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カテゴリー「小泉八雲」の515件の記事

2019/10/18

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信訳)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 佛敎に緣のある名のうち、名そのものに非常に興味があるけれども、寺院の什物に關係があつたり、佛敎の勤行に使ふ特別な器具に關係があつたりするので、圖解の助を藉らんでは、西洋の讀者には了解の出來ないのがある。例を舉ぐれぱ普通サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名の如きそれである。サンコ(梵語ではヷジラ)といふ語は、黃銅製の或る器具であつて、古典に見える雷電に、兩端に叉を附けたものに、似た恰好のもので、或る特別の式の場合に超自然力の表現として僧が用ひるものである。美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)もまたさうで、拂子にそれが似て居るからである。拂子といふは佛敎の勤行に用ひる、白い長い毛で造つた塵拂ひやうのものである。それからまた、コロモセミ(衣蟬)と呼ばれて居る、小さな蟲のその立派な名もさうで、翼を收めて休んで居る折のその蟲の普通の形と色とは、實際に『コロモ』を着て居る僧侶の姿を偲ばせる。が、この蟲を實地見、また斯う述べてあるやうな『コロモ』を見なければ、この名稱の圖畫的價値を鑑賞することは出來なからう。

[やぶちゃん注:「サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名」これは固有の種名ではなく、一般に知られている名勝個体木では、高野山の壇上伽藍にある「金堂」と「御影堂」の間に聳え立つ「三鈷の松」の巨木である。この松には以下のような高野山創建に纏わる空海伝説の一つが語られてある。空海が唐での修行を終えて帰国する際、師の恵果和尚から贈られた密教法具の一種である「三鈷杵(さんこしょ)」(もとはインドの投擲用武具或いは雷霆神インドラの所持物であったが、仏教では密教で特に採り入れられ、煩悩を打ち破って菩提心を表わすための法具として盛んに使用される。杵(きね)の形をした中央の握り部分の両端に鈷(鋭い突起)を形成したもので、両端の鈷数や形状によって独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵・五鈷杵(私はタイで求めた青銅製のそれを所持している)・九鈷杵・宝珠杵・塔杵・九頭竜杵などの別がある。リンクはグーグル画像検索「三鈷杵」)を東の空に向けて投じた(時に、大同元(八〇六)年)。彼が投げたのは「我、漏らすことなく受け継いだる密教を広めんがため、ふさわしき地に飛び至るべし」という願いを込めてのものであったという。帰国後、空海がその三鈷杵を探し求めたところ、弘仁七(八一六)年頃、高野山の松の木に掛かっていることが分かり、それによって高野山が真言密教の道場として開かれるようになり、この松を「三鈷の松」と称するようになったとする。実際、通常の松の葉は二本であるが、ここの松は三本あって、三鈷杵の先端が中鈷と左右の脇鈷と三つに分かれているのとミミクリーであるとされる。但し、この高野の「三鈷の松」は通称「三葉黒松」などと呼ばれる、植物学的には裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属クロマツ Pinus thunbergii の園芸品種の一つで、ここに限らず、各地にある。私も二十年ほど前、京都市左京区にある浄土宗の「永観堂」(正しくは聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)禅林寺(前身は真言宗)で拾ったそれを居間に飾ってある。

「ヷジラ」原文“vadjra”。現行のサンスクリット語ラテン文字転写では「vajra」でカタカナ音写は「バジュラ」。通常は先に説明した独鈷杵を指す。

「美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)」原文“the name Hossugai, or“Hossu-sbhell”, given to the beautiful glass-sponge”。これは、貝ではなく、小泉八雲も言っているように深海産のガラス様の海綿類の一種である、 

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi

 である。英名を“glass-rope sponge”と呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具とする)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち、「柄」の部分)には一種の珊瑚虫である、

 刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科ヤドリイソギンチャク Peachia quinquecapitata

 が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「ホッスガイ」の項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するヤドリイソギンチャクをホッスガイHyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五前の七月、嘗つて恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。以上は私の七年前の仕儀「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」の私の注に少し手を加えた。リンク先にはモノクロームであるが、図もある。

「コロモセミ(衣蟬)」現行、これはセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis の異名として同定比定されている。同種については、私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』を参照されたい。優れた歴史民俗学者であられる礫川全次(こいしかわぜんじ)氏のブログ「礫川全次のコラムと名言」の「横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった」では、『土の香』第一六巻第六号(昭和一〇(一九三五)年十二月発行)から高島春雄の「熊蟬の方言」という文章に、クマゼミの異名として『オキョーゼミ(横浜市磯子区)』、『カタビラ(京都市、京都府船井郡富本村、大阪府北河内郡四条畷村、泉北郡東陶器村、南河内郡狭山村、富田林町、中河内郡高安村、三島郡春日村、三宅村、愛知県東春日井郡小牧町、三重県河芸郡、兵庫県西宮市、兵庫県御影町、岡山県小田邯、愛媛、門司市、小倉市、福岡県企救郡)カタビラシェビ(肥前)カタビラゼミ(京都府船井郡八木町)』、『コロモゼミ(徳島県名東郡八万村、伊勢)』とあり、最後にこれが出ている。]

 

 或る二三の鳥に餘程佛敎に緣のある名が附けてある。鳥類學者にはユウリソトマス・オリエンタリスとして知られて居るもので、その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある。此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて、『ブ』といふ擬音はブツ(佛)、『ポフ』はホフ(法)、『ソウ』は僧である。この鳥はまたサムポウテウ(三寶鳥)と呼ばれて居る。『三寶』といふ語はトゥリラトナの文字譯である。これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある。その啼聲が佛の形容詞の一つたる、ジヒシン(慈悲心)といふ句を發音するに似て居るからである。自分への報告者は『この鳥は日光の附近にだけ棲んで居て、其處では夏には絕えず「汝、慈悲心! 汝、慈悲心!」[やぶちゃん注:前の「!」の後には底本では字空けがない。特異的に補った。]と鳴いて居るのを聞くことが出來る』と書いて居る。……殆ど同じほど興味のあるのは、日本詩人が能く褒め歌うて居るククウの一種たる、ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)に附けてある佛敎に緣のある普通名である。ムジヤウドリ(無常の鳥)と呼ばれで居るのである。此名はその啼聲から來て居るとは思はれぬ。啼聲は普通には、『もう本尊を掛けたか』といふ意味の『ホンゾンカケタカ』だと解釋されて居るからである。(ホンゾンといふは、この鳥が年々出現する時より少し前の、四月の八日に寺院に掛ける聖畫である)自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである。ホトトギスに就いては靈的な俗說や空想が澤山ある。そしてこの無氣味な民間俗說は、ホトトギスが五十二も異つた名を! 州々[やぶちゃん注:「くにぐに」。]で有つて居る理由を說明するに足るであらう[やぶちゃん注:「名を!」の後の字空けは底本にはない。特異的に挿入した。]。

[やぶちゃん注:「ユウリソトマス・オリエンタリス」(Eurystomus orientalis)「その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある」これは所謂、「姿の仏法僧(ブッポウソウ)」である、

ブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis

である。御存じの通り、「声の仏法僧」は、

フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops

である。但し、これが判明したのは、本書が刊行された明治三四(一九〇一)年から隔てること、実に三十四年も後のことである。ウィキの「ブッポウソウ」から引くと、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』『しか発せず』、『件の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和一〇(一九三五)年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』。『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が、同年』六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落としたところ、声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし、放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。六月十日に『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうとその鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』、『この二つの事柄がその後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』のであった。私はこのエピソードが何故か、非常に好きだ。

「此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて」原文“This word is a Japanese equivalent for the Sanscrit term Triratna or Ratnatraya”。「さんぼう」と濁るのが一般的であるが、「さんぽう」でもよい。サンスクリット語の「トリーニ・ラトナーニ」(ラテン文字転写:tri ratnni)、「トリ・ラトナ」(tri-ratna)」、「ラトナ・トラヤ」(ratna-traya:これは主に仏教とほぼ同時期にインドに起こった宗教で、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ 紀元前六世紀~紀元前五世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど、徹底した苦行・禁欲主義で知られる)の三宝を指す語)の訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダ:Buddha)と法(ダルマ:Dharma)と僧(サンガ:Sagha:仏教修行者集団)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬えて三宝と称する。「仏宝」とは、悟りを開いた人で仏教の教主を、「法宝」とはその仏の教えで真実の理法を、「僧宝」とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団を指す。古く原始仏教に於いては仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別なものであると見做す説(別相三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、或いは、仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持三宝)などがある。三宝は仏教のあるところ、必ず存在し、三宝に帰依すること(「三帰依」または「三帰」と称する)は仏教への入信の最初の要件とされる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある」私の七年前の「耳吹路 卷之四 慈悲心鳥の事」の注で、カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax とした。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウもその鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声もダウン・ロード出来る。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。

「ククウ」原文“cuckoo”。カッコウのこと。カッコウ目カッコウ科 Cuculidae 或いはカッコウ属 Cuculus 或いは種としてのカッコウ Cuculus canorus を指す語。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」を読まれたい。

「ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)」カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を読まれたい。

「ムジヤウドリ(無常の鳥)」ホトトギスの異名には「無常鳥(むじょうとり)」が事実ある。

「四月の八日に寺院に掛ける聖畫」釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)の会式の一齣。現行でも毎年四月八日に行われ、一般的には「花祭り」の名で知られる。ゴータマ・シッダッタが旧暦四月八日に生誕したとする伝承に基づくもので、「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」「浴仏会(よくぶつえ)」「龍華会(りゅうげえ)」「花会式(はなえしき)」といった別名もある。現行の灌仏会では草花で飾った花御堂(はなみどう)の中に甘茶を満たした灌仏桶の中央へ誕生仏の像を安置し、それに柄杓で甘茶を掛けて祝うのが通常である。

「自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである」古く、ホトトギスが「渡り鳥」であることが分からなった頃、「ホトトギスは秋に死んで春に生き返るもの」と思われていたらしい。そこから「死出の鳥」「冥土の鳥」と表現されることがあったようである(後には「山奥に住み、春に里に出てくる」とする山の神と田の神の相互置換に親和性を持ったものに変化したようでもある。)。また、中国由来の「杜宇」「蜀魂」「不如帰」も見るからに不吉であるが、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で注した通り、これらは中国のある伝説に基づく。長江流域に「蜀」という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに「杜宇」という男が現われ、農耕を指導して蜀を再興して帝王となって望帝と呼ばれた。後に長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。後、死んだ杜宇の霊「魂」はホトトギスと化し、農耕を始める季節が来ると、それを民に告げるために、鋭い声で民に注意を促して鳴くようになったという。また、後に、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去(ゆ)くに如かず: 何よりも故国へ帰るのが一番よいことだ)と鳴きながら、血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い伝え、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになったともされるのである。他にも、悲劇的な本邦のホトトギス転生伝承譚「時鳥と兄弟」の話もある(私の「郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)」の注を参照。この「郭公」は詩篇本文で「ほととぎす」と訓じている。清白もそこで「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」と詠んでいる。その私の注でもホトトギスの冥界性を記してある)。さらに言えば、民俗社会に於いて、ホトトギスがそうした不吉でネガティヴな一面を持っているのは、彼らの習性にも関係するものであろう。奇体な自分で子を育てない托卵については既に万葉時代に知られていたし、彼らが夜や雨の日にも平気で鳴いていること、しかも一ヶ所に留まらずに飛び回りながら鳴くためにその姿を現認し難いいことなどが、霊的なもの闇の世界と結びついていると考えられたというのは腑に落ちるのである。

「ホトトギスが五十二も異つた名を!」このリスト! ここに残しておいて欲しかった!]

 英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒスは、何等佛敎に緣のある俗名を有つて居るやうには見えぬ。が、その笛(フルート)のやうな啼聲は、ニチレン卽ちホツケ宗の大聖典たる、妙法蓮華經の普通名ホケキヤウといふ語を發音するのだ、と云はれて居る。そして佛敎の篤信は、この鳥は妙法蓮華の經を讃へず一生を送ると言ひ張る。だから、ウグヒスは實際佛敎に緣のある鳥だと思はれて居る。他の鳥で佛敎に少し緣があるやうに思はれる鳥は、ボンナフサギ(煩惱鷺)といふ異常な名稱が與へてある雪白の鷺である。『ボンナフ』とは浮世の願望、色欲、情欲の佛語で、どうしてそれがこの鳥の名に見えて居るか、自分は言ふことが出來ぬ。

[やぶちゃん注:「英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒス」誤り。別名「夜鳴鶯(よなきうぐいす)」や「墓場鳥」という有り難くない別名でも呼ばれる「西洋のウグイス」と称されるほどに鳴き声の美しい鳥、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos であるが、ウグイスはスズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたい。

「ボンナフサギ(煩惱鷺)」サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensis の異名博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 𪇆𪄻(さやつきどり)(ヨシゴイ)」を見られたい。因みに私は彼らの葦の擬態がお気に入り! さても。動画で幾つかのヨシゴイの鳴き声を聴いたが、遠くの人を呼ぶような、何かもの悲しさのある叫びに感じた。気のせいかと思って検索すると、サイト「C.E.C.」の「徒然野鳥記」の「ヨシゴイ」に、その声は『「オーツ、オーツ」ともの悲しく聞こえます。ゴイサギ』(類)『の古名で、「凡悩鷺(ぼんのうさぎ)」と呼ばれることがあるのは、この鳴き声に由来するのではないでしょうか』とあった(嘗つて近代㎡まで「ヨシゴイ」は「ゴイサギ」(サギ亜科イサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の類と誤認されていたようである)。]

 

 斯んな佛敎に緣のある名の起原を推測するの困難は、例證の助けを藉りなくては想像すら及ばぬ。その文字通りの意味は、多くの場合、硏究を誤らす川を爲すに過ぎぬ。例へば、槌のやうな頭をした鱶[やぶちゃん注:「ふか」。]は、九州海岸地方では、ネムブツバウ(念佛坊)といふ異常な名稱で知られて居る。『ネムブツ』といふ語は、多くの宗派の信心者が祈禱として、殊に死者に對する祈禱として、口に唱へる『ナム・アミダ・ブツ!』(アミダ佛に敬禮)といふ祈願の名である。で、[やぶちゃん注:ここは底本では読点ではなく、巨大な「ヽ」であるが、誤植と断じて特異的に変えた。] 凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた[やぶちゃん注:フランス語の「鮫」は“Requin”(ルゥカン)で、「レクイエム(鎮魂歌)」は“Requiem”(レキュイエム)。]。が念佛坊といふ佛敎に緣のある名が、それと同じ樣な意味をや〻含んで居はせぬか、と思つた自分は間違つて居つた。この言葉の眞の意味はこの怪物が有つて居る佛敎的な別な名――シユモクザメ(撞木(しゆもく)鮫)――に依つて證明されて居る。『シユモク』といふ語は、僧が念佛や他の祈禱を唱へる間鉦を打つ、T字形の槌を意味するのである(信心深い家では、家の内の佛壇の前で念佛を唱へる間に、鉦を鳴らすのに同じ種類の槌を用ひることを述べてもよからう)シユモクザメ(撞木鮫)の別名としてメムブツバウといふ語を思ひ附かせたのは、祈願の言葉を唱へる間に斯く撞木と鉦とを使用するが爲めであつた。だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである。

[やぶちゃん注:「槌のやうな頭をした鱶」軟骨魚綱メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidae のシュモクザメ類。“Hammerhead shark”の英名で知られるシュモクザメ類は世界で二属九種いるが、本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna のシロシュモクザメ Sphyrna zygaena・ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran・アカシュモクザメSphyrna lewini三種ほどである。一言言っておくと、本種はかなり古くから人を襲う、と信じられている向きがあるが、私はそれに強い疑義を感じている。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。人を襲うシーンが出る小説も私は知っているが、如何にも造り物臭い、いやな小説であった。寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも「慄っとした」という証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実ではある

「凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた。」ここの原文は、

The grim suggestiveness of the name Nembutsu-bō reminded me that the modem French word for shark is, according to Littrè, only a corruption of “Requiem,”— the appellation originally implying  (as stated by Père Dutertre in 1667)  that for the man caught by a shark there was nothing to be done except to chant his requiem.

である。「リトレ」は辞書編纂者で哲学者でもあったエーミール・マクシミリアン・ポール・リトレ(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一八年~一八八一年)であろう。「ペール・ドゥテルトル」は不詳。フランス人植物学者にジャン=バプティステ・デュ・テルトレ(Jean-Baptiste Du Tertre 一六一〇 年~一六八七年)ならいる。

「だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである」最後にちょっと遊ぶ。前の引用で判る通り、小泉八雲は日本語をローマ字で表記する場合には口語音に合わせた表記をしている。従って「念佛坊」は“Nembutsu-bō”なのである。訳のように歴史的仮名遣を使われると、「ばう」でダメだが、「ぼう」なら、違う可能性を指示出来る。則ち、鉦を叩くための「棒」で「念仏棒」である。まあ、比叡山の千日回峰で被る奇体な前後に長い被り笠(未開の蓮華の葉を象ったものとされる)のミミクリーを考えると、シュモクザメは「僧」でもあろうが。お後がよろしいようで……。]

2019/10/17

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その2

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信訳)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 眞言宗の日本の大祖師クウカイ卽ちコウボフダイシは、またその名簿の中に一つの地位を有つて居る。コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。

[やぶちゃん注:「名簿」小泉八雲が仏教由来の動植物の名称と判断して自身で蒐集した、本篇執筆のスタートとなった自筆資料であるリストを指す。

「コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、」原文“Kōbō-mugi, or“Wheat of Kōbōdaishi,”is a common name for the Carex macrocepbala ;”。単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科コウボウムギ節スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。ウィキの「コウボウムギ」によれば、『名前の弘法麦の由来は、かつて茎の基部の分解した葉鞘の繊維が筆を作るのに使われた事から、筆ならば』、『弘法大師(空海)様だ、というようなことであるらしい。別名としてフデクサというのもある』とある。小泉八雲の「Carex macrocepbala」は恐らく嘗つて同種の変種としてコウボウムギが扱われていた際の原種名と思われる。欧文の書籍の本種の注に「Carex macrocepbala var. kobomugi」という記載を見出せるからである。

「栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。」原文は“a variety of chestnut is called Kōbōdaisbi-kawazu-no-kuri, ―“The Chestnut that Kōbōdaishi did not eat.”で「kawazu」はママ。これはムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata の地方異名である。月刊『杉』WEB版の岩井淳治氏の『いろいろな樹木とその利用/第18回 「トチノキ」』に、多様な異名一覧が出る中に、「コウボウダイシクワズノクリ」がある。岩井氏は『コウボウダイシという言葉が出てきますが、ある日、栗を煮ていたおばあさんのところに行脚していた弘法大師が通りがかり、栗を所望したところ』、『「これは苦いからダメだ」と断ったため、それ以後』、『苦くなったとの話があります』と記しておられる。そこで栃餅(とちもち)の製法が詳しく記されている通り、縄文以来、食用とされてきたが、渋抜き(トチの実にはサポニン・アロインを含み、直接、食用することは出来ない)をするために非常な手間がかかる。それを以って「食わずの栗」としたものである。この話、私は四国の話として知っている。過去に電子化したものの中に確かにあったはずなのだが、見出せない。発見次第、追記する。

 

 植物または生物の名で佛敎の習慣、傳說、儀式若しくは信仰に關係を有つたのが多くある。バウズ(僧。英語のボンズの原[やぶちゃん注:「もと」。])といふ語が種々な植物名に與へられて居る。異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る。筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る。序だから言ふが、この一名は日本の繪本に能く出て來る或る神話的な海の怪物にも與へて居る名である。佛敎傳說のある有名なボオ・トジィの名は、日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る計りで無く、普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る。春分(しゆんぶん)の佛敎大祭卽ちヒガン(彼岸)の祭は、その時分に開花する二種の植物に名を提供して居る。ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)とヒガンバナ卽ち「彼岸の花」(學名ライコリス・ラディアタ)とがそれである。我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り、鳩の一種に――恐らく其斑紋の故であらう――ズズカケバト(數珠掛け鳩)といふがある。學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である。多分その花がケマンに、卽ち佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘に、似て居るからの稱呼であらう。恐らくは斯んな佛敎的稱呼のうちで一番奇妙なのは、英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。

[やぶちゃん注:「バウズ(僧。英語のボンズの原])」“The word bōzu, "priest" — (the origin of our word “bonze””。「bonze」(バァンズ)は英語で「仏教の僧侶」を指し、日本語由来である。なお、「priest」は広義には「聖職者」であるが、狭義には「カトリックの司祭」を指す。

「異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る」「坊主草」の異名を持つものは、ネットで調べると、

・シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ Equisetum arvense

・コショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata

・シソ目シソ科クサギ(臭木)属クサギ Clerodendrum trichotomum

・単子葉植物綱イネ目ホシクサ科ホシクサ属 Eriocaulon のホシクサ(星草)類

・単子葉植物綱ラン目ラン科オニノヤガラ(鬼の矢柄)属オニノヤガラ Gastrodia elata(薬用植物)

等があった(他にも恐らくは別な種の地方名にあろうとは思う)。スギナ以外は花や萼や果実の様子を坊主の頭や僧衣に見立てたものであるが、臭気があったり、スギナのように雑草であったりするところを見ると、僧を卑称した「糞坊主」の傾向が強く感じられるようにも思う。まず、小泉八雲の言う三種は誰もが今でも知っている馴染みの頭の三種と見て差し支えあるまいとは思う。

「筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る」大槻文彦の「言海」に、

   *

うみ-ば(ボ)うず(名)海坊主 ㈠うみがめノ大ナルモノ。(筑前)㈡海上ニ現ハルト云フ妖怪ノ名。

   *

と出るから、小泉八雲の言う「一種」は、爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea の大型成体個体の意で採るべきであろう。

「佛敎傳說のある有名なボオ・トジィ」“The name of the famous Bo-tree of Buddhist”。「Bo-tree」はブッダがその木の根元に座って悟りを得たとされる「菩提樹」の英名。

「日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る」イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa。ブッダのそれは本種である。

「普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る」中国原産で、以上の真正の「菩提樹」の代わりに日本の寺院では盛んに植えられている、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana のこと。御覧の通り、真のインドボダイジュとは類縁関係は全くない。一説に、日本へは臨済宗の開祖である栄西が中国から持ち帰ったと伝えられている。

「ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)」““Higan cherry-tree”(Prunus miqueliana)”。「Prunus miqueliana」は野生種であるバラ亜綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ Cerasus itosakura のシノニムであり、「彼岸桜」、則ち、サクラ属エドヒガンも同じく Cerasus itosakura であるから、問題ない。

「ヒガンバナ卽ち「彼岸の花」(學名ライコリス・ラディアタ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナLycoris radiata。学名は音写するなら「リコリス・ラジアータ」である。私は六年前、本種の異名を調べたことがある。「曼珠沙華逍遙」を見られたい。……そうだ……先だって、家の斜面に亡き母が植えた白い曼珠沙華が咲いていた……「白い曼珠沙華」の花言葉は……赤いヒガンバナのいいところ、しかないのだ……「また会う日を楽しみに」……「想うはあなた一人」……アリスよ……その通りに……なってしまったなぁ…………

「我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り」「ヂヨッブス・ティアズ」の原文は“Job's Tears”。「ヨブの涙」! これは辛気臭い和名より遙かにいい! いやいや! 英名だけじゃないんだ! 学名も、

単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi

なんだ! 「lacryma」(ラクリマ)もラテン語で「涙」の意なのだ! 私は幼年期の記憶に繋がっているジュズダマが大好きなのだ!

「ズズカケバト(數珠掛け鳩)」ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria。全体に淡い灰褐色であるが、後頸部に半月状の黒輪があることに由る和名である。

「學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、」“The Allium victoriale is called Gyojaninnihu, or“Hermit's garlic”(“gyōja”being the Buddhist term for hermit) ;”。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ギョウジャニンニク亜種ギョウジャニンニクAllium victorialis subsp. platyphyllum。小泉八雲の表示した学名は標準種のシノニムである。

「英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である」“the popular Japanese name for the Bleeding-heart is Keman-sō”。キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科ケマンソウ属ケマンソウ Lamprocapnos spectabilisウィキの「ケマンソウ」によれば、花期は四~六月で、『斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花を付ける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎一本に花が最大で』十五『輪ほど釣り下がって咲き、あたかも鯛が釣竿にぶら下がっているように見える』ことから「タイツリソウ(鯛釣草)」の異名も持つ、但し、『全草、特に根茎と葉にビククリン、プロトピンなどを含』む有毒植物である。

「ケマン」「佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘」仏堂における荘厳具のひとつ。「花鬘」「花縵」とも書く。梵語の「クスマ・マーラー」の漢訳で、「倶蘇摩摩羅」と音写される(倶蘇摩が花、摩羅が「蔓」、「髪飾り」の意)。金銅・牛革製の円形又は楕円形のものに、唐草や蓮華を透かし彫りにして、下縁に総状の金物や鈴を垂らしたものである。参照したウィキの「華鬘」によれば、『元々は生花で造られたリング状の環(花環)で、装身具であったものが僧などに対して布施されたものと考えられている。本来』、『僧は出家したものであり』、『自分の身を飾ることができないことから、布施された花環を仏を祀る仏堂を飾るものへと変化したものと見られる。それが恒常化して、中国や日本では金銅製などの金属でできたものや、木製・皮製のものなどで造られるようになった。インドでもさまざまな素材で作られていた』。『形状は、主に団扇型でその頂に紐で吊るすための環がついており、宝相華文や蓮華文などのほか、迦陵頻伽や種子などが施されたものがあり、揚巻結が付されている』とある(リンク元に画像有り)。

「英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。」原文は、

“Perhaps the water-arum has the most curious of all such Buddhist appellations : its Japanese name, Kokuzen-so literally signifies the“Small-sitting-in-Dhyâna--meditation-plant.”

である。「water-arum」は外観は小型のミズバショウ(サトイモ科ミズバショウ属ミズバショウ Lysichiton camtschatcensis)といった形態をしている、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ヒメカイウ属ヒメカイウ Calla palustris を指し、当該種は「ミズザゼン」(水座禅)の異名を持っている。]

 

 センニン(普通之を英語ではジイニアスとかフエアリとか譯するが、本來はリシである。リシとは難行苦行の效によつて超自然的な威力を得て、その生命無限な者)といふ語はたまたま植物名に見える。英語のクレマティスの一變種にセンニンサウ(仙人草)といふがあり、英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある。

[やぶちゃん注:面倒なので、最初に全文を原文で示す。

 The word Sennin,— commonly translated as “Genius”or“Fairy,”but originally meaning Rishi, — a being who has acquired supernatural power and unlimited life by force of ascetic practices, — occasionally appears in plant-names. A variety of Clematis is known as Sennin-sō, or“Fairy-weed”;  and a kind of cactus has received the grotesque appellation of Sennin-shō, or“Sennin's-Palm,”—  the paim of the hand being referred to.

「Genius」天才・鬼才・非凡な才能の持ち主。

「Fairy」フェアリー。妖精。

「リシ」「Rishi」サンスクリット語の英訳。ヴェーダ聖典を感得したとされる神話伝説上の「聖者」あるいは「賢者達」を指し、漢訳仏典などでは「仙人」などとも訳され、インド学では「聖賢」などと訳される(ここはウィキの「リシ」に拠った)。

「クレマティス」「Clematis」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 族センニンソウ属 Clematisウィキの「クレマチス」によれば、『園芸用語としては、このセンニンソウ属の蔓性多年草のうち、花が大きく観賞価値の高い品種の総称』で、『修景用のつる植物として人気があり、「蔓性植物の女王」と呼ばれている』とある。

「センニンサウ(仙人草)」センニンソウ属センニンソウ Clematis ternifloraウィキの「センニンソウ」によれば、蔓『性の半低木』の一種で、『属名(Clematis)は「若枝」を意味し、種小名(terniflora)は』「三枚葉の」を『意味する』。『和名は痩果に付く綿毛を仙人の髭に見たてたことに由来する』。『別名が「ウマクワズ(馬食わず)」、有毒植物で』『馬や牛が絶対に口にしないこと』に由来する、とある。

「英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある」「cactus」はサボテン(ナデシコ目サボテン科 Cactaceae)のこと。思うに、「仙人掌」に最もふさわしいのは、サボテン科の中でも、ウチワサボテン亜科オプンティア属オプンティアOpuntia のそれであろう。]

 

 人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤといふ語は、その日本化された形のヤシヤとなつて、種々な植物名に見える。學名アルドゥス・フイルマの毬果[やぶちゃん注:「きうくわ(きゅうか)」。]は、繪畫的にヤシヤブシ(夜叉節(ぶし))と呼ばれて居り、或る水草はヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)といふ妙な名で知られて居る。

[やぶちゃん注:やはり原文総てを示す。

 The Sanscrit term Yaksha, signifying a mandevouring demon, appears in several plant-names under its Japanese form, — Yasha.  The cone of the Aldus firma is picturesquely called Yashabushi, or “Yaksha's-joint”;  and a water-plant b known by the curious name of Yasba- bishaku, or “Yaksha's Ladle.”

「人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤ」夜叉(サンスクリット語ラテン文字転写:yakṣa/パーリ語同前yakkha/「暴悪」「捷疾鬼」「威徳」等と漢訳される)は古代インド神話の鬼神。「薬叉(やくしゃ)」とも称する。後に仏教に取り入れられて護法善神の一尊となった。ウィキの「夜叉」によれば、『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。

「アルドゥス・フイルマ」「Aldus firmaブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma。漢字表記は「夜叉五倍子」が一般的。ウィキの「ヤシャブシ」によれば、『ヤシャブシ(夜叉五倍子)の名の由来は、熟した果穂が夜叉にも似ていることから。また果穂はタンニンを多く含み、五倍子』(フシ:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensisの葉に昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensisが寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作り、そこには黒紫色のアブラムシが多数、詰まっている。この虫癭はタンニンを豊富に含み、革鞣(なめ)しや黒色染料の原料となる)『の代用(タンニンを多く含有する五倍子は古来、黒色の顔料、お歯黒などに使われてきた)としたためといわれる』とある。

「毬果」「球果」とも書く。マツやスギなどに見られる、球形や楕円形をした果実を指す。通常は松傘のように胚珠が成熟して木化した鱗片を附け、それに二個の種子が出来る。木化せずに肉質となる種もある。

「水草」「ヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)」「水草」は不審。寄生性落葉低木になら、ユキノシタ目ユキノシタ科スグリ属ヤシャビシャク Ribes ambiguum がある。本種については、サイト「岡山理科大学 生物地球学部 生物地球学科 旧植物生態研究室(波田研)」内のこちらを参照されたい。水草のヤシャビシャクを知っておられる方があれば、是非、御教授願いたい。

 

 植物、鳥類、魚類併びに蟲類の日本名に――丁度英吉詞の民間の言葉に、デヴルス・エプロンとかデヴル・ウツドとかデヴルス・フインガとかデヴルス・ホースとかデヴルス・グーニング・ニードルとかいふやうな植物名昆蟲名があるやうに ――英語のディモン或はデヴルに營たる佛敎語の『オニ』といふ語を接頭字に附けて居るのが甚だ多い。英語のタイガ・リリーは日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る。英語のコイツクスの一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る。英語のバー・マリゴールドはオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り、一種の水草で蓮の繁殖に害を與へるものを通常オニバス(鬼蓮)と唱へて居る。このオニといふ接頭字は、多分幾百もの植物併びに動物の俗名に、附けられて居ることであらう。自分が集めたものでもその數七十一を下らぬ。が然し、そのうち興味のあるものは尠い。

[やぶちゃん注:最初に「ディモン」と「デヴル」の違いを示しておく。「Demon」(デーモン)はギリシャ語の「ダイアモーン」が語源で、本来は「精霊」・「鬼神」を意味する広汎に善でも悪でもあった超自然的存在を指したが、宗教・神話・伝承などに組み込まれて、零落し「悪霊」を指すようになったもの。一方の「Devil」(デヴィル/デビル)は、ヘブライ語の「サタン」のギリシャ語訳「ディアボロス」が語源とされ、もとから「邪悪」という概念を人格化したものであり、主にキリスト教に於いて唯一神ヤハゥエに敵対する邪悪な存在を指す。

「デヴルス・エプロン」原文“Devil's-apron”。海藻の昆布類、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae のコンブ類を広く指す。平井呈一氏の恒文社版の訳(一九七五年)「動植物の仏教的名称」では、平井氏は丸括弧で割注を入れておられ、そこでは『(赤エイの一種)』とされておられる。膝を打ちたくなるほどありそうな異名なのだが、調べてみても、ヒトでも死に至ることがある有毒な棘を持ったエプロン状のアカエイ(Red stingray:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei)や、その近縁種に英名「悪魔のエプロン」はいないようなのだ。ちょっと淋しかった。

「デヴル・ウツド」“Devil-wood”。シソ目モクセイ科 Cartrema Cartrema Americana英文ウィキの同種に別名を“devilwood”とする。由来は判らないが、早春に咲くその花は、強烈な芳香を放つらしいから、それに由来するか。しかし、平井氏は割注で『(ヌルデ)』とされておられる。これは無論、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensisのことだ。ウルシ(ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)ほどではないが、稀にかぶれる人もいる。しかし、「悪魔の」と冠するほどではあるまい。

「デヴルス・フインガ」“Devil's-fingers”。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科アカカゴタケ属Clathrus archeri のこと。同種の英文ウィキに別名を“devil's fingers”とする。他に、「Octopus Stinkhorn fungi」の異名を持ち、本邦の記事では「タコスッポンタケ」(正式和名は恐らくまだない)などと呼んでいるものもある。オーストラリアとタスマニアを原産地とし、現在は北米・アジア・ヨーロッパなど世界各国に広がっている。悪臭を放ち(蠅媒(じょうばい)茸である)、その卵形の本体から赤い如何にもタコ足っぽいエグい胞子体を放散する器官が延び出して展開する。私はよく訪ねるサイト「カラパイア」の『キノコホラーサスペンス:「悪魔の指」の異名を持ち、強烈な死臭を放つキノコ「タコスッポンタケ」』で六年前に動画を見て知っていた。この動画はまだおとなしい方である。毒があるわけでも(逆に食用可)、実際に臭さが判るわけでもないが、かなり強烈である。リンクを見るかどうかは、さて、自己責任で。但し、平井氏は『(サボテンの一種)』とされておられる。

「デヴルス・ホース」“Devil's-horse”。これは「Devil's coach horse beetle」(「悪魔の馬車馬甲虫」)のことではなかろうか? 本邦には棲息しない鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科 Ocypus Ocypus olens英文ウィキの同種の記載を見ると、“Devil's steed”の別名が見える。「steed」は「乗馬用の馬」の意である。本種は腹部に二つの臭腺を持っていてそこから悪臭を放ち、また、強力な顎を持っており、咬まれるとかなり痛むとある。また、本種は中世以降、実際に悪魔との関係性が伝承として語られているらしい。さらに、イギリスの伝承にはイヴが食べた林檎の種をこの虫が食ったと伝えるともあり、それこそ「原罪の虫」なのである。平井氏は『(カマキリ)』とされるが、う~ん、流石にそれではこの恐るべき虫と対するには、役不足という感じがする。

「デヴルス・グーニング・ニードル」“Devll's-daming-needle”。「daming-needle」は「dam」(繕う)ための「needle」(針)で、「かがり針」のことである。さても、これは意外なことに(というか、私は時々小さな時からトンボを捕まえることは出来ても、その翅の生えている背を凝っと見ているうちに気持ちが悪くなる気弱な少年であったのだが)「トンボ」の悪しき異名らしい。平凡社「世界大百科事典」の「蜻蛉」を見ると(コンマを読点に代えた)、『欧米では元来、トンボを益虫としたり、勇ましい、あるいは魅力のある虫と考えることはなかった。子どもが子どもがトンボとりに夢中になることはないといってよい。トンボはむしろ不吉な、気味の悪い虫であるとされることが多く、その別名として、英語 darning needle(〈かがり針〉の意)とか、同じく英語 devil’s darning needle、ドイツ語 Teufelsnadel、フランス語 aiguille du diable(いずれも〈悪魔のかがり針〉の意)とか、英語 witch’s needle(〈魔女の針〉の意)というのがある。これはトンボがその長いしっぽを』、『針のように使って、人間の耳を縫いつけてしまうとか、子どもがうそをついたり、いけないことをいったりすると唇を縫ってしまうという俗信に由来する。親がそういって小さい子を脅すことがあった。北アメリカでは mosquitohawk(〈蚊取り鷹〉の意)と呼ぶことがあり,これは日本人にも理解しやすいが、snake doctor(〈蛇の先生〉あるいは〈蛇の医者〉の意)という奇異な別名もある。蛇に危険が近づくと』、『トンボがそれを蛇に知らせてやるという迷信に基づく。同様に flyingadder および adder fly(〈飛ぶマムシ〉の意)ともいう』。『フランスの古い迷信でもトンボと爬虫類や両生類などが結びつけられることが多く、おそれられ、いやがられてきたようである。サンショウウオとトンボを同じ名で呼び、かまれると危険であると思っている地方や、洗濯女などが、トンボに』「刺されないよう」に『おまじないの文句を唱えていた地方がある。またトンボの翅で手が切れるとか、トンボに額を打たれると必ず死ぬ』、『とかいわれていた』とある。平井氏は『(北米の一地方にいるカトンボの一種)』とかなり細かく、自信を持って割注されておられる。平井氏には種か和名を指定して欲しかった。

「英語のタイガ・リリー」“The tiger-lily”「は日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium のこと。和名の由来については、花びらに黒い斑点模様が沢山あり、橙色がかかった赤めの花びらに、黒のだんだらの斑点が目立つ点、花の色や形がやや特異に反って見えること等から、「赤鬼」を連想させたとする説があるが、本邦の接頭語としての「鬼」は「オニヤンマ」のように「大きい・強い」という傾向が強いから、これは同属のヒメユリ(姫百合:Lilium concolor)と比べて「大きい」という意味とする説を私は支持したい。この用法については次の段落で小泉八雲も述べている。

「英語のコイツクス」(coix)「の一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る」coix」は既出既注の単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi の属名。斜体になっていないが、これは「Coix seed」などと「ジュズダマ」の一般名詞としての使用法があるから、問題ない。

「英語のバー・マリゴールド」(bur-marigold)「はオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り」Bur marigold」は、黄色の花を咲かせ、毛皮や衣服にくっつく刺(とげ)のある実(所謂、ご存じ「ひっつき虫」である)を持つ、キク亜綱キク目キク科キク亜科センダングサ属 Bidens の数種の植物の総称。サイト「跡見群芳譜」の「せんだんぐさ(栴檀草)」Bidens biternata)の「訓」の項に小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」を引いて『鬼針草に、「センダングサ キツネバリ備後 カラスバリ奥州 石クサ越後 オニバリ キツネノヤ キツネノヤリ ハサミグサ ヌスビト播州。衣服ニ』實『ノ著モノヲ』總『テヌスビトゝ云、イトロベトモ云 キツネノハリ同上 モノツキ長州 オニノヤ藝州 モノグルヒ』豐『前 シブツカミ勢州 ヤブヌスビト ヌスビトノハリ共ニ同上」』と冒頭に「鬼針」が出ている

「オニバス(鬼蓮)」スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox「蓮の繁殖に害を與へるもの」を「鬼」の由来のように小泉八雲は書いているが、この「鬼」は植物全体に大きな刺(遂げ)が生えていることに由来し、特に水面に広がる大きな葉の表裏に生える刺は実際に硬く鋭い。ウィキの「オニバス」によれば、『農家にとってオニバスは、しばしば排除の対象になることがある。ジュンサイなどの水草を採取したりなど、池で農作業を行う場合、巨大な葉を持つオニバスは邪魔でしかないうえ、鋭いトゲが全体に生えているために嫌われる羽目になる。また、オニバスの葉が水面を覆い』、『水中が酸欠状態になったため、魚が死んで異臭を放つようになり、周囲の住民から苦情が出たという話もある』。『水が少ない地域に作られるため池では水位の低下は死活問題に直結するが、オニバスの巨大な葉は水を蒸散させてしまうとされて歓迎されないこともあった』とある。しかし、『日本では、環境の悪化や埋め立てなどで全国的に自生地の消滅が相次ぎ』、『絶滅が危惧されており』、本邦では、嘗つては『宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』とある。]

 

 日本の佛敎で認められて居る一種の化物(ばけもの)を意味して居る、キジン或はキシンといふ語は、同じくまた接頭字として使用されて居る。例を舉ぐれば、英語のニードル・グラスの一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る。一種の女化物を意味して居る、今一つの佛語のキヂヨといふ語が、或る蘭の普通名に見えて居る。キヂヨラン(鬼女蘭)がそれである。それからまた、鬼(おに)とか化物とかの意味の語の省略のキといふ接頭字があつて、これが時々植物名に現はれて居る。例へば學名パルダンサス・チネンシスは日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る。こんな惡魔に因んだ名は、ただ單にその恰好が醜惡であるか異常であるかの爲めでは無く、著しく大きいが爲めに植物なり動物なりに與へてあるといふことは、述べて置く價値がある。例へば一種の告天子[やぶちゃん注:「ひばり」。]をオニヒバリ(鬼告天子)と呼んで居るのは、偶〻それが普通の野告天子[やぶちゃん注:「のひばり」。]よりも餘程大きいからである。また非常に大きな或る蜻蛉を同じ理由でオニヤンマ(鬼蜻蛉)と名づけて居る。

[やぶちゃん注:「英語のニードル・グラス」(needle-grass)「の一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る」needle-grass」は単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ亜科 Pooideae に属する Stipeae Stipa 属の中の、細く伸びた草体の一群を指す。但し、同属そのものは本邦には植生しないようであるから、小泉八雲の言う「一種」は誤りである(実際、以下に見る通り、縁もゆかりもない双子葉植物綱の全くの別種である)。ここまでは英文ウィキの「Stipaに拠った。そこに、同属を構成するグループとして「feather grass」・needle grass・「spear grass」を掲げてある。「キシンサウ(鬼神草)」はキク科センダングサ属コバノセンダングサ Bidens bipinnata の異名個人サイトと思しい「三河の植物観察」のこちらがよい。

「キヂヨラン(鬼女蘭)」キク亜綱リンドウ目ガガイモ科キジョラン属キジョラン Marsdenia tomentosaウィキの「キジョラン」によれば、蔓『性の多年草の』一『種』で、『有毒』。『木質になる』。『葉は対生し、卵円形で大きく、基部は円脚か浅い心脚、全体としてはややハート形に近くなる。葉の表面は深緑で、無毛、少しつやがある。花は葉腋から出て』、二~三センチメートルの『短い柄の先に散形の花序をつける。個々の花は白で、径約』四ミリメートルで、花期は八~十一月。『花に対して果実は大きく、楕円形で長さ』十三~十五センチメートルにもなり、蔓から『ぶらさがる。キジョランの実は冬が近づくと、はじけて中から綿毛が飛び出す。和名は、その綿毛の白毛を鬼女の髪に見立てたことに由来する』。『朝鮮半島南部と日本に分布する。日本では関東以西の本州、四国、九州、沖縄に分布する』。『照葉樹林の林内から林縁に生え、木にも登るが、樹冠を覆うような生え方はしない。長距離移動することで知られているチョウのアサギマダラ』(鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ属アサギマダラ Parantica sita)『の幼虫の食草とされ、卵が産み付けられる』とあるから、八雲先生……鬼女どころか……鬼子母神……ですよ…………

小泉八雲は「或る蘭の普通名」と言っているが、本種は「蘭(ラン)」とつくものの、ラン(単子葉植物綱キジカクシ目ラン科 Orchidaceae)とは縁もゆかりもないので注意されたい。

「學名パルダンサス・チネンシス」(Pardanthus chimnsis)「は日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る」「鬼扇」とか「きせん」の異名では全く検索に掛かってこなかったが、小泉八雲が学名を記して呉れていたお蔭で発見出来た。現在は属が変更された、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica の旧学名のシノニム英文ウィキの「Iris domesticaの「Synonyms」に出る)である。ウィキの「ヒオウギ」によれば、『従来はヒオウギ』(檜扇)『属(Belamcanda)に属するとされ、B. chinensisの学名を与えられていたが』二〇〇五『年になって』、『分子生物学によるDNA解析の結果から』、『アヤメ属に編入され、現在の学名となった』とある。『ヒオウギは山野の草地や海岸に自生する多年草で』、高さ六十~百二十『センチメートル程度。葉は長く扇状に広がり、宮廷人が持つ檜扇に似ていることから命名されたとされる』。『別名に烏扇(からすおうぎ)』がある。『花は』八『月ごろ咲き、直径』五~六『センチメートル程度。花被片はオレンジ色で赤い斑点があり放射状に開く。午前中に咲き夕方にはしぼむ一日花である。種子は』四『ミリメートル程度で黒く艶がある。本州・四国・九州に分布する』。『黒い種子は俗に射干玉(ぬばたま・ぬぼたま・むばたま)と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。烏羽玉、野干玉、夜干玉などとも書く』。『和菓子の烏羽玉(うばたま)はヒオウギの実を模したもので、丸めた餡を求肥で包んで砂糖をかけたものや』、『黒砂糖の漉し餡に寒天をかけたものなどがある』。『花が美しいため』、『しばしば栽培され、生花店でも販売される。関西地方中心に名古屋から広島にかけて、生け花の』七『月初旬の代表的な花材である』。『特に京都の祇園祭や大阪の天神祭では、床の間や軒先に飾る花として愛好されている』。『生花はほとんどが徳島県神山町産のものである』とある。

「告天子」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には、

亜種ヒバリAlauda arvensis japonica

が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に、

亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi

亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis

が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もするから、ここで「オニヒバリ(鬼告天子)」と呼んでいるのは、大きなヒバリではなくて、有意に体が大きい最後のオオヒバリである可能性も視野に入れておく必要がある。なお、雲雀(ヒバリ)の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「オニヤンマ(鬼蜻蛉)」『小泉八雲/民間伝説拾遺/「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』の「十四」や「六、トノサマトンボ」を参照。

 

 動物幷びに植物の佛敎に緣のある名に靈的なのが多い。或る綠色の可愛らしい螽蟖[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]にホトケノウマ(佛の馬)といふがある。この虫の頭は恰好が馬の頭に奇妙に似て居る。が、『ホトケ』といふ語は――俗衆の信仰では善人は總て佛になると想はれて居るから――死者の靈といふ意味を有つて居る。だから、ホトケノウマといふ名の本當の意味は『死者の馬』である。さて、七月の三日間の死者の祭中、靈のうちで、昆蟲の助を藉るか[やぶちゃん注:「たすけをかりるか」。]、又は實際昆蟲の姿となつて、己が家鄕を或は己が前の友人の家を訪ふものが多い、と信ぜられて居る。で、この螽蟖の名は影の如き訪客が馬として用ゐる、といふ意を實際含んで居るのである。……それからまた、シヤウリヤウといふ語――佛式に據つて祀る祖先の靈の總稱、――と或る蜻蛉の名と一緖になつて居るのを見る。シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)がそれである。シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)も、似た意味の言葉のキヤンマも、同じくまたその蟲と不可見世界との關係を仄めかす積つも)りの名である。等しく薄氣味わるいのは、京都の方言での、英語のモール・クリケットの名である。多分その蟲の地下生活で思ひついた名であらう、――シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居るのである。植物の名稱のうちに。ユウレイダケ(幽靈竹)とか、ユウレイバナ(幽靈花)とか、いふやうな名がまたある。後者は花車な[やぶちゃん注:「きやしや(きゃしゃ)」。「華奢」に同じ当て字。]一種の茸の名で、不適切な名では無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「螽蟖」原文“grasshopper”。英語でこれは「バッタ」・「イナゴ」・「キリギリス」総てを指す。

「ホトケノウマ(佛の馬)」既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)』にも登場している。そこで私は本種を、

キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus

或いは、

ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor

に比定同定した。因みに、前者の名を私は「スイッチョン」と覚えており、「スィーーーッ・チョン」と長く延して鳴き、後者は「シッチョン・シッチョン」と短く鳴く。彼らの御面相は、確かに、馬っぽく、ネットを調べると、「ウマオイ」を出雲では「ホトケノウマ」と言うという記載も現認出来たと記してある。基本的にこれでいいと今も思っている。

「シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)」「シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)」「キヤンマ」『小泉八雲/民間伝説拾遺/「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』の「十六、シヤウリヤウトンボ」や「十五、キヤムマ」や、当該末の小泉八雲の記述を参照されたい。

「モール・クリケット」“mole-cricket”(改行でダッシュが入っているから、小泉八雲は“molecricket”の積りかも知れない。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ(螻)科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、本邦産のそれはグリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis属名は「Gryllo」の部分が「コオロギ」、「talpa」が「モグラ」(哺乳綱ガリネズミ形目モグラ科 Talpidae)を意味し、英名の「Mole cricket」も「モグラコオロギ」の意である。私はあの、夜、地面の黄泉に繋がる地下から聞こえてくる「ジー……」「ビー……」というケラの声が、好きだ。

「シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居る」京都では先祖の精霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼ぶ。今もそうだ。しかし、もうケラを「しょうらいむし」と呼ぶ京都人はいなくなってしまったのかも知れない。ネットには全く掛かってこない。何か淋しい気がした。

「ユウレイダケ(幽靈竹)」竹ではなく、ツツジ目ツツジ科シャクジョウソウ亜科ギンリョウソウ属ギンリョウソウ Monotropastrum humile、「銀竜草」の異名である。腐生植物(saprophyte:菌根を形成して生活に必要な有機物を菌類から得ることで生活をする植物群)の代表種である。青白い不思議なそれはまさに「幽霊竹」に相応しい。私は丹沢登山で何度も見かけた。ウィキの「ギンリョウソウ」画像をリンクさせておく。

「ユウレイバナ(幽靈花)」「花車な一種の茸の名」既に出した曼珠沙華(ヒガンバナ)の異名にあるが、ここは「きのこ」とはっきり限定している。しかし、キノコの「ユウレイバナ」を私は知らないのだ。しかも、前のギンリョウソウの異名の一つに「ユウレイバナ」があることも知っているのだ。翻って――素人は「ギンリョウソウ」を見たら「きのこ」と誤認しないだろうか?――私は「する」と思う。――とすれば――小泉八雲はこの「ユウレイダケ(幽靈竹)」と「ユウレイバナ(幽靈花)」が同一のものとは思わずに、前者には実際のタケ類を想定誤認し、後者を茸みたような青白く細くて華奢な「銀竜草」を茸と誤認して、かく述べたものではなかったろうか? キノコの「ユウレイバナ」があると言われる方は、是非、御教授あられたい。

2019/10/16

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その1

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Buddhist Names of Plants and Animals”。「植物と動物の仏教上での名称」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の二番目に配されたたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。底本ではパート標題は「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本文内に神経症的に注を挿入した。やり始めてみて、これ、今までになく、原文・訳文にかなりの問題点(私が拘りたくなる部類の、である)があるので、分割して示すことにした。

 

 

  佛敎に緣のある動植物の名

 

 一時(いつとき)自分は日本の動植物に附けてある佛敎に緣のある名の語彙を編纂したいと思つて、その著作の材料を蒐め始めた。が、其時は自分はそんな事業の實際の困難に就いて餘り知つてゐなかつた。そのうちの唯だ一つを述べて見れば、日本の殆ど何れの州にも他の州とは異つた民間語があつて、その差異が或る植物昆蟲爬蟲類禽鳥に附けてある名にさへ見えて居る。そんな名は、固よりのこと、百姓や漁夫の口から聽き取らなければならぬもので、自分が爲(し)ようと思つて居る事は民間傳說硏究會の堅忍な勞力に依らなければ、決して立派には爲し得られないのである。で、今のところ自分は、豫ての[やぶちゃん注:「かねての」。]志の語彙は作ることが出來ないで、この問題に對する二三の一般的註釋で甘んじなければならぬことになつて居る。

[やぶちゃん注:「民間傳說硏究會」原文“a folklore society”。これは「とある民間伝承の研究者の集まり」程度の意味であろう。何故なら、現在の「日本民俗学会」の発足は戦後の昭和二四(一九四九)年(平井呈一氏の恒文社版の訳「動植物の仏教的名称」ではここは『民俗学会』と訳されているが、これは全く事実に反するのである)その前身は昭和一〇(一九三五)年に柳田國男の還暦を機に開催された「民俗学講習会」に参集した全国の研究者の要望によって結成された「民間伝承の会」であった。則ち、本「日本雑記」が刊行された明治三四(一九〇一)年にはそのような研究団体、大谷が仰々しく訳すようなこんな研究会や組織・集団は、実は影も形もなかったのである。日本の民俗学の先駆けとも称される、かの佐々木喜善原作の柳田国男の発表した「遠野物語」でさえ、本書刊行の九年後の明治四三(一九一〇)年の発表だったのである(私は私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で「遠野物語」の全電子化注を終わっている)。しかも、戦後の高度経済成長と公害による急速な自然破壊と地方の限界集落化によって、伝統的民俗社会は殆んどが矮小化され、解体され、今現在、日本の民俗学はたかだか百年も経たぬうちに、早くも「死に体」或いは消滅した言語の秘術的伝承集団のようになってしまっていると言っても過言ではないと私は思っているのである。現在の民俗学者を標榜する輩は実に今から百十八年も前に小泉八雲が謙遜して述べている次の段落を肝に銘ずるべきである。]

 が、恐らくは此註釋は――それに對して所要の學識も手段も自分が持たなかつた一事業の殘物ながらも――極東の民間俗說といふ此の未着手の地域への未來の開拓者には少くとも暗示的價値はあるであらう。

 佛といふ名は數々の木や植物の名稱に見えて居る。マルブシユカン(佛の圓い指)といふは――その果實の恰好が甚だ能く、それに似て居るが爲めさう名づけられた一種の檸檬樹(レモン・トリイ)の名である。扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り、岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ――兩方とも「佛の指の爪」といふ意味の――繪のやうに美しい名によつて知られて居る。一種の藷は――その名稱を適當な漢字で書くと『佛の手の薯』といふ意味を有つ――ツクネイモと呼ばれて居り、つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある。

[やぶちゃん注:「マルブシユカン」被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica の和名。丸仏手柑(マルブシュカン)。ウィキの「シトロン」によれば、『漢名は枸櫞(くえん)。レモン』(ミカン属レモン Citrus limon)『と類縁関係にある』。『原産はインド東部、ガンジス川上流の高地。しかし紀元前にはすでにローマや中国に伝来していた。またアメリカ大陸にはコロンブスによる到達以降に伝わった。日本では「本草図譜」(』文政一一(一八二八)年成立『)に記載されているので、江戸時代以前に伝わっていたと思われる』。『枝にはとげが多い。葉は淡黄緑色、細長い楕円形で縁に細かいぎざぎざ(鋸歯)がある。新芽や花は淡紫色を帯びている品種が多く、花弁は細長い』。『熟した果実の表面は黄色く、形状は品種により様々だが、一般に紡錘形で重さは』百五十~二百グラムで、『頂部に乳頭が発達している。果皮はやわらかいが分厚く、果肉が少なく、果汁も少ない。また』、『果肉がかなりすっぱい品種とそうでない品種がある』。『ユダヤ教では一部の品種の果実をエトログ』『と呼び、「仮庵の祭り」で新年初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物の』一『つとする』。現代『フランス語でシトロン(Citron)と言った場合は』、『本種ではなく』、『レモンを指す。現在のフランス語でシトロンを示す場合はセドラ(Cédrat)と呼ぶ』。『ブッシュカン(仏手柑)はシトロンの変種(C. medica var. sarcodactylus)である』とある。

「扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensisウィキの「ブッソウゲ」によれば、「仏桑花」「扶桑花」「仏桑華」とも書き、沖縄では「赤花」とも呼ぶ。『ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名がHibiscusであることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科の園芸種群の総称ともなっている』。『極めて変異に富み』、八千『以上の園芸品種が知られているが、一般的には高さ』二~五メートルに『達する熱帯性低木で、全株無毛ときに有毛、葉は広卵形から狭卵形あるいは楕円形で先端は尖る』。『花は戸外では夏から秋に咲くが、温室では温度が高ければ周年開花する。小さいものでは直径』五センチメートル、『大きいものでは』二十センチメートル『に及び、らっぱ状または杯状に開き、花柱は突出する。花が垂れるもの、横向きのもの、上向きのものなど変化に富む。花色は白、桃、紅、黄、橙黄色など様々である。通常、不稔性で結実しないことが多い』。五『裂の萼の外側を、色のついた苞葉が取り巻いているので、萼が』二『重になっているように見える。よく目立つ大きな花は花弁が』五『枚で、筒状に合体した雄蕊の先にソラマメのような形の葯がついていて、雌蕊は』五『裂する。果実は』五『室の豆果で、多数の種子が入っている』。『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間(』一六一〇『年頃)に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという』。『ほぼ一年中咲くマレーシアでは、マレー語でブンガ・ラヤと呼び、国花として制定して』おり、『親しまれている花のひとつである』。『日本では南部を除き』、『戸外で越冬できないため、鉢植えとして冬は温室で育てる』。『沖縄県では庭木、生垣とする。沖縄南部では後生花(ぐそうばな)と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って』、『墓地に植栽する習慣がある』。『中国では赤花種の花を食用染料としてシソなどと同様に用い、また熱帯アジアでは靴をみがくのに利用するといわれ、shoe flowerの別名がある』とある。

「岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ」それぞれ「仏の爪」、「仏甲草」(ぶっこうそう)で、孰れも――小泉八雲は「岩苔」(原文は“rock-moss”)と言っているが、コケ類ではなく――れっきとした多肉の多年草であるユキノシタ目ベンケイソウ科イワレンゲ属 Orostachys のイワレンゲ類の異名である。ウィキの「イワレンゲ」によれば、『開花すれば枯死』してしまう『一稔性植物』で、『花後に葉腋から腋芽や走出枝をだして繁殖する。地下に根茎はない。根出葉は顕著なロゼット状に開き、葉を密生させる。葉に葉柄がなく、葉の先端が歯牙状または針状にとがることがある。ロゼットの中央の軸部分が円錐状に伸長して花茎になり、多数の花を密につける。花序には葉状の苞がつき、花柄の基部に小苞がある。短日性で、秋咲き。花序の下の方から順に咲いていく。萼は緑色の肉質で、裂片は』五『個で基部で合生する。花弁は』五『個で、白色、まれに紅色または黄色をおび、花弁全長の基部の』四分の一『ほどが合生する。雄蕊は』二『輪で』十『個あり、葯は』二『室で底着し、縦に裂ける。雌蕊は』五『個でほぼ離生し、子房の基部は柄状に細まり、背面に蜜腺がある。果実は』五『個の袋果になり、子房は花』の『時と変わらない形状をしている。種子は楕円形で長さ約』一ミリメートルに『なる』。『ウラル山脈以東のシベリア、中国大陸、朝鮮半島から日本にかけて分布する』。『分布地の内陸部または海岸部の岩上に生育する。建物の屋根上に生えるものもある』。『属名 Orostachys は、ギリシャ語でOros「山」とStachys「穂」による合成語で、「山に生え、穂状花序であること」からによる』。『この属に属する種は、The Plant List, Orostachys では』十二『種、日本の植物学者大場秀章は、『改訂新版 日本の野生植物 2』では一部の種を変種やその他の属として扱い』、八『種あるとしている』とある。

「佛の手の薯」「ツクネイモ」お馴染みの単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya の品種である、丸みを帯びた形状の Dioscorea opposite の地方名。「つくね芋」の外、「大和芋」・「伊勢芋」・「丹波芋」などが同種の品種の代表例である。「つくねいも」は小泉八雲の謂う通り、「仏掌薯」と漢字表記もする。

つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある」この場合の「仏の座」は、シソ目シソ科オドリコソウ亜科オドリコソウ属亜属Amplexicaule節ホトケノザ Lamium amplexicaule を指しているものと考える。但し、小泉八雲の「つめくさの一變種」(“a variety of clover”)というのは誤り。所謂、「クローバー」はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ属 Trifolium である。しかし、敢えて小泉八雲がそう言い間違えたのは、同じような草体や花のつき方をしているからこそ誤認したと考え、上記のホトケノザで採った。「春の七草」の食用になる「仏の座」の方は、キク亜綱キク目キク科ヤブタビラコ属コオニタビラコ Lapsana apogonoides で、全く別種である。コオニタビラコはクローバーとはおよそ似ていないと私は思う。ただ、絶対にこれでいいかどうかは不安が残る。小泉八雲の周辺では圧倒的に「春の七草」の「仏の座」=コオニタビラコを標準和名と信じている人が圧倒的であろうからである。

 

 菩薩や他の佛敎の神々(デイヸニテイ)の名がまた植物と動物との稱呼に見出される。クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)といふ名はクワンノンチク(觀音の竹)といふ語に見え、種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る。フゲン(梵語のサマンタバドラ)といふ名は樹の一變種に與へられて居る、――フゲンザクラ(普賢櫻)がそれである。ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名にも用ひられ、また通常ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る。プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である。ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベデ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。また此祖師の名を有つて居る魚が二種ゐる。一は學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り、今一つは學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る。『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である。が然し、上に揭げた名稱の何れよりも妙な名稱は米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である。

[やぶちゃん注:「神々(デイヸニテイ)」原文“divinities”(単数形“divinity”。音写するなら「ディヴィニティ」)は「神性・神格・神威・神徳」の意。

「クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)」原文“Kwannon (Âvalokitesvara)”。観世音菩薩のサンスクリット語のラテン文字表記は現行では「Avalokiteśvara」。音写は「アヴァローキテーシュヴァラ」。

「クワンノンチク(觀音の竹)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科カンノンチク属カンノンチク Rhapis excelsa。漢字は「観音竹」であるが、ご覧の通り、タケの仲間ではなく、ヤシ科植物の小型種である。ウィキの「カンノンチク」によれば、『掌状複葉の葉はお椀のように上に反り、少数にだけ裂ける。古くから栽培され、古典園芸植物としての品種も多い』。『南中国原産で』、『日本では鉢植えで栽培され』、『日本本土には江戸時代(』十七世紀半ば『)に琉球を経由して持ち込まれた』とある。

「種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る」よく知られた種としては、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ属キチジョウソウ Reineckea carnea の異名である。ウィキの「キチジョウソウ」によれば、『日本国内では』、『関東から九州、また中国の林内に自生し、栽培されることもある』。『家に植えておいて花が咲くと縁起がよいといわれるので』「吉祥草(きちじょうそう)」の『名がある』。『地下茎が長くのびて広がり、細長い葉が根元から出』、『花は秋に咲く。根元にヤブランにやや似た穂状花序を出し、下部は両性花、上部は雌蕊のない雄花が混じり、茎は紫色。花は白い花被が基部で合生し筒状となり、先は』六『裂して反り返り』、六『本の雄蕊が突き出る』。『果実は赤紫色の液果』とある。

「フゲン(梵語のサマンタバドラ)」“Fugen (Samantabhadra)”。普賢菩薩。

「フゲンザクラ(普賢櫻)」桜の古い品種の一つである八重の普賢象桜(或いは単に「フゲンゾウ」とも呼ぶ)のことであろう。バラ目バラ科サクラ属フゲンゾウ Cerasus × lannesiana である。ウィキの「フゲンゾウ」によれば、『雌しべが花の中央から』二『本出ており、細い葉のように葉化している。この雌しべが普賢菩薩の乗る普賢象の鼻に似ている事からこの名前がつけられた』。『異称に普賢堂というものがある』とあり、普賢菩薩本体が和名の語源ではない。また、そこには『室町時代には既に知られていたとされ』、『サトザクラの中でもかなり古い分類に入る』とある。しかし、私の、幕末に完成した鎌倉周辺地誌「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の金沢文庫のある称名寺にあった(近現代に至って移植されたものがあったが、完全に枯死して絶えたことが確認されているはずである)名木「普賢象櫻」について、

   *

堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新綠二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年[やぶちゃん注:南北朝の北朝の元号。南朝は「正平十二年」。ユリウス暦一三五七年。]三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽(うう)。殊絕の美花也。號「鎌倉櫻」とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て「鎌倉櫻」と有は是ならん歟(か)。又、按るに、延文の頃迄有(あり)しにや。「鎌倉櫻」と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院などは、將軍家御所より遠からぬゆゑ、正慶の兵燹(へいせん)にて、皆、燒亡して絕たり、といふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。

[やぶちゃん注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。]

とあるのである。これは文脈に従うなら、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正にその実朝が花見をした昔、「植えられてその頃までに生い茂っていた」桜で、それこそ正しく本当の「鎌倉桜」であったのであろうか、の意であろうと思われる。「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指していることを指す。とすると、どうも叙述が前後、おかしいように私は思う。幕府滅亡で焼燼し尽して完全にその桜が「絕」えたのなら、「延文の頃迄有」つたという伝承は嘘ということになるのではなかろうか? しかし逆に、もし、この話を極めて善意に希望的に読み解くなら、或いは鎌倉前期、三代将軍実朝の時代に既に日本に普賢象桜があった可能性もあることになるのである。

「ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名」“The name of Dai-Mokukenren (Mahamaudgalyâyana), ―shortened by popular usage into Mokuren, — figures both in the common appellation of the Ficus pumila,”。「Mahamaudgalyâyana」は釈迦仏の十大弟子の一人である目犍連(もくけんれん:これが正式)のサンスクリットのラテン文字転写。小泉八雲が言う通り、一般には略した目連(Maudgalyāyana:モードガリヤーヤナ)で呼ばれることが多い。但し、ここ、うっかりこの「モクレン」をモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属モクレン Magnolia quinquepeta と勘違いしないように注意しなくてはならない(正直、私の読者の誰彼もそう読み飛ばしておられなかったか?) ご覧の通り、学名が異なるでしょう? この「Ficus pumila」というのは、常緑蔓性木本であるマンサク亜綱イラクサ目クワ科イチジク属オオイタビ Ficus pumila を指すのである。ウィキの「オオイタビの写真をご覧あれ。どこかで見たことがあるはずである。疑う方は、中文の当該種薜荔のウィキを見られよ。「別名」の項に「木蓮」とある。しかし、私は思うのだが、この「木蓮」が大「目連」由来であるという小泉八雲の謂いには微妙に賛同を留保したくなるのだ。日本語の発音は一致しても、由来が同じとは言えないし、そのような両者を関連づける古文献を私は知らないからである。そのようなものがあるのであれば、是非、お教え願いたい。

「ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る」“and in that of the Magnolia conspicua, usually called Hakumokuren, or "White-Mokuren."”。こちらは正しくモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia denudata である。種小名が違うって? 大丈夫! シノニムだ。こちら(英文サイト「The Plant List」)を見られよ。しかし、前注の最後の疑義は解消されない

「プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である」“The name of Brahma, — known to Japanese Buddhism as Bonten, — appears in the designation of a kind of upland rice, Bonten-mai.”。梵天は仏教の守護神である天部の一人。もと、古代インドの神「ブラフマー」が仏教に取り入れられたもの。「梵」は「brahma」の音写。「ブラフマー」は古代インドに於いて「万物実存の根源」とされた「ブラフマン」を神格化したもの。「梵天米」については、小学館「日本国語大辞典」に『陸稲(おかぼ)の一種か。野稲(のしね)』として、例文を「和訓栞」(江戸後期(最終完成は作者没(安永五(一七七六)年)から十一年後)の国語辞書。全九十三巻。谷川士清(ことすが)編。安永六(一七七七)年から明治二〇(一八八七)年に刊行された)として『のしね〈略〉又梵天米と名く』とある。現在はないらしい。種(たね)も保存されていないということらしい。不審だ。小泉八雲は明らかにその米を見ているようなのに?

「ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベデ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。」ここの原文は“The memory of Bōdai-Daruma (Bôdhidharma) is preserved in the popular appellation of the Aster spatufolium, called Daruma-giku, or " Daruma's chrysanthemum,"— as well as in the name of the swampcabbage, Daruma-sō, or " Daruma's plant."”となっていて、何かちょっと混乱している感じがする。菩提達磨(サンスクリット語のラテン文字転写:bodhidharma:ボーディダルマ)は中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。所謂、達磨(或いは「達摩」)大師のことである。「ダルマ」はサンスクリット語で「法(カルマ)」を表わす言葉である。「ダルマサウ」は単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ザゼンソウ属ザゼンソウ Symplocarpus renifolius のこと。同種は発熱時の悪臭と熱によって花粉をハエに媒介させる蠅媒花(じょうばいか)である。全草に悪臭があることから、英語では「Skunk Cabbage」(スカンク・キャベッジ(=キャベツ))の異名がある。しかし、原文の「swampcabbage」とは英和辞典では「空芯菜」のことだ。だが、これを逐語訳するなら、「沼地のキャベツ」で湿地に植生するザゼンソウにしっくりくるように見えてくる。学名表記が全然違う理由は、よく分らない。シノニムではない。そもそもが「Aster」というのはキク目キク科キク亜科シオン連シオン属 Aster で、ザゼンソウとは全く明後日(アサッテ)である。この学名の問題(但し、これは深刻)を除いて、整理すると、一つ見えてくるのは、「ダルマギク(達磨の菊)」というのは、ザゼンソウの異名・俗名のであるという事実である。大谷の「同樣に」という訳には誤解を招く可能性があるという点である(別な種にその名を用いているという意味で読めてしまう瑕疵があるという虞れである)。大谷の訳は無理矢理、削ぎ離して、辻褄を合わせたように感じられないでもない気がするということなのである。日本語は難しいですよ、八雲先生。

「學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り」以下と合わせて原文を示すと、“Two fishes also have been named after this patriarch : the Priacantbus Nipbonius, which is called Daruma-dai, or "Daruma's sea-bream" ; and the Synanceia erosa, popularly known as Darumakasago, —”である(「Priacantbus Nipbonius」の種小名の頭が大文字なのはママ)。でもね! これって! 硬骨魚綱条鰭亜綱刺鰭上目スズキ亜目キントキダイ科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia でっせ?! 小泉八雲先生!? 「ダルマ」でなくて「クルマ」でっせ? これは達磨どころか仏教とは関係ありまへんがな! 和名由来は単に丸くて車輪のようだからでんがな いつも同定比定でお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の、クルマダイをリンクさせておく。

「學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る」条鰭綱カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科ダルマオコゼ属ダルマオコゼErosa erosa。これが現行の学名であるが、小泉八雲の「Synanceia erosa」はそのシノニムであるから、問題ない。サイト「Private Aquarium」のダルマオコゼをリンクさせておく。小さいが、背鰭の棘の毒は強く、かなりの危険種である。大の大人が大声出して泣いていたのを、ずうっと昔、見たことがある。

「『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である」“" kasago" being properly the name of the fish scientifically called sebastes inermis.”。小泉八雲は魚類はあまり得意でないようだ。これは「カサゴ」ではなくカサゴの仲間ではあるが、「カサゴ」とは呼ばない。「メバル」である。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(又は)メバル科 Sebastidae メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis ・同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni ・クロメバルSebastes ventricosus の三種の孰れかを指す。

「米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である」れは全く以って、おかしい。「穀象虫」、即ち、本邦に棲息する種としては鞘翅(コウチュウ(甲虫))目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科 Dryophthoridae オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais 及びココクゾウムシ Sitophilus oryzae の二種が代表となるが、彼らはその特異な形状から「ゾウ」のシミュラクラからきた「穀象」なのであって、私は「虚空蔵」由来では私は全くないと認識しているからである。私は滅多に八雲先生には異論を唱えないが、こればかりは読んでいて牽強付会と言わざるを得ない気がしているのである。「そうではない。小泉八雲は正しい。」とされる方がいれば、お教え願いたい。

 ボサツ(菩薩)といふ名はまた二三の植物の名に見えて居る。薔薇の一種にボサツイバラ(菩薩の茨)といふのがあり、米の一種にボサツといふのがある。

[やぶちゃん注:バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ変種サクラバラ Rosa multiflora var. platyphylla の異名である。私が植物サイトとして非常に信頼しているサイト「跡見群芳譜」の「さくらばら(桜茨)」を見られたい。そこに別名として「ボサツイバラ」が挙げられている。しかし私は漢名の「七姉妹」の方が好きだ。]

 ラカン(梵語のアルハツト)は、いろいろな植物名の接頭字(プリフイツクス)となつて居る。ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である。ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼であり、ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である。それから、その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境内にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである。

[やぶちゃん注:「ラカン(梵語のアルハツト)」“The term Rakan (Arhat)”。「羅漢」で「阿羅漢」(サンスクリット語ラテン文字転写「arhat」の漢音写)の略称。応供(おうぐ)と意訳される。「供養と尊敬を受けるに値する人」の意で、剃髪し、袈裟を着た僧形で像形される。中国・日本では「十六羅漢」・「十八羅漢」・「五百羅漢」のように仏道修行者の集団を指し、禅宗の流通に伴い、多数、制作された。十六羅漢の信仰と羅漢図は唐代に始り、五代に貫休がその名手として知られて流布した。本邦では中国からの将来品やその転写などの遺品が多く、特に鎌倉時代以降、隆盛した。

「接頭字(プリフイツクス)」“prefix”。接頭辞。氏名の前に附ける敬称。

「ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である」“Rakan-haku, or " Arhat's oak," is the popular name of the Thuya olobrata.”。マツ門マツ綱マツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata のこと。本邦の漢字表記では「翌檜」が知られるが、現代中国語でも漢名は「羅漢柏」である。

「ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼」“Rakan-shō, or " Arhat's Pine," is the common appellation of the Podocarpus macropbylla;”。裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus のシノニム。本邦の漢字表記では「犬槇」であるが、現代中国語でも漢名は「羅漢松」である。

「ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である」“and the name Rahan-maki, or " Arhat's maki" ("maki" being the Japanese name for the podocarpus cbinensis) — has been given to the umbrella-pine.”。マツ目マキ科マキ属ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki。学名の相違はシノニムか後の修整であろう。個人サイト「かのんの樹木図鑑」のこちらがよい。

「その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境内にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである」私が直ちに想起したのは、ウリ目ウリ科ラカンカ属ラカンカ Siraitia grosvenorii であったが、本種は中国広西省桂林周辺にしか植生しないとされる蔓性植物で、本邦には植生しないから、違う。何だろう? 識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」  (大谷正信訳) / 「蜻蛉」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。電子化処理は同じ。]

 

       

 

 蜻蛉を捕ることは幾百年の間、日本の兒童の好きな娯樂となつて居る。時候が暑くなると始つて、秋の大部分の間續く。それに就いての――小さな狩手どもの無思慮を述べた、古い詩が澤山にある。今日も、他の數世紀間と同じに、その追跡の面白さが、兒童を色々な難儀な目に會はす。棘や泥穴や沼を顧みずに――暑さもものともせずに――飯時すら思はずに――土手を轉がり落ちたり、溝へはまつたり、引搔いたり、非常に身體を汚ごしたりする。

 

 飯時も戾り忘れてとんぼつり   樂遊

 

 裸子の蜻蛉釣りけり晝の辻    闌更

 

[やぶちゃん注:「樂遊」不詳。

「闌更」高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)は加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、「ありのまま」を詠むことを節とした。本句はまさにそのモットーを強く感じさせる写生句として、映像が確かに見える佳品である。]

 

 然し此の遊びに關しての最も有名な句は人を感動せしめる性質のものである。これは加賀の有名な女俳人千代がその小さな子を亡くしてから作りたものである。

 

 とんぼつり今日は何處まで行つたやら

 

 此句は母の感情を言明はせずに、暗示するやうにしたものである。蜻蛉を追ひ走つて居る多勢の子を見て、常にその遊びを一緖にした自分の死んだ子のことを思ひ、――無限無窮の神祕へ出て行つたあの子の靈はどうなつたのか知らと怪しむ。何處へ行つたのであらう。あの世でどんな遊びをして樂しんで居るのであらうか今は。

[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。としても、小泉八雲の鑑賞はまさに哀切々たるものがある。瞼の(瞼にさえ空ろな)母ローザと自身とを転換して美事である。なお、竹内玄玄一編「俳家奇人談」(文化一三(一八一六)年板行)の「巻下」の「千代女」では、

 蜻蛉釣今日はどこまで行つたやら

の表記で載る。]

 

 蜻蛉は時には網で捕り、時にはその先きへ鳥黐[やぶちゃん注:「とりもち」。]を塗つた竹竿で捕り、時には輕い杖か棒でた〻き落としても捕る。棒切れを使ふ事は、然し、普通善いとはされて居らぬ。蟲の身體に傷がつくからで、不必要に傷める事は、多分死者に緣のあるものと想像されて居るが爲め、不吉な事だと考へられて居るからである。蜻蛉捕りの――主として西部諸國で行はれて居る――頗る有效な方法は、捕つた雌の蜻蛉を囮に使ふ法である。長い糸の一端に雌の尾を結び附け、その糸の他の一端を曲り易い竿の先きへ結びつける。その竿を或る特別な振りやうをして振り𢌞はすと、糸一パイの長さで羽を立てていつも其雌を飛び𢌞はらせて置く事が出來る。すると雄が直ぐと惹き寄せられる。それが雌へつかまるや否や、すぐその竿を輕くしやくると、二匹とも釣手の手中へはいる。雌一匹を囮にして續けさまに八匹十匹の雄を捕るは容易な事である。

[やぶちゃん注:「鳥黐」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integraやマンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioidesなどの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれはは赤いので「アカモチ」と呼称する。ウィキの「鳥黐によれば、『鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は』この「鳥黐」の『ことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは』、「鳥取黐」又は「鳥黐」と『呼ばれるようになったといわれている』とある。]

 この蜻蛉狩をして居る間に子供は蜻蛉を呼ぴ寄せの短い歌を普通歌ふ。そんな歌は隨分にあつて、地方によつて異ふ[やぶちゃん注:「ちがふ」。]。此種類の歌で出雲で歌ふのは、第三世紀に、神功皇后の軍勢が朝鮮を征服したといふ傳說に奇妙にも關係のあるものである。雄の蜻蛉を斯う呼びかけるのである。――

[やぶちゃん注:以下、引用・註(ポイント落ち)は四字下げであるが、完全に上に引き上げた。]

 

『こな、男將高麗(をんじよかうらい)――東(あづま)の女頭(めとう)に――負けて逃げるは――恥ぢや無いかや』

註 此歌は『知られぬ日本の面影』第二卷に引用。

[やぶちゃん注:私の原文附きのオリジナル注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)」を参照されたい。]

 

 東京では現今蜻蛉の小猛者は普通次の歌をうたふ。

 

    とんぼ! とんぼ!

        お泊り!

    明日(あした)の市に

    しほから買うて

    ねぶらしよ!

[やぶちゃん注:私は前の唄もこれも知らないが、秦恒平氏が「梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡」の一節で、四三八番の歌(以下は新潮日本古典集成のそれを参考に漢字を恣意的に正字化して示した。秦氏の引用とは一部が異なる)、

   *

 ゐよ ゐよ 蜻蛉(とんばう)よ

 堅鹽(かたしほ)參らむ

 さてゐたれ はたらかで

 簾篠(すだれしの)の先に

 馬の尾縒(よ)り合はせて

 かい付けて

 童(わらはべ) 冠者(くわじや)ばらに繰(く)らせて

 遊ばせん

   *

を挙げられ、『蜻蛉に呼びかけている「うた」です。とんぼと塩との縁は、私も知りませんでしたが、「塩買うてねぶらしよ」とか「塩焼いて食わそ」とか、蜻蛉に歌いかける童謡が高知県や兵庫県などに残っているそうです』とあり、『じっとしてろよ蜻蛉。塩をやるからじっとしてろよ、動くなよ。お前を、簾の、あの細い篠竹の先に 馬の尾を糸によって、くくりつけて、子どもたちにくる くる回して遊ばせてやるんだからな』と訳された後、『なんとも無邪気なはなしです』と述べておられる。「塩」が登場するのは、既にこの平安末期頃には「しおからとんぼ」(種としてのシオカラトンボOrthetrum albistylum speciosum を指していたかどうかは判らぬが)の呼称が存在したことを物語るものかも知れない。

 

 子供はまた蜻蛉の幼蟲を捕へて面白がる。この幼蟲の普通名は澤山にあるが、東京では通常タイコムシ卽も太鼓蟲と呼んで居る。水の中でその前足を動かす有樣が人間が太鼓をた〻く折の腕の動かしやうに似て居るからである。

[やぶちゃん注:「タイコムシ」ヤゴ(水蠆)蜻蛉(トンボ)目Odonata の、特に不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属するトンボ類の幼虫を指す通称俗称。肉食性の水生昆虫として知られる。「ヤゴ」の語源は成虫であるトンボを表す「ヤンマの子」を略して「ヤゴ」と称された。この別名「タイコムシ」は肉食性の水棲昆虫であるタイコウチ(半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目 タイコウチ上科タイコウチ科タイコウチ属タイコウチLaccotrephes japonensis)とは関係がない。あるいは「ワラジムシ」とも呼ぶが、これも甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目 Isopoda のワラジムシ 類とも無関係である。ウィキの「ヤゴによれば、『様々な形のものがあるが、共通する特徴としては』、①『下唇が折り畳み式になっており、先端にある鋏状の牙で獲物を捕らえることができる。ヤゴはすべて肉食で、普段は折り畳まれている下唇を瞬時に伸ばすことで、離れた距離から獲物を捕食する。そのスピードと精度は日本国内の水生昆虫の中では屈指であり、狩りのスケールを度外視すれば非常に獰猛な捕食者と言って差し支えない』という点と、②多くは『鰓があり、呼吸のために空気に触れる必要がない(鰓を体内に持つ種類もいる)』という点である。]

 蜻蛉を捕る頗る珍らしい工夫は紀伊の國の子供がやる方法である。長い髮毛を――女の髮毛を――一本貰つ來て、其兩端へ非常に小さな小石をくつつけて、小さな小さなボーラスのやうなものを造る。そして之を空高く投げ上げる。蜻蛉は自分の前をすいと通つて行く此物へ飛びかかつて來る、が、それを摑むが早いか、その髮毛が身體へ倦きついて、小石の重さで地上へ落ちる。蜻蛉をボーラスで捕る此手段を日本外の何處かで用ひて居るかどうか自分は怪しむ。

[やぶちゃん注:「ボーラス」原文“bolas”。“bola”の複数形。ウィキの「ボーラ(武器)によれば、『ボーラ(bola)は、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用アイテム、もしくは投擲武器』で、二個或いは三個の『丸石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋ぎ』、三『個の場合は同じ長さの紐で三つ又になるように作る。おもりが石の場合は、皮でくるんで紐を結びつけることもある』。『東南アジアが発祥とされるが、エスキモーや南米パンパス地帯のインディオもダチョウ狩り等の狩猟目的で使用していた。また、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ馬が野馬となって数が増えるとそれらを狩る際にもに石』三『個のボーラが用いられるようになった他、スペイン人と先住民の子孫で牧畜に従事したガウチョ達は先住民との戦いや』、『内戦の際も武器として使用した』。『イヌイットのボーラは主に野鳥を捕獲することを目的としている。小形動物の狩猟用はケラウイタウティンと呼ばれる』。『南米では』二『つ球のボーラをソマイ』、三『つ球のボーラをアチコと呼んでいる。インカ帝国では遠戦の主力武器だった』。『ボーラに相当する、日本の伝統的な分銅鎖系武器は』「微塵(みじん)」と『呼ばれている。直径』四センチメートル『ほどの中央の輪に、長さ』三十五センチメートル『ほどの』三『本の分銅鎖が付いた、主に忍者が用いた隠し武器(神社に奉納されて、実物・技ともに伝承)で、先端の錘は』二・五センチメートル『程度のものがある。扱い方次第では』、『敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力をも発揮しうるため、この名が付けられたとされる』とある。これは注なしには意味が解らぬから、これは不親切である。平井呈一氏は『投げなわのようなもの』と意訳されているが、この方が遙かに判りがいい。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信訳)


[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。電子化処理は同じ。]

 

       

 

 前揭の作は多くは舊作家のである。此題目での近代の發句で、それと同じやうな技巧の無い、繪のやうな性質を有つたものは至つて尠い。舊詩人は、繁忙な此の現代には、不可能な忍耐力と生新な好奇心とを以てして、蜻蛉の習慣を眺めて居たやうに思はれる。彼等は蜻蛉のあらゆる習慣や特性に就いて――一度浪止まらうと選んだ馬處はどんな場處でも、續けさまに幾度もそれへ立ち還るその妙な性癖のやうな、そんな事に就いてすら――句を詠んだ。時には彼等はその翅の美はしきを賞めて之を提婆或は佛敎の天使の翼にたぐへ、時には彼等はその飛翔の輕い極みの優美さを――その運動の靈の如くに靜かに輕いことを――讚へ、そして時には彼等はその怒の地蜂のやうな樣子を、或はその睇視[やぶちゃん注:「ていし」、ここは横目(複眼を横に向けて)で見ること。]の化物のやうな妙な樣を嘲弄した。彼等は蜻蛉が、その進行の方向を變じ得る不思議な仕方や、或はトンボガヘリ(蜻蛉がへり)といふ新語を思ひつかせた、突然翅を裏返す妙な仕方を注意して眺めた。その飛行の――眼にはとまらで唯々矢と早き色の針のきらめさとしか見えぬ、――眼くるめく如き早さに、彼等は無常に對する比喩を見出した。が、此の電光の如き飛行は短い距離しか續かぬこと、また蜻蛉は追跡を受けなければ遠く行くことは滅多しないもので、一日中一と處を飛び𢌞ることを好むこと、を彼等は認めた。彼等の或る者は、蜻蛉は日暮れに悉く明かるい方へ群れ飛ぶ事を、また日が地平線へ沈む時には――高みからして消えて行く光耀の最後の一見を得んと望むが如くに――空高く上がること、を句に詠む價値があると考へた。彼等は蜻蛉は花は少しも顧みずして、花の上よりも寧ろ杭か石の上に止まり勝ちなこと、に注目した。また彼等は壁の棧や牛の角にとまつて何が面白いのだらうと怪しんだ。それからまた彼等は杖や石で攻擊される折りの――其危險物から去りもするがまた同樣に屢〻その方へ飛んで來る――その愚鈍さに驚いた。だが彼等は蜘蛛の巢にかかつてのその奮鬪に同情して、網を衝き破るのを見て喜んだ。次記の例は、幾百の作中から選んだのであるが、此の奇異な硏究の廣汎な範圍を暗示する役に立つことと思ふ。

[やぶちゃん注:「前揭の作は多くは舊作家のである」「三」に載る三十四句中には、訳者である大谷正信(繞石)の句が三句、彼の創った俳句会「碧雲会」絡みの新作句が二句、虚子が一句でこの五句は当時の現代俳句である。それ以外にも句柄(用語)から見て当時の或はごく直近の近代俳句と思しいものが、二、三見受けられるから、四分の一弱ほどは、当時の現代俳人のものと私は考える。本書の執筆時から見て「舊作家」は江戸後期以前でなくてはならぬ。さすれば、これは謂いとして有意に問題があると思う。

「提婆」原文“devas”。提婆達多(だいばだった/デーヴァダッタ/略称:提婆)は釈迦の弟子であったが、後に違背したとされる人物。厳格な生活規則を定め、釈迦仏の仏教から分離した彼の教団は、後世にまで存続した。参照したウィキの「提婆達多」によれば、小乗仏教では、『提婆達多の末路については、自らの所業を後悔して釈迦に謝罪しに行くものの、祇園精舎の入り口にあった蓮池の付近で地面が裂け、地獄から噴き出た火に包まれ』、『提婆達多は「わが骨をもって、いのちをもって、かの最上の人、神の神、人を調御する者、あまねく一切を見る人、百の福相をもつ人、そんな仏に、帰依したてまつる」(ミリンダ王の問いでは『全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します』)と詩を唱えて、アヴィーチ地獄(無間地獄)に落ちた』(この時、『提婆達多に従っていた』五百『家族の侍者も、一緒に地獄へ落ちた』とする)とあり、地獄から輪廻して、現世の虫である蜻蛉に転生するというのはすこぶる納得は出来る。なお、続けて、『釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したと』もあり、『提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティサラという「独覚」になると』もあるらしい。また、大乗仏教、則ち、本邦では、『「法華経」提婆達多品第十二で』、『提婆達多は天王如来(devarāja)という名前の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している』。『また、「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、プールナ、マハーマウドガリヤーヤナ、アーナンダ、ビンビサーラ、ヴァイデーヒー、ジーヴァカ、チャンドラプラディーパ、アジャータシャトル、雨行大臣、守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた』十五『人の聖者として列せられている』とある。未来仏であるから、その過程に過ぎない現世の蜻蛉であっても何ら問題はない

「佛敎の天使」原文“Buddhist angels”。飛天辺りをイメージしていよう。

 以下の七ヶ所ある前書は底本では総てポイント落ち。なお、今までと同様で、原本には発句・和歌の作者名は一切付随しない。訳者大谷正信(繞石)が添えたものである。]

 

   蜻蛉と日光

 

 蜻蛉や日の射す方へ立つて行く (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。既注だが、分割公開しているので再掲しておくと、「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 日あたりの土手やひねもすとんぼとぶ 繞石

 

 五六尺己が雲井の蜻蛉かな      蓼太

[やぶちゃん注:大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。]

 

 蜻蛉の向きを揃へる西日かな     嵐外

[やぶちゃん注:辻嵐外(つじらんがい 明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は越前出身。名は利三郎、通称は政輔、別号に六庵・北亭・南無庵。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。甲府に住んで、多くの門人を育てて「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

 

 蜻蛉や空に離れて暮れかかり     太無

[やぶちゃん注:既出既注。古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがある。]

 

 星一つ見るまであそぶとんぼかな   左梁

[やぶちゃん注:中村左梁。号に蝸牛庵。それ以外は私は不詳。]

 

 遠山やとんぼつい行きついかへる   秋之坊

[やぶちゃん注:秋之坊(生没年不詳)は金沢の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折り、現地で入門した金沢蕉門の一人。前田藩の武士であったが、後に武士を捨て、髪を剃って「秋之坊」と称し、蓮昌寺境内に隠棲した。幻住庵滞在中の芭蕉を訪ねた際、芭蕉が見せた句に名品「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」がある(伊藤洋氏の優れたサイト「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらに拠った)。]

 

 行きあうてどちらもそれるとんぼかな(『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧及び再掲仕儀同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。]

 

 並ぶかと見えてはそれる蜻蛉かな   貞山

[やぶちゃん注:桐淵貞山(きりぶちていざん 寛文一二(一六七二)年~寛延二(一七四九)年)か。江戸前・中期の俳人で上野の人。本姓は岡田。別号に蘆丸舎・桐淵閣・湖月亭。江戸に住み、松永尺山の江戸遊吟の際に入門した。編著に「江戸名所」「俳諧其傘(はいかいそのからかさ)」「誹諧手挑灯」等がある。]

 

   戀の歌にあゐもの

 

 かげろふのかげとも我はなりにけり

       あるかなきかの君がなざけに 長延(『鴨川三郞集』)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本ではポイント落ち。以下同じ。江戸後期の歌人中川長延(なかがわながのぶ 文化元(一八〇四)年~慶応四(一八六八)年)であろう。京の人。本姓は進藤。号は蓼花園。家は代々近衛家の諸大夫(しょだいぶ)を務め、天保三(一八三二)年、宮内少輔となる。香川景樹の門に学び、安政三(一八五六)年には「近世歌人師弟一覧」を刊行している。作品は「青藍集」「秋草集」などにある。

「鴨川三郞集」嘉永四 (一八五一)年板行の長澤伴雄編輯になる類題和歌選歌集「類題鴨川三郎集」。]

 

 覺束な夢かうつ〻かかげろふの

       ほのめくよりもはかなかりしは 讀人不知(『怜野集』)

[やぶちゃん注:「讀人不知」も底本ではポイント落ち。「怜野集」(れいやしふ(れいやしゅう))は江戸後期の歌集。全十二巻。清原雄風編。文化三(一八〇六)年板行。「万葉集」及び勅撰集などから集めた秀歌約一万五千首を「四季」・「恋」・「雑」に類題して収録した選歌集。初学者に広く活用された。「類題怜野集」とも呼ぶ。この一首の出典は私は未詳。]

 

 蜻蛉や身をも焦がさずなきもせず   鳥醉

[やぶちゃん注:白井鳥酔(ちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の俳人。上総国埴生郡地引の旗本知行所の郷代官を務める家に生まれた。本名は喜右衛門信興。享保六(一七二一)年、家督を継ぐが、僅か五年後の享保十一年に弟に家督を譲り、若くして剃髪し、江戸に出た。佐久間柳居(後に句が出る)の門に入り、俳諧に専念した。柳居とともに天明の俳諧復興の魁となった。延享三(一七四六)年及び翌年、信州を訪れ、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)には下野国の、松尾芭蕉も訪れた西行の「遊行柳」を訪ねている。明和三(一七六六)年四月には鹿島神宮に芭蕉句碑を建立している。明和五(一七六八)年三月、相模国大磯宿の鴫立庵を再興し、同所に住した。示寂は江戸(以上はウィキの「白井鳥酔」に拠った)。]

 

   奇異と美

 

 蜻蛉の顏はおほかた眼玉かな     知足

[やぶちゃん注:下里知足(しもざとちそく 寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の俳人。通称は勘兵衛、後に金右衛門。諱は吉親。尾張国鳴海村の庄屋を務める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した。「鳴海六俳仙」の一人。現存する西鶴の書翰七通のうちの四通は知足に宛てたものである(以上はウィキの「下里知足」に拠った)。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらには、『鳴海(現在名古屋市緑区鳴海町)の門人。鳴海は東海道の宿場であった。下里』(伊藤氏は「しもさと」と清音で振っている)『知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった』。芭蕉は、「笈の小文」の『旅の途次』、彼のところに『休息して』おり、『彼に宛てた芭蕉の真蹟書簡』六『通がある。なお、知足自筆の』「知足斎日々記」の延宝八年七月三日の条に、『芭蕉宛に自著』「大柿鳴海桑名名古屋四ツ替り」を『送った記録があり、その自著内の句寄稿者』欄『には』、『松尾桃青の所在について、江戸』の「小田原町 小澤太郎兵衛店、松尾桃青」とする『記述があるので、これがこの時期の芭蕉の動静の貴重な記録となっている』ともあった。私はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で『「笈の小文」の旅シンクロニティ』を完遂しているが、「笈の小文」の旅では、芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日に鳴海宿で、この尾張鳴海の古参蕉門であった千代倉屋下里知足邸に泊まっている。また、芭蕉の「笈の小文」の名吟、

 旅人と我名よばれん初しぐれ

があるが、安藤次男は「芭蕉百五十句」に於いてこの句につき、『そのとき旅立の吟を記念に』この知足に『書与えたものらしい』とし、この『前書は芭蕉が、謡曲にまず出てくる旅僧の風体を以て己が行脚の好みとしたことを知らせてくれる興味ある例で』あるとする。前書は、

   *

神無月(かんなづき)の初、空(そら)定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)の行末(ゆくすゑ)なき心地(ここち)して

   *

である。首肯出来る(以上は私の同句の古い電子化注で注したものである)。]

 

 聲無きを蜻蛉無念に見ゆるかな    可昌

[やぶちゃん注:「可昌」は近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家第三代目当主西川庄六(しょうろく 元禄七(一六九四)年~寛政七(一七九五)年)の俳号。庄六家最盛期を築くとともに、俳諧においても多くの秀作を残した人物。近江国蒲生郡八幡(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる四代目西川利右衛門数常。十六歳の時に二代目西川庄六(通称。利兵衛)の養嗣子となり、享保七(一七四四)年に養父の死去により、家督を継ぎ、三代目西川庄六を名乗り、諱を数久と改めている。祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父である四代目利右衛門の支援を得て、江戸日本橋に出店し、西川庄六家の最盛期を築いたとされる。また、原元佃房(げんげんつくだ)の門に入り、多くの秀句を残し、北陸・中国地方の俳人とよく交わり、加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い、各地で吟行を行った。当時、近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業のために高度な商才が必要とされるとともに、高度な教養も求められたのであった(以上はウィキの「西川庄六(3代)」に拠った)。]

 

 蟬にまけぬ羽衣もちし蜻蛉かな    太無

 

   蜻蛉の輕さ

 

 燕より蜻蛉は物も動かさず      西洋

[やぶちゃん注:「西洋」不詳。]

 

 蜻蛉や鳥の踏まれぬ枝の先      太無

 

   蜻蛉の愚鈍

 

 打つ杖の先にとまりしとんぼかな   康瓢

[やぶちゃん注:「康瓢」不詳。]

 

 立歸る蜻蛉とまる礫かな       鵡白

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「鵡白」不詳。]

 

   蜻蛉蜘蛛

 

 蜘の巢のあたりに遊ぶ蜻蛉かな    波音

[やぶちゃん注:「波音」不詳。]

 

 さ〻がにの網をはづれてとんぼかな  麥波

[やぶちゃん注:「麥波」不詳。]

 

 蜘垣も破るきほひや鬼とんぼ     雅勇

[やぶちゃん注:「雅勇」不詳。因みに平井呈一氏は恒文社版「トンボ」では作者を『雅男』とするが、こんな俳号は軽蔑される気がするので、平井氏の大谷訳の誤認であろう。私の底本でも、このページは印刷がひどく薄く擦れているからである。]

 

   花を顧みぬこと

 

 蜻蛉や花野にも眼は細らせず     柳居

[やぶちゃん注:佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は江戸中期の幕臣で俳人。名は長利。通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出した。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、松尾芭蕉五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。]

 

 蜻蛉や花には寄らで石の上      湖上堂

[やぶちゃん注:「湖上堂」不詳。]

 

 蜻蛉や花無き杭に住みならひ     柳居

 

 寢た牛の角にはなれぬやんまかな   花鐘

[やぶちゃん注:「花鐘」不詳。]

 

 杭の先何か味はふとんぼかな     榮木

[やぶちゃん注:「榮木」不詳。]

 

 固よりのこと此等の作品は美的感念に訴ふところ洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]僅かである。多くは、珍らしいだけのものである。然し此等は古い日本の精神を幾分了解するに役に立つ。幾世紀の久しき、昆蟲の習慣を觀察し、且つそれに關する斯んな句を作つて悅樂を見出し得た此國民は、人生の單純な快樂を我々より遙か能く理解して居るに相違無い。彼等は我が西洋の大詩人が記述して居るやうには自然の魔力を記述し得なかつた。だが、その悲哀の無い此世の美を感じ、また物事を知りたがる幸福な子供等のやうに、その美を喜び得たのである。

 

 若し彼等日本人が我々が蜻蛉を見得る如くに見得たならば――若し彼等が寶石のやうな單眼を持つたその小鬼の如き頭や、その驚嘆すべき複眼や、その不思議な口を、顯微鏡の下に眺め得たならば、この動物はどんなにかもつと異常なものに彼等に思へたことであらう!……でも、我々は賢いが爲めに此等奇妙な詩人の作品を彩る自然觀察のあのなまな初心(うぶ)な快樂を得なかつたのであるけれども、此の蟲の眞の驚異に就いては彼等よりもさう大して賢くも無いのである。我々は唯だこの蟲に關する我々の無智の絕大さを一層精確に評價し得るだけである。蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか、それを我々に示して吳れる、彩色版畫のある博物學書を手にすることを我々はいつか希望し得るであらうか。

[やぶちゃん注:「單眼」トンボ類は通常、大きな複眼の間の前方部に小さな三つの単眼を持っている。

「蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか」現在の最新の研究ではトンボの複眼は上下左右前後の殆どが見えており(後部の一部が死角となっている)、以前に想像されていた以上に色彩も驚くべき多量に見えるらしい(紫外線も認識できる)。四十メートル先の対象も見分けることが出来るという。また昆虫類一般は時間分解能を発達させており、人間が動く様子などはストップモーションのように見えているらしい。海外サイトの動画でトンボの視覚をヴァーチャル化したというカラー映像を見たが、まさしくマジ幻想的なものであった(但し、脳での処理方法が異なるはずだから、鵜呑みにはできなかったが)。]

2019/10/15

小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。以下本「蜻蛉」終りまでの引用される発句その他の引用は、底本では四字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。字配も再現していないことをお断りしておく。]

 

 

       

 

 蜻蛉は異つた種類のが時期を異にして出る。そして殆ど例外無しに、一層美しい種類のが一番後れて出現する。日本の蜻蛉全部を古昔の作家は一々の主要な色に從つて四種類に、――黃、綠(或は靑)、黑(或は濃い色)及び赤に――部類分けをして居る。黃な色合のが一番早く現はれ、綠色の、靑いの、それから黑いのは極暑になつて初めて出で、赤いのが一番後れて出て、去るのも一番後で、秋の末になつてやつと無くなるといふことである。漠然一般的に、如上の叙述は觀察の結果として承認し得らる〻ものである。が然し、蜻蛉は一般には秋の蟲となつて居る。蜻蛉の異名のうちに『秋の蟲』といふ意味の、アキツムシといふ名がある程である。そしてこの稱呼は實際適切である。といふ譯は、人の注意を惹く程に蜻蛉が群を爲して現はれるのは、秋になつてからのことであるからである。が、詩人には、秋の眞の蜻蛉は赤蜻蛉である。

 

 秋の季の赤蜻蛉に定まりぬ   白雄

 

 己が身に秋を染めぬく蜻蛉かな 麥醉

 

 秋の日の染めた色なり赤蜻蛉  桂秋

 

[やぶちゃん注:原本では作者名は載らない。俳人でもあった訳者大谷氏のサーヴィスである(以下、同じ)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は信濃国上田藩江戸詰藩士の次男として江戸深川に生まれた。諱を吉春或いは競、通称を五郎吉、別号に昨鳥・春秋庵・白尾坊・露柱庵など。父の祖母方の姓をとって「平田忠次郎」と名乗ったこともある。 与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人とされる。かの第五代「鴫立庵」庵主。明和二(一七六五)年に松露庵烏明及びその師白井鳥酔に師事した。安永四(一七七五)年、鳥酔の七回忌に松露門を破門されると、江戸を去って自身の門人を引き連れ、諸国を行脚した。安永九年、江戸日本橋鉄砲町に「春秋庵」を開いて自立し、関東に一大勢力を築き、建部巣兆・倉田葛三らの門人を育成した(ここはウィキの「加舎白雄」に拠った)。句は諸データを見ると、

 秋の季の赤とんぼうに定りぬ

の表記が正しいようである。

「麥醉」岡田麦酔。詳細事蹟不詳。

「桂秋」不詳。]

 

 或る日本詩人が『春は眼の季節で、秋は耳の季節である』と言うて居る。いふ心は、春は樹々の花や朝霞の魔力が眼を樂ましめ[やぶちゃん注:「たのしましめ」。]、秋は耳が無數の蟲の音樂に魅せられる、といふのである。が、此処詩人は進んで、秋の此快樂は憂愁を帶びて居ると言ふ。その哀れ氣な聲は消えし幾年の、また消えし幾多の顏の、記憶を喚起し、斯くて佛敎思想に無常の敎理を思はせる。春は約束と希望との時期であり、秋は懷舊と哀惜との時である。そしてまた、秋の特殊な蟲が卽ち音を立てぬ蜻蛉が出て來る事は――聲の季節に聲無きものが出て來ることは――變化の姿を一層無氣味にするばかりである。到る處に微小な稻妻の聲無きひらめきが――地面の上を、はてし無き妖術を織り編むが如くに、絕えず交錯する色のきらめきが――見られる、斯く古の一詩人は述べて居る。

 

 くれなゐのかげろふ走る蜻蛉かな 吳莚

 

[やぶちゃん注:「或る日本詩人が……」私は不学にしてこれが誰の如何なる書に出るか知らない。識者の御教授を乞う。

「秋の此快樂は憂愁を帶びて居る」これは「淮南子」に「春女悲、秋士哀而知物化」(春、女(ぢよ)は悲しみ、秋、士は哀(かな)しみ、而して「物化」を知る)に淵源の一つを求められる古い東洋の精神感懐である。「物化」道家思想に於いては「万物の変化など実際には本質の絶対的な変化などは存在せず、見かけ上の下らない物の変化現象があるだけのことであること」を示す。

「吳莚」不詳。この句は赤蜻蛉の目眩めく群飛を陽炎(かげろう)に譬えたものであろう。]

 

 

       

 

 十世紀以上の間、日本人は蜻蛉の詩を作つて居る。そして此題目は今日の靑年詩人にも依然好かれて居るものである。蜻蛉を詠んだもので現存して居る一番古い歌は、千四百四十年前、雄略天皇がお作りになつたものだと言はれて居る。或る日天皇が狩獵をされて居た時、と舊記にあるが、一匹の虻が來て御腕を咋つた[やぶちゃん注:「くつた」。咬んだ。]。すると其處へ蜻蛉が一匹其虻へ飛びかかつて來て、それを咋つてしまつた。そこで天皇は大臣達にその蜻蛉を讚めた歌を作れと命じ給うた。だが皆がどうやつていいか躊躇して居るので、自ら其蜻蛉を稱へた[やぶちゃん注:「たたへた」。]歌をお作りになつた。其御歌の結末は斯うである。

 

 波賦武志謀(はふむしも)、飫裒枳瀰儞(おほきみに)、磨都羅符(まつらふ)

 儺我柯陀播於柯武(ながかたはおかな)、婀岐豆斯麻野麻登(あきつしまやまと)

 

 そして、その忠義な蜻蛉の爲めに、此事のおりた處は、アキツノ卽ち「蜻蛉の野」と名づけられて居る。

[やぶちゃん注:以上は、「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下、

   *

秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易「舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

   *

歌の訓読部をサイト「J-TEXTS 日本文学電子図書館」の国史大系版から引く。

   *

やまとの をむらのたけに ししふすと たれかこのこと おほまへにまをす【あるふみに、「おほまへにまをす」をもちて「おほきみにまをす」にかふ。】 おほきみは そこをきかして たままきの あぐらにたたし【あるふみに、「たたし」をもちて「いまし」にかふ。】 しつまきの あぐらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくぶらに あむかきつき そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたはおかむ あきづしまやまと【あるふみに、「はふむしも」よりしもをもちて「かくのごと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきづしまといふ」にかふ。】

   *

歌は、擅恣企画(センシキカク)運営・上田恣氏管理のサイト「日本神話・神社まとめ」の「トンボが虻を食べて飛び去る歌」にある漢字かな混じり文を参考にし(別本異形の割注は五月蠅いので除去した)、前後の文は平井呈一氏の恒文社版訳(「トンボ」)の訳注等を参考にして自然流で訓読した。

   *

秋八月辛卯(かのとう))朔(つひたち)戊申(つちのえさる)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)す。庚戌(かのえいぬ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)に幸(いでま)す。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、躬(みづか)ら射むと欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)

因りて蜻蛉(あきづ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきづの)」と爲さしむ。

   *

同サイトには全現代語訳が載るが、その内、以上の歌部分の訳のみを引用させて戴く(同じく合成した)。

   *

大和の峰が連なった嶽に猪や鹿がいる。誰がこのことを大前に申し上げたのか? 大君はそれを聞いて、綺麗な玉で飾った胡床(アゴラ=椅子)に立ち……日本に昔からある「シツ」という綺麗な布を貼った胡床(アゴラ=椅子)に立って、猪や鹿を待っている。私が座って猪を待っている。私が立っていると、手に虻が噛み付いて、その虻を蜻蛉がサっと食べてしまう。昆虫までもが大君に従う。お前の形を名前に置こうではないか。蜻蛉嶋倭(アキヅシマヤマト)と名付けよう。

   *

また、ウィキの「トンボ」の「呼称」によれば、「古事記」には、『雄略天皇の腕にたかったアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、やはり「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとしている』として以下の歌を載せる(連続させ、漢字の一部を正字化し、読みも独自に歴史的仮名遣で振った)。

   *

み吉野の 袁牟漏(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)ぞ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 吳座(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ)の 衣手(そて)着そなふ 手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の國を 蜻蛉島(あきづしま)とふ

   *

「手腓」は腕の内側の肉の脹れている部分のこと。]

 

 雄略天皇が物せられたといふ歌は、ナガウタ卽ち長歌[やぶちゃん注:「ちやうか」。]といふ形式で書かれて居る。が、近時の蜻蛉の歌は大半もつと短い形式で書かれて居る。短い形式には三通りあつて、三十一綴昔から或る古來の短歌、二十六綴昔の通俗な都々逸[やぶちゃん注:「どどいつ」。]、それからたつた十七綴音の發句である。蜻蛉の詩の大多數は發句である。此題目を都々逸で詠んだ詩は殆ど無い。そして――言ふも不思議であるが!――古典的な短歌で詠んだものは實際頗る尠い[やぶちゃん注:「すくない」。]。此の一文に引用して居る詩歌全體並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人は、蜻蛉の短歌一首を見つけ了ほせる[やぶちゃん注:「おほせる」。]までに、帝國國書館で三十一字詩の書を五十二卷讀んだと言うて居る。そして、なほ一僧讀んで穿鑿をした後、到頭その友人は短歌でのそんな詩をやつと十二ばかり發見し得たのであつた。

[やぶちゃん注:「都々逸」は俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で,典型的な近世歌謡調で七・七・七・五の型を持つ。十八世紀末に名古屋の熱田で流行した「潮来(いたこ)節」に由来する。天保年間(一八三一年~一八四五年)に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で新しい曲風で歌って以来、普及した。言わずもがな、発句の成立よりずっと後である。]

 此の理由は、詩の上の古來の囚襲に求めねばならぬのである。日本の三十一字詩は幾百年間決定されて居る法則に從つて作られる。詩に取扱ふ殆どあらゆる題目は、四季のどれか一つに幾分の關係を持して考察すべき事を、此の法則が要求して居る。そして是は或る一定の分類法に――繪畫にも詩歌にも認許されて居る、長い間確定されて居る取り合はせの因襲に――從つて爲されなければならぬ。例へば、黃鳥[やぶちゃん注:「うぐひす」と当て訓しておく。]は梅と一緖にして述べるか描くかする。雀は竹と一緖に、時鳥は月と一緖に、蛙は雨と、蝶は花と、蝙蝠は柳と、といつた譯(わけ)である。日本の子供はどんな子供でも、こんな規則に就いて少しは心得て居る。さて、蜻蛉に就いては、どうしたもりか、そんな規則が短歌では明白に決定されて居らぬ。尤も繪では、或は手桶の緣に止まつて居たり、或は熟した稻の穗に止まつて居り、して居るのを屢〻見るが。その上また、詩歌の題目の分類の上に於て、蜻蛉はムシ(蟲――蟲としいへば[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞(副助詞)。]、詩人は何か啼く蟲を意味することに殆どいつもなつて居るのである)の中に入れては無くて、雜の中に入れてある。雜といふのは非常に廣い意義の語で――馬、猫、犬、猿、鳥、雀、龜、蛇、蛙等、要するに殆どあらゆる動物を包含して居るのである。

 蜻蛉の短歌の稀なことは斯く說明され得るのである。然し何が故に都々逸では蜻蛉が殆ど無視されて居るのであらうか。この詩形は通例戀の題目にのみ用ひられて居る、といふ理由からなのであらう。聲を立てぬ蜻蛉は、戀愛詩人には啼く聲が――殊にその啼き聲が或る夜の逢引の記憶に殘つて居る所の夜の蟋蟀が――鼓吹するやうな、あんな空想を思ひ浮かばしめ得ないからであらう。自分が蒐めて貰つた幾百の蜻蛉の時のうちで、直接或は間接に、戀の題に關係して居るのは七つしか無い。しかもその七つのうちに二十六字詩のものは唯だの一つも無いのである。

[やぶちゃん注:「都々逸」「は通例戀の題目にのみ用ひられて居る」都々逸は別名を「情歌(じょうか)」とも呼び、この属性は成立の初期に於いて特に遊廓で流行したことが関係している。]

 然しホックといふ――十七字音に限られた――形式では、蜻蛉の詩は初秋の蜻蛉そのものの如くに殆ど無數である。といふのは、此の詩格では、旨意[やぶちゃん注:「しい」。主旨。意図。考え。趣き。]にも方法にも、作者に殆ど何等の拘束が置かれて居らぬ。發句に就いての殆ど唯一の規則は――それも決して嚴格なものでは無いが――句は一つの小さな言葉での繪でなければならぬといふこと、――見たり感じたりしたものの記憶を復活すべきものでなければならぬこと――感覺の或る經驗に訴へるものでなければならぬこと、である。自分がこれから引用する發句の大多數は、確に此要求を充たして居る。讀者は、それが眞の繪である――浮世繪派の手法の小さな色彩畫である――事を知らる〻であらう。實際次記の俳句の殆どいづれもが、日本の畫伯が二た筆[やぶちゃん注:「ふたふで」。]三筆使へば面白い繪になり得るものである。

[やぶちゃん注:以下の前書は底本ではポイント落ち。]

 

   蜻蛉に關した繪畫詩

 

 稻の穗の蜻蛉とまり垂れにけり  繞石

[やぶちゃん注:「繞石」は「ぎやうせき(ぎょうせき)」(或いは「じょうせき」とも読んだ。孰れも現代仮名遣で示した)で、これは実は英文学者の訳者大谷正信の俳人としての俳号である。「蜻蛉」は原文“Tombō”で「とんぼう」である。以下、音数律に合わせて適宜「とんぼう」「とんぼ」に読み換えられたい。]

 

 蜻蛉の枝についたり忘れ鍬    素麿

[やぶちゃん注:下野の烏山藩第五代藩主大久保忠成(ただしげ 明和三(一七六六)年~嘉永四(一八五一)年)は文人大名で書画をよくし、発句もものし、「素麿(丸)」と号したが、彼か。三点対象を配した、なかなかの佳句と私は思う。]

 

 蜻蛉の嗅いで行きけりすて草鞋  許白

[やぶちゃん注:「許白」不詳。]

 

 袖につく墨か尾花にかねとんぼ (『懷子』所載)

[やぶちゃん注:「懷子」(ふところご)は江戸初期の、京の裕福な撰糸商人で俳人であった松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)が万治三(一六六〇)年に板行した俳諧撰集で、古歌の一部を取り入れて詠んだ句などを集めてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したところ、巻十の「秌」(あき:秋)の「蜻蛉」の部立てのこちら(右端)に、作者を「法元」(「法」は判読の自信がない)として、

 袖につく墨か尾花にかね蜻蛉

と出るのを探し当てた。「かね蜻蛉」は恐らく「一」の「十八」の「カネツケトンボ」で、そこで私はハグロトンボ Calopteryx atrata の異名で採った。同種の色といい、本句柄にもよく合う。

 

 日は斜め關屋の槍に蜻蛉かな   蕪村

[やぶちゃん注:岩波文庫刊の尾形仂(つとむ)校注「蕪村句集」に、

 日は斜(ななめ)關屋の鎗(やり)にとんぼかな

の表記で載り、創作年月を安永六(一七七七)年七~八月とする。]

 

 蜻蛉の草に倦んでや牛の角    太無

[やぶちゃん注:古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがあり、ネット上のある資料では彼を「太蕪」と記している。]

 

 垣竹の一本長き蜻蛉哉      芦雀

[やぶちゃん注:「芦雀」不詳。]

 

 垣竹と蜻蛉と映る障子かな   (碧雲會廣募句中のもの)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。

「碧雲會」正岡子規の直弟子であった訳者大谷正信(繞石)は、東京帝国大学英文学科卒業後の二十二歳の明治三〇(一八九七)年に松江に帰省するや、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて、全国で五番目の俳句会である「碧雲会」を発足させている。]

 

 釣鐘に一時休む蜻蛉かな     梅路

[やぶちゃん注:「梅路」中森梅路(?~延享四(一七四七) 年)。思文閣「美術人名辞典」に、『俳人。神風館五世。乙由に学び』、『会北に次いで神風館五世を継ぐ。魚商を営んでいたが』、『文雅の才あり、伊勢音頭の作者として知られる。延享』三(一七四六)年に、『凉袋』(りょうたい:江戸中期の国学者・読本作者・俳人・絵師として有名な建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)の俳号。本姓は喜多村、名は久域、通称は金五。江戸で生まれて弘前で育ったが、二十四歳以後は江戸を本拠地として諸国を遊歴、国学では賀茂真淵に師事した。また、読本の先駆的作品「本朝水滸伝」「西山物語」を著わし、絵は長崎で学び、初期の南画の鼓吹者の一人となった。多くの紀行文を著すなど、多方面に活躍した)『は伊勢に梅路を尋ねて入門して以来、伊勢風に傾倒し、又崇敬した事は「俳仙窟」でうかがわれる。著書に』「南仙録」があるとある。]

 

 尾を以て鐘に向へる蜻蛉かな   來川

[やぶちゃん注:「來川」不詳。撞木を擬えたが、ちょっと態とらしい作為を感ずる。]

 

 なき人のしるしの竹に蜻蛉かな  几董

[やぶちゃん注:高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。切れがないが、蜻蛉に霊を感じた古来の日本人や小泉八雲らには、しみじみとくるであろう一句である。]

 

 往つては來て蜻蛉絕えず船の網  太巢

[やぶちゃん注:「太巢」不詳。個人的には好ましい一句である。]

 

 蜻蛉や舟は流れて止まらず    靑扇

[やぶちゃん注:「止まらず」「とどまらず」。「靑扇」は不詳。]

 

 蜻蛉や帆柱當てに遠く行く    梅室

[やぶちゃん注:桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蜻蛉や日の影出來て波の上   (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 綿とりの笠や蜻蛉の一つづつ   也有

[やぶちゃん注:横井也有(よこいやゆう(歴史的仮名遣「よこゐやいう」) 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)は江戸中期の俳人。私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』の注を参照されたい。也有らしい動きのある一幅の絵である。]

 

 流れ行く泡に夢見る蜻蛉かな   仙溪

[やぶちゃん注:「仙溪」不詳。]

 

 浮草の花にあそぶや赤とんぼ   雨柳

 

 蜻蛉の一としほ赤し淵の上   (『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。]

 

 釣り下手の竿に來て寢る蜻蛉かな 也有

[やぶちゃん注:悪くない諧謔句である。やはり動きがあるのがいい。]

 

 蜻蛉の葉裏に淋し秋時雨     白圖

[やぶちゃん注:「白圖」「はくと」であろうが、不詳。]

 

 蜻蛉の十ばかりつく枯枝かな   士朗

[やぶちゃん注:加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。]

 

 よそごとの鳴子に逃げる蜻蛉かな 民花

[やぶちゃん注:「民花」不詳。]

 

 靑空や蚊ほど群れとぶ赤蜻蛉   繞石

 

 古墓や赤とんぼ飛ぶ枯樒    (碧雲會廣募句中ノモノ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「枯樒」は「かれしきみ」。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全部が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。]

 

 淋しさをとんぼ飛ぶなり墓の上  繞石

 

 蜻蛉飛んで事無き村の日午なり  虛子

 

 タづく日薄きとんぼの羽影かな  花朗

[やぶちゃん注:「花朗」不詳。]

 

 蜻蛉の壁をか〻ゆる西日かな   沾荷

[やぶちゃん注:「沾荷」(せんか)。「続猿蓑」や芭蕉との歌仙などに見られ、恐らくは宗因門下で傑出し、芭蕉とも親しかった内藤露沾の弟子であろう。]

 

 蜻蛉とる入日に鷄の眼付かな   成美

[やぶちゃん注:夏目成美(寛延二(一七四九)年~文化一三(一八一七)は江戸中・後期の俳人。名は包嘉、通称は井筒屋八郎右衛門(第五代)。別号に随斎・不随斎など。江戸蔵前の札差井筒屋に生まれ、十六歳で家督を継いだ。父に学び、俳諧独行の旅人と称し、特定の派に属さなかった。加舎白雄・加藤暁台らと親交を結び、小林一茶を援助したことでも知られる。]

 

 蜻蛉の舞ふや入日の一世界    倚菊

[やぶちゃん注:「倚菊」不詳。]

 

 生壁に夕日射すなら赤とんぼ  芦帆

 

註 これは小さな色彩習作である。塗りたての壁の色は暖かい灰色と想はれて居る。

[やぶちゃん注:註は底本ではポイント落ち。「芦帆」不詳。]

 

 出る月と入る日の間や赤とんぼ  二丘

[やぶちゃん注:出羽最上漆山の大地主であった半沢久次郎二丘(?~安政三(一八五六)年)か。]

 

 タ影や流れにひたすとんぼの尾  如泊

[やぶちゃん注:「如泊」不詳。]

2019/10/14

小泉八雲 作品集「日本雑録」 / 民間伝説拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Dragon-flies”。「守られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の最初に配されたたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まりが甚だ多く、美しくなく、読み難く、味気ないのである)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。底本ではパート標題は以下の通り、「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。また、本文にはトンボ類の博物画的ないい挿絵が六葉入っており、これはどうしても併載したく思い、同前の“Internet Archive”で入手出来る全画像(PDF)から、挿絵画部分のみをトリミングして適切な位置に配した。キャプションは原文を示して、訳を添えた。

 本文内に禁欲的に(と思いつつ、結局、神経症的になると思う)注を挿入した。

 本篇は全五章から成るので、分割して示すこととした。]

 

 

  民間傳說拾遺

 

 

  蜻 蛉

 

       

 

 日本の古名の一つにアキツシマといふがある。それは『蜻蛉の島』といふ意味で、そして蜻蛉といふ意義の文字で書き現はされて居る。この蟲は、今はトンボといつて居るが、古代に於てはアキツと呼んだものである。思ふに、このアキツシマ卽ち『蜻蛉の島』といふ名は、同じくアキツシマと發音はするが、異つた文字を用ひて書か現はされて居る『豐穰な國』といふ意味を有つた、なほ一册古い日本の稱呼からして、聲音上思ひ附いたものであらう。それは兎も角、約二千六百年前に、神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、國の蜻蜓のとなめせるに似たり、と御附の人達に御述べになつたといふ傳說がある。この御言葉があつたので、大和の國は蜻蜓洲と言はれるやうになつた、しまひには此名が全土に及ぶやうになつた。そして蜻蛉は今日に至る迄も依然この帝國の徵號となつて居る。

[やぶちゃん注:「蜻蛉」(とんぼ)は昆虫綱 Insecta 蜻蛉(トンボ)目 Odonata の、均翅(イトトンボ)亜目 Zygoptera・均不均翅(ムカシトンボ)亜目 Anisozygoptera・不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera  に属するトンボ類。全世界で約五千種、本邦にはその内、二百種近くが棲息している。なお、ウィキの「トンボ」によれば、「とんぼ」の古称の由来は『諸説あり、たとえば以下のようなものがある』とする。『「飛羽」>トビハ>トンバウ>トンボ』という説、『「飛ぶ穂」>トブホ>トンボ』という説、『「飛ぶ棒」>トンボウ>トンボ』という説、『湿地や沼を意味するダンブリ、ドンブ、タンブ>トンボ』という説、『秋津島が東方にある地であることからトウホウ>トンボ』という説、『高いところから落下して宙返りのツブリ、トブリ>トンボ』という説などである』。『なお、漢字では「蜻蛉」と書くが、この字はカゲロウを指すものでもあって、とくに近代以前の旧い文献では「トンボはカゲロウの俗称」であるとして、両者を同一視している』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒(』セキソツ/『赤とんぼ)をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である』。なお、かく普通に一般人が用いた場合の「カゲロウ」とは、真正の「カゲロウ」類である、 有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「カゲロウ」である、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類及び、脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい

「アキツシマ」秋津島。日本の古称。古くは日本語としては珍しく「あきづしま」と濁った。小学館「日本大百科全書」によると、通説では、「日本書紀」の第六代孝安天皇の「葛城室之秋津嶋宮(かづらきのむろのあきつしまのみや)」の記事と、神武紀三十一年、同地に於ける秋津島の称の起源伝承をもとに、秋津を奈良県御所(ごせ)市内の地名とし、この地名が大和、さらに日本の総称、また大和にかかる枕詞となったと説いているが、しかし、孝安天皇の宮については「日本書紀」が『都を室(むろ)の地に遷(うつ)す。是(ここ)を秋津島宮といふ』と述べており、これは秋津を地名とは見做し難く、また、神武紀の称も「浦安国、細戈千足国」の称と並べられていて(後掲注参照)、寧ろ、賛称の一つに過ぎないと見るのが相応しい。上記の例と記紀雄略天皇の条の蜻蛉(あきづ)(=トンボ)にかけた起源伝承(「古事記」では雄略天皇の腕に食いついたアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、そこで倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と呼んだと出る)を除けば、他のすべてが大和の語とともに使用されているのも、賛称であるためであろう。その語義については、水辺の農耕平地のことを指す「アクツ」と関連させる説、秋=実りと解する説などがあるが、未詳である。国号としての単独使用は平安以後と考えられている。なお、耶馬(やま)=野馬(やま/陽炎)→蜻蛉(かげろう)→蜻蛉(とんぼ)と転義されたものとして、起源を耶馬台国の称に求める説もあるという。

「神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、……」「日本書紀」巻第三の終りの方に神武天皇三十一年(機械換算紀元前六三〇年)相当の条に、

   *

 卅有一年四月乙酉(きのととり)朔(つひたち)、皇(すめらみこと)輿巡幸(めぐりいで)ます。因りて、腋上嗛間丘(わきのかみのほほまのをか)に登りまして、國の狀(かたち)を𢌞(めぐ)らし望(おほ)せて曰(のたま)はく、

「妍哉(あなにゑや)、國、獲(み)えつ。内木錦(うつゆふ)の眞迮國(まさきくに)と雖も、猶ほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)ごとくもあるか。」

是れに由りて始めて「秋津洲(あきつしま)」の號有り。昔、伊弉諾尊(いさなきのみこと)此の國を目(なづ)けて曰(のたま)はく、『日本(やまと)は浦安國(うらやすのくに)、細戈千足國(くはしほこちたるくに)、磯輪上秀眞國(しわかみほつまくに)。』と。復た、大己貴大神(おほむなちのおほかみ)之れを目けて曰はく、』『玉牆内國(たまがきのうちつくに)。』と。饒速日命(にぎはやひのみこと)、天磐船(あまのいはふね)に乘りて。太虛(おほそら)翔行(めぐ)りて、是の鄕(くに)を睨(おせ)りて降りたまふに及至(いた)りて、故(か)れ[やぶちゃん注:そのために。]、因りて目づけて『虛空見日本國(そらみつのやまとのくに)』と曰ふと。

   *

とある。「蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)」はトンボの交尾行動を言ったもの。♂が尾端の附属器で♀の頭部(複眼の後部)挟んで、♀の生殖器♂が自身の副性器に差しこんだ形(私にはハート形に見える)を、雄雌が互いの尻を嘗めているように古代人は見たのである。

「蜻蜓」これも「とんぼ(う)」と読む。「蜻蛉」と区別する場合は、大型の「やんま」で訓ずる。「蜓」は大型のトンボに対して用いられることが多い。にしても、何故、大谷は「蜻蛉」と「蜻蜓」を混在させているのかが全く分からない。区別して使い分けている訳ではない。不審である。なお、底本は一部で「蜓」ではなく、おぞましい長い虫(ゲジやムカデ)やヤモリ(彼は好き)を指す「蜒」で誤植しているように見える箇所が散見されるが、ここは特異的に総てを正しく「蜓」とした。

 日本は、文字返りの意味で、蜻蜓の國と呼ばれる値値を充分に有つて居る。といふは、レインが詩的に述べて居るやうに、日本は『脈翅類愛好者にはまことのエルドラアド』だからである。恐らくは京北兩溫帶のどの國も、日本ほど多種類の蜻蛉を所持しては居まい。また熱帶國すらも、日本の種類の或る種の、ものより、もつと珍らしく美しい蜻蛉を造り得るかどうか、自分は怪しむものである。自分がこれまで見たうちで一番驚嘆すべき蜻蛉は、昨夏靜岡で捕つた一カロプテリツクスであつた。土地の人は『黑トンボ』と呼んで居るものであつた。が、その色は實際は非常に濃い紫色であつた。天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロウド(ビロード)」。]のやうな紫色のその細長い翅は――觸つて見ても――不思議な或る花の花瓣のやうに思はれた。縫針のやうにか細いその紫色の體は、光澤無しの金の点線の裝飾を有つて居つた。頭部と胸部とは眼の覺めるやうな金綠であつたが、眼は磨きをかけた金の球そつくりであつた。脚は、肢部に直角を爲して、丁度豆仙人の櫛の齒のやうな、何とも言へぬ纎細な棘がその内側を緣取つて居た。それは餘りに微妙なものだつたので、その平和を亂したことに一種の後悔の念を自分は覺え――神界に屬する者に要らぬ手出しをしたやうに感じ――た程であつた。――で、自分は直ぐとそのとまつて居た灌木へ返してやつた。……此の特殊な蜻蛉は燒津町の近くの淸流の附近だけに棲んで居るといふことである。が、然しこれは多くの可愛らしい變種の一つたるに過ぎぬのである。

[やぶちゃん注:「レイン」恐らくは、ドイツの地理学者で日本研究家として知られるヨハネス・ユストゥス・ライン(Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)である。明治七(一八七四)年にプロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日し、工芸研究の傍ら、北海道を除く日本各地を精力的に旅行し、地理や産物を調査した。明治十年に帰国し、マールブルク大学地理学教授・ボン大学地理学教授を務め、多くの日本人ドイツ留学生の世話をした。以下の出典は不詳。

「エルドラアド」“Eldorado”。「エル・ドラード(El Dorado)」。「黄金郷」。大航海時代、スペインに伝わったアンデスの奥地に存在するとされた伝説上の黄金境。語源は十六世紀頃まで南米アンデス地方に存在した「チブチャ」文化(「ムイスカ」文化)に伝わっていた「黄金の人」の意の言葉に基づくもの。

「カロプテリツクス」“Calepteryx”。小泉八雲の繊細な描写でお判りなったことと思うが、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx。インセクターの方は、八雲の記載で種同定が可能なのかも知れぬが、私は昆虫には詳しくないので同定比定は控える。アオハダトンボ Calopteryx japonicaか、ハグロトンボ Calopteryx atrata か。]

 

 だが、より美妙な蜻蛉は稀に目にするもので、且つ日本文學に出て來ることは滅多に無い。――それで自分が讀者の興味を呼び得るのは、ただ蜻蜓の詩歌と、民間傳說との方面に於てのみである。自分は蜻蜓の談論を古風な日本流儀で試みたいのである。そして自分が――奇妙な書物と永く人に忘られて居る圖畫との助を藉りて――此題目に就いても知り得た僅少の知識は、大半は、より普通な種類に關してである。

 

 だが蜻蛉文學を論述する前に蜻蛉の名稱に就いて少しく語る必要があらう。日本の古書は五十種許りを名ざさうとする。『蟲譜圖說』には實際その數に近い蜻蛉の彩色繪があるのである。が此書には、蜻蛉に似て居る蟲で、不穩當にも蜻蛉の部に入れてあるのが數々あり、又同一種の雄と雌とに異つた名が與へられて居るやうに思へる例が少からずある。之に反して、異つた種類の蜻蛉が四つも同じ普通名を有つて居るのを自分は知つて居る。そこで如上の事實を眼中に置いて居て、次記の目錄は先づ完全なものと思つてよからうと自分は敢て考へるのである。――

[やぶちゃん注:「蟲譜圖說」江戸後期の旗本で博物学者飯室昌栩(いいむろまさのぶ 寛政元(一七八九)年~安政六(一八五九)年)作の安政三(一八五六)年序を持つ昆虫図譜。飯室は江戸市ケ谷に住み、設楽(しだら)甚左衛門に学び、天保七(一八三六)年、越中富山藩主前田利保の主宰する博物研究会『赭鞭(しゃべん)会』に参加した。本「虫譜図説」は日本最初の体系的に分類された虫類図鑑である。同図説は国立国会図書館デジタルコレクションにもあるが、各ページを見るには「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の方が使い勝手がよい。同書の「卷之四 卵生蟲類七」の巻頭に「蜻蛉類」が載る。全体を一画面で見たい場合はこちらでPDF。なお、それに遙かに先行する、私の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」も以下の読解の助けとなると思われるのでリンクさせておく。

 以下、底本では、全体が三字下げでボイント落ちである。完全に引き上げて、同ボイントで示した。なお、私は昆虫は守備範囲外なので、素人考えで推測して注している。誤りがあれば、御指摘戴けると幸いである。]

 

一、ムギワラトンボ(或は單にトンボ)卽ち麥藁蜻蛉――その身體が形も色も稍〻麥藁に似て居るので斯の[やぶちゃん注:「この」。]名がある。――これは多分蜻蛉のうちで一番普通なもので、且つ最も早く現はれるものであらう。

[やぶちゃん注:初っ端から悪いけれど、小泉八雲先生は冒頭から前段で指弾した誤りを御自身で犯してしまっている。恐らくは飯室の配列に習って(「虫譜図説」の当該頁。以下、断らなければ、総て早稲田の当該書画像である)、これを頭に持ってきたものであろう。無論、民間での蜻蛉の呼称のリストとなれば、特に問題はないものの、敢えて前段で同一種の異名(性的二型に基づくとしても)を問題視し、以下の自身のリストを、ある意味で昆虫学的にトンボ類の「完全なもの」と自負する以上は、性的二型を指示していないからには、やはりやや瑕疵の趣はある。さても則ち、これは次の「二」で掲げる、日本産亜種である、トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum ♀の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、同種は♀や未成熟の♂では、『黄色に小さな黒い斑紋が散在するため、「ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)」とも呼ばれ』、『複眼は緑色で』ある。

 なお、この日本産トンボに就いての小泉八雲のリストは近代昆虫学のトンボ学の中でも、市井の非専門家の記載の中では有意に意義を持つものと思われ、専門家やインセクタ―の方の考察比定論文が当然あるのではなかろうかと、ネット検索を掛けたが、見当たらない。同じく、小泉八雲が概ね原拠として使用した飯室昌栩の「虫譜図説」の「蜻蛉」パートも論文か解説が有りそうなものと思ったが、残念ながらやはりネット上には見当たらないのだ。御存じの方があれば、お教え願いたい。

二、シホカラトンボ或はシホトンボ――卽ち、鹽辛蜻蛉或は鹽蜻蛉――尾の尖が鹽に浸つて居たやうな色をして居るので斯の名がある。シオカラとは鹽に漬けられた一種の魚の食品である。

[やぶちゃん注:同前の、亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum の♂の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、♂は『老熟するにつれて、体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となる。この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。塩辛との関係はない』とある。以下に、原本にある以上の二つ(くどいが、二種ではない)の画像を示す。挿絵では順序が逆転している。

 以下、総ての挿絵パートでは前後を一行空けた。]

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    Plate  1

Ⅰ.  SHIO-TOMBŌ (“SaltD.

Ⅱ.  MUGIWARA-TOMBŌ (“Barley -straw”)

訳す。「D.」は「Dragon-fly」の略と採った。「TOMBŌ」は江戸以前の「とんぼう」を採りたかったが、長音符なので間が抜けているが、「とんぼー」とした(原本本文でも総てが“Tombō”表記である)。

    図版 1

Ⅰ しほ・とんぼー(「塩」蜻蛉)

Ⅱ むぎわら・とんぼー(「麦の藁」)

「Barley」麦(コムギ・オオムギ・ライムギ・エンバクなどの、一見、外見の類似したイネ科 Poaceae 植物の総称)は、英語では「oat」・「wheat」・「barley」が用いられはするが、この単語は狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare を指す。但し、本邦の「麦藁」は広義のそれであるから、かく訳しておいた。]

三、キノトンボ、卽ち黃蜻蛉――まつ黃では無く、黃色い線や條のある赤味がかつた蜻蛉である。

[やぶちゃん注:「キノトンボ」原文“Kino-Tombō”。「ノ」は性質を表わす格助詞の「の」。トンボ目トンボ科アカネ属 キトンボ Sympetrum croceolum個人サイト「神戸のトンボ」の「キトンボ」によれば、本邦では『北海道・本州・四国・九州に分布』し、『海外では朝鮮半島,中国に分布する』が、『分布域の連続性から見て,朝鮮半島のものは日本のものと同じと見てよいであろう』とされる。『翅の前縁に沿って黄橙色帯が存在』し、『また翅のつけ根から結節』、『または』、『それを超えるくらいにまで黄橙色の部分が広がる.胸部・腹部はほとんど黒条斑が見られない』。『♂では成熟すると腹部背面などが赤色になる』。『♀の産卵弁は幅広く,また下方に突き出ている』とある。]

四、アヲトンボ。アヲといふ言葉は靑にも綠にも使ふ。で、異つた二種類の蜻蛉を――一つは綠。一つは金屬質の靑いのを――此名で呼んで居る。

[やぶちゃん注:緑色のというのは、恐らくトンボ亜目ヤンマ科アオヤンマ Aeschnophlebia longistigma を指していると見てよかろう。金属光沢で異なった種で「靑いの」というのであれば、思い出すのは、トンボ目カワトンボ科アオハダトンボ属アオハダトンボ GCalopteryx virgo であるが(先の「神戸のトンボ」の「アオハダトンボ」の画像等を参照されたい)、同色の金属光沢は多種で見られるので同定比定は控える。]

五、コシアキトンボ――腰明蜻蛉。普通斯く呼ばれて居る蜻蛉は黑と黃との斑のものである。

[やぶちゃん注: トンボ科ベニトンボ亜科コシアキトンボ属コシアキトンボ Pseudothemis zonataウィキの「コシアキトンボ」によれば、『腰空蜻蛉』とあり、『東南アジアから東アジアに広く分布するが、北海道には分布しない』。『全身は黒色で、腹部の白い部分が空いているように見えるために名づけられた。成熟したオスは腹部の付け根が白色、メスと未成熟のオスは黄色』。『腹部の白い部分を、暗闇に輝く電灯に見立てて、「電気トンボ」と呼ぶ地方もある。木立に囲まれた池や沼などに生息し』、『市街地の公園の池でも見られる』。『未成熟な成虫とオスはホバリングしながら生息水域上の狭い範囲を長時間飛翔する』とある。]

六、トノサマトンボ――殿樣蜻蛉。恐らくその色が美しいが爲めであらうが、種類の異つた澤山の蜻蛉を此名で呼んで居る。コシアキ卽ち腰明といふ名も、これと同樣、種々な變種の數々に與へられて居る。

[やぶちゃん注:不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている。

七、コムギトンボ、卽ち小麥蜻蛉。――麦藁蜻蛉よりか少し小さい。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のこちらに『コムギワラトンボ』『ムギガラトンボ』と出るものであろう。そこには『此亦ムキワラトンボノ一種ニシテ身丈ノ文』(もん)『異なる者ニシテ小麥藁トンボと云大暑ノ比稀ニ在リ飛フコト髙クシテ採得ガタシ』とある。また、小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『身黑ク白糝(シロキコ)』(白い粉)『アルモノヲ シホカラトンボト云一名シホ【備前】シホカイ【加州】又豫州ニテハ身ニ灰ト黑ノ橫斑アルモノヲ シホカラトンボト云 又一種身ニ黃ト黑ノ橫斑アルモノヲ コムギトンボト云一名ムギハラトンボ【共豫州】』とある。「神戸のトンボの」のこちら(シオヤトンボ Orthetrum japonicum の解説)、『北海道・本州・四国では,本種以外のシオカラトンボ属では,シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum とオオシオカラトンボ Orthetrum melania しかみられない』とあるから、「少し小さい」とあるからには、オオシオカラトンボは除外でき、調べて見ると、シオカラトンボに比べて、シオヤトンボの方が小柄で腹部が扁平で短いとあったので、シオカラトンボの若年個体でなければ、シオヤトンボの可能性が高いと言えようか。]




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    Plate  2

Ⅰ.  KINO -TOMBŌ

Ⅱ.  KO-MUGI-TOMBō

訳す。

    図版 2

Ⅰ きの・とんぼー

Ⅱ こむぎ・とんぼー

しかし、この「Ⅱ」の画は、どう見ても、上記本文で比定したシオカラトンボ属ではない。こんな特異な斑点を持つ種は、私は現に見たことがないから判らない。識者の御教授を乞う。これ、しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを不正確に転写したもののように見える。よく似た有意に大きな円紋がある。

 

八、ツマグロトンボ、卽ち褄黑蜻蛉。翅の端が黑いか又は濃い赤い色かなので、斯う呼ばれて居る蜻蛉で種類の異つた、居るのがある。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のこちらに『ツマクロトンボ』として出、『此亦江雞』(右頁の(コムギワラトンボ/ムギワラトンボに記された漢名。則ち、「七」の注で示した通り、それはシオカラトンボ属 Orthetrum である)『トノサマトンボノ如クニテ只翅ノ先黑クシテヤヽ大ナルモノツマグロトンボト云』とある。あまり翅の褄黒は目立つ感じではないが、オオシオカラトンボ Orthetrum melania が候補とはなろうか。しかし、それが「赤」いというのは小泉八雲の言うように別種であろう(そうした別種候補まで私は捜すだけの知識も余裕もない。悪しからず)。]

九、クロトンボ、卽ち黑蜻蛉。クロといふ語は色の濃い意味にも、黑い意味にも用ひるから、濃紅色の蜻蛉にも、濃紫色の蜻蛉にも、此名が與へられて居るのは不思議では無い。

[やぶちゃん注:直ちに想起する種は、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata ではある。現在も別名を「クロトンボ」と言う。但し、後の「十三」にハグロトンボは出る。]

十、カラカサトンボ、卽ち傘蜻蛉。この蜻蛉の身體は、形も色も、細かに割つた竹で骨組が出來て居て、それへ厚い油紙を張つたカラカサといふ傘をすぼめたのに似て居るといふことである。

[やぶちゃん注:不詳。似た種を想起できない。ところがこれ、飯室の「虫譜図説」のそれを見ると、『蜓』『カラカサトンボ』と標題するも、後のキャプションが『鉛山縣志云六足四翼……」に始まって異例の漢文が記され、最後に改行して『啓蒙圖ニ載スルモノ』とあって、これは本邦産トンボでない可能性が高い気がしてきた。だって、この「鉛山縣志」というのは「江西省鉛山縣志」で清の連柱等纂の華中地方の地方誌だからである(無論、本邦にも棲息するのかも知れぬが、判らぬ)。中文で「蜓」で調べても、蜻蛉の総称であって、種名は見出せなかった。

十一、テフトンボ、――卽ち蝶蜻蛉。翅のが蛾か蝶の翅模樣に似て居るので、この名を有つて居るのだから、同じ名でゐて種類の異つて居るのがある。

[やぶちゃん注:トンボ科チョウトンボ亜科チョウトンボ属チョウトンボ Rhyothemis fuliginosa が筆頭に挙げられるウィキの「チョウトンボ」によれば、『翅は青紫色でつけ根から先端部にかけて黒く、強い金属光沢を持つ。前翅は細長く、後翅は幅広い。腹部は細くて短い。腹長は』二~二・五センチメートルほどで、出現期は六~九月、羽化は六月中旬頃から『始まる。朝鮮半島、中国に分布し、日本では本州、四国、九州にかけて分布する。おもに平地から丘陵地にかけての植生豊かな池沼などで見られる。チョウのようにひらひらと飛ぶので』、『この和名がついている。日本以外にも、近縁種が多数存在する』とある。]

十二、シヤウジヤウトンボ、鮮やかな赤い色の或る蜻蛉を斯う呼んで居る。色が赤いので此名があるのである。支那及び日本の動物神話に於て、シヤウジヤウといふのは、人間以下のものではあるが、動物以上のもので、――姿をいふと、深紅な長い髮を生やした、巖疊な[やぶちゃん注:「ぐわんじやう」な。]子供のやうである。この深紅の髮毛から不思議な赤の染料加とれると言はれは居る。此の猩々は非常に酒が好きだと想像されて居る。そして日本の美術では此の動物は酒壺のあたりで踊つて居る處を普通は見せてある。

[やぶちゃん注:トンボ科アカネ亜科ショウジョウトンボ属タイリクショウジョウトンボ亜種ショウジョウトンボ Crocothemis servilia mariannaeウィキの「ショウジョウトンボ」によれば、『オスは和名の』伝承上の妖獣『ショウジョウ(猩猩)』(私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「猩猩」を参照されたい。詳しく解説し、モデル動物も考証した)『から連想できるように真っ赤だが、メスはハクビシンを連想させる茶色である』。『オスは単独で池の縁に強い縄張りを持ち、縄張りの縁に沿って力強く哨戒飛行をする。他のオスが飛来すると斜め』二十センチメートル『弱の距離に位置関係を保ち、地形に合わせて低空編隊(にらみ合い)飛行を見せる。やや下側を飛ぶのが地主である。時に激しく羽音を立てて格闘するが、メスの飛来にはおおらかである。交尾は、概ね向かい合って上下飛行を繰り返した後、やや高く』二メートル『位に上昇し、オス同士の格闘よりやや弱く縺れ合い、数秒以内ですませているように見える。おつながり飛行は観察できない。交尾後にメスは飛びながらアオミドロなどの水草を腹の先でこするように産卵する。オスは、産卵中のメスの上空』一メートル『未満でホバリングし、他者(虫)の接近を許さない。雄の飛翔は速くてパワフルであり、風に乗ってゆっくり飛ぶことはなく、哨戒飛行の後はすぐに縄張り内のお気に入りの基点に止まり警戒を続ける。メスは同じオスの縄張りに居座らないで』、『産卵後はさっさと移動する。また、飛翔はオスに比べて緩やかである』。『羽化直後は黄色がかって羽もキラキラで初々しい。飛翔は弱々しく、午前中の最初の飛行でツバメやスズメの餌食になることが多く観察できる。飛翔後の晩は、巣立った池の周囲の開けた草地の地面から』十センチメートル『内外の高さの草の上に水平に止まっていることが多く、見つけやすい。草陰等に露を避けるようにぶら下がって止まっているのではない。概ね』二、三日で『姿を消す』。『ヤゴは、水底より水草に留まって生息している』。『食物は、肉眼では微小(ミジンコの』十分の一『程度)な動物プランクトンを希にみる程度の水盤でも冬を越し、十分に成長し』、『成熟する』。四『月の雨上がりの数日後の晴れた日には、一坪程の産卵繁殖池から』七~八『メートル離れた伸びたスズメノカタビラ』(単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ属スズメノカタビラ Poa annua)『の(水没しない)繁茂地の湿った地面上でヤゴを発見することが多々あり、歩行は素早いので、陸上での採餌活動も推測される』とある。]

十三、ハクロトンボ、卽ち羽黑蜻蛉。

[やぶちゃん注:「九」の注で示した、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata と思うのだが、しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、所謂、イトトンボ型でなく、『形状赤卒』(アカトンボの異名)『ニ似テ』いるとし、図にも本文にも両後翅に五つ(実際には画には各六つ見える)の白い有意な円状の斑点がある。少なくとも、飯室の示すそれはハグロトンボではないと断言できる。なお、このハグロトンボ相当の小泉八雲の原本の挿絵は第五図であるが、本文と一致させるためにここに持ってきた

 


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 Plate  5

HAGRUO-TOMBŌ

訳す。

 図版 5

はぐろ・とんぼー

この図も、明らかに飯室の「虫譜図説」の上下を入れ替えた写しである。]

 

十四、オニヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。日本の蜻蛉のうちで一番大きなものである。どつちかといふと不快な色をして居る。身體は黑くて、あざやかな黃色い條がある。

[やぶちゃん注:日本最大のトンボとして知られる、不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii Sélys, 1854。種小名は、近代黎明期日本の生物研究に貢献したフィリップ・フランツ・フォン・ズィーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)に捧げられたものである。]

十五、キヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。キエムマともいふ。エムマといふは死界の王で靈魂の審判者である。

[やぶちゃん注:この「キ」は通常、我々の知識では「鬼」ではなく、「黃(黄)」とすべきところではなかろうか? そうでないと、小泉八雲には悪いが、前との区別がつかなくなるからである。しかも、これは私はヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいかと今は思っている。何故、「今は」と言ったというと、私は先の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」に注して、

   *

・「胡黎(きやんま)」「小にして黃なる者なり」ここでのこれは、ネット情報を見る限りでは、特定の種ではなく、不均翅(トンボ)亜目トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種(日本産)Orthetrum albistylum speciosum 或いはシオカラトンボ属オオシオカラトンボ Orthetrum triangulare melaniaの♀ではないかと思われる。トンボ科アカネ属キトンボ(黄蜻蛉)Sympetrum croceolum の和名があるが、この種は体部は赤く、翅の半分近くが黄色味を帯びたもので、この記載とはどうも一致しないように思われる。

   *

としたからである。寺島の文章は小泉八雲とそれは異なるから、別に新たに考証し直しても別段、そちらに影響はないとも考えてはいる。]

十六、シヤウリヤウトンボ、卽ち精靈蜻蛉。此名は、似よつた意味の、も一つの名、シヤウライ蜻蛉と共に、自分の知つて居るところでは、多くの種類の蜻蛉に與へられて居るやうである。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」で朝比奈正二郎氏は「ショウリョウトンボ」(精霊蜻蛉)について、『昆虫のトンボのうち、夏季精霊会のころに多数現れるものをさすらしいが、その種類を正確に指示することは困難である』。七、八『月の候に』、『水田の上などをおびただしく徘徊』『するウスバキトンボなどをさすのかも知れない』とある。トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉)属ウスバキトンボ Pantala flavescens ウィキの「ウスバキトンボ」によれば(下線太字は私が附した)、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボである。和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とある。

「シヤウライ蜻蛉」は同じく「精霊蜻蛉」と漢字表記するようで、ネット上の記載では京都での「精霊」の訛りであるらしいともあった。平井呈一氏の恒文社版「トンボ」でもここは『ショウライ・トンボ(精霊トンボ)』と訳しておられる。というより、原文自体が“Sōrai-tambō, or " Dragon-fly of the Dead,"”となっているのを、大谷氏が勝手に省略してしまっているのである。これは痛い。]

十七、ユウレイトンボ――卽ち幽靈蜻蛉 種々な蜻蛉がこの名で呼ばれて居る。或る美しいカロプテリツクスで、その音無しに黑く飛ぶのが影の動くが如くに――蜻蛉の影の動くが如くに――思ひ誤らるゝやうな一種のカロプテリツクスの場合には、此名は殊に適切である、と自分は思つた。實際此の黑い蜻蛉に此名を附けたのは、影を幽靈だと思つた、原始的な思想を思はせる爲めであつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:後の「二十」の「ヤナギジヤラウ」の注を参照のこと。

「カロプテリツクス」“Calepteryx”。既出既注であるが、再度、注しておくと、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx。私はやはり真っ先にハグロトンボ Calopteryx atrata を想起する。

 

Plate3_20191014200301

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  3

YUREI-TOMBŌ(“GhostD.)or

KURO-TOMBŌ(“blackD.

訳す。

    図版 3

ゆうれい・とんぼー((幽霊」蜻蛉)又は

くろ・とんぼー(「黒」蜻蛉)

しかし、このキャプションでは、幽霊蜻蛉と黒蜻蛉(本文「九」)は同一種の異名であるように採れてしまう。まあ、小泉八雲の記載からはそれでも問題はないのだが。]

 

十八、カネツケトンボ或はオハグロトンボ。どつちも古昔夫のある婦人が齒を黑くする爲めに用ひた調劑に關係のある名である。だから御齒黑蜻蛉と譯していい譯である。オハグロ(御齒黑)或は鐡漿は齒を染めるに用ひる浸劑を呼ぶ普通の言葉であつた。カネヲツケルといふは、その品物を用ひる、或はもつと文字通りに言へば、『附着』するといふことである。だからカネツケトンボといふ稱呼は、鐡漿附け蜻蛉と譯しても宜い[やぶちゃん注:「よい」。]。此の蜻蛉の翅は半黑で、半分印氣に浸けたやうに見える。同じく繪のやうな、コウヤ卽ち紺屋といふ別名がある。

[やぶちゃん注:現行、これらは狭義にはやはり直前のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名であるようである。「鐡漿」(おはぐろ/かね)「お歯黒」に就いては、私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(6) 天象台の私の居室/鉄漿附けのスケッチ」の本文・挿絵・私の注を参照されたい。]

 

Plater4

[やぶちゃん注:「Ⅰ」は「十二」だが、「Ⅱ」がここに出るので、ここに配した。キャプションを電子化する。

    Plate  4

Ⅰ.  SHōJō -TOMBŌ

Ⅱ.  KANÉ-TUKÉ-TOMBō(“stained-with-KanèD.)

訳す。

    図版 4

Ⅰ しょーじょー・とんぼー

Ⅱ かね・つけ・とんぼー(「鉄漿(かね)を附けた」蜻蛉)]

 

十九、タノカミトンボ、卽ち田の神蜻蛉。赤と黃とが雜つた色の蜻蛉につけた名である。

[やぶちゃん注:小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『赤卒』=赤蜻蛉の異名を列挙する中に『タノカミトンボ【會津】』と見出せるから、トンボ科アカネ(アカトンボ)属 Sympetrum の多様な赤蜻蛉類を指すと見てよい。ウィキの「赤とんぼ」によれば、世界では約五十種が記載されており、日本では二十一種が記録されているとして、リストが載る。狭義には、アカネ属アキアカネ Sympetrum frequens を指して俗に「赤とんぼ」と呼ぶ傾向がある。]

二十、ヤナギヂヨラウ、卽ち柳女郞。美しいが氣味の惡るい名である。といふのは、柳女郞といふは柳の木の靈であるから。非常に優美な蜻蛉で此の名で呼ばれて居るのが二種あると思ふ。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、『ヤナギ女﨟』(「女郎」ではないぞ! 大谷先生! 八雲先生もちゃんと“lady”って記してますよ!)『シヤウリヤウトンボ』とあって、

   *

淺水陰湿ノ地ニ生ス夏秋ノ間羣飛す深黑色ニシテリアリ其翅イカニモ力ナク疲労ノ状ナレハ俗に幽霊トンボト名ヅク

   *

とキャプションするのだ。私はその内容と、画の形状・色を見るに、これは間違いなく、

トンボ類ではなく、広義のカゲロウ類を指している

と断言できる。この広義の「カゲロウ」(真正・非真正を含む)の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。]

二十一、セキイシシヤ。卽ち赤衣使者。

[やぶちゃん注:中国での「赤とんぼ」の異称。「赤とんぼ」は夏の終ろうとする頃に決まって飛んで来るので、赤い衣を着たこの秋の季節の到来を告げる使者として擬人化して呼んだもの。]

二十二、ヤムマトンボ、此名は類語を重ねたやうなものである。ヤムマは大きな蜻蛉で、トンボはどんな蜻蜓でもさう呼ぶ。これは興味のある綠色をした蜻蛉につけた名である。出雲では之をヲンジヤウと呼んで居る。

[やぶちゃん注:「ヤムマ」はトンボ亜目ヤンマ科 Aeshnidae のヤンマ類(本邦産はウィキの「ヤンマ」を見られたい。主な種として十七種が挙がっている。既に述べた通り、門外漢の私にはそれらを識別して細かく比定同定する力はない)とオニヤンマ科 Cordulegastridae のオニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を含む。]

二十三、クルマヤムマ、卽ち車ヤムマ、――尾に圓盤のやうな附屬物があるのでさう呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:これは尾部の附属物でピンときた。トンボ亜目 Anisoptera 下目ヤンマ上科サナエトンボ(早苗蜻蛉)科ウチワヤンマ(団扇蜻蜓)亜科ウチワヤンマ属ウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus である。ウィキの「ウチワヤンマ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本』(本州・四国・九州)『ネパール、ミャンマー、タイ、ベトナム、ロシア北東部に分布する』。『名称に「ヤンマ」と付くが、サナエトンボの仲間である事は、頭部の複眼が接していない事からも判る。単に体が大柄なトンボ=ヤンマという思い込みから、ヤンマの名を付けられたに過ぎない。同じような思い込みで名がつけられたサナエトンボの仲間ではコオニヤンマ』(サナエトンボ科 Hageniinae 亜科コオニヤンマ属コオニヤンマ Sieboldius albardae)『がいるが、長時間飛行するヤンマ科に比べ、サナエトンボの仲間らしく、ある程度』、『飛翔したら』、『すぐに止まって休むという行動からも見分けられる』。全長は七~八・七センチメートルで、腹長は四・九~六センチメートル、後翅長は四~五・一センチメートル。『脚には黄斑がある』。『オス、メスともに腹部の第』八『節には、黄色を黒色で縁取ったうちわ状の広がりがある』。『オスは水辺の岸近くの枝先などに留まる。平地、丘陵地の深くて水面の開けた池や湖(湖底は砂泥で少し汚れた水質)に生息する』。『成熟したオスは縄張りをもち、水面から出た杭などの突起物の先端に静止して占有する。交尾も同様な場所の先端で静止して行う。その後、交尾態のまま飛び回って』、『産卵場所となる水面の浮遊物を探し、見つけると連結を解いて産卵する。産卵はメス単独で行われ、ホバリングをしながら』、『腹部の先で間欠的に浮遊物を打つ。卵は、糸で連なっている。卵の期間は』一~二『週間程度であり、幼虫で』一~二『年間を過ごす。幼虫は水深の深いところで生活する』とある。この団扇状突起は実際にパタパタと可動する(捕獲された方の記録にある)なお、十数件のインセクターの方の「ウチワエンマ」記載縦覧したが、遂にこの団扇状突起の機能を説明されたものに出逢えなかった。御存じの方は、御教授願いたい。]

二十四、アカトンボ、卽ち赤蜻蛉。種々な種類に此名を今つけて居る。だが殊に赤蜻蛉と古の詩人が言うて居るのは、小さな蜻蛉で、屢〻群を爲して居るものである。

[やぶちゃん注:既注。]

 

Plate6

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  6

Ⅰ. SÉKI-I-SHISHA(“Red-Robed Messenger”)

Ⅱ. AKA-TOMBŌ

訳す。

    図版 6

Ⅰ せき・い・ししゃ

Ⅱ あか・とんぼー

「Ⅰ」は前の「二十一」。]

 

二十五、トウスミトンボ、卽ち燈心蜻蛉。非常に小さい。古風な日本のラムプに使用するか細い、木の髓の心(しん)に身體が似て居るので此名があるのである。

[やぶちゃん注:「か細い」でお判りの通り、トンボ目均翅(イトトンボ)亜目イトトンボ科Agrionidae のイトトンボ類の内、特に小型の種類を俗に「トウスミトンボ」と呼ぶようである(イトトンボ全体を古くはそう呼んだとする記載もあった)。イトトンボ類は本邦では二十七種が知られ,体長約二センチメートルのヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea が「トウスミトンボ」(「トウスミ」は「豆娘」と書いたり、「とうしみ」と呼んだりするが、小泉八雲の謂うように、これは「灯心蜻蛉」「とうしんとんぼ」が訛ったものと考えるのが自然に思われる)その代表種か。]

二十六、モノサシトンボ、卽ち尺蜻蛉。これもまた甚だ小さな蜻蛉である。關節の條(すぢ)の十あるその身體がこの名を思ひ附かせたのである。――普通竹で出來て居る尋常一般の日本の物指は、甚だ幅の狹いもので、ただ十スン卽ち十吋[やぶちゃん注:「インチ」。しかし、この換算はいい加減。「一寸」は三十・三センチメートルであるのに、十インチは二十五・四センチメートルである。]に區劃されて居る。

[やぶちゃん注:均翅(イトトンボ)亜目モノサシトンボ科モノサシトンボ属モノサシトンボ Copera annulataウィキの「モノサシトンボ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では、北海道、本州、四国、九州に広く分布する』が、『小笠原諸島と南西諸島での生息は確認されていない』。『成虫は中型で』、『イトトンボ亜目』Zygoptera『の中では大きい』。『秋に出現する個体は小さい』。『近縁種のオオオモノサシトンボ(学名:Copera tokyoensis (Asahina, 1848))』『と形態が酷似する』。『腹部に物差しのような等間隔』『の環状紋があり』、『和名』「物差し」『の由来となっている』。『後頭部に青白い斑紋があり』『複眼は左右に離れていて、複眼の内側に波状の斑紋がある』。『前翅と後翅は同じ形で同じ大きさ』で、『翅に黄色と黒の斑紋があり、若い個体の斑紋は赤色』を呈する。全長は♂で三・九~五センチメートル、腹長三・一~四センチメートル、後翅長は一・八~二・六センチメートル。『成熟すると』、『斑紋が水色となる』。『中脚と後脚の脛節は白くやや拡がる』。『腹部第』九『節』と第十『節が青白い』。『斑紋が黒化した個体も時々見られる』。♀の成虫は殆んど♂に同じ(孰れもごく少しだけ大きい)』で、『黄緑色と水色の個体がいる』。「ヤゴ」の『全長は約』二・七センチメートルで、『木の葉』のような三『枚の尾鰓は長大な柳葉状で、長さは腹長とほぼ同じ』。『下唇はスプーン形』を呈する。『平地から丘陵地にかけて分布』し、『河川の中流域の樹林に囲まれた池、沼や湿地』『でよく見られ』、『岸辺が暗い環境を好む』。『成熟したオスは縄張りを持ち』、『水辺の植物に翅を閉じて』『静止し、時々』、『周囲を飛翔してメスを探す』。『他のオスが近づくと追い払う』。『メスを見つけたオスは連結し、植物に止まって移精と交尾を行う』。『交尾は午前中に行われることが多い』。『交尾後』、『連結態のまま』、『水面付近の植物に産卵したり、メス単独で産卵したりする』。『ヤゴは捕獲されると』、『脚を縮め、U字型に体を曲げて死んだふりをする』。『生物化学的酸素要求量(BOD)が10-20 (mg/l)の汚れた止水の水質環境に生育する』。『卵期間は』一~二『週間程度』で、『幼虫(ヤゴ)期間は』四ヶ月から一年程度(一年に一、二世代を経過する)、『幼虫で越冬する』。『成虫の主な出現期間は』五月末から九月であるが、ライフ・サイクルから、四月や十~十一月に『見られることもある』とある。]

二十七、ベニトンボ、色が赤い爲めにつけたもので、淡紅色の美しい蜻蛉である。ベニといふは日本の女の子が或る場合にそれを脣や頰に少しつける一種の臙脂である。

[やぶちゃん注:トンボ科ベニトンボ亜科ベニトンボ属ベニトンボ Trithemis aurora。参照したウィキの「ベニトンボ」によれば、『湖沼や湿地などで見られる中型のトンボ。体長は約』四センチメートルで、『胸部には黒い縞模様があり、尾の先は黒くなる』。『羽の基部は茶褐色に色づく』。『オスの成虫は体色が赤紫色になるが、メスの体色はオレンジ色となる』とある。♂は、かなり特徴的な色で、小泉八雲が「臙脂」と言っているのが納得できる。]

二十八、メクラトンボ、卽ち盲蜻蛉。この名を有つた[やぶちゃん注:「もつた」。]蜻蛉は決して盲目では無い。然しその大きな身體を不細工に室内の品物へぶつつけるので、一時(いつとき)視力の無いものと想像されて居たのである。

[やぶちゃん注:ネット検索を掛けると、各地で「イトトンボ」類をこう呼んでいることが判った(差別和名でそのうち、消滅してしまうであろうが)。しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、これは「イトトンボ」類ではない。小泉八雲はこのキャプションをもとに本文も書いているから、小泉八雲自身は「イトトンボ」の類とは思っていないものと私は思う。

二十九、カトンボ。卽ち蚊蜻蛉。――多分、亞米利加のモスキイトホークと同じ意味のものであらう。

[やぶちゃん注:無論、トンボではなく、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae のガガンボ亜科 Tipulinae・シリブトガガンボ亜科 Cylindrotominae・ヒメガガンボ亜科 Limoniinae に属するガガンボ類の異名。

「モスキイトホーク」不審。原文は“Mosquito Dragon-fly”。しかし、アメリカ英語にこの単語は見出せない。そこで大谷氏の訳から“Mosquito hawk”で画像検索を掛けたところ、バッチリ「ガガンボ」のオン・パレードとなった! 英語では“Crane fly”とも呼ぶ。]

三十。クロヤマトンボ、卽ち黑山蜻蛉。――ヤマトンボ卽ち山蜻蛉といふがあるが、これは大抵綠色をして居るので、それと區別する爲めに斯く呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:不詳。小泉八雲は殆んど緑色と言っているから、彼の認識はヤンマ或いはオニヤンマ類であろう。飯室の「虫譜図説」のこれで、これは寧ろ、キャプションも含めて「五」の「コシアキ・トンボ」(コシアキトンボ Pseudothemis zonata)に見えるのだが?

三十一、コヤマトンボ、卽ち小山蜻蛉。形も色も山蜻蛉に似て小さい。

[やぶちゃん注:トンボ目ヤマトンボ科コヤマトンボ属コヤマトンボMacromia amphigena amphigena「神戸のトンボ」のこちらを見られたい。

「山蜻蛉」ヤマトンボ科 Macromiidae はあるが、ヤマトンボという和名の種のトンボはいないようである。]

三十二、ツケテダン。ダンといふ語は雜色の織物への總名である。でツケテダンとは『色んな色の衣物を着たもの』と大まかに譯してもよからう。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のここに出る。画はヤンマ系。しかし、キャプションからこれも本邦産じゃないみたいなので、深追いしない。悪しからず。流石に――疲れた…………

 【2019年10月15日16:27追記】今になって、迂闊にも本篇「蜻蛉」の最後で、大谷氏が纏めてこれらの「蜻蛉」類に就いての訳注(一つに纏められてある)を附しているのに気づいた(則ち、以上の注はあくまで私独自の探究によるものである)。現在、取り敢えず、その訳者注をテクスト化したので、以下に取り敢えず示しておく。一見して分かる通り、学名が異なるものがある。これはシノニムであったり、後に学名変更が行われたものも含まれるが、拡大してみても、脱字としか思えない奇体な学名もある。明日以降、それらに就いては、私の個々の注を附して示したいと思うが、今日のところは、「譯者註」を追加するに留める(奇体な部分もそのままに示す。学名の綴りは拡大して確認した)。底本ではポイント落ち字下げであるが、本文と同じにした。学名が斜体になっていないのもママである。【同日21:21追記】気持ちが悪いので、酒を飲むのを切り上げて、注を附した。

譯者註 ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus. シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である。キノトンボは學名 Diplax croccola. アヲトンボは――學名上此名は無い。コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata。『蟲譜圖說』には、之をトノサマトンボともいふ人あり。トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か。コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである。ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの。クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳。テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus. 全身淡黑して翅の先き白し、と『蟲譜圖說』には書いてある。シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia. ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ。オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii[やぶちゃん注:種小名の頭文字大文字はママ。]. オホヤマトンボともいふ。キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう。キトンボともいつて、黃色で、翅も淡黃、大小の黑點がその翅にゐる。學名未詳。シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい。精靈祭頃に見るのにこの名を與へるのではあるまいか。ユウレイトンボ――動物學上にはこの名を見ぬ。カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata[やぶちゃん注:ママ。]. タノカミトンボ――『蟲譜圖說』には、形キノトンボに似て、身丹黃、尻に黑斑あり、足黑く、翅赭色、とあれども、會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい。ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ。セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である。ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope[やぶちゃん注:属名はママ。脱字であろう。]. キンヤムマとも呼ぶ。クルマヤムマの學名は譯者には未詳。アカトンボ――これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ。トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum. モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである。ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か。カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉。日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう。クロヤマトンボの學名は譯者之を知らぬ。コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena. ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた。

[やぶちゃん補足注:「ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus」ありそうな感じだったが、欧文のリストを見たが、シオカラトンボOrthetrum albistylum speciosum のシノニムにはこれは見当たらなかった。或いは大谷氏は同属のシオヤトンボ Orthetrum japonicum japonicum を二名法で表記したものを誤認したのではなかろうかとも思われる。

「シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である」私が注した通りで正しい。

「キノトンボは學名 Diplax croccola」キトンボ Sympetrum croceolum のシノニムには見当たらない。感じからは、大きな属名変更が行われた可能性があり、その際に種小名の綴りも変更されたのかも知れない。にしても、シノニムは記載ととして残る筈だが、「Diplax」属自体が全く見当たらない。不審。

「アヲトンボは」「學名上此名は無い」正しい。

「コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata」正しい。

「トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か」私は注で「不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている」と述べた。それが孰れであっても、属名どころか科レベルのタクソンが異なるので変種ではなく、全くの別種となる。

「コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである」私は注でこれをシオヤトンボ Orthetrum japonicum の異名の可能性が大とした。同種は「麥藁蜻蛉」=シオカラトンボ属の一種であるから、もし私の同定が正しいとすれば、変種ではなくて同属の別種となる。

「ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの」大谷氏は「殿樣蜻蛉」の同定を誤っているので、この説明は学術的には無効となる。

「クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳」私は前者の候補の一つして、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata を挙げた(あくまで名前の印象からではある)。後者は注で示唆したように、これは中国産種であって本邦には棲息せず、和名はない、とするのが結果した私の判断である。

「テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus」現行は Rhyothemis fuliginosa で、種小名の末尾が異なるが、如何にもありそうな綴りであり、洋書の一部の種名索引を見るに、チョウトンボの古いシノニムであった可能性が高い。

「シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia」現行は三名法で Crocothemis servilia mariannae であるから、正しい。

「ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ」実在するハグロトンボの学名は示した通り、Calopteryx atrata である。しかし、注で留保した通り、本種であるかどうかは怪しい。

「オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii」正しいが、種小名の頭文字大文字は誤り。ただ、古記録を見ると、種小名を大文字化するものはしばしば認められる。

『キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう』私も注でそう述べた。但し、「學名未詳」とあるが、私はこれはヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいか、という注を附した。そちらを見られたい。

「シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい」所持する「言海」を見ると、『しやうりやうとんぼ』の項に『きやんまニ同ジ』とある。そこで「きやんま」の項を見ると、『黃蜻蜓』『とんぼうノ一個、やんまヨリ小クシテ、紅黃ナリ、初秋イ多ク飛ブ、聖靈祭ノ頃ナレバしやうりやうとんぼノ名モアリ。又、きとんぼ。胡黎』(「胡黎」には右に二重線)とある。

「ユウレイトンボ」「動物學上にはこの名を見ぬ」私は「二十、ヤナギヂヨラウ」の注で述べた通り、広義のカゲロウ類を指すものと考えている。これは確信に近い。

「カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata」注で述べた通り、現行のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名と私は考えている。大谷氏もそう考えたわけであるが、学名の属名が致命的におかしい。これは発音が出来ない。恐らく、植字ミスと思われる。

「タノカミトンボ」「會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい」大谷氏は恐らく、私が注した「本草綱目啓蒙」を見たのだと思う。『タノカミトンボ【會津】』とあるからである。しかし、私はその記載からトンボ科アカネ(アカトンボ)属 Sympetrum の多様な「赤蜻蛉」類を指すと比定した。

「ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ」判らないはずである。注で示した通り、私はこれはトンボ類ではなく、広義のカゲロウ類と断じているからである。必ず、その注を見られたい。

「セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である」大谷先生、違います。どう考えても、見ても、中国での広義の「赤蜻蛉」の異称ですよ。

「ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope」これは完全な植字工のミスである。「Anax pa」はオニヤンマ属 Anotogaster の誤植と見てまずはよいと思うが、問題は種小名で、オニヤンマ Anotogaster sieboldii とは全く異なる。オニヤンマ科 Cordulegastridae ではなく、ヤンマ科 Aeshnidae を調べても、およそ、この綴り字に似たものはいない。不審極まりない。「キンヤムマとも呼ぶ」とあるが、前掲通り、その学名とも一致しない。不審の極みである。

「クルマヤムマの學名は譯者には未詳」私はウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus に自信を以って同定比定した

「アカトンボ」「これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ」正しい。

「トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum」私はヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea  とした。綴りが話にならないほど異なるのだが、やはり英文の種索引を見ると、これはシノニムであった可能性が排除出来ない気がした。

「モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである」これは、外れです、大谷先生。モノサシトンボ Copera annulata です。

「ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か」前者はベニトンボ Trithemis aurora と私は比定したが、この大谷の言う「Psilocnemis annulata」というのは、どうも、彼が調べる内に、前のモノサシトンボと混同して誤認して注してしまった可能性が極めて高いと私は思う。何故なら、モノサシトンボ Copera annulata、実は現在でも、別属の Psilocnemis の種として扱われる場合があるからである(ウィキの「モノサシトンボ」を参照されたい)。annulata」と「aurora」は生理的に気持ちが悪いほど似ているではないか。

「カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉」「蜉蝣科」は致命的な誤り(或いは当時はそう思われていたか? いや、それはちょっとなかろう。そもそもカゲロウ科というタクソンは少なくとも現在は存在しない(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera はある)。既に注した通り、ガガンボ類、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae に属する。しかも、注で述べた通り、「亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居」りませんよ! 大谷先生! 小泉八雲は「モスキート・ドラゴン・フライ」って言ってるんですッツ! しかも、「モスキイトホーク」“Mosquito hawk”を逆引きすると、実はこれ、不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属する多様なトンボ類を指す総称でんがな!

「日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう」おかしいですよ! 大谷先生! 彼らは「蚊」よりも驚くべく大きいじゃあないですか!?!

「コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena」現行のコヤマトンボは Macromia amphigena amphigena。「Epophthalmia」なら、トンボの科の属にはあるが、本邦産種は同科にはいないようである。

「ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた」実状を暴露されましたな、大谷先生。しかし、誠実です。]

 

 上記の目錄のうちで、なほ進んで說明の要ある名は、『死者の蜻蛉』といふ意味のシヤウリヤウトンボ又の名シヤウライトンボだけであらうと思ふ。同じく無氣味なユウレイトンボ卽ち幽靈蜻蛉とは異つて、シヤウライトンボといふ名は、その姿形に關係を有つた名では無くて、或る種の蜻蛉には――翼ある馬として――死者が騎つて[やぶちゃん注:「のつて」。]居るといふ、妙な迷信から來て居るのである。舊曆七月の十三日の朝から十五日の夜半まで――盆會のあひだ――蜻蛉は、その時分にその舊の家を見舞はるミホトケサマ卽ち祖先の靈を背負つて居る、と言はれて居る。だから、佛敎の此の『萬靈節』中は、子供はどんな蜻蛉でもそれを――殊にその折家の内へ偶〻入つて來る蜻蛉を――いぢめることを禁ぜられる。蜻蛉と超自然界との此の想像されて居る關係が、今なほ方々の國に行はれて居る、蜻蛉とる子は『智慧を得ぬ』といふ意味の、古くからの諺を說明する役に立つ。も一つ奇妙な信仰は、或る種の蜻蛉はクワンノンナマ(觀音菩薩)を背に負うて居る、といふ信仰である。――背の斑點模樣が佛像の形に微かに似よりがあるからのことである。

[やぶちゃん注:「佛敎の此の『萬靈節』」原文は“this Buddhist " All-Souls,"”。本来、この「All-Souls」は、キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる「死者の日」または「万霊節(ばんれいせつ:All Soul’s Day)を指す。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(信仰を持って逝った人全ての記念日)と呼ぶ。大のキリスト教嫌いの小泉八雲が英語圏読者のために使ったのだと思うと、何となく、私は心にチクチクと、痛みを感ずるのである。]

2019/10/12

小泉八雲 僧興義  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Kōgi the Priest”。「僧興義の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭の「奇談」パートの掉尾である第六話目として置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「夢應の鯉魚」(構成としては明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること)、さらに溯る明代の白話小説「古今」の「淵」の辰巻三十五にある「魚服記」、「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」の三種を勘案して典拠としたもの)を原拠としている。サイト「日本古典文学摘集」の原文現代語訳もある)をお薦めする。

 

 

  僧 興 義

 

 殆んど一千年前、近江の國の名高い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ𢌞るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事ができた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

[やぶちゃん注:「殆んど一千年前」小泉八雲の本作品集は明治三四(一九〇一)年の刊行であるが、原拠の上田秋成の「夢應の鯉魚」では「むかし、延長の頃」と始まる。延長は九二三年から九三一年である。

「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。園城寺は七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺である。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「興義」昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊の高田衛・稲田篤信編著「大学古典叢書1 新注 雨月物語」の注に、『僧興義曾つて江州三井寺に住み画名有り」(本朝画史)。また』、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年))同じ『の頃の人で、鯉の絵にたくみであつた蛇玉・※史明がモデル』(「※」=「葛」-「人」+「ヒ」)とある。前者は生没年未詳の平安中期の僧で、藤原実範(さねのり)の子で天台僧。康平(一〇五八年~一〇六五年)頃の人。園城寺で学び、京の道澄寺(どうちょうじ)の別当を務め、画をよくしたという人物で(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、後者は葛蛇玉(かつじゃぎょく 享保二〇(一七三五)年~安永九(一七八〇)年のことである。ウィキの「葛蛇玉」によれば、葛は江戸中期の絵師で、『大坂の人。名は徹、のち季原。字は子明。洞郭とも号した。鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、上田秋成著『雨月物語』にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われる』。『蛇玉の人となりは片山北海による墓碑銘』『によって知られる。木村宗訓の子孫が代々住職を務める浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった。長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家の宗家は小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称した。葛の姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、葛「KATSU」としたと推測される』(私が馬鹿なのか、この説明、よく分らない。「KOZU」ではなく、「KOKU」なら判るんだけど)『画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後に宋元の古画を模して一家を成した』。明和三(一七六六)年二月二十二日の『晩、蛇が玉を咥えて来る夢を見て、目覚めると』、『そこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話を裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話が記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数』、『描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる』。『人柄は風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町に住み、当時の人名録にも名前が記載されている。享年』四十六。『墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石は残っていない。息子の蛇含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない。蛇玉の方も現在確認されている作品は極めて少なく』、たった六『点しかない』とある。リンク元にリストが出るが、その内の二枚は「鯉魚図」である。]

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり、喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた、そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫み[やぶちゃん注:「あたたかみ」。原拠『暖(あたゝか)なるにぞ』。]のある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

 『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

 『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絕えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとひらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んでゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

 『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んで居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」……同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟達が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――宴會をしでゐないかどうか』

[やぶちゃん注:「助」原拠は『平(たひら)の助の殿』。先の高田・稲田編著「新注 雨月物語」の「助の殿」の注に、『国司の次官』とある。]

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郞が、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:ここは名前。]と一緖に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮ベた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、

 『これから二三と尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四[やぶちゃん注:「ぶんし」。]から魚を買ひませんでしたか』

 『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

 『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郞樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べでゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

 『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緖に叫んだ。

 『それから掃守がその大かな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三盃飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令で、それを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

 『さうです』助は答へた、「しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

 『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。[御承知の通り殆んど皆の人達は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に達した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脫いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出で來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも𢌞りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――『暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた[やぶちゃん注:「しろし召(め)された」。]龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰ベたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない』かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

 『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を說明した歌のやうな文句が入れてある[やぶちゃん注:近江八景は「石山秋月」(いしやまのしゅうげつ:以下「の」を入れて読む)・「勢多(瀬田)夕照」・「粟津晴嵐」・「矢橋(やばせの)帰帆」・「三井晩鐘」・「唐崎夜雨」・「堅田(かたたの)落雁」・「比良暮雪」の名数。ウィキの「近江八景」で江戸後期の浮世絵師歌川広重の代表作である、錦絵名所絵揃物「近江八景」が見られる。]〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や木の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの[やぶちゃん注:「沖津島」現在の滋賀県近江八幡市沖島町(おきしまちょう)の沖島。「竹生島」滋賀県長浜市早崎町にある竹生島(ちくぶしま)。]――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。……時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり聲を聞いたりする事ができた、時々私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂[やぶちゃん注:「かい」。]の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨[やぶちゃん注:有意に水深の浅い潟瀬の一般名詞でとっておく。]の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度か驚かされた。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、[やぶちゃん注:三百三メートルであrが、残念ながら琵琶湖の最深部は北湖の西側の安曇川沖付近で百四メートルである。]――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び𢌞つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れてゐた鉤[やぶちゃん注:「はり」。]に近づいた。それには何か餌がついてゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言[やぶちゃん注:「ひとりごと」。]を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、――「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郞樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に椽側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく俎板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さとともに――覺えた、――そしてその時突然眠がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた――『今から思へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

 興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

 

[やぶちゃん注:この田部氏の訳は、興義の台詞がすこぶる良い。逐語訳的なのが――この場合は――実は非常に良いのだ。何故か? まるで小泉八雲が、たどたどしい日本語を喋るように感じられるからだ。この興義は実は小泉八雲自身なのだ。小泉八雲が水泳が大好きだったことはご存じの通り。「荘周、夢に胡蝶となる」張りに、ここでは「八雲、夢に鯉魚(りぎょ)となる」の気持ちで書いたに相違ないからである。]

小泉八雲 梅津忠兵衛  (田部隆次訳) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上巻「第百八十二 產神の事」


[やぶちゃん注:本篇(原題“The story of Umétsu Chūbei”。「梅津忠兵衛の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第五話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠を示した。]

 

 

  梅津忠兵衞

 

 梅津忠兵衞は非常な力量と勇氣のある若い武士であつた。彼は戶村十太夫と云ふ地頭に仕へてゐた、その居城は出羽の國橫手の近傍の高い山の上にあつた。家中はその山の下に小さい町をつくつてゐた。

[やぶちゃん注:「梅津忠兵衞」出羽国久保田藩の優れた家老に梅津政景(天正九(一五八一)年~寛永一〇(一六三三)年がいるが、本篇や原拠を見ても事蹟が合わないから違う(この一門の誰かである可能性は排除は出来ない。リンク先は彼のウィキ)。但し、ウィキの「妹尾兼忠」(せおかねただ)に以下のようにある。注意! ネタバレになるので以下(※※※で挟んだ部分)は本篇を読んだ後に読まれる方がよい。】※※※『秋田県横手市に残る伝説に登場する人物である。通称が五郎兵衛であることから、妹尾五郎兵衛兼忠(せおごろべえかねただ)とも呼ばれている。また、怪力であったため』、『「大力妹尾兼忠(だいりきせおかねただ)」とも呼ばれている』。『昔、横手の武士、妹尾五郎兵衛兼忠』『が、用事があってまだ人気のない早朝に家を出た。蛇の崎橋(じゃのさきばし)』『を歩いていると、向こうから赤ん坊を抱いた女性が歩いてきて、兼忠にしばらく赤ん坊を抱いていてほしいと頼んできた。他に誰もいなかったため、兼忠はやむを得ず』、『赤ん坊を預かった』。『女性が去った後、兼忠は次第に赤ん坊が重くなってくるのに気付いた。さらに赤ん坊が成人のような目つきをし、兼忠の喉元をにらむため、危険を感じた兼忠は、小柄(小さな刀)を抜いて口にくわえた。赤ん坊の重みはいよいよ増し、ついに耐えきれなくなり思わず念仏を唱えた。小半時(』一『時間)ほどしてようやく女性が蛇の崎橋に戻ってきて赤ん坊を受け取り、お礼にお金を渡そうとしたため』、『兼忠が固辞すると、女性は「自分は土地の氏神で、いま氏子のひとりが難産で苦しんでいたので助けを求められた。あなたに預けた子はまだ産まれていない子で、だんだん重くなったのは母親が危険なときだった。あなたの念仏のおかげで親子ともども助かりました。子々孫々にわたり、力をあげます」と言って手ぬぐいを差し出した。兼忠は受け取って、用事のために急いで橋を去った』。『翌朝、兼忠は顔を洗おうとして、前日もらった手ぬぐいを思い出し、それで顔を洗った。手ぬぐいを絞ったところ簡単に切れてしまったので、兼忠は「力をあげます」という昨日の女性の言葉の意味を理解した。手ぬぐいが弱いのではなく、兼忠の力が強くなっていたのだった』。『横手城内で兼忠の怪力が評判になったころ、植木に使う大木を運搬中に蛇の崎橋で欄干に引っかかって』、『どちらにも動けなくなる出来事があった。兼忠が』丁度『通りかかり、大木を移動させようと必死に作業する人夫に、通行の邪魔であると声をかけた。人夫はつい、良くない言葉で返事をしたため、武士の兼忠はその無礼に怒り、大木を持ち上げるなり橋の下の横手川』『の川原に投げ落としてしまった。この大木を引き上げるのに』五十『人の人夫が』三『日かかったという』。元和八(一六二二)年の弾圧を受けた宗教系集団による「大眼宗一揆」(だいがんしゅういっき)の際、『兼忠は』二『間余りの角材を手に持って蛇の崎橋の上に立ち、一揆の信者たちをにらみつけ、追いのけて功名をあげた』『とも、また、兼忠の下駄は』、一『斗余り入る味噌桶の台ほどの大きさだったとも伝わる』。『ある雨の日、兼忠が足駄を履いて傘を右手に持ち、左の手の平に大石を乗せて、急な七曲がりの坂を苦もなく登って横手城』『へ登城する姿が、人々を驚かせたという。現在横手公園の一部となっている横手城本丸跡(秋田神社境内)には「大力無双妹尾兼忠」と刻まれた石碑と、彼が片手で運んだとされる大きな石が残っている』。ところが、『ある日、兼忠が横手川の関門の大扉をもってみなぎり落ちてくる水をささえ、押し戻してその力を誇示していた。このありさまを川岸で見ていた』一『人の老翁が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言ったので、兼忠「戻すに何の難しいことがあろうか」と扉を開いて下流に押し戻そうとしたが』、『満水に』一『町ほど流され、これではどうかと思ったとき、大水が渦を巻いたので』、『岸へかけ上がった。老翁すでにそこにはおらず、それ以来、兼忠の力は弱まったという』。『与謝蕪村が』、宝暦四(一七五四)年の「妖怪絵巻」の『なかで「蛇の崎』(じゃのさき)『が橋 うぶめの化物」として描いている』(同ウィキの当該画像はこちら。注に『横手城下町の内町(武家町)と大町、四日町などの外町(町人町)とを分ける横手川にかかる橋。送り盆祭りでも有名。菅江真澄の』「雪の出羽路」に『「蛇の崎」の名の由来が掲載されている。それによれば、大蛇と河童がこの渕で争い、なかなか勝負が着かなかったが、河童が別の渕に移ってヨロヨロとなった大蛇が渕の主になったという説話』に基づくという。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『それによれば、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物。関口五郎太夫、雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」と説明をつけている』。『産女(うぶめ)が大力を授けるこの物語は「うぶめの礼物」型に属している。産女は、上述のように、城の山中の氏神だと名乗っている』。以下、注に彼は『佐竹氏家臣』で『兼貞とも。佐竹氏の久保田転封により須田美濃守(須田盛秀)とともに常陸国より従って来た茂木百騎の一人。秋田領横手城下の本町に居を構えたと伝わる』とあり、また、『妹尾五郎兵衛兼忠が大力を授かった話は、広く知られ、幕末から明治にかけて著名であった講談師桃川如燕は、これを粉飾して寄席の高座で「溝口半之丞」(「幽霊半之丞」とも)の題名で口演した』。※※※小泉八雲も本篇「梅津忠兵衛の話」として、この話を語っている。また、『柳田國男も』「日本の昔話」(初版は昭和五(一九三〇)年アルス「日本児童文庫」十一の「日本昔話集(上)」として刊行)に『「妹尾五郎兵衛」の伝承を記録している』(題名は「力士と産女」。第二段落総てが本話と同じ内容である)とあるから、この妹尾兼忠で間違いない

「戶村十太夫」江戸前期の武将で出羽国久保田藩(秋田藩)士の重臣に、通称を戸村家代々の当主の通称である十太夫を名乗る戸村義国(天正一九(一五九一)年~寛文一〇(一六七一)年)がいる。ウィキの「戸村義国」によれば、『戸村家は藤原秀郷の末裔とされる戸村能通(よしみち)により創始された家系であるが、南北朝時代に入って、南朝方に属した』六『代目の戸村又五郎(実名不詳』『)が宗家の那珂通辰』(なかみちとき)『と共に北朝方の佐竹貞義と戦って自刃し』、『一時』、『断絶した。その後、佐竹義人の三男・大掾満幹』(だいじょうみつとも:水戸城主)『との養子縁組を解消した佐竹義倭(よしやす/よしまさ)が前戸村氏の居城であった常陸国戸村城を再建したことにより、その姓を称して佐竹氏の一族とな』った。父の『義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死した(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸戸村城より』、慶長七(一六〇二)年に『宗家・佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽に入』った。慶長10年から慶長十二年に『かけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君・義宣と大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが』、『怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で』第二『代将軍・徳川秀忠より』、『感状と刀「青江次直」を拝領する。その後、第二代『藩主・佐竹義隆の執政を務め』、寛永八(一六三一)年に『角館の代官として赴く』。寛文九(一六六九)年に『久保田藩が松前藩からの』「シャクシャインの乱」の『鎮圧応援要請を受けて派遣軍が編成されるが、義国は派遣軍の軍将となる。ただし、派遣前に乱が平定されたので派遣は中止となっ』ている。『長男の義宗に先立たれたため、その嫡男(義国の孫)義連が跡を継ぎ』、寛文一二(一六七三)年に横手城代となっている、とある。従って、彼以前の戸村義倭(よしやす/よしまさ)佐竹義人の三男)・義易(義倭の兄・佐竹義俊の五男)・義廣・義知・義和・忠義・義国と、それ以後の久保田藩士の宗家戸村十太夫家で横手城代を務めた、戸村義宗・義連・義輔(義寛)・義見・義孚・義敬・義道(義通)・義效もその候補となる。いや、寧ろ、最後に掲げる原拠では『仙北郡(ごほり)橫手宿の地頭』とある(「地頭」は江戸期にあっては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね一万石未満)のことを意味する語としてあった)から、寧ろ、この義国よりも後の義連以降(義宗は父より早世したので彼ではない可能性が高い)の人物であると考えた方が事蹟には合うように思われるのだが(嘉連は寛文一二(一六七二)年に橫手城に入城しており、それ以降、代々「十太夫」を称した戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めてもいる。しかし乍ら、前の注のモデルである伝説上の人物妹尾兼忠の記載には、彼が元和八(一六二二)年の「大眼宗一揆」で活躍したとあるからには、やはり、これは戸村義国と考えるべきかと思う(元和八年当時の義国は満三十一歳。但し、彼自身は横手城主ではない。ただ、この話の主人公は伝説上の人物だから、その辺を問題にしても実際には意味はないと思われる)。橫手城はここなお、元和六(一六二〇)年の「一国一城令」によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた初代藩主佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れている。

 忠兵衞は城門の夜番[やぶちゃん注:「やばん」。宿直(とのい)。]に選ばれた一人であつた。夜番には二通りあつた、――第一のは夕方に始まつて夜中に終り、第二のは夜中に始まつてあけ方に終るのであつた。

 或時、忠兵衞が第二の夜番に當つて居る時、不思議な事件に遇つた。眞夜中に夜番の務めにつかうとして山を上つて居る間に、彼は城の方へ行く曲つた道の最後の曲り角に一人の女が立つて居るのを見た。彼女は一人の子供を抱いてゐて、誰か人を待ち合せて居るやうであつた。そんな時刻に、そんな淋しい場所に女の居る事は、最も特別な事情でもなければ、說明のできない事であつた、そして忠兵衞は化け物は暮れてから人をだまして殺すために女の姿になる事を思ひ合せた。それで彼は目の前の女と見える物も本當に女であるかどうかを疑つた、それで彼女が彼の方へ話しかけるやうに急いで來たのを見て、彼は一言も云はないでやりすごしとした。しかし、女が彼の名を呼んで、甚だやさしい聲で、つぎのやうに云つた時に、彼は餘り驚いてさうはできなかつた、――『梅津殿、私は今夜大層困つてゐます、そしてせねばならぬ難儀な務めがあります、どうかほんの暫らくこの子供をもつてゐて下さいませんか』そして女は子供を彼にさし出した。

 忠兵衞はこの大層若さうに見える女を知らなかつた、彼はその魅力のある知らない聲を怪しんだ、超自然的誘惑を怪しんだ、何でも怪しんで見た、――しかし彼は元來深切であつた、そして化け物を恐れて、深切なる行爲を控えるのは卑怯だと思つた。返事もしないで子供を受取つた。『歸つて來るまでもつてゐて下さい』女が云つた、『すぐ歸ります』『もつてゐませう』彼は答へた、それから直ちに女は彼からふり向いて、彼が殆ど自分の眼を疑つた程、輕く、早く音もさせずにその道を離れて、飛ぶやうに山を下つて行つた。忽ちのうちに彼女は見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「直ちに女は彼からふり向いて、」原文は“immediately the woman turned from him,”で、「直ぐに彼女は彼から離れ」或いは「直ちに彼女は彼に背を向けて」が至当である。]

 忠兵衞はその時始めて子供を見た。餘り小さくて、生れたばかりのやうに見えた。抱かれらまま甚だ靜かにしてゐた、少しも泣かなかつた。

 不意にそれが大きくなるやうに思はれた。彼は再びそれを見た。……否、それはやはり小さい物であつた。そして動きもしなかつた。何故大きくなつたと思つたのであらう。

 そのつぎにその理由が分つた、――そして彼は全身ぞつとするのを覺えた。子供は大きくなるのではなかつた、それは重くなるのであつた[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は前の「、」から「のであつ」まで打たれているが、誤植と断じ、かく補正した。]。……始めのうちそれはただ七八百目のやうであつたが、つぎにその重さが次第に二倍になり――三倍になり――四倍になつた。もう五貫目より輕い事はないと思はれて來た、――そしてやはりそれが重さを加へて行つた。……十貫[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラムであるから、五十六・二五キログラム。以下の経過部は注しない。]、――十五貫、――二十貫。……忠兵衞はだまされた事を知つた、――彼は人間と話したのではない事、――その子供は人間でない事を知つた。しかし約束は約束だ、武士たる者は約束は守らねばならない。そこで彼は子供を抱いてゐた、子供は刻々重くなつた、……三十貫――四十貫――五十貫。……どうなつて行くのか見當がつかなかつた、しかし彼は恐れない事、力の續く限り子供ははなさない事を決心した。……六十貫、――七十貫、――八十貫[やぶちゃん注:ぴったり三百キログラム。]。彼の筋肉は緊張の餘り震へ始めた、それでも重さが增して行つた。……『南無阿彌陀佛』彼は呻いた――「南無阿彌陀佛、――南無阿彌陀佛』彼がこの唱名を三度目に唱へた時、その重さは一時に消えた、そして彼は空手でぼんやり立つてゐた、――卽ち子供は不思議にも消えたのであつた。しかし殆ど同時に、その不可思議な女が、行つた時のやうに、又早く歸つて來るのを見た。やはり息をきらしながら、彼女は彼のところへ來た、その時始めて彼は彼女が甚だ美しい事を見た、――しかし彼女の額に汗が流れてゐた、そして彼女の袖には、今まで働いてゐたやうに、たすきがかかつてゐた。

 『梅津殿』彼女は云つた、『甚だ大きなお蔭に預かつた。私はここの氏神だが、今夜氏子の一人がお產をするので、私に助けを祈つた。しかしその骨折は中々であつた、私一人の力では、その氏子を助ける事ができない事が分つた、――それでお前の力量と勇氣を見込んで賴んだわけだ。そしてお前の手に置いたのは未だ生れ出ない子供であつた、それから始めて子供が段々重くなつて行くのを覺えた時分は、產門が閉ぢてゐたので大層危い時であつた。子供が餘り重くなつて、もうこれ以上その重さにたえられないと絕望した時、――丁度その時、母が死んだやうで、一族の者皆泣いたのであつた。その一時「南無阿彌陀佛」の唱名を三度お前が唱へてくれた、――そして三度目に、佛の力が助けとなつたので、產門が開いた。……それでお前のしてくれた恩は、適當に應じたい。勇氣のある武士に取つては力量より有用な物はあるまい、それ故お前ばかりでなく、お前の子供にも、子供の子供にも、大力量を授ける事にする』

 それから、この約束をして氏神は消えた。

[やぶちゃん注:「母が死んだやうで、」思うに、後掲する原拠では妊婦は死んだようには読めない。この原文を見ると、“the mother seemed to be dead,”で、これは寧ろ、「その母(妊婦)は死んだように見受けられて」或いは「死に瀕しているように見え」であって、実は妊婦である母も助かったと私には読める。恒文社版の平井呈一氏の訳も、『産婦の一命あわや絶えなんとして、』であり、講談社学術文庫の池田美代子氏の訳でも、『母親は死に瀕し、』である。田部氏も実は「母が死んだやうに見えて、」の謂いで訳したものではないか。小泉八雲の母ローザの喪失の心傷体験から考えても、敢えてここで彼が、原拠を変えて、その母を死んだとする可能性は、私は百%ないと考えている。

 

 梅津忠兵衞は非常に不思議に思ひながら、城の方へ進んだ。勤務を終つて、朝の祈りをする前に、いつものやうに顏と手を洗ひにかかつた。使つてゐた手拭をしぽらうとすると、その强い物が二つにきれたので驚いた。そのきれたのを重ねて、しぼつて見た、丁度ぬれ紙のやうに――又それがきれた。彼は四枚重ねてしぼつて見たが、結果は同じであつた。やがて、唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]や鐡の色々の物を扱つて見ると、粘土のやうに彼の思ふ通りになる事を見て、彼は約束の通り大力を充分に授けられた事、それから物に觸れる時注意しないと手の中でつぶれる事をさとつた。

 うちに歸つてから、その夜その土地で出產があつたかどうか尋ねて見た。そして彼は丁度その事件のあつた時刻に出產のあつた事、それからその事情は氏神から聞いた通りであつた事を知つた。

 

 梅津忠兵衞の子供等は父の大力を相續した。彼の子孫の多くは――皆著しく强い人々だが――今この話の書かれた時、出羽の國に未だ住してゐた。

 

[やぶちゃん注:原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める)の上巻の「第百八十二 神(うぶがみ)の事」である。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、一部、画像が擦れて見えない部分があったが、それは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の同原拠を参考に補った。

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第百八十二  ○產紳の事

 出羽の國仙北郡(せんほくごほり)橫手宿(よこてしゆく)の地頭戶村十太夫といへるは、佐竹侯の一門なり。其居住は山の上にて、家中は山の下にあり。

 その家敷に、梅津忠兵衞とて、武勇の人、あり。

 馬まわりの役用にて半夜替(はにゃがは)りに出勤せらるゝに山をのぼり、道すじ「七曲」といふところにて、あやしげなる女にゆきあひける。夜九ツ[やぶちゃん注:定時法・不定時法ともに午前零時。]のかねもなりて、丑みつころともなる折から、女一人(いちにん)、山中(さんちう)をすぐること、つねの人間にはあらず、身をかまえて行(ゆき)ちがはんとするとき、女より梅津氏にいひけるは、

「我、今夜(こよひ)は此(この)ことにつきては、はなはだ辛勞(しんらう)することあり。君の助(たすけ)をたのまんと、今この處にきたりしなり。これを、しばらく、あづかりてたまはれ。」

と、いふ。

 差(さし)いだす物を見れば、いまだ產髮(うぶがみ)もそらざる、生れしまゝの赤子なり。梅津は、まことにあやしみながら、『おくれをとらじ』と、承知して、その子をいだきとりければ、女はよろこび、きゆるがごとく飛行(とびゆ)ける。

 梅津忠兵衞は、子をいだきての出勤もなりがたければ、暫時、たゝずむその間に、今の赤子の重き事、五貫、十貫、十五貫、貳拾貫目、三拾貫、金(かね)とも、石とも、たとへがたくなりけるゆゑ、武勇にたけき忠兵衞も、いふべくもなき奇怪なれば、われをわすれて、おもはずも、

「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」

と、念佛稱(となふ)るそのこゑの、いまだおわるやおわらぬに、重き赤子の、かたちもなく、夢(ゆめ)ごゝろなりける時、かの女、汗をながし、たすきをかけて、はたらきしと見えけるほどの顏色にて、梅津に對して、いひけるは、

「我は、これ、この山中の氏神なり。今夜(こよひ)、この山中の氏子の内に產をするものありけるに、難產としれたるゆゑ、『我(わが)ちからにはかなはじ』と思ふ子細のありけるゆゑ、君をたのみてあづけしは、まだ、うまれざる胎内の一子なり。次第次第に重(おもり)しは、產門、とじて、生(うまれ)かね、親子、ともに、今こそは命(いのち)のかぎり、家内中(かないぢう)、聲をあげたる其時なり、君、はからずも、念佛を稱へたまひし、その聲を、わが神力(じんりき)の助(たすけ)として、難なく、やすやす產しめたり。思ふ子細のありしとは、君は武門のことなれども、念佛申す人なれば、今夜(こよひ)の助力(じよりき)をたのみしなり。この恩、報じかへさんため、武勇の用の第一は力こそ爲(ため)なるべき力をあたへ、子孫、まづ、そのしるしを、のこさん。」

と、いひつゝ、神女は、うせにけり。

 それより、梅津、出勤して、遲刻ながらも半夜を替(かはり)、翌朝(よくてう)は面(かほ)を洗(あらひ)口そゝぎ、手拭をしぼるに、はからずも、手拭、きれて、二つとなる。又、折(をり)かさねてしぼりけるに、同(おなじ)くきれて、四つとなる。その時、昨夜の「七曲」の山中にて力をもらひしことをしり、神託、まさにあらたなることを、おそれみ、おそれみ、かの山中の民家にいたり、

「昨夜、產せしものやある。」

と、家々をたづぬるに、難產せしものありて、始末をかたる事、すこしも、たがはず。次第次第におもりしも、あやうかりし、その時に、たちまち、安產せしことも符合しける。

 それより、代々、力量の人にすぐるゝこと、奇談といふべし。

 勢州三重郡(みうゑごほり)川北村の醫師吉田玄格老は、若年の時、醫學修行のために諸國をめぐり、佛神(ぶちじん)の靈驗あることを、ことさらにたづねきゝて、道の記をのこされたり。しかも、この梅津の事は、その神女にあひし忠兵衞より、三代目の梅津氏と、ことさらに入魂(じゆこん)[やぶちゃん注:「昵懇」(じっこん)に同じい。]にて、まのあたり、書(かき)つけて、大坂高庵(かうあん)へ來りての物語なり。

[やぶちゃん注:「吉田玄格」不詳。よく似た名前では、林羅山の知人で、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)の長男で、江戸初期の土木事業家・儒者・書家・貿易商でもあった角倉素庵(元亀二(一五七一)年~寛永九(一六三二)年)がいる。本姓は吉田、彼の名は与一で、諱は玄之(後に貞順と改めた。素庵は号)。本阿弥光悦に書を学び、角倉流を創始して近世の能書家五人の一人に挙げられる人物であるが、事蹟から彼ではない

「大坂高庵」不詳。地名? 宿? 人名?]

 玄格は篤實なる儒醫にて、浮說(ふせつ)はかたらざる人なるがゆゑに、この事緣(じゑん)を筆(ひつ)せしなり。

 同じく此人のいへるに、奧州八崎(やつさき)のあたりは、人の家に死人あれば、早速に御禮參とて、氏神へゆきて、その神職をたのみ、『今日何の誰何十何歲にて何の時に死去仕候』とて、出產の時より、一生、氏子となし給ひて、あはれみましましたる御禮(おんれい)をのべけるとぞ。これも玄格の道の記にしるして、もちかへられたることなり。もつともなることなり。八ツ崎は三春といふところより、八里程、東にて、佛法も繁昌にて、津島の牛頭天王(ごづてんわう)をも尊敬して、札配(ふだくばり)も、多く、くだれるよし。此地は、いかなるゆゑにや、產婦は多(おほく)、墮胎して、子の育(そだち)かねるところなるゆゑ、秋田城の用達(ようだつ)坪井幸右衞門方(かた)には、子息七人、育(そだち)たるとて、城主より褒美したまへりとぞ。

[やぶちゃん注:「奧州八崎」以下、「三春」の「東」方約三十一キロメートルとあるが、「八崎」は福島県の統計資料編(PDF)を見るに、福島県いわき市小名浜市泉町内に存在することになっている(地図では「八崎」は確認出来ないが、沿岸地区である)。但し、ここは三春からは東南に倍の六十キロメートルほど離れている。違うか。

「津島の牛頭天王(ごづてんわう)」牛頭天王は本邦の神仏習合神の一つ。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、素戔嗚命の本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山、愛知県津島市の津島神社(総本社とされる)に祀られ、祇園信仰の神(祇園神)ともされて全国の祇園社・天王社で祀られた。また、陰陽道では天道神と同一視された(以上はウィキの「牛頭天王」に拠った)。こちらのサイトの牛頭天王ページの一番下で、その紙札が見られる。

「秋田城」これは三春城の別称ではないかと思われる。江戸前期の大名秋田家第三代当主秋田俊季は、始め、常陸宍戸藩主であったが正保二(一六四五)年に陸奥三春に移封されているからである。

「用達」御用商人。

「坪井幸右衞門」不詳。]

 京の祇園町(ぎおんまち)にある疫伏社(やくぶせやしろ)といふは、淨藏貴所(じやうざうきしよ)の神靈(しんれい)にて、諸人、これをまつりて、「有卦(うけ)の宮」と稱し、その淨藏は八坂の塔の戌亥(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方へかたぶきよるを、行德(ぎやうとく)にていのり、をこしたる、智人なり。

[やぶちゃん注:「疫伏社」「拾遺都名所図会」の巻之二の「左青龍首」に、「疫伏社(やくふせのやしろ)」として、『祇園西門の外、北の町にあり』。『疫神(やくじん)、諺(ことわざ)に曰はく「淨藏貴所を祭るなり」とぞ。又、云ふ所は、「文覺法師、行齋(ぎやうさい)して平家を咒咀(じゆそ)せい地なり」といふ』とある。また、「花洛名勝」の「東山之部  二」には、『祇園西楼門の外、北の町西側にあり。傳云(つたへていふ)、「祈願する時は、疫(えき)の病(やまい)を免(まぬか)るといふ。ゆゑに、疫鬼(えきき)降伏(かうふく)の神なりとぞ。一名「うけの宮」と号し、有卦(うけ)』(占い)『に入る人、多く參詣す。其故をしらず』とある(以上は「日文研」のデータベースのこちらの画像データを視認した。句読点と濁点を補ってある)。現在の八坂神社西楼門はここだが、それらしいものは見当たらぬ。

「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。単に浄蔵ともいう。公卿で優れた漢学者であった三善清行の子。一説に、母は嵯峨天皇の孫で、天人が懐中に入る夢を見て身ごもったという。四歳で「千字文」を読み、七歳で父を説得させ、仏門に帰し、熊野・金峯山などの霊山を遍歴して苦行を積んだ。延喜二(九〇二)年、十二歳の時、宇多法皇に謁見し、弟子となった。清涼房玄昭のもとで受戒し、三部大宝などを受け、大恵大法師に就いて、悉曇(しったん)の音韻を習得した。十九歳で比叡山横川(よかわ)に籠り、毎日、法華六部誦経、毎夜、六千反礼拝を行ったという。加持の名手として国家的祈禱から、貴人の病気治療まで、かなりの験徳を発揮したようで、入京した平将門を調伏したとか、死んだ父清行を蘇生させたとかいう、霊験譚が多い。その他、天文・医学・卜筮・管弦・文章などにも才能を発揮したという。また、阿弥陀仏の引接を期して念仏三昧を修し、七十四歳で東山の雲居寺に入滅したと際には、西向きに正念していたとして「往生伝」にも載せられてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「八坂の塔」八坂神社と清水寺の中間に位置する霊応山法観禅寺(現在は臨済宗)の五重塔の通称。伝承ではこの塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされる。]

「塔のかたぶきたるは、疫厲(ゑきれい)流行の兆(きざし)なり。」

とて、延喜(ゑんぎ)の帝より勅命ありて、淨藏、これをうけたまわりて、牛頭天王に禱誓(きせい)[やぶちゃん注:漢字はママ。]ありしこと、諸傳に見えたり。

[やぶちゃん注:「延喜(ゑんぎ)の帝」醍醐天皇(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。「延喜」はその間の九〇一年から九二三年まで。]

 その淨歲の若かりし時、囘國して出雲の國にいたり、社頭にこもりたまへるに、十月のはじめ、神あつまりの折からにて、日本國中の男女(なんによ)に夫婦(ふうふ)の緣を結びたまへるを、耳かたぶけて聞(きあ)るゝに、氏子、氏子の名をよびて、

「誰(たれ)がむすこには、誰がむすめのさだまる。」

など、みな、神のこゝろなりけるに、

「平(たいら)の中興(なかおき)が娘は、淨藏が妻よ。」

と、むすびたまへるより、淨藏貴所は、あさましく、けがらはしくおもひて、

「我、出家の大願ありて修行の本意(ほんゐ)を達せんと欲するに、何とて、妻のあらんや。」

と、つぶやきながら、下向して都にかへり、宮中にて修法(しゆほふ)の時、八歲ばかりの小女(せうぢよ)、茶をはこびて、淨藏にしたしみ、茶の、のみさしをのみけること、こゝろありげに見えけるより、出雲のことをおもひいだし、

『これこそ、かの中興が娘ならん。修行のさまたげ、魔事(まじ)なり。』

とおもひ、小女(せうぢよ)をとらへて、懷中の細刀(こがたな)にて、さしころし、内裏をにげいで、二十餘年、都にかへらず。

 しかれども、いまだ父母のましますゆゑに、恩愛にひかれて、都に入(いり)、つゐに妻帶の身となれるに、子息二人、出生(しゆつしやう)せり。しかるに、その妻なる人の、乳(ちゝ)の下に疵(きづ)あるを、

「何の跡ぞ。」

と、たづぬれば、

「われ、をさなき時、修行者のさしころしたる、あとなりけり。その修行者は、にげさりて、ゆきがたしれず。われは、ふしぎに、いきかへり、今に、ながらへ居るなり。」

と、いへるをきゝて、

「さては。そのとき、さしころせしは我なるに、今は夫婦となることの、神のむすびし緣は、これ、はじめて來(きた)ること、ならず。」

と、八坂の塔をいのるにも、二人の子息を膝へのせ、行力(ぎやうりき)の、をとろへざるを、ためされしとぞ。しかれば、しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき。

   *

 八雲は後半の浄蔵の話をカットしている。この後半の話は、ただ話者が前者とお同じで、最後の「しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき」という説経(神仏習合時代であるから「神わざ」でよい)という点で共通するだけの奇譚であるから、当然のことである。]

2019/10/10

小泉八雲 果心居士  (田部隆次訳)


[やぶちゃん注:本篇(原題“The story of Kwashin Koji”。「果心居士の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の「奇談」の第四話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 ウィキの「果心居士」によれば、果心居士(生没年不詳)は『室町時代末期に登場した幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。『安土桃山時代末期のものとされる愚軒による雑話集『義残後覚』には、筑後の生まれとある。大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆『古老茶話』によると』、慶長一七(一六一二)年七月に、『因心居士というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八『歳と答えた』とあり、『また』、天正一二(一五八四)年六月に、『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とある。以下、彼の幻術エピソードも続くが、本篇のネタバレになるので、後で読まれた方がよろしいかと存ずるので、引用しない。

 なお、私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』を電子化注しており、柴田氏の詳細な紹介(小泉八雲の本篇にも触れてある)が面白いので、是非、本篇読後に参照されたいが、実はその注で私は本作の原拠である、近代最後の正統的漢学者の一人で画もよくした石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」を電子化している。但し、それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して訓読したもので、今回は、小泉八雲旧蔵本を視認してゼロから作り直したものを最後に配した。

 

 

  果 心 居 士

 

 天正年間[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日(天正十年九月十二日相当)から施行された。]、京都の北の方の町に、果心居士と云ふ老人がゐた。長い白い鬚をはやして、いつも神官のやうな服裝をしてゐたが、實は佛書を見せて佛敎を說いて生活を營んでゐたのであつた。晴天の日にはいつも祇園の祠の境内で、木に大きな掛物をかけるのが習慣であつた、それは地獄變相の圖であつた。この掛物はそれに描いてある物が悉く眞に迫つて巧妙にできてゐた。そして老人はそれを見に集まつて居る人々に見せて、携へてゐた如意をもつて色々の責苦を詳しく說き示し、凡ての人に佛の敎に從ふやうに勸めて、因果應報の理を說いてゐた。その繪を見て、それについて老人の說敎するのを聞くために、人が群をなして集まつた、そして喜捨を受けるためにその前に敷いてあるむしろは、そこへ投げられた貨幣の山で、表面が見えない程であつた。

 その當時、織田信長が畿内を治めてゐた。彼の侍臣荒川某、祇園の祠へ參詣の途中、偶然そこでその掛物を見て、あとで殿中に歸つてその話をした。信長は荒川の話を聞いて興味を感じ、直ちに果心居士に幅を携へて參上するやうに命じた。

 掛物を見た時、信長はその繪のあざやかさに驚いた事を隱す事はできなかつた、鬼卒及び罪人は實際彼の眼前に動くやうであつた、そして彼は繪の中から叫號の聲を聞いた、そしてそこに猫いてある鮮血は實際流れて居るやうであつた、――それで彼は、その繪が濡れて居るのではないかと指を觸れて見ないわけに行かなかつた。しかし指は汚れなかつた、――卽ち紙は全く乾いて居るからであつた。益々驚いて信長はこの不思議な繪の筆者を尋ねた。果心居士はそれに對して、それは名高い小栗宗丹が、――靈威を得んがために淸水の觀世音に熱心に祈り、百日の間每日齋戒を行つたあとで、――描いた事を答へた。

[やぶちゃん注:「荒川某」後に弟で「荒川武一」も出るが、不詳。織田信長家臣では馬廻衆の荒川頼季(~天正二(一五七四)年:「伊勢長島一向一揆征伐」に参陣して討死)や荒川与十郎等がいる。

「小栗宗丹」小栗宗湛(そうたん 応永二〇(一四一三)年~文明一三(一四八一)年)は室町中期の画僧。「宗丹」とも書く。字は小二郎又は小三郎。「自牧」と号した。小栗満重の子。ウィキの「宗湛」によれば、『鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら』、『室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆の一つである常陸小栗氏の出身であり、初めは小栗 助重(おぐり すけしげ)という名(俗名)の武将であった。この頃の常陸小栗氏は』、応永三〇(一四二三)年)に『小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対し』、『反乱(小栗満重の乱)を起こして没落していた。その持氏が永享の乱を起こして自害すると、結城氏朝がその遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵するが(結城合戦)、満重の子または弟(前者が有力)である助重がこの戦いで武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継承。しかし』、後の康正元(一四五五)年に『享徳の乱の最中』、『持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、まもなく出家し』、『宗湛入道と号』した。『出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文に水墨画を学んだ』、寛正三(一四六二)年、『京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府』第八『代将軍足利義政に認められ、翌』年に『周文の跡を継いで』、『足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している』。文明五(一四七三)年『頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを』、『子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている』とある。]

 

 その掛物をたしかに信長が所望して居る事を見て、荒川はその時果心居士にその幅を信長公に獻上してはどうかと尋ねた、しかし老人は大膽に答へた、――『この繪は私のもつて居る唯一の寶で、それを人に見せて少し金を儲ける事ができるのです。今この繪を信長公に獻上すれば、私の生計の唯一の方法がなくなります。しかし、信任公が是非お望みとあれば、黃金壹百兩を頂きたい。それだけのお金で、私は何か利益のある商賣でも始めませう。さうでないと、繪はさし上げられません』

 信長はこの答を聞いて、喜ばないやうであつた、そして默つてゐた。荒川はやがて何か公の耳にささやいたが、公は承諾したやうにうなづいた、それから果心居士は少しのお金を賜はつて、御前から引き下がつた。

 

 しかし、老人が屋敷を離れると、荒川はひそかに跡を追つた、――奸計をもつてその繪を奪ひ取るべき機會を得ようとしたのであつた。その機會は來た、果心居士は郊外の山の方へ直ちに通ずる途に偶然さしかかつたからであつた。彼が山の麓の或淋しい場所に達した時、彼は荒川に捕へられた。荒川は彼に云つた、――『その幅に對して黃金百兩を貪るのは何と云ふ慾張りだらう。黃金百兩の代りに、三尺の鐡の一片をやる』それから荒川は劔を拔いて老人を殺して、幅を奪つた。

 

 翌日荒川は掛物を――果心居士が信長の邸を退出する前に包んだ通りに包んだままで、信長に獻上した、信長は直ちにそれを展いて掛ける事を命じた。しかし展いて見ると、信長も彼の侍も二人とも、繪は全く無い、ただ白紙だけである事を見て驚くばかりであつた。荒川はどうして、もとの繪が消え失せたか說明ができなかつた、そして彼は――知つてか或は知らないでか――主人を欺いた事について罪があるので、處罸されるときまつた。それで彼は長い間閉門蟄居を命ぜられた。

 

 荒川の閉門の時期が終るか終らないうちに、果心居士が北野の祠の境内にその名高い繪を見せて居ると云ふ通知があつた。荒川は殆んどその耳を信ずる事ができなかつた。しかしその通知を得て、彼の心にどうにかしてその掛物を奪つて、それで先頃の失策を償ふ事ができさうな望みが湧いて來た。そこで彼は急いで從者の幾人かを集めて、寺に急いだ、しかし彼がそこに達した時に、彼は果心居士が去つてしまつたと云はれた。

 幾日か後に、果心居士がその繪を淸水堂で見せて、大きな群集に對して、それについて說敎して居る事が知れて來た。荒川は大急ぎで淸水へ行つた、しかし、そこに着いた時、群集は丁度散つて居るところであつた、――卽ち果心居士は再び消えて、ゐなかつたのであつた。

 たうとう或日の事、荒川は思ひがけなく或酒店で果心居士を認めてそこで彼を捕へた。老人は自分の捕へられたのを見て、機嫌よくただ笑ふだけであつた、そして云つた、――『一緖に行つて上げるが、少し酒を飮むまでお待ちなさい』この要求には、荒川は異存はなかつた、そこで果心居士は十二の大盃を飮みつくして、觀て居る人々を驚かした。十二盃目を飮んでから少し滿足したと云つた、それから荒川は命じて彼を繩でしばつて信長の邸へ連れて行つた。

 邸の取調所で、果心居士は、直ちに奉行の取調を受けた、そして嚴しく責められた。最後に奉行は彼に云つた、――『お前は魔術で人を欺いてゐた事はたしかだ、その犯罪だけで、あ前はひどい罸を受ける資格がある。しかしもしお前がその繪を信長公に恭しく獻上すれば、今度はお前の罪は大目に見てやる。さもなければ、甚だ重い罸を必ず課する事にする』

 このおどかしを聞いて果心居士は困つたやうな笑方をした、――『人を欺くやうな罪を犯したのは私ではない』それから、荒川に向つて、彼は叫んだ、――『お前こそうそつきだ。お前は繪さし上げて信長公に諂はうとした[やぶちゃん注:「へつらはうとした」。]、そしてそれを盜むために私を殺さうとした。罪と云つたら、これ程の罪はどこにあるか。幸にして、お前は私を殺す事はできなかつた、しかし、お前の望み通りにできたらその行に對してどんな辯解ができるか。とにかく、繪を盜んだのはお前だ。私のもつて居る繪はただの寫しだ。お前が繪を盜んでから、信長公に獻上する事がいやになつたので、その祕密の行や心をかくすために、その罪を私に着せて、私が本物の繪を白紙の掛物と取替へたと云つて居るのだ。どこに本物の繪があるか私は知らない。多分お前は知つて居るのだらう』

 かう云はれて、荒川は怒りの餘り、驅け寄つて、果心居士を打たうとしたが、番人等に遮ぎられて果せなかつた。しかしこの不意の怒りの破裂は、奉行に荒川が全く無罪ではあるまいと思はせる事になつた。暫らく、果心居士を獄に下してから、奉行は荒川を嚴しく調べにかかつた。ところで荒川は元來訥辯であつたが、この場合、殊に興奮の餘り、殆ど云ふ事ができないで、吃つたり、撞着[やぶちゃん注:「どうちやく」。前後が相い矛盾すること。辻褄が合わないこと。]したりして、どうしても罪のありさうな形跡を表はした。そこで奉行は、荒川を打つて白狀させるやうに命じた。しかし事實の白狀らしい事も彼にはできさうになかつた。そこで彼は鞭で打たれて、感覺を失つて、死人のやうになつて倒れた。

 

 果心居士は獄にゐて、荒川の事を聞いて笑つた。しかし少ししてから、彼は獄吏に向つて云つた、――『あの荒川と云ふ奴(やつ)は全く姦邪[やぶちゃん注:「かんじや」。心が曲がっていて、よこしまなこと。]の振舞したので、私は態とこの罸を與へて、彼の惡い心根を懲らしてやらうとしたのだ。しかし、荒川は事實を知らないに相違ないから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明したいから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明しますと今奉行に傳へてくれ給へ』

 それから果心居士は再び奉行の前に連れられて、つぎのやうな宣言をした、――『本當に優れた繪なら、どんな繪にも魂がある、そして、そんな繪には自分の意志があるから、自分に生命を與へてくれた人から、或は又正しい所有者から、離れる事を好まない事がある。眞の畫には魂がある事を證明するやうな話が澤山ある。昔、法眼元信が襖に描いた雀が何羽か飛んで行つて、そのあとが空になつた事はよく知られて居る。掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事もよく知られて居る。ところで、今の場合では、事實はかうだと私は信ずる、卽ち信長公は私の掛物の正當の所有者ではなかつたから、繪が信長公の面前で展かれた時、紙の上から自分で消えたのであらう。しかし、もし私が始めに云つた通りの價段、――卽ち黃金壹百兩、――をお出しになれば、その時は私の考では、繪はひとりで今白紙になつて居るところへ現れませう。とにかく、やつて見てはどうです。少しも危い事はない、――繪が現れなければ、金は直ちに返すまでの事だから』

[やぶちゃん注:「法眼元信」室町時代の絵師で狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男)で、狩野派二代目の狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年~永禄二(一五五九)年)のこと。京都出身。大炊助、越前守、さらに法眼(ほうげん)に叙せられ、後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。父正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物(ウィキの「狩野元信」に拠った)。

「掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事」掛物ではないが、よく知られた話では、九世紀後半の伝説的な名絵師巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳:宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んで、道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない)が仁和寺御室で壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て、田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。]

 こんな妙な斷言を聞いたので、信長は百兩を拂ふ事を命じて、その結果を見るために親しく臨席した。それから掛物は彼の前で展かれた、そして列席者一同の驚いら事には、その繪は、悉く詳細に現れたあ。しかし色が少しさめて、亡者と鬼卒の形が、前のやうに生きて居るやうでなかつた。この相違を見て、信長公は果心居士に向つて、その理由を說明するやうに求めた、そこで果心居士は答へた、――「飴めて御覽になつた繪の價値は、どんな價もつけられない繪の價値でした。しかし御覽になつて居る繪の價値は、正にお拂になつた物――卽ち黃金壹百兩――を表はして居ります。……外に仕方がございません』この答を聞いて列席の人々は、もうこれ以上この老人に反對する事は到底無效である事を感じた。彼は直ちに赦された、そして荒川も亦赦された、彼の受けた罸によつて彼の罪は十二分に償はれたからであつた。

 

 ところで、荒川に武一と云ふ弟がゐたが、――やはり信長の侍であつた。武一は荒川が打たれて獄に入れられたのを非常に怒つて、果心居士を殺さうと決心した。果心居士は再び放免されるや否や、酒屋へ行つて酒を命じた。武一はそのあとから店に入つて、彼を斬り倒し、首を切り落した。それから老人に拂はれた百兩を取つて、武一は首と金とを一緖に風呂敷に包んで、荒川に見せるために家に急いだ。しかし彼が包みを解いて見ると首と思つたのは空(から)の酒德利で、黃金は土塊[やぶちゃん注:「つちくれ」。]であつた。……それから間もなく、首のない體は酒屋から步き出して、――どこへだか、いつだか誰も知らないが、――消え失せた事を聞いて、この兄弟は益々驚くばかりであつた。

 

 一月ばかり後まで、果心居士の事は知られなかつた、その頃になつて、信長公の邸前で、遠雷のやうな大鼾[やぶちゃん注:「おほいびき」。]をして寢て居る一人の泥醉者があつた。一人の侍が、ぞの泥醉者卽ち果心居士である事を發見した。この無禮な犯罪のために、老人は直ちに捕へられて牢に入れられた。それでも眼をさまさない、そして牢で彼は十日十晩間斷なく眠り續けた、――その間たえずその高鼾が餘程遠くまで聞えた。

 

 この頃に、信長公は部下の一人である明智光秀の反逆のために死ぬやうになつたので、光秀がそれから政を取つた。しかし光秀の權力は十二日しか續かなかつた。

 ところで、光秀が京都の主人になつた時、彼は果心居士の事を聞いた、それから命じて、その囚人を彼の前に出させた。そこで果心居士は新しい君主の面前に呼ばれた、しかし光秀は彼に丁寧な言葉をかけて、賓客として待遇し、そして立派な饗應するやうに命じた[やぶちゃん注:ママ。「を」の脱字かも知れない。]。老人に御馳走をしてから、光秀は彼に云つた、――『聞くところによれば、先生は大層お酒が好きださうです、――一度にどれ程めし上がりますか』果心房士は答へた、――『量はよくは知らんが、酢へば止めます」そこで光秀公は果心居士の前に大盃を置いて、侍臣に命じて老人の飮めるだけ、幾度となく、酒を注がせた、そこで果心居士は、頂いて十度大盃を飮み干して、さらに求めたが、下來は酒が盡きた事を答へた。列席の人々で、この强酒ぶりに驚かない者はなかつた、そこで光秀公は果心居士に尋ねた、『先生、未だ不足ですか』 『はい、少し滿足しました』果心居士は答へた、――『ところで御親切の御返禮として、私の技(わざ)を少し御覽に入れませう。どうかその屛風を見てゐて下さい』彼は大きな八曲屛風を指した、それには近江八景が描いてあつた、そのうちの一つに、湖上遙かに舟を漕いで居る人があつた、――その舟は、屛風の表面では、長さ一寸にも足りなかつた。果心居士は舟の方へ手をあげて招いた、すると舟が突然向き直つて、繪の前面の方へ動き出すのが見えた。近づくに隨つて段々大きくなつた、そして船頭の顏つきが、はつきり認められるやうになつて來た。やはり段々近くなつて來た。――いつまでも大きくなつて、――たうとうそれが近くに見えて來た。それから突然、湖水が溢れて來るやうであつた、――繪から、部屋へ、――そして部屋は洪水になつた、そして水が膝の上まで達したので見物人は急いで着物をかかげた。同時に舟が、――本當の漁船が、――屛風の中から、滑り出すやうであつた、――そして一丁の艪の軋る音が聞えた。やはり部屋の中の洪水は增す一方であつたので、見物人は帶まで水に浸つて立つてゐた。それから舟は果心居士のところへ近づいて來た、そして果心居士はその舟に上つた、そこで船頭はふりかへつて、甚だ速かに漕ぎ去らうとした。それから舟が退いた時、部屋の水は急に低くなつて、――屛風の中へ退却するやうであつた。舟が繪の前面と思はれるところを通過するや否や、部屋は再び乾いた。しかし、やはり繪の中の舟は、繪の中の水の上を滑るやうであつた、――段々遠くへ退いて、段々小さくなつて行つて、たうとう最後に沖の中の一點となつて小さくなつた。それから、それは全く見えなくなつた、そして果心居士はそれと共に消えた。彼は再び日本には現れなかつた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の下巻の第五話目の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」である。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本のそれを用いて、訓読文(原文は訓点附記の漢文。一部で推定で送り仮名を入れた)を以下に示す。一部の難読と判断されるものには私が推定で〔 〕で歴史的仮名遣で読みを振り(丸括弧は石川の附したもの。左ルビのものがあり、それは意味注で、文としては続かないものがあることを断っておく)、句読点や記号・濁点を加え、段落を成形して読み易くしておいた。下線は原本では右に附されてある。

   *

     果心居士 黃昏艸

 

 天正年間、洛北に、果心居士なる者、有り。年六十餘、葛巾〔かつきん〕道服、鬚髯〔しゆぜん〕、雪のごとし。祇園の祠〔やしろ〕に在りて、樹下に地獄變相〔ぢごくへんさう〕の圖を揭げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として、眞に迫る。人をして戰慄(をのき)に勝〔た〕へざらしむ。居士、自〔みづか〕ら、鈎(によい)を把〔と〕つて、之れを諭示し、因果應報の理〔ことわり〕を說く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若〔らうにやく〕の羣集〔ぐんじゆ〕、錢を擲〔なげう〕つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿内を治む。其の臣荒川某、覩〔み〕て之れを奇とし、還りて右府〔うふ〕[やぶちゃん注:信長の称。彼は天正五(一五七七)年十一月十六日に従二位、同月二十日には右大臣兼右近衛大将となった。但し翌六年天正六年一月六日に正二位となるも、同年四月九日には右大臣・右近衛大将の両官を辞任している。これに拘るなら、この五ヶ月間を本話のロケーション時制と採ることも可能である。]に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展〔てん〕す。彩繪、精密、閣魔・羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀ること、之れを久しうして、鮮血、迸〔ほとばし〕り出で、呌號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着〔ふちやく〕する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰はく、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰はく、

「我れ、是の幅を以つて續命〔しよくみやう〕の寶〔たから〕となす。若〔も〕し、之れを亡〔ばう〕せば、簞瓢罄空〔たんへう〕(れい/つき[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。本字は「虚(むな)しい」の意ある。])〔くう〕[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全くすること能はざるなり。」

と。然れども、强いて之れを欲す。

「請ふ、百金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤字ではあるまいか?]

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂〔へつ〕らひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、窮かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷〔ぐわん〕す[やぶちゃん注:首を縦に振って許諾した。]。乃〔すなは〕ち、錢を賜ひて之を反〔か〕へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、將に昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に、居士を捕へて曰はく、

「汝、一畫を恡(おし)み、百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟〔をは〕らざるに、刀を拔きて、路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日〔みやうじつ〕、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透〔とほ〕る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰はく、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下、一道士、幅を揭げ、捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。

 荒川、大いに怪しみ、前罪を贖〔あがな〕はんと欲し、卒を率て北野に到る。到れば、則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすること莫し。

 既にして孟蘭盆會〔うらぼんゑ〕に及び、諸寺、佛會〔ぶつゑ〕を修す。或る人、曰はく、

「居士、淸水寺に在りて、塲を設け、俗を誘ふ。」

と。

 荒川、喜ぶ。

 急〔いそぎ〕、徒を從へて到る。往來、紛雜、憧々〔しようしよう〕[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅〔ちく〕索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱〔いふうつ〕[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂〔やさか〕を過ぐ。居士、一酒肆〔しゆし〕に在りて、榻〔しじ〕[やぶちゃん注:腰掛け。]に坐して飮む。卒、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙〔すなは〕ち、肆に入りて居士を捕ふ。居士、曰はく、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰はく、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前〔てうぜん〕に坐す。之れを誚〔せ〕めて曰はく、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若し、眞物を以つて上〔かみ〕に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し、匿〔かく〕して譌〔いつは〕らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰はく、

「我れ、本〔もと〕、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重〔しちやう〕なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか、罪を贖〔あがな〕ふ。幅のごときは、汝が奪掠〔だつりやく〕に任〔まか〕す。我が有る所は其の稿本〔こうほん〕のみ。汝、反〔かへ〕りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩〔おほ〕はんとす。我れを捕へて幅を求む。我れ、安〔いづく〕んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒〔ふんぬ〕して拷掠〔かうりやう〕[やぶちゃん注:打ち叩いて罪を責めたり、白状させたりすること。]して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃ち、居士を一室に囚〔しう〕す。嚴に荒川を鞠訊〔きくじん〕[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。]す。荒川、口〔くち〕訥〔とつ〕にして[やぶちゃん注:訥辨。話し方が滑らかでないこと。言葉による主張が苦手なこと。]、冤〔ゑん〕を辯ずること能はず。頗る苦楚〔くそ〕[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。]を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂〔た〕らんとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰はく、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實は、荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。

 上官、居士を召して之れを訊〔と〕ふ。

 居士、曰はく、

「名畫、靈、有り。其の主に非ざれば、則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脫し去る。襖、その痕〔あと〕を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を喰〔くら〕ふ。是れ、皆、衆人、知る所なり。顧〔かんが〕ふに、右府は其の主に非らず。故に、脫し去るのみ。然れども、初め、百金を以て價を約す。若し、百金を賜へば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに百金を賜へ。若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。

 右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸〔もろもろ〕を前畫に比すれば、筆勢、神〔しん〕無く、彩澤、太〔はなは〕だ拙なり。仍つて、居士を詰〔なぢ〕る。居士、曰はく、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。

 上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免ず。

 荒川の弟武一は、兄の苛責に遇ひ、筋骨摧折〔さいせつ〕するを悲しみ、居士を讎視〔しうし〕して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。

 又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫〔き〕る。衆、皆、驚き、散ず。居士、牀下に朴〔たふ〕る。乃ち、其の首を斷じて帛〔きん〕に裹〔つつ〕み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば、則ち、一〔いつ〕の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊〔つちくれ〕のみ。武一、切齒して右府に告ぐ。物色して之れを索〔もと〕む。渺〔べう〕として知るべからず。

 之れを久しうして、門側に、一醉人、有り。橫臥して、鼾、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう)[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。]と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に、右府、安土(あづち)に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館〔やかた〕す。

 光秀、反し、右府を弑〔しい〕して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開〔かい〕して之れを召す。

 居士、漸く覺〔さ〕む。乃ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰はく、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。

 曰はく、

「量、無く、亂〔みだ〕るるに及ばず。」

と。

 光秀、巨盃を出だして、侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。缾〔かめ〕[やぶちゃん注:大きな酒壺であろう。]、已に罄〔つ〕きたり。一坐、大いに駭〔おどろ〕く。

 光秀、曰はく、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰はく、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり滿足する。]を覺ゆ。請ふ、一技を呈せん。」

 屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩〔えうたう〕[やぶちゃん注:揺れ動くこと。]として屛を出で、大いさ、數尺に及ぶ。

 而して坐中、水、溢〔あふ〕る。衆、僉〔み〕な、惶駭〔こうがい〕して、袴を褰〔かか〕げて偕立〔かいりつ〕す[やぶちゃん注:一斉に立ち上がった。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工〔かいこう〕[やぶちゃん注:「偕」は棹(さお)を指し、ここは「船頭」のこと。]、槳(かぢ)を盪〔うごか〕し、悠然として去り、之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全體が一字下げ。]

嘗て曰はく、「西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴[やぶちゃん注:ママ。]を見て曰く、

「子、仙骨、有り。宜〔よろ〕しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ。棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神〔しん〕、爽〔さう〕なり。復た、穀食を念〔おも〕はず[やぶちゃん注:空腹にならず。]。一日(いちじつ)、奴〔ど〕[やぶちゃん注:下僕。]と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。

「汝、俗心、未だ脫せず。道に入ること能はず。乃ち、鉤〔によい〕を擧げて、背を打つ。服する所の仙藥、口より、出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

 私は、この屏風中の湖面へと消えて行く果心居士の映像が、すこぶる附きで好きである。私の『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』にそのシーンの原拠の挿絵も挿入してある。ご覧あれ。

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