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カテゴリー「毛利梅園「梅園介譜」」の17件の記事

2017/06/08

毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)

 

Kainowarekara

 

小螺螄(ワレカラ)

 

古哥に詠(よめ)る藻に住む蟲の「われから」と云ふは、

是なり。「本草約言」に曰く、『紫菜、其の中に小螺螄有り』と云へり。

藻にすむなるべし。海薀(もづく)にはかぎらず。

   此(この)二種、予、旧縁の者、相州浦賀に住み、[やぶちゃん注:ここ、訓読は行を跨る。]

   江武(がうぶ)の使(つかひ)に、予に寄する者なり。

   「モヅク」は至(いたつ)て汐(しほ)つよく、味(あじは)ひ、甘(かん)なり。酢(す)に漬(つけ)て食ふ。

   味、海藻(ホンダワラ)に類す。「ワレカラ」は、則(すなはち)、藏(ざう)す。

 

[やぶちゃん注:以下、右下の「モズク」のキャプション。]

 

海薀(モヅク)

  「本草」時珍云く、『「縕(うん)」は亂絲(らんし)なり。其の葉、之に似る。』と。

 

      乙未六月廿七日

      眞寫

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。「海薀(モヅク)」はまず形状からも不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科モズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata、或いはモズク Nemacystus decipiens と同定してよい(現在、食用として流通するのはる オキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズクで、モズクは殆んど市場には出ない)。問題は、附着しているメインの「小螺螄(ワレカラ)」である。「螺螄」は「ラシ」で「小さな螺(にな)」で円錐形の小型の腹足類、螺(にな)の意である。面白いのは、私の電子化した栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)に掲げた二枚の図とよく似ている点である。しかも、この絵もそうだが、「小貝」と言っておきながら、その一つをでも、拡大図で描いていない点が恨めしい。栗本版ではまず一枚目の海藻(種不明)に附着したワレカラ八個体の図に(ここでは読み易く書き直した)、

   *

ワレカラ

此物海中藻にすむ小虫なり。形、水虱(みづのみ)に似たり。又、小蝦にも似たり。足、多し。水、離れて、稍(やや)、跳るものなり。予、幼時、實父藍水翁自(みづから)抄寫せる「佐州採藥錄」にある圖を以て、こゝに載出するものなり。

   *

と記す。「水虱」は、現在、等脚目のキクイムシ Limnoria lignorum を指す。図のそれは「小貝」なんぞではなく、細かな脚を持った、所謂、我々の地上で見馴れている「だんごむし」状である。この図が正確なら、これが打ちあがった海藻に附着しているものであれば、

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae

ハマトビムシ類の仲間と考えてよいと思うが、転載図である上に、図のスケールが不明(海藻が同定されればスケールのヒントにはなると思われるが)なため、体長十五ミリメートルの一般種の、

ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis

であるか、体長二十ミリメートルの大型種の、

ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi

であるかは不明である。但し、これが海中に浸った状態のものを描いたとすると(当時の博物画の場合はちょっと考えにくい。そのような生態描写の場合は、そうした注記をするものである。但し、これは写しの写しだからこれはその作業の実際を写した丹州自体が知らないものと思われる)、海浜の砂地及び砂中にしかいないハマトビムシは無効となり、それに形状が近く、海中の藻場で藻に附着している種ということになる。その場合は例えば、

フクロエビ上目端脚目モクズヨコエビ科モクズヨコエビ属フサゲモクズ Hyale barbicornis

などのモクズヨコエビ科 Hyalidae の仲間などが想定出来る。しかし、これはさっきも言った通り、江戸時代の人間が見ても「小貝」ではなく、ヘンテコリンな「蝦」か「小虫」の類いと言うはずである。いや、丹州もそう言っているわけだ。

 そこで丹州の二枚目を見ると、俄然、「小貝」っぽいのである。そこに丹州は(同じくここでは読み易く書き直した)、

   *

ワレカラ 貝原翁の説、『小貝にして蟲(むし)に非ず』とす。これは、其の土地の漁人などの方言にて「われから」と云ふによれるか。因(よつ)て其の物、國々にて違ひあり、ここに圖せるは筑紫(つくし)にて稱する處の「われから」なるべし。「大和本草」に云ふ、『われから」、古歌によめるは、藻に住む蟲なり』と。又、「本草約言」に云く、『紫菜、其の中に小螺螄、有り』と。今、按ずるに、此の類(るい)、「われから」なるべし。藻につきて殼(から)の一片なる螺(にな)あり。分殼(わかれから)の意なるべし。「すくなき」ゆへなり【これ、「ヨメガサラ」の小なるものなり。】。又、云ふ、「ワレカラ」、海中の藻にすむ小貝なり。古哥に讀めり。色、淡黑、大(おほき)さ三、四分に過ぎず。其殼、われやすし。形、「ミゾガイ」・「ヰガイ」などに似たり。至て小なり。此の藻は「ナゴヤ」と云ひ、淡靑色、乾けば紫色なり。日に晒せば、變じて白色となる。食ふべくも、性(しやう)、よろしからず。或は松藻にも此の貝あり。松藻は長くして、莖(くき)も大なり。[やぶちゃん注:後略。]

   *

と記す。この「ミゾガイ」は斧足綱マルスダレガイ目ユキノアシタガイ科オオミゾガイ Siliqua alta。続く「ヰガイ」は、現在、呼称されている「イガイ」としての斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属ムラサキイガイ Mytilus galloprovincialis や、北海道太平洋岸のみに生息するイガイ中唯一の国産種イガイ属キタノムラサキイガイ Mytilus trossulus ではない(そもそも日本全土に生息域を拡大している前者は、大正期に侵入したものである)。本種は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミ科ムラサキガイ亜科ムラサキガイ属ムラサキガイSoletellina diphos を指しているものと思われる。イガイの名称は、錯綜している上に、ネット上での記載内容も「帰化動物のイガイ=ムール貝」と「従来のイガイ=ムラサキガイ」の混同によるものと思われるものが少なくない。「松藻」はマツモ Analipus japonicus である。「ヨメガサラ」であるが、これは一般に言うところのカサガイ目ヨメガサガイ科ヨメガカサ Cellana toreuma の地方名であると思われる。また、「ナゴヤ」というのは九州地方でオゴノリ Gracilaria vermiculophylla のことを言う方言である。さて、その海藻の「ナゴヤ」に附着した三十八個体のワレカラの図を見よう。この縞々は何だ? 巻貝の螺肋か? しかし、である。ヨメガカサの成体は御存じの通り、岩礁海岸の岩にへばりついているものであって、例えば本種の幼貝が好んで藻類等に何匹も吸着しているなどというのは聴いたことが(私は)ない。万事休す。何方か、この「小貝」である「われから」の正体を是非ともこの無学な私にお教え願いたい。海岸で現物を観察して推理するなら幾らでもやってもいいが、古い粗悪な博物画のみを推理材料とする海洋生物版〈隅の老人〉を演じるのは、流石にちょっと疲れたわい。

「古哥に詠る藻に住む蟲の「われから」と云ふ」先に電子化した「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の私の注を参照されたい。

「本草約言」に曰く、『紫菜、其の中に小螺螄有り』と云へり」やはり、同じ引用をしている「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の私の注を参照されたい。

「江武」江戸幕府。

「使に、予に寄する者なり」使いの序でに梅園宅に寄って届けたというのであろう。さすれば、或いは海水に漬けた新鮮なものであったのかも知れぬ。ただ、季節的(末注参照)には厳しい(最後の注を参照)。

「海藻(ホンダワラ)」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum。古来、「なのりそ」の名で食用とされ、藻塩精製の素材ともされてきた。海藻フリークの私は特に好物で、先般、三度目の渡島を果たした佐渡では(当地は「神馬藻(神馬壮)」と呼ぶ)、朝食の時に丼一杯を平らげ、土産に買った冷凍の塊りも三日で完食してしまった。

「本草」李時珍の「本草綱目」。「海薀」として「草之八」に出るが、記載は少ない。

『「縕(うん)」は亂絲(らんし)なり。其の葉、之に似る』「縕」という字は「乱れ絡まった糸」の意であり、その海藻の分岐した葉体部分は、これに似ている、というのである。或いは、「ぬめり」をこんがらがった糸のような感じだと言っているのかも知れぬ。

「乙未六月廿七日」天保六年。グレゴリオ暦一八三五年七月二十二日。]

毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ



Baiennkaihuwarekara

 

      政亥年如月十九日

      之れを得て眞寫す。

 

ワレカラ

 

 藻に住む虫の「ワレカラ」とは

 別なり。藻にすむ「ワレカラ」は

 小貝なり。貝の部に出(いだ)す。

 此に載す者は蝦サゴ、又

 海苔(のり)の中に多く交り、

 居(きよ)する者なり。栗本翁、

 尾州の産なりとして、画譜

 に載(のせ)たり。然(しか)ども、江戸芝

 浦、又、大森羽田邊に多

 かり。

 

[やぶちゃん注::画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(下方の「石」は下にある「石蟹」のキャプションで関係ない)。真正の節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類の記載であり、図である。先の大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラで注したが、これぞ! モノホンなればこそ、再度、真正の「ワレカラ」について注しておく。代表種はワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons・トゲワレカラ Caprella scaura・スベスベワレカラ Caprella glabra など。小さな頭部に細長い七つの胸節と小さな 六つの腹節を持ち、第一と第二胸脚は鋏を持った顎脚となっている。一般には第三胸脚と第四胸脚を欠き、代わりに葉状の鰓を持っている。後ろの三対の脚で、潮間帯や浅海の藻場の海藻・海草類などにしがみついて生活する。海藻等の棲息場所では体形が擬態を示し、体色も海藻に似せている。所謂、エビ・カニの仲間であるが、通常の種は体長一~二センチメートルで、体も多くの種では透過度が高いので自然界では見過ごされることが多い。但し、オオワレカラ Caprella kroeyeri などは最大六センチメートルにも達し、形状的には昆虫のナナフシ類(有翅昆虫亜綱新翅下綱直翅上目ナナフシ目 Phasmatodea。但し、ナナフシ類は翅や飛翔能力を失ったものが多い)に似ており、その運動は尺取虫(主に昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ科Geometridae の幼虫)にも似ている(というとイメージはし易いであろう)。なお、同種はが腹部に育児嚢を持つ。属名はラテン語の「小さな山羊(やぎ)」の意の“caprella”に由来する。具体な形態画像などは、筑波大学生命環境科学研究科生物科学専攻動物進化発生学「和田洋研究室」公式サイト内の「ワレカラの形態進化の謎を解く」を参照されたい。或いはこの図のそれは(特に下方のそれ)、リンク先に画像で出るコミナトワレカラ Caprella kominatoensis の可能性があるかも知れぬ。

「政亥年如月十九日」文政十年丁亥(ひのとい)。グレゴリオ暦一八二七年三月十六日。この時期ならば、本種が河岸などから生体或いは死の直後に梅園のもとに届いた可能性は高いと思われる。言っておくが、私が新暦に換算しているのはただの「ためにする」酔狂なんぞではない。

「藻に住む虫の「ワレカラ」とは別なり。藻にすむ「ワレカラ」は小貝なり」やったね! 梅園先生!!!

「貝の部に出(いだ)す」近日中にそちらも電子化する。

「蝦サゴ」不詳。或いは「蝦かご」(蝦籠)でエビを捕獲するための籠状の漁具か? 或いは「蝦ザコ」でエビを捕獲した際に有象無象一緒に採れる雑魚(ざこ)の誤りか? 以下の栗本丹州の謂いからは、後者である可能性がすこぶる高いように思われる。

「栗本翁尾州の産なりとして、画譜に載たり」これこそ、私が前の大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラで注した栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)のことである。そこで丹州は(漢字の表記の一部を正字化して統一し、読みもオリジナルに歴史的仮名遣で附して読み易くした)、

   *

ワレカラ 尾州の産。其地の方言也。是(これ)、一種の水蟲にして、海藻或は雜肴(ざこ)の中に交り、上る者なり。一寸或は寸半許(ばかり)あり、二寸に至るもの、まゝあり。色、靑し。たまに黃ばみたるものあり。只、乾したる海苔に交りあるは、色も形も辨別しがたし。因(より)て『「われから」くはぬ上人もなし』と云へる事は能登(のと)の國人のノ常諺(じやうげん)なるよし、輪池(りんち)先生[やぶちゃん注:屋代弘賢の号。]、別に詳説あり、見べし。紀伊の國にて云(いふ)「ワレカラ」は藻中にすむ小貝なり。これも一説なり。然(しか)れ共(ども)藻に棲(すむ)蟲の「われから」と古歌によみたるは、蟲の説、穏當なりとすべし。此圖は尾張の人、植村忠左衞門有信なるもの、屋代氏へ篤(とく)贈る處のもの也と。

   *]

2017/06/07

毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)

 

Heikegani

 

「蟹譜」に出(いづ)。

鬼蟹(おにがに) 武文蟹(たけぶんがに)

           しまむらがに【摂州】

           平家がに  【長門】

           きよつねがに【豊前】

           幽霊かに  【紀州】

 

[やぶちゃん注:以下、以上の下段部分。]

 

          「祝允明野記」

           鬼面蟹(きめんがに)

戎蟹(えびすかに)【備前】 治部少輔蟹(ぢぶしやうすけがに)【伊勢】

 

「大和本草」

 嶋村蟹

享祿四年、備前の浦上、掃部助村雲、細川右京太夫晴元と摂州に於いて、合戰し、

尼ヶ﨑に於いて、打ち負けて自殺す。浦上の臣嶋村彈正左エ門貴則、敵の強兵、兩人(ふたり)を、

左右の腿(もも)にはさみ、水に入て共に死す。尼ヶ﨑のあたり、野里(のさと)川と云所也。其霊、蟹

となりしと云。故に島村蟹と云、怒る人面の如し。

 

「摂津名所記」

嶋村蟹は東生(ひがしなり)郡野田川より出す。此邉(このあたり)の蟹、美味なりと云、多く食料にす。

 

「後太平記」

享祿の頃、島村左馬助は主君細川髙國を援(すく)はんと尼ヶ﨑より打(うち)だせしに、早(はや)、髙國は

討死したり。死出の供せんと四方欠𢌞(かけまは)り、敵多く打取(うちとり)、入水(じゆすゐ)しける。是(この)霊、鬼面の蟹となる

と云ふ。又、俗に秦(はた)の武文(たけぶん)、海中に没死(ぼつし)て、其怨(ゑんこん)の化する處と云々。

 

[やぶちゃん注:右頁の左上部のキャプション。漢詩は直後に( )で推定で書き下した。]

 

「續脩臺灣府志」に「使槎(しさ)録」を引きて曰く、

鬼蟹、狀、傀儡のごとし、孫元衡、詩に云ふ有り。

  家在蠔山蜃氣聞

  鯨潮初起鱟帆來

  乕鯊鬼蠏紾無數

  就裏難求蛤蚪胎

  (家は蠔山(がうざん)に在りて蜃氣を聞き

   鯨潮(げいてう)初めて起きて鱟帆(がくほ)來たり

   乕鯊(こさ)鬼蠏(きけい) 紾(しん)として無數

   裏に就きて求め難し 蛤蚪(がふと)の胎(たい))

 

是に曰ふ、鬼蟹も亦、同物也。

 

[やぶちゃん注:以下、その下部のキャプション。「環」は毛利梅園の号の一つ。]

 

環(くわん)曰ふ、

此蟹、背殻、鬼形(きぎやう)のごとし。眉・目・口・鼻、分布、明白なり。常に寶として之を翫(もてあそ)ぶ者なり。異物なり。

細川髙国が臣、島村左馬助が蟹となりしとは、誤りなり。中夏傅肱が蟹の書に

出せる鬼蟹なり。近世の俗、長州壇ノ浦源平合戰の時、平家打ち負け、入水せし者、蟹

となる故に平家蟹と云ふ。矢嶋には此蟹なく、壇ノ浦には、悉く、鬼蟹なりと。壇ノ浦は

赤間関(あかまがせき)にあり。島村・平家の説、盲談ならん。俗、傳ふ、秦の文武、大海に没死し、其怨魂、

化する所と云ふ、甚だ怪異(あやし)きなり。

壇ノ浦平家入水して蟹と霊と化したること、源平盛衰記に載らず。此蟹、長州

下関、森氏旅行の節、之を求め帰る。同州にては此蟹、湯引きて之を賣る由。故に生色を

知らず、只、其形狀を寫すのみ。

 

[やぶちゃん注:左頁キャプション。]

 

 甲の圖

 

 腹甲の圖

 

[やぶちゃん注:左頁の左下方のキャプション。]

 

乙未(きのとひつじ)秋七月廿八日森氏所藏。之を乞ひて

眞寫す。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。本個体は下関で採取されたものであることと、表裏の図から同属の近縁の他種の特徴を殊更には見出せないことから、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica をまずは最大可能性同定候補して問題ないように思われる(但し、あくまで絵で一部の細部の検証が不能であることから他の近縁種でないと断定は出来ない)。しかも、腹面部の腹節が有意にスマートであるから、これは間違いなくの固体である。なお、ヘイケガニ Heikeopsis japonica は意外と知られていないが、本邦では北海道南部から相模湾・紀伊半島・瀬戸内海・有明海まで広く分布し、近隣諸国では朝鮮半島・中国北部やベトナムまで東アジア沿岸域に広く分布している。私は既に栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」でヘイケガニ属或いはその近縁種と思われる図を考証しているが、こちらの方が遙かに博物学的にはより正確に描出されているように思われる。

「武文蟹(たけぶんがに)」摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくヘイケガニ類の別名(辞書その他殆んどが「ヘイケガニの別名」とするが、これは必ずしもヘイケガニ Heikeopsis japonica 一種を指すものではなく、正しい謂いとは言えない)。元徳三(一三三一)年の元弘の乱の際、摂津国兵庫の海で死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)の生まれ変わりとされる。元弘の乱の初期、秦武文は主君(尊良親王は元弘の乱勃発直後に父後醍醐天皇と笠置山に赴いたものの、敗れ、父とともに幕府軍に捕らえられて土佐に配流されていた)の妻一宮御息所を配流地土佐に連れ行こうと尼崎から船出しようとするが、そこで彼女を垣間見て一目惚れした土地の海賊武士松浦五郎に御息所を奪われてしまう。私の非常に好きな怪異のシークエンスであり、こちらの話は壇ノ浦平家蟹伝承に比してマイナーな印象があるので、ここで以下、「太平記」巻十八「春宮還御の事 付けたり 一宮御息所の事」から引いて「武文蟹」を顕彰しておきたい(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、恣意的に正字化し、一部に読点と改行を追加してある)。但し、荒俣宏「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「カニ」項の「平家蟹」によれば、人見必大の「本朝食鑑」では、これは平家蟹ではなくカブトガニ(鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ Tachypleus tridentatus)のこととして載せ、『土地の人は武文を憐れんでこれを捕らない』と記しているとある。

   *   *

武文、渚に歸り來たつて、

「その御船、寄せられ候へ。先に屋形の内に置きまいらせつる上﨟を、陸(くが)へ上げまゐらせん。」

と呼ばはりけれども、

「耳にな聞き入そ」

とて、順風に帆を上げたれば、船は次第に隔たりぬ。また、手繰(てぐり)する海士の小船にうち乗つて、みづから櫓を押しつつ、なにともして御船に追ひ著かんとしけれども、順風をえたる大船(たいせん)に、押し手の小舟、追ひ付くべくもあらず。遙かの沖に向つて、扇を擧げ招きけるを、松浦が舟にどつと笑ふ聲を聞きて、

「やすからぬものかな。その儀ならばただ今の程に海底の龍神と成つて、その船をばやるまじきものを。」

と怒つて、腹十文字に搔き切つて、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。

   *

その後、海は荒れに荒れ、しかも自分に靡かぬに業を煮やした松浦は、水主(かこ)らの合議もあって、御息所を鳴門の龍神に生贄として捧げようとするが、同船の僧に制止される。

   *

「さらば僧の儀につけて祈りをせよや。」

とて、船中の上下、異口同音に觀音の名號を唱へたてまつりける時、不思議の者ども、波の上に浮かび出でて見えたり。

 まづ一番に濃き紅くれなゐ著たる仕丁(じちやう)[やぶちゃん注:貴族の家などで雑役に従事した下男。「しちやう」と濁らずにも読む。]が、長持を舁(かき)て通ると見へてうち失せぬ。

 その次に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しろくら)置いたるを、舍人(とねり)[やぶちゃん注:貴人の牛馬などを扱う従者。]八人して引きて通ると見えてうち失ぬ。

 その次に、大物の浦にて腹切つて死んだりし右衞門府生秦武文(うゑもんのふしやうはだのたけぶん)、赤糸威(あかいとおどし)の鎧、同毛の五枚冑(かぶと)の緒をしめ、黃月毛(きつきげ)なる馬に乘つて、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇を擧げ、松浦が舟に向つて、その船留まれと招くやうに見へて、浪の底にぞ入にける。

 梶取(かんどり)これを見て、

「灘(なだ)を走る船に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へども、これはいかさま、武文が怨靈(をんりやう)と覺え候ふ。その驗(しるし)を御覽ぜんために、小船を一艘下して、この上﨟を乘せまゐらせ、波の上に突き流して、龍神の心をいかんと御覽候へかし。」

と申せば、

「この儀、げにも。」

とて、小舟を一艘引下して、水手(すいしゆ)一人と御息所とを乘せたてまつて、渦の波にみなぎつて卷きかへる波の上にぞ浮かべける。

   *

その後、曲折を経た後、遂に目出度く、親王と御息所は再会を果たすのである。

「しまむらがに」戦国武将島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)は戦国大名で第三十一代室町幕府管領細川高国(文明一六(一四八四)年~享禄四年)。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏一門野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。養父政元が暗殺された後の混乱を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を排除、京兆家の家督を手中にしたが内紛が昂じ、大内氏を頼ったものの、澄元の嫡男晴元に敗れて自害に追い込まれた)の家臣。摂津尼崎で細川晴元方(がた)の三好元長らに敗れ、ここに記されたように、敵兵二人を抱えて海中に身を投じて自死した。後、この近辺で獲れるヘイケガニ類(前注参照)を「島村蟹」とよぶようになったという。弾正は通称。

「きよつねがに」清経蟹。能の「清経」で知られる、ナーバスになって入水自殺した平家一門の武将で笛の名手であった平清経の怨念伝承に基づく大分の宇佐地方のヘイケガニ類(前注参照)の別名。平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)は寿永二(一一八三)年に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことを契機として、豊前国柳浦(現在の大分県宇佐市江須賀の沖合とされる。この附近(グーグル・マップ・データ))にて入水自殺した。享年二十一。「平家物語」の「六道之沙汰」の段の建礼門院による述懐によれば、この清経の死が平家一門の『心憂きことのはじめ』として語られてある。

「祝允明野記」蛸島直氏の論文「蟹に化した人間たち(2) 平家蟹の記録を中心に」(ODF)によれば、明代の書家で文人の祝允明(しゅくいんめい 一四六〇年~一五二七年)の一一五一年成立の著であるが、蛸島氏が当該論文で述べておられるように、後の小野蘭山の「本草網目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)や岡林清達(きよたつ)稿・水谷豊文補編の本草書「物品識名」(文化六(一八〇九)年跋)なども、一様にこの「祝允明野記」を典拠としているが、はたして、中国の「鬼面蟹」を本邦の「平家蟹」と安易に相同同定してよいかどうかは甚だ疑問と言わざるを得ない。私は大陸のそれは或いは全く異なった別種である可能性も充分にあり得ると考えている

「治部少輔蟹」石田三成の通名として知られているが、六条河原で斬首された彼が何故に伊勢で鬼面の蟹と変ずるのか、私は全く伝承を知らぬ。或いは石田三成のことではないのか。識者の御教授を乞う。

「大和本草」本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が編纂した本草書。宝永七(一七〇九)年刊。明治になって西洋のそれらが本格的に輸入される以前、日本の博物学史に於ける最高峰と言える生物学書・農学書。

「野里(のさと)川」不詳。現在の尼崎市内にはこのような川の名は見当たらない。

「摂津名所記」京都の町人吉野屋為八が計画し、寛政八(一七九六)年から寛政十年にかけて刊行された、摂津国の通俗地誌で観光案内書でもあった「攝津名所圖會」のことか。先程、ネット上で原本を発見、それに当たって確認したところ、「野田川」が「野里川」であったり、やや、省略が過ぎるものの、同書から引いたものらしい。

「東生(ひがしなり)郡野田川」摂津国(現在の大阪府)東成郡であろうが、野田川という河川名は現在の旧東成郡域には見当たらない。現在の福島区野田地区は古くは「野田川万乗」と称され、『野田川域・地先海域は摂津・浪花浦第一の好漁場であり、魚族が豊富で「魚稼第一」として繁盛していたが』、寛永元(一六二四)年の『九条島・四貫島の新田開発で野田川の魚』稼ぎは『悪化するようにな』り、貞享元(一六八四)年の『安治川新堀の建替でそれまでの野田川の名も途絶している』(不動産会社「野田庄株式会社」公式サイト内の)とあるのだが、この福島区野田は少なくとも近代の東成郡域には含まれない。識者の御教授を乞う。前注の通り、これは「野里川」の誤りであろう。それでもやはり不明ではあるが。

「後太平記」江戸前期に成立した、「太平記」の後を引き継いだ形をとった南北朝後期から室町・戦国時代を扱った軍記物語。信頼度は低い。

「欠𢌞り」駆け回り。

「怨(ゑんこん)」「」は「魂」の異体字。

「續脩臺灣府志」(ぞくしゅうたいわんふし)は一七六四年に清(乾隆帝期)の余文儀の著になる台湾地方の地誌。

「使槎(しさ)録」「臺海使槎錄」。一七三六年に清(乾隆帝期)の黄叔璥(こうしゅくけい)の著になる台湾地誌。

「孫元衡」清の官人。台湾府の副知事を務め、文人としてここに出るような詩篇など多くの著作を残している。

「蠔山(がうざん)」一般には海中に暗礁のように積み上がった牡蠣の塊りを指す。

「鯨潮(げいてう)」鯨の潮吹きか?

「鱟帆(がくほ)」かのカブトガニの背の骨(風があると帆のようにあがると信ぜられたらしい。

「乕鯊(こさ)」カサゴのことか?

「鬼蠏(きけい)」「蠏」は「蟹」。

「紾(しん)として」「捩じれる」「縺れつく」の謂いか?

「蛤蚪(がふと)」「蛤」は二枚貝の総称であるが、「蚪」は蝌蚪で「おたまじゃくし」で意味不明。「胎」とあるからには孰れも食用にするその身であろうとは思う。この詩、私には何となく判ったような、結局、判らん詩である。識者の御教授を切に乞う中文サイトに「漁家口號」という題で載っており、「虎鯊鬼蟹紛無數」の箇所には「虎鯊背有斑文,鬼蟹狀如傀儡」とある。またまた半可通である。

「中夏」「中華」の誤記ではあるまいか? 中国の史書に記された最古の王朝として「夏」があるが、中国を指すのにこうは言わない。

「傅肱が蟹の書」北宋の傅肱(ふこう)の著した「蟹譜」の中に「恠狀」があり、そこに「呉沈氏子食蟹、得背殻若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常寶玩之」と出る。

「矢嶋」壇ノ浦の前哨戦があった矢島。

「赤間関」現在の山口県下関市の鎌倉時代に成立した呼称(「下関」はもっと古く平安前期からある)。これは広く『付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とウィキの「下関にある。

「秦の文武」ママ。「武文」の錯字。

「森氏」毛利梅園の友人らしい。

「生色を知らず」生個体は暗い褐色。しかも、生時は通常、第三及び第五胸脚で貝殻や塵芥などを背に固定して負っており、そうでなくても汚れて見える。

「乙未」天保六(一八三五)年。]

毛利梅園「梅園介譜」 梭貝(ヒガイ)

 

Higai

 

「怡顏齋

 介品」

 まがい。ひ貝。

 梭貝

  兩口と云ふ。

 

上下に口あり。

機(はた)を織る

梭(ひ)に似たり。

故に名(なづ)く。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。吸腔目タカラガ(宝貝)イ上科ウミウサギガイ(海兎貝)科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei。「梭」は既に「梭尾螺」で注した通り(「杼」とも書く)、織機の付属用具の一つ。シャトル。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っている。本種はまさに名にし負う真正の「梭貝」と呼ぶに相応しいとても美しいフォルムをしている。私も嘗ては貝コレクターとして数個を持っていたが、皆、教え子にあげてしまって手元にはなくなってしまった。グーグル画像検索Volva volva habeiで偲ぶよすがとしよう。必ずしも希少な貝ではなく、以前は標本屋でもそんなに高価な貝ではなかった。但し、破損し易く、標準では八センチメートル程であるが、大型(十センチメートル超)の完品は人気があるであろう。本邦沿岸の水深二〇~五〇メートル内外に普通に棲息するが、主に房総半島よりも南の地域に多く分布するようである。

「怡顏齋介品」本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの。早稲田大学古典総合データベースのこちらに「梭貝」の解説があり、

   *

梭貝(ヒカイ) 紀州弱浦にて両口(リヤウクチ)と云ふ。上下ニ流(クチ)アリ、機(ハタ)ヲ織ル梭(ヒ)ニ似タリ。故ニ梭(ヒ)貝ト云フ長サ三四寸。

   *

こちらでは同図が見られる。]

毛利梅園「梅園介譜」 榮螺(サヽヱ)

 

Sazae

 

榮螺(サヽヱ)【源「和名抄」。佐左江(さざゑ)。】

 

「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)」

      右九番 左(さ)たゑ

    さたゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て

      いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず

 

[やぶちゃん注:図の左下のキャプション。]

 

            壬辰十一月十五日

            眞寫

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像をトリミングした。腹足綱古腹足目リュウテン科リュウテン属 Turboサザエ亜属 Batillusサザエ Turbo sazae。螺層には非常に多くの節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha のフジツボが附着している。小さいので同定は絵からは困難だが、縦の白い縞が顕著に描かれている感じからは、フジツボ上科フジツボ科フジツボ属シロスジフジツボ Balanus albicostatus であろうかとも思われる。なお、本文中の「左(さ)たゑ」「さたゑ」の「た」は踊り字ではない。「さざえ」が転訛した「さだえ」という呼称が平安後期にはすでに存在したのである。知られたところでは「梁塵秘抄」に、

   *

備後の靹(とも)の島

その島 島にて 島にあらず 島ならず

螺(にし)なし 榮螺(さだえ)なし 石花(せい)もなし

海人(あま)の刈り乾す 若布(わかめ)なし

   *

と読まれているのである。因みに「石花(せい)」は「勢」でカメノテ(節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella)。これは男根に喩えた呼称と私は踏んでいる。

『源「和名抄」』源順(みなもとのしたごう)の字書「和名類聚抄」。以下のように載る。

   *

榮螺子 崔禹錫食經云榮螺子【和名佐左江】似蛤而圓者也(崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云く、榮螺子【和名、「佐左江」。】蛤(がう)に似て圓(まろ)き者なり)

   *

この崔禹錫は唐代の博物学者で、食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は平安中期に源順によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚して見ることは出来ない。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「佐左江」「左」の漢字には濁点が附されているのに注意

「六々貝合和哥」前の螺」の私の注を参照。国立国会図書館デジタルコレクションのの画像で和歌を視認出来(右冒頭)、貝の図はの左頁(貝合わせでは「右」)の「九 ささへ」。「梭尾螺」と同じく、「和泉屋 楓」氏のサイト「絵双紙屋」の「教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻」の『(8)』にも、

   *

 

  さたへ貝

 

さたへすむ

 瀨戸の

 いはつぼ

求出(もとめいで)て

いそしき

  あまの

けしき

 なる

   かな

 

いそしきとは、いそがし

          き

のことばなるべし。

あまは海辺のさもしき

人をいふ。これに付(つけ)ても、

下々(しもじも)は旦暮(あけくれ)、手あし

の労(ほねおり)のいとまなし、

たちゐにくるしきを、

うへつかたは、あはれと

しろしめさる

べきなり。

   *

とある。

「さゝゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て/いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず」元歌は西行の「山家集」に出る(一三七六番歌)、

 

   牛窓(うしまど)の瀨戸に海人(あま)の

   出でいりて、さだえと申すものをとりて、

   舟に入れ入れしけるをみて

 さだえ棲む瀨戸の岩壺(いはつぼ)求(もと)め出でてて急ぎし海人の氣色(けしき)なるかな

 

である。「牛窓の瀨戸」は現在の岡山県瀬戸内市牛窓と同地区の沖に浮かぶ前島(まえじま)との海峡部及び海域を指す。(グーグル・マップ・データ)。因みに、次の組歌である一三七七番歌はアワビを詠んでいる。参考までに挙げておく。

 

   沖なる岩に着きて、海人どもの鮑(あはび)採りける所にて

 いはの根にかたおもむきに並(な)み浮きて鮑を潛(かづ)くあまのむぎみ

 

「壬辰十一月十五日」天保三年。グレゴリオ暦一八三二年十二月六日。季節と、所謂、硬質の厚い石灰質の「蓋」(本来の厴(蒂:へた)は当該の「蓋」の裏側に附着して見える褐色を呈した緩やかな螺旋状形状を呈する薄いクチクラ質のものがそれ。我々が「蓋」と呼んでいる分厚い「ヘタ」と勘違いしているそれは二次的にその真正の「ヘタ」に炭酸カルシウムが沈着して肥厚したに過ぎない)の感じからは、生貝を写したものと私は踏む。]

毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)

 

Horagai

 

 梭尾螺(ほらがい)〔「三才圖會」及び「漳州府志(しやうしうふし)」。〕吹螺〔一名〕泥螺

  蘓頌(そしよう)曰く、形、梭(ひ)のごとし。

  今、釋氏、吹く所の者なり。

 

〔「潛確類書」・「樂書」に曰く、〕

  梵貝〔ホラガイ〕

   南蠻國、之れを吹き、樂(がく)を節(ふし)す。

 

〔佛書に曰く、〕

  法螺(ハウラ)〔と云ふ。〕

   本邦、昔より軍用に用(もちゐ)て、

   之れを吹く〔「源平盛衰記」。〕

   佛書「賢愚經」にも、

   軍用に用(もちゐ)る事を記せり。

 

 後土御門院明應八年六月十日、大風雨の夜、遠州

 橋本の陸(くが)より、法螺の貝、多く出て濵名の湖との間の

 陸地、俄に崩れて湖水とつづきて入海となる。今の荒江と

 前坂の間、今切之(の)入海、是なり。故に今は濵名の湖は、なし。

 濱名の橋は、湖より海に流るる川にかけし橋なり。今は、

 川、なければ、橋、なし。遠江(とほたふみ)と名づけしも、此湖ありて都に遠

 ければ、遠江と名づく。遠江とは「とをつあはうみ」也。「淡海(あはうみ)」とは

 「しを海」にあらず、水海也。遠江とは近江に對せる名也云々。

 

梭尾螺〔ホラ貝、又、法ラノ貝。〕一名、屈道研光〔「水族加恩簿」。〕梵響〔同上。〕

梵貝〔「潛確類書」。〕吹螺〔「三才圖會」。〕哱囉〔「武備要畧」。〕蠡〔「文獻通考」。〕

响螺〔淸俗。〕法螺〔佛書。〕

 

[やぶちゃん注:以下、下方右キャプション。]

 

壬辰十一月八日眞寫

 

「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)

    左八番         寂連法師

     山伏の梵貝(ほら)吹峯の夕くれに

     そことも知らぬすすのうわ風

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の画像をトリミングした(左頁に「榮螺」(サザエ)があるが、別物なので、そのキャプションは省略した)。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis厴(蒂:へた)が描かれてはいるが、それは現行の貝類標本に添えられたそれのようで、軟体部は一切見えていない。生体では厴は軟体部に接合しているから、これは明らかな死貝を写したものであることが判る本文でも記されるように、ウィキの「ホラガイ」によれば、『貝殻の殻頂を』四~五センチメートルほど『削り、口金を石膏で固定して加工した吹奏楽器が、日本、東南アジア、オセアニアで見られ、日本では、使用例は平安時代から確認でき』、十二『世紀末成立の『梁塵秘抄』の一首に、「山伏の腰につけたる法螺貝のちやうと落ちていと割れ砕けてものを思ふころかな」と記され、同じく』十二『世紀成立の『今昔物語集』においても、本朝の巻「芋がゆ」の中で、人呼びの丘と呼ばれる小高い塚の上で法螺貝が使用されていた記述がある。戦国時代には合戦における戦陣の合図や戦意高揚のために用いられた』。『現存する中世の法螺貝笛として、「北条白貝(大小』二『つ、日本名貝の一つ)」があり、現在、福岡市美術館所蔵で、由来は』十六『世紀末の小田原征伐の際、降伏した北条氏直が黒田如水の仲介に感謝し、贈ったものの一つとされる』。『修験道においては、立螺作法(りゅうらさほう)と呼ばれる実践が修行される。立螺作法には、当山派・本山派などの修験道各派によって流儀を異にし、吹奏の音色は微妙に違う。大まかには乙音(低音側)、甲音(高音側)、さらには調べ、半音、当り、揺り、止め(極高音)などを様々に組み合わせて、獅子吼に擬して仏の説法とし、悪魔降伏の威力を発揮するとされ、更には山中を駈ける修験者同士の意思疎通を図る法具として用いられる』。こうした古くからの戦場での使用から「陣貝」の異名もある。

「梭尾螺」「梭」は「ひ」(「杼」とも書く)で織機の付属用具の一つ。シャトル。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っており、ホラガイは著しく大きく、螺頂が尖っているのが目立つ類似性と、螺頂を古人が貝殻の「尾」部と認識したことによる命名と思われるが、そもそもが腹足類には螺頂が高く尖っているものは多く、ホラガイのような長巨大なそれよりも、寧ろ、中小型の別種の複数の種の方が梭の尾には似ており、実際に梭に遙かに酷似した、ズバリ、

吸腔目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei

がおり、この漢名は私には全く腑に落ちない

「漳州府志」(しょうしゅうふし:現代仮名遣。以下、概ね同じ)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「蘓頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。この部分は実際には蘓頌の原著(原典は私は不明)からの引用ではなく、李時珍の「本草綱目」の「海螺」(吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis を始めとした尖塔形腹足類のお話にならない広称項目)の「集解」の

   *

頌曰、海螺即流螺、厴曰甲香、生南海。今嶺外、閩中近海州郡及明州皆有之、或只以台州小者爲佳。其螺大如小拳、靑黃色、長四五寸。諸螺之食之。「南州異物志」云、甲香大者如甌、面前一邊直攙長數寸、圍殼衆香燒之益芳、獨燒則臭。今醫家稀用、惟合香者用之。又有小甲香、狀若螺子、取其蒂修合成也。海中螺類絶有大者。珠螺螢潔如珠、鸚鵡螺形如鸚鵡頭、並可作杯。梭尾螺形如梭、今釋子所吹者。皆不入藥。

   *

私が下線の太字とした部分を参考として引いたものに過ぎないと私は思う。

「釋氏」仏家。仏教の修行者の意。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。百二十巻。

「樂書」「陳暘楽書(ちんようがくしょ)」。北宋の陳暘の書いた音楽を中心とした技芸書。全二百巻。一一〇一年に徽宗に献上されたが,出版されたのは先立つ一一九九年であったという。内容は音楽・演劇・舞踏・曲芸・式典などに亙り、四書五経などの文を引き、解釈を加えた「訓義篇」の前半と、図を多く入れて楽理・楽器・楽隊舞隊の配列を示した「楽図論」の後半とから成る(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「賢愚經」原画像の「經」は「徑」であるが、訂した。「賢愚因緣經」とも称し、北魏の慧覚(えかく)等が漢訳した小乗経。全十三巻。仏の本生(ほんしょう)・賢者・愚者に関する譬喩的な小話六十九編を集める。

「後土御門院」後土御門天皇。在位は寛正五(一四六四)年~明応九(一五〇〇)年。

「明應八年六月十日」ユリウス暦一四九九年七月十八日。但し、実際には浜名湖が淡水湖から汽水湖化したのは、前年のようで、しかも原因は大暴風雨ではなく、地震とそれによって発生した津波である。ウィキの「浜名湖」の「歴史」によれば、『縄文中期~後期以降、浜名湖は庄内半島から日ノ岡より北にあり、その南は平野となっていて川として現在の弁天島駅付近で海に注いでいた。その後』、『この大平野が消滅、平安時代には浜名湖の出口は現在の湖西市新居町大倉戸』(おおくらと:この附近か(グーグル・マップ・データ))『に流れていて橋が掛けられた。この川を浜名川と呼び、ここを東海道が通っていた』。『一般的に古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。ただし、国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった』。しかし、室町後期(戦国初期)の明応七(一四九八)年に起きた明応地震(南海トラフ沿いの巨大地震(南海トラフ巨大地震)と推定される、明応七年八月二五日辰刻(ユリウス暦一四九八年九月十一日の午前八時頃)に東海道沖で発生した地震。推定換算でマグニチュード八・六とされる)と『それに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残る』。『この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。この今切の渡し(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、現在では鉄橋や道路なども通り』、『安全に往来できるようになっている』とある(下線やぶちゃん)。明応地震により消滅した浜名湖の陸地部分とその後の街道や宿の変化はウィキの「新居宿」が詳しい(図有り)。

「大風雨の夜、遠州橋本の陸より、法螺の貝、多く出て」「橋本」は明応地震で壊滅した古い東海道の宿場で、後の新居宿の西方にあったものと思われる。種々の情報から恐らくこの附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ。「橋本西」という交差点名を確認出来る)。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っている。私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」などを参照されたい。

「荒江」現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居か。浜名湖の開口部の東側。ここ(グーグル・マップ・データ)。次の「前坂」はその西側の浜松市西区舞阪町(まいさかちょう)舞阪であろう。

「今切之(の)入海」「いまぎれのいりうみ」。前注の下線部(「今切」の箇所)参照。

「故に今は濵名の湖は、なし」純淡水湖であった元の浜名湖の謂い。

「濱名の橋は、湖より海に流るる川に、かけし橋なり。今は川、なければ、橋、なし」前注の下線部(大倉戸の箇所)参照。

遠江と名づけしも、此湖ありて都に遠

「屈道研光」ホラガイの螺孔と螺の内側の光沢層による呼称か。

「水族加恩簿」呉越の毛勝の撰になる主に海産生物に関わる短文。こちらで読め、「梵響」が載る。

「哱囉」「ボラ」と読むか。朝鮮では「バラ」と読み、インド渡来の銅鑼、シンバルのこと。法螺貝の大きな響きに由来するか。

「武備要畧」北宋時代の儒学者程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)によって書かれた武術書。

「蠡」音は「レイ・ラ・リ」で、原義は瓢(ひさご)。ヒョウタンを割って作った器で、その形状の相似性から巻貝のニナ類やホラガイを指した。

「文獻通考」元の一三一七年に馬端臨(一二五四年~一三二四年)が完成させた上古から南宋の一二〇七年に至る歴代の制度の沿革を記した政治書。全三百四十八巻に考証三巻を付す。

「响螺」「キョウラ」。「响」は「響く」の意。

「壬辰十一月八日」本「梅園介譜」は文政一〇(一八二七)年~嘉永二(一八四九)年の作成になるから、「壬辰」(みづのえたつ)は天保三年でグレゴリオ暦一八三二年である。

「六々貝合和哥」潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので見られる。貝の図はの右頁(但し、こちらが歌合せの「左」)の「八 ほらの貝」。「和泉屋 楓」氏のサイト「絵双紙屋」の「教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻」(西川祐信画・京都菱屋治兵衞版・江戸鱗形屋孫兵衞・延享五(一七四八)年刊)の『(5)』にも、

   *

 

  ほらの貝

 

 山伏(やまぶし)の

  ほらふく

   みねの

 夕ぐれに

そこともしらぬ

  すゞの

   うわ風

 

古木(こぼく)・いわほの

うたにかゝり、雲

おそろしき深山(しんざん)に

法螺(ほら)ふく行者(ぎやうじや)の

そこともしらぬ

難行苦行を

おもひつゞけたる

うたなり。何の

身(み)もらくなることば

なしとおもひ

くらべて、つとめ

におこたる

べからす

 

   *

と出る。

「寂連法師」寂蓮法師。

「山伏の梵貝(ほら)吹峯の夕くれに/そことも知らぬすすのうわ風」前の教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻のサイト主の注によれば、「正治初度百首」に載る寂蓮の、

 

 やまふしのほらふくみねのゆふきりにそこともしらぬすののうはかせ

 

或いは、「正治初度百首異同歌 夫木和歌抄」の同じ寂蓮の、

 

 やまふしのほらふくみねのゆふきりにそこともしらぬすすのうはかせ

 

らしい。「すす」は「篠(すず)」で丈の低い竹の一種であるの篠竹のことであろうが、同時にこれは、法螺を吹く修験者が服の上に着る麻の衣、深山の「篠」の露に濡れるのを防ぐための「篠懸(すずか)け(衣)」の「すず」を掛けており、或いは、しかも、法螺の音の大音響にも、どこ吹く風と「涼(すず)しい」音を立てて、その「上」抜けて行く「風」の音(ね)よ、という謂いも掛けているように私には思われる。

2015/06/15

毛利梅園「梅園介譜」 片津貝(ツメタガイ)

 
 Baienkaihu_tumetagai
 
片津貝〔カタツガイ。ツヘタ貝。又、ツメタ貝。〕

 〔「福志」。〕

 研螺〔ツメタ貝。〕

   「室町殿日記」に、『細川幽齊、豐臣太閤の

   前に侍しに、或る大名より、牡蠣(カキ)・生鼠腸(このわた)・

   ツメタ貝、三種を献す。太閤此三肴にて一首せよと

   ありしに、幽齋、即ち

     かきくらし降る白雪のつめたさを

      このわためしてあたゝめそする

   太閤及滿座感せられしとぞ。

 

[やぶちゃん注:腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma 或いは既に述べた同属近縁種(詳しくは大和本草卷之十四 水蟲 介類 光螺(ツメタガイ)の渡しの注を参照されたい)の二個体の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の保護期間満了画像)。

「片津貝」「ツヘタ貝」この一連の記載を見ていると、もしかすると「つへたかひ」が古形で、「津厴(或いは蒂)貝」、「つへたがひ」で、潟や津、「海浜」にいる、厴(蒂)「へた」、蓋が(蟬の羽根のような)変わった形をした貝の意かも知れないと心が少し揺らいだ。

「福志」「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。以下のエピソードは先の『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』にも挙がっている。『博物学古記録翻刻訳注 11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に出、そこで詳細な注を施してあるので、それを参照されたい。石寿版では初句が「かきくれて」とする。]

2015/05/24

毛利梅園「梅園介譜」 海鼠(前掲分とは別図三種)

 
 Baien_namako21



黒海鼠

 〔クロナマコ〕

 

黄海鼠〔キナマコ〕

 

 乙未(きのとひつじ)八月晦日(みそか) 行德魚商

 善が父、之れ持ち來たる。之を求め、眞寫す。
 
 

Baien_namako22
 
 

海鼠〔一種 アカナマコ〕

 

 午十二月廿八日納め、眞寫

 筆。

 

[やぶちゃん注:「梅園介譜」の「海鼠」は一品を既に掲げてあるが、これは同冊に別に二丁連続で出る図である。鮮度の高い活ナマコ三個体(現行の通称でクロナマコ(上図上方個体一つ)・アオナマコ(本図では「キナマコ」と呼称している上図下方個体一つ)・アカナマコ(下図/下方の個体の刎部の触手の色の全体の形から同一個体の腹部と背部を二様に描いたものと思われる。上部が管足のある腹側で下図が背側である)の身震いするほどの実感覚で迫った実体図である。ここでは最新の知見に基づき、この「クロナマコ」「アオナマコ」の前二種を棘皮動物門 Echinodermata ナマコ綱 Holothuroidea 楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidae マナマコ属Apostichopus マナマコ Apostichopus japonicus とし、後者の「アカナマコ」をマナマコ属Apostichopus Apostichopus japonicas と同定することにする。実は従来、流通では厳然と区別して販売されているこれらは、分類学上は全くの同種マナマコStichopus japonica の色彩変異体に過ぎないとされ、青色や緑色及び黒色を呈するものは一般には静かな内海の砂泥地に、赤色のものは外洋の砂礫帯や岩礁帯に多いなどと記載されてきたのであるが、実は近年、マナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867)とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867)とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867)の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003)により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっているからである(但し、この記載にも運用上の問題がある。詳しくは「本朝食鑑」の「海鼠」の私の注及びリンク先を参照されたい。リンク先の記載は現在の私の海鼠についての注では最新のものである。なお、掲げたのは二枚とも国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の保護期間満了画像である)。……正直、この図には恍惚としてくるのだ。離れて見てリアル! 最大に拡大してもその質感や! リアル! 特にアカナマコの管足の立体感を見よ! 紙のその奥で(!)あたかもそれらが蠢くのが見えるようではないか!!!

「乙未八月晦日」天保六(一八三五)年。同年の八月は大で八月三十日はグレゴリオ暦で十月二十一日である(この年は閏七月があった)。現在のナマコの流通では最も扱い量が少ないのが十月であるが、実際には海鼠に旬はなく(冬場は身が締まるし、産卵を控える冬から初春に肥えるとは言える)、寿命も五年から十年と恐らくは想像されるよりもずっと長生きであるし、年中棲息していて、年中食える。ただ、夏場は転石下や砂泥中に潜り込んでおり、漁師もことさらに無理して捕ろうとはしないだけである。

「行德」現在の千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名(江戸時代は船橋の一部まで含んだ)。ウィキの「行徳」によれば、『かつて行徳塩田と呼ばれる広大な塩田が広がっていたことで知られ』たが、『漁業も行徳の伝統産業である。江戸時代にはバカガイがたくさん獲れたことから、「馬鹿で人擦れがしている」という意味で「行徳の俎」という言葉が生まれ、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも登場する』。『高度経済成長期には水質の汚濁や埋め立てによって漁獲量が激減したが、現在でも三番瀬において主に海苔の養殖とアサリ漁が行なわれている。ただし三番瀬埋め立て計画や第二東京湾岸道路建設計画があり、今なお行徳の漁業は存続の危機に立たされているといってもよい』とある。

「行德魚商善が父」梅園の他の図譜のクレジットにもこの行徳の魚屋が登場する。そこでは「善」とあるから、これは「魚善」(「うをよし」か「うをぜん」)というこの魚屋の屋号のように思われる。恐らくは親子で営んでおり、珍らしい海産動物などが揚がった時には、真っ先に好事の博物学者の許へ運んだのではなかったか? 珍奇なものであればあるほど、相応の対価を梅園は支払ったに違いないから、とびっきりのご贔屓筋だったはずである。これもその「魚善」の親父の方が、新鮮なクロ・アオの大物のナマコを生け捕ったことから、息子は行商に出て留守なればこそ、「こいつぁあ! イキのいいうちに梅園先生のとこへ持って行かにゃ!」と、飯台に海水を注いで、大事大事にナマコを入れると、すたこら自ら持って来た――なんて情景を想像すると、何だか私はすっかり楽しくなってしまうのである。

「午十二月廿八日納め」これは前年の天保五年甲午(きのえうま)の年も押し詰まった十二月二十八日(グレゴリオ暦では一八三六年一月二十五日)。この月はで大晦日は二日後の三十日。「納め」は筆納めで、これをその年の博物画の描き納めとしたということであろう。キャプションにはないが、私は、もしかするとやっぱり、かの「魚善」が正月用のお祝いにと、とびっきり活きのいいアカナマコを歳暮として持って来たものかも知れない――何てまた考えちゃうんである。]

2015/05/09

毛利梅園「梅園介譜」 ダンベイキサゴ

たんべい〔たんべいきさご 四種〕  朝㒵貝(あさがほがひ)

 
 
Baien_dannbeikisago
 

   天保八丁酉(ひのととり)年孟春

   四月 筆始め 眞寫

 

[やぶちゃん注:腹足綱 Gastropoda 古腹足目 Vetigastropoda ニシキウズガイ上科 Trochoidea ニシキウズガイ科 Trochidae キサゴ亜科 Umboniinae の数種四個体(全五個体が描かれているものの、最下部の二図は同一個体の表(殻頂側)と裏(臍孔側)である)。最上部の一個体と最下部の二種は縫合下の放射短彩から標題通りのサラサキサゴ属 Umbonium ダンベイキサゴ(団平喜佐古) Umbonium giganteum のように思われるが、間にあるやや橙色を帯びた個体と黒い個体は、同じサラサキサゴ属 Umbonium のキサゴ Umbonium costatum 或いはイボキサゴ Umbonium moniliferum である可能性が高いかも知れない。ダンベイキサゴと合後の二種は微細に見た際、ダンベイキサゴには渦巻き状の細かな螺溝(巨視的な太い螺肋ではない)が全く見られないのに対し、後者二種ではくっきりと細かに入っていることで容易に識別出来るのであるが、本図ではそこまでは識別出来ない。吉良図鑑(昭和三四(一九五九)年保育社刊吉良哲明「原色日本貝類図鑑」改訂版)では、このキサゴとイボキサゴの二種は殻の形状上は未だ明瞭な区別がなされていないとあり、以下の吉良先生による観察記録が示されてある。

   《引用開始》(コンマを読点に代えた)

a.キサゴは長径35mm.以上に大成するが、イボキサゴは20mm.以下を普通とする。

b.キサゴはその棲息深度はやや深く外洋性である。イボキサゴは棲息深度が甚だ浅く内湾性である。

c.キサゴは図に示せる如く臍域は狭く、イボキサゴは広く約2倍に拡がる。

d.キサゴはその色斑紋が殆ど一定して単に濃淡差あるのみであるが、イボキサゴは斑紋に多くの変化あり且つ地色も赤褐色から藍黒色まで雑多である。

   《引用終了》

最後の「d」から考えると、この間の二個体はイボキサゴ Umbonium moniliferum である可能性が高いとも言えるように思われる。以下、ウィキの「ダンベイキサゴ」から引く(下線部やぶちゃん)。『本州・四国・九州の沿岸砂底に生息し、食用に漁獲もされている。漁獲地近辺ではナガラミ、キシャゴなど多くの地方名がある』。成貝は殻幅四〇ミリメートルほどで『キサゴより大きく、日本産キサゴ類では最大種である。貝殻は中央部が低く盛り上がった饅頭形をしている。外側に細い螺溝があるが、上面は溝などがなくツルツルしていて光沢がある』。『殻の色は青灰色で、縫合(巻きの繋ぎ目)に沿って藍色斑が並ぶパターンが多く、キサゴやイボキサゴに比べると個体変異が少ない。殻底には他のキサゴ類と同様に滑層が広がるが、キサゴやイボキサゴは赤い部分が多いのに対し、本種では灰色や白の部分が多い』。『男鹿半島・鹿島灘から九州南部までの沿岸に分布する。外洋に面した砂浜に生息するが、キサゴやイボキサゴが波打ち際からいるのに対し、本種はやや沖合いの』水深五~三〇メートルほどの『砂底に多い。半ば砂に埋まりながらブルドーザーのように砂底を這い、デトリタスや藻類などを濾過摂食する。休息する時は殻が隠れる程度に砂に潜る。人間以外の敵はガザミなどのカニ類がいる』。『分布域では九十九里浜・相模湾・駿河湾・浜名湖など各地で食用に漁獲され、市場にも流通する。漁獲期は初夏で、軽く茹でてショウガ醤油に浸すなどの料理がある。酒肴や副菜などに用いられる』。なお、「キサゴ」(キシャゴとも呼ぶ)という名は、谷川健一「列島縦断地名逍遥」(冨山房インターナショナル二〇一〇年刊)に『愛媛県には宇和島市戸島や南宇和島郡西海町鹿島の海岸に美砂子(びしゃご)という地名がみられる。キサゴをサゴ、シャゴともいうから、美砂子は、漢字表記した砂子(しゃご)の美称というふうに解釈することができるかもしれない』という説を私は支持する。また、「ダンベイキサゴ」の「だんべい」というのは和船の一種である団平船(だんべいぶね:幅が広く、底を平たく頑丈に作った船で石・材木・石炭・土砂などの重量物の近距離輸送に用いた。)のことで、本種の底(裏・臍孔側)が巻貝としては有意に平たく、しかもキサゴ類の中での特異的に大きくがっちりしていることに由来するものであろう。なお、クレジットは前の「ホヤ」と共有である(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の保護期間満了画像)。

「たんべい」底本ではご覧の通り、「タンベイ」とあって「タ」に濁点はない。

「朝㒵貝」この別名の「アサガオガイ」は、現在は青紫色の美しい、カツオノエボシを捕食する異例の浮遊性貝である腹足綱前鰓亜綱翼舌目アサガオガイ超科アサガオガイ科アサガオガイ属アサガオガイ Janthina janthina に与えられてあるので注意されたい。

「天保八丁酉」西暦一八三七年。

「孟春」「孟」は初めの意で春の初め、初春。]

2015/05/08

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠

漢語抄

  老海鼠〔ほや ほやほや 仙臺〕
 
 

Baien_hoya

 
 
 ほや 其身甲蟲(かうちう)に似て甲蟲にあらず、

 蛤の類にもあらず、只だ水牛皮(すいぎうひ)の生(なま)なるが如

 く堅硬(かた)くして※1※2(いぼいぼ)ありて萬年青(おもと)

 の實の如く、目・口なく、肉の形・色、あかゞひに

 似たり。奥州仙臺にほやほや笑ふと云ふに

 因りて佳節(せつく)・吉事の時、必ず用ふ。相州の海

 稀に出づ。

[やぶちゃん注:「※1」=「疒」+「咅」。「※2」=「疒」+「畾」。底本の画像の表記が「※2」の字体を意味することは、本文の「蟲」の表示で納得戴けるものと考える。踊り字「〱」は正字化してある。]

 

   天保八丁酉(ひのととり)年孟春

   四月 筆始め 眞寫

 

[やぶちゃん注:ゴカイと思しいものを仮根に纏わらせるという如何にも私好みの脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata ホヤ綱 Ascidiacea マボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiata マボヤ(ピウラ)科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi (von Drasche) 美事な一個体(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の保護期間満了画像)

 「漢語抄」「和名類聚抄」にしばしば引用される、奈良時代の養老年間(七二〇年頃)に成立したと考えられている漢字辞書「楊氏漢語抄」。漢語を和訳し、和名を附した国書であるが、現在は散逸。

「甲蟲」この「甲」現行の甲殻類の「甲」とほぼ等しい用法で、蟹や海老類のような、現行で言うところの外骨格を持った生物を指す(但し亀類を含む)。これに似ているというのは本文でも述べるように、「生」の「水牛皮」にそっくりなホヤのやや堅い皮革状の被嚢の性質に基づく。

「蛤」この場合は、内部の筋体部分を斧足(二枚貝)類の内臓に似ていることを指していると考えられる。思えば、斧足類の入水管と出水管も、マボヤの特徴的な入水口と出水口の突起部分と相似する。実際にホヤの未だに貝類と思い込んでいる人は存外に多い(というか、脊索動物や尾索動物という語を出してもピンと来る方は普通、いない。

「萬年青の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica の実は秋に鈴なりに紅色の実をつけ、確かに似ていないとは言えない。梅園はキャプションに於いても、一般の人々が目にする機会の少ないこの奇体な形の生物であるホヤの様態を、なるべく分かり易く伝えんとして、理解し易い比喩を重ねていることに注意されたい。彼は無味乾燥な瘦せたアカデミストではなかった。ホヤのあのみずみずしい体液が香ってくるような、生き生きとした博物学者であったのである。

「あかゞひ」斧足綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii 。これも似ていなくもない。香りも古い記載ではホヤの独特のあの匂いを透頂香(ういろう)臭と称するのを見かけるが、アカガイも同様な微かな金属的臭気を持っているように私には感じられる。

「奥州仙臺にほやほや笑ふと云ふ」とあるが、これは仙台限定の方言ではない(但し、使ったことはない)。小学館「日本国語大辞典」に「ほやほや」は副詞として載り、顔をほころばせるさま。いかにも嬉しそうに笑うさまを表わす語とある。何故、仙台なのだろうと不審に思っていたところ、同引用例を見て何となく納得してしまった。そこには浄瑠璃から『俄に作るほやほや笑顔』とあったのだが――その外題――「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」なんだもの。……

「相州」相模国。

「天保八丁酉」西暦一八三七年。

「孟春」「孟」は初めの意で春の初め、初春。]

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