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カテゴリー「小泉八雲」の338件の記事

2017/11/04

柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲“A Matter of Custom”原文及び田部隆次訳

 

 

 

 魚王行乞譚といふのは柳田國男氏の命名されたものであらう。見識らぬ人が來て殺生に關する異見をして歸る。途にその異見に從はず、釣りに出て獲た魚の腹を割くと、最前の客に供した食べ物が出て來たので、さてはこの魚が人に化けたのであつたかといふのが大體の型である。魚の種類は鰻が多いが、土地によつて岩魚になつてゐるのもあり、腹中から現れる食べ物も、蓼飯や采飯の外に團子などといふこともある。この人に化けた鰻なり岩魚なりは必ず大きなものなので、中には特にこれこれの大きな鰻があつたら殺すなと注意してゐるのもあるから、それを魚族の代表者と見て、魚王の名を與へられたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚といふのは柳田國男氏の命名されたものであらう」柳田國男が昭和五(一九三〇)年一月に『改造』に発表した論文に「魚王行乞譚」がある。これは世年後の昭和九年六月小山書店から刊行した論集「一つ目小僧その他」に収録された。宵曲が柳田國男が本タイプの話群への「魚王行乞譚」の名付け親というのは、恐らくは正しいかと思われる。但し、「魚王行乞譚」は表題だけで、論文内にはこの名称は出ない。因みに「魚王行乞譚」について、平凡社の「世界大百科事典」では、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話である、とする。現在、私は「一つ目小僧その他」の電子化注行っているが、生憎、注に手間取るため、遅々として進まず、後、三章後である。当該部分の電子化注が終わったところで、改めて、ここにリンクを張る。]

 

 狂言の「釣狐」は伯父の白藏主(はくざうす)に化けて殺生を戒めに來る。狐はそのまゝ古家に歸らうとして、一應異見に從ふかに見えた甥の罠にかゝるのである。「釣狐」には饗應の食べ物がないから、後に腹を割いて確證を得るわけに往かず、罠にかゝつた狐を以て伯父に化けたものと斷定しがたいが、殺生を戒めに來た者が先づ捕はれる點は、ほゞ徑路を同じうしてゐる。もし狐族代表としてこの擧に出たものとすれば、「釣狐」の老狐が狐王といふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「釣狐」ウィキの「釣狐」より引く。『鷺流での名称は「吼噦(こんかい)」』で、『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは』「靭猿(うつぼざる)」(大名狂言。大名が太郎冠者を連れて狩りに出かける途中、猿引が連れている毛並みのよい猿を見て、「矢を携帯する靱(箙(えびら)に同じい)の皮にしたいから猿を譲れ」という。猿引が断ると、大名は弓矢で脅し、無理に承知させる。猿引が猿を殺そうと杖を振り上げると、無邪気な猿はその杖を取って、舟の櫓を漕ぐ真似をするので,憐れを催し、手が下(くだ)せない。大名も無心な猿の姿に心打たれ、命を助ける。猿引は喜んで猿歌を歌い、猿に舞わせる。大名も上機嫌で猿に戯れて舞う真似をし、扇・刀・衣服を褒美として与えるというストーリー。狂言師を目指す子弟は、この猿の役で、幼少時に初めて舞台に立つことで知られる)の『猿役で初舞台を踏んだ狂言師が』、この「釣狐」の『狐役を演じて初めて一人前として認められるという意味である』。『白蔵主の伝説』(原型の伝承では、南北朝の永徳元(一三八一)年に、和泉(現在の堺市堺区)にある(現存)臨済宗萬年山少林寺塔頭の、耕雲庵の住僧として実在した僧の法名とされる。ウィキの「白蔵主」を参照されたい)『を元に作られたとされており』、『多くの狂言師が、上演する際に白蔵主稲荷を祀る大阪府堺市の少林寺に參詣し、この稲荷の竹を頂いて小道具の杖として使っている』。シテが老狐、アドが猟師で、『猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて』、『狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』というストーリーである。]

 

「魚王行乞譚」に擧げられた話は「耳囊」が二つ、「想山著聞奇集」が二つ、「老媼茶話」が一つ、それに岩手縣に傳はつた話が「聽耳草紙」から一つ、すべて網羅されてゐるので、蛇足の加へやうがない。最後に支那の例として「廣古今五行記」及び「朝野僉載」の二話が「太平廣記」から引かれてゐるが、「廣古今五行記」のもう一つの例が洩れてゐる。似たやうなものではあるが、こゝに補足して置くことにしたい。

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚」先の柳田國男の論文。

「耳囊」は私が古くに全電子化訳注を完遂している。「二つ」とあるが、これは「卷之八 鱣魚の怪の事」にカップリングしてあるものを指す。参照されたい。

「想山著聞奇集」も私が全電子化注を完遂している。これも「二つ」とあるが、こちらも「卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の最初の「イハナ坊主に化たる事」の中に書かれてある岩魚の変化(へんげ)の二例(後の鰻のケースではないので注意)を指す。参照されたい。

「老媼茶話」は現在、私が電子化注をしている最中であるが、幸いにも当該話は既に終わっている。「卷之弐 只見川毒流(どくながし)」である。参照されたい。

『「聽耳草紙」から一つ』「聽耳草紙」は柳田に師事し、「遠野物語」の提供者として知られる岩手遠野の、作家であり、在野の民俗学研究者でもあった佐々木喜善(実際には「遠野物語」は彼が採集したものを聴き取りしたのであって、柳田國男の作品とは言えないと私は考えている)の民話集。以下に引く。二話カップリングになっており、ここに後者もここに注するに相応しいので、丸ごと示す。底本はちくま文庫の同書を用いた。最後の丸括弧による佐々木氏の注は底本ではポイント落ちで、全体が一字下げである。

   *

 

   一〇二番 鰻の旅僧(その一)

 

 昔、滝沢と鵜飼との境に、底知れぬといわれた古沼があった。ある時この沼の近所の若 者達が七八人でカラカを作って、一生懸命に臼で搗いていると、そこへどこからか一人の汚い旅僧が来て、その木ノ皮の粉は何にするもんだと訊いた。若者達はこれは細谷地の沼へ持って行って、打ッて見る算段だが、そうしたら鯉だの鮒だの鰻だのが、なんぼう大漁だか、お前達[やぶちゃん注:「達」はママ。複数形ではなく、敬称であろう。]にも見せてやりたいほどだと言った。するとそのお坊様は悲しそうな顔して、そうか、だがその粉を揉れたら、沼の中の魚は大きいのも小さいのも有るも無いも皆死ぬべが、親魚だらともかく一寸下の小魚などでは膳の物にもなるまいし、また生物の命を取るということは、なんぼ罪深いことだか知れないから、早く思い止まりませと言って頼んだ。

 すると若者達は口を揃えて、何この乞食坊主が小言をぬかせや、今日は盆の十三日だ、赤飯をケルから[やぶちゃん注:「呉れてやるから」の意か。]、早くさっさと影の明るいうちにどこさでも行きやがれ。そして同じクタバル(死ぬ)なら俺が領分でおんのめるな。後片付けに迷惑するからと言った。すると旅僧も何も言わずにその小豆飯をもらって食って、そこを立ち去った。

 翌日若者達は、沼へ行ってカラカを揉んだ。するとあてにしていたように、しこたまの大漁であった。泥を搔き分けて行くと、最後にひどく大きな鰻を捕った。体が胡麻ぼろで[やぶちゃん注:胡麻を蒔いたように老成して表皮が転々と剥げて斑(まだら)になっていることか。]、まわりが一尺長さが六尺もあった。あんまり珍しいものだから仲間して人数割に、ズブギリ(輪切り)にして分配することにした。そして腹を割って見ると中から赤飯が出た。そこで初めて昨日の族僧がこの沼の主であったことが分った。

(岩手郡滝沢村字滝沢、細谷地の沼。カラカとは山村でよくやる山椒の木の皮を天日に干して、細かに切り、臼で搗いて粉にし、それに灰を交ぜて、川沼で揉み魚を捕るもの、地方によってはナメともいう。昭和二年十月十六日、大坊直治翁来翰その三。)[やぶちゃん注:「カラカ」は「辛皮」である。]

 

     (その二)

 

 この鰻の旅僧の話は他にもあった。和賀郡黒沢尻駅近くに見える和野という所の田圃の中に、こんもりとした森がある。これを浮島というのである。

 昔この和野に長老があった。極めて貪欲無道な人であって、財宝が家倉に積み余っているくせに多くの下男下女をこき使うことが甚しかった。雨降りの日などにはお前達は今日は働かないから、これでいいとて、アメた[やぶちゃん注:岩手方言で「腐った」の意。]飯や腐った魚肴を食わした。

 しかし長老は、館の前に、多くの金をかけて大きな池を造って、その他の四季の景色を眺めて楽しんでいた。ある時いつものように池を眺めていると、門前へ貧乏たらしい旅僧が訪れて来て、何か食物をクモれやと乞うた。長者はお前にはこれがちょうどよいと言って、猫の食い残しの汚飯を投げ与えた。

 しかしその旅僧は、そんな汚い飯をさもうまそうに食べおえてから、さてさて長老殿の家もあと一年の運だなアと嘆いて、すごすごとそこを立ち去った。

 果して一年たつと、門前の池の水が涸れて一滴もなくなった。その時不思議にも口中に飯粒を一杯入れた大きな鰻魚が死んでいた。それからというものは長者の家は災難続きで、だんだんと貧乏になり、ついに跡形なく滅びてしまった。

 今ある浮島の森は、その池の中にあったものだといわれている。

(村田幸之助氏の御報告の分。黒沢尻中学の二年生、高橋定吉氏の筆記摘要。)

   *

「廣古今五行記」唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集。柳田國男が引いているのは、「太平廣記」の「水族六 水族爲人」の「廣古今五行記」を出典とする「晉安民」。

   *

晉安郡民斷溪取魚、忽有一人著白、黃練單衣、來詣之、即同飲饌。饌畢、語之曰、「明日取魚、當有大魚甚異、最在前、愼勿殺。」。明日、果有大魚、長七八丈。逕來衝網。其人卽賴殺之。破腹、見所食飯悉有。其人家死亡略盡。

   *

今一つは、

「朝野僉載」「ちょうやせんさい」(現代仮名遣)と読む。「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。同じく柳田國男が引いているのは、「太平廣記」の同じく「水族六 水族爲人」の「朝野僉載」を出典とする「萬頃陂(ばんけいは)」。

   *

唐齊州有萬頃陂。魚鼈水族。無所不有。咸亨中。忽一僧持鉢乞食。村人長者施以蔬供。食訖而去。於時漁人網得一魚。長六七尺、緝鱗鏤甲、錦質寶章、特異常魚。欲齎赴州餉遺、至村而死、遂共剖而分之。於腹中得長者所施蔬食、儼然並在。村人遂於陂中設齋過度、自是陂中無水族、至今猶然絶。

   *]

 

 隋の開皇の末の事である。大興城の西南に於て、村民が佛會を營んでゐるところへ一人の老人が現れた。晉安郡の民が魚を捕る場合に出た老人は「著白黃練單衣」とあつたが、大興城のは全くの白裝束で、食を求めて去る。誰も識つた者が居らぬので、ひそかに後をつけて行つたところ、二里ばかりにして見えなくなつた。たまたまそこに堤があり、水中に白魚が泳いでゐる。丈餘の白魚に從つて無數の小魚の泳ぐのを見、人爭つてこれを射る。中には弓が折れ弦の切れた者もあつたが、遂にその白魚を射て腹を割いて見たら、飯の出て來たことは「魚王行乞譚」の諸例と同じであつた。後數日にして洪水があり、魚を射た者の家は皆溺死したとある。

[やぶちゃん注:「隋の開皇の末」「開皇」は隋の初代皇帝文帝(楊堅)の治世に行われた年号。隋朝最初の年号で、五八一年から六〇〇年に相当する。

「大興城」隋の都。隋の文帝が、五八三年に旧長安城の東南に築いた。

「晉安郡の民が魚を捕る場合に出た老人」柳田國男の「魚王行乞譚」に「太平廣記」から紹介されたもので、谷川を堰き止めて漁をしようとしていた人の前に現われた魚の変じた老人のこと。前段の私の注の原典を参照。

「著白黃練單衣」前段の私の注の原典を参照。白い袷(あわせ)に、黄色の練り絹の単衣(ひとえ)を着ている。

「二里」隋代のそれなら、一里は五百三十一メートルであるが、これも実は「廣古今五行記」が元で(後掲)、同書は唐代の作品だから、一里は五百六十メートル弱で採らなくてはおかしい。従って一キロメートル強となる。

 以上は「太平廣記」の同じく「水族六 水族爲人」の「廣古今五行記」を出典とする「大興村」。

   *

隋開皇末、大興城西南村民設佛會、一老翁皓首白裙襦、求食而去。衆莫識。追而觀之。行二里許、遂不見。但有一陂。水中有白魚長丈餘。小而從者無數、人爭射之、或弓折弦斷、後竟中之。割其腹。復秔米飯。後數日、漕梁暴溢、射者家皆溺死。

   *

 

「太平廣記」に收められた三つの話のうち、晉安民の話だけが、明日魚を取らば、當(まさ)に大魚の甚だ異なる者があつて、最も前に在るだらう、愼みて殺すなかれ、と戒めてゐる。他は皆食を了つて去るだけであるが、晉安の民は一家ほゞ死亡し盡し、大興城の人は溺死する。萬頃陂の話にはかういふ祟りは見えぬが、その代り「これより陂中水族なし」といふことになつてゐる。日本の話はせいぜいその魚を食はなかつたとか、爾來鰻釣りを止めたとかいふ程度の結末が多い中に在つて、「老媼茶話」の一例だけが、慶長十六年七月に只見川の毒流しを行ひ、同年八月二十一日に大地震があつて山が崩れ、翌年五月十四日には毒流しの主謀着である蒲生秀行が亡くなつた。魚王の祟りも決して馬鹿にならぬ。たゞ日本の話は先づ命乞ひの人に逢ひ、忽ちにして魚腹の食べ物を見るので、魚群の最も先頭にゐたり、無數の小魚を從へたりするやうな、魚王の實を示す話はない。支那の話でも「萬頃陂」の中には魚王らしい一條が見えぬやうである。

[やぶちゃん注:「慶長十六年」一六一一年。以下の話については、既に「卷之弐 只見川毒流(どくながし)」の私の注で、細かく検証している。是非、参照されたい。]

 

 鰻は生きながら割いたのを燒いて食膳に供するせゐか、昔から種々の妖異譚が傳へられてゐる。馬琴が「兎園小説」に書いた話などは、いさゝか因緣纏綿し過ぎた嫌ひがあるが、鰻屋が仕入れて來た中に、すぐれて大きな鰻が二尾あつて、その一つを割かうとすると、主人が錐で怪我をする。代つて割かうとした甥も、手に卷き付かれたり、尾で打たれたりして弱つたが、因果を含めてどうにか割き了つた。併し折角苦心して割いた鰻も、客は判串食べただけで、氣持が惡いと云つて食はなかつたのみならず、その夜中に生簀(いけす)の方で何か大きな音がする。手燭を秉(と)つて生簀の蓋を取つて見た時、多くの鰻が一齊に頭をもたげて睨むやうにした。もう一尾殘つてゐた筈の大鰻は、いつの間にか姿を消してゐたさうである。この出來事に驚かされた鰻屋の甥は、次の日逐電してしまつたといふのであるが、筆者が筆者だけに草雙紙趣味が加はつてゐるやうな氣がする。尤も馬琴は天保三年十一月十三日の晩に、關係者の一人からこの話を聞いたので、「浮きたる事にはあらずかし」と力説してゐるから、事實とするより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:以上は、「兎園小説餘錄」の「第二」にある「鰻鱧(バンレイ)の怪」(「鱧」はハモ(条鰭綱 Actinopterygii ウナギ目 Anguilliformes ハモ科 Muraenesocidae ハモ属ハモ Muraenesox cinereus)のことであるが、ここはこの二字で、ウナギ(ウナギ目 Anguilliformes ウナギ亜目 Anguilloidei ウナギ科 Anguillidae ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica)を指している。その逆に、これでハモだけを指す用法もある)である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。適宜、句読点や記号を変更・追加し、直接話法は改行し、一部にオリジナルに読みを歴史的仮名遣で附した。なお、宵曲は作話性が臭うと批評しているが、私は「兎園小説」の中ではかなり好きな一話である

   *

   ○鰻鱧の怪

 吾友鈴木有年、名は秀實、俗字は一郎【東輪王寺の御家臣。】。叔父某乙は、沙翫[やぶちゃん注:左官。]の頭領【有年の實父は、伊勢の龜山侯の家臣にて、下谷の邸にあり。今玆七十二歳にて、十月廿四日に歿したり。有年は東台の儒臣鈴木翁の養嗣たり。件の叔父は則實父の弟也。】。

 わかゝりし時、放蕩なりしかば、浮萍(うきくさ)のごとく東西南北して、竟に沙翫になりしといふ。

 いまだ泥匠[やぶちゃん注:左官に同じ。]ならざりし時、某町なるうなぎ屋の養嗣になりて、しばらくその家に在りける程、養父とともに鰻鱧の買出しに千住へもゆき、日本橋なる小田原河岸へゆくこともしばしば也。凡(およそ)鰻鱧は一笊(ざる)の價、何ほどと定め、手をもて、ひとつひとつに引あげ見て、利の多少を推量(おしはか)ること也とぞ。

 かくて、あるあした、又、養父と共にかひ出しに赴きて、かたのごとく、うなぎを引あげ見つゝ、損益をはかりて、幾笊か買とりしを、輕子(かるこ)[やぶちゃん注:魚市場や船着き場などで荷物運搬を業(なりわい)とする人足。繩を編んで畚(もっこ)のようにつくった軽籠(かるこ)と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せて棒を通し、担いで運んだ。]に荷なはして、かへり來つ。

 しばらくして、養父なるもの、件(くだん)のうなぎを生簀箱(いけすばこ)に入けるに、特に大きなる鰻鱧、ふたつ、ありけり。養父、いぶかりて、有年の叔父なりける某乙に、

「かゝる大うなぎあり。今朝、買とる折には、かくまで大うなぎはなしと思ひしが、いかにぞ。」

といふに、某乙も亦、訝りて、

「宣ふごとく、こはおぼえず候へども、こはめづらしきものにこそ侯へ。折々來給ふ得意の何がしどのは、鰻鱧の大きなるを好み給へば、かこひ置(おき)て賣(うら)ばや。」

といふに、養父、うなづきて、

「寔(まこと)に。さる事あり。かの人にまゐらせなば、價を論ぜず、よろこばれん。かこひおくこそよかめれ。」

といひけり。

 かくて、その次の日、彼(かの)大うなぎを好む得意の町人、ひとりの友とともにうなぎを食(くは)んとて來にければ、あるじはしかじかと告知(つげし)らするに、その人、歡びて、

「こは。いとめづらかなるもの也。とく燒(やき)て出(いだ)せ。」

とて、友人とともに二階に登りたり。

 その時、あるじは、件の大鰻鱧を、ひとつ、生簀より引出して、裂(さか)んとしつるに、年來(としごろ)、手なれしわざなるに、いかにか、しけん。うなぎ錐(きり)にて手をしたゝかにつらぬきけり。

 既にいたみに堪(たへ)ざれば、有年の叔父某乙を呼びて、

「われは、かゝる怪我をしたり。汝、代りて裂くべし。」

とて、左手を抱へて退(の)きければ、某乙、やがて立代(たちかは)りて、例のごとく裂んとせしに、その大うなぎ、左の手へ、

「きりきり。」

と、からみ付(つき)て、締(しめ)ること甚しく、既にして動脈の得(え)かよはずなるまでに、麻癱(しび)るゝ痛みに堪ざれば、少し手をひかんとせしに、その大うなぎ、尾をそらして、腔(ひばら)[やぶちゃん注:脾腹。]を、

「ほた。」

と打(うち)たりける。是にぞ息も絶(たゆ)るばかりに、痛みをかさねて難儀しつれど、人を呼(よば)んはさすがにて、なほも押へて些(いささか)も緩めず、ひそかにうなぎに打向ひて、

「汝、われを惱すとても、助かるべき命にあらず。願ふは、首尾、克裂(かつれつ)[やぶちゃん注:鮮やかにしっかりと裂けること。]してくれよ。しからば、われはこの家を立去(たちさ)りて、後々まで、かゝる渡世をすべからず。思ひ給(たまへ)よ。」

と、しのびねにかきくどきたりければ、そのこゝろをうけひきけん、からみたる手をまきほぐして、やすらかに裂(さけ)にけり。

 扨、燒立(やきた)て、出(いだ)せしに、得意の客もその友も、

「心地、例ならず。」

とて、これをたうべす[やぶちゃん注:ママ。「食(たう)べず」。]。

 初(はじめ)、かの得意の客は、わづかに半串、たうべしに、

「死人の如きにほひして、胸わろし。」

とて、吐きにけり。

 かくて、その夜さり、丑三の頃、うなぎの生簀のほとりにて、おびたゞしき音のしてければ、家の内のもの、みな、驚き覺(さめ)て、

「何にかあらん。」

と訝る程に、某乙、はやく起出(おきいで)て、手燭を秉(とり)て生簀船(いけすぶね)を見つるに、夜さりは石を壓(おもし)におく。その石ももとのまゝにて、異(い)なる事のなけれども、

「さりとも。」

と思ひて、生簀船の蓋を開きて見ぬるとき、あまたのうなぎの、蛇の如くに、頭をもたげてにらむに似たり。

 只、この奇異のみならで、ひとつ殘りし大うなぎは、いづちゆきけん、あらずなりけり。某乙、ますます驚き怕(おそ)れて、次の日、養家を逐電しつゝ、上總の所、親がり[やぶちゃん注:実の親の元へと。]、赴きて、一年ばかり歷(ふ)るほどに、養父は去歳(さるとし)より大病にて、今はたのみなくなりぬ。

「とく、立かへり給へ。」

とて、飛脚到來してけるに、既に退身(たいしん)[やぶちゃん注:勝手に逐電して退去したことを指す。]したれども、いまだ離緣に及ばざれば、已むことを得ずかへり來て、養父の看病せんとしつるに、養母は密夫を引入(ひきい)れて、商賣にだも、身を入れず、病臥したる良人をば、奧なる三疊の間にうち措(おき)て、看(み)とるものもなかりしを、某乙、その怠りをたしなめて、病人を納戸に臥(ふせ)さしつ。藥をすゝめ、粥を薦(すすむ)るに、いさゝかも飮(のま)ず、くらはず、只、好みて水を飮む、のみ。

 ものいふことも得(え)ならずして、鰻鱧のごとく、頤(おとがひ)をふくよかにして、息をつくあさましき體(てい)たらく、又、いふべくもあらざりけり。

 かゝる業病(ごふびやう)也ければ、病むこと稍(やや)久しくして、竟(つゐ)に、むなしくなりし折、某乙は後の事など叮嚀にものしつゝ、扨、養母と養母の親族に身の暇(いとま)を乞ひ、離緣の後(のち)、料(はか)らず、泥匠のわざを習ふて、その世渡りになすよし也。

 こは天明年間[やぶちゃん注:一七八一年から一七八九年。「兎園小説餘錄」の馬琴の附記のクレジットは天保三(一八三二)年。]の事なりければ、さすがに叔父のうへながら、有年はかゝる事のありしともしらざりしに、今より五、七年以前に、家を作り替ぬる折、その壁一式を叔父にうちまかせしかば、叔父は弟子を日每に遣し、その身も、をりをり來つるにより、ある日の晝食に、鰻鱧の蒲燒を出せしに、叔父はいたく忌嫌(いみきら)ひて、

「われは、うなぎを見んとも思はず。とく退(の)けて給ひね。」

といふ事、頻(しきり)なりければ、有年夫婦、いぶかりて、よのつねなる職人ならぬ叔父なればこそ、心を用(もちひ)、ひとり[やぶちゃん注:特に別して。]よせたりける物なれども、嫌ひとあるに強(しひ)かねて、

「ほいなかりき。」

と呟きしを、叔父は、

「さこそ。」

と慰めて、

「わが、うなぎを忌嫌ふは、大かたのことならず。この儀は、和郎(わろ)[やぶちゃん注:二人称代名詞。男性に対して(ここは)親しみを込めて呼ぶ語。おまえ。]が未生(みしやう)以前の事なりければ、しらぬなるべし。懺悔(さんげ)の爲に説示(ときしめ)さん。その故は箇樣(かやう)々々。」

と、彼(かの)怪談に及びしとぞ。

 其叔父の名も養父の家名も、しるすに易き事なれども、よき祥(きざし)にしもあらざれば、あなぐりもせず[やぶちゃん注:敢えて探索してここに示すようなことはしない。]。有年の話せるまゝに錄するのみ。彼(かの)大うなぎは稀なるものにて、かの折、腕を三まき卷(まき)て、尾をもて、瞎[やぶちゃん注:「かため」(片目)と訓ずるか。しかし、先に鰻が打ったのは「腔(ひばら)」である。「瞎」と「腔」は草書で書くと間違え易いようにも思われるから、現行から活字に起こした際の誤りかも知れぬ。]を打(うち)たるにて、その長さを推量るべし。打れし迹はうち身になりて、今も寒暑の折は發(おこ)[やぶちゃん注:痛みが。]るといふ。うなぎ渡世をするものは、末よからずといふよしは、常に聞くことながら、こは正しき怪談也。浮(うき)たる事にはあらずかし【天保壬辰[やぶちゃん注:天保三(一八三二)年。]の冬閏十一月十三日の夜、關潢南に招れて、彼處に赴きし折、有年は、なほ、喪中ながら、はからずも來て、まとひに[やぶちゃん注:「圓居に」で、その集まりの場の車座の中に。]入りけり。その折、有年の、「かゝる事しもありけり」とて、話せられしを、こゝにしるすもの也。有年は關の親族也。】。

   *]

 

 佐藤成裕なども「中陵漫錄」の中に鰻の奇談を書いてゐるが、備中國玉嶋の鰻屋の者が一夜妙な夢を見た。村から仕入れた鰻の中に胡麻斑の大きなのがあつて、自分は人につかまつてこゝに來た、定めて近日割かれることであらうが、同じ死ぬのなら夫婦一緒に死にたい、お前にその氣があるなら、明日中につかまへて來てくれぬか、と語る夢なのである。鰻の女夫(めをと)心中などは正に黃表紙物であるが、そこが夢物語の夢物語たる所以であらう。翌朝起きて生簀を見ると、成程胡麻斑のやつがゐる。これは殺さぬことにして置いて、一二日したら仕入れた中に、やほり胡麻斑のがあつた。試みに一緒にして見るのに、殊の外よろこんで戲れる樣子である。よつて二尾ともに殺さず、もとの水中に放ち、ふつつり鰻屋家業をやめてしまつた。

[やぶちゃん注:以上と次段の話は「中陵漫錄」の「卷之九」の「鰻鱺(うなぎ)の奇話」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。前と同じ処理をした。

   *

  ○鰻鱺の奇話

 薩州の西に鰻鱺池[やぶちゃん注:「鰻池」のことであろう。私は一泊したことがある。]と云(いふ)あり。此池に生(うまる)るは、只、半片なり。昔、大なるを得て、半片(はんかた)、裂(さき)たるに踊走(をどりはしり)て地中に入(いり)て、皆、半片の鰻鱺となる。今俗に是を「片平鰻鱺」と云。土人、恐(おそれ)て取るものなし。

 又、肥前島原の北、直子村、大手川上に、大なるあり。其(その)大さ、臼のごとし。大旱(おほひでり)の時、民人、雨を祈る。果して應(こたふ)る事あり。是れに依(よつ)て、「雨守大明神」と敬號す。

 又、東都にて、尤(もつとも)、大なるもの、得て食す。狂氣して遂に死す。

 薩州にて大なるを食す。遂に病となる。

 又、江戸の麻布に鰻鱺を貨(う)るものあり。或日、狂亂して其板の上に臥し、庖丁にて咽の處に立て、腹より裂(さき)て自ら云く、

「我は鰻鱺也。」

とて死す。此時、皆人、云く、

「數十年の間、生物を裂きたる爲なり」と云。餘が少年の時に聞(きけ)り。

 又、備中の玉島に鰻鱺を貨るものあり。一日、村中より、多く持來(もちきた)る。中に大にして胡麻斑(ごまふ)なるあり。此夜、家内のもの、皆、夢に此鰻鱺、自(みづから)云く、

「夫婦(めをと)一處に居りたるに、我(われ)獨り、人の手に逢(あふ)て、こゝに來る。定(さだめ)て近き内に裂(さか)れて死すならん。何卒(なにとぞ)、一處に死したし。其意あらば、明日中に人の手に入(いれ)て來てくれまひか。」

と、其婦に語る、夢なり。明朝、起き、

「ふしぎなる。」

とて見れば、果して、胡麻斑のもの、あり。

「是れは。先(まづ)、殺さずおくべし。」

とて、一、二日、置きければ、又、村中より多く持來る中に、一樣なる胡麻斑のもの、あり。されば、

「一處に入(いれ)て見るべし。」

とて、一處に入(いる)れば、殊の外、相悦(あひよろこび)て互に戲る。

「扨、是れは、本(もと)の取りたる水中に放つべし。」

とて、本の處に返すと云(いふ)。是れより、此鰻鱺の家業を止むと云。

 又、近頃、聞く。鰻鱗を貨る處にて、夜半、頓(しきり)に噪動(さうどう)して、さわぐ事あり。果して、人、求(もとめ)に來(きた)ると云(いひ)、其人の來るをしつて、我も我もと下にもぐり入ると云。鰻鱺家の主人、自(みづから)、語れり。

   *]

 

「中陵漫錄」はこの話に續いて、こんな事を書いている。鰻屋で夜中に生簀の鰻が俄かに騷ぐ事があるが、さういふ時には必ず人が買ひに來る。人が來るのを知つて、我も我もと下へもぐり入るのだといふ。これは或鰻屋の主人の話ださうである。こゝに至つて吾々は小泉八雲の書いた「尋常の事」といふ一文を想ひ起さざるを得ぬ。或僧が若い修行時代に山寺へ行つて一宿を乞ふと、主僧は不在で七日間は歸らぬ、留守は老尼一人だから人を泊めることは出來ない、と云つて斷られた。倂し此方は非常に疲勞して居り、食物は要らぬ、眠る所さへあればよろしい、と切に賴んだので、老尼も同情して泊めてくれた。然るに夜中になつて、念佛の聲と木魚の音で目がさめた。寺の中は眞暗であるのに、誰が今頃そんなお勤めをするのかと不審に思ひながら、またぐつすり寢込んでしまつた。翌朝老尼に一宿の禮を述べて、御住持は昨夜お歸りになりましたね、と聞いて見たら、昨日申しました通り、七日間は歸りません、と云ふ。實は夜中に木魚の音と念佛の聲が聞えたので、御住持がお歸りになつたかと思つたのです、と云つたところ、あゝ、それなら住持ではありません、檀家です、檀家に死人がありました時は、その佛が木魚を敲いて念佛を唱へに參ります、と老尼は説明した。彼女は長い間に慣れてしまつて、何でもない事と思つてゐるやうな口ぶりであつた。そこで八雲はこの文章に「尋常の事」と題したのである。

[やぶちゃん注:『小泉八雲の書いた「尋常の事」これは小泉八雲の「骨董」(Kottō)の中の小品「A Matter of Custom」である。原文を引く。

   *

A Matter of Custom

 

THERE is a nice old priest of the Zen sect, — past-master in the craft of arranging flowers, and in other arts of the ancient time, — who comes occasionally to see me. He is loved by his congregation, though he preaches against many old-fashioned beliefs, and discourages all faith in omens and dreams, and tells people to believe only in the Law of the Buddha. Priests of the Zen persuasion are seldom thus sceptical. But the scepticism of my friend is not absolute; for the last time that we met we talked of the dead, and he told me something creepy.

 

“Stories of spirits or ghosts,” he said, “I always doubt. Sometimes a danka comes to tell me about having seen a ghost, or having dreamed a strange dream; but whenever I question such a person carefully, I find that the matter can be explained in a natural way.

“Only once in my life I had a queer experience which I could not easily explain. I was then in Kyūshū, — a young novice; and I was performing my gyō, — the pilgrimage that every novice has to make. One evening, while travelling through a mountain-district, I reached a little village where there was a temple of the Zen sect. I went there to ask for lodging, according to our rules; but I found that the priest had gone to attend a funeral at a village several miles away, leaving an old nun in charge of the temple. The nun said that she could not receive me during the absence of the priest, and that he would not come back for seven days. . . .  In that part of the country, a priest was required by custom to recite the sutras and to perform a Buddhist service, every day for seven days, in the house of a dead parishioner. . . .  I said that I did not want any food, but only a place to slpep : moreover I pleaded that I was very tired, and at last the old nun took pity on me. She spread some quilts for me in the temple, near the altar; and I fell asleep almost as soon as I lay down. In the middle of the night — a very cold night! — I was awakened by the tapping of a mokugyo and the voice of somebody chanting the Nembutsu, close to where I was lying. I opened my eyes ; but the temple was utterly dark, — so dark that if a man had seized me by the nose I could not have seen him [hana wo tsutnarété mo wakaranai] ; and I wondered that anybody should be tapping the mokugyo and chanting in such darkness. But, though the sounds seemed at first to be quite near me, they were somewhat faint ; and I tried to persuade myself that I must have been mistaken, — that the priest had come back and was performing a service in some other part of the temple. In spite of the tapping and chanting I fell asleep again, and slept until morning. Then, as soon as I had washed and dressed, I went to look for the old nun, and found her. After thanking her for her kindness, I ventured to remark, ‘So the priest came back last night ?’ ‘He did not,’she answered very crossly — ‘I told you that he would not come back for seven days more.’‘Please pardon me,’ I said ; ‘last night I heard somebody chanting the Nembutu, and beating the mokugyo, so I thought that the priest had come back.’‘Oh, that was not the priest!’ she exclaimed; ‘that was the danka.’‘Who ?’ I asked ; for I could not understand her. ‘'Why,’she replied, ‘the dead man, of course!’That always happens when a parishioner dies ; the hotoké comes to sound the mokugyo and to repeat the Nembutsu. . . . She spoke as if she had been so long accustomed to the hing that it did not seem to her worth while mentioning.”

 

   *

 次に、こちらにあるPDFの田部隆次氏の訳を電子化する。

   *

 

    尋常の事

 

 時々私をおとづれる禪宗の老僧、――生花その外古い藝術の名人――がある。色々の古風な信仰に反對の説教をして緣起や夢合などを信じないやうに説き、ただ佛の教をのみ信ずるやうに勸めて居るが、それでも檀家には評判がよい。禪宗の僧でこんなに懷疑的なのも少ない。しかしこの私の友人の懷疑も絶對ではない、先日遇つた時、話は死者の事に及んだが、何だか氣味の惡い事を聞かされた。

 

『幽靈だの、お化だのと云ふ事は愚僧は信じない』僧は云つた、『時々檀家の人が來て幽靈を見た、不思議な夢を見た、と云つて來る、しかし詳しく尋ねて見るとそれには相應の説明のつく事が分つて來る。

『ただ、愚僧は一生に一度中々説明のつかない妙な經驗をした事がある。その頃九州にゐて若い沙彌であつた、若い時にはだれもやらねばならぬ托鉢をやつてゐた。或晩山地を旅して居る間に禪寺のある村に着いた。きまり通りそこへ行つて宿を賴んだが、主僧は何里か離れた村へ葬式に出かけて、一人の老尼だけが留守に殘つてゐた。尼は主僧の留守中、人を入れる事はできない、それから主僧は七日間は歸るまいと云つた。……檀家に死人があれば、僧が行つて七日の間、毎日讀經して佛事を行ふ習慣となつてゐた。……愚僧は食物はいらない、ただ眠る所さへあれば結構と云つた。その上非常に疲勞して居る事を話して賴んだので、尼はたうとう氣の毒がつて、本堂の須彌壇の近くに蒲團を敷いてくれた。橫になると愚僧はすぐに眠つてしまつた。夜中に――大層寒い晩であつたが――愚僧の休んで居る近くの所で木魚をたたく音と、誰かが唱へる念佛の聲で眼がさめた。眼を開けたが、寺は眞暗で――鼻をつままれても分らない程の暗さであつた、それで愚僧は不思議に思つた。こんな暗がりのうちで木魚をたたいたり、讀經をしたりするのは一體誰だらう。しかし響きは初めは餘程近いやうだが、何だかかすかでもあつた、それでこれは自分の思ひちがひに相違ないとも考へて見た、――主僧が歸つて來て寺のどこかでお勤めをして居るのだとも考へて見た。木魚の音と讀經の聲に頓着なく、愚僧は又寢込んで、そのまま朝まて眠りつづけた。それから起きて顏を洗つて着物を整へるとすぐに老尼をさがしに行つた。それから昨晩の御禮を云つたあとで「昨夜あるじは御歸りになりましたね」と云つて見た。「歸りません」老尼の答は意地惡さうてあつた。「昨日申しました通り、もう七日間は歸りません」「ところで昨晩誰か、念佛を唱へて木魚をたたくのを聞いたのて、それで、あるじが御歸りになつた事と思ひました」と愚僧は云つた。「ああそれならあるじぢやありません、それは檀家てす」と老尼は叫んだ。愚僧は分らなかつたから「誰です」と尋ねた。「勿論死んだ人です。檀家の人が死ぬといつでもさう云ふ事がおります。そのほとけは木魚をたたいて念佛を唱へに來ます」……老尼はそんな事には長い間慣れて來たので、云ふまでもない事と思うて居るやうな口振で云つた』

            (田部隆次譯)

 A Matter of Custom.Kotto.

 

   *]

 

 この話の僧といふのは實在の人物で、丹羽雙明といふ牛込富久町道林寺の住職である。八雲はこの人からいろいろの話を聞いたらしい。雙明老師は幽靈やお化は信じないが、一生に一度だけ、説明の付かぬ妙な經驗をした、と云つた。それが今の話なのである。この説明が付かぬならば、人が買ひに來る前に生簀の鰻が騷ぐ話も容易にわからぬ。もし尋常の事であるならば、鰻の事も怪しむに足らぬであらう。人と鰻との相違はあつても、天から與へられた生命に變りはないからである。

[やぶちゃん注:「丹羽雙明」不詳。識者の御教授を乞う。

「牛込富久町道林寺」現在の新宿区富久町(とみひさちょう)小泉八雲の旧居があった町でもある((グーグル・マップ・データ))が、この名の禅寺は、周辺には現存しない模様である。]

2017/09/11

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(25) 禮拜と淨めの式(Ⅲ)

 

 公然に行ふ奉祭の性質は、神々の位に從つて相違して居る。供物と祈禱とはすべての神神に捧げられたのてあるが、大きな神々は非常な儀式を以て禮拜された。今日では通例供物は、食物と酒と、昔から風習として供へられて居た高價な織物を表はす象徴的の品物から成つて居る。又儀式には行列、音樂、歌謠及び舞踊が入つて居る。極小さな社では儀式も少い――只だ食物が供へられるのみてある。併し大きな神社には神官と女の神官(巫女)――通例神官の娘である――との一團の司祭があり、儀式も念が入り嚴肅である。かかる儀式の古風な趣を尤も都合よく研究し得るのは、伊勢の大廟(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)か、出雲の大社に於ててある。佛教の大波は、一時古い信仰を殆ど葬り去つたのであるが、それにも拘らず、この伊勢と出雲とに於ては、何十世紀以前のままに萬事が殘つて居る、――この特別な聖い境内にあつては、神仙談の中にある魔の宮殿に於けるが如く、過ぎ行く時も眠つて居たのかと思はれるやうである。建築の形そのものが、不思議に高く聳え、その見なれない姿で、人の目を驚かす。この社の内にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。奧にあるそれ等の御幣の數に依つて、その場所に捧げてある神々の數を知る事が出來る。其處には空間と、緘默と、過去の暗示との外、何も人の心を動かすものはない。最奧の神壇には幕がかかつて居る、恐らくその内には、靑銅の鏡と古い劍と、八重に包まれて居る何か他の品があるのであらう。それだけである。蓋しこの信仰は諸〻の偶像よりも古いのであるから、人の姿などを要しないのである。其神は亡靈である。そしてその社の何もない靜けさは、耳目に觸れ得る代表物に依つて起こされうるよりも、遙かに深い嚴肅の感を起させる。少くとも西洋人の眼には、其奉祭、禮拜の型、神聖なる品物の形は、いづれも甚だ異樣に感じられる。神火は決して近代式の方を以て點ぜられるのではない――神々の食物を料理するその火は、それは木をもつて作つた火を發しさせる錐のやうなものを以て尤も古い仕方で默火される。神官の長は神聖な色――白――の上衣を着、今日では他所には見られない形の頭の裝をつける、――昔の大公、王子等の着けた高い帽子である。ぞの補助の人達はその位に應じて各種の色をつける。そしていづれの人の顏も全く髯を剃つたのはない――或る人はすつか顎髯を生やし、また或るものは口髯のみを生やして居る。この種の教僧の行動も、態度も、威嚴を備へて居るが、而も一寸文字にあらはせない程に古風な處がある。その身の動かし方は、一々古くからの傳統に依つて定められてあるので、神主たる職務を十分に行ふには、長い準備の訓練が要せられるのである。この職務は父子相傳で、その訓練は少年の時代に始まる。そしてやがてその感情を表現しない樣子が習得されるのであるが、それは實際驚くべきものである。その職を行つて居る神主は。人間といふよりも、むしろ立像のやうに見える、――目に見えない何物かに依つて動かされて居る姿である――そして神と同じく神主は目ばたきをしない……。嘗て長い神道の行列に際し、多くの日本の友人と共に、私は、どれ位長い間、若い神主が目ばたきをしないで居られるかを見ようと思つて、その馬上の姿を注目して居た。而も私共の一人も、吾々が見て居た間に、神主の馬が止つてしまつたに拘らず、その眼若しくは眼瞼の最小の運動たりとも發見したものはなかつた。

[やぶちゃん注:「高價な織物を表はす象徴的の品物」所謂、「幣帛(へいはく)」である(但し、これには広義には前に出る食物と酒も含まれる)。本来は織り上げた衣服・漉いた和紙及び農耕具などを飾った。ここで言うのは「布帛(ふはく)」で絹を主として古くは木綿や麻でできた布地(きれじ)であったが、実際にはこれが本文でも述べている通り、シンボル化して幣(ぬさ)となったものである。今の日本人のどれだけの者が、御幣が、そうした具体な供物の象徴物の変形したものであると知っているだろうか? 我々は素直に小泉八雲の足下に跪かねばならないと私は思う。

「(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)」これは訳が不全である。原文は“(where, down to the fourteenth century the highpriestess was a daughter of emperors)”であるから(この“highpriestess” “High Priestess”で「女教皇」「女祭司長」の意)、「ここでは、十四世紀末に於いては、その最高位の司祭長としての巫女(みこ)は天皇の娘であった」という意味であり、この「十四世紀末」(頃まで)「に於いては」がないと、事実として非常おかしくなる。所謂、斎宮(いつきのみや)のことである。ウィキの「斎宮」によれば、『平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定』(ぼくじょう:先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王又は女王から候補者を亀卜(きぼく:亀の甲を火で焙って出来た罅で判断する卜占)により新たな斎宮を定めたことを指す)『さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行』(狭義には斎宮が任地伊勢国へ下向することを指す語)『せずに野宮』(ののみや:斎宮や斎院に卜定された後に一定期間籠る施設で、宮城内に設けられた)『から退下したのを最後に途絶した』(退下は建武三(一三三六)年)とある。八雲の「十四世紀末」の謂いはかなり正確であると言える。

「この社の内にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。」原文は“Within, ail is severely plain and pure : there are no images, no ornaments, no symbols visible — except those strange paper-cut-tings (gohei), suspended to upright rods, which are symbols of offerings and also tokens of the viewless.”。「目に見えないものの不思議な御幣」は日本語として生硬でよくない(但し、全体を読むと言わんとする意味は解る)。平井呈一氏の訳は、『社殿の内部は、これまた万事が峻厳なくらいに簡素で、純潔で、神の像だの、装飾など、目に見える象徴物などは何一つなく、ただまっすぐな木の棒に、白い紙を切った奇妙な物(御幣)が下がっているだけで、この御幣が供え物をかたどったもので、目に見えない物のしるしとなっている』と訳しておられ、非常に自然に神社の屋内の情景が髣髴としてくるのである。戸川秋骨の訳のまずい部分は、正確に訳そうとする結果、やや英単語の逐語的意味に拘り過ぎ、実際に小泉八雲が描こうとしている実景を再現するという基本的立ち位置を忘れてしまっている点にあると私は思っている。

「其神は亡靈である」確かに原文は“its gods are ghosts ;”ではある。あるが、しかし、やはりしっくりこない。この“ghosts”は「亡くなった人の霊」である。私はやはり平井氏の『その神とは、御霊』(みたま)『である』がしっくりくるのである。

「其奉祭」「其の奉祭」で、その、神を奉って供物を捧げる祭儀全体のこと。]

2017/07/07

柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯

 

 茶碗の中

 

[やぶちゃん注:本文にも出る通り愛する小泉八雲が“In a Cup of Tea”(「茶碗の中」)に英文翻案した、私の偏愛するところの、正体不明の妖しい者たちがわけも分らずに波状的に出現してくる異様に截ち切れたような(少なくとも八雲のそれはそうであり、そこがまた私はすこぶる附きで好きなのである)怪奇である。従って、注には特に力を入れた。]

 

 天和四年正月四日と明かに年月日が書いてある。中川佐渡守が年禮に出た時、その供に堀田小三郎といふ人が居つた。本郷の白山の茶店に休息し、そこで召し連れた關内といふ者が水を飮むと、茶碗の中に美しい若衆の顏がうつつた。その水は地に打ち明け、新しい水を汲んだところ、やはり同じやうな顏が見える。仕方がないので今度は飮んでしまつたが、その晩關内の部屋に一人の若衆が訪れた。晝間はじめて御意を得申した、式部平内と申す者でござる、と云ふ。關内はびつくりして、私に於ては全然おぼえがない、そなたは表の門をどうして通つて來られたか、不審である、よもや人間ではあるまい、と云ふなり拔き打ちに斬り付けた。逃げ出すのを追駈けて鄰家の境まで行つたが、途に若衆を見失つてしまつた。家中の人々が出て來て、關内の話を聞いたけれど、誰にもどういふわけだかわからなかつた。然るにその翌晩また關内をたづねて來た者があり、誰かと問へば、式部平内の使ひ松岡平藏、岡村平六、土橋文藏と申す者である、折角思ひを寄せて來たものを、いたはるほどの事はなくとも、手を負はせるとは何事であるか、平内は疵養生のため湯治に參つたが、十六日には歸るであらう、その時恨みを酬いるから、と云ふ。關内は心得たりと脇差を拔いて斬り付けると、鄰りの境まで逃げて行き、壁に飛び上つたと見る間に消え失せた。その後は遂に何も來なかつた。

[やぶちゃん注:「天和四年正月四日」グレゴリオ暦一六八四年二月十九日。第五代将軍徳川綱吉の治世であるが、善政としての「天和の治」は終りを告げ、この年以降、綱吉は大老を置かずに側用人牧野成貞や柳沢吉保らを重用し、老中らを遠ざけるようになった。なお、この年は二月二十一日(グレゴリオ暦四月五日)に貞享に改元している。

「中川佐渡守」豊後岡藩第四代藩主中川久恒(寛永一八(一六四一)年~元禄八(一六九五)年)であるが、ウィキの「中川久恒」によれば、この事件があったとされる二年前の天和二年には、『生来』、『病弱だったため』、『弟たちによって藩政が代行されている』とある。

「本郷の白山」現在の東京都文京区白山(はくさん)。江戸幕府によって開園された小石川御薬園(おやくえん)、現在の小石川植物園を含む一帯。寺院が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀田小三郎」一般に「ほったこさぶろう」(現代仮名遣)と読まれているようである。この人物名は小泉八雲のIn a Cup of Teaには登場しない。以下、人名の表記や読みはウィキの「茶碗の中」及び平川祐弘編小泉八雲「怪談・奇談」の解説などを参照した。

「關内」ネットでは平然と「かんない」の読みを振るものが多く見られるが、原典は「せきない」で、小泉八雲の表記も“Sekinai”である

「式部平内」一般に「しきぶへいない」と読まれている。小泉八雲もIn a Cup of Tea“Shikibu Heinai”とする。

「松岡平藏」小泉八雲のIn a Cup of Teaでは“Matsuoka Bungo”で、各種の和訳では「文吾」を当てるものが多い。

「岡村平六」In a Cup of Tea“Okamura Heiroku”

「土橋文藏」原典には「つちばし」と濁音でルビが振られてある。In a Cup of Tea“Tsuchibashi Bungo”と変わっている。訳では「土橋文吾」を当てるものが多い。

 次の段に出る通り、これは「新著聞集」の「卷五」の「奇怪篇 第十」の「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の面(をもて)を現(げん)ず」である。吉川弘文館随筆大成版を加工データとしつつ、オリジナルに漢字を増やし(一つは原典の歴史的仮名遣が誤っているのを隠すためもある)、一部に読みも添えた。その際、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「新著聞集」の原本PDF版(カラー)を参考視認した。また、読み易さを考え、句読点と記号及び改行をオリジナルに変更・追加しておいた。

   *

 天和四年正月四日に、中川佐渡守殿(さどのかみとの)、年禮におはせし供(とも)に、堀田(ほつた)小三郎といふ人、參り、本郷の白山の茶店(ちやだな)に立(たち)より休らひしに、召仕(めしつかひ)の關内(せきない)といふ者、水を飮(のみ)けるが、茶碗の中に、最(いと)麗(うるは)しき若年の顏、うつりしかば、いぶせ思ひ、水を捨てて、又、汲(くむ)に、顏の見えしかば、是非なく飮てし。

 其夜、關内が部屋へ若衆(わかしう)來り、

「晝は初(はじめ)て逢(あひ)參らせつ。式部平内といふ者也。」

關内、驚き、

「全く、我は覺え侍らず。扨(さて)、表の門をば何として通り來れるぞや。」

『不審(いぶかし)きも物なり。人にはあらじ。』と思ひ、拔き打ちに切りければ、逃出(にげいで)たりしを、嚴しく追(をひ)驅(か)くるに、隣の境(さかひ)まで行(ゆき)て見失ひし。

 人々、出合)いであ)ひ、其由を問ひ、

「心得がたし。」

とて、扨、やみぬ。

 翌晩、

「關内に逢はん。」

とて、人、來る。

「誰(たれ)。」

と問(とへ)ば、

「式部平内が使ひ松岡平藏・岡村平六・土橋(つちばし)文藏といふ者なり。思ひ寄りて參りしものを、勞(いたは)るまでこそなくとも、手を負(をは)せるは、如何(いかゞ)ぞや。疵(きず)の養生(やうじやう)に湯治(たうぢ)したり。來(きた)る十六日には歸りなん。其時、恨(うらみ)をなすべし。」

といふを見れば、中々、荒けなき形(かた)なり。關内、

「心得たり。」

とて、脇指を拔き斬りかゝれば、逃げて、隣の壁(かべ)に飛(とび)上がりて、失(うせ)侍りし。後、又も來(きた)らず。

   *

「荒けなし」の「なし」は「無し」ではなく「甚だし」の意の接尾語で、意味は「ひどく荒々しい・乱暴である」の意である。]

 

「新著聞集」に出てゐるこの話は、小泉八雲が「茶碗の中」といふ題で紹介した。勿論原話通りではない。八雲一流の想像でいろいろ補つたところもある。最初茶碗の中に現れた美しい顏から云つても、二度目に來た三人の言葉に「思ひよりて參りしもの」とあることから云つても、當然衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の説明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある。もう一つはかういふ顏が幻に現れる以上、關内の方からその若衆に思ひを寄せるのが當然で、茶碗の水に現れた若衆が關内をたづねて來るのは、順序が逆のやうに思はれる。吾々はこゝでこの話を種に使つたらしい野呂松(のろま)狂言の「水鏡」を擧げなければならぬ。

[やぶちゃん注:「衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の説明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある」宵曲は後の方でも、原話の「新著聞集」も含めて「畫龍點晴」(がりょうてんせい)を欠くなどと暗示的に述べて、小泉八雲の脚色に異様に不満たらたらなのであるが、私はそうした理由不明の怪異の出来(しゅったい)の持つ突き放された感じにこそ、真正怪談の凄さがあると感ずる人種である。亡魂の恨みの内実や怪異出来の真の動機・原因が論理的(仏教的な因果論であっても)に明らかにされてしまった瞬間、怪談は鮮やかに怖くなくなるのである。怪異を丸ごとわけの判らぬものとして体感する時にのみ、真の怪談の怖さは発揮される。宵曲がかく文句を言うその顔に、私は、男色でニンマリする大人のえげつないほくそ笑みしか、見えないのである。そうしてまた、そのような若衆道をあからさまに示すような筋立てにしてしまった時、本話は永久に少年少女の読む怪談集から外されしまい、大人の隠微な怪談集でしか読めない、完全封印作品となってしまったに違いなく、私が少年期、この話から受けた半端ない恐怖の衝撃も、あり得なくなったに違いないと断ずるものである。

 ではまず、満を持して、小泉八雲の明治三二(一九〇二)年刊のKottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs(「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中のIn a Cup of Teaの原文を示す。冒頭の作者の附言が、これまた、ゴシック・ロマン風にお洒落である。“Internet Archives”こちらで原典画像を視認した。原注の欄外注は[ ]で当該段落末に配した。

   *

 

In a Cup of Tea

 

HAVE you ever attempted to mount some old tower stairway, spiring up through darkness, and in the heart of that darkness found yourself at the cobwebbed edge of nothing?  Or have you followed some coast path, cut along the face of a cliff, only to discover yourself, at a turn, on the jagged verge of a break ?  The emotional worth of such experience ― from a literary point of view ― is proved by the force of the sensations aroused, and by the vividness with which they are remembered.

   Now there have been curiously preserved, in old Japanese story-books, certain fragments of fiction that produce an almost similar emotional experience. . .  Perhaps the writer was lazy;  perhaps he had a quarrel with the publisher; perhaps he was suddenly called away from his little table, and never came back; perhaps death stopped the writing-brush in the very middle of a sentence.

   But no mortal man can ever tell us exactly why these things were left unfinished. . . .  I select a typical example.

 

*     *

 

   On the fourth day of the first month of the third Tenwa,― that is to say, about two hundred and twenty years ago, ― the lord Nakagawa Sado, while on his way to make a New Year's visit, halted with his train at a tea-house in Hakusan, in the Hongō district of Yedo.While the party were resting there, one of the lord's attendants, ― a wakatō 1 named Sekinai,― feeling very thirsty,filled for himself a large water-cup with tea. He was raising the cup to his lips when he suddenly perceived, in the transparent yellow infusion, the image or reflection of a face that was not his own. Startled,he looked around, but could see no one near him. The face in the tea appeared, from the coiffure, to be the face of a young samurai :it was strangely distinct, and very handsome, delicate as the face of a girl. And it seemed the reflection of a living face for the eyes and the lips were moving.Bewildered by this mysterious apparition,Sekinai threw away the tea, and carefully examined the cup. It proved to be a very cheap water-cup, with no artistic devices of any sort. He found and filled another cup and again the face appeared in the tea. He then ordered fresh tea, and refilled the cup; and once more the strange face appeared, ― this time with a mocking smile. But Sekinai did not allow himself to be frightened. “Whoever you are,”he muttered,“you shall delude me no further!”― then he swallowed the tea, face and all, and went his way, wondering whether he had swallowed a ghost.

[1The armed attendant of a samurai was thus called. The relation of the wakatō to the samurai was that of squire to knight.]

 

   Late in the evening of the same day, while on watch in the palace of the lord Nakagawa, Sekinai was surprised by the soundless coming of a stranger into the apartment. This stranger,a richly dressed young samurai, seated himself directly in front of Sekinai, and, saluting the wakatō with a slight bow, observed: ―

   “I am Shikibu Heinai ― met you to-day for the first time. . . .  You do not seem to recognize me.”

   He spoke in a very low, but penetrating voice. And Sekinai was astonished to find before him the same sinister, handsome face of which he had seen, and swallowed, the apparition in a cup of tea. It was smiling now, as the phantom had smiled;  but the steady gaze of the eyes, above the smiling lips, was at once a challenge and an insult.

   “No, I do not recognize you,”returned Sekinai, angry but cool; ― “and perhaps you will now be good enough to inform me how you obtained admission to this house ?”

   [In feudal times the residence of a lord was strictly guarded at all hours; and no one could enter unannounced, except through some unpardonable negligence on the part of the armed watch.]

   “Ah, you do not recognize me !”exclaimed the visitor, in a tone of irony, drawing a little nearer as he spoke. “No, you do not recognize me! Yet you took upon yourself this morning to do me a deadly injury ! . . .”

   Sekinai instantly seized the tantō1 at his girdle, and made a fierce thrust at the throat of the man. But the blade seemed to touch no substance. Simultaneously and soundlessly the intruder leaped sideward to the chamber-wall, and through it! .  .  .  The wall showed no trace of his exit. He had traversed it only as the light of a candle passes through lantern-paper.

[1The shorter of the two swords varried by samurai, the longer swoed was called katana.]

 

   When Sekinai made report of the incident, his recital astonished and puzzled the retainers.

No stranger had been seen either to enter or to leave the palace at the hour of the occurrence; and no one in the service of the lord Nakagawa had ever heard of the name “Shikibu Heinai.”

 

  On the following night Sekinai was off duty, and remained at home with his parents. At a rather late hour he was informed that some strangers had called at the house, and desired to speak with him for a moment. Taking his sword, he went to the entrance, and there found three armed men, ― apparently retainers, ― waiting in front of the door-step. The three bowed respectfully to Sekinai; and one of them said :―

   “Our names are Matsuoka Bungo, Tsuchibashi Bungō, and Okamura Heiroku.We are retainers of the noble Shikibu Heinai. When our master last night deigned to pay you a visit, you struck him with a sword. He was much hurt, and has been obliged to go to the hot springs, where his wound is now being treated. But on the sixteenth day of the coming month he will return; and he will then fitly repay you for the injury done him. . . ."

   Without waiting to hear more, Sekinai leaped out, sword in hand, and slashed right and left, at the strangers.  But the three men sprang to the wall of the adjoining building, and flitted up the wall like shadows,  and  . . .

 

*     *

 

   Here the old narrative breaks off; the rest of the story existed only in some brain that has been dust for a century.

   I am able to imagine several possible endings; but none of them would satisfy an Occidental imagination.  I prefer to let the reader attempt to decide for himself the probable consequence of swallowing a Soul.

 

   *

 次に、田部(たなべ)隆次氏の訳を電子化する。原本は古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」(昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊)のものでこちらPDF化されたものを視認した。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

    茶碗の中

 

 讀者はどこか古い塔の階段を上つて、眞黑の中をまつたて[やぶちゃん注:「真縦」の意か。]に上つて行つて、さてその眞黑の眞中に、蜘蛛の巢のかかつた處が終りで外には何もないことを見出したことがありませんか。或は絶壁に沿うて切り開いてある海ぞひの道をたどつて行つて、結局一つ曲るとすぐごつごつした斷崖になつて居ることを見出したことはありませんか。かういふ經驗の感情的價値は――文學上から見れば――その時起された感覺の強さと、その感覺の記憶の鮮かさによつてきまる。

 ところで日本の古い話し本に、今云つた事と殆んど同じ感情的經驗を起させる小の斷片が、不思議にも殘つて居る。……多分、作者は不精だつたのであらう、或は出版書肆と喧嘩したのであらう、いや事によれば作者はその小さな机から不意に呼ばれて、かへつて來なかつたのであらう、或は又その文章の丁度眞中で死の神が筆を止めさせたのであらう。とにかく何故この話が結末をつけないで、そのままになつて居るのか、誰にも分らない。……私は一つ代表的なのを選ぶ。

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          *

 天和四年一月一日[やぶちゃん注:ママ。原文では天和三年となっていて「新著聞集」の原典クレジットを変えてある。小泉八雲が改変した理由は不詳。或いは、前に注した改元との絡みで、八雲は天和四年はないと誤認したからかも知れぬ。]――卽ち今から二百二十年前――中川佐渡守が年始の廻禮に出かけて、江戸本郷、――白山の茶店に一行とともに立寄つた。一同休んで居る間に、家來の一人――關内と云ふ若黨が餘りに渇きを覺えたので、自分で大きな茶碗に茶を汲んだ。飮まうとする時、不意にその透明な黃色の茶のうちに、自分のでない顏の映つて居るのを認めた。びつくりしてあたりを見廻したが誰もゐない。茶の中に映じた顏は髮恰好から見ると若い侍の顏らしかつた、不思議にはつきりして、中々の好男子で、女の顏のやうにやさしかつた。それからそれが生きて居る人の顏てある證據には眼や唇は動いてゐた。この不思議なものが現れたのに當惑して、關内は茶を捨てて仔細に茶碗を改めて見た。それは何の模樣もない安物の茶碗であつた。關内は別の茶碗を取つてまた茶を汲んだ、[やぶちゃん注:読点はママ。]また顏が映つた。關内は新しい茶を命じて茶碗に入れると、――今度は嘲りの微笑をたたへて――もう一度、不思議な顏が現れた。しかし關内は驚かなかつた。『何者だか知らないが、もうそんなものに迷はされはしない』とつぶやきながら――彼は顏も何も一呑みに茶を飮んで出かけた。自分ではなんだか幽靈を一つ呑み込んだやうな氣もしないでもなかつた。

 

 同じ日の夕方おそく佐渡守の邸内で當番をして居る時、その部屋へ見知らぬ人が、音もさせずに入つて來たので、關内は驚いた。この見知ちぬ人は 立派な身裝[やぶちゃん注:「みなり」。]の侍であつたが、關内の眞正面に坐つて、この若黨は輕く一禮をして、云つた。

『式部平内でござる――今日始めてお會ひ申した……貴殿は某を見覺えならぬやうでござるな』

 甚だ低いが、鋭い聲で云つた。關内は茶碗の中で見て、呑み込んてしまつた氣味の惡い、美しい顏、――例の妖怪を今眼の前に見て驚いた。あの怪異が微笑した通り、この顏も微笑して居る、しかし微笑して居る唇の上の眼の不動の凝視は挑戰であり、同時に又侮辱でもあつた。

『いや見覺え申さぬ』 關内は怒つて、しかし冷やかに答へた、――『それにしても、どうしてこの邸へ御入りになつたかお聞かせを願ひたい』

〔封建時代には、諸侯の屋敷は夜晝ともに嚴重にまもられてゐた、[やぶちゃん注:読点はママ。]それで、警護の武士の方に赦すべがらざる怠慢でもない以上、無案内で入る事はできなかつた〕

『あゝ、某に見覺えなしと仰せられるのですな』その客は皮肉な調子で、少し近よりながら、叫んだ。『いや。某を見覺えがないとは聞えぬ。今朝某に非道な害を御加へになつたではござらぬか……』

 關内は帶の短刀を取つてその男の喉を烈しくついた。しかし少しも手答がない。同時に音もさせずその闖入者は壁の方へ橫に飛んで、そこをぬけて行つた。……壁には退出の何の跡をも殘さなかつた。丁度蠟燭の光が行燈の紙を透るやうにそこを通り過ぎた。

 

 關内がこの事件を報告した時、その話は侍達を驚かし、又當惑させた。その時刻には邸内では入つたものも出たものも見られなかつた、それから佐渡守に仕へて居るもので『式部平内』の名を聞いて居るものもなかつた。

 

 その翌晩、關内は非番であつたので、兩親とともに家にゐた。餘程おそくなつてから、暫時の面談をもとめる來客のある事を、取次がれた。刀を取つて玄關に出た、[やぶちゃん注:読点はママ。]そこには三人の武裝した人々――明かに侍達――が式臺の前に立つてゐた。 三人は恭しく關内に敬禮してから、そのうちの一人が云つた。

『某等は松岡文吾、土橋久藏、岡村平六と申す式部平内殿の侍でござる。主人が昨夜御訪問いたした節、貴殿は刀で主人をお打ちになつた。怪我が重いから疵の養生に湯治に行かねばならぬ。しかし來月十六日にはお歸りになる、その時にはこの恨みを必ず晴らし申す……』

 それ以上聞くまでもなく、關内は刀をとつてとび出し、客を目がけて前後左右に斬りまくつた。しかし三人は隣りの建物の壁の方へとび、影のやうにその上へ飛び去つて、それから……

          *

        *

          *

 ここで古い物語は切れて居る、話のあとは何人かの頭の中に存在してゐたのだが、それは百年このかた塵に歸して居る。

 私は色々それらしい結末を想像することができるが、西洋の讀者の想像に滿足を與へるやうなのは一つもない。魂を飮んだあとの、もつともらしい結果は、自分で考へて見られるままに任せて置く。

              (田部隆次譯)

          
In a Cup of TeaKotto.

 

   *

「野呂松(のろま)狂言」江戸前期の人形浄瑠璃の道化人形の遣い手野呂松勘兵衛(のろまつ かんべえ 生没年不詳)なる人形遣が、頭が平たくて顔の青黒い「のろま人形」なるキャラクターを使って演じて評判になったという滑稽な新作(改作)狂言。寛文から延宝(一六六一年~一六八一年)頃、上方では「そろま」、江戸では「のろま」と呼ばれた道化人形の上演記録が確認されてはいるが、この野呂松勘兵衛も江戸の和泉太夫座や土佐座という人形座に出演していた道化人形遣の一人であろうと推測されている。菊岡沾凉の随筆「近代世事談」(享保一八(一七三三)年刊)では「野郎松勘兵衛」という者を「のろま人形」の創始者としているが、資料的には貞享頃(一六八四年~一六八七年)の人形遣い「のろま治兵衛」によって「のろま人形」が有名になったと言われている(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「水鏡」不詳。ネット検索でも掛かってこない。]

 

 野呂松狂言の主人公は浪人者で、東海道を上る途中、美しい若衆を見かけ、あとを慕つて來るうちに、茶屋の一段が出て來る。それも若衆の飮んだ茶碗をすゝがずに水を一杯くれと所望するので、これなら若衆の顏が茶碗に現れても不思議はない。浪人は祇園の二軒茶屋ではじめて言葉を交し、明日は出立するといふので、夜明けに大津で待ち受けたが、遂に逢ふことが出來ず、五十三次を江戸まで戾つて來た。「新著聞集」と「男色大鑑」とを搗き交ぜた形である。失望の餘り病氣になつたところへ、知り合ひの者がやつて來て、委細の話を聞いた末、その若衆は自分のところに逗留中であると云ふ。これからの滑稽は野呂松狂言には肝要なところであらうが、話の本文には格別の關係はない。ただ最後に若衆が化け猫となり、浪人と立𢌞りをする一段は畫龍點晴といふべきもので、最初の式部平内を鄰家の境で見失ひ、翌晩の三人もその邊で壁に飛び上つて消えるあたり、どうしても妖怪でなければ納まりの付かぬ話である。八雲は「茶碗の中」の書き出しに、塔の階段を上つて行つて、眞黑な中で蜘蛛の巣以外に何もないところが終りになつてゐることや、海沿ひに切り開かれた道が斷崖に盡きることなどを擧げ、日本の古い書物にはそれに似た氣持を起させる斷片があると云ひ、作者は無性であつたか、出版書肆と喧嘩したか、不意に誰かに呼ばれて机を離れたまゝ戾らなかつたか、或は文章の眞中で死の神が筆を止めさせたかであらうと云つてゐる。ぷつりと切れたやうな「新著聞集」の記載に滿足して居らぬことは明かである。八雲に野呂松狂言を見せたにしても、化け猫の結末ではやはり滿足しなかつたかも知れぬ。たゞいさゝか物足らぬ話の筋を補つた一つの空想として、こゝに附け加へるまでである。

[やぶちゃん注:「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ:現代仮名遣)は井原西鶴による浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻・各巻五章・計四十章。詳しくは参照したウィキの「男色大鑑」などを読まれたいが、その「概略」の項には「男色大鑑 本朝若風俗」正式書名で、前半四巻二十章は、『主に武家社会における衆道を取り上げており、総じて非職業的男色の世界』を後半の四巻二十章は『町人社会に属する職業的な歌舞伎若衆を取り上げている』とある。「男色大鑑」では『武家社会と町人社会という二つの社会において、習俗として公認されていた男色が総合的に描かれている。武家社会は戦国の余風として男色をたしなみ、しかも武士道における義理を男色のモラルとし、衆道(若衆道)と称するに至った。歌舞伎界においては、元禄期まで若女方(わかおんながた)・若衆方など、若くて美貌の歌舞伎若衆は、早朝から夕刻までは舞台を勤め、夜は茶屋で客の求めに応じて男色の相手をするのがしきたりであった。なお男色における弟分である「若衆」は』、十八、九歳で『元服して前髪を剃り落とすまでで、それ以後に月代頭さかやきあたま(野郎頭)になってからは兄分である「念者」』(ねんじゃ)『になるのが、武家社会・町人社会を通じての一般的なルールであった』とある。

「無性」「ぶしやう」。無精。]

 

「茶碗の中」に似た話が支那になかつたかどうか、吾々の見た範圍に於ては「酉陽雜俎」中の一話があるに過ぎぬ。江淮に士人の住ひがあり、その子の二十歳餘りになるのが病臥してゐた時、父親が茶を飮まうとして、茶碗の中から泡が盛り上るのを見た。透き通つた泡の上に、一寸ばかりの人が立つて居り、子細に視るとその衣服から容貌に至るまで、病中の子にそつくりである。忽ちその泡が碎けて何も見えなくなり、茶碗ももとの通りであつたが、今までになかつた小さな疵が出來たといふのである。「新著聞集」のやうに錯綜した話ではない。茶碗の泡の中に我が子の幻を認めるといふに過ぎぬけれど、對比すれば若干の共通性を見出し得るやうな氣がする。

[やぶちゃん注:以上は「酉陽雜俎」の「卷十」の「物異」の中の「瓷碗」(じわん)である。

   *

江淮有士人莊居、其子年二十餘、常病魔。其父一日飮茗、甌中忽起如漚、高出甌外、瑩凈若琉璃。中有一人、長一寸、立於漚、高出甌外。細視之、衣服狀貌、乃其子也。食頃、爆破、一無所見、茶碗如舊、但有微璺耳。數日、其子遂著神、譯神言、斷人休咎不差謬。

   *

但し、宵曲はケリのつかない話と見せかけるために、最後の一文を訳していない

「数日後のこと、その病臥(別な伝本では或いは「夜魘(うな)されること」とあるようだ)していた子は、そのまま神霊が憑りついて、神の言葉を語るようになり、人々の吉凶を断ずるに正確で、そのお告げには少しの誤りも違いもなかった。」

と終わっているのである。ずるいぜ、柴田さんよ!

2017/06/02

柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“Common Sense”原文+田部隆次譯 / 「佛と魔」~了

 

 佛徒が佛を奉ずるのはさる事ながら、信に徹せざる輩は往々にして魔に致される虞れがある。「宇治拾遺物語」にある伊吹山の念佛僧などはその適例であらう。この想は阿彌陀佛の外は何も知らず、多年念佛ばかり唱へて居つたが、或夜深く念佛の際、空に聲あつて「汝ねんごろに我をたのめり、今は念佛の數多く積りたれば、明日の未(ひつじ)の時に必ず必ず來りて迎ふべし、ゆめゆめ念佛怠るべからず」と告げた。僧は歡喜に堪へず、水を浴み香を焚き花を散らし、弟子どもにも念佛を唱へさせながら西に向つてゐると、佛像より金色の光りを放つさま、秋の月の雲間より現れ出づるが如くである。さまざまの花を降らし、白毫(びやくがう)の光りは僧の身を照らす。觀音が蓮を上げて僧の前に寄れば、紫雲厚くたなびき、僧は蓮臺に乘つて西の方に去る。坊に殘つた弟子達は、泣く泣く有難がつて居つたところ、七八日たつて奧山へ薪を探りに行つた下衆法師(げすほふし)が、遙かな瀧のところに差出た木の梢に何者か縛り付けられてゐるのを發見した。木登り上手の一人が登つて見たら、極樂へ迎へられた筈の師匠が裸のまま縛り付けてあつた。僧はこの期(ご)に及んでも佛に迎へられたことを信じ、縛を解くのを拒んだが、構はず坊に連れ歸つた。氣の毒な念佛僧は、人心地もなしに二三日を過して亡くなつた。「宇治拾遺物語」は「智慧なき聖はかく天狗にあざむかれけるなり」と評し、この最期を魔往生と稱へてゐる。

[やぶちゃん注:「伊吹山」現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐郡揖斐川町・不破郡関ケ原町に跨る伊吹山地の主峰。標高千三百七十七 メートル。山頂は滋賀県米原市に属し、滋賀県の最高峰でもある。記紀に於いて倭建命がここの山の神との誤認の戦いによって致命的病態に陥って以来の古来の霊峰で、修験道の開祖役小角、白山開山の泰澄を始めとした連中によって山岳信仰のメッカとなり、九世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として多くの寺院が山中に建立され隆盛を極めた(後の戦国時代の兵火で殆んどが焼失して残っていない。以上はウィキの「伊吹山」に拠る)。

「未(ひつじ)の時」午後二時前後。

 これは「宇治拾遺物語」の第一六九話「念佛僧、魔往生の事」。

   *

 昔、美濃國伊吹山に久く行ひたる聖(ひじり)有けり。阿彌陀佛よりほかの事しらず。他事なく念佛申てぞ、年經(へ)にける。

 夜深く、佛の御前に念佛申てゐたるに、空に聲ありて告げて云く、

「汝、念比(ねんごろ)に我れを賴めり。今は念佛の數(かず)、多く積りたれば、明日(あす)の未の時に、かならずかならず來たりて迎ふべし。ゆめゆめ念佛おこたるべからず。」

と言ふ。その聲を聞きて、限りなく念比に念佛申して、水を浴(あ)み、香をたき、花を散らして、弟子どもに、念佛もろともに申させて、西にむかひてゐたり。

 やうやうひらめくやうにする物あり。手を摺りて、念佛を申して見れば、佛の御身より、金色(こんじき)の光を放ちて、さし入りたり。秋の月の、雲間よりあらはれ出たるごとし。さまざまの花を降らし、白毫の光、聖の身を照らす。此時、聖、尻をさかさまになして拜み入る。數珠(ずず)の緒(を)も切れぬべし。觀音、蓮臺(れんだい)をさし上げて、聖の前に寄り給ふに、紫雲あつく棚引く。聖、はひ寄りて蓮臺に乘りぬ。さて、西の方(かた)へ去り給ひぬ。さて、坊に殘れる弟子共、なくなく貴(たうと)がりて、聖の後世(ごぜ)をとぶらひけり。

 かくて、七日、八日、過ぎて後、坊の下種(げす)法師原(ばら)、

「念佛の僧に湯わかして、浴(あ)むせ奉らん。」

とて、木こりに、奧山に入りたりけるに、はるかなる瀧に、さし掩(おほ)ひたる杉の木あり。その木の梢に、さけぶ聲、しけり。怪しくて、見上げたれば、法師を裸になして、梢に縛りつけたり。木登りよくする法師、登りて見れば、極樂へ迎へられ給ひし我が師の聖を、葛(かづら)にて縛り付けて置きたり。此の法師、

「いかに我師は、かかる目をば御覽ずるぞ。」

とて、寄りて、繩を解きければ、

「『今、迎へんずるぞ。その程、しばしかくてゐたれ』とて、佛のおはしまししをば、なにしにかく解きゆるすぞ。」

といひけれども、寄りて解きければ、

「阿彌陀佛、我れを殺す人あり。をうをう。」

とぞ、叫びける。されども法師原、あまた登りて、解きおろして、坊へ具して行きたれば、弟子ども、

「心うき事なり。」

と歎き惑ひけり。聖は、人心もなくて、二、三日斗(ばか)りありて死にけり。

 智惠なき聖は、かく天狗に欺かれけるなり。

   *]

 

「十訓抄」にあるのは千手陀羅尼の持者となつてゐるけれど、ところも同じ伊吹山で、高い木の梢に縛り付けられるのだから、全く同じ話であらう。三善淸行なども噂を聞いて、この僧に逢つて話をしたことがあり、この人は行德あるやうに見えるが、無智であるから、終には魔界のためにたぶらかされるであらう、と云つたさうである。正にその言の通りであつた。

[やぶちゃん注:「千手陀羅尼」千手観音の徳について説いた梵語の呪文。これを唱えれば、千手観音の功力(くりき)によって救済されると信じられた。

「三善淸行」(きよゆき/きよつら 承和一四(八四七)年~延喜一八(九一九)年))は公卿・漢学者。ウィキの「三善清行」によれば、『淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている』。『巨勢文雄に師事。大学寮に入って紀伝道』(大学寮に於ける歴史(主に中国史)を教授した学科)を修め、二十七歳で文章生(もんじょうしょう:漢文学学科有資格者)、翌年には文章得業生(とくごうしょう:同文章生中の優秀生二名に与えられる文章博士(大学寮紀伝道教官)の候補生)となり、三十七歳で方略式(大学寮の最難関の国家資格試験)に『合格した。一度官吏の登用試験に落ちたが、この時の試験官が菅原道真で、後にことあるごとに道真と対立することになる。また紀長谷雄等代々の文章博士との激しい論争でも知られる』。仁和三(八八七)年、大内記(中務省直属の官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌としていた内記の長官職)に属したに任ぜられ、同年の阿衡(あこう)事件(阿衡の紛議:宇多天皇が即位した際に藤原基経を関白とする勅書の中の「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」の語について基経が阿衡は位のみで職掌を伴わないとして政務を放棄してしまい、遂に天皇が勅書を書き改めた事件)に『際しては藤原佐世・紀長谷雄とともに所見を述べ、橘広相の説を退けた』(最初の勅書(書き換えがあって二度出ている)は殷代の故事を橘広相が引用したものであった)。昌泰三(九〇〇)年に晴れて文章博士に就任、翌年には大学頭となった』。その頃、藤原時平と対立、『朝廷内で孤立を深めつつあった菅原道真に対して書簡を呈して引退を勧告したが、道真は長年の確執からこれを退けてしまう。ただし、書簡を受け取る』前、『道真は既に幾度も、政治家をやめ』、『学業に専念したいので辞退したい、と宇多天皇に上申していたが、悉く却下されている。やがて清行の危惧は』的中し、昌泰の変(昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善(みなもとのよし)らを左遷又は流罪にした事件)で失脚してしまう。なお、この時、『清行は時平に対して、道真の関係者全てを連座の対象とすると、道真の祖父清公以来の門人が全て処罰の対象となり』、『朝廷が機能停止に陥る事を指摘し、処分を道真の親族と宇多上皇の側近のみに留めたことや、清行が道真の嫡男高視の失脚で後任の大学頭に就いたことから、清行の政変への関与も指摘されている』。『陰陽天文に明るく』、昌泰四年は『讖緯説による辛酉革命の年に当たると指摘、「延喜」と改元することを提唱して革命勘文・辛酉改元の端緒を開』いている。その後、「延喜格式」の『編纂に参加。文章博士・大学頭・式部大輔の三儒職を兼任』、延喜一四(九一四)年には朝廷の求めに応じ、「意見封事十二箇条」を上奏した後、七十一歳で『参議に昇り、宮内卿を兼ねた』とある。

 これは「十訓抄」の「第七 可專思慮事」(思慮を專らにすべき事)の中の以下の一条。

   *

 延喜年中頃、美濃國伊吹の山に、千手陀羅尼の持者住みけり。二三十日なれども、斷食にて、驗得のかたがた、不思議多かりける間、遠近の貴賤集まり拜みける時に、善宰相淸行卿、これを聞き亙りて、彼(か)の所へおはして、この僧に對面して物語し給ひけるが、かたはらの人々に語りて云く、

「この人は、かく行德あるやうなれども、無智の間、終(つひ)には魔界のためにたぶらかさるべし。」

と云ひて、歸り給ひにけり。

 その後(のち)、ほど經て、或る時に、諸(もろもろ)の天女、紫雲に乘りて、妓樂をなし、玉の輿を飾り來て、この僧を迎へ取りて去りにけり。見る者、幾(いくば)く、皆、奇異の思ひをなしたりけるほどに、四、五日ありて、樵父(きこり)の、山へ入りたりければ、遙かに高き木の上に、蚊の鳴くやうにて、人のうめく聲聞えけるを、怪しみて、人に告げたりければ、近邊の住人、集りて是れを見るに、人の樣(やう)には見なしたれども、たやすく昇るべき木ならねば、鷹の巣下(おろ)す者をやとひて、のぼせたりければ、法師を木の末に結ひ付けたり。やうやうに支度をして、解き下したるを見るに、この千手陀羅尼の持者なりけり。あさましとも愚かにて、具し歸り、さまざまあつかひければ、命ばかりは生きたりけれども、惚々(ほれぼれ)として、云ふかひなければ、行德施すにも及ばず。

 これは、かの僧のすすめることにはあらず、天魔の所爲なれども、愚かなるより起れる上、先のこと[やぶちゃん注:「十訓抄」のこの話の直前の話。実は「續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(3)」に梗概が出、私が注で原話を既に電子化してある。参照されたい。そっちの方が映像的に遙かに面白い。]に相ひ似たる間、註(しる)す。

 これらは扨ておきつ。然(しか)るべき人の習ひとして、心をはかり見むために、何ごとをも、あらはに見せ知らせず、心を𢌞らして、つくりも出だし、云ひもせられたらむを、能々(よくよく)案じ𢌞らして、不覺せぬやうに振舞ふべし。萬(よろづ)に付けて用意深くして、人のあざむき、たばからむことなどをも、能々思慮すべし。その案に墜つまじきなり。

   *]

 

「宇治拾遺物語」にあるもう一つの例は「獵師佛を射る事」である。愛宕山に年久しく住む聖が普賢菩薩を目のあたり拜むといふ話を懇意な獵師に聞かせ、そなたも今夜泊つて拜んだらよからう、と勸めた。聖に使はれてゐる童も已に五六度拜んだといふ。獵師は果して自分に拜めるだらうかと疑ひながら、その夜は寢ずに待つてゐると、九月二十日の月が東の山から出るらしく、坊の内が明るくなつて來た。その時白象に乘つた普賢菩薩が坊の前に現れたので、聖は淚を流して禮拜する。倂し獵師は合點が往かなかつた。多年修行を積み經を讀む聖の目に見えるのは不思議もないが、この童や自分にまで菩薩が見えるのはいぶかしい。一つ試して見ようと尖り矢を弓につがへ、禮拜しつゝある聖の上から差越すやうにひようと射た。矢は菩薩の胸に中(あた)つた樣子で、今までの光りは一時に消え失せた。何といふことをしてくれたのだ、と聖は泣き惑ふこと限りもなかつたが、獵師はしづかにかう云つた。あなた方なればこそ菩薩も拜まれませうが、私のやうな罪深い者にまで拜まれるのが不審なので、試しに矢を射て見たのです、まことの佛ならば矢は立ちますまい、立つた以上は怪しい者に相違ありません。――

[やぶちゃん注:「愛宕山」(あたごやま)は現在の京都府京都市右京区の北西部の嵯峨、山城国と丹波国の国境に跨る山で、山頂に愛宕神社があり、古来より火伏せの神として信仰を集め、全国各地に愛宕権現信仰として広がっている。

 ここと次の段に続く以上のそれは、私が幼少時より、後に出る小泉八雲のそれを皮切りとしてひどく偏愛してきた話である。まず、ここの「宇治拾遺物語」のそれは、第一〇四話「獵師、佛を射る事」である。

   *

 昔、愛宕の山に久しく行ふ聖(ひじり)ありけり。年比(としごろ)行ひて、坊を出づる事なし。西の方(かた)に、獵師あり。この聖を貴(たうと)みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく參らざりければ、餌袋(ゑぶくろ)[やぶちゃん注:元来は鷹狩の鷹の餌を入れて携帯する袋を指したが、後に人の食糧を入れて携行するものとなった。]に干飯(ほしいひ)など入れて、まうでたり。聖、悦びて、日比のおぼつかなさ[やぶちゃん注:遇わずにいた間の相互の消息や心配事。僧の生活の不如意の謂いとする訳もあるようだが、私は採らない。それでは初めっから、バカ坊主になるからである。]などの給ふ。その中にゐよりてのたまふやうは、

「この程、いみじく貴き事あり。此年來(としごろ)、他念なく經をたもち奉りてある驗(しるし)やらん、この夜比(よごろ)、普賢菩薩、象に乘りて見え給ふ。今宵、とどまりて拜給へ。」

といひければ、この獵師、

「よに貴きことにこそ候なれ。さらば、泊りて拜み奉らん。」

とて、とどまりぬ。

 さて、聖の使ふ童(わらは)のあるに、問ふ、

「聖のたまふやう、いかなることぞや。おのれもこの佛をば、拜み參らせたるや。」

と問へば、

「童は、五、六度ぞ、見奉りて候ふ。」

と言ふに、獵師、

「われも見奉ることもやある。」

とて、聖の後(うしろ)に、いねもせずして起きゐたり。

 九月二十日の事なれば、夜も長し、今や今やと待つに、夜半(よは)過ぎぬらんとおもふ程に、東の山の峰より、月の出づるやうに見えて、峰の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さし入たるやうにて、明(あか)くなりぬ。見れば、普賢菩薩、白象(びやうざう)に乘りて、やうやう、おはしてはべり、坊の前に立ち給へり。

 聖、泣く泣く拜みて、

「いかに、ぬし殿は拜み奉るや。」

と言ひければ、

「いかがは。この童も拜み奉る。をいをい、いみじう貴し。」

とて[やぶちゃん注:と狩人は申し上げながらも。]、獵師、思ふやう、

「聖は、年比、經をも、たもち、讀み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、經の向きたるかたもしらぬに、見え給へるは、心得られぬこと也。」

と心のうちに思ひて、

「このこと、試みてむ、これ、罪(つみ)得べきことにあらず。」

と思ひて、尖(とが)り矢を弓につがひて、聖の拜み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやう、と射たりければ、御胸の程にあたるやうにて、火をうち消(け)つごとくにて、光も失せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。

 聖、

「これはいかにし給へるぞ。」

と言ひて、泣き惑ふ事かぎりなし。

 男、申しけるは、

「『聖の目にこそみえ給はめ、わが罪深き者の目に見え給へば、試み奉らむ』と思ひて射つるなり。まことの佛ならば、よも矢は立ち給はじ。されば、怪しき物なり。」

と言ひけり。

 夜明けて、血をとめて[やぶちゃん注:血糊の跡を問い求めて。]、行きて見ければ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり行きて、谷の底に大きなる狸(たぬき)の、胸より尖り矢を射通されて、死して伏せりけり。

 聖なれど、無智なれば、かやうに化(ば)かされけるなり。獵師なれども、慮(おもんぱかり)ありければ、狸を射害(いがいし)[やぶちゃん注:射殺(いころ)し。]、その化けをあらはしけるなり。

   *]

 

 夜が明けてから血の跡を辿つて行くと、一町ばかり行つた谷の底に、大きな狸が胸を射通されて死んでゐた。「聖なれど無智なればかやうにばかされけるなり、獵師なれども慮ありければ狸を射害、そのばけをあらはしけるなり」といふのが「宇治拾遺物語」の批評であるが、小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した。「慮」といふ言葉が常識に當るらしい。

[やぶちゃん注:「慮」「おもんぱかり」。考えをめぐらすこと。思慮。

『小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した』以下に見る通り、英文原題は。Common Sense(「常識」)である。柴田は「慮」の訳語としては不満がありそうな口吻であるが、しかし、私はこの題が与えられたことによって、この本邦の古い伝承は永劫に優れた名品として、多くの人に読み継がれることとなったのだと思う。八雲先生に快哉!!!

 小泉八雲のそれは一九〇二年刊のKottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs(「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中の、Common Senseである。まず、原文を示す(普賢菩薩の注は我々には不要と考え、除去した)。

   *

 

Common Sense

 

ONCE there lived upon the mountain called Atagoyama, near Kyōto, a certain learned priest who devoted all his time to meditation and the study of the sacred books. The little temple in which he dwelt was far from any village ; and he could not, in such a solitude, have obtained without help the common necessaries of life. But several devout country people regularly contributed to his maintenance, bringing him each month supplies of vegetables and of rice.

   Among these good folk there was a certain hunter, who sometimes visited the mountain in search of game. One day, when this hunter had brought a bag of rice to the temple, the priest said to him : —

   " Friend, I must tell you that wonderful things have happened here since the last time I saw you. I do not certainly know why such things should have happened in my unworthy presence. But you are aware that I have been meditating, and reciting the sutras daily, for many years ; and it is possible that what has been vouchsafed me is due to the merit obtained through these religious exercises. I am not sure of this. But I am sure that Fugen Bosatsu comes nightly to this temple, riding upon his elephant. . . .  Stay here with me this night, friend ; then you will be able to see and to worship the Buddha."

   " To witness so holy a vision," the hunter repHed, " were a privilege indeed !  Most gladly I shall stay, and worship with you."

   So the hunter remained at the temple. But while the priest was engaged in his religious exercises, the hunter began to think about the promised miracle, and to doubt whether such a thing could be. And the more he thought, the more he doubted. There was a little boy in the temple, — an acolyte, — and the hunter found an opportunity to question the boy.

   "The priest told me," said the hunter, "that Fugen Bosatsu comes to this temple every night. Have you also seen Fugen Bosatsu ? "

   " Six times, already," the acolyte replied, " I have seen and reverently worshipped Fugen Bosatsu."

   This declaration only served to increase the hunter's suspicions, though he did not in the least doubt the truthfulness of the boy. He reflected, however, that he would probably be able to see whatever the boy had seen ; and he waited with eagerness for the hour of the promised vision.

 

   Shortly before midnight the priest announced that it was time to prepare for the coming of Fugen Bosatsu. The doors of the little temple were thrown open ; and the priest knelt down at the threshold, with his face to the east. The acolyte knelt at his left hand, and the hunter respectfully placed himself behind the priest.

   It was the night of the twentieth of the ninth month, — a dreary, dark, and very windy night; and the three waited a long time for the coming of Fugen Bosatsu. But at last a point of white light appeared, like a star, in the direction of the east; and this light approached quickly, — growing larger and larger as it came, and illuminating all the slope of the mountain. Presently the light took shape — the shape of a being divine, riding upon a snow-white elephant with six tusks. And, in another moment, the elephant with its shining rider arrived before the temple, and there stood towering, like a mountain of moonlight, — wonderful and weird.

   Then the priest and the boy, prostrating themselves, began with exceeding fervour to repeat the holy invocation to Fugen Bosatsu. But suddenly the hunter rose up behind them, bow in hand ; and, bending his bow to the full, he sent a long arrow whizzing straight at the luminous Buddha, into whose breast it sank up to the very feathers.

   Immediately, with a sound like a thunder-clap, the white light vanished, and the vision disappeared. Before the temple there was nothing but windy darkness.

   " O miserable man ! " cried out the priest, with tears of shame and despair, " O most wretched and wicked man ! what have you done ? — what have you done ? "

   But the hunter received the reproaches of the priest without any sign of compunction or of anger. Then he said, very gently : —

   "Reverend sir, please try to calm yourself, and listen to me. You thought that you were able to see Fugen Bosatsu because of some merit obtained through your constant meditations and your recitation of the sutras. But if that had been the case, the Buddha would have appeared to you only — not to me, nor even to the boy. I am an ignorant hunter, and my occupation is to kill ; — and the taking of life is hateful to the Buddhas. How then should I be able to see Fugen Bosatsu ?  I have been taught that the Buddhas are everywhere about us, and that we remain unable to see them because of our ignorance and our imperfections. You — being a learned priest of pure life — might indeed acquire such enlightenment as would enable you to see the Buddhas ; but how should a man who kills animals for his livelihood find the power to see the divine ?  Both I and this little boy could see all that you saw. And let me now assure you, reverend sir, that what you saw was not Fugen Bosatsu, but a goblinry intended to deceive you — perhaps even to destroy you. I beg that you will try to control your feelings until daybreak. Then I will prove to you the truth of what I have said."

   At sunrise the hunter and the priest examined the spot where the vision had been standing, and they discovered a thin trail of blood. And after having followed this trail to a hollow some hundred paces away, they came upon the body of a great badger, transfixed by the hunter's arrow.

   The priest, although a learned and pious person, had easily been deceived by a badger. But the hunter, an ignorant and irreligiousman was,gifted with strong common sense; and by mother-wit alone he was able at once to detect and to destroy a dangerous illusion.

 

   *

次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「常識」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。

   *

 

   常 識

 

 昔、京都に近い愛宕山に、默想と讀經に餘念のない高僧があつた。住んでゐた小さい寺は、どの村からか遠く離れてゐた、そんな淋しい處では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであつたらうが、信心深い田舍の人々が代る代るきまつて每月米や野菜を持つて來て、この高僧の生活をささへてくれた。

 この善男善女のうちに獵師が一人ゐた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々來た。或日のこと、この獵師がお寺ヘ一袋の米を持つて來た時、僧は云つた。

『一つお前に話したい事がある。この前會つてから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のやうなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知つての通り、愚僧は年來每日讀經默想をして居るので、今度授かつた事は、その行ひの功德かとも思はれるが、それもたしかではない。しかし、たしかに每晩、普賢菩薩が白象に乘つてこのお寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緒に、ここにゐて御覽。その佛樣を拜む事ができる』

『そんな尊い佛が拜めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一緒に拜みます』と獵師は答へた。

 そこで獵師は寺にとどまつた。しかし僧が勤行にいそしんで居る間に、獵師はこれから實現されようと云ふ奇蹟について考へ出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑ひ出した。考へるにつれて疑は增すばかりであつた。寺に小僧がゐた、――そこで獵師は小僧に折を見て聞いた。

『聖人のお話では普賢菩薩は每晩この寺へお見えになるさうだが、あなたも拜んだのですか』獵師は云つた。

『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拜みました』小僧は答へた。獵師は小僧の言を少しも疑はなかつたが、この答によつて疑は一層增すばかりであつた。小僧は一體何を見たのであらうか、それも今に分るであらう、かう思ひ直して約束の出現の時を熱心に待つてゐた。

 

 眞夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給ふ用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戸はあけ放たれた。僧は顏を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、獵師は恭しく僧のうしろに席を取つた。

 九月二十日の夜であつた、淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であつた、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待つてゐた。やうやくのことで東の方に、星のやうな一點の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて來た――段々大きくなつて來て、山の斜面を殘らず照した。やがてその光は或姿――六本の牙のある雪白の象に乘つた聖い菩薩の姿となつた。さうして光り輝ける乘手をのせた象は直ぐお寺の前に着いた、月光の山のやうに、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立つた。

 その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもつて普賢菩薩への讀經を始めた。ところが不意に獵師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取つて滿月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向つて長い矢をひゆつと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささつた。

 突然、落雷のやうな音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなつた。お寺の前はただ暗い風があるだけであつた。

『情けない男だ』僧は悔恨絶望の淚とともに叫んだ。『何と云ふお前は極惡非道の人だ。お前は何をしたのだ、何をしてくれたのだ』

 しかし獵師は僧の非難を聞いても何等後悔憤怒の色を表はさなかつた。それから甚だ穩かに云つた。――

『聖人樣、どうか落ちついて、私の云ふ事を聞いて下さい。あなたは年來の修業と讀經の功德によつて、普賢菩薩を拜む事ができるのだと御考へになりました。それなら佛樣は私やこの小僧には見えず――聖人樣にだけお見えになる筈だと考へます。私は無學な獵師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、佛樣はお嫌ひです。それでどうして普賢菩薩が拜めませう。佛樣は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拜む事ができないと聞いて居ります。聖人樣は――淨い生活をして居られる高僧で居らせられるから佛を拜めるやうなさとりを開かれませう、しかし生計のために生物を殺すやうなものは、どうして佛樣を拜む力など得られませう。それに私もこの小僧も二人とも聖人樣の御覽になつたとほりのものを見ました。それで聖人樣に申し上げますが、御覽になつたものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺さうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。さうしたら私の云ふ事の間違でない證據を御覽に入れませう』

 日出とともに獵師と僧は、その姿の立つてゐた處を調べて、うすい血の跡を發見した。それからその跡をたどつて數百步離れたうつろに着いた、そこで、獵師の矢に貫かれた大きな狸の死體を見た。

 

 博學にして信心深い人であつたが僧は狸に容易にだまされてゐた。しかし獵師は無學無信心ではあつたが、強い常識を生れながらもつてゐた、この生れながらもつてゐた常識だけで直ちに危險な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。

               (田部隆次譯)
       
                  Common Sense.Kotto.

 

   *]

 

 神通自在の天狗ならばまだしも、狸に致されるに至つては、その信に間隙ありと見倣さざるを得ぬ。伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる。愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である。猪が狸に化けるのは奇拔だが、異説として附け加へて置く。

[やぶちゃん注:『伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる』「三修禪師」は実は実在した法相宗の碩学で、小学館「古典文学全集」版の「今昔物語集」(馬淵・国東・今野訳注/昭和五四(一九七九)年刊(第五版))の注によれば、『菅野氏。東大寺の僧』で『少年にして出家、霊山を巡礼修行し、仁寿年中』(八五一年~八五四年)、『伊吹山に登山止住。元慶二』(八七八)『年二月十三日、三修の奏請によって伊吹山護国寺が定額寺』(じょうがくじ:奈良・平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)『に列せられた。寛平六』(八九四)『年維摩会講師、同七年』には『任権律師』となり、『昌泰三』(九〇〇)『年五月十二日没。年七十二』。『湖東三山の一、西明寺』の草創者でもあり、『後代』には『身軽きこと三朱(約五グラム)の飛行自在の三朱沙門と称せられた』とある知られた高僧である(下線やぶちゃん)。何故、そんな彼がここで無能な僧とされて、ここに描かれているのか? これはどうも寺門間の法論に関わる対立が原因らしい。興味のある方は、田中徳定論文「三修禅師魔往生譚の流伝をめぐって『三国伝燈記』の記事を手掛りとして―」(PDF)を読まれたい。以上は、先の「宇治拾遺物語」に先行する酷似した同源の話。「今昔物語集」の「卷第二十」の「伊吹山三修禪師得天狗迎語第十二」(伊吹の山の三修(さむしゆ)禪師、天狗の迎へを得る語(こと)第十二)である。煩を厭わず示す。

   *

 今は昔、美濃の國に伊吹の山と云ふ山有り。其の山に久しく行ふ聖人(しやうにん)有り。心に智り無くして、法文(ほふもん)を不學(まなば)ず。只、彌陀の念佛を唱ふるより外の事、不知(しらず)。名をば三修禪師とぞ云ひける。他念無く念佛を唱へて、多くの年を經にけり。

 而る間、夜(よ)深く念佛を唱へて、佛の御前に居たるに、空に音(こゑ)有りて、聖人に告げて云く、

「汝、懃(ねむごろ)に我れを憑(たの)めり。念佛の員(かず)多く積りにたれば、明日の未(ひつじ)の時に、我れ來たりて、汝を迎ふべし。努々(ゆめゆめ)、念佛怠る事無かれ。」

と。聖人、此の音(こゑ)を聞て後、彌よ心を至して念佛を唱へて、怠る事無し。

 既に明くる日に成りぬれば、聖人、沐浴し淸淨(しやうじやう)にして、香を燒き、花を散(ちら)して、弟子共に告げて、諸共(もろとも)に念佛を唱へて、西に向ひて居たり。

 而る間、未の時下(さが)る程[やぶちゃん注:午後三時頃。]に、西の山の峰の松の木の隙(ひま)より、漸(やうや)く曜(かかや)き光る樣に見ゆ。聖人、此れを見て、彌(いよい)よ念佛を唱へて、掌(たなごころ)を合せて見れば、佛の綠の御頭(おほんかしら)、指し出で給へり。金色(こんじき)の光を至せり。御髮(みぐし)の際(きは)は金(こがね)の色を磨(みが)けり。眉間は秋の月の空に曜くが如くにて、御額(ひたひ)に白き光りを至せり。二つの眉は三日月の如し。二つの靑蓮(しやうれん)の御眼見(まみ)延びて[やぶちゃん注:離れたところから見えて。]、漸く月の出づるが如し。又、樣々の菩薩、微妙(みめう)の音樂を調べて、貴(たふと)き事限り無し。又、空より樣々の花降る事、雨の如し。佛、眉間の光りを差して、此の聖人の面(おもて)を照らし給ふ。聖人、他念無く禮(をが)み入りて、念珠の緒も可絶(たゆべ)し。

 而る間、紫の雲厚く聳えきて、庵の上に立ち渡る。其の時に、觀音、紫金(しこん)[やぶちゃん注:紫磨金(しまごん)。紫色を帯びた純粋の黄金。]の臺を捧げて、聖人の前に寄り給ふ。聖人、這ひ寄りて、其の蓮華(れんぐゑ)に乘りぬ。佛、聖人を迎へ取りて、遙かに西を差して去り給ひぬ。弟子等(ら)、此れを見て、念佛を唱へて貴ぶ事、限り無し。其の後(のち)、弟子等、其の日の夕(ゆふべ)より、其の坊にして、念佛を始めて、彌よ聖人の後(あと)を訪(とぶら)ふ[やぶちゃん注:後世(ごぜ)・冥福を祈る。]。

 其の後(のち)、七八日を經て、其の坊の下僧(げそう)等、念佛の僧共(ども)に沐浴せしめむが爲に、薪(たきぎ)を伐りに奧の山に入りたるに、遙かに谷に差し覆ひたる高き椙(すぎ)の木有り。其の木の末に、遙かに叫ぶ者の音(こゑ)有り。吉(よ)く見れば、法師を裸にして、縛りて、木の末(すゑ)に結(ゆ)ひ付けたり。此れを見て、木昇り爲(す)る法師、卽ち昇りて見れば、極樂に被迎(むかへら)れ給ひし我が師を、葛(かづら)を斷りて縛り付けたる也けり。法師、此れを見て、

「我が君は何(いか)で此(かか)る目は御覽ずるぞ。」

と云ひて、泣々(なくな)く寄りて解(と)きければ、聖人、

「佛の、『今、迎へに來たらむ。暫く、此(か)くて有れ』と宣ひつるに、何の故に解き下(おろ)すぞ。」

と云ひけれども、寄りて解きければ、

「阿彌陀佛、我れを殺す人有りや、をうをう。」

とぞ、音(こゑ)を擧げて叫びける。

 然れども、法師原(ばら)、數(あま)た昇りて、解き下して、坊に將(ゐ)て行たりければ、坊の弟子共、心踈(う)がりて[やぶちゃん注:嘆き、悲しがって。]、泣き合へり。聖人、移し心[やぶちゃん注:正気。]も無く、狂心(わうしん)のみ有りて、二、三日許り有ける程に、死にけり。

 心を發(おこ)して、貴き聖人也と云へども、智惠無ければ、此くぞ天宮(てんぐ)[やぶちゃん注:「天狗」に同じい。]に被謀(たばかられ)ける。

 弟子共、又、云ふ甲斐無し。

 如此(かくのごとき)の魔緣[やぶちゃん注:天魔の眷属。]と、三寶(さんぽう)の境界(きやうがい)とは、更に似ざりける事を、智(さと)り無きが故に不知(しら)ずして、被謀(たばからる)る也、となむ語り傳へたるとや。

   *

『愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である』「今昔物語集」の「卷第二十」の「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山(やま)の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たばか)らるる語(こと)第十三)。(この注の先の引用の直続きである)やはり、否、好きな話だから、煩を厭わず示す。なお、字面だけを見ると、宵曲のように「猪」(いのしし)であるが、この原典のルビ(但し、これは後人が附したものと推定されている)は不祥な読みで、今のイノシシではなく狸・貉(むじな/アナグマ)の古称かともされることは言い添えておく。

   *

 今は昔、愛宕護の山に久しく行なふ持經者(ぢきやうしや)の聖人有りけり。年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉りて、他(ほか)の念(おもひ)無くして、坊の外に出づる事、無かりけり。智惠無くして、法文(ほふもん)を學ばざりけり。

 而るに、其の山の西の方に、一人の獵師、有りけり。鹿・猪(ゐのしし)を射殺すを以つて役(やく)とせり。然(しか)れども、此の獵師、此の聖人をなむ懃ろに貴びて、常に自らも來たり、折節には可然物(しかるべきもの)などを志(こころざし)ける。

 而る間、獵師、久しく此の聖人の許(もと)に不詣(まうで)ざりければ、餌袋(ゑぶくろ)に可然(しかるべき)菓子(くだもの)など入れて、持て詣でたり。聖人、喜びて、日來の不審(いぶか)しき事共など云ふに[やぶちゃん注:こちらの方が良い。互いに遇わなかった間の安否・消息を問うたのである。]、聖人、居寄りて、獵師に云く、

「近來(このごろ)、極めて貴き事なむ侍る。我れ、年來(としごろ)、他(ほか)の念(おもひ)無く、法花經を持(た)もち奉りて有る驗(しるし)にや有らむ、近來、夜々、普賢なむ現じ給ふ。然(しか)れば、今夜(こよ)ひ留(とどま)りて、禮(をが)み奉り給へ。」

と。獵師、

「極めて貴き事にこそ候ふなれ。然(さ)らば、留りて、禮み奉らむ。」

と云ひて、留りぬ。

 而る間、聖人の弟子に幼き童(わらは)有り。此の獵師、童に問ひて云く、

「聖人の『普賢の現じ給ふ』と宣ふは、汝もや、其の普賢をば、見奉る。」

と。童、

「然(し)か。五、六度許りは見奉たり。」

と答ふ。獵師の思はく、

「然らば、我も見奉る樣も有りなむ。」

と思ひて、獵師、聖人の後(しりへ)に、不寢(いね)ずして居たり。

 九月(ながつき)廿日餘りの事なれば、夜(よ)、尤も長し。夕(ゆふべ)より、今や今やと待ちて居たるに、夜中は過ぎやしぬらむと思ふ程に、東の峰の方(かた)より、月の初めて出づるが如くて、白(しら)み明くる。峰の風、吹き掃ふ樣にして、此の坊の内も、月の光の指し入りたる樣に、明るく成りぬ。

 見れば、白き色の菩薩、白象(びやくざう)に乘りて、漸(やうや)く下り御ます。其の有樣、實(まこと)に哀れに貴し。菩薩、來りて、房に向ひたる所に近く立ち給へり。

 聖人、泣々(なくなく)禮拜恭敬(らいはいくぎやう)し、後(しりへ)に有る獵師に云く、

「何ぞ。主(ぬし)は禮(おが)み奉り給ふや。」

と。獵師、

「極めて貴く禮み奉る。」

と答へて、心の内に思はく、

「聖人の、年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉り給はむ目に見え給はむは、尤(もつとも)可然(しかるべ)し。此の童・我が身などは、經をも知り不奉(たてまつら)ぬ目(め)に、此(か)く見え給ふは、極めて怪しき事也。此れを試み奉らむに、信(しん)を發(おこ)さむが爲(ため)なれば、更に罪(つみ)可得(うべき)事にも非じ。」

と思ひて、鋭鴈矢(とがりや)[やぶちゃん注:獣殺傷用の鋭く尖った征矢(そや)の鏃(やじり)に、箭(せん)に四枚の羽の附けてある矢。]を弓に番(つが)ひて、聖人の禮(おが)み入りて、低(ひ)れ臥したる上より差し越して、弓を強く引きて射たれば、菩薩の御胸(おほんむね)に當る樣にして、火を打ち消(け)つ樣に、光りも失せぬ。谷(たに)ざまに、動(どよ)みて、逃げぬる音(おと)す。

 其の時に、聖人、

「此(こ)は何(いか)にし給ひつる事ぞ。」

と云ひて、呼ばひ泣き迷(まど)ふ事、限り無し。

 獵師の云く、

「穴鎌(あなかま)給へ[やぶちゃん注:「穴」「鎌」ともに当て字。人声や物音をたてることをことを制止する際の発語で、ここは「どうか、お静かになさりませ!」の意。]。心も得ず怪しく思(おぼ)えつれば、『試みむ』と思ひて射つる也。更に罪(つみ)得給はじ。」

と懃ろに誘(こしら)へ云けれども[やぶちゃん注:宥めすかしたけれども。]、聖人の悲しび不止(やま)ず。

 夜明けて後(のち)、菩薩の立ち給へる所を、行きて見れば、血、多く流れたり。其の血を尋ねて、行きて見れば、一町許り下(くだ)りて、谷底に大きなる野猪(くさゐなぎ)の、胸より鋭鴈矢(とがりや)を背に射通されて、死に臥せりけり。聖人、此れを見て、悲びの心、醒めにけり。

 然(しか)れば、聖人也と云へども、智惠無き者は、此く被謀(たばからる)る也。役(やく)と[やぶちゃん注:副詞。専ら。]罪を造る獵師也と云へども、思慮(おもぱかり)有れば、此く野猪(くさゐなぎ)をも射(い)顯(あら)はす也けり[やぶちゃん注:その化けの皮を剝いで正体を暴露させることも出来るのである。]。此樣(かやう)の獸(けだもの)は、此く人を謀(たばか)らむと爲(す)る也。然(さ)る程に、此く命を亡ぼす、益(やく)無き事也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 倂し菩薩來迎の話は必ずしも日本の愛宕山にはじまるものではない。唐の代州に一女あり、兄は遠く征途に上つてゐるので、母と共に家を守つてゐると、忽然として雲に乘つた菩薩が現れ、母に向つて、汝の家甚だよろし、我れこゝに居らんと欲す、速かに修理すべし、と告げた。修理は忽ち村人の手によつて行はれ、菩薩は五色の雲と共にその室に下つた。「宇治拾遺」の普賢菩薩は聖と小僧とが禮拜しただけだから、廣く世間に知れ渡らなかつたが、この方は最初から村人を煩はしたので、彼等はそれからそれへと奇瑞を傳へ、信心の輩は次ぎ次ぎに集まつて來た。然るにその菩薩が女と私通するといふ事實があり、馬脚ではない狐脚をあらはしかけたところで、兄の歸還といふ段取りになつた。菩薩は男子を見るを欲せずと云ひ、母をしてこれを逐はしめた爲、兄は家に入ることが出來ない。そこで財を傾けて道士を求め、道士が祕法を修した結果、菩薩は一老狐に過ぎぬことが明かになつた。老狐は斬られて事が終るのである(廣異記)。

[やぶちゃん注:「代州」山西省北東部の古称。

 以上は「廣異記」の「代州民」。

   *

唐代州民有一女、其兄遠戍不在、母與女獨居。忽見菩薩乘雲而至、謂母曰、「汝家甚善、吾欲居之、可速修理、尋當來也。」。村人競往。處置適畢、菩薩馭五色雲來下其室。村人供養甚眾。仍敕眾等不令有言、恐四方信心、往來不止。村人以是相戒、不説其事。菩薩與女私通有娠。經年、其兄還、菩薩云、「不欲見男子。」。令母逐之。兒不得至、因傾財求道士。久之、有道士爲作法、竊視菩薩、是一老狐、乃持刀入、砍殺之。

   *]

 

 この菩薩は愛宕山で普賢菩薩となつて現れた狸よりも更に程度が低い。村人の信仰を集め得たあたりで消え去れば、一時の榮華で身を全うすることが出來たのに、慾にからんで一所に執著したのが誤りであつた。娘との關係の暴露するのを恐れ、母親をして兄の入るを拒ましめるに至つては、この種の徒に屢々見る最後のあがきに外ならぬ。これだけの狂言を書く以上、年ふる狐だつたには相違ないが、その質は上等ではなかつたのであらう。早く身の破滅を招いたのは眞正の菩薩の崇りかも知れぬ。

 

2017/05/24

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(24) 禮拜と淨めの式(Ⅱ)

 

 朝の禮拜の務は、その内に書牌(お札)の前に供物を置く事も入つて居るのであるが、それは一家の祭祀の唯一の務ではない。神道の家に於ては、祖先と高い神々とが、別々に禮拜されるのであるが、祖先の神壇はロオマの Lararium(家族の神)と似て居るらしい、一方その大麻、御幣(特に家族の崇敬する高い神々の象徴てある)のある神棚はラテンの慣習に依つて Penates(家の爐邊の神)の禮拜に與へられた場所と比べられ得る。この兩種の神道の祭祀には、その特殊の祭日がありへ祖先祭祀の場合には、祭日は宗教上の集合の時であり――一族の親戚が、家の祭拜を爲すために集まる時である……。神道家はまた氏神の祭りをあげ、國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある。

[やぶちゃん注:「Lararium(家族の神)」「ララリウム」は古代ローマで信じられた守護神的な神々ラレース(LasesLares:単数形:Lar(ラール))を祭祀した壇。古代ローマ人の各家の中や街角に、壁を掘ったごくつつましい空間に素朴な絵で彩りを施して作られた小さな祭壇。家庭・道路・海路・境界・豊饒・無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的であった(ウィキの「レースに拠った。家庭内祭祀の細かな解説もリンク先にある)。

「大麻」「たいま」。幣(ぬさ)を敬っていう語。「おほぬさ(おおぬさ)」と訓じてもよい。

Penates(家の爐邊の神)」「ペナーテース」はローマ神話に登場する神で、元々は「納戸の守護神」であったが、後に「世帯全体を守る家庭神」となった。先のラレースや、ゲニウス(geniusi:擬人化された精霊で、守護霊或いは善霊と捉えられた)レムレース(lemures:騒々しく有害な死者の霊或いは影を意味し、騒がしたり怖がらせたりするという意味で悪霊 larva:ラルヴァ)に近いとされる)と関係が深い。ローマの各氏族の権勢とも関連付けられており、「祖先の霊」とされることもある。古代ローマの各家庭の入口には女神ウェスタ(Vesta:女神でもとは「竃の神」であったものが転じて家庭の守護神となった)の小さな祠があったが、この祠の中にはこのペナーテースの小さな像が安置されていた(以上はウィキの「ペナーテースと、そのリンク先の記載に拠った)。

「國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある」よく分らないが、ウィキの「「皇室祭祀」の天皇自ら親祭する大祭日(だいさいじつ)の古式(それでも明治以降)のものを数えてみると、①元始祭(天皇が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)に於いて皇位の元始を祝ぐ儀式)・②紀元節祭(「日本書紀」で初代天皇とする神武天皇の即位日)・③神武天皇祭・④神嘗祭・⑤新嘗祭・⑥春季皇霊祭/春季神殿祭・⑦秋季皇霊祭/秋季神殿祭(「皇霊祭」は歴代天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式)・⑧先帝祭(先帝の崩御日)・⑨先帝以前三代の式年祭・⑩先后の式年祭・⑪皇妣(こうひ:崩御した皇太后)である皇后の式年祭で、十一が数えられ、この内、①から③及び⑥から⑪の九種の祭祀は、まさにその内容から「皇室の祖先を禮拜する」祭祀であると言える。もし、間違っていれば、御指摘あれ。]

 

2017/05/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戸川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文

 

 死者の影

 

 東晉の董壽が誅せられた夜、壽の妻が燈下にひとり坐つてゐると、自分の傍に夫が立つてゐる。どうして今時分お退(さが)りになつたかと聞いても、彼は一言も答へなかつた。彼がそこを出て鷄籠の周圍を𢌞つて行く時、籠の中の鷄が俄かにけたゝましく騷ぎ立てる。火を照らして見たら、籠の傍には血が流れてゐる。壽の妻は夫の上に凶事のあつたことを直感したが、夜が明けると壽の死が傳へられた。

 かういふ話が「搜神後記」に出てゐる。これはマクベスの前に現れたバンコーの姿のやうなものである。大饗宴の席を外して扉口に出たマクベスが、刺客からの報告を聽取して戾る途端、バンコーがどこからか入つて來て、マクベスの掛けるべき椅子に腰をおろす。マクベスはまだ氣が付かずに、これであのバンコーさへ來てくれられれば、國中の名族は悉く一室内に集まつたわけなのだが、などと云つてゐる。この際バンコーの事で頭が一杯になつてゐるのはマクベス一人なのだから、愈々亡靈と顏を見合せて棒立ちになるのは當然であらう。亡靈は他人には少しも見えず、一度消えてまた現れる。マクベスが取り亂した結果、折角の大饗宴は滅茶滅茶になつてしまふ。董壽の場合と違つて衆人環視の中の出來事であり、バンコーの姿は他の何人にも見えぬだけに、マクベスの言動が餘計に目立つわけである。

[やぶちゃん注:先の「搜神後記」のそれは「第三卷」の「董壽之」。

   *

董壽之被誅、其家尚未知。妻夜坐、忽見壽之居其側、歎息不已。妻問、「夜間何得而歸。」。壽之都不應答。有頃、出門、繞雞籠而行、籠中雞驚叫。妻疑有異、持火出戸視之、見血數升、而壽之失所在。遂以告姑、因與大小號哭、知有變。及晨、果得凶問。

   *

「マクベス」(Macbeth)はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)の一六〇六年頃に成立した彼の四台悲劇の一つ。「バンコー」(Banquo:現行では「バンクォー」と音写することが多い)はマクベスの友人であった将軍であるが、疑心暗鬼に陥ったマクベスの放った暗殺者によって殺されてしまう。ここは第三幕第四場のそれで、バンクォー暗殺を何食わぬ顔をして受けるマクベスが、髪を血に染めたバンクォーの亡霊が宴席の自分の席にいるのを幻視する、圧巻のシークエンスである。]

 倂しこの二つの話はいづれも血を伴つてゐる。事が行はれて忽ちに亡靈が現れるのもそのためと解せられるが、もつと平凡な場合にも同樣の話がないことはない。鵜殿式部といふ家の召仕ひで、病氣のため暫く宿に歸つてゐた女が、お蔭で永い間養生致しました、と云つて挨拶に來た。見れば顏色もよくないから、もつと養生したらよからうと云ふと、いえ、もうこの分ならば御奉公も出來ますことと存じます、これはうちで拵へた品でございますから、と云つて重箱に入れた團子を差出した。それなら養生旁々勤めたらよからう、といふことになつて、女は次の間へ立つて行つた。鵜殿の老母が勝手へ出てこの話をしたところ、家の者は、おや、いつ參りましたか、一向存じません、と云ふ。方々搜しても更に姿は見えぬ。それにしても慥かに土産があつた筈と、前の重箱を取り出して見たら、重箱に變るところはなかつたが、中に詰めてあるのは全部白い團子であつた。慌てて宿へ人を遭つた結果、はじめてその女が二三日前に亡くなつたといふ消息を知り得た。

「耳囊」に出てゐるこの話は、下女が死後に挨拶に來たといふまでで、怨みも何もある次第ではない。たゞ幻に見えただけでなく、佛前に供へるやうな白い團子を重箱に詰めて持參したといふのが話の山であらう。氣味が惡いには相違ないが、多少卽(つ)き過ぎた嫌ひがあるかも知れぬ。そこへ往くと「怪談登志男」の中の一話は稍々離れ得てゐる。

[やぶちゃん注:以上の「耳囊」の話は「卷之四 女の幽靈主家へ來りし事」である。私の電子化訳注でどうぞ。]

 築地の本願寺近くに住む岩崎といふ老人は、閑散なるまゝに謠や仕舞を何よりの樂しみにして居つたが、或日の午後、日も西に傾く頃になつて、小網町に住む彦兵衞といふ町人がこの隱居を訪ねて來た。彦兵衞は岩崎老人の講仲間で、かねてこの人を通じて京都に仕舞の扇が誂へてあつた。一別以來の挨拶が濟むと、彦兵衞は扇の事を云ひ出し、疾くに出來上つてゐたのに、道中の間違ひで遲延したことを詫び、今日漸う到著致しました、と云つて註文の品を差出した。倂し彦兵衞の樣子が何となく元氣がない。岩崎老人は扇の出來をよろこんで、若侍などを呼び集め、一しきり酒を酌み交した果ては、主人は立ち上り今の扇をかざして舞ふ。彦兵衞も御屆出來の御祝儀にと、續いて舞ひ出したが、いつの間にかその姿が見えなくなつた。座に在る者は主人と若侍と小坊主ばかりで、彦兵衞はどこへ行つたものかわからない。八方搜索しても知れぬので、狐でも化けて入り込んだものかなどと話してゐたところ、翌日彦兵衞の倅藤七なる者が扇を屆けて來た。昨日持參の扇と寸分違はぬやうだが、あれはどうしたと尋ねても更に見當らぬ。藤七の話で彦兵衞が昨日亡くなつたことがわかり、末期(まつご)に近い頃、京都からの荷物が到著し、扇を一見して滿足の笑みを漏らし、自分が亡くなつたら佛事供養より前にこれを持參してお詫びを申せと遺言した話を聞いては、皆昨日の幻の偶然ならぬことを感じたのである。

 同じ亡靈の出現にしても、扇をかざして一さし舞ふなどは大分風流で、重詰の白團子の比ではない。

[やぶちゃん注:以上は「卷之二」にある「八 亡魂の舞踏」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来る。]

「怪談登志男」は寛延三年版であるが、それより三十年餘りおくれて出た「諸越の吉野」(天明三年)にも「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」といふのがある。人名その他に相違はあるけれど、全體の筋は同じである。「怪談登志男」の話を蒸し返したまでのものか、當時何かこんな話が行はれてゐたのか、その邊はよくわからない。

[やぶちゃん注:「寛延三年」一七五〇年。

「諸越の吉野」天明三(一七八四)年板行の奇談集「近古奇談 諸越の吉野」。詳細不祥。所持もしないし、国立国会図書館デジタルコレクションにもない。「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」、これ、是非とも中身を知りたいのだが。]

 小泉八雲の「葬られたる祕密」は、「新選百物語」にある「紫雲たなびく密夫の玉章」に據つたものださうである。丹波國の富裕な一商人稻村屋源助の娘でお園といふのが、一族の商人に嫁して四年後に亡くなつた。お園の結婚後の生活には何の問題もなかつたのに、葬式の晩から彼女の姿が二階の部屋に現れる。第一にこれを發見したのは、彼女の小さい子供であつた。お園は何も口を利かず、子供を見て微笑したといふ。簞笥の前に立つてゐる彼女の姿は外の人にも見えた。結局これは簞笥の中の物に執著があるためだらうといふ解釋の下に、中の品物は悉く寺に約められた。抽匣(ひきだし)は空虛になつたが、お園は依然として姿を現し、簞笥を凝視することをやめぬ。この話は彼女の姑によつて檀那寺の大玄和尚に告げられた。和尚はお園の部屋にひとり坐つて經を誦することにした。夜半を過ぎてお園の姿は現れたが、無論何も云はぬ。氣がかりな事があるやうに、簞笥を見据ゑてゐるだけである。和尚は立つて簞笥の中を丹念に點檢したが、どの抽匣にも何もなかつた。或は抽匣の中を貼つた紙の下に隱されてゐるかも知れぬといふ氣がしたので、それを剝がして行くと、四番目の抽匣の貼り紙の下から一通の手紙が出て來た。和尚は彼女の影に向つて、あなたの心を惱ましたものはこれかと念を押し、誰にも見せることなしに寺で燒き棄てることを約した。彼女は微笑して消えてしまつた。お園は結婚する前に、藝事を修業するために京都へ出てゐたことがあり、この手紙はその頃貰つた艷書であつた。「新選百物語」では數十通とあるのを、八雲が一通にしたのださうである。

[やぶちゃん注:「葬られたる祕密」は小泉八雲の名作Kwaidan : stories and studies of strange things(一九〇四年)の中の一篇A DEAD SECRETである。原文(ネット上で最も信頼出来ると判断したものを選んで加工データとし、例の通り、いつも厄介になっている“Internet Archive”原典画像を視認して本文を作製した原注は邦人には不要と考え、除去した)及び戸川(秋骨)明三訳(こちらにある昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」の当該訳画像)のものを以下に示す。なお、後者の第一段落の「ながらやと云ふ」は、底本は「ながらや云とふ」であるが、誤植と断じて訂しておいた。また、後者の第六段落目は底本の版組(改頁行頭から始まっており、前頁最終行は空行でない)から詰っているが、シークエンスからも、原典に則り、空行を施した

*   *   *

 

A DEAD

SECRET

 

 A long time ago, in the province of Tamba , there lived a rich merchant named Inamuraya Gensuké. He had a daughter called O-Sono. As she was very clever and pretty, he thought it would be a pity to let her grow up with only such teaching as the country-teachers could give her: so he sent her, in care of some trusty attendants, to Kyōto, that she might be trained in the polite accomplishments taught to the ladies of the capital. After she had thus been educated, she was married to a friend of her father's family ― a merchant named Nagaraya;― and she lived happily with him for nearly four years. They had one child, ― a boy. But O-Sono fell ill and died, in the fourth year after her marriage.

   On the night after the funeral of O-Sono, her little son said that his mamma had come back, and was in the room upstairs. She had smiled at him, but would not talk to him: so he became afraid, and ran away. Then some of the family went upstairs to the room which had been O-Sono's; and they were startled to see, by the light of a small lamp which had been kindled before a shrine in that room, the figure of the dead mother. She appeared as if standing in front of a tansu, or chest of drawers, that still contained her ornaments and her wearing-apparel. Her head and shoulders could be very distinctly seen; but from the waist downwards the figure thinned into invisibility;― it was like an imperfect reflection of her, and transparent as a shadow on water.

   Then the folk were afraid, and left the room. Below they consulted together; and the mother of O-Sono's husband said: "A woman is fond of her small things; and O-Sono was much attached to her belongings. Perhaps she has come back to look at them. Many dead persons will do that, ― unless the things be given to the parish-temple. If we present O-Sono's robes and girdles to the temple, her spirit will probably find rest."

   I was agreed that this should be done as soon as possible. So on the following morning the drawers were emptied; and all of O-Sono's ornaments and dresses were taken to the temple. But she came back the next night, and looked at the tansu as before. And she came back also on the night following, and the night after that, and every night; ― and the house became a house of fear.

 

   The mother of O-Sono's husband then went to the parish-temple, and told the chief priest all that had happened, and asked for ghostly counsel. The temple was a Zen temple; and the head-priest was a learned old man, known as Daigen Oshō. He said: "There must be something about which she is anxious, in or near that tansu." ― "But we emptied all the drawers," replied the woman; ― "there is nothing in the tansu." ― "Well," said Daigen Oshō, "to-night I shall go to your house, and keep watch in that room, and see what can be done. You must give orders that no person shall enter the room while I am watching, unless I call."

 

   After sundown, Daigen Oshō went to the house, and found the room made ready for him. He remained there alone, reading the sutras; and nothing appeared until after the Hour of the Rat.   Then the figure of O-Sono suddenly outlined itself in front of the tansu. Her face had a wistful look; and she kept her eyes fixed upon the tansu.

   The priest uttered the holy formula prescribed in such cases, and then, addressing the figure by the kaimyō of O-Sono, said: ― "I have come here in order to help you. Perhaps in that tansu there is something about which you have reason to feel anxious. Shall I try to find it for you?" The shadow appeared to give assent by a slight motion of the head; and the priest, rising, opened the top drawer. It was empty. Successively he opened the second, the third, and the fourth drawer; ― he searched carefully behind them and beneath them;― he carefully examined the interior of the chest. He found nothing. But the figure remained gazing as wistfully as before. "What can she want?" thought the priest. Suddenly it occurred to him that there might be something hidden under the paper with which the drawers were lined. He removed the lining of the first drawer:― nothing! He removed the lining of the second and third drawers:― still nothing. But under the lining of the lowermost drawer he found ― a letter. "Is this the thing about which you have been troubled?" he asked. The shadow of the woman turned toward him, ― her faint gaze fixed upon the letter. "Shall I burn it for you?" he asked. She bowed before him. "It shall be burned in the temple this very morning," he promised;― "and no one shall read it, except myself." The figure smiled and vanished.

 

   Dawn was breaking as the priest descended the stairs, to find the family waiting anxiously below. "Do not be anxious," he said to them: "She will not appear again." And she never did.

   The letter was burned. It was a love-letter written to O-Sono in the time of her studies at Kyotō. But the priest alone knew what was in it; and the secret died with him.

 

*   *   *

 

    葬られたる祕密

 

 むかし丹波の國に稻村屋源助といふ金持ちの商人が住んで居た。此人にお園といふ一人の娘があつた。お園は非常に怜悧で、また美人であつたので、源助は田舍の先生の教育だけで育てる事を遺憾に思ひ、信用のある從者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な藝事を修業させるやうにした。かうして教育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云ふ商人に嫁(かたづ)けられ、殆んど四年の間その男と樂しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があつた。然るにお園は結婚後四年目に病氣になり死んでしまつた。

 その葬式のあつた晩にお園の小さい息子は、お母さんが歸つて來て、二階のお部屋に居たよと云つた。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかつた。それで子供は恐はくなつて逃げて來たと云ふのであつた。其處で、一家の内の誰れ彼れが、お園のであつた二階の部屋に行つてみると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に點(とも)された小さい燈明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は簞笥則ち抽斗になつて居る箱の前に立つて居るらしく、其簞笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入つて居たのである。お園の頭と肩とは極く瞭然(はつきり)見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなつて見えなくなつて居る――恰もそれが本人の、はつきりしない反影のやうに、又、水面における影の如く透き通つて居た。

 それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまひ、下で一同集つて相談をした處、お園の夫の母の云ふには『女といふものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著して居た。多分、それを見に戾つたのであらう。死人でそんな事をするものも隨分あります――その品物が檀寺にやらずに居ると。お園の著物や帶もお寺へ納めれば、多分魂も安心するであらう』

 で、出來る限り早く、この事を果すといふ事に極められ、翌朝、抽斗を空(から)にし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も歸つて來て、前の通り簞笥を見て居た。それからそのつぎの晩も、つぎのつぎの晩も、每晩歸つて來た――爲にこの家は恐怖の家となつた。

 

 お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什を話し、幽靈の件について相談を求めた。その寺は禪寺であつて、住職は學識のある老人で、大玄和尚として知られて居た人であつた。和尚の言ふに『それはその簞笥の内か、又はその近くに、何か女の氣にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答へた――『それでも私共は抽斗を空(から)にいたしましたので、簞笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尚は言つた『宜しい、では、今夜拙僧(わたし)が御宅へ上り、その部屋で番をいたし、どうしたらいいか考へて見るで御座らう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致して居る部屋に、入らぬやう命じて置いて戴き度い』

 

 日沒後、大玄和尚はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出來て居た。和尚は御經を讀みながら、其處にただ獨り坐つて居た。が、子の刻過ぎまでは、何も顯れては來なかつた。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に簞笥の前に、何時となく輪廓を顯した。その顏は何か氣になると云つた樣子で、兩眼をじつと簞笥に据ゑて居た。

 和尚はかかる場合に誦するやうに定められてある經文を口にして、さてその姿に向つて、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧(わたし)は貴女(あなた)のお助けをするために、此處に來たもので御座る。定めしその簞笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであらう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい樣子をした。そこで和尚は起ち上り、一番上の抽斗を開けて見た。が、それは空であつた。つづいて和尚は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後(うしろ)や下を氣をつけて探した――箱の内部を氣をつけて調べて見た。が何もない。しかしお園の姿は前と同じやうに、氣にかかると云つたやうにぢつと見つめて居た。『どうして貰ひたいと云ふのかしら?』と和尚は考へた。が、突然かういふ事に氣がついた。抽斗の中を張つてある紙の下に何か隱してあるのかも知れない。と、其處で一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。然るに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかつた――一通の手紙である。『貴女の心を惱まして居たものはこれかな?』と和尚は訊ねた。女の影は和尚の方に向つた――その力のない凝視は手紙の上に据ゑられて居た。『拙僧がそれを燒き棄てて進ぜようか?』と和尚は訊ねた。お園の姿は和尚の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で燒き棄て、私の外、誰れにもそれを讀ませまい』と和尚は約束した。姿は微笑して消えてしまつた。

 

 和尚が梯子段を降りて來た時、夜は明けかけて居り、一家の人々は心配して下で待つて居た。『御心配なさるな、もう二度と影は顯れぬから』と和尚は一同に向つて云つた。果してお園の影は遂に顯れなかつた。

 手紙は燒き棄てられた。それはお園が京都で修業して居た時に貰つた艷書であつた。しかしその内に書いてあつた事を知つているものは和尚ばかりであつて、祕密は和尚と共に葬られてしまつた。

         (戸川明三譯)
    
A Dead Secret.Kwaidan.

 

   *

「新選百物語」「新撰百物語」とも。全五巻合冊。編者・板行年ともに不詳(書肆は大阪の吉文字屋市兵衛。序文及び後付(本文の一部を含む)が欠損しているため)。であるが、江戸後期の明和三(一七六六)年刊と推定される浮世草子。本“A Dead Secret”は「卷三」の第三話目の「紫雲たな引(びく)密夫(みつふ)の玉章(たまづさ)」が原話である。以下にJAIRO(ジャイロ:Japanese Institutional Repositories Onlineで入手した原典(影印)PDF画像(ここで全巻をダウンロード出来る)を視認して電子化した。判読出来ないところや疑義のある部分は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲作・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」を参考にした。踊り字「〱」は正字化した。但し、読みは私が振れると判断した一部に留め、読み易くするために句読点を私の判断で打ち、シークエンスごとに改行し、一部を直接話法と成して改行したのも私である。また、本文の誤字や歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、本書の「卷二」の「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」は、やはり、小泉八雲の「骨董」Kottō)の中の第六話「お龜の話」(The Story of 0-Kameの種本でもある。

   *

 小夜衣(さよごろも)など書(かき)やりしは、嗚呼(あゝ)貴(たつと)むべし、貞女とも節女とも古今(こゝん)に秀(ひいで)し稀者(まれもの)、末世までも、その名を殘せり。かゝる賢女を當世に、不膵(ぶすい)といひ、練(ねれ)ぬといひ、白いといひ、土といふ、これ、皆、西南の蚯蚓(みゝず)[やぶちゃん注:田舎者の蔑称の隠喩か?]にして、惡(にく)むべし。人をして惡に導(みちびく)の罪人なり。かくのごときものをば鼠といふと、その所以(ゆへ)を問ヘば、食ふ事のみを好んで、人前(にんぜん)へ出る事あたはざるがゆへなりと。宜(むべ)なるかな、子は親の心にならふものなれば、假令(かりそめ)にも不義淫亂のことをいはず、女子(によし)は取(とり)わけ、孝を第一にしてつゝしみを教(おしゆ)べし。芝居の御姫さまの、かちや、はだして出奔(しゆつぼん)なされ後(のち)には、傾城やへ賣(うら)れ給ふのイヤ私夫(まぶ)のといふ名は勿論、聞(きか)すも毒なるに、母親(はゝご)の好(すき)とて、娘子(むすめこ)を鰹汁(だし)にして、一番太鞁(たいこ)のならぬ中(うち)から幼(いとけ)なき子の手を引(ひい)てしこみ給ヘば、曆々(れきれき)の黑き膵(すい)と成(なつ)て、男の子は代々の家(いへ)をもち崩し、辻だちの狂言するやうになり、女子(によし)は密夫(まおとこ)の種(たね)と成(なる)ものぞかし。

 今はむかし、丹波の國に稻村や善助とて呉服商賣する人ありて、お園といふ娘をもちしが、只ひとりの娘といひ、諸人(しよにん)にまされる容色なれば、父母の寵愛すくなからず、

「田舍育(いなかそだち)となさんも惜し。」

と、一年のうち、大かたは京大坂に座敷をかり、乳母(うば)婢(こしもと)を多くつけ置(おき)、

「地下(ぢげ)でも堂上(たうしやう)まさりじや。」

と、名にたつ師をとり、

「和歌を學(まなば)せ茶の湯も少し知(しら)いでは。」

と、利休流の人へたのみ、長板(ながいた)[やぶちゃん注:茶道で風炉・水指などを載せる長方形の板。ここは細かなところまで、という喩えであろう。]までも、たてまへ覺へ𢌞(まは)り、炭(すみ)に心をくだけは、

「お精(せい)がつきやう。」

と、婢とも琴(こと)三絃(さんげん)を取出(とりいだ)し、

「明日は芝居にいたしましよ。」

と、女形の容貌(すがた)に氣をつけ、聲音(こはいろ)をうつし、仕立(したて)あけたる盛(さかり)の年、二九からぬ目もと口もと、田舍にまれなるうつくしさ、引手(ひくて)あまたの其中に、長良(ながら)や淸七とて、これも、をとらぬ身代(しんだい)がら、兩替商賣目利(めきゝ)の嫁子(よめご)白無垢娘、二世かけて夫婦の中(なか)は黃金(わうごん)はだヘ、振手形(ふりてがた)なきむつましさ、はや、其としに懷妊して玉のやうなる和子(わこ)をもふけて、世話にすがたも變らねは、

「下地(したぢ)のよいのは各別。」

と、讃(ほめ)そやされし身なりしが、秋の末にはあらねども、いつともなしにぶらぶらと、さして病氣といふにもあらず、只、何(なに)となく面瘦(おもやせ)て、氣むつかしげに衰へて、物おもはしき氣色なれば、兩親(ふたをや)、舅姑(しうとしうとめ)、聟(むこ)、にはかに驚き、醫者へも見せ、

「藥よ鍼(はり)よ。」

と、騷ぎたち、諸神(じん)諸佛へ立願(りふぐはん)をかけ奉る。御寶前に肝膽(かんたん)をくだき、いのれども、終に此世の緣つきて、會者定離(ゑしやでうり)とは知りながら、戀(こひ)こがれしもあだし野の露と消ゆく花ざかり、鳥(とりべ)部の山に植(うへ)かへて、涙の種となりけらし。

 ふしぎや、野邊(のべ)に送りし夜(よ)より、お園が姿ありありと、影のごとくにあらはれて、物をもいはず、しよんぼりと單笥(たんす)のもとにたゝずめり。みなみな傍に立よりて、

ノフなつかしや。」

と取(とり)すがれと、たゝ、雲雰(くもきり)のごとくにて、手にもとられぬ水の月、「何ゆへこゝに來りしぞ。」

と尋ぬれども、返事もせず、淚にむせぶ斗(ばかり)にて樣子もしれねバ、詮かたなく、

「可愛(かわい)や、わが子が淸七にこゝろ殘りて迷ひしならん。」

と、さまさまの佛事をなし、跡(あと)ねんごろに吊る(とむら)へども、所も違はす、姿もさらず、

「扨(さて)は單笥の衣類の中(うち)か、手道具などにも執着(しうじやく)せしか。」

と、殘らず、寺へ送れども、猶も姿はしほしほと、はじめにかはらぬ有樣なれば、一門中(もんちう)、ひそかにあつまり、衣類手道具、寺へおくり、かたのごとく、佛事をなせども、すこしもしるしのなき時は、なかなか凡慮の及はぬ所、

「道得(どうとく)知識のちからならでは、此妖怪は退(しりぞ)くまじ。」

と、其ころ、諸國に名高き禪僧太元(だいげん)和尚に、くはしく語れば、和尚、しばらくかんがへて、

「後ほど參り、ようすを見とゞけ迷ひをはらし得さすべし。」

と、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時前後。]すぐる比(ころ)、たゞ一人、長良やに來られしに、見れば、一家(け)の詞ことば)にちがはず、亡者のすがた、霞のごとく、簞笥のもとにあらはれて、目をもはなさず、簞笥をながめ、淚をながし、かなしむ有さま、和尚、始終をよくよく見て、亡者の躰(てい)を考(かんがふ)るに、

「ひとつの願ひあるゆへなり。暫く、此間(ま)の人をはらひ、障子ふすまをたて切(きる)べし。いかやうの事ありとも一人も來(きた)るべからず。追付(おつつけ)しるしを見せ申さん。」

と其身は亡者のすがたに向ひ、いよいよ窺(うかゞ)ひ居(ゐ)たりしが、立(たち)あがり、簞笥の中、一々に、よくあらため、顧(かへりみ)れとも、始(はしめ)にかはらず、とてもの事に、簞笥の下(した)をと引(ひき)のくれば、不義の玉章(たまづさ)數(す)十通ひとつに封じ、かくしたり。

「これぞ迷ひの種なるべし。」

と幽靈にさしむかひ、

「心やすく成佛すべし。此(この)ふみ共は燒(やき)すてゝ、人目には見せまじ。」

と約束かたき誓ひの言葉。亡者のすがたは、うれしげに合掌するぞと見へけるが、朝日に霜のとくるがごとく、消(きへ)て、かたちは、なかりけり。

 和尚は歡喜あさからず、一門のこらず呼出(よびいだ)し、

「亡者はふたゝび來るまじ。猶、なき跡を吊ふべし。」

と、立歸(たちかへ)り、彼(かの)ふみども、佛前にて燒すつる煙(けふり)の中(うち)にまざまざと亡者は再び姿をあらはし、

「大悟(たいご)知識の引導(いんだう)にて、則(すなはち)、たゞ今、佛果を得たり。」

と、紫雲に乘じて飛(とび)されりと、大元和尚の宗弟(しうてい)の物がたりぞと聞(きゝ)およぶ。

   *

辛気臭い説教風の前後がカットされ、退屈な娘の花嫁修業の前振りも払拭、柴田宵曲も述べている通り、どろどろした濃厚な江戸趣味の生々しさの恋文「數十通」の禍々しい束が、ただ「一通」となって、お園の過ち(過ちであろうか?)がただ一度であったことを暗示させて、まさに小泉八雲の名筆によって、原話が美しく浄化されていると言ってよい。また、最初のお園の霊を見るのを夫から子に変えている辺り、幼少期に生き別れ、永遠に失われた母の思い出に生きた小泉八雲の気持ちがそうさせたのだと、私は思うのである。]

「新選百物語」の刊行年代はよくわからぬが、似た話が「耳囊」にも出てゐる。この方は富家の娘といふだけだから、まだ結婚しては居らぬらしい。歿後或成座敷の隅に髣髴と現れることは八雲の書いたのと同じである。父母大いに歎き悲しみ、當時飯沼の弘經寺にゐた祐天和尚に成佛得脱の事を賴んだ。和尚はその出る場所は每日變つてゐるかどうかを尋ねた上、必ず退散させようと引き受けた。一間に入つて讀經することは大玄和尚と同じであつたが、簞笥の抽匣を丹念にしらべたりはしない。亡靈の毎日佇むところに梯子をかけ、天井の板を放して、そこに澤山あつた艷書を取り出し、火鉢に抛り込んで燃してしまつた。祐天和尚は累(かさね)を濟度した人だから、こんな事には適役であつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:以上は囊 之三 明德の祈禱其依る所ある事。幾つかの私の語注も含め、以上の私の電子化訳注を参照されたい。]

 以上のやうな話も普通に幽靈として取り扱はれてゐる。幽靈には違ひないが、累やお岩の怨靈談にあるやうな魔氣がない。何とか區別した方がよささうな氣がする。

[やぶちゃん注:宵曲はこの手の「魔氣」がないものを、怪談としては格が下がると思っているようである(でなければ最後の不遜めいた一文は、到底、吐けない)。私はこうしたしみじみとした霊譚こそ、極上の怪談と思う人種であることをここに表明して終りとする。

 

2017/04/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)

 

 ノツペラポウ

 

「東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極めて廣い濠があつて、それに沿つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた」――小泉八雲の「貉」はかういふ風に書き出されてゐる。

[やぶちゃん注:「ノツペラポウ」(のっぺらぼう)は「野箆坊」などと漢字表記し、通常は顔に目・鼻・口のない妖怪を指す。ウィキの「のっぺらぼう」によれば、明和四(一七六七)年の怪談集「新説百物語」には、『京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある』。しかし諸怪談の同形(目鼻口総て或いは孰れかの複数欠損)の妖怪(多出する)の場合は正体が不明の場合も多く、寛文三(一六六三)年の初期江戸怪談集の白眉とも言える「曾呂利物語」では、『京の御池町(現・京都市中京区)に身長』七尺(二メートル強)の『のっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない』。『民間伝承においては大阪府』、『香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている』とある。

「紀國坂」(きのくにざか)は現在の東京都港区元赤坂一丁目から、旧赤坂離宮の外囲りの堀端を喰違見附(くいちがいみつけ:ここ(グーグル・マップ・データ))まで登る紀伊国坂(きのくにざか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。坂の西側の現在の赤坂御用地及び迎賓館の位置に、江戸時代を通じて、紀州徳川家の広大な屋敷があったことが名の由来。また、「茜坂(あかねざか)」「赤坂(あかさか)」は、この紀伊国屋坂の別名であって、それは根を染料とする茜(キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi)が生えていた赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることに由来し、付近一帯の広域地名である「赤坂」の由来にもなっている。

「貉」(むじな)は、実在生物である穴熊(食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や貍(食肉目イヌ科タヌキ属ニホンタヌキNyctereutes procyonoides viverrinus)などの古称としてもあるが、民俗伝承中では専ら、狐や狸と併称される人を騙す通力を持った妖怪・妖獣としての怪奇生物の通称で、伝わるところの一般形状は狸に近い。但し、八雲がここで言った「むじな」はまさにそうした人を化かすところの妖狐・妖狸を中心とした妖怪獣類の総称として捉えるのがよい。因みに、後で示す原話の一つと目されるものでは「貉」ではなく「獺(かわうそ)」となっている。獺(食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属日本本土亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。他に北海道亜種 Lutra lutra whiteleyi もいた。ともに生物学的には絶滅したと考えざるを得ず、環境省も二〇一二年八月の「レッド・リスト」改訂でやっと正式に絶滅を宣言した。但し、愛媛県は二〇一四年十月更新の「愛媛県レッドデータブック2014」では依然として「絶滅危惧種」として指定している)も、本邦の民俗社会では年古ると通力を持つ妖獣と考えられていたのである。]

 八雲に從へば、この邊によく徘徊する貉(むじな)を見た最後の人は、京橋方面に住む商家の老人であつた。或晩おそく紀國坂を登つて行くと、濠の緣にんで泣いてゐる女がある。老人は咄嵯に身を投げるのではないかと判斷し、近寄つて聲をかけた。倂し女は依然として泣きやまぬ。ここは夜若い御婦人などの居るべき場所ではない、泣かずに事情を話して貰ひたい、と繰り返した時、女は泣きながら徐(おもむ)ろに立ち上つた。さうして今まで顏を掩つてゐた袖を下に落し、手で自分の顏を撫でたのを見ると、目も鼻も口もない。女を救ふ筈であつた老人は、きやツと叫ぶなり、一目散に逃げ出して紀國坂を駈け登つた……。

[やぶちゃん注:「蹲んで」「しやがんで」と読みたくなるが、後に出る戸川の訳では「かがんで」である

 小泉八雲の「狢」は原題が“Mujina”でかの名作品集“Kwaidan”(「怪談」一九〇四年刊)中の知られた一篇。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”原本画像を使用して校合した。なお、原注(“O-jochū”soba)は除去した。

   *

 

MUJINA

 

   ON the Akasaka Road, in Tōkyō, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka, ―which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens; ―and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

   All because of a Mujina that used to walk there.

 

   The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyōbashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it :―

   One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power. She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. “O-jochū,”he exclaimed, approaching her,―“O-jochū, do not cry like that! . . .  Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you.” (He really meant what he said; for he was a very kind man.) But she continued to weep,―hiding her face from him with one of her long sleeves. “O-jochū,” he said again, as gently as he could,―“please, please listen to me! . . .  This is no place for a young lady at night!  Do not cry, I implore you!―only tell me how I may be of some help to you!” Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:―“O-jochū!―O-jochū!―O-jochū! . . .  Listen to me, just for one little moment! . . . O-jochū!―O-jochū!”. . .  Then that O-jochū turned round, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;―and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,―and he screamed and ran away.

   Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the old soba-seller, crying out, "Aa!―aa!!― aa!!!

   “Koré! Koré”roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you?  Anybody hurt you?"

   “No―nobody hurt me,”panted the other,――“only. . . Aa!―aa!”. . .

   “―Only scared you?”queried the peddler, unsympathetically.  “Robbers?”

   “Not robbers,―not robbers,”gasped the terrified man. . . . “I saw . . .  I saw a woman―by the moat;―and she showed me . . . Aa! I cannot tell you what she showed me!”. . .

   “Hé! Was it anything like THIS that she showed you?”cried the soba-man, stroking his own face―which therewith became like unto an Egg. . . .  And, simultaneously, the light went out.

 

   *

 次にこちらにある、同作の戸川明三(戸川秋骨の本名。パブリック・ドメイン)氏訳になる「狢」(PDF)を視認して電子化しておく。画像底本は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部、記号に不審がある箇所は恣意的に訂した

   *

 

    貉

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も廻り道をしたものである。[やぶちゃん注:「廻」は底本の用字。]

 これは皆、その邊をよく步いた貉のためである。

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

 この商人がある晩おそく紀國坂を急いで登つて行くと、ただひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝(みなり)も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましせう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此の人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來る限りやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御婦人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやツと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で何もない空虛であつた。振り返つてみる勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた擧句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それは道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あゝ!――あゝ!!――ああ!!!』……

『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

『否(いや)、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あゝ!――あゝ!』……

『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろばう)にか?』

『盜賊(どろばう)ではない――盜賊(どろばう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あゝ! 何を見せたつて、そりや云へない』……

『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

               (戸川明三譯)

          
 Mujina.Kwaidan.

 

   *

ここで、柴田宵曲は原話の後半部の二度目のオドシ(一般に「再度の怪」と称される怪談の駄目押し構成の常套法の一つ)の梗概を示していないが、後段でそれをごく手短に示している。これは別に忘れた訳ではなく、読んでいくと判るが、話柄の展開上、男の「のっぺらぼう」を出したくなかったのである

 さて、本作の種本については柴田は問題としていないのであるが、平川祐弘編の小泉八雲「怪談・奇談」(一九九〇年講談社学術文庫刊)の「解説」では、小泉八雲は明治二七(一八九四)年七月刊の町田宗七編「百物語」の「第三十三席 御山苔松」の怪奇咄を原拠に比定している。但し、落語ネタとしてはもっと古くからあったものと想像され得るもので、江戸随筆等を丹念に探れば、より古式の原話或いは類話を見出し得るように思われる。取り敢えず、同書の「原拠」に出るそれを、恣意的に漢字を正字化して示しておく。底本は総ルビであるが、読みはごく一部に留めた。本文の拗音表記はその儘にしておいた。踊り字「〱」は正字化した。一部の原典の誤記と思われる漢字を恣意的に変更した

   *

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郎といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎雨は降(ふり)ますし殊に夜中の事で御坐いますからドットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ致方なくスタスタとやッて參り紀の國坂の中程へ差掛ッた頃には雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり風さへ俄(にはか)に加はりまして物凄きこと言はむ方も御坐りませんからなんでも早く指(さ)す方(かた)へまゐらうと飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、ポント何やら蹴付(けつけ)たものがありますから、ハット思ッて提灯(てうちん)を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人の女が俯向(うつむけ)に屈(かゞ)んで居(を)りますから、驚きながらも貴女(あなた)どうなさいましたト聞(きく)と俯向(うつむい)たまゝ持病の癪(しやく)が起りましてといふからヲヽ夫(それ)ハ嘸(さぞ)かしお困り、ムヽ幸ひ持合せの薄荷(はつか)がありますから差上(さしあげ)ませう、サヽお手をお出しなさいと言ふと、ハイ誠に御親切樣にありがたう御坐いますと禮を述(のべ)ながら、ぬッと上(あげ)た顏を見ると顏の長さが二尺もあらうといふ化物、アッと言(いつ)て逃出したのなんのと夢中になッて三四町もまゐると、向ふの方(はう)から蕎麥うわウイーチンリン蕎麥うわウイーチンリンと一人の夜鷹(たか)蕎麥屋がまゐりましたから、ヤレ嬉しやと駈寄(かけよつ)て、そゝ蕎麥屋さん助けてくれト申しますと蕎麥屋も驚きまして、貴郎(あなた)トど如何(どう)なさいました。イヤもうどうのかうのと言(いつ)て話しにはならない化物に此(この)先(さき)で遭ひました。イヤ夫(それ)は夫はシテどんな化物で御坐いました。イヤモどんなと言(いつ)て眞似も出來ませんドヾどうかミヽ水を一杯下さいト言ふとお易い御用と茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、モシその化物の顏ハこんなでハ御坐いませんかト、言ッた蕎麥屋の顏が、また弐尺、今度はあッと言(いつ)た儘(まゝ)氣を失ッてしまひまして、時過(ときすぎ)て通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ御堀(おほり)に栖(す)む獺(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この説話は決して獺(うそ)の皮ではないさうで御坐います。

   *]

 かういふ顏の持ち主を普通にノツベラボウと宿してゐる。支那にも同類はあると見えて、某家の下男が夜茶を取りに行くと、若い女が木の蔭に向うむきに立つてゐる。暗くてよくわからぬが、どうやら同じ家の女中らしく思はれたので、笑談半分にその臂を捉へた。途端に女が振向いた顏を見ると、白粉を塗つたやうに眞白で、然も目も鼻も口もない。下男は絶叫して地に朴れたと「閲微草堂筆記」にある。

[やぶちゃん注:「茶を取りに行く」訳が不全。原文を見て戴くと判るが、別棟に「茶道具」をとりに行ったのである。

以上は「閲微草堂筆記」の「第八卷如是我聞二」の以下の太字で示した部分。

   *

崔莊舊宅廳事西有南北屋各三楹、花竹翳如、頗爲幽僻。先祖在時、奴子張雲會夜往取茶具、見垂鬟女子潛匿樹下、背立向墻隅。意爲宅中小婢於此幽期、遽捉其臂、欲有所挾。女子突轉其面、白如傅粉、而無耳目口鼻。絶叫仆地。眾持燭至、則無睹矣。或曰、「舊有此怪。」。或曰、「張雲會一時目眩。」。或曰、「實一黠婢、猝爲人阻、弗能遁。以素巾幕面、僞爲鬼狀以自脱也。」。均未知其審。然自此群疑不釋、宿是院者恒凜凜、夜中亦往往有聲。蓋人避弗居、斯鬼狐入之耳。又宅東一樓、明隆慶初所建、右側一小屋、亦云有魅。雖不爲害、然婢媼或見之。姚安公一日檢視廢書、於簏下捉得二。眾曰、「是魅矣。」。姚安公曰、「弭首爲童子縛、必不能爲魅。」。然室無人迹、至使野獸爲巢穴、則有魅也亦宜。斯皆空穴來風之義也。後西廳析屬從兄垣居、今歸從姪汝侗。樓析屬先兄睛湖、今歸姪汝份。子姪日繁、家無隙地、魅皆不驅自去矣。

   *

原典の後の部分は一九七一年平凡社刊の中国古典文学大系第四十二巻の訳によれば(拠った底本が異なるものか、訳が必ずしも明確には一致しない)、続く部分は、張雲のその怪異目撃事件への解三つ(実際に化物が出来した・張雲の錯覚・あの婢は性質(たち)の悪い奴で密会を見つけられて逃げられなかったことから白い巾(きれ)を被って化物の真似をした)を示す。最後のパートは、この邸宅は実はここだけでなく、他にも怪異の出来する棟があり、ある日、姚安(ようあん)公が書籍整理中、『竹籠(つづら)の下にいたムジナのような動物を二匹つかまえた』(下線やぶちゃん)。人々はこれこそ化物の正体であると騒いだが、姚安は「だったら、こんなに子どもの手を捻るのようにやすやすと捕えられてしまうはずもないと否定した。しかし、野獣の巣窟に成したというこの状況に至らせてしまった以上は、魑魅魍魎がここに巣食っているというべきである。それは「空穴來風の義」(「穴が開けばそこには当然、風が吹き込むものだ」式の道理。「荘子」に基づく諷喩)であるとそれに反論附記している(筆者袁枚のそれと採っておく。中文サイトではこれを姚安の続く言として採っている)。最後の部分は、その後、この邸宅の人の住んでいなかった建物には、ことごとく親族らが住むようになり、『空地がなくなったので、化物どもはすべて、追い払われなくても自分から出て行ってしまったろう』とある。柴田は何故、このムジナ(原文「」。現代中国語では「アナグマ」を指すから、まさに「貉」である)を出さなかったのか? まあ、事例があまりにも無抵抗でショボいからやめたものでもあろう。]

「夜譚隨錄」に出てゐる話は十何人も集まつて酒を飮んだ擧句であつた。大分いゝ機嫌になつて或地點まで歸つて來ると、これは月夜だつたので、紅い衣を著た婦人が牆(かきね)の邊にうづくまつてゐるのが見えた。醉ひに乘じてうしろから袖を引いたのは「閲徽草堂筆記」と同じであり、振向いた顏に眉目口鼻のないことも同じである。たゞ見る白面模糊として、豆腐の如く然りと記されてゐる。この男はよほどびつくりしたらしく、地上に仆れて氣絶してしまつた。仲間が駈け付けて介抱したので、暫くして漸く蘇つた。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の「卷二紅衣婦人」。

   *

西十庫在西安門内、例有披甲人宿其中。某甲與同十餘人、沽酒夜飲、皆半酣。二更後、甲起解手、至庫旁永巷中、於月光下、隱隱見一紅衣婦人、蹲身牆邊、如小遺狀。甲醉後心動、潛就摟之、婦人囘其首、別無眉目口鼻、但見白面模糊、如豆腐然。甲驚僕地上。同人遲其來、往覘之、氣已絶矣、舁至鋪中救之、逾時始蘇、自述所遭如此。

   *]

 この三つの話は全く同工異曲である。夜の事だから、少し隔たつてゐれば顏などはよくわからない。うしろから臂を捉へたり、袖を引いたりするほどの近距離で、おもむろに振り向く顏に目鼻がないといふところに、この話の人を驚倒せしむる一大要素がある。

 併しノツペラポウを見るのは、悉く以上のやうな狀態に限られたわけではない。「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話は、文久三年の七月といふ時代がはつきり書いてある。夜の十時頃に高輪の海端を歩いて來ると、田町の方から盆燈籠の灯が近付いて來た。摺れ違ひざまに見ると、草履を穿いて稚い兒を背負つた女である。盆燈籠はその兒の手に持つてゐるのであつたが、その女の顏がノツペラボウであつた。擦れ違つたのは武士であるから、思はず刀の柄に手をかけたが、世の中には病氣か大火傷(やけど)などでこんな顏になる者がないとも限らぬと、思ひ返して躊躇するうちに、女は見返りもせずに行き過ぎてしまつた。このノツペラボウの女は、同じ晩に札の辻のところで蕎番屋の出前持が出逢つて居り、その男は恐怖の餘り自分の店の暖簾をくゞるや否や氣を失つて倒れた。翌朝品川の海岸に浮き上つた女の死髓は、二つばかりの女の兒を背負ひ、女の兒は紙が洗ひ去られて殆ど骨ばかりになつた盆燈籠を手にしてゐた。こゝで話は當然ノツペラボウの女に結び付かなければならぬが、水死者は目も鼻も口も尋常だつたさうである。

[やぶちゃん注:「文久三年」一八六三年。

 『「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話』は大正六(一九一七)年一月号『新小説』初出の「父の怪談」の一節。短いので「青空文庫」版からコピー・ペーストしておく。

   *

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。

 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。

 父はそのままにして帰った。

 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢ったという者があった。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持って行った帰り路で一人の女に逢った。女は草履をはいて子供を背負っていた。子供は小さい盆燈籠を持っていた。すれ違いながらふと見ると、女は眼も鼻もないのっぺらぼうであった。かれはびっくりして逃げるように帰ったが、自分の店の暖簾(のれん)をくぐると俄かに気をうしなって倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確かにのっぺらぼうであったと主張していた。すべてが父の見たものと同一であったのから考えると、それは父の僻眼(ひがめ)でなく、不思議な人相をもった女が田町から高輪辺を往来していたのは事実であるらしかった。

「唯それだけならば、まだ不思議とはいえないかも知れないが、そのあとにこういう話がある。」と、父は言った。

 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮きあがった。女は二つばかりの女の児を背負っていた。女の児は手に盆燈籠を持っていた。燈籠の紙は波に洗い去られて、ほとんど骨ばかりになっていた。それだけを聞くと、すぐにかののっぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃っていた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとかいうことであった。

 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映ったのっぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負っていた子供が同じように盆燈籠をさげていたというのはよく似ている。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持っている子供は珍らしくないかも知れない。しかしその場所といい、背中の子供といい、盆燈籠といい、なんだか同一人ではないかと疑われる点が多い。いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには判らない。

   *]

「近代異妖篇」の著者は、ノツペラボウの女がいはゆる死相を現じてゐたものではないかといふ説を持ち出してゐる。死相の事は何ともわからぬが、病氣や大火傷で不思議な顏になる方は想像出來ぬでもない。「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話などはその一例である。日暮れ方の湯桁(ゆげた)の中に、耳も目も鼻もない瘦法師のひとり入つてゐるのを見て、物蔭から窺つてゐるうちに、匆々に出て行つたが、その姿は繪にかいた骸骨同樣であつた。狐狸の仕業かと疑ひ、宿の主人に尋ねたら、その答へは實に意外なもので、その人は伏見屋といふ大坂の唐物一商人の娘、美人の聞えがあつたのを、姑の病中に鄰りより火事が起り、誰も助け出す者のなかつた時、火の中に飛び込んで抱へ出した。その火傷のために、目は豆粒ほどに明いて僅かに物を見、口は五分ほどあつて何か食べるには事缺かず、今年七十ばかりになるといふのである。かういふ人物に薄暗い浴槽などで出くはしたら、何人も妖異として恐れざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:『「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話』は「卷之一」にある以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁の中に耳、目、鼻のなき瘦法師の、ひとりほとほとと入りたるを見て、予は大いに驚き、物かげより窺ふうち、さうさう湯あみして、出行く姿、骸骨の繪にたがふところなし。狐狸どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にも入らで臥しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ、折ふしは來り給ふ人なり。彼女尼は大坂の唐物あき人、伏見屋てふ家の娘にて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病牀にせまりしかど、たすけ出さん人もなければ、かの尼、とびいりて抱へ出しまゐらせし人なり。その時、燒けたゞれたる疵にて、目は豆粒ばかりに明て、物見え、口は五分ほどあれど食ふに事たり。今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いとあり難き人とおもひて、後も折ふしは、人にもかたりいでぬ。

   *

この話は岡本綺堂も「温泉雜記」(『朝日新聞』昭和六(一九三一)年七月(連載)初出)の「四」で疑似怪談の珍奇な例として挙げている(「青空文庫」のこちらで読める)。それにしても、これは……なにか……ひどく哀しい真相ではないか…………]

 話の上に現れたノツベラポウはすべて女性である。紀國坂の先生だけは、もう一度夜蕎麥賣りとなつて、卵のやうな顏を見せるけれども、これは最初の女からして貉の化けたものなのだから、別問題として考へなければなるまい。

「子不語」の「陳州考院」にあるのは、偶然通りがかりに出くはすやうな單純なものでないが、身長二丈、面の長さ二尺、目なく口なく鼻なしといふから、やほりノツぺラボウの一味であらう。二尺ぐらゐの髮が逆さに直立してゐるなど、なかなか物凄い。これもまた女鬼であつた。

[やぶちゃん注:

 以上は「子不語」の「卷四」の「陳州考院」。以下に示す。

   *

河南陳州學院衙堂後有樓三間封鎖、相傳有鬼物、康熙中、湯西崖先生以給諫視學其地、亦以老吏言、扃其樓如故。時盛暑、幕中人多屋少、杭州王秀才煚、中州景秀才考祥、居常以膽氣自壯、欲移居高樓。湯告以所聞、不信。斷鎖登樓、則明窗四敞、梁無點塵、愈疑前言爲妄。景榻於樓之外間、王榻於樓之間、讓中一間爲起坐所。

漏下二鼓、景先睡、王從中間持燭歸寢、語景曰、「人言樓有祟、今數夕無事、可知前人無膽、為書吏所愚。」。景未答、便聞樓梯下有履聲徐徐登者。景呼王曰、「樓下何響。」。王笑曰、「想樓下人故意來嚇我耳。」。少頃、其人連步上、景大窘、號呼、王亦起、持燭出。至中間、燈光收縮如螢火。二人驚、急添燒數燭。燭光稍大、而色終靑綠。樓門洞開、門外立一青衣人、身長二尺、面長二尺、無目無口無鼻而有髮、髮直豎、亦長二尺許。二人大聲喚樓下人來、此物遂倒身而下。窗外四面啾啾然作百種鬼聲、房中什物皆動躍。二人幾駭死、至雞鳴始息。

次日、有老吏言、先是溧陽潘公督學時、試畢、明日當發案、潘已就寢。將二更、忽聞堂上擊鼓聲。潘遣僮問之、堂吏曰頃有披髮婦人從西考棚中出、上階求見大人。吏以深夜、不敢傳答。曰、「吾有冤、欲見大人陳訴。吾非人、乃鬼也。」。吏驚仆、鬼因自擊鼓。署中皆惶遽、不知所爲。僕人張姓者、稍有膽、乃出問之。鬼曰、「大人見我何礙。今既不出、卽煩致語、我、某縣某生家僕婦也。主人涎我色奸我、不從、則鞭撻之。我語夫、夫醉後有不遜語、渠夜率家人殺我夫喂馬。次早入房、命數人抱我行奸。我肆口詈之、遂大怒、立捶死、埋後園西石槽下。沉冤數載、今特來求申。」。言畢大哭。張曰、「爾所告某生、今來就試否。」。鬼曰、「來、已取第二等第十三名矣。」。張入告潘公。公拆十三名視之、果某生姓名也、因令張出慰之曰、「當爲爾檄府縣査審。」。鬼仰天長嘯去。潘次日卽以訪聞檄縣、果於石槽下得女屍、遂置生於法。此是衙門一異聞、而樓上之怪、究不知何物也。王後舉孝廉、景後官侍御。

   *

原典は「身長二尺」であるが、他の身体サイズと齟齬が生ずるので柴田が「二丈」(六メートル強)としたのは判る気はする。中国文学者小山裕之氏のサイト内の「子不語」の現代語訳注ページのこちらの「陳州の考院」で、柴田の語っていない、後半部の、この女性の「鬼」(死者)の恨みの悲惨極まりない(!)真相がよく判る。必読!!

 

2017/04/20

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)

 

 首なし

 

 柳宗元が永州の司馬に左遷され、荊門の驛舍に宿つた夜、夢に黃衣の婦人が現れて、自分の命が旦夕に迫つてゐることを訴へ、再拜して泣いた。これはあなたでなければお救ひ下さることは出來ぬ、もし救つて下されば、あなたの御運を展開して大臣の椅子に就けるやうにする、といふのである。柳宗元は夢の中で承諾の意を示したものの、夢がさめて見ると、全然心當りがない。婦人は三たびまで歎願に現れた。最後の時はよほど運命が切迫してゐるらしく、憂懼に堪へぬ顏色であつた。役人の中に不幸な立場の者があるのかと考へたり、たまたま荊州の帥(そつ)から朝飯の招待を受けてゐるので、或は自分のために魚が殺されるのであるかと考へたり、思案の決せぬうちに時間が來て、その饗應の席に出た。柳宗元から不思議な夢の話を聞いた帥が、下役人を呼んで尋ねたところ、一日前に大きな黃魚が漁師の網にかゝつたので、それを今朝の膳に上せたといふことであつた。宗元もこゝに至つてはじめて黃衣の婦人のこの魚であつたことに氣が付いたが、もう間に合はぬ。その魚を川に投げ捨てさせて出發するより外に仕方がなかつた。その夜婦人は四たび夢に現れたが、彼女は首がなかつたと「宣室志」にある。

[やぶちゃん注:「柳宗元が永州の司馬に左遷され」中唐名詩人柳宗元(七七三年~八一九年)は徳宗の治世に若手改革派として台頭、宦官勢力を中心とする保守派に対決し礼部侍郎まで昇ったが、政争に敗れ、『改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元』三十三歳であった。『以後、永州に居を構えること』十年、八一五年に、一旦は『長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま』、四十七歳で歿した。『政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである』(引用は参照したウィキの「柳宗元」に拠る)。

「黃魚」「クワウギヨ(コウギョ)」。これは現行の中国語では、スズキ目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea という海水魚である。体色は美しい黄金色で、背鰭・臀鰭は高さにして三分の一以上が鱗に覆われており、東シナ海や黄海に多く棲息し、中国料理ではポピュラーであるが、本邦では長崎県で少し漁獲され、大型個体では五十センチメートルに達すると、サイト「WEB魚図鑑」のなどある。海水魚であるが、スズキ類にはかなり河川を遡上する種もいるので、少なくともこの近縁種ではあろう。

 これは「宣室志」の「柳宗元」。「太平廣記」引用を示す。

   *

唐柳州刺史河東柳宗元、常自省郎出為永州司馬、途至荊門、舍驛亭中。是夕、夢一婦人衣黃衣、再拜而泣曰、「某家楚水者也、今不幸、死在朝夕、非君不能活之。儻獲其生、不獨戴恩而已、兼能假君祿益、君爲將爲相、且無難矣。幸明君子一圖焉。」。公謝而許之。既寤、嘿自異之、及再寐、又夢婦人、且祈且謝、久而方去。明晨、有吏來、稱荊帥命、將宴宗元。宗元既命駕、以天色尚早、因假寐焉、既而又夢婦人、嚬然其容、憂惶不暇、顧謂宗元曰、「某之命、今若縷之懸甚風、危危將斷且飄矣。而君不能念其事之急耶。幸疾爲計。不爾、亦與敗縷皆斷矣、願君子許之。」。言已、又祈拜、既告去。心亦未悟焉。即俛而念曰。吾一夕三夢婦人告我、辭甚懇、豈吾之吏有不平於人者耶。抑將宴者以魚為我膳耶。得而活之、亦吾事也。」。即命駕詣郡宴、既而以夢話荊帥、且召吏訊之。吏曰、「前一日、漁人網獲一巨黃鱗魚、將爲膳、今已斷其首。」。宗元驚曰、「果其夕之夢。」。遂命挈而投江中、然而其魚已死矣。是夕、又夢婦人來、亡其首、宗元益異之。

   *]

 この婦人はもともとたゞの魚で、鱗の黃色であるところから、黃衣の人と現れて命乞ひをしたまでかも知れぬが、それにしては柳宗元の運命を請け合ひ、私をお救ひ下されば大臣になれるなどは少しえら過ぎる。何か柳宗元とこの魚との間に、前世の因緣が繫がつてゐなければならぬところであらう。

 上田秋成が「雨月物語」に書いた「夢應の鯉魚」は、小泉八雲が「僧興義」として「奇談」の中に紹介したことがある。三井寺の僧の話になつてゐるが、これは云ふまでもなく支那種で、「魚服記」の飜案らしい。興義は一たび息絶えて後、三日たつて蘇(よみがへ)り、自分がその間に鯉になつた話をした。彼は病ひの熱に苦しんで水に飛び込み、あちこち泳ぎ𢌞るうちに、いつか自分が鯉になつてゐる。空腹のまゝに釣の餌を呑み、文四といふ男に釣り上げられ、平の助の館に運ばれた。興義の鯉はかねて顏見知りの人々に向ひ、自分を忘れられたか、寺に歸して下さい、と頻りに叫んだけれど、誰の耳にも入らず、料理人が兩眼を押へ、研ぎすました庖刀で切りにかゝつた刹那、夢のさめるやうに蘇つた。彼は絶息してゐた間のことを記憶して居り、つぶさに館の樣子などを話したので、一同肝を潰し、殘りの膾は皆湖に捨てさせた。もう一步のところで柳宗元に訴へた黃魚と同じ運命に陷るわけであつた。彼は幸ひに首を失はなかつたのみならず、その後天年を全うした。愈々亡くなる前に自ら畫くところの鯉の畫數枚を湖に投じたら、魚は紙や絹の上を離れて泳ぎ𢌞つた、この故に興義の畫は世に傳はらぬといふおまけまで付いてゐる。

[やぶちゃん注:「雨月物語」の「夢應(むをう)の鯉魚(りぎよ)」は以下。

   *

 

 夢應の鯉魚

 

 むかし延長の頃、三井寺に興義(こうぎ)といふ僧ありけり。繪に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に畫く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小船をうかべて、網引(あび)き釣りする泉郎(あま)に錢を與へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍(あそ)ぶを見ては畫(ゑが)きけるほどに、年を經て、細妙(くはし)きにいたりけり。或ときは、繪に心を凝(こら)して眠をさそへば、ゆめの裏(うち)に江に入りて、大小の魚とともに遊ぶ。覺(さむ)れば、卽(やがて)、見つるまゝを畫きて壁に貼(お)し、みづから呼びて「夢應の鯉魚」と名付けり。其の繪の妙(たへ)なるを感(めで)て乞ひ要(もと)むるもの前後(ついで)をあらそへば、只、花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人每(ごと)に戲(たはふ)れていふ。

「生(しやう)を殺し鮮(あさらけ)を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚、必しも、與へず。」となん。其の繪と俳諧(わざごと)とゝもに天下(あめがした)に聞えけり。

 一とせ病ひに係りて、七日を經て、忽(たちまち)に眼を閉ぢ息絶えて、むなしくなりぬ。徒弟友どち、あつまりて歎き惜みけるが、只、心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖かなるにぞ、

「若(もし)や。」

と、居(ゐ)めぐりて守りつも、三日を經にけるに、手足、すこし、動き出づるやうなりしが。忽ち、長噓(ためいき)を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、

「我(われ)、人事をわすれて既に久し。幾日をか過ぐしけん。」

衆弟等(しううていら)、いふ。

「師、三日前(さき)に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣で給ひて葬(はふむ)りの事をもはかり給ひぬれど、只、師が心頭(むね)の暖かなるを見て、柩にも藏めで、かく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへ)り給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり。」

 興義、點頭(うなづ)きて、いふ。

「誰(たれ)にもあれ、一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿の館(たち)に詣でて告(まう)さんは。『法師こそ不思識に生き侍れ。君、今、酒を酌み、鮮(あらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく、宴(えん)を罷(や)めて寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり、聞えまいらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露(つゆ)たがはじ。」

といふ。

 使ひ、異(あや)しみながら、彼の館に往きて其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:座が高いから重き家臣の通称固有名と採っておく。]など、居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇(あや)しとす。助の館の人々、此の事を聞きて大きに異しみ、先づ、箸を止めて、十郎・掃守をも召し具して寺に到(いた)る。

 興義、枕をあげて、路次(ろじ)の勞(わづら)ひをかたじけなうすれば[やぶちゃん注:こちらから呼びつけてわざわざ来て貰ったことを心より労ったところ。]、助も蘇生りの賀(ことぶき)を述ぶ。

 興義、先づ問ひて、いふ。

「君、試みに、我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父(ぎよふ)文四(ぶんし)に魚をあつらへ給ふ事、ありや。」

助、驚きて、

「まことに、さる事あり。いかにしてしらせ給ふや。」

興義、

「かの漁父、三尺あまりの魚を籠(かご)に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面(みなみおもて)の所に碁を圍(かこ)みて、おはす。掃守(かもり)、傍らに侍りて、桃の實の大なるを啗(く)ひつつ、奕(えき)の手段を見る。漁父が大魚(まな)を携へ來たるを喜びて、高杯(たかつき)に盛りたる桃をあたへ、又、盃(さかづき)を給ふて三獻(こん)、飮(の)ましめ給ふ。鱠手(かしはびと)、したり顏に魚をとり出でて、鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所、たがはでぞあるらめ。」

といふに、助の人々、此の事を聞きて、或は異しみ。或はここち惑ひて、かく詳らかなる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋づぬるに、興義、かたりて、いふ。

「我、此の頃、病にくるしみて堪へがたきあまり、其の死したるをもしらず。熱きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に扶(たす)けられて門を出づれば。病ひもやや忘れたるやうにて籠(こ)の鳥の雲井にかへるここちす。山となく里となく行々(ゆきゆき)て、又、江の畔(ほとり)に出づ。湖水の碧(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴びて遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去てて、身を跳(をど)らして深きに飛び入りつも。彼此(をちこち)に游(およ)ぎめぐるに、幼(わか)きより水に狎(な)れたるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戲(たはふ)れけり。今、思へば愚かなる夢ごころなりし。

 されども、人の水に浮ぶは、魚のこころよきには、しかず。ここにて又、魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍らにひとつの大魚(まな)ありて、いふ。

『師のねがふ事、いとやすし。待たせ給へ。』

とて、杳(はるか)の底に去(ゆ)くと見しに、しばしして、冠裝束(かむりさうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に胯(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくず)を牽(ひ)きゐて、浮び來たり、我にむかひて、いふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧、かねて、放生(はうじやう)の功德(くどく)多し。今、江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。權(かり)に金鯉(きんり)が服を授けて水府(すいふ)のたのしみを、せさせ玉ふ。只、餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眛(くら)まされて。釣りの糸にかゝり、身を亡(うしな)ふ事、なかれ。』

と、いひて去りて見えずなりぬ。

 不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに、鱗(うろこ)、金光(きんかう)を備へて、ひとつの鯉魚(りぎよ)と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾(を)を振り、鰭(ひれ)を動かして、心のまゝに逍遙(せうえう)す。

 まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大灣(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚(おど)されて、比良(ひら)の高山影、うつる。深き水底(みなそこ)に潛(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火(いさりび)によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中(よなか)の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に淸(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくて、おもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、蘆間(あしま)の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀨田(せた)の橋守(はしもり)にいくそたびが追はれぬ。日、あたゝかなれば浮び、風、あらきときは千尋(ちひろ)の底(そこ)に遊ぶ。

 急(には)かにも、飢えて食(もの)ほしげなるに。彼此(をちこち)に𩛰(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち、文四が釣りを垂るに、あふ。其の餌(ゑ)、はなはだ香(かんば)し。心、又、河伯(かはがみ)の戒(いましめ)を守りて思ふ。

『我れは佛(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞも、あさましく魚の餌を飮(の)むべき。』

とて、そこを去る。しばしありて、飢え、ますます甚しければ、かさねて思ふに、

『今は堪へがたし。たとへ此の餌を飮むとも嗚呼(をこ)に捕はれんやは。もとより他(かれ)は相ひ識(し)るものなれば、何のはばかりかあらん。』

とて遂に餌をのむ。文四、はやく糸を收めて、我を捕ふ。

『こはいかにするぞ。』

と叫びぬれども、他(かれ)かつて聞かず顏にもてなして、繩をもて我が腮(あぎと)を貫ぬき、蘆間に船を繫ぎ、我を籠に押し入れて君が門に進み入る。君は賢弟と南面の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍らに侍りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。文四がもて來(こ)し大魚を見て、人々、大いに感(め)でさせ給ふ。我れ、其とき、人々にむかひ、聲をはり上げて、

『旁等(かたがたら)は興義をわすれ給ふか。宥(ゆる)させ給へ。寺にかへさせ給へ。』と連(しき)りに叫びぬれど、人々しらぬ形(さま)にもてなして、只、手を拍つて喜び給ふ。鱠手(かしは人)なるもの、まづ、我が兩眼を左手(ひだり)の指にて、つよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて、俎盤(まないた)にのぼし、既に切るべかりしとき、我れ、くるしさのあまりに大聲をあげて、

『佛弟子を害(がゐ)する例(ためし)やある。我を助けよ、助けよ。』

と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず、終に、切るる、と、おぼえて、夢、醒めたり。」

と、かたる。

 人々大に感異(めであや)しみ、

「師が物がたりにつきて思ふに、其の度(たび)ごとに魚の口の動くを見れど、更に聲を出だす事なし。かかる事、まのあたりに見しこそ、いと不思議なれ。」

とて、從者(ずさ)を家に走らしめて、殘れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

 興義、これより病ひ癒えて、杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死にける。其の終焉(をはり)に臨みて畫(ゑが)く所の鯉魚、數枚(すまい)をとりて、湖(うみ)に散らせば、畫(ゑが)ける魚紙繭(しけん/かみきぬ[やぶちゃん注:後者は左ルビ。])をはなれて、水に遊戲(ゆうげ)す。ここをもて、興義が繪、世に傳はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)[やぶちゃん注:平安初期の公卿で歌人の藤原冬嗣。]の障子に鷄(にはとり)を畫(ゑが)きしに。生ける鷄、この繪を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに戴せたり。

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因みに、三島由紀夫は、この金鱗の鯉となった興義の琵琶湖の歌尽くしを『窮極の詩』と評して高く評価している。私は三島の思想と狂った田舎芝居の自死行動を全く評価しないが、彼の文学的才能は別して買っている。そうして、その彼の賞讃する箇所についても同じように激しく共感する。

 小泉八雲の「僧興義」は“The Story of Kogi the Priest”(「僧興義の話」)で、作品集“A Japanese miscellany”(「日本雑録」 明治三四(一九〇一)年刊)に所収されている。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”の原本画像を使用して校合した。なお、原注は一部を除いて除去した。

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The Story of Kōgi the Priest

 

NEARLY one thousand years ago there lived ill the famous temple called Miidera, at Ōtsu in the province of Ōmi, a learned priest named Kōgi. He was a great artist. He painted, with almost equal skill, pictures of the Buddhas, pictures of beautiful scenery, and pictures of animals or birds; but he liked best to paint fishes. Whenever the weather was fair, and religious duty permitted, he would go to Lake Biwa, and hire fishermen to catch fish for him, without injuring them in any way, so that he could paint them afterwards as they swam about in a large vessel of water. After having made pictures of them, and fed them like pets, he would set them free again, — taking them back to the lake himself. His pictures of fish at last became so famous that people travelled from great distances to see them. But the most wonderful of all his drawings of fish was not drawn from life, but was made from the memory of a dream. For one day, as he sat by the lake-side to watch the fishes swimming, Kōgi had fallen into a doze, and had dreamed that he was playing with the fishes under the water. After he awoke, the memory of the dream remained so clear that he was able to paint it ; and this painting, which he hung up in the alcove of his own room in the temple, he called " Dream-Carp.”

   Kōgi could never be persuaded to sell any of his pictures of fish. He was willing to part with his drawings of landscapes, of birds, or of flowers ; but he said that he would not sell a picture of living fish to any one who was cruel enough to kill or to eat fish. And as the persons who wanted to buy his paintings were all fish- eaters, their offers of money could not tempt him.

 

   One summer Kōgi fell sick ; and after a week's illness he lost all power of speech and movement, so that he seemed to be dead. But after his funeral service had been performed, his disciples discovered some warmth in the body, and decided to postpone the burial for awhile, and to keep watch by the seeming corpse. In the afternoon of the same day he suddenly revived, and questioned the watchers, asking : —

“ How long have I remained without knowledge of the world ?”

“ More than three days,” an acolyte made answer. “ We thought that you were dead ; and this morning your friends and parishioners assembled in the temple for your funeral service. We performed the service ; but afterwards, finding that your body was not altogether cold, we put off the burial; and now we are very glad that we did so.”

   Kōgi nodded approvingly : then he said : —

   “ I want some one of you to go immediately to the house of Taira no Suke, where the young men are having a feast at the present moment — (they are eating fish and drinking wine), — and say to them : — ' Our master has revived ; and he begs that you will be so good as to leave your feast, and to call upon him without delay, beause he has a wonderful story to tell you.' . . . At the same time ”— continued Kōgi —“observe what Suké and his brothers are doing; — see whether they are not feasting as I say.”

   Then an acolyte' went at once to the house of Taira no Suké, and was surprised to find that Suké and his brother Jūrō, with their attendant, Kamori, were having a feast, just as Kōgi had said. But, on receiving the message, all three immediately left their fish and wine, and hastened to the temple. Kōgi, lying upon the couch to which he had been removed, received them with a smile of welcome ; and, after some pleasant words had been exchanged, he said to Suké : —

   “ Now, my friend, please reply to some questions that I am going to ask you. First of all, kindly tell me whether you did not buy a fish to-day from the fisherman Bunshi.”

   “ Why, yes,” replied Suké — but how did you know ?”

   “ Please wait a moment,” said the priest. . . . “ That fisherman Bunshi to-day entered your gate, with a fish three feet long in his basket : it was early in the afternoon, just after you and Jūrō had begun a game of go; — and Kamori was watching the game, and eating a peach — was he not ? ”

   “That is true,” exclaimed Suké and Kamori together, with increasing surprise.

   “ And when Kamori saw that big fish,” proceeded Kōgi, “ he agreed to buy it at once ; and, besides paying the price of the fish, he also gave Bunshi some peaches, in a dish, and three cups of wine. Then the cook was called ; and he came and looked at the fish, and admired it ; and then, by your order, he sliced it and prepared it for your feast. . . . Did not all this happen just as I have said ?.”

   “ Yes,” responded Suké ;“ but we are very much astonished that you should know what happened in our house to-day. Please tell us how you learned these matters.”

   “ Well, now for my story,” said the priest. “ You are aware that almost everybody believed me to be dead; — you yourselves attended my funeral service. But I did not think, three days ago, that I was at all dangerously ill : I remember only that I felt weak and very hot, and that I wanted to go out into the air to cool myself. And I thought that I got up from my bed, with a great efifort, and went out, — supporting myself with a stick. . . .Perhaps this may have been imagination ; but you will presently be able to judge the truth for yourselves : I am going to relate everything exactly as it appeared to happen. . . . As soon as I got outside of the house, into the bright air, I began to feel quite light, — light as a bird flying away from the net or the basket in which it has been confined. I wandered on and on till I reached the lake ; and the water looked so beautiful and blue that I felt a great desire to have a swim. I took off my clothes, and jumped in, and began to swim about ; and I was astonished to find that I could swim very fast and very skilfully, — although before my sickness I had always been a very poor swimmer. . . . You think that I am only telling you a foolish dream — but listen ! . . . While I was wondering at this new skill of mine, I perceived many beautiful fishes swimming below me and around me ; and I felt suddenly envious of their happiness, — reflecting that, no matter how good a swimmer a man may become, he never can enjoy himself under the water as a fish can. Just then, a very big fish lifted its head above the surface in front of me, and spoke to me with the voice of a man, saying : —‘That wish of yours can very easily be satisfied: please wait there a moment !’  The fish then went down, out of sight ; and I waited. After a few minutes there came up, from the bottom of the lake, — riding on the back of tlie same big ilsh that had spoken to me, — a man wearing the headdress and the ceremonial robes of a prince ; and the man said to me : — ‘I come to you with a message from the Dragon-King, who knows of your desire to enjoy for a httle time the condition of a fish. As you have saved the lives of many fish, and have always shown compassion to living creatures, the God now bestows upon you the attire of the Golden Carp, so that you will be able to enjoy the pleasures of the Water-World. But you must be very careful not to eat any fish, or any food prepared from fish, — no matter how nice may be the smell of It ; ― and you must also take great care not to get caught by the fishermen, or to hurt your body in any way.' With these words, the messenger and his fish went below and vanished in the deep water. I looked at myself, and saw that my whole body had become covered with scales that shone like gold ; — I saw that I had fins ; — I found that I had actually been changed into a Golden Carp. Then I knew that I could swim wherever I pleased.

   “ Thereafter it seemed to me that I swam away, and visited many beautiful places. [Here in the original narrative, are introdmed some verses describing the Eight Famous Attractions of the Lake of Ōmi, — “ Ōmi-Hakkei.”] Sometimes I was satisfied only to look at the sunlight dancing over the blue water, or to admire the beautiful reflection of hills and trees upon still surfaces sheltered from the wind. . . . I remember especially the coast of an island — either Okitsushima or Chikubushima — reflected in the water like a red wall. . . . Sometimes I would approach the shore so closely that I could see the faces and hear the voices of people passing by ; sometimes I would sleep on the water until startled by the sound of approaching oars. At night there were beautiful moonlight-views ; but I was frightened more than once by the approaching torchfires of the fishing-boats of Katase. When the weather was bad, I would go below, — far down, — even a thousand feet, — and play at the bottom of the lake. But after two or three days of this wandering pleasure, I began to feel very hungry; and I returned to this neighborhood in the hope of finding something to eat. Just at that time the fisherman Bunshi happened to be fishing ; and I approached the hook which he had let down into the water. There was some fish-food upon it that was good to smell. I remembered in the same moment the warning of the Dragon-King, and swam away, saying to myself: —‘ In any event I must not eat food containing fish; — I am a disciple of the Buddha.’  Yet after a httle while my hunger became so intense that I could not resist the temptation ; and I swam back again to the hook, thinking, — ‘Even if Bunshi should catch me, he would not hurt me; — he is my old friend.’  I was not able to loosen the bait from the hook ; and the pleasant smell of the food was too much for my patience ; and I swallowed the whole thing at a gulp. Immediately after I did so, Bunshi pulled in his line, and caught me. I cried out to him, ‘ What are you doing? — you hurt me! ’— but he did not seem to hear me, and he quickly put a string through my jaws. Then he threw me into his basket, and took me to your house. When the basket was opened there, I saw you and Jūrō playing go in the south room, and Kamori watching you — eating a peach the while. All of you presently came out upon the veranda to look at me; and you were delighted to see such a big fish. I called out to you as loud as I could : —‘I am not a fish ! — I am Kōgi — Kōgi the priest !  please let me go back to my temple ! ’  But you clapped your hands for gladness, and paid no attention to my words. Then your cook carried me into the kitchen, and threw me down violently upon a cutting-board, where a terribly sharp knife was lying. With his left hand he pressed me down, and with his right hand he took up that knife, — and I screamed to him : — ‘ How can you kill me so cruelly !  I am a disciple of the Buddha ! — help !  help !’  But in the same instant I felt his knife dividing me — a frightful pain ! — and then I suddenly awoke, and found myself here in the temple.”

   When the priest had thus finished his story, the brothers wondered at it; and Suké said to him : — “I now remember noticing that the jaws of the fish were moving all the time that we were looking at it ; but we did not hear any voice. . . . Now I must send a servant to the house with orders to throw the remainder of that fish into the lake.”

 

   Kōgi soon recovered from his illness, and lived to paint many more pictures. It is related that, long after his death, some of his fish-pictures once happened to fall into the lake, and that the figures of the fish immediately detached themselves from the silk or the paper upon which they had been painted, and swam away!

 

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次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「僧興義」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部の不審な空隙には読点を打った。

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   僧興義

 

 殆んど一千年前、近江の國大津の名聲い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ廻るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事がてきた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間病んだあとで、物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫みのある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絶えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んてゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んて居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」――同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟逹が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――私が云つた通り、宴會をしてゐないかどうか』

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郎が、家の子掃守(かもり)と一緒に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮べた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、――

『これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買ひませんでしたか』

『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べてゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緒に叫んだ。

『それから掃守がその大きな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三杯飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令でそれを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

『さうです』助は答へた、『しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。『御承知の通り殆んど皆の人逹は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に、私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に逹した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脱いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――「暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂みを得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない」かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を説明した歌のやうな文句が入れてある〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や本の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。――時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり、聲を聞いたりする事ができた、時時私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度も驚かされた[やぶちゃん注:「片瀨の漁舟」原文は“the fishing-boats of Katase”で“Katase”と大文字になっているから、小泉八雲は固有地名として記していることが判る。しかし、現在、琵琶湖畔には「片瀬」と称する地名を確認出来なかった。識者の御教授を乞う。或いは歌枕的な用法として使用したものか?]。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び廻つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れでゐた鉤に近づいた。それには何か餌がついでゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に緣側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく爼板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覺えた、――そしてその時突然眼がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた、――『今から想へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

                (田部隆次譯)

 The Story of Kogi the Priest.(A Japanese miscellany.)

 

   *]

2017/04/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯

 

 井の底の鏡

 

 小泉八雲の書いた「鏡の少女」は、今典據を明かにし得ぬのを憾むと全集の「あとがき」にあるが、その内容から云つて、「垣根草」の中の「松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を用ゐたことは疑ひを容れぬ。松村兵庫は大河内明神の神主、和歌の奧儀を極めるつもりで、京極今出川の北に暫く滯留して居つた。當時畿内は大變な旱(ひで)りで水に乏しかつたに拘らず、兵庫の旅館の東北にある古井だけは、容易に涸れさうな氣色もない。近郷よりこの水を汲みに來る者が少からぬ中に、或日の夕方、鄰家の下女が長いこと井戸を覗いてゐると思つたら、忽ち中に落ち込んで溺れてしまつた。極めて深い井戸なので、死骸も數日後に漸く上るといふ始末であつたから、兵庫はその周圍にきびしく垣を結はせなどしたが、或時ふと井戸の中を覗くと、年の頃二十歳ばかりと見える美女のうるほしく化粧したのが、兵庫を見て少し顏をそむけ、につこり笑つた。兵庫も覺えず心魂も飛ぶやうになつたが、先日落ち込んだ下女の事を思ひ、これが人を溺らす古井の妖であらうと考へ直し、從者達にも固く制して、この井に近寄らせぬやうにした。

[やぶちゃん注:小泉八雲のそれは小説集THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES(一九〇五年刊)のTHE MIRROR MAIDENである。原文と訳は最後に掲げる

「全集」これは恐らく、大正一五(一九二六)年七月刊の第一書房版「小泉八雲全集 第七卷」の大谷正信(最後に彼の本作の訳を掲げた)の「あとがき」ではないかと思われるが、原本を所持しないので確認出来ないから、断定は出来ぬ。

「垣根草」は江戸中期の儒学者・医師で読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?)の作とされる(署名は「草官散人)「席上奇觀垣根草」のこと。その「松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」は、後に晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻第五」に一部を改変して「松村兵庫古井の妖鏡」として載っている。後者を末尾に電子化しておいた

「大河内明神」現在の三重県松阪市郊外にあったの西南に大河内明神。「斎宮歴史博物館」公式サイト内のこちらによれば、ここは『室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所で』、この明神社は『北畠家の尊崇厚かった』ものの、『戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなって』おり、それが本話柄内の時制であるということらしい。]

 一夜恐ろしい風雨があつて、天地も崩れるかと思ふほどであつたが、漸く明方近くなつて晴れ渡つた時、兵庫の許を訪れた女がある。一間に通して見るのに、嘗て井戸の中でにつこり笑つた美女に相違ない。そなたは井の中の人ではないか、どうしてあのやうに人を惑はすのか、といふ兵庫の問に對し、女の答ふるところはかうであつた。私は人を殺す者ではありません、この井戸には昔から毒龍が住んで居りますので、どんな旱りにも涸れたことがないのです、私も昔井戸の中に落ち、それ以來龍のために使はれて居ります、人を惑はして引き入れるといふのも、已むを得ず私の致したことなのですが、實は辛くて堪りませんでした、昨晩天帝の御命令で、龍は信州鳥居の池に移りましたから、もうこの井戸に主(ぬし)は居りません、お願ひでございます、どうかこゝで私を井戸から救ひ出して下さいまし、その御恩は決して忘れません――。云ひ了ると女の姿は見えなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「鳥居の池」後に示す訳では「鳥井ノ池」とするが、孰れも不詳。識者の御教授を乞う。]

 それから兵庫が人を雇つて井戸を浚つて見ると、あれほどあつた水が一滴もなくなつてゐる。井戸の中には引き込まれた女のものらしい、弄や簪があるだけだつたが、漸く底に到り一枚の古鏡が現れた。その鏡の裏には「姑洗之鏡」といふ四字の款識(くわんしき)があつた。姑洗は三月の事である。彼女は兵庫に對し彌生と名乘つたが、鏡の精であつたことがこの款識によつて明かになつた。彌生と名乘る女はその夜また現れて、深く兵庫の厚意を謝し、自己の過去などを語つた末に、次の二箇條を告げて去つた。第一は自分を將軍家に奬(すす)めれば大いなる幸ひを得るであらうといふ事、第二はこの地は久しく住むべき場所でない、速かに他に移り給ふべし、といふのである。その言に從ひ、翌日他へ移つたら、次の日地が陷沒して家も崩れてしまつた。こゝに於て愈々鏡の靈なることを思ひ、將軍義政に捧げたところ、その賞として伊勢の一庄を神領に寄進された。例の鏡はその後大内家に賜はり、吉隆戰死の後、所在不明になつた。

[やぶちゃん注:「姑洗」は「こせん」と読み、ここで述べる通り、陰暦三月の異称である。

「款識(くわんしき)」「款」は「陰刻の銘」を、「識」は「陽刻の銘」を指す語で、鐘や鼎(かなえ)などの鋳造の金属製品に刻した銘文を指す。

「大内」「吉隆」は周防国の在庁官人大内氏の第三十一代当主で戦国大名の大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年:周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆とその一族は自害し、大内家は事実上、滅亡した。ここはウィキの「大内義隆」に拠った)の誤りである。但し、元の「垣根草」を確認出来ないので、原典の誤り(或いは意識的変名)か、柴田の誤記かは不明である。]

「垣根草」の記すところは大體右の如きものである。小泉八雲もこれによつて「鏡の少女」を書いたので、強ひて違つたところを擧げるならば、水を汲みに來て井に溺れたのが、近所の下男となつてゐるくらゐのものに過ぎぬ。「垣根草」は明和七年の刊行であるが、一年おくれて出た「名槌古今説(めいつちここんばなし)」にも「古鏡の報恩」といふ一篇があり、筋は全く同じである。殆ど時を同じうして出た書物に類話があるのを見れば、もと同根より生じた種と見なければなるまい。

[やぶちゃん注:「明和七年」一七七〇年。

「名槌古今説」荻坊奥路(大雅舎其鳳(きほう))撰になる小説集で、柴田の言う通り、明和八年板行である。「古鏡(こきや)の報恩」は同書の「卷之三」にある。早稲田大学図書館の古典総合データベースのこちらの画像の「9」以降で視認出来る。]

 水谷不倒氏はこの二話を「選擇古書解題」に擧げ、「支那小説から出てゐることは想像するに難くない」と斷じた。正にその通りで、「博異志」の冒頭にある敬元穎の話を日本に持つて來たものである。委しく梗概を述べるまでもない。洛陽に出て家を借りて住むことも、水を汲みに來る女子が溺れて死ぬことも、家を借りた陳仲躬が井を覗いて女子の面を見ることも、すべて原書のまゝであり、紅い袂で半ば面を掩ひ微笑するところまで材料に使つてゐる。たゞ著しく違ふのは恐るべき風雨の一條がない。數月に亙る炎旱に少しも水の減らなかつた井戸が、一日忽ち涸れたといふことになつてゐる。美女敬元穎は然る後仲躬を訪れ、前に書いたのと大同小異の問答がある。仲躬は人を賴んで井を浚ひ、古銅鏡一枚を獲た。元穎の言に從つて他に移り、三日後に井戸の陷沒するまで全く同じである。鏡の裏に二十八字が鑄出され、鈕(つまみ)のところに「夷則之鏡」と題してあつた。夷則は七月の事だから、「垣根草」はこれを姑洗に替へ、日本の女にふさはしい彌生といふ名を點出したのであらう。彌生の身の上話の中に、齊明天皇の時百濟(くだら)から渡るとあつたが、鏡のみならず、話全體が唐渡りなのであつた。

[やぶちゃん注:「水谷不倒」(安政五(一八五八)年~昭和一八(一九四三)年)は国文学者・小説家。名古屋生まれ。東京専門学校卒。坪内逍遥に師事し、明治二九(一八九六)年に小説「錆刀」を発表した。明治三二(一八九九)年には大阪毎日新聞社に入社したが、六年後の明治三十八年に退社した。元来が学究肌で、以後、近世文学の研究に専念した。主として浄瑠璃を研究・校注を施した(以上はウィキの「水谷不倒」に拠った)。「選擇古書解題」は昭和一二(一九三七)年刊。

『「博異志」の冒頭にある敬元穎の話』は以下の「敬元穎」。中文サイトのものを加工して示す。

   *

天寶中、有陳仲躬、家居金陵、多金帛。仲躬好學、修詞未成、乃攜數千金於洛陽淸化里假居一宅。其井尤大、甚好溺人、仲躬亦知之。志靡有家室、無所懼。仲躬常抄習不出、月餘日、有鄰家取水女子、可十數、怪每日來於井上、則逾時不去、忽墮井中而溺死。井水深、經宿方索得尸。仲躬異之、閒乃窺於井上。忽見水影中一女子面、年狀少麗、依時樣妝飾、以目仲躬。仲躬凝睇之、則紅袂半掩其面、微笑、妖冶之資出於世表。仲躬神魂恍惚、若不支持。然乃嘆曰、「斯乃溺人之由也。」。滋不顧而退。後數月、炎旱、此井亦不減。忽一日、水頓竭淸。旦有一人扣門云、「敬元穎請謁。」。仲躬命入、乃井中所見者、衣緋綠之衣、其制飾鉛粉乃當時耳。仲躬與坐而訊之曰、「卿何以殺人。」。元穎曰、「妾實非殺人者。此井有毒龍、自漢朝絳侯居於茲、遂穿此井。洛城都有五毒龍、斯乃一也。緣與太一左右侍龍相得、每相蒙蔽、天命追徵、多故爲不赴集役、而好食人血、自漢已來、已殺三千七百人矣、而水不曾耗涸。某乃國初方隨於井、遂爲龍所驅使、爲妖惑以誘人、用供龍所食。其於辛苦、情所非願。昨爲太一使者交替、天下龍神盡須集駕、昨夜子時已朝太一矣。兼爲河南旱、被勘責、三數日方囘。今井内已無水、君子誠能命匠淘之、則獲脱難矣。如脱難、願於君子一生奉義、世間之事、無所不致。」言訖便失所在。仲躬乃當時命匠、令一信者與匠同入井、但見異物、卽令收之。至底、無別物、唯獲古銅鏡一枚。面闊七寸八分。仲躬令洗淨、安匣中、焚香以潔之。斯乃敬元穎者也。一更後、忽見元穎自門而入、直造燭前設拜、謂仲躬曰、「謝以生成之恩、煦衣濁水泥之下。某本師曠所鑄十二鏡之第七者也。其鑄時皆以日月爲大小之差、元穎則七月七日午時鑄者也。貞觀中爲許敬宗婢蘭苔所墮。以此井水深、兼毒龍氣所苦、人入者悶而不可取、遂爲毒龍所役。幸遇君子正直者、乃獲重見人間爾。然明晨内望君子移出此宅。」。仲躬曰、「某以用錢僦居、今移出、何以取措足之所。」。元穎曰、「但請君子飾裝、一無憂矣。」。言訖、再拜云、「自此去不復見形矣。」。仲躬遽留之。問曰、「汝以紅綠脂粉之麗、何以誘女子小兒也。」對曰、「某變化無常、各以所悦、百方謀策、以供龍用。」言訖卽無所見。明晨、忽有牙人扣戸、兼領宅主來謁仲躬、便請仲躬移居、夫役並足。到齋時、便到立德坊一宅中、其大小價數一如淸化者、其牙人云、「價直契書、一無遺闕。」。並交割訖。後三日、會淸化宅井無故自崩、兼延及堂隍東廂、一時陷地。仲躬後丈戰累勝、大官、有所要事、未嘗不如移宅之績效也。其鏡背有二十八字、皆科斗書、以今文推而寫之曰、「維晉新公二年七月七日午時、於首陽山前白龍潭鑄成此鏡、千年後世。」。於背上環書、一字管天文一宿、依方列之。則左有日而右有月、龜龍虎雀並依方安焉。於鼻中題曰、「夷則之鏡。」。

   *

「敬元穎」「ケイゲンエイ」。

「陳仲躬」「チンチウキユウ(チンチュウキュウ)」。

「夷則」「いそく」は陰暦七月の異称。実は先の「姑洗」もそうだが、元来は中国音楽の十二律の一つで、それぞれ基本音律を一引くと、それぞれその数字となるから、語源はそこにあろう。最後に示す原拠と思われるそれでもそれが明らかに述べられてもいる

「齊明天皇」女帝。皇極天皇及び重祚して斉明天皇。第三十五代及び第三十七代の天皇。在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年一月十五日(単純換算でユリウス暦六四二年二月十九日)から同四年六月十四日(六四五年七月十二日)、斉明天皇としては斉明天皇元年一月三日(六五五年二月十四日)から同七年七月二十四日(六六一年八月二十四日)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇の母(ウィキの「斉明天皇」に拠る)。]

 この話に於ける第一の山は、鏡の少女が井の底に在つて嫣然一笑する一條でなければならぬ。如何にも美しい山だから、「靑蛙堂鬼談」(岡本綺堂)の「淸水の井」などにも流用してある。「淸水の井」は六百年前の昔話にしてあるが、鏡が井戸から發見されるのは現代で、井の底に美しい二人の男の姿が映るため、その家の二人の娘が覗きに行くのが動機になつてゐる。覗くのが娘だから映る顏も美男、二人娘だから鏡も二面といふ風に、いろいろ曲折を加へた上、昔話の方にも平家の公達(きんだち)が登場したりして、大分複雜になつてはゐるが、井の底の鏡が山である點に變りはない。辿つて行けばやはり敬元穎の末孫といふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「嫣然」「えんぜん」は「艶然」とも書き、「にっこり微笑むさま」であるが、多くは「美人が笑うさま」について言う語である。

『「靑蛙堂鬼談」(岡本綺堂)の「淸水の井」』大正一四(一九二五)年二月発行の『講談倶樂部』初出の「淸水(しみづ)の井(いど)」。「青空文庫」の「青蛙堂鬼談」で読める(新字新仮名)。

 では、まず、小泉八雲の「鏡の少女」であるが、最初に、英文サイトの刊行siteInternet Archive)とテクスト原文siteGutenberg)を視認して校合し、一部に加工を施して示した。原注記号は独自の記号で文中に配し、近い位置の段落末に六字下げで原注を配した

   *

 

THE MIRROR MAIDEN

 

   In the period of the Ashikaga Shōgunate the shrine of Ogawachi-Myōjin, at Minami-Isé, fell into decay; and the daimyō of the district, the Lord Kitahataké, found himself unable, by reason of war and other circumstances, to provide for the reparation of the building. Then the Shintō priest in charge, Matsumura Hyōgo, sought help at Kyōto from the great daimyō Hosokawa, who was known to have influence with the Shōgun. The Lord Hosokawa received the priest kindly, and promised to speak to the Shōgun about the condition of Ogawachi-Myōjin. But he said that, in any event, a grant for the restoration of the temple could not be made without due investigation and considerable delay; and he advised Matsumura to remain in the capital while the matter was being arranged. Matsumura therefore brought his family to Kyōto, and rented a house in the old Kyōgoku quarter.

   This house, although handsome and spacious, had been long unoccupied. It was said to be an unlucky house. On the northeast side of it there was a well; and several former tenants had drowned themselves in that well, without any known cause. But Matsumura, being a Shintō priest, had no fear of evil spirits; and he soon made himself very comfortable in his new home.

 

   In the summer of that year there was a great drought. For months no rain had fallen in the Five Home-Provinces; the river-beds dried up, the wells failed; and even in the capital there was a dearth of water. But the well in Matsumura's garden remained nearly full; and the water—which was very cold and clear, with a faint bluish tinge—seemed to be supplied by a spring. During the hot season many people came from all parts of the city to beg for water; and Matsumura allowed them to draw as much as they pleased. Nevertheless the supply did not appear to be diminished.

   But one morning the dead body of a young servant, who had been sent from a neighboring residence to fetch water, was found floating in the well. No cause for a suicide could be imagined; and Matsumura, remembering many unpleasant stories about the well, began to suspect some invisible malevolence. He went to examine the well, with the intention of having a fence built around it; and while standing there alone he was startled by a sudden motion in the water, as of something alive. The motion soon ceased; and then he perceived, clearly reflected in the still surface, the figure of a young woman, apparently about nineteen or twenty years of age. She seemed to be occupied with her toilet: he distinctly saw her touching her lips with béni.* At first her face was visible in profile only; but presently she turned towards him and smiled. Immediately he felt a strange shock at his heart, and a dizziness came upon him like the dizziness of wine, and everything became dark, except that smiling face,—white and beautiful as moonlight, and always seeming to grow more beautiful, and to be drawing him down—down—down into the darkness. But with a desperate effort he recovered his will and closed his eyes. When he opened them again, the face was gone, and the light had returned; and he found himself leaning down over the curb of the well. A moment more of that dizziness,—a moment more of that dazzling lure,—and he would never again have looked upon the sun...

      * A kind of rouge, now used only to color the lips.

   Returning to the house, he gave orders to his people not to approach the well under any circumstances, or allow any person to draw water from it. And the next day he had a strong fence built round the well.

 

   About a week after the fence had been built, the long drought was broken by a great rain-storm, accompanied by wind and lightning and thunder,—thunder so tremendous that the whole city shook to the rolling of it, as if shaken by an earthquake. For three days and three nights the downpour and the lightnings and the thunder continued; and the Kamogawa rose as it had never risen before, carrying away many bridges. During the third night of the storm, at the Hour of the Ox, there was heard a knocking at the door of the priest's dwelling, and the voice of a woman pleading for admittance. But Matsumura, warned by his experience at the well, forbade his servants to answer the appeal. He went himself to the entrance, and asked,—

   "Who calls?"

   A feminine voice responded:—

   "Pardon! it is I,—Yayoi!*... I have something to say to Matsumura Sama,—something of great moment. Please open!"...

      * This name, though uncommon, is still in use.

   Matsumura half opened the door, very cautiously; and he saw the same beautiful face that had smiled upon him from the well. But it was not smiling now: it had a very sad look.

   "Into my house you shall not come," the priest exclaimed. "You are not a human being, but a Well-Person.... Why do you thus wickedly try to delude and destroy people?"

   The Well-Person made answer in a voice musical as a tinkling of jewels (tama-wo-korogasu-koë):—

   "It is of that very matter that I want to speak.... I have never wished to injure human beings. But from ancient time a Poison-Dragon dwelt in that well. He was the Master of the Well; and because of him the well was always full. Long ago I fell into the water there, and so became subject to him; and he had power to make me lure people to death, in order that he might drink their blood. But now the Heavenly Ruler has commanded the Dragon to dwell hereafter in the lake called Torii-no-Iké, in the Province of Shinshū; and the gods have decided that he shall never be allowed to return to this city. So to-night, after he had gone away, I was able to come out, to beg for your kindly help. There is now very little water in the well, because of the Dragon's departure; and if you will order search to be made, my body will be found there. I pray you to save my body from the well without delay; and I shall certainly return your benevolence."...

   So saying, she vanished into the night.

 

   Before dawn the tempest had passed; and when the sun arose there was no trace of cloud in the pure blue sky. Matsumura sent at an early hour for well-cleaners to search the well. Then, to everybody's surprise, the well proved to be almost dry. It was easily cleaned; and at the bottom of it were found some hair-ornaments of a very ancient fashion, and a metal mirror of curious form—but no trace of any body, animal or human.

   Matusmura imagined, however, that the mirror might yield some explanation of the mystery; for every such mirror is a weird thing, having a soul of its own,—and the soul of a mirror is feminine. This mirror, which seemed to be very old, was deeply crusted with scurf. But when it had been carefully cleaned, by the priest's order, it proved to be of rare and costly workmanship; and there were wonderful designs upon the back of it,—also several characters. Some of the characters had become indistinguishable; but there could still be discerned part of a date, and ideographs signifying, "third month, the third day." Now the third month used to be termed Yayoi (meaning, the Month of Increase); and the third day of the third month, which is a festival day, is still called Yayoi-no-sekku. Remembering that the Well-Person called herself "Yayoi," Matsumura felt almost sure that his ghostly visitant had been none other than the Soul of the Mirror.

   He therefore resolved to treat the mirror with all the consideration due to a Spirit. After having caused it to be carefully repolished and resilvered, he had a case of precious wood made for it, and a particular room in the house prepared to receive it. On the evening of the same day that it had been respectfully deposited in that room, Yayoi herself unexpectedly appeared before the priest as he sat alone in his study. She looked even more lovely than before; but the light of her beauty was now soft as the light of a summer moon shining through pure white clouds. After having humbly saluted Matsumura, she said in her sweetly tinkling voice:—

   "Now that you have saved me from solitude and sorrow, I have come to thank you.... I am indeed, as you supposed, the Spirit of the Mirror. It was in the time of the Emperor Saimei that I was first brought here from Kudara; and I dwelt in the august residence until the time of the Emperor Saga, when I was augustly bestowed upon the Lady Kamo, Naishinnō of the Imperial Court*. Thereafter I became an heirloom in the House of Fuji-wara, and so remained until the period of Hōgen, when I was dropped into the well. There I was left and forgotten during the years of the great war**. The Master of the Well*** was a venomous Dragon, who used to live in a lake that once covered a great part of this district. After the lake had been filled in, by government order, in order that houses might be built upon the place of it, the Dragon took possession of the well; and when I fell into the well I became subject to him; and he compelled me to lure many people to their deaths. But the gods have banished him forever.... Now I have one more favor to beseech: I entreat that you will cause me to be offered up to the Shōgun, the Lord Yoshimasa, who by descent is related to my former possessors. Do me but this last great kindness, and it will bring you good-fortune.... But I have also to warn you of a danger. In this house, after to-morrow, you must not stay, because it will be destroyed."... And with these words of warning Yayoi disappeared.

      * The Emperor Saimei reigned from 655 to 662 (A.D.); the Emperor Saga from 810 to 842.—Kudara was an ancient kingdom in southwestern Korea, frequently mentioned in early Japanese history.—A Naishinnō was of Imperial blood. In the ancient court-hierarchy there were twenty-five ranks or grades of noble ladies;—that of Naishinno was seventh in order of precedence.

      ** For centuries the wives of the emperors and the ladies of the Imperial Court were chosen from the Fujiwara clan—The period called Hōgen lasted from 1156 to 1159: the war referred to is the famous war between the Taira and Minamoto clans.

      *** In old-time belief every lake or spring had its invisible guardian, supposed to sometimes take the form of a serpent or dragon. The spirit of a lake or pond was commonly spoken of as Iké-no-Mushi, the Master of the Lake. Here we find the title "Master" given to a dragon living in a well; but the guardian of wells is really the god Suijin.

 

   Matsumura was able to profit by this premonition. He removed his people and his belongings to another district the next day; and almost immediately afterwards another storm arose, even more violent than the first, causing a flood which swept away the house in which he had been residing.

   Some time later, by favor of the Lord Hosokawa, Matsumura was enabled to obtain an audience of the Shōgun Yoshimasa, to whom he presented the mirror, together with a written account of its wonderful history. Then the prediction of the Spirit of the Mirror was fulfilled; for the Shōgun, greatly pleased with this strange gift, not only bestowed costly presents upon Matsumura, but also made an ample grant of money for the rebuilding of the Temple of Ogawachi-Myōjin.

 

   *

 次に、大谷正信(昭和八(一九三三)年没でパブリック・ドメイン)の訳(新潮文庫昭和二五(一九五〇)年古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」)を示す。これはサイト「別館 しみじみと朗読に聴き入りたい」のこちらのページこちらのPDF画像を視認した。傍点「ヽ」は太字とした。底本の右注記号は《 》で本文に入れた。

   *

 

     鏡の少女

 

 

 足利將軍時代に南伊勢の大河内明神の神社が頽廢したところ、其國の大名北畠公は戰爭や他の事情の爲めに、其建物の修繕を圖ることが出來なかつた。そこで、其社を預つて居た神官の松村兵庫といふが京都へ行つて、將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名の細川公に助力を求めた。細川公は其神官を懇切にもてなし、大河内明神の有樣を將軍に言上しようと約束した。然し、兎に角、社殿修理の許可は相當な取調べをし、又、可也手間を取らねば與へられまいと云つて、事が取極められる間、都に止まつて居るやうにと松村に勸めた。其處で松村は家族の者を京都へ呼び寄せて、昔の京極の處に家を一軒借りた。

 この家は、綺麗で廣かつたが、長い間、人が住まずに居たのであつた。不吉な家だと世間で言つて居つた。その東北側に井戸が一つあつた。そして、何んとも原因知れずに、その井戸で溺死した前の借家人が幾人もあつたからである。然し松村は、神官のことだから、惡靈など更に恐れず、直ぐと、この新居で居心地よく暮した。

 その年の夏大旱魃があつた。幾月も一滴の雨も五畿内に降らなかつたので、川床は涸れ、井戸は干て、この都にさへ水の拂底を見た。ところが、松村の庭の井戸は相變らず水が殆んど一杯で、その――非常に冷たく淸く、微かに靑味を帶びて居た――水は泉が供給するらしく思はれた。暑い季節の間、町の方方から水貰ひに多勢人が來たが、松村は欲しいだけいくらでも人に汲ませた。それでも水の供給は滅るやうには見えなかつた。

 ところが、或る朝、近處の家から水汲みに來た、年若い下男の死骸が、其井戸に浮んで居るのが見つかつた。自殺の原因は何一つ想像出來なかつたので、松村は、其井戸に就いての面白からぬ話を數數想ひ出して、何か眼に見えぬ怨恨の業ではないか知らと疑ひ始めた。そこで、其まはりに垣を造らせようと思つて、其井戸を檢べに行つた。すると、獨りで其處に立つて居る間に、水の中で、何か生きて居る物がするやうに、突然、物が動くので驚いた。其動きがやがて歇むと、見た處十九か二十歳ぐらゐの若い女の姿が、其靜かな水面に明らかに映つて居るのが見えた。切(しき)りとお化粧をして居るやうで、唇へ紅(べに)をさすのが判然(はつきり)見えた。初めは其顏は橫顏だけ見えてゐたが、やがてのこと、その女は松村の方を向いてにつこりと笑つた。直ぐに其心臟に異常な衝動を感じ、酒に醉つたやうに眩暈がして、――月の光りの如く白くまた美しく、いつも次第に美しさを增すやうに思はれ、また闇黑へ彼を引き下ろさう、下ろさうとするやうに思はれる、そのにこりとした顏だけが殘つて、一切の物が暗くなつた。だが、彼は一所懸命に意志を取り戾して眼を閉ぢた。それから眼を開けて見たら、その顏は消えて居り、世は明かるくなつて居た。そして自分は井桁から下へうつむいて居ることを知つた。あの眩暈(めまひ)がもう一秒續いたなら――あのまぶしい誘惑がもう一秒續いたなら、二度と日の目を見ることは出來なかつたことであらう。……

 家へ歸ると、皆の者にどんな事があらうと、その井戸へ近寄らぬやう、どんな人にもその水を汲ませぬやう命じた。そして、その翌日、丈夫な垣をその井戸のまはりに造らせた。

 

 垣が出來てから一週間許りすると、その長の旱天(ひでり)が風と稻光りと雷――全市が、その轟きで地震で顫へるやうに、ふるへたほどの恐ろしい雷――との伴うた大風雨で絶えた。三日三晩その土砂降りと電光と雷鳴とが續き、鴨河は未だ嘗て見ぬほど水嵩が增して、多く橋を流し去つた。その風雨の三日目の夜、丑の刻に、その神官の家の戸を敲くものがあつて、内へ入れて呉れと賴む女の聲が聞えた。が、松村は井戸での事を思ひ出して、あぶないと思つたから、その哀願に應ずることを召使の者共に禁じた。自分で入口の處へ行つて、かう訊ねた。

『誰れだ』

 すると女の聲が返事した。

『御免下さい! 私で御座います――あの彌生で御座います!……松村樣に申し上げたい事が――大切な事が御座いまして、何卒(どうぞ)、開けて下さいませ!』……

 松村は用心しで戸を半分開けた。すると井戸から自分を見てにこりと笑つた、あの美しい顏が見えた。しかし今度はにこにこしては居ないで、大變悲しさうな顏をして居つた。

『私の家へは、はいらせぬ』と神官は呶鳴つた。『お前は人間では無い。井戸の者だ。……何故、お前はあんなに意地惡るく人を騙して殺さうとするのだ?』

 その井戸の者は珠のちりんちりん、いふやうな調子のいい聲(タマヲコロガスコヱ)で返事した。

『私の申し上げたいと思ひますのは、その事に就いてで御座います。……私は決して人を害ねようとは思つて居りません。が、古昔(むかし)から毒龍があの井戸に棲んで居りました。それがあの井戸の主で御座いました。それであの井戸には水がいつも一杯にあるので御座います。ずつと前に、私はあの水の中へ落ちまして、それであれに仕へることになつたので御座います。自分がその血を飮むやうにと、私に、人を騙して死なせるやうにさせたので御座います。が、今後は信州の鳥井ノ池といふ池に隱むやう神樣が、今度、御云ひ附けになりまして、神樣はあれをこの町へ二度と歸らせてはやらぬと御極めになりました。で、御座いますから今夜、あれが去(い)つてしまつてからあなた樣のお助けを御願ひに、出て末ることが出來たので御座います。その龍が去(い)つてしまひましたから、今、井戸には水が少ししか御座いません。云ひ附けて探させて下されば、私の身體(からだ)が見つかるで御座いませう。どうか、御願ひで御座います、早く私の身體(からだ)を井戸から出して下さいませ。屹度、御恩返しは致しますから』……

 かう言つてその女は闇へ消えた。

 

 夜明けまでに風雨は過ぎ去つた。日が出た時には澄んだ靑空に雲の痕も無かつた。松村は早朝、井戸掃除屋を呼びに遣つて、井戸の中を搜させた。すると誰れもが驚いたことには井戸は殆んど干涸らびてゐた。容易(たやす)く掃除された。そして其底に頗る古風な髮飾りと妙な恰好の金屬の鏡とが見附かつたが――身體(からだ)は動物のも人間のも、何んの痕跡も無かつた。

 だが、松村は此鏡が、その神祕の説明を與へはせぬか知らと想つた。そんな鏡はいづれも己の魂を有つて居る不思議な品物で――鏡の魂は女性だからである。その鏡は餘程古いもののやうで、錆が厚く著いて居つた。が、神官の命で丁寧に、それを掃除させて見ると、稀なそして高價な細工だといふことが判り、その裏に奇妙な模樣があり、文宇も數數あることが知れた。その文字には見分けられなくなつて居るものもあつたが、日附の一部分と、『三月三日』といふ意味の表意文字とは見極はめることが出來た。ところで、三月は昔は彌生(いや增すといふ意味)と云つたもので、祭り日となつて居る三月の三日は、今なほ彌生の節句と呼んで居る。あの井戸の者が自分の名を『彌生』と云つたことを想ひ起こして松村は、自分を訪ねた靈の客は、この鏡の魂に他ならぬ、と殆んど確信した。

 だから、その鏡は靈に對して拂ふべき顧慮を以て、鄭重に取り扱はうと決心した。丁寧に磨きなほさせ、銀を著けなほさせてから、貴重な木でそれを容れる箱を造らせ、その箱を仕舞つて置く別室を家の中に用意させた。すると、その箱を恭しくその部屋へ置いた、丁度その日の晩に、神官が獨りで書膏齋に坐つて居ると忽然、その彌生が、その前へ姿を現した。前よりも、もつと美しいぐらゐであつたが、その美はしさの光りは、今度は淸い白雲を透して輝く夏の月の光りの如く軟かいものであつた。頭低く、松村に辭儀をしてから、玉のやうな美くしい聲でかう言つた。

『あなたが、私の獨り住居を救ひ、私の悲しみを除(と)つて下さいましたから、御禮に上りました。……私は、實は、御察しの通り、鏡の魂なので御座います。齊明天皇の御世で御座いました。私は百濟から始めてこちらへ連れて來られたので御座いまして、嵯峨天皇の時まで、御屋敷に住まつて居たので御座いますが、天皇は私を皇居の加茂内親王に御與へになつたので御座います。その後、私は藤原家の寶物になりまして、保元時代まで《*》でゐましたが、その時にあの井戸へ落とされたので御座います。あの大戰爭《**》の幾年の間私は其處に置かれたまま人に忘れられて居たので御座います。その井戸の主《***》は、元は此邊一帶にあつた大池に棲んでゐた毒龍で御座いました。その大池が、お上(かみ)の命令で、家を其處へ建てる爲めに、埋められましてから、その龍はあの井戸を我が物にしたので御座います。私はあの井戸へ落ちてから、それへ仕へることになりまして、あれが無理に私に人を多く死なせるやうにしたので御座います。だが、神樣があれを永久に追ひ拂ひになりました。……あの、私に、も一つ御願ひが御座います。私の前の持主と家柄が續いて居りますから、將軍義政公へ私を獻上して下さいませんでせうか、御願ひ致します。最後のこの御深切さへして戴けますれば、私はあなた樣に幸福を持つて參りませう。……が、その上にあなた樣の身に危ふいことがあることを御知らせ致します。この家には、明日から、おいでになつてはいけません。この家は壞れますから』……

 そしてかう警戒の言葉を述べると共に、彌生は姿を消した。

 松村はこの豫戒によつて利益を享けることが出來た。翌日、自分の家の者共と品物とを別な町へ移した。すると殆んどその直ぐ後に、初めのよりかもつと猛烈なくらゐの暴風が起こつて、その爲めの洪水で、それまで住まつてゐた家は流されてしまつた。

 その後暫くして松村は、細川公の厚意によつて將軍義政に謁見するを得て、その不思議な來歷を紙に書いたものと一緒に、かの鏡を獻上した。そして、その時鏡の魂の豫言が實行された。將軍はこの珍らしい贈り物を大いに喜ばれて、松村へ高價な贈物を與へられたばかりで無く、大河内明神の神殿再建に澤山の寄附金をされたからである。

[やぶちゃん注:以下の注記は、底本では総て下インデント。]

*〔齊明天皇の治世は六五五年(紀元)から六六二年まで。嵯峨天皇は八一〇年から八四二年まで。百濟は朝鮮の西南部にあつた古の王國で、初期の日本史によくその名が出て居る。内親王は皇室の血統の方。昔の宮廷階級には高貴な婦人に二十五階級あつて、内親王は席次では第七階であつた〕

**〔幾世紀の間、天皇の好配と宮廷の貴女とは藤原家から選まれた。保元時代は一五六年から一一五九年まで。ここに云ふ戰爭は平家源氏間の、あの有名な戰爭〕

***〔昔の信仰では湖・泉にはいづれも眼には見えぬ守護者があつて、時に蛇又は龍の姿を取ると想はれて居た。湖水や池の靈は普通イケノヌシ卽ち『池の主』と云つて居た。此處(ぬし)[やぶちゃん注:「ぬし」は「處」へのルビ。]には『主』といふ名を井戸に棲む龍に與へてあるが、本當は井戸の守護者は水神といふ神である〕 (大谷正信譯)

  The Mirror Maiden.The Romance Of The Milky Way And Other Studies & Stories.”

   *

最後に附された注は原注の抜粋訳である。なお、「加茂内親王」は一般名詞で、賀茂斎院のことであろう。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女を指し、伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」とも称した。

   *

 

 最後に、前に示した通り、晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻之第五」の「松村兵庫古井の妖鏡」を一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」を参考底本としつつ、恣意的に漢字を正字化して以下に示す。読み(左読みの和訓があるようだが、概ね排除し、一部に私が注で入れ込んだ)は一部に限った。多量の歴史的仮名遣の誤りは総てママである。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 南勢(なんせい)大河内の郷ハそのかミ國司の府にて南朝の頃までハ北畠殿こゝにおハして一方を領(るやう)じたまふ國府の西南に大河内明神の社(やしろ)あり國司より宮宇(きうう)も修理(しゅり)したまひ神領もあまた寄(よせ)られしが漸(やうや)く衰廢して嘉吉文安の頃にいたりてハ社頭も雨露(うろ)におかされたまふ風情なりしかバ祠官(しくハん)[やぶちゃん注:神主と同義。]松村兵庫(まつむらへうご)なるもの都に登りて時の管領(くハんれい)細川家に由緒あるにたよりて修造(しゆざう)の事を訴ふるといへども前(ぜん)將軍義教公赤松がために弑(しい)られたまひ後嗣(こうし)もほどなく早世(さうせい)ありて義政公將軍の職を繼(つぎ)たまふ打續(うちつゞき)て公(をゝやけ)の事(こと)繁きに其事となくすぎ侍(はんべ)れハ兵庫ハもとより文才もかしこく和歌の道なども幼(いとけなき)より嗜(たし[やぶちゃん注:「なみ」の脱か。])たりしかバ幸(さいハひ)に滯留して其奧儀(おうぎ)をもきハめんと京極今出川の北に寓居(くうきよ)して公の沙汰を待居(まちゐ)たり旅館の東北(ひがしきた)にあたりて一(ひとつ)の古井(こせい)ありてむかしより時々よく人を溺(をぼ)らすときゝたれども宅眷(たくけん[やぶちゃん注:左ルビで「かない」とするらしい。])とてもなく從者(じゆしや)一人のミなれバ心にも挾(さしはさ)まず暮しけり其頃畿内大(をゝゐ)に旱(ひでり)して洛中も水に乏しき折にもかの古井ハ涸(かる)ることなく水(ミづ)藍(あい)のごとくミちたれバ近隣より汲(くミ)とる者多しされとも人々心して汲(くみ)ゆへにや溺るゝ者もなかりしに或日(あるひ)暮(くれ)の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)例のごとく汲(くま)んとして久しく井中(いちう)を窺ひ居たるをあやしと見るうちに忽(たちまち)墜(をち)いりて溺れ死したり井水(いすい)きわめて深けれバ數日(すじつ)を經て漸くその死骸をもとめ得たり是より兵庫あやまちあらん事を怖れて垣など嚴しくしつらひたりしが去(さる)にてもあやしとおもふよりたちよりて竊(ひそか)に窺ふに中に年の頃廿(はたち)ばかりと覺しき女のなまめけるが粧飾(さうしよく)いとうるハしく粧(よそほ)ひてあり兵庫をミてすこし顏そむけて笑ふ風情(ふぜい)その艷(えん)なる事世のたぐひにあらず魂(たましい)飛(とび)こゝろ動(うごき)てやがてちかよらんとせしがおもひあたりて扨はかくして人を溺らす古井の妖なるべしあなをそろしと急に立(たち)さりて從者にも此よしかたく制して近付(ちかづか)しめず或夜(よ)二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。]の頃より風雨はなハだ烈しく樹木を倒(たを)し屋瓦(をくぐハ)を飛(とバ)せ雨ハ盆を傾(かたぶ)くるごとく閃電(せんでん)晝のごとく霹靂をびたゝしく震ひ天柱(てんちう)も折(くじ)け地維(ちゆい)[やぶちゃん注:普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱。転じて大地の意。「天柱」の対語。]も崩るゝかとおもふうちに天晴(そらはれ)て夜も明(あけ)たるに兵庫とく起(をき)て窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ表に女の聲して案内を乞ふ誰(たそ)ととヘバ彌生(やよひ)と答ふ兵庫あやしミながら裝束(しやうぞく)して戸をひらき一間に請(しやう)じてこれを見れバ先に井中にありし女なり兵庫が云(いハく)女郎(ぢよらう)ハ井中の人にあらずや何ぞミだりに人を惑して殺すや女云(いハく)妾(せう)ハ人をころす者にあらず此井毒龍(どくりやう)ありてむかしよりこゝにすむゆへに大旱(たいかん)といへども水かるゝ事なし妾(せう)ハ中音(なかむかし)井に墜(をち)て遂に龍(りやう)のために役便(えきし)セられやむことを得ずして色(いろ)を以て人を惑し或ハ衣裝粧具(さうぐ)の類(るい)を以て欺(あざむ)きすかして龍(りやう)の食ふところに供するのミ龍(しやう)人血(にんけつ)をこのミて妾(せう)をしてこれを辨(べん)ゼしむる[やぶちゃん注:処理させる。]其辛苦堪(たへ)がたし昨夜天帝の命ありてこゝをさりて信州鳥居(とりゐ)の池にうつらしむ今(いま)井中主(ぬし)なし此時君(きミ)人をして妾(せう)を拯(すくふ)て井を脱(だつ)セしめ給へもし脱することを得バおもく報ひ奉るべしといひ終りて行方(ゆくがた)をしらず兵庫數人(すにん)をやとひて井をあバかしむるに水涸(かれ)て一滴もなしされども井中他(た)のものなく唯(たゝ)笄簪(けんさん[やぶちゃん注:左ルビで「かうがいかんざし」とあるようである。])のるいのみなり漸(やうや)く底に至りて一枚の古鏡(こきやう)ありよくよくあらひ淸めて是をミるに背に姑洗之鏡(きせんのかゞみ)といふ四字の款識(あふしき)ありてさてハ彌生といひしは此ゆへなりと香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を淸め匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)し一間なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに其夜女又來りて云(いふ)やう君(きミ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)ミをのがれて世に出ることを得侍(えはんべ)るうへ不淨を淸めて穢(けがれ)をさりたまひしゆへとし月の腥穢れ(せいえ[やぶちゃん注:左に「なまぐさきけがれ」とルビがあるらしい。])をわすれ侍りそも此井ハむかし大(をゝゐ)なる池なりしを遷都の時埋(うづ)めたまひ漸(やうやう)形ばかりをのこしたまふ都を遷(うつ)したまふときハ八百神(やをよろづ)の神々きたりたすけ給ふゆへ其(その)むかしよりすミたりし毒龍(どくりう)もせんすべなくして井中(せいちう)をしめてすまひ侍り妾(せう)ハ齊明天皇の時百濟國(くだらこく)よりワたされて久しく宮中に祕め置(おか)れしが嵯峨天皇のときに皇女賀茂の内親王にたまハり夫(それ)より後(のち)兼明(かねあきら)親王[やぶちゃん注:延喜一四(九一四)年生まれで永延元(九八七)年没。醍醐天皇の第十六皇子で朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。ここはィキの「兼明親王に拠った。]の許(もと)に侍(はんべ)り遂に藤原家に傳ハり御堂殿(みどうどの)[やぶちゃん注:藤原道長。]ことに祕藏したまひしが其後(のち)保元(ほうげん)の亂に誤りて此(この)井に墜(をち)てより長く毒龍(どくりう)に責(せめ)つかハれて今日(こんにち)にいたる十二律(りつ)にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)妾(せう)ハ三月三日に鑄る所の物なり君(きミ)妾(せう)を將軍家にすゝめたまハゞ大(をゝゐ)なる祥(さいわい)を得給ふべし其上此所(このところ)久しくすミたまふ所にあらずとく外(ほか)に移り給へと懇(ねんごろ)にかたり終りてかきけすごとくにして其形をミず兵庫その詞(ことバ)のごとく翌日外(ほか)に移りて事のやうを窺ふに次の日故(ゆへ)なくして地をちいり家(いへ)も崩(くずれ)たりますます鏡(かゞみ)の靈(れい)にして報ゆるところなるをさとりてこれを將軍家に奉るにそのころ義政公古翫(こぐハん[やぶちゃん注:左ルビで「ふるどうぐ」とあるらしい。])を愛したまふ折(をり)なれバはなハだ賞(しやう)したまひ傳來するところまであきらかに侍(はんべ)るにぞ第一の奇寶(きほう)としたまひ兵庫にハ其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ猶も社頭再建ハ公(をゝやけ)より沙汰すべきよしの嚴命をかうむりて兵庫ハ本意(ほゐ)のごとく多年の愁眉(しうび)をひらきぬ其後(のち)此(この)鏡故(ゆへ)ありて大内(をゝち)の家に賜りしが義隆戰死の後ハその所在をしらずとぞいひつたへ侍(はんべ)る

   *

参考底本の解説でも述べられているが、小泉八雲は典拠の展開順序を少し入れ替えた上、細部に手を加えて整合性を出している。最初に発生する不審な井戸での溺死者を「隣家の婢」から「近所の下男」と変更しているのは、誘惑する「彌生」が女(形)であるから、八雲の処理の方が腑に落ち、彌生の最初の訪問も原話は嵐の晴れた中であるが、八雲は嵐の中に設定しており、これは彌生の話の毒龍移動の最中を思わせてしっくりくる。また、エンディングも原話が大陥没による崩落で家が倒壊するところを、龍との絡みを駄目押しに考えたものであろう、激しい大暴風の洪水で完膚までに流されてしまうという泉鏡花好みのカタストロフ処理を施しているのも小気味よい。

 

2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」

 

 執念の轉化

 

 或家で僕を手討ちにしなければならぬことになつた。本當はそれほど大きな罪でもなかつたのであるが、この男を斬らぬと、人に對して義理の立たぬ事があつたので、已むを得ず刀の錆にせざるを得なかつたのである。僕は怨み且つ憤り、私は何も手討ちになるほどの罪があるわけではない、死後に崇りをなして、取り殺さずには置かぬといふ。その時主人は笑つて、その方にわしを取り殺すことが出來るものか。もし出來るといふなら證據を見せい、これから首を刎ねる時、その首が飛んで庭石に嚙み付いたなら、その方が祟りをなす證據としよう、と云つた。然るに刎ねられた首は、主人の云つた通り石に嚙み付いたから、家内の者の恐怖は一通りでなかつたが、祟りは一向にない。或人がその理由を尋ねたら、主人の答へはかうであつた。あの男は初め祟りをなして、わしを取り殺さうといふ心が切(せつ)であつたが、後には石に嚙み付いて證據を見せようといふ志が專らになつた、首を刎ねられる刹那には、己に崇りをなすことを忘れて居つたから、何事もないのだ。

 小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる。「小泉八雲全集」はその出所を記して居らぬが、多分右に擧げた「世事百談」の話に據つたものであらう。「世事百談」は天保十四年の刊本であるが、この話の先蹤と見るべきものが、享保十七年刊の「太平百物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:『小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる』これはKwaidan(一九〇四年)のDiplomacyDiplomacy:情勢を繊細且つ巧みに処理すること・公務の処理における賢明な行動・外交・外交的手腕・外交上の駆け引き・国家間交渉/他者との交渉上の駆け引き/如才なさ/礼儀の意。ラテン語で「旅券・公文書」を語源とする。原文を、英文のテクスト・サイトのこちらにあるものを一部に手を加えて示す。

   *

 

DIPLOMACY

 

IT HAD BEEN ORDERED that the execution should take place in the garden of the yashiki. So the man was taken there, and made to kneel down in a wide sanded space crossed by a line of tobi-ishi, or stepping stones, such as you may still see in Japanese landscape-gardens. His arms were bound behind him. Retainers brought water in buckets, and rice-bags filled with pebbles; and they packed the rice-bags round the kneeling man ― so wedging him in that he could not move. The master came, and observed the arrangements. He found them satisfactory, and made no remarks.

   Suddenly the condemned man cried out to him:

"Honored sir, the fault for which I have been doomed I did not wittingly commit. It was only my very great stupidity which caused the fault. Having been born stupid, by reason of my karma, I could not always help making mistakes. But to kill a man for being stupid is wrong ― and that wrong will be repaid. So surely as you kill me, so surely shall I be avenged; ― out of the resentment that you provoke will come the vengeance; and evil will be rendered for evil."

   If any person be killed while feeling strong resentment, the ghost of that person will be able to take vengeance upon the killer. This the samurai knew. He replied very gently ― almost caressingly:

"We shall allow you to frighten us as much as you please ― after you are dead. But it is difficult to believe that you mean what you say. Will you try to give us some sign of your great resentment ― after your head has been cut off?"

"Assuredly I will," answered the man.

"Very well," said the samurai, drawing his long sword; ― "I am now going to cut off your head. Directly in front of you there is a stepping-stone. After your head has been cut off, try to bite the stepping-stone. If your angry ghost can help you to do that, some of us may be frightened. . . . Will you try to bite the stone?"

"I will bite it!" cried the man, in great anger ― "I will bite it! ― I will bite ― "

There was a flash, a swish, a crunching thud: the bound body bowed over the rice sacks ― two long blood-jets pumping from the shorn neck; ― and the head rolled upon the sand. Heavily toward the stepping-stone it rolled: then, suddenly bounding, it caught the upper edge of the stone between its teeth, clung desperately for a moment, and dropped inert.

   None spoke; but the retainers stared in horror at their master. He seemed to be quite unconcerned. He merely held out his sword to the nearest attendant, who, with a wooden dipper, poured water over the blade from haft to point, and then carefully wiped the steel several times with sheets of soft paper…. And thus ended the ceremonial part of the incident.

   For months thereafter, the retainers and the domestics lived in ceaseless fear of ghostly visitation. None of them doubted that the promised vengeance would come; and their constant terror caused them to hear and to see much that did not exist. They became afraid of the sound of the wind in the bamboos ― afraid even of the stirring of shadows in the garden. At last, after taking counsel together, they decided to petition their master to have a Ségaki-service performed on behalf of the vengeful spirit.

"Quite unnecessary," the samurai said, when his chief retainer had uttered the general wish. . . . "I understand that the desire of a dying man for revenge may be a cause for fear. But in this case there is nothing to fear."

   The retainer looked at his master beseechingly, but hesitated to ask the reason of this alarming confidence.

"Oh, the reason is simple enough," declared the samurai, divining the unspoken doubt. "Only the very last intention of that fellow could have been dangerous; and when I challenged him to give me the sign, I diverted his mind from the desire of revenge. He died with the set purpose of biting the stepping-stone; and that purpose he was able to accomplish, but nothing else. All the rest he must have forgotten. . . So you need not feel any further anxiety about the matter."

   And indeed the dead man gave no more trouble. Nothing at all happened.

   *

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「はかりごと」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認することが出来る。

 なお、本作は、偏愛する平井呈一氏(一九六五年岩波文庫版及び一九七五年恒文社刊「小泉八雲作品集」)・上田和夫氏(一九七五年新潮文庫刊「小泉八雲集 怪談・骨董 他」)は孰れも「かけひき」で、私の小学校時代の小泉八雲原体験書である一九六七年角川文庫版田代三千稔氏訳「怪談・奇談」では「はかりごと」で、講談社学術文庫版「怪談・奇談」の平川祐弘氏訳では「策略」となっている。柴田の謂う、その訳標題は、第一次の小泉八雲全集(一九二六年第一書房刊)での田部隆次の訳「術數」を指しているものと思われる。因みに、小泉八雲直弟子のその田部氏の同作の訳(先の全集版と全く同じかどうかは不明だが、表題は同じく「術數」である)は、後の一九五〇年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」に載り、「日本の名作名文ハイライト」の「電子テキスト」のこちらPDF版)で入手出来、読める。

 柴田が指す「世事百談」のそれは「卷之三」に載る「欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散ず」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 欺て寃魂を散ず

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因となれる如く、狂氣するものも金銀(きんぎん)のことか。色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云(いふ)を、さにあらず、家業(かげふ)といへども殺生(せつしやう)の報(むくひ)はあることゝて、庭なる露しげくおきたる樹(き)をゆり見よとこたへけるま1、やがてその木(こ)の下(もと)に行(ゆき)て動(うご)しければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云やう、怨みのかゝるもその如く云(いひ)つけたる人よりは太刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや。諺(ことわざ)にも盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩(なは)とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話(はなし)あり。何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、指(さし)たる罪なかりしが、その僕を斬(きら)ざれば(ひと)人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人その僕を手討(てうち)にせんとす。僕、憤り怨(うらみ)て云(いふ)、吾(われ)さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟(たゝ)りをなして、必(かならず)取殺(とりころ)すべしと云(いふ)。主人わらひて汝(なんぢ)何(なに)ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや。といへば、僕、いよいよいかりて、見よとり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の證(しよう)もなし。今その證を我に見せよ。その證には汝が首を刎(はね)たる時、首飛(とん)で庭石に齧(かみ)つけ。夫(それ)を見ればたゝりをなす證とすべしと云(いふ)。さて首を刎(はね)たれば、首飛びて石に齧(かみ)つきたり。その後(のち)何(なに)のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、僕初(はじめ)にはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切(せち)なり、後には石に齧(かみ)つきてその驗(しるし)を見せんとおもふ志(こゝろざし)のみ專(もは)らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)たるによりて祟(たゝり)なしといへり。

   *

「天保十四年」一八四三年。

「享保十七年」一七三二年。

「太平百物語」菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。大坂心斎橋筋の河内屋宇兵衛を版元とする。五巻五十話。目次の後には後編を後に出す旨の記載があり、真正の百物語(よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない。リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附))。以下は同書の「卷一 四 富次郎娘蛇に苦しめられし事」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。挿絵も添えた。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに添え、必ずしも参考底本には従っていない。事実、原典が歴史的仮名遣を誤っている部分もあるからである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「步(ほ/あゆみ)」は原典の読みルビと左ルビとしてある意味風添書きを示したもの。

   *

       四 富次郎娘蛇に苦しめられし事
 

Mtomijiroumusumehebi

 越前の國に富次郎とて代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持ちたる人有り。此富次郎一人の娘をもてり。今年十五歳なりけるが、夫婦の寵愛殊にすぐれ、生れ付きもいと尋常にして、甚だみめよく常に敷島の道に心をよせ、明暮れ琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。或る時、座敷の緣に出(いで)て庭の氣色を詠めけるに、折節初春の事なれば、梅に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

  わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

   風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや聞きて、「げにおもしろくつゞけ給ふものかな。御身の言の葉にて、わらはもおもひより侍る」とて、取りあへず、

  春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝になきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠じられければ、此娘聞きて、「實(げ)によくいひかなへさせたまひける哉」と、互に親子心をなぐさめ樂しみ居(をり)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小蛇(こへび)壱疋(いつぴき)するするといでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上るほどに、「あらおそろしや」と内(うち)にかけいれば、蛇も同じく付いて入る。人々あはて立ち出でて、杖をもつて追ひはらへども、少しもさらず。此娘の行く方にしたがひ行く。母人(はゝびと)大(おほ)きにかなしみ、夫(をつと)にかくと告げければ、富次郎大きにおどろき、從者(ずさ)を呼びて取り捨てさせけるに、何(いづ)くより來たるともなく、頓(やが)て立ち歸りて娘の傍(そば)にあり。幾度(いくたび)すてゝも元のごとく歸りしかば、ぜひなく打ち殺させて、遙かの谷に捨てけるに、又立ち歸りてもとの如し。こはいかにと切れども突けども、生き歸り生き歸りて、なかなか娘の傍を放れやらず。兩親をはじめ家内の人々、如何(いかゞ)はせんと嘆かれける。娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果て、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱山伏ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(をり)ける。然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞き給ひ、不便(ふびん)の事におぼし召し、富次郎が宅に御入(おい)り有りて、娘の樣體(やうだい)、蛇がふるまひをつくづくと御覽あり、娘に仰せけるやうは、「御身(おんみ)座を立ちて、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行くべし」と。仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たす)けられ、二十步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、蛇も同じくしたがひ行く。娘とまれば、蛇もとまる。時に長老又、「こなたへ」とおほせけるに、娘歸れば蛇も同じく立ち歸る所を、長老衣の袖にかくし持ち給ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此蛇が敷居をこゆる所をつよくおさへ給へば、蛇行く事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り木刀に喰ひ付く所を、右にひかへ持ち給ひし小劍(こつるぎ)をもつて、頭を丁(てう)ど打ち落し給ひ、「はやはや何方(いづかた)へも捨つべし」と。仰せにまかせ、下人等(ら)急ぎ野邊(のべ)に捨てける。其時長老宣(のたま)ひけるは、「最早此後(のち)來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ兩親のなげきおもひやり侍るなり。今よりしては心やすかれ」とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏し拜みけるが、其後は此蛇ふたゝびきたらず。娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事かぎりなし。「誠(まこと)に有難き御僧(おんそう)かな」とて、聞く人感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では全体が一字下げ。]

評じて曰く、蛇木刀に喰ひ付きたる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび娘に付く事能(あた)はず。是れ倂(しか)しながら知識(ちしき)の行なひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一箇(いつこ)に限らず萬(よろづ)の事におよぼして、益ある事少なからず。諸人よく思ふべし。

   *]

 越前國に住む富次郎といふ分限の一人娘が、庭の梅の花を見て歌などを詠んでゐる時、時ならず這ひ出た小蛇に魅入られた。幾度取り捨てさせても歸つて來る。是非なく打ち殺させて、遙かの谷に捨てさせたが、立ち歸ることに變りはない。兩親はじめ家内の人々は深く悲しみ、娘はこれがために次第に弱つて、命も危くなつた。諸寺諸社への祈禱、山伏や聖(ひじり)の呪(まじな)ひ、あらゆる手段を講じて見たけれど、更に驗らしいものが見えず、今は死を待つばかりとなつた時、永平寺の長老が富次郎の宅に來られ、つぶさに樣子を見屆けた上、娘に向ひ、御身座を立つて向うの方に步み行くべし、と命ぜられた。娘は瘦せ細つた身を起し、漸う人に扶けられて二十步ばかり步くと、蛇も同じやうについて行く。娘が止まれば蛇も止まる。今度は此方へと命じ、娘が歸るに從つて蛇も歸るのを、長老は衣の袖に隱し持つた一尺餘りの木刀で、蛇に敷居を越えさせず、強く押へてしまつた。蛇は先へ進むことが出來ないので、木刀を遁れようとしたが、愈々強く押へられて、詮方なさに木刀に喰ひ付いた。その時長老、小劍を以て首を打ち落し、早くどこへでも捨てよと云ひ、下人等が急ぎ野邊に捨てたのを見て、もうこの後來ることはない、御安心あれと挨拶して歸られた。果して蛇は再び來ず、娘も日を經て本復したから、一同よろこぶこと限りなく、感淚を流して長老を有難がつた。

「太平百物語」はこの話に特に評を加へて、蛇は木刀に食ひ付くうち、暫く娘の事を忘れた、その執心の去つたところを首を打ち落したから、再び娘に取り付くことが出來なかつたのである。名僧智識の行ひで、凡慮の及ぶところでないが、この理はこれだけに限らぬ、萬事に及ぼして益あることが少くない、諸人よく思ふべしと云つてゐる。評の意は僕を手討ちにした主人の言葉と同じであるが、二つの話を比較すれば、「太平百物語」の方が遙かに面白い。單に殺す者が人間と異類との相違があるだけではない。一方はそれほどの罪でないのを殺すといふのが不愉快である上に、祟りをなすならば證據を見せよなどと云ひかけ、僕の心の轉化を試みたのは、小泉八雲の名付けた通り「術數」に墮してゐるからである。永平寺の長老は最初から娘の命を救ふために來り、理窟らしいことは一言も云はず、自ら刀を揮つて蛇首を斷じ去つた。前の僕に若干の同情を寄せる者と雖も、この蛇を憐れむ餘地はあるまいと思はれる。尤もこの蛇は何度も殺されてゐるのだから、亡靈になつてゐるわけであるが、その恐るべき執念を木刀の上に轉ぜしめ、徐ろに首を落したのは、活殺自在な禪僧の所行と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:これは私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のように私には思われる。白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である。]

 この話は兩方とも時代が書いてない。書物の刊年から見て、百年以上の距離があることは慥かである。

 

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