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カテゴリー「小泉八雲」の651件の記事

2020/01/26

ラフカディオ・ハーン 織姫の伝説 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Tchi-Niu”。現代の拼音では織女星の「織女」は「zhī 」であるからこれも「織姫」の当時の中国語ローマ字転写なのであろう)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第三話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全十一篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「太上感應篇」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   織姬の傳說

 

 老子の貴い書物の本文に附せられた『感應篇』といふ奇異なる註釋の中に、頗る古い一小話がある。その話が非常に美はしいため、始めて語つた人の名は、一千年間も忘れられてゐても、話だけは四億民の記憶の中に、恰も一たび習ふと、永遠に覺えられる祈のやうに、今猶ほ生きてゐる。支那の作者はこの話について、都會の名も、また州の名も擧げてゐない。たとへ最も古い傳說を述べる場合にも、か〻る省略は滅多にないことである。私はただこの話の主人公の名は、Tong-yong であつたことと、彼が約二千年前の漢時代に住んでゐたことだけを告げられてゐる。

[やぶちゃん注:「老子の貴い書物の本文」「老子」のこと。

「感應篇」「太上感應篇」。南宋の李石撰になる勧善書で、その内容は「老子」ではなく「抱朴子」を元にしていると考えられている。「太上」は「太上老君」で、道教の始祖とみなされる老子が神格化されたものである。個人ブログ「浄空法師説法研究」の「『太上感応篇』大意」がよい。

Tong-yong」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「織女の伝説」では、『董氷』となっている。しかし、yong」は「氷」(bīng)ではなく「永」(yǒng)ではなかろうか? 「董永 織女」で検索を掛けてみたところ、日本語のブログ「福聚講」の「童子教解説・・4」で、

   《引用開始》

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖[やぶちゃん注:「さて」。]かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。

   《引用終了》

とあった。これは本篇との類似性が認められる。「童子教」は児童教訓書で、平安時代の僧安然著と伝えられる(著作年代は未詳)。全一巻。刊本は明暦四(一六五八)年刊。中世以降、童子の道徳教訓書として用いられたもので、儒書から日常的な教訓を選び、仏書から因果応報の説話を説く全 三百三十句から成る。特に近世には「実語教」とともに寺子屋などで使用され、教育史上、大きな役割を果した書である。さても、この名で辿ってゆけば、その原拠はやはり同様の目的で書かれた元の郭居敬の編纂した「二十四孝」の「董永」に行き着く。華藏淨宗學會出版になるカラー版の「二十四孝圖説」PDF)の「第十三孝【董永賣身】漢」(四十九~五十二ページ)を見られたい。梗概は邦文のウィキの「二十四孝」にあるが、まあ、孰れもまずは本篇を読まれた後に見られたい。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

A SOUND OF GONGS, A SOUND OF SONG, — THE SONG OF THE BUILDERS BUILDING THE DWELLINGS OF THE DEAD : —

 

       Khiû tchî yîng-yîng.

       Toû tchî hoûng-hoûng.

       Tchŏ tchî tông-tông.

       Siŏ liú pîng-pîng. 

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。頭の部分は、

   *

銅鑼(どら)の音(おと)、歌の音(ね)、死者のための住み家を建てる建築家の歌――

   *

であろうか。以下は当時の中国語ローマ字音写であって自動翻訳が全く機能しないので、意味は分からない。出典が判れば探しようもあろうが。識者の御教授を乞うものである。カットされたのは今までのそれらと同じく本篇内容と直接の関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。

 

 Tong-yong の母は、彼がまだ幼稺[やぶちゃん注:「えうち(ようち)」。「幼稚」に同じい。いとけないこと。]の時に死んでゐた。して、彼が十九歲の靑年になつたとき、彼の父もまた失せたので、彼は全然孤獨の身となつて、しかも何等の資產もなかつた。それは、彼の父は極めて貧しくて、彼の子を敎育するために、非常な窮境に陷つて、儲けたものから一錢をも貯へ置くことは出來なかつたからである。彼は慣例の葬式を行ひ、吉方の地に墓石を立てて、慈父の記憶に敬意を表する事が出來ないほど窮乏してゐるのを大いに歎いた。貧しいもののみが貧しいものの知り合である。彼の知人中、誰一人として、葬式の費用を辨ずるため、助力を與へ得るものはなかつた。この靑年が金を得る方法は、唯一つあつた――富農に身々買つて奴隷たることであつた。して彼は遂にさうしようと決心した。知人達は彼に思ひ止まらせようと、全力を盡くしたが駄目だつた。また將來の援助を約して、彼を賺かして[やぶちゃん注:「すかして」。]、その擧行を延ばさせようと試みても、無効に了つた。彼はただ答へて、出來ることなら、百囘彼の自由を賣つても、暫くなりとも、父の記憶を崇めないま〻[やぶちゃん注:「あがめないまま」。]放擲して置くには忍びないといつた。更にまた彼の靑春と腕力に信賴して、彼はその服役に對して高價を附することに定めた。立派な墓を建て得るやうな金高で、彼としては殆ど拂戾し得られさうもないほどであつた。

 

 

 そこで、彼は奴隷や負債者の身が賣りに曝らしてある、廣い公開の場所へ行つて、彼の服役代價と勞働者として彼の資格の目錄を書いた札を肩にぶらさげて、石の腰掛に坐つてゐた。札の文字を讀んだ多くの人々は、要求價格に對して侮蔑の微笑を洩らしただけで、一言も發せずに過ぎ去つた。他の人々は單に好奇心のあまり立停つて彼に尋ねた。虛僞の賞賛を以て褒める人々もあれば、また明からさまに彼の献身無私を馬鹿にして、彼の子供らしい孝行を笑ふものもあつた。かやうにして空しく長い退屈な時間が經つて、彼は殆ど主人を見出す事を絕望してゐると、一人の州の高官――威風堂々たる美男子で、一千人の奴隷を有し、廣大なる邸宅の持主――が、馬に乘つて近づいた。高官は其韃靼馬[やぶちゃん注:「だつたんば(だったんば)」。]の手綱を控へて、札を讀んで、奴隷の代價を思案した。彼は微笑もせず、助言もせず、質問も發しなかつたが、要求の價格を見、また靑年の立派で屈强な四肢を見て、無造作に彼を買つて、單に從者をして金高を拂はしめ、且つ必要の證書類を調製するやう命じただけであつた。

[やぶちゃん注:「韃靼馬」原文“Tartar horse”。「タタール馬」。タタールはモンゴルから東ヨーロッパに跨る広い範囲を指し、「韃靼馬」としては、漢の武帝の故事にある「一日千里を走り、血の汗を流す」と伝えられる大苑(フェルガーナ)の天馬「汗血馬」が有名。]

 

 かくて、Tong は心願を遂げて、小さな形ではあるが、巧妙なる技術家の意匠により、熟練なる彫刻師の腕によつて仕上げられて、見るものの眼を娛しましめさうな墓碑を立つる事を得た。して、まだ其設計中に、恭敬を盡くせる式は擧げられ、死者の口中へ銀貨を入れ、白い提燈を戶の上に吊るし、神聖な祈が誦せられ、また死者が仙鄕で要しさうな、紙で作つた一切のものが、淨められた火で燒かれた。それから、方位鍳者[やぶちゃん注:「はうゐかんじや(ほういかんじゃ)」。「鍳」は「鑑」の異体字。方角を占う者。]と巫術師が、いかなる不運の星も照らさないやうな埋葬地、いかなる惡鬼や龍も擾亂を加へないやうな安息の場所を選定した後に、美しい塚は建設された。して、幻の錢が途上に撒かれた。葬列は死者の家を離れて、祈禱と涕泣を以て、彼の慈父の遺骸は墓に運ばれた。

[やぶちゃん注:「死者の口中へ銀貨を入れ」こういう習慣が中国あったかどうかは確認出来ないが、ハーンは欧米の読者に腑に落ちる形でこのシークエンスを挿んだように感ぜられる。何故なら、古代ギリシャでは葬儀の際に死者の口の中に一枚の銀貨(「オボルス」と呼ぶ実際の通貨)入れるという習慣があったからである。これは死者が冥界の川(ステュクス(「憎悪」の意)或いはその支流とするアケローン(「悲嘆」)の川を渡る時に船の渡し守であるカローンに「渡し賃」として一オボルスを払わなければならないと考えられたことによる。日本の仏教の三途の川の渡し賃六文銭(六道銭)と同じである。

「幻の錢」“the phantom money”。紙銭(しせん)であろう。紙を切抜いて作った銭形。冥界でも金が必要と考えられて、概ね紙で作られた。地獄の沙汰も金次第式の古式の習慣である。]

 その後、彼は奴隷として彼の買主の勞役に服し始めた。主人は彼を住ませるため、小さな小屋を與へた。そこへ彼は祖先の名を認めた木牌を持つて行つた。すべて孝子は、このやうな木牌の前で、日每に祈の香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、家庭の禮拜の優さしい勤行を營むのであつた。

 

 

 三たび春が花を以て土地の胸を薰らせ、三たび掃墓日註八といふ死者の祭が守られ、三たび彼は父の墓を掃除して、裝飾を施し、果實と肉を五重に積んで供ヘた。喪期は終つても、彼が父を哀慕する心は止まなかつた、歲は月の運行につれて進み、一時の喜びも、一日の

 

註八 掃墓日――一般に先祖を拜する日。天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)(十一月二日)と同じもので、四月上旬、淸明の季節に營む。

[やぶちゃん注:「喪期」中国古代の服喪の期間は殷周の時代では父母の喪は三年であるが、春秋時代になると早くもこの制度は守られていなかった。本話は本篇では時代設定が示されていないが、原拠のそれは漢代であるから、Tong-yong はすこぶる古式に従って厳しく服喪を守ったことが判る。「孔子時代の葬儀エチケット」というページに「礼記」に記された葬送儀礼が非常に詳しく解説されてあるので、是非、参照されたい。

「天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)」キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である「死者の日」又は「万霊節(ばんれいせつ:All Souls’ Day)。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(「信仰を持って逝った人総ての記念日」)と呼ぶ。カトリック教会では「諸聖人の日」(諸聖人の祭日・万聖節)の翌日の十一月二日である。参照したウィキの「死者の日」によれば、『カトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があ』り、「死者の日」は『このような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格がある』とある。]

 

愉快なる休憩をも彼に齎さなかつたが、彼は決してその服役を悲しまなかつた。また祖先の祭祀を缺くことはなかつた――その内に、たうとう稻田の熱病が激しく彼を襲つて、彼は病褥[やぶちゃん注:「びやうじよく(びょうじょく)」。]から起きられぬやうになつた。そこで、同じ仲間の勞役者達は、彼は畢竟死ぬるに相違ないと考へた。奴隷や家僕達は、全然家事や田畠の勞働に忙しかつたので、彼を看護するものもゐなたつた――彼等はすべて日出と共に働きに出掛け、漸く日沒の後痕れて歸つてくるのであつた。

[やぶちゃん注:「稻田の熱病」“the labor of the fields”。思うに、マラリアのことではないかと私は思う。]

 さて、病める靑年が衰弱疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。「疲労困憊(ひろうこんぱい)]に同じい。]の極、眠つたと思へば覺め、覺めてはまた眠に入つてゐるとき、見知らぬ美人が彼の側に立ち、彼の上に屈んで、彼の額に彼女の恰好よき手の、綺麗な長い指を觸れたことを夢に見た。して、彼女の冷んやりした接觸と共に、不思議に甘美な衝動が、彼を貫通して、彼のあらゆる血管は、新生命がしみ渡つた如く沸き立つた。驚いて目を開いて見ると、正しく夢に見た、魅惑させるやうな女が、彼の上に屈んでゐて、彼女のたをやかな手は、實際彼の鼓動打てる額を愛撫してゐた。しかし熱病の炎は最早消えてゐて、心地よき涼しさが今は身體のあらゆる纎維に滲透し、夢に見た衝動は、まだ激烈なも歡喜の如くに血中に踊つてゐた。同じ瞬間に、靜淑な訪問者の双眸は彼の兩眼と出逢つた。して、彼はそれが異常に美しく、燕の翼の如き曲線をなせる眉の下に、輝く黑い寶石の如く光つてゐることを知つた。したしその靜けき凝視は、水晶の中を透る光の如くに、彼を貫くやうに思はれた。して、何となく一種の畏怖が彼を襲つたので、脣頭まで上つた問ひの言葉を發音することを得なかつた。すると、まだ彼を撫で乍ら、彼女は微笑していつた。『私はあなたの御元氣を恢復させ、あなたの妻となるために參つたものです。お起き下さいませ。して、御一緖に禮拜を致しませう』

 女の朗らかな聲は、鳥の歌の如き諧調を有つてゐたが、その視線には儼然たる力があつて、彼には抵抗し難いもののやう思はれた。臥床から立上つてみると、彼の體力の全く囘復してゐるのを發見して驚いた。したし彼の手を捉へた、冷んやりした纎手は、非常に速やかに彼を導いて行つて、彼に驚愕の遑なからしめた。彼はいたにもして彼の困窮を語り、妻を養ふ力なきことを述べる勇氣を鼓するやうに努めたが、女の長い黑い眼には、何となく凛乎たるものがあつて、彼をして言葉を發することを得ざらしめた。して、恰も彼の心底を、その不思議な凝視によつて看破したたのやうに、彼女は同じ朗たな聲で彼にいつた。『私が支給致します』それたら、彼はそのみじめな姿と、ぼろぼろの衣服のことを考へて、恥辱の念に顏を赧らめた。]。しかし彼は女もまた庶民階級のやうな、貧乏らしい服裝であることを見た――何等の裝飾をも帶びないで、また足には靴さへ穿いてゐなかつた。彼がまだ言葉を發しない内に、二人は祖先の位牌の前へ來た。そこで、女は彼と共に跪いて祈つた。それから、酒杯――何處から齎したのか、彼は知らなかつた――を擧げて、彼に誓を立て、共に天と地を拜した。かやうにして、彼女は彼の妻となつた。

[やぶちゃん注:「儼然たる」「げんぜんたる」。厳(いか)めしく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「抵抗し難いもののやう思はれた」ママ。「やうに」の脱字か。或いは落合氏の日本語の癖の可能性もある。

「臥床」「ふしど」。

「纎手」「せんしゆ」。細い手。

「遑」「いとま」。

「凛乎」「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。凛々(りり)しいさま。

「赧らめた」「あからめた」。]

 

 それは不思議な結婚と思はれた。といふのは、その日にも、彼は妻にその家名や、里方の地名を尋ねることを敢てし得なかつた。また彼女について彼の仲間達が發した好奇的質問に對して、返答が出來ないばかりでなく、彼女もまたその名が Tchi であるといふだけで、自身のことについて、一言も云はなかつたからである。彼女の眼が彼に注がれてゐる間、彼は恰も自己の意志を待たぬものの如く、彼女に畏怖を感じてゐたけれども、したし彼は言ひやう無いほどに彼女を愛してゐた。して、彼の結婚以來は、彼の奴隷といふ考へが、彼を壓迫することを止めた。魔法の力による如く、小さな住家は變化された。その窮狀は可愛らしい紙細工によつて隱蔽された――綺麗な手品を使つて、費用をかけないで、巧妙な裝飾を施すことは、婦人のみがその祕訣を如つてゐる。

[やぶちゃん注:「Tchi」平井呈一氏は上掲訳で『織(ち)』とする。今の拼音では「zhī」(ヂィー)である。]

 每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時。曙の頃。]に、また每夜歸宅の際、若い夫はよく調理された潤澤なる食膳が、彼を待ち受けてゐるのを見出した。が、實は終日機上[やぶちゃん注:織機(はた)の上。]に坐して、その地方では見られないやうな方法によつて絹を織つた。彼女が織るま〻に、絹は光澤ある黃金が緩やかに流れる如く、機から流れ出でて、その波動の上へ靑紫や深紅や碧綠の珍らしい形を現はし、幽靈のやうな騎士や、龍に牽かれた幻の戰車や、雲の尾を棚引いた軍旗を織り出した。龍といふ龍の髯には、不思議な眞珠がぴかぴかしでゐた。騎士達の冑[やぶちゃん注:「かぶと」。]には、順位の寶石が燦光を放つてゐた。して、每日 Tchi は、か〻る綾模樣ある絹の大きな一反を織り上げた。それで、彼女の機織[やぶちゃん注:「はたをり」。]の評判は、廣く傳播した。遠近から人々が驚くべき仕事を見物に集つてきた。して、それを聞き傳へた大都會の絹商どもは、使を Tchi に送つて、織物を依賴し、また彼女の祕傳の敎へを求めた。そこで、彼女は報酬として持參された銀塊に對して、希望通りに織つてやつた。しかし彼等が傳授を懇願に及んだ時、彼女は笑つていつた。「あなた方の中には、私のやうな指を持つてゐらつしやる方がありませんから、到底御敎へ申上げることは出來ませぬ』また實際、誰も彼女が機を織るとき、その指を識別することは出來なかつた。さながら速く翔つてゐる蜂の翼の振動む見る如くであつた。

 

 

 季節は移つて行つたが、Tong は決して缺乏を知らなかつた。彼の美しい妻は、實によく『私が支給致します』といふ契約を履行したのであつた。して、絹商輩の齎した、輝ける銀塊は、Tchi が家財を入れるために買つた、彫つて製作せる大櫃[やぶちゃん注:「おほびつ」。]の中に、段々高く積み上げられた。

 遂に或る朝、Tong が朝餐を了へて、畠へ出掛けようとするとき、妻は思ひがけなくも、彼を内に留まらせた。して、大櫃を開けて、それからら隷書註九といふ公文書體で書いた文書を取出して彼に與へた。彼はそれを視ると、欣躍絕叫した。それは彼の釋放の證書であつた。女は密かにその不思議な絹の代金を以て、夫の自由を買ひ取つたのであつた。

 

註九 隷書――支那の六書體の中、第二に位する。ヰリヤムス氏「中國」參照。……道敎の傳說によれば、天の命令は、最も古い印章用の書体(篆書[やぶちゃん注:「てんしよ」。])で書いてある。だから、電光に打たれて死んだ人の死體に印せられる表象は、その書體で書かれた裁判の宣告と見倣された。――(普通は五書體であるが、六書體としたのが、盬谷[やぶちゃん注:「しほのや」。]博士の說によれば、大篆、小篆、隷、楷、行、草、と數へたのであらうとのことである。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧内が訳者落合氏による補足

「ヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊のThe middle kingdomであろう。

「大篆」周の宣王の時代に史籀(しちゅう)が作ったとされる漢字の古書体。篆文(てんぶん=「小篆」)の前身を成す。

「盬谷博士」日本の漢学者塩谷温(しおのやおん 明治一一(一八七八)年~昭和三七(一九六二)年)。東京帝国大学名誉教授。]

 

 『最早如何な主人に對しても、あなたは御苦役をつとめなさるに及びません』と彼女はいつた。『ただあなたのためにのみ御働きなさるのです。それから、また私はこの家を、中にあるもの一切と共に、買ひました。その上、南方の茶畠も、隣りの桑園も、すべて悉くあなたのものです』

 彼は嬉しさの餘り、覺えず彼女の前に平伏して拜まんばかりになつたが、彼女はそれを制止した。

 

 

 かやうにして、彼は自由の身となつた。それから、彼の自由と共に繁昌が伴つて來た。彼が貴い土地に與へたものは、百倍になつて歸つてきた。して、彼の僕婢輩は彼を愛した。また非常に無言ではあるが、したも非常に周圍の人々に親切なる、美しい主婦を祝福した。しかし絹機[やぶちゃん注:「きぬはた」。]はやがて手と付けられぬやうになつた。それは彼女が男の兒を生んだからである。それは頗る綺麗な子供で、彼がそれを眺めたとき、嬉し泣きをしたほどであつた。その後、實は全く子供の世話に沒頭した。

 さて、やがてその子供も母に劣らず驚異すべきものだといふことが明白になつてきた。赤ん坊は生まれて三ケ月目にものを言ひ、七ケ月目には聖賢の格言を諳誦[やぶちゃん注:「あんしやう(あんしょう)」。暗誦に同じい。]し、尊い祈を朗吟することが出來た。十一ケ月にならぬ内に、巧みに筆を使ひ、老子の訓言を立派に寫すことが出來た。して、寺僧は來て見て、この寧馨兒と談話を交へ[やぶちゃん注:「まぢへ」。]、その愛らしさと、その賢い言葉を感歎して、Tong を祝福していつた。『たしかに、この子供さんは天の賜[やぶちゃん注:「たまもの」。]です。天があなたを愛し玉ふ瑞徵です。あなたが百歲の福壽をお重ねなさるやう祈ります』

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む一般名詞。「晋書」の「王衍伝」から。「寧馨」は中国晋・宋の頃の俗語で「あのような・このような」の意で、「すぐれた子・神童・麒麟児」の婉曲表現。]

 

 十一月のことであつた。花は枯れ、夏の薰りは消え、風は次第に冷かになつてゐた。して、Tong の家では夜の火が點ぜられてゐた。夫妻は心地よき火の光りを浴びつ〻、長時間共に坐して、夫は盛んに希望と欣びを談じ、將來傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]人となる子供のことや、親として幾多の計畫などを語つた。一方、妻はあまりに語らないで、夫の言葉に耳を傾けては、しばしば應答の笑を浮たべ乍ら、驚異の眼を彼に向けた。こんなに美しく彼女が見えたことは、未だ甞てなかつた。して、彼は彼女の顏を注視し乍ら、夜の更けるのも、火の低く沈んで行くのも、また風が窓外の落葉した樹間に鳴るのも打忘れてゐた。

 突然彼女は無言のま〻立上つて、彼女の手の中へ彼の手を執り、かの奇異な結婚の朝に於ける如く、靜かに彼を導き、夢の中に微かに笑を洩らしつ〻眠れる子供の搖籃[やぶちゃん注:「ゆりかご」。]へつれて行つた。その瞬間、彼の念頭に、彼女の眼が始めて彼の眼とぴつたり出逢つた際に感じたと同一の奇異なる恐怖が襲つてきた――その漠然たる恐怖を、愛情と信賴の心が鎭めたのであつたが、鬼神に對する恐怖の如く、決して全然逐ひのける[やぶちゃん注:「をひのける」。]ことは出來なかつた。すると、彼は全く我れ知らずに、見えざる偉力ある手の壓迫に隨つたやうに、神に向つて跪坐する如く、彼女の前に低頭した。それから、再び眼を擧げて女の顏を見るや否や、畏怖に襲はれて眼を閉ぢた。といふのは、彼女は此世のいかなる女よりも高く彼の前に聳え、彼女の周圍には日光の如き光耀があつて、彼女の四肢の光りは、衣裳を透して輝いたからであつた。しかし彼女の美はしい音聲は、あらゆる昔の優しみを帶びて、彼に語つた。『いよいよあなたから去つて行かねばなら時が參りました。實は私は人間から生まれたのではありませぬ。それ故、ただしばらくの間、化身となつて現はれてゐました。しかし私は私共の愛情の誓をあなたに遺しておきます――此綺麗な子供は、行末あなたに對して、あなたと同樣な孝子となりませうから。實際私はあなたの孝心の報酬として、天からあなたに遣されたのです。して、今は私の天の家鄕へ歸つて行かねばならぬことを、どうか御悟り下さい。私は女神の織姬で御座います』

 かく語つてゐる際にも、光輝は消えて了つた。して、彼は再び眼を開けると、彼女が永遠に去つたことを知つた――空の風が通る如く不可思議に、吹き消された炎の光りが、取り返しのつかぬやうに。しかし一切の戶は鎖ざされ、窓も悉く塞いであつた。子供は眠りの中に微笑し乍ら、依然として眠つてゐた。戶外では夜は明けかかつてゐた。空は急速に輝き出した。東天は太陽を迎へて、莊嚴華麗な黃金の高い門を開いた。すると、其光りに照らされた朝霧は、いろいろに色彩の移つて行く、驚くべき形狀に變つた――織姬の機で織られた絹の夢の如き、不思議な美しい綾織り模樣に。

 

太上感應篇

 

Taijyoukannnouhen

 

【ハーンによる「解說」】

 『織姬の傳說』――私の此話は『太上感應篇』第三十章に見える、次の傳說から取つた。該書は老子の作と稱せられ、約四十個の頗る珍らしい逸話傳說を收めてゐる――

 『漢時代に住んでゐた Tong-yong は極貧に陷りた。父を失つたので、彼は葬式を營み、墓を建てる資を得るために自身を賣つた。天帝がこれを憐んで、女神 Tchi-Niu を遣はしてその妻とした。彼女は夫が自由の身となるまで每日絹を織つた。後、彼のため一子を生んで、それから天へ歸つた』――ヂユリアン氏佛譯第百拾壹頁。

 この話の中で、幽靈、醫療、婚禮等の詳細なことに亙って、私は全然私自身の空想によつて書いたのではないといふことを證するため、私は讀者に、ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』第九十六章『不思議な妻』と題する一篇を參照されんことを望む。それによつて、私の物語は、少くとも支那思想と合致することがわたるだらう。(この物語は、初め『ハーパーズ、バザ―』雜誌に現はれたのを、今囘同雜誌の許諾を得て、こ〻に收めたのである)。

 

譯者註 「宋藝文志」に「太上感應篇」の一卷があつて、抱朴子が漢時代の道敎の諸戒を述べたものである。この書は宋以來、大いに流布したが、專ら閭巷細民が誦習したもので、士大夫間に於いては鄙薄視され、その註釋諸家もまた淺陋邱里の言が多かつたと「太上感應篇纉篇」(上下二卷)の序文に見えてゐる。譯者が手にし得た「纉義」(德淸愈樾撰)にも、また更に手を入れ得た「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)にも、本書引用の二つの物語は載つてゐない。多分一層通俗的な註釋書から取つたものだらう。

 

[やぶちゃん注:最後の織姫の別れの言葉は、私の尊敬する平井呈一氏のそれより、例外的にこの落合氏の訳の方が遙かに、いい。平井氏は常体で敬語なく、神威を露わにした台詞で訳されてあって、ちょっとキツ過ぎ、エンディングの極めてポエジックな情景描写の美しさを殺ぐ嫌いがあるからである。

「太上感應篇」既出既注。南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。但し、ハーンはの言う当該の「第三十章」の話なるものを、中文サイトで見出すことが私には出来なかった。その代わり、タイピングしているうちに、どうもこの話、別に読んだことがある気が強くしてきた。そうだ! これは私の好きな、東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)が書いた志怪小説集「捜神記」じゃないか! その第一巻にある以下だったじゃないか!

   *

漢、董永、千乘人。少偏孤、與父居肆、力田畝、鹿車載自隨。父亡、無以葬、乃自賣爲奴、以供喪事。主人知其賢、與錢一萬、遣之。永行、三年喪畢、慾還主人、供其奴職。道逢一婦人曰、「願爲子妻。」。遂與之俱。主人謂永曰、「以錢與君矣。」。永曰、「蒙君之惠、父喪收藏、永雖小人、必慾服勤致力、以報厚德。」。主曰、「婦人何能。」永曰、「能織。」。主曰、「必爾者、但令君婦爲我織縑百疋。」。於是永妻爲主人家織、十日而畢。女出門、謂永曰、「我、天之織女也。緣君至孝、天帝令我助君償債耳。」。語畢、凌空而去、不知所在。

   *

 漢の董永は千乘[やぶちゃん注:山東省。]の人なり。少(わか)くして偏孤(へんこ)となり、父と肆(し)[やぶちゃん注:ここは「町」の意。]に居り、田畝に力(つと)め、鹿車(ろくしや)して載せて[やぶちゃん注:歩けない父を小さな車に載せて牽いては。]自ら隨ふ。

 父、亡(ぼう)ずるも、以つて葬る無し。乃(すなは)ち自ら賣りて奴(ど)と爲し、以つて喪事に供す。主人、其の賢なるを知り、錢一萬を與へ、之れを遣ふ。

 永、行きて、三年喪、畢(をは)り、主人に還り、其の奴の職に供せんと慾す。

 道に逢へる一婦人の曰く、

「願はくは子(し)の妻と爲(な)らん。」

と。遂にこれと俱にす。

 主人、永に謂ひて曰く、

「錢は以つて君に與へたり。」

と[やぶちゃん注:ここでは主人は彼の孝志に対して見返りを求めずに金を与えたのだ、というのである。]。永、曰く、

「君の惠みを蒙り、父の喪、收藏せり。永、小人たりと雖も、必ず勤めに服し、力を致し、以つて厚德に報いんと慾す。」

と。主、曰く、

「婦人、何を能くするや。」

と。永、曰く、

「能く織れり。」

と。主、曰く、

「必爾(ひつじ)なれば[やぶちゃん注:謂うように必ず私のために働くというのならば。]、但だ、君の婦をして我が爲めに縑(けん)百疋を織らしめよ。」

と[やぶちゃん注:「縑」じゃ二本縒(よ)りの糸で細かく織った上製の絹布を指す。]。

 是(ここ)に於いて、永の妻、主人が家の爲めに織り、十日にして畢(をは)れり。女、門を出でて、永に謂ひて曰く、

「我は天の織女(しよくぢよ)なり。君の至孝なるに緣(よ)りて、天帝、我れをして債(さい)を償ふを助けしむるのみ。」

と。

 語り畢りて、空を凌(しの)いで去り、所在を知らず。

   *

「ヂユリアン」既出既注。エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。こで示されたのは、一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として「太上感應篇」を翻訳したもの。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。

「ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』」既出既注の、「華英辞書」の編纂によって特に知られるイギリスの外交官で中国学者であったハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年:中国名「翟理斯」)は、彼が一八八〇年に訳した清代の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が著した志怪小説集「聊齋志異」の翻訳“Strange Stories from a Chinese Studio” のことであろう。英語原本の当該箇所を見つけたが(No. XCVI:“A Supernatural Wife”)、これが私の好きな「聊齋志異」のどの話に当たるかは、ちょっとお時間を戴きたい。判り次第、追記する。

『ハーパーズ、バザ―』“Harper's Bazaar” 調べると、『ハーパーズ・バザー』(Harper's BAZAAR)は、一八六七年にニュー・ヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション雑誌とある。これなんかなあ?

「宋藝文志」元代に編纂された宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体史書「宋史」(一三四五年完成)の中の「芸文志」のこと。

「閭巷細民」(りよかうさいみん(りょこうさいみん)民間の下層階級。

「鄙薄」(ひはく)で軽蔑。蔑(さげす)むこと。

「淺陋」(せんろう)は「知識や考えが浅くて狭いこと」。

「邱里」不詳。田舎染みた俚諺的内容ということか。

「太上感應篇纉篇」(さんぺん)は継いだ編で「続編」の意。清の考証学者兪樾(ゆえつ 一八二一年~一九〇七年)撰。

「纉義(德淸愈樾撰)」一八七一年刊。

『「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)』清の考証学者恵棟(一六九七年~一七五八年)撰。

 また、最後になって、中文サイトのカラーの絵入りで独立したページも発見した(先のPDFと同じ組織による作成のもののようで、挿絵も全く同じである)。原文と白話(中国語口語体)に直したものも載るので転載しておく(コンマを読点に代えた。漢字はママ)。

   《引用開始》

十三、【董永賣身】 漢

董永家貧、賣身葬親。天遣仙女、織縑完緡。

【原文】

 董永、性至孝、家貧、父死、賣身貸錢而葬。及往償工、途遇一婦、求為永妻。同至主家、令織縑三百疋乃回。一月完成、主大驚、聽永歸。至槐陰會所、婦辭永曰、吾織女也、天帝感君之孝、令我相助耳。言訖凌空而去。

 王應照謂、父死則葬、理之常也。孝子當貧乏無措時、賣身為之、亦求心之安而已。償工之日、仙女忽逢、織縑一月、已清債累。此時賣身窮人、債主不得役之、且不能學之、於以知久停親柩者之罪大矣。

【白話解釋】

 漢朝時候、有個叫董永的人、非常孝順。但是家裡很窮苦、父親去世後、沒有錢辦理喪葬、董永就賣身為奴、用賣得的錢來安葬父親。

 葬了父親以後、就依約要去做工償債。走到半路上、忽然遇到了一個女子、這位女子說自願和董永結為夫妻、就一同到債主家裡去做工。債主嚴苛地命他要織好三百匹的紗羅布料、才能抵掉賣身的錢、才可以回家。哪裡曉得、董永得到了妻子的幫助、不到一個月工夫、就全部織完了。債主非常驚訝、但還是要讓董永離開。

 他們走到了槐樹下(從前和妻子相會的地方)、妻子就要辭別董永、並說道:「我是天上的織女、天帝被你的孝心感動、特地派我來幫助你。」說完話、就騰空而去了。

   《引用終了》]

2020/01/22

ラフカディオ・ハーン Ming-Y 秀才の話 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Ming-Y”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)では原拠(本文中の私の注で後述)に則り、『孟沂(もうぎ)の話』となっている)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第二話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全十一篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「黒松使者」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   Ming-Y 秀才の話

 

   詩人Tching‐Kou は歌つた。『Sie-Thao の墓の上には、必らず桃の花が咲く』

[やぶちゃん注:以上の三字下げはママ。平井呈一氏は上記訳本で、

   《引用開始》

 詩人鄭谷が諷っている。「桃花マサニ開ク薛濤(せつとう)ノ墳」

   《引用終了》

「諷っている」は「うたっている」。「鄭谷」(ていこく 八四二年?~九一〇年?)は晩唐の詩人。宜春 (江西省) の人。八八七年に進士に及第し、官位は都官郎中に至った。字(あざな)は守愚。幼少の時から才名が高く、七歳で作詩したと伝えられる。清新な詩風で。写景・抒情に優れる。七言律詩「鷓鴣 (しゃこ)」がとみに知られ、そこから「鄭鷓鴣」とも呼ばれた。詩集に「雲台編」(全三巻) がある。引用は七言律詩「蜀中三首 其三」の第二句。「漢文委員会」の「紀頌之の漢詩ブログ」のこちらで全文と現代語訳が読める。「薛濤」(七七〇年?~八三〇年?)は知られた中唐の女流詩人。字は洪度。長安の良家の出身であったと言われるが、父が任地の蜀で死んだために妓女となった。詩才により、歴代の地方長官から愛顧され、また元稹・白居易・劉禹錫といった当代一流の詩人らとも交遊があったとされる。八一四) 年に浣花渓に隠棲した。魚玄機とともに唐代女流詩人の双璧とされる。現行の中国語では薛濤は「Xuē Tāo」であるが、次の段落に出る「美しき Sie-Thao」の「Sie-Thao」は彼女のことである。

 なお、原本を見ていただくと判る通り、これは添え字(斜体となっている)として挿入されたものである。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

THE ANCIENT WORDS OF KOUEI — MASTER OF MUSICIANS

   IN THE COURTS OF THE EMPEROR YAO:—

 

   When ye make to resound the stone melodious, the

Ming-Khieou,—

   When ye touch the lyre that is called Kin, or the

guitar that is called Ssé,—

   Accompanying their sound with song,—

   Then do the grandfather and the father return;

   Then do the ghosts of the ancestors come to hear.

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。思うにこれは、中国古代の理想的聖王の一人である「Yao」(現代中国語:Yáo)=堯(ぎょう)を讃えたものと思われる。何を元にしたのかは判らぬが、所謂、堯の伝承の一つである「鼓腹撃壌」(堯の時代に一老人が腹鼓を打って大地を踏み鳴らしては太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」等に見える故事)に通底している内容と読める。一部の中国語ラテン文字転写がよく分からぬが(後注でその正体を示した)、それをごまかして力技で訳してみると、

   *

 

古代のいやさかの詞(ことば)――堯帝の宮廷に於ける伶人たちによる

 

    あなたが石の楽器「ミィン・キュウ」をメロディアスに響かせたとき、

    あなたが「キン」と呼ばれる琴、或いは「ススゥ」と呼ばれるギターをつま弾いたとき、

    それらの音(ね)に歌を添えると、

    それにつれて、祖父と父が帰って来、

    それにつれて、先祖の魂が聴きに来ます。

 

   *

石の楽器「ミィン・キュウ」というのは磬(けい)のことのようにも感じられ、「ススゥ」は不明だが、阮咸(げんかん)琵琶か月琴のようなものであろうか。カットされたのは本篇内容と関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。

 讀者は彼女――美しき Sie-Thao ――は誰のことだかと私に尋ねるだらう。彼女の石の寢床の上では、既に千年以上も樹木が低語いてゐる。して、彼女の名の綴音は、木の葉のさらさらいふ音に伴はれて、多くの指を有する樹枝の戰くにつれ、明暗の翺翔につれ、數限りなき野花の、女の呼吸の如く芳ばしき息と共に、聽者の耳に達する。が、彼女の名を囁くばかりで、その外に樹木の語ることは解らない。また樹木のみが Sie-Thao の年齡を知つてゐる。しかし彼女については、かの講古人――僅々數錢の報酬を得て、謹聽する群衆に向つて、每夜古い物語を話す有名な支那の講談師――の誰からでも、幾分を聽くことが出來る。『今古奇觀』と題する書からも幾許を知ることが出來る。して、恐らくは該書に載つてゐる話の中で、最も驚くべきは、このSie-Thao の物語である――

[やぶちゃん注:「低語いてゐる」「さやめている」と訓じておく。「ざわざわと音をたてている」の意。

「翺翔」(かうしやう(こうしょう))は本来は「鳥が空高く飛ぶこと」或いは「思いのままに振る舞うこと」の意であるが、ここは陽光の気儘に射すことの擬人化。

「聽者」「きくもの」と訓じておく。

「今古奇觀」(きんこきくわん(きんこきかん))は明代の短編小説集(全四十編)。作者は「抱甕(ほうおう)老人」とするが不詳。明代末の成立と推定されている。最後のハーンの解説にある通り、本篇が素材とした原話は同書の「第三十四巻 女秀才移花接木元」である。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

 五百年前、明の孝宗皇帝の治世に、廣州府に Tien-Pelou といふ博學と恭敬を以て著はれた人がゐた。この人には美しい獨り息子があつたが、これ亦學問技藝並びに風采の優雅に於て、儕輩に比ぶものがなかつた。彼の名は Ming-Y といつた。

[やぶちゃん注:「明の孝宗皇帝の治世」第十代皇帝である弘治(こうち)帝。在位は一四八七年から一五〇五年まで。

「廣州府」現在の広東省広州市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

Tien-Pelou」原拠「古今奇観」に従えば「田百祿」である。なお、ここまでもそうだが、ハーンの中国語のラテン文字表記は現行の表記とは孰れも激しく異なる。但し、いちいちそれは指摘しないこととする。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされているのである。しかし、ハーンの解説によって原拠は概ね明らかにされているわけであるから、原拠と照合すれば、かなりの箇所が漢字表記変換出来たはずなのであるが、落合氏は「あとがき」で、その時間がなかった、というようなことをさらに添えておられる。しかし、中身は拾い読みであったが、私は本篇の原拠である「今古奇観」を大学生の時に知っていた。中国文学専攻の学生ならまず知っている作品集であり、いやさ、国文学の学生でも江戸文学にも多大な影響を与えている作品であるからして知っていて当然である。そういい意味でちょっと真面目な学生なら、その「第三十四巻 女秀才移花接木元」の資料やメモを即座に落合氏に提供するだろう。その辺りがどうも不審で、かなり不満が残るところなのである(但し、事実、校了まで時間がなく、一部が漢字に変換できなかったとすれば、却って全篇全部をかく表記せざるを得なかった――一部が漢字表記で一部がローマ字というのは確かに翻訳の美学としてはいただけないとは言える――というのであれば、やや納得は出来る)。されば、本作品集全体を通じて、私は原拠と思われるもの及び平井呈一氏の訳から、可能な限り、漢字表記を注で復元しようと思う。

「著はれた」「あらはれた」。知られた。

「儕輩」「さいはい」。同輩。]

 この靑年が十八の歲を迎へたときに、父の Pelou Tching-tou の市の督學官に命ぜられたので、Ming-Y は父に伴はれて、そこへ赴くこととなつた。市の附近に、Tchang といつて、政府の特別高等なる委員を務め、富貴の身分の人があつた。この人は子弟のために良師を求めてゐた。新任督學官の到着を聞いて、この件について相談しようと思つて、Tchang は親しく彼を訪ねた。すると、たまたま彼の才藝に長ぜる息子に逢つて、談話を交はしたので、早速子供達のために Ming-Y を家庭敎師として招聘した。

[やぶちゃん注:「Tching-tou」原拠「古今奇観」に従えば「成都」、現在の四川省の省都チョンツーである。ここ

「督學官」原拠では「敎官」。教育行政監察官で日本の旧視学官相当の役である。

Tchang」原拠「古今奇観」に従えば「張」である。]

 さてこの Tchang 卿の邸は、市から數里を隔つてゐるので、Ming-Y はその聘せられたる家に、寄寓するのが、得策であつた。そこで、靑年は始めての淹留のため、一切必要の品を調へた。して、兩親は彼に別を告げるに當つて、賢い訓誡を與へ、老子並ぴに古聖の言を引用して彼に說いた。

[やぶちゃん注:「數里」原文は“several miles”。一マイルは千六十九メートル。明代の一里は五百五十九・八メートル。但し、原拠には距離は示されていない。後のシークエンスで夜出て、翌朝には帰れる距離であるように書かれてあるから、寧ろ、マイルで換算した方が(六掛けで十キロメートル弱)自然である。

「淹留」(えんりう(えんりゅう))は「長く同じ場所にとどまること」。「滞在」に同じい。]

 『美しい顏によつて、世界は愛に滿たもれる。しかし天はそれによつて決して欺かれるものではない。汝もし婦人が東から來るのを見たならば、西の方を見るがよい。もし少女が西から近寄つてくるのを認めたならば、汝の兩眼を東方に轉ずるがよい』

 後日に及んで、靑年がこの訓誡を注意しなかつたにしても、それはただ彼の若さと、生來愉快なる心の無思慮のためであつた。

 かくて、彼は出立して行つて、Tchang 卿の邸に起臥することとなつた。その中に秋が過ぎ、それから、また冬も去つた。

 

 春の二月になつて、支那人が『花朝』と呼んでゐて、百花の誕生日なる、芽出度い日が近づいた時に、Ming-Y の胸には兩親に逢つて見ようといふ眷戀の情が起こつた。そこで彼は Tchang 氏に其心を打明けた。主人は啻に許可を與へたばかりでなく、また銀二兩を强ひて彼の手に握らせた。それは『花朝』の祝節には、親戚朋友に進物を贈るのが、支那の慣習であるから、靑年をして兩親に何かの土產を持つて歸らせようと思つたのであつた。

[やぶちゃん注:「花朝」或いは「百花生日」「花神節」とも呼び、中国古代からあった伝統的な年中行事の一つ。節日は歴代王朝や地域によって異なったが、普通は旧暦二月十二日か十五日であった。その内容も花の種を蒔いたり、美しさを愛でたりなど、地方によって様々である(四方に広大で気候帯も寒帯から亜熱帯までであるから咲く花も開く日も大きく異なるから当然である)。明代の馬中錫は「宣府志」で、「花朝節、城中婦女剪彩爲花、插之鬓髻、以爲應節」(花朝節には、城内の女性たちが美花を剪(き)って髪に挿し、万物到来の春を言祝ぐ節句とする)と記す(中文ウィキの「花朝節」を参考にした)。

「眷戀」(けんれん)は「愛着の思いに惹かれること・恋い焦がれること」の意。

「啻に」「ただに」。]

 その日、空氣は花の香で眠氣を催すやうで、また蜂の唸り聲で振動してゐた。Ming-Y に取つては、彼が今通つて行く道は、多年の間、誰人も踏んだことがないやうに思はれた。草は路上に高く茂つて、兩側の巨樹は、彼の頭上に苔の生えた、大きな腕を交はし、道に暗い陰を作つてゐた。しかし葉陰は鳥の歌でそよそよと搖れ、森の深い奧は黃金色の蒸氣で輝き、寺院が抹香に薰ずる如くに、花の呼吸で芳ばしかつた。この日の夢みる如き樂しさは、靑年の心に浸み込んだ。して、彼は靑紫色の空高く搖れてゐる樹枝の下で、若い草花の中へ身を憇はせ[やぶちゃん注:「いこはせ」。「憩」の異体字。]、芳香と光を吸ひ、心地よき靜閑さを味はうとした。かやうに休息してゐる際、或る物音が彼をして野桃の花呪咲く陰の方に眼を向けしめた。すると、彼は淡紅色の花の如くあてやかな妙齡の一婦人が、花叢[やぶちゃん注:「はなむら」。]の裡に隱れようとしてゐるのを看た。僅かに一瞬間の管見であつたけれども、靑年は彼女の顏の美しさ、彼女の肌の黃金のやうな淸らかさ、蠶蛾[やぶちゃん注:「かひこが」。]が翼を伸ばした如く、優美な曲線を描ける眉毛の下に輝く彼女の長い明眸を認めざるを得なかつた。靑年は直ちに視線を轉じて、急に立上つて、行進を續けた。が、彼は木の葉の間から覗いた雙眸の魅惑的な印象に痛く惱まされたので、覺えず彼の袖に入れてゐた銀貨を落としたほどであつた。數分間の後、彼は背後から走つて來る、輕い跫音と、彼の名を呼ぶ女の聲を聞いた。非常に驚いて彼の顏を振向けると、彼は風采賤しからぬ侍婢を見た。その女は『私の女主人は、貴郞が途上に落としなされた、此銀貨を御拾ひ申して、御返しするやう私に申しました』と彼にいつた。靑年は丁寧に女に禮を述べ、女主人に宜しく傳言して吳れるやう賴んだ。それから、彼は芳香馥郁たる閑けさの間を通り、世に忘れられた路傍に夢みてゐる陰を越えて、進んで行つた。彼自身もまた夢心地になつて、枝が見た美しい女のことを考へて、彼は奇異に、心臟の鼓動が早くなるのを感じた。

 

 

 靑年が歸途、同じ道を通つて、かの優しい姿が瞬間彼の前に現はれたことのある地點で、再び足を停めたのは、また以前のやうな好天氣の日であつた。しかし今囘、彼は窮りなき樹林の遠い奧に、先きには氣のつかなかつた一軒の家――田舍の住宅の、大きくはないが、非常に優雅な――を認めて驚いた。その灣曲せる、鋸齒狀の二重屋根の輝いた碧瓦[やぶちゃん注:「あをがはら」。]は、樹葉の上に聳えて、蒼空の色と交り合ふやうに見えた。その彫刻を施せる玄關の綠黃色の意匠は、日光を詐びたる葉や花の精巧なる藝術的扮擬[やぶちゃん注:「ふんぎ」。対象(ここは花)に似せて形象してあること。]であつた。して、靑年は大きな陶器の龜を兩側に据ゑたる、階段の絕頂に、女主人が立つてゐるのを見た。彼の熱烈なる空想の女は、彼女に彼の感謝の使命を齎し歸つたのと同一の侍女を伴つてゐた。靑年が眺めてゐると、彼等の眼が彼に注がれてゐるのが認められた。彼等は恰も彼のことを語つてゐるかのやうに、微笑したり、話し合つたりしてゐた。して、内氣な彼も、遠くから美人に向つて會釋する勇氣を得た。彼の驚いたことには、若い侍女は彼に近寄つてくるやう手招きをした。そこで彼は赤い花の咲ける匍匐植物で半ば蔽はれた、田園風の門を開いて、階段の方へ通ずる靑々たる小徑に沿つて、驚異と臆病な喜悅の混ぜる感を抱き乍ら步を進めた。彼が接近すると、美しい淑女は退いたが、侍女は廣い階段に立つて彼を迎へた。彼が上つたとき、侍女は云つた――

 『私の女主人は、過日主人が私に命じて致させました些かばかりのことに對して、貴郞が御禮を述べようと思つてゐらつしやるだらうと存じまして、どうか貴郞がこの家へ御入り下さるやうお願ひ申上げます。主人は最早御評判で、貴郞を知つてゐますので、御目にかかりますれば仕合せと存じてゐます』

 靑年は羞かみ乍ら入つた。彼の足は森の苔の如く彈力を帶びた、柔かな莚の上に、少しの音をも立てなかつた。應接間は廣やかで、凉しく、新たに集めた花の香に薰つてゐた。心地爽かな閑靜が、家の中に遍く[やぶちゃん注:「あまねく」。]行き渡つてゐた。竹の簀戶[やぶちゃん注:「すど」。竹或いは葭(あし)の茎などで編んだ簾を枠にはめ込んだ透過性のある戸。]から洩れる數條の光の上には、空飛ぶ鳥の影が映つた。燃えるやうな色の翅を有てる[やぶちゃん注:「もてる」。]大きな蝶が入りできて、彩畫を施せる花甁の邊に霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。しばらくの間。「暫時」に同じい。]徘徊して、また神祕な森へ去つて行つた。すると、蝶の如く音も立でずに、この邸宅の若い女主人は、別の戶口から入つて、親切に靑年に挨拶した。靑年は胸へ兩手を上げ、低頭恭敬の鐙をした。女は彼が思つてゐたよりも一層丈が高く、美しい百合の如く纎靭[やぶちゃん注:「せんぢん」。しなやかであるが、丈夫で壊れやすい感じはしないこと。]であつた。彼女の黑い髮には、橘の乳白色の花が組み合せてあつた。靑白い絹の衣裳は、彼女の動くにつれて、色合が移り變つて、恰も水蒸氣が光の變化に伴つて色を遍ずるやうであつた。

 兩人が慣例の挨拶を了つて、席に就いてから、彼女は云つた。「失禮ながら、貴客は私の親戚、Tchang 氏の子供達を敎へ下さる、Ming-Y と申す、御方では御座いませんか。Tchang 卿の家族は、また私の家族ですから、あの子供達の先生は、私の親類の御一人としか思はれません』

 Ming-Y 少からず驚いて答へた。『恐縮ですが、貴家の御名と、また貴女と私の主人の御親類關係を伺はしていただきたいものです』

 『私の家は、Pingと申します』とこの貴婦人は答へた。『Tching-tou の市の古い家柄なのです。私は Moun-hao Sie と申すものの娘でありまして、矢張り Sie と申します。私はこ〻の Ping 家の Khang と申す靑年に嫁いだのです。その婚姻のため貴郞の庇護者と親類になつたのですが、私の夫は結婚後、間もなく亡くなりましたので、私はこの孤獨の地を選んで私の寡居の間、住居することに致しました』

[やぶちゃん注:「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Moun-hao」原拠「古今奇観」に従えば「文孝坊」である。

Sie」「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Khang」原拠「古今奇観」に従えば「」である。則ち、彼女の嘗ての亡き夫の姓名は「平康」である。

 と「寡居」(くわきよ(かきょ))は「やもめ暮らし」のこと。]

 彼女の聲には、小川の旋律の如く、泉の囁きの如く、睡眠を催すやうな音樂があつた。またその話し振りには、靑年が嘗て聞いたことのないやうな奇異に優美な趣があつた。しかし彼女が未亡人であると聞いたので、靑年は正式の招待がない以上は、長く彼女の前に留まつて居ることを欲しなたつた。そこで、彼に薦められた一椀の銘茶を啜つた後で、彼は立つて去らうとした。が、Sieは、ほど急に去ることを許さなたつた。

 『いや、貴郞』と女はいつた。『どうか、今暫く私の家に御留まり下さい。貴郞の庇護者は、折角貴郞がこ〻に御出になつたのに、私が立派な御客扱ひを致さないで、あの人同樣に御もてなし申上げなたつたといふことを萬一耳にしますれば、さぞ非常に立腹しませうたら。少くとも晩餐まで御留まり下さい』

 そこで靑年は留まつた。心中では窃かに欣んでゐた。それは彼女が未だ官嘗て見たことのないほど、美しい女と思はれたからであつた。して、彼は兩親以上に彼女を愛する氣持を感じた。かくて彼等が話をしてゐる内に、薄暮の長い影は徐かに[やぶちゃん注:「ゆるやかに」。]一樣の黑紫色に混じた。夕陽の太い檸檬色の光は、消え失せた。して、人間の生と死と運命を支配する三公註三と呼ばれる星宿は、北の空にその冷かに輝く眼を開いた。邸内には紅燈が點ぜられた。晩餐の食

 

註三 三公――大熊星座の六個の星が、二つづつ一組となつてゐるのを、支那の占星術者及び神話學者が、かく名づけたのである。この三組は更に大公、中公、小公と區別され、是等は北辰星と共に、天空の法廷を組織し、人の壽命及び運勢を支配する。(スタニスラス・ヂュリアン氏譯「太上感應篇」註による)

[やぶちゃん注:「北辰星」北極星の異称。

「スタニスラス・ヂュリアン」エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。

「太上感應篇」南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。但し、先行する一八一六年のジュリアンの先任者であった夭折の中国学者アベル・レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat:「大鐘の靈」で既出既注)によるフランス語訳がある。]

 

卓は設けられた。靑年は食卓の彼の席に就いたが、食べようとする氣はあまりに起こらないで、ただ彼と相對する美貌のことをのみ考へてゐた。彼が皿に盛られたる珍味を殆ど味はないのを見て、女は酒を傾けるやう、若い客に强ひた。して、兩人は數杯を共に飮んだ。それは紫色の酒であつた。酒を注がれた杯が一面に露を帶びる程に冷かであつたが、しかも不思議な火を以て、脈管を溫めるやうに思はれた。飮んで行くま〻に、靑年の眼には、一切のものが魔法による如く、一層輝いてきた。部屋の壁は後退り[やぶちゃん注:「あとじさり」。]して、屋根は高くなるやうに見えた。燈火は吊るせる鎖の上で、星の如く輝き、女の聲は遠く睡げな夜の空に聞える、佳調の如く靑年の耳へ浮かんできた。彼の心は擴大してきた。彼の舌は弛んだ。して、彼が敢然口に發し得ないものと思つてゐたやうな言葉が、彼の脣からら輕く飛んで出た。しかし女は彼を抑制しようとはしなたつた。彼女の脣は一つの微笑をも洩らさなかつたが、その長い明かるい双眸は、彼の讚辭に對して愉快さうな笑ひを見せ、またその熱烈なる欽仰嘆慕の凝視に對しては、愛情を籠めたる注意を以て應ずるやうに見えた。

[やぶちゃん注:「欽仰」(きんぎやう(きんぎょう))は「尊敬し慕うこと」。]

 女はいつた。『私は貴郞の非凡の御才能と澤山高尙な技藝に御熟達のことを噂に承つてゐます。氾は格別に音樂を修業致したといふのでは御座いませんが、少しばかり歌ふことを習ひました。折角貴郞のやうな專門のお方が御出下さいましたから、私は御遠慮申上げないで、どうか貴郞に私と共に御歌ひ下さるやう大膽にも御賴み申上げます。また私の樂譜を御調べ戴きますれば、非常に滿足に存じます』

 『私こそ光榮と滿足を感じます』と靑年は答へた。『かやうな稀有の御厚意に對しては、感謝の申上げやうがありません』

 侍女が小さな銀の呼鐘の響に應じて、樂譜を持つて出でて、また退がつた[やぶちゃん注:「さがつた」。]。靑年は女の手書の譜を取上げて、熱心に檢べた。書いてある紙は、淡黃色を帶び、薄紗の地貿のやうに輕くあつたが、文字は古風な美しさで、恰も黑松使者註四――かの蠅ほどの大いさの墨の精――によつて揮毫されたかのやうであつた。また、その譜に附いてゐる落款は、元稹や、Kao-Pien や、Thou-mou ――唐時代の偉大な詩人や音樂家――のものであつた。彼はかほどの貴重無比の寶を見て、欣然絕叫を禁じ得なかつた。また暫しも手から離す氣になれぬ程であつた。

 

註四 黑松使者――漢の Hiuan-tsong 帝が或る日、書齋にゐたとき、蠅ほどの小さな道士が、卓上の硯から現はれて云つた。『私は墨の精で、黑松使者といふ名のものです。眞に賢明な人が筆を執ると、その度每に、墨の十二神が墨の面に浮かぶものです。私はこのことを告げるために來ました」モウリス・ヤムテル氏著「支那の墨」(一八八二年、巴里出版)參照。

[やぶちゃん注:「元稹」(七七九年~八三一年)中唐の詩人・文学者。洛陽の人。字は微之。八〇六 年に科挙に及第して左拾遺となったが、権臣に憎まれ、河南尉に左遷された。その後も左遷と昇進を経、八二二年に宰相となったが、半年足らずで浙東監察使に転出し、武昌軍節度使に移って亡くなった。白居易と親交があり、唱和した詩も多く、また、ともに李紳の「新題楽府」に刺激された「新楽府」の創作にも熱心であったことから、「元・白」と並称された。唐代伝奇「鶯鶯伝」の作者でもある。ここは珍しく漢字変換されてある。しかし、以下の二人をローマ字表記にしている以上、前に私が好意的に言った統一性の観点からは逆にこれはおかしいということになる。

Kao-Pien」原拠「古今奇観」から「高駢」である。高駢(こうべん ?~八八七年)は晩唐の詩人。節度使。字は千里、幽州(北京)の人。禁軍の将校から身を起こし、安南都護・静海軍節度使・天平軍節度使・西川節度使・荆南節度使を歴任して功績を挙げた。「黄巣の乱」に際しては、浙東へ侵攻する黄巣軍を撃破し、一時的であったが、福建・広東方面への転進を余儀なくさせ、官軍の総帥となった。しかし後、揚州に居すわったままとなり、長安を占拠した黄巣軍の討伐には積極的ではなかった。

Thou-mou」原拠「古今奇観」から「杜牧」である。晩唐の著名な詩人杜牧(八〇三年~八五二年)は京兆万年 (陝西省西安市) の人。字は牧之。号は樊川 (はんせん) 。祖父は制度史書として知られる「通典」(つてん)の編者杜佑(とゆう)であった。八二七年に進士に及第して弘文館校書郎となり、比部員外郎を経て、八四二年、黄州刺史に転じた。以後、池州・睦州などの刺史を務め、中央に戻って中書舎人に昇任したが、まもなく没した。生来剛直で「阿房宮賦」を作って敬宗を諌めたり、「孫子」の注を書くなど、政治・兵法にも強い関心を持っていた。唐王朝の退勢挽回を図ったが、努力が実らぬまま、妓楼に遊ぶことが多くなった。晩唐らしい感覚的・退廃的な詩を残し、李商隠とともに「李杜」と並称され、杜甫に対して「小杜」とも呼ばれる。

「黑松使者」唐の筆記録「陶家瓶餘事」に、

明皇御案墨、一日見小道士如蠅、呼萬歲。曰、「臣、墨之精、黑松使者也。凡世有文者、墨上有龍賓十二。上神之、乃以分賜掌文官。」。

とある。「明皇」とは玄宗皇帝の別名である。ここの出る「漢の Hiuan-tsong 帝」を漢ではなく、唐とすれば(原文では“Thang dynasty”で、漢は現行で「hàn」なのに対して「唐」は「Táng」である)玄宗を現在の拼音で示すと「Xuán zōng」であるから、それっぽい。昔から好きなサイト「寄暢園」のこちらには、唐の滅亡後の五代の後唐に馮贄によって編せれた「雲仙散録」の邦訳が載り、

   《引用開始》

 『陶家瓶餘事』に言う。

 玄宗が使用する墨は「龍香剤」と呼ばれていた。

 ある日、玄宗は墨の上に動き回る物を見つけた。蝿かと思ったが、よく見てみるとそれは小さな道士であった。玄宗が叱りつけると、小道士は諸手(もろて)を上げて、

「万歳!」

 と叫んだ。そして、こう言った。

「臣は墨の精、黒松使者でございます。およそ文ある者の墨には龍賓(りょうひん、注:墨の神)が十二人おります」

 玄宗は霊妙なことと思い、この墨を文官に分け与えた。

   《引用終了》

とあるから、間違いなく唐の玄宗の逸話である。なお、本篇末に配された漢語画像はこれである。

「モウリス・ヤムテル」モーリス・ジャメテル(Maurice Jametel 一八五六 年~一八八九年)はフランスの外交官で中国学者。

「支那の墨」原文“L'Encre de Chine”(「中国の墨」)。]

 

 彼は叫んだ。『これは實に帝王の寶に勝さるほど貴重なものです。これこそ私共の生れない五百年の前に、歌つた諸大家の書です。よくも立派に保存されたものです! これはあの有名な「幾世紀後も石の如く堅く殘り、文字は漆の如くならむ」と云はれた墨ではありませんか? また、何といふこの譜の絕妙でせう! 詩人中の王で、五百年前四川省の刺史であつた Kao-pien の歌です』

[やぶちゃん注:「Kao-pien」は先に出た高駢。彼は西川(四川省西部)節度使であったことがあり、節度使は居城(会府)の州の軍事長官である刺史をも兼任し、軍・民・財三権を握る独立軍閥的存在であった。]

 『Kao-pien! 好きな Kao-pien!』と女は眼に奇異な光を湛へ乍ら呟いた。『Kao-pien はまた私の愛好作家です。貴郞と諸共に、彼の詩を古曲に合はせて歌ひませうよ――もつと今日よりは、人々が氣高くて賢かつた頃の音樂ですね』

 それか樂ら、彼等の聲は相合して、流暢なる美はしい音となつて、芳ばしい夜の中に鳳凰註五

 

註五 鳳凰――この寓意的の鳥に、幾分亞剌比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]の不死鳥(フヰーニツイクツス)と對應するのであるが、高五キユービツト(一キユービツトは十八吋[やぶちゃん注:「インチ」。]乃至二十二吋)、五色の羽毛を有し。五音の變調に歌ふと稱せられる。雌鳥は不完々なる調子で歌ひ、雄鳥は完々に歌ふ。鳳凰は支那の音樂に關する神話や傳說によく現はれてゐる。――(不死鳥は唯一無二の鳥で、亞刺比亞沙漠に於て六百年間生活する每に。埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]國ヘリオポリス市に行つて自ら身を燒き祭壇の灰と化し、それたら再び其灰燼中から、若返つて美しい姿を以て蘇生し、更にまた六百年を經る。かくして轉𢌞轉生、極まることなしと稱せられる。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は河合氏による訳注である。

「鳳凰」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「キユービツト」cubit(英語:キュービト)は古代(紀元前六千年頃にメソポタミアで生まれたとされる)より西洋の各地で使われてきた長さの単位。今日、キュビットを日常的に使用している文化は存在しないが、宗教的な目的、例えばユダヤ教などでは現在でも使われている。落合の「一キユービツトは十八吋乃至二十二吋」というのは、四十五・七~五十五・八センチメートルに相当する。時代や使用した民族によって微妙に異なるが、四十九センチメートル前後であるようである。詳しくはウィキの「キュビット」を参照されたい。

「ヘリオポリス市」(ラテン文字表記:Heliopolis)は現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意。古代名では「Iunu」(イウヌ)或いは「On」(オン)と呼ばれていた。ここはヘルモポリスと並んで古代エジプトの創世神話の中心地として有名である、とウィキの「ヘリオポリス」にある。]

 

の聲の如く立騰つた[やぶちゃん注:「たちのぼつた」。]。しかも、間もなく、靑年は彼の伴侶の聲の魅力に壓せられて、唯無言恍惚のま〻、聞き入つてゐるばかりであつた。同時に室の燈光は朦朧となつて波動する如く見え、愉快の淚は双頰を傳つて流れた。

 かやうにして夜の時刻は移つた。それでも猶ほ彼等は話をつゞけ、冷たい紫の酒を飮み、唐代の歌を歌ひ乍ら夜を更かした。彼が立たうとしたのは、一たびではなかつたが、その度每に女は、銀のやうに甘美な彼女の聲で、昔の大詩人達や、また彼等が愛した女の話を始めたので、彼は魅せられたやうになつた。また彼女は非常に珍異怪奇な歌を歌つたので、聽覺の外、彼のあらゆる感覺は死んで了つたやうであつた。たうとう彼女が歌を止めて、彼の健康のために祝杯を學げた時、靑年は彼の腕を彼女の頸に捲きつけ、彼女の纎弱な頭を彼の方に引きよせて、酒よりも赤くて、甘き彼女の雙脣に接吻することを堪へ得なたつた。すると、彼等の脣は最早離れなかつた――夜は更けて行つたが、彼等はそれを知らなかつた。

 

 

 鳥は目醒め、花は朝暾[やぶちゃん注:「てうとん(ちょうとん)」。朝日。]に眼を開いた。して、靑年はいよいよ彼の可愛らしい妖術者に別れを告げねばならなかつた。女は玄關の壇まで伴いて行つて、懷たしげに接吻して云つた。『どうか、なるべく度々御出下さい。貴郞は祕密を洩らすやうな、信實のない人達と違つてゐることを、私は存じてゐますが、でも、まだお若いから、時としては御注意の足らぬこともありませう。どうは、私共の愛は、ただ空の星が知つてゐるだけだといふことを御忘れ下さいますな。誰人[やぶちゃん注:二字で「たれ」と訓じておく。]にも御話しをしてはいけません。それから、私共の幸福の夜の紀念として、この小さなものを御持ち下さい』

 かく云つて、女は精巧珍異の小さな品――孔夫子を崇めて、虹が作つたやうな、黃色の硬玉註六で、蹲踞せる獅子の形に作れる文鎭を――彼に呈した。靑年はやさしく、その贈物とそれを與へた美しい手に接吻して、『もし貴女が私を叱責下さるやうなことを、私が知りつゝ犯しますれば、神罰覿面です』と誓つた。して、彼等は互に誓を交はして別れた。

 

註六 硬玉――碧玉の一種である。藝術的材料として、常に珍重せられ、支那人は yuh と稱してゐる。「感應篇」に、孔子が孝經を完成してから、天を拜した時、深紅の虹が空から降つて、彼の足下で一片の黃色硬玉と變つたといふ珍らしい傳說がある。スタニスラス・ヂユリアン氏譯四九五頁參照。

[やぶちゃん注:「硬玉」翡翠 (ひすい)

「感應篇」註三で既出既注のフランスの東洋・中国学者エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)の一八三五年刊の「太上感應篇」の訳“Le livre des récompenses et des peines”のこと。

「孝經」十三経の一つで、長くは、孔子の作ではなく、孔子が曾子に対して孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、最近の研究では戦国時代の偽作とされる。全一巻。儒教の根本理念の「孝」について、その徳たる所以や実践の具体的内容などを述べたもの。]

 

 その朝、Tchang の邸にへ歸つてたら、彼は生まれてから始めての虛言を吐いた。今や氣候も頗る惡くなつたから、母は彼にこれからら夜間自宅に泊つて吳れるやう求めたと告白し、道程は幾分遠いが、彼は强壯活潑であるし、新鮮なる空氣と健康なる運動が必要であると云つた。Tchang は、すべて彼の言を信じ、何等の異議を挿まなかつた[やぶちゃん注:「さしはさまなかつた」。]。そこで、靑年は夜間を美しい Sie の家で過ごすことが出來るやうになつた。每夜彼等はその初會を愉絕快絕たらしめたと同じ娛樂に耽つた。彼等は交る交る歌つたり、物語をした。彼等は碁を圍んだ―― Wang-Wang によつて發明された深遠なる遊戲で、戰爭の模擬である。彼等は花、樹木、雲、鳥、蜂について八十韵[やぶちゃん注:「ゐん」。詩賦・歌曲の総称。]の詩を作つた。が、すべての技藝に於て女は遙かに彼女の若き愛人を凌駕した。圍碁の際には、いつも彼の王將が包圍を受けて敗れた。詩作に當つては、女の詩は詞彩の調和、形の優美、想の古典的高尙に於て、彼のよりも常に勝つてゐた。して、彼等の選んだ題は、いつも最も難かしいものであつた――唐時代の詩人のものであつた。彼等が歌つた歌もまた五百年前のもの――元稹や、Thou-mou や、就中、名詩人で、四川省の刺史であつた Kao-pienの歌であつた。

[やぶちゃん注:「Wang-Wang」伝承では囲碁は聖王堯・舜が発明して息子たちに教えたとする。実際の文献上の初出は「論語」や「史記」である。このような話を私は寡聞にしらないが、この「Wang-Wang」というのは周の武王(拼音:Wǔ Wáng)であろう。平井氏もそのように訳しておられる。]

 かやうにして、彼等の戀の上に夏は榮えて、また衰へ、それからら、幻ろしの黃金のやうな霧と、不思議な紫色の影を伴へる、輝ける秋が來た。

 すると、偶然彼の父が、その子の主人に逢つたとき、質問を受けた。『最早冬も近くなつたから、貴下の息子さんは每夕市の方へ陷つて行くに及ばないではありませんか。道中は遠くもあるし、それに朝歸つてきた際には、疲れ果てたやうに見えます。雪の降る季節の間、なぜ私の家へ泊らせないのですか』彼の父は非常に喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]、答へた。『閣下、愚息は市へも出でで參りませぬ。また此夏中、私共の宅へ參つたこともありません。多分惡習に陷まして、よからぬ友達と夜を過ごすので御座いませう――恐らくは賭博とか、或は花舫[やぶちゃん注:花街で船を根拠地とした遊女たちの集まる場所の意と思われる。]の女と酒を飮むのではありますまいか』しかし長官は答へた。『いや、そんなことは思ひもよらぬことです。私は未だ嘗て、あの靑年に何等の惡弊を發見しないのです。また、私の附近に酒舖や花舫や道衞の場所とてはありません。屹度同年配の愉快な友達を得たので、それと夜を過ごすために、さもなくば遊びに行くことを私が許さないと思つて、虛僞を云つたのでせう。どうか私が此祕密を發見し得るまでは、彼に何も云はずに置いて下さい。して、今夜私は家僕を遣はして、彼の彼を蹤けさせ[やぶちゃん注:「つけさせ」。]、行先を注意させますたら』

 父は直ちにこの提議に同意し、翌朝この提儀に同意し、翌朝 Tchang を訪ねることを約して、家へ歸つた。夜になつて、靑年が邸を出でて行くと、一人の僕が見えないやうに、遠くから彼についで行つた。しかし道の最も暗い處に達してから、靑年は宛然土地に吞み込まれたかの如く、忽然姿が見えなくなつた。長い間、彼を搜索しても無効であつたので、僕は非常に當惑して歸つてきて、そのことを報告した。Tchang は直ちに Pelou の許へ使を遣はした。

 一方、靑年は愛人の室へ入ると、彼女が淚を流してゐるのを見て、驚き、且つ困つた。女は彼の頸に兩腕を捲きつけて、咽びながら云つた。『私共は永遠に分たれねばならぬことになりました。その譯は貴郞に云へません。抑もの始めから、私は斯うなるものとは知つてゐました。しかしそれで、も暫くの間は、私にはあまりにも殘酷な損失、あまりにも案外な災難と思はれまして、泣かずには居られないのでした。今晚限りで私共はお互に復た迄ふことはないでせう。して、貴郞は一生私をお忘れ下さることは出來ないだら5うと存じますが、また貴郞は大學者になつて、富貴を授けられ、それたら、或る美しくて、貴郞を愛する女が、私を失ひになつたのに對して、貴郞を慰めるだらうと存じます。で、最早悲しいことはお互に語らないで、この最役の晚を愉快に過ごしませう。さうして、私の思ひ出が貴部郞に取つて、心苦しくならぬやう、また貴郞が私の淚より私の笑ひを記憶して下さるやう致しませう』

 彼女は淚の玉滴を拭ひ去り、酒と樂譜と絹糸の七絃琴註七を持出でて、彼をしで瞬間も、やがて來たらんとする別離のことを話させなかつた。して、彼女は夏の湖水が唯碧空のみを映ぜる靜けさと、憂慮悲哀の雲影が心の小さな世界を暗くしない前に於ける、胸裡の沈着平穩を詠ぜる古歌を彼のために歌つた。間もなく、彼等は歌と酒の喜悅に悲しみを忘れた。して、その最終の數時間は、彼に取つては彼等の最初の幸福の折よりも、更に無上のものに思はれた。

 

註七 琴 Kin  ――支那の樂器中、最も完全なもの。「愚者の琵琶」とも稱せられる。Kin といふ語は、また「禁」を意味する。支那人の信仰によれば、音樂は一邪念を去つて人間の情を、正しくする」から、このやうな名をこの樂器に與へむのだと云はれてゐる。ウヰリヤムス氏著「中國」參照。

[やぶちゃん注:「ウヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊の“The middle kingdom”であろう。但し、「琴」の語源がハーンの謂うようなものであることには私は留保する。]

 

 が、麗らかな黃色の朝が來ると共に、彼等の悲しみは歸つてきて、兩人は泣いた。再び彼女は愛人を送つて階段まで行つて、別れの接吻をした。その際、彼の掌中へ別れの贈物を押し込こだ――それは瑪瑙の小さな筆筒であつた。驚くべき彫刻が施され、堂々たる詩宗の卓を飾るに適はしいものであつた。かくて、彼等は幾多の淚を灑いで、永久に別れた。

 

 しかし靑年は、それを永遠の別れと信ずることが出來なたつた。彼は『否、明日は彼女を訪問しよう。私は彼女なくては生きて居られないし、また、彼女は屹度、私を迎へることを拒絕し得ないだらう』と考へた。こんなやうな考へに滿たされ乍ら、彼が Tchang の家に達すると、彼の父と彼の庇護者が、玄關に立つて待ち設けてゐるのを發見した。彼がまだ一語を發し得ない内に、父は詰問した。『其方は此頃每夜、何處で泊つてゐたのだ』

 彼の虛僞が露見したのを知つて、彼は何等の答をも敢てしなかつた。彼は父の面前で、頭を垂れ、赤面無言のま〻であつた。すると、父は杖を以て激しく彼を鞭撻して、祕密を打明けるやう命じた。たうとう一つには父に對する恐怖と、また一つには『父に違背する子は、百囘の鞭撻を以て罰すべし』と規定せる法律を恐れて、彼は彼の戀愛の歷史を口籠りながら述べた。

 Tchang は靑年の物語を聞いて、顏色を變へた。彼は呼んで云つた。『私の親戚に Ping といふ名はない。君が說明したやうな女のことを私は聞き及んだこともない。しかし、君は家大人に虛言を吐く氣にはなれまい。どうも、この事件には奇異な疑はしい點がある』

 そこで靑年は、女が彼に與へた財物――黃色硬玉の獅子、瑪瑙に彫刻せる筆筒、また美姬の創作にかかる詩――を示した。Tchang が驚くと共に Pelou も驚いた。二人とも瑪瑙の筆筒と硬玉の獅子は數百年も地中に埋れた趣を有することと、現代の工匠の模し得ない技巧なることを認めた。加ふるに、詩は唐代の詩風で、眞に傑作であつた。

 Tchang は叫んだ。「Pelou 君、私兵は察刻令息を伴つて、是等の不思議なものを得た場處へ行つて見て、私共で實際を調べて見ませう。屹度、令息は眞實を話してゐるのでせうが、私の腑に落ちないのです』して、三人相携へて Sie の住家の方へ赴いた。

 

 が、彼等が道中の最も木蔭の多い場所、蘚苔[やぶちゃん注:「こけ」と訓じておく。無論、広義のコケ・シダ類である。]が最も芳ばしく、蘚苔が最も綠色を呈し、且つ野桃の呆賞が最も紅く輝いてゐる場所へ達したとき、靑年は森七廷して凝視して、驚愕の叫を發した。碧瓦の屋根が高く聳えてゐた處には、今は唯靑い空虛があるのみで、綠黃色の家の正面が見えてゐた處には、輝いた秋の光りの下に、唯木葉のちらちらするのみであつた。して、廣い壇が延長してゐた處には、唯古色蒼然、蘇苔に深く蝕せられた一個の癈墳が、認められるのみであつた。その上に刻まれた名は、最早讀むことが出來なかつた。Sie 家は失せてゐたのであつた。

 突然 Tchang は手を以て額を叩き、Pelou の方に振今向いて昔の詩人、Tching-Kou の有名な持を誦した――

[やぶちゃん注:「Tching-Kou」冒頭に配された詩句の作者鄭谷である。]

 『Sie-Thao の墓上には必らず桃の花が吹く』

 彼は續いて云つた。『Pelou 君、令息を魅惑した麗人は、私共の眼前にその墓が立つてゐる彼女に相違ない。彼女は Ping-Khang に嫁ついだと言つたではないか。そんな名の家族はないが、それは實際近く市中にある廣い橫町[やぶちゃん注:主道路の左右に付属する横町の意。]の名です。彼女の云つたすべてのことには、暗黑な謎があつた。彼女は自身を Moun-Hiao Sie [やぶちゃん注:先に示した通り、原拠の「文孝坊の薛」のことである。]と稱した。そんな人名はない。そんな町名もない。しかし Moun [やぶちゃん注:平井氏は『文』とする。]といふ字と hiao [やぶちゃん注:平井氏は『孝』とする。]といふ字を合はせると、Kiao [やぶちゃん注:平井氏は『教』とする。]といふ字になる。お聽きなさい! Kiao 町にある Ping-Khang といふ橫町は、唐時代の名妓輩の住んでゐた處でした。彼女は Kao-Pien の詩を歌つたのではありませんか。それから、彼女は贈つた筆筒と文鎭には、「Oho-hai 府の Kao 所有の淸翫品」[やぶちゃん注:平井氏は『渤海府、所蔵の清玩品』とある。]といふ文字が刻まれるではありませんか。その府は最早存してゐないが、詩 Kao-Pien の思ひ出は殘つてゐます。彼は四川省の勅史であつて、また一大詩人でしたから。且つ彼が Chou [やぶちゃん注:平井氏は『蜀』と訳しておられる。旧蜀は現在の四川省、特に成都付近の古称である。]の地にゐた時は、彼の寵幸[やぶちゃん注:「寵愛」に同じい。]したのは美しい游妓 Sie ――當時のあらゆる女の中で優雅無雙であつた Sie Thao ――ではありませんでしたか。あの詩稿を彼女に贈つたのは、彼なのです。あの珍重すべき美術品を彼女に與へたのも彼なのです。彼女は死んでも他の普通の女達とは違ふのです。彼女四肢は、灰燼に歸したのでせうが、まだこの深林の中に、何か彼女のものが生きてゐます――彼女の幽靈が依然この森蔭の地に彷徨してゐるのです』

 Tcnang は言葉を止めた。漠然いひやうのない恐怖が三人を襲つた。薄い朝霧が、綠色の遠景を朦朧たらしめて、森の怪凄なる美を深めた。一陣の力なげな微風が吹いて、花香の尾を曳いて去つた――枯死せんとする花の最後の薰り――忘れられた衣裳の絹に縋り附く衣薰の微かな名殘りであつた。して、それが過ぎ去る時、樹木は沈靜を破つて、『Sie-Thao』と囁くやうに思はれた。

 

 

 息子のため、痛く心配して、Pelou は直ちに彼を廣州府にかへした。その土地で、後年 Ming-Yは彼の材能と學問のために榮位髙譽を得た。して、彼は名門の女を娶つて、德藝共に有名なる兒女達の父となつた。彼は決して Sie-Thao を忘れ得なたつた。しかし決して彼女のことを口にしなかつたとのことである。たとひ兒女達が彼の書机にいつも載つてゐた二個の美麗な品――黃色硬玉の獅子と瑪瑙の彫刻の筆筒――の物語をするやう求めることがあつても。

 

黑松使者

 

070

 

【ハーンによる「解說」】

 『Ming-Y 秀才の話』――私のこの話は『今古奇觀』といふ有名なる物語集の第三十四章にある妖怪談に基いて書いたもので、もと博學なるグスタフ・シユレーゲルによつて、初めて該書の第七章と第三十四章は佛譯されたのであった。シュレーゲル、ジユリアン、ガードナー、バアーチ、ダントルコル、バーアチ、ダンドルコル、レミユデ、パヴィー、オリファント、グリゼバッハ、エルヴエ・サン・ドニー、その他の諸家が、該書の第二、三、五、六、七、八、十、十四、十九、二十、二十六、二十七、二十九、三十、三十一、三十四、二十五、三十九章、合計十八篇を歐洲語に譯出してゐる。支那の原著は十三世紀に遡つてゐるが、既に當時に於て最も人口に膾炙してゐた說話を集めたのだから、その多くは更に古い起原に屬するものと思はれる。『今古奇觀』には四十個の物語が載つてゐる。

[やぶちゃん注:「グスタフ・シユレーゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。

「ジユリアン」既出既注のフランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。

「ガードナー」原文“Gardner”。不詳。検索したが、ピンとくる人物がいない(以下の「不詳」は同前)。

「バアーチ」“Birch”。不詳。

「ダントルコル」“D'Entrecolles”。フランソワ・ザビエル・デントレコル(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘绪」。イエズス会司祭で中国に伝道し、陶磁器の研究を行った。

「レミユデ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。

「パヴィー」“Pavie“。既出既注。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。

「オリファント」“Olyphant”。不詳。

「グリゼバッハ」“Grisebach”。不詳。

「エルヴエ・サン・ドニー」既出既注。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。

 私は正直、このハーンの作品以上に原拠「今古奇観」の「第三十四巻 女秀才移花接木元」(中文ウィキソースの原拠では相聞される詩篇も載り、雅ではあるけれども)を愛恋々に静かに訳しうる日本の詩人は向後も登場しないではないかと感じている(私はこの漢文を訳せる能力を持ち合わせていない。されば、長い原文を示すこともしないし、況や訳を示すことは出来ない。悪しからず)。しかし、パトスののっぴきならない要求を持たない似非作家ばかりのこの現代には――

2020/01/19

ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:すでに本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では来日後の全作品集の旧和訳の電子化注を完遂しているが、今回は私の怪奇談蒐集趣味から、来日前にラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の電子化注に入ることとする。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全十一篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。作品本篇「大鐘の靈」の原題は“THE SOUL OF THE GREAT BELL”(「大梵鐘の霊魂」)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した。前の内扉の表紙には「龍圖公案」の文字が装飾のように記されてある。これは「りゅうとこうあん」と読み、明代の通俗小説の題名である。全十巻で作者未詳。北宋の名裁判官とされる龍図閣学士包拯(ほうじよう)を主人公とした裁判判例の形をとった小説集で、知られた同系の「棠陰比事(とういんひじ)」とともに日本に伝わって「大岡政談」物の成立に影響した。但し、で本書が同書を原拠としているかというとそうではない。さすればこそ、私は装飾と言ったのである。何かで同書名を見、この文字の様子をハーンは単にデザインとして直感的に気に入ったことからここに配したものかと思うのである(ハーンが選んだのかどうかは推測である。編集者が勝手に選んだ可能性もある)。しかし、「富山大学ヘルン文庫所蔵小泉八雲(ラフカディオ・ハーン[やぶちゃん注:これは「小泉八雲」にルビのように配されてある。])関係文献目録」の本作品集の書誌では、これについて――タイトル・ページに『「龍公図案」の印刷あり』――と解説するのであるが、私は、普通、そのような向きでこの四字文字群を判読はしないと考えるし、中国人も書きもしないだろうと思う。「龍公図案」という文字列の意味するところも私には半可通である。「龍顔」など「龍」は皇帝を意味するが、それにわざわざ「公」はまず附さないし、幻聖獸である龍を尊称で、その図案集というのもあってもおかしくはない。この「龍公図案」で正しいとされ、それが何を指すのかが判る方は御教授願えれば幸いである)で全篇視認出来る(本篇はここから。別な中国人のイラスト(左)と標題(右)ページで示した)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は満四十五歳の明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では帰化後も一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。本作品集では行空けが有意に広い箇所(二行空け)があり、それは再現してある。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名か、或いは別名か、はたまた話柄の中の当該パートの中の象徴的対応文字列かとも思しい怪しい漢字文字列が掲げられてある。これはやはり漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるもので、本篇の「投罏成金」などは、まあ、穏当な字体ながら、ひどく小さく、「罏」の文字がやや窮屈に反り気味なっている。しかし、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思ってかくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。以下でも同様に示すこととする。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。なお、註番号は全体に通し番号で振られてある(実際の原本ではこの注群は巻末の“GLOSSARY”(「用語集」)にあり、その数は膨大で、落合氏が引いたのはそのごく僅かな部分に過ぎない。則ち、原本は注形式ではなく最後に纏められている「用語集」として一括して載り、本文にはそれに対応する注記号は存在しない点は原本を読まれる際には注意が必要である。

 

 

  支 那 怪 談

 

     この書を

    私の友なる

     音樂家――

   黃金色の皮膚を有する漂泊の淸人に旋律の言葉を語り、

   彼等を感動させて、蛇皮の腹を有し、奇異の音を發する三絃を奏せしめ、

   彼等に勸めて、私のために叫音を發する月琴を奏せしめ、

   彼等を誘つて、その故國の素馨花の歌はしめたる――

   ヘンリー・エドワード・クレービールに捧ぐ。

[やぶちゃん注:ポイントに変化があるのは底本のママ原本では献辞者の名が頭に置かれている。

「ヘンリー・エドワード・クレービール」アメリカの音楽評論家から音楽学者となったヘンリー・エドワード・クレービール(或いはクレイビール)(Henry Edward Krehbiel 一八五四年~一九二三年:ハーンより四歳年下)。彼の英文ウィキはこちらであるが、あんじぇりか氏の『「怪談」をあらわした日本研究家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について歴女が解説』の中に、二十二『歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、』一八七四年二十四歳の時、同社の『正式社員』となり、『挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者』ともなった。『また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め』、二十五『歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だった』ことから、『エンクワイアラー社を』退職し(引用元は『解雇』とあるが、諸年譜では解雇とはなっていないので訂した)、『シンシナティ・コマーシャル社に転職』したとある。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)では、その殺人事件の条である一八七四年十一月七日(土曜)に『「タン・ヤード事件」起こる。ハーマン・シリングという男が殺され、または生きたまま炉で焼かれたという事件で』、三人の人物が『殺人容疑で逮捕された。友人クレイビールとともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをまき起こし、記者としての名を確立する』と、ここにハーンの友人として彼クレイビールが登場している。当時の彼は未だ弱冠二十であった彼の英文ウィキに戻って見てみると、まさにこの一八七四年に同じシンシナティの『シンシナティ・ガゼット』紙の音楽批評担当に就いている(一八八〇年十一月まで)ことから、社は異なるが、まさに若き記者仲間同士であったということが確認出来るのである。しかも本書の刊行(一八八七年)はこの年からは十三年も後のことで、ハーンもシンシナティを離れて、ニューオリンズにいた(クレイビールはその後『ニュー・ヨーク・トリビューン』の音楽担当編集者となっている)。しかも本書を彼に詩篇を添えて献呈するということは、その間も彼との音信は途絶えていなかったのであろう。

「三弦」原文“SAN-HIEN”。中国の伝統楽器である三弦(現代中国語カタカナ音写:サンシエン)。歌の伴奏楽器として人気があった。沖縄を経て日本の三味線となったルーツ。

「月琴」“YA-HIEN” 月琴(同然:ュエチィン)は同じく中国の伝統楽器。満月のような円形の共鳴胴に短い首(琴杵)を持つ。

「素馨花」(そけいくわ)。“JASMINE-FLOWER” 。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum。インドやパキスタンの高原地帯が原産で。古くから薬として使われ、花は女性の髪飾りとされる。花から採れる香油を「ジャスミン」といい、香料として使用される。]

 

 

   

 

 本書が微々たる一小卷たるに過ぎないことの最も有力なる辯解は、全く内容を成す材料の性質そのものが示してゐると、私は考へる。優等の傳說を蒐集するに當つて、私は特に怪異なる美を求めた。して私はサー・ウォーター・スコットの『古代歌謠の模倣に關する論』に於ける、左の卓見を忘れることは出來なかつた。『超自然怪異といふものは、人類間に頗る廣く且つ深く蒔きつけられたる、或る强い感情に訴へるものではあるが、しかし强ひてあまりに壓力を加へると、殊の外その彈力を失ひ易き一個の彈機のやうなものである』

 支那文學全般に亙つて通曉せんと欲する人々は、デュリアン、パヴィー、レミュザ、ド・ロスニー、シュレーゲル、レッグ、エルヴェ・サン・ドニー、ヰリヤムズ、ビオー、ヂヤイルズ、ワイリー、ビールの如き語學者、並びにその他幾支那學者の業績によつて、道を開かれてゐる。發見と征服の權利上、實際、中華國の物語の領域は、か〻る探檢家のものである。しかし彼等の跡を慕つて支那人の廣大神祕なる空想の樂園に遊ぶ些やかな[やぶちゃん注:「ささやかな」。]旅人は、そこに生えてゐる、幾つかの不思議な花――發光性の花、黑百合、一つ二つの燐のさうな薔薇――を、彼の奇異なる旅行の土產として、摘み取つてよろしいだらう。

 一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて

           ラフカヂオ・へルン

[やぶちゃん注:原本の「序」の前のページには「華」の漢字がやはりアクセント・デザインのように記されてある。最後のクレジットと場所・署名は上に引き上げた。

「サー・ウォーター・スコット」スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコット(Walter Scott 一七七一年~一八三二年)はロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた最初の人気作家とされる。「古代歌謠の模倣に關する論」(“Essay on Imitations of the Ancient Ballad”)は一八三〇年のエッセイ。こちらで英文で全文が読めるが、ハーンの引用は注ナンバー78のあるところから三行上の部分から始まる。最後だけ、原文では“pressed upon.”ではなく、“pressed on,”となっている。

「彈機」(だんき)。原文は“spring”。「発条(バネ)」のこと。

「デュリアン」原文“Julien”。フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「パヴィー」“Pavie”。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。九言語(中国語・満州語・ヘブライ語・アラビア語・ヒンドゥー語を含む)を用いることが出来た。「三国志」(一八四五年~一八五一年)のフランス語訳もある(彼のフランス語ウィキに拠る)。

「レミュザ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。ウィキの「ジャン=ピエール・アベル=レミュザ」によれば、『コレージュ・ド・フランス』(フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関(グランテタブリスマン))『の初代中国学教授で』、『西洋の中国学の草分け。レミュザ以前にも』『中国を研究した学者はいたが、中国研究を専門とし、中国学教授をつとめたのはレミュザにはじまる』とある。パリに流行したコレラで若くして亡くなった。

「ド・ロスニー」“De Rosny”。フランスの日本学者・東洋学者であったレオン=ルイス=ルシィアン・プリュネル・ド・ロニー(Léon-Louis-Lucien Prunel de Rosny 一八三七年~一九一四年)。当時、フランスに於ける日本研究の第一人者であったが、生涯一度も日本を訪れることはなかった。詳しくは参照したウィキの「レオン・ド・ロニー」を見られたい。

「シュレーゲル」“Schlegel”。オランダの東洋学者・博物学者であったグスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年:オランダ語音写では姓は「スフレーヘル」とも表記される)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。著書に「中国星辰考」などがある。一八九〇年にはフランスの中国学者・東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに歴史的に知られることになる中国学雑誌『通報』を創刊している。詳しくはウィキの「グスタフ・シュレーゲル」やそのリンク先を見られたい。

「レッグ」“Legge”。スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者でもあったジェームズ・レッグ(James Legge 一八一五年~一八九七年)。四書五経を始めとして儒教や道教の古典を英訳した。中国名は理雅各(ウィキの「ジェームズ・レッグ」に拠る)。

「エルヴェ・サン・ドニー」“Hervey-Saint-Denys”。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。中国名「德理文」を持ち、特に唐詩を西洋に紹介した一人として知られる(彼の英文ウィキに拠った)。

「ヰリヤムズ」“Williams”。アメリカの外交官・宣教師で、言語学者・中国学者でもあったサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四年)のことか。中国名は衛三畏。

「ビオー」“Biot”。フランスの、建築技師であると同時に中国学者でもあったエドルアール・コンスタン・ビオ(Édouard Constant Biot 一八〇三年~一八五〇年)。「周礼(しゅうらい)」フランス語全訳で知られる。

「ヂヤイルズ」“Giles”。イギリスの外交官で中国学者のハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年)。「華英辞書」の編纂によって特に知られ、「聊斎志異」や「荘子」などの英訳もしている。中国名は翟理斯。

「ワイリー」“Wylie”。イギリスのプロテスタントのキリスト教宣教師アレクサンダー・ワイリー(Alexander Wylie 一八一五年~一八八七年)か。中国伝道の過程の中で多くの中国研究や中国文学の研究を成した。中国名は偉烈亞力。英文ウィキの彼の記載はこちら

「ビール」“Beal”。イギリスの宣教師で中国仏教学者サミュエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。ケンブリッジ大学を出、海軍布教師となり、中国に渡って、特に宗教について研究した。中国仏教研究の開拓者である。帰国後、ロンドン大学教授となった。著書に「漢訳仏典精要」他がある。

「一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて」明治十九年に当たる。当時、ハーンはニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社(Times Democrat)の文芸部長(一八八一年から。主に日曜版を中心に記者として執筆した)であった。]

 

 

  大 鐘 の 靈

[やぶちゃん注:実は原文を見ると、標題の前ページに、

   She hath spoken, and her words still resound in his ears.

        HAO-KHIEOU-TCHOUAN: c. ix.

とあるが、落合氏はそれをカットしてしまっている。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「大鐘の霊」では、

   《引用開始》

 嬌語ナホ耳朶ニアリ。――好逑伝 第九章

   《引用終了》

とする(但し、標題の後に配されてある)。「好逑伝」(こうきゅうでん)は清初の小説で「侠義風月伝」とも称する、全四巻十八回からなる当時の白話(口語)小説で、作者は「名教中人」とするが、事績は未詳。題名は「詩経」の「周南」の「関雎(かんしょ)」の「窈窕(えうてう)たる淑女は 君子の好逑(つれあひ)」に拠り、鉄中玉(てつちゅうぎょく)が悪人との葛藤の後に天子の仲介によって水氷心(すいひょうしん)と目出度く結ばれるという典型的な才子佳人小説。婦人の貞節を強調する儒教臭の強い作品であるが、類型化されたこの種の作品のなかでは人物の描写や構成に優れており、十八世紀半ば以来、英語・フランス語・ドイツ語等で十数種もの翻訳があり、ヨーロッパでは広く知られた作品であった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。思うに、「中國哲學書電子化計劃」の同作の「第九囘虛捏鬼哄佳人徒使佳人噴飯」の二十二節の「言過還在耳、事棄尚驚心」の前半と思われる。「嬌語」は艶めかしく誘う女の言葉の謂いである。落合氏がカットしたのは、全体の添え字として相応しくないと思ったからか? にしても不当行為である。

 

 漏刻計が大鐘塔註一で時を示すと、木槌は金屬製怪物の緣を打たうとして扛げられる[やぶちゃん注:「あげられる」。]――巨鐘の緣には尊い佛敎の經文から取つた文句が彫つてある。巨鐘の響く音を聞け! 舌はなくても、その聲の太いこと!――KO-NGAIと響く。その深い音波の下に、綠色の屋根の、高く灣曲せる檐[やぶちゃん注:「ひさし/のき」。]に刻まれた、あらゆる小さな龍は、その黃金色の尾の尖端に至るまで振動する。あらゆる陶器製の樋嘴[やぶちゃん注:「ひはし」。]は、その彫り込んである場所で慄へる。堂塔のあらゆる小さな鈴も語り出さうと欲して戰く[やぶちゃん注:「をののく」、]。KO-NGAI! と寺院のあらゆる靑黃色の瓦は振動する。瓦の上の木製の金魚は空高く踠く[やぶちゃん注:「もがく」。]。佛陀の天上を示せる指は、香煙の靑霧裡に、參詣者の頭上に搖れる。KO-NGAI! と。いかにも雷の如き音だ。宮殿の蛇腹に刻まれた漆塗りの怪物は、悉くその火の色の舌とうごめかす。して、大きな激動の後に起こる無數の反響と、

[やぶちゃん注:「漏刻計」水時のこと。容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時を計るもので、中国では古代からあった。

KO-NAGAI」原文では“KO-NAGAI”と斜体(以下、注しないが、中国音らしきラテン文字表記は総て斜体である)。平井氏は先に挙げた恒文社版で、この「KO-NGAI!」を『珂愛(おんない)!』と、以下も総て、かく訳しておられる。ここではネタバレになるので注しないが、この文字の意味は後で判る。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされていることで、一応は氷解する。

「樋嘴」原文“gargoyles”。「ガーゴイル」は建築用語で、西洋建築の軒先などに壁面から突出して附けられた雨水の排水口を指す。中世以降は非実用として装飾的に作られる場合が多く、特に垂直性を強調するゴシック建築では、通常、ハイブリッドの幼獣キマイラの形をしており、上部に装着された。パリのノートル・ダム大聖堂の怪獣形のものがその典型である。ここは中国の古建築の屋根の端に見られる神獣像をかく言ったもの。]

 

註一 ‘Ta-chung sz’。文字通りには、『鐘の寺』。この建物は北京にあつて、恐らくは世界一の懸鐘を蔽ふてゐる。鐘は西曆一四〇六年、明の永樂皇帝の時代に鑄られ、十二萬斤以上の重さを有する。

[やぶちゃん注:「十二萬斤」一斤(きん)は現代日本では六百グラムであるから、七十二トン(現代中国では一斤五百グラムなので、六十トン。因みに本篇原話の書かれた清代、及び話柄内時制の明代のそれは孰れも約五百九十七グラムである)。ここに出るのは現在、「北京大鐘寺古鐘博物館」(覚生寺)(グーグル・マップ・データ)として整備されている旧大鐘寺の「永楽大鐘」は、現在は明の永楽一八(一四二〇)年前後に製造されたとされ、重さ四十六・五トン、最大直径四メートル(平均で三・三メートル)、縁部分の厚さが二十二センチメートルである。鐘には経文と呪文が漢字と梵字がみっちりと鋳込まれてあり、その総字数は実に二十三万字以上という。以上の数値は(株)カリヨン・センター制作のサイト「鐘(ベル)&カリヨン Bell & Carillon」のこちらに拠った。そこでは大鐘の写真も見られる。落合氏の鐘の重量はちょっと誇大に過ぎるように見えるが、どうもこれは落合氏が一般読者に判り易い「食パンの一斤」で換算したせいかも知れない。現代の食パンの一斤は三百五十から四百グラムとされるから、四十二から四十八トンとなって、現在の永楽大鐘の公式重量の範囲内に入るからである。

「永樂皇帝」(一三六〇年~一四二四年:在位/一四〇二年~一四二四年)明の第三代皇帝。姓は朱。ウィキの「永楽帝」によれば、『明の最大版図を築き、鄭和』(ていわ)に南海への七度に亙る大航海をさせる『などの事業を起こ』し、『気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し』、『宦官を重用した。これは、皇位簒奪』(彼は甥である第二代皇帝建文帝を倒して帝位についた(靖難(せいなん)の変))『という負い目もあって』、『官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった』とあり、また、『即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された』とある。冷血にして短気激情型の独裁権力者の面持ちは本篇でも以下でよく現われてくる。]

 

大きな美しい黃金のやうな唸り聲の不思議さ! それから、遂に巨大の音が、次第にとぎれとぎれの銀聲の囁きとなつて――恰も女が Hiai! と囁くやうに――消え行くとき、不意に耳の中で㗙音の嗚咽となつてしまふ。かやうな有樣に、此大鐘は殆んど五百年間、每日 KO-NGAI と響いてゐた。劈頭[やぶちゃん注:「最初(撞き始め)に」の意。]素晴らしい鏗聲[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。鐘を撞く音。]を發し、それから無量の美しい黃金のやうな唸りとなつて、次にはHiai! と、銀聲の低囁[やぶちゃん注:「ていせふ(ていしょう)」。低い囁(ささや)き。]になつた。して、古い支那の都の色彩に富める、あらゆる町々の子供達の中で、大鐘の物語を知らぬもの――何故に大鐘は KO-NGAI と響き、Hiai! と鳴るのかを語り得ないもの――は一人も無い。

[やぶちゃん注:「音」一応、「しうおん」と呼んでおく。「」は音「シュ・ドウ・ノウ・ジョウ・ニョウ」(現代仮名遣)で、意味は例えば「人を叱る声」の意があるようである。原文のこの前後は “the sudden sibilant sobbing in the ears”で、「sibilant」は「シュー(シーッツ)という音」のオノマトペイアのようである。平井氏はこの前後を、『――あたかも女が「鞋(あい)!」と咡』(ささや)『くかのように――細く消えていきながら、にわかにすすり泣く歔欷(きょき)の声を耳につたえてくるのである。』と訳しておられ、「鞋!」(「靴!」の意)を除いて、躓かずに読めるのである。しかも平井氏の「鞋!」も、読み進めれば、自ずと難なく氷解するようになっているのである。現行の漢和辞典に殆ど載らないこの漢字を選んだ落合氏は読者への配慮が頗る足りないと思う。]

 

 さて、これが廣州府の學者、Yu-Pao-Tchcn の書いた、『百孝集』に載つてゐる、大鐘塔の巨鐘の物語である。

[やぶちゃん注:平井氏は「Yu-Pao-Tchcn」を『兪葆真(ゆほうしん)』(清代の作家)、「百孝集」の書名を『百孝図説』と訳しておられる。解説に出るので後でもまた注する。]

 約五百年前のこと、明の時代の天子、永樂皇帝はその高官 Kouan-Yuに命じて、百里の遠方へまで音の達するやうな天鐘を作れといつた。また彼は鐘に眞鍮を加へて、その音を强くし、黃金を加へてそれを深くし、銀を以て美しくせよと命じた。それから、鐘の表面と大きな緣には、聖經の文句を彫ることと、その鐘は北京の都の色彩に富める、あらゆる町に響き渡るため、帝都の中心に吊るすべきことをも命じた。

[やぶちゃん注:Kouan-Yu」平井氏は『関由(かんゆ)』と訳しておられる。

 そこで高官 Kouan-Yu は國中の鑄造師の頭領、有名な鐘鍛冶、及ぴ鑄造業に於ける、世に聞えた妙工を悉く集めた。それから、彼等は合金に對する材料を量り、それを巧みに處理し、模型、火、機械、及び金屬を鎔かすための大坩堝[やぶちゃん注:「だいるつぼ」。]を準備した。彼等は巨人の如く猛烈に働いた――彼等が怠つた事は休憩と睡眠と娛樂ばかりであつた――夜も晝も Kouan-Yu の命に從つて働き、一切の事、天子の諭旨を成就しようと努力した。

 が、金屬が鑄られて、土型を灼々たる鑄物から離して見ると、彼等の非常な勞作と間斷なき注意にも關らず、その結果は無効であつた。何故なら、金屬類が相互に離叛したからである――金は眞鍮を侮つて、一致することを肯じなかつた。銀は鎔けた鐡と混じようとはしなかつた。そこで、模型は今一度調整され、火は再び燃やされ、金屬も更に鎔かされて、一切の仕事が、面倒にも、また辛苦を重ねて繰返された。天子はこのことを耳にして、怒つてゐたが、何も云はなかつた。

 第二囘目の鑄造が出來た。しかし結果は一層惡かつた。金屬類は依然として頑固に互に混合することを拒んだので、鐘には少しも均一性がなかつた。して、その側面は龜裂を生じ罅隙[やぶちゃん注:「かげき」。罅(ひび)と隙間。裂け目。割れ目。亀裂。]が現はれ、その緣は固著して熔滓[やぶちゃん注:「ようさい」。スラグ(slag)のこと。金属の製錬に際して溶融した金属から分離して浮かぶ滓(かす)のこと。]を作つて、割けてゐた。だから、すべての勞作は、三度繰返されねばならなかつた。して、Kouan-Yu は非常に驚愕狼狽した。すると、天子はこれを聞いて、以前にも增して激怒した。それから、橙黃色の絹に認めて、龍の印を以て封緘せる書狀を使に持たせて、Kouan-Yu に送つた。その文句は次の如くであつた――

[やぶちゃん注:以下の書状は底本では全体が二字下げ。]

『明朝の尊嚴なる永樂皇帝から府尹[やぶちゃん注:「ふゐん」。]註二 Kouan-Yu に告げる。朕が汝に託した任務を二囘まで汝は誤つた。若し三たび朕の命を成就することが出來ないならば、汝の頭を頸から斷つてしまふぞ。恐惶して、命を奉ぜよ』

 

註二 府尹――西洋に於ける市長に比すべき。支那の都會の吏。

 

 

 さて Kouan-Yu には、燦然と輝くやうに美しい娘があつた。Ko-Ngai といふその名は、常に詩人の口にのぼり、またその心は顏よりも更に美しかつた。Ko-Ngai は熱愛を以て父を愛したので、百人の立派な求婚者を拒んでも、彼女のゐなくなるため、父の家を淋しくすることを欲しなかつた。だから、龍印に封ぜられた、恐ろしい黃色の書狀を見ると、父のために心配して氣絕した。それから、正氣に返り、力も附いた扱、父の危難を思つては、休むことも寢ることも出來なかつたので、遂に密かに彼女の幾らかの寶石を賣却し、かくして得た資產を携へて、占星者の許へ馳せた。して、巨額の料金を拂つて如何にせば父の身の上にふりかかつてゐる危險を救ひ得るかを占はせた。そこで、占星者は天象を觀測し、銀河(私共の所謂、乳狀の道(ミルキー・ウエー)の狀況に留意し、黃道帶[やぶちゃん注:「くわうだうたい」。]の徵候を察し、五行の表と煉丹家[やぶちゃん注:「れんたんか」。]の祕書を調べた。して、長い間沈默の後、彼女に答へていつた。『少女の肉が坩堝の中で熔かされ、處女の血が金屬の熔ける際に混ぜられるまでは、金と眞鍮は決して婚姻を求めない。また銀と鐡も決して抱擁しないだらう』彼女は心中悲哀に滿ちて家に婦つた。が、その聞いたことを、すべて心に祕めて誰にも告げなかつた。

[やぶちゃん注:「黃道帶」黄道(おうどう:惑星からの見かけ上、天球上を恒星が一年かけて一周するように見える大円の経路のこと。科学的には黄道面は惑星そのものの公転軌道面と同義となる)を挟んで、南北に各八度ずつ、幅十六度で形成した帯部分。太陽・月及び主な惑星はこの帯の中を動く。黄道十二宮に相当する黄道十二星座があり、それらには星座名に動物の名の附いたものが多いことから、「獣帯」(じゅうたい)とも呼ばれる。

「煉丹家」西洋の錬金術に対応する古代中国の道士の術で、辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。六方晶系の鉱物。純粋なものは朱色を呈する)を練って不老不死の薬を作ることを「煉丹」と言ったが、ここはそれに代表される道教の主要な先賢を指す。]

 

 遂にいよいよ、三度目に大鐘を鑄る、最後の努力の怖ろしい日が來た。して、Ko-Ngai は侍女と共に、父に隨つて鑄造所へ行つて、彼等は鑄型師の勞作と、流動體となつた金屬を政瞰視する壇止の席に就いた。すべての職工は、孜々汲々[やぶちゃん注:「ししきふきふ(ししきゅうきゅう)」。怠ることなく一心に勤めるさま。]、無言にて動き、火の呟く外には、何の音も聞えなかつた。して、火の呟く音は、大嵐の肉迫するやうな深い轟音と變はり、金屬の赤血色の池は、徐々と朝日の朱に輝き、朱は黃白の燦爛たる先に變じ、黃金は滿月の銀の顏のやうに、眩しいほど白くなつた。それから、職工達は狂號する炎に薪を給することを止めて、皆 Kouan-Yu の眼の上に彼等の眼を注いでゐた。すると Kouan-Yu は型に流し込む合圖をしようと準備した。

 しかし彼がまだ指を上げない内に、一聲の叫びが、彼の頭を振り向かしめた。して、すべての人々は烈火の轟々たる音を越えて、鳥の歌の如く、鋭く美はしく響いて、『お父さま、あなたのために!』といふ Ko-Ngai の聲を聞いた。彼女は叫ぶと共に、金屬の白い洪水の中へ跳び込んだ。熔鐡爐の熔けた金屬は、彼女を迎へて咆吼し、屋根までも素晴らしい炎の火花を跳ね飛ばし、土坑の際端から外へ勢よく溢れ出し、幾多の色彩ある渦卷く噴水を投げ上げて、それから電光、雷鳴、低囁を發しつ〻、慄へ[やぶちゃん注:「ふるへ」。]乍ら鎭まつた。

 そこで彼女の父は、狂氣の如く悲しんで、娘の後を追つて跳び込まうとしたが、腕力逞しいものどもが、彼を引き止め、確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]押へたので、たうとう絕え入るばかりに弱くなつて、恰も死人の如くに運ばれて家に歸つた。それから、Ko-Ngai の侍女は、苦悶眩迷、言葉も出ないで、小さな靴を手に持つたま〻、爐の前に立つてゐた。それは亡くなつた美しい女主人の眞珠と花の刺繡を施せる華奢な小さな靴であつた。といふのは、彼女は Ko-Ngai が跳び上つた時に、その足を捉まうとしたが、ただ靴を摑む事が出來たのみで、美麗なる靴はすつぽり脫げて彼女の手に殘つたからである。それで、彼女は全く狂人のやうに、それを凝と視てゐるのみであつた。

 

 が、か〻る慘事はあつたもの〻、天子の命令は奉ぜざるを得なかつた。して、いかに結果が駄目であらうとも、鑄型師の仕事は完成せねばならなかつた。しかし金屬の光澤は、以前に比すれば更に純白に見えた。またその中に葬られた美しい屍體の片影をも留めなかつた。こ〻に大規模の鑄造は濟んだ。驚いたことには、金屬が冷却してから、鐘は見るからに美くしく、恰好は完全、色はいかなる鐘にも優つてゐた。また少女の身體の痕跡をも留めなかつた。それは全然貴重なる合金に吸收され、よく混和せる眞鍮と黃金に交じり、銀と鐡の融合に加つたのだ。それから、人々が鐘を鳴らして見ると、その音調は他のいづれの鐘よりも深く、淸らかで、强かつた――百里の距離よりも一層遠くに達し、夏の雷の如く響いた。しかも、また大きな聲で、人の名、女の名―― Ko-Ngai の名を呼ぶやうに響いた。

[やぶちゃん注:「百里」「里」は原文も“li”となっている。清代の一里は五百七十六メートルであるから、五十七・六キロメートルに当たる。]

 

 

 それから、またこの鐘を强く撞き鳴らす合間々々に、長く低い鳴咽の聲が聞える。して、その嗚咽の聲は、恰も泣く女が Hiai! と呟くかのやうに、淚にむせび、哀訴する音を以て終はる。して、いつでも人々が巨鐘の黃金のやうな唸りを聞くときは、肅然沈默してゐるが、鋭く美はしい戰慄の音が空に傳つて、それから、Hiai! の咽び泣きが聞えてくると、北京の色彩に富める町々の、あらゆる支那の母達は、彼等の子供に囁いていふ。『お聽きなさい、あれは Ko-Ngai が靴を求めて泣くのです! あれは Ko-Ngai が靴を呼んでゐるのです!』

 

投 罏 成 金

 

028

 

[やぶちゃん注:「投罏成金」の「罏」は「爐」の通ずるので、「罏に投じて金と成る」(鎔鉱炉の中に身を投じて合金の生するを成就す)と謂った意味か。後の私の注で見る通り、これは原話の題名であった。字が大きいのは底本に合わせた結果である。]

 

【ハーンによる「解說」】

 『大鐘の霊』――この物語は「百孝集」(Pe-Hiao-Tou-Choue)と題せる物語集から取つたものである。支那の物語作者は、頗る簡明に此話を語つてゐる。博學なる佛國領事ピー・ダブリー・ド・チールサンは一八七七年に該書の一部を譯して出版した。その中にこの鐘の傳說も收めてあった。譯書は澤山の支那の畫で飾られ、Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫も附してある。

[やぶちゃん注:「ピー・ダブリー・ド・チールサン」フランス海軍士官で外交官のクロード・フィリベール・ダブリー・ド・ティエサン(Claude-Philibert Dabry de Thiersant 一八二六年~一八九八年:詳細事績は調べ得なかった)。彼が一八七七年にパリで出版した“La piété filiale en Chine”(「中国に於ける『親への孝』」)が当該書である。フランス語サイトのこちらで原文全篇がダウン・ロード出来、そこにハーンが依拠した“KO-NGAI”が所収されていることが確認出来た。但し、ここのデータでは「Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫」は確認出来なかった。そこで、原話である清代の兪葆眞(ゆほうしん:詳細事績未詳)作の「百孝圖說」を探してみたところ、しばしばお世話になる中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらでやっと発見した。標題はまさしく「投罏成金」(右の電子化は「投驢成金」と誤っている)で、この画像版ページにハーンの言うシーンを描いた挿絵がある。原本画像に忠実に従い、電子化しておく(【 】は二行割注)。それはハーンも言うように、実は驚くほど短く、時代設定も場所も人名も何もかも皆、異なっていることが判る。

   *

  投鑪成金

吳李娥、父爲吳大帝鐡官治以鑄軍器、一夕錬金於鑪、而金不出吳令耗折官物者坐斬、娥年十五遂自殺鑪中、於是金液沸溢、塞鑪而下、遂成溝渠、注二十里、所收金億萬計、【孝苑】

   *

「吳大帝」とは三国時代の呉の初代皇帝孫権(在位:二二九年~二五二年)のことである。ハーンが言う図もここから取得出来たので、以下に掲げておく。

 

Touroseikin

 

原画像が傾いてしまっていて、しかも全体に薄いことから、回転と補正を加えて見易くした。なお、調べるうち、この原話は実はかなり知られたものであることが判った。例えば、同じ明代の倫彙編になる「欽定古今圖書集成」の「第三十九卷」(中文ウィキソース)の黃雲師の「王孝娥哀辭」の一節に、

   *

吳大帝時有女、父爲鐵官、冶不液、女自投冶中、鐵乃液。然後父刑免。

   *

とあるからである。]

2020/01/15

第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「家庭版小泉八雲全集」第五巻 田部隆次氏「あとがき」

 

[やぶちゃん注: 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。当該「あとがき」本文はここ。なお、本巻は四人の訳者による共訳であるが、「あとがき」は田部隆次氏によるもののみである。最後の田部氏の署名はポイント上げでもっと下方にある。

 なお、幾つかの事項や人名等については、今まで電子化注の中で施してきたので、ここでは繰り返さない。その代わり、各作品には私の当該篇に直接にリンク(分割の場合はその初回)を施して便宜を図った。その関係上、一部に半角開けを施した。]

 

      あ と が き

 

 『東の國から』は一八九五年、ボストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグッド・マックイルヴヱン會社から同時に出版された。出雲時代の友人西田千太郞氏に捧げてある。重に熊本時代の見聞に基づいて居るこの十一篇のうち「夏の日の夢」は『ヂヤパン・デイリー・メイル』に、「博多にて」 「永遠の女性に就て」 「赤い婚 「叶へるの四篇は『太西洋評論』に、その以前發表された物である。

 「九州學生」のうち、譯者が註に書いた當時の生徒の名は全部安河内麻吉氏の敎示によつた事を述べてここで謝意を表したい。當時は生徒の數も少なかつたので、文科と法科は勿論、理科工科も共通學課は時として一緖に授業を受けた事を注意すべきである。

 

 『心』は一八九六年、ポストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグツド・マツクマックイルヴヱン會社から同時に出版された。友人雨森信成(のぶしげ)氏に捧げてある。熊本時代の物一部分を除いて大部分神戶時代になつた十五篇のうち「日本文化の眞髓」 旅行日記より」 「戰感」 神佛の黃昏時[やぶちゃん注:この訳題は本篇では「薄暗がりの神佛」である。当該篇訳者が田部氏でなく、戸澤正保氏であるための齟齬に過ぎない。]の四篇は、その以前『大西洋評論』で發表されて居る。附錄の唄三つ」は出雲松江附近の或部落を訪うて得た物である。

 これ等の諸篇は多くは事實に基づいて居る。たとへば「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた。「戰感」 コレラ流行時に」 つけ」の記事も皆事實であつた。コレラ流行時に」の著者の家は神戶市中山手通、七丁目番外十六番にあつた。

 著者は夫人にいつも話を聞くやうに、屑屋でも魚屋でも珍らしい經驗をもつた人の話を尊重して聞くやうにと云つた。神戶で門つけを呼び入れて歌を聞いたあとで御馳走をしてできたのがこの一篇であつた。この歌の原文は一つから二十まである數へ歌。大阪の男女が京都の疏水で心中した事實を歌つた物。女が遺書を書いて居るところと、二つの新しい墓の繪があるだけ。歌の文句は「一つとせー、評判名高き西京の今度開けし疏水にて、浮名を流す情死の話」と云ふやうな物であつた。しかし十吉と云ふ男の名も、若菊と云ふ女の名も、印刷者發行人の名まで變へてある。

 

     昭和二年二月  田 部 隆 次

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳) / 作品集「東の国から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“YUKO: A REMINISCENCE”。「勇子――一つの追憶」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の最終話である第十一話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 本篇で語られる畠山勇子(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、ウィキの「畠山勇子」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚(グーグル・マップ・データ))に『畠山治兵衛の長女として生まれ』た。『畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚』し、『東京に出て』、『華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件』(明治二四(一八九一)年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された。津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく、藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死している)『が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽』、『神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと』、『奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ』、『出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた』とある近代の稀に見る憂国の烈女である。ハーン(小泉八雲)は事件発生直後から強い衝撃とシンパシーを彼女に持ち、来日後の第一作品集“Glimpses of Unfamiliar Japan”(明治二七(一八九四)年九月刊)で早くも彼女のことを記している(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』を見られたい)。また、本作品集刊行から七ヶ月後の明治二八(一八九五)年十月の京都旅行の際には彼女の墓を参って(『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』の私の注を参照)、『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」』の一章全部を彼女を語ることに費やしている。

 最初のクレジットはややポイント落ちの下六字上げインデントで、聖書の引用は、ややポイント落ちの九字下げで、連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 なお、本篇を以って、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)来日後の十二冊の作品集総てのオリジナル電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」にて完遂した。本格的に手をつけたのが、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』で二〇一五年六月十七日であったから、途中、ブレイクした時期があるが、足掛け四年七ヶ月かかった。その間、「八雲会」様ほか、多くの方々からエールを送られた。心より感謝申し上げる。私の一つの小泉八雲の区切りとなったが、向後も、ゆっくらと来日前の作品群のそれに取り掛かりたいと思っている。

 

  勇子――追憶談

            明治二十四年五月

 

   誰れか勇敢なる婦人を見出すべき――

   勇敢なる婦人は貴重にして

   容易に國内に見出されず――

               拉典譯聖書

[やぶちゃん注:「拉典」(ラテン)「譯聖書」とあるが、表記は現代英語である。これは「ヴルガータ」(ラテン語:Vulgata)で、これはラテン語の「editio Vulgata」(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のことを指す。これは「旧約聖書」の「箴言」の最後の第三十一章の中の第十節である。「文語譯舊約聖書」(昭和二八(一九五三)年版)から(ここを参考にした)当該部を引くと、『誰(たれ)か賢(かしこ)き女(をんな)を見出(みい)だすことを得(え)ん』。『その價(あたひ)は眞珠(しんじゆ)よりも貴(たふ)とし』である。]

 

 『天子樣御心配』。天の子宸襟を惱まし給ふ。

[やぶちゃん注:「宸襟」(しんきん)は「天子の御心」の意。]

 町は不思議にしんとして、萬民喪に居るが如き靜けさである。行商人さへ平常より低い聲で賣り步く。何時も朝早くから夜屈くまで雜沓する劇場も悉く閉鎖した。あらゆる遊び場、あらゆる興行物(みせもの)――花の會まで閉鎖した。あらゆる宴席料亭も同樣である。淋しい藝者町に三味線の音一つ聞こえねば、大きい旅人宿に酒飮み騷ぐ者もなく、客は低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で話すばかり。道行く人の顏にも平生の微笑は何處へやら、町角の貼紙は宴會や餘興の無期延期を報じて居る。

 こんな火の消えた樣な淋しさは、大きな天災若しくは國家の危機――大震災、首都の破壞、宣戰の布告の樣な報道のあつた後に起こるべきだ。併しそんなものは實際何もない――ただ天皇叡慮を惱まし給ふと云ふ報道があつた計り。それに國内幾千の都會を通じて、同じ憂愁の雲に掩はれ、萬民主君と悲みを同じうするの衷情を表して居る。

 君王の悲みを悲む此偉大な表現の直ぐ後から、過(あやま)てるを正し、損はれたるを償はんといふ、自發的の願望が一般に起こつて來た。此願望は直に衷情から出て、天眞爛漫な、無數の形で現はれた。殆ど各地各人から慰問の書面や電報、又は珍らしい献上品が國賓に宛てて送られた。富めるも貧しきも、重代の品物や、貴重な家の寶を取り出して、負傷した皇太子に捧げたのである。其外露國皇帝に傳送すべき無數の書面が認められた――皆何れも自發的に個人が爲したのである。或る奇特な老商人は自分を尋ねて來て、露國皇太子襲擊に對する全國民の深厚な悔恨の意を表はす電文――全[やぶちゃん注:「すべて」か。衍字のようにも思われる。]露國皇帝への電報――を佛語にて認めて吳れと乞うた。自分は丹精をこめて認めてやつたが、高貴な方への電文の文言には、全く無經驗であることを云つて聞かせた。『お〻それは關(かま)ひません』彼は答へて云つた、『セントピータスバーグの日本公使宛てに送ります。間違ひがあつたら公使が形式通りに直して吳れませう』自分は更に、電報の料金を承知して居るかどうかを尋ねて見た。處が彼は正確に百餘圓と計算した。これは松江の小商人に取つては莫大な支出であつた。

[やぶちゃん注:「セントピータスバーグ」“St. Petersburg”。サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は現在のレニングラード州の州都(グーグル・マップ・データ)。当時はロシア帝国の首都であった。

「百餘圓」明治二四(一八九一)年当時の一円は現在の二万から三万円相当。]

 頑固な老サムラヒ達は、これとは全く異つた荒つぽい方法で彼等の所感を示した。大津で露太子警衞の任に當つた一高官は、特別便で、利刀と書面とを受け取つたが、其書面には、早速切腹して、男子の面目を完うし、兼て遺憾の意を表せと書いてあつた。

 一體日本人には、神道の神と同樣、二種類の魂(たましひ)がある。和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)とである。和御魂はただ補償を求め、荒御魂は贖罪を要求する。今や國民の生活を掩ふ暗澹たる大氣の中に到る處此の相反する衝動の奇なる震動が、恰も二種の電氣の如くに感ぜられる。

 

 遠い神奈川の或る富家に一人の若い娘の婢女(めしつかひ)が居る。名は勇子(ゆうこ)と云ふ。これは勇敢といふことを意味する、昔の武家風の名である。

[やぶちゃん注:「神奈川」原文もママ。彼女は横浜の銀行家宅の女中であったことはあるが、事件当時は既に注した通り、東京にいた。情報が錯錯綜していたものと思われる。また、前に示した通り、以下、ハーンは一貫して彼女を元武家の出としているが、彼女は農民の娘であり、縁者にも元武家はいない。その自死の苛烈果敢凄絶であったことから、これもそうした事実でない認識が広くなされたものと思われる。

 四千萬の同胞が悉く悲しんで居るが、勇子の悲みは群を拔いて居た。何故(なぜ)何(ど)うしてといふことは西洋人には十分に了解(わか)らぬ。が、彼女の全身は感動と、我々には極漠然としか分からぬ衝動とに領せられて居る。善良な日本少女の精神の一端は我々にも解せられる。其精神の中には戀もある――但し深く靜かに潛在して居る。汚濁を受け附けぬ純潔もある――其佛敎的象徵は蓮花である。又梅花にかかる初雪の樣に纖細な感觸もある。又武家傳來の死を恐れぬ氣性が、音樂の樣に和らかな温順さの中に潛んで居る。堅實で素朴な宗敎心もある――神佛を味方にして、日本の禮節に背かぬ限りの心願を掛けるに憚らぬ衷情からの信仰がある。併しこれと此外の色々の情感の上に、全體を統率する優越な一つの情緖があるが、それは西洋の語では表現することが出來ない――忠義(ローヤツチー)といふ譯語では全く物足りない、寧ろ我々の所司神祕的興奮に近い或る者で『天子樣』への極度の崇拜歸依の心である。これはただ個人一代の感情ではない。押し詰めると、忘れられたる遠い遠い過去の闇へ遡る先祖傳來の不朽不死の道念と意志である。彼女の肉身は、我々西洋人のとは全く異る過去の憑依せられた靈の住家(すみか)である。――其過去に於ては無數劫の間、凡ての日本人は一人の如くに、我々とは異る風に、生き、感じ考へたのである。

 

 『天子樣御心配』此報道に感應して男勇子の心には何か献上したいといふ燃ゆる樣な願望が直に湧き起こつた――制すべからざる願望ではあるが、給金から剩(あま)した僅少の貯への外には、何一つ所持せぬ彼女には全く無望であつた。けれども此熱望は執着して彼女に少しの平和をも與へぬ。夜になると彼女は考へに沈んで、自分に色々の問を發すると、祖先の禮が彼女に代つて答へるのである。『天子樣の御心配を安め奉るのに、何を献上したら宜からう』『汝の一身』と聲のない聲が答へる。『併し妾にそれが出來ませうか』と彼女は心許なげに問ふ。『汝には兩親とも無い』と聲が答へる、『さればとて汝の力では何を献上する事も出來まい。汝は我々の犧牲となるがよい。聖植の爲めに一命を抛つのは最高の忠義、最高の悅びではないか』『そんなら何處で』と尋ねると、『西京で』と沈默な聲が答へる、『古例に則つて死ぬ者の玄關口で』

 夜が明けると、勇子は起きて太陽を拜する。朝の任務を終はる。暇を乞ふ、許される。つぎに取つて置きの晴衣と、一番華美(はで)な帶と、一番白い足袋を着ける。これは天子樣の爲めに命を捨てるに相應しくする爲めである。一時間後には京都への旅に上つて、汽車の窓から滑り行く風景を眺めて居る。其日は美しい日で、遠方は眠たげな春霞で靑くぼかされ、見る目に心地善い。彼女は此好風景を祖先が見た樣に見て居る――併し西洋人には不思議で怪奇で美しい、古い日本畫帖での外、そんな風に見る事は出來ぬ。彼女は生の悅びを感ずる、併し彼女が生きて居れば、其生は將來如何に樂くなるだらうなどとは夢にも想はぬのである。彼女の死後も世界は昔通りに美しいだらうと思つても、何の悲みも伴なはぬのである。彼女は佛敎的の憂欝に壓せられて居ぬ、全く古神道の神々に身を委ねて居る。其神々は淸淨な森の薄暗がりから、又後へ飛び行く小山の上の古い祠(やしろ)から、彼女に微笑を向けつつあるのである。そして多分神の一柱は彼女に伴なうて居るのであらう。死を恐れぬ者に墓を宮殿よりも美しく見せる神、死神(しにがみ)と呼ばれる、死を願はしむる神が伴なうて居るのであらう。彼女には未來は暗黑でない。彼女はとこしへに山上の日の出、水面の嫦娥[やぶちゃん注:「じやうが(じょうが)」。中国古代の伝説上の月に住むとされる仙女の名。羿(げい)の妻であったが、夫が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったとされる。転じて「月」の異称となった。ここは水面に映る月影からの連想であろう。原文は“Lady-Moon”である。]の微笑、四季の永久の魔術を見るであらう。歲月は幾𢌞轉しても、彼女は八重の霞の彼方、松の森陰の靜寂の中の、美しい場處々々に住むであらう。彼女は又梅花の雪を吹く微風の中に、流泉の淙々[やぶちゃん注:「そうそう」。水が音を立てて流れるさま。]の中に、綠野の沈默を破る樂い囁きの中に、靈妙な生を經驗するであらう。併し先づ、何處か此世ならぬ薄暗い座敷で、彼女の來るを待つ血族に逢つて、こんな事を聞くだらう、『けなげな擧動(おこなひ)を致したな――それでこそ武士(サムラヒ)の娘ぢや。サア、上がれ、今夜は汝故(そなた)に神々が我等と御會食下さる筈ぢや』

[やぶちゃん注:神人共食は神道の神祭の最も重要な秘儀の一つである。]

 

 娘が京都に着いた。時は夜が明けて居た。彼女は先づ宿屋を見附けて、それから上手な女髮結の家を探(さが)した。

 『どうぞこれを磨(と)いで下さい』勇子は小さい剃刀(これは女の身じまひには缺く可からざる品である)を髮結に渡して云つた、『此處に待つて居ますから』と買つたばかりの新聞を開いて、帝都からの最新情報を探した。其間、店の者は無禮を許さぬ嚴肅な美しい態度に打たれて、不思議さうに眺めて居た。顏は子供の顏のやうに穩かだが、聖上の憂慮の件を讀んでる中に、心の中では祖先の靈が小休みなく勁いて居る。『早く時が來ればよい』と考へた。『併し待つて居よう』小さい刄物は遂に遺憾なく磨ぎ上げられたのを受け取り、少し許りの賃錢を拂つて、宿に歸つた。

 宿屋で二通の書面を認めた。一通は兄への遺書、一通は御膝下の高官への見事な訴狀で、粗末ながら若き命一つ、贖罪の爲めに進んで捨てた微衷を酌んで、天子樣の御憂慮を鎭めさせ給はれと祈るのであつた。

 彼女が再び宿を出た時は、暁前の最も暗い時で、四邊は墓地のやうに寂寞として居た。街の燈火も數少く且つ微かであつた。彼女の下駄の音が妙に音高く響いた。見て居るものは星計り。

 問もなく御所の奧深い御門が眼の前に現はれた。其影の中へ忍び込んで、祈禱を小聲で唱へながら跪いた。さて古式に則つて丈夫な軟らかい絹の長い腰帶を取つて、衣裳をしつかりと身體に結(ゆは)ひつけ、膝の上で結び留めた。それは盲目的な苦悶の刹那に、どんな事があらうとも武士(サムラヒ)の娘は取り亂した死姿(しにざま)を見せてはならぬからである。それから沈着(おちつい)た正確さを以て咽喉を切ると、滾々と脈を搏つて血が流れ出た。武士の娘はこんな事を間違はぬ。動靜脈の所在を心得て居るのである。

 

 日出の頃、巡査が冷たくなつた彼女と、二通の書面と、それから五圓なにがしの入つて居る財布を發見した。(彼女は葬式の費用にはそれで十分と思つたのだ)そして屍骸と携帶品とを取り片つけた。

 

 此顚末は電光の樣に直に數百の都會に報ぜられた。

 帝都の六新聞は此報道を受け取つた。そして皮肉な記者は、あらぬ事共を想像し、此献身的行爲に有り勝ちな動機を發見しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]、隱れた罪惡とか、家庭の悲劇とか、戀の失望とかを探らうとした。併し否、彼女の淸廉な生活には、何の祕密も何の缺點も何の卑吝[やぶちゃん注:「ひりん」。いやしいこと。]な點もなかつた。半開の蓮の莟もそれと淸さを爭ふに足らぬ。それで皮肉な記者も、武士の娘にふさはしい立派な事ばかりを書いた。

 天子も此事を聞こし召され、陛下の赤子が如何に陛下を愛するかを知ろし召され、悲歎を止めさせられた。

 大臣達も聞いて、玉座の陰で相互に囁き合つた。『凡ての物は變はるだらう、併し國民の此心だけは變はらぬであらう』

 

 それにも拘らず、政府の高等政策で、政府は知らぬ振りをして居た。

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 横浜にて (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN YOKOHAMA”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第十話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 本篇の「一」章目はその最後の方で語られるように、ハーンが来日した明治二三(一八九〇)年四月中の時制であり(来日は四月四日。ハーン満三十九歳(ハーンの誕生日は六月二十七日))、「二」の再訪は、その四年四ヶ月後の明治二七(一八九四)年の七月のこと(ハーン四十四歳)と思われる。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ると、この時、ハーンは五高に嫌気がさしてはいたが、この横浜・東京への旅自体は表立った新たな就職運動のためではなく(そうした相談などは行われた可能性はある)、基本、純粋に夏休みの旅行(長野にも行くつもりだったが、結局、旅券の範囲外であったために断念している。但し、単身の旅である)として企画したものであったと考えられる。七月十四日横浜着(船)で、概ね横浜のホテルを定宿として東京のチェンバレンや友人の家を行き来したり、友人らと鎌倉などで泳いだり、箱根の宮ノ下などに泊まりに行ったりもしている)。七月三十一日に船で帰路についた。横浜が拠点となっているから、この半月の閉区間内に、この「一」で訪ねた横浜の寺へ、「二」の再訪が行われたと考えてよい

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の引用は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント三行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

  橫濱にて

 

   我等は今日美しい光景に接した――

   美しい夜明け――美しい日の出

   ――我等は大悟の士が流を橫斷したのを見た。

             ――「雪山經」

[やぶちゃん注:「雪山經」原文“Hemavatasutta”は佛教大学大学院文学研究科仏教学専攻の中西麻一子氏の論文「カナガナハッリ大塔仏伝図の研究」(PDF)に『初期経典の韻文資料 Suttanipāta の古層に位置する』経典とある。]

 

       

 地藏堂は、小店ばかり並んで居る町の、露地の奧に潜んで居るので、探すのが容易でなかつた。二軒の家の狹い庇間(ひあはひ)にある露地の入口は、風の吹く度にはためく古着屋の暖簾で掩はれた。

[やぶちゃん注:最後は「掩はれた。」は「掩はれていた。」或いは「掩はれていたのである。」「掩はれていたからである。」と訳すべきところである。]

 暑いので小さい堂の障子は取り外づされ、本尊は三方から拜まれた。自分は黃色い疊の上に、勤行の證、經机、朱塗りの木魚などの佛具が並んで居るのを見た。須彌壇[やぶちゃん注:「しゆみだん」。仏像を安置する台座。仏教宇宙観で世界の中心に聳えるとする須弥山(しゅみせん)を象ったものという。一般に四角形で、通常は重層式。]の上には子供の亡靈の爲めに涎懸けを着けた石の地藏があつた。更に其尊像の上には長い棚があつて、金箔を塗つた極彩色の二三の小像が載つて居た――頭から足まで背光のある地藏尊、燦爛たる阿彌陀佛、慈顏の觀音及び亡者の判官である閻魔大王の恐ろしい像などが。それより又上には奉納の繪がどつさり雜然と揭げられて居た。其中にはアメリカの繪入新聞から取つた版畫を額にしたのが二つあつた。一つはヒラデルヒア博覽會の光景、他の一つはジユリエツトに扮したアデレイド・ニイルソンの肖像であつた。本尊の前には普通の花瓶の代りにガラス製の壺があつて、それには『レイン、クロード(佛國產の李)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注。戸澤氏のサーヴィス注である。]果汁、貯藏請合、ボルドウ市ツーサン、コーナー會社』と書いてある貼紙が張つてある。それから線香の入つて居る箱には『香味豐富――ピンヘツド紙卷』といふ文字が書いてある。之を寄附した善人は、此世でもつと高價な寄附をする見込みがなかつたのであらう。そしてこれでも外國品である故に美しいと思つたのであらう。又こんな不調和にも拘らず自分には此堂が實際綺麗に見えた。

[やぶちゃん注:「ヒラデルヒア博覽會」“Philadelphia Exhibition” 。フィラデルフィア万国博覧会。ここでの時制の十四年前の一八七六年(明治九年)五月十日から十一月十日までアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された国際博覧会でアメリカ合衆国独立百周年を記念して催されたもの。三十五ヶ国が参加し、会期中一千万人が来場した。参照したウィキの「フィラデルフィア万国博覧会」によれば、『明治政府は輸出振興・外貨獲得を図るため、西郷従道を最高責任者として外国政府最大の予算で出展し、多数の大工を派遣し』、『日本家屋の専用パビリオンを建てた。日本茶、陶磁器の工芸品やその他伝統的産品に加えて』、『最優秀の生糸や絹織物等の展示を行った。特に絢爛豪華な有田焼(伊万里焼)の一対の大きな色絵雲龍文耳付三足花瓶(銘款「年木庵喜三」』(としきあんきぞう)『)は注目を集め、同博覧会の金牌賞を獲得した。日本の出展物は後進国と見なされていた日本への関心と評価を非常に高めた。『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者は、「ブロンズ製品や絹ではフランスに優り、木工、家具陶磁器で世界に冠たる日本をなぜ文明途上と呼べるだろうか」と記事に書いた』。なお、『グラハム・ベルが「電話」を出展している』とある。同花瓶は「鹿鳴館の器:活動状況報告ブログ」のこちらで復刻されたものが見られる。

「ジユリエツト」“Juliet”。シャークスピアの「ロミオとジュリエット」の彼女。

「アデレイド・ニイルソン」“Adelaide Neilson” リリアン・アデレード・ニールソン(Lilian Adelaide Neilson 一八四八年~一八八〇年)はイギリスの舞台女優。ここでの時制の十年前に三十二の若さで亡くなった。University of Washington Libraries」のサイト内のこちらに、ハーンが見た当該の写真かどうかは判らぬが、一八七二年に撮られたジュリエットに扮した彼女のポートレートがあった。あたかも観音菩薩像のようである。これが須弥壇に飾ってあっても私は違和感を持たないだろう。

「レイン、クロード(佛國產の李)果汁」“Reine Claude au jus” (これを含む引用部は書かれてあった通りのフランス語で書かれてある。ハーンはフランス語に堪能であった)。Reine-claude(レーヌ・クロード)は英語で「グリーンゲージ」(Greengage)と言い、プラム(スモモ)の一種であるバラ目バラ科サクラ属スモモ属セイヨウスモモ亜種グリーンゲージPrunus domestica ssp. italica のことである。酸味はなく、ジューシーで、特に芳醇な香りを持ち、最高級のデザート・プラムとして知られる。果実の写真と品種一覧の載るフランス語ウィキの「Reine-claude」をリンクさせておく。

「ボルドウ市ツーサン、コーナー會社」“Toussaint Cosnard: Bordeaux”。ボルドーのトゥサン・コスナール(社)。因みに「トゥサン」(フランス人の姓に多いから、これは合名会社名かもしれぬ)は「万聖節」(tous saints:「全ての聖人」が元。「諸聖人の日」。カトリック教会典礼暦では十一月一日)に由来したもの。

「ピンヘツド紙卷」“Pinhead Cigarettes”アメリカ製の紙巻き煙草の商品名。グーグル画像検索「Pinhead Cigarettes」をリンクさせておく。]

 龍を出してる[やぶちゃん注:ママ。]羅漢の不氣味な繪のある衝立が奧の室(ま)を仕切つて居た。そして姿は見えぬ鶯の聲が境内の靜けさに床しさを添へて居る。赤猫が衝立の陰から出て來て我等を眺めたが、又使命を傳へるかの如く退却した。間もなく一人の老尼が現はれて、歡迎の意を述べ、上がれと乞うた。彼女の滑々(すべすべ)と剃つた頭はお辭儀をする度に月の樣に輝いた。我等は靴を脫いで、彼女の後から衝立の後ろの、庭に百しり、小さい室へ姐つた。そして一人の老僧が布團[やぶちゃん注:座布団。]に坐つて、低い机で書き物をして居るのを見た。老僧は筆を差し措いて我等を迎へた。我等も彼の前の布團に席を占めた。彼の顏は見るも愉快げな顏で、取る年波の描いた皺は、悉く善なるものを語つて居た。

[やぶちゃん注:「我等」後で出るが、この時のハーンには奇特な案内を買って出た通訳の出来る青年学生(後の語りからも判るが、この学生はこの寺の住職とは懇意である)が同行していた。]

 尼が茶と法(のり)の車の印(しるし)してある菓子を運んで吳れた。赤猫は自分の側に丸くなつて寢た。そして老僧は語り出した。彼の聲は太くて優しい。寺の鐘の響に伴なふ、豐かな餘韻のやうに、靑銅(からかね)のやうな音色がある。我等は彼が身上話を聞く樣に談話を仕向けた。彼は八十八歲になつて。眼も耳もまだ若い者同然だが、慢性のルーマチスの爲めに、步行が叶はぬといふ。二十年間、三百册で完成するといふ日本の宗敎史を書いて居るが、既に二百三十册だけ稿了したさうである。そして殘部は來年中に書き上げたいと云つて居る。彼の背後の小さい本箱には、きちんと綴ぢた原稿が嚴(いか)めしげに詰まつて居た。

[やぶちゃん注:「法の車」とは釈迦が説いた仏法の真理である四諦(したい:苦諦(人生の現実は自己を含めて自己の思う通りにはならず、「苦」であるという真実)・集(じっ)諦(その「苦」は総て自己の煩悩や妄執などあらゆる欲望が聚って生ずるという真実)・滅諦(それらの欲望を断ち切って滅し、解脱して涅槃(ニルヴァーナ:ラテン文字転写:Nirvana)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)・道諦(その悟りに導く実践を示す真実)と、それを実践するに必要な八正道(はっしょうどう:正見(正しいものの見方)・正思惟(正しい思考)・正語(偽りのない言葉)・正業(せいごう:正しい行為)・正命(正しい職業)・正精進(正しい努力)・正念(正しい精神の集中)・正定(せいじょう:正しい精神統一))を象徴する輪形の仏具である法輪のこと。形象されるそれは古代インドの投擲武器であるチャクラムを転じたものである。

「ルーマチス」“rheumatism”。リューマチ。関節炎と同義に用いられることもあるが、実際には関節だけでなく結合組織にも発生する、激しい痛みを伴う炎症症状の総病態を指す。発生が体の一部であったり、全体であったりもする。「リューマチ」という語はギリシア語の「流れる」が語源で、痛みや腫れが体のあちこちを流れて動くように感じられることに由来する。より広範には「リウマチ性疾患」という表現がとられて、膠原病と呼ばれる結合組織の重い一連の難病をも含んでいる。具体的には「急性関節リウマチ」や「慢性関節リウマチ」が主なもので、さらに「筋肉リウマチ」・「強直性脊椎炎」・「痛風」なども含まれる。進行すると、関節の変形や強直をきたす。主原因は未確定なものの、アレルギー説が有力ではある。]

 『併し、此人のやつてる計畫が間違つて居ます』と自分の伴れて居る學生の通譯子が云つた。『其宗敎史が出版される事はありますまい。奇蹟談やお伽噺の樣な、有り得べからざる噺ばかり集めてるのです』

 (自分はどうぞ其噺を讀みたいものだと思つた)

 『そんなお年にしては、大層御丈夫に見えますね』と自分は云つた。

 『どうやら、あと數年生きられさうで御座います』老人は答へた。『が、此歷史を書き上げるだけしか生きて居ようとは願ひません。書き上げたら、私は動く事も出來ぬ、あはれなものであります故、早く死んで生まれ替はりたいと思ひます。こんなに片端になるといふは、何か前世で罪を犯したものと見えまする。併し、彼岸に段々近寄ると思ふと嬉しう御座います』

 『生死の海の向う岸といふ意味です』と通譯が云ふ。『御存じの通り、其海を渡る船が法(のり)の船で、一番遠い岸が涅槃です――ニルバナです』

 『我々の身體(からだ)の弱點とか、災厄とかは』自分が問うた。『みんな前生に犯した過失の結果でありませうか』

 『我々の現在は』老人が答へた。『我々の過去の結果であります。日本では萬劫(まんごう)、囚業』(いんごう)の結果だと申します――これは二種類の行爲であります』

[やぶちゃん注:「いんごう」のルビはママ。歴史的仮名遣は「いんごふ」。植字工が前に引かれて誤植したか。]

 『善と惡との』自分は問うた。

 『いや、大と小とであります。人間に完全な行爲と申すは御座いません。どんな行爲にも、善もあり惡もあり、丁度どんな名畫でも好い處もあり、惡るい處もあると同じで御座います。併し行爲の中の善の總額が惡の總額よりも多い時には、丁度名畫の長慮が短慮に優る時の樣に、結果は精進となります。此精進で惡が凡て徐々に除かれます』

 『併しどうして』自分が尋ねた。『行爲の結果が肉身に影響を及ぼします。子は父祖の道に從ひ、强い弱いも父親から承け繼ぎます。但し靈魂は父祖から受けるのでありませんが』

 『因果の鎖は手短に說明する事は容易でありません。それを悉く悟得するには、大乘を硏究せねばなりませぬ。又小乘をも硏究せねばなりませぬ。それを御硏究になると、世界といふものも、ただだ行爲故に存在するといふことをお悟りになりませう。丁度字を習ふのでも初めは大層むつかしいが、後には上達して何の苦もなく書く樣に、行爲を正しい方へ正しい方へと振り向ける努力も、絹えず繰り返せば習慣になります。そして其努力は彼世[やぶちゃん注:これで「あのよ」と読む。]までも繼續致します』

 『前世を記憶する力を得る人がありませうか』

 『それは滅多にありません』老人は首を振つて答へた。『その記憶力を得るには、先づ菩薩であらねばなりません』

 『菩薩になることは出來ませんか』

 『今の世では出來ません。今は汚濁の世で御座います。初めに正法の世が御座いました、其時は人の壽命も長う御座いました。つぎに色相の世になりまして、人間は其間に最高の眞理を離れました。そして今は世界が墮落致して居ります。今の世では善行を積んでも佛にはなれません。と申すは世間が腐敗して壽命が短いからで御座います。併し信心深い人は、德を積み常に念佛を唱へますれば、極樂には參れます。極樂では正法を行ふことも出來ます。日も長し壽命も長う御座いますから』

 『私は經文の英譯で』自分が云つた。『人は善行に依つて順々に前よりも優れた住生(しやう)へ生まれ替はり、其度每に、前よりも優れた能力を得、前よりも優れた悅びに包まる〻といふことを讀みました。富や力や美や、又美女や、何でも人が此世で欲するものが手に入る樣に云つてあります。すると精進の道は進めば進む程段々むつかしくなるに相違ないと思はぬ譯に參りません。といふのは、若し此經文が、眞なら、人は佛法の修業に依つて煩惱の對象から離れ得れば得られる程、又之に復歸させようとする誘惑が益〻强くなるからであります。さうすると德の酬いはそれが却つて妨げとなるやうに思はれますが』

 『そうでありません』老人が答へた。『持戒自制に依つてそんな此世の幸福を得るやうになつた者は、同時に靈力と眞知を得て居ます。一生を進める每に己れに打勝つ力も勝して往つて、遂に物質を離れた無色相の世界に生まれます。さうなると低級な誘惑は御座いません』

 赤猫は此時下駄の音で不安さうに身動きをした。が、尼に尾(つ)いて入口の方へ出て往つた。二三の來客が待つて居るのであつた。それで老僧は彼等の精神上の要望を聞かんが爲め、暫し容赦を乞ふ旨を告げた。我等は直に新參の客に席を讓つた。――彼等は何れも氣持ちのよい人間で、我等にも挨拶した。一人は子息を亡(な)くした母親で、其子の冥福を祈るやうに、讀經を請ふのであつた。今一人は病める夫の爲めに、佛の憐れみを得ようとする若い女房で、あとの二人は遠い處へ往つた誰れかの爲めに[やぶちゃん注:これは原文と並びから考えて物理的に遠いところであって、あの世ではない。]、佛の助けを乞はうとする父と娘であつた。老僧は一同に慈愛に滿ちた挨拶をした後、子を失つた母には地藏の版行繪を與へ、病める夫を持つ女房には、洗米の紙捻りを與へ、父と娘には何か尊い文言を書いて與へた。自分には、ふと全國の無數の寺で、每日無數の無邪氣な祈禱がかうして行はれて居るのであるといふ考が浮かんだ。又誠實な愛情から來る凡ての心配、希望、苦悶といふやうなもの、及び神佛にしか聽かれない、あらゆる謙遜な悲歎を思ひ浮かべた。通譯の學生は老人の書棚を漁り始めた。そして自分は考ふべからざるものを考へ始めた。

 生――創(つく)られたのでない、従つて始めなき、統一體としての生――我々は只だ其明かるい影のみを見る生――永久に死と戰ひつつ、常に征服せられ、しかも常に生存する生――それは一體何であらう――何故にそれは存在するのであらう。何百萬囘か字宙は消失した――何百萬囘か復活した。消失するごとに生も共に消失するが、つぎの週期には再現する。宇宙は星雲となり、星雲は宇宙となる。星や遊星の群は永久に生まれ、永久に死滅する。新たに大凝聚が行はれる毎に、燃える球體は冷却し、成熟して生となり、生は成熟して思想となる。我々各個の靈魂は幾百萬の太陽の熱を潜つたに相違ない――將來も更に幾百萬の宇宙の消滅に遇ひ、しかも生存するに相違ない。記憶も如何にかして、如何なる處にか生存し得ぬであらうか。或る知られざる方法と形式とにて、其記憶が生存せぬとは我々は斷言し得ぬ――過去に在つて將來を記記憶すとも云ふべき、無限の洞觀力の如くに。多分涅槃の深淵に於けるが如き無盡の夜の中に、過去詐將來の夢が永久に夢みられつつあるのであらう。

 

 檀家の者等は謝意を述べ、地藏に少し許りの供物を供へ、それから我等にも挨拶しで歸つて行つた。我等は小さい机の側の故(もと)の座に還つた時、老人は云つた。

 『世の中の悲歎を誰れよりもよく知るのは僧侶で御座いませう。西洋人は金はあるが、矢張り西洋にも苦惱は多いさうですね』

 『ハイ』自分は答へた。『西洋には日本によりも却つて苦痛が多いでせう。金持ちの快樂は日本よりも大きいが、貧民の苦痛も大きいでせう。我々西洋人の生活は日本よりも困難です。其理由ででせう。我々の思想は此世の不可解に惱さる〻事が多いのです』

 老僧は之に興味を持つらしかつたが、一言も云はなかつた。自分は通譯の助力で詞を續けた。――

 『西洋諸國の多くの人々が、常に心を惱ます三つの大きな疑問があります。(何處から)(何處へ)(何故)と云ふのであります。それは人生は何處から來たか、何處へ行くか、そして何故に存在し、何故に惱むかといふ意味であります。西洋の最高の哲學は、それを解き難き謎だと申します。けれども同時にそれが解けぬ限りは、人間の心に平和がないと白狀致して居ります。凡ての宗敎は其說明を試みましたが、何れも異說まちまちであります。私は此疑問の解決を得ようとして佛書を漁りました。そして何れよりも立ち優つた解答を見附けそした。それでもまだ不完全であるので、私を滿足させる事は出來ません。貴僧のお口から、少くとも第一と第三の疑問の解答を伺ひたいと存じます。私は證明や議論は一切伺はうとは致しません、ただ結論の御敎義を承りたいのであります。一切の物は始めは宇宙心靈にあるのでせうか』

 此質疑に對して自分は實は明快な答辯を豫期しなかつた。それは『一切漏經』といふ經の中で、『考ふべからざる物』とか、六愚說とか、『茲に物あり、此者何れより來り何れに行くか』などと論議する者を、非難する言を讀んだ事があるからである。然るに老僧の答は、歌の樣に訓子よく音樂的に聞こえだした。――

[やぶちゃん注:「一切漏經」(いつさろきやう(いっさいろきょう))。原文“Sabbâsava”。これはパーリ仏典経蔵中部に収録されている第二経の「Sabbāsava-sutta」(サッバーサヴァ・スッタ)で、「一切煩悩経」とも呼ばれる。「漏」(ろ)は「煩悩」の異名。個人サイトのこちらで日本語の現代語訳が読める。ただ、ハーンが言っているのがどこかは、この訳ではよく分からない。敢えて言えば、第一章の第二に、「有漏に関して、正しく観察する。我が存在するという、常恒の囚われを諦めて、我が存在しないという、断滅の捕われを諦める」というのがそれっぽい感じはする。香光書郷氏の「一切漏經注:巴漢校譯與導論」(繁体字・PDF)という中国語訳のそれがあるが、残念ながら私には読み下せない。悪しからず。

「六愚說」不詳。]

 『一個體として考へた萬物は、發展繁殖の無數の形式を經て、宇宙心靈から出現したのであります。萬物は其心靈の中に潜在的に久遠の昔から存在したのであります。併し我々が心と呼ぶものと、物と呼ぶものとの間には、本質の相違は御座いません。物と呼ぶものは我々の感覺、知覺の總計で、それは皆心の現象であります。物の本體に就ては、我々は何の知識も御座いません。我々は我が心の諸相以外の事は何も知りません。心の諸相は外部からの影響若しくは外力に依つて心の中に現はる〻もので、此影響外力を指して物と申します。併し物と心と申すも又無窮の實在の二つの相に過ぎません』

 『西洋にも』自分は云つた。『それに似た說を敎ふる學者があります。それから近代將科學の深淵な硏究も、我々が物質と呼ぶものは、絕對の存在を有しないと說くやうです。併し貴僧の仰しやる無窮の實在に席しまして、それが何時如何にして、我々が物と心と區別する二つの形式を初めて生み出したかといふ、佛の敎はないでせうか』

 『佛敎は』老人が答へた。『外の宗敎の樣に、萬物が天地開闢といふ事で創造(つく)られたとは敎へません。唯一無二の實在は宇宙心靈で、日本語で眞如と申します。――これが無窮久遠の實在其物で御座います。さて此無窮の心靈は自體の中に自體の幻影を見ました。丁度人が幻覺で眼に映つた物を實物と思ふ樣に、此宇宙實在も自體の内で見た物を外物と思ひ違へたのであります。此迷妄と我々は無明と申します。其意味は光を發しないとか、照明を缺くとか申すのであります』

 『其言葉を、西洋の或る學者は』自分が口を挿んだ。『「無知」と譯しました』

 『私もさう聞いて居ります。併し我々が用ふる言葉の意味は「無知」といふ言葉で現はす意味とは違ひます。寧ろ誤つた敎化とか、或は迷執の意味であります』

 『そして其迷執の起こつた時に關しては、何と敎へてありますか』

 『最初の迷執の起こつた時は、數へ切れぬ遠い過去で、無知(むし)卽ち始めを超越して居ると申します。先づ眞如から非我といふ第一の差別が出現して、それから精神上並びに物質上のあらゆる個體が起こり、又同樣にあらゆる情と慾とが出て、それが生死流轉の緣を作つたので御座います。だから全宇宙は無窮の實在からの出現であります。けれども我々は其無窮の實在に依つて創造(つく)られたとは申されません。我々の本元の我は宇宙心靈であります。我々の内には宇宙我が、最初の迷執の結果と共に存在して居るので御座います。此迷執の結果の裏に、本元の我が包まれて居る狀態を、我々は如來藏卽ち佛(ほとけ)の胎と申します。我々が何の爲めに努力するかと申すと、只だ此無窮の本元我に歸着する爲めで、其處が佛陀の根本で御座います』

 

注 如來藏は梵語で Tathâgata-gharba と云ふ。Tathâgata は日本語で如來で、佛の最高の稱號である。先人の來るが如く來る人といふを意味す。

[やぶちゃん注:平井呈一氏は恒文社版「横浜で」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)で、この原注の後に訳注を附しておられ、そこには、

   《引用開始》

訳者注 金剛般若経に「無ㇾ所従来、亦無ㇾ所ㇾ去、故名如来。」とある。如は真如、つまり真如より来生せるもの、すなわち、真理より顕現したものという意味で、仏のことをいうのである。

   《引用終了》

とある。漢文部を正字に直して勝手流で訓読しておく。

 從(よ)つて來たる所、無く、亦、去れる所、無し。故に「如來」と名づく。

この経の意は腑に落ちる。――α以前から既にして在り、Ω以後にも在り続けるのだ。――]

 

 『も一つ疑義がありますが』自分は云つた。『それに就て佛敎の敎へを承りたい。我が西洋の科學は、我々の目に見ゆる此宇宙は、無限の過去に於て無敷囘、替り番に展開したり、崩壞したり致したので、無限の未來に於ても、又無數囘滅したり現はれたり致すに相違ないと申します。又印度古哲學や佛典の英譯にも同樣の事が述べてあつります。併し遂にはあらゆる物に最終の消滅、永遠の靜止の時が來たらうとは敎へてありますまいか』

 彼は答へた。『いかにも小乘には、宇宙は過去に於て無數囘現はれたり消えたりを反復した。將來の無限劫の間にも、又替り番に崩れたり立て直したりするであらうと說いであります。併し又一切の物は遂には永久に涅槃の狀態に入るであらうとも說いてあります』

 これとは筋違ひであるが、併し抑制し難い空想が突如として此時自分の胸に起こつた。科學は絕對靜止の狀態を攝氏の零下二百七十度卽ち華氏の零下四百六十一度、二といふ公式で表はすといふことを思ひ出したのであつた。併し自分はただ云つた。

[やぶちゃん注:理想気体の状態方程式から導き出された値ではケルビンやランキン度の絶対零度は、セルシウス(摂氏)度で マイナス273.15 ℃、ファーレンハイト(華氏)度でナイマス459.67 °Fである。]

 『西洋人の頭には絕對靜止を、幸福の狀態とは考へ難いのですが、佛敎の涅槃といふ思想は、無限の休止、普遍的の不動といふ思想を含むのでせうか』

 『否』と老僧は答へた。『涅槃は絕對自足、凡てを知た。凡てを見る狀態であります。我我はそれを全然不活動の狀態とは思ひません。却つて凡ての繋縛を脫した大自在の境地と想像致します。いかに名我々は肉體のない感覺若しくは知覺の境地を想像する事は出來ません。我々の五感も思想も肉體といふ條件に隷屬するのでありますから。併し我々は涅槃は無限の視力、無限の安心の境地であると信じます』

 

 赤猫は老僧の膝の上に躍り上がつて、氣樂さうに圓(まる)くなつた。老人はそれを撫でてやつて居る。自分の通譯子は小さく笑つて――

 『肥えて居ますね。前世に善行を積んだのでせう』

 『動物も』自分は問うた。『前世の功罪に依つて、境涯が定まるのでせうか』

 僧は嚴肅に自分に答へた。

 『凡て生物の境涯は前世の境涯に依るので、生は一であります。人間に生まれるのは幸運であります。人間であればこそ我々は幾何かの敎化を受け、功を積むの機會もあるのであるが、動物の狀態は心の闇の狀態で、誠に憐惘の至たりであうます。どの動物でも眞に幸福だとは考へられません。併し動物の生活にさへ、限りなき境涯の相違が御座います』

 後は暫く沈默が續いた――猫の咽喉を鳴らす音が折々聞こゆるばかりであつた。自分は丁度衝立の上に見える、アデレード・ニールソンの肖像を見た。そしてヂユリエツトを思ひ出し、又自分が若し立派に日本語で話し聞かせることが出來たら、沙翁の驚くべき情熱と悲哀の物語に就て、僧は何といふだらうと考へ𢌞らした。其時突然其疑惑に對する返答であるかの如く、『法句經』の第二百十五節の文句が胸に浮かんだ――『愛より悲は來り、悲より恐は來る、愛に繋(つな)がれぬ者は悲もなく恐もなし』

[やぶちゃん注:「法句經」(ほっくきょう)は「ダンマパダ」(パーリ語ラテン文字転写:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典の一つ。語義は「真理(dhamma)の言葉(pada)」の意。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からは、かなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(ウィキの「法句経」に拠る)。同経の「愛樂品(あいげうほん)第十六」に、

   *

非處(ひしよ)に就きて是處に就かず、利を棄てて、愛樂を取るものは、是處に就きたる人を羨むに至る。

愛せるものと會ふこと勿かれ、惡(にく)めるものと會ふこと勿かれ、愛せるものを見ざるは苦(く)、惡めるものを見るも亦、苦なり。

されば何物をも好愛する勿かれ、愛者と別るるは禍(わざはひ)なり、人に愛憎なければ纏結(てんけつ)あることなし。

愛好(あいかう)より憂悲(うひ)生じ、愛好より怖畏(ふゐ)生ず、愛より脫(のが)れたるものには、憂悲なし、焉(いづく)んぞ怖畏あらん。

   *

とある。]

 『佛敎は』自分は尋ねた。『一切の性愛は禁止せらるべきものと敎へるでせうか。性愛は必然的に修業の障りとなうませうか。私は眞宗の僧侶の外、凡て僧侶は結婚を禁ぜられて居ることを承知致して居ります。併し俗人には獨身といふことに就て、何ういふ敎がありますか存じませぬ』

 『結婚は道の障りともなり、又助けともなります。それは場合によります。凡ては場合次第であります。若し妻子の愛の爲めに、憂世のはかない名利に餘り酷(ひど)く執着する樣ならば、そのやうな愛は障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。障害に同じい。]となりませう。併し之に反して、妻子の愛の爲めに獨身の狀態に於てよりも、純潔に非利己的に生活する事が出來るならば、結婚は修道の大なる助けとなりませう。大智の人には結婚の危險が多く、小智の人には獨身の危險が一層大であります。又時としては情熱の迷ひが性來利根の人を大智に導くことも御座います。これに就てお噺があります。大目連(だいもくれん)、これは普通目蓮で通る人ですが、此人は釋迦の弟子でありました。處が美男なので一人の娘に思ひつかれました。然るに目蓮は既に僧籍に入つて居るので、夫に持つことは出來ぬと、娘は失望して竊に嘆いて居りました。が遂に勇氣を奮ひ起こして釋迦の前に行き、心のたけを打明けました。其詞もまだ終はらぬ中、釋迦如來は彼女に深い眼りを投げかけると、彼女は目蓮の樂しい妻となつた夢を見ました。樂しい幾年月かが夢の裡に過ぎ去ると、此度は悅びと悲みの雜じつた幾年かが過ぎました。すると突然夫が死んで了ひました。それで彼女は生きて居られぬと云ふ程の悲歎に遇ひまして、其苦悶の中に目を覺ますと、如來は微笑して居られます。そして彼女に申さる〻やう「妹よ、御身は凡てを見た。御身の欲する通りに選ぶがよい――目迢の妻となるとも、或は目蓮が既に入つて居る高き道を求むるとも」そこで彼女は髮を切つて尼となりましたが、後には輪囘[やぶちゃん注:「輪𢌞」の誤植であろう。]の苦を脫れる境涯に達しました』

 

註 梵語にては Mahāmaudgalyāyana。

[やぶちゃん注:原文では“Mahâmaudgalyâyana”。目連(Maudgalyāyana:マウドガリヤーヤナ/パーリ語:Moggallāna:モッガラーナ/漢意訳:菜茯根・采叔氏・讃誦/音写:目犍連・目健(腱)連)は古代インドの修行僧で、釈迦の十大弟子の一人。本来、正しくは「目犍連(もくけんれん)」であるが、「目連」と呼ばれることが多い。優れた神通力の使い手として「神通第一」と称された。釈迦の直弟子中でも、舎利弗と並ぶ二大弟子として活躍したことから、「Mahā」(マハー:摩訶=「大」)を冠して「マハーモッガラーナ」=「摩訶目犍連」「大目犍連」などとも記される(ウィキの「目連に拠った)。]

 

 暫し自分はかう考へた。此噺は愛の迷妄が人を成道に導くといふ事を示しては居らぬ。又娘の入道は强ひて苦惱を知らしめられた直接の結果で、愛の結果ではないと。併し間もなく、彼女に見せつけられた夢も、利己的な下劣な人間には、立派な結果を生ぜしむることもなかつたらうと考へ直した。又自分は現今の世態では己が將來の運命を前以て知らされることは、云ふ可からざる弊害を伴なふであらうと考へ、我々の將來が目に見えぬ幕の後ろで作られる事は、我々の多くに取つては幸であると感じた。それから自分は又、其幕を揚げて覗く能力は、其能力が人間に眞に有益であるやうになれば、直に發展するか或は新たに得られるであらうが、それ迄は望はないなどと想像した。そして云つた。

 『未來を見る力は悟道に依つて得られませうか』

 僧は答へた――

 『得られます。六神通を得る所迄修業が進みますれば過去も未來も見ることが出來ます。此力はは前世を思ひ出る能力と同時に起こります。併し左樣な悟道の域に達することは、只だ今の世では甚だ困難で御座います』

 

 通譯子は此時自分にもう辭去すべき時だと密かに合圖をした。我々は少し長居を爲過ぎ――其點には寬大な日本の作法で測つても長過ぎた。自分の突飛な質問に答へて吳れた好意を謝した上で附け加へた。――

 『まだ承りたい事が澤山ありますが、今日は餘り長くお邪魔を致しをした。又別に出ましても宜しいでせうか』

 『喜んでお迎へ致します。何卒幾度でもお出で下さいませ。まだお分かりにならぬ所は何でも御遠慮なくお聞き下さい。悟を得、迷を霽らすのは熱心な探究に依るのみで御座います。いやどうぞ度々お出で下さい――小乘に就てお話しが致したう御座りますから。そしてこれを何卒お納め下さい』

と彼は自分に二個の小さい包を渡した。一つは白い砂――善人の靈が死後巡拜に出懸けるといふ善先寺の祠堂の砂で、も一つは極小さい白い石で、舍利卽ち佛陀の遺骨であつた。

 

 其後自分は幾度も此親切な老翁を尋ね度いと思つたが、學校と雇傭契約をしたので、橫濱を去り幾多の山を越えて赴任した。それで其後は彼に遇はなかつた。

[やぶちゃん注:これは実に明治二七(一八九四)年刊のハーンの来日後の記念すべき第一作品集のワン・シークエンス、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』の、マルチ・カメラによる別映像なのである。但し、僧との仏教の宇宙観の論議はやや創作されている感じが私にはかなりする。孰れにせよ、先行作の同ロケーションと比較あれかし。なお、ハーンが松江中学に赴任するために東京を立ったのは八月下旬で、ここに同伴者として登場している青年真鍋晃と一緒であった。

 

       

 自分が再び地藏堂を見る迄に、五年の歲月は徐に過ぎた。其五年は悉く此條約港から遙かに遠い處で過ごしたのであつた。其間に自分の内外に多くの變化が起こつた。日本の美しい幻(まぼろし)――初めて其魔力ある雰圍氣の中に入る者には、殆ど氣味惡るい程に感ぜられる妖美も、自分には實際長らく感ぜられたが、遂に全く消え失せた。自分は魅惑されずに有の儘に極東を見るやうになつた。しかも大いに過去の感動を思慕して止まなかつた。

 併し其感動は或る日復活した――ほんの一瞬の間だけ。自分は橫濱に來て、も一度山の手から、四月の朝に浮かべる神々しい富士の山靈を凝視した。其偉大なる春の光の靑く漲れる裡に、自分が初めて日本を見た日の感じが戾つて來た。美しい謎に充ちた世に知られぬ仙境――特殊の日輪と、獨得の色澤ある大氣とを有する妖精の國の光彩に、初めて驚喜せる感じが戾つて來た。自分は再びかがやかしい平和の夢に浸つた、眼に映る物悉く再び心地よき幻となつた。東洋の空は――極めて淡い白雲のあるかなきかに點々せるぱかり、涅槃に入らんとする靈魂の如くに曇りなき――再ぴ佛陀の空と化した。朝の色は次第に濃くなり行き、枯木も花咲き、風は薰り、生きとし生ける者愛憐の情を起こさざるはなかりしと云ひ傳へた、釋迦降誕の日の面影を現ずるに至つた。漠然たる香氣は四方(よも)に薰じて聖師再來を告ぐるが如く。通行人の顏さへ凡て聖誕の豫感で微笑する樣に見えた。

 間もなく靈氣は四散して、物は皆俗惡に見え出した。自分が經驗した凡ての幻、地上の一切の幻は實物の如く、宇宙の森羅萬象は却つて幻の如く思はれ出した。是に於て無明といふ詞が想ひ出された。そして自分は直に地藏堂の老いたる思索家を尋ねようといふ氣になつた。

 其界隈は大分變つて居た。古い家は消え失せて、新しい家が驚く程櫛比して建ち並んだ。併し自分は遂に彼の露地を發見した、そして彼の[やぶちゃん注:「かの」。]記憶して居た通りの小さい寺を見附けた。入口の前には女達が立つて居た。そしずて若い一人の僧が幼兒と遊んで居た。が、其幼兒の小さい鳶色の手は、僧の綺麗に剃つた顏を弄(なぶ)つて居た。其顏は切長(きれなが)の眼を有つた、利根[やぶちゃん注:「りこん」。「利発」に同じい。]さうな親切さうな顏であつた。

 『五年前に』自分は拙い日本語で彼に云つた。『私は此寺へ參りました。其時年老(とつ)た坊(ぼん)さんが居ましたね』

 若い坊さんは赤兒を其母らしい女の腕に渡して答へた――

 『ハイ、彼の老僧は亡くなりました。それで私が代りました。何卒お上がり下さいませ』

 自分は上がつた。小さい須彌檀は變はり果てて、あどけない美しさは無くなつて了つた。地藏は尙ほ涎掛の中から微笑して居るが、其外の佛達は消え失せた。同樣に繪馬類も――アデレード・ニイルソン孃の肖像も――見えなくなつた。若僧は自分を老僧が書き物をして居た室で寬(くつろ)がせようと試みて、烟草盆を自分の前に据ゑた。例の書物のあつた隅を見たがもう無かつた。凡てが變つたやうであつた。

 自分は尋ねた――

 『何時老僧はお亡くなりになりました』

 『遂去年の冬』と僧は答へた。『大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。陽暦一月二十一日頃。旧暦では前年十二月中であるが、この場合は前者であろう。即ち、明治二六(一八九三)年一月である。]の節に亡くなりました。脚を動かせないので、大分寒さに惱まされました。これが位牌です』

 彼は床の間に行つて得體の知れね瓦落多[やぶちゃん注:「がらくた」。]――大方佛具の破片であらう――の亂雜に載つて居る棚の間から、左右に花の挿してあるガラス瓶を置いた小さい佛檀の扉を開いた。中には黑漆へ金字を書いた新しい位牌が見えた。彼は其前へ燈明を點し、線香を一本立てて云つた。

 『一寸失禮致します。檀家の者が待つて居りますから』

 自分はかうして獨り取り殘されたので、位牌を見、小さい燈明の動かぬ炎と、線香の炎(ほのほ)と、線香の靑くゆるやかに上る烟を凝視(みつ)めながら、老僧の靈は此中に居るだらうかと初めは怪しんだが、暫しの後には眞に居る樣な氣がして、口の中で彼に話し懸けた。つぎに自分は佛壇の兩側にある花瓶には、まだボルドーのツーサン、コーナア會社[やぶちゃん注:「一」と表記が異なるのはママ。]の名が附いて居、線香箱には、香味豐かな紙卷烟草の銘が入つて居るのに氣が附いた。室を見𢌞はすと、自分は又赤猫が日當りのよい隅の方に眠つて居るのを見附けた。側へ往つて撫でてやつたが、自分を覺えても居ず、眠さうな眼を開きもしない。が前よりも毛艷があつて幸福らしかつた。入口の方で此時悲しさうに呟く聲が聞こえたが、やがて僧の聲で相手の半解[やぶちゃん注:一部のみが聴こえ、全体は判然としなかったことを指す。]の答を氣の毒さうに繰り返すのが聞こえた。『十九歲の女、フム、それから二十一歲の男――さうですね』其時自分は歸らうとして起ち上がつた。

 『御免下さい、もう一寸お待ち下さい』僧は何か書いて居た顏を上げて云つた、女達は自分に禮をした。

 『いや』自分は答へた。『お邪魔致しますまい。私はただ老僧にお目に懸かりに來たのですが、む位牌にお目に懸かりました。これは少しばかりですが靈前へ、それからこれは貴僧(あなた)へ、何卒(どうぞ)』

[やぶちゃん注:「靈前」は厳密には「佛前」とすべきところ。仏教では一般に亡くなって四十九日までは「霊」の状態にあるとされるが、四十九日を過ぎると成仏して仏になるとされているからである。]

 『暫くお待ち下さい咄せ、お名前を承り度う御座いますから』

 『多分又伺ひませう』自分はごまかすやうに云つた。『老尼もお亡くなりになりましたか』

 『いやいや、達者で寺の世話を焼いて居ります。只だ今外出致しましたが、直ぐ戾りませう。お待ち下さい。何か御用でもお有りになりはしませんか』

 『ただ御祈禱を願ひませう』自分は答へた。『私の名はどうでも宜しいです。四十四歲の男、其男に尤もふさはしい物が得られるやうにお祈り下さい』

[やぶちゃん注:「四十四歲」底本は「四十二歲」であるが、原文は“forty-four”で正しいハーンのこの「二」の時制での年齢を言っているので、誤訳或いは誤植と断じ、特異的に訂した。。]

 僧は何か書き下した。自分が彼に祈つて吳れと依賴したことは、確に自分の心の眞底の願ではなかつた。併し佛陀は、失はれた幻の復歸を願ふやうな、愚かしい祈禱には耳を藉さぬであらう事を自分は承知して居た。

 

2020/01/14

脱落していた『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』を挿入した

情けないことに、2015年にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で行った「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」の内、「第三章 お地藏さま (七)」をアップし忘れていたことに、今頃、気づいた。再校正と注を増やして先程、当該並びに合うように、遡った日付でこちらにアップした。お詫び申し上げる。

2020/01/13

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 叶へる願 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A WISH FULFILLED”。「成就されたる願い」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第九話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。なお、本篇は本作品集発行の二ヶ月前の『大西洋評論』(Atlantic Monthly)一八九五年一月号を初出とする。このタイミングを見るに、ハーンは作品集として送った原稿をダブって雑誌に公開した可能性が高いように思われる。ハーンは実はこの版元の一つである「ホートン・ミフリン社」とは、後に版権を独占したいと言われて怒り、一悶着ある。彼自身が自由人であろうとしたように、自作品の自由も、彼には欠かせないものであったであろう。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 なお、この前に配されている「赤い婚禮」(原題“THE RED BRIDAL。戶澤正保訳)は既に昨年の夏、個別に電子化注してある。なお、以上のリンク先のものは底本が後のもので異なるものの、確認したところ、そのデータ自体が本底本を親本としていると推定され、有意な違いは認められなかったので再電子化は行わない。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 引用や原注・訳者注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の古代ギリシャの詩句は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。

 言わずもがなであるが、本篇は日清戦争勃発直後(明治二七(一八九四)年七月二十五日から翌年四月十七日まで。正式な宣戦布告は一八九四年八月一日)に書かれた作品(作中の最初の原注参照)である。]

 

  叶へる願

 

   汝肉體を去り自由なる精氣の中に入る時、

   汝は恒久不滅の神となるべし

   ――死も最早汝を領することなかるべし。

                  希臘古詩

 

      

 街(まち)には白い軍服と喇叭の音と砲車の轟きとが充ち滿ちて居た。日本軍が朝鮮を征定したのは歷史上これが三度目だ、そして支那に對する宣戰の詔勅は市の新聞に依つて、眞赤な紙へ印刷して布告された。帝國の陸軍は悉く動員された。第一豫備兵も召集された。そして兵士は隊をなして熊本へ溢れ込みつつあつた。幾千人かは市民の宿へ割り當てられた。兵舍と旅館と寺院だけでは、通過の大軍を宿すことが出來なかつたからである。併しそれでも尙ほ足りなかつた、いくら特別列車が全速力で、下ノ關に待たせてある運送船指して、北へ北へと輸送しても。

[やぶちゃん注:「支那に對する宣戰の詔勅」「淸國ニ對スル宣戰ノ詔勅」。冒頭注に示した明治二七(一八九四)年八月一日のそれ。「帝国電網省」内の「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 (日清戦争開戦の詔勅 明治27年8月1日)」(リンクをホームページにしか許可されていないので以下にアドレスを貼り付けておく。http://teikoku-denmo.jp/history/kaisetsu/other/nisshin-kaisen-shousho.html)で新字であるが、原文・訓読文・現代語訳が読める。]

 それにも拘らず、大軍の移動といふことを考へて見ると、市は驚くべき程靜かであつた。兵士は授業時間中の日本の學生の如く靜肅で從順で、威張り散らす者もなければ、けばけばしい擧動をする者もない。佛敎の僧侶は寺院の庭で彼等に說敎して居る。練兵場ではわざわざ京都から來た眞宗の法主に依つて既に大法會が擧行された。數千の兵士は彼に依つて阿彌陀の保護に託せられた。一々若い頭顱[やぶちゃん注:「とうろ」。頭。]の上に剃刀を載せるのは、進んで現世の欲望を棄てるといふ象徵で、それが兵士の授戒であつた。神道の神社では到る處神職と市民に依つて、昔國の爲めに戰死した者の靈と、軍神とに祈願が籠められつつあつた。藤崎神社譯者註

 

譯者註 熊本の古社八幡宮。

[やぶちゃん注:現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。熊本市域の総鎮守。応神天皇を主祭神とし、神功皇后・住吉三神を相殿に祀る。社名は「幡」ではなく「旛」と書く。これは天文一一(一五四八)年)の後奈良天皇宸筆の勅額に基づくものである。参照したウィキの「藤崎八旛宮」によれば、承平五(九三五)年、『敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けて創建された』。『九州の石清水五所別宮の一社で』、『鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。国府八幡宮として国司や朝廷の崇敬を受けた。鎌倉時代以降は歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた』が、明治一〇(一八七七)年、西南戦争で社殿を焼失し、現社地に移転して復興した』とある。当時の小泉八雲の居住地はこの中央付近(現在の復元された小泉八雲旧居は熊本で最初に住んだ場所でここからは少し南のこちらである)で神社の西北西七百メートル付近で、ごく近い。]

 

では守札を兵士に配付しつつある。併し一番莊嚴な儀式は、日連宗の名刹本妙寺のそれであつた。これは朝鮮の征服者、ジエシユイツトの敵、佛敎の擁護者であつた、加藤淸正の靈が三百年間眠れる處である。――此處は參詣人の唱へる南無妙法蓮華經の題目が大浪の樣に響く處だ――又此處は神と祀られる淸正公の小さい肖像を入れた寺院形の珍らしい護符を賣つて居る處である。此寺の本堂幷びに長い並木路に沿ふ兩側の末寺では、特別の法會が行はれ、淸正の宦へ神助を仰ぐ特別の祈禱が上げられた。三百年間本堂に保存された淸正の甲冑、兜、太刀は姿を隱して了つた。これは或る人の說では軍紀を鼓舞する爲めに朝鮮へ送られたのだと云ふ。又夜な夜な寺の庭でも蹄の音が聞こえて、再び日の御子の軍を勝利に導かんと、墓穴(おくつき)より出現せる淸正の幽靈が過ぐるを見たなどといふ者もある。疑ひもなく田舍の素朴な勇剛な靑年兵士の中には、それを信じた者も多からう――恰もアゼンの兵士がマラソンでセシウス將軍の在陣を信じた如くに。殊に多數の新募の兵には熊本その者が既に偉人の傳說で神聖化された驚愕の市と見え、其城は朝鮮で立て籠もつた城砦の設計に倣つて淸正が築いたもので、世界の不思議とも見えたのであらうから、尙ほ更の事である。

[やぶちゃん注:「本妙寺」熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗発星山本妙寺。日蓮宗の熱心な信者であった肥後熊本藩初代藩主加藤清正の墓であって彼を祀ったところの浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。

「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。

「アゼン」“Athens”。ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読みであるが、であれば「アゼンス」の方が一般的。

「マラソン」“Marathon”。地名。ギリシャ・アッティカ地方のアテネ北東にある村マラトン(ラテン文字転写:Marathṓn)。古代ギリシア時代の紀元前四九〇年に発生した「マラトンの戦い」(アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)で知られる。陸上競技マラソンはこの戦いでの故事に由来する。

「セシウス」“Theseus”。テーセウス。ギリシア神話に登場する伝説的なアテーナイの王にして国民的英雄。ミノタウロス退治などの冒険譚で知られ、ソポクレースの「コローノスのオイディプース」では憐み深い賢知の王として描かれる。ヘーラクレースほどではないが、大岩を持ち上げるほどの怪力を誇る。プルタルコスの「英雄伝」では古代ローマの建国の父ロームルスとともに、アテーナイを建国した偉大な人物として紹介されている。「マラトーンの戦い」ではアテナイ軍の先陣に立ってペルシア軍に突っ込み、アテナイ軍の士気を大いに高めたという伝説があり(ここまではウィキの「テーセウス」に拠った)、ここはそれに付随した伝承の一つ(軍神としてのテーセウスが来臨していると信じたこと)と思われる。]

 こんな騷ぎの最中に市民は不思議に靜かにして居た。外見だけでは外人には迚も一般の感情は推測されぬ。

 

註 此一文は一八九四年(明治二十七年)の秋、熊本で書いたのである。國民の熱誠は凝聚して靜肅となつた。其外見上の靜けさの下には封建時代の獰猛さが燻(くすぶ)つて居た。政府は幾千とも知れぬ義勇隊――重に劍客の申し出を謝絕せざるを得なかつた。若しそんな義勇隊を召集したなら一週日の中には十萬人の應募者は得られたらうと思ふ。然るに敵愾心は意外な、又更に痛ましい方法で顯はれた。出陣を謝絕されたので自殺した者が多數ある。地方の新聞紙から手當たり次第に二三の奇怪な實例か引用しよう。京城に居む某憲兵は大島公使を日本に護送することか命ぜられたので、戰場へ行くことが出來ぬので無念の餘り自殺した。又石山といふ一士官は病氣の爲め所屬の聯隊が朝鮮に向け出發する日に、行を共にすることが出來ぬので病床から立ち上がり、天皇の聖影を拜した後、劍を拔いて自刄した。大阪の池田といふ兵士は何か軍紀に背いた廉で出征を許されぬと聞き、我れと我が身を銃殺した。混成旅團の可兒大尉に、彼の聯隊が忠州附近の一要塞攻擊中病氣で卒倒し、無意識の狀態で病院に收容されたが、一週間後に意識を恢復すると卒倒した處へ行つて(十一月二十八日)自殺した――其時の遺書は「ジヤパン デーリー メール」がつぎの如く飜譯した。「予は病氣の爲め此處に停まり、予が部下の要塞襲擊に參加するを得ざりしは、終生拭ふ可からざるの恥辱なり。此恥辱を雪がんが爲めに余はこゝに死す――予が哀情を語るべく此一書を遺して』

東京にある一中尉は、己が出征後、母のない一人の少女を世話する者もないので、其幼兒を殺して、發覺せざる中に己が隊と共に出征した。彼は其後戰場に、我が子と冥途の旅を共にすべく、死を求めて遂に之を得た。此一事は封建時代の殺伐な氣象を思ひ起こさしむる。武士(サムラヒ)が勝算なき職場に出る時、妻子を豫め殺して出陣した話がある。それは武士が戰場で思うてはならぬ三つの物を忘るゝに都合がよいからである――卽ち家、妻子、及び我が命。妻子を殺した後の武士は死に物狂ひに働く事が出來る――敵に情(なさけ)をもかけねば、敵の憐れみをも乞はずに。

[やぶちゃん注:冒頭に明治二七(一八九四)年秋に執筆した旨の記載があるが、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の一月の条に『二十五日(木)付で、チェンバレンより、依頼しておいた「熊本籠城の唄」の翻訳が送られる。後に「願望成就」』(本篇のこと)『のなかで利用されることになる』とあって、実際に最後の章にその歌(軍歌)が出現する。私は本篇と全く無関係にこれが成されたとは思い難いことから、実は本篇の漠然とした構想は実際にはこの頃か、或いはこの前の年辺りにあったのではなかろうかとも思われるのである。無論、日清戦争勃発前に当たるわけであるが、熊本の第六師団が住まいに近かったこと、戦争のキナ臭ささは半島や中国との関係の中で漂い始めていたことから、私はそう(戦争の予感から、若き兵の出陣と、その中に自分の嘗ての教え子が含まれるであろうことを想定しての漠然たる予感的構想設定をすること)考えて構わないように感じている。

 公衆の靜肅さは特に日本的であつた。民衆は個人の樣に、感動すればする程、外見上は益〻自制的になるのである。天皇は在鄕の兵士に酒肴と、慈父の如き愛憐の詔書を下賜された。國民も之に倣つて便船每に酒、食糧、果物、菓子、烟草其他各種の寄附品を送りつつある。高價の寄附に堪へぬ輩は、草鞋を贈りつつある。全國民は軍事資金に献金しつつある。熊本は決して富める市ではないが、尙ほ貧富とも全力を盡くして其忠誠を證明せんと力めつつある[やぶちゃん注:「つとめつつある」。]。商人の小切手、職人の紙幣、勞働者の銀貨、車夫の銅貨、雜然混淆して、何れか同胞の爲めに微力を致さんと奢侈を戒め、冗費を省きたる結果にあらざるはない。子供すら献金した。そして其同情ある小献金は謝絕されなかつた。それは普遍的な愛國心の動きは決して挫折されぬ樣にとの注意からである。併し又豫備兵の家族の爲めに特別の寄附金募集が町々で企てられた。――豫備兵は既に結婚して、大部分は低級の職業に從事して居るのだが、突然召集されたので、妻子は糊口の道を失うたから、其糊口の道を立ててやらうと、市民が自發的に嚴然と誓つて努力しつつあるのである。こんな非利己的な同胞の愛を背後に有する兵士が、兵士としての義務を十二分に盡くすべきは疑ふの餘地がない。

 そして彼等は盡くしたのである。

 

        

 自分に逢ひたいといふ兵士が玄關に來て居ると萬右衞門が云つた。

 『萬右衞門、それは兵隊の宿を此家(ここ)へ割り附けようといふのではあるまいな――此家は狹過ぎるから。何の用だか聞いてお吳れ』

 『聞きました』萬右衞門が答へた。『あの兵隊は貴君(あなた)を御存じ申して居ると申します』

[やぶちゃん注:「萬右衞門」しばしば小泉八雲の作品に登場する家の老僕とするが、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようである。但し、同居していたセツの養祖父は稲垣万右衛門という名であり、実際、別な作品では年譜と照合すると時に彼であることもあるが、この場合はセツの方がしっくりくるように思われる。特に第二章の本篇の終わりのシークエンスは本当は彼女でなくてはならないと感ずる。]

 自分は玄關へ出て行つて見ると、軍服姿の好靑年が、自分の現はれたのを見て微笑して帽子をとつた。自分には見覺えがない。併し其微笑には覺えがある。一體、何處で見たのだらう。

 『先生眞(まこと)に私をお忘れになりましたか』

 又暫くいぶかりながら自分は彼を凝視した。すると彼は穩かに笑つて名を名乘つた――

 『小須賀淺吉です』

 自分が兩手を差し出した時、自分の心臟まで彼の方へと躍つた。

 『さあお上がりお上がり』自分はどなつた。『併し君は實に大きく立派になりましたね。分からなかつたのに不思議はない』

 彼は靴を脫ぎ劍を外づしながら、小娘のやうに赤面した。彼は授業中間違つた時も、賞められた時も、此通りに顏を赧く[やぶちゃん注:「あかく」。]した事を想ひ出した。明らかに彼は松江の中學で十六歲の羞恥(はにかみ)がちの少年であつた時と同樣に、今でも尚ほ淸新な心を有して居るに相違ない。彼は暇乞ひの爲め、自分を訪問する許可を得て來だのだが、彼の聯隊は明朝、朝鮮へ出發するのだといふ。

 自分は彼を引き留めて會食した。そして往事を談じた。――出雲の事、杵築の事、其外色々愉快な事を話した。初めは知らずに渠に酒を勸めたが、彼は決して飮まなかつた。軍隊に在る間は、決して飮酒せぬと母に約束して來たといふことを後(あと)で知つた。それで酒の代りに珈琲を進めて彼が身上話を引き出さうと力めた。彼は卒業後富める農家である一族に助力する爲め故鄕へ歸つたのであつたが、學校で學んだ農學が大分役に立つたといふ。一年後に十九歲に達した村の凡ての靑年と共に、徵兵候補として寺へ召集され、規定の檢査を受けた。處が檢査官の軍醫と司令部の少佐との會議で一番に合格し、つぎの入營期に引き出された。そして十三箇月の勤務の後伍長に昇進した。彼は軍隊が好きであつたのだ。初めは名古屋に居たが、つぎに東京へ轉じた。併し名古屋の聯隊は朝鮮に出征せぬのを知つて、熊本師團へ轉勤を願ひ出でて許されたのであつた。『私は非常に嬉しいです』と彼の顏は軍人らしい喜びを以て輝きつつ叫んだ。『我々は明日立つのです』そして喜びを露骨に發表したのを恥づるが如く又顏を赧くした。自分はカーライルの、誠實な心を誘ふものは快樂でなくて、苦難と死だと云つた深い言葉を思ひ出した。自分は又――これは日本人には云へない事だが――此靑年の眼中の喜悅は、自分が今迄に見た何物よりも、婚禮の日の朝の花婿の眼の色に髣髴たるものであると思つた。

[やぶちゃん注:「カーライル」イギリスの歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。出典未詳。]

 『君は覺えて居ますか』自分は問うた。『君は學校で陛下の爲めに死にたいと云つた事がありましたね』

 『ハイ』笑ひながら彼は答へた。『そして其機會が來たのです。私にばかりではない。級友の多くにも』

 『みんな何處に居ます』自分は問うた。『君と一緖かね』

 『いや、みんな廣島師團に居ました。今はもう朝鮮に往つて居ます。今岡(先生御記憶でせう。身長(せい)の高い男です)と長崎と石村――これだけは皆、成歡の戰爭に參加しました。それから敎練の先生であつた中尉――御記憶ですか』

[やぶちゃん注:「成歡の戰爭」「成歓(せいかん/ソンファン)の戦い」は日清戦争の最初の主要な陸戦。「成歓・牙山(がざん/アサン)の戦い」とも呼ぶ。ウィキの「成歓の戦いによれば、一八九四年六月八日、葉清国軍(北洋陸軍・歩兵約二千五百名・山砲八門)が牙山に上陸し、七月二十四日には三千八百八十名に達した。七月二十三日午前二時、日本軍の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。民間人を徴用して『電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し、占領した。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた』。二十五『日、朝鮮の新政府は清国の宗主権破棄を宣言、大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請した』七月二十六日には混成第九旅団に『その旨が伝達されて』いる。七月二十八日に『日本軍は牙城に』籠る『清国兵を攻撃するため』、進発、七月二十九日午前三時二十分、『佳龍里おいて清国兵の攻撃により』、歩兵第二十一連隊第十二『中隊長松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)』。午前八時三十分、日本混成第九『旅団は成歓の敵陣地を制圧』した。『大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし』て、七月二十九日『午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後』三『時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた』。『この作戦の日本側の死傷者は』八十八『名なのに対して、清国兵は』五百『名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡』していた。また、この「安城の渡しの戦い」で歩兵第二十一連隊の『木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る』とある。最後の知られたエピソードについては、「小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳)」の「二」の本文と原注及び私の注を参照されたい。

 『藤井中尉か、覺えて居る。退職士官だつたね』

 『併し豫備でした。彼(あ)の人も朝鮮へ行きました。先生が出雲を去られてから、男の子をも一人儲けられました』

 『僕が松江に居た時は、女の子が二人、男の子が一人ありましたね』

 『さうでした。今は二人男の子があります』

 『そんなら家族は大分心配して居ませう』

 『中尉自身は心配しません』靑年は答へた。『戰爭で死ぬのは名譽です。戰死者の家族は政府で世話して吳れます。だから士官邊は少しも心配がありません。ただ――子息がなくつて死ぬのは一番悲むべきです』

 『僕には解せない』

 『西洋ではさうでありませんか』

 『却つて我々は子供があるのに死ぬのが尤も悲むべきだと思ひます』

 『どういふ理由でせう』

 『善良な父は凡て子供等の將來を心配しませう。若し突然父親が居なくなつたら、子供等は色々の難儀をしようぢやありませんか』

 『日本の士官の家族はさうでありません。子供は親戚で世話するし、政府からは扶助料が下がります。だから、父親は心配するに及びません。だが子供が無くて死ぬ者は氣の毒です』

 『といふのは妻と其他の家族が氣の毒だといふのかね』

 『いや當人が氣の毒です、夫自身が』

 『それはどうして。子供があつたつて死人には何の役にも立つまいぢやないか』

 『子供があれば後を繼ぎます。家名を保存します。そして供養を致します』

 『死者への供養ですか』

 『さうです。お分かりになりましたか』

 『事實は分かつたが、感情が僕には分からない。軍人は皆、今でもこんな信念と有(も)つて居ますか』

 『有つて居ますとも。西洋にはそんな信念はありませんか』

 『今はないね。昔の希臘人や羅馬人はそんな信念を有つて居ました。祖先の靈は家に遺つて居て、供養を受け、家族を守護すると思つて居ました。彼等が何故さう思つたか我々にも幾分分かります。併し彼等が何う感じたか、それは判然(はつきり)分かりません。それは我々自分[やぶちゃん注:ママ。]が經驗しない、若しくは遺傳しない感情といふものは、分かるものでありませんから。同じ理由で僕には死者に對する日本人の其の感情は分かりません』

 『そんなら先住は、死は凡ての終はりだ、とを考へですか』

 『いや僕の不可解(わからない)のはさう考へるからではない。或る感情が遺傳する――或る思想も多分遺傳する。死者に就ての君の感情と思想、又死者に對する生者の義務感といふものは、西洋のとは全然違ひます。我々には死といふ槪念は生者からのみならず、此恍からの全き別離を意味するのです。佛敎も死者は長い暗い旅行をせねばならぬ事を說いてるぢやありませんか』

 『冥途の旅ですか。さうです、みんな其旅を致します。併し我々には死を全き別離とは考へません、我々は死者も我が家に居る如く考へて、每日言葉をかけます』

 『それは知つてます。僕に分からぬのは其事實の背後の思想です。若し死人が冥途へ行くのなら、何故佛壇の祖先に供物を供へ、實際在す[やぶちゃん注:「ます」。そこにおられる。]が如くに祈禱をしますか。一般俗衆はかうして佛敎の敎と神道の信念を混同して居ませんか』

 『多分混同して居る者も澤山ありませう。併し全くの佛敎信者にも死者への供養と祈禱は、同時に異る場處でなされます。――檀那寺でも又家庭の佛壇で島』

 『併しどうして靈魂が冥途に在ると同時に、此世の樣々な場處に在ると考へられるでせう。たとひ靈魂は分割されると信ずるにしても、それだけでは此矛盾を說明し盡くされません。佛敎の敎へに從ふと、死人は後世で裁判を受けて、居處を決せられるやうになつて居ますから』

 『我々は靈魂は一にして又二に又三にもなるものと信じて居ます。我々は靈魂は一人のものとして考へますが物質的のものとは考へません。丁度空氣の動く樣に同時に幾箇處にも居られるものと考へます』

 『或は電氣の樣に』と自分は補つた。

 『さうです』

 

 此の若き友の心には明らかに冥途と家庭の供養といふ二つの槪念は、調和し得ぬものとは思はれぬのであつた。多分如何なる俤敎哲學の學者にも、此二つの信念が重大な矛盾を含むものとは見えねだらう。『妙法蓮華經』は佛の境界は廣大無邊――大氣の涯(はて)なきが如しと說いて居る。又久しく涅槃に入りたる佛に就ては『其完全なる滅後と雖も、十方世界を徘徊す』と宣べて居る。又同じ經は凡ての佛達の同時に出現せし由を說きたる後、釋迦をして宣せしむらく、『是皆我が分身なり。其數は恒河の砂の如く千萬無量なり。彼等は妙法を實現せんが爲めに現はれたり』併し平民の無邪氣な心に、神道の原始的な思想ともつと的確な佛敎の靈魂裁判の敎義との間に、眞の調節が出來て居ない事は、自分には明らかに見ゆる。

[やぶちゃん注:「恒河の砂」「ごうがのすな」。「恒河沙(ごうがしゃ)」。「恒河」はガンジス川を意味するサンスクリット語「ガンガ」を漢音訳したもので、「恒河沙」とは「ガンジス川にある無数の砂」の意であり、もともと「無限の数量」の例えとして仏典で用いられていた。例えばここでハーンが引く「法華経」の「堤婆達多品」(だいばだったほん)」の中の「恒河の砂ほど多くの衆生が仏の教えを聴く」がよく知られ、漢字文化圏に於いてはこれが数の単位の一つとなった。その数量は時代・地域により異なり、人によって解釈が分かれるが、一般的には1052或いは1056とも言う(以上はウィキの「恒河沙」に拠った)。]

 

 『君はほんとに死を生と同樣に、又光と同樣に考へますか』

 『さうですとも』微笑しながら答へた。『我々は死後も家族と一緖に居ると思ひます。兩親や友達にも逢ふでせう。卽ち此世に遺つて居るでせう――今と同樣に光を見ながら』

 (此處で突然自分には或る學生が義人の未來を論ずる作文の中で『彼の靈は永久に宇宙を翺翔[やぶちゃん注:「かうしやう(こうしょう)。空高く飛ぶこと。]と書いた言葉が新しい意味を以て、思ひ出もれた)

 『ですから』淺吉は續けて云つた。『子供のある人は元氣好く死ねるのです』

 『飮食物の供物を子供が靈魂に供へるからですか。そしてそれがないと靈魂は困るのですか』と自分は問うた。

 『そればかりではありません、供養よりも、もつと重大な義務があります。それは誰れでも死後に、自分を思慕して吳れる者を要求するからです。お分かりになりましたか』

 『君の言葉だけは分かりました』自分は答へた。『君の信念の事實だけは分かりました。感情は僕には解せません。僕には僕の死後、生きてる[やぶちゃん注:ママ。]者から思慕されても幸福になるとは考へられません。いや僕は死後に何等の愛をも感知し得るとは想像されません。して君はこれから戰爭に遠くへ往くのだが――子供のないのは不運だと思ひますか』

 『私が。いや、私自身が子供です――末の方の子供です。兩親はまだ生きて居て丈夫です。そして、兄が世話をして居ます。私が殺されたら、私を思つて吳れる者が澤山あります――兄弟や姉妹やそれから幼い者もあります[やぶちゃん注:底本は「ありす」。特異的に補った。]。我々兵士は別です。我々はみな、極若いですから』

 『何年間程』自分は尋ねた。『供物は死人に供へられるのかね』

 『百年間です』

 『たつた百年間』

 『ハイ、寺でも百年間だけしか、祈禱と供養は致しません』

 『そんなら死人は百年で追懷されずともよくなるものですか。それとも彼等は遂に消滅するのかね。魂魂の死滅といふ事があるのかね』

 『いや、百年後にはもはや家に居なくなるのです。生まれ更はるのだとも云ひますが。又或る人は彼等は神になるのだと申します。そして神として尊敬し、一定の日に床の間で供へ物を致します』

 

 (これは普通行はれて居る解釋であるが、これと不思議にも相反せる思想に就て聞いた事がある。非常に德望のある家では、祖先の靈が物質的の形態を取つて、數百年の間、折折現はれるといふ傳說があるのである。昔、或る千箇寺參詣者(まゐり)[やぶちゃん注:前三文字へのルビ。]が、遠い或る邊鄙の地で二人の靈魂を見たといふ記錄を遺して居る。彼等は小さい朦朧たる形態で『古銅器の樣に黑い』と云つてある。彼等は口はきけないが、低い呻く樣な聲を發する。又每日供へられる食物を食ひはせぬが、ただ暖かい湯氣を吸入する。彼等の子孫の云ふ處に依ると、彼等は年々益〻小さく、益〻朦朧となるといふ)

 

註 これは日蓮宗の名ある寺を千箇處巡拜する信者の事で、此旅行を終はるには數年を要するのである。

[やぶちゃん注:このハーンの言う伝承やそれを記録したものを私は寡聞にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 

 『我々が死者を思慕するのは甚だ變とお考へですか』淺吉は啓ねた。

 『いや』自分は答へた。『それは美しい事だと思ひます。併し西洋の一外人としての僕には、其慣習は今日のものらしくない、寧ろ昔の世界のものらしく思はれます。古希臘人の死者に對する考は、現代の日本人に大分似て居つたらうと思ひます。ペリクレスの時代のアゼンの兵士の感情は、多分明治時代の君等と同じであつたらう。君は學校で、希臘人が死者に犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」と訓じておく。]を供へた、英雄や愛國者の靈に敬意を拂つた事を讀んだでせう』

[やぶちゃん注:「ペリクレス」(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた政治家として知られるのことである。

「アゼン」「一」に既出既注。“Athens”。アゼンス。ギリシャの首都アテネ(Athens)、アテナイのこと。]

 『讀みました。彼等の習慣の中に我々のに似て居るのがあります。我々の中で支那と戰つて倒れる者も同樣に敬意を拂はれるでせう。神として崇められるでせう。天皇陛下すら敬意を寄せられるでせう』

 『併し』自分は云つた。『先祖の墳墓の地を遠く離れて、外國で戰死するのは、西洋人にすら、甚だ氣の毒に思はれます』

 『いやいや。鄕里の村や町には戰死者の爲めに記念碑が建てられませう。そして屍骸は燒いて骨にして日本に送ります。少くともそれが出來る處ではさう致します。ただ大戰の後ではむつかしいでせう』(突然ホーマーの詩の記憶(おもひで)が胸に漲(みなぎ)つて、『屍の山が其處にも此處にも絕え間なく燒かれた』といふ古戰場の幻影(まぼろし)が自分の眼に浮かんだ)

[やぶちゃん注:「ホーマー」“Homer”。紀元前八世紀後半頃のギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロス(ラテン文字転写:Homēros)のこと。小アジア西岸地方に生まれとされ、ギリシャ各地を遍歴したと伝えられる。二大英雄叙事詩「イリアス(イリアッド)」「オデュッセイア」の作者とされ、古来、最高の詩人と称されてきている。その二大詩は古代ギリシャの国民的叙事詩として、文学・教育・宗教・美術などに多大の影響を与えた。以上は「イリアス」の序文一節。英文ウィキソースのこちらで当該箇所(第二パラグラフの最後)が読める。]

 

 『そして此戰爭で殺された兵士の靈は』自分が問うた。『國難の時には、國を護り給へと常に祈られるのだらうね』

 『さうですとも。我々は全圖民に敬愛せられ、崇拜されるのです』渠は既に死ぬと極まつた者の樣に『我々』と云つたが、それは、全く自然に聞こえた。暫し沈默した後で又續けた――

 『去年學校に居る時行軍を致しましたが、其時意字(いう)地方の英雄の靈の祀られてある神社へ參りました。それは丘陵に圍まれた美しい淋しい處で、祠(やしろ)は高い樹木で蔽はれて居ます。そしていつでも薄暗く、冷たい靜(しん)とした處です。我々は祠の前に整列しましたが、一人も物云ふ者はあしませんでした。其時喇叭が、職場への召集の樣に神の森に鳴り響きました。そして私の眼には淚が出ました――何故とも分からずにです。同輩を見ると、みな私と同樣に感じたらしいのです。多分先生は外國人ですから、お分かりになりますまい。併し日本人なら誰れでも知つて居る、此感情をよく表現した歌があります。それは西行法師といふ高僧が昔詠んだものです。此人は僧侶にならぬ前は武士であつて、俗名を佐藤憲淸と云ひました。――

 

 なにことのおはしますかは知らねとも

      ありかたさにそなみたこほるる

 

[やぶちゃん注:「意字(いう)地方」現在の島根県松江市意宇町があるが、ここは「地方」と言っており、これは旧意宇郡(おうぐん)で、現在の松江市の一部(大橋川以南及び大根島・江島)であろう。ウィキの「意宇郡」の地図でその広域一帯が確認出来る。同郡は後の明治二九(一八九六)年四月一日に八束郡となっているから齟齬はない。而して、意宇郡内で最も知られた古い神社は熊野大社で、祭神は「伊邪那伎日眞名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎(かぶろぎの)熊野大神(くまののおおかみ)櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」であるが、これは素戔嗚尊の別名であるとするから本文の「英雄」と一致する参照したウィキの「熊野大社」によれば、「伊邪那伎日真名子」は「イザナギが可愛がる御子」の意で以下、「加夫呂伎」は「神聖な祖神」、「熊野大神」は鎮座地名・社名に大神をつけたもので、実際の神名は「櫛御気野命」ということになり、『「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である』。これは「出雲国造神賀詞」に出る神名を採ったもので、「出雲国風土記」には『「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが』、「先代旧事本紀』」の『「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも』、『現存する伝承が成立した時には』、『すでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入』ってから、『祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫しており、別の神とするのはあくまでも現代人の説にすぎない』とある。

「なにことのおはしますかは知らねとも」「ありかたさにそなみたこほるる」原文は日本語のローマ字表記四行書きで、「なにごとの」「おわしますかは」「そらねども」「ありがたさにぞ」「なみだこぼるる」となっている。本歌は西行が伊勢神宮に参拝した際に歌ったとされるものであるが、古来、真贋の論争が喧しいものである。整序すると、

 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに淚こぼるる

である。]

 

 自分がかういふ經驗談を聞いたのは、これが初めてではなかつた。自分が敎ふる學生の多くは、古い神社の緣起と朧氣な嚴肅さとに依つて喚起された感情を語るに躊躇しなかつた。實際淺吉の此經驗は深海の漣と同樣、決して單獨のものではなかつた。彼はただ一民族共有の祖先傳來の感情――神道の漠乎たる併し測り知られぬ深さを有する情緖を述べたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「深海の漣」はママ。原文は“a fathomless sea”であるから判らぬではないが、「測り知れぬ底知れぬ大海」で「大海」の方が漣(さざなみ)としっくりくる。

「漠乎」(ばくこ)測り知れない広さを指す。「乎」は強調の助字。]

 我々は軟らかい夏の闇が落ちかかる迄話し續けた。星と兵營の電燈が諸共に閃き出した。喇叭が鳴つた。そして淸正の古城から、雷の樣な一萬の兵士の歌ふ太い聲が夜の中へ轉げ出した。――

 

      西も東も

        みな敵ぞ、

      南も北も

        みな敵ぞ。

      寄せ來る敵は

        不知火の

      筑紫のはての

        薩摩潟。

 

 『君もあの歌を習つたかね』と自分が聞いた。

 『習ひました』淺吉が云ふ。『兵士は誰れでも知つてます』

 それは籠城の歌『熊本籠城』といふ軍歌であつた。我々は耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]聞き入つた。その偉大な合唱の響の中に、詞の幾分を聞か分くることも出來た。

 

      天地も崩る

        ばかりなり

      天地は崩れ

        山川は

      裂くる例の

        あらばとて

      動かぬものは

        君が御代。

[やぶちゃん注:以上の歌詞は各行が短いので、底本の位置で示した。これは西南戦争に於ける熊本鎮台の籠城作戦(籠城した鎮台軍は三千三百名)を主題とした軍歌「熊本籠城」(作詞者不詳・音源は探してみたが、見当たらない)の一部。前者は冒頭部分で、後者は中間部の一節。全篇はブログ「陸・海軍礼式歌」のこちら(電子化されてある。但し、一部表記に問題がある)、或いは国立国会図書館デジタルコレクションの「新撰軍歌集」(明治二一(一八八八)年・熊本楽善堂刊)のこちらで画像で読めるが、後者で照らし合わせると、前の「筑紫」は「ちくし」とルビし、「薩摩潟」は「薩摩方」となっている(前者は「薩摩潟」)。後の方は「天地も崩る」が「天地も崩るゝ」となっており、「山川」が「山河」、そして「裂くる例の」は「烈(さけ)るためしの」となっている。前者のそれは「裂かる例の」となっているから、折衷して「裂(さけ)る例(ためし)の」が穏当か? 但し、ハーンの原文では「さくる」となっており、個人的には「裂くる例の」がしっくりくる気はする。なお、「薩摩潟」の場合は薩摩国の南方の海上を漠然と言ったものであろう。薩摩潟という潟や入り江及び沿岸地名は実在しない。後者はその事実を意識して「方」としたものかも知れない。]

 

 暫しの間淺吉は歌の强い律(リズム)に合はせて肩を搖りながら聞いて居たが、突然目覺めた者の如く笑つて云つた。――

 『先生、お暇致します。今日はお禮の申し上げ樣もありません、非常に愉快でした。併し先づ』――と胸から小さい包みを出して『どうぞこれを納め下さい。久しい以前に寫眞をと仰しやいましたが、紀念(かたみ)に持つて參りました』

と立ち上がつて劍を着けた。自分は玄關まで送り出して彼の手をぢつと握つた。

 『先生、朝鮮から何をお送り致しませう』彼は問うた。

 『手紙さへ貰へばよい』自分は云つた。『つぎの大勝利の後でね』

 『筆さへ握れましたら、それは屹度』彼は答へた。

 さて銅像の樣に身體を眞直ぐにして、制規の軍人式敬禮を行つて、闇の中へ大股に淸消えて了つた。

 自分は淋しい客間へ歸つて冥想した。軍歌の轟きが聞こえる。汽車の囂音が聞こえる。其汽車は幾多の若き心、幾多の貴い忠義、幾多の立派な誠と愛と勇とを載せて、支那の稻田の疫癘[やぶちゃん注:「えきれい」は「悪性の流行病・疫病」の意であるが、ここは戦争の換喩。]の中へ、死の旋風の眞中央(まつただなか)へと運び去るのであつた。

 

       

 地方の新聞紙に依つて發表された長い戰死者名簿の中に、小須賀淺吉の名を發見した日の夜、萬右衞門は客間の床の間を祭祀用に裝飾して燈明をつけた。花瓶には花を一杯挿し、色々の小さい燈火を並べ、靑銅の小さい鉢に線香を燒‘た)いた。準備が調つた處で自分を呼んだので、床の間へ近寄つて見ると、中に淺吉の寫眞が小さい臺の上に立ててあるのを見た。その前には飯、果物、菓子などが小さく並べてあつた――老人の供物である。

 『多分』萬右衞門がおづおづ云つた。『旦那が何とか物を云つて上げたら、淺吉の靈が喜びませう。旦那の英語が了解(わか)りませうから』

 自分は彼に物を云つた。すると寫眞は線香の煙の中で微笑むやうに見えた。併し自分の云つた事は、彼と神々にばかり分かる事であつた。

[やぶちゃん注:ここに登場する松江中学時代の教え子「小須賀淺吉」なる人物は、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ても、このような教え子の訪問事実が出てこず、ネットで検索をかけても本篇を紹介する記載でヒットするばかりであった。辛うじて「富山八雲会」公式ブログの二〇一〇年三月十五日の「3月例会報告」(「富山八雲会」二〇一〇年三月十三日に行われた例会の報告記事)の『1 輪読会「願望成就」…担当:木下・綿谷』の中に『小須賀浅吉自体は実在しない?』とあるのを見い出せた。或いはモデルの教え子はあるかも知れぬが、実在する人物ではないようだ。議論の内容から見ても、これだけの信仰論議を英語でし得る、この年齢の、この設定の人物というのは、ちょっと考え難い気はする。……にしても……この話……元教師であった私の胸を刺すものがある…………

2020/01/12

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「六」から「九」/「柔術」~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌や私の凡例は前の『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」』を参照されたい。]

 

       

 日本は間もなく基督敎の採用を世界に宣言するだらうとの豫想は、往時の他の豫想程不道理なものではなかつた。けれども今になつて見ると一層不道理であつたやうに思はれる。そんな大きな期待を基づけるやうな前例は何處にもなかつたのだ。東洋人種で基督敎に改宗したものは未だ甞てなかつた。英國治下の印度に、舊敎宣傳の大努力も遂に水泡に歸した。支那では二百餘年の傳道の後、基督敎といふ名さへも嫌惡せられるに至つた――それも理由なしではない。西敎の名で支那に對する幾囘かの侵掠が行はれたからである。近東の方面でも東洋民族の改宗事業はさつぱり捗(はかど)らない。土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]、アラビア人、モーア人或は何れの同敎徒をでも改宗せしめ得る望みは露程もない。猶太人改宗協會の思ひ出の如きはただ一笑を博するに足るばかり。併し東洋人種を度外に措いても、我等は誇るに足るべき改宗事業は爲してない。近代史の範圍内では基督敎國は、苟くも國民的生活を維持し得るの望みある民族に、其敎理を採用せしめ得た例はないのである。二三の蠻族或は滅亡しつつあるマオリ種族の間に於ける傳道の、名目計りの成功の如きが、通則であるに渦ぎない。那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]の所謂宣敎師は政略上大いに有用なることありといふ、少しく皮肉な宣言にでも聽かぬ限り、我等は外國傳道會社の全事業は何の效果もなき精力と、時間と、金錢との大浪費に外ならぬといふ結論を避くる事が出來ぬ。

[やぶちゃん注:「モーア人」“the Moors”。モロッコ・モーリタニアなどのアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々の称。本来はマグレブの先住民ベルベル人を指したが、十五世紀頃からはイスラム教徒全般を指すようになった。

「猶太人」(ユダヤじん)「改宗協會」原文“the Society for the Conversion of the Jews”。侮蔑的な“Jews”と前後から、ユダヤ教徒をキリスト教に改宗させる組織らしいが、この英名ではヒットしない。但し、平井呈一氏の恒文社版「柔術」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)でも『ユダヤ人改宗協会』と訳されてある。識者の御教授を乞う。

「マオリ種族」原文“Maori races”。底本は実は「マリオ種族」とあるが、誤記或いは誤植と断じて、特異的に「マオリ」と訂した。しかし平井氏も『マリオ』とやらかしているし、ネット上にも驚くべきことに「マオリ族」の真面目な記載で「マリオ族」が氾濫しており、一人の筆者が「マオリ」と「マリオ」を混淆して記載しているものも認められる。ウィキの「マオリ」によれば、マオリ(マオリ語ラテン文字転写:Māori)は、『アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス人が入植する前から先住していた人々で』、『形質的・文化的にはポリネシア人の一派をなす。マオリとは、マオリ族の用いる言語マオリ語では本来』、『「普通」という意味で、マオリ自身が西洋人と区別するために』「普通の人間」という『意味でTangata Maoriを使い出したにもかかわらず、イギリス人が発音しにくいという理由で、Tangata(=人間)ではなくて、Maoriを採用したのが由来とされる』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の「マオリ族 Maori」には(コンマを読点に代えた)、『ニュージーランドのポリネシア系先住民。初期の移住は』九『世紀以前に行なわれたと考えられ』、一三五〇『年頃』、『再びタヒチ方面より大移住があり、それとともにマオリ文化の開花をみた。伝統的社会組織の最大単位ワカ(部族連盟)は、伝承のうえで』は、十四『世紀に大船団を組んで来島した際』、『船を同じくした者の子孫により形成されている』という。『社会的に機能する最大単位は、先祖を共有するイウ(部族)であるが、土地を共有するなど』、『日常生活に最も重要なのは、その下位集団のハプウ(氏族)であった。砦を中心に村落を形成し、サツマイモ、ヤムイモ、タロイモ、ヒョウタンなどの掘棒耕作や森林採集などを生業としていた。マオリの彫刻技術は有名で、村の集会所は多くの神像や螺旋文様で飾られていた。最高神イオ、森林神タネ、海神タンガロアなどを信仰していたが、現在ではキリスト教化している。人口はニュージーランド総人口の約』十五『%を占め(『二〇〇七年現在『)、伝統文化を尊重するとともに、近代文化に巧みに適応した生活を送っている』とある。]

 

註 名目計りと云つたのは、傳道の眞の目的達成は單に不可能であるといふ事實に基づくのである。此問題は、ハアバアト・スペンサアに依つてつぎの數行に明瞭に論斷されて居る。――「何處にても特殊の敎義の伴なふ特殊の神學的傾向は多くの社會問題を斷ずるに偏頗に流るゝは避く可からず。或る一の信條を絕對的に眞なりと考へ、從つて他の之と異る信條を絕對的に虛譌[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。偽り。インチキ。]なりと考ふる者に在つては、一信條の價値は相對的のものなりとの推定を爲す能はず。各宗敎に大體に於て、其宗敎の存在する社會の部分的一要素なりとの考へ外道として忌み退け、彼の獨斷的なる神學的系統は凡ての場處凡ての時代に適合するものなりと考ふ。彼は之を蠻族の中に移し植うるも適當に了解せられ、適當に歸依せられ、而して自身經驗せるが如き結集を彼等の上に及ぼすことを疑はず。此の如き偏見に捉へらるゝが故に、彼は凡て民族は其天分より高き政體を受け入るゝこと能はざるが如く、分に過ぎたる宗敎をも受け入るゝこと能はず、强ひて之を受け入れしむれぱ、政體と同じく、名目計りは同じくも實質は甚だしく劣等なるものに堕するといふ實證を閑却するなり。換言すれば彼の特殊なる神學的傾向は彼をして社會學的眞理の重要なるものに盲目ならしむ」

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。以上は彼の一八七三年刊の「社会学の研究」(The Study of Sociology)の“CHAPTER XII. the theological bias.”(「神学上の偏見」)の一節。]

 

 十九世紀の最後の十年期といふ今日に於ては、兎に角其理由は明白である。宗敎といふものは超自然に就ての一獨斷說である計りでない。一人種の全倫理的經驗、多くの場合に於ては其賢明なる國法の基礎となりたる太古の傳說、及び其社會的發展の記憶竝びに結果、此等のものの綜合されたものが宗敎なのである。されば宗敎は本質的に種族的生活の一部分で、他の全く異れる種族の倫理的、社會的經驗に依つて――換言すれば外國の宗敎に由つて、取つて代はらる〻は常道でない。又健全な社會狀態にある國民は、其倫理的生活と深く契合[やぶちゃん注:「けいがふ(けいごう)」。合わせた割り符のようにぴったりと一致すること。]せる信仰を自ら進んで棄てられるものでない。或る國民は其敎條(ドグマ)を改造する事はあらう、進んで他の信仰を受け入れる事さへもあらう。併し進んで古い信仰を棄てる事はあるまい、縱令其古い信仰は倫理的にも社會的にも無用の長物となつて居るとしてもである。支那が佛敎を入れた時、支那は古聖賢の經書をも、原始的の祖先崇拜をも棄てはしなかつた。日本が佛敎を入れた時も、日本は神の道を棄てなかつた。古代歐羅巴の宗敎史にも同樣の例は擧げられる。尤も寬容な宗敎のみが、其宗敎を生み出した民族以外の民族に入れられる。但しそれは既存の宗敎の外に追加せられるので、既存のものに、取つて代はるのではない。古代佛敎傳道の大いに成功せし所以は其處に在る。佛敎は他宗敎を吸收はしたが取つて代はる事はせなんだ。他信仰を其廣大な組織の中に合併して、之に新しい釋義を與へたのである。然るに囘敎と基督敎――西部基督敎――とは始終不寬容の宗敎であつて、何物をも合併せず、凡てに取つて代はらうとのみした。基督敎を入れるには、特に東洋の一國に入れるには、其國在來の信仰の破壞のみならず、同じく在來の社會組織の破壞をも必然に惹起す[やぶちゃん注:活用形はママ。]事になる。然るに歷史の敎ふる所に依れば、こんな大袈裟な破壞はただ暴力に依つてのみ成就される。若し非常に進步した社會ならば、尤も殘忍な暴力を要する。過去に於て基督敎宣傳の重な道具であつた暴力は、今でも我等が傳道の背後に存する。只だ我等は露骨な劍鋒の代はりに、金力と威嚇とを置き換へた、或は置か換へた振りをする。折々は基督敎徒たる事の證據に商業上の理由で其威嚇を遂行する。例せば我等は戰爭に依つて强要した條約の條項に於て、宣敎師を支那に强ひつける。そして砲艦で彼等を掩護し、自ら進んで殺された人間の生命に、莫大な償金を强請する。だから支那は何年每かに代償金を拂はせられ、我等が基督敎と稱するものの價値を年と共に學びつつある。かくてヱマースンの、眞理は或る者には事賞で證明せられる迄は了解せらる〻事なしといふ金言が、最近支那の正直な抗議に依つて證明せられた。其抗議といふのは支那に於ける宣敎師の侵害の無道を責めたものである。宣敎師騷ぎは遂に純粹の商業的利益に惡影響を及ぼすであらうと云ふ事が發見せられなんだら、此抗議も決して傾聽されなかつたあらう。

[やぶちゃん注:「ヱマースン」アメリカの哲学者・作家・詩人ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 一八〇三年~一八八二年)。引用元は不詳。]

 併し以上の所論にも拘らず、實際一時は日本の名目だけの改宗は可能と信ぜしむべき相當の理由があつた。人は日本政府が政治上の必要に迫られて十六、七世紀の驚くべきジエシユイツト傳道を絕滅せしめた後、基督敎徒といふ語は憎惡と輕蔑の語となつた事を忘るる事は出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。]

 

註 此傳道は一五四九年八月十五日[やぶちゃん注:以上は無論ユリウス暦によるもので本邦では天文十八年七月二十二日であった。因みに、グレゴリオ暦で換算すると八月二十五日になる。]九州の鹿兒島に上陸した聖フランシス・ザビエーに依つて開始された。面白い事にはスペイン若しくはポルトガル語のパドレの轉訛バテレンといふ語は二世紀前に日本語となつたのだが、それが今でも或る地方では民間に殘つて居て魔法遣ひといふ意味に用ゐられる。も一つ記すに足る面白い事は、自分に見られずに家の外の通行人を見る事の出來も一種の竹製の簾がキりシタン(クリスチヤン)と呼ばれる事である。

[やぶちゃん注:最後に出る竹製の「キリシタン」と呼ばれる「簾」というのはネットで検索しても出てこなかった。ご存じの方はご教授願いたい。]

グリツフイスは十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る。此如才なき推定はアーネスト・サトウ氏の硏究に依つて確證された(「日本亞細亞協會紀要」第卷第二部を見よ)氏は山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀の模寫を公にした――基督敎は初めは佛敎の高等なものと取り違へられたのである。併し日本から出したりジエシユイト敎徒の文書、或はもつと流布して居るシヤールポアの著書をでも讀んだ人は、傳道の成功がこれで完全に說明されてゐるとは思はぬであらう。此問題は顯著な心理的現象を吾人に示すものである――恐らく宗耽史上に再び反復(くりかへ)される事のあるまじき現象で、ヘツケルに依つて傳染的と宣やられた情緖的活動の珍らしい形式に似寄つて居る。(ヘツケルの「中世の傳染病」を見よ)古ジエシユイト敎徒は近代の傳道會社よりも遙かによく日本人の深い情緖的性質を了解して居た。そして彼等は驚くべき鋭敏さを以つて、種族的生活のあらゆる源泉を硏究し、それか利用することを知つて居た。彼等でさへ失敗した處に現代の福音宣傳者が成功を望むのは無用である。ジエシユイト傳道の最盛時に於てさへ、たつた六十萬人の信者を有したと稱するに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「グリツフイス」ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年)のことであろう。アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者で、ニュージャージー州のオランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日し、藩主松平春嶽の招きで福井藩藩校であった藩校明新館に化学・物理の教師として赴任した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“The Mikado's Empire”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)。彼が「十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る」のが如何なる書かは不詳。

「アーネスト・サトウ」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると、延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキの「アーネスト・サトウ」を参照されたい。

『山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀』「大内氏」は大内義隆と、最後の大内義長(義隆の討ち死にした後に、元大内氏に家臣で討った側の陶晴賢(すえのはるかた)が大友義鎮(よししげ=大友宗麟)の弟を迎え、かく名乗らせて大内家を継がせた)を指す。小泉八雲の遺作となってしまった小泉八雲「日本――一つの試論」(原題“Japan: An Attempt at Interpretation”)の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)」には後者が発布した免許状が画像で載る。本文も参照されたい。

「シヤールポア」フランス人のイエズス会宣教師ピエール・フランシス・エグゼヴィア・ド・シャルルヴォア(Pierre Francois Xavier de Charlevoix 一六八二年~一七六一年)。一七三六年(本邦では享保二一・元文元年相当)に刊行した「日本の歴史と概説」(“Histoire et description generale du Japon”)が知られる。「国際交流基金情報センターライブラリー」のこちら(PDF)の同書の解説によれば、『シャルルヴォアが布教活動を行った場所は新大陸で、彼自身が日本に来たことはないが、日本への布教に関心が高く、本書以外にも日本のキリスト教史の本も出版している』。『出版に際しては、鎖国以前に書かれた書物や鎖国後に来日したオランダ人を介して知った知識や情報をもとに、文献をまとめて刊行したものと思われ、誤りが多いとの指摘もあるが、当時のヨーロッパ人の日本観に与えた影響は大きい』とある。

「ヘツケル」ドイツの医師で医学史の大家ユストゥス・フリードリッヒ・カール・ヘッカー(Justus Friedrich Karl Hecker 一七九五年~一八五〇年)。「中世の傳染病」(原題は“Die großen Volkskrankheiten des Mittelalters.”)一八六五年に刊行した論文。英訳全文“THE EPIDEMICS OF THE MIDDLE AGES.(「中世の疫学」)がこちらで読める。ハーンの引用箇所は、恐らく八度使用されている“contagious”の最後の八番目、「Ⅴ」のパート内のそこである。]

 

 併し其後世界は變化した、基督敎も變化した。そして三十餘の異れる基敎[やぶちゃん注:短縮表記はママ。]の宗派が、日本改宗の名譽を贏ち得る[やぶちゃん注:「かちえる」。「勝ち得る」に同じい。]に汲々した。正統不正統の重なる[やぶちゃん注:「おもなる」。]異說を代表する、此等多數の敎條(ドグマ)の中から、日本は確に己が好むままの形の基督敎を選み得たのだ。そして國内の事情も西敎の輸入には何時の代よも都合よかつたのだ。社會の全組織が一時中心まで崩壞した。佛敎は國敎たる保護を解かれて、よろめき出した。神道も持ち堪(こた)へはむつかしさうに見えた。大武士階級は廃棄せられた。統治の組織は一變せられた。地方は戰爭に依つて震駭せしめられた。數百年間帷幄の後ろに在しり帝(みかど)は、突然前に現はれ出でて臣民を驚かした。騷然たる新思想の潮は、あらゆる国風を一掃し、あらゆる信仰を破碎せんと威嚇した。そして基督敎の國禁は再び法律に依つて解除された。事は之に留まらなかつた。政府は社會再建の大努力の時に當つて、基督敎の問題を實地に硏究した――丁度外國の敎育、陸海軍の制度を硏究したと同樣に、敏活に虛心坦懷に硏究した。委員を設けて外國に於ける罪惡、不德の防止に鬪する基督敎の勢力を調査せしめた。但し結果は、十七世紀に於ける、蘭人ケンぺルが日本人の道德に就て下した、公平な判斷を裏書するに過ぎなかつた。『彼等は彼等の神に大なる尊崇の念を表し、樣々の方法にて崇拜す。予は思ふ行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]の正しきことに於て、生活の淸きことに於て、而して表面に現はれたる信心深さに於て、彼等は遙かに基督敎徒を凌駕すと附言するを得と』手短に云ふと、彼等は賢明にも、基督敎は、東洋の社會情態に不適切のみならず、西洋に於ても、倫理的勢力としては、佛敎が東洋に於けるよりも有效ならずと斷定した。慥に『人はその父母を離れ其妻に合ふ』べしといふ敎へを採用することは相互救濟の精神の上に立てる、家長本位の家族的社會には、國家経營の大柔術に於て失ふ所多くして得る所少かるべきは、明らかである。

[やぶちゃん注:「蘭人ケンぺル」エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer一六五一年~一七一六年:現代ドイツ語読みの音写では「エンゲルベアト・ケンプファー」が近い)はドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者として知られる。出島の三学者の一人であるが、戸澤氏はこんな変なところでいらぬサーヴィスをして間違えている。彼はオランダ人ではないウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」によれば、『オランダ東インド会社の船医として勤務し』、『その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡』り、元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として、約』二『年間出島に滞在した』。元禄四年と翌五年には『連続して、江戸参府を経験し』、将軍『徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。彼の没後十一年目の一七二七年に、その遺稿が英訳され、ロンドンで“The History of Japan”として出版された、とある。なお、“Internet Archive”のこちらで当該英訳書(全三巻)を縦覧し、幾つかのフレーズで調べてみたが、ハーンの引用符に相当する一節は見出し得なかった。或いは、ハーンが内容を纏めたものかも知れない。]

 

註 近頃佛國の一批評家は、日本に於て慈善事業や慈善的設備の比較的少きは此人種が人道に缺くる所あるを證するものと斷言した。併し事實は舊日本に於ては相互扶助の精神が、かゝる設備を不必要のものと爲したのである。又西洋に於てかゝる設備の數多きことは、我等の文明が慈悲心よりも寧ろ不人情に富めることを證明するといふのも事實である。

[やぶちゃん注:「佛國の一批評家」不詳。]

 

 敕令に依つて日本を基督敎國とする望みは全く絕えた。社會の建て直しで、基督敎をどんな手段ででも國敎としようとする橋運も段々減少した。今後暫くの間は、多分宣敎師も、彼等の職務以外の事に立ち入るにも拘らず、大目に見られるに相違ない。併し彼等は何等の善事をも成就すまい。そして其間に彼等が利用せんと欲する者に却つて利用せられるだらう。一八九四年[やぶちゃん注:明治二十七年。]には、日本に新敎約八百人、ローマン・カソリツク九十二人、グリーク。カソリツク[やぶちゃん注:“Greek Catholic”。ギリシャ正教会(東方正教会)。]三人の宣敎師が居た。然らば日本に於ける凡ての外人宣敎師の費やす總費用は一年一百萬弗[やぶちゃん注:為替レートは明治二三(一八九五)年で一・一九円、明治二十八年で一・九八円であった。中をとって一・五円として百五十万円、後になるが、明治三十年代の一円は現在の二万円という換算に従えば、三百億円にもなる。]以下ではあるまい――恐らくは以上であらう。此大支出の結果として、新敎の諸派は五萬の信者を得、兩カソリツクも略〻同數を得たと稱する――但し三千九百九十萬の不信者を殘してである。宣敎師の報告は嚴密に批評せぬのが風習になつて居るが實は惡るい風習だ。其風習に背いて自分は露骨に云ふが、以上の數字でさへ全く當てにはならぬ。ローマン・カソリツクの宣敎師は、遙かに小なる資金で、彼等の競爭者と同じ程の功續を擧げたと稱するのは注目に値ひする。そして彼等の敵さへも其功績の確實さを承認するのであるが、彼等は先づ小兒の敎化より始めるのは確に合理的だ。併し宣敎師の報告に全く疑を懷かぬ譯には行かぬ。それは最下級の日本人の中には、金錢の補助若しくは職業を得る爲めに改宗を誓ふことを辭せぬ者が澤山あるのを知つてる[やぶちゃん注:ママ。]からである。又貧少年の中には外國語の敎授を受ける爲めに信者を氣取る者もある。又一時信者となつた上で、公然彼等の舊來の神々に復歸する靑年のある事も絕えず聞く所である。又洪水、飢饉、地震などの時、宣敎師が外國よりの寄贈品を分配したと思ふと、直に多數の改宗者を得た報告がある、それを見ると改宗者の誠意が疑はる〻のみならず、傳道者の道義心をも疑はざるを得ぬ。とはいへ日本に一年一百萬弗の割で百年間振り撒いたら大なる結果が得らる〻であらう。但し其結果の品質は想像するに難くないが、感服は出來ぬであらう。そして土着の宗敎は自衞の爲めの敎化力も資金も共に微弱なのであるから、其點大いに他の侵蝕を誘發する。幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]今や帝國政府は敎育上佛敎を補助せんとするの樣子が見えるが全くの空賴みでもあるまい。一方基督敎國は遠からず其尤も富める傳道會社も大きな相互扶助會社と變形しつつあることを認めるだらうといふ、少くとも微かな可能性がある。

 

       

 日本は、明治の年代が始まると間もなく、内地を外國の工業的企業に開放するであらうとの說は、基督敎に改宗するであらうとの夢と同樣に、はかなく消えて了つた。日本は事實上外人の移住に閉鎖されたままであつた、今でも閉鎖されて居る。政府自らは保守的政策を固守せんとはせず、條約を改正して日本を大規模な外資輸入の新市場たらしめようと種々に畫策した。併し結果は國民の進路は政道に依つてのみ左右せらるべきでない、それよりも誤謬に陷り易からざる或る物――卽ち民族本能に依つて指導せらる〻ものであることを證明した。

 世界最大の一哲學者は、一八六七年(慶應三年)に書いた著書の中でこんな判斷を下した。『其型式の極限まで發展し盡くし、均衡不安定の域に達した社會に、崩壞の始まる方式の好例は日本に依つて供給された。人民が經濟組織して仕上げた建物は、新たな外力に觸れざりし限りは殆ど不變不動の狀態を維持した。併し歐洲文明の衝擊を受くるや否や――一部は武力的侵入の、一部は商業的動機の、又一部は思想的感化の衝擊を受くるや否や此建物はばらばらに崩れ始めた。今は政治的崩壞が進行中である。多分間もなく政治的再建が起こるであらう。併し、それはどうあらうと、外力に依つてこれまで惹起された變化は崩壞への變化である――作成運動から破壞運動への變化である』スペンサー氏の所謂政治的再建は速に起こつたのみならず、其作成的進行が甚だしく又突然に妨害せられざる限り、望ましき限りの建て直しなることは殆ど確實と思はれた。併しそれが條約改正に依つて妨害せられるかどうかは甚だ疑はしい問題のやうに思はれた。或る日本の政治家は、外人の内地雜居の爲めに凡ての障害を除かうと熱心に運動したが、或る者は之に反して内地雜居は、未だ安定せぬ社會組織の中へ攪亂的分子を輸入するもので、新たな崩壞を來たすこと請合であると感じた。前者の趣旨は現條約を愼重に改正して雜居を許せば、帝國の收入は增加するに相違なく、而かも入り込み來る外人の數は極めて少數であらうといふにあつた。併し保守的思想家は、國を外人に開放する其の危險は外にある、多數流入の危險ではないと考へた。そして此點に於て種族本能は之に唱和した。それはただ漠然と危險を感知したのであるが、たしかに眞理に觸れて居た。

 

註 スペンサー著「第一原理」第二版一七八節。

[やぶちゃん注:以上はハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の“First Principles”(一八六七年・第二版)の“CHAPTER XXIII.: DISSOLUTION.”(「第三十三章 崩壊」のここ(“Internet Archive”の画像。左ページの下から七行目から)。]

 

 其眞理には二側面がある、其一側面は西洋側ので、亞米利加人には能く知られて居る筈だ。西洋入は平等の勝負では、どうしても生存競爭に於て、東洋人に叶はぬ事を知つた。彼は濠洲に於て込合衆國に於ても、東洋人の移住を防止する法律を通過する事に依りて此事實を十分に白狀した。それにも拘らず支那日本の移住民へ加へた侮辱に對して、莫迦らしい多くの道義的理由を述べ立てた。併し其の理由はただつぎの數語に盡きる。――『東洋人は西洋人よりも安價に生活し得る』然るに日本に於ける、他の一側面の理由はかういふ風に述べる事が出來る――『西洋人は或る都合よき條件の下に、東洋人を壓倒する事が出來る』都合よき條件の一は氣候の溫和な事である。も一つの[やぶちゃん注:ママ。]條件はそれよりも重要な條件で、西洋人は競爭の權利を悉く具備する上に、攻勢を取る力を有するといふことである。彼は其力を用ふる積りであるかどうかといふ事は常識的論點でない。彼はそれを用ふることが出來るかどうかが其の論點だ。用ふることが出來るとなると、彼が將來の攻略的方針の性質は、工業的か、財政的か、政治的か、或は三者を打つて一丸となしたものか、などと云ふ議論は全く時間の浪費であるだらう。西洋人は、結局反對者を粉碎し、資本の大合同に依つて競爭を麻痺せしめ、富源を專有し、生活の標準を土着の人民の力以上に高める事に依つて、日本民族を押し除け、己れ之に取つて代はらぬまでも、之を勝手に統御するの手段方法を見出すに至るかも知れぬといふ事を知れば十分である。アングロ・サクソン[やぶちゃん注:“Anglo-Saxon”。五世紀頃、民族大移動でドイツの北西部からブリテン島に移住したアングル人とサクソン人の総称。現在の英国民の根幹を成す。]の統治下に、幾多の劣弱な民族が或は滅び或は亡びつつある處もあるのである。日本の樣な貧乏な國に於ては、外資の輸入だけでも、國家の危險を生み出さぬと誰れが保證し得ようか。勿論日本は西洋の一强國に依つて征服せられるのを恐れるには及ばない。如何なる一外國に對してでも、本土に依つて、己れを守る事は出來る。又强固の聯合軍の侵入の危險に面する事もあるまい。西洋諸國間の嫉妬は、土地攻略の目的でばかりの侵掠を不可能ならしむるであらう。併し餘り早く内地を西洋人の移住に開放した爲めに、布哇(ハワイ)の運命に陷ることなきやといふ事だ土地は外國人の所有に歸し、政治は外國人の勢力に依つて按排せられ、獨立は有名無實となり、祖先の領土は遂に、一種の混合民族より成る、工業的共和國と變形せられはせねかといふことは日本の恐る〻所で、これは尤もの事である。

 

註 こゝに東洋人といふのは勿論日本人の事である。西洋人が支那人に打ち勝たうとは、數の上の不權衡[やぶちゃん注:「ふけんかう(ふけんこう)」。「不均衡」に同じい。]がどれ程であらうと、自分には信ぜられぬ。日本人でも支那人と競爭する事の出來ぬのを認めて居る。無條件の内地雜居に反對する最上の諭據の一は支那移住民の危險なる事である。

 

 

 以上は日支戰爭の起こる前迄、兩派に別かれて猛烈に諭諍された諭旨であつた。其間政府は困難な協議に時を移した。反動的國粹論を排して國を開放するのは非常に危險だ、併し開放せずして條約を改正するのは不可能に思はれた。西洋諸强國の日本に對する壓迫は、彼等の敵意ある聯合が、外交に依り若しくは兵力に依つて妨げられざる限り、繼續することは明らかであつた。此窮境を救つたのは靑木の敏腕に依つて爲された英國との新條約であつた。此條約に依れば國は開放せられる。併し英國人は土地を所有する事が出來ぬ。借るにしても、日本の法律に從へば、賃貸人の死亡と共に消滅する賃貸期間だけ土地を保有する事が出來るのである。沿岸航海は彼等に許されぬ――舊來の開港場にまでさへである。そして其他の貿易は重稅を課せられる。居留地は日本に返還され、英國の移住者は悉く日本の司法權の下に移される。此條約に依ると英國は凡てを失ひ、日本は凡てを得るのである。此の條件が始めて公示されや時、英國商人は、茫然自失、母國に賣られた――法律的に手足を縛られ、奴隷として東洋に引き渡されたと公言した。或る者は此條約が施行せられぬ中に日本を去らうといふ決心を述べた。日本は慥に外交の成功を祝してよい。國は開放せられるには相違ない、併し外國資本の投資を求むるものを防ぐのみならず、既に存在する資本をまで驅逐する樣な條項が設けられたのである。同樣な條件が他の列强からも得られるとすると。、日本は不利に締結されりや舊條約に依つて失つた所のものを、悉く囘復して尙ほ餘りある譯だ。靑木案は確に外交に於ける柔術の奧の手を示すものである。

[やぶちゃん注:「靑木」青木周蔵(天保一五(一八四四)年~大正三(一九一四)年)は外交官・政治家。長州萩藩出身。洋学を学び、明治六(一八七三)年、駐独外務一等書記官となり、外交畑に入った。各国公使歴任後、井上馨外相の下で条約改正案を起草。山県有朋内閣・松方正義内閣で外相となり、不平等条約の改正を促進したが、「大津事件」で辞職。明治二五(一八九二)年に駐独公使、後、駐英公使となり、法権を回復した対英条約(日英通商航海条約)の調印に成功した。明治三一(一八九八)年に帰国、後は再び外相枢密顧問官などを務めた。]

 併し何人も、此條約若しくは他の新條約が實施せられぬ中に、何事か起こるかは豫言する事が出來ぬ。日本が柔術に依つて結局其目的を悉く果たし得るかどうかは尙ほ不明である。――たとひ例歷史上、非常な劣勢の地位に居ながら、こんな勇氣と才能を發揮した人種はなかつたにしても。日本が其陸軍を歐洲の或る二三の國と匹敵し得る迄に發展させたのは、まだ老人でもない人でさへ記憶する程近來の事である。工業的には速に東洋の市場で歐洲の競爭者となりつつある。敎育上には、西洋の何れの國よりも、より安價な、併しより效力なきにあらざる學校制度を設けて、既に進步の前線に立つた。そしてこれは、不正な舊條約に依つて、年々絕えず利益を奪はれながら、洪水と地震とで莫大な損失をしながら、國内の政爭に惱まされながら、國民の魂を掘り崩さうとする改宗敎唆者の努力にも拘らず、又人民の非常な貧窮にも拘らず、成し遂げた仕事なのである。

 

       

 日本が若し其の光榮ある目的を果たさぬやうな事があれば、其不運な成行は確に國民精神の缺乏に依るものではなからう。其精神は日本は近代に比類を絕する程度に有して居る愛国心といふ陳腐な語はそれを表はすに全く無力である程度に有して居る。心理學者は日本人に個性の缺如或は缺乏せることを如何に論じようとも、國民としての日本は我等よりも遙かに强大な個性を有することに疑ひはない。我等は寧ろ西洋の文明は個性を養ひ過ぎて、國民感を破壞したのではないかと疑ひたくなる。

 國家に對する義務といふ事には全國民ただ一つ心である。小學生でも此事に就て問はるれば、『天皇に對する日本人の義務は、我が國を富强にし、同家の獨立を擁護持續するに努力する事だ』と答へるであらう。凡ての日本人は危險を知つて居る。凡てが之に當たるやうに精神的物質的に訓練されて居る。あらゆる公立學校は其學生の軍事敎練の豫備知識を授ける、あらゆる都市には學校兵士がある。正式の練兵の出來ぬ幼い小兒は每日古い忠君愛國の歌と近代の軍歌の合唱を敎へられる。新たな愛國者の歌が一定の時に作曲される、そして政府の同意を得て、學校と兵營とに配付せられる。自分が敎へて居る學校で四百人の學生が此種の歌を歌ふのを聞くのは全く愉快だ。こんな時には學生は皆制服で軍隊式に整列させられる。指揮する士官が『足蹈み』の命を下すと凡ての足が太鼓のやうな音を立てて一齊に床を蹈み始める。そして音頭取りが先づ一節を歌ふと全員が勇ましくそれを繰り返す。各行の最後の音節を必らず妙に高調するので、恰も小銃の一齊射擊の樣に聞こゆる。歌ひ方は甚だしく東洋的だが又甚だしく感銘的で、一語一語に舊日本の勇猛な精神が躍つて居る。併しそれよりも更に感銘的なのは兵士が同樣な歌を歌ふ時である。現に自分が之を書いて居る瞬間にも、熊本の古城から雷の轟くやうに、八千の兵士の夕べの歌が、長い優しい物悲げな幾十の喇叭の音と雜じつて聞こゆるのである。

 

註 この一文は一八九三年に草したのである。

[やぶちゃん注:「一八九三年」明治二十六年。年譜を見ると、十月半ばには既に執筆中であったことが判る。この十一月十七日には長男一雄が生まれ、ハーンは長男入籍に当たってセツのの入籍問題も解決する必要がとなり、その選択肢の一つに日本人に帰化するという考えが芽生えてきた直前である。]

 

 政府は忠君愛國の精神を維持する努力を決して弛めない。此貴い目的の爲めに新しい國祭日が近頃定められた。舊來の祭日も年と共に益〻盛んに祝せられる。天長節には國内の凡ての官公立學校凡ての官衙では必らず天皇陛下のお寫眞に對して、折に合ひたる唱歌と儀式とを以て、嚴かな拜賀式が擧げられる註一。時に宣敎師に敎唆されて、己れは基督敎徒であるといふ莫迦らしい理由で、此筒單な忠誠と感謝の禮を拒む學生が現はれる。其結果は同輩から絕交せられ、遂には不愉快の餘り學校にも居惡(にく)くなるのが常である。すると宣敎師は本國の同宗派の新聞に、日本に於ける基督敎徒の迫害といふ話を報告する、そして其理由は『皇帝の偶像を崇拜することを拒める爲め』註二と稱する。こんな出來事は勿論偶(たま)にしかない。そして外國宣敎師が彼等の使命の眞の目的を破壞する遣(や)り口(くち)の一斑を示すだけである。

 

註一 陛下の御肖像を拜する儀式は、宮中で拜謁の時の儀式を其まゝ實行するだけである。先づ一禮し、三步進んで敬禮、更に三步進んで最敬禮をする。御前を罷り出る時は、賜謁者は後退(あとずさ)りをしながら前の樣に再び三度敬禮するのである。

註二 此一節には立派な證據がある。

 

 彼等が日本の圖民的精神、日本の宗敎、日本の道德は勿論、日本の服裝風習までも狂信的に攻擊しや結果だらうと思はれるのは、近頃日本人基督敎徒に依つてなされた國民的感情の異常な表現である。或る者は公然と外國宣敎師の駐在を謝絕し、精神に於て根本的に日本的な、根本的に國民的な、新しい特殊な基督敎を作り出さうといふ冀望を發表した。又或る者は更に進んで、凡ての傳道學校、敎會及び現在日本人の名義に依つて所有せられる凡ての財產を、名義のみならず事實に於ても日本人基督敎徒に引き渡し、以て彼等が公言する動機の純眞なることを證せよと要求する。そして事實傳道學校は全く日本人の管理に引き渡すの止むを得ざることは、既に大抵了解せられた。

 

註 日本の法律に叶はせるため或は法律をくゞる爲めに。

[やぶちゃん注:以上の註は原文では別注ではなく、本文の最初の「註」記号位置に丸括弧で“(to satisfy or evade law)”と挿入されているものである。ここ(右ページ最下部)。]

 

 自分は舊著に於て、全國民が政府の敎育上の努力と目的とをめざましい熱誠を以て助成した事を述べた註一。之に劣らぬ熱心と克己とが國防の經營に於ても示された。天皇親(みづか)ら軍艦の新調に御手元金の大部を割いて範を垂れられたので、同じ目的の爲めに、凡ての官吏の俸給の十分の一を献納せしめる法令が出ても怨言などは少しも起こらなかつた。あらゆる陸海軍士官、あらゆる敎授敎師、其外殆ど凡ての官衙の使用人はかくして每月海軍へ献納金を納めるのである註二。大臣、貴族、國會議員等も、尤も低い郵便局書記と同樣に其數には漏れぬのである。此法令に依る献納金は六年繼續の筈であるが、此外にも國内を通じて富裕な地主、商人、銀行家等が進んで巨萬の献納金を爲した。これは日本が國家を救ふ爲めには一日も早く兵を强うせねばならぬのに、外部の壓迫は益〻甚だしく、少しも遲延を許さぬからの事である。日本の努力は殆ど虛言(うそ)の樣である、其成功も不可能とは思はれない。併し形勢は日本の爲めに甚だしく不利である。日本は遂に――蹉跌[やぶちゃん注:「さてつ」。「つまずく」の意から、「物事がうまく進まず、しくじること・挫折・失敗」。]するやも圖られぬ。果たして蹉跌するだらうか。豫言は甚だむつかしい。併し蹉跌するにしても、必らずやそれは國民精神の衰弱せる結果ではない。それは大抵政治的誤謬――無謀な自信の結果として起こるであらうと見る方が眞に近い。

 

註一 「知られぬ日本の面影」を見よ。

註二 郵便脚夫及び巡査は除外された。併し巡査の俸給は一箇月約六圓に過ぎず、郵便脚夫は更にそれよりも少いのである。

[やぶちゃん注:「知られぬ日本の面影」(原題“Glimpses of Unfamiliar Japan”。「見馴れぬ日本の瞥見」は来日後最初の作品集で、本作品集刊行の前年である明治二七(一八九四)年に、同じくボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版されたものである。同作品集の内、日本の当時の教育制度について纏まってかなり詳しく語られてあるのは、全二十四章から成る「第十九章 英語教師の日記から」(ⅩⅨ FROM THE DIARY OF AN ENGLISH TEACHER)の前半部である。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (一)』をリンクさせておく。なお、章を連続して読むには、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」からがよい。]

 

       

 尚ほ一つ殘つて居る疑問は、此吸收、此同化、此反動の眞中で、日本の舊道德はどんな運命の下にあるかといふ事である。之が解答は自分が最近に一大學生と交はしたつぎの談話の中に一部分暗示せられて居ると思ふ。これは記憶に手緣つて書いたので、逐語的に精確ではないが、新時代人の、思想を代表するものとして――神々の消滅の證言として興味がある――

 『先生、先生が初めて日本へお出の時、日本人をどう御覽になりましたか、何卒率直にお話し下さい』

 『今の若い日本人の事ですか』

 『い〻え』

 『そんなら今でも昔の習慣に從ひ、昔の禮式を守つて居る人々――君の以前の漢文の先生の樣な、今でも昔の武士(サムラヒ)氣質を存して居る、愉快な老人の事ですか』

 『左樣です。A――先生は理想的の武士です。彼樣(あんな)人の事です』

[やぶちゃん注:「君の以前の漢文の先生」「今でも昔の武士(サムラヒ)氣質を存して居る、愉快な老人」「A――先生」は第「一」章に登場し、「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州学生 (田部隆次訳)」にも登場した、ハーンが尊敬した先輩教師である秋月韋軒(あきづきいけん 文政七(一八二四)年~明治三三(一九〇〇)年)である。]

 『僕は彼樣な老人を善いもの貴いものの限りに思ひました。僕には丁度日本の神樣の樣に見えました』

 『今でも其樣にお考へですか』

 『さうです。若い日本人を見れば見る程、昔の日本人を益〻嘆美します』

 『我々とても嘆美します。併し先生は外國人として彼等の缺點をもお認めになつた筈と存じますが』

 『どんな缺點ですか』

 『西洋流の實際的知識の缺乏です』

 『併し或る文明に屬する人を、系統の全く異る他の文明の標準で判斷するのは正當でありません。或る人が其人の屬する國の文明を完全に代表すればする程、我々は其人を市民として又紳士として益〻尊重せねばならぬと思ひます。舊日本人は道義的に甚だ高かつた彼等白身の標準で判斷すれば殆ど完全な人の樣に僕には見えます』

 『どういふ點で』

 『親切、禮讓、侠氣、克己、献身的精神、孝行、信義の諸點、及び足ることを知るといふ美風などで』

 『併しさういふ諸點は、それだけで西洋流の生活の競爭に實地の成功を收めることが出來ませうか』

 『確(しか)とさうも云はれぬが、其中の或るものは助けになるでせう』

 『西洋流の生活で實地の成功に眞に必要な性能こそ、舊日本人に缺けて居る性能ではないでせうか』

 『さうでせう』

 『日本の舊社會は先生のお讃(ほ)めになる、非利己心、禮讓、仁義などの德を養成しましたが、其代り個性を犧牲に供しました。然る西洋の社會は無制限の競爭で、個性を養成しました――思想、行動の競爭で』

 『それはその通りです』

 『併し日本が諸國民の問に其地位を維持し得る爲めには、西洋の工業、商業の方法(やりくち)を學ばねばなりません。日本の將來は一に懸かつて工業の發展に在ります。然るに我々が祖先の道德慣習を墨守して居たのでは何の發展も出來ません』

 『何故ですか』

 『西洋と競爭の出來ぬ事は破滅を意味します。併し西洋と競爭するには、西洋の方式に則らねばなりません。然るに舊道德は之とむ矛盾します』

 『多分さうでせう』

 『それに疑ひはないと思ひます。他人の仕事に障るやうな利益を求めてはならぬといふ觀念に妨げられては、大規模な仕事は出來ません。然るに、競爭に制限のない處では、全くの慈悲深さから競爭を躊躇する樣な人間は失敗するに極つて居ます。競爭の法則は强き者、活動する者は勝ち、弱き者、愚かな者、恬澹なる者は敗る〻のであります。併し日本の舊道德はこんな競爭を罪惡視しました』

[やぶちゃん注:「恬澹」「てんたん」。「恬淡「恬惔」などとも書く。無欲であっさりしていること。物に執着せず心の安らかなこと。]

 『それはさうです』

 『そんなら、先生、舊道德は如何によくても、それを守つて居たのでは、我々は工業上の大進步も出來ませず、國家の獨立を維持する事さへ出來ぬではありませんか。我々は我我の過去を棄てる外ありません。道德に代ふるに法律を以てする外ありません』

 『併しそれはよい代りではない』

 『英國の物質的强大を手本にして判斷してよいならば、西洋ではそれが至つてよい代りでありました。我々は日本に於ても情緖的に道義的であることを止めて、理性的に道義的となるやうにせねばなりません。法律の理性的道義を知ることは、夫だけで道義を知ることになります』

 『君達や宇宙の法則を硏究する人々に取つては、或はそれで宜からう。併し一般民衆はどうなる』

 『彼等は古い宗敎を守らうとするでせう。神佛の信賴を續けるでせう。併し恐らく彼等にも生活は益〻困難になるでせう。彼等は昔は幸福でした』

[やぶちゃん注:以上で「柔術」の本文は断ち切られるように終わっている。但し、以下、特異的に非常に長い原注が附されてあるのである。段落の頭を字下げにしていないはママである。]

 

註 右の一文は二年前に書いたのであるが、其後起こつた政治上の事件新條約の調印は昨年之を訂正するの止むを得ざもに至らしめた。然るに今其校正中支那との戰爭が起こつた爲め更に又一言附記せざるを得ざるに至つた。一八九三年(明治二十六年)には豫言し得なかつた事も一八九五年には全世界が驚嘆を以て認めるに至つた。日本は柔術に於て勝つたのである。日本の自治權は實際上恢復せられ、文明國としての地位は確立されたやうだ。日本は永久に西洋の保護から脫した。其藝術でも其德操でも得ることの出來なかつたものを、新しい科學的の攻擊力、破壞力の最初の發現で獲得した。

[やぶちゃん注:本篇「柔術」は明治二六(一八九三)年十月に執筆を開始し、翌年の六月に完成している。本篇を含む本作品集「東の国から」の刊行は明治二八(一八九五)年三月であるから、殆ど最終校正の段階で、新事実に基づき、これだけの分量を新規追加するというのは、なかなか、ハーン先生、やらかしましたな! 快哉!]

日本は此戰爭の爲めに長らく祕密に大準備をなしたとか、開戰の口實は薄弱だとか、隨分輕率な批評があつた。併し自分に日本が戰備を修めた目的は前章に說いた所に外ならなかつたと信ずる。日本が二十五年間絕えず兵力を培養したのは全く其獨立を恢復する爲めであつた。併し其間に外國の壓力に對して打つた人民の反動の脈搏は――一打每に次第に高く――國民が伸びつゝある力の自覺と、條約に對して次第に增加する憤慨とを政府に知覺せしめた。一八九三――九四年の反動は衆議院で大分切迫した形を取つたので、遂に議會解散が差し當つての必要事件となつた。併し重ね々ねの議會解散も只だ問題を延期するに留まつた。其後漸く新條約の成立と突然支那に對する兵力の放散とで此危機は避けられたのであつた。日本に對する西洋諸國の無慈悲な工業的幷びに政治的の壓迫が此戰爭を促成した事は明らかではあるまいか――ただ抵抗力が最も少い方面に力が漏出したのである。幸に其力の漏出は效果を擧げる事が出來た。日本は世界を相手にして其地位を守り得ることを證明した。日本は西洋との工業的關係を、更に此上壓迫せられぬ限り斷絕しようとは望まぬ。併し帝國陸軍の復活で、西洋が日本を威壓する――直接にも間接にも――時代は斷然過ぎ去つた。物の自然の順序として、更に排外的反動が期待されぬでもない――その反動は必らずしも亂暴な或は不道理なものではあるまい。が、國民的個性の强固な主張を體現したものであらう。幾世紀となく專制政治に馴れた國民が爲した立憲政治の實驗の結果の不確さを考へると、政體の變化さへ幾らかあり得べからざる事でもない。併しサー・ヘンリ・パークスが、日本に南米共和國の知きものとなるだらうと云つた豫言の外づれたことを思ふと、此の驚くべき謎的な人種の將來を豫想しようとするのは危險である。

[やぶちゃん注:「サー・ヘンリ・パークス」イギリスの外交官ハリー・スミス・パークス(Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)。幕末から明治初期にかけて十八年間(途中に英国の恩賜休暇による帰国を挟み、慶応元(一八六五)年から明治一六(一八八三)年まで)、駐日英国公使を務めた。]

戰爭は未だ終はらぬ事は事實だ――併し日本が終極の勝利を得ることは疑ひない――支那に革命の偉大な機運を豫へる事を斟酌して見ても。世界は既に不安を以て、つぎに何事が起こるかと心配して居る。多分此最も平和な最も保守的な支那國民をして、日本幷びに西洋の壓迫の下に、自衞上西洋の戰術を能く學ぶの止むを得ざるに至らしむるでもらう。然る後に軍事上に支那の大覺醒が來るであらう。すると新日本々と同じ事情の下に支那は多分其兵力を南と西に向けるであらう。最後の結果がどうなるかは、ドクトル・ぺアソンの近著「國民性」を見らるゝがよい。

[やぶちゃん注:「ドクトル・ぺアソン」イギリス生まれのオーストラリアの歴史家・教育学者・政治家・ジャーナリストのチャールズ・ヘンリー・ピアソン(Charles Henry Pearson 一八三〇年~一八九四年)。「國民性」は一八九三年に刊行された“National Life and Character”(「国民生活とその性質」)のこと。英文のウィキソースのこちらで原文が読める。]

柔術は支那で發明さられた術であることか忘れてはならぬ。而して西洋はこれから支那を相手にせねばならぬのだ――日本の師匠なる支那――征服の嵐が後から後からと、たゞ葦間を分ける風の樣に、其頭上を通過しても、幾千萬の住民には些の影響を與へ得なかつた支那をである。實際支那は、强制されて日本の樣に柔術に依つて其保全を圖るの止むを得ざるに至るかも知れぬ。併し其驚くべき柔術の終極は全世界に尤も重大なる結果を及ぼすかも知れぬ。西洋が植民の爲めに弱小人種を處理するに犯した蠶食、强奪、鏖殺の罪を責罸するの任は、支那に保留されてあるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「鏖殺」「あうさつ(おうさつ)」。皆殺しにすること。

「責罸」「せきばつ」。罪や過ちを罰すること。]

既に或る思想家は――閑却する事の出來ぬ英佛の思想家――二大植民國の經驗より結論して、世界は決して西洋民族に依つて悉く統御せられぬであらう、將來は寧ろ東洋に屬すると豫言した。又長らく東洋に滯留して、我等と全く思想を異にする不可思議な民族の一と皮[やぶちゃん注:「ひとかは」。]めくつた下面を見ることを――其民族の生の潮の深さと强さを了解することを――其測るべからざる同化心を見拔くことを――其南北兩極間の殆ど如何なる環境にも適合し行く力を認知することを學んだ多くの人々も之と同樣の確信を有するのである。かういふ人々の考では世界の人口の三分の一以上を包含する此人種が絕滅せざる限り、我等が文明の將來をさへ保證し得ぬといふのである。

恐らく最近ドクトル・ペアソンが斷言した樣に、西洋人の膨脹侵略の長い歷史は今や其終末に近づきつゝあるのである。恐らく我等の文明は世界かを帶の樣に卷いたが其結果はたゞ我等の破壞術、工業競爭術を、我等の爲めよりも我等を脅かす爲めに用ゐんとする民族に學修せしめたに過ぎない。しかも之を爲す爲めに世界の大部分を蹂躙にした――それ程大きな力が入用であつだのだ。我等は多分さうせざるをえなかつたのであらう、その故に我等が創造した社會といふ機關(からくり)は昔噺の鬼のやうに、それに最早授ける仕事がなくなるや否や我等か食はんと脅かすからである。

思へば我等の文明は驚くべき創作物である――益〻深まる苦痛の深淵から益〻高まり行くのである。多くの人には驚きよりも更に奇怪なりといふ感を與へる。社會的地震で突然崩れるかも知れぬとは、文明の頂上に坐る人々の久しい間の惡夢であつた。其道德的基礎の故に社會的建造物として此文明は長持ちはすまいとは東洋の賢者の敎ふる所である。

此文明が生み出した結果は、此地球上に人間が其生存の劇を十分に演じ盡くす迄滅亡せぬ事は確であらう。此文明は過去を復活さした――死せる國語を蘇生せしめた――自然から其貴重な祕訣を無數にもぎとつた――星辰を分析し、時と空間とを征服した――見えぬ物を見えざるを得ぬやうにして、無窮の帳の外のあらゆる帳か引きめくつた――數千百の學問を建設して、近代人の腦隨を中世人の頭蓋骨には入り切れぬ程膨脹せしめた――尤も厭ふべき種類の個性をも進展せしめたが同時に尤も貴い個性をも進展せしめた――他の時代には甞てなかつた利己主義と苦惱とを發展さしたが、未だ甞て人間に知られざりし程の尤も細かい同情と尤も崇高(けだか)い情緖をも發展さした。知的には此文明は星の高さよりも高く生長したのである。兎に角此文明が將來に及ぼす影響は希臘文明が其後の時代に及ぼした影響よりも遙かに大であらうとは信ぜまいとしても信ぜぬ譯に行かぬのである。

併しながら此文明は年と共に益〻、「或る組織體は複雜になればなる程、致命的の傷害を益〻受け易くなる』といふ法則を例證する。其力が增すに從つて、其中に、より深い、より鋭い、より佃かく分岐した神經が發達して、あらゆる激動、傷害――あらゆる變化の外力を、感ずる樣になる。もう既に世界の遠い果てに起こつた旱魃や飢饉の結果、極小さい原料供給の中心地の破壞、鑛山の枯渇、商業上の靜動脈たる運輸のほんの一時的中止などでも、忽ち混亂を起こして偉大な建造物の各部分に苦痛の衝動を傳へろるのである。然るに此建造物には外力の刺激に應じて内部に變化を起こし之に對抗する驚くべき能力を有したのであるが、それも今やそれとに全く異る性質の内的變化に依つて危う[やぶちゃん注:「く」の脱字か。]せられるやうに見ゆるのである。我等の文明は個人を益〻發展させつゝある事は確であるが、人工の熱、色附けた光、及び化學的肥料で、植物をガラス箱の中で育てるやうに發展させるのではあるまいか。それは長く維持することの出來ない境遇に、特に適應し得るやうに、幾百萬の人間を速成的に養成しているのではあるまいか――卽ち少數者を無限に贅澤な境遇に、而して多數者を鐡と蒸氣の殘酷な奴隷的境遇に。此疑問に對してはかういふ答が與へられてあつた、――社會の改變で危險に備ふる方法と凡ての損害を償ふ方法とを得らるゝであらうと。少くとも一時は社會の改革が奇蹟を演ずるであらうことは殆ど確實である。併し我等の將來に關する終極的の問題は如何なる政令改良でも巧(うま)く解くことは出來ぬやうに思はれる――絕對に完全な共產主義の社會が建設せられると假定しても――といふのは、高等民族の運命は自然力の將來の經濟に於ける彼等の眞價に依つて決せられるものであるからである。「我等は優等人種でないか」との問には力强く「然り」と答へ得る。併し此の肯定は「我等は生存の適者であるか」といふ、更に一層重要な問に對する滿足な解答にはならぬであらう。

抑も生存の適者たる資格は何に在る。それはあらゆる環境に自己を適合せしむる能力にある、豫知し得ざる事物に對して臨機應變の處置を執り得る技倆に在る――凡て不利なる自然力に對抗し、之を統御する天賦の力量に在る。決して我等自ら作成したる人工的環境に、卽ち我等自身の製造にかゝる變態的の情勢に自己を適合せしむる能力に在るのではない――全くたゞ單なる生きる力に在るのである。而して此單なる生活力に於ては我等の所謂高等民族は極東の民族に劣ること甚だしい。西洋人の體力と知力とは東洋人を凌駕するけれども、彼等に此民族的優秀さと全く釣り合はぬ生活費に於てのみ生活し得るのである。處が東洋人は米の飯を食ひつつ我等が料學の結果を硏究し熟達するの能力あることを示した。又同じ簡單な食物で我等が尤も複雜な發明品を利用したり製造したりすることを學び得るのである。然るに西洋人は二十人の東洋人を生活さするに足るだけの費用をかけぬと一人が生きる事さへ出來ぬのである。我等が優秀さの中に我等が致命的な弱點が潜むのである。民族競爭と人口夥多の壓迫が來ること確實なる將來に於て、我等の肉體といふ機關は之を運轉するのに到底割に合はぬ薪炭を要するのである。

人間の出現前には又恐らく出現後にも、今は絕滅して居る種々の巨大な驚くべき動物が此地球上に生存して居た。彼等は悉く外敵の攻擊に依つて亡ぼされたものではない。其多くは地球の惠澤が段々減少する時代に彼等の體軀が餘りに消費的であるばかりに自然に滅亡したやうに思はれる。丁度その樣に西洋民族は彼等の生活費の故に滅亡するといふことになるかも知れぬ。乃ち彼等は其事業の極限を仕盡くした後、此世界の表面から姿を消し、もつと生存に適した人種に依つて取つて代はらるゝかも知れぬ。

我等が丁度最小民族を、たゞ彼等よりも贅澤に生活することに依り――殆ど無意識に、彼等の幸福に必要なる凡ての物を專有し吸收する事に依り絕滅せしめた樣に、此度は我等自身が、我等よりも安價に生活し得る、我等のあらゆる必要品を專有し得る民族に依つて遂に絕滅せしめられるかも知れぬ――卽ち我等よりも忍耐に富み、克己心に富み、繁殖力强く、自然の恩惠を浪費すること少き民族に依つて。而して此等の民族は疑もなく我等の知識を承繼し、我等の有用な賢明を採用し、我等の工業の優れたるものを橫行するであらう――多分我等の學問藝術の後世に傳ふべき價値あるものを永久に傳へるであらう。併し彼等は我等の消失を別段惜しみもせぬこと丁度我等が恐龍や魚龍の絕滅を見ると同樣であらう。

[やぶちゃん注:「恐龍」原文は“the dinotherium”で、逆立ちしても、これは「恐龍」の意の英単語ではない。平井呈一氏も『恐竜』と訳しているが(恒文社版「柔術」。一九七五年刊「東の国から・心」所収)、孰れも誤りである。デイノテリウムは「恐竜」なんぞではなく、れっきとした哺乳類の「象」の一種、哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目デイノテリウム科ディノテリウム亜科デイノテリウム属 Deinotherium に属する絶滅したゾウの仲間である(学名は「ひどい獣」の意)。新生代新第三紀中新世中期から第四紀更新世前期(約二千四百万から百万年前まで)のアジア・ヨーロッパ・アフリカに広範囲に棲息した「象」なのである。形状その他は参照したウィキの「デイノテリウム」を見られたいが、それによれば、一八二九年に『ドイツのエッペルハイムで最初に発見されたのは、特徴的な下顎切歯の付いた下顎骨のみであった。これは半分に折れていたため、発見者のカウプは当初は切歯を上向きに復元し、カバのような巨大な水棲生物であるとして「恐ろしい獣」を意味する学名をつけて発表した。しかし』一八三三年に『再び発見された下顎骨は保存状態が良く、当初の復元の切歯の向きが誤りであることが明らかになった。カウプはこれを地上棲のナマケモノと修正した。そのほか、海牛類やサイであるとの説も出された。その後、断片的な化石の発見が相次ぎ、ゾウの類縁ではないかとされるようになったが、完全な骨格の発見は』一九〇八『年まで待たねばならなかった』。『また、その鼻についてもバク程度から現生種と同程度と復元の長さにもばらつきがあったが、水を飲むための必然性などから、現在は現生種並みの長さであったとされている』とある。本作品集の刊行は一八九五年である。この時は恐らくゾウの一種であるとする見解に大方、達していた可能性が高いし、しかも発見当初から一貫して哺乳類と考えられていたこと、彼らが生きていたのは「恐龍」の多くが絶滅した約六千六百万年前(白亜紀と新生代との境)よりもずっとずっと後の時代であることは初期記載でもちゃんと書いてあるはずである。これは誤訳以前の問題、ろくに辞書も引かずに半可通でやらかしたトンデモ訳であるとしか言いようがない。戸澤氏と、ここはそれを無批判に引き写したとしか思えぬ平井氏には――ちょっとがっかりだ。

「魚龍」“the ichthyosaurus”。爬虫綱双弓亜綱†魚竜目 Ichthyosauria イクチオサウルス科イクチオサウルス属 Ichthyosaurus に属する、これは確かに「魚龍」の一種である。形状その他は参照したウィキの「イクチオサウルス」を見られたい。]

2020/01/11

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“JIUJUTSU”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第七話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。なお、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ると、明治二十七年六月に原「柔術」の原稿は出版社に発送されたらしいが、翌七月に原稿が返送されてきたらしい。どうも出版社側がクレームをつけて「これでは出版出来ない」と言ってきたらしいのである。銭本氏曰く、『開港地やキリスト教にかかわる部分に問題があったのではないか』と思われ、ハーンは『「改作する」と伝えている』とある。それに加えての最後の大幅なハーンの追加注を考えると、すこぶる難産な作品であり、同時に彼がどうしても発表したかった作品でもあったということが判るのである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 最初の引用はややポイント落ちで全体が六字下げであるが、三字下げで連続して二行で示されてあるが、ブラウザの不具合を考慮し、複数回、改行を施し、最後の書名も引き上げて同ポイントとした。また、同文は訓点附きであるが、「也」を前の送り仮名として「ヤ」で送ったりしているため、特異的に白文で示し、後の注で訓読文を示した。原注は全体が四字下げ有意にポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。九章とやや長いので、二つに分割する。]

 

  柔  術

 

   人之生也柔弱。其死也堅强。

   草木之生也柔脆。其死也枯稿。

   故堅强者死之徒。柔弱者生之徒。

   是以兵强則不勝。木强則折。

            『老子道德經』

[やぶちゃん注:「老子道德經」は「老子」の異名である。引用は同書の第七十六章であるが、末尾の、

   强大處下。柔弱處上。

の二句が何故かカットされている。以下では、その最後の部分も添えて、それ以外は概ね底本の訓点に従い、訓読文を示す。一部で句点を読点に代え、さらに読点と送り仮名及び歴史的仮名遣で読みを追加した。底本のそれを確認されたい方はこちらである

 人の生(しやう)ずるや、柔弱なり。其の死するや、堅强なり。草木の生ずるや、柔脆(ぢふじやく)なり。其の死するや枯稿(こかう)す。故に、堅强は死の徒(と)、柔弱は生の徒。是れを以つて、兵(へい)、强きときは、則ち、勝たず。木、强きときは、則ち、折れず。强大なるは下に處(を)り、柔弱なるは上(かみ)に處る。

「兵」は「武器」の意であり、それが「硬い」時は「勝てない」とは、「ただ無暗に智を欠いた力ずくでは戦いに勝つことは出来ない」の謂いであろう。パラドキシャルな老荘思想の絶妙な比喩であるが、私はこの引用を冒頭に置いた真の深奥の理由は、ハーンが絶大なる信頼を置いた進化論から考えると、弱肉強食の原則は単なる表面的な見かけ上のものでしかなく、自在に柔軟であり続けることによる適者生存の原則こそ真だ、と謂いたいのであろうと私は推理する。]

 

        

 官立學校の構内に他の校舍とは全く構造を異にする建物がある。紙の代はりにガラスを張つた障子がある外は、純粹の日本建築と云つてよい。長く廣い一階建ての家で、唯だ一つの大きな室があるばかり。床(ゆか)は百枚の疊が、厚に[やぶちゃん注:「こうに」と音読みしておく。厚く広くの謂いでとっておく。]敷かれてある。又此建物には日本名がついて居る――瑞邦館――『聖(きよ)き國の廣間』と云ふことを意味する。其名を表はす漢字は、入口の上の小扁額に、皇族の一親王の手に依つて書かれてある。内には何の家具も無い、も一つの扁顯と二つの繪畫が壁に掛けてあるばかり。繪畫の一は、内亂の折、忠義の爲めに決死隊を組織した十七人の勇敢なる少年より或る、有名な『白虎隊』を描けるもの、他の一は、漢文の敎授、秋月氏の油繪肖像である。氏は會津の人で、老いて益〻敬愛せられるが、若い時には有名な武士であつた。其頃は武士や紳士の養成には今日よりも遙かに大なる敎養を要したのである。も一つの扁額には勝伯の手で漢字が書いてあるが、其文字は『深淵な知識は最上の所有物』なりとの意味を寓する。

[やぶちゃん注:「秋月氏」「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州学生 (田部隆次訳)」に登場したハーンが尊敬した「秋月胤永」秋月韋軒(あきづきいけん 文政七(一八二四)年~明治三三(一九〇〇)年)である。

「勝伯」勝海舟。「深淵な知識は最上の所有物」の原扁額のそれは「入神致用」(「学問を究めるとともに人格をも高めて神のような境地に入って初めて他者や社会の役に立つ大きな働きを成せるようになる」と言った意。出典は南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)」の「易経」についての釈文か)。「熊本五高記念館」公式サイト内の「五高の歴史~教師~」の後に出る校長加納治五郎の解説の部分に、その扁額の画像が載る。]

 

 併し此大きな空洞(がらんどう)の室で敎へらる〻知識は何であらう。それは柔術と云ふ物である。柔術とは何か。

 ここで自分は斷わつて置かねばならぬが、自分は柔術は殆ど少しも出來ぬのである。この術は少年の時から學び初めねばならぬ。そして先づこれならばと云ふ程度に習得するにも、尙ほ長き間學修を續けねばならぬのである。名手となるには、優れた天分を有するとしても、七年間の不斷の練習を要する。自分は柔術の精しい話は出來ぬが、ただ其原理に就て敢て槪要を語らうとするのである。

 柔術とは武器なくして戰ふ、古武士の術である。門外漢には相撲の樣に見える。柔術演習中、瑞邦館に入るならば、十人若しくは十二人の若い柔輭な[やぶちゃん注:「じうなん(じゅうなん)」。「柔軟」に同じ。]學生が、素足素手で、互に疊の上へ倒し合つてる、其周圍には一群の學友がそれを凝視して居るのを見るであらう。此時ただ妙に思はれるのは室内闃[やぶちゃん注:「げき」。静まり返ったさま。]として聲なきことである。一語も發せられず、讃嘆のけはひも面白さうな素振りも表はさず、微笑する顏さへない。絕對平靜、これが柔術道場の規約の要請する所である。併し此全員の平靜なことと、此大勢の沈默せることのみが多分看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に異常の感を與ふるであらう。

 若し看者が本職の力士[やぶちゃん注:原文は“A professional wrestler”であるから「本職のレスリング選手」。]ならば、もつと目につく事があるに相違ない。彼は稽古中の靑年等は、力を用ふるに非常に用心深くして居る事、又握るのも、制へるのも、投げるのも一風變つて居て、同時に危險な手捌きである事を見て取るだらう。非常に用心深いにも拘らず、彼は全體が危險な稽古であると判斷し、西洋流の『科學的』な規則の採用を忠告したい氣になるだらう。

 併し此術の實行は――稽古でなく――西洋の力士が一見して推察するよりもつと危險なのである。其處に居る師範は、華奢に見えても、普通の力士を、恐らく二分間にして不具にする事が出來るだらう。柔術は決して見せる爲めの術でない、見物人を喜ばす爲めの技術の練習でない。これは尤も嚴密な意味に於ける自衞術である、戰術である。斯道の達人は、術を知らぬ相手に瞬く間に戰鬪力を失はしむる事が出來る。彼は或る恐ろしい早技(はやわざ)で、突然敵の肩を脫臼せしめ、關節を外づし、腱(すぢ)を切々或は骨を折る――それも何等目にとまる努力もせずにである。彼は鬪士であるばかりではない――解剖學者でもある。其上敵を殺す手捌きを知つて居る――恰も電擊に依つての如くに。併し此致命的の祕術は、其濫用を殆ど不可能ならしむる底[やぶちゃん注:「てい」。ここはやや変わった使用法で「特異点の状態」の意。]の條件の下にあらざれば、彼は之を何人にも傳授せざることを誓つて居る。完々な自制心を有し、非難すべからざる道德堅固の人にのみ傳授さる〻といふのが堅い慣例である。

 併し自分が柔術の注意を促したい事實は、柔術の達人は決して己れのたに手緣らぬ[やぶちゃん注:「たよらぬ」。]といふ事である。彼は最大危險に臨んでも、殆ど己れの力を使用せぬのである。然らば何を用ふるか。單に相手の力を用ふるのである。相手の力こそ、相手を倒す唯一の武器である。柔術は敵の力に依つて勝ちを制せよと敎ふる。敵の力が大なれば大なる程敵には不利で、己れには有利である。自分は柔術の大師範の一人から、自分が愚かにも、弟子中の最上の者と想像した强壯な一學生に、此術を敎ふるの甚だ困難なることを聞いて、少からず驚いた事を記憶して居る。其理由を聞けば答へて云ふ、『彼は己れの腕力に依賴し、それを使用するからである』と。柔術といふ名が既に逆らはずして勝つといふことを意味するのである。

 

註 嘉納治五郞氏の事。氏は數年前『亞細亞協會紀要』に、柔術に關する興味ある論文を寄稿した事がある。

[やぶちゃん注:「嘉納治五郎」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)。摂津国御影村(神戸市)の生まれ。東京大学卒。大学在学中から天神真楊流・起倒流の日本古来の柔術・武術を改良して新技術「柔道」を編み出し、明治一五(一八八二)年、東京下谷北稲荷町の浄土宗永昌寺の書院を借り、講道館を開設した。学習院教授・第五高等中学校長(在職期間:明治二四(一八九一)年~明治二六(一八九三)年二月:ハーンの熊本到着は明治二四(一八九一)年十一月十九日で駅頭で加納が出迎えている)・第一高等中学の校長を経て、高等師範(後に東京高師)校長を勤めた。日本初のIOC委員で大日本体育協会初代会長。貴族院議員。日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於ける近現代スポーツの道を開いた人物であり、「柔道の父」・「日本の体育の父」とも呼ばれる。ハーンは彼に出逢うや、強く魅せられたようである。但し、ハーンは、五高を辞めて後に幾つかの行き違いがあって嘉納との間に不幸な溝が生じ、後年はやや疎遠となった模様である(ハーンと嘉納の五高時代の親密な記載はネット上に多くあるが、後年のことは語られているものが少ないので敢えて言い添えておく)。]

 

 自分の云ふ事は恐らく說明にはなるまい、ただ參考になるだけであらう。拳鬪術で『受止め(カウンター)』といふ語は誰れでも知つて居る。が此語を以て柔術の逆らはぬ手にしつくりと當てはめる譯にいかぬ。拳鬪家が受け止める時は、全力を相手の衝擊に對抗せしめるのだが、柔術の達人は正しく其反對に出るのであるから。併しそれでも拳鬪の受け止めと柔術の逆らはぬ手との間にはかういふ似寄りがある――何れの場合に於ても此手を食ふ相手は自ら統制し得ざる己れの攻擊力に依つて負けると云ふ似寄りがある。然らば大體に於て柔術には、あらゆる撚(ひね)り、扭(ねぢ)り、押し、引きなどの場合に、一種の『受止め(カウンター)』を以て之に對抗すると云つても宜からう。ただ達人は此等の攻擊に全然抵抗せぬのである。否、攻擊されるままに委すのである。そればかりではない。巧妙な早技ですかして、相手の力を極度に出させ、それに由つてわれから肩骨む外づし、腕を碎き、甚だしさに至つては、頸、或は脊骨を折らしむるのである。

 

       

 漠然たる說明ではあるが、それでも讀者は之に依つて柔術の眞に驚異すべき點は、其達人の最高の技術にあらずして、全技術が表はす東洋獨得の思想にあることを、既に看取せられたであらう。西洋人の何人か果たして此樣な奇拔な敎へを編み出し得たらう――力を以て力に對抗せず、攻擊し來る敵の力を誘致して利用し、敵の力に依つてのみ敵を倒し、敵の努力に依つてのみ敵に勝てといふ不思議な敎へを案出し得た者が西洋にあらうか。確にそんな者はない。西洋人の心は直線にのみ働き、東洋人の心は驚くべき曲線と圓をなして働くやうに思はれる。けれども暴力を挫く手段としては何たる絕好の智惠の象徵であらう。柔術は自衞の學たるに留まらず、哲學であり、經濟學であた、又倫理學であり、(自分は云ふのを忘れたが、柔術訓練の大部分は全く道義的なのである)そして何よりも、東洋に此上の侵略を夢みつつある强國に依つても未だ看取せられざる、種族的天才の表現である。

 二十五年前――もつと新しくも――外國人はかう考へた。日本は西洋の服裝のみならず風習までも、速力の大きい我等の交通運搬の方法のみならず、我等の建築の原則までも、我等の工業や工學のみならず、我等の哲學や妄斷妄說までも採用するであらうと推定した。そしてそれがいかにも道理(もつとも)らしく思はれた。或る人の如きは實に國を擧げてやがて外國の植民地として開放せられるであらう、外國の資本は、異常な特權が與へられて、種々の產業開發に資するべく誘致せられるであらう、そして國民は遂に我等が基督敎と稱するものに突然改宗することを敕令で公有するであらう、とまで信じた。併しこんな妄信は民族の性格――その深遠な能力、その眼識、その昔ながらの獨立の精神に對する、止むを得ざる、併し完々な無知より來るものである。これも日本がただ柔術を實行しつつあつたのだとは何人も少しも想像しなかつた。實際當時西洋では何人も柔術に就て全く聞く所がなかつたのである。

 併しそれは悉く柔術であつたのだ。日本は佛獨兩國の最高の經驗に基づく軍制を採用し、其結果一朝事あらば二十五萬の精兵と强力な砲兵を召集し得るやうになつた。又强大な海軍を興こし、其中には世界最良の巡洋艦を若干有するに至つた――其組織は範を英佛に取つて。佛人の指導の下に造船所をも建て、汽船を建造し、或は購求し、朝鮮、支那、マニラ、メキシコ印度及び南洋に產物を運搬し初めた。軍用、商用の爲めに鐡道を敷くこと約二千哩[やぶちゃん注:「マイル」。三千二百十九キロメートル弱。]。英米の助力で最安價な、併し恐らく最有効な郵便電信事業を起こした。又日本の海岸は兩半球中尤もよく照明せられたものだと云はれる程巧妙に燈臺を建て、合衆國にも劣らぬ信號設備を調へた。更に米國から電話と電燈の最上の方式を輸入した。公立の學校は獨佛米の諸國に於ける最良の結果を完全に硏究した上に其組織を定めたが、完全に他の諸制度と調和を失はざらしめた。警察制度は範を佛國に取り、而かも日本特殊の社會的要求に完今に適合するやうに按排[やぶちゃん注:「あんばい」。本来は「対象物を具合よく並べる」の意。但し、後に混同されて「塩梅」と同じ意味になった。]した。初めは鑛山、工場、砲兵工廠、鐡道等に機械を輸入し、多數の外人技師を雇ひ入れたが、今やそれ等の敎師を解雇しつつある。併し日本が爲した事及び爲しつつある事は之を列擧するにさへ多くの紙數を要する。詮ずる處日本は我等の工業、我等の應用化學、我等の經濟的、法制的、經驗が提供する、凡ての物の中より最上のものを選擇し採用したといふに盡きる。そしてどの場合にも、ただ最上のもののみを利用し、必らず之を己れの要求に適するやうに按排したのである。

 さてこれは何れも只だ模倣せんが爲めに採用したのではない。之に反して日本の力の增加を助け能ふ物のみを、試して見て取つたのである。日本は今や殆どあらゆる外國の技術上の敎授を受くるを要せざるに至つた。而かも巧妙な法制に依つて、其富源の凡てを確と己が手に保留する。但し日本は西洋の衣服、西洋の生活、西洋の建築、若しくは西洋の宗敎などは採用しなかつた。それは此等の物、特に宗敎は其力を增加せずして却つて減少すべかりしが故である。其鐡道と汽船航路、其電信と電話、其郵便局と通信會社、其鋼鐡砲と連發銃、其大學と工藝學校を有するにも拘らず、日本は今も一千年前と同じく東洋的であるに變りはない。自己は少しも變はらずに居ながら、敵の力を極度に利用し得たのである。未曾有の驚くべき知的自衞法で――驚くべき國民的柔術で、日本は自己を衞りつつああり、又あつたのである。

 

       

 自分の前に三十餘年前の寫眞帖が橫たはつて居る。日本が洋服と外國の制度の實驗を始めた時に取つた寫眞が詰まつて居る。何れも武士(さむらひ)や大名の寫眞である。そして、其多くは、國風の上に外國の感化が及ぼした、初期の結果を反映するものとして、歷史的價値を有する。

 軍人階級が新感化を受けた最初のものであつたのは當然だ。それで彼等は色々に洋服と和服の折衷を試みたらしい。此中の十數枚の寫眞は家來に取り卷かれた藩主の肖像であるが、皆彼等考案の特有の服を着けて居る。外國製の切れ地を用ゐた外國風のフロツクコート、チヨツキ、ずぼんを着ながらも、上衣の下には尙ほ絹地の長い帶を締めて居る。これは全く刀(かたな)を佩(さ)す爲めである。(サムラヒは決して伊達に刀を差す遊蕩兒ではない。又彼等の怖ろしい、精巧な刀は、腰に吊らる〻樣には出來てない[やぶちゃん注:ママ。]。――且つ又大抵西洋風に佩く[やぶちゃん注:ここは「はく」としか読めない。]には長過ぎる)又服の切れ地は羅紗であるが、武士(さむらひ)は家の紋を棄てようとしない。樣々に工夫して新服裝に之を適用しようとして居る。或る者は上衣の裾に白絹をかぶせ、其上に家紋を染め出し若しくは刺繡(ぬひとり)して居る――左右の裾に各〻三つ宛(づつ)。一同が、或は殆ど一同が光る鎖で毆洲製の時計を下げて居る。中に一人は多分最近調へたらしい時計を物珍らしげに眺めて居る。又一同西洋靴を穿いて居る――護謨短靴を穿いて居る。併し一人もまだあの厭はしい歐洲風の帽子を被らない――これは不幸にも後年一般に用ゐられる樣な運命にあつた。彼等は尙ほ陣笠を被つて居るのだ――丈夫な木製の被り物で赤地に金模樣の蒔繪がしてある。そして此陣笠と絹帶とが、彼等の怪奇な制服の中の、唯一の美しい部分である。洋袴(ずぼん)も上衣(コート)もしつくり合つて居ず、靴は徐々に足を痛めつつある。そこで此新裝の人々には云ふに云はれぬ窮屈さうな、だらしない、むさくるしい態度が一貫して居る。彼等は從容さを失つたのみならず、立派に見えぬ事を意識して居る。不釣合も極れば可笑しいものだが、それ程でもなく彼等は只だ醜く痛ましいばかりだ。當時外國人で日本人は永久に彼等の美しい服裝の嗜好を失ふであらうと信ぜざるを得た者があつたらうか。

[やぶちゃん注:最後の部分概ね言っていることは判るが、日本語としては十全にこなれた訳とは言い難い。特に「立派に見えぬ事を意識して居る」はだめだ。原文は、

The trousers and coats are ill fitting; the shoes are inflicting slow tortures; there is an indescribably constrained, slouchy, shabby look common to all thus attired. They have not only ceased to feel free: they are conscious of not looking their best. The incongruities are not grotesque enough to be amusing; they are merely ugly and painful. What foreigner in that time could have persuaded himself that the Japanese were not about to lose forever their beautiful taste in dress?

である。平井呈一氏の恒文社版「柔術」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の当該部を引用する。

   《引用開始》

ズボンも上着もだぶだぶだし、靴なんかも、そろそろもう、ちっとずつ足くなってきているあんばいだ。さてこそ、この新装束を着た面面、どれを見ても、みな申しあわせたように、なんともいえぬ窮屈そうな、でれりぼうとした、うすみっともない風体をしているわけで、これじゃあ、悠々迫らずなんていう武士の衿度[やぶちゃん注:「きんど」。「襟度」に同じい。立場や考えなどの異なる人を受け入れる心の広さのこと。]はとうのむかしにお蔵(くら)だし、だいいち、面面自身が、いやはや、面目しだいもござらぬの為体(ていたらく)と、みづからもって恐惶頓首しているありさまである。べつにおかしいというほど、グロテスクな不釣合ではないにしても、とにかく、見だてが悪いし、痛痛しいかっこうだ。それにつけても、いったい、この当時、外国人のなかに、日本人は永久に自国の美しい服装の趣味を捨てぬであろうと信じていたものが、はたして何人あったろう?

   《引用終了》

平井氏の訳を後発の英文学者は首肯し得ない訳が多いなどと、文「学者」としてインキ臭い批判をするが、およそこの素敵に文学的な「作家」精神に満ちた訳はどうだろう! 因みに、個人ブログ「ひろむしの知りたがり日記」の「八雲、講道館流柔術との遭遇 《第1部》 嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン」に、講道館の機関誌『作興』の昭和四(一九二九)年一月号から翌年六月号にかけて、断続的に掲載された嘉納治五郎の「教育家としての私の生涯」の中の、ハーンの五高時代の思い出や『奇行』(その中での加納の謂い。『ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師からぬいてこれを招聘したことは特筆すべき一事である。ハーンは何人も知る珍しき人物で、当時英米を通じてもたぐい少なき文豪であり、すこぶる変わった非凡の人であった。自分は親しくしていたが、彼の夫人は島根県の士族で、正しき家庭に育った婦人であった。日常のハーンの生活は日本服を着、日本の煙管で煙草をのみいろいろの点で日本趣味を味わい得た人であった。英語並び英文学の教師として価値の豊かな人であったことは論ずるまでもないが、人間としてまたいろいろの奇行をのこした』と引用されてある)が纏められている中に、『ある時、熊本の第六師団で祝賀行事があり、知事・学校長・裁判所長といった錚々たる』面々『が一堂に顔を揃え』、『当日、武官は制服、文官はフロックコートといずれも洋装に身を包んでいた中で、唯』一『人、和装の紋服姿で出席した紳士がい』『た。それこそが、言わずと知れたハーンだった』とあるのは、ここのハーンの文章に添えるに相応しいエピソードであろう。他にも、熊本到着後に『治五郎の案内で宿に着くなり、ハーンは「日本料理を食べたい」と言って、治五郎を驚かせ』たとか、『ハーンは、五高の敷地内に洋式建築の外国人官舎があるにもかかわらず、「日本の家に住みたい」と言って治五郎を戸惑わせ』、『結局』、『ハーンは自分で旧士族の持ち家だった武家屋敷を見つけてそこに落ち着くことにな』ったことなども記されてあり、ブログ主は、この時未だ三十歳の『若さだった治五郎は、自分より』十歳も『年上の風変わりな外国人に、強烈な印象を抱いたことでしょう』と述べておられる。確かに『奇行』するハーンというのは正直な印象であったことが肯ぜられる。]

 別の寫眞にはもつと一層珍妙な外國影響の結果を示すものがある。ここには西洋服裝の採用は肯んじないが、此新流行熱に讓步して羽織と袴とを英國製の最も厚い最も高價な羅紗――厚いのと彈たのない爲め、日本服には尤も不向きな材料――で仕立てて着て居る武士がある。最早どんな熱した火熨斗[やぶちゃん注:「ひのし」。日本古来からあるアイロンのようなもの。]でも、延ばすことの出來ない皺が表はれて居る。

 此等の肖像から、新流行熱には全く留意せず、最後まで國風の軍服を脫ぎ棄てぬ、二三の奮弊家の肖像に目を轉ずるのは、確に美感の慰藉である。ここには騎馬武者の長袴がある、優れた刺繡のある陣羽織がある、裃がある、鎖帷子(くさりかたびら)がある。完備せる鎧一具がある。ここには又各種の冠(かんむり)がある――昔から諸侯や高級武士が、儀式の折に被つた、奇妙な併し嚴(おごそ)かな被(かぶ)り物で――或る輕い黑布で出來た蛛網[やぶちゃん注:「くものす」。]のやうに薄い珍らしい構造の物である。此等の物には凡て威嚴がある、美しさがある、或は軍戰美がある。

[やぶちゃん注:「軍戰美」原文は“the terrible grace of war”。先の平井氏の訳では『戦陣のきびしい品位がそなわっている』となっている。]

 併し此寫眞帖の最後の寫眞には凡てのものが氣壓(けお)されて了(しま)ふ。――それは鷹のやうな凄い、素暗らしい眼光を有(も)つた美しい若武者で、封建時代の華やかな甲冑姿の松平豐前守である、片手は總のついた大將の采(ざい)を持ち、片手は刀(かたな)のめざましい欛(つか)の上に載つて居る。兜(かぶと)は天工を奪ふ程の逸品である。胸や肩は西洋のあらゆる博物館で有名になつてる[やぶちゃん注:ママ。]鎧師が細工した鋼鐡である。陣羽織の紐(ひも)は金糸を撚(よ)り合はせ、金波金龍を刺繡(ぬひと)つた、驚嘆すべき厚絹の下着は、鎧の腰から脚元まで火衣(ひごろも)のやうに流れて居る。そしてこれは夢ではない――あつた事實なのだ――今自分は中世の實在の一人物の、太陽が燒き附けた寫眞といふ記錄(レコード)を眺めつつあるのだ。此人物は鋼鐡と絹と金を着て、めざましい金綠色の玉蟲の樣に輝いて居る――併しこれは戰鬪甲蟲[やぶちゃん注:“beetle”であるから「かぶとむし」と訓じておく。]で、玉の色彩の眩(まばゆ)さはあつても、全體が角と顎と威嚇だらけである。

[やぶちゃん注:この写真集、見てみたいものだ。ネット上で探してみたが、判らぬ。識者の御教授を乞う。

「松平豐前守」上総国大多喜藩第九代(最後)藩主松平正質(まさただ 弘化元(一八四四)年~明治三四(一九〇一)年:別に大河内(おおこうち)正質とも名乗った)であろう。奏者番・若年寄・老中格で大河内松平宗家十一代であり、官位は豊前守であった。

「總のついた大將の采(ざい)」“the tasseled signal-wand”。采配(さいはい)のこと。戦場で軍勢を率いる際に用いた指揮具で、一尺ほどの柄に、千切りの紙片や獣毛(中国産の「犛(はぐま)」(哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens)の尾の毛が好まれた)などを細長く垂らしたもの。]

 

       

 松平豐前守が着たやうな、封建時代の服裝の、王侯的絢爛から、過渡時代の言語道斷な服裝への變遷は隨分大なる堕落である。國風の衣服と衣服に對する國民的嗜好とは、確に永久に消滅の運命にあるやうに思はれた。宮廷にさヘ一時巴里風の服飾が行はれた時は、軈て全國民も服制を變更せんとするものと外國人は極めてしまつたのであつた。事實、當時重なる市には一時的ながら洋裝熱が高まつて、夫れが歐洲の繪入新聞に報道せられ、暫しの間美しい日本はけばけばしいスコツチ服や、シルクハツトや、燕尾服の國となり了せりと云ふ印象を惹起した。併し今日では、首府に於てさへ、千人の通行人中洋裝せる者は一人の割りにも達しまい。勿論制服の兵士と學生と警官とは除いてである。往日の熱は實は國民の實驗を示したもの、其實驗の結果が歐洲人の期待に副はなかつたのだ。日本は陸海軍及び警察官に、西洋風の制服の種々な樣式を巧みに剪裁[やぶちゃん注:「せんさい」。布を裁(た)ち切ること。]して採用したが、それはそんな服裝がそんな職業には一番適するからである註一。又外國の平服も日本の官吏社會に採用せられて居る。併しこれは近代風の机と椅子を具へた歐洲風の建物内に於ける勤務時間だけ着らる〻のみだ註二。歸宅すると陸海軍の大將でも、判官[やぶちゃん注:裁判官。]でも、警部でも同樣に着換へる。そして最後に、小學校を除くの外、凡ての學校の敎師も學生も制服を着用する事になつて居る。それは學枚敎育は一部分軍事敎練であるからである。此制服着用の義務は一時甚だ嚴重であつたが、今は大分弛緩した。多くの學校では、敎練の時と何か儀式張つた折のみに服を着る樣に規定せられて居る。九州の學校では師範學校を除き、敎練のない折には、學生が國服[やぶちゃん注:和服。直後に「キモノ」とルビしている。]、草履、大きな麦稈帽子を自由に着用する。併し何處でも授業時間後は、敎師も學生も歸宅して國服(キモノ)を着、白縮緬の帶を卷うつける。

 

註一 此事に關して日本が爲した唯一の重大な過誤は、步兵に革靴を穿かしめた事である。草履の寬濶に馴れた、そして我等の所謂魚の目や肉刺[やぶちゃん注:これで「まめ」と読む。]の存在を知らぬ靑年の柔らかい足に、此不自然な穿(は)き物の爲めに殘刻に苦しめられる。尤も長い旅行には草履を穿くことが許されるから、穿き物の轉換といふ事も出來る。草鞋だと日本人は小兒でさへ、殆ど疲勞せずに一日三十哩[やぶちゃん注:四十八・二八キロメートル。]を樂に步むことが出來るのである。

[やぶちゃん注:前の「穿かしめた」にルビせず、後にルビしているのはママ。こういう文章の不統一が私は生理的に大嫌いである。

「三十哩」を「子兒でさへ」というのは言い過ぎであり、この距離指定も大袈裟過ぎる。江戸時代の宿場間の平均距離からして、八里から十里強(約三十二から四十キロメートル)が成人男子の一日の歩行距離と推定されるからである。]

註二 高き敎育ある日本人が實際自分の友人につぎの樣な事を語つた――眞實の處僕等は洋服が嫌ひだ。僕等は或る動物が或る折に或る色を取る樣に――乃ち保護色を取る樣に只だ一時それを着用するのである。

[やぶちゃん注:「三」の最初の段落に私が附したハーンの『奇行』の注を再度参照されたい。]

 

 然らば、手短に云ふと、日本は正(まさ)しく其國風の服裝に還つたのである。再びそれを棄てる事はあるまいと思はれる。日本服は日本の家庭生活にぴつたり合つてる、唯一の服裝であるのみならず、恐らくは世界中で、尤も重々しい、尤も快適な、又尤も保健的な服裝であらう。或る點に於ては明治年間に、前の時代に於てよりも國服に大なる變化かあつたのは事實だ。併しこれは重に士族階級の廃棄に原由する。それも樣式の變化は僅少で、色合の變化が主なるものである。此民族の優れた嗜好は今でも式服に織られる絹物或は木綿物の美しい色合、色、模樣に現はれる。併し明治以前の着物よりは色合は薄く、色はくすんで居る――樣々の形式を含める一般國民の服裝も、封建時代よりは調子が大分ぢみになつて居る。小兒と若い娘の派手な衣裳とても同樣である。目ざましい色の驚嘆すべき昔の衣服は民衆の生活から消え失せた。それはただ劇場でか、或は過去を保存する日本時代劇の美しい空想的な場面を描ける美し繪本で見るばかりだ。

 

       

 國服を棄てる事は、實に殆どあらゆる生活の樣式を變ふるといふ高價な必要を來たすであらう。洋服は全く日本の屋内生活に適せぬ。國風の跪坐は洋服を着ては非常に苦しく困難である。從つて洋服の採用は洋風の家庭生活の採用を必然の結果とする。休息に椅子、食事に卓、暖を取るにストーブ若しくは煖爐(日本服が暖かいのでばかり、今はこんな洋風の設備が不必要なのである[やぶちゃん注:妙な日本語で半可通である。原文は“(since the warmth of the native robes alone renders these Western comforts at present unnecessary)”(本文中に丸括弧で挿入するというのは、少なくとも来日後の作品では珍しいものである)。「(元来、和服というものが確かな暖かさを持っているから、現在、これらの西洋の快適な装置が不要になるため、である)」の意。」])床(ゆか)に絨毯、窓に玻璃(ガラス)――要するに從來日本人が無くとも濟まされた無數の贅品を家庭に入れねばならぬ事になる。一體日本の家庭には家具といふものがない(歐洲人の所謂家具)――寢臺も卓子(テーブル)も椅子もない。小さな書棚、或は寧ろ本箱が一つ、又襖で隱されり或る隅に簞笥が一對は大抵ある。併しこんなものは西洋の家具とは似ても似つかぬものだ。槪して日本室には、喫煙の爲めに靑銅か陶器かの小さい火鉢、季節に從つて[やぶちゃん注:「よつて」。]藺草の敷物或は座布團、の外何もない[やぶちゃん注:読点位置はママ。]。ただ床(とこ)にのみ畫幅か花瓶がある。數千年間日本人の生活は床(ゆか)の上にあつた。毛布團の樣に軟らかで塵一つ留めぬ淸らかな床(ゆか)は、寢臺でもあり、食卓でもあり、そして往々机でもあるのだ。尤も高さ約一尺の小さい綺麗な机があることはある。こんな生活法の非常に經濟的であるのを考へると、之を棄てる事は萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]あるまいと思はれるし、殊に人口の夥多と生活難が增しつつある限りは。且つ又、高き文化を有する國民が――西洋侵入以前の日本人の如き――單なる模倣の精神から、祖先の風習を棄てたといふ樣な、前例がないといふことも忘れてはならぬ。日本人をただ徒に模倣的だと考へる者は又日本人を野蠻人だと考へるものである。處が事實彼等は少しも模倣的でない。彼等は只だ同化、適合の才に富むのみで、それも天才と云ひ得る程度に達して居る。

 西洋の防火的建築材料の經驗を丹念に硏究した結果、日本都市の建築に、多少の變化を來たすことはありさうに思はれる。既に東京の或る方面には門並煉瓦建ての街路がある。併し此等の煉瓦造りの家屋にも古來の疊が敷いてある、そして其住人は祖先の家庭生活を續けて居る。未來の煉瓦造り若しくは石造の建築は、單に西洋建築の模倣たるに留まらず。[やぶちゃん注:句点はママ。]甚だ興味ある、新しい、そして純な東洋味を展開せしむべきことは殆ど確實である。

 日本人は何でも西洋の物なら盲目に讃嘆すると信じて居る人は、内地でよりも開港場では純粹な日本品(骨董を除く)を見ることが少いであらう、日本風の建築、日本風の衣服、風俗、さては古來の宗敎、神社佛閣などは滅多に見られぬであらうと思ふかも知れない。併し事實は正反對である。外國風の建物はあるが、それは槪して外國人の居留地で外國人の使用の爲めである。但し防火的設備を要する郵便局、稅關、及び少數の釀造所と製絲場は普通除外例である。併し日本建築は凡ての開港地で立派に幅を利かして居るのみならず、内地の何の市でよりも立派である。建前が高く廣く、伸びて居る。其癖一層東洋風を發揮して居る。神戶、長崎、大阪、橫濱などでは、本質的に、完全に、日本風な點が(精神的の特質は別として)洋風の侵入に挑戰するかの如く、悉く强調せられて居る。或る高い屋根或は露臺(バルコニー)から神戶を見渡した人は、誰れでも自分の意味する所のものの最適の例を見たであらう――十九世紀に於ける日本の港の高さ、雅味、魅力。白い條を交じへて波狀に起伏する靑灰色の瓦の海。破風、桟敷其外筆舌を絕する建築上の突飛な氣紛れな設計の杉材の世界がそれである。それから京都の聖部以外では、開港場に於けるよりももつと美しく古來の宗敎上の祭事を見る事は出來ぬ[やぶちゃん注:何だか訳がおかしい。原文は“And nowhere outside of the Sacred City of Kyōto, can you witness a native religious festival to better advantage than in the open ports”で、「いや、寧ろ、神聖な京都の町の以外の場所では、開港場よりも手ごろな地元の宗教的な祭りを見ることはちょっと出来ないと言ってよいほどである」の謂いである。]。又神社、寺院、鳥居、凡て神道佛敎の建設物の多くは日光と奈良、西京の古都を除いては、内地の都市に於て開港場に比肩し得る處はない。否、開港地の特質を硏究すれぱする程、日本民族の精神は、柔術の規約を超越してまで洋風の侵入に進んで屈從するものでない事を感ずる。

 

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