フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「小泉八雲」の332件の記事

2017/04/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)

 

 ノツペラポウ

 

「東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極めて廣い濠があつて、それに沿つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた」――小泉八雲の「貉」はかういふ風に書き出されてゐる。

[やぶちゃん注:「ノツペラポウ」(のっぺらぼう)は「野箆坊」などと漢字表記し、通常は顔に目・鼻・口のない妖怪を指す。ウィキの「のっぺらぼう」によれば、明和四(一七六七)年の怪談集「新説百物語」には、『京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある』。しかし諸怪談の同形(目鼻口総て或いは孰れかの複数欠損)の妖怪(多出する)の場合は正体が不明の場合も多く、寛文三(一六六三)年の初期江戸怪談集の白眉とも言える「曾呂利物語」では、『京の御池町(現・京都市中京区)に身長』七尺(二メートル強)の『のっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない』。『民間伝承においては大阪府』、『香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている』とある。

「紀國坂」(きのくにざか)は現在の東京都港区元赤坂一丁目から、旧赤坂離宮の外囲りの堀端を喰違見附(くいちがいみつけ:ここ(グーグル・マップ・データ))まで登る紀伊国坂(きのくにざか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。坂の西側の現在の赤坂御用地及び迎賓館の位置に、江戸時代を通じて、紀州徳川家の広大な屋敷があったことが名の由来。また、「茜坂(あかねざか)」「赤坂(あかさか)」は、この紀伊国屋坂の別名であって、それは根を染料とする茜(キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi)が生えていた赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることに由来し、付近一帯の広域地名である「赤坂」の由来にもなっている。

「貉」(むじな)は、実在生物である穴熊(食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や貍(食肉目イヌ科タヌキ属ニホンタヌキNyctereutes procyonoides viverrinus)などの古称としてもあるが、民俗伝承中では専ら、狐や狸と併称される人を騙す通力を持った妖怪・妖獣としての怪奇生物の通称で、伝わるところの一般形状は狸に近い。但し、八雲がここで言った「むじな」はまさにそうした人を化かすところの妖狐・妖狸を中心とした妖怪獣類の総称として捉えるのがよい。因みに、後で示す原話の一つと目されるものでは「貉」ではなく「獺(かわうそ)」となっている。獺(食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属日本本土亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。他に北海道亜種 Lutra lutra whiteleyi もいた。ともに生物学的には絶滅したと考えざるを得ず、環境省も二〇一二年八月の「レッド・リスト」改訂でやっと正式に絶滅を宣言した。但し、愛媛県は二〇一四年十月更新の「愛媛県レッドデータブック2014」では依然として「絶滅危惧種」として指定している)も、本邦の民俗社会では年古ると通力を持つ妖獣と考えられていたのである。]

 八雲に從へば、この邊によく徘徊する貉(むじな)を見た最後の人は、京橋方面に住む商家の老人であつた。或晩おそく紀國坂を登つて行くと、濠の緣にんで泣いてゐる女がある。老人は咄嵯に身を投げるのではないかと判斷し、近寄つて聲をかけた。倂し女は依然として泣きやまぬ。ここは夜若い御婦人などの居るべき場所ではない、泣かずに事情を話して貰ひたい、と繰り返した時、女は泣きながら徐(おもむ)ろに立ち上つた。さうして今まで顏を掩つてゐた袖を下に落し、手で自分の顏を撫でたのを見ると、目も鼻も口もない。女を救ふ筈であつた老人は、きやツと叫ぶなり、一目散に逃げ出して紀國坂を駈け登つた……。

[やぶちゃん注:「蹲んで」「しやがんで」と読みたくなるが、後に出る戸川の訳では「かがんで」である

 小泉八雲の「狢」は原題が“Mujina”でかの名作品集“Kwaidan”(「怪談」一九〇四年刊)中の知られた一篇。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”原本画像を使用して校合した。なお、原注(“O-jochū”soba)は除去した。

   *

 

MUJINA

 

   ON the Akasaka Road, in Tōkyō, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka, ―which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens; ―and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

   All because of a Mujina that used to walk there.

 

   The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyōbashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it :―

   One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power. She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. “O-jochū,”he exclaimed, approaching her,―“O-jochū, do not cry like that! . . .  Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you.” (He really meant what he said; for he was a very kind man.) But she continued to weep,―hiding her face from him with one of her long sleeves. “O-jochū,” he said again, as gently as he could,―“please, please listen to me! . . .  This is no place for a young lady at night!  Do not cry, I implore you!―only tell me how I may be of some help to you!” Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:―“O-jochū!―O-jochū!―O-jochū! . . .  Listen to me, just for one little moment! . . . O-jochū!―O-jochū!”. . .  Then that O-jochū turned round, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;―and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,―and he screamed and ran away.

   Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the old soba-seller, crying out, "Aa!―aa!!― aa!!!

   “Koré! Koré”roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you?  Anybody hurt you?"

   “No―nobody hurt me,”panted the other,――“only. . . Aa!―aa!”. . .

   “―Only scared you?”queried the peddler, unsympathetically.  “Robbers?”

   “Not robbers,―not robbers,”gasped the terrified man. . . . “I saw . . .  I saw a woman―by the moat;―and she showed me . . . Aa! I cannot tell you what she showed me!”. . .

   “Hé! Was it anything like THIS that she showed you?”cried the soba-man, stroking his own face―which therewith became like unto an Egg. . . .  And, simultaneously, the light went out.

 

   *

 次にこちらにある、同作の戸川明三(戸川秋骨の本名。パブリック・ドメイン)氏訳になる「狢」(PDF)を視認して電子化しておく。画像底本は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部、記号に不審がある箇所は恣意的に訂した

   *

 

    貉

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も廻り道をしたものである。[やぶちゃん注:「廻」は底本の用字。]

 これは皆、その邊をよく步いた貉のためである。

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

 この商人がある晩おそく紀國坂を急いで登つて行くと、ただひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝(みなり)も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましせう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此の人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來る限りやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御婦人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやツと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で何もない空虛であつた。振り返つてみる勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた擧句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それは道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あゝ!――あゝ!!――ああ!!!』……

『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

『否(いや)、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あゝ!――あゝ!』……

『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろばう)にか?』

『盜賊(どろばう)ではない――盜賊(どろばう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あゝ! 何を見せたつて、そりや云へない』……

『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

               (戸川明三譯)

          
 Mujina.Kwaidan.

 

   *

ここで、柴田宵曲は原話の後半部の二度目のオドシ(一般に「再度の怪」と称される怪談の駄目押し構成の常套法の一つ)の梗概を示していないが、後段でそれをごく手短に示している。これは別に忘れた訳ではなく、読んでいくと判るが、話柄の展開上、男の「のっぺらぼう」を出したくなかったのである

 さて、本作の種本については柴田は問題としていないのであるが、平川祐弘編の小泉八雲「怪談・奇談」(一九九〇年講談社学術文庫刊)の「解説」では、小泉八雲は明治二七(一八九四)年七月刊の町田宗七編「百物語」の「第三十三席 御山苔松」の怪奇咄を原拠に比定している。但し、落語ネタとしてはもっと古くからあったものと想像され得るもので、江戸随筆等を丹念に探れば、より古式の原話或いは類話を見出し得るように思われる。取り敢えず、同書の「原拠」に出るそれを、恣意的に漢字を正字化して示しておく。底本は総ルビであるが、読みはごく一部に留めた。本文の拗音表記はその儘にしておいた。踊り字「〱」は正字化した。一部の原典の誤記と思われる漢字を恣意的に変更した

   *

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郎といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎雨は降(ふり)ますし殊に夜中の事で御坐いますからドットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ致方なくスタスタとやッて參り紀の國坂の中程へ差掛ッた頃には雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり風さへ俄(にはか)に加はりまして物凄きこと言はむ方も御坐りませんからなんでも早く指(さ)す方(かた)へまゐらうと飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、ポント何やら蹴付(けつけ)たものがありますから、ハット思ッて提灯(てうちん)を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人の女が俯向(うつむけ)に屈(かゞ)んで居(を)りますから、驚きながらも貴女(あなた)どうなさいましたト聞(きく)と俯向(うつむい)たまゝ持病の癪(しやく)が起りましてといふからヲヽ夫(それ)ハ嘸(さぞ)かしお困り、ムヽ幸ひ持合せの薄荷(はつか)がありますから差上(さしあげ)ませう、サヽお手をお出しなさいと言ふと、ハイ誠に御親切樣にありがたう御坐いますと禮を述(のべ)ながら、ぬッと上(あげ)た顏を見ると顏の長さが二尺もあらうといふ化物、アッと言(いつ)て逃出したのなんのと夢中になッて三四町もまゐると、向ふの方(はう)から蕎麥うわウイーチンリン蕎麥うわウイーチンリンと一人の夜鷹(たか)蕎麥屋がまゐりましたから、ヤレ嬉しやと駈寄(かけよつ)て、そゝ蕎麥屋さん助けてくれト申しますと蕎麥屋も驚きまして、貴郎(あなた)トど如何(どう)なさいました。イヤもうどうのかうのと言(いつ)て話しにはならない化物に此(この)先(さき)で遭ひました。イヤ夫(それ)は夫はシテどんな化物で御坐いました。イヤモどんなと言(いつ)て眞似も出來ませんドヾどうかミヽ水を一杯下さいト言ふとお易い御用と茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、モシその化物の顏ハこんなでハ御坐いませんかト、言ッた蕎麥屋の顏が、また弐尺、今度はあッと言(いつ)た儘(まゝ)氣を失ッてしまひまして、時過(ときすぎ)て通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ御堀(おほり)に栖(す)む獺(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この説話は決して獺(うそ)の皮ではないさうで御坐います。

   *]

 かういふ顏の持ち主を普通にノツベラボウと宿してゐる。支那にも同類はあると見えて、某家の下男が夜茶を取りに行くと、若い女が木の蔭に向うむきに立つてゐる。暗くてよくわからぬが、どうやら同じ家の女中らしく思はれたので、笑談半分にその臂を捉へた。途端に女が振向いた顏を見ると、白粉を塗つたやうに眞白で、然も目も鼻も口もない。下男は絶叫して地に朴れたと「閲微草堂筆記」にある。

[やぶちゃん注:「茶を取りに行く」訳が不全。原文を見て戴くと判るが、別棟に「茶道具」をとりに行ったのである。

以上は「閲微草堂筆記」の「第八卷如是我聞二」の以下の太字で示した部分。

   *

崔莊舊宅廳事西有南北屋各三楹、花竹翳如、頗爲幽僻。先祖在時、奴子張雲會夜往取茶具、見垂鬟女子潛匿樹下、背立向墻隅。意爲宅中小婢於此幽期、遽捉其臂、欲有所挾。女子突轉其面、白如傅粉、而無耳目口鼻。絶叫仆地。眾持燭至、則無睹矣。或曰、「舊有此怪。」。或曰、「張雲會一時目眩。」。或曰、「實一黠婢、猝爲人阻、弗能遁。以素巾幕面、僞爲鬼狀以自脱也。」。均未知其審。然自此群疑不釋、宿是院者恒凜凜、夜中亦往往有聲。蓋人避弗居、斯鬼狐入之耳。又宅東一樓、明隆慶初所建、右側一小屋、亦云有魅。雖不爲害、然婢媼或見之。姚安公一日檢視廢書、於簏下捉得二。眾曰、「是魅矣。」。姚安公曰、「弭首爲童子縛、必不能爲魅。」。然室無人迹、至使野獸爲巢穴、則有魅也亦宜。斯皆空穴來風之義也。後西廳析屬從兄垣居、今歸從姪汝侗。樓析屬先兄睛湖、今歸姪汝份。子姪日繁、家無隙地、魅皆不驅自去矣。

   *

原典の後の部分は一九七一年平凡社刊の中国古典文学大系第四十二巻の訳によれば(拠った底本が異なるものか、訳が必ずしも明確には一致しない)、続く部分は、張雲のその怪異目撃事件への解三つ(実際に化物が出来した・張雲の錯覚・あの婢は性質(たち)の悪い奴で密会を見つけられて逃げられなかったことから白い巾(きれ)を被って化物の真似をした)を示す。最後のパートは、この邸宅は実はここだけでなく、他にも怪異の出来する棟があり、ある日、姚安(ようあん)公が書籍整理中、『竹籠(つづら)の下にいたムジナのような動物を二匹つかまえた』(下線やぶちゃん)。人々はこれこそ化物の正体であると騒いだが、姚安は「だったら、こんなに子どもの手を捻るのようにやすやすと捕えられてしまうはずもないと否定した。しかし、野獣の巣窟に成したというこの状況に至らせてしまった以上は、魑魅魍魎がここに巣食っているというべきである。それは「空穴來風の義」(「穴が開けばそこには当然、風が吹き込むものだ」式の道理。「荘子」に基づく諷喩)であるとそれに反論附記している(筆者袁枚のそれと採っておく。中文サイトではこれを姚安の続く言として採っている)。最後の部分は、その後、この邸宅の人の住んでいなかった建物には、ことごとく親族らが住むようになり、『空地がなくなったので、化物どもはすべて、追い払われなくても自分から出て行ってしまったろう』とある。柴田は何故、このムジナ(原文「」。現代中国語では「アナグマ」を指すから、まさに「貉」である)を出さなかったのか? まあ、事例があまりにも無抵抗でショボいからやめたものでもあろう。]

「夜譚隨錄」に出てゐる話は十何人も集まつて酒を飮んだ擧句であつた。大分いゝ機嫌になつて或地點まで歸つて來ると、これは月夜だつたので、紅い衣を著た婦人が牆(かきね)の邊にうづくまつてゐるのが見えた。醉ひに乘じてうしろから袖を引いたのは「閲徽草堂筆記」と同じであり、振向いた顏に眉目口鼻のないことも同じである。たゞ見る白面模糊として、豆腐の如く然りと記されてゐる。この男はよほどびつくりしたらしく、地上に仆れて氣絶してしまつた。仲間が駈け付けて介抱したので、暫くして漸く蘇つた。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の「卷二紅衣婦人」。

   *

西十庫在西安門内、例有披甲人宿其中。某甲與同十餘人、沽酒夜飲、皆半酣。二更後、甲起解手、至庫旁永巷中、於月光下、隱隱見一紅衣婦人、蹲身牆邊、如小遺狀。甲醉後心動、潛就摟之、婦人囘其首、別無眉目口鼻、但見白面模糊、如豆腐然。甲驚僕地上。同人遲其來、往覘之、氣已絶矣、舁至鋪中救之、逾時始蘇、自述所遭如此。

   *]

 この三つの話は全く同工異曲である。夜の事だから、少し隔たつてゐれば顏などはよくわからない。うしろから臂を捉へたり、袖を引いたりするほどの近距離で、おもむろに振り向く顏に目鼻がないといふところに、この話の人を驚倒せしむる一大要素がある。

 併しノツペラポウを見るのは、悉く以上のやうな狀態に限られたわけではない。「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話は、文久三年の七月といふ時代がはつきり書いてある。夜の十時頃に高輪の海端を歩いて來ると、田町の方から盆燈籠の灯が近付いて來た。摺れ違ひざまに見ると、草履を穿いて稚い兒を背負つた女である。盆燈籠はその兒の手に持つてゐるのであつたが、その女の顏がノツペラボウであつた。擦れ違つたのは武士であるから、思はず刀の柄に手をかけたが、世の中には病氣か大火傷(やけど)などでこんな顏になる者がないとも限らぬと、思ひ返して躊躇するうちに、女は見返りもせずに行き過ぎてしまつた。このノツペラボウの女は、同じ晩に札の辻のところで蕎番屋の出前持が出逢つて居り、その男は恐怖の餘り自分の店の暖簾をくゞるや否や氣を失つて倒れた。翌朝品川の海岸に浮き上つた女の死髓は、二つばかりの女の兒を背負ひ、女の兒は紙が洗ひ去られて殆ど骨ばかりになつた盆燈籠を手にしてゐた。こゝで話は當然ノツペラボウの女に結び付かなければならぬが、水死者は目も鼻も口も尋常だつたさうである。

[やぶちゃん注:「文久三年」一八六三年。

 『「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話』は大正六(一九一七)年一月号『新小説』初出の「父の怪談」の一節。短いので「青空文庫」版からコピー・ペーストしておく。

   *

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。

 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。

 父はそのままにして帰った。

 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢ったという者があった。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持って行った帰り路で一人の女に逢った。女は草履をはいて子供を背負っていた。子供は小さい盆燈籠を持っていた。すれ違いながらふと見ると、女は眼も鼻もないのっぺらぼうであった。かれはびっくりして逃げるように帰ったが、自分の店の暖簾(のれん)をくぐると俄かに気をうしなって倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確かにのっぺらぼうであったと主張していた。すべてが父の見たものと同一であったのから考えると、それは父の僻眼(ひがめ)でなく、不思議な人相をもった女が田町から高輪辺を往来していたのは事実であるらしかった。

「唯それだけならば、まだ不思議とはいえないかも知れないが、そのあとにこういう話がある。」と、父は言った。

 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮きあがった。女は二つばかりの女の児を背負っていた。女の児は手に盆燈籠を持っていた。燈籠の紙は波に洗い去られて、ほとんど骨ばかりになっていた。それだけを聞くと、すぐにかののっぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃っていた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとかいうことであった。

 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映ったのっぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負っていた子供が同じように盆燈籠をさげていたというのはよく似ている。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持っている子供は珍らしくないかも知れない。しかしその場所といい、背中の子供といい、盆燈籠といい、なんだか同一人ではないかと疑われる点が多い。いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには判らない。

   *]

「近代異妖篇」の著者は、ノツペラボウの女がいはゆる死相を現じてゐたものではないかといふ説を持ち出してゐる。死相の事は何ともわからぬが、病氣や大火傷で不思議な顏になる方は想像出來ぬでもない。「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話などはその一例である。日暮れ方の湯桁(ゆげた)の中に、耳も目も鼻もない瘦法師のひとり入つてゐるのを見て、物蔭から窺つてゐるうちに、匆々に出て行つたが、その姿は繪にかいた骸骨同樣であつた。狐狸の仕業かと疑ひ、宿の主人に尋ねたら、その答へは實に意外なもので、その人は伏見屋といふ大坂の唐物一商人の娘、美人の聞えがあつたのを、姑の病中に鄰りより火事が起り、誰も助け出す者のなかつた時、火の中に飛び込んで抱へ出した。その火傷のために、目は豆粒ほどに明いて僅かに物を見、口は五分ほどあつて何か食べるには事缺かず、今年七十ばかりになるといふのである。かういふ人物に薄暗い浴槽などで出くはしたら、何人も妖異として恐れざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:『「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話』は「卷之一」にある以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁の中に耳、目、鼻のなき瘦法師の、ひとりほとほとと入りたるを見て、予は大いに驚き、物かげより窺ふうち、さうさう湯あみして、出行く姿、骸骨の繪にたがふところなし。狐狸どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にも入らで臥しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ、折ふしは來り給ふ人なり。彼女尼は大坂の唐物あき人、伏見屋てふ家の娘にて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病牀にせまりしかど、たすけ出さん人もなければ、かの尼、とびいりて抱へ出しまゐらせし人なり。その時、燒けたゞれたる疵にて、目は豆粒ばかりに明て、物見え、口は五分ほどあれど食ふに事たり。今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いとあり難き人とおもひて、後も折ふしは、人にもかたりいでぬ。

   *

この話は岡本綺堂も「温泉雜記」(『朝日新聞』昭和六(一九三一)年七月(連載)初出)の「四」で疑似怪談の珍奇な例として挙げている(「青空文庫」のこちらで読める)。それにしても、これは……なにか……ひどく哀しい真相ではないか…………]

 話の上に現れたノツベラポウはすべて女性である。紀國坂の先生だけは、もう一度夜蕎麥賣りとなつて、卵のやうな顏を見せるけれども、これは最初の女からして貉の化けたものなのだから、別問題として考へなければなるまい。

「子不語」の「陳州考院」にあるのは、偶然通りがかりに出くはすやうな單純なものでないが、身長二丈、面の長さ二尺、目なく口なく鼻なしといふから、やほりノツぺラボウの一味であらう。二尺ぐらゐの髮が逆さに直立してゐるなど、なかなか物凄い。これもまた女鬼であつた。

[やぶちゃん注:

 以上は「子不語」の「卷四」の「陳州考院」。以下に示す。

   *

河南陳州學院衙堂後有樓三間封鎖、相傳有鬼物、康熙中、湯西崖先生以給諫視學其地、亦以老吏言、扃其樓如故。時盛暑、幕中人多屋少、杭州王秀才煚、中州景秀才考祥、居常以膽氣自壯、欲移居高樓。湯告以所聞、不信。斷鎖登樓、則明窗四敞、梁無點塵、愈疑前言爲妄。景榻於樓之外間、王榻於樓之間、讓中一間爲起坐所。

漏下二鼓、景先睡、王從中間持燭歸寢、語景曰、「人言樓有祟、今數夕無事、可知前人無膽、為書吏所愚。」。景未答、便聞樓梯下有履聲徐徐登者。景呼王曰、「樓下何響。」。王笑曰、「想樓下人故意來嚇我耳。」。少頃、其人連步上、景大窘、號呼、王亦起、持燭出。至中間、燈光收縮如螢火。二人驚、急添燒數燭。燭光稍大、而色終靑綠。樓門洞開、門外立一青衣人、身長二尺、面長二尺、無目無口無鼻而有髮、髮直豎、亦長二尺許。二人大聲喚樓下人來、此物遂倒身而下。窗外四面啾啾然作百種鬼聲、房中什物皆動躍。二人幾駭死、至雞鳴始息。

次日、有老吏言、先是溧陽潘公督學時、試畢、明日當發案、潘已就寢。將二更、忽聞堂上擊鼓聲。潘遣僮問之、堂吏曰頃有披髮婦人從西考棚中出、上階求見大人。吏以深夜、不敢傳答。曰、「吾有冤、欲見大人陳訴。吾非人、乃鬼也。」。吏驚仆、鬼因自擊鼓。署中皆惶遽、不知所爲。僕人張姓者、稍有膽、乃出問之。鬼曰、「大人見我何礙。今既不出、卽煩致語、我、某縣某生家僕婦也。主人涎我色奸我、不從、則鞭撻之。我語夫、夫醉後有不遜語、渠夜率家人殺我夫喂馬。次早入房、命數人抱我行奸。我肆口詈之、遂大怒、立捶死、埋後園西石槽下。沉冤數載、今特來求申。」。言畢大哭。張曰、「爾所告某生、今來就試否。」。鬼曰、「來、已取第二等第十三名矣。」。張入告潘公。公拆十三名視之、果某生姓名也、因令張出慰之曰、「當爲爾檄府縣査審。」。鬼仰天長嘯去。潘次日卽以訪聞檄縣、果於石槽下得女屍、遂置生於法。此是衙門一異聞、而樓上之怪、究不知何物也。王後舉孝廉、景後官侍御。

   *

原典は「身長二尺」であるが、他の身体サイズと齟齬が生ずるので柴田が「二丈」(六メートル強)としたのは判る気はする。中国文学者小山裕之氏のサイト内の「子不語」の現代語訳注ページのこちらの「陳州の考院」で、柴田の語っていない、後半部の、この女性の「鬼」(死者)の恨みの悲惨極まりない(!)真相がよく判る。必読!!

 

2017/04/20

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)

 

 首なし

 

 柳宗元が永州の司馬に左遷され、荊門の驛舍に宿つた夜、夢に黃衣の婦人が現れて、自分の命が旦夕に迫つてゐることを訴へ、再拜して泣いた。これはあなたでなければお救ひ下さることは出來ぬ、もし救つて下されば、あなたの御運を展開して大臣の椅子に就けるやうにする、といふのである。柳宗元は夢の中で承諾の意を示したものの、夢がさめて見ると、全然心當りがない。婦人は三たびまで歎願に現れた。最後の時はよほど運命が切迫してゐるらしく、憂懼に堪へぬ顏色であつた。役人の中に不幸な立場の者があるのかと考へたり、たまたま荊州の帥(そつ)から朝飯の招待を受けてゐるので、或は自分のために魚が殺されるのであるかと考へたり、思案の決せぬうちに時間が來て、その饗應の席に出た。柳宗元から不思議な夢の話を聞いた帥が、下役人を呼んで尋ねたところ、一日前に大きな黃魚が漁師の網にかゝつたので、それを今朝の膳に上せたといふことであつた。宗元もこゝに至つてはじめて黃衣の婦人のこの魚であつたことに氣が付いたが、もう間に合はぬ。その魚を川に投げ捨てさせて出發するより外に仕方がなかつた。その夜婦人は四たび夢に現れたが、彼女は首がなかつたと「宣室志」にある。

[やぶちゃん注:「柳宗元が永州の司馬に左遷され」中唐名詩人柳宗元(七七三年~八一九年)は徳宗の治世に若手改革派として台頭、宦官勢力を中心とする保守派に対決し礼部侍郎まで昇ったが、政争に敗れ、『改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元』三十三歳であった。『以後、永州に居を構えること』十年、八一五年に、一旦は『長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま』、四十七歳で歿した。『政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである』(引用は参照したウィキの「柳宗元」に拠る)。

「黃魚」「クワウギヨ(コウギョ)」。これは現行の中国語では、スズキ目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea という海水魚である。体色は美しい黄金色で、背鰭・臀鰭は高さにして三分の一以上が鱗に覆われており、東シナ海や黄海に多く棲息し、中国料理ではポピュラーであるが、本邦では長崎県で少し漁獲され、大型個体では五十センチメートルに達すると、サイト「WEB魚図鑑」のなどある。海水魚であるが、スズキ類にはかなり河川を遡上する種もいるので、少なくともこの近縁種ではあろう。

 これは「宣室志」の「柳宗元」。「太平廣記」引用を示す。

   *

唐柳州刺史河東柳宗元、常自省郎出為永州司馬、途至荊門、舍驛亭中。是夕、夢一婦人衣黃衣、再拜而泣曰、「某家楚水者也、今不幸、死在朝夕、非君不能活之。儻獲其生、不獨戴恩而已、兼能假君祿益、君爲將爲相、且無難矣。幸明君子一圖焉。」。公謝而許之。既寤、嘿自異之、及再寐、又夢婦人、且祈且謝、久而方去。明晨、有吏來、稱荊帥命、將宴宗元。宗元既命駕、以天色尚早、因假寐焉、既而又夢婦人、嚬然其容、憂惶不暇、顧謂宗元曰、「某之命、今若縷之懸甚風、危危將斷且飄矣。而君不能念其事之急耶。幸疾爲計。不爾、亦與敗縷皆斷矣、願君子許之。」。言已、又祈拜、既告去。心亦未悟焉。即俛而念曰。吾一夕三夢婦人告我、辭甚懇、豈吾之吏有不平於人者耶。抑將宴者以魚為我膳耶。得而活之、亦吾事也。」。即命駕詣郡宴、既而以夢話荊帥、且召吏訊之。吏曰、「前一日、漁人網獲一巨黃鱗魚、將爲膳、今已斷其首。」。宗元驚曰、「果其夕之夢。」。遂命挈而投江中、然而其魚已死矣。是夕、又夢婦人來、亡其首、宗元益異之。

   *]

 この婦人はもともとたゞの魚で、鱗の黃色であるところから、黃衣の人と現れて命乞ひをしたまでかも知れぬが、それにしては柳宗元の運命を請け合ひ、私をお救ひ下されば大臣になれるなどは少しえら過ぎる。何か柳宗元とこの魚との間に、前世の因緣が繫がつてゐなければならぬところであらう。

 上田秋成が「雨月物語」に書いた「夢應の鯉魚」は、小泉八雲が「僧興義」として「奇談」の中に紹介したことがある。三井寺の僧の話になつてゐるが、これは云ふまでもなく支那種で、「魚服記」の飜案らしい。興義は一たび息絶えて後、三日たつて蘇(よみがへ)り、自分がその間に鯉になつた話をした。彼は病ひの熱に苦しんで水に飛び込み、あちこち泳ぎ𢌞るうちに、いつか自分が鯉になつてゐる。空腹のまゝに釣の餌を呑み、文四といふ男に釣り上げられ、平の助の館に運ばれた。興義の鯉はかねて顏見知りの人々に向ひ、自分を忘れられたか、寺に歸して下さい、と頻りに叫んだけれど、誰の耳にも入らず、料理人が兩眼を押へ、研ぎすました庖刀で切りにかゝつた刹那、夢のさめるやうに蘇つた。彼は絶息してゐた間のことを記憶して居り、つぶさに館の樣子などを話したので、一同肝を潰し、殘りの膾は皆湖に捨てさせた。もう一步のところで柳宗元に訴へた黃魚と同じ運命に陷るわけであつた。彼は幸ひに首を失はなかつたのみならず、その後天年を全うした。愈々亡くなる前に自ら畫くところの鯉の畫數枚を湖に投じたら、魚は紙や絹の上を離れて泳ぎ𢌞つた、この故に興義の畫は世に傳はらぬといふおまけまで付いてゐる。

[やぶちゃん注:「雨月物語」の「夢應(むをう)の鯉魚(りぎよ)」は以下。

   *

 

 夢應の鯉魚

 

 むかし延長の頃、三井寺に興義(こうぎ)といふ僧ありけり。繪に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に畫く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小船をうかべて、網引(あび)き釣りする泉郎(あま)に錢を與へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍(あそ)ぶを見ては畫(ゑが)きけるほどに、年を經て、細妙(くはし)きにいたりけり。或ときは、繪に心を凝(こら)して眠をさそへば、ゆめの裏(うち)に江に入りて、大小の魚とともに遊ぶ。覺(さむ)れば、卽(やがて)、見つるまゝを畫きて壁に貼(お)し、みづから呼びて「夢應の鯉魚」と名付けり。其の繪の妙(たへ)なるを感(めで)て乞ひ要(もと)むるもの前後(ついで)をあらそへば、只、花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人每(ごと)に戲(たはふ)れていふ。

「生(しやう)を殺し鮮(あさらけ)を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚、必しも、與へず。」となん。其の繪と俳諧(わざごと)とゝもに天下(あめがした)に聞えけり。

 一とせ病ひに係りて、七日を經て、忽(たちまち)に眼を閉ぢ息絶えて、むなしくなりぬ。徒弟友どち、あつまりて歎き惜みけるが、只、心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖かなるにぞ、

「若(もし)や。」

と、居(ゐ)めぐりて守りつも、三日を經にけるに、手足、すこし、動き出づるやうなりしが。忽ち、長噓(ためいき)を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、

「我(われ)、人事をわすれて既に久し。幾日をか過ぐしけん。」

衆弟等(しううていら)、いふ。

「師、三日前(さき)に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣で給ひて葬(はふむ)りの事をもはかり給ひぬれど、只、師が心頭(むね)の暖かなるを見て、柩にも藏めで、かく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへ)り給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり。」

 興義、點頭(うなづ)きて、いふ。

「誰(たれ)にもあれ、一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿の館(たち)に詣でて告(まう)さんは。『法師こそ不思識に生き侍れ。君、今、酒を酌み、鮮(あらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく、宴(えん)を罷(や)めて寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり、聞えまいらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露(つゆ)たがはじ。」

といふ。

 使ひ、異(あや)しみながら、彼の館に往きて其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:座が高いから重き家臣の通称固有名と採っておく。]など、居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇(あや)しとす。助の館の人々、此の事を聞きて大きに異しみ、先づ、箸を止めて、十郎・掃守をも召し具して寺に到(いた)る。

 興義、枕をあげて、路次(ろじ)の勞(わづら)ひをかたじけなうすれば[やぶちゃん注:こちらから呼びつけてわざわざ来て貰ったことを心より労ったところ。]、助も蘇生りの賀(ことぶき)を述ぶ。

 興義、先づ問ひて、いふ。

「君、試みに、我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父(ぎよふ)文四(ぶんし)に魚をあつらへ給ふ事、ありや。」

助、驚きて、

「まことに、さる事あり。いかにしてしらせ給ふや。」

興義、

「かの漁父、三尺あまりの魚を籠(かご)に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面(みなみおもて)の所に碁を圍(かこ)みて、おはす。掃守(かもり)、傍らに侍りて、桃の實の大なるを啗(く)ひつつ、奕(えき)の手段を見る。漁父が大魚(まな)を携へ來たるを喜びて、高杯(たかつき)に盛りたる桃をあたへ、又、盃(さかづき)を給ふて三獻(こん)、飮(の)ましめ給ふ。鱠手(かしはびと)、したり顏に魚をとり出でて、鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所、たがはでぞあるらめ。」

といふに、助の人々、此の事を聞きて、或は異しみ。或はここち惑ひて、かく詳らかなる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋づぬるに、興義、かたりて、いふ。

「我、此の頃、病にくるしみて堪へがたきあまり、其の死したるをもしらず。熱きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に扶(たす)けられて門を出づれば。病ひもやや忘れたるやうにて籠(こ)の鳥の雲井にかへるここちす。山となく里となく行々(ゆきゆき)て、又、江の畔(ほとり)に出づ。湖水の碧(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴びて遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去てて、身を跳(をど)らして深きに飛び入りつも。彼此(をちこち)に游(およ)ぎめぐるに、幼(わか)きより水に狎(な)れたるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戲(たはふ)れけり。今、思へば愚かなる夢ごころなりし。

 されども、人の水に浮ぶは、魚のこころよきには、しかず。ここにて又、魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍らにひとつの大魚(まな)ありて、いふ。

『師のねがふ事、いとやすし。待たせ給へ。』

とて、杳(はるか)の底に去(ゆ)くと見しに、しばしして、冠裝束(かむりさうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に胯(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくず)を牽(ひ)きゐて、浮び來たり、我にむかひて、いふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧、かねて、放生(はうじやう)の功德(くどく)多し。今、江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。權(かり)に金鯉(きんり)が服を授けて水府(すいふ)のたのしみを、せさせ玉ふ。只、餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眛(くら)まされて。釣りの糸にかゝり、身を亡(うしな)ふ事、なかれ。』

と、いひて去りて見えずなりぬ。

 不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに、鱗(うろこ)、金光(きんかう)を備へて、ひとつの鯉魚(りぎよ)と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾(を)を振り、鰭(ひれ)を動かして、心のまゝに逍遙(せうえう)す。

 まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大灣(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚(おど)されて、比良(ひら)の高山影、うつる。深き水底(みなそこ)に潛(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火(いさりび)によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中(よなか)の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に淸(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくて、おもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、蘆間(あしま)の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀨田(せた)の橋守(はしもり)にいくそたびが追はれぬ。日、あたゝかなれば浮び、風、あらきときは千尋(ちひろ)の底(そこ)に遊ぶ。

 急(には)かにも、飢えて食(もの)ほしげなるに。彼此(をちこち)に𩛰(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち、文四が釣りを垂るに、あふ。其の餌(ゑ)、はなはだ香(かんば)し。心、又、河伯(かはがみ)の戒(いましめ)を守りて思ふ。

『我れは佛(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞも、あさましく魚の餌を飮(の)むべき。』

とて、そこを去る。しばしありて、飢え、ますます甚しければ、かさねて思ふに、

『今は堪へがたし。たとへ此の餌を飮むとも嗚呼(をこ)に捕はれんやは。もとより他(かれ)は相ひ識(し)るものなれば、何のはばかりかあらん。』

とて遂に餌をのむ。文四、はやく糸を收めて、我を捕ふ。

『こはいかにするぞ。』

と叫びぬれども、他(かれ)かつて聞かず顏にもてなして、繩をもて我が腮(あぎと)を貫ぬき、蘆間に船を繫ぎ、我を籠に押し入れて君が門に進み入る。君は賢弟と南面の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍らに侍りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。文四がもて來(こ)し大魚を見て、人々、大いに感(め)でさせ給ふ。我れ、其とき、人々にむかひ、聲をはり上げて、

『旁等(かたがたら)は興義をわすれ給ふか。宥(ゆる)させ給へ。寺にかへさせ給へ。』と連(しき)りに叫びぬれど、人々しらぬ形(さま)にもてなして、只、手を拍つて喜び給ふ。鱠手(かしは人)なるもの、まづ、我が兩眼を左手(ひだり)の指にて、つよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて、俎盤(まないた)にのぼし、既に切るべかりしとき、我れ、くるしさのあまりに大聲をあげて、

『佛弟子を害(がゐ)する例(ためし)やある。我を助けよ、助けよ。』

と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず、終に、切るる、と、おぼえて、夢、醒めたり。」

と、かたる。

 人々大に感異(めであや)しみ、

「師が物がたりにつきて思ふに、其の度(たび)ごとに魚の口の動くを見れど、更に聲を出だす事なし。かかる事、まのあたりに見しこそ、いと不思議なれ。」

とて、從者(ずさ)を家に走らしめて、殘れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

 興義、これより病ひ癒えて、杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死にける。其の終焉(をはり)に臨みて畫(ゑが)く所の鯉魚、數枚(すまい)をとりて、湖(うみ)に散らせば、畫(ゑが)ける魚紙繭(しけん/かみきぬ[やぶちゃん注:後者は左ルビ。])をはなれて、水に遊戲(ゆうげ)す。ここをもて、興義が繪、世に傳はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)[やぶちゃん注:平安初期の公卿で歌人の藤原冬嗣。]の障子に鷄(にはとり)を畫(ゑが)きしに。生ける鷄、この繪を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに戴せたり。

   *

因みに、三島由紀夫は、この金鱗の鯉となった興義の琵琶湖の歌尽くしを『窮極の詩』と評して高く評価している。私は三島の思想と狂った田舎芝居の自死行動を全く評価しないが、彼の文学的才能は別して買っている。そうして、その彼の賞讃する箇所についても同じように激しく共感する。

 小泉八雲の「僧興義」は“The Story of Kogi the Priest”(「僧興義の話」)で、作品集“A Japanese miscellany”(「日本雑録」 明治三四(一九〇一)年刊)に所収されている。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”の原本画像を使用して校合した。なお、原注は一部を除いて除去した。

   *

 

The Story of Kōgi the Priest

 

NEARLY one thousand years ago there lived ill the famous temple called Miidera, at Ōtsu in the province of Ōmi, a learned priest named Kōgi. He was a great artist. He painted, with almost equal skill, pictures of the Buddhas, pictures of beautiful scenery, and pictures of animals or birds; but he liked best to paint fishes. Whenever the weather was fair, and religious duty permitted, he would go to Lake Biwa, and hire fishermen to catch fish for him, without injuring them in any way, so that he could paint them afterwards as they swam about in a large vessel of water. After having made pictures of them, and fed them like pets, he would set them free again, — taking them back to the lake himself. His pictures of fish at last became so famous that people travelled from great distances to see them. But the most wonderful of all his drawings of fish was not drawn from life, but was made from the memory of a dream. For one day, as he sat by the lake-side to watch the fishes swimming, Kōgi had fallen into a doze, and had dreamed that he was playing with the fishes under the water. After he awoke, the memory of the dream remained so clear that he was able to paint it ; and this painting, which he hung up in the alcove of his own room in the temple, he called " Dream-Carp.”

   Kōgi could never be persuaded to sell any of his pictures of fish. He was willing to part with his drawings of landscapes, of birds, or of flowers ; but he said that he would not sell a picture of living fish to any one who was cruel enough to kill or to eat fish. And as the persons who wanted to buy his paintings were all fish- eaters, their offers of money could not tempt him.

 

   One summer Kōgi fell sick ; and after a week's illness he lost all power of speech and movement, so that he seemed to be dead. But after his funeral service had been performed, his disciples discovered some warmth in the body, and decided to postpone the burial for awhile, and to keep watch by the seeming corpse. In the afternoon of the same day he suddenly revived, and questioned the watchers, asking : —

“ How long have I remained without knowledge of the world ?”

“ More than three days,” an acolyte made answer. “ We thought that you were dead ; and this morning your friends and parishioners assembled in the temple for your funeral service. We performed the service ; but afterwards, finding that your body was not altogether cold, we put off the burial; and now we are very glad that we did so.”

   Kōgi nodded approvingly : then he said : —

   “ I want some one of you to go immediately to the house of Taira no Suke, where the young men are having a feast at the present moment — (they are eating fish and drinking wine), — and say to them : — ' Our master has revived ; and he begs that you will be so good as to leave your feast, and to call upon him without delay, beause he has a wonderful story to tell you.' . . . At the same time ”— continued Kōgi —“observe what Suké and his brothers are doing; — see whether they are not feasting as I say.”

   Then an acolyte' went at once to the house of Taira no Suké, and was surprised to find that Suké and his brother Jūrō, with their attendant, Kamori, were having a feast, just as Kōgi had said. But, on receiving the message, all three immediately left their fish and wine, and hastened to the temple. Kōgi, lying upon the couch to which he had been removed, received them with a smile of welcome ; and, after some pleasant words had been exchanged, he said to Suké : —

   “ Now, my friend, please reply to some questions that I am going to ask you. First of all, kindly tell me whether you did not buy a fish to-day from the fisherman Bunshi.”

   “ Why, yes,” replied Suké — but how did you know ?”

   “ Please wait a moment,” said the priest. . . . “ That fisherman Bunshi to-day entered your gate, with a fish three feet long in his basket : it was early in the afternoon, just after you and Jūrō had begun a game of go; — and Kamori was watching the game, and eating a peach — was he not ? ”

   “That is true,” exclaimed Suké and Kamori together, with increasing surprise.

   “ And when Kamori saw that big fish,” proceeded Kōgi, “ he agreed to buy it at once ; and, besides paying the price of the fish, he also gave Bunshi some peaches, in a dish, and three cups of wine. Then the cook was called ; and he came and looked at the fish, and admired it ; and then, by your order, he sliced it and prepared it for your feast. . . . Did not all this happen just as I have said ?.”

   “ Yes,” responded Suké ;“ but we are very much astonished that you should know what happened in our house to-day. Please tell us how you learned these matters.”

   “ Well, now for my story,” said the priest. “ You are aware that almost everybody believed me to be dead; — you yourselves attended my funeral service. But I did not think, three days ago, that I was at all dangerously ill : I remember only that I felt weak and very hot, and that I wanted to go out into the air to cool myself. And I thought that I got up from my bed, with a great efifort, and went out, — supporting myself with a stick. . . .Perhaps this may have been imagination ; but you will presently be able to judge the truth for yourselves : I am going to relate everything exactly as it appeared to happen. . . . As soon as I got outside of the house, into the bright air, I began to feel quite light, — light as a bird flying away from the net or the basket in which it has been confined. I wandered on and on till I reached the lake ; and the water looked so beautiful and blue that I felt a great desire to have a swim. I took off my clothes, and jumped in, and began to swim about ; and I was astonished to find that I could swim very fast and very skilfully, — although before my sickness I had always been a very poor swimmer. . . . You think that I am only telling you a foolish dream — but listen ! . . . While I was wondering at this new skill of mine, I perceived many beautiful fishes swimming below me and around me ; and I felt suddenly envious of their happiness, — reflecting that, no matter how good a swimmer a man may become, he never can enjoy himself under the water as a fish can. Just then, a very big fish lifted its head above the surface in front of me, and spoke to me with the voice of a man, saying : —‘That wish of yours can very easily be satisfied: please wait there a moment !’  The fish then went down, out of sight ; and I waited. After a few minutes there came up, from the bottom of the lake, — riding on the back of tlie same big ilsh that had spoken to me, — a man wearing the headdress and the ceremonial robes of a prince ; and the man said to me : — ‘I come to you with a message from the Dragon-King, who knows of your desire to enjoy for a httle time the condition of a fish. As you have saved the lives of many fish, and have always shown compassion to living creatures, the God now bestows upon you the attire of the Golden Carp, so that you will be able to enjoy the pleasures of the Water-World. But you must be very careful not to eat any fish, or any food prepared from fish, — no matter how nice may be the smell of It ; ― and you must also take great care not to get caught by the fishermen, or to hurt your body in any way.' With these words, the messenger and his fish went below and vanished in the deep water. I looked at myself, and saw that my whole body had become covered with scales that shone like gold ; — I saw that I had fins ; — I found that I had actually been changed into a Golden Carp. Then I knew that I could swim wherever I pleased.

   “ Thereafter it seemed to me that I swam away, and visited many beautiful places. [Here in the original narrative, are introdmed some verses describing the Eight Famous Attractions of the Lake of Ōmi, — “ Ōmi-Hakkei.”] Sometimes I was satisfied only to look at the sunlight dancing over the blue water, or to admire the beautiful reflection of hills and trees upon still surfaces sheltered from the wind. . . . I remember especially the coast of an island — either Okitsushima or Chikubushima — reflected in the water like a red wall. . . . Sometimes I would approach the shore so closely that I could see the faces and hear the voices of people passing by ; sometimes I would sleep on the water until startled by the sound of approaching oars. At night there were beautiful moonlight-views ; but I was frightened more than once by the approaching torchfires of the fishing-boats of Katase. When the weather was bad, I would go below, — far down, — even a thousand feet, — and play at the bottom of the lake. But after two or three days of this wandering pleasure, I began to feel very hungry; and I returned to this neighborhood in the hope of finding something to eat. Just at that time the fisherman Bunshi happened to be fishing ; and I approached the hook which he had let down into the water. There was some fish-food upon it that was good to smell. I remembered in the same moment the warning of the Dragon-King, and swam away, saying to myself: —‘ In any event I must not eat food containing fish; — I am a disciple of the Buddha.’  Yet after a httle while my hunger became so intense that I could not resist the temptation ; and I swam back again to the hook, thinking, — ‘Even if Bunshi should catch me, he would not hurt me; — he is my old friend.’  I was not able to loosen the bait from the hook ; and the pleasant smell of the food was too much for my patience ; and I swallowed the whole thing at a gulp. Immediately after I did so, Bunshi pulled in his line, and caught me. I cried out to him, ‘ What are you doing? — you hurt me! ’— but he did not seem to hear me, and he quickly put a string through my jaws. Then he threw me into his basket, and took me to your house. When the basket was opened there, I saw you and Jūrō playing go in the south room, and Kamori watching you — eating a peach the while. All of you presently came out upon the veranda to look at me; and you were delighted to see such a big fish. I called out to you as loud as I could : —‘I am not a fish ! — I am Kōgi — Kōgi the priest !  please let me go back to my temple ! ’  But you clapped your hands for gladness, and paid no attention to my words. Then your cook carried me into the kitchen, and threw me down violently upon a cutting-board, where a terribly sharp knife was lying. With his left hand he pressed me down, and with his right hand he took up that knife, — and I screamed to him : — ‘ How can you kill me so cruelly !  I am a disciple of the Buddha ! — help !  help !’  But in the same instant I felt his knife dividing me — a frightful pain ! — and then I suddenly awoke, and found myself here in the temple.”

   When the priest had thus finished his story, the brothers wondered at it; and Suké said to him : — “I now remember noticing that the jaws of the fish were moving all the time that we were looking at it ; but we did not hear any voice. . . . Now I must send a servant to the house with orders to throw the remainder of that fish into the lake.”

 

   Kōgi soon recovered from his illness, and lived to paint many more pictures. It is related that, long after his death, some of his fish-pictures once happened to fall into the lake, and that the figures of the fish immediately detached themselves from the silk or the paper upon which they had been painted, and swam away!

 

   *

次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「僧興義」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部の不審な空隙には読点を打った。

   *

 

   僧興義

 

 殆んど一千年前、近江の國大津の名聲い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ廻るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事がてきた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間病んだあとで、物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫みのある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絶えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んてゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んて居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」――同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟逹が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――私が云つた通り、宴會をしてゐないかどうか』

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郎が、家の子掃守(かもり)と一緒に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮べた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、――

『これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買ひませんでしたか』

『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べてゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緒に叫んだ。

『それから掃守がその大きな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三杯飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令でそれを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

『さうです』助は答へた、『しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。『御承知の通り殆んど皆の人逹は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に、私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に逹した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脱いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――「暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂みを得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない」かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を説明した歌のやうな文句が入れてある〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や本の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。――時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり、聲を聞いたりする事ができた、時時私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度も驚かされた[やぶちゃん注:「片瀨の漁舟」原文は“the fishing-boats of Katase”で“Katase”と大文字になっているから、小泉八雲は固有地名として記していることが判る。しかし、現在、琵琶湖畔には「片瀬」と称する地名を確認出来なかった。識者の御教授を乞う。或いは歌枕的な用法として使用したものか?]。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び廻つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れでゐた鉤に近づいた。それには何か餌がついでゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に緣側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく爼板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覺えた、――そしてその時突然眼がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた、――『今から想へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

                (田部隆次譯)

 The Story of Kogi the Priest.(A Japanese miscellany.)

 

   *]

2017/04/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯

 

 井の底の鏡

 

 小泉八雲の書いた「鏡の少女」は、今典據を明かにし得ぬのを憾むと全集の「あとがき」にあるが、その内容から云つて、「垣根草」の中の「松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を用ゐたことは疑ひを容れぬ。松村兵庫は大河内明神の神主、和歌の奧儀を極めるつもりで、京極今出川の北に暫く滯留して居つた。當時畿内は大變な旱(ひで)りで水に乏しかつたに拘らず、兵庫の旅館の東北にある古井だけは、容易に涸れさうな氣色もない。近郷よりこの水を汲みに來る者が少からぬ中に、或日の夕方、鄰家の下女が長いこと井戸を覗いてゐると思つたら、忽ち中に落ち込んで溺れてしまつた。極めて深い井戸なので、死骸も數日後に漸く上るといふ始末であつたから、兵庫はその周圍にきびしく垣を結はせなどしたが、或時ふと井戸の中を覗くと、年の頃二十歳ばかりと見える美女のうるほしく化粧したのが、兵庫を見て少し顏をそむけ、につこり笑つた。兵庫も覺えず心魂も飛ぶやうになつたが、先日落ち込んだ下女の事を思ひ、これが人を溺らす古井の妖であらうと考へ直し、從者達にも固く制して、この井に近寄らせぬやうにした。

[やぶちゃん注:小泉八雲のそれは小説集THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES(一九〇五年刊)のTHE MIRROR MAIDENである。原文と訳は最後に掲げる

「全集」これは恐らく、大正一五(一九二六)年七月刊の第一書房版「小泉八雲全集 第七卷」の大谷正信(最後に彼の本作の訳を掲げた)の「あとがき」ではないかと思われるが、原本を所持しないので確認出来ないから、断定は出来ぬ。

「垣根草」は江戸中期の儒学者・医師で読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?)の作とされる(署名は「草官散人)「席上奇觀垣根草」のこと。その「松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」は、後に晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻第五」に一部を改変して「松村兵庫古井の妖鏡」として載っている。後者を末尾に電子化しておいた

「大河内明神」現在の三重県松阪市郊外にあったの西南に大河内明神。「斎宮歴史博物館」公式サイト内のこちらによれば、ここは『室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所で』、この明神社は『北畠家の尊崇厚かった』ものの、『戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなって』おり、それが本話柄内の時制であるということらしい。]

 一夜恐ろしい風雨があつて、天地も崩れるかと思ふほどであつたが、漸く明方近くなつて晴れ渡つた時、兵庫の許を訪れた女がある。一間に通して見るのに、嘗て井戸の中でにつこり笑つた美女に相違ない。そなたは井の中の人ではないか、どうしてあのやうに人を惑はすのか、といふ兵庫の問に對し、女の答ふるところはかうであつた。私は人を殺す者ではありません、この井戸には昔から毒龍が住んで居りますので、どんな旱りにも涸れたことがないのです、私も昔井戸の中に落ち、それ以來龍のために使はれて居ります、人を惑はして引き入れるといふのも、已むを得ず私の致したことなのですが、實は辛くて堪りませんでした、昨晩天帝の御命令で、龍は信州鳥居の池に移りましたから、もうこの井戸に主(ぬし)は居りません、お願ひでございます、どうかこゝで私を井戸から救ひ出して下さいまし、その御恩は決して忘れません――。云ひ了ると女の姿は見えなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「鳥居の池」後に示す訳では「鳥井ノ池」とするが、孰れも不詳。識者の御教授を乞う。]

 それから兵庫が人を雇つて井戸を浚つて見ると、あれほどあつた水が一滴もなくなつてゐる。井戸の中には引き込まれた女のものらしい、弄や簪があるだけだつたが、漸く底に到り一枚の古鏡が現れた。その鏡の裏には「姑洗之鏡」といふ四字の款識(くわんしき)があつた。姑洗は三月の事である。彼女は兵庫に對し彌生と名乘つたが、鏡の精であつたことがこの款識によつて明かになつた。彌生と名乘る女はその夜また現れて、深く兵庫の厚意を謝し、自己の過去などを語つた末に、次の二箇條を告げて去つた。第一は自分を將軍家に奬(すす)めれば大いなる幸ひを得るであらうといふ事、第二はこの地は久しく住むべき場所でない、速かに他に移り給ふべし、といふのである。その言に從ひ、翌日他へ移つたら、次の日地が陷沒して家も崩れてしまつた。こゝに於て愈々鏡の靈なることを思ひ、將軍義政に捧げたところ、その賞として伊勢の一庄を神領に寄進された。例の鏡はその後大内家に賜はり、吉隆戰死の後、所在不明になつた。

[やぶちゃん注:「姑洗」は「こせん」と読み、ここで述べる通り、陰暦三月の異称である。

「款識(くわんしき)」「款」は「陰刻の銘」を、「識」は「陽刻の銘」を指す語で、鐘や鼎(かなえ)などの鋳造の金属製品に刻した銘文を指す。

「大内」「吉隆」は周防国の在庁官人大内氏の第三十一代当主で戦国大名の大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年:周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆とその一族は自害し、大内家は事実上、滅亡した。ここはウィキの「大内義隆」に拠った)の誤りである。但し、元の「垣根草」を確認出来ないので、原典の誤り(或いは意識的変名)か、柴田の誤記かは不明である。]

「垣根草」の記すところは大體右の如きものである。小泉八雲もこれによつて「鏡の少女」を書いたので、強ひて違つたところを擧げるならば、水を汲みに來て井に溺れたのが、近所の下男となつてゐるくらゐのものに過ぎぬ。「垣根草」は明和七年の刊行であるが、一年おくれて出た「名槌古今説(めいつちここんばなし)」にも「古鏡の報恩」といふ一篇があり、筋は全く同じである。殆ど時を同じうして出た書物に類話があるのを見れば、もと同根より生じた種と見なければなるまい。

[やぶちゃん注:「明和七年」一七七〇年。

「名槌古今説」荻坊奥路(大雅舎其鳳(きほう))撰になる小説集で、柴田の言う通り、明和八年板行である。「古鏡(こきや)の報恩」は同書の「卷之三」にある。早稲田大学図書館の古典総合データベースのこちらの画像の「9」以降で視認出来る。]

 水谷不倒氏はこの二話を「選擇古書解題」に擧げ、「支那小説から出てゐることは想像するに難くない」と斷じた。正にその通りで、「博異志」の冒頭にある敬元穎の話を日本に持つて來たものである。委しく梗概を述べるまでもない。洛陽に出て家を借りて住むことも、水を汲みに來る女子が溺れて死ぬことも、家を借りた陳仲躬が井を覗いて女子の面を見ることも、すべて原書のまゝであり、紅い袂で半ば面を掩ひ微笑するところまで材料に使つてゐる。たゞ著しく違ふのは恐るべき風雨の一條がない。數月に亙る炎旱に少しも水の減らなかつた井戸が、一日忽ち涸れたといふことになつてゐる。美女敬元穎は然る後仲躬を訪れ、前に書いたのと大同小異の問答がある。仲躬は人を賴んで井を浚ひ、古銅鏡一枚を獲た。元穎の言に從つて他に移り、三日後に井戸の陷沒するまで全く同じである。鏡の裏に二十八字が鑄出され、鈕(つまみ)のところに「夷則之鏡」と題してあつた。夷則は七月の事だから、「垣根草」はこれを姑洗に替へ、日本の女にふさはしい彌生といふ名を點出したのであらう。彌生の身の上話の中に、齊明天皇の時百濟(くだら)から渡るとあつたが、鏡のみならず、話全體が唐渡りなのであつた。

[やぶちゃん注:「水谷不倒」(安政五(一八五八)年~昭和一八(一九四三)年)は国文学者・小説家。名古屋生まれ。東京専門学校卒。坪内逍遥に師事し、明治二九(一八九六)年に小説「錆刀」を発表した。明治三二(一八九九)年には大阪毎日新聞社に入社したが、六年後の明治三十八年に退社した。元来が学究肌で、以後、近世文学の研究に専念した。主として浄瑠璃を研究・校注を施した(以上はウィキの「水谷不倒」に拠った)。「選擇古書解題」は昭和一二(一九三七)年刊。

『「博異志」の冒頭にある敬元穎の話』は以下の「敬元穎」。中文サイトのものを加工して示す。

   *

天寶中、有陳仲躬、家居金陵、多金帛。仲躬好學、修詞未成、乃攜數千金於洛陽淸化里假居一宅。其井尤大、甚好溺人、仲躬亦知之。志靡有家室、無所懼。仲躬常抄習不出、月餘日、有鄰家取水女子、可十數、怪每日來於井上、則逾時不去、忽墮井中而溺死。井水深、經宿方索得尸。仲躬異之、閒乃窺於井上。忽見水影中一女子面、年狀少麗、依時樣妝飾、以目仲躬。仲躬凝睇之、則紅袂半掩其面、微笑、妖冶之資出於世表。仲躬神魂恍惚、若不支持。然乃嘆曰、「斯乃溺人之由也。」。滋不顧而退。後數月、炎旱、此井亦不減。忽一日、水頓竭淸。旦有一人扣門云、「敬元穎請謁。」。仲躬命入、乃井中所見者、衣緋綠之衣、其制飾鉛粉乃當時耳。仲躬與坐而訊之曰、「卿何以殺人。」。元穎曰、「妾實非殺人者。此井有毒龍、自漢朝絳侯居於茲、遂穿此井。洛城都有五毒龍、斯乃一也。緣與太一左右侍龍相得、每相蒙蔽、天命追徵、多故爲不赴集役、而好食人血、自漢已來、已殺三千七百人矣、而水不曾耗涸。某乃國初方隨於井、遂爲龍所驅使、爲妖惑以誘人、用供龍所食。其於辛苦、情所非願。昨爲太一使者交替、天下龍神盡須集駕、昨夜子時已朝太一矣。兼爲河南旱、被勘責、三數日方囘。今井内已無水、君子誠能命匠淘之、則獲脱難矣。如脱難、願於君子一生奉義、世間之事、無所不致。」言訖便失所在。仲躬乃當時命匠、令一信者與匠同入井、但見異物、卽令收之。至底、無別物、唯獲古銅鏡一枚。面闊七寸八分。仲躬令洗淨、安匣中、焚香以潔之。斯乃敬元穎者也。一更後、忽見元穎自門而入、直造燭前設拜、謂仲躬曰、「謝以生成之恩、煦衣濁水泥之下。某本師曠所鑄十二鏡之第七者也。其鑄時皆以日月爲大小之差、元穎則七月七日午時鑄者也。貞觀中爲許敬宗婢蘭苔所墮。以此井水深、兼毒龍氣所苦、人入者悶而不可取、遂爲毒龍所役。幸遇君子正直者、乃獲重見人間爾。然明晨内望君子移出此宅。」。仲躬曰、「某以用錢僦居、今移出、何以取措足之所。」。元穎曰、「但請君子飾裝、一無憂矣。」。言訖、再拜云、「自此去不復見形矣。」。仲躬遽留之。問曰、「汝以紅綠脂粉之麗、何以誘女子小兒也。」對曰、「某變化無常、各以所悦、百方謀策、以供龍用。」言訖卽無所見。明晨、忽有牙人扣戸、兼領宅主來謁仲躬、便請仲躬移居、夫役並足。到齋時、便到立德坊一宅中、其大小價數一如淸化者、其牙人云、「價直契書、一無遺闕。」。並交割訖。後三日、會淸化宅井無故自崩、兼延及堂隍東廂、一時陷地。仲躬後丈戰累勝、大官、有所要事、未嘗不如移宅之績效也。其鏡背有二十八字、皆科斗書、以今文推而寫之曰、「維晉新公二年七月七日午時、於首陽山前白龍潭鑄成此鏡、千年後世。」。於背上環書、一字管天文一宿、依方列之。則左有日而右有月、龜龍虎雀並依方安焉。於鼻中題曰、「夷則之鏡。」。

   *

「敬元穎」「ケイゲンエイ」。

「陳仲躬」「チンチウキユウ(チンチュウキュウ)」。

「夷則」「いそく」は陰暦七月の異称。実は先の「姑洗」もそうだが、元来は中国音楽の十二律の一つで、それぞれ基本音律を一引くと、それぞれその数字となるから、語源はそこにあろう。最後に示す原拠と思われるそれでもそれが明らかに述べられてもいる

「齊明天皇」女帝。皇極天皇及び重祚して斉明天皇。第三十五代及び第三十七代の天皇。在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年一月十五日(単純換算でユリウス暦六四二年二月十九日)から同四年六月十四日(六四五年七月十二日)、斉明天皇としては斉明天皇元年一月三日(六五五年二月十四日)から同七年七月二十四日(六六一年八月二十四日)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇の母(ウィキの「斉明天皇」に拠る)。]

 この話に於ける第一の山は、鏡の少女が井の底に在つて嫣然一笑する一條でなければならぬ。如何にも美しい山だから、「靑蛙堂鬼談」(岡本綺堂)の「淸水の井」などにも流用してある。「淸水の井」は六百年前の昔話にしてあるが、鏡が井戸から發見されるのは現代で、井の底に美しい二人の男の姿が映るため、その家の二人の娘が覗きに行くのが動機になつてゐる。覗くのが娘だから映る顏も美男、二人娘だから鏡も二面といふ風に、いろいろ曲折を加へた上、昔話の方にも平家の公達(きんだち)が登場したりして、大分複雜になつてはゐるが、井の底の鏡が山である點に變りはない。辿つて行けばやはり敬元穎の末孫といふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「嫣然」「えんぜん」は「艶然」とも書き、「にっこり微笑むさま」であるが、多くは「美人が笑うさま」について言う語である。

『「靑蛙堂鬼談」(岡本綺堂)の「淸水の井」』大正一四(一九二五)年二月発行の『講談倶樂部』初出の「淸水(しみづ)の井(いど)」。「青空文庫」の「青蛙堂鬼談」で読める(新字新仮名)。

 では、まず、小泉八雲の「鏡の少女」であるが、最初に、英文サイトの刊行siteInternet Archive)とテクスト原文siteGutenberg)を視認して校合し、一部に加工を施して示した。原注記号は独自の記号で文中に配し、近い位置の段落末に六字下げで原注を配した

   *

 

THE MIRROR MAIDEN

 

   In the period of the Ashikaga Shōgunate the shrine of Ogawachi-Myōjin, at Minami-Isé, fell into decay; and the daimyō of the district, the Lord Kitahataké, found himself unable, by reason of war and other circumstances, to provide for the reparation of the building. Then the Shintō priest in charge, Matsumura Hyōgo, sought help at Kyōto from the great daimyō Hosokawa, who was known to have influence with the Shōgun. The Lord Hosokawa received the priest kindly, and promised to speak to the Shōgun about the condition of Ogawachi-Myōjin. But he said that, in any event, a grant for the restoration of the temple could not be made without due investigation and considerable delay; and he advised Matsumura to remain in the capital while the matter was being arranged. Matsumura therefore brought his family to Kyōto, and rented a house in the old Kyōgoku quarter.

   This house, although handsome and spacious, had been long unoccupied. It was said to be an unlucky house. On the northeast side of it there was a well; and several former tenants had drowned themselves in that well, without any known cause. But Matsumura, being a Shintō priest, had no fear of evil spirits; and he soon made himself very comfortable in his new home.

 

   In the summer of that year there was a great drought. For months no rain had fallen in the Five Home-Provinces; the river-beds dried up, the wells failed; and even in the capital there was a dearth of water. But the well in Matsumura's garden remained nearly full; and the water—which was very cold and clear, with a faint bluish tinge—seemed to be supplied by a spring. During the hot season many people came from all parts of the city to beg for water; and Matsumura allowed them to draw as much as they pleased. Nevertheless the supply did not appear to be diminished.

   But one morning the dead body of a young servant, who had been sent from a neighboring residence to fetch water, was found floating in the well. No cause for a suicide could be imagined; and Matsumura, remembering many unpleasant stories about the well, began to suspect some invisible malevolence. He went to examine the well, with the intention of having a fence built around it; and while standing there alone he was startled by a sudden motion in the water, as of something alive. The motion soon ceased; and then he perceived, clearly reflected in the still surface, the figure of a young woman, apparently about nineteen or twenty years of age. She seemed to be occupied with her toilet: he distinctly saw her touching her lips with béni.* At first her face was visible in profile only; but presently she turned towards him and smiled. Immediately he felt a strange shock at his heart, and a dizziness came upon him like the dizziness of wine, and everything became dark, except that smiling face,—white and beautiful as moonlight, and always seeming to grow more beautiful, and to be drawing him down—down—down into the darkness. But with a desperate effort he recovered his will and closed his eyes. When he opened them again, the face was gone, and the light had returned; and he found himself leaning down over the curb of the well. A moment more of that dizziness,—a moment more of that dazzling lure,—and he would never again have looked upon the sun...

      * A kind of rouge, now used only to color the lips.

   Returning to the house, he gave orders to his people not to approach the well under any circumstances, or allow any person to draw water from it. And the next day he had a strong fence built round the well.

 

   About a week after the fence had been built, the long drought was broken by a great rain-storm, accompanied by wind and lightning and thunder,—thunder so tremendous that the whole city shook to the rolling of it, as if shaken by an earthquake. For three days and three nights the downpour and the lightnings and the thunder continued; and the Kamogawa rose as it had never risen before, carrying away many bridges. During the third night of the storm, at the Hour of the Ox, there was heard a knocking at the door of the priest's dwelling, and the voice of a woman pleading for admittance. But Matsumura, warned by his experience at the well, forbade his servants to answer the appeal. He went himself to the entrance, and asked,—

   "Who calls?"

   A feminine voice responded:—

   "Pardon! it is I,—Yayoi!*... I have something to say to Matsumura Sama,—something of great moment. Please open!"...

      * This name, though uncommon, is still in use.

   Matsumura half opened the door, very cautiously; and he saw the same beautiful face that had smiled upon him from the well. But it was not smiling now: it had a very sad look.

   "Into my house you shall not come," the priest exclaimed. "You are not a human being, but a Well-Person.... Why do you thus wickedly try to delude and destroy people?"

   The Well-Person made answer in a voice musical as a tinkling of jewels (tama-wo-korogasu-koë):—

   "It is of that very matter that I want to speak.... I have never wished to injure human beings. But from ancient time a Poison-Dragon dwelt in that well. He was the Master of the Well; and because of him the well was always full. Long ago I fell into the water there, and so became subject to him; and he had power to make me lure people to death, in order that he might drink their blood. But now the Heavenly Ruler has commanded the Dragon to dwell hereafter in the lake called Torii-no-Iké, in the Province of Shinshū; and the gods have decided that he shall never be allowed to return to this city. So to-night, after he had gone away, I was able to come out, to beg for your kindly help. There is now very little water in the well, because of the Dragon's departure; and if you will order search to be made, my body will be found there. I pray you to save my body from the well without delay; and I shall certainly return your benevolence."...

   So saying, she vanished into the night.

 

   Before dawn the tempest had passed; and when the sun arose there was no trace of cloud in the pure blue sky. Matsumura sent at an early hour for well-cleaners to search the well. Then, to everybody's surprise, the well proved to be almost dry. It was easily cleaned; and at the bottom of it were found some hair-ornaments of a very ancient fashion, and a metal mirror of curious form—but no trace of any body, animal or human.

   Matusmura imagined, however, that the mirror might yield some explanation of the mystery; for every such mirror is a weird thing, having a soul of its own,—and the soul of a mirror is feminine. This mirror, which seemed to be very old, was deeply crusted with scurf. But when it had been carefully cleaned, by the priest's order, it proved to be of rare and costly workmanship; and there were wonderful designs upon the back of it,—also several characters. Some of the characters had become indistinguishable; but there could still be discerned part of a date, and ideographs signifying, "third month, the third day." Now the third month used to be termed Yayoi (meaning, the Month of Increase); and the third day of the third month, which is a festival day, is still called Yayoi-no-sekku. Remembering that the Well-Person called herself "Yayoi," Matsumura felt almost sure that his ghostly visitant had been none other than the Soul of the Mirror.

   He therefore resolved to treat the mirror with all the consideration due to a Spirit. After having caused it to be carefully repolished and resilvered, he had a case of precious wood made for it, and a particular room in the house prepared to receive it. On the evening of the same day that it had been respectfully deposited in that room, Yayoi herself unexpectedly appeared before the priest as he sat alone in his study. She looked even more lovely than before; but the light of her beauty was now soft as the light of a summer moon shining through pure white clouds. After having humbly saluted Matsumura, she said in her sweetly tinkling voice:—

   "Now that you have saved me from solitude and sorrow, I have come to thank you.... I am indeed, as you supposed, the Spirit of the Mirror. It was in the time of the Emperor Saimei that I was first brought here from Kudara; and I dwelt in the august residence until the time of the Emperor Saga, when I was augustly bestowed upon the Lady Kamo, Naishinnō of the Imperial Court*. Thereafter I became an heirloom in the House of Fuji-wara, and so remained until the period of Hōgen, when I was dropped into the well. There I was left and forgotten during the years of the great war**. The Master of the Well*** was a venomous Dragon, who used to live in a lake that once covered a great part of this district. After the lake had been filled in, by government order, in order that houses might be built upon the place of it, the Dragon took possession of the well; and when I fell into the well I became subject to him; and he compelled me to lure many people to their deaths. But the gods have banished him forever.... Now I have one more favor to beseech: I entreat that you will cause me to be offered up to the Shōgun, the Lord Yoshimasa, who by descent is related to my former possessors. Do me but this last great kindness, and it will bring you good-fortune.... But I have also to warn you of a danger. In this house, after to-morrow, you must not stay, because it will be destroyed."... And with these words of warning Yayoi disappeared.

      * The Emperor Saimei reigned from 655 to 662 (A.D.); the Emperor Saga from 810 to 842.—Kudara was an ancient kingdom in southwestern Korea, frequently mentioned in early Japanese history.—A Naishinnō was of Imperial blood. In the ancient court-hierarchy there were twenty-five ranks or grades of noble ladies;—that of Naishinno was seventh in order of precedence.

      ** For centuries the wives of the emperors and the ladies of the Imperial Court were chosen from the Fujiwara clan—The period called Hōgen lasted from 1156 to 1159: the war referred to is the famous war between the Taira and Minamoto clans.

      *** In old-time belief every lake or spring had its invisible guardian, supposed to sometimes take the form of a serpent or dragon. The spirit of a lake or pond was commonly spoken of as Iké-no-Mushi, the Master of the Lake. Here we find the title "Master" given to a dragon living in a well; but the guardian of wells is really the god Suijin.

 

   Matsumura was able to profit by this premonition. He removed his people and his belongings to another district the next day; and almost immediately afterwards another storm arose, even more violent than the first, causing a flood which swept away the house in which he had been residing.

   Some time later, by favor of the Lord Hosokawa, Matsumura was enabled to obtain an audience of the Shōgun Yoshimasa, to whom he presented the mirror, together with a written account of its wonderful history. Then the prediction of the Spirit of the Mirror was fulfilled; for the Shōgun, greatly pleased with this strange gift, not only bestowed costly presents upon Matsumura, but also made an ample grant of money for the rebuilding of the Temple of Ogawachi-Myōjin.

 

   *

 次に、大谷正信(昭和八(一九三三)年没でパブリック・ドメイン)の訳(新潮文庫昭和二五(一九五〇)年古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」)を示す。これはサイト「別館 しみじみと朗読に聴き入りたい」のこちらのページこちらのPDF画像を視認した。傍点「ヽ」は太字とした。底本の右注記号は《 》で本文に入れた。

   *

 

     鏡の少女

 

 

 足利將軍時代に南伊勢の大河内明神の神社が頽廢したところ、其國の大名北畠公は戰爭や他の事情の爲めに、其建物の修繕を圖ることが出來なかつた。そこで、其社を預つて居た神官の松村兵庫といふが京都へ行つて、將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名の細川公に助力を求めた。細川公は其神官を懇切にもてなし、大河内明神の有樣を將軍に言上しようと約束した。然し、兎に角、社殿修理の許可は相當な取調べをし、又、可也手間を取らねば與へられまいと云つて、事が取極められる間、都に止まつて居るやうにと松村に勸めた。其處で松村は家族の者を京都へ呼び寄せて、昔の京極の處に家を一軒借りた。

 この家は、綺麗で廣かつたが、長い間、人が住まずに居たのであつた。不吉な家だと世間で言つて居つた。その東北側に井戸が一つあつた。そして、何んとも原因知れずに、その井戸で溺死した前の借家人が幾人もあつたからである。然し松村は、神官のことだから、惡靈など更に恐れず、直ぐと、この新居で居心地よく暮した。

 その年の夏大旱魃があつた。幾月も一滴の雨も五畿内に降らなかつたので、川床は涸れ、井戸は干て、この都にさへ水の拂底を見た。ところが、松村の庭の井戸は相變らず水が殆んど一杯で、その――非常に冷たく淸く、微かに靑味を帶びて居た――水は泉が供給するらしく思はれた。暑い季節の間、町の方方から水貰ひに多勢人が來たが、松村は欲しいだけいくらでも人に汲ませた。それでも水の供給は滅るやうには見えなかつた。

 ところが、或る朝、近處の家から水汲みに來た、年若い下男の死骸が、其井戸に浮んで居るのが見つかつた。自殺の原因は何一つ想像出來なかつたので、松村は、其井戸に就いての面白からぬ話を數數想ひ出して、何か眼に見えぬ怨恨の業ではないか知らと疑ひ始めた。そこで、其まはりに垣を造らせようと思つて、其井戸を檢べに行つた。すると、獨りで其處に立つて居る間に、水の中で、何か生きて居る物がするやうに、突然、物が動くので驚いた。其動きがやがて歇むと、見た處十九か二十歳ぐらゐの若い女の姿が、其靜かな水面に明らかに映つて居るのが見えた。切(しき)りとお化粧をして居るやうで、唇へ紅(べに)をさすのが判然(はつきり)見えた。初めは其顏は橫顏だけ見えてゐたが、やがてのこと、その女は松村の方を向いてにつこりと笑つた。直ぐに其心臟に異常な衝動を感じ、酒に醉つたやうに眩暈がして、――月の光りの如く白くまた美しく、いつも次第に美しさを增すやうに思はれ、また闇黑へ彼を引き下ろさう、下ろさうとするやうに思はれる、そのにこりとした顏だけが殘つて、一切の物が暗くなつた。だが、彼は一所懸命に意志を取り戾して眼を閉ぢた。それから眼を開けて見たら、その顏は消えて居り、世は明かるくなつて居た。そして自分は井桁から下へうつむいて居ることを知つた。あの眩暈(めまひ)がもう一秒續いたなら――あのまぶしい誘惑がもう一秒續いたなら、二度と日の目を見ることは出來なかつたことであらう。……

 家へ歸ると、皆の者にどんな事があらうと、その井戸へ近寄らぬやう、どんな人にもその水を汲ませぬやう命じた。そして、その翌日、丈夫な垣をその井戸のまはりに造らせた。

 

 垣が出來てから一週間許りすると、その長の旱天(ひでり)が風と稻光りと雷――全市が、その轟きで地震で顫へるやうに、ふるへたほどの恐ろしい雷――との伴うた大風雨で絶えた。三日三晩その土砂降りと電光と雷鳴とが續き、鴨河は未だ嘗て見ぬほど水嵩が增して、多く橋を流し去つた。その風雨の三日目の夜、丑の刻に、その神官の家の戸を敲くものがあつて、内へ入れて呉れと賴む女の聲が聞えた。が、松村は井戸での事を思ひ出して、あぶないと思つたから、その哀願に應ずることを召使の者共に禁じた。自分で入口の處へ行つて、かう訊ねた。

『誰れだ』

 すると女の聲が返事した。

『御免下さい! 私で御座います――あの彌生で御座います!……松村樣に申し上げたい事が――大切な事が御座いまして、何卒(どうぞ)、開けて下さいませ!』……

 松村は用心しで戸を半分開けた。すると井戸から自分を見てにこりと笑つた、あの美しい顏が見えた。しかし今度はにこにこしては居ないで、大變悲しさうな顏をして居つた。

『私の家へは、はいらせぬ』と神官は呶鳴つた。『お前は人間では無い。井戸の者だ。……何故、お前はあんなに意地惡るく人を騙して殺さうとするのだ?』

 その井戸の者は珠のちりんちりん、いふやうな調子のいい聲(タマヲコロガスコヱ)で返事した。

『私の申し上げたいと思ひますのは、その事に就いてで御座います。……私は決して人を害ねようとは思つて居りません。が、古昔(むかし)から毒龍があの井戸に棲んで居りました。それがあの井戸の主で御座いました。それであの井戸には水がいつも一杯にあるので御座います。ずつと前に、私はあの水の中へ落ちまして、それであれに仕へることになつたので御座います。自分がその血を飮むやうにと、私に、人を騙して死なせるやうにさせたので御座います。が、今後は信州の鳥井ノ池といふ池に隱むやう神樣が、今度、御云ひ附けになりまして、神樣はあれをこの町へ二度と歸らせてはやらぬと御極めになりました。で、御座いますから今夜、あれが去(い)つてしまつてからあなた樣のお助けを御願ひに、出て末ることが出來たので御座います。その龍が去(い)つてしまひましたから、今、井戸には水が少ししか御座いません。云ひ附けて探させて下されば、私の身體(からだ)が見つかるで御座いませう。どうか、御願ひで御座います、早く私の身體(からだ)を井戸から出して下さいませ。屹度、御恩返しは致しますから』……

 かう言つてその女は闇へ消えた。

 

 夜明けまでに風雨は過ぎ去つた。日が出た時には澄んだ靑空に雲の痕も無かつた。松村は早朝、井戸掃除屋を呼びに遣つて、井戸の中を搜させた。すると誰れもが驚いたことには井戸は殆んど干涸らびてゐた。容易(たやす)く掃除された。そして其底に頗る古風な髮飾りと妙な恰好の金屬の鏡とが見附かつたが――身體(からだ)は動物のも人間のも、何んの痕跡も無かつた。

 だが、松村は此鏡が、その神祕の説明を與へはせぬか知らと想つた。そんな鏡はいづれも己の魂を有つて居る不思議な品物で――鏡の魂は女性だからである。その鏡は餘程古いもののやうで、錆が厚く著いて居つた。が、神官の命で丁寧に、それを掃除させて見ると、稀なそして高價な細工だといふことが判り、その裏に奇妙な模樣があり、文宇も數數あることが知れた。その文字には見分けられなくなつて居るものもあつたが、日附の一部分と、『三月三日』といふ意味の表意文字とは見極はめることが出來た。ところで、三月は昔は彌生(いや增すといふ意味)と云つたもので、祭り日となつて居る三月の三日は、今なほ彌生の節句と呼んで居る。あの井戸の者が自分の名を『彌生』と云つたことを想ひ起こして松村は、自分を訪ねた靈の客は、この鏡の魂に他ならぬ、と殆んど確信した。

 だから、その鏡は靈に對して拂ふべき顧慮を以て、鄭重に取り扱はうと決心した。丁寧に磨きなほさせ、銀を著けなほさせてから、貴重な木でそれを容れる箱を造らせ、その箱を仕舞つて置く別室を家の中に用意させた。すると、その箱を恭しくその部屋へ置いた、丁度その日の晩に、神官が獨りで書膏齋に坐つて居ると忽然、その彌生が、その前へ姿を現した。前よりも、もつと美しいぐらゐであつたが、その美はしさの光りは、今度は淸い白雲を透して輝く夏の月の光りの如く軟かいものであつた。頭低く、松村に辭儀をしてから、玉のやうな美くしい聲でかう言つた。

『あなたが、私の獨り住居を救ひ、私の悲しみを除(と)つて下さいましたから、御禮に上りました。……私は、實は、御察しの通り、鏡の魂なので御座います。齊明天皇の御世で御座いました。私は百濟から始めてこちらへ連れて來られたので御座いまして、嵯峨天皇の時まで、御屋敷に住まつて居たので御座いますが、天皇は私を皇居の加茂内親王に御與へになつたので御座います。その後、私は藤原家の寶物になりまして、保元時代まで《*》でゐましたが、その時にあの井戸へ落とされたので御座います。あの大戰爭《**》の幾年の間私は其處に置かれたまま人に忘れられて居たので御座います。その井戸の主《***》は、元は此邊一帶にあつた大池に棲んでゐた毒龍で御座いました。その大池が、お上(かみ)の命令で、家を其處へ建てる爲めに、埋められましてから、その龍はあの井戸を我が物にしたので御座います。私はあの井戸へ落ちてから、それへ仕へることになりまして、あれが無理に私に人を多く死なせるやうにしたので御座います。だが、神樣があれを永久に追ひ拂ひになりました。……あの、私に、も一つ御願ひが御座います。私の前の持主と家柄が續いて居りますから、將軍義政公へ私を獻上して下さいませんでせうか、御願ひ致します。最後のこの御深切さへして戴けますれば、私はあなた樣に幸福を持つて參りませう。……が、その上にあなた樣の身に危ふいことがあることを御知らせ致します。この家には、明日から、おいでになつてはいけません。この家は壞れますから』……

 そしてかう警戒の言葉を述べると共に、彌生は姿を消した。

 松村はこの豫戒によつて利益を享けることが出來た。翌日、自分の家の者共と品物とを別な町へ移した。すると殆んどその直ぐ後に、初めのよりかもつと猛烈なくらゐの暴風が起こつて、その爲めの洪水で、それまで住まつてゐた家は流されてしまつた。

 その後暫くして松村は、細川公の厚意によつて將軍義政に謁見するを得て、その不思議な來歷を紙に書いたものと一緒に、かの鏡を獻上した。そして、その時鏡の魂の豫言が實行された。將軍はこの珍らしい贈り物を大いに喜ばれて、松村へ高價な贈物を與へられたばかりで無く、大河内明神の神殿再建に澤山の寄附金をされたからである。

[やぶちゃん注:以下の注記は、底本では総て下インデント。]

*〔齊明天皇の治世は六五五年(紀元)から六六二年まで。嵯峨天皇は八一〇年から八四二年まで。百濟は朝鮮の西南部にあつた古の王國で、初期の日本史によくその名が出て居る。内親王は皇室の血統の方。昔の宮廷階級には高貴な婦人に二十五階級あつて、内親王は席次では第七階であつた〕

**〔幾世紀の間、天皇の好配と宮廷の貴女とは藤原家から選まれた。保元時代は一五六年から一一五九年まで。ここに云ふ戰爭は平家源氏間の、あの有名な戰爭〕

***〔昔の信仰では湖・泉にはいづれも眼には見えぬ守護者があつて、時に蛇又は龍の姿を取ると想はれて居た。湖水や池の靈は普通イケノヌシ卽ち『池の主』と云つて居た。此處(ぬし)[やぶちゃん注:「ぬし」は「處」へのルビ。]には『主』といふ名を井戸に棲む龍に與へてあるが、本當は井戸の守護者は水神といふ神である〕 (大谷正信譯)

  The Mirror Maiden.The Romance Of The Milky Way And Other Studies & Stories.”

   *

最後に附された注は原注の抜粋訳である。なお、「加茂内親王」は一般名詞で、賀茂斎院のことであろう。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女を指し、伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」とも称した。

   *

 

 最後に、前に示した通り、晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻之第五」の「松村兵庫古井の妖鏡」を一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」を参考底本としつつ、恣意的に漢字を正字化して以下に示す。読み(左読みの和訓があるようだが、概ね排除し、一部に私が注で入れ込んだ)は一部に限った。多量の歴史的仮名遣の誤りは総てママである。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 南勢(なんせい)大河内の郷ハそのかミ國司の府にて南朝の頃までハ北畠殿こゝにおハして一方を領(るやう)じたまふ國府の西南に大河内明神の社(やしろ)あり國司より宮宇(きうう)も修理(しゅり)したまひ神領もあまた寄(よせ)られしが漸(やうや)く衰廢して嘉吉文安の頃にいたりてハ社頭も雨露(うろ)におかされたまふ風情なりしかバ祠官(しくハん)[やぶちゃん注:神主と同義。]松村兵庫(まつむらへうご)なるもの都に登りて時の管領(くハんれい)細川家に由緒あるにたよりて修造(しゆざう)の事を訴ふるといへども前(ぜん)將軍義教公赤松がために弑(しい)られたまひ後嗣(こうし)もほどなく早世(さうせい)ありて義政公將軍の職を繼(つぎ)たまふ打續(うちつゞき)て公(をゝやけ)の事(こと)繁きに其事となくすぎ侍(はんべ)れハ兵庫ハもとより文才もかしこく和歌の道なども幼(いとけなき)より嗜(たし[やぶちゃん注:「なみ」の脱か。])たりしかバ幸(さいハひ)に滯留して其奧儀(おうぎ)をもきハめんと京極今出川の北に寓居(くうきよ)して公の沙汰を待居(まちゐ)たり旅館の東北(ひがしきた)にあたりて一(ひとつ)の古井(こせい)ありてむかしより時々よく人を溺(をぼ)らすときゝたれども宅眷(たくけん[やぶちゃん注:左ルビで「かない」とするらしい。])とてもなく從者(じゆしや)一人のミなれバ心にも挾(さしはさ)まず暮しけり其頃畿内大(をゝゐ)に旱(ひでり)して洛中も水に乏しき折にもかの古井ハ涸(かる)ることなく水(ミづ)藍(あい)のごとくミちたれバ近隣より汲(くミ)とる者多しされとも人々心して汲(くみ)ゆへにや溺るゝ者もなかりしに或日(あるひ)暮(くれ)の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)例のごとく汲(くま)んとして久しく井中(いちう)を窺ひ居たるをあやしと見るうちに忽(たちまち)墜(をち)いりて溺れ死したり井水(いすい)きわめて深けれバ數日(すじつ)を經て漸くその死骸をもとめ得たり是より兵庫あやまちあらん事を怖れて垣など嚴しくしつらひたりしが去(さる)にてもあやしとおもふよりたちよりて竊(ひそか)に窺ふに中に年の頃廿(はたち)ばかりと覺しき女のなまめけるが粧飾(さうしよく)いとうるハしく粧(よそほ)ひてあり兵庫をミてすこし顏そむけて笑ふ風情(ふぜい)その艷(えん)なる事世のたぐひにあらず魂(たましい)飛(とび)こゝろ動(うごき)てやがてちかよらんとせしがおもひあたりて扨はかくして人を溺らす古井の妖なるべしあなをそろしと急に立(たち)さりて從者にも此よしかたく制して近付(ちかづか)しめず或夜(よ)二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。]の頃より風雨はなハだ烈しく樹木を倒(たを)し屋瓦(をくぐハ)を飛(とバ)せ雨ハ盆を傾(かたぶ)くるごとく閃電(せんでん)晝のごとく霹靂をびたゝしく震ひ天柱(てんちう)も折(くじ)け地維(ちゆい)[やぶちゃん注:普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱。転じて大地の意。「天柱」の対語。]も崩るゝかとおもふうちに天晴(そらはれ)て夜も明(あけ)たるに兵庫とく起(をき)て窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ表に女の聲して案内を乞ふ誰(たそ)ととヘバ彌生(やよひ)と答ふ兵庫あやしミながら裝束(しやうぞく)して戸をひらき一間に請(しやう)じてこれを見れバ先に井中にありし女なり兵庫が云(いハく)女郎(ぢよらう)ハ井中の人にあらずや何ぞミだりに人を惑して殺すや女云(いハく)妾(せう)ハ人をころす者にあらず此井毒龍(どくりやう)ありてむかしよりこゝにすむゆへに大旱(たいかん)といへども水かるゝ事なし妾(せう)ハ中音(なかむかし)井に墜(をち)て遂に龍(りやう)のために役便(えきし)セられやむことを得ずして色(いろ)を以て人を惑し或ハ衣裝粧具(さうぐ)の類(るい)を以て欺(あざむ)きすかして龍(りやう)の食ふところに供するのミ龍(しやう)人血(にんけつ)をこのミて妾(せう)をしてこれを辨(べん)ゼしむる[やぶちゃん注:処理させる。]其辛苦堪(たへ)がたし昨夜天帝の命ありてこゝをさりて信州鳥居(とりゐ)の池にうつらしむ今(いま)井中主(ぬし)なし此時君(きミ)人をして妾(せう)を拯(すくふ)て井を脱(だつ)セしめ給へもし脱することを得バおもく報ひ奉るべしといひ終りて行方(ゆくがた)をしらず兵庫數人(すにん)をやとひて井をあバかしむるに水涸(かれ)て一滴もなしされども井中他(た)のものなく唯(たゝ)笄簪(けんさん[やぶちゃん注:左ルビで「かうがいかんざし」とあるようである。])のるいのみなり漸(やうや)く底に至りて一枚の古鏡(こきやう)ありよくよくあらひ淸めて是をミるに背に姑洗之鏡(きせんのかゞみ)といふ四字の款識(あふしき)ありてさてハ彌生といひしは此ゆへなりと香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を淸め匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)し一間なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに其夜女又來りて云(いふ)やう君(きミ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)ミをのがれて世に出ることを得侍(えはんべ)るうへ不淨を淸めて穢(けがれ)をさりたまひしゆへとし月の腥穢れ(せいえ[やぶちゃん注:左に「なまぐさきけがれ」とルビがあるらしい。])をわすれ侍りそも此井ハむかし大(をゝゐ)なる池なりしを遷都の時埋(うづ)めたまひ漸(やうやう)形ばかりをのこしたまふ都を遷(うつ)したまふときハ八百神(やをよろづ)の神々きたりたすけ給ふゆへ其(その)むかしよりすミたりし毒龍(どくりう)もせんすべなくして井中(せいちう)をしめてすまひ侍り妾(せう)ハ齊明天皇の時百濟國(くだらこく)よりワたされて久しく宮中に祕め置(おか)れしが嵯峨天皇のときに皇女賀茂の内親王にたまハり夫(それ)より後(のち)兼明(かねあきら)親王[やぶちゃん注:延喜一四(九一四)年生まれで永延元(九八七)年没。醍醐天皇の第十六皇子で朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。ここはィキの「兼明親王に拠った。]の許(もと)に侍(はんべ)り遂に藤原家に傳ハり御堂殿(みどうどの)[やぶちゃん注:藤原道長。]ことに祕藏したまひしが其後(のち)保元(ほうげん)の亂に誤りて此(この)井に墜(をち)てより長く毒龍(どくりう)に責(せめ)つかハれて今日(こんにち)にいたる十二律(りつ)にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)妾(せう)ハ三月三日に鑄る所の物なり君(きミ)妾(せう)を將軍家にすゝめたまハゞ大(をゝゐ)なる祥(さいわい)を得給ふべし其上此所(このところ)久しくすミたまふ所にあらずとく外(ほか)に移り給へと懇(ねんごろ)にかたり終りてかきけすごとくにして其形をミず兵庫その詞(ことバ)のごとく翌日外(ほか)に移りて事のやうを窺ふに次の日故(ゆへ)なくして地をちいり家(いへ)も崩(くずれ)たりますます鏡(かゞみ)の靈(れい)にして報ゆるところなるをさとりてこれを將軍家に奉るにそのころ義政公古翫(こぐハん[やぶちゃん注:左ルビで「ふるどうぐ」とあるらしい。])を愛したまふ折(をり)なれバはなハだ賞(しやう)したまひ傳來するところまであきらかに侍(はんべ)るにぞ第一の奇寶(きほう)としたまひ兵庫にハ其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ猶も社頭再建ハ公(をゝやけ)より沙汰すべきよしの嚴命をかうむりて兵庫ハ本意(ほゐ)のごとく多年の愁眉(しうび)をひらきぬ其後(のち)此(この)鏡故(ゆへ)ありて大内(をゝち)の家に賜りしが義隆戰死の後ハその所在をしらずとぞいひつたへ侍(はんべ)る

   *

参考底本の解説でも述べられているが、小泉八雲は典拠の展開順序を少し入れ替えた上、細部に手を加えて整合性を出している。最初に発生する不審な井戸での溺死者を「隣家の婢」から「近所の下男」と変更しているのは、誘惑する「彌生」が女(形)であるから、八雲の処理の方が腑に落ち、彌生の最初の訪問も原話は嵐の晴れた中であるが、八雲は嵐の中に設定しており、これは彌生の話の毒龍移動の最中を思わせてしっくりくる。また、エンディングも原話が大陥没による崩落で家が倒壊するところを、龍との絡みを駄目押しに考えたものであろう、激しい大暴風の洪水で完膚までに流されてしまうという泉鏡花好みのカタストロフ処理を施しているのも小気味よい。

 

2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」

 

 執念の轉化

 

 或家で僕を手討ちにしなければならぬことになつた。本當はそれほど大きな罪でもなかつたのであるが、この男を斬らぬと、人に對して義理の立たぬ事があつたので、已むを得ず刀の錆にせざるを得なかつたのである。僕は怨み且つ憤り、私は何も手討ちになるほどの罪があるわけではない、死後に崇りをなして、取り殺さずには置かぬといふ。その時主人は笑つて、その方にわしを取り殺すことが出來るものか。もし出來るといふなら證據を見せい、これから首を刎ねる時、その首が飛んで庭石に嚙み付いたなら、その方が祟りをなす證據としよう、と云つた。然るに刎ねられた首は、主人の云つた通り石に嚙み付いたから、家内の者の恐怖は一通りでなかつたが、祟りは一向にない。或人がその理由を尋ねたら、主人の答へはかうであつた。あの男は初め祟りをなして、わしを取り殺さうといふ心が切(せつ)であつたが、後には石に嚙み付いて證據を見せようといふ志が專らになつた、首を刎ねられる刹那には、己に崇りをなすことを忘れて居つたから、何事もないのだ。

 小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる。「小泉八雲全集」はその出所を記して居らぬが、多分右に擧げた「世事百談」の話に據つたものであらう。「世事百談」は天保十四年の刊本であるが、この話の先蹤と見るべきものが、享保十七年刊の「太平百物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:『小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる』これはKwaidan(一九〇四年)のDiplomacyDiplomacy:情勢を繊細且つ巧みに処理すること・公務の処理における賢明な行動・外交・外交的手腕・外交上の駆け引き・国家間交渉/他者との交渉上の駆け引き/如才なさ/礼儀の意。ラテン語で「旅券・公文書」を語源とする。原文を、英文のテクスト・サイトのこちらにあるものを一部に手を加えて示す。

   *

 

DIPLOMACY

 

IT HAD BEEN ORDERED that the execution should take place in the garden of the yashiki. So the man was taken there, and made to kneel down in a wide sanded space crossed by a line of tobi-ishi, or stepping stones, such as you may still see in Japanese landscape-gardens. His arms were bound behind him. Retainers brought water in buckets, and rice-bags filled with pebbles; and they packed the rice-bags round the kneeling man ― so wedging him in that he could not move. The master came, and observed the arrangements. He found them satisfactory, and made no remarks.

   Suddenly the condemned man cried out to him:

"Honored sir, the fault for which I have been doomed I did not wittingly commit. It was only my very great stupidity which caused the fault. Having been born stupid, by reason of my karma, I could not always help making mistakes. But to kill a man for being stupid is wrong ― and that wrong will be repaid. So surely as you kill me, so surely shall I be avenged; ― out of the resentment that you provoke will come the vengeance; and evil will be rendered for evil."

   If any person be killed while feeling strong resentment, the ghost of that person will be able to take vengeance upon the killer. This the samurai knew. He replied very gently ― almost caressingly:

"We shall allow you to frighten us as much as you please ― after you are dead. But it is difficult to believe that you mean what you say. Will you try to give us some sign of your great resentment ― after your head has been cut off?"

"Assuredly I will," answered the man.

"Very well," said the samurai, drawing his long sword; ― "I am now going to cut off your head. Directly in front of you there is a stepping-stone. After your head has been cut off, try to bite the stepping-stone. If your angry ghost can help you to do that, some of us may be frightened. . . . Will you try to bite the stone?"

"I will bite it!" cried the man, in great anger ― "I will bite it! ― I will bite ― "

There was a flash, a swish, a crunching thud: the bound body bowed over the rice sacks ― two long blood-jets pumping from the shorn neck; ― and the head rolled upon the sand. Heavily toward the stepping-stone it rolled: then, suddenly bounding, it caught the upper edge of the stone between its teeth, clung desperately for a moment, and dropped inert.

   None spoke; but the retainers stared in horror at their master. He seemed to be quite unconcerned. He merely held out his sword to the nearest attendant, who, with a wooden dipper, poured water over the blade from haft to point, and then carefully wiped the steel several times with sheets of soft paper…. And thus ended the ceremonial part of the incident.

   For months thereafter, the retainers and the domestics lived in ceaseless fear of ghostly visitation. None of them doubted that the promised vengeance would come; and their constant terror caused them to hear and to see much that did not exist. They became afraid of the sound of the wind in the bamboos ― afraid even of the stirring of shadows in the garden. At last, after taking counsel together, they decided to petition their master to have a Ségaki-service performed on behalf of the vengeful spirit.

"Quite unnecessary," the samurai said, when his chief retainer had uttered the general wish. . . . "I understand that the desire of a dying man for revenge may be a cause for fear. But in this case there is nothing to fear."

   The retainer looked at his master beseechingly, but hesitated to ask the reason of this alarming confidence.

"Oh, the reason is simple enough," declared the samurai, divining the unspoken doubt. "Only the very last intention of that fellow could have been dangerous; and when I challenged him to give me the sign, I diverted his mind from the desire of revenge. He died with the set purpose of biting the stepping-stone; and that purpose he was able to accomplish, but nothing else. All the rest he must have forgotten. . . So you need not feel any further anxiety about the matter."

   And indeed the dead man gave no more trouble. Nothing at all happened.

   *

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「はかりごと」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認することが出来る。

 なお、本作は、偏愛する平井呈一氏(一九六五年岩波文庫版及び一九七五年恒文社刊「小泉八雲作品集」)・上田和夫氏(一九七五年新潮文庫刊「小泉八雲集 怪談・骨董 他」)は孰れも「かけひき」で、私の小学校時代の小泉八雲原体験書である一九六七年角川文庫版田代三千稔氏訳「怪談・奇談」では「はかりごと」で、講談社学術文庫版「怪談・奇談」の平川祐弘氏訳では「策略」となっている。柴田の謂う、その訳標題は、第一次の小泉八雲全集(一九二六年第一書房刊)での田部隆次の訳「術數」を指しているものと思われる。因みに、小泉八雲直弟子のその田部氏の同作の訳(先の全集版と全く同じかどうかは不明だが、表題は同じく「術數」である)は、後の一九五〇年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」に載り、「日本の名作名文ハイライト」の「電子テキスト」のこちらPDF版)で入手出来、読める。

 柴田が指す「世事百談」のそれは「卷之三」に載る「欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散ず」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 欺て寃魂を散ず

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因となれる如く、狂氣するものも金銀(きんぎん)のことか。色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云(いふ)を、さにあらず、家業(かげふ)といへども殺生(せつしやう)の報(むくひ)はあることゝて、庭なる露しげくおきたる樹(き)をゆり見よとこたへけるま1、やがてその木(こ)の下(もと)に行(ゆき)て動(うご)しければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云やう、怨みのかゝるもその如く云(いひ)つけたる人よりは太刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや。諺(ことわざ)にも盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩(なは)とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話(はなし)あり。何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、指(さし)たる罪なかりしが、その僕を斬(きら)ざれば(ひと)人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人その僕を手討(てうち)にせんとす。僕、憤り怨(うらみ)て云(いふ)、吾(われ)さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟(たゝ)りをなして、必(かならず)取殺(とりころ)すべしと云(いふ)。主人わらひて汝(なんぢ)何(なに)ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや。といへば、僕、いよいよいかりて、見よとり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の證(しよう)もなし。今その證を我に見せよ。その證には汝が首を刎(はね)たる時、首飛(とん)で庭石に齧(かみ)つけ。夫(それ)を見ればたゝりをなす證とすべしと云(いふ)。さて首を刎(はね)たれば、首飛びて石に齧(かみ)つきたり。その後(のち)何(なに)のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、僕初(はじめ)にはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切(せち)なり、後には石に齧(かみ)つきてその驗(しるし)を見せんとおもふ志(こゝろざし)のみ專(もは)らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)たるによりて祟(たゝり)なしといへり。

   *

「天保十四年」一八四三年。

「享保十七年」一七三二年。

「太平百物語」菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。大坂心斎橋筋の河内屋宇兵衛を版元とする。五巻五十話。目次の後には後編を後に出す旨の記載があり、真正の百物語(よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない。リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附))。以下は同書の「卷一 四 富次郎娘蛇に苦しめられし事」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。挿絵も添えた。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに添え、必ずしも参考底本には従っていない。事実、原典が歴史的仮名遣を誤っている部分もあるからである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「步(ほ/あゆみ)」は原典の読みルビと左ルビとしてある意味風添書きを示したもの。

   *

       四 富次郎娘蛇に苦しめられし事
 

Mtomijiroumusumehebi

 越前の國に富次郎とて代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持ちたる人有り。此富次郎一人の娘をもてり。今年十五歳なりけるが、夫婦の寵愛殊にすぐれ、生れ付きもいと尋常にして、甚だみめよく常に敷島の道に心をよせ、明暮れ琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。或る時、座敷の緣に出(いで)て庭の氣色を詠めけるに、折節初春の事なれば、梅に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

  わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

   風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや聞きて、「げにおもしろくつゞけ給ふものかな。御身の言の葉にて、わらはもおもひより侍る」とて、取りあへず、

  春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝になきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠じられければ、此娘聞きて、「實(げ)によくいひかなへさせたまひける哉」と、互に親子心をなぐさめ樂しみ居(をり)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小蛇(こへび)壱疋(いつぴき)するするといでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上るほどに、「あらおそろしや」と内(うち)にかけいれば、蛇も同じく付いて入る。人々あはて立ち出でて、杖をもつて追ひはらへども、少しもさらず。此娘の行く方にしたがひ行く。母人(はゝびと)大(おほ)きにかなしみ、夫(をつと)にかくと告げければ、富次郎大きにおどろき、從者(ずさ)を呼びて取り捨てさせけるに、何(いづ)くより來たるともなく、頓(やが)て立ち歸りて娘の傍(そば)にあり。幾度(いくたび)すてゝも元のごとく歸りしかば、ぜひなく打ち殺させて、遙かの谷に捨てけるに、又立ち歸りてもとの如し。こはいかにと切れども突けども、生き歸り生き歸りて、なかなか娘の傍を放れやらず。兩親をはじめ家内の人々、如何(いかゞ)はせんと嘆かれける。娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果て、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱山伏ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(をり)ける。然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞き給ひ、不便(ふびん)の事におぼし召し、富次郎が宅に御入(おい)り有りて、娘の樣體(やうだい)、蛇がふるまひをつくづくと御覽あり、娘に仰せけるやうは、「御身(おんみ)座を立ちて、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行くべし」と。仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たす)けられ、二十步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、蛇も同じくしたがひ行く。娘とまれば、蛇もとまる。時に長老又、「こなたへ」とおほせけるに、娘歸れば蛇も同じく立ち歸る所を、長老衣の袖にかくし持ち給ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此蛇が敷居をこゆる所をつよくおさへ給へば、蛇行く事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り木刀に喰ひ付く所を、右にひかへ持ち給ひし小劍(こつるぎ)をもつて、頭を丁(てう)ど打ち落し給ひ、「はやはや何方(いづかた)へも捨つべし」と。仰せにまかせ、下人等(ら)急ぎ野邊(のべ)に捨てける。其時長老宣(のたま)ひけるは、「最早此後(のち)來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ兩親のなげきおもひやり侍るなり。今よりしては心やすかれ」とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏し拜みけるが、其後は此蛇ふたゝびきたらず。娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事かぎりなし。「誠(まこと)に有難き御僧(おんそう)かな」とて、聞く人感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では全体が一字下げ。]

評じて曰く、蛇木刀に喰ひ付きたる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび娘に付く事能(あた)はず。是れ倂(しか)しながら知識(ちしき)の行なひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一箇(いつこ)に限らず萬(よろづ)の事におよぼして、益ある事少なからず。諸人よく思ふべし。

   *]

 越前國に住む富次郎といふ分限の一人娘が、庭の梅の花を見て歌などを詠んでゐる時、時ならず這ひ出た小蛇に魅入られた。幾度取り捨てさせても歸つて來る。是非なく打ち殺させて、遙かの谷に捨てさせたが、立ち歸ることに變りはない。兩親はじめ家内の人々は深く悲しみ、娘はこれがために次第に弱つて、命も危くなつた。諸寺諸社への祈禱、山伏や聖(ひじり)の呪(まじな)ひ、あらゆる手段を講じて見たけれど、更に驗らしいものが見えず、今は死を待つばかりとなつた時、永平寺の長老が富次郎の宅に來られ、つぶさに樣子を見屆けた上、娘に向ひ、御身座を立つて向うの方に步み行くべし、と命ぜられた。娘は瘦せ細つた身を起し、漸う人に扶けられて二十步ばかり步くと、蛇も同じやうについて行く。娘が止まれば蛇も止まる。今度は此方へと命じ、娘が歸るに從つて蛇も歸るのを、長老は衣の袖に隱し持つた一尺餘りの木刀で、蛇に敷居を越えさせず、強く押へてしまつた。蛇は先へ進むことが出來ないので、木刀を遁れようとしたが、愈々強く押へられて、詮方なさに木刀に喰ひ付いた。その時長老、小劍を以て首を打ち落し、早くどこへでも捨てよと云ひ、下人等が急ぎ野邊に捨てたのを見て、もうこの後來ることはない、御安心あれと挨拶して歸られた。果して蛇は再び來ず、娘も日を經て本復したから、一同よろこぶこと限りなく、感淚を流して長老を有難がつた。

「太平百物語」はこの話に特に評を加へて、蛇は木刀に食ひ付くうち、暫く娘の事を忘れた、その執心の去つたところを首を打ち落したから、再び娘に取り付くことが出來なかつたのである。名僧智識の行ひで、凡慮の及ぶところでないが、この理はこれだけに限らぬ、萬事に及ぼして益あることが少くない、諸人よく思ふべしと云つてゐる。評の意は僕を手討ちにした主人の言葉と同じであるが、二つの話を比較すれば、「太平百物語」の方が遙かに面白い。單に殺す者が人間と異類との相違があるだけではない。一方はそれほどの罪でないのを殺すといふのが不愉快である上に、祟りをなすならば證據を見せよなどと云ひかけ、僕の心の轉化を試みたのは、小泉八雲の名付けた通り「術數」に墮してゐるからである。永平寺の長老は最初から娘の命を救ふために來り、理窟らしいことは一言も云はず、自ら刀を揮つて蛇首を斷じ去つた。前の僕に若干の同情を寄せる者と雖も、この蛇を憐れむ餘地はあるまいと思はれる。尤もこの蛇は何度も殺されてゐるのだから、亡靈になつてゐるわけであるが、その恐るべき執念を木刀の上に轉ぜしめ、徐ろに首を落したのは、活殺自在な禪僧の所行と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:これは私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のように私には思われる。白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である。]

 この話は兩方とも時代が書いてない。書物の刊年から見て、百年以上の距離があることは慥かである。

 

2017/02/27

柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」

 

 小さな妖精

 

 小泉八雲の書いた「ちん・ちん・こばかま」は小さな妖氣の漂ふお伽噺である。美しいけれども無性だつた女の子が、長じて立派な士と結婚する。士が戰ひに行つたあとの家庭は、寂しいと同時に氣樂なものであつたが、その家庭に測らずも不思議な事が起つた。小さな物音に目を覺ました彼女の枕許に、背の高さ一寸そこそこの小人が何百人も踊つてゐる。彼等は主人公の士が祭日に著るやうな上下を著け、小さな大小をさし、此方を見ながら笑ふ。「ちん・ちん・こばかま、よもふけさふらふ、おしづまれ、ひめぎみ、や、とんとん」といふ歌を何遍も何遍も繰り返してうたふのである。この歌の文句は今の人には少し耳遠いから、八雲に從つてその意味を書いて置いた方がいゝかも知れぬ。「私等はちん・ちん・こばかまです――時もおそうございます、おやすみなさい、姫君樣」

[やぶちゃん注:「無性」「ぶしやう」で無精なこと。

 以下の話は小泉八雲の「ちりめん本」童話Chin Chin Kobakama(明治三六(一九〇三)年刊)。“Internet Archive”こちらで美しい「ちりめん本」原画像で原文が読め、ダウンロードも出来る。]

 言葉は丁寧のやうでも、彼等が自分をいぢめるつもりであることはよくわかつた。彼等は彼女に向つて意地の惡い顏付もするからである。勇氣を起してつかまへようとしたが、すばしこくて捉へられぬ。追ひ拂はうとしても逃げず、依然として「ちん・ちん・こばかま」を歌ひ、彼女を嘲るのをやめない。彼等が小さな化物だとわかつた時、彼女は急に恐ろしくなつたが、現在武士の妻になつてゐる以上、そんな事は誰にも打ち明けられぬ。小人どもは毎晩午前二時頃に姿を現し、夜の明けるまで歌ひ且つ踊る。彼女は眠られぬためと恐怖とで遂に病氣になつた。そのうちに主人公が歸つて來た。彼女から病氣の原因を聞いた主人公は、寢間の押入れに隱れて樣子を窺ふことになつた。「ちん・ちん・こばかま」はその夜も出て踊つたので、士は一刀を拔いて斬り付けた。小人の群れは一時に消え、あとには一つかみの古楊枝が疊の上に殘つた。

 若い武士の妻は無性で爪楊枝を始末せず、疊の間に突きさして置いた。疊を大切にする化物達が腹を立てて、彼女を苦しめたのだといふ委細がわかると、この話の妖氣は忽ち消えて、例の教訓が殘る。彼女は主人公から叱られ、古い爪楊枝は燒き棄てられる。「ちん・ちん・こばかま」の歌は再び聞かれなくなつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「ちいちい袴」には以下のようにある。『ちいちい袴(ちいちいばかま)またはちいちい小袴(ちいちいこばかま)は、新潟県佐渡島に伝わる民話』で以下の通り。『その昔のこと。一人暮しの老婆が夜に家で糸を紡いでいたところ、四角張った顔の袴姿の子男が現れ』『「お婆さん淋しかろう。わしが踊って見せましょう』」『と言って

「ちいちい袴に 木脇差をさして こればあさん ねんねんや』」『と唄いながら、どこかへと消えてしまった』。『老女は気味悪く思って家の中を捜したところ、縁の下に鉄漿付け用の楊枝があった。これを焼き捨てたところ、このような不思議な出来事が起きることはなくなった』。『昔から、鉄漿付けの楊枝は古くなると焼き捨てるものだといわれる』。『岡山県、大分県にも同様の民話がある』。『近年の文献によっては、この話に登場する小男は、楊枝が化けた付喪神(器物が化けた妖怪)と解釈されている』とし、以下の本小泉八雲の「ちんちん小袴」の梗概が載る。なお、小泉八雲のChin Chin Kobakamaの最後にはごく短かく、今一つの教訓話が添えられており、そこではやはり無精な女の子が梅の種を畳に挟んで放置しておいたところ、夜中に振袖姿の小さな女たちが現れて踊り、少女の眠りを妨げて懲らしめたという。「ちりめん本」はそこをも丁寧に絵を添えていて、実に掬すべき愛書となっている。強く、ダウンロード(無論、無料)をお薦めするものである。「ちりめん本」版原画像を底本にして、以下に幾つかの英文テクストを校合して原文を示す。

   *

 

CHIN CHIN KOBAKAMA

 

THE floor of a Japanese room is covered with beautiful thick soft mate of woven reeds. They fit very closely together, so that you can just slip a knife-blade between them, They are changed once every year, and are kept very clean, The Japanese never wear shoes in the house, and do not use chairs or furniture such as English people use. They sit, sleep, eat, and sometimes even write upon the floor. So the mats must be kept very clean indeed, and Japanese children are taught, just as soon as they can speak, never to spoil or dirty the mats.

   Now Japanese children are really very good. All travelers, who have written pleasant books about Japan, declare that Japanese children are much more obedient than English children and much less mischievous. They do not spoil and dirty things, and they do not even break their own toys. A little Japanese girl does not break her doll. No, she takes great care of it, and keeps it even after she becomes a woman and is married. When she becomes a mother, and has a daughter, she gives the doll to that little daughter. And the child takes the same care of the doll that her mother did, and preserves it until she grows up, and gives it at last to her own children, who play with it just as nicely as their grandmother did. So I,― who am writing this little story for you,―have seen in Japan, dolls more than a hundred years old, looking just as pretty as when they were new. This will show you how very good Japanese children are; and you will be able to understand why the floor of a Japanese room is nearly always kept clean,― not scratched and spoiled by mischievous play.

   You ask me whether all, all Japanese children are as good as that? Well―no, there are a few, a very few naughty ones. And what happens to the mats in the houses of these naughty children? Nothing very bad ― because there are fairies who take care of the mats. These fairies tease and frighten children who dirty or spoil the mats. At least-they used to tease and frighten such mischievous children. I am not quite sure whether those little fairies still live in Japan,― because the new railways and the telegraph have frightened a great many fairies away. But here is a little story about them:―

ONCE there was a little girl who was very pretty, but also very lazy. Her parents were rich and had a great many servants; and these servants were very fond of the little girl, and did everything for her which she ought to have been able to do for herself. Perhaps this was what made her so lazy. When she grew up into a beautiful woman, she still remained lazy; but as the servants always dressed and undressed her, and arranged her hair, she looked very charming, and nobody thought about her faults.

   At last she was married to a brave warrior, and went away with him to live in another house where there were but few servants. She was sorry not to have as many servants as she had had at home, because she was obliged to do several things for herself, which other folks had always done for her. It was such trouble to her to dress herself, and take care of her own clothes, and keep herself looking neat and pretty to please her husband. But as he was a warrior, and often had to be far away from home with the army, she could sometimes be just as lazy as she wished. Her husband's parents were very old and good-natured, and never scolded her.

   Well, one night while her husband was away with the army, she was awakened by queer little noises in her room. By the light of a big paperlantern she could see very well, and she saw strange things What?

   Hundreds of utile men, dressed just like Japanese warriors, but only about one inch high, were dancing all around her pillow. They wore the same kind of dress her husband wore on holidays ,―(Kamishimo, a long robe with square shoulders), ― and their hair was tied up in knots, and each wore two tiny swords. They all looked at her as they danced, and laughed, and they all sang the same song, over and over again,―

      "Chin-chin Kobakama,

                    Yomo fuké soro,―

       Oshizumare, Hime-gimi! ―

     
Ya ton ton!" ―

Which meant: ―"We are the Chin-chin Kobakama; ― the hour is late; Sleep, honorable noble darling!"

   The words seemed very polite; but she soon saw that the little men were only making cruel fun of her. They also made ugly faces at her.

   She tried to catch some of them; but they jumped about so quickly that she could not. Then she tried to drive them away; but they would not go, and they never stopped singing

      "Chin-chin Kobakama,….."

and laughing at her. Then she knew they were little fairies, and became so frightened that she could not even cry out. They danced around her until morning;― then they all vanished suddenly.

   She was ashamed to tell anybody what had happened ― because, as she was the wife of a warrior, she did not wish anybody to know how frightened she had been.

   Next night, again the little men came and danced, and they came also the night after that, and every night ― always at the same hour, which the old Japanese used to call the "Hour of the Ox"; that is, about two o'clock in the morning by our time. At last she became very sick, through want of sleep and through fright. But the little men would not leave her alone.

   When her husband came back home, he was very sorry to find her sick in bed. At first she was afraid to tell him what had made her ill, for fear that he laugh at her. But he was so and coaxed her so gently, that after a while she told him what happened every night.

   He did not laugh at her at all, but looked very serious for a time. Then he asked:―

      "At what time do they come?"

   She answered: ―"Always at the same hour ― the 'Hour of the Ox.'"

   "Very well," said her husband,― "to-night I shall hide and watch for them. Do not be frightened."

   So that night the warrior hid himself in a closet in the sleeping room, and kept watch through a chink between the sliding doors.

   He waited and watched until the "Hour of the Ox." Then, all at once, the little men came up through the mats, and began their dance and their song:―

      "Chin-chin Kobakama,

       Yomo fuké soro……"

They looked so queer, and danced in such a funny way, that the warrior could scarcely keep from laughing. But he saw his young wife's frightened face; and then remembering that nearly all Japanese ghosts and goblins are afraid of a sword, he drew his blade, and rushed out of the closet, and struck at the little dancers. Immediately they all turned into-what do you think?

Toothpicks!

   There were no more little warriors ― only a lot of old toothpicks scattered over the mats.

   The young wife had been too lazy to put her tooth picks away properly; and every day, after having used a new toothpick, she would stick it down between the mats on the floor, to get rid of it. So the little fairies who take care of the floor-mats became angry with her, and tormented her.

   Her husband scolded her, and she was so ashamed that she did not know what to do. A servant was called, and the toothpicks were taken away and burned. After that the little men never came back again.

――――――

THERE is also a story told about a lazy little girl, who used to eat plums, and afterward hide the plum-stones between the floor-mats. For a long time she was able to do this without being found out. But at last the fairies got angry and punished her.

   For every night, tiny, tiny women ― all wearing bright red robes with very long sleeves,― rose up from the floor at the same hour, and danced, and made faces at her and prevented her from sleeping.

   Her mother one night sat up to watch, and saw them, and struck at them,― and they all turned into plumstones! So the naughtiness of that little girl was found out. After that she became a very good girl indeed.

――――――

 

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「ちんちん・こばかま」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認することが出来る。]

 かういふ小さな妖精は、西洋のお伽噺にはよく出て來るから、西洋人には却つてわかりいゝかも知れぬが、日本にはあまり同額がない。「黑甜瑣語」にあるのは、秋の夜のつれづれに獨り家に居ると、疊の間から筆の長さぐらゐの小人が三四人出て、そこらを駈け𢌞つて戰ふ。煙管でこれを打てば、皆消えてなくなつたが、暫くしてまた一人出て來た。今度は鎧冑に身を固め、大將軍の風がある。弓に矢をつがへて放つのを、また煙管で拂つたが、その時矢に射られたと思つたのは、恐らく自分の煙管で傷つけたのであらう。その時以來一眼になつた。――この小人は「黑甜瑣語」の著者も、どうやら幻想と解してゐるやうである。

[やぶちゃん注:以上は「黑甜瑣語」は「第一編卷之四」にある「棚谷家の怪事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。確かに最後のところで筆者人見蕉雨は『心鬱の祟りならんか』と述べている。悪くない。私は一読、平安末から鎌倉初期頃に描かれた私の好きな絵巻「病草紙」の、小法師の幻覚を見る男の絵、詞書に、

   *

なかごろ持病もちたるおとこありけり やまひおこらむとては たけ五寸ばかりある法師の かみぎぬきたる あまたつれだちて まくらにありと見みえけり

   *

とあるのを鮮やかに思い出した。熱性マラリアによる脳症のそれというより、私はこれは重篤な精神疾患による幻覚症状と思っている。]

「聊齋志異」の「小獵犬」は、僧院に在つて蚤蚊に苦しめられ、夜ろくろく睡り得ぬ人が、食後、橫になつてぼんやりしてゐると、小さな武士が馬に乘つて出て來た。臂にとまらせた鷹は蠅ぐらゐの大きさである。この武士が室内をぐるぐる駈け𢌞つてゐるうちに、また一人現れた。前の武士と同じやうな行裝をしてゐるが、この方は大蟻ぐらゐの犬を曳いてゐる。やがて室内には何百人といふ武士が、各々鷹を携へ犬を曳いて現れ、一齊に活動をはじめた蠅や蚊は鷹を放つて捕らせる。獵犬は牀と云はず、壁と云はず攀じ登つて、蚤や虱を退治する。瞬く間に一掃してしまつた。寢たふりをしてぢつと見てゐると、今度は黃色の著物に平らな冠をかぶつた人が出現した。これは王者の如く別の腰掛に倚る。今まで活動してゐた武士達は、悉くその周圍に集まり、獲物を獻上するやうであつたが、何を云つてゐるのか少しもわからない。黃衣の人が輦(てぐるま)に登ると同時に、武士達は慌しく馬にまたがり、紛紛としていづれへか走り去つた。その有樣は歴々と目に殘つてゐるけれど、何の痕跡もない。自分の身邊を見𢌞しても、一切が夢のやうである。たゞ夢でない證據には、壁のところに小さな犬が一疋殘つてゐた。急いでこれをつかまへ、硯箱の中に飼ふことにしたが、飯粒などは匂ひを喚ぐだけで顧みず、寢室に登り、著物の縫目を尋ねて蚤虱の類を獵る。お蔭で僧院のさういふ蟲類は全く驅除された。犬はどこかへ行つてしまつたかと思ふと、依然この室内にぢつとしてゐる。或時晝寐をした際に、ついその人の下敷きになつて死んでしまつた。「池北偶談」の記すところも、ほゞこれと同じである。黃衣の人が朱衣であるのと、一疋取り殘された獵犬が下敷きの厄に遭はぬ點が、僅かに違つてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:これは私の偏愛する清代の志怪小説集である、蒲松齢の「聊齋志異」の「卷四」の「小獵犬」である。中文サイトにある原文を加工して、まず、引く。

   *

山右衞中堂爲諸生時、厭冗擾、徙齋僧院。苦室中蟲蚊蚤甚多、竟夜不成寢。食後、偃息在牀、忽一小武士、首插雉尾、身高兩寸許、騎馬大如蜡、臂上靑鞲、有鷹如蠅、自外而入、盤旋室中、行且駛。公方凝注、忽又一人入、裝亦如前。腰束小弓矢、牽獵犬如巨螘。又俄頃、步者、騎者、紛紛來以數百輩、鷹亦數百臂、犬亦數百頭。有蚊蠅飛起、縱鷹騰擊、盡撲殺之。獵犬登牀緣壁、搜噬蝨蚤、凡罅隙之所伏藏、嗅之無不出者、頃刻之間、決殺殆盡。公僞睡睨之。鷹集犬竄於其身。既而一黃衣人、著平天冠、如王者、登別榻、繫駟葦篾間。從騎皆下、獻飛獻走、紛集盈側、亦不知作何語。無何、王者登小輦、衛士倉皇、各命鞍馬、萬蹄攢奔、紛如撒菽、煙飛霧騰、斯須散盡。公歷歷在目、駭詫不知所由。躡履外窺、渺無蹟響。返身周視、都無所見、惟壁磚上遺一細犬。公急捉之、且馴。置硯匣中、反復瞻玩。毛極細葺、項上有小環。飼以飯顆、一嗅輒棄去。躍登牀榻、尋衣縫、齧殺蟣蝨。旋復來伏臥。逾宿、公疑其已往、視之、則盤伏如故。公臥、則登牀簀、遇蟲輒噉斃、蚊蠅無敢落者。公愛之、甚於拱壁。一日、晝寢、犬潛伏身畔。公醒轉側、壓於腰底。公覺有物、固疑是犬、急起視之、已匾而死、如紙翦成者然。然自是壁蟲無噍類矣。

   *

次に、やはり、私の偏愛する柴田天馬氏(パブリック・ドメイン)の訳を角川文庫版(年昭和五三(一九七八)年改版十五版・新字)で示す。注などいらぬ。充分、天馬節で判り、同時に楽しめる。

   *

 

 小猟犬

 

 山西の衛中堂がまだ諸生であった時、やかましいのを厭って、書斎を僧院に移したが、部屋(へや)には、虫(なんきんむし)や、蚊(か)や、蚤(のみ)が、ひどく多かったので、一晩苦しんで寝つかれず、食後に、牀(ねだい)で休んでいると、首に雉(きじ)の尾を插した、二寸ばかりの身のたけの小さな武士が、蜡(ろうむし)ぐらいの大きさの馬に乗り、腕に青い鞲(ゆごて)をかけ、それに蠅(はえ)ほどの鷹(たか)をとまらせて、外からはいって来ると、部屋の中をぐるぐる駆けまわるのだった。

 公が、じっと見ていると、また一人はいって来たが、やはり前のような装いで、腰に小さな弓矢をつけ、大きさが蟻(あり)ほどの野犬をひいていた。また、しばらくすると、歩(かち)の者、騎馬の者が数百人紛々とやって来た。鷹もやはり数百羽、犬もやはり数百匹だった。そうして蚊や蠅が飛びたつと、鷹を放って、ことごとく撲殺(うた)せ、野犬は寝台に登って壁をよじ、あらゆるすきまに隠れているのを、すっかり嗅ぎだし、しばらくの間に、ほとんど殺し尽くしたが、鷹や犬はねたふりをして見ている公のからだに、集ったり隠れたりするのだった。

 そのうちに、黄色い衣をき、平天冠(へいてんかん)をつけた王さまのような人が、ほかの寝台に登って、馬を葦篾(あんぺら)の上につながせると、従っている騎兵はみな馬から下りて、飛(つばさ)あるもの、走(あし)あるものをたてまつり、おそばに群れつどったが、どういうことを言っているか、わからなかった。

 まもなく、王が小さな輦(くるま)に登(の)ると、衛士はみな、あわただしく馬にまたがり、駒を並べてはせゆくありさまは、山椒の実をまきちらしたようで、土けぶりをたてて、たちまち、いなくなってしまった。

 公は、ありありと見てはいたものの、どこから来たのか、わからないので、履(くつ)をはいて出て見たがあとかたもなかった。帰ってきて見まわしたけれど、何も見えず、ただ壁瓦(かべかわら)の上に一匹の小犬が残されているだけだった。

 公は急いでそれを捉(つか)まえた。慣れているのだ。すずり箱の中に置いて、よく見ると、毛がたいそう細やかで、首に小さな環(わ)がはめてあった。飯粒をやったが、ちょっと嗅いで捨ててしまい、寝台に飛びあがって衣縫(ぬいめ)をさがし、蝨や蟣(たまご)をかみ殺すと、すぐに、また帰って来て寝ころんでいた。

 一晩すぎた。公は、それがもう、どこへか行ってしまったろうと思いながら見ると、もとのように丸くなって伏(ね)ていた。そして公が寝ると、寝台のむしろにあがって来て、虫を見さえすれば、食い殺した。蚊でも蠅でも、もらすことはなかった。

 公は犬を愛すること拱壁(たま)よりもはなはだしかったが、ある日、昼寝をしていて、犬が身のまわりに潜伏(もぐりこ)んだのを知らず、目をさまして寝がえったので腰の下に圧しつぶしてしまった。公は、きっとそれが犬だったろうと思い、急いで起きて見ると、紙を剪(き)ってつくったように、平たくなって死んでいた。しかし、それからは、虫(なんきんむし)が無噍類(たえた)のである。

   *]

 以上の三つの話は、恐らく相互に關係はなからう。小人がすべて武士であるのも偶然の類似と思はれる。「ちん・ちん・こばかま」の歌も愉快でないことはないが、憾むらくは規模が小さい。一室に鷹犬を放つて害蟲を除くの壯快なるに如かぬ。

2017/01/11

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(23) 禮拜と淨めの式(Ⅰ)

 

  禮拜と淨めの式

 

 吾々は舊日本に於て、生者の世界が到る處、死者の世界に依つて支配されて居た事―-個人はその生存の各瞬時、亡靈の監視の下にあつた事を見た。家にあつては、個人はその父の靈に依つて見護られ、外にあつてはその地方の神に依つて支配されて居た。その周圍にも、その上にも、下にも、生と死との、目に見えない力があつた。自然に就いてのその考へに依ると、萬物は死者に依つて、その順序が定められて居た――光明と暗黑、天候と四季、風と潮、霧と雨、生長と枯死、病氣と健康等悉く。目に見えない大氣は靈の海、亡靈の大海であつた。人の耕す地は靈の氣に依つて透徹されて居た。樹木にも靈が居てそれは神聖にされて居た。岩石すら、自覺ある生命を附與されて居た……。この見るべからざるものの、限りなき集合に對して、人は如何にしてその義務を果たし得たであらう。

 

 學者と雖も、小さい神々の名は別として、大きい神々の名だけでも、記憶し得る人はあるまい。また如何なる人でも、日々の祈禱の内に、その大きい神々の名をあげて、言葉をそれに言ひかけるだけの時間をもつては居まい。後年の神道の教師は、一般の神々に筒單な日々の祈禱を、それから特殊な二三の神々に特殊な祈禱を定めで捧げる事に依り、信仰の務を單純化しようとした。そして斯くして彼等は、必要の上から既に確立して居た慣習を、尤も都合よく確實に守り得るやうにした。平田は恁う言つた、『いろいろな働きをもつた神々の數は澤山にあるので、只だ尤も重要な神を名指して禮拜し、其他を一般の祈禱の内に收めるのが便宜であると考へられる』と。平田は時間のある人々に向つて十種の祈禱を定めたが、忙しい人のためには、その義務を輕くし――恁う言つて居る、『日々の用務が多端で、すべての祈禱をのべる時間をもつて居ない人々は、第一に天皇の皇居を拜し、第二に家の神の棚――神棚を、第三に祖先の靈を、第四に地方の守り神――氏神を、第五に自分の特別な職業の神を拜して、滿足して居て然るべきである』と。彼は次の祈禱の日々『神棚』の前で讀まれるべき事を言つて聞かした――

 

[やぶちゃん注:以下、底本では二つの原注を含め、三字下げポイント落ち。]

 

『第一に恭しく伊勢の兩宮の大神を拜し――八百萬の天の神々――八百萬の地の神々――諸諸の地方、島々、八島の大地のあらゆる場所に於ける大小の神社の捧げ奉られたる百五十萬の神々、人々の爲めに務を爲す百五十萬の神々、離宮、支社の神々――。この聖い神棚に私がその神殿を建てさした、そして私の日々讃辭をあげる曾富騰の神註一を拜し、私は嚴かに、その神々が私の故意てなく犯したる過失を矯正し、それぞれに用ひ給ふ力に從つて、私を惠みまた愛しみ、その聖い例にならひ、道に從ひ善事を爲すやう、私を導き給はん事を願ふ註二

 

註一 曾富神の神は案山子の神で、田野の保護者である。

註二 サトウ氏の飜譯。

[やぶちゃん注:「曾富騰」は「そほど」と読む。後の平田の原文で見るように「曾富登」とも書く。注にある通り、所謂、山田(やまだ)の「案山子」(かかし)であり、「古事記」では少彦名神(すくなびこなのかみ)を名指した神、久延毘古(くえびこ)とする。これは田の神や地神の表象や依代(よりしろ)と考えられる案山子を神格化したものが久延毘古であるととれる。

 平井呈一氏はここに訳者注の形で、平田篤胤の原文を掲げておられる。恣意的に正字化して孫引きさせて戴く。前の二つの引用の読みは振れると判断したもののみに附し、読み易さを考え、送り仮名として振られた一部のカタカナを本文に入れ込み、漢文脈の箇所には返り点のみとして送り仮名を除去し、その代わりに〔 〕で訓読文を附した。( )が平仮名である読みは私が附したものである。なお、後の二つでは踊り字「〱」「〲」を正字化した。一部のカタカナの歴史的仮名遣の誤りはママである。

 まず、戸川が『いろいろな働きをもつた神々の數は澤山にあるので、只だ尤も重要な神を名指して禮拜し、其他を一般の祈禱の内に收めるのが便宜であると考へられる』と訳した箇所。「玉襷」の「三之卷」からの引用。

   *

その八百萬(ヤホヨロズ)の神々を。逐一に拜禮せむには。終日(ヒネモス)夜もすがら。神拜のみして居(ヲラ)ねばならぬ事ゆゑに。然(サ)は行ひ難(ガタ)ければ。其の中にかならず拜み奉らでは。叶はぬ神等(カミタチ)をのみ。御名(ミナ)を申して拜禮し。その餘(ホカ)は一ヒトツ)にこめて拜せむこと簡易なるべし。

   *

 次に『日々の用務が多端で、すべての祈禱をのべる時間をもつて居ない人々は、第一に天皇の皇居を拜し、第二に家の神の棚――神棚を、第三に祖先の靈を、第四に地方の守り神――氏神を、第五に自分の特別な職業の神を拜して、滿足して居て然るべきである』の箇所。「每朝神拜詞記(まいちょうじんぱいしき)」からの引用。

   *

また家業(イヘノナリ)のいと閙(イソガ)しくて。許多(ココタ)の神々を拜み奉るとしては。暇(イトマ)いる事に思はむ人は。第十四なる拜家之神棚詞〔家の神棚を拜む詞(ことば)〕と。第二十五なる拜先祖靈屋詞〔先祖靈屋(せんぞみたまや)を拜む詞〕とを。其の前々(マヘマヘ)に白(まを)して拜むべし。其(ソ)は第十四の詞に伊勢兩宮大神等乎始奉里(イセノフタミヤノオホカミタチヲハジメタテマツリ)云々と云へるに。有(アラ)ゆる神等(ミタマ)を拜み奉る心はこもり。第二十五の詞に。遠都御祖乃御靈(トホツミオヤノミクマ)。代々乃祖等(ヨヨノオヤタチ)云々と云へるに。家にて祭る有(アラ)ゆる靈神(ミタマ)を拜む心を籠(コメ)たればなり。猶これに記せる外(ホカ)に。各々其々の氏神。またその職業の神を。かならず拜むべし。

   *

 次に、最後の引用。「玉襷」の「六之卷」より。これは万葉仮名で総てが漢字表記である。読みは読み易さを考えて私が一部に恣意的に半角空隙を設けた。

   *

此乃神牀爾(コレノ カムトコ ニ)。神籬立氐招奉里令坐奉里氐(ヒモロギタチテ サキマツリマセマツリテ)。日爾異爾稱辭竟奉留(ヒニケニ タタヘゴト ヲヘマツル)。伊勢兩宮大神等乎始奉里(イセフタミヤノ オホカミタチヲ ハジメタテツリ)。天御神八百万(アマツミカミ ヤホヨロズ)。国御神八百万能神等(クニツミカミ ヤホヨロズノカミタチ)。大八嶋之國々島々所々之(オホヤシマノクニグニ シマジマ トコロドコロノ)。大小社々爾鎭座坐須千五百万乃神等(オホキ チヒサキ ヤシロヤシロニ シズマリマシマステ イホヨロヅノカミタチ)。其從幣給布百千萬之神等(ソノ シタガヘタマフ モモチヨロズノカミタチ)。枝宮枝社之神等(エダミヤエダヤシロノカミタチ)。曾富登神之御前乎毛愼美敬比(ソホドノカミノミマヘヲモ ツツシミ ヰヤマヒ)。過犯須事乃有乎婆(アヤマチオカスコトノアルヲバ)。見直志聞直志坐氐(ミナオシキキナホシマシテ)。各々掌分坐須御功德乃隨爾(オノモオノモ シリワケマシマス ミイサホノ マニマニ)。惠給比幸幣賜比氐(メグミタマヒ サキハヘタマヒテ)。神習波志米(カミ ナラハシメ)。道爾功績乎令立賜閉止(ミチニ イサヲヲ タテシメタマヘ ト)。畏美畏美毛拜美奉留(カシコミカシコミモ オガミタテマツル)。

   *]

 

 この文字は神道の最大の註釋者が、神道の祈禱の如何なるものであるべきかを考へた、その一例として興味あるものである。そして曾富騰の神に關する事を除いては、その實質は今日なほ日本の家に於て毎朝の祈禱にのべらて居る處のものである。併し近代の祈禱は遙かに短くなつて居る……。量古の神道の地方なる出雲に於ては、慣習的に行ふ朝の禮拜が、祈願の古い規定の最上の例を示して居る。則ち朝起きるとすぐに禮拜する人は、沐浴をなし、顏を洗ひ、口を漱ぎ、日に向ひ、兩手を合はせてたたき、恭しく頭を下げて、筒單な挨拶をする『嚴かなる神よ、よくこそ、今日來られし』と。斯く日を拜するのは、また臣民としてのその本分をつくす所以である。則ちそれに依つて皇室の祖先への忠順を爲すのてある。これは戸外て行はれるのであつて、跪く事なく立ちながら爲されるが、この筒單な禮拜の光景は感動を與へる事夥しい。

 私は追憶の内に、――何年も以前に、隱岐の海岸て實見した通りに、明瞭に今でもその光景を眼の前に浮かべる事が出來る、――若い漁夫が裸體で小船の船首に直立し、昇る旭日を迎へるために、兩手を合はせてたたいて居ると、日のあかあかと照らす光は、その男を靑銅の立像のやうに見せた其光景を。また私は富士山の絶頂なる岩の尖端に身の平衡を保つて立ち、東に向つて兩手をたたいて居た順禮の生き生きとした追想をもつて居る……。恐らく一萬年――二萬年前、すべての人はかくして日の君を禮拜したのであらう……。

[やぶちゃん注:隠岐でのこの感動は残念ながら語られていないけれども、私は既にブログカテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の電子化注を終えており、同「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ」は以下から全三十五回に分けて配してある。彼は隠岐を愛した。また、小泉八雲の富士山登頂は明治三一(一八九八)年八月(曇っていたが、日の出を見たのは二十六日早朝)、満四十八歳の時であった。登山に体力を消耗し、その印象記FujinoYama(「富士の山」では、富士山頂の景観を“No spot in this world can be more horrible, more atrociously dismal, than the cindered tip of the Lotus as you stand upon it.”『まずこんな恐ろしい、不気味な、凶々(まがまが)しい、凄惨な場所が、またと世にあろうとは考えられもしない』(訳は一九七五年恒文社刊小泉八雲著平井呈一訳「仏の畑の落穂他」の「富士の山」より)と評しながら、そのコーダでは確かに、

   *

“But the view ― the view for a hundred leagues ― and the light of the far faint dreamy world ― and the fairy vapors of morning ― and the marvelous wreathings of cloud: all this, and only this, consoles me for the labor and the pain. . . . Other pilgrims, earlier climbers, ― poised upon the highest crag, with faces turned to the tremendous East, ― are clapping their hands in Shintō prayer, saluting the mighty Day. . . . The immense poetry of the moment enters into me with a thrill. I know that the colossal vision before me has already become a memory ineffaceable, ― a memory of which no luminous detail can fade till the hour when thought itself must fade, and the dust of these eyes be mingled with the dust of the myriad million eyes that also have looked in ages forgotten before my birth, from the summit supreme of Fuji to the Rising of the Sun.”

   *

先の平井呈一訳より当該箇所を引く。

   《引用開始》

 しかしながら、この景――百里も見はるかすこの眺望、遠く微かな夢幻の世界の光、この世ならぬ仙界の朝の霧、巻き去り巻き来たる雲のあやしい姿――なべてこの景、いや、この景だけが、自分の労苦を慰め医してくれる。‥‥自分よりも先にお頂上をした巡礼達が、一ばん高い岩の上によじ登って、東の空に顔を向け、雄大な朝日を拝んで、神道流に柏手(かしわで)を打っている。‥‥この瞬間の詩情、大いなるこの詩情は、自分の心魂に深く沁みとおった。つまり、自分の目の前にあるこの雄大な光景は、もはや消しも拭いもされぬ記憶となったのである。自分の知性が消滅し、眼が土と化してしまったのち、わが未生の遠い遠い昔に、同じく富士の頂上から朝日を拝んだ幾億の人々の眼が土に化したのと相交わるまで、この記憶は、一々その零細な点まで、けっして消滅することはあるまい。

   《引用終了》

という実に印象的な感懐で作品を閉じている。]

 太陽を拜した後、禮拜者は家に歸り、神棚の前竝びに祖先の位牌の前で祈禱を上げる。跪いて禮拜者は伊勢或は出雲の大神、その地方の主なる神社の神々、教區の神(氏神)を呼び、最後に神道の無數の神々を呼び起こす。斯樣な祈禱は聲をあげて稱へるのではない。祖先には家の基礎を置いたとして感謝を表し、高い神々は助力と守護とのために呼び求められる……。天皇の皇居の方に向つて、頭を下げる事に就いては、それがどれほど遠隔の地方にまで行はれて居るのか、私には言ひ得ない、併し私はその敬意の行はれて居るのを屢〻實見した。また一度私は田舍の人達が首府を見物に來て、東京の宮殿のすぐ門前で、その敬意を表したのを見た事もある。私は度々その人達の村に逗留して居た事があつたので、その人達は私を知り、東京に來るや私の家を探しあて、遇ひに來た。私はその人達を宮殿へと連れて行つた、そして宮殿の正門の前に來るや、その人達は帽を脱ぎ、お辭儀をして拍手をうつた――丁度神々や旭日を迎へる時にしたやうに――筒單にしてまた威嚴ある敬意を以て爲されたこの一事は、少からず私の心を動かした。

2016/12/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(10) 旅の御坊

 

     旅の御坊

 

 つまり小泉八雲氏の心を牽いた耳無法一の神異談は、彼が父母の國に於ても今尚珍重せられる所謂逃竄説話と、異郷遊寓譚との結び付いたをのゝ、末の形に他ならぬのであつた。西洋では説話運搬者の説話に與へた影響は、まだ本式に研究し得なかつたやうだが、日本には仕合せと其證迹が、見落し得ない程に豐富である。殊に盲人には盲人特有の、洗錬せられたる機智が認められる。例へば江戸川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つたと語つて居るなどは、盲人の癖にと言ひたいが、實は目くらだから考へ出した、やや重くるしい滑稽である。そんな例は氣を付けて御覽なさい。まだ幾らでもあるのである。

 實際座頭の坊は平家義經記のみを語つて、諸國を放浪することも出來なかつた。夜永の人の耳の稍倦んだ時に、何か問はれて答へるやうな面白い話を、常から心掛けて貯へて置いたのである。然らば耳の切れた盲人が何人もあつて、御坊其耳はどうなされたと、尋ねられるやうな場合が多かつたかと言ふに、さうかも知れず、又それ程で無くともよかつたかも知れぬ。片耳の變にひしやげたり、妙な格好をした人は存外に多いものだ。さうで無くとも目の無い人だから、耳の話が出る機會は少なくはなかつたらう。耳と申せば手前の師匠は、片耳が取れてござつたなどゝ、そろそろと此話を出す手段もあつたわけだ。さうして其話といふのは實に一萬年も古い舊趣向に、現世の衣裳を著せたものであつた。故に今爰で我々の不思議とすべきは、其話の存在や流布では無い。單に何故さういふ耳切の話が、盲人に由つて思ひ付かれ又持運ばれたかといふ點ばかりである。

 卽ち澤山の盲人が懸離れた國々をあるいて、無暗に自分たちの身の上話らしい、妖魔遭遇談をしたのが妙である。其説明を試みても、そんな事があらうかと恠み疑ふ人すら、今日ではもう少なからうと思ふが、それでも何でも自分は證據が擧げたい。つまり座頭は第一に自分たちが無類の冒險旅行家であることを示したかつた。第二には技藝の賴もしい力を説かうとしたのである。第三には神佛の冥助の特に彼等に豐かであつたこと、第四には能ふべくんば、それだから座頭を大切にせよの、利己的教訓がしたかつたのかと思ふ。此條件を具足してしかも亭主方の面々を樂しましむべき手段が若しあつたとしたら、之を一生懸命に暗記し且つやたらに提供することも、卽ち亦彼等の生活の必要であつた。

[やぶちゃん注:「耳無法一」ママ。文庫版全集も同じ表記。言わずもがなであるが、一般には「芳一」である。小泉八雲が依拠したと思われる彼の蔵書にあった一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談」(天明二(一七八二)年)での第二巻所収の「琵琶祕曲泣幽靈(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」でも「芳一」である。

「逃竄説話」「たうざん(とうざん)せつわ」。「竄」も「逃げる」の意。魔性に魅入られた人間が身体の一部を譲り渡すことで現実世界への逃走(呪的逃走)に成功する説話群、例えば、「瘤取り爺さん」であるが、伊耶那岐の黄泉国からのそれも、身体の神聖な附属物である櫛や髪飾りを黄泉醜女(よもつしこめ)に投げつける点で同類型である。

「異郷遊寓譚」「遊寓」は「いうぐう」と読む。「寓」は「一時的に別の所に身を寄せる」の意。異界訪問譚。例えば陶淵明の「桃花源記」や「浦島太郎」、前注の伊耶那岐の黄泉国訪問のシークエンスのようなオルフェウス型のものを指す。

「江戸川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つた」この話、所持する何かで原話を読んだ気がするのだが、探し得ない。識者の御教授を乞う。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(9) 耳切團一

 

     耳切團一

 

 そこで話は愈々近世の口承文藝の、最も子供らしく且つ荒唐夢稽なる部分に入つて行くのであるが、自分たちの少年の時分には、「早飯も藝のうち」といふ諺などもあつて、いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ、多くの朋輩と食事を共にする場合に大抵は先に立つ者が殘つた者の耳を引張つた。痛いよりも恥がましいので、所謂鹽踏みの奉公人などが、淋しい淚を飜す種であつた。どうして耳などを引くことになつたのかと、子供の頃から不審に思つて居ると、嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事の條に、鬼になつた者が「出ずば耳引こ」と謂つて、柱にばかりつかまつて居る者を挑むことが記して居る。鷹筑波集に塚口重和、出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。

 鬼事の遊びのもと模倣に出でたことは、其名稱だけでも證明せられる。以前諸國の大社には鬼追鬼平祭(おにひけまつり)などゝ稱して、通例春の始めに此行事があつた。學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ、又は佛法が其作法を教へた樣にも謂ふらしいが、何かは知らず古くから鬼が出て大にあばれ、末には退治せられる處を、諸國僅かづゝの變化を以て、眞面目に神前に於て、日を定めて演出したのであつた。さうして子供は特に其前半の方に、力を入れて今以て眞似て遊んで居る。耳を引くといふ文句も其引繼ぎであつたかも知れぬ。さう考へてもいゝ理由があつたのである。

 小泉八雲の恠談といふ書で、始めて知つたといふ人は却つて多いかも知れぬ。亡靈に耳を引きむしられた昔話が、つい此頃まで方々の田舍にあつた。被害者は必ず盲人であつたが、其名前だけが土地によつて同じでない。小泉氏の話は下ノ關の阿彌陀寺、平家の幽靈が座頭を呼んで平家物語を聽いたことになつて居り、その座頭の名はホウイチであつた。面白いから明晩も必ず來い。それ迄の質物に耳を預つて置くと言つたのは、頗る宇治拾遺などの瘤取りの話に近かつたが、耳を取るべき理由は實は明かでなかつた。

 ところが是と大體同じ話が、阿波の里浦といふ處にかけ離れて一つある。で、右の不審が稍解けることになる。昔團一といふ琵琶法師、夜になると或上﨟に招かれて、知らぬ村に往つて琵琶を彈いて居る。一方には行脚の名僧が、或夜測らずも墓地を過ぎて、盲人の獨り琵琶彈くを見つけ、話を聽いて魔障のわざと知り、からだ中をまじなひして遣つて耳だけを忘れた。さうすると次の晩、例の官女が迎へに來て、其耳だけを持つて歸つたといふので、是は今でも土地の人々が、自分の處にあつた出來事のやうに信じて居る。耳を取つたのが女性の亡魂であつたことゝ、僧が法術を以て救はうとした點とが明瞭になつたが、それでもまだまじなひの意味がはつきりしない。

 それを十分に辻棲の合ふだけの物語にしたのが、曾呂利物語であつた。江戸時代初期の文學であるが、此方が古くて前の話が其受賣だともいへないことは、讀んだ人には容易にわかる。是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳とある。久しくおとづれざりし善光寺の比丘尼慶順を路の序を以て訪問して見ると、實は三十日程前に死んで居たのであつたが、幽靈が出て來て何氣無く引留め、琵琶を彈かせて毎晩聽き、どうしても返すまいとする。それを寺中の者が注意して救ひ出し、馬に乘せて遁がしてやつた。後から追はれて如何ともしやうが無いので、或寺にかけ込んで事情を述べて賴むと、一身にすき間も無く等勝陀羅尼を書きつけて、佛壇の脇に立たせて置いた。すると比丘尼の幽靈が果して遣つて來て、可愛いや座頭は石になつたかと體中を撫でまはし、耳に少しばかり陀羅尼の足らぬ所を見つけて、爰にまだ歿り分があつたと、引ちぎつて持つて行つたと言つて、其盲人には片耳が無かつたと云ふのである。

 其話なら私も知つて居ると、方々から類例の出ることは疑が無い。此民族がまだ如何にもあどけなかつた時代から、否人類が色々の國に分れなかつた前から、敵に追はれて逃げて助かつたといふ話は、幾千萬遍と無く繰返して語られ、又息づまる程の興味を以て聽かれたのである。それが極少しづゝ古臭くなり、人の智慮が又精確になつて、段々に新味を添へる必要を生じた。そこへ幸ひに耳の奇聞が手傳ひに出たといふ迄である。鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である。古い話の足掛かりのやうなものである。さうすれば座頭其者がやがて又、見るたびに此の話を思ひ出さしめる一種の大唐櫃や、蓬菖蒲の如きものであつたとも言へる。

[やぶちゃん注:「耳切團一」「みみきりだんいち」或いは「みみきれだんいち」。講談社「日本人名大辞典」等によれば、民話の主人公で、後で柳田が概略する徳島県鳴門に伝わる話が一典型として知られる。団一は琵琶法師で、官女の霊に憑りつかれ、夜毎、墓場で琵琶を一心不乱に弾いていたが、それをたまたま目にした旅僧が団一の全身に呪(まじな)を施したが、それをし忘れた耳たぶの部分を迎えにきた霊に引き千切られてしまう。それでも命は救われ、それ以来、「耳切団一」と呼ばれるようになったという話で、他に、寺の小僧が山姥(やまうば)に追い駆けられるという同原類話が福島県や新潟県に伝承されるという。

「早飯も藝のうち」「速く飯を食うことも、人の芸の一つに数え挙げられる」という意の他に、「特別に芸を持たない者にとっては、速く飯を食うことぐらいを芸とするしかない」という揶揄の意味もある。「早飯早糞芸の内」或いは「早飯早糞早支度」などを類語とする。柳田が「いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ」と書く辺り、食にすこぶる貪欲(とんよく)であることを誡める点で、仏教的な戒のニュアンスも感じられる。

「鹽踏みの奉公人」単に「汐踏(しほふみ)」とも。商家での奉公の、初期の行儀見習いを指す語。主に女性について使った。堀井令以知氏の『京都新聞』の「折々の京ことば」によれば、戦前までは「娘はシオフミに出んと嫁に行かれへん」と言って、京の旧家で行儀作法を見習った。シオフミ(塩踏み)は「辛苦を経験すること」の比喩で、切り傷に塩が染むと骨身にこたえることから、「苦労をして世間を知ること」の謂いともなった、とある(堀井氏のそれはネット上のある記事のキャッシュから孫引きした)。

「飜す」「こぼす」。「零(こぼ)す」。

「嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事」「鬼事」は「おにごと」と訓ずる。「嬉遊笑覽」(きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。当該項は以下(岩波文庫版を参考に、恣意的に正字化し、歴史的仮名遣のひらがなの読みは私が附した)。

   *

「浮世物語」に、『鼠まひ小路(こうぢ)がくれ云々』あり。鼠まひは出んとして出ざるなり。山岡元隣が「誰(たが)身のうへ」三、『庄屋殿の一人の子もちたれども、此(この)子うちねづみにて、我(わが)うちより外を知らず』といへる、是なり。又、「出ずば耳ひこ」とは、鬼になりたる者をいふ也。「鷹筑波(たかつくば)集」、『重和 出ずは耳ひくべき月の兎かな』。「篗絨輪(わくかせわ)」十一集、『火傷(ヤケド)ならず果報にも引耳の𦖋(タブ)』こは上のことにあづからねども、耳引くこともくさぐさ也。

   *

「鷹筑波集」西武(さいむ)編になる貞門の俳諧撰集。五巻。寛永一九(一六四二)年刊で松永貞徳序(序のクレジットは寛永一五(一六三八)年)。書名は室町後期(大永四(一五二四)年以降に成立)の俳諧連歌撰集である山崎宗鑑の「犬筑波(いぬつくば)集」に対するもの。貞徳が三十年来批点を施した発句・付句を西武に編集させたもので、貞徳直門の俳人三百余が名を連ね、事実上、本書が貞門の第一撰集とされる。

「塚口重和」不詳。

出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。

「鬼追」「おにおひ」。所謂、「追儺」、「おにやらひ(おにやらい)」であるが、柳田がルビを振らぬ点、しかも併置した「鬼平祭(おにひけまつり)」(「平(ひけ)」は「平らげる」「退ひ)かす」の意であろう)とルビしている点、さらに現存する同行事の呼称を調べてみても、「おにやらひ」ではなく、「おにおひ」と訓じていると判断した。文庫版全集もルビはない。

「學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ」こういう柳田の口吻はすこぶるいやらしい。自分こそそうした輩であると内心自認しているくせにと揶揄したくなる。折口信夫と民俗学に性的研究をなるべく持ち込まぬように密約し、非アカデミズムの博覧強記たる南方熊楠をどこか煙たがり、「遠野物語」をちゃっかり自作にしておいて佐々木喜善を埋もれさせ、「海上の道」で非科学的な謂いたい放題をし腐っておいて、この謂いは、なかろうよ! なお、現在、「追儺(ついな)」の儀式は「論語」の「郷黨篇」に記述があり、中国の行事がその起源とされている。柳田の一面でさえこうだから、貧相で無知な日本主義者の阿呆な主張が今も亡霊の如くのさばっているのだとも言える。

「下ノ關の阿彌陀寺」現在の山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮にあった寺。忌まわしき廃仏毀釈で廃寺となった。

「阿波の里浦」現在の徳島県鳴門市里浦町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「稍」「やや」。

「曾呂利物語」「そろりものがたり」は寛文三(一六六三)年板行の怪談集で五巻五冊。外題は「曾呂利快談話」であるが「曾呂利物語」の内題で通称される。秀吉の御伽衆として知られた曾呂利新左衛門の談に仮託するが、編著者は不詳。

「是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳」「曾呂利物語 卷四」の「九 耳きれれうんいちが事」であるが、これは「自傳」とは言えない。早稲田大学古典総合データベースの画像で原本を視認しつつ、一部を漢字に直した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集(中)」(高田衛編・校注)を参考に(従っていない部分も多い。例えば、原本は一貫して主人公を「うんいち」と記しているのに、高田氏は「うん市」とする)、恣意的に正字化して以下に示す。挿絵は同一「江戸怪談集(中)」のものをトリミングして挿入した。適宜、改行を施した。

   *

 

   九   耳切れうんいちが事


Unniti

 信濃の國、善光寺のうちに、比丘尼寺(びくにでら)ありけり。また、越後の國にうんいちと云ふ座頭はべる。常に彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。

 ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。少し快くして、彼の寺に行きけり。主の老尼、

「うんいちは遙かにこそ覺ゆれ。何として打ち絶えけるぞ。」

と云ひければ、

「久しく所勞(しよらう)の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」

と云ふ。

 兎角して、其の日も暮れければ、

「うんいちは、客殿(きやくでん)、宿られよ。」

と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。

 爰に、けいじゆん、とて、弟子比丘尼あり、三十日程さきに、身まかりぬ。かのけいじゆん、うんいちの臥したる所へ行きて、

「其の後は久しくこそ覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ伴ひ侍らん。」

と云ふ。うん市は死したる人とも知らず、

「それへ參るべく候へども、御一人坐(おは)します所へ參り候ふ事は、如何(いかが)にて候ふまま、えこそ參るまじ。」

と云ふ。

「いやいや、苦しうも候はず。」

とて、是非に引き立て行く。

 彼の寮の戸を内より強く鎖(さ)して、明くる日は外へも出ださず、さて暮れぬ。

 うんいち、氣詰(つ)まり、如何すべきと思ひながら、すべきやうもなし。めうけつに行事(ぎやうし)の鐘の音しければ、

「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」

と云ひて出でぬ。さて、如何して出でんと、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事もならず。

 夜明けて、けいじゆんは歸りぬ。

 かくする事、二夜(ふたよ)なり。

 其の中に、食ひ物絶えて、迷惑の餘りに、三日目の曉(あかつき)、行事(ぎやうし)に出でけるうちに、寮の戸を荒らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出で合ひ、戸口を蹴放(けはな)し見れば、うんいちなり。

「此の程は何處(いづこ)へ行きけるぞ。」

と、尋ねければ、

「爰に居てこそ侍れ。」

と云ふ。

 見れば臠(ししむら)少しもなく、骨ばかりにて、さも恐ろしき姿なり。

「如何(いか)に、如何に。」

と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下より、

「しかじかの事にて侍る。」

と語る。

「けいじゆんは、三十日ほど前に、身まかりぬる」

と云へば、愈々(いよいよ)、興覺(けうさ)めてぞ覺えける。

 一つは、けいじゆん弔ひの爲、又は、うんいちが怨念を拂はん爲めとて、寺中寄り合ひ、百万遍の念佛を修行しける。

 各(おのおの)、鐘うち鳴らし、誦(じゆ)經しける時に、何處ともなく、けいじゆん、形を現はし出で來たり、うんいちが膝を枕にして臥しぬ。念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、正體(しやうだい)もなかりければ、かかる隙(ひま)に、うんいち、枕を外し、

「はや、國に歸り侯へ。」

とて、馬を用意して送りぬ。道すがら、いかにも身の毛よだち、後(あと)より取り付かるるやうに覺え、行き惱みけるほどに、ある寺へ立ち寄り、長老に會ひて、

「しかじかの事侍り。平(ひら)に賴み奉る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄り合ひ、うんいちが一身に、尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。

 さる程に、けいじゆん、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、

「うん市を出だせ、出だせ。」

とののしりて、走りまはりしが、うんいちを見つけて、

「噫(ああ)、可愛(かはひ)や、座頭は石になりける。」

とて、撫で𢌞し、耳に少し陀羅尼の足らぬところを見出だして、

「玆(ここ)に、うんいちが、切れ殘りたる。」

とて、引き千切(ちぎ)りてぞ歸りにける。

 さてこそ、甲斐なき命助かりて、本國へ歸りしが、耳切れうんいちとて、年長(とした)くるまで越後の國にありしとぞ。

   *

簡単に語注しておく。

・「うんいち」「うん」は運・雲・云など、「いち」は一・壱・市などが想起される。

・「勞(いた)はる事」病気に罹患すること。

・「遙かに」久しぶりのことと。

・「御見舞ひ」御機嫌伺い。

・「けいじゆん」「けい」は惠・慶・慧など、「じゆん」は順・純などが想起される。

・「寮」尼僧らの僧坊内の彼女の個室を指していよう。だから「御一人坐します」と遠慮するのである。

・「氣詰まり」何とも言えず気持ちが塞いで。実は亡者の陰気によるものであるが、主人公「うんいち」の意識では、尼僧と同室にて一夜を過ごしたことへの後ろめたさの心因反応と理解していよう。

・「めうけつ」参考にした高田氏の脚注に、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とある。

・「行事(ぎやうし)」原本は表記の読みのママ。高田氏は脚注で、『原本「ぎやうし」。意によって改』めた、とされ、さらに、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とある。

・「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」「けいじゆん」の台詞。「夜の勤行の刻限となりましたれば、出でまするが、ここに妾(わらわ)が帰って参りまするまで、そのまま、よろしいか。決して、外へ出ては、いけませぬぞ。」。

・「臠(ししむら)」身体に肉の部分。生気(精気・陽気)をすっかり亡者に吸われたのである。

・「百万遍の念佛」高田氏の脚注に、『災厄や病気をはらうために、大勢が集まって念仏を百万回となえる行事』とある。

・「尊勝陀羅尼」仏頂尊勝(密教で信仰される仏の一種で、如来の肉髻(にっけい:仏の頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したもの及びそれと同じ神通力を持つ呪文を神格化したもの)の功徳を説いた陀羅尼(だらに:密教で仏菩薩の誓いや教え・功徳などを秘めているとする呪文的な語句で原語を音写して用いるものの内、語句数の多いものを指す)。八十七句から成り、これを唱えたり、書写したりすれば、悪を清め、長寿快楽を得、自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされる。

・「可愛や」「なんとまあ! 可哀想なこと!」。

 

「序」「ついで」。柳田のこの部分は冒頭の導入部をすっ飛ばしており、本文に即しているとは言えない。前の原文参照。まあ、「うんいち」の「自伝」と言っちまっ柳田としては、かく脚色したかっただろうけど、私しゃあ、気に入らないね。

「後から追はれて如何ともしやうが無い」「後から追はれて来るような」気が強くしたので、である。事実、霊は追っては来るのだがね。

「等勝陀羅尼」ママ。文庫版全集もママ。こんな陀羅尼、聴いたこともありません! 誤字ですよ! 誤字! 柳田センセ!!

「鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である」端午の節句では、摘んできた蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)を軒に吊るすことで、無病息災を祈り、邪気を払えるとした習俗があるが、この由来譚(但し、後附けであろう)の知られた一例として、山姥や鬼・化け蜘蛛などが女に変身して人の男の女房となる異類婚姻譚「喰わず女房」があり、蓬や菖蒲は、主人公の男が、その呪的逃走を成就するための必須アイテムとして立ち現われる。例えば。サイト「お話歳時記」の端午の節句と山姥」が読み易く、判り易い。

「大唐櫃」「おほからびつ」。次の次、「山神と琵琶」に出る山形県大石田町の座頭譚を受けたもの。]

2016/12/18

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(22) 神道の發達(Ⅴ) / 神道の發達~了

 

 産業及び農業を主宰する神々――特に農夫の祈願する、蠶の女神、米の女神、風及び天氣の神の如き神々――の外に、國中殆ど到る處に、償贖和解の神社とでも云つたやうなのがある。この種の後代に出來た神社は、不幸、不正の爲めに苦しみを受けた人の靈の爲め、その贖ひを成す爲に建てられたものである。この場合、禮拜は、極めて異樣な形をとり、禮拜者は、その祭られて居る人が生存中に被つたやうな、災難及び困難に對して保護を求めるのである。たとへば出雲に於て、私は嘗て王侯の寵愛者であつた一婦人の靈の爲めに捧げられた神社を見た事がある。この婦人は嫉妬深い競爭者の術數にかかり、自殺したのであつた。その話は恁うである、この婦人は極めて美しい髮の毛をもつて居た。併しそれに黑さが足りなかつた、それでその敵どもは、その色を以つてこの婦人を排斥する手段としたのであつた。それで今や世間の赤毛の子供をもつて居る母親達は、その赤色の黑色にかはる事をその神に祈り、髮の毛の東と東京の錦繪とを供物として捧げる。それはこの婦人が錦繪を好んで居たと考へられて居るからである。同じ地方に、主人の留守を悲しんて死んだ若い妻の靈の爲めに建てられた神社がある。この婦人は、岡にのぼつて夫の歸りを待つて居たのであるが、神社はその待つて居た場所に建てられたのであつた、そして細君達はその留守の夫の無事に歸つて來るやうにと、この婦人に祈るのである……。これと同じやうな和解の禮拜は、普通の墓地でも行はれて居る。公衆の憐憫の心は、殘虐の爲めに自殺するの已むなきに至つた人々、若しくは法律は罪科にあたひするが、事實愛國心その他同情を得るやうな動機から爲された犯罪の爲めに、處刑された人々を祭らうと欲するのてある。さういふ人々の墓場の前には、供物が捧げられ、祈禱がささやかれる。不幸な戀人等の靈も、同じ事の爲めに苦しむ若い人々に依つて祈願される……。なほ償贖融和の禮拜のその他の形のうちに、私は動物――主として家畜であるが――靈の爲めに小さい社を建てる古い慣習のある事を言はなければならない、それは默つておとなしく用をなし、而もその報いを得なかつたその奉仕を認めてか、或は不當に被らされた苦痛の贖ひのためになされるのである。

[やぶちゃん注:「蠶の女神」代表的な東北地方の「おしらさま」などを考えると(「おしらさまの神体は男女一対・馬と娘一対・馬と男一対で祀られることが多い)、女神というのは少し腑に落ちなかったりするが、養蚕はその主体が專ら農家の女性の手で行われてきたこと、以下の「米の女神」でもある、食物起源神話の女神である「宜都比賣神」(おほげつひめ:「古事記」に登場。身体から出した食物を出したことを知って怒った「素戔嗚命」に殺害されてしまうが、その頭から蚕が、目から稲が生まれる)や「保食神」(うけもちのかみ:「日本書紀」の神産みの段の一書にのみ登場。素戔嗚の代わりにこちらでは同シチュエーションで「月讀命(つくよみのみこと)」が殺害、その屍体の眉から蚕が、腹から稲が生まれている)ことを考えれば、豊饒神は当然、子を産める女神でなくてはと腑に落ちる。

「償贖」「しやうとく」。「賠償」に同じい。償(つぐな)い贖(あがな)うこと。

「出雲に於て、私は嘗て王侯の寵愛者であつた一婦人の靈の爲めに捧げられた神社を見た事がある。この婦人は嫉妬深い競爭者の術數にかかり、自殺したのであつた」当該神社及び以下の話(かなり具体であるが、髪をめぐる嫉妬というのは汎世界的な古典的伝承の型ではある)を含め、不詳。典拠及び、錦絵を奉納するというその神社の所在地等、御存じの方は御教授を乞う。

「同じ地方に、主人の留守を悲しんて死んだ若い妻の靈の爲めに建てられた神社がある」望夫石伝承の一例と思われるが同じく、当該神社及び以下の話を含め、不詳。典拠及び、その神社の所在地等、御存じの方は御教授を乞う。]

 

 なほ別種の守護神の事も一言しなければならない――則ち人々の家々の内、若しくはまはりに住む神々の事である。その内の或るものは神話の内にも書いてあり、恐らくは日本の祖先禮拜から發展したものてあらう。また或るものは外國起原のものであり、或るものは神社をもつて居ないらしく、なほ成或るものは所謂萬物有靈説(アニミズム)と云つたやうなものを代表して居る。この種の神はギリシヤの δαίμονες よりもロオマのdii genitales (生々の神)に近い。井戸の神なる水神樣、食器の神なる荒神(殆ど孰れの家の臺所にも、この神に捧げた小さな神壇があるか、若しくは、其名を書いた護符がある)鍋類の神、曲突(くど)(竃)の神、戸部の神(昔は沖津彦、沖津姫と言はれて居た)蛇の姿て顯はれて來ると云はれて居た池の主、米壺(櫃?)の女神、お釜樣、始めて人間に地に肥料を施す事を教へた手洗ひ場の神(これは通例隔のない男女の形をした紙で拵へた小さな人の姿を以つて現はされて居る)木材、火、金屬の神々、竝びに庭園、原野、案山子、橋、丘陵、森林、河流の神々と、また樹木の靈(日本の神話にも dryads ――樹木のニンフ――があるので)等があつて、その多くは言ふまでもなく神道起原のものである。また一方に道路が主として佛教の神々の保護の下にあるのを見る。私は地方の境の神々(ラテンではそれを呼んで termes といふ)に關して、少しも知る事を得なかつた、そして吾々は村はづれの處に佛の姿を見るのみである。併し殆ど何處の庭にも其北の方に、鬼門則ち惡魔の門と稱する方に向つて神道の小さい社がある――鬼門とは、則ち支那の教に依ると、すべての惡事の來る方向である、そして各種の神道の神々に捧げられた、これ等の小さな社は、惡靈の來ないやうに家を護つてくれると考へられて居たのである。鬼門についての信仰は、明らかに支那から渡來したものである。

[やぶちゃん注:「δαίμονες」ギリシア語で「ダイモネス」と読む。「神的なる存在たち」の意。後にこの語からユダヤ・キリスト教の悪霊“demon”(デーモン・悪魔)」が派生したため、印象がすこぶる悪くなってしまったが、プラトンの「饗宴」などによれば、古代ギリシア及びヘレニズムに於いて、人間と神々の中間に位置するところの、或いは善性の或いは悪性を示すところの、超自然的存在を指し、下級格の神や死んだ英雄の霊などを指す。和訳例では「神霊」「精霊」など(ここは一部をウィキの「ダイモーン」に拠った)。

dii genitales (生々の神)」古典ラテン語らしい。発音は「ディイ・ジェナタエス」か(誤っていれば御指摘あれかし)。戸田の「生々の神」というのは半可通である。平井呈一氏の『性器の神』で腑に落ちる。

「食器の神なる荒神」「荒神」は「こうじん」と読む。ウィキの「荒神より引く。『民間信仰において、台所の神様として祀られる神格の一例』。『多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと思われる。現在では純粋に神道の神として説明されるケース(後述)もあるが、それらは江戸国学以降の思弁によって竈神を定めたものにすぎない。神道から解くにしても仏教から解くにしても、「荒神」という名称の由来も、民俗学が報告する様々な習俗や信仰形態、地方伝承なども、十分に説明できる説は存在しない。極めて複雑な形成史をもっていると考えられている』。『荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようで』、『中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が』圧倒的に多く、『県内に荒神社が一つもない県も多い』。『荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある。(三系統ともいう。)屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」』及び『屋外の「地荒神」である』。『屋内の神は、中世の神仏習合に際し』、『修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある』。『御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神』(かぐつちのかみ)(下線やぶちゃん)『の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている』。『牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってからさらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、鎮守神としても定着したものである』。『家庭の台所で祀る三宝荒神と、地域共同体で祭る地荒神とがある。地荒神の諸要素には三宝荒神にみられないものも多く、両者を異質とみる説もあるが、地荒神にみられる地域差はその成立に関与した者と受け入れ側の生活様式の差にあったとみて』、『本来は三宝荒神と同系とする説もある』が、『地域文化の多様性は単に信仰史の古さを反映しているにすぎないとも考えられるので、必ずしも文化の伝達者と現地人のギャップという観点を持ち出す必要はない』。三宝荒神は「无障礙経(むしょうげきょう)」の説くところでは、如来荒神(にょらいこうじん)・麁乱荒神(そらんこうじん)・忿怒荒神(ふんぬこうじん)なる神の三身を指すとするが、そもそもが、この「无障礙経」自体は『中国で作成された偽経である。後世、下級僧や陰陽師の類が、財産をもたない出家者の生活の援助をうけやすくするため、三宝荒神に帰依するように説いたことに由来している。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する火の神ともされ、最も清浄な場所である竈の神(台所の神)として祭られる。俗間の信仰である』。『竈荒神の験力によると、生まれたての幼児の額に荒神墨を塗る、あるいは「あやつこ」と書いておけば悪魔を払えると信ずる考え方がある。また荒神墨を塗ったおかげで河童(かっぱ)の難をのがれたという話も九州北西部には多い。荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う』。『地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。 中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。山の神荒神・ウブスナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名称のほか、地名を冠したものが多い。祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される』。『旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る場合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全を守るが、甚だ祟りやすいともいう。また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐという』(中略)。「民間習俗における荒神信仰」の項の「あやつこ(綾子)」。『子供の「お宮参り」の時に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」、「犬」と書くこと言う。悪魔よけの印で、イヌの子は良く育つということに由来するとされ、全国的にでは無いが、地方によって行われる所がある』が、『古文献によると、この「あやつこ(綾子)」は紅で書いたとある』ものの、『紅は都の上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであったという。この「なべずみ」を額に付けることは、家の神としての荒神(こうじん)の庇護を受けていることの印であった。東北地方で、この印を書くことを「やすこ」を書くと言う。宮参りのみでなく、神事に参列する稚児(ちご)が同様の印を付ける例がある』。『「あやつこ(綾子)」を付けたものは、神の保護を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。のちには子供の事故防止のおまじないとして汎用されている。柳田國男の『阿也都古考』によると、奈良時代の宮女には「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる化粧の絵も認められ、また物品にもこの印を付けることもされていたらしい』。「荒神」の語源は不明であるが、『日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神であるが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある』。但し、『同様な思想はインドでも、例えば夜叉・羅刹などの悪神を祀りこれを以って守護神とする風習があったり、またヒンドゥー教(仏教からすれば外道の宗教)の神が、仏教に帰依したとして守護神・護法善神(いわゆる天部)とされたことも有名であり、純粋に仏教の枠内でも悪神を祀って善神に転じるということはありうる。神仏習合の文化の中で、陰陽師』や、その流れを汲む祈禱師らが、『古典上の(神道の)荒ぶる神の類を、外来の仏典に基づく神のように説いたことから発したのではないかとの説、古来からいう荒魂を祀って荒神としたのではないかという説もある』とある。

「竃」「かまど」。

「戸部の神」「こべのかみ」と読む。よく判らないが、前の「荒神」の引用部の下線を引いた箇所が、まさにこの直後で、この神は「昔は沖津彦、沖津姫と言はれて居た」とあることから見て、前の〈おくどの神さま〉=竈神と同等かその近縁の神と考えられ、すると、特に危険な火の気のある台所の出入りする戸口の守護神(ウィキの「かまど神」には、『オキツヒコ・オキツヒメが竈の神』とさえある)、或いはそこから逆に、外界・異界へと続く井戸(回禄時に火を消す役をも持つ)を守り、ひいては家(戸屋)を守る神としての〈戸辺(とべ)の神〉とは読めないだろうか? 単なる思い付きである。大方の御叱正を俟つ。

「米壺(櫃?)の女神」この「(櫃?)」は訳者戸田の附加。平井氏は普通に『米櫃の神』と訳しておられる。こうした戸田氏に訳は、少々、五月蠅いだけで、益がない。

「手洗ひ場の神」厠神(かわやがみ)。小学館「日本大百科全書」の井之口章次の解説によれば、『』男女一対の紙雛(かみびな)を神体とする例もあるが、多くは正月と盆に青柴(あおしば)を上げる程度である。陰陽道(おんみょうどう)の俗信で、井戸、便所など土に掘った穴を埋める』際には『人形や扇子を入れる作法があるが、神体とする紙雛は』、『その変化であろう。中国では紫姑(しこ)神、卜部(うらべ)の神道ではハニヤマヒメノカミ(土の神)とミズハノメノカミ(水の神)であるといい、密教や禅家ではウズサマ明王(みょうおう)とかウシッシャマ明王という。近世以降は』、『それらの俗信や信仰を統合して祖霊信仰体系に組み入れ、主として出産を守護する神と理解されている。福島県から関東地方に分布する「赤子の便所まいり」の習俗なども、厠神に健康を祈願するためと考える人が多い』とある。小泉八雲の「始めて人間に地に肥料を施す事を教へた」神とする定義もプラグマティクには判らぬではないが、どうも信仰のそれは、排泄と出産の類感呪術的なものが起原であるように私には思われるが、如何?

「案山子」「かかし」。ウィキの「かしによれば、『案山子は、民間習俗の中では田の神の依代(山の神の権現とも言われる)であり、霊を祓う効用が期待されていた。というのも、鳥獣害には悪い霊が関係していると考えられていたためである。人形としての案山子は、神の依り代として呪術的な需要から形成されていったものではないかとも推察できる。蓑や笠を着けていることは、神や異人などの他界からの来訪者であることを示している』。『見かけだけは立派だが、ただ突っ立っているだけで何もしない(=無能な)人物のことを案山子と評することがある。確かに案山子は物質的には立っているだけあり、積極的に鳥獣を駆逐することはしない』。だが、しかし、『農耕社会の構造からすると、農作物(生計の手段)を守る役割を与えられた案山子は、間接的には共同体の保護者であったと言えよう』。『古事記においては久延毘古(くえびこ)という名の神=案山子であるという。彼は知恵者であり、歩く力を持っていなかったとも言われる。立っている神 → 立っている人形、との関連は指摘するまでもないとも考えられるが、上記の通り語源との関係で、明確ではない』とある。

dryads」「ドライアズ」はギリシャ・ローマ神話で、精霊ニンフ(英語:nymph)の一種とされる木の精霊ドリュアス(Dryas:複数形:Dryades:ドリュアデス)のこと。

termes」「テルメス」。ラテン語の“terme”(テルメ)には「分岐した小枝」(村はずれには必ず分岐した辻がある)の外に「境界・限界・終局」の意があるから、境界神のことである。]

 併しながら家の各部――その一々の各部――また家庭の一々の道具が、目に見えざるその守護神をもつて居るといふ信仰は、支那の感化のみが發育さしたものであるか、それには疑問の餘地がある。兎に角この信仰を考へて見ると、家の建造が――その家が外國式でない限り――なほ宗教的行爲であり、また建築の頭領の仕事が、神官の仕事をも含んで居るといふ事も驚くには足らない事である。

[やぶちゃん注:「頭領」「棟梁」に同じい。]

 

 ここまて來ると萬物有靈説(アニミズム)の問題に逢着する。(私は現代の學派に屬する進化論者にして、萬物有靈説は、祖先靈拜の前にあつたといふ舊式の考ヘ――無生物に靈ありとする信仰は、人間の亡靈に就いての考へが、まだ出て來なかつた前に發展したものであるといふ假定を包有して居る説、を持つて居るとは思はない)ここまで説いて見ると日本に於ては、萬物有靈説的の信仰と神道の最下級の形との間の撹界線を引く事は、植物界と動物界との間の區劃をつけると同樣困難である、併し最古の神道文學も、今日存在するやうな發達した萬物有靈説の證據は少しも與へては居ない、恐らくその發展は徐々たるもので、多くは支那の信仰に感化されたものであらう。それでも吾々は『古事記』の内に、『螢火の如く輝き、蜉蝣の如くに亂れて居た惡の神々』といふ事、竝びに『岩や木の切り株や綠の水の泡をして語らしめる惡魔』といふ事を見るが、これに依つて萬物有靈説乃至拜物教的(フェテイシステイツク)考への、支那の影響時代前に、或る程度まで行はれて居た事を覗ふに足りる。そして萬物有靈説が恆久の祀拜と結び合つた場合、(異樣な形をした石或は木に捧げられた崇敬の念に於けるが如き)禮拜の形は、大抵神道に依つて居るといふ事は注意すべき處である。斯樣な物の祭られて居る前には、通例神道の門が見られる――鳥居が……支那朝鮮の影響の下に於ける、萬物有靈説の發達と共に、昔の日本の人は、眞に自分が靈と惡魔の世界の内にあつたと考へたのである。靈と惡魔とは、潮の音、瀧の響き、風のうめき、木の葉の囁き、鳥のなく聲、蟲のすだく聲、その他自然のあらゆる聲の内に、人間に向つて語つて居たのであつた。人間に取つて、あらゆる運動、――波の運動でも、草の運動でも、または移る行く霧、飛び行く雲の運動でも、みな亡靈の如くであり、動く事のない岩石、――否、路傍の石すら、目に見えざる嚴かなるものに依つて魂を入れられて居たのである。

[やぶちゃん注:「私は現代の學派に屬する進化論者にして、萬物有靈説は、祖先靈拜の前にあつたといふ舊式の考ヘ――無生物に靈ありとする信仰は、人間の亡靈に就いての考へが、まだ出て來なかつた前に發展したものであるといふ假定を包有して居る説、を持つて居るとは思はない」非常に迂遠な謂い方であるが、要は小泉八雲は信仰や宗教の進化理論の段階的発達に於いて、そのステージよりも前に行われていた原始的な(多分に侮蔑的に下等な)信仰形態は見かけ上、消失するというような考え方を支持出来ないと言っているものと私は解釈する。

「螢火の如く輝き、蜉蝣の如くに亂れて居た惡の神々」「蜉蝣」は「かげらう」であるが、これを「古事記」とするのは誤りであり、この英訳(サトウか)も「蜉蝣」など、よくない。これは「日本書紀」「卷第二」の「神代下 (かみのよのしものまき)」で葦原中国(あしはらのなかつくに)の状態を述べた、

    *

然るに、彼の地、多(さは)に螢火(ほたるび)光る神、及(ま)た蠅聲(さばへな)す邪(よこし)まなる神有り、復た、草木(くさき)、有り、咸(みな)能く言語(ことかた)りき。

    *

が出典であろう。まさに生物・無機物を問わず、総てのものの中に霊が宿っているとするアニミズム(animism)に立脚した世界観である。

「岩や木の切り株や綠の水の泡をして語らしめる惡魔」これも「古事記」からの引用ではあるまい。恐らくは、古えの祝詞(のりと)の一つである「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)」(新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞で、「延喜式」に既にその章詞が記述されあるが、これは八世紀中期以後の内容と推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。以上はウィキの「出雲国造神賀詞に拠った)の一節である、

    *

豐葦原の水穗の國は、晝は五月蠅(さばへ)なす水、沸き、夜は火、瓫(ほとぎ)なす光(かかや)く、神あり、石(いは)ね・木立(こだち)・靑水沫(あをみなは)も事問(ことと)ひて荒ぶる國なり。しかれども鎭(しづ)め平(やすら)けて、皇御孫(すめみま)の命に安國と平らけく知ろしまさしめむ。

   *

の部分を抜いたものであろう(読みは私の推定)。「瓫(ほとぎ)なす」は溢れるの謂いであろう。より具体なアニミスティクな表現である。]

 

 

 

Developments Of Shintō

 

THE teaching of Herbert Spencer that the greater gods of a people—those figuring in popular imagination as creators, or as particularly directing certain elemental forces—represent a later development of ancestor-worship, is generally accepted to-day. Ancestral ghosts, considered as more or less alike in the time when primitive society had not yet developed class distinctions of any important character, subsequently become differentiated, as the society itself differentiates, into greater and lesser. Eventually the worship of some one ancestral spirit, or group of spirits, overshadows that of all the rest; and a supreme deity, or group of supreme deities, becomes evolved. But the differentiations of the ancestor-cult must be understood to proceed in a great variety of directions. Particular ancestors of families engaged in hereditary occupations may develop into tutelar deities presiding over those occupations—patron gods of crafts and guilds. Out of other ancestral cults, through various processes of mental association, may be evolved the worship of deities of strength, of health, of long life, of particular products, of particular localities. When more light shall have been thrown upon the question of Japanese origins, it will probably be found that many of the lesser tutelar or patron gods now worshipped in the country were originally the gods of Chinese or Korean craftsmen; but I think that Japanese mythology, as a whole, will prove to offer few important exceptions to the evolutional law. Indeed, Shintō presents us with a mythological hierarchy of which the development can be satisfactorily explained by that law alone. Besides the Ujigami, there are myriads of superior and of inferior deities. There are the primal deities, of whom only the names are mentioned,—apparitions of the period of chaos; and there are the gods of creation, who gave shape to the land. There are the gods of earth, and, sky, and the gods of the sun and moon. Also there are gods, beyond counting, supposed to preside over all things good or evil in human life,—birth and marriage and death, riches and poverty, strength and disease …. It can scarcely be supposed that all this mythology was developed out of the old ancestor-cult in Japan itself: more probably its evolution began on the Asiatic continent. But the evolution of the national cult—that form of Shintō which became the state religion—seems to have been Japanese, in the strict meaning of the word. This cult is the worship of the gods from whom the emperors claim descent,—the worship of the "imperial ancestors." It appears that the early emperors of Japan—the "heavenly sovereigns," as they are called in the old records—were not emperors at all in the true meaning of the term, and did not even exercise universal authority. They were only the chiefs of the most powerful clan, or Uji, and their special ancestor-cult had probably in that time no dominant influence. But eventually, when the chiefs of this great clan really became supreme rulers of the land, their clan-cult spread everywhere, and overshadowed, without abolishing, all the other cults. Then arose the national mythology.

 

   We therefore see that the course of Japanese ancestor-worship, like that of Aryan ancestor-worship, exhibits those three successive stages of development before mentioned. It may be assumed that on coming from the continent to their present island home, the race brought with them a rude form of ancestor-worship, consisting of little more than rites and sacrifices performed at the graves of the dead. When the land had been portioned out among the various clans, each of which had its own ancestor cult, all the people of the district belonging to any particular clan would eventually adopt the religion of the clan ancestor; and thus arose the thousand cults of the Ujigami. Still later, the special cult of the most powerful clan developed into a national religion,—the worship of the goddess of the sun, from whom the supreme ruler claimed descent. Then, under Chinese influence, the domestic form of ancestor-worship was established in lieu of the primitive family-cult: thereafter offerings and prayers were made regularly in the home, where the ancestral tablets represented the tombs of the family dead. But offerings were still made, on special occasions, at the graves; and the three Shintō forms of the cult, together with later forms of Buddhist introduction, continued to exist; and they rule the life of the nation to-day.

 

   It was the cult of the supreme ruler that first gave to the people a written account of traditional beliefs. The mythology of the reigning house furnished the scriptures of Shintō, and established ideas linking together all the existing forms of ancestor-worship. All Shintō traditions were by these writings blended into one mythological history,—explained upon the basis of one legend. The whole mythology is contained in two books, of which English translations have been made. The oldest is entitled Ko-ji-ki, or "Records of Ancient Matters"; and it is supposed to have been compiled in the year 712 A.D. The other and much larger work is called Nihongi, "Chronicles of Nihon [Japan]," and dates from about 720 A.D. Both works profess to be histories; but a large portion of them is mythological, and either begins with a story of creation. They were compiled, mostly, from oral tradition we are told, by imperial order. It is said that a yet earlier work, dating from the seventh century, may have been drawn upon; but this has been lost. No great antiquity can, therefore, be claimed for the texts as they stand; but they contain traditions which must be very much older,—possibly thousands of years older. The Ko-ji-ki is said to have been written from the dictation of an old man of marvellous memory; and the Shintō theologian Hirata would have us believe that traditions thus preserved are especially trustworthy. "It is probable," he wrote, "that those ancient traditions, preserved for us by exercise of memory, have for that very reason come down to us in greater detail than if they had been recorded in documents. Besides, men must have had much stronger memories in the days before they acquired the habit of trusting to written characters for facts which they wished to remember,—as is shown at the present time in the case of the illiterate, who have to depend on memory alone." We must smile at Hirata's good faith in the changelessness of oral tradition; but I believe that folk-lorists would discover in the character of the older myths, intrinsic evidence of immense antiquity.—Chinese influence is discernible in both works; yet certain parts have a particular quality not to be found, I imagine, in anything Chinese,—a primeval artlessness, a weirdness, and a strangeness having nothing in common with other mythical literature. For example, we have, in the story of Izanagi, the world-maker, visiting the shades to recall his dead spouse, a myth that seems to be purely Japanese. The archaic naivete of the recital must impress anybody who studies the literal translation. I shall present only the substance of the legend, which has been recorded in a number of different versions:1

 

   1 See for these different versions Aston's translation of the Nihongi, Vol I.

 

   When the time came for the Fire-god, Kagu-Tsuchi, to be born, his mother, Izanami-no-Mikoto, was burnt, and suffered change, and departed. Then Izanagi-no-Mikoto, was wroth and said, "Oh! that I should have given my loved younger sister in exchange for a single child!" He crawled at her head and he crawled at her feet, weeping and lamenting; and the tears which he shed fell down and became a deity …. Thereafter Izanagi-no-Mikoto went after Izanami-no-Mikoto into the Land of Yomi, the world of the dead. Then Izanami-no-Mikoto, appearing still as she was when alive, lifted the curtain of the palace (of the dead), and came forth to meet him; and they talked together. And Izanagi-no-Mikoto said to her: "I have come because I sorrowed for thee, my lovely younger sister. O my lovely younger sister, the lands that I and thou were making together are not yet finished; therefore come back!" Then Izanami-no-Mikoto made answer, saying, "My august lord and husband, lamentable it is that thou didst not come sooner,—for now I have eaten of the cooking-range of Yomi. Nevertheless, as I am thus delightfully honoured by thine entry here, my lovely elder brother, I wish to return with thee to the living world. Now I go to discuss the matter with the gods of Yomi. Wait thou here, and look not upon me." So having spoken, she went back; and Izanagi waited for her. But she tarried so long within that he became impatient. Then, taking the wooden comb that he wore in the left bunch of his hair, he broke off a tooth from one end of the comb and lighted it, and went in to look for Izanami-no-Mikoto. But he saw her lying swollen and festering among worms; and eight kinds of Thunder-Gods sat upon her …. And Izanagi, being overawed by that sight, would have fled away; but Izanami rose up, crying: "Thou hast put me to shame! Why didst thou not observe that which I charged thee?… Thou hast seen my nakedness; now I will see thine!" And she bade the Ugly Females of Yomi to follow after him, and slay him; and the eight Thunders also pursued him, and Izanami herself pursued him …. Then Izanagi-no-Mikoto drew his sword, and flourished it behind him as he ran. But they followed close upon him. He took off his black headdress and flung it down; and it became changed into grapes; and while the Ugly Ones were eating the grapes, he gained upon them. But they followed quickly; and he then took his comb and cast it down, and it became changed into bamboo sprouts; and while the Ugly Ones were devouring the sprouts, he fled on until he reached the mouth of Yomi. Then taking a rock which it would have required the strength of a thousand men to lift, he blocked therewith the entrance as Izanami came up. And standing behind the rock, he began to pronounce the words of divorce. Then, from the other side of the rock, Izanami cried out to him, "My dear lord and master, if thou dost so, in one day will I strangle to death a thousand of thy people!" And Izanagi-no-Mikoto answered her, saying, "My beloved younger sister, if thou dost so, I will cause in one day to be born fifteen hundred …." But the deity Kukuri-hime-no-Kami then came, and spake to Izanami some word which she seemed to approve, and thereafter she vanished away ….

 

   The strange mingling of pathos with nightmare-terror in this myth, of which I have not ventured to present all the startling naiveti, sufficiently proves its primitive character. It is a dream that some one really dreamed,—one of those bad dreams in which the figure of a person beloved becomes horribly transformed; and it has a particular interest as expressing that fear of death and of the dead informing all primitive ancestor-worship. The whole pathos and weirdness of the myth, the vague monstrosity of the fancies, the formal use of terms of endearment in the moment of uttermost loathing and fear,—all impress one as unmistakably Japanese. Several other myths scarcely less remarkable are to be found in the Ko-ji-ki and Nihongi; but they are mingled with legends of so light and graceful a kind that it is scarcely possible to believe these latter to have been imagined by the same race. The story of the magical jewels and the visit to the sea-god's palace, for example, in the second book of the Nihongi, sounds oddly like an Indian fairy-tale; and it is not unlikely that the Ko-ji-ki and Nihongi both contain myths derived from various alien sources. At all events their mythical chapters present us with some curious problems which yet remain unsolved. Otherwise the books are dull reading, in spite of the light which they shed upon ancient customs and beliefs; and, generally speaking, Japanese mythology is unattractive. But to dwell here upon the mythology, at any length, is unnecessary; for its relation to Shintō can be summed up in the space of a single brief paragraph—

 

   In the beginning neither force nor form was manifest; and the world was a shapeless mass that floated like a jelly-fish upon water. Then, in some way—we are not told how—earth and heaven became separated; dim gods appeared and disappeared; and at last there came into existence a male and a female deity, who gave birth and shape to things. By this pair, Izanagi and Izanami, were produced the islands of Japan, and the generations of the gods, and the deities of the Sun and Moon. The descendants of these creating deities, and of the gods whom they brought into being, were the eight thousand (or eighty thousand) myriads of gods worshipped by Shintō. Some went to dwell in the blue Plain of High Heaven; others remained on earth and became the ancestors of the Japanese race.

   Such is the mythology of the Ko-ji-ki and the Nihongi, stated in the briefest possible way. At first it appears that there were two classes of gods recognized: Celestial and Terrestrial; and the old Shintō rituals (norito) maintain this distinction. But it is a curious fact that the celestial gods of this mythology do not represent celestial forces; and that the gods who are really identified with celestial phenomena are classed as terrestrial gods,—having been born or "produced" upon earth. The Sun and Moon, for example, are said to have been born in Japan,—though afterwards placed in heaven; the Sun-goddess, Ama-terasu-no-oho-Kami, having been produced from the left eye of Izanagi, and the Moon-god, Tsuki-yomi-no-Mikoto, having been produced from the right eye of Izanagi when, after his visit to the under-world, he washed himself at the mouth of a river in the island of Tsukushi. The Shintō scholars of the eighteenth and nineteenth centuries established some order in this chaos of fancies by denying all distinction between the Celestial and Terrestrial gods, except as regarded the accident of birth. They also denied the old distinction between the so-called Age of the Gods (Kami-yo), and the subsequent period of the Emperors. It was true, they said, that the early rulers of Japan were gods; but so were also the later rulers. The whole Imperial line, the "Sun's Succession," represented one unbroken descent from the Goddess of the Sun. Hirata wrote: "There exists no hard and fast line between the Age of the Gods and the present age—and there exists no justification whatever for drawing one, as the Nihongi does." Of course this position involved the doctrine of a divine descent for the whole race,—inasmuch as, according to the old mythology, the first Japanese were all descendants of gods,—and that doctrine Hirata boldly accepted. All the Japanese, he averred, were of divine origin, and for that reason superior to the people of all other countries. He even held that their divine descent could be proved without difficulty. These are his words: "The descendants of the gods who accompanied Ninigi-no-Mikoto [grandson of the Sun-goddess, and supposed founder of the Imperial house,]—as well as the offspring of the successive Mikados, who entered the ranks of the subjects of the Mikados, with the names of Taira, Minamoto, and so forth,—have gradually increased and multiplied. Although numbers of Japanese cannot state with certainty from what gods they are descended, all of them have tribal names (kabane), which were originally bestowed on them by the Mikados; and those who make it their province to study genealogies can tell from a man's ordinary surname, who his remotest ancestor must have been." All the Japanese were gods in this sense; and their country was properly called the Land of the Gods,—Shinkoku or Kami-no-kuni. Are we to understand Hirata literally? I think so—but we must remember that there existed in feudal times large classes of people, outside of the classes officially recognized as forming the nation, who were not counted as Japanese, nor even as human beings: these were pariahs, and reckoned as little better than animals. Hirata probably referred to the four great classes only—samurai, farmers, artizans, and merchants. But even in that case what are we to think of his ascription of divinity to the race, in view of the moral and physical feebleness of human nature? The moral side of the question is answered by the Shintō theory of evil deities, "gods of crookedness," who were alleged to have "originated from the impurities contracted by Izanagi during his visit to the under-world." As for the physical weakness of men, that is explained by a legend of Ninigi-no-Mikoto, divine founder of the imperial house. The Goddess of Long Life, Iha-naga-hime (Rock-long-princess), was sent to him for wife; but he rejected her because of her ugliness; and that unwise proceeding brought about "the present shortness of the lives of men." Most mythologies ascribe vast duration to the lives of early patriarchs or rulers: the farther we go back into mythological history, the longer-lived are the sovereigns. To this general rule Japanese mythology presents no exception. The son of Ninigi-no-Mikoto is said to have lived five hundred and eighty years at his palace of Takachiho; but that, remarks Hirata, "was a short life compared with the lives of those who lived before him." Thereafter men's bodies declined in force; life gradually became shorter and shorter; yet in spite of all degeneration the Japanese still show traces of their divine origin. After death they enter into a higher divine condition, without, however, abandoning this world …. Such were Hirata's views. Accepting the Shintō theory of origins, this ascription of divinity to human nature proves less inconsistent than it appears at first sight; and the modern Shintōist may discover a germ of scientific truth in the doctrine which traces back the beginnings of life to the Sun.

 

More than any other Japanese writer, Hirata has enabled us to understand the hierarchy of Shintō mythology,—corresponding closely, as we might have expected, to the ancient ordination of Japanese society. In the lowermost ranks are the spirits of common people, worshipped only at the household shrine or at graves. Above these are the gentile gods or Ujigami,—ghosts of old rulers now worshipped as tutelar gods. All Ujigami, Hirata tells us, are under the control of the Great God of Izumo,—Oho-kuni-nushi-no-Kami,—and, "acting as his agents, they rule the fortunes of human beings before their birth, during their life, and after their death." This means that the ordinary ghosts obey, in the world invisible, the commands of the clan-gods or tutelar deities; that the conditions of communal worship during life continue after death. The following extract from Hirata will be found of interest,—not only as showing the supposed relation of the individual to the Ujigami, but also as suggesting how the act of abandoning one's birthplace was formerly judged by common opinion:—

 

   "When a person removes his residence, his original Ujigami has to make arrangements with the Ujigami of the place whither he transfers his abode. On such occasions it is proper to take leave of the old god, and to pay a visit to the temple of the new god as soon as possible after coming within his jurisdiction. The apparent reasons which a man imagines to have induced him to change his abode may be many; but the real reasons cannot be otherwise than that either he has offended his Ujigami, and is therefore expelled, or that the Ujigami of another place has negotiated his transfer …."1

 

   1 Translated by Satow. The italics are mine.

 

It would thus appear that every person was supposed to be the subject, servant, or retainer of some Ujigami, both during life and after death.

   There were, of course, various grades of these clan-gods, just as there were various grades of living rulers, lords of the soil. Above ordinary Ujigami ranked the deities worshipped in the chief Shintō temples of the various provinces, which temples were termed Ichi-no-miya, or temples of the first grade. These deities appear to have been in many cases spirits of princes or greater daimyo, formerly, ruling extensive districts; but all were not of this category. Among them were deities of elements or elemental forces,—Wind, Fire, and Sea,—deities also of longevity, of destiny, and of harvests,—clan-gods, perhaps, originally, though their real history had been long forgotten. But above all other Shintō divinities ranked the gods of the Imperial Cult,—the supposed ancestors of the Mikados.

 

   Of the higher forms of Shintō worship, that of the imperial ancestors proper is the most important, being the State cult; but it is not the oldest. There are two supreme cults: that of the Sun-goddess, represented by the famous shrines of Isé; and the Izumo cult, represented by the great temple of Kitzuki. This Izumo temple is the centre of the more ancient cult. It is dedicated to Oho-kuni-nushi-no-Kami, first ruler of the Province of the Gods, and offspring of the brother of the Sun-goddess. Dispossessed of his realm in favour of the founder of the imperial dynasty, Oho-kuni-nushi-no-Kami became the ruler of the Unseen World,—that is to say the World of Ghosts. Unto his shadowy dominion the spirits of all men proceed after death; and he rules over all of the Ujigami. We may therefore term him the Emperor of the Dead. "You cannot hope," Hirata says, "to live more than a hundred years, under the most favourable circumstances; but as you will go to the Unseen Realm of Oho-kuni-nushi-no-Kami after death, and be subject to him, learn betimes to bow down before him." … That weird fancy expressed in the wonderful fragment by Coleridge, "The Wanderings of Cain," would therefore seem to have actually formed an article of ancient Shintō faith: "The Lord is God of the living only: the dead have another God." …

 

   The God of the Living in Old Japan was, of course, the Mikado,—the deity incarnate, Arahito-gami,—and his palace was the national sanctuary, the Holy of Holies. Within the precincts of that palace was the Kashiko-Dokoro ("Place of Awe"), the private shrine of the Imperial Ancestors, where only the court could worship,—the public form of the same cult being maintained at Isé. But the Imperial House worshipped also by deputy (and still so worships) both at Kitzuki and Isé, and likewise at various other great sanctuaries. Formerly a great number of temples were maintained, or partly maintained, from the imperial revenues. All Shintō temples of importance used to be classed as greater and lesser shrines. There were 304 of the first rank, and 2828 of the second rank. But multitudes of temples were not included in this official classification, and depended upon local support. The recorded total of Shintō shrines to-day is upwards of 195,000.

 

   We have thus—without counting the great Izumo cult of Oho-kuni-nushi-no-Kami—four classes of ancestor-worship: the domestic religion, the religion of the Ujigami, the worship at the chief shrines [Ichi-no-miya] of the several provinces, and the national cult at Isé. All these cults are now linked together by tradition; and the devout Shintōist worships the divinities of all, collectively, in his daily morning prayer. Occasionally he visits the chief shrine of his province; and he makes a pilgrimage to Isé if he can. Every Japanese is expected to visit the shrines of Isé once in his lifetime, or to send thither a deputy. Inhabitants of remote districts are not all able, of course, to make the pilgrimage; but there is no village which does not, at certain intervals, send pilgrims either to Kitzuki or to Isé on behalf of the community, the expense of such representation being defrayed by local subscription. And, furthermore, every Japanese can worship the supreme divinities of Shintō in his own house, where upon a "god-shelf" (Kamidana) are tablets inscribed with the assurance of their divine protection,—holy charms obtained from the priests of Isé or of Kitzuki. In the case of the Isé cult, such tablets are commonly made from the wood of the holy shrines themselves, which, according to primal custom, must be rebuilt every twenty years,—the timber of the demolished structures being then cut into tablets for distribution throughout the country.

 

   Another development of ancestor-worship—the cult of gods presiding over crafts and callings—deserves special study. Unfortunately we are as yet little informed upon the subject. Anciently this worship must have been more definitely ordered and maintained than it is now. Occupations were hereditary; artizans were grouped into guilds—perhaps we might even say castes;—and each guild or caste then probably had in patron-deity. In some cases the craft-gods may have been ancestors of Japanese craftsmen; in other cases they were perhaps of Korean or Chinese origin,—ancestral gods of immigrant artizans, who brought their cults with them to Japan. Not much is known about them. But it is tolerably safe to assume that most, if not all of the guilds, were at one time religiously organized, and that apprentices were adopted not only in a craft, but into a cult. There were corporations of weavers, potters, carpenters, arrow-makers, bow-makers, smiths, boat-builders, and other tradesmen; and the past religious organization of these is suggested by the fact that certain occupations assume a religious character even to-day. For example, the carpenter still builds according to Shintō tradition: he dons a priestly costume at a certain stage of the work, performs rites, and chants invocations, and places the new house under the protection of the gods. But the occupation of the swordsmith was in old days the most sacred of crafts: he worked in priestly garb, and practised Shintō) rites of purification while engaged in the making of a good blade. Before his smithy was then suspended the sacred rope of rice-straw (shime-nawa), which is the oldest symbol of Shintō: none even of his family might enter there, or speak to him; and he ate only of food cooked with holy fire.

 

   The 195,000 shrines of Shintō represent, however, more than clan-cults or guild-cults or national-cults …. Many are dedicated to different spirits of the same god; for Shintō holds that the spirit of either a man or a god may divide itself into several spirits, each with a different character. Such separated spirits are called waka-mi-tama ("august-divided-spirits"). Thus the spirit of the Goddess of Food, Toyo-ué-bime, separated itself into the God of Trees, Kukunochi-no-Kami, and into the Goddess of Grasses, Kayanu-himé-no-Kami. Gods and men were supposed to have also a Rough Spirit and a Gentle Spirit; and Hirata remarks that the Rough Spirit of Oho-kuni-nushi-no-Kami was worshipped at one temple, and his Gentle Spirit at another.1… Also we have to remember that great numbers of Ujigami temples are dedicated to the same divinity. These duplications or multiplications are again offset by the fact that in some of the principal temples a multitude of different deities are enshrined. Thus the number of Shintō temples in actual existence affords no indication whatever of the actual number of gods worshipped, nor of the variety of their cults. Almost every deity mentioned in the Ko-ji-ki or Nihongi has a shrine somewhere; and hundreds of others—including many later apotheoses—have their temples. Numbers of temples have been dedicated, for example, to historical personages,—to spirits of great ministers, captains, rulers, scholars, heroes, and statesmen. The famous minister of the Empress Jingo, Takeno-uji-no-Sukune,—who served under six successive sovereigns, and lived to the age of three hundred years,—is now invoked in many a temple as a giver of long life and great wisdom. The spirit of Sugiwara-no-Michizané, once minister to the Emperor Daigo, is worshipped as the god of calligraphy, under the name of Tenjin, or Temmangu: children everywhere offer to him the first examples of their handwriting, and deposit in receptacles, placed before his shrine, their worn-out writing-brushes. The Soga brothers, victims and heroes of a famous twelfth-century tragedy, have become gods to whom people pray for the maintenance of fraternal harmony. Kato Kiyomasa, the determined enemy of Jesuit Christianity, and Hideyoshi's greatest captain, has been apotheosized both by Buddhism and by Shintō. Iyeyasu is worshipped under the appellation of Toshogu. In fact most of the great men of Japanese history have had temples erected to them; and the spirits of the daimyo were, in former years, regularly worshipped by the subjects of their descendants and successors.

 

   1 Even men had the Rough and the Gentle Spirit; but a god had three distinct spirits,—the Rough, the Gentle, and the Bestowing,—respectively termed Ara-mi-tama, Nigi-mi-tama, and Saki-mi-tama.—[See Satow's Revival of Pure Shintau.]

 

   Besides temples to deities presiding over industries and agriculture,—or deities especially invoked by the peasants, such as the goddess of silkworms, the goddess of rice, the gods of wind and weather,—there are to be found in almost every part of the country what I may call propitiatory temples. These latter Shintō shrines have been erected by way of compensation to spirits of persons who suffered great injustice or misfortune. In these cases the worship assumes a very curious character, the worshipper always appealing for protection against the same kind of calamity or trouble as that from which the apotheosized person suffered during life. In Izumo, for example, I found a temple dedicated to the spirit of a woman, once a prince's favourite. She had been driven to suicide by the intrigues of jealous rivals. The story is that she had very beautiful hair; but it was not quite black, and her enemies used to reproach her with its color. Now mothers having children with brownish hair pray to her that the brown may be changed to black; and offerings are made to her of tresses of hair and Tokyo coloured prints, for it is still remembered that she was fond of such prints. In the same province there is a shrine erected to the spirit of a young wife, who pined away for grief at the absence of her lord. She used to climb a hill to watch for his return, and the shrine was built upon the place where she waited; and wives pray there to her for the safe return of absent husbands …. An almost similar kind of propitiatory worship is practised in cemeteries. Public pity seeks to apotheosize those urged to suicide by cruelty, or those executed for offences which, although legally criminal, were inspired by patriotic or other motives commanding sympathy. Before their graves offerings are laid and prayers are murmured. Spirits of unhappy lovers are commonly invoked by young people who suffer from the same cause …. And, among other forms of propitiatory worship I must mention the old custom of erecting small shrines to spirits of animals,—chiefly domestic animals,—either in recognition of dumb service rendered and ill-rewarded, or as a compensation for pain unjustly inflicted.

 

   Yet another class of tutelar divinities remains to be noticed,—those who dwell within or about the houses of men. Some are mentioned in the old mythology, and are probably developments of Japanese ancestor-worship; some are of alien origin; some do not appear to have any temples; and some represent little more than what is called Animism. This class of divinities corresponds rather to the Roman dii genitales than to the Greek δαίμονες. Suijin-Sarna, the God of Wells; Kojin, the God of the Cooking-range (in almost every kitchen there is either a tiny shrine for him, or a written charm bearing his name); the gods of the Cauldron and Saucepan, Kudo-no-Kami and Kobe-no-Kami (anciently called Okitsuhiko and Okitsuhime); the Master of Ponds, Ike-no-Nushi, supposed to make apparition in the form of a serpent; the Goddess of the Rice-pot, O-Kama-Sama; the Gods of the Latrina, who first taught men how to fertilize their fields (these are commonly represented by little figures of paper, having the forms of a man and a woman, but faceless); the Gods of Wood and Fire and Metal; the Gods likewise of Gardens, Fields, Scarecrows, Bridges, Hills, Woods, and Streams; and also the Spirits of Trees (for Japanese mythology has its dryads): most of these are undoubtedly of Shintō. On the other hand, we find the roads under the protection of Buddhist deities chiefly. I have not been able to learn anything regarding gods of boundaries,—termes, as the Latins called them; and one sees only images of the Buddhas at the limits of village territories. But in almost every garden, on the north side, there is a little Shintō shrine, facing what is called the Ki-Mon, or "Demon-Gate,"—that is to say, the direction from which, according to Chinese teaching, all evils come; and these little shrines, dedicated to various Shintō deities, are supposed to protect the home from evil spirits. The belief in the Ki-Mon is obviously a Chinese importation. One may doubt, however, if Chinese influence alone developed the belief that every part of a house,—every beam of it,—and every domestic utensil has its invisible guardian. Considering this belief, it is not surprising that the building of a house—unless the house be in foreign style—is still a religious act, and that the functions of a master-builder include those of a priest.

 

   This brings us to the subject of Animism. (I doubt whether any evolutionist of the contemporary school holds to the old-fashioned notion that animism preceded ancestor-worship,—a theory involving the assumption that belief in the spirits of inanimate objects was evolved before the idea of a human ghost had yet been developed.) In Japan it is now as difficult to draw the line between animistic beliefs and the lowest forms of Shintō, as to establish a demarcation between the vegetable and the animal worlds; but the earliest Shintō literature gives no evidence of such a developed animism as that now existing. Probably the development was gradual, and largely influenced by Chinese beliefs. Still, we read in the Ko-ji-ki of "evil gods who glittered like fireflies or were disorderly as mayflies," and of "demons who made rocks, and stumps of trees, and the foam of the green waters to speak,"—showing that animistic or fetichistic notions were prevalent to some extent before the period of Chinese influence. And it is significant that where animism is associated with persistent worship (as in the matter of the reverence paid to strangely shaped stones or trees), the form of the worship is, in most cases, Shintō. Before such objects there is usually to be seen the model of a Shintō gateway,—torii…. With the development of animism, under Chinese and Korean influence, the man of Old Japan found himself truly in a world of spirits and demons. They spoke to him in the sound of tides and of cataracts in the moaning of wind and the whispers of leafage, in the crying of birds, and the trilling of insects, in all the voices of nature. For him all visible motion—whether of waves or grasses or shifting mist or drifting cloud—was ghostly; and the never moving rocks—nay, the very stones by the wayside—were informed with viewless and awful being.

2016/12/17

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(21) 神道の發達(Ⅳ)

 

 斯樣な次第で――出雲に於ける大國主神の大祭祀は數に入れないとして――祖先禮拜に四階級がある、家族の宗教、氏神の宗教、請地方の主なる神社(一の宮)に於ける禮拜、及び伊勢に於ける國家的祭祀がそれである。これ等の祭祀は今や傳統に依つて一緒に結合されて居る、そして熱心な神道家は、すべての神々を一緒にして、毎朝の祈禱の内にそれを禮拜する。さういふ神道家は、折々その地方の主なる神社に參詣する、そして出來る事ならば伊勢まて巡禮をする。日本人はみな生涯一度は伊勢の神宮に參詣するか、若しくはその代理やを送るべきものとされて居る。無論遠隔の地に住んで居るものは、誰れもかれもこの禮拜をなしうるとは考へられない、併しいづれの村でも或る期間に、その地方の爲めに杵築若しくは伊勢へ巡拜を出さない處はない――恁ういふ代表の費用は、その地方の寄附金に依つて支拂はれる。なほ進んで、日本人はみな神道の高い神々を自分の家て禮拜してうるのである、則ちその家には神棚の上に、神の守護の保證を記した板牌が置かれてあるのである――それは伊勢或は杵築の神官から得た護符である。伊勢の祭祀の場合、この板牌は聖い神社そのものの木材から通例拵へられるのであつて、その神社は古くからの慣習に依り、二十年毎に再建される事になつて居るのである――則ちその壞された建物の木材が切られて、板牌になり、全國に分布されるのである。

[やぶちゃん注:「板牌」「ばんはい」と音読みしているか。しかし、通常、これは歴史学では仏教の板状の石塔婆(いしとうば)を指す語であるから、違和感があり、ここは「御札」とすべきである。平井呈一氏も『お札』と訳しておられる。]

 

 今一つの祖先禮拜の發達――仕事及び職業を主宰する神々の祭祀――は特別な研究を値する。不幸にしてこの問題に就いて吾々の知る處は甚だ少ない。古代にあつては、この禮拜は今日よりも遙かに正確に定められ、行はれて居たに違ひない。職業は父子相傳的で、職人は、同業組合なるものに纏められて居た――恐らくそれは階級と云つても差支ないかも知れない、そして各組合若しくは階級は、多分その守り神をもつて居たに相違ない。或る場合には職業の神は、日本の職人の祖先であつたかも知れない、また或る場合には、それが朝鮮或は支那起原のものであつたらう――それは日本へその職業をもつて來た移住の職人の祖先なる神々である。それ等の事に就いて知られて居る處は多くない。併し職業組合のすべてではないとしも、その大抵は、或る時代にあつては、宗教的の組織をもつて居り、その徒弟はただに職業の内に迎へ入れられたのみならず、その神を祭祀するやうにされたのであつた。組合には織工、陶器工、大工、箭製作者、弓製作者、鍛冶工、船大工、その他の職人の組合があつて、これ等が過去に於て、宗教組織をもつて居たといふ事は、或る種の職業は、今日でも宗教の性質をもつて居るといふ事實に依つて思ひ及ぼされる。たとへば大工は今でも神道の傳統に從つて家を建てる、則ち大工はその仕事が成る程度に達すると、神官の衣をまとひ、儀式を行ひ、祈禱を捧げ、かくて新しい家を神々の保護の下に置く。併し刀鍛冶の職業は、昔にあつては職業中の尤も神聖なるものであつた、刀鍛冶は神官の衣を着て仕事をし、立派な刀身を作つて居る間は、神道の齋戒の式を行ふのである。その鍛冶場の前に、その時藁の神聖な網(締繩)が下げられる、これは神道の最古の象徴てある、その時はその家族の何人たりと島も、その内に入り、また鍛冶工に話しかける事を許されない、そしてその當人は聖火をもつて煮炊きされた食物の外喰へないのである。

[やぶちゃん注:「箭」「や」と訓じておく。]

 

 神道の十九萬五千の神社は、併しながら氏族の祭祀若しくは職業組合の祭祀、或は國家の祭祀等より以上のものを代表して居る、その多くはい同じ神の異つた精靈に捧げられたものである、といふのは神道では、人間の靈にしても、神の靈にしても、それが幾種かの靈に分かたれ、その一々はみな別々の性質をもつて居ると説くからである。恁ういふ分かれた靈は『分魂』August-divided-spirits と呼ばれて居る。たとへば食物の女神、豐受姫神の靈は、分かれて樹木の神、久久能智神と、草の女神、鹿屋野比賣神のなかに入つたとされて居る。神も人間も、また荒い靈と、穩かな靈とを、もつて居るとされて居た。それで平田は大國主神の荒い靈は甲の神社に於て禮拜され、その穩かな靈は別の神社に於て禮拜されたと云つて居る……。吾々はまた氏神の社の澤山が、同じ一つの神に捧げられて居る事を記憶して置かなければならない。恁ういふ重複、若しくは增加は、また或る主なる神社に於て澤山の異つた神々が、一緒に祭られてあるといふ事實に依つて、入れ合はせがつけられて居る。そんなわけであるから實際にある神道の神社の數は、必らずしも禮拜されて居る神々の實數を示すものでもなければ、その祭祀の種類を顯はすものでもない。『古事記』或は『日本紀』に記されてある神は、いづれも何處かに、その神社がある、そしてその他の數百の神も――後年の多くの奉祭をも入れて――その神社をもつて居る。たとへば澤山の神社に歷史上の人物――偉大なる大臣、將軍、君主、學者、勇士竝びに政治家の靈に捧げられて居た。たとへば神功皇后の有名な大臣、武内宿禰――六代の君主に仕へ、三百年の齡を過ごした人――は今や多くの神社に於て、長命と大知識とを與へる神として祈願されて居る。嘗て醍醐天皇の大臣てあつた菅原道眞の靈は、天神若しくは天滿宮の名の下に、文字の神として祭られて居る、子供達は何處でも、その書いた文字の一番良いものを、この神に捧げる。そして自分の使ひふるした筆を、その社の前に置かれてある入れものの中に入れる。曾我兄弟は第十二世紀の有名な悲劇の犧牲であり、勇士であるが、この兄弟は神となり、人々は兄弟の仲をよくする爲にそれに祈禱をする。キリスト教のジェジュイト派に對する強烈な敵であり、秀吉の有力な將軍なる加藤淸正は、佛教と神道との兩方から神として祭られて居る。又家康は東照宮の名の下に禮拜されて居る。事實日本の歷史上の大人物の多くは、そのために大抵神社をたてられて居る。そして以前には、大名の靈は、必らずその子孫竝びに後繼者の臣下に依つて禮拜されて居た。

 

    註 人間も荒い靈と穩かな靈とをもつ
    て居た。併し神は三つの異つた靈――
    荒い靈、穩かな靈、授けをする靈をも
    つて居た、――それは荒御靈、よき御
    靈、幸御靈と云はれて居る。――サト
    ウ氏の神道の復活 Satow’s “The revival
     of pure Shintau”を見よ。

 

[やぶちゃん注:「『分魂』August-divided-spirits」平井呈一氏は『ワカミタマ(分御霊)』と訳しておられる。それを支持する。

 「豐受姫神」「とようけのかみ」。ウィキの「トヨウケビメによれば、『豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている』。「古事記」では「豐宇氣毘賣神」と表記される(「日本書紀」には登場しない)。別称を「登由宇氣神」「大物忌神」「とよひるめ」等とする。「古事記」では『伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている』。『神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である』が、『後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった』。伊勢神宮外宮の社伝では、『雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされ』るので、『元々は丹波の神ということになる』。「丹後国風土記逸文」には、『奈具社の縁起として次のような話が掲載されている』。『丹波郡比治里の比治真奈井で天女』八人が『水浴をしていたが』、その中の一人が『老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった』が、その『天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという』。なお、「摂津国風土記」』逸文では、「止與宇可乃賣神」は、『丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たとも記されている』とし、『また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という』という。『外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている』。『丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている』。『福知山市大江町には元伊勢豊受大神社があ』もと、『伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する』。『伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)、奈具社(京都府京丹後市)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社で主祭神とされているほか』、『神明神社の多くや』、『多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、稲荷神とトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある』とする。

「久久能智神」「くくのちのかみ」。ウィキの「ククノチによれば、『日本神話に登場する木の神で』、「古事記」では「久久能智神」、「日本書紀」では「句句廼馳」と表記するとあり、『神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神である』とする。「古事記」に『おいてはその次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれて』おり、「日本書紀」『本文では山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。第六の一書では「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている』。『神名の「クク」は、茎と同根で木が真っ直に立ち伸びる様を形容する言葉とも、木木(キキ・キギ)が転じてクク・クグになったものともいう。「ノ」は助詞の「の」、「チ」はカグツチなどと同じく神霊を意味する接尾詞であるので、「ククノチ」は「茎の神」「木の神」という意味になる』。『公智神社(兵庫県西宮市)の主祭神になっているほか、久久比神社(兵庫県豊岡市)には全国唯一のコウノトリ伝説のある神社もある。木魂神社という名のククノチ神を祭る神社も複数ある。樽前山神社(北海道苫小牧市)では原野の神・開拓の神として大山津見神・鹿屋野比売神とともに祀られている。志等美神社(三重県伊勢市)では林野の神であると同時に水の神とされる』。「延喜式」の「祝詞」には、『屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)の名が見え、ククノチと同神と見られる。屋船久久遅命は上棟式の祭神の一つとされている』とある。

「鹿屋野比賣神」「かやのひめのかみ」。ウィキの「カヤノヒメによれば、「カヤヌヒメ」とも読まれ、「古事記」ではこの名で出、「日本書紀」では「草祖草野姫」『(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し』、古事記では別名が野椎神『(のづちのかみ)であると記している』。『神産みにおいて伊弉諾尊 (いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)の間に生まれ』「古事記」では、『山の神である大山祇神との間に』、四対八柱の『神を生んだ。神名の「カヤ」は萱のことである』。『萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった』。『別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である』とする。『樽前山神社(北海道苫小牧市)では山の神・大山祇神(おおややまつみ)、木の神・句句廼馳(くくのち)と共に祀られている』。『萱津神社(愛知県あま市)では日本唯一の漬物の神として祀られており、タバコの葉の生産地では煙草の神として信仰されている』。清野井庭(きよのいば)神社『(三重県伊勢市)では灌漑用水の神、別説では屋船の神の分霊であるという』とある。

「荒い靈」「荒御靈(あらみたま)」。

「穩かな靈」「和御靈(にぎみたま)」。

「入れ合はせがつけられて居る」信仰体系の中での、一見、神の重複性による矛盾の辻褄合わせがつけられている、の意。

「武内宿禰」「たけのうちのすくね」或いは「たけしうちのすくね」。古代の大和朝廷初期に活躍したとされる伝承上の人物。記紀によれば,孝元天皇の子孫で日本最初の大臣とし、神功皇后の新羅征伐に従軍、その後、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕え、二百数十年間に亙って官にあったという、とんでもない長寿の官僚である。紀氏・巨勢(こせ)氏・平群(へぐり)氏・葛城(かつらぎ)氏・蘇我氏など、中央有力豪族の祖ともされている。

「齡」「よはひ」。

「ジェジュイト派」カトリック教会の男子修道会イエズス会(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。「加藤淸正」は熱心な日蓮宗信者で、関ヶ原合戦によって、切支丹大名小西行長が領していた南肥後の領主に鞍替えとなるや、領内の切支丹に日蓮宗への改宗を強制、従わぬ者に対しては容赦ない弾圧を加えたことで知られる。

「サトウ氏の神道の復活 Satow’s “The revival of pure Shintau”」前に注した、イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形としたThe revival of pure Shin-tau(「純粋神道の復活」)のこと。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art | Caspar David Friedrich | Miscellaneous | Иван Сергеевич Тургенев | 「プルートゥ」 | 「一言芳談」 | 「今昔物語集」を読む | 「北條九代記」 | 「新編鎌倉志」 | 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳 | 「明恵上人夢記」 | 「栂尾明恵上人伝記」 | 「澄江堂遺珠」という夢魔 | 「無門關」 | 「生物學講話」丘淺次郎 | 「甲子夜話」 | 「第一版新迷怪国語辞典」 | 「耳嚢」 | 「進化論講話」丘淺次郎 | 「鎌倉攬勝考」 | 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記) | 「鬼城句集」 | アルバム | ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」  | ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ | 中島敦 | 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 | 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 | 伊東静雄 | 佐藤春夫 | 八木重吉「秋の瞳」 | 北原白秋 | 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編 | 南方熊楠 | 博物学 | 原民喜 | 和漢三才圖會 蟲類 | 土岐仲男 | 堀辰雄 | 増田晃 | 夏目漱石「こゝろ」 | | 夢野久作 | 大手拓次詩集「藍色の蟇」 | 宇野浩二「芥川龍之介」 | 宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 | 富永太郎 | 小泉八雲 | 尾形亀之助 | 山之口貘 | 山本幡男 | 山村暮鳥全詩 | 忘れ得ぬ人々 | 怪談集 | 映画 | 杉田久女 | 村上昭夫 | 村山槐多 | 松尾芭蕉 | 柳田國男 | 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 | 柴田宵曲 | 梅崎春生 | 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 | 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 | 橋本多佳子 | 武蔵石寿「目八譜」 | 毛利梅園「梅園介譜」 | 毛利梅園「梅園魚譜」 | 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 | 津村淙庵「譚海」 | 海岸動物 | 火野葦平「河童曼陀羅」 | 片山廣子 | 生田春月 | 由比北洲股旅帖 | 畑耕一句集「蜘蛛うごく」 | 畔田翠山「水族志」 | 神田玄泉「日東魚譜」 | 立原道造 | 篠原鳳作 | 肉体と心そして死 | 芥川多加志 | 芥川龍之介 | 芥川龍之介 手帳 | 芥川龍之介「上海游記」 | 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) | 芥川龍之介「北京日記抄」 | 芥川龍之介「江南游記」 | 芥川龍之介「河童」決定稿原稿 | 芥川龍之介「長江游記」 | 芥川龍之介盟友 小穴隆一 | 芸術・文学 | 萩原朔太郎 | 蒲原有明 | 藪野種雄 | 西東三鬼 | 詩歌俳諧俳句 | 諸國百物語 附やぶちゃん注 | 貝原益軒「大和本草」より水族の部 | 野人庵史元斎夜咄 | 鈴木しづ子 | 鎌倉紀行・地誌 | 音楽 | 飯田蛇笏