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カテゴリー「毛利梅園「梅園介譜」」の21件の記事

2020/03/26

毛利梅園「梅園介譜」 蝤蛑(ガザミ)

 

Gazami



陳懋學事言要玄

  蝤 蛑【カサミ】一名黃甲

 蟹最巨ナル者、殻黄ニ乄而無ㇾ班、螯(ハサミ)圓而無ㇾ毛

 殻有両尖

 洪容齊四筆、引呂亢臨海蟹圖曰、蝤蛑

 両螯大而、有細毛如ㇾ苔八足亦皆有ㇾ毛

 福州府志曰、蝤蛑、其螯最健、大ナル者能殺ㇾ人

  蝤 蛑(ユウホウ) 【カサメ ウミガニ

       カサミ

       カミナリガニ 兵庫】

園曰

 嶺表錄異曰蝦魁、漳州府志曰龍蝦、順

 名抄、及文選呉都賦曰、擁劔、等皆カサミトス、

 擁劍、俗ニ片爪ガニ、一螯ハ大キク一螯ハ小シデンボウ

 ガニト云、龍蝦ハ閩書ニ出ス伊セヱビ也、蝤蛑、ハ虎(大カニ)[やぶちゃん注:左ルビ。]

 蟳(シン)、ノ屬也蟹種類甚多ク乄大和本草ニ蝤

 蛑、其形狀甚大也、手ノ長サ一二尺、有ㇾ節、螯ノ長サ

 四寸、北國ニアリ、嶋カニト云、松岡氏ノ蟹譜ニ

 曰、嶋蟹、則虎蟳也、蝤蛑ハ、カサミ也、虎蟳、

 則シマカニ、蝤蛑ニ非ラズ猶後人ノ説ヲ、待ノミ

 

              癸巳七月廿日

              眞寫

 

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:読み易さを考え、一部の字空けや余計な読点を無視或いは別記号とし、記号や濁点・改行を加え、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で施した。ポイントは総て同じにした。]

陳懋學(ちんぼうがく)「事言要玄」に曰く、『蝤蛑(ユウホウ)【ガサミ。】一名「黃甲」。蟹の最も巨(おほ)きなる者、殻黄にして、班(まだら)無く、螯(はさみ)、圓(まどか)にして、毛、無く、殻、両の尖(とが)り有り』と。

「洪容齊四筆」、呂亢(りよこう)が「臨海蟹圖」を引きて曰く、『蝤蛑、両の螯、大にして、細き毛、有り、苔(こけ)のごとし。八足も亦、皆、毛、有り』と。

「福州府志」に曰く、『蝤蛑、其の螯、最も健(たけ)くして、大なる者、能く人を殺す』と。

  蝤蛑(ユウホウ)

      【ガザメ ウミガニ
       ガザミ
       カミナリガニ 兵庫】

園、曰く、

「嶺表錄異」に曰く、『蝦魁(カクワイ)』、「漳州府志」に曰く、『龍蝦』、順が「和名抄」、及び「文選」の「呉都賦」に曰く、『擁劔(ヨウケン)』、等、皆、『ガサミ』とす。

『擁劍』は、俗に『片爪(カタツメ)ガニ』、一(いつ)の螯は大きく、一つの螯は小(ちい)さし。『デンボウガニ』と云ふ。『龍蝦(りゆうか)』は「閩書(びんしよ)」に出(いだ)す。『伊セヱビ』なり。『蝤蛑』は『虎蟳(コジン)』の屬なり[やぶちゃん注:「虎」の左に「大(おほ)かに」の意訳ルビを附す。]。

蟹、種類、甚だ多くして、「大和本草」に『蝤蛑、其の形狀、甚だ大なり。手の長さ一、二尺、節、有り、螯の長さ四寸。北國にあり、「嶋ガニ」と云ふ』と。松岡氏の「蟹譜」に曰く、『嶋蟹、則ち、「虎蟳」なり』と。

『蝤蛑』は『ガサミ』なり。『虎蟳』、則ち、『シマガニ』にして、『蝤蛑』に非らず。猶ほ、後人の説を待つのみ。

 

        癸巳(みづのとみ)七月廿日、

        眞寫す。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像をそのまま示した。本叙述は梅園自身がやや戸惑って叙述しているように(異様に本文に読点染みたものが矢鱈に打たれているのは、特異点で、そこに梅園の困惑が逆に見える)、明らかに多数の別種のカニ類が混在して叙述されてしまっていると私には読める。但し、図された個体そのものは鋏脚長節(Merus。体部から出る鋏脚の根元(体部と繋がっている座節と自切線のある基座節の上部)から鋏脚の真中の関節までの左右鋏脚の近位部分)に四基の棘があること(同属タイワンガザミ Portunus pelagicus は三基しかない。後の引用を参照)、甲羅の左右が充分に尖っていることと、甲羅の紋様から、明確に、

甲殻上綱軟甲(エビ)綱真軟綱(エビ)亜綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目ワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus

に比定してよい。ガサミの鋏は強靱で強く、挟まれるとなかなか外れず、大型個体では大きな怪我をする(「能く人を殺す」は中文らしく大袈裟であるが、中学時代、友人と釣りに行き、私が釣り上げた二十センチほどのガザミを外そうとして友が親指をガッシと挟まれた。なかなか離さず、どうなることかと思って頭が真白になった。その時の映像を今でもよく覚えている)。そのため、カニながら、挟まれると思いがけない深手を負うことから特に「カニハサミ」と呼び、それが縮約されて「ガザミ」となったとされる。ウィキの「ガザミ」によれば、『甲幅は15cmを超える大型のカニで、オスがメスより大きい』性的二形で、『甲羅の背面は黄褐色だが、甲羅の後半部分や鋏脚、脚などは青みがかっており、白い水玉模様がある。これらは敵や獲物の目をあざむく保護色となっている。腹側はほとんど白色で、毛や模様はない』。『甲羅は横長の六角形を』成し、『前縁にギザギザのとげが並び、左右に大きなとげが突き出している。鋏脚は頑丈で、たくさんのとげがあり、はさむ力も強いので、生体の扱いには注意を要する。第2脚から第4脚までは普通のカニと同じ脚をしているが、第5脚は脚の先が平たく変形した「遊泳脚」となっており、これを使って海中をすばやく泳ぐことができる』。『なお、ガザミの鋏脚長節(ハサミのつけ根から真ん中の関節までの部分)にはとげが4本あるので、よく似たタイワンガザミ(3本)と見分けられる。同じワタリガニ科』(ワタリガニ科 Portunidae)『のイシガニ類』(イシガニ属 Charybdis 或いはイシガニ Charybdis japonica)『やベニツケガニ類』(ベニツケガニ属Thalamita或いはベニツケガニ Thalamita pelsarti『は、甲羅の左右に大きなとげが突き出しておらず、ガザミよりも小型で丸っこい体格をしている』。『北海道から台湾まで分布し、波が穏やかな内湾の、水深30mほどまでの砂泥底に生息する。宮城県では2011年まで漁獲量は10トン以下で養殖にも失敗していたが、東日本大震災の影響で仙台湾南部に広く泥が堆積したたことで』、『2012年から生息数が急増し、2015年には500トンを記録し』、『全国1位となった』。『大きな敵が来ると泳ぎ去るが、普段は砂にもぐって目だけを砂の上に出してじっとしていることが多い。海藻なども食べるが、食性は肉食性が強く、小魚、ゴカイ、貝類など、いろいろな小動物を捕食する』。一方、『敵は沿岸性のサメやエイ、タコなどである』。『大型で美味なカニなので、古来より食用として多く漁獲されてきた。現在では有名な産地が各地にあり、これらの地域では種苗放流も盛んである。ただしガザミはカレイやヒラメ、タイなどの稚魚をよく捕食するので、これらの種苗放流も並行して行われる地域では、お互いに子どもを食い合って競合することとなる』。『ガザミの産卵期は春から夏だが、交尾期は夏から秋にかけてである。交尾期になるとオスメスとも脱皮後に交尾を行い、メスは体内に精子を蓄えたまま深場に移って冬眠する。冬眠から覚めたメスは晩春に産卵し、1mmたらずの小さな卵を腹脚にたくさん抱え、孵化するまで保護する。孵化までには2』~『3週間ほどかかる』。『ガザミ類は年2回産卵することが知られ、晩春に生まれた卵は通称「一番子」と呼ばれる。一番子が発生して幼生を放出した後、メスは夏にもう一度「二番子」を産卵するが、これは一番子より産卵数が少ない』。『孵化したゾエア幼生は1か月ほど海中をただようプランクトン生活を送るが、この間に魚などに捕食されるので、生き残るのはごくわずかである。ゾエア幼生は数回の脱皮でメガロパ幼生を経て、稚ガニとなる。稚ガニは海岸のごく浅い所にもやって来るので、甲幅が3cmほどの個体なら砂浜や干潟の水たまりで姿を見ることができる』。『一番子は急速に成長し、秋までに成体となって繁殖に加わるが、二番子がそうなるのは翌年である。寿命は2』~『3年ほどとみられる』。『かつては海産カニといえばガザミのことを指していたほど、一般に知られた食用ガニだった』。『タラバガニなどの種類に比べればやや安価に出回るが、味は美味であり、殻も比較的薄くて食べやすい』但し、『国内産の活きガニは、産地を問わず高値で取引され、特に30cmほどの体を持つ大型のものは高級品である』。『漁期は晩春から初冬までだが、温暖な西日本では真冬でも漁獲される』。『旬は秋から冬。蟹肉や中腸腺(カニミソ)はもちろん、メスの卵巣(内子)も食用にする。特に、秋から冬にかけての卵巣を持ったメスは格段に美味とされる』。『料理法も多彩で、塩ゆで、蒸しガニ、味噌汁などで食べられる。ただし生きた個体を熱湯に入れると、苦しさのあまり自切して脚がバラバラにもげてしまう。そのため』、普通は『内側腹部にある急所を刺したのちに茹でる、または水のうちから入れるか、輪ゴムや紐などで脚を固定してから料理する。現在は水揚げ直後から、すでに輪ゴムを取り付けている所もある』。『他にも、韓国料理のチゲやケジャン、またパスタ料理の具材といった使い方も知られる』。『主な産地は内湾を抱える地域、たとえば有明海・瀬戸内海・大阪湾・伊勢湾・三河湾などがある(かつては東京湾でもガザミは多く)』獲れ、また、『広く食されていた)』。『こうした沿岸地域ではガザミを観光用食材として売り出している事も多』く、『例えば、有明海西部に属する佐賀県太良町周辺では「竹崎がに」として、九州北東部の豊前海を有する北九州市、行橋市、豊前市等では「豊前本ガニ」』『としてブランド化を図っている。大阪府岸和田市では、だんじり祭の際にガザミ(当地では通常ワタリガニと呼ばれ、ガザミと呼ばれることはまずない)を食べる風習が残る』。『近年、乱獲により』、『日本での漁獲高が減ったことから国産品は高級食材となりつつある。そのため、中国や韓国・東南アジア等からも輸入されている』とある。

『陳懋學「事言要玄」』明の陳懋學(ちんぼうがく:一六一二年に挙人となる)撰の類書(百科事典)。諸書から抜粋し、内容を天集三巻・地八巻・人集十四巻・事集四巻・物集三巻の五部に類纂したもの。万暦四六(一六四八)年序の刊本を山形県「市立米沢図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」のこちらで視認出来る。本引用は最後の「鱗介」にある。ここの下の右のウィンドウから「33冊目」を選び、ページ・ナンバーのウィンドウに「33」を入れると当該ページに行ける。右から4行目下方である。

「蝤蛑(ユウホウ)」この原本の読みは誤りで、「シウバウ」(現代仮名遣「シュウボウ」)でなくてはならない。「蝤」を「ユウ」(歴史的仮名遣は「イウ」が正しい)と読む場合はあるものの、それは「蜉蝤(フイウ(フユウ))」で、これは「昆虫の蜉蝣(カゲロウ)類」を指す語だからである。「蝤」は「蝤蠐(シュウセイ)」で「キクイムシ」・「カミキリムシ「蛑」はガザミの使用以外の単漢字では「根切り虫」や「カマキリ」を指す。なお、現在、日中ともにガザミにこの漢字を当てるが、中国では「梭子蟹」の方が一般的である。「梭子」は梭(ひ)で機織りのシャトルの形(菱形)に似ているからである。

「螯(はさみ)、圓(まどか)にして」先端部が尖らずに丸みを帯びていることを指すか。

「洪容齊四筆」不詳。但し、「中國哲學書電子化計劃」清の陳逢衡撰「竹書紀年集證」の「九」にこの書名が見える。

「呂亢臨海蟹圖」「臨海蟹圖」「呂亢」は北宋の進士で、著書に「蟹譜」一巻がある。

『蝤蛑、両の螯、大にして、細き毛、有り、苔(こけ)のごとし。八足も亦、皆、毛、有り』「苔」は「苦」の字に近いが、かく当てた(後祐で私の判断が正しいことが判る)。但し、私はこれはガザミだとは思えない。鋏脚には毛はないからで(後の四脚には下部に櫛状の毛が並びはする)、思うに、少なくとも、ここの叙述によく一致するのは短尾下目イワガニ科モクズガニ属シャンハイモクズガニ Eriocheir sinensis であろう(シャンハイガニは中国の長江及び遼寧省・広東省の湖沼・河川・沿岸域と、朝鮮半島の湖沼・河川・汽水域に棲息する)。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「蝤蛑、其の螯、最も健(たけ)くして、大なる者、能く人を殺す」この叙述ではこれをガザミに限定比定することは出来ない。

「カミナリガニ」種子島出身の方の記事に甲女川(こうめがわ)を『下ってすぐの浜ではガザミやカミナリガニ(これも名前は?)が良く採れ』たとあったので、この方はガザミと違う別種を「カミナリガニ」と呼んでおられることが判る。しかし、写真もなく、また他に現在、「カミナリガニ」の名を他の地域に認めないため、正体は不明である。

「嶺表錄異」「嶺表錄」とも。唐の劉恂(りゅうじゅん)撰になる中国南方の風土産物を図入りで説いた風土・物産誌。

「蝦魁(カクワイ)」文字はエビの大きな物の意。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「龍蝦」十脚目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Palinuridae のイセエビ類。

『順が「和名抄」』源順(したごう)の「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に、

擁劔 本草云擁劔【和名加散女】似蟹色黃其一螯偏長三寸者也。

(擁劔(カサメ) 「本草」に云く、『擁劔は【和名「加散女」。】蟹に似て、色、黃。其の一は、螯、偏に長きこと三寸ばかりなる者なり。)

   *

とあり、これはまずは正しく現在のガザミのようであり、平安期に既にこの和名が一般に広く知られていたことが判る。但し、「其の一は、螯、偏に長きこと三寸ばかりなる者なり」の「偏(いとへ)に」が「扁(ひらた)い」の意ではなく、「偏頗」の意で「一方が通常なのに、対の一方だけがやたらに」長く、の意で読むと、後に私が掲げる別種の可能性を孕んだ表現とも読めてしまう。

「文選」梁を建国した武帝の長子昭明太子が編纂した全三十巻の詩文集。歴代の名文・詩歌八百余りを集めた。中国では文人の必読書で、日本でも飛鳥・奈良時代以降、盛んに読まれた。

「呉都賦」晋の左思が魏・呉・蜀の三国の首都を題材にした十年の歳月をかけて作った作品「蜀都賦」「呉都賦」「魏都賦」の一つ。人気を博し、人々が争って伝写したために洛陽の紙価を高からしめたことで知られる名文である。当該部は、

   *

於是乎長鯨吞航、修鯢吐浪。躍龍騰蛇,鮫鯔琵琶。王鮪偉鯸鮐、鮣印龜鱕䱜。烏賊擁劍、𪓟古侯鼊辟鯖鰐。涵泳乎其中。

   *

で、知られた初唐の李善注本に(「中國哲學書電子化計劃」)、

   *

擁劍、蟹屬也。從廣二尺許、有爪、其螯偏大、大者如人大指、長二寸餘。色不與體同、特正黃而生光明、常忌護之如珍寶矣。利如劍、故曰擁劍。其一螯尤細、主取食、出南海、交趾。

   *

とあって、前に「和名類聚抄」で出したと同じく「偏大」への疑義を除けば、サイズ(唐代の一尺は三十一・一センチメートル)も形状もガザミらしくはある。但し、「其一螯尤細、主取食」というのは、私が次注で示す別種である可能性が頗る高い。李善は広義にともかく鋏脚の目立つカニ類を「擁劍」にひっくるめており、「和名類聚抄」もそれを踏襲しているのではなかろうか?

「一(いつ)の螯は大きく、一つの螯は小(ちい)さし」これは明らかにその形状から、ガザミではなく、熱帯・亜熱帯・温帯地域の河口付近の海岸に巣穴を掘って棲息する短尾下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca のシオマネキ類である。同属は成体のの片方の鋏脚が甲羅と同程度或いはそれ以上に大きくなるのを特徴とする(は両方とも小さい極端な性的二形で雌雄判別は簡単である)。前の「其一螯尤細、主取食」というのは、本邦の有明海で盛んに作られた私の好きな「ガンヅケ」と同じである。本来の「がん漬け」は、主にシオマネキのの大きな鋏脚を塩漬けにしたものであった。現在、有明海産シマネキ(有明海沿岸地方では「タウッチョガネ」(「田打ち蟹」の訛りであろう)「ガネツケガニ」「マガニ」と呼ばれる)は絶滅危惧II類(VU)となっしまい、本邦で売られている「ガンヅケ」のそれは中国産の複数種のカニを丸ごと搗き潰して塩蔵したそれである。さらに以下に出る「デンボウガニ」はシオマネキののことである。これは広い地域で嘗て使われた差別用語「手棒」「てぼう」「てんぼう」で、「指や手首のない人」を指した。いや、我々の世代以上なら、野口英世(本名は清作)一歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い掌が開けなかったのを、皆から「てんぼう」と揶揄された話は誰でも知っていることである。一方のみ巨大化したシオマネキのを片手と換喩した差別異名である。

「『龍蝦』は「閩書」に出す。『伊セヱビ』なり」十脚目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Palinuridae は現在でも中国語で「龍蝦科」とする。「閩書」は明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。但し、イセエビ科イセエビ属イセエビ Panulirus japonicus は本邦固有種で、中国産イセエビ類とは同属或いは近縁属ではあるが、同一種ではない。因みに、インド洋・太平洋沿岸域で稀に捕獲される「龍馬海老」(イセエビ科 Nupalirus 属リョウマエビ Nupalirus japonicus)がいるが、この和名は中国由来ではなく、坂本龍馬に由来する(最初の個体が土佐湾の深海で採取されたためであって、土佐特産でも日本固有種でもない。また、イセエビとは違った形態を持っている別種である)。

「虎蟳(コジン)」中文サイトのこちらの「蟳虎魚贊」という絵を見ると、ガザミ属 Portunus らしい個体が描かれてあり、中文サイトを見ると同属の複数種にこの漢字を当てているから、ワタリガニ・ガザミ類を指す語である。梅園の結論は誤り

「大(おほ)かに」大蟹。

「大和本草」本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が編纂した本草書。宝永七(一七〇九)年刊。明治になって西洋のそれらが本格的に輸入される以前、日本の博物学史に於ける最高峰と言える生物学書・農学書。但し、生物種の同定には誤りが多く、小野蘭山に激しく批判されている。私はブログ・カテゴリ『「貝原益軒「大和本草」より水族の部」』で電子化注を進行中であるが、以下の記載は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蝤蛑(タカアシガニ)」で電子化した通り、異名と足の長大さから、ガザミではなく、短尾下目クモガニ科タカアシガニ(高足蟹)属タカアシガニ Macrocheira kaempferi である。この部分だけは梅園の疑義は正しい

『松岡氏の「蟹譜」』思うにこれは、本草学者松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記した「怡顏齋介品」の「上」の「蟹類」であるる。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらと、こちらに「蝤蛑」の記載がある(松岡の死後の宝暦八(一七五八)年の板行本)。訓読して電子化してみる。〔 〕や諸記号・句点は私が附したもの。一字空け部分で改行した。

   *

「本綱」蟹下[やぶちゃん注:頭書。]

蝤蛑【一名「蟳」。】 陳懋學が「事言要玄」に曰く、『蝤蛑、一名黃甲、蟹の最巨なる者、殻、黄にして班無く、螯、圓にして、毛、無く、殻、両尖有り、横出す。「紫蟹」と相類〔あひたぐ〕ふ』〔と〕。

「洪容齊四筆」、呂亢が「臨海蟹圖」を引〔きて〕曰く、『蝤蛑、両螯大にして、細毛有り苔のごとく、八足亦た皆毛有り』〔と〕。

「福州府志」に曰く、『蝤蛑、其の螯最も健、大なる者能く人を殺す』〔と〕。

〇達按ずるに蝤蛑俗に「ガサミ」と呼ぶ。肉多く味美なり。脚を折れは[やぶちゃん注:「ば」。]白(しろ)き硬(かた)き筋あり。是を食へは虚弱を補ひ筋骨を強くす。其の殼(から)を戸上に掛けて疫(ゑき)を避くと。「事言要玄」に『蝤蛑毛無し』と云へり。

   *

これを見ると、「梅園先生、孫引きされましたね?」と言いたくなる。「其の殼(から)を戸上に掛けて疫(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])を避く」というのは、鬼面邪を驚かす式で、民俗社会に於いて腑に落ちる風習ではないか。

「癸巳(みづのとみ)七月廿日」天保四年癸巳。グレゴリオ暦一八三三年九月三日。]

2020/03/12

毛利梅園「梅園介譜」 團扇蝦(ウチワエビ)

Utiwaebi



          戌初夏十日倉滕尚子

          送覧眞寫

團扇蝦【ウチワエビ 西國方言 タクマエビ 相州小田原】

千人擘 千人揑【ヒツハタキ 栗本翁説 チカラヱビ】

 

典籍便覧ニ千人擘載一名千人揑

蟹譜ニ※1江(ホウコウ)則千人捏以テチカラ

[やぶちゃん注:「※1」=「虫」+「手」。]

蟹トス玄達曰此者蟹ニ似テ足

無ク殻甚タ固ク刀ヲ出セリ

壓スルニ破ル事ナシ又千人擘

千人捏ト云フ蝦ニモ同ㇾ名スル

者アリトス典籍便覧曰形似

蟹大如銭トアレハ格別大ナ

ル者ニモ非ラス兩名ニ物アルコト

猶可考糺已

 達曰千人捏ノ頭骨ヲヲ

 クリカンキリトスルハ譌也

 サク蟹ノ頭ニアル石ヲ漢

 名※2蛄(ラウコ)石ト云フ此則ヲクリ

[やぶちゃん注:「※2」=「虫」+「刺」。]

 カンキリ也為眞トシツ

 ハタキ其活者ヲ濵辺ニ上ル

 トキハ其尾ニテ砂土石ヲハ

 タキ飛スヿケワシ因テ此ノ

 名アリ

 

 

福州府志曰千人擘狀如蝦蛄殻堅硬人盡ㇾ

刃擘ㇾ之不ㇾ能ㇾ開酉陽雜爼謂ㇾ之千人捏〇松岡

玄達曰千人擘俗ニシツバタキト云沖津大礒

ノ間ニアリ形蝦蛄ニ似テ扁ク大なり長サ尺

余云〻頭僧ノ帽ノ如兩角如耳扁圓少シ稜

アリ狹長ノ二種アリ尾巻テ腹下アリ

横刻蛇腹ノ如シ殻堅乄破難シ一種矮短(ヒクキ)

ナル在外科ニ用ルヲクリカンキリハ即此頭骨

 

 

○やぶちゃんの書き下し文

          戌(いぬ)初夏十日、

          倉滕尚子、送れるを

         覧(み)て眞寫す。

團扇蝦【「ウチワエビ」西國方言。「タクマエビ」相州小田原。】

千人擘 千人揑【「ヒツハタキ」栗本翁の説。「チカラヱビ」。】

「典籍便覧」に『千人擘、一名、千人揑』を載す。「蟹譜(かいふ)」に、『※江(ホウコウ)、則ち、千人捏。以て「チカラ蟹」』とす。玄達曰く、『此の者、蟹に似て、足無く、殻、甚だ固く、刀(やいば)を出せり。壓するに、破る事なし。又、「千人擘」「千人捏」と云ふ。蝦にも名を同じくする者あり』とす。「典籍便覧」に曰く、『形、蟹に似て、大いさ、銭のごとし』とあれば、格別、大なる者にも非らず。兩名に物あること、猶ほ、考へ糺すべきのみ。

[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「手」。]

 

達曰く、『「千人捏」の頭骨を「ヲクリカンキリ」とするは、譌(あやまり)なり。「サク蟹」の頭にある石を、漢名「蝲蛄(ラウコ)石」と云ふ。此れ、則ち、「ヲクリカンキリ」なり。眞(しん)たり』と。「シツハタキ」は、其の活(い)きたる者を濵辺に上(あぐ)るときは、其の尾にて砂・土・石を、はたき飛ばすこと、けわし。因りて此の名あり。

 

「福州府志」に曰く、『千人擘、狀(かたち)、蝦蛄(しやこ)のごとし。殻、堅硬にして、人、刃(やいば)を盡して之れを擘(き)るに、開くこと能はず。「酉陽雜爼」に之れを謂ひて、「千人捏」』と。〇松岡玄達曰く、『千人擘、俗に「シツバタキ」とト云ふ。沖津の大礒(おほいそ)の間にあり。形、蝦蛄に似て、扁(ひらた)く、大なり。長さ尺余』と云々(うんぬん)。頭、僧の帽のごとく、兩の角(つの)、耳のごとし。扁圓して、少し稜(かど)あり。狹長(せなが)の二種あり。尾、巻きて腹の下にあり。横の刻(きざみ)、蛇腹のごとし。殻、堅くして破れ難し。一種、矮-短(ひく)きなるもの在り。外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、即ち、此の頭骨なり。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像をそのまま示した。和漢混淆になっており、しかも比較的解説が長いので、今までのここで仕儀と異なり、原文をまず示し、後に私が訓点に従い、さらに推定で送り仮名・読みを追加して読み易く訓読したものを示した。向後もこれでゆくことにする。

 さても、節足動物門軟甲綱十脚目イセエビ下目セミエビ科ウチワエビ亜科ウチワエビ属 Ibacus のウツワエビ類である(今までの電子化を見て頂ければ判る通り、言うまでもないが、本書の表題の「介」は教義の「貝」ではなく、魚を除く広範な海産無脊椎動物を含んでいる)。梅園自身も述べている通り、本邦産のウチワエビは一種ではなく、二種いる。全長は孰れも十五~二十センチメートル前後である。

ウチワエビ(団扇海老)Ibacus ciliates(頭胸甲の縁に十一個或いは十二個の棘があり、全体的に棘が小さく、数が多い。山形県と房総半島以南の他、東シナ海沿岸からオーストラリア東岸までの西太平洋の熱帯・亜熱帯域に分布する)

オオバウチワエビ(大歯団扇海老)Ibacus novemdentatus(頭胸甲の縁に棘が八個しかないため、ウチワエビとの識別は容易で、他の部位の棘も大きく、同じく数が少ない。また、ウチワエビに比すと、扁平性がより強い。能登半島と駿河湾以南の太平洋岸の他、香港・アフリカ東岸まで広く分布する)

本図は頭胸甲の辺縁棘から前者である。ウィキの「ワチワエビ属」によれば、『体は上から押しつぶされたように平たい。体の前半分が円盤形で、上から見ると和名通りうちわのような形をしている』。『体表は堅い外骨格に覆われ、縁には鋸の歯のような棘が並ぶ。体の前方中央と頭胸甲の左右に大きな切れこみがある。前方中央の切れこみにひげ状の細い第1触角があり、そのつけ根に小さな複眼(目)がある。複眼より前の円盤部分は厳密には頭胸甲ではなく第2触角で、イセエビの太く長い触角に相当する。歩脚と腹脚は短く、いっぱいに伸ばしても背中側からは見えない』。『セミエビやゾウリエビ、ウチワエビモドキなど同じセミエビ科の類似種が多いが、セミエビは体の縁に大きな棘がなく大型になること、ゾウリエビは全体のシルエットがうちわ形ではなく楕円形であること、ウチワエビモドキは複眼が体の縁に左右に分かれてつくことなどで区別できる。また、セミエビやゾウリエビは岩礁・サンゴ礁に生息する』。『水深300mまでの浅い海の砂泥底に生息する。成体に泳ぐ能力はなく、海底を歩行して生活する。食性は肉食性で、貝類や多毛類などの小動物を捕食する。敵は沿岸性のサメやエイ、タコなどで、敵に出会うと尾を使って素早く後ろに飛び退く動作を行う』。『産卵期は秋で、卵はメスが腹脚に抱えて保護する。孵化した子供はフィロソーマ幼生』(Phyllosoma:イセエビやウチワエビなどのイセエビ下目 Achelata のエビのゾエア(zoea)段階の幼生。体は著しく扁平でクモのような外観でガラスのように透明。しばしば数か月に及ぶ長期の浮遊生活を送り数cmの大きさにまで成長してから、第三期のメガロパ((megalopa))段階の「ガラスエビ」とも呼ばれるプエルルス幼生(Puerulus)に変態する)『の形態で、外洋を漂いながら成長する。幼生は「ジェリーフィッシュ・ライダー」とも呼ばれ、クラゲ類に騎乗してそれを餌にすることで成長し、分布域を広げていくという特性を持つ』。『充分に成長した幼生は着底した後に変態し、エビの姿となる』とある。

「戌初夏十日」本自筆本一帖は天保一〇(一八三九)年序であるから、戊戌(つちのえいぬ)は天保九年でその旧暦初夏四月の十日はグレゴリオ暦で五月二十三日に当たる。

「倉滕尚子」不詳。現代仮名遣「くらとうしょうし」と読んでおく。「滕」は他に「しょう・どう」とも音読みする。

「タクマエビ」私の「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に、

   *

タクマエビ 相州小田原方言 シツパタキ 其活者ヲ濵ニ上ル時ハ其尾ニテ沙石ヲハタキ飛事數尺ナリ因テ此名得ルト云 西国方言 ウチワエビ

   *

とある。「宅間蝦」とは思われるが、恐らく人名であろうが、由来は確定出来ない。知られた人物では相模と縁の深い人物は、鎌倉時代に鎌倉に住んだ仏師として知られた宅間法眼がおり、南北朝期では関東管領上杉憲能が鎌倉宅間谷に住んで宅間姓を名乗っている。

「千人擘」「せんにんばく」か。「擘」は「裂く・つんざく」であるから、千人で掛からないと裂けないほど堅いという謂いであろう。

「千人揑」「せんにんでつ」か。「捏」は「こねる・作る・ひねる」で、前と同じで解体・調理の困難を謂うのであろう。

「ヒツハタキ」静岡県沼津市静浦で「ヒッパタキ」の地方名が現存することが、いつもお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のウチワエビの解説で確認出来る。

「栗本翁」医師にして本草家の博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)。朝鮮人参の普及で知られる医師にして本草学者であった田村藍水の次男。幕府医官栗本昌友の養子となり、寛政元(一七八九)年に奥医師となり、文政四(一八二一)年には法印に昇った。医学館で本草学を教授する傍ら、虫・魚・貝類などを精力的に研究した。通称、瑞見。私のサイトの「栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」の水族パートの原文+訓読+原画画像+オリジナル注)」四パートブログ・カテゴリ「栗本丹洲」をも見られたい。

「チカラヱビ」確認出来ないが、腑に落ちる異名ではある。

「典籍便覧」明代の范泓(はのう)撰になる本草物産名の類纂書。

「蟹譜」南宋の傅肱(ふこう)撰の蟹の博物誌であるが、複数の原本を調べたが、本記載を確認出来なかった。従って「※江(ホウコウ)」(「※」=「虫」+「手」)も「チカラ蟹」(「力蟹」であろう)不明である。

「玄達」「松岡玄達」本書の筆者毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の前代の、儒者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達、通称は恕庵、字は成章、号は怡顔斎(いがんさい)、苟完居(こうかんきょ)など。門弟にかの小野蘭山がいる。一八歳で、浅井周伯の私塾養志堂に入り、東洋医学を学びながら、儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に学んだ。しかし中国の詩編「詩経」に出てくる動植物の名の理解に苦しみ、本草学者稲生若水の門に入り、本草学を学んだ。この時から本草学に傾倒し始め、後に自身も本草学を講じるようになった。享保元(一七一六)年に徳川吉宗が第八代目将軍就任し、「享保の改革」を敢行する中で、薬事に関する改革を始めた。この時はまだ、江戸幕府開幕後も日本の文化中心地は京都であり、本草学の中心地も、また、京都にあった。そのため、享保六(一七二一)年に、江戸の本草学発展を目して、恕庵ら、京都の本草学者が幕府からの招聘を受け、京から幕府の江戸医学館に招かれた。恕庵は、集められた本草の薬事検査をする「和薬改会所(わやくしゅあらためかいしょ)」に加わり、検査法を検討し、また、飢饉のための対策や殖産産業に寄与し、日本の本草学を発展させた。師稲生若水は中国の本草学を日本の本草学へと改良してゆく草分けとして、以後の本草学を発展させる人材を輩出したが、恕庵の本草学は、それまでの薬学に重きを置くに留まらず、積極的に、多種多様の動植物・鉱物を収集し、博物学的なものへと発展させていった。それは、門弟小野蘭山が築くところの本邦のオリジナルな本草学や、丹羽正伯の検査基準「和薬種六ヶ條」へと結実していくことになった(以上はウィキの「松岡恕庵」に拠った)。

「兩名に物あること」よく意味が判らない。一種に対して二つの名があること、の意にしては、異名とすれば、それを「猶ほ、考へ糺すべきのみ」と問題にすること自身がよく判らない。或いは、松岡が蟹だけではなく、蝦にも別なそれがいるというのは、ちょっと考証してみなくてはならない、安易に信じられない、と、ここで早くも(後述)松岡批判を始めているのかも知れない。

「ヲクリカンキリ」漢字当て字で「於久里加牟木里」。これは現在はザリガニ類(抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目 Astacidea)の胃石(胃の中にできる病変としての結石)であったとされ、炭酸カルシウム・リン酸カルシウム及びキチン質からなり、胃酸中和剤とされ、かのジーボルト(Philipp Franz von Siebold)がよく用いた薬とされている。これについては、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕姑(しやこ しやくなげ)」(エビ亜綱シャコ下綱シャコ目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria)で、迂遠にして詳細な考証をしてあるので是非、参照されたい。

「サク蟹」不詳。識者の御教授を乞う。「ザリガニ」に類似しているのは頼もしいとは言えるが、残念ながら恐らくは「シヤコ」が音転訛した「サク」とする方が、ピンとくる。寺島は「鰕姑(しやこ しやくなげ)」で、
   *
於久里加牟木里(おくりかんきり) 鰕姑頭中の小石【鮸(にべ)の頭の石のごときか。】。能く五淋を治す、小便を通ず、蠻人の秘藥なり。然れども未だ石有る者を見ず。
   *
と言っているからである。因みに「鮸の頭の石」は耳石(じせき)である(最終注参照)。

「蝲蛄(ラウコ)石」上記リンク先の私の注の考証を見られたいが、そこで示したように、これは「藥品應手錄」(ジーボルトが門人高良斎(こうりょうさい:ウィキの「高良斎」を参照されたい)に和訳させて印刷し、訪問した地での医師への手土産としたものと推測される書。ヨーロッパで常用されている薬草と、その代用品に多少の新薬を収載しているとされる)に掲載されている薬剤(生薬)名である。

「眞(しん)たり」それが本物の「ヲクリカンキリ」である、の意で訓じた。

「けわし」「嶮し」で、「激しい」の意であろうが、歴史的仮名遣では「けはし」である。

「福州府志」一五一九年に成立した明国福州府(現在の福建省福州市)一帯の地誌。

「酉陽雜爼」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。巻十七の「廣動植之二」に、

   *

千人捏。形似蟹、大如錢。殼甚固、壯夫極力捏之不死。俗言千人捏不死、因名焉。

(「千人捏(せんにんでつ)」。形、蟹に似て、大いさ錢(ぜに)のごとし。殼、甚だ固く、壯夫、力を極めて之れを捏(ひ)ねるも、死なず。俗に、「千人、捏ねるも、死なず」と言ひ、因りて名づく。)

   *

とある。

「沖津の大礒」沿岸からやや離れた岩礁性海底。

「僧の帽」臨済宗などで被る観音帽子(かんのんもうす)や燕尾帽子(えんびもうす)は、頭の部分が尖っているが、それを横から見ると、その部分が横に広く、しかも垂れ(左右にある)が下に延びて、本種の形に似ている。因みに、心臓の僧帽弁はローマ法王や枢機卿が被るミトラ mitre と呼ばれる帽子に似ていることに由来するもので、近代の訳語である。

「狹長(せなが)の二種あり」「矮-短(ひく)きなるもの在り」「狹長」は幅が広いものと狭いものと、短いものと長いものがあり、しかも小さくてより平たいものがいる、の意と思われるが、これは前掲二種の別と、個体差を言ったものと思われる。

『外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、即ち、此の頭骨なり』前に述べた通り、誤り。梅園は松岡が不詳の「サク蟹」の頭骨の誤りだと言っているのを引用しておいて、最後にそれを否定し、本種の頭骨がやっぱりそれなのだ、と敢えて断定して言っていることになる。江戸の本草学ではしばしば見られる先人の部分的な貶(けな)しである(せめても梅園には「サク蟹」の今に生きる和名の一つも言って否定して欲しかったものだ)。しかし、大体が、この「頭骨」という言い方自体、外骨格である蟹類では何やらん、怪しい感じがするのである。因みに、読者の中には耳石のことではないか? と思われた方もいるかと思うが、残念ながら甲殻類には耳石は発生しないのである。]

2018/05/28

毛利梅園「梅園介譜」石蜐(カメノテ)

 

 

Baienkaihukamenote

 

 

 

 

 

石蜐〔ホヤ カメノテ ワシノ爪 シイ〔筑紫。〕〕

 

   亀脚 紫𧉧

 

   紫※ 又 石脚

 

[やぶちゃん注:「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」。]

 

「興化府志」

 

『石𧉧。一名、亀脚。一名、佛爪。一名、仙人掌。』。

 

 ヲニノテ〔佐州。〕。 セイ〔俗。〕。

 

 シユシガイ〔同。〕。

 

此物裏表とも此くのごとくにして、蛤のごとく、口を結ぶ。開けば、中に肉あり。頭は、さながら、亀のてのごとし。貝、うすし。「大和本草」に説くは、説のごとし。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(右下の「糀」、左下の「大和本草」「マカリ」「曲貝」は下部の貝の図のキャプションで本図(本種)とは無関係である)。さても私の大好きな、

 

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

 

である(一属一種)。謂わずもがなであるが、フジツボと極めて近縁で、荒っぽい言い方をすればエビの仲間であって「貝」ではない。私は既に、このキャプションにも出る貝原益軒の「大和本草」の「卷之十四 水蟲 介類 石蜐」(カメノテ)及び『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」カメノテ』を電子化注しているので、カメノテの詳細はそれらを見て貰うとして贅言は附さない。末尾の「説くは、説のごとし」は何だか変だが、私にはそうしか読めない。いい訓読があれば御教授あられたい。

 

「石蜐」音ならば「せきこふ(せきこう)」又は「せきけふ(せききょう)」と読む。「蜐」は単漢字でもカメノテを指す。

 

「ホヤ」全くの別種で高等生物である脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea のホヤと同名であるが、これは恐らく、岩礁への着底生活をすること、鱗状の頭状部の左右相称に並ぶ大小の貝殻のように非常に硬い殻板(かくばん)や、柄部表面のやはり硬質の鱗片から、或いはホヤの仲間とか、子どもとか思ったものかも知れない(私はその錯誤は案外に腑に落ちる)。石蜐(カメノテ) 「本草」、介類にのせたり。又、龜脚と云ふ。和名、「カメノテ」と云ふ。「大和本草」にははっきりと『「ホヤ」と訓ずるは、あやまれり』と退けているにも拘わらず、梅園が記すのは、本草家としての、益軒とのある距離感が感じられて面白い。

 

「ワシノ爪」鷲の爪(つめ)。

 

「シイ」私は本種の異名として広汎に見られる「セイ」「セイガイ」の転訛であろうと思うのだが、「大和本草」で益軒は岩の隙間に『垂れて移り動かず。果(くわ)の木に付けるがごとし』とし、しかも『椎の實のたれたるにも似たり。故に、「シイ」と云ふ』としている。これは筑紫の地方名とし、益軒は福岡藩であるから、これは無視出来ない証言ではある。なお、「セイ」は「勢」で男根の古称である。この性的な異名も私にはすこぶる腑に落ちるものである。

 

「紫𧉧」「𧉧」は音「キョ・コ・キョウ・コウ」(現代仮名遣)。単漢字ではまず使用しない。「𧉧(きょふ)」はカマキリ或いはヒキガエルを意味し、「石𧉧」(せっきょう)」で本種カメノテを指す。尖った殻板から蟷螂の斧を連想したか。

 

「紫※」(「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」)「※」の字は意味不詳。江淹(こうえん:中国南北朝時代の文人)の「石蜐」にはカメノテを一名「紫𧄤」とする。何となく、似ているが、この字も単漢字では意味不明。

 

「興化府志」明の呂一静らによって撰せられた福建省の興化府地方の地誌。台湾の対岸広域。(グーグル・マップ・データ)。

 

「ヲニノテ」鬼の手。

 

「佐州」佐渡国。佐渡では現在も一部地域で本種を食すのは普通。私は特異的に四度も佐渡に行ったが、残念ながら、出逢えていない。二度行ったイタリアでもポップコーン見たようにして食べると聴いていたから、かなり執拗に探したのだが、やはりお目にかかれなかった。私が最初の食べたのは下田でであった。

 

「セイ」前に注した「勢」。

 

「シユシガイ」不詳。手指貝か、或いは、先の「大和本草」に出る木の実で種子貝か。

 

「蛤」ハマグリではなく、広義の二枚貝のことを指しており、されば「がふ(ごう)」と読んでおくのが適切であろう。]

2017/07/06

毛利梅園「梅園介譜」 蝦蛄


Syako

 

 



 

「漳州府志」及び

 

「開元遺事」「草木子」に載す。

 

   蝦蛄

 

【シヤコ。

 

 シヤクヱビ。

 

 俗にシクナゲとも云ふ。

 

 ヤマメ。】

 

 

 

     壬辰蠟月

 

     廿三日眞寫

 

 

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(右側にアミ(と称するもの)の一部、下部に「クルマエビ」の一部と「青蝦」のキャプションがあるが、これらは本図(本種)とは無関係である)。これは本邦のシャコの博物画としては超弩級に優れていると私は思う。翻刻では恣意的に句点と送り仮名を補った。

 

節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲綱 Malacostraca トゲエビ亜綱 Hoplocarida口脚目 Stomatopoda シャコ上科 Squilloidea シャコ科 Squillidae シャコ属 Oratosquilla
シャコOratosquilla
oratoria

 

である。異名は梅園の挙げた他にもシャク・シャッパ・ゼニヨミ・ガサエビなどがある(「ヤマメ」というのは聴いたことがないが、推測するにこれは「山蠆(やまめ)」で、こちらは蜻蛉の幼虫のヤゴの異名であり、だとするなら、何となく腑に落ちる)。私は甲殻類では生態観察するのも食べるのも特異的に好きな種の一つである。ムカデ(後注参照)は嫌いだが。

 

「漳州府志」原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。同書の「介之屬」に『蝦姑【如蜈蚣而大。能食蝦、謂之蝦姑。】』とある。

 

「開元遺事」「開元天寶遺事」のこと。盛唐の栄華を伝える遺聞を集めた書で、王仁裕撰。後唐の荘宗の時、秦州節度判官となった彼が長安に於いて民間の故事を採集、百五十九条に纏めたものとする。但し、同書を中文サイトで縦覧したが、記載は見当たらなかった。

 

「草木子」(そうぼくし)は元末明初の学者葉子奇の随筆。元代の諸制度や元末明初の事件風聞、北宋期の儒者邵雍(しょうよう)の自然思想に基づく天文・地理・生物などに関する記録などを載せる。同書の「卷之四下」に『蝦姑。狀若蜈蚣。管蝦。』と出る。

 

「壬辰蠟月」「廿三日」「壬辰」は天保三年で、「蠟月」は陰暦十二月の異称であるから、これは西暦では一八三四年の一月十日(同年旧暦十二月朔日)以降となる。シャコは食材としては仲春から夏であるが、寿命は概ね三年であり、生後二年目で成熟する。]

2017/06/08

毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)

 

Kainowarekara

 

小螺螄(ワレカラ)

 

古哥に詠(よめ)る藻に住む蟲の「われから」と云ふは、

是なり。「本草約言」に曰く、『紫菜、其の中に小螺螄有り』と云へり。

藻にすむなるべし。海薀(もづく)にはかぎらず。

   此(この)二種、予、旧縁の者、相州浦賀に住み、[やぶちゃん注:ここ、訓読は行を跨る。]

   江武(がうぶ)の使(つかひ)に、予に寄する者なり。

   「モヅク」は至(いたつ)て汐(しほ)つよく、味(あじは)ひ、甘(かん)なり。酢(す)に漬(つけ)て食ふ。

   味、海藻(ホンダワラ)に類す。「ワレカラ」は、則(すなはち)、藏(ざう)す。

 

[やぶちゃん注:以下、右下の「モズク」のキャプション。]

 

海薀(モヅク)

  「本草」時珍云く、『「縕(うん)」は亂絲(らんし)なり。其の葉、之に似る。』と。

 

      乙未六月廿七日

      眞寫

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。「海薀(モヅク)」はまず形状からも不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科モズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata、或いはモズク Nemacystus decipiens と同定してよい(現在、食用として流通するのはる オキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズクで、モズクは殆んど市場には出ない)。問題は、附着しているメインの「小螺螄(ワレカラ)」である。「螺螄」は「ラシ」で「小さな螺(にな)」で円錐形の小型の腹足類、螺(にな)の意である。面白いのは、私の電子化した栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)に掲げた二枚の図とよく似ている点である。しかも、この絵もそうだが、「小貝」と言っておきながら、その一つをでも、拡大図で描いていない点が恨めしい。栗本版ではまず一枚目の海藻(種不明)に附着したワレカラ八個体の図に(ここでは読み易く書き直した)、

   *

ワレカラ

此物海中藻にすむ小虫なり。形、水虱(みづのみ)に似たり。又、小蝦にも似たり。足、多し。水、離れて、稍(やや)、跳るものなり。予、幼時、實父藍水翁自(みづから)抄寫せる「佐州採藥錄」にある圖を以て、こゝに載出するものなり。

   *

と記す。「水虱」は、現在、等脚目のキクイムシ Limnoria lignorum を指す。図のそれは「小貝」なんぞではなく、細かな脚を持った、所謂、我々の地上で見馴れている「だんごむし」状である。この図が正確なら、これが打ちあがった海藻に附着しているものであれば、

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae

ハマトビムシ類の仲間と考えてよいと思うが、転載図である上に、図のスケールが不明(海藻が同定されればスケールのヒントにはなると思われるが)なため、体長十五ミリメートルの一般種の、

ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis

であるか、体長二十ミリメートルの大型種の、

ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi

であるかは不明である。但し、これが海中に浸った状態のものを描いたとすると(当時の博物画の場合はちょっと考えにくい。そのような生態描写の場合は、そうした注記をするものである。但し、これは写しの写しだからこれはその作業の実際を写した丹州自体が知らないものと思われる)、海浜の砂地及び砂中にしかいないハマトビムシは無効となり、それに形状が近く、海中の藻場で藻に附着している種ということになる。その場合は例えば、

フクロエビ上目端脚目モクズヨコエビ科モクズヨコエビ属フサゲモクズ Hyale barbicornis

などのモクズヨコエビ科 Hyalidae の仲間などが想定出来る。しかし、これはさっきも言った通り、江戸時代の人間が見ても「小貝」ではなく、ヘンテコリンな「蝦」か「小虫」の類いと言うはずである。いや、丹州もそう言っているわけだ。

 そこで丹州の二枚目を見ると、俄然、「小貝」っぽいのである。そこに丹州は(同じくここでは読み易く書き直した)、

   *

ワレカラ 貝原翁の説、『小貝にして蟲(むし)に非ず』とす。これは、其の土地の漁人などの方言にて「われから」と云ふによれるか。因(よつ)て其の物、國々にて違ひあり、ここに圖せるは筑紫(つくし)にて稱する處の「われから」なるべし。「大和本草」に云ふ、『われから」、古歌によめるは、藻に住む蟲なり』と。又、「本草約言」に云く、『紫菜、其の中に小螺螄、有り』と。今、按ずるに、此の類(るい)、「われから」なるべし。藻につきて殼(から)の一片なる螺(にな)あり。分殼(わかれから)の意なるべし。「すくなき」ゆへなり【これ、「ヨメガサラ」の小なるものなり。】。又、云ふ、「ワレカラ」、海中の藻にすむ小貝なり。古哥に讀めり。色、淡黑、大(おほき)さ三、四分に過ぎず。其殼、われやすし。形、「ミゾガイ」・「ヰガイ」などに似たり。至て小なり。此の藻は「ナゴヤ」と云ひ、淡靑色、乾けば紫色なり。日に晒せば、變じて白色となる。食ふべくも、性(しやう)、よろしからず。或は松藻にも此の貝あり。松藻は長くして、莖(くき)も大なり。[やぶちゃん注:後略。]

   *

と記す。この「ミゾガイ」は斧足綱マルスダレガイ目ユキノアシタガイ科オオミゾガイ Siliqua alta。続く「ヰガイ」は、現在、呼称されている「イガイ」としての斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属ムラサキイガイ Mytilus galloprovincialis や、北海道太平洋岸のみに生息するイガイ中唯一の国産種イガイ属キタノムラサキイガイ Mytilus trossulus ではない(そもそも日本全土に生息域を拡大している前者は、大正期に侵入したものである)。本種は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミ科ムラサキガイ亜科ムラサキガイ属ムラサキガイSoletellina diphos を指しているものと思われる。イガイの名称は、錯綜している上に、ネット上での記載内容も「帰化動物のイガイ=ムール貝」と「従来のイガイ=ムラサキガイ」の混同によるものと思われるものが少なくない。「松藻」はマツモ Analipus japonicus である。「ヨメガサラ」であるが、これは一般に言うところのカサガイ目ヨメガサガイ科ヨメガカサ Cellana toreuma の地方名であると思われる。また、「ナゴヤ」というのは九州地方でオゴノリ Gracilaria vermiculophylla のことを言う方言である。さて、その海藻の「ナゴヤ」に附着した三十八個体のワレカラの図を見よう。この縞々は何だ? 巻貝の螺肋か? しかし、である。ヨメガカサの成体は御存じの通り、岩礁海岸の岩にへばりついているものであって、例えば本種の幼貝が好んで藻類等に何匹も吸着しているなどというのは聴いたことが(私は)ない。万事休す。何方か、この「小貝」である「われから」の正体を是非ともこの無学な私にお教え願いたい。海岸で現物を観察して推理するなら幾らでもやってもいいが、古い粗悪な博物画のみを推理材料とする海洋生物版〈隅の老人〉を演じるのは、流石にちょっと疲れたわい。

「古哥に詠る藻に住む蟲の「われから」と云ふ」先に電子化した「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の私の注を参照されたい。

「本草約言」に曰く、『紫菜、其の中に小螺螄有り』と云へり」やはり、同じ引用をしている「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の私の注を参照されたい。

「江武」江戸幕府。

「使に、予に寄する者なり」使いの序でに梅園宅に寄って届けたというのであろう。さすれば、或いは海水に漬けた新鮮なものであったのかも知れぬ。ただ、季節的(末注参照)には厳しい(最後の注を参照)。

「海藻(ホンダワラ)」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum。古来、「なのりそ」の名で食用とされ、藻塩精製の素材ともされてきた。海藻フリークの私は特に好物で、先般、三度目の渡島を果たした佐渡では(当地は「神馬藻(神馬壮)」と呼ぶ)、朝食の時に丼一杯を平らげ、土産に買った冷凍の塊りも三日で完食してしまった。

「本草」李時珍の「本草綱目」。「海薀」として「草之八」に出るが、記載は少ない。

『「縕(うん)」は亂絲(らんし)なり。其の葉、之に似る』「縕」という字は「乱れ絡まった糸」の意であり、その海藻の分岐した葉体部分は、これに似ている、というのである。或いは、「ぬめり」をこんがらがった糸のような感じだと言っているのかも知れぬ。

「乙未六月廿七日」天保六年。グレゴリオ暦一八三五年七月二十二日。]

毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ



Baiennkaihuwarekara

 

      政亥年如月十九日

      之れを得て眞寫す。

 

ワレカラ

 

 藻に住む虫の「ワレカラ」とは

 別なり。藻にすむ「ワレカラ」は

 小貝なり。貝の部に出(いだ)す。

 此に載す者は蝦サゴ、又

 海苔(のり)の中に多く交り、

 居(きよ)する者なり。栗本翁、

 尾州の産なりとして、画譜

 に載(のせ)たり。然(しか)ども、江戸芝

 浦、又、大森羽田邊に多

 かり。

 

[やぶちゃん注::画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(下方の「石」は下にある「石蟹」のキャプションで関係ない)。真正の節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類の記載であり、図である。先の大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラで注したが、これぞ! モノホンなればこそ、再度、真正の「ワレカラ」について注しておく。代表種はワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons・トゲワレカラ Caprella scaura・スベスベワレカラ Caprella glabra など。小さな頭部に細長い七つの胸節と小さな 六つの腹節を持ち、第一と第二胸脚は鋏を持った顎脚となっている。一般には第三胸脚と第四胸脚を欠き、代わりに葉状の鰓を持っている。後ろの三対の脚で、潮間帯や浅海の藻場の海藻・海草類などにしがみついて生活する。海藻等の棲息場所では体形が擬態を示し、体色も海藻に似せている。所謂、エビ・カニの仲間であるが、通常の種は体長一~二センチメートルで、体も多くの種では透過度が高いので自然界では見過ごされることが多い。但し、オオワレカラ Caprella kroeyeri などは最大六センチメートルにも達し、形状的には昆虫のナナフシ類(有翅昆虫亜綱新翅下綱直翅上目ナナフシ目 Phasmatodea。但し、ナナフシ類は翅や飛翔能力を失ったものが多い)に似ており、その運動は尺取虫(主に昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ科Geometridae の幼虫)にも似ている(というとイメージはし易いであろう)。なお、同種はが腹部に育児嚢を持つ。属名はラテン語の「小さな山羊(やぎ)」の意の“caprella”に由来する。具体な形態画像などは、筑波大学生命環境科学研究科生物科学専攻動物進化発生学「和田洋研究室」公式サイト内の「ワレカラの形態進化の謎を解く」を参照されたい。或いはこの図のそれは(特に下方のそれ)、リンク先に画像で出るコミナトワレカラ Caprella kominatoensis の可能性があるかも知れぬ。

「政亥年如月十九日」文政十年丁亥(ひのとい)。グレゴリオ暦一八二七年三月十六日。この時期ならば、本種が河岸などから生体或いは死の直後に梅園のもとに届いた可能性は高いと思われる。言っておくが、私が新暦に換算しているのはただの「ためにする」酔狂なんぞではない。

「藻に住む虫の「ワレカラ」とは別なり。藻にすむ「ワレカラ」は小貝なり」やったね! 梅園先生!!!

「貝の部に出(いだ)す」近日中にそちらも電子化する。

「蝦サゴ」不詳。或いは「蝦かご」(蝦籠)でエビを捕獲するための籠状の漁具か? 或いは「蝦ザコ」でエビを捕獲した際に有象無象一緒に採れる雑魚(ざこ)の誤りか? 以下の栗本丹州の謂いからは、後者である可能性がすこぶる高いように思われる。

「栗本翁尾州の産なりとして、画譜に載たり」これこそ、私が前の大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラで注した栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)のことである。そこで丹州は(漢字の表記の一部を正字化して統一し、読みもオリジナルに歴史的仮名遣で附して読み易くした)、

   *

ワレカラ 尾州の産。其地の方言也。是(これ)、一種の水蟲にして、海藻或は雜肴(ざこ)の中に交り、上る者なり。一寸或は寸半許(ばかり)あり、二寸に至るもの、まゝあり。色、靑し。たまに黃ばみたるものあり。只、乾したる海苔に交りあるは、色も形も辨別しがたし。因(より)て『「われから」くはぬ上人もなし』と云へる事は能登(のと)の國人のノ常諺(じやうげん)なるよし、輪池(りんち)先生[やぶちゃん注:屋代弘賢の号。]、別に詳説あり、見べし。紀伊の國にて云(いふ)「ワレカラ」は藻中にすむ小貝なり。これも一説なり。然(しか)れ共(ども)藻に棲(すむ)蟲の「われから」と古歌によみたるは、蟲の説、穏當なりとすべし。此圖は尾張の人、植村忠左衞門有信なるもの、屋代氏へ篤(とく)贈る處のもの也と。

   *]

2017/06/07

毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)

 

Heikegani

 

「蟹譜」に出(いづ)。

鬼蟹(おにがに) 武文蟹(たけぶんがに)

           しまむらがに【摂州】

           平家がに  【長門】

           きよつねがに【豊前】

           幽霊かに  【紀州】

 

[やぶちゃん注:以下、以上の下段部分。]

 

          「祝允明野記」

           鬼面蟹(きめんがに)

戎蟹(えびすかに)【備前】 治部少輔蟹(ぢぶしやうすけがに)【伊勢】

 

「大和本草」

 嶋村蟹

享祿四年、備前の浦上、掃部助村雲、細川右京太夫晴元と摂州に於いて、合戰し、

尼ヶ﨑に於いて、打ち負けて自殺す。浦上の臣嶋村彈正左エ門貴則、敵の強兵、兩人(ふたり)を、

左右の腿(もも)にはさみ、水に入て共に死す。尼ヶ﨑のあたり、野里(のさと)川と云所也。其霊、蟹

となりしと云。故に島村蟹と云、怒る人面の如し。

 

「摂津名所記」

嶋村蟹は東生(ひがしなり)郡野田川より出す。此邉(このあたり)の蟹、美味なりと云、多く食料にす。

 

「後太平記」

享祿の頃、島村左馬助は主君細川髙國を援(すく)はんと尼ヶ﨑より打(うち)だせしに、早(はや)、髙國は

討死したり。死出の供せんと四方欠𢌞(かけまは)り、敵多く打取(うちとり)、入水(じゆすゐ)しける。是(この)霊、鬼面の蟹となる

と云ふ。又、俗に秦(はた)の武文(たけぶん)、海中に没死(ぼつし)て、其怨(ゑんこん)の化する處と云々。

 

[やぶちゃん注:右頁の左上部のキャプション。漢詩は直後に( )で推定で書き下した。]

 

「續脩臺灣府志」に「使槎(しさ)録」を引きて曰く、

鬼蟹、狀、傀儡のごとし、孫元衡、詩に云ふ有り。

  家在蠔山蜃氣聞

  鯨潮初起鱟帆來

  乕鯊鬼蠏紾無數

  就裏難求蛤蚪胎

  (家は蠔山(がうざん)に在りて蜃氣を聞き

   鯨潮(げいてう)初めて起きて鱟帆(がくほ)來たり

   乕鯊(こさ)鬼蠏(きけい) 紾(しん)として無數

   裏に就きて求め難し 蛤蚪(がふと)の胎(たい))

 

是に曰ふ、鬼蟹も亦、同物也。

 

[やぶちゃん注:以下、その下部のキャプション。「環」は毛利梅園の号の一つ。]

 

環(くわん)曰ふ、

此蟹、背殻、鬼形(きぎやう)のごとし。眉・目・口・鼻、分布、明白なり。常に寶として之を翫(もてあそ)ぶ者なり。異物なり。

細川髙国が臣、島村左馬助が蟹となりしとは、誤りなり。中夏傅肱が蟹の書に

出せる鬼蟹なり。近世の俗、長州壇ノ浦源平合戰の時、平家打ち負け、入水せし者、蟹

となる故に平家蟹と云ふ。矢嶋には此蟹なく、壇ノ浦には、悉く、鬼蟹なりと。壇ノ浦は

赤間関(あかまがせき)にあり。島村・平家の説、盲談ならん。俗、傳ふ、秦の文武、大海に没死し、其怨魂、

化する所と云ふ、甚だ怪異(あやし)きなり。

壇ノ浦平家入水して蟹と霊と化したること、源平盛衰記に載らず。此蟹、長州

下関、森氏旅行の節、之を求め帰る。同州にては此蟹、湯引きて之を賣る由。故に生色を

知らず、只、其形狀を寫すのみ。

 

[やぶちゃん注:左頁キャプション。]

 

 甲の圖

 

 腹甲の圖

 

[やぶちゃん注:左頁の左下方のキャプション。]

 

乙未(きのとひつじ)秋七月廿八日森氏所藏。之を乞ひて

眞寫す。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。本個体は下関で採取されたものであることと、表裏の図から同属の近縁の他種の特徴を殊更には見出せないことから、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica をまずは最大可能性同定候補して問題ないように思われる(但し、あくまで絵で一部の細部の検証が不能であることから他の近縁種でないと断定は出来ない)。しかも、腹面部の腹節が有意にスマートであるから、これは間違いなくの固体である。なお、ヘイケガニ Heikeopsis japonica は意外と知られていないが、本邦では北海道南部から相模湾・紀伊半島・瀬戸内海・有明海まで広く分布し、近隣諸国では朝鮮半島・中国北部やベトナムまで東アジア沿岸域に広く分布している。私は既に栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」でヘイケガニ属或いはその近縁種と思われる図を考証しているが、こちらの方が遙かに博物学的にはより正確に描出されているように思われる。

「武文蟹(たけぶんがに)」摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくヘイケガニ類の別名(辞書その他殆んどが「ヘイケガニの別名」とするが、これは必ずしもヘイケガニ Heikeopsis japonica 一種を指すものではなく、正しい謂いとは言えない)。元徳三(一三三一)年の元弘の乱の際、摂津国兵庫の海で死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)の生まれ変わりとされる。元弘の乱の初期、秦武文は主君(尊良親王は元弘の乱勃発直後に父後醍醐天皇と笠置山に赴いたものの、敗れ、父とともに幕府軍に捕らえられて土佐に配流されていた)の妻一宮御息所を配流地土佐に連れ行こうと尼崎から船出しようとするが、そこで彼女を垣間見て一目惚れした土地の海賊武士松浦五郎に御息所を奪われてしまう。私の非常に好きな怪異のシークエンスであり、こちらの話は壇ノ浦平家蟹伝承に比してマイナーな印象があるので、ここで以下、「太平記」巻十八「春宮還御の事 付けたり 一宮御息所の事」から引いて「武文蟹」を顕彰しておきたい(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、恣意的に正字化し、一部に読点と改行を追加してある)。但し、荒俣宏「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「カニ」項の「平家蟹」によれば、人見必大の「本朝食鑑」では、これは平家蟹ではなくカブトガニ(鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ Tachypleus tridentatus)のこととして載せ、『土地の人は武文を憐れんでこれを捕らない』と記しているとある。

   *   *

武文、渚に歸り來たつて、

「その御船、寄せられ候へ。先に屋形の内に置きまいらせつる上﨟を、陸(くが)へ上げまゐらせん。」

と呼ばはりけれども、

「耳にな聞き入そ」

とて、順風に帆を上げたれば、船は次第に隔たりぬ。また、手繰(てぐり)する海士の小船にうち乗つて、みづから櫓を押しつつ、なにともして御船に追ひ著かんとしけれども、順風をえたる大船(たいせん)に、押し手の小舟、追ひ付くべくもあらず。遙かの沖に向つて、扇を擧げ招きけるを、松浦が舟にどつと笑ふ聲を聞きて、

「やすからぬものかな。その儀ならばただ今の程に海底の龍神と成つて、その船をばやるまじきものを。」

と怒つて、腹十文字に搔き切つて、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。

   *

その後、海は荒れに荒れ、しかも自分に靡かぬに業を煮やした松浦は、水主(かこ)らの合議もあって、御息所を鳴門の龍神に生贄として捧げようとするが、同船の僧に制止される。

   *

「さらば僧の儀につけて祈りをせよや。」

とて、船中の上下、異口同音に觀音の名號を唱へたてまつりける時、不思議の者ども、波の上に浮かび出でて見えたり。

 まづ一番に濃き紅くれなゐ著たる仕丁(じちやう)[やぶちゃん注:貴族の家などで雑役に従事した下男。「しちやう」と濁らずにも読む。]が、長持を舁(かき)て通ると見へてうち失せぬ。

 その次に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しろくら)置いたるを、舍人(とねり)[やぶちゃん注:貴人の牛馬などを扱う従者。]八人して引きて通ると見えてうち失ぬ。

 その次に、大物の浦にて腹切つて死んだりし右衞門府生秦武文(うゑもんのふしやうはだのたけぶん)、赤糸威(あかいとおどし)の鎧、同毛の五枚冑(かぶと)の緒をしめ、黃月毛(きつきげ)なる馬に乘つて、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇を擧げ、松浦が舟に向つて、その船留まれと招くやうに見へて、浪の底にぞ入にける。

 梶取(かんどり)これを見て、

「灘(なだ)を走る船に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へども、これはいかさま、武文が怨靈(をんりやう)と覺え候ふ。その驗(しるし)を御覽ぜんために、小船を一艘下して、この上﨟を乘せまゐらせ、波の上に突き流して、龍神の心をいかんと御覽候へかし。」

と申せば、

「この儀、げにも。」

とて、小舟を一艘引下して、水手(すいしゆ)一人と御息所とを乘せたてまつて、渦の波にみなぎつて卷きかへる波の上にぞ浮かべける。

   *

その後、曲折を経た後、遂に目出度く、親王と御息所は再会を果たすのである。

「しまむらがに」戦国武将島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)は戦国大名で第三十一代室町幕府管領細川高国(文明一六(一四八四)年~享禄四年)。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏一門野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。養父政元が暗殺された後の混乱を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を排除、京兆家の家督を手中にしたが内紛が昂じ、大内氏を頼ったものの、澄元の嫡男晴元に敗れて自害に追い込まれた)の家臣。摂津尼崎で細川晴元方(がた)の三好元長らに敗れ、ここに記されたように、敵兵二人を抱えて海中に身を投じて自死した。後、この近辺で獲れるヘイケガニ類(前注参照)を「島村蟹」とよぶようになったという。弾正は通称。

「きよつねがに」清経蟹。能の「清経」で知られる、ナーバスになって入水自殺した平家一門の武将で笛の名手であった平清経の怨念伝承に基づく大分の宇佐地方のヘイケガニ類(前注参照)の別名。平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)は寿永二(一一八三)年に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことを契機として、豊前国柳浦(現在の大分県宇佐市江須賀の沖合とされる。この附近(グーグル・マップ・データ))にて入水自殺した。享年二十一。「平家物語」の「六道之沙汰」の段の建礼門院による述懐によれば、この清経の死が平家一門の『心憂きことのはじめ』として語られてある。

「祝允明野記」蛸島直氏の論文「蟹に化した人間たち(2) 平家蟹の記録を中心に」(ODF)によれば、明代の書家で文人の祝允明(しゅくいんめい 一四六〇年~一五二七年)の一一五一年成立の著であるが、蛸島氏が当該論文で述べておられるように、後の小野蘭山の「本草網目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)や岡林清達(きよたつ)稿・水谷豊文補編の本草書「物品識名」(文化六(一八〇九)年跋)なども、一様にこの「祝允明野記」を典拠としているが、はたして、中国の「鬼面蟹」を本邦の「平家蟹」と安易に相同同定してよいかどうかは甚だ疑問と言わざるを得ない。私は大陸のそれは或いは全く異なった別種である可能性も充分にあり得ると考えている

「治部少輔蟹」石田三成の通名として知られているが、六条河原で斬首された彼が何故に伊勢で鬼面の蟹と変ずるのか、私は全く伝承を知らぬ。或いは石田三成のことではないのか。識者の御教授を乞う。

「大和本草」本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が編纂した本草書。宝永七(一七〇九)年刊。明治になって西洋のそれらが本格的に輸入される以前、日本の博物学史に於ける最高峰と言える生物学書・農学書。

「野里(のさと)川」不詳。現在の尼崎市内にはこのような川の名は見当たらない。

「摂津名所記」京都の町人吉野屋為八が計画し、寛政八(一七九六)年から寛政十年にかけて刊行された、摂津国の通俗地誌で観光案内書でもあった「攝津名所圖會」のことか。先程、ネット上で原本を発見、それに当たって確認したところ、「野田川」が「野里川」であったり、やや、省略が過ぎるものの、同書から引いたものらしい。

「東生(ひがしなり)郡野田川」摂津国(現在の大阪府)東成郡であろうが、野田川という河川名は現在の旧東成郡域には見当たらない。現在の福島区野田地区は古くは「野田川万乗」と称され、『野田川域・地先海域は摂津・浪花浦第一の好漁場であり、魚族が豊富で「魚稼第一」として繁盛していたが』、寛永元(一六二四)年の『九条島・四貫島の新田開発で野田川の魚』稼ぎは『悪化するようにな』り、貞享元(一六八四)年の『安治川新堀の建替でそれまでの野田川の名も途絶している』(不動産会社「野田庄株式会社」公式サイト内の)とあるのだが、この福島区野田は少なくとも近代の東成郡域には含まれない。識者の御教授を乞う。前注の通り、これは「野里川」の誤りであろう。それでもやはり不明ではあるが。

「後太平記」江戸前期に成立した、「太平記」の後を引き継いだ形をとった南北朝後期から室町・戦国時代を扱った軍記物語。信頼度は低い。

「欠𢌞り」駆け回り。

「怨(ゑんこん)」「」は「魂」の異体字。

「續脩臺灣府志」(ぞくしゅうたいわんふし)は一七六四年に清(乾隆帝期)の余文儀の著になる台湾地方の地誌。

「使槎(しさ)録」「臺海使槎錄」。一七三六年に清(乾隆帝期)の黄叔璥(こうしゅくけい)の著になる台湾地誌。

「孫元衡」清の官人。台湾府の副知事を務め、文人としてここに出るような詩篇など多くの著作を残している。

「蠔山(がうざん)」一般には海中に暗礁のように積み上がった牡蠣の塊りを指す。

「鯨潮(げいてう)」鯨の潮吹きか?

「鱟帆(がくほ)」かのカブトガニの背の骨(風があると帆のようにあがると信ぜられたらしい。

「乕鯊(こさ)」カサゴのことか?

「鬼蠏(きけい)」「蠏」は「蟹」。

「紾(しん)として」「捩じれる」「縺れつく」の謂いか?

「蛤蚪(がふと)」「蛤」は二枚貝の総称であるが、「蚪」は蝌蚪で「おたまじゃくし」で意味不明。「胎」とあるからには孰れも食用にするその身であろうとは思う。この詩、私には何となく判ったような、結局、判らん詩である。識者の御教授を切に乞う中文サイトに「漁家口號」という題で載っており、「虎鯊鬼蟹紛無數」の箇所には「虎鯊背有斑文,鬼蟹狀如傀儡」とある。またまた半可通である。

「中夏」「中華」の誤記ではあるまいか? 中国の史書に記された最古の王朝として「夏」があるが、中国を指すのにこうは言わない。

「傅肱が蟹の書」北宋の傅肱(ふこう)の著した「蟹譜」の中に「恠狀」があり、そこに「呉沈氏子食蟹、得背殻若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常寶玩之」と出る。

「矢嶋」壇ノ浦の前哨戦があった矢島。

「赤間関」現在の山口県下関市の鎌倉時代に成立した呼称(「下関」はもっと古く平安前期からある)。これは広く『付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とウィキの「下関にある。

「秦の文武」ママ。「武文」の錯字。

「森氏」毛利梅園の友人らしい。

「生色を知らず」生個体は暗い褐色。しかも、生時は通常、第三及び第五胸脚で貝殻や塵芥などを背に固定して負っており、そうでなくても汚れて見える。

「乙未」天保六(一八三五)年。]

毛利梅園「梅園介譜」 梭貝(ヒガイ)

 

 

Higai

 

 

 

 

 

「怡顏齋
 介品」

 まがい。ひ貝。

 梭貝

  兩口と云ふ。 

 

上下に口あり。

機(はた)を織る

梭(ひ)に似たり。

故に名(なづ)く。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。吸腔目タカラガ(宝貝)イ上科ウミウサギガイ(海兎貝)科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei。「梭」は既に「梭尾螺」で注した通り(「杼」とも書く)、織機の付属用具の一つ。シャトル。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っている。本種はまさに名にし負う真正の「梭貝」と呼ぶに相応しいとても美しいフォルムをしている。私も嘗ては貝コレクターとして数個を持っていたが、皆、教え子にあげてしまって手元にはなくなってしまった。グーグル画像検索Volva
volva habei
で偲ぶよすがとしよう。必ずしも希少な貝ではなく、以前は標本屋でもそんなに高価な貝ではなかった。但し、破損し易く、標準では八センチメートル程であるが、大型(十センチメートル超)の完品は人気があるであろう。本邦沿岸の水深二〇~五〇メートル内外に普通に棲息するが、主に房総半島よりも南の地域に多く分布するようである。

「怡顏齋介品」本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの。早稲田大学古典総合データベースのこちらに「梭貝」の解説があり、

   *

梭貝(ヒカイ) 紀州弱浦にて両口(リヤウクチ)と云ふ。上下ニ流(クチ)アリ、機(ハタ)ヲ織ル梭(ヒ)ニ似タリ。故ニ梭(ヒ)貝ト云フ長サ三四寸。

   *

こちらでは同図(キャプションは「杼貝」。「杼」は「梭」と同義)が見られる。]

毛利梅園「梅園介譜」 榮螺(サヽヱ)

 

Sazae

 

榮螺(サヽヱ)【源「和名抄」。佐左江(さざゑ)。】

 

「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)」

      右九番 左(さ)たゑ

    さたゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て

      いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず

 

[やぶちゃん注:図の左下のキャプション。]

 

            壬辰十一月十五日

            眞寫

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像をトリミングした。腹足綱古腹足目リュウテン科リュウテン属 Turboサザエ亜属 Batillusサザエ Turbo sazae。螺層には非常に多くの節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha のフジツボが附着している。小さいので同定は絵からは困難だが、縦の白い縞が顕著に描かれている感じからは、フジツボ上科フジツボ科フジツボ属シロスジフジツボ Balanus albicostatus であろうかとも思われる。なお、本文中の「左(さ)たゑ」「さたゑ」の「た」は踊り字ではない。「さざえ」が転訛した「さだえ」という呼称が平安後期にはすでに存在したのである。知られたところでは「梁塵秘抄」に、

   *

備後の靹(とも)の島

その島 島にて 島にあらず 島ならず

螺(にし)なし 榮螺(さだえ)なし 石花(せい)もなし

海人(あま)の刈り乾す 若布(わかめ)なし

   *

と読まれているのである。因みに「石花(せい)」は「勢」でカメノテ(節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella)。これは男根に喩えた呼称と私は踏んでいる。

『源「和名抄」』源順(みなもとのしたごう)の字書「和名類聚抄」。以下のように載る。

   *

榮螺子 崔禹錫食經云榮螺子【和名佐左江】似蛤而圓者也(崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云く、榮螺子【和名、「佐左江」。】蛤(がう)に似て圓(まろ)き者なり)

   *

この崔禹錫は唐代の博物学者で、食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は平安中期に源順によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚して見ることは出来ない。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「佐左江」「左」の漢字には濁点が附されているのに注意

「六々貝合和哥」前の螺」の私の注を参照。国立国会図書館デジタルコレクションのの画像で和歌を視認出来(右冒頭)、貝の図はの左頁(貝合わせでは「右」)の「九 ささへ」。「梭尾螺」と同じく、「和泉屋 楓」氏のサイト「絵双紙屋」の「教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻」の『(8)』にも、

   *

 

  さたへ貝

 

さたへすむ

 瀨戸の

 いはつぼ

求出(もとめいで)て

いそしき

  あまの

けしき

 なる

   かな

 

いそしきとは、いそがし

          き

のことばなるべし。

あまは海辺のさもしき

人をいふ。これに付(つけ)ても、

下々(しもじも)は旦暮(あけくれ)、手あし

の労(ほねおり)のいとまなし、

たちゐにくるしきを、

うへつかたは、あはれと

しろしめさる

べきなり。

   *

とある。

「さゝゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て/いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず」元歌は西行の「山家集」に出る(一三七六番歌)、

 

   牛窓(うしまど)の瀨戸に海人(あま)の

   出でいりて、さだえと申すものをとりて、

   舟に入れ入れしけるをみて

 さだえ棲む瀨戸の岩壺(いはつぼ)求(もと)め出でてて急ぎし海人の氣色(けしき)なるかな

 

である。「牛窓の瀨戸」は現在の岡山県瀬戸内市牛窓と同地区の沖に浮かぶ前島(まえじま)との海峡部及び海域を指す。(グーグル・マップ・データ)。因みに、次の組歌である一三七七番歌はアワビを詠んでいる。参考までに挙げておく。

 

   沖なる岩に着きて、海人どもの鮑(あはび)採りける所にて

 いはの根にかたおもむきに並(な)み浮きて鮑を潛(かづ)くあまのむぎみ

 

「壬辰十一月十五日」天保三年。グレゴリオ暦一八三二年十二月六日。季節と、所謂、硬質の厚い石灰質の「蓋」(本来の厴(蒂:へた)は当該の「蓋」の裏側に附着して見える褐色を呈した緩やかな螺旋状形状を呈する薄いクチクラ質のものがそれ。我々が「蓋」と呼んでいる分厚い「ヘタ」と勘違いしているそれは二次的にその真正の「ヘタ」に炭酸カルシウムが沈着して肥厚したに過ぎない)の感じからは、生貝を写したものと私は踏む。]

毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)

 

Horagai

 

 梭尾螺(ほらがい)〔「三才圖會」及び「漳州府志(しやうしうふし)」。〕吹螺〔一名〕泥螺

  蘓頌(そしよう)曰く、形、梭(ひ)のごとし。

  今、釋氏、吹く所の者なり。

 

〔「潛確類書」・「樂書」に曰く、〕

  梵貝〔ホラガイ〕

   南蠻國、之れを吹き、樂(がく)を節(ふし)す。

 

〔佛書に曰く、〕

  法螺(ハウラ)〔と云ふ。〕

   本邦、昔より軍用に用(もちゐ)て、

   之れを吹く〔「源平盛衰記」。〕

   佛書「賢愚經」にも、

   軍用に用(もちゐ)る事を記せり。

 

 後土御門院明應八年六月十日、大風雨の夜、遠州

 橋本の陸(くが)より、法螺の貝、多く出て濵名の湖との間の

 陸地、俄に崩れて湖水とつづきて入海となる。今の荒江と

 前坂の間、今切之(の)入海、是なり。故に今は濵名の湖は、なし。

 濱名の橋は、湖より海に流るる川にかけし橋なり。今は、

 川、なければ、橋、なし。遠江(とほたふみ)と名づけしも、此湖ありて都に遠

 ければ、遠江と名づく。遠江とは「とをつあはうみ」也。「淡海(あはうみ)」とは

 「しを海」にあらず、水海也。遠江とは近江に對せる名也云々。

 

梭尾螺〔ホラ貝、又、法ラノ貝。〕一名、屈道研光〔「水族加恩簿」。〕梵響〔同上。〕

梵貝〔「潛確類書」。〕吹螺〔「三才圖會」。〕哱囉〔「武備要畧」。〕蠡〔「文獻通考」。〕

响螺〔淸俗。〕法螺〔佛書。〕

 

[やぶちゃん注:以下、下方右キャプション。]

 

壬辰十一月八日眞寫

 

「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)

    左八番         寂連法師

     山伏の梵貝(ほら)吹峯の夕くれに

     そことも知らぬすすのうわ風

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の画像をトリミングした(左頁に「榮螺」(サザエ)があるが、別物なので、そのキャプションは省略した)。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis厴(蒂:へた)が描かれてはいるが、それは現行の貝類標本に添えられたそれのようで、軟体部は一切見えていない。生体では厴は軟体部に接合しているから、これは明らかな死貝を写したものであることが判る本文でも記されるように、ウィキの「ホラガイ」によれば、『貝殻の殻頂を』四~五センチメートルほど『削り、口金を石膏で固定して加工した吹奏楽器が、日本、東南アジア、オセアニアで見られ、日本では、使用例は平安時代から確認でき』、十二『世紀末成立の『梁塵秘抄』の一首に、「山伏の腰につけたる法螺貝のちやうと落ちていと割れ砕けてものを思ふころかな」と記され、同じく』十二『世紀成立の『今昔物語集』においても、本朝の巻「芋がゆ」の中で、人呼びの丘と呼ばれる小高い塚の上で法螺貝が使用されていた記述がある。戦国時代には合戦における戦陣の合図や戦意高揚のために用いられた』。『現存する中世の法螺貝笛として、「北条白貝(大小』二『つ、日本名貝の一つ)」があり、現在、福岡市美術館所蔵で、由来は』十六『世紀末の小田原征伐の際、降伏した北条氏直が黒田如水の仲介に感謝し、贈ったものの一つとされる』。『修験道においては、立螺作法(りゅうらさほう)と呼ばれる実践が修行される。立螺作法には、当山派・本山派などの修験道各派によって流儀を異にし、吹奏の音色は微妙に違う。大まかには乙音(低音側)、甲音(高音側)、さらには調べ、半音、当り、揺り、止め(極高音)などを様々に組み合わせて、獅子吼に擬して仏の説法とし、悪魔降伏の威力を発揮するとされ、更には山中を駈ける修験者同士の意思疎通を図る法具として用いられる』。こうした古くからの戦場での使用から「陣貝」の異名もある。

「梭尾螺」「梭」は「ひ」(「杼」とも書く)で織機の付属用具の一つ。シャトル。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っており、ホラガイは著しく大きく、螺頂が尖っているのが目立つ類似性と、螺頂を古人が貝殻の「尾」部と認識したことによる命名と思われるが、そもそもが腹足類には螺頂が高く尖っているものは多く、ホラガイのような長巨大なそれよりも、寧ろ、中小型の別種の複数の種の方が梭の尾には似ており、実際に梭に遙かに酷似した、ズバリ、

吸腔目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei

がおり、この漢名は私には全く腑に落ちない

「漳州府志」(しょうしゅうふし:現代仮名遣。以下、概ね同じ)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「蘓頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。この部分は実際には蘓頌の原著(原典は私は不明)からの引用ではなく、李時珍の「本草綱目」の「海螺」(吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis を始めとした尖塔形腹足類のお話にならない広称項目)の「集解」の

   *

頌曰、海螺即流螺、厴曰甲香、生南海。今嶺外、閩中近海州郡及明州皆有之、或只以台州小者爲佳。其螺大如小拳、靑黃色、長四五寸。諸螺之食之。「南州異物志」云、甲香大者如甌、面前一邊直攙長數寸、圍殼衆香燒之益芳、獨燒則臭。今醫家稀用、惟合香者用之。又有小甲香、狀若螺子、取其蒂修合成也。海中螺類絶有大者。珠螺螢潔如珠、鸚鵡螺形如鸚鵡頭、並可作杯。梭尾螺形如梭、今釋子所吹者。皆不入藥。

   *

私が下線の太字とした部分を参考として引いたものに過ぎないと私は思う。

「釋氏」仏家。仏教の修行者の意。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。百二十巻。

「樂書」「陳暘楽書(ちんようがくしょ)」。北宋の陳暘の書いた音楽を中心とした技芸書。全二百巻。一一〇一年に徽宗に献上されたが,出版されたのは先立つ一一九九年であったという。内容は音楽・演劇・舞踏・曲芸・式典などに亙り、四書五経などの文を引き、解釈を加えた「訓義篇」の前半と、図を多く入れて楽理・楽器・楽隊舞隊の配列を示した「楽図論」の後半とから成る(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「賢愚經」原画像の「經」は「徑」であるが、訂した。「賢愚因緣經」とも称し、北魏の慧覚(えかく)等が漢訳した小乗経。全十三巻。仏の本生(ほんしょう)・賢者・愚者に関する譬喩的な小話六十九編を集める。

「後土御門院」後土御門天皇。在位は寛正五(一四六四)年~明応九(一五〇〇)年。

「明應八年六月十日」ユリウス暦一四九九年七月十八日。但し、実際には浜名湖が淡水湖から汽水湖化したのは、前年のようで、しかも原因は大暴風雨ではなく、地震とそれによって発生した津波である。ウィキの「浜名湖」の「歴史」によれば、『縄文中期~後期以降、浜名湖は庄内半島から日ノ岡より北にあり、その南は平野となっていて川として現在の弁天島駅付近で海に注いでいた。その後』、『この大平野が消滅、平安時代には浜名湖の出口は現在の湖西市新居町大倉戸』(おおくらと:この附近か(グーグル・マップ・データ))『に流れていて橋が掛けられた。この川を浜名川と呼び、ここを東海道が通っていた』。『一般的に古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。ただし、国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった』。しかし、室町後期(戦国初期)の明応七(一四九八)年に起きた明応地震(南海トラフ沿いの巨大地震(南海トラフ巨大地震)と推定される、明応七年八月二五日辰刻(ユリウス暦一四九八年九月十一日の午前八時頃)に東海道沖で発生した地震。推定換算でマグニチュード八・六とされる)と『それに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残る』。『この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。この今切の渡し(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、現在では鉄橋や道路なども通り』、『安全に往来できるようになっている』とある(下線やぶちゃん)。明応地震により消滅した浜名湖の陸地部分とその後の街道や宿の変化はウィキの「新居宿」が詳しい(図有り)。

「大風雨の夜、遠州橋本の陸より、法螺の貝、多く出て」「橋本」は明応地震で壊滅した古い東海道の宿場で、後の新居宿の西方にあったものと思われる。種々の情報から恐らくこの附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ。「橋本西」という交差点名を確認出来る)。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っている。私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」などを参照されたい。

「荒江」現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居か。浜名湖の開口部の東側。ここ(グーグル・マップ・データ)。次の「前坂」はその西側の浜松市西区舞阪町(まいさかちょう)舞阪であろう。

「今切之(の)入海」「いまぎれのいりうみ」。前注の下線部(「今切」の箇所)参照。

「故に今は濵名の湖は、なし」純淡水湖であった元の浜名湖の謂い。

「濱名の橋は、湖より海に流るる川に、かけし橋なり。今は川、なければ、橋、なし」前注の下線部(大倉戸の箇所)参照。

遠江と名づけしも、此湖ありて都に遠

「屈道研光」ホラガイの螺孔と螺の内側の光沢層による呼称か。

「水族加恩簿」呉越の毛勝の撰になる主に海産生物に関わる短文。こちらで読め、「梵響」が載る。

「哱囉」「ボラ」と読むか。朝鮮では「バラ」と読み、インド渡来の銅鑼、シンバルのこと。法螺貝の大きな響きに由来するか。

「武備要畧」北宋時代の儒学者程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)によって書かれた武術書。

「蠡」音は「レイ・ラ・リ」で、原義は瓢(ひさご)。ヒョウタンを割って作った器で、その形状の相似性から巻貝のニナ類やホラガイを指した。

「文獻通考」元の一三一七年に馬端臨(一二五四年~一三二四年)が完成させた上古から南宋の一二〇七年に至る歴代の制度の沿革を記した政治書。全三百四十八巻に考証三巻を付す。

「响螺」「キョウラ」。「响」は「響く」の意。

「壬辰十一月八日」本「梅園介譜」は文政一〇(一八二七)年~嘉永二(一八四九)年の作成になるから、「壬辰」(みづのえたつ)は天保三年でグレゴリオ暦一八三二年である。

「六々貝合和哥」潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので見られる。貝の図はの右頁(但し、こちらが歌合せの「左」)の「八 ほらの貝」。「和泉屋 楓」氏のサイト「絵双紙屋」の「教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻」(西川祐信画・京都菱屋治兵衞版・江戸鱗形屋孫兵衞・延享五(一七四八)年刊)の『(5)』にも、

   *

 

  ほらの貝

 

 山伏(やまぶし)の

  ほらふく

   みねの

 夕ぐれに

そこともしらぬ

  すゞの

   うわ風

 

古木(こぼく)・いわほの

うたにかゝり、雲

おそろしき深山(しんざん)に

法螺(ほら)ふく行者(ぎやうじや)の

そこともしらぬ

難行苦行を

おもひつゞけたる

うたなり。何の

身(み)もらくなることば

なしとおもひ

くらべて、つとめ

におこたる

べからす

 

   *

と出る。

「寂連法師」寂蓮法師。

「山伏の梵貝(ほら)吹峯の夕くれに/そことも知らぬすすのうわ風」前の教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻のサイト主の注によれば、「正治初度百首」に載る寂蓮の、

 

 やまふしのほらふくみねのゆふきりにそこともしらぬすののうはかせ

 

或いは、「正治初度百首異同歌 夫木和歌抄」の同じ寂蓮の、

 

 やまふしのほらふくみねのゆふきりにそこともしらぬすすのうはかせ

 

らしい。「すす」は「篠(すず)」で丈の低い竹の一種であるの篠竹のことであろうが、同時にこれは、法螺を吹く修験者が服の上に着る麻の衣、深山の「篠」の露に濡れるのを防ぐための「篠懸(すずか)け(衣)」の「すず」を掛けており、或いは、しかも、法螺の音の大音響にも、どこ吹く風と「涼(すず)しい」音を立てて、その「上」抜けて行く「風」の音(ね)よ、という謂いも掛けているように私には思われる。

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