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カテゴリー「小泉八雲」の380件の記事

2019/01/03

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(63) 封建の完成(Ⅰ)

 

  封建の完成

 

 日木の文明がその發達の極限に達したのは、德川幕府の末期――現今の政體にうつる直ぐ前の期間――であつて、それ以上の發展は社會の改造に據るの他不可能であつた。此完成の狀態は、以前から存在して居た狀態をくし、明確にすることを、主に現はしたもので、基本的變化としては殆ど何もないのである。協同の古來の制的制度が以前よりも一層められ、儀式的因習のあらゆる細微な條件が、以前よりも容赦なく嚴正に固執された。是より先き立つた時代には、此時に比して遙かに苛酷な處はあつたが、併しこれほど自由の缺如した時代は未だ曾て無かつた。併しながら斯く制限を增大した結果にも道德的の價値が無い譯ではなかつた。個人の自由が個人の利益となり得る時代は、まだ遙かに遠かつた。そして德川の統治の父の如き制は、國民性に於て最も目に附くものの多くを發達させまたそれをめる助けをした。幾百年の戰亂は、これ以前には、其國民性のもつと微妙な諸性質を修養する機會を餘り與ヘなかつた。其諸〻の性質とは嫻雅[やぶちゃん注:「かんが」。優雅。「嫻」も「みやびやかなさま」。]、飾り氣のない溫情、後に至つて日本人の生活に實に稀代の魅力を與へた生に就いての喜である。併し昌平[やぶちゃん注:「しやうへい」。国家の勢いが盛んで、世の中が平和なこと。「太平」に同じ。]二百年の鎖國の間に、此の人間味のある天性の侵雅にして魅力に富んだ方面が開發される機會を得たのである、そして法律習慣のいろいろな制限はまやその開發を促進せしめ、且つそれに奇異な形態を與へた、――たとへば園丁の倦む事を知らぬ技術が、菊花を百千の風變りな美しい形に進化させるやうなものであつた。……壓迫を蒙つた一般の社會的傾向は、窮屈に向つたけれども、抑制は道德的及び美的の修養に對する餘地を特殊の方面に殘した。

 此社會狀態を了解するには、其法律的方面に於ける統治者の父の如き統治の性質を考察する事が必要であらう。近代人の想像からすれば、昔の日本の法律は堪へ難い程嚴酷なものと思はれるのは尤もな次第であるが、併し彼等の行政は、實際我等西洋の法律のそれ程に妥協性のないものではない。其上、最上級から最下級まで、あらゆる階級を重く壓しては居たけれども、法律上の重荷は、負擔者の各自の力に相應するやうにされて居た、則ち法の適用は社會的階級が下れば下るに從つて漸次寬大になつて居たのである。少くとも理論上では、上古から貧乏人や不幸者は憐憫を受ける資格があると考へられて居り、それ等に對しては能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]限りの慈悲を示す義務が、日本の現存の最古の法典なる聖德太子の法律にも主張されてある。併し斯樣な差別の最も著しい例は、家康の遺訓に現はれて居る、此の遺訓は、社會が既に餘程發達して、その諸制度も餘程確立し、あらゆるその束縛も嚴重になつた時代の正義に就いての槪念をあらはして居る者である。』『民は國の本なり』(遺訓第十五條)と道破[やぶちゃん注:「だうは」「「道」は「謂(い)ふ」の意で、「ズバリと言ってのけること・言い切ること」。]した此の峻嚴にして而も賢明な統治者は、賤民に對する取扱ひを寬仁にすべきことを命じた。彼はたとへ如何に高位に在るものでも、大名が法を破つて『民の災となる』(遺訓第十一條)者があれば、其の領地を沒收して是を罰する事を規定した、此の立法者の人道的精神は、犯罪に關する彼の法令、たとへば、彼が姦通の問題を取扱ふ場合の如きものに最もく示されて居る――姦通は祖先祭祀を基礎とする社會には當然最も重大な犯罪であるが、遺訓の第五十條〔農工商之妻密に他夫と通亂人倫者は當夫不ㇾ及訴出雙方可ㇾ誅ㇾ之誅一人而不ㇾ誅一人當夫之愆與不義人同し然共若又不誅して於訴出は誅共不誅共可ㇾ任當夫之願陰陽合體之人民非可ㇾ憎之科裁許者尤可ㇾ有斟酌やぶちゃん注:表記になるべく従って訓読してみる(なお、現行では「家康遺訓」は偽書とされる)。「農・工・商の妻、密(ひそか)に他夫と通じ、人倫を亂せし者は、當(たう)の夫、訴へ出づるに及ばず、雙方、之れを誅すべし。一人を誅して一人を誅せざるは、當の夫の愆(あやまち)〈=過ち・重大な錯誤〉にて、不義人と〈或いは「不義人に與(くみ)せしと」とも読める〉同(おな)し。然れども、若し又、誅せずして訴へ出ずるに於いては、誅すとも、誅さざるとも、當の夫の願(ねがひ)に任す一べし。陰陽の合體、之れ、人民には、憎むべきの科(とが)に非ず。裁許を至す者、尤も斟酌(しんしやく)有るべき事。」。]〕によつて、恥を受けた夫は不義者を殺す古來の權利を認可された、――併し、若し彼が不義者の一人だけを殺すならば、彼は相手のいづれの者とも同罪と見倣さるべきものであるといふ條項が附隨して居た。若し犯人が裁判を受ける事になると、平民の場合には特にその事件を寬大に處置すべき事を家康は勸めて居る。彼は人間の性質は元來弱い者である事を述べて、若年で單純な心の者の中には、相方が性質上墮落して居ない時ですら、一時の激情の餘りに愚行に走る場合もある事を云つて居る。併し次の條項第五十一條に、彼は上流階級の男女が同樣の罪を犯した場合には、何等の慈悲をも示すべきではないと命じて居る。彼は宣言して居る、『是等のものは、現存の規定を犯すことによつて世を騷がせるが如き事はせぬ程に心得のある人々である。故に斯かる人々が、不義不貞をはたらいて法を破る時は、容赦も相談も無く直に是を罰すべきものである。農、工、商の場合は是の場合と同じからず」〔武門仕給之男女如例式濫に不ㇾ可混雜倘有犯ㇾ法戲𪋡私淫一は速可ㇾ處罪科非ㇾ可爲斟酌與農工商不ㇾ同事[やぶちゃん注:同前。「武門仕給(しきふ)の男女(なんによ)、例式のごとく、濫(みだり)に混雜すべからず。倘(もし)、法を犯し、戲𪋡(ぎぼく〈一応、そう読んでおく。「康熙字典」に「𪋡」は「鹿相隨也」とあるから、「睦み合い戯れる」で性的前戯のようなものを含むか〉)私淫有れば、速(すみやか)に罪科に處すべし。斟酌爲(す)べからず。農・工・商と同じからざる事。」。]〕……全法典に亙つて、武士階級の場合に法の束縛を固くし、下層肘階級の爲めには、是を緩くする此の傾向は一樣に現はれて居る。家康は不要な處罰を力を入れて非とした。そして刑罰を屢〻行ふ事は民の非行の證據に非らずして、官吏の非行の證據であると主張した。彼の法典の第九十一條は將軍に關してすら此の事を斯く明らかに規定して居る、『皇國に刑罰處刑が夥多[やぶちゃん注:「かた」。物事が多過ぎるほどあること。夥(おびただ)しいさま。]なる時は、武士の統治者が不德にして墮落せる證據である。』〔五穀不熟は天子正道之不明也國家多刑戮は將軍武德之不肖と知て事々省我身不ㇾ可ㇾ令怠慢事[やぶちゃん注:同前。「五穀の熟さざるは、天子の正道の不明なり。國家、刑戮(けいりく)すること多きは、將軍の武德の不肖と知りて、事々(ことごと)に我が身を省み、怠慢せしむべからざる事。」]〕……彼に權威ある大名の殘酷或は貪婪[やぶちゃん注:「どんらん」「とんらん」「たんらん」の読みがある。ひどく欲が深いこと。貪欲。]から、農民と貧民とを保護する爲めに特殊な法令を案出した。大大名が江戸に參勤する途中、『泊に於て狙薪に及ぶ事』或は『武勳を笠に僭越の振舞をなす事』〔譜代外樣諸家之士大夫參勤交代驛路の行列堅守作法分限之外不ㇾ可華麗又悋嗇にして專驕武威不ㇾ可ㇾ惱旅館之人夫[やぶちゃん注:同前。「譜代・外樣・諸家の士大〈家士のこと。〉、參勤交代驛路の行列、堅く作法を守り、分限の外(ほか)は、華麗にすべからず。又、悋嗇(りんしよく)にして、專ら武威に驕(おご)り、旅館の人夫を惱ますべからず。」。]〕を嚴禁した。是等の大大名の公の行爲は言ふに及ばず、其の私行さへも同じく幕府の監督の下にあつて、彼等は不道德な爲めに實際處罰される事さへあつた。彼等の間の放埓に關して、立法者は、『これは叛逆とは公言せられ得ずとするも』それが下層階級に對する惡例を鎭める程度に準じ[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]て判決し處罰すべきもの(第八十八條)と規定した。眞の叛逆に就いては容赦は無かつた、此の問題に關する法律は峻嚴を極めて例外或は緩和を許さなかつた。遺訓の第五十三條はこれが最高の犯罪として認められた事を證するのである、『主を殺す臣下の罪は原則上天皇に對する大逆人の罪と同じ。彼の三親九族、最も遠緣の者に至る迄枝葉を悉〻く[やぶちゃん注:以上で「ことごとく」と読んでいるようである。]斷して是を根すべし、主を弑したのでなく只だ主に向つて手を舉げただけの臣下の罪でも同斷である』〔臣弑ㇾ君之罪科其理朝敵に均し其從類眷屬所緣之者に至迄刈ㇾ根截ㇾ葉べし縱雖ㇾ不ㇾ弑家賴對主人於ㇾ致手抗は同科たるべき事[やぶちゃん注:同前。なお、「家賴」(「家来」のこと)はママ。「臣、君を弑するの罪科、其の理(ことわり)、朝敵に均(ひと)し。其の從類眷屬〈「從類」と「眷屬」は同義。一族及びその家来を含めた総てを指す〉・所緣の者に至るまで、根を刈り、葉を截(き)るべし。縱(たと)ひ弑せずと雖も、家賴(けらい)、主人に對し、手抗(てあらがひ)を致し於けるは同科たるべき事。」。]〕併し下層階級の間に法を行ふ事に關してあらゆる制限を行ふ精神は、此凄まじい法令とは甚ししく反對して居る。贋造[やぶちゃん注:「にせがねづくり」と訓じておく。]、放火、毒殺は實に火刑或は傑刑を正常とする罪であつた。併し普通の罪の場合には、事情の許す限り寬恕するやうに内命を授けられて居た。法典の第七十三條に云ふ、『下級の者に關する微細の點に就いては漢の高祖の廣大な慈悲を學べ』と。〔至下賤方偶之細事可ㇾ做漢高之寬仁事[やぶちゃん注:同前。「下賤の方偶〈恐らくは「はうぐう」で「処し方の類い」の意であろう〉の細事に至つては、漢高の寬仁を做(なら)ふべき事。」。]〕更に刑事廷及び民事廷の奉行はただ、『慈善と慈悲とで著名な廉直高潔な武士の階級』から〔評定決斷所の奉行人は正道の龜鑑なり是にあつる者は委撰人品淸潔仁愛成者申付[やぶちゃん注:同前。「評定決斷所の奉行人は正道の龜鑑(きかん)〈古代中国の亀卜(きぼく亀の甲羅を焼いてその割れ方から吉凶を判断した)に、「鑑」は正しいあり方を正しく映す「鏡」で、人の行いの手本・模範・規範。〉なり。是れにあつる〈「充つる」〉者は委(くはし)く、人品、淸潔にして仁愛なる者を撰(えら)み、申し付くべし。」。]〕のみ選むとされた。あらゆる奉行はえず嚴密な監督の下に置かれた。そして彼等の行爲は幕府の密偵が規則正しくこれを報告した。

 

註一 則ち直に死罪にする事。

註二 身持放埓の場合には大名すら處罰せられる規定であつたけれども、家康はあらゆる惡行を法に照らして抑壓する事が當[やぶちゃん注:「たう」。]を得たものとは信じて居なかつた。此の問題に關して遺訓の第七十三條に示してある處は不思議に近代的な調子がある、曰く『游女夜發之淫局は國府の附虫として君子詩及諸典に記す不ㇾ可ㇾ無ㇾ之者也痛制ㇾ之も却而亂統不義之者日日出て不ㇾ遑刑伐』[やぶちゃん注:「虫」はママ。同前。「游女・夜發(やほつ)〈夜、辻に立って客を引く、最下級の私娼〉の淫局(いんきよく)[やぶちゃん注:場所なら、「岡場所」(江戸)「島」(大坂)で官許以外の私娼街を指すが、後の「夜發」は単独で必ずしも特定の場所に限定されないから、ここは寧ろ、私娼行為(者)全般及びそれを取り仕切っていた組織集団を指すと考えるべきであろう。]は國府の附虫〈寄生虫〉として君子の詩及び諸典に記す。之れ、無くてはべからざる者なり。痛く之れを制しても、却つて亂統〈よく判らぬが、正「統」な「統」率を「乱」す行為と採っておく〉・不義の者、日日(ひび)、出でて、刑伐に遑(いとま)あらず。」。]と、併し多くの城下ではかういふ家は決して許可されなかつた――これは恐らく、かかる城下には嚴峻な規律の下に維持すべき多數の軍隊が居た爲めであらう。

 

2018/12/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(62) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅶ) /「ジェジュイト敎徒の禍」~了

 

 若しこの過誤(或は欺僞[やぶちゃん注:「ぎぎ」。原文「deception」。「欺瞞」・「騙す手法」で、「詐欺」に同じいが、まず見かけない熟語である。])が山口に於て起こり得たとすれば、それが亦他の場所でも起つたらうと想像するのも當然である。外面上ロオマ教の儀式は、普通に行はれて居る佛教の儀式に似てゐた。人々はその勤行、法衣、數珠、平伏、立像、梵鐘、香等の形式に於て、それ等が自分達の日頃見馴れて居るものである事を認めた。處女と聖徒達は、御光をさした菩薩と佛陀に似てゐると見られた、天使と惡魔とは直に天人竝びに鬼と同一視されたのである。佛法の儀式に於て一般の想像を喜ばした一切のものは、僅ばかり異つただけの形式で、ジエジユイト教派に渡され、彼等によつて教會や禮拜堂として、神聖な場所とされたその寺院に於て見る事が出來たのであつた。この二つの信仰を、實際に二分してゐる底知れぬ深淵は、普通の人には認められ得なかつたが、併し外而上の類似は直ぐに認められた。更に又、人の心を惹くやうな二三の新奇なものもあつた。例へばジエジユイト教徒達は人々の注意を惹く目的から、自分達の教會内で、いつも奇蹟劇(ミラクル・プレイ)を演じたらしい……。併しあらゆる種類の外觀上の目を喜ばすものとか、佛教との外觀上の類似とかは、この新宗教の傳播を只が援助し得たに過ぎなくて、それ等はその布教の急速な進步を説明するには足らないのである。

[やぶちゃん注:「奇蹟劇(ミラクル・プレイ)」原文「miracle-plays」。中世教会内に発生したラテン語による教会劇の一つ。旧・新約聖書に題材をとる聖史劇(神秘劇)に対し、聖徒の生涯やその奇跡に関する伝説を題材とする世俗的宗教劇。各個の聖人による罪人や悪人の救済と回心や、聖母マリアの奇跡を主題としたものが多く、市井へも広がり、町やギルドがそれぞれの守護聖人の祝日に上演することが多かった。]

 制といふ事は幾分その明になるかも知れない――改宗した大名がその臣下に及ぼした制が。地方の住民はい脅迫を受けて、改宗した領主の宗教に追從して行つたといふ事である。そして幾百――恐らくは幾千の人々は、單に忠義の習慣から、みな同じ事を行つたに相違ない。かういふ場合、どういふ種類の得法を、教派のものが大名に對して用ひたか、それを考究して見るのは價値のある事である。傳道事業に對する一大助力は、ポルトガルの商業にあつた事――特に鐡砲及び彈藥の商事にあつた事を吾々は知つて居る。秀吉の權力穫得に先き立ち、國情の騷亂して居た際には、この商售は地方の領主と宗教上の協商をするに有力なる賄賂であつた。鐡砲を用ひ得左た大名は、さういふ武器を持つて居ない競爭の位置にある領主に對して幾分有利である、そしてさういふ商賣を獨占し得る領主は、その近隣のものを犠牲に供して、自分の權力を增大する事を得たのである。それで説教をする特權を得るために、この商賣が實際提供された、時にはその特權以上のものを要求し、それの得られた事もあつた。一五七二年[やぶちゃん注:元亀三年。ポルトガル船の長崎発来港は前年の元亀二(一五七一)年で、この年の内に純忠は六町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知(ぶんち)町)を建設している。]にポルトガル人は、その教會への贈物として、長崎の全市をさへ敢て要求するといふ大それた事を申出した――その市の上に於ける司法權と共に、そしてそれを拒すれば、他處に行つて根城を据ゑると云つて威嚇した。大名の大村[やぶちゃん注:戦国から安土桃山にかけての大名大村純忠(天文二(一五三三)年~天正一五(一五八七)年)。大村氏第十八代当主で三城城城主。永禄六(一五六三)年に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港し、天正一〇(一五八二)年の天正遣欧少年使節の派遣を決めた人物として知られる。使節団の純忠の名代千々石ミゲルは彼の甥である。]は最初異議を唱へたが、遂には讓步した。かくして長崎はキリスト教徒の領地となり、直接に教會に支配された[やぶちゃん注:天正八(一五八〇)年に純忠は長崎港周辺部と茂木(現在の長崎市茂木町)をイエズス会に寄進し、治外法権のイエズス会領となった。]。さうすると忽ちに師父等は、其の地方の宗教の上に猛烈な攻擊を加へて、自分等の信條の特徵を出し始めた。則ち彼等は佛教の寺、神宮寺に火を放ち、その火災を以て『神の怒り』[やぶちゃん注:原文「“wrath of God”」。]だと言ひふらした、――この一事の後、改宗者の熱意に依つて、長崎市内及び附近の凡そ八十箇所の寺が燒かれた。長崎の領地内にあつては、佛教は全滅させられた――その僧侶は迫害され逐はれてしまつた。豐後の國に於てはジエジユイト教派の佛教迫害は、これよりも遙かに猛烈で、廣大な規模に依つて行はれた。その支配して居た大名大友宗麟宗近はその領土内の佛寺を盡く打ち壞したのみならず(傳ふる處に依るとその數三千に及ぶといふ)多數の佛僧を殺害した。彦山の僧侶達は暴君宗麟の死を祈願したと云はれたのであるが、この山の大伽藍の破壞のために、宗麟は意地惡るくも(一五七六年の)五月六日――佛陀誕生の祭日を選んだといふ事である[やぶちゃん注:一五七六年五月六日(ユリウス暦)は旧暦天正四年四月八日で、釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は旧暦四月八日に生誕したと伝承されているこの大友の彦山攻めは一ヶ月に及び、全山焼却されて彦山は降伏した。この「彦山焼き討ち」は信長の「比叡山焼き討ち」とともに戦国期の二大法難とされている。]。

 無條件の服從にならされて居た從順な人民の上に及ぼす領主の制は。幾分傳道成功の第一步を明するに足るであらう。併しそれにしても、尚ほ幾多の明しがたい事が殘つて居る、例へば後年の祕密傳道の成功、迫害の下にあつた改宗者の熱心と勇氣、反對な信仰の進展に對する、祖先祭祀を守る主なる人々の長い間の冷靜等がそれである……。キリスト教が初めてロオマ帝國を一貫して擴がり始めた際には、祖先の宗教なるものは滅びて地に堕ち、社會の構造はその原形を失つて居り、キリスト教に對し、立派な抵抗を實際なし得る何等宗教的保守主義なる者はなかつたのである。然るに第十六世紀十七世紀の日本に於ては、祖先の宗教は遙かにい勢を以て活躍して居り、社會はまだ不完全なるその完成の第二期に入つたのみであつた。ジエジユイト教への改宗は、昔の信仰を既に失つて居た人民の間になされたのではなく、世界中の最も深刻に宗教的なまた保守的な社會の一に於てなされたのである。かくの如き社會に入つて來たキリスト教は、その種類の如何なるものたるを問はず、社會の構造上の崩壞を起こさずには居まい――少くとも地方的性質の崩壞を。かくの如き崩壞がどれほど擴大し透徹して居たか、それは吾々の知る處ではない、また吾々は、この危險に當面して、本來の宗教的本能の長い間の惰性は、どうしたのであるか、それに就いての適當な明はない。

 併し少くともこの問題の上に傍證を投ずると思はれるやうな歷史上の事實は多少ある。リツキ[やぶちゃん注:イタリア人イエズス会司祭で宣教師であったマテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 一五五二年~一六一〇年)ゴア・マカオを経て一六〇一年北京に入り、漢文教書「天主実義」や世界地図「坤輿(こんよ)万国全図」などの出版を通じて布教を図った。平井呈一氏は恒文社版(一九七六年刊)割注で『イタリアの改宗論者』としつつも、生没年を一七四一年から一八一〇年とするが、これはイタリアの司教シピオーネ・デ・リッチ(Scipione de 'Ricci)のそれを誤認されたものと思う。]に依つて基礎を定められた支那に於けるジエジユイト教派の政策は、改宗者をして自由にその祖先の祭式を行はしめたのであつた。この政策が繼續されら間は傳道も降盛であつた。然るにこの妥協の結果として、不和が生じた時、事件はロオマに具申された。法王インノセント第十世[やぶちゃん注:ローマ教皇インノケンティウスX世(Innocentius X一五七四年~一六五五年/在位:一六四四年~一六五五年)。]は、一六四五年に上諭[やぶちゃん注:君主や最高権力者が臣下や人民に告げ諭す文書。]を出して、異禁止を決定した。そのためジエジユイト教の傳道は、實際支那に於ては滅亡した。法王インノセントの決定は、その翌年法王アレクサンダア第八世[やぶちゃん注:ローマ教皇アレクサンデルAlexander  一六一〇年~一六九一年/在位:一六八九年~一六九一年)。何だかおかしい。原文は“Pope Innocent's decision was indeed reversed the very next year by a bull of Pope Alexander”とあるにはあるが、「翌年」というのは合わない。インノケンティウスX世とアレクサンデル世の間には、アレクサンデル世・クレメンス世・クレメンスX世・インノケンティウス世と、五人もの法皇が在位しているからで、この「the very next year」とは単に朝令暮改の謂いで、四十三年後も長いキリスト教史の中で「あっという間」なのかも知れぬ(ド素人の私はインノケンティウスX世が上諭した十年後の一六五五年に後を継いだ法皇アレクサンデル世がそれを取り消す上諭を早くも出したことの小泉八雲の誤りなのかもしれないなどと思ったりしたが、後で最終決定を上諭するのが「法王クレメント第十一世」(しかしそれも不審があるのだが)と出るので違うようだ)。この辺りの知見は私の及ぶところではないので、識者の御教授を切に乞うものである。]の上諭によつて取消された。併し祖先禮拜のこの問題に就いては、繰り返し繰り返し論諍が起こされ、終に一六九三年に法王クレメント第十一世[やぶちゃん注:クレメンス世(Clemens  一六四九年~一七二一年/在位:一七〇〇年~一七二一年)。おかしい。一六九三年時の法皇はインノケンティウス世(在位:一六九一年~一七〇〇年)である。が斷然如何なる形を以てしても、改宗者の、祖先の祭式を行ふ事を禁ずるに至つた……爾來極東に於けるあらゆる傳道の市切の努力も、キリスト教の主旨を進める事は出來なくなつた。その社會學上の理由は明瞭である。

 こんなわけで一六四五年までは、祖先の祭祀は、支那に於けるジエジユイト教派に依つて默認され、有望の效果があつた事を吾々は見たが、さてそれで日本に於ても、第十六世紀の後半の間は、支那に於けると同樣な默認政策が採られたのかも知れない。日本の傳道は一五四九年[やぶちゃん注:天文十八年。]に始まり、その歷史は一六三八年[やぶちゃん注:寛永十五年。]の島原の虐殺を以て終つて居る――祖先禮拜の默認を禁じた第一囘の法王決定の前、約七年である。ジエジユイト教派の傳道事業は、あらゆる反對のあつたに拘らず、確實に隆盛に赴いたが、頓て考慮の足りない、しかも極めて固陋な熱狂者のために妨げられるに至つた。抑も一五八五年にグレゴリイ第十三世[やぶちゃん注:グレゴリウスX世(Gregorius X 一五〇二年~一五八五年/在位:一五七二年~一五八五年)。]に依つて發布され、更に一六〇〇年にクレメント第三世[やぶちゃん注:クレメンス世は一一八七年~一一九一年の法皇で小泉八雲の誤り。年号が正しいとすれば、クレメンス世(Clemens  一五三六年~一六〇五/在位:一五九二年~一六〇五年)のことである。平井呈一氏の訳も「クレメント十三世」となっているが、これも誤りで、彼は一六九三年生まれであり、まだ生まれてもいない。]に依つて確定された上諭に依つてジエジユイト教のみが日本で傳道事業を行ふやうに公認されたが、この特權がフランシスカン派の熱心のために無視されるに至つて、始めて日本政府との葛藤が起つたのであつた。一五九三年[やぶちゃん注:文禄元年。]に秀吉が、フランシスカン派の僧侶六人を死刑に處した事はすでに言つた處である。それから一六○八年に、ポオル第五世[やぶちゃん注:パウルス世(Paulus V 一五五二年~一六二一年/在位:一六〇五年~一六二一年)。慶長遣欧使節の支倉常長らは一六一五年(慶長二十年・元和元年)に彼に謁見している。]が、ロオマ舊教のあらゆる教圏の傳道師に、日本で仕事をする事を許した上諭を發した事は、恐らくジエジユイト教派の破滅を招致したのであらう。記憶すべき事は、家康は一六一二年[やぶちゃん注:慶長十七年。]にフランシスカン派を鎭壓した事で、――これはフランシスカン派の、秀吉から得た體驗も、少しも彼等に教へる處のなかつた證據である。大體に言つて見れば、ドミニカン教派とフランシスカン教派とは、ジエジユイト教徒(この派を彼等兩派は卑怯だとして排斥した)が賢くもそのままにして手を觸れずに置いた事柄に、無謀もたづさはり、そののたづさはつた事が、結局傳道事業の避くべからざる破滅を早めたのであつたらしく考へられる。

 吾々は第十七世紀の初めに當つて、日本に果たして百萬のキリスト教信者があつたか、それに就いて當然疑を抱く、それよりも遙かに事實らしい六十萬と言ふ方が頷かれる。信教自由の今の時代に於て、總ての外國傳道師の團體が、その努力を結合し、その事業を支持するに莫大な金額を年々消費して居るのであるが、しかも彼等は、信賴し得べき槪算に依ると、前のポルトガルの傳道師等の得たと言ふ成功の僅に五分の一を得たのみであつた。なるほど第十六世紀のジエジユイト教派は、幾多の領主に依つて、その地方の全人民の上に極めて力ある制を行ひ得たのではあった。併し近代の傳道は、制力の如何はしい[やぶちゃん注:「いかがはしい」。疑わしい。どれほどのものであるか甚だ怪しい。]價値よも遙かに勝さる、教育上、財政上、竝びに立法上の長所をもつて居る、しかもその齎し[やぶちゃん注:「もたらし」。]得た結果の小なることは説明を要するであらう。がその説明は難しくはない。蓋し要もなく祖先の祭祀を攻擊する事は、當然社會の組織を攻擊する事になる。而して日本の社會は本能的に倫理上の根據の上に加へられら、かくの如き攻擊に抵抗するのである。何となればこの日本の社會は、紀元第二世紀三世紀にロオマの社會が示したやうな、それほどの狀態にすらも達して居たと想像するのは間違ひであるからで、むしろこの日本社會は、キリスト降誕前幾世紀の古にあつたギリシヤ、ラテンの社會の狀態に似て居たのである。鐡道、電信、正確な近代の武器、各種の近代の應用化學等の輸入も、まだ事物の根本的秩序を變更するには足らなかつた。表面上の事物の崩壞は急速に進行し、新しい構造が出來かけて居る。併し社會の狀態は、南歐に於ける、キリスト教輸入の餘程以前にあつた狀態にとどまつて居るのである。

 

 凡そ宗教の各種は多少不朽の眞理を保有しては居るが、進化論者はその宗教を分類しなければならない。進化論者は一神教の信仰を以て、人間思想の進步上、多神教的信條よりも著しく進步したものを代表して居ると考へざるを得ないのである。一神教とは無敷の靈を信ずる幾多の信仰を、一つの目に見えざる全能力といふ大きな廣い考へに融合さし擴大したものの意である。なほ心理學的進化論の立脚地から言へば、進化論者は勿論汎神教を以て、一神教よりも進んだものであるとなし、さらに不可知論を以て、一神汎神の兩者よりも進んだものであると考へざるを得ないのである。併しながら信條の價値は、當然關係的のものである、而してその價値如何は、或る教養ある一階級の智的發達にそれが適應するといふ事に依つて定められるのでなく、全社會――その宗教がこの壯會の道德上の體驗を具體的に示して居る――その社會に對する大きな情緒的關係に依つて決せられるのである。また別の社會に對するその信條の價値は、その社會の倫理上の實驗に適應するその力に依らざるを得ないのである。吾々はロオマ舊教が、その一神的槪念の唯一の力に依つて、原始的な祖先禮拜よりも、一段進んだものである事を容認し得るのである。併しこのロオマ舊教は、支那或は日本の文化が到達して居なかつた社會狀態にのみ適應して居たのであつた――その社會の狀態といふのは、古代の家族が分解し、孝道の宗教が忘却されてしまつた社會を言ふのである。インドの宗教は遙かに巧妙な、また比較する事の出來ない程人情味のあるものであつて、それはロヨラ(ジヱジユイト教の)[やぶちゃん注:イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de Loyola 一四九一年?~一五五六年)はスペインの宗教家。スペイン北部バスク州のロヨラ城主の子。清貧・貞潔を掲げてイエズス会を創立。プロテスタントの宗教改革に対抗し、カトリックの失地回復と異邦人への伝道に尽力した。]に先き立つ事一千年も前に、傳道上の成功の祕訣を心得て居たが、それとは異つたジエジユイト派の宗教は、日本の社會狀態に適應する事を知らなかつた。それでその適應不能の事實のため、傳道の運命は早くすでに決定されて居たのであつた。異禁止、陰謀、野蠻な迫害等の行はれた事――ジエジユイト教徒のあらゆる欺瞞及び殘虐――それ等は只だかくの如き適應不能の表現とのみ考へられて然るべきであらう。それと共に家康及びその後繼者の採つた壓抑政策は、社會學上から見れば、最大な危除を國家的に知覺したといふに過ぎない事になる。則ち外國宗教の勝利は、社會の全崩壞、帝國の外國支配への服從を、包藏して居るといふ事が認められたのである。

 

 少くとも美術家も、社會學者も、この傳道の失敗を遺憾とする事はない。彼等の傳道の滅は、日本の社會をして、その型の極致にまで發展するを得せしめ、かくて近代人の眼に、日本美術の驚くべき世界を保存し、なほ傳統、信仰、及び慣習の更に驚くべき世界を保存するを得せしめたのである。若しロオマ舊教が勝利を博したならば、すベて斯樣なものを一掃し去つて、消滅さした事であらう。美術家達の傳道師に對する自然の反抗心は、その傳道師が常に用捨なき破壞者であり、又破壞者ならざるを得なかつたといふ事實に依つても察しられる。何處に於ても、凡そ美術の發達なるものは、何等かの形を以て、宗教と關係して居る、そして人民の美術が、その人民の信仰を反映して居る限り、その美術はそれ等の信仰を敵とするものに取つては厭ふべきものであらう。佛教起原の日本美術は、特に宗教上の暗示を具へる美術である――單に繪畫彫刻に關してのみならず、なほ裝飾その他殆ど一切の審美的趣味をもつ所産に關してさうである。日本人の樹木、花卉、庭園の美を悅ぶ心、自然及び自然の聲に對する愛好心にすらも――要するに生のあらゆる詩情にも、多少宗教の感情が結ばれて居る。ジエジユイト教徒竝びにその同盟者が、少しの狐疑[やぶちゃん注:「こぎ。狐は疑い深い性質であるとされたことから、「相手のことを疑うこと」の意。]する處もなく、すべてそれ等の感、その微細のに至るまで、これを無くしてしまはうとした事は、殆ど確實な事であると考へられる。よし又彼等教徒はこの異樣な美の世界の意義――再びくりかへし若しくは囘復する事の出來ない民族の體驗の結果である――を了解し、これを感じ得たとしても、彼等は抹殺、滅却のその仕事をするに、一刻も躊躇した事ではあるまいと思ふ。なるほど今日もその驚くべき美術の世界は、兩歐の産業主義のために、正に取りかへしのつかないやうに破壞されかかつて居る。併し産業上の影響は、用捨なく働きはするが、熱狂的ではない、そしてその破壞はそれほど猛烈に急速に行はれるのでもないのであるから、その美の段々薄らいで行く話は、記錄に殘され、將來の人文の利益となる事であらう。

 

 

2018/10/03

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)

 

 島原の虐殺を以て、ポルトガルとスペインの布教に關する實際の歷史は終りを告げて居る。この事件の後に、キリスト教は、徐に[やぶちゃん注:「おもむろに」。]着々と、又執念深く踏み潰されてしまつて、目に觸れる限りは存在を失つてしまつた。キリスト教の容認され、若しくは半ば容認されて居たのは、僅に六十五年間であつた、その傳播と崩壞との全歷史は、前後殆ど九十年に亙つて居る。殆どあらゆる階級の人々、卽ち王侯から貧民に至るまで、その爲めに苦難を受けた、何千といふ人々がその爲めに拷問を受けた――その拷問の恐ろしさは、多數の人々を無益な殉教に送つたかのジエジユイト教徒等中の三人までもが、苦痛にたえずその信仰を否認せざるを得なくなつた程甚だしいものであつた[やぶちゃん注:ここに在るべき【註】記号が底本には落ちている。註はある。]――又やさしい婦人達には、火刑を宣告されて、少し何とか言葉を用ひたならば、自分の子と共に救はれたであらうに、さういふ言葉を發するよりも、むしろその幼な兒を抱いて火中に投じたのもあつた。しかも數千の人々がその爲めに無益に死んだこの宗教は、害惡以外何物を日本に齎しはしなかつた、擾亂、迫害、叛亂、政治上の難局、及び戰爭等を起こしたのみである。社會の保護と保持とのために、言語に盡くせざる程の代價を拂つて發展さした人民の美德、――彼等の克己、彼等の信仰、彼等の忠誠、彼等の不橈[やぶちゃん注:「ふたう(ふとう)」。如何なる困難に遇っても屈しないこと(「撓」は「たわむ・ひるむ」の意)。不撓不屈。]の精神と勇氣、――さへもこの暗い信條によつて亂され、方向をあやまられ、その社會を破壞する爲めに用ふる力にしてしまつた。若しその破壞がなし遂げられ得たならば、そしで新ロオマ舊教の帝國といふやうなものが、その廢墟の上に建立されたならば、その帝國の力は、僧侶の暴政、審問制度の擴大、良心の自由と人類の進步とに反對する永久なるジエジユイト派の戰亂といふものを、益〻擴張するために使用されたであらう。吾々はこの無慈悲な信仰の犧牲者を憐んで、彼等の役に立たない勇氣を當然賞讃して然るべきであらう、しかも誰れが彼等の主義の、失敗に歸した事を遺憾に思ひ得るであらうか……宗教的偏執以外の別な立脚地から見、單にその結果によつで判斷すれば、日本をキリスト教化しようとしたジエジユイト派の努力は、人道に反する罪惡、蹂躙の勞働、只だ地震、海嘯、火山の爆發等に、――それが惹き起こした不幸と破壞の理由から、――のみ比較し得べき災難であると考へざるを得ない。

註 フランシスコ・カツソラ、ペドロ・マルクエツ、ジウーゼツペ・キアラの三人。その中二人は――多分の下にであらう――日本の婦人と結婚した。彼等の後の物語に就いては、日本亞細亞協會記事“Transactions of the Asiatic Society of Japan” のサトウ氏の一文を見よ。

[やぶちゃん注:原文のそれぞれの宣教師の名は、Francisco CassolaPedro MarquezGiuseppe Chiara である。イタリア人会士フランチェスコ・カッソラ(Francesco Cassola 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年或いは翌年)であるが、阿久根晋次氏の論文「ポルトガル人イエズス会士アントニオ・カルディンの修史活動『栄光の日本管区におけるイエズス会の闘い』の成立・構成・内容をめぐってPDF)に、次の管区長ペドロ・マルケスとともに、『江戸の井上政重の屋敷において存命中で、そこに女性が司祭のために奉仕しているとの情報が示され』てあるという記載がある以外は私には不明。二番目のペドロ・マルケス(一五七五年~明暦三(一六五七)年)はポルトガルの宣教師(イエズス会司祭・日本管区長)。慶長一四(一六〇九)年に長崎に着くも、五年後の慶長十九年にマカオに追放される。寛永二〇(一六四三)年に日本に再潜入を試み、捕らえられ、下総高岡藩主で宗門改役井上政重の尋問をうけて,「南蠻伴天連念佛ヲ申シ、コロビ候義實正ナリ」との誓詞を差し出して棄教した。江戸で八十二歳で病死した。最後のジュゼッペ・キアラ(一六〇二年~貞享二(一六八五)年)はイタリア出身のイエズス会宣教師で、禁教令下の日本に潜入したが、寛永二〇(一六四三)年五月、筑前国で捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗によって信仰を捨て、「岡本三右衛門(おかもとさんえもん)」という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったことでも知られる。因みに、弟の宣教師(イエズス会司祭)フランシスコ・マルケス(Francisco Marques 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年)は、途中まで兄と行動をともにしたが、寛永十九年に薩摩下甑島に到着するも捕らえられ、長崎で穴吊るしの刑の後、寛永二十年二月六日、三十六歳で斬首されて殉教している。不審なのは、遠藤周作の「沈黙」の今一人のモデルとして知られ、また長与善郎の「青銅の基督」にも登場する、ポルトガルのカトリック宣教師(イエズス会士)であったが、拷問によって棄教し、「沢野忠庵(さわのちゅうあん:「忠安」とも)を名乗り、日本人妻を娶って、他の「転びバテレン」とともにキリシタン弾圧に協力したクリストヴァン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira 一五八〇年~慶安三(一六五〇)年)が挙げられていないことである。]

 孤立政策――日本を世界の他の國々から鎖ざしてしまふ政策――秀忠に依つて採用され[やぶちゃん注:元和二(一六一六)年に秀忠が明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する鎖国政策の布石的処置を断行したことを指すようである。正式な「鎖国令」は次の家光の代になって複数回発布されて完遂されることになる。]、その後繼者達によつて維持されや處のそれは、宗教的陰謀が鼓吹した恐怖の念を充分に示すものである。オランダの商人を除いて、すべての外國人等がこの國から追放されたばかでなく、ポルトガル人やスペイン人との混血兒も亦すべて追放され、日本の家族は彼等を養子にするとか、隱すとかを禁じられ、これを犯した家族は、その一族悉〻く[やぶちゃん注:ママ。]處罰される事になつた。一六三六年に、二百八十七人の混血兒が、マカオに向けて送り出された[やぶちゃん注:寛永一三(一六三六)年に家光が出した「第四次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)二百八十七名をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移した。]。混血兒の通譯として働くその能力が特に恐れられたのも尤もな事である、然しこの布令の發せられた當時、人種的憎惡の念が、宗教的敵愾心によつて甚だしく起こされたといふのも殆ど疑ふことは出來ない。【註】島原の挿話があつてから後、すべての西歐の外人は、例外なく、明らかに疑惑の念を以て見られたのであつた。ポルトガルとスペインの商人達は、オランダ人と入れ代つた(イギリスの商館は數年前に既に閉鎖されて居たので[やぶちゃん注:イギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖したのは元和九(一六二三)年。])併しオランダ人の場合でも非常な警戒は加へられた。彼等はその平に於ける形勝の地を棄てて、その商館を出島に移すやうにひられた、――出島とは僅長さ六百尺、幅、二百四十尺の小さな島である[やぶちゃん注:原文はフィート表記であるのを換算してある。「六百尺」は百八十一メートル、「二百四十尺」は七十三メートル弱。実際の大きさは南側が二百三十三、北側百九十、東側と西側が七十メートルで、約百三十一ア-ル。寛永一三(一六三六)年に完成した。参照した「兵庫大学大学院 連合学校教育学研究科 關浩和研究室内」の「出島とは?」によれば、『小学校の運動場のおよそ』二『倍ぐらい』とある。]。其處で彼等は、囚人のやうに絶えず監視されてゐた。彼等は人民の間に出てゆくことを許されなかつた。又如何なる人と雖も、許可なくして彼等を訪れることは出來ず、又如何な婦人も、醜業婦[やぶちゃん注:「しうげふふ(しゅうぎょうふ)」。売春婦。]は別として、如何なる事情があつても、彼等の保留地へ入ることは許されなかつた。併し彼等はこの國の貿易を獨占して居た。そしてオランダ人の根氣さは、二百有餘年の間、利得のために、これ等の狀態を堪へ忍んだのであつた。オランダ商館と支那人とによつて維持された以外、諸外國との通商は、全然禁止された。如何なる日本人でも、日本を去ることは斬罪であつた、又祕に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]うまくこの國を拔け去り得た人も、その歸國するや、死刑に處せられた。この法律の目的は、布教上の訓練のために、ジエジユイト教派によつて、悔外に送られた日本人が、普通の人を裝つて、日本に歸つて來るのを防止するにあつた。長い航海をなし得る船を建造することも亦禁じられ、政府によつて定められた大きさを超える一切の船は、破壞された。展望臺が異國の商船を見張るために、沿岸に置かれた。そして日本の港に入らんとするヨオロツパの船は、如何なる船でも、オランダ商會の船を除けば、襲擊されて打ち壞されたのであつた。

註 併し支那の商人はオランダの商人より以上の自由をゆるされて居た。

 ポルトガル人の傳道によつて最初に得られた大成功に就いてはなほ考慮すべき處がある。日本の社會史に就いて、吾々は現在比較的無智なのであるから、キリスト教徒の一と芝居の全部を了解する事は容易でない。ジエジユイト教の傳道の記錄は澤山にある。併しそれと同時代の日本の年代記が、この傳道に就いて與へる知識は甚だ乏しい、――これは多分キリスト教の問題に關する一切の書物のみならず、キリスト教徒とか外國とかいふ語の入つてゐる書物は、みなこれを禁止する布告が、第十七世紀中に發布された爲めであらう。ジヱジユイト教徒の本が説明して居ない事、そして若しさういふ事が許されるとしたならば、寧ろ吾々が日本の歷史家達に説明を期待して居る事は、祖先禮拜の土臺の上に建設され、外來の侵入に抵抗する巨大な能力を明らかにもつて居る。[やぶちゃん注:句点はママ。不要か読点でよい。]日本の社會が、どうしてジエジユイト教派の勢力によつて、これほど急速に侵入され、更に一部分は瓦解されるに至つたのであらうかといふ事である。あらゆる疑問の中で、日本の證據によつて私が答へて貰ひたいと思ふ疑問は次のことである、曰く如何なる程度まで、傳道師達は祖先の祭紀を妨げたかといふ、その事である。これは重要な問題である。支那に於ては、ジエジユイト教徒等は改宗の勸誘に抵抗する力が祖先禮拜にあることを早くも認めた。そして彼等は彼等の以前に佛教徒も多分爲さざるを得なかつたやうに、機敏にもそれを默認することに努めた。若し法王權が彼等の方策に支持を與へたならば、ジエジユイト教派は支那の歷史を一變し得たであらう。然るに他の宗教團は猛烈にこの妥協に反對したので、その機會は逸してしまつた。其處で、どれ程まで祖先の祭禮拜が、日本に於けるポルトガルの傳道師等によつて默認されたかは、社會學上の硏究に取つて甚だ興味のある事である。勿論、最高の祭祀は、明白な理由からして、そのままにして置かれた。一家の祭祀が當時に於て、今日それが新教とロオマ教との傳道師によつて等しく攻擊されてゐると同じやうに、執念深く攻擊されたと想像するのは困難である、――例へば、改宗者達が、彼等の祖先の位牌を棄ててしまふとか、破壞するとかいふやうに、ひられたとは想像し難い。なほそれと共に一方に於て、ずつと貧困な改宗者達の多く――召使やその他の一般庶民――が一家の祖先祭祀を持つてゐたかどうかに就いて、吾々は今でも疑ひをもつて居る。無賴漢の階級はその中に多數の改宗者を出して居るが、それ等は勿論、この默に於て考慮の中に置く必要はない。この問題を公平に判斷せんとするならば、第十六世紀に於ける平民の宗教的狀態に就いて知らなければならない事がまだ澤山にある。兎に角。如何なる方法が採られたにしろ、初期の傳道の成功は驚くべきものであつた。彼等の傳道の事業は、日本の社會組織の特殊な性質のために、頭から始める必要があつた。臣下はその領主の許可によつて、初めてその信條を變へることが出來たのである。處が最初からこの許可は自由に與へられたのであつた。或る場合には人民が新宗教を採ることは、彼等の自由であると、公然告知を受けた事もあつた。又或る場合には、改宗した領主が新宗教を採るやうに人民に命令を下した事もある。或はこの外國の宗教は最初佛教の新しい種類だと考へ違ひされたらしくもある。そして一五五二年に、ポルトガルの布教旦に與へた今日まで殘つて居る山口に於ける公の許可の中で、彼等は『佛の法』を――佛方紹隆[やぶちゃん注:「せうりゆう(しょうりゅう)」或いは「じやうりう(じょうりゅう)」。先人の事業を受け継ぎ、更に盛んにすること。]の爲め――説教しても宜しいといふ許可が(その許可には大道寺といふ一宇の寺をもそのうちに入れてあつたやうに見えるが)異國人達に向つてなされたといふことを、日本の文字が明らかに述べてゐる。原文はサアーアアネスト・サトウによつて次のやうに飜譯されてゐて、氏はそれをそのまま復寫にして出して居る、――

 

Saikyojyou

 

[やぶちゃん注:以上の画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングと補正を加えて使用した。これは訳者戸川明三が独自に挿入したもので原典にはない。以下、活字に起し、後に私の推定訓読(読みを追加)を示す。

   *

周防國(シユウ)吉敷郡(クニ)山口縣(アガタ)大道寺事

從西域來朝之僧佛法紹隆可創建彼寺家之由任請望之

㫖所令裁許之狀如

 天文廿一年八月廿八日

      周防介押字(大内義長ナリ)

   *

周防國(すはうのしゆう)吉敷郡(よしきのくに)山口県(やまぐちのあがた)大道寺(だいだうじ)の事

西域(さいいき)より來朝の僧、佛法紹隆の爲(た)め、彼(かれ)の寺家(じけ)を創建すべきの由、請望(せいばう)の㫖(むね)[やぶちゃん注:「旨」に同じい。]に任(まか)せ、裁許せしむる所の狀、件(くだん)のごとし。

 天文廿一年八月廿八日

      周防介(すはうのすけ)押字[やぶちゃん注:花押。](大内義長ナリ)

   *

個人ブログくすのき日記2の「景教碑ゴルドン夫人と山口ザビエルの大道寺によれば、この戦国大名大内義長(天文元(一五三二)年?~弘治三(一五五七)年、:天文二一(一五五二)年三月三日に大内家当主となった。但し、この時はまだ大内晴英で、天文二二(一五五三)年の春に室町幕府十三代将軍足利義藤(よしふじ:後の義輝)から偏諱を受け、「義長」と改名した)から裁許状を得た「西域より來朝の僧」とは、かのフランシスコ・デ・ザビエルFrancisco de Xavier Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年~一五五二年)の弟子でイエズス会宣教師のトルレスコスメ・デ・トーレスCosme de Torres 一五一〇年~元亀元(一五七〇)年:ザビエル離日後も日本布教長として山口・豊後で精力的に布教に当たり、大村純忠を始め、約三万人に洗礼を授けた。肥後天草の志岐で死去)のことである(後の最後の引用参照)。古川薫「ザビエルの謎」(平成六(一九四四)年文藝春秋刊)からとされて、『ザビエルは山口で布教していた』。『幕末から明治初年にかけて来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウが』、明治一一(一八七八)年にここで小泉八雲が述べているように、『亜細亜協会でおこなった「山口教会の変遷」と題する講演で』、『ザビエルの事績を紹介したことから、にわかに日本人の間での認識を深めた』。『大正時代の初め、ザビエル崇敬者のひとり英国のゴルドン男爵夫人が、金古曽町の一角を古地図にあてはめて大道寺跡と断定し、この土地を買収して記念碑の建立を計画した。その後、萩の天主教会のビリオン神父によって具体化され』、大正一四(一九二五)年に『完工した。今ではザビエル公園となり、十字架をかたどった高さ』八・七『メートルの御影石にザビエルの胸像がはめ込まれている』とある。また、そこにも引用されているが、山口市文化交流課サイト大内文化り」の「第11回 サビエル記念公園には、『フランシスコ・サビエル(一五〇六~一五五二)は天文十八年(一五四九)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸、天文十九年(一五五〇)十一月、京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため、天文二十年(一五五一)四月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与えました。ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれています』。『明治二十二年(一八八九)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊もその一人でした』。『そして大正十五年(一九二六)十月十六日、高さ十メートルにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立されました』。『しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されました。現在の肖像は、昭和二十四年(一九四九)サビエル来山四百年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものです』とり、一番下にこの裁許状をはめ込んだ石碑があり、そのキャプションに、『「天文二十年(一五五一)九月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去りました。その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死しました。陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせました』。『この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものです』とある。ザビエル記念公園(山口県山口市金古曽町。(グーグル・マップ・データ))と思われる。]

註 この文書のラテン及びポルトガルの飜譯に寧ろその僞造譯の中には、佛法を説くといふ事に就いては一言も云つてない、又日本の文書には少しも載つてゐない事が澤山附加されてゐる、サトウ氏のこの文書竝びにその僞譯に關する説明に就いては、日本亞細亞協會記事、第二部“Transaction of the Asiatic Society or Japan Vol. , Part を見よ。(譯者曰、八卷とあれど實は七卷なり)

 

2018/10/02

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)

 

 このアダムスの通信は、家康が宗教と政治とに關する外國の事情に就いての、直接の知識を得るためには、如何なる方法をとる事も辭さなかつた事を證明してゐる。又日本國内の事情に關しては、凡そ古來の最も完全なる探偵制度[やぶちゃん注:原文は“system of espionage”。平井呈一氏訳は『隠密制度』。]を、彼は意の儘に用ふることが出來たのである。そして事實彼はその時あつた事はみな知つて居たのである。しかも彼はすでに述べた通り、彼の布告を發するまでに十四年を待つたのであつた。秀吉の布告は、事實、一六〇六年に彼によつて復活された。然しそれは特にキリスト教の公の説教に關係した事であつた。そして傳道師等が外面上法律に服して居た限り、彼は自分の領地の内に、彼等をそのまま許して置いたのであつた。迫害は他所では行はれてゐたが、それと共に祕密な布教も亦行はれてゐて、傳道師等は尚ほ希望をつなぐことが出來たのであつた。併し嵐の前の沈滯のやうに、空中には何となく脅威があつた。キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒であることを知つた』と……家康が初めて壓手段を採つた時には、それはジエジユイト派に對してではなく、もつと無法な或る教團に向つて爲されたのであつた、――アダムスの通信で解つた處に依れば。彼は云つて居る『一六一二年に、フランシスカン派のあらゆる教派が平定されてゐる。ジエジユイト派は特權を持つてゐる……長崎に居るので、この長崎だけが總ての宗派の意のままに任せられて居る處である、他の場所ではそれ程に許されては居ない……』と。ロオマ舊教はこのフラソシスカン派の事件の後、更に二年の恩典を與ヘられたのであつた。

[やぶちゃん注:「キアプテイン・サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年か一五八〇年~一六四三年)。ウィキの「ジョン・セーリス」によれば、一六一一年、『通商を求めるイングランド国王ジェームズ』Ⅰ『世の国書を持って』、『貿易船「クローブ号」を指揮して日本へ向けてロンドンを出港し』、一六一三年六月十一日(慶長十八年四月二十三日)に平戸に到着、『徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設し、リチャード・コックスを商館長として残して帰国した』とあり、ウィキの「クローブ号」には、『船長のセーリスはコックスら』八『名を日本に残し、家康・秀忠からの贈り物と、日本滞在中に得た漆器や屏風といった多くの美術品などをクローブ号に載せ』、一六一三年十二月五日(慶長十八年十月二十四日)に『イギリスに向け出帆』、一六一四年九月に『イングランドのプリマスに到着、同年』十二『月にロンドンに帰港した』とある。]

 何故に家康がその遺訓及び他の個所でこの宗教を『虛僞腐敗の宗教』と呼んだかといふことは考へて見なければならない。極東の見地からすれば、公平な調査の後に、彼は殆どそれ以外の斷定を下すことは出來なかつた。この宗教は日本の社會が依つて以て建立されて居たその基礎たるあらゆる信仰と傳統に根本的に反對して居たのである。日本の國家は一人の神たる王をその頭に戴く宗教團體の集合であつた、――總てのこれ等の團體の慣習は宗教的法律の力を持つて居り、倫理とは慣習に服從することてあつた、又孝道は社會の秩序の基礎であつて、忠義の念それ自身が孝道から出たものであつた。然るにこの西歐の信條は、夫はその兩親を去つて、その妻に附隨すべしと教へたのであつて、餘程よく見た處で、孝道を以て劣等な德であるとなしたのである。その宣言する處は、兩親、主人、統治者に對する義務は、その從順がロオマ教の教に反對する孝道とならない限りに於てのみ義務てあり、又從順の最高の義務は、京都に在す[やぶちゃん注:「います」。]天子なる主權者に對してではなく、ロオマにゐる法王に對してであるといふのであつた。神々と佛とはポルトガルとスペインから來たこれ等の傳道師達によつて惡魔と呼ばれたのではなかつたらうか。このやうな教義は、如何に巧みに彼等の辯解者によつて説明されたとしても、確に國を攪亂するものであつた。その上に、社會上の力としての信條の價値なるものは、その成果から判斷されるべきものである。然るにヨオロツパに於けるこの信條は、擾亂、戰亂、迫害、殘酷なる蠻行等の絶えざる原因であつた。日本でも、この信條は大擾亂を釀し[やぶちゃん注:「かもし」。]、政治的陰謀を煽動し、殆ど量るべからざる災害を起した。將來政治上の面倒が生じた場合、その教は、子は兩親に對して、妻は夫に對して、臣は領主に對して、領主は將軍に對して、從順ならざる事を以て、正當と認めるであらう。政府の最高の義務は今や社會的秩序を制して、平和と安全の狀態を維持する事であつた。實際この平和と安全の狀態がなければ、國家は長年來の爭鬪による疲弊から決して囘復する事は出來なかつたのである。然るにこの外來の宗教が、秩序の土臺を攻擊し、これを顚覆する事に專心してゐる間は、平和は決してあり得なかつた……。家康が彼の有名な布告を發した時には、かくの如き確信が充分彼の心の中に出來てゐたに相違ない。彼がそれ程長く時を待つて居たといふのが、ただ不思議な位である。

 何事も中途半端にして置く事をしなかつた家康が、キリスト教が有爲な日本人の指揮者を一人も持たなくなつてしまふまで待つてゐたといふ事は、恐らくさう有りさうな事である。一六一一年に彼は佐渡の島(囚徒の慟いて居る鑛山地)に於けるキリスト教徒陰謀の報告をうけた。この島の支配者、大久保なるものは、誘はれてキリスト教を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈であつた。併しそれでも家康は時機を待つて居た。一六一四年に至つては、キリスト教は最早希望を失つて、それを指揮する人として大久保をさへもなくした。第十六世紀に改宗した大名は、或は死し、或は領地を取り上げられ、或は配流された。キリスト教徒の偉大な武將達は處刑されてしまつた。重きを置くに足るべき改宗者の内の殘つて居るものは、監視の下に置かれて、實際に手足を出し得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「大久保」武田氏の遺臣から家康に抜擢され、慶長八(一六〇三)年七月に佐渡奉行に任ぜられた大久保長安(天文一四(一五四五)年~慶長一八(一六一三)年)のことであるが、ここで小泉八雲が述べているような「キリスト教徒陰謀」や、大久保が「誘はれてキリスト教を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈」といったトンデモ話があった事実は私は知らない(私は佐渡好きで既に三度訪れている)。ウィキの「大久保長安」によれば、大久保は晩年、『家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免され』、『中風のために死去した』が(佐渡奉行は在任のままと思われる)、死後になって、『生前の不正蓄財が問われ、また』、『長安の子』が『蓄財の調査を拒否したため』、七『人の男児は全員』、『処刑された。また』、『縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった』事実はあるが、これはキリシタン絡みではないように思われる。ウィキの「大久保長安事件」も参照されたい。但し、佐渡にキリスト教徒が多く集まった事実と迫害はあった。「学校法人ノートルダム新潟清心学園」公式サイト内のこちらに、佐渡のキリシタンについての「日本キリスト教大辞典」等からの記載があり、それを見ると(「日本キリスト教大辞典」分のみを引くが、それに続く同じ青山玄氏の執筆になる「新潟県キリスト教史 上巻」の引用も詳細を極め、必読)、

   《引用開始》

1601年 徳川家康が佐渡を直轄地とし、大久保長安を奉行に命令。

・徳川家康はフランシスコ会士 ジェロニモ・デ・ジェズースを通じて採鉱術の導入を図る。

・従来の灰吹精錬法に代わり、「水銀ながし」が短期間行われた。

 江戸幕府のキリシタン迫害が始まると、炭鉱夫として地下に潜伏する信者増加

1619年以来、イエズス会士アンジェリス・G・アダミ佐渡を訪問、日本人神父結城ディエゴが来訪。

1637年以降、幕命により100名以上のキリシタン処刑これが現在のキリシタン塚と思われるが、史料的には確認できない。

1658年 「吉利支丹出申国所之覚」に「佐渡国より宗門10人斗り出申候」とあり、なお、相当数の信者がいたと推定される。

パジェス・Lによると次の通り

1601年 越後の大名の息子2名が大坂で規則正しく教理を聴聞し、承服していた。

・徳川家康の機嫌を損ねないように受洗はしなかった。(この2名は、堀秀治と堀親良と思われる)

1604年 伏見の古いキリシタン1名が佐渡鉱山に1年半滞在、キリシタン数名の信仰を固めた。

1619年 アンジェリス・Gが佐渡で洗礼、告解、秘跡を授けた。

1621年ころ、イエズス会士アダミ・GMが佐渡のキリシタンを訪問、授洗し、信者を増やした。

・「受洗者は数においても、質においても他の所より善く、将来もこのようになると期待している」と報告している。

・このころ、まだ相川ではキリシタンの取り調べが厳しくなかった。

1625年 イエズス会士結城ディエゴが医者に変装して佐渡来訪。

・来訪したときにはすでに迫害で20名以上追放されていた。このとき結城が数名授洗。

163536年、南部・仙台藩で逮捕されたキリシタンの中には、大窪太郎兵衛夫妻、弥兵衛夫妻ら越後出身者有り。

島原の乱後、取り調べが厳しくなり、相川でキリシタン数十名が逮捕され、中山峠で処刑、「吉利支丹出申国所之覚」(1658年)によると、本庄(村上)23人、新発田45人、長岡56人、高田56人と信者が記録されている。武士はほとんど転封、減封、廃絶された他家の家臣で、庶民はほとんど出稼ぎ人であったと思われる。(青山玄)

   *

とあることから、禁教令を犯したとして罪人となった人々が佐渡に流されたり、当初はそうした関係上、佐渡での取り締まりが比較的緩やかであったことから、炭鉱夫等になって佐渡に渡った切支丹が多かったことが推理し得る。八雲はあくまで不正蓄財絡みの「大久保長安事件」と、以上のその後の佐渡での切支丹迫害事件を直結混同しているものと思われなくもない。]

 外國の僧侶達と内地人なる傳道師達とは、一六一四年の宣言の直後にも歿酷に取扱はれはしなかつた。彼等の中、凡そ三百人は船に乘せられて外國に送られた、――政治及び宗教に關した陰謀の疑ひをうけた幾多の日本人、例へば以前の明石の大名なる高山の如きと共に、この者はジヱジユイト派の文士によつて『ジヤスト・ウコンドノ』[やぶちゃん注:原文“Justo Ucondono”で、“Justo”  はポルトガル語で「義人」の意であり、これは音写するなら「ジュスト」である(平井呈一氏は『ジュスト』と音写されておられる)。ここは久保田典彦氏の「高山右近研究室のブログ」の『右近さん自身、「ユスト」とは言ってなかった!?』に拠った。]と呼ばれ、又同樣な理由から前に秀吉によつて領地を取り上げられ、職を免ぜられてゐたものである。家康は不必要な嚴重な例を置きはしなかつた。併しこれよりも嚴しい法令が、一六一五年に起つた事件につづいて出された、――かの布告發布の直ぐ後の年である。秀吉の子息、秀賴が、保護を託されて居た家族によつて取つて代はられた――日本にとつて幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]な事であるが。家康は彼のあらゆる面倒を見てやつた、併し彼を許して日本國の政府を導いて行かせる意圖は、家康に少しもなかつた、――十三歳の若者には殆ど出來ない仕事であつたから。秀賴が關與したと傳へられて居る色々な政治上の陰謀があつたに拘らず、家康は彼に澤山の歳入と日本に於ける最の城塞と、――秀吉の天才が殆ど難攻不落にしたかの堂々たる大阪城――を所有させて置いた。秀賴はその父に似ず、ジェジユイト教徒を愛し。大阪城を以てこの『虛僞腐敗の宗派』の歸依者を容れる避難所たらしめた。大阪城で危險な陰謀が支度中であるとの政府の間諜の報告があつたので、家康は一擊を加へる決心をした、而して彼は手嚴しく打擊を加へた。必死の防禦をなしたに拘らず、この大城塞は襲擊をうけて、燒き打ちされた、――秀賴は炎中に身を亡つてしまつた。十萬人の生命が、この包圍で失はれたといふことである。アダムスは秀賴の運命と彼の謀叛の結果に就いて次のやうに奇しくも書いて居る――

 『彼は皇帝[やぶちゃん注:言わずもがな、家康。]と戰爭をした……ジエジユイト教徒等とフランシスカンの教團の僧侶達とは奇蹟と實驗[やぶちゃん注:原文は“mirracles and wounders”。平井呈一氏は『奇蹟と驚異』と訳しておられる。戸川氏は超現実的な「示現(じげん)」、或いは、確かな神の「実」(まことの)「験」(しるし)としての奇蹟の意でかく訳したのであろう。]との惠を受けるに相違ないと秀賴を信じさせて、この戰に加はつた、併し結局それは反對の結果になつた。何となれば老皇帝は彼に向つて直に、海陸より自分の軍兵を準備して、彼の居る城を圍んだのであつた、かくて敵味方に莫大な損害はあつたが、併し最後には城壁を打壞して、火を城にかけ、そして彼をその中で燒き殺した。かくの如くにして戰爭は終つた。處で、皇帝はジエジユイト教徒とフランシスカン派の者共が、彼の敵と共に城内に居つて、今猶ほ時々彼に反抗すると聞いて、總てのロオマ教の者に國外に退去するやうに命じた――教會は破壞され、燒き拂はれてしまつた。この事は老皇帝健在の間つづいて行はれた。が、今やこの年、卽ち一六一六年に老皇帝は死去した。彼の子息が代つて統治したが、彼は彼の父よりも以土に熱烈にロオマの宗教に反對してゐる、何となれば彼は彼のあらゆる領土に亙つて、彼の臣民は一人たりとも、ロオマ教のキリスト教徒たる事を禁じ、これを犯すものは死刑に處せられるとしたからである、このロオマ教の宗派を彼は出來得る限りの方法で防止するために、異國の商人は何人たるとも、いづれの大都市にも逗留してはならないと禁北したのであつた』……。

 ここに子息といふのは秀忠の事であるが、秀忠は一六一七年に布令を出して[やぶちゃん注:これもよく判らない年表記である。但し、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」、続けて元和五(一六一九)年)に改めて禁教令を出して弾圧強化は確かにはかられてはいる。]、ロオマ教の僧侶やフランシスカンの僧侶が日本で見つかつた場合には、これを死刑に處すと定めた――この布令は日本から追放された多くの僧侶達が、祕密に歸つて來、また他の僧侶は色色な假面の下に居殘つて、布教をして居たといふ事實から、刺戟されて出されたものであつた。かくして、帝國内のあらゆる市町村落に於て、ロオマ派のキリスト教を根絶するための手段が取られた。いづれの組合もその中に外來の信條に屬する人が居れば、それに對して、責任を負はされた。そして特別な【註】役人、卽ち切支丹奉行と云ふ審問者が、この禁制の宗教を奉する者を搜索して、これを處罰するために任命された。卽座に取消したキリスト教徒は罰せられなかつたが、只だ監視をうけさせられた、拷問をかけても取消す事を拒んだ者共は、奴隷の地位に貶とされるとか、さもなければ死刑に處せられた。或る地方では非常な殘酷が行はれ、あらゆる形式の拷問が、取消しをひるために用ひられた。併し殊更歿酷な迫害の挿話は、地方の支配者卽ち役人達の個人的の兇猛に依つて生じたものである事は、先づ確な事である、――例へば竹中采女守[やぶちゃん注:「采女正(うねめのしやう)」が正しいが、原文自体がそうなっている。豊後府内藩第二代藩主竹中重義(?~寛永十一年二月二十二日(一六三四年三月二十一日)。彼の『時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど、多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された』が、ウィキの「竹中重義によれば、第三代将軍『徳川家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した』が、『これと連動するかのように、重義は密貿易など』、『職務上の不正を訴えられた』。寛永六(一六二九)年十月に『書かれた平戸のオランダ商館長の手紙によると、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」と記録されている。調査の結果』、寛永一〇(一六三三)年二月に『奉行職を罷免され、切腹を命じられた』とある。]の場合のやうなのがそれで、彼はその長崎に於ける彼の權勢の濫用と、迫害を以て金錢誅求の手段としたのとで、政府から切腹を行ふやうにひられたのである。然しそれはさうであるとして、この迫害が遂に有馬の大名領内に於けるキリスト教徒の叛亂を惹起する剌戟となつたか、若しくはそれを起こす助けとなつたのであつた、――これは歷史上では島原の亂としで記錄されてゐる。一六三六年[やぶちゃん注:「島原の乱」の勃発は厳密には寛永十四年十月二十五日で、グレゴリオ暦一六三七年十二月十一日である。]に、一群の農夫等が、彼等の領主――有馬及び唐津の大名(兩地方共に改宗した地方である)――の暴政により絶望に驅られて、武器をとつて起ち、その近隣の日本の寺院を悉く燒き拂ひ宗教戰を宣言した。その旗は十字架をつけて居り、その指揮者は改宗した侍であつた。キリスト教の避難者達が間もなく日本のあらゆる部分から來て彼等の仲間に加はつて、遂にその數は三萬乃至四萬人に膨張した[やぶちゃん注:正確な数は不詳であるが、最終的に籠城した老若男女は三万七千人、全員が死亡したとされる。]。島原半島の沿岸で、彼等は原といふ場所で、主人の居なくなつた城を占有し、其處に自ら立て籠もつた。地方の官憲はこの暴動に敵する事が出來なかつた、そして叛逆人等は自ら防守し得たのみでなく、それ以上に出來ので、遂に十六萬以上を算する政府の兵力が[やぶちゃん注:実際の最終的な幕府討伐軍の総数は十三万近くであった。]、彼等に向つて送り出されるに至つた。百二日の勇敢なる防戰の後、城は一六三八年に襲擊されて、防戰者達はその妻子と共に、刄の露と消えてしまつた[やぶちゃん注:終結は寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)。但し、総攻撃の開始は、鍋島勝茂の抜け駆けにより、前日に前倒しされている。]。公にはこの事件が百姓一揆として取扱はれた。そしてそれに對して責任があるとされた人々は、最重に罰せられた、――島原(有馬)の領主は更に切腹を行ふやうに宣告された。日本の歷史家達は、この一揆がキリスト教徒によつて最初計畫され、指導されたのであつて、彼等キリスト教徒は長崎を占領し、九州を征服して、外國の武力的援助を求めて、政變をひようと目論んでゐたのだと述べて居る、――ジエジユイト派の文士は何等陰謀のなかつたことを我々に信じさせようとして居る。只だ一つ確な事は、革命的な要求がキリスト教徒の要素[やぶちゃん注:原文“element”。平井氏は『分子』と訳しておられ、その方が躓かない。]に向つてなされ、それが盛んに應答され、驚くべき結果を生じたといふことである。九州沿岸に於ける一つの鞏固な域が、三萬乃至四萬のキリスト教徒によつて支持された事は、重大な危險を構成するものであつた、――これは有利な一點で、この點から日本へのスペインの侵入が企てられ、且つ多少そのうまく行く機會もあり得たと云つて然るべき程な處なのである。政府はこの危險を認めて、從つて壓倒的な兵力を島原へ派遣したと考へられるのである。そして若し外國の援助がこの叛亂に送られ得たとすれば、その結果は長期に亙る内亂となつたかも知れないのてある。大がかりな殺戮に至つては、それは日本の法律を勵行したことを表はしたに過ぎない。又領主に對して叛亂を起こした百姓の罰は、如何なる事情の下にあつたとしても、死刑である。更にかくの如き虐殺政策に關して言へば、それは信長もこれよりも少い理由でありながら、比叡山の天台宗徒を絶滅さしたことを記憶して置くべきであらう。吾々が島原で亡びた勇者を氣の毒に思ひ、彼等がその統治者の兇猛な殘虐に對してなした叛亂に同情を表するのは、いづれから言つても理由ある事と思ふ。併しただ公明なる事實として、日本の政治的見地から、全體の事件を考慮することが必要であると思ふ。

註 これらの布告が、一として新教徒のキリスト教に對して向けられなかつたといふことは、心に留めておかなければならない、オランダ人はこの布令の意味では、キリスト教徒とは考へられて居なかつたのである、又イギリス人も同樣であつた。次に示す代表的な村から得た拔萃、組帳則ち組合の取締法は、ロオマ舊教の改宗者則ち信者の、その組合に居ることに關して、すべての團體に課せられた責任を示してゐる、

 『每年、殺初の月と第三の月との間で吾々は宗門帳を更める。若し吾々が禁制の宗門に屬してゐる者の居るのを知るならば、直に代官にそれを通ずるものである、……召使、勞働者共は、キリスト教徒でないといふ事を宣明した證文を主人に差し出すべきである。嘗てキリスト教徒であつたが、それを取り消した者に關しては――若しこのやうな者が村に來、また去る事があれば、吾々はそれを申出ることを約する』――ヰグモア政授の『舊日本に於ける土地所有權及び地方制度所見』Professor J. H. Wigmore'sNotes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan

 オランダ人は船舶と大砲とを以てこの叛亂を潰滅さす助けかしたといふので非難された、彼等は自分等獨自の考へから、勝手に四百二十六發の大砲を城内に打ち込んだといふ。併しながら、今まで殘つて居る平のオランダ商館の通信は無論、彼等が脅嚇されて、斯樣な行動をとるの已むなきに至らしめられたのである事を證明して居る。兎に角、彼等の行動に就いて、これに只だ宗教上の非難を加へるには充分な理由がない――よしその行動は人道上の見地からは充分に非難されるとしても。蓋し叛徒の大部分が、たまたまネザラドの男女を異端者として生きながら焚殺した處の宗教を信じて居るのであるから、この叛亂を鎭壓して居る日本の官憲を助ける事を拒絶するわけには行かなかつたのであらう。察する處このオランダ人達の親族のものが少からず、かのスペインの猛將アルヴアの虐殺を逞うした日に殺された事があるのではあるまいか、恐らくそんな事も原因となつて、この砲擊が行はれたのかも知れない。若しポルトガル人竝びにスペイン人の僧侶にして、日本の政府を乘取る事が出來たならば、日本に於けるイギリス人とオランダ人とは、みなどんな目に遇つたであらうか、それは明らかに解つて居た筈であるが。

[やぶちゃん注:「スペインの猛將アルヴアの虐殺」年代的に見て、スペインの第三代アルバ公爵で将軍であったフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba 一五〇七年~一五八二年)か。ウィキの「フェルナンド・アルバレス・デ・トレドによれば、一五三五年以降、『プロテスタント勢力打倒を目指すカール』『世のために』、『各地を転戦した。カール』『世の退位後はフェリペ』『世に仕え』、一五五九年の『カトー・カンブレジ条約を経て』、一五六七年から『属領ネーデルラントの総督となった。「血の審判所」と呼ばれた機関を設け、エフモント伯ラモラールを含む』、『多くの新教徒を処刑したが、その恐怖政治もオラニエ公ウィレム』『世を支持する北部ネーデルラントの市民階級の反抗を』、『くじくことができなかった』。一五七三年、『後任のレケセンスと交代させられ、スペインへ帰国した』とある。或いは、その息子(次男)で第四代アルバ公となった、八十年戦争時のスペイン軍司令官ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(Fadrique Álvarez de Toledo 一五三七年 ~一五八三年)であってもおかしくはない。ウィキの「ファドリケ・アルバレス・デ・トレドによれば、『リスボンで生まれ』、『ウエスカ公、コリア侯、カラトラバ騎士団の司令官職でもあった』。『彼は、スペイン領ネーデルラントにおける、最も血なまぐさい時期のスペイン軍を率いた。ハールレム包囲と同様に、メヘレン、ズトフェン(現在のオランダ・ヘルダーラント州)、ナールデン(オランダ・北ホラント州)において起こった殺戮の司令官だった』とある。まあ、親父の方がそれらしくはある。]

 

2018/09/20

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(59) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅳ)

 

 この文書の中に伴天連に對して爲された二つの明確な非難があるといふことが觀られる、――宗教に裝を藉りて、政府を橫領しようといふ考へをもつた政治的陰謀、それから神道と佛教といふ日本固有の禮拜の式に對する異説抑壓に就いての非難である。この異説抑壓はジエジユイト教派自身の書きものによつて充分に證明されて居る。陰謀の非難に至つては少しく證明し難い。併に社會が與へられたならば、ロオマ舊教の諸教團が、既に改宗した大名の領地に於て、地方政府を管理することが出來たやうに、正しくその通りに中央教府全體を管理せんと企てるであらうとは、道理を辨へやものにして誰れが疑ふことが出來たであらうか。その上この布告が發せられた時には、いろいろな事を耳にして居て、家康はロオマ舊教に就いて、恐らく最も惡るい意見をもつて居たに相違ない。これは確と言つて宜からう。――則ちアメリカに於けるスペインの征服、西印度人種絶滅の話、ネザアンド[やぶちゃん注:Netherlands。ネーデルラント。オランダ。直近のスペイン統治時代の異端審問体制やプロテスタントの焚書や発禁等の一連の宗教弾圧を指す。]に於ける迫害、竝に其他の各所に於ける宗教審問の事に就いての話、フイリツプ第二世のイギリス征服の計畫と、二囘に亙る大艦隊(アルマアダ)[やぶちゃん注:Armadas。スペイン語語源で「海軍・艦隊」の意。]の失敗の話などを聞いて居たに相違ない。この布告は一六一四年に發せられた。而して家康は夙に一六〇〇年[やぶちゃん注:既に示した通り、慶長十八年。]に、以上の事柄の二三を知る機會を得たのであつた。則ちその年にイギリス人の水先案内ヰリアム・アダムス[やぶちゃん注:既出既注。]がオランダの船を託されて日本に到著した。アダムスは一五九八年[やぶちゃん注:慶長三年相当。アダムスが豊後臼杵に漂着したのは慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)。]にこの多事な航海に上つたのであつた、――卽ちそれはスペインの最初の大艦隊敗北後十年、第二囘艦隊全滅後、一年の事であつた。彼は偉大なエリザベス女王――まだ存生中であつた――の赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。光り輝くが如く、華々しい功名を挙げるさま。]時代を見た人であつた――彼は多分ハワアド、セイマア、ドレイク、ホオキンズ、フロビシヤア、それから一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル等を見てゐたのである。何となればこのヰリアム・アダムスといふ男は、ケントの人であつて、『女王陛下の船の船長と水先案内を勤めた……』人であつたからである。今述べたこのオランダの商船は九州に到着すると同時に捕獲された。そしてアダムスとその乘組員は、豐後の大名によつて監禁され、その事實は家康に報告された。是等新教徒なる船乘り達の到來は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて重大事件と考へられた。蓋し、ジエジユイト教徒は、このやうな異端者達と、日本の統治者との會見の結果を恐れるべき、特別な理由をもつて居たのである。然るに家康も亦たまたまこの事件を重大視した。そして彼は大阪なる彼の許にアダムスを送るべきことを命じた。この事に就いてのジエジユイト教徒の惡意を藏した懸念は、家康の透徹力ある觀察を遁れなかつた。アダムス自身の筆述に從つて見ると――アダムスは決して虛僞を言ふのではなかつた――彼等は再三船乘り達を殺してしまはうと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]のであつた、そして彼等は豐後に於て該船の乘組員中の二人の無賴漢を脅して、【註一】僞證をさせ得たのであつた。アダムスは次のやうに誌した、『ジエジユイト教徒達とボルトガルの人達とは、私と餘の者を中傷する多くの證據を皇帝(家康のこと)に向つて呈し、吾々は諸國から來た竊盜であり、又盜賊であると言ひ、若し吾々を生かして置けば、殿下と國土の御爲めにならぬに相違あるまいと言つた』と。然るに家康は恐らく彼をなきものにしてしまはうといふジエジユイト教徒の熱心の爲めに、却つてアダムスの方に多くの好意を持つやうに傾いてゐたらしいのである――なきものにするとはアダムスの言ふところに從ふと、『十宇架につける〔傑刑に處する〕事』で――これは『我が國の絞刑のやうに、日本に於ける裁判の風習』なのである。アダムスは云つて居る、家康は彼等に答へた、卽ち『吾々(アダムス等)は彼や彼の國土の何人に對しても、未だ危害や損害を蒙らしたことはなかつた。それ故吾々を殺す事は道理と正義とに反した事である』と……。それからジエジユイト教徒が正に最も恐れていゐた事が起こるやうになつた――彼等が恐嚇、誹謗、竝びに出來る限りの陰謀を以て、防止せんと努めてしかもその効のなかつた事――則ち家康と異端者アダムスとの會見が起こることになつたのである。『そのやうなわけで私が彼(家康)の御前に出ると直ぐに』と彼は誌した『彼は吾々が何處の國の者であるかと尋ねた。それで私はあらゆる事を彼に答へた。それは、國々の間の戰爭と平和といふ事に關して、彼は餘す處なく總ての事を啓ねたからであるが、その委細の事を此處に記しては、あまりに冗長になる恐れがある。そしてその時に私は、良く待遇されたのではあるが、一時私に仕へる爲めに一緖に來た海員の一人と共に私は入牢を申しつけられた』アダムスの他の手紙に依つて、この會見がびきつづき夜にまで及び、且つ家康の質問は、特に政治と宗教とに關係してゐたらしく察しられるのである。アダムスは云つで居る、『彼は我が國が戰爭をしてゐるかと尋ねた。私はスペインとポルトガルとを相手にして戰つてゐると答ヘた――他の總ての諸國とは平和にしてゐるから、更に彼は私が何を信仰してゐるかと尋ねた。私は、天と地とを造つや神樣を信じてゐると言つた。彼は宗教關係の色々な他の質問と、その他の多くの事に就いて尋ねた、例へばどんな路を通つて日本に來たかといふやうな。私は全世界の海圖を持つてゐたので、マゼラン海峽の直路を彼に示した。彼はそれに驚いて私が嘘をいふと思つた。このやうに、次から次へと話がつづき、私は深更までも彼の許に居た』……この兩人は互に一見して雙方好きになつたのらしい。家康に就いてアダムスは特に恁う言つて居る。『彼は私を凝と見て、驚く程好意を持つたやうに思はれた』と、二日たつて家康は再びアダムスを招いて、特にジエジユイト教徒が隱さうとして居る事柄に就いて彼に微細に亙つて質問した。『彼は我が國とスペイン或はポルトガルとの戰爭と、その理由とに就いて又尋ねた。それを私はすつかり了解の出來るやうに説明したが、彼はそれを喜んで聞いた、とさう私には考へられた。最後に私は再ぴ監禁を受けることを命ぜられたが、然し私の宿所は前よりもよくなつた』……アダムスはその後殆ど六週間の間家康に再會しなかつたが、それからまた招きの使を受けて、三度事こまかに尋問を受けた。その結果は自由の身となつて恩顧を得た。爾後、時を置いて、家康は彼を招くを常とした。そして程なく吾々は彼が『幾何學の二三の點と、數學の理解とその他のいろいろの事とを合はせて』此の人經世家に教へてゐるといふことを聞くのである……。家康は彼に多くの贈物竝びに充分の祿を與へて、深海航行用[やぶちゃん注:確かに原文は“for deep-sea sailing”であり、平井呈一氏も『深海を走る船』と訳しておられるけれど、潜水艦じゃあるまいし、ここはやはり「遠洋航海用の」でいいと思うのだけれど。]の船を二三建造するやうに彼に委任した。かくして此の一水先案内は一人の侍に取り立てられ、そして所領を與へられた。彼は恁う書いた、『ご皇帝の御役に使はれたので、彼は私に對して、イングランドの貴族のやうに、丁度私の奴隷、若しくは召使たるべき八九十人の農夫をつけて祿を私に與へた。かくの如き事、或は同樣な先例は嘗てこの國では、如何なる外國人にも與へられた事のなかつた事である』と。……アダムスが家康に對しで勢力のあつたといふ證明は、イギリス商館のキヤプテイン・コツクの通信によつて得られる、コツクは一六一四年[やぶちゃん注:慶長十九年。]に彼に關して次のやうに書いて故國へ送つた、『實を言へば皇帝は彼を甚だ尊重してゐる。そして彼はいつでも入殿して、諸王や諸公子が退座させられてゐる時でも、【註二】彼と話しする事を得た』と。イギリス人が平に商館を建設することを許されたのは、この勢力によつたのである。第十七世紀の物語の中で、この白面のイギリス人なる水先案内の話程不思議なのはない、――自分を扶ける者とては唯だ率直な正直と常識との外なにもなく――しかも日本のあらゆる統治者の中での、最も偉大な又最も機敏な人の、かくの如く格別の恩顧に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]まで登つたといふ。併しながら、アグムスは遂にイギリスヘ歸る事を許されなかつた――多分彼の奉仕が、それを失ふことの出來ない程貴重なものと考へられたからであらうか。彼は自らその手紙の中で、家康は、イギリスに再び歸るといふ一權のほかは、彼の願つたものは、何でも決して拒絶しなかつた。彼があまり屢〻それを求めた時【註三】、この『老皇帝』には默した儘何も云はなかつたと言つて居る。

 

註一 『日每にポルトガル人は吾々に對して裁判官と人民の怒を煽ることを盛んにした。そして吾々の仲間の中二人は裏切者となつて、自ら王(大名)に仕へた、それはポルトガル人によつてその生命を保證されたため、何事も彼等と一緖に共謀するやうになつたからである。その一人は名をギルバアト・ド・コンニングといつて、彼の母はミツドルボロに住まつてゐる、又彼は自らこの船に於ける貨物一切の商人であると稱して居た。今一人はジヨン・アベルスン・ヴアン・オウオタアと云つた。此等の裏切者達は貨物を彼等の手に入れるために、あらゆる種類の方法を講じ、吾々の航海中に起つた總てのことを彼等に知らした。吾々の到着後九日經つて、此國の大王(家康)は私に彼の許まで來るやうにと言つて來た』――ヰリアム・アダムスのその妻にあてた手紙。

註二 『神樣の思召で世間の人の眼には不思議に思はれるに相違ないやうな事が起こるやうになつた、何となればヱスパニヤとポルトガルとは私の不倶戴天の惡むべき敵であつたのである、然るに今彼等は此卑しい慘めな者なる私に求めなければならないのであるから、そしてポルトガルもエスパニヤも彼等の商議の一切を私の手を通してしなければならないからである』――一六一三年[やぶちゃん注:慶長十八年。]一月十二日附のアダムスの手紙。

註三 彼は彼を殺さうと求めた人々にまでも好意を持つてゐる。アダムスは恁う言つた『私は彼の氣に入り、私の言つた事に彼は何でも反對しなかつた。私の以前の敵達はそれを不思議がつてゐた、そして今となつて彼等は私がエスパニヤ人とポルトガル人に對してなしたやうな友誼を彼等に對してもつやうに私に懇願しなければならなかつた、惡に報ゆるに善を以てするといふやうにして。それで私の生活を得るために時を費やすには、私には最初非常な勞働と困難とを要した、併し神樣は私の勞働に報い[やぶちゃん注:ママ。]を授け給うた』

[やぶちゃん注:「ハワアド」政治家で海軍軍人の初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(Charles Howard 一五三六年~一六二四年)か。一五八五年から一六一九年にかけて海軍卿を務め、「アルマダ海戦」(Armada Wars:スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻に於いて一五八八年に英仏海峡で行われた諸海戦の総称)を始めとするスペインとの戦争を指揮した人物。ウィリアム・アダムス(William Adams)は一五六四年生まれで、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)来日、元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日)没である。

「セイマア」初代ハートフォード伯エドワード・シーモア(Edward Seymour 一五三九年~一六二一年46日)か。ウィキの「エドワード・シーモア初代ハートフォード伯によれば、父はエドワード世の『下で護国卿を務めたサマセット公エドワード・シーモア、母はサー・エドワード・スタンホープの娘アン。一五五二年に『父がウォリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバランド公)らに捕らえられ処刑されるとサマセット公位を始め爵位は没収されたが』、一五五九年に『新設の形でハートフォード伯・ビーチャム男爵に叙せられた。しかし』、一五六〇年にヘンリー世の『曾孫に当たるキャサリン・グレイ(サフォーク公ヘンリー・グレイとメアリー・テューダーの娘フランセスの次女でジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したため、エリザベス』『世の怒りを買い』、『ロンドン塔へ投獄された。ただ、獄中にも関わらず』、『妻の下を訪れていて』、一五六一年には長男エドワードが、一五六三年には『次男トマスが生まれている』。一五六八年に『キャサリンが死亡すると釈放されたが、息子』二『人は庶子とされ』、『王位継承権は無いものと決められた』。一五八二年に『フランセス・ハワードと再婚した際、子供達を嫡子に格上げしようとして』、『再び捕らえられ』、一五九八年には『フランセスが亡くなり』、『失敗に終わった』。一六〇一年に『ハワード子爵トマス・ハワードの娘フランシスと』三『度目の結婚、フランセスとの間に子供が無いまま』、『死去した』とある。但し、「Seymour」姓の人物は複数おり、私は世界史に疎いので、彼以外の人物かも知れない。

「ドレイク」イングランドの航海者で私掠船(しりゃくせん:英語:Privateer:戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃し、その船や積み荷を奪う許可である私掠免許を得た個人の船を指す)船長であったが、海軍提督となったサー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ドレークによれば、『イングランド人として初めて世界一周を達成し』、「アルマダ海戦」では、『艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した』。『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「ホオキンズ」イングランドの私掠船船長・奴隷商人で、海軍提督ともなったジョン・ホーキンス(John Hawkins 一五三二年~一五九五年)であろう。ウィキの「ジョン・ホーキンスによれば、彼は『フランシス・ドレークの従兄弟であり』、彼も『アルマダの海戦で活躍した』とある。

「フロビシヤア」イギリスの航海者・私掠船船長で探検家のサー・マーティン・フロビッシャー(Sir Martin Frobisher 一五三五年又は一五三九年頃~一五九四年)であろう。ウィキの「マーティン・フロビッシャーによれば、『私掠船に乗ってフランス船などを襲い多くの富をイングランドにもたらした。北西航路の探検を始めた後は』、三『度にわたり』、『現在のカナダ・バフィン島(レゾリューション島およびフロビッシャー湾)を訪れ』、『航路よりも金の採取に熱中したが、結局』『、採取した鉱石は金ではなく』、『ただの黄鉄鉱だったことがわかった』。一五八八年の「アルマダ海戦」では、『スペイン艦隊の撃退に対する貢献から爵位を贈られている』とある。

「一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル」

「イギリス商館のキヤプテイン・コツク」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。]

 

2018/09/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(58) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅲ)

 

 家康――今までに現はれた中での最も機敏な、そして又最も人情の深い經世家の一人であるdあこの決斷を正當に評價するには、日本人の見地からして、彼をしてかくの如き行動をとるの已むなきに至らしめた、その根本となつてゐる證據の性質を考へて見ることが必要である。日本に於けるジエジユイト派の陰謀に就いて、彼は充分に承知して居たに相違ない、――その陰謀の中には家康の身を危くするやうなものも少からずあつたので――併し彼はこのやうな陰謀が發生するといふ單なる事實よりも、その陰謀の究極の目的と實際は、如何になるかといふ、その結果をむしろ考慮したらしいのである。宗教的陰謀は佛教徒の間にあつても普通の事であつた。そしてそれが國家の政策、若しくは公共の秩序を妨害した場合は別として、さうでない限りそれは武力的政府の注意を惹くことは殆どなかつたのである。併し政府を轉覆すること及び宗派を以て一國を占有することを、その目的とする宗教的陰謀は、これは重大な考慮を要する事である。信長はこの種の陰謀の危險なることに就いて嚴しい教訓を佛教に與へた。家康はジエジユイト教派の陰謀が、最も大きな野心を包藏した政治上の目的をもつてゐると斷じた。併し彼は信長よりも遙かに隱忍して居た。一六○三年には、彼は日本の諸州を悉く彼の威力の下に歸せしめた。併し彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた。――

[やぶちゃん注:「一六〇三年」慶長八年。この年の二月十二日(グレゴリオ暦三月二十四日に徳川家康に将軍宣下が下り、ここで江戸幕府が正式に開府された。

「彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた」或いは、プレに慶長十七年三月二十一日(グレゴリ暦一六一二年四月二十一日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令の布告(戸幕府による最初の公式のキリスト教禁令)を指すか、同年八月六日(九月一日)の「伴天連門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」という全国的なキリスト教信仰禁止の布告を指すか、又は「十一年」は「数え」で、幕府開府から十年後の、家康が第二代将軍秀忠の名でブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させて発布した「伴天連追放之文(バテレン追放令)」(ウィキの「禁教令では慶長十八年二月十九日(一六一三年一月二十八日)布告とするが、小学館「日本大百科全書」では慶長十八年十二月二十三日(一六一四年二月一日)とあるので、確認したところ、禁令原文の最後のクレジットは「慶長十八」「臘月」(旧暦十二月の異名)とあることが判った)。但し、ウィキの「禁教令によれば、実際にはまだ、『幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約』五十『名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる』とある。

 以下、底本では「身を曝す事にならう。」までは本文同ポイントで全体が二字下げ。]

『切支丹の徒は日本に來り、日本の政府を變へ、國土の領有を獲ようとするために、ただに貨物の交易に彼等の商船を遣はすばかりでなく、惡法を播布し、正しき教へを打倒さうと熱望してゐる。これこそ大災難を起こす荊芽であつて打潰さなければならぬ……

[やぶちゃん注:「荊芽」(けいが)は茨の芽であるが、ここは「刑罰に値する悪しきものの萌芽」の意。]

『日本は神々及び佛の國である、日本は神々を崇め佛を敬ふ……【註】伴天連の徒は神々の道を信仰せずして眞の法を罵る――正しき行ひに背いて善を害ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]……彼等は眞に神神及び佛の敵である……若し之が速に[やぶちゃん注:「すみやかに」。]禁ぜられずば、國家の安全は確に今後危險とならう、又若しその時局を處理するの衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。大事な任務。]に當たつてゐる者共が、この害惡を抑止しなければ、彼等は天の怒に身を曝す事にならう。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が三字下げ。]

 

 爰吉利支丹之徒黨、適來於日本、非啻渡商船而通資財、叨欲弘邪法威正宗、以改域中之政號作己有、是大禍之萠也、不可有不制矣、日本者神國佛國、而尊神敬佛……彼伴天連徒黨、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、殘義損善。……實神佛敵也、急不禁、後世必有國家之患、殊司號令不制之、却蒙譴天矣、日本國之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、有違命者、可刑罰之、……一天四海宜承知、莫違失矣。

[やぶちゃん注:「啻」は「營」であるが、平井呈一氏の引用(但し、誤り有り)その他原布告文を確認して訂した。以下、自己流で訓読しておく。

   *

 爰(ここ)に吉利支丹の徒黨、適(たまたま)日本に來り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)るに、邪法を弘(ひろ)め、正宗(しやうしゆう)を惑はさんと欲し、以つて域中(いきなか)[やぶちゃん注:国中。]の政號を改めて、己(おの)が有(ゆう)と作(な)さんとす。是れ、大禍(たいくわ)の萠(きざし)なり。制せずんば有るべからず。日本は神國・佛國にして、神を尊(たつと)び、佛を敬す。……彼(か)の伴天連の徒黨、皆、件(くだん)の政令に反(そむ)き、神道を嫌疑し、正法(しやうばう)を誹謗し、義を殘(そこな)ひ、善を損ず。……實(まこと)に神敵。佛敵なり。急ぎ、禁ぜずんば、後世、必ず、國家の患(うれ)ひ有り。殊(こと)に號令を司(つかさど)りて、之れを制せずんば、却つて天譴(てんけん)を蒙らん。日本國の内、寸土の尺地、手足を措(お)く所(ところ)無し[やぶちゃん注:キリスト教の伝道者が主語。本文後文を見よ。]。速かに之れを掃攘(さうじやう)し[やぶちゃん注:払い除くこと。この語は後の幕末に於いて「外国を排撃する」の意で盛んに用いられた。]、いて違命有らば、之れを刑罰すべし。……一天四海、宜(よろ)しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。

   *]

 

 『これ等の者は(布教師のこと)卽刻一掃されなければならぬ、かくして日本國内には彼等のためにその足をおくべき寸土もないやうにしなければならぬ、そして又若し彼等がこの命令に服することを拒むならば、彼等はその罪を蒙るであらう……一天四海もこれを聽かん、宜しく從ふべし』

 

註一 伴天連とはポルトガル語のパドレ(padre)の飜譯であつて、宗派を問はず、總てロオマ舊教の僧侶に今日でも使用されて居る名稱である。

註二 右の全宣言はかなり長いもので、サトウ氏によつて飜譯されたものであるが、日本アジヤ協會記事“Transactions of the Asiatic Society in Japan”第六卷第一部の内にある。

[やぶちゃん注:最後の記事名は“Transactions of the Asiatic Society of Japan”の誤りである。]

 

2018/09/07

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(57) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅱ)

 

 一五八六年[やぶちゃん注:ママ。誤り。「本能寺の変」は天正十年六月二日、ユリウス暦一五八二年六月二十一日である。以下の叙述には種々の疑問があり、それを段落末で示すには煩瑣であることから、頻繁に本文中に私の注を差し入れてある。読み難くなってしまったのは、御容赦願いたい。ここのみ挿入注を総て太字にしておいたので、それを目安に飛ばして読めるようにしてはおいた。]に於ける信長の暗殺は、異教默認の時期を延長したのかも知れない。彼の後繼者秀吉は外國僧侶の勢力を以て危險なものであると斷定はしたが、その時は、武權を集中して、國中に平和を招致しようといふ大問題に專心して居たのであつた。然るに南部の諸國に於けるジエジユイト教徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信條の殘忍な行爲に對し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた。吾々は布教の歷史の中に、改宗した大名が佛教徒の幾千といふ寺院を燒き、無數の藝術作品を破毀し、佛門の僧侶を殺戮した記事を讀んで居る、――そして吾々は又ジエジユイト派の文人がこれ等の宗教戰を以て、神聖なる熱心の證據であるとて賞讃してゐるのを知つて居る。最初、この外來の信仰は只だ人を説得するのみであつた、然るに後には、信長の奬勵の下に權力を得てからは、制的に、又兇暴になつて來た、それに對する一種の反動は信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年[やぶちゃん注:天正十五年。]に秀吉は京都、大阪、堺等に於ける傳道教會を破壞して、ジエジユイト教徒を首府から逐ひ拂つた、又その翌年[やぶちゃん注:誤り。「伴天連(バテレン)追放令追放令」は天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)の発令で同年である。]彼は彼等に平の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に大になつて居たから、この命今に從はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸國に分散して、幾多キリスト教徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めることの不得策な事を考へたのであらう、又キリスト教の僧侶達も平穩を守り公然と説教することをやめた。そして彼等の隱忍は、一五九一年[やぶちゃん注:天正十九年。但し、この以下の小泉八雲の時系列解説には杜撰な、或いは、誤認の部分があるように思われる。例えば、「聖母の騎士社」公式サイト内の高木一雄氏の『月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]』の「(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓」の記載を読まれたい。]までは彼等に甚だ利益ある事であつた。然るにその年に、スペインのフランシスカン派[やぶちゃん注:十三世紀のイタリアでアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi/ラテン語:Franciscus Assisiensis)によって始められたカトリック修道会「フランシスコ会」(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum)派。なお、同派の最初の日本への伝導は文禄二(一五九三)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見したのを嚆矢とするウィキの「フランシスコ会にはある。]の教徒が到著したことは事情を一變させるに至つた。これ等のフランシスカン派の教徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加はつて到著し、キリスト數を説教しないといふ條件で、國内に留まる許可を得たのであつた。然るに彼等はその約束を破り、無謀な舉に出たので、爲めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と、三人のジエジユイト教徒と、其他數人のキリスト教徒を長崎に拘引して、其處で礎刑に處した[やぶちゃん注:所謂、豊臣秀吉の命令によって慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」の殉教を指す。]。大太閤の外來信條に對するこの態度は、その信條に對する反動を促進する結果となつた――その反動は既に諸國に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於ける秀吉の死[やぶちゃん注:慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。]は、ジエジユイト教徒等に更に幸運の來る希望を抱かしめた。彼の後繼者、卽ち冷靜深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布教を復興することさへも許可した。彼は關ケ原の戰[やぶちゃん注:慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。]によつて決定される事になつて居た大爭鬪の一準備をして居た、――彼はキリスト教徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、――その頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、――それでキリスト教に對し抑壓政策をとるには時機が惡るかつたと考へられる。然し一六〇六年に權力を堅固に建立してしまつた後[やぶちゃん注:「一六〇六年」は慶長六年であるが、これが何を指しているかよく判らない。江戸幕府開府は二年後の慶長八(一六〇三)年である。]、家康は布教事業をそれ以上績行することを禁止し、且つ外來宗教を採用したる者共は、それを抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]すべきことを宣言する布告を發して、初めてキリスト教に斷乎たる反對を爲す事を聲明したが[やぶちゃん注:家康が幕府から最初の公式のキリスト教の禁教令を発したのは慶長一七(一六一二)年三月二十一日で、これは江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊及び布教禁止を命じた布告であった。ウィキの「禁教令によれば、『これ自体は』、『あくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った』とある。]、それにも拘らず布教は續けて行はれた――最早只だジエジユイト教派の者によつてのみでなく、ドミニカン派[やぶちゃん注:一二〇六年に聖ドミニコ(ラテン語:Dominico/ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(スペイン語:Domingo de Guzmán Garcés))により設立されたカトリックの修道会「ドミニコ会」。一二一六年にローマ教皇ホノリウス世によって認可された。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum)。]の者及びフランシスカン派の者によつても行はれた。當時帝國内に於けるキリスト教徒の數は、非常な誇張ではあるが、殆ど二百萬人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年までは、抑壓に就いて何等嚴重なる手段をとらなかつたし[やぶちゃん注:不審。家康がブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させ、公布した(第二代将軍秀忠名)「伴天連追放之文(バテレン追放令)」は慶長十八(一六一三)年の発布である。]、又取らせもしなかつたが――その時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には獨立の大名によつて行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない――中央政府によつて行はれたのではなくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、當時權力の絶頂にあつたジエジユイト教派の偏執に對する自然の結果で、その時には實に改宗した大名が佛寺を僥き、佛門の僧侶達を虐殺したのであつた。そしてこれ等の迫害は本來の宗教がジヱジユイト教派の煽動のため最も烈しく迫害された地方――例へば豐後、大村、肥後などの如き地方――では最も殘酷であつた。然るに一六一四年以來――この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇國だけがキリスト教の入らないで殘つて居た處である――外來信仰の禁壓が政府の事業となつた、そして迫害は組織的に又中絶せずに行はれて、遂にキリスト教のあらゆる外面に表はれたる跡は消失するに至つたのであつた。

 

 それ故、布教の運命は家康とその次の後繼者によつて實際に決定された、そしてこれが特に家康の注意を與へた仕事であつた。三人の大首將達はみな、時機の遲速はあつたが、この外來の布教に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布教が惹き起こした社會問題を處理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも廣きに及ぶ嚴格な手段を探つて、現在の政治上の難問を縺れさす[やぶちゃん注:「もつれさす」。]のを恐れて居たのであつた。家康も永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雜であり、又主としてそれは外交上の理由からであつた。彼は決して燥急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。私には見かけない熟語だが、「燥」には「落ち着かない」の意があるから、「早急」に同じい。]に實行せんとする人でもなく、又決して何等かの偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと假定する事は、吾々が彼の性格に就いて知つてゐる總ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても、一百萬以上の歸依者があると云ひ得る宗教を根絶することは決して容易な仕事ではなく、それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすといふことは彼の性質に反する事であつた。彼は常に人情深く、庶民の友であることを示してゐた。併し彼は何よりも第一に經世家であり愛國者であつた。そして彼にとつての主要な問題は、外來信條と日本に於ける政治的社會的狀態との關係は、將來如何なるものであらうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と氣長な調査を要した。そして彼はそれに出來る限りのあらゆる注意を與へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリスト教が重大な政治的危險を作す[やぶちゃん注:「なす」。]ものであり、根絶は避くべからざる必要事であると決斷したのである。彼と彼の後繼者等が、キリスト教に向つで勵行した嚴重な法則が――その法規は二百有餘年の間確實に守られた――この信條を完全に根絶やす[やぶちゃん注:「ねだやす」。]ことの出來なかつたといふ事實は、その信條が如何に深く根を張つて居たかを證明するものである。表面上、キリスト教のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る組合が長崎附近で發見されたが、この組合はロオマ教の禮拜式の傳統を祕密にその一派の間に保存して居り、未だに宗教上の事に關しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用してゐたものであつた。

[やぶちゃん注:「一八六五年に或る組合が長崎附近で發見された」「一八六四年」は元治元年であるが、これは正確には翌「一八六五年」或いは、公儀に知られた「一八六七年」とすべきところである(後述)。明治新政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは明治六(一八七三)年二月二十四日で、これは所謂、「浦上四番崩れ」と称された最後の大規模なキリシタン弾圧事件に発展した。ウィキの「浦上四番崩れによれば、その発端は以下である。この元治元年に『日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ』(太字やぶちゃん)、翌元治二年三月十七日(一八六五年四月十二日)のこと、『浦上村の住民数名が訪れた。その中の』一『人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時』五十二『歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた』。しかし、二年後の慶応三(一八六七)年に浦上村の信徒たちが、仏式の葬儀を拒否したことによって、信徒の存在が明るみに出でしまったのであった。『この件は庄屋によって』直ちに『長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らは』、『はっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八『人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行』い、九月二十一日には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた』。直後に江戸幕府は瓦解するが、慶応四年二月十四日(一八六八年三月七日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』、四月七日(三月十五日)に『示された「五榜の掲示」』(太政官(明治政府)が国民に対して出した最初の禁止令)の第三条で、再び、『キリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』、五月十七日(四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう』、『外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した』。しかし、『この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席で』、『さらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六『時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった』。結局、閏四月十七日(六月七日)になって『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四『名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで間、『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど』、『その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン』Ⅸ『世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は』「日本宗教自由論」を著し、『禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年』、『キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からも』、『キリスト教への恐怖から』、『解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切』、『解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日(本邦では、この前年の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)、太政官布告によって、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)の翌日からグレゴリオ暦に移行し、明治六(一八七三)年一月一日となるとした。則ち、明治五年には十二月三日から同月三十日までの二十八日間が存在しない)、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数』三千三百九十四『名、うち』六百六十二『名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に故地『浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ)

 

 ジェジュイト敎徒の禍

 

[やぶちゃん注:「ジェジュイト派」既出既注であるが、再掲しておく。ジェズイット(Jesuit)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。イエス(・キリスト)を表わす Jesus が形容詞した Jesuitic が語源。なお、例えば以下の本文第一段落末文中のそれように、本標題と異なり、「ジエジユイト」と拗音表記がなされていないのは、総てママである。]

 

 第十六世紀の後半は歷史の上で最も興味ある時期である――それには三つの理由がある。第一にこの時代は、かの偉大なる首將、信長、秀吉、家康など――民族が只だ最高の危機に際してのみ産するやうに思はれる型の人々――それ等の人の産みだされるためには、無數の年代から生じて來る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情、境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々――の出現を見たからである。第二に、この時期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社會組織が、初めて完全に完成されたからである――則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武權政府の下に一定の形をなして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日本を基督教化しようといふ最初の計畫の一事件が――ジエジユイト教派の權力の興亡の物語――丁度この時代に屬してゐるからである。

 ――この一挿話の社會學的意義は重大である。蓋し、大十二世紀の於ける皇室の分裂を除けば、ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危機は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて基督教の傳へられたことであつた。日本は殘忍な手段によつずて、無數の損害と幾萬といふ生命との犧牲を拂つて僅に助かつたであつた。

 この新奇な不穩な要素が、ザビエ[やぶちゃん注:フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。]及びその宗徒によつて傅へられたのは、信長が權力集中に努力する以前の大擾亂の時期に於てであつた。ザボエは一五四九年に鹿兒島に上陸し、一五八一年の頃には、ジエジユイト教徒等は國中に二百有餘の教會を持つて居た。この事實だけでも、この新しい宗教の傳播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さればこの新宗教は今帝國に亙つて擴がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。一五八五年に、日本の宗教上の使節がロオマに迎へられ、又その一時には、殆ど十一人の大名――ジエジユイト教徒はそれ等の大名を『王』と稱したが、それも必らずしも不當とは言はれないが――が基督教に改宗してゐた[やぶちゃん注:原文は「ゐるた。」]。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、嚴密な意味で言つて、『人氣を得て』行つた。

 信長が權力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト教徒を優遇した、――それは彼が基督教徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信條に同情があつた爲めではなくて、彼等の勢力が佛教徒に對する戰に於て自分の役に立つだらうと考へたからである、ジエジユイト教徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するためには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王(コンクアラア)ヰリアム以上に無慈悲で、彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた。單なる政治上の理由から、外國の僧侶達に與へた援助と保護とは、彼等をしてその權力を發展せしめて、爲めにやがて彼信長をしでそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその『支那及び日本への基督教傳播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題に關する興味ある拔萃を引用してゐる――

[やぶちゃん注:「征服王(コンクアラア)ヰリアム」「コンクアラア」は「征服王」のルビ。原文“William the Conqueror”。イングランドを征服し、ノルマン朝を開いて、現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアムⅠ世(一〇二七年~一〇八七年の通称。

「彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつたこれは孰れも事実に即していない。織田信長の異母兄織田信広(?~天正二(一五七四)年)は一時、信長と争ったが許され、後に起こった長島一向一揆鎮圧の際に討ち死にしているでのあって、信長に殺されたわけではない。ただ(平井呈一氏もここを『兄』と訳しておられるのであるが)、この“brother”を「弟」と訳せば、それは信長の同母弟織田信行となり、彼は信長に謀殺されているから、正しい。また、舅というのは、正室濃姫の父斎藤道三利政(明応三(一四九四)年~弘治二(一五五六)年)を指していようが、彼は継嗣問題で嫡男義龍との戦いで敗死したのであって(この関係を誤認したものか)、やはり信長に殺されたわけではない。

「グビンス氏」イギリスの外交官で学者であったジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harrington Gubbins 一八五二年~一九二九年)か。明治四(一八七一)年(に英国公使館付通訳生として来日し、後に補佐官・日本語書記官補へと順調に昇進し、明治二二(一八八九)年には通訳としての最高位であった日本語書記官に昇った(これはアーネスト・サトウとウィリアム・アストンに次ぐ三代目に当たる)。この間、東京副領事代行・横浜代理領事なども務め、各国合同の条約改正会議にも参加している。明治二七(一八九四)年七月には「日英通商航海条約」調印に成功、翌年七月の追加協約へ向けての「関税委員会」の英国代表となっている。明治三五(一九〇二)年、駐日公使館(三年後の一九〇五年に「大使館」に昇格)書記官待遇を与えられた。一九〇九年外交官を引退し、帰国してオックスフォード大学で日本語の講師などをした。引退後は、かつての上司であったアーネスト・サトウと親交を結んでもいる(ウィキの「ジョン・ガビンズ」を参考にしたが、一部不審な箇所を訂した)。

「支那及び日本への基督教傳播論」ガビンズが「日本アジア協会」で“Review of the Introduction of Christianity into China and Japan,”明治六(一八七三)年に発表した論文。

「伊吹艾」江戸後期に書かれたキリシタン実録物類に見られる書名で、旧梅本重永蔵本の文化九(一八一二)年の写本(天理大学図書館所蔵)が知られる。南郷晃子氏の論文「キリシタン実録類と江戸の商業活動―『伊吹艾』を中心に―」PDF)に詳しい。

 以下の引用(後に附された古文原文も含め)原文は本文と同ポイントで前後の一行空けもなく、全体が一字下げである。]

『信長はキリスト教の入來を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼はその家臣を集會させてそれに向つて言つた――「これ等布教師が人民に金錢を與へてその宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の氣に入らぬ。若し吾々が南蠻寺〔『南方野蠻人の寺』--とかうポトガル人の教會が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀したならば如何であらうか。お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに對して前田德善院が答へた、――「南蠻寺を打毀つことは今日ではもう手遲れで御座ります。今日この宗教の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので、公家、大名小名共は、この宗教に歸依して居ります。若し我が君が今日この宗教を絶滅しようといふならば、騷亂が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります。それ故私の考へでは、南蠻寺破毀の意向を打棄てらる〻こと然るべしと存じます」と。信長はその結果、彼の基督教に關する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを根絶し得るかと思案し始めたのである』

 信長……心の内には後悔し給ひけるとや……或時諸臣參會之砌宣ふは我取立し南蠻寺の事色々あやしき説有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合點の行ぬ事也……向役此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本國へ追婦さんと思ふ也かたかたいか〻と宣へば前田德善院進み出て被申けるは南蠻寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都は申に不及近國まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名幷無座に居合す御家人の内にも此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆發り御大事に及び候はん先暫く時節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覺也此上宜敷思案氣あらば無遠慮可申との事に面各退出被致ける。 『伊吹艾』

[やぶちゃん注:「前田德善院」僧侶で武将(大名)で、後の豊臣政権の五奉行の一人となった前田玄以(天文八(一五三九)年~慶長七(一六〇二)年)。ウィキの「前田玄以から引く。『美濃国に生まれ』。「寛政重修諸家譜」によると、『前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで前田氏を称したという』。『若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも』、『尾張小松原寺の住職であったともいう』。『後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令で』、『その嫡男・織田信忠付の家臣とな』った。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」に『際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した』。天正一一(一五八三)年から『信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが』、天正一二(一五八四)年に『羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる』。文禄四(一五九五)年に秀吉より五万石を『与えられて丹波亀山城主となった』。『豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め』、天正十六年の『後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている』。慶長三(一五九八)年、『秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の』一『人に任じられた』。『蒲生氏郷が病の際に、秀吉は』九『名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された』。『秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対し』、慶長五(一六〇〇)年に『石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより』、「関ヶ原の戦い」の『後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった』。『信長・秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった』。『かつて僧侶だった関係から』、『当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の』文禄二(一五九三)年には『秘密裏に京都でキリシタンを保護している。また』、『ポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子』二『人はキリシタンになっている。また』、『僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している』(フロイス「日本史」第六十九章)。『同じ五奉行の増田長盛は、玄以同様』、『大坂城に留守居役として残り、西軍の情報を提供するなど家康に内通したが』、「関ヶ原の戦い」後に改易されており、『この違いは、玄以が持つ朝廷との繋がりを利用するため、玄以が家康に優遇されたからと推測される』とある。]

2018/09/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(55) 忠義の宗教(Ⅲ) / 忠義の宗教~了

 

 兩親でも近親の者でも、君主でも師匠でも、そのために何人かが復仇[やぶちゃん注:「ふくきう(ふっきゅう)」。仇討に同じい。]してやるべきであつた。隨分多數の有名な小説や戲曲は、婦人に依つて爲された復讐の題目扱つてゐる。そして又実際被害者の家族の中に、その義務を果たすべき男子の無かつた場合には、婦人や又は子供迄もが、復仇者となつた例は往々あつた事である。弟子もその主人のために復讐をした、又刎頸の友人同志も、互ひのために復讐してやらなければならなかつた。

 何故に復讐の義務が肉身の親族の範圍に限られてゐなかつたかと云ふ事は、勿論、その社會の特殊な組織から説明され得るのである。吾々の既に見た如く、その族長的家族は一種の宗教的團體である。家族の結び目は自然の愛情から出た結び目でなく、祭祀に依る結び目であつたといふ事は、既に言つた處である。又一家の組合(小社會)に對する關係、組合の氏族に對する關係、竝びに氏族の部族に對する關係は、同樣に宗教的關係であつた事も既に述べた處である。この必然な結果として、古い復讐の慣習は、血緣責任であると共に、家族、組合及び部族の祭祀から生ずる責任に依つて定められ、更に支那道德の移入、武權狀態の發展と共に、義務としての復讐の思想は、廣い範圍に及んだのである。養子や義兄弟と雖も、その責任の點では實子や血緣の兄弟と同じであつた。又師匠はその弟子に對して、父と子との關係に立つてゐた。自分の實の親を打つ事は、死に値する罪であつた。その師匠を打つ事も、法律の前では、同じ罪とされてゐた。この師匠が父としての尊敬を受くる資格に就いての思想は、支那傳來のものであつた。則ち孝道の義務を『精神上の父』へ擴大したものである。この他にもかかる擴大があつた、そして日本にせよ支那にせよ、すべてこれ等の事の起原は、等しく祖先禮拜にまで溯られるのである。

 さて、日本の古い風俗を取扱つたいづれの書物でも、未だ正當に主張せられた事のないのは、敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。]は本來宗教的意義を有つてゐると云ふ事である。古い社會に於て成立して居た仇討のあらゆる慣習が、宗教に起原して居るといふ事は、勿論、よく知られてゐる。併し日本の仇討に對しては、その宗教上の性質を、現時に至る迄變はる事なく保持してゐたと云ふ事實の點に於て、それが特殊な興味をもつて居るのである。かたきうちは眞に死者への一種の慰安贖罪の行爲であるが、それは仇討が果たされた場合の儀式――敵の首を慰安贖罪の供物としで、仇を討つて貰つた人の墓の上に置く事――に依つて證明される。この儀式の中の感動を與へる特徵の一つは、以前に行はれた事であるが、仇討をして貰つた人の亡靈に向つて爲される報告であつた。時にはそれは只だ口づから話しかけられるだけであつたが、また時にはそれが文筆を以て書かれ、その文書が墓の上に殘された事もあつた。

 吾が讀者で、ミツトフオド氏の非常に面白い『舊日本の話』や、その『四十七士』の實話の飜譯を知らない人は恐らく無いであらう。併し果たして多くの人々は、吉良上野之介の斷られた首を洗ふ事の意義、又は故藩主のために復讐する機會を長い間待ち覗つて居た勇敢なる人々が、彼に捧げた報告の意義を認めて居るか、どうか、私は疑ひを抱いて居るものである。この報告、それを私はミツトフオド氏の譯文から引用するが、この報告は淺野侯の墓前に供へられたものである。それは泉岳寺と云ふ寺に今尚ほ保存されてゐる――

[やぶちゃん注:以下の引用(古文原文)は今までの引用と異なり、本文同ポイントで、全体が三字下げである。一部に読点がない箇所があるが、有意味なものとは見做されない(平井氏もやはり同じ原文表示であるが、総て当該部が読点)ので読点とした。但し、戸川氏は読点の後に一字分の字空けを行っており、それはそれで読み易くしたものと判断されるので、それは再現した。そうなっていない箇所は逆に字空けを挿入した。]

 

 元祿十五壬午の年十二月十五日、 只今面々名謁申す通、 大石内藏助を始て御足輕寺坂吉右衞門迄、 都合四十七人進死臣等、 謹奉ㇾ告亡君之尊靈、 去年三月十四日尊君刄傷吉良上野介殿之御事、私共不ㇾ奉ㇾ存其仔細、 然所尊君者御生害、 上野介殿は御存命、御公裁之上は、 我等共如ㇾ斯之企非尊君之御心、 而却而御怒り奉恐入候得共、 我等共に君之食ㇾ祿申、 共に天不ㇾ戴之義難默止、 共に不ㇾ可ㇾ蹈ㇾ地之文無ㇾ恥ㇾ不ㇾ可ㇾ申、 然故纓請て可ㇾ被ㇾ下之無ㇾ主、 晝夜感泣仕候上無御座、 縱恥を抱へ空相果候とも、 於泉下可二申上詞無ㇾ之候、 同前可ㇾ奉ㇾ繼御意趣奉ㇾ存候より以來、 今日を相待申事一日三秋之思に御座候、 四十七人之輩赴ㇾ雨蹈ㇾ雪、一日二日漸一食仕候、老衰之者病身のもの數々近ㇾ死申候へども、蟷螂賴ㇾ臂之笑を相招き、 彌々尊君之御恥辱を相遺可ㇾ申かと奉ㇾ存候ヘ共、 不ㇾ止ㇾ止昨夜半申合、 上野介殿御宅え推參仕、 則上野介殿御供申し、 是迄參上仕候、 此小脇指は先年尊君御祕藏、 我等に被下置候、 唯今返獻仕侯、 御墓の下尊靈於ㇾ有ㇾ之者、 再御手を被ㇾ下遂給御鬱憤、 右之段、 四十七人の者共一同に謹而申上候敬白、

[やぶちゃん注:平井呈一氏もこれと全く同じ原文を注で載せておられるのであるが、私の調べ方が悪いのか、この泉岳寺に残っているとする当該の文書と完全に一致するものは、所持する赤穂義士関連の江戸随筆やネット上の史料に見当たらない。されば、またしても全くの自己流で書き下すしかない。字空けは詰めた。

   *

 元祿十五壬午(みづのえうま)の年十二月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。]、只今、面々、名謁(みやうえつ[やぶちゃん注:戦場で互いに名乗りあうこと。名対面(なだいめん)。])申す通り、大石内藏助を始めて、御足輕寺坂吉右衞門まで、都合、四十七人、進死(しんじ)の[やぶちゃん注:進んで命を主君に捧げ奉るところの。]臣等(ら)、謹んで亡君の尊靈に告げ奉る。去年(こぞ)三月十四日[やぶちゃん注:一七〇一年四月二十一日。]、尊君、吉良上野介殿へ刄傷(にんじやう)の御事、私共、其の仔細は存じ奉らず、然る所、尊君は御生害(ごしやうがい)、上野介殿は御存命と、御公裁(ごこうさい)の上は、我等共(ども)、斯くのごときの企(くはだ)て、尊君の御心に非ずして、却つて御怒り、恐れ入り奉り候得(さふらえ)ども、我等、共(とも)に君の祿を食(は)み申し、「共に天を戴(いただ)かざる」の義、默止し難く、「共に地を蹈(ふ)むべからず」の文(ぶん)、恥を無くして申すべからず。然るが故に、纓(えい)を請うて下さるべきの主(しゆ)無く[やぶちゃん注:漢の武帝の時、南越討伐派遣を命ぜられた若き将軍終軍が出陣の閲兵式に於いて武帝に帝王の冠の纓(紐)を請うた故事に基づく。]、晝夜、感泣、仕(つかまつ)り候ふ上は御座(ござ)無く、縱(たと)ひ恥を抱(かか)へ空しく相ひ果て候ふとも、泉下[やぶちゃん注:黄泉。あの世。]に於いて申し上ぐべき詞(ことば)、之れ無く候ふ。同前[やぶちゃん注:同様に。]、御意趣を繼ぎ奉るべく存じ奉り候ふより以來、今日を相ひ待ち申す事、一日三秋の思ひに御座候ふ。四十七人の輩(やから)、雨に赴(ゆ)き、雪を蹈(ふ)み、一日・二日に漸(やうやう)一食を仕り候ふ。老衰の者・病身のもの、數々、死に近しとは申し候へども[やぶちゃん注:討ち死にの決心は十全にありまするが、の意で採る。]、蟷螂、臂(ひぢ)に賴るの笑(わらひ)を相ひ招き、彌々(いよいよ)尊君の御恥辱を相ひ遺(のこ)し申すべきかと存じ奉り候ヘども、止まれず、昨夜半、申し合はせ、上野介殿御宅え[やぶちゃん注:「へ」。]推參仕(つかまつ)り、則ち、上野介殿[やぶちゃん注:討ち取ってその首を。]、御供(おんとも)申し、是れ迄、參上仕り候ふ。此の小脇指は、先年、尊君が御祕藏、我等に下し置かれ候ふ、唯今、返獻(へんけん)仕り侯ふ。御墓の下、尊靈、之れ、有らせらる於いては、再び、御手を下され、御鬱憤、遂(と)げ給へ。右の段、四十七人の者共一同に謹んで申し上げ候ふ。敬白。

   *

訓読の致命的部分あらば、御教授方、御願奉る。]

 

 これで見ると、淺野侯は恰も眼前に居るかの如く話しかけられてゐるのが解るであらう。敵の首は綺麗に洗はれたもので、それは生きた上長の行ふ首實驗の時の規則に依つたものである。その首は墓前に九寸五分の劔、則ち短刀と共に供へられる、その短刀はもと淺野侯が幕府の命今で切腹(はらきり)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下も同じ。]をした時用ひられたものであり、又その後大石内藏之助が吉良上野之介の首を切る時に用ひたものなのである、――そして淺野侯の靈はその武器を取つて、その首を打ち、その亡靈の怒りの苦痛を永久に晴らさせようと云ふのである。それから全部が切腹(はらきり)を宣告され、四十七人の家臣は死を以てその主君に從ひ、その墓前に葬られるのである。【註】一同の墓前には、憧憬する參詣人の供へる香の煙が二百年間も、每日たえないのである。

 

註 四十七士の墓に參詣人が名札を置いて行くといふ風が長く行はれて居た。私が最近に泉岳寺に參詣した時には、墓の周圍の地面は參詣人の名札で白くなつて居た。

 

 この忠義に關する物語を充分に呑み込むには、日本に住み、古い日本の生活の眞の精神を感じ得るやうにならなければならない、併しそれに關するミツトフオド氏の飜譯や、信賴し得る文藝の譯文を讀む人は、誰れでも感動せずには居られない事を告白するであらう。この報告文は特に感動を與へる――その中に表はれて居る情誼[やぶちゃん注:「じやうぎ(じょうぎ)」。真心の籠った誠実な他者との交情。]や信義のために、又現世以外に及ぶ義務の感のために感動を與へられる。復讐と云ふ事が如何に近代の我が倫理に依つて非難されるに相違ないとしても、君主のための復讐に關する日本の古い物語には尊い方面がある、そしてそれ等の物語は、普通の復讐とは關係のない、あるものの表現――報恩、克己、死に面するの勇氣、及び目に見えざるものに就いての信仰の發露――に依つて吾々の胸を衝つ[やぶちゃん注:「うつ」。]のである。而してこれは、勿論、吾々が、意識して居るにせよ、意識しないにせよ、その宗教的な性質に動かされたと云ふ事である。單なる個人的復讐――何か一個人の被害に對する執念深い意趣返し――は吾々の道德的感情を傷つける、則ち吾々はかくの如き復讐心を燃やす情緖は、單に野獸的なもの――人間が下等な動物生活の方向を共有して居る事を示すもの――であると考へるやうに訓へられて來た。併し死せる主人に對する報恩や義務の感情から爲す所の殺人の物語には、吾々の高い道德的共鳴に――吾々の非利己心、曲げられぬ眞心、變はらぬ情誼に就いての力及び美の感覺に――訴へしめ得る事情があると云つて宜いのである。而して四十七士の物語はこの種の一つである……。

 

 併し覺えて置かなければならぬ事がある、殉死(じゆんし)切腹(はらきり)敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:以上の三つはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下の最後までの間にある四箇所も同じ。]といふこの三つの恐ろしい慣習のうちに、その最高の表現を得て居る舊日本の忠義の宗教は、その範圍が狹いといふ事である。それは社會の組織そのものによつて制限せられてゐたのである。國民は、そのいろいろな集團を一貫して、到る處、性質を同じうする所の義務の觀念によつて支配されてゐたのではあるが、各個人のその義務の範圍は、その人の屬してゐる氏族團體以外には及ばなかつたのである。自分の主君のためならば、家臣たるものは、いつでも死ぬだけの心がけはしてゐた。、併しその者は、自分が特に將軍の旗下に屬してゐるのでない限り、幕府に對しても、同樣に自分を犧牲にしなければならぬとは感じて居なかつたのである。その祖國、その國、その世界は、僅にその主君の領地内に限られてゐたのである。その領地の外では、その者は一個の漂泊者であり得たのであつた――則ち主君のない武士(さむらひ)を浪人(らうにん)則ち『浪の人』といつた。かくの如き狀態に於ては、國王や國を愛する氣持ちと一致するところの大きな忠義の念、――これが則ち昔のせまい意味に於てでなく、近代的な意味に於ける愛國心であるが――は十分に發展する事は出來なかつた。何か共通的な危機、何か全民族に對する危險、――例へば蒙古人の企圖した日本征服の如き――が一時的に眞の愛國的感情を喚起し得た事はあらう、併しさうでない限り、此の威情はあまり發展の機會をもつては居なかつた。伊勢の祭祀はなるほど、氏族若しくは部族禮拜と異つた國民の宗教を表はしたものであつた、併し何人もその第一の義務は、自分の領主に對してである事を信ずるやうに教へられてゐたのである。人はよく二人の主人に仕へる事は出來ない、しかも封建政府は實際少しでもさういふ方に向ふ傾向を抑壓したのであつた。領主なるものは全く個人の心身を領有して居たので、領主に對する義務の外に、國民に對する義務の觀念の如きは、家臣たる者の心の中に明らかに示される時もなければ機會も無かつたのである。例へば、普通の武士(さむらひ)に取つて、天皇の命今は法律ではなかつた、則ち試士は自分の大名の法律以外に何等の法律をも認めては居なかつたのである。大名に至つては、彼は事情によつて天皇の命令に從つても從はなくてもよかつたのである。則ちその直接の上長は將軍であつた。そして大名は神として天津大君と、人間としての天津大君との間に、巧みな區別を設けざるを得なかつたのである。武權の究極の集中以前には、天皇のために自分を犧牲にした領主の例も多くあつた、併し天皇の意志に反して、領主が公然謀叛を起こした場合の方が遙かに多かつた。德川の治下にあつては、天皇の命令に從ふか、抵抗しようかといふ問題は、將軍の態度一つに掛かつてゐた。そして如何なる大名も京都の宮廷に服從し、江の宮廷に不順を示すやうな危險をおかすものは一人も居なかつた。少くとも幕府が崩壞するまではさうであつた。家光の一時代には、大名の江への途上、皇居に近づく事を嚴禁されてゐた、――天皇の命令に應ずる場合に於てさへも。その上又彼等は御門(みかど)に直訴する事を禁じられてゐた。幕府の政策は、京都の宮廷と大名との間の直接の交涉を全く妨げるにあつた。此の政策は二百年の間陰謀を防いだ、併しそれは愛國心の發展をも妨げたのである。

[やぶちゃん注:「浪の人」確かに原文は“wave-man”ではあるが、ここはせめて「波に漂う人」「流浪(放浪)の男」と訳したいところである。]

 而してこの理由こそ、日本が遂に西歐侵入の意ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]もかけなかつた危機に直面した時、大名制度の廢止が尤も重要な事と感じられた所以なのである。絶大の危機は、社會の諸單位が統一的行動をなし得る一つの調和せる大衆に融合すべき事、――氏族及び部族的集團は永久に解體さるるべき事、――あらゆる權威は直に國民的宗教の代表者に集中すべき事――天津大君に服從する義務が、直に又永久に、地方の領主への服從なる封建的義務に取つて代はるべき事、――等を要求したのである。戰爭の一千年間に依つて作られて來たこの忠義の宗教は、容易に放擲される事は出來ないものであつた、則ち適當にこれを利用すれば、それは計量すべからざるほどな價値ある國家の重寶となるであらう――一人の賢明な人が、一個の賢明なる目的に、これを向けたならば、奇蹟をも演出し得る道德力たり得るのである。維新もそれを破滅せしむる事は出來なかつた、併しそれは方向を變へ形を變へる事は出來た。それ故、それは高い目的に向けられ、――大いなる必要に向つて擴大されて――それは信任と義務の新しい國民的感情となつた、則ち近代的なる愛國の感となつたのである。三十年間に、いかなる驚異をそれが果たしたか、世界は今やそれを認めざるを得ない、なほそれ以上如何なる事を果たし得るか、それは今後を待つて知るべきである。少くとも只一事は確である――則ち日本の將來は、昔を通じて死者の古い宗教から發展し來たつた、此の新しい忠義の宗教の支持の上に據らなければならないといふ事である。

 

2018/09/04

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(54) 忠義の宗教(Ⅱ)

 

 命令に依つて自らを殺す事――忠義なさむらひの夢にも疑はなかつた一つの義務――も同じく十分に一般から認められてゐた尚ほ一つの義務、則ち君主のために自分の小兒や妻や家を犧牲にすると云ふ事に比べれば、遙かに容易な事と考へられたらしい。然るに日本の有名な悲劇には、大名の家臣や一族のものが爲したかかる犧牲に關する事件――【註】主君の子供を救ふために自分の子供を殺した男や女――に關したものが多い。且つ多くは封建の歷史に根據を有つたこれ等の、劇的作物には、事實が誇張されてゐることだらうと考へるべき理由は一つもない。勿諭、これ等の事件は劇の場面に適するやうに、仕組みをかへ、擴大されては居る。併し昔の社會を示した、大體の光景は、過去の現實より寧ろ陰慘でないのである。人々は今尚ほ此の種の悲劇を好む、そしてそれ等の戲曲文學に就いての外國の批評家は、流血の所だけを指摘し、それを血腥い場面む好む國民の性質として――この人種が本來もつて居る殘忍性の證據として――これを解釋するのを常とする。併し私の考へる所では、この昔の悲劇を好むと云ふ事は、寧ろ外國の批評家が何時も努めて無視せんとする所のもの――この人民の深い宗教的性向――の證據なのである。これ等の芝居は尚ほ喜ばれてゐる――それはその芝居の恐ろしさの爲めでなく、その道德的教訓の爲めである――犧牲と勇氣との義務、則ち忠義の宗教の表現の爲めである。それ等の芝居は則ち最高の理想に對する封建社會の犧牲殉難の精神を表はして居るのである。一一

 

註 その適例として東京の長谷川に依つて出版された見事な繪入の戲曲『寺小屋』の飜譯を見よ。

[やぶちゃん注:「東京の長谷川」これは小泉八雲も深く関わった「ちりめん本」の発行者である長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年:出版社名は「長谷川弘文社」)のこと。彼は明治三一(一八九八)年から、小泉八雲の五冊の怪奇的な日本昔噺(Japanese Fairy Tale)を「ちりめん本」のシリーズとして刊行している(“The boy who drew cats”(「猫を描いた少年」:一八九八年刊)・“The goblin spider”(「化け蜘蛛」:一八九九年刊)・“The old woman who lost her dumpling”(「団子をなくしたお婆さん」:一九〇二年)・“Chin Chin Kobakama”(「ちんちん小袴 」:一九〇三年刊)・“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」:大正一一(一九二二)年刊(これは小泉八雲没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日))後))。

「戲曲『寺小屋』」は「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」のことを指している。御存じない方はウィキの「菅原伝授手習鑑」を見られたい。これは、日本大学大学院総合社会情報研究科の大塚奈奈絵氏の論文「木版挿絵本のインパクト―1900 年パリ万博に出品された「寺子屋」―」PDF)によれば、これは一九〇〇 年(明治三十三年)のパリ万国博覧会出品用のフランス語版の一点である“L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte”で、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を省略した。]

 L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte は、表紙等を除くと 23 丁程(46 ページ)の袋綴じ(四つ目綴じ)の和装本で明治 33 年(19001月に出版された。3 ページの序文に続いて、劇場の幕が開く様子と美しい花々に彩られた「寺子屋」の題字をはさんで、カール・フローレンツが竹田出雲の『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の段をフランス語に翻訳した 31 ページの本文があり、その後にはページ付けを変えた 9 ページの歌舞伎の紹介がある。佐藤マサ子によれば、フローレンツは、明治 32 年(18995 月に歌舞伎「寺子屋」の翻訳を東京の会合で朗読し、好評を得たとされているので、フローレンツは「寺子屋」をまずドイツ語に翻訳し、その後、フランス語に翻訳したものと推察される。

フランス語版「寺子屋」は、表紙は板紙で金の題字、銀色の流水模様に「寺子屋」の主人公の松王を象徴する松を配した図柄で、書袋には、幕間の芝居小屋の客席を描いた美しい絵が使われている豪華本であった。

   《引用終了》

なお、英文サイトであるが、これはScenes du Theatre Japonais, L'Ecole de Village.(Terakoya) Drame Historique en un Acte, Traduction du Dr. Karl Florenz,Professeur a L'Universite Imperiale de Tokyoで、詳細に解説されており、その原画像をも見ることが出来、同じサイトのTakejiro Hasegawa/Kobunsha Publications"Chirimen-bon" (Crepe Paper Books)And Plain Paper Booksには「ちりめん本」の驚くべき子細な書誌データも完備している。孰れも必見である。]

 

 この封建社會を通じて、忠義に關するこの同じ精神は、いろいろな形で表白されて居た。さむらひがその領主に對する如く、弟子はその親方に對して、番頭はその店の主人に對してと云ふ風にである。到る處に信任があつた。何故なら到る處に、主人と召使の間の相互の義務といふ同じ感情があつたからである。いづれの商賣も何れの職業も忠義の宗教を有つてゐた――則ち、一方では、必要の場合絶對的の服從と犧牲とを要求し、他の一方では、親切と扶助とを要求した。而して死者の支配がすべてのものの上にあつたのである。

 

 親或は君主を殺害したものに復讐をするといふ社會上の責任は、この親又は君主のために死ぬといふ義務と同樣に、その起原の古いものであつた。確定した社會がまだ出來なかつた時代に於てさへ、この義務の存して居たことは認められる。日本最古の年代記には、復讐の義務の例が澤山にある。儒教はより以上にこの義務を確認した――則ち人にその君主、親、若しくは兄弟を殺した者と』『同じ天の下に』生きて居る事を禁じ、且つ近親若しくはその他の關係の等級を定め、その等級の内にあるものに取つては、復讐の義務が避くべからざる事とされて居たのであつた。儒教は早くから日本の支配階級の道德となり、最近に至る迄さうであつた事は記憶して置くべき處である。儒教の全組織は祖先禮拜の上に立てられ、殆ど孝道の教への擴大完成に他ならぬものであつた事は、私のすでに他の條下で述べた處である。それ故この教へは日本の道德の實際と完全に一致したものである。日本に武權が發達した[やぶちゃん注:ママ。]につれて、復讐に關する支那の法典は遍く認められるやうになり、後世に至つては法律上からも慣習上からも支持されるやうになつた。家康自身もそれを支持した――仇討をしようとする者は、先づ屆書を書いて地方の刑事法廷にそれを差し出して置くといふ事だけを條件として。この事に關する個條の原文は興味あるものである――

 

主父之怨冦は爲ㇾ報酬之共不ㇾ可ㇾ戴ㇾ天聖賢も許ㇾ之有此讎者は記決斷所帳面年月可ㇾ令ㇾ遂其志然共重敵討は堅可ㇾ禁止之但帳外之族は狼藉同然刑宥可依其品

 

註 若しくは僞善的狼族 hypocritical wolves といふ――詳しく言へば、正當な復讐といふ口實を以て自分の罪惡を免れんと欲する野獸の如き殺害人の意。(この飜譯はラウダア氏の手になるもの)

[やぶちゃん注:ここは原文では無論、英文に訳されてある。

   *

 “In respect to avenging injury done to master or father, it is acknowledged by the Wise and Virtuous [Conucius] that you and the injurer cannot live together under the canopy of heaven. A person harbouring such vengeance shall give notice in writing to the criminal court ; and although no check or hindrance may be offered to the carrying out of his design within the period allowed for that purpose, it is forbidden that the chastisement of an enemy be attended with riot. Fellows who neglect to give notice of their intended revenge are like wolves of pretext:1 their punishment or pardon should depend upon the circumstances of the case.”

   *

 1 Or “hypocritical wolves,”— that is to say, brutal murderers seeking to excuse their crime on the pretext of justifiable vengeance.  (The translation b by Lowder. )

   *

Conucius」(コンフューシャス)はかの「孔子」のこと(「孔夫子」のラテン語名由来)。「Lowder」(訳文の「ラウダア氏」)は不詳。識者の御教授を乞う。

 ところが、私の探し方が悪いのか、家康の発行した文書とする以上の原文を確認することが出来ない(識者の御教授を乞うものである)。されば、自然流で書き下すが、それに際しては、恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏の訳(平井氏はここを現代語で本文に繰り込んでおられ、その後に訳者注で以上の原文を示しておられる。但し、そこでは「冦」は「寇」となっており、後半の返り点にも異同があり、氏の現代語訳、則ち、原文(ラウダーの訳)には一部、私は首をひねらざるを得ない箇所がある)を参考にさせて戴いた。また、最後の個所は「可ㇾ依其品事」とㇾ点を補って読んだ。大方の御叱正を俟つ。

   *

主・父の怨冦(をんこう)は、之れに酬・報爲(た)るもの、共に天を戴くべからざるは、聖賢も之れを許せり。此の讎(あだ)有る者は、決斷、所帳面を記し、年月を究(きは)め、其の志(こころざし)を遂げしむべし。然れども、重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし。但し、帳外の族は、狼藉同然なれば、刑宥(けいいう)は其の品に依るべき事。

   *

・「怨冦」は怨みを持つことと、仇を討たんとすること、の意であろう。

・「酬・報爲(た)るもの」とは平井氏の訳では『復讐されるものもするものも』とあり、腑に落ちる。

・「決斷」は副詞的に「(意志決定を)はっきりと」の意で採った。

・「所帳面」は所定、則ち、主君或いは町奉行所(他国に渡る場合に必要)へ提出する、決められた仇討認可申請の規定文書。

・「年月を究(きは)め」「究め」は「きめ」かも知れぬ。平井氏の訳では『その目的のために許可された期限』とある。

・「重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし」平井氏のこの前後の訳は、『ただ敵を懲らしめるために暴動擾乱をもってすることは堅く禁ずる』である。どうもこれは小泉八雲が「重敵討」の意味を誤認しているように思われてならない。「重敵討」というのは、敵討を果たした者に対し、討たれた側の関係者がさらに復讐をすることである。

・「帳外の族」主君の仇討赦免状や町奉行所の許諾を得て敵討帳に記載された者以外の無許可の仇討の実行者。

・「刑宥(けいいう)」通常の殺人罪扱いで処罰するか、情状酌量するか、ということであろう。

・「其の品に依るべき事」ケース・バイ・ケースで柔軟に対応すること、という意味であろう。以上の注の参考にしたウィキの「仇討によれば、『仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり、江戸幕府によって法制化されるに至って』、『その形式が完成された。その範囲は、父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。また、家臣が主君のために行うなど、血縁関係のない者について行われることは少なかった』。『江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた』。『武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた(但し、以下の私が下線を引いた部分には「要出典」要請がかけられている)。『敵討の許可が行われたのは基本的に武士階級のみであったが、それ以外の身分でも敵討を行う者はまま見られ、上記のような手続きを踏まなかった武士階級の敵討同様、孝子の所業として大目に見られ、場合によっては賞賛されることが多かった。又武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習も広く見られた』。『なお、敵討は決闘であるため、敵とされる側にも』、『これを迎え撃つ正当防衛が認められており、敵側が仇討ち側を殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる』『近親者を殺されてその復讐をする例は、南イタリアを始めとして、世界各地で見られるが、江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく』、『武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある』とある。]

 

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