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カテゴリー「梅崎春生」の277件の記事

2020/07/14

梅崎春生 砂時計 15

 

     15

 

 ニラ爺は首を鬱々(うつうつ)とうなだれ、手すりにすがりつくようにして、一歩々々階段を降りた。西寮の廊下に動く人影をちらと眺め、そして東寮の廊下を歩み入った。廊下を踏む足は、ニラ爺の現在置かれた状況を反映して、自(おのずか)ら忍び足になっている。ニラ爺は肩を丸くして、墨汁の一合も呑んだような気持になり、どん詰りの部屋の入口に足を踏み入れた。部屋中の視線がいっせいにニラ爺に集中した。

「どうだった?」

「どうだった?」

「へえ」ニラ爺はさらに肩を丸くして、畳にへたへたとうずくまった。「くたびれた」

「くたびれた、じゃ判らん!」さっきからイライラしていた松木爺が、険のある口調できめつけた。「三十分以上もかかったぞ。一体何を話していたんだ!」

「まあまあ」と遊佐爺がとりなした。「くたびれるのも無理はない。なにしろ相手は海坊主ときてるからな。よしよし、お駄賃にピースを三本上げる。で、どうだった。海坊主は会見を承諾したか?」

「へえ、それが――」ニラ爺は三本の巻煙草を軽くおしいただいた。「栗山書記が来てから、会議をやると――」

「なに、栗山書記が来てから?」松木爺が早飲み込みをして憤然とつっかかった。「三十何分もかかって、そんな返答を貰ってきたのか。何ということだ。子供の使いじゃあるまいし!」

「まだ全部言ってないやないか」さすがにニラ爺もむっとして、語気をやや荒くした。しかしその表情は、憤怒というよりも、踏みつぶされた蟹(かに)に似ていた。「文句を言うなら、全部を聞いてからにして貰おう。途中で一々口を出されたら、おれ、何もしゃべれんやないか」

「判った。判った」滝川爺がニラ爺をなだめた。「これは松爺さんが悪い、松爺さんはあやまれ」

 松木爺はふくれっ面で、不承々々(ふしょうぶしょう)頭をぺこりと下げた。見張り爺たちも窓辺から離れ、ニラ爺を中心として、おのずからなる車座をかたちづくった。その時中庭のかなた、二階の院長室の曇りガラスの窓が一寸ばかり開かれて、そこから黒須院長の双のぎょろぎょろ眼が、こちらをじっと見おろした。院長は呟(つぶや)いた。

「ふん。ニラ爺が戻ったらしいな。影の具合で見ると、取巻いて坐っているらしい。ニラ爺のやつ、ヘマを言って、見破られなければいいが」

「だ、だから俺は頑張ったのや」ニラ爺は痩せ肩をぐっとそびやかした。「そんな返事では皆のところに戻れんと、タンカを切ってやったんや」

「ほう。それはニラ爺さんにしては上出来だったな。よく頑張って呉れました」遊佐爺がニラ爺の肩をやさしく叩いた。「栗山が来ないと会見はしない、そんな筋違いがあるものか。あんなうすのろ書記が来ようと来まいと、わたしたちは会見に押しかけるぞ」

「俺もそう言ってやったんや。あんなうすのろ書記」ニラ爺は遊佐爺の言葉にうまくおんぶした。「そこで俺と院長の間に、はげしい押問答が始まった」

「それで三十分もかかったのか」松木爺が性こりもなく、疑わしげな口をはさんだ。「おや、ニラ爺さん、お前慄(ふる)えているな。なんで慄えているんだ?」

「慄えてるんやない。貧乏ゆすりや」ニラ爺は額をあおくして言い返した。そして慄えを止めようとしたが止まらなかった。「貧乏ゆすりぐらいしたって、いいじゃないか。俺の自由や」

「松爺さんはちょっと口数が多過ぎるぞ」見兼ねたらしく柿本爺がたしなめた。「他人の自由は認めてやらなければいけん」

「それで結局のところ」遊佐爺が言った。「海坊主は会見を承諾したか?」

 黒須院長は猿(ましら)の如く階段をかけ降りていた。そして左右の廊下をするどく見回し、玄関脇の掲示板の前に立った。イタズラの赤インク文字をとどめた告示を勢いこめて引き剝ぐと、素早くくるくる丸め、それを小脇にかかえた。院長の巨軀はふたたび猛烈な勢いで、階段をいっぺんに三段ずつ、ピョンピョンとかけ上った。院長室の扉をしめると、丸めた告示文を大急ぎで書類棚にかくし、また窓辺にかけ寄って、細い隙間から中庭をぎょろりと見おろした。猛烈な運動のために、院長の胸は大きく動悸(どうき)を打っていた。東寮どん詰りの部屋の窓に、その時いくつかの影がばらばらと立ち上った。院長はあわてて窓をおろし、背をかがめて回転椅子に戻った。

「さあ、出かけるとするか」遊佐爺が部屋中を見回した。立ち上らないのはニラ爺だけであった。そのニラ爺の禿げ頭を遊佐爺はいぶかしげに見おろした。「さあ、ニラ爺さん、元気を出して出かけよう」

「俺、ここに残ってる」

「残る?」

「俺、くたびれた」ニラ爺はなさけない声を出した。ニラ爺の顔は恥じと自責で惨(みじ)めに歪んでいた。「ほんとに、俺、くたびれたんや」

「ムリに連れて行かなくてもいいじゃないか」さっきから黙っていた滝川爺が、初めて口を出した。「当人もくたびれたと言っているし、気が進まない様子だから」

「ニラ爺さん」遊佐爺はおごそかに呼びかけた。「お前さんの退所問題も、今夜の議題にのぼるんだよ。もしかすると、お前さんの余生がどうなるか、今夜そっくりきまってしまうかも知れないのだ。いわばお前さんの生命の瀬戸際だ。立ちなさい!」

「出かけたくない何か事情でもあるのか」松木爺が皮肉な口を入れた。

「出るよ」ニラ爺はむっとして松木爺を睨みつけ、のろのろと立ち上った。「出りゃいいんだろう、出りゃ」

「出りゃいいんだよ」遊佐爺が重々しくうなずいた。「出て、自分の言いたいことを、堂々と言うんだよ。なに、海坊主なんか、おそるるに足らんよ。滝爺さん。メモはちゃんとしてるな」

 遊佐爺を先頭にして、一行はぞろぞろと廊下にあゆみ出た。廊下には人影がなかった、かくれんぼ爺さんたちも、もはや遊び倦(あ)きて、めいめいの部屋に引込み、同室の爺さんと雑談をしたり、日記をつけたり、あるいは眠っていたりした。人気(ひとけ)のない廊下を一行は声もなく、粛々(しゅくしゅく)として行進した。黒須院長は回転椅子にきちんと腰をおろし、一行の到着を待っていた。じりじりとして待っていた。こういう緊張した時間というものは、案外に長く感じられるものだが、その緊張の長さに耐えかねて、院長の手は硯箱の蓋を無意味に外したりかぶせたり、机の引出しをあけて書類綴りの耳をつまんだり、揚句の果て引出しの一番底から、ごそごそとなにか写真を引っぱり出した。それは一カ月ほど前院長がしまい忘れていた、一葉の猥写真であった。これは先月の経営者会議の時、経営者の一人の食堂経営者が、ヒヒヒと笑いながら黒須院長に呉れたものだ。(こんなところにしまい込んでいたのか) 院長の眼は一瞬あやしく光って、その手ずれのした写真にじっと見入った。白人の若い女と黒人の若い者が、厚ぼったい絨毯(じゅうたん)の上で、裸身のまましらじらとからみ合っている。遊佐爺一行を待つことのじりじりと、写真の姿態のなまなましさがかさなって、やがて黒須院長の額にべっとりと汗が滲み出てきた。足音がざわざわと階段を登ってきた。院長は写真を急いで書類の間につっこみ、引出しをがしゃりと押し込んで姿勢を正した。(栗山書記のやつ、一体何をしてやがるんだろう)院長は掌を下腹にあてて、大きく深呼吸をした。(早く来院しないと、役に立たないではないか。あのウスノロ書記!)扉が外からこつこつと叩かれた。院長は荘重な声を出した。

「はいれ」

 扉がしずかに開かれた。遊佐爺を先頭に、一行はぞろぞろと院長室に入ってきた。黒須院長は眼をかっと見開き、素早く爺さんたちの数を目算した。(七名だな)そう院長が思ったとたんに、ニラ爺が廊下からちょこちょことすべり込み、扉をしずかにしめた。総勢はニラ爺を交えて八人であった。(ニラ爺を別とすれば、院内のアカ爺は、この七人だな。よし、恫喝(どうかつ)と懐柔。この両面作戦と行こう!)

「院長」立ったまま遊佐爺が呼びかけた。「俺たちは会見に来たぞ」

「まあ掛けなさい」黒須院長は壁の方を顎でしゃくった。そこには折畳み式の椅子がずらずらと立てかけてあった。

「ことわって置きますが――」院長卓をさしはさみ、各自椅子に腰をおろしたのを見定め、院長は相手方をいらだたせる戦術に出た。「諸君の話はうけたまわるが、これは正式の会談ではありませんぞ」

「なに。正式の会見でない」滝川爺が声をたかぶらせた。「それは何故だ?」

「何故かと言うと――」院長は落着いた声で言った。「諸君は八人だが、わたしは一人だ。立会人もいなければ記録者もいない。わたしの発言を、諸君がどうにでも解釈するおそれがある。それではわたしの立場はないではないか。だからこれは正式の会談でなく、予備会談ということにする」

「そんな言い分があるか」滝川爺がいきり立った。「俺があんたに会見を申し込んだのは、昼間ことだ。何故立会人の手配をして置かなかったんだ」

「手配はした」黒須院長はますます落着きはらった。「栗山書記に電報を打った。が、まだやって来ない」

「栗山書記でなくとも、立会人は誰でもよかろう」遊佐爺が長老の威厳をこめて発言した。「階下の事務局員でも――」

「事務局員は全部帰宅した」院長は顎鬚を悠然と撫でた。「院内に残っているのは、わたしひとりだ」

 遊佐爺は何か言い返そうとしたが、思い直して、味方をぐるりと見回した。

「院内にはもう誰もいなかったか。誰か見かけなかったか?」

「炊事係の木見婆さんがいたよ」ニラ爺がとんきょうな声を立てた。「さっき、院長室から戻る時、西寮の廊下の方にいたようだった」

「そうか」喜色が遊佐爺の頰を走った。「ニラ爺さん、ひとっ走りして、木見婆さんをつかまえてきて呉れや」

 黒須院長は、余計なことを、といった表情で、じろりとニラ爺をにらみつけた。ニラ爺はその視線に射すくめられて、身体が一回り小さくなった。そのニラ爺の脇腹を、松木爺の拳骨がごくんとこづいた。

「早く行かんか。早くしないと、木見婆さんは帰ってしまうぞ」

「へへえ」

 ニラ爺はつながれた犬みたいに、上目使いに院長をおそるおそる見た。院長は眼をパチパチさせて、顎をぐいとしゃくった。院長のつもりでは、それは木見婆さんを探すふりして、適当な時刻に手ぶらで帰ってこい、という意味だったが、ニラ爺はそれを、早く探して来い、という意味に受取ったのだ。ニラ爺の顔はやや活気づいた。「早く行きなさい」遊佐爺がはげました。

「へえ」

 綱から放された犬のように元気づいて、ニラ爺は立ち上った。そろそろとあとしざりして扉に突き当り、身をひるがえして廊下に出た。その足音が遠ざかるのを待って、遊佐爺は院長の方に開き直った。

「先ず聞きたい。部屋割りくじ引きの期日が、例年より一カ月も遅れている。毎年の例では、梅雨に入る前、すなわち春季大掃除の翌日に、くじ引きが在院者代表によって行われた。それが一体今年はどうなったのか。院長の怠慢ではないのか」

 

 木見婆は夕陽養老院における唯一人の女性であった。九十九人の爺さんに対して一人の婆さんであったにもかかわらず、さしてチヤホヤされることもなく、近頃はむしろ憎まれている傾向すらあった。憎まれている原因は、彼女が炊事婦であるということと、たいへんに肥っているということの二つであった。前者は近頃の院内食事の不味(まず)さにむすびついていたし、後者は彼女が旨いものばかり食っているに違いないという嫉妬にむすびついていた。

(木見婆さんのことを言っちゃあいけなかったのかな。院長が俺をグイとにらんだが)その木見婆の姿を探し求めて、西寮の廊下をふらふらと歩きながら、ニラ爺は考え、

た。(だって、いるものはいるんだから仕方がない。なんぼ沖、横川でも、いるものはいるし、いないものはいないのだ。しかしそれを口に出したのは、まずかったなあ。おかげでまた木見婆探しのお使いには出されるし――)

 木見婆の姿は西寮のどこにも見当らなかった。ニラ爺はまたくたびれた足をとぼとぼと引きずって戻ってきた。そして食堂の調理場の入口に立ち止った。扉に耳をあてて内部の様子をそっとうかがった。内部には電燈がついて、何かコトコトと音が聞えてくる。

「木見婆さん。木見婆さん」

 ニラ爺はそう呼びかけながら、肩で扉をギイと押した。扉には鍵がかけてなかったのだ。すると調理場のすみの薄暗いところから、何かぶわぶわとふくらんだものが、おそろしい勢いで飛んできて、ニラ爺の身体にぶっつかった。ニラ爺はよろめいた。

「駄目、駄目。駄目だってばさ!」木見婆は両手で懸命にニラ爺の肩を突っ張り、外に押し出そうとした。「爺さんたちは調理場に絶対入っていけない決めになってるんじゃないか。早く出なさいってば。院長先生に言いつけるよっ!」

「へっ、へへっ」ニラ爺も両手をあげ、同じく突っ張りをもって応じながら、厭がらせの笑い声を立てた。いつもはカンの鈍いニラ爺が、調理場のすみの状況から、珍しく早くカンを働かせたのだ。「一体、あんたは、こんな遅く、何をしてるんやね」

 調理場の一隅の巨大な米櫃のそばに、袋がひとつ置かれていた。袋は半分ばかり米が充たされ、その横に一升桝(いっしょうます)がころがり、床に米粒がしらじらと散乱している。米櫃から布袋に米をうつす途中、ニラ爺に呼びかけられ、大狼狽したさまが歴然であった。

「ヘヘっ」ニラ爺はなおも突っ張りをつづけながら、笑いを洩(も)らした。相手が木見婆にせよ、とにかく女性ともみ合うことは十何年来のことで、それがニラ爺をその意味で結構たのしませていた。「院長先生に言いつけるなら、言いつけたらいいやないか。こちらは何も困りゃせん。困るのはあんたの方だろう」

 木見婆は突然突っ張りをやめた。ニラ爺を外に突き出しても、現場をすでに見られた以上は、無駄な話であった。

木見婆はせっぱつまって両掌で顔をパッとかくした。肥満して幅の広い顔は両掌にあまった。彼女はそのまま肩をふるわせて、涙をしぼり出そうとしたが、それはうまい具合に行かなかった。一方ニラ爺は立入禁止の調理場の光景を、さも珍しげにニコニコしながら眺め回していた。木見婆は指の間から片目をのぞかせ、ニラ爺の様子をうかがった。そしてまた指を閉じて、声をしぼり出した。

「オウ、オウ、オオウ」

「一人あたり二畳という広さで、一体人間が生活出来ると思っているのか!」遊佐爺は院長卓をばたんと叩いた。「二畳とはたった一坪だ。いくら我々が老人で、しなびているとはいえども、たった一坪では手足も伸ばせないではないか」

「二畳あれば充分だ」院長もすこし声を荒くした。「わたしは一週間前、板橋の養育院に視察に行ってきた。あの施設の良好な都立養育院ですら、一人当り何畳であるか。わずか一・一畳ですぞ。保護課長の談話では、せめて一人当り一・五畳を、さしあたりの理想としているとのことだった。それを、なんですか、あんたがたは。一人当り二畳も占領して、まだ不平を言うなんて!」

「オウ、オオウ、オウ」

 木見婆は涙は出さず、泣き声だけを立てていた。ニラ爺はニコニコと頰をゆるめて、調理場の中をあちこち歩き回っていた。禁断の場所を大っぴらに歩き回るのは、なんといい気持のものだろう。とがめる者はとがめる力を失い、むしろ逆にこちらがとがめる立場に立っているのだ。今日の昼以来さんざんこき使われた恨みも、仲間を裏切った悩みも、これでいっぺんに晴れてしまって、ニラ爺は軽快にスッスッと歩き回った。戸棚の前に立ち止り、砂糖壺から大きな白砂糖のかたまりをつまみ上げ、口の中にぽいとほうり込んだ。純良な甘味がニラ爺の口の中にじわじわとひろがり、舌の根に沁み込んだ。

「旨(うま)いなあ」ニラ爺は舌を鳴らして木見婆の方に振り向いた。「木見婆さん。泣かなくてもいいやないか。特別のはからいで、海坊主には黙っといてやるよ。そのかわり、時には皆にないしょで、俺に砂糖だのカンヅメだの――」

 そしてまたニラ爺は砂糖のかたまりを口の中に投げ込んだ。木見婆は安堵したように啼泣(ていりゅう)を中止して、調理場のすみに行き、大急ぎでこぼれた米粒を拾い始めた。三つ目のかたまりを口に入れ、しゃがみこんだ木見婆を見おろしながら、ニラ爺が言った。

「早く拾い集めるんだよ。早く行かないとまた叱られるからなあ」

「どこに行くの?」木見婆は顔をあげて、乾いた声で言った。

「院長室さ」ニラ爺は指先に付着した砂糖をべろべろと砥(な)め回した。

「今、遊佐爺さんたちと院長とが、会議をやってんのや。それであんたが立会人になるんだよ」

「立会人?」木見婆が不安げに発言した。「立会人って一体なにさ。あたしゃイヤだよ、そんなヘンテコリンな役目」

「そんなヘンテコリンな論理があるか」滝川爺がとげとげしい声を出した。「都立養育院はタダじゃないか。入院費は不要じゃないか。しかるに俺たちは、入院するに当って、ちゃんと入院費というものを支払っている。いっしょにされてたまるか。三畳確保は最初からの約束だ」

「三畳確保は戦前の約束だ」黒須院長は怒鳴り返した。そして引出しから在院者名簿を引っぱり出して、勢いこんでぺらぺらとめくった。

「ええ、ええと、タの部か。滝川十三郎と。滝川十三郎、昭和十七年入月入院か。滝爺さん、あんたは昭和十七年入院で、入院費はその時八百円だ。あの八百円当時の約束が、今でも継続していると思っているのか。常識でもって考えても判る筈だ。ね、その間に日本は負けたんですぞ。日本は四つの島にちぢんだんですぞ。日本がちぢめば、自然とあんた等の住居の広さもちぢんでくる。当然の話ではないか。他のものがすべてちぢんだのに、自分だけ元のままでいようというのは、虫がよすぎるよ。そういう利己心はこの際、一切捨てて貰おう。そうでないとわたしは、あんたがたとお話しは出来ません!」

 [やぶちゃん注:「沖、横山」「13」に出た帝国陸軍のスパイ。]

2020/07/13

梅崎春生 砂時計 14

 

     14

 

 牛島は茶碗を手にしたまま、大きなくしゃみを続けざまに二つした。茶碗はその度に上下に揺れ、ウィスキーの相当量を畳にふり落した。足の裏でそれを拭きながら、彼は忌々(いまいま)しげにつぶやいた。

「畜生め。誰かどこかで俺さまの悪口を言ってやがるな」

「悪口のせいじゃないよ」佐介は不機嫌な手付きで窓の方を指差した。「カレー粉だよ。カレー粉のせいなんだ」

「あっ、そうか。カレー粉か。なるほどな」牛島は合点合点して窓を見上げ、小指を鼻孔につっこみ、カレー粉をかき出すようにしながら、鼻声になった。「うん。こんなところに住んでいると、ハナクソが黄色になるだろうなあ。だから早く引越すんだな」

「ハナクソだけじゃないよ。ハナクソだけにとどまるものか。カレー粉は鼻の穴を通過して、咽喉(のど)に行く。咽喉からさらに肺の方にくだって行く。また咽喉から胃に落ちて行く場合も考えられるね。なにしろ空気といっしょだからな、肺も胃もすっかり黄色になっちまう」佐介の口調はすこしずつ熱を帯びてきた。牛島はきょとんとした顔つきで聞いている。「あんな強い刺戟物が、たとえ微量にせよ、毎日々々肺や胃に入って行く。そして臓器の細胞を刺戟する。刺戟した揚句に吸収される。吸収されると肝臓に回る。紙巻煙草の煙ですら、長い間には肺癌(がん)をひきおこすのだ。それより強い刺戟物が、毎日々々遠慮もなく入ってくる。そうすれば一体僕らの身体はどうなるか。ほったらかしてもいいものであるか――」

「そりゃ放っとけないだろな」牛島は電熱器から焼けたパンをつまみ上げ、引裂いて自分の口に投げこんだ。「で、それはやはり、工場の設備が悪いのかね?」

「そうなんだ」佐介はうなずいた。「原料の草根木皮、これを砕くのはウスとキネの器械なんだが、それを混ぜ合わせる作業と小壜(こびん)に詰め込む作業は、これは器械じゃない。手でやるんだ。つまり手工業なんだ」

「じゃ従業員たちもつらいだろう」

「勿論つらいさ。そこで彼等は全員マスクをかけて仕事する。しかしマスクをかけても、カレー粉はやはり侵入するんだな。仕事が終っても咽喉がヒリヒリするそうだ。仕事が終ると、彼等は工場内につくられた風呂に入る。その大きな浴槽の新湯(さらゆ)が、十人も入るとすっかり黄色になってしまうんだ。たいへんなものだよ。そして風呂に入ってゴシゴシこすっても、身体からカレー粉がすっかりなくなるわけじゃない。風呂から上って帰途につく。その途中で汗が出るな。その汗をハンカチで拭くと、ハンカチがやはり黄色に染まるんだよ。つまりこれは、カレー粉が皮膚の表面だけでなく内部にまで浸透している証拠だね」

「たいへんだな」牛島は初めて共感の色を見せた。「そんなところでよく働く気になるな」

「従業員のことはあととして――」佐介は胸ポケットから小さな皮手帳を出して、頁をそそくさとめくった。「その混ぜ合わせ、詰め込みの作業場の窓から、カレー粉が外に流れ出る。ふわふわと流れ出る。もっともカレー粉の全部が流れ出るわけじゃない。成分の中の軽いやつだけだ」

「軽いやつと言うと?」

「一番軽いやつは」佐介は手帳の頁に眼を近づけた。「コショウだ。こいつは一粒五十六ミリグラムしかない。このオッチョコチョイが真先に立って流れ出る。流れ出ては風に乗り、あちこちただよい、他人の家に無断で忍び込み、現にあんたの鼻の穴にまでもぐり込んで、大きなくしゃみを二つもさせた。そういうわけなんだよ」

「ふてえやつだな」牛島は鼻を撫でながら、彼方ガシャガシャ音の方向をにらみつけた。「それにしても、コショウがそんなにオッチョコチョイ野郎だとは初耳だったな。いい学問をした。で、それからどうした。相手の大将と交渉したか。なんならおれが一肌ぬいで、ゆすぶってやろうか」

「駄目、駄目」佐介は忙しく掌をふった。「敵の大将なるものは、そんなカンタンな奴じゃない。修羅吉五郎と言って、ここら一帯のちょいとしたボスなんだ。しなびたような小男なんだけどね。相当の悪者で、前科も三犯か四犯ぐらいはあるらしい。あんたなんかが行っても、逆にゆすぶられちゃうだけだよ」

「あんたなんか、とは何だ!」牛島が聞きとがめて語気を荒くした。「なんか、とは軽蔑の言葉だぞ!」

「失礼しました」佐介は素直にぺこりと頭を下げた。「そして僕らは集まって相談し、代表を選出した。作業場の窓をとざせ。塀を高くしろ。そんないくつかの条項を記した決議文を、工場内の応接間で修羅吉五郎に手渡したんだ」

 佐介は言葉を切って、コップをとり上げた。佐介の顔もすっかりあかくなって、先ほどの疲労の色もほとんど消えている。舌をタンと鳴らしてウィスキーを飲み干した。牛島もそれにつられて茶碗をとり上げながら、話のつづきを催促した。

「それで、断られたか?」

「ううん」佐介は肯定とも否定ともつかぬあいまいな返事をした。

「粉が四散するのは、混ぜ合わせ、詰め込みの作業が手工業のせいなんだ。これを機械で一貫作業にすれば、粉が外に流れ出ることはない。そう吉五郎が言うんだ。そこでこちらは、じゃ、早くその機械を据えつけろと要求した。すると吉五郎の答えは――」佐介はまた手帳の頁をぺらぺらとめくった。「うん。ここだ。ドイツのリッカーマン社の充填機(じゅうてんき)、これを買い込む予定になっていて、これさえあれば飛び散るうれいはない、と言うんだ。何時頃買うんだと質問したら、それが何時か判らんと言うんだよ」

「へえ。そいつはムチャな言い草だな」

「ムチャだろう。だから僕らもカンカンになって、何故判らんのかと、詰問したんだ。すると吉五郎は、これは外国の機械であるからして、通産省に輸入申請しなけりゃならん。ところが輸入申請をするにはしたが、いまだに許可が下りないという返事だ。木で鼻をくくるような答え方なんだ。なんなら君たちの方で、早く許可が下りるように、通産省にかけ合ったらどうだ、などとぬかしゃがる」

「窓をしめろ、という件はどうなった?」

「窓を閉鎖したら、従業員が窒息するからイヤだと言うんだ」

「塀は?」

「塀を高くするには金がかかるし、塀が完成したとたんに充填機が到着したら、工事費が全然ムダになる。その時の保証はどうして呉れると、逆に居直られた」

「うん。なるほどなあ」牛島は感心して首をかたむけた。「向う様にもいろいろと仕事のやりくりの都合があるんだろうなあ」

「そうだ。向うの頭にあるのは、仕事のやりくりの都合だけなんだ」佐介は声を高くした。「ところがこちらは、毎日々々、現実にカレー粉を吸い込まされているわけだろう。任意に吸い込んでいるんじゃなくて、強制的に吸い込まされているのだ。現にあれがカレー工場になって以来、ここら一帯に喘息(ぜんそく)や肝臓病が激増した」

「ふん。じゃ、警察に訴えたらどうだい」警察、という言葉を発音する時、やはり牛島は神経質に眉をひそめ、おどおどと周囲を見回した。「この世に弱味なき人間なし!」

「相手のすべての退路を絶て!」被害者意識から一瞬加害者意識に立ち戻って、佐介も今週の標語を唱和した。「ところがねえ、牛さん、警察は筋違いなんだよ。こういういざこざは、区役所の建築係か、都の建築局設備課、そういうところで処理するんだ。もちろん僕らはそちらにも手を打った。ところが相手はお役人だろう。手続きは煩雑だし、仕事はのろのろしているし、陳情したって一向にらちがあかないんだ。お役所というところは、白川研究所以上にナマケモノぞろいだ」

「何を言ってる。研究所でナマケモノはお前さんだけだ」牛島はきめつけた。「しかしまあ、役人がナマケモノぞろいというのは、俺もまったく同感だな。俺は、昔、子供の頃、都庁、いや、その頃は東京市役所だ、そこで給仕を三年ばかり勤めたことがある。だから役人がナマケモノぞろいだということは、身に沁(し)みて知ってるよ」

「へえ、あんたは給仕をやってたのかい」佐介はもの珍しげに牛島の顔をじろじろと眺めた。「さぞかし可愛い給仕だったろうねえ」

「ああ、実に可愛いもんだった」

 その時佐介はあわててポケットから塵紙を取出し、顎(あご)をだらしなく下げて、大きなくしゃみをした。すると牛島も大急ぎで茶碗を畳に置き、それに唱和した。くしゃみが終ると、牛島はまた窓のかなたをにらみつけた。

「ひでえもんだな。ほっとく手はねえやな、あんなの。取締る法律はないのかい?」

 「そんな法律は、残念ながら、今のところはないのだ」佐介はふたたび皮手帳をつまみ上げて、頁をひらいた。顔を近づけた。「現在、鉱業に対する鉱山法、河川汚染に対する河川法、騒音では各府県の条例なんかがあるにはあるんだが、そいつはみんな散在してるような具合でね、それらの公害を体系づけた法律はまだないんだ。今のところ、被害者が民事訴訟であらそう他はないんだな」

「お前さんの手帳には――」膝を乗り出しながら牛島が呆れたような声を出した。「また実にいろいろなことが書き込んであるんだなあ」

「そうだよ。書いとかないと、忘れてしまうからね。あんたは手帳やメモは使わないのかい?」

「使わないな。使わねえ主義だ」牛島はさげすむように手帳の方を顎でしゃくった。「俺は全部を頭の中にたたきこむ方針なんだ。手帳やメモにたよるから弱くなる。行動的じゃなくなるんだ。お前さんもそんなにせインテリ趣味は早く止めにした方がいいぞ。メモはメモだけに終って、メモ自身からは何もうまれっこないんだぜ。現にお前さんはさっきから、その手帳ばかりいじくって、ここから退いてはいけないなどと力んではいるが、つまるところ力んでるだけの話じゃないか。それにくらべるとこの俺は、さっきからくしゃみを三つしただけで、もうそろそろ本式に腹を立てているんだぞ」

「それはそれとして――」痛いところをつかれて狼狽(ろうばい)しながら、佐介は話をごまかした。「次の国会に、公害法という法案が、あるいは上程されるかも知れないんだ。そういう情報もあるにはあるんだけれどね。それが通れば修羅印カレー工場は、早速その法律に触れることにはなる。もちろんそれまで僕らは手を束ねて待つわけじゃないが――」

「公害法?」

「そうだ。公害法。騒音だの空気の汚染に対する法令だね」

「井戸水の汚れも入るか?」

「もちろんだね。それから放射能汚染。いずれ日本にも原子炉が出来るかも知れないからね」

「もうその手帳はいい加減にひっこめろよ」牛島はうんざりした声を出した。「お前さんが手帳だの脅迫状などを持ち回っているやり方が、俺はほんとに気に食わねえんだ。ついでにそいつも電熱器に乗せて燃しちゃえ」

「飛んでもない」佐介は手帳を閉じて、大急ぎで内ポケットにしまいこんだ。「これを燃しちゃうと大変だ。カレー粉工場の従業員から、苦労して聞き出したメモもあるんだから」

「従業員にも会ったのか」

「そうだよ」佐介は軽くうなずいて、牛島の手首をひょいとのぞき込んだ。「まだ一時間経たないのかね」

「経つわけがあるか」牛島はパッと手首を裏返しにして、腕時計を見せないようにした。「すこし腰を落着けろ。そわそわするな!」

 それから二人は顔を見合わせ、少時(しばらく)黙りこみ、騒音と刺戟臭のただよう部屋の中で、しきりに手や口を動かし、ウィスキーを含んだり、ハムをつまんだり、トマトを齧(かじ)ったり、パンの耳を引裂いて口に押し込んだりした。忙しくその作業に没頭することによって、時間の遅れを取り戻そうとするかのように。――雨は相変らずトタンの屋根を濡らしていた。入口の釘にぶら下げた牛島のレインコートから、土間の空罐に、まだ水滴がチピ、チピと音を立てて落ちている。電熱器のうずまきニクロム線はあかあかと灼け、そこらに電報の白っぽい燃えかすがこびりついている。

(今晩在院者と会見す、とはどういうことだろう?)さっきの電報の内容のことを佐介はちらと思案した。(何か事件でも突発したのかな。会見。黒須院長が会見を中し出たのか、在院者が中し込んだのか。院長の方からだったら、しかし会見とは言わずに、訓示とか引見とかそんな表現をする筈だ。するとやはりこれは在院者が申し込んだものだろう。爺さんたちにも相当に不平家がいるからな。もしかすると在院者たちに、残飯のことが発覚したんじゃあるまいか。そうだとすると、これはちとうるさいぞ)

「で、修羅印カレーの従業員たちは」手近のものをすっかり平らげ、両掌で胃の上を撫でおろしながら、牛島が言った。「そんなイヤな職場で、そんな不健康な場所で、一体どういう気持で働いているんだい?」

「気持?」

「うん。気持だ」牛島の眼は酔いと好奇心のためにキラリと光った。「今時分までガシャガシャやってるところを見ると、奴さんたち、残業をやっているんだろう。定時労働だけでも黄色い汁、いや、黄色い汗が出るというのに、何を好んで残業までする気持になるんだろうな。ライスカレーを三杯食べて、更に二杯詰め込むようなものじゃないか」

「気持じゃないよ。気持だけで仕事なんか出来るものか。わけは簡単だよ。残業手当が多いからだよ」

「いくら残業手当が多いからって――」

「本給がそのかわりに、べらぼうに少いんだよ。若い女工員なんかには、月二千五百円か三千円程度の給料しか支払っていないんだ」佐介は内ポケットに手をやり、無意識裡に手帳をひっぱり出そうとして、あわてて元に押し込んだ。牛島がじろりとにらみつけたからだ。「ええと、労働基準法によるとだね、時間外労働には、定時給のたしか二十五パーセント以上を支給しなけりゃならないことになっている。ところがこの修羅工場では、その倍の五十八パーセントぐらいを払っているんだ。五十パーセントの手当で残業を釣るわけだね。だから従業員たちは、本給だけでは食えないから、自発的に残業をするということになる。無理な残業をして、顔や手足は言うまでもなく、鼻や咽喉や内臓まで黄色になって、まるで人間の形をしたタクアンになって、それでやがては働けなくなり、工場からおっぽり出されてしまう。一人がおっぽり出されれば、また新しく別のが入ってくる。今失業者はうようよしてるからねえ」

「それで、修羅工場の製品は、よく売れてるのかね?」

「うん。相当に出てるようだ。カレー粉なんてものは、料理に使って安上りなものだから、不景気になればなるほど、よく出るものらしいんだ。月給取りだって、シケたやつほどカレーライスをよく食べるものね」

「おい。お前は俺を侮辱する気か」と牛島は口をとがらせた。「俺のことをあてつけて言ってるな」

「いや、そういうわけじゃない」佐介は掌をひらひらと振った。「僕だって、こんなとこに住んでなきゃ、今日の昼飯に富岳軒のカレーライスを食べているよ。富岳軒も修羅印カレーを使っているんだ。この間料理場をのぞいたら、棚の上に修躍印の特大罐が乗っかっていたよ。それを見ただけで、僕は胸がムカムカした」

 くぐり戸をくぐってひとつの足音が、小屋の入口にしのびやかに近づいてきたが、それはガシャガシャ音に紛(まぎ)れて、二人の耳には入らなかった。足音は入口に立ちどまり、少時(しばらく)小屋の内部をじっとうかがっていた。やがて板扉がコツコツと叩かれた。牛島はぎょっとして入口の方をふりむき、片膝を立てて身構えた。身構えたと言うより、遁走(とんそう)準備の姿勢をとったという方に近かった。

「どなた?」と佐介が声をかけた。「どなたさんですか?」

「あたしよ。曽我よ」女の声が戻ってきた。風邪でもひいたようなしゃがれ声だ。「連絡係の曽我ランコよ。入ってもいいですか」

 たてつけの悪い板扉ががたごとと開かれて、若い女の顔が戸外の闇を背景として、しろじろとうかび上った。曽我ランコは紺色のスラックスとチェックのブラウスをつけ、それに番傘を手にしていた。番傘からは雫がぽたぽたと垂れていた。

「ああ、曽我君か」佐介は酔いであからんだ顔色をごまかすように、掌で頰をしきりに撫で回した。牛島はまだ片膝を立て、警戒の色を解かず、曽我ランコの一挙一動を見守っている。曽我ランコはその視線を黙殺して、番傘を板壁の遊んでいる釘につるし、草履を脱いで部屋に上ってきた。穿(は)いていたのは男ものの板裏草履だ。濡れた白い素足がそのまま畳をやわらかく踏んだ。

「会議には欠席するんですか?」

 小机の横にごそごそと膝を折って坐りながら、曽我ランコはしゃがれ声で言った。牛島は警戒の色をややゆるめ、膝を横に寝かせ、また茶碗をとり上げながら、新人者のスラックスの腰の線を横目で眺めていた。スラックスの地は薄く、肉体の線をしなやかに浮き立たしている。牛島はそこから視線をムリに引き剝(は)がして、耐えがたきを耐えるような表情になり、茶碗の中のものをやけにぐっと飲み干した。曽我ランコはよく動く瞳で、そこらのウィスキーや竹の皮や電熱器などを見回した。佐介が口を開いた。

「いや、そろそろ出かけようかと、思っていたところだよ」

「今夜の会合は、昨晩以上にてんやわんやになりそうですよ」曽我ランコはむしろそのことが楽しいらしく、そそのかすような口調になった。「もしかすると今晩、殴り込みということになるかも知れないのよ」

「風邪でもひいたのかい、声ががさがさしているようだが――」佐介はちょこちょこと立ち上り、湯呑みを持って戻ってきて、それに瓶の残りを注ぎ込んだ。曽我ランコの膝の前に押しやった。「梅雨時の風邪はなおらないと言うから、用心したがいいよ」

「殴り込みとは面白いな」牛島が傍でわざとらしくひとりごとを言った。無視されたことも面白くなかったし、佐介がウィスキーーを見知らぬ女についでやったことも面白くなかった。(なんだい。もともと俺が買ってきたウィスキーじゃないか)

「風邪の気味もあるけれど」曽我ランコは首をやや傾け、平気で湯呑みをとり上げて唇に持って行った。「今日のお昼、代表の人たちといっしょに、修羅吉五郎に会いに行ったんですよ。だから声が嗄(か)れちゃった」

「なんだい。君もしゃべったのか」

「しゃべったのよ。しゃべらずにはいられないわ。吉五郎の奴、とても図々しいんですもの」ウィスキーが咽喉(のど)にしみたらしく、曽我ランコは軽くせきこんだ。「それにあの応接間でしょう。ここらの空気よりも、カレー粉の含有量がずっと多いのよ。それですっかり咽喉をいためちゃった」

「連中は元気で働いてたかね?」

「ええ。割に元気に働いていた。吉五郎が窓から工場の方を指差して、あんな風(ふう)に工員たちは元気で働いている。今までにうちの従業員でカレー粉で死んだものもいなければ、重病になったのもいない。それだのに塀の外であんた方が大騒ぎするのは筋違いじゃないか、なんて言い出してきたのよ。カレー粉が毒なら、インド人は全部死んでしまう筈だ、なんて言うのよ」

「ムチャを言うなあ。あの工場は、キャラメル工場から転身して、まだ半年しか経っていない。病人や死亡者が出来るのは、今後のことだ」

「そうよ。吉五郎の言い草ったら、そりゃカレー粉を多量に吸い込めば、病気にもなろうし、死にもしよう。でもそれは水なんかと同じで、水だっていっぺんに一斗も飲めば、力道山だって死んでしまう。それと同じことだと言うのよ。そこで許容量という問題になって、吉五郎とあたしたちとずいぶん言い争ったの」

「それでどうなった?」

「なにしろこちらも向うも、カレー粉の許容量については、ハッキリした医学的根拠はないでしょう。だから結局は水掛け論ね。向うでは、印度のタルミ族なんか、三度三度カレーをごしごし食べているが、弱るどころかとても元気だと言うの。写真を持ってきたわ。タルミ族がカレー飯を手づかみでむしゃむしゃ食べている写真よ。こんなに元気で頑丈だと言うんだけれどね、あたしたちが見ると、それほど頑丈には見えないの。やせこけて、肋骨なんかが出ていて、タルミ族の名前通りすっかりたるんでいるんですよ。それを吉五郎に詰間したら、そりゃ見解の相違だって言うのよ。吉五郎の言い分では、この程度に瘦せてるのが本当の健康体で、これ以上肥ったらそれは高血器体質と言って、不健康体だと言うのよ。そして自分の腕をまくり上げて、自分はこんなに瘦せてるけれど、シモの病いをのぞけば、生れてから病気という病気を一度もやったことがない、と自慢をしたわ。そのしなびた腕の上の方に、小さなイレズミが見えたわ。とってもイヤな形のイレズミ!」曽我ランコは顔をやや染めて、眼付きをするどくした。「男ってほんとに下劣ねえ。自分の腕にあんなものを彫りつけるなんて!」

「男にもよりますよ」ウィスキーもなくなって手持無沙汰をかこっていた牛島が、ここぞとばかり口を出した。「下劣な男もいるが、その半面、高尚な男もいる」

「あなた、どなた?」曽我ランコは顔をねじ向けて、牛島をまっすぐ見た。

「これは僕の親類」

「俺は彼のイトコ」

 佐介と牛島は、瞬間に白川研究所員の習性と地金を出して、同時に同じようなウソを言った。曽我ランコは眼をぱちぱちさせた。

「イトコのくせにあまり似ていらっしゃらないようね。あなたの顔は四角だし、栗山さんの顔は南京豆型だし」曽我ランコは視線を佐介に戻した。「どこまでお話したかしら」

「イヤな形のイレズミだよ」佐介が答えた。「ランコさんの口を封じるために、吉五郎はそんなイレズミを見せびらかしたんじゃないかな。あいつのやりそうなことだよ」

「憎いわ、あの男」曽我ランコは騒がしい器械音の方角を見据(す)えた。「そう言い争っているところに、お待ち遠さまという声がして、社員の一人が大皿のカレーライスをささげ持って、しずしずと応接間に入ってきたの。そしてそれを吉五郎の前に置いたのよ。すると吉五郎は、お腹がすいたから失礼いたします、なんてバカ丁寧なあいさつをして、それをむしゃむしゃと食い始めたんですよ。あたしたち、もううんざりしちゃって、そのまま立ち上って帰ってきたの。どうも吉五郎の奸策にひっかかったらしいわ」

「そうらしいね」佐介は手刀で頸(くび)筋をたたきながら、大あくびをした。「昨夜ほとんど寝てないから、実にねむい。でも会議に出なくちゃいけないな。殴り込みなんかになるとたいへんだ。殴り込みはいけないね。ねえ、牛さん、つき合いはこれくらいでいいだろう」

「そうだな」牛島はとろんとした眼で腕時計を見た。「もう許してやることにしよう。そして俺も会議に出席させて貰うぜ」

「まだくっついてくるのか」佐介は嘆息した。「これは、ここらへんの住民だけの問題だから――」

「いや、イトコの問題は、同時に俺の問題だよ」牛島は頑張りの気配を見せた。自分が何をやりたいかという方途を失ったことにおいて、牛島はあきらかに頽廃していた。

「それに俺は昔から、殴り込みなどということは、大好きなんだ。放って置くわけには行かない。それに、何かネタがころがっているかも知れないし」

「この方、新聞記者?」曽我ランコが聞きとがめた。

「いや、そんなんじゃないよ」佐介は急いで口をさしはさみ、電熱器のスイッチを切って立ち上った。「ランコさんは人を憎むと、とたんに生き生きとしてくるようだね。ふしぎだね」

「あたし、生れつきそうなのよ」

 曽我ランコも立ち上った。曽我ランコは佐介と同じくらいの背丈があった。スラックスに包まれた腰から脚は、女猛獣使いのそれのように、たくましくしなやかであった。牛島はまぶしくそれを見上げながら、つづいてごそごそと立ち上った。

「考えてみると、あたし、いつも誰かを憎んでるの。誰かを憎んでないと、気ぬけがして、ぼんやりなっちまうんです。へんなのねえ」

[やぶちゃん注:「12」の続きであるが、そのエンディングの牛島の「A金庫の鍵型をとった犯人は、」「鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」という詰問に対する佐介の応答がない形で始まっている。談話の様態から佐介は否認したと読めるが、ちょっと読者にとっては不親切で不満である。

「ドイツのリッカーマン社の充填機」薬剤充填機や食品包装機を製造する産業機械メーカーとして実在する。一八九二年創業。綴りは「Rieckermann」か。

「公害を体系づけた法律はまだないんだ」日本の四大公害病である水俣病・第二水俣病(新潟水俣病)・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の発生を受けて制定された公害対策(当該法では「公害」を大気汚染・水質汚濁・土壌汚染・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の七つを「公害」と規定していた)に関する日本の基本法である「公害対策基本法」は昭和四二(一九六七)年八月三日に公布されて同日施行した。後の平成五(一九九三)年十一月十九日の「環境基本法」施行に伴い、統合されて廃止された(「環境基本法」では「公害」の定義を『環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む)に係る被害が生ずること』を指したが、福島第一原子力発電所事故による広範な放射能汚染を契機として、平成二四(二〇一二)年九月十九日に本「環境基本法」が改正施行されて、それまで適用除外とされていた放射性物質を公害物質と位置づけることとなっている)。ウィキの「公害対策基本法」他に拠る)。佐介は「次の国会に、公害法という法案が上程されるかも知れない」と言っているが、本作の初出は昭和二九(一九五四)年八月で、「公害対策基本法」十三年後のことであり、「放射能汚染」とも佐介は挙げているが、それが公害と規定されたのは実に五十一年後となった。

「竹の皮」見かけることが少なくなったが、筍(たけのこ)の外側を鱗片状に包んでいる皮で、表が斑模様になっており、食べ物などを包むのに用いる。「11」で佐介は肉屋に寄っているが、肉屋で嘗ては今もよく使われている。

「高血器体質」ママ。誤植とか誤字ではなく、高血圧器質体質の略のつもりであろう。

「シモの病い」性病の淋病であろう。]

梅崎春生 砂時計 13

 

     13

 

 東寮のどん詰りの部屋で、ニラ爺の指圧の親指が、遊佐爺の背中に最後の一押しを加えた時、階上の院長室では、黒須院長が告示文の筆をおき、巨大なハンコをぺたりと押し終えたところであった。

 楷書の各字のはしばしが躍るようにはね上っているのは、黒須院長の胸の怒りであり、感情の乱れのゆえであった。ハンコを投じ、じっと自分の字に見入った院長ののど元に、やがてにがい侮いと恥じがじわじわとこみあげてきた。

「ああ、こんなに書体が乱れるとは、まだまだわしも精神修養が足りない」回転椅子をぎいと鳴らしながら院長はつぶやいた。「この告示文は、とても人前には出せん。書き直すとするか」

「ああ、いい気持だった」遊佐爺はがさがさと起き直り、衣服の乱れをととのえた。「今夜の指圧は、とてもよく利(き)いた。これで元気が出てきたぞ。ニラ爺さん。指圧代はツケにしといてくれや」

「この前の分も、前々の分もまだ貰ってないで」ニラ爺は疲れたような情ない声を出した。「煙草代にも不自由――」

「今ここに持ち合わせがない。部屋に戻ったら払う!」そして遊佐爺は、窓ぎわに立つ見張り爺に声をかけた。「院長室はどうだね」

「異状なし」

「動き回る気配なし」

 見張り爺の声が、直ちに戻ってきた。

「よし。それではそろそろ、行動を開始するかな」遊佐爺は重々しくしわぶいて、部屋の中をぐるりと見回した。「いきなり会見に出かけるよりも、先ず使者を一人出して、通告させた方が、重みがついてよかろうと思うが、どうだな」

「うん。それがいいな」滝川爺が同感の意を表した。「俺が行こうか」

「いや、滝爺さんよりも――」遊佐爺の視線はふたたび部屋中をひと回りした。なにごとかを予感したかのように、ニラ爺は肩をすくめて躰(からだ)を小さくした。その動作がかえってニラ爺の存在を遊佐爺に教えたようなものであった。遊佐爺は言葉をついだ。「ニラ爺さんの方がよかろう。かんたんな仕事だから、ニラ爺さんにも結構つとまるだろう」

「へっ」ニラ爺は更(さら)に身体を縮めた。

「ニラ爺さん」と遊佐爺は呼びかけた。「たびたび御苦労だが、院長室におもむいて、今から一同会見したいと思うが、都合はどうだと、海坊主に訊(たず)ねてくれ。そら、お駄賃に、煙草を一本やる。ピースだぞ」

「へっ」ニラ爺は煙草を受取り、火をつけて旨(うま)そうに吸い込んだ。

「都合はどうだ、などとはなまぬるい」部屋のすみからウルサ型の柿本爺が異議をとなえた。「会見に行くから用意をととのえておけ、そう言うのが本筋だ」

「そうだ。そうだ」松木爺が賛成した。「茶菓の用意ぐらい、向うにととのえさせるべきだ。なにしろ重要会談だからな」

「海坊主は相当なしたたか者だから、会見日時の変更を申し出るかも知れない」そして柿本爺はニラ爺を見据えるようにした。「ニラ爺さん。会見の目取りを明日にしてくれとか何とか、海坊主が言い出したら、絶対にダメだと答えるんだよ。即刻会見だ。判ったな。向うにそれを承知させるまでは、戻って来てはいけないぞ。さ、元気を出して、直ぐ出かけなさい。なに、相手を海坊主と思うから怕(こわ)いような気分になるんだ。影法師だと思えば何でもない。影法師と思うんだよ、影法師と!」

「へえ、影法師」

「そうだ。影法師だ」遊佐爺が口をそえた。「影法師で、でくの棒だ。恐れずひるまず、堂々と出かけなさい」

「へっ」ニラ爺は煙草をごしごしともみ消し、吸いがらを耳に大切そうにはさんだ。困惑したような立ち上り方をした。

「しっかりやってくるんだよ。首尾よく使命を果たしたら、またピースを一本上げるからな」

「へえ」入口のところでニラ爺は立ちどまり、一同をふり返って、何か言おうとしたが、そのまま諦(あきら)めたように顔をゆがめて、その姿は廊下に消えた。

「使う。使う」廊下をぼとぼとと足をひきずって歩きながらニラ爺はつぶやいた。「偵察には出されるし、使者には出されるし、ついでに指圧もさせられて、そのお代はツケとくるしなあ。もしこの俺が雑巾だとすれば、とっくの昔にすり切れてるわ」

「どうもニラ爺の奴はたよりないなあ」足音がすっかり遠ざかって消えた時、滝川爺が嘆息して言った。「一体あいつは何を考えているんだろう。俺たちが動かなきゃ、あいつは追い出されてしまうのになあ」

「ほんとにたよりない」松木爺が相槌(あいづち)を打った。「筋金というものが全然入っていない。まるで人生の落伍者だ」

「今夜の交渉委員にニラ爺を加えるのは」と滝川爺。「わしは反対だ。あんなのを加えたって、何の役にも立たんぞ」

「まあ、いいさ」と遊佐爺がなだめ役に回った。「だんだんやっているうちに、少しずつシャンとしてくるさ。交渉委員にも入れて、空気に馴れさせた方がいい。おい、見張り爺さん、まだ院長室に到着した気配はないか」

 ニラ爺は手すりにすがって、階段を力なく登っていた。疲れのせいでもあったが、黒須院長に会って話すことを考えると、とたんに足から力が抜けてしまう。手すりは湿気と脂(あぶら)でじとじとしていた。ニラ爺はそれにすがって、やっと二階の床面を踏んだ。遊佐爺が見張りにまた声をかけた。

「まだか」

 黒須院長は院長卓に頰杖をつき、視線を宙にぼんやりと浮かせていた。さっき大串の鰻(うなぎ)を詰めこみ過ぎたので、その満腹感がしきりにねむけを誘ってくるようであった。告示文を書き直すのも面倒くさかった。その時、扉をコツコツと叩く音がしたので、黒須院長はハツと頰杖を外し、大急ぎで威儀をととのえた。

「栗山書記か?」と院長はいかめしい声を出した。「電報を見たか。入れ」

 扉の外からぼそぼその答えが聞えた。それは栗山佐介書記の声ではなかった。院長はさらに声を大きくした。

「誰だ。入れ」

 ノブがゆっくりと回り、扉が半開きにされて、そこからニュツとニラ爺の顔がのぞきこんだ。ニラ爺は顔だけのぞかせて、身体の方はおどおどと逃げ腰のかまえになっている。

「なんだ。ニラ爺さんか」拍子が抜けたように院長は言った。「何か用事か。入っておいで」

 ニラ爺は身を横にして部屋に入り、扉をしずかにしめた。扉をしめたとたんに、ニラ爺の度胸はやや定まった。扉をしめた以上は、使命を果たさねば東寮に戻れない。ニラ爺は勇気を出してつかつかと院長卓まで歩いた。椅子にちょこんと腰をおろし、卓をはさんで院長とむかい合った。東寮の階下の部屋で、見張り爺が叫んだ。

「今入って行ったらしい。窓に影が動いたぞ」

「院長室まで行くのに」松木爺がにがにがしげにはき出した。「一体何分(なんぷん)かかるんだ。這って行くんじゃあるまいし」

 ニラ爺は耳からピースの吸いさしを外し、気持をはげますために口の中で、影法師、影法師、とつぶやいてみた。そのニラ爺の一挙一動を、黒壕院長は眼をするどくして、黙って観察している。ニラ爺は勇気をふるって、わざと乱暴な言葉使いをした。

「院長。マッチを貸して呉れ」

(怒るな。怒るな。怒ると失敗するぞ)黒須院長は心の中で念じながら、唇を真一文字に閉じ、手元のマッチをぽいと放り投げた。それはさっきの鰻屋の広告マッチで、鰻が三匹にょろにょろ這(は)っている絵が印刷してあった。(ニラ爺はきゃつ等の手先だ。慎重に、慎重に!)

 ニラ爺はマッチを手にして、吸いさしに点火した。緊張のため手がふるえている。ゆたゆたと煙をはきながら、院長と同じやり方で、ニラ爺はぽいとマッチを投げ戻した。そしてその時初めて、ニラ爺は卓上に拡げられた告示文を見た。そのはねおどるような文字の羅列と朱色の院長印を見た時、ニラ爺はもう目がくらくらして、思わず大声を出した。

「院長!」ニラ爺は防禦と威嚇(いかく)をかねて、やせた肩をぐいとそびやかした。「院長はどうあっても、この俺を、ここから追い出すつもりか」

 告示文をさしはさんで、巨軀魁偉(きょくかいい)の黒須院長と小軀矮身(わいしん)のニラ爺は、一瞬緊張してじっとにらみ合った。

「そのつもりでない」三十秒ばかりの沈黙の後、黒須院長は意識的にすご味をきかせて、ゆっくりと発言した。「わたしの要求するところはリヤカー弁償金の支払いだ。一万二千円さえ納めてくれれば、誰も出て行けとは言わないのだ」

「一万二千円!」ニラ爺の声はふるえて、そのまま絶句した。

「そうだ」黒須院長は重々しくうなずいた。「一万二千円だ」

 ニラ爺の無理にそびやかした肩が、見る見るうちになだらかになり、膝に乗せた双の掌がぶるぶるふるえ出した。悲哀と絶望がニラ爺をうちのめした。ニラ爺の眼にあふれてくる粘密度のうすい涙の色を黒須院長は冷静な視線で観察していた。涙はとうとう筋になって、皺(しわ)くちゃの頰をすべり落ちた。

「用事はそれだけかね?」院長もやや心を動かされたらしく、語調をやわらかにした。

 その声でニラ爺ははっと本来の使命を思い出し、掌でごしごしと頰の涙をぬぐいとった。

「今直ぐに、遊佐爺さんたちが、ここに会見にやってくるよ。用意をととのえなさい」

「なに?」院長はちょっと戸惑った。「ニラ爺さんはそれをわざわざ注進に来たのかね?」

「そうだよ」

「そりゃ有難う」黒須院長はそれを、ニラ爺の親切心とかんちがいして、ニコニコしながら声を更(さら)にやさしくした。

「用意はあらかたととのっているよ。あとは栗山書記の到来だけだ」

「お茶にお菓子、そんなものを用意しとけって、松木爺さんが言っとったよ」

「なに?」いったんゆるめた頰の筋肉を黒須院長はぐっと引きしめた。「お前さんはあいつらのお使いでやって来たのか?」

「そうだよ」ニラ爺は手にしたピースの吸いさしを、巨大な灰皿の中に投げこんだ。吸いさしはさっきの涙で濡れ、火もすっかり消えて、吸えなくなっていた。

 黒須院長は牛のようなうなり声を発した。そして探るようなきびしい視線でニラ爺を見た。ニラ爺も影法師、影法師と念じながら、勇気を出して見返した。やがて院長が口を開いた。それは堅い、押しつけるような声であった。

「栗山書記が来てから、会談を開く。それまでは会談に応じられないと、そう皆につたえておけ」

「それじゃあ困るのや」押されてはならじと、ニラ爺はなだらかな肩を、テコでも入れたようにぐっとそびやかした。「それでは俺はみんなのところに戻れん」

 そのままの姿勢で一分間ほど、大きな壮者と小さな老者は、黙ってお互いの顔を見詰め合っていた。その一分の間に、黒須院長の胸の中で、あるたくらみがハッキリと結実した。院長の表情はとたんに老獪(ろうかい)なゆるみ方をした。

「なあ、ニラ爺さん」

 院長は猫撫で声で呼びかけ、詰襟服のポケットから煙草を出し、身ぶりでそれをニラ爺にすすめた。ニラ爺は手を出さず、警戒の色をとかなかった。やむなく院長は一本引き抜き、自分でそれを吸いつけた。

「ここを追い出されたくないというあんたの気持は、わたしにも良く判っている。それにリヤカー破壊は、あんたの悪意ではなく、過失じゃな」

「そうだよ」

「その点においてだね」院長はわざとらしく目尻を細くした。「情状酌量の余地があるということを、わたしは明日の経営者会議において、経営者たちに力説しようかと思っているんだ。幸いにその説が通ったならば、あんたは退院しないですむわけだ」

 ニラ爺さんはきょとんとした顔で院長を見た。

「この告示文も――」院長は告示文をがさがさと畳みながら「それまでは掲示しないことにしよう。そして階下の告示文は破り捨てることにする」

「へえ」ニラ爺はわけも判らないまま、かすかに頭を下げた。

「さっき見たが――」院長の声はますますやさしくなった。「階下の掲示に、小学生みたいないたずら書きのあとがあったな。無邪気な爺さんもあればあったものだ。はっはっはあ」

 院長は高笑いをしながら、ふたたび煙草の箱をぬっと突き出した。ニラ爺はつられたように一本引抜き、ちょっと押しいただいた。院長は素早くマッチをすり、腰を浮かせてニラ爺の方にさし出した。

「年をとると、皆童心にかえる。大へんいいことだなあ」ますます好機嫌な表情に院長はなった。「時に訊ねるが、あの、海坊主、というのはどういう意味だね?」

「へえ」ニラ爺の顔はとたんに困惑の色をたたえた。「ヘヘ、ヘヘヘ」

「な、どういう意味か、あんた知っとるだろう」

「そ、そこにいるやないか」

「どこに?」ぎょっとしたように院長はあたりを見回した。

「そ、そこだよ」ニラ爺は院長を真正面から指差した。「そこに坐ってるやないか」

「わ、わたしのことか!」

 院長のこめかみの血管がたちまち怒張した。しかし院長の表情は、おどろくべき自制力によって、依然たるやわらぎを保持していたのだ。青筋を立てたまま院長はニコニコ笑っていたのだ。

「そうか。わたしのことか。なるほどな、海坊主とはよく

言ったもんだ。ハ、ハ、ハ」

「ヒ、ヒ、ヒ」とニラ爺も笑いの合唱に加わった。

「ついでに聞くが、書いたのは誰だね?」

 ニラ爺は突然笑いをおさめて、ふたたび警戒の色を取り戻した。そして煙草をごしごしともみ消した。沈黙が来た。

「ニラ爺さんは、沖禎介――」すこし経ってやや沈痛な調子で院長が切り出した。「沖禎介、横川省三という人を知っているだろう」

「ロシヤ軍に、殺された、人だろう」ニラ爺は記億を探りながら、とぎれとぎれに答えた。「わしはその頃、たしか小学生、だった」

「そうだ」院長は大きくうなずいた。「このおふた方は日本帝国のために、ロシヤ軍の後方に潜入して敵情を探られたのだ。その結果、チチハル付近にて不幸にもとらえられ、明治三十七年二月、ハルビンにおいて銃殺をうけられた。自分をむなしくして国に殉死(じゅんし)せられた、まことに立派な人たちだ」

「へえ」

「もし今も生きていられれば、是非ともこの夕陽養老院に御入院下さいと、お願いしたくなるような見事な人たちだ」そして院長は急に声をひそめた。「この夕陽養老院にも、ごく少数ではあるが、たとえばパルチザンみたいな悪い考えをもった爺さんがいる。わたしが追い出したく思っているのは、あんたみたいな善良な爺さんではなくて、むしろこの人たちなのだ。判るね」

「へえ」怪訝(けげん)そうにニラ爺は顔を上げた。

「だからこそわたしは、明日の会議において、あんたの無罪を主張するつもりなのだ。わたしに任せなさい」院長は自分の厚い胸をどんとたたいた。胸板はたのもしげな音を立てて鳴った。「そのかわりにあんたは、夕陽養老院のために挺身して、沖、横川になって貰いたいのだ。なってくれれば、もちろん在院は保証するし、毎日の煙草代ぐらいは支給するよ」

「まだ動く気配はないか」松木爺がいらいらした声で言った。

「まだそのままだ」と見張り爺。

「一体何をしてやがるんだろう」

「うまくまるめこまれてるんじゃなかろうか」

「きっと頑張っているんじゃよ」遊佐爺が弁護役に回った。「承知させるまでは戻ってきちゃいかんと、柿本さんが釘をさしただろう。だからニラ爺さん、必死に頑張っているんだろう。人間というものは、わしの七十八年の経験によると、その気になればシャンと性根が入るものだ。どれどれ、わしが今度は見張りに立とう」

 遊佐爺は立ち上ってウンと腰を伸ばし、窓ぎわに歩み寄った。しとしとと降る雨のかなたに、院長室の曇りガラスの窓が煙っている。その乳色の窓に、動くものの影はなかった。

「へえ……オキ……ヨコガワ」

 ニラ爺はとぎれとぎれにつぶやいた。そのニラ爺の顔を、犬の調練士のような緊張した視線で、黒須院長は見守っていた。

「そうだ。沖、横川だ。正義殉国の士だ」院長はそそのかすように語調を強めた。「あの、海坊主、と落書きしたのは、誰だね」

「へえ」苦悶と昏迷の影がニラ爺の顔を一瞬よぎった。

「へえ、あ、あれは、松木、爺さん」

「もひとつの、なんとか横暴、というやつは?」と院長はたたみかけた。

「遊、遊佐爺さんです」

「よろしい」莞爾(かんじ)たる微笑がほのぼのと院長の面(おもて)にのぼってきた。院長は満足げに顎鬚をしごき、声を低くした。「今から情報蒐集(しゅうしゅう)、秘密探知の要領、それをこちらに伝達する要領を教えて上げよう。椅子を持って、こちらに回ってきなさい。くれぐれもこのことは秘密にしておかねばいけないよ」

 ニラ爺さんの顔は、仲間を裏切ることの緊張のために、一面に汗の玉がふき出ていた。言われた通り椅子をかかえて、大きな院長卓をよたよたと回った。幸いに回ったのは窓ぎわの方ではなかったので、曇りガラスに影をうつさずにすんだのだ。

「まだそのままか?」待ちくたびれて柿本爺がうんざりした声を出した。「ニラに任して置いたら果てしがない。そろそろ勢ぞろいして出かけようじゃないか」

「まあ待ちなさい」窓ガラスに頰を押しつけたまま遊佐爺が言った。「これはニラ爺さんの初の大仕事だぞ。大仕事であるだけに、わしは完遂させてやりたいと思う。完遂するのとそうでないのとは、今後のニラ爺の仕事の自信にも、大いに関係してくるからな。もう少し待ってやろうじゃないか」

 院長室では院長とニラ爺が、大きな顔と小さな顔、脂(あぶら)ぎった顔としなびた顔を突き合わせるようにして、しきりに密談にふけっていた。もっともしゃべっているのは院長の方だけで、ニラ爺はほとんど口をきいていなかった。ニラ爺は苦しそうに、また迷惑そうに、しきりに貧乏ゆすりをしながら、放心した視線をあちこちに動かしていた。

[やぶちゃん注:「沖禎介」(おきていすけ 明治七(一八七四)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事していたが、明治三四(一九〇一)年に中国に渡り、北京の日本語学校東文学社の教師となり、明治三六(一九〇三)年には自ら文明学社を設立した。明治三七(一九〇四)年、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑された。処刑に際して当初は絞首刑が予定されていたが、彼らの態度が立派だったため、現地の司令官がロシア皇帝ニコライⅡ世に請願して銃殺刑に変更されたとされている(以上は概ねウィキの「沖禎介」に拠った)。

「横川省三」(よこかわしょうぞう 元治二(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の新聞記者・スパイ。南部盛岡藩出身。初名は勇治で、勇次のペン・ネームで活動することもあった。旧姓は三田村・山田(兵役逃れの目的で「徴兵養子」となったため)。若い頃には自由民権運動に加わり、「加波山事件」(明治一七(一八八四)年九月に発覚した、民権運動を厳しく弾圧した栃木県令三島通庸らに対する爆殺暗殺未遂事件。事前に発覚)により投獄された。また、明治二〇(一八八七)年には「保安条例」施行に伴い、自由民権運動家伊東圭介(後に衆議院議員)とともに皇居周囲三里以内からの追放を命ぜられている。その後、『朝日新聞』記者として、海軍軍人郡司成忠の千島列島探検隊に同行した特派員や、日清戦争の従軍記者などで活動をしたが、その後は記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。日露戦争開戦に際しては、北京公使館の内田康哉(やすや)清国公使に招かれ、青木宣純陸軍大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事した。ロシア軍の東清鉄道(ロシア帝国が満洲に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河(すいふんが)へと続く本線及びハルビンから南下して大連・旅順へと続く支線からなる。ロシアは先の日清戦争直後の日本による遼東半島領有を三国干渉で阻止した見返りとして一八九六年に清の李鴻章から満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた)爆破任務のため沖とともにラマ僧に変装して満州に潜伏したが、チチハルにて捕縛され、ハルピンで沖とともに銃殺刑に処された(以上も概ねウィキの「横川省三」に拠った)。]

2020/07/12

梅崎春生 砂時計 12

 

     12

 

 小さなくくり戸を窮屈にくぐり、まっくろに湿った地面を四五歩あるくと、そこにその家の離れの入口があった。離れといっても、納屋(なや)を改造して畳を敷いただけのもので、床を低く、屋根はトタンで葺(ふ)かれていた。雨声がそのトタンの上でかすかに鳴っている。手さぐりでその入口まで来た時、牛島はやっと佐介の肱(ひじ)を自分の掌から解放した。

「暗いな」

 放した掌の各指をいたわるように屈伸させ、牛島は顔を左右に動かして、分厚(ぶあつ)な闇を嗅ぐようにした。たてつけの悪い扉を、佐介は力をこめてガタピシと押しあけた。

「いま電燈をつけるよ」

 佐介は土間に靴を脱ぎ、ふたたび手探りで部屋の中に入って行った。牛島は表の闇に棒杭のように立ち、まだ闇にむかって鼻翼をびくびくうごめかしていた。そして呟(つぶ)いた。

「うん。相当ににおうもんだな」

 ねっとりとただよい流れるものは、まさしくカレー粉のにおいであった。道ひとつ隔てた向うの板塀のかなたから、湿った空気をゆるがして、ガシャ、ガシャ、ガシャと金属と金属がぶつかり合う音が、間断なくひびいてくる。それも一つや二つの金属ではなく、何十という固いものが一斉に衝突し合う音である。鉄の靴を穿(は)いた数十の人造人間が、大きな鉄板の上で早足行進をしている。そういう単純な幻想が、その時ふと牛島をとらえた。牛島はそれにおびえて二三歩闇の中をあとしざりした。スイッチをひねる音と同時に、電燈の光が納屋からサッと流れ出た。光に額をひっぱたかれて牛島は眼をパチパチさせた。

「まあ上れよ」部屋の中から佐介が言った。

 牛島は身ぶるいをひとつして土間に足を踏み入れ、おもむろにビニールの頰かむりを外(はず)し、次にレインコートを脱いで、粗(あら)い板壁の釘に並べてぶら下げた。裾からぼたぼたと滴が土間に落ちる。佐介はそれを気にして、罐詰の空き罐をそこに据えた。水滴はチピ、チピ、チピと罐の底にはねた。佐介の眼は、ぶら下げられたレインコートの、裾のかぎ裂きを見ていた。

「やはり――」身体を起しながら佐介はうす笑いと共に言った。「ロケーション先には行かなかったんだね」

「行かなかったよ。なぜ?」

「いや、なんでもない」

 牛島は靴を足から引き剝がし、ついでに濡れた双の靴下もべらべらと剝ぎ取った。裸の足の裏の皮膚は、一面になま白く、気味悪いようにふやけていた。牛島は忌々しげに舌打ちしながら、靴下を束ねて力まかせにしぼり上げた。青黒いしずくがそこからたらたらと土間に垂れ落ちた。しぼり上げた靴下はそのまま並んで釘にぶら下げられた。粗板壁にはパチンコ台みたいに無数に釘が打ちつけられていて、まだ遊んでいる釘もたくさんあった。

「あれが、その音かい?」

 ガシャガシャ音の方向を顎(あご)でしゃくりながら、牛島はのそのそと部屋に入ってきた。部屋といっても、柔道場で使用するような縁無し畳が六枚敷いてあるだけで、押入れもないから、壁際には寝具や行李(こうり)類がはだかのまま積み上げられている。部屋の真中には、小机が一つ置かれていた。机の上には小さく折り畳まれた紙片がぽつんと乗っていた。

「そうなんだよ。ここでは僕は被害者なんだ。大した被害者なんだよ」片づけようとした卓上ピアノを畳の上に戻し、佐介は不審そうに紙片をつまみ上げながら言った。

「研究所では一応、加害者の立場に立っているんだけどね」

「きっぱり加害者とも言えないぜ」牛島は机の前に大あぐらをかき、手刀で頸筋をトントンと叩いた。「加害者、加害者といい気になっているうちに、いつの間にか被害者の方に回っているかも知れないよ」

 つまみ上げた紙片は電報であった。佐介はそれをがさがさと拡げて読んだ。

 

 『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
 ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』

 

「ムリを言ってるよ」佐介は電報をぐしゃぐしゃに丸めながら呟いた。「隔日務という初めからの約束じゃないか。それをこんな雨の夜に、カレー粉会議もあるというのに――」

「何をぶつくさ言ってるんだ」牛島は佐介をじろりと見上げた。駅で侍ちぼうけを食わされた不機嫌な後味が、まだその牛島の頰骨に残っていた。「今丸めたのは、何だい。脅迫状か?」

「脅迫状じゃない。電報だよ」佐介はそっけなく答えた。

「あんたとは関係ないことだ」

「どれ」

 牛島の右手が突然カメレオンの舌のように素早く伸びて、次の瞬間電報は牛島の掌におさまっていた。佐介はあわててそれを取り返そうとしたが、牛島はそうさせないために、蟹(かに)のようにぐっと肩肱(ひじ)を張り、がさがさと拡げて大急ぎで黙読した。

(こいつも強引(ごういん)で身勝手だが――)電報を取り返すことをあきらめ、卓上ピアノを畳から行李の上に移しながら、佐介は考えた。(黒須玄一というのも、まったく強引で身勝手な人物だな。あれじゃ俺も爺さんたちに同情するよ。あそこでは俺は傍観者であろうと思っていたんだが、その立場もれいによってひっくり返るかなあ)

「何だい、一体、こりゃあ」電文の意味を判じかねるらしく、牛島は首をかたむけた。「クロスゲンイチてえのは、誰のことだい?」

「僕の別口(べつくち)の勤め先の大将だよ。それの呼出し電報だ」

「別口とはうめえ世渡りを考えたもんだな。二枚鑑札というわけか。で、今夜行くのか?」

「行かないよ。カレー粉対策協議会があるんだもの」佐介も疲れたように小机の前に横坐りになり、ふくらんだ皮鞄を引き寄せた。「さあ。早いとこ食事を済ませて、出かけなくちゃあ」

「そんな身勝手な言い草があるか」牛島は眉の根をぐっとふくらまし、ドスでも引っこ抜くような格好で、ポケットからウィスキーの瓶をぐいと引出した。「お前さんはおれと待ち合わせる約束をして、平気な顔で一時間も遅刻した。その上その俺を置きざりにして、カレー会議には定刻に出席するつもりか!」

「そういうわけじゃないけれど」佐介は困って鞄の上で指をもじもじ肋かした。「会議というものは大切だからねえ」

「じゃあ俺との待ち合わせは、大切でないのか」牛島の眉の根はさらにふくらみ、かすかにくろずんだ。それは憤怒というよりも、善良なる魂の孤独、とでも言ったものを感じさせた。「それじゃあ俺の立つ瀬はないじゃないか。ちったあ人の身にもなって考えろ」

「ではどうすればいいんだね?」

「とにかくコップを二つ持ってこい」牛島はおごそかな声で命令した。「一切はそれからの話だ」

 佐介はちょっとためらい、そして立ち上った。部屋の隅の棚に行き、飯用の茶碗と合成樹脂のコップを持って、机の前に戻ってきた。コップの方にはところどころ白い練歯磨が付着している。それもかまわず牛島は両方の器(うつわ)にウィスキーをとくとくと注ぎ、茶碗の方を抜け目なく自分の前に引き寄せた。そして佐介の鞄を顎でしゃくった。素直に器を持ってきたことによって、牛島の怒りとやるせなさは、やや和(なご)んできたようであった。

「プレスハムとトマトを出せよ。ハム三十匁とはケチな買い方をしたもんだな。そんなことじゃとても大人物にはなれないぞ」そして牛島は茶碗を唇に持って行き、ごくりと一口飲んだ。「ついでにパンも切れや。とにかく俺はものすごく腹が減っているんだ。富岳軒のカレーライスは、まったく盛りが悪いからなあ。あれじゃあ夕方までは保たない」

「カレーライスは厭だよ」鞄の中から包みを引きずり出しながら佐介が答えた。「だから会議をやるんだ」

「なるほどな。これじゃ厭にもなるだろうな」牛島はあらためて鼻をびくびく動かし、かなたのガシャガシャ音に耳をかたむけた。「しかし俺なら会議などは開かずに、俺一人で部屋を引越すな。その方がカンタンだし、さっぱりするじゃないか。なにもこんな小屋に踏みとどまって、カレーライスが嫌いになる手はねえだろう」

「船のネズミらしいことを言うね」佐介もコップを后唇に持って行った。「引越しのことは僕も考えた。何度引越ししようと思ったか知れやしない。その度に僕は僕を叱りつけた。自分のひるむ心を叱りつけた。ここで逃げ出すくらいなら、人間を止めにした方がいいんだ。ここが僕のぎりぎりのところなんだ!」

「何がぎりぎりだね?」佐介の語気におどろいたように牛島は眼をパチパチさせた。「俺にゃさっぱり判らねえ。早く引越して、カレーライスが好きになった方が、トクだと思うがなあ。なんなら俺が良い部屋を世話してやろうか」

「いいよ。この小屋に踏みとどまるよ」佐介はそっけなくハムをつまんで口の中に投げ込んだ。牛島もその真似をした。佐介は電熱器のスイッチを入れた。うずまき状のニクロム線は見る見る赤く熱してきた。「踏みとどまって会議をひらき、カレー粉と戦うんだ。脅迫状が来たってひるまない」

「あっ、そうだ。脅迫状と言えば――」怒りが突然よみがえってきたらしく、牛島は茶碗をぐいとあおり、熟れたトマトにぐいと嚙みついた。「お前、電車の中で、堂々と、あの手紙をひろげて読んでたじゃないか。あれほど俺がこんこんと言い聞かせたのに、そんな無茶をする。早くあの手紙を出せ。そしてその電熱器で燃しちゃえ」

「しかしこれは」内ポケットから封筒を取り出しながら佐介は弁解した。「研究所関係じゃないかも知れないんだよ」

「何でもいいから、燃すんだ!」牛島はいきり立った。酔いが牛島の感情を過多にさせていた。「危険なものを平気で持ってあるくかと思えば、片方では人に待ちぼけをくわせてケロリとしている。一時間、ああ、一時間、どんな思いで俺が待っていたか、お前にゃ判らないだろう。よし。お前は俺としばらくつき合い、カレー会議には一時間遅刻しろ!」

「そんなムチャな――」

「ムチャでない!」牛島はまたウィスキーを茶碗に充たしながら叱咤(しった)した。「俺にはその権利がある。お前は先刻俺から、一時間という時間を、まんまと盗み取った。盗まれたものは盗み返す権利がある。今度は俺がお前から、まるまる一時間を強奪(ごうだつ)するぞ。いや、利息がついて、一時間二十分だ。針金でしばり上げても、俺はお前を一時間二十分遅刻させるんだ」

「ああ、判ったよ」

 佐介は情なさそうに封筒をひろげ、ふわりと電熟器の上に乗せた。それを見て牛島は反射的に、さっきの電報をその上にかぶせた。重ねられた紙片は黒く焦げて反(そ)りかえり、ボッと焰を放って燃え上った。

「あんたは他人のことになると、引越しゃいいだろうなんて、無責任なことを言うが、自分のことになるとヤケに頑張るんだね」割箸のさきで黒く焦げた紙片をはらい落しながら、佐介は低い声で言った。「僕だってここで、カレー工場主の修羅吉五郎から、カレーの旨(うま)さを盗み取られたんだよ。判るだろう」

「判るよ」牛島はにぶい眼付きでうなずいた。「だから引越せばいいではないか」

「そういうわけには行かないよ。引越しという手は、ちょっと見には本手のようだが、つきつめるとやはり筋違いの手なんだ。ねえ、このにおいをかぎ、あのガシャガシャ音に耳をかたむけてごらん」

 からっぽの胃袋にしみこんだウィスキーは、ひどく回りが早く、牛島の顔色は粘土色からもう赤土色に変化していた。言葉も舌たるくなっている。牛島は顔を上げ、大きく深呼吸をし、音の方向に耳をかたむけた。単調な金属性の反復音は、永久に止むことなき重さとねばっこさをもって、夜の空気をずしんずしんとゆるがしてくる。牛島の視線はその時、行李の上の卓上ピアノの赤さに偶然にとまっていた。

「ねえ。このにおいとこの音、いくら逃げ出したって、形を変えてかならず僕らを追っかけてくるよ。どこまでも、どこまでも」

「あの卓上ピアノな」牛島は行李の上を指してぼんやりした声を出した。「あれ、たしかハムがデパートで買ったやつだと思うんだが、どんないきさつでお前さんがそれをウロチョロと持ち歩いたんだい?」

「ゆずって貰ったんだ」

「なぜ? お前さんが叩くためにか」

「いや、楽しみのない爺さんたちに寄贈しようと思ったんだよ」

「爺さんたち?」牛島は、いぶかしげに眼をぎろりと光らせた。「それでハムは、直ぐに手放したのかね?」

 佐介はうなずいて見せた。酔いのために佐介もいくらかあかい顔色になっていた。

「畜生。やっぱりハムの奴は、俺のあとをつけて来たんだな。ピアノを買いに来たんだなぞと言いおって。これも須貝のさしがねにきまっている。よし、皆がそういう気持なら、俺にも俺の考えがあるぞ」そして牛島は手を上げて、佐介の顔をまっすぐ指差した。「お前もきゃつらと同腹か?」

「冗談じゃない」と佐介は掌をくにゃくにゃとふった。「僕だってあの時、一緒にハム嬢につけられたんだよ。ハム嬢につけられ、さっきはあんたにつけられてさ、そしてそんなことを言われたんじゃあ、僕も立つ瀬がない」

「そうか?」牛島はなおも疑わしげな眼で佐介を直視した。「お前さん、俺に関して、須貝から何か秘密命令でも受けてやしねえだろうな。U十八号とか何とかさ」

「ううん。飛んでもない。U十八号なんて、本当のところ全然初耳だ」

「そうか。それならいいが」牛島は少し安堵(あんど)の色を見せて、ふたたびトマトにかじりついた。液汁が畳にぼたぼたとしたたった。牛島はあぐらの片足を立て、蹠(あしうら)で不器用にそれを拭きながら、押しつけるような声を出した。「俺は今日の昼間、お前さんと別れ、ひとりになってデパートの屋上にのぼり、いろんなことを考えた。あらゆる角度から、現在の研究所の情勢、そこに置かれている俺たちの位置について、黙々と検討してみた。高層建築の屋上というやつは、たしかに人間の神経をするどくし、思考力を増進させるもんだな。思考力だけでなく、推理力もだ」

「推理力だけでなく、カンもだろう」

「そうだ。カンも大いに働いた」牛島はあぐらの両足を擢(かい)のようにこいで、身体をぐいぐいと前に乗り出し、キラリと眼を光らせた。「その俺のするどい推理力とカンに賭けて言うが、A金庫の鍵型をとった犯人は、いや、犯人と言うとカドが立つな、鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」

 

梅崎春生 砂時計 11

 

     11

 

 黒須院長が玉砂利をぎしぎしと踏み、夕陽養老院の門を入ってきた時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。両側の野菜畠におちる雨声は、したしく院長の耳をくすぐり、院長は胸を張って勢いよく玄関に歩を進めた。二階建ての寮舎の窓々にはすでに燈が入り、それが自分の帰来を歓迎しているかの如く、院長には感じられた。久しぶりで旨(うま)いものに満腹したせいもあって、院長の気持は平穏に和(なご)み、幸福ですらあった。院長は傘をたたんで水を切り、はずみをつけて玄関に飛び上った。

 しかし院長の気持の平穏は、玄関に足を踏み入れたとたんに、がしゃがしゃにかき乱されたのだ。玄関脇の掲示板の院長告示の上に、誰が書いたのか赤インクの筆太文字で、

『院長横暴!』

『海坊主!』

 と、なぐり書きがしてあったからだ。それを見た瞬間、黒須院長の太い眉毛は見る見るつり上った。多量の憤怒と少量の困惑を顔いっぱいにみなぎらせ、院長はその文字にむかって仁王立ちになり、威嚇(いかく)的に双のこぶしをふり上げた。洋傘の尖端も宙を切って、雫を遠くまではね飛ばした。

「ああ、何たる不祥事(ふしょうじ)だ!」院長は告示にむかってかみつくように怒鳴った。「こんな悪質なイタズラをやったのは、一体何奴だ!」

 その時、かなたの東寮の廊下の曲り角からのぞいていた二つの首が、その怒声におびえたようにスッと引っ込み、そして足音が乱れてばたばたと遠ざかって行く。黒須院長はぎょっとしたようにそちらに顔をふり向けたが、もちろんその時は廊下は素通しで、天井からうすぐらい電燈がぶら下っているだけで、何者の姿も認められなかった。曲り角まで疾走して足音の主を確かめたい衝動が、一瞬黒須院長をそそのかしたが、院長の威厳ということを考えて、彼はやっと踏みとどまった。

「東寮のやつらだな」院長はふりあげたこぶしをおろしながら、腹立たしげに呟(つぶ)いた。「東寮にはタチの悪い奴が多い。あの不逞(ふてい)のやから奴!」

 足音は東寮の廊下をかけ抜け、どんづまりの部屋に一気にかけこんだ。その部屋には十人ばかりの爺さんたちが、坐ったり寝そべったり、それぞれの姿勢で屯(たむ)ろしていたが、かけこんだ二人の見張り爺に一斉に視線をふり向けた。見張り爺は二人とも呼吸をぜいぜいはずませて亢奮していた。

「帰って来たか?」

「戻って来たか?」

 異口同音の質問に、見張り爺はそれぞれあえぎながら口早やに報告した。

「今戻って来たぞ」

「告示を見て、えらく怒っとったぞ」

「大きな声を出してゲンコツを振り上げたぞ」

「振り上げたとたんに、傘なんかすっ飛んでしまったぞ」

 見張り爺たちは院長の手振り身振りを真似しながら、口角から泡をとばして説明をつづけた。

「よし。もう判った」

 部屋のまんなかに寝そべっていた遊佐爺が、掌をふって重々しく発言を制した。今まで手を休めていたニラ爺が、我にかえったように遊佐爺の背に指をあて、ぐいぐいと指圧を再開した。ニラ爺は指圧が上手で、一回四十円の料金で院内営業をやっている。遊佐爺なんかもその上得意の一人であった。

「院長が激怒したということはよく判った。御苦労だったな」遊佐爺は気持よさそうに指圧療法を受けながら、見張り爺たちの労をねぎらった。「先ず作戦は当った。怒らせて気持を動揺させることに、先ず我々は成功したようだな。向うは気持が大いに乱れ、こちらはしごく平静な気持とくれば、今夜の会談は戦わずしてもう半分はこちらが勝ったようなものだ。そうか。海坊主は頭をふり立てて怒ったか」

「愉快。愉快」松木爺が掌をパチパチたたいて叫んだ。

「俺たちは先ず先取得点をあげたぞ!」

「まだよろこぶのは早い」うるさ型の柿本爺が松木爺をじろりとにらんで、にがにがしげにたしなめた。「今頃から有頂天になると、それこそ向うの思う壺だ。そんな単純な、一筋繩で行くような相手か!」

 玄関脇の掲示板の前で、今や黒須院長は眼を閉じ、下腹に両掌をあてて、しきりに腹式呼吸をこころみていた。空気が束になって大きく鼻孔に吸い込まれ、また束になって大きくはき出される。院長の身体はさながら巨大な一個のふいごとなり、ふいごになることによって院長は怒りをしずめ、気持の平衡を取り戻そうと努力していた。黒須院長かっと眼を見開いた。

「これは同一人の字ではないな」『院長横暴!』と『海坊主!』の字体をしさいに見くらべながら、黒須院長はつぶやいた。憤怒はしだいにおさまり、闘志に変りつつあった。そう言えば二つの文言の字体は同じではなかった。院長はさらに眼を告示に近づけた。「ふん。同一人でないとすれば、このイタズラは二人以上の人間によってなされたことになる。これが一人ならば、発作的な行動と考えられるが、二人以上とくればこれは明かに計画的だ。院長に対する挑戦と考える他はない」

 黒須院長はがっしりと腕を組んだ。そして素早く首を動かして東寮廊下の方をふり向いたが、やはり廊下はがらんとして、誰の姿も見当らなかった。院長はそこでまた顔を元に戻して、ふたたび告示をにらみつけた。

「このイタズラの犯人は、赤インクを持ち筆を持っている。抜き打ちの室内検査をやれば、きっと犯人はあがるだろうが、それには人手が足りないな。それにしても犯人は一体何奴(なにやつ)か?」腕をとき顎鬚(あごひげ)をしごきながら、黒須院長は首をかたむけた。「院長横暴、というのは意味は判るが、この、海坊主、というのはどういう意味だろう?」

 剛(こわ)い顎鬚をざらざらしごき、黒須院長はしばらく考え込んでいたが、とうとう判らなかったらしく、あきらめたように廊下のすみに行き、洋傘をひろい上げた。そして急に眼をするどくして、左右の廊下を見回し、また掲示板の前に戻ってきた。この告示をこのままにして置くか、それとも引き剝ぐか、黒須院長は迷っていた。そのままにして置くことはイタズラの容認を示し、引き剝ぐことはある意味では敗北を意味するわけであった。院長は手を掲示板へ伸ばそうとして、また引っ込め、あらためて告示の末尾に眼をむけた。

 

  『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
  ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
  ものとす。              院長㊞』

 

(こんなイタズラをしたやつも、もちろん破損破壊の条項に適合する)傘を床にぎりぎりと突き立てながら黒須院長は考えた。(そうすればこのイタズラの犯人は、ニラ爺の例に即して、退院処分にしなけりゃならん。もちろんこの犯人は、滝爺松爺一味にきまっているが、どうやってその証拠をおさめたものか)

 院長は傘を脇差しのように腰にかまえ、のっしのっしと階段をのぼり始めた。(こういうことはあまりやりたくないけれども、万(ばん)やむを得ないなら、在院老人の中から素姓(すじょう)や素質のいいのを二三選んで、秘密スパイに任命するか。そうすれば犯人は直ぐに挙がるだろう)

 階段を登り切ると、黒須院長は院長室の扉を押し、電燈のスイッチを上げた。大きな電気スタンドに燈がともった。院長はすぐに回転椅子に腰をおろさず、動物園の熊のように室の中を行ったり来たりし始めた。かなた東寮廊下のどんづまりの部屋のガラス窓から、見張り爺の顔がこちらを見上げていた。

「そら。院長室に燈がついたぞ」見張り爺が一座に報告をした。「海坊主はしきりに部屋の中を歩き回っているらしい」

 指圧師ニラ爺と指圧されている遊佐爺をのぞく全員は、たちまちどやどやと立ち上って、窓辺にそれぞれ取りついた。院長室の窓は曇りガラスだが、その乳色にうるむ窓の光を、ひとつの影が規則正しくさえぎって動いていた。それはその輪郭からしても院長の影にちがいなかった。腹這いになったまま遊佐爺が鎌首をもたげて聞いた。

「歩き回っているか?」

「歩き回っている。歩き回っている」と松木爺が答えた。

「よっぽどムシャクシャしているらしいぞ。愉快。愉快」

 窓辺にとりついた全員は、頭微鏡をのぞく生物学者の熱情と、女湯をのぞく痴漢の好奇心をあわせもち、胸をどきどきさせながら、院長室の窓を見上げていた。その時影は突然大きく不規則に動き、そしてふっと曇りガラスの面から消え去ってしまった。松木爺が遊佐爺に報告した。

「動き回るのを止めたぞ」

 黒須院長は動き回ることをやめ、大戸棚の上から硯箱をおろして、回転椅子にふかぶかと腰をおろした。卓上に紙をのべ、眼を閉じて深呼吸を開始した。あのムナクソの悪い告示文を剝(は)ぎ取り、ふたたび同文の告示文を貼りつけるつもりである。閉じた院長の瞼の裡(うち)に、父親の影像がぼんやりうかび上ってきた。父親の顔はきびしく、院長を叱りつけるようであった。

「お父さん。……お父さん」院長はお祈りでもするように呟いた。「お父さんの遺言のまま、僕は信念をもって生きています」

 黒須院長は眼をかっと見開いた。そしておもむろに硯箱のふたをとり、大きな墨をわしづかみにして、しずかにすり始めた。墨のにおいが院長の鼻もとにただよってきた。

 

梅崎春生 砂時計 10

 

    10

 

 追加の鰻大串一本と、そえものの奈良漬をすっかり食べ終ると、さすがに黒須院長も腹いっぱいになったらしく、大きくひとつ背仲びをし、それから熱い茶をすすりながら、満足げにあたりを見回した。せまい店内に、客は黒須院長だけであったが、外の小路には人通りが繁く、洋傘と洋傘はぶつかり合い、中にはのれんの隙間から店内をのぞきこみ、そのまま行き過ぎて行く男女などもあった。向いのパチンコ屋からはひっきりなしに、玉の弾ける音、ざらざらと流れ出る音が、にぎやかに聞えてくる。黒須院長は茶碗を持ちかえて、調理場の方におもむろに首を動かした。調理場の横に畳敷きの小部屋があって、そこに一人の小さな老婆が先刻から、向うむきにひっそりと坐っている。針仕事かなにかをしているらしい。表のにぎやかさにことさら背を向けた風情(ふぜい)で、そのかたくなに曲った背中を眺めながら、黒須院長はふと考えた。(つまり、老人というやつは、死ぬために生きているんだな)その着想は黒須院長をすっかり満足させた。院長はつま楊枝を横ぐわえにして、一瞬目を凝(こ)らし、老婆の背中にしげしげと見入った。(子供が生きているのは、大人になるためと同じ如くにだ。死ぬために生きているのなら、我々壮者は出来るだけ手を尽して、彼等を死なしめて上げるべく努力しなければならん。それが我々の責務であり、親切と言うものだ)院長は老婆の背中に、在院老人たちの顔をずらずらと思いうかべながら、重々しくうなずき、そして詰襟服のポケットを探って奥に声をかけた。

「代はここに置いとくよ」

卓の上に紙幣や硬貨をならべ終え、店名入りの広告マッチをポケットにしまうと、黒須院長は勢いよく立ち上った。のれんを禿げ頭でわけ、洋傘をぐいとひらいた。それをパチンコ屋から出てきたものとカン違いをした景品買いの女が、黒須院長によりそうように近づいてきたが、院長にひとにらみされて、あわてて軒下に退散した。院長が改札口の近くまでやって来た時、牛島康之は円柱の下に佇(た)っていなかった。その場所には小さな新聞売台が置かれ、頭髪を長くした青年が二人元気のいい声で『アカハタ』の呼び売りをしている。牛島康之は既にそこからずっと離れた別の柱のかげに移動し、時々顔をちらちらのぞかせて、改札目付近を監視していた。この敏感なネズミのような『侍ち男』は、佐介の遅刻になにか不吉な異変みたいなものを感じ、いくらかおどおどしているらしかった。電気時計は五時五分前を指している。牛島は柱のかげに頭をひっこめ、弱々しく舌打ちをして呟いた。

「畜生。五時までにやって来なけりゃ、もう待っててやらねえぞ」

 黒須院長は洋傘を小脇にかかえたまま、『アカハタ』売台に眼をとめ、雑踏の中でちょっと立ち止り、その方を見据えるようにした。青年たちはなおも声をからして熱心に叫んでいる。でも熱心に叫んでいる割合には、『アカハタ』の売れ行きは良くないようだったし、ただ叫ぶために叫んでいると見えなくもなかった。院長の大きな軀(からだ)は人波に押されて、再びゆるゆると動き出した。(ふん、『アカハタ』か)脚をのろのろと動かしながら、視線は『アカハタ』売台に固定させ、院長は舌なめずりしつつ考えていた。唇にはまだ鰻の味が残っていた。(あいつら、滝川や松木、それに道佐爺なども、ほんとにアカの一味かも知れんな。アカであったら、どうしたらよかろう?)院長はしかしアカに関しての知識はほとんど持っていなかった。書道教師の父親から、院長は少年時代に、アカは疫痢(えきり)やコレラより恐いものだと、呉々も教えこまれていた。院長はあざらしのようにぶるんと顔を振って、視線を『アカハタ』青年から引っ剝がし、肩をぐんとそびやかして恐怖を追っぱらった。そしてそのまま音もなく、改札口に吸い込まれた。改札係の両手は相変らず派手な動き方をして、あふれる人波を次々にさばいている。かなたの円柱のかげから、また牛島が形式的に顔を出して、背伸びをした。

「もう来ねえつもりかな?」しかし牛島の眼はとたんに緊張して、爪先立つだけでは足らず、両腕で柱を抱いてよじ登ろうとする格好になった。そして忌々(いまいま)しげにつぶやいた。「あの野郎、今頃になってのそのそと来やがる。まるまる一時間の遅刻じゃないか。それにありゃなんて格好だ。お上りさんじゃあるまいし」

『アカハタ』売台のすこし手前のところで、栗山佐介は立ち止り、あたりをきょろきょろ見回していた。卓上ピアノと鞄を重ねて胸に抱き、洋傘の曲り柄は二の腕に辛うじてかかり、不安定にふらふらとぶら下っていた。その窮屈な野暮ったい格好で、佐介はしきりに牛島康之を求めて四周(あたり)を見回していた。佐介のその視線を避けて、牛島はすばやく顔をひっこめ、柱のかげにしゃがみこんで莨(たばこ)に火をつけた。(どうもあいつはおかしいぞ)煙を吸い込みながら牛島はいつも考えることを考えた。(平気で人を待たせて、今頃きょろきょろしてやがる。ほんとにあいつはバカか、それとも何かたくらんでやがるのか――)莨はしめって味が悪かった。莨だけでなく、駅舎内部の空気は、乗降客の雨衣や傘からたちのぼる湿気で、むっと濁っていた。佐介は電気時計を見上げた。その瞬間鴨志田の洋傘は、たまりかねたように腕から外(はず)れて、コンクリートの床にぐしゃりと辷(すべ)り落ちた。佐介があわてて腰を曲げようとした時、包装紙がやぶれてほとんどむき出しになった卓上ピアノは、コロロンと不随意な鳴り方をした。

(もうどこかに行っちゃったんだろう。なにしろ一時間の遅刻だからな)今度は胸の荷物に洋傘をいっしょくたにかかえ込み、佐介はきょろきょろするのをやめ、のそのそと切符売場の方に歩き出した。研究所勤務に彼は定期券を使用していない。隔日の通勤だから、定期ではむしろ損になるのだ。牛島は莨をふみにじり、柱のかげから飛び出し、膝を曲げるような奇妙な歩き方で(背丈を低くして人波に顔を没するためにだ)そのあとを追った。そして佐介のすぐあとに並び、手もとをのぞき込みながら同じ方角の切符を買い求めたのに、佐介はそれに全然気がつかないでいた。気がつかないまま背中を押されるようにして、窮屈に改札口を通り技けた。改札を通過した群衆は、それぞれ目的の線のホームに、ひしめき合いながら大束になって分れてゆく。そのひとつの束の流れに乗り、五分後に佐介がやっとQ電鉄のホームに到着した。そのホームにも人はあふれ、スピーカーの鼻にかかった声が、高い天蓋に反響している。やがて二番線ホームに三両連結の準急電車が、しずしずと徐行しながら入ってきた。電車は反対の扉から少量の乗客をはき出し、それからこちら側の扉をひらいた。ホームの上の群衆は自然の法則にしたがって、下水溝に流れ入る塵埃のように、各扉にずるずると引っかかりながら次々吸い込まれて行く。その流れにまきこまれて、足を動かした覚えはないのに、まるでエスカレーターに乗ったかのように、佐介の体もいつの間にか電車の中に搬入されていた。ほとんど身動きも出来ない姿勢で、前後左右からしめつけられていた。発車のベルが鳴り、扉が一斉にギイとしまると、湿ったもののにおいがむっと高まってきた。ゴム引きのにおいや毛織物のにおい、皮革や金属の発するにおい、呼吸や滓(かす)や分泌物や、それらをひっくるめた人間という生きもののにおい……。

(とにかく、ここには、人間が多過ぎるんだ。ここだけでなく、どこもかしこも――)ピアノの角で肋骨(ろっこつ)をぎりぎり押されながら、佐介はぼんやりとそんなことを考えていた。ビールの酔いがまだ気持をだるくしていて、牛島のことなんかすっかり忘れ果てていた。(あまり多過ぎるということのために、人間は人間でなくなろうとしているのだ。人間以外のものになろうとしている。ただはめこまれるだけの木(もく)ネジになりかかっている。昔はよかった。昔は人がすくなかった。だから人間は完全人間として生きることが出来た。たとえば他人に対しても、自然に対しても、病気に対しても、人間は人間らしく生きていた。今はちがう。今は自然は人間にとってもう自然ではないし、病気ももう病気でなくなろうとしているのだ。自然は建物や乗物や爆弾にかわってしまった。いろんなものが人間をおきざりにして、変ったり進んだりしてしまったんだ。人間はたちまち遅れて、おろおろ立ち止って人間であることをやめてしまうか、オートマティックに部品として生き残るか、それ以外に手はなくなった。生き甲斐の『甲斐』が人間から失われてしまって、雑多な日常にダニのようにくっついていることだけで精いっぱいで、それで生きていると思い込んでいる。ダニも病んでいるし、吸いつくその本体も病んでいる。それに病んでいる自覚もないし、自分が不幸であることも知らないのだ)車体は速力を増して左右に動揺し始めた。佐介は人の頭の間から、窓外の景色をとぎれとぎれに眺めていた。(自分が幸福であることを知らない連中に、お前は幸福だと知らせてやることよりも、自分が不幸であることを知らない連中に、お前は本当は不幸なんだぞと知らせてやることの方が、よっぽどイミがあるのじゃなかろうか。つまり人を幸福にすることよりも、人を不幸にすることの方が……)車内にじとじととこもったもののにおいの中に、その瞬間佐介の鼻はふと微かなカレーのにおいをかぎ当てた。佐介は眉をひそめて思考を中止し、鼻をくんくんと鳴らしながち顔を動かした。カレーのにおいはたしかに直ぐ近くでただよい動いているようであった。(俺の洋服やレインコートの地にまでしみ込んだカレー粉が、前後左右から押しつけられて、じわじわと滲(にじ)み出て来るのかも知れないな)佐介は右手を混み合いの圧迫からスポッと引きぬき、袖口あたりをそっと嗅いでみた。それからその手を不自然に曲げて、少しずつ荷物と胸の間に差込んだ。その人差し指が胸の内ポケットの中のがさがさしたものに触れた。そこらで線路が大きく曲るらしく、乗客の重味が一斉に片側にかかり、佐介の右掌は卓上ピアノと胸の間にぐぐっと万力(まんりき)のようにしめつけられた。佐介は声にならない悲鳴を上げ、力のおもむくまま全身をうしろのものに押しつけた。

「イテテテ」

 佐介のすぐ背後にうまい具合にはさまっていた牛島康之は、佐介の肩で顔面をしたたか圧迫され、たえかねて小さな悲鳴を上げた。この実直な尾行者は、電車の内でも膝を半ば曲げ、背丈を四五寸ばかり倹約していたのだ。車内全部に声ある悲鳴、声なき悲鳴を充満させて、車体のひしぎはやっと正常に立ち戻った。人々は束の間を稼ぐように、大きく息を吸い、またいそがしく息をはき出した。牛島は憤然と足を伸ばし、本来の背丈になり、押しつけられた四角な顔を腹だたしそうに掌で撫で回した。佐介は内ポケットのがさがさをつまんで、右手をそこから一気に引っこ抜いた。つまみ上げたものはれいの無記名の脅迫状であった。佐介は窮屈そうにその裏表をしらべ、顔の前に持って行き、鼻を鳴らしてそのにおいをかいだ。牛島はそっと爪先立ち、肩越しにそれをのぞき込んだ。

(あれほど言って置いたのに、まだ平気で持ち回ってやがる!)牛島は眼を三角につり上げて、佐介の後頭部をにらみつけた。(万一この電車がテンプクして、乗客全員死亡ということになってみろ。貴様の屍体のポケットのその手紙から、貴様の仕事がばれ、ついでに白川研究所の仕事がばれ、そしてこの俺までが迷惑することになるじゃねえか。あ、そうか、全員死亡とすると、俺まで死んじまうわけになるか)もちろんこの声なき叱声は、佐介の耳には入らなかった。においを嗅ぎ終ると、佐介はちょっと首をかしげ、今度は封筒の下辺を口にぐわえ、指で中身の使僕を引っぱり出そうとこころみた。満員電車の中だから、なかなかその作業は難渋を極めた。

「えへ、えヘヘ」

 封筒の一端をくわえたまま、突然后の端からだらしない笑いを洩(も)らしながら、佐介はやっとペラペラの便箋を引っぱり出した。そんな危険な便箋を人前で引っぱり出させまいと、牛島が指を鈎の手に曲げて、背後から佐介の脇の下をこちょこちょとくすぐったのだ。

「えヘヘヘ」

 佐介は身もだえしながら、便箋をまた鼻の下に持って行った。そして宙でそれをがさがさと拡げた。佐介は笑いを収めた。くすぐりを牛島が中止したからだ。便箋をおおっぴらに拡げた以上、これ以上くすぐって佐介に気付かれると、周囲から同類と見なされる危険があったのだ。夕方の満員電車の乏しい光線の中で、佐介はふたたびその文言を、わざとらしい活字体のペン字の文章を黙読した。

 

 『今の調査を打ち切れ。打ち切らねばお前の身は危
 険である。右警告す』

 

 佐介と腹背を接して、牛島はむっとした表情で、太い頸(くび)を可能なだけ横にねじ向けていた。そっぽ向くことで無関係者の感じを出そうと試みていた。しかし牛島の配慮にかかわらず、佐介の周囲の乗客たちは、押し合いへし合いすることだけで手いっぱいで、誰ひとりとしてそのピラピラの便箋に関心を示してはいないようであった。佐介は読み終ると、またそれを鼻の頭に持って行った。さっきただよったカレーのにおいは至極かすかなものであったし、それに鼻が慣れてバカになったせいもあって、においの本体がこれかどうかもう見極めがつかなくなっていた。

(一体この手紙の発信者は――)便箋を苦労して封筒の中に戻しながら佐介は考えた。(白川研究所の事件の関係者かそれとも修羅印カレー粉関係か?)研究所気付で来たのだから、研究所関係とも考えられるが、しかしカレー粉問題も急迫していて、その方面からの警告かとも考えられる。さっきどこからともなくカレー粉のにおいがしたのも怪しい。この手紙から発したものとすれば、カレー粉関係だろうと推定出来るが、今のところはまだハッキリしない。しかしいずれにしても、彼の調査活動を封じようとしていることだけは、確かであった。佐介はふくらんだ封筒を二つに折り、車休の動揺の隙をねらって、やっと元の内ポケットに戻すことに成功した。そして佐介はまたぼんやりした眼付きになって、人の頭と頭の間から窓外に眼を放った。濡れた窓ガラスの向うに、黒い屋根や白い道が滲んだまま、うしろへうしろへかけ抜けてゆく。

(とにかくどこかに敵がいる。目に見えない敵がいるのだ)佐介はぎっしりと自分を取り巻く乗客の頭を見回しながら、やや悲壮な気持でそんなことをかんがえた。満員電車に乗ったりすし詰めの映画館に入ったりする時、いつも佐介は感傷的になり、孤独的になる傾向があった。準急電車はちょっとスピードをゆるめ、駅をひとつすっ飛ばし、また森々と速力を上げた。(目に見える敵、目に見えない敵から、じりじりと包囲されているようだ。そう思うこの俺も、他の誰かにとっては目に見えない敵であり、また別の誰かには目に見える敵になっている。俺たちがもしお互いにつながり合っているとすれば、そういう関係においてつながっているのだ)

 しきりに周囲を見回していた佐介の眼は(周囲と言っても背後までは首が回らなかったが)、突然こみ上げてくる憎悪と苦痛をふくんでキラリと光った。またしても車体が片側に傾いて、周囲からぎゅうとしめ上げられたのだ。胸にはさんだ卓上ピアノの木質部が、グリグリグリというような音を発したようなので、佐介は必死にそれをかばいながら、思わず小さくうめき声を立てた。(ああ、皆してこの俺を、俺と卓上ピアノを、不法にもぎゅうぎゅうしめつける)その佐介の背に接して、牛島は歯を食いしばり、額から汗をふき出しながら、声なき怒声を立てていた。(畜生め、皆でよってたかってこの俺を、ぎゅうぎゅうぎゅうとしめ上げる。俺をペチャンコに押しつぶす気か!)

 この二人だけでなく、車内のいたるところで、うめき声や悲鳴が不規則にあがっていた。乗客の一人々々が、周囲をぎゅうぎゅう押しまくることによって、周囲からぎゅうぎゅう押しまくられていた。すべての乗客は、被害者であると同時に、加害者でもあった。力学の法則によって彼等は余儀なく加害者となり、その結果としてお互いからぎゅうぎゅうしめ上げられていた。しめ上げられて呪詛(じゅそ)のうめきを発していた。準急電車はそれらの呪詛のうめきを満載して、雨の中をごうごうと走りつづけた。

 

 下車駅に近づいても、佐介はまだ牛島が同車していることに気がついていなかった。それは牛島のかくれ方が巧妙だったせいではなく、佐介がとかく他のことに気を取られて、窓外などをぼんやり眺めていたからだ。停車のたびに乗客の数はすこしずつ滅少し、人々は自分の周囲に空間を取り戻し、今やカーブにさしかかっても相䦧(あいせめ)ぐことなく、立ったものは吊皮とともに、腰かけたものは座席とともに、先ずはゆるやかに揺れていた。平安と言うより虚脱にちかいものが、そこらにうっすらとただよっている。電車は十三号踏切を越えてから徐行にうつり、駅に入ってがたぴしと停車した。佐介は扉から狭い歩廊に降り立った。天蓋のない歩廊には雨がしぶいていた。牛島は別の扉から降りた。空の暗さをうつしてあたりはややうす暗くなっている。駅員詰所の板壁の賃上闘争のポスターを横目で見ながら、佐介は改札口を通り抜けた。それから五六人つづき、すこし遅れて一番最後に牛島が通った。板裏草履をつっかけた改札係は、牛島の風貌や風体から私服刑事かなにかとカン違いしたらしく、ちょいと目礼みたいなことをし、切符を受取らないでとことこと詰所に入っていった。牛島はそのことでやや気をよくして、頰をにやにやとゆるめながら、軒下に立ち止って、鞄の中からビニールの布をとり出した。レインコートの釦(ボタン)をきちんとかけ、ビニールの布で頭を包むと、まるでそれは古下駄の台を頭にした案山子(かかし)みたいに見えた。その格好で牛島は佐介の方を見た。佐介はかなた踏切の遮断機(しゃだんき)の前に立ち止っている。洋傘をひろげて肩にかつぎ、持ちにくそうに大きな荷物を胸にかかえている。

「あれはたしかにハムに無理矢理に買わせた卓上ピアノのようだが――」佐介の姿を遠くから眺めながら、牛島はいぶかしげにつぶやいた。「一体それをどうして今あいつがかかえてるんだろう。少しへんだな。もしかするとあいつとハムは、俺なんかの目の届かないところで、情を通じ合っているのかも知れんぞ」

 筋違いの嫉妬が一瞬むらむらと牛島の胸を灼(や)いた。今日の昼、定規の角で、スカートの上から熊井の尻にいたずらをした。そのぶりぶりしたなやましい感触を牛島はありありと思い出していたのだ。その牛島のビニール布をあおって、そばの線路を準急電車が轟(ごう)と通り過ぎ、遮断機はするすると上った。ごちゃごちゃにたまっていた人間や自転車や小型自動車などが、両側から一斉に勤き、線路上に入り乱れた。そこに混った佐介の姿を見定めて、牛島は駅の軒下から雨の中に足を踏み出した。雨滴がつめたく牛島の頰にあたった。

 踏切をわたったところから始まるサクラ商店街は、雨天にもかかわらず、まだ夕方の買物客が行ったり来たりしていた。佐介は肉屋に寄りプレスハムを三十匁[やぶちゃん注:百十二・五グラム。]、八百屋でトマトを三個、パン屋に立ち寄ってパンを一斤買い求めた。いつも買い慣れているらしく、佐介はてきぱきと品物を受取り、てきぱきと代金を支払った。最後のパン屋で、パンを直ぐ食べられるように切って貰う間、店の棚にずらずらと並べられた修羅印カレー粉の罐を、佐介はしばらく眼を吊り上げるようにしてにらみつけていた。佐介が店に立ち寄る度に、牛島もその店の五、六軒手前で立ち止り、電柱のかげや理髪店の看板のかげにかくれて、不機嫌な顔で佐介を監視していた。この奇妙な尾行男は、もう自分が何のために尾行しているのか、自分でもよく判らなくなっていた。尾行するために尾行する。尾行欲を満足させるために尾行する、そうとでも考える他はないようなやけっぱちな状態になっていたのだ。傘を持たないので雨はようしゃなくビニールの隙間から牛島の顔を濡らした。

「もういい加減にこの俺に気がついたらどうだ」オート三輪のかげから、パン屋の佐介をじっと監視しながら、牛島は情なさそうにぼやいて、鼻をくすんと鳴らした。「気がついてくれなきゃ、風邪をひいちまうじゃないか。こんな抜け作のあとをつける気をおこすなんて、少々俺もヤキが回ったな。よし、こうなれば、あいつ、六時から会合があると言いおったが、それが何の会合か、是が非でも突きとめてやるぞ!」

 牛島は職業的情熱をふるい起すように、力をこめて二三度足踏みをした。水のしみ入った靴の中で、濡れた靴下がその度にぐしゃぐしゃと音を立てた。やがて佐介はパンとトマトとハムを鞄の中にぎゅうぎゅう押し込み、パン屋をよちよちと出て来た。いろんなものを詰めこんだので、ぺしゃんこの皮鞄は見違えるようにふくらみ、しかも中身がやわらかい食料品なので、なおのこと持ちにくそうに見えた。持ちにくいことのために傘の方がおろそかになり、とかく通行人の傘とぶつかっては雫(しずく)を飛ばすので、まるで酔っぱらいかチンドン屋のように、佐介は右へ行ったり左に寄ったりして歩いた。(雨はイヤだな、膝は痛むし)傘のぶつかり合いに辛抱出来なくなったように、佐介は人気(ひとけ)のない横町に折れ込みながら考えた。(雨が降ると、カレー粉のにおいも強くなる。今頃は俺の部屋も、カレーのにおいがぷんぷんこもっていることだろう。あれはきっと、カレー粉が雨のために遠くまで行かず、近所にばかり沈澱(ちんでん)してしまうせいに違いない)佐介は昨夜のカレー粉対策協議会の会合のことを思いうかべた。昨夜は十五人ばかりの男女があつまり、午前二時頃まで話し合ったのだ。言説はさまざまにわかれた。工場に忍び入ってカレー原料に砂をぶっかけろ。ウスとキネをぶっこわせ。そんな最強硬派から準強硬派、中間派、軟弱派といろいろあったが、それは手段方法のちがいだけで、身辺からカレー粉を排除しようという点ではすべて一致していた。佐介はここでは灰色派ということになっていた。灰色派は佐介ひとりであった。(灰色派か)佐介は傘をかたむけてサクラ碁会所の前に立ち止った。サクラ碁会所は雨のためにガラス戸をたてていた。三組の客が盤をはさんでいる。道路に一番近い盤面を佐介はじっとのぞきこんだ。肥った席亭が大儀そうに頸(くび)を回して、その佐介の顔をガラス越しにじろりと見た。そして身ぶりで、上ってこないか、と誘った。佐介は首をふり、まだ夕食前だと知らせるなめに、ふくらんだ鞄を動かして見せた。席亭にはその仕草の意味が判らなかった。席亭はあいまいな顔付きになって盤面に視線を戻した。そして石をつまみ上げてパチリと打った。(碁はいいな)あちこちの石の形に見入りながら佐介は思った。(この世とちがって碁は平面だし、単純でいて変化があるし――)横町に折れる曲り角のゴミ箱のそばに、牛島は濡れそぼって立ち、うらめしげに佐介の方を眺めている。席亭の相手が石を置いた。佐介は首をかたむけ、すっかり石の形に心をうばわれていた。遠くから雷の音が聞えてきた。五分ほど時間が経った。牛島は低いうなり声を立てた。さすが辛抱づよいこの待ち男も、ついにたまりかねて顔を振り、ぶるんと雨滴をはらい、はずみをつけてつかつかと横町に踏み入ってきた。一心に盤面に見入っている佐介の肱(ひじ)を、うしろからがっしとつかんだ。佐介は頓狂な声を上げてふり返った。

[やぶちゃん注:ここで「Q電鉄」「準急」「十三号踏切」と出るので、鉄道ファンならこれが何線でどこの駅か瞬時に同定出来るのであろうが、不幸にして私はその任には当たれない。識者の御教授を乞うものである。

「席亭」碁会所の主人。]

梅崎春生 砂時計 9

 

     9

 

 熊井照子は窓枠(わく)にあやうく小鏡をもたせかけ、それをのぞき込みながら、いらいらした手つきで化粧の乱れをととのえていた。窓ガラスはこまかい雨滴をたくさんとどめて曇っている。栗山佐介は赤い卓上ピアノを包装紙でくるみ、それに紐(ひも)をかけようとしていた。鍵盤は紐でおされるたびに、グルルン、グルルンと不機嫌な音を立てた。熊井照子は指で眼の下をおさえ、いらだたしくつぶやいた。

「いやんなっちゃうわ。ここんとこに隈(くま)が出来てる」

 そして熊井は顔を半分ずらして、鏡面のなかの佐介の背中に話しかけた。

「ねえ。ビールでも飲みに行かない。頭がくさくさして、やり切れないのよ」

「主任にあんなことを言われたからか」佐介は紐にかけた手を休め、鳩時計をあおぎ見た。時計は三時十六分のところで、長針と短針がピタリと重なっていた。「さてね、実は四時に人と逢う約束があるんだ」

「逢う相手は牛島さんでしょ」熊井は小鏡をつかみ、それを乱暴に自分の机の引出しにしまい込んだ。「牛島さんなんか、すっぽかせばいいのよ」

 佐介はふり返って、かすれた声を出した。

「よく判るもんだね」

「そりゃ判るわよ。デパートで別れる時、打ち合わせたんでしょ。動作ですぐに判るわよ」

 佐介は紐を結び終え、レインコートの袖に手を通した。鞄と卓上ピアノを重ねて横抱きにした。そしてなにかためしてみるように軽く足踏みをした。

「すこし僕も疲れた」佐介は足踏みを中止して、今度は右足だけを屈伸した。「雨が降ると、右足がとても具合悪くなるんだ。そのせいで身休も疲れるし――」

「お爺さんみたいな口をきくのね。神経痛?」

「いや」佐介はものうげに壁に背をもたせ、熊井の帰り仕度をぼんやりと眺めていた。「高いところから、落っこちたんだ。それ以来、空気がしめってくると、右の膝がしくしくしてくる」

「軍隊で?」

「そんな昔のことじゃない。ずっと近くだ」

 そして佐介は首をうしろに曲げて、音のない欠伸(あくび)をした。その色艶のない口腔と舌の色を、熊井はすばやい視線で見た。熊井はレインコートのフードを頭に乗せながら、そこから視線をそむけた。

「そう言えばほんとにあなたは疲れているようね。見れば判るわ。顔かたちがすっかり変るんだもの」

「どう変る?」

「眼がだいいち変よ」

「どんなに変だ?」佐介は光のない眼で熊井を見据えるようにした。

「眼玉がかさかさに乾いてるわ。まるで干葡萄(ほしぶどう)みたい。あたし、あなたのそんな眼、嫌いよ」

 熊井はつけつけと口をきいた。彼女も同じく疲れていた。それにこの一室に、第三者がいず、熊井と佐介の二人だけのことは、今までに一度もなかったことだ。そのことが熊井から気がねを取り除き、慣れ慣れしい気持にさせたのだろう。そして熊井は指をまっすぐに立てて、佐介の顔を見た。「その表情よ。何かむごたらしいことでもやりそうな顔!」

「ずいぶんハッキリ言うもんだね」佐介は気がなさそうにまた小さな欠伸をした。「昨夜はサクラ碁会所で碁を打ち、それから近所のある会合に出席して、床に入ったのが午前二時。そして今朝、菅医師を訪間するために、五時に起きた。三時間しか眠っていないのだ」

「睡眠時間のことを言ってるんじゃありませんよ。あんたの顔のことよ」

「うん。だからさ、くたびれて来ると無理が利(き)かなくなるんだ。無理が利かないと、地(じ)の顔が出てくる。もっともムリをしているのは僕だけじゃなく、みんながムリをしている」

「どんなムり[やぶちゃん注:ママ。底本の誤植かも知れぬ。]よ?」

「そら、人と逢ったり、しゃべったりさ、人を眺めたり、眺められたりさ、そんなのがみんなムリなのさ。顔だってムリに笑ったりしかめたり、つまりお互いにつながって生きていることを懸命に証拠立てようとしている。ところが本当はつながってやしないんだな。皆なにか、かんちがいしているんだ。パズル絵みたいに組み合わさっているだけなんだ。ひっくり返せば、皆ばらばらになってしまう。そうなりゃ眼玉だってみんな干葡萄だね」

「へんなこと考えてんのね」熊井は眉をひそめて窓の方に眼をやった。雨はまだ止みそうな気配はなかった。「それじゃあ、あんただってムリをしてるわけじゃないの」

「そうだよ。ムリをしている。困ったものだよ。だからもうムリは止しにして、一番確実なところから、もう一度やり直そうかと思っているんだ」

「あたしは?」

「ハムさんも相当ムリをしているね」佐介はしごく投げやりな口のきき方をした。「人を尾行して喜んだりしてさ。自分の意志で、自分の力で、そして尾行に成功したと喜んでいるんだろう。はかないことだね」

「ふん」熊井は鼻でせせらわらった。「尾行されたから怒ってんのね」

「怒ってなんかいないよ」

 佐介は突然眼をやや大きく見開いて、熊井の全身をしげしげと眺めた。今までハムか何か、そんな物体に見えていた熊井の存在が、急に人間の女らしい感じをたたえてくるように見えたからだ。それはあるいはここが雨に降りこめられて、一種の密室になっているせいかも知れない。佐介は自分の中に、かすかに動く動物的な欲情を自覚した。それに感応したように熊井の体は一歩退いた。

「もう出かけましょう」熊井は白茶けたような顔で部屋中をぐるりと見回した。「どこかに鴨志田さんの傘がある筈よ。どうせ鴨さんはもう出て来ないんだから、貰ってってもいいわよ」

 洋傘はたくさんの埃をのせて、鴨志田の机の下の床にころがっていた。佐介が机の脚でそれをはたくと、薄ぐろい埃がパッパッとしめった空気の中に飛び散った。

「ねえ。ビール飲まない。あたし咽喉(のど)がからからなのよ」

 口内のねばりをそのまま感じさせる口調で熊井が言った。「ひとりでは、ちょっとビヤホールに入りにくいのよ」

「うん」傘を小さく開閉して埃をはらいながら、佐介は生返事をした。

「どうしても牛島さんと逢うの?」きめつけるように熊井は言った。「あんたは先刻、人間はお互いにつながってない、組み合わさってるだけだ、と言ったじゃないの。牛島さんとの組み合わせも、ついでに無視したらどう?」

「うん。でもね、うっかり組み合わせを無視したりずらしたりすると、そのズレが他の部分まで次々に波及して行くんだ。たかがパズル絵なんだけどね、そこんとこがむずかしいんだよ。僕はいっぺん、そこんところを計算間違いして」佐介はちょっと言葉を詰めた。「いや、計算間違いというより、つながっていると誤解したんだな。――」

 佐介はそれきりでふいに黙りこんだ。熊井が次をうながした。

「それで?」

「それで、ビール飲みに行くとするか」佐介は不器用に話を外(そ)らした。「四時に逢うと約束したけれども、あれから二時間半の間に、ずいぶん情勢が変ったからな。牛さんと逢う意味もなくなってきた」

「ふん、二人して何か陰謀をたくらむつもりだったのね」

「陰謀じゃないよ。組み合わさったままでは窮屈だから、そいつをすこし変えてやろうかと思ったんだ。それだけだよ」

「じゃやはり陰謀じゃないの」

「陰謀じゃないさ。陰謀というのは、二人か二人以上でやるものだろう。ところがこれは僕一人だ」

「あら、ずいぶん悪党ぶったせりふね」熊井はわざとらしいイヤな笑い声を立てた。「どうしてそんなことをたくらむのさ」

「興味があるからさ。それ以外に面白いことはないもの。どうせ僕ははみ出ているんだ。そこらをゆすぶって、もぐり込むより他に手はないんだ」佐介は洋傘の埃をすっかり払い落し、ふたたび鞄と卓上ピアノを横抱きにした。もう体内の欲望はすっかり消え去っていた。「さあ。出かけるか」

 佐介が先に立って扉を押し、附段を降り始めた。狭い階段なので卓上ピアノの角が壁にこすれてギチギチといやな音を立てた。熊井は鍵をかけるために少し遅れた。階下の土地事務所は客の姿はなく、事務員が三人ぼそぼそと私語していたが、佐介の足音でいっせいに顔をこちらに向けた。この階段を上り下りする度に、佐介は彼等の視線でしごかれるような気がする。どういう意味にしろ、眺められるということは、いい気持のものでなかった。無意識裡に佐介は鞄を前に回し、防禦的な姿勢をとりながら、この古い建物の軒に出た。雨がやわらかに佐介の頰にしぶいた。窮屈に傘をひろげかけた時、町並の彼方の白濁した空から、鈍重な遠雷のひびきがつたわってきた。それは初めは低く、それからしだいに重いものをころがすような響きとなり、そのまましばらく連続して鳴動した。それは佐介に突然、あの夜闇の中を陸橋に近づいてくる牛車のひびきを、まざまざと憶い出させた。にぶい戦慄が佐介の身内をつらぬいた。海藻を満載した幻の牛車は、白濁の空を押しわけて陰鬱な鳴動とともにじわじわとこちらに近づいてくる。……

「ああ」佐介は思わず低くうめいた。「おれはいつもここに戻ってくる。離れよう離れようと思っても、おれはいつの間にかここに引き戻されてしまう」

 遠雷がもたらす不快な空気の震動のなかで、佐介は瞼の裡にあの牛の顔をありありと思いうかべた。牛は意志も感情も持たない眼で、じっと前路の闇をむなしく見据えていた。その記億が佐介の眼筋にひとつの刺戟としてつたわり、彼は眼を大きく見開いて、その焦点を雨に煙る町並の上に固定した。(こんな具合か)記憶に肩すかしをくわせるためには、これ以外の方法はなかったのだ。街は街自体の性格をすっかりうしない、無意味で雑多な堆積に見えてくる。しかし佐介の眼は彼の意に反して、外見的には牛の眼には全然似ていなかった。緊張によるかるい斜眼(すがめ)にかぶさって、瞼が神経的にぴりぴりと痙攣(けいれん)しているだけであった。佐介はぴくりと身体をふるわせて、背後をふりむいた。

「おまちどおさま」熊井がフードの加減を直しながらそこに佇(た)っていた。フードの中で熊井の顔はふだんよりもまん丸く見えた。「どうしたのさ、へんな顔をして」

「何でもないんだ」

 熊井は佐介の肩を押すようにして、傘の下に入ってきた。そのままよりそった形で、二人は濡れた街の風景のなかに歩み入った。

「何でもないんだ」佐介は同じ言葉をくりかえした。「疲れているだけの話なんだ。それにしても、君の顔はほんとにまん丸いんだね」

「そのピアノ、あたしが持ちましょか」殺風景な部屋を離れ、雨衣ごしに身体を接して歩くことだけで、熊井の感情は単純に生き生きと動いた。「持ちにくいでしょう」

「いいよ」

「このピアノね、千円でいいわ。考えてみると、あんたにまるまるおっかぶせては、気の毒だもの」

「四百円分だけ同情するのかね」佐介はそっけない口調で言った。「同情はごめんだね。同情というほどイヤな言葉はない」

「だってあんたも先刻、同情という言葉を使ったわ」

「あの時、ほんとにうっかりしてたんだ。取消すよ。僕は今疲れていて、他人に同情する余裕はない」傘の柄をにぎる佐介の右手に、熊井の左掌がかるく触れた。「実を言えば、これを君から買い取ったことも、今少々後悔してる位だ」

「あら、そんならムリに買い取って貰いたくないわ。デパートに持ってけば、引取ってくれるんだから」

 また西の方から遠雷の音がつたわってきた。それは前のよりはいくらか弱かった。

「さて」と佐介がつぶやいた。「牛さんのことはどうするかな」

「すっぽかしなさいよ。あんな助平」

「そう簡単にも行かないんだよ。これも仕事の一つだから」

「ああ、さっき主任が言ってたの、それね。L十三号」

「ふん。君はすこし気が付きすぎる。しかも、その気の付き方の根元にあるのは、好奇心だけだ。いつか君はきっと自分の好奇心から復讐されるよ」声をおとして、「もっとも女なんて、皆そんなものだけどね。好奇心なんて、生きて行くことのテコや、行動することのテコには、絶対にならないものだよ」

「バカにしてるわね」

 熊井の指がつと動いて、傘の柄の佐介の手の甲をきつくつねり上げた。佐介はかすかに悲鳴をあげて、卓上ピアノを取り落そうとした。

「それじゃ、あんたは、一体何で生きてるのよ。いつもふらふら、ふらふらしている癖に」

 

 午後四時、駅の改札口からすこし離れた柱の下に、牛島康之は立っていた。着ているビニールのレインコートは濡れて額にへばりついていた。ふだんなら外であきないする筈の新聞売子たちが、雨のため駅の構内にたむろしていて、そこら一面が人波でごちゃごちゃに混雑している。牛島康之は柱の下にじっと立っていた。人間にはいろんな型があるが、牛島の下駄に似た四角な風貌は、『待つ』という動作においていかにもピッタリと似合っていた。いかにも人を待っているという感じで、牛島康之は棒杭(ぼうぐい)のように佇(た)っていた。

 一杯のビールが、熊井照子の頰をぽっと赤くさせ、栗山佐介の顔をやや生き生きさせていた。もう眼玉も干葡萄の感じはなくなり、唇もわりによく動いていた。時刻外れなので、ビヤホールの中もそう混んでいない。二人はシュロの鉢植えのかげでなく、見通しのまんなかのテーブルに腰をおろしていた。ああいう職業に従事していると、かえって逆の心理がはたらいて、そんな席を選んでしまうものだ。全然他人から見られない場所か、あるいは全然見通しの場所。中途半端な場所はかえって具合が悪かった。素通しの盲点みたいな席に腰かけて、二人は一杯ずつのビールを飲みほした。二杯目の券を買いに熊井が立ったあと、佐介は顎杖をつき、しばらく時計をにらんでいた。時計の針は四時二分過ぎをさしていた。佐介の隣の椅子には、鞄と卓上ピアノの包み、それに洋傘がたてかけてある。洋傘からの水が床に不規則な水たまりになってひろがっていた。包装紙もすこし濡れて破れ、卓上ピアノの赤塗りの地肌がのぞいている。デパートヘ返品するという件も、うやむやになってしまったものらしい。店内のラジオが大きな音を立てて鳴っていたが、ビヤホールのまばらな客も給仕人も、誰もそれを聞いていなかった。趣味講座『猫の飼い方』。声は空気をひっかき回すだけの役割を果たしていた。熊井照子が席に戻ってきて、二杯のビールが運ばれた。

「戦後になって、外米がぞくぞくと入ってくるようになってきた」ビールの泡を舌で舐(な)めて、佐介が含み声でそう言った。「ところが外米は、品種や栽培法の関係上、バサバサしている。そこで料理に工夫をこらして味をおぎなうと言うことになるね。たとえばどんな料理が外米に適するか」

「カレーライスやヤキメシね」熊井が口をはさんだ。一杯のビールが熊井の発音を軽くしていた。料理は女の専門だという自負の感じもあった。

「そうだよ」佐介はうなずいた。「だから戦後カレー粉の需要がぐんとふえた。外米の関係と、それにカレーライスというやつは、家庭料理の中でも安上りの料理に属するな。だからカレー粉は夏でも冬でも需要が絶えない。需要がふえると、生産もふえる。今までのカレー工場は拡張するし、また新規の工場もあちこちに出来てきたんだ。つまり外米の輸入にともなって、カレー粉の原料も続々と輸入されるということになった」

「そうね。カレーの木は日本にはないものね」

「そう知ったかぶりをするんじゃない」佐介は軽くたしなめた。「カレーの木は日本にはないが、外国にもないんだ。世界中のどこにもそんな木はないんだ。あのカレー粉というやつは、たくさんの木根草皮[やぶちゃん注:「もっこんそうひ」と音読みしている模様である。]を粉にして混合したもんだよ」

「木根草皮ということはないでしょ」熊井が揚げ足をとった。「草根木皮なら判るけど」

「そうだ。言いそこないだ。たとえばどういうものが入っているかと言うと、辛味としてはコショウ、ショウガ、唐辛子、カルダモン。香料としてはウイキョウ、肉桂、クミン、フェネグリーク、ナツメッグ、月桂樹」佐介は胸のポケットから、そそくさと小さな皮手帳を取り出し、頁を開いた。「ここにいろいろ書いてあるだろう。着色にはターメリックだ。つまり鬱金(うこん)だね。これは印度産。オールスパイス、これも日本に出来ない。世界で出来るのはジャマイカ島だけだ。カレー粉の原料の九割までは外国産で、日本で出来るのはわずか一割というわけだ。上等のカレー粉になると、三十何種類という草根木皮が使われるが、近頃出来[やぶちゃん注:「しゅったい」。]の町工場などではそんなに使ってやしない。せいぜい十二、三種類だね」

「よく調べ上げたもんねえ」

 熊井は嘆声を発して、手帳の頁をのぞきこんだ。頁にはたくさんの片仮名の名前が、ずらずらと並んでいた。

「どうしてそんなに調べたの。町工場でも開くつもりなの?」

「それはあとで言う。もともとカレー粉というやつは、インド人種の中のタルミ族が使い始めたものなんだ。なにしろ印度は暑い。暑いから食欲がおとろえる。だから刺戟性のもので食欲を刺戟することになるんだ。カレー粉というものは、大へん刺戟の強いものだね。そこから問題が出て来たんだ」

 駅西口の改札口の近くで、『待ち男』の牛島康之は円柱にもたれ、二本目の莨(たばこ)をふかしていた。時計は四時十五分をさしていた。彼は少しずつじりじりし始めていた。改札口の改札係は、次々出てくる人波をさばくためにアクロバティックな手の動かし方をしていた。さばいてもさばいても、流れてくる人波は絶えなかった。その時駅の内からあふれてくる人波の中に、ひときわ背の高い禿(は)げ頭の男の姿が見えた。夕陽養老院の黒須院長であった。黒須院長は洋傘をわしづかみにして、もまれるように改札口を出てきた。院長の禿げ頭はじっとりと汗ばんでいた。

(さあ。何か旨(うま)いものでも食べよう)

電報を打ちに出たついでに、ふっと気が向いて、院長はこの盛り場に出る気持になったのだ。久しぶり街を歩く若い女も眺めたかったし(女秘書の空想で院長はかなり情緒を刺戟されていた)、今夜の会見にそなえて栄養物を摂っておく必要もあった。栄養を摂らなきゃ耐久力も出ない。それに相手は大勢なのだ。黒須院長はあたりをへいげいしながら、『待ち男』牛島のそばをのっしのっしと通り過ぎた。牛島は莨をぐいとふみ消しながら、またいらいらと電気時計を見上げた。

「その工場はだね、今年の初めまで、キャラメル工場だったんだ。ところがそいつが大資本に圧迫されて、とたんに潰れてしまった。そしてカレー粉工場になってしまったんだ」佐介は熊井を見詰めながら、熱心な口調になった。牛島のことはもう忘れてしまっていた。「キャラメル工場ならまあ我慢出来るけど、カレーは困るな。修羅印(しゅらじるし)カレーと言うんだが、なんだか名前からして辛味が利いてるようだろ。だから売行きもいいらしく、近頃では三部制か何かにして徹夜作業をやっているんだ。運び込んだ原料を粉にするのに、どういう方法をとるか、原料が原料であぶらっ濃いのが多いから、製粉機やミキサーは使えない。キネでつくんだ」

「お餅みたいにして?」

「いや、人力でつくわけじゃなく、機械は機械だけどね、やはり形式としてはウスとキネだ。何十というウスと何十というキネが、間断なく、ガシャ、ガシャ、ガシャと落下する。その音がたいへんなものだ。夜なんか一町[やぶちゃん注:約一〇九メートル。]四方にひびきわたるね」

「あんたの家、その工場の近くにあるの?」

「その工場が、僕の家の近くにあるんだ」と佐介は訂正した。「塀ひとつ隔てたと言っていいくらいの近さにあるんだ。音は音として、それでいいとしよう。こんどはにおいだ。工場の設備が悪いために、そこら中がカレー粉で汚染されている。風向き次第でその粉は遠くまで流れて行く。毎日々々カレー粉を吸わされている人間が、一休どうなるか。どういう変化をおこすか。僕が今目の昼飯の注文で、カレーライスがイヤだと言ったら、仲間はずれをすると君は非難がましい口をきいたね。これでイヤなわけが判っただろう。だからあまりお節介はやかない方がいいんだよ」

「お節介じゃないわ。親切心で言ったのよ」

「そして僕らは集まった。僕らというのは、工場近くに住んでる連中のことだ」酔いが饒舌にさせているのを意識しながら、佐介はその流れに任せていた。しゃべることはこころよくもあった。「集まっていろいろ相談した。そして工場主の修羅吉五郎に交渉を始めることになったのだ。僕の役割は各種の調査ということになった。だからいろいろ調べ上げたのさ」

 佐介は手帳をぽんと叩いて、ポケットにしまい込み、ジョッキの半分をごくごくと飲みほした。

「昨夜の会合というのもそうさ。そう須貝に報告したらいいだろう」

「ふん、なぜ?」

「あそこじゃあ原則的に、お互いがお互いを見張るという仕組みになってるんだ。人間の組み合わせとしては、一番単純な組み合わせだね。それであの須貝主任は、いっぱしうまくやってるつもりなんだ。もう彼も少しヤキが回ったね。L十三号だってそうさ。ああ、そうだ。牛さんはどうしたかな?」佐介はまた時計を見た。「もう三十分の遅刻だ」

「あたし、報告なんかしないわ」熊井は間接に監視の事実を認めた。「でも、研究所の仕事にはあまり熱心でないくせに、カレーのことになるとやけに熱心なのね」

「だってカレーのことは重大だもの。おかげで、カレーライスという旨い食べ物を僕は嫌いになったわけだろう。しかもそれは他力によってだよ。他の力によって、僕はカレーライスという快楽を奪い去られたんだ。奪われたものは奪い返さねばならない。そう僕は僕自身に、近頃くれぐれもそう言い聞かせているんだ」

 佐介は苦しそうな笑いをうかべ、本当に自分に言い聞かせるような含み声になった。

「そこを黙っていると、僕はまたダメになってしまう。ダメになったきり回復出来なくなってしまう。人間なんてそんなものだというところに落っこちてしまう。今だって半分落っこちているんだ」

「あなたなんか、研究所の仕事をやめるといいのよ」母性的な衝動が熊井を動かした。「あんな悪党仕事はあなたには向かないわ」

「ふふん」我に返ったように顔を上げて、佐介はつめたい声を出した。「悪党仕事? 君だって平気な顔で勤めてるじゃないか」

「あたしは直接仕事にタッチしてないもの。雑用だけだから」

「へえ。そいつはずいぶん都合のいい論理だね」佐介は頰にうす笑いをうかべた。それはあの須貝主任の悪党めかした笑い方にどことなく似ていた。「なにが悪で、なにが善か。そこをはっきりさせないと、君の忠告はなり立たないんだよ。よくそういうごまかしの場所に、安心して坐って居れるな」

「あんただって、ごまかしじゃないの。カレーライスが嫌いになったからって、カレー粉を分析して何になるのさ」

 熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた。

「もう三十分以上待たせたな、これ以上待たせると、俺はほんとに怒り出すぞ。ほんとにあいつ、何をしてやがるんだろう」

 そしてこの辛抱強い待ち男は、せかせかと鞄をひらき、中から針と糸を出して、レインコートの裾をつまみ上げた。裾の一部分が、さっき木馬の釘にひっかけて、かぎ裂きになっていた。牛島は柱の下にしゃがみ込んで、そこをつくろい始めたが、地がビニールなので、どうもうまく行かないらしかった。佐介は残りのビールを一気に飲みほした。熊井のそれはすでに空になっていた。

「さあ、出かけるか」佐介は言った。「じゃあこの卓上ピアノの代金を払うよ」

「千円でいいわ」

「ムリしなくてもいいんだよ」

 そう言いながら佐介は千円札一枚を取り出し、卓の上に乗せた。卓にこぼれたビールにそれはきたならしくベタリと貼りついた。佐介はあわてて小指と親指でそれをつまみ上げた。

「千円でいいのかい?」

 つまんだ指を離して、惨めな表情で牛島は立ち上った。針と糸を鞄にしまい込み、かなたに見える横町の方を眺めながら呟いた。

「すこし腹もへってきたな、どうも富岳軒のライスカレーは盛りが悪い。二つぐらい食わないと、腹にこたえないな。嘆かわしいことだ」

 牛島が眺めているその食い物屋横町の三軒目の鰻(うなぎ)屋に、黒須院長はどっしりと腰をおろして、さっきから大串(おほぐし)の鰻をせっせと食べていた。鰻はしたたるばかりのあぶらを乗せ、院長の口腔の中をねとねとにした。黒須院長は飯を口に運び、そしてまた大串を横ぐわえにして、満足げに鰻の身をしごきとった。院長の居はねっとりと艶を持ち、その眼は単純なよろこびにあふれていた。少くともこの瞬間だけは、黒須院長は完全にニラ爺たちのことを忘れ果てていた。忘れ果てて鰻に没頭していた。

[やぶちゃん注:本章で遂に連関が不明であった「1」の自殺未遂のシークエンスがここで連結され、あの男が栗山佐介であったということが明らかにされる。また、唐突に映像的に黒須院長と牛島の街頭で行き違うカット・バックやモンタージュのシークエンスをことさらに挿入して描くところからも映像的面白さを狙った以外に、話柄中の別の関連性の可能性の示唆をも示しているのではないかという感じが濃厚に伝わってくるではないか。ここで、黒須が雇っている書記というのは実はこの佐介なのではあるまいかという推理が働くからである。週に三日しか出社義務がない佐介が、残りの日を「都内某団体の書記」をしているという自身の告知とが上手く当て嵌まってくるように見られるからである。

 なお、底本の解説で中村真一郎氏もこの最後の部分の面白さを、『第九章の終りで、作者が「熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた」と続けて書いているが、熊井という女はビヤホールでメートルをあげているのだし、彼女にからまれている佐介という男に待ちぼけをくわされて、牛島は駅の構内で苛立っているわけである。二つの異った場面が、その同時性によって、相つぐセンテンスに結合させられている。こういうやり方は養老院の騒動の場面になると、殆んど映画のカット・バックのように頻用されて、滑稽な効果をあげているのである』と特に挙げて評価しておられる。

「フェネグリーク」マメ目マメ科マメ亜科フェヌグリーク属Trigonella foenum-graecum。英語名「fenugreek」。ハーブ・香辛料の一種でもある、マメ亜科の一年草植物。地中海地方原産。古くから中近東・アフリカ・インドで栽培された。日本には享保年間に持ち込まれたことがあるが、農作物として栽培されることはなかった。英名の fenugreek は大雑把に言って古いラテン語「faenum graecum」(ギリシアの馬草(まぐさ))に由来し、この古語がやや変化して現在の種小名ともなっている。本邦では「フェネグリーク」の音写もよく使われる。詳しくは参照したウィキの「フェヌグリーク」を見られたい。

「タルミ族」これは「タミル族」のこと。主に南インドのタミル・ナードゥ州やスリランカの北部・東部に住み、タミル語を話すドラヴィダ系民族で、誤植や誤記ではなく、梅崎春生がわざと悪戯から、かくした可能性も排除出来ない(後で実際に洒落出る。そうした傾向は彼の中にある)。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。]

2020/07/11

梅崎春生 砂時計 8

 

     8

 

 夕陽養老院の建物は、二階建てでコの字の形をしていた。前身の病院時代には、ペンキも年に一回ぐらいは塗りかえられ、庭には芝生や花壇があり、鶏がそこらを歩いたりして、いかにも高級病舎らしい整頓ぶりを見せていたが、現在では鶏のかわりに豚が飼われ、芝生はすっかり畠となり、建物のペンキもぼろぼろに剝げ落ちて、折柄の雨にしっとりと錆色(さびいろ)に濡れている。バルコニーや院長室のある正面は、南向きでその幅もせまい。そこから後方に伸びる二棟の建物は、それぞれの位置によって、東寮、西寮と呼ばれている。韮山爺さんの居室は、その東寮の階下の一番どんづまりの位置にあった。つまりここを通り越すと、もうあとは便所と浴室しかないわけだ。あまり良い部屋ではなかったが、年に一回くじ引きで決めるのだから、文句は言えないのである。しかし、その年一回のくじ引きの期日を、もう一ヵ月も過ぎているのに、まだ院長側から何の音沙汰もないのだ。両三度かけあってみたのだが、近いうちにおこなう予定だという返事だけで、なにか黒須院長の態度はあいまいであった。

「そこがどうもおかしいと思うんだ」同室の松木爺さんが口をとがらせて、ぐるりと一座を見回した。うすぐらい六畳の部屋には、七八人の老人たちがそれぞれの姿勢で、壁に背中をへばりつかせて、車座をつくっていた。部屋の空気はこわばって、重苦しく緊張していた。

「去年までは毎年、チャンとした期日に、チャンと部屋替えのくじ引きがあったな。しかもそのくじは、俺たちの代表者がこしらえたんだから、不正も情実もなかった。つまり民主的に運営されていたわけだ。ところが今年はどうだ。あの海坊主(黒須院長はかげではこう呼ばれていた)は勝手に期日を引き延ばし、かけあってみてもごまかし口ばかりきく。きっとまた何かたくらんでやがると思うんだ」

「そうさな」長老の遊佐爺が白鬚を撫でながら発言した。「ひょっとするとくじ引きを廃止して、部屋割りの権限を自分の手に収めようとたくらんでるのかも知れんな。わしはそう見当をつけている。あいつがやりそうなことだ」

「そんなことになったら大変だ」小机を前にして臨時の書記役をつとめているどんぐり眼の滝川爺が、ペンの柄でこつんと机をたたいて、口を入れた。「そうすればあいつは部屋割りを、論功行賞風にやるに違いない。すると俺なんかは、平素からよく思われていないから、いつまでたってもどんづまりの部屋だぞ」

「俺も」

「俺もだ」

「わしも」

「わしもだ」

 一座の老人たちは、いっせいに眉を吊り上げて、異口同音にそう唱和した。とかく口がうるさく行動的であるために、この老人たちは院長側にはよく思われていなかったのだ。唱和しなかったのは、韮山爺だけだ。韮山爺は部屋のすみの一番うすぐらい場所に、きちんと膝を折ってうなだれていた。なにかそれは祈っているような姿勢に見えた。

「よし」遊佐爺が重々しくうなずいた。「じゃあ、滝爺さん、それも抗議の一条に加えてくれ」

 滝爺はペンを持ち直して、机上の紙に力をこめてガシガシと次のように書きつけた。

 

 『部屋割りくじ引きを早速行うこと。くじは例年通
 り在院者代表によって作製さるるものとす』

 

「それに拡張工事のことだな」遊佐[やぶちゃん注:ルビがない。通常は「ゆさ」「ゆざ」。前者で読む。]爺はぐるりと一座をにらみ回すようにした。遊佐爺は夕陽養老院きっての年長者で、満七十八歳になるが、まだ体力も頑丈だし、声音もはっきりとしている。せんだってまでは八十歳というのがいたが、浴室のタイルでつるりとすべり、後頭部を打って死んでしまった。そこで遊佐爺が長老格に昇進したわけだ。若い頃は船乗りだったということだから、潮風に身体をきたえ上げたのだろう。「居住区は一人三畳宛(あ)てという約束を無視し、ごまかしにごまかしを重ねて、海坊主はわしたちを二畳にまで追い込んだ。それはごまかされたわしたちもだらしがなかった。これ以上だらしがないと、だんだん二畳が一畳半、一畳半が一畳と、追いつめてくるに相違ないと、わしらはにらんでいる」

「その通りだ」

「と言って、元通りの三畳を確保するために、在院者の三分の一に出て行け、と言うことは出来ない。一度入院したものを放り出すことは絶対に出来ん!」そして遊佐爺は韮山爺の方をちらと見た。すこし声を張り上げたのは、韮山爺に元気をつけるためのゼスチュアだと知れた。

 しかし韮山爺はさっきと同じ姿勢で、うなだれたまま黙って窓ガラスの方に横目をつかっていた。ガラスの上には、どこから忍び入ったのか、一匹の大きなナメクジが鈍色(にびいろ)[やぶちゃん注:濃い灰色。]の筋を引いて、ひっそりと這い回っている。韮山爺の眼は放心したようにそれを見ていた。さきほど玄関の告示を見た時の衝撃が、まだ韮山爺の胸に残っていて、何も考える力もなく、また一座の会話もほとんど耳に入らない風であった。韮山爺はナメクジの胴体が微妙に蠕動(ぜんどう)するのを眺めながら、お念仏のようにつぶやいた。「一万二千円。ああ、一万二千円」

「そうだ!」別の爺さんが勢(きお)い立った声を出した。「追い出すことはでけん。寮舎増築を要求せよ!」

「滝爺さん。それも書いてくれ」遊佐爺は目くばせをした。「それから食事の問題だ」

 食事、という言葉を発音した時、一座の老人たちにかすかなどよめきが起った。院内生活において食事がどんなに重大な行事であるか、そのどよめきはそのことをハッキリ示していた。遊佐爺は効果を確かめるようにちょっと間を置いて、重々しく言葉をついだ。

「ひとことにして言えば、黒須院長が就任して以来、食事の質が低下したというわけではないが、たいへん不均衡になってきた傾向がある。それに以前とくらべて、鮮度も落ちてきたようだな。とにかくわしたちはカロリーさえ摂(と)ればいいのじゃない。老人には老人としての嗜好(しこう)があるんだ。朝には朝らしい食事、夕方には夕方らしい食事。わしらが欲しいのはそれだ。ところが海坊主は、わしらの嗜好を完全に無視しとる」

「そうだ。その通りだ」一座は異口同音に賛成した。「朝から刺身やテンプラを出すのはまあいいが、夕食に味噌汁一杯とタクアンだけとは、一休なにごとか」

「一昨日の朝のマグロ刺身は、たしかにあれは腐っていた」松木爺が口をとがらせた。「たしかにあいつは腐っておった。豚にやったら豚も食わなかったぞ」

「テンプラだって、身が半分千切れたようなのが出る」と別の声が言った。「第一これだけの大世帯に、栄養士が一人もいないなんて、違法じゃないか」

 朝からテンプラが出たり、夕方にろくなおかずが出なかったり、そんな変則な状態になってきたのは、つい三ヵ月ほど前からのことだ。野菜は院内の畠のやつを使うから新鮮だけれども、動物性食品になるとどうも鮮度が怪しいのだ。どうしてそんなことになるのか、在院者は調理場に立入禁止ということになっているので、さっぱりその原因がつかめないのだが、毎目の間題であるだけに、不平はようやく在院者全体に瀰漫(びまん)[やぶちゃん注:一面に広がり満ちること。蔓延(はびこ)ること。]しつつあった。

「よろしい」遊佐爺は断を下した。「調理場の一般開放。これを要求の一つに加えよう」

「いや。それじゃ手ぬるい」松木爺が膝を乗り出した。

「開放だけじゃなく、材料仕入れや調理方法に、こちらの発言権を認めさせた方がいいぞ。なんなら料理係をクビにして、俺たちが輪番制でやってもいいくらいだ」

一座はがやがやとどよめいて、松木爺の発言に対する検討が始まった。雨は相変らずしとしとと窓ガラスを濡らし、室内の空気をしめっぽくさせていた。韮山爺はさっきと同じ姿勢で、やはり横目でナメクジをにらんでいた。ナメクジはぬめぬめした筋をガラスに残して、じりじりと上方に移動していた。(ああ。一万二千円)韮山爺は泣くような気持で思った。(向う一ヵ月に一万二千円をつくらねば、俺はここから追い出される。追い出されたら、もう行くところはない。行くところがなければ、死ぬほかはない。しかし俺が死んでも、誰も悲しんではくれないだろう。死んだら死骸は無縁仏として埋められるだろう。無縁仏のお墓は、たいていじめじめしたところにあるものだから、大きなナメクジなんかが沢山這っているに違いない)韮山爺はぶるっと大きく身ぶるいをして、ナメクジから眼を放した。一座の談義はやっとまとまったところらしく、滝川爺がふたたびペンを握って、机上の紙に何か書き込んでいた。その時廊下の方から、小走りに走る乱れた足音が聞えた。つづいて小さな叫び声も。――滝川爺はペンを置き、中腰になって廊下に面する窓をあけ、大声で怒鳴りつけた。

「重大な会議をやっているんだから、遊びごとはよそでやってくれ。いい歳をしてなんだ。うるさいぞ!」

 足音はぱたりと鳴りをひそめ、そして脅(おび)えたようにぼとぼとと向うの方に遠ざかって行った。滝川爺は舌打ちをしながら、ぴしゃりと窓をしめた。

「ほんとにしようのない爺さんどもだ。暇さえあれば、鬼ごっこやかくれんぼばかりして、子供じゃあるまいし」

 一座の爺さんたちは顔を見合わせ、うなずき合いながら賛意を示した。その時の彼等の表情には、総じて優越の色があふれているように見えた。少くとも鬼ごっこよりも会議の方が高級だと言わんばかりに。

 夕陽養老院の在院者は、必ずしもこの一座の老人たちのように、口うるさいいっこく者ばかりではなかった。いろんな型の老人がいた。勝負ごとに凝(こ)って他のことには全然関心を示さない爺さんもいるし、新興宗教に帰依(きえ)しているのや、また食べることだけがたのしみというのもいた。またすっかり童心にかえって、子供のように無邪気に遊ぶ爺さんのグループもいた。その連中がさっきから廊下で鬼ごっこをやって、会議の邪魔をし、滝川爺さんのかんしゃく玉を破裂させたわけなのだ。

 韮山爺はその滝川爺の顔をそっとぬすみ見ながら思った。(ああ、ほんとのことを言えば、俺もこんなとげとげした会議より、鬼ごっこに仲間入りしたいんだがなあ)

「海坊主が就任して以来――」その時柿本爺がぎくしゃくと坐り直して口を切った。この爺さんはわりに無口な方だが、いったん口を開けば相当なうるさ型であった。「その感化を受けて、事務員や料理係の木見婆[やぶちゃん注:「きみばば」。「きみ」が姓。]までがわしらに横柄になってきた。これも何とかして貰わんけりゃならん」

「そうだ。それは元兇の海坊主に反省を求める必要がある」

「実際あの海坊主は、バカでかい小道具にかこまれて、威張りくさってやがるなあ。院長室のあの硯箱のでかいこと。まるでオマルみたいじゃないか」

「そう言えば、わしがこの間神経痛で寝たとき、俵(たわら)に診察して貰ったが、あの医者の聴診器もふつうのより一回り大きかったぞ。あれも海坊主の影響かな?」

 俵というのは、週に二回院外から通ってくる、小柄で中年の医者のことだ。診察もぞんざいだし、注射のしかたも下手だというわけで、ここではあまり評判がかんばしくなかった。

「うん。あの聴診器も全く大きい」と別の声が嘆息した。

「まるで牛か馬を聴診するみたいだなあ」

「もしかすると、あいつは人間の医者じゃなく、獣医じゃあるまいか」滝川爺が小机から上半身を乗り出し、たまりかねたように口を開いた。「この間おれが腹痛で寝た時、来診してきて、先ず最初に指でおれの鼻をさわったよ。このおれを、犬と間違えたんじゃないか。どうもそうらしいぞ」

 ぎょっとしたような沈黙が来た。滝川爺のただならぬ発言が、各自の胸にぐんとこたえたのらしい。皆は姿勢を硬くし、なにか探るような眼付きで、お互いの顔をじろじろと眺め合った。韮山爺も同様に惨めになり、犬か猫なみに下落したような気分になって、無意識裡に左手を妙な形に曲げ、伸びた爪で窓ガラスをガリガリと引っ搔いた。

「猫みたいなことをするんじゃない!」滝川爺がそれを聞きとがめて叱りつけた。「ふん。万一あいつが獣医だとすれば、この俺たちは人間並みに取り扱われていないということになるな」

「そう言えばわしもあの医者から、咽喉(のど)をくすぐられたことがある」

「それは重大な間題だ」遊佐爺も落着かぬ風(ふう)に顎鬚(あごひげ)つまんで引っぱった。「それは至急に調査する必要がある。もし俵医師が獣医だったら、これはもう人権の間題だな」

「それも抗議に加えるかね?」と滝川爺はペンを持ち直した。

「いや。それは待ちなさい」遊佐爺は長老らしく静かにそれを手で制した。「事実をはっきり確かめてからにしよう。うっかりしてホンモノの医者だったら、逆手をとられてしまうからな。しかしこんなに皆で話し合うと、いろんなことがはっきりしてくる。たいへんいいことだ。初めての会合としては、まず成功の部類だな」

「院長とはいつ会見するんだね」

「さっき玄関のところで俺は海坊主と会った。そして会見を申し込んだのだ」滝川爺はペンを置き、どんぐり眼で一座を見回して、一語々々はっきりと発言した。「すると海坊主が言うには、昼間は事務でいそがしいから、今夜なら逢おうと言う。それも三十分だけだと言うのだ」

「それは横柄に出たもんだな」松木爺が言った。「なんであいつが忙しいものか。ま、しかし、夜なら夜でもよろしい。わしたちは論理を正しくし、ごまかされないようにして、今夜こそ海坊主の首ねっこをしかと押えてやる必要がある」

「そうカンタンに行くかねえ」ややひるんだ声がすみでした。「なにしろ相手は、鉄の如き信念を持ってるそうだぞ」

「大丈夫だ。大休大丈夫だと思う」遊佐爺がかわって自信あり気(げ)におっかぶせた。「わしの七十八年の経験によると、ああいう男は案外に弱いものだ。たとえばあいつの眼を見ると、まるで人を咎(とが)めだてするみたいな眼だ。心の中にひどい弱味を持っていればこそ、そんな眼付きをするのだ。弱味がなければ、もっと平静な眼色になる筈だな。それにあの巨大な灰皿やハンコ」遊佐爺は手でその形をなぞって見せた。「あれもごまかしのハッタリだ。あいつの気持か身体の中に、なにか小さな、倭小(わいしょう)なものがあるに違いない。だからこそバカでかいものを持ち出して、そこらをごまかしてしまおうとしているんだ。今まではあいつが攻勢に出ていたから、さしてボロを出さずに済んだが、今度こちらが攻撃側に立てば、きっとボロを出すに違いないのだ」

「それはちょっと楽天的に過ぎないか」柿本爺が唇を歪(ゆが)めて異議をとなえた。「相手は海坊主個人ではない。海坊主の背後に、またもろもろの大坊主が立っている」

「だからわしらは徐々にやるんだ」

「海坊主があんな挑戦的な告示を出したのは、相当な成算があるからだと俺は思う」柿本爺も負けていなかった。

「これは相当に綿密な作戦計画を立てないと、ひどい目にあう公算が大きいぞ」

「だからわしらは、徐々に、確実にやって行くんだ」遊佐爺もやや声を荒くした。「一歩々々やって行くんだ。そうだ。滝爺さん。昼間はいそがしいと、あいつは言ったんだな。先ず手始めに、それがホントかウソか、ひとつ隠密(おんみつ)を出してみようじゃないか」そして遊佐爺は眼を上げて、一座の一人々々の顔をおもむろに眺め、やがてその視線は韮山爺のところでぴたりと止った。遊佐爺は声をやわらげて呼びかけた。「ニラ爺さん。御苦労でもちょっと二階に行って、院長が何をしているか、そっと見て来てくれんか。相手に気付かれないように、そっとだよ。お前さんは身体が小さいし、足音もあまり立てないから、丁度よかろう」

「へ。わしが?」韮山爺はきょとんと顔を上げた。「わしが何をやるんで?」

「院長の様子を探ってくるんだよ」滝川爺がいらだたしげに口をそえた。「今なにをやっているか、そっと見てくるんだ。しっかりせえよ、ほんとに」

「ヘヘ」

韮山爺は困ったような笑い方をして、それでもしぶしぶと立ち上った。長い間の正座で足がしびれたらしく、ひょこひょことびっこを引いて扉口まで歩いた。皆の表情はヘんにつめたくなって、その動作を眺めている。扉のところで韮山爺はまた照れたような無意味な笑い方をした。

「へ、ヘヘ」

韮山爺の姿が扉のむこうに消え、そして足音が廊下を遠ざかった時、遊佐爺は大きく呼吸をして口をひらいた。緊張した長談義のため、一座の面(おもて)にはかくし切れぬ疲労の色がただよっている。

「当然のことだがこの会議は、今回のニラ爺事件が中心になるべき筈だ。ところが当のニラ爺は、今わざと席を外(はず)して貰ったが、態度がぐずぐずしていて、何を考えているのか一向にハッキリしない。わしらと一緒に立ち上って戦う気持があるのかないのか。一体わしらはこういうニラ爺をどう取り扱うべきや――」

「こんなに重大な、自分に深い関係がある会議中、ニラ爺は何をしていたか」柿本爺が痛憤にたえぬという顔付きで、窓ガラスを指さした。「おれたちの話は全然聞かず、あの窓ガラスのナメクジばかりを眺めていたぞ!」

 みんなの視線のまっただなかで、ナメクジはのろのろとその針路を変えた。

 韮山爺は廊下を曲った。曲り角に置かれた大きな屑籠のかげに、さっき滝川爺から怒鳴りつけられた甲斐爺が、こっそりしゃがんでいた。韮山爺はそれを見て立ち止った。

「一体何をしてんだね、そんなところで?」

「しーっ」甲斐爺は唇に指を立てて、小さな声で言った。

「かくれんぼだよ」

 韮山爺は前後左右を見回して、自分も大急ぎで横っ飛びして甲斐爺のそばにしゃがみこんだ。そして同じく小さな声でささやきかけた。

「雨が降ると、外で遊べなくて、つまらないねえ」

「そうだねえ。天気の方がどれだけいいか判らないねえ」

「しんどい会議で、おれ、ほんとに、くさくさしたよ」

「皆集まって、一体何を話し合ってんだね」

「おれにもよく判らんけど、院長の悪口を皆して言ってたよ」

「そうかい。あっ、そうそう。あんた、この間のリヤカーのことで、何か大へんな掲示が出てんだってねえ」

「ああ。それでおれも弱ってるのや」韮山爺は泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにした。「こんどの院長はごついねえ。先の院長はとても良かったけどなあ」

「ほんとにそうだねえ。こんどの院長になって、芝生の遊び場所もなくなったしねえ。で、もう会議は終ったのかい。会議が終ったんなら、おれ、あそこの風呂場の風呂桶の中にかくれてやろうと思っているんだ」

「まだやってるよ。滝爺さんも遊佐爺さんも、目を吊り上げて議論してるよ」

「ああ、あの爺さんたち、こわいねえ」甲斐爺は溜息をついた。「なんであんなにトゲトゲしく生きてるのかねえ。どうせ遠からず死ぬんだから、たのしく遊べばいいのにさ」

「ほんとにねえ。怒ってばかりいると、心臓にも悪いよ」

「心臓だけじゃなく、胃腸にも悪いよ。あんまり怒ると、消化が悪くなるってさ」

「そうだろうねえ。怒ってると言えば、院長の海坊主だって――」

「しーっ」甲斐爺は唇に指をあてて、ぎゅっと身体を小さくした。韮山爺も手足を極度に寄せてちぢこまった。二階から階段をおりてくる足音が聞えたのだ。古ぼけた階段は足音と共にぎいぎいと鳴った。韮山爺は甲斐爺の耳元にささやいた。

「鬼かな?」

それは鬼ではなかった。階段を降り切って廊下に姿をぬっとあらわしたのは、詰襟姿の黒須院長であった。黒須院長は右手に洋傘をわしづかみにし、左手には一枚の頼信紙をヒラヒラさせながら、まっすぐにこちらに歩いてくる。その頼信紙には

 

 『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
 ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』

 

と院長の筆跡で記されていたが、もちろん屑籠のかげの二老人の眼にそれが見える筈がない。黒須院長はいつもより眼をたけだけしく光らせ、なにものかに突っかかるような姿勢で、どしどしと廊下を踏んでくる。二人の爺さんはすっかり脅え、双生の胎児のようによりそって手足をちぢめ、ふるえ上った。屑籠のかげの二老人の存在についに気付かず、黒須院長はその前を通り過ぎた。

(今夜の会見に、あいつらは何人ぐらいで押しかけてくるか?)黒須院長は奥歯をかみしめて思った。(どのみち交渉は今夜だけでは片づくまい。何日も何日もかかるだろう。交渉の経過を記録して置き、そして相手の失言をつかまえて、ぎゅうぎゅうの目に合わせてやるぞ)

 手にした頼信紙は、近頃やとい入れた臨時の書記兼秘書の男にあてたものである。専任の秘書を持ちたいとは、院長年来の希望だったが、予算がどうしてもそれを許さず、やっと近頃中途はんぱな男を臨時にやとうとこまでこぎつけた。黒須院長の宿願はやっと半分達せられたわけだが、もちろん院長自身はそれに満足していなかった。黒須院長は玄関に立ちどまり、頼信紙を四角に折ってポケットに入れ、洋傘をおもむろにひらきながらつぶやいた。

「こんど退院制度を確立することが出来たら、専任秘書を一人要求することにしよう。秘書はやはり若い女がいいな。高峰秀子か島崎雪子みたいな美人を、どこからか探してくることにしよう」

 院長室において美人秘書にかしずかれている自分の姿を、黒須院長はうっとりと空想し、険悪な表情を大幅に和ませた。黒須院長は映画はほとんど見ない。しかし映画館前のスチールや街のポスターなどで、それらの女優の名や顔を覚え込んでいたのだ。玄関を踏み出した黒須院長の傘に、雨がじとじととかぶさってきた。玉砂利(じゃり)をしいた道の両側の菜園の、胡瓜(きゅうり)やいんげんの葉も青々と濡れている。院長は傘を前方にやや傾けるようにして、門に向ってとっとっとあるいた。玉砂利が靴の下でじゃりじゃりと音を立てた。廊下の曲り角から顔を半分ずつ出して、二人の爺さんがその院長の後ろ姿を見送っている。

[やぶちゃん注:「島崎雪子」(昭和六(一九三一)年~平成二六(二〇一四)年)は日本の元女優でシャンソン歌手。本名は土屋とし子。東京都出身。大田原高等女学校(現在の栃木県立大田原女子高等学校)卒業。判り易い言い方をすると、かの名作黒澤明の「七人の侍」(昭和二九(一九五四)年・東宝)で土屋嘉男演ずる百姓利吉(りきち)の、人身御供にされた女房(役名なし)役で出ている。――野武士の山寨(さんさい)を菊千代らが襲うシークエンスで、彼らが火を放った際、火に気づいて叫ぼうとするが、急に唇を嚙むとまたそっと座って、妙に引き攣った凄味のある笑みを浮かべて幽鬼のようにふらりと出てくる。と、眼前に現れた夫利吉を見て驚き、焼け崩れる山寨の中に走り戻って姿を消すのが――彼女である。出番シーンは非常に少なく台詞もないが、オープニング・タイトル・ロールの出演者のクレジットでは「七人の侍」のヒロインとも言うべき志乃役の津島恵子とともに、三船敏郎・志村喬の次いで、二番目に二人併記で示されてある。グーグル画像検索「島崎雪子」をリンクさせておく。]

梅崎春生 砂時計 7

 

     7

 

 午後便の午後配達手が赤い自転車をひいて、この古ぼけた一郭に入ってくるのは、大体午後三時前後であった。日曜日だけは郵便物の量が滅るから、それより一時間ばかり早目になるが、他の曜日はおおむねその時刻と見て差支えない。短靴、皮ゲートルで足がためした若い配達手は、いつもS土地建物会社の大きな壁時計を見て、三時を回っておれば心がせくし、まだ三時前だとゆっくりした気分になるのだ。今日配達手がこの古風な建物に足を踏み入れたのは、三時にまだ七八分はあったが、彼はいつもと違ってほっとした表情を見せなかった。うすにごった空から、今にも雨が落ちて来そうなので、ゆっくりとしてはおれないのである。ひとくくりの郵便物を階下の事務所に投げこむと、すぐに右手の狭い階段を身軽に二階までかけ上った。白川社会研究所宛ての郵便物は、うすっぺらな封書が一通きりであった。配達手はそれを顔のまんまるい女事務員に手渡し、ころがり落ちるようにして階段をかけ降りた。赤い自転車にまたがった彼の肩をかすめて、一羽のつばめが高速で飛翔(ひしょう)した。

 白川研究所須貝主任にかるい脳貧血を起させたのは、まさしく熊井嬢が受取ったその一通の封書であった。それまで須貝は相変らずだらしなく両脚を卓上に乗せ、気楽そうに口笛で『アロハオエ』をふいていたのだが、封を切って中からぺらぺらの美濃紙(みのがみ)を引っぱり出し、さらさらと一読したとたんに頭からさっと血が引いて、眼界がまっくらになったらしい。脚は卓上に乗せたまま、身体は回転椅子からすべり落ちて、尻がどしんと床にぶっつかった。須貝はその衝撃のために笛のような悲鳴を上げた。

 その物音にふりかえった熊井と栗山佐介は、事態を察してたちまち敏活に動き始めた。佐介は階段をかけ降りて車道をつっ切り、向いの薬屋からアンモニアと気付薬を買ってきたし、熊井は水に濡らしたハンカチで、ふたたび椅子にずり上げられた須貝の額や頰をかいがいしく冷やしてやった。アンモニアのにおいが強烈すぎたのか、須貝は顔をひどくしかめ、そしてやっと正気に戻った。

「ウ、ウィスキーをくれ」

 須貝は弱々しく呟(つぶや)き、自分の卓の引出しを指差した。そして佐介が注いでやった一杯のポケットウィスキーのおかげで、どうにか血が頭に戻ったらしく、あおざめた頰もしだいに元の色に復してきた。しかし椅子から手荒くずり落ちたために、櫛目の入った頭髪はくしゃくしゃに乱れ、ネクタイは惨めにゆがみ、ズボンも埃だらけになって、身だしなみも何もめちゃくちゃになってしまった。須貝は正気に戻った瞬間にもうそれを気にして、ズボンの埃をはたいたり、ネクタイに手をやったり、まごまごと櫛を探したりした。ネクタイの修正は熊井が手を貸してやった。

「今おれの鼻の先に持ってきたのは、一体ありゃ何だい?」

床にぶっつけた尻の個所を揉みほぐしながら、須貝は不機嫌に口をひらいた。皆の前で醜態を見せた自分に対して、あきらかに須貝は怒っていた。

「何だい。アンモニアか。ひでえものを嗅がせやがる」

 佐介はその須貝に横顔を向けて、卓上に拡がった美濃紙の文言に視線をおとしていた。それは同じくここの所員の鴨志田吾郎の辞表であった。字画が一糸乱れず整然としているのに、どこか品がないのは、代書屋にでも代筆させたものであろう。

 

  辞 表
 私こと鴨志田吾郎は今般一身上の都合により貴所を
 辞任致したく右お届けします。
  月 日          鴨志田 吾郎 ㊞
 白川社会研究所長殿

 

 このそっけない文章のあとの署名の下に押してある印は、正規のものでなく、拇印(ぼいん)であった。しかも使用されたのは印肉でなく、血液のようである。指紋をくっきりと浮き上らせたその人血は、すでにひからびて紫色になっていた。佐介は須貝の顔を見て、やや軽蔑的に言った。

「血判ですね」

 辞表が拡げ放しになっていることに、須貝は今やっと気付いたらしく、あわててそれを取り込もうとしたが、すでに佐介に読まれてしまった後だったから、あきらめたように手をだらりと下に垂らした。熊井もその辞表に眼をやった。ちょっと気まずいような沈黙がそこにきた。

「ふん」沈黙に耐え切れなくなったらしく、須貝は鼻を鳴らした。「君たちはおれがこの辞表を見て、それで気が遠くなったと思ってるんだろう。飛んでもない話だ。おれは今日はまったく寝不足なんだ。昨夜麻雀(マージャン)で徹夜したもんだから、その疲れが今一挙に出て来たんだ。何だい、こんな悪趣味な辞表!」

「まあ、血判なのね」熊井は顔をしかめてそこに近づけた。「なんて古風な。まるで赤穂浪土みたいだわ」

「うん。あいつは少年航空兵上りの、特攻隊くずれなんだ」須貝はすこし元気をとり戻して、手を仲ばしてウィスキーの小瓶をつかみ、ラッパ飲みに一口ごくんと飲んだ。

「特攻隊ってやつは、血判が大好きなんだ。なんとか一家などと称して、まったくやくざ気取りだ。栗山君。消印をちょっと調べてくれ。大阪になっているか」

 佐介は封筒をとり上げ、眼を近づけて見た。受付局のところはスタンプインキがずれていて、うまく判読出来なかった。佐介は窓辺に行き、眼を大きくして消印をにらんだ。

「やはりずれていて読めませんね。それに日付けのところも」

「あいつ、大阪に出張したっきり戻って来ないと思ったら」須貝は激しく舌打ちをした。「とんでもないアプレ野郎だ。辞表一つ出せば片がつくと思ってやがる。ここはただの役所や会社とは違うんだ。そんな勝手な真似はさせないぞ。草の根を分けても探し出して、徹応的にしごき上げてやる。あいつ、きっと大阪でまとまった金を摑(つか)んだもんだから、それでおれたちと縁を切る気になったんだな。きっとそうだ」

「大阪にはどんな用件で出張したんですか」

「そ、それは君と関係ない!」触るとサッと引込むイソギンチャクのように、この善良にして狡猾な恐喝主任はすばやく殼に立てこもった。「そういうことはお互い同士といえども、うかうかと口外出来ないのだ。壁に耳あり、障子に目あり」

 「人に口あり、魚にエラあり」熊井がそれに続けてふざけた口をきいた。辞表を見て失神したこのだらしない主任に対して、彼女ははっきりと軽蔑に似たものを感じたらしい。それが露骨に彼女の口調にあらわれていた。須貝はむっとして何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。のっぺりした顔が平家蟹(へいけがに)みたいな惨めな表情になり、熊井をにらみつけた。

「おかしいな」窓のそばで封筒をかざしていた佐介が目をはさんだ。「この郵便の受付け時刻、どうも『前06』と読めるんだが、午前の零時から六時の間とは、変な時間に出したもんだな」

「そりゃ大金を握ったもんだから、酒を一晩飲み明かして、そして五時頃郵便局に行ったんだろう。きっと駅の郵便局だな。あいつの故郷はたしか九州だったから、ふん、九州にトンズラしやがったに違いない。どれ、ちょっとその封筒を寄越(よこ)しなよ」

 須貝は自分の整然たる推理にちょっといい気持になったらしく、鼻翼をふくらまして封筒を受取った。そして仔細らしく裏表をしらべ、においを嗅いでみたりした揚句、カチンとライターをつけ、灰皿の上で無造作に燃してしまった。あとの二人は黙って冷然とその須貝の動作を眺めていた。

「ま、これでよしと」須貝主任は先ほどからの気持の動揺をかくそうとして、不注意にもつぶやいた。「なんとこの事件を所長に報告したものかな。くたばりかけているということだから、いっそ頰かぶりの握りつぶしと行くか。もうこの研究所も終りだな。そろそろこちらも逃げ出しの準備と行くか」

「鴨志田君は逆に敵の術中におちて人質となり、そしてこの手紙を書くことを強制させられた、という仮説も成立するでしょうねえ」奥歯で嚙みしめるように佐介はゆっくりと発音した。須貝は呟きのぶつぶつをやめて、ぎょっとした顔を佐介に向けた。「第一にこの辞表は鴨志田君の字じゃない。代書屋か何かの筆跡でしょう。それがどうもおかしい」

「そうよ。血判なんて古風過ぎると思ったわ。あたし」熊井は探偵小説の愛好者らしく、やや飛躍した推理を持ち出した。「きっとカモさんは敵につかまって、生駒(いこま)山中かどこかの一軒家に監禁されたのよ。そしてそこでさんざん打たれたり叩かれたり、拷問(ごうもん)されたりして、その時出た血でむりやりに拇印を押さされたのよ。それに違いないわ。あたし、そんなのを、一度読んだことがあるんだもの」

「おい、おい。見て来たようなことを言うなよ」須貝は本当に脅(おび)えたふうな声を出した。須貝自身もそういう想像を持っていて、それを熊井にはっきり口に出されたものだから、それでなおのこと脅えたらしい。須貝はそしてあわててウィスキーを掴み、またごくりと一口飲みこんだ。「あまり僕をおどさないで呉れ。僕のデリケートな神経を、これ以上刺戟してくれるなよ。うん。そう言えばこれはカモの字じゃないようだな。あいつにこんな字が書けるわけがない。封筒の方の字はどうだい。おい。これの封筒はどこにやった?」

「封筒は今あなたが燃しました」

「燃した?」須貝は眼をうろうろさせて、やっと灰皿の燃えがらを見つけ、絶望的に拳固をかためて自分の頭をしたたかなぐりつけた。

「ああ、何と言うことだ。ずらかる奴がいるかと思うと、何かたくらんでいる奴もいる。変な電報が来るし、鍵型はとられるし、てんでわやくちゃだ。おい。ハム嬢。暦で今日という日を調べてくれ。きっと仏滅か何かに違いない」

 熊井は壁にぶら下げてある高島暦をはずして、ぱらぱらと頁をめくった。この古風な暦本は、その日の仕事の成否だという方角の是非を知るために、この研究所では大いに活用されていた。恐喝という古風な職業にふさわしい備品であった。

「大安、と出ているわ」熊井は感激のない口調で言って、ばたりと頁を閉じた。

「大安だと?」須貝は半白の頭髪をかきむしった。「暦までが僕を莫迦(ばか)にする。人がこんなに困っているのに、大安とはなにごとだ。よし、そんならこちらにも覚悟がある。今日は仕事はやめだ。僕は家へ戻る。戻って大安楽に酒でも飲むぞ。君たちももう帰ってよろしい。いや、栗山君はあのL十三号の仕事をやってくれ。判ってるだろうな。相手は相当のしたたか者だよ」

「判っています」

「手抜かりなくやってくれよ」須貝はそそくさと立ち上り、ふと気がついて、上衣の内ポケットのA金庫の鍵をたしかめた。そして熊井に顔を向けて猫撫で声を出した。

「ねえハムさん。気がむしゃくしゃするから、憂さばらしに映画でも見に行かないか。映画のあとで晩飯をおごってやるよ。うなぎの安い店を見つけたから」

「あたし、も少し居残るわ」

「残らなくてもいいんだよ」サイプリーツのスカートにおおわれた熊井の豊かな腰に、好色的な視線を這わせながら、須貝は一段と声をやさしくした。「今いい探偵映画をやってるんだよ。とてもスリルがあって面白いそうだ。『朝日』の〈純〉がそう賞めていたぜ。気張ってロマンスシートと行こう」

「おことわりするわ」熊井は意識的に佐介の方をちらと見た。「だって須貝さんは、映画の方はろくに見ないで、あたしの手を握ったり足にさわったり、そんなことばかりするんだもの。いやになっちゃうわ」

 須貝ののっぺりした顔が見る見るあかくなった。そして乱暴に卓上の鞄を引き寄せた。そのとたんに鞄が赤い卓上ピアノにふれて、白い鍵盤が人をからかうようにポロロンと鳴りひびいた。それでまた須貝は腹立ちをそそられたらしかった。

「はっきり言って置くけれども、この卓上ピアノの代金は研究所費から出すわけには行かないよ」須貝は鞄を小脇にかかえながら、うってかわった底意地のわるい声を出した。「第一にこんな卓上ピアノを、当研究所は必要としていない。この研究所に卓上ピアノとは笑わせやがる。めくらさんの家がテレビを買うようなもんだ。これは買った当人に支弁して貰うことにしよう。ざまあみろだ」

「なにさ、この帝銀!」熊井は小さな声でののしって肩を嚙んだ。

「でも」と佐介はたすけ舟を出した。「こんな仕事に卓上ピアノが不必要だとは、一概には言えないでしょう。仕事がうまく行かなくてイライラしてる時などに、このピアノで心を慰めたり――」

「僕にあてこすってるのか」須貝はせせら笑った。「卓上ピアノ如きでイライラがなおるなら、誰も苦労はしねえや。余計な口は出さずに、L十三号の手筈でもととのえて置け。今週中に第一回の報告をまとめて出すんだよ。じゃあ僕は帰る」

 須貝は鞄をかかえていない方の手を伸ばして、わざと荒荒しく鍵盤をひっかき回した。高低さまざまの音が出鱈目(でたらめ)に入り交って、湿った空気の中をころがり回った。須貝はせいせいしたという顔付きで、背筋をまっすぐに立て、気取った歩き方で部屋を出て行った。階段を降りて行くにぶい足音がした。

「あ。雨が降ってきたわ」

 どすぐろく濁った空が、もう持ち切れないように、ぽつりぽつりと雨をおとし始めた。故(ゆえ)もないけだるさを感じながら、佐介は窓の方へ足を動かした。熊井は主任卓に腰をおろし、膝を組んだままじっとしていた。佐介は窓から街を見おろしながら口をきいた。

「その卓上ピアノ、僕が買って上げようか」

「無理しないでもいいわ」さっきの怒りのためにまだ熊井の声はこわばっていた。「主任がああいうことを言うんなら、デパートに戻して来てもいいのよ。デパートだから受取ってくれるわ」

「いや、僕もひとつ欲しいと思っていたんだよ。いや、その言い方は間違っている。これを見たとたんにこれが欲しくなったんだ。さっき主任から歩合金の二千円を貰ったから、それで払うよ」

「家に持って帰るの?」好奇心をそそられたように熊井が言った。「そして自分の部屋で弾くの?」

「いや、そうじゃない。そんなへんてこな趣味は僕にない」

 おちて来る雨の粒がしだいに多くなってきた。この建物を出て十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど歩いた須貝がたまりかねたようにレインコートを頭からかぶり、あばれ馬のようにかけ出して行く姿が眺められた。雨が降って来たからとて、とことこ戻ってくるのは、彼の見識が許さなかったのであろう。頰にうす笑いをたたえて佐介はそれを眺めていた。熊井がふたたび訊ねた。

「じゃあどうするの?」

「贈り物にするんだよ」

「贈り物?」熊井は膝を組みかえて、食い入るような視線を佐介の横顔にそそいだ。佐介はまたわらっていた。「あんた、なにを笑ってるのよ」

 笑いを消して佐介はふりむいた。

「なにも笑っていないよ」

「笑ってた。あたしのことを笑ってたんでしょう」

「笑ってなんかいない。光線の具合でそう見えたんだろう」

「贈り物って、相手は女のひと?」と熊井は急に視線をするどくさせた。「女のひとでしょ」

「女じゃないよ」佐介は断言した。「そんなじゃらじゃらした相手じゃない。もっと気の毒な人々だよ。それに贈ろうと思うんだ」

「へえ。どんな心境で?」

「同情からだよ」

 佐介はそして放心したような眼を、窓の外に向けた。雨はますますはげしくなり、家並や街路は茫(ぼう)とけむっている。皆それぞれ雨宿りしたと見え、街路にはほとんど人影は見えない。窓の中にも細かい雨滴がさあっとしぶき入ってきた。そして佐介は突然熊井の方に向き直った。

「今、僕は、何と言った?」

 熊井はその佐介にいぶかしげに答えた。

「同情、って言ったわよ。なぜ?」

[やぶちゃん注:冒頭、日曜日に郵便が配達されているとあるが、依然は日曜日でも普通郵便を配達していた。しかし、労働組合の要望や休日手当のコスト削減などの関係から、日曜日の普通郵便の配達は廃止された。但し、書留・速達・配達時間帯指定郵便・配達日指定郵便代金引換・電子郵便(レタックス)・「ゆうパック」などは日曜でも配達される。あるネットの記載では日曜の普通郵便配達は昭和四五(一九七〇)年頃に廃止になったのではないかという記載があった。

 なお、ここいらで言っておくと、梅崎春生は総てではないものの、志賀直哉の「赤螺蠣太」の如く(主要な登場人物に海産・水産生物の名前が使用されている)、登場人物の名前に明らかに意識的に動植物を用いていることが判る。須山佐島・井・玉虫志田・「ヘビ」・山・などである。水に関係あるものも有意にある(山・白滝川)。一見、無関係に見える「黒須」もこの姓は地名由来で、「黒洲」や「畔」由来であるから、水に関係があるのである。さらに、水産動物を用いた固有名詞や比喩も多いように思われる。「わにざめ鰐鮫・「お歳暮のかなにかを連想させた」・「のフンドシにそっくり」・「触るとサッと引込むイソギンチャクのように」・「エラあり」・「平家蟹みたいな」などである。比喩は梅崎春生自身の好み(傾向)と言えば済まされるが、人名のそれは明らかに意図的である。海産生物フリークの私には非常に気になったので記しておく。

 また、本章の佐介と熊井のエンディング・パートなどはすこぶる映像的・映画的である。シナリオというより、ここを映画のカメラマンなら、こう撮るだろうといった書き振りがいかにも素敵だと思う。

「アロハオエ」YouTubeのИлья Агутин氏の「【和訳付き】アロハ・オエ(ハワイ民謡)"Aloha Oe" - カタカナ付き」で視聴出来る。ハワイ語で最も日常的な挨拶語として「こんにちは」・「さようなら」の意で、他にも「おはよう」・「おやすみ」・「ありがとう」・「愛しています」など多様な意を持つらしい。ここは鴨志田の辞表に引っ掛けた梅崎春生の別れの挨拶の皮肉の洒落であろう。

「アプレ野郎」アプレ・ゲール(フランス語:après-guerre)。「戦後派」の意。ウィキの「アプレゲール」によれば、本来は、『芸術・文学など文化面における新傾向を指す名称として、第一次世界大戦後のフランスやアメリカ合衆国等で用いられ、第二次世界大戦後の日本でも用いられた』が、『戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり』、『既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった』とある通り、一部の若者たちの反道徳的傾向に対する批判的・軽蔑的呼称として専ら用いられた。]

2020/07/10

梅崎春生 砂時計 6

 

     6

 

 人間は何時なんどき、どういう急激な病気で、あるいはどういう不慮な事故で、死んでしまうか判らないものだ。判らないからこそ人間は安んじて生きている。しかし、じりじりと長い時間をかけて死んで行くのと、ぽっくりと頓死するのと、どちらが当人にとって幸福か。私などは今のところ、どちらかと言えば、後者の方が望ましいような気がするが、しかしこういうことはやはり当面して見ないと判らない。それでは、残される者にとってはどちらが望ましいか、これもその時の条件や環境、それらの復雑な組み合わせによって異なるのだろう。今から十数年も前のことになるが、東京の某郊外にある山川病院長山川医学博士は、友人に誘われて、生れて初めて海釣りに行き、一尺ほどの魚をやっと釣り上げたとたん、心臓麻痺をおこして舟中で急死した。六十三になっても、初めて魚を釣り上げたことは、相当にショックだったにちがいない。とかく初めての経験というやつは、新鮮で快適な半面に、非常におそろしいものを含んでいる。

 山川博士は腕は確かで人望もあり、病院も割に繁昌していたが、博士の派手好きと浪費癖のために、財産は遺族にほとんど残らなかったそうだ。二階建ての大きな病院も没後人手に渡ってしまった。そしてそれは病院ではなくなってたちまち養老院に変身した。現在も養老院で、正式には『夕陽(せきよう)養老院』と呼ばれている。老人だから夕陽というわけなのだろう。ここに入っている老人は、開院以来爺さんばかりである。婆さんは入所する資格がない。どうして婆さんを入れないか。婆さんだと長生きをする。統計上そうなっている。長生きをされると回転率が悪くなるからだ、という噂も一部には流布されている。院内の爺さんたちも大体そう思っているらしい。夕陽養老院は私立の養老院だから、もちろん無料ではない。入所の当初に金を払わねばならぬ。戦前にはその額が八百円だったが、戦後は物価の昂騰(こうとう)につれて、現在では十万円にまではね上った。十万円さえ払い込めば、あとは死ぬまでただで世話をしてくれるわけだ。そして入所の資格年齢は六十歳以上ということになっている。資格年齢を下げると、その分だけ生きられてかなわないからだろう。

 現在の夕陽養老院長は黒須玄一と言って、身の丈六尺近くもある壮漢だ。歳は四十五六だが、周囲の房毛だけのこして、てっぺんはすっかり禿げ上っている。色は浅黒く、眉毛がふとぶとと濃い。それに三寸ぐらいの長さの剛(こわ)い顎鬚(あごひげ)をたくわえている。眼光もけいけいとして、人を射すくめるような光を放つ。射すくめると言うより、咎めだてをするような、と言った方がいいかも知れない。いつも紺地の詰襟服を好んで着用し、院内をのっしのっしと巡視して回る。短軀にして倭小(わいしょう)なのが多い爺さんたちの中で、黒須院長の巨軀は大へんに目立つのだ。そして黒須院長は自らのことを『信念の人』と呼んでいる。時にはそれに『鉄の如き』という形容詞をつけることもある。そういう心臓ぶりが、院内のある種の爺さんたちの趣味にはなはだしく合わないのである。この逞(たくま)しい黒須玄一院長は、しかしこの養老院の経営者ではない。つまり彼は雇われ院長に過ぎないのだ。数名から成りたつ経営者団によって、一年ほど前黒須玄一はここの院長に任命された。そしてこの一年間彼は院内の改革(爺さんたちにとっては迷惑な話であったが)に努力して、かなりの成功をおさめた。そこで経営者たちからの覚えもめでたく、月給も初めにくらべると二倍になったという話だ。そんなことにおいても院長をこころよく思っていない向きが確かにある。黒須院長が咎めだてをするような眼相になったのも、そこに一因があるらしいのだ。

 今、夕陽養老院に収容されている爺さんの総数は九十九名である。九十九名が二階建てコの字型の建物の各部屋に、それぞれ分散して入っている。住居は一人あたり最低三畳を確保するという約束だったが、黒須院長が就任以来、何とかかとか口実をつけて、一人あたりを二畳に減らしてしまった。すなわち六畳間には三人というわけだ。収容人員も六十六名から九十九名に増加した。二畳というと一坪という勘定になるが、人一人が生きて行くのにたった一坪とは、いくらなんでも狭過ぎるだろう。爺さんたちが不平を言うのもムリはない。

 爺さんたちは皆、当初にまとまった金額を納入する能力を持っていたわけだから、世の並の放浪者や極貧者とはすこし違う。子供夫婦とそりが合わないとか、世の荒波にもみくちゃにされて生きて行くのがイヤになったとか、理由はそれぞれあるが、最後の平穏な生活を求めて入所してきたことにおいては、皆一致している。その平穏な生活の形式を、白蟻が材木をすこしずつ食い破るように、黒須院長が一年にわたってじりじりと食い破ってきたわけだ。爺さんたちがそれで黙っておさまる筈がない。

 こうして梅雨に入る前後から、爺さんたちの動静はすこしずつざわめき始め、黒須院長の眼はますますたけだけしい光を増して来た。そしてニラ爺の退院問題をきっかけとして、在院者と院長との衝突が始まったのだ。

 

 午後一時二十分。

 黒須院長は詰襟服のボタンをきちんとかけ、顎鬚をしごきながら、正面玄関のバルコニーの上に佇立(ちょりつ)し、空をじっと見上げていた。空の色はまるでポタージュのようにねっとりと重苦しい。今にも雨が降(お)ちて来そうだ。黒須院長はかねてからこのバルコニーに佇(た)って、悠然と空を眺めるのが大好きであった。こういう姿勢をとると、いかにも『信念の人』らしく見える。その点において彼はこの場所を愛好していた。しかし今日は単にポーズをとるためにここに立っているのでもなければ、空模様を心配しているのでもなかった。彼は空を眺めながら、ニラ爺の処分のことについてあれこれと考えていたのだ。午前中黒須院長は威儀を正し、街の自転車屋に出かけ、リヤカーの売値をたしかめてきた。自転車屋の主の言によると、新品で一台一万円から一万二千円ぐらいするという。それは黒須院長の予想より五割がた高かった。

「うん」やがて顎鬚をぐいとしごき、黒須院長は決然たる口調でひとりごとを言った。院長はバルコニーに出ると、とかくひとりごとを言う癖があった。「これはやっぱり韮山(にらやま)に負担させよう。もともとこれはあいつの過失だ。過失を放っておくと癖になる。おいぼれを増長させると全くきりがない。負担をこばめば、もちろん即時退院処分だ!」

 黒須院長は眼玉をぎろりと光らせ、空から地上に視線を移した。この建物の前庭は、黒須院長の就任当時は、一面の芝生と花壇で、爺さんたちの好い日向ぼこの場所になっていたが、今は彼の改革方策にしたがって芝は全部引っ剝がされ、掘りくりかえされてすっかり畠になっている。前庭のみならず、構内の空地という空地は残らず畠になってしまった。一千二百坪のこの夕陽養老院は、建物と畠からなっていると言っても過言ではない。トマト、胡瓜(きゅうり)、いんげん、茄子(なす)、さつま芋、ねぎ、さまざまの種類の野菜がところ狭しと生い繁っている。そのあぜに点々と、数名の爺さんがそれぞれの姿勢で、虫をつまんで潰(つぶ)したり、病葉(わくらば)などを摘み切ったり、いろいろと世話をやいている。その姿を今このバルコニーからも眺めることが出来る。もちろんこれは任意の労働でなく、黒須院長が発案した輪番制の強制労働だ。〈適当な労働は長寿の秘訣〉黒須院長は満足げに畠や爺さんたちを見おろしながら、またひとりごとを言った。

 「うん。初めてにしては割に良く出来たな。これもひとえに俺の企図が良かったせいだ。だからして、収穫の四分の一は俺が頂戴する権利があるな。いや、四分の一とは控え目すぎる。三分の一と行こう。それにしても、あの韮山爺のやつ!」

 太い眉をびくびくと動かして、黒須院長は腹立たしげに舌打ちをした。黒須院長をして舌打ちさせた事件は、数日前のことだ。その日の午後、早実りのトマトを総員労働で採取したところ、予想外の収穫高で、院内消費を差引いてもなおリヤカー一台分が余った。そこで黒須院長はこれを売却することに決定した。ただちに夕陽養老院備品のリヤカーに搭載(とうさい)し、五十円という報酬でこれを行商して回る希望者をつのって見ると、予想に反して誰も希望して出て来ない。報酬が少なすぎると言うのだ。黒須院長は内心腹を立てたが、面に出すわけにも行かず、止むなく今度は七十円に値上げしたところ、やっと韮山爺さんが一歩進み出て来たというわけだ。韮山爺さんは院内ではニラ爺と呼ばれ、年齢も満で七十三歳で、ここでは古顔の一人に数えられている。頭は禿げて腰も曲り、年齢のせいか頭もすこし

ぼけていて、とかく珍奇な振舞いが多い。訪ねてくる身よりもなく、おそらく煙草銭かせぎに希望して出たのであろう。黒須院長はちょっと心配して訊(たず)ねてみた。

「大丈夫か?」

「大丈夫でやんす」

 ニラ爺はもごもごと口の中でそう発音した。当人が大丈夫だということだし、他の爺にたのめば七十円ではイヤだと言うだろうし、結局ニラ爺行商の件を容認したのだが、それが黒須院長近来の大失敗だったわけだ。

 午後三時半、ニラ爺はトマト満載のリヤカーをえいえいと引っぱって、裏門から出発した。そして帰院して来たのは、もう夜中の二時過ぎで、ニラ爺は極度の疲労のために雑巾(ぞうきん)のようにしおたれていた。しかもリヤカーは引かずに手ぶらでだ。あんまり張り切りすぎて、遠くまで行商して歩いたので、ついに道に迷い、それでこんなに遅くなったのだと言う。いろいろ心配して(リヤカーやトマトのことなどを)寝ずに待っていた黒須院長は、半分怒鳴るようにして訊ねた。

「リヤカーはどうしたんだ」

「へえ」ニラ爺の体躯はおそれおののき、一回り小さくなったようであった。「電車の踏切りで、電車と衝突しまして」

「なに?」里一須院長はぎろりと目を剥いた。「衝突だと。衝突と言うのはだな、大体同じ質量のものがぶつかり合うことだ。それを電車とリヤカーが衝突だなぞと――」

「へえ」ニラ爺は面目なさそうにますます小さくなった。

「そいじゃ、はね飛ばされましてん」

「なにい。はね飛ばされたあ?」黒須院長は椅子からすっくと立ち上った。「どの電車線の、どの踏切りだ」

「へえ。Q電鉄です。運転手のやつがカンカンに怒りまして――」

 ニラ爺はくどくどと弁解を始めたが、黒須院長はそれにほとんど耳をかさず、動物園の熊のように部屋をどしどしと歩き回ってばかりいた。そして夜が明けるのを待ちかねて早速Q電鉄にかけ合いに行ったが、電鉄側では、当方の手落ちではなくそちらの過失だ、と冷淡につっぱねる。一時間余りもねばってみたが、向うでは頑強にそう主張する。電鉄側には証人がいるらしいが、こちらはニラ爺の言葉だけで、それを裏づけるものが何もないのだ。しかもニラ爺は老齢で頭がぼけているし、正式に争っても勝ち目はなさそうであった。そこで黒須院長はかんかんにふくれて、とりあえず現場に急行した。問題のリヤカーは第十三号踏切りのそばの溝の中に泥まみれになり、横だおしにころがっていた。こわれて使用出来ないことは、さわってみるまでもなく、一目でわかった。

(リヤカーははね飛ばされて、ニラ爺には異状がないかわりに――)バルコニーから地上をにらみ回すようにしながら黒須院長は考えた。(ニラ爺がはね飛ばされて、リヤカーが無事であった方が、どんなに良かっただろう。そうすれば明目にでもニラ爺の後釜(あとがま)に新入院者が十万円持って入ってくる。今のままじゃリヤカーの損害だけでも一万二千円だ)

 そして黒須院長はくるりと回れ右をして、バルコニーにつづく院長室にのっしのっしと歩み入った。こめかみの血管が怒張して青くふくれ上っていた。

(それにあいつらは、リヤカーのことについては毫(ごう)も反省の色は見せず、行商手当の七十円を早く払えと言いやがる。今どきの老人は全くなっておらん。義務のことは忘れて、権利ばかり主張する。なんという嘆かわしいことか!)

 あいつらと言うのは、当のニラ爺と、ニラ爺と同室の松爺と滝爺の。ことであった。松爺と滝爺は、同室のニラ爺の窮状に同情して、そして黒須院長にたてつく気になったのだろう。黒須院長は部屋のすみの卓に行き、大やかんからコップに麦茶をなみなみとついだ。なまぬるい麦茶は一気に院長ののどを胃の方に流れ落ちた。濡れた顎鬚を詰襟服の袖口でぬぐいながら、黒須院長はまたひとりごとを言った。

「ひょっとかすると、あいつら、アカじゃなかろうか」

 思わず自ら発言した『アカ』という言葉のひびきに、黒須院長はぎょっと脅(おび)えた様子で、おどおどとあたりを見回した。しかしその脅えの色はすぐに顔から消えて、咎めだてするようなたけだけしい光が、ふかたび眼によみがえってきた。黒須院長は院長卓の頑丈な回転椅子にどっかと腰をおろし、宙をにらんでじっと眼を据(す)えた。

 このリノリューム張りの院長室は、山川医院時代は診察室だったという話だが、黒須が院長になって以来、彼はいろいろ新しく調度類を購人し、重厚にして威圧的な雰囲気をつくり上げることに成功した。だから院内の爺さんたちは、前の院長時代は気軽に院長室に出入り出来たが、今はお白洲(しらす)に出るみたいでどうも具合が悪い、とこぼす者が多い。黒須院長が購人した調度類は、並外(はず)れて巨大なものばかりなのだ。院長が使用する扇は仕舞用の舞扇だし、卓上の灰皿ときたら直径一尺にちかかった。これら巨大なものの組み合わせが、高圧的な雰囲気をかもし出すのに大いに役立っている。黒須院長はその大型の回転椅子の上で、厚味のある胸をぐいと反らした。

 (明目の午後は月例の経営者会議があることだし――)黒須院長は右掌で禿げた顱頂部(ろちょうぶ)をしずかに撫でさすりながら考えた。あたかも経営者たちの気持を撫でおさめるかのように。――院長にこわいものがあるとすれば、すなわちこの経営者会議がそれであった。雇われている閲係上、院長はどうしても彼等に頭が上らないわけであった。(それまでにどうしてもリヤカー事件を始末して置かねばならん。俺の黒星となると大変だからなあ)

 黒須院長はぬっと立ち上った。そして大戸棚の上から硯箱(すずりばこ)をおろして、また院長卓に戻ってきた。硯箱も大きくて、ちょいとしたスーツケースほどの体積をもっていた。黒須院長は卓上に紙をのべ、おもむろに硯箱のふたをとった。それから眼を閉じてふかぶかと深呼吸をした。筆で字を書く前にそうするのは、院長の少年時代からの習慣だ。その習慣は院長の父親から仕込まれたものであった。だから黒須院長は今でも、眼を閉じて深呼吸をする度に、あの厳格だった父親のことを思い出す。父親は地方の中学の書道の教師で、不遇の生涯をおくって死んだ。黒須院長は眼を閉じたまま、やや感傷的な声でつぶやいた。

「お父さん。……お父さん」

 父親は院長ほど大きな体軀は持っていなかった。むしろ目本人としては小さい部類に属していた。その小男から、どうしてこんな大男が生れたか、院長自身も知らない。父親は教師の故もあって大へん厳格な性格で、院長は少年時代毎朝四時にたたき起され、習字を徹底的にやらされた。黒須院長が現在能筆家であるのも、ひとえに幼少時代のこの訓練のためである。その頃、その地方の新聞社で、年に一回小学生の書道大会というのをやっていて、出来の良い順に、天、地、人、五客、秀逸、入選、という等級をつける。院長も父親に命じられて毎年これに出品するのだが、もしも、天、地、人、に入らないで、五客にでも落ちようものなら、父親はかんかんに怒って院長を荒繩でしばり上げ、物置に放り込んでしまうのだ。そしてその日一日は、泣いてもわめいても、飯ひとつぶも食べさして貰えなかったものだ。たしかにあのスパルタ式教育が、今の自分の土性骨(どしょうぼね)をつくり上げた、と眼をつぶったまま院長は考える。

「……お父さん」

 父親は背は低かったが、頭だけは今の院長と同じく、てっぺんがきれいに禿げ上っていた。ある夜すこし酔っぱらって、いきなり立ち上った瞬間、その禿頭を電燈の球に打ちあてたのだ。その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた。内部を真空にする技術が進歩していなかったから、電球製造中にどうしてもこういう針が出来てしまうのだ。不運にも父親の禿頭にそのガラスの針が突きささって、父親は大げさな悲鳴を上げた。そして禿頭には小さな孔があき、薄い血がそこから滲(にじ)み出てきた。電燈のあかりに照らされたその血の色を黒須院長は昨目のことのように思い出すことが出来る。そして院長の父親は、その傷口からバイキンが入り、バイキンはやがて全身に囲り、その頃はペニシリンもなかったから、二週間目にとうとう死んでしまったのだ。死ぬ前の日に父親は院長を枕もとに呼びよせ、『如何なる場合でも信念をもって生きよ』という遺言をのこした。それ以来黒須院長は、父親のその遺言を拳々服膺(けんけんふくよう)し、信念をもって今まで生き抜いて来た。もっとも近頃の黒須院長の『信念をもって生きる』ということは、『自分に都合よく生きる』ということとほとんど同義語になってしまってはいたが。――

「よし!」黒須院長は力強くつぶやいて、眼をかっと見開いた。そして筆にたっぷり墨を含ませて、紙におろした。さすがは能筆をほこるだけあって、墨痕りんり、筆は生けるものの如く自在に紙上をおどった。

 

 『告示
 院生韮山伝七は去る六月×目、本院備品のリヤカー
 を破損せしめ、使用不能にいたらしめたり。これひ
 とえに本人の不注意に因するものなるによって、向
 う一月以内に事務局に一万二千円を納入弁償すべ
 し。弁償不能の場合には、院長の権限をもって退院
 を命ずることあるべし。右告示す。
            夕陽養老院長 黒須玄一』

[やぶちゃん注:署名の「黒須」が底本では「黒頂」となっているが、誤植と断じ、訂した。]

 

 そして黒須院長は筆をとめ、ちょっと考え込む顔付きになった。ふたたび筆をとって余白につけ加えた。

 

 『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
 ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
 ものとす。              院長㊞』

 

 黒須院長はしずかに筆を置き、院長卓の引出しから告示用の院長印を取り出した。これもれいによって途方もなく巨大なハンコで、電気アイロンぐらいの大きさがあった。それに朱肉をまぶし、自分の署名の下にべたりと押しつけた。そして院長は満足そうに顎鬚をしごきながらにやりと笑った。

「先ずは、これでよしと」

 リヤカー破損の件を明目の会議で披露することは、いと辛い限りであるが、しかし直ちにこういう処置をとったと報告すれば、経営者たちも不満には思うまい。いや、不満どころか、よろこぶに違いないのだ。経営者たちが望んでいるのは、在院老人の回転率の早さであり、すなわちそれによる入院料十万円の間断なき流入である。端的に言えば、爺さんたちが続々死亡してくれることを希望しているわけだ。爺さんが一人死ぬと、すぐ都内某大学付属病院に遺骸を持って行く。病院ではこれを解剖(かいぼう)の実習に使用し、あとは火葬してちゃんと骨壺に入れて戻して呉れる。それだけでなく、別に三千円という金までつけて呉れるのだ。それに都の方からも三千円という葬儀料がとどく。そういう副産物すらあるのだから、爺さんたちの死が待望されないわけがない。院内爺さんの誰かが死ぬと、この世に残された爺さん仲間は、それぞれのへそくりの中から香奠(こうでん)を出す。一人々々の額は少くても、数十人分とまとまると、ちょいとした金額になるのだ。この香奠は、夕陽養老院歴代院長のほまちになるという不文律があった。一人五十円出すとしても、総数九十何名だから、五千円近くになる。一月に平均四人死ぬとして、院長のほまちは月約二万円となるのだ。副収入としては相当な金額だ。そして香奠返しにはビスケット一袋ぐらいで済ませることになっている。――この度の退院処置というのは、前例にないことであるが、院内から消滅するという点では、退院も死亡の一種と見なしていいだろう。解剖料という副産物は入らないとしても、経営者たちがよろこばない筈がないのである。

「重畳(ちょうじょう)。重畳」

 黒須院長は書き上げた告示を手にして、回転椅子から勢いよく立ち上った。在院老人数を六十六名から九十九名と五割増しにすることによって、れいの羽根運動からの援助金も一躍五割増しになった。実を言うと、有料養老院は募金の補助を受ける資格はないのだが、そこはそれ渡りをつけて、うまくごまかしてあるのだ。その点においても、経営者たちの黒須院長に対する信任はあつい。今度の退院制度を確立することによって、ますます信任が深まって行くことであろう。

(しかし、こういう制度を確立することにおいて、あのおいぼれどもが黙っているかどうか)

 院長室の扉を押して廊下に出ようとする時、黒須院長の脳裡をちらとかすめた危惧(きぐ)はそのことであった。院長は唇をきっとむすび、眉をびくびく動かしながら、廊下をまっすぐ階段の方にあるいた。掲示板は階下玄関の右側にあるのである。院長はやや足音を荒くして、階段を降り始めた。

(うん。なんとか言って来ても、頑としてはねかえしてやる。あいつら、齢をくっているだけで本質的には烏合(うごう)の衆なのだ)古ぼけた階段は黒須院長の靴の下でぎいぎいとにぎやかに悲鳴を上げた。その複雑な摩擦音は、しかし黒須院長の心情を鼓舞し元気づけるというより、何故かむしろ気持をひるませ潰(つい)えさせたようであった。院長の足どりは急に弱くなった。(いや、やはり正面衝突するのはまずい。押しつめられてくると、あいつら何をやり出すか知れたもんじゃない。懐柔策をとる方がいいかも知れん。そうだ。やはり懐柔と恫喝(どうかつ)、その二本立てで行こう。両方をうまくあやなして行くなんて、院長商売もはたで見るほどラクじゃないな)

 階段を降り切ったところで、黒須院長はややぎょっとしたように立ち止り、手にした告示を背にかくすようにした。前方五米ばかりの場所に、瘦せた滝爺が立っていたからである。滝爺というのは本名を滝川十三郎と言って、以前は某新聞社の記者だったとのことだが、割に理屈っぽい口やかましい老人であった。滝爺は廊下にひっそりと立ち、どんぐり眼でじっと黒須院長を見詰めていた。告示を背に回した自らの弱味を恥じて、その反動で黒須院長は横柄な声を出した。

「何か用か?」

「院長」滝爺も押しつぶしたような声を出した。「おれたちは一度院長とじっくり話し合いたいことがあるんだ」

「何か用か?」黒須院長は同じ問いをくり返した。在院老人の大部分は黒須玄一のことを、院長さん、院長さま、あるいは院長先生と呼ぶ。この滝爺は黒須のことを、院長、と呼び捨てにする少数者の一人であった。「用というのはニラ爺のことか?」

「うん。それもある」滝爺は追い詰めるように一歩進み出た。「しかし、それだけじゃない。いろいろ問題があるんだ。今日、院長は時間が空いてるか?」

「うん」黒須院長は相手を咎めるように眼を険(けわ)しくさせた。「昼間は事務でいそがしい。夜分なら三十分ぐらい時間を割(さ)こう」

「夜分でもいいよ」

 そして滝爺は何かつけ加えようとしたらしいが、思い直したように口をつぐみ、回れ右をすると、肩をそびやかして玄関から前庭へ出て行った。黒須院長は滝爺の姿が見えなくなるのを待って、始めて掲示板に近づいた。

(おれ、と言わずに、おれたち、と復数で来たな)告示をがさがさと拡げ、鋲(びょう)でその四隅をとめながら院長は考えた。なにか不安な感情が湧いて来そうだったので、院長は直ちにうんと下腹に力を入れて、それを押しつぶした。鋲を親指でぎりぎりと押しながら、黒須院長は呪文(じゅもん)のように呟(つぶや)いた。

「懐柔と恫喝。懐柔と恫喝。ええい。なにくそっ!」

[やぶちゃん注:「仕舞用の扇」「仕舞」とは、能・芝居・舞踊などで、舞ったり、演技したりすること。或いは特に、能の略式演奏の一つで。囃子 (はやし) を伴わず、面も装束もつけず、シテ一人が紋服・袴 (はかま) ・扇だけで、謡だけを伴奏に能の特定の一部分を舞うものを指す。ここは後者ととっておく。

「顱頂」頭の頂(いただ)き。

「五客」「ごきゃく」と読み、俳句などの選に於いて、「天」・「地」・「人」の「三光」の次に位する五つの優れた作品を指す。

「その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた」takeshi_kanazaw氏のブログ「写録番外編」の「昔の電球の光はいい・・・」の下方の二枚の写真を見られたい。

「拳々服膺」心に銘記し、常に忘れないでいること。「礼記(らいき)」の「中庸」が原拠。「服膺」は「胸につけて離さない」の意。

ほまち」は「帆待ち」で、本来は、江戸時代に、運賃積み船の船乗りが契約以外の荷物の運送で内密の私的収入を得ることや、その収入金を言った。そこから転じて「外持」「私持」などとも当て字して、「臨時に入る個人的な収入」・「個人的に秘かに蓄えたへそくり」の意となったものである。

「れいの羽根運動」「赤い羽根共同募金運動」のこと。現行のその公式記載に、『共同募金及び共同募金会に関する基本的な事項が、社会福祉法に規定されて』おり、この『運動は、都道府県を単位にして行われ』、『各都道府県内で共同募金としてお寄せいただいたご寄付は、同じ都道府県内で、子どもたち、高齢者、障がい者などを支援するさまざまな福祉活動や、災害時支援に役立てられ』、『共同募金運動を推進するための組織として、都道府県ごとに、県内の各界を代表する役員で構成された共同募金会があり』、『都道府県共同募金会には、助成先を決定する「配分委員会」が市民参加により設置されており、助成団体や金額が決められ』ているとある。

「恫喝」「恫愒」とも書く。嚇(おど)して怯(おび)えさせること。]

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