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カテゴリー「小泉八雲」の420件の記事

2019/08/05

小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は明治三五(一九〇二)年にニューヨークの MACMILLAN COMPANY から刊行された作品集「骨董」(KOTTŌ)に所収された随想(原題は添え辞を含め三行書きで:Kusa-Hibari Issun no mushi ni mo gobu no tamaahii. ― Japanese Proverb.)である。Internet Archive」のこちらから同書原本(挿絵入り)で原文が読める

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」の大谷正信氏の訳を視認した。大谷氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」を参照されたい。

 傍点「◦」があるが、そこは太字とした。なお、ストイックに必要と思われる段落末に注を附した。]

 

    草  雲  雀

      一寸の蟲にも五分の魂。日本の諺。

 

 その籠は正(まさ)しく高さが二寸で幅が一寸五分。軸があつてそれで廻る小さな木戶は自分の小指の尖頭(さき)がやつと入る位。だが、彼には此籠の中に十分の餘地が――步んだり跳ねたり飛んだりする餘地があるのである。といふのは、彼を一瞥せん爲めには、この褐色紗張りの橫面を通して、非常に注意して見なければならぬ程、彼は小さいからである。自分は其居場處を見つけるまでには、十分な明かりで、何時もその籠を幾度も廻して見なければならぬ。するといつも上の片隅には――紗張りの己が天井に、身を逆か樣に、抱き付いて――ぢつとして居るのが分る。

 自分の身體(からだ)よりか遙か長い、そして日に透かして見なければ見分けられぬ程に細い、一對の觸角をそなへた尋常の蚊の大いさ位の蟋蟀を想つて見給へ。クサヒバリ卽ち『草雲雀』といふのが彼の日本の名である。そして彼は市場で正に十二錢の値ひを有つて居る。卽ち、自分の重さの黃金よりか遙かに高價である。こんな蚊のやうな物が十二錢!……

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ(こおろぎ)」。

「クサヒバリ」「草雲雀」昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科クサヒバリ亜科クサヒバリParatrigonidium bifasciatum(辞書記載の学名であるが、昆虫愛好家(インセクターは一部の種に関しては昆虫学者より凄かったりする)の複数のページではバッタ目ヒバリモドキ科ヒバリモドキ亜科クサヒバリ Svistella bifasciata とするものも有意に見られるので、現在はこちらが正式か)。本邦では本州・四国・九州・沖繩に広く分布する。体形はコオロギに似ているが、ごく小さく、体長は六~八ミリメートルしかない。触角が長い。淡黄褐色を呈するが、♂では黒褐色の不規則な斑紋を持ち、翅には丸みがあって発音器の模様が明瞭で、♀では縦脈を有する。八~十月頃、林縁の低木の葉上や下草の上に見られ、小泉八雲は夜とするが、実際には昼夜を問わず(「フィリリリリリリリ……」と高く美しい声で長く鳴く。古来、鳴く虫の一つとして愛玩されてきた。異名を「あさすず(朝鈴)」とも呼ぶ。You Tube Sankogi 氏の「元荒川河原の草雲雀」の鳴き声と、グーグル画像「Svistella bifasciataをリンクさせておく。

「十二錢」本書の二年前の明治三十三年で白米一升が十二銭であるから、現在の換算で凡そ千円ほどとなろう。因みに、本日の金の価格は一グラム五千四円である。普通のコオロギ類(本邦の最大種であるコオロギ科コオロギ亜科フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma で体長は二・六~三・二センチメートルでクサヒバリの三、四倍)でも標準平均体重は一グラムに満たない個体が殆んどである。]

 每朝その籠へ差し入れてやらなければならぬ新しい茄子か胡瓜かの薄片に取り付いて居る間を除いて、彼は日のうちは睡るか冥想するかして居る。……綺麗にして、そして食物を十分にして、飼つて置くことは少々面倒である。彼を諸君が見得るなら、どんな可笑しい程小さな動物の爲めに、少しでも骨を折るなど馬鹿馬鹿しいと思ふであらう。

 だが、日が暮れるといつも、彼の無限小な靈が眼覺める。すると、言ふに言はれぬ美はしい美妙な靈的な音樂で――非常に小さな電鈴の音のやうな、微かな微かな白銀(しろがね)なすリリリリンと震ふ音聲で――部屋が一杯になり始める。暗黑(やみ)の深くなるに連れて、其音は層一層美はしくなり、――時には家中がその仙樂に振動するかと思へるまで高まり――時には想ひも得及ばぬ微かな極はみの絲の如き聲音に細まる。が、高からうが低からうが、耳を貫く不可思議な音色を續ける。……夜もすがらこの微塵はそんな風に歌つて、寺の鐘が明けの時刻を告げる時やつと啼き止む。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 さて、この小さな歌は戀の――見もせず知りもせぬものを戀する漠たる戀の――歌である。彼の此世での生涯の中に、いつか見又は知つた譯は更に無いのである。過去幾代のその祖先すらも、野原での夜の生活も、また、戀に於ける歌の價値も、少しも知り得た譯は無いのである。彼等は蟲商人の店で、土の壺の中で孵つた卵から生れ出たもので、その後籠の中だけに棲んで居たものである。だが、彼は幾萬年の古昔、歌はれた通りに、しかもその歌の一節(ふし)一節(ふし)の確實な意味を了解してでも居るやうに少しの間違ひも無く、歌ふのである。固よりのこと、歌を歌ふことを學びはしなかつた。それは有機的記憶の――その魂が夜每小山の露けき草陰から、高音を響かせた時の、幾千萬代の生涯の深い朧氣な記憶の――歌なのである。その時はその歌が戀を――そしてまた死を――もたらした。彼は死に就いては全く忘れてしまつて居る。が、その戀は記憶して居る。だからこそ彼は――決して來ては吳れない新婦を求めて――今、歌ふのである。

[やぶちゃん注:この冒頭は訳がやや硬過ぎる。原文は、

Now this tiny song is a song of love, — vague love of the unseen and unknown. It is quite possible that he should ever have seen or known, in this present existence of his. Not even his ancestors, for many generations back, could have known anything of the night-life of the fields, or the amorous value of song.

で逐語的には難はないのであるが、ここで、敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収)の如何にも風流なそれを以下に掲げておく。

   《引用開始》

 ところが、このかあいらしい歌は、じつは恋の歌なのである。まだ見もやらず知りもせぬものを恋い慕う、そこはかとない恋の歌なのだ。もっともこの小さな虫が、この世の生涯で、いつ見かけてか知りそめの、……なんていうことは、ありようわけがない。過ぎにし世、幾代(いくよ)のむかしの先祖ですら、小夜ふけし野べの手枕(たまくら)、恋に朽ちなん歌の意味など知っていたものはなかろう。

   《引用終了》]

 だからして、彼の戀慕は無意識的に懷古のものである。彼は過去の塵土に叫んで居るのである――沈默と神とに時の歸り來たらんことを呼ばはつて居るのである。……人の世の戀人も、自分ではそれと知らずに、頗るこれに似たことをして居る。人の世の戀人は其迷ひを理想と呼んで居る。ところが、彼等の理想なるものは、畢竟するに種族經驗のただの影であり、有機的記憶のまぼろしである。生きて居る現在は、それには殆んど無交涉である。……この微塵の小動物もまた理想を有つて居るか、又は少くとも理想の痕跡を有つて居よう。が然し、兎も角、其小さな願望は、其哀求を徒らに述べざるを得ぬのである。

[やぶちゃん注:ここも意味は正しいが、逐語的で硬過ぎる。ここでは上田和夫氏(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)の本段落を引用して示す。「こいつ」はちょっといやな人称代名詞で「彼」として欲しかったが。

   《引用開始》

 したがって、こいつのあくがれは、無意識のうちに、昔にむかっているのである。これは、過去の朽ちたものにむかって叫んでいる――沈黙と神々とにむかって、過ぎた時のふたたび返ってくることを呼びかけているのである。……人の世の恋人たちも、それとは知らずに、これとひどく似たことをしている。彼らは、幻影を「理想」と呼んでいる。ところが、彼らの「理想」は、けっきょく、人類の経験したものの単なる影、有機的な記憶のまぼろしにすぎない。いまこの世に生きることは、ほとんどそれとかかわりがない。おそらく、この微小のものにも理想はあるだろう、すくなくとも理想の痕跡(こんせき)はあるはずだ。しかし、それはともかく、このちっぽけな願いは、どれだけ訴えても無駄なのである。

   《引用終了》]

 その咎は全く自分だけのものでは無い。この者に配偶を與へると、啼かなくなり、且つ直ぐに死ぬるといふ警戒を、自分は與へられて居たからである。ところが、夜每夜每、その應答の無い美しい哀求の聲は、非難の聲のやうに自分の胸を衝いた――しまひには苦痛となり、苦惱となり、良心の呵責となつた。そこで雌を買はうと試みた。季節が遲かつたので賣つて居るクサヒバリは雄も雌も――もう一匹も無かつた。蟲商人は笑つて『九月の二十日頃には死んだ筈ですが』と言つた。(此時はもう十月の二日であつた)然し蟲商人は自分の書齋には上等の煖爐があつて、いつも溫度を華氏七十五度以上にして居ることを知らなかつたのである。だから、自分の草雲雀は十一月の末にもなほ啼いて居るので、自分は大寒の頃まで生かして置かうと思つて居る。が然し、彼の代(だい)の他の者共は、多分、死んで居よう。金づくにも何づくにも自分は、彼に今、配偶を求めることは出來なからう。それからまた、自分で搜せるやうに、放つてやれば、日の中は庭に居るその多勢な自然の敵――蟻や百足蟲や恐ろしい土蜘蛛――の手を幸運にも免がれ了せても、ただの一と夜も明けまで到底も生きて居ることは出來なからう。

[やぶちゃん注:「華氏七十五度」摂氏二十四度弱。

「大寒」「だいかん」。一月二十日頃。

「土蜘蛛」原文「earth-spiders」。クモ綱クモ目タテグモ下目クモ亜目ジグモ(地蜘蛛)科ジグモ属ジグモ Atypus karschi の異名。

「了せても」「おほせても(おおせても)」。

 以下、一行空け。]

 

 昨夜――十一月の二十九日――机に對つて居ると妙な感じが――部屋が空(くう)な感じが自分を襲つた。やがて、自分の草雲雀が、いつもと異つて、默つて居ることに氣が付いた。無言なその籠へ行つて見たら、彼は小石のやうに灰色に堅くなつた乾からびた茄子の薄片の橫で、死んで居た。確かに三四日の間、食べ物を貰はなかつたのである。だが、ついその死ぬる前の晚、彼は驚く許り歌つて居たのであつた――だから、愚かにも自分は、彼はいつもよりかも滿足して居るものと思つて居た。自分の家の書生の、アキといつて、蟲を好いて居るのがいつも彼に食物を與へてゐた。處が、アキは一週間の休暇を貰つて田舍へ行つたので、草雲雀の世話をする義務は下女のハナに委ねられたのである。同情深い女では無い、下女のハナは、その小さな物のことは忘れはしませんでしたが、もう茄子がありませんでしたと云ふ。そしてその代りに葱か胡瓜の小片を與へることを考へなかつたのである!……自分は下女のハナを叱つた。そして彼女は恭しく悔悟の意を述べた。だが、仙鄕の音樂はやまつてしまつた。寂寞が自分の心を責める。部屋は煖爐があるに拘らず冷たい。

 馬鹿な!……麥粒の大いさの半分も無い蟲の爲めに、善良なる少女を自分は不幸ならしめたのだ! あの無限小な生の消滅がこんなにもあらうと信じ得られなかつた程に、自分の心を惱ます。……固よりの事、ある動物の――蟋蟀のでも――其欲求について考へるといふただの習慣が、知らず識らず次第に、一種想像的關心を――關係が絕えてから始めて氣の付く一種の愛著の念を――生むのかも知れぬ。その上また、その夜がひつそりして居たので、その微妙な聲の妙味を――その微小の生は、神の惠みに賴るやうに、余の意志に、余の利己的快樂に、賴つて居るのであると語り――その小さな籠の中なる微塵の靈と、余が體内なる微塵の靈とは、實在の大海に在つて永遠に同一不二の物であると語るり――その微妙な聲の妙味を特に身に沁みて感じたのであつた。……それからまた、彼の保護神の思想(おもひ)が夢を織り成すことに向けられて居る間、日日、夜夜、食に飢ゑ水に渴して居たその小生物のことを思ふといふと!……嗚呼、それにも拘らず、最後の最後に至るまで――しかも慘憺たる最期であつた、自分の脚を囓んで居たから――如何に雄雄しく歌ひ續けて居たことか!……神よ、我等凡てを――殊に下女のハナを――赦し給はん事を!

[やぶちゃん注:「彼の保護神」草雲雀を飼っていた小泉八雲自身を指す。

 以下、一行空け。]

 

 だが、要するところ、飢餓の爲めに自分で自分の脚を囓むといふ事は、歌の天禀を有つといふ呪詛を蒙つて居る者に出來(しゆつたい)し得る最大凶事では無い。世には歌はんが爲めに自分で自分の心臟を食はねばならぬ人間の蟋蟀が居るのである。

[やぶちゃん注:最終行下二字上げインデントで『(大谷正信譯)』が、次行に同インデントで『Kusa-HibariKotto』とある。

「天禀」「てんぴん」或いは「てんりん」と読み、「天から授かった資質」「生まれつき備わっている優れた才能」「天賦」の意。]

   

2019/08/04

小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は明治三二(一八九九)年九月にボストンの「Little Brown and Company」から出版された「霊の日本にて」(In Ghostly Japan:全十四篇構成)の最終章(原題:At Yaidzu)である。小泉八雲が亡くなる(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)五年前の作品集である。原文は英文サイト「Internet Sacred Text Archive」のこちらで電子化された活字で読める。

 底本はサイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」のPDF版を視認した。なお、同ページには、先行する田部隆次編纂になる昭和二二(一九四七)年大日本雄辯會講談社刊の「日本の面影――小泉八雲新輯Ⅱ」の同じ大谷正信訳のもの(PDF)もあるのであるが、こちらは、頭の部分(以下の「一」相当)がカットされてしまっており、「二」の終りの部分も勝手にカットするなど、正直、読むに堪えないものである。

 本作を取り上げた理由は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」内で先に完結した『小泉八雲「神國日本」(戸川明三訳)附やぶちゃん注』の、戸川秋骨明三氏の「あとがき」の私の注の中で、八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉のこと(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉さんの家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ)。同家屋は現在、愛知県犬山市の「明治村」に移築復元されてあり、「明治村」公式サイトのこちらで解説と写真が見られる)なお、本篇は記述内容から、その初めての焼津での一夏の記憶に基づくものを主としているものであろう)に触れたからである。

 訳者大谷正信明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)はペン・ネーム(俳号)を繞石(ぎょうせき)と称した松江市末次本町生まれの英文学者・俳人で、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった。私の電子化注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十八)」にも、『姓名や容貌』で『最も長く自分の記憶にはつきり殘るであらうと思ふ』『學生』の一人として特異的に『Otani-Masanobu』とフル・ネームで登場している(他の四人は姓のみである)。大谷氏は、御覧の通り、パブリック・ドメインである。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。ストイックに注を各段落末に附した。その関係上、底本の末尾にある『譯者註』も【 】で括った上、その位置に動かし(註は本文五字下げで記されてあるが、頭から置いた)、本文中の註記号は省略した。

 本作が未読で、小泉八雲の性質(たち)をよく御存じない読者は、ここの「二」での八雲の行動には――きっと吃驚させられる――ことであろう。私などは――「やっぱり! 八雲先生だ! 凄過ぎ!!」――と快哉を叫んだ、本篇を初めて読んだ若き日のことを思い出す……

 

  燒 津 に て

 

       

 

 燒津といふこの古い漁師町は、輝かしい日の光を受けると、或る特殊な妙味を有つた間色(かんしよく)になる。――その――小さな入江に沿うて彎曲して――占めて居る荒れた灰色の海岸のその灰色を、丁度蜥蜴のやうに、この町は帶びるのである。この町は、大きな丸石で堅めた異常な壘壁によつて荒海に傷められぬやうに庇はれて居る。この壘壁は、海に面した方は、臺地(テレス)の段々の恰好に造られてゐて、それを構成して居る丸石は、深く地中に突き立ててある幾列もの棒※の間に、編んだ竹籠細工のやうなもので、崩れ落ちぬやうされて居て、その棒※がその段々を別々に支へて居るのである。この築造物の嶺から陸の方を眺めると、――寺の庭の在り場を示す松の木立が此處其處にある、灰色瓦の屋根と雨風に曝されて灰色になつた家々の木材とが、一面に幅廣く延びて居る――燒津町全體がずらりと眸裏に收まる。海の方は、數浬の水面を越えて、巨大な紫水晶の塊のやう、地平線へくつきりと群れ集うて居る鋸の齒なす紺靑の連蜂が見え――其先きに、左手に、あらゆるものの上に巍然として吃立して居る壯麗な富士の靈峰が見えて――實に壯大な眺望である。防波壁と海との間には砂は少しも無い、――石の、主として圓い漂石の、灰色な傾斜面があるだけである。それが大波と一緖に轉がるのであるから、風の强い日に岸打つ浪の橫を通らうとするのは、厭(いや)な仕事である。一度石の浪に打たれると――自分は幾度もやられたが――其の經驗は直ぐには忘れられぬ。

[やぶちゃん注:「原文「terrace」。高台・段丘・路よりも高くしたり、坂道に沿った連続する住居の並びのことで、所謂、「テラス」であるが、英語の原発音は音写するなら、ここにルビされてある通り、「テレェス」で、近い。

「棒※」(「※」=「木」+「戈」)「ばうくひ(ぼうくい)」。「※」は「杙」の異体字。

「數浬」「すうかいり」。原文は「leagues」。古くからある英米の距離単位で、一リーグは約三マイル(一マイルは千六百九メートル強であるから、四・八二八キロメートル)であるから、六掛けだと、約二十九キロメートルとなる。

「巍然」「ぎぜん」。高く抜きん出て聳えて偉大なさま。

「漂石」「へうせき(ひょうせき)」。ここは、岩石が崩壊し、川や海の作用によって摩耗して海岸に漂着したもの。軽石の一種で、「礫(れき)」と、ほぼ同義。]

 

 或る時刻に、幾列もの妙な恰好の船が――此地方に特有な形の漁船が――ごつごつな此の傾斜面の大部分を占める。それは――一艘四五十人は乘ることの出來る――非常に大きな船である。それは變な高い船首(みよし)を有つてゐて、それへ佛敎或は神道の護符(マモリ或はシユゴ)が普通貼り附けてある。神道の護符(シユゴ)の普通の形式のは、この目的の爲め、富士の女神の神社から供給されるものである。其の文句は斯うなつて居る。――フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク。――それは、漁業好運の場合には、富士の頂上にその神社のある神樣の爲めに非常な苦行をなすことを此船の持主は誓ふ、といふ意味である。

[やぶちゃん注:「護符(マモリ或はシユゴ)」「(マモリ或はシユゴ)」はルビではなく、本文。

「フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク」原文を見ると、「Fuji-san chôjô Sengen-gu dai-gyô manzoku」で、これは、「富士山 頂上 淺間宮 大漁 滿足」であって、二つ目の単語のカタカナ音写を大谷が誤読したものである。

 以下、一行空け。]

 

 日本のうちで海岸のある國にはどの國にも――同じ國の漁村でも村が異ればその村々にすらも――その國或は村に特有な船と漁具との形式がある。實際、互に五六哩しか離れて居ない村で、數千哩距つて住まつて居る人種の發明かと思へる程に、型の異つた網や船を各々製造して居ることを時々認める。この驚くべき多種多樣は、或る度までは、地方的傳統を重んずる念に――數百年の久しきが間祖先の敎示と慣習とを改めずに保存する殊勝な保守主義に――基づいて居るのかも知れぬ。が然し、處を異にして住んで居る仲間のものが、種類の異つた漁獲を營んで居るといふ事實に依つて、一層能く說明されるのである。だから何處でも或る一箇處で造る網なり船なりの形は、能く檢べて見ると、大抵は或る特殊の經驗によつての發明だといふ事が判かる。燒津の此の大きな船は此の事實の例證である。燒津の漁業は、日本帝國のあらゆる部分へ乾したカツヲ(英語のボニト)を供給するのであるが、その漁業の特殊の要求に應ずるやうにその船は工夫したもので、非常な荒海を乘り切ることの出來るやう造らなければならなかつたのである。それを海ヘ出したり海から引き上げたりするのは骨の折れる仕事である。が、村中が手傳ふ。傾斜地へ平たい木の枠を一線に置いて、瞬く間に、一種の斜路の卽席製造をする。そしてその枠の上へ、底の扁平なその船を、長い綱で曳きずり上げたり下ろしたりする。ただの一艘をさういふ風に動かすのに、百人或は百人以上のものが――男、女、子供が、陰氣な妙な歌に合はせて、一緖に曳つぱつて――働いて居るのが見られる。颱風がやつて來る時は、その船をずつと後ろへ、街路の處まで、上げる。そんな仕事を手傳ふのは中々面白い。手傳ふ者が他國ものであれば、漁師はその勞に酬ゆるにその海の不思議な產物を以てするであらう。驚く許りに長い足をした蟹だとか、途方も無く大きく腹を膨らます風船魚だとか、手に觸はつて見なければ自然の物とは殆ど信じられぬやうな異常な恰好をした色んな他の動物だとか。

[やぶちゃん注:「五六哩」「數千哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一キロ六百九メートルであるから、前者は凡そ八キロから九キロメートル半強で腑に落ちるが、後者はごく過少にとって三千マイルとしても、四千八百キロメートル超となってしまうので誇張表現のように見える。確かに、現行の日本の南北(沖ノ鳥島から宗谷岬まで)は約二千八百四十五キロメートル、東西(小笠原諸島の南鳥島から与那国島まで)は約三千百四十二キロメートルしかないのだが、実は、本作が書かれた当時は台湾及び南樺太と択捉島が日本の領土であったから、試みにそれで測定してみたところ、孰れ(南樺太北端と択捉島東北端)も優に三千六百キロメートルを超える。されば、過少な三掛け(私は「数~」は六掛けを基準とする)では正しいことになろう。

「度」「ど」。程度。

「カツヲ(英語のボニト)」原文は「katsuo (bonito)」。条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis。「カツオ」の英語「Bonito」はポルトガル語とスペイン語で「可愛い奴・素晴らしい奴」の意であるが、これは大型魚類の通称総称であって、カツオを特定する語ではない。他にも同様の呼称として「Skipjack tuna」或いは単に「Skipjack」がある。世界的には魚種を子どもでも数多く知っている国民というのは、極めて珍しいのである。

「驚く許りに長い足をした蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ(高脚蟹)Macrocheira kaempferi。本種は岩手県沖から九州までの太平洋岸及び日本領海内の東シナ海に主に分布し、近年までは日本近海の固有種とされていたが、一九八九年には台湾の東方沖で発見されている。水深百五十から八百メートルほどの深海砂泥底に棲み、脚は雌雄ともに非常に細長いが、成体の♂では鋏脚がその脚よりもさらに長くなり、大型個体の♂ではその鋏脚を広げると三・八メートルにも達する(ここはウィキの「タカアシガニ」に拠った)。

「途方も無く大きく腹を膨らます風船魚」フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。でも! 八雲先生! それって、ちゃんと有毒部位を除去しないと!

 以下、一行空け。]

 

 船首に神聖な文句を貼り附けて居るこの大きな船が、此濱での一番奇異な物といふのでは無い。竹を裂いて造つた餌籠がもつと異常なぐらゐである。高さ六呎、まはり十八呎、その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠である。乾かす爲めに防波壁に沿うて列べてあると、少し遠くから見ると、何かの住み家か小家かと間違へられさうである。それから、鋤のやうな恰好をして、金屬が打ち附けてある木製の大きな錨がある。爪の四つある鐡の錨がある。杭を打ち込むのに使ふ素敵に大きな槌がある。何の爲めに使ふのか想像も出來ない、まだまだ珍らしい、他の色んな道具がある。見るもの悉くが何とも言へず古めかしく奇妙であるといふ事が、眼に見えて居る物が現實かどうかを疑はせる、彼(あ)の無氣味な遠隔といふ感じを――時間に於ても空間に於ても己(み)は遙か遠く離れて居るといふ無氣味な感じを――起こす。それに燒津の生活がまた確に數世紀前の生活である。そこの人達がまた舊日本の人達で、子供のやうに――善良な子供のやうに――淡白で親切で、過ぎると思ふ程正直で、後の世のことは思ひもせず、古昔からの因襲と古昔からの神々とに忠實である。

[やぶちゃん注:「竹を裂いて造つた餌籠」「高さ六呎」(「呎」は「フィート」で約一メートル八十三センチメートル)「まはり十八呎」(五メートル四十九センチメートル弱)「その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠」「高知県公式」サイト「高知家の○○」の「高知県立歴史民俗資料館」を紹介したこのページの、下の二枚の写真を見られたい。二枚目にはレポーターの女性が横に立っているから、その異様な大きさが判る。しかも、小泉八雲の示す高さは、この写真の餌籠(カツオを獲るためのイワシを入れておくもの)よりも、一段と高いことが判る。]

 

       

 

 自分は偶〻盆の卽ち死者の祭日の三日間饒津に居た。だから三日目の最後の日の、美しいお訣れの儀式を見たいものと思つた。日本の多くの地方では、精靈にその航海用の極めて小さな舟を――帆船や漁船の小さな模型のもの、その一艘一艘に食物と水と焚いた香との御供物の入つて居るのを、その精靈舟を夜送り出す時は、小さな提燈か燈籠を添へて――提供する。ところが燒津では燈籠だけ流すので、暗くなつたらそれを水へ下ろすと自分に話した。他の地方では夜中(よなか)がその普通の時刻だから、燒津でも亦それがお訣れの時刻だと自分は想つた。そしてそれを見物に間に合ふやう眼を覺ます積りで、夕食後輕率にも自分は一とまどろみに耽つた。ところが自分が再び濱邊へ行つた十時までに、一切濟んで、誰れも彼れも家へ婦つてしまつてゐた。海を見ると、遠くに螢火の長い群のやうなものが――列を爲して海へ漂ひ出る燈龍が――見えた。が、もう餘程遠くへ流れ出てゐて、色のついた火の點々としか見えなかつた。自分は大いに失望した。また二度とは歸つて來ないかも知れぬ好機會をなまけて取り逃がしたやうな氣がした、――こんな古い盆の慣習は急速に失せつゝあるから。と思ふその次の瞬間に、思ひ切つて泳いで行けば十分その明かりの處へ行ける、といふ念が浮かんだ。燈籠はゆるやかに動いて居るのであつた。自分は衣物を渚へ脫いで飛び込んだ。海は穩かで、美しく燐光を放つてゐた。手足の一と漕ぎ每に黃色な火の流れが燃えた。自分は迅く泳いだ、そして思つたよりも早くその燈籠艦隊の最後のものに追ひついた。自分はこの小さな船出の邪魔をするのは、卽ちその靜かな進路を橫へ外らすのは、不親切なことだらうと思つた。だから自分はそのうちの一つに近く身を置いて、その委曲を硏究するに甘んじた。

[やぶちゃん注:「お訣れ」「おわかれ」。]

 構造は頗る單簡であつた。その底は眞四角な、縱橫十吋位の、厚い板片であつた。その四隅に高さ十六吋許りのか細い棒が立つて居て、この眞つ直ぐに立つた四本が、十文宇に組んだ板片で上の處で結び附けられて居て、紙貼りの四方を支へて居るのであつた。そして、長い釘がその底の中心を通して上へ突き立ててあつて、その釘の尖(さき)に、點した蠟燭が挿し留めてあつた。上の方は明けつ放しである。四方は五色が――靑、黃、赤、白、黑と――現はしてあつた。此五色は、形而上的に五佛と同一の佛敎の五大を――空、風、火、水、地を――それぞれ象徵して居るのである。その紙壁の一方は赤、一方は靑、一方は黃で、四番目の壁の右半分が黑く、左半分が、色無しで、白を表はして居るのであつた。この透かし明かりのどれにも戒名は書いて無かつた。内側にはちらちら光つて居る蠟燭があるだけであつた。

[やぶちゃん注:先の英文原文サイトには「THE LIGHTS OF THE DEAD」とキャプションした原本の挿絵がある。是非、見られたい。

「十吋」「吋」は「インチ」。二十五・四センチメートル。

「十六吋」四十一センチメートル弱。

「五佛」真言宗の両部曼荼羅に於いて、中央仏の大日如来とその四方に居(ま)す四仏を指す語。金剛界曼荼羅では、大日如来と阿閦(あしゅく:東)・宝生(ほうしょう:南)・阿弥陀(西)・不空成就(北)の四如来を、胎蔵界曼荼羅では、大日如来と宝幢(ほうどう:東)・開敷華王(かいふげおう:南)・阿弥陀(西)・天鼓雷音(てんくらいおん:北)の四如来を指す。金剛と胎蔵のそれらは実際には同体である。五智如来とも呼ぶ。

「佛敎の五大」小泉八雲が述べる通り、仏教で宇宙を構成しているとされる「地」・「水」・「火」・「風」・「空」の五つの要素(フィフス・エレメント)のこと。

 以下、一行空け。]

 

 自分は夜を通して漂ひ行く、しかも漂ひ行くにつれて風と波との衝動のもとに次第に遠く離ればなれに散らばつて行く、この明かるい脆い恰好したものをぢつと見て居つた。その各々が、色のをのゝきをさせて、物に怯ぢて居る或る生物のやうに――そのまた外(そと)暗黑の中へそれを運んで行く盲目の流れに戰慄して居る生物のやうに――思はれた。……我々自らも、より、深い且つよりほのぐらい海へ船下ろしされて、避く可からざる分解へと漂ひ行くにつれて、始終互々に次第に遠く遠く、離れ行く燈籠の如き身では無いのか。間も無く銘々の思想の光は燃え書きる。するとその憐れな肉體や、甞ては美しい色であつたものの殘つて居る總ては、永久に色無き『空』ヘ溶けこまねばならぬのである。……

 斯く考へるその刹那にすら、自分は眞實此處に一人きりで居るのか知らと疑ひ始め――自分の橫で波に擴られて居る物のうちに、光りの唯だのをのゝき以上の或る物が居はせぬか知ら、消え行くその炎を惱まし、それを看て居る者を看て居る或る者が居はせぬか知ら、と考へ始めた。微かな冷たいをのゝきが自分の身體中をすうつと通つた――恐らくは水の深みから昇り來る或る冷たさであつたらう――或は恐らくは或る靈的な空想が潛行しただけのことであつたらう。と、此海岸地方の古い迷信が――『精靈』が旅をする折は危險だといふ古い漠とした警戒が――自分の心へ浮かんで來た。夜間斯うして此海へ出て居る自分の身へ――『死者』の光明を妨害して居る、或は妨害して居るやうに思へる自分の身ヘ――何か禍が落ちて來でもすれば、自分は今後の或る無氣味な物語の主題となることであらう、と想つた。……そこで自分は佛式の訣れの文言を囁いた――その光りに。――そして急いで岸を指して泳いだ。

 足が石へ再び觸はると、前の方に白い影が二つ見えたので自分はびつくりした。が、水は冷たいかと尋ねるやさしい聲が自分を安心させた。それはその妻と一緖に自分を探しに來た、自分の宿の老主人の、魚賣りの乙吉の聲であつた。

『氣持ちのいい程冷たいだけだ』自分は二人と一緖に歸宅しようと着物をひつかけながら答ヘた。

『あゝ、盆の晚に海へ出るのは宜う御座いません』と乙吉の妻は言ふ。

『遠方へは行かなかつたよ。ただ燈籠が見て見たかつたのだ』と自分は答へる。

 乙吉はかう抗辯するのであつた。『河童だつて時々水で死にます。此村の者で、乘つて居た船が破れてから、非道い天氣の日に、七里泳いで戾つた者がありました。だがあとで水へはまつて死にました』

[やぶちゃん注:以下は底本では五字下げで、乙吉の最後の『死にました』」の前に二行(ポイントは本文と同じ)で入るが、おかしいし、原文でも、[ ]で括ってページ下にあるようなので、かく整序した。]

  『カツパモオボレシタ』とは普通の諺で

  ある。カツパといふは水に、殊に川に、

  住む怪物である。

 七里と云へば十八哩少し足らずである。此村で今どき若い者でその位泳げる者が居るかと自分は訊ねた。

 老人は答へて曰ふに『多分ありませう。强い泳ぎ手は多勢居ります。此處の者は皆んな泳ぎます、――小さな子供でも。だが漁師がそんな長い間泳ぐのは、生命を助からうとする時だけであります』

『また戀をする時に』と、その妻が言ひ添へた。『羽島(はじま)娘のやうに』

『誰れがだつて』と自分は問うた。

『さる漁師の娘でありました』と乙吉は言ふ。『七里離れた網代(あじろ)に戀人が居りました。それで、夜その男の處へ泳いで行つては、朝泳いで歸りました。男はその女の道しるべに明かりを燃やして置くのでありました。ところが或る闇の夜にその明かりを不精して燃やしませんでした――それとも風で消えたのでしたか。その娘は道に迷つて死んでしまひました。……」れは伊豆で名高い話であります』

『それでは、極東では、可哀想に、泳ぐのはヘロである。そして、斯んな事情の下に在つて、レアンダーに對する西洋の評價は何であつたであらうか』斯う自分は心で思つた。

【譯者註一 レアンダーはアピドスの靑年で、レスボスの塔に住んで居る戀人のヘロに會ひに、夜每ヘレスポントの海峽を渡つた。處が、或る嵐の夜、塔の明かりが消えて、道を失して溺死した。翌朝その死體を見たヘロは海に投じて死んだ。この物語はヴージルもオヸツドも語つて居るが、シルレルの物語唄(バラツド)とグルルパルツエルの戲曲とで最も能く近代の人に知られて居る。】

[やぶちゃん注:「羽島(はしま)娘」原文「the Hashima girl」。これは「波島」「端島」で、現在の東伊豆の網代の東方六キロメートルほどの相模湾に浮かぶ初島(はつしま:グーグル・マップ・データ)の古称である。同内容の伝承は各地に散在する。私も確かに電子化注した別の場所のものがあるはずなのだが、今は探し得なかった。見つけたら、追記する。

「ヘロ」「レアンダー」原文は「Hero」及び「Leander」。ギリシャ神話の「ヘーロー」と「レアンドロス」のこと。

「アピドス」(大谷註)は「Abydos」(アビュドス)で現在のトルコのチャナッカレの近く。

「ヘレスポントの海峽」「Hellespont」はチャナッカレが面するダーダネルス海峡の古名「ヘレスポントス」。

「レスボス」エーゲ海に浮かぶ、トルコ沿岸に位置するギリシア領のレスボス島。ここ(グーグル・マップ・データ)。チャナッカレ付近から海上を実測すると、百キロメートルを有に越えていておかしい。以上の神話はウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、『ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)のヨーロッパ側セストス』『の塔に住むアプロディーテーの女神官ヘーロー』と、『海峡の対岸アビュドス』『に住む青年レアンドロス』『の物語で』、『レアンドロスはヘーローに恋し、毎晩』、『彼女に会うためにヘレスポントスを泳いで渡った。ヘーローは塔の最上階でランプを灯し』、『恋人を導いた』。『ヘーローはレアンドロスの耳に快い言葉と、アプロディーテーは愛の女神として処女崇拝など軽蔑する筈だという主張に折れて、彼の愛を受け入れた』。『この日課は暖かい夏の間中』、『続いたが、ある冬の嵐の夜』、『レアンドロスは波に巻き込まれ、風がヘーローの明りを吹き消し、レアンドロスは方向を見失い』、『溺死し』てしまう。『ヘーローは彼の死体を目にして発狂し、恋人の後を追って塔から身を投げた』とあるから、八雲の記憶違いと思われる。なお、同ウィキの「文化的影響」の項には小泉八雲の本篇も挙げられてある。

「ヴージル」共和政ローマ末期の内乱期からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政確立期に生きた詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年?~紀元前一九年)のことであろう。英文ウィキの「Hero and Leander」の中に彼の名を見出せる。

「オヸツド」帝政ローマ最初期の詩人プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso 紀元前四三年~紀元後一七年又は一八年)のことであろう。ウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、彼の「名婦の書簡」の第十八及び第十九書簡でこの恋人たちのやり取りを描いているとある(但し、この書簡については偽作説もある)。

「シルレルの物語唄(バラツド)」ドイツの詩人ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)の本悲恋を扱ったバラード「Hero und Leander」(一八〇一年作)。

「グルルパルツエルの戲曲」オーストリアの劇詩人フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer 一七九一年~一八七二年)が一八三一年に創った、本悲恋を扱った悲劇「海の波と恋の波」 (Des Meeres und der Liebe Wellen)のこと。]

 

        

 

 いつも盆時代には海が荒れる。だからその翌朝浪が段々高まるのを見ても自分は驚きはしなかつた。一日中高まつた。午後の中頃までには波は非常なものとなつた。で、自分は防波壁の上にに坐つて、日暮までそれを見て居つた。

[やぶちゃん注:「盆時代」お盆の時期。]

 それは長い、ゆるやかな――巨大なそして恐ろしい――うねりであつた。時折、それが碎けるつい前に、聳え立つ大浪が、丁度、慄へる硝子の音のやうなヂリンといふ音を立ててその緣の長さ全體に罅を入れる。それから自分の足の下の壁を震はす程の轟(とどろき)を以て落ちて平らになる。……自分は、その軍隊を海の如くに――劍戟の波の上に波を以てし――萬雷に次ぐに萬雷を以てして――襲擊させた今は亡き露西亞の偉大な將軍のことを考へた。……まだ殆ど風といふ程の風は無かつた。が、何處かほかで天氣が荒れて居つたに相違無い。で、岸打つ大浪はずんずん高まりつつあつた。自分はその浪の運動に心を奪はれた。斯んな運動は筆舌の及ばぬ許りにどんなに複雜なものであり――しかも、永遠にどんなに新しいものであることか! その運動の五分間すら誰れが完全に記述することが出來よう。正(まさ)しく同じに碎ける二つの波を見た人間は未だ嘗て一人も無い。

【譯者註二 偉大な將軍といふはミカイル・スコペレフ(一八四四―一八八二)を指す。】

[やぶちゃん注:「ミカイル・スコペレフ」(大谷註)はロシア帝国の軍人で歩兵大将であったミハイル・ドミトリーエヴィチ・スコベレフ(Михаил Дмитриевич Скобелев 一八四三年~一八八二年)は「露土(ろと)戦争」やトルクメニスタンの占領などで活躍した。詳しくはウィキの「ミハイル・スコベレフ」を見られたい。

「嘗て」前の「かつて」と直後のそれが「甞」で字体が異なるのはママ。]

 そしてまた恐らくどんな人間でも、捲き返す海の大波を眼に見、その雷なす音を耳にして、眞面目な氣持ちにならぬ者は未だ甞つて無いであらう。動物――牛や馬――でも、海の前では默想的になることを自分は氣附いて居る。彼等はその洪大な物の姿と音とが此世の他の凡てを忘れしめたかのやうに、ぢつと立つて、一と所を見つめて、そして耳をすまして居るのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 此處の海岸に或る民間俚諺がある。それは『海には魂があり耳がある』といふのである。そしてその意味は斯う說明される。海を恐(こは)いと思ふ時、その恐いといふ念を口に出してはならぬ。恐いといふ事を言ふと、浪は突然高くなる。……さて此の想像は自分には徹頭徹尾自然のやうに思はれる。海へ入つて居るか、船で海へ出て居るかする時、海は生きては居ない――海は意識のある、そして我々に敵意のある力を有つては居ない――とは充分に信ずる事が自分には出來かねる、と自白せざるを得ぬ。理性は、その當座は、此の空想に對して何の役にも立たぬ。海といふものはただ水が集まつて成つて居るに過ぎぬと、斯う考へることが出來るやうになるには、その非常に大きな浪が、小さな漣が鈍く這うて居るとしか見えぬやうな、どつか高い處に自分は居なければならぬのである。

 然し此原始的な空想は晝の明かるい時よりか夜の暗闇の時の方がもつと强い位に起こり得るのである。燐光の夜、汐の光りが潛んだり閃いたりするのが、如何に生きて居るやうに見えることか! その冷たい炎の色合が微妙に移り變はるのが、如何に爬蟲的であるか! 斯んな夜の海にもぐりこんで、その靑黑い暗がりの中で兩眼を開いて、そして眼の運動に伴なふ明かりの無氣味な迸出を心留めて見て見よ。水を通して見る光つた點が一々みな、眼を開いたり閉ぢたり! するやうである。そんな瞬間には、何か奇怪な有情に包まれて居るやうな――そのどの部分もが同じやうに觸官を有ち親官を有ち意志を有つて居る、或る生きた物質のうちに、無限無窮の軟らかい冷たい『靈』のうちに、吊り下げられて居るやうな――氣が誰れしも實際するのである。

[やぶちゃん注:「迸出」「へいしゆつ(へいしゅつ)」或いは「はうしゆつ(ほうしゅつ)」と読み、「迸(ほとばし)り出ること」。]

 

       

 

 その晚自分は長い問床で眼を覺まして居て、その偉大な汐の雷と轟き碎ける音に耳を澄まして居た。その分明にきこえる衝擊の音よりも深く、またより近い浪の突擊の音よりも深く、はるか遠い大波のベエスの音がきこえるのであつた。それは自分の家がそれに震へる程の、絕え間無い底知れずの囁き聲で、――想像には、無限の騎兵隊の馬蹄の響のやうに、無數の砲車の集中する響のやうに、日の出からして世界程の幅の大軍隊が突進するやうに、きこえる音であつた。

 すると自分は、子供の折に、海の聲を聽いた時の漠たる恐怖の念について考へて居つた。――そして、後年、世界の種々な地方での種々な海岸で、磯打つ浪の音がいつもその子供らしい感情を復活したことを懷ひ出した。確に此の感情は、幾千萬世紀も自分よりか古いもので――祖先の無數の恐怖の遺傳された總額なのである。が、やがてのこと、海を恐がる念は、その聲が覺ます種々雜多な畏怖心のただ一要素を現はすに過ぎない、といふ確信が自分に起こつて來た。といふのは、この駿河海岸の荒汐を聽いて居ると、人間に知られて居る恐怖のありとあらゆる音を聞き分けることが出來たからである。すさまじい戰鬪の音――いつまでもの一齊射擊の音――際限無しの進擊の音のみならず、その上に、野獸の咆り吼ゆる聲、火のパチパチシユウシユウいふ音、地震のゴオゴオいふ音、破壞のドシンガチヤンといふ音、それからそんな音に抽んでて、號叫と抑壓されたわめきとのやうな連續した叫喚、卽ち水に溺れて死んだ者の聲だと云はれて居る聲とが、きき分けられるのであつた。憤怒と破滅と絕望との想像し得らるる限りのあらゆる反響を結合しての――怖ろしい極みの大擾亂なのである!

[やぶちゃん注:「咆り」「たけり」。]

 そして自分は斯う思つた。――海の聲が我々を眞面目ならしめるのは不思議であらうか。靈經驗の遙か偉大な海に動いて居る、いつからとも知れぬ恐怖のあらゆる波が海の種々な發言に相和して、之に應答せざるを得ぬのである。深淵相呼號すである。眼見得る『底無し』が、それよりも年長な實在たる眼見得べからざる『底無し』に――その流轉が我々の靈魂を造り成したその眼見得べからざる『底無し』に――呼ばはるのである。であるからして、死者の言葉が海の怒號であるといふ古昔からの信仰には、確に少からざる眞理があるのである。眞實、過去の死者の恐怖と苦痛とが、海の怒號が喚起するあの漠とした深い畏怖の念で、我々に物言うて居るのである。

【譯者註三 『詩篇』第四十二篇の七に『なんぢの大瀑のひゞきよりて淵々よびこたへ、なんぢの波なんぢの猛浪ことごとくわが上をこえゆけり』とあり。】

[やぶちゃん注:「靈經驗の遙か偉大な海」原文は「the vaster sea of soul-experience」。「霊魂の経験を孕んだ広大広漠たる海」か。この段落、訳が日本語としてこなれておらず、難解である。ここは私が最も腑に落ちると感ずる、所持する上田和夫氏(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)の本段落を引用して示す。

   《引用開始》

 そしてわたしはひとりつぶやいた――海の声が、われわれを厳粛にするのは、なんと不思議なことであろうか、と。海のさまざまな発言に合わせて、魂の経験という、より広大な海に動いている、太古からの恐怖のあらゆる波がこたえざるをえないのである。「淵々(ふちぶち)呼びこたえる」。目に見える淵は、その潮の流れでわれわれの霊魂をつくったより古い、目に見えぬ淵に叫びかけるのである。

   《引用終了》

「『詩篇』第四十二篇の七」言わずもがなであるが、「旧約聖書」のそれである。Wikisource」の「口語 聖書」(昭和三三(一九五五)年日本聖書協会年刊)の「詩篇」のそれを引用しておく。

   《引用開始》

あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。

   《引用終了》]

 然し海の聲よりももつと深く、しかももつと妙な具合に、我々の心を動かす音が――時々我々を眞面目にならせる、しかも頗る眞面目にならせる者が――ある。音樂の音である。

 大音樂は、我々心裡の過去の神祕を想像も及ばぬ許り深く攪亂する、心靈的一暴風である。大音樂は――その異つた聚器と聲との各〻が、各〻異つた幾萬億の生誕前の記憶に別々に訴へる所の――一種絕大な魔法である、とも或は言へよう。靑春と哀憐とのあらゆる精靈を呼び起こす音色がある。死んだ熱情のあらゆる幻の苦痛を喚起する音色がある。莊嚴と威力と光榮との死んで居る感情總てを――滅(めつ)してしまつて居るあらゆる大歡喜を――忘られて居るあらゆる慈悲寬容を――復活する音色があるのである。まことや音樂の津からは、自分の生命は百年に足らぬ前に始まつたのだ! と愚かにも夢想して居る人間には、不可解に思へることであらう。然しながら、『我』の本體は太陽よりも古いものであると知つて居る人にはどんな人にも、この神祕は判明するのである。その人は、音樂は一種の魔法だといふことを知るのである。その人は、旋律のありとあらゆる漣に對して、諧調(ハアモニイ)のありとあらゆる巨浪に對して、千古の快樂と苦痛との無限の或る渦卷が、『生死の大海』から、その心裡で應答するのであると悟るのである。

[やぶちゃん注:「大音樂」原文「Great music」。偉大なる音楽。]

 快衆と苦痛、此二者は大音樂には常に混合して居る。だからこそ音樂は海洋の聲、或は他のどんな聲もが爲し得ないほど、深く深く我々に感動を與へ得るのである。が然し、音樂のより大なる發言に在つては、低音調を成して居るものは常にこの悲哀である――『靈の海』の波の囁き聲である……。音樂といふ念が人間なるものの頭腦に開展し來り得る迄に經驗されたに相違ない所の悲喜の總額が、如何に巨大なものであるか、思ふも不思議な位である!

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 何處かで斯ういふ事が言はれて居る。人生は神々の音樂である、――人生の啜り泣きと笑ひ聲、人生の歌と叫びと祈禱、人生の喜悅と絕望との絕叫、此等は不死不滅の者の耳にはいつも完全な諧調となつて立ち昇る、と。……だからして紳々は苦痛の音色を鎭めようと欲し給はなかつたのである。鎭めれば音樂を打ち壞す事になるであらう! 苦悶の音色が籠もつて居ない音の組み合はせは、神聖な耳には聞くに堪へぬ不協音となる事であらう。

 そして或る點に於ては我々自らも神々の如くである。無數の過去生涯の苦痛と喜悅とが總括されて居ればこそ、遺傳的記憶によつて、音樂の消魂的快樂が感ぜられるからである。死んだ幾代(だい)のあらゆる嬉さ悲さが、諧調と旋律との無數の形式を採つて我々の心へ宿りに歸つて來るのである。正(まさ)しくそれと同樣に、――我々が太陽を眺め得なくなる幾萬年の後に――我々自らの生涯の嬉さ悲さが、より微妙な音樂と共に、我々ならぬ他の人々の心情へ移りはいつて、其處で或る不可思議な刹那の間、逸樂的苦痛の或る深いそして絕妙な戰慄を起こさせることであらう。

[やぶちゃん注:底本では、既に分割配置した大谷氏の『譯者註』が五字下げ一でややポイント落ちで並び、最後の『譯者註三』の末尾に下一字空けで『(大谷正信)』とあって、その次の行に下一字空けで、『At Yaidzu.In Ghostly Japan.)』と記されてある。参考までに、ここでは、まず、敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収)の最終段落を掲げる。

   《引用開始》

 だが、ある意味からいうと、人間自身も、そういう神によく似たところがある。つまり、記憶という器官によって、音楽の法悦感を人間に与えるものは、じつは、劫数(こつしゅ)無尽の過去世における、人間の悲・喜・哀・楽の総和だからである。消え滅びた世々の、あらゆる悲・喜・哀・楽が、語調と韻律の無尽無量の形のうちに、われわれの心に還ってくるのである。それと同じように、われわれが太陽を仰げなくなる百万年後には、こんにち生きているわれわれの悲・喜・哀・楽は、また別の生命の中に豊かな調べをそそぎ入れて、未来世におけるある神秘な瞬間に、なにかしら心たのしい悲哀の深い微妙な感動のおののきを起させることであろう。

   《引用終了》

とある。「劫数」は現行では「こうじゅ」「こうしゅ」「ごうしゅ」「ごうじゅ」と読むの一般的で、インド哲学や仏教などで、極めて長い宇宙論的な時間の単位である「劫(こう)」を一単位として数えられる途方もない時空間の経過を指す語である。次に、先に示した上田和夫氏のそれをも示す。

   《引用開始》

 そして、ある意味では、われわれ自身も神のような存在である――生来の記憶をとおして、音楽のもつ恍惚(こうこつ)をわれわれに感じさせてくれるのは、過去の無数の生活の苦痛と歓喜とが集約されているからである。いまは滅んだ幾世代ものあらゆる喜びと悲しみが、数知れぬ諧音(ハーモニー)と旋律(メロディー)となって、われわれのもとへ立ち帰ってはなれようとしない。それにしても――われわれが陽を見なくなってから百万年後に――われわれ自身の生の喜びと悲しみとが、さらに豊かな音楽にともなって他の人びとの心のうちに移り――そこで、ある神秘な一瞬、官能的な苦痛をともなう深い強烈な感動をおこさずにはおかないであろう。

   《引用終了》

 以前、とある翻訳家が翻訳には賞味期限があると言っているのを読んだことがある。それは確かに、特に近現代の日本語の急速な変化・変質(私は敢えて「進化」とは思わない。寧ろ、「退化」或いは「半崩壊」とさえ表現したい人間である)に伴って言える一つの見方ではあろうと思う。平井・上田両氏の訳の方が、大谷氏のものよりも、今の日本人には耳に優しく、一聴、判り易いようには見えるとは言える。但し、判り易いことと、それが原作者の込めた達意・言志の訳文であることとは、必ずしも一致しない、とも言っておきたい。なお、「焼津市」公式サイト内の「焼津小泉八雲記念館」の「焼津に関連する小泉八雲作品」で、静岡大学名誉教授村松眞一氏の本篇の全新訳(PDF・縦書)が読めるので、ご紹介しておく。]

 

2019/07/11

「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(99) 追錄」に追記(これには誰かの手が加えられている)

これは実は小泉八雲の文章の最後を改竄したものであることが判った(上記記事で追記挿入)。真正の科学的「預言者」の謂いを改竄したそれは、まさしく彼が本書で言った産業としての出版社の、遣り口であったのだと思うと……少し淋しい気がした……小泉八雲も微苦笑しているに違いない……

2019/07/09

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(100) あとがき(戸川明三) / 小泉八雲「神國日本」(戸川明三訳)附やぶちゃん注~完遂

 

   あ と が き

 

一 神國日本は一九〇四年ニユウ・ヨオクとロンドンのマクミラン會社から同時に出版された物である。先生は日本の事に就いて米國から講演の依賴受けて居られたが、それが果たされなかつた爲めに、その結果がこの一書となつてあらはれたものだといふ。

一 先生はこの書の上梓され、そのお手元に到着するのを非常に待ち焦がれて居られたさうであるが、それは先生御臨終の間に合はず、先生は一九〇四年の九月におかくれになり、この書はその十月に到着したのださうで、結局先生は、この御高著の版になつたのを見ずにおかくれになつたのださうである。

一 日本の本文の英譯が終始引用されて居るが、それに就いては出來得る限り、原文を探して、それを挿入して置いた。併し篤胤、眞淵等の言葉が、先生の所論の中に引用され、屢〻出で來るが、それ等の出處は私如きものには、殆ど見當がつかなかつたので、そのまま日本文に譯しかへして置いた。今になつて見れば、多少の見當はつけられ得るのであるが、何分出版を急がれたので、そんな事も調べる暇のなかつた事を遺憾とする。

一 固有名詞のロオマ字綴りを日本の文字にかへるのも困難であつたが、それは幸にそれぞれ專門の方の助けを藉りて、果たし得たと思ふ。

一 先生のお說の内、藤原氏といふ姓の始まりを、桓武天皇に歸したのは、誤りであると思ふが、それはそのままに譯して置いた。この書の内にある先生のお考へ違ひと考へられる個處と云へば、この一事だけと思ふ。併しこれとても私の讀み違ひかも知れない。大方の御示教を願つて置く。

一 家康遺訓が本書の内で度々引用されて居る。これは專門家から云へば、家康の殘したものではなく、謂はば僞作であるとか。併しこの『神國日本』は決して家康論ではないのであるから、小泉先生の所論はそれに依つて少しても變はる事はないと思ふ。

一 譯語譯字に就いては、私の淺學と注意が足りなかつたのとで、不適當なものが多くあると思ふ。そればかりではない全體の飜譯として甚だ麁末なものになり、先生の立派な殆ど申し分のないお考へを、少からずぶち壞したといふ恐れがある。殊にこれまで上梓された全集の内に收められた他の諸先生の譯と比べて、これは甚だしく拙劣なものである。執筆を急がれたからと云ふ口實もないではないが、畢竟これは駿馬の間に駑馬が一匹加はつた爲めで、責はこの駑馬を加へて下さつた方にもあらうと、責任轉嫁のやうな申し譯を言つて置く。

一 なほこの飜譯に就いては多數の方に多大なお世話を被つて居る。則ち日本上代の事、たとへば神々の名などに就いては、高橋龍雄氏に、佛教の事に就いては、柴田一能氏に、德川時代の事に就いては幸田成友氏に、それぞれ示教を仰いで居る。殊に幸田氏は、非常な好意をもつて、助力を與へて下さつた。固有名詞の解釋例へば『王フォイン』――松浦公法印――と云つたやうな事から、『組帳』――私にはロオマ字で  Kumicho とあつた時、何の事か解らなかつた――家康遺訓の原文、四十七士の祭文、山口大道寺允許の文の挿入の如きには、一々幸田氏の好意に依つたものである。ここに深く感謝の意を表して置く。

一 更に相曾博氏に飜譯に就いて、多大な助力仰いだ。殊に遺訓何條に云々と書いてある處に、一々その原文を探して挿入して下さつたのは同君で、これ又厚く謝意を表する次第である。 

   昭 和 二 年 五 月
              戶 川 明 三

 

[やぶちゃん注:「神國日本は一九〇四年ニユウ・ヨオクとロンドンのマクミラン會社から同時に出版された」一九〇四年九月刊行の本書「Japan: An Attempt at Interpretation」初版の見返しの下部に(リンク先は「INTERNET ARCHIVE」の当該書の当該ページ画像) 、

       New York

THE  MACMILLAN  COMPANY

 LONDON:MACMILLAN  &  CO. LTD.

        1904

とある。

「先生は日本の事に就いて米國から講演の依賴受けて居られたが、それが果たされなかつた爲めに、その結果がこの一書となつてあらはれたものだといふ」平井呈一氏は、本書の訳(一九七六年恒文社刊)「日本――一つの試論」の解説「八雲と日本(その二)」で(以下の戸川氏の言葉を補うために少し長く引用させて戴く)、

   《引用開始》

 この「日本――一つの試論」は、ご承知のように、八雲の日本研究の卒業論文ともいわれている力業でありまして、まさに従来かれが小論文や随想などに書いてきたものの集大成とも申すべき、いわば総決算的な大著であります。一九〇三年(明治三十六年)の一月に、八雲はとつぜん、なんの前ぶれもなく、それまで勤めていた帝大講師の職を解雇されました。[やぶちゃん注:中略。]八雲は大学当局の非礼な措置に憤り、世界の批判もまた、八雲の立場に同情して、日本政府の忘恩的な処遇に対して痛烈な非難の矢を向けました。在アメリカの友人たちも、八雲の身の安定について心配をし、糾合尽力した結果、ウェットモア夫人の斡旋が効を奏して、アメリカ、ニューヨーク州のコーネル大学から講師招聘の依頼がありました。八雲もこれにはすくなからず心が動いたのでありましたが、あいにく、当時健康上にちょっと不安な点があったりなどしたことから、やむなく渡米は一時断念して、そのかわりに、あたえられた講演の題目をさらに敷衍して、日本に関するまとまったものを一冊書き下ろすことに考えをきめ、それから約一年有半、鋭意筆をすすめて出来上がったのが、この「日本――一つの試論」であります。八雲自身、「この書物は私を殺します。‥‥こんなに早く、こんなに大きな書物を書くことは容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」(八雲夫人節の「思い出の記」)と告白しているように、文字どおりの粉心接骨の労作でありました。意気ごんで書いたものだけに、その推敲もさることながら[やぶちゃん注:中略。]、さすがに晩年の力作にふさわしく、文章もまた雄滞端正、かれの師事したハーバート・スペンサー、遠くはかれの私淑したド・キンシーの格調高い勁直な文体をおもわせるものがあります。[やぶちゃん注:中略。]

 八雲が告白したとおり、この書物はかれを殺しました。八雲はこの本の校正[やぶちゃん注:中略。]を終ってからまもなく、出来あがった自分の本を見ないうちに、一九〇四年(明治三十七年)九月二十六日に、東京大久保の自邸で、心臓発作のためについに他界したのでありました。行年五十四歳であります。

   《引用終了》

と述べておられる。少しく以上の平井氏の文章に注を附す。

「一九〇三年(明治三十六年)の一月に、八雲はとつぜん、なんの前ぶれもなく、それまで勤めていた帝大講師の職を解雇されました」平井呈一氏の「対訳 小泉八雲作品集抄」(一九八一年恒文社刊)の小泉凡氏(八雲の曾孫)監修の年譜によれば、同年、突如、一月十五日『付で帝国大学講師の解雇通知を受ける。学生から留任運動が起こり、大学側も授業時間や俸給を半減した再雇用条件を提示して留任を請うが拒否し』、三月三十一日『付で退職する。アメリカの二、三の大学から講演依頼を受けるが中止となり、執筆に専念する』とある(その後任は、かの夏目漱石であったが、生徒の評判は小泉八雲に反してさんざんなものであったことは頓に知られる)。

「ウェットモア夫人」とはアメリカのジャーナリストであったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)のこと。世界一周旅行のレースで世界から注目を集め、八雲の没後に英語による伝記を執筆したことで知られる。八雲は日本に来る以前、『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』の記者であった時期があるが、彼女はその時の同僚であった。詳しくは私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について (全)』の注を参照されたい。

「コーネル大学から講師招聘の依頼があり」「八雲もこれにはすくなからず心が動いた」しかし、「あいにく、当時健康上にちょっと不安な点があったりなどしたことから、やむなく渡米は一時断念し」たという部分、先の小泉凡氏の年譜記載では『アメリカの二、三の大学から講演依頼を受け』たとある。さてもウィキの「小泉八雲」によれば、彼は『長男』(小泉一雄。彼の孫が小泉凡氏)『にはアメリカ合衆国で教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え』たともある。平井氏のアメリカの大学からの招聘に『すくなからず心が動いた』という辺りから、或いはこの時、ちょっと淋しい気にもなるのであるが、小泉八雲は最高学府東京帝国大学の仕打ちに失望し(次注引用参照)、ただ短期に渡米して講演をして戻ってくるのではなく、長期に日本を離れてアメリカの大学で教えるということを考えていたようにも読めるのであるが、如何であろう?

『八雲自身、「この書物は私を殺します。‥‥こんなに早く、こんなに大きな書物を書くことは容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」(八雲夫人節の「思い出の記」)と告白している』所持する一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」から引用する。

   *

『日本』では大層骨を折りました。「此書物は私を殺します」と申しました。「こんなに早く、こんな大きな書物を書く事は容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけの事をするのは、自分ながら恐ろしい事です」などと申しました。これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止められたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもない事でも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。大学には永くいたいと云う考は勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていては書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止めさられたということでなく、止めさせられる時の仕打ちがひどいというのでございました。ただ一片の通知だけで解約をしたのがひどいと申すのでございました。

 原稿がすっかりでき上りますと大喜びで固く包みまして(固く包む事が自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で「宜しい」と返事をしてから二三日の後亡くなりました。この書物の出版は余程待ちかねて、死ぬ少し前に、「今あの『日本』の活字を組む音がカチカチと聞えます」といって、出来上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。

   *

「先生は一九〇四年の九月におかくれになり」小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日、満五十四歳(彼は一八五〇年六月二十七日生まれ)で狭心症の発作により逝去した。同じくセツさんの「思い出の記」から引用する。

  *

 三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから「あなたお悪いのですか」と尋ねますと「私、新しい病気を得ました」と申しました。「新しい病、どんなですか」と尋ねますと「心の病です」と申しました。私は「余りに心痛めましたからでしょう。安らかにしていて下さい」と慰めまして、すぐに、かねてかかっていました木沢さんのところまで、二人曳の車で迎いにやりました。ヘルンは常に自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行っているようにと申しました。しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけているように勧めました。ヘルンはただ「私の思うようにさせて下さい」と申しまして、すぐに書き終りました。「これは梅(謙次郎博士)さんにあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらいのです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです」

 私は「そのような哀れな話して下さるな、そのようなこと決してないです」と申しますと、ヘルンは「これは冗談でないです。心からの話。真面目の事です」と力をこめて、申しまして、それから「仕方がない」と安心したように申しまして、静かにしていました。

 ところが数分たちまして痛みが消えました。「私行水をして見たい」と申しました。冷水でとのことで湯殿に参りまして水行水を致しました。

 痛みはすっかりよくなりまして「奇妙です、私今十分よきです」と申しまして「ママさん、病、私から行きました。ウィスキー少し如何ですか」と申しますから、私は心臓病にウィスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから「少し心配です。しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう」と申しまして、与えました。コップに口をつけまして「私もう死にません」といって、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。それから「少し休みましょう」と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。

 そのうちに医師が参られました。ヘルンは「私どうしよう」などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと「御免なさい、病、行ってしまいました」といって笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように冗談などいって、いろいろ話をしていました。

 ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂くことや薬を服用することは、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にということを少しいいおくれますと、「あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに」などと申すのでございました。

 ヘルンは書いている時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考えごとをしているのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になっている事はできない人でした。

 亡くなります二三日前のことでありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きをいたしました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、ちょっと何でもないようなことでも、よく皆が興に入りました。「今日籔(やぶ)に小さい筍が一つ頭をもたげました。あれ御覧なさい、黄な蝶が飛んでいます。一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上っていました。夕焼けがしています、段々色が美しく変って行きます」こんな些細な事柄を私のうちでは大事件のように取り騒ぎまして一々ヘルンに申します。それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいようですが、大切な楽しみでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蟬、筍、夕焼けなどはパパの一番のお友達でした。

 日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように「有難う」と喜びまして、縁の端近くに出かけまして「ハロー」と申しまして、花を眺めました。「春のように暖いから、桜思いました、あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし‥‥」といって少し考えていましたが「可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋みましょう」と申しました。花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞いを申しに咲いたのだと思われます。

   *

文中の『梅(謙次郎博士)』は法律学者梅謙次郎(万延元(一八六〇)年~明治四三(一九一〇)年)。松江藩藩医の子として生まれ、東京外国語学校を経、司法省法学校を首席で卒業し、翌明治一八(一八八五)年、フランスのリヨン大学に留学、四年後、同大学より、法学博士の学位を得た。翌明治二三(一八九〇)年に帰国すると、直ちに帝国大学法科大学教授に任ぜられ、和仏法律学校(後の法政大学)学監を兼ねた。ウィキの「梅謙次郎」によれば、彼の妻兼子が小泉八雲の妻セツの『縁戚であったことから、東京帝国大学が『八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌』年に『八雲が死去した際には葬儀委員長も務め』たとある人物である。また、『焼津の乙吉』というのは、八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした)で、定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉のこと。「焼津市」公式サイト内の「小泉八雲記念館」のこちらのページに詳しい。そこには』『八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家の魚商人、山口乙吉との出会いがあったことも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は“神様のような人”と語っていました』。『乙吉は八雲を”先生様”と呼び、八雲は乙吉を “乙吉サーマ”と心から親しく呼んでいました』とある。さればこそ、小泉八雲は、その大事な娘を大事な女中として雇い入れていたのであろう。本書の中に書かれている古き良き日本の、主人と奉公人の、心からの誠実な結びつきとして、である。

 今一つ、「思い出の記」の終りに近い次の部分を引用してこの注を終える(そこに出る小泉八雲の絶筆となった手紙の相手「藤崎さん」とは、小豆沢八三郎で、後に養子に行って藤崎姓となった最初期の島根県尋常中学校英語教師時代の教え子である。陸軍士官学校に入り、職業軍人となって(この時、藤崎家の養子となった)、明治三七(一九〇四)年二月、日露戦争が始まって、藤崎は満州に出征していたのであった。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十八)』を参照されたい)。

   *

 亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして、煙草をふかしています。「お早うございます」と挨拶を致しましたが、何か考えているようです。それから「昨夜大層珍らしい夢を見ました」と話しました。私共は、いつもお互に夢話を致しました。「どんな夢でしたか」と尋ねますと「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」などと申しているのです。「西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした」と云って、独りで面白がっていました。

 三人の子供達は、床につきます前に、必ず「パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム」と申します。パパは「ザ、セーム、トウ、ユー」又は日本語で「よき夢見ましょう」と申すのが例でした。

 この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして「グッド、モーニング」と申しますと、パパは「プレザント、ドリーム」と答えましたので、一雄もつい「ザ、セーム、トウ、ユー」と申したそうです。

 この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩していまして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは『朝日』と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは「美しい景色、私このようなところに生きる、好みます」と心を留めていました。

 掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。

 ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は「あの音を何と聞きますか」と、ヘルンに尋ねますと「あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、すぐに死なねばならぬという事を。気の毒ですね、可哀相な虫」と淋しそうに申しまして「この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう」と私共は約束致しました。

 桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かヘルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。

 午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談などいいながら大笑いなど致していました。「パパ、グッドパパ」「スウイト・チキン」と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で「マアさん、先日の病気また帰りました」と申しました。私は一緒に参りました。しばらくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑いを含んでおりました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今も思われます。

   *

「藤原氏といふ姓の始まりを、桓武天皇に歸した」「(49) 武權の勃興(Ⅰ)」の部分。藤原氏は藤原鎌足(推古天皇二二(六一四)年~天智天皇八(六六九)年)を祖とし、彼はもと中臣氏の出身で、初め、中臣鎌子(なかとみのかまこ)、の後に中臣鎌足と改名し、臨終に際し、「大化の改新」の功により「大織冠」とともに「藤原」姓を天智天皇より賜ったことに始まり、事実上は鎌足の子不比等が「藤原」を名乗り、文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが「藤原」姓を名乗ることができ、太政官職に就けるとされたことをその濫觴とする。因みに、桓武天皇の在位は天応元(七八一)年から延暦二五(八〇六)年であり、これは大いなる勘違いと言わざるを得ない。

「高橋龍雄」明治元(一八六八)年生まれで昭和二一(一九四六)年没の国語学者で慶応大学教授の高橋龍雄か。

「柴田一能」(かずより/いちのう 明治六(一八七三)年~昭和二六(一九五一)年)は日蓮宗の僧で、日蓮宗大学(立正大学の前身)教頭・教授及び慶応義塾教授・日蓮宗宗務総監。恩師福沢諭吉の薦めで、アメリカのエール大学に留学した。サイト「日蓮宗新聞社」内のこちらに詳しい。

「幸田成友」(しげとも 明治六(一八七三)年~昭和二九(一九五四)年)は日本史学者。東京生まれで、作家幸田露伴の弟。東京帝国大学文科大学史学科卒。東京商科大学(現在の一橋大学)教授を経て、昭和一五(一九四〇)年、慶応大学教授。江戸時代の経済史・都市文化史及び日本キリスト教史などを実証的に研究した。

「『王フォイン』――松浦公法印――」「(37) 死者の支配(Ⅴ)」を参照。

「組帳」初出箇所は「(15) 組合の祭祀(Ⅱ)」

「四十七士の祭文」「(55) 忠義の宗教(Ⅲ)」を参照。

「山口大道寺允許の文」「允許」は「いんきよ(いんきょ)」と読み、これはイエズス会士に与えられた、日本への教会創建の許可状である「大道寺裁許状」の別称。「(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)」を見られたい。

「相曾博」「あいそひろし」と読むものと思われる。生没年未詳。戸川秋骨との共訳で、かのH・G・ウェルズの「文化の聖書」(大正一二(一九二三)年アルス刊)を認めるばかりで(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、事蹟不祥。 

 以下、奥附を底本とした国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングと補正を行った画像で示す。]

Okuduke

 さても、本電子化注は二〇一六年一月十九日に始めて、実に足かけ凡そ三年半もかかってしまった(途中で他の電子化に入れ込んで二回ほど半年近いブランクを挟んでしまった)。途中、注を附けねばならないものがどんどん増えてゆき、実は完成出来るかどうか内心危ぶんだ時期もあった(二度のブランクはそのナーバスによるものであった。小泉八雲自身が「殺される」と言ったことが途中から妙に気にかかりだしたこともここで告白しておこう)が、何とか最後まで辿り着いた。

 なお、今頃になって、本書の無料の全一括英語原文の美麗な活字化されたPDF(© 2002 Blackmask Online)を見つけた(「Appendix」を含み、目次にもそれを示してある)。英文で読まれたい方は(私は本電子化で初めは英文原文も附していたが、訳文のタイプと注だけであっぷあっぷとなってしまい、途中で原文添付を諦めた)、このダウンロードをお薦めする。

 最後に。ツイッターでは、島根県松江市で年刊会誌『へるん』を刊行しておられる「八雲会 Hearn Society」様が、毎回、本電子化をリツイートして下さった。心から御礼申し上げる。

2019/07/08

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(99)  追錄(全)

 

[やぶちゃん注:【2019年7月9日:本注及び本文差し込みの私の注の一部を改稿した。】以下、底本にある「追錄」(Appendix)という後書きは、私は、今回、初めて読む(読みながら電子化した)。私が若き日より馴れ親しんだ恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏訳にはこれは附帯していないからである。当初、私はこれが本作の小泉八雲自身による「追記」であると疑わなかった。しかし、だったら何故、平井氏は外したのかという疑問とともに、どうも何か、違和感があった。昨日、これを公開してより、今朝、メールを開くと、私の諸電子化注の疑問や誤りにいつも御指摘を戴いているT氏よりメールがあった。氏は、一九〇四年九月刊行の本書「Japan: An Attempt at Interpretation」初版の本文最後(「INTERNET ARCHIVE」の当該書の当該ページ画像)の右(「神國」とのみ印刷)ページをクリックすると「Appendix」が存在しないこと、次に翌一九〇五年十月の再版には「Appendix」がある(「INTERNET ARCHIVE」の当該書の「Appendix」開始ページ。左をクリックして行くと、「Appendix」標題ページと「神國」と本文最終ページが現れる。因みに、私は誤りが少ないと判断して原典確認として一九一〇年版(再版の九刷か)を使用してきた)こと、ところが、不思議なことに当該再版冒頭の「Contents」(目次)にはこの「Appendix」は存在しないことをお伝え下さった。そして、『ところで、この「Appendix」は小泉八雲の文でしょうか?』と疑義を呈され、『八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日で一九〇五年は没後です』。『且つ「Appendix」の最後の段落は「日本海海戦」(明治三八(一九〇五)年五月二十七日~五月二十八日)が記載されており、「少なくとも」最後の段落の相当部分は「小泉八雲」が書いたものではありません』とご指摘されてあった。そうだ、迂闊にも気づかなかった違和感はここにあったと私はやっと腑に落ちたのであった。それにしても、この文章はおよそ戸川秋骨氏の訳の文体を読む限りに於いては、小泉八雲が書いたようしか読めず、戸川氏もそう認識されて訳しておられるものと思う。調べてみたが、どういう経緯で、誰がこの「追記」を書き、挿入したものかを調べ得なかった。識者の御教授をに乞うものである。
【2019年7月11日:追記】T氏より新たなメールが、本日、齎された。結論から言うと、この文章は、やはり小泉八雲自身が書いたものであった。但し、最後の部分は、恐らく、出版元であるマクミラン社の編集者がその後の日露戦争の展開を踏まえて、書き変えをしたものであるようだ。T氏の考証経過を押さえて戴くために、同氏のメールを転写する。

   《引用開始》

「追錄」(appendix)の原稿が「富山大学」の「ヘルン文庫」で公開されており、ここには「Japan: An Attempt at Interpretation」の原稿の全てがあります。
「Appendix」の原稿を添付します。[やぶちゃん注:上記の「ヘルン文庫」からリンクで飛んだ「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらの「Appendix.pdf」でダウン・ロード出来る。]

「appendix」の原稿と刊行版とを比較して見ると、僅かですが、違いがあります。

最後の段落の
「唯だ一隻の船も失はずに强大な露國艦隊を潰滅せしめ」
の部分は
『「露國戦艦」の無力化』
です。

(海戦名は書かれていませんが、旅順港閉塞作戦(一九〇四年五月二日迄)を指しているのではないかと思います。八月の黄海海戦は「?」です。)

「鴨綠江上で三萬の露軍を潰走せしめた。此の間の日本軍の勝利……」(変更なし)
これは一九〇四年四月三十日から五月一日の「日露戦争」最初の陸戦(Battle of the Yalu River)を指しています。

最後の
「……。次の時代が來たら、日本は、その保守主義の多くを棄てても危險はなからう。併し、現在一時だけは、日本は、保守主義を救濟の力を賴まなければならないのである。」
は原稿と異なります。

原稿は

〉〉 Time will prove whether

〉〉  the new sehool of Japanese
〉〉  statesmen have been wiser
〉〉  than Herbert Spencer.

(刊行版よりも、日本にポジティブな感じです)

私の推測では、原稿を五月末頃に書き上げ、出版社の送付したもの思われます。

「Appendix 」が最初に現れたのは一九〇五年十月です。
版元の編修者が「日本海海戦」(Battle of 
Tsushima)を連想させる「强大な露國艦隊を潰滅」に変更したと思われます。
「相当部分」ではなく、時期に合わせた僅かの修正と云う事のようです。

   《引用終了》   

なるほど! そうだったのだ! T氏にまたしても教えられた。深く感謝申し上げます!!!]

 

  追 錄

 

 五年程以前の事、當時東京に居住して居たアメリカ人の教授が、私に話した事がある。それは、日本が獨立を維持せんとならば、如何なる政策に據るべきかを、日本の某政治家に教へたハアバアト・スペンサアの手簡が、此の哲學者の死後公表されるであらうといふのであつた。がその後何等音沙汰も聞かなかつた。併し『第一原理』(一七八節)にある日本の社會の崩壞に關する說を想起して、氏の忠言なるものは極保守的な種類のものであらうと、私はかなり確信して居た。處が實際は私の想像にも增して激しい保守的のものであつた。

 スペンサアは一九〇三年十二月八日の朝死んだ(其の時本書は丁度出版の準備中であつた)、そして。一般の人々が既によく知つて居る事情の下に、金子堅太郞に宛てた此の手紙は一九〇四年一月十八日の『倫敦タイムス』に揭載された。

[やぶちゃん注:「金子堅太郎」(嘉永六(一八五三)年~昭和一七(一九四二)年)は政治家。元福岡藩士。司法大臣・農商務大臣・枢密顧問官を歴任し、最終栄典は従一位大勲位伯爵。第一代内閣総理大臣伊藤博文の大臣秘書官として伊東巳代治・井上毅らとともに「大日本帝国憲法」の起草に参画し、皇室典範などの諸法典をも整備した。日本法律学校(現在の日本大学)初代校長。「男」は男爵の意。この当時は未だ男爵であった(憲法起草による受爵)。彼は、かの明治四(一八七一)年の「岩倉使節団」に同行した藩主黒田長知の随行員となり、そのまま團琢磨とともにアメリカに留学し、最終的にハーヴァード大学法学部(ロー・スクール)に入学したが、その折り、まさにこのイギリス人社会学者ハーバード・スペンサーの下で学んでいた。

「一般の人々が既によく知つて居る事情」一九〇二年の「日英同盟」締結、及び、一九〇四年一月の「日露戦争」開戦直前の経緯・事態を指す(T氏より)。]

 拜啓 小生の【註】書簡二通の飜譯を新首相伊藤伯に御送附のお心組みの由拜承欣懷至極に有之、喜んで御承諾仕候。 

    註 此の二通はまだ公表されて居ない。 

 なほ後の貴問へ對しては御返事左の如くに御座候、先づ一般的に申し上ぐれば、日本の採るべき政策は、歐米諸國を出來得る限り遠ざけ置く事と存じ候 貴國に比して强大なる諸國に面しては、貴國は常に危險の位置に有之候故、外國に對しては能う[やぶちゃん注:「あたう」。]限り足掛りを與へざる樣御注意專一と愚考仕候。

 貴國が許可有之で利得を招き得る交通の種類は唯一種のみと考へ候、そは物品の交換に對して――と申すも精神的及び肉體的の產物の輸出入の意に候が、――缺く可からざる交通のみに有之べく候。異人種の人民、特に貴國よりも强大なる諸國の人民には、上記の目的の遂行に絕體的必要なるよえい以上の特權は許可相成る間敷き事に御座候。貴國は歐米諸國との條約の改正によりて、『外國の資本に對して全國を開放する』事を提案致され居る樣相見え候が、小生はこれを貴國の安危に關する者として寒心に堪へず候。此の結果が恐らく如阿なる者を齎すかは、印度の歷史を見て明らかなるべく候。强大なる民族の一をして、一度立脚地を得せしめば、歲月を經る間には必らず侵略的政策を生じて、其の結果は日本人との衝突を來たす事と相成るべく候、然る上はこれ等の攻擊は日本人の加へたる攻擊と詐稱せられ、その場合に應じて必らず復仇を受くべく候、領土の一部は占領せられて外國植民地として割讓の要求を受くべく、その結果終に日本全土の服從と相成るべく候。貴國は如何なる場合に於ても此の運命を避くる事は甚だ困雖と存候へ共、小生が指摘せる事項以外に、外人に對して何等かの特權を許可有之事と相成候はば、此の運命は容易に來る事と信じ申候。

 第一の貴問に對するお返事として、かく一般的に指摘仕候愚考を御サ採用相成候節は、外國人の土地所有を禁止相成るべきのみならず、彼等に土地の貸與をも拒絕相成るべく、一年契約の借地としてのみ居住する事を御許可相成るべくと申添へ度く候。

 第二の貴問に對しては、政府所有或は政府經營の鑛山の經營を外人に嚴禁あり度き事を申述べ度く候。此の場合に於ては、鑛山經營に從事したる歐米人と政府との間に諍論の論據となるものが明らかに生ずる虞れ有之べきかと存候、此の爭の結果としては、歐米の經營者は其の權利を貫徹せしめんが爲め、勢ひ英米政府或は他の强國の援助を請ふに至るべく候、凡そ文明國民間の常習として海外在留の自國の代理人或は賣捌人より來る報告はすべてこれを信用する事に有之候へば

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

 第三に、小生が申し述べたる政策を遂行せらる〻に常つては、貴國は洽岸貿易を常に自國の手に收めて、外人のこれに從事するを御禁止有之べく候。此の沿岸貿易は、承認すべき唯一のものとして、小生が指示仕候要件――商品の輸出入に便宜を與ふる要件――中に含まれざるは明らかに御座候。他國より日本に輸入したる商品の分配は、日本人の手に委ね、外人には禁止して然るべきかと被存候、こは、此場合に行はる〻各種の取引は、また多くの爭の種と相成引いては侵略の理由とも相成るべきが故に御座候。

 貴下が、『我が學者政治家中に現今甚だ沸騰せる』一一と申し越され、また、『最も困難なる問題の一』と申し居らる〻内外人間の雜婚に關する最後の御質問に對しては、合理的なる御返事を致す事とすれば、何等難かしき事なしと申し上げて差支なきやう小生には披存候。そは斷然御禁止あるべきものに有之候。これは根本に於て社會哲學の問題には無之、根本は生物學の問題に有之候。混淆せる異種類のものが、或る僅少の程度以上に分岐する時は、年月を經る間には終に必らず惡結果を來たすと[やぶちゃん注:底本では傍点「ヽ」であるが、実は「必」には附かず、最後の「と」に附いている。これはルビの誤植字と断じ、特異的に、かくした。]いふ例證は、人間の異種族結婚及び動物の雜種繁殖が豐富に提供致居候。小生自身も過去多年に亙りて此の事實に關する證據を不斷に注視致し居候が、小生のこの確信は多數の原因よう得たる多數の事實に基づくものに御座候。小生は此の確信の立證をこの半時間内に得申候、と申すは小生が唯だ今偶然にも、家畜の異種族繁殖に豐富の經驗を有し居らる〻著名の某氏と田舍に滯在致し居る故に有之候、氏は小生の問に答へて、例へば羊の變種に於ては相違の甚だしき種類の異種繁殖ある時は、其の結果は、特に二代目に於ては惡結果を生じ――混合せる特性と混沌的組織とも稱せらるべきものの生ずる事を談り、小生の信念を確證致され候。人間に在つても同樣に有之、印度の歐亞混血兒、亞米利加の雜種などはこれを例證致し居候。此の經驗の生理的基礎は、生物は如何なる變種と雖も、代々相傳する間に、その生活の特殊形式に或る素質的適應性を得、また他のあらゆる雜種は同樣にそれ自身の特殊の適應性を得る事に在る樣に相見え候。其の結果としては以下の如く相成るべく候。若し甚だ相違せる生活狀態にそれそれ適應するに至りたる、二つの甚だ相違せる種類の素質を混合すれば、兩者のいづれの生活狀態にも適應せざる一つの素質、――卽ち、如何なる一定の狀態にも適合せざるが故に、適當の作用を營み得ざる一の素質を生ずる事と相成るべく候。故に、日本人と外國人との雜婚は必らず斷然禁止すべきものと存候。

[やぶちゃん注:この謂い、いやはや、大笑いだね。]

 上記の理由により、小生はアメリカに於て定められたる文那移民制限の規定を全然賛成致すものに御座候、若し小生に力あらば、小生は出來得る限りの小數に支那移民を制限致し度く存候。小生がかかる決心を致す理由は下記の二つの事實の一が必らず起こると考ふる故に御座候。若し支那人が米國全土に亙つて廣く土着するを許さる〻場合、若し彼等が米人と雜婚する事なければ、終には、よし奴隷とは相成らずとするも、奴隷に近き階級の位置を占むる一の從屬種族を形成仕るべく、又若し雜婚をなす曉には彼等は必らず不良の雜種を形成するに至るべく候。いづれの場合に在ても、移民が多數なれば、社會的弊害は巨大なるべく、終には社會の瓦解を來たすに至るべく候。歐米人が日本人と著しく雜婚する場合にも同樣の弊害を生ずべく候。

 かるが故に、小生の進言はあらゆる方面に於て激烈に保守的なるを御覽の事と存候、小生はまた本書簡の起句を以て結尾と致度と存候、卽ち、他種族を能う限り遠ざくべしといふ事に御座候。

 本書簡はただ御參考として貴覽に供する爲めのものにして他見を憚り候間、漏洩公表の虞ひ[やぶちゃん注:「ひ」はママ。誤植か?]無之樣吳々も懇願仕候。兎に角小生存命中はかかる事無き樣御配慮願上候。かく申上候は小生同胞の怨嗟[やぶちゃん注:「ゑんさ」。怨み嘆くこと。「嗟」は底本では「※」=「忄」+「差」であるが、表示出来ないし、意味はこれしかないから、特異的に訂した。]を惹起するを避け度きが故に御座候。

                 敬 具

  ヰルトシヤ・ピユウシイ・フエアイルドにて

 一八九二年八月二十六日 ハアバアト・スペンサア

 

 追伸、前記の如く申上候ても、本簡の進言を伊藤伯にまで祕密に願ひ度しといふ意には勿論無之、小生はかへつて伯が此の事を考慮せらる〻機會を得ん事を翹望致居次第に御座候。

[やぶちゃん注:最後の発信地とクレジット及び署名はブラウザの不具合を考えて位置を引き上げてある。

「翹望」「げうばう(ぎょうぼう)」「翹」は「挙げる」の意で、「首を長く伸ばして待ち望むこと・その到来を強く望み待つこと」。

「ヰルトシヤ・ピユウシイ・フエアイルド」イングランド南部のウィルトシャー(Wiltshire)のピュージー(Pewsey)はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。現在も田舎の村である。「フエアイルド」は原文「FAIRFIELD」、ピュージーの中心から直線で南西五キロメートルほどの位置にある Upavon(アップアヴォン)にFairfield(ここは住所表示を見るとピュージー内である)という通りを見出せた。ここであろう。

 以下、一行空け。]

 

 『タイムス』紙上に現はれた、此の手紙の批評を讀めば、ハアバアト・スペンサアが自國人の偏見を如何に充分に丁解して居たかが分かるが、これ等の批評は、イギリス人の保守的な心が、直接の利害に反した、新思想の與ヘる苦痛を憤つて罵詈を縱にする不條理な性質をその特色として居るものである。併し、此場合の眞相を多少知つて居れぱ、若し日本が今の此瞬間に一般の文明の爲めに、そして特にイギリスの利害の爲めに戦ふ事が出來るとすれば、それは、以前よりも賢明なる今の時代の、日本の爲政家等が、『タイムス』から『巨大なる主我主義』の證據といふ途方もない汚名を蒙つた此の手紙に示されたあらゆる文句に從つて、健全な保守主義を保持して居たといふ正に其の理由からである事を、『タイムス』にさへ確信させ得たに違ひないのである。

 此の進言自身が、政府の政策に影響を與へる直接の役に立つた事があつたかどうか私は知らない。併しそれは國民の自己保存の本能と充分に一致した事は、治外法權廢止唱道者が出會はなければならなかつた猛烈な反對の靈史により、また、ハアバアト・スペンサアの書簡に記されたその事實に關して施行された豫防的法律の性質によつて示されて居る。治外法權は(恐らく、勢ひ止むを得ず)廢止されたけれども、外國の資本は氣儘に此の國の富源を開發する事は許されなかつた。そして外國人の土地所有は許可されなかつた。【註】内外人の雜婚は決して禁止されなからたけれども、決して奬勵されはしなかつた。しかも特別な法律上の制限の下にのみ行ひ得るのである。若し外人が結婚によつて、日本の土地を保有する權利を得る事が出來たならば、多大な土地が直きに外人の手に入つてしまつたであらう。併し外人と結婚する日本婦人はそれが爲めに外國人となつてしまつて、かかる結婚から牛まれた子供は生涯外國人である事を法律が賢明に規定した。これに反して、結婚して日本の家庭に入籍した外國人は何人と雖も日本人となり、かかる場合の子供は、生涯日本人である。併し彼等も亦或る資格は與へられないのである。彼等は高官に上る資格はない。そして特別の許可ある他、陸海軍の士官となる事さへ出來ないのである。(此の許可は一二の場合に與へられたやうに見える)。終りに、日本はその沿岸貿易を自身の手に維持して來た事を注意しなければならない。 

    註 内外人雜婚の家庭の數は東京では百以上あるといふ。

  さうすると、大體から見て日本の政策は、スペンサアの進言中に提議された方針を著しく採用して居ると云つでよからう。併し私の意見では、スペンサアの提案にもつと嚴密に從ひ得なかつたのは、まことに遺憾の至りであると思ふ。此の哲學者が今に生きて居て、此の間の日本の勝利――唯だ一隻の船も失はずに[やぶちゃん注:既注の通り、軍艦としては連合艦隊は喪失艦僅か水雷艇三隻のみであった。]强大な露國艦隊を潰滅せしめ、鴨綠江上で三萬の露軍を潰走せしめた。此の間の日本軍の勝利――を聞く事が出來たとしても、彼は毫厘も彼の進言を變じなかつたらうと私は考へる。恐らく彼は、彼の人道主義の良心が許す限りは、日本人がかくも徹底的に新戰術を硏究し得た事を賞讃したであらう。彼は發揚された高邁な有氣と、古來の訓練の勝利とを稱揚したのかも知れない、――彼の同情は、保護國となるか、露國と戰ふか、いづれか一を選擇する事を餘儀なくされた國の側に傾いて居たであらう。併し若し彼が、勝利の場合に、將來の政策に就いて再び質問を受けたならば、彼は軍事上の能率は、產業上の力とは甚だ異つた者である事を問者に答へて、力を籠めて彼の警告を繰返したであらう。日本の社會の構造と歷史とを了解して居るので、彼は外國との接觸の危險を明らかに認める事が出來たのである。そして此の國の產業上の薄弱な利用せんとする企てが、恐らくどの方面からなされるかを明らかに認める事が出來たのであつた……。次の時代が來たら、日本は、その保守主義の多くを棄てても危險はなからう。併し、現在一時だけは、日本は、保守主義を救濟の力を賴まなければならないのである。



小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(98)  囘想(Ⅴ) / 囘想~了

 

 民族と民族とが互に侵略し合ふ事は、爭鬪――適者のみが存續するあの永續的爭鬪――の一般法則と充分に一致する事は言を俟たない。劣等民族は高等民族の奴隷となるか、高等民族に壓迫されて消滅するかである。そして餘りに窮屈で進步の出來ない昔の型の文明は、更に能率あり、更に複雜した文明に服從しなければならない。此の法則は無情冷酷でまた明々白々である。その作用は人間の考慮に依つて、慈悲心を以て緩和されるかも知れないが、併し決して防止する譯には行かないのである。

 併し如何に寬大に考へる人も、この内に合まれて居る道德的問題を、斯樣に容易に決着さしてしまふ事は出來ない。免れ難き運命は、道德的に定まつて居るものであると吾々が主張しても、其の主張には正當の理由が無い、――況んや高等民族が、偶〻世界の爭鬪の勝者となつて居たからと云つて、力が權利を構成し得ると主張するのは、決して正常の理由ではないのである。人間の進步は强者の法則を否定する事により、――獸類の世界を支配する弱肉强食の衝動、星辰の運行と同じく自然の秩序と一致して居る弱肉强食の衝動と鬪ふ事によつて――今迄成し遂げられて來たのである。文明を可能ならしめるあらゆる美德や抑制は、白然の法則を犯して發達し來たつたものである。最も優秀な民族は、最高の權力は忍耐を行ふ事によつて得られるものであり、自由は弱者を保護し、不正を强壓する事に依つて、最もよく維持せられる事を、最初に學んだ民族である。かくして得た道德的經驗の全部を否定する心を常に有つて居るのでなければ、――またその道德的經驗を、今迄高唱して居た宗教は、特殊な文明の信條に過ぎない者で、人道の宗教ではないと斷言する事を欲するのでなければ、――基督教と啓蒙といふ名で、外國人に向つて行つえ居た侵略に對して、これを道德上正當なものであると承認するのは困雖であらう。かかる侵略の支那に於ける結果は、確に基督教でも啓蒙でもなく、反亂、虐殺、厭ふべき慘虐――都市の破壞、州郡の荒廢、數萬の人命の損傷、億萬の金錢の誅求であつた。若しすべてかうした事が權利であるならば、力は實際上權利である、そして西洋で人道と正義の宗教と公言して居るものは、いづれの原始的祭祀と同じく排他的のもので、同じ社會の人間の間にのみ、行爲を調節する目的をもつたものなる事が分かるのである。

 併し少くとも進化論者の眼には、此の事は極めて相違した映じ方をして居る。社會學の明白に教へる處は、高等人種が繊弱な人種を取扱ふ際に、道德上の經驗を投棄して、しかもその報のないと云ふ事はあり得ざる事と、西洋文明は、その壓制行爲に對して充分なる罰を早晚蒙るであらうといふ事である。國内で宗教上の異說排斥に耐へる事を拒絕しながら、外國に於て宗教上の異說排斥を鞏固に維持し得る國民は、數百年の殘虐な努力を費やしてはじめて獲得した知的自由の權利を終に失ふに違ひない。罰が來る時代は恐らく餘り遠い事ではあるまい。全ヨオロツパが好戰の狀態に復歸すると共に、必らず人類の自由を脅威する廣大な宗教上の復活が始まつて來て、中世の精神が復び廣布する虞れがある、そして反セミテイツクの感情が、実際上大陸の三强國の政治の要素となつて來て居る……。

[やぶちゃん注:「反セミテイツク」「anti-semitism」。「反セム主義」「反ユダヤ人主義」ヒトラーはによるナチス・ドイツの擡頭は本書刊行から二十九年後のことであった。]

 ――宗教的確信に反對を試みた上でなければ、何人もその確信の力を評價するを得ないとは云ひ得て妙である。傳道の惡意の掩蔽砲臺から狙はれる迄は、恐らく何人も傳道の問題に關する傳統の、邪惡な方面を想像し得ないであらう。併し傳道政策の問題は、その問題を起こす者を祕密に中傷しても公然罵詈しても、それを解決する事は出來ないのである。今日では、それは世界の平和と商業の將來と、竝びに文明の利害とに關する間題となつたのである。支那の保全もそれに依るのである、現在の戰爭もそれに無關係といふ譯ではない。本書には多數の缺點は勿論あらうけれども、極東の社會組織は、西洋の宗教の從來行ひ來たつたやうな傳道に對して、打勝ち難き障碍を與へる事、これ等の障碍は、現今では以前の如何なる時代に於けるよりも、もつと注意深き人情味のある考察を要求して居る事、彼等に對する妥協心なき態度を、今後も不必要な位に維持して行く事は、災禍以外何物をも齎さないといふ事に就いて、思慮深い人々には恐らく必らず確信を與へた事と思ふ。祖先の宗教は數千年前はどういふものであつたにせよ、今日では極東全部に在つては、それが家庭の愛情と義務の宗教となつて居る。そして西洋の熱狂者が人道を外づれで此の事實を無視すれば、その齎す結果は、必らずまた數次の『拳匪』の亂である。支那からの危險を世界に强ふる(ロシヤは今はその機會を失つたやうだが)眞の力を、異說排斥分說く目的で、宗教上の異說容認を要求する人々に授けて置いてはならないのである。獨斷主義が、改宗者に向つて、家族と社會と政府とに對する彼の古來の義務を否定せん事を要求し、――その上また、祖先の位牌を破壞し、自分に生命を與へた人々の靈を凌辱して、以て外國の信條に對するその熱心を證せん事を固執する間は、東洋は決して基督教に改宗しないであらう。

[やぶちゃん注:まさに小泉八雲が言うような国家規模でのそうした壮大な〈宗教的政治的実験〉としての「ロシア革命」は本書刊行から十三年後の一九一七年、中華人民共和国成立は四十五年後の一九四九年であった。

「『拳匪』の亂」原文は「“boxer uprisings」。清朝末期の光緒二六(一九〇〇)年に勃発した「義和団の乱」を指す。日清戦争での敗退後、「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社「義和拳教」が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外主義の運動が展開され、各地で外国人やキリスト教会が襲われた。ところが、西太后はこの年、この叛乱を支持し、義和団は北京の列国大公使館区域を包囲攻撃、同年六月二十一日、清は欧米列国に宣戦を布告し、遂に国家間戦争へと拡大した。しかし、それから二ヶ月も経たないうち、北京公使館員や居留民保護を名目に日・英・米・露・独・仏・伊・墺の八ヶ国連合軍が北京に侵入(中でも日本は最大の兵八千名を投入した)、瞬く間に鎮圧、講和を定めた「北京議定書」によって、中国の植民地化はさらに強まってしまった。

 これをもって本書の本文の最終章(第二十二章)は終わっている。但し、底本ではこの後に「Appendix」(追記)、訳では「追錄」が続く。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(97)  囘想(Ⅳ)


西洋の侵入と極東の宗教との關係に於て、極東の宗教に關する一般的の數言を費やして、此の說明の企圖を完了するのは適當であるかと思はれる。

 ――極東のあらゆる社會は、日本と同じく祖先禮拜にその基礎を置いて居る。此の古來の宗教は、種々な形式に於て、其の社會の道德的經驗をあらはして居る。そして現今他宗を排斥しながらゝその教へを說いて居る基督教の輸入に對して、極めて重大な種類の障碍を與へて居る。基督教に自己の生命の指導を託して居る人々には、基督教を攻擊する事は、最大の凌辱で、最も許すべからざる罪惡のやうに見えるに違ひない。その仲間の各人が命令ままに死ぬ事を自分の義務と信ずる宗教は、則ち自分がその爲めには喜んで鬪ふ處の宗教である――その宗教に對する攻擊を、その者が如何に忍び得るかは、その智力とその訓練の性質に依るであらう。極東のあらゆる民族が、日本人のやうな聰明さを有つて居る譯ではない。日本人は幾時代の軍事訓練の結果、周園の事情に彼等の行爲を適合させて行く事が出來るが、他の民族はそれ程立派な訓練を受けては居ないのである。特に支那の農民には、自己の宗教を攻擊される事は耐へ難いのである。彼の祭祀はいつも彼の所有物中の最も貴重なもので、社會的の曲直のあらゆる事柄に於て、それはいつも彼の最も優れた指導者である。東洋はその社會の基礎さへ攻擊しなければ、あらゆる信仰を寬容して來た。それで若し西洋の傅道師等が、これ等の基礎に觸れずに居る程に――佛教の行つたやうに祖先祭祀を取扱つて、他の方面に於て同じ寬容の精神を示す程に――賢明であつたならば非常に大規模に基督教を輸入する事は極く容易い事であつたらう。若しさうなれば、其の結果は西洋の基督教とは著しく異つた基督教となつた事は明らかであるけれども、――極東の社會の組織は急激の變化を許さないからであるが、――併し社會の反對を起こさしめず、人種に對する嫌惡などは猶ほ更起こさしめないで、教義の精髓は廣く宣傳し得たかも知れなかつたのである。今日に及んでは、異說排斥の效果少き勞力に依つて既に果たし得た處のものをやめて、元に還す事は恐らく不可能である。支那と其の近隣諧國に於ける基督教に對する憎惡は、必要もないに[やぶちゃん注:「ないのに」の脱字と思われる。]祖先祭祀の上に加へられた假借なき攻擊に原因するのは疑ひ無い處である。支那人或は安南人に祖先の位牌を破棄せよと要求するのは、イギリス人或はフランス人に對して、基督教尊信の證據として、母の墓石を破棄せよと要求すると同じである。否、遙かに不人情な事である、――何故かと言ふと、ヨオロツパ人は、死んだ親の名を記してある筒單な位牌に對して東洋人が抱くやうな、それ程な神聖な觀念を以て墓石などを見ては居ないからである。溫順で平和な社會の家庭の信仰に、かうした攻擊を加へた場合には、其の結果は虐殺を惹起す[やぶちゃん注:「る」の脱字であろう。]事に昔から定まつて居た、そして若し飽くまで續けて行けば、彼等に戰ふ力がある限りは、殺戮を起こし續けて行くであらう。外國の宗教的侵略に對して、土着の者の宗教的侵略が如何に對應したか、如何に、基督教の武力が、外國人の犧牲者のために、十倍程の屠殺と猛烈な掠奪とを以て復仇[やぶちゃん注:「ふくきう(ふっきゅう)」。復讐。]したかは、此處に記す必要はないのである。傳道師の異說排斥の結果、惹起された騷擾の返報として、屠殺され、貧困に陷れられ、或は征服されてしまつた祖先祭祀の人民があつたのは、近年に限つた次第ではなかつた。併し西洋の貿易や商業が、これ等の報復によつて直接の利益を得て居る一方、西洋の輿論は憤慨、激怒、挑發の權利(異教人のする)或は報復の正邪に就いて議論を許さないのである。他宗を寬容する心の少い宗教團體は、道德的權利(異教の人の)の問題を起すのさへも邪惡なことと云ふのである。そして聲を舉げて抗議する事を敢てする公平な觀察者に對して、狂信者は恰も彼が人類の敵であるかの如く猛烈に攻擊してかかるのである。

 社會學的の見地から考へると、全部の傳道師制度は、宗旨信條に論なく、昔の型のあらゆる文明を敵視し、これに對して一般的に攻擊してかかる點に於て、西洋文明の小競合の力を代表して居る、――卽ちそれは最も强大で最も進化した社會が、自己よりも弱い進化して居ない社會を攻擊する前進窓動の第一線である。これ等の鬪士の自覺せる仕事は、宣教師や教師の事業であり、彼等の無自覺の仕事は工兵や駆逐艇のそれである。薄弱な民族の服從は殆ど想像されない程度まで、彼等傳道師の仕事によつて助けられて來た。そして此の服從は他の如何なる手段を盡くしても、かく速にかく確に成就する事は出來なかつたであらう。破壞を行ふ爲めには、彼等は一種の自然力のやうに自覺せずに働いて居る。併しそれかと云つて基督教は感知し得る程に發展はしないのである。彼等は死を辭せぬ。そして彼等は軍人以上の勇氣を以て、生命を抛つのである、併しそれは彼等が希望するやうに、東洋が今猶ほ必然拒絕するに相違ない教義の傳播を助ける爲めではなくして、產業上の企業と西洋の擴大とを助ける爲めである。傳道の眞の公言された目的は、社會學的の眞理に對して飽くまでも無頓着な爲めに破壞されて居る。そして基督教國民は、基督教の精神とは根本的に反對した目的を達する爲めに、殉難と犧牲とを利用して居るのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(96)  囘想(Ⅲ)



 然らば古來の道德――古來の祭祀――はどうなるのであらうか。

 ――今の此の瞬間は事態が常規を逸して居る。併し常態にあれば、古來の家族の關係は漸次に弛むで行く事が確であらうと思はれる。そしてこの事は猶ほ此の上にも崩壞を招致するであらう。日本人自身の證明によると、此の崩壞は、現時の戰爭に先き立つて、大都市の上流及び中流階級の間に迅速に擴がつて居た。農村の人々の間、竝びに田舍の都會に於てさへも、事物に關する古來の道德的秩序はまだ餘りに影響を受けずに居る。そして崩壞に對して働きをして居るものの内には、立法的變化或は社會的必要の外に、他の影響もある。昔よりも知識が廣まつた爲めに古來の信仰は亂暴に動搖されてしまつた。二萬七千の小學校では[やぶちゃん注:『文部省年報』によれば、本書が書かれた時より十九年も前の明治一八(一八八五)年の時点で、小学校数は実に二万八千二百八十三校もあった。因みに平成三〇(二〇一八)年度の文部科学省の公式データを見ると、現在の日本の小学校数は国公立・私立総てをひっくるめて二万九五校(公立の分校を含む)しかない。]、新時代の少年等が、科學の初步と宇宙に關する近代の槪念とを教へられて居る。須彌山の幻奇なる繪を描いた佛教の宇宙論は既にお伽噺となつてしまつた。昔の支那の自然哲學は餘り教育のない者か、封建時代の生殘者の間にのみ信仰者を有つて居る。そして極小さい小學生も、星座は神でもなく、遠距離にある太陽の群である事を學んで居る。一般の人も最早  Milky  Way  を『天の河』として想像に描く事は出來なくなつて、織女と牽牛と鵲の橋の傳說も今はただ子供に聞かせる話となつてしまつた。そして若い漁夫は彼の父と同じやうに星の光りを目當てとして船を行つては居ても、最早北の空に妙見菩薩の姿を認める譯にはゆかなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「妙見菩薩」「北辰妙見の宮」等とも呼び、仏教に於ける天部の一人。ウィキの「妙見菩薩」によれば、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもので』、中国の神としては、『北の星宿の神格化』されたもので、『玄天上帝ともいう』とある。]

 併し昔の或る階級の信仰の衰微、若しくは目に見える社會的變化の傾向は、誤解され易いものである。如何々る事情の下に在つても、宗教は徐々に衰微して行く。而して最後に崩壞を受けるものは、宗教の最も保守的な形式のものである。祖先祭祀が、今までに如何なる種類の影響たるを問はず、人が感知し得る程の影響を、外界から受けて來たと想像する事、或は、その存續は神聖になつた習慣の力にのみ據るので、大多數が今猶ほ信仰して居る故ではないと想像するのは重大な誤謬である。どんな宗教でも、それを作り出した人種の愛着心を、かく突然に失つてしまふ事はあり得ないであらう、――特に死者を祭る宗教に在つてはさういふ場合は最も少いのである。他の方面に於レてさへも、新しい懷疑主義は、表面的のものである。それは事物の核心まで透徹して擴がつた譯ではなかつた。なるほど或る種類の懷疑を有つべき事が一種の流行となり、過去を輕侮する風を裝ふ靑年等の一階級が、實際段々と擡頭して來ては居る。併しこれ等の者の間にあつてさへ、家庭の宗教に關して不敬の言を放つものは決してなかつた。古來の孝道に對する抗議、家庭の束縛の益〻加はるその重壓に對する不平は聞こえる事もあるが、併し祖先祭祀を輕んずる言葉は決して聞かれないのである。神道の社會的及び其の他の公的形式に就いては、神社の數が續いて增加する事實が、其の勢力の盛んなのを證するに足るのである。一八九七年[やぶちゃん注:明治三十年。]には、十九萬千九百六十二の神道の社があつたが、一九〇一年にはそれが十九萬五千二百五十六に增して居る。

 近き將來に起こるに違ひないと思はれる變化は、恐らくは宗教的のものよりも、寧ろ社會的のものであらう。そしてかかる變化が、種々の方面に於て、如何に孝道を弱める傾向があるとしても、祖先祭祀そのものに重大な影響を與へるやうな變化があると信ずべき理由は殆どないのである。漸次增加して行く生活難と、生活費との爲めに、重くなつて行く家庭の束紡の重壓は、個人に對しては漸次輕減されて行くかも知れない、併し如何なる立法も、死者に對する義務の感情を廢止する譯には行かないのである。その感情が全然なくなる時が來れば、國民の心臟は既に鼓動を止めてしまつて居るであらう。『神』として昔の神を信仰する心は、徐々に消えて行くかも知れないが、併し神道は祖國の宗教として英雄及び愛國者の宗教として存在を續けるであらう。そしてかかる將來の變化が起こり得ベき事は、多くの新しい神社の紀念碑的の性質をもつ事によつて示されて居る。。

 ――近年日本は無暗に『個人主義の福音』を要求して居ると斷言された事が屢〻あつた、(これは圭に、パアシヷル・ロウヱル氏の『極東の精神』“Soul  of  the  Far  East”[やぶちゃん注:既出既注。]が與ヘた深い印象の故であつた)そして多くの敬虔な人々は、此の國を基督教國に改宗せしめれば、個人主義を生ずるに足りるであらうと假定して居る。此の假定は、數千年の間に徐々と形作られた一國民の習慣も感情も、ただ一つの信仰條令によつて、突然變化され得るといふ古來の迷信以外には、何等の基礎をももつて居ない考へである。昔からの秩序を今よりも以上に崩壞せしめ、その崩壞を普通の狀態の下に行はせて、今よりも高い社會上の力を起こさうとするには、それは只だ產業主義に據る他はない、――競爭的企業と商業の膨脹を、强ひて行はしめる諸〻の必要事項を働かせるより以外に安全な方法はない。併しかかる健全な變化には長い平和が必要であらう。而して獨立した進步的な日本は、其時宗教上の變化の問題を、政治的の利害得矢の立脚㸃から考察する事であらう。日本の經世家[やぶちゃん注:政治家。]の海外に於ける觀察と硏究とは、彼等に過大な印象を與へてしまつた、『金錢には一つの宗教が有る』――『資本は新教徒である』――世界の力と富と智的精力とは、【註】羅馬の束縛を投棄して、中世の信條から脫出した人種に屬する、――とミシエレエ[やぶちゃん注:フランスの歴史家でロマン主義史学の代表者たるジュール・ミシュレ(Jules Michelet 一七九八年~一八七四年)。民衆を愛し、フランス革命の精神を擁護し、ナポレオンⅢ世によってコレージュ・ド・フランスの教授職から追放された。引用元は私は不明。]があんなに力を籠めて云つた半眞理を、彼等もすつかり信仰してしまつた。日本の某政治家は、日本人が『基督教の方に急速に流されて行く』と近頃公言したといふ事である。貴顯大官の言として新聞が報ずる事は、信用の出來ない場合が多い、併し此の場合の報道は恐らく確實であらう、そして其の言は可能性を暗示する爲めに云はれたものである。日英同盟の公布[やぶちゃん注:日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)。本書が書かれた二年前の明治三五(一九〇二)年一月三十日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として調印された。その後、第二次(一九〇五年)・第三次(一九一一年)と継続更新されたが、大正一〇(一九二一)年の「ワシントン海軍軍縮会議」によって調印された「四カ国条約」成立に伴って一九二三年八月に失効した。]以來、政府が西洋の宗教に對して以前支持した安全な保守主義の態度に著しい軟化が起つて來た……。併し日本國民が政府の獎勵の下に、外國の信仰を採用するか否かの問題に就いては、社會學的の答が明白であると私は思ふ。社會の基本的構成を何程かでも理解すれば、急激な變化を企てる事の愚かと、それを成就する事の不可能な事が、同樣明白になるであらう。少くとも、現在だけは、日本に於ける宗教問題は、社會保全の問題であつて、變化を自然の過程によらずに、性急に成就せんとする努力は、ただ反動と紊亂とを齎すに過ぎないのである。日本が今迄非常に立派に役に立つて來たその細心熟慮の政策を抛棄する事を敢てし得る時節はまだ遠い事と私は信ずる。日本が西洋の信仰を採用する時は、その連綿たる皇統も斷絕する日であると私は信ずる。そして日本が外國の資本に、その土地の縱令一反步でも讓り渡す時は、その生得權を合意上手放す事なので、到底再び囘復の見込みはないと私は恐れざるを得ないのである。

[やぶちゃん注:私はここを読みながら、敗戦後、日本語を文化的程度が低劣であるから、それを捨てて、桑原武夫がフランス語を、高橋義孝がドイツ語を公用語にすべきと大真面目にぶち上げたクソのような事実を思い出していたし(今やそんなことがあったことさえ知らぬ人が多いだろう)、この最後の部分では『今の沖縄だ』と感じたものである。

 以下、底本では全体が本文分四字下げポイント落ち。]

註 日本の宗數團體に對する政府の外見上の態度からは、信憑すべき推論はとても抽き出し難いのである。近年の政策は、外見上は、西洋の宗教のうちの他宗を排斥する心の多い種類を獎勵するやうに思はれた。此態度に對して寄妙な對照をして居るのが祕密共濟組合(フリイメイスンリ)の排斥である。治外法權の廢止以來、開港場に居る外國人り共濟組合は、或る條件で存在する事を許された(或は寧ろ放任してあつた)けれども、嚴格に云へば、祕密共濟組合は日本では許可されなかつた。歐米に居る日本人は、自由に共濟組合員となれるが、日本では組合員となる事は出來ないのである。日本ではあらゆる會合の行爲は公然官邊の監督に任されなければならないのである

[やぶちゃん注:「他宗を排斥する心の多い種類」具体的に何を指しているのかよく判らない。ロシア正教とかユダヤ教のことか。識者の御教授を乞う。

「祕密共濟組合(フリイメイスンリ)」「Freemasonry」。現行では「Freemason」の綴りで「フリーメーソン」と表記されることが多い。「ブリタニカ国際大百科事典」も「Freemasonry」を後に掲げなながら、持見出しは「フリーメーソン」である。それによれば、自由な友愛を求め、十八世紀初頭より結成された国際的な親善団体。中世の石工(メーソン)のギルド(guild:中世ヨーロッパの都市で発達した商工業者の独占的排他的な同業者組合。十三~十四世紀には各都市の政治・経済を支配したが、十六世紀以降、衰退した)の流れをくみ、一七一七年、ロンドンに結成されたのが始まりで、全ヨーロッパからアメリカに急速に広がった。「ロッジ」(Lodge)と呼ぶ集会を基礎的組織単位とし、一地域乃至一国内の数ロッジが集って上級の大ロッジを形成する。ヒューマニズムとコスモポリタニズムを信条とする会の原理に忠実である限り、原則的には民族・階級・社会的地位・宗教によって会員の資格は制限されない。入会の際、象徴的神秘主義的な儀式が行われ,会員は定められた合図・合言葉・符丁によって認知し合う。ロッジ内部にはギルドの徒弟・職人・親方の三身分が投影された三つの基本的位階があり、大ロッジは独立性を保ちつつ、大連合を形成する。フリーメーソンは 十八世紀の合理と進歩を重んじる啓蒙主義的な時代思潮の担い手でもあり、個人主義的な倫理を信条とする中産階級、特に知識人が構成メンバーの中心となった。従って、宗教に関しては寛容であったのに対し、反動的な政治に対しては自由を主張したため、本来は秘密結社ではなかったにも拘わらず、教会や政府の弾圧を受け、陰謀団体・革命結社のように危険視された時期があった(これは現在も都市伝説として時々蘇ってくる)。アメリカ独立革命・フランス革命や、十九世紀後半の自由・統一運動には、フリーメーソンの活躍は無視出来ないが、急進的共和主義や社会主義とは縁遠かった。現在ではその役割と意義は微弱になっているとある。]

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2019/07/07

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(95)  囘想(Ⅱ)


 日本がそれ等の性質を一の方向に如何に强く發達せしめ得たかは、ロシヤとの現今の戰爭[やぶちゃん注:日露戦争は本書が書かれた明治三七(一九〇四)年(八雲は同年九月二十六日没)の年初の二月八日に旅順攻撃で開戦しており、日本の勝利を決定づけた日本海海戦は同年五月であった。その直後に勧告された講和をロシアが受け入れて翌年九月五日に終わった。]が驚くべき證據を見せて居る。併し日本が斯く侵略の力を意想外に現はしたその背後に潜む道德的の力は、確に過去の長い訓練に負うて居るのである。日本國民が廿んじて變化に服從して居た爲めに覆ひか隱されてしまつた沈默せる精力、――四千萬人の此集團に透浸して居る自覺せざる勇氣、――陛下の一令で直に立つて建造にも破壞にも展開し得る壓搾された力、――は皮相の觀察の看破し得ざる處である。かくの如き軍事上及び政治上の歷史を有つ一國民の統率者達は、外交及び戰爭に於て最も重要なあらゆる能力をさぞかし表示する事と人は期待するかも知れない。併し集團の性格――風浪の如き偉大な力を以て命令の儘に動く物質が具備する性質――がなかつたならば、かくの如き能力も殆ど價値あるものとはならないであらう。日本の眞の力は其一般人民、――其農民や漁民、工人や勞働者、――田畠に勞働し、或は都市の裏路に最も卑賤な職に從事する辛抱强き溫和な人民――の道德的性質の中に今猶ほ存在して居る。此の人種のあらゆる自覺せざる壯烈な氣質は、これ等の人々の中に存する、また此人種のあらゆる素晴らしい勇氣、――人生に對する無頓着を意味せずして、死者の位階を昇進せしめる事をなす天皇の命ずるままに、生命を犧牲にする事を欲する勇氣――もこれ等の人々の中に存するのである。今戰爭に召集されて居る數萬の靑年にして、光榮を荷つて本國に歸らうと云ふ希望の言葉を洩らすものは一人もない、――口に出す希望は、天皇と祖國の爲めに死んだ者の靈が集まる處と信ぜられて居る招魂社――『靈を呼び起こす社』に祀られて、長く世人に記憶されようといふ事のみである。古來の信仰の、此戰爭の際ほど强い時はない、【註】そしてロシヤは、連發銃やホワイトヘツド魚形水雷よりも、此信仰を恐れなければならないのであらう。愛國の宗教としての神道は、充分にその力を發揮させれば、極東全部の運命に影響を及ぼすのみならず、文明の將來に影響すべき力である。日本人が宗教に無頓着であると說く位、日本人に就いての不合理な斷言はない。宗教は今迄のやうに、今も猶ほ日本人民の眞の生命であり、――彼等のあらゆる行動の動機でまた指導の力である。實行と忍苦の宗教であり、僞信と僞善のない宗教である。そしてそれによつて特に發達せしめられた諸〻の性質は、すなはちロシヤを愕然たらしめたその性質であつて、此後もまだロシヤに多くの苦しい驚愕を與へるかも知れないのである。【註二】ロシヤは子供のやうな潺弱[やぶちゃん注:「せんじやく(せんじゃく)」。見知らぬ熟語だが、水がさらさらと流れるような、如何にもなか弱さの謂いか。]を想像して居た場合に、驚くべき力を發見したのであつた。臆病と無氣力とを期待して居た場合に、勇猛に出會つたのであつた。

[やぶちゃん注:「ホワイトヘツド魚形水雷」原文「Whitehead torpedoes」。「Whitehead torpedo」(ホワイトヘッド魚雷)の複数形。ウィキの「ホワイトヘッド魚雷」によれば、『自走式もしくは「機関式」として最初に開発された魚雷で』、『オーストリア=ハンガリー帝国海軍のジョバンニ・ルピス』(Giovanni (Ivan) Biagio Luppis Freiherr von Rammer 一八一三年~一八七五年)『がデザインを考察し』、イギリス人エンジニア『ロバート・ホワイトヘッド』(Robert Whitehead 一八二三年~一九〇五年)『により』一八六六『年に完成した。多数の海軍機関が』一八七〇『年代にホワイトヘッド魚雷を入手し、その中にはアメリカ海軍が含まれる』。『この初期の魚雷は露土戦争の戦闘で試され』、一八七八年一月十六日に『トルコ軍艦艇「インティバー」は、ロシア帝国海軍の水雷艇が装備したホワイトヘッド魚雷によって撃沈された』。『トーピードーという語はトーピードーフィッシュ(シビレエイ目』(軟骨魚綱板鰓亜綱シビレエイ目 Torpediniformes)『)から来ており、このエイの一種は、行動不能とするため』に体内の発電器官によって『獲物に電撃を加える』ことに由来するとある。当時は戦艦・駆逐艦及び水雷艇から発射された(近代の潜水艦の開発はこの一九〇〇年代以降)。因みに、日本海軍も『日清戦争での水雷艇による威海衛夜襲の戦果と』(但し、この頃のものは低性能で、ネット上の記事では敵艦から百メートル以下まで接近して発射しないと命中しなかったという記載もあった)、この『日露戦争の日本海海戦夜戦における水雷艇と駆逐艦の活躍により』、『魚雷の有用性に注目して高性能な魚雷の』独自の『開発に』もその後、『力を注い』でいたが、この当時、使用されていたものは輸入品であったようだ。いろいろ調べてみて、サイト「太平洋戦争の記録」の「海軍水雷戦隊――太平洋を走破する駆逐艦の航跡(『 Japanese Destroyers 』大野景範&原進著)」でやっと記載を見出せた。『魚雷は英人ロバート・ホワイトヘッドによって一八六六年(慶応三年)に完成されたもので、当時のものは圧縮空気によってピストンを動かし、速力六ノット(時速約一一キロ)で約六〇〇メートルの射程をもっていた』。『日本海軍が日清戦争や日露戦争で使用した水上発射用の魚雷は、このホワイトヘッド式の改良型で』、『直径一八インチ(四五・七センチ)で速力約三〇ノット(時速約五五・六キロ)、炸薬量は五〇~八〇キロ、約四〇〇〇メートルの射程であった』とある。

 以下、註は全体が本文分四字下げでポイント落ち。区別するために前後を一行空けた。]

 

註一 第二回旅順口閉塞後、日本艦總司令長官東鄕海軍中將の功を嘉して[やぶちゃん注:「よみして」。良しとして。褒めて。]賜はつた勅語に對する中將の奉答文は、神道の特色を遺憾なく表はして居る。

『第二次旅順閉塞ノ擧ニ對シ優渥[やぶちゃん注:「いうあく(ゆうあく)」。懇ろで手厚いこと。]ナル勅語ヲ賜ハリ臣等感激ニ堪ヘザルノミナラズ之ニ死セル將卒ノ忠魂モ永ク戰地ニ止マリテ皇軍ヲ庇護スベキヲ覺ユ(臣等尙倍[やぶちゃん注:「ます」。]マス勇奮聖旨ニ副ヒ[やぶちゃん注:「そひ。]奉ラムコトヲ期ス)』一九〇四年三月三十一日發行『ジヤパン・タイムス』揭載の飜譯。

 勇敢な死者に對するかくの如き思想と希望とは、サラミスの海戰後にギリシヤの海將等も亦述べたかも知れない。ギリシヤ人を助けてペルシヤの侵入を防がしめた信仰と勇氣とは、現今日本を助けてロシヤに當たらしめて居る宗教的の壯烈勇武と正に同性質のものであつた。

[やぶちゃん注:「第二回旅順口閉塞」大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦の第二次旅順港閉塞作戦。同作戦は明治三七(一九〇四)年二月(第一次閉塞作戦は二月十八日で機関兵一名が死亡した)から五月(第三次は五月二日でこの時は多数の准士官・下士・兵卒らが戦死した)にかけて行われた。第二次は三月二十七日未明に決行された。四隻の閉塞船を投入して実行されたが、前回に続いてロシア軍に察知されて失敗した。この作戦で閉塞船福井丸を指揮した広瀬武夫少佐が戦死し、のちに軍神とされ、崇められた。また、杉野孫七上等兵曹他四名が戦死した。広瀬と杉野のエピソードは文部省唱歌「廣瀨中佐」で知られる。但し、孰れも旅順港を十分に封鎖するに至らなかった。ウィキの「旅順港閉塞作戦」によれば、『作戦後、東郷司令長官は「第三次閉塞作戦ハ概ネ成功セリ」と大本営に打電したが、旅順艦隊は依然』、『出入港可能な状態であり、当時日本が保有していた一千総トン以上の商船百九十七隻のうちの一割に当たる二十一隻もが『投入された本閉塞作戦は事実上の失敗に終わった』。『一方、ロシア側ではウラジオストク巡洋艦隊を派遣させ』、『連合艦隊の旅順からの引き離しを図るとともに、バルチック艦隊の回航を決定』、『独力での旅順艦隊の無力化に固執していた日本海軍であったが、度重なる閉塞作戦の失敗に加えてウラジオストク巡洋艦隊の通商破壊作戦』(以下に出る金州丸撃沈はその一つ)『への対処を余儀なくされただけでなく』、六『隻あった戦艦のうち「初瀬」「八島」を』五月十五日『に触雷によ』って『失い、更に困難な状況に陥った。バルチック艦隊到着までの時間的猶予は限られており、ついに海軍は旅順(旅順要塞)攻略を陸軍に要請』、『陸軍は乃木希典大将を司令官とする第三軍を編成し旅順攻囲戦を開始し、旅順の戦闘は陸上戦に移行した』のであったとある。

「サラミスの海戰」ペルシア戦争の最中の紀元前四八〇年九月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア連合軍の艦隊とペルシア遠征軍の艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの「歴史」第八巻に詳しい。詳細は参照したウィキの「サラミスの海戦」を見られたいが、『ヘロドトスによると、ギリシア側は、西翼にアテナイ艦隊、東翼にスパルタ艦隊を配置し、対するペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった』。『戦闘の始まりについてヘロドトスは複数の説を伝えている。アテナイ』から報告に『よれば、アテナイ船』一『隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれたとしている。また、アイギナ』からのそれ『によると、神霊をむかえてアイギナより来航したアイギナ三段櫂船がペルシア艦艇と最初の戦闘を行ったとしている。また、ギリシア軍の眼前に』一『人の女性が現れ、全軍を鼓舞激励したとも伝えている』という。ともかくも『この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることにな』ったとある。]

註二 本年四月二十六日にロシヤ軍艦の爲めに擊沈された運送船金州丸乘組の將士の行動は、必らず敞をして深省する處あらしめたに違ひない。敵は考慮の時間を一時間與へたけれども、士卒は降服を肯んぜず、戰鬪艦に對して小銃を以て砲火を開いた。そして金州丸が水雷の爲めに眞二つに爆沈されるに先き立つて、多數の將卒は切腹した……。此の猛烈な昔の封建時代の精神の著しい發揚は、ロシヤが若し戰爭に勝つたとしたならば、如何に多大の犧牲を拂はなければならぬであらうかを示すものである。

[やぶちゃん注:「四月二十六日」諸資料では四月二十五日とする。確定し得る詳細記載を見出せなかったが、複数の記事を綜合すると、海軍の御用船であった金州丸が、旅順閉塞を受けて蠢動を開始したウラジオ艦隊に襲われ、降伏交渉の行き違いによって、船員・下士官・兵卒ら七十六名が自決・戦死し(一部の資料には陸軍歩兵一個中隊がこの船から上陸して索敵後に再び乗船していたともある)、船は撃沈され、交渉のためにロシア艦に赴いていた士官全員が捕虜になったという。]

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 無數限りない理由からして、(何時までも續くか誰れにも分からない)此の恐るべき戰爭は[やぶちゃん注:事実上、この年の五月二十七日から二十九日の三日に亙った「日本海海戦」に於いて、バルチック艦隊はその艦艇の殆んどを失い、司令長官も捕虜となって壊滅的な打撃を受けた。対する連合艦隊は喪失艦僅か水雷艇三隻という近代海戦史上例を見ない一方的圧勝に終わった。その結果、ロシアは急遽、講和へと舵を切り、アメリカが仲介役となったポーツマス条約によって翌明治三八(一九〇五)年九月五日に日露戦争は終結した。小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)で亡くなっていた。本書の刊行は亡くなった同年同月の刊行で、則ち、八雲は最終校正を終えたものの、上梓された刊本としてのそれを遂に手にすることなく逝ったのであった。さればこそ本書は彼を殺したとも言われるのである。死因は狭心症であった。]、言語に絕して遺憾千萬であるし、またその理由のうちには生產に關することも少からずある。戰爭は近代の國民の繁榮と致富に缺くべからざる、健全なる個人主義の發達に資するあらゆる傾向を一時必らず阻碍する。企業は生氣を失ひ、市場は麻痺し、製造は休止する。併し此の異常な人民の異常な場合には、戰爭の社會的結果が、或る程度まで利益となり得る可能性はある。戰爭に先き立つて數百年の經驗で建設された諸制度が、まだ時ならぬのに崩壞する傾向が見えて居た、――道德も或は崩壞せんとする重大なる虞れがあつた。其の大變化は今後に行はれるに相違ない事、――此國の將來の幸福が變化を要求する事、――は議論を挾む餘地がないやうに見えるであらう。併し、かくの如き諸變化が、漸次に遂げられる事、――國民の道德的組織を危險に陷れるが如き、時を得ざる急激を以てせずして遂げられる事は必要である。獨立の爲めの戰爭、――この民族をして其成行に總てを賭るやむなきに至らしめる戰爭、――は、昔の社會的羈絆の緊張、忠誠と義務の古來の感情の强い復活、保守の感情の增大等を起こすに相違ない。これは或る方面に於ける退步を意味するであらう、併しそれは又他方面の活氣を意味するであらう。ロシヤの脅威に當面して、大和魂は再び復活する。若し日本が勝てば、日本は以前よりも道德的に强くなつて此戰爭から切り拔けて來るであらう。そしてその時には自信の新しい觀念、獨立の新しい精神が、外國の政策と外國の壓迫に對する國民の態度に現はれて來るかも知れない。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 ――勿論、自信過大の危險はあらう。海陸共にロシヤの力を破り得る國民は、同樣に又彼等自身の領土内で、外國の資本と競爭し得ると、信ずるやうな心持ちになるかも知れない、そして政府を說得し或は威嚇して、外國人の土池所有權の問題に關して、不幸なる妥協を爲さしめるため、あらゆる手段が確に試みられるであらう。此方面の努力は、長年の間固執的に且つ組織的に行はれて來、日本の政治家の或る階級から幇助を受けて居たやうに思はれる。併しこれ等の政治家は、特權を有つた外國の資本のシンジケエトが、唯一つでもあれば、それが斯樣な國に於ては、如何に巨大な壓制を行ひ得るかを了解し得ないらしい。私の考へる處に依ると、日本全國に於ける金力の性質と、生活の平均狀態とを、極めて漠然とでも理解する人は、誰れに限らず、借地權を有つた外國の資本が、立法を支配する手段と、政府を左右する手段と、外國の利益の爲めに、此帝國が實際に支配されるに至る事態を招致する手段とを、必らず得るに至る事を認めるに違ひないと思ふ。日本が土地の購買權を外國の產業に對して與へる特には、日本は到底復活の見込みのない程に破滅してしまふといふ確信に、私は抵抗する譯には行かないのである。眼前の利益の爲めに誘はれて、かかる事を許す自身自惚れ心は、極めて不幸なものであらう。日本はロシヤの戰艦や銃剱を恐れるのとは比較出來ない程に、英米の資本を恐れなければならない。日本の戰爭の能力の背後には、一千年の訓練を經た經驗がひそんで居る。其產業的及び商業的の力の背後には、ただ半世紀の經驗があるのみである。併し日本は充分に警告を與へられて居た。そして若し日本が今後自ら進んで破滅を招くことになれば、それは忠告が缺けて居たからではあるまいと思ふ、――何となれば日本は【註】世界の最大賢人の忠告を得て居るからてある。

    註 ハアバアト・スペンサア

 此の文の讀者には、新たな社會組織の長所と弱點――その軍事的方面に於ける攻防兩運動の偉大な才能、及び他の方面に於ける比較的薄弱な點――が今や少くとも明白になつたに違ひない。結局、驚異すべきは、日本がこれほど立派に今迄其の位置を保ち得たといふ事であつて、その最初の覺束ない努力を、新規で危險な方面に導いたのは、確に尋常ならざる智能を以つてした事である。日本が今迄に成就した事を遣り遂げたその力は、確にその古の宗教上及び社會上の訓練から出たものである。新形式の統治と、新狀態の社會的活動の下に、日本が今猶ほ昔の訓練の多くを維持する事を得た爲めに、日本は續いて强力であり得たのである。併しさうとしても、日本が災禍を免れ得たのは、-―外國の壓迫の重荷の下に、全社會組織が分裂するのを免れ得たのは、ただ最も堅固な最も機敏な政策によつたからであつた。巨大な諸變化が行はれると言ふのは避くべからざる事であつたが、併しその變化が、國の基礎を危くする性質のものたるべからずといふ事も、同樣に避くべからざる事であつた。そして直接の必要に對して準備する一方、將來の危險に對しても用意を怠らないやうにするのは、特に必要な事であつた。人間の文化の歷史に於て、かかる巨大な、かかる錯雜せる、かかる動かし難き諸問題を、切り拔けるの巳むなきに至らしめられた統治者は恐らく決して無かつたであらう。そしてこれ等の問題のうち、その最も動かし難きものが、まだ解けずに殘つて居る。日本のあらゆる成功は今迄は、義務と從順といふ古來の神道の理想によつて支持された非利己的な集合的行動に原因したのであるけれども、日本の產業的將來は、全然反對した種類の自我的の個人行動に依賴しなければならぬといふ事實が、すなはちそれである。

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2019/07/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(94)  囘想(Ⅰ)

 

  囘 想

 

 私は今迄日本の社會史に就いての一般觀念と、其の國民の性格を形作り鍛鍊した諸〻の力の性質に就いての一般觀念を傳へようと努めたのである、此の企圖は未だ甚だ不充分であるのは言を俟たない、此の問題に就いて滿足すべき著述の出來るのはまだ遠い將來の事である。併し日本はその宗教と社會進化の硏究を通じてのみ理解され得るといふ事は、既に充分に示されて居ると私は信ずる。日本は、確實な能率を以て西洋の應用科學を利用し、絕大なる努力を以て數百年間の仕事を僅々三十年間に成就して、西洋文明のあらゆる外形を維持しては居るが、併し社會學的には、古昔のヨオロツパに於ける基督の出現に先き立つ數百年以前の狀態に相當する狀態に留まつて居る、東洋の一社會の驚くべき光景を吾々に見せて居る。

[やぶちゃん注:「囘想」という章表題は原典では「REFLECTION」。不可算名詞では「熟考・内省・黙想・反省・再考・回想」のどれかであろう。平井呈一氏は『反省』であるが、私は自分が以上述べてきた主論考への「内省」或いは「再考」のニュアンスと読む。

 併し起原や原因を如何程述べた處で、その爲めに人間の進化の過程に於て、吾々から心理的には今猶ほ遠く隔つて居る此の奇なる世界を靜觀する愉快は少しも減殺される虞れはないのである。『舊日本』のうちから、今まで殘つて居る驚異と美とは、それ等を生じた狀態を知つたからと云つて輕減される譯ではない。昔ながらの溫情に富んだ嫻雅な風俗は、千年の間劒刄の下で養はれ來たつたものである事を知るからと言つて、それに魅了される事を止める必要はないのである。ほんの數年前には殆ど到る處、人は一般に慇懃に、爭は稀なやうに見えたが、これは幾代も幾代もの間、庶民の間の喧嘩は、悉〻く非常な嚴罰に處せられたからで、又かかる制止を必要とした仇討ちの習慣は、あらゆる人に言行を愼ましめたといふ事を知つても、吾々の氣持ちよい感じが減少するのでもない。昔は從屬階級のものは、よし苦痛を受けながらも、微笑して居なければ生命を失ふ恐れのあつた時代があつたと聞いても、一般の人々の微笑が吾々の心を奪はなくなる譯ではない。また昔風の家庭の躾を受けた日本の婦人が、消滅しつつある一つの世界の道德觀念を代表するからといつて、また吾々が彼女を拵へ上げるのにかかつた費用――計り難い苦痛の價――を極微かに推測し得るのみであるからと云つて、彼女が可愛らしくなくなつたのでもない。

 否。此の昔の文明のうちから殘存して居るものは魅力――筆舌に現はし難い魅力――に充ちて居る、そして誰れでも其の魅力を感知した人は、それが漸次亡びて行くのに一種の悲哀を感ずるに違ひない。藝術家や詩人の心をもつた人には、嘗ては此の神仙(フエアリイ)の國を悉〻く支配して、その精神を形作つて居た無數の制限は、如何に耐へ難いもののやうに思はれるとしても、彼はその最善の結果を讃美し愛好しない譯には行かないのである、その結果とは、昔の習慣の純朴さ、――風俗の溫厚、習慣の嫻雅、――接客歡待の際に示された巧緻な手腕、――如何なる事情の下にあつても、性格の最上で最も快活な有樣のみを外部にあらはす不思議な力等である。昔の家庭宗教の中に、――死者の靈の前に每夜灯す小さな燈明、飮食物の小さな供御物、訪ねて來る精靈のしるべをする迎へ火、精靈を乘せてその憩ひの場處に戾すささやかな船――と言つたものの中には、さうした事には極めて無頓着な人をも動かす、情緖的な詩趣が如何に含まれて居る事であらう。そして此の太古から傳はる孝道の教へは、義務に、感謝に、獻身に、あらゆる恐るべきものを强要するのみならず、また氣高きものをも同じく强要して、――吾々の絕えんとして絕えざる宗教的本能に、如何に不思議に訴へる事であらう。又其の教へによつて鍛鍊された、吾々よりも一層美しい性質は、如何に神に近いやうに吾々には見える事であらう。神々の前で歡樂と敬虔とを愉快に混ぜ合はせた、あの氏神の祭禮には如何に奇妙に不思議な魅力がある事であらう。子供の玩具から王侯の累代の品物に至るまで、殆どあらゆる工業の製產品の上に、その印象を止める――寂寞の境地を佛像の群で賑はし、或は路傍の岩石に經文を刻む――佛教美術のロマンスは何といふ面白い天地であらう。此の佛教の空氣の軟らかな魅惑――大梵鐘の殷々たる音樂、――恐れを知らぬ生き物。――呼ばる〻ままに羽音高く舞ひ下りる鳩、餌を求めて浮かび出づる魚――が常の住家として群らがつて居る綠濃き平和な寺庭、誰れがかうした物を忘れ得よう……。此の昔の東洋の精神生活に吾々が入る事を得ないにも拘らず、――『舊日本』の思想情緖の中に參入せんとするのは、丁度『時の流れ』を溯つて、昔のギリシヤの都市の既に消滅した生活に參入せんと望むのと一對であるのは、確であるにも拘らず、――吾々は、昔話にある、向う見ずに魑魅(エルフ)の國に人つて行つた放浪者のやうに、かうした幻影によつて永久に魅惑されてしまふのである。

 吾々はそこに錯覺――見得るものの實體に就いてのではなく、その意味に就いてのであるが、――非常に多量の錯覺のある事は心得て居る。併し何故此の錯覺が、樂園を瞥見したとでも云つたやうに、吾々を引き附けるのであらうか、――思想上ではラムジイズ時代のエジブトの如く吾々と懸絕して居る一種の文明が、道德的の魔力を有つ事を認めぬ譯には行かないのは何故であらうか。吾々は個人を認める事を拒んだ一種の社會的訓練の結果によつて實際魅了せられたのであらうか、――個人の人格を抑壓する事を强要した祭祀に魅惑されたのであらうか。

[やぶちゃん注:「ラムジイズ」ラムセス(Ramses)は古代エジプトの人名。ウィキの「ラムセス」によれば、『「ラー神の創造した者」を意味する』「ラーメス」の『ギリシア語表記。ラーメスを名乗った者は必ずしもファラオとは限らないが、エジプト新王国時代のファラオにはラーメスを名乗った者が多く、後世のギリシア語文献でラムセスとして記録されている』とあって、以下、ラムセスⅠ世(在位:紀元前一二九五年~紀元前一二九四年)からラムセスⅪ世(在位:紀元前一〇九八年~一〇七〇年頃)までの個別ウィキのリンクが張られてある。中でもエジプト新王国第十九王朝のファラオであったラムセスⅡ世(在位:紀元前一二九〇年 ~紀元前一二二四年、又は紀元前一二七九年~紀元前一二一二年とも)が有名なようである。]

 否。その魅力は、此の過去の幻影が、過去及び現在よりも遙かに多くのものを。吾々にあらはして居る事實、――完全なる同情の世界に於て、或る高尚な將來の可能性を豫示して居る事實から來るのである。數千年の後には、『舊日本』の理想によつて豫め表現されて居た道德的狀態、――本能的の無私、他人の爲めに幸福を作り出す事を人生の樂とする一般の人の希望、道德美に就いて一般が抱く一の觀念と言ふやうなものを、毫厘の幻覺を混じへず成就し得る一種の人道が發達するかも知れない。そして人間が自己の心の教ふるものより以外、何等の法典をも必要としない程までに、現在にたよるやうになつた時は、則ち實際神道の昔の理想がその最も優れた實現を示した事であらう。

[やぶちゃん注:八雲先生……今は……先生がこれを書かれて亡くなられた明治三七(一九〇四)年九月二十六日(小泉八雲満五十四歳。本書出版は同月で八雲は上梓された刊本を目にすることなく逝った。さればこそ本書の執筆は彼を殺したとも言われるのである)からたかだか百十四余年しか経っておりません……しかし……先生がこの今の日本の惨状を見られたとしたら……実の親が実の子を虐待の末に殺すような日本を……総理大臣が沖縄や福島やその他多くの国民の必死の叫びに耳を傾けないような日本を……そんな今の日本を見られたら……怒りを通り越し……絶望の涙を流されるに違いありません…………

「毫厘」「ごうり・ごうりん」。極めて僅かなこと。

 以下、一行空け。]

 

 その上、その結果がかく吾々を引き附ける社會狀態は、美しい蜃氣樓より遙かに以上のものを、實際に生じたのである事を記憶しなければならない。大なる魅力を有つた單純な特性は、當然固定したものではあるが、畢竟社會狀態が群集の中に發達させたものである。『舊日本』は、進化の度に於ては、遙かに進んで居る西洋の社會が數百年間に達し得たよりも、遙かに高尙な道德的理想の成就に一步近づいて居たのである。そして武士の勢力の隆興に續いたかの千年間の戰亂がなかつたならば、あらゆる社會的訓練の目標となつて居た道德的目的に、もつとづつと接近して居たかも知れなかつたのである。併し若し此の人間の性質の善良な方面が、もつと暗いもつと苛酷な諸〻の性質を犧牲にして、もつとよく發達させられたならば、その結果は國民の爲めには不幸であつたかも知れなかつた。侵略と狡智の能力を失ふ程までに、利他主義に支配された國民は、すべて世界の現在の狀態では、戰爭の訓練のみならず、競爭の訓練で鍛へられた種族に對抗して、その位置を保持して行く譯には行かないであらう。將來の日本は世界の爭鬪場裡で成功を收めんと欲するならば、その性格のうちの溫厚な部分とは正反對な諸〻の性質に依賴しなければならない。そして日本はさういふ牲質を强く發達させる必要があるであらう。。

[やぶちゃん注:いや、八雲先生、日本人はあなたの晩年以降、急速にそうした本来の日本人とは似ても似つかない人非人、ビーストとなって行ってしまったのです…………

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