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カテゴリー「小泉八雲」の620件の記事

2019/12/10

小泉八雲 阿弥陀寺の比丘尼 (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE NUN OF THE TEMPLE OF AMIDA”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第五話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。

 原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。

 なお、諸資料によれば、本篇は島根県松江市上東川津町にある標高三百三十一メートルの嵩山(だけさん)(国土地理院図)に纏わる伝承がもとであるという。個人サイト「おしどり登山隊の山便り・風便り」のこちらの画像を読む前に見ておかれるのも、一興か、と存ずる。]

 

      第五章 阿彌陀寺の比丘尼

 

       

 お豐の夫は遠緣の者で、好いた同志で婿に來たのであるが、彼が領主に呼ばれて京へ出た時は、お豐は末の事など案じはしなかつた。唯だ悲しいばかりであつた。二人が一緖になつてから、斯うして離れて暮らすのは初めてであつた。然し父や母[やぶちゃん注:原文に拠ればお豊の実父母である。]も一緖にゐるし、またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、誰れよりも可愛い、いたいけな男子があつた。その上いつも用事の多い體であつて、家の事もせぬばならぬし、絹や木綿の着料を織る仕事もあつた。

[やぶちゃん注:「またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、」奇体な日本語である。“― though she would never have confessed it even to herself, —”で、「また、それを彼女は自身でさえおくびにも出さなかったけれども」の謂いである。]

 每日定めの時刻に、お豐は出てゐる夫の爲めに、お馴染みの座敷へ、可愛い漆塗りの膳に何もかも調へた少量の食事(先祖の靈前や神棚に供へる樣な眞似事の食事)を据ゑた。此食事は座敷の東側に供へられ、主人の座蒲團が其前に敷かれた。東の方に据ゑた譯は主人が東の方へ旅立つたからである。食事を下げる前に、お豐はいつも小さい椀の蓋を取つて見た。それは漆塗りの蓋の内側に湯氣がついてゐるかどうか見るためで、出した吸ひ物の蓋の内側に湯氣がかかつてゐれば、出てゐる人が無事だといふからである。若し湯氣が見えなければ其人は死んてゐる、それは其人の靈魂が食物を求めて歸つて來た徵である、と云ふのである。お豐は每日每日漆塗りの蓋に湯氣の珠が厚くかかつてゐるのを見た。

 

註 斯うして愛する不在者の靈に供へる食事を「かげぜん」(影の盆の義)と云ふ。『膳』といふ語は小さい卓子の樣な脚のある漆塗りの盆に載せた食事を指すにも用られる。それ故「影の御膳」といふ愈味に英譯するが「かげぜん」の適譯であらう。

 

 かの幼兒はいつも側に居る喜びの種であつた。滿三歲で、神々でなければ本當には答へられぬ樣な問をかけるのが好きであつた。この兒が遊びたいと言へば、お豐は仕事を措いて相手をした。子供が休まうとすれば、お豐は面白い話をして聞かせたり、誰れも到底分からない樣な事柄に就いて子供の問ふがままに、可愛い敬虔な返答をしたりする。夕方佛壇や神棚に小さい燈明が上がると、まはらぬ舌に父親の無事を祈る言葉を敎へた。子供が寢つくと側に針仕事を持つて來て寢顏の愛らしもを見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]。時によると夢を見てにつこりすることもある。すると觀音さまが子供と夢の中に遊んでゐるのだと心得て、世人の祈願の音を常住觀じ給ふ彼の乙女の菩薩に向つて口の中に經文を唱へた。

 

 時には、晴天の續く頃、坊やを背に負つてグケヤマ、(嶽山)に登ることもあつた。かうした遊山を坊やは大層喜んだ、面白いものを見せて貰へるばかりでなく、色々なものを聞かせて貰へるので。坂道は木立の中や森の中を拔け、草の生えた斜面や、形の面白い岩の側をまはつて往く。そこには胸に物語を祕めた花や、木の精を宿した樹木があつた。山鳩はコロッコロッと啼き、鳩はオワオ、オワオと鳴く。蟬はヂーヂーと啼いたりミンミンと啼いたり、カナカナと啼いてゐた。

 大事に思ふ人の不在を待ち佗びる者は、往かれさへすれば、皆この『だけ山』と呼ぶお山へお詣りをする。これは市(松江)の何處からでも見える。又その頂上からは幾箇國も見晴らせる。頂上には大方人の丈ほどの石が垂直に立てられてゐて、その前とその上とに小石が積まれてある。その傍に神代のさる姬宮を祀つた小さな神社が建つてゐる。この姬宮が懷かしき人の歸りを茲の[やぶちゃん注:「この」。]山の上に待ち焦れて、遂に石に化した。そこでこの處にお宮を建てたので、出てゐる人を案ずる者は今も此處に來てその無事に歸ることを祈願する。そしてそこに積んである小石を一つ持つて歸る。案じた人が歸つた時は、山の上の石の積んであつた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]場所に、その小石の外に今一つの小石を、お禮と記念との印として置いて來ることになつてゐる。

 お豐と坊やとお詣りをして家に歸り着くまでには、いつも夕闇が靜かに四邊をこめた。道も遠い上に、往きも還りも、町を圍む水田の間を、小舟に乘つて渡らねばならず、隨分時のかかる事であつた。星や螢が逍を照らすこともあり、月さへ上ることもあつた。するとお豐は小さい聲で月を詠じた出雲の童謠を坊やに歌つて聞かせるのが常であつた。

 

    ののさん(或はお月さん)いくつ。

    十三 ここのつ譯者註一

    それはまだ 若いよ、

    わかいも 道理譯者註二

    赤い色の帶と

    白い色の帶と、

    腰にしやんと結んで、

    馬にやる いやいや、

    牛にやる いやいや。

 

註 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 「十三ここのつ」は有りふれた「十三七つ」に比して口調も惡しく數の感じも異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ字をその儘に譯せば「若いも道理」となるが、原文の「いえ」の二音は松江の方言の『い』の間のびしたのを、著者がその儘音譯したものである、との落合貞三郞氏の攝明を附記して置く。

 

 藍色の夜の空には幾里も續く水田から、實に土より湧く聲と謂ふべき、聲高くも亦靜かに、泡立つ樣な合唱――啼き交はす蛙の聲――が立ちのぼる。お豐はそれを『メカユイ、メカユイ』『眼が痒ゆい、睡むくなつた』といつてゐるのだ、といつも坊やに言つて聞かせた。

 さうしてゐる間は楽しい時であつた。

 

       

 さうしてゐる中、三日の間に二度までも、永遠の攝理に屬する攝理によつて生死を司どる者が彼女の心を擊つた。初には幾度となく無事を祈つた優しき夫が己が許には歸られぬ、一切の形體の成り出でた元の塵に還つたと知らされた。その後間もなく坊やが、唐土[やぶちゃん注:「もろこし」と訓じておく。但し、原文は“the Chinese physician”で「漢方医」のことであろう。]の醫者も醒ますことの出來ぬ深き眠に就いたことを知つた。斯ういふ事實をお豊が覺つた[やぶちゃん注:「さとつた」。]のは電光によつて物の形が認められる樣な束の間であつた。この二つの電光の閃きの合間も、其から先きも、これぞ神々の慈悲なる一切無明の闇であつた。

 その闇は過ぎて、お豐は記憶と呼ぶ仇[やぶちゃん注:「かたき」。]に立ち向つた。他の者の前には、ありし日の如くに樂しく笑ましげな[やぶちゃん注:「ほほえましげな」。]顏をしてゐたが、この記憶の前には堪へ得なかつた。疊の上に玩具を並べたり、小さい着物を擴げたりして、小さな聲で話しかけたり、無言で微笑んだりした。併し微笑の果てはいつも激しくわつと泣き伏しては、頭を疊にすりつけて、他愛もない問を神々にかけるのであつた。

 

 或る日のことあやしき慰めを思ひ立つた。それは世に『とりつぱなし』と呼ぶ、死んだ人の靈魂を呼びかへす事であつた。ほんの一分でもよいから、坊やを呼びかへす事は出來まいか。それは坊やの靈魂をなやますことにならうが、母親のために少時[やぶちゃん注:「しばし」。]の苦痛は喜んで辛抱せぬことはあるまい。たしかにさうであらう。

 

 〔死んだ人を呼びかへすには、死靈を呼び出す呪文を知つてゐる坊樣か神主の許に往かなければならぬ。さうして故人の位牌をその人の許に持つて出ねばならぬ。

 それから齋戒の式が行はれ、位牌の前に燈明を點じ燒香をなし、祈禱または經文を唱へ、花や米の供物をする。但しこの時の米は生でなくてはならぬ。

 萬事整つた時に祭主は左手に弓の形をしたものを持ち、右手で手早く打ちながら、死んだ人の名を呼ぶ。其から大聲で『來たぞよ、來たぞよ、來たぞよ』と云ふ。そして斯う叫んでゐる中に彼の聲音が段々に變はる。終には死んだ人の聲そつくりになる。その靈魂が彼に乘り移るからである。

 

註 自分の來た事か知らせようと幾度も案内するものの事を、出雲の諺で「とりつぱなしのような」といふのは是からである。

 其から死んだ人が、口早に尋ねられることに答へるが、その間も『早く早く。歸つて來るのは辛いぞや、斯うして永くは居られぬ』と叫び續ける。そして答がすむと精靈は去つて往く。行者は氣が遠くなつて俯伏して了ふ。死んだ人を呼び戾すことは宜しくない。呼び戾されるとその人等の境遇は一段と辛くなる。冥府に歸ると前より低い所に落ちねばならぬ。

 今日では斯の樣なお呪ひ[やぶちゃん注:「おまじなひ」。]は法律で禁止されてゐる。昔はそれが慰めになつたものだ。併しこの禁制は良い掟で正當である。人心の中にある神性を侮蔑せんとする人もあるから〕

[やぶちゃん注:「とりつぱなし」原文は“Toritsu-banashi”で「とりっばなし」であるが、私はこのような「名」の招魂法を知らない。民俗学でもちょっと私は聴いたことがない。漢字も想起出来ない。近似した呪法をご存じの方は是非御教授願いたい。「執り離し」で冥界の死霊から魂を引き離して呼び返す執行法、魂振(たまふ)り、反魂(はんごん)の術か? 小泉八雲の説明によるなら、出雲独特のもので、しかしそれは明らかに後に出るように「いたこ」の「口寄せ」に酷似している。

「法律で禁止されてゐる」明文化された法律による禁止ではなく、明治新政府が慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)に発した悪名高き太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)及び明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などの国家神道政策の中で、廃仏毀釈に代表されるような仏教・修験道排撃と、民間の呪法及び「淫祠邪教」政策レベルで取り締まったことを指していよう。]

 

 そこで或る晚のこと、お豐も町外づれの淋しい小さな寺に往き、子息の位牌の前に跪き、口寄せの呪文を聞いてゐた。やがて行者の肩から覺えのある樣な聲が聞こえた。誰れのよりも好きな聲であつたが、風の戰ぎ[やぶちゃん注:「そよぎ」。]の樣に微かで細かつた。

 その紬い聲はお豐に向つて言つた。

 『母樣、早く聞いて下さい。路は暗く長いのでゆるゆるしては居られません』

 お豐は慄き[やぶちゃん注:「をののく」。]ながら尋ねた。

 『何故私は子供を亡くして悲しい思ひをしなければならないのですか。神々の思召しはどういふのでせうか』

 すると其に答があつた。

 『母樣、私の事をそんなに歎いて下さるな。私の死んだのは、母樣が死なないためです。年まはりが病氣のはやる悲しい年で、母樣が死ぬ事になつてゐたのが分かりました。それで、願をかけて母樣の代りに死ぬことが出來たのです。

 

註 「身代り」といふのが宗敎的の用語である。

 

 『母樣私の事を泣いて下さるな。死んだ者を悼むのは供養にはなりませぬ。冥府への道は淚の川を越えて往きます。母樣たちが歎くとその河の水が增して、精靈は通ることが出來ず、あちこちとさまよはねばなりませぬ。

 『それゆゑ、お願ひですから、お母樣、泣かないで下さい。唯だ折ふし水を手向けて下さい』

 

 

 

       

 その時からはお豐が泣いてゐることはなかつた。以前の通りにかひがひしく、娘としての孝養を盡くした。

 秋さり春來たつて、父親は新しく婿を迎へようと思つた。母親に向つて斯ういつた。

 『内の娘にもまた男の子でも出來たら、それこそ、娘にも自分等一同にも、此上ない喜びであらう』

 が、物の分かつた母親は答へた。

 『娘は別に悲しんでは居ませぬ。苦勞も惡い事も少しも知らぬほんのねんねえになつて了ひました』

 お豐が其の苦痛を知らぬやうになつたのは事實であつた。極々小さな物を妙に好く樣になつてゐた。初には寢床が大き過ぎて來た。大方子供を亡くしたあとの空虛の感じからであらう、それからは日一日と他の物が皆大き過ぎる樣に思はれて來た。家も馴れた座敷も床も、そこらにある大きな花瓶も、終には膳椀までも。御飯も子供の使ふ樣な小さな椀から、雛道具の樣な箸で、食べると言つてゐた。

 斯うした事には親達は優しく娘の氣任せにして置いた。して又外の事には別に變つた注文もなかつた。老夫婦はいつも娘の事を談り合つた。たうたう父親が切り出した。

 『うちの娘には餘所の人と一緖に居るのは辛からう。が、自分たちも寄る年で、その中[やぶちゃん注:「うち」。]娘を後に殘さねばなるまい。それで娘を尼にしたらば、先きの心配もをゐるまい。小さなお堂を建ててやつてもよいな』

 翌日母親はお豐に尋ねた。

 『お前尼さんになつて、小さな護摩壇や小さな佛樣のある小さい小さいお堂で暮らす氣はないかえ。私達はいつも近い所に居ますがね。若しその氣なら、お坊樣を賴んでお經を敎へて貰ふ樣に仕よう』

 お豐はそれを望んだ。そして極小さな尼の衣を拵へるやうに賴んだ。が尙母は言つて聞かせた。

 『外のものなら何でも小さく拵へさせて差支はないが、衣だけは大きいのを着なくては良い尼樣にはなれません。それがお釋迦の律ですよ』

 それで漸くい豐は外の尼達と同じ衣を着る氣になつた。

 

       

 兩親はお豐のために、阿彌陀寺といふ大きな寺のあつた境内に、一棟の尼寺、卽ち尼の寺を建てた。この尼寺も亦阿彌陀寺と呼んで、阿彌陀如來を本尊に、その他の佛樣をも招じた。至つて小さい護摩壇に玩具の樣な佛具を備へ、小さな經机には小さな經文を載せ、何れも小さな、衝立や鐘や掛軸があつた。お豐はここで兩親の歿後も永く暮らした。人々は彼女を阿彌陀寺の比丘尼と呼んだ。

 門前から少し離れて、一體の地藏尊があつた。この地藏は子供の病氣を直すといふ變つた地藏であつた。この地藏の前にはいつも小さな餅が上げてある。是は病氣な子供のために願をかけてゐる徵で、餅の數は子供の年齡を示してゐる。大抵は二つか三つで、稀には七つから十もあることがある。阿彌陀寺の比丘尼はこの地藏等の番をして、香を絕やさず、お寺の庭に咲いた花を上げた。庵寺の裏に小さな花園があつたのである。

 每日朝の間の托鉢を了へて歸ると、小さい機臺[やぶちゃん注:「はただい」或は「はた」。]の前に坐つて布を織るのが例であつた。物の役に立たぬほど狹いものであつたが、彼女の手織りは、身の上を知つてゐた方々の店屋に買ひ取られた。彼等は小さい茶椀だの小さい花瓶だの、庭に置く樣に變つた盆裁などを贈つた。

 彼女の何よりの娛樂は子供等を相手にすることで、それに不自由はなかつた。日本の子供の幼少時代は大抵社寺の境内で過ごされる。それで阿彌陀寺の庭で樂しく遊び暮らした子供も數多かつた。同じ通[やぶちゃん注:「とほり」。]に住む母親等は子供等をそこで遊ばせるのが好きであつた、唯だ比丘尼さんを莫迦にせぬ樣にと注意した。『時によると變な事をしても、それは一度可愛い坊やを有つてゐたのを亡くして、その悲みが母親の胸に耐へられなくなつたのです。それゆゑ尼さんには本當に大人しく、失禮の無い樣にしなくてはいけないよ』

 子供等は皆大人しくはあつたが、崇敬の意味で敬意を表したとは謂へなかつた。彼等はよく心得てゐて、そんな堅くるしい事はしなかつた。いつも彼女をお比丘尼さんと呼んで丁寧にお辭儀をしたが、それ以外には自分等の仲間の樣に隔てなく遇(あし)らつた。彼等は彼女と遊びをし、彼女は子供に可愛い茶椀でお茶を出したり、豆の樣に小さな餅を澤山に拵へたり、子供等の人形の着物にとて、綿布や絹布を織つてやつたりした。こんな風で彼女は子供等に肉親の姉の樣になつた。

 子供等は、每日每日彼女と遊んてゐる中に、もうさうして遊んでゐられないほど成人して、お寺の庭に來ないで浮世の仕事をする樣になり、やがては父となり母となつて、自分等の子供を遊びによこすやうになつた。さういふ子供等が又親達と同じ樣にお比丘尼さんを好くやうになつた。斯うして比丘尼はお寺の建つた時の事を覺えてゐる人達の子や孫や曾孫館と遊ぶまで長命した。

 人々も彼女が不自由をしないやうに心懸けた。いつでも自分一人で入るだけより多くの寄進があつた。それで彼女は子供達に大方仕たいだけよくしてやつたり、小さな生物などに有り餘るほど餌をやることが出來た。小鳥がお堂の中に巢を作つて、彼女の手から餌を食べた、そして佛樣の頭などに止まらぬやうになつた。

 

 この比丘尼の葬式があつてから、幾月か經つて、大勢の子供が自分の家にやつて來た。九歲ばかりの少女が一同に代つてつぎの樣に述べた。

 『をぢさん、私達は亡くなつたお比丘尼さんの事でお願ひに參りました。お比丘尼さんのお墓に大變大きなお石塔が立ちました。大さう立派なお石塔ですの。けれど、私達は小さい小さいお石塔を今一つ立てたいと思ひます。生きてゐた時に極小さいお墓が好きだとよく言つて居られましたから。石屋さんがお金さへ出せばお石塔をこさへて大變綺麗にして吳れると言つてゐます。それでをぢさんも何程かお出し下さるかと思ひました』

 『出しますとも。だがこれからは遊ぶ所がないでせう』と自分が言つた。

 娘は笑ひながら答へた。

 『やつぱり阿彌陀樣のお庭で遊びますよ。お比丘尼さんはそこに埋まつてゐます。私達の遊んでゐるのを聞いて喜ぶでせう』

 

[やぶちゃん注:エンディング――「自分」とは――最早――小泉八雲自身――であることは言うまでもない――この掌品の極め付けの素晴らしさは、まさにこの最後の現在時制との合致という点にこそあると言ってよい――

小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“FROM A TRAVELING DIARY”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第四話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。

 なお、この前に配されてある田部隆次訳「第三章 門つけ」(原題“A STREET SINGER”)は、底本は異なるが、訳文は殆んど異同がないものを既に電子化注してあるので、そちらを読まれたい。但し、本底本版では田部氏の訳者注が附されてあり、それはリンク先底本ではカットされていたため、今回、追記しておいたので、確認されたい。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 各パートの冒頭に配されたクレジットと場所は、底本では下四字上げインデントでややポイント落ちであるが、ポイント落ちで引き上げた。

 銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲は明治二八(一八九五)年四月十五日(月曜)に京都へ家族で旅行に出(随伴者は妻セツ、セツの祖母、長男一雄、女中の梅であった)、『武家屋敷をホテルにした』、先の明治二十五年の単身の京都旅行の際、当時の五高校長であった嘉納治五郎に紹介され、京での定宿とした日光屋に泊まり、翌十六日、十七日と『市内見物をする』。十八日から二十日にかけては『内国勧業博覧会を見物』した。当時、ここに出品された『黒田清輝の「朝妝』(ちょうしょう:一八九三年作。後で注するが、本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるが、後、空襲で焼失、現存しない)『の展示をめぐって、裸体画論が論じられ』ていた(本篇の「四」で小泉八雲も取り上げている)。『二十一日、大極殿、東本願寺を見物』し、四月二十二日に『神戸に帰宅』した。本篇はそれを素材としている。

 本篇は全部で七つのパートに別れるが、紀行記録風に体裁を採っていることから、個人的に纏めて全部を示したい。さすれば、私が気になったもののみの注に留め、今までのような神経症的或いは煩瑣な(私にとって)既注の繰り返し注は極力抑えた(既に何度も繰り返しやってきたショーペンハウエルやハーバート・スペンサーの注や彼らの原拠探しなども今回はやめた)。悪しからず。]

 

      第四章 旅行日記より

 

        

   一八九五年四月十五日 大阪京都間の汽車中にて

 乘合の席で睡氣ざした時、橫になると云ふ譯にも往かぬ場合、日本の婦人はその左の長い袂を顏にあててから坐睡する。今この二等客車の中に三人の婦人が並んで睡つてゐる。何れも左の袂に顏を隱して、列車の動搖と共に一齊に搖れながら、緩やかな流に咲く蓮の花の樣に。(左の袂を使ふことは偶然か、それとも本能によるか、大方は本能によるのであらう。强く搖れる時に右手で吊り革か座席に摑まるに都合がよいから)この光景は美しくも亦可笑しい。が、上品な日本婦人が何をするにも、いつも出來るだけあでやかに氣を兼ねて、品よくすることの例として美はしく見える。それは更にいぢらしくもあある。その姿は又悲哀の姿であり、又時には惱ましき祈りの姿でもあるからである。是は皆、出來るだけ愉快な面もちの外は人に見せまいとする、練られた義務の觀念からである。

 この事で自分の經驗を想ひ起こす。

 長年自分の使つてゐた下男が徒にも快活な男と思はれてゐた。物を言ひかけられると何時も笑つてゐる、仕事をする時にはいつも嬉しさうにしてゐる、人世の面倒などといふものは少しも知らぬ顏に見えた。處が、或る日常人が誰れも側に居るものは無いと思つてゐる時に覗きこんで見ると、彼の氣の弛んだ顏に自分は喫驚した。豫(かね)で見た顏とはうつて變つてゐた。苦痛と憤怒の怖はい皺が現はれて三一十ほども老けて見えた。咳拂ひをして自分の居ることを知らせると、顏は忽ち滑らかに、柔らいで明かるくなつた。若返りの奇蹟でもある樣に。是は實に不斷の沒我的自制の奇蹟である。

 

        

          四月十六日 京都にて

 宿屋の自分の室の前の雨戶が押し除けられると、朝日がぱつと障子に射して、金色の地の上に小さい桃の樹の、くつきりした影を申し分なく描き出した。人間の筆では、瑕令日本の畫家の筆でも、この影繪を凌駕することは出來ない。ほつかりと黃色い地色の上に紺色に描き出されたこの不思議の繪は、目に見えぬ庭樹の枝の遠近に從つて、濃淡の差までも示してゐる。家屋の採光のために紙を用ゐる事が日本の美術に影響したのではないかと思はれる點などを考へさせられる。

 夜分障子だけを閉(た)てまはした日本の家は、大きな行燈の樣に見える。外へ繪を寫す代りに内側へ活動する影を寫す幻燈の樣である。晝間は障子に寫る影は外からばかりであるが、日の出る頃、恰も今朝の樣に、その光線が洒落た庭の上を眞橫に射す時には、その影繪は宜に絕妙である。

 藝術の起原を、壁にさした戀人の影を不用意に寫さうとした事に歸してゐる希臘の昔物語にも決して笑ふべきことは無い。大方一切の藝術的意識は、凡ての超自然の意識と等しく、影の硏究にその抑もの[やぶちゃん注:「そも(そも)の」。]發端を開くいてゐる。然し障子に寫る影は如何にも著しいので、原始的どころか、比類なく發達した、他には說明し雖い、或る日本特有の畫才の說明を暗示する。勿論、如何なる磨硝子よりも影の良く寫る日本紙の特質と、影そのものの特質も考察を要する。例へば、歐米の植物は、自然の許す限り恰好をよくするため、幾百年來の丹精によつて作り上げられた、日本の庭樹の樣な趣のある影繪を寫さない。

 自分は、この室の障子の紙が、寫眞の乾板の樣に、樹に射す日の寫した最初のうましき印象に對して、感受性を持つてゐてくれ〻ばよいと切望する。自分は既に形の崩れたのを憾みとしてゐる。美しき影は間延びを見せ初めた。

 

       

           四月十六日 京都にて

 日本に於て特に美しきものの中で、最も美しきは、高い所にある禮拜、休息の場所に到る途中、卽ち、是ぞといふものも無い所へ往く道路や、何があるといふでもない所に登る石段である。

 勿論、その特別な妙味は、人間の造營と、光や形や色に於ける自然の好氣分とが一致した時の感じで、雨の日などには消えて了ふといつた樣な、折にふれての妙味である。然しこれは、斯く氣まぐれなものであるに拘らず、嘆美すべきものである。

 斯ういふ登り口は、先づ石疊の坂道で、巨木の立ち並んだ、七八丁程[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートルほど。但し、原文は“half a mile”。八百四メートル強。]の並木路といつた樣なもので初まる。石の怪獸が合間合間に置かれて道を護つてゐる。つぎに鬱蒼たる樹木の間を登つて更に大きな老樹の陰暗い臺地に出る大きな石段がある。其處からまた。何れも陰に浸つた幾つかの石段を登つては幾度か臺地に出る。登り登つて又更に登ると、漸くにして蒼然たる鳥居の彼方に當の目的が見える。小さな空な木造の祠、卽ち一つの『お宮』である。長い參道の莊嚴[やぶちゃん注:「ここは「さうごん」。]を極めた後、この靜寂と陰暗の高處に於て、斯うして受ける空虛の感じは眞に幽玄そのものである。

 佛閣に對する同樣の經驗は、幾百となく、之を得んと欲する者を待つてゐる。一例として京都市内に在る東大谷の寺域を舉げてもよい。堂々たる並木路が寺院の境内に通じ、境内からは幅員優に五十尺[やぶちゃん注:十五・一五メートル。但し、原文は“feet”で十五・二四メートル。]の、重くるしい、苔蒸した。立派な欄干の附いた石段が、壁を取りまはした墓地へ通じてゐる。その光景はデカメロン時代のイタリヤの遊園地へでも出さうに思はせる。が、上の臺地に着くと、唯だ門があるだけで、その中は墓地である。佛者の庭造りが、一切の榮華も權勢も唯だ斯うした寂滅に到る、といふ事を示さうとしたのであらう。

[やぶちゃん注:京都府京都市東山区円山町の親鸞の墳墓である大谷祖廟(通称は「東大谷」)一帯(グーグル・マップ・データ)。]

 

       

    四月十九日より二十日まで 京都にて

 内國觀業博覽會を觀るのに大方三日間を費やしたが、出品の大體の性質と價値とを鑑識するには中々十分でない。主として工部品であるが、其にも拘らず、あらゆる種類の生產物に驚くばかりに藝術の應用がしてあるので、殆ど皆氣持ちのよいものである。外國商人や自分等よりも烱眼な觀察者は、別な今少し變つた意味を見出してゐる。これまで東洋人が西洋の商工業に與へた最も恐るべき脅威が卽ちそれである。ロンドンタイムズ紙の通信員の所論に『英國に比べると凡てが一片[やぶちゃん注:原文“pennies”「ペニーズ」。後注参照。]に對する一ファージング(四分の一片)[やぶちゃん注:“farthings”。英国の小青銅貨で四分の一ペニーに相当する。一九六一年に廃止されて今はない。]の割である。……日本のランカシヤ(の工業)に對する侵略の歷史は朝鮮支那に封する侵略の歷史よりも古い。それは平和の征服で、事實成功せる無痛除血法である……この度の京都の博覽會は生產的企業に於て更に一大進步をなしたことの證明である……勞働者の賃銀が一週三志[やぶちゃん注:「シリング」。]、其他の生活費も之に準ずるといつた樣な國は、外の事が皆同じでも、一切の費用が日本の四倍に當たる競爭者を滅ぼすに極まつてゐる』とある。確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである。

[やぶちゃん注:「一片」[やぶちゃん注:「ペニー」(Penny)。通貨単位のそれ。複数形は「ペンス」(Pence)。但し、ここの原文は硬貨の複数形の“pennies”になっている(これは一ペニーを四分割した後の「ファージング」の関係からか?)。当時は十二ペンスで一シリング(shilling:一九七一年廃止)、二百四十ペンス(二十シリング)で一ポンド(pound)であった。

「ランカシヤ」“Lancashire”。僕らは地理の授業で覚えさせられたじゃないか、嘗ては綿産業で栄えたね。

「三志」本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ポンドは九・六円であったから、三シリングは一・四四円となる。現行価値換算(明治三十年代の一円を二万円に換算する資料に拠る)すると、週給で二万八千八百円。

「確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである」「柔術」はママ。比喩である。これについては、先行する本邦来日後の第二作品集で本作品集の前年明治二八(一八九五)年に刊行した“Out of the East”(「東の国から」)の“Ⅶ. Jiujutsu”(第七章 柔術)で語られてある。同作品集には本作品集電子化後に着手予定で、電子化後、この注を書き変えてリンクさせるつもりである。]

 博覽會の入場料も亦意義ある事である。唯だの五錢。然しこの少額でも巨額の收入になりさうである。蝟集する觀覽者の數が如何にも多い。多數の農民が每日京都に押し寄せる。多くは徒步で、巡禮でもする樣に。して又この度京へ上ることは、眞宗の大本山の落成式があつて、事實巡禮なのである。

[やぶちゃん注:最後のそれは東本願寺御影堂の落成式を指す。境内のほぼ中心にある堂で、屋根は瓦葺重層入母屋造。間口七十六メートル、奥行き五十八メートル、高さは三十八メートルあり、建築面積に於いては現在も世界最大の木造建築物で、明治一三(一八八〇)年起工、十五年の歳月がかかった。]

 美術部は一八九〇年の東京の美術展覽會[やぶちゃん注:明治二十三年十一月に開催された「明治美術会」第二回展を指すか。西洋油絵の大規模な展覧会の濫觴の一つである。]に比しては遙かに劣つてゐると思つた。結構なものもあるにはあるが、至つて少い。恐らく全國民が熱心にその精力と技術とを有利な方向に傾注してゐる證左かも知れぬ。現に美術が工業と組み合はされてゐる諸部門――陶磁器、象嵌、刺繡等に於ては、甞て無い精巧貴重な作品が陳列されてゐる。たしかに、そこにあつた幾つかの陳列品の眞價は、『支那が西洋工業の方式を採用したら、世界の市場に於て日本品を驅逐する事にならう』と云ふ、友なる日本人の感想に對する答辯を暗示した。

 そこで自分は答へた。『廉價品に於ては或はさうかも知れぬ。併し日本が製品の廉價なことのみを手緣り[やぶちゃん注:「たより」。]にする必要はない。日本は技術と良趣味とに於ける卓越に手緣る方が一層安全であると思ふ。一國民の技術的天才は安價な努力による如何なる競爭も及び難い特殊な價値を有つてゐる。西洋諸國の中では佛蘭西がその一例である。佛蘭西の富は隣國よりも低廉に生產し得ることに基因しては居らぬ。佛國製品は世界中最も高位である。佛國は奢侈品及び美術品を賣り出してゐる。是等の品物はその類の中で最良品であるが故に、凡ての文明國に於て賣れ行きがよい。日本が極東の佛蘭西となつて惡い筈はあるまい』

 

 美術部の中で殊に貧弱なのは油繪、西洋風の油繪の部である。日本人が日本固有の描法による油繪具で見事な繪の描けないと云ふ譯は無い。然し彼等が西洋の描法に倣はう[やぶちゃん注:「ならはう」。]とする企圖は極めて寫實的な取扱ひを要する習作に於てのみ、僅に平凡の域に達したに過ぎぬ。油繪具による理想畫は、西洋美術の法則に從つては未だ日本人の企及し得る所でない。大方油繪に於ても、將來、西洋の方式を國民精神の特殊の要求に適應せしめて、美の殿堂に入る新門戶を自ら發見することもあらう。が、今の處その樣な傾向は見えぬ。

 大きな鏡に向つた全身裸の婦人を描いた一畫面が公衆の惡感を惹起した。全國の新聞紙はその書の撤囘を要求し、西洋の藝術觀に對しては香ばしからぬ意見を吐いてゐた。然しその繪は日本の畫家の作であつた。それは駄作であつたが、思ひ切つて三千弗といふ値段がついてゐた。

[やぶちゃん注:本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ドルは一・九八円であるから、約六千円で、例の現代価値換算の一円二万円を適応するなら、一億二千万円相当である。]

 自分は少時[やぶちゃん注:「しばらく」と訓じておく。]その前に立つた、この繪の衆人に與へる感興を觀察しようと思つたのである。觀衆の大多數は農民で、驚いて見てはせせら笑ひ、何か嘲るやうな言葉を遺して、十圓乃至三十五圓といふ値段附けでこそあれ、遙かに見ごたへのある掛物の方へ往つて了ふ。その人物が西洋人の髮形をして描いてあつたので、批評は主に西洋の好尙に對して向けられてゐた。それを日本の繪と思ふ者は無いらしかつた。それが若し日本婦人の圖であつたなら、公衆はそんな繪を無事に置く事すらも承知すまいと思ふ。

 繪そのものに對する侮蔑は至當であつた。その作には少しも理想的の所がない。單に裸體の婦人が、人目のある所で仕たい[やぶちゃん注:「したい」。]筈のない事をしてゐる姿を描いたに過ぎぬ。而して唯だ裸體の婦人を描いただけの繪は、どれほど巧みに描けてゐても、藝術が何等かの理想を意味するなら、藝術ではない。その寫實的な所がそれの不快な點であつた。理想の裸體は神聖なもので、超自然なるものに對する人間の想像の中[やぶちゃん注:「うち」。]最も神に近いものであらう。が、裸體の人間は少しも神聖ではない。理想の裸體には何も纒ふことは入らぬ。その美妙さは蔽うたり切つたりすることを許さぬ美しき線から來るものである。生きた實物の人體はさういふ神韻ある線や形を有つてゐない。借問す[やぶちゃん注:「しやもん(しゃもん)/しやくもん(しゃくもん)」。試みに問うてみよう。]、畫家はその裸體より實感のあらゆる痕跡を除去し得るにあらずして、裸體そのもののために裸體を描出して可なりや。

 佛敎の格言に、個體に卽せずして物を觀る者のみ賢なり、と道破したのがある。而してこの佛者の見方こそ眞の日本藝術の偉大をなす所以である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が見て批評しているのは、冒頭注で示した黒田清輝(せいき 慶応二(一八六六)年~大正一三(一九二四)年)の「朝妝(ちょうしょう)」(「妝」は粧(よそお)い」の意。原題は“Morning Toilette”)である。裸体画の大作で、ウィキの「黒田清輝」によれば、黒田がパリを去る直前の一八九三年に制作され(黒田は一八八四年から一八九三年までフランスに遊学したが、当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったものが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三及び美術商林忠正に出会い、一八八六年に画家に転向することを決意した)、『パリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得』ていた。日本ではこの前年の明治二七(一八九四)年の第六回「明治美術会」展に出品され、翌年のこの京都で行われた「第四回内国勧業博覧会」に出品されるや、『この作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展した。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのである』とある。既に述べた通り、この絵は本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるものであるが、後に太平洋戦争中の空襲によって焼失し、現存しない。同ウィキのカラー写真画像をリンクさせておく。また、この小泉八雲観覧時のシークエンスを髣髴させる、かのジョルジュ・ビゴーの戯画「黒田の裸婦像を見る人々」(原題“La femme nue de M. Kuroda”。「ムッシュ黒田の裸婦」)のそれもあるので同じくリンクさせておこう(フランス人画家・諷刺画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot 一八六〇年~一九二七年)は、明治一五(一八八二)年一月に来日、明治時代の日本で十七年間の長きに亙って活動を行い、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は日本名「美郷」「美好」とも記した。明治三二(一八九九)年六月帰国)。本作のその後の数奇な運命は、テツ氏のブログ「てつりう美術随想録」の「焼けなかったコレクション(5)」に詳しい。それによれば、展覧後、スキャンダルの対象となったこの「朝妝」は、結局、住友家十五代当主春翠の手に渡った。『春翠は』、彼の別荘の『近所で起こったこの騒ぎに注目していたにちがいない。開催期間の終了後、実兄の西園寺公望の勧めで春翠は『朝妝』を買い取ったそうであるが、西園寺と黒田は留学中にすでに知り合っており、便宜をはかってあげたのだという見方もできる』。『また、当時の西園寺が文部大臣であったことを考えれば、政府が主催する内国勧業博覧会において持ち上がった騒動の火種を、身内の個人的なコレクションに収めてしまうことで世間の眼から隠してしまった、といえなくもない。要するに彼の行動は新しい芸術の擁護とも取れるし、巧妙な自己保身とも取れるのである。いずれにせよ西園寺公望とは、よほど頭の切れる男であったらしい』。その後、『黒田の』この「朝妝」は『須磨にあった住友家の別邸に飾られていたため』、空襲により『灰燼に帰してしまったのである(別邸跡は須磨海浜公園になっている)』とある。]

 

       

 斯ういふ考が浮かんだ。

 神聖なる裸體、絕對美の抽象である裸體は觀る者に幾分悲哀を交じへた驚愕と歡喜との衝擊を與へる。美術の作品にして之を與へるものは少い、完全に近いものが少いからである。然しさう云ふ大理石像や寶石細工がある。又『藝術愛好會』で出版した版畫の樣な、其等の作品の精巧な模寫がある。視れば視るほど驚歎の念が深くなる。一つの線でも、その一部分でも、その美が凡ての記憶を超絕してゐないものは無い。それ故斯ういふ藝術の祕訣は古來超自然と考へられた。事實又それが與へる美の觀念は人間以上である。現在の人生以外であると云ふ意味に於て超人間である。卽ち人間の知れる感覺の及ぶ限りに於て超自然である。

[やぶちゃん注:「藝術愛好會」“Society of Dilettanti”。「ディレッタンティ協会/ディレッタント協会(Dilettante Society)のこと。ウィキの「ディレッタンティ協会」によれば、『古代ギリシアやローマ美術の研究、およびその様式による新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンたちの協会』。一七三四年に、「グランド・ツアー」(Grand Tour:十七~十八世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った習慣的な大規模な国外旅行)『経験者のグループによって、ロンドンのダイニング・クラブ(』『Dining club)として結成された』。『ディレッタンティ協会を最初にリードしたのはフランシス・ダッシュウッド』(Francis Dashwood 一七〇八年~一七八一年:男爵)『で、メンバーの中には数人の公爵もいた。後には、画家ジョシュア・レノルズ』(一七二三年~一七九二年)、『俳優デイヴィッド・ギャリック』(David Garrick 一七一七年~一七七九年)、『作家ユーヴディル・プライス』(Uvedale Price 一七四七年~一八二九年)、古典学者・考古学者であった『リチャード・ペイン・ナイト』(Richard Payne Knight 一七五〇年~一八二四年)『なども参加した』。『メンバーが毎年、たとえば結婚式などで棚ぼた的に得た収入の』四%を『出し合うというシステムで、協会は急速に資金と影響力を増していった』。一七四〇『年代からはイタリア・オペラを後援し』、一七五〇『年代からはロイヤル・アカデミー設立の原動力となった。そのうえ、グランド』・『ツアーを続ける若者たちへの奨学金や』、『考古学』や古典研究者の実地旅行の支援や、『イギリスの新古典主義に大きな影響を及ぼすことになる『Ionian Antiquities』を彼らが出版する際に資金を提供した』とある。ここには記載はないが、考古学的古典的芸術遺物の模造などの指示や資金援助も当然、手掛けたことであろう。]

 その衝擊は如何なるものか。

 それは初めての戀の經驗に伴なふ心的衝擊に不思議にも似てをり、たしかにそれに緣のあるものである。プラトーンは美の衝擊を靈魂が神來[やぶちゃん注:「しんらい」神が乗り移ったかのように、突然、霊妙な感興を得ること。インスピレーション。原文は“Divine Ideas”(「神がかった発想」)。]の思想の世界を半ば想ひ起こすのである、と說いてむる。『この世界に於て彼の世界に在るものの姿又はその類似を見る者は、電擊の樣な衝擊を受け、謂はば己の内より取り出される』ショーペンハウワーは初戀の衝擊を全人類の魂の意志力と說いてゐる。現代に於てはスペンサーの實證心理が人間の感情中最も强烈なものは、その初めて現はれるときに、一切の個人的經驗に絕對に先行するものであると斷言して居る。斯く古今の思想が、哲學も科學も、人間の美に對して個人が初めて深く感ずるのは、決して個人的のものでないことを等しく認めてゐる。

 卓絕せる藝術の與へる衝擊に就いても同じ理法が行はれて差支ない。斯かる藝術に表現せられた人間の理想は、たしかに、觀る者の感情の中に祀られてゐる彼の全人類の過去の經驗、卽ち數へ盡くせぬ先祖等から遺傳した或るものに感銘を與へる。

 數へ盡くせぬとは正にその通りである。

 一世紀に三世代の割として、血族結婚が無かつたとすれば、或る佛國の數學者は、現在の佛國人は何れも紀元一千年代の二百萬人の血をその脈管内に藏してゐる割だと計算して

ゐる。若し西曆の紀元から起算すれば、今日の一人の先祖は千八百京(卽ち一八、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)といふ總數になる。然も二十世紀間くらゐは、人類生存の期間に比しては何程のものでもない。

 さて美の情緖は、人間の一切の情緖と等しく數へ難き過去に於ける、想像もつかぬ程に數知れぬ經驗を遺傳した產物に相違ない。個々の美的感覺にも頭腦の不思議な沃土に埋もれた億兆不可測の幽玄なる記憶の動めきがある。而して各人は己の中に美の理想を有つてゐる。それは嘗て眼に美しく映じた形や色や趣のありし知覺の無限の複合に外ならぬ。この理想は本質に於ては靜能的[やぶちゃん注:原文は“dormant”。「休眠している」の意。]であるが、潛伏してゐて、想像を對象として、任意に喚起することは出來ぬが、生ける感官が何物か略〻相連らなるものを知覺するときに、突如として點火する。その時彼の[やぶちゃん注:「かの」。]異樣な、悲しくも嬉しい身震ひを感ずる。其は生命の流と時の流との急激な逆行に伴なつて起こるものであつて、そこに百萬年千萬代の感動が一瞬時の感激に總括されるのである。而して己の精神から美の民族的理想を分離して、その漾へる[やぶちゃん注:「ただよへる」。]輪廓を珠玉や石に彫みつける奇蹟を行ふことの出來たのは、唯一つの文明に屬する美術家達、卽ち希臘人のみであつた。彼等は裸體を神聖なるものとして、吾人をして彼等が自から感じたと略〻等しく、その神聖を感せしめずには措かぬ[やぶちゃん注:「おかぬ」。]。彼等がその樣な作をすることの出來たのは恐らくエマースンが提言してゐる如く、彼等が完全な感覺を有つて居たからであらう。確に彼等がその彫像の如く美しかつたからではない。如何なる男も女もそのやうに美しくはあり得ぬ。是だけは確である。彼等は眼や眼瞼や頭や頰や口や頤や胴や手足の、今は亡き美しさの幾百萬とも數知れぬ記憶の複合である彼等の理想を觀取して、之を明瞭に定着したのである。

 希臘の彫刻そのものが、絕對の個性は存在せず、換言すれば肉體が細胞の複合體なるが如く精神も亦複合體なりとの證據を示してゐる。

 

       

           四月二十一日 京都にて

 全帝國に於ける宗敎的建築の最高の典型が丁度落成した。それでこの殿堂の大都會は、今またありし世紀間にその比を見たとは思はれぬ二大建築を加へた。一つは帝國政府の造營で、今一つは一般庶民の寄進である。

 政府の造榮は大極殿で、この聖都を開かれた人皇五十一代桓武天皇の大祭を記念するために建てたものである。この天皇の英靈に大極殿は奉献されたので、是は神道の社殿否凡ての社殿中最も壯麗なものである。然しそれは神社建築ではなくて、桓武天皇の時代の宮殿をその儘の模寫である。この在來の神社の樣式と脫した大建築が國民の感情に及ぼす影響とそれを思ひ立つた畏敬の念の深き詩趣とは、日本が今なほ祖先の靈によつて支配されてゐることを辨へてゐる者でなくては十分に理解することは出來ぬ。大極殿の建物は美しと云ふも愚かである。日本の都會の中で最も古いこの京都に於てすら、この建物は視る眼を驚かす。笄のついた[やぶちゃん注:「笄」は「かうがい(こうがい)」。髪掻きのそれであるが、ここは隠喩(換喩)の意訳。原文は“their horned roofs”で「角張った屋根群」である。]屋根の反りかへつた線によつて、今とは異つた奇想に富んだ時代の物語を蒼空に語つてゐる。就中、殊に軌を逸して奇拔な點は、二階になつた五つの塔のある門である。宛然支那の奇想そのものである、と人は謂ふであらう。色彩や構造に於ても樣式に劣らず奇拔なのに人目を惹く。それは殊に色交りの屋根に綠色の古代瓦を巧みに用ゐたために一層引き立つてゐる。桓武天皇の英靈も、建築の巫術によつて、過去が斯くも面白く呼びかへされてゐるのを、必らずや喜ばれるに相違ない。

 然し庶民の京都市への寄進は更に偉大である。壯麗なる東本願寺(眞宗)がそれである。西洋の讀者はその建築に八百萬弗の巨資と十七年の歲月を費やしたといふ事で、その結構の一斑を知ることが出來る。唯だ大きさの點では粗末な普請の他の日本建築に遙かに凌駕されてゐるが、日本の寺院建築に通じてゐる者は、高さ百二十八尺奧行百九十二尺長さ二百尺餘[やぶちゃん注:原文は総て“feet”。但し、“There are beams forty-two feet long and four feet thick; and there are pillars nine feet in circumference.”とある通り、ここは数字を尺換算して示してある。和訳のそれぞれをメートルに換算すると(丸括弧内はフィートの換算値)、高さ三十八・七八(三十九・〇一)、奥行き五十八・一八(五十八・五二)、長さ六十・六〇(約六十一メートル)メートル超えで先に示した実際のスケール(高さ三十八、奥行き五十八、間口七十六メートル)を間口を除けば、ほぼ正確に示している。]の伽藍を建てることの苦心を直に悟るであらう。その特殊の形狀、殊に屋根の長大な單線輪廓のために、この本願寺は實際よりも遙かに大きく見える。山の樣に見える。然し何處の國に持つていつても、是は驚く可き建築と見倣されるであらう。長さ四十二尺直徑四尺[やぶちゃん注:これも原文はフィートであるが、数値は同じ。同前で示す長さ十二・七二(十二・八)、直径一・二一(一・二一)メートル。]の木材が使つてある。周關九尺[やぶちゃん注:同前。二・七二(二・七四)メートル。]の圓柱がある。内部の裝飾の性質に就いては、正面の護摩壇の後ろに立てた襖の蓮の花の紬を描くだけに一萬弗かかつた、といふのでも推量出來る。斯う云ふ驚く可き造營が、殆ど凡て、勞作してゐる農民から銅貨で寄附された金でなされたのである。それでも佛敎が滅びつつあると考へる連中があらうとは。

 十萬餘の農民等がこの大落成式を見物に來た。廣庭に幾町步といふほど敷き詰めた莚の上に彼等は幾萬の群をなして坐つてゐた。自分は彼等が午後三時に斯うして待つてゐるのを見た。庭は生ある海と謂つてよかつた。併しその雲霞の群集は、儀式の初まるのを午後七時まで食はず飮まず、日の射す所に待たなければならなかつた。庭の片隅に、何れも白い着物を着て綺麗な白い帽子を被つた、二十人程の若い女の一隊が見えた。どういふ人達かと聞くと、側に居た人が『この大勢が幾時間も待つて居なければならぬから、中には病人も出るだらうと懸念される。そこで看護婦が發病者の手當てをする爲めに詰めて居るのだ、擔架も備へてある、それから運搬人夫も、醫者も大勢居ますよ』と答へた。

 この辛抱と信心とを自分は驚歎した。然しそれらの善男善女がこの壯大な寺院を斯く大切に思ふのは當然である。それは事實彼等自身の作り上げたものであつた、直接にも間接にも。と云ふのは、建築の仕事も少からず寄進の積りで行はれ、分けても大きな棟木などは、遠國の山腹から京都まで、信者の妻や娘の頭の毛で作つた綱で曳いて來たのであつた。その綱の一つで寺の内に保存されてゐるのは長さ三百六十呎餘[やぶちゃん注:百十メートルほど。]、直徑約三吋[やぶちゃん注:「インチ」。約七・六センチメートル。]もある。

[やぶちゃん注:この髪の毛は一部が現存する。「真宗本願寺派東本願寺」公式サイト内のこちらに、御影堂・阿弥陀堂『両堂の再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際には、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要としました。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱です』。『当時、全国各地からは、全部で』五十三『本の毛綱が寄進され、最も大きいものは長さ』百十メートル、太さ四十センチメートル、重さ約一トン『にも及びます。いかに多くの髪の毛が必要とされたかがうかがわれます』。『現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県(越後国)のご門徒から寄進されたもので、長さ』六十九メートル、太さ約三十センチメートル、重さ約三百七十五キログラムであるとある。毛綱の写真もある。]

 自分には國民の宗敎心のこの二大記念物の敎訓が、國家の繁營の增進と比例して、その宗敎心の倫理的勢力と價値との、未來に於ける確實なる增進を暗示した。一時財力の減少した事が、佛敎が一時衰運に向つたと思はれることの實際の說明である。外に表はれた佛敎の或る形式は衰亡するに相違ない。神道の或る迷信は自滅するに相違ない。併し、中心の眞理と之に對する認容は、擴まり强まり、國民の心に却つて根ざしを深め、今後國民が入らんとする、更に大なる更に困難なる生活の試煉に對して、力强き覺悟を與へるであらう。

 

       

        四月二十三日 神戶にて

[やぶちゃん注:これは京都旅行から神戸へ帰った(明治二八(一八九五)年四月二十二日)翌日の四月二十三日火曜日に「水産物展覧会」を「和楽園」に見物に行ったのを最終章に附録させたものである。和楽園は現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地であった。因みに、この二年後の明治三〇(一八九七)年、神戸の和田岬で行われた、これに続く「第二回水産博覧会」では、会期中の期間限定で本格的な「和楽園水族館」が開かれており(ここに出るのはもっと簡易の水槽展示であろう)、これは濾過槽設備を備えた国内初の水族館とされるものである。現在、神戸市須磨区若宮町に「和楽園展示館」があるが、旧和楽園はここの位置でないと思われる。]

 兵庫で、海に近い庭庭にある魚類其他水產の展覽會を見物した。場所の名は和樂園と呼んで『平和の樂みの庭』と云ふ意味である。風景を象どつた昔の庭園風の段取りで、まことその名にふさはしい。その端を越して廣い灣が見え、小舟に乘つた漁師や、照り榮える白帆の沖行く樣や、遙かの彼方には、地平線を塞いで、紫色に霞む山々の高く美しき群ら立ちが見える。

 澄んだ海水を湛へた色々な形をした池があつて、色の美しい魚が泳いてゐる。自分は水族館に入つた。そこには特に變つた魚類が硝子越しに泳いでゐた。紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」と読んでおく。凧、というより、烏賊昇りで、小泉八雲が見たのは生体のイカであろうか。]樣な形をした魚や、刀身の樣な形をした魚や、裏返しになつてゐる樣な魚や、袖の樣な鰭振りはえて舞妓の振るまひする、蝶の羽色をした妙な可愛らしい魚がゐた。

[やぶちゃん注:それぞれ種を同定したい誘惑に駆られるが、我慢する。]

 小舟や網や釣針や浮子(うけ)[やぶちゃん注:浮子(うき)のこと。]や漁火[やぶちゃん注:「いさりび」。]のあらゆる種類の模型を見た。あらゆる種類の漁獵法の細圖や、鯨を屠つてゐる[やぶちゃん注:「はふつてゐる(ほうっている)」。体を切ってバラバラにする。]模型と細目も見た。一つの畫面は凄いものであつた。太網にかかつた鯨の死の苦悶と、眞紅な泡の逆卷く中に小舟の躍つてゐる樣、裸な男が一人巨獸の背にに乘り、その姿だけが水平線上に飛び拔けて、大きな魚扠[やぶちゃん注:二字で「やす」と読む。先端が数本に分かれて尖った鉄製尖頭を長い柄の先に附けた魚具。但し、原文は“great steel”であるから、「銛(もり)」の方が相応しい。]を以て鯨を突き制すと。それに應じて血汐の噴水が迸つてゐる圖であつた。自分の側に日本人の父親と母親とが幼い男兒にその繪の說明をしてゐるのが聞こえた。母親は言つてゐた。

 『鯨が死にかかる時には、南無阿彌陀佛と唱へて、佛樣のお助けを願ひますよ』

 自分は別な方へ往つた、そこには馴れた鹿が居たり『金色の熊』[やぶちゃん注:確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井]が金網の中に飼つてあつたり、烏舍に入れた孔雀も居り、手長猿も居た。自分は鳥舍の傍の茶屋の緣に腰をかけて休んだ。すると捕鯨の圖を見てゐた人達が同じ緣にやつて來た。やがて彼の[やぶちゃん注:「かの」。]小兒が斯う言つてゐるのが間こえた。

[やぶちゃん注:「『金色の熊』」確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井呈一氏は恒文社版「旅日記から」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『ひぐま』と訳しておられる。確かにクマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis には、かなり明度の明るい褐色個体がおり、それを「黄色い熊」とは言うておかしくはないが、この時代に神戸の民間施設でエゾヒグマを飼っていた可能性は私は限りなくゼロに近いように思われる。寧ろ、ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus の中に見られる濃褐色の個体の幼体だと、色が薄く見えて「黄色い熊」と見えるようにも思える。或いは、可哀想に狭い檻の中で飼われて、皮膚病で毛が大半落ち、肌が剥き出しになった病気個体ででもあったのかも知れない。無論、別なクマではない四足獣類の可能性も視野には置かねばなるまいが、如何せん、描写がないので特定は不能である。]

 『お父さん、大變お爺さんの漁師がお舟の中に居ますね。あのお爺さんはどうして浦島太郞見たいに龍宮に行かないの』

 父親は答へた。『浦島は龜を捕へたが、それは本當の龜ぢやなくて、龍宮の王樣のお姬樣だつたから、その龜を親切にした御褒美があつたのさ。あのお爺さんは龜を捕へやしなかつたし、捕へたつて、あんまり年を取つてお婿さんになれやしないから、それで龍宮へは往かなかつたのさ』

 するとその子は花を眺め、噴水を眺め、白帆のある日の常たつた海を眺め、一番先きの紫色の山々を眺めて叫んだ。

 『お父さん、世界中にもつと綺麗な所がありますか』

 父親は嬉しさうに微笑んで、何か答へようとするらしかつた。が、まだ何も言はぬ中にその子は大聲を舉げ、飛び上がつて、手を拍つて喜んだ。孔雀が不意にその見事な尾を擴げたからであつた。皆が鳥舍の方へ馳け寄つた。それで彼の可愛い問に對する答は聞くことが出來なかつた。

 併し後になつて自分はつぎの樣に答へてもよからうと思つた。

 『坊や、これは實に美しいが、世界には美しいものは澤山あるから、之より美しい庭が幾つもあるだらう。

 『併し一番美しい庭はこの世には無い。それは西方淨土にある阿彌陀樣のお庭である。

 『生きてゐる間に惡い事をしない者は誰れでも、死んでからそのお庭に住むことが出來る。

 『そこでは天の鳥の尊い孔雀がその尾を日輪の如くに擴げながら、七階〔七菩提分の意か〕五力の法を唱へる。

[やぶちゃん注:〔 〕は訳者石川氏の訳者注。

「七階」調べて見ると、隋から唐にかけて席巻した都会型の仏教の一派である三階教に「七階仏名(ぶつみょう)経」があり、「仏名経」とは、諸仏の名号を受持しつつ、その功徳によって懺悔滅罪すべきことを説く複数の経典の名である。敦煌出土の「七階仏名経」も存在する。まあ、しかし石川氏の割注もそのような意であろう。

「五力」は「ごりき」と読み、悟りを開く方法である三十七道品(どうほん)の一部で、悪を破る五つの力を指す。信力(心を清らかにする力)・念力(記憶する力)・精進力(善に励む力)・定力(じょうりき:禅定する力)・慧力(えりき:真理を理解する力)の五つ。]

 『そこには玉泉の池〔七寳の池の意か〕があつて、その中に名づけ樣のない美しさの蓮華が咲いてゐる。その花からは絕えず虹色の光と、新しく生まれた諸佛の精靈とが昇る。

 『水は蓮の蕾の間をさざめき流れながら、その花の中に宿る魂に無限の記憶と無限の幻想と四つの無限の感情とに就いて語る。

[やぶちゃん注:「四つの無限の感情」「四無量心」(しむりょうしん)のこと。『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」』に既出既注。]

 『そこには神と人との差別が無い。阿彌陀の榮光の前には神々も身を屈め、「無量壽光の御佛」といふ句を以て初まる頌歌[やぶちゃん注:「しようか(しょうか)」。讃歌。]を唱へねばならぬ。

 『併し、天上の河の聲は幾千の人の和讃の樣に、「是れ未だ高しとせず、更に高きものあり。是れ現實に非ず、是れ平和に非ず」と歌つてゐる』

 

2019/12/09

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」 / 日本文化の神髄~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 日本の國民生活に於ける前記の不永存性と小規模とに對し、之に伴なふ何か代償的の長所があるのではないか。それを探究することは徒勞ではない。

 

 この國民性の極度の流動性はその特徵の著しきものである。日本國民はその微分子が斷えず循環してゐる一物質の樣である。而して其運動からして變はつてゐる。西洋諸國の人民の移動に比して、一點から一點に到る運動は微弱でも、全體に於ては大きく且つ變化に富んてゐる。その建前は又遙かに自然である。西洋文明には存在し得ぬほど自然である。歐洲人と日本人との移動の比較は、或る高速度の振動と或る低速度の振動との比較によつて示すことが出來る。但しこの場合高速度の方は人爲の力が加はつてゐることを示すが、遲い振動の方にはさういふ事はない。而して斯ういふ種類の上の差異には外觀以上の意義がある。或る意味では、米國人は盛んに旅行する國民だと自ら思つてゐてよい。が、又他の意味では、さう思ふのは信に間違つてゐる。一般の米囚人は、旅行する點に於ては、一般の日本人には及ばない。勿論諸國民の移動を比較するには、單に少數の有產階級のみでなく、大衆・卽ち勞働者を主として考へなければならぬ。國内に於ては日本人は文明人の中で最も盛んに旅行する國民である。彼等が最も盛んに旅行する人民であると云ふのは、彼等が殆ど山脈から成つてゐる國土にありながら、何等旅行に對する障碍を認めぬからである。日本で一番旅行をする者は汽車とか汽船とかに乘せて貰はんでも困らぬ手合である。

 我々に在つては、一般勞働者は日本の普通勞働者よりも遙かに不自由である。彼等はその種々の力が集團凝結の傾向を有する西洋の社會の複雜なる機關のために拘束せられるのである。彼等が倚存[やぶちゃん注:「依存」に同じい。]せぬばならぬ社會上產業上の機關が、自己の特殊の要求に應じて、彼等をして常に他の本然の能力を棄てて、或る特殊の人爲的能力を發達せしめるやうにするからである。

 彼等は單に勤儉によつて經濟的獨立を得る事を不可能にする樣な生活の標準で暮らさねばならぬ故にさうなのである。さうした獨立を得るためには、同じ束縛から脫しようと等しく努力してゐる幾千の異數の競爭者に優つた異數の性格と異數の材能とを有つてゐなければならぬ。約言すれば、彼等の特異な文明が機械や大資本の力を藉りずに生活してゆく彼等の本然の力を萎えさせたがために、日本人の如くに自由でないのである。斯く不自然な生活を營む事は、やがて獨立した移動の力を失ふ結果になる。西洋人が移動する前には色々な事を顧慮しなければならぬ。日本人の方は何も顧慮することはない、彼等は何の造作もなく嫌な所を去つて好な所に往くのである。何も彼等を妨げるものは無い。貧窮は障碍でなく、却つて刺戟である。荷物といふ程のものは無く、あつても數分間に始末の出來るものである。道の遠近などは何の事はない。彼等は一日五十哩[やぶちゃん注:「マイル」。約八十キロメートル半。]を苦もなく飛ばす脚を具へてゐる。西洋人の到底生活して往かれぬ樣な食物から、多分の榮養を攝取することの出來る不思議な胃囊を具へ、更に彼等は、未だ不健全な衣服や過多な便利品や爐やストーヴから暖を取る事や、皮の靴を穿く習慣によつて害せられてゐないので、能く寒暑や雨露を凌ぐ體質を具へてゐる。

 歐米人の履物の適否は普通に考へられてゐるよりも以上の意義を有つてゐる樣に思はれる。この履物が卽ち個人の自由の拘束を示してゐる。位格の高い事だけでも既にさうである。が、その樣式に於ては更に甚だしいものがある。歐米人の足は靴のために原の形から歪められて了つて、其目的のために進化し來たつた働きに堪へなくなつてゐる。其生理上の影響は足だけに止まらない。直接間接に移動機關に影響するのは當然、身體全部にその影響を及ぼす筈である。其弊害は全身だけで止まるであらうか。我々があらゆる文化の中に存してゐる最も愚劣な因習に從つてゐる事も、靴屋の橫暴に多年屈服し來たつた影響かも知れぬ。政治にも、風敎[やぶちゃん注:「ふうけう(ふうきょう)」。原文“social ethics”。「社会倫理」でよかろうが。]にも、宗敎制度にも、皮の靴を穿く習慣に多少關係のある缺陷があるかも知れぬ。肉體の壓屈に對する忍從は必らずや精神に對する忍從を助成する。

 普通の日本人――同じ樣な仕事にかけて西洋の職工よりは遙かに賃銀の安い日本の熟練工――は仕合せにも靴屋や仕立屋の世話にならぬ。彼等の足の恰好はよく、身體は健康で、心は自由である。彼が千里の旅行を思ひ立つたとすれば、五分間には旅の支度が出來る。彼の旅裝は七十五仙[やぶちゃん注:「セント」。前に述べた一ドル二万円として、一万五千円で高過ぎる。せいぜい二十五セントで十分だ。これは西洋人の旅装の最低金額を示したものかも知れぬ。]とはかからぬ。彼の手まはりは手巾[やぶちゃん注:手拭い。]一つに包める。十弗[やぶちゃん注:先の換算で現行の二十万円。]あれば一年の間働かずに旅が出來る。或は自分の腕だけでも渡つて步ける。或は又順禮[やぶちゃん注:「巡礼」に同じい。]して步く事も出來る。そんな事は野蠻人ならいくらでも出來る、といふかも知らぬ。其には相違ないが、文明人では誰れにも出來るとは言へぬ。而して日本人は過去少くも一千年来開明の民であつた。日本の職工が昨今西洋の製造業者を脅威する力を示してゐるのは是がためである。

 斯うして自由に移動し得ることを、我々は從來、歐米の乞食や浮浪人の生活と聯想することに馴れきつてゐたので、この事の眞の意義を正當に考へることが出來なかつた。我々は更に之を不潔と惡臭と云ふ樣な不快な事柄と聯想し來たつた。併しチェインバレン敎授が道破して居る樣に、『日本の群集は世界中で一番氣持ちがよい』[やぶちゃん注:ここで句点を打つべき。]浮浪人の如き日本の旅行者でも何厘といふ湯錢さへあれば每日入浴する。無ければ水で洗ふ。彼の包には櫛や小楊枝や剃刀や齒刷子が入つてゐる。彼は何事があつても鼻持ちならぬ樣になることはせぬ。行先へ着くと粗末ではあるが非のうてぬ着物を着た行儀のよいお客になりすます。

[やぶちゃん注:「チェインバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)ポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。引用は彼の名著「日本事物誌」(Things Japanese)の「Bathing」(入浴)の第61節(リンク先は英文ウィキソース)。]

 

註 日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする、と云ふエドウィン・アーノルド卿の評言を嘲笑しようとする批評家もあつたが、この形容は的中してゐる。「麝香」と呼ぶ香料は控へ目に使へば、ニホヒヂレイニヤムのかをりと取り違へられ易い。女子を交じへた日本人の寄合では、何時もほんのりとした麝香の匂がする。着てゐゐ衣類が少量の麝香を入れた簞笥の中に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]あつたからである。この軟かな匂の外には日本の群集には何の臭氣も無い。

[やぶちゃん注:「ヂレイニヤム」“geranium”。ゼラニウムのこと。フウロソウ(風露草)目フウロソウ科フウロソウ属 Geranium。同属には二百種類以上あるとされ、そのアロマは現在も好まれる。中でも精油を抽出し得る種群のものは薔薇のような香りがすることから「ローズゼラニウム」とも呼ばれる。

「エドウィン・アーノルド」(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリスの新聞記者(探訪記者)・紀行作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人として知られ、ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『キングス・カレッジ・ロンドンを経て、オックスフォード大学へ進』み、『卒業後、バーミンガムのKing Edward's School (KES) の校長とな』った。一八五六年、『東インド会社の斡旋でインド』の『プネーに開校されたサンスクリット大学に招かれ』、七『年間』、『校長を務めた』。『アーノルドは神秘思想の研究に専念したいと欲し』、『ブッダガヤを訪れて仏教彫刻を研究』、『インド滞在時にソローの引用したインドの経典『バガヴァッド・ギーター』を翻訳するなど、以後の研究材料を集めた』。一八六一年、『イングランドに戻り、『デイリー・テレグラフ』』(The Daily Telegrap)に入社し、以来、四十年に亙って、『『デイリー・テレグラフ』紙の記者を務め、後に編集長となるに至る。在任中にニューヨークに渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』』(The New York Herald)『の記者の一員としてヘンリー・モートン・スタンリー』(Henry Morton Stanley 一八四一年~一九〇四年:イギリス・ウェールズのジャーナリストで探検家。アフリカ探検及び遭難したスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone 一八一三年~一八七三年)を発見した人物として知られる)『のコンゴ川探検に随行、エドワード湖の名付け親となる。その後、同世代最高の詩人として』、政治家セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes 一八五三年~一九〇二年:イギリス帝国の植民地政治家。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得、植民地首相となり、占領地に自分の名「ローデシア」を冠した)『に認められた。アーノルドはその後、初代インド女帝ヴィクトリアより、イギリス領インド帝国が成立した後、爵位制度が公布されるに従って、ナイト爵に叙され』ている。『アーノルドはその後、文学活動を東アジア文学と英語詩の解釈に比重を置き、釈迦の生涯と故えを説く長編無韻詩『アジアの光』を刊行した。これはヒンディー語に翻訳され、ガンジーも愛読し、ジェームズ・アレンも引用している』一八八九年(明治二十二年)に『娘とともに来日し』、『日本の官吏・学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で』は、日本は「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と称賛したという。『この後、福澤諭吉が自宅に招いて慶應義塾でアーノルドを住まわせ、物心両面にわたって援助を続けた。アーノルドは慶應義塾の客員講師となり、化学及び英訳を担当した』。『日本式の家に住みたいと希望し、福沢門下の麻生武平が所有する麻布の日本家屋に居を構え』、『滞在中に』三『番目の妻で』三十七『歳年下の黒川玉(Tama Kurokawa)と結婚した。また』、一八九一年には、アメリカの画家ロバート・フレデリック・ブルーム(Robert Frederick Blum 一八五七年~一九〇三年)の『挿絵とともに、『ヤポニカ』』(Japonica)『に日本の美を追求した紀行文を記している』。先の『バジル・ホール・チェンバレンとも交わり、日本各地を旅した』。『その後、ペルシャ、トルコ、タイを訪問して、仏教に関する翻訳を数多く手がけるようになる。東洋の典拠に基づいて、古今の仏教を徹底的に見きわめた価値ある論評を書き続ける。また、スリランカで仏教徒となった頃から菜食主義者となり、ロンドンにおける菜食主義の動きの発端となった』とある。「日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする」という出典は未詳。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「ニホヒヂレイニヤム」原文は“musk-geranium”。「musk」は「麝香」の意。ヨーロッパ南部原産で葉に芳香があるゼラニウム・マクロリズム Geranium macrorrhizumShu Suehiro氏のサイト「ボタニック ガーデン 草花と樹木のデジタル植物園」のこちらで草体と花が見られる。]

 

 家財もなく、道具もなく、さつぱりした衣類を少し持つて暮らせることは、日本民族が生存競爭に於て持つてゐる勝味を示すばかりでなく、歐米の文明に於ける弱點の本質をも示すものである。是は我々の日常生活に於ける必需品の徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]多數なることを反省せしめずには措かぬ。我々は肉とパンとバタが無くては暮らせぬ。硝子窓と爐火、帽子、白シヤツ、毛の下着、深靴[やぶちゃん注:ブーツ。]、半靴[やぶちゃん注:通常の靴。]、トランクや鞄や箱類、寢臺、蒲團、シーツ、毛布が無くては暮らせぬ。何れも日本人が無くても濟ます、否實際、無くて却つて樂に暮らしてゐる品物である。假りに白いシヤツと云ふ金のかかる一項目に就いても、それは歐米の衣服の非常に大切な一部ではないか。而も『紳士の徽章』と謂はれるリネンのシヤツからして無用な衣類である。別に暖かくもなければ好い氣持ちでもない。これは歐米の服裝に於て、甞ては贅澤な階級差別の遺風であつたが、今では袖の外側に縫ひ附けてあるボタンの樣に無意味無用の長物である。

[やぶちゃん注:「リネン」“linen”。フランス語でlinière(リンネル)。亜麻の繊維を原料とした糸織物。強く、水分の吸収発散が早く、涼感がある。夏物衣料などに用いられる。]

 

       

 日本が成就した眞に偉大なる事蹟に對し、何等巨大なる象徴の無いことは、日本文明の特殊の作用を證明する。永久にその樣な作用を續けることは出來ぬが、今日までは然ういふ風にして驚く可き成功を收めて來た。日本は、我々が考へてゐる樣な大きな意味では、資本なくして生產してゐる。日本は本質に於て機械的人工的になることなくして產業的になつて來た。米の大收穫は幾百萬の微々たる農場から產出する。絹は幾百萬の小さい貧しい家庭から、茶は無數の小さい畠から產出する。京都に往つて世界に知られた陶磁器の大家、その人の作品が日本よりはロンドンやパリで更に名高い名工に、何か注文しに往つて見ると、その工場と云ふのは、米國の農夫なら到底住めぬ樣な木造の小さな家であらう。五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十二・七センチメートル。]程の高さの品物に對して二百弗も取る樣な七寶燒の名人は大方小さな室六つ程の二階家の裏で、彼の稀代の珍品を拵へてゐる。全帝國に鳴り響いた日本で最上の絹の帶地は、建築費五百弗とはかからぬ建物の中で織られてゐる。仕事は勿論手織りである。然し機械で織つてゐる工場、遙か大規模の外國の工業を倒すほど精巧に織つてゐる工場とでも、少數の例を除いては、大して其より立派ではない。長い輕い低い一階か二階の小舍で、歐米に於て幾棟かの木造の厩を建てる位しかかかりさうもない。然し斯うした小舍が世界中に賣れる絹を作り出す。時によると、庭口の上に揭げた漢字が讀めるのでないと、聞き尋ねるか、機械の鳴くやうな音か何ぞで、漸くその工場と昔の屋敷や舊式の小學校舍との見別けがつく位のものである。大きな煉瓦の工場や釀造場もあるが、その數は至つて少く、外人居留地に接近してゐる時ですらも、四邊の景色と不釣合に見える。

 歐米の怪異的な大建築や、雜騷極りなき機械は產業資本の大なる結合によつて實現したものである。然るに斯ういふ結合は極東に於ては存在しない。その樣に結合せらる可き資本からして存在しない。假りに數世代の中に、斯の樣な金力の結合が出來上がるにしても、建築物の構造に於て同樣の結合を豫想することは容易でない。二階建の煉瓦造りさへ主なる商業の中心地に於て好成績を舉げなかつた。其上地震が日本をして永久に建築を筒單にすることを餘儀なくさせてゐるらしい。國土そのものが西洋建築の强制に反抗し、時には鐡道線路を搖り枉げ[やぶちゃん注:「ゆりまげ」。]、押し流して、新しき交通制度にすら反對する。

 斯く組織されるに至らないのは產業のみではない。政府までが同じ樣な狀態を呈してゐる。皇位の外何物も確立してゐない。不斷の變遷は國策と同一である。大臣も知事も局長も視學官[やぶちゃん注:旧文部省及び地方に置かれた教育行政官。地方に置かれた視学官は視学の統轄及び学事の視察や教員の監督を行った。]も、凡ての文武の高官が極めて不定期に、驚く程の短期間に異動し、群小吏員は其餘波によつて散亂する。自分が日本在住の初年を過ごした縣[やぶちゃん注:島根県。]では五年間に四人の知事を迎へた。熊本在住の間、大戰[やぶちゃん注:日清戦争。]の初まるまでに、彼の重要地點の師団長[やぶちゃん注:熊本鎮台の後身である大日本帝国陸軍第六師団のそれ。]が三度代つた。そこの高等學校は三年間に三人の校長を戴いた。敎育界に於ける更迭の頻繁なことは特に著しいものであつた。自分の在職中にすら、文部大臣の更まること四度、敎育方針の改まること四度以上であつた。二萬六千の公立學校はその管理上各地方合議に支配せられ、他の勢力の影響がなくても、議員の改選ごとに始終改變するを免れない。校長や敎員が常に轉々してゐる。僅に三十を越したばかりで、國内の大抵の府縣に奉職したといふ樣な者もある。斯ういふ事情の下に、一國の敎育が何等かの効果を收めたといふことは、實に奇蹟的と謂ふの外あるまい。

 我々は常に、凡そ眞の進步、大なる發達には、或る程度の安定が必要だと考へてゐる。が、日本は何等の安定もなくして大なる發達の可能なことの論破し難い證左を舉げてゐる[やぶちゃん注:行末で句点がない。]その理由は種々の點に於て歐米の國民性と正反對な國民性に存する。本來一樣に移動的なこの國民は、又一樣に感動し易く、大目的の方に舉國一致して進んだ。四千萬の全一團を、砂や水が風によつて形をなす樣に、その主權者の意向によつて形成せられるに任せた。而してこの改造を甘受することはこの國民生活の舊態、卽ち稀なる沒我と完全なる信義の行はれた往時の狀態に屬してゐる。日本の國民性の中に利己的個人主義の比較的に少いことは、この國を危地より救ふものであつた。この國民をして甚だしき優勢に對抗して自己の獨立を保つことを得しめた。之に對して日本はその道德を創生し保存した二大宗敎に感謝して可い。一つは己が一家又は自己を考へる前に先づ君と國とを思ふことを個人に敎へた神道と、今一つには、悲しみに勝ち、苦しみを忍び、愛する者の消滅と厭へる者の暴虐とを永久の法則として受け容れもやうに各個人を鍛鍊した佛敎とに感謝して可い。

 

 今日は硬化の傾向が見えてゐる。支那の呪であり弱味であつたと全然同樣な官僚主義の形成を誘致する樣な變化の危險が見える。新敎育の道德的効果は物質的の効果に比ぶ可きものが無かつた。純然たる利己と云ふ一般に認められた意味での『個人性』の缺如と云ふ非難は、つぎの世紀の日本人に對しては大方加へ得ぬであらう。學生の作文までが智力を單に進取の武器と見倣す新しい觀念と、甞てなかつた侵略的主我主義の情操とを反射してゐる。佛敎思想の消えなんとする名殘を胸中に留めて斯う書いてゐるものがある。『人生は本來無常である。昨日は富裕にして今日は貧困な者を屢〻見る。是は變化の法則による人間の競爭の結果である。吾人は競爭を免れ得ない。假令それを望まずとも、相互に鬪はなければならぬ。如何なる武器を執つて鬪ふべきか。其は敎育によつて鍛へられたる知識の劍を以てする』

 抑も[やぶちゃん注:「そも」。そもそも。]自我の敎養には二つの形式がある。一方は高貴なる性質の非凡なる發達に到り、他は之に就いて成るべく言はざるを可とするものを意味してゐる。然るに新日本が今攻究せんとしてゐるものは前者ではない。自分は人間の心情は、全國民の歷史に於いてもなほ、人間の理性よりは遙かに優つて貴重なものであり、人生のスフィンクスの凡ての殘忍な謎に答へるにも、比較に絕して勝つてゐることを、早晚示すであらうと信ずる一人であることを告白する。自分は今なほ、昔の日本人は、彼等が德に優れたることを智に優れたるよりも勝されりと考へてゐるだけで、歐米人よりも人生の難問題を解決するに近かつたと信じてゐる。終に臨んでフェルディナン・ブルンチエールの敎育に關する所論の一部を引用して結論に代へて見たい。

[やぶちゃん注:「フェルディナン・ブルンチエール」フェルディナント・ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière  一八四九年~一九〇六年)フランスの作家・批評家。以下の引用元は不詳。]

 『一切の敎育的方策は、つぎに記すラメネーの名言の意味を人心に嵌入[やぶちゃん注:「かんにふ(かんにゅう)」はめ込むこと。]して之を深く印象しようとする努力が無いなら、無効に終はるであらう。「人間社會は相互の授與、卽ち人が人のために、或は各人が他の凡ての人々のために献身することに基づいてゐる。而して献身こそ凡ての眞の社會の要素である」然るに吾人はこの事を約一世紀間忘れ去らうとして來たのである。それ故、若し吾人が改めて敎育を受けることになれば、それはこの事を學ぶためにするのである。これを辨へねば、社會もなく敎育も無い。既存の目的が人を社會のために養成するのであるなら、たしかに然うである 個人主義は今日社會の秩序の敵であると同時に、敎育の敵である。初からさうであつた譯ではないが、さう成つて來たのである。永久に然うではないであらうが、今は慥にさうである。そこでこの個人主義を亡ぼさうとは努めぬまでも(さうするのは一方の極端から他の極端に陷ることになる)吾人は家族に對し、社會に對し、敎育に對し、國家に對して何をしようといふにも、個人主義に敵對してその事が行はれるのだ、と云ふことを認めなければならぬ』

[やぶちゃん注:「ラメネー」フェリシテ・ロベール・ド・ラムネー(Félicité-Robert de Lamennais 一七八二年~一八五四年)はフランスのカトリックの聖職者で思想家。キリスト教社会主義者でもあった。ラムネーの引用元は不詳。]

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 斯く冥想してゐるとき、一大都會の記憶が喚起される。空高く築き上げられて海の如くに轟いてゐる都會である。その轟きの記憶が先づ歸つて來る。つぎに幻想が形を成して來る。立ち並ぶ家々の山、その間の街路の峽谷の光景である。煉瓦や石の絕壁の間を幾哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一キロメートル。]も跋涉し乍ら、寸地をも路まず、唯だ岩石の板を踏み、喧噪の雷霆の外何をも聞かなかつたので、自分は疲れてゐる 彼[やぶちゃん注:「か」。]の廣漠たる鋪石の路面の下深く、廣大なる洞窟の世界があつて、そこに水や蒸氣や火力を供給するために考案れた脈絡系統の層又層がある。兩側には幾十層列の窓を穿つた垂直面が屛立してゐる。日の目も見せぬ建築の斷崖である。仰げば蒼白な細布の如き空は縱橫無盡に裁たれてゐる、それは蜘蛛手に連らなる無數の電線である。右手の一廓には九千の人間が住んでゐる。向ひの家の借主は年額百萬弗の家賃を拂つてゐる。その先きの宅地を壓する大普請には七百萬弗の巨資もなほ足りぬのである。鋼鐡とセメント、眞鍮と石材とを以て造られ、費用を惜しまぬ欄干を附けた階段は十階二十階と續いてゐる。が、それを踏む者は無い、今は水力蒸氣力電氣力によつて昇降する。足を運ぶには餘りの高さに眼くらみ、行程も亦遠すぎる。この種の建物の十四階に五千弗の家賃を拂つてゐる友人は、一度もこの階段を踏んだことが無い。自分が今步いてゐるのも物好きにしてゐるので、用を足すためなら步きはせぬ。距離は遠く時間は貴重で、そんな悠長な骨折りをしては居られぬ。區から區へ、家から事務所へ、人は皆蒸氣の力で通ふ。家が高すぎ聲が屆かない。用を言ひ附けるにも應へるにも機械による。電氣の力で遠方の扉を開き、一指を動かして一百の家を照らし又暖める。

[やぶちゃん注:ここに出来する幻想の都会は欧米の当時の都会風景であるが、取り敢えず注しておくと、本書刊行(明治二九(一八九六)年三月)当時の為替レートでは、前年の一八九五年で一ドルは一・九八円で凡そ二円である。百万ドルは二百万円、明治三十年代で一円は現在の二万円の価値はあったとする信頼出来る単純換算値に従うならば四百億円、七百万ドルは千四百万円で千四百億円、五千ドルは百万円で二百億円相当となる。]

 凡そこの巨大たるや、堅く、嚴めしく、無言である。堅牢保存の實利的眼目に應用された數理上の力の巨大である。幾哩となく續いてゐる是等の殿堂、倉庫、店舖、その他名狀し難き各種の建物は美しいと謂はんよりは、寧ろ不快である。斯の如き建築を作り出した巨大なる生命、そは同情なき生命の巨大を感じ、彼等の絕大なる力、そは憐みなき力の絕大なる顯現を感ずるのみで意氣銷沈を覺える。是等は新しき產業的時代を建築に表はしたものである。而して車輪の轟き、蹄の音や人の跫音の騷がしさにはをやみもない[やぶちゃん注:「小止み無い」。少しの間も中断することがない。]。物一つ尋ぬるにも相手の耳に喚かねばならぬ。その高壓な環境の中に在つては、見るにも、理解するにも、動くにも、經驗を要する、馴れぬ者は恐慌の中に、暴風の中に、旋風の中にあるの感を有つ。而も凡て是れ秩序である。

 怪しくも廣き街路は、石橋鐡橋を架して、河を越え水路に跨がつてゐる。眼のとどく限り、叢立つ帆柱、蜘蛛手の帆綱が煉瓦や石の斷崖なる岸を隱して居る。錯綜極りなきその帆柱や帆桁に比しては森の木立も密ならず、さし交ふ枝も繁くはない。而も凡て是れ秩序である。

 

       

 約言すれば西洋人は永存のために建て、日本人は當座のために建てる。日本に於て永存の考を以て作られる日用品は少い[やぶちゃん注:底本は「作ら る」と脱字している。「作らるる」の可能性も否定は出来ないが、本書の場合、繰り返しの「るる」は圧倒的に「る〻」となることが多いので、かく補った。]。旅路の驛に着く每に損じては更へる草鞋。小幅幾つかを輕く縫ひ合はせては着、解いては洗濯する着物。旅館で客の代はる每につける新しい箸。窓にもなり壁にもなり、年に二囘張り替へる手輕な障子。秋ごとに表を替へる疊。この外枚舉に遑ない日常の事物が贊國民一般に永存せ裁物に甘んじてゐることを示す。

 普通の日本住宅はどんなにして出來るか。朝自分の家を出て、ぢき先きの四つ角を通る時に、そこの空地に竹の桂を立ててゐる者がある。五時間出てゐて歸つて來ると、その地所に二階家の骨組みが出來てゐる。翌日の午前には壁が泥と藁づた[やぶちゃん注:「藁苞(わらづと)」ならまだしも、聞き慣れぬ語である。「藁を纏めて束にした細長い蔦状にしたもの、藁束のことか? 原文は“wattles”で藁を網代型に編んだ壁の下地のこと。]とであらまし塗られてゐる。日の暮れには屋根に悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)。残らず。すっかり。]瓦が葺かれる。つぎの朝には疊が敷かれ、内壁の上塗りが仕上がつた。五日の中にその家が落成した。是は勿論安普請で、立派な家は建てて仕上げるのにずつと時がかかる。併し日本の都會は大部分斯ういつた風の建物で出來てゐる。家屋は粗末で金もかからぬ。

 

 支那の屋根の曲線が遊牧時代の天幕の記憶を傳へてゐるかも知れぬ、と云ふ意見に何處で初めて出會つたか、今想ひ起こすことは出來ぬが、その考は、自分が不實にも其を讀んだ本を忘れて了つたずつと後まで、自分の心に來往して、出雲に來て古い神社の、破風の端と棟の上とに奇異な十字形の突起を附けた、特殊の構造を見た時に、其よりは新しい建築樣式の可能なる起原に關する、彼の忘られた論文の筆者の提案が力强く想ひ起こされた。併し日本に於てはこの原始的建築の傳統以外にも、この民族の祖先が遊牧の民であつた事を示す事柄が多い。何時何處を見でも、我々が堅牢と呼ばんとするものが全然缺けてゐる。不永存と云ふ特徵が國民の外的生活の一切の物に認められる。唯だ僅に農民の昔ながらの服裝と彼の農具の形が例外である。その歷史に記された比較的に短い期間に於てすら、日本には六十餘の首都[やぶちゃん注:国府・藩庁のこと。]があつて、その大多數は全然跡をも留めぬと云ふ事實はさて措いても、日本の都市は一世代の間に改築されると槪說して差支ない、幾つかの神社佛閣と一二の厖大な城砦だけが例外をなしてゐる。が、通則として日本の都市は人一代の間に、形は兎もあれ、實質を變へる。火事や地震やその他の原因が幾分その理由と考へられるが、主な理由は家が永存する樣に建てられるのでないと云ふ事である。普通の人は祖先傳來の家を有つてゐない。凡ての人に親密なのは誕生の地でなくして、墳墓の地である。死者の安息の場所と、古い廟社の境域を除いては、永久なものとては殆ど無い。

 國土そのものが轉變の地である。河は水路を變へ、海岸は輪廓を變へ、平野は高さを變へる。火山は或は高まり或は崩れる。谷は流れ出づる熔岩や地滑りによつて堰かれる。湖水が生じた消滅したりする。實に二つなき『不二』の嶺の雪を頂いた奇しき姿に幾百年來畫家に靈感を與へた、その山の容[やぶちゃん注:「かたち」。]すら、自分がこの國に來てからでも、少し變つたと云ふことである。同じ短日月の間に全然容を改めた山も少くない。僅にこの國の大體の輪廓と。その山川の大體の容姿と、四季の變遷の大體とが固定してゐるばかりである。風景の美しさそれ自體からして大半幻覺的で、變化する色彩と去來する霧の美しさである。實にかかる風光に目馴れた者ならでは、大八洲の歷史に於ける、ありし實際の轉變も亦起こらんとする轉變の怪しき豫想も事なげに、立つ山々の霧の心は知る由もない。

[やぶちゃん注:富士山の形が変わったというのは小泉八雲の心理的印象の変化によるものであろう。]

 神々こそは變はることなく、山の上なる御社に現はれ給ひ、木下の闇に優しき畏こさを漲らせ給ふ。姿も體も具へられぬ故であらう。御社は流石に人の住居のやうに忘られ果つることは無い。が社殿は皆僅の年月の間に改築される。中にもいと畏こき伊勢の神宮は、神ながらの慣らはしに從ひ、二十年每に毀たれる[やぶちゃん注:「こぼたれる」。]定めで、神木は割かれて數々のお守に作られ、參詣者に分かたれる。

 

 轉變の大敎義を汲く佛敎はアリアン族の印度から、支那を經て傳來した。日本に於ける初期の佛閣を建てた人々は、他の民族の建築者で、堅牢に建てた。鎌倉にある支那風の建築を見るがよい[やぶちゃん注:円覚寺・建長寺のことを指しているものと思われる。但し、その建築は邦人の大工の手になるものである。]。その周圍の大都府は跡も留めないのに、幾百年を經てなほ存してゐる。併し佛敎の精神上の感化は何處の國に於ても、人心を驅つて物質の安定を愛させることは出來なかつた。宇宙は一つの迷夢であると云ふ敎義、人生は無限の旅の束の間の息ひ、人に對し場所に對し、物に對する一切の執着は悲哀の種であると云ふ敎義、一切の願望を滅し、涅槃の願望をすらも減することによつてのみ、人間が永久の平和に達し得ると云ふ敎義は確にこの民族の古來の感情と調和した。彼等はこの外來の信仰の深き哲理には一向心を用ゐたことはないが、その轉變の敎義は、永い間に、深く國民性を感化したに相違ない。この敎義は悟道と慰藉とを與へた。萬事をけなげに辛抱する新たな力を與へた。國民の特性である忍耐力を强めた。日本の藝術は佛敎の感化によつて、事實創始せられたと謂はぬまでも、大いに發達したものであるが、そこにも轉變の敎義がその痕跡を示してゐる。佛敎は、天地自然は夢である、迷である、幻影である、と說いた。が、又その夢の消えゆく印象と捕へ、最高の眞理に照らして解釋することも政へた。

 而して日本人はそれをよく學んだ。咲き出づる春の花の紅の色に、蟬の現はれては又去る態に、色褪する秋の紅葉に、雪の怪しき美しさに、見る眼を欺く浪や雲の往きかひに、不斷の意義ある古き寓話の心を解した。火災、洪水、地震、疾病等の災禍すらも、絕えず彼等に寂滅の理を悟らしめた。

[やぶちゃん注:以下、底本では章末まで、全体が一字下げ。この後、一行空けた。複数の仏典から引用したものを羅列したように思われる。例えば、二段落目のもの

The Sun and Moon, Sakra himself with all the multitude of his attendants, will all, without exception, perish; there is not one that will endure.

は、例の「東方聖典」第十九巻(Sacred Books of the East Vol. 19)の“The Fo-Sho-Hing-Tsan-King:A Life of Buddha by Asvaghosha Bodhisattva,translated from Sanskrit into Chinese by Dharmaraksha A.D. 420,and From Chinese into English by Samuel Beal” の“VARGA 24. THE DIFFERENCES OF THE LIKKHAVIS.”の第1883節に

The sun and moon, Sakra himself, and the great multitude of his attendants, will all, without exception, perish ; there is not one that can for long endure;

と、ほぼ同文を見出せる。我々には孰れも馴染みの仏教思想で、それこそ「兒童無智者と雖も知悉する所」であるからして、私は総てを検証して出典を示す気は毛頭、ない。悪しからず。]

 

 時間の中に存在するものは凡そ死滅を見れず。森も山も、一切のものは斯くあるべく存在す。有情の萬物は時間の中に生まる。

 日も、月も、帝程天と雖も、數多の隨神と共に、皆悉く死滅す。一として永存するものはあらず。

 初には諸物固定す、終には皆分解す。新たなる結合は新たなる物質を生ず。蓋し自然には一定不變の本體なきを以てなり。

 凡て合成せるものは老朽す。凡て合成せるものは永存する事なし。一粒の胡麻に至るまで、凡そ合成物にして水存するはあらず。萬物は變遷す。萬物は本來分解性を有す。

 凡ての合成物は、悉く不永久、不安定にして卑しむべきもの、必滅にして分解す。消え易きこと蜃氣樓の如く、幻影の如く、泡沫の如し。陶工の作れる凡ての陶器が終に破碎するが如く、人間の一生も亦終はる。

 物質自體の信仰は之を述べ難く、又表はし難し。物質は物にもあらず、物外にもあらず、この理は兒童無智者と雖も知悉する所なり。

 

2019/12/08

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”)は来日後の第三作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された)の第二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集が初出ではなく、雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九五年十月発行に最初に発表したものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年:パブリック・ドメイン)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 原註は底本では四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。やや長い(全五章)ので分割して示す。]

 

      第二章 日本文化の神髓

 

       

 一艦を失ひ一戰に敗る〻ことなく、日本は支那の勢力を挫き、新たに朝鮮を興こし、領土を擴張して東洋の政局面を一變した。是れ實に政治上驚異すべきことと思はれたが、心理上には更に驚異すべきことである。蓋し日本人が曾て諸外國から期待せられなかつた技能――頗る優級なる技能――を大いに働かしたことを示すからである。僅三十年間に於ける所謂『西洋文明の採用』が日本人の頭腦に從來缺けて居た機能を附加した筈はない、と心理學者は知つてゐる。日本人の心性、德性の急激な變化を生じた筈はないと知つてゐる。斯の如き變化は一世代の間には起こらない。移植せられた文明の影響は遙かに緩慢で永續性ある心理的効果を生ずるには幾百年を要するのである。

[やぶちゃん注:冒頭部は日本が、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)事実を指す。]

 この點から觀る時に、日本は實に世界に於て殺氣)異數[やぶちゃん注:「いすう」。普通とは違った、他に例のないこと。異例。「数」はここでは「等級・地位」の意。]な國と見えるのであつて、日本の歐化の跡を眺めて最も驚歎すべきは國民の頭腦がよく斯程の衝擊に耐へたことである。この事實は史上他に比類の無い事ながら、その眞義は果たして何であるか。それは單に既存せる思想機關の一部を改修しただけであるといふ事になる。それすら幾多敢爲[やぶちゃん注:「かんゐ」。物事を困難に屈することなくやり遂げること。「敢行」に同じい。]の若き心には致命の苦痛であつた。西洋文明の採用は決して思慮なき人々の想像せるが如き容易な事ではなかつた。從つて今日まだ計上し盡くせざる代償を拂つて行つたこの心的改修が、この民族が常に特殊の技能を示し來たつた方面に於てのみ好結果を示してゐる事は極めて明白である。現に西洋の工藝上の發明の應用が日本人の手によつて立派に行はれたのも、主として國民が固有の奇異なる手法によつて年末熟練した職業に於て優秀な成績を舉げてゐるのである[やぶちゃん注:「舉げてゐるからなのである」「舉てゐればこそである」でないと日本語としておかしい。]。それには何等根本的改變があつたのでは無い。在來の技能を新しき大なる規模に轉じたに過ぎぬ。科學的職業に於ても同樣の結果を見る。或る種の科學、例へば醫學、外科手術(世に日本の外科醫の右に出る者は無い)、化學、檢鏡法には日本人の天性は生來適してゐて、是等の學藝に於ては何れも全世界に聞こえた成績を舉げてゐる。戰爭と國策とに於ても驚く可き手腕を示したが、日本人は往古以來、偉大な軍事的並に政治的手腕を以て特徵としてゐたのである。之に反して、國民性に合はない方面に於ては、何等目覺ましき事は行はれなかつた。例へば西洋音樂、西洋美術、西洋文學の硏究に在つては、時を費やして何等得る所なきの觀がある。歐米の藝術は險米人の心情には深甚なる感興を與へるが、日本人の心情には少しも同樣の感興を與へぬ。而して敎育によつて個人の心情を改造することが不可能であるのは深く思索する者の皆辨へてゐる事である。東洋の一民族の感情が僅々三十年の間に西洋思想の接觸によつて改造されようなどと考へるのは愚の至りである。理性よりは古くから存在し、從つて更に深奧な心情が、環境の變化によつて急激に變化し得ないのは、鏡の面が來往する反影によつて變化し得ないのと同一である。日本が神技の如く見事に成し遂げた事は、凡て何の自己改造もなくして行はれたもので、日本が今日、三十年前よりも、心情の上に於て歐米人に接近したと想像する者は、議論の餘地なき科學上の事實を無視するものである。

 

註 或局限された意味に於ては、西洋の藝術は日本の文學や演劇に影響した、但し、その影響の性質が自分の謂つてゐる民族的相異を立證してゐる。歐洲の演劇が日本の舞臺に向く樣に改作せられ、歐洲の小說日が本の讀者向きに書き直された。併し称譯は滅多に試みられない。原作の事實思想や感情等が一般の讀者や観客に理解し難いからである。筋だけが採用せられて、情趣や事實は全然改められる。「今樣マグダレン」が異つた部落と結婚する日本の娘になり、ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」が、日本の戰亂の物語となり、オンジヨルラが日本の學生になる類である。但し、「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功をはじめ、二三の稀なる例外はある。

[やぶちゃん注:「今樣マグダレン」“The New Magdalen”(原文は斜体ではない)はイギリスのヴィクトリア朝の人気小説家(推理作家・劇作家)であったウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins 一八二四年~一八八九年)の一八七二年から翌年に発表した長篇小説(もともと劇化を意図した作品らしい)。「Magdalen」は「マグダラのマリア」或は「更生した売春婦」の意で、「新・堕ちた女の物語」という邦訳があるようだ。閑田朋子氏の論文『三遊亭円朝による翻案落語「蝦夷錦古郷の家土産」種本の同定――Wilkie CollinsThe New Magdalen――」の「(三)『新・堕ちた女の物語』」に非常に詳しい梗概が載る。

『ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」』言わずと知れたロマン主義の作家ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に刊行したフランス文学の名作長篇小説“Les Misérables”。本来は「悲惨な人々」或は「哀れな人々」という意味である。「オンジヨルラ」“Enjolras”は同小説の登場人物の一人であるジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)の政治活動での友人で、共和派の秘密結社のメンバーの青年アンジョルラス。ウィキの「レ・ミゼラブル」によれば、『天使のような容姿端麗の』二十二『歳の青年で、結社の首領。富裕な家庭の一人息子。一徹な理想主義者として革命の論理を代表』する人物で、『革命についてはかなり詳しく、些細なエピソードまで知っていて、それについてあたかも自分がそこにいたかのように語れる。その美貌のなかに、司教と戦士の性格を併せ持つ。彼にとって祖国は恋人であり、祖国と革命が青春のすべてになっている』。一八三二年六月五日の『ラマルク将軍の葬儀のあった夜、他の共和派と共に決起し、居酒屋コラントを中心としてバリケードを築き』、『バリケードに立て篭もって暴徒たちを指揮する。後にこの暴動は、六月暴動と呼ばれるようになる』とある。

『「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功』“Sorrows of Werther”。無論、かの天才ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が二十五歳の時に発表した書簡体小説(一七七四年初版では表題は“Die Leiden des jungen Werthers”であったが、一七八七年改訂版では "Die Leiden des jungen Werther" となっている。「若きウェルテルの苦悩」。名の部分は原音では「ヴェァター(ス)」「ヴェルター(ス)」が近い、と信頼出来るQ&Aサイトの回答にあった)。本邦での邦訳は明治二四(一八九一)年に『山形日報』に連載された高山樗牛訳によって初めて本格的に紹介された。高山の訳は原作の約五分の四を訳出しており、ここで小泉八雲が指摘するのもそれと考えてよかろう(初の完訳版は明治三七(一九〇四)年に漢詩人でもあった久保天随(得二)訳の『ゑるてる』である(以上はウィキの「若きウェルテルの悩み」に拠った)。]

 

 同情は理解によつて局限せられる。吾人は吾人の理解する程度まで同情を持つことが出來る。自分は或る日本人か支那人かに同情を持つてゐると思ふ人もあらうが、その同情は、小兒も大人も差等のない樣な極めて普通な感情の單純な部面を餘り離れては、決して眞實なものではあり得ない。東洋人の感情の中の複雜なものは、西洋の生活には何一つ正確に該當するものの無い、從つて吾人が充分に知ることの出來ない、祖先以來或は個人の種々の經驗の結合によつて成り立つたものである。同じ理由で、日本人は歐米人に對して至甚な同情を與へることは、よし心には願つても、出來ぬものである。

 西洋人に取つて、日本の生活は、理性感情何れの方面も(兩者は互に織り組まれてゐるので)その眞相を見分ける事が、依然として不可能であるが、同時に、又、日本の生活が自分等の生活に比して極めて小規模である、といふ確信を避けることは出來ぬ。日本の生活は風雅である。其は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならぬ興味と價値とを有つた美妙な可能性を具へてゐる。が、其を除いては、規模が如何にも小さく、西洋の生活はそれとの對照で殆ど超自然と見える。我々は眼に見える測定し得る體象[やぶちゃん注:ママ。]を判斷するより外はないから、さう批判して見ると、東西の感情の世界の間に、理智の世界の間に、何たる對照が見えることか。日本の首都の脆弱な木造の街衢[やぶちゃん注:「がいく」。「衢」は「四方に分かれた道」の意。人家などの立ち並ぶ土地・町・巷(ちまた)。「衢」の字自体も「ちまた」と読む。]と、パリやロンドンの往來の宏壯堅牢なのとの對照などは未だ遠く及ばぬ。東西兩者が彼等の夢想や抱負や感覺を發表したものを比較する時に、ゴシツクの大伽藍を神社の建築に比べ、ヴエルディの歌劇かヅアグナの三部歌劇を『藝者』の演奏に比べ、歐洲の敍事詩を和歌に比べる時に、感動の容積に於て、想腫の力量に於で、藝術的綜合に於て、その差異が如何に計數に絕してゐることか。成る程、西洋の令型は事官新興の藝術には相違ないが、遠く何れの時代に遡つても創作力に於ける差異は顯著の度を殆ど減じない。大理石の圓形競技場や、國又國に跨がる高架水道の築かれた、彼の羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の偉大を極めた時代に於て、或は彫刻は技[やぶちゃん注:「わざ」。]神に入り、文學は比倫な希臘[やぶちゃん注:「ギリシア」。]の盛時に於て、固より然う[やぶちゃん注:「さう(そう)」。]であつたのである。

[やぶちゃん注:「ヴエルディ」言わずと知れた、「オペラ王」の異名を持ち、「リゴレット」(Rigoletto)・「椿姫」・(La traviata:「道を踏み外した女」。原作のアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が一八四八年作の長編小説の原題が“La Dame aux camélias”(「椿の花の姫さま」(主人公高級娼婦マルグリット・ゴーティエ(Marguerite Gautier)の源氏名)であることから、オペラもかく呼ばれることが多い)・「アイーダ」(Aida)などで知られるイタリアのロマン派音楽の作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。

「ヅアグナ」壮大な歌劇で知られるドイツの作曲家ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のこと。]

 つぎには日本の國力の勃興に關する今一つの驚異すべき事實を考察する事になるが、生產と戰爭とに於て日本が示し來たつた巨大な新勢力の物質的兆候は何處に現はれてゐるか。何處にも無い。吾人が日本の心情と理智との生活に缺けてゐると認める巨大といふ事は、產業商業にも缺けてゐる。國土は依然として舊の如く、地表に明治の變遷によつて殆ど面目を改めてゐない。玩具のやうな鐡道や電柱、橋梁や隧道は、日本の綠の野山に隱れて殆ど眼に入らぬ。開港場とその外人居留地を除いては、全國の都會に市街の外觀に於て西洋思想の感化を思はせるものは殆ど一つも無い。日本内地を旅行すること二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル弱。]に及んで猶ほ大規模な新文明の兆候を認め得ぬかも知れぬ。何處に往つても、商業が巨大な倉庫にその抱負を示してゐるのや、工業が幾萬坪の屋根の下に機械を据ゑ附けて居る有樣を見出すことはない。日本の都市は今猶ほ千年前の儘で、彼の岐阜提燈の樣に風雅であるかも知れぬが、それ以上に丈夫とは謂へぬ。木造の小舍の雜然たる集團に過ぎぬ。大なる勤めきと騷ぎとは何處にも無い。重い車馬の往來もなく、轟々轢轆[やぶちゃん注:「れきろく」。車の軋る音。]の音もなく、甚だしい急速もない。東京に於てすら、僻村の平穩を求めて得られぬ事はない。現今西洋の市場を脅威し極東の地圖を改めつつある新興勢力の、眼に見え耳に聞こえる兆候が斯くも乏しいことは、寄異な、殆ど不氣味と謂つて可いやうな感じを與へる。茫は或る神社を目指して、寥々[やぶちゃん注:「れうれう(りょうりょう)」。もの淋しいさま。]たる數哩[やぶちゃん注:一マイルは約一・六一キロメートル。]の坂路を登りつめた時、唯だ虛無と靜寂の神域――ささやかな祠のみが千古の樹陰に朽ち果ててゐる光景――を見る時の感想と略〻等しい。日本の力は、その古來の信仰の力のやうに、形に表はすことを必要としない。この兩つ[やぶちゃん注:「ふたつ」。]の力は大國民の深い實力の存する所、卽ち民族精神の中に存在する。

 

小泉八雲 作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて

 

[やぶちゃん注:本篇は来日後の第三作品集(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE (心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「心」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認できる(「停車場にて」(原題“AT A RAILWAY STATION”はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。なお、この絵の少年は熊本第五高等学校時代に親しかった同僚英語教授佐久間信恭(のぶやす 文久元(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:但し、熊本を離れる前にトラブルがあって疎遠となったようである。ウィキの「佐久間信恭」によれば、『性格の不一致により次第に対立を深め』、『ハーンは』五校『退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である』とある)の親友で、小泉八雲も交流があった札幌農学校時代の同期生(二期生)高木玉太郎の長男弘(ひろむ:明治一九(一八八六)年生まれ)と考えられている。菌類のチャワンタケ(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門チャワンタケ綱チャワンタケ目 Pezizales(盤菌類(Discomycetes))の研究家の個人サイト内の「ラフカディオ・ハーンが感動した少年のその後」によれば、『この少年は高木玉太郎という人の子供で、ハーンがこの子の顔の写真を見て純粋な日本の少年だと感動して借用したものである』『(高木に写真を送ってもらった事に対するハーンの礼状が最近八雲記念館に寄贈されている』)。『富士額で坊主頭、着物姿の』八『歳くらいの少年で、美少年というわけではないが端正で賢そうな顔をしている』。『高木はハーンの友人である佐久間信恭の友人であった』。『高木玉太郎には四人の子供がいた。長男弘、長女千代子、次女美代子、次男孝二の各氏で』。『長男弘(ひろむ)氏』の生年と『「心」の出版年から考えると』、『写真の少年は弘氏に間違いない』とあるからである(なお、何故、こちらのサイトにあるのはかというと、恐らく『因みに長女の千代子さんはキノコ学者川村清一の弟で陸水生物学者として著名な川村多実二と結婚している』とあることによるのであろう)。絵師は不明。また、偶然ではあろうが、この少年の顔、以下に示す「停車場にて」の子どもの顔にダブって、私には仕方がないのである。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、標題や序の訳者は巻末分担表に指示がないが、恐らくは、この「停車場にて」の訳者田部氏が担当したものと思う。

 ネタバレしないように、後注を設けた。

 

 

   

     日本内面生活の暗示と反響

 

 

    詩人、學者、愛國者なる

     友人 雨森信成へ

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

 

 

   

 この一卷のうちにある諸篇は日本の外面生活よりは、むしろ内面生活を取扱つて居る、――この理由で『心』と云ふ名稱の下にまとめられたのである。心の漢字は情緖的の意味で又心意とも解せられる、精神、勇氣、決心、情操、情愛、それから――私共が英語で『物の心』と云ふやうに、――内面の意味とも解せられる。

   一八九五年・九月十五日・神戶。

[やぶちゃん注:本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった。熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日で、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた。なお、この明治二八(一八九五)年年末十二月には東京帝国大学文科大学学長外山正一から英文学講師としての招聘を享けて受諾しており、時間ががかったが、翌明治二九(一八九六)年九月八日にセツと上京(セツは上京を八月二十七日とする)、九月十一日には帝大での授業を始めている。]

 

 

      第一章 停 車 場 に て

 

         明治二十六年六月七日

 昨日福岡から電報で、そこで捕へられた重罪犯人が、今日裁判のために正午着の汽車で熊本に送られる事を知らせて來た。一人の警官が今日罪人護送のために福岡へ出張してゐた。

[やぶちゃん注:本文前のクレジットは、底本では下五字上げインデントでポイント落ちである。]

 四年前一人の强盜が夜相撲町の或家に押入つて、家人をおどかして縛つて、澤山の貴重品を奪ひ去つた。警官のために巧みに追跡されてその盜賊は二十四時間内に贜品[やぶちゃん注:「ざうひん」。「贜」は「贓」の異体字。犯罪行為によって不法に手に入れた他人の財物。贓物(ぞうもつ)。]を賣捌く間もないうちに捕へられた。しかし警察署へ送られる途中鎖を切つて、捕縛者の劒を奪つて、その人を殺して逃げた。先週までそれ以上その盜賊の事は何も分らなかつた。

[やぶちゃん注:「相撲町」現在の熊本県熊本市中央区下通(しもとおり)(グーグル・マップ・データ)に「通り」の名として残る。その由来は江戸時代に細川藩お抱え力士がこの附近に居住していたことによるらしい。

「劒」当時の巡査は防具として短剣を佩刀していた。平成一五(二〇〇三)年に書かれた森良雄著「巡査帯剣の歴史」(PDF)によれば、巡査まで帯刀(洋刀(サーベル))の法的許可が下ったのは明治一五(一八八二)年である。因みに拳銃所持の許可はずっと遅く大正一二(一九二三)年以降であった(あまり知られていないが、それよりずっと以前の明治八(一八七五)年以降、永く本邦で普通に拳銃所持を許されていた職業がある。それは郵便配達夫であった)。第二次世界大戦敗戦後のごく初期の一時期は進駐軍に遠慮して自発的にサーベルを使用したが、昭和二一(一九四六)年一月GHQからの覚書によって拳銃携帯が許されて今日に至っている。]

 それから熊本の探偵がたまたま福岡監獄を見に行つて、その囚徒のうちに彼の頭腦に四ケ年間寫眞を燒きつけたやうになつてゐた顏を見た。看守に向つて『あれは誰です』と尋ねた『ここでは草部と記入されて居る窃盜犯です』と答があつた。探偵は囚人に近づいて云つた、

 『お前の名は草部ぢやない。野村貞一、お前は殺人犯の件で熊本へ御用だ』その重罪犯人は悉く白狀した。

[やぶちゃん注:「探偵」“detective”。刑事(英語では巡査も含むが、ここはまず刑事だろう)と訳すべきところである。]

 

 私は停車場への到着を目擊するために大勢の人々と一緖に行つた。私は憤怒を聞き又見る覺悟をしてゐた。私は暴力の行はるべき事さへ恐れてゐた。殺された警官は大層人望があつた。その親戚は必ずその見物のうちに居るだらう、それから熊本の群集は甚だ穩かとは云へない。私は又澤山の警官が警戒に當つて居る事と思つた。私の豫想はまちがつてゐた。

[やぶちゃん注:この「停車場」、駅は指示してもよかろう(実話である以上という点でである)。とある記事(冒頭で述べた理由からリンクを張らない)によれば、この駅は現在の「上(かみ)熊本駅」だという。当時は「池田駅」という名称で、九州鉄道の終点駅であったという。現在の熊本県熊本市西区上熊本二丁目にある「九州旅客鉄道(JR九州)」及び「熊本電気鉄道(熊本電鉄)」の「上熊本駅」である(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「上熊本駅」によれば、明治二四(一八九一)年七月に私設鉄道会社「九州鉄道」の「池田駅」として開業している(上熊本駅への改称は明治三四(一九〇一)年)。現在の熊本駅の北北東約三キロメートルの位置にある。]

 汽車は忙しさと騷しさのいつもの光景、下駄をはいて居る乘客の急ぎ足とでカラコロ鳴る音、日本の新聞と熊本のラムネを賣らうとする子供の呼び聲のうちに止まつた。

 埓[やぶちゃん注:「らち/らつ」。駅構内を仕切る囲い。]の外に私共は五分間程待つてゐた。その時警部によつで改札口から押されて罪人が出て來た、頭をうなだれてうしろ手に繩でしぱられた大きな粗野な樣子の男であつた。罪人と警官と兩方共改札口の前にとまつた、そして人々は前に押し出て、しかし默つて、見ようとした。その時警官は大股で呼んだ、――

 『杉原さん 杉原おきび、きてゐますか』

[やぶちゃん注:底本では「杉原さん」の後は字空け。脱字(脱記号)も疑われるが、敢えてママとした。原文は“Sugihara San! Sugihara O-Kibi! is she present?”であるから、ここは「『杉原さん!杉原おきび、きてゐますか』の「!」の脱字(誤植)の可能性が高い(本底本全集ではどの訳者も言い合わせたように殆んど「!」「?」の後の字空けをしない)。]

 背中に子供を負うて私のそばに立つてゐたほつそりした小さい女が『はい』と答へて人込みの中を押しわけて進んだ。これが殺された人の寡婦であつた、負うてゐる子供はその人の息子であつた。役人の手の合圖で群集は引き下つて囚人とその護衞との周圍に場所をあけた。その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立つた。その靜かさは死の靜かさであつた。

 少しもその女にではなく、ただ子供だけに向つてその役人は話した。低い聲であつたが、大層はつきりしてゐたので、私は一言一句きく事ができた、――

 『坊つちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。あなたは未だ生れてゐなかつたあなた母はさんのおなかにゐました。今あなたを可愛がつてくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。御覽なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやつて嚴かに彼の眼を上げさせた)よく御覽なさい、坊つちやん、恐ろしがるには及ばない。厭でせうがあなたのつとめです。よく御覽なさい』

 母親の肩越しに男の子はすつかりあけた眼で恐れるやうに見つめた、それからすすり泣きを始めた、それから淚が出た、しかし畏縮しようとする顏をしつかり、そして從順に、續いて眞直にぢつと見て、見て、見ぬいた。

 群集の息は止つたやうであつた。

 私は罪人の顏の歪むのを見た、私はその鎖も構はないで突然倒れて跪いて、そしてその間聞いて居る人の心を震はせるやうに悔恨の情極つたしやがれ聲で叫びながら、砂に顏を打ちつけるのを見た、――

 『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊つちやん。そんな事をしたのは怨みがあつてしたのではありません、逃げたさの餘り恐ろしくて氣が狂つたのです。太變惡うございました、何とも申しわけもない惡い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです、喜んで死にます、だから坊つちやん、憐れんで下さい、勘忍して下さい』

 子供はやはり默つて泣いた。役人は震へて居る罪人を引き起した、沈默の群集はそれを通すために左右へ分れた。それから全く突然全體の群集はすすり泣きを始めた。そしてその日にやけた警官が通つたとき、私は前に一度も見た事のない物、めつたに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、卽ち日本の警官の淚を見た。

 群集は退散した、そしてこの光景の不思議な敎訓を默想しながら私は殘つた。ここには罪惡の最も簡單なる結果を悲痛に示す事によつて罪惡を知らしめた容赦をしないが同情のある正義があつた。ここには死の前に只容赦を希ふ絕望の悔恨があつた。又ここには凡てを理解し、凡てに感じ、悔悟と慚愧[やぶちゃん注:「ざんき」。自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと。]に滿足し、そしてままならぬ浮世と定め難き人心をただ深く經驗せるが故に憤怒でなく、ただ罪に對する大なる悲哀を以てみたされた群集(怒つた時には恐らく帝國に於て最も危險な群集)があつた。

 

 しかしこの一挿話のうち、最も東洋的であるから、最も著しい事實は、罪人の親たる感じ、どの日本人の魂にも一大分子となつて居る子供に對する潜在的愛情に訴へて悔恨を促した事であつた。

 

 日本の盜賊のうちで最も名高い石川五衞門が或役人の家に入つて殺して盜まうとした時、自分に手をさしのべた子供の笑顏に氣を取られて、その子供と遊んでゐて、遂に自分の目的を果す機會が全く失はれたと云ふ話がある。

 この話を信ずる事はむつかしくはない。每年職業的犯罪者が小兒に對して憐みを示した事が警官の記錄にない事はない。數ケ月前地方の新聞に恐るべき殺人事件(盜賊が一家をみなごろしにした事件)が記されてあつた。眠つて居る問に七人の人が文字通り寸斷されたが、警官は一人の小さい子供が全く害をうけずに血の溜りに獨りで泣いて居るのを發見した。警官は加害者がその小兒を害しないやうにと餘程注意したに相違ない事の疑ない證據を見出した。

 

[やぶちゃん注:この事件については、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二六(一八九三)年の四月二十二日(土曜)の条に、『「九州日々新聞」に「停車場で」の素材となった記事が掲載される。これに基づく執筆の時期は不明である』とあり、以下、本文冒頭でクレジットされる日には本篇についての記載はない。本底本の「あとがき」で田部氏は、『「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた』と記しておられものの、『第百九回「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇〇九年九月五日発行)によれば、『九州日日新聞』(明治二十六年四月二十二日付け)の記事を発見し、調査したところ、『ハーンが実際に池田駅(上熊本駅)に居合わせて犯罪者の到着を目撃したのではないらしいことが判った』とあり、田部氏の謂いは否定されるようだ。『作品化するに当って、ハーンが変更した事実は、①』巡査殺しの発生は、七『年前』のことであり、『子供は』七『歳で、母親に背負われてはいなかった。②犯人は佐賀から連行された。③人名(草部、野村貞一、杉原おきび)は』総て『ハーンの創作』であるとある。さても、幾つかのネット検索を掛けると、この事件について記した記事を見出すことは出来る。しかし、この犯人は処罰され、刑に服した以上(この犯行内容から考えて死刑ではなかろうし、一応、溯って明治の死刑執行一覧とその罪状を調べてみたが、見当らない)、その事件や裁判を穿鑿する気は毛頭、私には、ない。小泉八雲の本篇執筆の動機も奈辺――そのような鵜の目鷹の目の野次馬根性――にはないことは言うまでもないからである。

2019/12/07

第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)第六巻「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は本ブログで作品集「佛の畠の落穗」「異國情趣と囘顧」と、「日本お伽噺」群の電子化の底本とした英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データを視認した。字のポイントや字配は再現していない。便宜を考え、私の電子化を本文内でリンクさせた(分割版は最初の公開分に)。]

 

   あとがき

 

 『蟲の樂師』は譯者が明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]十月に提供した材料に據つて物されたものである。原著者がに述べて居る事は、社會事彙にも依つたのであるが、上野廣小路の松坂屋の向側に居た文中の所謂『蟲源』といふ蟲屋に就いて譯者が聽いたものにも依つて居る。引用の歌は、他の文で原著者が爲して居るやうに、羅馬字で原歌を示すことはしないで、ただその自由譯だけ揭げてあるのであるが、譯者はその原歌を知つて居るから、その自由譯の逐字譯はしないで、原歌を揭げることにした。そして譯文には、序に、憶ひ出せる限りその作者又は出處を添へて記すことにした。

[やぶちゃん注:以上については、既に『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「三」・「四」』の「三」私の注の中で細かに述べておいたので、必ずそちらを参照されたい。

 

 『死者の文學』は譯者が明治三十年七八兩月に亘つて蒐集した材料を使用して物されたのである。當時その材料を書留めるのに使用した雜記帳が不思議にも殘つてゐたので、文中引用の經語及び戒名は、それに參照して、多くは苦も無く復譯が出來たが、中に原著者が餘りに自由譯にした爲め、これがそれと突とめかねるのが一二あるのは遺憾である。

 序に原著者の戒名は正覺院淨華八雲居士であることを附記してよからう。

 

 『蛙』は譯者が明治三十年十二月に提供した材料に主として依つて物されたものである。引用の俳句で、今その原句の憶ひ出せぬのがあるのは遺憾である。原英文にはその作者の名は揭げて無いが、判知し得たものだけ、添へてしるして置いた。

 

   大正十五年十月   大 谷 正 信

 

 

 

 『佛の畠の落穗』は一八九七年ボストンのハウトン・ミフリン會社とロンドンのコンスタブル會社とから出版された。初めの五篇は『大西洋評論』で發表された物である。『佛土』と云ふ成語はあるが、多數の意見によつてこの譯語『佛の畠』を用ふる事にした。

 「生神」のうち濱口に關する記事は大阪朝日の記事によつた物、勿論精神は傳へてあるが、事實に違つたところがある。濱口五兵衞は紀州廣村濱口梧陵(七代目濱口儀兵衞)の事、津浪は安政元年十一月五日の夕方の出來事、被害者千四百餘人、行方不明老者は三十餘人あつた。當時濱口は老翁ではなく、三十五歲の壯齡であつた。明治維新の際開國論を唱へて國事に奔走し、維新後紀州藩の權大參事ととなり、後中央政府に入つて驛遞頭(後の遞信大臣)となつた。再び鄕里に歸つて和歌山縣大參事となつた。縣會開設と共に最初の議長にもなつた。明治十七年米國に行き、翌年ニユヨークで胃癌で歿した。六十六歲であつた。津浪後窮民に職を與へ、大堤防を築き、學校を建て(後の耐久中學もその一つ)、廣村のためにつくす事一方ならなかつたので、村民感激の餘り、濱口大明神と云ふ神社を建てようとしたが、梧陵翁は許さなかつた。前の歿後勝海舟の筆になつた石碑が建てられた。今和歌山縣會議事堂構内に銅像がある。令息濱口擔[やぶちゃん注:「たん」。]氏が英國留學當時、(ヘルン在世の頃)ロンドンの亞細亞協會で講演をした時、この文章を讀んですでに濱口の名を知つた多數の紳士淑女が、この講演者が濱口の令息である事を發見して、驚喜の餘り、湧くやうな拍手と歡呼を贈つたので、濱口擔氏も意外の面目を施したと云ふ禮狀をヘルン家に送つて居る。梧陵翁のあとは令孫濱口儀兵衞氏(山サ醬油釀造元)である。杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』ラツド博士著“Rare Days in Japan” 參照。

[やぶちゃん注:サイト「稲むらの火」のこちらの稲垣明男著『「稲むらの火」余聞――八雲宛の礼状が八戸図書館に残っていた――』PDF)でその礼状を見ることが出来る。

「杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』」大正九(一九二〇)年刊。恐らくそれを簡略化したものと思われる「濱口梧陵小傳」ならば、同じくサイト「稲むらの火」のこちらPDF)で読める。

「ラツド博士著“Rare Days in Japan”」 アメリカの心理学者・教育学者であったジョージ・トランブル・ラッド(George Trumbull Ladd 一八四二年~一九二一年:アメリカの実験心理学に大きく貢献し、また、日本の心理学の基盤を担った人物としても知られる)が一九一〇年に刊行した紀行文集。ウィキの「濱口梧陵」によれば、彼は嘉永五(一八五二)年に同じ醬油製造業者らとともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図ったが、この『耐久舎の伝統は、現在の耐久高校や耐久中学校に受け継がれている。当時の耐久高校は(校長は寳山良雄)、国内に留まらず』、『韓国等からの留学生も受け入れる等革新的な校風であったようで、文部大臣・小松原英太郎や伊藤博文の補佐を勤めたイェール大学教授・ジョージ・トランブル・ラッド(外国人として初めて旭日勲章を授かる)らの訪問を受けた。ラッドは、当時の広村を訪れた紀行文等を記した』「日本の稀日」を一九一〇年(実際の訪問は明治四〇(一九〇七)年)に『アメリカで出版している』とある。]

 「涅槃」――

[やぶちゃん注:以上はママ。謂い添えることはないということか。だったら書かなきゃいいのに。後に訳者分担表(電子化は省略)が載るのに。

 「人形の墓」は熊本で雇入れた「梅」と云ふ子守の身の上話であつた。その後八年間小泉家に仕へて後鄕里で嫁して幸福に暮らして居ると聞いて居る。「人形の墓」は熊本の習慣、最後に人の坐つたあとの疊をたたいて坐ると云ふのは出雲の俗說である。

 

 『異國情趣と囘顧』は一八九八年ボストンのリッツル・ブラウン會社とロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。へルンがリッツル・ブラウン會社から引續いて四册出版した物の第一册である。その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である。樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある。ただ一篇『帝國文學』に出た「靑色の心理」[やぶちゃん注:訳文(岡田哲蔵訳)では「蒼の心理」である。]を除いて全部新しい物である。

[やぶちゃん注:「樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』を参照。

「その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』の冒頭注で画像を掲げてあるので参照されたい。]

 「禪の一問」――

[やぶちゃん注:以上はママ。不審は同前。]

 「月の願」は長男一雄君との問答から始まつて居る、勿論屋根へ上つて竿で月を落す事は日本の昔ばなしから思ひついたのであらう。

 

 『日本お伽噺』[やぶちゃん注:リンクは冒頭の「化け蜘蛛」。]一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である。

[やぶちゃん注:リンク先の冒頭注で私が述べた通り、全部の収録でないこと、“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)が取り上げられていないことを、何故、言わないのか? 甚だ不審と言わざるを得ない。

 

   大正十五年十月  田 部 隆 次

 

小泉八雲 環中流転相 (金子健二訳)  / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“WITHIN THE CIRCLE。「円環の内部にて」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の掉尾に配された第十一話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、個人的にはネタ晴らし的なこういう標題の意訳は、私は好まない。真の作家であられた平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では「環中語」と訳しておられる。それでこそ!]

 

      第十一章 環中流轉相

 

 私達の一身上の苦痛や觀樂は言葉で實際的に發表することは出來ぬものである。これをその儘の形で告げることは全く困難のものである。ただこれを惹起するに至つた事情を鮮明に描寫して、同情のある人の心に同種類の性質の感情を幾分なりと喚起させることが出來得るのみである。併し若しその苦痛なり歡樂なりを惹起した事情其物が全然一般の人間經驗と沒交涉の性質の物であるならば、如何にこれを表現したところで、それが惹起したところの感じ其儘の物を充分に他人に知らしめることが出來ぬ。故に私は私の前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう(ぜんしょう)」。]を見る苦痛の実感を語らうとしてもそれは見込の無い企[やぶちゃん注:「くはだて」。]である。私の言ひ得ることは各個人に起り來る苦痛は如何にこれを結合してみても、このやうな苦痛――無數の生命の錯綜した苦痛とは別種の物であるといふことである。それは言はば、私の凡ゆる神經が伸される[やぶちゃん注:「のばされる」。]だけ伸されて、百萬年を廼じて織られに織られた感覺の或る驚くべき織物に成りあがつた樣なものであつた。――又それは、言はば、その無限無量の經緯(たてよこ)の絲の全部が、その凡ての震へる絲にわたつて、過去の深淵の中から私の意識の中へ名の無い或る凄愴の物を――人間の頭腦の中に入れるには餘りに大き過ぎる恐怖を注ぎ込んでをる[やぶちゃん注:「織る」。]やうである。と言ふのは私は過去の世を眺めた時私自身が二倍、三倍、乃至八倍になつたからである。――私は等差級數によつて增加した。――私は百となり千となつた。――千の恐怖を以て畏れた。――千の苦悶を以て失望した。――千の惱を以て戰慄した。併し如何なる歡樂も知らなかつた。一切の快樂は霧の如く又夢の如く現れたが、ただ苦痛と恐れのみは事實であつた。――然もいつも、いつもこの苦とこの恐怖のみが增していつた。感覺が消滅したその刹那に一つの神聖な或者が俄然として現れて來てその恐怖に滿ちた幻影を滅し、ただ一つの實在の意識を私に再び與へてくれた。このやうに忽然として複雜の我(が)より縮小して單一の我(が)に復歸することの心地よさは到底言語に盡し得ざるものがある。嗚呼あの廣大無限の我(が)が潰崩して個性の盲目的、健忘的麻痺性に還るその有樣の心地よさよ!

 

 かくの如くにして私を救濟してくれた神聖な者の聲は言うた、『他人にも――同じ狀態に在るところの他の人達にも彼等の前生についで或物を見ることが許されてあつた。併し彼等の中の何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]といへども遙に遠いその前生を見渡すことに耐へ得なかつた。凡ゆる前生を見渡すことの出來る力は、我(が)の束縛から永劫に脫離した人のみに與へらる〻力である。かくの如き力を所有してをる人は迷ひの外に住するのである――形と名を脫却して住するのである。故に苦痛は彼等に近寄ることが出來ぬ。

 『併し汝は迷ひの中に住してをるが故に佛陀といへども汝にただ手近の道以外に後を顧みる力を與へ得ぬのである。

[やぶちゃん注:「ただ手近の道」自我という空しい仮象が持つ、不完全な智や果敢ない記憶のみを頼りとして仮定された過去(世)を貧しく想像する力しか有さないことを言っていると私は読む。]

 『汝は依然として美術、詩歌、音樂の戲事[やぶちゃん注:「ざれごと」。]に迷はされてをる――色と形の迷ひに――淫らな言葉、淫らな音に迷はされてをる。

 『自然と呼ぶ幻影――空寂と陰影の別名である――は依然として汝を欺き汝を迷はし、且つ物慾を熱愛する夢を以て汝の心を滿す。

 『然れども眞に識を愛する者はこの幻の自然を好愛してはならぬ――晴れたる天空の耀映を歡喜してはならぬ。――海の眺めにも――水の流る〻音にも――山、林、谷の形にも――是等の物の色に於ても歡喜悅樂を見出してはならぬ。

 『眞に識を愛する者は人類の事業を企圖することに、或は人類の會話を聞くことに、或は人類の感情的遊戲を觀察することに興味を持つてはならぬ。是等の凡ては煙の棚引けるが如く、蒸氣の薄くかがやくが如きものである――凡ては一時的で――凡ては幻影である。

 『人類が高尙崇高と呼んでをる快樂は淫逸の大なる物と、虛僞の巧妙なる物に外ならぬ――利己の心は形のみ美しく見ゆる有害の花に過ぎぬ――凡ては慾情の古き粘土に根を張つたものである。晴れたる日の耀映を悅び――山の色の日輪の𢌞轉によつてその色を變ずるを見て樂み――波のうねりの消えてゆく跡を見、タ陽の消えてゆくのを見――草木の花の中に魅力を見出すことは皆これ感覺の迷ひである。亦人間の行爲の大なるもの、或は美なるもの、或は英雄らしきものを見て歡喜することも等しくこれ感覺の作用である――何が故にと問へば、かくの如き歡樂は人類がこの憐れむべき世界に於て淺間敷くも手に入れようとして努力するところの事物を空想することの快樂と同一の物であるが故である。人類の欲して止まざる物とは何か、束の間の愛と名聲と榮譽――是等の凡ては束の間の水泡の如く空虛である。

 『天、太陽、大海――山、森、平野――美しく輝ける物、形をなせる物、色ある物の凡ては――幻である。人間の感情、思想、行爲――上下貴賤は何れに考へたにせよ――永久の目的以外の爲に考へられ又は爲されたところの一切の事柄は夢から生れた夢であつて、空虛を生むより外に何事をも爲すことが出來ぬ。明かな目には一切の自我の感じは――一切の愛惜、歡苦、希望乃至悔恨は等しく陰影である――老少、美醜は其の間に差別が無い――生死は一にして同、空間と時間は不斷の影遊びの舞臺乃至順序としてのみ存在するものである。

 『時の中に存在する凡ての物は消滅しなくてはならぬ。目覺めた者には時も無く所も無く變化も無い――夜も無く晝も無く――暑も無く寒も無く――月も無く季節も無く――現世も過去も亦未來も無い。形及び形の名は等しく無である、知識のみは事實である、故に知識を得る者にとりて宇宙は實體の幽靈と映ず。併しかう書いである――「過去と未來に於て時に打勝つた者は卓越した純知識の人たらざるべからず」と。

 『かくの如き知識は汝の有する物では無い。汝の目には影は依然として實質と映じ――闇黑は光明と寫り――空虛は美として映じてをる。故に汝の前生を見ることは汝に苦を與へるに過ぎぬ』

 

 私は問うた――

 『では、若し私が起原に溯つて――時といふもの〻發端迄溯つて觀察するだけの力が見出されたとしたならば――私は果して宇宙の祕訣を読破することが出來得るだらうか』

[やぶちゃん注:「宇宙の祕訣」原文“the Secret of the universe”。]

 答は與へられた、『否、その祕訣を讀み得るものは無限力のみである。若し汝は汝の有つてをる力以上に遙に遠くの過去を眺め得たにしても、その目に映じた過去は汝に未來となつて映じ來るであらう。その時汝はなほこれに耐へ得たならば、その未來は轉𢌞し來つて現在となるであらう』

 私は驚きながら私語した、『でもそれは又何が故に?――圓とは何か?』

 答はかうであつた、『圓とは別な物に非ず――圓とは生死の大きな幻の渦卷に外ならぬ――無知の徒は彼等自身の考へと行爲によりこの幻の渦に身を墮して[やぶちゃん注:「おとして」。]其所に留つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。然かもそれ自身に於て迷ひである』

[やぶちゃん注:「圓」“the Circle”。「円環」或いは「循環」。ここは最終段落の謂いからして「輪廻」に置換して認識してよい。]

2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

2019/12/05

小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“THE REBIRTH OF KATSUGORŌ)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第十話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年:パブリック・ドメイン)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 本篇は江戸後期の復古神道(古道学)の大成者の一人として知られる稀代の国学者にして思想家であった平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年:本姓は大和田。医師でもあった。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後に備中松山藩士で兵学者の平田篤穏(あつやす)の養子となった。篤胤の名乗りは享和年間(一八〇一年~一八〇四年)以降。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長とともに「国学四大人(うし)」の一人と称される)が、文政六(一八二三)年に板行した「勝五郎再生記聞」に書かれた事件を素材としたものである。但し、後述するように、本篇は知られた「勝五郎再生記聞」を直接の原拠とするものではなく、それに先行する別な記録物に基づくものである当該書は、所謂、神隠しに逢ったと自称する農民の少年小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化一一(一八一四)年~明治二(一八六九)年)からの聞き書き等に基づく前世記憶実録譚である。ウィキの「小谷田勝五郎」によれば、勝五郎は、『武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『)の農家、小谷田源蔵の息子』であったが、文政五(一八二二)年(数え九歳)の時、『ある夜、突然』、『家族に「自分はもとは程久保村(現日野市程久保』(ここ)『)の藤蔵という子どもで』、六『歳の時に疱瘡』(天然痘)『で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が』、『実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということで』、『その当時』、『大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたった』(但し、程久保村は中野村の北直近である)。翌文政六年四月、『勝五郎の噂に関心を持った平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き』、七『月に聞き取った内容を』「勝五郎再生記聞」という書物に纏めた。二年後の文政八年には、『湯島天神の男坂下にあった平田が経営する国学塾「気吹舎』(いぶきや)『」に入門』して『平田の門人となっ』ている。『その後は父源蔵の家業である農業、目籠仲買業を引き継ぎ中野村で暮らしたとい』い、明治二年に五十五歳で死去し、『墓は同郡下柚木村の永林寺』(曹洞宗金峰山道俊院永林寺)にある(ここ)。個人ブログ「失なわれゆく風景」の「勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺」で墓が見られる。当該ウィキには小泉八雲の本篇への簡単な言及もある。また、平田はこの前年の文政五(一八二二)年にも、幽冥界往還事件を扱った「仙境異聞」を刊行している。これは文政三(一八二〇)年秋に江戸で噂となった「天狗小僧寅吉」の聴き書きで、彼はカスパー・ハウザーのように浅草観音堂の前に突如として現われ、「自分は幼い頃に天狗に攫われて神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受け、帰ってきた」と称したのであった。篤胤は、山崎をその家に訪問しただけでなく、彼を自身の養子として迎え入れて幽冥界研究の素材としたのである。なお、ネット上には「勝五郎再生記聞」や「仙境異聞」絡みのサイトは甚だ多く、未だにこの怪しい都市伝説への関心の変わらぬ人気が窺われる。

 私も中学自分にこの話を聴き、二十代の頃には、この「仙境異聞」や「勝五郎再生記聞」に興味を持ち、平田の原本を読み、幾つかの関連書も読んだが、個人的には、最終的に、心霊現象としては意識的或いは半無意識的詐欺レベルのもの(勝五郎の場合は彼及び死児藤蔵の兄弟姉妹或いは親族等の共同正犯の可能性を含む。さらに本来、バイアスがかかってはいけない聴き取る側自体が幽冥界の話に知らず知らず誘導していた嫌いが甚だ大きい)――但し、寅吉も勝五郎はかなり優れた知性を有しており、形成した架空世界の構築もそれなりにしっかりしており(特に寅吉はそうである)、思うに一種のパラノイア(偏執質)的人物(特に寅吉の方には粘着質特有の偏奇的性格や気分の変化の激しいところなどが甚だ感じられるように思う)と思われる――と判断しており、大衆や平田が挙ってこの話を無批判に信じたのは、現在でもしばしば発生する擬似心霊騒擾と同じく、一種の心理的な集団伝播(感染)で説明出来ると考えている。

 但し、この奇書に着目した近代人としては、小泉八雲はごくごく初期の人物であり、しかも彼が元西洋人である点で、すこぶる注目すべきであろう。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。書簡の署名・クレジットは底本では下方インデントのポイント落ちであるが、一字下げで引き上げて同ポイントとし、また、注も四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。他にもポイント落ちの部分が多数あるが、総て基本、同ポイントで示した。字空け等も一部を除いて再現していない。

 最後に言っておくと、小泉八雲の本篇の構成は本心霊事件を実に面白く読ませるものであるが、小泉八雲が原拠としたのは本文の終りにも出るが、現行の我々が知る「勝五郎再生記聞」そのものではないのである。本事件を扱った優れて詳細なサイト「勝五郎生まれ変わり物語」のこちらによれば、『八雲が勝五郎の転生を執筆するときに原本として使用したのは、土佐藩出身で明治天皇の側近として活躍した佐佐木高行』(後注する)『の蔵書』「珍説集記」と呼ばれる稀書が底本であり、『同書が、國學院大學図書館所蔵「佐佐木高行旧蔵書」コレクションのなかにあることが』、平成二〇(二〇〇八)年になって、『蔵書目録が刊行されたことにより』、本篇の原拠であることが初めて確かに確認されたとあるからである。さらに同サイトのこちらによると、この事件の発生した翌文政六年二月の『ある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)』(池田定常。本文内で注する)『という大名(鳥取藩の支藩』若桜(わかさ)藩『の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました』が、翌三『月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)』(彼の膨大な随筆「甲子夜話卷之廿七」の五・六話目にも「八の兒その前生を語る事」・「同前又一册」として本件を記している。私は「甲子夜話」の全電子化注を手掛けているが、未だ巻之六の途中である。本篇終了後、フライングしてそこのみを電子化することとしよう。【2019年12月6日追記】「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」を公開した。私は約束は守る男だ『や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚』(本篇に登場する)『などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には』、文政五年十一月に藤蔵と同じ六歳で『疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました』。続いて四月には、『中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は』、四月十九日に『源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました』。『多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤』『のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして』、同年四月二十二日に、『源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎』『へ来た勝五郎から直接』、『話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは』、四月二十二・二十三・二十五日の三『日間でした』。同年六月、『篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて』「勝五郎再生記聞」を纏め、七月二十二日からの『上洛に持参』し、『光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです』とある。さすれば、平田の「勝五郎再生記聞」とは実は本篇はかなり異なる。『「勝五郎再生記聞」なら読んだよ』という方にも、本篇はあたかも事件調書記録を読むように、はなはだ面白いはずである。従って「勝五郎再生記聞」との異同注記は気になった特別な部分のみとした。対照したのは二〇〇〇年岩波文庫刊の子安宣邦校注「仙境異聞 勝五郎再生記聞」である。同作の電子化されたものは、サイト「小さな資料室」の「資料366 平田篤胤『勝五郎再生記聞』」がよい(因みに、同サイトの『資料408 源義経「腰越状」(『吾妻鏡』による)』では私のサイトが紹介されている)。]

 

      第十章 勝 五 郞 の 轉 生

 

       

 これから書き下す事柄は作り物語では無い――少くとも私の作り出した物語の一つでは無い。これは日本の古い一つの記錄――或は寧ろ記錄類系ともいふべき物を飜譯したのであるが、それにはちやんと署名もしてあれば捺印もしてあり、その上この世紀の初期に溯つての日付さへ記入してあつた。私の友人の雨森(あめのもり)氏は日本や支那の珍しい寫本をいつも獵(あさ)つて步く仁(ひと)で、さういふ珍本を掘出すことにかけては非凡な腕前を持つてをるやうに見えるが、その仁(ひと)がこの寫本を東京の佐佐木伯爵家の書庫で見出したのである。氏はこれを珍しい本だと思つたので親切にも私にこれを寫させてくれた。私はその寫した書物を臺本としてこの譯をものしたのである。私は本書の附錄として書いたところの二三の註釋以外の事柄に關しては何等の責任を持つてをらぬ。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。先のサイト「勝五郎生まれ変わり物語」によれば、『彼は、明治の初めに英仏に留学、英独仏の三か国語に堪能で、後には横浜のホテルニューグランドに出入りする洗濯業を営んでい』たとしつつ、『雨森は、英国留学時代に』先に示した佐々木『高行の長男高美と親しくなり、帰国後』、『佐佐木高行が主催していた『明治会叢誌』の編集者となり』、『佐佐木高行は蔵書家としても有名で、同家に親しく出入りしていた雨森は、蔵書のなかから「珍説集記」を見つけ八雲に見せたので』あったと、参考資料入手の経緯を語っている。

「佐佐木伯爵家」元土佐藩士で政治家の佐々木高行(文政一三(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)のこと。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。後に侯爵となった。ウィキの「佐々木高行」によれば、『藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名』で、『明治政府高官の中でも保守派を代表する』一『人であり、明治天皇の信任を楯に』、『政治体制を巡り』、『伊藤博文らと争った』とある。]

 この譯文は讀み始めは多分面白味が讀者にうつつて來ぬと思ふが、それを忍耐して終り迄全部通讀して貰ひ度い。と言ふのはこの書は人間の前生追憶の可能であることを私達に敎へてをる以外に多くの事柄を暗示してをるからである。例へば既に消え去つて了つたところの封建時代の日本に關して、或はこの國の昔の宗敎――假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]それが高尙な佛敎で無かつたにせよ、西洋人の目から見て容易に眞相を捕へることの出來なかつた物のその幾部分かをこの記事によつて窺ふことが出來る――換言すれば日本の人達が前生と更生とに關して一般に抱いてをつた思想がこの書の中に能く現れてをる。故にこの事實の上に立つて觀察すればお役所の吟味が正確であつたこととか、或は證據として認められた事柄が信ずべき筋の物であつたとかなかつたとかいふことは當然小さな問題となつて仕舞ふ。

 

       

  多聞傳八郞の調書寫

     私の地内の百姓で目今武藏國多摩郡中村

     に住んでをる源藏と申す者の二男で當年

     九歲になりまする勝五郞の一件に次のや

     うな次第であります。

 昨年の秋の間のことでありましたが、或時、源藏の子、前記勝五郞がその姉に彼の前生のことや轉生のことを物語つたさうですが、姉はそれを子供の出鱈目な話だと思つて注意を拂はなかつたのです。併しその後勝五郞は同樣の物語を幾度も幾度も繰返すので姉も初めて不思議なことに思つて終にこれを兩親にも告げたのであります。

 去年十二月の間に源藏自身がこの事柄について勝五郞に質ねましたところがそれに對して勝五郞はかく公言したのであります。

 『私は前世では武藏國多摩郡の小宮樣の領内程窪村(ほどくぼむら)の百姓久兵衞とかいふ者の子でありました――

 『久兵衞の子と生れたこの私勝五郞は六歲の時に疱瘡を病んで死にました――

 『それから後源藏の家に轉生(うまれかは)つたのであります』

 

 この話は嘘のやうでしたが勝五郞は餘りに委しく餘りに明かにその物語の事情を繰返して話しますので、その村の庄屋や長老(おもたち[やぶちゃん注:ママ。])等はこれを形式の如く調べでみました。ところでこの事が早速世間に廣く知られたので伴四郞とかいふ者の家族の耳に入りました。伴四郞は程窪村に住んでをつた者であります。彼は私の地内の百姓、前記源藏の家へと參りました。そしてこの少年が彼の前世の兩親の肉體(からだ)の容子や顏の特色(かつこう)等に關してかねがね話してゐた事柄や、或は又、彼が前生で住んでゐた家の樣子等について物語つてをつた事柄が皆一つとして事實で無い物は無いといふことを知りました。そこで勝五郞は程窪村の伴四郞の家に引取られました。村の人達は勝五郞を見て藤藏さんそつくりだと申しました。藤藏といふのは餘程以前に、然かも六歲の時に死んで仕舞つた子供であります。その時以來この二家族は折さへあればお互に往復してをります。他の隣接村の人達はこれを傳聞したものと見え、勝五郞の顏を見に來る人が每日每日絕えないといふ有樣であります。

 

 以上の事實に關する證言が私の地内に住んでをる人達に依つて私の面前でなされましたから、私はその源藏なる男を私の家へ呼出して調べてみました。私の訊問事項に答へた彼の言葉は他の人達の述べた前記の口供事項と何等矛盾(ちがう[やぶちゃん注:意味を示すルビ。])するところはありませんでした。

 この種類の評判は世間に於て人々の間にひろがることは時々あるものであります。このやうな事柄は信ずることが困難であるのは固よりでありますが、私はただこの差當つての事件を御耳に入れまして、私の怠慢の罪を免れ度いばかりに御報告申上げる次第であります。

          〔署名〕多聞傳八郞

      文政六年(一八二三年)四月

[やぶちゃん注:「多聞傳八郞」原文“TAMON DEMPACHIRŌ”。冒頭注でも示した通り、「勝五郎再生記聞」では、この調書(しらべがき)の報告者の姓は「多門」でしかも、その読みは「おかど」である。実は後に出る先行する池田(冠山)貞常の「勝五郎再生前生話」でも「多門」であるから、以下、「多聞」は「多門」と読み換えて戴きたい。なお、先んずる人物ながら、旗本で通称「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」で知られる多門重共(おかどしげとも 万治元(一六五八)年~享保八(一七二三)年)がいる。彼はかの「赤穂事件」に於いて、浅野長矩の取り調べと、切腹の副検死役を務め、「多門筆記」に長矩の様子を詳しく記した人物として著名であり、姓の特異な読み方と通称の一致から見ても、その正統な後裔と考えて問題なかろう。

 

  泉岳寺の僧貞金に與へた和直の書狀寫

 多聞傳八郞の調書が志田兵右衞門樣の手で寫されて、それが私の掌中に入つたので私は好都合でありました。私は今それを貴僧にお送り致すことの出來るのを光榮と存じてをります。貴僧はこの調書寫本と、それから貴僧が先般私に見せて下さいました觀山樣の御書とを一緖に、永く御保存相成ることは、貴僧にとりて御利益のことと思ひます。

             〔署名〕 和直

    六月二十一日(他に年代の記入無し)

[やぶちゃん注:「勝五郎再生記聞」にはこの書状自体が存在しない。

「貞金」は原文“TEIKIN”。冒頭注の引用と以下の泉岳寺のそれに従えば、「貞金」は「貞鈞」或は「貞均」が正しく「泉岳寺」公式サイトの「萬松山泉岳寺の縁起」を見ると、『現存する山門は天保年間に当寺』三十四『世大道貞均和尚によって建立され』とあるまさに泉岳寺住持である。以降の「貞金」も総て「貞鈞」又は「貞均」と読み換えて戴きたい

「和直」は“KAZUNAWO”。人物不詳。

「志田兵右衞門」は“Shiga Hyoëmon”であるから、「志賀」「滋賀」の誤読か誤植である。平井呈一氏は恒文社版「勝五郎再生記」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でも『志賀』となっている。但し、人物は不詳。

「觀山」“Kwan-zan”。冒頭注の引用に示された事実その他から考えるに、これは「觀山」が正しい。彼は因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)で、冠山は号である。ウィキの「池田定常」によれば、『旗本池田政勝の次男』で、『正室は』おらず、『子に池田定興(長男)、池田定保(六男)、徽姫(青木一貞継室)、鎮姫(織田信陽正室)、奉姫(池田喜長正室)、露姫』(冒頭注に出た夭折の娘)。『官位は従五位下、縫殿頭。松平冠山と呼ばれることもある』。安永二(一七七三)年に『先代の藩主・池田定得』(さだのり)『が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった』。『定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても』、『深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた』。享和二(一八〇二)年十一月、『家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる』(本件も隠居後二十一年後である)。『定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている』。寛政八(一七九六)年から翌九年に『記した巡見日記が「駿河めぐり」として』『翻刻されている』。また、文政六(一八二三)年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))を記しているとある。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで「勝五郎再生前生話」の写本全篇が画像で見られる。以降の「觀山」も総て「冠山」と読み換えて戴きたい

 

 松平觀山から泉岳寺の僧貞金に與へた書狀寫

 この書面と同封で勝五郞轉生の物語書をお送り致します。この書は私が通俗的に書いてみたもので、その趣旨はかの佛敎の難有い[やぶちゃん注:「ありがたい」。]御敎へを信じない人達を沈默させる爲にはこの書が效果が多いと思つたからであります。言ふ迄も無くこれは文學書としてはつまらぬ作であります。私が今これを貴僧にお送りするのは、かういふ見方でこれを御覽下さつた場合にのみ御興味を引くことが出來得ると思つたからであります 併しこの話其物について申せば誤謬の點は一つもありません。と申しますのは私がこの話を勝五郞の祖母の口から直接に聽いたからであります。これをお讀みになつたら何卒私に御返却を願ひます。

             〔署名〕 觀山

  二十日(他に如何なる年代の記入も無し)

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはこの書状はない。]

 

 【寫 し】

 

    勝

 

 僧貞金が序(はしがき)に書いた說明書

 これは一つの眞實の出來事を書いた書である。その證據には編者松平觀山樣がこの事柄を委しく取調べる爲に本年三月二十二日親しく(中野村に)御出馬になつてをるではありませんか。觀山樣は勝五郞を一瞥なされた後にその祖母に凡ゆる委しい事をお質ねになつた。そして祖母の答へるま〻に委しくお書きになつた。

 その後この觀山樣は辱け無くも[やぶちゃん注:「かたじけなくも」。]この四月の十四日に是所(この寺)へお出でになつて、前記勝五郞の家族訪問の事柄をその貴い御口からお話になつた。剩へ[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]同月二十日には前記の書を私に讀むことを許しになつた。で私はこの御厚意に甘えて時を移さずこれを寫した。

   〔署名〕貞金僧(書きはん卽ち筆で個人用の

           署名印を書いたものゝ寫し)

     泉岳寺

     文政六年(一八二三年)四月二十一日

[やぶちゃん注:「〔署名〕貞金僧」の後の丸括弧内の書判についての解説は、底本では丸括弧内に二行書きポイント落ちの割注である。原本にある小泉八雲の注である。同じく「勝五郎再生記聞」にはこの記載はない。]

 

 【寫 し】

 

 この二家族の人達の名前

 

    源藏の家族

 

 勝五郞――文化十二年(一八一五年)十月十日生、文政六年(一八二三年)當九歲、武藏國多摩郡中村、谷津入に住める百姓源藏の二男――この村は多聞傳八郞の所有地(多聞の屋敷は江戶根津七軒町にあり)に在つて柞木(ゆずき)管内。

 

註 西洋人が記憶すべきことは日本では生れたばかりの子供は一歲として計算されゐのが常であるといふ事實である。

[やぶちゃん注:「谷津入」八王子市東中野にバス停名で現存する

「江戶根津七軒町」現在の台東区池之端二丁目。不忍池の端の北西部。

「柞木(ゆずき)」原文は“Yusuki”で「ゆすき」。金子氏が何故この漢字を当てているのか、よく判らない。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「柚木」で、読みは後者では「ゆぎ」である。但し、「柞木」で「ゆずき」と読むことはある。因みに「柞木」は「ははそ(は)のき」で楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus)の古名である。]

 

 源藏――勝五郞の父、姓は小矢田氏、文政六年當四十九歲、貧のため日夜籠を造つて江戶で商賣す、江戶居住中の旅宿は馬喰町相模屋といふ、宿屋の亭主は喜平と呼ぶ者。

 

 せい――源藏の妻、勝五郞の母、文政六年當三十九歲、嘗て尾張樣に事へた[やぶちゃん注:「つかへた」。]ことのある弓將家村田吉太郞と呼ぶ武士の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、せい十二歲の時本田大之進殿の家に下女となつたと傳云[やぶちゃん注:「つたへいふ」。]、十三歳の時父吉太郞何かの理由で尾張樣から永のお暇がでて浪人となつた。そして文化四年(一八〇七年)四月二十五日七十五歲で歿した、彼の墓は下柞木(しもゆずき)村の永林寺といふ禪寺の墓地にある。

[やぶちゃん注:「村田吉太郞」不詳。「勝五郎再生記聞」には貼り付けられた紙に『村田吉太郎は織田遠江殿組にて、侍の所行にあらざる事ありて、寛政元丙年』(不審。寛政元年は一七八九年であるが、干支は己酉で合わない)『十一月廿一日追放仰付けられしとある書に見えたり。後に丹羽家(左京大夫どの)かゝへられしと或人いへり』とある。

「本田大之進」不詳。

「永林寺」冒頭注参照。勝五郎の墓がある寺と同じ。]

 

註 浪人とは主君を持たぬ流浪の武士を云ひ、一般にこの徒は自暴自棄の甚だ危險な者共であつたが、中には立派な人物もあつた。

 

 つや――勝五郞の祖母、文政六年當七十二歳、若い時松平隱岐守殿(大名)の御殿女中を勤めた。

[やぶちゃん注:「松平隱岐守」伊予国松山藩主で定勝系久松松平家宗家の誰かである。「若い時」を二十代と考えて文政六(一八二三)年から逆算すると、一七五〇年頃となり、伊予国松山新田藩二代藩主・伊予松山藩八代藩主松平定静(さだきよ 享保一四(一七二九)年~安永八(一七七九)年)辺りかと思われる。定勝系久松松平家宗家九代で官位は従四位下・隠岐守・侍従である。]

 

 ふさ――勝五郞の姉、本年十五歳。

 

乙二郞――勝五郞の兄、本年十四歲。

 

 つね――諮五郞の妹、本年四歲。

 

 

     伴四郞の家族

 

 藤藏――武藏國多摩郡程窪村で六歲の時に歿した、こ〻は江戶下谷新橋(あらばし)通[やぶちゃん注:原文は“Ata-rashi-bashi-dōri”。この「新橋」は確かに「あたらしばし」と読むはずである。金子氏が何故かくルビしているのか不審である。]に屋敷を持つてゐる中根右衞門の所有地、小宮管内――(藤藏)は文化二年(一八〇五年)に生れ文化七年(一八一〇年)二月四日四刻(午前十時)頃死す、病名は疱瘡。前記の程窪村の丘上の墓に葬る、菩提寺は三澤村の醫王寺、宗門は禪宗、去年文化五年(一八〇八年)藤藏の爲に十三囘忌の法會營まる。

 

註 佛敎では亡者の爲に一定の年期每に法會を營むことになつてゐて、それが次第に永さが多くなつて來て死後百年目に至るやうに定めてある。十三囘忌とは死後十三年目の法會である。第十三囘といふ數には前後の意味から考へて死者の死んだ年が第一年目として算へられてをることを讀者が了解しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「三澤村の醫王寺、宗門は禪宗」禅宗寺院で「医王寺」で旧村名「三沢」、「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「同領」にあるとしているからには、現在の中野区或いはその周辺にあるものと探してみたが、見当たらない。後に廃寺となったか、移転したか?]

 

 伴四郞――藤藏の養父、姓は鈴木、文政六年當五十歲。

[やぶちゃん注:読みは「はんしらう(はんしろう)」。]

 

 しづ――藤藏の母、文政六年當四十九歲。

 

 久平――(後に藤五郞)、藤藏の實父、原名は久平、後藤五郞と改名す、文化六年(一八〇九年)藤藏五歲の時四十八歲にて死す、彼の代りに伴四郞入婿。

[やぶちゃん注:「久平」“KYŪBEI ”。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「久兵衞」(きうべゑ(きゅうべえ))である。以下、「久平」は「久兵衞」と読み換えられたい。]

 

註 入婿とは兩親と同棲してをる女の第二番目の夫となること。但し養子。

 

 子供、二男二女――何れも藤藏の生母と伴四郞の間に出來た子。

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはここまで詳細な関係者の生活史記載はない。]

 

 大名松平觀山殿が通俗文で書かれた物語の寫し

 去年十一月の或日のこと、勝五郞が姉のふさと畠で遊んでゐた時このやうなことを質ねた、

 『姉さん、貴女はこの家へ生れて來る前に何所にをつたの?』

 ふさは答へた、

 『生れる前にどんなことがあつたかどうして分るものか』

 勝五郞は驚いた樣子で叫んだ、

 『では姉さんは生れる前に何があつたか思ひ出せないの?』

 ふさは問うた、

 『お前さんがそれを覺えてをるの?』

 勝五郞は答へた、

 『覺えてをりますとも、僕は程窪の久平さんの子でその時は藤藏といふもであつたんだよ、姉さんはそれを皆(みんな)知らないの?』

 ふさは言つた、

 『あらまあ! 何を言ふんですか、お父さんとお母さんに告げるわ』

 勝五郞は直に泣きだした。そして言つた、

 『姉さん告口しないで頂戴、お父さんとお母さんに告口したら大變だ』

 暫時の後ふさは答へた、

 『よし、よし、この度だけは言はないで置きませう、でも復(こんど)このやうな善くないことを少(ちよつと)でも言うたらその時こそは告口するよ』

 その日以後二人の間に喧嘩が持上る每に姉は弟を嚇して『い〻わ、い〻わ、――あの事をお父さんとお母さんに告げてやるから』と言つてゐた。これを言はれると勝五郞はいつも姉に降參して了つた。ところがこれが幾度も起つたのでたうとう或日のこと兩親はふさが弟を嚇してをるのを立聽きして了つた。そこで兩親は勝五郞が何か善くない事をやつたに相違ないと思つて、それを何とかして知り度いと考へた末ふさにこの事を質ねたのである。ふさは終に事實を明かした。これを聽いて源藏夫婦も勝五郞の祖母も何といふ不思議な事だらうと愕いて了つた。そしてその結果彼等は勝五郞を呼んで最初は甘言で賺し[やぶちゃん注:「すかし」。]次には嚇して、一體お前はどういふ意(こころ)でこのやうなことを言ふのだかと質ねた。

 勝五郞は躊躇した後かう答へた。

 『殘らず申します、僕は程窪の久平さんの子でありました、そしてその頃の僕のお母さんはおしづさんといふ名でありました。僕が五歲の時、久平さんは死んで、その代りに伴四郞さんといふ男が養子に來て僕を大變に可愛がつてくれました、併し僕はその翌年丁度六歲になつた時に疱瘡にか〻つて死んで了ひました、それから三年目に僕はお母さんのお腹に宿つて復(また)生れて來ました』

 これを聰いて兩親も祖母さんも大に驚いた。そして彼等は程窪の伴四郞といふ者について出來得る限り委しく調べて見ることにした。併し何といつても彼等は生活の糧を得ることに每日追はれてゐて、他の事柄の爲に殆んど時間を用ひることが出來なかつたので直に彼等の目的を遂行しようとしても駄目であつた。

 勝五郞の母せいは今はその女兒つね――四歳註一の――に夜な夜な乳をくれなくてはならなかつた。それが爲に勝五郞は祖母のつやに抱れて寢た。彼は時々寢ながらお祖母さんに話すことかあつた。或夜彼が非常に打寬いだ[やぶちゃん注:「うちくつろいだ」。]樣子で何事でも彼女に話しかけるといふ氣分になつてをつたので、お祖母さんは彼にお前が死んだ時にどんな事があつたのか私に敎へてくれぬかと言ひ出した。さうすると彼はかう答へた。――『四歲の時迄僕は何でも記憶してゐたが、それから後といふものはだんだん物忘れするやうになつて、今では澤山の事を忘れてをる。それでも未だ忘れてをらぬ事は疱瘡にか〻つて死んだことだ。それから未だ恐えてをることは壺註二に入れられて丘の上に埋められたことだ。丘にゆくと其所の地面に穴が一つ造られた。そして其所へ來た人達はその穴の中へ私の入つてをる壺を落した。ぽんといつて落ちたよ――あの音だけは今でも能く覺えてをるよ。それからどうしたのか知らぬがともかく僕は家へ歸つて僕の枕註三の近くを離れなかつた。曹くすると或る老人――お祖父らしい老人――が來て僕を連れ去つた。步いてゆく時何だか飛行でもやるやうに虛空を突切つて走つた。二人が走つた時は夜でも晝でも無かつた事を僕は記憶してをる。それは常に日沒時(たそがれ)の樣であつた。暑くも寒くも無く亦お腹(なか)もへらなかつた。二人は餘程遠く迄往つたやうに僕は思つてをるが、それにしても僕は僕の家で人々の話してをる聲をいつも聽くことが出來たよ、幽かではあつたが――そして僕の爲に念佛註四の聲が上げられてをるのが聞こえた。亦家庭(うち)の人達がお佛壇の前に溫い牡丹餅註五を供養してくれると僕はその香氣(にほひ)を吸ひ入れたことも記憶してをる――お祖母さん、佛樣に溫い食物を供へることを忘れてはいけません、お坊さんにでもさうですよ――これは大きな功德になるんだよ註六――それから、これはつい思ひ出すだけのことであるが、その老人は何か迂𢌞(とほまはり)した道を經(とほつ)て僕をこの場所へ件れて來たやうである――僕達の通つたのはこの村の向うの所だ。そして僕達は是所へ來た。彼はこの家を指差して僕に言うた――『さあ是所で轉生するんだよ、――お前は死んでから三年目になるが今この家で生れかはることになつてをる、お前のお祖母さんに成る人物(ひと)は大いさう親切だ、だから其所でお腹(なか)に宿つて生れて來るのはお前の幸福さ』かう言つて了うと老人は消え去つた。僕はこの家の入口の前で柿の樹の下で暫く立止つてゐた。それからいよいよ家に入らうとすると家の内側から話し聲が聞こえて來た。誰れかが言うた、『お父さんの收入(もうけ)が餘りに少いから、お母さんが江戶へ奉公に出掛けなくてはならぬだらう』。僕は『これではこの家へ入らないことにする』と思つた。そして三日間庭の中に留つてゐた。三日目になると結局こ〻のお母さんが江戶に出掛けないことにした。そこで私はその夜雨戶の節孔(ふしあな)から家の中に入つた――その後三日間といふものは竈(かまど)註七の側にとどまつてゐた。そしてその後初めてお母さんのお腹に入つた註八――私は全く少しの苦痛も知らずに生れて來たことを覺えてをる。――お祖母さん、『これはお父さんとお母さんに話してもい〻がその外の人には誰れにも話さないで下さいよ』

 

註一 日本の貧しい階級では西洋であるならば當然乳離れをさせる年限に子供が達した頃でも容易に乳離れをさせないで大きくなる迄乳をくれてをる、併しこの本に書いてある四は西洋の算へ方による三歲よりも著しく少いことになる。

註二 死者を大きな壺に納めて埋葬する風習に日本の遠い昔から見らるゝ例である。骨壺は普通に赤い土器である、所謂かめといふものである、かういふ壺は今日でもなほ用ひられてをる、但し今日では死者の大多數は西洋で知らない一種特有の形をした木棺の中に納められてをる。

註三 この意味は枕に頭を橫へて[やぶちゃん注:「よこたへて」。]寢るといふつもりでは無くて枕のあたりかさまよふとか、或は昆蟲(むし)でもとまる樣にその上に休むといつた風のことを意味するものである、肉體の無い靈魂は普通に室の家根の上に休むといはれてをる、次の文章に述べてある老人の幽靈は佛敎よりは寧ろ神道の思想であるらしい。

註四 佛敎のお禱りの句に南無阿彌陀佛を繰返すことである、念佛は阿彌陀宗――眞宗――以外の多くの佛敎宗派で[やぶちゃん注:「も」と入れないとおかしいですよ、金子先生。]繰返すものである。

註五 牡丹餅は米の飯に砂糖を混じて造つた一種の菓子。

註六 日本の佛敎文學の中にはこの種の忠告は陳腐となつてをる、こゝでいふ佛樣の意味はこの子供の心では佛其者を指差すのでは無くて宗ゐ死者を愛した人達が後生の幸福を希ふつもりで佛と呼んでをる人達の靈魂を指したものである、これは恰も西洋に於て死者を呼んで天使といふことが時々あるのと同樣である。

訪七 日本の臺所に於ける料理場である、西洋のかまどと非常に異つた意味を持つことがある。

[やぶちゃん注:本邦のそれは竈の複数配置や、焚口と炉という二方向開口、及び、その上部の排煙のための空間までも幅広く含むからであろう。]

註八 こゝで私は原文の二句を省くに如かずと思つた。それに西洋趣味にとりて餘りに露骨だと思つたからである。併しその句に興味が無いといふ譯では無い、省略した句の意味をいふならばこの子供は母親のお腹の中に居つてさへ愼重な態度で動作し、特に孝道を守つてをつたといふことを書いてをるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:この省略された二つの句の原文を見たいものである。因みに「勝五郎再生記聞」のこのシーンでは、

   *

其の後母の腹内へ入りたりと思はるれど、よくも覺えず。さて腹内にて母の苦しからむと思ふ事のある時は、側(わき)のかたへよりて居たる事のありしは覺えたり。さて生まるゝ時は何の苦しき事も無かりき。

   *

とある。]

 

 祖母は勝五郞が彼女に話してくれた事柄を源藏夫婦に語り聞かせた。そしてそれ以後勝五郞は少しも恐る〻ことなく自由に彼の前生話を兩親にしてゐた。彼は屢〻兩親に『程窪へ行き度い。久平さんのお墓參りをさせてくれ』と言つてゐた。源藏は勝五郞が變な子だから遠からず死ぬかも知れぬ、だから伴四郞といふ者が程窪に事實居たかどうかを迅く[やぶちゃん注:「はやく」。]調べてやつた方がよからうと考へた。併し彼はこのやうな事(このやうな事情の下でか?)を爲(す)るのは男としては輕率でもあり亦出過ぎたことにも見えると考へたから自分からす〻んでこの調べを實行することを欲しなかつた。そんな理由で彼は程窪へ自分で行くことは止めてお母(ふくろ)のつやにこの年の一月二十日に其所へ孫を連れていつてくれと賴んだのである。

 つやは勝五郞を連れて程窪へ行つた。二人が其村へ入ると彼女は手近の家を指差して勝五郞に『どれなの? この家? あれ?』と問うた。勝五郞は『否、もつともつと遠くだよ』と答へた。そして彼女の前に立つてさつさと急いだ。やつと一軒の住家に着いたので彼は『これなんだよ』と叫んだ。そしてお祖母さんの來るのも待たないで其家へ走り込んだ。つやは彼の後について家に入つて、この家の主人の名を問うた。問はれた者の一人は『伴四郞の家だよ』と答へた。お祖母さんは更に件四郞の妻の名を質ねた。答へは『しづ』といふことであつた。次に彼女はこの家に藤藏といふ子が生れたことがあつたかと問うた。『あるよ、併しその子は六歲の時に死んで仕舞つて今は十三年目になる』といふのがその答へであつた。

 この時つやは初めて勝五郞が今迄事實を話してをつたことを知つて溢れ落つる淚を禁ずることが出來なかつた。彼女はこの家の皆の人達に勝五郞が彼の前生を覺えてをつて彼女に話してゐたことを語々聞かせた。これを聽いて伴四郞夫婦は非常に驚いた。彼等は勝五郞を撫でて淚にかきくれながら、勝五郞は昔六歲の時に死んだところの藤藏として美しかつたよりも、今の方がもつと遙かに美しいなぞと言つてゐた。そのやうなことのあつた間勝五郞は周圍を見𢌞してゐた。そして伴四郞の家の向側に在る煙草屋の屋根を見て其所に指差しながら『あれは彼方になかつたんだが』と言うた。亦こんなことも言うたのである、『彼方の樹木はあんな所に無かつたが』と、是等は悉く眞實であつた。こんな譯で伴四郞夫婦は終に心の底から疑念を棄てて仕舞つた(我(が)を折つた)

 同日につやと勝五郞は中野村の谷津入に歸つて來た。この後源藏はその子を幾度も幾度も勝四郞の家に遺つて彼の前生の實父久平の墓に參詣することを許した。

 時としてはこのやうなことを勝五郞は言ふのである――『僕は佛樣(ののさま)註一だ、だから何卒僕を大切にして下さい』亦お祖母さんに『僕は十六歲になると死ねよ、でも御嶽樣(おんたけさま)註二が僕に敎へて下さつたことによると死ぬことは何でも無いさうだ』と言ふことも時々ある。兩親が彼に『お前は出家する心はないか』と問ふと彼は『そんな氣は無いよ』と答へる。

 

註一 ののさん又はののさまは子供の用ひる言葉であつて亡者の靈、卽ち佛樣のことである、神道では神樣といふ。ののさんを拜むといふことは神々を祭るといふことで兒童の用ひる言葉である、先祖の靈魂はののさんになる、卽ち神道の思想によれば神になる。

[やぶちゃん注:仏・神或いは神聖な対象を指す幼児語。私は祖母から「のんのんさま」と教えられた。語源については複数あるようだ。墓石店の公式サイト「石の立山」のこちらがよい。]

註二 御嶽樣を引合ひに出したことに關しては特に興味の多い物がある、併しこれにはやく長い說明を必要とする。

御嶽(おんたけ)又はみたけは信濃國の一靈峰の名である、巡拜人の靈場として崇められてをる所だ、德川將軍家の時代に律宗派の一心と呼ぶ僧侶がこの山に參詣した、彼は彼の生れた場所――江戶下谷坂下町――に歸つてから新しい宗敎を說き始めた、 そして彼は御嶽山に參籠してをつた間に修め得たといはるゝ法力を以て奇蹟を行ふ者として大に名聲を上げた、將軍は彼を危險な人物と見倣し八丈島に流した、彼は其所へ流されて數年を送つた、後許されて江戶に歸りあづま敎といふ新しい宗派を興した、これは神道を倣ねた[やぶちゃん注:「まねた」]佛敎であつた――卽ちこの宗敎の信者が特に崇めてゐた神は佛の權化としての大國主命及び少彥名命[やぶちゃん注:「すくなびこなのみこと」。]であつた。開闢祝詞(かいびやくのりと)にこの宗派のお祈禱であるがそれにはかう書いてある――「神聖な物ありその名を不動といふ、不動なれども動く、又形無し、形無けれども自ら形をとりて現はる、受知し得ざる神聖の體たり、天地にありては神と呼ばれ、萬有の中にありては靈と呼ばれ、人間にありてに心と呼ばる、天も、四海も、三千世界の大世界も、この唯一無二の實在から生れ出たものである、卽ち唯心から三千大千世界の形が出て來る」

[やぶちゃん注:「一心」(明和八(一七七一)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の行者で信濃出身。俗名は橋詰長兵衛。武蔵深谷の侠客であったが、妻の死を契機に木曾御岳信仰に入り、武蔵の修験僧普寛の開いた王滝口の先達(せんだつ)となり、江戸を中心に講を組織したが、不穏な教説を説いたとして、幕府に弾圧され、五十一歳で牢死した、と講談社「日本人名大辞典」にあり、小泉八雲の解説とは齟齬する。思うに、この後の小泉八雲の叙述から、明治六(一八七三)年に東京浅草の創始者とされる下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集合させ、明治一五(一八八二)年に教派神道の一派として成立、政府の公認を得た御嶽教(おんたけきょう:現在も奈良県奈良市に教団本部御嶽山大和本宮を置く教派神道十三派の一つ。現行、祭神は国常立尊(くにのとこたちのかみ:「日本書紀」で本邦初の神とされる)・大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)・少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称する)と混同しているものと思われる。]

交化十一年(一八一四年)に下山應助といふ、もと、江戶、淺草、平衞門町の油商人であつた男が一心の敎法に基づいて巴講[やぶちゃん注:「ともゑかう」。]といふ宗敎同盟か組織した、この派は將軍家派亡の時迄榮えてゐたが、幕府の滅亡した時、混合の敎へたり或は神佛兩敎を混同したりすることを禁止する法令が發布された、下山應助はその時御嶽(みたけ)敎といふ名の下に新しき神道の一派を興すことの許可を願ひ出た――御嶽(みたけ)敎は通俗的には御嶽(おんたけ)敎と呼なれてをる、そしてその願ひは明治六年(一八七三年)に訃されたのである、應助は其後不動經といふ神典を神道の祝詞(のりと)に改作し、之れに名づくるに神道不動祝詞の名を以てした。この宗派はなほ續いてをる。その主なる寺院の一は東京の私の現住宅から約一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。初め、御嶽教本部は東京神田区小川町に置かれたが、富久町の小泉八雲旧居からは直線でも四キロメートルはあるから違う。よく判らぬ。]にある。

御嶽(おんたけ)さん(又は樣)にこの宗派の崇めてをる神の通俗的名稱である、卽ち實際は御嶽(みたけ)又は御嶽(おんたけ)峰に住んでをる神のことであるが、それは亦時としては御嶽の神の御告げによつて或は御感力によりて實相を啓示する高僧を指差すことにも用ひられる、勝五郞の言うた御嶽樣の意味は其頃(一八二三年)の高僧、卽ち應助地震を指差したことでゐるのは殆ど十中八九迄明かである、何故ならば應助はその當時巴敎の政主であつたから。

[やぶちゃん注:「巴敎」意味不明。この「巴」は「己」ので「この」とでも読ませたか。なお、長い注はここまで。以下、本文に戻る。]

 

 村の人達は彼を最早勝五郞とは呼ばないで程窪小僧(小僧とは僧侶にならうとして修業する若者のことである、併しこれは使走りをする者や或は時としては下僕の年若き者を呼ぶに用ひられたこともある、恐らく昔は男の子供は頭を剃つてをつたからだ、私はこの文の場合に於ての意味は佛敎の僧にならうとしてをる若者といふことだと考へてをる)と渾名をつけた。誰れかが彼に會はうとして家を訪れると彼は直に差しかつて奧へ走つて隱れて了ふ。だから彼とめんと向つて話をすることは出來ぬ。私はこの話を彼のお祖母さんから聽いたままに書き下した。

 私は源藏、その妻及びつやにお前さん達は何か功德をしたことがあるんだらうと質した。源藏夫婦は別にこれといつた善行は行(や)つた覺えは無いが、ただお祖母さんのつやが每日朝と晚には必ずお念佛を繰返して唱へることにしてをる、そしてお出家さんや巡禮者が戶口に來れば二文(もん)(當時にありては最も小さな貨幣で一仙[やぶちゃん注:「錢」に同じい。]の十分の一に相當す、今日厘といふ銅貨があつて中央に四角な孔が一つ明いてゐて、表面に支那文字のついてをるのがあるが文(もん)はそれと略々[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じものである)施すことにしてをつたと答へた。併しつやは是等の小功德の外に特に目立つた大善事を行つたことは無かつたのだ。――(勝五郞轉生の話はこれで終つた)

 

  譯者の註

[やぶちゃん注:この「譯者」とは英訳した小泉八雲自身のこと。]

 以上は『椿說集記』[やぶちゃん注:「椿說」は「珍說」に同じい。]と題した寫本から採つた物である。年代は文政六年四月から天保六年十月(一八二三年――一八三五年)迄の間のことである。寫本の終に―『文政年間から天保年間に至る――所有主、南仙波、江戶、芝、車町』とある。又その下に『西の窪。大和屋佐久治郞より購入、明治二年(一八六九年)廿一日?)』と書いてあつた。これに據りて考へて見るとこの寫本は南仙波と呼ぶ者が一八二三年から一八三五年の末に至る十三箇年間親しく耳に入れた話や、或は手に入れた寫本等からこれを寫し出したものと見える。

[やぶちゃん注:「南仙波」不詳。]

        

 今、誰れでも私の信、不信がこの事柄に何か關係でもあるかの如く考へて、お前さんが一體この話を信じてゐるのかねと質問する者があるとするならば、それは恐らく理由のたたぬ無理な質問だ、と思ふ。前生を思出すことが出來るかどうかといふ問題は、追憶する物は何であるかといふ問題に據依[やぶちゃん注:「依拠」に同じい。]してをることと私は考へてをる。若しそれが私達各人に宿つてをるところの無限性の全我といふものであるならば、私は『佛本生譚』[やぶちゃん注:「ほとけほんじやうたん」と読んでおく。]の全部を苦も無く信ずることが出來る。これに反してかの感覺や慾望の經緯(たてよこのいと)で織りみだされてをるところの妄我といふものに就いて考へるならば、私が夢に見たことのあるものを話せば私の考が最も能く現れることになる。これが夜の夢であつたか或は白書の夢であつたかといふ問題は何人にも關係の無いことだ――それはただ一場の夢であつだのだから。

 

 

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