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カテゴリー「「今昔物語集」を読む」の9件の記事

2016/04/21

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛付六衞府官人語 第五

【相当に品位を欠くお下劣でリアルな描写が後半を占めるによって食前食後の通読はこれを厳に慎まらるるよう、お願い申し上げる 

[やぶちゃん注:底本は池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」を用いたが、従来通り、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣で独自に附し(底本は現代仮名遣)、甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみとした。一部の記号につき、追加変更も行った。]

 

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛、六衞府(ろくゑふ)の官人(くわんにん)に付したる語(こと) 第五

 

 今昔(いまはむかし)、藤原の爲盛の朝臣と云ふ人有けり。越前の守にて有ける時に、諸衞(しよゑ)の大粮米(だいらうまい)を成さざりければ、六衞府の官人、下部(しもべ)に至るまで、皆、發(おこり)て、平張(ひらはり)の具(ぐ)共(ども)を持(もち)て爲盛の朝臣が家に行(ゆき)て、門(かど)の前に平張を打(うち)て、其の下に胡床(こしやう)を立(たて)て、有る限り居並(いなみ)て、家の人をも出(いだ)し不入(いれ)ずして、責め居たりけり。

 六月許(ばかり)の極(いみじ)く熱く日長(ひなが)なるに、未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで居たりけるに、此の官々(つかさつかさ)の者共、日に炮迷(あぶりまど)はされて、爲(せ)む方(かた)無かりけれども、『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』と思て、念じて居たりけるに、家の門(かど)を細目に開(あけ)て、長(おとな)なる侍(さぶらひ)、頸(くび)を指出(さしいで)て云く、「守(かう)の殿の『申せ』と候(さぶら)ふ也。『須(すべから)く疾(と)く對面給はらま欲(ほし)けれども、事の愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば、子共・女などの、恐(お)ぢ哭(なき)侍れば、否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに、此(か)く熱き程に、無期(むご)に被炮(あぶられ)給ひぬらむに、定(さだめ)て御咽(のんど)共も乾(かはき)ぬらむ。亦、物超(ものご)しに對面して、事の由(よし)をも申し侍らむと思給(おもひたまふ)るを、忍(しのび)やかに御坂(ごはん)など參せむと思ふは何(いか)が。便不無(びんな)かるまじくは、先づ、左右近(さうこん)の官人達・舍人(とねり)など入給(いりたま)へ。次々の府の官人達は、近衞官(こんゑのつかさ)の人達の立給(たちたまひ)なむ後に可申(まうすべ)し。一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)。暫し待給へ。先づ、近衞官の官人達、入給なむや』となむ侍る」と云へば、日被炮(ひにあぶられ)て、實(まこと)に咽(のんど)も乾(かはき)たるに、此く云出(いひいだ)したれば、『事の有樣(ありさま)をも云はむ』と思て、喜びを成して、「糸喜(うれし)き仰事(おほせごと)也。速(すみやか)に參り入て、此く參たる事の有樣をも申し侍らむ」と答ふれば、侍、其の由を聞て、「然(さは)」とて、門を開(ひらき)たれば、左右近の官人・舍人、皆、入ぬ。

 中門の北の廊に、長筵(ながむしろ)を西・東(ひんがし)向樣(むかひざま)に三間(げん)許に敷(しか)せて、中机(なかづくゑ)二三十許を向座(むかひざ)に立(たて)て、其れに居(す)ふる物を見れば、鹽辛(しほから)き干(ほし)たる鯛を切(きり)て盛(もり)たり。鹽引(しほびき)の鮭(さけ)の鹽辛氣(しほからげ)なる、亦、切て盛たり。鰺の鹽辛・鯛の醬(ひしほ)などの、諸(もろもろ)に鹽辛き物共を盛たり。菓子(くだもの)には、吉(よ)く膿(うみ)たる李(すもも)の紫色なるを、大きなる春日器(かすがのうつはもの)に十(とを)許づゝ盛たり。居畢(すゑはて)て後に、「然(さ)は、先づ近衞官の官人の限り、此方(こなた)に入給へ」と云へば、尾張の兼時・下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)と云ふ舍人より始めて、止事無(やんごとな)き年老(としおい)たる官人共、打群(うちむれ)て入來(いりきたり)ぬれば、「他(ほか)の府の官人もぞ入る」と云て、門(かど)を閉(とぢ)て、鏁(じやう)を差して鎰(かぎ)を取(とり)て入(いり)ぬ。

 官人共は中門に並居(なみゐ)たれば、「疾(と)く登り給まへ」と云へば、皆、登て、左右近の官人、東西に向座に着(つき)ぬ。其の後、「先(まづ)御坏(つき)疾く參(まゐらせ)よ」と云へども、遲く持來(もてきた)る程に、官人共、物欲(ものほしかり)けるまゝに、先づ怱(いそぎ)て箸を取つつ、此の鮭・鯛の鹽辛・醬などの鹽辛き物共をつゞしるに、「御坏遲々(おそしおそし)」と云へども、疾(とく)にも不持來(もてこ)ず。守(かみ)、「對面して聞(きこ)ゆべけれども、只今、亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて、速かにも否罷出(えまかりゐで)ず。其の程、御坏(つき)食(めし)て後に可罷出(まかりいづべ)し」と云はせて、出來ず。

 然(さ)て、御坏、參らす。大なる坏の窪(くぼ)やかなるを二つ、各(おのおの)折敷(をしき)に居(すゑ)て、若き侍二人、捧(ささげ)て持來(もてき)て、兼時・敦行が向座(むかひざ)に居(ゐ)たる前に置(おき)つ。次に、大なる提(ひさげ)に酒を多く入(いれ)て持來(もてき)たり。兼時・敦行、各(おのおの)坏を取て、泛(こぼる)許(ばかり)受(うけ)て呑(のむ)に、酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども、日に被炮(あぶられ)て喉(のんど)し乾(かはき)にければ、(ただ)呑(のみ)に呑て、持(もち)乍ら三度呑(のみ)つ。次々の舍人共も、皆、欲(ほし)かりけるままに、二・三(さむ)坏(ばい)、四・五坏づつ喉(のみ)て、喉(のんど)の乾けるまゝに呑てけり。李(すもも)を肴(さかな)にして呑(のむ)に、亦、御坏を頻(しきり)に參(まゐら)せければ、皆、四・五度、五・六度づつ呑て、後に、守(かみ)、簾超(すだれごし)に居(ゐ)ざり出(いで)て云く、「心から物を惜むで、其達(そこたち)に此く被責(せめられ)申して、恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき。彼(か)の國に、去年(こぞ)、旱魃(かんばつ)して、露(つゆ)徴得(はたりう)る物無し。適(たまた)ま露許(ばかり)得たりし物は、先づ止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば、有(ある)限り成し畢(はて)て、努々(ゆめゆめ)殘(のこる)物無ければ、家の炊料(かしきのれう)も絶(たえ)て侍(はべり)。女(め)の童部(わらはべ)なども餓居(うゑゐ)て侍る間に、此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば、可然(さるべ)き事思てなむ侍る。先づ其達(そこたち)の御料(おほむれう)に、墓無(はかな)き當飯(たうはん)をだに否不參(えまゐら)せぬにて押し量り給へ。前生(ぜんしやう)の宿報(しゆくほう)、弊(つたな)くて、年來(としごろ)、官(つかさ)を不給(たまは)らで、適(たまた)ま亡國(ばうこく)に罷成(まかりなり)て、此く堪難(たへがた)き目を見侍るも、人を可恨申(うらみまうすべ)き事にも非ず。此れ、自(みづから)の恥を可見(みるべ)き報(むくひ)也」と云て哭(な)く事、極(いみ)じ。

 音(こゑ)も惜しまず云居(いひゐ)たれば、兼時・敦行が云く、「被仰(おほせらる)る事、極(きはめ)たる道理に候ふ。皆、押量り思給(おもひたま)ふる事也。然れども、己等(おのれら)一人が事にも非ず。近來(このごろ)、府(ふ)に露(つゆ)物不候(さぶらは)で、陣(ぢん)・恪勤(かくごん)の者共、侘(わび)申すに依(より)て、此く發(おこ)り候(さぶら)へば、此れ皆、互(たがひ)にて候へば、糸惜(いとほし)く思ひ奉り乍ら、此く參(まゐり)て候ふも、極(きはめ)て不便(ふびん)に思ふ」など云ふ程に、此の兼時・敦行、近く居たれば、腹の鳴る事、糸(いと)頻(しきり)也。さふめき喤(ののし)るを、暫しは、笏(しやく)を以(もつ)て机を扣(たたき)て交(まぎら)はす。或(あるい)は、拳(こぶし)を以て斤□に彫入(ゑりい)れなどす。守(かみ)、簾超(すだれごし)に見遣(みや)れば、末(すゑ)の座に至るまで、皆、腹、鳴合(なりあひ)てすびき□合(あ)へり。

 暫(しばし)許(ばかり)有れば、兼時、「白地(あからさま)に罷立つ」と云て、怱(いそぎ)て走る樣(やう)にて行(ゆき)ぬ。其れを見て、兼時が立つに付(つき)て、異(こと)舍人共、追(おひ)しらがひて、座を立(たち)て、走り重なりて、板敷(いたじき)を下(おる)るに、或は長押(なげし)を下(おる)る程に、ひじめかして垂懸(たれか)けつ。或は、車宿(くるまやどり)に行(ゆき)て、着物をも不解敢(ときあへ)ず、痢懸(ひりかく)る者も有り。或は亦、疾(と)く脱(ぬぎ)て褰(かかげ)て、楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り。或は、隱れも不求敢(もとめあ)へず痢(ひ)り迷(まどひ)たり。此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て、「然(さ)は、思(おもひ)つる事ぞかし。此の翁(おきな)共、墓々(はかばか)しき事、不爲(せ)じ。必ず、怪(あやし)の事出(いだ)してむとは押量(おしはかり)つる事也(なり)。何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも不御(おはせ)ず。我等が酒を欲がりて呑が至す所也(なり)」と云て、皆咲(わら)ひて、腹を病(やみ)て、痢合(ひりあひ)たり。

[やぶちゃん字注:「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。「憎」と同義と採る。]

 而る間、門を開(あけ)て、「然(さ)は出給(いでたま)へ。亦、次々の府の官人達、入れ申さむ」と云へば、「吉(よ)き事なゝり。疾(と)く入れて、亦、己等(おのれら)が樣(やう)に痢(ひれ)よや」と云て、袴(はかま)共に、皆、痢懸(ひりかけ)て、巾(のご)ひ繚(あつかひ)て、追(おひ)しらがひて出るを見て、今(いま)、四(よつ)の府の官人共は咲(わらひ)て逃(にげ)て去(さり)にけり。

 早(はや)う、此の爲盛の朝臣(あそむ)が謀(たばかり)ける樣(やう)は、「此く熱き日、平張(ひらはり)の下に三時四時(みときよとき)、炮(あぶら)せて後(のち)に呼入れて、喉(のんど)乾(かはき)たる時に、李(すもも)・鹽辛き魚(うを)共を肴にて、空腹(すきはら)に吉(よ)くつゞしり入(いれ)させて、酸(す)き酒の濁(にごり)たるに、牽牛子(けにごし)を濃く摺(すり)入れて呑(のま)せては、其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」と思(おもひ)て、謀(たばかり)たりける也(なり)けり。此の爲盛の朝臣(あそむ)は、極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の、物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)にてぞ有(あり)ければ、此(かく)もしたる也(なり)けり。「由無(よしな)き者の許(もと)に行きて、舍人(とねり)共(ども)、辛(から)き目を見たり」とてなむ、其の時の人、咲(わら)ひける。

 其より後、懲(こり)にけるにや有らむ、物不成(ものな)さぬ國の司(つかさ)の許(もと)に、六衞府(ろくゑふ)の人、發(おこり)て行く事をば、不爲(せ)ぬ事になむ有(あり)ける。極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて、追返(おひかへ)さむにも不返(かへる)まじければ、此(かか)る可咲(をかし)き事を構(かまへ)たりける也となむ語り傳へたると也(や)。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に、昭和五四(一九七九)小学館刊の日本古典文学全集馬淵・国東・今野訳注になる「今昔物語集 4」(第四版)も一部参考にした)

「付したる」標題であるが、意味不詳。「伏」(伏せたる:奇抜なる計略によって折伏(しゃくぶく)させて退散させたの意。腹を「折」り曲げて地に「伏」せるたぁ、文字通りと言えはすまいか?)辺りの語写が疑わられるのではなかろうか? されば訳では敢えてそう翻案した。

・「藤原の爲盛」(?~長元二(一〇二九)年)は平安時代の官人で藤原北家魚名(うおな)流。参議藤原安親(やすちか 延喜二二(九二二)年~長徳二(九九六)年)の子。万寿二(一〇二五)年に越前守に任ぜられ、その在任中に死去した。寛弘二(一〇〇五)年に左大臣藤原道長に馬二頭を献上している。長和二(一〇一三)年以前には加賀守を務めている。位階は従四位下まで昇ったが、散位(内外の官司の執掌を持たずに位階のみを持つ者。散官とも称した)の期間が長く、任官記録は上記の加賀守と越前守などに留まる。参照したウィキの「藤原為盛」によれば、本話では『狡賢い人物として描かれているが、実際には任符を無くしたりとミスが多かったようである』(「小右記」長元元年七月五日の条に拠るとの注有り)。『伊達氏ら有力武家がその末裔と称した』とある。

・「諸衞」天皇の日常や行幸時に付き添っての身辺警護・宮城警護・京内夜間巡回などを主な任務とした律令制下の中央軍事組織である「六衛府」(左右の「近衛府(このえふ)」及び左右の「衛門府(えもんふ)」と、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」で六組織)。これは弘仁二(八一一)年以降でそれ以前は衛門府は一つで「五衛府」であった。

・「大粮米(だいらうまい)」「大粮」は古代律令制に於いて中央官司の下で働く仕丁・衛士・采女らに支給された糧米をいう。「公粮」(こうろう)とも称した。

・「官人」下級官吏。

・「下部」その官吏らの私的な下人。

・「發(おこり)て」決起して。「怒る」ではない。大挙して行動を「起こす」の「おこる」である。古典全集の冒頭注によれば、こうした六衛府が連合した強訴座り込みといった愁訴は『ケースは全く異なるが』、「小右(しょうゆう)記」(公卿藤原実資の日記で現在は天元五(九八二)年から長元五(一〇三二)年までが残る)『長和四』(一〇一五)『年七月五日の条にも見え、事と次第によっては、類似のことも間々(まま)行われていたものらしい』とある。長和四年は本シークエンスの推定年(後注参照)の十三年前に相当する。

・「平張(ひらはり)の具」直射日光や雨を防ぐための、天上の平たい天幕(テント)一式。

・「胡床(こしやう)」読みは底本のもので、古典全集版では「あぐら」とある。床几(しょうぎ)。折り畳み式の腰掛けのこと。

・「六月」新暦では六月下旬から八月上旬頃に相当であるが、彼が越前守であったのは万寿五(一〇二八)年で、翌年長元二(一〇二九)年閏二月五日以前に死去しているで(古典全集冒頭注に拠る)、この事件が事実とすれば、万寿五(一〇二八)年六月しかない。そこで同年の旧暦と新暦を見てみると(但し、総て現在との比較するために後のグレゴリオ暦での換算を示した。何時もお世話になっている「こよみのページ」に拠った)、

万寿五・長元元年旧暦六月  一日 → 一〇二八年七月  一日

万寿五・長元元年旧暦六月 三十日 → 一〇二八年七月 三十日

である。しかも、ここには「日長(ひなが)なる」頃、とある。これを文字通り、二十四季節の「夏至」ととるならば、これは、新暦では七月二十一日か二十二日辺りになるから、

万寿五・長元元年旧暦六月二十一日 → 一〇二八年七月二十一日

万寿五・長元元年旧暦六月二十二日 → 一〇二八年七月二十二日

で、まさしく、梅雨明けの「極(いみじ)く熱く」、しかも湿気も多くして、ジリジリとした照りつける暑さが、これ、ロケーションとしてはバッチ、グーではないか!

・「未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで」「つとめて」は早朝で、古典全集は『夜明け前』とする。ここにわざわざ「未だ」と冠したのは、暑い時期で涼しいうちに幕営作業はしたいから、これこそ正解で、漠然とした早朝ではなく、日の出前の曙の頃からとしたい(当時の平常の日常の開始は日の出を起点とするから、それより前に門前に天幕を設営すれば、まさにルーチンな生活活動を阻害し、制限することが可能となる。何より周囲からの外見(そとみ)も格好悪い)。因みに、今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の日の出は午前四時四十三分である。「未の刻」は午後二時頃。仮に今年の七月の場合なら、天幕設営のために四時過ぎには現地に就いたとして、午後二時までは、押しかけて来てから確実に十時間は経過していることになる。今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の太陽の正中時刻は十一時五十九分である(以上の時刻も「こよみのページ」に拠った)。

・「日に炮迷(あぶりまど)はされて」日射病・熱中症状態である。天幕の覆いがあっても輻射熱があるので、安心は禁物である。彼らは水分供給の用意さえもしていない。恐らくは、為盛は世間体を憚って直ちに交渉に応ずると安易に踏んでいたからであろう。

・『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』反語。この《「物」「成」す》とは定められた糧米の納付分を直に徴収することを指す。

・「長(おとな)なる侍(さぶらひ)」爲盛の家臣で、如何にも分別のありげに見える年配の侍。為盛の交渉人選定も万全である。

・「守(かう)の殿」国守である主人。

・「愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば」如何にも仰々しくたいそうな御人数にて責め立てられましたによって。

・「否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに」家内では者どもが皆、恐懼して恐れ慄き大騒ぎとなってしまい、とてものことに、速やかに静かにそちらの方々とご対面申し、我らが方の申し開きなどを致そうと思うても、致しようがない状態で御座いますが。「に」は逆接の接続助詞で、これは絶妙の使い方である。

・「無期(むご)に」このように、きりもなく何時までも。一見、相手の苦痛に同情し、その痛みを深く慮ったかのようなニュアンスであり、実に巧妙な表現と言える。

・「物超(ものご)しに對面して」決起して交渉に来た連中は王家子飼の侍であるが、それより下級官吏の舎人も含まれているから、従四位下の為盛は直面(じきめん)はしないのが普通で、簾越しとなる。後に為盛は簾越しではあるが、彼らのすぐ近くにまでいざり出ている。それは為盛が、自分の企みの成果をまざまざと見たいという、やや変態的な欲求からのように私には思われる。

・「申し侍らむ」公家が下級官吏に謙譲語と丁寧語を用いている。老家臣が官人に対して用いているので、不自然ではないが、しかしやはり実に巧みな心理戦略ではある。

・「舍人」皇族・貴族に仕えて雑務を行なった下級官人の総称。律令制下には内舎人・大舎人・春宮舎人・中宮舎人などがあり、主に貴族・官人の子弟から選任された。ここでは一応、官人も舎人ではあるが、それらより地位の低い舎人を「舍人」として区別して用いている箇所もあるように思われる。

・「御坂(ごはん)」底本の池上洵一氏は『坏(つき)が正か。(酒など)一杯さしあげたが、如何ですか』と脚注し、古典全集頭注では『「御飯」の当て字と見るが、この当時、他に用例を見ない。ただし』、平安末期成立の古辞書「伊呂波字類抄」には「強飯(きやうはん)」『などの例もあり、字音語』としては『洒落た言い方か』とある。後のシークエンスから見ると、「坏」で池上氏の説がよい。それで訳した。

・「一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)」納得出来る謂いではあるが、しかし、敵方全部へ仕掛ける全面的「戦略」核攻撃による致命的「大核爆発(!)」を狙わず、小人数(こにんず)を懐へ入れて巧みに奇法で迎え撃つところの限定的な小振りの「小核爆発(!)」による「戦術」核攻撃という、如何にも小狡い上手さは、正に後の武家の戦法に通ずる実践的奇略であるとも言える(仮に途中で計略を見破られても、人数が少ないので、なんとか誤魔化せそうでもある)。美事!

・『事の有樣(ありさま)をも云はむ』自分らの切羽詰った事情と正当なる要求をはっきりと言上してやろう。

・「喜びを成して」饗応の申し出に礼(「喜び」)を述べて。喜んだのではないので注意が必要。

・「中門の北の廊」『寝殿造里の対屋』(たいのや)『と釣殿をつなぐ廊の中間に設けた門。玄関の役割を果たした』(池上氏注)。「北の」とあるから、その廊下の対屋寄り(北寄り)の辺り、とうことになる。

・「三間(げん)許」凡そ五メートル四十五センチ。

・「中机(なかづくゑ)」古典全集は『未詳』『「中ニ机」と解すべきか』とし、池上氏は『向き合って座る中に置く机の意か』とある。

・「鯛の醬(ひしほ)」鯛の身に麹や鹽・酒等を加えて発行させた魚醤(ぎょしょう)。やはり、一種の塩漬けと捉えてよい。

・「春日器(かすがのうつはもの)」春日塗り(表を朱、裏を黒の漆で塗ったもの)で、螺鈿細工(青貝を鏤めた)の高価な高坏(たかつき)或いは平盆(ひらぼん)。

・「尾張の兼時」尾張兼時(生没年不詳)は平安中期の官人で楽人。官職は左近衛将監。但し、池上氏の注に、彼の『活躍期は、村上朝から一条朝にかけてで、為盛の任越前守』『以前に没したと思われ、時代が齟齬する』とある。「今昔物語集」の他の笑話にも出る。

・「下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)」下毛野(しもつけの)淳行(生没年不詳)平安中期、朱雀天皇朝(九三〇年~九四六年)に近衛府に出仕した官人。官職は左近将監。「今昔物語集」の他の段にも出るが、やはり彼も時代が齟齬する。

・「他(ほか)の府の官人もぞ入る」狭いので、これ以上、他の衛府の官人の方々に入られては(困りますので)。の謂い。

・「坏(つき)」盃(さかずき)。酒杯。

・「遲く持來(もてきた)る程に」無論、塩辛いものを先に多量に食わせて、喉をさらにからからにさせるための確信犯の作戦である。

・「物欲(ものほしかり)けるまゝに」空腹状態にあったので。「まゝに」は形式名詞に格助詞がついたもので、原因理由を表わす。

・「つゞしる」「嘰(つづし)る」(ラ行四段活用動詞)で、「少しずつ食う」の意。

・「亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて」重い「風の病い」に罹患して堪え難いほどに腹が渋り、下痢をしているめに。「風」は「風邪」「風病(ふうびょう)」であるが、これは現在の流行性感冒よりも広い疾患・症状を指す。ここで「堪難(たへがた)くて」を「下痢をして」と訳したのは池上氏の注に拠るもの。後のシークエンスの伏線として、上手い、と思ったからである。

・「御坏(つき)食(めし)て」充分に御酒杯をお重ね戴いた上。

・「大なる坏の窪(くぼ)やかなる」古典全集頭注に『がぶがぶ多量に飲ませようとの魂胆』と注する。

・「折敷(をしき)」檜薄く剝いだ「へぎ」で作った縁附きの盆。多くは方形で食器などを載せた。

・「提(ひさげ)」動詞「ひさ(提)ぐ」(引き下ぐ)の連用形の名詞化したもので、銀・錫製などの、鉉(つる)と注ぎ口の附いた小鍋形の銚子。

・「酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども」伏線。濁っていて酸っぱいのは――ただの酒――では、ないからである。

・「心から物を惜むで」おのれのさもしい物惜しみの性質(たち)、吝嗇(りんしょく)故に。

・「恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき」反語。かくも強訴せられて面目を失い、おぞましき恥を見せることと相い成ろうとは、思ってもいなかった。

・「露(つゆ)」副詞。少しも。

・「徴得(はたりう)る」「はたる」は「督促る」「徴る」(ラ行四段動詞)で「催促する」「促し責める」「とりたてる」の意。年貢として徴収し得る。

・「止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば」古典全集では「公事」を『院や天皇、大寺社などから』賦課された何ものにも優先しなければならない賦役分で、『土地にかけられる年貢に対して、ホトに課せられる賦役』とある。それは本来なら実動の賦役分であるが、『ここは、それを物納に替えたケース』とある。目から鱗。

・「家の炊料(かしきのれう)」私たちの屋敷で必要とする食い扶持。

・「此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば」現在只今、彼らから強訴を受けるという、おのれが眼前に於いて現に恥じを晒しているのを自覚致すにつけても。

・「可然(さるべ)き事思てなむ侍る」――最早、恥を雪ぐには、これ、それなりのことをせずんばならずと思うておりまする――というのである。『自害・死など』(古典全集注)や『出家遁世などをいうか』(底本池上氏注)とあるが、自害はちょっととは思うが、面白さから言うとそれもアリか。

・「墓無(はかな)き當飯(たうはん)」粗末な食事。口汚し程度の粗品。

・「弊(つたな)くて」徳が至らず愚かで。運悪くして薄命で。

・「官(つかさ)を不給(たまは)らで」為盛の注を参照。実際に彼は散位であった時期が長い。

・「亡國(ばうこく)」古典全集注に、『旱魃で収穫もないに等しい疲弊した状況の国。国守の収入も乏しく、上納義務も果たせないのも、まったくもってそのためです、お察しくださいとの含み』があるとする。若い読者のために老婆心乍ら言い添えておくと、彼は無論、現地に実際に赴く実務国守ではなく(それは中クラスの受領階級の連中が遣わされる)、遥任国守として京に居るのである。

・「哭(な)く事、極(いみ)じ」大いに派手に泣いている。無論、芝居である。

・「陣(ぢん)」衛府の詰所であるが、以下と並列の具合が悪い。「陣の者」で衛府の中での主構成員たる、衛府内部での相対的に上位にある官人(この場面での兼時や敦行クラスの者)の謂いで採るべきか。

・「恪勤(かくごん)」衛府に勤めている舎人。

・「近く居たれば」その時には、為盛のいざって出て来た、その近くに参って居たので。

・「さふめき喤(ののし)るを」古典全集注に『ごろごろ、ごにょごにょと回りにも聞えるのを』とある。よか、注じゃ!

・「笏(しやく)」官位者が礼服や束帯を着用の際に、儀礼として右手に持った細長い板。柊・桜・榊・杉などの白木で作られていた。サクとも。一種の強訴的なものとは言えど、従四位の越前守為盛に面会しに来ているのであるから、兼時・敦行は相応に礼服を着用しているのである。

・「斤□」池上氏の注がよい。『該当字は未詳だが、拳を腹に強く押し当てる場面ではあろう。「斤」を「片」の誤写とみて欠字に「腹」を想定する説もある』とある。この「腹」説に私は私の幼少の頃からの長いIBS(Irritable Bowel Syndrome過敏性腸症候群)体験から(私は小学校の朝礼で三度も大便を洩らした)全面的に極めてリアルに賛同出来るのである。それで訳した。

・「すびき□合(あ)へり」「すびく」は痙攣を起こし、痛み・苦しみが体中を走ることをいう。欠字は池上氏は不詳とし、古典全集は早くも『ヒリ』(放つ)か、とする。「ひり」はちょっと私としては早い気はするのだが。

・「白地(あからさま)に」ほんのちょっと……。少しばかり……。脂汗が見える。

・「追(おひ)しらがひて」先を争うようにして。我れ先きにと後を追うかのようにして。

・「長押(なげし)」下長押(しもなげし)。板敷の廂(ひさし)の間(建物の外方にある板張りの間)と簀子(すのこ:廂の外に細い板を並べて間を少し透かして打ちつけた、現在の濡れ縁に相当する部分)との境(床部)に横に渡した角材。

・「ひじめかして」古典全集は原文「ヒチメカシテ」とし、『擬音語。びちびちと音をたてて』と注する。

・「車宿(くるまやどり)」貴族の屋敷で中門の外につくられた牛車(ぎっしゃ)や輿(こし)を入れておく建物であるが、ここは中門と鍵で閉じてしまっているので不審。諸本は一貫して「車寄せ」とするが、これは牛車を寄せて地面に降り立つことなく、屋内から乗り降り出来るよう、建物の出入り口に庇などを張り出して造った場所をいう。そこは或いは目立たぬように建物の端にあり、しかも遮蔽物があったのかも知れない。とすれば、そこへと走るのは納得は出来る。私はしかし「車宿り」と「車寄せ」は違うものと思う。位置関係に齟齬があっても、私は「ひりだす」なら「車寄せ」ではなく、「車宿り」を選ぶ。それで訳した。

・「痢懸(ひりかく)る」古典全集は御丁寧に「痢懸(くそひりかく)る」とルビする。

・「褰(かかげ)て」巻き上げる。高く掲げる。ここのイメージは脱ぐ暇もなく、下部を絡め挙げて、褌の隙間からひり出すシチュエーションであろう。

・「楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り」「楾(はんざふ)」は「半挿」「」「匜」などと書き、湯水を注ぐための器で、その柄が半分器の中にさしこまれてあるもの。柄に湯水が通ずるための溝がある。後に広く盥(たらい)の意ともなった。「はにそう」「はそう」などとも訓ずる。ここは所謂、強烈な下痢、水様便を勢いよくひり出すシーンである。

・「隱れ」名詞。隠れる場所。

・「此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て」こここそが本話の眼目! これこそが「今昔物語集」という、至って健康な健全なる素晴らしき笑いの中にある素晴らしい世界の表出である! こういう古えの神話的な豪快な笑いの時空間を我々日本人は忘れてしまって久しい。それが私には淋しいのである。

・「翁(おきな)共」為盛を指す。じいさま。「共」(ども)は複数形ではなく、親しみを込めた接尾辞である。

・「墓々(はかばか)しき事」ちゃんとしたこと。際だってさえた誰もが感心するようなこと。

・「何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも御ず」(「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。古典全集版ではこの漢字は《「忄」+「惡」》である)――しかしまあ何だ、どんなことをされても、こんなことになってもだ、何つーか、この守(こう)の殿(との)は、何とも! 憎み申し上げることは、さて、出来ねえんだな! これが!――なんと、素晴らしい台詞であろう!

・「吉(よ)き事なゝり」「ななり」は懐かしいね! 「なるなり」(断定の助動詞「なり」の連用形+推定・伝聞の助動詞「なり」で、その撥音便「なんなり」の「ん」が平安期には表記字がなかったことによう無表記で「ななり」でも「なンなり」と読むんだと盛んに古文の授業でやったよね! ここは相手の話などを聴いてある判断を下し、「~であるというようだな。」「~であるということだわな。」の謂いであるから、皮肉を利かせた笑いのダメ押しの「そりゃまた! ごっつう! ええことやっうことやなあ!である!

・「巾(のご)ひ繚(あつかひ)て」大慌てで拭おうとするが、ひっきりなしに出て、そこらじゅうに飛び散っているものだから、結局、拭いかねて諦め。

・「追(おひ)しらがひて」我れ先にと後を追うようにして。

・「四(よつ)の府」残りのび左右の衛門府(えもんふ)と、左右の兵衛府(ひょうえふ)の面々。

・「早(はや)う」は、ずっと後の一文末の「謀(たばかり)たりける也(なり)けり」に呼応する。この「はやう」は詠嘆の助動詞「けり」と呼応する呼応の副詞で、「なんとまあ~だったことよ」「驚いたことには~であったのだなぁ」の意である。「なりけり」(断定の助動詞「なり」の連用形+過去・詠嘆の助動詞「けり」終止形)は、文末にあって今さらになって初めてその事実に気づいたことを示すのだったね。これも、まっこと、懐かしいね。

・「三時四時(みときよとき)」「一時」は現在の二時間相当であるから、六~八時間。前に十二時間としたのとは「炮(あぶら)せて」とあるのだから、何ら、矛盾しない。

・「つゞしり入(いれ)させて」前注で「つづしる」を「少しずつ食う」と注したが、「空腹(すきはら)」なんだから、少しずつ食わせるのは健康上の悪くはない。しかも少しずつ食わせて結果して腹一杯にさせると読んでも何ら、問題ない。古典全集には『「ツヾシル」はここでは必ずしも、少しずつ食べるの意ではない』とあるが、だったら古語辞典にもそう書いておいて欲しいもんだね。

・「牽牛子(けにごし)」ここの読みは古典全集に従った。底本は『あさがお』(あさがほ)とルビする。昨日(二〇一六年四月十九日)にアップした「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲/葛上亭長/地膽」でも書いた通り(というか、本電子化はそれに反応した私の古い秘蔵っ子の教え子のコメントを受けて急遽、行ったのである)、「牽牛子」は現行では「けんごし」と読み、漢方薬に用いる生薬の一つで、普通の朝顔(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nilの種子を乾燥させて粉末にしたもの。強い下剤作用があり、利尿剤としても用いられるが、下剤効果が非常に強いので使用には注意を要する。「牽牛」となると多くの方は七夕の牽牛星を思い出すだろうが、あれとは関係ないらしく、ウィキの「アサガオ」には中国の古医書「名医別録」によると、牛を牽いて行って、『交換の謝礼したことが名前の由来とされている』とある。『種子は煮ても焼いても炒っても効能があるものの』、『毒性が強く、素人判断による服用は薦められない』とやはり注意書きがある。

・「其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」確信犯の反語。

・「極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の」「の」は同格の格助詞で次の表現と並んで「翁」にかかる。古典全集の現代語訳では『たいそう奇抜なことを考え出すのが特異な人物で』とする。

・「物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)」この読点はない方が分かりがいい。古典全集の現代語訳では『おかしなことを言っては人を笑わす老獪(ろうかい)なじいさん』とする。

・「辛(から)き目」無論、「えらい目」であるが、辛いものをたんと食わされたここと響き合って面白いではないか。

・「極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて」ダブりはママ。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

  越前守為盛、諸衛府(えふ)の官人を文字通り「折伏(しゃくぶく)」したこと 第五

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原為盛の朝臣(あそん)という人がおった。

 その御仁が越前守であられた折りのこと、近衛府(このえふ)と衛門府(えもんふ)と兵衛府(ひょうえふ)のそれぞれ左右、合わせて六つの衛府に、越前の国より給わることになっておった大粮米(だいろうまい)の分が、何時まで経っても、全く以って納められなんだによって、その六衛府の官人を始めとして、その下人どもまでが一丸となって、これ、用意万端整え、為盛朝臣の屋敷へと大挙して押しかけ、門前にものものしく天幕を張り巡らし、そこに腰掛けをずらりと並べ置いて、その総勢がこれまた皆(みんな)して、そこへザッと腰を下ろして居坐り、さればこそ、屋敷の者らも出入り出来んようにまでなってしもうて、大粮米不納の儀につき、激しく抗議致いて御座ったと申す。

 

 それは、まさにちょうど六月の、よう晴れ渡った、雲一つとない、えろう暑い、折しも最も日の長ごうなる夏至の頃おいで御座った。

 未だ日の出前の早朝から待ち構え、それから居続けとなって、今しもまさに未(ひつじ)の刻になんなんとしておった。

 天幕はあっても照り返しがきつい。梅雨も明けたばかりで、射るような陽光に下から上から炙(あぶ)られて、者どもは汗みどろ、もうすっかり頭がぼうーっとして仕方がのうなっておったと。

 それでもしかし、

「――納めるもん、納めて貰わんうちは、是が非でも、帰らんゾッツ!!!」

と、誰彼(たれかれ)となく、時に雄叫びのような奇声を挙げては、これ、熱暑がために意識の失いかけるのを堰(せ)いて御座った。

 と――正面の屋敷の門が少うし――開いた。

 そこから徐(おもむ)ろに、年配の侍が一人、首を出だいた。

「……越前の守様が『申し上げよ』との仰せにて御座いまする。……おっほん――

『……何としても、出来得る限り、早うにお目にかかりたくは存ずれども……このように皆々さま、あまりに多く御参集せられた上、かくも、おどろおどろしき放声にてお責め立てになられますれば……屋敷内におりまする女(おんな)子どもなどの、恐れ慄いておりますればこそ……お迎え入れ申し上げて御対面申し、我らが方(かた)の事情なんどをも縷々御説明致しますこと、これ、出来かねておりまする。……が……さても……いや。と申せ……かくも暑き折りなれば……これ、何時までも、そのように陽に炙られ続けなされましたのでは……これ、さぞかし、御喉(おおんのんど)なども……これ、お渇きになっておらるるに相違御座いますまい。……さればとよ、私とめと致しましても、これ、

――直ぐにでも御簾越しにて親しくお会い申して、我らが方の事情をもつぶさに申し上げたきもの――

と思うておりますれど……さて……訴えて来られたそちら様の御立場をも鑑みますれば……そのぅ……表立ってと申す訳には参らぬは、これ、重々承知乍ら、

――それとのぅ軽く、一杯、召し上がって戴けぬか――

と存じまするが……さても、如何で御座ろう?……この儀、お差し支えのないとならば、まずは、左右の近衛府の官人の方々や舎人(とねり)の方々、最初に屋敷内へとお入り下され。続く衛門府や兵衛府の御方たちは、これまた、その後(のち)にご案内し申し上げましょうほどに。いや、無論、御同心のお方がたなればこそ、これを一度期(き)にお迎え入るるが礼儀、とは存じますれど、何と申しましても、貧乏公家にて御座いますれば、むさ苦しく所狭(ところせば)き茅屋(ぼうおく)にて、かくも大勢の皆様を一度にお入れ申し上ぐることの出来ますような地所も、これ、御座いませぬ。暫し、残りの御方々はお待ち下されまして、さても、さ、さ、まずは、近衛の官人の皆様がた、どうか、お入り下さいませ。』

――と、まぁ、かくも主(しゅう)の者の申しております次第にて御座いまする。……」

と慫慂(しょうよう)致いた。

 じりじりと陽に炙られ、まっこと、喉(のんど)もすっかりからからに渇いておったところへ、かく申し入れのあったればこそ、前列に居並んだる近衛府の官人の一人が、これ、誰(たれ)に言うとものぅ、

「……い、いや!……うむ!……こ、これを好機として、一つ、しっかと! 我らが存念をはっきり、先方へ告げんに、若(し)くはないッ!」

と叫んだによって、纏め役の官人はかの老侍(ろうざむらい)に向かって礼を述べて、

「……そ、それは、まぁ、正直、実に嬉しい仰せでは御座る。――速やかに御屋敷内に参り入れされて戴き、かく、参ったその訳を仔細に申し上げたく存ずる!」

と答えたによって、侍はその答えを聴くや、

「さあ、どうぞ。」

とざっと門を開いたによって、左右の近衛府の官人やら舎人やらは皆、屋敷の内へと入ったのであった。

 

 中門の北の渡り廊下に、既にして長い莚(むしろ)が東西向かい合わせにざっと綺麗に敷かせてあり、その中ほどに、やはり机が二・三十台、その莚に向かい合って座れるよう置いてある。

 しかも、その上に既に据え置かれてあるものを見れば、これまずは、如何にも塩辛そうな干した鯛の切って盛られてあり、塩鮭(しおじゃけ)の、これまた、塩辛そうなる身の、切って盛られてあって、他にも、鯵の塩辛やら、鯛の醬(ひしお)にしたものなんど、悉く塩辛い酒肴(しゅこう)どもが数々盛ってある。

 果物としては、よぅ熟(う)れて、李(すもも)の紫色になったるが、これまた、大きなる春日(かすが)塗りの豪華なる器物(うつわもの)に十個ほどずつ盛られたが、幾つも置かれてある。

「さ。さても。近衛府の官人の皆様がたのみ、こなたへ入らせ給え。」

と、かの老侍が案内(あない)致いたによって、尾張兼時や下野敦行と申す名の知られた高位の舎人より始めて、見るからに一癖も二癖もありそうなる年老いた官人どもが、一塊りとなって入ってきた。と、かの老侍、

「――先に申し上げました通り、所狭(ところせば)ければ、他の府の官人の方々が勘違いなさって入って来られますと困りますれば――」

と言いつつ、手早く、門を閉めてしまうと、錠を掛け、その鍵を持って、中へと向かう。

 

 官人どもは、かの老侍の慇懃(いんぎん)なる案内(あない)に従い、中門の辺りに並んでおったが、

「さ、さ。早うにお昇(あが)り下さいませ。」

と言うたによって、皆して、かの廊下へと上(のぼ)り、東西に向い合って着座致いた。

 その直後に、老侍が、

「早う! お盃(さかずき)を差し上げぬか。」

と内の者に指図致いて御座った。

 ところが……これ、何時まで待っても、なかなか酒が運ばれて、来(こ)ぬ。

 官人どもは、ともかくも早朝からの空き腹に堪えきれずなって、早速、箸を取ると、眼前に居並んだる塩鮭やら塩鯛やら塩辛やら醬(ひしお)やらといった、そのまぁ、塩辛いものを、あれこれ少しずつつまんでおったが、未だ酒は、来ぬ。

「酒の遅いぞ! 如何(いかが)致いた?!」

とさも不満げに催促致いたものの、これがまた、なかなか、来ぬ。

 越前守の方はといえば、これまた、老侍の奥へ行ったが出でて参ると、

「……まことに……ご対面申し上げ、親しゅうご挨拶申し上ぐるべきところ乍ら……このところ、主(しゅう)が儀、風邪(ふうじゃ)を患ろうておりまして。……なかなか。かの病状の悪しゅう侍れば……直ぐには出でて参ること、これ、叶いませぬ。……さればこそ、暫く御酒(ごしゅ)を召し上がって戴き、その後(のち)に、ご挨拶に罷り出でますればこそ。ひらに御容赦(ごようしゃ)――」

と、その老侍に言わせるばかりにて、出で来る気配も、ない。

 

 さても、暫くして、やっと酒が出て参った。

 盃はと言えば、これがまた――異様に大きなるものにして――酒を注ぐ中の窪みがこれまた――異様に――深い。

 それを二つ、東西に坐した官人舎人らがために、それぞれの折敷に据え載せてゆく。若き侍が二人、かの兼時と敦行が向かい合わせで坐っている前にやって参ると、同じように恭しゅう、盃を置く。

 次いで、これまた――大きなる提(ひさげ)に――酒をなみなみと入れて持ち来たり――兼時と敦行は、これまた――それぞれの盃に――零るるばかりに注(つ)いで貰うと――これを、グイ! と呑む。

 酒は――これ――少し濁って――やや酸っぱい味がしたような気はするものの――陽に炙られて喉が掻き毟りたくなるほどに渇ききって御座ったによって、これ――ただただ――吞みに呑む――盃を折敷に戻すことなく――立て続けに三杯――吞み干した。

 そのほかの舎人どもも皆、喉の渇きに堪えかねて御座ったによって――二、三杯――四、五杯ずつ――ぐびぐびと――吞み干す。

 李をも酒の肴(さかな)にして、さらに吞みに呑んだが、またしても主(しゅう)側のの接待役が、しきりに盃を勧める。

 さればこそ、皆、さらに――四、五度――五、六度づつも――吞みに呑む。

 すると、そのうち、何と、当の越前守御自身が簾越しにいざり出でて参って、兼時に直談した。

「……麿(まろ)は……生来(しょうらい)、吝嗇(りんしょく)の性質(たち)なればこそ、物惜しみ致いてのぅ……かくも、そこたちに責めらるることと相い成っておじゃった。……このように、恥を晒すこととなろうなんどとは、これ、思うてもおじゃらなんだ。……かの麿の任国の越前にては、去年(こぞ)の年、旱魃(かんばつ)のおじゃってのぅ。年貢として徴収し得るようなものはこれ、殆んど、ありゃあ、せん。……たまたま、ほんの僅か、徴収し得た米も……これまた、まずは尊(たっと)きお上の御用向きのそれとして、納めさせられた、ある限り。総て。上納させられ、尽き果てたじゃ。……ゆめゆめ、一粒だに、これ、残っては、おじゃらぬ。……我が家(や)の者どもの食い扶持(ぶち)も、これ、こと欠くありさまじゃて。……召使の女(め)童(わらわ)なども飢えておるという、この期(ご)に至って……さらに、さらに……そこたちの強訴のあって……かくも耐え難き恥をば晒したればこそ……これ……我ら……最早――『覚悟、覚悟なら、ないこともない……』――とさえ思うておじゃる!…………まずは何より! そこもとらの御食膳に! ほんの一握りの飯さえも! 添えて差し上げられぬことを見て、これ! お察しあれかし!……これも我らが前世の因縁の……悪しゅうして不運と相い成ったるものか!?!……長く官途に就くことも出来ず……たまたまやっと、かくも国司になれたかと思うたら……就いたるその国は……この為体(ていたらく)!……かくも堪え難き艱難辛苦の思いを致さねばならぬ!……しかし……それはそれ……人を恨み申すべき筋合いのことにても、これ、おじゃらぬ!……これ……麿(まろ)自らの――恥を受けねばならぬという――報い――なのでおじゃるッツ!…………!! ヒエェエエッツ!!!」

と語ったかと思うと、大声を張り上げて泣き叫び、その様子は、いっかな、尋常なものにては御座らなんだ。

 

 かく、慟哭致いては、何やらん、意味もとれぬようなる繰り言をなし続けておったによって、それを側にて聴いて御座った兼時と敦行は、

兼時「……仰せらるること、これ、至極(しごく)ご尤もなる道理にて御座いまする。ここに居りまする我ら、皆、御主(ごしゅう)の御心中、これ、御推察申し上げて御座いまする。……」

敦行「……然れども、これは我ら一人のことにては御座いませぬ。……最近は我らが衛府にても備蓄せる米の一粒だにのうなって、我らを含めたる総ての勤めおりますところの舎人どももまた、米の手に入るること能はず、皆々、困り果ておりますによって、か、かくも、ぶ、無礼にも、押し掛けてま、参った、る、る、し、しぃ次第にてぇ……」

兼時「……これも皆、相い身互いのことにて御座います。さ、されば、こそ……その、ですな……ま、まっこと……フ、フ、フフフフノフノ……ハヒフゥヘホゥノ……フ、フ、不本意、イ、イイナ、なァ、こォとと……ゾ?……ウッ!……存じ イ!?! イッ? ツ!?! まッ! す! るウッツ!?! グワッツ!?! ッツ! アッツ!?!……」

などと、言いかけた、その最後の方になると兼時の様子が尋常でなくなって御座った。

――この時、兼時と敦行は、かの御簾(みす)越しの越前守の、そのすぐ近くに参って御座ったによって

――二人の腹が、これ、しきりに

……ぐぉろごろ! ぐおぉろ!

……ぎゅうるる! ぎゅるる!

……ぐぅうっふ! ぐううっ!

と鳴るのに

――越前守は気づいて御座った。

 兼時、暫しの間は、力んで顔を真っ赤にしながらも、右手に持った笏(しゃく)で以って机をとんとん叩いてみたり、或いは左手を拳固に握っては脇腹の辺りをぐっと挿し押さえてみたりなんどしておった。

 越前守が簾越しに見渡してみれば、これ、見渡せるところの末の座に至るまで、これ、悉く皆――派手に腹を鳴らしては――変に体をぐにぐにさせ――何か――出そうなを――必死でこらえておる――といった体(てい)である。

 

 たいした時を待つまでもなく、兼時は突如、

「……チ、ちょっト……シィ、失ッ礼!……」

と小さく呟くや、脱兎の如く走り出でて行った。

――と

――それを見るや

――その兼時の立ったに

ビクン!

と応じたかのように

――他の官人どももこれ、先を争うように座を立ち、折り重なるように板敷の廊下から下へと降(お)りかけたり

――廂の間を走り抜け、簀子から庭へ下ろうとする

のであったが……

……その間にも

……びびっ! びっち! びちびちびちびち!

……ぶぶっ! ぶりゅ! ぶりぶりぶりぶり!

と音を立てて、着物を着たままに、あちらにこちらに、あえなく「ナニ」を垂れ流しておる!……

――車宿(くるまやど)りまで駆け入るも、着物を脱ぐ暇もなく、あえなく瀉下をぶちまくる者あり

或いはまた、

――慌てて服を脱ごうと捲り上げた瞬間! しゃあーーーっつ! と楾(はんぞう)の水をひっくり返したかのように、ひる者あり

或いはまた、

――隠れしゃがめる場所を見つけんとして見つからぬままに、ふらふらと惑いつつ走りつつ、既にして、絶望的に垂れひっておる者もある!……

 ところが、で、ある。

 このような中にあっても

――その誰もが

――互いに互いの悲惨凄愴なる屎(くそ)まみれのさまを見合いながら

――笑い合っては

「……いんゃあ、こんなことになるんやろとは、思うっとったわい! あの悪戯(いたずら)爺い奴(め)! ろくなこと、せぇへん!……何(なん)かかっか、やらかすに違(ちげ)えねぇとは思うとったけんど……ほんでも、よ。……この守(こう)の殿(との)んことだけは、こんなにされても、不思議なこっちゃが、――憎む気には、なんねぇ。……まんず、我らが酒を欲しがって呑んじまったんが、殿(との)の言うた「報い」や……いやはや!……いや?! ははぁん! これぞ「ウン」の尽き――ちゅうもんやったんやなぁ! ブッハハハハッツ!」

と、皆々、仲良く腹を壊(こわ)いて、びりびりべちべちと、これ、テツテ的に下しながら、「相い身互い」と、大笑い致いて御座ったと。

 

 全員の「ひりだし」が、これ、まんず、一(ひと)段落ついた頃おい、さっきの老侍、徐ろに門を開くと、笑みさえ浮かべて、

「――さてさて。では皆さまがた、どうぞ、お出で下さりませ。また、次の、そうして次の次の、衛門府さまがた、兵衛府さまがたと、順繰りに、これ、お迎え入れ申しょうほどに。」

と平然と言う。

 すると、へれへれになっている近衛の官人どもも、これまた、その謹言なる言葉を受けては、

「それはそれはすこぶる結構なることじゃて! 早う、入れて、また我らの如く――「ヒラ」せて――やってくんない! ブッハハハハッツ!」

と、面白そうに笑って言いつつ、真っ黄色になった袴を、拭おうにも白きところもなければ諦め、我先にと後を追うて、大笑いしつつ、守(こう)の殿の屋敷から逃げ出てくるのであった。

 それを見て、また後の四衛府の官人どももまた、大笑いなして逃げ帰って行ったと申す。

 

 何と、まあ、もうお分かりのこととは存ずるが、これ、この為盛の朝臣が企図したは、

「……こないな暑い盛りの日(ひい)に、外の炎天の天幕の下にて、まんず、六、八時間も炙らせた後(あと)に、親切ごかして引き入れたりゃ、喉(のんど)の渇ききっておればこそ、そこに李やら塩辛き魚(うお)なんどをたっぷり肴に与えてやり、空きっ腹に存分に塩辛きもの詰め込ませておいてじゃ、酸っぱい酒の濁ったやつに、牽牛子(けんごし)の種をば、たっぷりと摺りこいだもんを入れて呑ませたらば、そ奴の腹は、どうして――ぴいぴいしゃあしゃあにならんはずの、これ、あるかいな! ファハハハハ!」

と思うてのことにて、まさに誰(たれ)一人、思いつきせぬ謀(たばか)りをやってのけたのであったんじゃなぁ。

 この為盛の朝臣という御仁はこれ、何を致すにしても、すこぶるつきの奇計を脳味噌から「ひり」出すことに、類い稀なる才能を持って御座ったお人での、面白可笑しいことを言い出だいては人を笑かす老練達者な爺さんで御座ったによって、かくも思いがけぬ、へんてこりんなることを仕出かしもしたんじゃったなぁ。

――舎人どもは、海千山千のとんでもない曲者(くせもの)んところへへらへら強訴に行ったによって、皆して、かくも「辛(から)きもの」を食わされた上、「辛(つら)き目」を見たもんじゃて! ファハハハハ!――

と、当時、世間の人の大笑いの種となった、ということじゃった。

 

 それより後、これに懲りたもんか、大粮米を納めぬ国司んとこへ、六衛府の者どもが押しかけていくというようなことは、これ、なくなったということじゃ。

 この為盛というはの、とんでもない風狂(ふうきょう)の上手(じょうず)にて御座ったによって――追い返そうと思うても、決して「はい、そうですか」と言うて帰るような「タマ」の連中にてはあらんだによって、こんな風な可笑しきことを企てた――と、かく、語り伝えておるとかいう、ことじゃ。ファハハハハ!

2015/10/13

「今昔物語集」卷第二十七 狐託人被取玉乞返報恩語 第四十

「今昔物語集」卷第二十七 狐託人被取玉乞返報恩語 第四十

 

[やぶちゃん注:底本は池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」を用いたが、従来通り、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣で独自に附し(底本は現代仮名遣)、甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみとした。今回は私の電子テクスト『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (六)』の注を補助するための速成テクストとして作成したもので、後に補填を加えるかも知れないことをお断りしておく。]

 

「今昔物語集」卷第二十七 狐、人に託(つ)きて、取られし玉を乞ひ返して恩(おん)を報ぜる語(こと) 第四十

 

 今昔(いまはむかし)、物(もの)の氣病(けやみ)爲(す)る所有けり。

 物託(ものつき)の女に物託て云(いは)く、「己(おのれ)は狐也。祟(たたり)を成して來れるには非ず。只、此(かか)る所には自然(おのづか)ら食物(くひもの)散(ちり)ぼふ物ぞかしと思て、指臨(さしのぞき)て侍るを、此(か)く被召籠(めしこめ)られて侍る也」と云(いひ)て、懷(ふところ)より白き玉の小柑子(ちひさきかむじ)などの程なるを取出(とりいで)て、打上(うちあげ)て玉(たま)に取るを、見る人、「可咲氣(をかしげ)なる玉かな。此の物託の女の、本(もと)より懷に持(もち)て、人謀(たばか)らむと爲(す)るなめり」と疑ひ思(おもひ)ける程に、傍(かたはら)に若き侍の男の勇(いさみ)たるが居て、物託の其の女の玉を打上たるを、俄(にはか)に手に受(うけ)て、取(とり)て懷に引入(ひきい)れてけり。

 然れば、此の女に託たる狐の云く、「極(いみじ)き態(わざ)かな。其の玉、返し得(えさ)せよ」と切(せつ)に乞(こひ)けれども、男、聞きも不入(い)れずして居(ゐ)たるを、狐、泣々泣(なくな)く男に向(むかひ)て云く、「其(そこ)は、其の玉取たりと云ふとも、可持(たも)つべき樣(やう)を知らねば、和主(わぬし)の爲には益(やく)不有(あ)らじ。我れは、其の玉被取(とられ)なば、極(いみじ)き損(そん)にてなむ可有(あ)るべき。然(さ)れば、其の玉返し不令得(えしめ)ずは、我れ、和主(わぬし)の爲に、永く讐(あた)と成らむ。若(も)し返し得しめたらば、我れ、神の如くにして和主に副(そひ)て守らむ」と云ふ時に、此の男、「由し無し」と思ふ心付(こころつ)て、「然(さ)は、必ず我が守(まもり)と成り給はむや」と云へば、狐、「然(さ)ら也(なり)。必ず守と成らむ。此(かか)る者は、努々(ゆめゆめ)虛言(そらごと)爲(せ)ず。亦、物の恩不思知(おもひしら)ずと云ふ事無し」と云へば、此の男、「此の搦(からめ)させ給へる護法(ごはふ)證(しよう)ぜさせ給ふや」と云へば、狐、「實(まこと)に護法も聞こし食(め)せ。玉を返し得(えさ)せたらば、※(たしか)に守と成らむ」と云へば、男、懷より玉を取出して女に與へつ。狐、返々(かへすがへ)す喜(よろこび)て受取つ。其の後(のち)、驗者(げんじや)に被追(おはれ)て、狐去(さり)ぬ。[やぶちゃん字注:「※」「忄」+「遣」。]

 而る間、人々有て、其の物託の女を、やがて引(ひか)へて、不令立(たたしめ)ずして、懷を搜(さぐり)けるに、敢(あへ)て其の玉無かりけり。然(さ)れば、實(まこと)に託(つき)たりける物の持(も)たりける也けりと、皆人(みなひと)知(しり)にけり。

 其の後(のち)、此の玉取(たまとり)の男、太秦(うづまさ)に參(まゐり)て返(かえり)けるに、暗く成る程に御堂(みだう)を出て返ければ、夜(よる)に入(いり)てぞ、内野(うちの)を通(とほり)けるに、應天門の程を過(すぎ)むと爲(す)るに、極(いみじ)く物怖しく思えければ、「何(いか)なるにか」と怪(あやし)く思ふ程に、「實(まこと)や、我れを守らむと云(いひ)し狐有(あり)きかし」と思ひ出て、暗きに只獨り立(たち)て、「狐(きつね)、々(きつね)」と呼(よび)ければ、「こうこう」と鳴(なき)て出來(いできたり)にけり。見れば、現(あらは)に有り。

 「然(さ)ればこそ」と思(おもひ)て、男、狐に向(むかひ)て、「和(わ)狐(きつね)、實(まこと)に虛言(そらごと)不爲(せ)ざりけり。糸(いと)哀れ也(なり)。此(ここ)を通らむと思ふに、極(きはめ)て物怖しきを、我れ送れ」と云ければ、狐、聞知顏(ききしりがほ)にて、見返々々(みかへるみかへる)行(ゆき)ければ、男、其の後(しり)に立(たち)て行くに、例(れい)の道には非(あら)で、異道(ことみち)を經て行々(ゆきゆき)て、狐、立留(たちと)まりて、背(せなか)を曲(かがめ)て拔足(ぬきあし)に歩(あゆみ)て、見返る所有り。其のままに男も拔足に歩て行けば、人の氣色(けしき)有り。和(やは)ら見れば、弓箭(きうぜん)・兵仗(ひやうぢやう)を帶(たい)したる者共、數(あまた)立(たち)て、事の定めを爲(す)るを、垣超(かきご)しに和(やは)ら聞けば、早(はや)う盜人(ぬすびと)の入らむずる所の事定むる也けり。此の盜人共は、道理(だうり)の道に立(たて)る也(なり)けり。然(さ)れば、其の道をば經て迫(はざま)より將(ゐて)通る也けり。「狐、其れを知(しり)て、其の盜人の立てる道をば經たる」と知(しり)ぬ。其の道出畢(いではて)にければ、狐は失せにけり。男は平(たひら)かに家に返(かへり)にけり。

 狐、此れに非ず、此樣(かやう)にしつつ、常に此の男に副(そひ)て、多く助かる事共(ども)ぞ有ける。實(まこと)に「守らむ」と云けるに、違(たが)ふ事無ければ、男、返々(かへすがへす)す哀れになむ思(おもひ)ける。彼(か)の玉を惜むで與へざらましかば、男、吉(よ)き事無からまし。然(さ)れば、賢く渡(わたし)てけりとぞ思ける。

 此れを思ふに、此樣(かやう)の者は、此(か)く者の恩を知り、虛言(そらごと)を爲(せ)ぬ也(なり)けり。然(さ)れば、自然(おのづか)ら便宜(びんぎ)有(あり)て可助(たすくべ)からむ事有らむ時は、此樣(かやう)の獸(けもの)をば、必ず可助(たすくべ)き也(なり)。

 但し、人は心有り、因果(いんぐわ)を知るべき者にては有れども、中々獸よりは者の恩を不知(し)らず、實(まことなら)ぬ心も有る也(なり)となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注に昭和五四(一九七九)小学館刊の日本古典文学全集馬淵・国東・今野訳注になる「今昔物語集 4」(第四版)を一部参考にした)

「物の氣病爲る所」「物の氣病」は物の怪に憑依されて病んでいる状態を指すが、この全文でそうした憑依された患者がいる家の意。

「物託の女」後で出る物の怪調伏のために来た「驗者」(実は私は個人的には「げんざ」と読みたくなるが、諸本の読みに従った)即ち、民間の陰陽師様(よう)或いは山伏様(よう)の者が、「よりまし」(依り代(しろ)。霊を憑いた者から一時的に移して尋問するための人間)として連れて来た女。一般には未婚の処女の少女が使われた。所謂、本来の祭祀の主宰者であったはずのシャーマンとしての巫女が、使役される者として零落してしまった姿と言える。

「此く被召籠られて侍る也」ここ――閉じ込められてしまったので御座る――と丁寧語まで用いているところからは、憑かれた女が座敷牢のようなところに押し込められているをイメージしてしまうが、後のシーンを慎重に読み解くと分かるが、女が抛り上げた玉を男が取るところから見ると、実はこのシークエンス全体の主役の「女」は「憑りつかれた女」ではなくて、修験者の連れて来た「よりまし」の少女であることが判明する。「被召籠られて」いるというのは、後で男が「此の搦させ給へる護法」という語に出るように、この狐憑きの女から「よりまし」に強制的に移されてしまった物の怪が、修験者の招聘した護法童子(護法善神という。密教の高僧や修験者に随って守護し、また聖俗の両界に亙って使役される神霊や自然の精霊のようなもの。最もよく語られるのは陰陽師の使役神としてである。通常は不可視で使役する者以外の他者には見えないとされる)によって「よりまし」から逃れる出ることが出来ない状態を指してゐることが判る。さすれば、この後のシーンも、その「よりまし」が庭先きか門先きにでも苦し紛れに這い出て行って、そこで玉投げを始めたのである。だからこそ、野次馬の一人が修験者や「よりまし」を似非宗教者、騙(かた)り者、詐欺師と疑い、「此の物託の女の、本より懷に持て、人謀らむと爲るなめり」と言い放ったのである。

・「可持つべき樣を知らねば、和主の爲には益不有らじ」永く自分の物として有効に所持する方法。即ち、この美しい玉は何らかの呪具であるのだが、使用法を知らなければ、ただ美しい玉でしかなく、何の役にもたたず、あたら無駄に持つことになるであろう、と言っているのである。「和主」の「わ」は相手に対する親愛を添える接頭語であるから、玉を何とか返してもらえるように懐柔する慇懃さが現われているところであろう。

「讐」仇敵。恨みを持つこと。前の「爲に」「ため」は形式名詞であるが、「~にとって」の意である。

「由し無し」以下にあるように男の心内語で、狐の言うように所持していても利用法を知らなければ、意味がなく、ただ美しいだけなれば直に飽きてしまうであろう、とでも考えたのであろう。

「此の搦させ給へる護法證ぜさせ給ふや」ここで男は、狐憑きの女にではなく、それをここに呪縛している目に見えない善神たる護法童子に対して訊ねかけている点に注意。

「實に護法も聞こし食せ」これも男に対して述べているのではなく、自分を呪縛している不可視の護法童子に懇請し、誓約しているのである。注意されたい。

「※(たしか)に」(「※」「忄」+「遣」)は「慥に」に同じい。

「太秦」「參て」とあるように、現在の京都右京区太秦にある真言宗広隆寺のこと。

「内野」京都市上京区の南西部一帯の旧地名。平安京大内裏のあった地域であったが、たびたび火災に遭って平安後期にはすっかり荒廃して荒野原となっていた。

「應天門」平安京大内の南面の正門。

「こうこう」しばしば古文で狐の啼き声とされるが、この「こう」の「う」音は「ng」の音を写したものとされ、「こう」は「kong」で、現行の「こんこん」とほぼ同じ音であると考えられていると小学館の頭注にある。……しかし「てふてふ」と同じで……私はやっぱり「こうこう」が、いいな!……

「例の道」普通ならば最短のコースとして当たり前に通るルート。

「異道」違った道の意以外に、普通は人の歩かぬような踏み分けの間道、獣道のような道の意を含んでいるようである。狐の案内する以上、けもの道でも納得出来よう。

「兵仗」実戦用の刀剣などの武具。「儀仗」の対語。

「事の定め」あることを成すための決まりごとを相談すること。

「和ら」副詞「やはら」で、そろそろと・そっと・ゆっくりと・しずかにの意で、現行の「やおら」である。

「早う」下で見るように「けり」で結んで、その瞬間に初めてあることに気づいたという驚きをあらわす。これは結びの「なりけり」も実は同用法であるから、強調形になっていると言える。

「然れば、其の道をば經て迫より將通る也けり」諸本は「經で」とするが、池上氏はそれを採らない。脚注も毅然として「で」の校訂を不当としており、共感が持てる。わざわざ「其の道」を「間道」とせずに「例の道」と解さなくてはならない道理はない。これでよい。ややくどくなるが、くどくなるのは「今昔物語集」では寧ろ、日常茶飯ではないか。

「然れば、其の道をば經て迫より將通る也けり」「狐、其れを知て、其の盜人の立てる道をば經たる」「迫(はざま)」は古典全集では『垣根のそば』と注するが、しかしそれでも、この「經て」と「經たる」は意味不明である。旧古典文学大系にまことしやかな解釈が載るが、小学館版が述べる如く、それは明らかに論理的に破綻している。ここは前者は「經で」であり(古典全集は原文がそうなっている)、後者は「避(さけ)たる」の誤字(小学館版もそれを採っている)としてこそ意味が通る。訳ではそれで処理した。

「多く助かる事共ぞ有ける」ここは主語が男に変わっている。

「哀れになむ思ける」この「あはれに」は、感心に思う・面白い、の「をかし」と同等の意である。

「但し、人は心有り、因果を知るべき者にては有れども、中々獸よりは者の恩を不知らず、實ぬ心も有る也(なり)」これは実に感心する鋭い「獣にも悖(もと)る人間獣」批判である! いいね!

 

□やぶちゃん現代語訳

 

  狐が人に憑りついていたが、その狐が、人に取られてしまった呪力を持った玉を乞い願って返して貰い、恩を報じたこと 第四十

 

 今となっては……昔のことじゃ……物の怪(け)に憑りつかれて病んだ者のおった家があった。

 調伏のために招かれた修験者(しゅげんじゃ)が、連れてきた「よりまし」の少女に、憑かれた女からその物の怪を移して糾したところが、

「……お、己(おの)れは狐である……た、祟りを成さんとして来たのでは……ない……た、ただ……そ、そのこの辺りには……いつも……く、食い物が……たんと散らばっておるものじゃと思うておったによって……ふいに……のぞいてみて……この女に憑いておりましところが……か、かくも不覚にも……今……呪(まじな)いによって……呪縛されてしもうて御座りまする……」

と述べた。

 すると、そう言ったそばから、「よりまし」の少女から、また憑かれた女の方に、またぞろ、狐は戻ったようで、庭先まで苦しげに這い出ると、女は懐(ふところ)より、小さな蜜柑ほどの大きさの、白い不思議な玉をとり出だいては、これをお手玉の如くに打ち上げては取り始めた。

 それを見ておった、立ち入っておった野次馬の群れの一人が、

「……何とも綺麗な不思議な宝玉やないかい!……じゃが!……これは――その「よりまし」を書しておる女子(おなご)が、もとから用意して懐に入れ持って、人を謀(たばか)ろうとしておるに決まるっとる! 儂(わし)は騙されへんでえ!」

と疑い思うて、実際にそんな風にちゃちゃを入れたところが、そばに、黙って見ておった青侍(あおざむらい)で、如何にも屈強そうな男のおって、「よりまし」のその女の、ぽーーんと投げ上げた玉を、横から、

――さっ!

と手に受けて取ったかと思うと、そのまますぐに自分の懐に引き入れてしもうたのじゃった。

 されば、この「よりまし」の女に憑いた狐が、

「……な……なんてひどいことをしなさるんや!……その玉……返しておくない!」

と切(せち)に乞うたけれども、かの青侍、これ、聴く耳持たず、にやにやと笑うたまま、黙っておるばかり。

 すると、狐はこれ、泣く泣く、その男に向(むこ)うて、

「……そこもとは……その玉を手に入れたとしても……それを使うべき方法を知らねばこそ……あなたさまのためには……これ……なんの役にも立ちますまいぞ……我れらは……その玉……これ……奪われたとなれば……どえらい損失となることになるのじゃて……されこそ……その玉を……これ……お返し下されぬとならば……我れら……あなたさまにとっては……これ……永く……仇敵とならざるを得ませぬ……もしお返し下さったとならば……我れら……神の如くにあなたさまを崇め……永くにあなたさまにつき添うて……お守り致す……」

と申した。

 と、この男も、

『……まあ、そんなもんかも知れん……』

という気になって、

「――さても。必ず――我らを守護する者と――なって下さる……か?」

と質したところ、「よりまし」の狐は、

「勿論じゃ!……必ず守護せる者と成りましょうぞ!……我等のような者どもは――人とは違(ちご)うて――ゆめゆめ噓は申さぬものじゃ……また――人と違うて――一度受けた恩は……これ……決して忘れるということは……ないのじゃて……」

と応えた。そこでかの男は中空に向って、

「――この狐めを搦め捕っておらるる護法童子様!――今、狐めの申したことの御証人となって戴けまするか!?」

と呼ばわったところ、狐も同時に頭上に向って、

「……ま……まことに護法もお聴き届け下さいまし!……かのお侍が……かの玉を返して下さったならば……たしかに我ら……かのお人を守護する者となりましょうぞッツ!」

と言上(ことあ)げ致いたによって、男は、懐より玉を取り出だいて女に与えた。

 狐は返す返す、喜びの礼をなして、それを受け取った。

 その後(のち)、驗者(げんざ)に追われて、狐は素直に去って行った、と験者は告げた。

 されば、野次馬の人々が寄ってたかって、かの「よりまし」の少女のところに駆け寄るや、そこに引き据え、その懐を探ってみたのであるが、さっき持っていたはずの玉は影も形もないのであった。さればこし、

――いや! まっこと! 憑りついたる狐の持ち去ったものだったのであったわ!

と、皆人(みなひと)、合点したということでじゃった。……

 

 さてもその後(のち)のことじゃた……この玉を取って――狐にそれをまた返した――男、太秦(うずまさ)の広隆寺に参っての帰るさ、暗くなってから御堂(みどう)を出でたによって、もうすっかり夜(よる)になってから、かの内野(うちの)を通り抜けて行ったところが、応天門の辺りを通り過ぎようとした頃、何か知らぬ、ひどくもの怖しゅう感じたによって、

『……一体……このぞくぞくした感じは何じゃ?』

と怪しゅう思うたによって、

「……そうじゃ! 我れらを守らんと申した狐のおったではないか!」

と思い出だいて、暗き中にただ独り立ちながらにして、

「――狐(きつね)!――狐ッ!」

と呼ばわったところ、

「こう! こう!」

と鳴いて何かが闇内より出で来た――と――見れば、目の前に狐が一疋――現われ出でた。

『いやいや! さればこそ来て呉れたか!』

と少し怖じ気も和らいだによって、男は、狐に向かって、

「――われ! 狐よ! まっこと、嘘はつかなんだのじゃのう! いやいや! 実に殊勝なことじゃ!……実はの、ここを通ろうと思うのじゃが、どうにも何やらん、もの怖しゅう覚えたによって――一つ、我れを送れ!」

と告げたところ、狐はこれ、訳知り顔にて、見返り見返りしては、男がついておるを確かめ確かめ、先へと行く。されば男も、その後(しり)について行ったのじゃが、普通、ここより男の家に向かうべき道ではなく、全く見知らぬ違う道を辿ってどんどん行くのじゃった。狐は時おり、立ち止まっては、背中きゅっ! とかがめ、何かを用心するかの如く、抜き足差し足にて歩んで、つっと! と止まっては、男ではなく、背後の闇を見返るような素振りをする。そのままに男も抜き足差し足にて歩んで行った。すると、じきに明らかな人の気配が感じられる。そっと目を細めて闇の中を透かして見ると……

――弓矢や刀剣を帯びた怪しい者どもが

――数多立っておって

――何やらん

――ぼそぼそと

……しかし……

――殺気立って

――相談をしていることが判った。……

……されば……近くの人家の垣根越しに、奴等(きゃつら)に気づかれぬよう、やはりこそりと近づいて身を隠しつつ、その話の内容に耳を傾けてみると、なんとまあ! 奴等(きゃつら)盜人(ぬすっと)どもは、今にも入ろうとする屋敷への手筈(てはず)を打ち合わせている最中ではないか! そして、この盜人共どもは、私のいつも通るところの表通りの道に立っているのであった! さればとよ! 狐はそのいつもの道をば通らずに、かく垣根近くを通る間道を率いて通ったのじゃった!

『狐は、既にしてこの悪党連中のことを事前に知って、その盜人どもの立っている本道をば避けて通って来たのだった!』

と合点したのじゃった。かくもその間道を出で終えると、狐は、何処ともなく消え失せて行った。かくして男は無事、自分の家に帰り着いたのじゃった。

 狐、この折りのことだけでなく、いつ何時にても、常にこの男に陰に陽につき添うておったによって、男は実に多くの場面で助かるといったことどもが、これ、多くあったという。本当に「守ろう。」と言うた、その誓約に狐は全く違(たが)うことがなかった。さればこそ、男も、何度も何度も、この狐に心から感心しては有り難く思うたという。かの不思議な宝玉を惜んで帰してやらなかったとしたならば、男にはこれ、かくもよきことは怒らなかったに違いない。されば、よくぞ賢くも返してやったことであったと、男は思うことしきりであったと申す。

 これを考うるに、かような者――獣――は、かくも他者の恩を心に刻み、嘘はつかぬものなのであったなあ! されば、自然と、何らかの機会のあって、助けてやれるようなことあったならば、こうした獣(けもの)は、必ずや、助けてやるのがよい、やるべきなのじゃて。

 ところが、人というものには、個々人の私的な思いなんどという下らぬものがあって、因果という絶対の真理を智としては知っているはずの存在であるにも拘わらず、なかなか獣なんぞより、

――他者の恩という大切なものを真に理解し得ず

――まことならぬ不誠実な心を往々にして持ってしまっておる

――如何にも

――残念な存在なのである

と、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/06/11

「今昔物語集」卷第三十一 越後國被打寄小船語第十八

[やぶちゃん注:前話に続く異物漂着譚で、筆者が意識的に併記したことは明白である。本話は池上氏の岩波文庫版には所収しないので、小学館昭和五四(一九七九)年刊の馬淵和夫・国東文麿・今野達校注「日本古典文学全集 今昔物語集四」の原文を底本とし、片仮名を平仮名に直し、恣意的に漢字を正字化して示した。ルビは私が当初の凡例に準じて取捨選択した(底本のルビは歴史的仮名遣)。]

 

越後國に打ち寄せらるる小船の語 第十八

 

 今昔、源の行任(ゆきたふ)の朝臣と云ふ人の、越後の守(かみ)にて其の國に有(あり)ける時に、□□□の郡(こほり)に有ける濱に、小船打寄せられたりけり。廣さ二尺五寸、深さ二寸、長さ一丈許(ばかり)なり。

 人、此れを見て、「此(こ)は何也(いかなり)ける物ぞ。戲れに人などの造(つくり)て海に投入(なげいれ)たりけるか」と思(おもひ)て、吉(よ)く見れば、其の船の鉉(はた)、一尺許を迫(はさま)にて、梶(かぢ)の跡有り。其の跡、馴杭(なれつぶれ)たる事限無し。然れば、見る人、「現(あらは)に人の乘(のり)たりける船也けり」と見て、「何也(いかなり)ける少人(ちさきひと)の乘たりける船にか有らむ」と思て、奇異(あさまし)がる事限無し。「漕(こぐ)らむ時には蜈蚣(むかで)の手の樣(やう)にこそは有らめ。世に珍(めづらし)き物也(なり)」と云(いひ)て、館(たち)に持行(もちゆき)たりければ、守も此(これ)を見て、極(いみじ)く奇異(あさまし)がりけり。

 長(おとな)なる者の云けるは、「前々(さきざき)、此(かか)る小船寄る時有(あり)」となむ云ければ、然(しか)れば、其の船に乘る許(ばかり)の人の有るにこそは。此(ここ)より北に有る世界なるべし。此(か)く越後の國に度々(どど)寄(より)けるは、外(ほか)の國には、此(かか)る小船寄(より)たりとも不聞(きこ)えず。

 此事(このこと)は、守、京に上(のぼり)て、眷屬(くゑんぞく)共に語りけるを聞繼(ききつぎ)て、此(かく)なむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七」(常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七)に続く、奇異の漂着物譚で、搭乗者はいないものの、まさに滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)の「うつろ舟」と遠く通底し、ここは丸木舟であること、搭乗者のいないことの二点に於いても、文字通り、真正の「うつろ舟」で、最後に古老が登場して、昔語りで周囲が納得感心する(と読める)辺りもよく似ている。しかも、漕ぎ手を想起して前話の巨人大女とは対照的な、舟の小ささや浅さ、船端の痕跡から恐ろしく小さな小人(こびと)の水手(かこ)を想起する辺り、話柄の創りも上手い。底本の解説には、『日本海沿岸にも海流に乗って遠くの住民が漂着したらしく、現在、新潟市の北方文化博物館には漂着した古代の船の破片が蔵されている』とある。横これとは別なものと思われるが、山直材・松本哲共著の論文「日本に現存する刳舟」(『海事資料館年報』7:13-19/一九七九年)には、同博物館分館(新潟市新発田市)に一艘(破片ではなく完品と思われる)、加治川(かじかわ:新潟県新発田市及び北蒲原郡聖籠町を流れる)で使用していたものが出土品としてリストに上っている。Master of Chikuzen氏のサイト「邪馬台国大研究」のこちらのページにある新潟県北蒲原郡加治川村大字金塚字青田の青田遺跡出土とする丸木舟の写真と解説が出るが、これであろう。その丸木舟は全長が五・四七メートル、幅七十五センチメートルとあり、本話のそれと比すと、長さは短いものの、幅は美事に一致する。本邦で出土する(漂着ではない)ものには縄文・弥生時代の遺物も含まれ、当時の縄文人の成人男性で平均身長は百六十センチメートル、弥生人で百六十二~百六十三センチメートルと推定されているから、これらの出土品を本話の舟と対照してみても、必ずしも驚くべき小人が乗船していた訳ではないことが分かる。なお本話の漂着地は越後であるから、必ずしも本話で推測されているように北方に限定することは出来ず、南から対馬海流を北上してきた可能性も視野には入れねばなるまい。なお、大きさと舷側の櫂による摩耗痕から見ても、実際に人が載って漕いだ実用の丸木舟であって、所謂、祭祀用に放たれたミニチュアとは思われない。また北方の小人国となると、アイヌ民族のコロボックル伝承との関連も考えられるか。

「源の行任」「朝日日本歴史人物事典」等によれば、源行任(生没年未詳)は平安後期の下級貴族で、醍醐源氏の出で道長の家司を勤めた源高雅の子。能登守・越後守などを歴任した。越後守の着任期は調べ得なかったが、在任中の寛仁三(一〇一九)年十月二十九日に、五節の舞姫を献じなかったため、釐務(りむ:律令制において官職を帯びた者が官司にてその職務を行うこと)を停止(ちょうじ)されており、この年が本話の下限となる。その後、治安三(一〇二三)年には備中守に任じられ、その秋、受領として五節の舞(豊明節会に行われる少女の舞い)には舞姫を拠出している。近江守時代の長元四(一〇三一)年七月七日には富小路西の上東門大路より北にあった自邸を焼亡したが、これは故入道大相国(藤原道長か)の持家を行任が手に入れたもので、世に「御倉町」と称されており、典型的な富裕受領であった、とある。

「廣さ二尺五寸」舟の幅七十五・八センチメートル。

「深さ二寸」深さ六センチメートル。これは船体内側の刳り込んだ部分の深さを言っていよう。全長や幅に比して異様に浅い。

「長さ一丈」舟の全長三メートル。

「船の鉉(はた)」左右の舷側(げんそく)。

「一尺許を迫(はさま)にて」約三十センチメートルの間隔で。

「梶の跡有り」櫂・艪などのオール状のもで漕いだために生じた傷か、或いはそれを固定するための艪臍(ろべそ)様のものの痕跡があった。

「馴杭(なれつぶれ)たる」久しく使用したために、その箇所が有意にすり減っていることをいう。

「眷屬」親族或いは家来。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

   越後国に打ち寄せられた小船の話 第十八

 

 今となっては……昔のことじゃ……源の行任(ゆきとう)の朝臣とおっしゃるお方が、越後の守(かみ)として、かの国に在任されておられた折りのこと、×××の郡(こおり)にあった浜に、小さな船が、これ、うち寄せて参ったと申す。

 船端の幅はたった二尺五寸、内の深さはなんと、二寸しかのぅて、長さは一丈ばかりの、異様に小さな舟じゃった。

 集まったる者は、これを見、

「……これはまた……一体、なんじゃろか?……誰かが、ご苦労なことに、悪戯(いたずら)に拵え、海に投げ入れでも、したものかのぅ?……」

と疑って、よぅく見てみたところが、その舟の両の舷(はた)には、これ、きっちり一尺ほどの間(ま)をおいて、梶(かじ)を漕いだ跡があったと。その跡は、これまた、久しゅう使(つこ)うたによって、それを当てておったところが、これ、ひどぅ、擦り減って御座って、半端ない。されば、それを見つけた者はそこを指して、

「……いんや! これを見い! これは、現(げん)に人の乗っておった船に相違ないぞ!」

ときっぱりと言うた。されど、

「……それにしても……いったいこれ、どんなに小さき人の、乗っておった舟やったんやろうのぅ!?……」

と思うと、いやもう、これ、ただただ、驚き呆れるばかりで御座ったじゃ。

「……さぞ、漕いでおった時は、これ、あたかも、かの小虫の蜈蚣(むかで)が、仰山な手足を蠢かすに似たもんであったに違いない!……いやはや! 世にも珍らしき奇物じゃて!」

と言いあったによって、国司さまの館(やかた)へと皆して担いで持ち込んだところが、守なる行任(ゆきとう)さまも、これをご覧にならるるや、すっかり驚き呆れたるご様子であったと申す。

 その折り、つき添っておった土地の古老の者の申すには、

「……ずぅーっと先(せん)のことじゃった……このような摩訶不思議な小舟の、浜に寄せ来たったことの、あったじゃ……」

と呟いたによって――されば――信じ難いことじゃが――その玩具(がんぐ)のような小さなる舟に、何人もの水子(かこ)が乗れるほどの、これ、小人(こびと)なる人々がおるに違いないとよ。

 ここ越後より、ずぅーと、これ、北に御座る国なんじゃろうのぅ……かくも、この越後の国に、たびたびうち寄せて参ると申す上は。

 他(ほか)の国にては、このようなる奇体な小舟が流れ着いたと申すはこれ、見たことも聞いたことも、なければのぅ。……

 この話は、かの守(かみ)行任さまが任果てられ、京にお戻りになった折り、そのつき従っておった家来や僕(しもべ)どもの、語っておったを、これまた、小耳に挟んだ京雀どもが、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/06/09

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七

 

 今昔、藤原の信通(のぶみち)の朝臣と云ける人、常陸の守(かみ)にて其の國に有けるに、任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)、風糸(いと)おどろおどろしく吹て、極(いみじく)く荒ける夜、□□の郡の東西の濱と云ふ所に、死人(しにん)被打寄(うちよせ)られたりけり。

 其の死人の長(た)け、五丈餘也けり。臥長(ふしたけ)、砂(いさご)に半ば埋められたりけるに、人、高き馬に乘て打寄(うちより)たりけるに、弓を持たる末(すゑ)許(ばかり)ぞ此方(こなた)に見えける。然(さ)ては其の程を可押量(おしはか)るべし。其の死人、頸(くび)より切(きれ)て、頭(かしら)、無かりけり。亦、右の手、左の足も無かりけり。此れは、鰐(わに)などの咋切(くひきり)たるにこそは。本(もと)の如くにして有ましかば、極(いみ)じからまし。亦、低(うつふ)しにて砂(いさご)に隱たりければ、男女(なんによ)何れと云ふ事を知らず。但し、身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける。國の者共、此れを見て、奇異(あさまし)がりつ、合(あひ)て見喤(みののしり)ける事限無し。

 亦、陸奧(みちのく)の國に海道(かいだう)と云ふ所にて、國司(くにのつかさ)□の□□と云ける人も、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄たりと聞て、人を遣(や)て見せけり。砂(いさご)に被埋(うづまれ)たりければ、男女(なんによ)をば難知(しりがた)し。女にこそ有(あん)めれとぞ見けるを、智(さと)り有る僧なむどの云けるは、「此(こ)の一世界(いつせかい)に此(かか)る大人(おほきなるひと)、有る所有(あり)と、佛、説(とき)給はず。此(これ)を思ふに、阿修羅女(あしゆらによ)などにや有らむ。身成(みなり)などの糸(いと)淸氣(きよげ)なるは、若(も)し然(さ)にや」ぞ疑ひける。

 然(さ)て、國の司(つかさ)、「此(かか)る希有(けう)の事なれば、何(いか)でか國解(こくげ)不申(まうさ)では有(あ)らむ」とて、申上むと既にしけるを、國の者共、「申し上げられなば、必ず官使(くわんし)下(くだり)て見むとす。其の官使の下らむに、繚(あつかひ)大事(だいじ)也(なり)なむ。只(ただ)隱して、此の事は有るべき也(なり)」と云ければ、守(かみ)、不申上(まうしあげ)で隱して止(やみ)にけり。

 而る間、其の國に□□の□□と云ふ兵(つはもの)有けり。此の大人(おほきなるひと)を見て、「若(も)し、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄來(よりき)たらば、何(いか)がせむと爲(す)る。若(も)し箭(や)は立(たち)なむや、試(こころみ)む」と云て射たりければ、箭、糸(い)と深く立(たち)にけり。然(しか)れば、此れを聞く人、「微妙(めでた)く試たり」とぞ、讚(ほ)め感じける。

 然(さ)て、其の死人、日來(ひごろ)を經(へ)ける程に亂(みだれ)にければ、十(じふ)、二十(にじふちやう)町が程には、人否(え)不住(すま)で、逃(にげ)なむどしける。臭さに難堪(たへがた)ければなむ。

 此の事、隱したりけれども、守(かみ)、京に上にければ、自然(おのづか)ら聞えて、此(か)く語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 出典は未詳であるが、二件の記事のカップリングから見ても、創作ではなく、事実として風聞されたものであると考えてよい。小学館「日本古典全集」版の解説では、『三面記事的説話であるが、また巨人伝説的な匂いもある。海流の関係で、常陸・陸奥の海岸には、遠い国々から漂着がまれにあったようだ』とし、『本話は史実に合致する国司の名も見えることから』(後注参照)『誇張はあるが一応事実を伝えたものであろう』と評している。私の授業やサイトに親しんでおられる方は、即座に滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)を想起されるであろう。特に、後半の話に於いて、お上に報告すると、検分の調査団が派遣されて来て、その接待や何やかやで、当方の一方ならぬ難儀となるということで、秘かに握り潰す(「兎園小説」では円盤状の乗り物に乗って漂着した金髪の白人成人女性をまた同船に載せて突き流している)辺り、遠く本話に通底している。

 さらに私は、本話の二例ともに、遺体が非常に大きいこと、首や四肢が大きく欠損しており(腐敗脱落や本文にあるように鮫などに喰われたと考えてよい)、人形(ひとがた)とはいうものの、通常の人体そのままにそれが何倍(前者では「五丈」であるから十倍近い)にもなった生命体であるとは述べていないことに着目する。私はこれはしばしば人魚の正体とされる大型海生哺乳類の遺体ではなかろうか? 知られたジュゴン(哺乳綱 Mammalia 海牛(ジュゴン)目 Sirenia ジュゴン科 Dugongidae ジュゴン属 Dugong ジュゴン Dugong dugon)は三メートルを超える個体もいる。但し、ジュゴンの生息分布が現在は沖繩が北限であることを云々する向きには、後半の陸奥の遺体はアシカ・アザラシ類のそれであると見ておけば問題あるまい。では驚くべき大きさの前者はどうなる、と問われるであろうが、まず現実的な人々は――これはクジラ類の腐敗進行した遺体であろう――と推理されることは想像に難くない。しかし、私は寧ろ、前者も後者も別な生物を考えているのである。「五丈」をありがちな誇張表現と見て、半分の五~六メートルから七~八メートルほどとするならば(そもそもそう考えないと胴高比からそのままではだらんした長々しいものになって人に見えぬ)、ぴったりの生物がいるからである。ジュゴンの仲間で、北方種(寒冷適応型カイギュウ類)である私の愛するステラ、

海牛目ジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属 Hydrodamalis ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

である。本種は通常の成体個体でも体長五~六メートル、大きいものでは七メートルを超え、記録によれば最大八・五メートルにも達し、体重は五~十二トンにもなったと言われる超巨大海獣である。知らない? 当然だ。一七六八年或いはそれ以降に、既にヒトが乱獲したために絶滅してしまったからである(今また沖繩辺野古でジュゴンの棲家が破壊されつつある。こうして人類は着実に己れの身勝手から他の生物を殺戮し根絶やしにする野蛮人である)。詳細はウィキの「ステラーカイギュウ」を参照されたい。最後に。私の電子テクストである南方熊楠「人魚の話」の私の注もご覧戴けるならば、恩幸これに過ぎたるはない。外国サイトのステラの頭骨を見られよ。私はこれを見る都度、涙を禁じ得ないのである。……

・「藤原の信通」(生没年未詳)は底本注によれば、公卿藤原永頼(承平二(九三二)年~寛弘七(一〇一〇)年)の子で、『常陸介には万寿元年(一〇二四)から在任』しており、『同四年、子の永職』(「ながもと」と読むと思われる)について、公卿藤原実資の日記「小右記」に『父、明春、得替(とくたい)』(「得替」とは国司などの任期が終わって交替することをいう)とあることから、『任期は同五年(一〇二八)年まで』とあり、まさに「任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)」がリアルに時制限定出来るのである(下線やぶちゃん)。

・「常陸の守」常陸国は親王が遙任国「守」として任ぜられた国であるが、実務国司であった常陸「介」(ひたちのかみ)を、通称(恐らく特に現地に於いて)では「常陸の守(かみ)」と呼称していた。

・「東西の濱」諸本、所在地未詳とする。

・「長け五丈餘」体長十五・二メートル超。

・「臥長(ふしたけ)」横転しているその胴の高さ。

・「人、高き馬に乘て打寄たりけるに、弓を持たる末許ぞ此方に見えける。然ては其の程を可押量るべし」当時の馬の丈はポニーほどであったから(百三十五~百四十七センチメートル)、高い百五十として、それにに成人男性が跨って漂着個体の向こう側に近づいた際、その左手(ゆんで)に掲げた弓筈(ゆはず)だけが、こちら側で立っている人間に見えた、というのは、両者の立ち位置にもよるが、胴高は二メートル弱はあったことを意味すると思われる。

・「鰐」鮫類の古称。特に大型のものをいう。

・「身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける」「身成り」は見た感じの体つきの意、「秦」は「肌」「膚」の当て字。ウィキの「ステラーカイギュウ」の復元図は黒みの強い灰色であるが、『冬になって流氷が海岸を埋めつくすと、絶食状態になり、脂肪が失われてやせ細った。このときのステラーカイギュウは、皮膚の下の骨が透けて見えるほどだったという』とある。

・「陸奧の國」当時、こう言った場合は福島以北の東北地方全般を指す。

・「海道」底本注で池上氏は『いわゆる浜通り(福島県の太平洋岸)をいうか』とされ、「日本古典全集」版注では不詳としながらも、「大日本地名辞書」を引き、『常陸(茨城県)多珂郡より入り、逢隈の渡し(宮城県曰理郡)に至る間を曰へり」とある』とする。「多珂郡」は多賀郡と同じで、茨城県北端の現在の高萩市・北茨城市・日立市(一部を除く)に相当する。「曰理郡」は現在の亘理(わたり)郡のことであろう。多賀郡に北で接する。因みに私は前話の「東西の濱」というのも、この「浜通り」に接する南部分を言っているのではなかろうかと考えている。とすると「常陸國□□郡」とは「多珂郡」となる。

・「阿修羅女」六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主である阿修羅の女鬼神版。「観音経義疏」には『阿脩羅千頭二千手。萬頭二萬手。或三頭六手。此云無酒。一持不飮酒戒。男醜女端。在衆相山中住。或言居海底。』とある(「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」に拠る)のを、「智り有る僧」なればこそ知っていたのであろう。

・「身成などの糸淸氣なる」僧侶が視認した対象をかく評しているのは興味深い。この個体は死んで間もなかったのであろう。私はアシカやアザラシであったなら、人によっては不快感を懐かずにこう表現すると思う。各地で出現しては話題になるそれらを考えてみれば、納得出来る。

・「ぞ疑ひける」「ぞ」の前の引用の格助詞「と」が脱落したものであろう。

・「繚(あつかひ)」諸注は接待・世話とする。訳の結果はそれでもよいが、本字はもともと、もつれる・まつわる・まきつかせるの意であるから、ここには寧ろ、面倒・厄介のニュアンスが強く感じられると私は思う。

・「十、二十町が程」遺体から半径一キロメートルから二・二キロメートル。倍の差があるのは、風向きによるものであろう。

・「臭さに難堪ければなむ」北方適応型の海産哺乳類の大きな特徴である厚い脂肪が腐って、もの凄い臭気を発しているのである。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

 常陸国の××郡に大きな死人(しん)が漂着した事 第十七

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原の信通(のぶみち)の朝臣(あそん)とおっしゃられたお方が、常陸の守(かみ)として、かの国にあられた――が、それは、そのお方の国司の任の終わられた、その――四月ばかりの頃のことじゃった、と。……

 その日は昼間っから、風がたいそう、おどろおどろしゅう吹いて、そりゃあもう、夜中じゅうひどぅ荒れに荒れたんじゃ。

 その翌朝のことじゃった。××の郡(こおり)の「東西ノ浜」という所ところに、一体の死人(しびと)がこれ、うち寄せられて御座ったじゃ。

 その死人の身の丈けは、何とこれ! 五丈あまりもあった!……

 胴はこれ……そうさな……砂に半ばは埋まって御座ったが、の――傍らに人の立って、その向こうに、丈けの高い馬に乗ったお侍がうち寄せてこられたところが、その騎馬のお侍の、左手(ゆんで)に持って掲げておられた弓筈(ゆはず)ばかりが、ちょっこし、こっち側(がし)から見えた――というこっちゃから、さても、その胴体の高さのほども推し量れようほどに。……

 さて、その死人はの、頸(くび)のところより上は切れて、頭(かしら)はこれ、御座らなんだんじゃ。

 また、右の手(てぇ)も左の足も、ちぎれて、のぅなっておった。

 これは按ずるに、鰐鮫(わにざめ)なんどが、食わんがために噛み切ったものに違いない。……が……もし……もし、頭も右手も左足も皆、元の通り、ちゃんとちゃんとついとったとしたらば……これ……と、とんでもない大きさの人間じゃったに違いなかろうほどに。……

 また、うつ伏しになって砂に半ば埋もれておって、隠しどころは全く見えなんだによって、男女(なんにょ)孰れの巨人なるかは……残念なことに、分からず終いじゃった。が……しかし……そのふくよかなる体つきや……肌の白さや、その柔らかさから推すに……これ――女の巨人――には見えたのぅ。……

 常陸の国の衆(しゅ)は、これを見て、皆、驚き呆れあっては見、見ては大騒ぎすること、果てしがなかった、と。……

   *

 さてもまた、別な似たような一件じゃて。

 これも、常陸からは、ほど遠からぬ陸奧(みちのく)の国の、「海道」と申す海っ端(ぱた)でのことじゃ。

 国司(くにのつかさ)×の××と申さるるお方の許へ、これ、前(さき)の話のようなる、大きなる人間が浜に漂着致いたとの知らせのあったによって、家来を遣して検分させてみた。

 こちらもやはり……下半身の砂に埋もれておったによって……男女(なんにょ)の区別は分からなんだ。が……しかし……やはり、そこはかとなく、これは女に違いなかろうと人々の見て感じておった、と。

 そこへ、土地の学識のある僧なんどのしゃしゃり出て参って言うことには、

「……現世の遍き人間(じんかん)の世界のうちに――かかる巨人の存しておるなんどということ――御仏(みほとけ)はこれ一切――お説きになっておられぬ。――さすればこそ――これ思うに――かの六道の今一つの、修羅道界に住まうところの――阿修羅女(あしゅらにょ)――などと呼ばわるところの女(にょ)の鬼神などにても御座ろうか?……体つきの滑らかなる感じ……なんとも光沢(つや)のあって……えも言われず綺麗なところなんどをみると……もしや、まさに……ひょっとして、ひょっとするかも、知れんのぅ……」

なんどと、分かったような妙なことを申しておった。……

 さて、その国司さまは、これ、かの遣わせる者の報告を受けると、

「……これはもう……まっこと、稀有(けう)の珍事出来(しゅったい)なればこそ……何はさて置き、ともかくも国解(こくげ)を、これ、上申せねばなるまいのぅ。……」

と、まさに国解のための文書をも記し、さても使者を以って都に上(のぼ)せんとしたところが、下役の国の地の者どもがこれ皆、口を揃えて、

「……もし上申なさってしまわるると、これ、必ずや、お上の御使者の方々、こちらへお下りになられ、子細に御検分ということとなりましょう。……そうした官使の方々が、これお下りになられますると……これ、そのぅ……準備やら接待やらなんやかやと……これ、費用も手間も心労も、大きにかかりまして……大変に厄介なことと、なりましょうぞ。……さればこれ……ここは一つ、ただただ、この大女がことは……お隠しになられ……黙っておられまするが、これ、よろしいかと存じ奉るので……御座いまする。……」

と、有体(ありてい)に申し上げた。されば結局、守(かみ)もその謂いをもっともなりと、上申書は出さず終いとなり、奇体な巨女が遺骸の漂着の一件はこれ、全く以って隠し通してしまったとのことで御座った。

 そうこうしておる間のことじゃ。……その国に××の××と申す侍の御座ったが、この者、この漂着した巨人を見物に参り、一目見るや、

「……さても! もし、かかる巨人の我が国へ攻め来ったとならば、これ、一体、どう闘(たたこ)うたらよいものか?……まさか……矢(や)はこれ、この巨体に……果たして……立つものであろうか?……何よりますはそこじゃて! 一つ、試してみようぞッツ!!」

と思い立つや、その場にて即座に、

――よっぴいて、ひょう!

と放った。

 すると矢は、巨人の遺骸へ、尾羽根も隠れんばかりに、

――ぶっす!

と、美事、突き立って御座ったという。

 されば、これを見聴き致いた人々はこれ、

「あっぱれ! 試射し果(おお)せたり!! やんや、やんや!!!」

と、褒めそやして感激せぬ者は、これ、おらなんだ、ということじゃった。

 さて、その大女(おおおんな)の死体、これ、日の経つにつれて、ジュクじゅくジュクじゅくと腐れ朽ちて参ったによって、遺体の周囲、これ実に十~二十町が内は、人が住めずなって逃げ去り、また、立ち入らんとする者も、一人としておらなんだ。

 嗅いだ鼻が腐って落ちんばかりの――あまりの臭さに、堪えきれなんだからであった。

 この後者の一件、先に申した通り、当時、世間にては一切、隠し通してあったのであるが、その×の××と申さるる国司のお方が、その後、任の果てて京にお戻りになられて後、誰からともなく、自然と噂の如く湧き出して、瞬く間に広ごり、かく、語り伝えらるるようになった、とかいうことである。

2015/05/25

「今昔物語集」卷第二十七 本朝付靈鬼 於内裏松原鬼成人形噉女語 第八

「今昔物語集」卷第二十七 於内裏松原鬼成人形噉女語 第八

 

[やぶちゃん注:これは私の偏愛する短篇である(その理由は注の最後で明らかにしよう)。本話は池上氏の岩波文庫版には所収しないので、小学館昭和五四(一九七九)年刊の馬淵和夫・国東文麿・今野達校注「日本古典文学全集 今昔物語集四」の原文を底本とし、片仮名を平仮名に直し、恣意的に漢字を正字化して示した。ルビは私が当初の凡例に準じて取捨選択した(底本のルビは歴史的仮名遣)。]

 

   内裏の松原にして、鬼、人の形と成りて、女を噉(くら)ひし語(こと)第八

 

 今昔、小松の天皇の御代に、武德殿の松原を若き女(をむな)三人(みたり)打群れて内樣へ行けり。八月十七(じふしち)日の夜の事なれば、月は極めて明(あか)し。

 而る間、松の木の本に男一人出來たり。此の過(すぐ)る女の中に一人を引(ひか)へて、松の木の木景(こかげ)にて女の手を捕へて物語しけり。今二人の女は、「今や物云畢(ものいひをはり)て來(きた)る」と待立てりけるに、やや久しく見えず。物云ふ音(こゑ)もせざりければ、「何(いか)なる事ぞ」と怪しく思(おもひ)て、二人の女寄(より)て見るに、女も男も無し。此(これ)は何(いづ)くへ行(ゆき)にけるぞと思て、吉(よ)く見れば、只(ただ)女の足手許(ばかり)離れて有り。二人の女此れを見て、驚(をどろき)て走り逃て、衞門(ゑもん)の陣に寄て、陣の人に此の由を告(つげ)ければ、陣の人共驚て、其の所に行きて見ければ、凡そ骸(かばね)散りたる事無くして、只足手のみ殘(のこり)たり。其の時に人集り來(きたり)て、見喤(みのの)しる事無限(かぎりな)し。「此れは鬼の、人の形と成(なり)て、此の女を噉(くひ)てけるなりけり」とぞ人云ける。

 然れば、女然樣(さやう)に人離れたらむ所にて、不知(しらざ)らむ男の呼(よば)むをば、廣量(くわうりやう)して不行(ゆく)まじき也けり。努々(ゆめゆめ)可怖(おそるべ)き事也、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 本話の内容は、宇多天皇の勅命により藤原時平らが撰した延喜元(九〇一)年成立した歴史書「日本三代実録」の最後の第五十巻に載る、仁和三(八八七)年八月十七日の条に記す以下の記録に出るものと同じ事件を扱っている(以下は『岩手大学教育学部附属教育実践研究指導センター研究紀要』(第五号・一九九五年)に載る中村一基氏の「鬼譚の成立 <仁和三年八月一七日の鬼啖事件>をめぐって」の冒頭に引用されているものの、句読点の一部を改変して示した。同論文はまさにこの奇怪な出来事を細部まで徹底的に掘り下げたが記述論文で必読である)。

   *

○十七日戊午。今夜亥時、或人告、「行人云、武德殿東松原西有美婦人三人、向東歩行。有男在松樹下、容色端麗。出來與一婦人携手相語、婦人精感、共依樹下。數尅之間、音語不聞。驚恠見之。其婦人手足折落在地、無其身首。」。右兵衞右衞門陣宿侍者、聞此語往見、無有其屍、所在之人、忽然消失。時人以爲、鬼物變形、行此屠殺。又明日可修轉經之事。仍諸寺僧披請、宿朝堂院東西廊。夜中不覺聞騷動之聲、僧侶競出房外。須臾事靜、各問其由、不知因何出房。彼此相性云。是自然而然也。是月。宮中及京師、有如此不根之妖語、在人口。卅六種、不能委載焉。

   *

「亥時」は午後十時頃であるが、これは事件の起こった時間ではなく、この怪奇事件を「或人」が報告した時間である。従って事件そののもは最低でも三十分以上は前のことであるから、私は事件の発生は午後八時かそれ以前ではなかったかと想定している。「精感」とは「精(まこと)に感じて」とでも訓ずるか。私は――如何にも親しげに――程度の意味で採る。但し、底本日本古典全集の冒頭解説では、『しかし、本話が直接それに依拠したかどうかは疑問で、寧ろ両者間には仲介的文献を配慮すべきか』とも述べてある。

 寧ろ、これを後半部も含めてほぼそのまま書き改めたと思しいものが、「古今著聞集」巻十七の「變化」第二十七の冒頭の一篇(体系本通し番号五百八十九)である。以下に、西尾・小林校注になる新潮日本古典集成版を底本としつつ、恣意的に正字化して示す。

   *

 

   仁和三年八月武德殿の東松原に變化の者出づる事

 

 仁和三年八月十七日、亥の時ばかりに、あるもの道行人に告げけるは、武德殿の東の松原の西に、見めよき女房三人東へゆきけり。松下に容色美麗なる男いできて、一人の女の手をとりて物語しけるが、數刻(すこく)をへて聲もきこえずなりぬ。おどろきあやしみて見ければ、その女、手足をれて地にあり、頭は見えず。右衞門左兵衞陣に宿侍(しゆくじ)したる男、この事をきゝて、ゆきて見ければ、そのかばねもなかりけり。鬼のしわざにこそ。

 次の日、寺の僧を請ぜられて讀經の事ありけり。その僧どもは、朝堂院の東西の廊に宿侍したりけるに、夜中ばかりに騷動のこゑのしければ、僧ども坊の外へ出て見れば、やがてしづまりて、なに事もなかりけり。「これはされば何の事によりていでつるぞ」と、おのおのたがひに問ひけれども、たれもわきまへたる事なかりけり。物にとらかされたりけるにこそ。この月に、宮中京中かやうの事どもおほく聞へけり。

   *

広範の話柄の「朝堂院」は八省院とも言い、変事のあった松原の南直近の豊楽院の東、大内裏中央南寄りに位置する。北部分に大極殿があってその南庭であり、十二同堂が置かれた朝政の場。松原の南西直近である。「とらかされたり」の「とらかす」(盪す・蕩す)は金属を火にかけて溶かすの意の「とろかす」の転訛で、迷わす・たぶらかすの意。

・「小松の天皇の御代」第五十八代光孝天皇(天長七(八三〇)年~仁和三(八八七)年)。陽成天皇が藤原基経によって廃位された後の元慶八(八八四)年三月に五十五歳の高齢で即位、実質的な在位は四年に満たなかった。質朴な文化人として知られるが、彼はまさにこの怪事件の翌月、八月二十六日に崩御している。この大内裏内での凄惨な猟奇的事件が事実とすれば、魔界が大内裏の中にまで侵入している顕著な証しで、これらの多発したという怪事と翌月の薨去とが結びつけられたりはしなかったのであろうか?

・「武德殿の松原」「武德殿」は大内裏の西の中央やや北に或殷富(いんおう)門を入って右近衛府(北側)と右兵衛府(南側)の間を抜けた直近にある小さな凸方をした小さな殿舎で、駒牽き・騎射・競(くら)べ馬などを天覧する際に用いられた。弓場殿(ゆばどの)とも読んだ。そこと宜秋門(エントランス状の通路を経て内裏の西の中央門である陰明門に繋がる)と間に、本事件の発生した「松原」、非常に広い「宴(えん)の松原」と称された広場がある。ここで我々は、かの資料集の復元地図でご大層に書かれていた大内裏の中が、この当時、普通に市井の民の通路になっていたことが分かる。いや、それどころか、「今昔物語集」の他の複数の怪異譚を読むと、まさにこの「宴の松原」は平安後期に於いて既に狐狸妖怪の類いが盛んに出没する立派な心霊スポットとして超弩級に有名であったことが分かるのである。私も高校時代からお世話になっている京都書房の「新版国語総覧」(一九九二年刊)によれば、「宴の松原」とは言うものの、『宴会に用いられた事例は知られず、寧ろ早くから』かく狐狸の棲む『ような恐ろしい場所とされ』、『平安末期の大火以後、官衙の債権が行われないまま大内裏は衰微して野原となり、中世では内野と呼ばれるようにな』ってしまったとある。この四神相応の鉄壁の平安京の、その神聖の中心たるはずの大内裏の中に大きな魔界への入口が黒々と開いていたのである。いや、寧ろ神聖不可侵の聖なる空間の周縁にこそそれに相応した魔が召喚されてしまうのが民俗社会の常なのである。

・「内樣」東の内裏方向。

・「八月十七日の夜」実録にある仁和三(八八七)年八月十七日はユリウス暦で九月八日、グレゴリオ暦に換算すると九月十二日に相当する。

・「若き女三人」そもそもがこの悪所の呼び名高い「宴の松原」を仮に宵の頃であったとしても、女だけの三人連れで行くというのは、如何にも解せない。ここで一人の女が非常に仲のいい馴染みの男(に化けた鬼)に逢うというのも変である。この女たちは所謂、体を鬻いでいる連中であったのだと思う。残りの二人が話し終るのを待っていたのというのは、彼女の商談がつくのを待っていたのである(但し、その場合、女が妙にその男と親しそうに話していたところから彼が以前にその引かれた女郎仲間を買ったことのある馴染みだと思った可能性はある)。幾らなんでも、こんなおどろおどろしい場所でナニをやらかそうとは女二人も思わぬからである。或いはこの殺された女が三人の姐さん格で、三人連れで遊ぼうというのを期待して待っていたものとも考えられよう。ともかくも、学者先生たちはこうしたことについて分かり切ったことだからなのか、一言も注しておられない。私がずっとアカデミストの注が不審にして不満なのはそうした事実によるのである。

・「衞門の陣」左右衛門府の役人の詰所(左近衛府は大内裏の反対側の東の陽明門を入ったすぐ北にあった)。右衛門の陣は先に示したように、豊徳院から宴の松原を真東に突っ切った宜秋門のすぐ内側にあった(左衛門の陣はやはり反対側の建春門内にあった)。彼らが事件に遭遇した場所を「宴の松原」の真ん中辺りと仮定すると、ここまでは恐らく二町(二百五十メートル)程しか離れていなかったはずである。

・「此れは鬼の、人の形と成て、此の女を噉てけるなりけり」私は鬼は女を食ったのではないと考えている。かといって、ここで昨今起きているような猟奇的なシリアル・キラーを比定しようというのではない。私はこの話をやはり殊の外偏愛する「長谷雄草紙」の確かな、サイド・ストーリー、一種のスピン・オフとして読むのである。……公卿で文人として知られ、「竹取物語」の作者の一人とも目される双六の名手紀長谷雄(きのはせお 承和一二(八四五)年~延喜一二(九一二)年)が主人公。彼は鬼の化けた男と朱雀門楼上で双六で勝負をして勝ち、鬼が賭けた絶世の美女をまんまと手に入れる。鬼は百日の間、この女に触れてはならぬ、という忠告とともにその女を長谷雄に与えるが、八十日が過ぎる頃、辛抱我慢のならなくなった長谷雄はつい女を抱いてしまう。すると女は、みるみるうちに水と変じて消えてしまうのであった。この女は実は、鬼が数々の人の死体から目・鼻・胸・腰の良いところばかりを集めて合成したものであって、惜しいかな、百日を経れば真の人間となるはずであった、という奇っ怪い極まるストーリーである。……そうだ……私はまさにこの朱雀門に巣くっていた鬼こそが、本話の鬼であった、その彼が、謂わば「フランケンシュタインの花嫁」を創るために、この女の首と胴体を奪った、と読みたいのである。「長谷雄草紙」の成立は鎌倉から南北朝頃とされるが、その遠い濫觴の一つを例えばこの話に求めるということが、私には強ち、見当違いなこととは思われぬのである。……

 

□やぶちゃん現代語訳

 

 

   内裏の松原に於いて鬼が人の姿に変じて女を喰らった事 第八

 

 今となっては……昔のことじゃ……小松の天皇(すめらみこと)の御代のこと、武徳殿の松原を、若き女が三人、うち連れて内裏の方へと歩いておったと。八月十七日の夜(よ)のことなればのぅ、月影のこれ、まっこと、明るぅ御座った。……

 すると、とある松の木下闇(こしたやみ)より男が一人出でて参って、通り過ぎんとしておった三人の女の中の一人に、声をかけて引きとめ、松の木の木蔭に誘って、その女の手を親しげに取り、何やらん、如何にも親しげに話をし始めた。残りの二人の女は、

「じき、話をつけて戻って来はるやろ。」

とその近くで立ちんぼうして待っておったが、これ、なかなか戻って来ぬ。

 それどころか、先ほどまで聴こえて御座った二人の話し声もこれ、全く聴こえずなって御座ったによって、

「どないしたんやろ?」

と怪しゅう思うて、その二人の女、かの松の下へと行って見たところが、女も男も、これ、おらぬ。

 これは、いったい何処へ行ってしもうたんかと思うて、木下闇の辺りをよぅく見てみて御座ったところが……ただ……

――女の足と手(てぇ)ばかりが

――それも

――それぞれ

――恐ろしく

――遠いところに

――ばらばらになって

離れて落ちておった!……

 二人の女はこれを見るや、驚くまいことか、脱兎の如く先へ先へと走り逃げ、幸いにも、すぐ東の門の内にあった衛門(えもん)の陣へと駆け込んで、陣に御座った侍に件(くだん)の由を慌てふためいて告げたによって、陣の者どもも大きに驚き、女どもの申す場所へと馳せ参じたところが、およそ屍(かばね)の首や胴は一向、見当たらず、確かに、ただ、散じたる足や手(てぇ)だけが残っておったのじゃった。……

 それを聴いて、またまた人々がそこへ雲霞の如く集まり来たって、惨状を見ては、口々に勝手なことを申し、大騒ぎと相い成って御座った。

 大方の者どもは、

「……こ、これは……お、鬼が……人の姿となって……そ、その女を……く、喰ろうて、しもうたのじゃ!……」

と噂し合ったと申す。

 されば、女は、このように人気のないような所で、見知らぬ男に声をかけられたる折りには、うかうか気を許してついて行くようなことはこれ、あってはならぬ、よくよく、気をつけねばならぬことじゃと、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/05/19

「今昔物語集」卷第三十一 本朝付雜事 太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一

恐らくはこのよく知られた短い一篇に、未だ嘗て誰も附したことがない内容を注で考証したという特異点に於いて、自信作であると言える。――
 
 
 
   太刀帶(たてはき)の陣に魚を賣る嫗(おうな)の語(こと)第三十一

 

 今昔、三條の院の天皇の春宮(とうぐう)にておはしましける時に、太刀帶の陣に常に來(きたり)て魚賣る女ありけり。太刀帶共此れを買はせて食ふに、味ひの美(うま)かりければ、これを役(やく)と持成(もてな)して菜料(さいれう)に好みけり。干したる魚の切〻(きれぎれ)なるにてなむ有ける。

 而る間、八月ばかりに、太刀帶共小鷹狩に北野に出て遊けるに、この魚賣りの女出來たり。太刀帶共、女の顏を見知りたれば、「此奴(こやつ)は野にはなにわざするにか有らむ」と思ひて、馳寄(はせより)て見れば、女、大きやかなる蘿(したみ)を持たり。亦楚(すはえ)を捧げて持ちたり。この女、太刀帶どもを見て、怪しく逃目(にげめ)を仕ひてただ騷ぎに騷ぐ。太刀帶の從者(ずさ)ども寄て、「女の持たる蘿には何の入たるぞ」と見むと爲(す)るに、女惜しむで見せぬを、怪がりて引き奪て見れば、蛇を四寸(しすん)許に切りつゝ入たり。奇異(あさまし)く思ひて、「此(こ)は何の料ぞ」と問へども、女さらに答ふる事無くて□□て立てり。早う此奴のしけるやうは、楚を以て藪を驚かしつつ、這出る蛇を打ち殺して切りつゝ、家に持行て、鹽を付て干て賣ける也けり。太刀帶共、其れを不知(しら)ずして、買はせて役と食ひけるなりけり。

 これを思ふに、「蛇は、食つる人惡し」と云ふに、何(な)ど蛇の不毒(どくせ)ぬ。

 然れば、その體(てい)※(たしか)に無くて切〻ならむ魚賣らむをば、廣量(くわうりやう)に買ひて食はむ事は可止(とどむべ)しとなむ、此れを聞く人云繚(いひあつらひ)けるとなむ語り傳へたるとや。

[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「遣」。]

 

□やぶちゃん注

 前の条の注でも述べた通り、芥川龍之介はかの「羅生門」で、女の死骸から髪を引き抜く老婆を問い詰めたシークエンスで老婆が自己合理化の釈明をするシーンの老婆の台詞に登場する話として人口に膾炙している。老婆を抑え込んで「今までけはしく燃えてゐた憎惡の心を、いつの間にか冷ましてしま」い、「或仕事をして、それが圓滿に成就した時の、安らかな得意と滿足と」に浸っている優位な下人が「老婆を見下しながら、少し聲を柔らげて」質すシーンから引く(底本は岩波旧全集版。読みは必要と思った箇所にのみを採った)。

   *

 「己は檢非違使の廳の役人などではない。今し方この門の下を通りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。ただ、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話(はなし)しさへすればいゝのだ。」

 すると、老婆は、見開いてゐた眼を、一層大きくして、ぢつとその下人の顏を見守った。眶の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも嚙んでゐるやうに、動かした。細い喉で、尖つた喉佛の動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな聲が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ傳はつて來た。

 「この髮を拔いてな、この髮を拔いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」

 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、また前の憎惡が、冷やかな侮蔑と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持つたなり、蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。

 「成程な、死人(しびと)の髮の毛を拔くと云ふ事は、何ぼう惡い事かも知れぬ。ぢやが、こゝにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいゝ人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髮を拔いた女などはな、蛇を四寸ばかりづゝに切つて干したのを、干魚(ほしうを)だと云うて、太刀帶(たてはき)の陣へ賣りに往んだわ。疫病(えやみ)にかかつて死ななんだら、今でも賣りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の賣る干魚は、味がよいと云うて、太刀帶どもが、缺かさず菜料(さいれう)に買つてゐたさうな。わしは、この女のした事が惡いとは思うてゐぬ。せねば、饑死(うゑじに)をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしてゐた事も惡い事とは思はぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの。ぢやて、その仕方がない事を、よく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 老婆は、大體こんな意味の事を云った。

   *

 この原話を「羅生門」の授業の中で実際に読むことは、存外、ないと言ってよい。私は教育実習を含めて都合、十数回「羅生門」の授業をしているが、この原話を読ませた記憶がない。高校一年生相手の「羅生門」というのは、実はそれでなくてもなかなかに時間がかかるもので(私は「羅生門」は高校一年生向きの分かりの良い教材ではないと考えている。寧ろ「鼻」に差し替えるべきであるとさえ考えている。――今もどこかの若い教師が「闇に消えた下人はこの後どうしたでしょう?」などという見当違いのテクストの外へ向かって道徳の授業のように問いかける姿を想像しただけで、「黑洞々たる闇」以上に気味が悪くなるのを常としている――)、とてもそんな余裕はないし、これは今も変わらないであろう。さればこそ、せめて私はここでその出来なかったことをやろうというのだよ。……私に高校一年生の時に「羅生門」を教わった諸君。……

 そもそもがこれを「羅生門」の授業で参考資料として挙げるには物理的な時間以外にも、私は出したくない理由があるのである。それは本話の構成上の問題で、「羅生門」が明らかに人間の生存に関わる必要悪、ひいては人間の存在悪を突きつけるのであってみれば、本話の詐欺の実相の暴露が結局、この反道徳的な鬻ぎ女が断罪されたであろう推測を容易にしてしまうプチ構成にある。彼女が公的に処罰されたかどうかは問題ではない。そうではなくて、「羅生門」の悪の哲学を考察するには、この事実提示は寧ろ、邪魔でしかない、ということである。理屈を捏ねる背高の若造に限って、この原話を提示すると、その構成を捉えて、因果応報どころか、正義は必ず事実を明らかにせずんばならずという、私に言わせれば、すこぶる退屈な独り合点を引き出させかねないからである。

 さて、蛇は説話集にあっては忌まわしき執念のシンボルのチャンピオンであるものの、それがかくも女に反用されると、その執拗(しゅうね)きパワーも日干しにされて美味い干し魚ともなる言という点では面白く、いつも驕り高ぶっていたに違いない武士(もののふ)の太刀帯どもも、いい面の皮で痛快ではある。が、私はまた、『奇異(あさまし)く思ひて、「此は何の料ぞ」と問へども、女さらに答ふる事無くて□□て立てり』という辺りには鋭いリアリズムが漂っていて、何か穏やかならざる映像が髣髴としてくる気もしないでもないのである。公的に処断された可能性はどうかといえば、本文に出る「蛇は、食つる人惡し」という当時の一般通念を杓子定規に当て嵌めるなら、これは馬鹿馬鹿しいものの十分にあり得るであろう。しかし寧ろ、相手が老女とはいうものの、騙されていた太刀帯らの激怒を考える時、私刑としてのリンチの如き、何やらん、おぞましい光景も見えては来ぬか? 小学館の日本古典全集の解説には、『行商婦の詐欺的商売を摘発し、読者に注意を喚起しながらも、どこかに哀れさの残る話で』とするが、この附言に私はすこぶるつきで共感出来るのであるが、それは恐らく解説者の意識とは幾分ずれたところでの私の『哀れさ』でもあるのである。この女が「さらに答ふる事無くて□□て立てり」という何とも言えずセピア色になった草原のシーンが、私には確かにある不吉な哀しさの風音を伴って妙に鮮烈に見聴きされてくるのである。

・「太刀帶の陣」「太刀帶」は平安時代以前、春宮坊(皇太子に奉仕し、それに係わる事務を執った役所。内裏の東にあった。東は陰陽五行説で春に当たることから東宮の「東」に「春」の字を当てても書かれたのである)に属して帯刀して皇太子の警護に当たった武官。舎人(とねり)の中から武芸に優れた者が選ばれた。底本の脚注に『定員は当時は三十人』とある。その詰め所が「太刀帯の陣」。

・「三條の院の天皇の春宮にておはしましける時」第六十七代三条天皇(天延四(九七六)年~寛仁元年五(一〇一七)年)。当時は居貞(おきさだ/いやさだ)親王。冷泉天皇の第六十三代第二皇子で第六十五代花山天皇の異母弟に当たる。ウィキの「三条天皇」によれば、例の藤原兼家や息子道隆・道兼らの策略によって花山天皇が寛和二(九八六)年六月二十三日に出家し、七歳の懐仁(やすひと)親王に譲位して一条天皇が即位した。一条天皇は居貞親王の従弟に当たったことから兼家の後押しによって、同年七月十六日にこの居貞親王が十一歳で春宮となっている。冷泉・円融両統の迭立(てつりつ:代わる代わる立てること)に基づく立太子であったが、春宮の方が天皇より四歳年上であったために、「さかさの儲けの君」といわれた。『この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は』超子との間に三人の『親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた』。『また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王も東宮とされた』。『外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える』ともある。眼病を患ったため、『仙丹の服用直後に視力を失ったされる』とあり、在位は寛弘八(一〇一一)年~長和五(一〇一六)年)と頗る短い。以上から、本話の時制は彼が春宮となった寛和二(九八六)年七月十六日から即位した寛弘八(一〇一一)年六月十三日までの閉区間の出来事となる。

・「役と」これで副詞。専ら・殊更・大層の意。

・「持成して」珍しいもの、素晴らしいもの、美味いものとしてもて囃す、言いたてるの意。

・「八月」新暦では八月下旬から十月上旬頃に当たるロケーションは秋の野をイメージされた方がよい。この時期の蛇類は越冬のためにエネルギーを蓄える時期で、肥えて脂も乗ってくると言え、但し、現在の十月頃になると蛇類は一斉に冬眠モードに入り始めて姿を見かけなくなるから、この時の「八月」は現在の九月頃と想定した方がよい。

・「小鷹狩」小振りの鷹を用いて鶉(うずら)や雲雀(ひばり)などの比較的小さな鳥を対象にして秋に行った鷹狩り。初鳥狩(はつとがり)とも言った。冬に行った鶴・雉子・雁(かり)などの大型の鳥類を獲る「大鷹狩(おほたかがり)」の対語である。

・「北野」大内裏の北側の野の意で、現在の京都市上京区の北野天満宮付近の地名。

・「蘿(したみ)」竹で編んだ、底が四角で上部が丸い形をした駕籠や笊(ざる)。古くは汁や酒を漉すのに用い、後には釣った魚を入れておく魚籠(びく)に用いられたから、干魚との連関が認められる。

・「楚(すはえ)」原義は細く真っ直ぐな若枝で、主に刑罰などに鞭として用いた。笞(しもと)。

・「逃目(にげめ)」逃げるようとする目つきや素振りを見せることを言う。

・「四寸」約十二センチメートル。蛇を開き干して干魚として誤魔化すには丁度よい長さではある。彼女は獲った傍から、まずぶつ切りにしたらしい。恐らくはその後に開いて生皮を引き剝いだ上で干したもののであろう。蛇の皮は生の方が綺麗に剥けるように私には思われる。

・「□□て」底本注では、『「あきれ」の漢字表記を期した欠字』とある。私は説話集の欠字にしばしば見られる、この『漢字表記を期した欠字』という説明に実は昔からかなり疑問を持っている。「期する」という語は、必ず実現しようと決めておくことを言うのであるが、だとすると、書いている時に具体的な人名地名が不明であったからとか、言葉が浮かばないか、漢字が思い出せなかったから、後で書き入れようとしてそのまま欠字となってしまったというニュアンスなのであるが、寧ろ、こうし欠字のうちには、特に人名や地名が特定出来ないよう、また、あまりにおぞましい様態や憚られる表現である場合、それを伏せることを殊更に意識的に「期した」欠字とも感じられることがままあるように感じられるからである。ここも寧ろ、読者にその詐欺女の居ても立ってもいられぬ様を読者に想像させるために確信犯で欠字にしたというニュアンスが大きいと私には思われるのだが? 研究者はまさにそういう意味で「期する」を持ちいているようにも見える場合もあるけれども、「期する」にはそうした確信犯的ニュアンスはないように私には思われる(なお私はこれらの「期する」は「きする」と読み、「ごする」とは読んでいない)。私が馬鹿なのか、「きする」「ごする」の読みも含め、研究者の方の御教授を是非とも乞うものである。現代語訳は「あきれて」(強烈な当惑や驚きを意味する古語としての「呆(あき)る」)で採った。

立てり。早う此奴のしけるやうは、楚を以て藪を驚かしつつ、這出る蛇を打ち殺して切りつゝ、家に持行て、鹽を付て干て賣ける也けり。太刀帶共、其れを不知(しら)ずして、買はせて役と食ひけるなりけり。

・「蛇は、食つる人惡し」本草書類では概ね、薬餌としての記載が多い。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を見ると(細かな語注はリンク先の私の注を参照されたい)、まず、「うはばみ ※蛇」(「※」=「虫」+「冉」)の項に、「本草綱目」から引いて、

   *

土(ところ)の人、其の肉を截り、膾(なます)に作りて食ふ。其の膾、醋に着くれば、能く人の筯〔(はし):箸。〕に卷きて、終に脱すべからず。惟だ芒草(かや)を以て筯(はし)と作(な)さば、乃ち可なり。

   *

とあるが、本種を私は本邦にいないヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科ニシキヘビ属ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus と考えている(但し、寺島は『本朝にも深山の中に之有り』とする)。次の「やまかゞち おろち 巨蠎」の条でも、「本草綱目」を引き、

   *

土人、殺して之を食ふ。膽を取りて疾治す。黄鱗なる者を以て上と爲す。甚だ之を貴重とす。

   *

とするが、これもやはり本邦産ではないニシキヘビ科ニシキヘビ属 Python の大型個体或いはニシキヘビ科ニシキヘビ属アミメニシキヘビ Python reticulatus を私は同定している。次の「しろくはじや 白花蛇」も「本草綱目」から引き、

   *

長さ一~二分(ぶ)、腸(はらわた)の形、連珠のごとく、多く石楠藤に上に在り。其の花葉を食ひて、人、此れを以て、尋ね獲る。先づ沙土一把を撒く。則ち蟠(わだかま)りて動かず。叉(さすまた)を以て之を取る。繩を用ひて懸け、※1刀(かつふり[やぶちゃん字注:※1=「蠡」+「刂」。])を起て、腹を破り、腸物を去り、則ち尾を反し、其の腹を洗ひ滌(すゝ)ぎ、竹を以て支へ定め、屈曲盤起して、紮縛(くゝ)り、炕(あぶ)り乾かす。[やぶちゃん注:中略。]

肉【甘鹹、温。毒有り。】風藥と爲(す)ること、諸蛇より速(すみや)かなり【頭尾、各々一尺に大毒有り。只だ中段を乾せる者を用ふ。酒を以て浸し、皮肉を去る。其の骨の刺(はり)、須らく遠く之を棄つべし。人を傷つくる其の毒、生者と同じ。】。

   *

として蛇類では初めて服用薬であるが、「肉」の項が初めて出する。但し、これも私は本邦には産しないクサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus を同定している。しかしその製法は、本条の注に相応しいとは思う。少し飛んで、「さとめぐり 黄頷蛇」辺りから本邦産が登場するように私には思われる。そこではまず「本草綱目」から、

   *

-兒(ものもらひ)、多く養ひて戯弄(ぎろう)と爲し、死すれば則ち之を食ふ。』と。

   *

と引いた後に、良安の言として、

   *

△按ずるに、黄頷蛇は、人家に竄(かく)れ棲(す)んで、鼠及び燕子を呑む。人を嚙まず、倉廩に有りて米を食ふがごとき者は、長大にして二~三丈の者有り。捕へて三~四尺ばかりの者を丐兒女(こじきむすめ)の頸に纏(まと)はしめ、「因果の所業」と稱して錢を乞ふの類、和漢共に然り。

   *

とあって、食用記載ではないものの、当時の日本人が蛇をそうした因業なる生き物として捉えていた事実は本注に記して意味があろう。次に「はみ まむし はんび 蝮蛇」の項を見ると、

   *

肉【甘、温。毒有り。】 活きたる者一枚を取り、醇酒(じゆんしゆ)一斗を以て浸し封じ、馬の溺處(いばりするところ)に埋み、周年にして取り開き、蛇、已に消化して酒の味、猶ほ存すといへども、一升以來に過ぎず。以て飲まば、當に、身、習習として、病、愈ゆることを覺ゆべし。最も癩病を治す。此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。蝮蛇は、天地陰陽の毒烈の氣を稟(う)けて生ずる惡物なり。毒物を以て毒病を攻む。

   *

と「本草綱目」を基にしたマムシ酒の効能が出現し、さらに続く良安の解説では、

   *

毎(つね)に好んで山椒の樹に蟠まる。故に蝮の身に山椒の氣香(かざ)有り。土人、之を取るに、皮を剝ぐ。但だ上下唇を以て之を裂けば、則ち、皮・肉・骨、分かち三段と爲る肉、潔白にして雪のごとし。寸寸(ずたずた)に切りても亦、能く蠢動(うごめ)く。梅の醋を用ひ、蓼に浸し、食ふ。甘美なり。氣力を益し、神志を強くす。又、黑燒にして藥と爲す。名を隱して五八草と曰ふ【又、十三草と名づく。】。能く血を止め、惡瘡を治す【其の燒粉、若し雨に値(あ)はば変じて小虫と成る。】。

   *

と、遂に明確な食品としての調理法や見た目、その味わいの記載を見出せるのである。しかも「甘美」と断定していることに注意されたい。但し、やはりそれは「名を隱」さねばならぬどことなく忌まわしきものであったことも同時に窺えることにも着目したい(下線部やぶちゃん)。

 まあ、こんなもんだろうと思っておられる御仁のために言っておくと、元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書である人見必大の「本朝食鑑」には「蛇蟲類」の項があり、そこにはちゃんと「蛇」の項があることも述べおきたい(当該書は本草書であるから薬物として載っているわけだが、それでも本邦の「食物」として彼がしっかり「食」として名指している事実は重く受け止める必要がある)。但し、その蝮についての記載を見ると、良安が引いた「本草綱目」の効能を挙げた上で、

   *

凡山野之人毎謂食蛇及眞蟲則氣盛志猛予未試之。

(凡そ山野の人、毎(つね)に謂ふ、「蛇及び眞蟲を食ふ時は、則ち、氣、盛んに、志し、猛けん」と。予、未だ之を試みず。)

   *

と告解しているのが面白い。さらに見ると、東日本に稀におり、西南日本に多く見られる「烏蛇(からすへび)」という種を挙げて、

   *

野人食之者多言甘平無毒予未試之。

(野人、之を食ふ者、多し。言ふ、甘平(かんへい)にして、毒、無しと。予、未だ之を試みず。)

   *

ともある。この「烏蛇」というのは、ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒化型(melanistic:メラニスティック)個体の別名と考えてよい(通常のシマヘビは淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)。されば、かつてはシマヘビ食も地方で頻繁に行われていたことが窺える。なお、さらに「本朝食鑑」では、鰻ほどの大きさで黄黒色で纈紋(けつもん:鹿子絞りの紋様)が体表にある「水蛇」という種を掲げ、

   *

釣鱔者儘得之識者不食之不識者混而炙食亦中毒少矣。

(鱔(うなぎ)を釣る者、儘(まま)、之を得て、之を識る者は食はず、之を識らざる者は混じて炙り食す。亦、毒に中(あ)てらるは少なし。)

   *

とするのであるが、私は鰻と蛇を混同して食べてしまうことはまずあり得ないから、これは恐らく条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ Monopterus albus を指していると私は推定していることを言い添えておく。

・「何ど蛇の不毒ぬ」当時の本邦の有毒蛇である二種、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 及びヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus (毒牙は上顎の奥歯にあって非常に短いことから深く咬まれるないと注入されないことから長く毒蛇として認識されていないが、実際にはマムシ毒の三倍の毒性を持つとされている)生食して毒腺や毒液をじかに飲んで、しかもその飲食者の口腔や内臓に傷があった場合に限って中毒する可能性はある。しかし、女は洗浄して干していたであろうから、その可能性はゼロと言える。されば、『これを思ふに、「蛇は、食つる人惡し」と云ふに、何ど蛇の不毒ぬ』と疑問を感じた筆者のそれは、本邦に一般的な蛇食文化を開き得る一歩となっていたかも知れないのである。私はそれを幽かに残念に思う。クジラやイルカを食うことを、ウシやブタをずっと昔から食い続けてきた野蛮人が、野蛮な文化だと指弾する昨今、そんなことをふと思った。

・「※(たしか)に」(「※」=「忄」+「遣」。)「※」の字は不詳(「廣漢和辭典」にも不載る)。底本・諸本ともにかく訓じている。意味は「確か」にと同じものとして訳した。

・「廣量に」形容動詞。軽率に行動したり、うっかり気を許すさま。

・「云繚(いひあつらひ)」「云ひ扱ふ」に同じ。噂する。取り沙汰する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

   太刀帯(たてわき)の陣に魚(さかな)を売る嫗(おうな)の話 第三十一

 

 今となっては昔のことじゃ……そうさ、あれは、三条の院さまが天皇(すめらみこと)の春宮(とうぐう)さまであらせられた頃のことじゃった……

 太刀帯の陣に、いつも来たっては魚(さかな)を売る女の御座った。太刀帯どもはこの女の売れるものを従者(ずさ)に買いとらせては食うて御座ったが、これがまた、その味わい、すこぶる美味(うも)ぅ御座ったによって、専らこれを珍重なし、好んで飯のおかずに致いておったと申す。それは――干した魚(うお)にて――食べ易き大きさに切れ切れに致いたもの――にて御座った。

 さても、八月頃のことで御座った。

 太刀帯ども、小鷹狩りとて、北野に出でて遊んでおったところが、かの魚売りの女が、原の中ほどより、ふっと出でて参ったに出逢った。

 その場にあった太刀帯やそのお附きの者どもは皆これ、この女の顔をよぅ見知っておったによって、誰もが、

『……こやつ……魚を鬻(ひさ)いでおるに……このようなる草深き野っ原にては何をしておるものか?……』

と不審に思うたによって、馳せ寄りて取り囲んで見れば、女は、如何にも大振りなる蘿(したみ)を持っておって、また、高く揚げたる長き楚(すわえ)をも一本持っておった。

 しかもこの女、太刀帯どもを見るや、怪しいことに、逃げ腰となり、尻もすっかり退(の)いて、何やらん、しきりに慌てふためいておるのが分かった。

 太刀帯の従者(ずさ)どもが、さらに円陣の中へと踏ん込(ご)んできっと寄り、

「ワレ! 持ったるその、えろう大きな蘿(したみ)には、これ、何んが入とるんじゃ?」

と、覗き見ようとしたところが、女はしきりに身を屈め、手にて覆い隠しては見せようとせなんだによって、皆々ますます怪しく思うて、一人の従者(ずさ)が、無理矢理、その蘿(したみ)引き奪って中を覗いてみたところが……その中にはこれ……蛇を――四寸(しすん)許りの大きさに――ぶつぶつに斬り刻んだものが――これ仰山、詰っておった。……

 あまりの惨状に驚き呆れて、

「……こ、これは……な、何(なん)に、す、す、するもんじゃいッツ!……」

と問うたれども、女はこれ、ぎゅうっと唇を噛んだまま、一言も発することのぅ、如何にも、意外なところで意外なものを見られたという風に、ただただ、途方に暮れて立ち竦んでおるばかりであった。……

 何と! こ奴がこの北野の原にて致いたおったことは、楚(すわえ)を以って藪を打ち叩き打ち叩きしては、そこに潜みおる蛇を驚かして這い出たを、これまた、楚(すわえ)を以って頭(ず)をさんざんに敲いて殺し、やおら、それをぶつ切りに致いて、家に持ち帰り、それに塩をつけて干し――「干し魚(うお)」と称して売っておった――ので、御座ったじゃ。……

 太刀帯どもは、それを知らずに、買わせては食い、しきりに美味い美味いと言うて、食うては買わせておったのじゃった、と。……

 この一件について思うことはまず、「蛇は、食った人はこれ、必ず毒にあたる」と言い慣わしておるにも拘わらず、どうして太刀帯らは蛇の毒にやられなかったのか? という疑問である。

 また――されば、その見た姿形が最早分からずなっておるような魚の切り身を売っておる場合には、これを安易に買(こ)うて食うなどということは、ゆめゆめせぬがよろしい――と、この一件を聴いた人々はしきりに取り沙汰して御座ったと、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/05/17

カテゴリ「今昔物語集」を読む 始動 / 卷第三十一 人見酔酒販婦所行語第三十二

カテゴリ『「今昔物語集」を読む』を創始する。

最初期のはっきりとした記憶は、中学の国語の教科書で巻二十五第十二の「源頼信の朝臣の男頼義、馬盗人を射殺したる語」を原型とする「馬盗人」の現代語翻案であろうか。実に愛読して四十五年の永い付き合いである。本格的に本朝部を通読したのは、芥川龍之介に耽溺し出した十代の終りであった。
 
ネット上には「今昔物語集」の電子テクストや抄訳はゴマンとあるが、その中で飛び抜けるには本文を正字正仮名とすること、オリジナルの注で読解も差し挟むこと、現代語で繋ぎの悪い部分は大胆にオリジナル翻案をすることであろう。そこで
以下、僕の偏愛する話を概ねランダムに引き、僕にしか出来ない切り口でオリジナルに訳注して「楽しみ」たい。それがこのコンセプトだ。――実は「耳袋」1000話が終わってから、どうにも心に風穴が空いた気分なんである。それを埋めたいためでもあるんである。――

底本は基本、読み易く原典の片仮名を平仮名に直した池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の全四巻を用いるが、恣意的に正字化し、読みは( )が五月蠅いので歴史的仮名遣で甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみ、独自に禁欲的に附すこととし、それ以外のやや問題のある読みはなるべく注で示すこととする(底本は現代仮名遣)。記号の一部も変えてある。それ以外にも数種の校本を所持しており、注や訳でそれらを自在に参考にするが、なるべくアカデミックなものから微妙にずらしてやぶちゃんらしい面白くマニアックな注を心掛けるつもりである(それらから大きく引用する場合、訳に頼った場合は必ず引用元等を示す)。底本を変更した場合(岩波版は全体の四割の抄出)もそれぞれの箇所で示すこととする。訳では読み易さを考え、適宜改行した。

最初は、意想外のものを選ぼう。

巻第三十一の「人見酔酒販婦所行語第三十二」である。

私は人が生理的に気持ち悪がるものが好きな変態的天邪鬼である――

 

 

   人、酒に醉ひたる販婦(ひさきめ)の所行を見たる語 第三十二

 

 今昔、京に有ける人、知たる人の許に行けるに、馬より下(おり)て其の門(かど)に入ける時に、其の門の向(むかひ)也ける古き門の、閉(とぢ)て人も不通(かよは)ぬに、其の門の下に販婦の女、傍に物共入れたる平(たいら)なる桶を置て臥せり。『何(いか)にして臥たるぞ』と思て、打寄て見れば、此の女、酒に吉(よ)く醉たる也けり。

 此(か)く見置て、其の家に入て暫く有て出て、亦馬に乘らむと爲る時に、此の販婦の女、驚き覺(さめ)たり。見れば、驚くまゝに物を突くに、其の物共入れたる桶に突き入れてけり。「穴穢な」と思て見る程に、其の桶に鮨鮎の有けるに突懸(つきかけ)けり。販婦「錯(あやまち)しつ」と思て、怱(いそぎ)て手を以て、其の突懸たる物を、鮨鮎にこそ韲(あへ)たりけれ。此れを見るに、穢しと云へば愚也や。肝も違(たが)ひ、心も迷ふ許(ばかり)思へければ、馬に急ぎ乘て、其の所を逃去にけり。

 此れを思ふに、鮨鮎、本より然樣(さやう)だちたる物なれば、何にとも見えじ。定めて、其の鮨鮎賣にけむに、人食はぬ樣(やう)有らじ。

 彼の見ける人、其の後(のち)永く鮨鮎を食はざりけり。然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、我が許(もと)にて、慥(たしか)に見て、鮨せさせたるをさへにてなむ不食(くは)ざらめ。其れのみにも非ず、知(しり)と知たる人にも、此事を語て、「鮨鮎な不食(くひ)そ」となむ制しける。亦、物など食ふ所にても、鮨鮎を見ては、物狂はしきまで唾を吐てなむ、立て逃ける。

 然れば、市町(いちまち)に賣る物も、販婦の賣る物も、極て穢き也。此れに依て、少も叶(あなひ)たらむ人は、萬(よろづ)の物をば、目の前にして慥に調(ととのへさ)せたらむを食ふべき也となむ語り伝へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 本話の最終段落の評言は、実は本話の前にある話をも含んだ言いである。この前の巻第三十一の「太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一」(太刀帯(たてはき)の陣に魚を売る嫗(おうな)の語(こと)第三十一)も類似した、やはり女の行商人が乾した蛇を干魚を偽って売っていたというトンデモ食品暴露物なのである。これは芥川龍之介が「羅生門」で老婆の語りの中の素材の一つに用いた話柄であるから、誰もがご存じであろう。さても懐かしい。次回はそれを取り上げようと思っている。

・「販婦」女性の行商人。当時は清音で「ひさぐ」と濁るのは近世以後である。そもそも「ひさく」という古語はもともとは「売る」という語の雅語であった。訳では「鬻(ひさ)ぎ女(め)」とした。「鬻」は無論、「売る」の意であるが、これは全く私自身が「ひさぐ」というと、この字でないと落ち着かないからである。悪しからず。

・「物を突く」物を吐く。嘔吐する。

・「其の物共入れたる桶」その売り物などを入れている桶。この副助詞「など」は、この時点ではその売り物を現認していない主人公の視線(販婦との距離間)を、すこぶるよく示して効果的であると私は思う。

・「穴穢な」「穴」は感動詞「あな」の借字。「穢な」は、「きたなし」という形容詞の語幹の用法で詠嘆。

・「鮨鮎」鮎の熟(な)れ鮨。(すしあゆ)は塩漬けや酢漬けにした鮎の腹を開いて、骨などを除去し、そこに飯を詰めたものを、桶に笹の葉を敷いて魚を乗せ、さらに笹で覆って重石をし、暫く置いて発酵させたもの。形状は現在の、私の嫌いなブリを用いた蕪鮨(かぶらずし)や氷頭鱠、さらには私の好きな琵琶湖名産の「ふなずし」が近い。

・「錯しつ」「錯」には「誤る・間違える」の意があるが、しかしこの用字は私にはすこぶる面白。何故なら、この「錯」の字の原義は「まじる・まぜる・みだれる・乱す」の意だからである。「あ~あ、しくじった!」のニュアンスに、「あ~あ、まぜちゃった!」のイメージが被るようになっていると私は思うのである。

・「怱」音「ソウ」。急ぐ・慌てるの意の「悤」の俗字。

・「韲たり」音「セイ」。和える。同時に本字には突き砕く・細かにするの意もあって、映像がよりリアルになるとも言える。

・「と云へば愚也や」言語に絶する事態、尋常な表現では不可能な現象に対して用いられる当時の常套表現で、「今昔物語集」では頻発する決まり文句である。直下の「肝も違ひ」(心胆が捩じれてしまう・でんぐり返る)「心も迷ふ」も同レベルの紋切表現であるから、それらが三重に重ねられているここは驚愕の現実の真実に対する猛烈な生理的嫌悪感が遺憾なく発揮されていると言えるのである。

・「人食はぬ樣有らじ」もともと発酵食品であって酸っぱい独特の匂いがし、前にあるようにその見た目もこれ、すこぶる「それ」と似ていて、区別がつかないから、何か、変だぞ、と感じて食わないなどということはおよそあるまいよ、というのである。そうしてこれらの筆者による感覚が、実は目撃してしまった主人公がそこから忌避して逃げ去る間に脳内に想像された関係想念(妄想ではない)の再現であることに注意しなくてはならない。その結果がトラウマとなって、以下の彼の鮎鮨に対する異常な生理的嫌悪感・忌避行動というこの目撃に由来する典型的なPTSD(Posttraumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)の発症を引き起こすこととなるのである。普通の食事をしている所で他者の席に鮎鮨が出るのを見つけても忌避するというのは、殆んど強迫神経症、一種の鮎鮨フォビア(恐怖)と言ってもよく、たかがされど、の深刻な心傷であったのである。

・「鮨せさせたる」この部分、校訂者によって異なる。小学館の日本古典文学全集版では『鮨(すし)せたる』とあり、サ行下二段動詞で「鮨にさせる」の意の「鮨す」の連用形に完了の助動詞「たり」が続いた形と採っているらしいが、この解には少し無理があるように思われる。

・「然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、」この末尾はかように読点でなくてはならない。古文の試験によく出る「~こそ……(已然形)、――」の逆接用法の変格文脈である。「鮎食はざらむ」は「食はざるべけれ」で、この時のように街路や、また店頭で売られている何が入っているか分からぬような鮎鮨は「食わぬのは当然であるけれども、そうでなくて、と下へ逆接で続くのである。

・「唾を吐てなむ、立て逃ける」ここは現代人なら生理的な不快感の表現として読み過ごすところであろう。実際に彼は、PTSDから鮨鮎売の姿を見ただけで気持ちが悪くなって事実酸っぱいものが喉の奥から上って来るのでもあろうけれども、寧ろ、これは呪的な動作であるように私には思われる。唾は「古事記」以来、その人の魂が籠っている神聖にして霊力なものであった。唾はある対象とある対象を接合する呪力があるから、「唾を吐き捨てる」という行為は逆に、ある忌まわしい対象との関係を絶つ力があるということである。だからアウトローである世間との道徳的関係を絶つところのヤクザは盛んに唾するのである。そう、「思い出ぽろぽろ」の不良を気取る、あの少年を思い出せばよい……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 さる人、酒に酔った鬻(ひさ)ぎ女(め)の驚愕の所行を見てしまった事 第三十二

 

 今となっては昔のことじゃ……京に住まいしておったお人が、知人の家へ行き、馬より降りて、その屋敷の門(もん)を入ろうとしたその折り、その門の、道を隔てた向いのところに古き門のあって――そこはもう、とうに閉じられたままなるものにして、人も行き来致さぬ門で御座ったが――その門のところで、一人の鬻ぎ女が、傍らに売り物なんどを入れた平らなる桶を置いて、ごろりと横になっておるのを見かけた。

『……こんな昼日中、何で寝ておるのか?』

と思うて、近くへ寄って行ってみると、この女、昼間っから酒をかっ喰ろて、したたかに酔っ払い、うたた寝しているのが見てとれた。

 なんとまあ――とあきれ果てて、そのまま取って返し、かの知人の家へと上がって用を済ませ、暫くあって出でて門のところに置きおいた馬に乗ろうとしたところ、馬の動きて馬具の鳴ったが耳にでも入ったものか、かの鬻ぎ女、はっと目を覚ました様子。男が馬の蔭からそっと見てみると、目を覚ましたとたんに、呑み過ぎたのであろ、

――ぐぅえっつ!!

と嘔吐を催し、こともあろうに、売りものなどを入れてあるらしい桶に反吐(へど)をすっかり吐き入れてしまった。

『ああっ! 何て汚い!』

と思うて凝っと見てみると、あろうことか、女はこれ、女が鬻いでいるところの鮨鮎(あゆずし)を入れた桶の中に、己がゲロを吐き入れてしまったのであった。

 鬻ぎ女は如何にも、

『ああっ! やっちまったよぉう!……』

といった表情をしていたが、次の瞬間、男が覗き見ていることも知らず、何と!

――慌てて、手を桶に突っ込むや!

――其の吐き下したる物を!

――その鮨鮎にぐちゃぐちゃと掻き混ぜてしまった!

――これ、見てしまえば、汚い汚くないどころの騒ぎにてはこれ、御座ない!

――胆っ玉のでんぐり返(がえ)り!

――身も心も夢現(うつつ)の境に彷徨(さまよ)うて……急いで馬に跨ると、その場を遠く逃れ去ったのであった。……

   ――――――

 これに就いて考えてみると、鮨鮎というものはこれ、もとより〈その〉ような様子を成したる食品であるからして、〈こうした〉真相を知らざれば、〈こき混ぜよったそれ〉を見ても何んとも思わぬに違いない。間違いなくこの鬻ぎ女は〈この鮨鮎〉を売ったと見て間違いない。しかも〈その買った鮎鮨〉を何かおかしいぞなんどと感じて、食うのをやめたという御仁もこれ、一人として、おらなんだに違いない。

 また、かの驚天動地の現場を見てしまったお人はこれまた、その後(のち)ずっと鮨鮎を食わなくなったというのである。しかも、そのように市井で売られているところの怪しい鮨鮎を食わなくなったなったのは当然であろうけれども、そうではなくて、自分のところで一から確かに見、問題なく健全なる熟(な)れ鮨に致いたものをさえもこれ、決して食ずなった、というのである。いや、それだけではない、知人という知人にも、この一件をつい今しがた見たように生き生きと再現しては語り、最後には必ず、

「――鮨鮎は!――決して食ってはならぬッツ!!」

と、年がら年中、人をつかまえては、きっと戒め制するのであった。いや、それだけではまだ終わらぬ。彼は普通に食事をとるような場所にあっても、そこで他の客に鮨鮎が出されたりしたのに気がつくや、狂ったようになって辺りへ、

――ぺっぺ! ぺっぺ!

と唾(つばき)を吐き撒きつつ、即座にそこを立って逃げ出すのを常としたのである。

 されば、市井の店頭にて売る食い物も、鬻ぎ女の売る食い物も、これ極めて汚ないものなのである。こういうことであるからして、少しでも経済的に余裕のあるお人は、食物に就いてはこれ、あらゆる素材を、必ず目の前に於いて確かに調理させ、それを食うようにせねばならないと、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/05/15

堀辰雄「曠野」原典――「今昔物語集」 卷第三十 中務大輔娘成近江郡司婢語 第四――やぶちゃん現代語訳

■やぶちゃん現代語訳

 

   中務(なかつかさ)の大輔(たいふ)の娘、近江の郡司の婢(はしため)となったる話 第四

 

 今となってはもう……昔のことじゃが……中務大輔(なかつかさのたいふ)であられた何の何某と申さるる御仁の御座った。男の子はのうて、娘子ただ独りだけがおられた。

 

 その頃には既に家内(かない)不如意にて御座られたが、兵衛佐(ひょうえすけ)何の誰彼(たれかれ)と申さるる御方を、その娘に娶(めあ)わせて婿となし、年月(としつき)を過ごしておられた。この間(かん)、貧しき中(うち)にも、これ、なんやかやと遣り繰り致いては、婿殿のお世話をなさっておられたによって、かの婿も、その娘の許を去りがとぅ思うておるうち、中務大輔殿、これ、亡くなられてしもうた。されば後見は御母堂一人ぎりとなって、娘は何かと心細く思うておるうち、その母君もじきに病いにお臥しになられ、永く患いついて御座られたによって、娘はたいそう深ぅ悲しみ歎いておった。ところが結局、その御母堂も亡くなってしもうたによって、娘独り、取り残され、泣き悲しんでおったものの、最早、かくなってはどうにもならなんだ。

 

 すると、次第に家内に仕えておった者どももこれ、皆々、出て行ってしまい、すっかり人気(ひとけ)ものぅなってしもうたによって、娘は夫の兵衛佐に、

「……親のあらしゃいましたうちは、なんとか致いては、あなたさまのお世話をし申し上げて参りましたものの、このように、たよれる生計(たつき)の方もおらずなりましたによって、最早、あなたさまのお身の回りのお世話をさえ叶わずなりましてございまする。……どうして……宮仕えにお見苦しいお姿であらっしゃるなんどということが許されましょう。……これよりは、ただ……あなたさまの――よきように――おとり計らいなさられて下されませ……」

と申したによって、男はこれを聴き、ひどぅ不憫に思うて、

「……どうして! そなたを見棄てるようなことをするものか。」

なんどと答えては、なおも女の屋敷にともに住んではおったものの、じき、出仕の装束(しょうぞく)なんども見苦くなったかと感じたかと思うと、みるみるうちに、みすぼらしゅうなりゆくことの著(しる)ければ、妻は、

「……どこか外の方へ移られなさっても……妾(わらわ)をいとおしゅう思し召された折りなどには、またお訪ね下さいませ。……どうして……どうして、このようなお姿にて宮仕えなさるることのできましょうや。あまりに見苦しゅうございまする……」

と、しきりに勧めたによって、男は遂に屋敷を去って行った。……

 

 さればこそ、女独りとなり、いよいよこの上もなきほどに、悲しく心細き思いをつのらせておった。家もがらんとして、人気も、これ、ない。……ただ独り残っておった幼き女童(めのわらわ)が一人御座ったものの……これもまた、着る物にも、もの食うことにも事欠くありさまとなったなれば……ふと気づいた時には、どこぞへ去(い)んで、姿の見えずなって御座った。……

 

 さてもかの夫はと申せば、これ、初めのうちこそ『如何にも不憫』と、思うて気にはかかっておったものの、じき、他の女の婿になったによって、かの女へ手紙を送ることさえものうなって御座った。女の方も、手紙の来ずなったことへの不満なんどを表立って言い遣ることなど、これもまた、思いの外のことで御座ったれば、結局、出でて行ったきり、二度と、かの女の許を訪ぬることは絶えてしもうたと申す。されば女は、これ、見るもおぞましく壊(こぼ)ったる寝殿の片隅に、ひっそりと独り、住まうておった。……

 

 さて、その寝殿のまた片端に、これ何時の頃よりか、一人の年老いたる尼の住みつくようになって御座ったが、この尼、かの女の境涯を気の毒に思うて、時に、果物やら食い物やらの余れるもののあれば、それをもち来たっては恵んでおった。されば、ひとえにその恩恵を唯一つの糧となして、女は年月暮らしておったのであった。ところがそのうち、この尼の許へ、近江国(おうみのくに)より長宿直(ながとのい)と申す役に当たったとして、とある郡司(ぐんじ)の子なる、一人の若き男が上京致いて参り、宿をとった。さてもこの若者、とある日のこと、その尼に向いて、

「――体(からだ)を持て余しておる女童(めのわらわ)でも一人、これ、世話して下さらぬかのぅ?」

と申した。尼は、

「……我れらは年老いて外歩きなんどもようせねば、何処に女童のおるかというようなことも知らぬ。……じゃが……そうじゃ!……このお屋敷にこそ、たいそう見目麗しくあらっしゃいます、姫君の、たった独り、いかにも現(うつつ)にあらんこともなきように……あらっしゃいますがのぅ……」

と応じたによって、男はそれを聴くや、

「――そ、その女、我らに会わせて下さっしゃれ!……さてもさても!……そのようにお心細くてお過しになさるるよりは――事実、ほんに、お美しいお方ならばこそ――一つ、国へ連れ下って、我らが妻にもしようとぞ思う!!」

と大乗り気に言うたれば、尼は、

「ならば、近々、その旨、伝えてみましょうぞ。」

と請けがった。

 

 この男、こう言い出してよりそのかた、尼に――先の話は通して下さったか?――何?――まだ?――何故、まだお話下さらぬのじゃ?!――早う早う!……と、頻りにせっついては責め立て参ったによって、尼は仕方なく、かの女の許に、いつものように果物などもて行きたるついでに、

「……このように……このままこうして……いつまでもお独りにて身過ぎなさっておらるるわけにも、これ、参りますまいに……」

などと水を向けた後(のち)、

「……さても……実はここに、近江より然るべき御身分の御方の御子(おんこ)の、上京しておられまするが、この度、このお屋敷の御主(ごしゅ)であらるる、あなたさまのことをお話申し上げましたところが、『そのように不如意のままに御座(おわ)しまさるるよりも、自分の国へとともにお連れ申し上げたいものじゃ』と、これがまあ、すこぶる熱心に申しておられますのじゃが……一つ、そのようにさせなさいまし。……このように……何もなさることものぅ、お淋しきままに、お暮らしなさいまするよりは……」

と慫慂致いたところが、女は、

「……ど、どうして……どうしてそのようなること、これ、出来ましょう。」

ときっぱり否んだによって、尼はその場は引き下がって帰った。……

 

 この男は、尼より事の不首尾を聴くや、いやさかに女への思いを切(せち)に募らせ、その日の夜になるや、弓なんどを携え、その女の対(たい)の屋のほとりへと参った。されば、辺りにおった野良犬のこれを嗅ぎつけ、大きに吠えたてたによって、女は普段にもまして、もの怖しゅう感じ、もの凄き思いに怯えて御座った。夜(よ)の明けて後、かの尼、また何食わぬ顔をして、女の許へと訪れたところが、かの女の曰く、

「……昨夜は、もう……まっこと……どうにも……もの怖ろしゅうて……なりませなんだ……」

と訴えた。されば、尼、すかさず、

「だから申し上げたので御座いまする!――かのように申す者に、うち具してお下りなさいませ――と。……かく身過ぎなされておられたのでは……これ、やりきれぬことばかりしか、起きは致しませぬのでは、御座いますまいか?……」

と、上手くまたしても水を向け得たによって、女も『まことに一体どうしたらよかろうか』と思うままに、如何にも逡巡する気色を見せて御座った。さればこそ尼はこれを察し、その夜(よ)――こっそりと――かの男を女の対の屋へと導き入れたので御座った。……

 

 それより後(のち)、男はすっかり女に夢中になった。――田舎の侍なれば、こうした京のやんごとなき娘のそれは、初めての味わいにて御座ったによって、もう一夜(ひとよ)にして離れがたく思うて、長宿直(ながとのい)の明くるや、早々に近江へと連れ下って御座った。女も『かくなっては最早、致し方のないこと』と思うて、ともに下ったのであった。ところが、近江に着いて見れば、この男、前々より国元に既に妻を持って御座ったことの知れた。女は取り敢えず、父郡司が家に住むこととなったものの、その本妻たる者、じきにこの女のあるを聴き知り、ひどく妬み、男を激しく罵ったによって、男は結局、この京から連れ帰った女の許へは一向、寄りもつかずなってしもうたのじゃった。されば、この京の人、親の郡司に使われて、身過ぎ致すことと相い成って御座った。すると、そのうち、その国に新しき国守の決まって、お下りになられるということになったによって、これはもう、国を挙げての大騒ぎと相い成って御座った。

 

 そうこうするうち、

――早や、守殿(こうのとの)が国府へお着きになられた!

という報知のあれば、女が仕えておった郡司の家内も大騒ぎとなって、果物やら食べ物などの饗応の品々を立派に調え揃え、国司の館(やかた)へと運ぶ込むこととい相成った。――その頃、この京の人のことを父郡司の家では〈京の〉と名づけて、郡司のお気に入りとして永年、婢(はしため)として使っていたのであったが――館へその物品々を運ぶに際し、多くの男女(なんにょ)が要ったがため、この〈京の〉にも、物を持せて館へと向かわせたのであった。

 

 さても、守(かみ)は館にあって、多くの下々の者どもが、これ数多(あまた)の品々を持ち運び来たるを眺めて御座った。すると、その中に、他の下人らとは異なり、これ、なんとも言えずそそらるる面持ちをしたる「京の」が、守に目に留まった。されば、守は御自身の小舎人童(こどねりわらわ)を召し出だして、こっそりと、

「あの女は如何なる者であるか? それを訊ねて――今宵――我らが方へ連れて参れ。」

と命じられた。小舎人童が仕切を致いておる下役人に訊ねたところが、しかじかの郡司の婢(はしため)なることが知れた。されば小舎人童はその場に参上して立ち会って御座った郡司に、

2015/02/03

「今昔物語集」巻第第二十七 本朝付靈鬼 桃薗柱穴指出兒手招人語 第三

桃薗柱穴指出兒手招人語第三(桃薗の柱の穴より兒の手を指し出だして人を招く語第三)――「今昔物語集」巻第第二十七 三 附やぶちゃん注・現代語訳――

 

[やぶちゃん注:これは私が偏愛し、古典怪談の中でも最上級に上質な一篇として真っ先に挙げるものである。

 底本はいろいろ考えた末、数種所持する内より、池上洵一編岩波文庫版の片仮名を平仮名に代えた書き下し文化された本文を用いた。但し、他の注釈諸本と校合しつつ、漢字を正字化した。読み(底本は読みが現代仮名遣)は独自に(一部の訓みは底本に従わなかった)必要と思われる箇所にのみ歴史的仮名遣で附した。後に注(底本及び馬淵・国東・今野校注訳小学館古典全集等の注などを一部参考にさせて戴いた)とオリジナルな現代語訳、及び補説を附しておいた。]

 

 桃薗(ももぞの)の柱の穴より兒(ちご)の手を指し出でて人を招く語(こと)第三(だいさむ)

 

 今昔(いまはむかし)、桃薗と云(いふ)は今の世尊寺なり。本は寺にも無くて有りける時に、西の宮の左の大臣(おとど)なむ、住給(すみたまひ)ける。

 其の時に、寢殿の辰巳(たつみ)の母屋(もや)の柱に、木の節の穴開(あき)たりけり。夜(よる)に成れば、其の木の節の穴より小さき兒の手を指出(さしいで)て、人を招く事なむ有(あり)ける。大臣此れを聞給(ききたまひ)て、糸(いと)奇異(あさまし)く恠(あやし)び驚(おどろき)て、其の穴の上に經を結付奉(ゆふつけたてまつり)たりけれども、尚(なほ)招きければ、佛を懸(かけ)奉(たてつり)たりけれども、招く事尚(なほ)不止(やま)ざりけり。此(か)く樣(やう)にすれども敢て不止(とどま)らず。二夜三夜(ふたよみよ)を隔(へだて)て、夜半(やはん)許(ばかり)に人の皆寢ぬる程に必ず招く也けり。

 而る間、或る人亦(また)試(こころみ)むと思(おもひ)て、征箭(そや)を一筋(ひとすぢ)其の穴に指入(さしいれ)たりければ、其の征箭の有(あり)ける限(かぎり)は招く事無かりければ、其の後(のち)、箭柄(やがら)をば拔(ぬき)て征箭の身の限(かぎり)を穴に深く打(うち)入れたりければ、其れより後(のち)は招く事絶(たえ)にけり。

 此れを思ふに心得(こころえ)ぬ事也、定めて者の靈(りやう)などの爲(す)る事にこそは有(あり)けめ。其れに、征箭の驗(しるし)、當(まさ)に佛經(ぶつきやう)に增(まさ)り奉(たてまつり)て恐(おぢ)むやは。然れば、其の時の人皆此れを聞(きき)て、此(かく)なむ恠(あや)しび疑ひけるとなむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

・「桃薗」一条北・大宮西(現在の京都市上京区大宮通一条の世尊寺の近く。京外)にあった邸宅で、最も古くは清和天皇の第六皇子貞純親王の御所であった。これを後に源高明(たかあきら 延喜一四(九一四)年~天元五(九八三)年 後注参照)が邸宅としたが、後に関白藤原忠平四男の大納言藤原師氏(もろうじ 延喜一三(九一三)年~天禄元(九七〇)年)が住み(「尊卑分分脈」には彼が桃園大納言或いは枇杷大納言と称されたと載る)、その後には一条摂政藤原伊尹(これただ/これまさ 延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年)が占有した(最後の私の「補説」も参照のこと)。

・「世尊寺」「大辞泉」には、『京都一条の北、大宮の西にあった寺』とし、前注に示した通り、貞純親王の御所であった桃園殿を、長保三(一〇〇一)年に公卿で書家として知られた藤原行成が寺としたもの、とある。やはり京外。この藤原行成(天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)は先の注で示した桃園殿の最後の占有者藤原伊尹の孫に当たり、三蹟の一人として知られる和様書道の完成者にして書道世尊寺流の祖である。彼の詳細な日記「権記」は著名。

・「西の宮の左の大臣」源高明のこと。以下、ウィキの「源高明」によれば、醍醐天皇の第十皇子。正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、「西宮左大臣」と呼ばれた。延喜二〇(九二〇)年に七歳で臣籍降下し、天慶二(九三九)年参議に昇進、中納言・大納言を経て、康保三(九六七)年には右大臣兼左近衛大将となった。『朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔の三女を妻とし、この妻が没すると五女の愛宮を娶って友好関係を結び、師輔は高明の後援者となっていた。また、妻の姉の安子は村上天皇の中宮であり、東宮(皇太子)憲平親王、為平親王、守平親王を産み、高明は安子に信任され中宮大夫を兼ねた。高明は自身の娘を為平親王の妃とした』。翌康保四年の『憲平親王(冷泉天皇)の即位に伴い左大臣に昇る。冷泉天皇は狂気の病があったため、早急に後嗣を立てる必要があり、同母弟であった為平親王は東宮の有力候補だった。だが、冷泉天皇の東宮には為平の弟・守平親王(のち円融天皇)が立てられる。高明は大いに失望した。これは高明が将来外戚となることを藤原氏が恐れた為とされ、この時には既に師輔も安子も薨去しており、高明は宮中で孤立していた』。安和二(九六九)年、『源満仲と藤原善時が橘繁延と源連の謀反を密告。右大臣藤原師尹は諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、密告文を関白藤原実頼に送り、検非違使を派遣して関係者を逮捕させた。その中には高明の従者の藤原千晴(藤原秀郷の子)も含まれていた。謀反の容疑は高明にも及び検非違使が邸を取り囲み、大宰権帥に左遷する詔を伝えた。これは事実上の流罪であり、高明は長男の忠賢ともども出家して京に留まることを願うが許されず、大宰府へ流された。これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の策謀であったとされる(安和の変)』。翌天禄二(九七一)年に罪を赦され、翌年四月に『帰京するも、政界に復帰することは無く葛野に隠棲』し、そのまま亡くなっている。この一連の謀略によって藤原氏の独占支配が確立することとなった。なお、底本の池上氏の注には、但し書きがあって、『高明の桃園邸は行成のそれ(世尊寺)とは別の邸宅である』とあって不審。これは位置が微妙にずれるということであろうか? 全くあさっての方角にあった別邸ということになると、辞書の記載や他の諸注が成り立たなくなってしまうと思うのだが?

・「辰巳」巽。南東。戌亥(乾。北西)とともに、丑寅(艮。鬼門の北東)及び裏鬼門の未申(坤。南西)に次ぐ禁忌の方角とされる。

・「母屋の柱」寝殿造の中央に位置する南向きの寝殿の、そのほぼ中央のメイン・ルームでぐるりは廂(ひさし)の間が配されてある。この柱はその廂の間との間の庭から向って左側の手前角の柱と考えられる。

・「佛を懸」当時はまだ懸仏(かけぼとけ:銅などの円板に仏神像の半肉彫の鋳像などをつけたもの。柱や壁にかけて礼拝したもので平安後期に本地垂迹の思想から生まれて鎌倉・室町に盛行した)は一般的ではなかったから、仏画か木製の牌に仏の絵像を描いたものを貼り付けたものであろう。小型の念持仏などを紐で括ったものかとも思ったが、ここは次の注の「二夜三夜を隔て」で、またぞろ手招きを始めるためには、実は紙や絹本に描かれた仏画である方が、それがぺろりとめくれて、手が伸び出て来るシーンが如何にもヴィジュアルにしっくりくるのである。

・「二夜三夜を隔て」ここは前に対偶する表現で、経や仏を懸けたりしたその初日は稚児の手が節穴から出てこないが、二晩か三晩するとまたぞろ、の謂いである。現代語訳は、そこを整序してある。

・「征箭」征矢。雁股(かりまた)や鏑矢(かぶらや)のような鈍体の先端ではなく、鋭い鏃(やじり)を装着した四枚羽根の戦闘用の尖った尖り矢。

・「箭柄をば拔て征箭の身の限を穴に深く打入れたりければ」「箭柄」は矢の鏃を除く幹の部分から尾羽までの総て。篦(の)。「征箭の身」は鏃の部分。この部隊である寝殿造の寝殿内の母屋は主人の居間であると同時にゲスト・ルームでもある。従って、その柱に丸一本の征矢がにょっきりと立っているのは如何にも落ち着かない。少なくとも高明の家を訪問する公卿連中らにとってはそれだけでも恐懼の対象となる代物である。ここで鏃だけにしたというのは、実はまことにリアリズムを感じさせる描写なのであって、それが取りも直さず、本話が創作ではなく、実録物であることを示す大きな証拠の一つなのだと私は考えている。因みに、「今昔物語集」の諸篇には先行する説話集や中国の伝承などの典拠があるものも多いが、本話の典拠は諸本ともに未詳とする。それでよい。それでこそ、よい。・「者の靈」「者の」は「ものの怪」で超自然の。そうした邪(よこしま)なる霊的なもの。

・「其れに」これ一語で逆接の接続詞である。それなのに。しかるに。物の怪ならば何よりも仏法の霊験あらたかな経典や図像こそ効験(こうげん)が、これあるはずなのに。

・「恐むやは」反語。(征矢なんぞを)恐れるであろうか? いや。そんなものを恐れるとは、何ともはや、納得がゆかない、と強い不満を述べているのである。小学館古典全集の解説に、『征矢の呪力が仏・経の験力に優越したことを不条理とした、作者を含む当代人の常識が思想史的に注目される』とある。……いや、違うね!――訳が分からない――だからこそ――この話――「コワい」のさ!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桃園殿(ももぞのどの)の柱の穴より稚児(ちご)の手のさし出だされて人を招く事(こと) 第三

 

 今となっては昔のことで御座るが、桃園と申すは、これ、今の世尊寺のことである。

 本(もと)は寺ではのぅて、その折りには、かの西の宮の左大臣源高明(みなもとのたかあき)様が、お住まいになっておられた。

 その時のことじゃ。

 寝殿の母屋(おもや)の巽(たつみ)の角の柱に、木の節の穴が一つ、開(あ)いて御座った。

 ところが、夜(よる)になると、その、木の節の穴より

――小(ちぃ)さなる

――稚児の

――手(てぇ)が

……これ

――すうーっと……

――さし出ださるる……

……と

――それがまた

――上下に

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……これ……

――動いて

――人を

――招く。…………

 左大臣様、このことをお聞き遊ばさるると、

「――それは、あまりにもけったいなことでおじゃる。……」

と、大いに怪しまれもし、驚かれもなさったじゃ。

 ともかくもと、すぐに、その穴の上に、紐を以って、これ、ありがたい御経を堅(かたー)く結いつけおき奉ったり、また、仏の貴(とうと)き絵図を懸け奉ったりして御座ったれど、経や絵図を据えたるその夜のほどは、取り敢えずは、手(てぇ)の伸び出ること、これ、なけれど、二晩か三晩もするうち……またぞろ

――手(てぇ)の招くこと……

これ、なお止まず、弦打(つるう)ちして廻れる宿直(とのい)の者の、ふと見てみれば、夜半も過ぎたる、人皆、寝静まって御座る頃合い、その闇の中に……

――可愛(かわ)ゆらしい小さなる

――白々(しろじろ)した

――手(てぇ)が

これ必ず、

――すうーっ……

と出でて

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……招いておるので御座った。

 ところが、とある家臣の一人が、今一度、試みてみんと、ただの思いつき乍ら、征矢(そや)を一筋、その穴に刺し入れてみたと申す。

 すると、その征矢を差し込んでおる限りは、招くどころか、手(てぇ)の出ることさえ、これ、御座らなんだによって、それよりしばらく致いて、矢柄(やがら)をば抜き去り、征矢の鏃(やじり)ばかりを、その穴に深(ふこ)ぅうち込んでおいたによって、それより後(のち)は、これ、招く手の出ずること、絶たえて無(の)ぅなったと申す。

 さて、これを按ずるも、何ともはや、これ、納得のゆかぬことではないか? これ、定めし、物の怪や何か霊なんどの仕業(しわざ)にては御座ろうが、それだのに、征矢如きの霊験(れいげん)が、尊(たっと)き仏様の図像や御経のそれよりも勝っており、その下らぬ妖しのものが、かの鏃如きを恐れたと申すは、これ、どうにも納得がゆかぬことではないか?! さればこそ、その当時の人も皆、この話を聴いては、誰もがこの我ら同様、怪しみもし、疑いもした――と、かくこそ語り伝えておるということじゃて。

 

□補説

 私が何故、この話を偏愛するのか?

 それは怪談の恐怖の核心とは、まさに日常性との絶対の断絶にこそあると私は考えているからである。怨念なり復讐なり、その超常現象出来(しゅったい)の具体的理由が現世的に連絡し解説されてしまった瞬間、その霊や物の怪は、登場人物にとってだけではなく、読者にとっても、実は恐怖の対象足り得なくないものに変貌してしまうからである。それは結局、鮮やかに現世の利害の経済関係に還元されてしまい、心理的にも論理的にも、征服され調伏され、或いは供養され追福されるべき処理対象へとすっかり変質してしまうからである。

 最も恐ろしいイメージとは何か?

 それは、恨み言も表情も汲み取れない、ただただ泣く赤子の霊に代表されるような生(なま)に響いてくる原初的な叫喚の音声(おんじょう)であり、ここに出るような小さな稚児の手がただただ人を招くのみという、理屈なき戦慄、純粋に視覚的なリアリズムにこそあるものなのである。

 なお、本話について考証した山分美奈氏の「桃薗における怪異譚をめぐって」と言う論文をネット上で読むことが出来る。そこでは本話の次に、桃園邸が後に世尊寺となってからの怪異として、後の「宇治拾遺物語」第八十四話として載る「世尊寺に死人(しにん)掘り出す事」(当時の邸主であった藤原伊尹が堂を建てるために邸内の塚を掘り返えさせたところ、石棺が出、開けさせて見ると、生けるが如き美しい若き尼の遺骸が現われたものの、吹き初めた風に塵となって消え失せてしまったという怪異譚である)があることが示されてあって、その後、史実を細かく分析された上、この桃園邸の旧主源高明が安和の変で左遷されていること(但し、三男であった高明が桃園邸を出たのはその十年ほど前と考証しておられる)、次代の当主藤原師氏がその左遷の翌年に病死したこと、その死後にこの屋敷地を不当に横領したらしい藤原伊尹がやはりその三年後に没しており(先の「宇治拾遺」の話は末尾に伊尹の死はこの時の祟りによるのではないかと世間では噂していると結んであるのである。本話については後に電子化しようと思う)、この桃園邸が、ある種の宅妖であった可能性が示唆されている。だいたいが「今昔物語集」のこの冒頭はしばらく宅妖が続く。というより……実はこの前の「第二」は、かの知られた「川原の院の融(とほる)の左大臣の靈(りよう)を宇陀院見給へる事」なのである。但し――私にとって嬉しいことに――この論文ではこの稚児の手招きという怪異自体の具体的な謎解きは、一切なされていない。……それをされたんでは、私にとっては――せっかくの純粋なホラーが台なしになってしまう――からである。

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