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2020/02/26

ラフカディオ・ハーン 窯神譚 (落合貞三郎訳) /作品集「支那怪談」~全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tale of the Porcelain-God)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題SOME CHINESE GHOSTS。「幾つかの中国の幽霊たち」)の掉尾の第六話である。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「?」「!」の後に特異的に字空けを施した。訳者による註が本篇本文最後に纏められてあるが、参照し難いので、適切な段落末に分散して配した(表記は原注に同じとした)。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「大清國」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(上記の“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

 

   It is written in the Fong-ho-chin-tch'ouen, that whenever the artist Thsang-Kong was in doubt, he would look into the fire of the great oven in which his vases were baking, and question the Guardian-Spirit dwelling in the flame. And the Spirit of the Oven-fires so aided him with his counsels, that the porcelains made by Thsang-Kong were indeed finer and lovelier to look upon than all other porcelains. And they were baked in the years of Khang-hí,—sacredly called Jin Houang-tí.

 

   *

無力乍ら、訳すと、

   *

Fong-ho-chin-tch'ouen」には、『陶工 Thsang-Kong は疑わしい時には何時でも、彼の瓶が焼かれている大きな窯の中の炎の様子を見て、その炎の中に住もうている火を守護する精霊に対し、疑義を訴えた』と書かれてある。そして、窯の火の精霊もまた、彼の助言を以って彼をよく助けたから、Thsang-Kong によって作られた磁器は、他如何なる陶工たちの作る磁器よりも実に繊細にして情愛に溢れていた。そして、それらは清の康煕の年間[やぶちゃん注:「康煕」の現行拼音は「kāng xī」で「Khang-hí」に近く、最後の「大清國」とも附合する。一六六二年~一七二二年。]に焼き上げられ――神聖なものとして「Jin Houang-tí」と称された。

   *

正確な訳がお出来になる方や書名・陶工名・元号・呼称の正しい漢字のお分かりなる方は、是非、御教授願いたい。]

 

   窯 神 譚

 

 誰が人間界で始めて高陵註十九と磁器――美しい花瓶の骨と肉、骨骼と皮膚――の祕訣を發見したのだらう? 誰が始めて凝乳の如く白い粘土の美質を見出したのか? 誰が始めて氷の如く淸らかな石胎――老人の白髮の如く枯れた山の戴く灰白土、發掘を待つ死んだ巨人の岩骨石肉の如く、白くなつた粉塊――を調製したか? 磁器の神々しい藝術を發見する事は、誰れ人の手に授けられたのか? 

註十九 高陵 Kao-Ling ――もとは陶工に、最上の粘土を供した山巖の固有名詞であつたが、後に轉訛して今日諸國に慣用の語となつた。支那の陶工の用語によれば、Kaolin 粘土を詩的に磁器の「骨」と呼び、tun 硅岩を「肉」と呼び、また兩者を合はせて燒いたものを Pe-tun-tse と稱した。兩者ともに分解せる長石斑岩から成つたものである。

[やぶちゃん注:「石胎」原文“tun”。原文の単語も(斜体になっているので中国語が疑われる)、訳も不詳。平井氏は『白*子(はくとんし)』(「*」=「木」の頭を出さない字)とするが、ますます判らない。識者の御教授を乞う。「石のはららご」(石の原初的胎児(ヒラニア・ガルパ)という比喩か?] 

 それは甞て人間であつたが、今や神に祀られ、陶業組合に加入せる幾萬の人々が、その雪白の像を拜する浦に授けられた。しかし彼の誕生地はわからない。恐らく、その傳說は、かの現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし、また昔は Feou-linang の靑い山脈の中に火の寳玉の如く輝いてゐた景德鎭の都會――かの驚くべき磁器の都會さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭のために消されたかも知れない。

[やぶちゃん注:「浦」後半に登場する陶工の名である。そこでは落合氏は「フー」とルビする。せめても、それをしないというのは読者に頗る不親切である。

Feou-linang」江西省景徳鎮市にある浮梁(ふりょう)県(グーグル・マップ・データ航空写真)。同市街地の東北部の山岳地帯。

「現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし」、「景德鎭の都會」「さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭」清朝の一八五一年に起こった洪秀全    (一八五一年~一八六四年)を「天王」とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって発生した大規模な内乱「太平天国の乱」のこと。「太平天国」が建国され、清軍が討伐する十三年後まで国は存在した。「長髪賊の乱」とも呼ばれる(最後のハーンの解説にも出る)。この戦火のため、景徳鎮は破壊され、御器廠の活動も停止し、一八六六年に李鴻章か蔡錦青を監督官として昔の御器廠の建物を再建、再度、御用品製作を企図したが、建物が竣工し焼造が再開されたのは、八年後の一八七四年のこととされる。因みに、同乱は本書刊行(一八八七年(明治二十年相当))の僅か三十六年前、景徳鎮の再生は実に十三年前のことであったことに注意しなくてはならない。]

 尤も彼よりも以前、既に陶窯の神靈は存在してゐて、無限の活動力から發生し、絕對最高の大靈註二十から流れ出でて現はれてゐた。何故なら、約五千年前に、黃帝は粘土を燒いて立派な器物を作ることを人々に敎へ、それから、その時代にすべての陶工は窯火の神を知つて、祈りの囁きにつれて彼等の粘土細工を營む車輪を囘はしてゐたからである。が、黃帝が死んでから三千年後に、天帝から窯神となるべき運命を授けられた人が始めて生まれたのだ。

 

註二十 太靈[やぶちゃん注:表記の違いはママ。道家思想であるからこの「太」が正しい。] Tao ――無限の實在、卽ち宇宙的生命、一切の諸相これから發する。Tao といふ文字は第一原因といふ意味に於ける「道」である。老子は道といふ語を一二の異れる意味に使つてゐるが、彼が最も重要なる哲學的意義を與へてゐる主旨は、道經の有名なる二十五章によく說いてある。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この偉大なる支那の思想家の第一原因――不可知のもの――に關する見解と、他の東西兩洋諸哲學者の說との差異は、スタニスラス・ヂユリアン氏譯「道經」の序言、第十頁乃至十五頁に明晰に論じてある。

[やぶちゃん注:「スタニスラス・ヂユリアン」既出既注であるが、再掲すると、フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「道經」ジュリアンが一八四二年にフランス語訳した「老子道徳経」(Le livre de la voie et de la vertu:「美と道徳の書」)。]

 

 して、彼の神聖なる靈は、いつも陶房の煙と勞作の上を逍遙しつ〻、今猶ほ模型工の思考に力を、意匠工の創作力に優美を、釉藥工の手法に光輝を與へてゐる。實際、彼が天から敎へられた叡智によつて磁器の藝術は創められたのだ[やぶちゃん注:「はじめられたのだ」。]。彼の靈感によつて陶工のあらゆる奇蹟と、彼に追隨した人々の作れる一切の奇什珍器は完成されたのだ――

 すべての靑磁――明かなること鏡の如く、薄きこと紙の如く、磬の如く朗かな音を發し、欽宗帝の勅命に從つて、「雲の破れ目から見える譯者註一、雨後の空の如く靑き」色を呈してゐる。これらは實に磁器中、第一に位するもので、柴窯註二十一[やぶちゃん注:「さいよう」。]とも呼ばれ、いかに奸惡の徒も流石にこれを破碎する勇氣が出ない。高價な寳石の如くに眼を魅するから。

 

註二十一 窯 Yao ――支那の製陶の技術。歷史又は傳說に關する詳密の知識を得ようと欲するものは、ヂユリアン氏の名著「支那陶器史」(一八五六年巴里出版)を參照するがよい。私の「窯神譚」に擧げた諸種の磁器の名は、大抵該書から取つたものであゐ。是等の名に支那音にては音樂的妙味があるけれども、飜譯すれば興味索然たるを免れない。大部分は單に製造の中心地又は有名なる工場の名に因んだものである。例へば Chou-Yao Chou といふ土地の磁器である。また製造の時代によつて區別した名もある。或は役人の名を冠したものもある。直接に磁器の材料又は藝術的特質から命名したものは、遙かに稀である。

譯者註一 柴窰[やぶちゃん注:「窯」の異体字。以下、総て「ヨウ」と音で読んでおく。]の色について。形容句の原文は左の如くである。

  「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來

この窯は河南鄭州に在つて、柴世宗の創めたもの。右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える。柴窰は雨過天靑を主色とし、滋潤細媚、實に古來諸客の冠冕である。

[やぶちゃん注:「磬」「けい」或いは唐音で「きん」とも読む。中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を吊り下げ、動物の角製の槌(つち)で打ち鳴らす。石板が一個だけの「特磬」と、十数個の「編磬」とがある。宋代に朝鮮に伝わり、宮廷音楽に使用され、日本では奈良以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いた。

「欽宗帝」原文は“Emperor Chi-tsong”。欽宗(一一〇〇年~一一六一年)は北宋の最後の第九代皇帝であるが、これはハーンの誤りか誤訳で、五代後周第二代皇帝の世宗柴栄(さいえい 九五四年~九五九年)のことである(落合氏はそれを訂する形で注を示しているが、「右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える」という部分はよく意味が判らない)。五代で随一の名君とされる。「世宗」は現行のラテン文字綴りで「Shizong」。以下の「雨過……」を言ったのは彼とされている。平井氏はちゃんと『世宗』と訳しておられる。

「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來」調べてみると、世宗の命じたとされる台詞は、

 雨過天靑雲破處、諸將顔色作將來

或いは後半が、

 這般顏色做將來

で、落合氏の訓読は何だかよく判らないが、最後の「這般(しやはん)顏色將來に倣へ」だと意味が分かる。則ち、「雨上がりの空に雲と相い映ずる青天の色を成す陶器を、このたび、即刻に持って参れ!」であろう。但し、この文句、おかしい。「這般」は宋代の口語だからである。されば、この話(少なくともこの「這般顏色做將來」という文句)はずっと後代、宋以後に作られたものであろう。

「禀請」「ひんせい」或いは慣用読みで「りんせい」。上役や上部機関などに申し出て請求すること。申請。但し、前に述べた通り、意味不明で、出典も私には判らない。

「支那陶器史」“Histoire et fabrication de la porcelaine chinoise”(「景徳鎮陶録」という邦題があるようである)。

「鄭州」河南省鄭州(ていしゅう)市

「冠冕」「くわんべん(かんべん)」は本来は冕板(冠の頂きに附ける板)をつけたかんむりで、皇帝や皇太子の礼服に附属する。ここはそれ(至高の地位)から転じて「一番優れているもの・首位」の意。]

 

 それから、汝窯譯者註二――すべての磁器の中、第二に位し、時としては靑銅の模樣とその音調の朗々さを欺き、また時としては夏の海の如く靑く、厚く浮かべる粘液狀の雄魚精かと思はれるもの。

 

譯者註二 汝窰は河南の汝州にあつて、北宋時代の創設に係る。

[やぶちゃん注:「汝州」河南省平頂山市汝州(じょしゅう)市

「雄魚精」原文は“floating spawn of fish”で「魚が放卵したその浮いているような様態」。訳は「魚のオスの放った精子」の意であろう。]

 

 それから、官窯譯者註三――すべての驚くべき磁器の中、優秀の點に於て第三位を占め、朝の色彩を帶びてゐる――空の靑さを呈せる中に、黎明の薔薇色が咲いて、沼澤に住む長い脛を有する鳥の飛ぶのが朝暾に映じてゐる。

 

譯者註三 官窰は宋以來、官吏の監督を受けて製し、内府の用に供したのである。宋の大觀、政和の間、汴京(河南省開封府)にあつたもの。

[やぶちゃん注:「朝暾」(てうとん(ちょうとん))は朝日。

「大觀」北宋の徽宗(きそう)の治世で用いられた元号。一一〇七年~一一一〇年。

「政和」同前。一一一一年~一一一八年。

「汴京(河南省開封府)」「汴京」は「べんきやう(べんきょう)」と読む。現在の河南省開封市。宋(北宋:九六〇年~一一二七年)は「東京開封府」と称し、ここを首都とした。]

 

 また、哥窯譯者註四――完全なる磁器の中、第四位で、鮮魚の體の如く、麗はしき、薄い、變はり易き色を有し、或は蛋白石質に似せて作られ、乳と火を混じたやうなもの。名聲不朽の章氏兄弟の兄、生一の作品。

 

譯者註四 哥窰は宋の處州龍泉縣の人、章氏兄弟、瓷業を營み、兄の生一の作を哥窰と名づけた。

[やぶちゃん注:「哥」は「歌」の異体字でもあるが、それ以外に兄や目上や位の高い人物のを呼ぶ際にも用い、ここは「兄」の意。

「蛋白石」オパール (opal) の中国名。

「章氏兄弟」南宋(一一二七年~一二七九年)の陶工とされる。サイト「有田焼」の「竜泉窯(りゅうせんよう)」に(コンマを読点に代えた)、『中国の浙江(せっこう)省にあった窯で、宋代から明代にかけて膨大な量の青磁がこの窯で生産されていました』。『製品である青磁は東南アジア、イラン、イラク、エジプトなど広い地域に多量に輸出されていました』。『竜泉窯の青磁はおもに』二『種に大別され、白い胎土と朱色の砂の胎土を使った青磁は、「弟窯」または「竜泉窯」と呼ばれます。もう一方は、貫入と黒い胎土が特徴であり』「哥窯(かよう)」と『呼ばれています』。二つの『青磁の成り立ちは、南宋時代、浙江省竜泉県』(現在の浙江省麗水市竜泉市)『にいた、章生一と章生二という兄弟によって生み出されたという伝説があり』、『兄弟は代々製陶の家系で育ち、二人も父親の遺言によって、それぞれ窯を設け、それぞれに作品作りに励んでいました。弟である、章生二はまず陶器の色から手を』初め、『あらゆる色を観察した結果、最も優雅で高貴な色は青であると考え、青い磁器を製作しました。この青磁が南宋』の初代『皇帝、高宗に気に入られ、章生二の窯は官窯とされ、「弟窯」または「竜泉窯」が誕生しました』。『兄である、章生一も負けじと努力しましたが、彼は陶磁器の色でなく、陶磁器の製作技法にこだわり、「窯変」を、人工的な方法で作り出そうと試行錯誤を繰り返しました。ある年の』十二『月、生一の妻が夫に食事を届けにいったとき、夫である生一が窯の中に水を入れているのを見て、彼を助けるために、泉の水をかけて加勢し』、『火を消してしまいました。鎮火後の窯を見ると、なんと、すべての器に魚のうろこ状の亀裂が入り、「窯変」の陶器が生まれていたのです。こうして章生一が作り出した窯変青磁はあっという間に世間を騒がせ、皇帝への献上品となりました。章生一が兄であったことから、この窯変の青磁は「哥窯」と呼ばれるようになったそうです』とある。

「瓷業」(じぎやう(じぎょう))の「瓷」は「石焼の瓶(かめ)」であるが、ここは「窯」に同じい。]

 

 また、定窯譯者註五――完全なる磁器の中、第五位で、寡婦の喪服の如く白く、淚のやうな美しき雫が滴つてゐて、詩人 Son-tong-po が詠じてゐる磁器。

 

譯者註五 定窰は直隷省定州で作つたのを北定といふ。宋初の建設である。宋の南渡後、景德鎭で作つたものた南定といふ。

[やぶちゃん注:「Son-tong-po」かの北宋の政治家にして優れた詩人であった蘇東坡(一〇三六年~一一〇一年)のこと。現行の拼音は「sū dōng pō」。彼の賦「試院煎茶」に「定州花瓷琢紅玉」と詠まれてあるようだ。サイト「中国茶の世界」のこちらで全文が読める。

「直隷省定州」河北省保定市定州(ていしゅう)市であるが、この河合氏の言い方はおかしい。「直隷省」というのは、ほぼ現在の河北省に相当するものの、これは清代になって新たに作られた行政区画名であるからである。]

 

 また、Pi-se-yao 窯――色合が潜んでゐて、交互に出沒隱見する。日光の下に氷の色が變幻を示す如くだ。音に聞こえた詩人 Sin-in が讚へた磁器。

[やぶちゃん注:「Pi-se-yao 窯」敬愛する平井呈一氏の、恒文社版小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「瓷(じ)神譚」の訳では『秘色窯』。以下でも平井氏の訳による漢字表記に多くを拠った。

Sin-in」平井氏は『徐寅』(じよいん)とされる。晩唐末期の詩人。「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「徐正字詩賦」を見たところ、「巻二」の[002-45a]の、

   *

   貢餘秘色茶盞

捩碧融青瑞色新

陶成先得貢吾君

巧剜明月染春水

輕旋薄氷盛綠雲

古鏡破苔當席上

嫩荷涵露别江濆

中山竹葉醅初發

多病那堪中十分

   *

の七律がそれらしく思われる。]

 また、驚くべき Chu-yao 窯――擊つときに哀しげな叫びを發する蒼白の磁器。偉大なる詩人 Thou-chao-ling の歌へるもの。

[やぶちゃん注:「Chu-yao 窯」平井氏訳は『蜀窯』。

Thou-chao-ling」平井氏は『杜少陵』とする。則ち、杜甫である。これは、彼の「又於韋處乞大邑瓷碗」(又、韋(ゐ)が處に於いて大邑(だいいふ)の瓷碗(しわん)を乞ふ)である。

   *

 又於韋處乞大邑瓷碗

大邑燒瓷輕且堅

扣如哀玉錦城傳

君家白碗勝霜雪

急送茅齋也可憐。

  又韋が處に於いて大邑の瓷碗を乞ふ

 大邑の燒瓷(しやうじ) 輕くして且つ堅し

 扣(たた)けば 哀玉のごとく錦城に傳ふ

 君が家の白碗 霜雪に勝れり

 急(とみ)に茅齋(ばうさい)に送らば また憐むべし

   *

紀頌之氏の強力な杜甫のブログ「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらに詳細な訳注があるので参照されたいが、その「瓷碗」の訳注に『焼き物の碗、臨邛の大邑で産出されたもの。平成都平原の西南部に位置する。成都市街からの距離は75キロメートル、臨邛は、秦の時代に置かれた県名。現・四川省邛耒県』とある。現在の四川省成都市大邑県なら、ここ。]

 また、Thsin-yao 窯――色は白或は靑。多くの鰭で激搖せる水面の如く皺がよつてゐる……しかも魚までも見える!

[やぶちゃん注:「Thsin-yao 窯」平井氏訳は『秦窯』。]

 また、Tsi-hong-khi 器と呼ばる〻花瓶――雨後の夕陽の如く赤い。それから、蠶蛾の翼の如く脆く、卵殼よりも輕い T’o-t’ai-khi 器。

[やぶちゃん注:「Tsi-hong-khi 器」平井氏訳は『吹紅器』。

T’o-t’ai-khi 器」平井氏訳は『脱胎器』。]

 また、Kia-tsing ――空虛の時は、眞珠のやうに白い茶碗であるが、不可思議な魔術的製法のために、一たび水を滿たすや否や、紫色の魚が群遊して見える。

[やぶちゃん注:「Kia-tsing」平井氏訳は『夾青』。]

 また、Yao-pien ――その色合が火の鍊金術によつて變つてくる。血の赤色で火に入つて、その中で蜥蜴の綠色に變はり、遂に天空の頰のやうな蒼色となつて出でてくる。

[やぶちゃん注:「Yao-pien」平井氏訳は『窯変』。]

 また、Ki-tcheou-yao 窯――夏の夜の如く全く靑紫色である。それから、銀と雪を混ぜたやうにきらきらする Hing-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Ki-tcheou-yao 窯」平井氏訳は『吉州窯』。

Hing-yao 窯」平井氏訳は『清窯』。]

 また、Sieouen-yao 窯――熔爐中の鐡の如く赤いもの、透明で紅玉の如きもの、蜜柑の皮の如くざらざらした黃色のもの、桃の皮の如く柔かに紅いものなどさまざまある。

[やぶちゃん注:「Sieouen-yao 窯」平井氏訳は『宣窯』。]

 また、古い氷の如く罅燒になつて、綠色の Tsoui-khi-yao 窯。それから金龍がのたうち𢌞つて、縺れてゐる Tchou-fou-yao 窯。なほまた、淡紅色に畝だちて、蟹の爪の如くに鋸齒狀の稜角ある諸磁器。

[やぶちゃん注:「罅燒」「ひびやき」と訓じておく。

Tsoui-khi-yao 窯」平井氏訳は『砕器釉』として、窯名とせず、『青瓷』(青い瓶(かめ))とされる。

Tchou-fou-yao 窯」平井氏訳は『洪武窯』。これは明代の洪武年間(一三六八年~一三九八年)に焼造した官窯の名である。]

 また、眼晴の如く黑く、また輝ける Ou-ni-yao 窯。それから、天竺の人の顏の如く黑褐色なる Hou-tien-yao 窯。なほまた、秋の葉の如く光澤の枯れた黃金色の黃金窯。

[やぶちゃん注:「Ou-ni-yao 窯」平井氏訳は『烏金釉』(うきんゆう:清朝乾隆年間(一七三六年~一七九五年)の中国窯の中でも最も特色のある釉薬で、黒色でも最も光沢に富み、且つ透徹したもの)として、窯名とせず、『黒色の瓷器』(しき:かめ)の名とする。

Hou-tien-yao 窯」平井氏訳はここは『それからインド人の顔のような黄褐色の烏金釉』と訳され、その後に割注を入れて、『訳者注――ここに烏金釉二度出てくるが、これは八雲がテキストに用いたダントルコールの書牘』(しょとく:書簡)『に誤りがあるらしい。これについては、小林市太郎訳注ダントルコール著「中国陶瓷見聞録」を参照されたい』と述べておられる。同訳書は平凡社の洋文庫にある(私は未見)。但し、平井氏は『二度』と言っておられるが、落合氏の訳文でも判る通り、全く同じ綴りではない。ダントルコールは最後に附したハーンの解説に出るので、そちらで注する。]

 また、蜿豆の苗の如く綠色であるが、太陽に照らされた銀色の雲と天上の龍を染め出せる Long-kang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「蜿豆」「えんどう」或いは「えんどうまめ」と訓じておく。

Long-kang-yao 窯」平井氏訳は『竜※窯』(「※」=「卸」-「卩」+「岡」)とあるが、この「※」は「鋼」の異体字(グリフウィキ)に近いので、「竜鋼窯」ではあるまいか? サイト「鶴田純久乃章」の「乾隆窯」の解説の中には、『従来絶えていた竜鋼窯および金窯の焼成を復興し』たとある。]

 また、琥珀色の葡萄の花や、葡萄の葉の靑綠や、罌粟の花を描いたり、或は鬪ひ合つてゐる蟋蟀の形を浮彫にせる Tching-hoa-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Tching-hoa-yao 窯」平井氏訳は『宣和窯』。「宣和」は北宋の徽宗の治世で用いられた元号である。一一一九年~一一二五年。]

 また、金粉の星を散らした蒼空色の Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯。それから、電光の閃過する火のやうな夜にも似て、黑色と銀色の壯麗なる Khien-long-nien-thang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯」平井氏訳は『康煕年臧窯』。「臧窯」(ぞうよう)は、ウィキの「中国の陶磁器」によれば、康熙一三(一六七四)年に漢人武将による反乱「三藩の乱」(雲南の呉三桂・広東の尚之信・福建の耿精忠が起こした)で『景徳鎮は大打撃を受ける。その後、清朝政府は景徳鎮の復興に当た』り、七年後の康熙一九(一六八〇)年、『康熙帝は官窯の復活を決め、翌年には内務府総官の徐廷弼、工部虞衡司郎中という官職にあった臧応選(ぞうおうせん)らが監陶官(督造官)として景徳鎮に派遣された』。『この時代の官窯では、陶工の人件費、材料費、運搬費から研究開発費まで国の予算でまかなわれるようになり、陶工は生活の不安なく、技法の開発に専念することができるようになった。清代の磁器は「倣古採今」を宗とし、宋・明の古典の真に迫った模作が作られるとともに、清代独自の創造も追求された』。『臧応選は』翌康熙二十年から同二十七年までの『間、景徳鎮に駐在し、鎮の作陶の指導監督を行った。臧応選にちなみ、この時期の官窯製品を「臧窯」とも呼ぶ』とある。

Khien-long-nien-thang-yao 窯」平井氏訳は『乾隆年臧窯』。乾隆年間は一七三六年から一七九五年まで。ただ、ハーンの綴りが異なるのが気になる。前は「ts'ang-yao」なのに、ここでは「thang-yao」である。ウィキの「中国の陶磁器」には続けて、『清の官窯では、臧応選のように中央政府から景徳鎮に派遣され、製陶の監督を行った官僚である監陶官が技術開発のために大きな役割を果たし』、『「臧窯」の他に、歴代の監陶官の名にちなんだ「郎窯」、「年窯」、「唐窯」等の呼称がある』とある。例えば「唐」は現行の拼音は「táng」である。これは或いは「乾隆年唐窯」なのではなかろうか?

 尤も Long-Ouang-yao 窯は除外だ。淫蕩な Pi-hi、猥褻な Nan-niu-ssé-sie、耻づべき春晝を描いたもので、陶窯の靈は顏を隱して逃げ去つたのであるが、奸惡なる Moutsong 皇帝の命令によつて作られた忌々しいもの。

[やぶちゃん注:「Long-Ouang-yao 窯」平井氏訳は『隆慶窯』。「隆慶」は明代の元号(一五六七年 ~一五七二年)。以下で注する第十三代皇帝穆宗(ぼくそう)の在位中に使われた。従って穆宗は「隆慶帝」と呼ばれる。

Pi-hi」平井氏訳は『「秘史」』。鍵括弧附きである(次も同じ)。

Nan-niu-ssé-sie」平井氏訳は『「男女秘戯」』。前とともにどんなシロモノか見てみたかったが、如何なる画像検索にも掛かってこない。残念!

Moutsong 皇帝」平井氏訳は『帝穆(ぼく)宗』。明の第十三代皇帝(一五三七年~一五七二年死在位:一五六七年~没年)。ウィキの「隆慶帝」によれば、先代の父『嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた徐階・海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。また』、『疲弊する国庫を建て直すため、海外貿易を開放し、倭寇とタタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的にも安定した時代を現出した』。『しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため』、三十六歳の若さで『崩御した』とある。]

 しかしすべてその他の、驚くべき形狀と實質を有し、魔術的に關節を附せられ、浮彫模樣の粧飾と施された花瓶類――花の萼窩のやうな鐘形を呈したり、鳥の嘴のやうに割けたり、蛇の顎の如く牙があつたり、小女の口の如く淺紅の脣を示せる孔口を有つたのや、蕈や蓮花や蜥蜴や女面馬足の龍に似たのや、不思議に半透明で、飯粒の白い光や霜の空幻なる組紐細工や珊瑚の開花に彷彿せるものなど。

 更にまた、磁器の諸神像――竈の神、墨の十二神、生れながら銀髮の貴い老子、叡智の書卷を摑める孔夫子、黃金の百合の具眞中に雪白の足にて立てる、美はしき慈悲の女神なる觀音、人民に庖厨を敎へた神の神農、長い眼は冥想に閉ぢ、脣は最高至上なる福祥の神祕なる微笑を洩らせる佛、白翼の鶴に跨つて空を乘つて行く長壽の神 Cheou-lao、肥え太つて、夢を見てゐる滿足と富の神 Pou-t'ai、それから、仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神。

[やぶちゃん注:「Cheou-lao」平井氏訳は『寿老人』。道教の神仙で、「南極老人星」(カノープス:Canopus:りゅうこつ座α星)の化身とされる。酒を好み、頭の長い長寿の神とされ、不死の霊薬を含んでいる瓢箪を持ち、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従え、手にはやはり不老長寿の霊果である桃を持っている姿で描かれることが多い(ウィキの「寿老人」に拠る)。

Pou-t'ai」平井氏訳は『布袋』(ほてい ?~九一七年)。唐末から五代にかけて明州(現在の浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的仏僧。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。ウィキの「布袋」によれば、常に頭陀袋を背負っていたことから「布袋」という俗称がついた。『出身地も俗姓も不明で』、『寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという』。『生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという』。『その姿は風変りであったが素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたという』。『その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類し』た形で去ったとも言われる。『嶽林寺で遷化したと』も言うが、『埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたと』も伝える。『その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある』。死に際して残した偈文から(リンク先に原文あり)、『実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったと』もいう。『なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である』。『中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は西欧人に』は『マイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる』とある。

「仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神」平井氏はこの女神を『女神弁財天』と訳しておられる。但し、中国での弁財天の認識は菩薩型の強力な戦争神の女神イメージで、ここに示されたような、まさに日本人の憧れて憧憬するような、技芸のミューズ的女神のそれとはかなり異なるものである。]

 

 

 浦(プー)が人類に遣して置いた無類の藝術は、その幾多の祕訣は實際忘れられ、永久に失はれてゐることであらうが、窯神の物語は記憶されてゐる。孰れの老陶工でも、昔々終日拮据、戶外で顏料を碾いてゐる大陶房の盲目の老人達でも、浦は甞て卑賤なる支那の職工であつたのが、倦むことなき硏究と忍耐と天の靈感によつて遂に最大名工となつたことを語り得るのだ。彼は非常に有名になつたので、或る人は彼を鍊金術者と見倣し、石を金に化する『白と黃』といふ祕傳を知るものと思つた。また他の人々は彼を魔術師と考へ、屋根の瓦の下に呪文を唱へ込めた人の像を隱して置いて、夢魔の恐怖を以て、人を殺す凄い力を有するものとした。更にまた他の人々は萬物を支配する五行の神祕――星の流れの中にも、乳色の天河の中にも動いてゐる力――を發見した占星術者だと斷言した。少くともかやうに無智の輩は彼のことを噂した。しかし天子の側に侍せる、見識確固たる人々も、彼の妙技を激賞して、彼の巧みなる手觸に易々と扱はれ行く美しい材料を使用して、彼の制作の手に叶はぬといふ美術品が世にあるだらうかと話し合つた。

[やぶちゃん注:「浦(プー)」原文は“Pu”。平井氏訳は『風(ふう)』と訳しておられる。但し、「風」だと現代の拼音では「fēng」、「浦」は「」である。]

 すると、或る日の事、浦(プー)が天子へ貴い品を獻上した。それは閃めき燃えた黃鐡礦碩の實質を擬ねた[やぶちゃん注:「まねた」。]花瓶であつた――變色蜥蜴が燦爛たる花瓶の面にのたくり打つてゐた。しかも磁器の蜥蜴は看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]が位置を變へる度每に色を變へた。天子は作品の壯麗に驚き、その職工のことを卿相官吏どもに尋ねた。彼等がそれは浦といふ無雙の陶工で、神か又は惡魔の靈感によつて知つたらしい祕訣を有することを答へた。そこで天子は立派な財物を待たせて官吏を彼の許へ遣はし、彼を御前へ召しよせた。

 賤しい職人は皇帝の前へ出でた。して、最敬禮――三たび跪いて、それから額を三たび、九囘づつ地に觸れて――を行つてから、勅命を待つた。

 すると、皇帝は彼にいつた。『朕は汝の獻品を見て非常に愉快を覺えた。して、その美しい器物に對し、汝に酬ゆるに銀五千兩を以てした。しかし汝もし朕の命ずるま〻のものを完成して吳れるならば、その三倍の報酬を與へよう。よく聽け、汝、無双の陶匠! 今や晚は、汝が生ける肉のやうな色澤風趣を有つ花瓶を作ることを欲する。但し――よく朕の希望を注意するがよい!――その肉は詩人の發する言葉に應じて匍匐し、觀念によつて動く肉、思想によつて戰慄する肉なのだ。この命に服從して、違背するな。朕は既に命令したのだ』

[やぶちゃん注:前段で「無雙」の表記がここでは「無双」となっているのはママ。因みに最終段落の「無双」もママ。]

 

 

 さて、浦は顏料を混ぜ合はせる職工の中で、花瓶の裝飾圖案家の中で、釉藥の上に彩色畫を描く職工の中で、色を光らす職工の中で、窯火を監視する職工の中で、要するに一切の陶工の中で、巧妙熟練を極めた人であつた。しかし彼は銀五千兩の恩賜を受けたにも拘らず、王宮から悲しみを懷いて去つて行つた。彼は獨りで考へた。『たしかに肉の美はしさの祕訣と、また肉が動く祕訣は、太上道の幽玄である。どうして人間が死せる粘土に知覺的生命の趣を附與し得られよう? 無限絕對者でなくて、誰が靈を與へることができよう?』

 さて、浦は製陶家の祕術たる色彩の巧妙と優雅の極致を發見してゐた。彼は薔薇の魔法的光耀や、心地よい紅色や、山綠と稱する綠色や、柔かな淡黃色や、燃えるやうな黃金色の美などの祕訣を見出してゐた。彼は鰻の色や、蛇の綠色や、菫の靑紫色や、熔爐の深紅色や、西洋の琺瑯細工師が永く求めて成功し得なかつた、酒精の炎の如く微妙で捕捉し難い洋紅色と藤色を發見してゐた。しかし彼はその指定ざされた仕事に對して戰慄した。彼の陶房の勞作[やぶちゃん注:「ろうさく」。労働。作業。]に歸つて行つたときに、彼はいつた。『どうして貧弱な人間の力で、觀念につれて肉が震動するのや、思想が不可思議に戰慄するのを粘土に現はすことができよう? かの永遠の太模型師たる神の魔力を人間で眞似ができる? 私が模型車[やぶちゃん注:轆轤(ろくろ)。]の上で一個の甕を圓めるよりも、百萬の太陽を作る方が、神の大能力に取つては更に容易なのだ』

[やぶちゃん注:「洋紅色」“carminates”。深く鮮やかな紅赤色。カーマイン。この色(リンク先はサイト「伝統色のいろは」)。]

 

 

 しかし天子の命令は決して違背することはできなかつた。して、堅忍不拔の陶工は天子の希望を實現せんがために全力を發揮して努めた。が、幾日、幾週、幾月、幾季節の間、奮鬪しても徒勞であつた。また神々の助けを祈つても無効であつた。窯の靈に願ひ求めても駄目であつた。彼は叫んだ。『汝、火の精よ、私の願を聽き、私を助けてくれ。如何にせば、私が――粘土に生ける精神を吹き込むことのできぬ無力の私が――一聲の言下に躍り上がり、思想の一動一搖に感じ立つ肉の趣を、この無生物に活現し得られよう?』

 窯の精は、火の囁きを以て、奇異な答を彼に與へたのであつた。『汝の信仰は偉大で、汝の祈禱は凄い! 思想には人間がその過ぎ行く痕跡を認め得るやうな足があるか? 汝は私のために一陣の疾風を測量することができるか?』

 

 

 けれども、確固たる目的を以て、四十九囘までも浦は勅命を完成しようと試みた。惜しいかな、彼は空しく原料を浪費するばかりであつた。彼の力と彼の知職を蕩盡しても、成功は彼に笑顏を注がなかつた。して、災禍は彼の家を訪ね、貧窮は彼の室に坐し、悲慘は彼の竈に慄へた。

 時としては、試驗の際に、火に燒いてから、色彩が奇異に變つたり、或は灰臼に褪めたり、或は森林の黴[やぶちゃん注:「かび」。]の模糊たる色に煤けたりすることがあつた。すると、浦はかやうな災難を見て、窯の精に哀禱泣訴した。『汝、窯火の精よ、汝の助けがなくては、どうして私は光澤ある肉の趣と、生ける色の溫たい光を作り出せるだらう?』

 すると、窯の精は火の囁きを以て、神祕的に彼に答へた。『汝は天穹を美しくした無限の釉藥工の技術を學ぶことができるか?――彼の刷毛は光線である。彼の顏料は夕べの色彩である』

 また時としては、色彩が變はらないで、刺點を施し、丹精を注いで作つた表面が、熱の中で活きてきて、生ける皮膚の潑溂さを帶びさうになつてから――いよいよ最後に達してから、職工達のあらゆる骨折が徒爾[やぶちゃん注:「とじ」。無駄。]に歸することもあつた。何故なら、輕佻浮薄の物質は彼等の努力に叛逆して、ただ凋れた果實の皮の上にあるやうな怪奇な皺を生じ、または荒荒しく羽毛を剝がれた死鳥の肌膚に見る如き粒狀を呈するのみであつたから。して、浦は涕泣して、窯の精に叫んだ。『汝、炎の精よ、汝が助けを與へて吳れないでは、どうして思想につれて肉が竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。慎み畏(かしこ)まること。恐れて身を縮めること。]する狀[やぶちゃん注:「かたち」。]を模作し得られようか?』

 すると、窯の精は、火の囁きを以て神祕的に彼に答へた。『汝は石に魂を與へ得るか? 汝は花崗岩の山の内部に思想を浸み渡らせることができるか?』

 時としては、實際すべての勞作が失敗に了はらぬ場合もあつた。色は立派と思はれ、また花瓶の實質は、龜裂も、皺も、縮れもなくて、全く無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]のやうに見えた。しかし溫かい皮膚のしなやかさが見受けられなかつた。色合こそ肉のやうな表面も、金屬の粗厲[やぶちゃん注:「それい」。荒く鋭い感じであろう。]なる樣子と、硬い光を示すのみで、感覺ある物質の柔かな果肉性を模擬しようとの慘澹たる苦心は、何等の痕跡をも留むる事なく、窯火の息吹に一蹴されて了つた。浦は絕望の餘、窯の精に叫んだ。『汝、無慈悲の神よ、私は幾多の犧牲を捧げて汝を崇拜してゐるのに、私を棄てて顧みないのは、何の過失、何の罪のためであるか? 哀れなる私は、汝の救ひがなくては、どうして言葉につれて匍匐し、思想の擽る[やぶちゃん注:「くすぐる」。]ま〻に竦動する肉の趣を作り得ようぞ』

 すると、窯の精は火の轟きを以て彼に答ヘた。『汝は靈魂を分かつ事ができるか? 否! ……汝の作品の生命のためには汝の生命!――汝の花瓶の靈魂のためには汝の靈魂!』

 この言葉を聽くと、浦は胸に漲る怖ろしい決心を以て蹶起した。して、いよいよ最後の第五十囘目の試みとして、窯に入れる作品の準備にかかつた。

 百囘彼は粘土と硅岩、高陵と石胎を淘汰し、百度それを淸潔な水で淸めた。百囘位は倦むことなき手で、乳狀可粘物を捏ねて、最後に彼のみ知つてゐる顏料をそれに混じた。それから花瓶の恰好を作つては、また作り直して、遂にその柔和さは生きてゐるに見え、戰慄し、鼓動するやうに見えてきた。しかもそれは内部からの活力に發し、表皮の裏面に波立つ圓やたな肉から出でるかと思はれた。實際、生命の光澤がその面に浮たび、また量奧の實質中に滲透してゐて、血液の生々と輝いた組織のやうな紅色と、血管の網狀をなせる紫色を彷彿せしめ、全體の上には日光色に光つて、つやつやしい釉藥を着せて、女の磨き上げた肌を欺いてゐた。世界開闢以來、人間の技倆で、これに匹敵すべき作品は、未だ甞て作られたことがなかつた。

 それから、浦は手傳ひの人々に tcha の材木で盛に窯火を燃やしつづけさせた。が、誰にも彼の決心を告げなかつた。しかし窯が赫々と輝き始め、彼の作品が熱火の中に咲き出でて紅潮を呈するを見てから、彼は炎の精の前に身を屈めて呟いた。『汝、火の精、火の主よ、私には汝の言葉の眞理がわかつた。靈魂は決して分けることはできない。だから、私の作品の生命のために私の生命! 私の花瓶の靈魂のために私の靈魂!』

[やぶちゃん注:「tcha」平井氏は『松薪』と訳しておられる。但し、現在の松の拼音は「sōng」である。ハーンの綴りのもとは不明である。どうも私に何か別の種の木のように思われてならない。]

 

 

 そこで、九日と八夜の間、窯は絕え間なく tcha の薪を供給され、また九日と八夜の間、職工述は驚くべき花瓶が炎の息吹によつて薔薇の如く輝いて、晶化するのを監視した。第九夜になつてから、浦は仕事も殆ど出來上つて、成功は確證されたからといつて、すべて疲れた連中を寢に就かせた。『もし夜が明けてから私がこ〻にゐなくても、花瓶を窯爐から取り出すことを恐れるな。勅命通りに、仕事は完成されてゐると思ふから』と彼はいつた。職人達は歸つて行つた。

 しかしその第九夜に、浦は炎の中へ入つて、彼の身命を窯の精に獻げた――彼の生命を彼の作品の生命とし、彼の靈魂を彼の花瓶の靈魂としたのであつた。

 して、十日目の朝、職工達が珍妙なる陶器を取り出すためにきた時、浦の骨さへも亡くなつてゐた。しかし不思議! 花瓶は生きてゐた。言葉につれて動き、思想の擽るま〻に匍匐する肉のやうであつた。して、指で軽打する每に、聲と名を發した。その作者の聲、その作者の名――浦。

[やぶちゃん注:この後のみ、二行でなく、一行空け。]

 

 かくて、天子はこの話を聞き、また驚異すべき花瓶を見てから、側近の者どもにいつた。『いかにも、信仰の力、服從の力によつて、奇蹟が演ぜられた! しかしかやうな殘酷な犧牲の行はれることを、朕は決して欲したのではなかつた。朕はこの無双の技術家の力は、神々から來たものか、惡魔から出でたものか――天からか、地獄からか――を知らうと欲したのみであつた。今や實際浦は神々の中に位を占めたのだ』して、天子は痛く彼の忠實なる臣のために悲しんだ。しかし彼はこの驚くべき藝術家の靈に對して、神のやうな尊敬を拂ふべきこと、彼の名は永遠に崇めらるべきこと、それから、中華國のすべての都會と、すべての陶房に、彼の立派な像を設けて、幾多の職工は常に彼の名を呼び、彼等の勞作の上に彼の祝福を求むるやうにすべきことを命じた。

 

大 清 國

 

[やぶちゃん注:「清」はママ。]

 


175

 

【ハーンによる「解說」】

 『窯神譚』――始めて支那の製陶術の祕訣を歐洲へ偉傳へた宣敎師ダントルコル氏は、百六十年前に書いた――

 『支那の帝王は彼等の存命中は、最も恐ろしい神のやうなものである。して、彼等は何ものも彼等の希望を妨げ得ないものと信じてゐる…… 
 甞て或る皇帝が一つの見本通りの陶器を作るやうにと嚴命した。その製作は全然不可能であるといふ答を得たので、彼の願望は却つてますます募つてきた……半神の如き皇帝の命を受けて、その事業の監督と促進に當つた官吏は、職工輩を遇するに粗暴を極めた。可愛相にも職工達は、その資力を盡蕩し、非常なる骨折を拂つて、しかも報酬としてただ打擲[やぶちゃん注:「ちやうちやく(ちょうちゃく)」。]を受けるのみであつた。一人の職工は絕望窮策の餘、烈火の中へ跳び込んで、直ち燼となつた。しかし恰もその際窯中で燒いてゐた陶器は、完全に美麗なる結果を呈し、皇帝の嘉賞を博したとのことである……それから、かの不幸なる最期を遂げた陶工は、英雄として仰がれ、彼の像は製陶守護の神として祀られた』

 ダントルコル氏は安樂の神 Pou’t’ai の像を、眞正の竈神の像と間違へたらしい。それはヂヤツクマール氏及び他の諸氏が指摘してゐる通りだ。しかしこの誤謬はその神話の美を壞はすものではない。またダントルコル氏は景德鎭に於ける支那人の友が、彼に話したままを寫したものと思はれる。この他の諸點に關して、この天主敎宣敎師の記事の信憑するに足ることは、スタニスラス・ヂユリアン氏並びに他の諸大家の硏究が、ただますます保證して行つたばかりである。ヂユリアン氏並びにサルヴエター氏の兩大家は、その天晴れ立派なる佛譯の『景德鎭陶錄』(この書は私がこの小話を書くに當つて、非常に役に立つた)の中に、ダントルコル氏の書簡から長いことを引照し、また眞摯なる硏究家として最上の賞讃を彼に捧げてゐる。私の知り得た限りでは、この神話については、彼が唯一の典據となつてゐる。また他の事柄に關して彼が確言したことが、歲月の精嚴なる取捨によく堪へてゐのるのは驚くばかりである。して、長髮賊の亂が景德鎭を亡ぼし、その貴い工業を萎縮させてから以來、佛國宣敎師の文書と記事は、廣くその價値を認めらる〻に至つた。物語の主人公の名として、私は安樂の紳と區別するため、ただ添附字を省いて、單に浦(プー)といふ名を用ひた。

[やぶちゃん注:「ダントルコル」フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し(一六九八年到着)、江西省で最初に布教活動を行った後、一七〇六年から一七一九年にかけては中国フランス系イエズス会総督となり、その後、北京のフランス居留地長官を務め、北京で没した。一方で特に中国の陶磁器の研究を行ったことでも知られる。

「安樂の神 Pou’t’ai」本文で注した通り、「布袋(ほてい)」のこと。

「サルヴエター」先に示した“Histoire et fabrication de la Porcelaine chinoise”をスタニスラス・ジュリアンと共訳した、フランス人化学者で磁器研究をしていたアルフォンソ=ルイス・サルヴェータ(Alphonse-Louis Salvetat 一八二〇年~一八八二年)である。]

2020/02/04

ブログ1320000アクセス突破記念 ラフカディオ・ハーン 茶樹の縁起 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tradition of the Tea-Plant”)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第五話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」「?」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「沙門品」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   * 

SANG A CHINESE HEART FOURTEEN HUNDRED YEARS AGO : — 

   There is Somebody of whom I am thinking.

   Far away there is Somebody of whom I am thinking.

   A hundred leagues of mountains lie between us ; —

   Yet the same Moon shines upon us, and the passing Wind breathes upon us both. 

   *

無力乍ら、訳すと、

   * 

一千百年の昔に中国人の心を詠んだ歌――

    私が想っている誰かが、いる。

    遠くに私の想っている誰かが、いる。

    私たちの間には百もの山々が横たわっている――

    それでも、同じ月の光が私たちを照らし、同じ風の息が私たち双方を、吹き抜けてゆくのだ。 

   *

機械計算すると、本書刊行時から千百年前は四八〇年で南北朝時代の北魏と南斉に相当する。この時代より少しだけ前なら、二人の大詩人がいる。陶淵明(三六五年~四二七年)と謝霊運(れいうん 三八五年~四三三年)である。しかし、二人以外でも、今のところ、この英訳でピンとくる詩篇は浮かばない。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが百三十二万アクセスを突破した記念として公開する。【202024日 藪野直史】]

 

   茶樹の緣起

 

   『目の慾を節制するは善、

    耳の慾を節制するは善、

    鼻孔の慾を節制するは善、

    舌の慾を節制するは善、

    體の慾を節制するは善、

    言語の慾を節制するは善、

    すべての…………は善』

[やぶちゃん注:所謂「六根清浄」である。「六根」は目・耳・鼻・舌・身・意(心的作用のこと)の各感覚器官の機序によって生ずる欲望や執着、即ち「迷い」を指し、それを断ち切って、穢れのない清い心身になること。これは恐らくは「法句経(ほっくきょう)」の「沙門品(しゃもんほん)第二十五」からであろう。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と称し、仏典の一つで、様々なテクストから仏陀の真理の言葉だけを取り出し、短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典である。語義は「ダンマ」(「真理(法)」)+「パダ」(「言葉」)。編纂者は古代インドの僧であった法救(Dharmatrāta)と考えられており、パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つで、現存経典の内、最古の経典とされる。但し、かなり古いテクストであるものの、釈迦の時代からはかなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(以上の「法句経」についてはウィキの「法句経」に拠った)。以下に、ウィキソースの「國譯法句經」から第三百六十節と第三百六十一節を引いてみる(読みは一部に留めて、少し操作を加えた。以下同じ)。

   *

眼を以つて自(みづか)ら攝(せつ)するは善(よ)く、耳を以つて自ら攝するは善し、鼻によりて攝するは善く、舌の上に自ら攝するは善し。

身に於いて攝するは善く、語(ことば)に於いて攝するは善し、意を以つて攝するは善く、一切處(いつさいしよ)に攝するは善し。一切處に攝する所ある比丘は諸(もろもろ)の苦痛より脫(のが)る。

   *

なお、最後に示すハーンの解説から、彼はフェルナン・フゥー(Fernand Hû 生没年未詳)によるフランス語訳をもとにしている。英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)があり、この冒頭部がそれに相当する。]

 

 またしても誘惑の兀鷹[やぶちゃん注:「はげたか」。]は、彼の冥想の最高空まで翔け上がつてきて、彼の靈魂を下へ、下へと曳きむろし、よろめきつ〻、胸騷ぎしつ〻、迷妄幻覺の浮世へ歸つて行かせた。またしても思ひ出は、有毒な花の香りのやうに、彼の心をふらふらさせた。しかし彼は支那へ行く逍中、カシ市註十二を返る際、ただ瞬間かの巫女を見たのであつた。廣大なる支那の人々は佛法を渴望する事、恰も日に焦げた野原が慈雨を慕ふ如くであつた。彼女が彼を呼び止めて、彼の托鉢の中へ少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の布施を落としてくれた時、實際彼は扇子を彼の面前に揚げて眼を蔽つたのであつたが、したも充分敏速ではなかつた。して、其罪過の罰は千里の距離にも、彼につき纏ひつ〻、世界大敎主の言葉を傳へんとしてきた異國にまでも、彼の跡を追つかけたのであつた。呪はれたる美! たしかに正しき者を滅ぼすため、誘惑者中の最大誘惑者なる、惡魔(マラ)自身が作つたものに相違ない。賢くも薄伽婆(バガヴアツト)はその弟子を戒めてゐる。『爾曹[やぶちゃん注:「じさう(じそう)」対等或いはそれ以下の二人称複数形。汝ら。お前たち。]禁慾者註十三、女は觀るべきものに非らず。爾曹若し女に逢ふことあらば、爾曹眼を注ぐ事なく、貴き決心を把持して、語を交ふること勿れ。また須らく心中に微唱して云ふべし。「我は禁慾者なり。濁世[やぶちゃん注:「ぢよくせ(じょくせ)」。]の汚染を免る〻こと、蓮花の溝溜に開くと雖も猶ほその葉を

 

註十二 カシ市――聖都ビナーリズの古名。神々の創設に係かるものと信ぜられてゐる。また「世界の蓮華」とも呼ばれてゐる。パース氏は「古代並びに近代印度に於ける一切宗派のゼルーサレム」と稱した。今猶ほ二千の寺刹、五十萬の偶像を有する。セリングス氏著「印度の聖都」參照。

註十三 禁慾者 Çramana ――一切諸感覺を克服した人。この名目の興味ある歷史については、佛國[やぶちゃん注:フランス。]學者ブールヌーフ氏著「印度佛敎史序說」參照。

[やぶちゃん注:「カシ市」「聖都ビナーリズ」原文“Kasí”、注原文は“Kasí (or Varanasi).—Ancient name of Benares, the "Sacred City”。古代インドの王国波羅奈国(はならこく:サンスクリット語「ワーラーナシ」の漢音写。別名を「カーシー国」)。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のインド北部のワーラーナシ(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方をいう。釈尊が成道(じょうどう)後、この国の鹿野苑(サールナート) で初めて五人の比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「惡魔(マラ)」“Mara”。釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神。ヒンドゥー教の愛の神カーマと結び付けられ、別名「カーマ」又は「カーママーラ」として一体で概念されることがある。

「薄伽婆(バガヴアツト)」“Bhagavat”。サンスクリットでヒンドゥー教の「神」の意。ヒンドゥー教聖典の一つ「バガヴァッド・ギーター」(「ギーター」は「詩」の意)がよく知られる。]

 

汚さざるが如くせざるべたらず』それから、また新たに恐ろしい意味を以て、彼の記憶に浮かんだのは、訓誡第二十三条であつた――

 『一切煩惱の中、最も强きは形姿の煩惱なり。幸にしてこの慾情は無比なり。若し他にか〻るものあらんか、正道に入ること能はざらん』

[やぶちゃん注:重訳であるために、齟齬があるが、これは恐らく後漢の頃、インド僧迦葉摩騰(かしょうまとう)と後漢の訳経僧で中国に仏教を伝えた最初の僧とされる竺法蘭(じくほうらん)が訳した仏教最初の漢訳経典とされる「四十二章経(しじゅうにしょうぎょう)」が元かと思われる。ウィキの「四十二章経」によれば、『本経の序文に、明帝が大月氏に使者を派遣して写経させたとする記述があるほか、後漢桓帝の延熹』九(一六六)年の『襄楷の上奏文中に本経との類似が見られ、後漢末から三国時代』『には成立していたものと推定させられるが、伝世の経の内容は、南朝の南斉から梁にかけて成立したとされる』。『但し、仏教伝来当初の、後世のような訳場列位に見られるような仏典漢訳システムが全く確立していなかった状況を考えると、後漢当時の漢訳仏典は、後世の首尾一貫した経典とは異なり、外来の僧徒によって説かれた内容が、中国人の奉仏者たちによって箇条書きの形式で記録され、現在見られる『四十二章経』のような形式で伝存していたものということは、十分考えられる』とあるものである。但し、以上の内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「仏説四十二章経」(梶宝順和訳明治二四(一八九一)年刊)を見るに、「第二十三条」ではなく、次の「第二十四章」の内容である

「これのみが特異点で特に強烈な煩悩である。幸いにしてこの欲情はそれに比肩する煩悩が存在しない。もし他に同等のレベルの煩悩があったとしたなら、人は正道に入ることは到底、不可能であろう」の意。]

 實際、このやうに形姿の迷ひに惱まされてゐながら、どうして彼は一夜と一日を天晴れ不斷の冥想に過ごすといふ誓願を完うし得るだらうか。既に夜は始まらんとす! 屹度、靈魂の病、精神の昂奮には祈りの外に療法はない。夕陽は迅速に消えつ〻あつた。彼は祈らうと努力した――

 『南無蓮華寶玉!

 『龜がその甲の中へ四肢を引込める如く、祝福されたる佛よ、願はくは一切私の感覺を全然冥想の中へ撤退させ玉はんことを。

 『南無蓮華寶玉!

 『長く人住まざる家の壞れ屋根に、降雨の侵入する如く、冥想の住まざる靈魂へは、情慾侵入し來たらん。

 『南無蓮華寶玉!

 『一切の粘泥は沈澱しで靜止せる水の如くに、敎主よ、わが靈を純潔ならしめ玉へ。野鳥が太陽の通路を追はんがため沼澤から立ち上がる如くに、敎主よ、われに濁世の上に立ちあがる强き力を與へ玉へ。

 『南無蓮華寶玉!

 『晝は日輝き、夜は月輝く。武士は武具を着けて輝き、禁慾者はまた冥想の中に輝く。さはれ、佛陀は晝も夜も絕え間なく世界を照らして、常住不變に燦然と輝く。

 『南無蓮華寶玉!

 『願はくはわれをして、大覺者よ、この世の森の猿となつて、愚痴の果實の追求捕捉のため永久に輾轉[やぶちゃん注:「てんてん」。巡り移ること。]上下することを止めしめ玉へ。一切を纏繞[やぶちゃん注:「てんぜう(てんじょう)」。纏(まと)いつくこと。絡まりつくこと。]する煩惱の植物は、その生長すること蛇の絡む如く速かに、林中に攀援莖[やぶちゃん注:「つたかづら」と当て訓しておく。]の伸び行く如く廣大なり。

 『南無蓮華寶玉!

 悲しいかな、彼の祈願懇禱は無効であつた、貴い經文の神祕な意味――蓮華の意味、寶玉の意味――は文句から既に發散してしまつてゐた。して、その文句の單調空疎なる吐露は、今や彼を誘惑し懊惱[やぶちゃん注:「あうなう(おうのう)」。悩み悶えること。]せしめた思ひ出を、更にますます危險にも明白ならしむるに過ぎなかた。あはれ、かの女の耳を飾つてゐた寶玉! いかなる蓮華の蕾も、肉を折り重ねた花に、滴るばかりの金剛石の火をつけたる優美にまさることは出來ない! 再び彼にはそれが見えた。またその先きには、褐色の美果の如くに甘味津々たる頰の曲線が見えた。訓誡第二百八十四節は眞理を穿つてゐる――

 『女の方へ心を曳かる〻慾情の蔓は、その量微量小根と雖も、これを心裡より拔き捨てざる限り、その心は則ち束縛の中にあるべし』

[やぶちゃん注:これも訳には一致しない部分が多いものの、恐らくはやはり「法句経」からかと思われる。ウィキソースの「國譯法句經」の二百八十四節は、『男子(なんし)の女子(によし)に對する煩惱、些しにても斷たれざる所あらば、彼(かれ)の心は尙ほ囚はる、乳(にう)を貪る犢(こうし)の母牛(ぼぎう)に於けるが如くに』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 それから、束縛に關して、同書第三百四十五節がまた彼の念頭を衝いた――

 『繩の束縛には何等の力あることなし。また木の桎梏にも、乃至鐡の桎梏にも力あることなし。これよりも更に一層强力なるは、寶玉を飾れる、女の耳環を懸想するととなり』

[やぶちゃん注:同じく「法句経」の「國譯法句經」の三百四十五節は『鐵や、木や、又は草にて作(な)れるものは、賢者(けいしや)は之れを牢(かた)き縛(ばく)と稱せず、珠環(しゆくわん)と、妻子との欲は貪著(とんぢやく)する所ところ强し』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 『全知の喬答摩(ゴータマ)!』と彼は叫んだ。「全見の敎主! 汝の敎訓の慰藉のいかに多方面に亙つてゐること! 流石に人情に對する理解の驚くべきこと! これは矢張り汝の受け玉ひし誘惑の一つであつたのか――かの大地は戰車の如く搖れ、太陽より太陽へ、世界より世界へ、宇宙より宇宙へ、永遠より永遠へと、神聖なる振動が傳つた夜、惡魔によつて汝の面前に配置された無數の迷妄の一つであつたのか』

[やぶちゃん注:「喬答摩(ゴータマ)」“Gotama” 釈迦の姓名。サンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(現代のラテン文字表記:Gautama Śiddhārtha)、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ(同前:Gotama Siddhattha)、漢訳では「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」であるが、姓は漢訳ではこの「喬答摩」(けうたふみ(きょうとうみ))もある。]

 あはれ、かの女の耳の寶玉! 其幻影は去らなかつた。否、それが彼の心眼の前に徘徊する度每に、それは一層溫かい生氣を帶び、一層懷かしさうな眼眸[やぶちゃん注:「まなざし」と当て訓しておく。]を示し、一層美しい姿を呈して、彼の力が弱くなつてくるにつれて、ますます强くなるやうに見えた。彼は鹿のそれのやうな、大きな、淸く澄んだ、柔かくて黑い眼を見た。黑い頭髮の中の眞珠と、石竹色の口に含んだ眞珠、花の如き接吻に渦卷く脣を見た。それから甘美で異樣な、催眠的の薰り――若い香、女の香――が、彼の感覺に浮かんでくるやうに思はれた。立ち上がつて、斷乎たる決心を以て、再び彼は貴い呪文を唱へ、また『無常の章』の物語を誦した――

 『天を眺め地を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「天地は永久なる能はず」と。山を眺め川を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「山川は永久なる能はず」と。外物の形容とその生長を見ては、爾曹須らく言ふべし。「これ永久なる能はず」と』

[やぶちゃん注:「石竹色」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の代表的な花の色のような淡紅色。ピンクにほぼ同じ。原文も“pink”である。

「眞珠」皓歯の換喩。

「無常の章」原文“Chapter of Impermanency”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『無常品(ほん)』とある。「発句経」の「北伝」には「無常品第一」があるが、その中の「所行非常。謂興衰法。夫生輒死。此滅爲樂」(所行は非常なり。謂はく、興衰の法なり。夫れ生ずれば輒(すなは)ち死ぶ。此れ、滅するを樂と爲す。:「涅槃経」の偈「諸行無常。是生滅法。生滅滅已、寂滅爲樂」の「諸行無常偈」がよく知られる)の意訳か。「無常品」は他の経典にもあるが、ここに書かれた内容と一致するものは見出せなかった。]

 しかし、またいかに甘美なる幻影迷妄だらう! 壯大なる太陽の幻迷、影を投ずる山々の幻迷、無定形にして、したも多樣を極むる水の幻迷、それから、またかの幻迷――否、否、何といふ不敬虔なる空想! 忌まはしい女! しかし、それでも何故に彼はたの女を詛ふ[やぶちゃん注:「のろふ」、]べきだらうか。かの女は嘗て一囘たりとも禁慾者の呪詛に値することをしただらうか。それは決してなかつた。ただかの女の姿、かの女の思ひ出、かの女の美しい幻影、それが忌まはしい幻影なのだ。かの女は何でもない。迷妄が愚弄、夢と影、虛榮、懊惱など、さまざまの迷妄を生むのだ。過失と罪は彼自身に、彼の敎に對する反抗的精神に、彼の制御されざる思ひ出に存する。心は水の如く動き易く、蒸氣の如く觸れ難いけれども、しかも意志によつては馴致され、叡智の戰車に繫ぐことが出來る。また幸福を得るためには、是非ともさうせねばならぬ。そこで彼は經文の難有い語句を誦した――

 『一切の諸相はただ假相のみ』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。これは淸淨の道である。

 『一切の諸相には實在性あること莫し』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。この道こそは……

 

 

 かの女の姿もまた實在でなく、眞實でなく、ただ迷妄だらうか。ただし迷妄の中では最も美しいものだ。かの女は彼に施濟[やぶちゃん注:「ほどこし」と当て訓しておく。]を與へた! 施與者の功德もまた迷妄であつたか――その功德は施與者のたをやかな指の美の如くに迷妄であつたか。たしかに阿毘達磨註十四には透徹

 

註十四 阿毘達磨(アビダルマ)――佛敎の哲學。佛敎の哲學は三大門に分たれ、その最高のものが阿毘達磨である。スペンス・ハーデー氏「佛敎提要」によれば、これは佛陀にして始めて悟得される。――(阿毘達磨は論の四つの一に屬し、對法又は無比法と譯せらる。――譯者)

[やぶちゃん注:「阿毘達磨(アビダルマ)」原文は“Book of the Way of the Law”。サンスクリット語ラテン文字転写は「Abhidharma」、漢音写は別に「阿毘曇(あびどん)」「毘曇(びどん)」もある。仏教の教説の思想体系(広義には研究及びそれらの解説書・注釈書を含む)を指す。他に「大法」或いは単に「論」とも漢訳する。

「三大門」仏の説いた「経」・仏の定めた「律」・教義を検討した「論」。

「スペンス・ハーデー」イギリスの仏教学者ロバート・スペンス・ハーディ(Robert Spence Hardy 一八〇三年~一八六八年)「佛敎提要」(Manual of Buddhism)は一八六〇年刊。

「論の四つ」六足論・婆沙論・倶舎論・順正理論か。]

 

了解し得られぬ神祕がある!……かの女が施してくれたのは、象の形の印せる金貨であつた――實際、佛陀に捧げた諸王の贈物が迷妄でなはつたと同樣だ。胸にも金を帯びてゐたが、かの女の皮膚の金色こそ更に一層美したつた。絹の帶と、狹い胸甲[やぶちゃん注:“breast-corslet”。胸当て。]の間に露はれた彼の女の若い腰は、つやつやしく、また弓の如くしなやかであつた。彼の女の聲に含める銀音が、彼の女の踝[やぶちゃん注:「くるぶし」。]に帶ぴた月の如きパガルの銀飾よりも豐艷な音を發したし、何よりもかも女の微笑!――小さな齒は、かの女の口の芳ばしき花[やぶちゃん注:隠喩。]の中に並らべる蕊[やぶちゃん注:「しべ」。]であつた。

 

註十五 パガル――印度婦人が平常着けてゐる環である。中空で、數個の金屬片が入つてゐるから、足を動かすとき響く。

[やぶちゃん注:“pagals”。インド製品の販売サイトの「インドにおけるバングルの存在」の「バングル」というのがそれらしい。但し、現行のそれは腕輪である。しかも、幾つも着けるもののようである。]

 

 何といふ意志の薄弱! 何といふ恥辱! 『決心』の强い御者が、よくもかほどに奔放不羈[やぶちゃん注:「ふき」束縛されないこと。]なる空想の群に對して支配力を失つたこと! かくまで意志が弛緩したのは、襲ひ來たらんとする危險、睡眠に陷らんとする危險の徴候だらうか。是等の空想は不思議にも鮮かで、燦然と輝くばかり明白なので、今にも、今にもありありと具體的形態を帶び、不自然な活動を始め、夢の舞臺の上に邪惡な劇を演じさうに見えた。『願はくば汝全覺者』と彼は聲高く叫んだ。『汝の微賤なる弟子を助けて、正悟の覺醒を得しめ玉へ。彼をしてその誓願を成就する力を發見せしめ玉へ。惡魔をして彼に勝つことを得ざらしめ玉へ』かくて彼は醍覺の章の永遠的章句を誦した――

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を法に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を僧に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を佛に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は全き平和の味を知つてゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は冥想の深き平安を味つてゐる』

[やぶちゃん注:「醍覺の章の永遠的章句」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『広衍品(こうえんほん)』とある。これは「法句経」の「広衍品第二十一」であろう。ウィキソースの「國譯法句經」(対句になっている二百九十六節以下を引く)では(一部の漢字を正字化した)、

   *

瞿曇(くどん)の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は佛(ぶつ)にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は法にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は僧にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に身念に住して。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に不害(ふがい)を樂しみて。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に修習(しゆじふ)を樂しみて。

   *

とあって、そこでは「瞿曇」に注し、『瞿曇又は喬答摩は釋迦族の姓なるが故に、釋尊を時には瞿曇佛と呼びたり』とある。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 

 彼の耳に呟きの聲が聞こえた。水の騷ぐ如き、多數の聲の呟きが彼の發聲を不明ならしめた。星は彼の眺めてゐる前で、消え失せて、限りなき空は暗くなつた。一切のものが、見えなく、黑くなつた。太い呟きは深くなつて、寄せくる潮の如き騷音となつた。また地は彼の足もとから沈んで行くやうに思はれた。彼の足は最早、地には觸れないで、一種の超自然的浮力が、彼の身體のあらゆる纎維に行き渡つた。彼は暗黑裡を浮いてゐるやうに感じた。それたら、柔かに、ゆるやかに沈んで行つて、羽の如くに寺の尖塔から墜ちた。これは死といふものだらうか? 否、何故なら、全く不意に、恰も第六不思議力によつて運ばれた如くに、彼は再び光明の中に立つたからである――或る印度の都會の驚くべき街頭に溶びせられた、水蒸氣のやうで、美しい、香ばしい、眠げな光の中であつた。今は呟きの性質が彼に明白にわかつてきた。彼は大きな巡禮の群と一緖になつて動いてゐたのだ。しかしこの群集は彼と同じ信仰のものではなかつた。彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた! が、彼はその中から脫し得られなかつた。一哩[やぶちゃん注:「マイル」。千六百九メートル。]も幅のある人間の激流は、一枚の葉が恆河[やぶちゃん注:「こうが」、ガンジス川。]の水に流される如く、彼を運んで行つた。そこには行列を隨へた諸王、象に跨つた皇子達、法衣をつけた波羅門僧、それからカビツト註十六とダマーリ註十七を歌はうとして動いてゐる、逸樂的な舞妓の群がゐた。しかし彼等の行先は何處? 彼等は町を出でて、

 

註十六 カビツト――印度の崇敬讃歌の作者が好んで用ひる詩形。常に四句にて成立する。

註十七 ダマーリ――や〻淫蕩的性質を帶びたる一種特別の讃歌。普通印度の祭禮に當つて歌はれる。印度の俗謠と讃歌の簡單にして且つ面白き說明については。ガルサン・ド・タッシー氏著「印度民謠」參照。

[やぶちゃん注:「彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた」ヒンドゥー教で「ティラカ」「ティラク」(「印」の意)と呼ばれる宗教的な装飾。色や形で信仰する宗派を示す。装飾的な意味合いの強い、同教徒の、夫が存命中の女性が同じく額につける「ビンディー」(「点」の意)とは異なり、聖職者や修行者がつけることが多いが、一般人でもつけることが多い(ここはウィキの「ビンディー」に拠った)。

「カビツト」原文“kabit”。

「ダマーリ」damâri”。

「ガルサン・ド・タッシー」フランスの東洋学者ジョセフ・ヘリオドール・サジェス・ヴェルトゥ・ガルシン・デ・タッシー(Joseph Héliodore Sagesse Vertu Garcin de Tassy 一七九四年~一八七八年)。「印度民謠」(Chants populaires de l'Inde)は一八五四年刊。]

 

榕樹の並木通りを經て、棕櫚の聳立[やぶちゃん注:「しやうりつ(しょうりつ)」。]せる間を下つて、日光の照らせる野へと通つて行つた。しかし何處へ行く?

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。亜熱帯から熱帯地方に分布する常緑高木。]

 遠い靑靄[やぶちゃん注:「せいあい」。]の如く、彼等の前方に、山のやうな、堂々たる切石の建築が見えた――それは尖塔林立、高く沖天へ裝飾の金波を、散らせる寺院であつた。近づくに從つて形は大きくなり、靑の色合は灰色に変はり、輪郭は日光の中にくつきりと浮かんできた。それから細部が一つ一つ――岩の龜に載つた柱脚の象、柱頭の大きな獰猛なる顏、彫刻帶の中に絡まつてゐる龍蛇の怪物、格子細工を施せる壁龕相列つて𢌞廊をなせる處に、層又層をなす多頭の玄武岩神像、汚らはしき、忌まはしき肉慾の神々の畫などが明かになつた。それから彫刻された神々と牧羊婦註十八が、狂氣じみ群をなし、四肢や胴體が抱き合つたり重なり合つたりして角錐狀の塊團となつて突出せる下に、彫刻の懸崖面に口を開ける寺門――恰も大自在天(シバ)[やぶちゃん注:四文字へのルビ。]の口の如く暗い洞穴のやうな――は、生ける行列の群集を呑み込んだ。

 

註十八 牧羊歸――牧夫の娛や妻。詑哩史那(クリシユナ)は、毘瑟摯(徧照天)[やぶちゃん注:丸括弧のそれは本文。]の第八番目の權化として現はれた後は、牧羊婦達の間で育てられた。詑哩史那が是等の牧羊婦(ゴトビア)との情事が、諸種の宥名なる神祕的著作の主題となつてゐる。イーストック氏其他の人々によつて譯せられた『愛の海(プレム・サガール)』、イツポリト・フオーシユ氏が佛國[やぶちゃん注:ここはフランス語の意。]の散文に譯したベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ作の肉感的な「ギータ・ゴピンダ」(エドウヰン・アーノルド氏は、その「印度歌集」に、これを純潔なる英詩に譯してゐる)などがそれだ。ブールターフ氏の未完譯「パガヴァタ・アルナ」、並びにテオドール・パヴイー氏の「詑哩史那とその敎理」參照。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この題材は、印度藝術中、數個の最も珍異なる作品に影響を與へてゐる。例へばムーア氏著「印度萬神廟』(一八六一年版)第六十五圖及び第六十六圖參照。詑哩史那と牧羊歸の崇拜に關聯する變愛的神祕については、バート氏著「印度の宗敎」に擧げられてる諸書、ド・タツシー氏著「印度民謠」、及びラメーラス氏著「南方印度俗謠」參照。

[やぶちゃん注:「大自在天(シバ)」原文“Siva”。シヴァ(サンスクリット語の現在のラテン文字転写:Śiva:「吉祥者」の意)はヒンドゥー教の神で、破壊と再生を司る。現代のヒンドゥー教ではブラフマー(宇宙の創造神。仏教に取り入れられて「梵天」となった)・ヴィシュヌ(ベーダ神話では太陽神であるが、後の叙事詩では破壊神シヴァと並んで最高神とされ、慈愛・恩寵を垂れ、生類救済のため十種の形をとって世に現れるとされる。仏陀さえもその化身の一つとする)とともに最も影響力を持つ三柱の主神の中の一柱。ヒンドゥー教の原型であるバラモン教では世界を創造し支配する最高神を「イーシュヴァラ」(Īśvara)と言ったが、これが「シヴァ」の別名となり、仏教で後にバラモンやヒンドゥーの神々が取り入れられた際、「イーシュヴァラ」や異名の「マヘーシュヴァラ」がそれぞれ「自在天」「大自在天」と漢訳され、異名は千以上あるとも言われる。仏教では、シヴァ神と同じく、三目八臂で白牛に乗り、外道(仏教以外)と同様の神像で表現されるが、一方、密教の曼荼羅などにあっては、諸尊の一神としても重要な位置を占め、曼荼羅では男女一対で表され、妃を烏摩妃(うまひ)という。また仏や菩薩の化身という解釈もなされている(以上はウィキの「シヴァ」「大自在天」を参考にした)。

「牧羊歸」原文“Gopia”。英語辞書等の「gopi」に、もとサンスクリット語でヒンドゥー教に於けるヴィシュヌ神学で言う「ゴーピ」で、プラーナ文献(Purana:プラーナム・アーキヤーナム。「古き物語」の意)に登場する、クリシュナ神(ヒンドゥー教神話の神。後にヴィシュヌ神と同一視され、その十大化身の一つともされた。多くの悪鬼を滅ぼし、世を救うための偉業を行ったとされ、多くの彫刻や絵画の題材となっている。原注の「詑哩史那(クリシユナ)」)に仕える牛飼いの乙女。クリシャナ神との関係により、友・召使い・使者の三種類に分類されるといったことが記されてある。

「毘瑟摯(徧照天)」原文“Vishnu”のみ。ヴィシュヌ神。前の前の注の太字部を参照。丸括弧は落合氏が附したものだが、これは「遍照天」であって仏教の天部の神ではなく、三界の内で色界十八天の下位から数えて第九番目、色界第三禅の第三番目の天を指す語であるから、かえってない方がよかろうと私は思う。

「イーストック」イギリスの東洋学者で外交官・保守党議員であったエドワード・バックハウス・イーストウィック(Edward Backhouse Eastwick 一八一四年~一八八三年)。「愛の海(プレム・サガール)」(原題は“The Prema-sâgara; or, Ocean of Love”。「Prema」はサンスクリット語で「神聖なる愛」、「sâgara」は数字の「4」)は一八二三年以前に刊行されており、イギリスの東洋学者にしてヒンドゥー語のスペシャリストであったフレデリック・ピンコット(Frederic Pincott  一八三六年~一八九六年)との共訳である。

「イツポリト・フオーシユ」フランスのインド学者で翻訳家であったイポリット・フォーシュ(Hippolyte Fauche 一七九七年~一八六九年)。

「ベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ」名の原文は“Jayadeva”。十二世紀のインドの詩人ジャヤデーヴァ。

「ギータ・ゴピンダ」ジャヤデーヴァが詠じたクリシュナと恋人の女性ラーダーとの愛を書いた叙事詩「ギータ・ゴーヴィンダ」。ヒンドゥー教のバクティ(「最高神への絶対的帰依」)を示す重要な文書とされる。正確な原題は“Le Gita-govinda et le Ritou-Sanhara”(「ギータ・ゴーヴィンダとリトゥ・サンハーラ」。後者は古代インドの詩人(五世紀か)カーリダーサの真作と見做されている六つの季節の変化を描いた抒情詩集)で、フォーシュが一八五〇年に刊行したフランス語初訳本である。

「エドウヰン・アーノルド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者で作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる人物。『小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次訳)』で詳しく注をしておいた。後に彼と小泉八雲が逢ったかどうかは微妙である。

「印度歌集」 “Indian Song of Songs”はアーノルドが一八七五年に刊行した「ギータ・ゴーヴィンダ」の翻訳。

「ブールターフ」フランスの東洋学者(インド学者・イラン学者)として、仏教とゾロアスター教を研究したウジェーヌ・ビュルヌフ(Eugène Burnouf  一八〇一年~一八五二年)。

「パガヴァタ・アルナ」原文は“Bhagavata Parana”。バーガヴァタ・プラーナ。書名は正確には“Le Bhâgavata purâa”(「クリシュナ神の物語」の意)ブルヌゥフが第一巻を一八四〇年に、第二巻を一八四四年に、第三巻は一八四七年に翻訳刊行した。未完に終わったが、残る第四巻と第五巻は没後にフランスのインド学者ウジェーヌ・ルイ・オーヴェット・ベノー(Eugène-Louis Hauvette-Besnault 一八二〇年~一八八八年)らによって翻訳されて完結した(因みに本ハーンの作品集は一八八七年年刊である)。

「テオドール・パヴイー」フランスの旅行家で作家・東洋学者であったテオドール・パヴィ(Théodore Pavie 一八一一年~一八九六年)。「詑哩史那とその敎理」"Krichna et sa doctrine"は一八五二年刊。

「ムーア」イギリス人で元東インド会社所属の軍人でインド学者のエドワード・ムーア(Edward Moor  一七七一年~一八四八年)

「印度萬神廟」"The Hindoo Pantheon"「一八六一年版」とあるのは初版は一八一〇年であるから。その「一八六一版」の「第六十五圖及び第六十六圖」が“Internet Archive”のこちらと、こちら見られる。

「バート」フランスの東洋学者オーギュスト・バース(Auguste Barth  一八三四年~一九一六年)。「印度の宗敎」(Les Religions de l'Inde)は一八七九年刊。

De Tassy's "Chants populaires de l'Inde"; and Lamairesse's "Poésies populaires du Sud de l'Inde."

「ド・タツシー氏著印度民謠」本篇で既出既注。

「ラメーラス」エンジニア(橋・道路・灌漑事業などについてインドで従事した)で翻訳家のピエール=ウージューヌ・ラメーラス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年)。「南方印度俗謠」 (Poésies populaires du Sud de l'Inde)は一八六七年刊。]

 

 群集の渦卷は彼を内部の廣い處へぐるぐる伴つて行つた。誰も彼の黃色の服を眼に留めるものはなかつた。また彼の存在を注意するものさへゐないやうであつた。高い大きな通廊が交錯して、奇異な彫刻を施せる無數の巨柱は、炬火[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。篝火。松明(たいまつ)。]の黃色な光の背後へ、見分け難い遠方までつづいた。凄いほど肉感的な畸形怪像が、香州靄裡にぬつと現はれた。遠くからは象や、鳥頭鳥翼人體人肢の鳥の形に見えた巨像が、近寄つてみると、趣が變はつて、其意匠の奥妙は、婦人の身體を組み合はせた處にあることが現はれてゐた。或る同一の神がすべての奇怪な譬喩を支配し、絕えず同一の神體又は魔像が彫刻家の手によつて繰返され、恰も獨りで增殖して行くやうに見えた。大きな柱はそのものが象徴、人物、淫蕩の狀を示し、それから、この崇拜の亂痴氣騷ぎの精神は、燭燈の拗れた[やぶちゃん注:「ねじれた」と読んでおく。]眞鍮に、酒杯の歪んだ黃金に、水槽の彫刻せる大理石に、あらゆる器物に活躍橫溢してゐた。

 どれほどの距離を進んできたのか、彼にはわからなかつた。その數限りなき柱の間を經て、その化石せる神々の群を越え、閃めく燈光の列に沿つて下つて行つた旅路こそ、隊商の旅行や、支那への巡禮よりも更に長いやうに思はれた。しかし不意に何と譯がわからなく、墓地のやうな靜寂が襲つてきた。生氣躍如たる大海の潮は、彼の周圍から引き退いて、地下の建物の深淵裡に呑噬[やぶちゃん注:「どんぜい」。「噬」は「かむ」の意。噛んで飲み込むこと。]されてしまつたやうに思はれた。彼は獨り或る見知らぬ土窖[やぶちゃん注:二字で「あなぐら」と当て訓しておく。]の中で、貝殼狀の淺い盤の前にゐるのを發見した。盤の中央には人間の高さよりも低い圓柱があつて、その滑かな球形の絕頂には、花環がまきつけてあつた。上には悉く同形で且つ棕櫚の油を注いだ澤山の燈臺が懸たつてゐた。其他には彫像もなく、祀つた神體も見えなかつた。數知れぬ種類の花が鋪床[やぶちゃん注:二字で「ゆか」と当て訓しておく。]の上に堆積されて、厚い柔かな絨氈の如く滿面を蔽つて、彼が踏む足の下から、その馥郁たる芳精香粹を吐いた。その感覺的で、醉はせるやうな、不淨な匂ひは、彼の腦膸へ透徹滲染した。抵抗し難き倦怠が彼の意志を征服し、彼の身體はがつくり花の上に崩折れた。

 囁きの如く輕やかな跫音が、鈍い踝環[やぶちゃん注:「かくわん(かかん)」と音読みするしかあるまい。]の鳴る音と共に、重げな靜けさの中を通じて[やぶちゃん注:ママ。「通つて」の方がいい。]近づいてきた。突然彼は頸のまはりに、女の腕の微溫な滑らかさが辷る[やぶちゃん注:「すべる」。]のを感じた。あの女、あの女だ! 彼の迷妄、彼の誘惑なのだ。しかし何といふ變形變貌だらう! 超自然的の美、不可思議の魅惑! 彼の頰に接觸した女の頰は、素馨の花瓣の如く纎柔で、彼を見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]双眸は、夜の如く深く、夏の如く美はしかつた。女の花脣[やぶちゃん注:「くわしん(かしん)」と音読みしておく。]はさ〻やいた――

 『あなたは心の盜人です。どんなにあなたを探がしたことでせう! どんなに骨折つて發見したこと! うまい味のものを私は持つてきました――脣と胸、果物と花。渴きをお感じなさる? 私の眼の泉からお飮みなさい。犧牲をお捧げになりたい? 私はあなたの祭壇です。御祈をしたい? 私はあなたの神です!』

 彼等の脣は觸れた。彼女の接吻は、彼の血液の細胞を炎に變化させたやうに思はれた。暫らくは迷妄が凱歌を奏した。惡魔が勝利を占めた!……激した決心の衝動と共に、夢みる人は夜中に目醒めた――支那の空の星の下に。

 

 

 ただ束の間の睡眠の眞似のやうなものであつたが、しかも誓ひを破り、神聖な目的に違背したのであつた! 屈辱と悔恨を感じながらも、斷乎たる決心を以て、禁慾者は彼の帶から鋭利なる小刀を拔き、潔くも兩方の眼瞼を斬り捨てた。彼は祈つた。『全覺の主よ! 汝の弟子はただ肉體が無力薄弱であつたために打負かされました。今や彼はその誓ひを新たにいたしました。食はず飮まずに、こ〻に誓願成就の時まで留まつてゐます』して、僧侶の姿勢――兩足を組んで坐つて、兩手の掌を上に向け、右掌は掌左の上に、左掌は仰向けた足の裏の上にのせて――を取つてから、彼は再び冥想を始めた。

 

 

 東雲紅色を呈し、日が明かるくなつた。太陽は地上のあらゆる影を短くして、またそれを長くし、それから遂に深紅に燃ゆる雲の彼の[やぶちゃん注:「かの」]火葬壇に沒した[やぶちゃん注:西の夕焼けと日没の隠喩。]。夜がきて、きらきらして、また去つた。しかし惡魔は彼に誘惑を演じても無効に了つた。今度は誓願成就、神聖なる目的は遂げられた。

 して、再び太陽は昇つて、光りの笑ひを以て世界を充たした。一切の花はその心を太陽に開いた。鳥は朝拜の火の讃歌を歌つた。深い森は愉悅に震へた。して、平野の上遠く、幾層階の寺院の軒頭と、市の塔の尖頂は、燦々たる輝きに浴し始めた。聖願滿足の念に勇んで、印度の巡禮者は朝暉の中に起き上がつた。彼は兩手を眼にもたげた時に愕然喫驚した[やぶちゃん注:「びつくりした」。]。何事ぞ! 一切は夢であつた? そんな事はない筈だ! が、彼の眼は今は少しの痛みをも感じない。また眼瞼も失つてもゐない。一本の睫毛さへも缺けてゐない。何といふ奇蹟! 彼は斬り捨てて地上に投げた眼瞼を搜索して見たが、駄目であつた。それは不思議にも無くなつてゐた。しかし見よ! 彼が投げ捨てた場所に、二株の驚くべき灌木が生えてゐた。その纎細な葉は、眼瞼の形狀を呈し、雪のやうな蕾は、今しも東方に向つて開かうとしてゐた。

 すると、その偉大なる冥想に於て獲たる[やぶちゃん注:「えたる」。]不可思議力の功德によつて、尊き傳道の僧は、其新たに創られた植物の祕密――その葉の奇特なる功能を知ることができた、しで、彼が法華經を齎した處の國の言葉で、彼はそれを茶と命名し、且つそれに向つて述べた――

 『正しい決心によつて作られ、惠み深く、生命を賦與する、汝うるはしき木よ、汝に祝福あれ! 見よ、汝の盛名は爾來地球の果てまでも擴がるに相違ない。それから、汝の生命の香りは、四方の風によつて、極めて遠い地方へも運ばれるにきまつてゐる。たしかに、今後いつまでも、汝の液汁を飮むものは、疲勞も彼に勝つことができないし、倦怠も襲はないやうな爽快を見出すだらう。また彼は眠氣[やぶちゃん注:「ねむけ」。]の混亂をも、勤行の祈禱の際、假睡[やぶちゃん注:「うたたね」と当て訓しておく。]を欲する念をも感じないだらう。祝福汝にあれ!』

 

 

 して、今猶ほ抹香の霞の如く、世界中から犧牲を捧げる煙のやうに、神聖なる誓の力、敬虔なる敬虔なる贖罪の功德によつて、人間の心氣を爽快にするために作られた茶の心地よき蒸氣が、地上のあらゆる國々から、絕え間なく天へ立ち騰つてゐる。

 

沙門品

 

143


[やぶちゃん注:「沙門品」既注の「法句経」の「沙門品第二十五」のこと。 ] 



【ハーンによる「解說」】

 『茶樹の緣起』――私の昔噺は、一八七一年發行『支那事誌』に見えたブレツトシユナイダー氏の簡單なる記事に據つたものである――

 『日本の傳說によると、西曆五百十九年頃に、一人の佛僧が支那へ渡つた。彼の全靈全心を神に獻げん[やぶちゃん注:「ささげん」。]がために、彼は晝も夜も常住不斷、冥想をつづける誓を立てた。精進多年、非常に疲れた擧句、彼は睡眠に陷つた。翌朝目が醒めてから、彼は誓を破つたことを大いに殘念がつて、兩方の眼瞼を切つて、地に投げ捨てた。翌日その處へ歸つて見ると、彼は眼瞼が各〻一本の灌木となつてゐるのを發見した。これがその當時まで未だ知られなかつた茶樹であつた』

 ブレツトシユナイダー氏は、この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる。しかしもともと佛敎とその一切驚くべき傳說は、支那から日本へ傳つたのであるから、この傳說もまだ[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]支那に[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]淵源を有し、後になつて日本の年代で作り變へられたものと思はれる。私の佛敎經句はフエルナン・ユー氏の譯及びレオン・フヰーア氏の西藏語[やぶちゃん注:「チベットご」。]よりの譯から採つたのである。若し閑暇の際、拙著に一瞥を賜はる東洋學者があれば、彼は私がまた梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサからも、一つ二つの思想を藉りてゐることを見出すであらう。

[やぶちゃん注:「沙門品」「沙門果経」(しゃもんかきょう:パーリ語カタカナ音写:サーマンニャパラ・スッタ)か。出家修行者の修行の果報を釈迦が説いた形の経典。戒律(具足戒)を守ることによる果報・止行による果報・観行による果報(六神通)が順を追って説かれた初期仏教の代表的な貴重経典である。

「支那事誌」“Chinese Recorder”。正式には“Chinese Recorder and Missionary Journal” は一八六七年に上海で発行された、英語圏宣教師向けの雑誌。一九四一年に日本当局(この年、上海共同租界が日本軍によって接収されている)によって廃刊させられている。

「ブレツトシユナイダー」恐らくドイツ人の中国学者エミール・ブレットシュナイダー(Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)であろう。ウィキの「エミール・ブレットシュナイダー」によれば、現在のラトビア生まれで、『ロシア帝国の外交団の医師として北京などで働き、中国の歴史に関する著作を行った』。『エストニアのドルパート大学で医学を学んだ』後、一八六二年から一八六五年の『間、テヘランのロシア公使館の医師として働いた後、北京のロシア公使館の医師として働いた』。一八六六年に『出版されたヘンリー・ユールの著書『中国および中国への道』("Cathay and the Way Thither")を読んで中国学に興味を持った。北京にいる間にロシアの初期の中国研究者でロシア正教の修道院長、パルラディ・カファロフと知り合い、ロシアの教会伝道組織が集めた中国の歴史や地理や本草学の膨大な書籍のコレクションを閲覧することができた。それまでのヨーロッパにおける中国研究が直接、中国の原著を研究することが少なかったのに対して、ブレットシュナイダーは特に本草書や地理学の中国の書籍を一次資料とする研究を始めた』。一八七〇年に『最初の中国に関する著作、"Fusang- Who discovered America ?"を出版し、 "On the Knowledge Possessed by the Chinese of the Arabs and Arabian Colonies Mentioned in Chinese Books"をロンドンで出版した』。一八七五年に『上海で"Notes on Chinese medieval travellers to the West"を出版し』、一八八一年に『"Early European researches into the flora of China"を出版した。植物学史における先駆的な書籍である』。一八八八年の著書、"Mediaeval researches from Eastern Asiatic Sources : fragments towards the knowledge of the geography and history of Central and Western Asia from the 13th to the 17th century"を出版し、その中で』十二『世紀の耶律楚材や丘長春の旅行記の英訳を行った』。『植物学の分野でも』一八八〇『年から北京に近い山麓に栽培園をつくり、乾燥標本をイギリスのキューガーデンに送った。植物学に関する著書には"On the Study and Value of Chinese Botanical Works" (1870) "Early European Researches into the Flora of China" (1881) "Botanicum Sinicum" (1882)などがあり、全』二『巻の『中国におけるヨーロッパ人の植物発見史』("History of European Botanical Studies in China")もある』とあって、その事蹟(中国の伝承に詳しく、しかも植物学に精通している)から彼の書いたものが本篇の種元であると考えて如何にもしっくりくるからである。

「西曆五百十九年頃」継体天皇十三年で、古墳時代である。

「一人の佛僧が支那へ渡つた」という謂い方は、「日本の傳說によると」という前振りからは、あたかも日本の僧がという誤解を引き起こす恐れがある。日本への公的な伝来は宣化三 (五三八) 年に百済の聖明王が釈迦仏像と経典その他を本邦の朝廷に献上した時が公伝とされる。ただ、六世紀初めから一部の渡来人やその子孫によって仏教は信仰されていたと考えられてはいるから、まんざらおかしくはない。しかし、ハーンの本文を読むと、主人公の僧は日本ではなく、インドの僧で布教のためにインドから中国に入ったという形で設定されており、日本人の僧では各シチュエーションが全く説明不能となってしまうから問題外である(ブレットシュナイダーの原記事でも読めればと思うのだが)。しかも、以上の設定でも、展開に腑に落ちない変な部分が多過ぎる。明らかに既に中国国内にありながら、キー・マンである「女」の姿や僧が徘徊する景色が中国のそれではなく、インドへ逆戻りしているというのが、読んでいて何となっく喉に刺さった魚の骨のようなイラついた違和感を引き起こすのである(私は最終的にそれを降魔が引き起こした幻想世界であるとして読み下して納得はしているが)。これ以上はこの問題を私は特に掘り下げない。さらに言っておくと、本篇は「茶樹の緣起」なわけだが、茶(ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis)は現在、熱帯及び亜熱帯・温帯域で植生する常緑樹であるものの、ウィキの「茶」によれば、『茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある』。『中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる』。『しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」「茗(めい)」「荈(せん)」「檟(か)」といった文字が当てられていた』。『書籍に現れるものとしては、紀元前』二『世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある』[やぶちゃん注:漢字を恣意的に正字に直したので、引用符を外す。]。

苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五藏邪氣。厭穀。胃痹。久服安心益氣。聡察少臥。輕身耐老。

『陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は』、「茶に疾病を治癒する薬効は認められない」として『これを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではない』、『と陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある』。『「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から』百『キロメートルほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる』。『この「僮約」には神爵』三年(紀元前五九年)という『日付が付されており、紀元前』一『世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる』。『後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している』。『南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代』(五〇二~五五七年)『に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている』とある。以上の茶の歴史の推定を馬鹿正直に受け止めて、改めて本篇内の時制を敢えて考えるならば――中国で茶の木が、この主人公の僧の両眼の瞼(まぶた)の肉片から誕生したのは、少なくとも紀元前五世紀前後(釈迦存命を上限とするからである)に遡って下限は紀元前一世紀後半以前でなくてはならない――ということとなろう。因みに、日本への茶の伝来は遙かに遅く、明確な伝来時期は不明ながら、一般的には延暦二四(八〇五)年に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことに始まると言われているし、空海も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を嵯峨天皇に献じた際の奉納表の中に記されてあるという。一説には既に奈良時代に伝来していたとする見解もあるらしい。しかし、その後、遣唐使が廃止されるとともに唐風の習俗が衰え、茶も盛んにはならなかったようである。茶を薬として再興させたのは、栄西が建久二(一一九一)年に南宋から茶の種子や苗木を持ち帰って、その薬効や作法を記した「喫茶養生記」を書いた本邦における臨済宗の開祖とされる栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)であった。

「この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる」私も伝奇・志怪小説のフリークであるが、聴いたことがない。中国の文献でこの話の類話を御存じの方は是非御教授願いたい。

「フエルナン・ユー」原文“Fernand Hû”。フェルナン・ユゥーは生没年未詳であるが、恐らくはフランス人(姓の表記から中国人との混血か?)。既に注で何度も述べたが、英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)がある。

「レオン・フヰーア」フランスの言語学者・東洋学者であったヘンリ=レオン・フィアー(Henri-Léon Feer 一八三〇 年~一九〇二年)。

「梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサ」原文“Bhâminî-Vilâsa”。不詳。この名で検索で掛かることは掛かるけれども、古いインドの詩人らしいことは判るものの、我、愚鈍にしてここに注を加えるレベルの内容を取得し得ない。識者の御教授を乞う。

「一つ二つの思想」同前により全く不詳。]

2020/01/27

ラフカディオ・ハーン Yen-Tchin-King の帰還 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Return of Yen-Tchin-King”。「顔真卿(がんしんけい)の帰還」)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第四話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「神僊可冀」。この「神僊」は「神仙」と同じで「神仙さへも冀(こひねが)ふべし」で「神仙でさえもそうなることを願うようなものだ」の謂いであろうとは思う。本文に出る「太上感應篇」には「所作必成。神仙可冀。」という文章は確かに存在するようである)。しかしこれらは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 最初に述べておくと、Yen-Tchin-King」は書家として知られた盛唐末から中唐の忠臣顔真卿(七〇九年~七八五年 拼音:YánZhēnqīng)のことである。ウィキの「顔真卿」によれば、孔子がその死を惜しんだ随一の高弟顔回の末裔を『称した。生まれは長安で』、「顔氏家訓」で『知られる』南北朝末期の大学者『顔之推の五世孫にあたる。顔氏は代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された』。七三七年に進士に及第し、七四二年に『文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ』七五三年に『平原郡太守に降格された』。『時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、族兄(お互いの五世の前の男系祖先が同じ)で常山郡太守であった顔杲卿』(こうけい)と『呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後』、七五六年には『平原城を捨て、鳳翔に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた』。『しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮南西道節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう』、『何度となく説得したが』、『真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り』、『李希烈は説得を断念、殺された』とある。死亡当時の皇帝は徳宗である。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

    Yen-Tchin-King の歸還

 

 神靈の應報を論ぜる、尊い『感應篇』の第三十八章に、Yen-Tchin-King の傳說が述べてある。この立派な人物が世と去つてから、千年を經てゐる。彼の生存してゐたのは唐註十の盛時であつたから。

 

註十 唐時代――西曆六百二十年から九百二年に亙つて榮えた時代で、文學藝術を獎勵し、支那に最も華麗な文化の時期を與へた。第二章の話に擧げた三詩人は西曆七百七十九年より八百五十二年の間に盛名を揚げた人々である。

[やぶちゃん注:現行では唐代は六一八年から九〇七年とする。

「感應篇」「太上感感応篇」、既出既注であるが、再掲すると、南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。ただ、この巻数や顔真卿では私は原文を見出すことが出来なかった。

「第二章の話に擧げた三詩人」「Ming-Y 秀才の話」に挙げた詩人は中唐の元稹(七七九年~八三一年)と、晩唐の詩人高駢(?~八八七年:訳文では「Kao-Pien」)・杜牧(八〇三年~八五二年:訳文では「Thou-mou」)である。ハーンの「七百七十九年」は元稹の生年であるから、まあいいとしても、「八百五十二年」は杜牧の没年であって、高駢の晩年を含まない(政治家としてはこの時期に彼は名を挙げているし、詩も作っている)から根拠がある年次ではない。

 なお、またしても、本篇の本文前にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

   Before me ran, as a herald runneth, the Leader of the Moon;

   And the Spirit of the Wind followed after me, — quickening his flight.

                                       LI-SAO.

   *

これは最後の「LI-SAO」から、「楚辞」の代表作で楚の屈原の「離騒」の中の一篇である(現在も英語ではかく表記する)。英文はなんだかよく判らぬが、これに合いそうな「離騷」の一節は、後段の第九小段の中の、

   *

吾令鳳鳥飛騰兮

繼之以日夜

飄風屯其相離兮

帥雲霓而來御

(吾 鳳鳥(ほうてう)をして飛騰(ひとう)せしめ

 之れに繼ぐに 日夜を以つてせしむ

 飄風(へうふう) 屯(あつ)まりて 其れ 相ひ離れ

 雲霓(うんげい)を帥(ひき)ゐて 來たり御(むか)ふ)

   *

かとも思われる。藤野岩友著「楚辞」(「漢詩大系」第三巻「楚辞」昭和四二(一九六七)年集英社刊)の当該部の訳を示す。

   《引用開始》

 私はまず鳳凰を飛びあがらせ、夜を日に継いで急行させた。ところが、つむじ風が集まっては離れながら、雲や虹を連れて出迎える。

   《引用終了》]

 

 さて、Yen-Tchin-King が六大法衙の一つの最高判事であつた頃に、兇惡の一將軍、にLi-hi-Iie といふものが、叛旗を擧げて、北方諸州の數百萬人を味方に寄せ、破壞の勢、猖獗を極めた。すると、天子はこの形勢を知り、且つ Hi-Iie は獰猛無比で、世の中で大膽の外、何ものをも尊敬することを知らない人物であることを知つたので、Tchin-King に命じて、Hi-Iie を訪ね、大義を說いてその心を翻へさせ、また彼に與みして[やぶちゃん注:「くみして」。]叛軍に加つた人民には、天子の譴責と警告の詔を讀みきかせるやうにした。それは、Tchin-King はその智と實直と勇氣にかけては、國中に有名であつたからである。して、天子は若し逆賊も忠義德操共に確乎不拔の士に耳を假す[やぶちゃん注:「かす」。]とすれぱ、彼は Tchin-King の言葉をこそ傾聽するだらうと信じた。そこで Tchin-King は職服冠冕を着け、また家を片附けて、妻子を抱擁してから、馬に乘り、天子の詔書を懷にして、單身叛徒の轟々たる軍に向つた。『私は歸つてくる。心配するな』これは彼が馬に鞭をあて、出立したとき、階段から彼を見戍つて[やぶちゃん注:「みまもつて」。]ゐた老僕に、告げた言葉であつた。

[やぶちゃん注:「六大法衙の一つの最高判事」当時の顔真卿の官職は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫で、前者は司法長官相当ではある。

Li-hi-Iieママ(原文は“Li-hi-lié”で、やはり「hi」であるが、ここは「Hi」でなくてはおかしい)。冒頭注で示した李希烈のこと。現行の英文表記は「Li Xilie」。

「職服冠冕」「しよくふくくわんべん(しょくふくかんべん)」。「冠冕」は冕板(べんばん:冠の頂に附ける板)を装着した冠(かんむり)で、通常は天皇・皇太子の礼服に付属するものであるが、ここはそうした最高位の代理人としての資格を示すためにそれを特別につけたということであろう。]

 

 

 Tchin-King は、遂に馬から下り、叛軍の營に入つて、それから、大勢の中を通りぬけて、Hi-Iieの面前に立つた。叛軍の大將は部下の諸將軍の間に高く坐つて、劍光刀影の稻妻と、數限りなき銅鑼[やぶちゃん注:「どら」。]の雷鳴に取りまかれ、黑龍の旗の絹の折目は彼の頭上に波を打ち、大きな火は彼の前にぱちぱち昔を立てで燃え上つてゐた。また Tchin-King は、その火の舌が人間の骨を甜めてゐて、人間の頭蓋骨が灰の中に黑く焦げて橫たはつてゐるのを見た。しかし彼はその火を眺めることも、また Hi-Iie の眼を覗き込むことをも恐れないで、天子の勅語の書いてある、芳香の薰ぜる、黃色の絹卷物を懷中から取り出だし、それに接吻してから、朗讀をしようとした。同時に群集は鎭まり返つた。そこで確乎たる朗かな聲で、彼は讀み始めた――

 『神聖なる皇帝は、叛徒Li-Hi-Iie 及び彼の部下の徒輩に告ぐ』

 すると、海の轟くやうな激忿[やぶちゃん注:「げきふん」。「激憤」に同じい。]怒號の聲と、『ひうー、ひうー、うー、うー』暴風に森が唸る如き猛惡な閧[やぶちゃん注:「とき」。]の聲が起こつた。それから、劍光散亂、銅鑼の響は脚下の地を動かした。しかし Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振つたので、また靜かになつた。『いや、犬に吠えさせろ!』と、彼はいつた。そこで Tchin-King は、また續けた――

 『汝、最も噪急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。異様にせっかちなこと。]輕率なる者よ、汝はただ人民を驅つて、破壞の龍口へ陷る〻を知らざるか。汝はまた朕の國民は天帝の長子たるを知らざるか。この故に、書に曰く、徒らに人民を死傷に至らしむるものは、天これを生かさずと。汝は賢哲の定めたる法則――これを遵守して始めて、幸福繁榮を得べき法則を破らんと欲す。その罪最も重大にして恕す[やぶちゃん注:「ゆるす」。]べたらず。

 『朕の人民よ、朕は汝の皇帝にして、汝の父たり。汝等の滅亡を求むるものと思ふ勿れ。朕はただ汝等の幸福、繁榮、盛大を希ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]のみ。汝等妄りに愚擧を以て天子の怒[やぶちゃん注:「いかり」。]を招くこと勿れ。狂熱盲動に走ることなく、朕の使者の賢訓を聽け』

 『ひうー、ひうー、うー、うー』と、一同は怒號して、ますます激昂した。遂にその叫びが山に反響して颱風の轟くやうであつた。して、今一度銅鑼の響は、聲を抑へ耳を聾した。Tchin-King Hi-Iie を眺めると、彼が笑つてゐたので、詔書は再び傾聽されないだらうと知つた。そこで、彼は

力の及ばん限り、使命を果たさうと決心して、傍目[やぶちゃん注:「わきめ」。]もふらずに終まで讀んで行つた。して、全部を讀み了つてから、その書を Hi-Iie に渡さうと欲したが、彼は受取らうと手を差し出しもしなかつた。則ち Tchin-King はそれを懷中にまた收め、腕を拱いて[やぶちゃん注:「こまねいて」。]、悠然賊魁[やぶちゃん注:「ぞくくわい(ぞっかい)」。賊の首領。]の顏を見守つて、待つてゐた。再び Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振ると、轟々の音は止み、銅鑼の洞音も鎭まり、ただ龍旗の羽搏く音のみ聞こえるに至つた。すると、Hi-lie は、惡意の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を帶びていつた――

 『Tchin-King の犬め! 今忠誠の誓を立て、私の前に屈伏して、帝王に對する三拜の禮を以てせねば、その火の中へ投げ入れるぞ』

 が、Tchin-King は簒奪者に背を向け乍ら、霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。暫時。]身を屈めて天地を拜し、それから、不意に立つて、誰も彼を押へる遑[やぶちゃん注:「いとま」。]もない内に、燃え騰る[やぶちゃん注:「あがる」。]火炎の中へ跳び込み、兩腕を拱いて、恰も神の如くそこに佇立した。

 Hi-lie は愕然飛び上つて、部下に叫んだ。彼等は Tchin-King を火中より攫み出だし、裸の手のま〻彼の衣裳の炎を壓へて揉み消し、面と對つて彼を激賞した。して、Hi-lie さへも彼の座から下りて、甘言を吐いた。『君はなかなか勇敢至誠の人物だ。非常に尊敬に値する。どうぞ我輩と座を共にして、何なりとも食べて吳れ玉へ』

 しかし Tchin-King は儼然として彼を注視し乍ら、大きな鐘の音の如く朗々たる聲で答ヘた――

 『Hi-Iie め、苟も汝が憤怒と愚痴を續ける限り、私は決して汝の手たら何も受けないのだ。Tchin-King は叛賊や、人殺しや、盜賊の間に伍したとは決して世間に言はせない』

 Hi-Iie は俄かに激怒を發し、劍を以て彼を擊つた。して、彼は地に倒れて死んだ。死ねる際にも猶ほ、南方へ向つて――天子の宮殿の方に向つて、低頭敬禮しようと努めた。

 

 

 恰もそれと同時刻に、宮殿の奧の間にゐた皇帝は、足下に一人の姿が平伏するのに氣がついた。彼が言葉をかけると、その姿は立上つて、彼の前に現はれたのは Tchin-King であつた。皇帝は質問を發しようとした。しかしまだ皇帝が尋ねないうちに、耳慣れた聲は奏言した

――

 『陛下が臣に御依託になりました使命は仕遂げました。臣の微力の盡くし得る限り、勅命を成就致しました。しかし今や臣は他の主君に仕へるため、御暇乞ひを申上げねばなりませぬ』

 して、皇帝は壁間に描ける黃金の虎が、Tchin-King の姿を通して透視されたことを認めた。すると、冬の嵐の如く、颯と奇異なる寒さが室を通過して、姿は消え失せた。そこで、皇帝は彼の忠實なる臣が申上げた他の主君に仕へるといふことは、天上の幽界に歸つて行くのだと悟つた。

 また同時刻のこと、Tchin-King の邸の白髮の老僕は、いつも萬事整頓のさまを見るとき洩らす笑顏を示し乍ら、部屋々々を巡つて行く主人の姿を認めた。『お宜しう御座いますか、御主人』と老人は質ねた。して、『よろしい』といふ應答の聲は聞えた。しかし主人の姿は早くも去つて見えなかつた。

 

 

 かくて天子の軍勢は叛徒と奮鬪力戰したが、土地は血に染められ、火に焦がされ、累々たる死骸は川に流れて海の魚群を肥しても、依然戰爭は多年に亙つて續いた。それから、西北の荒漠に住む遊牧群が皇帝を援け[やぶちゃん注:「たすけ」。]にきた――彼等は悉く生來の馬術家であつて、各自强弩二百斤を引くほど、獰猛なる射手である。旋風の如く叛軍を襲ひ、雨の如く黑羽の矢を注いで、死の嵐を起こし、遂に Hi-Iie とその徒黨を敗つた。殘餘のものは、或は降服し、或は歸順を誓つて、秩序と政令は恢復されることになつた。しかしそれは、Tchin-King が死んでから幾春秋の後であつた。

[やぶちゃん注:「强弩」「きやうど(きょうど)」大型の横弓。

「二百斤」原文の単位は“pound”。換算すると九十・七二キログラム弱で話にならない。現代の日本の「斤」は六百グラムであるから、十二キログラムとなり、後者の換算で腑に落ちる。因みに唐代の「斤」は五百九十七グラム弱であるから有意な差は生じない。]

 皇帝は凱旋軍の諸將に、彼の忠臣の遺骨を携へ歸ることを命じた。それは勅命によつて建てられた靈廟へ、名譽の式を以て葬るためであつた。そこで諸將は無名の墓を探索し、それを發見したので、土を掘りのけ、棺を取り上げようと準備した。

 しかし棺は彼等の見てゐる前で微塵に崩壞した。何故なら、蟲がそれを蝕粍[やぶちゃん注:「しよくまう(しょくもう)」。「虫食って細かにすること」であろう。]させ、飢ゑたる土は其實を啖ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]盡くして、ただ空影のやうな外殼を殘しただけであつたからである。その空殼も日光に觸れると、直ちに消えてしまつた。それと同時に、一同の驚いたことには、そこには忠臣 Tchin-King の完全なる形姿が橫たはつてゐた。腐敗は彼の身に達してゐなかつた。また蟲類も其安息を妨げてゐなかつた。それたら、顏の生色も消えてゐなかつた。彼はただ夢をみてゐるさまに見えた――彼の婚禮の朝に於ける如く美はしく、また大きな堂塔の薄明かりの中に、眼瞼を閉ぢたるま〻微笑せる佛像の如き笑顏を呈してゐた。

 僧は墓邊に立つていつた。『これは實に天からの瑞徴です。かやうなさまに、天の力は、不滅の神の數に入るべき人々を保存します。死もか〻る人に勝つことは出來ず、また腐敗も彼等の近くに來ることは出來ないのです。たしかにかの偉人は天の神々の間にその座を得てゐます』

 それから、諸將は彼の死體を鄕國に運んだ。して、皇帝の命じた最高の式を擧げて、それを靈廟へ葬つた。そこに彼は永遠不朽となつて、禮服を着飾つたま〻眠つてゐる。彼の墓碑には、彼の偉大、叡智、德操の象徵と、官職の徽章、及び四つの貴い品が彫つてある。また神聖なる怪獸の石像が、その周圍を護り、神殿の如くに、奇異なる佛の犬註十一の像が、その前に番をしてゐる。

 

註十一 佛の犬――彫刻の表象として、支那藝術が最も怪奇なる作品を示せる非現實適の奇獸である。實際は獅子を誇張せるもので、また獅子の佛陀に對すゐ象徵的關係は周知のことである。かやうな神話的動物の像――時としては頗る堂々たるもの――が、寺院、宮殿、墳墓などの前ヘ一對をなして置かれ、尊嚴と神話の象徵となつてゐる。

 

神僊可冀

 

Gansinnkei

 

【ハーンによる「解說」】

 『Yen-Tchin-King の歸還』――私のこの飜譯には、思ひがけなき時代錯誤が含まれてゐるかも知れない。原文の物語は、『太上感應篇』に頗る簡勁に述べてある。說話家は帝王の名を擧げてゐない。また叛亂の起こつた時代をも、全く憶測に委ねた形になつてゐる。バーバー氏著『囘想錄』には、本篇に見えるやうな强弩善弓の一例として、彼が目擊した蒙古の射手は、耳と耳が合はんばかりに廣く両臂を張つて、二百斤の弓を曲げたといふことを記してゐる。

[やぶちゃん注:ハーンが危ぶむような「時代錯誤」はない。

「簡勁」「かんけい」。言葉・文章などが簡潔で力強いこと。

「帝王の名を」既に述べたが、顔真卿死亡時の皇帝は徳宗である。

「バーバー氏著『囘想錄』」不詳。アメリカの軍人ルシウス・バーバー(Lucius W. Barber  一八三九年~一八七二年)に“Army memoirs” というのは見出せるが、違うようだ。]

2020/01/26

ラフカディオ・ハーン 織姫の伝説 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Tchi-Niu”。現代の拼音では織女星の「織女」は「zhī 」であるからこれも「織姫」の当時の中国語ローマ字転写なのであろう)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第三話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「太上感應篇」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   織姬の傳說

 

 老子の貴い書物の本文に附せられた『感應篇』といふ奇異なる註釋の中に、頗る古い一小話がある。その話が非常に美はしいため、始めて語つた人の名は、一千年間も忘れられてゐても、話だけは四億民の記憶の中に、恰も一たび習ふと、永遠に覺えられる祈のやうに、今猶ほ生きてゐる。支那の作者はこの話について、都會の名も、また州の名も擧げてゐない。たとへ最も古い傳說を述べる場合にも、か〻る省略は滅多にないことである。私はただこの話の主人公の名は、Tong-yong であつたことと、彼が約二千年前の漢時代に住んでゐたことだけを告げられてゐる。

[やぶちゃん注:「老子の貴い書物の本文」「老子」のこと。

「感應篇」「太上感應篇」。南宋の李石撰になる勧善書で、その内容は「老子」ではなく「抱朴子」を元にしていると考えられている。「太上」は「太上老君」で、道教の始祖とみなされる老子が神格化されたものである。個人ブログ「浄空法師説法研究」の「『太上感応篇』大意」がよい。

Tong-yong」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「織女の伝説」では、『董氷』となっている。しかし、yong」は「氷」(bīng)ではなく「永」(yǒng)ではなかろうか? 「董永 織女」で検索を掛けてみたところ、日本語のブログ「福聚講」の「童子教解説・・4」で、

   《引用開始》

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖[やぶちゃん注:「さて」。]かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。

   《引用終了》

とあった。これは本篇との類似性が認められる。「童子教」は児童教訓書で、平安時代の僧安然著と伝えられる(著作年代は未詳)。全一巻。刊本は明暦四(一六五八)年刊。中世以降、童子の道徳教訓書として用いられたもので、儒書から日常的な教訓を選び、仏書から因果応報の説話を説く全 三百三十句から成る。特に近世には「実語教」とともに寺子屋などで使用され、教育史上、大きな役割を果した書である。さても、この名で辿ってゆけば、その原拠はやはり同様の目的で書かれた元の郭居敬の編纂した「二十四孝」の「董永」に行き着く。華藏淨宗學會出版になるカラー版の「二十四孝圖説」PDF)の「第十三孝【董永賣身】漢」(四十九~五十二ページ)を見られたい。梗概は邦文のウィキの「二十四孝」にあるが、まあ、孰れもまずは本篇を読まれた後に見られたい。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

A SOUND OF GONGS, A SOUND OF SONG, — THE SONG OF THE BUILDERS BUILDING THE DWELLINGS OF THE DEAD : —

 

       Khiû tchî yîng-yîng.

       Toû tchî hoûng-hoûng.

       Tchŏ tchî tông-tông.

       Siŏ liú pîng-pîng. 

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。頭の部分は、

   *

銅鑼(どら)の音(おと)、歌の音(ね)、死者のための住み家を建てる建築家の歌――

   *

であろうか。以下は当時の中国語ローマ字音写であって自動翻訳が全く機能しないので、意味は分からない。出典が判れば探しようもあろうが。識者の御教授を乞うものである。カットされたのは今までのそれらと同じく本篇内容と直接の関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。【2020年1月27日:追記】中国語の堪能な教え子に頼んでみたところ、早速に以下のようなメッセージを頂戴した。

   《引用開始》

結論ですが、掘り返そうとしても、巌のように硬い地面にツルハシも刺さりません。

 まず、拼音表記が確立する以前のアルファベット表記の揺れを念頭に様々な読みを当て嵌めますが、意味が通じません。字の上についているおかしな声調記号も目障りです。そこで次にハーンの本著作の英語版印影を当たってみました。そこに
一つの出版印影があり、同書ではこの部分、次の表記になっています。

        Qiu zhi ying-ying
        Du zhi huang-huang
        Zhe zhi dong-dong
        Xiu liu bing-bing

中国語を母語とする者、或いは中国語の心得ある者が何らかの意図を持って編集したものかどうかは分かりませんが、藁にもすがるつもりで敢えて漢字を想像します。

 一行目から三行目全てに現れる zhi の発音を見ると、どうしても「之」の字を当て嵌めたくなります。では他の部分は……。これがまた手に負えません。以下にいくつか脳裏に浮かぶ案を示します。

        Qiu zhi ying-ying
(求?)之(嘤嘤?盈盈?)
※「嘤嘤」は小鳥の鳴き声の擬音語
※「盈盈」は水が満ち溢れる様を表す擬態語

        Du zhi huang-huang
(讀?度?)之(惶惶?)
※「惶惶」はビクビク恐れる様子

        Zhe zhi dong-dong
(遮?)之(咚咚?)
※「咚咚」はトントンという擬音語

        Xiu liu bing-bing
※この行はまるで取っ掛かりが見つかりません。

上記の英語を中国語に翻訳した書物があれば是非見てみたいものですが、ここで力尽きました。お役に立たず、申し訳ありません。

   《引用終了》

何らかのオノマトペイアであるかという感じはしていた。向後、また何か分かったら追記する。なお、困難なお願いを調べてくれた教え子に心より感謝するものである。

 

 Tong-yong の母は、彼がまだ幼稺[やぶちゃん注:「えうち(ようち)」。「幼稚」に同じい。いとけないこと。]の時に死んでゐた。して、彼が十九歲の靑年になつたとき、彼の父もまた失せたので、彼は全然孤獨の身となつて、しかも何等の資產もなかつた。それは、彼の父は極めて貧しくて、彼の子を敎育するために、非常な窮境に陷つて、儲けたものから一錢をも貯へ置くことは出來なかつたからである。彼は慣例の葬式を行ひ、吉方の地に墓石を立てて、慈父の記憶に敬意を表する事が出來ないほど窮乏してゐるのを大いに歎いた。貧しいもののみが貧しいものの知り合である。彼の知人中、誰一人として、葬式の費用を辨ずるため、助力を與へ得るものはなかつた。この靑年が金を得る方法は、唯一つあつた――富農に身々買つて奴隷たることであつた。して彼は遂にさうしようと決心した。知人達は彼に思ひ止まらせようと、全力を盡くしたが駄目だつた。また將來の援助を約して、彼を賺かして[やぶちゃん注:「すかして」。]、その擧行を延ばさせようと試みても、無効に了つた。彼はただ答へて、出來ることなら、百囘彼の自由を賣つても、暫くなりとも、父の記憶を崇めないま〻[やぶちゃん注:「あがめないまま」。]放擲して置くには忍びないといつた。更にまた彼の靑春と腕力に信賴して、彼はその服役に對して高價を附することに定めた。立派な墓を建て得るやうな金高で、彼としては殆ど拂戾し得られさうもないほどであつた。

 

 

 そこで、彼は奴隷や負債者の身が賣りに曝らしてある、廣い公開の場所へ行つて、彼の服役代價と勞働者として彼の資格の目錄を書いた札を肩にぶらさげて、石の腰掛に坐つてゐた。札の文字を讀んだ多くの人々は、要求價格に對して侮蔑の微笑を洩らしただけで、一言も發せずに過ぎ去つた。他の人々は單に好奇心のあまり立停つて彼に尋ねた。虛僞の賞賛を以て褒める人々もあれば、また明からさまに彼の献身無私を馬鹿にして、彼の子供らしい孝行を笑ふものもあつた。かやうにして空しく長い退屈な時間が經つて、彼は殆ど主人を見出す事を絕望してゐると、一人の州の高官――威風堂々たる美男子で、一千人の奴隷を有し、廣大なる邸宅の持主――が、馬に乘つて近づいた。高官は其韃靼馬[やぶちゃん注:「だつたんば(だったんば)」。]の手綱を控へて、札を讀んで、奴隷の代價を思案した。彼は微笑もせず、助言もせず、質問も發しなかつたが、要求の價格を見、また靑年の立派で屈强な四肢を見て、無造作に彼を買つて、單に從者をして金高を拂はしめ、且つ必要の證書類を調製するやう命じただけであつた。

[やぶちゃん注:「韃靼馬」原文“Tartar horse”。「タタール馬」。タタールはモンゴルから東ヨーロッパに跨る広い範囲を指し、「韃靼馬」としては、漢の武帝の故事にある「一日千里を走り、血の汗を流す」と伝えられる大苑(フェルガーナ)の天馬「汗血馬」が有名。]

 

 かくて、Tong は心願を遂げて、小さな形ではあるが、巧妙なる技術家の意匠により、熟練なる彫刻師の腕によつて仕上げられて、見るものの眼を娛しましめさうな墓碑を立つる事を得た。して、まだ其設計中に、恭敬を盡くせる式は擧げられ、死者の口中へ銀貨を入れ、白い提燈を戶の上に吊るし、神聖な祈が誦せられ、また死者が仙鄕で要しさうな、紙で作つた一切のものが、淨められた火で燒かれた。それから、方位鍳者[やぶちゃん注:「はうゐかんじや(ほういかんじゃ)」。「鍳」は「鑑」の異体字。方角を占う者。]と巫術師が、いかなる不運の星も照らさないやうな埋葬地、いかなる惡鬼や龍も擾亂を加へないやうな安息の場所を選定した後に、美しい塚は建設された。して、幻の錢が途上に撒かれた。葬列は死者の家を離れて、祈禱と涕泣を以て、彼の慈父の遺骸は墓に運ばれた。

[やぶちゃん注:「死者の口中へ銀貨を入れ」こういう習慣が中国あったかどうかは確認出来ないが、ハーンは欧米の読者に腑に落ちる形でこのシークエンスを挿んだように感ぜられる。何故なら、古代ギリシャでは葬儀の際に死者の口の中に一枚の銀貨(「オボルス」と呼ぶ実際の通貨)入れるという習慣があったからである。これは死者が冥界の川(ステュクス(「憎悪」の意)或いはその支流とするアケローン(「悲嘆」)の川を渡る時に船の渡し守であるカローンに「渡し賃」として一オボルスを払わなければならないと考えられたことによる。日本の仏教の三途の川の渡し賃六文銭(六道銭)と同じである。

「幻の錢」“the phantom money”。紙銭(しせん)であろう。紙を切抜いて作った銭形。冥界でも金が必要と考えられて、概ね紙で作られた。地獄の沙汰も金次第式の古式の習慣である。]

 その後、彼は奴隷として彼の買主の勞役に服し始めた。主人は彼を住ませるため、小さな小屋を與へた。そこへ彼は祖先の名を認めた木牌を持つて行つた。すべて孝子は、このやうな木牌の前で、日每に祈の香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、家庭の禮拜の優さしい勤行を營むのであつた。

 

 

 三たび春が花を以て土地の胸を薰らせ、三たび掃墓日註八といふ死者の祭が守られ、三たび彼は父の墓を掃除して、裝飾を施し、果實と肉を五重に積んで供ヘた。喪期は終つても、彼が父を哀慕する心は止まなかつた、歲は月の運行につれて進み、一時の喜びも、一日の

 

註八 掃墓日――一般に先祖を拜する日。天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)(十一月二日)と同じもので、四月上旬、淸明の季節に營む。

[やぶちゃん注:「喪期」中国古代の服喪の期間は殷周の時代では父母の喪は三年であるが、春秋時代になると早くもこの制度は守られていなかった。本話は本篇では時代設定が示されていないが、原拠のそれは漢代であるから、Tong-yong はすこぶる古式に従って厳しく服喪を守ったことが判る。「孔子時代の葬儀エチケット」というページに「礼記」に記された葬送儀礼が非常に詳しく解説されてあるので、是非、参照されたい。

「天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)」キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である「死者の日」又は「万霊節(ばんれいせつ:All Souls’ Day)。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(「信仰を持って逝った人総ての記念日」)と呼ぶ。カトリック教会では「諸聖人の日」(諸聖人の祭日・万聖節)の翌日の十一月二日である。参照したウィキの「死者の日」によれば、『カトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があ』り、「死者の日」は『このような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格がある』とある。]

 

愉快なる休憩をも彼に齎さなかつたが、彼は決してその服役を悲しまなかつた。また祖先の祭祀を缺くことはなかつた――その内に、たうとう稻田の熱病が激しく彼を襲つて、彼は病褥[やぶちゃん注:「びやうじよく(びょうじょく)」。]から起きられぬやうになつた。そこで、同じ仲間の勞役者達は、彼は畢竟死ぬるに相違ないと考へた。奴隷や家僕達は、全然家事や田畠の勞働に忙しかつたので、彼を看護するものもゐなかつた――彼等はすべて日出と共に働きに出掛け、漸く日沒の後痕れて歸つてくるのであつた。

[やぶちゃん注:「稻田の熱病」“the labor of the fields”。思うに、マラリアのことではないかと私は思う。]

 さて、病める靑年が衰弱疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。「疲労困憊(ひろうこんぱい)]に同じい。]の極、眠つたと思へば覺め、覺めてはまた眠に入つてゐるとき、見知らぬ美人が彼の側に立ち、彼の上に屈んで、彼の額に彼女の恰好よき手の、綺麗な長い指を觸れたことを夢に見た。して、彼女の冷んやりした接觸と共に、不思議に甘美な衝動が、彼を貫通して、彼のあらゆる血管は、新生命がしみ渡つた如く沸き立つた。驚いて目を開いて見ると、正しく夢に見た、魅惑させるやうな女が、彼の上に屈んでゐて、彼女のたをやかな手は、實際彼の鼓動打てる額を愛撫してゐた。しかし熱病の炎は最早消えてゐて、心地よき涼しさが今は身體のあらゆる纎維に滲透し、夢に見た衝動は、まだ激烈なも歡喜の如くに血中に踊つてゐた。同じ瞬間に、靜淑な訪問者の双眸は彼の兩眼と出逢つた。して、彼はそれが異常に美しく、燕の翼の如き曲線をなせる眉の下に、輝く黑い寶石の如く光つてゐることを知つた。したしその靜けき凝視は、水晶の中を透る光の如くに、彼を貫くやうに思はれた。して、何となく一種の畏怖が彼を襲つたので、脣頭まで上つた問ひの言葉を發音することを得なかつた。すると、まだ彼を撫で乍ら、彼女は微笑していつた。『私はあなたの御元氣を恢復させ、あなたの妻となるために參つたものです。お起き下さいませ。して、御一緖に禮拜を致しませう』

 女の朗らかな聲は、鳥の歌の如き諧調を有つてゐたが、その視線には儼然たる力があつて、彼には抵抗し難いもののやう思はれた。臥床から立上つてみると、彼の體力の全く囘復してゐるのを發見して驚いた。したし彼の手を捉へた、冷んやりした纎手は、非常に速やかに彼を導いて行つて、彼に驚愕の遑なからしめた。彼はいたにもして彼の困窮を語り、妻を養ふ力なきことを述べる勇氣を鼓するやうに努めたが、女の長い黑い眼には、何となく凛乎たるものがあつて、彼をして言葉を發することを得ざらしめた。して、恰も彼の心底を、その不思議な凝視によつて看破したたのやうに、彼女は同じ朗たな聲で彼にいつた。『私が支給致します』それたら、彼はそのみじめな姿と、ぼろぼろの衣服のことを考へて、恥辱の念に顏を赧らめた。]。しかし彼は女もまた庶民階級のやうな、貧乏らしい服裝であることを見た――何等の裝飾をも帶びないで、また足には靴さへ穿いてゐなかつた。彼がまだ言葉を發しない内に、二人は祖先の位牌の前へ來た。そこで、女は彼と共に跪いて祈つた。それから、酒杯――何處から齎したのか、彼は知らなかつた――を擧げて、彼に誓を立て、共に天と地を拜した。かやうにして、彼女は彼の妻となつた。

[やぶちゃん注:「儼然たる」「げんぜんたる」。厳(いか)めしく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「抵抗し難いもののやう思はれた」ママ。「やうに」の脱字か。或いは落合氏の日本語の癖の可能性もある。

「臥床」「ふしど」。

「纎手」「せんしゆ」。細い手。

「遑」「いとま」。

「凛乎」「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。凛々(りり)しいさま。

「赧らめた」「あからめた」。]

 

 それは不思議な結婚と思はれた。といふのは、その日にも、彼は妻にその家名や、里方の地名を尋ねることを敢てし得なかつた。また彼女について彼の仲間達が發した好奇的質問に對して、返答が出來ないばかりでなく、彼女もまたその名が Tchi であるといふだけで、自身のことについて、一言も云はなかつたからである。彼女の眼が彼に注がれてゐる間、彼は恰も自己の意志を待たぬものの如く、彼女に畏怖を感じてゐたけれども、したし彼は言ひやう無いほどに彼女を愛してゐた。して、彼の結婚以來は、彼の奴隷といふ考へが、彼を壓迫することを止めた。魔法の力による如く、小さな住家は變化された。その窮狀は可愛らしい紙細工によつて隱蔽された――綺麗な手品を使つて、費用をかけないで、巧妙な裝飾を施すことは、婦人のみがその祕訣を如つてゐる。

[やぶちゃん注:「Tchi」平井呈一氏は上掲訳で『織(ち)』とする。今の拼音では「zhī」(ヂィー)である。]

 每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時。曙の頃。]に、また每夜歸宅の際、若い夫はよく調理された潤澤なる食膳が、彼を待ち受けてゐるのを見出した。が、實は終日機上[やぶちゃん注:織機(はた)の上。]に坐して、その地方では見られないやうな方法によつて絹を織つた。彼女が織るま〻に、絹は光澤ある黃金が緩やかに流れる如く、機から流れ出でて、その波動の上へ靑紫や深紅や碧綠の珍らしい形を現はし、幽靈のやうな騎士や、龍に牽かれた幻の戰車や、雲の尾を棚引いた軍旗を織り出した。龍といふ龍の髯には、不思議な眞珠がぴかぴかしでゐた。騎士達の冑[やぶちゃん注:「かぶと」。]には、順位の寶石が燦光を放つてゐた。して、每日 Tchi は、か〻る綾模樣ある絹の大きな一反を織り上げた。それで、彼女の機織[やぶちゃん注:「はたをり」。]の評判は、廣く傳播した。遠近から人々が驚くべき仕事を見物に集つてきた。して、それを聞き傳へた大都會の絹商どもは、使を Tchi に送つて、織物を依賴し、また彼女の祕傳の敎へを求めた。そこで、彼女は報酬として持參された銀塊に對して、希望通りに織つてやつた。しかし彼等が傳授を懇願に及んだ時、彼女は笑つていつた。「あなた方の中には、私のやうな指を持つてゐらつしやる方がありませんから、到底御敎へ申上げることは出來ませぬ』また實際、誰も彼女が機を織るとき、その指を識別することは出來なかつた。さながら速く翔つてゐる蜂の翼の振動む見る如くであつた。

 

 

 季節は移つて行つたが、Tong は決して缺乏を知らなかつた。彼の美しい妻は、實によく『私が支給致します』といふ契約を履行したのであつた。して、絹商輩の齎した、輝ける銀塊は、Tchi が家財を入れるために買つた、彫つて製作せる大櫃[やぶちゃん注:「おほびつ」。]の中に、段々高く積み上げられた。

 遂に或る朝、Tong が朝餐を了へて、畠へ出掛けようとするとき、妻は思ひがけなくも、彼を内に留まらせた。して、大櫃を開けて、それからら隷書註九といふ公文書體で書いた文書を取出して彼に與へた。彼はそれを視ると、欣躍絕叫した。それは彼の釋放の證書であつた。女は密かにその不思議な絹の代金を以て、夫の自由を買ひ取つたのであつた。

 

註九 隷書――支那の六書體の中、第二に位する。ヰリヤムス氏「中國」參照。……道敎の傳說によれば、天の命令は、最も古い印章用の書体(篆書[やぶちゃん注:「てんしよ」。])で書いてある。だから、電光に打たれて死んだ人の死體に印せられる表象は、その書體で書かれた裁判の宣告と見倣された。――(普通は五書體であるが、六書體としたのが、盬谷[やぶちゃん注:「しほのや」。]博士の說によれば、大篆、小篆、隷、楷、行、草、と數へたのであらうとのことである。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧内が訳者落合氏による補足

「ヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊のThe middle kingdomであろう。

「大篆」周の宣王の時代に史籀(しちゅう)が作ったとされる漢字の古書体。篆文(てんぶん=「小篆」)の前身を成す。

「盬谷博士」日本の漢学者塩谷温(しおのやおん 明治一一(一八七八)年~昭和三七(一九六二)年)。東京帝国大学名誉教授。]

 

 『最早如何な主人に對しても、あなたは御苦役をつとめなさるに及びません』と彼女はいつた。『ただあなたのためにのみ御働きなさるのです。それから、また私はこの家を、中にあるもの一切と共に、買ひました。その上、南方の茶畠も、隣りの桑園も、すべて悉くあなたのものです』

 彼は嬉しさの餘り、覺えず彼女の前に平伏して拜まんばかりになつたが、彼女はそれを制止した。

 

 

 かやうにして、彼は自由の身となつた。それから、彼の自由と共に繁昌が伴つて來た。彼が貴い土地に與へたものは、百倍になつて歸つてきた。して、彼の僕婢輩は彼を愛した。また非常に無言ではあるが、したも非常に周圍の人々に親切なる、美しい主婦を祝福した。しかし絹機[やぶちゃん注:「きぬはた」。]はやがて手と付けられぬやうになつた。それは彼女が男の兒を生んだからである。それは頗る綺麗な子供で、彼がそれを眺めたとき、嬉し泣きをしたほどであつた。その後、實は全く子供の世話に沒頭した。

 さて、やがてその子供も母に劣らず驚異すべきものだといふことが明白になつてきた。赤ん坊は生まれて三ケ月目にものを言ひ、七ケ月目には聖賢の格言を諳誦[やぶちゃん注:「あんしやう(あんしょう)」。暗誦に同じい。]し、尊い祈を朗吟することが出來た。十一ケ月にならぬ内に、巧みに筆を使ひ、老子の訓言を立派に寫すことが出來た。して、寺僧は來て見て、この寧馨兒と談話を交へ[やぶちゃん注:「まぢへ」。]、その愛らしさと、その賢い言葉を感歎して、Tong を祝福していつた。『たしかに、この子供さんは天の賜[やぶちゃん注:「たまもの」。]です。天があなたを愛し玉ふ瑞徵です。あなたが百歲の福壽をお重ねなさるやう祈ります』

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む一般名詞。「晋書」の「王衍伝」から。「寧馨」は中国晋・宋の頃の俗語で「あのような・このような」の意で、「すぐれた子・神童・麒麟児」の婉曲表現。]

 

 十一月のことであつた。花は枯れ、夏の薰りは消え、風は次第に冷かになつてゐた。して、Tong の家では夜の火が點ぜられてゐた。夫妻は心地よき火の光りを浴びつ〻、長時間共に坐して、夫は盛んに希望と欣びを談じ、將來傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]人となる子供のことや、親として幾多の計畫などを語つた。一方、妻はあまりに語らないで、夫の言葉に耳を傾けては、しばしば應答の笑を浮たべ乍ら、驚異の眼を彼に向けた。こんなに美しく彼女が見えたことは、未だ甞てなかつた。して、彼は彼女の顏を注視し乍ら、夜の更けるのも、火の低く沈んで行くのも、また風が窓外の落葉した樹間に鳴るのも打忘れてゐた。

 突然彼女は無言のま〻立上つて、彼女の手の中へ彼の手を執り、かの奇異な結婚の朝に於ける如く、靜かに彼を導き、夢の中に微かに笑を洩らしつ〻眠れる子供の搖籃[やぶちゃん注:「ゆりかご」。]へつれて行つた。その瞬間、彼の念頭に、彼女の眼が始めて彼の眼とぴつたり出逢つた際に感じたと同一の奇異なる恐怖が襲つてきた――その漠然たる恐怖を、愛情と信賴の心が鎭めたのであつたが、鬼神に對する恐怖の如く、決して全然逐ひのける[やぶちゃん注:「をひのける」。]ことは出來なかつた。すると、彼は全く我れ知らずに、見えざる偉力ある手の壓迫に隨つたやうに、神に向つて跪坐する如く、彼女の前に低頭した。それから、再び眼を擧げて女の顏を見るや否や、畏怖に襲はれて眼を閉ぢた。といふのは、彼女は此世のいかなる女よりも高く彼の前に聳え、彼女の周圍には日光の如き光耀があつて、彼女の四肢の光りは、衣裳を透して輝いたからであつた。しかし彼女の美はしい音聲は、あらゆる昔の優しみを帶びて、彼に語つた。『いよいよあなたから去つて行かねばなら時が參りました。實は私は人間から生まれたのではありませぬ。それ故、ただしばらくの間、化身となつて現はれてゐました。しかし私は私共の愛情の誓をあなたに遺しておきます――此綺麗な子供は、行末あなたに對して、あなたと同樣な孝子となりませうから。實際私はあなたの孝心の報酬として、天からあなたに遣されたのです。して、今は私の天の家鄕へ歸つて行かねばならぬことを、どうか御悟り下さい。私は女神の織姬で御座います』

 かく語つてゐる際にも、光輝は消えて了つた。して、彼は再び眼を開けると、彼女が永遠に去つたことを知つた――空の風が通る如く不可思議に、吹き消された炎の光りが、取り返しのつかぬやうに。しかし一切の戶は鎖ざされ、窓も悉く塞いであつた。子供は眠りの中に微笑し乍ら、依然として眠つてゐた。戶外では夜は明けかかつてゐた。空は急速に輝き出した。東天は太陽を迎へて、莊嚴華麗な黃金の高い門を開いた。すると、其光りに照らされた朝霧は、いろいろに色彩の移つて行く、驚くべき形狀に變つた――織姬の機で織られた絹の夢の如き、不思議な美しい綾織り模樣に。

 

太上感應篇

 

Taijyoukannnouhen

 

【ハーンによる「解說」】

 『織姬の傳說』――私の此話は『太上感應篇』第三十章に見える、次の傳說から取つた。該書は老子の作と稱せられ、約四十個の頗る珍らしい逸話傳說を收めてゐる――

 『漢時代に住んでゐた Tong-yong は極貧に陷りた。父を失つたので、彼は葬式を營み、墓を建てる資を得るために自身を賣つた。天帝がこれを憐んで、女神 Tchi-Niu を遣はしてその妻とした。彼女は夫が自由の身となるまで每日絹を織つた。後、彼のため一子を生んで、それから天へ歸つた』――ヂユリアン氏佛譯第百拾壹頁。

 この話の中で、幽靈、醫療、婚禮等の詳細なことに亙って、私は全然私自身の空想によつて書いたのではないといふことを證するため、私は讀者に、ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』第九十六章『不思議な妻』と題する一篇を參照されんことを望む。それによつて、私の物語は、少くとも支那思想と合致することがわたるだらう。(この物語は、初め『ハーパーズ、バザ―』雜誌に現はれたのを、今囘同雜誌の許諾を得て、こ〻に收めたのである)。

 

譯者註 「宋藝文志」に「太上感應篇」の一卷があつて、抱朴子が漢時代の道敎の諸戒を述べたものである。この書は宋以來、大いに流布したが、專ら閭巷細民が誦習したもので、士大夫間に於いては鄙薄視され、その註釋諸家もまた淺陋邱里の言が多かつたと「太上感應篇纉篇」(上下二卷)の序文に見えてゐる。譯者が手にし得た「纉義」(德淸愈樾撰)にも、また更に手を入れ得た「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)にも、本書引用の二つの物語は載つてゐない。多分一層通俗的な註釋書から取つたものだらう。

 

[やぶちゃん注:最後の織姫の別れの言葉は、私の尊敬する平井呈一氏のそれより、例外的にこの落合氏の訳の方が遙かに、いい。平井氏は常体で敬語なく、神威を露わにした台詞で訳されてあって、ちょっとキツ過ぎ、エンディングの極めてポエジックな情景描写の美しさを殺ぐ嫌いがあるからである。

「太上感應篇」既出既注。南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。但し、ハーンはの言う当該の「第三十章」の話なるものを、中文サイトで見出すことが私には出来なかった。その代わり、タイピングしているうちに、どうもこの話、別に読んだことがある気が強くしてきた。そうだ! これは私の好きな、東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)が書いた志怪小説集「捜神記」じゃないか! その第一巻にある以下だったじゃないか!

   *

漢、董永、千乘人。少偏孤、與父居肆、力田畝、鹿車載自隨。父亡、無以葬、乃自賣爲奴、以供喪事。主人知其賢、與錢一萬、遣之。永行、三年喪畢、慾還主人、供其奴職。道逢一婦人曰、「願爲子妻。」。遂與之俱。主人謂永曰、「以錢與君矣。」。永曰、「蒙君之惠、父喪收藏、永雖小人、必慾服勤致力、以報厚德。」。主曰、「婦人何能。」永曰、「能織。」。主曰、「必爾者、但令君婦爲我織縑百疋。」。於是永妻爲主人家織、十日而畢。女出門、謂永曰、「我、天之織女也。緣君至孝、天帝令我助君償債耳。」。語畢、凌空而去、不知所在。

   *

 漢の董永は千乘[やぶちゃん注:山東省。]の人なり。少(わか)くして偏孤(へんこ)となり、父と肆(し)[やぶちゃん注:ここは「町」の意。]に居り、田畝に力(つと)め、鹿車(ろくしや)して載せて[やぶちゃん注:歩けない父を小さな車に載せて牽いては。]自ら隨ふ。

 父、亡(ぼう)ずるも、以つて葬る無し。乃(すなは)ち自ら賣りて奴(ど)と爲し、以つて喪事に供す。主人、其の賢なるを知り、錢一萬を與へ、之れを遣ふ。

 永、行きて、三年喪、畢(をは)り、主人に還り、其の奴の職に供せんと慾す。

 道に逢へる一婦人の曰く、

「願はくは子(し)の妻と爲(な)らん。」

と。遂にこれと俱にす。

 主人、永に謂ひて曰く、

「錢は以つて君に與へたり。」

と[やぶちゃん注:ここでは主人は彼の孝志に対して見返りを求めずに金を与えたのだ、というのである。]。永、曰く、

「君の惠みを蒙り、父の喪、收藏せり。永、小人たりと雖も、必ず勤めに服し、力を致し、以つて厚德に報いんと慾す。」

と。主、曰く、

「婦人、何を能くするや。」

と。永、曰く、

「能く織れり。」

と。主、曰く、

「必爾(ひつじ)なれば[やぶちゃん注:謂うように必ず私のために働くというのならば。]、但だ、君の婦をして我が爲めに縑(けん)百疋を織らしめよ。」

と[やぶちゃん注:「縑」じゃ二本縒(よ)りの糸で細かく織った上製の絹布を指す。]。

 是(ここ)に於いて、永の妻、主人が家の爲めに織り、十日にして畢(をは)れり。女、門を出でて、永に謂ひて曰く、

「我は天の織女(しよくぢよ)なり。君の至孝なるに緣(よ)りて、天帝、我れをして債(さい)を償ふを助けしむるのみ。」

と。

 語り畢りて、空を凌(しの)いで去り、所在を知らず。

   *

「ヂユリアン」既出既注。エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。こで示されたのは、一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として「太上感應篇」を翻訳したもの。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。

「ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』」既出既注の、「華英辞書」の編纂によって特に知られるイギリスの外交官で中国学者であったハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年:中国名「翟理斯」)は、彼が一八八〇年に訳した清代の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が著した志怪小説集「聊齋志異」の翻訳“Strange Stories from a Chinese Studio” のことであろう。英語原本の当該箇所を見つけたが(No. XCVI:“A Supernatural Wife”)、これが私の好きな「聊齋志異」のどの話に当たるかは、ちょっとお時間を戴きたい。判り次第、追記する。

『ハーパーズ、バザ―』“Harper's Bazaar” 調べると、『ハーパーズ・バザー』(Harper's BAZAAR)は、一八六七年にニュー・ヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション雑誌とある。これなんかなあ?

「宋藝文志」元代に編纂された宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体史書「宋史」(一三四五年完成)の中の「芸文志」のこと。

「閭巷細民」(りよかうさいみん(りょこうさいみん)民間の下層階級。

「鄙薄」(ひはく)で軽蔑。蔑(さげす)むこと。

「淺陋」(せんろう)は「知識や考えが浅くて狭いこと」。

「邱里」不詳。田舎染みた俚諺的内容ということか。

「太上感應篇纉篇」(さんぺん)は継いだ編で「続編」の意。清の考証学者兪樾(ゆえつ 一八二一年~一九〇七年)撰。

「纉義(德淸愈樾撰)」一八七一年刊。

『「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)』清の考証学者恵棟(一六九七年~一七五八年)撰。

 また、最後になって、中文サイトのカラーの絵入りで独立したページも発見した(先のPDFと同じ組織による作成のもののようで、挿絵も全く同じである)。原文と白話(中国語口語体)に直したものも載るので転載しておく(コンマを読点に代えた。漢字はママ)。

   《引用開始》

十三、【董永賣身】 漢

董永家貧、賣身葬親。天遣仙女、織縑完緡。

【原文】

 董永、性至孝、家貧、父死、賣身貸錢而葬。及往償工、途遇一婦、求為永妻。同至主家、令織縑三百疋乃回。一月完成、主大驚、聽永歸。至槐陰會所、婦辭永曰、吾織女也、天帝感君之孝、令我相助耳。言訖凌空而去。

 王應照謂、父死則葬、理之常也。孝子當貧乏無措時、賣身為之、亦求心之安而已。償工之日、仙女忽逢、織縑一月、已清債累。此時賣身窮人、債主不得役之、且不能學之、於以知久停親柩者之罪大矣。

【白話解釋】

 漢朝時候、有個叫董永的人、非常孝順。但是家裡很窮苦、父親去世後、沒有錢辦理喪葬、董永就賣身為奴、用賣得的錢來安葬父親。

 葬了父親以後、就依約要去做工償債。走到半路上、忽然遇到了一個女子、這位女子說自願和董永結為夫妻、就一同到債主家裡去做工。債主嚴苛地命他要織好三百匹的紗羅布料、才能抵掉賣身的錢、才可以回家。哪裡曉得、董永得到了妻子的幫助、不到一個月工夫、就全部織完了。債主非常驚訝、但還是要讓董永離開。

 他們走到了槐樹下(從前和妻子相會的地方)、妻子就要辭別董永、並說道:「我是天上的織女、天帝被你的孝心感動、特地派我來幫助你。」說完話、就騰空而去了。

   《引用終了》]

2020/01/22

ラフカディオ・ハーン Ming-Y 秀才の話 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Ming-Y”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)では原拠(本文中の私の注で後述)に則り、『孟沂(もうぎ)の話』となっている)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第二話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「黒松使者」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   Ming-Y 秀才の話

 

   詩人Tching‐Kou は歌つた。『Sie-Thao の墓の上には、必らず桃の花が咲く』

[やぶちゃん注:以上の三字下げはママ。平井呈一氏は上記訳本で、

   《引用開始》

 詩人鄭谷が諷っている。「桃花マサニ開ク薛濤(せつとう)ノ墳」

   《引用終了》

「諷っている」は「うたっている」。「鄭谷」(ていこく 八四二年?~九一〇年?)は晩唐の詩人。宜春 (江西省) の人。八八七年に進士に及第し、官位は都官郎中に至った。字(あざな)は守愚。幼少の時から才名が高く、七歳で作詩したと伝えられる。清新な詩風で。写景・抒情に優れる。七言律詩「鷓鴣 (しゃこ)」がとみに知られ、そこから「鄭鷓鴣」とも呼ばれた。詩集に「雲台編」(全三巻) がある。引用は七言律詩「蜀中三首 其三」の第二句。「漢文委員会」の「紀頌之の漢詩ブログ」のこちらで全文と現代語訳が読める。「薛濤」(七七〇年?~八三〇年?)は知られた中唐の女流詩人。字は洪度。長安の良家の出身であったと言われるが、父が任地の蜀で死んだために妓女となった。詩才により、歴代の地方長官から愛顧され、また元稹・白居易・劉禹錫といった当代一流の詩人らとも交遊があったとされる。八一四) 年に浣花渓に隠棲した。魚玄機とともに唐代女流詩人の双璧とされる。現行の中国語では薛濤は「Xuē Tāo」であるが、次の段落に出る「美しき Sie-Thao」の「Sie-Thao」は彼女のことである。

 なお、原本を見ていただくと判る通り、これは添え字(斜体となっている)として挿入されたものである。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

THE ANCIENT WORDS OF KOUEI — MASTER OF MUSICIANS

   IN THE COURTS OF THE EMPEROR YAO:—

 

   When ye make to resound the stone melodious, the

Ming-Khieou,—

   When ye touch the lyre that is called Kin, or the

guitar that is called Ssé,—

   Accompanying their sound with song,—

   Then do the grandfather and the father return;

   Then do the ghosts of the ancestors come to hear.

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。思うにこれは、中国古代の理想的聖王の一人である「Yao」(現代中国語:Yáo)=堯(ぎょう)を讃えたものと思われる。何を元にしたのかは判らぬが、所謂、堯の伝承の一つである「鼓腹撃壌」(堯の時代に一老人が腹鼓を打って大地を踏み鳴らしては太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」等に見える故事)に通底している内容と読める。一部の中国語ラテン文字転写がよく分からぬが(後注でその正体を示した)、それをごまかして力技で訳してみると、

   *

 

古代のいやさかの詞(ことば)――堯帝の宮廷に於ける伶人たちによる

 

    あなたが石の楽器「ミィン・キュウ」をメロディアスに響かせたとき、

    あなたが「キン」と呼ばれる琴、或いは「ススゥ」と呼ばれるギターをつま弾いたとき、

    それらの音(ね)に歌を添えると、

    それにつれて、祖父と父が帰って来、

    それにつれて、先祖の魂が聴きに来ます。

 

   *

石の楽器「ミィン・キュウ」というのは磬(けい)のことのようにも感じられ、「ススゥ」は不明だが、阮咸(げんかん)琵琶か月琴のようなものであろうか。カットされたのは本篇内容と関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。

 讀者は彼女――美しき Sie-Thao ――は誰のことだかと私に尋ねるだらう。彼女の石の寢床の上では、既に千年以上も樹木が低語いてゐる。して、彼女の名の綴音は、木の葉のさらさらいふ音に伴はれて、多くの指を有する樹枝の戰くにつれ、明暗の翺翔につれ、數限りなき野花の、女の呼吸の如く芳ばしき息と共に、聽者の耳に達する。が、彼女の名を囁くばかりで、その外に樹木の語ることは解らない。また樹木のみが Sie-Thao の年齡を知つてゐる。しかし彼女については、かの講古人――僅々數錢の報酬を得て、謹聽する群衆に向つて、每夜古い物語を話す有名な支那の講談師――の誰からでも、幾分を聽くことが出來る。『今古奇觀』と題する書からも幾許を知ることが出來る。して、恐らくは該書に載つてゐる話の中で、最も驚くべきは、このSie-Thao の物語である――

[やぶちゃん注:「低語いてゐる」「さやめている」と訓じておく。「ざわざわと音をたてている」の意。

「翺翔」(かうしやう(こうしょう))は本来は「鳥が空高く飛ぶこと」或いは「思いのままに振る舞うこと」の意であるが、ここは陽光の気儘に射すことの擬人化。

「聽者」「きくもの」と訓じておく。

「今古奇觀」(きんこきくわん(きんこきかん))は明代の短編小説集(全四十編)。作者は「抱甕(ほうおう)老人」とするが不詳。明代末の成立と推定されている。最後のハーンの解説にある通り、本篇が素材とした原話は同書の「第三十四巻 女秀才移花接木元」である。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

 五百年前、明の孝宗皇帝の治世に、廣州府に Tien-Pelou といふ博學と恭敬を以て著はれた人がゐた。この人には美しい獨り息子があつたが、これ亦學問技藝並びに風采の優雅に於て、儕輩に比ぶものがなかつた。彼の名は Ming-Y といつた。

[やぶちゃん注:「明の孝宗皇帝の治世」第十代皇帝である弘治(こうち)帝。在位は一四八七年から一五〇五年まで。

「廣州府」現在の広東省広州市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

Tien-Pelou」原拠「古今奇観」に従えば「田百祿」である。なお、ここまでもそうだが、ハーンの中国語のラテン文字表記は現行の表記とは孰れも激しく異なる。但し、いちいちそれは指摘しないこととする。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされているのである。しかし、ハーンの解説によって原拠は概ね明らかにされているわけであるから、原拠と照合すれば、かなりの箇所が漢字表記変換出来たはずなのであるが、落合氏は「あとがき」で、その時間がなかった、というようなことをさらに添えておられる。しかし、中身は拾い読みであったが、私は本篇の原拠である「今古奇観」を大学生の時に知っていた。中国文学専攻の学生ならまず知っている作品集であり、いやさ、国文学の学生でも江戸文学にも多大な影響を与えている作品であるからして知っていて当然である。そういい意味でちょっと真面目な学生なら、その「第三十四巻 女秀才移花接木元」の資料やメモを即座に落合氏に提供するだろう。その辺りがどうも不審で、かなり不満が残るところなのである(但し、事実、校了まで時間がなく、一部が漢字に変換できなかったとすれば、却って全篇全部をかく表記せざるを得なかった――一部が漢字表記で一部がローマ字というのは確かに翻訳の美学としてはいただけないとは言える――というのであれば、やや納得は出来る)。されば、本作品集全体を通じて、私は原拠と思われるもの及び平井呈一氏の訳から、可能な限り、漢字表記を注で復元しようと思う。

「著はれた」「あらはれた」。知られた。

「儕輩」「さいはい」。同輩。]

 この靑年が十八の歲を迎へたときに、父の Pelou Tching-tou の市の督學官に命ぜられたので、Ming-Y は父に伴はれて、そこへ赴くこととなつた。市の附近に、Tchang といつて、政府の特別高等なる委員を務め、富貴の身分の人があつた。この人は子弟のために良師を求めてゐた。新任督學官の到着を聞いて、この件について相談しようと思つて、Tchang は親しく彼を訪ねた。すると、たまたま彼の才藝に長ぜる息子に逢つて、談話を交はしたので、早速子供達のために Ming-Y を家庭敎師として招聘した。

[やぶちゃん注:「Tching-tou」原拠「古今奇観」に従えば「成都」、現在の四川省の省都チョンツーである。ここ

「督學官」原拠では「敎官」。教育行政監察官で日本の旧視学官相当の役である。

Tchang」原拠「古今奇観」に従えば「張」である。]

 さてこの Tchang 卿の邸は、市から數里を隔つてゐるので、Ming-Y はその聘せられたる家に、寄寓するのが、得策であつた。そこで、靑年は始めての淹留のため、一切必要の品を調へた。して、兩親は彼に別を告げるに當つて、賢い訓誡を與へ、老子並ぴに古聖の言を引用して彼に說いた。

[やぶちゃん注:「數里」原文は“several miles”。一マイルは千六十九メートル。明代の一里は五百五十九・八メートル。但し、原拠には距離は示されていない。後のシークエンスで夜出て、翌朝には帰れる距離であるように書かれてあるから、寧ろ、マイルで換算した方が(六掛けで十キロメートル弱)自然である。

「淹留」(えんりう(えんりゅう))は「長く同じ場所にとどまること」。「滞在」に同じい。]

 『美しい顏によつて、世界は愛に滿たもれる。しかし天はそれによつて決して欺かれるものではない。汝もし婦人が東から來るのを見たならば、西の方を見るがよい。もし少女が西から近寄つてくるのを認めたならば、汝の兩眼を東方に轉ずるがよい』

 後日に及んで、靑年がこの訓誡を注意しなかつたにしても、それはただ彼の若さと、生來愉快なる心の無思慮のためであつた。

 かくて、彼は出立して行つて、Tchang 卿の邸に起臥することとなつた。その中に秋が過ぎ、それから、また冬も去つた。

 

 春の二月になつて、支那人が『花朝』と呼んでゐて、百花の誕生日なる、芽出度い日が近づいた時に、Ming-Y の胸には兩親に逢つて見ようといふ眷戀の情が起こつた。そこで彼は Tchang 氏に其心を打明けた。主人は啻に許可を與へたばかりでなく、また銀二兩を强ひて彼の手に握らせた。それは『花朝』の祝節には、親戚朋友に進物を贈るのが、支那の慣習であるから、靑年をして兩親に何かの土產を持つて歸らせようと思つたのであつた。

[やぶちゃん注:「花朝」或いは「百花生日」「花神節」とも呼び、中国古代からあった伝統的な年中行事の一つ。節日は歴代王朝や地域によって異なったが、普通は旧暦二月十二日か十五日であった。その内容も花の種を蒔いたり、美しさを愛でたりなど、地方によって様々である(四方に広大で気候帯も寒帯から亜熱帯までであるから咲く花も開く日も大きく異なるから当然である)。明代の馬中錫は「宣府志」で、「花朝節、城中婦女剪彩爲花、插之鬓髻、以爲應節」(花朝節には、城内の女性たちが美花を剪(き)って髪に挿し、万物到来の春を言祝ぐ節句とする)と記す(中文ウィキの「花朝節」を参考にした)。

「眷戀」(けんれん)は「愛着の思いに惹かれること・恋い焦がれること」の意。

「啻に」「ただに」。]

 その日、空氣は花の香で眠氣を催すやうで、また蜂の唸り聲で振動してゐた。Ming-Y に取つては、彼が今通つて行く道は、多年の間、誰人も踏んだことがないやうに思はれた。草は路上に高く茂つて、兩側の巨樹は、彼の頭上に苔の生えた、大きな腕を交はし、道に暗い陰を作つてゐた。しかし葉陰は鳥の歌でそよそよと搖れ、森の深い奧は黃金色の蒸氣で輝き、寺院が抹香に薰ずる如くに、花の呼吸で芳ばしかつた。この日の夢みる如き樂しさは、靑年の心に浸み込んだ。して、彼は靑紫色の空高く搖れてゐる樹枝の下で、若い草花の中へ身を憇はせ[やぶちゃん注:「いこはせ」。「憩」の異体字。]、芳香と光を吸ひ、心地よき靜閑さを味はうとした。かやうに休息してゐる際、或る物音が彼をして野桃の花呪咲く陰の方に眼を向けしめた。すると、彼は淡紅色の花の如くあてやかな妙齡の一婦人が、花叢[やぶちゃん注:「はなむら」。]の裡に隱れようとしてゐるのを看た。僅かに一瞬間の管見であつたけれども、靑年は彼女の顏の美しさ、彼女の肌の黃金のやうな淸らかさ、蠶蛾[やぶちゃん注:「かひこが」。]が翼を伸ばした如く、優美な曲線を描ける眉毛の下に輝く彼女の長い明眸を認めざるを得なかつた。靑年は直ちに視線を轉じて、急に立上つて、行進を續けた。が、彼は木の葉の間から覗いた雙眸の魅惑的な印象に痛く惱まされたので、覺えず彼の袖に入れてゐた銀貨を落としたほどであつた。數分間の後、彼は背後から走つて來る、輕い跫音と、彼の名を呼ぶ女の聲を聞いた。非常に驚いて彼の顏を振向けると、彼は風采賤しからぬ侍婢を見た。その女は『私の女主人は、貴郞が途上に落としなされた、此銀貨を御拾ひ申して、御返しするやう私に申しました』と彼にいつた。靑年は丁寧に女に禮を述べ、女主人に宜しく傳言して吳れるやう賴んだ。それから、彼は芳香馥郁たる閑けさの間を通り、世に忘れられた路傍に夢みてゐる陰を越えて、進んで行つた。彼自身もまた夢心地になつて、枝が見た美しい女のことを考へて、彼は奇異に、心臟の鼓動が早くなるのを感じた。

 

 

 靑年が歸途、同じ道を通つて、かの優しい姿が瞬間彼の前に現はれたことのある地點で、再び足を停めたのは、また以前のやうな好天氣の日であつた。しかし今囘、彼は窮りなき樹林の遠い奧に、先きには氣のつかなかつた一軒の家――田舍の住宅の、大きくはないが、非常に優雅な――を認めて驚いた。その灣曲せる、鋸齒狀の二重屋根の輝いた碧瓦[やぶちゃん注:「あをがはら」。]は、樹葉の上に聳えて、蒼空の色と交り合ふやうに見えた。その彫刻を施せる玄關の綠黃色の意匠は、日光を詐びたる葉や花の精巧なる藝術的扮擬[やぶちゃん注:「ふんぎ」。対象(ここは花)に似せて形象してあること。]であつた。して、靑年は大きな陶器の龜を兩側に据ゑたる、階段の絕頂に、女主人が立つてゐるのを見た。彼の熱烈なる空想の女は、彼女に彼の感謝の使命を齎し歸つたのと同一の侍女を伴つてゐた。靑年が眺めてゐると、彼等の眼が彼に注がれてゐるのが認められた。彼等は恰も彼のことを語つてゐるかのやうに、微笑したり、話し合つたりしてゐた。して、内氣な彼も、遠くから美人に向つて會釋する勇氣を得た。彼の驚いたことには、若い侍女は彼に近寄つてくるやう手招きをした。そこで彼は赤い花の咲ける匍匐植物で半ば蔽はれた、田園風の門を開いて、階段の方へ通ずる靑々たる小徑に沿つて、驚異と臆病な喜悅の混ぜる感を抱き乍ら步を進めた。彼が接近すると、美しい淑女は退いたが、侍女は廣い階段に立つて彼を迎へた。彼が上つたとき、侍女は云つた――

 『私の女主人は、過日主人が私に命じて致させました些かばかりのことに對して、貴郞が御禮を述べようと思つてゐらつしやるだらうと存じまして、どうか貴郞がこの家へ御入り下さるやうお願ひ申上げます。主人は最早御評判で、貴郞を知つてゐますので、御目にかかりますれば仕合せと存じてゐます』

 靑年は羞かみ乍ら入つた。彼の足は森の苔の如く彈力を帶びた、柔かな莚の上に、少しの音をも立てなかつた。應接間は廣やかで、凉しく、新たに集めた花の香に薰つてゐた。心地爽かな閑靜が、家の中に遍く[やぶちゃん注:「あまねく」。]行き渡つてゐた。竹の簀戶[やぶちゃん注:「すど」。竹或いは葭(あし)の茎などで編んだ簾を枠にはめ込んだ透過性のある戸。]から洩れる數條の光の上には、空飛ぶ鳥の影が映つた。燃えるやうな色の翅を有てる[やぶちゃん注:「もてる」。]大きな蝶が入りできて、彩畫を施せる花甁の邊に霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。しばらくの間。「暫時」に同じい。]徘徊して、また神祕な森へ去つて行つた。すると、蝶の如く音も立でずに、この邸宅の若い女主人は、別の戶口から入つて、親切に靑年に挨拶した。靑年は胸へ兩手を上げ、低頭恭敬の鐙をした。女は彼が思つてゐたよりも一層丈が高く、美しい百合の如く纎靭[やぶちゃん注:「せんぢん」。しなやかであるが、丈夫で壊れやすい感じはしないこと。]であつた。彼女の黑い髮には、橘の乳白色の花が組み合せてあつた。靑白い絹の衣裳は、彼女の動くにつれて、色合が移り變つて、恰も水蒸氣が光の變化に伴つて色を遍ずるやうであつた。

 兩人が慣例の挨拶を了つて、席に就いてから、彼女は云つた。「失禮ながら、貴客は私の親戚、Tchang 氏の子供達を敎へ下さる、Ming-Y と申す、御方では御座いませんか。Tchang 卿の家族は、また私の家族ですから、あの子供達の先生は、私の親類の御一人としか思はれません』

 Ming-Y 少からず驚いて答へた。『恐縮ですが、貴家の御名と、また貴女と私の主人の御親類關係を伺はしていただきたいものです』

 『私の家は、Pingと申します』とこの貴婦人は答へた。『Tching-tou の市の古い家柄なのです。私は Moun-hao Sie と申すものの娘でありまして、矢張り Sie と申します。私はこ〻の Ping 家の Khang と申す靑年に嫁いだのです。その婚姻のため貴郞の庇護者と親類になつたのですが、私の夫は結婚後、間もなく亡くなりましたので、私はこの孤獨の地を選んで私の寡居の間、住居することに致しました』

[やぶちゃん注:「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Moun-hao」原拠「古今奇観」に従えば「文孝坊」である。

Sie」「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Khang」原拠「古今奇観」に従えば「」である。則ち、彼女の嘗ての亡き夫の姓名は「平康」である。

 と「寡居」(くわきよ(かきょ))は「やもめ暮らし」のこと。]

 彼女の聲には、小川の旋律の如く、泉の囁きの如く、睡眠を催すやうな音樂があつた。またその話し振りには、靑年が嘗て聞いたことのないやうな奇異に優美な趣があつた。しかし彼女が未亡人であると聞いたので、靑年は正式の招待がない以上は、長く彼女の前に留まつて居ることを欲しなかつた。そこで、彼に薦められた一椀の銘茶を啜つた後で、彼は立つて去らうとした。が、Sieは、ほど急に去ることを許さなかつた。

 『いや、貴郞』と女はいつた。『どうか、今暫く私の家に御留まり下さい。貴郞の庇護者は、折角貴郞がこ〻に御出になつたのに、私が立派な御客扱ひを致さないで、あの人同樣に御もてなし申上げなさつたといふことを萬一耳にしますれば、さぞ非常に立腹しませうたら。少くとも晩餐まで御留まり下さい』

 そこで靑年は留まつた。心中では窃かに欣んでゐた。それは彼女が未だ官嘗て見たことのないほど、美しい女と思はれたからであつた。して、彼は兩親以上に彼女を愛する氣持を感じた。かくて彼等が話をしてゐる内に、薄暮の長い影は徐かに[やぶちゃん注:「ゆるやかに」。]一樣の黑紫色に混じた。夕陽の太い檸檬色の光は、消え失せた。して、人間の生と死と運命を支配する三公註三と呼ばれる星宿は、北の空にその冷かに輝く眼を開いた。邸内には紅燈が點ぜられた。晩餐の食

 

註三 三公――大熊星座の六個の星が、二つづつ一組となつてゐるのを、支那の占星術者及び神話學者が、かく名づけたのである。この三組は更に大公、中公、小公と區別され、是等は北辰星と共に、天空の法廷を組織し、人の壽命及び運勢を支配する。(スタニスラス・ヂュリアン氏譯「太上感應篇」註による)

[やぶちゃん注:「北辰星」北極星の異称。

「スタニスラス・ヂュリアン」エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。

「太上感應篇」南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。但し、先行する一八一六年のジュリアンの先任者であった夭折の中国学者アベル・レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat:「大鐘の靈」で既出既注)によるフランス語訳がある。]

 

卓は設けられた。靑年は食卓の彼の席に就いたが、食べようとする氣はあまりに起こらないで、ただ彼と相對する美貌のことをのみ考へてゐた。彼が皿に盛られたる珍味を殆ど味はないのを見て、女は酒を傾けるやう、若い客に强ひた。して、兩人は數杯を共に飮んだ。それは紫色の酒であつた。酒を注がれた杯が一面に露を帶びる程に冷かであつたが、しかも不思議な火を以て、脈管を溫めるやうに思はれた。飮んで行くま〻に、靑年の眼には、一切のものが魔法による如く、一層輝いてきた。部屋の壁は後退り[やぶちゃん注:「あとじさり」。]して、屋根は高くなるやうに見えた。燈火は吊るせる鎖の上で、星の如く輝き、女の聲は遠く睡げな夜の空に聞える、佳調の如く靑年の耳へ浮かんできた。彼の心は擴大してきた。彼の舌は弛んだ。して、彼が敢然口に發し得ないものと思つてゐたやうな言葉が、彼の脣からら輕く飛んで出た。しかし女は彼を抑制しようとはしなかつた。彼女の脣は一つの微笑をも洩らさなかつたが、その長い明かるい双眸は、彼の讚辭に對して愉快さうな笑ひを見せ、またその熱烈なる欽仰嘆慕の凝視に對しては、愛情を籠めたる注意を以て應ずるやうに見えた。

[やぶちゃん注:「欽仰」(きんぎやう(きんぎょう))は「尊敬し慕うこと」。]

 女はいつた。『私は貴郞の非凡の御才能と澤山高尙な技藝に御熟達のことを噂に承つてゐます。氾は格別に音樂を修業致したといふのでは御座いませんが、少しばかり歌ふことを習ひました。折角貴郞のやうな專門のお方が御出下さいましたから、私は御遠慮申上げないで、どうか貴郞に私と共に御歌ひ下さるやう大膽にも御賴み申上げます。また私の樂譜を御調べ戴きますれば、非常に滿足に存じます』

 『私こそ光榮と滿足を感じます』と靑年は答へた。『かやうな稀有の御厚意に對しては、感謝の申上げやうがありません』

 侍女が小さな銀の呼鐘の響に應じて、樂譜を持つて出でて、また退がつた[やぶちゃん注:「さがつた」。]。靑年は女の手書の譜を取上げて、熱心に檢べた。書いてある紙は、淡黃色を帶び、薄紗の地貿のやうに輕くあつたが、文字は古風な美しさで、恰も黑松使者註四――かの蠅ほどの大いさの墨の精――によつて揮毫されたかのやうであつた。また、その譜に附いてゐる落款は、元稹や、Kao-Pien や、Thou-mou ――唐時代の偉大な詩人や音樂家――のものであつた。彼はかほどの貴重無比の寶を見て、欣然絕叫を禁じ得なかつた。また暫しも手から離す氣になれぬ程であつた。

 

註四 黑松使者――漢の Hiuan-tsong 帝が或る日、書齋にゐたとき、蠅ほどの小さな道士が、卓上の硯から現はれて云つた。『私は墨の精で、黑松使者といふ名のものです。眞に賢明な人が筆を執ると、その度每に、墨の十二神が墨の面に浮かぶものです。私はこのことを告げるために來ました」モウリス・ヤムテル氏著「支那の墨」(一八八二年、巴里出版)參照。

[やぶちゃん注:「元稹」(七七九年~八三一年)中唐の詩人・文学者。洛陽の人。字は微之。八〇六 年に科挙に及第して左拾遺となったが、権臣に憎まれ、河南尉に左遷された。その後も左遷と昇進を経、八二二年に宰相となったが、半年足らずで浙東監察使に転出し、武昌軍節度使に移って亡くなった。白居易と親交があり、唱和した詩も多く、また、ともに李紳の「新題楽府」に刺激された「新楽府」の創作にも熱心であったことから、「元・白」と並称された。唐代伝奇「鶯鶯伝」の作者でもある。ここは珍しく漢字変換されてある。しかし、以下の二人をローマ字表記にしている以上、前に私が好意的に言った統一性の観点からは逆にこれはおかしいということになる。

Kao-Pien」原拠「古今奇観」から「高駢」である。高駢(こうべん ?~八八七年)は晩唐の詩人。節度使。字は千里、幽州(北京)の人。禁軍の将校から身を起こし、安南都護・静海軍節度使・天平軍節度使・西川節度使・荆南節度使を歴任して功績を挙げた。「黄巣の乱」に際しては、浙東へ侵攻する黄巣軍を撃破し、一時的であったが、福建・広東方面への転進を余儀なくさせ、官軍の総帥となった。しかし後、揚州に居すわったままとなり、長安を占拠した黄巣軍の討伐には積極的ではなかった。

Thou-mou」原拠「古今奇観」から「杜牧」である。晩唐の著名な詩人杜牧(八〇三年~八五二年)は京兆万年 (陝西省西安市) の人。字は牧之。号は樊川 (はんせん) 。祖父は制度史書として知られる「通典」(つてん)の編者杜佑(とゆう)であった。八二七年に進士に及第して弘文館校書郎となり、比部員外郎を経て、八四二年、黄州刺史に転じた。以後、池州・睦州などの刺史を務め、中央に戻って中書舎人に昇任したが、まもなく没した。生来剛直で「阿房宮賦」を作って敬宗を諌めたり、「孫子」の注を書くなど、政治・兵法にも強い関心を持っていた。唐王朝の退勢挽回を図ったが、努力が実らぬまま、妓楼に遊ぶことが多くなった。晩唐らしい感覚的・退廃的な詩を残し、李商隠とともに「李杜」と並称され、杜甫に対して「小杜」とも呼ばれる。

「黑松使者」唐の筆記録「陶家瓶餘事」に、

明皇御案墨、一日見小道士如蠅、呼萬歲。曰、「臣、墨之精、黑松使者也。凡世有文者、墨上有龍賓十二。上神之、乃以分賜掌文官。」。

とある。「明皇」とは玄宗皇帝の別名である。ここの出る「漢の Hiuan-tsong 帝」を漢ではなく、唐とすれば(原文では“Thang dynasty”で、漢は現行で「hàn」なのに対して「唐」は「Táng」である)玄宗を現在の拼音で示すと「Xuán zōng」であるから、それっぽい。昔から好きなサイト「寄暢園」のこちらには、唐の滅亡後の五代の後唐に馮贄によって編せれた「雲仙散録」の邦訳が載り、

   《引用開始》

 『陶家瓶餘事』に言う。

 玄宗が使用する墨は「龍香剤」と呼ばれていた。

 ある日、玄宗は墨の上に動き回る物を見つけた。蝿かと思ったが、よく見てみるとそれは小さな道士であった。玄宗が叱りつけると、小道士は諸手(もろて)を上げて、

「万歳!」

 と叫んだ。そして、こう言った。

「臣は墨の精、黒松使者でございます。およそ文ある者の墨には龍賓(りょうひん、注:墨の神)が十二人おります」

 玄宗は霊妙なことと思い、この墨を文官に分け与えた。

   《引用終了》

とあるから、間違いなく唐の玄宗の逸話である。なお、本篇末に配された漢語画像はこれである。

「モウリス・ヤムテル」モーリス・ジャメテル(Maurice Jametel 一八五六 年~一八八九年)はフランスの外交官で中国学者。

「支那の墨」原文“L'Encre de Chine”(「中国の墨」)。]

 

 彼は叫んだ。『これは實に帝王の寶に勝さるほど貴重なものです。これこそ私共の生れない五百年の前に、歌つた諸大家の書です。よくも立派に保存されたものです! これはあの有名な「幾世紀後も石の如く堅く殘り、文字は漆の如くならむ」と云はれた墨ではありませんか? また、何といふこの譜の絕妙でせう! 詩人中の王で、五百年前四川省の刺史であつた Kao-pien の歌です』

[やぶちゃん注:「Kao-pien」は先に出た高駢。彼は西川(四川省西部)節度使であったことがあり、節度使は居城(会府)の州の軍事長官である刺史をも兼任し、軍・民・財三権を握る独立軍閥的存在であった。]

 『Kao-pien! 好きな Kao-pien!』と女は眼に奇異な光を湛へ乍ら呟いた。『Kao-pien はまた私の愛好作家です。貴郞と諸共に、彼の詩を古曲に合はせて歌ひませうよ――もつと今日よりは、人々が氣高くて賢かつた頃の音樂ですね』

 それか樂ら、彼等の聲は相合して、流暢なる美はしい音となつて、芳ばしい夜の中に鳳凰註五

 

註五 鳳凰――この寓意的の鳥に、幾分亞剌比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]の不死鳥(フヰーニツイクツス)と對應するのであるが、高五キユービツト(一キユービツトは十八吋[やぶちゃん注:「インチ」。]乃至二十二吋)、五色の羽毛を有し。五音の變調に歌ふと稱せられる。雌鳥は不完々なる調子で歌ひ、雄鳥は完々に歌ふ。鳳凰は支那の音樂に關する神話や傳說によく現はれてゐる。――(不死鳥は唯一無二の鳥で、亞刺比亞沙漠に於て六百年間生活する每に。埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]國ヘリオポリス市に行つて自ら身を燒き祭壇の灰と化し、それたら再び其灰燼中から、若返つて美しい姿を以て蘇生し、更にまた六百年を經る。かくして轉𢌞轉生、極まることなしと稱せられる。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は河合氏による訳注である。

「鳳凰」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「キユービツト」cubit(英語:キュービト)は古代(紀元前六千年頃にメソポタミアで生まれたとされる)より西洋の各地で使われてきた長さの単位。今日、キュビットを日常的に使用している文化は存在しないが、宗教的な目的、例えばユダヤ教などでは現在でも使われている。落合の「一キユービツトは十八吋乃至二十二吋」というのは、四十五・七~五十五・八センチメートルに相当する。時代や使用した民族によって微妙に異なるが、四十九センチメートル前後であるようである。詳しくはウィキの「キュビット」を参照されたい。

「ヘリオポリス市」(ラテン文字表記:Heliopolis)は現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意。古代名では「Iunu」(イウヌ)或いは「On」(オン)と呼ばれていた。ここはヘルモポリスと並んで古代エジプトの創世神話の中心地として有名である、とウィキの「ヘリオポリス」にある。]

 

の聲の如く立騰つた[やぶちゃん注:「たちのぼつた」。]。しかも、間もなく、靑年は彼の伴侶の聲の魅力に壓せられて、唯無言恍惚のま〻、聞き入つてゐるばかりであつた。同時に室の燈光は朦朧となつて波動する如く見え、愉快の淚は双頰を傳つて流れた。

 かやうにして夜の時刻は移つた。それでも猶ほ彼等は話をつゞけ、冷たい紫の酒を飮み、唐代の歌を歌ひ乍ら夜を更かした。彼が立たうとしたのは、一たびではなかつたが、その度每に女は、銀のやうに甘美な彼女の聲で、昔の大詩人達や、また彼等が愛した女の話を始めたので、彼は魅せられたやうになつた。また彼女は非常に珍異怪奇な歌を歌つたので、聽覺の外、彼のあらゆる感覺は死んで了つたやうであつた。たうとう彼女が歌を止めて、彼の健康のために祝杯を學げた時、靑年は彼の腕を彼女の頸に捲きつけ、彼女の纎弱な頭を彼の方に引きよせて、酒よりも赤くて、甘き彼女の雙脣に接吻することを堪へ得なかつた。すると、彼等の脣は最早離れなかつた――夜は更けて行つたが、彼等はそれを知らなかつた。

 

 

 鳥は目醒め、花は朝暾[やぶちゃん注:「てうとん(ちょうとん)」。朝日。]に眼を開いた。して、靑年はいよいよ彼の可愛らしい妖術者に別れを告げねばならなかつた。女は玄關の壇まで伴いて行つて、懷たしげに接吻して云つた。『どうか、なるべく度々御出下さい。貴郞は祕密を洩らすやうな、信實のない人達と違つてゐることを、私は存じてゐますが、でも、まだお若いから、時としては御注意の足らぬこともありませう。どうは、私共の愛は、ただ空の星が知つてゐるだけだといふことを御忘れ下さいますな。誰人[やぶちゃん注:二字で「たれ」と訓じておく。]にも御話しをしてはいけません。それから、私共の幸福の夜の紀念として、この小さなものを御持ち下さい』

 かく云つて、女は精巧珍異の小さな品――孔夫子を崇めて、虹が作つたやうな、黃色の硬玉註六で、蹲踞せる獅子の形に作れる文鎭を――彼に呈した。靑年はやさしく、その贈物とそれを與へた美しい手に接吻して、『もし貴女が私を叱責下さるやうなことを、私が知りつゝ犯しますれば、神罰覿面です』と誓つた。して、彼等は互に誓を交はして別れた。

 

註六 硬玉――碧玉の一種である。藝術的材料として、常に珍重せられ、支那人は yuh と稱してゐる。「感應篇」に、孔子が孝經を完成してから、天を拜した時、深紅の虹が空から降つて、彼の足下で一片の黃色硬玉と變つたといふ珍らしい傳說がある。スタニスラス・ヂユリアン氏譯四九五頁參照。

[やぶちゃん注:「硬玉」翡翠 (ひすい)

「感應篇」註三で既出既注のフランスの東洋・中国学者エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)の一八三五年刊の「太上感應篇」の訳“Le livre des récompenses et des peines”のこと。

「孝經」十三経の一つで、長くは、孔子の作ではなく、孔子が曾子に対して孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、最近の研究では戦国時代の偽作とされる。全一巻。儒教の根本理念の「孝」について、その徳たる所以や実践の具体的内容などを述べたもの。]

 

 その朝、Tchang の邸にへ歸つてたら、彼は生まれてから始めての虛言を吐いた。今や氣候も頗る惡くなつたから、母は彼にこれからら夜間自宅に泊つて吳れるやう求めたと告白し、道程は幾分遠いが、彼は强壯活潑であるし、新鮮なる空氣と健康なる運動が必要であると云つた。Tchang は、すべて彼の言を信じ、何等の異議を挿まなかつた[やぶちゃん注:「さしはさまなかつた」。]。そこで、靑年は夜間を美しい Sie の家で過ごすことが出來るやうになつた。每夜彼等はその初會を愉絕快絕たらしめたと同じ娛樂に耽つた。彼等は交る交る歌つたり、物語をした。彼等は碁を圍んだ―― Wang-Wang によつて發明された深遠なる遊戲で、戰爭の模擬である。彼等は花、樹木、雲、鳥、蜂について八十韵[やぶちゃん注:「ゐん」。詩賦・歌曲の総称。]の詩を作つた。が、すべての技藝に於て女は遙かに彼女の若き愛人を凌駕した。圍碁の際には、いつも彼の王將が包圍を受けて敗れた。詩作に當つては、女の詩は詞彩の調和、形の優美、想の古典的高尙に於て、彼のよりも常に勝つてゐた。して、彼等の選んだ題は、いつも最も難かしいものであつた――唐時代の詩人のものであつた。彼等が歌つた歌もまた五百年前のもの――元稹や、Thou-mou や、就中、名詩人で、四川省の刺史であつた Kao-pienの歌であつた。

[やぶちゃん注:「Wang-Wang」伝承では囲碁は聖王堯・舜が発明して息子たちに教えたとする。実際の文献上の初出は「論語」や「史記」である。このような話を私は寡聞にしらないが、この「Wang-Wang」というのは周の武王(拼音:Wǔ Wáng)であろう。平井氏もそのように訳しておられる。]

 かやうにして、彼等の戀の上に夏は榮えて、また衰へ、それからら、幻ろしの黃金のやうな霧と、不思議な紫色の影を伴へる、輝ける秋が來た。

 すると、偶然彼の父が、その子の主人に逢つたとき、質問を受けた。『最早冬も近くなつたから、貴下の息子さんは每夕市の方へ陷つて行くに及ばないではありませんか。道中は遠くもあるし、それに朝歸つてきた際には、疲れ果てたやうに見えます。雪の降る季節の間、なぜ私の家へ泊らせないのですか』彼の父は非常に喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]、答へた。『閣下、愚息は市へも出でで參りませぬ。また此夏中、私共の宅へ參つたこともありません。多分惡習に陷まして、よからぬ友達と夜を過ごすので御座いませう――恐らくは賭博とか、或は花舫[やぶちゃん注:花街で船を根拠地とした遊女たちの集まる場所の意と思われる。]の女と酒を飮むのではありますまいか』しかし長官は答へた。『いや、そんなことは思ひもよらぬことです。私は未だ嘗て、あの靑年に何等の惡弊を發見しないのです。また、私の附近に酒舖や花舫や道衞の場所とてはありません。屹度同年配の愉快な友達を得たので、それと夜を過ごすために、さもなくば遊びに行くことを私が許さないと思つて、虛僞を云つたのでせう。どうか私が此祕密を發見し得るまでは、彼に何も云はずに置いて下さい。して、今夜私は家僕を遣はして、彼の彼を蹤けさせ[やぶちゃん注:「つけさせ」。]、行先を注意させますたら』

 父は直ちにこの提議に同意し、翌朝この提儀に同意し、翌朝 Tchang を訪ねることを約して、家へ歸つた。夜になつて、靑年が邸を出でて行くと、一人の僕が見えないやうに、遠くから彼についで行つた。しかし道の最も暗い處に達してから、靑年は宛然土地に吞み込まれたかの如く、忽然姿が見えなくなつた。長い間、彼を搜索しても無効であつたので、僕は非常に當惑して歸つてきて、そのことを報告した。Tchang は直ちに Pelou の許へ使を遣はした。

 一方、靑年は愛人の室へ入ると、彼女が淚を流してゐるのを見て、驚き、且つ困つた。女は彼の頸に兩腕を捲きつけて、咽びながら云つた。『私共は永遠に分たれねばならぬことになりました。その譯は貴郞に云へません。抑もの始めから、私は斯うなるものとは知つてゐました。しかしそれで、も暫くの間は、私にはあまりにも殘酷な損失、あまりにも案外な災難と思はれまして、泣かずには居られないのでした。今晚限りで私共はお互に復た迄ふことはないでせう。して、貴郞は一生私をお忘れ下さることは出來ないだら5うと存じますが、また貴郞は大學者になつて、富貴を授けられ、それたら、或る美しくて、貴郞を愛する女が、私を失ひになつたのに對して、貴郞を慰めるだらうと存じます。で、最早悲しいことはお互に語らないで、この最役の晚を愉快に過ごしませう。さうして、私の思ひ出が貴部郞に取つて、心苦しくならぬやう、また貴郞が私の淚より私の笑ひを記憶して下さるやう致しませう』

 彼女は淚の玉滴を拭ひ去り、酒と樂譜と絹糸の七絃琴註七を持出でて、彼をしで瞬間も、やがて來たらんとする別離のことを話させなかつた。して、彼女は夏の湖水が唯碧空のみを映ぜる靜けさと、憂慮悲哀の雲影が心の小さな世界を暗くしない前に於ける、胸裡の沈着平穩を詠ぜる古歌を彼のために歌つた。間もなく、彼等は歌と酒の喜悅に悲しみを忘れた。して、その最終の數時間は、彼に取つては彼等の最初の幸福の折よりも、更に無上のものに思はれた。

 

註七 琴 Kin  ――支那の樂器中、最も完全なもの。「愚者の琵琶」とも稱せられる。Kin といふ語は、また「禁」を意味する。支那人の信仰によれば、音樂は一邪念を去つて人間の情を、正しくする」から、このやうな名をこの樂器に與へむのだと云はれてゐる。ウヰリヤムス氏著「中國」參照。

[やぶちゃん注:「ウヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊の“The middle kingdom”であろう。但し、「琴」の語源がハーンの謂うようなものであることには私は留保する。]

 

 が、麗らかな黃色の朝が來ると共に、彼等の悲しみは歸つてきて、兩人は泣いた。再び彼女は愛人を送つて階段まで行つて、別れの接吻をした。その際、彼の掌中へ別れの贈物を押し込こだ――それは瑪瑙の小さな筆筒であつた。驚くべき彫刻が施され、堂々たる詩宗の卓を飾るに適はしいものであつた。かくて、彼等は幾多の淚を灑いで、永久に別れた。

 

 しかし靑年は、それを永遠の別れと信ずることが出來なかつた。彼は『否、明日は彼女を訪問しよう。私は彼女なくては生きて居られないし、また、彼女は屹度、私を迎へることを拒絕し得ないだらう』と考へた。こんなやうな考へに滿たされ乍ら、彼が Tchang の家に達すると、彼の父と彼の庇護者が、玄關に立つて待ち設けてゐるのを發見した。彼がまだ一語を發し得ない内に、父は詰問した。『其方は此頃每夜、何處で泊つてゐたのだ』

 彼の虛僞が露見したのを知つて、彼は何等の答をも敢てしなかつた。彼は父の面前で、頭を垂れ、赤面無言のま〻であつた。すると、父は杖を以て激しく彼を鞭撻して、祕密を打明けるやう命じた。たうとう一つには父に對する恐怖と、また一つには『父に違背する子は、百囘の鞭撻を以て罰すべし』と規定せる法律を恐れて、彼は彼の戀愛の歷史を口籠りながら述べた。

 Tchang は靑年の物語を聞いて、顏色を變へた。彼は呼んで云つた。『私の親戚に Ping といふ名はない。君が說明したやうな女のことを私は聞き及んだこともない。しかし、君は家大人に虛言を吐く氣にはなれまい。どうも、この事件には奇異な疑はしい點がある』

 そこで靑年は、女が彼に與へた財物――黃色硬玉の獅子、瑪瑙に彫刻せる筆筒、また美姬の創作にかかる詩――を示した。Tchang が驚くと共に Pelou も驚いた。二人とも瑪瑙の筆筒と硬玉の獅子は數百年も地中に埋れた趣を有することと、現代の工匠の模し得ない技巧なることを認めた。加ふるに、詩は唐代の詩風で、眞に傑作であつた。

 Tchang は叫んだ。「Pelou 君、私兵は察刻令息を伴つて、是等の不思議なものを得た場處へ行つて見て、私共で實際を調べて見ませう。屹度、令息は眞實を話してゐるのでせうが、私の腑に落ちないのです』して、三人相携へて Sie の住家の方へ赴いた。

 

 が、彼等が道中の最も木蔭の多い場所、蘚苔[やぶちゃん注:「こけ」と訓じておく。無論、広義のコケ・シダ類である。]が最も芳ばしく、蘚苔が最も綠色を呈し、且つ野桃の呆賞が最も紅く輝いてゐる場所へ達したとき、靑年は森七廷して凝視して、驚愕の叫を發した。碧瓦の屋根が高く聳えてゐた處には、今は唯靑い空虛があるのみで、綠黃色の家の正面が見えてゐた處には、輝いた秋の光りの下に、唯木葉のちらちらするのみであつた。して、廣い壇が延長してゐた處には、唯古色蒼然、蘇苔に深く蝕せられた一個の癈墳が、認められるのみであつた。その上に刻まれた名は、最早讀むことが出來なかつた。Sie 家は失せてゐたのであつた。

 突然 Tchang は手を以て額を叩き、Pelou の方に振今向いて昔の詩人、Tching-Kou の有名な持を誦した――

[やぶちゃん注:「Tching-Kou」冒頭に配された詩句の作者鄭谷である。]

 『Sie-Thao の墓上には必らず桃の花が吹く』

 彼は續いて云つた。『Pelou 君、令息を魅惑した麗人は、私共の眼前にその墓が立つてゐる彼女に相違ない。彼女は Ping-Khang に嫁ついだと言つたではないか。そんな名の家族はないが、それは實際近く市中にある廣い橫町[やぶちゃん注:主道路の左右に付属する横町の意。]の名です。彼女の云つたすべてのことには、暗黑な謎があつた。彼女は自身を Moun-Hiao Sie [やぶちゃん注:先に示した通り、原拠の「文孝坊の薛」のことである。]と稱した。そんな人名はない。そんな町名もない。しかし Moun [やぶちゃん注:平井氏は『文』とする。]といふ字と hiao [やぶちゃん注:平井氏は『孝』とする。]といふ字を合はせると、Kiao [やぶちゃん注:平井氏は『教』とする。]といふ字になる。お聽きなさい! Kiao 町にある Ping-Khang といふ橫町は、唐時代の名妓輩の住んでゐた處でした。彼女は Kao-Pien の詩を歌つたのではありませんか。それから、彼女は贈つた筆筒と文鎭には、「Oho-hai 府の Kao 所有の淸翫品」[やぶちゃん注:平井氏は『渤海府、所蔵の清玩品』とある。]といふ文字が刻まれるではありませんか。その府は最早存してゐないが、詩 Kao-Pien の思ひ出は殘つてゐます。彼は四川省の勅史であつて、また一大詩人でしたから。且つ彼が Chou [やぶちゃん注:平井氏は『蜀』と訳しておられる。旧蜀は現在の四川省、特に成都付近の古称である。]の地にゐた時は、彼の寵幸[やぶちゃん注:「寵愛」に同じい。]したのは美しい游妓 Sie ――當時のあらゆる女の中で優雅無雙であつた Sie Thao ――ではありませんでしたか。あの詩稿を彼女に贈つたのは、彼なのです。あの珍重すべき美術品を彼女に與へたのも彼なのです。彼女は死んでも他の普通の女達とは違ふのです。彼女四肢は、灰燼に歸したのでせうが、まだこの深林の中に、何か彼女のものが生きてゐます――彼女の幽靈が依然この森蔭の地に彷徨してゐるのです』

 Tcnang は言葉を止めた。漠然いひやうのない恐怖が三人を襲つた。薄い朝霧が、綠色の遠景を朦朧たらしめて、森の怪凄なる美を深めた。一陣の力なげな微風が吹いて、花香の尾を曳いて去つた――枯死せんとする花の最後の薰り――忘れられた衣裳の絹に縋り附く衣薰の微かな名殘りであつた。して、それが過ぎ去る時、樹木は沈靜を破つて、『Sie-Thao』と囁くやうに思はれた。

 

 

 息子のため、痛く心配して、Pelou は直ちに彼を廣州府にかへした。その土地で、後年 Ming-Yは彼の材能と學問のために榮位髙譽を得た。して、彼は名門の女を娶つて、德藝共に有名なる兒女達の父となつた。彼は決して Sie-Thao を忘れ得なかつた。しかし決して彼女のことを口にしなかつたとのことである。たとひ兒女達が彼の書机にいつも載つてゐた二個の美麗な品――黃色硬玉の獅子と瑪瑙の彫刻の筆筒――の物語をするやう求めることがあつても。

 

黑松使者

 

070

 

【ハーンによる「解說」】

 『Ming-Y 秀才の話』――私のこの話は『今古奇觀』といふ有名なる物語集の第三十四章にある妖怪談に基いて書いたもので、もと博學なるグスタフ・シユレーゲルによつて、初めて該書の第七章と第三十四章は佛譯されたのであった。シュレーゲル、ジユリアン、ガードナー、バアーチ、ダントルコル、バーアチ、ダンドルコル、レミユデ、パヴィー、オリファント、グリゼバッハ、エルヴエ・サン・ドニー、その他の諸家が、該書の第二、三、五、六、七、八、十、十四、十九、二十、二十六、二十七、二十九、三十、三十一、三十四、二十五、三十九章、合計十八篇を歐洲語に譯出してゐる。支那の原著は十三世紀に遡つてゐるが、既に當時に於て最も人口に膾炙してゐた說話を集めたのだから、その多くは更に古い起原に屬するものと思はれる。『今古奇觀』には四十個の物語が載つてゐる。

[やぶちゃん注:「グスタフ・シユレーゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。

「ジユリアン」既出既注のフランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。

「ガードナー」原文“Gardner”。不詳。検索したが、ピンとくる人物がいない(以下の「不詳」は同前)。

「バアーチ」“Birch”。不詳。

「ダントルコル」“D'Entrecolles”。フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し、陶磁器の研究を行った。

「レミユデ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。

「パヴィー」“Pavie“。既出既注。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。

「オリファント」“Olyphant”。不詳。

「グリゼバッハ」“Grisebach”。不詳。

「エルヴエ・サン・ドニー」既出既注。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。

 私は正直、このハーンの作品以上に原拠「今古奇観」の「第三十四巻 女秀才移花接木元」(中文ウィキソースの原拠では相聞される詩篇も載り、雅ではあるけれども)を愛恋々に静かに訳しうる日本の詩人は向後も登場しないではないかと感じている(私はこの漢文を訳せる能力を持ち合わせていない。されば、長い原文を示すこともしないし、況や訳を示すことは出来ない。悪しからず)。しかし、パトスののっぴきならない要求を持たない似非作家ばかりのこの現代には――

2020/01/19

ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:すでに本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では来日後の全作品集の旧和訳の電子化注を完遂しているが、今回は私の怪奇談蒐集趣味から、来日前にラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の電子化注に入ることとする。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。作品本篇「大鐘の靈」の原題は“THE SOUL OF THE GREAT BELL”(「大梵鐘の霊魂」)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した。前の内扉の表紙には「龍圖公案」の文字が装飾のように記されてある。これは「りゅうとこうあん」と読み、明代の通俗小説の題名である。全十巻で作者未詳。北宋の名裁判官とされる龍図閣学士包拯(ほうじよう)を主人公とした裁判判例の形をとった小説集で、知られた同系の「棠陰比事(とういんひじ)」とともに日本に伝わって「大岡政談」物の成立に影響した。但し、で本書が同書を原拠としているかというとそうではない。さすればこそ、私は装飾と言ったのである。何かで同書名を見、この文字の様子をハーンは単にデザインとして直感的に気に入ったことからここに配したものかと思うのである(ハーンが選んだのかどうかは推測である。編集者が勝手に選んだ可能性もある)。しかし、「富山大学ヘルン文庫所蔵小泉八雲(ラフカディオ・ハーン[やぶちゃん注:これは「小泉八雲」にルビのように配されてある。])関係文献目録」の本作品集の書誌では、これについて――タイトル・ページに『「龍公図案」の印刷あり』――と解説するのであるが、私は、普通、そのような向きでこの四字文字群を判読はしないと考えるし、中国人も書きもしないだろうと思う。「龍公図案」という文字列の意味するところも私には半可通である。「龍顔」など「龍」は皇帝を意味するが、それにわざわざ「公」はまず附さないし、幻聖獸である龍を尊称で、その図案集というのもあってもおかしくはない。この「龍公図案」で正しいとされ、それが何を指すのかが判る方は御教授願えれば幸いである)で全篇視認出来る(本篇はここから。別な中国人のイラスト(左)と標題(右)ページで示した)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は満四十五歳の明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では帰化後も一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。本作品集では行空けが有意に広い箇所(二行空け)があり、それは再現してある。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名か、或いは別名か、はたまた話柄の中の当該パートの中の象徴的対応文字列かとも思しい怪しい漢字文字列が掲げられてある。これはやはり漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるもので、本篇の「投罏成金」などは、まあ、穏当な字体ながら、ひどく小さく、「罏」の文字がやや窮屈に反り気味なっている。しかし、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思ってかくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。以下でも同様に示すこととする。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。なお、註番号は全体に通し番号で振られてある(実際の原本ではこの注群は巻末の“GLOSSARY”(「用語集」)にあり、その数は膨大で、落合氏が引いたのはそのごく僅かな部分に過ぎない。則ち、原本は注形式ではなく最後に纏められている「用語集」として一括して載り、本文にはそれに対応する注記号は存在しない点は原本を読まれる際には注意が必要である。

 

 

  支 那 怪 談

 

     この書を

    私の友なる

     音樂家――

   黃金色の皮膚を有する漂泊の淸人に旋律の言葉を語り、

   彼等を感動させて、蛇皮の腹を有し、奇異の音を發する三絃を奏せしめ、

   彼等に勸めて、私のために叫音を發する月琴を奏せしめ、

   彼等を誘つて、その故國の素馨花の歌はしめたる――

   ヘンリー・エドワード・クレービールに捧ぐ。

[やぶちゃん注:ポイントに変化があるのは底本のママ原本では献辞者の名が頭に置かれている。

「ヘンリー・エドワード・クレービール」アメリカの音楽評論家から音楽学者となったヘンリー・エドワード・クレービール(或いはクレイビール)(Henry Edward Krehbiel 一八五四年~一九二三年:ハーンより四歳年下)。彼の英文ウィキはこちらであるが、あんじぇりか氏の『「怪談」をあらわした日本研究家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について歴女が解説』の中に、二十二『歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、』一八七四年二十四歳の時、同社の『正式社員』となり、『挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者』ともなった。『また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め』、二十五『歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だった』ことから、『エンクワイアラー社を』退職し(引用元は『解雇』とあるが、諸年譜では解雇とはなっていないので訂した)、『シンシナティ・コマーシャル社に転職』したとある。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)では、その殺人事件の条である一八七四年十一月七日(土曜)に『「タン・ヤード事件」起こる。ハーマン・シリングという男が殺され、または生きたまま炉で焼かれたという事件で』、三人の人物が『殺人容疑で逮捕された。友人クレイビールとともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをまき起こし、記者としての名を確立する』と、ここにハーンの友人として彼クレイビールが登場している。当時の彼は未だ弱冠二十であった彼の英文ウィキに戻って見てみると、まさにこの一八七四年に同じシンシナティの『シンシナティ・ガゼット』紙の音楽批評担当に就いている(一八八〇年十一月まで)ことから、社は異なるが、まさに若き記者仲間同士であったということが確認出来るのである。しかも本書の刊行(一八八七年)はこの年からは十三年も後のことで、ハーンもシンシナティを離れて、ニューオリンズにいた(クレイビールはその後『ニュー・ヨーク・トリビューン』の音楽担当編集者となっている)。しかも本書を彼に詩篇を添えて献呈するということは、その間も彼との音信は途絶えていなかったのであろう。

「三弦」原文“SAN-HIEN”。中国の伝統楽器である三弦(現代中国語カタカナ音写:サンシエン)。歌の伴奏楽器として人気があった。沖縄を経て日本の三味線となったルーツ。

「月琴」“YA-HIEN” 月琴(同然:ュエチィン)は同じく中国の伝統楽器。満月のような円形の共鳴胴に短い首(琴杵)を持つ。

「素馨花」(そけいくわ)。“JASMINE-FLOWER” 。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum。インドやパキスタンの高原地帯が原産で。古くから薬として使われ、花は女性の髪飾りとされる。花から採れる香油を「ジャスミン」といい、香料として使用される。]

 

 

   

 

 本書が微々たる一小卷たるに過ぎないことの最も有力なる辯解は、全く内容を成す材料の性質そのものが示してゐると、私は考へる。優等の傳說を蒐集するに當つて、私は特に怪異なる美を求めた。して私はサー・ウォーター・スコットの『古代歌謠の模倣に關する論』に於ける、左の卓見を忘れることは出來なかつた。『超自然怪異といふものは、人類間に頗る廣く且つ深く蒔きつけられたる、或る强い感情に訴へるものではあるが、しかし强ひてあまりに壓力を加へると、殊の外その彈力を失ひ易き一個の彈機のやうなものである』

 支那文學全般に亙つて通曉せんと欲する人々は、デュリアン、パヴィー、レミュザ、ド・ロスニー、シュレーゲル、レッグ、エルヴェ・サン・ドニー、ヰリヤムズ、ビオー、ヂヤイルズ、ワイリー、ビールの如き語學者、並びにその他幾支那學者の業績によつて、道を開かれてゐる。發見と征服の權利上、實際、中華國の物語の領域は、か〻る探檢家のものである。しかし彼等の跡を慕つて支那人の廣大神祕なる空想の樂園に遊ぶ些やかな[やぶちゃん注:「ささやかな」。]旅人は、そこに生えてゐる、幾つかの不思議な花――發光性の花、黑百合、一つ二つの燐のさうな薔薇――を、彼の奇異なる旅行の土產として、摘み取つてよろしいだらう。

 一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて

           ラフカヂオ・へルン

[やぶちゃん注:原本の「序」の前のページには「華」の漢字がやはりアクセント・デザインのように記されてある。最後のクレジットと場所・署名は上に引き上げた。

「サー・ウォーター・スコット」スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコット(Walter Scott 一七七一年~一八三二年)はロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた最初の人気作家とされる。「古代歌謠の模倣に關する論」(“Essay on Imitations of the Ancient Ballad”)は一八三〇年のエッセイ。こちらで英文で全文が読めるが、ハーンの引用は注ナンバー78のあるところから三行上の部分から始まる。最後だけ、原文では“pressed upon.”ではなく、“pressed on,”となっている。

「彈機」(だんき)。原文は“spring”。「発条(バネ)」のこと。

「デュリアン」原文“Julien”。フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「パヴィー」“Pavie”。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。九言語(中国語・満州語・ヘブライ語・アラビア語・ヒンドゥー語を含む)を用いることが出来た。「三国志」(一八四五年~一八五一年)のフランス語訳もある(彼のフランス語ウィキに拠る)。

「レミュザ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。ウィキの「ジャン=ピエール・アベル=レミュザ」によれば、『コレージュ・ド・フランス』(フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関(グランテタブリスマン))『の初代中国学教授で』、『西洋の中国学の草分け。レミュザ以前にも』『中国を研究した学者はいたが、中国研究を専門とし、中国学教授をつとめたのはレミュザにはじまる』とある。パリに流行したコレラで若くして亡くなった。

「ド・ロスニー」“De Rosny”。フランスの日本学者・東洋学者であったレオン=ルイス=ルシィアン・プリュネル・ド・ロニー(Léon-Louis-Lucien Prunel de Rosny 一八三七年~一九一四年)。当時、フランスに於ける日本研究の第一人者であったが、生涯一度も日本を訪れることはなかった。詳しくは参照したウィキの「レオン・ド・ロニー」を見られたい。

「シュレーゲル」“Schlegel”。オランダの東洋学者・博物学者であったグスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年:オランダ語音写では姓は「スフレーヘル」とも表記される)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。著書に「中国星辰考」などがある。一八九〇年にはフランスの中国学者・東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに歴史的に知られることになる中国学雑誌『通報』を創刊している。詳しくはウィキの「グスタフ・シュレーゲル」やそのリンク先を見られたい。

「レッグ」“Legge”。スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者でもあったジェームズ・レッグ(James Legge 一八一五年~一八九七年)。四書五経を始めとして儒教や道教の古典を英訳した。中国名は理雅各(ウィキの「ジェームズ・レッグ」に拠る)。

「エルヴェ・サン・ドニー」“Hervey-Saint-Denys”。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。中国名「德理文」を持ち、特に唐詩を西洋に紹介した一人として知られる(彼の英文ウィキに拠った)。

「ヰリヤムズ」“Williams”。アメリカの外交官・宣教師で、言語学者・中国学者でもあったサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四年)のことか。中国名は衛三畏。

「ビオー」“Biot”。フランスの、建築技師であると同時に中国学者でもあったエドルアール・コンスタン・ビオ(Édouard Constant Biot 一八〇三年~一八五〇年)。「周礼(しゅうらい)」フランス語全訳で知られる。

「ヂヤイルズ」“Giles”。イギリスの外交官で中国学者のハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年)。「華英辞書」の編纂によって特に知られ、「聊斎志異」や「荘子」などの英訳もしている。中国名は翟理斯。

「ワイリー」“Wylie”。イギリスのプロテスタントのキリスト教宣教師アレクサンダー・ワイリー(Alexander Wylie 一八一五年~一八八七年)か。中国伝道の過程の中で多くの中国研究や中国文学の研究を成した。中国名は偉烈亞力。英文ウィキの彼の記載はこちら

「ビール」“Beal”。イギリスの宣教師で中国仏教学者サミュエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。ケンブリッジ大学を出、海軍布教師となり、中国に渡って、特に宗教について研究した。中国仏教研究の開拓者である。帰国後、ロンドン大学教授となった。著書に「漢訳仏典精要」他がある。

「一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて」明治十九年に当たる。当時、ハーンはニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社(Times Democrat)の文芸部長(一八八一年から。主に日曜版を中心に記者として執筆した)であった。]

 

 

  大 鐘 の 靈

[やぶちゃん注:実は原文を見ると、標題の前ページに、

   She hath spoken, and her words still resound in his ears.

        HAO-KHIEOU-TCHOUAN: c. ix.

とあるが、落合氏はそれをカットしてしまっている。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「大鐘の霊」では、

   《引用開始》

 嬌語ナホ耳朶ニアリ。――好逑伝 第九章

   《引用終了》

とする(但し、標題の後に配されてある)。「好逑伝」(こうきゅうでん)は清初の小説で「侠義風月伝」とも称する、全四巻十八回からなる当時の白話(口語)小説で、作者は「名教中人」とするが、事蹟は未詳。題名は「詩経」の「周南」の「関雎(かんしょ)」の「窈窕(えうてう)たる淑女は 君子の好逑(つれあひ)」に拠り、鉄中玉(てつちゅうぎょく)が悪人との葛藤の後に天子の仲介によって水氷心(すいひょうしん)と目出度く結ばれるという典型的な才子佳人小説。婦人の貞節を強調する儒教臭の強い作品であるが、類型化されたこの種の作品のなかでは人物の描写や構成に優れており、十八世紀半ば以来、英語・フランス語・ドイツ語等で十数種もの翻訳があり、ヨーロッパでは広く知られた作品であった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。思うに、「中國哲學書電子化計劃」の同作の「第九囘虛捏鬼哄佳人徒使佳人噴飯」の二十二節の「言過還在耳、事棄尚驚心」の前半と思われる。「嬌語」は艶めかしく誘う女の言葉の謂いである。落合氏がカットしたのは、全体の添え字として相応しくないと思ったからか? にしても不当行為である。

 

 漏刻計が大鐘塔註一で時を示すと、木槌は金屬製怪物の緣を打たうとして扛げられる[やぶちゃん注:「あげられる」。]――巨鐘の緣には尊い佛敎の經文から取つた文句が彫つてある。巨鐘の響く音を聞け! 舌はなくても、その聲の太いこと!――KO-NGAIと響く。その深い音波の下に、綠色の屋根の、高く灣曲せる檐[やぶちゃん注:「ひさし/のき」。]に刻まれた、あらゆる小さな龍は、その黃金色の尾の尖端に至るまで振動する。あらゆる陶器製の樋嘴[やぶちゃん注:「ひはし」。]は、その彫り込んである場所で慄へる。堂塔のあらゆる小さな鈴も語り出さうと欲して戰く[やぶちゃん注:「をののく」、]。KO-NGAI! と寺院のあらゆる靑黃色の瓦は振動する。瓦の上の木製の金魚は空高く踠く[やぶちゃん注:「もがく」。]。佛陀の天上を示せる指は、香煙の靑霧裡に、參詣者の頭上に搖れる。KO-NGAI! と。いかにも雷の如き音だ。宮殿の蛇腹に刻まれた漆塗りの怪物は、悉くその火の色の舌とうごめかす。して、大きな激動の後に起こる無數の反響と、

[やぶちゃん注:「漏刻計」水時のこと。容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時を計るもので、中国では古代からあった。

KO-NAGAI」原文では“KO-NAGAI”と斜体(以下、注しないが、中国音らしきラテン文字表記は総て斜体である)。平井氏は先に挙げた恒文社版で、この「KO-NGAI!」を『珂愛(おんない)!』と、以下も総て、かく訳しておられる。ここではネタバレになるので注しないが、この文字の意味は後で判る。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされていることで、一応は氷解する。

「樋嘴」原文“gargoyles”。「ガーゴイル」は建築用語で、西洋建築の軒先などに壁面から突出して附けられた雨水の排水口を指す。中世以降は非実用として装飾的に作られる場合が多く、特に垂直性を強調するゴシック建築では、通常、ハイブリッドの幼獣キマイラの形をしており、上部に装着された。パリのノートル・ダム大聖堂の怪獣形のものがその典型である。ここは中国の古建築の屋根の端に見られる神獣像をかく言ったもの。]

 

註一 ‘Ta-chung sz’。文字通りには、『鐘の寺』。この建物は北京にあつて、恐らくは世界一の懸鐘を蔽ふてゐる。鐘は西曆一四〇六年、明の永樂皇帝の時代に鑄られ、十二萬斤以上の重さを有する。

[やぶちゃん注:「十二萬斤」一斤(きん)は現代日本では六百グラムであるから、七十二トン(現代中国では一斤五百グラムなので、六十トン。因みに本篇原話の書かれた清代、及び話柄内時制の明代のそれは孰れも約五百九十七グラムである)。ここに出るのは現在、「北京大鐘寺古鐘博物館」(覚生寺)(グーグル・マップ・データ)として整備されている旧大鐘寺の「永楽大鐘」は、現在は明の永楽一八(一四二〇)年前後に製造されたとされ、重さ四十六・五トン、最大直径四メートル(平均で三・三メートル)、縁部分の厚さが二十二センチメートルである。鐘には経文と呪文が漢字と梵字がみっちりと鋳込まれてあり、その総字数は実に二十三万字以上という。以上の数値は(株)カリヨン・センター制作のサイト「鐘(ベル)&カリヨン Bell & Carillon」のこちらに拠った。そこでは大鐘の写真も見られる。落合氏の鐘の重量はちょっと誇大に過ぎるように見えるが、どうもこれは落合氏が一般読者に判り易い「食パンの一斤」で換算したせいかも知れない。現代の食パンの一斤は三百五十から四百グラムとされるから、四十二から四十八トンとなって、現在の永楽大鐘の公式重量の範囲内に入るからである。

「永樂皇帝」(一三六〇年~一四二四年:在位/一四〇二年~一四二四年)明の第三代皇帝。姓は朱。ウィキの「永楽帝」によれば、『明の最大版図を築き、鄭和』(ていわ)に南海への七度に亙る大航海をさせる『などの事業を起こ』し、『気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し』、『宦官を重用した。これは、皇位簒奪』(彼は甥である第二代皇帝建文帝を倒して帝位についた(靖難(せいなん)の変))『という負い目もあって』、『官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった』とあり、また、『即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された』とある。冷血にして短気激情型の独裁権力者の面持ちは本篇でも以下でよく現われてくる。]

 

大きな美しい黃金のやうな唸り聲の不思議さ! それから、遂に巨大の音が、次第にとぎれとぎれの銀聲の囁きとなつて――恰も女が Hiai! と囁くやうに――消え行くとき、不意に耳の中で㗙音の嗚咽となつてしまふ。かやうな有樣に、此大鐘は殆んど五百年間、每日 KO-NGAI と響いてゐた。劈頭[やぶちゃん注:「最初(撞き始め)に」の意。]素晴らしい鏗聲[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。鐘を撞く音。]を發し、それから無量の美しい黃金のやうな唸りとなつて、次にはHiai! と、銀聲の低囁[やぶちゃん注:「ていせふ(ていしょう)」。低い囁(ささや)き。]になつた。して、古い支那の都の色彩に富める、あらゆる町々の子供達の中で、大鐘の物語を知らぬもの――何故に大鐘は KO-NGAI と響き、Hiai! と鳴るのかを語り得ないもの――は一人も無い。

[やぶちゃん注:「音」一応、「しうおん」と呼んでおく。「」は音「シュ・ドウ・ノウ・ジョウ・ニョウ」(現代仮名遣)で、意味は例えば「人を叱る声」の意があるようである。原文のこの前後は “the sudden sibilant sobbing in the ears”で、「sibilant」は「シュー(シーッツ)という音」のオノマトペイアのようである。平井氏はこの前後を、『――あたかも女が「鞋(あい)!」と咡』(ささや)『くかのように――細く消えていきながら、にわかにすすり泣く歔欷(きょき)の声を耳につたえてくるのである。』と訳しておられ、「鞋!」(「靴!」の意)を除いて、躓かずに読めるのである。しかも平井氏の「鞋!」も、読み進めれば、自ずと難なく氷解するようになっているのである。現行の漢和辞典に殆ど載らないこの漢字を選んだ落合氏は読者への配慮が頗る足りないと思う。]

 

 さて、これが廣州府の學者、Yu-Pao-Tchcn の書いた、『百孝集』に載つてゐる、大鐘塔の巨鐘の物語である。

[やぶちゃん注:平井氏は「Yu-Pao-Tchcn」を『兪葆真(ゆほうしん)』(清代の作家)、「百孝集」の書名を『百孝図説』と訳しておられる。解説に出るので後でもまた注する。]

 約五百年前のこと、明の時代の天子、永樂皇帝はその高官 Kouan-Yuに命じて、百里の遠方へまで音の達するやうな天鐘を作れといつた。また彼は鐘に眞鍮を加へて、その音を强くし、黃金を加へてそれを深くし、銀を以て美しくせよと命じた。それから、鐘の表面と大きな緣には、聖經の文句を彫ることと、その鐘は北京の都の色彩に富める、あらゆる町に響き渡るため、帝都の中心に吊るすべきことをも命じた。

[やぶちゃん注:Kouan-Yu」平井氏は『関由(かんゆ)』と訳しておられる。

 そこで高官 Kouan-Yu は國中の鑄造師の頭領、有名な鐘鍛冶、及ぴ鑄造業に於ける、世に聞えた妙工を悉く集めた。それから、彼等は合金に對する材料を量り、それを巧みに處理し、模型、火、機械、及び金屬を鎔かすための大坩堝[やぶちゃん注:「だいるつぼ」。]を準備した。彼等は巨人の如く猛烈に働いた――彼等が怠つた事は休憩と睡眠と娛樂ばかりであつた――夜も晝も Kouan-Yu の命に從つて働き、一切の事、天子の諭旨を成就しようと努力した。

 が、金屬が鑄られて、土型を灼々たる鑄物から離して見ると、彼等の非常な勞作と間斷なき注意にも關らず、その結果は無効であつた。何故なら、金屬類が相互に離叛したからである――金は眞鍮を侮つて、一致することを肯じなかつた。銀は鎔けた鐡と混じようとはしなかつた。そこで、模型は今一度調整され、火は再び燃やされ、金屬も更に鎔かされて、一切の仕事が、面倒にも、また辛苦を重ねて繰返された。天子はこのことを耳にして、怒つてゐたが、何も云はなかつた。

 第二囘目の鑄造が出來た。しかし結果は一層惡かつた。金屬類は依然として頑固に互に混合することを拒んだので、鐘には少しも均一性がなかつた。して、その側面は龜裂を生じ罅隙[やぶちゃん注:「かげき」。罅(ひび)と隙間。裂け目。割れ目。亀裂。]が現はれ、その緣は固著して熔滓[やぶちゃん注:「ようさい」。スラグ(slag)のこと。金属の製錬に際して溶融した金属から分離して浮かぶ滓(かす)のこと。]を作つて、割けてゐた。だから、すべての勞作は、三度繰返されねばならなかつた。して、Kouan-Yu は非常に驚愕狼狽した。すると、天子はこれを聞いて、以前にも增して激怒した。それから、橙黃色の絹に認めて、龍の印を以て封緘せる書狀を使に持たせて、Kouan-Yu に送つた。その文句は次の如くであつた――

[やぶちゃん注:以下の書状は底本では全体が二字下げ。]

『明朝の尊嚴なる永樂皇帝から府尹[やぶちゃん注:「ふゐん」。]註二 Kouan-Yu に告げる。朕が汝に託した任務を二囘まで汝は誤つた。若し三たび朕の命を成就することが出來ないならば、汝の頭を頸から斷つてしまふぞ。恐惶して、命を奉ぜよ』

 

註二 府尹――西洋に於ける市長に比すべき。支那の都會の吏。

 

 

 さて Kouan-Yu には、燦然と輝くやうに美しい娘があつた。Ko-Ngai といふその名は、常に詩人の口にのぼり、またその心は顏よりも更に美しかつた。Ko-Ngai は熱愛を以て父を愛したので、百人の立派な求婚者を拒んでも、彼女のゐなくなるため、父の家を淋しくすることを欲しなかつた。だから、龍印に封ぜられた、恐ろしい黃色の書狀を見ると、父のために心配して氣絕した。それから、正氣に返り、力も附いた扱、父の危難を思つては、休むことも寢ることも出來なかつたので、遂に密かに彼女の幾らかの寶石を賣却し、かくして得た資產を携へて、占星者の許へ馳せた。して、巨額の料金を拂つて如何にせば父の身の上にふりかかつてゐる危險を救ひ得るかを占はせた。そこで、占星者は天象を觀測し、銀河(私共の所謂、乳狀の道(ミルキー・ウエー)の狀況に留意し、黃道帶[やぶちゃん注:「くわうだうたい」。]の徵候を察し、五行の表と煉丹家[やぶちゃん注:「れんたんか」。]の祕書を調べた。して、長い間沈默の後、彼女に答へていつた。『少女の肉が坩堝の中で熔かされ、處女の血が金屬の熔ける際に混ぜられるまでは、金と眞鍮は決して婚姻を求めない。また銀と鐡も決して抱擁しないだらう』彼女は心中悲哀に滿ちて家に婦つた。が、その聞いたことを、すべて心に祕めて誰にも告げなかつた。

[やぶちゃん注:「黃道帶」黄道(おうどう:惑星からの見かけ上、天球上を恒星が一年かけて一周するように見える大円の経路のこと。科学的には黄道面は惑星そのものの公転軌道面と同義となる)を挟んで、南北に各八度ずつ、幅十六度で形成した帯部分。太陽・月及び主な惑星はこの帯の中を動く。黄道十二宮に相当する黄道十二星座があり、それらには星座名に動物の名の附いたものが多いことから、「獣帯」(じゅうたい)とも呼ばれる。

「煉丹家」西洋の錬金術に対応する古代中国の道士の術で、辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。六方晶系の鉱物。純粋なものは朱色を呈する)を練って不老不死の薬を作ることを「煉丹」と言ったが、ここはそれに代表される道教の主要な先賢を指す。]

 

 遂にいよいよ、三度目に大鐘を鑄る、最後の努力の怖ろしい日が來た。して、Ko-Ngai は侍女と共に、父に隨つて鑄造所へ行つて、彼等は鑄型師の勞作と、流動體となつた金屬を政瞰視する壇止の席に就いた。すべての職工は、孜々汲々[やぶちゃん注:「ししきふきふ(ししきゅうきゅう)」。怠ることなく一心に勤めるさま。]、無言にて動き、火の呟く外には、何の音も聞えなかつた。して、火の呟く音は、大嵐の肉迫するやうな深い轟音と變はり、金屬の赤血色の池は、徐々と朝日の朱に輝き、朱は黃白の燦爛たる先に變じ、黃金は滿月の銀の顏のやうに、眩しいほど白くなつた。それから、職工達は狂號する炎に薪を給することを止めて、皆 Kouan-Yu の眼の上に彼等の眼を注いでゐた。すると Kouan-Yu は型に流し込む合圖をしようと準備した。

 しかし彼がまだ指を上げない内に、一聲の叫びが、彼の頭を振り向かしめた。して、すべての人々は烈火の轟々たる音を越えて、鳥の歌の如く、鋭く美はしく響いて、『お父さま、あなたのために!』といふ Ko-Ngai の聲を聞いた。彼女は叫ぶと共に、金屬の白い洪水の中へ跳び込んだ。熔鐡爐の熔けた金屬は、彼女を迎へて咆吼し、屋根までも素晴らしい炎の火花を跳ね飛ばし、土坑の際端から外へ勢よく溢れ出し、幾多の色彩ある渦卷く噴水を投げ上げて、それから電光、雷鳴、低囁を發しつ〻、慄へ[やぶちゃん注:「ふるへ」。]乍ら鎭まつた。

 そこで彼女の父は、狂氣の如く悲しんで、娘の後を追つて跳び込まうとしたが、腕力逞しいものどもが、彼を引き止め、確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]押へたので、たうとう絕え入るばかりに弱くなつて、恰も死人の如くに運ばれて家に歸つた。それから、Ko-Ngai の侍女は、苦悶眩迷、言葉も出ないで、小さな靴を手に持つたま〻、爐の前に立つてゐた。それは亡くなつた美しい女主人の眞珠と花の刺繡を施せる華奢な小さな靴であつた。といふのは、彼女は Ko-Ngai が跳び上つた時に、その足を捉まうとしたが、ただ靴を摑む事が出來たのみで、美麗なる靴はすつぽり脫げて彼女の手に殘つたからである。それで、彼女は全く狂人のやうに、それを凝と視てゐるのみであつた。

 

 が、か〻る慘事はあつたもの〻、天子の命令は奉ぜざるを得なかつた。して、いかに結果が駄目であらうとも、鑄型師の仕事は完成せねばならなかつた。しかし金屬の光澤は、以前に比すれば更に純白に見えた。またその中に葬られた美しい屍體の片影をも留めなかつた。こ〻に大規模の鑄造は濟んだ。驚いたことには、金屬が冷却してから、鐘は見るからに美くしく、恰好は完全、色はいかなる鐘にも優つてゐた。また少女の身體の痕跡をも留めなかつた。それは全然貴重なる合金に吸收され、よく混和せる眞鍮と黃金に交じり、銀と鐡の融合に加つたのだ。それから、人々が鐘を鳴らして見ると、その音調は他のいづれの鐘よりも深く、淸らかで、强かつた――百里の距離よりも一層遠くに達し、夏の雷の如く響いた。しかも、また大きな聲で、人の名、女の名―― Ko-Ngai の名を呼ぶやうに響いた。

[やぶちゃん注:「百里」「里」は原文も“li”となっている。清代の一里は五百七十六メートルであるから、五十七・六キロメートルに当たる。]

 

 

 それから、またこの鐘を强く撞き鳴らす合間々々に、長く低い鳴咽の聲が聞える。して、その嗚咽の聲は、恰も泣く女が Hiai! と呟くかのやうに、淚にむせび、哀訴する音を以て終はる。して、いつでも人々が巨鐘の黃金のやうな唸りを聞くときは、肅然沈默してゐるが、鋭く美はしい戰慄の音が空に傳つて、それから、Hiai! の咽び泣きが聞えてくると、北京の色彩に富める町々の、あらゆる支那の母達は、彼等の子供に囁いていふ。『お聽きなさい、あれは Ko-Ngai が靴を求めて泣くのです! あれは Ko-Ngai が靴を呼んでゐるのです!』

 

投 罏 成 金

 

028

 

[やぶちゃん注:「投罏成金」の「罏」は「爐」の通ずるので、「罏に投じて金と成る」(鎔鉱炉の中に身を投じて合金の生するを成就す)と謂った意味か。後の私の注で見る通り、これは原話の題名であった。字が大きいのは底本に合わせた結果である。]

 

【ハーンによる「解說」】

 『大鐘の霊』――この物語は「百孝集」(Pe-Hiao-Tou-Choue)と題せる物語集から取つたものである。支那の物語作者は、頗る簡明に此話を語つてゐる。博學なる佛國領事ピー・ダブリー・ド・チールサンは一八七七年に該書の一部を譯して出版した。その中にこの鐘の傳說も收めてあった。譯書は澤山の支那の畫で飾られ、Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫も附してある。

[やぶちゃん注:「ピー・ダブリー・ド・チールサン」フランス海軍士官で外交官のクロード・フィリベール・ダブリー・ド・ティエサン(Claude-Philibert Dabry de Thiersant 一八二六年~一八九八年:詳細事績は調べ得なかった)。彼が一八七七年にパリで出版した“La piété filiale en Chine”(「中国に於ける『親への孝』」)が当該書である。フランス語サイトのこちらで原文全篇がダウン・ロード出来、そこにハーンが依拠した“KO-NGAI”が所収されていることが確認出来た。但し、ここのデータでは「Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫」は確認出来なかった。そこで、原話である清代の兪葆眞(ゆほうしん:詳細事績未詳)作の「百孝圖說」を探してみたところ、しばしばお世話になる中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらでやっと発見した。標題はまさしく「投罏成金」(右の電子化は「投驢成金」と誤っている)で、この画像版ページにハーンの言うシーンを描いた挿絵がある。原本画像に忠実に従い、電子化しておく(【 】は二行割注)。それはハーンも言うように、実は驚くほど短く、時代設定も場所も人名も何もかも皆、異なっていることが判る。

   *

  投鑪成金

吳李娥、父爲吳大帝鐡官治以鑄軍器、一夕錬金於鑪、而金不出吳令耗折官物者坐斬、娥年十五遂自殺鑪中、於是金液沸溢、塞鑪而下、遂成溝渠、注二十里、所收金億萬計、【孝苑】

   *

「吳大帝」とは三国時代の呉の初代皇帝孫権(在位:二二九年~二五二年)のことである。ハーンが言う図もここから取得出来たので、以下に掲げておく。

 

Touroseikin

 

原画像が傾いてしまっていて、しかも全体に薄いことから、回転と補正を加えて見易くした。なお、調べるうち、この原話は実はかなり知られたものであることが判った。例えば、同じ明代の倫彙編になる「欽定古今圖書集成」の「第三十九卷」(中文ウィキソース)の黃雲師の「王孝娥哀辭」の一節に、

   *

吳大帝時有女、父爲鐵官、冶不液、女自投冶中、鐵乃液。然後父刑免。

   *

とあるからである。]

2020/01/15

第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「家庭版小泉八雲全集」第五巻 田部隆次氏「あとがき」

 

[やぶちゃん注: 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。当該「あとがき」本文はここ。なお、本巻は四人の訳者による共訳であるが、「あとがき」は田部隆次氏によるもののみである。最後の田部氏の署名はポイント上げでもっと下方にある。

 なお、幾つかの事項や人名等については、今まで電子化注の中で施してきたので、ここでは繰り返さない。その代わり、各作品には私の当該篇に直接にリンク(分割の場合はその初回)を施して便宜を図った。その関係上、一部に半角開けを施した。]

 

      あ と が き

 

 『東の國から』は一八九五年、ボストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグッド・マックイルヴヱン會社から同時に出版された。出雲時代の友人西田千太郞氏に捧げてある。重に熊本時代の見聞に基づいて居るこの十一篇のうち「夏の日の夢」は『ヂヤパン・デイリー・メイル』に、「博多にて」 「永遠の女性に就て」 「赤い婚 「叶へるの四篇は『太西洋評論』に、その以前發表された物である。

 「九州學生」のうち、譯者が註に書いた當時の生徒の名は全部安河内麻吉氏の敎示によつた事を述べてここで謝意を表したい。當時は生徒の數も少なかつたので、文科と法科は勿論、理科工科も共通學課は時として一緖に授業を受けた事を注意すべきである。

 

 『心』は一八九六年、ポストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグツド・マツクマックイルヴヱン會社から同時に出版された。友人雨森信成(のぶしげ)氏に捧げてある。熊本時代の物一部分を除いて大部分神戶時代になつた十五篇のうち「日本文化の眞髓」 旅行日記より」 「戰感」 神佛の黃昏時[やぶちゃん注:この訳題は本篇では「薄暗がりの神佛」である。当該篇訳者が田部氏でなく、戸澤正保氏であるための齟齬に過ぎない。]の四篇は、その以前『大西洋評論』で發表されて居る。附錄の唄三つ」は出雲松江附近の或部落を訪うて得た物である。

 これ等の諸篇は多くは事實に基づいて居る。たとへば「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた。「戰感」 コレラ流行時に」 つけ」の記事も皆事實であつた。コレラ流行時に」の著者の家は神戶市中山手通、七丁目番外十六番にあつた。

 著者は夫人にいつも話を聞くやうに、屑屋でも魚屋でも珍らしい經驗をもつた人の話を尊重して聞くやうにと云つた。神戶で門つけを呼び入れて歌を聞いたあとで御馳走をしてできたのがこの一篇であつた。この歌の原文は一つから二十まである數へ歌。大阪の男女が京都の疏水で心中した事實を歌つた物。女が遺書を書いて居るところと、二つの新しい墓の繪があるだけ。歌の文句は「一つとせー、評判名高き西京の今度開けし疏水にて、浮名を流す情死の話」と云ふやうな物であつた。しかし十吉と云ふ男の名も、若菊と云ふ女の名も、印刷者發行人の名まで變へてある。

 

     昭和二年二月  田 部 隆 次

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳) / 作品集「東の国から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“YUKO: A REMINISCENCE”。「勇子――一つの追憶」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の最終話である第十一話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 本篇で語られる畠山勇子(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、ウィキの「畠山勇子」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚(グーグル・マップ・データ))に『畠山治兵衛の長女として生まれ』た。『畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚』し、『東京に出て』、『華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件』(明治二四(一八九一)年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された。津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく、藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死している)『が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽』、『神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと』、『奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ』、『出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた』とある近代の稀に見る憂国の烈女である。ハーン(小泉八雲)は事件発生直後から強い衝撃とシンパシーを彼女に持ち、来日後の第一作品集“Glimpses of Unfamiliar Japan”(明治二七(一八九四)年九月刊)で早くも彼女のことを記している(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』を見られたい)。また、本作品集刊行から七ヶ月後の明治二八(一八九五)年十月の京都旅行の際には彼女の墓を参って(『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』の私の注を参照)、『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」』の一章全部を彼女を語ることに費やしている。

 最初のクレジットはややポイント落ちの下六字上げインデントで、聖書の引用は、ややポイント落ちの九字下げで、連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 なお、本篇を以って、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)来日後の十二冊の作品集総てのオリジナル電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」にて完遂した。本格的に手をつけたのが、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』で二〇一五年六月十七日であったから、途中、ブレイクした時期があるが、足掛け四年七ヶ月かかった。その間、「八雲会」様ほか、多くの方々からエールを送られた。心より感謝申し上げる。私の一つの小泉八雲の区切りとなったが、向後も、ゆっくらと来日前の作品群のそれに取り掛かりたいと思っている。

 

  勇子――追憶談

            明治二十四年五月

 

   誰れか勇敢なる婦人を見出すべき――

   勇敢なる婦人は貴重にして

   容易に國内に見出されず――

               拉典譯聖書

[やぶちゃん注:「拉典」(ラテン)「譯聖書」とあるが、表記は現代英語である。これは「ヴルガータ」(ラテン語:Vulgata)で、これはラテン語の「editio Vulgata」(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のことを指す。これは「旧約聖書」の「箴言」の最後の第三十一章の中の第十節である。「文語譯舊約聖書」(昭和二八(一九五三)年版)から(ここを参考にした)当該部を引くと、『誰(たれ)か賢(かしこ)き女(をんな)を見出(みい)だすことを得(え)ん』。『その價(あたひ)は眞珠(しんじゆ)よりも貴(たふ)とし』である。]

 

 『天子樣御心配』。天の子宸襟を惱まし給ふ。

[やぶちゃん注:「宸襟」(しんきん)は「天子の御心」の意。]

 町は不思議にしんとして、萬民喪に居るが如き靜けさである。行商人さへ平常より低い聲で賣り步く。何時も朝早くから夜屈くまで雜沓する劇場も悉く閉鎖した。あらゆる遊び場、あらゆる興行物(みせもの)――花の會まで閉鎖した。あらゆる宴席料亭も同樣である。淋しい藝者町に三味線の音一つ聞こえねば、大きい旅人宿に酒飮み騷ぐ者もなく、客は低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で話すばかり。道行く人の顏にも平生の微笑は何處へやら、町角の貼紙は宴會や餘興の無期延期を報じて居る。

 こんな火の消えた樣な淋しさは、大きな天災若しくは國家の危機――大震災、首都の破壞、宣戰の布告の樣な報道のあつた後に起こるべきだ。併しそんなものは實際何もない――ただ天皇叡慮を惱まし給ふと云ふ報道があつた計り。それに國内幾千の都會を通じて、同じ憂愁の雲に掩はれ、萬民主君と悲みを同じうするの衷情を表して居る。

 君王の悲みを悲む此偉大な表現の直ぐ後から、過(あやま)てるを正し、損はれたるを償はんといふ、自發的の願望が一般に起こつて來た。此願望は直に衷情から出て、天眞爛漫な、無數の形で現はれた。殆ど各地各人から慰問の書面や電報、又は珍らしい献上品が國賓に宛てて送られた。富めるも貧しきも、重代の品物や、貴重な家の寶を取り出して、負傷した皇太子に捧げたのである。其外露國皇帝に傳送すべき無數の書面が認められた――皆何れも自發的に個人が爲したのである。或る奇特な老商人は自分を尋ねて來て、露國皇太子襲擊に對する全國民の深厚な悔恨の意を表はす電文――全[やぶちゃん注:「すべて」か。衍字のようにも思われる。]露國皇帝への電報――を佛語にて認めて吳れと乞うた。自分は丹精をこめて認めてやつたが、高貴な方への電文の文言には、全く無經驗であることを云つて聞かせた。『お〻それは關(かま)ひません』彼は答へて云つた、『セントピータスバーグの日本公使宛てに送ります。間違ひがあつたら公使が形式通りに直して吳れませう』自分は更に、電報の料金を承知して居るかどうかを尋ねて見た。處が彼は正確に百餘圓と計算した。これは松江の小商人に取つては莫大な支出であつた。

[やぶちゃん注:「セントピータスバーグ」“St. Petersburg”。サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は現在のレニングラード州の州都(グーグル・マップ・データ)。当時はロシア帝国の首都であった。

「百餘圓」明治二四(一八九一)年当時の一円は現在の二万から三万円相当。]

 頑固な老サムラヒ達は、これとは全く異つた荒つぽい方法で彼等の所感を示した。大津で露太子警衞の任に當つた一高官は、特別便で、利刀と書面とを受け取つたが、其書面には、早速切腹して、男子の面目を完うし、兼て遺憾の意を表せと書いてあつた。

 一體日本人には、神道の神と同樣、二種類の魂(たましひ)がある。和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)とである。和御魂はただ補償を求め、荒御魂は贖罪を要求する。今や國民の生活を掩ふ暗澹たる大氣の中に到る處此の相反する衝動の奇なる震動が、恰も二種の電氣の如くに感ぜられる。

 

 遠い神奈川の或る富家に一人の若い娘の婢女(めしつかひ)が居る。名は勇子(ゆうこ)と云ふ。これは勇敢といふことを意味する、昔の武家風の名である。

[やぶちゃん注:「神奈川」原文もママ。彼女は横浜の銀行家宅の女中であったことはあるが、事件当時は既に注した通り、東京にいた。情報が錯錯綜していたものと思われる。また、前に示した通り、以下、ハーンは一貫して彼女を元武家の出としているが、彼女は農民の娘であり、縁者にも元武家はいない。その自死の苛烈果敢凄絶であったことから、これもそうした事実でない認識が広くなされたものと思われる。

 四千萬の同胞が悉く悲しんで居るが、勇子の悲みは群を拔いて居た。何故(なぜ)何(ど)うしてといふことは西洋人には十分に了解(わか)らぬ。が、彼女の全身は感動と、我々には極漠然としか分からぬ衝動とに領せられて居る。善良な日本少女の精神の一端は我々にも解せられる。其精神の中には戀もある――但し深く靜かに潛在して居る。汚濁を受け附けぬ純潔もある――其佛敎的象徵は蓮花である。又梅花にかかる初雪の樣に纖細な感觸もある。又武家傳來の死を恐れぬ氣性が、音樂の樣に和らかな温順さの中に潛んで居る。堅實で素朴な宗敎心もある――神佛を味方にして、日本の禮節に背かぬ限りの心願を掛けるに憚らぬ衷情からの信仰がある。併しこれと此外の色々の情感の上に、全體を統率する優越な一つの情緖があるが、それは西洋の語では表現することが出來ない――忠義(ローヤツチー)といふ譯語では全く物足りない、寧ろ我々の所司神祕的興奮に近い或る者で『天子樣』への極度の崇拜歸依の心である。これはただ個人一代の感情ではない。押し詰めると、忘れられたる遠い遠い過去の闇へ遡る先祖傳來の不朽不死の道念と意志である。彼女の肉身は、我々西洋人のとは全く異る過去の憑依せられた靈の住家(すみか)である。――其過去に於ては無數劫の間、凡ての日本人は一人の如くに、我々とは異る風に、生き、感じ考へたのである。

 

 『天子樣御心配』此報道に感應して男勇子の心には何か献上したいといふ燃ゆる樣な願望が直に湧き起こつた――制すべからざる願望ではあるが、給金から剩(あま)した僅少の貯への外には、何一つ所持せぬ彼女には全く無望であつた。けれども此熱望は執着して彼女に少しの平和をも與へぬ。夜になると彼女は考へに沈んで、自分に色々の問を發すると、祖先の禮が彼女に代つて答へるのである。『天子樣の御心配を安め奉るのに、何を献上したら宜からう』『汝の一身』と聲のない聲が答へる。『併し妾にそれが出來ませうか』と彼女は心許なげに問ふ。『汝には兩親とも無い』と聲が答へる、『さればとて汝の力では何を献上する事も出來まい。汝は我々の犧牲となるがよい。聖植の爲めに一命を抛つのは最高の忠義、最高の悅びではないか』『そんなら何處で』と尋ねると、『西京で』と沈默な聲が答へる、『古例に則つて死ぬ者の玄關口で』

 夜が明けると、勇子は起きて太陽を拜する。朝の任務を終はる。暇を乞ふ、許される。つぎに取つて置きの晴衣と、一番華美(はで)な帶と、一番白い足袋を着ける。これは天子樣の爲めに命を捨てるに相應しくする爲めである。一時間後には京都への旅に上つて、汽車の窓から滑り行く風景を眺めて居る。其日は美しい日で、遠方は眠たげな春霞で靑くぼかされ、見る目に心地善い。彼女は此好風景を祖先が見た樣に見て居る――併し西洋人には不思議で怪奇で美しい、古い日本畫帖での外、そんな風に見る事は出來ぬ。彼女は生の悅びを感ずる、併し彼女が生きて居れば、其生は將來如何に樂くなるだらうなどとは夢にも想はぬのである。彼女の死後も世界は昔通りに美しいだらうと思つても、何の悲みも伴なはぬのである。彼女は佛敎的の憂欝に壓せられて居ぬ、全く古神道の神々に身を委ねて居る。其神々は淸淨な森の薄暗がりから、又後へ飛び行く小山の上の古い祠(やしろ)から、彼女に微笑を向けつつあるのである。そして多分神の一柱は彼女に伴なうて居るのであらう。死を恐れぬ者に墓を宮殿よりも美しく見せる神、死神(しにがみ)と呼ばれる、死を願はしむる神が伴なうて居るのであらう。彼女には未來は暗黑でない。彼女はとこしへに山上の日の出、水面の嫦娥[やぶちゃん注:「じやうが(じょうが)」。中国古代の伝説上の月に住むとされる仙女の名。羿(げい)の妻であったが、夫が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったとされる。転じて「月」の異称となった。ここは水面に映る月影からの連想であろう。原文は“Lady-Moon”である。]の微笑、四季の永久の魔術を見るであらう。歲月は幾𢌞轉しても、彼女は八重の霞の彼方、松の森陰の靜寂の中の、美しい場處々々に住むであらう。彼女は又梅花の雪を吹く微風の中に、流泉の淙々[やぶちゃん注:「そうそう」。水が音を立てて流れるさま。]の中に、綠野の沈默を破る樂い囁きの中に、靈妙な生を經驗するであらう。併し先づ、何處か此世ならぬ薄暗い座敷で、彼女の來るを待つ血族に逢つて、こんな事を聞くだらう、『けなげな擧動(おこなひ)を致したな――それでこそ武士(サムラヒ)の娘ぢや。サア、上がれ、今夜は汝故(そなた)に神々が我等と御會食下さる筈ぢや』

[やぶちゃん注:神人共食は神道の神祭の最も重要な秘儀の一つである。]

 

 娘が京都に着いた。時は夜が明けて居た。彼女は先づ宿屋を見附けて、それから上手な女髮結の家を探(さが)した。

 『どうぞこれを磨(と)いで下さい』勇子は小さい剃刀(これは女の身じまひには缺く可からざる品である)を髮結に渡して云つた、『此處に待つて居ますから』と買つたばかりの新聞を開いて、帝都からの最新情報を探した。其間、店の者は無禮を許さぬ嚴肅な美しい態度に打たれて、不思議さうに眺めて居た。顏は子供の顏のやうに穩かだが、聖上の憂慮の件を讀んでる中に、心の中では祖先の靈が小休みなく勁いて居る。『早く時が來ればよい』と考へた。『併し待つて居よう』小さい刄物は遂に遺憾なく磨ぎ上げられたのを受け取り、少し許りの賃錢を拂つて、宿に歸つた。

 宿屋で二通の書面を認めた。一通は兄への遺書、一通は御膝下の高官への見事な訴狀で、粗末ながら若き命一つ、贖罪の爲めに進んで捨てた微衷を酌んで、天子樣の御憂慮を鎭めさせ給はれと祈るのであつた。

 彼女が再び宿を出た時は、暁前の最も暗い時で、四邊は墓地のやうに寂寞として居た。街の燈火も數少く且つ微かであつた。彼女の下駄の音が妙に音高く響いた。見て居るものは星計り。

 問もなく御所の奧深い御門が眼の前に現はれた。其影の中へ忍び込んで、祈禱を小聲で唱へながら跪いた。さて古式に則つて丈夫な軟らかい絹の長い腰帶を取つて、衣裳をしつかりと身體に結(ゆは)ひつけ、膝の上で結び留めた。それは盲目的な苦悶の刹那に、どんな事があらうとも武士(サムラヒ)の娘は取り亂した死姿(しにざま)を見せてはならぬからである。それから沈着(おちつい)た正確さを以て咽喉を切ると、滾々と脈を搏つて血が流れ出た。武士の娘はこんな事を間違はぬ。動靜脈の所在を心得て居るのである。

 

 日出の頃、巡査が冷たくなつた彼女と、二通の書面と、それから五圓なにがしの入つて居る財布を發見した。(彼女は葬式の費用にはそれで十分と思つたのだ)そして屍骸と携帶品とを取り片つけた。

 

 此顚末は電光の樣に直に數百の都會に報ぜられた。

 帝都の六新聞は此報道を受け取つた。そして皮肉な記者は、あらぬ事共を想像し、此献身的行爲に有り勝ちな動機を發見しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]、隱れた罪惡とか、家庭の悲劇とか、戀の失望とかを探らうとした。併し否、彼女の淸廉な生活には、何の祕密も何の缺點も何の卑吝[やぶちゃん注:「ひりん」。いやしいこと。]な點もなかつた。半開の蓮の莟もそれと淸さを爭ふに足らぬ。それで皮肉な記者も、武士の娘にふさはしい立派な事ばかりを書いた。

 天子も此事を聞こし召され、陛下の赤子が如何に陛下を愛するかを知ろし召され、悲歎を止めさせられた。

 大臣達も聞いて、玉座の陰で相互に囁き合つた。『凡ての物は變はるだらう、併し國民の此心だけは變はらぬであらう』

 

 それにも拘らず、政府の高等政策で、政府は知らぬ振りをして居た。

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 横浜にて (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN YOKOHAMA”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第十話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 本篇の「一」章目はその最後の方で語られるように、ハーンが来日した明治二三(一八九〇)年四月中の時制であり(来日は四月四日。ハーン満三十九歳(ハーンの誕生日は六月二十七日))、「二」の再訪は、その四年四ヶ月後の明治二七(一八九四)年の七月のこと(ハーン四十四歳)と思われる。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ると、この時、ハーンは五高に嫌気がさしてはいたが、この横浜・東京への旅自体は表立った新たな就職運動のためではなく(そうした相談などは行われた可能性はある)、基本、純粋に夏休みの旅行(長野にも行くつもりだったが、結局、旅券の範囲外であったために断念している。但し、単身の旅である)として企画したものであったと考えられる。七月十四日横浜着(船)で、概ね横浜のホテルを定宿として東京のチェンバレンや友人の家を行き来したり、友人らと鎌倉などで泳いだり、箱根の宮ノ下などに泊まりに行ったりもしている)。七月三十一日に船で帰路についた。横浜が拠点となっているから、この半月の閉区間内に、この「一」で訪ねた横浜の寺へ、「二」の再訪が行われたと考えてよい

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の引用は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント三行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

  橫濱にて

 

   我等は今日美しい光景に接した――

   美しい夜明け――美しい日の出

   ――我等は大悟の士が流を橫斷したのを見た。

             ――「雪山經」

[やぶちゃん注:「雪山經」原文“Hemavatasutta”は佛教大学大学院文学研究科仏教学専攻の中西麻一子氏の論文「カナガナハッリ大塔仏伝図の研究」(PDF)に『初期経典の韻文資料 Suttanipāta の古層に位置する』経典とある。]

 

       

 地藏堂は、小店ばかり並んで居る町の、露地の奧に潜んで居るので、探すのが容易でなかつた。二軒の家の狹い庇間(ひあはひ)にある露地の入口は、風の吹く度にはためく古着屋の暖簾で掩はれた。

[やぶちゃん注:最後は「掩はれた。」は「掩はれていた。」或いは「掩はれていたのである。」「掩はれていたからである。」と訳すべきところである。]

 暑いので小さい堂の障子は取り外づされ、本尊は三方から拜まれた。自分は黃色い疊の上に、勤行の證、經机、朱塗りの木魚などの佛具が並んで居るのを見た。須彌壇[やぶちゃん注:「しゆみだん」。仏像を安置する台座。仏教宇宙観で世界の中心に聳えるとする須弥山(しゅみせん)を象ったものという。一般に四角形で、通常は重層式。]の上には子供の亡靈の爲めに涎懸けを着けた石の地藏があつた。更に其尊像の上には長い棚があつて、金箔を塗つた極彩色の二三の小像が載つて居た――頭から足まで背光のある地藏尊、燦爛たる阿彌陀佛、慈顏の觀音及び亡者の判官である閻魔大王の恐ろしい像などが。それより又上には奉納の繪がどつさり雜然と揭げられて居た。其中にはアメリカの繪入新聞から取つた版畫を額にしたのが二つあつた。一つはヒラデルヒア博覽會の光景、他の一つはジユリエツトに扮したアデレイド・ニイルソンの肖像であつた。本尊の前には普通の花瓶の代りにガラス製の壺があつて、それには『レイン、クロード(佛國產の李)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注。戸澤氏のサーヴィス注である。]果汁、貯藏請合、ボルドウ市ツーサン、コーナー會社』と書いてある貼紙が張つてある。それから線香の入つて居る箱には『香味豐富――ピンヘツド紙卷』といふ文字が書いてある。之を寄附した善人は、此世でもつと高價な寄附をする見込みがなかつたのであらう。そしてこれでも外國品である故に美しいと思つたのであらう。又こんな不調和にも拘らず自分には此堂が實際綺麗に見えた。

[やぶちゃん注:「ヒラデルヒア博覽會」“Philadelphia Exhibition” 。フィラデルフィア万国博覧会。ここでの時制の十四年前の一八七六年(明治九年)五月十日から十一月十日までアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された国際博覧会でアメリカ合衆国独立百周年を記念して催されたもの。三十五ヶ国が参加し、会期中一千万人が来場した。参照したウィキの「フィラデルフィア万国博覧会」によれば、『明治政府は輸出振興・外貨獲得を図るため、西郷従道を最高責任者として外国政府最大の予算で出展し、多数の大工を派遣し』、『日本家屋の専用パビリオンを建てた。日本茶、陶磁器の工芸品やその他伝統的産品に加えて』、『最優秀の生糸や絹織物等の展示を行った。特に絢爛豪華な有田焼(伊万里焼)の一対の大きな色絵雲龍文耳付三足花瓶(銘款「年木庵喜三」』(としきあんきぞう)『)は注目を集め、同博覧会の金牌賞を獲得した。日本の出展物は後進国と見なされていた日本への関心と評価を非常に高めた。『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者は、「ブロンズ製品や絹ではフランスに優り、木工、家具陶磁器で世界に冠たる日本をなぜ文明途上と呼べるだろうか」と記事に書いた』。なお、『グラハム・ベルが「電話」を出展している』とある。同花瓶は「鹿鳴館の器:活動状況報告ブログ」のこちらで復刻されたものが見られる。

「ジユリエツト」“Juliet”。シャークスピアの「ロミオとジュリエット」の彼女。

「アデレイド・ニイルソン」“Adelaide Neilson” リリアン・アデレード・ニールソン(Lilian Adelaide Neilson 一八四八年~一八八〇年)はイギリスの舞台女優。ここでの時制の十年前に三十二の若さで亡くなった。University of Washington Libraries」のサイト内のこちらに、ハーンが見た当該の写真かどうかは判らぬが、一八七二年に撮られたジュリエットに扮した彼女のポートレートがあった。あたかも観音菩薩像のようである。これが須弥壇に飾ってあっても私は違和感を持たないだろう。

「レイン、クロード(佛國產の李)果汁」“Reine Claude au jus” (これを含む引用部は書かれてあった通りのフランス語で書かれてある。ハーンはフランス語に堪能であった)。Reine-claude(レーヌ・クロード)は英語で「グリーンゲージ」(Greengage)と言い、プラム(スモモ)の一種であるバラ目バラ科サクラ属スモモ属セイヨウスモモ亜種グリーンゲージPrunus domestica ssp. italica のことである。酸味はなく、ジューシーで、特に芳醇な香りを持ち、最高級のデザート・プラムとして知られる。果実の写真と品種一覧の載るフランス語ウィキの「Reine-claude」をリンクさせておく。

「ボルドウ市ツーサン、コーナー會社」“Toussaint Cosnard: Bordeaux”。ボルドーのトゥサン・コスナール(社)。因みに「トゥサン」(フランス人の姓に多いから、これは合名会社名かもしれぬ)は「万聖節」(tous saints:「全ての聖人」が元。「諸聖人の日」。カトリック教会典礼暦では十一月一日)に由来したもの。

「ピンヘツド紙卷」“Pinhead Cigarettes”アメリカ製の紙巻き煙草の商品名。グーグル画像検索「Pinhead Cigarettes」をリンクさせておく。]

 龍を出してる[やぶちゃん注:ママ。]羅漢の不氣味な繪のある衝立が奧の室(ま)を仕切つて居た。そして姿は見えぬ鶯の聲が境内の靜けさに床しさを添へて居る。赤猫が衝立の陰から出て來て我等を眺めたが、又使命を傳へるかの如く退却した。間もなく一人の老尼が現はれて、歡迎の意を述べ、上がれと乞うた。彼女の滑々(すべすべ)と剃つた頭はお辭儀をする度に月の樣に輝いた。我等は靴を脫いで、彼女の後から衝立の後ろの、庭に百しり、小さい室へ姐つた。そして一人の老僧が布團[やぶちゃん注:座布団。]に坐つて、低い机で書き物をして居るのを見た。老僧は筆を差し措いて我等を迎へた。我等も彼の前の布團に席を占めた。彼の顏は見るも愉快げな顏で、取る年波の描いた皺は、悉く善なるものを語つて居た。

[やぶちゃん注:「我等」後で出るが、この時のハーンには奇特な案内を買って出た通訳の出来る青年学生(後の語りからも判るが、この学生はこの寺の住職とは懇意である)が同行していた。]

 尼が茶と法(のり)の車の印(しるし)してある菓子を運んで吳れた。赤猫は自分の側に丸くなつて寢た。そして老僧は語り出した。彼の聲は太くて優しい。寺の鐘の響に伴なふ、豐かな餘韻のやうに、靑銅(からかね)のやうな音色がある。我等は彼が身上話を聞く樣に談話を仕向けた。彼は八十八歲になつて。眼も耳もまだ若い者同然だが、慢性のルーマチスの爲めに、步行が叶はぬといふ。二十年間、三百册で完成するといふ日本の宗敎史を書いて居るが、既に二百三十册だけ稿了したさうである。そして殘部は來年中に書き上げたいと云つて居る。彼の背後の小さい本箱には、きちんと綴ぢた原稿が嚴(いか)めしげに詰まつて居た。

[やぶちゃん注:「法の車」とは釈迦が説いた仏法の真理である四諦(したい:苦諦(人生の現実は自己を含めて自己の思う通りにはならず、「苦」であるという真実)・集(じっ)諦(その「苦」は総て自己の煩悩や妄執などあらゆる欲望が聚って生ずるという真実)・滅諦(それらの欲望を断ち切って滅し、解脱して涅槃(ニルヴァーナ:ラテン文字転写:Nirvana)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)・道諦(その悟りに導く実践を示す真実)と、それを実践するに必要な八正道(はっしょうどう:正見(正しいものの見方)・正思惟(正しい思考)・正語(偽りのない言葉)・正業(せいごう:正しい行為)・正命(正しい職業)・正精進(正しい努力)・正念(正しい精神の集中)・正定(せいじょう:正しい精神統一))を象徴する輪形の仏具である法輪のこと。形象されるそれは古代インドの投擲武器であるチャクラムを転じたものである。

「ルーマチス」“rheumatism”。リューマチ。関節炎と同義に用いられることもあるが、実際には関節だけでなく結合組織にも発生する、激しい痛みを伴う炎症症状の総病態を指す。発生が体の一部であったり、全体であったりもする。「リューマチ」という語はギリシア語の「流れる」が語源で、痛みや腫れが体のあちこちを流れて動くように感じられることに由来する。より広範には「リウマチ性疾患」という表現がとられて、膠原病と呼ばれる結合組織の重い一連の難病をも含んでいる。具体的には「急性関節リウマチ」や「慢性関節リウマチ」が主なもので、さらに「筋肉リウマチ」・「強直性脊椎炎」・「痛風」なども含まれる。進行すると、関節の変形や強直をきたす。主原因は未確定なものの、アレルギー説が有力ではある。]

 『併し、此人のやつてる計畫が間違つて居ます』と自分の伴れて居る學生の通譯子が云つた。『其宗敎史が出版される事はありますまい。奇蹟談やお伽噺の樣な、有り得べからざる噺ばかり集めてるのです』

 (自分はどうぞ其噺を讀みたいものだと思つた)

 『そんなお年にしては、大層御丈夫に見えますね』と自分は云つた。

 『どうやら、あと數年生きられさうで御座います』老人は答へた。『が、此歷史を書き上げるだけしか生きて居ようとは願ひません。書き上げたら、私は動く事も出來ぬ、あはれなものであります故、早く死んで生まれ替はりたいと思ひます。こんなに片端になるといふは、何か前世で罪を犯したものと見えまする。併し、彼岸に段々近寄ると思ふと嬉しう御座います』

 『生死の海の向う岸といふ意味です』と通譯が云ふ。『御存じの通り、其海を渡る船が法(のり)の船で、一番遠い岸が涅槃です――ニルバナです』

 『我々の身體(からだ)の弱點とか、災厄とかは』自分が問うた。『みんな前生に犯した過失の結果でありませうか』

 『我々の現在は』老人が答へた。『我々の過去の結果であります。日本では萬劫(まんごう)、囚業』(いんごう)の結果だと申します――これは二種類の行爲であります』

[やぶちゃん注:「いんごう」のルビはママ。歴史的仮名遣は「いんごふ」。植字工が前に引かれて誤植したか。]

 『善と惡との』自分は問うた。

 『いや、大と小とであります。人間に完全な行爲と申すは御座いません。どんな行爲にも、善もあり惡もあり、丁度どんな名畫でも好い處もあり、惡るい處もあると同じで御座います。併し行爲の中の善の總額が惡の總額よりも多い時には、丁度名畫の長慮が短慮に優る時の樣に、結果は精進となります。此精進で惡が凡て徐々に除かれます』

 『併しどうして』自分が尋ねた。『行爲の結果が肉身に影響を及ぼします。子は父祖の道に從ひ、强い弱いも父親から承け繼ぎます。但し靈魂は父祖から受けるのでありませんが』

 『因果の鎖は手短に說明する事は容易でありません。それを悉く悟得するには、大乘を硏究せねばなりませぬ。又小乘をも硏究せねばなりませぬ。それを御硏究になると、世界といふものも、ただだ行爲故に存在するといふことをお悟りになりませう。丁度字を習ふのでも初めは大層むつかしいが、後には上達して何の苦もなく書く樣に、行爲を正しい方へ正しい方へと振り向ける努力も、絹えず繰り返せば習慣になります。そして其努力は彼世[やぶちゃん注:これで「あのよ」と読む。]までも繼續致します』

 『前世を記憶する力を得る人がありませうか』

 『それは滅多にありません』老人は首を振つて答へた。『その記憶力を得るには、先づ菩薩であらねばなりません』

 『菩薩になることは出來ませんか』

 『今の世では出來ません。今は汚濁の世で御座います。初めに正法の世が御座いました、其時は人の壽命も長う御座いました。つぎに色相の世になりまして、人間は其間に最高の眞理を離れました。そして今は世界が墮落致して居ります。今の世では善行を積んでも佛にはなれません。と申すは世間が腐敗して壽命が短いからで御座います。併し信心深い人は、德を積み常に念佛を唱へますれば、極樂には參れます。極樂では正法を行ふことも出來ます。日も長し壽命も長う御座いますから』

 『私は經文の英譯で』自分が云つた。『人は善行に依つて順々に前よりも優れた住生(しやう)へ生まれ替はり、其度每に、前よりも優れた能力を得、前よりも優れた悅びに包まる〻といふことを讀みました。富や力や美や、又美女や、何でも人が此世で欲するものが手に入る樣に云つてあります。すると精進の道は進めば進む程段々むつかしくなるに相違ないと思はぬ譯に參りません。といふのは、若し此經文が、眞なら、人は佛法の修業に依つて煩惱の對象から離れ得れば得られる程、又之に復歸させようとする誘惑が益〻强くなるからであります。さうすると德の酬いはそれが却つて妨げとなるやうに思はれますが』

 『そうでありません』老人が答へた。『持戒自制に依つてそんな此世の幸福を得るやうになつた者は、同時に靈力と眞知を得て居ます。一生を進める每に己れに打勝つ力も勝して往つて、遂に物質を離れた無色相の世界に生まれます。さうなると低級な誘惑は御座いません』

 赤猫は此時下駄の音で不安さうに身動きをした。が、尼に尾(つ)いて入口の方へ出て往つた。二三の來客が待つて居るのであつた。それで老僧は彼等の精神上の要望を聞かんが爲め、暫し容赦を乞ふ旨を告げた。我等は直に新參の客に席を讓つた。――彼等は何れも氣持ちのよい人間で、我等にも挨拶した。一人は子息を亡(な)くした母親で、其子の冥福を祈るやうに、讀經を請ふのであつた。今一人は病める夫の爲めに、佛の憐れみを得ようとする若い女房で、あとの二人は遠い處へ往つた誰れかの爲めに[やぶちゃん注:これは原文と並びから考えて物理的に遠いところであって、あの世ではない。]、佛の助けを乞はうとする父と娘であつた。老僧は一同に慈愛に滿ちた挨拶をした後、子を失つた母には地藏の版行繪を與へ、病める夫を持つ女房には、洗米の紙捻りを與へ、父と娘には何か尊い文言を書いて與へた。自分には、ふと全國の無數の寺で、每日無數の無邪氣な祈禱がかうして行はれて居るのであるといふ考が浮かんだ。又誠實な愛情から來る凡ての心配、希望、苦悶といふやうなもの、及び神佛にしか聽かれない、あらゆる謙遜な悲歎を思ひ浮かべた。通譯の學生は老人の書棚を漁り始めた。そして自分は考ふべからざるものを考へ始めた。

 生――創(つく)られたのでない、従つて始めなき、統一體としての生――我々は只だ其明かるい影のみを見る生――永久に死と戰ひつつ、常に征服せられ、しかも常に生存する生――それは一體何であらう――何故にそれは存在するのであらう。何百萬囘か字宙は消失した――何百萬囘か復活した。消失するごとに生も共に消失するが、つぎの週期には再現する。宇宙は星雲となり、星雲は宇宙となる。星や遊星の群は永久に生まれ、永久に死滅する。新たに大凝聚が行はれる毎に、燃える球體は冷却し、成熟して生となり、生は成熟して思想となる。我々各個の靈魂は幾百萬の太陽の熱を潜つたに相違ない――將來も更に幾百萬の宇宙の消滅に遇ひ、しかも生存するに相違ない。記憶も如何にかして、如何なる處にか生存し得ぬであらうか。或る知られざる方法と形式とにて、其記憶が生存せぬとは我々は斷言し得ぬ――過去に在つて將來を記記憶すとも云ふべき、無限の洞觀力の如くに。多分涅槃の深淵に於けるが如き無盡の夜の中に、過去詐將來の夢が永久に夢みられつつあるのであらう。

 

 檀家の者等は謝意を述べ、地藏に少し許りの供物を供へ、それから我等にも挨拶しで歸つて行つた。我等は小さい机の側の故(もと)の座に還つた時、老人は云つた。

 『世の中の悲歎を誰れよりもよく知るのは僧侶で御座いませう。西洋人は金はあるが、矢張り西洋にも苦惱は多いさうですね』

 『ハイ』自分は答へた。『西洋には日本によりも却つて苦痛が多いでせう。金持ちの快樂は日本よりも大きいが、貧民の苦痛も大きいでせう。我々西洋人の生活は日本よりも困難です。其理由ででせう。我々の思想は此世の不可解に惱さる〻事が多いのです』

 老僧は之に興味を持つらしかつたが、一言も云はなかつた。自分は通譯の助力で詞を續けた。――

 『西洋諸國の多くの人々が、常に心を惱ます三つの大きな疑問があります。(何處から)(何處へ)(何故)と云ふのであります。それは人生は何處から來たか、何處へ行くか、そして何故に存在し、何故に惱むかといふ意味であります。西洋の最高の哲學は、それを解き難き謎だと申します。けれども同時にそれが解けぬ限りは、人間の心に平和がないと白狀致して居ります。凡ての宗敎は其說明を試みましたが、何れも異說まちまちであります。私は此疑問の解決を得ようとして佛書を漁りました。そして何れよりも立ち優つた解答を見附けそした。それでもまだ不完全であるので、私を滿足させる事は出來ません。貴僧のお口から、少くとも第一と第三の疑問の解答を伺ひたいと存じます。私は證明や議論は一切伺はうとは致しません、ただ結論の御敎義を承りたいのであります。一切の物は始めは宇宙心靈にあるのでせうか』

 此質疑に對して自分は實は明快な答辯を豫期しなかつた。それは『一切漏經』といふ經の中で、『考ふべからざる物』とか、六愚說とか、『茲に物あり、此者何れより來り何れに行くか』などと論議する者を、非難する言を讀んだ事があるからである。然るに老僧の答は、歌の樣に訓子よく音樂的に聞こえだした。――

[やぶちゃん注:「一切漏經」(いつさろきやう(いっさいろきょう))。原文“Sabbâsava”。これはパーリ仏典経蔵中部に収録されている第二経の「Sabbāsava-sutta」(サッバーサヴァ・スッタ)で、「一切煩悩経」とも呼ばれる。「漏」(ろ)は「煩悩」の異名。個人サイトのこちらで日本語の現代語訳が読める。ただ、ハーンが言っているのがどこかは、この訳ではよく分からない。敢えて言えば、第一章の第二に、「有漏に関して、正しく観察する。我が存在するという、常恒の囚われを諦めて、我が存在しないという、断滅の捕われを諦める」というのがそれっぽい感じはする。香光書郷氏の「一切漏經注:巴漢校譯與導論」(繁体字・PDF)という中国語訳のそれがあるが、残念ながら私には読み下せない。悪しからず。

「六愚說」不詳。]

 『一個體として考へた萬物は、發展繁殖の無數の形式を經て、宇宙心靈から出現したのであります。萬物は其心靈の中に潜在的に久遠の昔から存在したのであります。併し我々が心と呼ぶものと、物と呼ぶものとの間には、本質の相違は御座いません。物と呼ぶものは我々の感覺、知覺の總計で、それは皆心の現象であります。物の本體に就ては、我々は何の知識も御座いません。我々は我が心の諸相以外の事は何も知りません。心の諸相は外部からの影響若しくは外力に依つて心の中に現はる〻もので、此影響外力を指して物と申します。併し物と心と申すも又無窮の實在の二つの相に過ぎません』

 『西洋にも』自分は云つた。『それに似た說を敎ふる學者があります。それから近代將科學の深淵な硏究も、我々が物質と呼ぶものは、絕對の存在を有しないと說くやうです。併し貴僧の仰しやる無窮の實在に席しまして、それが何時如何にして、我々が物と心と區別する二つの形式を初めて生み出したかといふ、佛の敎はないでせうか』

 『佛敎は』老人が答へた。『外の宗敎の樣に、萬物が天地開闢といふ事で創造(つく)られたとは敎へません。唯一無二の實在は宇宙心靈で、日本語で眞如と申します。――これが無窮久遠の實在其物で御座います。さて此無窮の心靈は自體の中に自體の幻影を見ました。丁度人が幻覺で眼に映つた物を實物と思ふ樣に、此宇宙實在も自體の内で見た物を外物と思ひ違へたのであります。此迷妄と我々は無明と申します。其意味は光を發しないとか、照明を缺くとか申すのであります』

 『其言葉を、西洋の或る學者は』自分が口を挿んだ。『「無知」と譯しました』

 『私もさう聞いて居ります。併し我々が用ふる言葉の意味は「無知」といふ言葉で現はす意味とは違ひます。寧ろ誤つた敎化とか、或は迷執の意味であります』

 『そして其迷執の起こつた時に關しては、何と敎へてありますか』

 『最初の迷執の起こつた時は、數へ切れぬ遠い過去で、無知(むし)卽ち始めを超越して居ると申します。先づ眞如から非我といふ第一の差別が出現して、それから精神上並びに物質上のあらゆる個體が起こり、又同樣にあらゆる情と慾とが出て、それが生死流轉の緣を作つたので御座います。だから全宇宙は無窮の實在からの出現であります。けれども我々は其無窮の實在に依つて創造(つく)られたとは申されません。我々の本元の我は宇宙心靈であります。我々の内には宇宙我が、最初の迷執の結果と共に存在して居るので御座います。此迷執の結果の裏に、本元の我が包まれて居る狀態を、我々は如來藏卽ち佛(ほとけ)の胎と申します。我々が何の爲めに努力するかと申すと、只だ此無窮の本元我に歸着する爲めで、其處が佛陀の根本で御座います』

 

注 如來藏は梵語で Tathâgata-gharba と云ふ。Tathâgata は日本語で如來で、佛の最高の稱號である。先人の來るが如く來る人といふを意味す。

[やぶちゃん注:平井呈一氏は恒文社版「横浜で」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)で、この原注の後に訳注を附しておられ、そこには、

   《引用開始》

訳者注 金剛般若経に「無ㇾ所従来、亦無ㇾ所ㇾ去、故名如来。」とある。如は真如、つまり真如より来生せるもの、すなわち、真理より顕現したものという意味で、仏のことをいうのである。

   《引用終了》

とある。漢文部を正字に直して勝手流で訓読しておく。

 從(よ)つて來たる所、無く、亦、去れる所、無し。故に「如來」と名づく。

この経の意は腑に落ちる。――α以前から既にして在り、Ω以後にも在り続けるのだ。――]

 

 『も一つ疑義がありますが』自分は云つた。『それに就て佛敎の敎へを承りたい。我が西洋の科學は、我々の目に見ゆる此宇宙は、無限の過去に於て無敷囘、替り番に展開したり、崩壞したり致したので、無限の未來に於ても、又無數囘滅したり現はれたり致すに相違ないと申します。又印度古哲學や佛典の英譯にも同樣の事が述べてあつります。併し遂にはあらゆる物に最終の消滅、永遠の靜止の時が來たらうとは敎へてありますまいか』

 彼は答へた。『いかにも小乘には、宇宙は過去に於て無數囘現はれたり消えたりを反復した。將來の無限劫の間にも、又替り番に崩れたり立て直したりするであらうと說いであります。併し又一切の物は遂には永久に涅槃の狀態に入るであらうとも說いてあります』

 これとは筋違ひであるが、併し抑制し難い空想が突如として此時自分の胸に起こつた。科學は絕對靜止の狀態を攝氏の零下二百七十度卽ち華氏の零下四百六十一度、二といふ公式で表はすといふことを思ひ出したのであつた。併し自分はただ云つた。

[やぶちゃん注:理想気体の状態方程式から導き出された値ではケルビンやランキン度の絶対零度は、セルシウス(摂氏)度で マイナス273.15 ℃、ファーレンハイト(華氏)度でナイマス459.67 °Fである。]

 『西洋人の頭には絕對靜止を、幸福の狀態とは考へ難いのですが、佛敎の涅槃といふ思想は、無限の休止、普遍的の不動といふ思想を含むのでせうか』

 『否』と老僧は答へた。『涅槃は絕對自足、凡てを知た。凡てを見る狀態であります。我我はそれを全然不活動の狀態とは思ひません。却つて凡ての繋縛を脫した大自在の境地と想像致します。いかに名我々は肉體のない感覺若しくは知覺の境地を想像する事は出來ません。我々の五感も思想も肉體といふ條件に隷屬するのでありますから。併し我々は涅槃は無限の視力、無限の安心の境地であると信じます』

 

 赤猫は老僧の膝の上に躍り上がつて、氣樂さうに圓(まる)くなつた。老人はそれを撫でてやつて居る。自分の通譯子は小さく笑つて――

 『肥えて居ますね。前世に善行を積んだのでせう』

 『動物も』自分は問うた。『前世の功罪に依つて、境涯が定まるのでせうか』

 僧は嚴肅に自分に答へた。

 『凡て生物の境涯は前世の境涯に依るので、生は一であります。人間に生まれるのは幸運であります。人間であればこそ我々は幾何かの敎化を受け、功を積むの機會もあるのであるが、動物の狀態は心の闇の狀態で、誠に憐惘の至たりであうます。どの動物でも眞に幸福だとは考へられません。併し動物の生活にさへ、限りなき境涯の相違が御座います』

 後は暫く沈默が續いた――猫の咽喉を鳴らす音が折々聞こゆるばかりであつた。自分は丁度衝立の上に見える、アデレード・ニールソンの肖像を見た。そしてヂユリエツトを思ひ出し、又自分が若し立派に日本語で話し聞かせることが出來たら、沙翁の驚くべき情熱と悲哀の物語に就て、僧は何といふだらうと考へ𢌞らした。其時突然其疑惑に對する返答であるかの如く、『法句經』の第二百十五節の文句が胸に浮かんだ――『愛より悲は來り、悲より恐は來る、愛に繋(つな)がれぬ者は悲もなく恐もなし』

[やぶちゃん注:「法句經」(ほっくきょう)は「ダンマパダ」(パーリ語ラテン文字転写:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典の一つ。語義は「真理(dhamma)の言葉(pada)」の意。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からは、かなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(ウィキの「法句経」に拠る)。同経の「愛樂品(あいげうほん)第十六」に、

   *

非處(ひしよ)に就きて是處に就かず、利を棄てて、愛樂を取るものは、是處に就きたる人を羨むに至る。

愛せるものと會ふこと勿かれ、惡(にく)めるものと會ふこと勿かれ、愛せるものを見ざるは苦(く)、惡めるものを見るも亦、苦なり。

されば何物をも好愛する勿かれ、愛者と別るるは禍(わざはひ)なり、人に愛憎なければ纏結(てんけつ)あることなし。

愛好(あいかう)より憂悲(うひ)生じ、愛好より怖畏(ふゐ)生ず、愛より脫(のが)れたるものには、憂悲なし、焉(いづく)んぞ怖畏あらん。

   *

とある。]

 『佛敎は』自分は尋ねた。『一切の性愛は禁止せらるべきものと敎へるでせうか。性愛は必然的に修業の障りとなうませうか。私は眞宗の僧侶の外、凡て僧侶は結婚を禁ぜられて居ることを承知致して居ります。併し俗人には獨身といふことに就て、何ういふ敎がありますか存じませぬ』

 『結婚は道の障りともなり、又助けともなります。それは場合によります。凡ては場合次第であります。若し妻子の愛の爲めに、憂世のはかない名利に餘り酷(ひど)く執着する樣ならば、そのやうな愛は障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。障害に同じい。]となりませう。併し之に反して、妻子の愛の爲めに獨身の狀態に於てよりも、純潔に非利己的に生活する事が出來るならば、結婚は修道の大なる助けとなりませう。大智の人には結婚の危險が多く、小智の人には獨身の危險が一層大であります。又時としては情熱の迷ひが性來利根の人を大智に導くことも御座います。これに就てお噺があります。大目連(だいもくれん)、これは普通目蓮で通る人ですが、此人は釋迦の弟子でありました。處が美男なので一人の娘に思ひつかれました。然るに目蓮は既に僧籍に入つて居るので、夫に持つことは出來ぬと、娘は失望して竊に嘆いて居りました。が遂に勇氣を奮ひ起こして釋迦の前に行き、心のたけを打明けました。其詞もまだ終はらぬ中、釋迦如來は彼女に深い眼りを投げかけると、彼女は目蓮の樂しい妻となつた夢を見ました。樂しい幾年月かが夢の裡に過ぎ去ると、此度は悅びと悲みの雜じつた幾年かが過ぎました。すると突然夫が死んで了ひました。それで彼女は生きて居られぬと云ふ程の悲歎に遇ひまして、其苦悶の中に目を覺ますと、如來は微笑して居られます。そして彼女に申さる〻やう「妹よ、御身は凡てを見た。御身の欲する通りに選ぶがよい――目迢の妻となるとも、或は目蓮が既に入つて居る高き道を求むるとも」そこで彼女は髮を切つて尼となりましたが、後には輪囘[やぶちゃん注:「輪𢌞」の誤植であろう。]の苦を脫れる境涯に達しました』

 

註 梵語にては Mahāmaudgalyāyana。

[やぶちゃん注:原文では“Mahâmaudgalyâyana”。目連(Maudgalyāyana:マウドガリヤーヤナ/パーリ語:Moggallāna:モッガラーナ/漢意訳:菜茯根・采叔氏・讃誦/音写:目犍連・目健(腱)連)は古代インドの修行僧で、釈迦の十大弟子の一人。本来、正しくは「目犍連(もくけんれん)」であるが、「目連」と呼ばれることが多い。優れた神通力の使い手として「神通第一」と称された。釈迦の直弟子中でも、舎利弗と並ぶ二大弟子として活躍したことから、「Mahā」(マハー:摩訶=「大」)を冠して「マハーモッガラーナ」=「摩訶目犍連」「大目犍連」などとも記される(ウィキの「目連に拠った)。]

 

 暫し自分はかう考へた。此噺は愛の迷妄が人を成道に導くといふ事を示しては居らぬ。又娘の入道は强ひて苦惱を知らしめられた直接の結果で、愛の結果ではないと。併し間もなく、彼女に見せつけられた夢も、利己的な下劣な人間には、立派な結果を生ぜしむることもなかつたらうと考へ直した。又自分は現今の世態では己が將來の運命を前以て知らされることは、云ふ可からざる弊害を伴なふであらうと考へ、我々の將來が目に見えぬ幕の後ろで作られる事は、我々の多くに取つては幸であると感じた。それから自分は又、其幕を揚げて覗く能力は、其能力が人間に眞に有益であるやうになれば、直に發展するか或は新たに得られるであらうが、それ迄は望はないなどと想像した。そして云つた。

 『未來を見る力は悟道に依つて得られませうか』

 僧は答へた――

 『得られます。六神通を得る所迄修業が進みますれば過去も未來も見ることが出來ます。此力はは前世を思ひ出る能力と同時に起こります。併し左樣な悟道の域に達することは、只だ今の世では甚だ困難で御座います』

 

 通譯子は此時自分にもう辭去すべき時だと密かに合圖をした。我々は少し長居を爲過ぎ――其點には寬大な日本の作法で測つても長過ぎた。自分の突飛な質問に答へて吳れた好意を謝した上で附け加へた。――

 『まだ承りたい事が澤山ありますが、今日は餘り長くお邪魔を致しをした。又別に出ましても宜しいでせうか』

 『喜んでお迎へ致します。何卒幾度でもお出で下さいませ。まだお分かりにならぬ所は何でも御遠慮なくお聞き下さい。悟を得、迷を霽らすのは熱心な探究に依るのみで御座います。いやどうぞ度々お出で下さい――小乘に就てお話しが致したう御座りますから。そしてこれを何卒お納め下さい』

と彼は自分に二個の小さい包を渡した。一つは白い砂――善人の靈が死後巡拜に出懸けるといふ善先寺の祠堂の砂で、も一つは極小さい白い石で、舍利卽ち佛陀の遺骨であつた。

 

 其後自分は幾度も此親切な老翁を尋ね度いと思つたが、學校と雇傭契約をしたので、橫濱を去り幾多の山を越えて赴任した。それで其後は彼に遇はなかつた。

[やぶちゃん注:これは実に明治二七(一八九四)年刊のハーンの来日後の記念すべき第一作品集のワン・シークエンス、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』の、マルチ・カメラによる別映像なのである。但し、僧との仏教の宇宙観の論議はやや創作されている感じが私にはかなりする。孰れにせよ、先行作の同ロケーションと比較あれかし。なお、ハーンが松江中学に赴任するために東京を立ったのは八月下旬で、ここに同伴者として登場している青年真鍋晃と一緒であった。

 

       

 自分が再び地藏堂を見る迄に、五年の歲月は徐に過ぎた。其五年は悉く此條約港から遙かに遠い處で過ごしたのであつた。其間に自分の内外に多くの變化が起こつた。日本の美しい幻(まぼろし)――初めて其魔力ある雰圍氣の中に入る者には、殆ど氣味惡るい程に感ぜられる妖美も、自分には實際長らく感ぜられたが、遂に全く消え失せた。自分は魅惑されずに有の儘に極東を見るやうになつた。しかも大いに過去の感動を思慕して止まなかつた。

 併し其感動は或る日復活した――ほんの一瞬の間だけ。自分は橫濱に來て、も一度山の手から、四月の朝に浮かべる神々しい富士の山靈を凝視した。其偉大なる春の光の靑く漲れる裡に、自分が初めて日本を見た日の感じが戾つて來た。美しい謎に充ちた世に知られぬ仙境――特殊の日輪と、獨得の色澤ある大氣とを有する妖精の國の光彩に、初めて驚喜せる感じが戾つて來た。自分は再びかがやかしい平和の夢に浸つた、眼に映る物悉く再び心地よき幻となつた。東洋の空は――極めて淡い白雲のあるかなきかに點々せるぱかり、涅槃に入らんとする靈魂の如くに曇りなき――再ぴ佛陀の空と化した。朝の色は次第に濃くなり行き、枯木も花咲き、風は薰り、生きとし生ける者愛憐の情を起こさざるはなかりしと云ひ傳へた、釋迦降誕の日の面影を現ずるに至つた。漠然たる香氣は四方(よも)に薰じて聖師再來を告ぐるが如く。通行人の顏さへ凡て聖誕の豫感で微笑する樣に見えた。

 間もなく靈氣は四散して、物は皆俗惡に見え出した。自分が經驗した凡ての幻、地上の一切の幻は實物の如く、宇宙の森羅萬象は却つて幻の如く思はれ出した。是に於て無明といふ詞が想ひ出された。そして自分は直に地藏堂の老いたる思索家を尋ねようといふ氣になつた。

 其界隈は大分變つて居た。古い家は消え失せて、新しい家が驚く程櫛比して建ち並んだ。併し自分は遂に彼の露地を發見した、そして彼の[やぶちゃん注:「かの」。]記憶して居た通りの小さい寺を見附けた。入口の前には女達が立つて居た。そしずて若い一人の僧が幼兒と遊んで居た。が、其幼兒の小さい鳶色の手は、僧の綺麗に剃つた顏を弄(なぶ)つて居た。其顏は切長(きれなが)の眼を有つた、利根[やぶちゃん注:「りこん」。「利発」に同じい。]さうな親切さうな顏であつた。

 『五年前に』自分は拙い日本語で彼に云つた。『私は此寺へ參りました。其時年老(とつ)た坊(ぼん)さんが居ましたね』

 若い坊さんは赤兒を其母らしい女の腕に渡して答へた――

 『ハイ、彼の老僧は亡くなりました。それで私が代りました。何卒お上がり下さいませ』

 自分は上がつた。小さい須彌檀は變はり果てて、あどけない美しさは無くなつて了つた。地藏は尙ほ涎掛の中から微笑して居るが、其外の佛達は消え失せた。同樣に繪馬類も――アデレード・ニイルソン孃の肖像も――見えなくなつた。若僧は自分を老僧が書き物をして居た室で寬(くつろ)がせようと試みて、烟草盆を自分の前に据ゑた。例の書物のあつた隅を見たがもう無かつた。凡てが變つたやうであつた。

 自分は尋ねた――

 『何時老僧はお亡くなりになりました』

 『遂去年の冬』と僧は答へた。『大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。陽暦一月二十一日頃。旧暦では前年十二月中であるが、この場合は前者であろう。即ち、明治二六(一八九三)年一月である。]の節に亡くなりました。脚を動かせないので、大分寒さに惱まされました。これが位牌です』

 彼は床の間に行つて得體の知れね瓦落多[やぶちゃん注:「がらくた」。]――大方佛具の破片であらう――の亂雜に載つて居る棚の間から、左右に花の挿してあるガラス瓶を置いた小さい佛檀の扉を開いた。中には黑漆へ金字を書いた新しい位牌が見えた。彼は其前へ燈明を點し、線香を一本立てて云つた。

 『一寸失禮致します。檀家の者が待つて居りますから』

 自分はかうして獨り取り殘されたので、位牌を見、小さい燈明の動かぬ炎と、線香の炎(ほのほ)と、線香の靑くゆるやかに上る烟を凝視(みつ)めながら、老僧の靈は此中に居るだらうかと初めは怪しんだが、暫しの後には眞に居る樣な氣がして、口の中で彼に話し懸けた。つぎに自分は佛壇の兩側にある花瓶には、まだボルドーのツーサン、コーナア會社[やぶちゃん注:「一」と表記が異なるのはママ。]の名が附いて居、線香箱には、香味豐かな紙卷烟草の銘が入つて居るのに氣が附いた。室を見𢌞はすと、自分は又赤猫が日當りのよい隅の方に眠つて居るのを見附けた。側へ往つて撫でてやつたが、自分を覺えても居ず、眠さうな眼を開きもしない。が前よりも毛艷があつて幸福らしかつた。入口の方で此時悲しさうに呟く聲が聞こえたが、やがて僧の聲で相手の半解[やぶちゃん注:一部のみが聴こえ、全体は判然としなかったことを指す。]の答を氣の毒さうに繰り返すのが聞こえた。『十九歲の女、フム、それから二十一歲の男――さうですね』其時自分は歸らうとして起ち上がつた。

 『御免下さい、もう一寸お待ち下さい』僧は何か書いて居た顏を上げて云つた、女達は自分に禮をした。

 『いや』自分は答へた。『お邪魔致しますまい。私はただ老僧にお目に懸かりに來たのですが、む位牌にお目に懸かりました。これは少しばかりですが靈前へ、それからこれは貴僧(あなた)へ、何卒(どうぞ)』

[やぶちゃん注:「靈前」は厳密には「佛前」とすべきところ。仏教では一般に亡くなって四十九日までは「霊」の状態にあるとされるが、四十九日を過ぎると成仏して仏になるとされているからである。]

 『暫くお待ち下さい咄せ、お名前を承り度う御座いますから』

 『多分又伺ひませう』自分はごまかすやうに云つた。『老尼もお亡くなりになりましたか』

 『いやいや、達者で寺の世話を焼いて居ります。只だ今外出致しましたが、直ぐ戾りませう。お待ち下さい。何か御用でもお有りになりはしませんか』

 『ただ御祈禱を願ひませう』自分は答へた。『私の名はどうでも宜しいです。四十四歲の男、其男に尤もふさはしい物が得られるやうにお祈り下さい』

[やぶちゃん注:「四十四歲」底本は「四十二歲」であるが、原文は“forty-four”で正しいハーンのこの「二」の時制での年齢を言っているので、誤訳或いは誤植と断じ、特異的に訂した。。]

 僧は何か書き下した。自分が彼に祈つて吳れと依賴したことは、確に自分の心の眞底の願ではなかつた。併し佛陀は、失はれた幻の復歸を願ふやうな、愚かしい祈禱には耳を藉さぬであらう事を自分は承知して居た。

 

2020/01/14

脱落していた『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』を挿入した

情けないことに、2015年にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で行った「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」の内、「第三章 お地藏さま (七)」をアップし忘れていたことに、今頃、気づいた。再校正と注を増やして先程、当該並びに合うように、遡った日付でこちらにアップした。お詫び申し上げる。

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