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カテゴリー「小泉八雲」の375件の記事

2018/09/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(58) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅲ)

 

 家康――今までに現はれた中での最も機敏な、そして又最も人情の深い經世家の一人であるdあこの決斷を正當に評價するには、日本人の見地からして、彼をしてかくの如き行動をとるの已むなきに至らしめた、その根本となつてゐる證據の性質を考へて見ることが必要である。日本に於けるジエジユイト派の陰謀に就いて、彼は充分に承知して居たに相違ない、――その陰謀の中には家康の身を危くするやうなものも少からずあつたので――併し彼はこのやうな陰謀が發生するといふ單なる事實よりも、その陰謀の究極の目的と實際は、如何になるかといふ、その結果をむしろ考慮したらしいのである。宗教的陰謀は佛教徒の間にあつても普通の事であつた。そしてそれが國家の政策、若しくは公共の秩序を妨害した場合は別として、さうでない限りそれは武力的政府の注意を惹くことは殆どなかつたのである。併し政府を轉覆すること及び宗派を以て一國を占有することを、その目的とする宗教的陰謀は、これは重大な考慮を要する事である。信長はこの種の陰謀の危險なることに就いて嚴しい教訓を佛教に與へた。家康はジエジユイト教派の陰謀が、最も大きな野心を包藏した政治上の目的をもつてゐると斷じた。併し彼は信長よりも遙かに隱忍して居た。一六○三年には、彼は日本の諸州を悉く彼の威力の下に歸せしめた。併し彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた。――

[やぶちゃん注:「一六〇三年」慶長八年。この年の二月十二日(グレゴリオ暦三月二十四日に徳川家康に将軍宣下が下り、ここで江戸幕府が正式に開府された。

「彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた」或いは、プレに慶長十七年三月二十一日(グレゴリ暦一六一二年四月二十一日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令の布告(戸幕府による最初の公式のキリスト教禁令)を指すか、同年八月六日(九月一日)の「伴天連門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」という全国的なキリスト教信仰禁止の布告を指すか、又は「十一年」は「数え」で、幕府開府から十年後の、家康が第二代将軍秀忠の名でブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させて発布した「伴天連追放之文(バテレン追放令)」(ウィキの「禁教令では慶長十八年二月十九日(一六一三年一月二十八日)布告とするが、小学館「日本大百科全書」では慶長十八年十二月二十三日(一六一四年二月一日)とあるので、確認したところ、禁令原文の最後のクレジットは「慶長十八」「臘月」(旧暦十二月の異名)とあることが判った)。但し、ウィキの「禁教令によれば、実際にはまだ、『幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約』五十『名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる』とある。

 以下、底本では「身を曝す事にならう。」までは本文同ポイントで全体が二字下げ。]

『切支丹の徒は日本に來り、日本の政府を變へ、國土の領有を獲ようとするために、ただに貨物の交易に彼等の商船を遣はすばかりでなく、惡法を播布し、正しき教へを打倒さうと熱望してゐる。これこそ大災難を起こす荊芽であつて打潰さなければならぬ……

[やぶちゃん注:「荊芽」(けいが)は茨の芽であるが、ここは「刑罰に値する悪しきものの萌芽」の意。]

『日本は神々及び佛の國である、日本は神々を崇め佛を敬ふ……【註】伴天連の徒は神々の道を信仰せずして眞の法を罵る――正しき行ひに背いて善を害ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]……彼等は眞に神神及び佛の敵である……若し之が速に[やぶちゃん注:「すみやかに」。]禁ぜられずば、國家の安全は確に今後危險とならう、又若しその時局を處理するの衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。大事な任務。]に當たつてゐる者共が、この害惡を抑止しなければ、彼等は天の怒に身を曝す事にならう。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が三字下げ。]

 

 爰吉利支丹之徒黨、適來於日本、非啻渡商船而通資財、叨欲弘邪法威正宗、以改域中之政號作己有、是大禍之萠也、不可有不制矣、日本者神國佛國、而尊神敬佛……彼伴天連徒黨、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、殘義損善。……實神佛敵也、急不禁、後世必有國家之患、殊司號令不制之、却蒙譴天矣、日本國之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、有違命者、可刑罰之、……一天四海宜承知、莫違失矣。

[やぶちゃん注:「啻」は「營」であるが、平井呈一氏の引用(但し、誤り有り)その他原布告文を確認して訂した。以下、自己流で訓読しておく。

   *

 爰(ここ)に吉利支丹の徒黨、適(たまたま)日本に來り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)るに、邪法を弘(ひろ)め、正宗(しやうしゆう)を惑はさんと欲し、以つて域中(いきなか)[やぶちゃん注:国中。]の政號を改めて、己(おの)が有(ゆう)と作(な)さんとす。是れ、大禍(たいくわ)の萠(きざし)なり。制せずんば有るべからず。日本は神國・佛國にして、神を尊(たつと)び、佛を敬す。……彼(か)の伴天連の徒黨、皆、件(くだん)の政令に反(そむ)き、神道を嫌疑し、正法(しやうばう)を誹謗し、義を殘(そこな)ひ、善を損ず。……實(まこと)に神敵。佛敵なり。急ぎ、禁ぜずんば、後世、必ず、國家の患(うれ)ひ有り。殊(こと)に號令を司(つかさど)りて、之れを制せずんば、却つて天譴(てんけん)を蒙らん。日本國の内、寸土の尺地、手足を措(お)く所(ところ)無し[やぶちゃん注:キリスト教の伝道者が主語。本文後文を見よ。]。速かに之れを掃攘(さうじやう)し[やぶちゃん注:払い除くこと。この語は後の幕末に於いて「外国を排撃する」の意で盛んに用いられた。]、いて違命有らば、之れを刑罰すべし。……一天四海、宜(よろ)しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。

   *]

 

 『これ等の者は(布教師のこと)卽刻一掃されなければならぬ、かくして日本國内には彼等のためにその足をおくべき寸土もないやうにしなければならぬ、そして又若し彼等がこの命令に服することを拒むならば、彼等はその罪を蒙るであらう……一天四海もこれを聽かん、宜しく從ふべし』

 

註一 伴天連とはポルトガル語のパドレ(padre)の飜譯であつて、宗派を問はず、總てロオマ舊教の僧侶に今日でも使用されて居る名稱である。

註二 右の全宣言はかなり長いもので、サトウ氏によつて飜譯されたものであるが、日本アジヤ協會記事“Transactions of the Asiatic Society in Japan”第六卷第一部の内にある。

[やぶちゃん注:最後の記事名は“Transactions of the Asiatic Society of Japan”の誤りである。]

 

2018/09/07

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(57) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅱ)

 

 一五八六年[やぶちゃん注:ママ。誤り。「本能寺の変」は天正十年六月二日、ユリウス暦一五八二年六月二十一日である。以下の叙述には種々の疑問があり、それを段落末で示すには煩瑣であることから、頻繁に本文中に私の注を差し入れてある。読み難くなってしまったのは、御容赦願いたい。ここのみ挿入注を総て太字にしておいたので、それを目安に飛ばして読めるようにしてはおいた。]に於ける信長の暗殺は、異教默認の時期を延長したのかも知れない。彼の後繼者秀吉は外國僧侶の勢力を以て危險なものであると斷定はしたが、その時は、武權を集中して、國中に平和を招致しようといふ大問題に專心して居たのであつた。然るに南部の諸國に於けるジエジユイト教徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信條の殘忍な行爲に對し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた。吾々は布教の歷史の中に、改宗した大名が佛教徒の幾千といふ寺院を燒き、無數の藝術作品を破毀し、佛門の僧侶を殺戮した記事を讀んで居る、――そして吾々は又ジエジユイト派の文人がこれ等の宗教戰を以て、神聖なる熱心の證據であるとて賞讃してゐるのを知つて居る。最初、この外來の信仰は只だ人を説得するのみであつた、然るに後には、信長の奬勵の下に權力を得てからは、制的に、又兇暴になつて來た、それに對する一種の反動は信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年[やぶちゃん注:天正十五年。]に秀吉は京都、大阪、堺等に於ける傳道教會を破壞して、ジエジユイト教徒を首府から逐ひ拂つた、又その翌年[やぶちゃん注:誤り。「伴天連(バテレン)追放令追放令」は天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)の発令で同年である。]彼は彼等に平の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に大になつて居たから、この命今に從はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸國に分散して、幾多キリスト教徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めることの不得策な事を考へたのであらう、又キリスト教の僧侶達も平穩を守り公然と説教することをやめた。そして彼等の隱忍は、一五九一年[やぶちゃん注:天正十九年。但し、この以下の小泉八雲の時系列解説には杜撰な、或いは、誤認の部分があるように思われる。例えば、「聖母の騎士社」公式サイト内の高木一雄氏の『月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]』の「(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓」の記載を読まれたい。]までは彼等に甚だ利益ある事であつた。然るにその年に、スペインのフランシスカン派[やぶちゃん注:十三世紀のイタリアでアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi/ラテン語:Franciscus Assisiensis)によって始められたカトリック修道会「フランシスコ会」(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum)派。なお、同派の最初の日本への伝導は文禄二(一五九三)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見したのを嚆矢とするウィキの「フランシスコ会にはある。]の教徒が到著したことは事情を一變させるに至つた。これ等のフランシスカン派の教徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加はつて到著し、キリスト數を説教しないといふ條件で、國内に留まる許可を得たのであつた。然るに彼等はその約束を破り、無謀な舉に出たので、爲めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と、三人のジエジユイト教徒と、其他數人のキリスト教徒を長崎に拘引して、其處で礎刑に處した[やぶちゃん注:所謂、豊臣秀吉の命令によって慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」の殉教を指す。]。大太閤の外來信條に對するこの態度は、その信條に對する反動を促進する結果となつた――その反動は既に諸國に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於ける秀吉の死[やぶちゃん注:慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。]は、ジエジユイト教徒等に更に幸運の來る希望を抱かしめた。彼の後繼者、卽ち冷靜深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布教を復興することさへも許可した。彼は關ケ原の戰[やぶちゃん注:慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。]によつて決定される事になつて居た大爭鬪の一準備をして居た、――彼はキリスト教徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、――その頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、――それでキリスト教に對し抑壓政策をとるには時機が惡るかつたと考へられる。然し一六〇六年に權力を堅固に建立してしまつた後[やぶちゃん注:「一六〇六年」は慶長六年であるが、これが何を指しているかよく判らない。江戸幕府開府は二年後の慶長八(一六〇三)年である。]、家康は布教事業をそれ以上績行することを禁止し、且つ外來宗教を採用したる者共は、それを抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]すべきことを宣言する布告を發して、初めてキリスト教に斷乎たる反對を爲す事を聲明したが[やぶちゃん注:家康が幕府から最初の公式のキリスト教の禁教令を発したのは慶長一七(一六一二)年三月二十一日で、これは江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊及び布教禁止を命じた布告であった。ウィキの「禁教令によれば、『これ自体は』、『あくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った』とある。]、それにも拘らず布教は續けて行はれた――最早只だジエジユイト教派の者によつてのみでなく、ドミニカン派[やぶちゃん注:一二〇六年に聖ドミニコ(ラテン語:Dominico/ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(スペイン語:Domingo de Guzmán Garcés))により設立されたカトリックの修道会「ドミニコ会」。一二一六年にローマ教皇ホノリウス世によって認可された。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum)。]の者及びフランシスカン派の者によつても行はれた。當時帝國内に於けるキリスト教徒の數は、非常な誇張ではあるが、殆ど二百萬人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年までは、抑壓に就いて何等嚴重なる手段をとらなかつたし[やぶちゃん注:不審。家康がブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させ、公布した(第二代将軍秀忠名)「伴天連追放之文(バテレン追放令)」は慶長十八(一六一三)年の発布である。]、又取らせもしなかつたが――その時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には獨立の大名によつて行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない――中央政府によつて行はれたのではなくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、當時權力の絶頂にあつたジエジユイト教派の偏執に對する自然の結果で、その時には實に改宗した大名が佛寺を僥き、佛門の僧侶達を虐殺したのであつた。そしてこれ等の迫害は本來の宗教がジヱジユイト教派の煽動のため最も烈しく迫害された地方――例へば豐後、大村、肥後などの如き地方――では最も殘酷であつた。然るに一六一四年以來――この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇國だけがキリスト教の入らないで殘つて居た處である――外來信仰の禁壓が政府の事業となつた、そして迫害は組織的に又中絶せずに行はれて、遂にキリスト教のあらゆる外面に表はれたる跡は消失するに至つたのであつた。

 

 それ故、布教の運命は家康とその次の後繼者によつて實際に決定された、そしてこれが特に家康の注意を與へた仕事であつた。三人の大首將達はみな、時機の遲速はあつたが、この外來の布教に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布教が惹き起こした社會問題を處理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも廣きに及ぶ嚴格な手段を探つて、現在の政治上の難問を縺れさす[やぶちゃん注:「もつれさす」。]のを恐れて居たのであつた。家康も永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雜であり、又主としてそれは外交上の理由からであつた。彼は決して燥急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。私には見かけない熟語だが、「燥」には「落ち着かない」の意があるから、「早急」に同じい。]に實行せんとする人でもなく、又決して何等かの偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと假定する事は、吾々が彼の性格に就いて知つてゐる總ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても、一百萬以上の歸依者があると云ひ得る宗教を根絶することは決して容易な仕事ではなく、それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすといふことは彼の性質に反する事であつた。彼は常に人情深く、庶民の友であることを示してゐた。併し彼は何よりも第一に經世家であり愛國者であつた。そして彼にとつての主要な問題は、外來信條と日本に於ける政治的社會的狀態との關係は、將來如何なるものであらうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と氣長な調査を要した。そして彼はそれに出來る限りのあらゆる注意を與へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリスト教が重大な政治的危險を作す[やぶちゃん注:「なす」。]ものであり、根絶は避くべからざる必要事であると決斷したのである。彼と彼の後繼者等が、キリスト教に向つで勵行した嚴重な法則が――その法規は二百有餘年の間確實に守られた――この信條を完全に根絶やす[やぶちゃん注:「ねだやす」。]ことの出來なかつたといふ事實は、その信條が如何に深く根を張つて居たかを證明するものである。表面上、キリスト教のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る組合が長崎附近で發見されたが、この組合はロオマ教の禮拜式の傳統を祕密にその一派の間に保存して居り、未だに宗教上の事に關しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用してゐたものであつた。

[やぶちゃん注:「一八六五年に或る組合が長崎附近で發見された」「一八六四年」は元治元年であるが、これは正確には翌「一八六五年」或いは、公儀に知られた「一八六七年」とすべきところである(後述)。明治新政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは明治六(一八七三)年二月二十四日で、これは所謂、「浦上四番崩れ」と称された最後の大規模なキリシタン弾圧事件に発展した。ウィキの「浦上四番崩れによれば、その発端は以下である。この元治元年に『日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ』(太字やぶちゃん)、翌元治二年三月十七日(一八六五年四月十二日)のこと、『浦上村の住民数名が訪れた。その中の』一『人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時』五十二『歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた』。しかし、二年後の慶応三(一八六七)年に浦上村の信徒たちが、仏式の葬儀を拒否したことによって、信徒の存在が明るみに出でしまったのであった。『この件は庄屋によって』直ちに『長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らは』、『はっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八『人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行』い、九月二十一日には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた』。直後に江戸幕府は瓦解するが、慶応四年二月十四日(一八六八年三月七日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』、四月七日(三月十五日)に『示された「五榜の掲示」』(太政官(明治政府)が国民に対して出した最初の禁止令)の第三条で、再び、『キリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』、五月十七日(四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう』、『外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した』。しかし、『この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席で』、『さらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六『時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった』。結局、閏四月十七日(六月七日)になって『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四『名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで間、『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど』、『その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン』Ⅸ『世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は』「日本宗教自由論」を著し、『禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年』、『キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からも』、『キリスト教への恐怖から』、『解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切』、『解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日(本邦では、この前年の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)、太政官布告によって、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)の翌日からグレゴリオ暦に移行し、明治六(一八七三)年一月一日となるとした。則ち、明治五年には十二月三日から同月三十日までの二十八日間が存在しない)、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数』三千三百九十四『名、うち』六百六十二『名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に故地『浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ)

 

 ジェジュイト敎徒の禍

 

[やぶちゃん注:「ジェジュイト派」既出既注であるが、再掲しておく。ジェズイット(Jesuit)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。イエス(・キリスト)を表わす Jesus が形容詞した Jesuitic が語源。なお、例えば以下の本文第一段落末文中のそれように、本標題と異なり、「ジエジユイト」と拗音表記がなされていないのは、総てママである。]

 

 第十六世紀の後半は歷史の上で最も興味ある時期である――それには三つの理由がある。第一にこの時代は、かの偉大なる首將、信長、秀吉、家康など――民族が只だ最高の危機に際してのみ産するやうに思はれる型の人々――それ等の人の産みだされるためには、無數の年代から生じて來る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情、境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々――の出現を見たからである。第二に、この時期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社會組織が、初めて完全に完成されたからである――則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武權政府の下に一定の形をなして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日本を基督教化しようといふ最初の計畫の一事件が――ジエジユイト教派の權力の興亡の物語――丁度この時代に屬してゐるからである。

 ――この一挿話の社會學的意義は重大である。蓋し、大十二世紀の於ける皇室の分裂を除けば、ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危機は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて基督教の傳へられたことであつた。日本は殘忍な手段によつずて、無數の損害と幾萬といふ生命との犧牲を拂つて僅に助かつたであつた。

 この新奇な不穩な要素が、ザビエ[やぶちゃん注:フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。]及びその宗徒によつて傅へられたのは、信長が權力集中に努力する以前の大擾亂の時期に於てであつた。ザボエは一五四九年に鹿兒島に上陸し、一五八一年の頃には、ジエジユイト教徒等は國中に二百有餘の教會を持つて居た。この事實だけでも、この新しい宗教の傳播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さればこの新宗教は今帝國に亙つて擴がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。一五八五年に、日本の宗教上の使節がロオマに迎へられ、又その一時には、殆ど十一人の大名――ジエジユイト教徒はそれ等の大名を『王』と稱したが、それも必らずしも不當とは言はれないが――が基督教に改宗してゐた[やぶちゃん注:原文は「ゐるた。」]。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、嚴密な意味で言つて、『人氣を得て』行つた。

 信長が權力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト教徒を優遇した、――それは彼が基督教徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信條に同情があつた爲めではなくて、彼等の勢力が佛教徒に對する戰に於て自分の役に立つだらうと考へたからである、ジエジユイト教徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するためには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王(コンクアラア)ヰリアム以上に無慈悲で、彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた。單なる政治上の理由から、外國の僧侶達に與へた援助と保護とは、彼等をしてその權力を發展せしめて、爲めにやがて彼信長をしでそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその『支那及び日本への基督教傳播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題に關する興味ある拔萃を引用してゐる――

[やぶちゃん注:「征服王(コンクアラア)ヰリアム」「コンクアラア」は「征服王」のルビ。原文“William the Conqueror”。イングランドを征服し、ノルマン朝を開いて、現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアムⅠ世(一〇二七年~一〇八七年の通称。

「彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつたこれは孰れも事実に即していない。織田信長の異母兄織田信広(?~天正二(一五七四)年)は一時、信長と争ったが許され、後に起こった長島一向一揆鎮圧の際に討ち死にしているでのあって、信長に殺されたわけではない。ただ(平井呈一氏もここを『兄』と訳しておられるのであるが)、この“brother”を「弟」と訳せば、それは信長の同母弟織田信行となり、彼は信長に謀殺されているから、正しい。また、舅というのは、正室濃姫の父斎藤道三利政(明応三(一四九四)年~弘治二(一五五六)年)を指していようが、彼は継嗣問題で嫡男義龍との戦いで敗死したのであって(この関係を誤認したものか)、やはり信長に殺されたわけではない。

「グビンス氏」イギリスの外交官で学者であったジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harrington Gubbins 一八五二年~一九二九年)か。明治四(一八七一)年(に英国公使館付通訳生として来日し、後に補佐官・日本語書記官補へと順調に昇進し、明治二二(一八八九)年には通訳としての最高位であった日本語書記官に昇った(これはアーネスト・サトウとウィリアム・アストンに次ぐ三代目に当たる)。この間、東京副領事代行・横浜代理領事なども務め、各国合同の条約改正会議にも参加している。明治二七(一八九四)年七月には「日英通商航海条約」調印に成功、翌年七月の追加協約へ向けての「関税委員会」の英国代表となっている。明治三五(一九〇二)年、駐日公使館(三年後の一九〇五年に「大使館」に昇格)書記官待遇を与えられた。一九〇九年外交官を引退し、帰国してオックスフォード大学で日本語の講師などをした。引退後は、かつての上司であったアーネスト・サトウと親交を結んでもいる(ウィキの「ジョン・ガビンズ」を参考にしたが、一部不審な箇所を訂した)。

「支那及び日本への基督教傳播論」ガビンズが「日本アジア協会」で“Review of the Introduction of Christianity into China and Japan,”明治六(一八七三)年に発表した論文。

「伊吹艾」江戸後期に書かれたキリシタン実録物類に見られる書名で、旧梅本重永蔵本の文化九(一八一二)年の写本(天理大学図書館所蔵)が知られる。南郷晃子氏の論文「キリシタン実録類と江戸の商業活動―『伊吹艾』を中心に―」PDF)に詳しい。

 以下の引用(後に附された古文原文も含め)原文は本文と同ポイントで前後の一行空けもなく、全体が一字下げである。]

『信長はキリスト教の入來を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼はその家臣を集會させてそれに向つて言つた――「これ等布教師が人民に金錢を與へてその宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の氣に入らぬ。若し吾々が南蠻寺〔『南方野蠻人の寺』--とかうポトガル人の教會が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀したならば如何であらうか。お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに對して前田德善院が答へた、――「南蠻寺を打毀つことは今日ではもう手遲れで御座ります。今日この宗教の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので、公家、大名小名共は、この宗教に歸依して居ります。若し我が君が今日この宗教を絶滅しようといふならば、騷亂が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります。それ故私の考へでは、南蠻寺破毀の意向を打棄てらる〻こと然るべしと存じます」と。信長はその結果、彼の基督教に關する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを根絶し得るかと思案し始めたのである』

 信長……心の内には後悔し給ひけるとや……或時諸臣參會之砌宣ふは我取立し南蠻寺の事色々あやしき説有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合點の行ぬ事也……向役此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本國へ追婦さんと思ふ也かたかたいか〻と宣へば前田德善院進み出て被申けるは南蠻寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都は申に不及近國まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名幷無座に居合す御家人の内にも此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆發り御大事に及び候はん先暫く時節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覺也此上宜敷思案氣あらば無遠慮可申との事に面各退出被致ける。 『伊吹艾』

[やぶちゃん注:「前田德善院」僧侶で武将(大名)で、後の豊臣政権の五奉行の一人となった前田玄以(天文八(一五三九)年~慶長七(一六〇二)年)。ウィキの「前田玄以から引く。『美濃国に生まれ』。「寛政重修諸家譜」によると、『前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで前田氏を称したという』。『若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも』、『尾張小松原寺の住職であったともいう』。『後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令で』、『その嫡男・織田信忠付の家臣とな』った。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」に『際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した』。天正一一(一五八三)年から『信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが』、天正一二(一五八四)年に『羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる』。文禄四(一五九五)年に秀吉より五万石を『与えられて丹波亀山城主となった』。『豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め』、天正十六年の『後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている』。慶長三(一五九八)年、『秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の』一『人に任じられた』。『蒲生氏郷が病の際に、秀吉は』九『名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された』。『秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対し』、慶長五(一六〇〇)年に『石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより』、「関ヶ原の戦い」の『後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった』。『信長・秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった』。『かつて僧侶だった関係から』、『当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の』文禄二(一五九三)年には『秘密裏に京都でキリシタンを保護している。また』、『ポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子』二『人はキリシタンになっている。また』、『僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している』(フロイス「日本史」第六十九章)。『同じ五奉行の増田長盛は、玄以同様』、『大坂城に留守居役として残り、西軍の情報を提供するなど家康に内通したが』、「関ヶ原の戦い」後に改易されており、『この違いは、玄以が持つ朝廷との繋がりを利用するため、玄以が家康に優遇されたからと推測される』とある。]

2018/09/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(55) 忠義の宗教(Ⅲ) / 忠義の宗教~了

 

 兩親でも近親の者でも、君主でも師匠でも、そのために何人かが復仇[やぶちゃん注:「ふくきう(ふっきゅう)」。仇討に同じい。]してやるべきであつた。隨分多數の有名な小説や戲曲は、婦人に依つて爲された復讐の題目扱つてゐる。そして又実際被害者の家族の中に、その義務を果たすべき男子の無かつた場合には、婦人や又は子供迄もが、復仇者となつた例は往々あつた事である。弟子もその主人のために復讐をした、又刎頸の友人同志も、互ひのために復讐してやらなければならなかつた。

 何故に復讐の義務が肉身の親族の範圍に限られてゐなかつたかと云ふ事は、勿論、その社會の特殊な組織から説明され得るのである。吾々の既に見た如く、その族長的家族は一種の宗教的團體である。家族の結び目は自然の愛情から出た結び目でなく、祭祀に依る結び目であつたといふ事は、既に言つた處である。又一家の組合(小社會)に對する關係、組合の氏族に對する關係、竝びに氏族の部族に對する關係は、同樣に宗教的關係であつた事も既に述べた處である。この必然な結果として、古い復讐の慣習は、血緣責任であると共に、家族、組合及び部族の祭祀から生ずる責任に依つて定められ、更に支那道德の移入、武權狀態の發展と共に、義務としての復讐の思想は、廣い範圍に及んだのである。養子や義兄弟と雖も、その責任の點では實子や血緣の兄弟と同じであつた。又師匠はその弟子に對して、父と子との關係に立つてゐた。自分の實の親を打つ事は、死に値する罪であつた。その師匠を打つ事も、法律の前では、同じ罪とされてゐた。この師匠が父としての尊敬を受くる資格に就いての思想は、支那傳來のものであつた。則ち孝道の義務を『精神上の父』へ擴大したものである。この他にもかかる擴大があつた、そして日本にせよ支那にせよ、すべてこれ等の事の起原は、等しく祖先禮拜にまで溯られるのである。

 さて、日本の古い風俗を取扱つたいづれの書物でも、未だ正當に主張せられた事のないのは、敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。]は本來宗教的意義を有つてゐると云ふ事である。古い社會に於て成立して居た仇討のあらゆる慣習が、宗教に起原して居るといふ事は、勿論、よく知られてゐる。併し日本の仇討に對しては、その宗教上の性質を、現時に至る迄變はる事なく保持してゐたと云ふ事實の點に於て、それが特殊な興味をもつて居るのである。かたきうちは眞に死者への一種の慰安贖罪の行爲であるが、それは仇討が果たされた場合の儀式――敵の首を慰安贖罪の供物としで、仇を討つて貰つた人の墓の上に置く事――に依つて證明される。この儀式の中の感動を與へる特徵の一つは、以前に行はれた事であるが、仇討をして貰つた人の亡靈に向つて爲される報告であつた。時にはそれは只だ口づから話しかけられるだけであつたが、また時にはそれが文筆を以て書かれ、その文書が墓の上に殘された事もあつた。

 吾が讀者で、ミツトフオド氏の非常に面白い『舊日本の話』や、その『四十七士』の實話の飜譯を知らない人は恐らく無いであらう。併し果たして多くの人々は、吉良上野之介の斷られた首を洗ふ事の意義、又は故藩主のために復讐する機會を長い間待ち覗つて居た勇敢なる人々が、彼に捧げた報告の意義を認めて居るか、どうか、私は疑ひを抱いて居るものである。この報告、それを私はミツトフオド氏の譯文から引用するが、この報告は淺野侯の墓前に供へられたものである。それは泉岳寺と云ふ寺に今尚ほ保存されてゐる――

[やぶちゃん注:以下の引用(古文原文)は今までの引用と異なり、本文同ポイントで、全体が三字下げである。一部に読点がない箇所があるが、有意味なものとは見做されない(平井氏もやはり同じ原文表示であるが、総て当該部が読点)ので読点とした。但し、戸川氏は読点の後に一字分の字空けを行っており、それはそれで読み易くしたものと判断されるので、それは再現した。そうなっていない箇所は逆に字空けを挿入した。]

 

 元祿十五壬午の年十二月十五日、 只今面々名謁申す通、 大石内藏助を始て御足輕寺坂吉右衞門迄、 都合四十七人進死臣等、 謹奉ㇾ告亡君之尊靈、 去年三月十四日尊君刄傷吉良上野介殿之御事、私共不ㇾ奉ㇾ存其仔細、 然所尊君者御生害、 上野介殿は御存命、御公裁之上は、 我等共如ㇾ斯之企非尊君之御心、 而却而御怒り奉恐入候得共、 我等共に君之食ㇾ祿申、 共に天不ㇾ戴之義難默止、 共に不ㇾ可ㇾ蹈ㇾ地之文無ㇾ恥ㇾ不ㇾ可ㇾ申、 然故纓請て可ㇾ被ㇾ下之無ㇾ主、 晝夜感泣仕候上無御座、 縱恥を抱へ空相果候とも、 於泉下可二申上詞無ㇾ之候、 同前可ㇾ奉ㇾ繼御意趣奉ㇾ存候より以來、 今日を相待申事一日三秋之思に御座候、 四十七人之輩赴ㇾ雨蹈ㇾ雪、一日二日漸一食仕候、老衰之者病身のもの數々近ㇾ死申候へども、蟷螂賴ㇾ臂之笑を相招き、 彌々尊君之御恥辱を相遺可ㇾ申かと奉ㇾ存候ヘ共、 不ㇾ止ㇾ止昨夜半申合、 上野介殿御宅え推參仕、 則上野介殿御供申し、 是迄參上仕候、 此小脇指は先年尊君御祕藏、 我等に被下置候、 唯今返獻仕侯、 御墓の下尊靈於ㇾ有ㇾ之者、 再御手を被ㇾ下遂給御鬱憤、 右之段、 四十七人の者共一同に謹而申上候敬白、

[やぶちゃん注:平井呈一氏もこれと全く同じ原文を注で載せておられるのであるが、私の調べ方が悪いのか、この泉岳寺に残っているとする当該の文書と完全に一致するものは、所持する赤穂義士関連の江戸随筆やネット上の史料に見当たらない。されば、またしても全くの自己流で書き下すしかない。字空けは詰めた。

   *

 元祿十五壬午(みづのえうま)の年十二月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。]、只今、面々、名謁(みやうえつ[やぶちゃん注:戦場で互いに名乗りあうこと。名対面(なだいめん)。])申す通り、大石内藏助を始めて、御足輕寺坂吉右衞門まで、都合、四十七人、進死(しんじ)の[やぶちゃん注:進んで命を主君に捧げ奉るところの。]臣等(ら)、謹んで亡君の尊靈に告げ奉る。去年(こぞ)三月十四日[やぶちゃん注:一七〇一年四月二十一日。]、尊君、吉良上野介殿へ刄傷(にんじやう)の御事、私共、其の仔細は存じ奉らず、然る所、尊君は御生害(ごしやうがい)、上野介殿は御存命と、御公裁(ごこうさい)の上は、我等共(ども)、斯くのごときの企(くはだ)て、尊君の御心に非ずして、却つて御怒り、恐れ入り奉り候得(さふらえ)ども、我等、共(とも)に君の祿を食(は)み申し、「共に天を戴(いただ)かざる」の義、默止し難く、「共に地を蹈(ふ)むべからず」の文(ぶん)、恥を無くして申すべからず。然るが故に、纓(えい)を請うて下さるべきの主(しゆ)無く[やぶちゃん注:漢の武帝の時、南越討伐派遣を命ぜられた若き将軍終軍が出陣の閲兵式に於いて武帝に帝王の冠の纓(紐)を請うた故事に基づく。]、晝夜、感泣、仕(つかまつ)り候ふ上は御座(ござ)無く、縱(たと)ひ恥を抱(かか)へ空しく相ひ果て候ふとも、泉下[やぶちゃん注:黄泉。あの世。]に於いて申し上ぐべき詞(ことば)、之れ無く候ふ。同前[やぶちゃん注:同様に。]、御意趣を繼ぎ奉るべく存じ奉り候ふより以來、今日を相ひ待ち申す事、一日三秋の思ひに御座候ふ。四十七人の輩(やから)、雨に赴(ゆ)き、雪を蹈(ふ)み、一日・二日に漸(やうやう)一食を仕り候ふ。老衰の者・病身のもの、數々、死に近しとは申し候へども[やぶちゃん注:討ち死にの決心は十全にありまするが、の意で採る。]、蟷螂、臂(ひぢ)に賴るの笑(わらひ)を相ひ招き、彌々(いよいよ)尊君の御恥辱を相ひ遺(のこ)し申すべきかと存じ奉り候ヘども、止まれず、昨夜半、申し合はせ、上野介殿御宅え[やぶちゃん注:「へ」。]推參仕(つかまつ)り、則ち、上野介殿[やぶちゃん注:討ち取ってその首を。]、御供(おんとも)申し、是れ迄、參上仕り候ふ。此の小脇指は、先年、尊君が御祕藏、我等に下し置かれ候ふ、唯今、返獻(へんけん)仕り侯ふ。御墓の下、尊靈、之れ、有らせらる於いては、再び、御手を下され、御鬱憤、遂(と)げ給へ。右の段、四十七人の者共一同に謹んで申し上げ候ふ。敬白。

   *

訓読の致命的部分あらば、御教授方、御願奉る。]

 

 これで見ると、淺野侯は恰も眼前に居るかの如く話しかけられてゐるのが解るであらう。敵の首は綺麗に洗はれたもので、それは生きた上長の行ふ首實驗の時の規則に依つたものである。その首は墓前に九寸五分の劔、則ち短刀と共に供へられる、その短刀はもと淺野侯が幕府の命今で切腹(はらきり)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下も同じ。]をした時用ひられたものであり、又その後大石内藏之助が吉良上野之介の首を切る時に用ひたものなのである、――そして淺野侯の靈はその武器を取つて、その首を打ち、その亡靈の怒りの苦痛を永久に晴らさせようと云ふのである。それから全部が切腹(はらきり)を宣告され、四十七人の家臣は死を以てその主君に從ひ、その墓前に葬られるのである。【註】一同の墓前には、憧憬する參詣人の供へる香の煙が二百年間も、每日たえないのである。

 

註 四十七士の墓に參詣人が名札を置いて行くといふ風が長く行はれて居た。私が最近に泉岳寺に參詣した時には、墓の周圍の地面は參詣人の名札で白くなつて居た。

 

 この忠義に關する物語を充分に呑み込むには、日本に住み、古い日本の生活の眞の精神を感じ得るやうにならなければならない、併しそれに關するミツトフオド氏の飜譯や、信賴し得る文藝の譯文を讀む人は、誰れでも感動せずには居られない事を告白するであらう。この報告文は特に感動を與へる――その中に表はれて居る情誼[やぶちゃん注:「じやうぎ(じょうぎ)」。真心の籠った誠実な他者との交情。]や信義のために、又現世以外に及ぶ義務の感のために感動を與へられる。復讐と云ふ事が如何に近代の我が倫理に依つて非難されるに相違ないとしても、君主のための復讐に關する日本の古い物語には尊い方面がある、そしてそれ等の物語は、普通の復讐とは關係のない、あるものの表現――報恩、克己、死に面するの勇氣、及び目に見えざるものに就いての信仰の發露――に依つて吾々の胸を衝つ[やぶちゃん注:「うつ」。]のである。而してこれは、勿論、吾々が、意識して居るにせよ、意識しないにせよ、その宗教的な性質に動かされたと云ふ事である。單なる個人的復讐――何か一個人の被害に對する執念深い意趣返し――は吾々の道德的感情を傷つける、則ち吾々はかくの如き復讐心を燃やす情緖は、單に野獸的なもの――人間が下等な動物生活の方向を共有して居る事を示すもの――であると考へるやうに訓へられて來た。併し死せる主人に對する報恩や義務の感情から爲す所の殺人の物語には、吾々の高い道德的共鳴に――吾々の非利己心、曲げられぬ眞心、變はらぬ情誼に就いての力及び美の感覺に――訴へしめ得る事情があると云つて宜いのである。而して四十七士の物語はこの種の一つである……。

 

 併し覺えて置かなければならぬ事がある、殉死(じゆんし)切腹(はらきり)敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:以上の三つはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下の最後までの間にある四箇所も同じ。]といふこの三つの恐ろしい慣習のうちに、その最高の表現を得て居る舊日本の忠義の宗教は、その範圍が狹いといふ事である。それは社會の組織そのものによつて制限せられてゐたのである。國民は、そのいろいろな集團を一貫して、到る處、性質を同じうする所の義務の觀念によつて支配されてゐたのではあるが、各個人のその義務の範圍は、その人の屬してゐる氏族團體以外には及ばなかつたのである。自分の主君のためならば、家臣たるものは、いつでも死ぬだけの心がけはしてゐた。、併しその者は、自分が特に將軍の旗下に屬してゐるのでない限り、幕府に對しても、同樣に自分を犧牲にしなければならぬとは感じて居なかつたのである。その祖國、その國、その世界は、僅にその主君の領地内に限られてゐたのである。その領地の外では、その者は一個の漂泊者であり得たのであつた――則ち主君のない武士(さむらひ)を浪人(らうにん)則ち『浪の人』といつた。かくの如き狀態に於ては、國王や國を愛する氣持ちと一致するところの大きな忠義の念、――これが則ち昔のせまい意味に於てでなく、近代的な意味に於ける愛國心であるが――は十分に發展する事は出來なかつた。何か共通的な危機、何か全民族に對する危險、――例へば蒙古人の企圖した日本征服の如き――が一時的に眞の愛國的感情を喚起し得た事はあらう、併しさうでない限り、此の威情はあまり發展の機會をもつては居なかつた。伊勢の祭祀はなるほど、氏族若しくは部族禮拜と異つた國民の宗教を表はしたものであつた、併し何人もその第一の義務は、自分の領主に對してである事を信ずるやうに教へられてゐたのである。人はよく二人の主人に仕へる事は出來ない、しかも封建政府は實際少しでもさういふ方に向ふ傾向を抑壓したのであつた。領主なるものは全く個人の心身を領有して居たので、領主に對する義務の外に、國民に對する義務の觀念の如きは、家臣たる者の心の中に明らかに示される時もなければ機會も無かつたのである。例へば、普通の武士(さむらひ)に取つて、天皇の命今は法律ではなかつた、則ち試士は自分の大名の法律以外に何等の法律をも認めては居なかつたのである。大名に至つては、彼は事情によつて天皇の命令に從つても從はなくてもよかつたのである。則ちその直接の上長は將軍であつた。そして大名は神として天津大君と、人間としての天津大君との間に、巧みな區別を設けざるを得なかつたのである。武權の究極の集中以前には、天皇のために自分を犧牲にした領主の例も多くあつた、併し天皇の意志に反して、領主が公然謀叛を起こした場合の方が遙かに多かつた。德川の治下にあつては、天皇の命令に從ふか、抵抗しようかといふ問題は、將軍の態度一つに掛かつてゐた。そして如何なる大名も京都の宮廷に服從し、江の宮廷に不順を示すやうな危險をおかすものは一人も居なかつた。少くとも幕府が崩壞するまではさうであつた。家光の一時代には、大名の江への途上、皇居に近づく事を嚴禁されてゐた、――天皇の命令に應ずる場合に於てさへも。その上又彼等は御門(みかど)に直訴する事を禁じられてゐた。幕府の政策は、京都の宮廷と大名との間の直接の交涉を全く妨げるにあつた。此の政策は二百年の間陰謀を防いだ、併しそれは愛國心の發展をも妨げたのである。

[やぶちゃん注:「浪の人」確かに原文は“wave-man”ではあるが、ここはせめて「波に漂う人」「流浪(放浪)の男」と訳したいところである。]

 而してこの理由こそ、日本が遂に西歐侵入の意ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]もかけなかつた危機に直面した時、大名制度の廢止が尤も重要な事と感じられた所以なのである。絶大の危機は、社會の諸單位が統一的行動をなし得る一つの調和せる大衆に融合すべき事、――氏族及び部族的集團は永久に解體さるるべき事、――あらゆる權威は直に國民的宗教の代表者に集中すべき事――天津大君に服從する義務が、直に又永久に、地方の領主への服從なる封建的義務に取つて代はるべき事、――等を要求したのである。戰爭の一千年間に依つて作られて來たこの忠義の宗教は、容易に放擲される事は出來ないものであつた、則ち適當にこれを利用すれば、それは計量すべからざるほどな價値ある國家の重寶となるであらう――一人の賢明な人が、一個の賢明なる目的に、これを向けたならば、奇蹟をも演出し得る道德力たり得るのである。維新もそれを破滅せしむる事は出來なかつた、併しそれは方向を變へ形を變へる事は出來た。それ故、それは高い目的に向けられ、――大いなる必要に向つて擴大されて――それは信任と義務の新しい國民的感情となつた、則ち近代的なる愛國の感となつたのである。三十年間に、いかなる驚異をそれが果たしたか、世界は今やそれを認めざるを得ない、なほそれ以上如何なる事を果たし得るか、それは今後を待つて知るべきである。少くとも只一事は確である――則ち日本の將來は、昔を通じて死者の古い宗教から發展し來たつた、此の新しい忠義の宗教の支持の上に據らなければならないといふ事である。

 

2018/09/04

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(54) 忠義の宗教(Ⅱ)

 

 命令に依つて自らを殺す事――忠義なさむらひの夢にも疑はなかつた一つの義務――も同じく十分に一般から認められてゐた尚ほ一つの義務、則ち君主のために自分の小兒や妻や家を犧牲にすると云ふ事に比べれば、遙かに容易な事と考へられたらしい。然るに日本の有名な悲劇には、大名の家臣や一族のものが爲したかかる犧牲に關する事件――【註】主君の子供を救ふために自分の子供を殺した男や女――に關したものが多い。且つ多くは封建の歷史に根據を有つたこれ等の、劇的作物には、事實が誇張されてゐることだらうと考へるべき理由は一つもない。勿諭、これ等の事件は劇の場面に適するやうに、仕組みをかへ、擴大されては居る。併し昔の社會を示した、大體の光景は、過去の現實より寧ろ陰慘でないのである。人々は今尚ほ此の種の悲劇を好む、そしてそれ等の戲曲文學に就いての外國の批評家は、流血の所だけを指摘し、それを血腥い場面む好む國民の性質として――この人種が本來もつて居る殘忍性の證據として――これを解釋するのを常とする。併し私の考へる所では、この昔の悲劇を好むと云ふ事は、寧ろ外國の批評家が何時も努めて無視せんとする所のもの――この人民の深い宗教的性向――の證據なのである。これ等の芝居は尚ほ喜ばれてゐる――それはその芝居の恐ろしさの爲めでなく、その道德的教訓の爲めである――犧牲と勇氣との義務、則ち忠義の宗教の表現の爲めである。それ等の芝居は則ち最高の理想に對する封建社會の犧牲殉難の精神を表はして居るのである。一一

 

註 その適例として東京の長谷川に依つて出版された見事な繪入の戲曲『寺小屋』の飜譯を見よ。

[やぶちゃん注:「東京の長谷川」これは小泉八雲も深く関わった「ちりめん本」の発行者である長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年:出版社名は「長谷川弘文社」)のこと。彼は明治三一(一八九八)年から、小泉八雲の五冊の怪奇的な日本昔噺(Japanese Fairy Tale)を「ちりめん本」のシリーズとして刊行している(“The boy who drew cats”(「猫を描いた少年」:一八九八年刊)・“The goblin spider”(「化け蜘蛛」:一八九九年刊)・“The old woman who lost her dumpling”(「団子をなくしたお婆さん」:一九〇二年)・“Chin Chin Kobakama”(「ちんちん小袴 」:一九〇三年刊)・“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」:大正一一(一九二二)年刊(これは小泉八雲没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日))後))。

「戲曲『寺小屋』」は「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」のことを指している。御存じない方はウィキの「菅原伝授手習鑑」を見られたい。これは、日本大学大学院総合社会情報研究科の大塚奈奈絵氏の論文「木版挿絵本のインパクト―1900 年パリ万博に出品された「寺子屋」―」PDF)によれば、これは一九〇〇 年(明治三十三年)のパリ万国博覧会出品用のフランス語版の一点である“L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte”で、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を省略した。]

 L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte は、表紙等を除くと 23 丁程(46 ページ)の袋綴じ(四つ目綴じ)の和装本で明治 33 年(19001月に出版された。3 ページの序文に続いて、劇場の幕が開く様子と美しい花々に彩られた「寺子屋」の題字をはさんで、カール・フローレンツが竹田出雲の『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の段をフランス語に翻訳した 31 ページの本文があり、その後にはページ付けを変えた 9 ページの歌舞伎の紹介がある。佐藤マサ子によれば、フローレンツは、明治 32 年(18995 月に歌舞伎「寺子屋」の翻訳を東京の会合で朗読し、好評を得たとされているので、フローレンツは「寺子屋」をまずドイツ語に翻訳し、その後、フランス語に翻訳したものと推察される。

フランス語版「寺子屋」は、表紙は板紙で金の題字、銀色の流水模様に「寺子屋」の主人公の松王を象徴する松を配した図柄で、書袋には、幕間の芝居小屋の客席を描いた美しい絵が使われている豪華本であった。

   《引用終了》

なお、英文サイトであるが、これはScenes du Theatre Japonais, L'Ecole de Village.(Terakoya) Drame Historique en un Acte, Traduction du Dr. Karl Florenz,Professeur a L'Universite Imperiale de Tokyoで、詳細に解説されており、その原画像をも見ることが出来、同じサイトのTakejiro Hasegawa/Kobunsha Publications"Chirimen-bon" (Crepe Paper Books)And Plain Paper Booksには「ちりめん本」の驚くべき子細な書誌データも完備している。孰れも必見である。]

 

 この封建社會を通じて、忠義に關するこの同じ精神は、いろいろな形で表白されて居た。さむらひがその領主に對する如く、弟子はその親方に對して、番頭はその店の主人に對してと云ふ風にである。到る處に信任があつた。何故なら到る處に、主人と召使の間の相互の義務といふ同じ感情があつたからである。いづれの商賣も何れの職業も忠義の宗教を有つてゐた――則ち、一方では、必要の場合絶對的の服從と犧牲とを要求し、他の一方では、親切と扶助とを要求した。而して死者の支配がすべてのものの上にあつたのである。

 

 親或は君主を殺害したものに復讐をするといふ社會上の責任は、この親又は君主のために死ぬといふ義務と同樣に、その起原の古いものであつた。確定した社會がまだ出來なかつた時代に於てさへ、この義務の存して居たことは認められる。日本最古の年代記には、復讐の義務の例が澤山にある。儒教はより以上にこの義務を確認した――則ち人にその君主、親、若しくは兄弟を殺した者と』『同じ天の下に』生きて居る事を禁じ、且つ近親若しくはその他の關係の等級を定め、その等級の内にあるものに取つては、復讐の義務が避くべからざる事とされて居たのであつた。儒教は早くから日本の支配階級の道德となり、最近に至る迄さうであつた事は記憶して置くべき處である。儒教の全組織は祖先禮拜の上に立てられ、殆ど孝道の教への擴大完成に他ならぬものであつた事は、私のすでに他の條下で述べた處である。それ故この教へは日本の道德の實際と完全に一致したものである。日本に武權が發達した[やぶちゃん注:ママ。]につれて、復讐に關する支那の法典は遍く認められるやうになり、後世に至つては法律上からも慣習上からも支持されるやうになつた。家康自身もそれを支持した――仇討をしようとする者は、先づ屆書を書いて地方の刑事法廷にそれを差し出して置くといふ事だけを條件として。この事に關する個條の原文は興味あるものである――

 

主父之怨冦は爲ㇾ報酬之共不ㇾ可ㇾ戴ㇾ天聖賢も許ㇾ之有此讎者は記決斷所帳面年月可ㇾ令ㇾ遂其志然共重敵討は堅可ㇾ禁止之但帳外之族は狼藉同然刑宥可依其品

 

註 若しくは僞善的狼族 hypocritical wolves といふ――詳しく言へば、正當な復讐といふ口實を以て自分の罪惡を免れんと欲する野獸の如き殺害人の意。(この飜譯はラウダア氏の手になるもの)

[やぶちゃん注:ここは原文では無論、英文に訳されてある。

   *

 “In respect to avenging injury done to master or father, it is acknowledged by the Wise and Virtuous [Conucius] that you and the injurer cannot live together under the canopy of heaven. A person harbouring such vengeance shall give notice in writing to the criminal court ; and although no check or hindrance may be offered to the carrying out of his design within the period allowed for that purpose, it is forbidden that the chastisement of an enemy be attended with riot. Fellows who neglect to give notice of their intended revenge are like wolves of pretext:1 their punishment or pardon should depend upon the circumstances of the case.”

   *

 1 Or “hypocritical wolves,”— that is to say, brutal murderers seeking to excuse their crime on the pretext of justifiable vengeance.  (The translation b by Lowder. )

   *

Conucius」(コンフューシャス)はかの「孔子」のこと(「孔夫子」のラテン語名由来)。「Lowder」(訳文の「ラウダア氏」)は不詳。識者の御教授を乞う。

 ところが、私の探し方が悪いのか、家康の発行した文書とする以上の原文を確認することが出来ない(識者の御教授を乞うものである)。されば、自然流で書き下すが、それに際しては、恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏の訳(平井氏はここを現代語で本文に繰り込んでおられ、その後に訳者注で以上の原文を示しておられる。但し、そこでは「冦」は「寇」となっており、後半の返り点にも異同があり、氏の現代語訳、則ち、原文(ラウダーの訳)には一部、私は首をひねらざるを得ない箇所がある)を参考にさせて戴いた。また、最後の個所は「可ㇾ依其品事」とㇾ点を補って読んだ。大方の御叱正を俟つ。

   *

主・父の怨冦(をんこう)は、之れに酬・報爲(た)るもの、共に天を戴くべからざるは、聖賢も之れを許せり。此の讎(あだ)有る者は、決斷、所帳面を記し、年月を究(きは)め、其の志(こころざし)を遂げしむべし。然れども、重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし。但し、帳外の族は、狼藉同然なれば、刑宥(けいいう)は其の品に依るべき事。

   *

・「怨冦」は怨みを持つことと、仇を討たんとすること、の意であろう。

・「酬・報爲(た)るもの」とは平井氏の訳では『復讐されるものもするものも』とあり、腑に落ちる。

・「決斷」は副詞的に「(意志決定を)はっきりと」の意で採った。

・「所帳面」は所定、則ち、主君或いは町奉行所(他国に渡る場合に必要)へ提出する、決められた仇討認可申請の規定文書。

・「年月を究(きは)め」「究め」は「きめ」かも知れぬ。平井氏の訳では『その目的のために許可された期限』とある。

・「重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし」平井氏のこの前後の訳は、『ただ敵を懲らしめるために暴動擾乱をもってすることは堅く禁ずる』である。どうもこれは小泉八雲が「重敵討」の意味を誤認しているように思われてならない。「重敵討」というのは、敵討を果たした者に対し、討たれた側の関係者がさらに復讐をすることである。

・「帳外の族」主君の仇討赦免状や町奉行所の許諾を得て敵討帳に記載された者以外の無許可の仇討の実行者。

・「刑宥(けいいう)」通常の殺人罪扱いで処罰するか、情状酌量するか、ということであろう。

・「其の品に依るべき事」ケース・バイ・ケースで柔軟に対応すること、という意味であろう。以上の注の参考にしたウィキの「仇討によれば、『仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり、江戸幕府によって法制化されるに至って』、『その形式が完成された。その範囲は、父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。また、家臣が主君のために行うなど、血縁関係のない者について行われることは少なかった』。『江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた』。『武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた(但し、以下の私が下線を引いた部分には「要出典」要請がかけられている)。『敵討の許可が行われたのは基本的に武士階級のみであったが、それ以外の身分でも敵討を行う者はまま見られ、上記のような手続きを踏まなかった武士階級の敵討同様、孝子の所業として大目に見られ、場合によっては賞賛されることが多かった。又武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習も広く見られた』。『なお、敵討は決闘であるため、敵とされる側にも』、『これを迎え撃つ正当防衛が認められており、敵側が仇討ち側を殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる』『近親者を殺されてその復讐をする例は、南イタリアを始めとして、世界各地で見られるが、江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく』、『武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある』とある。]

 

2018/08/31

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(53) 忠義の宗教(Ⅰ)

 

  忠義の宗教

 

 『社會學原理』の著者は曰ふ、『武權專制の社會は、自分等のその社會の勝利を以て、行動の最高目的とする一種の愛國心を有する必要がある。彼等は權力者への服從心の源泉である忠義の心を收攬して居る必要がある、――而して、彼等の從順なるがためには、彼等は充分なる信仰を有たなければならぬ』と。日本人の歷史は鞏固にこの眞理を例證してゐるものである。いづれの他の人民の間にあつても、忠義の念が、この國民以上に感銘を與へるやうな且つ異常な形を採つた事は未だ曾てない事である。又いづれの他の人民の間にあつても、その服從心がこれ以上の信仰を以て培はれた事はない、――信仰とは祖先の祭祀から出た信仰である。

[やぶちゃん注:「社會學原理」既注であるが、再掲しておくと、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の『総合哲学体系』(“System of Synthetic Philosophy”)全十巻の第三巻“Principles of Sociology”(一八七四年~一八九六年)。

「收攬」人心等を捉えて、手中に収めること。]

 讀者はお解りの事と思ふ、如何にして孝道の教へ――服從に就いての家族的な宗教なる孝道――社會の進化と共に擴がり、且つ頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]それが分かれて社會の要求した政治的服從竝びに戰略が要めた[やぶちゃん注:「もとめた」。]軍事的服從――その服從の意のみでなく、情をこめたる服從であり――責任の感のみでなく、本分を守るといふ情である――となるかを了解された事であらう。その起原から考へて、かくの如き本分を守るといふ服從はその本質上宗教的である、そして忠義の感に表はれた場合、それは尚ほ宗教え的性質を有つてゐる――一種の自己獻身の宗教の不斷の表明となつてゐる。忠義の感は早く武人の歷史の中に發達して居て、吾々は最古の日本の年代記の中に、その感動すべき例を見るのである。吾々はまた恐るべき話を知つて居る――自己犧牲の話を。

 

 家臣はその天孫である領主から總てのもの――理論上計りでなく實際に、則ち持物、家庭、自由及び生命を――貰つて居た。これ等の物の一部又は全部を、家臣は領主のためには、要求に應じて苦情を言はずに、提供しなければならなかつた。而して領主に對する義務は、自家の祖先に對する義務と同樣、主人が死んでもなくなるものではなかつた。兩親の亡靈がその生きて居る子供達に依つて食物を供へられる通りに、領主の靈魂も、その在世中直接その服從して仕へてゐた人々に依つて禮拜を以て奉仕されるべきであつた。統治者の靈魂が、何等從者を伴なはずしで、只だ一人影の世界に人つて行く事は、許すべからざる事であつた。少くともその生存中仕へてゐた者の幾人かは、死んでその人に從はなければならなかつた。かくの如くして上古の時代には生贄の習慣――初めは義務的に、後には任意的に行つた――が起つたのである。前章にも述べた通り、日本では生贄なるものが、大きな葬式には缺くべからざるものであつた、それは第一世紀頃迄殘つてゐたが、その頃から始めて燒いた粘土の人の形(埴輪)なるものが公然の犧牲に代つたのである。この義務的殉死、則ち死を以てその主君に從ふと云ふ事が廢止されて後も、自己の意志から出た殉死なるものは、第十六世紀に至るまで存續し、それが武權に伴なふ風俗となつた事は、既に述べた所である。大名が死んだ時には、十五人や二十人の家臣が腹を切る位の事は普通の事であつた。家康はこの自殺の習慣を禁止しようとした。その事は彼の有名な遺訓の第七十六條に次のやうに述べられてゐる――

 

主人死而其臣及殉死事非ㇾ無古例其聊以無其理君子已誹作俑直臣は勿論陪臣以下迄堅可ㇾ制ㇾ之若違背せは却非忠信之士其跡沒收して犯法者の鑑たらしむへき事

[やぶちゃん注:自己流で訓読しておくと、

主人、死して、其の臣、殉死に及ぶ事、古への例に無きに非ざれども、其れ、聊(いささ)かも以つて其の理(ことはり)無く、君子、已に「誹作俑(ひさくよう)」たり。直臣(ぢきしん)は勿論、陪臣以下迄、堅く、之れを制すべし。若(も)し、違背せば却つて忠信の士に非ず。其の跡、沒收(もつしゆ)して犯法者(ぼんはうしや)の鑑(かがみ)たらしむべき事。

「誹作俑」(俑を作るを誹(そし)る)は「悪しき前例を批難する」こと。俑は人形。埋葬に際して兵馬俑の如きもの作って殉ぜしめた習慣が、後世、生身の人間を以って葬に殉ぜしめることの悪しき端緒となった、の意から。「孟子」の「梁惠王」に由る。「陪臣」上級領主の直臣の臣下。]

 

 家康の命令はその家臣の間に殉死の風をなくさしたが、その死後にはつづいて行はれた、むしろ復活した。一六六四年、將軍家は訓令を發して、何人を問はず殉死をなした者の家族は罰せられる旨を闡明し、實際將軍はそれに熱心であつた。則ちこの訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時、政府は直にこの自殺者の家族の土地を沒收し、その二人の子息を死刑に處し、他の者を流罪にした。現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはしたが、德川幕府の決斷的な態度は、大體に於てその實行を阻止し得たのである、それで後には最も忠烈な家臣も、宗教を通じてその犧牲を行ふことを通則としてゐたのであつた。則ちはらきりを爲さずに、家臣はその君主の死に際して頭を剃り、佛門に入るやうになつたのである。

[やぶちゃん注:第四代将軍徳川家綱が「武家諸法度」の付則として口頭伝達された(殉死禁止を成文法化すべきであるという意見もあったが、殉死を美風と見る意見が幕閣内にも存在したためとされる。ここはウィキの「追腹一件」の注釈に拠った)、殉死を不義無益として禁止した殉死禁止令は寛文三(一六六三)年に発令されている(これは実は第一には殉死が幕府が公的には禁じていた男色の延長線上にあるものと見做されたことによる)。なお、狭義の殉死(源平以後の戦時のそれではなく、平時に病気・事故・処罰等で亡くなった主君に対して追腹(おいばら)をすること)は、室町時代の明徳三(一三九二)年に室町幕府管領であった細川頼之の病死(享年六十四)に際し、殉死した三島外記入道(享年六十四)を嚆矢とするとされているようである。

「この訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時……」「奧平忠正」(平井呈一氏もそう訳しているが)は「奥平忠昌」の誤りウィキの「追腹一件」によれば、殉死禁止令発令から五年後の寛文八年二月十九日(一六六八年三月三十一日)、『下野国(いまの栃木県)宇都宮藩の』『藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。忠昌の世子であった長男の奥平昌能』(まさよし)『は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し』、『「いまだ生きているのか」と詰問し、これが原因で杉浦はただちに切腹した』(太字下線やぶちゃん)。『家臣が主君の死後、その後を追う風習は当時は「追腹(おいばら)」と称され、家臣が主君に殉じるのは、「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても』、『追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期をむかえた』。『徳川家綱のもとで文治政治への転換を進めていた江戸幕府』は既に注した通り、殉死禁止令を発していたことから、『昌能・杉浦の行為を』、『ともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、御連枝の家柄とはいえ』(忠昌は徳川家康の曾孫)、『奥平家に対し』、二『万石を減封して出羽山形藩』九『万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど』、『厳しい態度で臨んだ』。『これにより、殉死者の数は激減したといわれる』。『なお、忠昌没後』十四『日目には、奥平内蔵允』(くらのすけ:奥平家譜代衆である五老の家柄。千石取)『が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人』(主君奥平家の傍流にあたる七族の家柄。千三百石取。奥平内蔵允とは従兄弟同士であったが、平素より仲が悪かった)に対して、『武士の一分を立てるため』、『と斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)』(双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となったが、その夜、内蔵允は切腹した。詳しくはウィキの「宇都宮興禅寺刃傷事件」を参照されたい)『がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって』、『江戸牛込浄瑠璃坂での仇討ち事件(「浄瑠璃坂の仇討」)がのちに起こっている』とあり、これらはひとえに奥平昌能の無能による不幸な事件であったことが判る。

「現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはした」これは西南戦争などの戦時の広義の殉死。本書は明治三七(一九〇四)年の作であり、言わずもがなであるが、乃木希典の明治天皇への殉死は大正元(一九一二)年九月十三日)は小泉八雲の没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)後のことなので、注意されたい。小泉八雲が生きていたら、乃木の殉死をどう考えたか、興味深いことではある。]

 

 殉死の風は日本の忠義の念の只だ一面を表はしたものに過ぎない。殉死の他に、よしそれ以上とは言はれないまでも、それと同樣に意義の深い風習があつた。――例へば殉死としてではなくて、武士の教訓の傳統から要められた自己に被らす[やぶちゃん注:「かうむらす」或いは「かぶらす」。]處罰としての武人一流の自殺の習慣の如きがそれである。處罰の上の自殺としての、はらきりを禁ずる明白なる理由から成る立法上の法令はなかつた。かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない。古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である。腹切を一つの風習として又特權として始めたのは武人階級であつた。以前は、敗軍の將や、包圍軍の襲にあつた城塞の守將は、敵の手に落ちるのを避けるために自盡した――それは現在に至る迄殘つてゐた習慣である。武士に死刑の辱を受けさせる代りに切腹する事を許した武人の慣習は、第十五世紀の絡り頃に、一般に行はれるやうになつたと考へられる[やぶちゃん注:私の前段の冒頭の注の太字下線部を参照されたい。]。爾後武士は一言の命令で自殺するのが、當然の本分となつた。武士は總てこの規律的な法律に從はせられ、地方の領主と雖もこれを免れる事は出來なかつた。そして武士たるものの家族では、子供等は男女共に、自分一身の名譽のためか、或は君の意志でその要求のあつた場合、何時でも自殺の出來るやうに、その方法を訓へ[やぶちゃん注:「をしへ」。]られてゐた……私は言つて置くが、婦人ははらきりでなく、自害をした――委しく言へばただ一突きで動脈を斷ち切るやうに短刀で咽喉を突く事である……切腹(はらきり)の儀式の詳細の事に就いては、それに關する日本文をミツトフオド氏が飜譯したものに依つて充分よく知れ亙つてゐる故、私はその事に觸れる必要はあるまい。ただ記憶すべき重大な事實は、武士(さむらひ)たる者の男子や歸人に、何時でも剱を以て自殺の出來るやうに、心がけてゐる事を要求したのは名譽と忠義の心とのためであると云ふ事てある。武士に取つては、あらゆる破約(有意的に忙よ無意的にせよ)、難かしい使命を果たし得なかつた事、見苦しい過失、否、君主から不機嫌な一瞥を受けただけでも、はらきり、則ち好んで難かしく言へば、漢語で言ふ切腹の充分なる理由になつた。高い位の家臣の間では、君主の非行に對して、それを正しくする、あらゆる手段が盡きた時、切腹に依つて諫めると云ふ事が、矢張り一つの本分であつた――その雄壯な風習は、事實に基づいた幾多の人氣ある戲曲の主題となつて居る。武士階級の結婚した婦人の場合は――直接に關係あるのはその夫に對してであつて、君主に對してではないが――戰時に於て名譽を維持する手段として、大抵は自害の方法を取つた。尤も時には、【註】夫の死後その靈に貞節を誓ふために爲された事もあつたが、處女達の場合に於ても同樣であつた。その理由に至つては異る所がありはしたが、――武士の娘達は往々貴族の家庭に召使として入つたものであるが、その家での殘酷な陰謀は容易に娘達の自殺を招致し、若しくは又君主の奧方に對する忠義の念が自殺を要める事もあつた。召使としての武士の娘は、普通の武士が領主に對すると同じやうに、親しくその奧方に忠節を盡くさなければならなかつた。されば日本の封建時代には幾多の雄壯な女が居る次第である。

 

註 日本の道學者益軒は恁ふいふ事を書いた、『女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし』と。

[やぶちゃん注:「かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない」ウィキの「殉死によれば、『考古学的に見て』、『具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また』、五『世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」には、『「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』、百『余人の奴婢が殉葬されたという。また』、「日本書紀」の「垂仁紀」には、『野見宿禰が日葉酢媛命』(ひばすひめのみこと ?~垂仁天皇三十二年:垂仁天皇皇后)『の陵墓へ』、『殉死者を埋める代わりに』、『土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案したという』。また、「日本書紀」大化二(六四六)年三月二十二日の条によれば、『大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている』とある。

「古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である」「日本書紀」の天武天皇元(六七二)年七月二十三日の条に、「壬申の乱」で敗れた大友皇子が首を吊って自害するシーンが記されてある。

   *

男依等斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。

   *

「ミツトフオド氏が飜譯したもの」複数回既出既注の、イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“Tales of Old Japan”の附録の冒頭にある“An Account of the Hari-Kiri”(「『腹切り」の理由)を指すか。

「益軒」福岡藩士で本草学者・儒学者の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。

「女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし」当該原文相当のものを探し得なかったが、益軒の「和俗童子訓」(宝永七(一七一〇)年作)の第五巻「教女子法」の第八条、

   *

婦人には三從の道あり。凡(およそ)婦人は柔和にして、人にしたがふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三從の道と云(いふ)事あり。是亦、女子にをしゆべし。父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふを三從といふ。三のしたがふ也。

   *

を意訳したものを、戸川が文語訳したものか。]

 

 極古い時代には死罪に處せられた役人の妻たるものは、自殺するのが習慣となつて居たらしい――古代の年代記にはその例が澤山ある。併しこの風習は恐らく幾分古代の法律に依つて説明される、則ちその法律は、事件とは關係なくして、罪人の家族は、その罪に對して、罪人自身と同じ責任を有するものとしてゐたからである。併し又夫を失つた妻が、失望のためではなくて、他界まで夫に從ひ、生存中と同じやうに夫に仕へようとする願ひから、自殺をするのは、また正に極めて當然な事であつた。死んだ夫に對する舊い義務の觀念をあらはす女の自殺の例は、最近にもあつた事である。かくの如き自殺は尚ほ昔の封建時代の規則に從つて爲される――この場合女は白裝束をする。最近の支那との戰爭の時に、この種の驚くべき自殺が一つ東京に起つた、その犧牲者は戰死した淺田中尉の妻であつた。彼女は僅二十一歳であつた。彼女は自分の夫の死を聞くや、直に自分の死の用意にかかつた――昔の慣例に從つて親戚の者に別離の狀を書き、身の廻はりの始末をつけ、家中を綺麗に掃除して、それから彼女は死の裝束を身につけ、客室の床間に向つて筵を敷き、夫の寫眞を床間に飾つて、その前に供物をあげた。用意が萬端整ふと、彼女は寫眞の前に坐つて、短刀を取りあげ、そして見事な一突きを以て、咽喉の動脈を斷つたのである。

[やぶちゃん注:「淺田中尉の妻」日清戦争の清国軍の拠点であった鳳凰城への攻撃(明治二七(一八九四)年十月)で重傷を負い、治療の甲斐なく、陣中で亡くなった丸亀第三大隊所属の田中中尉の妻「シン子」(奇しくも同第三大隊大隊長岡見中佐の娘であり、戦死報(但し、戦場で死亡と誤認している)は父から齎された)。征清美談上野羊我二九一八九六)教育書房刊)の「田中尉夫人ノ自殺で読める。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。彼女は浅田に嫁して僅か二年であった。]

 

 名譽を維持するために自殺するといふ義務の他に、武士の女子にとつては、道德上の抗議として自殺をする義務があつた。既に述べた如く、最高なる家臣の間には、君主の非行に對する諫告として、あらゆる説得の手段もその效果のなかつた時、はらきりを行ふ事は、一つの道德上の義務であると考へられてゐた。さむらひの婦人――自分の夫を、封建的な意味での君主と思へと訓へられてゐる――の間では、夫の不名譽な行ひに對して、忠言や諫告をしてもそれを夫が聽き入れない場合、自分の本分を表白するために自害する事は、一種の道德的義務とされずてゐたのである。かくの如き犧牲を奬勵する所の妻たる者の義務に就いての理想は今尚ほ殘つてゐて、道德上の非行を叱責するために生命を惜しげもなく投げ出した例は、最近に於ても一つならず舉げられる。一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたものは、恐らく最も感動を與へる例であらう。石島といふ名のある物持ちの選舉人が、或る候補者の選舉に立派に助力すると公約した後、寢返りして反對黨の候補者を援助した。この約束の破棄を聞くや、石島の妻は、白裝束に身をかため、昔のさむらひの仕方に從つて自害し果てたのである。この剛氣な婦人の墓は、尚ほその地方の人達に依つて花を以て飾られて居り、その墓石の前には香の煙が絶えない。

[やぶちゃん注:「一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたもの」明治二十五年。この事件は調べ得なかったが、これは同年二月十五日に行われた、第二回衆議院議員総選挙ではなかろうか。しあわせ信州 長野県魅力発信ブログい~な 上伊那天竜川と選挙のお話」に、当時の有権者は国税十五円以上を収める二十五歳以上の男子のみで、記名投票で行われたとあり、『この選挙では吏党と民党との対立が激化』『(吏党:政府側の政党、民党:自由民権運動を推進した民権派各党)』し、『各地で両者の候補者や運動員が衝突』、『全国で死者』が二十五人も出たらしいとある』。『伊那でも選挙干渉が激しく、選挙当日』、ある民党側の議員を支持していた『有権者は、天竜川の橋の上で対立派が雇った壮士や博徒に通行を妨害され(壮士:職業的な政治活動家)』、『寒い雪の降る中を天竜川を泳いで投票に行った』という驚くべきことが書かれてある。]

2018/08/29

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(52) 武權の勃興(Ⅳ) / 武權の勃興~了

 

 吾人の見た如く、日本に於ける武力的統治の歷史は、信賴するに足る歷史の殆ど全期間を包含して、近代に迄至り、國民的完成の第二期を以て終つて居るのである。量初の第一期は、諸氏族が初めて最大なる氏族の主長の指導を受け容れた時に始まつた、――爾後この主長は天皇として、最高の司祭として、最高の審判者として、最高の司令官として、且つ又最高の長官として尊敬されて居た。この族長的王國の下にあつた最初の完成の出來るまで、どれ程の時日が要せられたか、それは解らない、併し二頭政治の下にあつた後の完成が、優に一干年以上を占めてゐたことは既に述べた通りである……。今や注意すべき異常な事實は、これ等の世紀を通じて、皇室の祭祀はみかどの敵すらも大事にこれを守つて來たと云ふことである。みかどは、國民的信仰の唯一の正統なる統治者であり、天子則ち『天の子息』――天皇則ち『天の王』である。騷亂の各時代を通じて、日の子孫は國民的禮拜の的であり、又其の宮殿は、國民的信仰の神社であつた。偉大なる武將は、或は天皇の意思を制肘した場合もあつた、併しそれにも拘らず、彼等は自分自身を神の化身の禮拜者であり、奴隷であるとしてゐた。そして法今を以て宗教を悉〻く廢棄してしまはうといふやうなことを考へる者もなかつたと同樣に、皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつたのである。ただ一度、足利將軍の專橫なる愚舉に依り、宮廷の祭祀は甚だしく阻害されたこともあつた。そして皇室の分裂から起つた社會上の地震は、纂奪者等をして、その過失の如何に大なるかを思ひ至らしめた……。萬世一系の皇位、皇室禮拜の連綿たる繼續のみが、家康をしてすらも、社會の融和し難き諸單位を纏めて、鞏固にする事を得せしめたのであつた。

[やぶちゃん注:「皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつた」或いは、平安中期に「新皇」を名乗った平将門を想起して「彼はどうか?」と主張される向きもあるかも知れぬが、ウィキの「新皇によれば、『この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し』、『東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく』、『「分国の王」程度のつもりであったと思われる』とあることで、八雲の謂いは有効である。]

 ハアバアト・ベンサアは、社會學の徒に次の事を認めるやうに教へた、則ち宗教的な王朝は異常な永續性を有つてゐる。それは變化に抵抗する異常な力を有つてゐるからである。然るに武力的王朝は、その永續性が主權者の個性に據るので、特に崩れ易いのであると。日本皇室の偉大なる永續性は、單に武力的支配を代表する幾多の幕府や執權府の歷史と對照して、この説を最も著しく説明してゐる二千五百年を振り返つて見る時、吾々は皇位繼承の連綿たるを辿り、終に過去の神祕の中にその姿を沒するに至るのを見るのである。玆に吾々は宗教的保守主義の本來の特質である、あらゆる變化に抵抗する絶大な力の證據を見る次第である。それと共に一方に、幕府や執權府の歷史は、何等宗教的基礎を有たず[やぶちゃん注:「もたず」。]、從つて何等宗教的凝集力を有たない制度の、崩壞に至る傾向をもつて居る事を證明して居る。藤原氏の統治の、他に比較して著しく繼續した事は、藤原氏は武力的と云ふよりも、寧ろ宗教的貴族であつたと云ふ事實に依つて説明され得るであらう。家康が工夫した驚異すべき武力的構造すらも、異國の侵入がその避くべからざる崩壞を早めた以前、既に衰退し始めてゐたのである。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(51) 武權の勃興(Ⅲ)

 

 かくして一時、行政上の全權はみかどの手に復歸した。天皇御自身にとつても、又日本の國にとつでも、不幸なことには、後醍醐天皇の性格が、餘りに弱きに過ぎたため、此の得難き大事な機會を有利に用ふることができなかつた。天皇は、御子を將軍に任命して、すでに無くなつた將軍職を再興した。天皇は、優柔不斷で、忠義と勇氣とによつて、自分を舊の位に復さしめてくれた人々の功績を無視し、かへつて愚かにも、當然恐れて然るべき人々の勢力を大にするやうな事をした。其の結果として、日本歷史中の、最も重大なる政治的危機、卽ち皇室そのものの分裂を招致したのであつた。

 

 北條執權の傍若無人な專制は、かくの如き事件の起り得べき道を作つたものであつた。第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた。されば皇位繼承の爭ひを招致するのは容易な事であつた。そしてこの事は、後醍醐天皇が不覺にも特別の恩寵を與へられた二心ある武將足利尊氏に依つて果たされたのであつた。足利は既に後醍醐天皇の復位を助けるために北條に反き、次いで彼は政權を握らんがためには後醍醐天皇の御信任をさへ裏切らんとしてゐたのである。天皇がこの奸計に氣づかれた時は既に遲かつた。そし軍隊を足利に向け給うたがそれは敗られてしまつた。それからなほ紛爭のあつた後、足利は首都を占有し、後醍醐天皇を二た度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]流謫し、その仲違ひの天皇を立て、新しい將軍職を設立した。ここに於て[やぶちゃん注:「於」は底本脱字。推定で補った。]始めて、皇室の二派は、それぞれ有力な領主達に支特せられて、繼承權を爭つた。後醍醐天皇を尚ほ實際の代表者とした一派は、歷史上南朝として知られ、それを日本の歷史家は唯一の正統派としてゐる。他の方は北朝と呼ばれ、京都にあつて足利一族の勢力に依つて支持せられてゐた。一方、後醍醐天皇は、佛教の僧院に難を避けられ帝國の國璽を保持して居られた……。爾後五十六年間、日本は二方のみかどを戴いてゐたのである。その結果として生じた亂脈は、國家の保全を危からしめたのであつた。孰れの天皇が正しい權利を有つて居られたかを決定する事は、人民にとつて、容易な事ではなかつたであらう。それ迄は天皇の一身は國家の神性を代表し、宮廷は國家の宗教の宮と考へられてゐたのである。それ故、足利の纂奪者に依つて始められたこの分裂は、現社會が依つて以て建立されたる全傳統の破壞に外ならなかつた。混亂は益〻甚だしく、危險は愈〻增し來たつて、終には足利氏自身も驚いてしまつたのである。ここに於て足利一族はこの苦境を切り拔けんとして、南朝の五代のみかど、後龜山天皇を説き奉り、國璽を時の北朝のみかど、後小松天皇に讓り給ふやうにと願つた。これが一三九二年に實行されて、後龜山天皇は退帝としての稱號を贈られ、後小松天皇が正統の天皇として國民から認められる事になつた。然し北朝の他の四人の天皇の御名は、尚ほ公儀の表からは除かれてゐる。

[やぶちゃん注:「第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた」「三人」の「廢帝」は原文“three deposed emperors”である。平井呈一氏も『廃帝』と訳して居られるが、これは日本史学上は誤った用法である。「廃帝」は公的・準公的に内部抗争のために形式的な本人の承諾を全く得ずに強制退位させられた天皇のことで、諡号や廟号を持たずに廃帝後には以前に天皇であったことも認められなかった存在を「廃帝」と呼ぶからである。なお、現時点では歴代天皇には、総て追号・諡号が与えられており、「廃帝」は存在しないことになっている。しかし、明治までは、明治天皇によって追号されるまで、「淡路廃帝(あわじはいたい)」(藤原仲麻呂の乱により孝謙上皇によって廃位されて淡路に流され、享年三十三で殺害されたと考えられている天武天皇の皇子舎人親王の七男であった淳仁天皇(在位:七五八 年~七六四年))と、「九条廃帝(くじょうはいてい)」(承久の乱直前に四歳で践祚するも、朝廷方の敗北により鎌倉幕府によって廃位となった仲恭天皇(在位:承久三(一二二一)年四月二十日~同年七月九日)。僅か七十八日で廃されており、即位式も大嘗祭も行われなかった。廃位後は母の実家摂政九條道家の邸宅に引き渡され、天福二(一二三四)年に十七歳で亡くなった。彼は歴代天皇中、在位期間が最も短い)の二人が存在し続けた。この“deposed”は、単に、実際には天皇家内の内部抗争と鎌倉幕府の朝廷支配の思惑のために事実上「退位させられて」上皇になった天皇が、同時期に三人も併存していたことを指している。但し、これも厳密に短期閉区間で言えば、「三人」ではなく、史上最多の「五人」であった時期もあるので正確とは言えない。則ち、鎌倉時代の第九十四代天皇(後宇多天皇(③)第一皇子。後醍醐天皇の異母兄)で大覚寺統の、

後二条天皇在位130132日(正安3121日)~1308年910日(徳治3825日)

の治世で、この時は、後嵯峨天皇の皇子(母は西園寺実氏の娘の中宮西園寺姞子。父母が自分よりも弟亀山天皇()を寵愛して彼を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立を生じさせる端緒となった)で元第八十九代天皇にして持明院統の祖である、

後深草上皇生没年1243628日(寛元元年610日)~1304817日(嘉元2716日))

と、後嵯峨天皇第七皇子で后腹で後深草天皇次男に当たる元第九十代天皇で大覚寺統の祖である、

亀山上皇生没年124979日(建長元年527日)~ 1305104日(嘉元3915日)))

と、亀山天皇第二皇子で大覚寺統の元第九十一代天皇、

後宇多上皇生没年12671217日(文永4121日)~1324716日(元亨4625日)

と、持明院統の後深草天皇の第二皇子と生まれるも、父後深草上皇の働きかけにより、建治元年(一二七五)年に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり、親王宣下、次いで後宇多天皇の皇太子になり、弘安一〇(一二八七)年に後宇多天皇の譲位を受けて即位した(これ以降、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代が暫く続いたが、正応二(一二八九)年に自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まった)元第九十二代天皇、

伏見上皇生没年1265510日(文永2423日) - 1317108日(文保元年93日))

と、持明院統の、伏見天皇第一皇子であった元第九十三代天皇、

後伏見上皇(生没年128845日(弘安1133日)- 1336517日(延元元年46日))

がおり、実に、

130132日(正安3121日)から後深草上皇が亡くなる1304817日(嘉元2716日))の凡そ三年五ヶ月の間は実に五人の上皇の並立があった

のである。]

 足利將軍は、かくしてこの非常な危樅を脱し得たのである。然し、一五七三年迄続いたこの武力主宰の時代は、尚ほお日本歷史に於ける最も暗黑な時代たることを免れなかつた。足利氏は十五人の統治者を置いて國政に當たらしめたが、その中には有能な士も多くあつた。彼等は産業を奬勸し、文藝の發達に務めた。然し平和をもたらす事は出來なかつた。爭ひが後から後からと起つた、そして領主達は將軍の命に服せず、互に干戈を交じへた。首都は亂れて、恐怖の狀を呈し、宮廷の貴族達は逃れ出て、自分達を保護して呉れる力のある大名の許に走らなければならぬ程になつた。盜賊は全國到る處に出沒し、海賊は海を脅かした。將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた。終には農業も商工業も、有力な領主の領土以外では存在しなくなつてしまつた。各地方は荒廢し、飢饉と地震と疫病との恐怖は、絶え間なき戰亂の慘苦に加へられた。貧困の一般であつた事は、後土御門として歷史に知られてゐる天皇――天津日嗣の第百二代なる――が一五〇〇年に崩御された時、大葬費が支出されなかつたため、その御遺骸が四十日も、宮廷の入口に止め置かれてゐたと云ふ事實から、最もよく想像される事と思ふ。一五七三年迄、この慘狀はつづいた。そして將軍職はその間に無力無能に墮落してしまつた。その時一人の健な武將が起つて、足利家を亡ぼし、支配の權を握つた。このこ簒奪者は織田信長で、その纂奪は非常に要求されて居たものであつた。若しこの纂奪が起こらなかつたなら、日本は遂に平和時代に入らなかつたであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一五七三年」同年八月二五日(元亀四年七月二十六日)に第十五代将軍足利義昭が宇治槇島城を明け渡して降伏、織田信長に追放され、室町幕府はこれを以って事実上、滅亡したとされる。

「將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた」明との「勘合貿易」での双方の立場の違いを言っているのでだが、小泉八雲はコンパクトに纏めたために、必ずしも事実を伝えているとは言えない。ウィキの「日明貿易」によれば、『当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため』、『勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため』、『豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て』、『実利を取ったといえる。しかし』、『この点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後』、四『代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは』、応永一八(一四一一)年に『貿易を一時停止する。具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬で、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから』、『朝鮮・琉球との通交が確保できることを前提に、対明断交に踏み切ったとされている。朝鮮・琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたものであ』った。しかし、第六代将軍足利義教時代の永享四(一四三二)年には復活している。『明は貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸』二百五十文が日本で五貫文(五千文)で売れ、反対に、日本から銅十貫文を一駄にして持ち込んだものが、明では四十~五十貫文で『売れたと記している。また、応仁の乱以後』、『遣明船を自力で派遣することが困難となった室町幕府は』、『有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が』三千~四千貫文であった。そのため、その十倍に『相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても』、『十分な利益が出る構造になっていたと考えられている』という。また、文明一五(一四八三)年に『派遣された遣明船は大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたことが知られ、貿易の収益の一部は朝廷に献上されている』。『勘合貿易が行われるようになると』、逆に『倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退し、輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など』、『室町時代の文化に影響した』とあり、文化史家として本書を書いている小泉八雲としては、見落とせない内実をカットしてしまったという印象が私には感じられる。]

 何となれば、五世紀以來平和と云ふものはなかつたからである。天皇も、執權も、將軍も、全國にその統治を確立する事は出來なかつたのである。何處かで、終始氏族同志は互に戰爭をして居た。第十六世紀の頃には、一身の安全なるものは、僅に、保護を與へる代償として自分の欲する處を行ひ得るやうな有力な武將の、その保護の下にあつてのみ得られるのであつた。皇位繼承の問題――第十四世紀の間殆ど帝國を碎破した――は無法な黨派に依つて何時再び超こらむものでもなかつた。そしてその結果は恐らく文化を滅ぼし、國民をひてもとの野蠻な狀態に戾すのであつた。この時程日本の將來が暗黑であつた時はなかつたのであるが、ぞの時突然織田信長が帝國に於ける最者として顯はれ、これ迄一人の頭首に服從したもののうちの尤も恐るべき軍隊の主將となつたのであつたのである。信長は神道の神官の末裔であるが、何よりも先づ愛國者であつた。彼は將軍の名稱裕などはほしがらなかつたし、又それを受けもしなかつた。彼の望みはこの國を救ふ事であつた。彼は、この希望を達するには、何うしてもあらゆる封建的の力を一つの支配の下に集中し、法律を制する他はないと考へた。この集中をなし遂げる方法と手段とを探し求めた結果、彼は、先づ最初に除かなければならない障害の一つは佛教の戰鬪力――北條執權の下に發達した封建的佛教、特に大なる眞宗[やぶちゃん注:原文は“Shin”。言わずもがなであるが、これは以下で示される通り、浄土真宗のことである。]、天台宗に依つて代表されるそれに依つて創られた障害であることを察知した。この兩宗派は既に信長の敵に助けを叫へて居たのであるから、爭ひの口實を得るのは容易な事であつた。それで彼は先づ天台宗を相手として向つた。戰爭は猛烈な勢ひを以て行はれ、比叡山の僧院なる城塞は襲擊せられ全滅せしめられ、僧侶は盡〻く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]皆その門徒と共に刄にかけられた――女子供に至る迄も少しの慈悲も加へられなかつた。元來信長の性質は殘忍ではなかつた。然しその政策は嚴酷であつた。そして、如何なる場合に、又何故に烈な攻擊を加ふべきかを知つて居た。この虐殺以前に於ける天台宗の大であつた事は、比叡山で燒かれた僧院の數が三千もあつたと云ふ事實を以て想像し得られるであらう。大阪に本山を有つてゐる東本願寺の眞宗派も。それに劣らず勢力があつた、そして今の大阪城の立つて居る所を占めてゐたその僧院は、國中最の城塞の一つであつた。信長は幾年か待つて居たが、ぞれはただ攻擊の準備をするためであつた。僧兵はよく防戰した、この包圍中に五萬の生命が失はれたと言はれて居る。しかも天皇親ら[やぶちゃん注:「みづから」。正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の]の御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた。天皇に對する尊崇の念から、信長は眞宗僧侶の生命を助ける事を承諾し、彼等僧侶は只だ所有を沒收せられ、分散せしめられただけで濟んだが、その勢力は爾來永久に碎かれたのであつた。佛教をかく有功に挫き果たしたので、信長はその注意を互に相爭つて居る氏族の方に向ける事が出來た。この國民がこれ迄生んだ最大の武將等――秀吉及び家康――の支持を得て、彼は更に進んで平和と秩序とを敷かうとした。そして彼の雄圖が正に成らんとした時、一人の家臣の復仇的謀反のため、彼は一五八二年に敢へなく最期を逡げた。

[やぶちゃん注:「信長は神道の神官の末裔である」織田信長の祖父信定は戦国初期の武将で、尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つであった織田弾正忠家の当主にして勝幡城城主であったが、彼は越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引いており、本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称した)を称していたが、後に信長が平姓に改めた、とウィキの「織田信定にある。

「天皇親ら御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた」正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の長い「石山合戦」(元亀元(一五七〇)年九月~天正八(一五八〇)年八月)の果ての講和は事実上、双方の戦略上の結果であって、正親町の成果ではない。]

 その血管に平氏の血を有つてゐた信長は、根本的に貴族であつて、行政に就いては、その大宗族[やぶちゃん注:有力な「氏族」としての藤原氏。前注参照。]の有して居た才能を繼承し、外交のあらゆる傳統を體得してゐた。彼のための復仇者であり且つは後繼者であつた秀吉は、信長とは全く異つた型の武人であつた、彼は一農夫の子であつたが、その鋭敏と勇氣と、自然に備つた武藝の技と、戰爭の掛け引きに對する生まれながらの一才能とを以て、その高位をかち得た訓練を經ざる天才であつた。信長の雄圖に對して、彼は常に同情をもつて居り、そして實際その雄圖を遂行した――彼に關白の位を授け給うた天皇の名に於て、南北に亙つて全國を平定したのである。かくして全國の平和は一時打立てられた。然るに秀吉が集め且つ訓練した大武力はやがて制御し難いものとなる徵候を現はし始めた。ここに於て彼は彼等に仕事を與へんがために、朝鮮に對し理由なき戰ひを宣し、それに依つて支那征服を果たさんと希望した。朝鮮との戰爭は一五九二年に始まり、一五九八年迄不滿足な狀態で長引き、その年に終に彼は歿したのである。彼は正に不世出の偉大なる武人である事を示したが、最良なる統治者の一人ではなかつた。朝鮮征討も、若し彼が自分親ら、その事に當つたならば、もつといい結果が獲られたかも知れないのである。事實は、その戰爭は兩國の力を消耗せしめただけであつた。そして日本は奈良の『耳塚』――それは外國の殺された者の頭を鹽漬けにして、それから切り取つた三萬對の耳を、大佛の御堂の境内に埋めて、その場所を明示したものである――を除けば、海外に高價を拂つて得た勝利として、他に殆ど示すべきものを有つて居なかつたのである。

[やぶちゃん注:「奈良の『耳塚』」「奈良」は京都の誤り。現在の京都市東山区にある豊国神社の門前に現存する。(グーグル・マップ・データ)。]

 次いで權力の位置のなくなつた場所へ入つて行つたものは、日本に生まれた最大の偉人――德川家康であつた。家康は源氏の嫡流で、何處までも貴族の人であつた。秀吉を一度敗つた事あつた程で、武人として彼は秀吉に劣つては居なかつた、――然し彼は武人以上の人物であつた。則ち彼は達觀の經世家[やぶちゃん注:政治家。]であつた、絶倫の外交家であつた、更に學者とも言はるべき人であつた。冷靜に、愼重で、權謀あり、――疑ひ深くしかも寬容に、――嚴格にしてしかも情味あり――その天才の廣く且つ多樣なるは、ジユリアス・シイザアに對比するも敢て劣るとは言はれなかつた。信長や秀吉が爲さんと欲して爲し得なかつた處を、家康は迅速に完成した。『異國にさまよふ亡靈となるやうに』――則ち祀られざる靈魂の狀態で――朝鮮に軍隊を殘して置かないやうにといふ、秀吉臨終の命令を果たした後、家康は自分の支配權に抗議するために結束した諸侯の同盟に面を向けなければならなかつた。關ケ原の激戰は、彼を全國の元首とした。それで直に彼は、自分の權力を鞏固[やぶちゃん注:「きようこ」。強固に同じい。]にし、武權政府の仝機關を、微細に亙つて完成すべき手段を講じた。將軍として、彼は大名制度を改造し、封地の大部分を、自分の信賴し得る者の間に分かち、新しい武權階級を設け、且つ大藩主の勢力を、殆ど謀反の出來ないやうに秩序を定めてこれを平均した。後には大名達は自分の他意なき所行に對しては保證をさへ差し出す事を要求された。【註】則ち大名は一年中の或る期間を、將軍の首都で過ごし、その殘りの期間は人質として、その家族を殘して置かなければならなかつた。行政全體が簡潔にして賢明なる企畫の上に建て直された。事實、家康の法律は彼が非凡な立法家であつた事を證明して居る。ここに日本歷史上始めて國民は完成されたのである――少くとも社會的單位の特質が、それを可能ならしめた限りに於て、完成されたのである。この江の建設者の勸告した事は代々の後繼者の從ふ所となり、又一八六七年迄續いた德川將軍家は、國に十五人の武權の主君を與へたが、その下に日本に二百五十年の間、平和と繁榮とを享有し得たのである。そして社會はかくしてその獨得の型でりの最大限度迄發展する事が出來たのてある。産業や藝術は新しく驚くべき程に發達し、文學は立派な後盾を得たのであつた。國家の祭祀は大事に支持され、第十四世紀に國を殆ど危殆[やぶちゃん注:「きたい」。危険・危機に同じい。]に頻せしめたかの皇位繼承の爭ひの、再び起こる事を防ぐためには、あらゆる愼重な注意がとられたのである、

 

註 汀戸に義務的在住(參勤)の期間はすべての大名に對して同一ではなかつた。或る場合にはその義務は六箇月に及び、また或る場合には一年置きに首府に居る事もあつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「参勤交代によれば、慶長五(一六〇〇)年に「関ヶ原の戦い」で『徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため』に、『江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが』、『次第に制度として定着して』行き、寛永一二(一六三五)年、徳川家第三代将軍徳川家光が「武家諸法度」を『改定したことによって』、『諸大名の義務となっ』た。『制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費などにより』、『大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されて』行くことにはなった。『この制度は江戸時代を通じて堅持されたが』、享保七(一七二二)年に、徳川吉宗が、「上米(あげまい)の制」と呼ばれる、石高一万石に対し、百石の『米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり』、結局、享保一五(一七三〇)年まで続けられた、とある。]

2018/08/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(50) 武權の勃興(Ⅱ)

 

 併しながら、日本に於ける攝政の歷史は、世襲的權威は常にまた何處に於ても、その權威の代理者に依つて取つて代はられるものであるといふ、普通の法則を充分に説明して居る。藤原氏も終には、政略上から取り入れ且つ行はして居た奢侈の犠牲となつたと考へられる。藤原氏は單なる宮廷の貴族に堕し、軍事方面の事は全然これを武家に委任して、内政の方面以外には、何等直接の權威を行使する努力をしなかつた。第八世紀に及んで支那の方式に從つて、文武の組織が區別され、ここに大なる武人階級が現出して、急速に其の權力を擴大するに至つた。正統の武家氏族の中で、最も有力なるものは、源氏と平氏とであつた。藤原氏は、戰爭に關する一切の重要事項の處狸を、これ等二氏に代理せしめ、其の結果、やがて其の高い地位と勢力とを失ふに至つた。武家が大になつて政府の權能を制肘し得るやうになるや――これは第十一世紀の中葉のことであるが――藤原氏の一族は、多くの攝政の下に數世紀の間、要職を独擅にしてはゐたが、其の主權は既に過去のものとなつてしまつた。

 併し武家も、その仲間同志で激しい爭鬪をした上でなければ、自分等の野心を實現することはできなかつた、――これが日本歷史中の、最も長く又最も激しかつた戰役である。源氏も平氏も何れも皆公卿であつて、皇室の末裔であつた。兩家の爭鬪の初期に於ては、平氏がすべて優勢であつた。如何なる權力と雖も、平氏が敵なる氏族を撲滅するのを妨げることはできないと考へられた。併し運命は遂に源氏の方に向つて來て一一八五年壇の浦に於ける有名な海戰で平氏は滅亡してしまつた。

 その時から源氏の攝政むしろ將軍の治世が始まつた。『將軍』と云ふ稱號は、ロオマの兵語イムペラトルの如く、もとは單に總司令官の意味であつたと、私は別の處で述べたことがあつた然るに今やそれは、文武兩樣の主權者――國王の中の國王――たる二重の資格に於て、事實上最高の統治者の稱號となつたのである。源氏が權力を獲得した時から、將軍政治の歷史は――武權優越の長い歷史――は實際に始まつた、爾來下つて明治の現代に至る迄、日本は實際に二人の皇帝を戴いてゐた。卽ち一方に天皇或は神の化身は、種族の宗教を代表し、今一つの眞の大元帥は、行政上の諸權を行使してゐた。併し誰れも力に依つて、少くともあらゆる權威の源である日嗣ぎの御位を侵さんと冀ふ[やぶちゃん注:「こひねがふ」。]者はなかつた。攝政則ち將軍もその御位の前には頭を下げた。神性は纂奪さる可くもなかつたのである。

[やぶちゃん注:「イムペラトル」原文“Imperator”。ラテン語。古代ローマ、特に共和政ローマに於けるローマ軍の最高司令官・将軍の称号。後に皇帝若しくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国に於ける皇帝或いは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウム(Imperium:古代ローマに於いてローマ法によって承認された全面的命令権を指す)を保持する者」という意味で、平時に於ける「最高命令権者」或いは戦時に於ける「最高司令官」のことを指す。初代皇帝アウグストゥス以降、皇帝(正確には元首であるプリンケプス princeps)の個人名に使われるようになった。このことから「アウグストゥス」「カエサル」などとともに最高権力者の肩書きとして認識されるようになった(以上はウィキの「インペラトル及びそのリンク先の記載に拠った)。]

 併し壇の浦の戰の後にも、平和はつづいて來なかつた。源平兩家の大爭鬪に依つて始まつた氏族の戰ひは、さらに五世紀間も、不規則な間隔を置いては、續いて行はれ、國家は四分五裂の有樣になつた。のみならず源氏も高價な犧牲を拂つて獲得した最高權を、永く獨占し得なかつた。北條氏の一族にその政權を代理せしめたので、彼等は、丁度藤原氏が平氏に其の位置を奪はれた如く、北條氏のために取つて代はられてしまつた。源氏の將軍にして實際上の政權を執つたものは、僅に三人のみであつた[やぶちゃん注:執権支配の様態から事実上は源頼朝一人と言うべきである。]。第十三世紀を通じて、否[やぶちゃん注:「いな」。]其の後も尚ほ少時は、北條氏が此の國を治めた。而して注意すべき事は、これ等の攝政は、決して將軍の名稱を名のらず、單に將軍の代理職なりと稱してゐた事である[やぶちゃん注:「執権」は将軍の命令によって政務実務を代理執行する者の意である。]。かくして源氏が鎌倉に一種の宮廷をもつて居たのであるから、一見三頭政治があつたわけである。併しそれ等は單に影の中に消えてしまひ、『影法師將軍』或は『傀儡將軍』と云ふ意味深い稱呼で記憶されてゐる。併しながら、北條氏の行政は、異常な才幹と絶倫なる精力の人々に依つて行はれたので、決して影の如き空虛なものではなかつた。天皇にせよ、將軍にせよ、彼等のために用捨なく、讓位追放に處せられた。將軍職の無力であつた事は、七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎[やぶちゃん注:「こし」と訓じていよう。平井呈一氏もこの漢字を用いた上で、『こし』とルビしている。原文は“palanquin”で、これは中国・インド・日本などの昔の輿・駕籠を意味する英語である。]の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう。にも拘らず、北條氏は、幽靈の將軍を一三三三年まで、そのままにつづけさせた。其の手段に不謹愼な點があるにせよ、これ等の執權が有能の統治者であつたことは。一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略――の如き大事變に際して、救國の任に堪ふるの實力を示した事に依つて知られる。國家の大社に捧げられた祈願に答へて、敵艦隊を打ち沈めたと傅へられる幸運な大風(神風)に助けられて、北條氏は此の侵入者を驅逐することができた。併し北條氏も、内亂を鎭定するには成功しなかつた――特に騷がしい佛教の僧侶に依つて起された亂には不成功であつた。第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた、――不思議にもヨオロツパ中世紀の戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)に似て居る、僧兵、戰鬪僧正の時代とでも云ふのである。佛教の僧院は、武裝した人々で一杯になつて居た城塞と化した。佛教の脅威は一度ならず、宮廷の聖い離隔した處まで恐怖をもち込んだ。源氏一統の先見の明をもつて居た創設者なる賴朝は、當初佛教に軍事的傾向のあるのを看取し、すべての僧侶が武器を携へ、若しくは武裝した家人を養ふことを嚴禁して、かくの如き軍事的傾向を阻止しようと企てた。然るに彼の後繼者達は何れも、かくの加き禁令を勵行することを怠つたので、其の結果佛教の武力的勢力は、非常に急速に發達し、爲めに機敏なる北條氏と雖も、これに對抗し得るや否や頗るその實力に就いて疑ひを抱いたのであつた。結局此の勢力は、北條氏に非常な煩ひを與へることになつた。第九十六代のみかど後醍醐天皇は、北條氏の專橫に反抗するの勇氣を振ひ起こし、又佛教の僧兵は天皇に味方をした。天皇は脆くも敗れ、隱岐の島に逐はれ給うた。併し天皇の大義は、やがて永年執權の專制に憤激して居た有力なる領主達に依つて擁護せられた。これ等の領主達は勢力を集め、逐はれた天皇を取りかへして舊に復し、力を協はせて執權の首府たる鎌倉に、必死の攻擊を試みた。鎌倉は襲擊され燒燼された。そして北條氏の最後の統治者は、勇敢に防戰したが遂に及ばず、腹搔き切つて果てた。かくの如くして、將軍政治と執權職とは共に一三三三年に滅亡した。

[やぶちゃん注:「七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう」第七代執権は北条時宗であるが、第七代将軍は惟康親王で、彼が将軍職に就いたのは永三(一二六六)年七月であって、以下の惟康親王の将軍解任と京への強制送還の一件は正応二(一二八九)年九月、則ち、時宗の死(弘安七(一二八四)年四月)後五年後のことであるから、執権は第八代北条貞時で、小泉八雲の誤認である。また、「倒さに吊るして」の訳は戸川の悪訳であって、輿を御所に反対向きに寄せて乗せさせられたのである。これは罪人を護送する際のやり方であり、その輿も何と、筵で包んだ粗末な網代の御輿であったことが、後深草院二条の「とはずがたり」の記されてある。

「一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略」「キユブライ汗」は原文“Kublai Khan”で、言わずもがな、元王朝初代皇帝にしてモンゴル帝国第五代皇帝(大ハーン)であったクビライ・カアン(一二一五年~一二九四年)のこと。「一二八一年」は弘安四年で、二度目の元寇襲来である「弘安の役」の開始年。

「第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた」中世を通じて強大な武装集団を有し、しばしば強訴に及んだ、延暦寺と興福寺を主とした所謂、「南都北嶺」を指すものであろう。ウィキの「寺社勢力によれば、『大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた』とある。

「戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)」「チヤアチ・ミリタント」は前の四字へのルビ。“church-militant”。「闘う教会」。元は現実の教会が正しいキリスト教を敢然と主張し広めることの比喩であるが、ここは実際に教会に所属した兵組織のこと。平井呈一氏は『教会兵』と訳されておられる。後に十字軍に発展するものであろうか。]

2018/08/11

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(49) 武權の勃興(Ⅰ)

 

  武權の勃興

 

 信賴するに足る日本歷史の殆ど全部は、一つの廣大な挿話の内に收められて居る、則ち武權の興廢といふ事の内に收められる……。日本の歷史は紀元前六六〇年から五八五年迄の間統治して、百二十七歳の壽齡を保つたとされて居る神武天皇の登極と共に始まると、普通に云ひならはしてゐる。神武皇帝以前は、神代であつた――神話の時代である。併し神武天皇の卽位以後一千年間の、信賴するに足る歷史は傳はつてゐない、そして此の一千年の期間の年代記はお伽噺を去る事遠くないものと考へなければならない。この年代記には、事實の記錄もありはするが、事實譚と神話とが互によく織りまぜられて居て、兩者を區別して見ることは困難である。例ヘば紀元二〇二年に、神功皇后が朝鮮を征伐したと云はれる傳説があるが、【註】そんな征伐のなかつた事は可なり十分に證明された。後代の記錄は、上代のよりも、幾分か神話的ではない。第十五代目の統治者、應仁天皇の御宇に、朝鮮からの移住民のあったといふ事は事實に基づいた傳説であるし、尚ほ其後の日本に於ける古い漢文硏究の傳説も亦事實に基づいたものである、さらに第五徒紀の全部を通じて行はれたらしく思はれる社會動亂の狀態に就いての漠然たる記錄も同樣である。佛教は第六世紀の中葉に傳へられた、そして此の新しい信條に對して爲された神道一派の激しい反抗と、聖德太子――推古天皇の攝政にして、佛教の偉大なる建設者――の祈禱に依り、四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)の助けの下に、佛教の奇蹟的勝利を博した事實とに就いては、記錄が殘つて居る。推古天皇(紀元五九三年から六二八年迄)の御宇に於て佛教の基礎の確立すると共に、漸く信を置くに足る歷史の時代が始まつた、時は、神武天皇から數へて、三十三代目の日本の天子の御世であつた。

 

註 日本アジヤ協會の譯文中、アストン氏の論文『日本古代史』を見よ。

[やぶちゃん注:「四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)」「しだいばわう」と読んでおく。丸括弧内は原文にはない。訳者戸川明三の割注である。阿修羅王に対するという以上は天部に属すと思われる守護神霊「四提婆王」(原文“the Four Deva Kings)というのは私はあまり聴いたことがない(即座に連想するのは、釈迦の弟子であったが、後に違背し、阿闍世(あじゃせ)王を唆(そそのか)して殺害しようとして失敗して地獄へ堕ちたとされる「提婆達多」であるが、無論、彼ではない)。原文を見ると、最後の「King」が複数形であることに気づいた。さらに調べてみると、平凡社「世界大百科事典」の「阿修羅」の解説の中に、『サンスクリットのアスラasuraの写音。アーリヤ人のインド・イラン共通の時代にはアスラとデーバdevaはともに神を意味したが』、『彼らが分かれて定住してからは』『インドではアスラが悪神を』、『デーバが善神を意味するようになり』、『イランではアスラはゾロアスター教の主神アフラ・マズダとなった』とあり、また、「インド神話」の解説の中にヒンドゥー教の軍神『は代表的なデーバdevaである。デーバは神であり』、『それに対するものがアスラasura(阿修羅)である』とあり、また、「八部衆」の解説中に『天(デーバdeva)』は『神のことで(devaはラテン語deusと同系)、帝釈天をはじめとする三十三天など』を指すとある、ウィキの「デーヴァ」を見ると、『サンスクリットで神を意味する語である。女性形はデーヴィー 』で、『印欧祖語に由来する』。『ヒンドゥー教、仏教などインド系の諸宗教で現われる』。『漢訳仏典では、天部、天、天人、天神、天部神などと訳される』。『デーヴァが住む世界をデーヴァローカ』『と呼び、天、天界、天道、天上界などと漢訳される』。『インドのデーヴァはイランのダエーワと同一の語源と言われるが、イランのゾロアスター教ではダエーワは悪神である』。『ラテン語のデウス(dēus)などと同じ語源である』あるとあった。さらに同ウィキの中文版を開くと、標題が『提婆(印度神話)』となっているのを確認出来た。されば、この小泉八雲の原文は、

デーヴァローカ(「天」)に棲む「四」名のデーヴァ(「天部」の「神」)

即ち、

「天」部に属する仏教を守護する「四」名の「王」

という意味に読み替えられると私は思う。翻って、「日本書紀」には、仏教を巡って発生した崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得、それに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したと記されている。さればこそ、私はここには、

「四名のデーヴァ王ら」(仏法を守護する四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のことであろう)

としたくなるのである。大方の御叱正を待つ。

「アストン氏の論文『日本古代史』」「アストン」は既注であるが、再掲しておくと、イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。「日本古代史」というのは一八八九年発表の“Early Japanese history のこと。この発表した年、アストンは病気のために外交官を辞職し、イングランドに落ち着いている。]

 

 倂し第七世紀以前の一切の事は、假作物語のやうに霧に包まれて、吾々は判然と其の眞相を摑むことはできないが、それでも初代から三十三代目迄の天皇及び女帝の御代の社會狀態に關する半神話的の記錄から、吾々は多くの事を推論し得るのである。上代のみかどの生活は、極めて質素で、その臣下と殆ど選ぶ處がなかつたらしい。神道學者の眞淵の言ふ處に依れば、天子も泥の壁と小石で葺いた屋根のある小屋の中に住み給ひ、大麻の着物を被て[やぶちゃん注:「きて」。]、野葡萄の蔓を絡ませた木製の鞘に納めた刀を佩き、人民の間を自由に步きまはられ、獵に出られる時には、自分で弓矢を携へられたといふことである。併し社會が發達して其の富力と權力とを增大するにつれて、此の古の簡素はなくなり、支那の習俗儀禮が、漸時輸入されるに及んで、大變革が生じて來た。推古天皇は支那宮廷の儀禮を取り入れ、貴族に對し、始めて支那の位階を適用せしめた。支那の贅澤品は、支那の學問と共にやがて宮廷に見られるやうになつた。爾來天皇の權威は次第々々に直接に働きをする事が少くなつた。新しい儀禮に拘はるやうになつで、萬機を親裁することは以前よりも遙かに困難となつたに相違ない。そして精力絶倫の統治者の場合に於てさへも、多少代理者に依つて、事を行はせるといふ誘惑の、強くなつて來た事も有りさうな事である。何れにしても、政府の眞の行政は、此の頃から、代理者――代理者はすべて藤原と呼ぶ大公卿氏族の人々であつた――の掌中に移り始めた。

 この氏族は最高の世襲的僧職を包有し、天孫の榮を誇つて居り、古代貴族の大半を占めてゐた。全部で百五十五家族ある公卿の中から 九十五家族はこれに屬してゐた――この中には五攝家なるものも入つて居たが、この五攝家の内から天皇は傳統上、皇后を選ぶ事になつて居たのである。其の藤原の歷史上の名稱は、桓武天皇(紀元七八二年――八○六年)の御代に始まつたので、桓武天皇は中臣鎌足の名譽を表彰するために、此の名を與ヘられたのである。併し此の氏族は、以前から永い間宮廷に於て、最高の地位を占めてゐたのであった。第七世紀の末葉から、行政上の權力は槪ね此の氏族の掌中に移つてしまつた。其の後關白卽ち攝政の職が制定され、近代に至る迄、それが此の家に世襲的の職權として殘つて居た――幾代かの後、中臣鎌足の子孫の手からは。その實驗が失はれてしまつた後までも。併しながら殆ど五世紀の間、藤原氏は日本の眞の攝政たる地位を保ち、出來得る限りその位置の利を專にしてゐた。すべての交官職は、藤原氏の男子の掌中に歸し、天皇の后妃や寵姫は、すべて藤原氏の女人であつた。政府の全權は、かくして此の氏族の手に委ねられ、天皇の大權はなくなつてしまつた。のみならず天皇の繼承は、全然藤原氏の手に依つて行はれ、在位の期間すら、藤原氏の政策に左右せられて居たのであつた。年少の天皇に退位をひ、退位後は佛數の僧侶となられたる事が得策と考へられた――次いで選ばれた後繼者は往々ほんの幼兒に過ぎないと言ふ有樣で、二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇の例があるかと思へば、五歳にしてみかどの位に就き、或は十歳にして卽位した例も數多ある。併しながら、王位の宗教的尊嚴は依然として減少される事なく、むしろ增大したのであつた。みかどが政策と儀禮とのために、一般人民の視界から遠ざかれば遠ざかるほど、其の離隔と隔絶とは、益〻尊貴な傳統的な畏敬の念をくすることとなつた。西藏のラマ僧の如く、生ける神なる天子は、民衆には見えないやうにされて居た。かくして天顏を拜する者は死ぬと云ふ信仰が徐々に起つて來たのであつた……。藤原氏は、自己の政權を確保するために、かかる專橫な手段を弄することを以てさへ飽き足らず、年少の天子の性格を惰弱にするがために、腐敗に赴かせるいろいろな奢侈を宮中に行はしたと傳へられてゐる。さうしなければ天皇は古代からの帝位の權威を振ふ力を示される恐れがあつたからである。

[やぶちゃん注:「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇」平安末期の第七十九代六条天皇(長寛二年十一月十四日(一一六四年十二月二十八日)~安元二(一一七六)年)のことであろう。彼は永万元年六月二十五日(一一六五年八月三日)に即位させられ、仁安三年二月十九日(一一六八年四月九日)に退位させられている。即位は数え二歳(実際には生後満七ヶ月と十一日)で歴代最年少であり、在位二年八ヶ月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王に譲位(高倉天皇)させられ、これまた歴代最年少の上皇となった(但し、数えだと五歳、満だと三歳となる)。]

 此の簒奪――武權勃興の準備となつたこの纂奪――は、恐らく正常に解釋されてゐなかつたと思はれる。古代ヨオロツパのすべての族長的社會の歷史は、社會進化の上のこれと同一の形相を説明して居るのである。兩者の發展の或る期間に於て、吾々は同樣な事實――僧侶としての國王たる君主から一切の政權が剝奪され、しかもその王はただ宗教的尊嚴を保つやうにさせられて居る事――を認めるのである。藤原氏の政略を、單なる野心、竝びに單なる纂奪の政策と判斷するのは誤りである。藤原氏はその天孫を主張して居た宗教的貴族であつた、――宗教と政治とが同一視された社會の氏族の長であり、この社會に對するその關係は、ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)が古代アゼンスの社會に對する關係に等しかつた。みかどはもと、氏族の主長の大多數の同意に依り、最高の長官、軍事司今官、竝びに宗教上の教長となつたものである、――この氏族の主長が、各自の家來に對する關係は、恰も『天皇』が社會全體に對する關係と同じものであつた。併し統治者の大權が、國民の發展に伴なつて增大するや、從來聯合しで其の大權を擁護するに力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]者も、それを危險とするやうになつて來た。ここに於て彼等は、天皇の宗教上の優越權はその儘にして、その政治上竝びに法律上の權威を剝奪しようと意を決した。アゼンスに於ても、スパルタに於ても、又ロオマに於ても、其他古代ヨオロツパの何處に於ても、これと同一な理由から、宗教上の元老に依つて、同一な政策が行はれたのであつた。ロオマ上代の國王の歷史はド・クウランジュ氏の解釋に從へば、僧侶なる統治者と宗教上の貴族との間に釀成された反抗の性質を、尤もよく語るものであると、併しこれと同一の事實は、あらゆるギリシヤの社會にも行はれ、同樣の結果を生じた。何處でも、古の王は、政治上の權力を奪はれて居た。併し宗教上の尊嚴と特權に至つてはこれを保持することを得た。彼等は、統治者でなくなつた後までも最高の僧侶ではあつたのである。これは日本でも同樣であつた。私は日本の史家が將來に於て、現代社會學の立場から觀察して、藤原時代の物語に就き、全然新しい解釋を與へるであらうと想像して居る。兔に角、天皇の大權を削減するに就いては、宗教上の貴族は、野心かそれを行つたと共に、保守的の警戒からそれを斷行したに相違ないといふ事は殆ど疑ひを容れる餘地はない。法律と慣習とに改變を加へた天皇も多くあつた――古代貴族の大部分からは、殆ど好意を以て迎へられなかつた改變を、又今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた。また孝德天皇の如き『神の化身』であり、また古代の信仰土の主長でありながら、『神の道を輕視し』生國玉の御社の神木を伐り倒した天皇もあつた。孝德天皇は、佛教に對する信心のあるにも拘らず(恐らく實際その信心のあるが爲めにかも知れぬが)尤も賢明にして又尤も善良なる君主の一人であつた。併しその『神の道を輕視する』天皇の一例となつたといふ事は、僧侶的氏族をして重大な考慮をめぐらさしめたに相違ない……。尚ほこの他にも、注意すべき重要なる事實がある。數世紀の間に、正統なる皇室は、氏から全然分離するに至つた、而して他の各單位とは獨立して居たこの全能力のあつた一單位は、それ自體の内に、貴族的特權と既定の制度とに對して重大なる危險をもつて居るものと考へられた。すべての氏族の慣習を破壞し、氏族の特權を廢棄し得る權力ある全能なる神王の個人的性格と意思とは、餘りに重大な事を起すかも知れない。一方に、氏族の族長的統治の支配下に在つては、すべての者が一樣に安全であつた。何となれば氏族の族長的統治は、その内の一族が他族を犧牲に供して、自ら著しき力を振はんとするあらゆる傾向を阻止することが出來たのであるから、併し皇室の祭祀――すべての權威と特權との傳統的本源――は、明白な理由から。これに一指だも觸れる事は出來なかつた。則ち宗教貴族が、眞の權力を自己の掌中に收め得たのは、皇室の祭祀を維持し、それを鞏固にする事によつてのみなされたのであつた。事實彼等は眞の實權を、殆ど五世紀間掌握しつづけて居たのである。

[やぶちゃん注:「ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)」原典の綴りは最後がラテン文字の合字で“Eupatridӕ”と斜体。この部分も丸括弧は訳者戸川の割注である。辞書ではアテナイの貴族階級の一種とし、「エウパドリデス」とカタカナ音写してある。

「アゼンス」原文の“Athens”の綴りを見ればお判りの通り、「アテナイ」(アテネ)のこと。

「ド・クウランジュ氏」複数回既出既注であるが、再掲しておく。ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。

「今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた」何か意味深長なまがまがしいことをしたかのような訳になっているが、原文は“there had been an Emperor whose diversions can to-day be written of only in Latin”であり、平井呈一氏の訳では『こんにちなら、ラテン語だけで物を書くというような、そんな気まぐれをやった天皇もあった』となっている。漢字や万葉仮名だけしか使わないと言った意味か。誰かは知らない。

「孝德天皇」(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年/在位:孝徳天皇元(六四五)年~没年迄)。ウィキの「孝徳天皇によれば、「日本書紀」『によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず』、『しきりに恩勅を下した』とある。彼は生國魂(いくくにたま)神社(現在は大阪府大阪市天王寺区生玉町にあるが、以前は現在の大阪城の位置にあったが、豊臣秀吉による大坂城築城の際に移転させられた。但し、孝徳帝当時はどこにあったかは不詳である)を伐採したことが、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀の分注に載る。この伐採は難波宮(なにわのみや)造営のためであったと考えられている、とウィキの「生國魂神社にある。]

 

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