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カテゴリー「梅崎春生」の230件の記事

2017/06/05

飯塚酒場   梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十月号『新潮』初出。後に作品集「侵入者」(昭和三二(一九五七)年四月刊)に収録された。

 「熱𤏐」の「𤏐」はママ。

 この飯塚酒場について、梅崎春生はエッセイにも記している。一つは「悪酒の時代――酒友列伝――」昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』)、今一つは金史良のこと(昭和三二(一九五七)年五月号『文芸首都』)であるが(リンク先は孰れも私の電子テクスト)、前者には、

   *

 飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。

「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」

 おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、

「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」

 とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。

 ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。

   *

とあるから、本作の『飯塚は戦災で焼けた』というのは小説結構中の虚構であろうかと思われる。]

 

 

   飯塚酒場

 

 

 飯塚酒場の横丁の塀越しに、大きな柳の木が一本立っていた。夏の夕方などには、そこらに蝙蝠(こうもり)がひらひらと飛んだ。

 昭和十八年の初め、行列は大体そのへんまでであった。酒場の入口からその柳の木まで、一列にぎつしり並んで、せいぜい四十人か五十人ぐらいのものである。

 だから五時開店で、次々に入場し、飲み終ったら外に出て行列の末尾につき、また入場し、そんな風にして、飲もうと思えばいくらでも飲めた。いくらでも飲めるとなると、人間はそういくらでも飲まない。いい加減満足すると引上げるということになる。今日無理に飲まなくっても、明日もあれば明後日もあるからだ。つまりその頃は、飲酒は遊びであり楽しみであり喜びであって、反抗とか闘いとか自棄(やけ)の域には達していなかったのだ。明日という日があるのに、何を無理することがあろう。

 飯塚酒場はがっしりした建物で、染(はり)や柱も太い材木が使ってあり、総体にすすけて黒くなっていた。窓がすくないので、内はうす暗かった。入口にかかった『官許どぶろく』という看板も、黒くすすけて、文字の部分だけが風化しないで浮き上っている。店から更に奥の土間に踏みこむと、そこに大きな掘抜き井戸があって、その水でどぶろくがつくられていたのだ。

 その頃すでに、一人一回分の飲み量は制限されていた。一回入場すれば、どぶろくの徳利が二本、それに一皿のサカナ。サカナの種類は豊富で、その種類と値段が壁にずらずらと貼り出されてあり、どれもこれも質や量の割には安かった。戦時中の品不足の時代としては、もっとも良心的な飲み屋の一つと言えた。

 だから三月、四月の頃から、行列がしだいに伸び始めた。新顔が日に日に加わってくるからだ。伸び始めたなと思うと、行列ほばたばたっと伸びて行った。その伸び方の速度は驚嘆に価した。行列は伸びるだけでなく、それに比例して行列のつくられる時刻が、ぐんぐんせり上って行った。

 五時開店で、それまでは五時すこし前にかけつけると、最後尾の柳の木の位置に並べたのに、行列が伸長するにしたがい、柳は最前方にかすむようになってきた。柳はもう末尾の象徴でなく、ひとつの目標に変ってきていた。行列が徐々に動いて、やっと柳の位置に到達すると、人々はほっと肩をおとし、ポケットから金を数えて出したりして、入場の準備をととのえたりした。手早く券を買い、手早くどぶろくを飲みサカナを平らげねば、また表に出て走って行列の末尾につくことにおいて、他人におくれをとるのだ。

 のんびりと行列していた状態から、こんな状態に変るまで、ものの二箇月もかからなかったと思う。

 戦時日本のやりくりが苦しくなって、その昔しさがいきなり民需に皺(しわ)寄せになってきたのは、昭和十八年の春から夏にかけてだろうと、飯塚酒場の行列の具合から、私は今でも推定している。飲食業者への配給が手薄になったために、業者はその乏しい配給をもって生活するためには、高価なサカナなどを抱き合わせて売る他はなかったのだろう。もちろん品薄を利用する商人の商魂もあったわけで、そんな具合であちこちの店がいきなり値上げをしたり、居丈高(いたけだか)になってきたりしたから、伝手(つて)を持たない善良にして貧しい大衆は、安くて良心的な店をあちこち探し求めて歩き、探し当てるとそこに蝟集(いしゅう)するということになってきた。私は今でも眼を閉じると、その頃あちこちに残った僅かな良心的な店の名を、その店構えや雰囲気などを、次々に思い出すことが出来る。飯塚酒場の柳の木の枝ぶりなどもそのひとつで、それはありありと私の記憶の夕暮れの中で今でも揺れているのだ。

 

 この飯塚酒場に貧しい飲み手が蝟集してきた理由のひとつは、他の店にくらべて品物が潤沢(じゅんたく)であったからである。何故潤沢であったかと言うと、この店は政府の配給にたよらず、自ら生産をしていたからだ。

 生産をしていたと言っても、原料の米は割当てにたよる他はないが、なにしろ生産の歴史が古いので、その実績を無視するわけには行かない。あの頃は、諸企業や事業の改廃統合は、おおむねその実績を第一としていた趣きがあって、実績というものがなければ、どうにもならなかった。実績は最大の強みであった。飯塚には徳川時代以来の実績がある。やすやすと配給を削減するわけには行かなかったわけだ。

 そこで彼等(つまりその頃権力を保持していた者ども)は、配給を削減しないかわりに、製品を自己の組織用に捲き上げることによって、実質的な削減をした。すなわち飯塚酒場は、毎日二石八斗乃至(ないし)三石のどぶろくを税務署、警察、消防署などに義務として納めなければならなかった。毎日のことだから、大変な分量にのぼるのだ。そして蝟集した善良な飲み手への配当は、日に一石から一石五斗、多くて二石ぐらいなものだったと推定される。一人当り二合として、二石では千人分ということになる。

 千人というとたいへんな数のようであるが、東京中からこの酒場を目指して集まってくるから、ものの数に入らない。

 そこで行列の意味が、柳が末尾の時代から柳が目標の時代へと変化し、また飲むことの意味も内容的に変化してきた。楽しみや疲労回復のために飲むのではなく、「飲むために飲む」という形になってきたのだ。自分の身体がどぶろくを欲するか欲さないか、「飲むために飲む」のであるから、そういうことは問題にも何にもなりやしない。

 戦時中あるいは戦後の配給制度が、酒をたしなまない人を酒飲みにさせ、煙草をのまない人に煙草の味を教えた。それにちょっと似たような関係がここに発生してきた。人人は飲むために行列し、そして一回でも余計に飲むために、大急ぎで飲み干して行列の末尾に奔(はし)った。どぶろくは味わうためにあるのではなくて、早く嚥下(えんげ)されるためにそこにあった。飯塚のどぶろくはたいへんな熱𤏐(あつかん)だったから、それを他人より早く飲むのは、さまざまの工夫と技術と、咽喉(のど)や舌などの訓練を必要とした。

 

 妙な気取りというかダンディズムというか、そんなものがそういう具合にして行列の常連たちの間に、しだいに芽生えてきた。

 それは以前の楽に飲めた時分には絶対に見られなかったもので、つまり他人より早く飲むことを誇りにし、また走つて他人より早く末尾につくことを偉(えら)しとする。それが一種のダンディズムの形をとってあらわれてきた。

 酒飲みくらべではあるまいし、早く飲むことが誇りになるかどうか、ちょっと考えれば判る筈なのだが、それはまたたく間に常連の一般的風潮としてひろがるようになった。

 どぶろく一日分の絶対量に対して、需要者の行列がむやみに伸びたこと、そういう歪(ゆが)みの中において、そういう風潮は自然のものだったかも知れぬ。どうせ早く飲むからには酒の味はしない。酒の味がしないものなら、せめて早さにおいて競う以外に楽しみはないのである。一人だけゆっくりとどぶろくの味をたのしむということは、その頃はもう許されないシステムになっていた。

 何故かというと、定刻が来ると行列の先頭から、三十人なら三十人だけ入場させる。そしてそれらが全部飲み終って退場するまで、次の三十人は入ることが出来ないのだ。二十九人が退場したあと悠々と一人で飲んでおれば、次の三十人が入口から顔を出して罵声(ばせい)や怒声をあびせかける。気が立っているから、袋叩きにもあいかねない。

 すなわちこの酒場においては、早く飲める者でないと、どぶろくをビールみたいにあおれる者でないと、入場の資格はなかった。それが資格であるからこそ、その資格の最上を競おうという気特になるのも、ある程度はうなずける話だろう。

 日本記録や世界記録を競うように、短時間であけることを競争する。それは本当の常連、早くから馳(は)せ参じて先頭の方に並んでいる連中に、それはいちじるしかった。

 定刻が来る。先頭の何十人かが入場して、その分の合い間を詰める行列の動きが最後部まで波及しないうちに、先頭グループのトップはいちはやく店を飛び出して、末尾目指して疾走して行く。後尾の連中は、行列の動きではなく、トップが走ってくることによって、もう開店したことを知るわけだ。そして次々走ってくる。皆そろって傾いた恰好(かっこう)で走ってくる。均勢のとれた正常な走り方をする者はほとんどいない。たいてい右か左に傾いて、マラソンの最終コースの走者みたいに走ってくる。

「飯塚のどぶろくにはね」ある男が私に教えた。「焼酎がすこし混ぜてあるんだ。だから利きがいいし、長年飲んでいると、どうしてもあんな走り方になってしまうんだ。あの万ちゃんがいい例だよ」

 万ちゃんというのは飯塚酒場の長年の常連で、本来は俥夫(しゃふ)なのだが、本業にはあまりいそしまず、消防署下で八百屋をやっている弟の庇護(ひご)を受けながら、毎日飯塚に通っていた。アルコール中毒というより、どぶろく中毒というべき人物で、トップに立って走ってくるのは、たいていの場合この万ちゃんであった。万ちゃんの走り方は三十度ばかり左に傾いていた。

(万ちゃんは別として)万ちゃんやその他の連中の走り方を観察しながら、私は時々考えた。(皆そろって傾いて走るのは、自然にそうなるのではなくて、やはり一種のダンディズムじゃないのかな。気取り、あるいは、照れ)

 そして実際に自分の番になり、行列の視線を逆にしごいて走る時、傾いて走る方がやはり具合のいいような感じもあった。私の場合は、照れの気分もすくなからず混っていた。なにしろたくさんの視線を逆にしごくのに、胸を張って堂々と走るわけには行かない感じがたしかにあったのだ。やはり傾走がその場にふさわしかった。万ちゃんのはそんな気取りやポーズではなかった。長年のどぶろくが身体のどこかをむしばんでいて、運動神経の働きもすこしは鈍っていたらしい。彼は戦後のある日新宿で飲み、(飯塚は戦災で焼けたから)電車はタダ乗りして帰宅の途中、電俥から飛び降りたとたん、大型自動車に衝突して、彼らしい壮烈な最後をとげた。やはりどぶろくのために運動神経が弱まっていて、ついタイミングを誤ったのであろう。

 しかし神経はにぶっていても、彼のどぶろくの飲み方は、群を抜いて早かった。コツがあったのである。

 徳利から盃(さかずき)についで飲む、そんな正常の方法を彼はとらなかった。その方法はどぶろくが熱𤏐だから、かなり時間がかかるのだ。

 先ず器(うつわ)の大きいサカナを注文する。サカナの種類は問わない。器が大きければ大きいほどいいのだ。その器の中のサカナを指でぶら下げ、空いた器の中にどぶろくを注ぎ込む。それをあおるのである。器は盃より大きいから冷え方も早い。だからスピードが上るのだ。それであおって、サカナは指にぶら下げたまま飛び出し、走りながらそれを食べるのだ。

 空気の抵抗を極度に排除するために、航空機は非常に美しい流線形のかたちをとる。眺めるだけでもこころよい。万ちゃんのやり方もそれと同じく、その合理性において、ほとんど美しく壮烈であると言ってもよかった。

 では、万ちゃんはその飲み方の速さにおいて、衆人の畏敬の的になっていたかと言うと、それはそうでなかった。畏敬と正反対のものの的になっていた。

 皆もその速さを競い争っていたにもかかわらず、万ちゃんが畏敬されなかったのは、その極致の姿において、競い合いのバカバカしさがあらわに出ていたからだろう。極致というやつはどんな場合でも、奇怪でグロテスクなものである。人間という生身(なまみ)の場合においては特にそうだ。

 

 行列が伸び、後尾は角を曲り、更に伸びてまた角を曲ってくるようになると、どうしてもそれを整理する人間が必要になる。つまり世話人だ。

 それらの世話人は、行列の伸長につれて自然的に発生し、やがてそれらは一種のボスとなって行った。

 その世話人の発生、ボス化は、実に典型的な過程を示していて、私は今でも思い出しては興味をそそられる。

 ボスの元締めと言うべきは「棒屋」という男で、何で棒屋というのか知らないが、棒か何かの製造に従事していたのだろう。

 その下にレンガ屋、赤鼻、なんて言うのがいて、その下に万ちゃんがいた。万ちゃんは小ボスというより、ボスの手下であり、手下であることによって行列に割り込んだり、あるいはタダで飲ませて貰ったりしていた。

 彼がそういう位置を占め得たのも、実力によるものでなく、この酒場に何年何十年と通った「実績」による方が大きかったのだ。

 実績という言葉は、判ったような判らないような、たいへん日本的言葉で、私はこの実績ならびにボスの形成の有様を、いつか別の形でくわしく書いてみたいと思う。

2017/02/11

910000アクセス突破記念 熊本牧師 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月号『新潮』初出、同年九月河出書房刊の単行本「紫陽花」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第四巻」を用いた。

 登場する貨幣(銅貨)単位でも判るが、これは梅崎春生の少年期をモデルとしているから、大正一〇(一九二一)年(春生はこの年に福岡市立簀子小学校に入学。六歳)から、大正一五(一九二六)年よりも前(彼は昭和二(一九二七)年に修猷館中学校に入学している。十二歳)の時制として読むべきであろう。後半に出る「五厘銅貨」は大正十年頃には既に製造をやめているようであり、作中でそれを「正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばい」とするところ、牧師に行動を変に疑われるところから考えると、大正十三、十四年、梅崎春生小学四、五年生の頃がモデルと考えてよいように思われる。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが910000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年2月10日 藪野直史】]

 

 熊本牧師

 

 その教会は町なかにあった。

 それは幅三間ばかりの商店街で、商店街というより商人町と言った方がピッタリするような小さな呉服屋や荒物屋やアンパン屋や自転車屋、そんなのがごちゃごちゃ並んでいるまんなかに、その教会はぬっと聳(そび)え立っていた。教会そのものはそれほど大きな建物でなかったが、あたりの家家が小さいので、ことのほか大きく見えるのだ。それに建物の様式が周囲とかけ離れていて、屋根上の十字架や色ガラス、石階や小さな鉄柵に囲まれた花壇、古ぼけた町がこういう異物をかかえこみ、そしてたいへん当惑しているようにも見えた。実際に町は当惑していたのだろう。よほど古い町筋で、そこの住民たちはたいへん保守的で、それに排他心の強い傾向もあったから。僕がその教会の日曜学校に通っているというだけで、その町の子供たち、僕の同級生やあるいは下級生までもが、僕の背後から嘲笑的にはやし立てたりするのだ。[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチほど。]

「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」

 日曜日の朝になると、小学生の僕はだんだん心が重くなり、身体のふしぶしがだるくなってくる。日曜学校に行きたくないのだ。日曜学校で讃美歌をうたったり、お祈りをしたり、聖書のお話を聞いたり、そんな一時間が退屈の故もあったが、その往き帰りに同級生たちがそそぐあの嘲弄的なまなざし、それが耐えがたかったのだ。思うだけでも気が滅入(めい)ってくる。他の同級生にとっては、日曜はたいへん愉しい日なのに、僕だけは日曜というやつが重苦しい。重苦しいと言ってもそれは午前中だけで、午後からはすっかり愉しくなるのだけれども。つまりその頃の僕の日曜は、午後から始まると言ってもよかった。

「日曜学校だよ」

 とお母さんが僕を揺りおこす。乱暴に揺りおこす。

「遅れると熊本牧師さんに叱られるよ!」

 僕は渋々と食卓に向う。腹が痛いことはないか、風邪の徴候はないか、そんな具合に自分の身体を探るようにしながら。病気になれば日曜学校を休めるのだ。(そのかわり牛後の愉しさもふいになる危険はあったが)。その頃僕の家の朝食は、週日はいつもオカユだった。茶を入れてたいた茶ガユというやつだ。それをタカナの古漬けか何かをオカズにして、さらさらとかっこむ。その茶ガユが僕には苦手だった。今でも僕は茶ガユというやつは、子供に与えるのは不適なものだと思っている。毎日学校の行き道に、道沿いの長屋の部屋々々で、その住人たちが真白な御飯や味噌汁を旨(うま)そうに食べている。それを見て僕はうらやましいと思う。唾が出てくる。なぜ家(うち)では硬い御飯を朝食べないんだろうなあ。その方がおいしいし、力もつくのになあと思う。お婆さんが佐賀の出で、それでしきたり上朝は茶ガユにするとのことだった。僕は子供心にいつも佐賀をのろっていた。

「さあ、御飯だよ」

 日曜日の朝だけは茶ガユでなく、白くて硬い御飯なのだ。僕のお父さんは官吏で、日曜日は休みで朝寝が出来るから、そこで御飯ということになっていたのだろう。茶ガユというやつは御飯にくらべて、はるかに簡単に手軽に出来るし、それにオカズがほとんど要らないのだ。しかし真白な御飯でも日曜日の朝は面白くない。飯のあとにイヤな行事が待っているからだ。

「さあ。服はここにあるよ」

 飯が済むとお母さんが言う。ふつうの週日、月曜から土曜までの学校行きは、小倉の服に下駄ばきなのに、日曜学校行きとなるとサージの服で、しかもそれが折襟で、穿(は)くのは靴と来ている。そんな恰好(かっこう)であの商人町を歩くと、どんなことになるか。[やぶちゃん注:「小倉」小倉織(こくらおり)。江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)の特産で縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布を指す。「サージ」オランダ語“serge”(セルジ)。しばしば「セル地」と書くが「地」(布地)は当て字。主に梳毛糸(そもうし:羊毛から長い繊維を縒り分けた上でこれを梳いて縮れを伸ばし、平行に並べて作った毛)を用いた薄手の毛織物。英語は同綴りで発音は「サージ」である。「折襟」ここは立折襟(おりえり)で所謂、学生服様(よう)の詰襟のことであろう。]

「ふだんのでいいよ」毎回僕はお母さんに哀願する。「靴なんかイヤだ」

「駄目だよ。教会に下駄穿いて行く人なんかありますか」

 お母さんはなかば暴力的に、僕にそのゼイタク服を着せてしまうのだ。そして靴も同じく無理矢理に。そしてポケットに二銭銅貨をひとつぽとんと入れてくれる。献金用にだ。実際あの頃の二銭銅貨は大きかったなあ。ずしりと持ち重(おも)りがして、まるで文鎮(ぶんちん)みたいだった。それをポケットにまさぐりながら、僕はしょんぼりと出かける。腹が痛いといいんだがなあ、などと考えながら、まるで屠所にひかれる羊みたいに。

 そして僕はあの商人町に足を踏み入れる。同級生の眼にとまらないようにと、軒下をうつむき加減にして、そそくさと足早に歩く。でも駄目なのだ。かならず誰かに見つかつてしまう。たとえばアンパン屋の息子などに。アンパン屋は教会の隣にあって、その息子が僕と同級で、そいつがまたあまり出来が良くなくて、アンパンというあだ名がついていた。

 「またアーメンソーメンかい」アンパンは僕を見付けてにやにやしながら言う。「アーメン、ソーメン、ウドンソバ」

 一週間で日曜をのぞいたあとの六日なら、僕もひとかどのがき大将で、アンパンのそういう雑言を許しはしないのだが、日曜となるともう駄目なのだ。ゼイタク服を着て皮靴を穿いているというだけで、僕の気持はたちまち萎えひるんでしまう。ストレートジャケットを着せられたみたいで、手も足も出なくなってしまうのだ。僕は歯を食いしばり、恥で顔をあかくして、こそこそと教会の門に飛び込む。門に飛び込んでしまえば、もうこっちのものだ。いく らじたばたしたってアンパンたちはここに入れないのだから。(帰りがまた辛いのだけれども)。そして僕は熊本牧師のところにあいさつに行く。[やぶちゃん注:「ストレートジャケット」“straitjacket”は、囚人などでも粗暴な者や、暴力傾向の強い精神疾患を持った患者に強制的に着用させるズック製などの拘束着のこと。]

「牧師さん。こんにちは」

 熊本牧師は背が高く、肩幅もがっしりとしている。真黒な鬚(ひげ)を頰から顎(あご)に生やして、まるで熊襲(くまそ)のようだ。その熊本牧師が渋団扇(しぶうちわ)みたいな大きな掌を僕の頭にのせる。

 その教会の正牧師はずっと病気中で、この熊本牧師がその代理としてやっているとのことだった。[やぶちゃん注:「正牧師」プロテスタントで当該の教会の主任牧師を指す。熊本牧師はその下で経験を積むために奉仕している副牧師ということであろう。]

 九時から日曜学校が始まる。日曜学校と言っても、十時から始まるふつうの礼拝の大人たちがもうやって来ていて、僕たちの世話をやいたりするから、まるで大人と子供とまぜこぜの学校みたいだった。子供たちはこの町のはいなくて、たいてい他の学区の少年たちで、この町の子供たちとちがってツンとすましていて、やはりゼイタク服と皮靴を穿いていた。僕もゼイタク服は着ていたが、気分的にはこいつらと全然親しめなかったのだ。だから教会堂の中でも僕は孤独だった。

 やがてお祈り(天にましますわれらの父よ、というやつ)、それから讃美歌(学校の唱歌とちがうあのキナキナした感じの歌)、それから小部屋にわかれて聖書の話、また元に戻って讃美歌(その時に献金箱が回ってくる)、最後にピラピラの絵入りカード(神は愛なり、などと印刷してある)を貰って、それでおしまい。なんとも退屈な一時間だった。[やぶちゃん注:「キナキナ」方言と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。]

 こんな退屈な一時間に、二銭銅貨を献ずるなんて、もったいなくて仕方がない。

 そこで僕はその二銭銅貨を途中でくずして、つまり一銭分だけニッケ玉か飴玉を買い、それを食べ、献金は一銭ということにしていた。献金箱には各自がそっと入れるのだから、二銭だって一銭だってかわりはない。

 今考えると、入れたふりして次に回すことが出来るのだが、当時の僕は純真で、そこまで悪智慧が回らなかった。

 そんな具合で、この日曜学校においては、僕はあまり良い生徒ではなかった。

 聖書の話中に居眠りをしたり、暗誦(あんしょう)させられてもてんで出来なかったり。

 それに総員起立で讃美歌を歌っている時などに、突如として僕は身をかがめ、椅子の下にもぐり込んだりするのだ。何故かというと、隣のアンパン屋の物干台の上から、アンパンが窓ごしに会堂内をのぞき込んだりするからだ。もちろん僕がいるかいないか、どんな顔をして讃美歌をうたっているか、それを見てやろうとの魂胆からだ。すなわち僕は椅子の下にもぐり込まざるを得ない。

 そういう僕を、熊本牧師は恐い眼をしてにらみつける。会堂の秩序を乱したものとして、ぎろりとにらみつける。にらみつけるだけならいいが、居残りを命じて、僕を叱りつけたりするのだ。

「お父さまやお母さまに言いつけますぞ!」

 それが熊本牧師のきまり文句だった。

「そんなことをしてもいいと思っているのか。この前の日曜も椅子の下にもぐり込んだではないか。一体何のためにもぐり込むのですか?」

 僕は答えられない。

 その答えられないということにおいて、熊本牧師は僕を誤解したんじゃないかと思う。僕をなるだけ女生徒の近くに腰かけさせないようにし始めたのだ。僕のそばに女生徒がいると、直ちに恐い眼になって僕に命じる。

「××君。君の席はあちら!」

 僕は情なかった。そういう具合に誤解されたことにおいて、僕は情なかった。アンパンがのぞき込むからこそ、僕はもぐり込まざるを得ないのだ。近くに女生徒がいようといまいと、それは全然関係ない!

 だから僕はいつか熊本牧師をすこしずつ憎み始めるようになっていた。そういう僕をひねくれ子供として、熊本牧師は憎んでいたにちがいない。

「また君はお祈りの中に首をちぢめたりして、皆を笑わせようとしたな。お父さまに言い付けるぞ。君のおかげで場内の空気が乱れては、わたしの立つ瀬がないではないか!」

 絵入りカードがくばられる前に、熊本牧師はその日の献金額を皆に報告する。たとえば次のような具合だ。

「今日の献金は総計一円五十五銭でした。皆さんのこの浄らかな献金は、いつもの通り、貧しい可哀そうな人たちに贈りたいと思います」

 熊本牧師はおちょぼ口でそういう報告の仕方をする。表面におちょぼ口は全然似合わないのだ。そして熊本牧師は食堂の入口に立ち、帰って行く僕らに満足そうに、一枚ずつ絵入りカードを渡す。

 ある日曜の献金報告の時、熊本牧師は大へん困ったように、口をもごもごさせた。

「本日の献金は、ええ、合計一円三十五銭と――」熊本牧師はちょっとためらった。「ええ、一円三十五銭と、五厘でした」

 わあ、と皆が笑い出した。

 熊本牧師は威厳を傷つけられたように、顔をまっかにして唇を嚙んだ。思いなしか僕の方をじろりとにらみつけたようである。

 もちろん僕もわらっていた。その五厘銭は僕が入れたのだ。二銭銅貨でニッケ玉を三個買い、おつりの五厘銭を献金箱に投げ込んだのだ。五厘の価値しかないと僕が判定したわけだ。それに五厘に格下げすれば、ニッケ玉が一個余計に手に入る。

 その頃五厘銅貨というやつは、もう正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばいで、なにか滑稽で愛橋のある銅貨だったのだ。[やぶちゃん注:画像。]

 その日曜から三回にわたって、教会の献金額には五厘という端数がついた。その度に熊本牧師は少からず威厳を損じた。

 それならば五厘という端数を省略して報告すればいいのに、やはり熊本牧師は神の子だから、虚偽の報告は出来なかったのだろう。それを思うと気の毒でもあるが、しかし彼にも充分な責任がある。彼も罪を犯している。誤解という罪を犯している。

 その次の日曜日はもっとひどかった。

 献金箱の中に天保銭が一枚入っていたのだ。

 熊本牧師の面目は、その瞬間においてまったく丸つぶれになった。そして彼はすでにその犯人の目星をはっきりつけていた。

 僕は居残りを命じられた。絵入りカードも貰えずにだ。熊本牧師は乱暴にも僕の耳を引っぱって、いきなり隅の小部屋につれて行った。

「君だな。献金箱に天保銭を入れたのは!」

 熊本牧師は顔をまっかにして、こめかみをびくびくふるわせながら、そう怒鳴りつけた。

「君だろう。君以外にこんな大それたことをやる者はいない。ああ、何ということだ。聖なる神様に天保銭だなんて!」

 僕は黙っていた。かたくなに黙って、ポケットのニッケ玉をまさぐっていた。一箇食べただけだから、それはまだ三箇残っていたのだ。

 とたんに熊本牧師ががくんと床に膝をついたので、僕はびっくりした。彼は大げさに指を組み、天井に顔を向け、白眼を出すようにしながら、お祈りを始めたのだ。それは神様に向って、僕のような悪い子供のいることを許して呉れ、という風(ふう)な意味のものだった。堅い木椅子に腰かけたまま、僕はしだいに居ても立ってもいられないような、むずむずした気分になってきた。うらがなしいような自責の念もあった。しかしそれはその奇妙な気分の主調ではなかった。もっと別の、もっと生理的な、汗がじりじり滲み出てくるような、えぐいような、嘔吐(おうと)を伴ったようなイヤな気分。そして瞬間僕はかるい貧血を起して、そのまま椅子から辷(すべ)り落ちて、床にしゃがみ込んでしまったのだ。熊本牧師はあわててお祈りを中止して、僕を抱き上げたらしい。黒い毛織の服のにおいがふわっと僕の鼻にただよった。

 

 次の日曜日の朝、僕は腹痛をおこした。

 その次の日曜日は、腹くだしを。

 その次は、鼻カタルを。

 だから三回つづけて日曜学校に行かないで済んだ。ふしぎなことにはそれらの病気は、午後になるとピタリと快癒(かいゆ)した。まったく奇妙なぐらいだった。

 その次の日曜日も、僕は朝から身体のあちこちが具合が悪かった。

 寝ている僕を見て、お父さんがにがにがしげに言った。

 「また日曜病気か。仕様がないな」

 そしてお母さんを呼んで言いつけた。

「もう日曜学校に通わせるのは、止めにしなさい。ほんとに仕様のない子供だよ、こいつは」

 その日以来、僕はずっと日曜学校に行かないですむことになった。日曜病気もそれ以後全然起らなくなった。僕は日曜の度にたいへん健康だった。あのゼイタク服はお正月に着用するぐらいなもので、そのうち身体に合わなくなったから、割に新しいまま弟に下げ渡した。

2017/01/18

ブログ900000アクセス突破記念 梅崎春生 風早青年

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月発行の『別冊文藝春秋』(第四十七号)に初出。後に単行本「侵入者」(昭和三二(一九五七)年角川書店刊)の所収された。

 作中に出る「マンボ・イタリアーノ」(Mambo Italiano)は一九五四年に私の好きなアメリカ人ジャズ・シンガーのローズマリー・クルーニーRosemary Clooney)が歌い、全米ビルボード・チャート最高位十位を記録するヒットとなった曲で、同年中にペギー葉山が、翌年には雪村いづみがレコード録音しており、ペギー葉山はまさにこの初出の年の大晦日の「NHK紅白歌合戦」で本曲を歌っている(リンク先は総てYou Tube の音源。ローズマリー・クルーニーのそれは動画)。

本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが900000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年1月18日 藪野直史】]

 

   風早青年

 

 初めに荷物が送られてきた。大きな荷物、小さな荷物、固い荷物、やわらかい荷物。それらがどさどさと我が家に運び込まれてきた。納戸(なんど)はほこりだらけになった。

 二三日経って、風早青年の姿が、風の如く我が家の玄関にあらわれた。ズックの手提(てさ)げをひとつぶら下げ、手拭いを首に巻き、シャツ姿の軽装である。僕の顔を見て、エへへとわらった。眼尻をゆるめるようにしてわらった。

「とうとうクビになりましてね」と風早青年は左手で首の根をチョンチョンと叩いた。「それで思い切って、東京に出て来ましたよ」

「君のクビが飛んだって、それが僕に何の関係があるんだい?」僕は言った。「勝手に荷物なんか送りつけられては困るねえ」

「はて。先にお願いのハガキを出しといた筈ですが――」

「そんなハガキ、受取らないよ」

「はて、おかしいな」風早君は手提げを下に置き、あちこちポケットなどを探す仕種(しぐさ)をした。「すると、出し忘れたのかな」

 僕が黙っていると、彼はますますあわてて、ズボンの折返しなんかを調べたりしている。そんなところにハガキがはさまる筈があるものか。仕方がないから僕は言った。

「まあ一応上れよ」

 風早君は玄関先で靴も靴下もとり、手拭いを首から外し、足をばたばたはたきながら、のそのそと上ってきた。六年前からくらべると、身体もやや大きくなり、うすら鬚(ひげ)なんかを生やして、大人びてきている。

 畳に坐るとピタリと両手をつき、ていねいに頭を下げ、下げたまま諳誦(あんしょう)みたいな口調であいさつをした。

「ながらく御無沙汰をいたしました。今後ともなにぶんよろしくお願いいたします」

『今後とも~』と僕は胸の中で言った。『今後ともはイヤだよ。俺は君に何かしてやる義務もなければ、責任もない』

「君の荷物はあちらにあるよ」僕はむっとした顔で納戸の方を指さした。「飯は食ったか?」

 食っていないと言うので、僕はおひつとおかずを出してやった。風早君はおひつの中の御飯をおどろくべく多量に食べた。おかずはカマスの干物にツクダ煮だ。カマスの干物はあまり新しくなかった。

「東京の魚はおいしくないですね」食後の番茶を飲みながら、風早君は言った。「あちらのとくらべものにならん」

 あちらとは彼の故郷で、九州の海浜の町で、魚がよく獲れるところだ。そりや獲りたての魚の方が旨いにきまっている。

「東京の魚。東京の魚ってどこで食ったんだ。まだ東京に来たばっかりだろう」

「来たばっかりです」彼はきょとんとして言った。「ここでカマスを食べました」

 僕はうんざりして、もう何も言う元気がなくなった。それから彼は納戸に入り、荷物の梱包(こんぽう)を解き始めた。口笛を吹きながらその作業をやっている。時々、チェッとか、アリャとか、乱暴だなあ、なんてひとりごとを言ったりしている。しばらくして僕がのぞくと、荷物をすっかり整頓し、納戸のあちこちに配置し、当人は納戸の主みたいな表情であぐらをかき、キザミ煙草をくゆらしていた。若いくせにキザミ煙草とは生意気な! その煙草盆も、我が家のではないところを見ると、梱包の中に入れて持ってきたにちがいない。彼は僕の顔を見るなり、先手を打つように言った。

「実際鉄道会社は乱暴ですなあ。蓄音器なんかガタガタになって、こりゃ使いもんにならん」

 見ると隅の茶簞笥(ちゃだんす)(これも彼のもの)の傍に、小型の電蓄がちゃんと置いてある。電蓄がどうなろうと、僕に何の関係があるというのか。彼はけろりとして、電蓄の上の一枚の紙片を僕にさし出した。

「ハガキ、ありましたよ。出し忘れて、蒲団(ふとん)の間にはさまっていた」

 うっかりと僕はそれを受取ってしまった。ひっくりかえして見ると、今度会社をクビになったから上京したいということ、東京には知人もなければツテもないから、メドがつくまで同居させて呉れということなどを、下手くそな字と文章で、くにゃくにゃと書きつけてある。僕が読み終えると、彼は茶簞笥からがさがさした紙包みをサッと僕の前にさし出した。

「オヤジから呉々(くれぐれ)もよろしくとのことでした。これは詰らないものですが」

 それもうっかりと受取ってしまった。

 それで風早青年はまんまと僕の家に居付いてしまった。

 納戸を居城として、毎日々々どこかに出かけて行く。

 狐みたいな顔をしているくせに、なかなかのおしゃれで、ポマードや化粧品や、小型の鏡台までも買い込んだ。金使いも割に荒いらしい。

 クビになったのなら無収入の筈だが、どこから金を都合してくるのか。その点を質問すると、彼はへへッと首をすくめて言った。

「退職金がありますし、それに失業保険もね」

 失業保険というやつは、月に三回か四回に分割して支払われるのだそうで、その度に彼は職安にそれを受取りに行く。毎日外出するのは職安その他に職を探しに行くというのだが、どうもそれは信用出来ない。

 映画を見たりパチンコをやったり、そんなことばかりをしているらしい。酔っぱらって戻ってくることもある。納戸の中でへんな身振りをしながら、ヘイとかウーとかうなっているのを、僕は見たことがある。

 ある日家内が僕に言った。

「あの子ねえ、どうも失業保険が切れるまで、東京でブラブラ遊ぶつもりらしいわよ」

「何故それが判る?」

「うちの子供にそんなことを話したらしいのよ。半年は東京で遊ぶって」

「おい、おい。半年もうちで遊ばれちゃ困るよ」

「あたしも困るのよ。だってあの子はひどい脂足(あぶらあし)で、歩くと畳や廊下がべたべたになるのよ。それにあの子はへんなにおいがする。動物園の狐みたいな」

 メドがつくまでという約束だったが、当人にはメドを早くつける気持はないし、その努力もしていないらしい。仕方がないから追い出そうという気特にこちらがなると、それを察するのか偶然なのか、彼は何か土産物を持って戻ってくる。子供に絵本を買って来たり、玩具を買って来たりするのだ。子供がワッとよろこぶものだから、ついにこちらも切り出しにくくなってしまう。

 子供を手なずけることによって、彼は延引策をはかっているらしい。

 童謡のレコードを買ってきて、それをあのガタガタの蓄音器にかける。子供は大よろこびだ。ところが器械のどこかが狂っているので、レコードは波を打ちながら回り、したがって歌声も酔っぱらいのそれのように、呂律(ろれつ)が乱れるのだ。その呂律の乱れを子供たちは喜んでいるのかも知れない。

 彼がいないところで子供に歌わせると、その蓄音器の影響で、へんな歌い方になってしまっている。教育の上からもそれは面白くないことだ。僕は言ってやった。

「その電蓄、修繕に出したらどうだね?」

「出そうと思ったんですが、修理屋に聞いてみると、四千円もかかるそうで、もったいない」

「四千円かかったって、使い物にならないよりいいじゃないか。修繕しない方がよっぽどもったいないぜ。それに子供にへんな歌い癖がついてしまって、教育上も面白くないよ」

 次の失業保険がおりたら修繕する、という約束になったが、その前に彼の方が家を出て行くことになった。失敗をやって家内を怒らせたのだ。

 どういう失敗かと言うと、彼はごきげん取りのつもりで、子供にマンボ・イタリアーノと言う歌を教え込んでしまったのだ。これではその母親が怒るのも当然だ。

「何ですか、あの子!」母親は激怒して僕に訴えた。「年齢も行かぬ子に、ヘイ・マンボなんかを仕込んで!」

 仕方がないから僕も覚悟をきめて、風早青年を書斎に呼びつけた。

「君の生活態度を見ていると、もうこれ以上君が僕の家にいるのは、不合理のように思う」と僕は言った。「君は来た当座はキザミ煙草などを吸っていたが、近頃では洋モクを吸っているようだね」

「はあ。洋モクの方がおいしいものですから、どうしても」

「しかしだね。洋モクを吸えるような経済状態なら、なにも僕の家にいないで、よそに部屋を求めたらどうだね?」

「へえ」きょとんとしている。

「それに君は仕事を探しに毎日外出しているというが、ウソだろう。毎日遊んでいるのだろう」

「いや、探すには探しているんですが、なにしろこの不景気で、職が見付からないんですよ。遊んでいるなんて、飛んでもない」

「だって君のポケットには、喫茶店のマッチや、映画のプログラムや、パチンコの玉なんかがよく入っているぜ。遊んでないとは言わせないよ」

「ひでえなあ」あわててポケットを押えて、彼は大声を立てた。「他人のポケットを無断でしらべるなんて、ひでえなあ」

「ひどいことはないよ。しらべるなんて人聞きが悪い。のぞいて見ただけだ」

 それからマンボ・イタリアーノの件などを取り上げ、それを極め手にして、ついに彼を説き伏せることに成功した。納戸がタダであることに彼は大いに未練があるらしかったが、ヘイ・マンボの弱味があるので、ついに退散の気特になったようである。

 それから三日後に、彼はふたたび荷物をまとめて出て行くことになった。

 出て行くすこし前に、彼は蓄音器をかかえて、僕の部屋にやって来た。

「ながながお世話になりました」彼はピタリと両手をついて、ばかていねいな頭の下げ方をした。「二箇月も御厄介になったお礼心に、この電蓄を差し上げることにいたします」

「それは有難う」僕は頭を下げた。「喜んでいただいとくよ」

「それについてですけれどね」彼は電蓄をいとしげに撫でさすった。「この電蓄はちょっとこわれているでしょう。それでその分だけの金額を僕にいただけませんか」

「え?」

「ええ、つまりね、この電蓄は、故郷(くに)からあなたのところに送ったために、こんなにガタガタになったのでしょう?」

「それはそうだ」

「だから、つまり、こわれたのは、あなたの責任ということになりますね。あなたがいなければ、この電蓄はこわれるような運命にならなかった。そういうわけでしょう?」

「おいおい、それはおかしいよ」

「おかしくはないですよ」彼は断乎として言った。「昨夜考えてみたが、理窟としてはそうなるんですよ。その電蓄をあなたに差し上げる。そのかわりに、こわした責任をあなたに持って貰う。これでピッタリと計算が合うんですよ」

 実に自信あり気な口調だったし、そう思い込んでいるのを説得するのも面倒なので、僕は千円紙幣を四枚とり出して、彼に渡してやった。彼は器用な指付きでそれを数え、ポケットにしまい込み、またばかていねいに頭を下げた。

「へっ、確かに」

 その日の午後、彼は意気揚々と、荷物と共に我が家を出て行った。いつの間につくったのか、女友達が二人も手伝いに来たのには僕もおどろいた。もっともその二人ともあまり美しくはなく、それに手伝いとは名ばかりで、キャアキャアと歌ったり騒いだりしてばかりいた。

 その日以来、風早青年は一度も僕の前に姿をあらわさない。別段こちらも用事はないのだから、それでも結構だ。

 れいの電蓄は、がらんとした納戸の片すみに、今でもこわれたままで置かれてある。四千円出せば修繕出来るのだが、風早青年に四千円をとられ、また別口に四千円を支出するのは、何だかもったいない気がするから、そのままにしてあるのだ。こわれたままだから、物の役には立たない。どうも僕は風早青年から、四千円をタダで巻き上げられたような気がして仕方がないのである。

2017/01/10

小さい眼   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年一月号『新潮』に発表。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻に拠った。

 文中に出る「厚司」はアイヌ語語源で、平織り又は綾織りの厚い木綿織物。紺無地或いは単純な縞柄で仕事着として用いる。冬の季語である。]

 

 小さい眼

 

 初めに誤解があった。思い違いをしたのは、おれじゃない。相手の方だ。相手の思い違いが判った時、おれはすぐ訂正すればよかったのだ。

「そうじゃないんだ」

 しかし、おれはしなかった。これはまあ気合のもので、一瞬の機を失すると、もうどうにもならない。強いてやると、たいへん具合の悪いことになる。おれは対人関係で、具合の悪いところに落ちるのはイヤだ。自分が落ちるのもイヤだけど、相手が落ちるとそのはねっかえりで、なおのことイヤになるのだ。

 相手というのは、婆さんだ。婆さんと言っては悪いかも知れないが、その頃はおれも若かったからそう見えた。地味な着物をきちっと着て、白い上っ張りをつけ、その上に襟巻を巻いている。小肥りに肥っていて、したがって顔も丸くつやつやしていて、よく熟(う)れたドングリの実のような感じがする。そのドングリ顔についた小さな眼がおれを見て、それからちらと時計を見上げた。時計は九時五分を指していた。

「まあまあ、お気の毒に」

 婆さんは視線を戻してそう言った。何が気の毒なのか、とっさにはおれに判らなかったが、あわれまれているのが自分だということだけは、ぼんやりと判った。そういう不安定な事態に時々遭遇するが、その時のふるまいかたがむつかしい。まだ平衡を保っているから、こちらからぶち破ることはない。そんな気の弱さが、いつもおれにはある。おれは自分の衣服をしらべ(裏返しに着てやしないか)また鏡にそっと顔をうつした。丁度都合よくそのミルクホールには、壁に鏡が帯状にはめこまれていて、そこにうつったおれの顔は、不精髭こそ生えていたけれども、とくに汚れていたり、またへんなものがくっついていもしなかった。顔や身なりで気の毒がられているのではない。素早くそのことをたしかめて、おれは何気ないような歩き方で、あやふやに椅子に腰をおろした。せまい店だから、婆さんに遠く離れるというわけにはいかない。一卓をへだてて、婆さんに背を向ける椅子をえらんだ。おれはミルクコーヒーを飲もうと思っていたのだ。

「ミルクコーヒー」

 おれが声に出してそう注文する前に、背後で婆さんががたがたと立ち上った。傍を通り抜けて、そのまま店を出て行くのかと思ったら、ゆっくりと身体を回して、おれの前の椅子に腰をおろす。椅子がぎゅうとふやけたような音を立てた。

「あんたったら、運が悪いねえ」

 おれは顔を上げたまま黙っていた。返事しようにも、しようがなかった。

「あんた、学生さんかい?」

 おれはうなずいた。すると婆さんは腰を浮かし、手を伸ばしておれの肩にふれようとした。婆さんの手は短いし、おれが肩を引いたものだから、ついに接することはなかったけれども。

「うちにおいで!」

 婆さんはそのままの姿勢で、言葉に力をこめた。力をこめても怒っているわけじゃない。小さな眠が善意と憐憫(れんびん)のようなものにあふれて、おれをじっと見入っている。

「うちにおいで。うちに来ればどうにかなるよ!」

 事情が判らないまま、その語調につられて、おれは何ということなく立ち上った。まだためらうものがあって、おれは立ったまませまい店中を(未練げに?)見回した。客はおれたち二人だけで、あとはがらんとしている。各卓の上には空のコップや空の皿。空の皿には赤いものがくっついている。ジャムだ。

「あ。ここではジャムトーストを食わせたんだな」

 とおれは思った。その頃、というともうずいぶん昔になるが、戦争でそろそろ物が窮屈になって来て、配給制度が強化され、切符なしで食べられるものが底をつきかけていた時分なのだ。婆さんが坐っていた卓にも、その空皿が三つ並んでいた。婆さん一人で三つ食べたのか、三人で食べて二人は出て行き、婆さんだけ残っていたのか、それは知らない。婆さんがガラス扉をがたがたと引きあけて、じれったそうに振り返ってさしまねいた。

「何してんだよ。もうおしまいだよ。おいでったらおいで!」

 婆さんの眼がも少し大きかったら、普通の眼の大きさだったら、おれはそこで踏みとどまったかも知れない。おれはもともと小さな眼に弱いのだ。なぜ小さな眼に弱いのか、それはこの話と特に関係がないから省略するけれども、ついおれはふらふらと婆さんについて行く気になった。おれは血のめぐりはいい方じゃないが、婆さんが何か思い違いをしていること、その思い違いがジャムトーストに関係あるらしいことは、うすうす判っている。だからおれはここで訂正すべきだったのだ。婆さんの丸い顔、その両側についた小さな双の眼が、おれにその機会を失わせた。おれが店の外に出ると、婆さんがガラス扉をしめた。つまりおれは手を使わずに、ふところ手のまま、店の外に出たことになるのだ。大切にされているみたいだ。外ではかすかにつめたい風が吹いていて、日曜日の朝だから、あまり人通りはなかった。扉をしめると婆さんはおれを見上げた。おれは背が高いが、婆さんは肥っていても五尺そこそこだ。人は見上げる時、ふつう視線をしゃくり上げるようにするものだが、この婆さんはそうでなかった。

「ここはね、九時までに来なきゃ、トーストは出ないんだよ」

 婆さんはまっすぐな視線で、おれに説明した。近くで見ると、婆さんの顔の皮はとても厚ぼったい感じがする。俗に面の皮が厚いということとは違う。皮膚そのものが分厚くて丈夫そうだという意味だ。動物でも、眼が小さいのや細いのは、皮が厚いのが多い。象もそうだし、河馬(かば)なんかもそうだ。皮膚が厚いからその末端が盛り上って、眼の領域をせばめて来るのだろうか。

「はあ」

「あんた、日曜だから、朝寝坊したんだね、きっと」

 しだいに事情が判って来る。別段トーストを食べに来たんじゃない。しかし店の中でならそうことわれたけれど、ふところ手で外に出た今は、そうは言えないのだ。何のために外に出たのか説明出来なくなるし、婆さんの思い違いをここまで引き延ばして、それでぴしゃりとさえぎれば、とたんに向うは具合悪くなり、それがたちまちおれにはねかえって来るにきまっている。

「寝坊したわけじゃないですけどね」

 おれは口の中でもごもごと抗弁した。

「ここはいつでも、九時までに来れば、トーストが食えるんですか?」

「毎日じゃないよ。ある日とない日があるんだよ。知ってるくせに」

 婆さんは慣れ慣れしくおれの腕をひっぱたいた。

「だからあんたは、あわててたじゃないか。ちゃんと知ってるよ」

 あわててた? おれが?

 今日はトーストが出る。九時前に来た運のいい奴たちがそれにありついて、食べ終ると満足して、ぞろぞろと出て行ってしまう。婆さんは年寄りだから食べるのが遅い。一人残ってやっと食べ終った時に、くたびれた着物を着た不精髭の若者が、血走ったような眼付きで、せかせかと入って来る。その時の婆さんの気持の動きや変化。自分は食べて満足した。この若者は食いはぐれた。湧然(ゆうぜん)とわき上って来る憐憫、同情、側隠の情、そう言ったもの。同一の地平での共感でなく、高みから見おろしたようなその感情群。

「どうして妙な顔をするんだい?」

 婆さんの手がおれのたもとを頼む。

「恥かしがらなくてもいいんだよ。こんなことは、よろずお互いさまなんだから」

 かさねがさね誤解されている。おれは当惑する。その当惑を顔に出せば、婆さんは更に誤解するだろう。おれは出来るだけの無表情を保ちながら、婆さんを見おろしていた。婆さんの眼の中に、やがてある過剰な色があふれて来る。――

 

 あの男の眼も、そうだった。

 浅草の飲み屋で、おれは友達と酒を飲んでいたのだ。寄宿舎の食堂にあるような細長い木のテーブルの、その両側に腰かけを置いて飲ませる式の安酒場だ。その男はテーブルの向う側に腰かけて、山かけか何かで銚子をかたむけていた。おれはその男に全然注意を払っていなかった。注意を払わなくていい仕組みだったし、そういう雑然とした空気の飲み屋だったから。注意を払う方がかえってとげとげしいようなものだった。

 ところでおれたちは、持ち金がたいへん乏しかった。

 持ち金がすくないから、肴など取らずに酒ばかり飲んでいたのだが、飲み進むにつけ、だんだん在り金が底をついて来た。そこでおれたちは顔を近づけ合わせ、ぼそぼそと相談して(大声で相談するわけにはいかない)帰りに食う予定だった牛飯代を、酒の方にふり替えた。時刻が時刻で、いま時下宿に戻っても飯は出ないから、そのふり替えはおれたちにとってかなりの犠牲だった。

 運ばれて来た銚子も、十分ぐらいで空(から)になってしまった。

 牛飯代と引き合うぐらいの酒だから、値段としてはたいへん安い。安いから、水っぽいのだ。おれたちはまだ満足しなかった。

 おれたちはまた顔をつき合わせた。

「帰りは歩くことにして、も少し飲むか」

 バス代を酒にふり替えようというわけだ。おれたちの下宿は本郷にあった。浅草から本郷までかなり歩きでがある。もう一押し酔いを深めて、歩くのが苦にならない程度になるかどうか、お互いに自信はなかった。だからなおぼそぼそと相談を続行した。

 その時その男が声をかけて来たのだ。

「にいさん。これでどうぞ」

 男は勘定をすませて立ち上っていた。右手をおれたちの方に突き出している。掌には五十銭玉が二つ乗っかっていた。

「こ、これで飲んで、あとバスで帰んなさい」

 この時おれは初めてその男に気がついたのだ。男は四十前後で、厚司(あつし)を着ているところから見ると、小さな商店主か何かだったのだろう。売りかけを集金に行って、その帰りに一杯かたむけたという恰好(かっこう)だった。酔いにあからんだ善良そうな顔に、小さな眼が二つついていて、それは熱っぽい光を帯びておれにそそがれていた。熱っぽいというと積極的にひびくが、そういう感じじゃない。働きかけを持たない、そこで起きてそこで完了する、何か重苦しいような過剰さ、それがその男の眼を熱っぽく見せかけていたのだ。

 おれははげしい当惑と羞恥を感じた。

 金をめぐまれる自分自身が恥ずかしかったんじゃない。相手になりかわって、というと傲慢不遜(ごうまんふそん)になるが、おれの当惑と羞恥はあきらかにこちら側のものじゃなかった。

「そんな金、貰ういわれはない!」

 立場としてはそう拒絶してもよかった。しかしおれはそうしなかった。早くこの感情の決着をつけねばならない。背後から追い立てられるような気分になって、こちらも掌を突き出した。男の掌からおれの掌に、五十銭玉二枚がころがって移動して、男は急におどおどした態度となり、そそくさと足早に店を出て行った。まるですべてのあと始末を、こちらに預けてしまったみたいに。

 婆さんはおれのたもとを摑んで離さない。あの厚司姿の男にあった重苦しい過剰さと同じ性質のものが、婆さんの小さな眼にあふれていて、それがじっとりとおれにからみついて来る。逃げ出したくとも、逃げ出せない。

 

 おれが連れられて行った家には『白菊派出看護婦会』という小さな看板がかかっていた。それで婆さんは看護婦かと思ったら、そうではなく、そこの主人だった。何故判ったかと言うと、出て来た小女が婆さんのことを、会長さま、と呼んだからだ。

 おれはこぢんまりした部屋に通された。長火鉢なんかが置いてあるところを見ると、ここが会長の私室らしい。座蒲団を出されたけれども、落着いて坐る気になれない。おれが落着かないのに反比例して婆さんはますます落着き、おれに向ってにっと笑いかける。婆さんの眼は、笑うと糸屑みたいに細くなるのだ。善意を行使するものの傲慢さとでも言ったものが、婆さんの全身にみなぎつていて、それがいよいよおれの気分を重苦しくさせる。

「ラクにしなさいよ。ラクに」

 おれが坐るのを見届けて、婆さんは押しつけがましく言う。

「今おにぎりでもつくって来て上げるからね」

 婆さんは部屋を出て行く。廊下を足音が遠ざかって行く。あとにひとり残されて、おれの頰はだんだんこわばって来る。にぎり飯にするくらい飯があるのなら、何も会長自身がとことことトーストを食べに行かなくてもいいじゃないか。トーストを食べに行っても差支えはないけれど、罪もないおれをつかまえて、あまつさへ誤解して、善意の獲物にしなくてもいいではないか。何というおれは腑甲斐(ふがい)ない男なのだろう。

「このまま、そっと逃げ出してやろうか。すべての感情の決着を向うに預けて――」

 やり方としては、それが一番ふさわしかった。おれはすでに朝飯は食べていたから、おなかはすいていなかった。そう決心して、長火鉢に手をかけ、腰を浮かせかけた時、廊下の向うから足音が聞え、しだいにこちらに近づいて来る。とたんに身体の中で何かがみるみる収縮して、おれは腰をおろす。婆さんが敷居に姿をぬっとあらわす。皿を捧げ持っている。皿には大きなにぎり飯が三箇乗っている。婆さんの小さな眼は実に満ち足りた光をはらんで、にこにことおれを見おろしている。……

2017/01/01

2017年お年玉電子テクスト 梅崎春生 「犬のお年玉」

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年三月号『小説新潮』初出。

 発表当時、梅崎春生は満四十を迎えたばかりであった(彼は大正四(一九一五)年二月十五日生まれである)。

 また、作中に登場する画家「秋山」というのは、「立軌会」同人の画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)がモデルである。元「自由美術協会」会員。より七つ年下。「カロ三代」やエッセイ「二塁の曲り角で」にも登場する(リンク先は私の電子テクスト)、実際、ちょっとエキセントリックな人物である。梅崎春生は、彼とかなり親しかったようである。

 「長者門」と出るが、梅崎春生の当時の家は練馬区の建売住宅で、そんな御大層なものではない。唯の普通の家の門柱を想起されたい。念のため。

 「六百匁」は二・二五キログラム。

 「半町」は五十五メートル弱。]

 

   犬のお年玉

 

「人間も四十になれば、そろそろ自分の顔に責任を持ち、自分の仕事にも責任を持たねばいけませんな」そして秋山君は盃をぐっとあけ、酔いであからんだ眼で、私の顔を見据(す)えるようにした。「あなたもそろそろ、四十でしょう。もう四十男になったでしょう?」

「四十男だなんて、厭な言葉を使うな」と私は答えた。

「まだ四十男でなんかあるものか。あと二箇月ばかり、間がある」

「二箇月なんか、月日の中に入りませんよ」秋山君はきめつけた。「あんたはすでに、立派な四十男です。いつまでも若い気持でいては困ります。はた迷惑ですよ。自分の所業に責任を持たなくちゃダメ!」

 私と彼とはおでん屋でさし向いで飲んでいたのだが、どういういきさつでこんな話になったのか、私も相当に酔っていたから、今は覚えがない。秋山君というのは、私より五つか六つ年少の画家で、素面(しらふ)の時はそうでもないが、酔っぱらうと、とかく他人に訓戒を垂れたり、意見をしたがる癖を持っている。この場合も何かの言葉のやりとりで、その訓戒癖が出て来たのだろう。

「四十になれば責任を持つべきなんて、それは昔風の考え方だよ」と私は反駁(はんばく)した。「今どきそんな考え方は通用しない」

「何故です?」

「何故って、昔と今とは、人間の平均寿命が全然ちがう。昔の尺度で今は計れないんだ」と私は攻勢に出た。「孔子様は、三十にして立ち、四十にして惑わず、とおっしゃった。ところがあの時代の人間の平均寿命より、今のはずっと伸びて来ているんだ。老人医学なんかがずいぶん発達したからね。だから孔子の言葉を、今にあてはめれば、四十にして立ち、六十にして惑わず、というところかな。現今では四十歳なんか、まだまだ責任をとるべき年齢じゃないよ。四十はまだ青年だ」

「あんなことを言ってらあ」と秋山君はせせら笑った。

「いくら平均寿命が伸びても、四十は四十です。四十年間生きてきたという事実にかわりはありません。それをごまかそうなどとは、虫がよすぎる」

「いや、年齢というものは、世の中のふり合いで考えるべきだよ。つまり、相対的にだね。現に君だって、三十をとっくに越しているくせに、一向に立っていないじゃないか」

「立っていますよ」秋山君は弱味をつかれたのか、顔をあかくして、とたんに声を大きくした。「立っていますとも。朝から晩までただ立ち通し、ですよ」

「さあ、どんなものかな」と今度は私がせせら笑った。

「山田の中の一本足のカカシみたいなせりふだが」

「おや」秋山君は盃(さかずき)を置いて、眉の根をふくらました。

「あんたは僕のことを、カカシあつかいにするのですか。かりそめにも、チャンと生きている人間をつかまえて、それをカカシとは――」

「お客さん。お客さん」

 頭がすっかり禿げ上ったおでん屋の主人が、事態急と見たのか、台の向うから言葉やわらかく注意した。

「お静かに願いますよ。なにしろ歳末は警戒がうるさいんでね」

「喧嘩してるんじゃないよ」と私が答えた。「ちょっと議論していたんだよ」

「そうだ。議論だ」秋山君は面白くなさそうに口をとがらせて、唇に盃をあてた。「ワカラズヤがいると、直ぐに議論が始まる」

「ワカラズヤとは、僕のことか?」

「きっぱりあんたのことだとは言いませんよ」秋山君は憎憎しげに言い放った。「言いませんけれどもだ、その傾向があるということだけは、間違いありません」

 年の瀬ともなれば、男という男はたいてい、精神的あるいは経済的な理由によって、気持が鬱屈(うっくつ)してくる。むしむしとやり切れなくなってくる。おそらく秋山君もそういう状態におちていて、それが酔いとともにこじれて、そしてかくの如く私につっかかってくるのだろう。大体そういう具合に推察したから、私は真正面から相手にならないことにした。丸禿げ主人の手前もあるし、四十に間近いという自覚と自重があって、秋山君のつっかかりを左に避け右にすかし、ずんずん盃を重ねているうちに、酔いがしたたか全身に回って、あとの記憶はすっかりなくなってしまった。

 ふと目が覚めると、私は自分の家の寝床に、ひとり横たわっていた。ズボンもはいたままだし、身体の節々がぎくしゃくと痛い。咽喉(のど)がひどく乾いている。干鮭みたいにカラカラに乾いている。

 私はけだるく半身を起して、枕もとを見た。ギョッとした。

 枕もとに盆が置かれ、その上に薬罐(やかん)とコップが乗っかっている。その大きな薬罐が、見覚えのない新品で、ピカピカと電燈の光を反射させていたのだ。その反射光でちょっと眠がくらみ、それが薬罐であると理解するのに、五秒ぐらいはかかったと思う。

「なんだ。薬罐か。驚かせやがる」と私は口に出して舌打ちをした。「こんな薬罐を、何時の間に買い込んだんだろう」

 しかし薬罐とわかれば、もう驚くことはないので、私はおもむろにそれに手を伸ばした。水がたっぷり入っているから、ずっしりと重い。コップに注いで二杯たてつづけに飲んだ。我が家の水は井戸水であるので、水道の水に比較して、酔いざめの水としてもはるかに旨い。しかしこの夜の水は、水が新薬罐になじまないせいか、きめが荒いような感じで、いつもほどは旨くなかった。旨くないけれども、咽喉がカラカラだから、夜明けまでに三四度目を覚まして、コップで合計六杯か七杯飲んだ。すなわち新薬罐の水の半分を、朝までに飲み干したことになる。

 朝八時過ぎ、私はごそごそと起き出で、新薬罐をぶら下げて茶の間に出て行った。もう朝の食卓の用意がととのっている。卓上に薬罐を置き、熱い茶をすすりながら、私は家人に言った。

「新しい薬罐もいいが、やはり酔いざめの水は古い薬罐がいいね。どだい水の旨さがちがうようだ」

「そうですか」

「今夜からやはり中薬罐にして貰いたいな。中薬罐はどうした?」

 私の家には薬罐が三つあって、その大きさによって、大薬罐、中薬罐、小薬罐、と名がついている。大薬罐は家族全般用、中は枕もとの水のためのもの、小は私が酒をあたためる用のもので、それぞれ用途がちゃんと定まっている。三つとも六七年前に買い求めたものだから、型も古いし、相当にくたびれている。生活の垢(あか)とでも言ったものが、三つの薬罐の肌に滲みこんでいて、見るからに古色蒼然放としているのだ。

 私は訊ねた。

 「こんな新式の薬罐、お歳暮にでも貰ったのか。それとも歳末売出しの福引きで当ったのかね?」

「あんなことを言ってる。福引きなんかで当るもんですか。自分で買ってきたくせに!」

「自分で?」私はびっくりして新薬罐を見た。「これ、俺が買ってきたのか?」

「そうよ。昨夜、ぶら下げて帰ってきたじゃないの」

「そうかなあ。全然記憶にないが――」私は憮然(ぶぜん)として周囲を見回した。「どうしてそんなものを買う気特になったんだろう?」

「しっかりしなくちゃ困りますよ」つけつけした口調で、「もうそろそろあんたも四十ですからね、自分の所業に責任を持たなくちゃ、こちらが困りますよ。夢うつつで薬罐なんか買い込まれては、全然はた迷惑です」

 秋山君とそっくり同じことを言っていると思いながら、私は口をつぐんでいた。抗弁する余地もなかったし、それに自分でも少し気味が悪かった。自分の意識の外で、薬罐を買ったり、その他どういう行動をとったのだろう。ものを買うという意志的行為を、夢うつつでやったことが面白くない。夢遊病者というのがあるが、私も一時的なそれにおちいったのではないか。

「しょんぼりしてやがるな」

 その気持をごまかすように、しきりにあたりを見回しながら、私はひとりごとを言った。

「何が?」

「いや、古薬罐のことだよ」

 大薬罐は火鉢の上でシュンシュン鳴っていたし、中薬罐は食卓の下、小薬罐にいたっては石油コンロのかげに小さくなって、しょんぼりしていた。新薬罐は食卓上に倣然と坐りこんでいる。新薬罐は柄も太く、胴体に固定していて、口もずんぐりと短い。見るからに安定感がある。蓋の湯気の出る穴も新型で、湯気が上方にではなく、横にふき出るような工夫がしてあるのだ。

 その卓上の新薬罐を、三つの古薬罐はそれぞれの位置から、しょんぼりと眺めているように見えた。薬罐にも表情があることを、この朝私は初めて知った。新入者に対する畏怖と妖妬、自分の型の古さにおける引け目、そんなのが三つの薬罐の表情にありありと感じられた。

「なかんずく、大薬罐が一番しょんぼりしているよ」

 大薬罐は火鉢の上で、景気よくシュンシュンと鳴っていたが、それもどうやら虚勢のようで、見渡したところ、これが一番がっくりと打撃を受けているらしく見えた。それはそうだろう。新薬罐の出現によって、その位置を取ってかわられそうなのは、まさしくこの大薬罐であったから。大薬罐は新薬罐とほぼ大きさは同じだが、なにしろ型が古くてよごれているし、柄なんか外れかかっているし、地肌にもところどころ凹みが出来ている。とても新鋭の薬罐に太刀打ちは出来ない。第一姿がひょろひょろと不安定だ。

 その時家人がその大薬罐を、急須の茶に注ぐために、火鉢から外した。早速私は新薬罐の柄をつかみ、火鉢に乗せてみた。底がピタリと五徳に合い、まことに具合がいい。私は言った。

「夢うつつで買ったにしては、なかなか具合がいいじゃないか。見なさい、この坐りのいいこと」

 食卓に置かれたその大薬罐は、湯気をはくことを止め、げっそりと肩を落して坐っていた。それは貧寒に、不機嫌にすら見えた。皆の注意と関心が新薬罐にあつまり、自分が完全に無視されていることを、大薬罐はあきらかに嘆き怒っていた。

 私はその大薬罐に同情をかんじながら、注がれた茶を口に持って行った。

 

 間二日おいて、秋山君が自転車に打ちまたがり、バクをしたがえて、私の家にやって来た。

 バクというのは秋山君の愛犬で、黒い毛がふさふさと生えた、見るからにバクバクとした犬で、バクと言う名がこれほどぴったりした犬は他にない。

 そのバクの姿を見ると、我が家のエスが縁の下から、プロレスラーみたいにおどり出て、けたたましくほえ立てた。バクもいきり立ってほえ返した。

「バク!」と秋山君が叱った。

「エス!」と私が叱って、縁から飛び降り、エスを鎖で柿の木につないだ。

 その間に秋山君はバクを、長者門の門柱に同じくつないだ。そしてのそのそと縁側に上ってきた。

「こんちは。先日は失礼しました」と秋山君はぺこりと頭を下げた。「いい忘年会でしたなあ」

「あまりいい忘年会でもなかったよ」と私は答えた。「それは何だね、手に持ってるのは?」

「お年玉ですよ、エスの」秋山君は手にした包みをごそごそと解いた。あらわれたのは、金属製のボールだ。「これです」

「エスにお年玉?」私はいささか驚いて反問した。「エスにお年玉とは、また奇抜なことを考えたもんだね」

「奇抜?」秋山君はきょとんとした。「奇抜にも何も、エスにお年玉を買えって、あんたが強要したんじゃないですか。エスの食器が古くなって、可哀想だからって」

「え。僕がそんなことを言ったか」

「言いましたとも。そしてあんたは、自分へのお年玉として、薬罐を買ったでしょう。あれ、チャンと持って帰ったでしょうね」

「持って帰りはしたが――」私は困惑してへどもどした。

「そこらへんの記憶が、今全然ないんだ。どういう具合にして、僕はあの薬罐を買い求めたんだね」

「へえ、全然覚えてないんですか。驚いたなあ」秋山君は嘆声を上げた。「そんなにあの夜、酔っぱらってたんですか。そんなに酔ってるようには見えなかったがなあ」

「やはり酔ってたらしいんだよ」私は小さくなった。「それ以外に解釈がつかない。一体あれはどこで買ったんだね?」

 秋山君の話によると、おでん屋を出て二人でふらふらと駅に歩く途中、歳末売出し中の金物屋があって、店頭に薬罐がずらずらとかざられていた。『薬罐祭り』と貼紙がデカデカとしてある。私は予定の行動の如く、その店につかつかと入りこみ、最新型の薬罐を指差した。それを店員に包ませながら、私は秋山君に言ったという。

「これが僕自身へのお年玉だよ。なかなかしゃれてるだろう」

「あんまりいい趣向でもないですな」

「いい趣向だよ。君もひとつ買え。ああ、そうだ。うちのエスの食器が古くなって、ボロボロになっちまったから、お年玉として新しいのをひとつ買って呉れよ。エスだって、きっと君に感謝するよ」

 秋山君が辞退し尻込みするのを、私はほとんど脅迫的に、秋山君に金を出させて、ボールを買わしたと言う。身に覚えのないことながら、あまり紳士的な所業ではなかったらしい。

「そうかね。それは済まなかったな」私はあやまった。

「でも折角持って来て呉れたんだから、やはりエスにお年玉ということにしよう。僕の家の台所用にしたら、君も不本意だろう」

「もちろんですよ」秋山君は口をとがらせた。「もちろんエスの食器ですよ。金を出させられた揚句、あんたの台所用に使われたら、僕の立つ瀬がどこにありますか」

「だからエスの食器にすると言ってるじゃないか」

 庭ではエスとバクが、それぞれの鎖を最大限に引っぱり、眼を険しくしてさかんにほえ合っている。鎖の関係上、組打ちは出来ないようになっているが、何故犬というやつはあんなにほえ合ったり、かみつき合ったり、格闘したがるのだろう。それぞれの主人には忠実に仕えるが、同族同士では眼を吊り上げて盛んにいがみ合う。同族間の団結心というのが全然ないのだ。これじゃあとても、人間族が地球から亡びた場合、次代を犬に任せるわけには行かない。犬に任せたら世界はめちゃめちゃになってしまうだろう。やはり次代は蟻とか蜂とかネズミとか、団結心の強い、組織力のある動物にとって代られるだろう。犬なんてやつは、主人がいなけりゃやって行けない動物だから、おそらく人間と共に亡びてしまうだろう。思えば哀れな動物だ。エスにお年玉を貰いっ放しでは気の毒なの一で、帰るという秋山君を引きとめて、夕食を共にした。魚屋からアンコウを六百匁買い求め、アンコウ鍋をかこみ、酒を飲んだ。歳末のやりくりはどうにか果たしたと見え、この夜は秋山君はあまり訓戒癖も出さず、つっかかる気配もなかった。

 酒をあたためたのは、れいによって小薬罐である。

 新薬罐は石油コンロの上にでんと坐って、シュンシュンと盛大に湯気をふき上げていた。

「さすがに威風堂々としていますなあ」と秋山君は感嘆した。「まるで戦艦大和みたいだ」

「そんな逆コース的表現はいけないよ」私はたしなめた。「この新薬罐のおかげで、古薬罐たちがしょんぼりしているよ」

 そして私は、古薬罐たちの表情について、一席の説明をこころみた。秋山君はアンコウの肝(きも)ばかりをよって食べながら、私の話に耳を傾けていたが、私が話し終ると、膝を乗り出すようにして言った。

「実はそれに似た経験が、僕にもあるんですよ。つい近頃」

「へえ。やはり薬罐かね」

「僕のは薬罐じゃなくて、湯タンポです」と秋山君はまた肝をつまんだ。「今まで使っていた湯タンポはブリキ製で、どうも具合がよくないもんですから、新しくシンチュウ製を買って来たんです」

 シンチュウ製を買って来たら、ブリキ製のやつがとたんにしょんぼりして、やるせない表情をつくったと言う。で、その夜はひどく寒かったものだから、秋山君は二つの湯タンポに湯をたっぷり入れ、寝床に入れて寝た。たいへんあたたかくて快適であったそうだが、その夜半、古湯タンポの栓がゆるんだかどうかして湯をふき出して、蒲団がびしょぬれになったという。

「古湯タンポのやつが、大いにひがみ心を起して、絶望的レジスタンスを行ったらしいんですな」秋山君は憮然として、また肝を探してつまみ上げた。「その前の晩まで、そんな不始末はしなかったのに、その夜に限ってそんなことになったのは、偶然だとは考えられないのです」

「そうかねえ。しかし、二つも入れて寝たから、あたたか過ぎて、君が夢うつつで足で蹴とばしたんじゃないか?」

「そんなことはありませんよ」秋山君は断乎として言った。「あたたかいからって、湯タンポを蹴とばすなんて」

「その古湯タンポは、そこでどうした?」

「しゃくにさわったもんですから、古毛布にくるまったままのそいつを、雨戸をあけて縁の下にたたき込んでやりましたよ。人間に反抗するなんて、とんでもない奴です」

「毛布にくるんだままだって。では古湯タンポの栓がゆるんでたかどうかは、調べてみなかったのかね?」

「調べるもんですか。しゃくにさわって、そんな余裕はありませんよ」

「じゃ、びしょぬれの犯人がその古湯タンポかどうか、判らないじゃないか」

「調べなくったって、判りますよ」秋山君は宙をにらむようにした。「そんなことを仕出かすのは、あのやくざなブリキ湯タンポにきまっています」

 犯人はブリキ製湯タンポでなく、君自身、すなわち君のオネショではなかったのか、と口まで出かかったが、やっと我慢した。三十をとっくに越した男にそんなことを言って、怒られたらこまるからだ。折角いい気持で飲み食いしている秋山君を、刺戟することもなかろう。

 大いに飲み、かつ食ったけれども、鍋にはまだアンコウが相当に残った。それをエスとバクに食わせることにして、秋山君が気軽に立ち上り、夜の庭に出て行って、両犬にそれぞれ食器をあてがった。両犬はほえ疲れて、地べたに寝そべっていたが、アンコウを見ると、いそいそと立ち上った。秋山君が庭から私を呼んだ。

「おなかを空かしていたと見えて、両方ともガツガツ食べていますよ。おや、エスの方はあまり食べないようだな」

 私は縁側に出て行った。見るとエスの方には洗面器をおろした古食器をあてがい、新品の金属ボールの方をバクの前に置いている。バクは大喜びしてボールの中のアンコウをむさぼり食べている。

「おい、おい」と私はとがめた。「その新食器は、エスへのお年玉じゃないか。困るよ。取っかえて呉れ」

「いいじゃないですか。今晩だけだから」秋山君はバクの頭をいとしげに撫でた。「バクだって食器らしい食器を持っていないんですよ。そのバクをさしおいて、わざわざエスにお年玉を持ってきてやったんだから、その僕の気特に免じて、今晩だけはバクに使わせてもいいじゃないですか」

 エスはそのバクの食器が気になるらしく、じっとそちらの方をにらみ、思い出したように古食器に頭を突込んでいる。よその犬が自分よりいい食器を使っていることを、面白くなく思っているらしい表情であった。私は言った。

「エスがひがんでいるよ。エスはひがみっぽいから、きっと後でロクなことにならないよ」

「大丈夫ですよ」

 やがてアンコウをすっかり食べ終えたバクを、自転車につなぎ、秋山君は夜道を自宅に帰って行った。

 

 私が心配した通り、食器の問題において、エスは大いにひがんだ。

 秋山君のお年玉の新食器では、エスは食事をとろうとしないのである。相当に味良くつくってやっても、においを嗅ぐ真似をするだけで、のそのそと退散してしまう。それを古食器にうつしてやると、どうにかむさぼり食べる。他犬のお古をあてがわれてたまるか、と言ったような心意気がうかがわれる。

 このエスという犬は、どこか変ったところのある犬で、二年ほど前私の家に何となく居ついてしまった。居ついたと言っても、それは昼間だけの話で、夜はどこかに行ってしまうのだ。

 それからふしぎに思っていろいろ調べてみると、このエスという犬は、私の家から半町ほど離れたK氏宅の飼犬で、K氏宅ではジョンと呼ばれていることが判明した。つまりエスは、エスとジョンの二つ名をもって、両家にかけもちで飼われていたわけになる。どういうわけでK氏宅の番犬だけに甘んぜず、私の家にも仕官する気になったのか、エスは言葉がしゃべれないから、その間の事情は一切不明である。

 そういう飼犬は私も困るし、K氏宅でも困るだろうと思つたから、私がK氏に交渉して、首尾よく私の家に引取ることになった。すなわちエスは二重生活をきっぱりと清算したわけだ。ところがこの処置を、エスはあまり満足には思わなかったらしい。

 両方で飼われている方が、食事の量も多いし、また食物の種類にも変化がある。そんな事情かとも思うが、それも推察の域を出ないのだ。犬の気持は判らない。

 私の家に正式に飼われるようになってから、エスはとみに怠惰な犬となった。わざと怠けているような気配さえある。怠けるのみならず、大へんにひねくれてきた。

 正式に飼った以上、犬小屋をつくってやろうと言うので、材木屋から板を買い込み、私は手が不器用なので、秋山君に来てもらった。

 ところが秋山君もあまり器用なたちでなく、まるまる半日をついやして、やっと不恰好な犬小屋が完成した。それ以後エスはそこに寝泊りする身分になった。

 先日この犬小屋の位置を移動させる必要がおこり、私は犬小屋に綱をつけ、エッサエッサと庭のすみまで引っぱった。

 それがエスの気に入らなかったらしい。小屋の住み手に一言の相談もなく、位置を勝手に移動させたこと、それがエスのカンにさわったらしいのだ。

 移動させたその日から、エスは犬小屋に寝泊りすることをピタリとやめた。毎晩ふくれっ面をして縁の下に寝ている。

 犬小屋の方は寝わらが敷いてあるし、縁の下より快適であろうと思うが、エスは頑として犬小屋に入らない。ぶるぶるふるえながらも縁の下から出て来ようとしないのだ。

 犬小屋を旧の位置に戻せば、エスは犬小屋に戻ることはハッキリ判っているが、こうなれば私も意地である。飼主には飼主としての見識もあれば自尊心もある。そうそうエスの御機嫌ばかり取っているわけには行かない。私が屈伏すれば、エスはますます増長するだろう。増長させることはエスのためにもよくない。

 そこで私は犬小屋の古わらをすっかり撤去し、ふかふかした最上等のわらを近所の農家から分けて貰い、それを具合よく犬小屋の床にしきつめた。そして犬小屋の板壁の隙間もメバリして、防寒設備をしてやった。これほどサービスしてやったから、エスが機嫌を直して呉れるかと思ったら、全然そうでない。その快適な犬小屋を横目でにらんで、相変らず縁の下でふるえている。何と言う強情な犬だろう。もうこれ以上のサービスは私には出来ない。

 食べ物のことだってそうだ。

 犬の動作の中で何が私が一番好きかというと、それはものを食べている時の有様である。犬がバリバリと骨をかみ砕き、がつがつと食べているところを眺めるのが私のたのしみのひとつである。私自身あまり食欲が旺盛でないので、その代償作業として、エスのさかんな食欲を眺めるのを好むのだ。

 だからエスの食事は、もっぱら私がこさえてやることになっている。私はエスの身になり、エスの口に合いそうな食事を、ありあわせの材料でせっせとつくる。

 ところがそのつくった食事を、エスが縁の下からのそのそと這い出で、ちょっとにおいを喚いで、フンと横に向くのだから、たちまち私は激怒する。折角苦心して犬食をつくり、がつがつの状況を眺めんものと楽しみにしているのに、そんなにカンタンにそっぽを向かれては、怒るのも無理はなかろう。

 すなわち私はエスの頭をひっぱたく。あるいは尻を蹴飛ばす。

 私からひっぱたかれたり蹴飛ばされたりすると、エスはもうその食事は絶対に口にしようとしないのだ。食事をそのままにして置いて、あとは何も与えないでいても、一日経っても、二日経っても、エスは我慢している。腹が減っていないのかと思って、別口のエサを与えると、エスは飛びつくようにして食べる。しかしひっぱたかれた件の食事だけは、絶対に近づこうとしないのだ。頑固一徹もここに極まれりと言うべきであろう。

 こういうエスであるから、秋山君お年玉の食器においてひねくれたとなると、もうこれは絶対と言ってよろしい。頭を新食器に突っこんでやっても、断乎として拒食するにきまっている。

 そしてお正月になった。

 私たち人間はおとそを飲み、お雑煮を食べて、正月を祝った。

 ところがエスの食事がない。

 昨夜の年越しソバは食べ尽したし、お雑煮はエスに不適当であるし、そこで元日の昼、わざわざエスのためにメシをたいた。

「お正月だから、エスにも御馳走してやった方がいいな。新年は人間だけにでなく、犬にも来るんだから」と私は言った。「今日はふんぱつして、二の膳付きと行こう。秋山君の呉れた食器もあることだし」

 そして古食器の方に汁かけメシをごてごてと盛り、新食器の方におせち料理のカズノコやゴマメやカマボコを入れて、柿の木の根元においてやった。

 エスは縁の下からのそのそと這(は)い出てきた。畜生のあさましさで、お正月を知らないから、お目出度いような顔もしていない。

 もっとも犬の側からすると、お正月を祝うなんて、人間の浅間しさだと思っているかも知れない。

 家族あつまって、縁側からエスの動作を眺めていた。エスはふてくされた顔で、両方の食器のにおいをそれぞれ嗅ぎ、おもむろに古食器の方に顔をつっこんで、汁かけメシをむしゃむしゃと食べ始めた。十分間ばかりかかって、一滴の汁一粒の飯も余さず、古食器の方は食べてしまった。

 そして顔を上げると、舌を長く出して自分の顎をペロペロとなめ、そのままとことこと縁の下に戻って行った。新食器の中の小田原カマボコやカズノコには全然口をつけずにだ。

「何という犬だろうねえ」と私は長嘆息した。「こんな強情な犬は見たことがないよ。あの新食器のやつを、古の方にうつしてごらん。どうするか」

 カマポコ、カズノコの類は、そこで古食器にうつされた。

 するとエスはそれを縁の下から眺めていたが、移動作業が完了したと見るや、またのそのそと縁の下から這い出してきた。そしておもむろに古食器に顔をつっこんだ。

 こうなればもう言うこともない。

 エスにはエス並みの鬱屈した気持があるのだろう。殴ったって蹴飛ばしたって、どうにもなるものでなかろう。

 折角の秋山君のお年玉だったが、最初にバクに使わせたばかりに、我が家ではムダなものになってしまった。しかしその責任の大半は秋山君にある。その金属ボールを別途に使用したとしても、私は秋山君から文句を言われる筋合いはない。

2016/12/29

尾行者   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 なお、「3」の頭に出る「花巻ウドン」とは、かけうどんの上に炙った海苔を揉み千切ったものを載せたものを言う。江戸時代からこの呼称である。

 同じく「3」の「鉄火場」は博奕場(ばくちば)、賭場(とば)のことである。

 同じく「3」の「ゼロ号夫人」というのは「零号夫人」。その世界で、正式な妻を「一号」、経済的に養って囲うところの所謂、「妾(めかけ)」を「二号」と呼ぶ習慣から派生したもので、「一号」でも「二号」でもない、則ち、「妻子ある男性と恋愛感情だけで純粋に結ばれている女性で、その男からは一切の経済的援助を受けない愛人」を意味する。戦後の一九五〇年代に、経済的に自立した愛人の妻子ある男性と対等な立場を有する女性を示す言葉であったが、昭和後期には死語となった。]

 

 

   尾行者

 

      1

 

奥さま。御報告申し上げます。

今日で三日、御主人の調査にあたりましたが、結論を先に申しますなら、御心配の線はまだ出ていません。

 毎朝お宅を出るのが、七時三十分から三十五分の間ですね。あなたはお嬢ちゃんと御一緒に、門前に立つて、一分十秒前後見送っていらっしゃる。

 御主人が二本目の電柱の角でふりかえって手を上げ、お嬢ちゃんが小さな掌でそれにこたえる。この挨拶がすむまでの時間は、二秒と狂いません。三日間の平均は、一分十一秒足らずでした。

 美しい光景です。多分八年の間、そういう送迎の光景がつづいてきたのでしょう。

 今朝はあなたは変な眼で、通りすがりの男をごらんになりました。口鬚(ひげ)の濃い、縁無眼鏡をかけた、外交員風の男をです。あれが変装したわたくしなのです。見わけがおつきにならなかったでしょう。変装はわたくしの得意とするところなのです。

 役所に着くのは、八時十五分から二十分の間、そして退庁時間は、五時五分から十分でした。したがって六時前の帰宅は、直線コースをたどったという証拠になります。執務時間中たまに所用で外出し、その足で帰宅なさるとか、あるいはよそに廻るという例外も勿論考えられますが、原則的には以上の通りなのです。

 役所には新聞記者の詰所があり、記者クラブと呼ばれています。Q君という飲み友達の記者が協力して呉れました。いいえ、調査費用のかさむ心配はありません。飲み友達ですし、クラブであくびをしているよりは、退屈しのぎになるといった腹なのです。失礼な言い方をお許し下さい。Q君は酒飲みですが、玄翁でたたいても割れないほどの口の堅い男です。

「庶務課だったら、イカレ型の給仕が一人いるよ。あいつに聞けばいい」

 とQ君は言いました。

「女の子はいけないよ。敵につつ抜けだ。スパイは古来、陽当りの悪い女でインテリと、相場がきまっている」

 Q君は地下食堂のカツ井で、給仕を手なずけました。

 わたくしどもは一隅に陣どりました。反対の隅のテーブルで、御主人はカレーうどんを食べていました。差出がましく恐縮ですが、御主人に治療を勧めて下さい。爪楊枝を(つまようじ)三本も折るほど、御主人のムシ歯は悪化しています。口のあけ具合、爪楊枝の使い具合から察しますと、右上の奥から二本目か、三本目と思われます。

「坂井君。君の課のことを書いてやるぜ。何か美談のごときものはないかね?」

 Q君が釣り出しにかかりました。坂井少年はうまそうにカツ井に食いついたまま、左手で自分の首をすとんと叩き、上眼使いをしてにやりと笑いました。

「バカだな。君のクビを飛ばして、何の足しになるかい。美談だよ。悪くすると表彰ものだぜ」

「大過なきは出世の近道だよ」

 少年もなかなか達者なもんです。

「課長はどう? やかましいんだってね」

 とQ君はたたみかけました。

「ガムシねえ」

 少年は思わせぶりに首をふりました。

「ガムシ? ガムシとは面白いあだ名だね。来歴を言ってみな」

「恰好(かっこう)がガマ、女癖が悪くてマムシ、だからガムシと言うんだろう。よく知らないよ」

「知らないって言いやがる。名付親のくせに。係長は?」

「ブラかな」

「へえ。そいつは新型だね。うつろいやすいは政党の名前ばかりと思ったら、君が来て以来、庶務のあだ名も総辞職じゃないか。そのブラってのは、銀ブラのブラか?」

「世の中は、なんのヘチマと思えども、てな顔つきでいるけどさ、ブラリとしては暮されもせず。そのブラさ。達者なもんだよ。来春の異動で、課長はかたいね」

「呆れたガキだよ。おれよりも詳しいぜ」

 とQ君はわたくしに笑いかけて、さりげなく、

「吉富さんはどうだい?」

 と切り出しました。いよいよ御主人の番です。忌憚(きたん)なく、部下の声をお伝えします。

「ノロイーゼはいいね」

 坂井少年は言下に答えました。

「へえ。かしこいようでも、やはりアプレだね」

 Q君はくすくす笑いました。

「そいつを言うなら、ノイローゼだ」

 しかし坂井少年は動ずる色もなく、けろりとして言いました。

「ノイローゼじゃないんだよ。判らねえかなあ。こう墓地に向いてね、Qさんから先の人がかかればノロイーゼ、ぼくら生きのいいのがノイローゼ。同じ病気でも、かかりようで二つさ」

「墓地に向いてと来たな。まあいいさ。ところでノロイーゼは、そんなにいいのかい?」

「そんなにいいってことはないけどさ、反応がノロイんだよ。生れつきもある。一つには、承知で呆ける。大石内蔵(くら)、昼あんどんの血筋だね。政治なんかに道楽気をおこさないで、官僚街道を進めば出世するけれど、行きつく先は、また家老どまりだね。殿様の柄じゃないね」

 坂井少年はQ君の誘導と、カツ井のお礼心もあって、御主人に関し、なお若干の有益な証言を提供して呉れました。毎朝少年は御主人に『新生』一個を買いにやらされます。御主人の昼食はうどんのモリか、まれにはタネモノをおごることもある。ソバはあまりお好きじゃないようですねえ。地下食堂で二十円乃至四十円の出費です。

 月給二万円と少しのうち、御主人の小遣いが三千円で、もう少し節約して欲しいと奥様が御冗談にねだった時、

「煙草代と昼飯代を引いて、いくら残ると思う。月に一度か二度の友達づき合いもさせない気か」

 と御主人が言われた由、うかがいましたけれども、煙草代約千二百円、昼飯代が約八百円、残額の千円が娯楽、交際費と、帳面づらはそうなっていても、奥さまのお言葉通り、どこかおかしいところありと、わたくしもにらみました。

 案の定、副収入が判明しました。二ヵ月に一度か、三ヵ月に二度ぐらい、名もない雑誌に経済記事などを頼まれて書き、その稿料が月平均二千円程度になるようです。正確な使途は目下不明ですが、三日のうち、一晩は新宿で学校友達と飲み、四カ所安酒場を歩き、その二ヵ所で御主人が勘定をもって、概算八百円程度の散財でした。

 中の一日は、最短距離を通り、六時前に帰宅なさった筈です。

 あとの一日は、同僚の一人と東京温泉の大衆浴場につかり、あとで屋上の外れにある碁会所で将棋を三番、うち二回は御主人の勝ち、そして中華ソバをとって食べました。

 御主人の出費は四百円あまりで、同僚はラーメン代だけ支払っています。

 以上がこの三日間の中間報告ですが、奥様が懸念なさるごとき事実は、まだ気配も見えません。

 読後火中のこと、くれぐれもお願い申し上げます。

 

      2

 

 奥様。御安心下さい。御懸念の向きは依然、兆(きざし)もございませんでした。

 定時に退庁して、地下鉄で渋谷に出た御主人を尾行したのです。わたくしはハッピを着て、職人に変装していました。

 とあるビルの前を、四、五へん……六、七へんにもなりましょうか、御主人が往復なさった時は、何かあるかと思いましたが、何ごともおこらず、道玄坂に戻って百軒店まで散歩、それから下北沢乗換えで帰られました。

 事情はかんたんです。ビルの中には、ボディビルの体育場が出来ているのです。

 御主人が体の衰えを意識していると、いつぞや奥様はおっしゃいましたが、三十八歳と言えばまだ衰える齢ではありません。思い切ってボディビルをお勧めになったらいかがですか。御主人も若干その気になっておられるようですから。

 散歩中、にぎやかな通りで足をとめたのは、洋装店、家具店、靴屋、菓子屋などの前でした。あの日奥様がお召しになっていらっしたカシミヤのスーツは、御主人のお見立とか。わたくし、瞼の裡に今もはっきりと灼きつけて憶えていますが、ほんとによくお似合いでした。お世辞と受取られては困りますけど、ほんとにこの世の方ともおぼえませんでした。

 家具屋の前では、三面鏡の前で、一番長く足をとどめていたようです。うつり具合をためすつもりか、頰ぺたをぶっとふくらませたり、にやにや笑いをしてみたり、約三分間。

 靴屋では女靴の棚をしばしごらんになり、洋菓子店前でかなり躊躇(ちゅうちょ)なさったのは、お嬢さんのお土産を考えられたのでしょう。結局、駅前で、ビニールの袋に詰めた百円のキャンデーをお求めになりました。

 奥様の御心配も、わたくしの尾行も、まるっきりムダなような気がしてなりません。世間には、奥さま、わたくしのように終電前ではめったに帰らない、不心得な亭主も多いのです。御主人は模範的です。理想の夫です。いいえ、誇張やお世辞ではありません。良人の鑑(かがみ)といっても過言ではありません。それにしても、わたくしはなぜ、こんな余計なことまで申し上げるのでしょう。

 平生なら、事務的に、官報のように、切りつめた文章で、御報告する筈(はず)ですのに。

 奥様にお目にかかったのは、月曜日でした。

 事務所の入口でためらっておられる奥様に話しかけて、事務所を通さずに私的な御協力をお誓いしたのは、ほかでもございません。

 このような方が不仕合わせであっていいものか、そう思ったからなのです。この所業がうちの所長に知れれば、クビになるぞという判断がはたらきながら、わたくしはそうせずにはいられませんでした。

 どうぞ御懸念が晴れますように。

 最初、わたくし、御主人をのろいました。やがて、同じ三十八歳の男でありながら、世間はなんて不公平なんだろうと、柄にもなくわたくし、ひがみました。あなたが不仕合わせになるのなら、この世には神も仏もない。神も仏も信じないわたくしが、しんからそう思ったのです。職業柄臆測はつつしむべきですが、今となってはわたくし、八年前の結婚当時と変らぬ初々しさを、お二人の間に感じます。

 倦怠期……とあなたはおっしゃいました。万一それが倦怠期であるとしても、何とふくらみのある倦怠感でしょう。

 顔を合わせれば口汚なくののしり合い、お互いの愚行の積み重ねで、こじれにこじれた自嘲や自愛の思いが、憎しみという形しかとり得なくなってしまったわたくしどもの夫婦仲を、奥さま、是非一度ごらんに供したいくらいです。

 とんだおしゃべりをして、申しわけございません。今後は一切、事務的に処理いたします。読後火中のこと、くれぐれも。

 

      3

 

 奥様。わたくし、平静です。極めて平静にこの報告をしたためています。平静にしたためようと努力しています。

 今日は土曜日で、半ドンでした。御主人は地下食堂で花巻ウドンを食べました。花巻とは渋いですねえ。しかし、どうせ食べるなら、値段も同じですから、タヌキかキツネウドンの方が、カロリーが高くて栄養的だと思いますが、いかがなものでしょう。

 それから、将棋をさした同僚に、二人の女事務員と、四人連れだって、東劇で映画見物です。男二人が半々に切符代を出しました。お勤めの間には、奥様、こうしたつき合いも、時にはしなくてはならないものらしいです。

 映画が終ると、尾張町に出て、二人の女事務員は地下鉄にもぐりました。それから御主人と将棋氏は、日劇のミュージックホールヘ、どちらが誘うともなく、はいりました。

 ストリップが終った時、二人はつまらなそうな顔付きで、席を立ち、外に出ました。外に出て、御主人は帽子をとり、どういうつもりか頭髪をごしごし引っ掻き、フケを落す仕草をなさいました。男性として申しますが、奥さま、御主人にボディビルを是非お勧めになって下さい。気休めにはなるでしょう。身体の衰えよりも、衰えを必要以上に意識することがくせものです。これは坂井少年のいうノロイーゼの兆候です。

 将棋氏とは有楽町で別れ、千駄ヶ谷駅で御主人は下車しました。

 奥様。わたくし平静に御報告しているつもりですが、違いましょうか。平静であるという自信のもとに、わたくしこのお便りをつづけます。ずいぶん思いあぐんだ上での決心なのです。どうぞ奥さまも冷静にお読みになって下さい。

 御主人が途中下車した時、わたくし、てっきりどなたかお知合いを訪ねるものとばかり思っていました。そう言えば、有楽町で将棋氏と別れたあと、公衆電話でひとしきり話していたのが、今思い出されます。

 御主人はあの界隈に多い旅館の一つにおはいりになりました。

 旅館と申しても、奥様、御存じでしょうが、逆さクラゲなのです。それだけならまだいい、と申してはなんですけれど、実は、もっといけないことが起りました。

 玄関先に丹前姿の女があらわれ、御主人の腕をとるようにして、さも待ちかねた風情で内に招じ入れたのです。

 錯覚ではない。断じてない。まだ明るい五時前のことです。それに、たった一人の身寄りを、どうして見聞違えましょう。その女というのが、奥様、わたくしの実の姉だったではありませんか。

 敗戦後家の姉は、幼い三人の子供をかかえて、人並以上の苦労をしました。わたくしどもの両親は、戦時中、相次いで病死したのです。

 姉は敢然とヤミ星の仲間に入り、伝手(つて)をたどって鉄火場の物売りにまで出かけました。戦後二年目に復員したわたくしは、行くあてもなく、しばらくの間、身ぐるみ姉の世話になったのです。

 誇りだけは高かった往時の箱入娘は、いくたの難難を経て、筋金入りのいい姐御(あねご)になっていました。やがて姉は小金が出来たらしく、中央線沿線に小さな洋装店を開きました。堅気に戻ったわけです。三人の子供たちも不自由なく、すくすくと学生生活を送っています。

 子供たちの将来を考えて、ずいぶん迷ったこともあるようですが、いくらわたくしが再婚をすすめても、うんとは言いませんでした。

 ふつうなら、吉富さんが奥様の御主人でなければ、このことも姉のために、泣いて祝福して上げたいところです。そう言えば、因縁めきますけれども、死んだ義兄はお宅と同じ役所に勤めていたのでした。

 わたくし実は、ふとした不行跡の尻ぬぐいを姉に委せて以来、姉の家にいることが出来なくなり、それで余儀なくこんな私立探偵みたいな仕事をやっているのです。それ以来姉の家には、敷居が高くて寄りつけないのです。

 奥様。わたくしにはもう奥様のお心を推し測るゆとりはなくなってしまいました。

 わたくしは思い切って、半ばやけっぱちになり、その旅館の玄関に入りました。年増の女中がお世辞笑いをうかべて、迎えました。わたくしは訊(たず)ねました。

「いまの二人連れは、よく来るの?」

 女中は警戒の色を示しました。

「警察の方ですか?」

 わたくしが否定すると、女中は厭味な笑顔をつくって、急にぞんざいになりました。

「場違いな真似はよしてよ。悪趣味ねえ。まさか新聞記者じゃないでしょうね」

「新聞記者じゃないよ」

 わたくしは食い下りました。

「隣の部屋は空いてるかい?」

「お隣じゃ騒々しくて、眠れませんよ。お連れさんがいるのなら、静かな部屋はまだいくつもございますよ。おひとりだけじゃあ、ちょっとねえ」

 わたくしはが逆上気味の頭をかかえて、旅館から退散しました。

 奥様。この手紙がどんなに奥様のお心を傷つけるか、お察し出来ないではありません。でも、わたくしは今はっきりと知ったのです。奥様はこの世の喜怒哀楽には瀆(けが)されないお方です。あなたの美しさは、形でもなければ、色艶でもない。内側から輝く女性の美しさを、あなたはわたくしに初めて教えて下さいました。永遠の女性という言葉がウソでないことを、青春をろくに知らずに過したわたくしは、くたびれ切った結婚生活の果てに、こんな形で見出したのです。

 奥様。

 申し上げるだけは、申し上げました。勝手ですが、今日限りわたくしは、調査の任を辞退させていただきます。読後火中のこと、くれぐれもお願いいたします。

 

      4

 

 奥様。

 わたくしは、なんというあわて者でしょう。

 即日速達という郵便制度は、信用出来るものでしょうか。出向いて仔細を申し上げればいいのですが、お許しのない訪問は出来ませんし、たいへん困りました。この即日速達が、昨日の書面よりも、先に着くことを、心から祈っています。

 別に『キノウノテガミヨムナ、ソクタツヲサキニヨマレタシ』という電報も打ちました。せめて電報だけでも、昨日の手紙よりは、早く着きますように。

 今日必要な金が、明日でなければ算段出来ないために、わたくしども甲斐性なしは、どんなに惨(みじ)めな思いをさせられることでしょう。

 そして今日判らなければならないことが、明日でなければ判らないために、わたくしども思慮足らずのノロイーゼは、どんなに寂しく情ない道化を演じなければならないことでしょう。わたくし、時折、しんから、映画のフィルムをあべこべに巻き、小説を終りから読み、明日から今日、今日から昨日と、さかのぼる手はないものかと考えることがあります。

 今日、日曜日の夕刻、一日握っていた前の手紙を投函したあとで、わたくしは思い切って姉を訪ねました。

 奥様。せめて、せめてこのわたくしの勇気をほめてやって下さい。でなければ、立つ瀬がございません。

 姉はびっくりして、わたくしを迎えました。よれよれの変装服で行ったものですから、姉はわたくしのことを、よほど落ちぶれていると思ったのでしょう。ウナ丼などを取寄せて、御馳走してくれました。

 そのウナ丼をぱくつきながら、わたくしは、それとなく、姉に告白をうながしました。いえ、うながすと言うより、自白を迫ったという方が、正確かも知れません。

 ところが姉は、けらけらと笑い出したのです。

「見たの、あんた? 悪いことは出来ないものねえ」

 わたくしはかっとなり、ウナギの一片を箸から畳に振り落しました。

 わたくしはその瞬間、完全に姉を侮蔑し憎悪しました。あのきりっとした気性の姉が、こんなにだらけた女になろうとは、もう言葉も出ないような気持でした。でも、わたくしは気を取直して言いました。

「姉さんが、幸福になれるのなら、お祝いするつもりで来たんだ。はぐらかすなよ。おれに、黙っている法はないだろう」

 姉は笑いつづけるのです。そして苦しげに、わたくしの詰問の合間を見て、

「バカねえ」

 と二度ほど呟(つぶや)きました。

 そして姉の言葉のごとく、わたくしはバカだったのです。なにゆえにバカであったか。奥様。お聞き下さい。

 わたくしをたぶらかした張本人は、麻雀(マージャン)だったのです。

 御主人は課長のガムシに呼びつけられ、姉は洋裁店の上顧客(とくい)である課長のゼロ号夫人に呼ばれ、ガムシの部屋で十一時半まで、おつき合いをしていたのです。隣室では騒々しくて眠れないという、あの女中の言葉のどこに偽りがあったでしょう。隣室の麻雀では眠れるわけがありません。[やぶちゃん注:「とくい」のルビは「顧客」二字に附されたもの。]

 姉の説明で、わたくしは頭がぽかんとなり、ウナ丼をごそごそ食べ終って、姉の家を辞しました。

 姉の言葉は本当だろうか、一抹(いちまつ)の疑念もあったものですから、帰途千駄ヶ谷で降り、れいの旅館に参りました。この度は逆上いたしません。女中にいくらか握らせて聞き出した事実は、まさしく姉の言った通りでした。

 奥様。

 わたくしがなにゆえにバカか、お判りになったことと存じます。でも、わたくしは我慢がなりません。わたくしはたいへん憎みます。ガムシと逆さクラゲと、ゼロ号夫人と麻雀を。

 そしてわたくしは、ちょっぴりと憎みます。十余年浮気ひとつ出来ないで過した姉の潔癖を。

 奥様。御主人は潔白でした。姉も……。姉には、一番違いで宝クジをあてそこなったような、そんな口惜しさを覚えます。しかしそれも、奥様とお嬢さんのために、誰よりもわたくしは嬉しいのです。

 御主人が時たま遅くお帰りになる事情は、以上で納得がお行きになったことと存じます。お宅で外の出来事を話さないのは昔からの習慣だと、奥様はご自分でおっしゃいました。原稿料と麻雀によって、小遣いがあり過ぎたり、またなさ過ぎたりする謎、これで氷解したわけです。

 御主人のへそくりは、民主主義に反するかも知れませんが、せめての学友や同僚や、ごく狭い範囲でのつながりは、知らぬふりして認めて上げて下さい。御主人と一列に申しては失礼ですが、わたくしどもには今の社会では、その程度にしか人と人との結びつきが許されてないのですから……。

 奥様。

 今宵は奥様の孤独と御主人の孤独と、お二人のふっくらとした倦怠感と、お嬢さんの健康のために、わたくしは独りどこかの安酒場で乾盃いたす所存です。

 残ったのはわたくしの愚かしさだけでしたが、負け惜しみでなく、わたくしはそう思いません。恥を忍んで申せば、奥様、わたくしは今仕合わせです。はかなく、いつ消えそうな形ながら、仕合わせなのです。

 最後に御無心がございます。ヘマな調査の報酬は断じて頂きません。そのかわり、大道の流行遅れでいいのです。ネクタイを一本いただかして下さい。わたくしはもの持ちがいいたちで、五本あるネクタイは皆頂きもので、これまでの愚行の歴史がこれにこもっているのです。奥様。ぜひネクタイを一本……。

 読後火中のこと、なにとぞお願い致しておきます。

古呂小父さん   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年一月号『小説新潮』初出。一部、段落末に簡単なオリジナルな語注を附した。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第四巻」を用いた。
 登場人物の姓(と思われる)「古呂」はルビを振っていないので「ころ」と読んでおくが、姓としては珍しく、この文字列も、長崎県五島列島名産である薩摩芋を混ぜ込んだ餅和菓子の一種「甘古呂餅(かんころもち)」ぐらいでしか私は見たことはない。]

 

   古呂小父さん

 

 もう三十年近くも昔のことになる。お父さんが勤めている会社の秋季郊外遠足に、子供の僕もー緒につれられて行くことになった。お父さんはよく僕をあちこちにつれて歩いたものだ。一度などは会社の出張にくっついて、はるばる熊本市まで出かけ、大共進会などを見物したこともある。子供にしてはちょいとした旅行だ。当時熊本市は市内電車の開通のしたてで、車体もぴかぴか光り、僕の住んでいる街の電車よりもずっと立派で、そのことだけで僕は熊本という街に嫉妬を感じたりした。

[やぶちゃん注:「大共進会」「共進会」は「競進会」とも表記し、農産物や工業製品を集めて陳列して一般公開をし、その優劣を競う品評会であったが、産業発展を図ることがその主たる目的であった。明治初期から各地で開催された。]

 遠足の集合地は、その僕の街のがたがた電車の終点で、集合時間は九時半ということだったのに、実際には十時半に伸びてしまった。大人というものは時間を守らない。小学生の僕はそう思って面白くなかった。約束の時刻に行ったお父さんと僕は、橋のたもとでまるまる一時間待たされたわけだ。河から脛(すね)に吹き上げてくる風は割につめたかった。僕は筒袖の着物に短い小倉の袴(はかま)をつけていた。僕の他にも一人子供がいたが、そいつはサージの服を着て、よく磨かれた靴を穿いてつんとしていた。支店長の息子だとのことだった。

[やぶちゃん注:「小倉の袴」小倉織(こくらおり:縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布。)の袴の意。]

「あの子と仲良くするんだよ」お父さんが僕にそうささやいた。「喧嘩なんかしちゃいかんよ」

 皆がすっかり集まったのは、十時半だった。一番遅れてきたのは古呂という三十四五の小父さんだ。古呂小父さんはアンパンみたいにまんまるな顔をしているが、皮膚の色艶はあまり良くなかった。心臓か胃腸かが慢性的に悪かったのだろう。電車から降りてくるなり、やあ、すまん、すまん、と遅刻を皆にぺこぺことあやまった。

「置いてけぼりにしようかと話し合ってたんだぞ」

 と誰かがつっけんどんな調子で言った。自分も遅刻したくせに、他人の遅刻をつけつけと責める。その声とは別に、あざけるような笑い声がところどころに起った。その笑いは皮膚病のようにじめじめと周囲にひろがった。支店長の息子が甲(かん)高い声を出した。

「やあ、古呂小父さんは、武者修行みたいだなあ」

 古呂小父さんはきょとんとして一行を見回した。一行の服装は、弁当や酒や釣道具を持っているだけで、あとはふだんのなりと同じだった。ところが古呂小父さんの身なりときたら、背広のズボンに白い脚絆(きゃはん)をつけ、足には靴のかわりに真新しいワラジをきちんと穿いていた。その上御丁寧なことに、弁当を浅黄の風呂敷でぐるぐるに巻き、それを肩から脇下にななめにゆわえつけていたのだ。まるで諸国修行のサムライみたいな恰好にだ。古呂小父さんの青黒い顔は見る見るあかくなった。あかくなったことをごまかすように、トントンと二三度足踏みをした。その動作がまたさざなみのように笑いをさそった。支店長の息子もたかだかとわらったし、僕もすこしわらった。笑わなかったのは当の古呂小父さんだけだった。

「さあ、そろそろ出かけるとするか」とりなすようにお父さんが言った。「これでみんなそろったしな」

 一行二十数名は、すき間風に吹かれた煙草の煙のように、なんとなくふわふわと動き出した。それが遠足の出発だった。学校の遠足のようにきちんと並んで歩かず、だらだらと伸びたりちぢんだり、三々五々という形でだ。古呂小父さんは一番遅れて、終始ひとりで、もうくたびれたように歩いているようだった。ものものしいいでたちを背後から眺められるのが辛かったのだろう。僕はお父さんに言った。

「古呂小父さんはワラジを穿いているのに、歩くのは一等遅いんだね」

「穿き慣れないと、ワラジというやつは、案外歩きにくいものだよ」

 とお父さんは説明をした。お父さんは弁当の他に、ガラス製の蠅(はえ)取り器に紐(ひも)をかけて、肩からぶら下げていた。これは河床に沈め、内部に溶き餌をして、魚を生けどりにする仕掛のものだ。

[やぶちゃん注:「ガラス製の蠅(はえ)取り器」グーグル画像検索「ガラス製 ハエ取り器をごろうじろ。私は見たことはない。しかし、これを魚獲りに使うというのはすこぶる納得!]

 空は曇って、風もすこし吹いていた。いい遠足日和ではなかった。あちこちに見える雑木の紅葉の色も、しめったように沈み、あまり美しくなかった。しばらく歩くと別の河の土堤(どて)にきた。先頭がステッキで方向を指し示し、皆はぞろぞろと土堤に沿って、上流の方に曲った。土堤の芝草はもうすっかり黄色に枯れていた。河幅はかなり広かったが、実際の水の幅は六間か七間ぐらいのものだっただろう。

[やぶちゃん注:「六間か七間ぐらい」十一~十二メートル半強ほど。]

 土堤を一時間半ばかり上流に歩き、そこで休憩ということになった。土堤のかげに小さな茶店が一軒あった。そこに立寄って、皆口をすすいだり、顔を洗ったりした。ずっと遅れてやってきた古呂小父さんに、誰かが声をかけた。

「ずいぶん遅れたね。足にマメでもこしらえたのかい」

「えへん」

 と古呂小父さんは不機嫌にせきばらいをして、急いで磧(かわら)に降りて行き、顔だけ空を仰ぎながら、ながながとオシッコをした。

 それから茶店の台や枯芝生に腰をおろし、酒やサイダーを飲み始める者もあった。お父さんと僕は早速はだしになり、蠅(はえ)取り器を河床に沈めに入った。水は膝までぐらいしかなかったが、ひどくつめたかった。溶き餌は鰹節の削ったのと粉をまぜたやつだった。仕掛け終えると、僕らは大急ぎで岸にとってかえし、三分ぐらいしてまた行ってみると、三寸か四寸ほどの川魚が七匹も八匹も入っていた。それをバケツにあけると、また大急ぎで蠅取り器を沈めに行く。

[やぶちゃん注:「三寸か四寸ほど」九~十二センチほど。]

「坊ちゃん。やってみませんか」

 お父さんが支店長の息子に言った。息子ははだしでつめたい水に入るのを好まないらしく、返事をしないで、磧(かわら)の小石を靴で蹴上げたりなどしていた。そこへ古呂小父さんがやってきたのだ。

 古呂小父さんのまんまるい顔は、すっかり真赤になっていた。茶店でむりやりに酒を飲んで酔いがすっかり発したものらしい。そして河風に顔をひやしにやってきたらしいのだ。肩から脇にゆわえた風呂敷はもう外(はず)していた。支店長の息子が甘えるように言った。

「古呂の小父さん。魚とってくれよう」

「魚?」

 古呂小父さんはトロンとした眼で、しばらく僕のやり方を眺めていた。次は自分にやらして呉れ、と言い出してきた。僕は足もこごえてきたし、少々あきてもきたので、次の番を古呂小父さんにゆずった。小父さんは蠅取り器をかかえ、ワラジを穿いたままあぶなかしい足取りで、ざぶざぶと河の中に入って行った。入って行ったと思う間もなく、河底石のぬめりに足をとられて、たちまち横だおしにひっくりかえってしまった。つめたい水の中で小父さんは四つ這いになってしまったのだ。

「面白いやっちゃのう」

 支店長の息子が憎たらしい口をきいて、磧の上でピョンピョンと飛び上った。

 茶店や芝生の方からも喚声があがった。

 その中を古呂小父さんは不器用に立ち上り、水に足をさらわれないように用心しながら、ざぶざぶと岸に戻ってきた。

 ひっくりかえった時に蠅取り器をわったらしく、古呂小父さんの指と掌から紅い血が流れていた。

「いっぺんに酔いが醒(さ)めたわい」と小父さんはぼやいた。そしてお父さんに向いてぺこぺこと頭を下げた。「たいせつなものをわってしもうて――」

「いいよ。いいんだよ」

 とお父さんは慰め、手拭いをさいて小父さんの掌に巻いてやった。白い手拭いはすぐに血が一面に滲(にじ)んで濡れた。ワラジや脚絆は言うに及ばず、背広も半分ぐらいはびしょ濡れだった。古呂小父さんはやけになったように舌打ちをしながら、よろよろと茶店の方に歩いて行った。その古呂小父さんを土堤の方から誰かがワアとはやし立てた。

 それをしおにして僕らも土堤に戻り、枯草の上で弁当を開いた。食べ終ると弁当箱に、今とった小魚をぎっしりと詰めた。お土産に持ってかえるつもりなのだ。

 その間にまた古呂小父さんは酒を飲んだらしいのだ。そろそろ帰途につくという時になると、また小父さんの顔はまっかになって、ふだんよりも更にふくれ上って見えた。焚火(たきび)で洋服や脚絆はなま乾きになっている。

 そのなま乾きの古呂小父さんが、今度は先頭にたった。足はひょろひょろしていたが、無理に元気を出しているようだった。ひょろひょろしているのは他にも三四人はいた。

 帰途は土堤沿いでなく、近道を行こうということになった。くねくねと曲った狭い田舎道だ。ハゼやセンダンの木があちこち生えている。

[やぶちゃん注:「ハゼ」「櫨」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

「センダン」「栴檀」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。]

 それらの木の下などに置いてある枝の束やわら束を、道のまんなかに引きずり出して、後から来る者の進行の邪魔をする。そういういたずらを先頭の人たちがやり始めた。その中で一番熱心なのが古呂小父さんだった。

 見ていると小父さんは、土堤なんかがあると猛然とその上に突進して、そこに置かれたわら束などをエイヤッと投げおろす。勢いあまって自分も一緒にころげ落ちたりもした。小父さんはその作業においていじめられた子供のようにむきになっていたのだ。仮繃帯(ほうたい)なんかもう掌からすっ飛んでいた。

 そういういたずらに憤慨したのが、一番あとからやってくる柔道初段の人だった。顔の四角な、いかにも精力善用と言った感じの人で、でもこの日は初段も少々酔っていた。

[やぶちゃん注:「精力善用」「自他共栄」と共に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の、指針として掲げられている言葉。柔道は相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができ、日々不断に柔道に打ち込んで精進することによって、自己の能力は磨かれてゆくが、それは日々の生活に於いても同様である。自ら養った力を、相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために使うべし、ということを表わしているという(以上は「柔道チャンネル」の「柔道用語辞典」の当該項に拠った)。]

 投げ出された束を初段は一々かついで、元のところに戻していたが、束があんまり次々ころがっているので、それで少しずつ怒ってきたのだ。初段の顔もついにいじめられた子供みたいになってきた。

 そのうちに投げ出された薪につまずいて、支店長の息子が膝をすりむき、ワアワアと泣き出すという事件がおこった。

 初段は顔をまっかにして、おそろしい勢いで先頭の方に疾走した。もう田舎道は終って、家並がぼちぼち始まっていた。僕もお父さんもつづいて息をはずませて走った。

 町の入口で初段はついに古呂小父さんの肩をがっしとつかまえた。何か二言(こと)三言(こと)言いあらそったようだった。お父さんが大声でさけんだ。

 「ちょっと待てえ!」

 しかしお父さんの絶叫も間に合わなかった。古呂小父さんが拳骨をふり上げて、初段の顔のまんなかをいきなりなぐりつけたのだ。

 次の瞬間古呂小父さんの身体は、初段の肩の上で一回転して、地面にたたきつけられた。僕らがそこに到着した時、古呂小父さんは地面に腹這いになって、オウオウと呻(うめ)いていたし、初段は初段で亢奮(こうふん)したおろおろ声で、

「初段だぞ。おれは、初段だぞ」

 と威張っていた。

 それからお父さんは古呂小父さんの腕を肩でかつぎ、終点の方にそろそろと歩いた。初段たちは先の電車で行ってしまった。

 電車に乗せても古呂小父さんは、初段はどこに行った、初段はどこに行った、と叫んできょろきょろしたりした。小父さんのなま乾きの服は泥だらけで、浅黄の風呂敷もどっかに紛失してしまったらしい。

 僕は疲れたから座席に腰をおろしてうとうとしていた。電車はだんだん混んできた。向うの方で古呂小父さんのしぼるような声がした。

「五十銭玉を落したよ。ああ、見つからないよう」

 そして電車の床を這うようにして五十銭玉を探し始めた。声がだんだんこちらに近づいてくる。

 僕の前の和装の若い女のひとが、吊皮にぶら下っていた。古呂小父さんの顔がそのかげからちらとのぞいた。小父さんの顔はほこりによごれ、ほとんど土色をしていた。小父さんの眼が僕を見た。そして小父さんの手がいきなりぱっと動いて、その女のひとの着物の裾を一気にまくり上げた。小父さんの顔はまるで死にかかった犬の顔だった。

「キヤアッ!」

 女のひとは悲鳴を上げた。しかしその瞬間に僕の眼は、はなやかな色彩の乱れの中に、白い脛(すね)や膝やその他のものを、真正面からすっかり見てしまったのだ。僕は眼がくらくらして、思わず座席からすべり落ちそうになった。女のひとはそのまま床にへたへたとしゃがみこんでしまった。

 次の駅に着くと、女のひとはしくしく泣きながら、電車を降りて行った。顔をおおうたまま肩をふるわせている姿を、僕は今でも思い出せるのだ。

 それから古呂小父さんがどうしたか、その前後の記憶が全然ないところを見ると、よほど一瞬の印象が強烈だったのだろう。ひょっとするとそのあとで、古呂小父さんはまた誰からか、あるいはよってたかって、ぶんなぐられたかも知れないと思う。

ポストの嘆き   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年六月刊『別冊文芸春秋』(第五十八号)初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 

   ポストの嘆き

 

 おれは郵便が好きだ。郵便を出すことはそれほど好きではないが、貰うのは大好きだ。何かいい便りが来そうな気がして、一日の中何度も立って、郵便受けをのぞきに行く。入っていたら心がおどるが、入っていないとがっかりする。時には丁度(ちょうど)郵便物を入れかけている配達人と、ばったり顔を合わせることがある。何度ものぞきに行くのだから、偶然以上に顔が合う率が大きいわけだ。顔がばったり合うと、おれの気のせいかも知れぬが、配達人はちょっと困ったような表情になる。おれと視線を合わさないようにしながら、郵便の束をごそごそとより分けたり、そっぽ向いたまま郵便受けに放り込んだり、そして赤い自転車にまたがって、すうっと行ってしまう。おれの区域の配達人はまだ若い。二十二か三ぐらいだと思う。

 おれは昔、子供の頃、郵便配達手が大好きだった。昔の郵便配達手は、今みたいに若くなく、年配の人が多かったように思う。おれが子供だから、そう見えたのかも知れない。今残っている感じでは、昔の配達人は赤銅(しゃくどう)色に日やけして、たいへん大きな掌を持っていた。自転車には乗らず、てくてく歩いて配達していたようだ。配達人は特別に掌を使う職業ではないのに、何故大きな掌を持っていたか。それは、かんたんに説明出来る。昔の配達人は気のいい人物が多くて、子供たちを可愛がり、しばしばおれたちの頭を掌で撫でて呉れた。子供というものは、大人から頭を撫でられると、その大人の掌を実際以上に大きく感じるものだ。

 昔の配達人は気がいい人物が多いと書いたが、これは今の配達人(正確な呼称では集配員と言うのだそうだ)に気がいい人物がすくないと言う意味じゃない。昔と違って今は、一人当りの配達量も多いだろうし、てくてく歩きでなく自転車配達だし、つまり子供の頭を撫でる余裕や暇がない。気がいい悪いに関係なく、子供の頭を撫でる機会がないのだろう。

 で、前にも述べたように、おれは郵便が大好きだ。常住待ちこがれている。その日の郵便が来ないことには、きまりがつかないような気がして、仕事に手がつかない。おれは原則として、朝は仕事をしない。ふつうの人間は、朝が一番頭がはっきりしているものらしいが、どういうわけかおれは、朝は頭がぼんやりしている。まったく鈍麻している。仕事なんか出来るような状態にない。体質にもよるのだろう。だから朝は仕事抜きで、新聞を読んだり、雑誌を読んだり、爪を切ったり、草むしりをしたり、そんなことで頭がはっきりするのを待っている。はっきりし始めたら、そろそろ仕事に取りかかる。だからおれとしては、まだ頭がぼんやりしているうちに、郵便物に到着して貰いたいのだ。郵便物と仕事とは、両立しない。一度に二つのことは出来ない。

「もう少し早目に配達して貰えないものかねえ」

 ある時、たまりかねたような気特になった時、その若い配達人におれは言ったことがある。

「せめて午前中にくばって貰えたらねえ」

 以前住んでいた区では、そうでなかった。郵便物の遅配に悩まされ始めたのは、練馬区に引越して来てからのことだ。時々新聞の投書欄に、郵便の遅配や誤配についての苦情が出ている。今朝の朝日新聞の『もの申す』欄にも、遅配の苦情が出ていた。苦情の相手の郵便局は、落合長崎郵便局だ。その人は今年の一月から配達された時間を日記に書き込み、それを平均すると第一便が午前十一時半ということになると書いている。おれのところは、十一時半などという、そんななまやさしいものではない。平均はとってないが、もしとれば、十二時半か一時ぐらいになるだろう。二時、三時というのもざらだ。第二便なんか来たことがない。一日一便ということになっている。全然来ない日だってあるのだ。昨日なんかもそうだ。全然無配だ。だから午後四時になって、郵便課に電話をかけた。自分の所番地を言い、今日は配達はないのかということを聞いた。すると相手は、そんな筈はないんだがなあ、などと近所の課員たちと相談している風(ふう)で、やがてまた電話口に戻って来ての返答は、お宅の区域の集配員が今日は抜けている、とのことだった。抜けているとは、どういう意味か。これで返答になっているつもりらしい。

「では今日は配達しないと言うのですね」

「そういうことになりますな」

「それは困ります」

 とおれは言った。実際に困るのだから。そのことのために、おれは今まで何度も、いろんなことをすっぽかしたりしているのだから。

「よそでは一日に二へん配達されているのに、一日全然無配だというのは困る。配達していただきたい」

 すると相手は、では外廻りの係にかわるから、と受話器を置いた。三分ほどして他の男が出て来た。どういう用件かと聞く。全然用件を引継いでないらしい。だからまた初めから言い直した。するとその男は言下に言った。きわめて横柄な口調でだ。

「そりやダメだね。こんな時刻だから、配達は出来ないね」

「どうしてもダメですか」

「ダメだね」

 ちょっと沈黙があって、それからおれは言った。

「これは別な話ですがね、郵便を配達して歩く人は、正確に言うと、配達人というんですか。それとも配達手?」

 昔は配達夫と言っていたような気がする。

「ええと、それは集配員だ」

「ではどうも」

 おれは電話を切った。おれは近頃、どんなことがあっても、電話口では怒らないことにしている。おれの経験では、怒っていい結果になったためしがない。面と向って怒るならまだしも、電話口で怒るほど愚かなことはない。一番初め、練馬区に引越してしばらくのことだが、おれは郵便局長宛てに手紙を出した。配達が午後二時、三時になるのは困る。当日一時の試写会の案内が、午後三時に配達されるようでは困る。どうにかしていただきたい、と言う意味のことを書いた。封筒に十円切手を貼って出した。

 するとその翌日、郵便課長という人がやって来た。上って呉れと言っても上らない。玄関先で用事を済ませたいと言うので、おれは玄関に出て行った。

 この年配の課長さんには、奇抜で面白いくせがあって、今でもはっきり覚えているのだが、おれと向き合って会話しているうちに、課長さんの顔がしだいに横を向く。少し経つと、身体も顔を追って横向きになる。つまりおれは課長さんの横姿に対している形となった。そういう形でいろいろ問答しているうちに、今度は課長さんの顔が更に横向き、つまりおれから見ればうしろ向きになった。おれが顔を向けている方向と、課長さんが顔を向けている方向が、同じになった。そしてしばらくして、身体もそろそろとそっち向きになった。すなわちおれは課長さんの後姿と問答することになったのだ。うしろの扉はあいているから、課長さんは戸外の景色などを眺めながら、口を開閉させているらしい。

 人の後姿と対話するなんて、生れて初めてで、妙な気分のものだったが、きっとこの課長さんは人見知りするたちだろうと、おれはその時思った。しかしその課長の横向きやうしろ向きの説明はしごく月並なもので、近頃デパートの案内状が多くなったとか、集配人の経験が浅くて能率が上らないとか、そんなものばかりだった。

「それにお宅の配達順番は、区域の最後尾に当っているものですから」

 それでおれはこういう提案をした。同じ税金を払っているのに、ある家は朝早く、ある家は午後二時三時の配達とは、公平でない。だから一日おきに、配達の順路を逆に廻ったらどうだろう。今日おれの家が最後尾なら、明日は最先頭になって、不公平はなくなる。すると課長が言った。

「それは、技術上、不可能なんです」

「どうして不可能ですか?」

「とにかく、それは不可能なんです」

 その時は課長はもう裏返しになっていたから、どんな表情で言ったのか判らない。とにかく不可能の一点張りで、おれの提案をしりぞけた。

 この逆廻りがどうして不可能なのか、だから今でもおれは判らない。おれは配達に関しては素人(しろうと)だが、それが出来ない筈はないと思っている。

「これから手紙は、局長宛てでなく、私宛てにして下さい。切手を貼る必要はありません。通信事務と書いて下されば、それで届きます」

 課長さんは裏返しのまま頭を下げ(つまり戸外に礼をしたことになる)そのままとことこと出て行った。

 それから暫(しばら)く配達状態が良くなって、良くなったと言っても、午前十一時以後で、つまり落合長崎局における苦情ラインを上下する状態がつづいた。

 それからまた悪くなった。日脚が長くなるように、だんだん配達時間が伸びて、正午を突破し、正午を突破すると、バカになったゴム紐みたいに、ずんずんだらしなく伸びて行った。

 おれは電話をかけた。

 するとあの裏返し課長は転勤していて、他の課員が出て来た。相変らずデパートの案内状云々の言い訳で、つかみどころがない。

 翌日もかけた。

 翌々日もかけた。

 意地になったせいもあるが、午後三時の配達では、いろいろさしさわりが出来て、おれは困るのだ。四日目に相手は言った。お宅のことはよく判っているし、気にもかけているが、しばらくお待ち願いたい。この間も集配人から、お宅で叱られたとの報告もあった。云々。

「冗談じゃないですよ。叱りはしませんよ。集配人を叱って、どうなるというものではないし」

 午前中に配達して貰えんものかねえ、と言っただけのことが、叱責されたということになって、郵便課に伝わっている。どこでどう歪んで間違ったのか、おれには判らない。

 とにかくあそこでは、このおれはウルサ型ということになっているらしい。普通に話しかけたのに、叱られたと感じるということは、これはただごとでない。そして相手は言った。

「そんなに遅れて困るのなら、取りに来たらどうですか。取りに来ては」

「そうですか」

 とおれは言った。さっき言った通り、おれは電話口では腹を立てないことにしている。でも、こちらから取りに行くと申し出るのなら判るが、向うから取りに来いというのは、ムチャクチャな言い分である。区民を何と心得ているのだろう。

「ではいただきに上りますがね、このような遅配状態はいつ頃までつづきますか」

「そうだね。見当つかないね。当分続きますね」

 電話を切り、家人に郵便を取りにやらせ、おれは机に向って、郵便局長宛てに手紙を書いた。当分続くと平気で答える心事が、当方としてはどうにも解(げ)せない。改善の意志はあるのか、ないのか。通信事務と書かず、ちゃんと十円切手を貼って出した。それが一箇月前のことだ。

 局長からの返事は、今に到ってもない。配達状態は元のままである。

 おれは今後税金を払うめをよそうと思う。本気でそう思っている。

2016/12/28

空の下   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年八月号『新潮』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。一部の語句について当該段落後にオリジナルに注を附した。]

 

   空の下

 

 西の低地から、煙が流れてくる。

 私の庭先の、地上二米(メートル)ほどの高さを、それは淡くみだれた縞(しま)になって、ゆっくりと東へただよってゆく。縁側にすわって、とりとめもなく私はそれを眺めている。西風が吹いているんだな、などと思う。しかし目を立てて見ても、群れ立つ庭樹の梢や、地上の草花や雑草の穂が、ほとんど動いていないのは、風速がごく小さいせいだろう。ここにいる私の皮膚にも感じられない。だから煙がそこらを這っていても、煙の縞がもすこし濃くなってきたとしても、心配するほどのことはない。煙のにおいが微かに、鼻の奥を刺戟する。ものの焦(こ)げくすぶる、いがらっぽいにおいだ。そこでなにを燃しているのか、わざわざ縁側を降りて見に行かなくても、私には判っている。燃えているのは、古畳である。裏が白っぽく湿っているので、火付きが悪いのだ。昨日はよごれた座布団(ざぶとん)類だったし、一昨日は使いふるしの長火鉢であった。

 一昨日の長火鉢は、古ぼけた割には頑丈な出来だったと見え、ぶっこわすのに大へん手間がかかった。沢庵石(たくわんいし)をぶつけたり、鍬(くわ)の背で叩いたりして、やっとばらばらにした。ばらばらにし終えたときは、さすがの飛松トリさんも、水から引き揚げられたゴムマリみたいに、顔じゅうを汗だらけにしていた。私はその光景を、西窓を細目にあけて、眺めていたのである。その飛松トリさんの傍では、近所の古畑ネギさんが、はらはらしたような声を出して、しきりにうろうろしていた。

「まあ、勿体(もったい)ないじゃないか。まだ使えるものを、そんなにまでしなくても」

「いいんですよ」顔の汗を手の甲で拭きながら、トリさんは邪慳(じゃけん)に言い放つ。「あたしはムシムシしてしようがないんだから」

[やぶちゃん注:「ムシムシして」不安や怒りなどで気分が晴れなくて。「ムシャクシャする」と同義。私は誰でも判る語だと思っていたが、「幻化」にこの語が出る部分を公開した際、注を附けずにおいたら、意味が判らないというメールを貰ったので、敢えてここで注しておく。]

「ムシムシするったって、ほんとにおよしよ。来年にまた、要(い)るもんじゃないかね」

 トリさんは返事のかわりに、沢庵石を頭の上まで持ち上げ、地面にころがった猫板めがけて、勢いよく投げおろす。灰がバッと四散して、そこらあたりに濛々(もうもう)とたちのぼる。古畑ネギさんは袖で鼻をおおいながら、飛びはねるように後しざりする。灰のなかから呆(あき)れたような、こもった声がする。

[やぶちゃん注:「猫板」は「ねこいた」で、長火鉢の端の引き出し部分の上を蔽っている板を指す。暖かいので猫が蹲るところから、かく称する。]

「――わからずやだねえ。ほんとに。およしなさいってのに」

 飛松トリさんは、三十がらみの独身女で、背丈も五尺三四寸はある。筋肉質のいい体軀をしている。灰神楽(はいかぐら)のなかを、片肌脱(ぬ)いでつっ立っているから、片方の胸の隆起がありありと見えた。そこにも汗が流れているに違いないから、やがてべたべたと灰まみれになるだろう。そのままつっぱねるように言う。

[やぶちゃん注:「五尺三四寸」百六十一~百六十四センチ弱。当時の女性の背丈としては高い。]

「だってムシムシするんだよ。仕方がないじゃないか」

 毎年今ごろの季節になると、飛松トリさんはすこしずつおかしくなってくる。ふだんは無口なごくおとなしい女性だが、いつもこの若葉どきになると、気分のおさまりがつかなくなるらしく、所業も少々正常でなくなってくる。その時期が近づくと、眼の色が青みをおびてくるから大体わかるというのだが、私が確めたわけではないから、本当かどうかは判らない。いつか古畑ネギさんが、何かの話のついでに、私にそう教えて呉れたのである。

 飛松トリは、その低地に建てられた細長い家の、いちばん端の部屋に住んでいる。その家の台所に接した北向きの六畳間だ。身寄りもほとんどないらしく、訪ねてくる人はあまりない。日当りのわるい六畳の部屋に、終日黙々として生活している。生活の資をどこから得ているのか、私はよく知らない。知りたい気持も、別にない。家賃の上(あが)りで生活しているのかとも想像されるが、しかしそれだけでは大変だろう。その細長い軒(のき)の低い家屋は、飛松トリの所有物なのである。私の居間の西窓をあけると、目とほとんど等高に、その細長い屋根の斜面が見える。軒庇(のきびさし)は古びて朽ちかけ、瓦も割れたり脱落したりしている。脱落した部分は、泥や黄土で補塡(ほてん)してある。よほど栄養のいい泥土をつかったと見え、いろんな草がそこに密生している。花をつけているのもある。鬼瓦の横にいま黄色い花をつけているのは、タンポポである。昨年の夏などは、どこから種がとんできたのか、ひょろひょろした向日葵(ひまわり)が一本生育し、直径三寸ほどの小さな花ゐつけ、一夏の風にゆらゆら揺れていた。今年はその跡に、小さな蕗(ふき)が三四本、ポン煎餅ほどの大きさの丸い葉を、つつましやかに拡げている。飛松トリの部屋は、大体その真下にあたる。その真下の部屋でトリさんは、この二三日来目玉を青くして、しきりにムシムシしているのである。ムシムシすると家財道具を燃したくなる気持は、私にもおぼろげながら判る。私もむかし、何度も何度も、そんな気持になったことがあるから。

[やぶちゃん注:「三寸」九センチ。]

 毀(こわ)されてばらばらになった長火鉢は、古畑ネギさんの制止もふり切って、その日の夕方までにすっかり灰になってしまった。もともと長火鉢というものは、炭を燃すためのものであって、燃されるためにつくってはないから、まことに不本意な燃え方をして、灰になるまでにはなかなか時間がかかった。その跡におびただしく堆積(たいせき)した灰は、私が翌朝見たときは、そこからすっかり姿を消していた。その代り古畑一家の部屋の前の、猫の額(ひたい)ほどの庭のすみに、あたらしく灰の山がひとつできていた。いつの間にそこに移動したのか私も知らない。しかしそのうちに、古畑ネギさんが私の家に、上等の火鉢灰を売りつけに来るだろうという予感は、漠然とながら私にはある。

 昨日も春にしてはむし暑い日だったので、飛松家の裏口では、古座布団や竹行李(たけこうり)などが、終日黄色い煙をあげて燃えていた。そこら中を飛び廻るようにして制止しているのは、やはり古畑ネギさんである。ネギさんとして見れば、みすみす物が燃えてしまうのは、ひとごとながら、居ても立ってもいられない気持なのだろう。その気持もいくらか判る。トリさんは前日と同じ恰好で煙のなかに佇(た)ち、衣紋竹(えもんだけ)で燃え殻をつついたり、煙にむせて烈しくせきこんだりしていた。なにしろいい体格だから、腕ずくでとめるのも容易ではなかろう。しかし私にしても、その自信は全然ないし、だいいち他人が他人のものを燃すのに、私が口を出すいわれがある筈もない。私の家に火がつかない限りは、物が燃えようと濡れようと、さしてかかわりのあることとも思えない。だからそれはそれでよろしい。ムシムシしているのは私ではなく、トリさんなのだから、トリさんの家財が燃えあがるのは、別に不自然なことではない。

[やぶちゃん注:「衣紋竹」和服を掛けておくための竹製の道具。これは無論、トリが一緒に燃やそうとしていた、トリのものである。]

 今朝は早くから、私がまだ寝床にいるうちに、西窓の下手(しもて)にあたって、けたたましい声がした。鶏が鳴いているのかと、始めは思った。

「まあ、およしったら。畳まで燃すなんて、あんまり無茶過ぎるよ。およし。およしったら」

 古畑ネギさんの声。そしてそれに和すように、おろおろした別の声が、

「およし遊ばせ。あら、ほんとに、およしになって。あらあら」

 堀田というお内儀(かみ)さんの声である。今日は二人でとめている様子だ。トリさんの声は聞えなかった。黙々として作業に従事しているらしい。西窓からのぞいて見なくても、その情景はだいたい想像がつく。昨日おとといと、トリさんの胸のかなり見事な隆起は、見飽きるほど眺めたから、わざわざ立ってのぞいて見る嗜慾(しよく)もおこらない。その隆起を上下にゆるがせて、いよいよ古畳を引っぱり出そうとしているのだろう。昨秋の大掃除の折に見たが、あの家の畳は、裏がすっかり白っぽく黴(か)びて、しとしとと湿っていた。上をあるくとポクポクと凹(へこ)む。実はその手の畳が二枚、私の家のと入れ替わっている。大掃除のどさくさまぎれに、うまく間違えられてしまったのだ。だからそんなことまで私は知っているのだが、今トリさんが引きずり出しているのは、黴びてしめった方のやつだから、燃すのもさだめし骨が折れることだろう。そんなことを寝床でかんがえている間も、窓の外ではガヤガヤガヤと、声や音が入り乱れていたが、やがてひときわ甲高(かんだか)く、

「あなた。あなた!」

 と叫ぶネギさんの声がした。手に負えずと見て、亭主を呼ぶ気になったらしい。しかしその返事は戻ってこなかったようである。ネギさんの亭主古畑大八郎は、生憎(あいにく)とその近くに居合わせなかったのか、あるいはまた、かかわっては損だとして、見て見ぬふりをしたのかも知れない。古畑大八郎という老人は、そういう性格の男なのである。私はこの老人に、千三百円ほどの貸金がある。

 古畑夫妻は、この家の反対の端、道路に近い二部屋を占拠して住んでいる。二部屋といっても、一部屋はこの家の玄関である。飛松トリと古畑夫妻の中間の部屋には、さっきの堀田一族が居住している。つまりこの細長い家のなかには、三世帯が一列横隊にならび、それぞれの生活を営んでいるのである。家主はもちろん飛松トリさんであるが、彼女があとの二世帯に、いくらの家賃で部屋を貸しているのか、その家賃もきちんきちんと支払われているかどうか、私はよく知らない。しかし近所の噂では、ほとんど支払われていないという話だ。堀田家はそれでも、二三箇月に一度くらいは金を入れるらしいが、古畑家にいたっては、一文(もん)だに入れたことがないということである。噂だから当てにならないが、事実そういうことになっているかも知れない、とも思う。ふだんの飛松トリさんは、いい体格をしているくせに、気が弱くて無口で、あまり催促などができる人柄ではないようである。そこにつけこめば、家賃を踏み倒すのもむつかしいことではなかろう。いつだったか古畑老人がトリさんにむかって、こう怒鳴りつけているのを聞いたことがある。

「ぐずぐず言うなら、早速この家を出て行ってもらおう。あんたが居なくても、別段うちは困りやしないんだから」

 家主がいなくても店子(たなこ)は困らないだろうけれども、この古畑大八郎の言い方は、世間の通念とはすこし逆のようであった。もっとも老人にして見れば、とっさの感想を、率直明快に表現したのかも知れない。

 堀田一族はおおむね、子供から成り立っている。子供は何人いるのか判らない。皆同じような顔をしているので、ほとんど区別がつかない。四五人のようでもあるし、七八人のようでもある。じつとかたまっておれば数えられるだろうが、この子供たちはしょっちゅう動き廻っているので、正確な数はとらえがたい。朝から晩までそこら中をかけ廻っている。私の家の庭をも平気でかけ抜ける。庭というほどのものでなく、方六七間の空地にすぎないが、ぐるりを囲っていた竹垣が今はすっかり朽ち果てたので、誰でも自由に通り抜けられるのだ。もともと貧居人工に乏しく、雑草や灌木(かんぼく)が宅をおおっているだけだから、その灌木類を縫って、子供たちは騒然とわめき走る。しかしこれら子供たちも、この界隈(かいわい)のある一箇所だけは、はばかって近寄ろうとしない。それは古畑家の庭だ。古畑家と言っても、彼はほんとは間借人だから、特定の庭をもつ筈はないのだが、何時からか自分の部屋の前をキチンと竹垣で囲って、強引(ごういん)に他人の侵入をはばんでいる。空地は部屋に属しているという見解なのであろう。しかしその竹垣は、年々歳々、すこしずつ拡がってゆく傾向がある。その垣根はキチンと四角に仕切られてはいず、不規則な円形をなしているが、しかしそれがいっぺんにふくれ拡がってゆく訳ではない。タンコブのように、あちらがふくれたかと思うと、今度はこちらがふくれるという具合に、少しずつ版図(はんと)を拡げてゆくのである。いつ竹垣をうえかえるのか知らないが、昨年の今頃あたりから見ると、すでに古畑家の庭の面積は、約二倍に膨脹(ぼうちょう)したようである。その庭の手入れは、もっぱら古畑大八郎がやる。ほとんど一日の大半、彼はそれにかかり切っている。だから私の家の庭と違って、完全に手入れが行き届き、徹底的に整備してある。雑草などは一本も生えていない。丹念に育てられた花卉(かき)のたぐいが、いつもあざやかに季節の色を点じている。大八郎は一日のうち何度もここに降りてきて、花に水をやったり、肩をそびやかせてうろうろ見廻ったりするのである。

[やぶちゃん注:「方六七間」凡そ十一~十三メートル弱四方。]

 古畑大八郎は六十がらみの、骨張った感じの老人だが、まだ腰はしゃんと伸びている。ネギさんとの間には、子供は一人もない。ただ二人きりで暮らしている。うまく民生委員にとり入って、生活保護法を受けているという話だが、その他の収入としては、ネギさんがちょこまかと動いて、物資を右から左へ流したり、そこらのものをチョロまかしたりして、さまざまの利得がある様子だ。私の家の畳を大掃除の折、二枚もチョロまかしたのは、この古畑一家だとは断定できないけれども、道路から見える古畑家の部屋の畳が、二枚だけ周囲と別の色をしているのは、事実である。道を通るときにそこをのぞき込んだりすると、古畑老人はとたんにとがめるような眼付きになって、私をにらみつける。老人の眼は四角な感じの隈で、ちょっとトーチカの銃眼に似ている。この眼でにらみつけるから、堀田家の子供たちといえども、容易に近寄らないのである。その四角な眼の奥で、この老人がなにを感じ、なにを考えているかは、私にもよく判らない。私と関係のないことだから、それほど判りたいとも思わない。しかしその網膜にうつる私自身の姿は、ある感じをもって、私にうすうすと想像できる。私はこの老人と、昨年までほとんど口を利(き)いたことがなかった。口を利くほどの用事がなかったからだ。ネギさんとは時々口を利く。ネギさんが私の家にいろんな物を売りつけに来るからである。使い残しの汲取券だとか、代用石鹼だとか、そんなこまごまとしたものを持ってくる。いつかは一番(ひとつが)いの小鳥を持って売りにきたこともあった。私の庭に無断でそっとカスミ網を張り、それで捕獲したものである。その他椎茸(しいたけ)。これもたしかに私の庭で栽培(さいばい)したもの。私が庭を放ってかえり見ないから、雑草のカーテンのむこうを、古畑一家は盛んに利用しているらしい気配がある。この間偶然踏みこんで見たら、小規模ながら畠ができていたのには、私もすこしおどろいた。しかしそれならそれで、私はかまわない。雑草の代りに三ツ葉が生えるだけだから、庭の眺めとしては、それほどプラスでもマイナスでもない。そういう気がする。その三ツ葉を束(たば)ねて、ネギさんは時々私に売りにくる。採り立てで新鮮だから、滋養分も豊富だというのである。ネギさんの言うことは、平生(へいぜい)あまり信用できないが、これが採り立てであることだけは、私も確実に信用する。なにしろ古畑家の荘園に、今しがたまで生えていたものに違いないから。新鮮であるからには、値段もなかなか安くない。金がないとことわっても、代はいつでもいいからと、ネギさんは無理矢理に置いてゆく。ツケがきくほど、私は信用されているらしい。古畑大八郎氏が私に金を借りにきたのも、そういうネギさんの信用と、いくらか関連があるのかも知れないと思う。

[やぶちゃん注:「汲取券」例えば、東京都では昭和四四(一九六九)年三月まで屎尿)しにょう)の汲み取りは有料で、手数料の徴収には「汲取券」が使われていた。「東京都清掃事業百年史」(PDF)に拠った。そこには昭和三十年代の屎尿汲取券の取扱店の写真も出る。私(昭和三十二年生まれ)には残念なことに記憶がない。

「代用石鹼」苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を主成分とする粘土の一種白土(はくど)などから製せられた石鹸の代用品であろう。粗悪なものでは油脂成分を全く持たないものもあったようである。]

 それは今年の始めの、ある寒い日であった。古畑老人はどてらの着流しで、ふところ手のまま、ぬっと私の庭に入ってきた。古畑老人は心臓がわるいという話で、そのせいか皮膚は土色をしている。頭には黒灰色の髪がまばらに生えている。冬景色のなかに立たせて、これほどぴったりした人態(にんてい)は、他にあまり見当らないように思う。荒れ果てた私の庭の眺めも、中心点を得て、にわかに引き立つ感じであった。やがてその中心点が、しずかに口を開いた。金をすこしばかり融通(ゆうずう)して欲しいと言うのである。

「今はありません」と私は率直にことわった。実際に余分の金は私になかった筈だから。

「今はなければ、何時ありますか?」老人は低い含み声で、押しつけるように反問した。ブリキの貯金箱の差入口のようなれいの四角な眼が、まばたきもせず、じつと私の表情を凝視している。

 その時どういう返事をしたのか、私はよく記憶していない。いい加減に話のつじつまを合わせて、私に現在は金がないことを納得(なっとく)させ、帰ってもらったのだろうと思う。いずれそのうちに、などと口を、辷(すべ)らせたかも知れない。そこらのやりとりは、どうもあやふやである。とにかく老人は、肩をそびやかすようにして、その日は得るところなく帰って行った。なにか無形のものは得たかは知れないが、実際の金は私から借り出せなかった。古畑大八郎とまとまった会話をしたのは、この日が始めてである。

 一週間か十日か経った。私が銭湯のなかで、向いの川島さんと顔を合わせた。すると川島さんがすぐさま私に言った。

「古畑さんに金を貸すんだそうですね」

「なぜです?」と私は反問した。

「あなたから借りるあてがあるから、それまでに少し融通して呉れと、あの爺さんが言ってきましたよ」

「それで、貸したんですか?」

「ええ。二百円ばかり」川島さんは湯気の間から、照れたような、また憫(あわ)れむような笑い顔を、私の方にちらとむけた。そして言った。

「あのお爺さんと口をかわしたのは、これが始めてですよ。いつもツンとしててね」

「そう言えばそんな感じですね」

「二百円ほどでいいと言うんでしょう。貸さなきゃ悪いような気になってね」

 それと同じようなことが、ほかにもあった。裏の秋野さんがやってきて、私に同様のことを言った。

「君。古畑に金を貸すんだってね」

 それと同じ質問を、角の煙草屋のおかみさんからも受けたし、汲取屋の若者からも受けた。その若者は、私から汲取券をうけとりながら、小声でささやくように言った。

「あなた、古畑さんに融通して呉れるんでしょうね。ほんとでしょうね」

 海岸の波打際にはだしで立っていると、波が足裏のへりの砂をすこしずつ持って行く。あれに似てくすぐったいような、快(こころ)よいような、忌々(いまいま)しいような感じが、私の全身にぼんやりと感じられた。どうも私の意思とは関係なく、なにかがしきりに進行しているらしい。私はその若者に訊(たず)ねてみた。

「それでいくら貸したんだね?」

「ええ。百二十円。そのほかに汲取代の貸しが、八荷分だったかな。まとめて払うと言ってね、なかなか払って呉れねえんですよ」

 そんな風にして、古畑老人があちこちから借り集めた金は、私の集計ではざっと七八百円にのぼった。どうして古畑にそんな金が必要なのか、私にはよく判らなかった。するとある日、堀田のお内儀(かみ)さんがやってきた。あの子沢山のお内儀である。もっとも亭主はいないのだから、お内儀さんというより、未亡人というべきだろう。その色の黒いくたびれた顔の未亡人は、縁側に腰をおろして、怨(えん)ずるような声で私に言った。

「ほんとに困るんでございますのよ。あたしは夜なべをやっておりますでしょう。ですからねえ」

「そうでしょうねえ」

 どんな夜なべをやっているのか、それでどうして困るのか、わけも判らないまま、私はとりあえず相槌(あいづち)を打った。古畑のこととなにか関係があるらしい。そういう予感が私にあった。なんだかひどく身体がだるいような気分である。未亡人はその私の顔を、チラと横目で見た。

「あなたはわらってらっしゃいますけれど、笑いごとではございませんのよ」未亡人は私の方に、ぐいと上半身を乗り出すようにした。「早くどうにかしていただかなくては、口が乾上(ひあが)ってしまいますわ。ご存じかも知れませんが、子供もたくさんおりますし――」

「ええ。しよつちゅうこの庭に、打連れて遊びにいらっしゃいますよ」

「そうでしょ」と未亡人は勢いこんだ声を出した。「あの子供たちが、夜中にオシッコをしたくなるでしょう。そうするとね、柱や壁に、頭や顔をぶっつけて、コブだらけなんでございますのよ。多いのは七つもコブをつくっておりましてね。近所からコブ大臣という綽名をつけられたりして――」

「どうしてそんなに、ぶっつかるのです?」

「あら。そりやぶつかりますわ。あたしだって、時にはぶつかるんですもの」

「だって柱や壁のあり場所は、ちゃんときまっているんでしょう」と私はいぶかしく訊ねた。「それともお宅の柱は、動いたりするのですか?」

「動く柱なんてありますか」未亡人の顔に急に赤味がさして、すこし荒い声になった。「電気ですよ。よくご存じのくせに」

「はあ。電気がどうかしたんですか?」

「切られたんですよ!」癪(しゃく)にさわってたまらない表情で、未亡人は舌打ちをした。「だから夜はまっくらですよ。ほんとにほんとに、しようがない」

 電燈が止められたということが、やっとはっきり判った。そして未亡人の話によると、止められて一ヵ月近くになるそうである。そう言えばこの頃西の窓に、夜になっても燈影がささないと思った。しかしそのことが、私とどんな関係があるのか、まだ私にはよく判らなかった。すると堀田未亡人は、睨むような、また流眄(ながしめ)みたいな眼付きになって、教えるような口調で言った。

「だってあなたは、古畑さんにお金を融通するって、そう約束なさったんでしょ。あたしと飛松さんの分は、もうまとめて、古畑さんにお渡ししてあるんですよ」

 電気代の滞納を三等分して、二世帯分はすでに調達でき、あとは古畑家の分だけだと言うのだ。そして未亡人が催促すると、古畑大八郎の言い分は、私から金を融通受けしだい直ちにまとめて配電会社に支払うというのである。私は少しばかりは驚く気持にもなった。あの寒い日、そんな約束はしなかったように思うけれども、言葉のやりとりの中から、あるいは古畑老人は自分に都合のいい言葉を見付けて、いずれ借りられるものと解釈したのかも知れない。それが古畑老人の誤解であるとしても、未亡人の話では、事態はすでに遅すぎるようであった。私が意識しない間に、私が金を借り出される条件はすべてととのい、たくさんの人がその日を待ちくたびれている気配である。状況がこうであれば、私としてはどうしたらいいだろう。私は少しおどろき、また少しがっかりして、最後におそるおそる訊ねてみた。

「それであなたは、その催促にいらっしゃった訳ですね」

「ええ。古畑さんが、貴方の様子を見てこいと、そうおっしゃいましたのでね、こうしてお伺いしたんでございますのよ」

 それから未亡人が戻って行って、古畑大八郎にどんな報告をしたのか、よく判らないけれども、翌朝老人自らがやってきて、千三百円という大金を、私は簡単に借りられてしまったのである。ふだんの私ならば貸す筈はないのであるが、ずいぶん手のこんだ工作に眩惑(げんわく)されて、ついうかうかと手渡してしまった。いつ戻して呉れるかということを、確める余裕すらなかった。その朝古畑老人は、私が寝ているうちに庭に入ってきて、あわてて起き直ろうとする私にむかって、単刀直入に口を切ったのである。

「千三百円ほど、貸していただきたい」

 貸していただきたい、と言ったのか、貸していただく、と言ったのか、はっきりしなかった。後者だったかも知れない。低い含み声だったけれども、それは自信に満ち満ちた高圧的な口調であった。そして私からその金額を受取ると、ことさらムッとした不機嫌な表情をつくり、くるりと背をむけて、さも忙しげにトットッと帰って行った。今考えるとその態度は、私に余計な質問を封じる魂胆(こんたん)からだったとも思われる。

 その夜、私が西窓を細目にあけてのぞくと、細長い家の各部屋部屋に、黄色い電燈がともり、その下で集って食事している堀田家族や、寝そべって新聞を読んでいる古畑夫妻の姿などが望見された。ガラス障子を透かした燈の光が、古畑家の小庭の草花の色までも、ぼんやりと浮き上らせていたのである。それを見たとき、うまくしてやられたという感じが、始めて私をほのぼのと包んできた。巧妙にしつらえられた据膳(すえぜん)を、前後を見定めもせず、私はうっかりと食べてしまったらしい。電燈がついたからには、滞納金はおさめたに違いないが、私の名において借り集めた金を、川島や秋野や汲取屋などに返済したかどうかは、私は知らない。今もって知らないのである。

 今この縁側から、トリさんが燃す畳の煙のむこう、私の庭から一段低くなった古畑の小庭に、古畑大八郎の姿が見える。私の眠から横向きにしゃがんで、指先で草の花を愛撫している様子である。古畑家の庭は、いま三色菫(さんしょくすみれ)が真盛りである。自や紫や黄色の花々が、二列縦隊にならんで咲きほこっている。その花片の模様は、ちょっと人間の顔に似ている。顔をしかめた小人(こびと)らが、ずらずらと並んでいるように見える。古畑老人の骨張った指が、その小人らの顔を、ひとつずつ丹念に触っている。そして老人の無表情な四角な眼が、舐(な)めるようにそこに動いている。あの老人の眼からすれば、この三色董の顔の方が、人間の顔よりも、もっと人間らしく見えるのかも知れない。ことに私の顔などは、どうも顔の中に入っていないのではないか、とも思われる節がある。あれから二ヵ月も経つのに、古畑大八郎は未だに私に、全然金を戻して呉れないのである。

 あれから一月ほど経って、古畑の方から何も連結がないものだから、どうも放って置けないような気持になって、私は古畑家をおとずれた。ものごとを放って置けないような気持になることが、怠惰(たいだ)な私にも、時にはあるのである。古畑大八郎は部屋の中にいた。れいの二枚だけすり切れていない畳の上に、大あぐらをかいて、皿から南京豆をポリポリと食べていた。私の顔を見ても、皿を片付けようともせず、しきりに南京豆を口に運んでいる。ネギさんは縁側で、亭主に背をむけて、針仕事か何かをしていた。同じ部屋にいるくせに、この夫とその妻の間には、通い合うものが微塵(みじん)もないような、そんなへンテコな印象が第一にきた。丁度(ちょうど)動物園の檻(おり)のなかで二匹の獣がそれぞれそっぽを向いて、勝手気ままにうずくまっている、そんな感じにそっくりであった。私が庭に入って行っても、二人ともちらと私を見ただけで、あとは相変らず自分の作業に没頭している。

「古畑さん」と私は呼びかけた。もちろん大八郎に向ってである。「せんだって御用立てしたお金のことで、今日はお伺いしたのですが――」

 大八郎は顔を上げ、四角な眼をぐっと見開いて、私を見た。その手は相変らず規則正しく動いて、南京豆をつまみ上げている。豆を嚙むのに忙がしいのか、返事すらしない。

「――もうそろそろ、あれから、一ヵ月近くになりますし、私も近頃手もとが不如意(ふにょい)になってきたんですが――」

 カラッポみたいな感じのする眼窩(がんか)を、ひたと私に固定させて、大八郎は黙りこくって豆を食べている。向うが何ともしゃべらないから、とぎれとぎれでも、私がしゃべらなくてはならない。力こぶが入るような入らないような、妙な気持になりながら、私はあやふやに言葉をつづけた。

「――そういう事情ですから、一応のきまりをここでつけていただきたいと、実はそう思いまして……」

 そっぽ向いて針仕事していたネギさんが、その時突然アアッと大あくびをして、そそくさと立ち上り、便所の方へ消えて行った。大八郎は依然として豆を嚙みながら、四角な眼でじっと私を見据(す)えている。とたんに何かが見る見る萎縮(いしゅく)して、催促する気分がすっかりこわれてしまった。それでその日は、そのまま空(むな)しく帰ってきた。とぼとぼと帰りながら私は、その大八郎のとった方策が、『睨(にら)み返し』という手であることに、卒然として思い当った。こういう撃退方法を、私はいつか寄席(よせ)で聞いたことがある。しかしこのような方法は、落語の世界にあるだけだと思っていたが、現実にあり得るとは全く知らなかった。妙な可笑(おか)しさが私をさそった。睨み返された自分自身をも含めて、隠微な笑いが私の下腹をしばらく痙攣(けいれん)させた。あの芸を見るのに、一回分百円ずつ出すとすれば、あと十二回は催促に行かねばなるまい。百円ぐらいの価値はあるだろう。そうすれば週に一回行くとして、あと三ヵ月はかかる計算になる。それまでにひょっとすると、大八郎が根負けしてしまうかも知れないが、それならばまた、それでもよろしい。

 その日から一週間日ごとに、私は規則正しく古畑家をおとずれ、規則正しく睨み返されて戻ってくるのである。大八郎は部屋にいることもあるし、庭に出ていることもあるし、縁側に腰をかけているときもあるが、私に相対して、口を利かないと言う点では、いつも同じである。失語症にかかりでもしたかのように、私の顔をまじまじと見詰めているだけだ。一応の芸ではあるが、芸がないと言えば、そうも言えるかも知れない。ネギさんは相変らず、こまごましたものをたずさえて、私の家に売り込みにくる。私の要不要にかかわらず、物さえあれば一応は、私に持ちこんでくる習慣のようである。この間などは、どこから手に入れたか知らないが、上等皮製の犬の頸輪(くびわ)を売りつけに来たことがあった。飼犬もいない私の家に売りつけて、どうしようと言うのだろう。彼女はよごれをふせぐために、いつも白い布片を着物の襟(えり)にかけている。髪を引詰めて結(ゆ)っているので、眼尻がすこし上に引きつれている。ネギさんの眼は、亭主のそれと異って、丸い眼である。その眼をしきりにパチパチさせて、ぼそぼそと言葉を並べ、是が非でも私に買わせようとする。大八郎と私との金のいきさつには、彼女は全然素知らぬふりをしている。ふりではなく、実際に関係がないのかも知れない。夫婦は車輪のようだと言うが、古畑夫妻はこわれ果てた荷車のように、双の車輪は別別の方角を向いて、別々の廻り方をしているようだ。げんに今も、草花を愛撫する老人のそばで、ネギさんはれいの長火鉢の灰を、せっせとふるいにかけている。お互いに背をむけ合ったままである。話し合う気配すら全然ない。しかしそこに、隔絶した平安とでも言ったようなものが、うすうすとただよっている。むし暑くどろりと濁った春の午後の空の下で、それらは動かなければ、材木か石のように見えるだろう。そして向うから眺めれば、きっとこの私もそのように見えるのだろう。煙がまだ雑草灌木の上を、淡く縞(しま)になってゆるゆると棚引(たなび)いている。あの古畳も、すっかり燃え切るまでには、夕方までかかるかも知れない。

[やぶちゃん注:太字「ふり」は底本では傍点「ヽ」。]

クマゼミとタマゴ   梅崎春生

[やぶちゃん注:初出誌未詳。単行本「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年一月現代社刊)に収録されている童話。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。この幼年期へのオマージュは極めてリアルで、そうして、切ない。]

 

   クマゼミとタマゴ

 

 次郎はセミ取り竿をななめにかまえ、庭を横切って、忍び足でニワトリ小屋に近づきました。ニワトリ小屋の入口の柱に、大きなクマゼミがとまっているのです。

 クマゼミというセミを、皆さん知っていますか。セミの中でも一番大きい、ワシワシワシと鳴く、あのセミのことです。そのクマゼミが一匹、柱にとりついて、胴体や尻をふるわせながら、今やワシワシワシと鳴き立てていました。

 金網にかこまれた、ニワトリ小屋の中で、オンドリが首を立てて、ゆうゆうと歩いていました。メンドリは巣箱の中に坐って、じつとしていましたが、ふっと顔を上げて、低い声でコココと鳴きました。やっと卵を産みおとしたらしいのです。

 オンドリはハッとしたように、メンドリの方を見ました。そしてあわてて咽喉(のど)を張って、

「コケッコココ、ケッココ、ケッコココ」

 と騒ぎ立てました。その声を聞いて、クマゼミはふいに鳴き止みました。

 次郎はとたんに腹が立ちました。オンドリの騒ぎを聞いて、セミが用心をしたらしいからです。せっかくつかまえようとするのに、用心されては、取りにがすおそれがある。

 次郎はパッと柱のクマゼミに竿を近づけました。とたんにセミは、ジイッと言うような声を残して、すばやくむこうに飛んでゆきました。

「しまった!」

 と次郎は思わず叫びました。取りにがしてみると、あのセミは今までにない大きなセミだったような気がして、じだんだを踏みながら、竿で金網をたたきました。

 オンドリはそれにもかまわず、

「ケッココ、ケッココ」

 と騒いでいます。巣箱からメンドリがごそごそと出て来ました。

 まっしろな卵がひとつ、巣箱のわらの上に乗っていました。次郎はそれを見て、足踏みをやめました。

「ははあ。卵を産んだんだな」

 ニワトリが卵を産んだとお母さんに知らせようか、それとも小屋に入って卵をとり、お母さんのところへ持って行こうかと、次郎はちょっと迷いました。なぜなら、次郎はいつもお母さんから、ひとりでニワトリ小屋に入ってはいけないと、くれぐれも言われていたからです。

「しかし、卵をとるために入るんだから」

 と次郎は思いました。

「いたずらで入るんじゃないから、叱られはしないだろう」

 次郎はセミ取り竿を投げ捨て、金網戸を押して、そっと中に入りました。

 するとオンドリは急に鳴き止んで、すこし羽根をふくらませて、じろりと次郎を見ました。なんだか怒っているようなのです。

「トトトトト」

 ちょっと気味が悪くなってきたものですから、次郎はそう言いました。なだめるつもりなのです。

「トトトト」

 そう言いながら、次郎はそろそろと巣箱に近づきました。オンドリも黙って、次郎のあとをくっついて来ます。その時、メンドリの方は小屋のすみで、クククと鳴きました。

 次郎は用心しながら腰を曲げて、巣箱の卵をぐいとつかみました。すべすべした、まだあたたかい卵です。

 その瞬間、オンドリはすこし飛び上るようにして、それと同時にかたいクチバシで、次郎の手の甲をコツンとつつきました。その痛さったら、思わず声を立てるほどでした。

 次郎はしかし歯を食いしばって、入口の方に歩きました。するとオンドリは追いすがって、今度は次郎の足首をコツンとつつきました。

「痛いッ」

 大急ぎで戸の外に出ると、次郎は卵を握りしめたまま、母屋(おもや)の方に一所懸命にかけ出しました。涙が出かかり、泣き声が咽喉(のど)から出そうになるのを、必死にこらえて、次郎は走りました。母屋までが、いつもより三倍も四倍も遠く感じられました。

 そして台所にかけこんで、お母さんの顔を見た瞬間、次郎はこらえにこらえていた涙を滝のように流し、大声で泣きわめきました。泣いても泣いても、涙はあとからあとからあふれ出ました。

 ――それから三十年たちます。次郎はすっかり大人になって、元気に働いていますが、夏になると、時々三十年前のその日のことを思い出します。卵を握りしめて庭を走った幼ない自分の姿を思うと、今でもなにか胸が苦しくなってくるのです。

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