フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「梅崎春生」の309件の記事

2020/11/21

ブログ・アクセス1,450,000突破記念 梅崎春生 鏡

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『浪漫』発表。既刊単行本未収録。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 本作に限らず、梅崎春生の小説の特徴は、確信犯で映画的映像的なシークエンスを狙っており、それがまた、シナリオ以上によく映像を説明している点にある。本作のラストなどは、まさに主人公の視線の動きが一人称のカメラとなっており、聴覚的にもSEを見事に意識したミステリー映画のような印象を受ける。そうした映画的なカメラを文字通り意識した傑作が、最後となっていしまった「幻化」の、あの阿蘇噴火口の望遠鏡のエンディングであったのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが数分前、1,450,000アクセスを突破した記念として公開する。【20201122日 藪野直史】]

 

   

 

 窓の下は掘割になっていた。

 午後になると汚ない水路に陽が射して、反射光が紋様となって此の室の天井にも映って来た。昼の間は対岸の乾いた石垣の上の道路を、トラックや自転車が通り、子供たちが釣糸を垂れてしたりした。夕方になると夕刊売が出て、買手の行列が河岸に沿って連なった。手渡される夕刊が白く小さく生物のように動き始める頃、此の室では帳簿が閉じられてやっと仕事が終るのであった。

 室は狭くて暗かった。扉がひとつあって、扉の把手(とって)は何時も冷たく濡れていた。此の事務室には、社長も入れて四人しか居なかった。

 社長というのは四十位の瘦せた眼のするどい男であった。表情を殺した所作で、何時も低い静かな声で話をした。

 狭い灰色の階段を登って来る足音がすると、扉がコツコツと叩かれた。こうして一日に何人も何人もお客がやって来た。そして社長と卓をはさんで、ひそひそと取引きを交して行った。その度に厚い札束が手渡されたりした。札束は部屋のすみにある黒い金庫から出されたり、又収められたりした。その事は社長の命令で、金庫の前に机を据えた松尾老人の手で行われた。老人は無表情な顔で金庫の扉を開き、札束を処理し終えると机にかぶさるようにして伝票をつけ始めるのであった。

 札束が老人の手から社長に、社長の手から老人に渡る度に、私の眼は自然にそこに行くのであった。見るまいとしてもそれは強制されるように動いた。金庫の扉が乾いた音を立てて閉まると、私の視線はも一度確めるように老人の無表情な顔に落ち、そしてゆっくりと私の机の上に戻るのであった。

 私の机には部厚い帳簿が拡げられてある。老人の方から廻って来た伝票の束を整理して、その中から利潤の比較的少かった取引伝票だけをまとめ、金額を丸公に書き替え、そしてそれを帳簿に記入するのが私の仕事であった。そして此の帳簿は、税務署が調べに来た時提示する為のものであった。本当の取引金額は老人のもとに保管される伝票の束に秘められていた。[やぶちゃん注:「丸公」昭和一五(一九四〇)年の日中戦争下の「価格等統制令」及び第二次大戦後の「物価統制令」による公定価格を示す印(しるし)。また、その公定価格を言う。丸の中に「公」の字の印で示した。]

 私は毎朝、此の河岸に立ったビルディングの狭い階段をぎしぎし登り、そして一日中机の前で偽帳簿の作製に従事した。色の悪い給仕の小娘が注いで呉れるうすい番茶を二時間毎に啜(すす)りながら――。

 私は貧乏していた。そして自分が貧乏であることに何時も腹を立てていた。

 長い間私は戦さの為に外地で苦しんで来た。そしてやっと生命を保って日本に戻って来ることが出来た。そして私は無縁のもののように、現在の世相の前に立ちすくんでいた。人の手から手へ渡って行くあの莫大な金額の、ほんの一部で良いから何故私の掌におちて来ないのか。私の現在の衣食の困窮を、私は何か合点が行かぬ気持で感じていた。その気持がそのままこじれて、私は私自身に腹を立てていた。

 部屋のすみに重々しく据えられたあの黒い金庫が、四六時中私の意識に痛く響いて来るのも、あの紫色の束がどの位の幸福と換算されるものか、秘やかな計算を私が行なっているせいに違いなかった。札束が私の眼前にあらわれて社長や老人の手を渡るたびに、私は胸をときめかせながらそれを盗み見ないでは居れなかった。そして社長のはがね色の頰と老人のしなびた顔の色を確め終ると、私は再び帳簿に眼を落してペンを取上げる。

(あれだけの金が己(おれ)にあったら!)

 金というものが悪と密接に現代では結びついているらしいことを、私はうすうすと感じていた。その悪にも私も偽帳簿を作製することで参加してしる筈であった。その代償として、そのかげに動いている巨額の金のおそらくは数百、数千分の一の取るに足らぬ金を、私は日々与えられていたのだ。だからどの道悪に参与するなら、悪の奴隷的位置にあって余瀝(よれき)を頂く方法ではなく、主導的立場に立って、――たとえばあの金庫の金を持逃げするとか(此の考えに気付いた時私は思わずギョッとして四辺を見廻した)そんなやり方を採用すれば良いではないか。しかし、私はそう考えるだけで、まだ踏切りがつかないでいた。[やぶちゃん注:「余瀝」器の底に残った酒や汁などの滴(しずく)。]

 社長にしろ、どのみち後ろ暗いやり方で金を儲けているに違いないのだ。持逃げされたとしても、おそらくは公けに出来まい。――これは私の確信ではなく、私の感じに過ぎないのだが、その感じはかなり強烈に私に作用し始めていた。札束を盗み見る私の眼が、日毎険しくなって行くことが自分でも判った。

 午後三時になると社長は鋭い眼でひとわたり部屋中を見廻す。その頃がお客の出入りが終った時なのだ。革の折鞄を小脇にかかえて立ち上ると、では頼みますよ、と低い声で言い残して部屋を出て行く。小波の波紋が天井に映った此の部屋には、私と松尾老人と給仕女だけが残るのだ。何かほっと肩を落したような気易い空気が部屋を満たし始める。松尾老人が煙管(きせる)を出して、やがて紫煙が暗いい部屋中に立ちはじめる。ポンポンと煙管をたたく音がする。老人が刻みを詰める指は、満足げにふるえているのである。あの仕事中の無表情な顔付ではなくなって、老人は急に生々とした人間の匂いを立て始めるのだ。

 此の老人はどんな経歴の男なのだろう。黒い詰襟の服に大きな軍靴をはいて、顔のわりに小さな眼を善良そうにしばしばさせながら、一日の仕事が終った安堵感からか、やがてぽつりぽつりと私や給仕女を相手に世間話など始めて来るのだ。世間話というよりはむしろ愚痴にすぎないのだが、近頃の闇価[やぶちゃん注:「やみね」。]の高くなったこと、家計の苦しいことなど、彼はむしろ楽しげに話し出す。それはあの仕事中の、札束を社長に渡したり受取ったりする能面のような顔付ではなくて、極めて愚直な生活人の風貌だが、そんな老人の面に接すると私はふと、此の老人は仕事中は気持に抵抗するものがあってあんな堅い顔付をしているのではないか、と思ってみたりするのであった。そして此の私も、仕事中は何か険しい顔をしているのではないかと思うと、何だかやり切れぬ気持も起って来た。

 河向うに入日がうすれ、夕刊売に行列が立ち始めると、私達は帳簿を閉じる。老人は金庫に鍵をおろし、女の子は帰り仕度のまま壁にかけた小鏡にむかって化粧をはじめる。急に思春期の女らしい物腰になって行く女の子の姿に、私はちらちらと注視を呉れながら、よれよれの帽子を壁からとり上げる――。

 

 給料を貰った日のことであった。社長が帰ったあと、何時ものように老人が煙管を叩きながら、近頃盛(さか)っているという駅前の闇市場の話などを始めていた時、私は良い加減に相槌を打ちながらそれを聞き流していたが、給料がポケットにあったせいか、ふとそんな場所に行ってみたい瞬時の欲望が起って、私は掌を上げて松尾老人の話をさえぎった。

「面白そうな処じゃありませんか。松尾さん。帰りに一緒に行ってみましょうか」

「ええ、ええ」

 一寸あわてた風(ふう)に老人は眼をパチパチさせたが、直ぐ言葉をつけ足すように[やぶちゃん注:読点はない。]

「ええ、参りましょう。是非是非、一度は見とくべき処ですじゃ」

 掘割にはあわあわと夕暮がおちかかり、淀んだ古い水の臭いが窓から流れていた。私は帰り仕度をしながら金庫の鍵をしめる乾いた音を背に重く聞いた。

 何時もなら真直ぐ駅の改札を通るところを、道を折れてごみごみした一郭に私達は入って行った。人通りがごちゃごちゃと続く両側には、色々な物品が無雑作に連なっていて、客を寄せる売手の声があちこちで響いていた。売手たちは皆屈強な男たちで、ふと眼を落すと、私の靴のようにすり切れた靴は誰も穿いていなかった。皆が私の靴を見ているようで、足をすくめるようにして歩きながら、その事が俄(にわか)に私の胸を熱くして来た。品物の列はやがて尽きて、よしず張りの食品店が何軒も並んでいた。刺戟的な電燈の下で、静かにコップを傾けている男たちもいた。酒精の匂いがそこらを流れていた。

「此処らは皆飲屋ですよ」と老人は落着かなく言って立ち止った。「さあ、もう戻りましょうかい」

 私は振返った。老人は露地にすくむようにして立っていた。地色の褪(あ)せた詰襟服(つめえり)の肩から、薄々と無精鬚を生やし老人の姿を眼に入れた時、あの掘割の見える部屋では此の老人はぴったりしているにも拘らず、此の巷(ちまた)では極めて異形(いぎょう)のものとして私に映って来た。汚れた軍靴が老人の足には極めて大きく見えるのも、惨めな感じをなおのことそそった。一応しゃんとした服装の人たちばかりが往来する此の巷では、老人のみならず私自身の姿も泥蟹(どろがに)のように惨めたらしく見えるにちがいなかった。私は老人の姿をなめ廻すように眺めながら、憤怒とも嫌悪ともつかぬ自分の気持を、も一度確めていたのである。

 老人は落着かぬらしく、またしゃがれた声で私をうながした。

「さあ。さあ、戻りましょう」

 此の巷で自分を無縁のものと考えているのか。私はふと此の老人と酒をのみたいという気持が、その時発作のように湧き上って来た。

「松尾さん」と私は気持を殺して呼びかけた。「此処まで来たんだから、一寸いっぱいやって行きませんか」

「いや、ええ?」

 老人は私の言うことが判ると、飛んでもないというそぶりをしたが、私はそれに押っかぶせて、

「金はあるんですよ。少しは使っても良いんですよ」

 私はポケットをたたいて見せながら、老人に近づいて腕をとらえた。老人の腕は細くてひよわそうだったが、それが微かに私にさからうように動いただけであった。老人は当惑したような奇妙な笑いを眼に浮べて私を見上げていた。

 暫(しばら)くの後私達は一軒の屋台店に入って、酒精の香のする飲料を傾けていたのである。身体の節々に酔いが螺旋(らせん)形に拡がって来ると、かねて酒も飲めぬ程貧しい自分の生活が、言いようなく哀しく腹立たしくなって来るのであった。今日貰った給料もやっと私一人の生活を一月支えるに過ぎない額であるが、それすらもさいて此処でこんなものを飲む気になったのも、私が此の生活から脱出する踏切板を求める無意識の所作なのかも知れなかった。酔いが次第に深まるにつれて、私はあの暗い部屋のすみに置かれた黒塗りの金庫を、そしてその中に積まれた札束のことをしきりに思い浮べていた。私は蚕豆(そらまめ)の皮を土間にはき出しながら、老人の饒舌(じょうぜつ)にぼんやり耳を傾けていた。あの札束を出し入れする時、何故松尾老人はあんなに無感動な表情をしているのだろう。彼はその時何も感じてはいないのか。

 老人が心から酒が好きらしいことは、先刻からのコップの傾け具合で私に判って来た。しなびた顔はぽっと赤みがさして、何時もより口数が多くなって来ているようであった。老人は表情を幾分くずしながら、自分の家族のことを、くどくどと私に話しかけていたのだ。

 何でも、今老妻と二人で間借りしているらしいことや、そこを追い出されかけていることや、息子がまだ復員して来ないが死んだものとあきらめていることとか、そんな風な具合だったと思う。酔いが俄に発したと見えて老人の口調は急に哀調を帯び、自分はどの途(みち)余生も長くない身だから、苦しい生活はしたくないけれども、闇屋になるだけの体力もなく、また資本もないしするから[やぶちゃん注:ママ。]、止むを得ずあんな所に勤めているけれども、それも何時クビになるか判らず、将来のことを考えると今本当にまとまった金がほしいということを、すがるような口振りで口走りはじめていた。ふんふん、と私も相槌を打っていたが、ようやく酔いが私にも廻って来たらしく、更にコップを重ねているうちに、私は変に老人の口舌が小うるさくなって来て、断ち切るような言葉で老人の繰言をさえぎってしまったのだ。

「そんなに困ってるなら、あの金庫の中の金を持って逃げればいいじゃないですか」

 私の言い方がとげとげしかったんだろうと思う。老人は急に身体を引いて私をみつめたが、暫くして低い声で、

「そんなことが出来れば私もこんな苦労はしませんじゃ」

「何故出来ないんです」

「だってあんた、神様が許しませんわい」

「神様、神様」何故か私は此の老人を私の意のままに納得させねばならぬという不逞(ふてい)の願いに駆り立てられた。

「神様が何ですか。神様なんか何処にいますか。善良な人が貧乏して、うちの社長のような悪どい奴が大儲けしてるじゃありませんか」

「社、社長さんがそんな――」

「そうですよ」と私はきめつけた。「あの毎日の金の出し入れが闇取引だということは貴方だって知ってるでしょう」

「そ、そりゃ知ってるには知っとりますじゃ。しかし、しかし――」老人は急に身体を卓に乗り出して眼をぎらぎらと光らせた。赤く濁った眼球に血管が走っていた。「わたしは今まで後ろ暗いことをした事はない。此の年になって後ろに手の廻るようなことを仕出かしたくない」

「そこですよ」と私は卓をたたいた。「後ろに手は絶対に廻りはしない」

 そこで私は酔いに任せて、社長の所業も後ろ暗い所があること、その証拠は私の今の偽帳簿作製のことでも判ること、だから彼がおそれるのは警察であって、金庫の内部を皆持逃げされるのならいざ知らず、四五万程度の金ならば彼は歯を喰いしばっても公けにしないだろうということを、私はべらべらと論じ始めたのである。しやべっているうちに、私はその言葉が逆に私に確信を与え始めて来たのを、ぼんやり意識していた。私はしかし、ぎょっとしてしゃべるのを止めた。老人はコップを片手で握り、見据(す)えるように私をみつめていたのである。その瞳の色は灼(や)けつくように激しかったのだ。

 

 その夜の勘定は私が払ったんだろうと思う。きれぎれの意識で覚えているのは、それから二人がもつれ合って駅の方に歩いて行った事や、電車の中で転んだりしたことで、しらじらと物憂(う)い朝が明けた時に、私が重い頭をかかえて起き直り給料袋をしらべたら、大体そこばくの金がそれから減っていた。私は頭の片すみで鈍く後悔を感じながら、それでも身仕度をととのえて河岸の事務所に出かけて行った。階段を登って室に入ると老人はもはや来ていた。言葉少くあいさつしただけで、昨夜のことには深く触れなかった。社長がやがてやって来て仕事が始まると、老人は何時ものような堅い顔になって金庫をあけ立てしているらしかった。私は廻された伝票を然るべく抜いて公定価に計算し直していた。掘割の向う岸には今日も同じく車や人が通り、水面からはほのかに蒸気が立ちのぼる。気温が高まるらしかった。

 金庫がギイと鳴って、ふと私の視線が其処に走ったとき、私が見たものは老人の掌に握られた紫色の札束が、私の場所から定かに見えるほど、それははっきりと慄えていたのだ。そしてそれは直ぐ社長の手に渡された。何でもないように卓をはさんで、客との対話はまた続けられた。私は帳簿の陰から、痛いものを見るような気持で、老人の顔をぬすみ見ていた。それは苦渋(くじゅう)に満ちたむしろ険悪な表情であったのだ。私は老人のその表情の中に、はっきりと、私が抱く欲望と同じいろの欲望を読んだ。

 私は何だか胸をしめつけられるような思いで、老人から視線を離し得ないでいた。

 客が帰って又新しい客が訪れ、そんな具合に何時ものような時間が過ぎて行った。札束がそこを動く度に、私は何時もと違った気持で視線を走らせた。老人の指はその度にいちじるしくわなないた。此の哀れな老人の心が、あの不逞な願望にしっかと摑(つか)まれていて、しかも気持をそこで必死に抵抗させようとしていることが、その苦しそうな表情で、私の胸に痛いほど響いて来た。

「さて、さて――」

 私は口の中でそんなことを呟(つぶや)きながら、ペンの柄でしきりに机の面をこすった。昨日までの私の欲望よりもっとはっきりした欲望が、私の心を満たして来るのを私は意識し始めていた。現在の不幸から逃れ得る唯一の実体として、その紫色の束は私に訴えて来るようであった。あの老人の指の慄えは、右はや私が彼に仮託した欲望の象であった。

(あの老いぼれが、金を持ち逃げしようとしている)

 私は卓に倚(よ)った社長の、はがね色の冷酷そうな横顔をちらちらと盗み見た。そして金を拐帯(かいたい)して姿をくらまそうとする気持の踏切りが、今やっと形を取って来るのを感じた。[やぶちゃん注:「拐帯」人から預かった金や品物を持ち逃げすること。]

 そして日射しが掘割にじゃれ始め、部屋の天井にその余映を投げる頃、社長は喫いかけの煙草を灰皿に押しつぶして立ち上った。鋭い視線が一巡させると低い声で、では、と言って扉の外に出て行った。怪談を踏む足音が一歩一歩低くなって行った。しかし何時もと違って変に硬い空気がまだ張りつめていたのだ。

 松尾老人が煙管(きせる)をたたく音がいやにはっきり響いた。

 給仕女が電熱器から薬罐(やかん)をおろして茶を入れ、足音をしのばせて配って歩いた。電熱器の音が止むと、天井をまつわり飛ぶ蠅(はえ)の羽音がしつこく続いた。

 その時老人がふいに私に声をかけて来た。何か不自然な響きがその声音にこもった。[やぶちゃん注:「声音」「こわね」と読んでおく。]

「昨夜、あれから帰りましての、部屋を出て呉れと言うのを、こっちは酔ってるもんだから怒鳴りつけてやって、大喧嘩になって山妻(さんさい)が泣きわめいたりしましての」

 老人はそこで苦しそうな笑い声を立てた。[やぶちゃん注:「山妻」「田舎育ちの妻」という感じで、自分の妻を遜(へりくだ)っていう卑語。「愚妻」に同じ。]

「あんた昨夜、神様などいないと言われたな。ほんとに神様も仏様もありませんじゃ」

 老人の顔は一日で年老いたように、額に深い筋が刻みこまれていた。

 そして、その日もまた水面に陽光がうすれ、河岸に夕刊の列が並んだ。

 さて、と私は呟きながら帳簿を閉じた。給仕女は既に立ち上って壁にかけた鏡を見ながらパフを使っていた。松尾老人は立ち上った私の顔に、奇妙な笑いを眼に浮べて視線を定めた。

「そろそろお終(しま)いにしますかな」

 声が変にかすれた。

 給仕女は一寸身体をひねって鏡の前で形をつくると、お先に、とあいさつして部屋を出て行った。うすいスカアトが扉のあおりで一寸なびいて消えた。

 私は何となく鏡に立った。瘦せた私の顔が変に黒みを帯びて其処にあった。それを眺めるのが苦痛なので眼をずらした。鏡面に松尾老人が金庫の前にしゃがんでいる処がうつった。老人の手が素早く動いて、札束をひとつ引抜いた。その瞬間を私の眼ははっきりとらえたのだ。私は思わず眼を閉じた。

 私の背後で、金庫の扉をしめる乾いた音がした。文字盤を廻す響きがそれにつづいた。私は眼を閉じたままでそれを聞いた。老人が立ち上る気配がした。

 動悸が次第に高まって来るのを感じながら、私は乱れた想念をまとめようとした。このまま、老人の所業を見逃せばどういうことになるのだろう。老人はうまいこと逃げ終せるか、または捕まるだろう。そして私は――私は、また表面は何でもない姿で此の事務所に勤めつづけるだろう。貧乏しているということに毎日腹を立てつづけながら、平凡な惨めな日々を過して行くだろう。

 私は眼をひらいた。

「松尾さん。もう金庫はしめたんかね」

「ええ、ええ」

 うちひしがれたような老人の声がした。

 私は全身からにじみ出る冷汗を感じながら、ゆっくり老人にむきなおると、私自身をも虐殺したいような切迫した思いにかられつつ、机を背にして蒼ざめた老人の方に一歩一歩近よって行った。

 

2020/11/07

梅崎春生「B島風物誌」PDF一括縦書ルビ版 公開

お約束通り、こちら「心朽窩旧館」の「梅崎春生」の中)に公開した。

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その四) / ブログ分割版~了

 

 有馬を埋めようとするとき伴がぼんやりした声で言った。

「――前のときも、お前と一緒だったな」

「小泉の時だよ」暫く考えて、おれが答えた。

 伴はうなずきながら、自分の額を指でこつこつ弾いた。

「頭がぼやっとして、何もかも忘れとる。あれから誰々が死んだかなあ」

 おれはゆっくりと、鬼頭、有馬、上西と数えあげた。

「上西は生きとるかも判らん」

 今朝もひどく暑い。その上、湿度が昨日より高いようだ。

(雨が来るんだな)

 おれは頭のすみで、そんなことを感じながら、穴のなかを見下した。体力が衰えて、手が萎(な)えたように動かないので、穴の深さは一尺に足りない。それでも二時間も掘ったのだ。その間にミミズを一匹見つけて食べた。体内から塩分が欠乏しているせいか、おれの舌はミミズの中にも塩の味を探りあてた。――その穴のなかに、有馬の身体は、うつぶせになっている。この有馬も熊本で召集されて以来の、おれの同年兵だ。破れた服のあいだから、肉のうすい尻が見えている。まだ熊本にいた初年兵のころ、有馬は快活で世話好きの男であったことを、おれはいま遠く思い出している。どこかの商店につとめているということだが…

「この間こいつは、何故あんなところにいたんだろ」

 伴がかすれた声で、独語する。

「あんなところに居たから、やられたんだ」

 ……肉づきのいい頰をもった男で、子供もひとりあったという話だ。その写真をおれは見たことがあるが、なかなか可愛い子供だった。そんなことを、おれはぼんやりと思い出している。その思い出が、ここにうつ伏せになった屍体と、うまくむすびつかない。なんだかばらばらの感じがおれの胸におこる。それを振り切るようにして、おれはそっけなく伴に答える。

「運だよ」

「運だって、お前。ちゃんと防空壕ににげこめばいいんだ」

「だからよ、運が悪かったんだ」

 伴はおれの言葉も耳に入らぬように、ふうっと溜息をつく。

「――こいつあの時、おれのことを、化物、と言やがった」

 傷痕にひきつれた伴の横顔が、穴のなかを見おろしている。おれの視線をかんじたのか、伴がふと顔をあげて、おれを向く。そしてきらきら気狂いじみてひかる眼をして、不気味な笑いを頰にうかべる。そしてあえぐように言う。

「つぎつぎ、死んで行くなあ。勿体(もったい)ない話だよ、妻子もあるというのに」

「いずれおれたちも、こうなるさ」

 しばらくして、おれがそう言う。自分の言葉のひとつひとつがへんに確実に、胸にしたたりおちるのをおれはかんじる。

「――これで、関根隊も、十五人か」

 伴の言葉は、妙につめたくひびく。屍体を見下している伴の眼付は、大きく飛びだしていて、ぞっとするほど偏執的な光をおびている。

「この次は、誰の番だろう!」

 青ぐらい密林の光のなかで、おれたちは黙ってしまう。そしてどちらからともなく、足をうごかして、掘りおこした軟土を穴におとし始める。服の破れから、尻のあたりへ、黒い土がかぶさってゆく。だんだん全身がかくれてゆく。

 べたっと平たい足跡を、土に印しながら、伴が低くつぶやく。

「次は、五味伍長どんの番か」

 声はなにげないようでいて、伴のひきつれた顔は、冷たく硬(こわ)ばっている。頭では他のことを考えているようにも見える。

 いらいらした声で、おれが答える。

「判るもんか。お前の番かも知れないぜ」

 伴が短い声をたててわらう。笛のような声だ。

 遠くから砲声がひびいてくる。すっかり土をかぶせ終って、おれたちは軟土をふみかためる。足ぶみしているだけでも、おれの膝はがくがくする。汗がべたべた滲みでてくる。潰瘍の部分がいたく疼く。おれは眩暈(めまい)しそうになるのをこらえながら、軟かい土をふみつける。――明日になれば、皆は有馬のことも忘れてしまうだろう。名前も、顔も、そんな男がいたということも、誰も思い出さなくなるだろう。

 伴が木の枝を探してきて、土に立てる。この粗末な墓標を、伴は確かめるように何度も傾きを直す。その伴の手は、手首と肱の太さが同じで、黄黒い棒のようだ。

 

 不破曹長の命令で、銃器の点検をした。そして使用に堪えないものは、廃棄した。残ったのは、十挺あまりの小銃と、弾薬と、数個の手榴弾(てりゅうだん)だけだ。

 隊長はいよいよ悪いらしい。今日おれが水筒をもって行った時、隊長は平たくなって眠っていた。額は汗にぬれ、膚は黄色く乾いていた。枕許の飯盒(はんごう)には、今朝煮たジャングル野菜が、少量食べ残され、小屋のなかは膿臭とともに、熱っぽい異臭がただよっていた。おれの跫音で眼をさましたらしく、淡黒色の瞼がどんより開いた。

「――不破か。そこにいるのは、不破か」

 おれは、おれの名前を言った。そして水筒を枯葉の上におき、戻ってきた。樹々の間をもれる光が、どうもうすぐらいと思ったら、雨が密林の上にとうとう降り始めたらしい。やがてばたばたと雫のおとが、芭蕉の葉の上に鳴り、それはだんだん繁(しげ)くなって行った。熱気がそれと一緒に消え、ひえびえとした空気が縞(しま)になって皮膚をわたった。

 歩哨交代で、伴と仁木が戻ってきた。ふたりとも顔いっぱい雨に濡らせて、色あおく、幽鬼じみて見えた。やわらかい髪がべったり頭の地に貼りつき、その落ちくぼんだ眼は、なにか険しくひかっていた。

「異状なかったか?」

「ぺつに異状ありません」

 伴がひくい声で笠伍長に答えた。そして顔をそむけるようにして、小屋のすみで武装をといた。それがすむと、疲れ果てたようにごそごそと自分の毛布にころがりこんだ。

 空気が冷えてきたので、ねている連中はそろって毛布をかけた。五味伍長なとは、顎(あご)までも毛布でおおい、うすく眼をひらいていた。有馬が狂気したとき、五味は胸のあたりを打ったらしく、翌日から排便に起きるのも、ひどく苦痛を感じるらしい。しかし彼は、それを顔に出そうとはしない。

「――雨が降ったから、デンデン虫が出てこないかなあ」

 おれのそばで、古川がそんなことをつぶやく。

「なあ。伴。デンデン虫いなかったかよ」

「いるかよ」

 伴は不機嫌にはきすてる。なにかぎょっとした風だ。そして寝返りしてむこうを向く。伴の頸(くび)は、背後から見ると、えぐれたように肉が落ちていて、瘦せこけた子供みたい、

だ。そのそばで仁木が、掌を眼の前にひろげて、ぼんやり眺めている。掌は赤くふくれている。火傷(やけど)だ。

 雨の音が芭蕉の葉にあたる。ときどき屋根からつめたく一滴おちてくる。小屋の内も外も、人間も植物も、なにもかも暗い。

(今日、銃器を点検したのは、何のためだろう?)

 おれはこの暗い風景をながめながら、そんなことを考えている。転進するつもりかな、それとも突撃するつもりかな、などと思ってみる。思ってみるだけで、どちらも現実感はない。どちらにしても物憂(う)い。

(――意味はなかったのかも知れない)

おれの銃は、錆がひどくて、廃棄された。その代りに、死んだ鬼頭の銃が、おれのものとなった。この銃と数発の撃薬が、どのような敵からおれを守ってくれるのか。

 

「――曹長どん。退却する覚悟をきめたらしいな」

 錆びた声で、笠伍長がいう。

 雨はやんだようだ。樹々の下葉をたたくおびただしい雫のおとは、ふと雨が降りつづいているような錯覚を感じさせるが、もはや降り止んだ証拠には、雫の音のむこうに、ふかい静寂がはっきり感じられる。ここは歩哨線だ。蛸壺(たこつぼ)の低い掩蓋(えんがい)も、密林の葉から葉へ、そして下へおちてくる無数の雫が、ひたひたと当る。

「そうですか」

 おれはぽつんと答える。こちらの蛸壺にも雨水が流れ入って、身体はべたべたと濡れている。破れた服が皮膚にはりついて、気持ちがわるい。悪感(おかん)が絶えず背筋をとおりぬける。[やぶちゃん注:「悪感」はママ。後も同じ。熟語として「悪感」はあるが、その場合は「あっかん」であり、「おかん」はあくまで「悪寒」であって「発熱の初めなどに感じる、ぞくぞくとした不快な寒け」を指す。]

「どうも、そうらしい」

 少し経って、笠がまた口を開く。

「隊長どんも長いことねえだろ。そうすれば、M川をわたって退却のつもりよ」

「――師団命令に反するわけですか~」

「独断専行というやつよ」笠は視線を前方に固定せたまま、そう言う。「このままじゃ、全員飢死(うえじに)だ。曹長どんも判っていらあな」

 笠の眼はきらきら光っている。おれも蛸壺から首だけ出して、前方を見張っている。見通しのきかない密林だから、いつひょっこりと敵が出てくるかも知れないのだ。おれたちの交す会話は、ごく低い。ここでは音がもっとも有力な索敵(さくてき)の手がかりだから、高い声を立てるのは禁物なのだ。

 雨のように聞こえていた雫が、しだいに間遠になってゆく。ポトリ、ポトリ、と数えられる位になったとき、笠がまた呟く。

「まだ、交替はこないのか。何をしてるんだろう。ポヤ助たちめ」

 M川をむこうに渡れば、まだ農園のあとがあるかも知れない。そして芋やバナナが、不自由なく食えるかも知れない。そんなことが頭にうかんでくる。しかしそこで食いつくせば、また同じ破目に追いこまれるだろう。

 背後から、がさがさと音が近づいてくる。交替がきたのだ。おれたちは手や足をつっぱって、蛸壺からころがり出る。笠が地面出ても、おれはなかなか出られない。手足の力が弱っているのだ。笠の手をかりて、やっとおれは這(は)いあがった。低い声で中継ぎをすませ、おれたちは枝や葉をわけて、小屋の方角をたどった。

 有馬を埋めたところが、雨に洗われて、屍体がすこし露出していた。それを見たのは、この戻り道である。おれが先に見つけ、笠伍長に知らせた。濡れた土から、破れた服や肉体がのぞいていた。そしてぎょっとして、おれたちは立ち止った。

「あれはなんだ」

 笠がおこったような声をたてた。屍体の臀(しり)の部分が、泥にまみれてはいたが、えぐられていることがはっきり判った。笠がそこに顔を近づけた。切りとられた臀は腐った牛肉のような色をしていた。

「――刃物だな。この切り方は」

 おれは嘔(は)きたいような気特になって、眼を外(そ)らした。笠は背をのばして、脚先で土をかぶせてやりながら、沈欝な一声で言った。

「――このことは、誰にも言うな。曹長どんに報告して、善後策をきめる」

「――逃亡兵のしわざかも知れません」

 おれも土を押しやりながら、そんなことを言った。伴たちをおそったという逃亡兵のことを、おれはふと思い出していたのだ。しかしおれの言葉は、弱々しく途切れた。

「牛蒡剣(ごぼうけん)をつかったな。畜生」[やぶちゃん注:「牛蒡剣」刀身の長さと黒い色から通称された陸軍の「三十年式銃剣」のこと。明治三〇(一八九七)年採用。第二次世界大戦に於ける日本軍の主力銃剣である。]

 おれの言葉が耳に入らないように、笠がつぶやいた。

「刃先をしらべりゃ判る。どいつが切りやがったか」

 おれは黙って立っていた。あの密林の底、傾きかけた芭蕉小屋の片すみに、ずらずらとおかれた牛蒡剣のひとつが、人間の脂が滲んで曇っているかも知れないことを、おれはかんがえていたのである。悪感がまた、かすかな戦慄をともなって、おれの背を奔(はし)りぬけた。おれの皮膚の表面は、つめたく濡れているのに、身体の芯(しん)は熱っぽく燃えていて、頭がしんしんと痛んだ。疲労とも虚脱ともつかぬ無力感がおれの全身を領していて、おれは今にもぶったおれそうになりながら、ひとつのことを頭で思いつめていた。

(なぜおれたちは、こんな場所で、苦しんだり、その揚句(あげく)、死なねばならぬのだろう?)

 何のために、そして、誰のために?

「行こう」

 うながすような身振りで、笠が先にあるきだした。おれが背後につづいた。よろめきながら、ぬれた落葉を踏んだ。

 

 伴と仁木の処刑から、今もどってきたところだ。処刑場は、有馬を埋葬した場所のちかくだ。この間の爆撃で、樹樹がまばらに明るくなったところだ。

 大小の破片がいくつも突きささっている喬木(きょうぼく)を背にして、二人は両手をうしろにくくられて、じっとりぬれた朽葉の上にひざまずいていた。汗と汚れでまっくろになって、肩や背や膝がちぎれてぼろぼろの服に、黒い朽葉がいくつも貼りついていた。

「どうだ。お前たち、自決できるか?」

 不破曹長が低声でそう聞いた。

「できます」

 伴は下をむいたまま、しずかな声でこたえた。頰まで切れた皮膚が、かすかに慄えているようであった。仁木は返事をしないで黙っていた。おれたちは四五間[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。]はなれたところに立って、それをぼんやり眺めていた。笠伍長が、二人の縄をといてやった。それは手荒いやり方だったので、仁木は痛そうに顔を歪めた。先日壕の残り火につっこんだ掌が、赤くただれているのだ。そして古川が、二人にそれぞれ小銃をわたした。二人は坐ったまま、それを受取った。膝をくずして、片足を前につきだし、つきだした足の親指に銃の引がねをかけ、身体をすこしうしろにそらせて、銃口を眉間(みけん)にあてた。

「何か言いのこすことはないか」と不破がまた訊ねた。

「――ありません」そして伴は顔をあげて、つづけて何か言おうとした。しかしそれは、言葉にはならなくて、顔の表情がすこし動いた。それはぎょっするほど無気味な、陰惨な笑いの影であった。おれは思わず面をそむけた。

「よし」

 不破は呟くようにうなずいて、二人の方を見ないようにしながら、掌をあげた。

 二人の足の親指は、ほとんど同時にうごいた。朝の静寂をやぶって、烈しい銃声があたりの空気を引きさいた。

 仁木は右手でにぎっていた銃を引きずるようにして、ゆっくりうしろに倒れた。そのまま動かなくなった。眉間から鼻すじをつたって、鮮血が流れて顔をぬらした。

 伴のからだは、突きだした右足の方へ、横に倒れた。これも倒れたまま……動かなくなつた。しかし彼の顔から、血は噴きだしていなかった。笠が近づいて、床尾板で伴の足をこづいた。

「不発か?」

 古川が伴の銃をとりあげて、なかを調べた。不発弾は、めずらしいことではなかった。ひどい湿気のために、小銃弾は不発の方が多い位になっていた。

「――不発です」

「音がしたんで、こいつ、死んだつもりになったんだろう」

 笠はそう言いながら、ぐるっと顔をまわして、おれの姿に眼をとめた。

「おい。お前」

 掌を動かして、伴を射てという仕草をした。おれはその方へ、のろのろと近づいた。筋肉の衰えで、立っているのも苦しい位であった。おれは自分の銃をやっと持ち上げるようにして、伴の脳天にあてがった。みにくく引きつれた伴の顔は、無気味な笑いをうかべたまま、半分朽葉のなかに埋もれていた。この伴と、数年間ともに苦しんできた戦場の記憶が、瞬間おれの胸をつらぬいた。――おれは目をつむって、ぐいと引金をひいた。伴の身体は、一瞬びくっと痙攣(けいれん)して、その感触をおれの小銃に伝えた。伴はそれっきり、動かなくなった。鮮血がまるく盛上って、頰へするすると流れおちた。処刑はそれで済んだ。

 不破曹長はふたつの屍体にむかって、しばらく黙禱(もくとう)した。やがて顔を上げて、沈んだ声で言った。

「それじゃ、笠伍長、あとをたのむ」

 そしてふらつくような足どりで、小屋の方にあるきだした。薄板のように突っぱった肩先が左右に揺れながら、樹樹に見えかくれし、だんだん小さくなって行った。

 それから笠伍長の指示で、みんなはかついできたエンピなどで、だまって穴を掘り始めた。穴は二つの死体のすぐ側であった。濡れた朽葉がわけられ、土がばらばら飛んだ。

 おれは屍体に近づいて、それぞれから銃をもぎとった。ふたりとも堅く銃を振りしめていて、指をはなすのに骨が折れた。やっとのことでもぎとると、それらを引きずりながら、この場所をはなれた。銃は重かった。肩が抜けそうな気がした。おれは身体のなかで、生命力がしだいに頽(くず)れてゆくのをありありと感じながら、最後の力をふるい起すようにあるいた。昨夜、重苦しい疲労にもかかわらず、おれはほとんど眠れなかった。そして今朝、処刑場にゆくときも、もすこしで前のめりに倒れそうなのをこらえて、足を引きずったのだ。

 ちらちらとするものが、しきりに暗い視野を飛ぶ。つめたいものが皮膚のあちこちをかすめてゆく。力が尽きかけてきそうになる。垂れた枝が、顔にあたるのも、はっきり判らない。おれは必死に眼を見張って、重い銃身を、あえぎながら引っぱった。

 

 小銃を小屋のすみに立てかけて、おれは今毛布のなかに横たわっている。おれのすぐそばには、五味伍長があおむけに長くなっている。処刑場にゆかなかったのは、この五味だけだ。先刻伴と仁木のふたりを引っくくって、処刑へ出かけようとする背後から、

「いまさら、死刑にして、何になるんだい。たかが死人の肉をちょっぴり食べたくらいで?」

 それだけ毒づくのに、胸を大きく起伏させて、五味はぜいぜいとあえいだ。その五味もいまは眼を閉じて、じっと横たわっている。眼がふかぶかとくぼんで、額が黄色くかさかさに抜け上っている。おれの眼からは、鼻翼がすこしも動かないように見えるのも、五味がすでに蠟燭が燃え尽きるように、息が絶えてしまったのかも知れない。鼠色の毛布の上に、五味は掌をあわせて、骨のような指をくんでいる。起き上って確かめてみるのさえ、今のおれには力がないのだ。

 処刑場から、まだ誰も戻ってこない。

 じっとしていると、身体がしんしんと奈落に落ちてゆくようだ。静かなこの小屋のなかで、力強い羽音をたてて動いているのは、数匹の大きな蠅だけだ。毛布の破れから露出した五味の潰瘍に、それらは翔(ま)いおりたり、それから飛び上ったりしている。そしておれの顔にもまい降りる。

 おれはぼんやり眼を見開いて、あたりを眺めている。明るい太陽や、青々とした水田や、白壁の家や、また遠方を走る汽車や、そんなものがきれぎれに頭に浮んでくる。故郷に住んでいる人々の俤(おもかげ)が、はっきり形をととのえないまま、おれの意識を流れ去る。そんなところから遠離して、この暗い密林の底で、死にかかっているということが、生れたときから判っていたような、またおそろしく奇妙なことのような気がする。――

 遠くから、どろんどろんと響く砲声が、耳に入ってくる。蠅の羽音が、その間を縫う。五味の鼻孔に、その一匹が羽をやすめてとまる。五味の表情は、じっと動かない。黄蠟のような皮膚のうえで、蠅は脚をすり合せる。そしてそろそろと鼻孔のなかに這入(はい)ってゆく。五味の膚はかるく閉じたまま、しんと動かない。[やぶちゃん注:「黄蠟」「おうろう」或いは「こうろう」と読み、ミツバチの巣から製した黄色の蠟を指す。巣を加熱・圧搾して水中で煮沸して取り出す。「這入(はい)って」の「はい」は二字へのルビである。]

(こんどはおれの番だな)

 おれの意識に、それがにぶくのぼってくる。この黄色く褪(あ)せた唇から、かつて毒々しく発言された(これが戦争というものだ!)という言葉を、おれはぼんやり想い出している。そしてそれは、言葉として浮んでくるだけで、胸のなかに沁(し)み入ってゆかない。どこかで散って、消えてしまう。そのくせ頭の遠くの方で、何かがつめたく合点合点している。

 五味の身体のむこうに、密林の風物が青ぐらく拡がっている。その景観ですら、ちらちらするものにさえぎられて、しだいに周囲からぼやけてくる。おれも五味も、あの暗い風物のなかに入ってゆくのだ、と思う。そして間もなく、残る十三人の兵隊も。――

 また遠くから、砲声がひびいてくる。しんしんと墜落(ついらく)する無量の速度のなかで、おれも眼を閉じ、五味と同じように掌をあわせ、骨のような指をかるく組合せている。しずかにしずかに、何かを待ちながら。……


   *

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その一)

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その二)

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その三)

これより、一括縦書ルビ版(PDF)の作成に入る。

 

2020/11/06

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その三)

 

 朝早く、不破曹長は伴兵長をつれて、本隊へ連絡に行った。現陣地の保持は困難だから、陣地を後退したいという連絡らしい。

 おれは食事がすんで、小屋のなかにころがっていた。今朝ももちろんジャングル野菜だ。それも掌でにぎれるほどの量だけ。

「ああ、腹いっぱい食いてえなあ」

 誰かが溜息をつく。ふしぎなことだが、おれたちに肉体的な空腹感がもっともはげしいのは、食べた直後の数分間だ。眼球が内に吸いこまれるような強い食慾が、猛然と胃をつきあげてくる。そしてそれが次第に沈みこみ、鉛のように重い飢餓感になって、一日中つづくのだ。その絶え間ない飢餓感が、おれに内的な虚脱をもたらしてくる。

 小屋のなかは、今日もそれぞれの姿勢で、皆は横になっている。おれはぼんやり眼をひらいて、昨日と変らぬその光景を眺めている。うす暗い、色彩にとぼしいその光景のなかで、皆のからだは鼠色の毛布にくるまってならんでいる。しばらく眺めていると、それはおそろしく無感動な物体に見えてくる。思考や情緒をもたぬ、ほとんど意味のない物体の感じがしてくる。

(この連中は、迫ってくる死を、ただ運命としてうけとっているのか?)

 そんな疑問が、ふとおれの胸をかすめる。

 小屋のすみで、有馬が痛そうに呼吸をはずませながら、ぎくしゃくと起き上る。杖にからだを託して、よろよろと出口の方にあるき出す。足をふむ度に顔がゆがんで、見るからに痛そうだ。おれの足元をすぎるとき、密林の青ぐらい光が、有馬の顔にまつわるようにゆらゆらと動く。

(――暗いな)

 おれはそんなことをかんがえている。そして反射的に、あのぎらぎら輝く太陽が、突然おれの胸に浮び上ってくる。それはあざやかに、末期(まつご)の幻想のように、おれの胸のなかに鮮烈に結実する。胸の内側に生えた触手で、おれはおそるおそる、それをたしかめてみる。ぎらぎらと熱い実体だ。熱帯の太陽だ。さんさんと燃えながら、光を八方に発射する。 ――その光はまっすぐに地球に降ってくる。そこには青い海に囲まれた島がある。厚い密林に一面おおわれて、梢と梢はせり合いながら、むんむんと葉をひろげている。光はそこでさえぎられる。そして葉と葉のすきまから、屈折に屈折をかさねて、梢から枝へ、枝から幹へ、わずかな光がこぼれてくる。光はもとの色を失って、だんだん青ざめてくる。青ざめながら、その光たちは、あたりをぼんやり明るくする。錆色(さびいろ)の幹や、蔓(つる)草や、堆積(たいせき)した落葉、光にそむいた風のいとなみが、密林の底にひろがっている。屈曲した虫類。それを探す小鳥たち。苔(こけ)むした朽木(くちぎ)。立ち上る羽虫のむれ。それを僅かに照らすものは、あの真昼の太陽ではない。厚い密林層にはばまれて、太陽はすでに死んでいる。迷いこんだ青ぐらい光だけが、この風物に参加する。――そして、この傾いた芭蕉小屋に横たわる幾人かの人間も、その青ぐらい光のなかで、もはやほろびゆく風物にすぎない。ひっそりと生死をかさねる、密林の風物の一部分だ。ブウゲンビルと名付けられた大きな島の、この灼熱した風景の蔭に、これは息絶えかけた十七匹のミノ虫だ。

(こんなところで死ぬというおれたちの役割は何だろう?)

 ……おれの幻想はふとそこで途切れる。今朝本隊に出発した不破と伴のことを、おれはぼんやり考えている。それは陣地を移動して、M川を越えてもっと奥に後退したいというに違いないのだ。しかしこの願いは、本隊の隊長によって、拒否されるだろう。関根隊をふくめたこの大隊は、裏を流れるM川の線を、六月末まで死守せよというのが、ブインから出た師団命令なのだ。いわば捨石としての役割であることを、皆は確実に知っている。おれたちが一握りのジャングル野菜に命を辛くもつなぎ、やがて青ぐらい風物と化し去り、次々蠟燭の尽きるように倒れて行っても、その命令の重さには微塵(みじん)のゆるぎもないのだ。その冷情を、おれたちは身に沁(し)みて受取っている。五味伍長がはきすてたように、(これが戦争だ!)という風の受取りかたで。――[やぶちゃん注:「M川」不詳。但し、先に出た「プリアカ」(Puriata)川からブイン方向へ直線で約十六キロメートル南下した位置に Mamagota という集落があり、川が貫通している(英語サイト地図「Mapcarta」のここ)。]

 小屋の外から、杖にすがって有馬がよろよろ入ってくる。排便が済んだのだ。破れた洋袴(ズボン)から、先日の傷口が見える。それは黄色く弾けて、潰瘍し始めているらしい。苦痛が彼の全身をおおっている。この二三日で、げっそり肉が落ちたようだ。物資収集やその他の雑用は免ぜられているとはいえ、身のまわりのことは自分でやらねばならぬのだ。誰も力をかしはしない。杖をはなしてくずれるように、有馬は毛布にころがりこむ。低くうめき声をたてる。おれはぼんやりと、その姿体を眺めている。食糧を五日分ほどかくしたという有馬の言葉を、おれはその時思い出している。

(有馬が怪我をした、きっとあの付近だな)

 有馬はほとんど歩行できないのだから、その後それをとりにゆく筈(はず)がない。まだそっくり残っている筈だ。――

 食道と胃がぎゅっと収縮するような感じが、おれをおそう。唾液が舌の根から滲みでる。舌で唇を舐(な)めながら、おれの眼付がしだいに険しくなってくるのを、おれは自分でも意識する。

 

 夜が更(ふ)けて、不破と伴はもどってきた。陣地退却の件はやはり駄目で、M川の線はどうしても確保せよという。現陣地があぶなければ、M川にそって、横にずれたらいいという。しかしそれでは同じことなのだ。今のところでも、M川の湾曲(わんきょく)のポケットにいる訳だから、横にずれれば、かえって敵の方に出てゆくことになる。関根中尉はその報告をきいて、まっさおになって怒っているという。[やぶちゃん注:先に示した地図を拡大すると、Mamagota を貫流する川は驚くばかりに湾曲、蛇行していることが判る。或いは、現在の彼らのいる場所は、この川の右岸なのかも知れない。]

 その伴のぼそぼそした声を、みんなはだまって聞いている。聞いているのか聞いていないのか判らない。やがて伴は、帰途におそわれた話を始める。それは敵ではなく、友軍の逃亡兵からだ。一人は不破曹長が射殺し、も一人は逃げて行ったという。

「塩はもらってこなかったのか。塩は」

 闇のなかで、不機嫌な笠の声が、伴のぼそぼそした声をさえぎる。

「はあ。塩はないです」

「ないです、と言いやがる……」

 憎しみをこめた声が、細くとぎれてしまう。おれのそばにいる五味の声だ。声は咽喉(のど)にからんで、ぜいぜいとかすかに濁って消える。

「製塩隊のドラム罐が、空襲で皆(み)んなやられたそうです」

 しばらくして、伴がそんなことを、ぼそぼそと答える。

 おれは眼を閉じて、ぼんやりそれを聞いている。身体がひどくだるい。身体ごと深い穴のなかに落ちてゆくようだ。瞼と瞼と合せてじっとしていると、眼窩(がんか)が落ちくぼんでいる感じが、自分でも判る。しかし皮膚の表面はへんに無感覚になっていて、暑いのか寒いのかよく判らない。膝頭の傷だけが、ずきずき痛い。昨日から、傷口が、熱帯潰瘍に移行したのだ。生きている表徴のように、それはずきずきと疼(うず)きをつたえてくる。そして毛布にこもった膿のにおいが鼻にのぼってくる。

 やがていびきが、大きく小さく、闇の底からおこつてくる。いくつものいびきが、重なったりずれたりして、それは昧爽(まいそう)までつづいて行く。闇のなかで、まるで重いものを引きずって行くように。――[やぶちゃん注:「昧爽」明け方のほの暗い時。]

 

 有馬はいよいよ参ってきたようだ。

 腿の傷は潰れて、まるで大きな薔薇(ばら)の花を貼りつけたようだ。赤い肉が直径三四寸も弾けただれていて、まんなかに白く骨があらわれている。排便に立つほかは、一日中小屋のすみに寝ているが、この一日で肉がげっそり落ちて、乾した鯊(はぜ)のような顔になった。眼だけが力なく見開かれている。

 そのような有馬に対しても、皆はほとんど無関心のように見える。もはや誰も有馬に話しかけないし、有馬も一日中だまって横たわっている。言葉をかわすのは、食事をはこんでやるおれだけだ。食事をもって行ってやるたびに、有馬の眼球は、急にはっきり動いて、おれを見る。それは何か訴えるような眼付にも見えるし、うらむような眼付にも見える。それから上半身をぎくしゃく起して、青くさいジャングル野菜の水煮に食いつく。そばで待っているおれと、ぼそぼそと会話をかわしながら、またたく間に食べ終ってしまう。

「傷は、まだ痛むか」

 おれはそんなことを聞く。ひどく痛んでいることを、百も承知の上で、おれはそんな風にいう。そして俺はふと、次のような言葉をささやきたい衝動にかられる。

(逃げることはどうなったね?)

 おれは有馬の計画をすっかり知っている。それはこの漠漠たる密林をつきぬけて、どこか後方の海岸に出ようというのである。東方ブインにいたる海岸線は、数十粁のあいだに、海軍の見張所が二三箇所あるだけで、ほとんど部隊という部隊はいないのだ。うまくそこにたどり着ければ、魚や見をとつて、こつそり生き延びられるだろう。そこらにいた土民たちも、全部山奥ふかく逃げこんでいるので、それらからもねらわれるおそれは先ずない。その上、それらの古い農園や椰子園(やしえん)が残っているかも知れないのだ。そこで食いはぐれることなく、生きのびて居ればいい。もし敵か友軍かがそこに近づいてくるならば(それは何れも死を意味する)カヌーで近くの離れ島にわたる。そこにはまだ敵性化しない土民がいるにちがいない。彼等と一緒に生活しているうちに、戦争もすむだろう。戦争がすめば、いつかは、どこかの船がその島にもくるだろう。それに乗せてもらって、ヒリッピンかどこか、もっと住みいい土地にわたって、そこで一生をくらせばいい、というのだ。

 ――有馬は視線を腿におとして、じつと潰瘍(かいよう)を見詰めている。そして低くささやくように独語する。

「――どんな時でも、希望をなくすな、と国を出るとき親爺が言ったんだ」

 声がぽつんととぎれる。この言い方は、死ぬ前の小泉にそっくりだ。小泉も、故国のおふくろや女房のことなどをしきりに口にして、五味伍長から毒づかれながら、四五日経って死んだ。しかしもう小泉のことなどを、思い出すものは誰もいない。皆、自分の暗い行手をぼんやり見詰めているだけだ。そして有馬が自分の暗い行手に見ているものは、このように他愛もない幻想なのだ。

「傷がなおって歩けるようになってもな、お前は逃げないとおれは思うよ」

 おれは突然有馬にささやく。おれはそして自分の声が、変につめたいのに気がつく。有馬はぎょっとしたように顔をあげる。あの負傷したとき、おれにつかみかかろうとした時の表情と同じだ。おれはかすかな憎しみをもって、この男の顔をみつめている。――しかしおれは、何故この男を憎む理由があるのか?

 やがて暗く脅えた顔になって、有馬はおれから視線をそらす。上半身をたおして、もとのように横になる。執拗にそれを眼で追いながら、おれは飯盒(はんごう)をもって立ち上る。

 炊事壕まで飯盒をかえしにふらふらと歩きながら、不破や伴をおそったという逃亡兵たちのことを、おれは考えている。この密林のなかには、そういう兵隊がさまよいあるいていて、いよいよ食うに困ってきて、道路や部隊宿舎をおそって兵隊を殺し、所持品をうばったりする事件も、すでにいくつもおれたちの耳に入っている。そうでもしなければ、逃亡兵たちは、生きてゆけないのだ。海岸にでて、魚や貝をとりながら、安楽にくらそうなどと、それは夢物語にすぎない。そんなことが出来るなら、なにも友軍の兵隊をおそう必要はないのだ。そうだ。――それにもかかわらず、おれはもはや炊事壕にむかってふらふら歩きながら、あの魚や貝のことを幻想しはじめている。海岸に出たらいくらも食えるという、あの魚や貝や海藻のことを。白い魚肉や、水気をたっぷり含んだ貝の肉や、塩水のしたたる藻草。それらを口に入れ、歯でかみしめる感触。口腔のなかが乾いてゆく思いで、おれの想像はしだいに実感となってゆく。

 

 砲声が次第にちかづいてくる。敵の砲兵陣地がだんだん間近に移動してくるらしい。夜に入っても、砲撃はつづいている。間をおいて、密林の彼方から聞えてくる。まるで密林の奥深いうめき声のようだ。

 部隊本部との連絡は杜絶(とぜつ)した。昨日から今日にかけて、敵は確実に密林深く侵透してきたらしい。昨夜の食糧収集斑は、川のふちで狙撃(そげき)された。怪我人はでなかったけれども。

 皆は目に見えて衰えてきたようだ。あるくときも、膝をがくがくさせるような歩き方をする。だんだん口を利く度数が減ってくるようだ。塩分の不足のため、頭が霧でもかかったように鈍くなっている。

 関根中尉が、発熱してたおれたという。不破曹長が小屋にきて、それを伝える。風土的な熱病らしいが、薬がある訳もないので、ただ寝ているだけだ。不破が隊長代理となるという。それだけ言うと、不破は隊長小屋の方へ戻ってゆく。うすくなった肩を揺るようにしてゆく後姿が、妙にいたいたしい。

 その後姿を見送りながら、笠伍長がうなるように言う。

「曹長どんの決断で、退却できんかなあ」

 それには誰も返事しない。だまって思い思いの方向を、ぼんやり眺めている。眺めているだけで、なにも考えていないように見える。蠅(はえ)がぶんぶんとびまわって、天井の芭蕉にも、さかさに幾匹もとまっている。

 おれのそばには、古川がうずくまっている。古川も、傷口に葉の汁をつけることは、止めたようだ。すっかり諦(あきら)めたらしい。――うつろな眼で、潰瘍にとまった蠅をながめながら、じつと膝をだいている。

 

 そして今朝から、密林の中の温度がたかまってきた。湿度をふくんだ温気(うんき)が小屋にもたてこめて、外に見える樹々の葉は、そよとも動かない。

 歩哨から、仁木上等兵がもどってきた。ただひとりである。一緒にたっていた上西兵長の姿が、いつの間にか見えなくなったという。仁木はそのことを、にぶい愚鈍な表情で報告した。脚が短い、頬骨のはった、農村出の兵隊だ。

「馬鹿野郎。見えなくなったつて。一体どこを向いていたんだ」

「はあ。いつのまにか、どっかに行って――」

 仁木は首をぐるりと動かして、あたりを探すような動作をする。歩哨は、一人入りの蛸壺(たこつぼ)になっていて、それがふたつ並んでいるのだ。掩蓋(えんがい)のしたにちぢこまって、眠ってでも居れば、隣の動作などは判らない。仁木の額からは、しきりに汗が流れる。

「直ぐ、曹長どんに報告してこい」

 笠伍長がいらいらした声で、怒鳴りつける。皆はだまって、それぞれの姿勢で聞いている。暑い、重苦しいものが、小屋全体にかぶさっている。その中を、疲れた足どりで、仁木は小屋の外へ出て行く。

 暫くして、ふたたび仁木が戻ってきた。隊長の命令で、全員手分けして、そこらを探せというのである。それだけ言うと、仁木は小屋の入口にぼんやり立っている。左手をのろのろ上げて腕で額の汗をふく。左の掌はこの間の火傷(やけど)で、赤く火ぶくれている。

「探せって、探して見つかるもんなら、苦労はせんわい」

「――お前、また隊長どんに打たれたのか」

 大儀そうに体をおこしながら、古川が訊(たず)ねる。古川の潰瘍から、膿臭がぷんと流れてくる。仁木は佇(たたず)んだまま、無表情にだまっている。片頰にうすあかく血が集っていて、殴(なぐ)られたあとであることが、一目でわかる。

「隊長どん。熱があるというのに、殴るとはよく元気が出るな」

 おれも体をおこしながら、上西が先日胸のポケットにしまいこんだものを、ふと思い浮べる。鬼頭の遺品のなかにあった、赤と青の縞のある投降ビラだ。その文面には、投降する際にはこのビラを両手にかざしてこい、と印刷してあった。――その日本活字ともちがう、一風変った書体が、突然おれの記憶によみがえってくる。……

 それでも皆は、のろのろと武装して、それぞれ小屋を出て行く。残っているのは、五味伍長と有馬兵長だ。五味も、昨日から寝たきりで、仕事をしなくなった。瞼を閉じて、じっとあおむけにねむっている。瘦(や)せこけた胸だけが、呼吸のためにゆるやかに起伏している。有馬は眼を開いて、どこかの一点を見つめている。暑いのか、両手を神経的にうごかしながら、時々ひくい声でうなる。

 小屋のすみから銃をとる。おれが引きずる床尾板が長く伸びた有馬の脚にふとぶっつかる。ぎょっとしたように有馬の眼球がうごいて、おれを見据(す)える。有馬の眼は、赤く血走っている。[やぶちゃん注:「床尾板」「しょうびばん」と読む。肩当て銃床付きの銃では、銃弾を発射する際の反動が衝撃力となって肩当て銃床(じゅうしょう)に伝わり、それが肩に伝わる。この反動作用を緩和するために、銃床の一番後ろに緩衝材として接合させる板を指す。]

「――上西が、逃亡したとよ。らくじゃねえや」

 おれはそんなことをいう。そして確かめるように、しばらく有馬を見おろしている。有馬は返事をしない。おれをじっと見据えているだけだ。

 それからおれは、小屋を出てゆく。銃がおもく、膝頭の傷にびしびし響く。皆それぞれどこかに行ってしまった。おれひとりで、どこへ探しにゆけばいいのか。むんむんと温気(うんき)のこもる密林のなかへ、おれは銃を引きずって歩きだしてゆく。

 ……おれはかぶさる葉や木の枝をわけながら、眼を光らせてあるいている。有馬が先日負傷した付近なのだ。おれは木から木を、凸地から凹地を、丹念に見てあるく。あの小屋から、まっすぐおれはやってきたのだ。粘液じみた汗が背筋をながれて、疲労がおもく息ぐるしい。錆色(さびいろ)の巨樹の肌をぐるりと廻ったり、蔓(つる)草をかきのけたり、羽虫のなかに顔をさらしたり、おれは次第にあせりながら、あの地点の周囲をぬってあるく。いらいらと時間がすぎてゆく。濃い汗が潰瘍にひりひりと沁み入る。

 ――そして突然、おれは立ちどまる。顔の皮膚がみるみる熱くなってゆく。銃がおれの掌からはなれてうずたかい朽葉の中へ、ずしんと倒れる。……

 おれの眼にその時とまったのは、紫黒色のこぶこぶをつけた太い幹の、眼の高さの箇所にえぐられた窪みであった。その木の洞(ほら)のなかに、芋の切れ端みたいなものや、パパイヤらしいものの形が見えたのだ。おれは突然自分の身体が慄え出すのがわかった。おれは寒天のようにふるえながら、更に二歩三歩踏み入って、顔をそこに近づけた。

 赤黒い点々が、それらの上をうごいていた。一糎(センチ)ほどの虫の群である。羽が硝子(ガラス)のように透き通っていて、この湿気に今日発生した虫たちであるらしい。虫はその頭部を、芋やパパイヤに食いこませながら、ぞろぞろと動いている。芋やパパイヤも、ほとんど内部は食い荒されていて、僅かに皮や蔓が辛うじてもとの形を保っている。

(二人で五日分はあるなどと、大袈裟(おおげさ)なことを言いやがって!)

 頭の奥がギリギリと鳴りだしてくるのを感じながら、おれはそう考える。食い荒された残りから推しても、もとの分量は、せいぜい二人を一日保つだけだろう。しかしその時おれの胸を、有馬は五日分は優にあると信じ込んでいたのではないか、という疑念がふとかすめる。おれの身体から、慄えが急速に引いて、代って冷たい笑いが腹の底からのぼってくる。

(有馬の唯ひとつの希望が、こんな虫たちに食いあらされている!)

 おれは暫(しばら)く、虫たちの動きに視線を定めている。虫たちは旺盛に身体をうごかして、貪婪(どんらん)に食い荒してゆく。おそろしいほど冷酷な確かさが、そこに営まれている。

 この食物をもって、逃亡しようという気持が、今までおれの頭のすみに確実に巣くっていたことを、おれはいまはっきりと気付く。頭の中が熱くるしく凝っているにもかかわらず、おれの頰はへんな笑いをきざんでいる。何となく可笑(おか)しい。その可笑しさも、厚い幕をへだてたようで、その根源がすぐにぼやけてしまう。――おれたちが一所懸命かんがえたり、たくらんだり、悩んだり、憎んだりするものを、この赤黒い虫たちが、こんなにも冷然と駄目にしてしまう。……

 暫くして、おれは銃をひろいあげる。銃はさっきよりも、三倍も重くなったようだ。それを引きずって、またおれは小屋の方に足を踏み出す。足の運びも、三倍も重い。

 

 上西の姿を見つけしだい射殺せよ、との隊長命令が、その夕方つたえられてきた。逃亡と認められたわけだ。その命令を伝達した笠伍長は、それだけいうと、毛布の上に頭をもたせて寝ころんでしまった。瞼を閉じて、こめかみの血管がひくひく動いている。

 ひどく暑い。身体の衰弱のせいか、耐えがたく重苦しい。上半身はみんな裸だ。みんなの胸は、洗濯板のように肋骨(ろっこつ)を浮き出させている。おれの胸も、一本一本肋(あばら)がとび出していて、指でおさえても、ほとんど肉がない。

 有馬のようすが変だ。そばに寝ているのだが、有馬の呼吸はまるで泣声のようだ。

「傷はどうだね」

 おれは時々きいてやる。そうすると有馬は息をやめて、顔をうごかし、血走った眼でおれを見る。そしてなにか言う。何と言っているのか、ほとんど判らない。うわごとのような響きがある。

「え? タヌキ? タヌキがどうしたんだい」

 おれが訊ねる。有馬の浮かされたような熱っぽい眼が、急に脅えた光を沈みこませてくる。そして蓋をおろすように瞼をとじる。泣声のような呼吸が、また始まる。

 しばらくすると、有馬が呼吸をやめて、今度はむこうから何か聞いてくる。ぜいぜいと咽喉(のど)にかすれる音だ。

「ああ。逃げたんだ。上西は」

 おれがそう教えてやる。

「あいつも、野垂死(のたれじに)するよ。そしてお前のかくしていた芋も、虫が食い荒してたぜ」

 有馬の声は急にはっきりなったり、また急に訳がわからなくなったりする。急に泣声のようなうめきを立てながら、胸をひろげようとする動作をくりかえす。

 小屋のなかが蒼然とくれてくる。食糧収集のため、仁木たちが身仕度してひっそりと出てゆく。

 おれは毛布をかかえて、小屋の入口の方に寝場所をうつす。しかしここも暑い。風がすっかり死んでいる。

 闇がたてこめてくる。――おれも瞼をとじながら、上西のことをぼんやり考えている。暑いせいか膿の臭気がいつもよりひどい。そのむこうから、有馬のうめき声が高まってくる。

「うるせえ。何を泣いてやがる」

 しやがれた五味の罵声(ばせい)がする。その音も弱々しくかすれるのだ。

 寝返るおとや、いびきが、小屋のあちこちに起ってくる。そしてのろのろと夜が更けてゆく。

 

 その真夜中、有馬が発狂した。

 むんむんする熱気が、昏(く)れ方から夜中にかけて、俄かにたかまってきた。みんな毛布をはねのけて、死んだようにどろどろに眠っていた。歯ぎしりやいびきのあいまに、有馬のうめき声が断続してつづいていたが、それが突然鳥のような叫喚(きょうかん)になって、有馬は闇のなかに突然立ち上ったらしかった。

「退却するんだ。退却するんだぞ。そら。敵だ。敵襲だ!」

 手足をむちゃくちゃに振り廻すらしく、肉と肉とぶつかる音がして、皆が目覚めたらしい。あちこちで起き上る気配が、叫び声につづいた。

「気が狂いやがったんだ。こいつ」

 組みつく音がして、その間から、脚絆(きゃはん)もってこい、という怒号がひびいた。有馬はくらがりの底に組み伏せられたらしく、押しつぶされたような声を絞(しぼ)りあげてわめいた。

「迫(迫撃砲のこと)だ。伏せろ! ヒュルヒュルヒュル」[やぶちゃん注:丸括弧内は底本では二行割注。]

 声が途切れて、骨の鳴る音が聞え、うなり声と激しい呼吸にかわった。脚絆をしごく音がつづいて、有馬は後手にくくり上げられるらしい。有馬を押えつけているのは、三四人いる様子であった。

「猿ぐつわをかませろ!」

 怒鳴ったのは、笠伍長の声であった。枯葉を踏んだり、けちらしたりする音が、なおも少し続いたが、やがてそれも収まって、静かになった。皆の荒い呼吸づかいだけが、そこに残った。膿臭と汗の臭いが、むんむんと小屋のなかに立てこめた。

「すみっこにころがして置け」

 笠の声が、まだあえぎながら言った。

「明朝になれば、正気づくだろう」

 おれは闇の底にひらったくなって、その声を聞いていた。格闘には参加しなかったが、いきなり眠りを破られた動悸が、胸の中にまだ烈しかった。それから三四人で、有馬の身体を材木のように持ち上げて、小屋のすみに運ぶらしかった。それからまた、それぞれ、自分の場所にもどってゆく気配であった。

 そして朝になって、有馬は冷たくこわばって、小屋のすみに死んでいた。脚絆で足と手をしばられ、口を堅く布片がおおっていた。腿の傷から、深く出血したらしく、その下の枯葉がどす黒く染っていた。出血が原因なのか、体力が尽きたのか、窒息したのか、それは判らないけれども、有馬の体は細長くのびて、後手に廻したまま、朽木のように死に果てていた。

 

2020/11/05

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その二)

 

 敵の陣地からうちだす砲声が、しだいに間近になってきた。時たま近くにおちてくるらしく、密林をゆるがせて空気が震動した。

 水筒をいくつも肩にかけて、おれは裏の川まで水をくみに行った。とちゅうで木の根につまずいて、斜面をころがりおち、木の根で膝を傷つけた。おさえた掌に、血の色がべったりついた。しばらく立ち上れなくて、おれはじっと横たわっていた。

 川の近くでは、でんでん虫を三匹見つけて食べた。それは淡雪(あわゆき)のように舌の奥で溶け、芯(しん)のようなものだけが、咽喉(のど)におちて行った。それから急に食慾を刺戟されて、虫を探したけれども、食えそうなやつは一匹もつかまらなかった。水筒の紐(ひも)を肩にくいこませて、おれはあえぎながら、小屋にもどってきた。そして水筒のひとつを、また隊長の小屋にとどけに行った。

 隊長の小屋は、地面に枯葉をしきつめた一坪ほどの木の葉小屋である、関根中尉と不破曹長がいた。おれが入って行ったときの感じでは、二人はいままで激論を交していたらしかった。関根中尉は上半身を起して、まっさおな顔をしていた。おれが来たのも、気がつかない風だった。ここでもかすかに膿(うみ)のにおいがした。

「最後までたたかう。最後のひとりまでたたかってやるんだ」

 しぼりだすような声で関根中尉が言った。あと早口で二言三言口走ったが、それは聞きとれなかった。

 不破曹長は小屋のすみにうずくまったまま、頭を上げずにおれの方に掌をうごかした。水筒をそこにおいて、おれは戻ってきた。

 今朝は分量の関係で、一食分ずつしか食えなかったから、皆は元気がなかった。入ってゆくと、みんな不機嫌に眼をひからせて、おれを見た。昼間の食糧収集が危険になったから、輪番で夜間出動するようになってから、もう一週間になる。あのまっくらな密林のなかを、足裏の感触や顔にあたる木の枝の具合で、一歩一歩さぐり歩かねばならぬから、一夜さまよっても、収穫もたかが知れているのだ。そしてすでに、敵から安全なここら付近は、ほとんど取りつくして、足を危険地帯まで伸ばさねば、ジャングル野菜は手に入らないのだ。

 小屋のなかでは、歩哨や水汲みや炊事当番のほかは、皆ごろごろ橫たわっている。体力を最少限に使うことで、生きる命を一刻でも伸ばそうとするかのように。――それはまた、むなしく死を待っているようにも見える。ずらずら並んだみんなの頭から、髪はほとんど脱けていて、初生児のように柔かい毛がのこっているだけだ。破れた毛布からつきでた足は、脚絆(きゃはん)をまいているのもいるし、いないのもいて、服は一様にぼろぼろだ。干柿のような黒い皺(しわ)くちゃの尻がのぞいている。

 小屋のすみには、小銃や弾薬がひとまとめにおかれていて、湿気のために錆(さ)びかかっている。立ては頭がばさばさとつかえる低い芭蕉小屋だ。密林の凹地(くぼち)をねらってたてられているから、ここらはことに落葉がふかい。しきつめた落葉をがさがさいわせながら、みんなは寝がえりをうったり、ひょろひょろ立っては小便に出て行ったりする。軍律は、ここではもはや死んでいる。物憂い習慣として、のこっているにすぎない。言葉のはしばしや挙動のひとこまに、僅かに生きている。――そして人間の、生物の原則が、徐々(じょじょ)に、確実に、ここを支配しはじめているのだ。

 それにしても、皆は口をききやめない。言葉を発することで、自らの生きている保証をたしかめるかのように。言葉を出さないことが、不安なのだ。おれもそうだ。口を利かなければ、おれたちはどこが死人とちがうのだろう。皮膚は乾魚の肌のようにかさかさした鱗(うろこ)におおわれ、顔は血の気をうしなって、頭蓋(ずがい)そのままの形を見せている。このやせおとろえた頭蓋は、すでに論理には耐えられぬのだ。おれたちをここに追いこんだもの――それを追求する力はすでに失われている。何故おれたちが、ここで飢えねばならぬのか。断片的に意識にちらつくだけで、その根源をおれたちはどこかに置き忘れている。おれたちの会話は、だから、ほとんど出鱈目(でたらめ)だ。いらいらしているものは、いらいらしている理由を、人を嘲けるものは、人を嘲ける理由を、すっかり自分のなかから見失っている。……

 今日も古川兵長は、薄荷(はっか)のようなにおいをもつ蔓草(つるくさ)の葉を探してきて、揉んではしきりに潰瘍に押しあてている。汁が傷にしむのか、顔をしかめて足をはたはたさせる。「この野郎。俺を蹴とはしやがって!」と笠伍長がおこる。「むこう向いてやれ。ボヤ助!」

 笠の眼はすごく光っている。本気で腹を立てているのだ。こめかみがおちくぼんで、赤茶けた髪が頰に密生している。この男がかつては模範兵で、序列はいつも右翼で、大陸戦線では殊勲甲のてがらを立てたこともあることを、皆はすっかり忘れ果てている。今みんなの眼の前にいるのは、やせこけた怒りっぽいひとりの下士官というだけだ。笠だけではない。みんなに過去はない。あるのは、飢えている現在だけだ。[やぶちゃん注:戦闘に於いて最も優れた殊勲を立てたことが認められると、各人が所持する「軍隊手牒」の軍務履歴の部分に「殊勲甲」記され、と記載され、無事、内地に帰還した際には当該の金鵄勲章が授与された。]

 古川はのろのろと向きを変える。そして顔をしかめたまま、ひとりごとのように言う。

「ああ。早くブインに戻って、農園にうえといた芋が食いたいや。なあ。伴」

 話しかけられた伴は、歪(ゆが)んだ眼をきらりとさせたまま黙っている。

 五味伍長がすみの方から、突然うなるような声を立てる。

「まだ、帰れる気でいやがる。お目出度い野郎だな。貴様は」

「だって、もう実っている頃ですよ」

「くせえ。くせえ」五味は頭を半分おこして古川をながめる。「また腐れ葉っぱを、つけてやがる。いい加減にしろ、おお、くせえ」

 揮発性の刺すような異臭が、その葉からひろがっている。それはおれにも臭いのだ。この小屋の膿のにおいは、常住[やぶちゃん注:「じょうじゅう」であるが、ここは副詞的用法で「常に・何時も」の意。]つづいているので、臭気でありながら、臭気でなくなっている。それはもはや、おれたちの、この小屋の、体臭そのものになっている。葉っぱのにおいが慣れきった膿臭(のうしゅう)をぬって、嗅覚をするどく刺してくるのだ。みんなは無感動な姿勢で、眼をとじていたり、古川の葉をもむ手付を眺めたりしている。

「――歩哨はどうしたんだ。まだ戻ってこんのか?」

 しばらくして、笠がとげとげしい声をあげる。

「誰と誰が行っているんだよ?」

 おれは小屋のすみに、膝をだいてうずくまっている。先刻たべたでんでん虫の後味が、舌の根にすこし残っている。ねばねばしたものが薄く貼りついた感じだ。舌を口壁におしつけながら、それをたしかめている。おれは関根中尉のことばを、最後まで戦うと言った語調を、ふと思い出している。[やぶちゃん注:「口壁」私は使ったことも見たこともないが、「こうへき」と読んでおく。口腔の左右の頰側(きょうそく:この言い方は歯科で普通に用いる)のことであろう。口腔の上顎側なら口蓋で、それと区別したものととる。]

「あいつら、やられたんじゃないか?」

 さっき転んだときの膝の傷が、ずきずき痛い。皮膚がべろりと剝けていて、一寸四角ほど白い肉が露われている。血管が赤い虫のように、いくつかそこを走っている。眺めていると、その部分が急につめたくなって行くような感じがする。

 五味伍長が、ひょろひょろ立ち上って、小便に出てゆく。この二三日、五味の歩き方は、なんだか手足の関節が外れたような恰好(かっこう)だ。そしてブリキのように薄い肩が、青ぐらい小屋のそとに消えてゆく。

 

 暁方、はげしい空襲がきた。空気をひっかき廻すような鋭い金属音が、密林の底におちてきたと思うと、轟然たる爆発音がおれの頰をひっぱたいた。小屋がぐらぐらと揺れた。おれたちは忽(たちま)ちはねおきて、毛布をひきずりながら防空壕へはしった。走る間も轟音はつぎつぎ起り、密林の樹樹はひとしきり地震のように揺れさわいだ。壕にとびこんでからも、四五発は間近におちた。そのたびに、歯ががくがくなった。

 壕のなかには、今朝炊事した残り火が、白くかすかな煙をあげていた。おれたちは壁にぴったり身体をよせて、だんだん遠のいてゆく爆音の気配に、全神経をあつめていた。

 関根中尉は蒼白な顔をして、濠のいちばん奥にいた。軍刀でからだを支えて、じっと煙に眼を据えていた。そして押しつぶされたような声で、今朝の炊事当番はたれか、と言った。隊長の眼は不気味にひかって、次々おれたちを舐めるように動いた。

 

「当番はたれか。出てこい」

 当番の上西兵長と仁木上等兵を、隊長の右手がしたたかなぐりつけた。仁木はよろめいて倒れ、残り火に掌をつっこんだ。不破曹長がそれをたすけおこした。そこをすりぬけて、隊長は神経質に顔の筋肉をひきつらせながら、蒼白の表情のまま壕を出て行った。

 皆はおそろしい無表情な顔で、だまりこくっていた。不破曹長は視線をふたりに定め、低い声で言った。

「空が白んだら、炊事の途中でも、火を消せということを忘れたか?」

「はあ。消しました」とにぶい口調で上西がこたえた。

「消したのに、なぜ煙が出るんだ」

 そう言いながら、不破は仁木に視線をうつした。赤く火ぶくれた掌をだらりと下げて、仁木はぼんやり眼を見ひらいていた。へんに顔をそらすようにしながら、不破はふと沈んだ声になって言った。

「――空からは、煙がすぐ眼につくんだ」

 それからぞろぞろと防空壕をでた。不破曹長は隊長の小屋に、おれたちは自分の小屋に戻ってきた。爆撃のせいか、小鳥や虫の音が絶え、妙にしんとしていた。落葉をふむ音だけが、かすかにひびいた。

 小屋には毛布にくるまったまま、ミノ虫のように五味伍長が寝ていた。入ってくるおれたちの姿を、毛布から片眼だけを出して見つめていた。小屋には、被弾はないらしかった。その五味にむかって、笠がいやな顔をして言った。

「おまえ、何故にげなかったんだ」

「逃げたって、逃げなくたって、同じだよ」

 毛布のなかから、毒をふくんで反撥(はんぱつ)するような五味の返事がもどってきた。

 それから人員をあたると、歩哨についたものをのぞいて、姿を見せないのが二人いた。しらべて見ると有馬兵長と鬼頭上等兵である。しばらくたっても、帰ってこなかった。あるいは爆撃でやられたのかも知れないというので、それぞれ手分けをして、探しにゆくことにした。

 おれは伴兵長と組んで、密林のなかを探してあるいた。じっとりと重い汗がながれた。樹々の奥ぶかく視線をうごかしながら、あてどなく踏み入って行った。昨朝のようすから、あるいは有馬は逃亡したのではないかと、おれは漠然とかんがえていたのである。爆撃のために密林のあちこちが、ボコッと引き抜かれたように展(ひら)けて、まばらになった樹々のあいだから、陽光がほそく斜めにさしていた。地面をおおううず高い落葉は、じっとりと露にぬれていた。その上をうすいもやが、低く這っていた。空の青さが眼にふれると、おれたちは恐いものでも見たように、顔をそむけて暗みに道をかえた。

 たおれている有馬を探しあてたのは、おれたちである。小屋から二百米ほど離れた地点であった。半ば折れかかった大きな樹の根に、からだをもたせかけて、有馬は淡黒く瞼をとじていた。そこらあたりからなまなましい折れ口をみせて、枝や葉が散乱し、ところどころがぶすぶすいぶっていた。死んでいるのかと思ったが、おれたちが近づくと、有馬はくるしそうに薄眼をあけた。

「足をやられたんだ。足を」

 腿(もも)のところを破片がかすめたらしく、白く肉がえぐられていた。血はすでにとまっていた。割箸(わりばし)のようなものが肉につきささっていて、伴が指でそれを抜こうとした。有馬はくるしそうに一声うなり、口調にはげしい憎悪をこめて「よせ。化物め!」とうめいた。伴のガスマスクのような横顔が、一瞬するどく痙攣(けいれん)した。それは木の枝ではなくて、肉を破って突出た骨片であった。

「骨じゃねえかよ、これ」

そう言いながら、伴は身ぶるいしたらしかった。おれも顔をそこに近づけた。肉から突出た骨片は、鶏肉のそれを聯想させた。伴は側に立って、飛びだすような眼で、見詰めるらしい。呼吸を凝(こ)らす気配が、おれにも伝わった。咽喉(のど)につまったような声で、伴がまた言った。

「おまえ、なぜこんなところに居たんだ」

 有馬は閉じていた瞼を急にひらいて、顔を不安定にうごかした。そしておれの視線とぴったり合った。かすかな慄えが、ふと有馬の顔をはしったと思った。おれは自分の顔を、有馬から一尺ほどに近づけていたのである。

 背後で伴が、突然大きく息をはき出した。それはこわれた笛のような音を立てた。そして伴は落葉を踏んで身体を動かすらしかった。おれも身体を起しながら、何となくうしろを振り返った。伴はまばらに明るい爆撃の跡に、身体をねじむけていたが、そのまま押えつけたような声でつぶやいた。

「――小鳥のやつが、死んでいないかなあ」

「死んでいたって、木の枝や泥のしたになっているさ」おれの言葉も平静をうしなって、何かこわばった調子をたてた。

「いや」と伴はおれの方を見ないで、変に力(りき)んだ声をだした。「ちょっくら探してやろう」

 散乱する木の枝をがさがさ踏みつける伴の跫音が、遠ざかってやがて消えると、おれは有馬にならんで木の根によりかかった。そしてささやいた。

「おまえが、食糧をかくしているてえのは、ここらかね?」

 有馬は突然するどい声を立てて、おれにつかみかかろうとしたらしかった。しかし直ぐ腿の傷にひびいたらしく、右肱(みぎひじ)で地面をうって軀(からだ)を支えた。さえぎろうとしたおれの腕が、自然有馬をねじふせた形となった。おれの腕のしたで、有馬は顔を伏せたまま、あらあらしく肩であえいだ。おれたちはしばらく、その姿勢のままでいた。そしておれは、ゆるゆると腕の力をぬいて行った。

 しばらくして、有馬は深く呼吸をはきながら、上半身をおこした。見おろすおれの眼が、けものじみた光を帯びてくることが、自分でも判った。

 

 有馬を間にはさんで、おれたちは肩をくんだ。しかしいくらも歩かないのに、肩にかかる重さが、おれたちをよろめかせた。有馬も全然あるけない程でもないらしかった。足をひきずりながら、歩調をあわせた。黙って樹々や蔓草(つるくさ)の間をぬうごとに、有馬はしだいに何故か不安をかんじるふうであった。

「――小鳥は、いたのか」

 そんなことを変に弱々しい調子になって訊ねたりした。足をひきずりながらも、有馬はおれの方から、しきりに顔をそむけるようにした。

「いない。いるものか」暫(しばら)くして伴がとげとげしく答えた。「おまえ、俺の方はかりに寄りかかって来るな、もちっと、しゃんとせえ」

 先刻もどってきたときの伴の肩に、よごれた羽毛が一ひら貼りついていたのを、おれははっきり見ていたのである。おれたちのからんだ腕の骨が、ときどきごくりと鳴った。おれの横眼にうつる有馬の顔も伴の顔も、羊皮紙のような色になって、汗がしたたか額に滲んでいた。よろめく度に立ち直って、おれたちは呼吸をととのえた。

 小屋に戻ると、小屋のすみに有馬を寝かせた。寝かせるとき、有馬は乾いた眼をいっぱい見開いて、じつとおれを見つめた。それはすがってくるような重苦しいひかりを、おれに感じさせた。(そんなものを断ち切ることで、皆は生きて来たんだぞ!)おれは反射的にそんなことを考えた。毛布をかぶせてやりながら背後の話をきくと、鬼頭上等兵は、裏の川の近くで、爆撃のためでなく、弾丸に射ぬかれて死んでいたという。屍体はその場で埋めたらしく、おれが振りかえると、鬼頭の毛布の上には、弾丸のあとをとどめた水筒がひとつ、ころがされているだけである。鬼頭の所持品を上西兵長が整理しているところであった。小屋のなかにいる五六人が、何となくそれを眺めている。

 所持品の、汚れた布片や手紙の間から、折りたたんだ紙片がでてくる。上西がそれを拡げる。赤と青の綿を印刷した投降ビラだ。時々敵機から、ばらまかれるものだ。その中には、投降する際にはこのビラをかざしてこい、と記してある。上西は一寸眺めて、無感動に横におく。

「おい。そいつはかくしとけや」誰かがぽつんと言った。「曹長どんに見つかると、うるさいぞ」

 上西はそれをのろのろと拾いあげ、ていねいに畳んで、胸のポケットにおさめた。

「鬼頭のことは、報告したか?」

 笠伍長のとがった声が、その時小屋のそとから入ってきた。そして直ぐ、寝ている有馬の姿をとらえた。

「なんだ。貴様。どこをうろついていたんだ」

「あっちです」

 有馬は掌をわずかに出して、弱々しくこたえた。笠の声がそれにかぶさった。

「貴様、逃げようと思ったんじゃねえだろうな」

 有馬の眼は脅(おび)えたように、急にするどく光った。笠は腰をおろしながら、おれに眼をとめた。

「隊長どんに、知らせてこい。貴様だ」

 おれは止むなく、大儀な体をのろのろと起す。有馬の眼はおおきく見開かれ、立ち上るおれの姿におかれている。横たわっている五味伍長の足をまたいで、おれはひょろひょろと歩きだす。

 

 夜は食糧収集に出た。五味と上西とおれである。小屋をはなれて間もなく、光は落ちてまっくらになった。まるでぬけ道のない洞穴のくらさだ。どちらをむいても暗さがかたまりになって鼻につきあたる。

 一番先頭を上西がゆく。その足がカズラをひきずる音や、小枝を折る音をたよりに、手探りでついてゆく。五味伍長の、絶え絶えな呼吸(いき)遣いが、おれのあとを追ってくる。ジャングル野菜がまとまって手に入るところは、八百米ほど隔てた湿地帯だけである。そこに行く外(ほか)はないのだ。全くここらには、農園のあともなければ、椰子(やし)の樹もない。その上夜の暗がりに、生命をおびやかすどんな危険が待っているかも知れない。夜でも眼が見えるという土民兵が、手探りですすむおれたちの姿を、じつと見守っているかも知れないのだ。その湿地帯ふきんは、夜の光がひらけていて、特に警戒を要するのである。そこに近づくにつれて、おれたちの歩みはだんだん鈍った。それはただ危険をおそれるためだけでなく、全身に食いこむ疲労のせいもあるのだ。

「もう、ここらで、やれや」五味伍長が背後であえいだ。

「おまえら、どこまで行くつもりか。目ぼしいものは、ありゃせんぞ」

 足裏の感触で、水の近くまで来ていることが判った。水の匂いのする方に、おれたちは静かにすすんだ。そしてときどき手足にふれる軟かそうな葉をひっちぎって、ケイテンの袋のなかに押しこんだ。水明りがぼんやり眼に入った。おれはそこらを這いまわりながら、手あたり次第の軟かい葉を押しこんで、六分目ほども満たしたらしい。神経の緊張と無理な姿勢のために、ぶったおれたくなるような深い疲労がきた。それと共に、膝の傷がずきずき痛み出した。この傷も、今朝ほどから黄色く膿を含んで腫脹(しゅちょう)していたのである。

 やがて三人がもとのところへ戻ってきたとき、五味はおれたちの袋のかさを探って、

「ポヤ助。三時間もかかって、たったこれだけか」

 五味の口調は毒々しいが、声はもはや消え入るような弱い響きをふくんでいる。強く声を出す力が尽きかけているのだ。この男から発散する膿のにおいは、すでに屍臭に近づきかけている。今晩も出かけるまで、小屋で丸くなって寝ていたのだ。しかしそうだといって、食糧集めの輪番を抜けるわけには行かない。

「ええ糞(くそ)。よりによってこんな暗い晩に、おれの番にあたるなんて。傷がギシギシ痛んでくるわい。こそこそ夜中に雑草あつめて食って、皆生き延びるつもりでいやがら。生き延びられるもんか。みんなお陀仏(だぶつ)よ」

 おれも上西もだまっていた。身体が綿のように疲れていて、返事するのも物憂(う)かった。それからおれたちは、背を曲げてよたよたと歩きだした。進んでゆくにつれて、五味伍長はまた次第に遅れ始めた。枝をはらうかすかな音が、だんだん距離をひろげて行った。おれたちは暗闇のなかに立ち止って、遅れた五味をしばらく待った。位置を知らせるために、上西がするどく口笛を吹いた。音は吸いこまれるように、密林の奥に消えた。そしておれがつづいて吹いた。枝や葉をわける音が遠くでしているが、それはなかなか近づかなかった。

「伍長どんも、長いことはないな」

「長いことはないな」

「もう、二三日保つかいな」

 つぎつぎにたおれた戦友を見てきたから、おれたちは衰えた人間の死期を、ほぼ誤たず知ることが出来るようになっていた。

「――もうこんな戦争も、いい加減いやになったなあ」

 闇のなかで、そう呟(つぶや)く上西の声がした。その声にむかって、おれはいらいらしながら言った。

「じゃ、逃げたらいいだろ」

 上西が身じろぐ気配がした。そしてまた沈黙がきた。その中を、五味の跫音(あしおと)が、やがてがさがさと近づいてくるらしかった。

 

2020/11/04

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版始動 (その一)

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年八月刊の季刊『作品』第一号初出で、同年十二月河出書房刊の作品集「B島風物誌」に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 最初に種明かししておく。題名から安易な陽性の期待を持つと痛い目に遭うからだ。題名の「B島」とは架空の島ではない。パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州のブーゲンビル島Bougainville Island)のことである(グーグル・マップ・データ)。しかも、本篇は太平洋戦争中の長期激戦地の一つ「ブーゲンビル島の戦い」がロケーションである。これは日本軍が占領したブーゲンビル島で、アメリカ軍が上陸した一九四三年十一月一日から停戦の一九四五年八月二十一日まで戦われたが、日本軍(特に陸軍)にとっては長い過酷な飢えとマラリアとの戦いでもあった。最初にウィキの「ブーゲンビル島の戦い」に目を通されてから、徐ろに読まれたい。但し、言うまでもないが、梅崎春生は九州の内地勤務で敗戦を迎えたから、本篇は「ブーゲンビル島の戦い」を体験した帰還兵から話を聴いて書かれたものである。

 やや長めの作品で、一気にさらっと電子化する気には個人的にならない内容なので、分割して公開することとし、最後には縦書PDFにして一括版をサイトに公開することとする。分割部は行間のあるところを選んで分けることとする。【2020113日始動 藪野直史】]

 

   B島風物誌

 

 昨夜小泉が死んだ。これでおれたちは、十八名になった。

 小泉は、夜になって死んだらしい。おれがゆすぶったときは、すでに身体はかたく、毛布の中で冷たくなっていた。いつの間に死んだのか、誰も気がつかなかった。しかしこうして人知れず、だまって死んでゆくのも、今では別にめずらしいことではなくなった。病気で死ぬものは、皆こんな風に、こっそり死んでゆくのだ。

 小泉にしても、昨朝まではよろよろしながら、裏の川へ水くみに行ったり、炊事の手つだいをしていた。ここでは病気だからといって、ただ寝たきりで、食わせてもらうわけにはゆかぬのだ。体力の点からでは、みんなひどく弱っているのだ。誰がいつ死ぬか判らない。だからたいていのものが、死ぬ寸前まで無理に立ちはたらき、やがて力尽きてうごけなくなり、そして部屋のすみで毛布にくるまったまま、眠るように死んで行ってしまう。ほんとに、?燭が燃えつきるように、うめき声すらも立てないで!

 小泉が死んだことを、おれは直ぐひくい声でみんなに知らせた。眠っているのか、誰もだまっていた。やがて暗がりの底から、

「隊長に知らせてこい」

 笠伍長のおこったような声がした。[やぶちゃん注:「笠」は「りゅう」と読んでおく。]

 大儀な身体をおこすはずみに、おれの臂(ひじ)が小泉の顔にふれたらしい。砂囊(さのう)みたいなにぶい重量感がもどってきた。そこらはまっくらで、なにも見えない。そろそろ動いても、寝ている手や足にいくつもぶつかった。そのたびに膿(うみ)のにおいが動いた。

 外に出て上の小屋まで、五十米ほど手探りであるいた。誰か死ぬ毎に、その報告の役目は、ふしぎにおれにあたる。永井のときも、大西のときもそうだった。おれが隊長のところへ知らせに行ったのだ。

 小屋のそとから、声をかけた。

「小泉が死にました」

暗闇のなかをごそごそ動く気配がして、火を点(つ)けろ、という低い声がした。

 保革油をつめた空罐(あきかん)の、布片(ぬのぎれ)のしんに光がともった。その小さい光がまぶしかった。関根中尉と不破曹長の顔があおじろく浮び上った。

「誰だ」

「小泉上等兵が、死んでおります」

 おれの声は反響を失って、吸いこまれるように語尾が消えた。空罐がこちらに傾いて、おれに光をあてようとするらしい。物の影がゆらゆら動き、光がおれにまたたいた。おれはそのまま、じつと立っていた。やがて不破曹長の声がした。

「今夜は、そのままにしておけ。そして朝になったら、埋めろ」

 そのとたんに、焰がちいさくゆらいで、ふっと消えた。

 分厚な闇の底で、しばらくして、今度は関根中尉の声で、「十八名。これで、十八名、だな」

 独白のように、言葉のひとつひとつが沈痛にしたたってきた。誰も返事をしなかった。

 そしてしんしんと夜風のわたる密林のなかに、おれは再び闇を手探りながら、今来た道へもどって行った。

 

 この小屋で、五官の覚醒は、まず膿(うみ)の臭気から始まる。

 時間を定めない、どろどろした沼のような眠りから、おれの五官はぼんやり浮きあがってくる。嗅覚がその時もはや、膿の臭気をはっきりとらえている。身体はまだ眠っているのに、嗅覚だけが先行して醒めているのだ。その臭気のなかに、今日生きていることの苦痛をかぎ取ろうとするかのように。

 立つと頭がつかえる掘立小屋のなかに、枯葉をいっぱいしきつめてミノ虫のように毛布にくるまって、おれたちは並んでねているのだ。小屋のなかは湿気でむんむんする。天井はばさばさした芭蕉(ばしょう)の葉である。むねの悪くなるような臭気が、いっぱいただよっている。熱帯潰瘍(かいよう)のただれた膿のにおいである。ほとんどが、多かれ少かれ、これにかかっている。なにしろボロボロに破れた服をまとい、はだしで密林のなかを歩くから、灌木(かんぼく)の根や木の根に傷つけられて、そいつはかならず膿をもち、やがて潰(つぶ)れて頽(くず)れてくるのである。その膿やかさぶたが、毛布や服にこびりついて、腐敗したいやな臭気をはなつのだ。

 みんなは傷がくずれて行っても、手を束(つか)ねてぼんやりしている。自然とかさぶたになって、なおってゆくのを待つ外はないのだ。ここには薬というものは一切ないのだから。しかし中には、古川兵長のように、密林の中から変な臭いの木の葉をさがしてきて、揉んで患部に押しあてたりするのもいるが、そんなものが利くものか。しかし古川は丹念につぎつぎ違った葉をさがしてきては、熱心な顔付でそれを試みる。そして五味伍長に嘲笑される。

「馬鹿だな。おまえは。そんなおまじないが何になるんだ。そんなことでなおる位なら、誰も苦労しやしねえ。ほんとに底抜けの阿呆だよ。お前という男は」

「だってあんた、やってみなきゃ判りませんさ」

 古川は困ったような声で、そう答える。そう答えながらも、葉を押しあてる手をやすめない。青黒い葉のしたから、膝頭の黄色く弾(はじ)けた潰瘍の部分が見えかくれする。百姓出の兵隊だが、この男の癖で、ものを言うときは妙に思い詰めた顔になる。日本が近いうちに反撃に転じて、此の惨(みじ)めな状態から自分たちが救われると、本気で確信しているのは、ここでは実のところ彼だけだ。潰瘍の手当にひどく熱心なのも、そのせいかも知れない。

 しかし古川の潰瘍は、そうひどい方ではない。この小屋で、今のところ一番ひどいのは、五味伍長だ。全身に何箇所もあるらしい。彼は今、おれの近くに寝ている。鼠色によごれた毛布から、頭だけ出している。頭の毛はすっかり抜けて、うぶ毛のような柔かい髪がばらばら残っているだけだ。顔は黄色くしなびていて、瞼(まぶた)だけが死んだ鶏の瞼のようにうすぐろい。しかしこの相貌は、ここにいる兵隊全部に共通している。おれの顔も――長いこと鏡を見ないが――やはり同じ顔貌なのだろう。

 五味は潰瘍の手当をぜんぜんやらぬ。服が患部にこびりついたままだ。服の表まで、膿(うみ)のいろが滲(にじ)んでいる。寝覚めのおれの嗅覚を撲ってくるのは、まずこの男の膿の臭気なのだ。

 五味のむこうには、上西と鬼頭が死んだように眠っている。昨夜中まっくらな密林をあるきまわって、ジャングル野菜をあつめてきたのだ。

 そのむこうの――小屋のすみには、毛布にくるまれた小泉の屍体が横たわっている。古材木のように無感動にころがっている。それでも顔には、黄色くよごれた布をかぶせてある。晩方、小泉をそこにはこんだとき、笠伍長がかけてやったのだ。そしてそのむこうには――青ぐらく光の散乱する密林の風景が、沈欝にひろがっているのだ。

 

 小泉を埋める穴は、伴とおれとが掘った。エンピを柔かい腐蝕土につきたて、ほり起した土をこぼさないように、すくいあげて投げすてる。その動作を二三十回もつづけると、もう動悸(どうき)が烈しく、呼吸がはずんでくる。濃厚な汗が、べたべたと滲んでくる。昔ならこんな穴に、ひとりで二十分とかかりはしなかった。代る代る掘った。なかなか仕事は、はかどらなかった。おれが疲れると伴が代ってエンピを使った。[やぶちゃん注:「エンピ」は「円匙」で、塹壕内で使用するための土を掘る道具の一つで小型の軍用シャベルのこと。「円匙」は本来は「えんし」と読むが、その誤読が慣用化された、旧軍隊用語で、自衛隊でもこの呼称が受け継がれている。ウィキの「シャベル」の「塹壕用シャベル」によれば、『刃の形状は剣先スコップ、もしくはスペード型に似ている。塹壕用シャベルの第一義的な任務は』、『塹壕を掘ったり』、『整備したりすることであるが、塹壕戦においては敵兵との不意の遭遇も多かった』。その頃には『刀槍による白兵戦は廃れていたが、手持ちのシャベルは近接格闘・護身には有用な武器になることから、殺傷力を高めるため』、『縁を研いで刃付けする場合があった。現在』、『主流の折りたたみ可能な製品は、掘削器具として使いやすいよう設計されている反面、武器としての利用には適さない形状であることが多い』とる。形状や実物・レプリカはグーグル画像検索「エンピ シャベル 軍隊 円匙」を見られたい。]

 落葉の上にうずくまり、おれは膝に頭をふせてやすんだ。膝の汗を、舌で舐(な)めた。膝頭の間から、ちらちらと伴の姿が見えた。伴は掘りおこした土塊を、エンピで一応くだいてみて、それから外へ投げすてた。伴の顔もおそろしくやせこけて、血の気がなかった。片唇が頰まで切れて、顔半分はみにくくひきつれている。タロキナ作戦で受けた傷なのだ。片方からみると、それは人間の顔ではない。形の歪(ゆが)んだ眼だけが忙がしく動いている。そしてくだいた土塊からミミズをみつけると、すばやく指でつまんで、動いているやつをそのまま口に入れた。そしてまた、次の土塊をくだいた。しばらくして、またおれが代った。

 小泉の屍体はかたくなって、破れたズボンから食(は)みだした脚の潰瘍に、大きな蠅(はえ)がいっぱいたかっていた。頭と足とを両方からもちあげると、真黒の蠅の群は、浮きあがるように傷口から飛び離れた。おれたちは小泉を、しずかに穴に入れた。穴がすこし短くて、屍体が曲った。小泉の死顔は土色で、薄い肉が骨に貼(は)りついているだけであった。[やぶちゃん注:「タロキナ作戦」タロキナ(Torokina)はブーゲンビル島の南西海岸中央エンプレス・オーガスタ湾(Empress Augusta Bay)北端に位置する岬でアメリカ軍は一九四三(昭和一八)年十一月一日に飛行場建設を目的としてここへの上陸作戦を開始した。ウィキの「ブーゲンビル島の戦い」のアメリカ軍の「タロキナ上陸」(日本軍のそれへの対抗戦である第一次タロキナ作戦)及びアメリカ軍の建設した飛行場制圧のための「第二次タロキナ作戦」(一九四四年三月)を参照されたい(英文であるが、地図もある)。なお、本篇内の時制は一九四四年十一月末から連合軍オーストラリア軍が島の占領と日本軍排除を目指して攻撃を開始して以降、翌一九五五年四月以降(次の「プリアカ作戦」の注を参照)の設定である。]

「どう思うね。おまえ」

 エンピをもって立っている伴に、おれはそんな風に訊(たず)ねた。伴はぼんやり穴の中を見おろしていたが、暫(しばら)くしてぽつりと答えた。

「何がよ」

「いつかおれたちも、こうなるということさ」

 伴はだまっていた。やがて伴はかすかに身ぶるいをしたらしかった。

 掘り上げた土を穴におとすと、小泉のからだはポコッ、ポコッとへんな音をたてて、土を弾(はじ)いた。そして顔や手足がだんだん埋もれて行った。

 盛りあがった土を、おれたちは足でふみならした。おれたちの足首は黄黒く枯れて、一握りもないくせに、軟土に印する足跡は、平たく大きかった。掘り起された軟土をくまなく、おれたちは丹念に足でふみならした。それによって小泉の存在を、おれたちの記憶からも抹殺してしまうかのように。伴の足跡におれのが重なり、おれのに伴の足跡がかさなった。

「これでたった、十八人になった訳か」伴が足を踏みながら、低い声で言った。「プリアカ作戦に出発したころは、まだ余計にいたなあ」[やぶちゃん注:「プリアカ作戦」一九五五年三月二十八日にブーゲンビル島を南下してくるオーストラリア軍に対して、反撃作戦を取るべく、歩兵第十三連隊及び歩兵第二十三連隊がプリアカ川(オーストラリア名:Puriata River:タロキナとブイン(Buin:ブーゲンビル島南端地区)の中間付近にある川。英文マップ「Mapcarta」のここを参照。拡大されたい)で一斉攻撃を行ったが、作戦は失敗し、戦死傷者約千六百名を数えた。]

「五十六人だよ」とおれは答えた。「あれから三十八人がいなくなったのだ」

 密林の暗いひかりが、伴の姿におちていた。おれたちはしばらく思い思いのことを考えていた。

「ときどき俺は、米田のことを思い出すなあ。タロキナから逃げてくる道で、あいつは死にやがった」

 伴は曲った唇から洩れでるはっきりしない声で、そんなことを話しだした。

「――あいつはとうとう歩けなくなって、道端に伸びていやがった。やせこけて、まるで死人の顔よ。俺が通りかかると、足にしがみついてきて、乾パンを分けてくれとせびりやがった。狂犬みたいな眼をしてやがった」

「――で、やったのかい」

「――乾パンをやったって、歩けなきゃ見捨てられて、どうせ程なく死んじまうんだ。死んじまって、そのまま腐ってしまうんだ。くにではおふくろや女房や子供たちが、蔭膳そなえて、武運長久をいのってるというのになあ。――あいつは俺と、同村なんだ」

「そいで、おまえは」おれはエンピを地べたから拾いあげながら言った。「足にしがみついてきた米田を、足でけとばしたというんだろう」

 伴はだまっていた。そして横をむいて、するどく唾をはいた。

 埋葬が終ってエンピをかつぎ、歩きだしたとき、伴がまた独語のように言った。

「――御手洗(みたらい)も、あそこで死んだ」

「死んだやつのことばかり、思い出すんだな」

「御手洗は、軍司令官の山駕籠(やまかご)に、突きとばされたんだ。あいつは倒れて、頭を打ってそれきり起き上らなかったんだ」

 四人かつぎの山駕籠の上から、眼をいからせて(それでも貴様らは、帝国軍人かっ!)と怒鳴りつけていった軍司令官のあから顔を、おれはまざまざと思いうかべていた。あのタロキナ作戦は大敗におわり、敵の猛烈な反撃に部隊は四分五裂した。飢餓と過労と恐怖に魂をぬきとられ、銃を捨て、背囊を失い、ふらふらと敗走するおれたちの中を、邪魔ものを突きとばしたり怒鳴りつけたりして、その山駕籠は走りぬけて行ったのである。密林の湿地帯や嶮(けわ)しい岩山で、力尽きた戦友らはつぎつぎに、青ざめてたおれる。それらを見捨て、死物ぐるいで、杖にすがりながら、おれたちも逃げたのだが……

「死んだやつは、仕方がないじゃないか」

 垂れさがる枝や葉をわけて進みながら、おれはそう言った。おれのうしろからついてくる伴が、しばらくして、ひとり言のように低く呟(つぶや)いた。

「俺は、死なん。死なんぞ。絶対に!」

 おれがかつぐエンピの先が、葉や梢にぶつかって、ばさばさと音を立てていた。あとは黙りこくつて、おれたちは落葉を踏んだ。

 

 昏方(くれがた)、部隊本部の連絡から、不破曹長と有馬兵長が戻ってきた。本部は、ここから二粁[やぶちゃん注:キロ。]の行程である。密林の二粁は、しかし、平地の十粁に匹敵した。小屋に入ってきた有馬は、暗く疲れた表情であった。有馬が入ってくるのと入違いに、今夜の食糧収集のため、三人の兵隊が身仕度をして、小屋の入口に出た。それにむかって、有馬が沈欝な調子で言った。

「用心して行けよ。ここら近くに、もう敵が入っているぞ。おれも、一発、ねらわれた」

 どうも土民兵らしい、と有馬はつけ足すように呟いた。三人はちょっと眼を光らせて有馬をふりかえつたが、黙って空のけいてん携帯天幕のこと)を肩にゆすり上げて、やがて落葉を踏むその跫音(あしおと)は、小屋から遠ざかって行った。[やぶちゃん注:「けいてん携帯天幕のこと)」(丸括弧は割注ではなく、本文内同ポイントの注)とは防水帆布で出来た一・五メートル四方の布で、一人用の携帯テント(別に木製のポールとペグが附属)。ここはそれを、複数、組み合わせて相応の大きさにし、小屋(と呼んでいる場所)の天幕にしたのであろう。グーグル画像検索「携帯天幕 日本軍」をリンクさせておく。]

 小屋のすみで武装を解く有馬に、笠伍長がおこったように問いかけた。

「おい。敵状はどうだった」

「――二三日前から、本道に、敵の戦車が出てきたそうです」

 有馬はへたへたと腰をおろしながら、顔をそむけるようにしてそう答えた。

「戦車を先頭にたてて、両側の密林をたんねんに掃討しながら、やってくるんだそうです」

「こちとらはほとんど素手だというのに、戦車などもってきやがる!」

 笠は舌打ちして、唾をはげしく小屋のそとにとばした。

 毛布にくるまって寝ていた五味伍長が、軀(からだ)をうごかして突然わらいだした。

「馬鹿だな。怒ったって仕様があるか。それが戦争というもんだ」

「それは判っているさ」笠は血走った眼でその方を眺めた。「しかしこんな戦争が一体あるか。毎日毎日、食うことだけに追われて、それも青臭いジャングル野菜と来やがる。見ろ。小泉だって死んじまったじゃないか」

「へへえ。おまえ、プリアカ河を越えるとき、ビフテキでも食えるつもりでいたのかい」

 寝そべったりうずくまったり、思い思いの姿勢で聞いていたおれたちは、何となく声なき声をたてて笑い出した。[やぶちゃん注:この表現で、この時点で彼らはブーゲンビル島の南の端であるブイン東北のタクアン山(Mount Takuan)の恐らくは南西側の裾野附近(プリアカ川左岸近く)にいるものと思われる。この中央付近(グーグル・マップ・データ航空写真)]

 やがて暗くなって、物の動きもはっきりしなくなった。毛布にくるまって、おれたちは並んで横たわっていた。まっくらな小屋のなかで、誰も話をするものもなかった。夜でも敵機が飛んでいるので、火を点けることは、特別の場合のほか、法度(はっと)になっている。みんな黙っていても、眠っているという訳ではなかった。ものを言うのが、大儀なだけであった。時々身体がうごいて、しきつめた枯葉が鳴り、あたらしく膿のにおいがした。

 闇の底から、ひくい声で

「食糧をもって、援軍が来ないかなあ」

 古川兵長の独り言らしかった。寝がえりを打つ気配がして、横に寝ている五味のあざけるような声がつづいた。

「援軍? 何を言ってるんだよ。援軍が、来る訳があるか。とんちき」

「だってあんた、六月末までプリアカの線から下るな、というからには――」

「援軍がくるとでも思ってるのかよ」

「だって――」と古川は苦しそうな声を出した。「自分は、作戦のことは判らんけども。援軍が来んとすれば、部隊がここにいる意味がないような気がする。援軍はきますよ」

 語尾がばつんと切れて、沈黙がふたたび来た。十分位たって、五味の声で、

「意味は、あるさ。俺たちがここで、雑草食って次々死んでゆく間だけでも、ブインで、軍司令官閣下や参謀どのの命が、それだけ伸びているわけだあ」

 声は陰欝に暗闇にしずんで、またふかぶかと、密林の静寂がもどってきた。誰も声をたてなかった。

 おれは毛布に顔を押しつけながら、一週間ほど前に聞いたブイン地区の情報を、ぼんやり思い浮べていた。本部へ連絡に行った兵がここに伝えたものである。それによると、ブインでは兵隊でも、一日一度は米の飯をくっているし、自家製のたばこも不自由なく吸っているというのであった。それは想像できないことではなかった。おれたちが仮にブインに居るとすれば、自分たちが生産したものを、前線におくる気特になれないにきまっていた。しかし――一日に一度は食うというその白い飯のことが、いきなり実感として胸にきた。そしてことに、軍司令部や師団司令部では、直属の建設隊をつかって、豚や鶏を飼い、魚をとって、潤沢(じゅんたく)に腹を充たしているということであった。この情報は、それを想像するだけでも、皆の食慾をつきあげた。これら後方ブインの状況は、すでにあまねく前線に知れているらしかった。

 草の葉を食べて戦うプリアカ戦線へ、ブインから参謀長通謀が発せられたのは、半月ほど以前である。それには、次のような文言(ぶんげん)が入っている。

「不公平は戦闘の常なるを思い、一意復仇報恩の誠をいたすべし。云々」

 

「不公平は戦闘の常なるを思い、か」有馬兵長は針金で木を摩擦しながら、暗い声でつぶやいた。「――本部にはな、まだ少しは塩はあるんだ。それを、ないと言いやがる。これ以上、どうやって戦えというんだ」

「本部のやつらは、何を食ってんだ?」とおれが訊ねる。

「やっぱりジャングル野菜よ。隊長だけが三度三度アツコウ(圧搾口糧)を食っているというんで、兵隊がおこってやがった。皆、黄色くしなびてら」[やぶちゃん注:「アツコウ(圧搾口糧)」大日本帝国陸軍が開発・採用した、ポン菓子を使用した携帯糧食。これには副食品として、調味した削り節をブロック状に押し固めた「圧搾田麩」と梅干・砂糖が添えられていた。グーグル画像検索「圧搾口糧 日本陸軍」の柿色をした説明書きが張り付けられた四角いものがそれ。]

 空はまだ暗い。朝の炊煙はとくに危険だから、夜があけぬうちに、炊事を終らねばならぬ。

「で、まだ陣地を退っちゃいけない、というのか」[やぶちゃん注:「退っちゃいけない」は「すざ(さ)っちゃいけない」か。]

「六月末まで、現陣地に頑張れ。師団命令だとよ」

 摩擦熱に粉状の火薬をふりかけて、火花がパチッパチッと散る。おれがすばやく紙にうつした。せまい防空壕のなかが、急にあかるく浮びあがった。しめった土壁が照らしだされ、おれたちの影が大きくゆらめいた。かかえてきたけいてんを、おれはいそがしく解いた。包みがとけると、しめった青い草がもり上って、ふわっと足もとにあふれた。これはジャングルであつめてきた草の葉である。それをすこしずつ握り、ひとひねりしてねじ切り、次々に飯盒(はんごう)につめる。八つの飯盒を棒に通して、もうおこり出した火の上にかけた。

 おれたちはだまって火の色を眺めている。火に照らされた有馬の顔は、こわいほど蒼白く、おちくぼんだ眼孔のなかで、眼球だけがぎらぎら光りている。火にさしだしたおれたちの掌は、牛蒡(ごぼう)のようにくろく、細い手首から平たくつき出ている。有馬の眼は、じつと飯盒をみつめている。草が煮える青くさいにおいが、すこしずつ立ってくる。

「――敵はちかくまで来ているぞ」と有馬がかすれた声で言う。「おれを射ったのは、敵の斥候だ。きっとそうだ」

 おれは口腔のなかで、もはや煮えた葉を噛みしめる感触を予想し始めている。腹がぎゅっと収縮する。おれは床に視線をそらしている。床には乾した唐辛子(とうがらし)がひとにぎりおいてある。塩が切れて、十日経つ。ジャングルに生えたこの唐辛子だけが、このごろ唯一の調味料だ。食べるものが、こんなごわごわしたジャングル野菜はかりで、そして塩が切れたとなれば、おれたちの身体はどういうことになるだろう?

「もう二三日も経ては、ここも砲撃をうけるかも知れないぜ。いやだ。いやだ」

 有馬はそんなことを口のなかで呟(つぶや)く。口調は力がないのに、眼だけはぎらぎらと大きく見開かれてくる。

(死ぬ前に、腹いっぱい食べたいなあ。芋でも何でもいいから!)

 おれはぼんやり考えている。敵にぶつかって、たたきのめされて、この密林に逃げこんでから、もう二箇月になる。ブインを出発するときに背負った芋は、ブリアカ河を越える頃には食い果たしてしまった。それから、二日に一食ばかりの圧搾口糧(あっさくこうりょう)か乾パンを支給されて(何のたしになるものか!)小銃と手榴弾だけで、故にぶっつかったのだ。あの多数の飛行機と、戦車と、大小さまざまな砲をもった、精鋭な濠洲軍に。そしていきなり部隊の半数を失い、密林ににげこみ、敵の砲火を避けた。部隊本部との連絡もとだえがちになりながら、陣地をすこしずつ後退し、やっと今まで生きのびてきた。ここにきて、もう永井と大西と小泉の三人が、飢えに死んだ。おれもこの二三日、寝ていると、手足のさきに感覚がなくなり、胸板に重いものを乗せたような、不気味な虚脱感がある。おれも――このおれも、間もなく倒れるだろう。

 飯盒(はんごう)が勢のいい火にあぶられて、やがてたまらなくなったように、クッタクッタと身もだえしている。葉が煮える匂いが、壕のなかにみなぎる。

「おい!」

 有馬兵長が背をまげて、じつとおれを見詰めている。獣のような眼のいろだ。そして立ちあがる。影も大きく立ちあがる。

「俺は、逃げるんだ。ここはいやだ。こんなところで死ぬのは、いやだ!」

 おれは膝をだいて黙っている。黙って飯盒が動くのをながめている。もう飯盒も煮えたつ頃だろう。――

 立ちあがったまま、有馬の影はおれを見おろしている。急に力がなくなったように、へたへたと腰をおろす。頭をじっとかかえている。やがてもとの暗い沈んだ口調に戻って、しんみりおれに話しかける。

「なあ。お前も逃げんか。おれといっしょに」

「逃げるつて、どこへ逃げるんだ?」

 おれはおこったような声をだす。

「――おれには、計画があるんだ」

 暫(しばら)くして有馬が、頭をかかえたまま、しずかに言う。飯盒のひとつが青い汁をふき出す。滴(したた)りをうけて頰がはげしくゆらぐ。おれたちの影が、壁にみだれうごく。

「――おれは食糧を、すこしためてあるんだ。二人で五日はもつ。かくしてあるんだ」

「どこにかくしてあるんだ?」

 おれも静かな声になって訊ねる。

 有馬は顔をゆがませて、材木のように黙りこんでしまう。おれは自分の口腔の内側が、しだいに乾いてゆくのが判る。飯盒がつぎつぎ音をたてて吹きこぼれる。火が消える。空から、うっすら光が降りてくる。見上げると、密林のすきまに、空がぼんやり明けかかっている。

 立ち上って小屋にむかって、おれが食事合図の口笛を吹いた。やがて小屋の方から、人影がいくつもあらわれ、幽鬼のようにふらふらと、こちらの方に近づいてくる。……

 

梅崎春生 美談にもの申す (エッセイ未電子化分)

  

[やぶちゃん注:これは梅崎春生が昭和三五(一九六〇)年四月十七日号から翌年八月六日号までの『週刊現代』に六十七回に亙って連載したコラム「うんとか すんとか」の連載第二十八回目の昭和三五(一九六〇)年十月二十三日号掲載分である。底本は「梅崎春生全集」第七巻(昭和六〇(一九八五)年四月刊)に拠った(底本には「うんとか すんとか」の内の二十九篇のみが載る)。昨日、知人より未電子化であるとの指摘を受けたので、急遽、電子化した(うっかりと未電子化のまま忘れていた経緯については前の「かん違い」の冒頭の私の注を参照されたい)。]

 

   美談にもの申す

 

 私は割に新聞を丹念に読むたちだが、ことに好んで読む記事のひとつに、あの「もの申す欄」とか「苦情欄」とかいうのがある。たいへん面白い。

 読者が不満を投書する。苦情係の記者が相手のところにインタビューに行く。すると相手は恐縮して(恐縮しない場合もあるが)弁解したり、善処を約束したりする。その成行きがなかなか面白い。

 不満がさらさらと片付けられた、そのカタルシスの快感のようなものがある。

 私は一度でもいいから、あの苦情係の記者になって、相手方のところに秉り込んで見たいと思う。あれはきっと諸国漫遊の水戸黄門のような気分がするのではないだろうか。

「余は水戸黄門光圀なるぞ」

「ははっ」

 と相手の悪代官が平伏する。いい気分がしないわけがない。

 ある週刊誌に苦情係記者の書いた手記によると、相手にもいろいろあって、恐縮型、慇懃(いんぎん)無礼型、泣き落し型、居直り型など、バラエティに富んでいるそうである。

 まあ内輪に入れば、さまざまと面白い話もあるのだろう。

 ウイークデイはそんな具合にして毎日楽しめるが、これが日曜日になるとがらりと趣きがかわる。苦情が美談になるのである。

 どの新聞も一斉に美談とかわるのだから、日曜と美談とは何か関係があるのだろう。そう思っていろいろ考えてみたが、よく判らない。

 おそらく日曜は休みであるからして、朝起きてものんびりしている。のんびりした気分のところに、殺伐な苦情を押しつけるのは適当でない。うるわしい心あたたまる話を当てがってやろうという新聞社の親心なのだろうか。

 その折角の親心にもかかわらず、美談というやつはさっぱり面白くない。

 ことに投書の美談は、どこそこでうちの婆さんがころんだら、女子学生が親切にたすけ起して呉れたとか、どこそこの店で気分が悪くなったら店員が薬を呉れたとか、実に他愛のないものばかりで、読んでもいっこう感心しない。

 これも相手が出ることがあるが、たいていの場合その相手は、

「あたりまえのことをしただけですのに」

 と、はにかむのが常のようであるし、その上役の談では、

 「あの人は勤務成績がよく、性質も明朗で……」

 と、ほめるのが、しきたりになっている。

 こんな紋切型を読んで、感動する読者がいるだろうか。美談というからには、人を感動させなくちゃいけない筈なのに、ただしらじらしい気分になるのは、どういうものだろう。

 つまり「苦情」の方は血の気が通っているが、「ありがとう」の方には血の気が通っていないのだ。

 何だかつくられたような感じがするところに、美談の面白くなさがある。

 戦争中、戦場のことを書いた三面記事があまり面白くなかったのは、日本の兵隊がこんなに強かったとか、勇敢だったとか、そんな美談にみちあふれていたからである。

 あんまりばかばかしくて、今でも印象に残っている美談(?)の一つに、次のようなのがあった。

 敵弾が飛んで来て、ある日本の勇士の左腕をふっ飛ばした。勇猛なるその勇士は、なにくそとばかりその左腕をつかんで、敵陣めがけて投げつけた。次の瞬間、勇士はあっと叫んだ。

 「あっ、しまった。あの腕には、腕時計がついていた。もったいないことをしたなあ」

 そういう事実が実際戦場であったのかどうか、私は知らない。おそらくうそだろうと思う。

 いくらなんでも、腕と時計は引換えにならないだろうし、第一腕をふっ飛ばされたら、痛みと出血で、投げつける気力が出よう筈もない。

 では、どうしてこんなばかな話が記事になったかというと、察するに、大君のために命を鴻毛(こうもう)の軽きに置く、という考え方がある。

 そこから人間の生命に対する軽視が生れる。つづいて人間の肉体に対する蔑視が生じて、忠義の為には自分の腕なんかどうでもいい、無価値である、という考えが導かれる。

 腕時計の方は忠義と関係なく、もともとの価値を保有しているが、腕の方の価値が大下落したもんだから、前述の如き勇士の奇妙な嘆息となってあらわれたのだろう。

 しかし、はたの者がその嘆息をするのなら、まだ話が判るが、ふっ飛ばされた当人がそんな嘆息を洩らすなんて、きわめて不自然であり、陰惨である。

 それを美談として報道したジャーナリズムも陰惨であり、それを受け入れた読者のあり方も、非人間的という点で陰惨である。

 どうも美談というやつは、悪談(美談の反対の談という意味だ)にくらべて、人間性を歪めるという点で、腑(ふ)におちないことが多い。

 この間も投書の日曜美談に次のようなのがあった。

 自分は耳の不自由なものだが、同じ耳の悪い友達二人とある食堂で食事をし、出ようとしたところ、代金が支払いずみになっているのでびっくりした。聞いてみると隣の座席にいた人が、手真似で話し合っている私たちに同情し、お金を払って黙って行ってしまったらしい。

「ぜひお礼を申し上げたいのですが、お名前もわかりません。ありがとうございました」

 と結んである。

 この投書はM新聞に出ていたが、同じ投書が同じ日のA新聞にも出ていた。二重投稿というやつだろう。

 同じ投書と書いたけれども、内容はちょっと食い違いがあり、A新聞の方は、そばにいた中年の紳士が眼の前で支払って呉れたようになっている。どうもそこらが怪しい。

 しかしその怪しさをつくのが私の目的ではない。もっぱらその内容について書く。

 私はこの投書を一読した時、何かいらだたしい違和感を感じた。何かが歪んでいるという感じが、まっさきに来た。

 結論的に言うと、これは「ありがとう欄」ではなく「苦情欄」に出すべき内容であると思う。

 先の「ぜひお礼を……」云々の件は次のように訂正する。

「どうしてそんなおせっかいをするのですか。お名前を知らせて下さい。代金はお返ししますから」

 それなら私は納得するだろう。

 隣席で食事をしている連中の代金を、そっと支払って去る野郎(投書では紳士になっているが)の、感傷的な行動がまず気にくわない。

 それは本質的には、人を傷つける行為なのである。人を傷つけながら、自分ではいいことをしたつもりになっている。その独善的な思い上りに、私は腹を立てる。

 あのうるさい「愛の鐘」を打ち鳴らす婆さん連中の思い上りもそれと同じである。

 そういう仕打ちをされながら「ぜひお礼を申し上げたいのですが」などと投書する人間の気持も、また奇怪なものではないか。

 どうもにせものじゃないかという気がする。

 

梅崎春生 かん違い (エッセイ未電子化分)

 

[やぶちゃん注:これは梅崎春生が昭和三三(一九五八)年に六月六日から八月二十九日にかけて『毎日新聞』に十三回で連載した「憂楽帳」というコラムの第五回。底本は「梅崎春生全集」第七巻(昭和六〇(一九八五)年四月刊)に拠った。昨日、知人より未電子化であるとの指摘を受けたので、急遽、電子化した。梅崎春生のエッセイ類は、二〇一六年の七月から十月にかけてランダムに電子化したため(今はよく思い出せぬが、恐らくは、選択的にオリジナルに構成された沖積舎全集版のそれを順に電子化することは編集権に触れるとでも思ったのだろう。但し、編集権という怪しげな疑似著作権は、発生するとすれば、丸々同じものを無許可で全く同じ配列で書籍にして販売或いは頒布した場合に於いて発生するものと私は認識しており、それが法的には正しいはずである)、うっかり見落としていたものである(次に電子化したエッセイ「美談にもの申す」も同じ)。]

 

 かん違い

 

 時折、寒い季節に、羽根布団にくるまって寝る機会にめぐまれると、あたたかいにはあたたかいが、何か物足りない感じがして来る。重さがないのが、物足りないのである。

 私は平生、あたたかさが、掛布団の重さによってもたらされるものと、実感している。重けりゃ重いほど、あたたかいのだ。つまりあたたかさと重さは、全然別のものであって、それを一緒のものだと錯覚していることが、羽根布団を物足りなく感じさせるのだろう。

 子供のころ、私は夏が大好きであった。いや、子供のころだけでなく、つい四五年前まで、私は夏が大好きであった。

 夏が好きであるからには、私は暑さが大好きであった。

 寒さと聞くと身ぶるいするが、暑さと来れば仕事はずんずんはかどり、私の書いた作品のうち、傑作、名作と称せられるものは、たいてい夏の季節に書かれたものであるほどだ。

 それほどに夏が好きだったのに、四五年前からどうも暑さが身にこたえ、仕事が進まなくなって来た。暑さがきらいになって来たのである。

 いまつらつらと考えると、子供の私が夏を好きだったのは、夏が暑かったからでなく、夏には夏休みがあったせいらしい。夏が暑くなかったら、私はもっともっと夏が好きだっただろう。

 何と長い間、私はかん違いをしていたことか!

 

2020/11/02

ブログ・アクセス1,440,000突破記念 梅崎春生 小さな町にて

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月号『小説新潮』初出で、後の作品集「山名の場合」(昭和三〇(一九五五)年六月山田書店刊)に収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログがつい数十分前、1,440,000アクセスを突破した記念として公開する【2020112日 藪野直史】。]

 

   小さな町にて

 

 私はついに、この海辺の小さな町に、やって来た。

 しっとりと霧の深い夜である。

 午後九時六分着。三両連結の普通列車。

 その小さな車輛からこの寒駅に降り立って、形ばかりの改札口を通るとき、ミルクのように濃い霧が、たちまち私たちの全身を、ひたひたひたと包んできた。乗降客は、私と私の連れと、この二人だけである。

 発車の汽笛が、あちこちにこだまして、ものがなしく響きわたると、私たちが乗り捨てた小さな列車は、がたんと身慄いして動き出す。私たちを残して、徐々に歩廊をはなれ、しだいに速力を増しながら、やがてその尾燈は霧の中に、赤くちいさく吸いこまれてゆく。

 その燈も見えなくなって、がらんとなった歩廊を、駅長らしい男がカンテラを提(さ)げて、ゆっくりゆっくりと歩いてくる。そのカンテラの光も、膜をかぶったように、ぼうとうるんで揺れている。夜気がにわかに頸(くび)筋につめたい。

「宿屋はどこか、ちょっくら訊ねて来ましょうか」

 私を見上げながら私の連れが言う。そして若々しい跫音(あしおと)を響かせながら、もう小走りに駈け出してゆく。

 厚い霧のかなたから、も一度さっきの汽笛が尾を引いて、遠く幽かにひびいてくると、あとは物音も絶え、田舎線の小駅らしい静寂さが、急にふかぶかと戻ってくる。転轍器(てんてつき)の辺で話し合う駅員たちの声が、妙に近く聞えてくる。

 私はスーツケースを左手に提げ、駅前の大きな楡(にれ)の木の下まであるき、そこから始まるQ町の夜景を、しばらくじっと見詰めていた。

「これが、Qという町か」

 声に出して、私はつぶやいて見る。長い遍歷のあとのような、ある奇妙な疲労と緊張が、重々しく私を満たしている。

 しずかに流れる霧のむこうに、遠く近く、いくつもの燈色が滲んでいる。ぼんやりしたその燈影の配置からして、この町の家並は、縦の一本道に沿って鰻(うなぎ)のようにながながと、ずっと奥へ連なっているらしい。汽車の中で私が調ベた地図に誤りなければ、この一本道の果てるところに、海がある筈だ。そこに暗くゆたゆたと、海が揺れている筈だ。その海岸にいたるまでの、戸数にして三四百、人口二千足らずのQ町が、今私の眼界に、燈色をわびしく点々とつらね、しっとりと霧の底に沈んでいる。眺めているうちに、ふっと私は可笑(おか)しくなる。

(何のために、この町に、おれはやって来たのか?)

 しかしその答えは、不確かな形で、重苦しく私の胸にある。右頰の筋が微かにひきつるのを感じながら、私はしばらくその姿勢を動かさない。

 背後から、かろやかな小走りの跫音が、近づいてくる。

「宿屋は一軒。それも雑貨屋と兼業ですってさ。行きますか?」

「行こう」と私は答える。

「わびしい町だなあ」

 並んで歩き出しながら、この若い連れは嘆息するように言う。

「こんな町に、一週間も御滞在か。役目とあれば、仕方はない。ねえ。相宿となれば、よろしくお願いしますよ」

 連れはしきりにしゃべりながら、ちろちろと私の顔をのぞく。それがこの男の癖らしい。またその顔付も、声音(こわね)ほど弱った様子でもない。年の頃は、二十四五。晴雨兼用のしゃれたコートを着て、縁無し眼鏡をかけている。のっペりした顔の男である。語調は軽やかで調子よく、一分間と沈黙を守っておれない風だ。

「あ。それからね。僕の身分や仕事のこと、この町の人には、一応秘密にしといて下さいね」

「何故だね」

「そりゃあ、やはり、知られると、ちょっと具合が悪いから」

 連れといっても、私はこの若い男と、つい一時間前、汽車の中で知り合ったばかりである。前に腰かけていて、私がQ町へ行くことを知ると、急に親愛の情を示して、いろいろ話しかけたり、名刺を呉れたりなどした。その名刺には(A火災保険株式会社調査部員・風間十一郎)と記してある。一箇月ほど前、Q町に小さな火災があって、その保険金支払いの関係上、調査のために赴くのだという。なるほどこんな男には、ずいぶん適当した仕事だろう。

「知れたって、いいじゃないか。その方が、調査に便利だろう」

「いや。そんな散文的な仕事で来ていることを、人々に知られるのが厭なんですよ。これでも僕は、とにかく、ロマンティクなんだから――」

 若い風間十一郎は、平気でそんなことを言いながら、足早にあるく。

 町幅はせまく、デコボコしている。ひどく歩みづらい。家々の半分位は燈を消しているし、表戸を立て始めた小店などもある。街道筋の印象は、へんてつもない夜の田舎町の感じだが、磯の香がそこらに、ほんのりとただよっている。町角の小さな鍛冶屋に、まだあかあかと火が熾(おこ)っている。その火の色が、霧を通して、眼に沁みてくる。熱鉄をたたく澄んだ金属音が、しずかに夜の町に反響している。歩くにつれてその音も、しだいに遠ざかってゆく。湿ったような磯の香。馬糞のにおい。頰を濡らしてくる霧の感触。

「まだかね?」

「ええと。もうじき」

 しかし十一郎は立ち止って、いぶかしそうに四辺を見廻す。私も歩をとめる。遠く浜の方角から、夜気を縫って、細く慄えるような竹笛の音が、かすかに流れてくる。ふとそれに私は耳を澄ます。それは何かを訴えるように、断続しながら、耳の底まで届いてくる。

「あんまの笛ですね」

 十一郎がぽつんと言う。彼もそれを聞いていたと見える。そして突然大声を出す。

「なんだ。ここだよ。看板が出てらあ」

 私たちが立ち止っているすぐ前の、紙凧(たこ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]やねじり飴(あめ)や子供下駄をならぺた貪しい店の入ロに、表札みたいに小さな

看板がかかっていて、それに「旅人宿鹿毛屋」と記してある。二人の眼は、一斉に、それを見ている。およそ宿屋らしくない、うらぶれたあばら家だ。

「ここですよ。我々の旅館というのは」

 少したって、十一郎が忌々しげに、はき出すように言う。しやれた身なりの十一郎と、傾きかかった鹿毛屋の建物を見くらべて、私はふっと笑いがこみ上げてくる。声を立てて、私は短くわらう。

 これが今日の私の、唯一の笑いだったかもしれない。

 

「しばらく御滞在かね?」

 鹿毛屋の主人が大きな眼を動かして、私に訊ねる。四十五六の、しまりなく肥った、大きな男だ。頰がぼったりとたるんでいる。

「そうだな」

 風間十一郎はうつむきこんで、宿帳にしきりにたどたどしい筆を動かしている。こういう男は、きっと字が下手なのだろう。

「そうだな、一週間ぐらいかな」

 と私は答える。十一郎はやっと宿帳を書き終えて、私に手渡しながら、そっと片目をつぶって見せ、にやりと笑う。あんのじょう金釘みたいな字だ。そして不逞(ふてい)なことには、その職業のところに、十一郎は「画家」と記入している。主人の顔が、それを無遠慮にのぞきこむ。

「へええ。画家さんかねえ。画を描きにきたのかねえ」

「そうだよ。おやじさん」

「そんでもこんな汚ねえ町が、画になるかねえ」

「なるともさ。何だって画になるともさ」

 筆に墨をひたして、私はちょっと考え込んでいる。名前は本名でいいだろう。嘘を書く必要はない。黒田兵吾。三十八歳。職業は? 十一郎みたいに画家ではおかしいし、やはり、無職。旅行目的。さて。それは、保養とすればいい。筆を収めて、私は宿帳を主人に渡す。十一郎との会話を止め、薄暗い電燈にかざして、主人はそれを読む。

「保養。保養っと――」

 主人はちらと、れいの目付を私にはしらせる。

「お客さんのそれも、やはり、戦災で?」

「ああ」

 そんな気の毒そうな目付は、いつも私に愉快でない。私は右頰に掌をあてる。私は右の額から頰、顎(あご)から右肩にかけて、ひどい火傷(やけど)の瘢痕(はんこん)がみにくくひろがっているのだ。火傷のみならず、その時の衝撃で、舌も裂け、幾針も縫合した位だ。その為に、それ以前の私の声と、今の私の声は、すっかり変ってしまっている。以前は高目のよく徹る声だったが、今はしゃがれた低い声しか出ない。そして悪いことには、今の季節になると、その舌の根や火傷の瘢痕が、きりきりと痛み出してくるのだ。保養と書いたのもまんざらの嘘ではない。

「ここらに神経痛が起きるんだよ。今頃になるとね」

「さあて。あの牛湯(うしのゆ)が、そんなのにも、利いたっけな」

「まあ、ためしにやってみるんだよ」

 にこにこ笑いながら、私は言う。汽車の中で読んだ案内書にも、そんなことが書いてあった。Q町。町中(まちなか)に単純泉湧出す。昔日病牛来たりて浸りし故に牛湯と名付く。現在その湧出量頓(とみ)に衰え、湧出口一箇所を残すのみ。云々――。

「なあ、オヤジさん」

 立ち上って、短いどてらに着換えながら、十一郎が慣れ慣れしく言う。

「さっき笛が聞えたが、ありゃあアンマかい」

「そうだよ」宿帳を閉じながら、主人がぼそりと答える。

「じゃあ呼んで貰いたいな。肩が凝って仕方がないんだよ」

「呼んでもいいけど、ありゃあ女アンマだぜえ」

「女だって何だっていいさ」

 首筋がきりきりと疼(うず)く。したたか霧に触れたせいに相違ない。掌をあてると、その部分は冷え切って、板のように張っている。さぞかし今夜も寝苦しいことだろう。

 主人が立ち上りながら言う。

「お客さんたち。もう飯は済んだんかえ」

 十一郎が手を振る。やがて主人はのっそりと部屋を出てゆく。

 十一郎はちらと首をすくめ、私に笑いかけながらささやく。

「ひどい宿舎に当ったもんですな。これじゃあまるで、牛小屋だよ」

 店から障子越しに、きたない部屋が二間つづき、この二間が鹿毛屋旅館のすべてである。畳は赤茶けて破れ、天井はすすけて低い。その天井から、燭光の低い電燈がぶら下って、ぼんやりとあたりを照らしている。遠くから濤(なみ)の音がしずかに聞えてくる。

 十一郎はさっさと奥の部屋を占拠し、押入れを勝手にあけて、ばたんばたんと寝具をしく。身振りをつけて、いかにも楽しそうだ。しき終ると、手拭いを頭に巻きながら、くるりと私を振り返る。軽やかな口調で、

「黒田さん。あなたも宿帳に、ウソを書きましたね」

「書かないよ。なぜ?」

「保養だなんて、ウソでしょう。だって、あそこでちょっと、筆が止ったもの」

 私は黙っている。表情も動かさない。表情を殺すことには、五六年前から慣れている。そしてそれが私の、近頃の処世法でもある。しかしこの小癪(しゃく)[やぶちゃん注:ルビは一字のみに対して。]な観察者を眺めている中に、ぼんやりと弛緩(しかん)した笑いが、ふっと咽喉(のど)までこみ上げて来そうになる。まだ若いのに、なんと御苦労さまなことだ。その思いが胸をよぎった瞬間、私の顔もいくらか和(なご)んだに違いない。十一郎の軽躁なささやきが、再び耳にからまってくる。

「あなたみたいな恰幅(かっぷく)の人が、こんな磯くさい漁師町を訪ねるなんて、どんな趣向があるのかな。汽車の中から、そんなことを、僕は考えてたんですよ」

「なかなかロマンティクな考え方だね。」

 十一郎の饒舌(じょうぜつ)が、首筋の痛さとあいまって、すこしうるさくなってくる。私は話題を変えようと思う。

「どうだね。明日からの予定は、立ったのかい」

「予定。立つもんですか。そんなもの」

 十一郎は派手な靴下をつけたまま、軀(からだ)を曲げて、柔軟に布団の中にすべりこむ。

「――画家と記したからにや、あちこちスケッチでもして廻ろうと、思うんですよ。とにかくこの一週間、すこしでも楽しく暮さにゃ、損ですものねえ。あなたは?」

「僕?」

 私は首筋を指先で乱暴にもみながら、すこし顔をしかめて、

「僕はもっぱら保養だよ」

 

 牛湯は鹿毛屋から、半町ほどもある。

 街道の家並からへだたった、小さな岡のふもとに、それは祖末な板囲いにかこまれて、湧き出ている。岩を畳んでこしらえた、五六坪ほどの浴場である。これなら牛でも、らくに入れるだろう。

「今晩鹿毛屋にいらっしやったお客さまね。そうでしょ」

と女が聞く。

「よく知ってるね」

「そりやあ――」

 そして女は、ほほほ、と笑い出す。声帯の振動や濡れた舌の動きを、じかに感じさせるような笑い声だ。

「この町の人たちは、とっても物見高いのよ。ちょっとした噂なんか、その夜のうちに、皆に拡がってしまうわ」

「ずいぶん暇な人が、多いんだね」

「暇っていうより、噂話や悪口話が好きなのよ。ひとの詮索ばかりしたがっていて、ほんとにここは、イヤな町」

「君だって、その一人だろう」

「あら、失礼ね」

 女は身をくねらせて、一寸にらむふりをする。湯がざあっとあふれる。

 もう夜の十二時を過ぎているだろう。牛湯に浸っているのは、私とこの女だけである。連れ立って来たのではなく、偶然湯の中で落ち合っただけだ。こんな遅くだから、誰もいないだろうと思って来たら、この女がひとりで湯に浸っていた。話しかけたのも、女の方からである。隔てのない、狎(な)れ狎れしい口調である。

「御保養ですってね。結構な御身分ですこと」

「そんなことまで知ってるのか」

 鹿毛屋のおやじの顔を、ちらと思い浮べる。あんな男が、案外のおしゃべりなのだろう。

「でもこのお湯は、駄目ですよ。利きゃしないわ。成分がゼロなんだから」

 女の乳房から上が、湯からはみ出ている。しかし板がこいの隙間から入る霧と、湯気のために、輪郭の乱れた白いかたまりにしか、それは見えない。まだ若い女らしいが、口ぶりからしても、素人とは思えない。自然と私も気特をくずして、楽な姿勢になっている。

「鹿毛屋さん、今晩も、花札やってたでしょう」

「ああ、出て来る時、札の音がしてたな。いつもやってるのかい」

「あの旦那もねえ――」よそごとのような冷たい調子で「おかみさんが死んでから、すっかりダラシなくなって。この頃は毎晩、花札と、お酒ばっかし」

 深夜、若い女と二人きりで、温泉に浸っている。そういう状況だと、頭では理解できても、私にはただそれだけだ。それ以上に動くものが、私の内部にはない。顔にひどい火傷をうけて以来、そういう情感は、私の中でほとんど死んでいる。(しかし自分が不幸であるという確信は、なんと倨傲(きょごう)な精神だろう)濡れたタオルで顔のあちこちをあたためながら、

「君は昔から、この町の人かね?」

「生れはそうじゃないわ。この町の人に言わせると、ヨソ者よ」

「来たのは、終戦後?」

「うん。まあ、そんなものね。なぜ?」

 訊ねたいことがある、と言おうとして、私は口をつぐむ。女の身体が、ざぶりと湯を出て、洗い場に立ったからだ。湯気がなまめかしく乱れる。大柄な肉づきのいい背面が、大胆に私の視野に立つ。骨というものを感じさせない、しなやかそうな皮膚のいろ。むこうむきのまま、女は片腕を上げて、乳房から脇の下を拭っている。自信ありげな身のこなしだ。なにか無視されている自分を感じ、自然と浴槽のすみに私は身をよせる。しかし眼は凝脂(ぎょうし)のような裸身にそそいだまま、何ということもなく、

「この町は、戦災は受けなかったのかね」

「ええ。ほとんど。それに戦後の闇景気でしょ。ひところはずいぶん、栄えたわ」

「今は?」

「今。今はペチャンコ」

 拭き終った女の身体が、石段を踏んで、ひらりと脱衣場へ消える。それを追いかけるように、

「君の名は、何て言うの」

「お仙」板仕切からふたたび首だけ出して、妖(あや)しく笑って見せながら「お仙、と聞いてごらんなさい。皆知ってるから」

 遠く街道の方角から、撃柝(げきたく)の音がかすかに聞えてくる。カチ、カチカチ、カチ。夜の滴(したたり)のように、つめたくその音がしたたってくる。女の存在は、もう私の意識から消えてしまう。私は背筋をすこし堅くして、ひとつの感じに気分をあつめながら、その音にじっと聞き入っている。音と共に動いている夜番の黒い影が、眼に見えるようだ。

「お先に」

 意外に素直な声音。そして女の下駄の音が入口から消える。

 そしてしばらく経つ。

 撃柝の音も聞えなくなって、あたりはしんと静かになる。私は湯を出て、おもむろに衣服をつける。

 鹿毛屋に戻ってくると、もう客は戻ったと見えて、主人がひとり中腰になって、花札の後かたづけをしている。私の顔を見て、

「どうだねえ。いいお湯だったかねえ」

「ああ。いい湯だ。すっかり、あったまったよ」

「あったまったところで、ひとつ、どうだねえ、これ。コイコイ」

 ふと気紛れな気持がおこる。気紛れに従うのが、旅というものの面白さではないか。濡れたタオルをそこらに乾しなぶら、すこし考えて、

「なにか賭けるのかね」

「そうさねえ。寝酒はどうだねえ」

「いいだろう」

 主人は坐りなおして、花札を切り始める。風貌に似合わず、器用な手付だ。むかい合って、私も坐る。

「いま湯の中で、お仙という女に会ったよ」

「ああ。ありゃね」

 札をくばる。自分から札を打って、合せて引いて行きながら、

「ありゃあなかなか、したたかな女だ」

「商売おんなかい?」

「いまは飲み屋を開いてるねえ。お仙が家(や)というんだ」

 主人の背後に、七つ八つになる主人の一人息子が、ぼろ布団にくるまって、寝息をたてている。うすぐらい電燈の光が、子供の扁平な頭におちている。なにか荒廃した感じが、部屋の中にただよっている。

「それで、あの女、ひとりもの?」

「ひとりもの。ひとりとねえ」主人はちらちらと相互の取り札を見くらべながら「コイコイ。コイコイといくか」

「コイコイとくるか」

 私も慎重に札を出し入れするふりをしながら、すこし経って再び、ごく何気ない声で訊ねてみる。

「そいで、夜番の男といっしょだったというのは、あの女のことかね」

 鹿毛屋の手がはたと止って、ぎろりと大きな眼が私を見上げる。

 

 朝起きてみると、どこに行ったのか、十一郎の姿は見えない。

 昼過ぎになって、表口から元気よく戻ってくる。

「ああ。疲れた。疲れた」

 寝そべって案内記などを読んでいる私の足をまたぎながら、思いついたように言う。

「ねえ。焼跡を見に、いっしょに出かけませんか」

「焼跡?」

「いい天気ですよ、外は。風はないし。いい保養になりますぜ」

 私の手をとって、引っぱり起す真似をする。この男は、爬虫類(はちゅうるい)みたいにひやっこい掌をしている。

 渋々起き上って、私が身仕度をしている間、十一郎は口笛を吹いてみたり、ダンスの身ぶりをしてみたり、寸時も動きやまない。

 焼跡は見晴らしのいい丘陵の上にあった。

 土台石を残しただけで、それはそっくり全焼している。十一郎の調査の対象が、これなのである。焼け材がそこらの草叢(くさむら)に、むぞうさに積み重ねてある。

「ここが町の集会所だったと、言うんですがね」

 きゃしゃな靴先で土台石をかるく蹴りながら、十一郎がひとりごとのように言う。

「――駐在の話じゃ、漏電らしいと来やがる。火事さえあれば、なんでもローデンだ」

「町有の建物なら、保険金は、町役場がとるのかね」と私は訊ねる。

「町民のもの、ということでしょうな。しかし彼等はもう、その保険金で、集会所を再建する気持はないようですわ」

「なぜ?」

「だって、この町の財政は、相当疲弊(ひへい)していますからね。集会所を立てるより、連中は網を買うでしょうな。その方がトクだから」

 丘の上からは、海が見える。青々とどこまでも拡がっている。それは言いようもなく冷情な美しさをたたえている。海の本当のおそろしさを、人々はあまり知らないだろう。

「ゴミみたいですな」

と十一郎が指さす。指の方向には町の黒い家並がある。海岸から始まって、縦に駅の方に伸びている。くしゃくしゃやしたものを、いきなり引き伸ばしたような、町の形だ。

「どら。折角来たんだから、見取り図でもすこし書いておくかな」

 どこから手に入れたか、十一郎は画板などを肩からかけている。画家と思わせるつもりなのだろう。

 丘の周囲には畠がひろがり、農家らしい藁(わら)屋根が、点々と散在している。十一郎がそこらを動き廻っている間、私は土台石に腰をおろして、ぼんやりと海を眺めている。沖の方に、漁船が二三艘(ぞう)[やぶちゃん注:濁音はママ。]出ている。水平線近くの海面は、午後の陽の光を反射して、白っぽくかがやいている。私はふと、昨夜の牛湯での、お仙の肌の色を思い出している。確かめるように、何度も何度も、その色を瞼の裏によみがえらせて見る。不幸を感じさせるほどにあの肌は白かったな、と思う。すると突然ある隠微な欲望が、皮膚の下にうごめき始めるのを私は感じる。しかしその間、海面の反射の眩暈(めまい)に、私はしばらく自分の感覚をあずけている。

「おおい」

 丘のふもとから、十一郎が呼んでいる。私は立ち上って、とことこと丘を降りて行く。

 帰途、十一郎と交した会話。

「そりゃあ、報告さえ出しゃあ、一応の役目はすむんですがね」

「じや宿屋で、いい加減でっち上げれば、いいだろう」

「そうも行きませんやね。とにかく月給分だけは、動かなきゃ」

「へえ。なかなか割り切れてんだね。この仕事は、面白いかい」

「別段面白くもないですよ。しかし、ひとつひとつ、きちんとケリがついて行くんでね。さっぱりしてていいや」

「もし君がこの町で大いに働いて、保険金を払わなくてもいいような材料を見つけ出せば、君のカブは上るということになるのかね」

「そりゃ上るでしょうな」

「その代り、町民からは、ひどく憎まれるだろうな」

 十一郎は面白くなさそうな顔をした。そして道端に、ぺッと唾をはいた。

 

「こんな顔だろう」

 酔っているから、すこしは気持がラクになっている。そこで私はこんなことを言う。

「これでも昔は美少年だったが、今はこの通り、不幸の登録商標みたいな面(つら)だ」

「そう自分をいじめるものじゃなくってよ」

 とお仙が笑いながら言う。

「自分をいじめる人間は、あたし嫌いだわ」

「他人をいじめる方がいいか」

「そうよ」

 木目の出た古びた卓に、おちょうしが四五本ならんでいる。とろりと濃い濁酒(どぶろく)だ。スルメを裂いて奥歯で嚙みながら、濁酒をのどへ流しこむ。壁に貼った肴(さかな)の値段書きが、隙間風にひらひらとあおられる。

「どこで径我なさったの。南方?」

「君の故郷の近くでだよ」

「あら。いやだ。故郷だなんて。誰に聞いたの?」

「鹿毛屋のおやじさ」

「あのおしゃべり」

 向うの卓に倚りかかって、お仙はかすかに眉根を寄せる。さっきこの店を訪れたときは、五六人の漁師たちが、酒をのんだりうどんを食べたりしていたが、皆帰ってしまって、今は客は私ひとりだ。故郷の話はそのままになって、お仙は話題を負傷にひきもどす。

「痛かったでしょうね。さぞ」

「うん」

 あの激突の瞬間のことを、私は思い出している。痛くはなかった。むしろ反対であった。激突から失神までの短い時間、苦痛はいささかもなく、桃色の霧が私にふりかかり、とろけるような恍惚(こうこつ)たる肉体感が、私をつらぬいていた。そして一週間の人事不省。気がつくと、私は仮小屋のベッドに寝かせられ、犬のように舌を出し、その先を二本の箸(はし)で結(ゆわ)えられていたのである。舌の先を嚙み切っていて、放っておけば残部が咽喉(のど)に巻き上って、窒息するからである。言語に絶する持続的な苦痛が、そこから始まった。

「それに舌の先もすこし嚙み切ってね」舌を出して見せる。「しばらく卵と砂糖だけで、生きていたよ。あそこらは、あの頃でも、卵と砂糖だけは豊富だったな」

「そう、あそこらはね」お仙の眼の中に、懐旧とも苦痛とも知れぬ色が、ちらと走る。気がつかないふりをしながら、私は注意深く、その変化をとらえている。

「不思議なものだね」すこし経ってから私が言う。「それ以来、泣くときも、左の眼からしか、涙は出ないのだよ。右からは出ないんだ」

 お仙は笑い出そうとして、口をつぐみ、ふっと卓を離れて、奥に入る。暫(しばら)くして新しいおちょうしを二本ぶら下げて、また戻ってくる。自前で濁酒をあおったと見えて、眼のふちがほんのり赤い。頽(くず)れた魅力をそこにただよわせている。

「あの、あなたのお連れさんね」一本を私の前におき、一本を自分でふくみながら、お仙は気を変えたように言う。

「あの春画の殿様みたいな子ね。あれ、何しに、この町にきたの?」

「さあ。なぜだろう。なぜ?」

「へんな野郎だから、ノシてやろうと、さっきのお客さんたちが相談してたからさ」

「へえ。物騒(ぶっそう)な話だな」

「この町の若い人達は、割と気が荒いのよ。軍隊帰りが多いしね。それにここは、他国(よそ)者というのを、とっても嫌うのよ」

「おれだって、よそ者だよ」

 お仙はだまって、私の全身を計るように、まじまじと眺めている。ものを見詰めるとき、この女はすこしすがめになって、それが奇妙に私を引きつける。やがてお仙は投げ出すように、ぽつんと言う。

「あなた、飛行機乗りだったのね」

「なぜ?」

「そんな径我をしてるし、身体つきを見ても、そんな感じがするもの」

「そう言うからには、他にも飛行機乗りを知っているんだね」

「ううん」

 お仙はあいまいに含み笑いながら、ごまかすように盃(さかずき)をとり上げる。私も盃をとる。

「ずいぶんお酒お強いわね。そんなに飲んで、保養になるの?」

 からかうような口調だ。でも私はとり合わず、まっすぐにお仙を見ながら、少しして押しつけるように言う。

「あの人も、飛行将校だったんだろ?」

「あの人って、誰さ」

「そら。この町で、カチカチと拍子木を打って歩く人、さ」

「――夜廻り?」

「あれは、蟹江(かにえ)だろう。蟹江卓美という男だろう」

「あなた、蟹江を知ってるのね!」

 愕然とした風に盃をおいて、お仙は卓から離れる。そしてよろめくように、二三歩、私の卓に近づいてくる。眼は大きく見開かれたままだ。

「あなたは、蟹江を探して、この町にやって来たのね!」

 私は盃に唇をつけたまま、黙っている。右頰の痙攣(けいれん)が自分でもありありと判る。

「蟹江にどんな用事があるの。どんな用なのさ」

「用というほどのものじゃない」

「――それならいいけど。でも、それはもう、あたしと関係ないことだわ」

 お仙は椅子に身をよせて、ふいに遠くを見る目付になる。独白のように、

「私はもう、あの人と、別れたんだもの。鹿毛屋がそんなこと、言ってやしなかった?」

「君が捨てたんだと、そう言ったようだったな」

 お仙は黙っている。眼が獣のようにキラキラ光っている。やがて私は外套のポケットから、金をとり出して、卓の上にならぺる。あれが蟹江であることが判れば、今夜はそれでいいのだ。

「これで足りるかしら。余ったら、明晩の分に廻してくれ」

 そして私は立ち上る。酔いが重々しく、全身に沈みこんでいる。お仙があわてて立ち上って、私を呼び止めようとする。その気配を背中にちらと感じたまま、もう私はのれんを弾(はじ)いて、外に出ている。

 外は風が強い。

 

 私はまっすぐに歩いてゆく。

 夜目にも海は暗くふくれ、風に白い波頭をひらめかせている。三米ほどの切り立った石垣。陸地はそこで行きどまりだ。石垣からのぞきこむと、芥(あくた)や塵(ちり)を浮かせた黒い水が、石垣に当ってゆたゆたと揺れている。空には半円の月が出ている。

 護岸工事を中途半端でよしたと見えて、このお粗末な石垣は五十米ほどで終り、あとは白っぽい砂浜がつづいている。その砂浜も、すこしずつ海に侵略されているらしく、石垣に囲まれた部分だけが、橋頭堡(きょうとうほ)のように突き出た一劃を形造っている。

 遠く砂浜には、七八艘の漁船が引き上げられて、並んで横たわっている。月の光に照らされて、それらはまるで、打ち上げられた流木のようだ。黒々とした不規則な陰影。

 それだけ見届けると、私は静かにまわれ右をする。そして元の町の方に足を踏み出す。

 少し歩くと、町並みが始まる。その一番手前のところに、三坪か四坪の小さな小屋が、一軒ぽつんと立っている。他の家は燈を消して眠りに入っているのに、この小屋だけは乏しいながらあかりを点じている。

 来たときと同じように、私は全神経をその夜番小屋にあつめ、しかし姿勢はまっすぐに向けて、気紛れな夜の散歩者のように、ゆっくりと歩いてゆく。

 ガラス戸から、小屋の内部が見える。夜廻りの服装をした男が、上(あが)り框(がまち)に腰をおろして、煉炭火鉢にあたっている。さっきと全く同じ姿勢だ。頭を深く垂れているから、顔は見えない。最大限に横目を使ってあるきながら、突然私は胸の奥底に、やけつくような焮衝(きんしょう)を感じる。[やぶちゃん注:「焮衝」は、身体の一局部が赤く腫れ、熱を持って痛むこと。炎症の意。]

(あの夜番小屋を訪問しようか)

 しかしその短い時間に、その機会は失われてしまう。夜番小屋の燈は、私の横目の視界から、かき消すように背後に切れてしまっている。どっと肩にかぶさる疲労を感じながら、私は惰性のように足を無感動に運ばせて鹿毛屋に戻ってくる。気がつくと、私はしきりに意味のないことを、呟(つぶや)きつづけている。

 部屋に入ると、奥の部屋で十一郎が寝そべり、身体を女に揉(も)ませている。私を見上げると、ちょっと間の悪そうな声で、

「おかえんなさい。御散歩?」

「酒を飲んでたんだ」

 私の声がいくらか不機嫌にひびいたのかも知れない。それっきり十一郎は、顔を元に戻して、女あんまにぼそぼそ話しかけている。服を着換えながら、その低声の会話に、私は耳をとめている。

「あんたが見たときは、もう燃えてたと言うんだね。」

「そうですわ」

「その時、そこらに誰か、怪しい人影のようなものは、見えなかった?」

 なんという下手な誘導訊問だ。と思いながら、私は私の寝床に坐る。女あんまは青白い顔を無表情に横に振る。部屋のすみには、この女のものらしい黒いマントが、きちんと畳んでおかれてある。三十にはまだならない、ととのった厳しい顔をした女だ。

「あれは何時ごろだったかしら?」

「夜中の十二時頃でしたわ」

「その夜のこと、もう少し話して呉れない?」

 私はしずかに手足を伸ばして、床の中に横になる。今夜も牛湯に行きたいと思うけれども、酔いで軀(からだ)がだるく、動くのがすこし億劫(おっくう)だ。うすぐらい天井を見詰めていると、全身がしんしんと地底に落下してゆくような気がする。

 障子をへだてた表の部屋からは、昨夜と同じく、しめやかに花札の音が鳴っている。ときどき低い掛声も聞えてくる。

 質問が露骨過ぎることに気付いたと見え、十一郎は話題を牛湯のことなどに変えている。それを聞きながら、私はうとうとと眠りに入る。今頃は牛湯に、お仙が入っているかも知れない、などと考えながら。

 

「女按摩(あんま)唐島種(タネ)(二十九歳)ノ言ニヨレバ、発見当時スデニ炎上シアリシ旨ニテ、付近ニ人影モナカリシトイウ。地勢ハ左ノ如クナリ」

 その欄外に、

「も少し調査の必要があるようだ」

 下手糞な字で、そんなことが書きこんである。私は苦笑しながら、そのノートを閉じて、十一郎の鞄(カバン)の下に押し込んでやる。大事なノートを拡げ放しにして、あの男も抜け目ないようでいて、どこか肝腎なところが抜け落ちているようだ。眼前の事象にだけは、敏感に反応するようだけれども、持続的な内軸の廻転を、すっかり欠如しているのではないか。

 その十一郎は、今日も朝から、どこかへ出かげている。遅い朝飯をとりながら、さて今日はどうしたものか、と思う。予定もはっきり立てず、しかと踏切りもつけない自分に対して、私はあるいらだたしさを感じ始めている。今朝の朝飯も漁師町だというのに、ヒジキ汁と干魚だけだ。海が荒れていて、きっと不漁なのであろう。

 食べ終って、やがて私は外に出る。足が自然と海の方にむいてしまう。私は外套のポケットに両手を入れ、ソフトの縁をまぶかに引下げ、ややうつむき加減にして歩き出す。

 家並みが切れ、夜番小屋があらわれてくる。私は見るような見ないようなそぶりで、足早にその前を通り抜ける。小屋の内には、人影はない。何故となくほっと肩を落して、私は足をゆるめる。

 海岸の広場では、町の子供たちが群れあつまって、きそって紙凧(たこ)を上げている。その間を縫って、石垣の鼻に立つと、海が一望に見渡せる。沖には漁船が点々と見え、右手に伸びた岬の上に、鳶が二三羽、大きく輪を描いて流されている。今日も風がつよい。

「昨夜のあの男が、蟹江であったのか」

 咋夜来考えていたことを、も一度唇に上せて、私は呟いてみる。昨夜のあの男は、うすぐらい燈の下で、頭をたれて、煉炭火鉢にあたっていた。なにかを念じているようでもあったし、居眠りしているようにも見えた。頭の形や肩の恰好は、まぎれもなくそれは蟹江卓美であった。しかしその姿は、ぎょっとするほど孤独で、貧寒に見えた。あれがかつての蟹江なのか。壁に提燈(ちょうちん)や撃柝(げきたく)をぶらさげたさむざむしい夜番小屋に、背を丸めて火にあたっていた男が、あれがあの蟹江中尉なのか。そのような蟹江中尉に、わざわざ汽車に乗って、私は何のために会いに来たのか。

 頭上のはるかに、紙凧が七つも八つも上っている。不安定に揺れながら、中空に懸(かか)っている。しばらくそれらを眺めていると、いきなり高所に立たされたような不安な感じが、急激に私をおそってくる。私は思わず眼を外らす。

「このまま、汽車に乗って、帰ってしまおうか」

 そんな思いが、ちらと頭をかすめる。しかし私は、しずかに腫(きびす)をかえしながら、今夜も一度お仙に会ってみよう、と思い始めている。頭の片すみで、意識をしびらせるような強烈なものを、私は一瞬切に欲している。

 

「あの人、自分を虐(いじ)めすぎるのよ。ねえ、黒田さん。昔のことをくよくよしたって、始まらないじゃないの」

 焼酎を割った濁酒を、二三杯立てつづけにあおって、お仙は相当に酔っている。私の方にかるく眼を据(す)えて、

「それにあの人、自分に自信がなくなって来てるのよ。眼も悪くなって来たし――」

「眼?」

「そう。落下したときのショックでね。そのショックが、今頃眼の神経に出てくることが、あるんですってね」

 落下。――その言葉を聞くと、急に身体がかっと熱くなってくる。ある瞬間の記億が、なまなましく、私によみがえってくるのだ。しかし私は表情を殺して、しずかに盃をふくんでいる。

「よほどひどいのかね」

「そう。夜はそうでもないらしいけれど、太陽の光が悪いらしいのね。医者の話では、気長に養生するほかはないと言うの」

「それでよく夜番の役目がつとまるな」

「だから、おかしいのよ。でも町の人々は、そろそろ気付いてきてるんじゃないかしら。こないだの火事のときでも、蟹江の通報がなかったって、クピにしろと怒ってる人もある位よ。町会議員の人よ。だってそのための夜番だものねえ」

 いつかお仙は、卓のむこうに腰をおろしている。眼のふちがぽっと赤く染っている。

「火事があったんだってねえ」

「あなた、なぜ蟹江に、会いに来たの。もう会ったの?」

「いや」私はにがく酒を飲み下しながら「ショックって、どこか打ったのかな」

「そう。頭を打ったらしいの。河原の石で」

「そう言えば、あれは夜だったな」

 と私は呟く。するとたちまち私の瞼のうらに、あの月明の夜空や地上の風景が、ありありと浮んでくる。意識の遠方にかかっている風景が、急になまぐさいほどの現実感で、五年余の歳月をこえて、瞬間に私にひたひたとかぶさってくる。

「そこで知り合った訳だね」

「ええ。朝になって、見つけたの。家中であの人を運んだわ。だって血だらけだったんですもの。山の中の一軒家でしょ。薬もロクにないし、大変だったわ」

「それで、蟹江は隊には帰らなかったんだな」

「あなたはどうして、蟹江と知り合いなの?」

「隊。隊で、いっしょだったんだ」

「あの人、一度、自殺しようとしたのよ。そのすぐあと」

「自殺?」

「ええ。木の枝に、繩を巻きっけて――」

「なぜ?」

 お仙は返事しなかった。酔いにあからんだ瞳が、探るように私の顔に動いている。ひるむものを感じて、私は視線を外(そ)らしてしまう。何となく自分に言い聞かせるように、

「なぜ自殺しようと、したんだろう」

 夜風がガラス窓に音を立てている。どこか遠くの方で、風にあおられて、板戸がバタンバタンと鳴っている。なにか荒涼とした思いが、じわじわと私の胸を充たしてくる。

「そこで二人で、この町へ、やってきたという訳だね。終戦後すぐ?」

「鹿毛屋がそんなことまだ、覚えてたのかしら」

「鹿毛屋から聞いたんじゃない。この町に来る前に、僕は知ってたんだよ。すこし前に」

「この町に来ても、苦しかったわ」

 私の言葉は聞えなかった風に、やがてしみじみした声でお仙が言う。私はスルメの胴を、無意味に引き裂いている。それだけ言ったのみで、お仙はあとをつづけない。

「どうして蟹江と、別れたんだね?」

「――性格の違い、ね。つまり」

 すこし経ってお仙は身を起しながら、瞳を定めて、はっきりと言う。

「あたしはもっと豊かに、たのしく生きたいの。じめじめしたようなところで、一生を終りたくないの。あの人と、この町で、まる四年生活したのよ。そしてあたしは、すっかり疲れてしまった。あの人は決して、悪い人じゃない。でも、あたしを選んだのは、あの人の間違いだった。単純間違いだったと、そう思うのよ。あの人も悪くなければ、あたしも悪くない。ねえ。そんなものでしょう。人間というものは」

「そんなものだろうね」

「だからあたしは、もうクヨクヨすることを、止したのよ。それでいいわね」

 お仙の舌が危くもつれる。酔いが相当に発してきたのであろう。

「いいね。それで今から、君はどうするんだね」

「ここで少し金を貯めて、故郷に帰ろうとも思うの。この町もつくづく、イヤになっちまった」

「僕といっしょに、東京に行かないか」

 ふっとそんな言葉が、私の口からすべり出る。気まぐれな破片のように、口の端に飛び出してくる。意味はない。口拍子に言ったに過ぎない。そして卓に伸ばした私の掌の先が、偶然らしく、お仙の指に触れている。その指は熱くほてっている。お仙は黙っている。根も葉もない私の冗談が、急にどこかで現実性を帯びて、意地悪い快感としてはねかえってくるのを、私はかんじる。私はその時厭な笑い方をしていたかも知れない。

 やがてお仙は物憂げに、ゆるゆると手を引く。ほつれた髪をかき上げながら、

「蟹江に会いに行くの。どうしても?」

 しばらくして、私は苦しくうなずく。

「今夜?」

 私は黙って考えている。

「会って、どんな話をするの?」

 やはり私は黙っている。今さら蟹江に会って、私はどうしようというのだろう。恨み言を言うつもりなのか。又は昔話をして、笑い合おうというつもりなのか。あるいは私が生きていることを示して、彼を安心させるためなのか。それとも、――それとも、今の蟹江の生活を知りたいという、好奇心からだけの衝動ではないのか。自分を犠牲にすることなく、他人の生活をのぞき確かめたいという、あの猿みたいな好奇心!

「どんな話になるか、その時にならねば、判らない」私はすこし沈痛に答える。

「あたし、想像がつくわ」

 そう言いながら、突然お仙は、よろよろと立ち上る。片頰に妖しくつめたい笑いを浮べながら、柱に身をもたせて、

「あんた、蟹江といっしょに、あの特攻機に乗ってた人でしょ。きっとそうよ」

「なぜ?」

「蟹江がある時、うわごとでたしかにあなたの名前を呼んだ。クロダ。たしかに、そう呼んだわ」

 柱に倚(よ)ったまま、そしてお仙はあおむいて、身をくねらせてくっくっと笑い出す。その断(き)れ断れな笑い声は、空虚な風のように、私の耳底に吹き入ってくる。しやっくりのような、痙攣(けいれん)的な笑い声だ。そして次々おこる発作(ほっさ)のように、お仙は笑い止めない。そしてその声を聞いているうちに、私は急に、堪え難くなる。思わず中腰になって、私は掌をふっている。弱々しく、しぼり出すように、

「いい加減に、止してくれ」

 

 海の方に歩いて行ったのは、夜番小屋を訪ねるつもりだったのだろうか。海風に頭をひやすっもりだったのだろうか。本当は、どちらでもなかった。酔いが私の方角を、失わせてしまったのである。

 鹿毛屋の入口の軒燈に近づいているつもりで、私の酔眼はとつぜん、見覚えのある夜番小屋の形を、ありありととらえていた。ぎゅっと足がすくんだように止って、私の眼は大きく見開かれる。

「道を間違えたな」

 すると急に潮の香が、嗅覚(きゅうかく)にはっきりとのぼってくる。そして私は再び、もつれた足を踏み出す。立ち止っていてはまずい。そのような才覚が、まだあった。

 今夜も夜番小屋の中には、薄墨色の燈がともっている。人影が壁にくろくうつっている。二つ。たしかに二人の人影が、硝子扉(ガラスど)ごしに、せまい小屋の土間に、ちらちらと動いている。一人は上り框に腰かけ、一人はマントのようなものを着て立っている。確かにその二人の影だ。

 声は聞えない。酔いが急速に醒めてゆくのを感じながら、私は散歩者の姿勢をよそおい、小屋の前をふらふらと通りぬける。潮風が正面から、きつく吹きつけてくる。鼻孔をふさいでくる風の圧力に、むしろ嗜虐(しぎゃく)的な快感をかんじながら、私はまっすぐ、しゃにむに歩いて行く。

「風間十一郎ではなかったかな。あの夜番小屋にいたのは?」

 それもあり得ないことではない。ちらとそう思って見る。すぐに強い潮風がその思いを、背後に吹き散らしてしまう。私は風に逆らいながら、石垣の鼻に立っている。

 海が黒く泡立っている。海面には月の光がさんさんとおちている。寒くつめたい、非情な光だ。人間世界と関係なく、そ知らぬ冷情をたたえて、それは無感動に揺れ揺れている。ある衝動がはげしく、私の胸をつき上げてくる。酔い痴(し)れて、弱々しく敏感になった私の聯想(れんそう)が、その眼前の海の色と、あの夜の海の色と、ぴったりと重なり合せてくる。ある抵抗感のある昏迷が、霧のように私をおそってくる。

(あの海の感じも、丁度こんな具合だったな!)

――いつか私は五年余の歳月をとびこえている。幻覚じみたひとつの感覚が、ほのぼのと私を包んでくる。もはや私はぐんぐんと飛翔(ひしょう)している。もう海風の音は聞えない。エンジンの激しい響き。機体の間断なき動揺。二人乗り艦上爆撃機。その操縦(そうじゅう)席に坐して、左右の闇に突き出た両翼の傾斜をはかりながら、私は全身の神経をあつめて、操縦桿(かん)を動かしている。機は今、地上を飛んでいる。まもなく月明の海に出るだろう。目標はO島北側の敵船団。単機の分散攻撃。時折り伝声管を通じての、同乗者との連絡。あと数十分の命だというのに、微小な人間同士で、なにを連絡し合うことがあったのだろう。私の背後の同乗者は、蟹江卓美中尉である。私の座席からは、その姿は見えない。私たちは伝声管を通じて、意味もないことを、しゃべり合っていたようだ。海軍兵学校以来の僚友。そして迫ってくる死の壁に脅えて、私は全身を緊張させながらも、なかば酩酊(めいてい)状態に似た虚脱におちていたに違いない。未来も過去も、予測も記億も、もはや瞬間に凝結して死んでいる。その静寂にみちた錯乱のなかで、私はこう叫んだのか。まさしくそんなに叫んだのか?

「おれだけでやるから、お前は早く飛び降りろ!」

 それは贋(にせ)の記億なのか。島の守備隊に看護されて、舌を吊られて生きていた時に補足した、おれの贋の記憶なのか。それから果して、何分ぐらい経ったのだろう。はっとして振り返ったとき、背後座席の合成樹脂の天蓋が、ぽっかりあけ放たれて、蟹江中尉の姿が、虎空にひらめいて墜ちて行く。一瞬パツと、夜目にもしらじらと開く、大輪のような落下傘。

(そして私は、このような海を見たのだ!)

 私はふと我にかえる。潮風が私の顔にふきつけている。あの時機上から見た海も、このように、黒くひややかに揺れていたのだ。すべては徒労だと、人間に教えるかのように。そしてあの言いようもない、しんしんたる無量の孤独感。

「おれは蟹江を、憎んでいたのか?」

 私はしずかに歩を返す。蟹江がこの町にいることを、風の便りに聞き知って、はるばるここに私を来させたのは、あれは私の憎しみの感情であったか。惑乱した感情をもて余しながら、私はまっすぐに町の方に戻ってゆく。吹き去る潮風が、私の顔の皮膚の体温を、ほとんど奪い去っている。夜番小屋の燈が、やがて近づいてくる。蟹江があの土地の女を連れて、このQ町へ逃げ延び、そこで夜番にまで落ちぶれていると聞いたとき、私の胸にまっくろに拡がってきたものは、一体何だろう。小屋の中には、まだ二つの人影がうごめいているらしい。酔いが中途半端に醒めかかっている。意識が乱れたまま、へんに図太くふくれ上ってくるのが、自分でも判る。

「よし」

 私は足の方向を変える。ある意図が半酔の私を、急にそそのかす。よし。何を話してるか、聞いてやる。私は枯草が折れ伏す湿地を迂回し、石塊(いしころ)がごろごろころがった空地を、暗闇に跫音(あしおと)を忍ばせながら、夜番小屋の裏手に廻る。そしてそっと近づく。小屋の背面は、粗末な板壁となり、板の隙間から燈がちらちらと洩(も)れている。ひっそりと土を踏みしめながら、私はそこに顔を寄せる。やわらかい声が耳に入ってくる。

「だって、とてもしつこく、訊ねてくるんだもの」

「それで何か、しやべったのか」沈んだ男の声。

「何もしゃべらない。何も。しゃべることなんか、ありゃしない」

 板の隙間から、ぼんやりと小屋の一部が見える。上り框に、マントをまとった人物が腰をおろしている。マントの裾から、着物の花模様がのぞいている。思いもかけず、それは女あんまの、唐島種の姿だ。音声はやわらかいが、表情は蒼白く緊張している。

「ほんとに、何もない。あれは漏電よ。漏電が原因だわ」

 土間の絹長い木箱の上に、蟹江が頭を垂れて腰かけている。しばらく二人の影は動かない。そして急に蟹江が頭を上げる。乾いた毛髪が、ばさりと動く。ぎゅっと胸をしめられるような感じで、私は眼を隙間に押しつけている。五年前とは見違えるほど、蟹江の頰はおちて、乏しい電燈の光に、うすぐろく隈(くま)をつくっている。低く乱れた声で、

「おれの方から、あの男に会おう。会ってやろう」

「いけない。いけない」

 短く叫びながら、お種が立ち上る。

「あれはもう、済んだことじゃないの。あたし、いや。いや!」

 マントの裾がひるがえって、お種の軀(からだ)はくずれるように、男の膝に取りすがる。灼けつくような眼が、蟹江を見上げている。蟹江が腰掛けた箱の板がカタリと嗚って、蟹江の右手がお種の肩にかかる。その指がマントの襞(ひだ)をまさぐりながら、ぶるぶると慄えている。お種はあえぐような声で、

「もうあなたを離さない。どんなことがあっても、どんなことがあっても!」

 

(なんと惨めで、卑劣なことだ)微妙に屈折した自己嫌悪の情が、今もなお、時折泡のように、胸にふつふつと湧き立ってくる。

(他人の内部をのぞいたりして。まるで岡っ引きみたいに!)朝から雨が、しとしと、と降っている。十一郎と同じ傘に入って、泥んこの道を歩き悩みながら、私は欝屈した表情をつくっている。それに鹿毛屋のやくざな貸下駄は、緒(お)がすっかりゆるんでいて、容赦なく泥をハネ上げてくるのだ。

「霧だの、風だの、雨だの、なんて厭な天気ばかりの町でしょうねえ」

 私の欝然たる表情をぬすみ見て、十一郎はいたわるような口振りとなる。

「こんなじめじめした天気だと、神経痛にも悪いでしょうね」

「悪い」と私は答える。昨夜寒風にさらされたせいか、今朝の明け方まで、私は輾転反側(てんてんはんそく)して眠れなかった。鈍い痛みが首筋から背にかけて、密着したように貼りついている。十一郎ののっぺりした顔が、急にからかうようにくずれてくる。

「あんまり深酒するせいじゃないかしら」

「そうでもないだろう」

「毎晩毎晩、どこで飲んでいるんです?」

 昨夜あの小屋でぬすみ聞いたことを、十一郎に話してやったら、大変だろうな。ちらと私はそんなことを考える。もちろん考えてみるだけである。すると快感に似た収縮性の痛みが、突然私の胸を走りぬける。

「お仙が家。というのを、知ってるかい」

「ああ。オヤジがそんな話を、してたっけ」

 畠を縫って、小川がしずかに流れている。十一郎はそれを器用に飛び越しながら、

「僕も今夜あたり、飲みに行こうかな。もうこの町も、すっかり退屈してしまった」

「調査はそれで、少しは進んだのかい」

「まあね。月給相当の報告書は、もう出来ましたよ。ふん」

 私は素早い視線で、その瞬間、十一郎の表情を観察している。そして私はふっと可笑(おか)しくなる。十一郎は何も気付かぬように、鼻をならして歩いている。牛湯の建物が、もうそこに近づいてくる。

「もうそろそろ、明日あたりで、切り上げようかな。黒田さん。どうです。一緒に帰りませんか。どうせ東京まででしょう」

「そうさね」

 十一郎と道連れの長旅を想像すると、今はなぜか、やり切れなく退屈な気分に襲われてくるのだ。しかしどのみち私はこの誘ないに乗るだろう。感覚はそれを拒否しているのに、頭の一部が激しく私をけしかけている。この誘ないに乗ることで、この町のすべてを踏み切ってしまえ。明日という時間の終点までに。

「そうだな。そうしてもいいな」

 そして脱衣場で裸になりながら、すこし冗談めかして言う。

「女を一人、連れて行くことに、なるかも知れないよ」

「道行きかな」十一郎の眼がきらりと光る。そして「そりゃあ道連れは、多ければ多いほど、賑かでいいですよ」

 やがて十一郎は、石段をかけ降りて、浴槽にどぶんと沈みこむ。私もそれに続く。

 浴槽には私たちだけでなく、町の娘たちが三四人入っている。皆十四五の、乳房がふくらみかけた年頃で、手足は少年のように脂肪すくなく、すらりと伸びている。皆潮風にさらされた野生的な顔をしている。十一郎がからかうものだから、彼女たちはキャッキャッとはしやいで、湯をはねかけてよこす。十一郎も大いに浮かれて、湯をはねかえすものだから、洗い場から壁から脱衣場まで、そこらは湯だらげになる。帰りに、

「明日帰ることにきめましたか?」

「うん。きめた」と私は、はっきり答える。

「一度東京に戻って、またどこかに、保養に出直すよ」

「ケッコウな身分ですなあ」

 十一郎は嘆息するように言う。十一郎は番傘を私にさしかけているのだが、ともすれば自分の身だけを雨から守り、私をないがしろにする。十一郎という男は、そんな男だ。

「ケッコウでもないさ。君の方がケッコウだよ」

「どうしてです?」

「自分と関係ない事件に頭をつっこんで、じたばたしてれば、その日その日が過ごせるからさ。集会所が漏電だろうと、放火だろうと、本当は君に関係ない話なんだろう。自分が傷つかないで生きて行けるというのは、まことにケッコウな身分だよ」

「そうでもないですよ。とんでもない」

 と十一郎は大いに抗弁する。

 鹿毛屋に戻ると、雨が降っているので、主人も今日はぼんやりと店先に坐り、空模様などを眺めている。私が帰ってきたのを見ると、急に勢づいたように、

「どうだねえ。コイコイ。こないだの仇討ち」

「やってもいいけれど、あいつは肩が凝るんでねえ」

「そんな時や、アンマ頼めばいいんだよ。さあ。さあ、ひとつ」

 もう棚から花札を取りおろしている。昨夜の睡眠不足で、頭はいささか重いけれども、この勝負の結果で今夜の予定を定めよう、という思い付きが、ちらと頭に浮んでくる。オミクジ引くみたいな気持だ。

「じゃ、そんなに言うんなら――」

 と私は主人の前にあぐらをかく。

「ひとつ御相手するか」

 十一郎は面白くなさそうな顔をして、奥の部屋に入り、座布団を枕にして、ごろんと引っくりかえっている。そして鼻歌で「巴里(パリ)の屋根の下」などを歌っている。

 

 唐島お種さんの指の力は、やせぎすの身体にも似ず、案外に強い。私の話しかけに、言葉すくなく受け答えしながら、急所急所を無駄なく揉みほぐしてくる。表の部屋では、今夜も定連が寄ったと見えて、花札の音が始まっている。十一郎は先刻、お仙が家へ飲みに行くと言って、身仕度して元気よく出て行った。雨はもう上ったらしい。

 やがて按摩が終る。お種は両手をついて、丁寧にお辞儀をする。すこしは凝りも楽になったようだ。私は紙入れから紙幣をとり出しながら、ごくふつうの調子で、

「あんまさん、あんた、おめでたじゃないのかね」ふっとそんな気がしたのだ。理由もなにもない。端坐(たんざ)したお種の蒼白い顔が、急にぼっと紅味を帯びてくる。蚊のなくような声で、かすかにうなずく。無意識に両掌で帯のへんを、守るように押えている。

「ええ。お判りになりまして?」

「ひょっとそんな感じがしたんだが――」

 ある複雑な感じが、微妙な形で私に湧き上ってくる。私はそれをごまかすように、

「もうまっすぐ家に帰るのかね」

「いえ。もう一軒。網元の旦那のところに廻ります」

 お種は紙幣を押しいただくようにして、帯の間に入れる。十一郎にしろ私にしろ、鹿毛屋の客はなんと変なお客ばかりだと、そんなことを彼女は考えているのではないか。しかしお種はもとの蒼白い無表情にもどって、も一度畳に手をついて、丁寧に頭を下げる。

「ありがとうございます」

 マントをかかえてお種が出てゆくと、すすけた柱時計がゆっくりと八時を打つ。私はむっくり起き上る。これがQ町での最後の晩だ。どてらを脱ぎ捨てて、手早く服に着換える。昨夜のぞき見たお種のあの態度と、今の彼女のもの静かな態度と、奇妙にずれながら重なっている。どちらがほんとの彼女なのか。

(つまり女というものは、曲者だということだな!)と私は思う。今もあんまの最中に、私は彼女にかまをかけて、何かを引き出そうかと、何度も思ってみた。しかしそれをはばんだのは、昨夜来の私の自己嫌悪でもあったが、お種さんのもの静かな厳しい立居振舞のせいでもあった。しかしお種がいなくなってしまうと、私はかすかに忌々しくなってくる。理由もなく、してやられた、という感じがしてくる。やがて私はそっと部屋を忍び出て、靴をつっかけ、横の木戸から町に飛び出す。

 お仙が家(や)の前を通るとき、ふと濁酒(どぶろく)のあの味と匂いが、強く私を誘う。いったん通り過ぎて、私はまた戻り、黒っぽいのれんをくぐる。今夜は冷える予感があるから、身内から暖めておきたいのだ。見ると十一郎が手前の卓に倚(よ)って、ホウボウの酢味噌をさかなにして、酒を飲んでいる。ホウボウの酢味噌とは、まったく十一郎らしいさかなだ。十一郎は赤くなった顔を上げて、とろけた口調で私を呼ぶ。

「よお。一緒に飲みましょう」お仙が艶然と顔をほころばせて、卓に近づいてくる。

「明日お立ちですってね。この方から聞いたわ」

 お仙はいつもより濃い目に化粧して、あでやかに見える。お仙が運んできたつめたい濁酒を、私は三四杯コツプでつづけざまにあおる。やがて奇妙な擾乱(じょうらん)が、徐々に私を満たし始めてくる。それはしだいに高まってくる。向うの卓では、酔っぱらった町の若者たちが、野卑な合唱を始めている。十一郎がしきりにくどくどと、私に話しかけてくる。急に私はそれらがうるさくなってくる。私は便所に行くようなふりをして、そっと立ちあがる。私の胸の中にゆたゆたと揺れている黒い波。水銀のように質量のある、重重しくゆらめいている波体のひろがり。その平衡をみださないように努力しながら、私はのれんの脇から、夜の街道にすべり出る。夜気がひやりと頰につめたい。ともすれば胸に浮び上ってくるものを、ひとつひとつ潰して行きながら、背後をふりむくことなく、私はまっすぐに海の方へ歩く。道は暗くぬかるんでいる。

 遠くで犬がベラべラとないている。

 歩くにつれて、自分がなにか透明体になって行くような、そんな妙な錯覚におちながら、あの薄黄色のひとつの燈に、私はしだいに全身を近づけてゆく。しだいにすべてがはっきりしてくる。ガラスを洩れる燈影の中に、私はひたと立ち止る。私の頭の中でキリキリと廻る、透明な幻の風車。光だけで構成されたその羽根羽根の、目くるめくような静謐(せいひつ)な廻転。そして指でガラスをこつこつと打ちながら、私はおだやかに内部に呼びかける。

「火にあたらせて貰えないかね」

 私の頰はいくらか弛緩(しかん)して、そのとき薄笑いをうかべていたかも知れない、とも思う。

 

「え。黒田?」

 蟹江が腰かけていた木箱の蓋が、がくんと外(はず)れる。それと同時に、蟹江の全身は凝結したように立ち上って、思わず右手が板壁をささえる。壁にかけられた撃柝(げきたく)が、ばらりとはずれて落ちて、固く鈍い音で互いに触れ合いながら、土間にぶざまにころがる。

「く、黒田、兵吾か」

 蟹江卓美は紙のように色を失って、眼を大きく見開いている。私は上り框に腰をおろしている。さっき蟹江が注いでくれた渋茶の茶碗を、胸まで持ち上げたまま、動けないでいる。激しい憤怒に似た感じが、私にきりきりと爪立てている。その感情は、蟹江卓美に対してではない。私がここに坐って顔を曝(さら)していること、蟹江がそれにはげしく驚愕していること、その定石的な状況に対して、憤怒に似た悔恨が、いきなり私の胸をきり裂いているのだ。何という不潔で、鈍重で、蒙昧(もうまい)な時間の流れ。そのしらじらしい不毛の時間の刻みに、しだいに私は堪え難くなってくる。

「そうだ。黒田兵吾だ」

 むしろ羞恥をこめたように、語尾は慄えてしまう。そして私達は一分間ほど、そのままの姿勢で、だまってにらみ合っている。

 ふいによろめくように、硬直した蟹江の姿勢がゆらぐ。燈の光を避けるように、闇の方に顔をうつむけながら、元の木箱によろよろとくずれこむ。

「何をしに来たんだ。え?」

 声は急に弱々しくなる。乱れ垂れた蓬髪(ほうはつ)のかげに、その顔は青ぐろく隈(くま)をつくる。

「何かおれに用事なのか?」

 ややまばらな髪毛を通して、妙に青白い蟹江の顱頂(ろちょう)の地肌を、私はじっと見詰めている。しんとした空しい風のようなものが、私を瞬間に吹きぬけてゆく。何とちぐはぐな時間の動きだろう。

「おれはただ、この町に保養にやって来たんだ。そして――」

 私は言いよどむ。蟹江はさっきのまま、囚人のように頭を垂れている。ふいに私はなにもかも打ちこわしたい衝動に駆られる。

「お前も元気で、結構だな。おれも、こんな顔になったが、まずまず生き延びたよ」

 うつむいた蟹江の顔が、かすかにうなずいたように見える。落着きをとり戻したのか。それにわずか力を得て、私は明るい声をつくろうとしながら、

「それだけ。それだけだよ。なあ。お前がここにいると聞いたんで、急に会いたくなってやって来たんだ」

 蟹江の手がゆるゆると土間へ伸びて、ためらいながら撃柝を(げきたく)拾い上げる。私の眼からかくすように、それは背中に廻って行く。撃柝を土間にさらして置くことを、私に恥じるかのように。蟹江はそして、ふっと顔を上げる。自嘲に似た調子で、

「こんな商売しているおれが、よく判ったな」内側に折れ込んだような、暗い眼のいろ。それがじっと私にそそがれている。

「すぐ判ったよ。お前は昔と、すこしも変っちゃいない。昔のまんまだ」

 皮肉のつもりではなかった。しかし蟹江の視線は、急にひしがれたような光を帯びて、私の右頰からそれてしまう。言葉を探すように、あえぎながら、

「い、いま、どこに泊ってんだ」

「鹿毛屋という安宿よ」

「鹿毛屋」

 火鉢の煉炭が、青い炎を上げて燃え上っている。炭の燃えるにおいが、息苦しく小屋の中にこもっている。しんしんと時間が流れる。

「こんなあばら屋で――」やがて蟹江は頰をゆがめてふっと暗く笑う。「ろくなもてなしも、出来ないで――」

「もてなしなんか、いるものか」

「お前が不時着して、隊に戻ったということを、おれは後で聞いた」

 暫(しばら)くして蟹江が、うめくように口を切る。苦しげにあとをつづげる。

「おれはその時、山の中にいたんだ。隊にはとうとう、戻れなかったんだ。とうとう――」

「お仙さんの家だろう」

「お仙を、お前は知っているのか?」

「いや。この町で、偶然に――」

 私の視線はふと、蟹江の足にそそがれている。その足は、短い長靴をはいて、土間を踏んでいる。航空用のあの長靴だ。それはもう元の皮の光を失って、しおたれた残骸のように、蟹江の足を包んでいる。夜番の服装に、なんとそれは奇妙にぴったりしていることだろう。蟹江はその足をずらしながら、ぼんやりと顔を上げる。灼けつくような眼のいろだ。不器用にどもって。

「き、傷は、それだけなのか。そ、それだけ――」

「そう。これだけ」私は無意識に掌を頰にあてながら「それから、舌。胴着(胴体着陸のこと)[やぶちゃん注:以上丸括弧内は二行割注。]をやりそこなってヽ、舌を手荒くかみ切ったんだ」

 火鉢にあたった私の腹のあたりが、ほのぼのとぬくもってくる。先刻お仙の店でひっかけた三四杯の濁酒が、ようやく酔いをともなって、腹中から四肢へ拡がってくるのだ。それと共に、硬直した時間が、やがて徐々に元のように、ゆるゆると流れ始めるのを、私は感じる。壁にかけられた柱時計の振子が、日常的な音を立てて揺れている。その音が初めて、耳に近く入ってくる。さっき飲み残した茶碗に、やっと私は手を伸ばしながら、何かを確かめるようなつもりで、言葉をつぐ。

「お仙さんの話じゃ、眼を悪くしているそうじゃないか。なあ。どんな具合なんだ」

 外の風に当ろうと言い出したのは、私ではなかった。蟹江の方からであった。

 息の詰まるような空気が、厭だったのかも知れないし、歩くことで気持をなだらかに動かそうと、そう考えたのかもしれない。またうらぶれた夜番小屋の生活を、私の眼に曝(さら)しておくことが彼にはやり切れないのかも知れなかった。

 しかし外に出て、町の燈に背をむけたのは、それはどちらからでもなかった。きわめて自然に、二人の足は海岸ヘ向いていた。

 暗い赤土道を踏みながら、そして私はひとりでしやべっていた。緊張からの弛緩(しかん)が、私をそうさせたのか。酔いが私の舌をそそのかしていたのか。それとも私は何かに満足して好機嫌になっていたのだろうか。言葉すくなに受け答える蟹江を側にして、私はしきりにあの時のことを、しゃべりながら歩いていた。しゃべることで、長い空白を満たすかのように。暗さが蟹江の存在を稀薄にしていた。

「――その海の果てに、おれは島影を見た、と思った。その瞬間に、おれはスコールの中に、つっこんでたんだ。なあ。ひどいスコールだったよ、あれは。牛乳の中に入ったみたいに、一寸先も見えなかった。おれはとにかく、そいつを突っ切ろうと思ったんだ。ところが、行けども行けども、突っ切れなかった。ほんとに、行けども行けども。――

「そうだ。それは千米ぐらいの高度だったかな。おれはどうやって、方向をとり違えたのか、今でも判らない。牛乳から脱け出ようと、むちやくちやにカジをとったに、違いないんだ。そしてやっとのことで、おれはスコールを脱出した。おれはほっとした。ほっとしたよ、実際。しかし見ると、燃料があと十五分しか、残ってないじゃないか。しかも方角は、めちゃめちゃだ。あの時ほどおれは、下にひろがる海の色が、おそろしく見えたことはない。――

「はるか彼方から、ぽっつりと火が見えてきたんだ。それはあかあかと燃えていた。あんな美しい火の色を、生れておれは見たことがなかったな。陸だ。おれは祈るような気持でそこに機首を向けた。――

「森が燃えてたんだ。おれはそこをゆっくりと旋回した。もう燃料が尽きかけていたのだ。地形は悪い。土堤のようなものが見えた。もう猶予はなかった。おれは胴着する決心をした。ちらとお前のことを、おれは思い浮べていたよ。――

「おれはバンドを外して、天蓋をひらいた。投げ出されてもいいようにな。地面がぐんぐんせり上ってくる。そしてスロットルを、おれは渾身の力で引きしぼった。猛烈な衝撃だ。機体はくるりと倒逆して、そしておれの身体は――」

 私は足を止める。埋立地の果てまで来たのだ。満潮の海が、切り立った石垣の下で、暗くゆたゆたと揺れている。海面までは、三米ほどもあるだろう。蟹江の姿は私の側の暗がりに、影のようにひっそり立っている。言葉はない。その呼吸(いき)づかいだけが聞えてくる。何故かそれはすこしずつ荒くなる。

 

 強い突きではなかった。柔かく、妙にためらうような、子供のいたずらみたいな軽い一押し! しかし私の身体はぐらりとよろめき、ぬかるんだ赤土に靴をすべらせ、横ざまに倒れていた。片足だけが支えを失って、岸から宙に突き出る。そのままの恰好で、私は次の打撃を待った。

 凍ったような短い時間が過ぎる。頭をすくめ眼だけをするどく動かして、私は様子をうかがっていた。何も起らない。三四間むこうの石垣の鼻に、いつ移動したのか、蟹江の黒い影が音もなく立っている。棒杭か何かのように、何も構えもなく、ぼんやりつっ立っている。やがて私は膝と手に力を入れて、しずかに身体をおこす。そして用心深く起き上る。すべったとたんに、石垣の稜角にひっかけたと見えて、ズボンが少し破れている。

 石垣から遠ざかるように迂回しながら、そして私はそろそろと蟹江の方に近づいてゆく。二米ほど隔てて、私は急に立ち止る。蟹江は石垣の稜角に足を乗せ、海を背にして両手をだらりと下げ、こちら向きに立っている。赤土にまみれた掌を握りしめ、その蟹江の姿に相対して、私は黙って身構えている。二分間ほど、私たちはそのままの姿勢で、動かないでいる。二本の棒杭のように。

「おれを、突き落せ!」

 突然、はりつめた沈黙を破って、しぼり出すような声で蟹江がさけぶ。その声も風に千切れて、闇にむなしく吸いこまれる。

 握りしめた私の赤土の掌が、すこしずつゆるんでくる。さっき私の肩をどんと突いた、あの圧力の弱さを、私は思い出している。あれはしんじつ突き落そうとする気魄(きはく)ではなかった。それにたかが、三米の石垣。ひたひたとふくれ上る満潮だ。寒冷に耐えて泳ごうとする気力さえあれば、死ぬきづかいはない。絶対にない。しかし――しかし、その気力をさえ、自ら放擲(ほうてき)したとしたら?

「突き落さないのか。早く!」

 ふたたび蟹江が叫ぶ。泣くような声だ。麻酔からの覚醒時に似た、あの身体がばらばらに分解して行くような、不快な沈降感が、突然私をおそってくる。身内にはりつめていたものが、急にするどい悔恨にかわって、ぎりぎりと胸に突き立ってくる。ひとりの人間が、他のある人間の内部に入って行こうというのは、何と僣越(せんえつ)だろう。何と困難で、何と無意味なことだろう。石垣の鼻に無抵抗に立った蟹江の影に、やがて私はくるりと背を向ける。そして静かに歩き出す。すべては終ったし、また何も終らなかった。

(なんでもないことなんだ。なんでもないー・)打ちひしがれたように、私は歩きながら呟(つぶや)いている。

(―-茶番なんだ。世の中におこることは、どんなことでも。すべて。すべて!)

 背後から追ってくる蟹江の跫音(あしおと)を、私は予期していただろうか。しかもその跫音は、やがて自然に私の側まで来て止って、いつか私たちは闇の中を、ふたたび肩を並べて歩いている。黙りこくって歩いている。呼吸(いき)づかいだけを交互にあらく響かせながら。――そして私の足はまた自然に、夜番小屋の方に向っている。私は切に火を欲していた。ただそれのみを、欲していた。他はなにも必要ではなかった。あのほのぼのとした暖かさと、眼に沁(し)みるような透明の炎のいろを!

 

「おれはそして、死のうと思ったんだ」

 炭火の反射が、蟹江の顔をほのあかくしている。私はつめたく耳を立てている。

「――自分の死骸を、他人に見られるのは、おれはイヤだった。だから、自分の死体を、おれは自分で火葬しようと思ったんだ」

 蟹江の口調は、張りを失って、ほとんど独白になっている。蟹江の影が大きく板壁にゆらぐ。莨(たばこ)からのぼる煙の動きを、私は放心したように眺めている。

「――そしておれは、火をつけたんだ。あの海が見える、集会所の建物に。繩は前もって、部屋の梁(はり)に下げておいた」

 影がまたゆらぐ。蟹江は自分の影に話しかけているようだ。集会所炎上の真相を、この私が知ったとて、今更何になるだろう。

「しかしその炎の色を見たとき、おれはこわくなった。おれは、ためらった。――そしておれは、逃げ出したんだ。暗い丘の斜面を、めちゃくちゃにかけ降りて逃げた――」

 こんな話を聞いて、何になるだろう。もっと聞きたいことが、たくさんあるような気がするのに。しかしそれは、そんな気がするだけで聞きたいことも、話したいことも、何もありゃしない。この男の幸福や不幸も、私がそれに入れない以上、私に何の関係があり得るだろう。

「そして誰にも、見つからなかったのかね」

 板壁の蟹江の影が、かすかにうなずく。私の言葉もしらじらと冷え、すっかり抑揚を失っている。

「では、それを知っているのは、お種さんだけか」

 煉炭が燃え尽きて、死灰になったその一角が、ぼろりとくずれ落ちる。身ごもっているお種さんの青白い表情が、私の頭の中に、遠くしずかに浮び上っている。やがて私はそっと立ち上っている。壁面の蟹江のうすぐろい影が、ぼんやりと頭をもたげる。

「いつまで、この町に、いるんだね?」

「明日、発つ」

 さっき赤土にすべった時、石垣に打ちつけた膝が、ひりひりと痛んでいる。そこだけが確かな、真実なもののように。私は帽子の縁を引き下げ、かすかにびっこを引きながら、入口に出る。蟹江の影も立ち上って、ガラス扉まで送ってくる。

「それから東京へ戻るのか?」

 私は黙っている。そして外套に手を入れたまま、さむざむと荒廃した夜番小屋の内部を、も一度見渡している。その視線に感応したように、蟹江の眼も沈痛に小屋の内部をふりかえっている。

「おれは、これだけだ。この小屋のようなものだけだ。今日も、明日も、あさっても」

 突然蟹江が口をひらく。蟹江の右の手の影が、小屋全体を指し示すように、大きくゆらゆらと動く。嘔吐(おうと)をこらえているように、その唇がみにくく歪んでふるえている。闇にむかってはき出すようなかすれ声で、

「――お前は今から、宿屋に戻るんだろう。宿屋には、あたたかい火と、あたたかい布団が、待っているだろう。――お前はそこで安心して、明日を待つために、ぐっすり眠るだけでいいだろう……」

 私はもう彼を見なかった。背を向けて、しずかに歩き出していた。一歩一歩、町の燈にむかって。――お仙の店は、まだ起きていた。しかしすでに店じまいして、お仙は湯道具をたずさえている。その白い頰や黒い瞳が、切ないほど眼に沁みてきた。

「あら。まだ起きてらっしゃったの。御散歩なの?」

「酒をすこし飲ませて、呉れないか」

「おや、ズボンをどうしたの」

 お仙が湯道具を棚に上げ、奥で仕度している間、私は卓に倚り、なにも考えまいとしていた。この店に坐っているのも苦しかったが、あの宿屋には戻りたくなかった。今夜だけは、絶対に戻りたくなかった。やがて酒が来た。濁酒ではなくて、焼酎であった。その強烈な透明な液体を、短い時間に、私は四杯も五杯も飲みほしていた。そして私はひどく酔って、お仙の右手をとらえて、一緒に東京へ出ようと、しきりに口説いていた。お仙の形のいい唇が、謎のようにわらっていた。

「なあ。こんな店、捨てたって、何でもないさ。東京に行こう。ねえ。あそこにはどんな生活だってあるさ」

 お仙でも何でもいい。唯ひとつのものを、ゆるぎなく確保したい。その思いがしきりに私をかり立てていた。私は涙を流していたかと思う。左の眼からしか流れない涙を、やはりその時も左の眼からだけ垂れ流しながら。何度も、何度も。

「なあ。人間同士のやることは、どうぜ茶番さ。ね。茶番なら、茶番らしく、行きあたりばったりで、クヨクヨしないで、生きて行こうじゃないか。おたがいに、さ。ねえ」

 

 夜霧が立てこめている。

 五日前の到着の夜と同じように、海から町へ、町から山の方へ、ミルクのように濃い霧が、ひたひたと流れている。

 私は旅装をととのえ、スーツケースを左手に提げ、駅前の大きな楡(にれ)の木の下に立っている。ただあの夜とちがうのは、あの時の緊張はすっかり消え去り、重々しい疲労だけがずっしりと、私の身体に沈んでいる。五日間、私はここでなにを得て、なにを失ったのだろう。しかし私は外目(そとめ)には、五日前と同じ姿勢で、同じ楡の木の下に立ち、霧の底にゆらめく町の燈を遠望している。私はひとりで、待っている。十一郎はまだやって来ない。駅舎の大時計がしめった響きをたたえて、重々しく九時を打つ。

「何のために、この町に、おれはやって来たのか?」

 あの夜と同じ問いを、私は意味もなく、も一度つぶやいてみる。しかしただそれだけだ。呼応するものは、もう私の内にはない。そのことが、かすかに歪んだ笑いを、私に誘ってくる。駅舎の内がすこしざわめいて、駅員たちの影がちらちら動き出すのが見える。駅長がぶら下げたカンテラの光が、ぼうと揺れながら、歩廊の方に出て行く。歩廊を踏む靴の固いひびき。濡れたシグナルの色。つめたい夜霧の頰の感触。遠くから近づいてくる汽笛の音。前方の霧の中から、小走りに靴音が近づいてくる。ぼうとした輪郭が、たちまちはっきり形を見せてくる。風間十一郎だ。

「やあ。時計が止ってて、すっかりあわてちゃった。まだ大丈夫ですか」

「もう汽車が、来る頃だろう」

 十一郎は、はあはあとあえぎながら、眼鏡を外してしきりに拭く。

「ひでえ霧だなあ。眼鏡がくもってくもって、何も見えゃしねえ」

 十一郎の頰はうっすらと紅味をたたえている。そのあかさは、急ぎ足で来たせいだけでもないだろう。並んで改札口の方に歩きながら、低い声で私は訊ねる。

「どこで時間をつぶしてたんだね」

「ふふふ」十一郎はかろやかに舌の先でわらう。「今夜汽車のなかで、ぐっすり眠れるように、一杯ひっかけてたんですよ。あっ、そうだ。頼まれものがある」

 改札口に立ち止って、十一郎はあわただしく、ポケットのあちこちを探す。やっと胸のポケットから、折り結んだ紙片をつまみ出す。調子のいい声で、

「はい。これ」

 私はそれを受け取る。掌に握ったまま、改札を通る。客はやはり、私たち二人だけだ。

 歩廊にぼんやりと電燈がともっている。そのうるんだ光線の真下に、私はまっすぐ歩いてゆく。折り結んだ紙片を、私はひろげる。

『お元気で。よき御旅行を、おいのりします。あたしはやっぱり、この町にとどまることにします。

                       仙 子』

 私はゆっくりと二度読み返す。字が大きくなったり、小さくなったりしている。きっと酔っぱらって書いたのであろう。私はそれを細かく引き裂く。そして裂いたはしから線路になげる。裂かれた紙片はくるくる舞いながら、つぎつぎに線路へ落ちて行く。それらは花片(はなびら)のように美しい。紙片が散らばったその線路が、やがてガタガタと振動し始める。汽車が近づいてきたのだ。

 九時六分。三輛連結のおもちゃみたいな汽車が、霧の中から突然あらわれ、歩廊の前にガタンととまる。私たちはそれに乗り込む。やがて古風な発車の笛が、霧の歩廊になりわたる。汽車はごとんと動き出す。霧に滲んだ町の燈々がしずかに窓外を動き始める。

「きれいだなあ」窓をあげながら、十一郎が素直な感嘆の声をあげる。「ゴミみたいな町だと思ってたけれど、こうして見ると、とてもきれいなもんだなあ」

 私の眼もおのずから、移動するQ町の燈を追っている。十一郎の若い感傷に、その一瞬、私も同調していたのかも知れない。単調な響きを立てながら、やがて小さな汽車は、それらを無視するように、しだいに速力を増してゆく。

  

2020/10/21

梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます 《2020年11月3日追記有り・ほぼ解決》

梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます。初出誌・内容は勿論、ご記憶の中にあるなど、何でも結構です。私はブログ開設以来、コメントは、一切、拒絶していますが、これに就いては、特別にそれを解除しておきます(但し、無縁と思われる広告や、怪しいサイトへ誘導すると判断されるもの等々に就いては、即座に削除します)。よろしくお願い致します。

【2020年11月3日追記】実は、これは、ツイッターでフォローされている方からの質問を受けて立項した記事である。今、現在まで、コメントは皆無である。ただ、昨日、梅崎春生の「小さな町にて」を公開した際、底本の解説をちらと見た時、「英雄」という書名が眼についた。以下は、先ほど、その質問者に返信した内容の全文である。

   *

 昨日、たまたま「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)の本多秋五の解説を読んでいたところ、以下の一節がありました。
   《引用開始》

 梅崎春生は、いわゆる毛並のいい秀才や、人の上に立って指揮し、人を愛し、人にも愛されるといったタイプの人間を描いたことがない。絶対になくもなかったかも知れないが、いま私には思い出せない。思い出すのは、片意地で、不器用な、片隅の人間ばかりである。
 これは制作の年代を無視していうことになるが、阿川弘之は海軍時代の経験をもとにして『山本五十六』を書いたが、梅埼春生は、たとえどんなに長生きしたとしても、あの種の作品を書くことがなかっただろう。書くとすれば、旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという『英雄』のような作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である。
 私は『桜島』をはじめて読んだとき、吉良兵曹長は海軍のいやなところばかりを抽いて練り固めたような人物で、いかにもつくりものめいて観念的な人物だと思った。現在では、これが梅崎春生の人生認識の方法なのだと思っている。彼はイヤなもの、むかむかさせるもの、ひりひりするものに現実感を感じ、生き心地を感じるのである。イヤなものが好きなのである。
 眼をとじたいようで眼の放せぬもの――恐ろしく、不快で、残酷なもの、そこに彼は生の感触をいきいきと感じるのである。お爺さんの首くくりの話がそれである。これは見張りの男が話す間接の話だが、この一篇のなかでそこがどんなに印象鮮明であることか。そういえば、ポケットのなかで法師蝉を握り潰すあのイヤな感覚。
 メーデー事件のとき、彼の感覚が急に生き生きと目覚めたのは偶然でない。
 戦争末期に海軍にとられ、否応のない労働と屈従を強いられたことは、彼にとって生涯忘れられぬ災難であった。しかし、そのことによって彼は人生の感触を濃厚痛烈に味わう機会をもった。軍隊生活は彼にとって不本意なものであったが、自発的には決してふるい起すことがなかったであろう緊張を彼によび覚ました。海軍の生活は、それなしには彼に欠けていた幾多の人生経験を豊富にもたらしたばかりでなく、もともと彼にあったもの(ニヒリズムもまたそうである)を堅い砥石にかけてはっきりと磨ぎ出した、と私は思う。
 私はいつか太宰治について、戦争は彼に対して崩れる姿勢をしゃんと特ち直させるギプスのように作用した、と書いたことがあったが、それと同じ筆法でいえば、軍隊生活は梅崎春生に対して倦怠と無気力を吹きとばす覚醒剤のようにも、自身の本質をくっきりと磨ぎ出す堅い砥石のようにも作用したといえる、と思う。

   《引用終了》
 →「書くとすれば」← →「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きている」← →「という」← →「『英雄』」← →「のような」←「作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である」――
   *
 この本多の謂いを見るに、これは、
   *
仮に梅崎春生が「書くとすれば」、例えば「『英雄』」「という」皮肉な題名で、「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きている」「という」「ような」部類の「作品」「であった」ろうと思う。「もちろん生きている杉野兵曹長は贋物で」、「わびしく、愚かしく、哀しい話」となるに違いなかろう――
   *
という意味のように私にはとれます。
 但し、ここで悩ましいのは、『英雄』という書名に二重括弧が使用され、「のような作品」の表現部分が、恰も梅崎春生の著作に「英雄」という小説があり、それが「旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという」「作品で」、「もちろん」その主人公の「生きている杉野兵曹長は贋物で」、「わびしく、愚かしく、哀しい話」なの「である」と読めてしまうようにも思えなくもない、という点なのですが、正直、私は、芥川龍之介の「西郷隆盛」の二番煎じのような、有名人生存という噂話――都市伝説の真相暴き物の如きコントを梅崎春生が書くというのは、ちょっと私には、鼻白む感じが、なくもありません。
 「廣瀬中佐」の「杉野はいずこ 杉野は居ずや」で知られる杉野孫七上等兵曹の生存説は、日露戦争直後から発生し、何度も繰り返し噂され、第二次世界大戦中や終戦直後にも頻繁に噂され、梅崎春生の死後の昭和五七(一九八二))年にも再燃していることが、ネットの複数の記載で確認出来、それを追った書籍も出されています。梅崎春生がもし贋杉野を扱った小説を書いていれば、その本で採り上げられているかとも思われます(「日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う」林えいだい著・新評論・一九九八年刊)。
 本多秋五氏に聴けば、一番、手っ取り早いのですが、残念ながら、彼は十九年前に亡くなっています。
 あなたの、梅崎春生の初期作品に「英雄」という作品がある、という情報元は何でしょうか? それを知りたく思います。
 私は、以上の手持ちの情報からは、『梅崎春生の「英雄」という作品は実在しないのではないか?』という印象を拭えません。

   *

――いや――ないとは断言できぬ――まだ、このコメントは有効にしておく――

   *

【同日午後四時三十分追記】

質問者から回答があり、古林尚氏が作成した年譜に『六月、「英雄」を「小説と讀物」に発表』とあること、私も所持する沖積舎版梅崎春生全集にある彼の日記の昭和二二(一九四七)年四月二十日の記載に『高鍋 六十枚 馬 六十枚 英雄 三十五枚 にて皆放棄す。造形と言うことのむつかしさ。今「外套」の下書き』とあることが根拠であるとあり、もし「英雄」が実在するとすれば、それは戦争小説、軍隊物である可能性が高いのではないでしょうか? という旨の内容であった。そこで、日記を全く忘れていた私自身のうっかりを含めて、返事を書きながら、書きながらもいろいろ全集をひっくり返しつつ、ネットの検索もして、調べてみた結果、遂にカタがついた。

結論から言うと、梅崎春生の「英雄」は実際に書かれ、上記の通り、発表されていた。

以下、質問者へ送った解決メールを示す。

   《引用開始》

こりゃあ、「英雄」はあるね!
古林尚作成の年譜というのは、私は所持していない新潮社版全集か、或いは講談社文芸文庫「風宴・桜島・日の果て・幻化」辺りにあるものですか?(私は沖積舎の全集を買ってからは、彼の著作集は全く買っていません。大学時代に最初に読んだ新潮文庫は「猫の話」に感激した教え子に上げてしまいました)
それに、

『六月、「英雄」を『小説と讀物』に発表』(昭和二二(一九四七)年ですよね?)

と、あるからには、現存しますね。

しかも、私としたことが、梅崎春生の日記を見落としていました。私は沖積舎版の詩篇・エッセイ部の電子化を終わったところで、第七巻の電子化を、皆、終わったと、どこかで錯覚していた部分があり、日記がその後にあったことをすっかり忘れていました(日記は戦中・敗戦部分しか読んでいません)。先ほど確認、確かに昭和二十二年にあるね!
   *

四月二十日
 高鍋 六十枚
 馬  六十枚
 英雄 三十五枚
 にて皆放棄す。造形と言うことのむつかしさ。今「外套」の下書き。成功すればいいが。今日は土井氏等来る筈なり。

   *
この「放棄」とは「破棄した」の意ではなく、途中まで書いて気に入らず、途中放棄して篋底に仕舞い込んだという意味でよいでしょう。実際に沖積舎全集にも未完成で放棄し、完成させずに投稿した「生活」などが所載されているし、あなたの指摘する通り、「高鍋」は「無名颱風」の原型と考えられますが、「無名颱風」は昭和二五(一九五〇)年八月初出ですから、実に三年半かかって、原稿用紙の単純機械換算ですが、四十枚近くは書き足している感じです。

さらに、先ほど、沖積舎版の「別巻」最後にある年譜

(これは雑誌『南北』の元編集長常住郷太郎氏の編です。本巻七巻全部の編集解題を手掛けた古林尚氏では、ないのです。――これで腑に落ちました。――同全集編集解題を担当してきた古林尚氏は実は同別巻が刊行された翌月に亡くなっています。――もし、古林尚氏が年譜を担当していれば(同全集の挟み込みの栞では『解題・編集・解説 古林尚」』となっていて、彼がが全部を仕切るはずだったことが判ります。――「英雄」はちゃんと年譜内に記されたものと思うのです)

を見ながら、全集の中で殆んど読んでいないこの「別巻」の研究篇(私は作家研究評論が実はすこぶる嫌いです。特に評論家のそれは)を何気なく縦覧してみたところ、

――見つけました!――

「英雄」は確かに発表されています。

浅見淵氏の「梅崎春生の結婚祝賀会」(初出は講談社「昭和文壇側面史」昭和四三(一九六八)年二月)の最後の段落の冒頭で、

   *

 梅崎君は結婚すると同時に、積極的にどんどん仕事をしだし、その年だけでも「崖」「紐」「英雄」「蜩」『日の果て』[やぶちゃん注:作品集。]「ある顚末」「贋の季節」「亡日」「蜆」「朽木」「麵麭の話」の十一篇を発表している。

   *

とあるからです。梅崎春生が山崎江津さんと結婚したのが、昭和二二(一九四七)年一月で、以下、

「崖」(三月)    【沖積舎版全集第1巻】
「紐」(六月)    【沖積舎版全集第2巻】
「英雄」
「蜩」(九月)    【沖積舎版全集第2巻】
『日の果て』(九月) 【沖積舎版全集第1巻】(標題作「日の果て」の所収巻)
「ある顚末」(十月) 【沖積舎版全集第2巻】
「贋の季節」(十一月)【沖積舎版全集第2巻】
「亡日」(十一月)  【沖積舎版全集第2巻】
「蜆」(十二月)   【沖積舎版全集第2巻】
「朽木」(十二月)  【沖積舎版全集第2巻】
「麵麭の話」(十二月)【沖積舎版全集第2巻】

が発表月で、「英雄」以外は総て沖積舎版全集に所収されています。同全集第1巻は、古林尚氏の解題冒頭で、「桜島」(昭和二一(一九四六)年九月)による実質的文壇デビュー以降、昭和四〇(一九六五)年『五月までに発表された小説中より、いわゆる「戦争文学」の系譜に属する二十四篇を選びだしたものである』「選びだした」に注目とあります。因みに第2巻は昭和一一(一九三六)年六月から昭和二四(一九四九)年『五月にかけて発表された小説中より、いわゆる「戦争文学」を除外した、自伝的要素の濃い初期短篇二十九をおさめた』とし、『初期短篇群のほとんどが網羅しつくされている』と自負しているのとは対照的です。即ち、「戦争文学」群には、かなり、選から漏れているものがあることが判り、それを意識して沖積舎版は当該全集の挟み込み栞の標題にわざわざ『第一期』と入れてあるのだと思います。古林氏は恐らく梅崎春生の第二期を出して全作品を網羅したいと考えていたのではないでしょうか?

さても。あなたの推理通り、「高鍋」は「無名颱風」でしょう。「外套」が「蜆」の原題とすれば、戦争物・日常的私小説風物を交互に出して模索していたと考えるなら、而して、本多秋五氏の例の解説はやはり小説「英雄」を指していると考えていいでしょう。

   *

 これは制作の年代を無視していうことになるが、阿川弘之は海軍時代の経験をもとにして『山本五十六』を書いたが、梅埼春生は、たとえどんなに長生きしたとしても、あの種の作品を書くことがなかっただろう。書くとすれば、旅順港口で戦死したはずの杉野兵曹長がまだ生きているという『英雄』のような作品であった。もちろん生きている杉野兵曹長は贋物である。わびしく、愚かしく、哀しい話である。

   *

かくも本多が言い放つとならば、「英雄」のストーリーはやはり贋杉野を登場人物とした戦争文学であると考えていいでしょう。

後は、当該発表雑誌を探し出す以外にはありますまい。あなたの年譜に十月とあるのなら、『小説と読物』十月号でしょう。にしても、しかし、ブログもツイッターもフェイスブックに貼り出したのに、誰からも何も情報が入ってこないということは、私より若い世代の層では「英雄」を実際に読んだことがある人が、殆んどいないと言ってもいいように思われます。さすれば、そう簡単には見つからないということになるのかも知れません。まあしかし、いくら何でも、手に入らないことはないと思われます。

にしても最後に気になるのは、四月の段階で三十六枚と枚数が少ない点です……などと思いつつ……試みに……雑誌名で検索をかけてみたところ――思わぬ発見!!!

小嶋洋輔・西田一豊・高橋孝次・牧野悠『「中間小説誌総目次」――小説界」 「苦楽」 「小説と讀物」』(『千葉大学人文社会科学研究』二十六号・二〇一三年三月発行)
「千葉大学附属図書館デジタルコレクション」のこちらからダウン・ロード可能

その『小説と讀物』の部分を見ると――!

   *

第二巻第六号昭和二十二年六月一日発行

   *

のところに! あった!!!

   *

英雄……梅崎春生(三六)

   《引用終了》

ページ数がランダムに見えるのだが、恐らく「映画時評……津村秀夫(四七)」が後らしいから、ページ数は十二ページ分以下。にしてもスゲえぞ! 目次に並んでるのは尾崎士郎「人生劇場」、室生犀星「瓦文」、林房雄「小説時評」、吉野秀雄の短歌、平山蘆江の随筆だぜ!

国立国会図書館に問い合わせて当該号があればよし、なければ、このデータを作った研究者の中の誰かに雑誌の所在を問い合わせればよろしいかと思います。これで、ケリがつきました。その日の内に誤認を修正した上に、実在する正規の書誌情報に巡り逢えたのは幸いでした。実は私は今朝から、梅崎春生の「B島博物誌」の電子化にとりかかっていたところなんですよ! これも何かの知らせだったのかも知れませんね! 読むことが出来たら、話の内容だけでも教えて下さい。

【追伸】なお、「英雄」の話の中身が判るまでは、コメント欄を生かしておくことにする。


 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Memorandum Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「澄江堂遺珠」という夢魔 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐藤春夫 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 津村淙庵「譚海」 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芸術・文学 萩原朔太郎 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏