海産であるはずの法螺貝が龍として昇天する際に山を崩すとする伝説に基づく。地中にいた法螺貝が風雨を呼び、怪音を発して、海や天に抜ける際に、山崩れが起こるとするもの。かなり古くから思いの外、広汎に存在する伝承である。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」の本文や私の注を参照されたい。

「蛇崩れ」地域によっては「蛇抜(じゃぬ)け」などとも称する。こちらも前の法螺貝同様、年を経た霊力を持った大蛇が風雨を呼び、大地を抜けて龍となって海に出たとか、昇天したなどと伝えるものである。これは、土石流を中心とした大規模な斜面崩壊とも読める。

「檜木」「ひのき」。

「橛(くひ)」杭。

「後」「のち」。

「骨になつて土中から出る。それを研末して服する」「竜骨」或いは「須羅牟加湞天(スランカステン)」などと呼称されたものである。起原物は複数あるが、例えば、特殊な鉱物(燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物)や、ナウマンゾウの化石などがそれに当たる。私の大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨や、同じく私の子夜話卷之二 32 紀州、奥州の地より象骨出し事などを参照されたい。

「瘧病」「おこり」と訓ずる。既注であるが、再掲しておく。数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(10) 旅の御坊

 

     旅の御坊

 

 つまり小泉八雲氏の心を牽いた耳無法一の神異談は、彼が父母の國に於ても今尚珍重せられる所謂逃竄説話と、異郷遊寓譚との結び付いたをのゝ、末の形に他ならぬのであつた。西洋では説話運搬者の説話に與へた影響は、まだ本式に研究し得なかつたやうだが、日本には仕合せと其證迹が、見落し得ない程に豐富である。殊に盲人には盲人特有の、洗錬せられたる機智が認められる。例へば江戸川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つたと語つて居るなどは、盲人の癖にと言ひたいが、實は目くらだから考へ出した、やや重くるしい滑稽である。そんな例は氣を付けて御覽なさい。まだ幾らでもあるのである。

 實際座頭の坊は平家義經記のみを語つて、諸國を放浪することも出來なかつた。夜永の人の耳の稍倦んだ時に、何か問はれて答へるやうな面白い話を、常から心掛けて貯へて置いたのである。然らば耳の切れた盲人が何人もあつて、御坊其耳はどうなされたと、尋ねられるやうな場合が多かつたかと言ふに、さうかも知れず、又それ程で無くともよかつたかも知れぬ。片耳の變にひしやげたり、妙な格好をした人は存外に多いものだ。さうで無くとも目の無い人だから、耳の話が出る機會は少なくはなかつたらう。耳と申せば手前の師匠は、片耳が取れてござつたなどゝ、そろそろと此話を出す手段もあつたわけだ。さうして其話といふのは實に一萬年も古い舊趣向に、現世の衣裳を著せたものであつた。故に今爰で我々の不思議とすべきは、其話の存在や流布では無い。單に何故さういふ耳切の話が、盲人に由つて思ひ付かれ又持運ばれたかといふ點ばかりである。

 卽ち澤山の盲人が懸離れた國々をあるいて、無暗に自分たちの身の上話らしい、妖魔遭遇談をしたのが妙である。其説明を試みても、そんな事があらうかと恠み疑ふ人すら、今日ではもう少なからうと思ふが、それでも何でも自分は證據が擧げたい。つまり座頭は第一に自分たちが無類の冒險旅行家であることを示したかつた。第二には技藝の賴もしい力を説かうとしたのである。第三には神佛の冥助の特に彼等に豐かであつたこと、第四には能ふべくんば、それだから座頭を大切にせよの、利己的教訓がしたかつたのかと思ふ。此條件を具足してしかも亭主方の面々を樂しましむべき手段が若しあつたとしたら、之を一生懸命に暗記し且つやたらに提供することも、卽ち亦彼等の生活の必要であつた。

[やぶちゃん注:「耳無法一」ママ。文庫版全集も同じ表記。言わずもがなであるが、一般には「芳一」である。小泉八雲が依拠したと思われる彼の蔵書にあった一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談」(天明二(一七八二)年)での第二巻所収の「琵琶祕曲泣幽靈(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」でも「芳一」である。

「逃竄説話」「たうざん(とうざん)せつわ」。「竄」も「逃げる」の意。魔性に魅入られた人間が身体の一部を譲り渡すことで現実世界への逃走(呪的逃走)に成功する説話群、例えば、「瘤取り爺さん」であるが、伊耶那岐の黄泉国からのそれも、身体の神聖な附属物である櫛や髪飾りを黄泉醜女(よもつしこめ)に投げつける点で同類型である。

「異郷遊寓譚」「遊寓」は「いうぐう」と読む。「寓」は「一時的に別の所に身を寄せる」の意。異界訪問譚。例えば陶淵明の「桃花源記」や「浦島太郎」、前注の伊耶那岐の黄泉国訪問のシークエンスのようなオルフェウス型のものを指す。

「江戸川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つた」この話、所持する何かで原話を読んだ気がするのだが、探し得ない。識者の御教授を乞う。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(9) 耳切團一

 

     耳切團一

 

 そこで話は愈々近世の口承文藝の、最も子供らしく且つ荒唐夢稽なる部分に入つて行くのであるが、自分たちの少年の時分には、「早飯も藝のうち」といふ諺などもあつて、いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ、多くの朋輩と食事を共にする場合に大抵は先に立つ者が殘つた者の耳を引張つた。痛いよりも恥がましいので、所謂鹽踏みの奉公人などが、淋しい淚を飜す種であつた。どうして耳などを引くことになつたのかと、子供の頃から不審に思つて居ると、嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事の條に、鬼になつた者が「出ずば耳引こ」と謂つて、柱にばかりつかまつて居る者を挑むことが記して居る。鷹筑波集に塚口重和、出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。

 鬼事の遊びのもと模倣に出でたことは、其名稱だけでも證明せられる。以前諸國の大社には鬼追鬼平祭(おにひけまつり)などゝ稱して、通例春の始めに此行事があつた。學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ、又は佛法が其作法を教へた樣にも謂ふらしいが、何かは知らず古くから鬼が出て大にあばれ、末には退治せられる處を、諸國僅かづゝの變化を以て、眞面目に神前に於て、日を定めて演出したのであつた。さうして子供は特に其前半の方に、力を入れて今以て眞似て遊んで居る。耳を引くといふ文句も其引繼ぎであつたかも知れぬ。さう考へてもいゝ理由があつたのである。

 小泉八雲の恠談といふ書で、始めて知つたといふ人は却つて多いかも知れぬ。亡靈に耳を引きむしられた昔話が、つい此頃まで方々の田舍にあつた。被害者は必ず盲人であつたが、其名前だけが土地によつて同じでない。小泉氏の話は下ノ關の阿彌陀寺、平家の幽靈が座頭を呼んで平家物語を聽いたことになつて居り、その座頭の名はホウイチであつた。面白いから明晩も必ず來い。それ迄の質物に耳を預つて置くと言つたのは、頗る宇治拾遺などの瘤取りの話に近かつたが、耳を取るべき理由は實は明かでなかつた。

 ところが是と大體同じ話が、阿波の里浦といふ處にかけ離れて一つある。で、右の不審が稍解けることになる。昔團一といふ琵琶法師、夜になると或上﨟に招かれて、知らぬ村に往つて琵琶を彈いて居る。一方には行脚の名僧が、或夜測らずも墓地を過ぎて、盲人の獨り琵琶彈くを見つけ、話を聽いて魔障のわざと知り、からだ中をまじなひして遣つて耳だけを忘れた。さうすると次の晩、例の官女が迎へに來て、其耳だけを持つて歸つたといふので、是は今でも土地の人々が、自分の處にあつた出來事のやうに信じて居る。耳を取つたのが女性の亡魂であつたことゝ、僧が法術を以て救はうとした點とが明瞭になつたが、それでもまだまじなひの意味がはつきりしない。

 それを十分に辻棲の合ふだけの物語にしたのが、曾呂利物語であつた。江戸時代初期の文學であるが、此方が古くて前の話が其受賣だともいへないことは、讀んだ人には容易にわかる。是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳とある。久しくおとづれざりし善光寺の比丘尼慶順を路の序を以て訪問して見ると、實は三十日程前に死んで居たのであつたが、幽靈が出て來て何氣無く引留め、琵琶を彈かせて毎晩聽き、どうしても返すまいとする。それを寺中の者が注意して救ひ出し、馬に乘せて遁がしてやつた。後から追はれて如何ともしやうが無いので、或寺にかけ込んで事情を述べて賴むと、一身にすき間も無く等勝陀羅尼を書きつけて、佛壇の脇に立たせて置いた。すると比丘尼の幽靈が果して遣つて來て、可愛いや座頭は石になつたかと體中を撫でまはし、耳に少しばかり陀羅尼の足らぬ所を見つけて、爰にまだ歿り分があつたと、引ちぎつて持つて行つたと言つて、其盲人には片耳が無かつたと云ふのである。

 其話なら私も知つて居ると、方々から類例の出ることは疑が無い。此民族がまだ如何にもあどけなかつた時代から、否人類が色々の國に分れなかつた前から、敵に追はれて逃げて助かつたといふ話は、幾千萬遍と無く繰返して語られ、又息づまる程の興味を以て聽かれたのである。それが極少しづゝ古臭くなり、人の智慮が又精確になつて、段々に新味を添へる必要を生じた。そこへ幸ひに耳の奇聞が手傳ひに出たといふ迄である。鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である。古い話の足掛かりのやうなものである。さうすれば座頭其者がやがて又、見るたびに此の話を思ひ出さしめる一種の大唐櫃や、蓬菖蒲の如きものであつたとも言へる。

[やぶちゃん注:「耳切團一」「みみきりだんいち」或いは「みみきれだんいち」。講談社「日本人名大辞典」等によれば、民話の主人公で、後で柳田が概略する徳島県鳴門に伝わる話が一典型として知られる。団一は琵琶法師で、官女の霊に憑りつかれ、夜毎、墓場で琵琶を一心不乱に弾いていたが、それをたまたま目にした旅僧が団一の全身に呪(まじな)を施したが、それをし忘れた耳たぶの部分を迎えにきた霊に引き千切られてしまう。それでも命は救われ、それ以来、「耳切団一」と呼ばれるようになったという話で、他に、寺の小僧が山姥(やまうば)に追い駆けられるという同原類話が福島県や新潟県に伝承されるという。

「早飯も藝のうち」「速く飯を食うことも、人の芸の一つに数え挙げられる」という意の他に、「特別に芸を持たない者にとっては、速く飯を食うことぐらいを芸とするしかない」という揶揄の意味もある。「早飯早糞芸の内」或いは「早飯早糞早支度」などを類語とする。柳田が「いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ」と書く辺り、食にすこぶる貪欲(とんよく)であることを誡める点で、仏教的な戒のニュアンスも感じられる。

「鹽踏みの奉公人」単に「汐踏(しほふみ)」とも。商家での奉公の、初期の行儀見習いを指す語。主に女性について使った。堀井令以知氏の『京都新聞』の「折々の京ことば」によれば、戦前までは「娘はシオフミに出んと嫁に行かれへん」と言って、京の旧家で行儀作法を見習った。シオフミ(塩踏み)は「辛苦を経験すること」の比喩で、切り傷に塩が染むと骨身にこたえることから、「苦労をして世間を知ること」の謂いともなった、とある(堀井氏のそれはネット上のある記事のキャッシュから孫引きした)。

「飜す」「こぼす」。「零(こぼ)す」。

「嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事」「鬼事」は「おにごと」と訓ずる。「嬉遊笑覽」(きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。当該項は以下(岩波文庫版を参考に、恣意的に正字化し、歴史的仮名遣のひらがなの読みは私が附した)。

   *

「浮世物語」に、『鼠まひ小路(こうぢ)がくれ云々』あり。鼠まひは出んとして出ざるなり。山岡元隣が「誰(たが)身のうへ」三、『庄屋殿の一人の子もちたれども、此(この)子うちねづみにて、我(わが)うちより外を知らず』といへる、是なり。又、「出ずば耳ひこ」とは、鬼になりたる者をいふ也。「鷹筑波(たかつくば)集」、『重和 出ずは耳ひくべき月の兎かな』。「篗絨輪(わくかせわ)」十一集、『火傷(ヤケド)ならず果報にも引耳の𦖋(タブ)』こは上のことにあづからねども、耳引くこともくさぐさ也。

   *

「鷹筑波集」西武(さいむ)編になる貞門の俳諧撰集。五巻。寛永一九(一六四二)年刊で松永貞徳序(序のクレジットは寛永一五(一六三八)年)。書名は室町後期(大永四(一五二四)年以降に成立)の俳諧連歌撰集である山崎宗鑑の「犬筑波(いぬつくば)集」に対するもの。貞徳が三十年来批点を施した発句・付句を西武に編集させたもので、貞徳直門の俳人三百余が名を連ね、事実上、本書が貞門の第一撰集とされる。

「塚口重和」不詳。

出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。

「鬼追」「おにおひ」。所謂、「追儺」、「おにやらひ(おにやらい)」であるが、柳田がルビを振らぬ点、しかも併置した「鬼平祭(おにひけまつり)」(「平(ひけ)」は「平らげる」「退ひ)かす」の意であろう)とルビしている点、さらに現存する同行事の呼称を調べてみても、「おにやらひ」ではなく、「おにおひ」と訓じていると判断した。文庫版全集もルビはない。

「學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ」こういう柳田の口吻はすこぶるいやらしい。自分こそそうした輩であると内心自認しているくせにと揶揄したくなる。折口信夫と民俗学に性的研究をなるべく持ち込まぬように密約し、非アカデミズムの博覧強記たる南方熊楠をどこか煙たがり、「遠野物語」をちゃっかり自作にしておいて佐々木喜善を埋もれさせ、「海上の道」で非科学的な謂いたい放題をし腐っておいて、この謂いは、なかろうよ! なお、現在、「追儺(ついな)」の儀式は「論語」の「郷黨篇」に記述があり、中国の行事がその起源とされている。柳田の一面でさえこうだから、貧相で無知な日本主義者の阿呆な主張が今も亡霊の如くのさばっているのだとも言える。

「下ノ關の阿彌陀寺」現在の山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮にあった寺。忌まわしき廃仏毀釈で廃寺となった。

「阿波の里浦」現在の徳島県鳴門市里浦町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「稍」「やや」。

「曾呂利物語」「そろりものがたり」は寛文三(一六六三)年板行の怪談集で五巻五冊。外題は「曾呂利快談話」であるが「曾呂利物語」の内題で通称される。秀吉の御伽衆として知られた曾呂利新左衛門の談に仮託するが、編著者は不詳。

「是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳」「曾呂利物語 卷四」の「九 耳きれれうんいちが事」であるが、これは「自傳」とは言えない。早稲田大学古典総合データベースの画像で原本を視認しつつ、一部を漢字に直した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集(中)」(高田衛編・校注)を参考に(従っていない部分も多い。例えば、原本は一貫して主人公を「うんいち」と記しているのに、高田氏は「うん市」とする)、恣意的に正字化して以下に示す。挿絵は同一「江戸怪談集(中)」のものをトリミングして挿入した。適宜、改行を施した。

   *

 

   九   耳切れうんいちが事


Unniti

 信濃の國、善光寺のうちに、比丘尼寺(びくにでら)ありけり。また、越後の國にうんいちと云ふ座頭はべる。常に彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。

 ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。少し快くして、彼の寺に行きけり。主の老尼、

「うんいちは遙かにこそ覺ゆれ。何として打ち絶えけるぞ。」

と云ひければ、

「久しく所勞(しよらう)の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」

と云ふ。

 兎角して、其の日も暮れければ、

「うんいちは、客殿(きやくでん)、宿られよ。」

と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。

 爰に、けいじゆん、とて、弟子比丘尼あり、三十日程さきに、身まかりぬ。かのけいじゆん、うんいちの臥したる所へ行きて、

「其の後は久しくこそ覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ伴ひ侍らん。」

と云ふ。うん市は死したる人とも知らず、

「それへ參るべく候へども、御一人坐(おは)します所へ參り候ふ事は、如何(いかが)にて候ふまま、えこそ參るまじ。」

と云ふ。

「いやいや、苦しうも候はず。」

とて、是非に引き立て行く。

 彼の寮の戸を内より強く鎖(さ)して、明くる日は外へも出ださず、さて暮れぬ。

 うんいち、氣詰(つ)まり、如何すべきと思ひながら、すべきやうもなし。めうけつに行事(ぎやうし)の鐘の音しければ、

「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」

と云ひて出でぬ。さて、如何して出でんと、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事もならず。

 夜明けて、けいじゆんは歸りぬ。

 かくする事、二夜(ふたよ)なり。

 其の中に、食ひ物絶えて、迷惑の餘りに、三日目の曉(あかつき)、行事(ぎやうし)に出でけるうちに、寮の戸を荒らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出で合ひ、戸口を蹴放(けはな)し見れば、うんいちなり。

「此の程は何處(いづこ)へ行きけるぞ。」

と、尋ねければ、

「爰に居てこそ侍れ。」

と云ふ。

 見れば臠(ししむら)少しもなく、骨ばかりにて、さも恐ろしき姿なり。

「如何(いか)に、如何に。」

と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下より、

「しかじかの事にて侍る。」

と語る。

「けいじゆんは、三十日ほど前に、身まかりぬる」

と云へば、愈々(いよいよ)、興覺(けうさ)めてぞ覺えける。

 一つは、けいじゆん弔ひの爲、又は、うんいちが怨念を拂はん爲めとて、寺中寄り合ひ、百万遍の念佛を修行しける。

 各(おのおの)、鐘うち鳴らし、誦(じゆ)經しける時に、何處ともなく、けいじゆん、形を現はし出で來たり、うんいちが膝を枕にして臥しぬ。念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、正體(しやうだい)もなかりければ、かかる隙(ひま)に、うんいち、枕を外し、

「はや、國に歸り侯へ。」

とて、馬を用意して送りぬ。道すがら、いかにも身の毛よだち、後(あと)より取り付かるるやうに覺え、行き惱みけるほどに、ある寺へ立ち寄り、長老に會ひて、

「しかじかの事侍り。平(ひら)に賴み奉る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄り合ひ、うんいちが一身に、尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。

 さる程に、けいじゆん、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、

「うん市を出だせ、出だせ。」

とののしりて、走りまはりしが、うんいちを見つけて、

「噫(ああ)、可愛(かはひ)や、座頭は石になりける。」

とて、撫で𢌞し、耳に少し陀羅尼の足らぬところを見出だして、

「玆(ここ)に、うんいちが、切れ殘りたる。」

とて、引き千切(ちぎ)りてぞ歸りにける。

 さてこそ、甲斐なき命助かりて、本國へ歸りしが、耳切れうんいちとて、年長(とした)くるまで越後の國にありしとぞ。

   *

簡単に語注しておく。

・「うんいち」「うん」は運・雲・云など、「いち」は一・壱・市などが想起される。

・「勞(いた)はる事」病気に罹患すること。

・「遙かに」久しぶりのことと。

・「御見舞ひ」御機嫌伺い。

・「けいじゆん」「けい」は惠・慶・慧など、「じゆん」は順・純などが想起される。

・「寮」尼僧らの僧坊内の彼女の個室を指していよう。だから「御一人坐します」と遠慮するのである。

・「氣詰まり」何とも言えず気持ちが塞いで。実は亡者の陰気によるものであるが、主人公「うんいち」の意識では、尼僧と同室にて一夜を過ごしたことへの後ろめたさの心因反応と理解していよう。

・「めうけつ」参考にした高田氏の脚注に、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とある。

・「行事(ぎやうし)」原本は表記の読みのママ。高田氏は脚注で、『原本「ぎやうし」。意によって改』めた、とされ、さらに、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とある。

・「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」「けいじゆん」の台詞。「夜の勤行の刻限となりましたれば、出でまするが、ここに妾(わらわ)が帰って参りまするまで、そのまま、よろしいか。決して、外へ出ては、いけませぬぞ。」。

・「臠(ししむら)」身体に肉の部分。生気(精気・陽気)をすっかり亡者に吸われたのである。

・「百万遍の念佛」高田氏の脚注に、『災厄や病気をはらうために、大勢が集まって念仏を百万回となえる行事』とある。

・「尊勝陀羅尼」仏頂尊勝(密教で信仰される仏の一種で、如来の肉髻(にっけい:仏の頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したもの及びそれと同じ神通力を持つ呪文を神格化したもの)の功徳を説いた陀羅尼(だらに:密教で仏菩薩の誓いや教え・功徳などを秘めているとする呪文的な語句で原語を音写して用いるものの内、語句数の多いものを指す)。八十七句から成り、これを唱えたり、書写したりすれば、悪を清め、長寿快楽を得、自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされる。

・「可愛や」「なんとまあ! 可哀想なこと!」。

 

「序」「ついで」。柳田のこの部分は冒頭の導入部をすっ飛ばしており、本文に即しているとは言えない。前の原文参照。まあ、「うんいち」の「自伝」と言っちまっ柳田としては、かく脚色したかっただろうけど、私しゃあ、気に入らないね。

「後から追はれて如何ともしやうが無い」「後から追はれて来るような」気が強くしたので、である。事実、霊は追っては来るのだがね。

「等勝陀羅尼」ママ。文庫版全集もママ。こんな陀羅尼、聴いたこともありません! 誤字ですよ! 誤字! 柳田センセ!!

「鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である」端午の節句では、摘んできた蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)を軒に吊るすことで、無病息災を祈り、邪気を払えるとした習俗があるが、この由来譚(但し、後附けであろう)の知られた一例として、山姥や鬼・化け蜘蛛などが女に変身して人の男の女房となる異類婚姻譚「喰わず女房」があり、蓬や菖蒲は、主人公の男が、その呪的逃走を成就するための必須アイテムとして立ち現われる。例えば。サイト「お話歳時記」の端午の節句と山姥」が読み易く、判り易い。

「大唐櫃」「おほからびつ」。次の次、「山神と琵琶」に出る山形県大石田町の座頭譚を受けたもの。]

2016/12/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(8) 境の殺戮

 

     境の殺戮

 

 併しそれだけの事由では、まだ耳塚といふ如き小さな名稱が、獨立して永く記念せられるには足りなかつた。是にもやはり獅子舞の御獅子が耳を咬み切られたと云ふ類の、古い神話が來て助けたのである。卽ち耳取りが境の大切なる條件であることを記憶する人々がこの口碑の成長にも參與して居たのである。或は之に基いて鹿よりも今一つの以前の、大昔の生贄慣習を尋ねることが出來るかも知れぬ。實際我々の祖先が信じて居た靈魂の力は餘程今日とは違つて居た。例へば味方の靈でも死ねば害をしたと同じく、敵の怨靈も祭り樣によつては利用する途があつた。殊に堺の山や廣野には、寧ろ兇暴にして容赦の無い亡魂を配置して、不知案内の外來者に襲擊の戈を向けしめようとしたことは、必ずしもよその民族の遠い昔のためしではなかつたのである。人を賴んで川の堤の生柱(いきばしら)に立つてもらひ後に之を水の神に祭つたといふ話などは、勿論たゞの話であらうがあちらこちらに殘つて居る。黑島兵衞だ東尋坊だといふ惡漢が、死ぬると直ぐに信心せられたのも、祟るから祭つたのだといふ説明だけでは、まだ合點の行かぬ所がある。恐らく人間の體内には神と名けてよい部分が前からあつて、それが此上も無く一般の安寧の爲に、必要なものと信ぜられた結果、時としてはわざわざ之を世俗から、引離して拜まうとした風習が曾てあつたので勿論現在の生死觀を適用して見れば、到底忍ぶべからざることには相違ないが、其豫定があつてこそ始めて生牲といふ語が了解せられる。卽ち死の準備の或期間が、人を生きながら神とも爲し得たので、神に供へる鹿の耳切りは、必すしも鹿を以て始まつたる方式で無いのかも知れぬ。

 至つて古い時代の民間の信仰が、獨り其形體を今日に留めて、本旨を逸失した例は無數にある。近世文學の中に散らばつて居る神恠奇異にも、詩人獨自の空想の所産なるが如く我も人も信じて居て實はさうで無いものが多かつた。久しい年代の調練に伎つて、隱約の間に養はれて居た思想が、無意識に折々顏を出すのである。由緒ある各地の行事の中にも同じ名殘は尚豐かに見出される。獅子舞などが既に平和の世の遊樂になつて居ながら、屢殺伐なる逸事を傳ふるも其爲である。伊勢の山田の七社七頭の獅子頭が、常は各町の鎭めの神と祭られつゝ、正月十五日の終夜の舞がすんで後に、之を山田僑の上に持出して刀を揮うて切拂ふ態を演じ、卽座にこれを舞衣に引くるんで、元の社に納めたといふなども、假に如何樣の解説が新たに具はつて居ようとも、到底後の人の獨創乃至は評定を以て、發案せられる類の趣向では無かつたやうである。

[やぶちゃん注:「黑島兵衞」「くろしまひやゑ」と読んでおく。越後の国中心にを荒し廻った巨魁の豪族で、身の丈二メートル五十センチの偉丈夫とする怪人物として伝承に名を残すようである。

「東尋坊」現在の福井県坂井市三国町安島の海岸にある柱状節理の断崖。ウィキの「東尋坊によれば、一説に、『昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った』。寿永元(一一八二)年四月五日、『平泉寺の僧たちは皆で相談し』、『東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと』、『一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊は』、『またたくまに崖の下へと落ちて行った』。『東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ』、起こり、『青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をも』、『その絶壁の底へと吸い込んでいった』。『以来、毎年東尋坊が落とされた』とされる、四月五日の『前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり』、『東を尋ねて平泉寺に向ったという』とある。しかし、私は高校時代、破戒僧が死に際に西方浄土をどちらかと尋ね、憎んだ庶民が反対を教え、ここから因果応報で落死したのだ、とバス・ガイドから教わったのを忘れない。]

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