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カテゴリー「梅崎春生」の254件の記事

2020/01/13

ブログ1310000アクセス突破記念 梅崎春生 歯

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年九月号『改造』に掲載された。当時、春生は三十九歳である。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがグ1310000アクセス突破を突破した記念として公開する。【2020年1月13日 藪野直史】]

 

   

 

 ちいさい時から粗食ばかりしていて、それがたたったんでしょうな。三十になるやならずで、歯ががたがたになった。それに戦争のせいもある。戦争じゃ実際苦労しました。

 僕は一人息子で、両親には早く死なれて、じいさんばあさんの手で育てられたんです。だから僕の少年時代の食事はと言えは、ばあさんがつくる関係上、どうしても老人好みの食事ということになります。朝はその地方の習慣で茶がゆ。茶をたきこんだ水気の多いかゆです。副食物は葉菜(なっぱ)や茄子(なす)の古漬けだけ。腹がだぶだぶしてくるから、何杯もおかわりするわけには行かない。昼は小学校ですから、弁当。ところが小学校の僕のクラスには、妙な気風があって、昼食どきになるとお互いの弁当をのぞき合う。おかずが梅干とかタクアンならよろしいが、かまぼこだの卵焼きだのが入っていると、皆があつまって、「ゼイタク」「ゼイタク」「ゼイタク」とはやし立てるんです。先生も黙ってそれを眺めているという具合で、ゼイタクなおかずを持ってきた奴は、弁当箱のふたで内容をかくすようにして、こそこそと卑屈に食べる。そうしたくなければどうしてもタクアンの二片だけで我慢することになります。質朴剛健の気風は栄養を摂(と)らないことにあると、そう皆考えていたらしいのです。夜は夜で、また老人好みのあっさりした副食物。じいさんもばあさんも冬瓜(とうがん)の煮たのが大好きで、その時節になると毎晩冬瓜の煮つけが食膳に出る。これにはうんざりしましたな。僕は今でも冬瓜の煮たのを見ると身ぶるいが出ます。

 つまり僕は少年時代において、以上のような食生活を送り、蛋白質だの脂肪だのカルシューム、其の他いろいろ成長に必要な成分がたいへんに不足した。三十前後で歯ががたがたになった、のは、第一にはこれが原因です。歯がうちそろって一挙に老衰期に入ってしまったらしい。

 そこでこの際志を立てて、歯の徹底的治療、徹底的てこ入れをしようと思い立った。抜くべきは抜き、削るべきは削り、補填(ほてん)すべきは補填する。今のままのジリ貧状態で行けば全滅してしまうにきまっているので、そう思い立ったのです。思い立っては見たものの、先立つもののことを考えて、はたと当惑した。

 僕が今勤めているところは、都内の某盛り場にあるパチンコ屋で、台数も多いし、割に繁昌しています。僕の仕事は、店番とか玉の出し入れ、それに見様見真似で釘の調整もやるので、主人にも重宝(ちょうほう)がられていますが、でも考えて見るとあまりいい職業じゃありませんねえ。第一生産的なところが全然ない。全く不健康な仕事です。そして給与はと言えば、割と店は繁昌しているくせに、主人がケチンボで、あまり良好でない。

 主人がケチンボではあるし、パチンコ屋という商売ですから、もちろん我々従業員たちは健康保険に入っていない。歯をなおそうと思い立ったある日、僕は主人に向って、歯の治療をするから僕たち全員を健康保険に入れて呉れ、と要求したのですが、主人はせせら笑って僕の要求を一蹴した。パチンコ屋と健保とはつり合いがとれないと言うのです。どこがつり合いがとれないのかと訊ねてみたら、どこと言うわけでなく、感覚的に調和していないと言う。もともとこの主人は異常感覚の持ち主で、もりそばに砂糖をまぶして食うような男ですから、言うことも他人とはすこし変っている。歯の方もずんずん悪くなるし、堅いものが全然嚙めなくなってきた。憂欝でしたな。あちこちが思い出したようにズキズキ痛むし、しかも金はないと来ている。

 そこへ忠さんという男があらわれた。

 忠さんというのは、僕の店の顧客で、しょっちゅうパチンコ弾(はじ)きにやってくる。そして僕と口をきき合うような仲になったのですが、歳も僕と同じくらいで、さっぱりしたいい男でした。某出版社の雑誌編集の方をやっていて、編集なんて仕事はよっぽど暇なものらしいですな。毎日のようにパチンコやりにやってくる。時には僕を引っぱり出して、酒を飲ませて呉れたりする。お礼ごごろというわけではないが、よく玉の出る台を僕は忠さんに教えてやったり、また主人の眼をぬすんで玉をザラザラ出してやったこともあります。それで忠さんは僕におごった分ぐらいは結構取り戻しているようでした。

 その忠さんが僕の顔を見て言いました。今年の初め頃のある寒い日です。

「どうしたんだい、そんなふくれっ面をして。お多福風邪にでもかかったのか」

「歯が痛いんだよ」と僕は仏頂づらで答えました。「ほんとに歯が痛いぐらい憂欝なことはないよ」

「歯医者に行けばいいじゃないか」

「それがそう行かないんだよ。間に合せの治療したって仕方がないんだ。全部がもうがたがたになっているんだから」

「じゃ根本的に直したらどうだい。歯なんてものは、放って置くと、命取りになることもあるんだよ」

 そこで僕は、現在のところ治療代がないこと、主人に健保加入を要求中であること、健保加入の暁に総入れの予定であることなどを説明してやりました。すると忠さんは僕の頰ぺたを眺めながら言いました。

「しかし、そんなに腫れ上っているんだから、治療も早い方がいいぜ。取り返しのつかないことになると大変だ。何なら間に合せに俺の健保証を貸してやろうか」

「そうだね。そう願えると有難いな。でも、君が病気になると困るだろう」

「俺は大丈夫だよ」忠さんは胸をどんと叩きました。「俺は当分病気する暇なんかないよ」

 忠さんはその頃ある女性に恋をしていて、それで忙しくて病気する余裕なんかないとのことでした。そういう幸福な人間からなら、健保証をちょっと拝借しても差支えなかろうと、僕も借りる決心をした。こういうことになったと言うのも、健康保険に入れて呉れない主人が悪いのだし、更に進めて現在の政府の政策が悪いとも言えるでしょう。まったく辛いのは庶民ばかりです。

 で、忠さんの保険証を持って、即日近所の歯科医の門を叩いた。

 その歯科医は四十がらみの頑丈な男で、ちょっと大工か左官のような感じの身体つきでした。でも歯科医と大工左官は大いに似たところがある。どちらもノミやクギを使うし、またセメントを使用する。削ったり穴をあけたりかぶせたり、対象が歯と材木の違いだけで、あとは大して変っていないのではないでしょうか。そして歯科は他の医科にくらべると、どうも発達が遅いように、僕は思います。歯を引き抜くに釘抜きをもってする。この方法は神代時代でもやっていたに違いもりません。も少しスマートなやり方はないもんでしょうかねえ。二千年も経つのに同じ方法でやっているとは、歯科にたずさわる人の努力が足りないと、そう断定しても差支えないでしょう。そう僕は思います。

 そこで僕は診察室に通され、れいの電気椅子に似た椅子に腰かけさせられた。戸棚にはさまざまの形のノミやヤスリや釘抜きが、ピカピカ暦き上げられて、人を脅やかすようにずらずらと並んでいます。上には金属製のアームが、歯をギシギシ削ってやろうと待ちかまえています。僕は観念して、椅子の上で大口をあけました。

「こりやひどいな」歯科医は一応僕の歯を点検し終ってそう言いました。「あなたぐらいの若さでこんなにガタガタなのは珍らしいですな。あなたは過去において、堅しものに嚙みついた覚えはありませんか」

「そうですねえ」

 と僕は考え込んだ。現在まで石にかじりつくような苦しい生活をして来ましたが、まさか本物の石に嚙みついた覚えはありません。

「そう言えば戦争中、人間の腕に嚙みついたことがありますが、まあそれくらいなものです」

「それかも知れませんな。歯の根がそろってぐらぐらにゆるんどる」

 人の腕に嚙みついたというのは、正確に言うと終戦後のことです。終戦の時、僕は陸軍の下級兵士として、北支の棗荘(ソソウ)というところにいた。ここは炭坑があるところです。終戦と同時に、在留邦人をも含めた二千名がえんえんと列をつくって、済南(サイナン)目指して出発しました。そして済南において国府軍に武装を解除されたんです。そこから乗船地の青島までの行軍、これが辛かった。

[やぶちゃん注:「棗荘」現在の棗荘(そうしょう/そうそう)市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「棗荘」は拼音で「Zăozhuāng」、カタカナ音写では「ザオヂュアン」であるから、「ソソウ」というルビは日本語としても中国語としてもおかしい。「台児荘(たいじそうしだいじそう)の戦い」(日中戦争中の昭和一三(一九三八)年三月から同年四月七日までの間山東省最南部の台児荘付近で行われた戦闘。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が中国軍の大部隊に包囲されて撤退し、徐州作戦の引き金となったもので、中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる)の舞台であった。無論、内地勤務であった梅崎春生自身の体験でなく、戦後の彼の作品の多くと同じく、本作は外地体験者の聴き取りによるものである。

「済南(サイナン)」山東省済南(カタカナ音写:チーナン)市。青島(チンタオ)も確認出来るスケールにしておいた。直線で繋いでも棗荘から済南を経由して青島までは五百キロメートルはある。]

 線路はほとんど爆撃で寸断されているので、大部分が徒歩です。済南で武装解除されたから武器は持たない。その武器を持たない僕らに向って、途中の土民達が襲撃をかけてくるのです。もちろん僕らは集団だから、正面切っては襲って来ない。ちょっと列を離れたり遅れたりすると、ワッと襲いかかって袋だたきにする。あるいはどこかに引きずって行く。これは日本人に対する憎悪もありますが、ひとつには僕らが携えているもの、たとえば時計とか服とか毛布、そんなものを欲して襲撃してくるのです。

 そして悪いことには、僕は部隊本部付の通信隊で、えんえんたる列の最後尾についていたのです。最後尾というのはもっともねらわれやすいところで、現実に通信隊員の中からとうとう三名が次々にやられてしまった。送り狼みたいについて来るんですから、油断もすきもありません。また戦友の一人がワッとやられているととろへ、単身たすけに行くなんてことは、これはもう不可能です。向うは多勢だから、ついでに自分もやられてしまうからです。武器でもあれは別ですが、徒手空拳ときている。

 済南を発して五日目の夕暮のことです。宿営地の部落に入る直前で、僕は小便がしたくなったものだから、立ち止つて小便をした。あたりは一面薄墨色の夕闇です。周囲にちょっと人影が見えなかったものですから、つい油断して放尿しているところを、背後からさっと襲いかかられた。

 そいつは六尺近く一もある、体格のいい土民でした。それに腕力もすごかったですな。僕をうしろから羽がいじめにして、むりやりに引きずって行こうとする。僕は大声を出してわめき、そしてはげしく抵抗した。夕闇のかなたか、四五人の走ってくる人影が見える。もちろんこちらの味方でなく、大男の一味です。もう連中に来られては最後だと思った。袋叩きに叩き殺され、裸にされてしまうと思った。腕力ではとてもその男にかなわないから、僕はもう無我夢中で身体を曲げ、大男の二の腕にがぶりと嚙みつきました。

 その大男の腕は固かったですねえ。まるで材木みたいに固かった。嚙みついた僕の歯の方がぐらぐらつとした位です。大男はうっとうなって、羽がいじめの手をゆるめた。そのすきに僕は男の手からのがれ出て、持ち物を全部地上に投げ捨て、一目散に走り出しました。大男は僕を追おうとしたらしいが、地上の物品を仲間にとられてはまずいと考えたのでしょう。迫って来なかった。もし追っかけて来たら、向うの方が足が早いにきまっているし、たちまちつかまえられたに違いありません。持ち物を捨てたのは、ほとんど無意識の動作でしたが、そのことが僕に幸いしたのです。

 それから二三日の間、僕は飯が咽喉(のど)に通らなかった。歯が痛くて、飯が嚙めないからです。そこでおかゆをつくって咽喉に流し込んでいました。よっぽど力をこめて嚙みついたんでしょうねえ。

 僕の歯の老衰を早めたのは、この事件もたしかに一役買っています。大きく言えば戦争というものが僕の歯をがたがたにした。まったく憎むべきは戦争です。タクアンや塩せんべいをパリパリ食べる楽しみを、戦争が僕から奪い取ったわけです。これは小さなことではありません。人生の幸福というものは、おおむねこのような日常の幸福から成り立っているものですから。

 

 それから僕は毎日、あるいは一日おきに、その山田歯科医院に通うことになりました。なにしろ大部分の歯が多かれ少かれ修理を必要としているのですから、順々にやるとしても、相当な日時がかかります。しかし忠さんの健保証のおかげで、経済的負担はまぬかれた。

 で、忠さんの方はどうしたかと言うと、三月の初め頃からピタリと店に来なくなってしまった。恋愛の方で忙しくて、パチンコまでに手が廻らないのだろうと思っているうちに、ある日僕は腹が痛くなった。売薬を買ってきて服用したが、痛みはますますひどくなる。そこで内科医の診察を乞うと、虫垂炎だという診断で、すぐ手術の必要があると言うのです。そこで即座に入院して切って貰いました。

 ことわりもしないで悪いと思つたけれども、背に腹は替えられず、これも忠さんの保険証を使用させて貰った。手術台に上りながら、僕は考えました。忠さんは歯ならびはいいから、歯科医にかかることはないだろうが、急性虫垂炎にはかからないとは限らない。もし今年にでも虫垂炎にかかり手術を受けるとすると、忠さんは健保証の上において、虫垂炎手術を二度受けたことになる。すると思さんは虫様突起を二本持っているということになり、ちょっと具合が悪くはないか。そう思ったが、もうその時は仕方がありませんでした。そして手術はかんたんに済みました。

 この虫垂炎も、結局は歯に原因したもののようです。医師の話によると、虫垂炎の一原因として、暴飲暴食があげられるそうで、だからよく月曜日にこの病気はおこるとのことです。半ドンとか休日には人間の心もゆるんで、とかく暴飲暴食するものらしいです。僕の場合は、歯が治療中だし、よく食物が嚙めない。ろくに嚙まないまま吞み込むということになる。定量食べていても、不消化に終るから、つまり暴飲暴食と同じことで、それが虫垂炎の原因になったらしいのです。どこまでも歯がたたつて来ます。

 この虫垂炎の入院期間もあり、歯の治療は相当長びきました。

 保険証のために、山田医師はもちろん僕のことを田井忠次(忠さんの名)だと思つていて、治療の合い問に世間話として、出版界の景気などを訊ねてくる。これには弱りましたが、いい加減に調子を合せてごまかしていました。ところがある日、とうとうウソがばれました。というのは、山田医師が僕の店にパチンコをやりに来て、僕とパッと顔を合せたのです。僕はすっかりまごまごして、身の置きどころがなかった。山田医師はにやりと笑って、すぐ傍のパチンコ台にとりつきました。僕はその時パチンコ台をあけて、玉の流れる調整をしていたんですから、山田医師は僕が客でなく、使用人だということを一目で見破ったらしい。

 でも、お医者さんがパチンコやろうとは、僕も考えなかったですな。もちろん医者がパチンコやってはいけないというわけはないけれど、うちの主人の言い草ではないが、どうも医者とパチンコとはつり合わないような気がします。山田医師のやり方を横目で眺めていると、職業柄小手先が器用なせいか、なかなかよく入つているようでした。

 山田医師は僕の店に一回パチンコやりに来ただけで、それ以後は来なかった。そして翌日から、僕に出版界の動向など訊(たず)ねなくなってしまいました。インチキの件も黙認ということになったらしい。

 そして五月の末に、とうとう歯の治療は終りを告げました。治療中にもたびたび主人に健保加入を交渉したけれども、主人は頑(がん)として聞き入れなかったのです。もっともこれは従業員側の団結力の不足のせいもありました。健保加入でワイワイ騒いでいるのは僕だけで、他の連中は手前が目下病気ではないものですから、そつぽ向く傾向が大いにありました。朝から晩までガチャンジャラジャラと、あの地獄のような騒がしさの中にいては、頭もすっかりぽけてしまうし、考え方も大へんエコゴイスティクになってしまうのです。いつか仲間の一人が、近所の露店から二十日鼠を三匹買つて来て、籠に入れて店に置いたところ、たちまち三匹が卍巴(まんじともえ)になつて喧嘩し始め、一日も経たないのに三匹とも悶死してしまった。もちろんこれは店内の不潔な空気と騒音のなせるわざです。こわいようなものですねえ。

 では、あれから忠さんはどうしたか。いろいろ気にはしてたんですが、ずっと御無沙汰をしていて、やっと治療も済んだものですから、お礼かたがた保険証返しに忠さんの出版社を訪れました。じめじめした天気の日でした。編集室は二階にあつて、見渡したところ忠さんの姿は見当らないようなので、そこで忙しそうに働いている女の人に訊ねてみると、おどろいたことには忠さんは突然気が狂って、三月末から精神病院に入院しているという。僕は思わず持っていた菓子箱を床に落してしまった。

 何でもその女の人の話では、忠さんはある女に失恋して、そのショックで気が変になったという話でした。向うで訊ねるから、僕は忠さんの従弟だとウソを答えた。だからくわしくいろいろと話して呉れたのです。病院はどこだと聞くと、神奈川県にある某私立精神病院だとのこと。それから遠廻しにさぐりを入れて見ると、やはり健康保険で入っているらしい。そして気が変になつているから、保険証のありかも判らないので、同僚が再交付の手続きをとり、それでやっと入院したんだそうです。僕は愕然としました。すると忠さんは神奈川県の精神病棟に収容されていながら、毎日か一日ごとにぬけ出して、歯の治療をやっていたことになります。入院が三月末だから、虫垂炎の方はツジツマが合うけれども、歯の方はごまかしようがありません。誰が見たってこれは変だと思うに違いない。

 忠さんの社を辞して、僕は大急ぎで山田病院を訪れました。そして山田医師に会い、歯の治療代のうち四月と五月の分は健保ではなく自費として払うから、と申し出たところ、山田医師はびっくりしたように「もう遅いですよ。点数の請求を出してしまったから」

 との答えでした。僕はがっくりと頭をうなだれました。一体これはどういうことになるんだろう。

 忠さんの保険証の注意事項を読むと、その第六条に『不正にこの証を使用した者は、刑法により詐欺罪として懲役の処分を受けます』とあります。この一条がかねてから気にかかっていたのですが、まあどうにかなるだろうと多寡(たか)をくくっているうちに、こんな形のどんづまりが来た。『不正にこの証を使用した者』はさし当り僕でしょうが、しかし忠さんも任意にこの証を人に貸したことにおいて不正を犯している。また山田医師もそれを黙認したことによって不正に加担したと言えなくもない。では三人とも懲役処分を受けるのでしょうか。

 でも考えてみれば、病気を治療するのは医者の使命であるし、病者は充分なる治療を受ける権利がある。そういう権利や使命をへんな具合にねじ曲げているものが現在にたしかにある。僕は自分の不正使用をそれでごまかすわけではありませんが、近頃医者の坐り込み、患者の坐り込みが、各地で頻々とおこっています。もちろんこれはねじ曲りに対する正常な抵抗だと思います。済南で僕に襲いかかった大男と同じく、羽がいじめにしてくれは、腕を嚙み切っても逃げねばなりません。それにはやはり頑丈な歯が必要だということになるでしょうねえ。

2019/12/21

ブログ百三十万アクセス突破記念 梅崎春生 蟹

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年四月号『明窓』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第一巻」を用いた。

 主人公の「僕」の履歴は概ね梅崎春生のそれと一致する。敗戦時、梅崎春生は満三十歳で、昭和十九年六月に海軍から再召集(昭和十七年一月に陸軍から召集を受けて対馬重砲隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)され、佐世保相ノ浦海兵団に入隊し、暗号特技兵となり、終戦まで九州の各基地を転々とした。その間、昭和二十年初めには士官教育を受け、二等兵曹となっている。

 なお、この電子化は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが百三十万アクセスを突破した記念として公開する。【2019年12月21日 藪野直史】]

 

   

 

 その男の名を、仮に名村富五郎としておこう。

 名村富五郎は、背丈は五尺二寸[やぶちゃん注:一メートル五十七センチ五ミリ。]ぐらい。背丈こそ低かったが、甲種合格になるだけあって、肩幅もひろく、頑丈な体つきをしていた。裸になると、その頑丈な胴体を、太く短い足が支えている。体つきや顔つきが、どこか蟹(かに)に似ていた。だから下士官や兵長たちから『カニ』という綽名(あだな)で呼ばれていた。

「やい。カニ。これを暗号士に届けてこい」

「カニ。この訳文は間違っとるぞ」

 まあちょっとそんな具合だ。

 カニと呼ばれることを、名村は喜んでいない。そりゃそうだろう。誰だってそんな綽名は、嬉しくないに決っている。そう呼ばれると、名村はぷっとふくれて仏頂面となる。そうするとますます蟹に似てくる。

 僕がこの男と初めて会ったのは、戦争中のこと。九州南部のQ海軍航空隊でだ。

 僕はその頃三十歳。応召の一等水兵で、この航空隊の通信科に配属されたのだ。佐世保通信隊で暗号術の講習を受け、そして単身ここにやって釆た。僕にとって、ここは初めての実施部隊だった。今までは教育部隊で、同年兵ばかりだったが、今度はそういうわけには行かない。僕はほとんど敵地に乗り込むようなつもりで、ここにやって來たのだ。実施部隊の辛さというものを、それまで度々聞かされていたから。

 名村富五郎は、やほりこの隊の通信料の上等水兵だった。

 僕は最初、カニというのを、可児(かに)という姓だとばかり思っていた。そして、実に風貌にピッタリした姓だと、ひそかに感心もしていたのだ。それが、綽名(あだな)と気がついたのは、入隊して三日目ぐらいだ。ほんとにカニ上水などと呼びかけなくてよかった。そんな呼びかけでもしていたら、上級者侮辱の故で、袋だたきの罰直(ばっちょく)にあったかも知れない[やぶちゃん注:「罰直」は所謂、軍隊内で行われた私的制裁、上級兵による下級兵に対する体罰、いじめである。梅崎春生はエッセイ「わが兵歴」(私の電子化)の中で『罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている』と述べている。]。この隊は有数の気風の荒っぽい部隊だった。勤務も辛かった。暗号の勤務も辛かったが、居住区の方の勤務、甲板掃除や吊床教練がなかなか大変だった。実施部隊で一等水兵が一番下級の兵なので、その辛さは言語に絶する。しかも季節は冬だ。南国とは言え、兵隊だから厚着するわけには行かず、寒気が肌にしみわたる。

 僕は陸軍のことは知らない。しかし映画の「真空地帯」などを観ると、上等兵が、時には一等兵が、割に権力を持っているらしい。海軍ではそういうことはない。兵隊で権力を持っているのは、兵長だけで、それ以下はほとんど権力はないのだ。罰直と言えば、上水以下ずらずらと整列させられ、兵長が殴(なぐ)ったり叩いたりすることになる。一水よりも、上水の方が余計叩かれる。整列は二晩か三晩に一ぺんずつ、必ずあった。あの精神棒という太い棒で、力まかせに尻を殴るのだ。

[やぶちゃん注:『映画の「真空地帯」』野間宏の小説(昭和二七(一九五二)年二月河出書房刊の書き下しの、戦時体験に基づく陸軍内部の暴力性や非道・非合理を描いた長篇小説。毎日出版文化賞受賞)。映画化されたそれは新星映画社製作、監督・山本薩夫、脚本・山形雄策、主演の木谷一等兵役は木村功で、同年十二月十五日北星株式会社の配給で公開されているから、本篇の執筆時期が概ね推定出来る。「真空地帯」の原作の梗概及び映画作品のデータ(概ね原作に忠実)についてはウィキの「真空地帯」を見られたい。]

 名村は兵長たちから特に憎まれている様子で、整列の時殴られる本数は一番多かった。僕たちが三四本の時、名村は七八本も叩かれる。それは名村が実技はあまり出来ないくせに、ふてくされたようなところがあったからだ。それともう一つ、見逃せない原因がある。兵長たちはすべて志願兵だったが、名村は徴集兵だったのだ。つまり満二十歳で兵隊検査を受け、そして海軍に廻されて来たのだ。だから兵長らが、歳が十七八だのに、名村は二十一二ということになる。名村の方がはるかに年長なのだ。

 とかく志願兵は徴集兵をバカにし、あるいは憎む傾向が大いにあった。バカにするのは、自分等は志願して海軍に入ったのに、あいつらはのめのめと徴集されて来やがった、そんな気分かららしい。憎むのは、徴集兵は年長だし、二十まで地方にいて、社会的な経験を沢山積んでいる、女なんかも知っている、そんなことに対する憎しみのようだった。                  

 この隊の暗号科は、兵長が六人、上水が六人、そして僕ら一水が八人いた。その中で、徴集兵は名村一人、応召兵は僕と、木原という三十五六の男と二人。あとは全部志願兵ばかりだった。戦争末期のことだから志願年齢もずいぶん引下げられて十四五歳ぐらいのもいたくらいで、つまり僕なんか十四五の少年兵と一緒に、甲板掃除などに追い廻されていたのだ。僕等応召兵を除けば、兵隊の中では名村が一番年かさということになる。その名村が、三つ四つも年下の兵長から、バカにされたり殴られたりする。それが名村にはやり切れない風だった。

「ほんとにあいつ等は――」

 ある時、名村が僕に言ったことがある。

「シャバに戻ったら、足腰立たぬほどぶちのめしてやる」

 実際志願兵たち一般に共通した性格は、他人の苦痛に同情がないということだ。これは十四五歳から精神棒などで痛めつけられて成長して来たので、ふつう人間が持つ想像力を失ってくるのだろうと思う。その連中から追い超されるのは、名村のみならず、僕や木原にとっても、極めて憂欝なことだった。

 

 名村はあまり頭の働きが敏活でなく、暗号は下手だった。暗号作製も暇がかかるし、和訳させると間違いばかりする。それを兵長に言わせれば、

「お前はやる気がないんだ。やる気がなければ、やるようにしてやる」

 という具合で、殴られたりする。殴られても、頭が敏活になるわけじゃないから、名村の仕事ぶりは相変らずだ。

 名村の生家は、農家だということだった。だから、体格はいいし、力も強い。力仕事や甲板掃除には彼は向いている。ところが背が低いものだから、吊床操作には不適だった。ハンモックは梁(はり)にフックがあり、それに環をかけるようになっている。ところがこの部隊の梁は相当の高さがあり、飛び上ってそれに引掛けるのが骨なのだ。僕は背丈が五尺七寸[やぶちゃん注:一メートル七十二センチ七ミリ。]ばかりもあるが、それでも大昔労だった位だから、五尺二寸の名村にとっては大変な事だっただろう。環を掛けようと、ピョンピョン、小野道風の蛙(かえる)のように飛び上る。それがまた、兵長等の嘲弄の的となるのだ。

「何だい、その恰好は。平家ガニみたいな面(つら)しやがって」

 吊床訓練は、先に吊り終った者から走って行き、一列に並ぶ。たいていの場合、名村は後の方だ。上水のくせに一水より遅いのは何ごとかと、箒(ほうき)の柄で力まかせに尻を引っぱたかれる。名村は顔を歪めて、それを受けるのだ。

 吊床訓練は僕も苦手だったけれど、名村がいるおかげで、いくらかたすかっているようなものだった。その点について、名村も考えるところがあったらしく、一度僕と木原を兵舎のかげに呼んで、こう言ったことがある。

「お前ら、応召の一等兵のくせに、ナマイキだ」

 巡検の済んだあとの時間だ。兵舎のかげは暗くて、名村の表情は見えなかった。

「何がナマイキですか?」

 と木原がとんまな反問をした。

「なに。口答えするか!」

 名村は僕等二人を並ばせて、僕等の頰を二つずつ殴りつけた。そして言った。

「お前らは、吊床のやり方が早すぎる。俺より早くやったら、承知しないぞ」

 僕らは黙っていた。頰げたがヒリヒリと痛んだ。この名村の命令は、無理難題というものだった。名村が言う通りにすれば、兵長から僕らが殴られることになる。そんなムチャな話はない。

 僕と木原は、こんな具合にして、時々名村から殴られた。木原が一度怒って、僕に相談を持ちかけたことがある。

「野田兵長に訴えてやろうか」

 さっきも言ったように、殴る権力を持っているのは兵長だけで、上水のくせに一水を殴ったことが判れば、名村はひどい眼にあうに決っている。だから木原がそう言うのだが、僕はとめた。告口はいやだったし、またいずれ名村も兵長に昇進する筈だから、その節復讐されるかも知れない。そのことも考慮に入れる必要があったのだ。

 名村が僕らを殴るのは、いつも巡検後、しかも人目につかない暗がりでだ。上水が一水を殴っているところを、人に見られちゃ、名村も困るのだろう。しかも、面白いことには(あまり面白くもないが)、名村が殴るのは僕ら二人だけなのだ。志願兵の若い一水を殴るのは、控えているようだった。若い一水を殴ると、兵長に告口されると警戒したせいか。僕ら二人は老兵で、居住区でも孤立した存在だったから、安心して殴っていたのかも知れない。

 しかし木原がある時、こういう仮説を立てた。

「あいつ、年下から殴られてばかりいるんで、年長の俺たちを殴って、腹いせしてるんだぜ。きっとそうだ」

 この仮説は、あるいは正しかっただろう。しかしそんな名村の気持の動きを、僕は是認するわけには行かない。年下から殴られて辛ければ、年長者を殴ることを慎しむのが本道だ。そう僕は考えるのだが、名村はそう考えなかったのだろう。名村が僕らを殴るのは、どうも彼が忿懣(ふんまん)やる方なき時なのだ。むしゃくしやする気持を、僕らを殴ることによってはらす。それが彼のカタルシスなのらしい。カタルシスの道具になる僕らこそ、迷惑な話だったけれども。

 しかし僕らにとっては、兵長から殴られても、名村から殴られても、気持の厭さにおいては大差がなかった。どちらもはるか年下である点では同じだ。どちらも子供なんだ。

 子供と言えば、若い一水やあるいは上水の中に、身体の成熟を未だとげていないのもいたくらいだ。隊内には温泉が湧く。この隊のあるQ町というのは温泉地帯で、隊内にも湧口がひとつある。僕らは夜の甲板掃除後、あるいは巡検後、やっとそれに入れるのだが、一緒に入る若年兵の裸を観察すると、いまだに発毛がなくスべスべしてるのがいる。不具ではなくて、生理が発毛の段階まで達していないのだ。

「こんな連中と一緒にやってんだからな」

 木原が時折そう嘆くのも無理はない。服をつけるとちゃんとした上等水兵で、僕らが敬礼しなけれはならないのが、裸になると葱の白根のようにスべスべしている。あんまり愉快な気持じゃなかった。

 

 温泉風呂のことを、ちょっと書いて置こう。

 僕らが入るのは夜遅くなので、すっかりぬるくなっている。と言うのは、この湧口のはもともとぬるいので、将校や下士官が入る時は、石炭で加熱するのだ。それもせいぜい午後六時か七時までで、それ以後は本来の温度に戻る。摂氏何度ぐらいか、計ったことはないが、相当にぬるかったことは確かだ。とにかく僕らが、甲板掃除などで身体が冷え切って、しかも足にはヒビやアカギレが出来ているのに、服を脱いでいきなり飛び込んでも、全然沁みたり熱かったりしないのだ。実に快適にスポッと入れる。それはいいけれども、今度は出るのが大変なのだ。湧口の近くは、いくらか熱いが、そこは上水や兵長が入っているので、近づけない。湧口から一番遠いところで、我慢しなければいけない。

 だから僕らはおおむね、巡検後に入ることに決めていた。巡検後と言えば、眠る時間を使用することになり、勿体(もったい)ない話なのだが、しかしその時間は入浴者が少なく、湧口近くに行けるという利点があったのだ。

 ある時、僕と木原が入っていると、脱衣場の方から名村が裸で入ってきた。広い湯槽には僕ら二人だけだったのだ。たしかその夜、巡検後の整列があり、その後のことだから、巡検から一時間も経っていたと思う。名村は手拭いで軀(からだ)をしめしながら、じろりと僕らの方を見た。

 僕らはそろそろと身体を動かせて、湧口の位置を名村にゆずった。名村はざぶりとそこに身をひたした。

「お前らは、いつも今頃、風呂に入るのか?」

 と名村は不機嫌に質問した。

「そうです」

 木原がおとなしくそう答えた。すると名村はじろじろと僕らの方を見ていたが、

「おい。お前たちは、年はいくつになる。生年月日を言って見ろ」

 誰もいないものだから威張ってやがる、と思ったけれど、逆らうとうるさいので、僕らは生年月日を答えた。僕は大正四年生れだが、木原は、明治生れだ[やぶちゃん注:梅崎春生は事実、大正四(一九一五)年二月十五日福岡市生まれである。]。明治と聞いて、名村はちょっと表情を歪めた。

「なに。明治だあ?」

 そしてふと考え込む顔付になった。明治という年号から、自分の父親のことでも思い出したのかも知れない。しかしすぐ不機嫌な表情になって、

「おい。お前たち二人で、俺の身体を洗え。寒いから手早くやるんだぞ」

 ざぶざぶと流し場に上って行った。こちらはもっとあたたまっていたいのだが、止むを得ずざぶざぶと上って、手拭いに石鹸をつけ、蟹のような名村の身体を洗い始めた。もっと力を入れろ、こすり方が手ぬるい、などと名村が文句をつけるので、力まかせにごしごしやっていると、脱衣場の方から、

「こらあ、カニの野郎!」

 と怒鳴る声がした。はっと振り返ると、野田という若い兵長だ。名村はしまったと思ったらしく、あわてて僕らを突きのけようとしたが、もう遅かった。

「上水のくせに、背中など流させやがって!」

 そう言いながら、野田はつかつかと入って来た。

  僕らはその姿勢で、じつとしていた。すると野田は、いきなり名村の肩と腕を摑(つか)むようにして、ずるずると引張り、湯槽の中に力まかせに突き飛ばした。名村は湯煙を立てて、シャバン[やぶちゃん注:ママ。]ところがり込んだ。僕らは息を詰めて、それを眺めた。やがて名村の首が、ひょいと湯の表面にあらわれた。野田が大声で怒鳴った。

「上ってこい」

 野田の手には、大きな湯搔(ゆか)き棒が握られている。それを見ると、名村は顔色を変えて、眉の根をふくらませたが、やがて観念したように、ふてくされてのそのそと上ってきた。そして上半身をやや前に屈し、両手を伸ばして、尻を殴られる規定の姿勢をとった。野田の棒が大きく振り上げられた。肉と棒とがぶっつかる鈍い音が名村の尻に鳴って、名村はうっとうめいた。

「この野郎。この野郎!」

 棒はつづけざまに打ちおろされた。

 僕ら二人は流し場のすみから、その光景を見ていたわけだ。野田も名村も、まったくの裸だ。裸の男が、裸の男を棒でなぐつている。うすぐらい電燈の下で、それは何だか地獄の出来事のような、陰惨で残虐な感じだった。名村は野田から十本ばかり尻をなぐられ、とうとう動けなくなって、床にうずくまってしまった。野田はなおも罵声を発していたが、名村が動かないので、棒を捨てて湯の中にざぶりと飛び込んだ。裸だから、彼も寒かったに違いない。野田が上るまで、名村は流し場にうずくまって、動かなかった。皮膚が破れて、尻は血で濡れていた。

 野田が風呂を出て行ってしまうと、僕らは何だか放って置けなくなって、名村の傍に行った。背中から手を廻して、抱き起そうとした。名村の裸は、濡れた瓦みたいにつめたかった。抱き起そうとする僕を、名村がじろりと振り返った。口が動いた。

「覚えてろ!」

 そして僕のたすけを拒否しながら、名村はよろよろと立ち上った。

「余計なことするな!」

 その瞬間、僕はやはりこの名村に、同情と憐憫(れんびん)の情を強く感じていた。どんな強がりを言ったところで、つまりは彼は孤独なのだし、その孤独のやり切れなさを持ちあつかいかねているに違いなかったからだ。しかし、力をかそうとする僕の掌を、彼は力をこめてピシリと打った。

「余計なことをするな!」

 

 しかし、名村は、時に僕らを殴るとは言え、彼は志願兵たちよりも、僕らの方に親近を感じていたことは否めないと思う。僕らと名村は、志願兵たちの中では、異端である点で一致し、被害者である点で一致していたからだ。けれども彼は、僕らと親近であることが時にやり切れなくなって来るらしい。それは自分が惨めな被害者であることを、認めるようなものだからだ。

 上陸日(外出日のこと)が、時に名村と一緒になることがある。すると名村は、他の兵隊とではなく、必ず僕らの方に近づいて来て、行動を共にしようと言うのだ。断ったり渋ったりする気配を見せると、怒り出す。半強制的なのだ。

 僕らは名村に連れられて、町の共同浴場に入ったり(隊の風呂とは違って、湯も満々としているし、熱かった)、飲食店などに入ったりした。外出日というと、名村は朝から、割に快活になっている。一日の自由が確保されているという意識が、自ずと彼の態度を快活にさせるらしい。上陸員整列の前に、下士官や兵長に「上陸させて頂きます」とのあいさつを欠かしてはならないのだが、名村は一度などはそれを忘却して、お陰で翌日上陸員総罰直を食ったこともある。

 隊門を出ると、まああと数時間か十数時間は、自由の時間だ。僕も出来れば一人になって、自由にふるまいたい。何も好んで名村みたいな陰欝で気の利(き)かない若造と、行を共にしたくないのだけれど、上水の命令であれはいたしかたない。名村はそんな僕の気持も知らず、せっせせっせと歩き廻り、忙しく自分の自由を満喫するのだ。隊門から町まで、田舎の中を大路が貫いている。そこを歩きながら、この畠の風景が自分の田舎のそれに似ていると、僕にくどくどと説明して聞かせたりする。彼の生家は佐賀県の田舎で、彼は五人兄弟の一番末弟らしい。そんなことを問わず語りに話して聞かせる。そんな時の彼の話しぶりは、楽しげと言うよりも、イライラしているような具合で、そういう故郷の幸福に戻りたいという願望が、切なく胸にあふれているようだった。そして、その切なさを聞かせる相手に、彼は僕らを選ぶのだ。

 せまい町中だから、一廻りしてあちこち寄ったって、なにほどの時間もかかりゃしない。結局、名村が僕らを引っぱって行くのは、自分の下宿だ。

 下宿というのは、上陸の度にそこに寄って休息したりする民家のことで、ことに上水以上には必要なものだった。一水は、朝外出して、夕方には戻って来ねばならないが、上水は二度に一度、あるいは三度に一度、外泊が許される。そこでどうしても下宿が必要なのだ。

 名村の下宿は、町外れの小さな農家だった。その納戸(なんど)みたいな一部屋が、名村の部屋だ。名村の部屋と言っても、彼は五日か六日に一度の外出だから、他の外出日の兵と共同で借りていることになる。その部屋には小さなイロリがあって、その前に大あぐらをかき、豆や菓子をつまみながら茶を飲んでいる名村の姿は、実に陰気な幸福にあふれていた。

 僕らの帰隊時間は午後六時だ。しかし六時きっかりなどに帰ろうものなら、一等兵のくせにナマイキだと叩かれるから、五時半には戻っていなくてはならない。五時半に戻るには、名村の下宿を五時に出発せねば間に合わない。

 その五時までの時間、イロリを囲んで名村と対坐しているわけだが、ふしぎなことには名村は自分のことばかりを話して、相手の話をほとんど聞きたがらないのだ。たとえば、自分の故郷のこと、自分の少年時代のこと、自分の友人のこと、などを次々に、誇らしげにあるいは詠嘆的に、僕らに話して聞かせる。そのくせ、僕らの経歴や故郷については、ほとんど興味を示さない風だった。無関心と言ってもいい位で、つまり僕らは彼にとっては、過去を持った現実の人間ではなく、単に水兵服を着た現象みたいにしか見えなかったのだろう。そうだ。僕らは単に相槌(あいづち)を打つ現象に過ぎなかった。

「お前らにゃ判らないだろう。え。俺の村の良さがさ」

 僕らはそんな名村の言葉にも相槌を打つ。

 そろそろ五時が近づいて、彼は外泊、僕らが帰隊の仕度を始めると、名村はふいに不機嫌な仏頂面(ぶつちょうづら)になる。あるいは毒々しい言葉で、僕らを嘲弄し始めたりするのだ。

「可哀そうなもんだな一等水兵は。たまにゃお前たちも、ハンモックじゃなく、ふつうの寝床に寝たいだろうな」

 その願望は強く僕らにある。それをちゃんと名村は見抜いていて、そんな厭がらせを言うのだ。僕らは形式的なあいさつをして名村の部屋を出る。うしろから名村が聞えよがしに言う。

「可哀そうなもんだよう、一等兵さまは」

 僕らは寒風が吹きぬける大路を、急ぎ足で隊門に戻りながら、今夜の、また明日からの日課のことを物憂く考えている。一晩布団にくるまって寝ようとも、翌朝六時には隊に戻って来ねばならんじゃないか。それがいかほどの幸福か。などとも思って見るのだが、やはりふつうの布団にくるまって、一人で眠るということは、なにか羨しいことだった。この気持は、軍隊生活の経験ある人でないと、判らない気持だろうけれども。

 

 名村富五郎上水がある夜ふしぎな脱走の仕方をした。いや、脱走と言ってはウソになるだろう。彼は夜中に突然居なくなって、翌朝九時頃、ぼんやりと痴呆のような表情で戻って来たのだから。

 それは冬にしては風のない、割にあたたかな夜だった。名村上水はその夜、防空電信室の当直に当っていた。防空電信室は、空襲の時に使用するために作られたものだが、その頃はまだ空襲がない頃だったから、時々巡検後の整列に使用されるだけで、誰か一人兵隊が当直として、無電機類の番をするだけだった。これは一人配置だし、ちょっと淋しいけれども。[やぶちゃん注:句点はママ。]仕事としてはラクだった。そこに居るだけでよかったのだから。

 で、名村はそこの当直で、一人だけだった。

 防空電信室というのは、大きな半地下濠で、頑丈(がんじょう)な仕切りで隔てられた部屋がいくつかある。建物から相当離れているから、しんしんと静かだ。物音一つも聞えない。空気はしめっぽく動かない。当直のいる部屋は、二十畳はどの広さで、周囲にはぐるりと無電機を置く棚があり、無電機もいくつかは乗っている。僕も一度この当直にあたり、一晩寝たことがあるが、孤独であることは楽しかったけれども、なんだか恐くて、うなされたりして良く眠れなかった。この配置はしかし、朝、割に寝坊が出来るので、上水以上が独占して、なかなか一水には廻して貰えないのだ。

 夜の十一時頃、ある下士官が用事があって防空電信室に行って見ると、当直用の毛布はしいてあったが、名村の姿は見えなかったと言う。便所にでも行ったのかと暫く待ったが、戻って来ない。名村はどこに行ったのかと、それでちょっとした騒ぎになった。それからあちこち探したけれども見当らない。

 翌朝になっても、名村の姿はどこにも見えない。暗号士や掌暗号長などが額を集めて相談している。他隊に知られると通信科のカブが下るし、と言って、かくして置いても責任問題となる。そんなところへ、どこからともなく名村の姿が、ひょっくりと暗号室に現われて来た。顔は痴呆のようにげっそりしているし、あちこちで転んだと見えて、事業服は泥だらけだ。

[やぶちゃん注:「掌暗号長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐し、全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。

「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」のこちらのようなものかと思われる。]

「どうしたんだ」

「どこへ行ってたんだ」

 そんな質問に対しても、名村は蟹(かに)のように口から小さな泡をふきながら黙っている。熱病やみみたいな、ぎらぎらする眼付だった。

 やがて、彼がぽつりぽつりと話し出したことは、まことに奇怪だった。僕はその時当直で暗号室に詰めていたし、その話は僕のすぐ背後だったから、よく聞きとれたのだ。

 以下、名村の話。

 巡検ラッパがかすかに聞えて来たので、彼は毛布をしいて、事業服の上衣を脱いだ。そして毛布に入ろうとすると、通路の方から足音がして、扉から見知らぬ下士官の顔がのぞいた。

 名村はびっくりして顔を上げた。

 するとその下士官は、自分は看護科の××兵曹(その名は名村は忘れた)だが、一寸聞きたいことがあるから、看護科まで来て呉れ、と言う。そこで名村は起き上り、上衣をつけた。その間その下士官は扉の側に立って、じつと名村をにらむように見詰めていたと言う。

 上衣を着けて、名村はその下士官に連れられて、通路に出、そして防空電信室を出た。空には星がたくさん出ていた。暗い草地をしばらく歩くと、そこに小さな小屋のような建物があった。こんな建物があるとは、名村は夢にも思っていなかったので、彼はびっくりした。それは丁度、本部と防空電信室の中間ぐらいに位置していたと言う。(あとで実地検証したけれども、もちろんそんな建物はなかった)

 下士官はその建物の扉を押して入った。名村がためらっていると、下士官はふり返って、妙な笑い方をしながら、彼においでおいでをした。そこで名村も、変だと思ったけれども、ついに扉の中に入った。扉の中は、まっくらだった。

 ここでいきなり名村の記憶は途(と)切れる。あとどうなったか、何も思い出せぬと言う。

 ――気がついた時、朝の六時頃で、そろそろ明るくなりかかっていた。彼は山の中の、道もないようなところを歩いていたと言う。さし交す樹々の梢から、朝露がひっきりなしに落ちて、服はぐしょぬれだった。名村はびっくりした。何故自分がこんなところを歩いているのか、全然理解出来なかったのだ。

 それから必死になってムチャクチャに歩いている中に、小さな部落に出た。その部落の人に朝飯を食わせて貰って、今やっと戻って来たのだと言う。その部落は、隊から一里ほど離れたところにあった。

 この名村の陳述は、一時間ばかりかかってポツリポツリと行われた。そしてそれは、暗号長等に全面的に信用されたかどうか、僕は知らない。しかし結局、この事件は表沙汰にはならなかったようだ。表沙汰にすれば、名村は勿論(もちろん)のことだが、上級者の責任ということにもなる故だったのだろう。

 しかし僕にしても、名村のその陳述を信用するか否かになると、どちらとも決めかねる。信用する側に立てば、軍隊を脱出したいかねての欲望が、そんな夢中遊行を生んだとも思えるが、どうもそこらもハッキリしないのだ。

 僕は今でも名村のことを時々思い出す。あの若いのに陰欝な風貌や、蟹(かに)に似た姿体などを。

 あの航空隊にいる時、僕と木原に下士官候補を受けろという命令が来て、出発することになった。その時名村が感慨深げに言った。

「すると二箇月後は、お前らは下士官というわけだな。全くバカにしてやがるな」

 そして嘲(あざ)けるような声で笑った。僕はその笑い声を、思い出そうとすれば、すぐ耳の側で聞えるような近さで思い出すことが出来る。

 

2019/11/26

ブログ・アクセス1290000突破記念 梅崎春生 行路

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十月号『不同調』に初出で、昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 途中に二箇所だけ、その昔のシークエンス時制と梅崎春生の事蹟を確認・比較するため、私のオリジナルな注を挟んでおいとた。

 文中終わりで出る「碌々(ろくろく)と」とは「平々凡々と」の意である。若い読者のために言い添えておく。

 梅崎春生の絶妙な仕掛けが――最後に――ある。お味わいあれ。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが本日、午前中、1290000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年11月26日 藪野直史】]

 

   行  路

 

 針金ほどの細い鰻(うなぎ)である。それをブツ切りに切って皿に盛り、板台に幾皿も並べてあるのだが、切断された部分部分がまだ生きていて、ピンピン皿の外に飛び出そうとするのを指でつまんで皿に戻しながら、

「さあ、一皿十円。さあ十円ですよ」

 一間[やぶちゃん注:約一メートル八十二センチメートル。]ほどのよしず張の店で、店先にむらがったお客達の肩越しに聞えて来るのは、そんな甲(かん)高い女の声で、あった。梅雨の合間のぬかるみ道を歩き悩みながら、その張りのある女声にふと耳をとめた私は、何だかそれに聞き覚えがあるような気がしたから、洋傘を支えにして何気なく客の肩越しに斜にのぞきこむと、丁度(ちょうど)顔をこちらにむけた声の女の視線が偶然私の姿をとらえたらしく、日を輝かせながら、まあ、と驚いた時の眼をパチパチさせるその癖でも、まぎれもない栄子の姿であった。

「お栄さんじゃないか」

 私も少からず驚いて口走った。暫(しばら)く見ないうちに少し肥った色白の頰に栄子は驚きの色をかくせない陰影のある笑みを浮べて、裏の方へ、と手振りで私に示しながら、

「ケイちゃん。店の方たのんだわよ」

 へい、と答えて奥から出て来た若者は、復員服を着て二十四五らしいが、眉の形の良い端正な横顔を、よしずにそって裏に廻りながらちらと眺めた印象が、

 ――似てるじゃないか。――

 私は栄子と相知って此の十年余の歳月を、その感じだけで胸苦しくよみがえらせていた。

「暫くだったわね」

 裏の木戸から出て来て、何か感慨深そうに栄子はしげしげと私を眺めながら、

「でも貴方はかわらないわね。私はとても変ったでしょう」

「いや。綺麗(きれい)になったよ」

「へえ。口が旨くなったわね。これでもあたし、此の間までは上野の地下道に寝泊りしてたんだから」

 こんな事で私に嘘を言う女ではないから、その事も本当に違いない。私が黙っていると、

「驚いた。驚いたでしょう」

「驚きもしないが、大変だったろう」

 うふん、と含み笑いをしながら、私の手の弁当箱に眼を走らせ、

「相変らず腰弁というところね。それは空なの」

 一寸待ちなさいと、ためらう私から弁当箱を取上げて木戸へ入って行ったが、暫くして出て来て、

「お土産。商売物だけど」

 こだわりのない明るい調子であつた。受取ると弁当箱の中に、先刻見た切れ切れの鰻(うなぎ)が詰っているらしく、アルミの蓋にはねあたる幽(かす)かな感じと妙な重量感が手に伝わって来た。

「此処じゃお話も出来ないから、一寸そこまで出ましょう」

「店の方はいいのかい」

「いいの。任せてあるから」

 よしずの向うで先刻の若者の声らしく、ええ一皿十円、たったの十円と呼ぶのが聞えて来た。

 此の前逢った時から三年程も経つが、その歳月を一足飛びに越えて隔りを感じさせないのも、栄子という女の持つ性格ゆえには違いなかったが、また私と栄子の交情が特殊のものであるせいでもあった。栄子に言われるまま歩き出し、露地を廻るとそこらはやくざなマアケット地帯で、両側の屋台屋台に栄子はあるきながら挨拶を交したり交されたりするところからみれば、栄子は既にここでも相当な顔らしく、私は恰幅(かっぷく)の好い栄子の後姿を追いながら、此の女のこんな強さはどんな処から来るのかといぶかる思いでもあった。泥のはねを気にして立ち悩む私に、栄子はふと振返ってまぶしそうな眼を向けたが、身体を反(そ)らして飛込んだのがやはり屋台の一軒で、

「おばさん。つけてくれない」

 棚に並んだ瓶を見るまでもなく飲屋と知れるが、昼酒でもあるまいとためらう私に栄子ほはげしく手まねきした。

 すわりの悪い腰掛けで、曇天の光が青ぐらく落ちて来て、私は盃に注がれた変に黄色い洒に口をつけた。酒を口に入れるのも久し振りで、そのせいか薬品じみた抵抗がふと舌にさからうのだが、栄子は鮮やかな飲みぶりで、盃を持つ手ももの慣れた風情であった。此の女も何時からこんなに酒に慣れたのかと、記憶の空白を確め廻していると、

「あれからどの位経ったかしら」

「そう。あれが十九年の三月だったから」

「もう三年あまりね」

 その時は栄子は着のみ着のままで、険しく暗い顔をして私を訪ねて来たのであった。しかしどんなに暗く栄子が絶望していても、今までの例ではまた不死鳥のように此の女は立ち上って来た。その事を私は言いたくて、

「でもお栄さんはどうにかして生き抜けるたちらしいね」

「どうにかなる。どうにかなるものよ」

 栄子は盃を乾しながら、かわいた笑い声を立てた。私と始めて相知った頃の栄子は、こんな笑い方はしなかった。淋しそうな笑いを片頰に一寸浮べるような女であつた。今のように肥ってはいなくて、すらりとした形の良い少女であった。

 それは確か私が大学に入った年のことで、同じ高等学校から来た古田という私の友達がいて、それから栄子を紹介されたのだ。古田の話では従妹だということであったが、その頃栄子は何処か私立の音楽学校に通っているとの話で、一寸しゃれたスウツなど着てその癖髪はおさげのままであった。不調和がそのまま此の少女には調和となっていて、それが変な魅力となっていた。手を膝にあてて丁寧にお辞儀するような少女であった。全体の感じが稚ない様子だったから少女と書いたが、歳はもう十八九になっていたと思う。

 古田という男はきりっとした顔立ちの男であったし、それに仲々の漁色家だという評判だったから、勿論(もちろん)従妹だなどという彼の口舌を私は信じていなかった。また信ずるにしても信じないにしても、それは私にかかわりあることではなかった。しかしこんな稚なさを不幸におとし入れることは、何か無惨な気もしなくはなかった。私の知る限りでは古田の今までの相手は、女給とかダンサアとかそんな種類の女に限られていたから、そんな女たちと同列に栄子を置くことがふと傷ましく思われたのだ。

 古田とはもとから私は知っているが、漁色家といっても悪どいやり方ではなく、ただ責任のない愛情を楽しもうとする、言わば単純なエピキュリアンに過ぎなかったから、あるいはなおのこと栄子は愛情の方途に迷ったのかも知れない。とにかく若い栄子が古田に愛情を打ち込んでいることは、他処目(よそめ)の私にも判る位であった。そんな無計算な愛情の吐露が、遊びのつもりでいた古田には重苦しくなって来たのであろう。私の下宿にある時やって来て、あの女にもかなわん、と私に洩(mら)したことがある。

「だってあれは君の従妹だろう」

 古田はそれを聞いて首をちぢめて苦笑しながら、しつこい従妹だよ、とはき出すように言った。

 その言葉を聞いた時、私はふと古田に微かな憎悪を感じていた。

 その頃既に古田は栄子と肉体的関係があったのだと思う。ただの精神的な恋情なら、古田ほどの男が身をかわせない筈がないからだ。私がその時古田を憎む気持が起ったというのも、彼の無責任な生活態度に対してではなく、純な女に不幸を植えつけたという点であったに相違ない。三人でいる時、栄子がときどき古田を眺めるあの熱っぽい眼を私は思い出していたのだ。古田はその頃栄子と二人になることを嫌ってか、よく私を誘いこんで同座させていた。

 ある夜日比谷公会堂で音楽会があって、待ち合せて行く約束になっていたのだが、約束の場所でいくら待っても古田が来ず、やむなく私は栄子と二人で聴きに行ったことがある。もともと私は音楽に趣味があるわけではなく、ほんのつきあいに過ぎなかったが、栄子は音楽学校に通っていただけあってその夜も譜本をたずさえて来ているほどであった。約束の時間が過ぎた時私はすぐ、古田がすっぽかしたと思ったが、栄子は、も少し、も少し、と少しずつ時間を伸ばして、背伸びなどして遠くを眺め、仲々あきらめ切れぬ風情であった。そこを離れて公会堂に行くときも、栄子は何度も振返って探し求める眼付になったりした。

 その夜の演奏曲目は何であったか覚えていない。終って外に出ると空は一面の星で、私達はぶらぶらと公園の中を日比谷停車所の方に歩いた。音楽の後感がまだ身体に残っていて、風爽かな初夏の夜であった。

 演奏中からも栄子は何か沈んだ風(ふう)であったが、歩いている時も言葉少く顔色が冴えない模様で、話しかける私の言葉にもはっきりしない受け答えぶりであった。丁度(ちょうど)噴水のところまで来た時栄子は何か思い詰めたように身体ごと私を押して来た。

「ねえ田代さん。何故今日古田さんは来なかったの。何故来なかったんでしょう」

 突然のことなのでふと私が気押されて黙ると、栄子は急に甲(かん)高い声になって独語のように叫んだ。

「でも私はあの人を信じてるわ。あの人は人を偽るような人じゃないわ」

 声音が乱れたので私が驚いて栄子を見ると、月の光の加減か栄子の顔は真蒼であった。陶器のような冷たい頰に、ふと涙のいろを見たような気もしたが、栄子は両掌で顔をおおって、つと私に背を向けた。お下髪(さげ)が大きく揺れて、その間から細い頸(くび)筋が見えた。月の光はそこにも落ちていた。堪え難い程の哀憐の情がその時私の胸を衝き上げて来たのである。私はしかし何故かはげしい狼狽を感じながら身体を硬くして、花々の香しるい夜の径を急ぎ足に歩き出していた。

 しかし栄子と古田の交情も、間もなくあっけなく終った。古田が召集されて支那に渡ったかと思うと、すぐ戦死してしまったのである。戦死の場所は上海戦線であった。

 古田の母親からそんな報(しら)せがあって一遇間ほど経った夜、私の下宿に栄子が訪ねて来た。玄関に出て見ると暗い土間に栄子は影のように立っていて、私の姿を見るとキラキラ光る眼で私をじっと見た。憔悴(しょうすい)の色が濃くかぶさり、何か別人にも見えた。とりあえず部屋に通しながら、古田の戦死を何時知ったのかという私の問いにも答えず、部屋のすみに斜にすわり、私の視線を避けるような物ごしで、

「田代さん酒を飲みたいわ。飲まして」

 激しい口調であった。

 栄子が心に受けた打撃は私にも良く判るのだから、こんな場合、場あたりの慰めも無意味だと思い、女中を呼んで私は酒を注文した。この頃(昭和十二三年頃)は酒が飲みたければ下宿の帳場に注文して、つけでいくらでも飲むことが出来たのだ。

 その夜栄子はかなり酒を飲んだ。

 その話によると、栄子は古田と結婚する約束をしていたそうで、古田の戦死を知って彼女が古田の実家を訪ねてみると、母親が出て来て、古田には内縁だけれども既に妻があるということを、冷たい顔で栄子に話したという事であった。古田が自分と約束をしておきながら、家に内縁の妻を持っていたことが栄子に惑乱する程の打撃を与えたのだ。

「古田が東京を立つ時、何故駅まで来なかったんだね」

「そんな感傷的なことは厭だとあの人は言うんですもの」

 駅には古田の母親とその内縁の妻らしい女が来ていた。その女は人目もはばからず手巾(ハンカチ)を眼にあてていたが、古田は明るい顔で見送人と挨拶を交していた。私は栄子が来てはいないかと時々気になって四辺を見廻したりしたが、汽車が出るまで栄子は見当らなかった。やがて万歳の声と共に、窓から古田が振る帽子がだんだん小さく消えて行った。

「死んじやったもの仕方が無いさ」

 私も少し酔って栄子にそんな事を言った。

「死んじやったからいけないのよ」

 栄子は濁った眼で私を見っめたが、

「他に女の人がいるなんて、男ってそんなものかしら、そんなものなの」

「ああ、そんなものだよ」

 そのうちに夜が更けて電車も無くなったようだから、私は下宿に頼んで寝床をとってもらった。栄子は酔っていて、少からず乱れていたから、独り戻すのは危険な気もした。それにまた別の気持もあった。

 いよいよ寝る段になって酔った栄子が着換えしようとする時、手が乱れて裸の胸が見えた。乳首がちらりとのぞかれたが、それは桑の実のような黒さであった。栄子はばたんばたんと乱暴にふるまいながら、床に入った。

「あなたは良い人ね。ほんとに良い人ね」

 良い訳がないさと、私は胸の中で呟いたが、栄子はその時眼を閉じて幽かな寝息を立てていた。電燈の光線が栄子の顔に隈(くま)をっくって、いつもの稚ない表情から急に大人びた暗さであった。

 その夜挑んだのが私であったということを私は書いておかねばならぬ。不幸に陥ちた女をそんな風(ふう)に取扱うことは、何か弱みにつけこむようで後ろめたくないこともなかったが、境遇から来る不幸というものは、私には本質的なものでなく、人間にとっては意匠にすぎないと思われた。不幸という点からすれは、栄子よりその夜の私の方が遙か不幸であるのかも知れなかった。

 しかし私の挑みに対して、栄子はもっと激しい情熱で応じて来た。それはほとんど自棄じみた烈しさで、それは私を愛しているためでは絶対になく、ただただ自分を満たすためであることを、私はその瞬間に本能的に感じ取っていた。悦楽の頂上にあって栄子は唇を私の耳に寄せ、

「――憎い。憎いわ」

 歯ぎしりするような調子でそう呻いた。

 翌朝私達はぼんやり起き上っていた。昨夜のことを悔ゆる気特は勿論(もちろん)私にはなかった。私は貧しい朝膳に向いながら、昨夜栄子が憎いと叫んだ言葉は、誰にむけられていたのだろうと考えた。古田に対してか、それとも私に対してか。或いは栄子は自分自身にその瞬間そんな憎悪を感じているのかも知れなかった。私が探り得た身体の感触では、栄子は明かにみごもっていた。

 しかしその朝、栄子は意外なほど明るくなっていて、朝食を食べながら声を立てて笑ったりした。昨夜までの苦しみをすっかり置き忘れた風(ふう)であった。

「で、これからどうするんだね。故郷に帰るのか」

 栄子の故郷は九州で、小地主の父親だけがいるということを私は聞き知っていた。

「帰らないわ」

「学校に戻るのか」

「学校はもう止めよ」栄子はそう言って笑った。「私は看護婦になるの。そして従軍するの」

 その日一緒に外に出て、銀座で映画を見て別れた。それは喜劇映画だったが、栄子は笑う処になると人一倍笑ったりした。そんな栄子の心理を私はふと解しかねていた。

 それから栄子は長い間私を訪ねて来なかった。

 看護婦になると言っていたがどうしたのか、腹の子供はどうしたのか、そんな事を私は時折気にかけていたが、やがて私も卒業期が迫って論文作製などに忙しくなったから、そんな心配も次第に心からうすれ始めていた。ある初冬の日私が図書館の大階段を降りて来ると、その下に黒っぽい看護婦の服を着た女がいて、それが栄子であった。驚く私に栄子はにこやかに笑いかけながら、淡々とした口調で言った。

「明日出発して支那に行くのよ」

 へええ、と思わず私は声に出しながら栄子の容姿を上から下まで眺めた。

「今下宿にお訪ねしたんだけれど、図書館にいらっしゃると聞いたから、先刻から待っていたのよ」

 看護服は良く栄子に似合った。以前より少し肉付きが良くなって、顔の辺も成熟した表情であった。それと私の関心をひいたのは、態度に何か自信が出来ていて、それが一層栄子を美しく見せた。

 立話も出来ないので私達は建物を廻って歩き出した。

「何故今まで連絡しなかったの」

「何故って、私にも判らないのよ」と栄子は一寸顔を染めた。「貴方のことをあまり思い出さなかったのよ。ところがいよいよ遠くに行く段になって、とっても貴方に会いたくなったのよ。もう御卒業ですってね」

 葉の枯れ落ちた銀杏(いちょう)並木の彼方、青色の冬空を背景にして安田講堂が茶褐色にそそり立っていた。そこを歩きながら栄子が言った。

「あの建物は何。厭な形ね。お墓の形をしてるじゃないの」

 まことそれは墓石の形であった。朝夕それを眺めていて、その時始めて私は気が付いていた。

 子供はどうしたのかとうとう聞かなかったが、栄子の話では看護婦の教習所のような処に暫く通って、そして従軍を志願したという話であった。それを話す口調があまり淡淡としていたから、子供を産んだにしても流したにしても、そんな一身上の大事が表情に陰影を落さない筈はないと私は思った。しかし栄子はそんなこだわりをいささかも見せていなかったのだ。不幸をてんで受付けないような強い資質を此の女は始めから持っていたのではないか。思い立っていきなり従軍看護婦になるというのも、思えば私には理解出来ないことであった。私はその頃召集が来はしないかと毎日ビクビクしていたのだ。

 別れ際に私が、

「もう古田のことなど忘れてしまっただろうね」と冗談めかして言うと、栄子は急に淋しそうな顔をした。

「ええ、近頃は忘れちゃったけどね、あの時はほんとに辛かったわ。あんなに深く絶望したことって無いわ。あんな気持は男には判らないでしょうね」

「判らないことはないさ。しかしその傷のなおり方は男よりは早いようだね」

「そんな事を言う」栄子は口辺にふしぎな笑みをちょっと浮べたが、直ぐしみじみした調子になって、「貴方にも又そのうち、御厄介になることがあるかも知れないわ。住所が変ってももとの処に言い残しといてね」

 そして私達は別れた。

 その夜私は遅くまで眠れなかった。栄子と今日出逢い、そしてみすみす遠くへ手離したということ、それが実感として私に来た。私は長い間栄子のことを思いつづけていたような気分におちていた。実際としては近頃私は栄子の事を忘却し勝ちであったが、逆に言えは苦しいから私は私の意識を眠らせようと努力しているのかも知れなかった。何だかそんな感じを突きつめて行けば、私は栄子と最初出会った時から、栄子に切ない気持を抱いて来たようであった。あの一夜のことが今なお私に罪業感を残さぬのは、私のエゴイズムではなくて、そんな気持の責任を私が持っているからに違いなかった。しかし現実には私は栄子と距離をへだてている。それは何の故だろうと私は思うのであった。

 二箇月程経って栄子から手紙が来た。上海の陸軍病院からであった。私は古田が上海で戦死した事を咄嗟(とっさ)に思い起していた。現実のありかたからすればそれは偶然というものかも知れないが、私には何だか栄子の成意が働いているように思えた。その手紙には、近く奥地へ出発するという意味のことが、検閲を考慮してか廻りくどく書かれてあった。

 その翌年の春、私は学校を卒業した。学校の教師にもなりたくなかったし、それと言ってもどんな仕事にも情熱を感じなかった。すすめる人があって、私はある役所に入った。仕事は面白い筈もなかったが、月給を貰えないとなるとすぐ生活に困る身上であった。新体制ということが叫ばれ、誠に住みにくい世であった。栄子の消息はそれ切りなかった。

 私は長年住み慣れた本郷の下宿を引払って郊外のアパアトに移った。結婚をすすめる人もあったが、大てい私は笑って断った。しかしその時栄子の事を考えていたわけではない。なるほど栄子は私の心の中に住んでいたけれども、現実的な像としてではなく、小さな額縁に入った絵のような具合に残っているだけであった。それが私の生活を乱すということはあり得なかった。ただ何となく私はすべての女に興味をなくしていた。結婚生活というものに対しても、私はいささかも魅力を感じていなかった。気持がはっきり踏切りっかぬまま私はその役所に一年余通っていた。

 大陸から戻って来た栄子が私のアパアトを探して訪ねて来たのも、そんな沈滞したひと日のことであった。私が夕食の菜をぶら下げてアパアトに戻って来ると、管理人のお内儀が玄関で私を呼び止めて、

「女の方が部屋にいらっしゃいますよ」

 と言った。誰だろうと私はいぶかしく思ったが、次の瞬間に栄子ではないかということを直ぐ考えた。その外(ほか)に私の部屋に訪ねて来る女人など居る訳は無かったからである。

 扉をあけると栄子は私の机の前にすわって私のアルバムを拡げていたが、私の姿を見るとバタンとそれを閉じて居ずまいを正した。

「今夜泊めてね。お願い」

 栄子は看護婦の服装ではなくて、草臥(くたび)れたスウツを着ていた。部屋のすみに小さなトランクが置いてあったが、その金具も脱(はず)れかかっていた。身体全体に疲労のいろが深く、眉目のあたりがきわ立って荒れた感じであった。

「もう看護婦は止めたのかい」

 私のその言葉に答えず、背広を脱ぐ私をしげしげと眺めながら、

「田代さんも背広を着るようになったのね」

 そんなことをポツンと言ったりした。

 近所の知合いの酒屋に少しばかり都合してもらって、その夜は飲んだ。栄子は大変酒が強くなった感じで、小気味良く盃をあけていたが、それでもそのうちに好い色になった。何か大陸での生活を話したがらない風なので、私も強いてそこに触れなかったが、酔うにつれて栄子の険しい眉も少しずつ晴れて行くようだった。そんな時に、ふと音楽学校時代の栄子の清純な俤(おもかげ)がよみがえって来たりした。そして私も少し酔った。

 日米関係が険悪になりかけていて野村大使が渡米している時のことだったから、私達の話も自然に其処に落ちて、私も何時かは戦いに引っぱり出されるだろうというようなことを私が言ったら、栄子は眉を寄せいやな顔をして言った。

[やぶちゃん注:「野村大使」海軍軍人で外交官であった野村吉三郎(明治一〇(一八七七)年~昭和三九(一九六四)年)は第二次近衛内閣の時、昭和一六(一九四一)年一月に駐米大使に任命され、ぎりぎりまで日米交渉に努めた.同年十二月七日(日本時間十二月八日)のマレー作戦と真珠湾作戦で米・英・蘭と開戦したが、針の莚に座るような思いで、その後の半年をワシントンD.C.で過ごし、抑留者交換船で日本に戻ったのは翌年八月中頃であた(以上はウィキの「野村吉三郎」に拠った)。則ち、このシークエンスの時制は昭和十六年一月以降、開戦前夜までということになる(実は、後で昭和十六年十月末か、十一月であろうことが判る)。なお、この頃、梅崎春生は昭和十五年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業、東京都教育局に勤務していたから、この主人公田代の経歴とそれは一致していると言ってよい。]

「戦争。戦争って厭なものよ。あんな厭なものはない。兵隊ってけものよ。おお厭だ」

 嚙んではき出すような口調だった。そして最後の一句と共に、栄子は肩をすくめて身ぶるいした。

「だって君は進んで志願したのだろ」

「言わないで。そんな事言わないで」

 栄子は掌を上げて私をさえぎる風な手付をしたが、急に身体をくずし、声を忍ばせて突然泣き出した。掌で顔をおおい首を深く垂れているので、頚筋が斜に見えた。あの昔の細く脆(もろ)そうな頸とはちがって、何か筋肉質のものを思わせる妙な逞しさがそこにはあった。

 栄子は直ぐに泣き止んだ。そしてキラキラ濡れた眼で、また何杯も盃をほした。

 その夜眠っている私に、栄子は荒い呼吸使いで抱きついて来た。酒の匂いが鼻に来て、私は眠りからはっきり覚めていた。栄子は着ているものを全部脱ぎすてていた。暗闇の底でそれは感じですぐ判った。

 それは娼婦よりももっと荒くれた仕草だった。私は数年間禁欲を続けていたので、失敗するかも知れない予感が胸をかすめたが、そんなものを圧倒するような激しい情熱であった。そしてその情熱は盲目的なものでなく、私を誘導しようとする巧みなものを秘めていた。私は意識的にそれに呼応して行った。私はその時自分がかなり努力していることを感じていた。そして何故だかは判らないが、その瞬間でも栄子との距離をはっきり感知していた。栄子があえいでいるのも、自分の空白を満たすためなので、私とは全然関係ないような気がした。そして営みは終った。

 疲れ果てて私達は横たわっていた。部屋の床から秋の虫が低く鳴き出していた。

「私は故郷に帰りたいわ」と栄子が暫(しばら)く経って言った。郷愁めいたものが、やはりその時私の胸にも湧いていたのである。

「私戦場にいる時、ほんとに一度でも良いから内地に戻って、音楽を聞きたいと、そればかり考えてたわ。それはほんとに辛かったわ。貴方には判らない事よ」

 暫くして私が、君はいくつになる、と聞いたら低い声で、二十五よ、と答えた。

 翌朝起きて見たら栄子は既に起きていて、驚いたことにはちやんと朝食も拵(こしら)えてあった。卓をはさんで食事をとりながら、栄子がこんな事を言った。

「今まで私は何をやっても失敗してばかりいるんだけれど、此度はしっかりやるわ。私東京で何処か職を探そうと思うの」

「故郷へ帰った方が良いんじゃないか」

「何故よ。何故いいの」

 一晩休んだせいか栄子はすっかり生気を取戻していて、私の言葉をあざわらうような表情をした。

「職探すって大変だぜ」

「どうにかなるわよ」自信に満ちた声であった。

 役所に出るために私は出かけ、栄子とは駅で別れた。別れる時栄子は私に、アルバムから写真を一枚貰ったわよ、と私にささやいた。

 それから一箇月位して手紙が来た。それによると栄子は或る芸能社に入り、その専属になって芸の道にいそしんでいるということであった。芸の道とは何か。私には判断がつかなかった。しかし文面の感じから言えば、栄子は非常に現状に満足しているらしく思えた。しかしそんな栄子を私はもはや想像出来なくなっていた。私が漠然と慕っている栄子は、もはや現実の栄子ではなかった。その食い違いは何かいらいらと私の心に触れて来た。私がもっと積極的な立場を執れば、栄子は今と違った方向をたどったかもしれない。しかしそんな事を考えることは、無意味と言えば無意味極まる事であった。

 ついに私が触知し得なかった部分が栄子の心にひそんでいて、それが栄子の方向を決定したのではないか。栄子は絶望するたびに新しい脱皮を敢行するらしかった。ふしぎな事には、古田を通じて男というものに絶望した時も、戦争の実体にふれて絶望した時も、栄子は私の処にやって来た。そして肉体的に私と結合を敢てした。

 脱皮のためのカタルシスのような役割を、私は栄子の為に引き受けているのかも知れなかった。そう考えると、私は言いようもない荒涼たるものが胸の中に吹き荒れて来るような気がした。戦争の傷痕を重ねることによって栄子は成長して行くが、私はその間にむなしく青春を終えるらしい。私はカタルシスの座を持ち得ないまま、老い朽ちて行くらしかった。私は栄子との二度の結合も、肉体的な問題は別として、精神的にはますます空白を深めて行っただけであった。

 あるいは栄子は私を通じて、古田への思慕を郷愁の如くよみがえらしているのかも知れなかった。栄子がアルバムから剝いで行った写真は、学生の私と古田が肩を組んで写った写真である。

 一箇月程経って日本はあの無謀な太平洋戦争に突入した。

 ある日私の役所で演芸慰問会があって、私も何となくそれを見に行った時、番組に音楽漫才というのがあって、その名に栄子という字が書かれてあった。もともとそんな演芸方面にうとい私ではあったけれども、ふとそれはあの栄子ではないかと思った。何とか芸能社というのもそんな芸人の団体らしかったし、此の前の手紙も何だかそんな意味のことが書かれていたような気がする。しかし音楽漫才とはどんな事をするのか知れないけれども、音楽会に本譜をたずさえて来たような栄子が、そんな処に落ちるということは想像だけでも私の堪えられないことであった。私は厭な胸騒ぎを暫く味った末、まだ演技が始まらないうちにと、楽屋の方に廻ってみた。

 そしてそれは、あの栄子であった。

 強い化粧をほどこして仮面じみた風貌の栄子と、私は楽屋口で暫く話をした。ごく短い会話であったけれども、私はなじる気持が自然に口に出たにちがいない。栄子は弁解するような口調で言った。

「こんなことやっていて、本当に惨めだと思うわ。しかし仕方がないのよ。生きて行かなくちゃならないもの」

「それにしても本名で出なくっても――」

「いえ、それが本名で出るのよ。私はもう身体をはって生きて行こうと思うの。生きて行くにはそれ以外に道はないわ」

 出番だというので栄子は一寸私を振返って奥の方に入って行った。観客席の方に私は戻ったが、席の方にはどうしても入る気がしなかった。私は廊下に立ちすくみ、観客席から流れて来る笑声を聞きながら、ふとあふれて来る涙を押えかねていた。その束の間の感傷の中で、栄子がどこまでも堕ちるのなら私も一緒におちてやろうかという兇暴な思念にとらわれていた。――

 それから私は栄子の消息を聞かなかった。戦争の状態は段々悪くなって、島々を次々に取戻されて行った。重苦しい日々がっづいた。そして昭和二十年に入った。

 三月、ついに私がおそれていた召集令状が来た。

 三月十五日の入隊だというので、私がその用意をしている時であった。三月十日に本所深川が炎上し、その煙は私のアパアトからも見えた。私は別段感慨なくそれを眺めていた。

[やぶちゃん注:梅崎春生の本格的招集(実際には昭和十七年一月に一度召集されて対馬重兵隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)は昭和十九年の六月である(佐世保相ノ裏海兵団配属)。従って、ここは時制的には梅崎春生の事蹟からは虚構である。なお、終戦時、梅崎春生は満三十歳であった。]

 翌日私のアパアトに栄子が訪ねて来た時、私は始めて栄子が本所に住んでいたことを思い出していた。栄子は着のみ着のままという姿で、肩の所の着物が裂けていたが、どこにも怪我はしていなかった。剝き出した肩の肉が少しよごれて、変に動物的な感じをそそった。栄子の顔は表情がすっかり無い感じでその癖眼ばかりぎらぎらと光っていた。何か気持がうわずっているらしく、部屋に入るなり両手を拡げて、

「死骸がこんなよ。ぞろぞろよ」

 そして両掌で顔をおおうと、暫くじっとしていた。頰がげっそりこけて髪はばらばらに乱れていた。

 しかし暫くしているうちに、少し落着いて来たらしく、私の外套をまとって火鉢にかぶさっていた。眼を上げてあたりを見廻した。

「何故荷物をまとめてるの。疎開するの」

「召集が来たのだよ」

 栄子は私を見て蒼い顔をしたが、何とも言わなかった。

 その夜私は栄子と同じ床に寝た、燈を消してからも栄子は身ぶるいしている感じで、しきりに顔を私の胸にすりよせて来た。うわごとのように何かしゃべっていた。

「皆死んじやったのよ。皆、一人残らず」

「死んだって良いよ」と慰める心算(つもり)で私も答えた。「お栄さんだけ生き残ればそれで沢山だよ」

「皆死んじゃった。あの子も死んじゃったよ」

 栄子は私の言う事も聞えぬ風(ふう)でうたうような調子でそう言った。あの子って誰だい、と笑いながら私が問い返そうとしたとたん、私の胸をかすめたのは、あの最初の夜身ごもっていた栄子の身体のことであった。私は口をつぐんだ。あるいは栄子は子供を産んだのかも知れなかった。栄子のその後のがむしゃらな生き方も、そんな事実を支えとしていたのかも知れないと思い当った時、私は錐(きり)を胸に刺されたようで、思わず栄子を抱く手に力をこめていた。栄子はじっとしていた。暫くして、

「貴方も戦争に行くのね。可笑(おか)しいわ」

 ぽつんとそう言った。

 翌朝早く私は起きた。出発の時間であった。栄子はやや元気を取戻していて、昨日のような錯乱の徴(しるし)はなかった。もし行く処がなければ私の部屋を使えるように管理人に話しても良いと思ったが、栄子はそれを断った。ただ写真を焼いたから、もう一枚呉れと言うだけであった。私は荷物をほぐして、アルバムをそっくりやった。生きて再び栄子と会える事もないと思うと、私の青春に栄子がどんな重大な意味を持っていたかが、悔恨に似た情と共に判然して来るのであった。

 駅まで送ろうかと栄子は言ったが、私は断った。そんなの感傷的だと思っているんでしょう、と栄子はその時始めて声を出して笑ったが、その眼は何か遥かなものを見つめているような具合であった。――

 その日から三年経つ。

 もはや栄子とも逢えぬと思いこんでいたのが、今この青ぐらい屋台店で一緒に酒を汲み交しているということが妙に可笑しくて、私はその気持を栄子に伝えたく、

「お互に此の十年間、何だかバラバラの生き方をして来て、そしてこんな処で又会ったりして本当におかしいな」

 酔いが少し廻って来たらしい。復員後私も又平凡な役人として碌々(ろくろく)とつとめているが、此の十年間自分の青春について考えて来たことが、何かことごとく虚しい妄想にすぎない気がするのも、ようやく私の気持が老い始めて来たせいに違いない。もはや現在の栄子に対しては、気持の食違いもなく淡々と面接出来るようであった。

「お栄さんが鰻(うなぎ)屋などとは思いもつかないね。もう音楽は止めたの」

「ああ。忘れてしまったわよ」

 栄子も盃をほしながら

「あたしも燈取虫みたいに、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして生きて来たけれど、結局悲しかっただけで、何にも残っていなかった」

「そうかも知れないな」

 栄子の言葉はしみじみと私の胸にも落ちた。身体がばらばらになるような眼にあっても、此の女は強く生きて来た。

「終戦後は地下道に寝泊りさ。身寄りも皆消息がなくなってね。それからどうにかしなくちゃいけないと思って茨城に行ってさ、漫才をやってた頃の相棒がいてね、鰻が沢山とれるのよ、あそこらは」

「でケイちゃんというのは?」

「ああ、あの子は地下道で知合いになったのさ。一寸良い子でしょう」

 私はよしず越しに見たその若者の横顔を思い出していた。肩のきりっとした良い顔であった。そしてその顔は、あの古田の顔の感じにそっくりだった。一目見た時、それは私の胸に来ていたのである。肉付きがよくなって年増らしい落着きの出来た今の栄子の顔を私はふとぬすみ見ながら、その事が妙にかなしく心に沈みこんで来た。古田を嫉妬する気持から、今は私は遠く隔たっていたが、何か気持の感傷に私は落ちていた。

 台に置いた弁当箱が幽(かす)かに鳴った。手を伸ばして押えると、鈍く動きが手につたわって来た。箱の中で鰻はまだ生きて、はねかえっているらしかった。

 酔いが掌の尖まで届くのを覚えながら、私はその感触を暫く確めつづけていた。

 

 

2019/10/31

ブログ1280000アクセス突破記念 梅崎春生 贋(にせ)の季節

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 一部本文に私のオリジナルな注を附した。

 本篇には台詞の中に現在は使用すべきでない身体障碍者に対する差別用語「不具」「片輪」等が使用されているので、そこには批判的な視座も忘れずに読まれんことを乞うものである。

 因みに、底本の埴谷雄高氏の「解説」の末尾で、氏は本篇を非常に高く評価され、『この作品は、戦後の荒廃の時期を感覚の先端でうけとめながらすごした梅崎春生が新しい質の作品の創出にむかう試みを敢えてした一種の先駆的な作品であって、やがてその後、以前に見られぬ大きな骨格をもった幾つかの長篇が書かれることになるあらかじめの準備がみられるのである』と述べておられる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1280000アクセスを突破した記念として公開する(ほぼ小泉八雲に特化し続けた今回はアクセスが少し増え、一万回超えが何時もより少し早く来た)。【2019年10月31日 藪野直史】]

 

  (にせ)の季節

 

「お爺さん」に洋服を着せて舞台に出したらどうだろう。それを最初に提案したのは私である。いくら夏場とはいえこんなに入りが悪くては仕様がない。うつかりすると先の町での興行の二の舞だ。すると三五郎が顔色を変えて反対した。

「いくら何でもそんな大それたことが出来ますかい。そいつは人間様に対する冒瀆(ぼうとく)だ」

 人間様とは何だろう。冒瀆とはなにか。守るべきそんなぎりぎりの一線を、此の三五郎がまだ保っているのかと思うと、冷たい可笑(おか)しさがおのずと湧き上って来るのを感じたが、考えて見ると此処の団長にしても団員の面々にしても、最後のよりどころとしているのは矢張りこんな種類の奇妙な辻凄(つじつま)のあわない自尊心なので、こういう私といえども本当のところでは此の類を洩れないのかも知れない。しかし人間を他の動物から画然と区別する一線などというものは、各自がてんでに思い込んだ妄想に過ぎなくて、人類の祖先は猿猴類(えんこうるい)だというが、それは数百万年も前のことだと皆安心している。案外二千六百年もさかのぼれば身体の端に尻尾をつけていたかも知れないのだ。三五郎が血相を変えるなどとは笑止な話だと私が言い返そうとしたら、それまで黙っていた団長が腕組をぱらりと解いて口を開いた。

「そいつは思い付だ。史記にも沐猴(もっこう)にして冠すという文句がある位だからな、見物衆がさぞかし面白がるだろうて」

[やぶちゃん注:「史記」の「項羽本紀」の、秦を滅ぼした直後の叙述に基づく。以下に示す。

   *

居數日、項王見秦宮室皆以燒殘破、又心懷思、欲東歸。曰、富貴不歸故鄕、如衣繡夜行。誰知之者。說者曰、人言、楚人沐猴而冠耳。果然。項王聞之、烹說者。

(居して數日、項王、秦の宮室、皆、以つて燒けて殘破(ざんぱ)せるを見、又、心に懷思(くわいし)して、東に歸らむと欲す。曰はく、「富貴にして故鄕に帰らざるは、繡(しふ)を衣(き)て夜(よる)行くがごとし。誰(たれ)か之れを知る者ぞ。」と。說者(ぜいしや)曰はく、「人は言ふ、『楚人(そひと)は沐猴(もつこう)して冠(かん)するのみ』と。果して然かり。」と。項王、之れを聞き、說者を烹る。)

   *

訳しておく。

   *

 項羽は自ら焼亡させて荒廃した秦の都咸陽を眺め、そのさまに興醒めし、俄かに懐郷の念、抑え難く、

「大望を叶え、富貴の身となった今、懐かしい故郷楚に帰らぬというのは、凡そ、錦の晴れ着を着ながら、闇夜を行くのと同じことだ、誰が認めて呉れようものか。」

と言った。すると、側近のある遊説家が、

「ある者が言っておったが、『楚で生まれた者は、所詮、冠(かんむり)をつけた「猿」と同じだ』と。なるほどな、その通りだわい。」[やぶちゃん注:「猿が冠を被って気取って王と称しても、中身は所詮、猿は猿に過ぎぬ」という、粗野な人間を激しく嘲った揶揄である。]

と呟いた。

 これを聴いた項羽は、この男を釜茹での刑に処した。

   *

とあるのに基づく。]

 あたりを見廻して暗い皮肉な笑いかたをした。団長のうしろの衣裳箱の上には「お爺さん」が背をまるめて踞(うずくま)っていて、時々薄赤い瞼をあけて一座をぼんやり見廻したり、長い腕を伸ばして飛び交う蠅(はえ)をパッと捕えたり、自分のことが話題になっている事には、全然素知らぬ風情であった。もっとも素知らぬのが当然で、此の「お爺さん」というのは人類ではない。昔から此の曲馬団にいる、言わば子飼いの老猿のことなのである。

 もともと此の曲馬団は動物運が非常に悪くて、膃肭臍(オットセイ)に水をやり忘れて殺してしまったり、大金を出して算術の出来る馬を買い込んだらその後の訓練が悪かったのか神経衰弱を起して、使いものにならなくなったり、昔は自転車に乗れる猿も一匹いたのだが、御贔屓(ごひいき)から贈られたマカロニを五封度(ポンド)[やぶちゃん注:約二キロ五十七グラム弱。]もいちどきに食べて、胃を破裂させて死んでしまった。無病息災なのは此の「お爺さん」だけで、その代りこれは芸当は何にも出来ない。教えこんでやろうと随分(ずいぶん)訓練にも手がけたが、教えれば教える程「お爺さん」は頑固に身を固くして、たたいてもすかしても言う事を聞きはしない。ついにはしゃがみこんで、そうそう無理言ってわたしをいじめて下さるな、と言いたげな悲しい眼付で見上げるから、大抵そこで妙な気特になって匙(さじ)を投げてしまう。こいつには覚える能力が無い訳ではないのだ、覚える気持が全然ないのだと、手を焼いた団長が憎々しげに呟いたのを聞いた事があるが、これは私も同感だ。しかし遊ばしておく訳にも行かないので、奇術や曲芸の時などには舞台の片隅に箱を出して、その上にすわらせて置くが、そんな時でも「お爺さん」は観客を意識する風もなく、背中をかいてみたり蠅を捕えたりして独りで遊んでいる。老いの一徹という感じがする。「お爺さん」の腰には細い鎖が巻きつけてあって、その端はしっかと柱にとめられている。何故と言うと此の「お爺さん」には執拗な逃亡癖があって、思い立つと矢も盾もたまらなくなるらしい。此の前の町でも油断を見すまして脱走を企て、皆は大騒ぎであった。芸当をやる動物などというものは変になまなましく、親しみにくい厭な感じで、むしろ「お爺さん」の方がけものとしては本物だと私は思うのだが、芸も出来ない癖に逃げたがってばかりいてつくづく厭な猿だというのが皆の意見で、前の興行の惨めな失敗もこいつの為にけちがついたせいだと言い出す始末であった。

 全く此の前の町での興行はひどかった。何しろ入りがほとんど無く、場所が町有地という訳で町の役人らが財政困難を糊塗(こと)するためにおそろしく高い場所代を吹っかけて来たりして、天幕などを抵当に入れて金を借り興行をつづけたのだが、ついにどうにもならず団長の発案で夜逃げを敢行した位である。大言壮語はするがしんは気が弱い団長にしては大決心だったと思うが、場所代も借金も踏み倒しての決行だから、夜半から暁方にかけて大急ぎで天幕をたたみ大道具小道具取りそろえ、私どもは落武者のように敗走した。そしてやっと此処の町の外れにある河原にたどりついたという訳だが、団長は平気な顔を装ってはいるけれども、内心追手が来ないかとびくびくしている証拠には踊子の弓子が、毎日見に来る変な客がある、と報告した時には他処目(よそめ)にも知れる位ぎょっとしたらしい。弓子というのは梯子(はしご)乗りを専門にする若い娘だ。

「しょっちゅう来てるのよ。何時も同じ処にすわって私達の方は見ずに、ぼんやり舞台の隅っこを眺めていたり、天井を見上げたりするのよ。あの人何処かで見たことがあるわ。きっと前の町で見たんだわ。ああ、あの人は前の町の町長さんにそっくりだわ」

 話半ばにして団長は奇妙な叫声を上げ、あわてて飛んで行って舞台の袖から客席を眺めていたが、やがて打萎(うちしお)れて戻って来て、どうもそうらしいと頭をかかえているから、側から三五郎が、他人の空似ということもありますからと慰めるとそれで元気を取戻したのか、急に笑い声を立てたり変にはしゃいだりしたということだ。何しろ借金のことになれは天幕その他を差押えられて、曲馬団は潰滅することは必定だから、団長が一時的な惑乱に落ちたのも無理はない。しかし潰滅の予感がかえって団長に度胸をつけたらしく、その後は変に落着きはらって団長は皮肉な目付ばかりをキラキラさせている。その癖何でもないことにひどく神経質に腹を立てて怒鳴ったりするのだ。「お爺さん」に洋服を着せたらという私の提案に賛成したというのも、勿論(もちろん)確乎とした興行上の成算がある訳ではなくて、一か八かやってみようと考えたに違いないのである。しかし沐猴にして冠すなどと酒落(しゃ)れた事を彼は言ったが、此の言葉が此の場合持つおそろしい意味など感じている訳はないのだ。三五郎にだって判りはしないだろう。しかし三五郎は道化師だから、それを言葉としてではなく漠然と感じているかも知れない。

 三五郎は誠も落魄(らくはく)した道化師で、近頃は頓に芸に自信を失って来たようだ。曲芸師として私が此の曲馬団に入団した頃は、三五郎はまだ若くて颯爽とした道化師で、人気を一身に集めているような具合だった。その頃私は彼にこんな質問をしたことがある。

「道化とはつまり嗤(わら)われることなんだね」

「いいえ、道化とは人を嗤う精神ですよ」

 若い日の三五郎は眉宇[やぶちゃん注:「びう」。「宇」は「軒(のき)」。眉(まゆ)を目の軒と見立てて「まゆの辺り」「眉」の意。]に自信の程を見せてそう答えた。ところが近来、特に終戦後の観客は三五郎の芸を全然嗤はず、観衆の気持をはかりかねて彼は懊悩(おうのう)[やぶちゃん注:悩み悶えること。「煩悶」に同じい。]している様子だったが、ある日舞台で切羽つまって無意識に演じたある動作がワッと受けて以来、彼はその動作を芸の基調とすることに決心したと、ある晩三五郎は酔っぱらって私に告白した。

「俺はその仕草を無意識でやったんだがね、そいつは俺が発明したんじゃない、どこかで誰かがやった仕草だと、後でいろいろ心の中を探り廻しているうちに、ハッと突き当って驚いたね俺は。何だと思う。『お爺さん』の動作だったんだよ、それは」

 そして三五郎はたとえようもない悲しい表情をした。沈痛な声になって先を続けた。

「俺にはお客の気持が判らなくなってしまった。昔の客はそんなものじゃなかった。もし今の客が猿の真似なぞを喜ぶんなら、俺はそうやるより仕方がないのさ。だから俺は、俺は『お爺さん』の真似をやって行く」

 それから三五郎は暇さえあれば「お爺さん」の挙動をつぶさに観察していることが多かったが、その眼付は私が見る処によると、むしろ兇暴な殺気と憎悪に満ちあふれているように見えた。三五郎は「お爺さん」を憎むと同時に、その真似で生計を立てている自分を憎まずに居れないに決っているのだ。そう私は思う。その「お爺さん」が洋服を着用して舞台に現われたらどうだろう。本物が現われたら偽物が生彩を失うのは当然で、猿の猿真似などしている三五郎は直ちに面目を失うだろう。その予感が彼をして、人間様に対する冒瀆だなどと苦しまぎれを言わせたに違いない。しかし私がこんな提案をしたのはもともと三五郎を困らせようとする気では毛頭ないので、近頃入りが少いのも芸が偽物だから鑑賞に堪えないのだろうと察したから、それなら本物を見せてやろうとふと思い付いただけで、実を言えは私も「お爺さん」が洋服着た処を想像すると、背徳不倫に似た感じに堪え難くなる。それを超えて私が提案したというのも胸の底を探れば此の曲馬団の連中を幽かながらも憎む気持が私にあるらしいからで、当初の道化精神を忘れた三五郎や、いらいらして皮肉ばかり飛ばしている団長や、弓子に思いをかけている癖に女には眼もくれない風を見せたがる力業士(ちからわざし)の三光や、その他の面々の哀しい在り様を私がある感じをもつてしか眺め得ないからである。全く此の曲馬団でまっとうなのは私だけだと思うのだが、考えてみると周囲をうとみながらなお踏み止っている私が一番可笑しな存在かも知れない。私は私に絶望しているのだ。だから私は人間にも絶望しているのだろう。その絶望を確めたい為にも私は「お爺さん」に洋服を着せて舞台に立たせたくて仕様がないのである。それを見て観客は何を感じるだろう。痛烈な感じで眼が真黒になってしまうだろうと想像すると、私は年甲斐もなく胸がわくわくするのだが、しかし考えれば私は三五郎同様、観客の何が判って居るというのだろう。木戸銭を払って中に入りながら舞台に背を向けて、昼寝をしたり将棋をさしたりする近頃のお客の心理が私には判らない。戦争前私が曲芸師だった頃はそんなお客は居なかった。戦争に引っぱり出され、そして片腕を失って復員して来た私は、曲芸も出来ずに雑用夫みたいな形で再び此の曲馬団に雇われているのだから、舞台から客と対峙(たいじ)することはなくなったが、三五郎の言うように戦争このかたお客の様子が変ったというのも、思えばこの世に不思議が満ち満ちていて、かえって曲馬団の中に不思議が見出せないからではないのか。不思議を失った曲馬団ほど惨めなものはない。舞台に背を向けて将棋をさす男の方が、舞台の芸当よりもつと曲馬的だ。戦争以来娑婆(しゃば)の人間はすっかり変った。私が理解出来ない歪(ひず)みみたいなものを皆持っている。今日だってそうだ。舞台がはねて私が河原に出て夕涼みしていると、一人の老紳士が土手から降りて来て私に近づいた。

「つかぬことをお伺い致しますが」

 見ると此の暑いのにスパッツなど着けている。身なりの良い老人であった。

[やぶちゃん注:「スパッツ」spats。ここは本篇の最後の方の描写から、文字通り、山や雨天時に於いて足首と靴との間から雪や小石などが入るのを防ぐための、あの覆いであることが判る。]

「お宅でお使いになっているあの猿ですがな、あれを私にゆずって頂く訳には参りませんでしょうかな」

 少し突飛な申出なので私が黙っていると老人はあわてたようにしゃべり出した。それによると老紳士には十六年前に死去した父親があって、その風貌姿勢があの「お爺さん」にそっくりだという訳である。あの腕の長いところといい顱頂(ろちょう)に毛がうすれかけた具合といい、びっくりする程似ていて、眺めて居ると風樹の思いに堪え難いから、何とぞ自分の孝心にめでて金はいくらでも出すからゆずってほしいという話であった。冗談言っているのかと思ったら声音[やぶちゃん注:「こわいろ」。]は真剣で、私も返答に困って言葉を濁しておいたが、仲仲諦(あきら)めて呉れないので大層弱った。真者だか偽者だか判らない。とにかく人間離れがしている、こんな異常な人間に比べると、「お爺さん」の方がよっぽど人間らしい。沐猴(もっこう)にして冠すとはあの時団長が不用意に引用した文句だが、沐猴にして人間服を着用した徒輩の前であの「お爺さん」がどんな演技をして見せるのかと、その光景の予想は私に一種終末的な感じを伴って迫って来る。胸に幽かに尾を引く感じをたどって行けば、私は同時に此の曲馬団の潰滅を漠然たる形で予感しているのだ。その形の中で、私をふくめたおのもおのもが自らの醜く哀しい露床を、戛然(かつぜん)[やぶちゃん注:堅い物が触れ合って音を発するさま。]と掘りあてることが出来るだろうと、私は切に妄想しているのである。

 

 表方に聞くと、此の町には小さな洋服屋が一軒あるきりだという。身仕度をして出かけようとすると三五郎が呼止めた。

「洋服屋に行くのか」

 そうだと答えると、三五郎は厭な顔をして手を曲げ、耳のうしろをしきりに搔いた。それがそつくり「お爺さん」の仕草であつた。始めは人真似で莨(たばこ)を喫(の)んだものが不知不識(しらずしらず)の中にニコチン中毒に陥るように、三五郎の一挙一動にはもはや牢固[やぶちゃん注:「ろうこ」。がっしりとしていて丈夫・堅固なさま。]として「お爺さん」が根を張っているらしい。当人が意識していないだけそれは末路的な感じが深かった。「あんなやくざな猿を舞台に引っぱり出して何が面白いんだ」三五郎はうめくようにいった。「どうしてそんな厭なことを思い付くのだろう。戦争に行ってからお前もずいぶん性格が変ったな」

 三五郎はちらちら瞳をあげて私の右袖をぬすみ見た。私の右袖は中身がないから、袋のように肩から下っているはかりだ。三五郎のそんな眼付を私は非常に好まない。

「だって此のままの入りでは曲馬団も解散だよ。変ったところを見せなければ人は来やしない。解散となれはお前も飯の食い上げだ」

「だからよ、お爺さんに芸が出来るのなら洋服着せて出すのもいいだろうさ。何にも出来ないものを出すなんて悪どいふざけ方だ」

「どのみち今時の世の中はふざけだよ」と私は答えた。

「ふざけるなら徹底的にふざけたがいいのだ」

「そんなものじゃない」と三五郎はいらだたしげに頭を振った。「ここは少くとも曲馬団だよ。水族館とは違う。鳥目(ちょうもく)をはらってお客が見に来るのは、俺達の芸だ」

 芸とは何だろう。お客が見に来ない芸など有りやしない。人の見ていない処でやる芸などというものは、単に動作にすぎない。芸とはうぬぼれの凝集したようなもので、三五郎がことさら自らの芸を強調するのは、きっとうぬぼれを失い始めた証拠だと思ったから、

「芸とは何か三五郎には判るのか。芸とは、そいつは自信ということだよ」

「ああ、そうだよ」低い声になった。

「また人生とは自信のことだよ。生きるということは自信をなくさないということだ」

 少しあざけりの調子がこもったので、私もむっとして、

「ふん、俺が自信をなくしているというわけかね」

「お前は立派な曲芸師だった」急に顔を上げて三五郎は私をまっすぐ見た。「片腕をなくして曲芸が出来なくなったといって、何かを恨んだりしてはいけない」

「恨んだりはしないぞ。そんな処で俺がよろめくものか。俺は今でも芸人だよ。人間だよ。だから俺はまっとうなものしか認めないのだ」

「お爺さんを出すことがまっとうだと言うのか」

「陰武者の芸よりはまっとうだろう」

「陰武者?」三五郎の眼が俄に鋭くひかった。が、直ぐ力無く首を垂れた。「陰武者だっていいさ。本物なんかいやしない。本物は贋物(にせもの)さ。陰武者だって落伍するより立派だろう」

 身体を硬くして私が立っていると、三五郎も立ち上って私の肩に掌をおいた。袋の袖がふらふらと揺れた。

「此の曲馬団もどうせ解散だということは、俺もはっきり知っている。今日もあの変な客が来ているのだ。前の町から、様子をうかがいにやって来ているのだ。舞台からそいつの眼付を見ればすぐ判る。見物に来たものの眼の色じゃない。団長がいらいらしているのもそれだ。気の毒な話じゃないか。此処が潰れるのは団長の責任じゃない。といっても俺の責任じゃないよ。此の曲馬団も自然と命数が尽きたんだ。使命が既に終ったのだ。俺は二十年近く道化をやってきた。俺は一所懸命やってきた。俺は仕事を投げ出さなかった。しかし此処がつぶれたら、俺はきっぱり此の商売から足を洗うよ。仕事を、自分を投げ出さなかったということだけが、俺の心には残るだろう。だから、此の最後の舞台を、俺はあんな芸無猿の茶番で終らせたくないのだ。俺の為にも、団長の為にも、そしてお前の為にも」

 三五郎は私の肩から掌をすべりおとすと、ふらふらした歩き方で小舎の中に入って行った。その後姿がやはり「お爺さん」にそっくりであった。ふと胸に迫るものを押えながら外に出ると、水の涸(か)れた河床からの照り返しがぎらぎらと眼にしみた。草いきれを分けて土手にのぼり私は暑い往還をてくてく歩き出した。

 埃(ほこり)をかむった夾竹桃(きょうちくとう)の花が軒並に連なる街道を一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程も歩くと、もはや背中は汗びっしょりになった。落伍者より陰武者の方が立派だと言い切った時三五郎は痛い眼付でまた私の袖をぬすみ見たが、あれは私を憐んでいるつもりなのか。腕がないばかりに再び曲芸師として立てないことを、私は落伍したとは考えない。少くとも頭の中ではそうは思わぬ。自分を失ってエピゴネン[やぶちゃん注:ドイツ語「Epigonen」。思想・文学・芸術などでの卑称としての「追随者」「独創性のない模倣者」「亜流」の意の蔑称。語源はギリシャ語(ラテン文字転写)「epigonos」で「後に生まれた者」の意。]に落ちた三五郎の方が落伍者だと、歩きながらそう胸の中で叫ぶ度に、私はちょん切れた肩のあたりに力を入れるのだが、しかし三五郎はたしかにそこらで自分を胡麻化(ごまか)しているに違いないのだ。自分を投げ出さなかったということを心に刻んで、それで足を洗おうなどあまり虫が良すぎる。三五郎が「お爺さん」を眺める眼があんなに憎しみにあふれているのも、三五郎は自分の絶望と対面するのが恐いのだと、そう思うと何故か山彦のように虚(むな)しいものが磅礴(ほうはく)[やぶちゃん注:広がって満ちること。満ち塞がること。]と私の胸の空洞に拡がって来た。

 

 教えられた道を歩いて行くと洋服屋は直ぐに見つかった。深い板廂(いたびさし)にとりついて蝉が一匹一所懸命に鳴いていた。出て来た洋服屋は山羊に似た顔をした大きな男で、その癖大変横柄な口を利いた。私がただ、洋服を仕立てて買いたい旨を申述べると、小さな眼で私を見詰めていたが、「君は闇屋か」と突っぱなすように言った。

 私が黙っていると更に重ねて、「いまどき闇屋ででもなければ背広は作れないからな」

「闇屋じゃないよ。俺は廃兵ですよ」

 服屋は私の右袖に気が付いたように眼をうつした。そして誰でもが作るあの表情をちらと顔に走らせたが、すぐ眼を外(そ)らして、

「気の毒だが猶(なお)のこと駄目だ。服の仕立というものはバランスの芸術だからな。腕の無い男の服など俺は作りたくない」

「作ってもらうのは私じゃない。私は使いの者ですよ。注文主は町外れで待っている」

 服屋は暫(しばら)く黙っていたがやがて、

「その注文主というのは君みたいな不具じゃないだろうな」

「いいえ、ちゃんと手足が揃っていますよ」

「――一言断って置くが、俺の仕立に注文はつけさせないよ。好きな型に作っても良いのなら引受けよう」

 注文つけないから好きなように作って呉れと私が答え、それから服屋と一緒に表に出て、また乾いた埃道(ほこりみち)を取って返した。歩きながら服屋は、自分は戦争中にも国民服の仕立を全然やらなかったと言って威張った。国民服ですら仕立てなかったのだから、現在派手な闇屋服など死んでも作る気にならないと言った。現代ほど洋服が侮辱された型で作られている時代はない。今の仕立職人は皆自棄(やけ)っぱちで作製に従事しているんだ。良心のある服屋など居やしない。

「俺が拵(こしら)えるのは英国風の高雅な型の服だ」

 終戦後そんな服を製作したことがないから、今度の注文は大層楽しみだと、始めて汚ない歯を見せて笑った。何だかその感じは下司で、言葉の横柄なのも生得のものでなく、変につくった感じで、あまりいい気分ではなかったが、こうして単純に喜んでいる処を見れば私は何だか後ろめたくなって、いろいろ言いそびれているうちに土手まで来た。川風に吹かれて踞(うずくま)った爬虫類(はちゅうるい)のような汚れた天幕小舎が眼の下にあった。何だサアカスじゃないかと言いながら、それでも服屋は土手の斜面を私について山羊のように駆け降りた。

 楽屋に入ると、団長は椅子に腰かけて腕を組み、埴輪(はにわ)みたいな顔で私達を見た。服屋ですよと私が言うと団長は立ち上ったが、顔色は悪く無表情のままだった。側には力業士(ちからわざし)の三光が、しょげたように腰をかけていた。さげすんだような薄笑いを浮べて楽屋を見廻していた服屋が、立ち上った団長に向って口をひらいた。

「洋服作りたいと言うのはお前さんかね」

「私じゃない」と団長は悲しそうな声で答えた。「私には服を新調する余裕はない。作って貰いたいのは、彼奴(あいつ)のだ」

 団長の顎(あご)のしゃくるまま、楽屋の隅に視線を走らせた瞬間、そこで服屋はあきらかに驚愕したらしかった。二三歩後すざりをしたが忽ち振返って私をにらみつけた。

「君達はきっと俺をからかっているんだな」

「からかいはしませんよ」汚ないものを踏み潰すような厭な気分に囚われながら私は言い返した。「前もつてお猿さんだと断らなかったのは悪いけど、とにかくあいつに似合う高雅な服をお願いしたいのです」

 幽かに鎖がじゃらじやら鳴って「お爺さん」が身じろぎをしたらしい。長い腕で膝を抱え、脅(おび)えたような瞳を此方に向け、高い声でキキッと鳴いた。こいつは鳴くだけしか出来ないんだと、低い呟きにふと惜しみが籠ったと思うと、団長は片手の鞭(むち)を威嚇するようにふり上げた。「お爺さん」は掌を額にあて燃えるような眼付で見返した。私はその時自分の手指がふるえるのに気が付いた。

「猿の洋服を俺に作らせようというのか」やがて落着きを取戻したらしく変に冷たい険のある声になって服屋が言った。

「この俺に、あの猿の洋服を」

「何故猿の服が作れないんだ」団長が突然聞きとがめていらいらした顔をふりむけた。「猿の服だって何だって、仕事に打込んでひけを取らないということは立派な事だ」

「そりゃ立派な事だろう。しかし俺はこれでも芸術家だぜ」

 その言葉を聞いた時団長の頰に毒々しい笑いがのぼって来た。鞭を上げて猿を指した。

「あいつだって芸術家だよ。お前さんにひけは取らない」

「ふざけるのはよしましょう。あの猿が何故芸術家なんだ」

「芸術というのは感動の表現だからな。あいつは何も芸当は出来ないけれど、洋服を着て舞台に現われるだけで、あいつは見物に痛烈な感銘を与えるのだそうだ。此処では唯一つの、天成の芸術家だよ」

 そう言い終ると団長は、何故かへんに冷たい視線でじろりと私にながしめを呉れた。服屋は黙って「お爺さん」の方を一心に見詰めていた。暑いのか服屋の額には大粒の汗が並んでふき上っていた。そしてそれは次々に頰に流れ落ちた。舞台の方からは破れたラッパの音が流れて来る。気の毒なようないら立たしいような変てこな感じに堪え難くなった時、やがて服屋が低い声で口を開いた。

「作れというなら作ってやりましょう。その代り少し高いですぞ」

「いくら位だ」

 服屋はふと小さな眼を宙に浮かせたが、直ぐはっきり叫んだ。

「二万円だ」

 団長の頰から急にうす笑いの影が消えて、もとの埴輪のような顔に戻った。鞭の先で長靴をぴしりと打った。

「よし払ってやろう。但し出来上ってからの話だ」

 寸法を取る時「お爺さん」はキャッキャツと叫んであはばれるので、止むなく私たちが手で押えていなけれはならなかった。「お爺さん」は顔を皺(しわ)だらけに歪めて身体を私の手の中でむくむく動かしたが、ただれた目蓋(まぶた)の端にうすい涙を溜め、訴えるようないろを眼いっぱいにたたえていた。服屋は蒼い顔になり、唇を嚙みながら黙々として寸法を取った。舞台から降りて来た三五郎も道化服のままそれを眺めていた。

 寸法を計り終えると服屋は直ぐ立ち上って出て行こうとしたが、振り返って拳を握って顔の前で二三度振った。

「お前たちが着てるよりもっともっと立派な洋服を、俺は此の猿につくってやるぞ。その時になって驚くな。ちゃんと金を用意して置け」

 服屋の肩を怒らせた後姿は入口の斜光を乱し、そして天幕の外に消えて行った。それを見送っていた団長が、何を思ったのか突然大きな声で叫んだ。

「誰か金箱を持って来い」

 三光が持って来た金箱をあけて、団長はその中を掌でかき廻した。

「皆見てみろ。いくらも入っていやしねえ」

「どうもすみません」と三光があやまった。

「あやまって済むことだと思うか」

 それから団長はしゃべっているうちに段々亢奮して来たらしく、椅子を立ち上ったり歩き廻ったりした。団長がたかぶっているのは、今の服屋の軒捨台辞(すてぜりふ)のためだけではなく、傍で三光が逞(たくま)しい肩をすぼめてしょげているところから見れば、どんなことが起ったのかと思っていると、今日の舞台で、三光が力業士のくせに重量上げで飛入りのお客に敗北し、懸賞金二千円を持って行かれたという話である。もっとも三光は先日まで麻疹(はしか)にかかっていて、こんな年頃になって麻疹にかかるとは可笑(おか)しな話だが、こんなに筋肉だけ畸形(きけい)的に発達したような男の内部にはどこか弱い未熟なところがあるのだろう、そのせいで体力も衰えていたに違いない。団長は鞭で長靴をしきりにひっぱたいた。

「懸賞金が惜しいだけで私は言っているのじゃない。専門家が素人に負かされる、そんな阿呆な話があるか。私が借金したり夜逃げまでして曲馬精神を盛り立てて行こうとしているのに、お前たちは内部から私に煮湯を吞ませるようなことばかりをする。此処へ来てもう借金が出来たぞ。四五日も経てはあの先刻のインチキな洋服屋にも二万円作らねばならん。寄席をのぞいて見ろ。どれだけお客が入っているか。(此処で団長は眉をしかめた。あの変な客というのを思い出したのだろう)お前たちは皆目自信をなくしているのだ。自信をやくざなものと掏(す)りかえているんだ。お前たちは皆偽者だ。お前もだ。お前もだ。(団長は一人一人指さしながら)お前達は揃いも揃って、みな糞土(ふんど)の牆(しょう)だ!」

「糞土の牆、とは何でございましょう」床に踞(うずくま)っていた三光がおそるおそる訊ねた。

うんこの垣根のことだ!」と団長は怒鳴り返した。

[やぶちゃん注:「糞土の牆」「糞土の牆は杇(ぬ)るべからず」。「論語」の「公冶長」出典の比喩。但し、「糞土」はダイレクトな「くそ」の意ではなく比喩。「ぼろぼろに腐った土塀は上塗りができない」で、「なまけ者は教育しても甲斐がない」という譬え。

   *

宰予晝寢。子曰、「朽木不可雕也。糞土之牆不可杇也。於予與何誅。」。

(宰予(さいよ)[やぶちゃん注:孔子の弟子の名。]、晝、寢(い)ぬ。子、曰はく、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからざるなり。糞土の牆(しやう)は杇るべからざるなり。

予に於いてか、何(なん)ぞ誅(せ)めん。」と。)

   *

「杇」は本来は「鏝(こて)」のこと。ここは動詞。鏝で腐った土塀を上塗りする。「誅」ここは「責める・叱る」の意。]

「私も糞土のなんとかでしょうか」楽屋の隅っこから三五郎もかなしげに限を光らせて声を上げた。

「勿論そうだ。糞土以外のものであるか。お前の芸など全くのくすぐりだ。下司(げす)だ。あれで自信あるつもりかも知れんが、俺からみれば全くの遼東(りょうとう)の豕(いのこ)だ」ぐるっと見廻して今度は私の方を鋭く鞭でさした。「お前がまた、うんこだ」

[やぶちゃん注:「遼東(りょうとう)の豕」「遼東之豕」。狭い世界で育ち、他の世界を知らないため、自分だけ優れていると思い込んで、得意になっていること。独り善がり。「遼東」の「遼」は「遼河」で河の名。その東の現在の遼寧省南部地方の広域地名。「豕」は「豚」。出典は「後漢書」の「朱浮伝(しゅふでん)」に出る故事。昔、遼東地方の人が、飼っている豚が白い頭の豚を生んだのをたいそう珍しく思って、これを天子に献上しようと、河東(山西省)まで行ったところ、豚の群れに出会い、それが、皆、白い頭の豚だったので、自分の無知を恥じて帰ったという話に基づく。]

 ぎょつとして私が団長を見返していると、団長は眼をきらきら光らせながら鋭い口調で畳みかけた。

「猿に洋服を着せようなど、第一その思い付が気に食わん。ことに野卑な復讐の企みだ」

「だって良い思い付だとあの時賛成したではありませんか」

「賛成などするものか。お前の心根にぎょつとした位だ。嘘をつくのもいい加減に止せ。此の前の町で猿をわざと逃がしたのもお前だろう」

 言うことが一々肯綮(こうけい)にあたって来たから私は驚きながら、

[やぶちゃん注:「肯綮」物事の急所。肝心要の箇所。「肯」は「骨に附いた肉」で、「綮」は「筋肉と骨とを結ぶ筋や腱のような部分」を指す。「荘子」の「養生主」を出典とする。料理の名人の庖丁(ほうてい)が梁の恵王の前で牛を料理した際、その神技を褒めたところが、肯綮に刃物を当てさえすれば、自然に骨肉は切り離せると答えた話による。]

「そりや私じゃありませんよ。私が逃がすわけがない。結び目をひとりで解いて逃げ出したんですよ」

「まだ嘘を言うとる。お前が結び目をゆるめていた処を見たものも居るぞ」

 誰が告口したのかと思わず四周(まわり)を見廻すと、一座の眼がみんな射るように私にささって来て、これも団長の巧妙なわなかも知れぬと私がどぎまぎ考えをまとめかけた時、幸い団長の鉾先(ほこさき)が私を外れて再び三光に向ったからぼろを出さずに済んだが、今度は三光が毒舌に堪えかねて、毎日芋や雑粉を食わせられそれで人並の力が出る訳があろうか、と言い返したのをきっかけに一座は混乱に陥って、服屋にはらう二万円で白米を買えと怒鳴るやら、女の子が泣き出すやら、舞台の方は穴だらけで、止むなくいつもより二時間も早く打出太鼓を鳴らして客を追い出したのも、まだ夕陽があかあかと河原の玉萄黍(とうもろこし)の葉末を染めている程の時刻であった。

[やぶちゃん注:「雑粉」小麦粉以外の本来は食用にしないような穀類を粉末にしたもの。]

 

 こんな訳で「お爺さん」の服を注文したのが私の独断みたいな形になったが、考えてみるとすべての責任は団長にある訳なので、私は提案者だとはいえあとの点では雑用を果したにすぎないのだ。それにも拘らず一座の面々が私を眺める取付は変に険をもつていて、集っている処に私が入って行くと、急に皆黙りこんでしまったりする。まさか私を憎んでいる訳ではないだろうが、どうも変だ。そして言葉の行きがかり上、二万円払ってやると怒鳴ってから団長が、急にすべてに強腰[やぶちゃん注:「つよごし」。]になったのも、おそらく捨身の心境に到達したからに違いなく、あるいは洋服だけ受取って再び夜逃げを決行するつもりではないかとも想像された。しかしそれにも私には割切れない部分がある。暑熱と食物のせいか皆も何か元気がなくなって、演技の張りも何時しか失われているらしかった。相変らず客席の入りも悪いようで、楽屋に聞えて来る拍手の音もまばらである。楽屋のすみでは「お爺さん」が、物憂(ものう)げに鎖でつながれていた。

「此の前『お爺さん』を逃がそうとしたというのは本当なの」

 弓子が舞台用の赤い胴着をつけたまま、私に近づいて、低い声で聞いた。楽屋の壁になっている天幕の帆布の止金が朽ちかけていて、川風にともすればあおられそうになるのを、私は苦心して修繕しようとしていたのだ。私は金槌を置いて憮然(ぶぜん)として答えた。

「あんなに逃げたがっているものを繋いで置くことは、可哀そうだと思わないかね」

「そりゃ思うわ。しかし此処にいれば人蔘(にんじん)の尻尾だって何だって食べられるのに、なぜ逃げたがるんでしょうね」

「お爺さんは一人になりたいのだよ」

 金槌を取上げて又私は釘を打ちつけた。調べて見ると止金は次々朽ちていて、皆外(はず)れそうになっているのであった。弓子は可憐な溜息をついた。

「なぜ近頃皆あんなに苛々(いらいら)して、怒鳴ってばかりいるんでしょうねえ」

「人間だってぎりぎりの処は一人なんだよ。傷つけ合っているのは表面だけだよ」

「何だか皆憎み合ってるようだわ。三光さんはお爺さんを猿鍋にして食っちまうと言ってるわ」

「本当のことが判れば皆憎み合わなくて済むのだよ。何でもないことなんだ」

「貴方だって人を憎んでるんじゃないこと」と弓子がぽつんと言った。「だってお爺さんに洋服着せるようなことを考え出すんですもの」

 金槌を振う私の左手にふと力が籠(こも)って、気がつくと弓子は私の右袖を揺れないように指で押えていた。微かな苦痛が胸を走るのを感じながら、少し邪慳(じゃけん)に私はそれを振離した。

「俺は皆が好きなのだ。好きだからいやなんだ。俺は一人だと判っているから尚のこと此の団が離れられないんだよ」

「だって此処も潰れるわ。三五郎さんがそう言ったわよ。古里に帰って百姓するんだって。あんたはどうするの」

 白粉焼けのした弓子の顔が変に年増くさく醜く見えた。

「あなたは昔はとても腕の良い曲芸師だったんですってね。それも三五郎さんから聞いたわ」

「早く楽屋へお帰り、三光が見ている」

 天幕小舎の骨組になっている木材もほとんど朽ちかけていて、止金はいくら打ちつけても直ぐにゆるむものらしかった。女なんか腐った止金みたいなものだと腹立たしく、やがて金槌をほうり出して私も楽屋に入った。「お爺さん」は今舞台を降りて来た処で、鎖の端を三光に握られ、床を四足でヒョコヒョコと這っていた。私は眼をそらした。私はその時、「お爺さん」に服を着せるような思い付を次第に後悔し始めていたのである。そんな事をやって何になるだろう。洋服を着た猿などは子供の絵本の中だけで結構で、強いて笑いたければ三五郎の猿芸でも眺めれば結構なのだ。服を着た猿の痛烈な幻影は私の予感の中で真黒に光るだけで、現実に舞台に「お爺さん」が出たとしても、後味の悪い笑い声をのこしたまま、やがて観た人の脳裡から薄れてしまうだろう。ひとりよがりで私が考えていたように、その舞台によってお客が殺到することは先ずないであろう。そうなれば二万円の洋服などというものは、ぼろ片[やぶちゃん注:「ぼろきれ」。]よりも価値がなくなって、落語の蜜柑の袋のように大事にそれを抱えて、再び山越えして夜逃げを敢行する羽目になるかも知れない。しかし本当を言えば、それは始めから私に判っていたことなのだ。茶番というのは「お爺さん」を舞台に出すことではなくて、まことにそのことだと思うと、団長が私をののしって野卑な復讐と言った言葉が、俄(にわか)に鋭い悲しみとなって胸に突き刺さって来た。復讐とは何だろう。私のような現実から手痛いしかえしを受けている身にとって、私は自分も他人もひっくるめて人間というものに弱々しく嘲けり返すのがせい一杯で、それをすら野卑と言うならば、こんな羽目に落ちてもまだ絶望せず無感覚な営みをつづけて行こうという一座の連中は何と言っていいのだろう。それを思うとすべては朽木に止金をつけるよりもっと果敢ない感が湧き上って来るのだが、此の無感動な錯綜の中であの変な服屋が作る洋服だけが着々裁(た)たれつつあるのだと気付くと、私は奇妙な焮衝(きんしょう)を押え難く、居ても立っても居られない気特になってまた身仕度して服屋の店に出かけて行った。

[やぶちゃん注:「落語の蜜柑の袋」上方落語の知られた名品「千両蜜柑」のエンディング。ウィキの「千両蜜柑」の「上方版」の終りの部分を参照されたい。

「焮衝」原義は身体の一局部が赤くはれ、熱をもって痛むこと、炎症であるが、ここは感覚上の譬え。]

 御免と言って店に入ると、あの服屋は裁刀[やぶちゃん注:「たちがたな」。衣服を縫う時、布を裁ち切るのに用いる刀。鑿を太くしたようなずんぐりした形状を成す。]を逆手に握って裁台にかぶさっていたが、血走った小さい眼を上げてじろりと私をにらんだ。見るとあの洋服らしく、すでに七分通り出来上っているようすである。服屋はそれを私の眼前でピラピラ振って見せ、怒ったような口調で言った。

「どうだ。よく見ろ。こんな立派な服が近頃あるか」

 子供服の型とも違う変に凝縮した形の服だが、生地は茶色の上等のホウムスパンであった。仕立は丹念に出来ているらしく、服屋の顔はむくんで無精髭が密生しているところから見れば、或いは精をつめて此の仕事にかかっているのかも知れなかった。こんな仕事に精魂つめているらしいことが、何故か突然私の嫌悪を烈しくそそった。服を手にとり私は気持を殺しながら裏返して見た。

[やぶちゃん注:「ホウムスパン」homespun。手織り布。]

「なるほど立派な仕立ですね。少し形が可笑しいが」

「あたりまえよ。猿の身体に合せて作ったんだ」

 バランスが取れていないような気がする、と言いかけて私は口をつぐんだ。服屋の山羊のような眼が、簒奪(さんだつ)者のそれのように光ったからである。暫(しばら)くして私は服屋の店を離れた。

 又暑い街道をてくてく歩きながら考えていると、汗がやたらに滲(にじ)み出て、佗(わび)しい片側町に莢竹桃(きょうちくとう)だけが重く汚れた花をつけているのが、いやに暑苦しく思われた。一体あの男にあんなに精魂詰めさせる情熱とは何か。芸術の名に於て猿公の洋服をつくるなど、悪魔に魅入られた者ですら考え得ない悲惨な行事だが、考えてみると一度は逃がしてやろうと試みもしながら、今度は改めてあの「お爺さん」にストレート・ジャケットみたいな洋服を着せてやろうと思い付く私自身も、言わば同じく情熱の奇怪な偏向から逃れられないでいるのだろう。裁刀を逆手にかまえてあの服屋が確めようとしているのは、服型のバランスではなくて、胸にしまった平衡器の狂った目盛なのだろう。そう思うと私は腹に重たく沈みこんで来るものを感じながら疲れた瞼をあげると、埃の街道を小うるさく行き交う荷馬車の響きが耳におちて、荷曳(にびき)も馬も嘔(は)きたくなるような黄色い麦藁帽(むぎわらぼう)をかむっているのが何とも目に恥みた。掌を額にかざして陽を避けながら歩いて来るうち、曲角に小さな風呂屋があって、私はやり切れなくなって何となくそこへ飛び込んだ。毎夕河原で水は浴びているのだが、脂肪の層で身体中がべとべとになつているような気がする。狭い脱衣所で衣類を脱ぎ、ぬるい湯槽に顎(あご)までひたると私は思わず大きな溜息が出た。咽喉(のど)のところまで何か黒いかたまりが上って来るような気がする。手拭いで顔をぬらして、ふと見ると私の顔の前に、湯から生え出た茸みたいな首があつて、あはっというような咳(せき)をして、待ちかまえたように私に話しかけた。

[やぶちゃん注:「ストレート・ジャケット」「straightjacke」。凶暴な人を拘束する手段として、腕を胴体に固く縛り付けるために使われるジャケットのような拘束着のこと。]

「そこでこないだの話はどうなりましたかな」

 何のことだか判らない。人違いをしているのだろうと思つて私が他をむいていると、

「お金のことならなんぼでもお出し致しますがな」

 それではっと思い出すと、それは少し驚いたことにはあのスパッツを着けた老紳士の顔であった。生真面目そうな口調でおそろしく抑揚のない声なので、心の中では何を考えているのか知らないが、それにしても、まだこんなことを言っているのかと私は束の間の平静を乱されて少し腹立たしくなって来たが、男の首は探るように私を眺め廻しているのであった。先程の服屋といい此の老人といい、何と妙な処に力感を入れて来るのだろうと、黙って手拭いで頭を濡らしながら見返しているうちに、ふと私の胸にある企みが湧いて来て、私はよく考えもしないで口を開いていた。

「なんぼでもって、いくら位出す積りです」

「そりや、二千でも三千でも、おっしゃるだけすぐ持って参りますよ」

「二万円なら如何ですか」

 大へん驚いたらしく老人は変な咳を二三度したが、「二万円。二万円」と探るように呟き始めた。比の前の時は少しねじが狂った感じであったが、今日は顔だけ眺めているせいか仲々まっとうな感じで、ふとこちらが狂っているような錯覚に落ちた。たかが一匹の猿に二万円出せなど、少し気が変らしいと、老人が考えているのではないかと思うと、少し居づらくなって湯槽を出ようとしたら、老人は手拭いで湯をぴちゃぴちゃ叩(たた)きながら、

「いやあ、またいずれ」確かな声音であった。

 追われるように服を着けながら、思えば異常も正常も人間の決めた約束ごとで、ことに今の乱世では各自が自分の信じることを行うことが真実で、他人を異常と思うこと自身が既に正常ではないのかも知れないと考えた。そしてあの老人が、どうにか二万円持って来るのではないかという気が一寸したが、風呂屋の外に出てみたらもう老人のことなど忘れてしまった。また暑い道を歩いた。

 河原の天幕小舎にもどって楽屋に入ると、雰囲気が何となくざわざわしているから、弓子をつかまえてどうしたのだと訊ねると、また「お爺さん」が逃亡しようとしたのだと言う。柱につないだ鎖の環がどういう訳かはずれていて、やっと追いつめて捕えたけれども、ずいぶん引搔かれたものもいるらしい。私が居れば或いは私に疑いがかかる処だが、此の前のいきさつもあつて今度は三光に疑いがかかり、それで一揉(ひとも)めしたとの話だ。見ると三光は渋団扇(うちわ)のように張った肩を柱にもたせ、衣裳箱につながれた「お爺さん」の顔をじっとにらんでいた。あの日以来団長の命令で、懸賞力比べの演(だ)し物は廃止となり、そのため三光はひどく自尊心を傷つけられたらしく、楽屋で休んでいる時など突然大声を立てて衣裳箱を目よりも高く持ち上げてみたり、夕食の粉団子を他人の五六倍も食べて見せたり、少し奇矯な行為が多かったが、しかし私には三光が猿の鎖を解いたとは信じられない。三光の持っている自意識とは、せいぜい惚れた女にさげすんだポーズを見せる程度の気持の裏返しなので、猿の鎖を解き放つような高遠で愚劣な所業を犯す筈がない。頃日(けいじち)揚言したというように思い立てば猿鍋にしていきなり食ってしまうに違いないのだ。眺めている中に私は此の古びた麵麭(パン)のような筋肉のかたまりが大へん気の毒になって来たので、慰めてやろうと思って近づいて行くと、「お爺さん」をにらんでいたように見えた彼の眼は実はぼんやり疲れをたたえていて、見開いているだけで、私の跫音(あしおと)に鈍く振り向いたが、それと認めるとへんに物憂い調子でひとりごとのように言った。今まで考えていたことの続きを、ふと脈絡もなく口にしたという具合だった。

うんこの垣根とは、ありゃ何のことだい」

 そして打ちのめされたような笑いを頰にうかべたが、今度は聞えるか聞えないほどの幽かな声でささやいた。

「今朝は弓子と何をひそひそ話してたんだい。俺の悪口か」

 こう私にささやきかけながら、その癖三光の眼は遠くばかり見ていて、私の方は少しも眺めていないのであった。この男が猿の鎖を解くわけがないのだ。誰か他の人間が解いたに違いないのだ。誰だか判らないし、勿論私ではない。しかしそれはどうも三五郎であるらしい。その後の情勢から見て何となく私はそう思う。

 それはそれから三日後のことで、客を打出して後、川上の農家から物交(ぶつこう)[やぶちゃん注:物々交換。]で仕入れた焼酎を、私が河原で夕涼みがてら傾けようと楽屋の裏口まで出て来ると、今まで河水を浴びていたらしく三五郎が身体を拭きながら戻って来るのとぱったり逢った。三五郎は私が抱えた瓶をじろりと眺めたが、一寸険しい声になって、何処へ行くのだ、と私に聞いた。河原で飲もうと思う旨を答えたら、硬ばった笑いを頰に浮べて、

「なるほどな。祝い酒という訳か」

 ひどくさげすむような調子なので、まだ「お爺さん」のことにこだわっているのかと、私も悲しく立ち向う気配を見せて、

「そりや悪かったな。しかし酒でも飲まなきゃ自信が出せないからな」

「酒のむのはお前の勝手だが、洋服の進行状態は一体どうだい」

「もう仮縫(かりぬい)が出来上って来る頃だ。気になるのか」

「しかしそれをお前は爺さんに着せるつもりか。爺さんが舞台に出る前に此の曲馬団が潰れることは、お前だって百も承知だろ」

「そんな事が俺に判るものか。どうせ潰れるものなら俺は只あの気の毒な爺さんに一度は晴の舞台を踏ませてやりたいと思うだけよ」

「そいつは存分ひねくれた言い方だな。そんな事ばかり考えているから、爺さんが腹を立てて逃げ出そうとするんだ」

 さては鎖を切ったのは三五郎だな、と私がその時気が付いてそう言おうとすると、三五郎はおっかぶせて、

「で、売渡しの話はもう済んだのか」

「それはどういう意味なんだ」

「白ばくれているな。何もかも判っているんだぞ。前の町の追手と何時の間にかこそこそ連絡しやがって」

 言う事の意外に私は驚きながら、

「お前が言うのは町長に似たという男か」

「そうよ。団長が怒っているのもそのせいだ」

 私の思い付に賛成して置きながら、あの時それを覆(くつが)えして私を罵(ののし)った団長を、私は絶望しかかった人間の末期的症状とばかり思っていたのだが、しかしそれにしてはどうも変だと感じられたのも、こんな奇妙な罠(わな)があったのかとむしろ可笑(おか)しくなりながら、

「お前達はほんとにやくざな人間だな。そんな出鱈目(でたらめ)をなぜ信じ込んでいるのか。祝い酒とはそんな積りで言ったのか」

「まだ白を切る。では聞くが此の前猿を逃がしかけた男が、何で発心して洋服を着せようというんだ。そんな男の言うことが信用出来るか」

「そりゃ、お、おれの心の問題だ。お前に何の関係があるか。お前の怒った顔はお爺さんそつくりだぞ。俺の真似して爺さんの鎖を切ったりして、自分だけ無傷でいようなど飛んでもない話だ。道化とは嗤(わら)う精神だと言ったじゃないか。嗤う精神とはな、自分を投げ出す処から始まるんだ」

「いいようなことをよくしゃべるな。片腕投げ出すみたいに行くものか」

「そんな事を言うのか。三五郎。そんな眼付で俺を見るのは止せ」

 三五郎はキラキラ光る眼で私の右袖をじっと眺めていたが、

「お前は俺を憎んでるんじゃないだろう。お前は失われた自分の片腕を憎んでいるのだ」

「そう思うならそれで結構だ。たとえばお前がお爺さんを憎むようにな」

「憎むものか。傾が憎むものは人間のひねくれた根性だ。はっきり言って置くが、此処が潰れて皆失業者になって、その時一番困るのは片輪のお前だぜ。俺なんざどうでもなる」

「三五郎」と私は呼びかけた。「俺はな、俺の右袖をチラチラ気の毒そうに眺められるより、今のように片輪だとはっきり言って呉れる方がよっぽど有難いのだ。ところがお前は、片輪などと言ったら俺が参ると思っているのだろう。俺は此処を潰そうなどと、そんなけちな事を考えゃしない。俺が潰したいのは他のものだ。そう言ったってお前には判りゃしない。まだお前は、俺が追手と密談したなどと、痴(たわ)けた中傷を信じているだろう」

 そう言い捨てると私は瓶を抱きかえ、背中いっぱいに三五郎の視線を感じながら歩き出した。私の心は重く暗かった。何か私の知らない罠みたいなものが周到にあちこち張りめぐらされていて、それが人と人との関係を縦横に歪めているらしいのだが、その歪んだ流れの中に私も何時しか引きこまれて、何にも判らないうちに私は溺れかかっているらしい。人間は誤解の形でしか他人を解釈出来ないものだろうけれども、ことによると私は私自身を誤解しているのではなかろうかという疑念が、荒涼たる形で私の頭の中に拡がって来た。

 私は河原の夏草の薄い斜面に腰をおろした。ここから天幕小舎は一望の間に見えるのである。斜陽を受けた天幕はその灰色の生地をかくして、緑や金にきらめいて見えるのだ。生地に残った胡粉(ごふん)が光線の加減で輝くのである。私は瓶の栓を口で抜き、静かに唇をあてた。咽喉(のど)を焼いて強烈な液体が胃に流れて行った。そして暫(しばら)くすると身体中が熱く疼(うず)いて来た。私はまた静かに唇をあてる。

 先刻の会話が何かかなしく後味を引いていた。私は酔いが次第に廻って来るのを感じながら、右袖を後ろにはねた。なぜ私はあんな心にもないことをしやべったりするのだろう。あの痛いもののように私の腕をぬすみ見るたくさんの眼を、私はその時想い出していた。私は憐れまれたくないのだ。酔いに沈んだ頭の片隅でそう考えた。憐れみを憎むこととは、しかし何だろう。それを拒むことで私は何を得たのか。そして私が探りあてたと思ったものは鉱石の露床ではなくて、何かどろどろした汚物であったのかも知れないのだ。

「糞土の牆(しょう)だって何だって良いや」と私は呟いた。そうしてまた瓶を傾けた。その時瞼のうらに突然、延々と重なりつづく黄色の宏壮な壁の幻が蜃気楼(しんきろう)のように浮び上って来た。それは私が大陸で、片腕を失った瞬間に眺めていた城壁にも似ていたが、またもっとなまなましく身に迫る堆積(たいせき)のようでもあった。ある灼熱感が私いっぱいを満たしていた。その束の間の幻を破って、雲を脱けた斜陽が河水を弾(はじ)いた直光となつて、ぎらぎらと瞼に沁みて来た。 

 

「お爺さん」の洋服が出来上って来たのはその翌日のことである。昼過ぎから風が立って河原の玉萄黍(とうもろこし)がいっせいになびいた。天幕小舎の上を風が乾いた音を立てて渡り、その度に帆布はばたばたと騒いだ。

 舞台の袖の床に釘が出ていて、せんから往き帰りに靴が傷(いた)むということなので、釘抜で私が引抜きかけていると、出を待っていた弓子が気味悪そうな声を立てて、

「また来てるわ。あの人」

 と呟くのが聞えた。何だいと私が訊ねると、弓子は変な表情で私を向き、しばらく黙っていたが、

「あの人よ。町長さんよ」

 冷淡な口調で、その眼付も今まで弓子に見たことがない堅い色であった。私がどうかしたのかと立ち上り、袖から客席をのぞくと平土間には四十人程の客がまばらに散っていて、その一角を弓子は鋭く指しながら、耳の傍で低く険しくささやいた。

「こないだあの人と河原で話してたというんじゃないの」

 その言い方が変に憎しみに満ちているので、もうこんな女の子にまでその中傷は行き渡っているのかと、弓子の指す方向に瞳を定めたとたん、私は思わず何か叫びかけて口を抑えたのだ。

 粗板を渡した腰掛の上に上体を少し反(そ)り、顔をあちこち動かしているのは、紛(まぎ)れもなくあのスパッツの老紳士であった。そして、彼の視線が偶然、袖からのぞいた私に落ちたらしく、頭を固定させたまま腰を浮かすらしかった。

 あわてて顔をひっこめて弓子と顔を合わすと、先刻からじっと私の挙動を見詰めていたらしい弓子は、唇を一寸歪めてはきすてるように言った。

「あんたも変な人ね」

 変なのは私じゃない、皆じゃないかと、私は急に可笑しくなって来て、返事もしないで弓子を見返している中、考えてみると誤解の内容があまり簡単なので、弁明すればするほど、私は疑いを増されるような具合で、だいいち親爺に似ているから猿をゆずってくれなどと、いくら血迷った一座の人でも信用しないだろう。そしてそれを私が半ば信じているということをどんな風に説明したらいいのだろうと考えていると、何か訳の判らない不安なものがじわじわと私の胸の中に拡がって来た。それは奇妙に浅く底が割れたからくりの奥に、自分等の漠然とした脅(おび)えをあの老紳士に仮託していた一座の人々の心情の在り方が、俄に破局的な感じで私を貫いて来たのである。

 それは誠(まこと)にいやな予感を伴っていたので、それを押し殺しながら顔を背けて私はもとの仕事に取りかかろうとした時だった。私はきっと可怖(こわ)い表情をつくっていたに違いないと思う。縛って釘抜を拾い上げようとしたら、弓子が急に大きく息を引いたので、首をねじむけようとすると、楽屋の天井を洩れる青い光が少し乱れて、裏口の扉がぎいと鳴った。そして背光に黒く浮き上ってきたのは、身体の恰好であの服屋だとすぐに判った。釘抜を取りおとして私は立ち上った。釘抜は床でポクッとにぶい音を立てた。

「仮縫だ」と服屋は私を認めて静かな声で言った。「猿をつれて来い」

 近づいて見ると風の為か服屋の髪はばらばらに乱れていて、小脇には小さな洋服箱をかかえていた。床におろして開くと白い縫糸の筋を入れた小さな洋服が、服屋の憎悪のかたまりのように茶色に整然と畳まれて納っていた。服屋は長い指で髪を乱暴にかき上げた。

 暫くすると団長やその他の連中がぐるりに集って来た。舞台では三五郎の芸が今終る処らしく、散らばった笑い声が風の音に交って流れて来た。

「お爺さん」は服屋が入って来た時から、此の前の日の記憶を取戻すらしく、三本足[やぶちゃん注:ステッキを突いているのである。]で立ち上ってしきりに身をしざらせた。そして帆布の壁に背をあててこちらを燃えるような眼で眺めた。風が吹きつける度に「お爺さん」の部分をのこして、帆布は内側にわかれてふくらんで来た。それは丁度厨子(ずし)の中に納った邪神の形であった。「お爺さん」の眼は緑玉のようにきらきら光った。

 弱い者を犯すような厭な気特に堪えながら、鳴き叫ぶ「お爺さん」を私はしっかと押えつけていた。手の中で柔かい癖にこりこりした「お爺さん」の肉体が神経的に慄えていた。妙に官能的な嗜虐(しぎゃく)と、それへの嫌悪が一緒になって、私は力みながら服を着せる服屋の据を眺めていた。それはもやしのように青白く長い指であった。それを見守る皆の顔が、いちように私と同じ表情を浮べていることを、私は皮膚ではっきり感じ取っていた。

 チョッキの釦(ぼたん)がはめられ、上衣の袖を通す時、細い「お爺さん」の腕の毛が、逆さにざらざらとけば立った。手首まで抑えられた「お爺さん」の薄赤い掌が、私の右袖の袋の先をしっかり握りしめていた。

 発作のような鳴声が次第に低くなってきた。服を着せるために外した鎖が、衣裳箱からずるずると流れ落ちた。着付が終ったのだ。

 私は汗でべとつく手を離して立ち上った。

 何時舞台から降りて来たのか、三五郎が道化服のままひっそりと私の側に立つていた。赤インキを丸く塗った頰がそのまま硬ばって、一寸別人のように見えた。

「似合うじゃないか。立たせて見ろ」

 団長がかすれた声で言った。ひどく苦しそうな表情であった。

 その時裏扉をコツコツと叩く音がした。風に交った礫(つぶて)が吹きつけるのかと思ったら、間を置いてまた叩く音がした。

「誰だね」と私が怒鳴った。

 ギイと鳴って扉が半分開き、半白の頭がゆるやかに現われて来た。そして身体が扉を押して入って来た。私は逆光の中でその男の細い縞ズボンと赤靴の間に、うす白く汚れたスパッツを見た。しまった、という感じが起る前に私は周囲のざわめきが一挙に凝縮する気配を感じて、思わず身体を硬くした。いま時どんなつもりで此の老人は此処に入って来たのか。先刻私を見て腰を浮かしかけた姿が急によみがえって来た時、もはや老人は私に視線を定めて、例の生真面目そうな抑揚のない口調で口を開いた。

「つかんことをお願いに上りましたが、あのお金の話でございますが――」

 そして老人は此の座の変な気配に気付いたらしかった。そこで言葉を切ると頭をかしげてうかがうような瞳色となったが、衣裳箱の上の「お爺さん」を直ぐに認めたらしい。二三歩前に出ながら間のぬけた感嘆の声を立てた。

「ほお。洋服を着ておいでになる」

「お金の話とは何だ」

 団長がかすれた声で誰に言うとなくあえいだ。誰もしんとして返事しなかった。

 皆の視線が私に集中しているので、身じろぎも出来ないのだが、しかし私が何とか口を開けば一挙に混乱におちるだろうという重苦しい予感が、なおのこと私をしめつけていた。私は瞼[やぶちゃん注:ママ。これでもシチュエーションからは私はおかしくないと思う。]をやっと動かして「お爺さん」に視線をうつした。「お爺さん」は衣裳箱の上に後足で立ち上っていた。そしてしきりに服の胸の部分をかきむしる動作を操り返していたが、脚が何か重みに堪えかねてくず折れるようすであった。ズボンの先からは黒い蹠(あし)がふるえていた。胸をかく動作は何かもだえる形に見えた。その姿体は人間のもだえる姿よりもつと深く真面目であった。錐(きり)を刺されるような苦痛を感じながら、私はじっと眼を動かさないでいた。「お爺さん」を眺めていることよりも、それに視線をしばられていることの方が苦しかった。私は頰の先にも、三五郎の刺し通すような視線をぴりぴり感じているのである。

 またひとしきり風が吹きおこって、天幕に砂利を吹きつけた。帆布が鳴りながらふくれ上る。朽ちた止金が厭な軋(きし)みを立てつづけたと思った時、釘がはじけ飛んだらしく微かな音が木材にぶっつかり、帆布の一部がぱっと捲(まく)れてひらひらと翻(ひるがえ)った。風はそこからどっと吹き入った。思わず顔をおおおうとして、私は「お爺さん」の脚が急激に曲げられたのを見た瞬間、「お爺さん」の身体は黒いかたまりになって風に逆(さから)って外の方に飛んだ。

「逃げた!」

 誰の声だか判らない。視界が突然入り乱れて、私も立ち上ろうとした時、糞ッと言う声と共に道化服の華美な色調が一ばいに迫って来て、何だかそこらが無茶苦茶になって、人の足や手が動き廻り、音が鳴りひびいて皆が猿を追っかけるらしい。何が何だか判らない中に私はしっかと三五郎から組み伏せられていた。

「貴様が。貴様が!」

 あえぎながら罵る三五郎の身体から、私は左肩を下にして抑えつけられていた。三五郎の両脚は私の胴をからんでいて、私の咽喉首(のどくび)を三五郎の熱い手がしめつけていたのだ。床が肩に烈しく当り、骨がごろごろと無気味な音を立てた。三五郎の指がきつく咽喉に食い込んで来るので、私は左手を床から抜こうとあせるのだが、右肩の支えがないので、ただ上半身がくねるだけであるらしい。汗で滑るのを追っかけ追っかけ、三五郎の指が頸動脈(けいどうみゃく)を圧して来て、私はもう少しで頭がしびれるような気特に落ちながら、顔を必死の努力で横に倒した。捲れ上った天幕の穴から、土手の一部が区切られて見えた。

 その一瞬の区切られた風景の中で、土手の端を「お爺さん」は茶色の服をまとったまま凄まじい速力で駆けていた。豆粒ほどの上衣の裾が風にはためいていた。その七八間[やぶちゃん注:約十三~十四メートル半。]後を色んな人が走っていた。長靴をつけた団長もいたし、細いズボンの老人もいたし、髪をなびかせた服屋もいた。両手を上にあげるような走り方で、皆そろって大豆粒ほどに見えた。頭に血が来ないせいか風景が黄色く色褪(いろあ)せて、古絵のような現実感のうすい背景の中を、小さい人と小さいけものは素晴らしい速度で駆けていた。土手は黄色く色彩を喪(うしな)い、まるで城壁みたいに凹凸がなかった。もはや幻影に近い黄色の城壁の上をさんさんたる陽光にまみれながら駆け行く群像の影絵は、既に人間やけものの属性を失って、奇怪な悪夢のような人形芝居の一場面であった。

 ある灼熱(しゃくねつ)が身体から手脚の先に電流のように走った。言いようもない深い烈しい悲哀の念が私の胸を荒々しくこすり上げて、私は充血した顔から頭から、汗とも涙とも知れぬ熱いものをいっぱい吹き出しながら、はずみをつけて三五郎をはねとばすと、左手をあげて転がった三五郎の身体の上に猛然と摑(つか)みかかって行った。

  

2019/09/06

1260000ブログ・アクセス突破記念 梅崎春生 偽卵

 

[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年一月号『知識人』初出、後に同年十月月曜書房刊の作品集「ルネタの市民兵」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 少し、フライングして一部に注を施しておく。ネタバレにならないように途中と最後にも別に注してある。

・ロケーションが一致するかどうかは別として、当時(昭和二十二年十月以降)、梅崎春生は現在の世田谷区松原(グーグル・マップ・データ)に住んでいた。昭和二十二年一月に山崎惠津と結婚、同年十月に長女史子が生れている。

・本作公開同年で米一升は二百円(小売価格)、翌昭和二十五年で鶏卵は一個十五円。

・「盲縞(めくらじま)」縦横ともに紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。

・「歩廊」「ホーム」と当て読みしているものと思う。

・「四間」約七メートル四十二センチ。

・「二間」約三メートル六十三センチ。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが昨日の夕暮れに、1260000アクセスを突破した記念として公開する。]

 

 

   偽  卵

 

 それを見たのは、駅近くの小さな瀬戸物屋の店頭であった。すりばちや花瓶がならんだ棚の下に、木箱のなかにそれはたくさん積まれていた。瀬戸物屋でも卵を売るのか、と私は立ち止り、しばらくそれを眺めていた。日が射さない場所なので、淡黄色のひとつひとつは翳(かげ)をふくんで、埃(ほこり)のなかにしずんでいる。鶏卵にしてはすこし艶がわるい感じであったし、置かれてある場所も変だとは思った。

「あれ、いくらだね」

「へえ。ひとつ十円です」

 棚のものにはたきをかけていた若い男が、ふりかえってそう言った。そばかすのある顔が、ふりかえる瞬間に、妙に幅ひろく見えた。腰を曲げて木箱から拾いあげ、盲縞(めくらじま)の前垂れでぐるりと拭いて、私の方に差しだした。皮の厚そうな掌である。値が不当に廉(やす)いと思ったら、そこに乗っているのは、淡黄色の粘土の偽卵であつた。

「硝子のやつよりも、うまく出来ておりますでしょう」

 私の掌の上に、偽卵はがさがさところがった。硬く、脆(もろ)く、乾いた感じであった。重みがどこかで抜けてしまったような、実質をうしなった軽さがあった。ほんものの鶏卵にある、あのしっとりかかる重さがない。そして日の光のなかでは、すこし黄色すぎた。こんなものを、なんで見あやまったのだろう。

「本ものの卵を買うつもりだったんだよ、おれは」聞えないように口のなかだけでそんなことを不機嫌に呟(つぶや)きながら、次はすこし大きな声で、「貰っておくよ。十円だね」

「本ものよりは、ずっとお安くなっております」

 言いなれた口調で、笑わないでそう言った。私から十円札を受取ると、また棚にむかって、はたきをかけ始めた。はたきの先から埃がぱっと立って、また徐々にもとの瀬戸物に舞い降りる。どうもそばかすのある男は、どの男も、笑ってもいいときに笑わないような気が私にはするのだが、どんなものだろう。

 偽卵を掌でもてあそびながら、私は駅の方にあるく。もう卵を買う気持もなくなってしまった。実は朝食をとっていないので、卵でも買い求め、駅で電車を待つ間にでも、穴をあけて啜(すす)ってみようと思ったのだが、その気もなくなった。さっきまでは、小さな穴からしたたり流れる白味のぼったりした味や、ねとねとした黄味の舌ざわりを、妄想しながら歩いていたが、駅についた頃は、その嗜慾(しよく)も嘘みたいに消えてしまった。そのくせ腹は空いている。腹のなかで内臓や不随意筋がゆるゆると収縮してゆく感じがある。なにかゆたゆた揺れる、やわらかくて重く、甘く酸っぱいもの、そのようななにかで、腹いっぱいに満たしたい。そんな擬似めいた食慾が、瞬間的に私に起って消える。

 切符を買い、改札を通り、歩廊を果てまであるく。そこは黒い木柵で限られていて、そこに背をもたせて電車を待った。歩廊に人影がすくないから、どうせ電車が来るのも手間どるに違いない。ここからは、いろんなものがよく見える。線路に沿った黒い道。草原。立ち枯れた樹。遠くに病院。草原には牛が一匹つながれている。拳闘の真似をしながら、道をあるいている男。むこうの歩廊には、柵にもたれた中年のおかみさん。風呂敷包みを抱いている。包みからは、赤ん坊が首を出して泣いている。そして――ただそれだけ。私が動かないから、風景もおのずと枠のなかに入って動かない。人も牛も枠のなかで、私にかかわりなく動いている。

 ――あれは食牛かしら?

 ほとんど枯れ果てた草原を、綱いっぱい伸ばして草を食みながら、牛はのろのろと動いている。ここから見ると、黒い牛の形でしかない。軍隊にいたとき、牛を見ると食慾を感じるという「元屠殺業者」が、同年兵にいた。頭が小さく、手首が太く、頸(くび)の肉が厚い、いかにも屠殺業者らしい風貌であつたが、どういうものか上の兵隊から殴られたり尻を打たれたりするのを、ひどく恐がった。そのくせ同年兵の私たちには、ひどく傲慢で、ときには嘲弄的ですらあったのだが。――私はいまその男を思い出している。その男の言葉。

「ロース肉でも皿にならべて葱(ねぎ)でもそなえなきゃ、お前たちは食慾が起らねえと言うんだろう。バカな話さ」

 作業に出たとき、牛がいて、それからこんな話になったのだが、この屠殺業者によれば、牛という生体は、美味(おい)しい牛肉のかたまりであって、生きている牛の形のままで彼の食慾をそそるというのであった。額に斧(おの)をうちこみ、刃物ですばやく皮を剝ぐ。肋骨や赤い筋肉、白くはしる脂肪の層、なまなましい臓器。――そういう解体の経験を通して、あの時「元屠殺業者」の眼はきらきら光って、牛の姿を追っかけた。

「――魚を見れば、お前だって、うまそうだなと思うだろ。牛だって同じことよ」

 相手が牛にしたって何にしたって、ある確実な何かで眺めるということは、大したことだ。そう思いながら、私はぼんやり歩廊から牛の姿を眺め、屠殺業者の風貌を思い起していた。あの屠殺業者の眼にのりうつれば、あの牛の姿も、私のなにかをかきたててくるのかも知れない。……

 ひどく退屈に似た気分におちこみながら、私は掌の偽卵をポケットにすべりおとす。線路の遠くに、近づいてくる小さな電車の形があった。

 

 公園に面した建物の一階に、その法廷はあつた。法廷ではすでに裁判が始まっているらしかった。廊下にかけられた小さな掲示板の前に立ち、私は本日の予定を読んだ。それによると、今日中に此の法廷で、三十人余の犯罪者が裁かれることになっていた。石狩の名もその中にあった。石狩は今日ここで、判決の言渡しをうける筈であった。掲示を読んでいる間でも、法服を着た男たちや傍聴者らしい男たちが、廊下をがたがたいわせながら通った。壁一重むこうでは、人が人を裁いているというのに、廊下にはそれと無関係な雑然とした空気が流れていた。

 半開きになった扉のところにも、傍聴人が立っていて、法廷は満員のようであった。私は背を伸ばして、人の肩越しに、内部をのぞきこんだ。長方形の法廷の一番奥が、すこし高い壇になっていて、白髪を短く刈りこんだ裁判長らしい男の顔が見えた。口を動かして何かしゃべっている風(ふう)であった。

 法廷は思いのほか狭かった。幅が四間ほどしかなかった。奥の壇の上は裁判長だけで、左手に少し下ったところに、法服を着けた陪席検事らしい男がひとり、退屈そうに横むきに腰掛けていた。その向い側は弁護士席となり、そこからこちらが被告席になっているらしかった。被告席は人の頭や肩のかげになって見えなかった。私は身体をななめにして、人の背を押しながら、扉の内側に入りこんだ。視野がすこし広くなって、被告席にずらずらとならんだ頭が見えた。私はすばやく石狩の姿を探した。特徴のある石狩の後頭部を、二列目の腰掛けの中央に私はとらえた。痛みのようなものが、私の胸をはしる。私は眼をそらした。

 壇の前には二人の若い男がならんで立ち、その後姿が見えた。ふたりとも首をうなだれ、裁判長の言葉を聞いていた。裁判長はかなりの老人で、声は間延びしたりかすれたりした。壇のすぐうしろが硝子窓で、そのむこうが公園とこの建物をへだてる道路になっていた。道路と法廷とは、ほとんど等高であった。道路をあるく人の頭が、硝子窓に見えかくれした。十秒か十五秒おきに、自動車が音をたてて通った。音が近づくと裁判長の声は消され、自動車の車体が窓にあらわれて隠れると、また間延びした裁判長の声が法廷にもどってきた。二人の若者は兄弟で、ふたりして公園で通行人を脅迫して金をうばったというのであった。刑の言渡しとその理由を、裁判長がいま発言しているところであった。それは二分も経(た)たないうちに、直ぐに済んだ。礼をしてふたりが被告席にもどると、裁判長は書類の耳をいじくりながら、眼鏡をずり上げて、次の名前をよんだ。また別の男が手錠を外されて、壇の前にすすんだ。手錠を外す音は、私の耳にもはっきり届いた。うしろから見る被告席の男たちは、そろって肩をせばめている具合からして、皆手錠をかけられているに違いなかった。

 石狩は頸(くび)をまっすぐに立てたまま、身じろぎもしないで掛けていた。髪はすこし乱れ、鬚(ひげ)が一寸ほども生えているらしい。背後からだから、表情はもちろん判らなかった。しかし瞳を定めている感じが、うしろからでも窺われた。

 入口に背をもたせたまま、私はそれらを眺めていた。外部の雑音が遠慮なく入ってくるこの小部屋で、人間が人間を裁いているということが、蝶番(ちょうつがい)いの食いちがったようなもどかしい気分に私をさそった。窓の外を通る人や自動車が、この小世界とまったく関係がなく動いていること、ただ硝子一枚へだてただけで、色合の異なった世界がひらけているということが、私にある感じを起させた。その感じにはなにか抵抗があった。

 次々言渡しが済んで四五人たまると、巡査がひとまとめに立たせて、退廷の準備をした。そしてぞろぞろとつながって、腰掛けから離れた。扉ふきんの傍聴者は、自然と廊下に押し出され、人々の肩を分けるようにして、巡査に引かれた被告たちが廊下に出てきた。それらは繩(なわ)で数珠(じゅず)のようにつながっているのであった。それと一緒に傍聴者の何人かが、扉から食(は)み出てきた。これらの被告の身よりか何か、かかわりのある人たちにちがいなかった。廊下を中庭の方へあるく被告たちを、ばらばらに小走りに追いかけた。それを見ながら私はまた扉の内側に、身体をすくませながらすり入れる。

 言渡しはまだつづいていた。

 横手の傍聴席には二十人程の傍聴者が掛けていた。目白押しに腰掛けていた。傍聴者がすこし減ったので、そこが見えた。私はそのなかに麻子の横顔を見た。麻子は黒っぽいスーツを着て、身をすくめて腰かけていた。麻子の眼はしろっぽく見開かれて、なにもながめていないように見えた。膝に置いた手は白い手巾(ハンカチ)をにぎっていた。どのような表情も、麻子の顔になかった。なにもながめていないように見えながら、視線の方向はぼんやり石狩におちていた。私の場所からは、石狩の後頭部しか見えないが、麻子の場所は石狩をななめに眺め得る位置にあった。そして麻子が傍聴席に掛けているのは、ずいぶん早くからここに来ているからに相違なかった。

 ――麻子は石狩の横顔に、なにを見ているのだろう?

 瞬間眼の前で白っぽい光が吹きはらわれるように動いた。私は石狩のふとい頸筋を、そこにみだれる頭髪やよごれた生毛を、ざらざらに立った毛穴を見た。また襟(えり)あかに黒ずんだ上衣や、そこにただよう体臭をかんじた。それは突然私にやってきた。倒錯した快感のようなものが、私のなかを一瞬通りぬけた。それは苦痛にも似ていた。私は身ぶるいしながら、麻子の方を見た。ぎょつとしたようにこちらをむいた麻子の眼と、私の視線は合った。

 その時裁判長が間延びのした声で、石狩の名を呼んだ。影のように実体を失った感じで、石狩は立ちあがった。ここからは石狩の後頭部しか見えないのに、衰えをふくんだ彼の横顔を私は感じた。それは麻子の頰と同じように、すこし痙攣(けいれん)していた。かすかな錯乱が私をみたした。

 

「被告を八年の懲役に処する……」「以下その理由を説明する……」

 近づいては遠ざかる自動車の音をぬって、裁判長のそんな声が流れた。石狩は頸(くび)をたてたまま立っていた。それから裁判長は抑揚のない平板な口調で、判決の理由を述べはじめた。眼は石狩にむけられてはいるが、唇だけが独立に動いて、読本でも読んでいるような感情のない声音であった。それがかえって職業のもつ酷薄さを感じさせた。

 ――石狩はなにを見ているのだろう?

 裁判長のうしろの窓硝子は白くよごれ、道路をへだてた公園の植込みが見えていた。樹々の幹や葉も、道路の埃に白く褪(あ)せていた。葉がくれに便所の混凝土(コンクリート)の壁が見えた。掌のような八ツ手の葉がそこにいくつも垂れていた。ごくありふれた退屈な風景であった。道路の上の人や自動車が、ときどきそれをさえぎつた。それらの風物も今、石狩の眼に入っているのだろう。

(八年といえは検事の求刑からすこしも軽くなっていない)

 石狩が私の友人であること、そして彼が強盗を二件もはたらいたこと、心にかかる重さをはかるように、私はそう呟(つぶや)いた。しかしその重さも、私が手探ろうとすると、霧のように消えるのであった。私が今日この判決を聞きにやってきたのも、義務感と好奇心からだけでないとはいえなかった。むしろまことの重さはそのことにかかっていた。石狩がいまから服役せねはならぬ八年の歳月が、裁判長の唇から間のびした調子で発音され、それがどのような実質的な感じとして石狩におちかかっているのか。ある膜のようなへだたりが、私をいらだたせた。私は入口に頭をもたせたまま、ちらちらと麻子の方をぬすみ見た。

 裁判長の説明は聞えたり聞えなくなったりしてつづいた。

 麻子は片手を前の腰掛けの背にあてて、すこし身体をななめにして、前方を見詰めていた。ときどき身体を乗り出すようにもした。緊張した表情が、かえって麻子の顔を放心したように見せた。

 裁判長の調子が、やがて論述の終りを予感させた。被告の強盗をはたらいた心境は、幾分同情のできる余地もあるが、法の立場からしては八年の宜告は止むを待ないということを、裁判長は眼鏡ごしに石狩をながめながら、さとすような口調になって言った。私の視野の端を白いものが動いて、麻子はその時掌にもった手巾を顔にあげた。

 ――八年という年月はずいぶん長いんだな。

 瞬間にこの感じが、ひとつの形で私に来た。手巾(ハンカチ)はすぐに膝に降りて、私は麻子のむきだしの横顔をみた。頰の白粉(おしろい)がすこし斑(まだら)となり、眼は斜視じみて見開かれていた。裁判長の前で、石狩が軽く頭をさげているところであった。元の席へ戻るとき、石狩が私を見るかも知れない。そう思うと私は無意識に身体をずらせて、弾(はじ)け出るように廊下に出た。廊下をがやがや話しながら、弁護士服をつけた二人の男が通りすぎた。

 

 石狩が法廷から引かれて出るとき、私は廊下に立っていたし、麻子は私によりそうように立っていた。数珠(じゅず)のようにつながれた四人目に石狩はいた。入口から出てきて、ただようように動いていた石狩の視線が、私等をとらえた。私たちの間隔は二間ほどであった。石狩は突然なにか暗い灼けつくような眼になって、掌をあげようとしたが、手をしばった繩(なわ)にさまたげられた。その繩はぴんと張って、前の男の手に連繋(れんけい)していた。

 「…………」

 石狩は追われるような調子で早口になにか言ったらしかった。しかしその言葉の意味は開きとれなかった。麻子は脅えたように身体を私に寄せてきた。石狩の頰には硬(こわ)そうな鬚(ひげ)が密生して、膚のいろは黄色であった。前の方から繩を引かれて、石狩はすこしよろめいた。そしてそのまま繋がってあるきだした。廊下が中庭に折れる場所で、石狩はも一度私たちの方をふりかえった。そして見えなくなった。中庭には未決囚専用のバスが待っていて、それへ乗って小菅(東京拘置所の所在地)へかえるのである。

[やぶちゃん注:「東京拘置所の所在地」は底本では二行割注で丸括弧の中に入っている。梅崎春生にしては珍しい仕儀で、或いは、初出の雑誌編集者が、又は、底本の全集編者が挿入した可能性もあるが(前者は考えにくい。当時の読者にはこの直前の東京裁判(昭和二三(一九四八)年十一月十二日終了)があったのだからこんな注は不要である)、初出誌や作品集「ルネタの市民兵」を所持しないので、そのまま電子化した。現在の東京都葛飾区小菅にある東京拘置所(グーグル・マップ・データ)。]

 石狩が見えなくなると、麻子は私からはなれて、柱のところで声を立てないですこし泣いた。それはごく自然な感じであった。私は麻子のことはよく知らない。石狩の部屋で二三度会っただけである。石狩は私にふつうの紹介をしただけだから、ふたりがどんな関係にあるのか私は知らなかった。それは私にはどうでもよかったのだから。

 麻子はすぐに泣きやんで、手巾で顔をふいた。私たちはあるきだした。中庭と反対の方角にあるいて、この建物を出た。もう石狩はバスに追いこまれ、バスも動きだした頃だろう。

 木造の門を出、曲角をまがり、建物の外郭にそって公園の方へなんとなくあるいた。私にはある期待があった。その地点まできて、顔をまげてのぞきこんだ。建物のしろくよごれた窓硝子のなかに、さっきの部屋が見えた。そこには裁判長の腰かけた後姿と白髪の頭が見えた。その向うはうす暗く、人の顔がぼんやりとならんでいた。私たちのそばを音たてて、緑色のジープが通りすぎた。その窓硝子のなかは灰色に澱(よど)んでいて、いいようもない退屈な感じにあふれていた。ごく短い時間にそれを瞳に収めて、私はその地点を通りぬけた。

「可哀そうだわ。ほんとに、可哀そうだわ」

 麻子が独白のように呟いた。麻子があの部屋のなかを見たのかどうか判らない。ある衝動におされて、私は頭を廻し、公園の方を眺めた。白く褪色(たいしょく)した樹々の葉や便所の壁を。八ツ手の葉がそこに垂れていた。その風景が急に活き活きした感じとして私をうつた。平凡であれはあるだけ、その感じは私を瞬間かきたててきた。

 ――これだな。こんな感じなんだな!

 私は自分の心にきりきりと爪をたてながら思った。この風景を、裁判長の前に立った石狩が見ていたことが、その時私の胸にあった。その時彼がなにを思い、感じていたのか。窓のない囚人バスにのせられ、直ぐに刑務所にむかう。そして八年間。一年の八倍。九十六箇月。三千日。人人が通る道路というものや、樹々が茂った公園というものから、きっぱりと遮断されてしまう。――いわばその末期の眼は、どんなに貪婪(どんらん)に、あの風景を吸いこんだだろう。私は急ぎ足になって、公園の小径(こみち)に曲りこんだ。

 公園のなかに入っても、麻子は私につきそうように追ってきた。私は公園をぬけて、盛り場の街へ出るつもりである。麻子はまるであてどもないように、私についてくるようであった。黒いスーツにつつまれた肩が、あたたかく丸い感じがした。ならんで歩きながら、その肩がしばしば私の身体に柔かくふれた。

(よりそうように私たちが廊下に立っていたのを、あの暗い灼きつくような眼で、石狩はどんな風(ふう)に見たのか――)

 深いところに吸いこまれるような気持で、私はそう考えた。麻子と私が、ただ石狩をつうじての顔見知りで、それだけの無縁のものであること、それは石狩も知っている筈であった。しかし暗く燃える眼で彼がみたのは、それではなく、それを超えた痛烈なものであることを思ったとき、粟立つものが私の背中を奔(はし)った。あの眼には八年の歳月がおもくのしかかっていた。石狩の網膜にうつった私たちふたりの姿を、私は想像のなかで自ら組立てていた。そうして組立てられた幻影が、いま公園の広場の落葉のなかをあるいてゆく。危惧(きぐ)に似た感じが突然私の胸にしみこんできた。そばをあるく麻子が、急に匂いや味や肉の感触をたたえた実質として、私に感じられた。

「――裁判って、あんなものなの? あんなことで人の運命がきまったりするの?」

 麻子はすこし落着いてきたらしく、そんなことを言ったりした。公園の広場には、冬の花が咲いていた。落葉が道を埋め、靴の裏で鳴った。

「あれはね、単独裁判というんだよ。すこし略式になるんだろう。」

「もうどうにもならないのかしら」

「どうにもならないだろうね」私は冷淡にこたえた。

「――わたし、待てないわ。八年も。待っている自分を思うと、たまらなくなるもの」

 口走るように麻子は言った。麻子の言い方は、私が石狩と麻子の関係を充分知りぬいていると、錯覚しているような具合であった。麻子の心が私にもたれてくるのを、私はしだいに感じ始めた。それは女がもつ無意識の打算のように思われた。自分の心をも一度かきたてるように、私は思つた。

(石狩の眼に映ったように、おれはなってしまおうか。あの感じをたしかめるには、それ以外にないのだから)

 しかしそう思ったとき、故しらぬふかい疲れが私をおそった。私は急に麻子から気持が遠のくのを感じた。

「わたしこれから、どうなるのかしら?」

「さあ」私は十歩ほどあるいてから答えた。「どうなるか貴女は知ってるでしょう。だからそんなことが言えるんですよ」

「そうよ。そうだわ」

 びっくりする程素直な調子になって、麻子はうなずいた。それは私につよく、女というものを感じさせた。

 公園を出てから、私たちは別れた。別れぎわに私は麻子の住所を聞いて書き取った。麻子は私の住所を聞こうとはしなかった。道を右、左にわかれて、私は振りかえらずにまっすぐ歩いた。私は背中に麻子の視線を感じた。

 ――廊下を引かれてゆくとき、石狩は何と言ったのだろう。何を言おうとしたのだろう?

 あれは意味のない叫び声だったかも知れない、と私は自分に言いきかせるように呟いた。しかしあの瞬間の声や眼付は、私の意識のなかに長く長くとどまるだろう。その予感は私にあった。そして石狩の眼に収められたあの時の私の姿が、長く長く石狩の意識にとどまるだろうということを、裏打ちするように思い合せたとき、烈しい悔恨のようなものが私をおそった。

[やぶちゃん注:「単独裁判」簡易裁判所及び地方裁判所に於ける「単独審(たんどくしん)」のこと。一人の裁判官が単独で裁判(審理・判決など)を行う裁判。これに対し、我々が普通に見かけることが多い、複数の裁判官が裁判を行う場合は「合議審」という。本邦では単独審を行うことが出来るのは判事又は特例判事補の限られるが、簡易裁判所は一人の裁判官が総ての事件を審理し(則ち、簡易裁判所には合議審はない)地方裁判所に於いてのみ両審がある。地方裁判所では単独審と合議審があり、必ず合議体で審理しなければならない事件(法定合議事件。殺人・放火等のような重い刑罰が定められている犯罪の裁判)及び争点が複雑であるなどの理由から本来は単独事件で審理出来るものを特に合議制で審理する事件(裁定合議事件)の別がある。上訴審である高等裁判所や最高裁判所は常に合議審であるから,この区別はない。このシークエンスのそれは簡易裁判所のそれである。]

 

 駅の前の暗がりには、沢山女が群れていて、通る男たちをつかまえようとしていた。ビルの蔭になっていて、そこらはひとしお暗かった。すこしむこうには手相見の燈やピーナツ売りの燈がならんでいた。また彼方にはがたがたのマーケットが明るく浮き上り、人影をちらちらさせていた。そこへむかって歩いてゆく私の右腕を、よりそうように近づいてきて女の手がとらえた。

「ね。行かない?」

 女は黒っぽい服をつけていた。むこうの明りの照りかえしで、私は女の顔をみた。ひらたい感じの顔に、口紅をあざやかに点じていた。女は身体をすりよせた。そして掌で私の服にふれた。

「ねえ。一緒にあそばない?」

 私の背後でも、そんな取引の声がいくつも起っていた。女の嬌声もそこに混った。私は身体を引いて、離れようとした。

「どこに行くの。まだ飲むの。もう相当酔ってるじゃないの」

 女は私にからまって、四五歩ついてきた。照りかえしが女の顔を移動した。女は白く化粧はしていたが、声音(こわね)や身のこなしが三十を越した年齢を私に感じさせた。何故かそれが私を気安い気特にした。

「行ってもいいよ。しかしもう一廻りして、あとで行く」

「ほんと、ほんとね。あら。これは何?」

 女の指が私のポケットをおさえていた。女は私を見上げて、すこし惨めな笑い顔をした。私は女の指を押えて、ポケットに手を入れた。掌のさきがざらざらと偽卵に触れた。

「卵だよ。上げようか」

「あとでね。ほんとね」

 女の手が私から離れた。私はそこを通りぬけた。

 うすっぺらな板でつくったマーケットの店のひとつに、私は腰かけた。そして酒を注文した。マーケットの一番外(はず)れの位置に、この店はあった。すでに酔いが私の身体の部分部分に廻っていた。ばらばらに千切れたような酔いを、ひとつの酩酊にまとめるものを、私は漠然と欲していた。やがて酒がざらざらの卓の上に来た。客は私ひとりしかいなかった。私はすこしずつ酒を唇に流しこんだ。

 ――あの服は麻子のに似ていたな。しかしどうしてあんな色の服を着るのだろう?

 いまの女のことを私はふと考えていた。その着ているスーツからの聯想(れんそう)が、麻子につながった。軟かそうな麻子の肩の印象が、つづいてよみがえった。私は麻子の年齢も知らない。もう知ることもないだろう。しかし八年後には、あの女も黒い服がすっかり似合うようになって、眼の色ももつと乾いてくるだろう。公園とあの建物の間の鋪道で、ほんとに可哀そうだ、と麻子は口走った。あの言葉は石狩に対してなのか、それとも自分に対してなのか。私にも判らないけれども、麻子にも判らないだろう。誰だって何も判っていやしない。みんな馬鹿な鶏みたいに、自分の口から出たことや自分の眼で見たこともはっきり判らないで、やっとその日を生きている。……酔いに沈んだ頭の片隅を、そのような想念が走った。

 台の上には、卵が鉢に盛られていた。私はふと思いついて、ポケットからあの偽卵を出して、そこにならべた。電燈の光の下では、私の偽卵は黄色さを消して、ほんものの卵のように見えた。その光景はすこし私を浮き立たした。それを眺めながら、私はまた酒を口にふくんだ。偽卵の用途についてぼんやり考えていた。しかし鶏について私はほとんど知識をもたなかった。ただ鶏の巣箱にひとつずつ入れてあることは知っていた。産卵を刺戟するために、それが入れられているのかも知れなかった。しかし硝子や粘土のかたまりを、自らの生理と誤まるほど、鶏は馬鹿なのか?(鶏だって知っているのかも知れない)

 私は指で台上の偽卵をつついた。それは軽やかな音をたててころがった。卵の形をとりながら、やはりそれは卵ではなかった。実質のない土偶にすぎなかった。

 ほんものの卵を産むためにこんな土偶でも必要だとすれば、と私は酔いに乱れた頭でかんがえた。本当の感動をうむために、擬似の感動をかさねてゆくことも、無駄ではないだろう。ある確実な何かをつかむためにも、もっともっと馬鹿なことを私はやって行くのだろう。――

 短くて長い時間がすぎた。私はのれんを透して、駅の方を眺めていた。眼がちらちらと定まらなかった。駅の前のくらい場所には、まだ人影が見えたが、先刻よりずっと減っているらしかった。次々お客がついて、女たちは去ってゆくのらしい。だんだん減って行って、やがてひとりもいなくなるのだろう。

 ――もし先刻の女が最後の一人になって残ったら、いっしょに行ってもいいな。

 そんなことを私は考えながら、更に酒を口にふくんだ。女がポケットの偽卵にふれたときの、あの惨めそうな笑い方を私は思い出した。あの女はそれを、私の欲望の形象として感知したにちがいなかった。あの女は善い女かも知れない。私にふさわしい女かも知れない。最後まで残ったら、私はそこへ行く。海底撈月(ハイテイラオイエ)みたいな好運!

 金を払って外へ出た。偽卵をおさめたポケットを護符のようにたたきながら、私はすこしよろめいて歩いた。

[やぶちゃん注:最後の方の本物の鶏卵の山に偽卵を積んでみるシークエンスは確信犯で、かの梶井基次郎の「檸檬」(リンク先は私の古い電子テクスト)へのオマージュと私には読める。私の昔の教え子諸君には私の『梶井基次郎「檸檬」授業ノート』も懐かしかろう、ご笑覧あれ。
「海底撈月(ハイテイラオイエ)」如何にも李白みたような文人趣味のように見えるが、中国語に堪能とは思われない梅崎春生にして、「うん? これってもしかして?」と調べてみたら、案の定だ! これは麻雀(マージャン)の役(やく)の名であった。私は麻雀を全く知らないので、マージャン・サイトの「海底撈月(ハイテイラオユエ) 最後に笑う為に覚えるべきルール」から引いておく。『牌山(ハイヤマ)の最後の牌を海底といい、その牌をツモしてアガると成立。海底摸月(ハイテイモーユエ)とも呼ぶこともあります』。『「海に映った月をすくい取る」そんなロマンチックで美しい名前を持つ役、それが海底撈月(ハイテイラオユエ)です。別名を海底摸月(ハイテイモーユエ)とも言いますが、海底撈月には四字熟語で「無駄骨を折るだけで全然見込みのないこと」という意味もあります。ロマンチックな名前を持ちながら、なかなか見る事ができない海底撈月とは一体どんな役なのでしょうか』とあって、以下、解説されており、そこに海底牌とは『王牌(ワンパイ)を除いた壁牌(ピーパイ)の最後の』一『枚』で、『つまり、プレーヤーがツモをする事ができる最後の牌の事です』とある(私にはよく判らないが、附図を見るとなんとなく判る)。『最後の一枚である海底牌をツモるチャンスがあるのは一人だけ、加えてそのプレーヤーの手牌がテンパイになっていないとならない海底撈月、「無駄骨を折るだけで全然見込みのないこと」というのもなんとなく頷ける気がします』とある。どうぞ、詳しくはリンク先をお読みになられたいが、これで正しく梅崎春生の言っている「最後まで残ったら、私はそこへ行く。海底撈月(ハイテイラオイエ)みたいな好運!」の謂いを正しく理解出来た気にはなった。因みに、調べてみると、「海底撈月」は中国語の発音では「hǎi dǐ lāo yuè」で「ハァィ ディー ラァォ ュエ」が正しいようだ。]

2019/08/02

ブログ1250000アクセス突破記念 梅崎春生 万吉

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年八月号『文芸』初出、昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊「侵入者」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第一巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 梅崎春生は満二十九歳の昭和一九(一九四四)年六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となっているから、主人公の述べるそれと完全に一致しているので、本作は実体験に基づくものである可能性が極めて高い。同海兵団は昭和十六年十一月二十日に長崎県佐世保市相浦に「佐世保第二海兵団」として設置されているが、昭和十九年一月四日に「佐世保相ノ浦海兵団」に改称しているから、作中で主人公が「この海兵団はその頃まだ出来立てで、充分に整理されていなかった」というのは改称による内部編成の変更などを考えれば、腑に落ちる謂いとなろうとも思う。

 「罰直」は所謂、軍隊内で行われた私的制裁、上級兵による下級兵に対する体罰、いじめである。

 「ヒョウソ」瘭疽。手足の指の末節の急性化膿性炎症。この部位は、組織の構造上、化膿が骨膜や骨に達し易く、また、知覚が鋭いために激痛を伴う。局所は化膿・腫脹・発赤・熱感の症状を起こし、治療が不全であると、壊死が進んで、指の切断が必要となったり、骨髄炎やリンパ管炎を併発して重症化する場合もある。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日午前八時前後に、1250000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年8月2日 藪野直史】]

 

   万  吉

 

「佐二補水第一〇〇〇〇号」――この男をおれたちは、最初のうち憎んだ。

 おれたちは皆、佐世保海兵団に同月同日に召集された、第二補充兵の水兵だった。そしてそれぞれ、実験用の小動物か何かみたいに「佐二補水第……号」という兵籍番号をつけられていた。この男が、その「一万号」に当たったのだ。つまり佐世保管区第二補充兵の、丁度(ちょうど)一万人目の召集水兵だという訳だ。

「ねえ」

 入団最初の日の夕食のとき、彼は途中で箸(はし)を投げ出し、あたりを見廻して言った。家族にでも話しかけているような、ごくあたりまえの口調だった。

「いやだなあ、こんな兵隊屋敷。ほんとに僕はいやだよ。何だい、このオカズ。骨ばっかり」

 それほど大きな声ではなかったし、卓も末席だったので、教班長の耳には届かなかったらしい。しかし近くにいるおれたちには、それはハッキリ聞きとれたのだ。誰も相槌(あいづち)を打たなかった。皆ムッとしたような顔付で、ぼそぼそと飯を口に運んでいた。オカズは魚の汁かなにかで、身はばらばらに溶けて、小骨はかりになっていた。――誰も返事しなかったが、いささかもそれを意に介さない風情で、彼はせっせと食べているおれたちの姿を、物珍らしそうに眺め廻していた、と思う。おれはかなり強い反撥を、その彼にかんじた。彼のそのやり方は、傍若無人だと、言えば言えた。今思えば、彼は率直に自分の心境を語ったのに過ぎないのだが、そのとき周囲に与えた印象は、そうではなかった。へんに投げやりなひとを舐(な)めた態度に見えた。――おれたちはこのたび不運にも召集された。その運命を甘受するためには、今の自分の境遇を、出来るだけ悪いものに思いなしたくない。そういう心理がおれたちにははたらいている。その意識が、彼への反撥を引き起したのだろう。兵隊屋敷。まったくそれには違いなかったのだが、自分が今から起臥する場所を、そのような侮蔑的な呼称で表現することは、おれたちにはあまり愉快なことではなかったのだ。

 このようなことで、彼は先ずおれの印象にとどまった。体は小さく弱そうなくせに、いくらか倣慢(ごうまん)で横着そうな人間として。

 

 彼は背丈は低かった。五尺一寸か、せいぜい二寸。見かけこそいくらか肥っていたが、さわるとぶよぶよと手応えがなく、色も生白くて、すこぶる筋肉薄弱な体つきだった。

 ――こんな身体はもっとも軍隊に適しない。

 そのような体力のマイナスは、直ぐに軍隊生活の日常にひびいてくる。朝の駈(か)け足、作業、海軍体操、吊床訓練など。すべてがそうなのだ。案の定彼はもっとも動作が遅く、もっとも覚えが悪く、そしてもっとも数多く殴(なぐ)られた。おれたちは皆第二補充兵だから、もちろん良い体の者は一人もいやしない。その中でも彼は、いちばん体力が貧しい、そしていちばん動作の鈍い兵隊だったのだ。

「どうしておれはかりが、こんなに殴られるんだろうな」

夜の煙草盆などで、彼はこぼしたりするのだ。それもひとごとみたいな言い方で。「まるで目の仇みたいに、おればっかりをさ」

「あたりまえよ」と誰かがつけつけと言う。「万吉、お前にはな、やる気がないんだろう。殴られたって、あたりまえさ」

 いつか彼には「万吉」という渾名(あだな)がついていた。兵籍番号が一万号というところから、そうつけられたのだ。その渾名は、いかにも彼によく似合った。彼の風貌には、どこかとぼけたようなところがあったし、いつも失敗ばかりしているので、そろそろ皆から莫迦(ばか)にもされ始めていたのであるから。

「やる気がないって――」と万吉は口をとがらせて言う。

「あんなの、やる気持になれるかい。じゃお前らは、喜んでやっているとでも言うのかい」

 そういうことをヌケヌケと言うから、万吉は皆から憎まれたりするのだ。その上万吉が失敗すれば、時には連帯責任で、班員全部が罰直にあったりすることがある。その点では、万吉という男は、はなはだ迷惑な困った存在だった。しかしその反面、たとえば吊床訓練などで、万吉がビリになって呉れるから、他の連中はビリにならず殴られずに済むのだ、そういう点では、重宝(ちょうほう)な存在だとも言えた。――そしていつもそんな風に、しくじって殴られてばかりいるせいか、日が経つにつれて、万吉はしだいに憂欝になってくるようだった。

「なんだってこんな戦争を、おっぱじめたんだろうな、日本という国は」

 ある時そんなことを万吉が、おれに言ったことがある。その頃おれは万吉と、かなり親しくなっていた。

「おれみたいなものまで引っぱらなくても、戦争をやりたい奴だけで、やればいいのにな。ほんとにおれはいやだよ」

「だからサボるのかい」とおれは聞いてみた。

「まあハッキリとそういう訳でもないが――」と万吉はちょっと沈欝な顔をした。「一所懸命やっててもね、何でこんなことをやってるかと思うと、とたんに莫迦(ばか)莫迦しいような、情ないような気特になってね――」

 これが万吉の本音だったかどうか、おれにはよく判らない。莫迦莫迦しいといっても、あとで殴られることを思うと、そうそう仕事を投げる気になれるかどうか。しかし万吉にとっては、自分の気持に従うのが自然で、その余のことは彼の考慮の中に、入ってこなかったのかも知れない。

 また別のとき、万吉はこんなことも言った。「どうもおれはこの『一万号』という奴が、気にくわないよ。ここで会ったが百年目、何だかそれに似たような感じでね。あまりいい気持がしないよ」

 

 そのうち、召集兵の中から学校出ばかりを集めて、針尾海兵団にうつされることになった。万吉もおれもその中に入った。

 万吉はその頃、二十三歳だったかしら。とにかくおれよりは四つ五つ下だった。彼はどこかの文科大学を卒業して、そのとたんに召集されたものらしい。そう言えばまだ世慣れない、妙に頑固な融通の利かなさが、この万吉にはあったようだ。

 ある時その海兵団で身上調査みたいなことがあって、所定の用紙にいろいろと書き込ませられた。「将来の希望」という欄に、万吉は「会社員」と書き込んだ。隣に坐っていたから、おれはそっとのぞいて見たのだ。そして一寸可笑しいような、軽蔑したくなるような気持にもなった。おれ自身が召集前まで会社員で、会社員の下らなさをよく知っており、希望に価するものでは決してないことを、ハッキリ知っていたから。――「趣味」という欄は、万吉のは、「芝居」だった。おれは「ナシ」と書いたけれども。

 おれがのぞいているのに気付くと、万吉は照れた笑いを見せ、用紙をずらしてかくすようにした。

 この海兵団はその頃まだ出来立てで、充分に整理されていなかったから、おれたちの仕事は毎日毎日、土運びとか材木片付けだとか、そんな作業はかりだった。教育とか訓練とかは、ほとんどなかった。朝食が済むと、すぐ整列して、作業にとりかかる。別段ノルマというようなものはなく、夕方までダラダラと働き続けさせられる。下士官の眼が光っているから、なかなか怠けられない。それでもその眼を盗んで、おれたちは適当に怠けてはいたけれども。

 しかし万吉の怠け方を知ったとき、おれは少からず驚いた。どうも作業中に、とかく万吉の姿が見えないと思っていたら、彼は毎日兵舎の床の下で、ほとんど一日中を過ごしていたのだ。朝の整列が済むと、バラバラと作業にとりかかる。万吉もその群に入りながら、機を見てうまく、兵舎の床下にもぐり込む。そこでじっと寝ころんでいるのだ。――昼食近くになると、そっと這い出てくる。午後は午後で、またごそごそともぐりこむ。作業止めの懸け声がかかるまで。ここなら下士官の眼は届かない。

 一度おれも万吉にさそわれて、半日を床の下で過ごしたことがある。ゾウリ虫やムカデみたいのが這い廻り、暗くじめじめしていて、あまり居心地のいいところではなかった。万吉はそこに板を敷いて、平気で寝ているのだ。気持わるくないか、とおれが訊(たず)ねたら、働くよりはマシだ、と彼は答えた。並んで寝ころんで、おれたちは低声で色んな話をした。

 芝居の話になると、万吉は急に人なつこい表情になり、おしゃべりにもなった。俳優の声色(こわいろ)をやってみせたりする。声が高くなりそうなので、おれは少からずハラハラした。もし兵舎に下士官でもいて、床下から声色が聞えてくれば、どういうことになるか。

「お前という人間はつくづく軍隊向きじゃないようだな」

 おれはそうささやいた。実際に強くそう感じたから。

「そうなんだよ」万吉は藪蚊(やぶか)をはらいながら口をとがらせて答えた。「おれの兄弟は、皆そうなんだ。兄貴が二人いたんだが、二人とも運悪く戦病死してしまった。生れつきひよわなんだな。残ったのはこのおれ一人だ。おれは、このおれだけは、絶対に殺されたくないよ」

「誰だって、殺されたくないさ」

 いくらか身勝手な感じがして、おれはきめつけるように言った。――しかし万吉の、そんな考え方や性格に、おれはもうそれほど腹が立たなくなっていた。むしろ親近な感じさえ、持つようになっていたのだ。つまりこの男は、いくらか身勝手なところがあるとしても、他から強制されない、平凡な生活を愛しているんだ、ということがうすうす判りかけてきていたから。その点は、このおれも共通だった。

 しかし床下にもぐりこむのは、その日だけで御免こうむった。おれはゾウリ虫やムカデの類を、あまり好きではない。――しかしあいつは、一日中床の下に寝そべって、一体どんなことを考えていたのだろう。あいつを思い出すたびに、今でもおれはそんなことを思う。

 

 学校であるからには、何か特技を修練せよという強制で、おれは暗号術をえらぶことにした。これがいちばん肉体的にはラクなような気がしたから。――万吉も同じ理由でか、これをえらんだ。そこでおれたちはひとまとめにされて、防府海軍通信学校に連れて行かれた。

 ここでは、夏のことだから、体操や駈(か)け足のかわりに、引率されて海岸に泳ぎに行ったりした。ある日、よせばいいのに万吉が、禁を犯して沖の方に泳ぎ出て、溺れそうに

なったことがある。沖の方でアップアップしているので、一時は大騒ぎだった。

 それから兵舎に戻ってくると、万吉の班は、皆を騒がせたというかどで、罰直(ばつちょく)にあった。その方法は、当の万吉を卓の上にのせ、班員全部でその卓を両手で差し上げるのだ。これは始めのうちはラクだが、十分二十分経つうちに、両手がしびれたようになり、油汗が出てくる仕組みになっている。

 しかしそれにもまして辛いのは、卓上の当人だろう。悪いことをしたのは自分だが、その自分だけがラクをして、他の班員全部が自分を差し上げるために、したたか汗を流している。これは当人にとって一種の心理的な拷問なのだ。

 万吉は居ても立ってもいられないような表情で、卓の上に乗っかっていた。泣き出しそうに、顔を歪めている。時時、アッ、アッと呻き声を立てて、身じろぎをするので、支えている班員たちはなおのことやり切れなくなってくるのだ。そこで下から、のろいの声をあげるから、万吉はますます身の置き所もなくなる。溺れ死んだ方がよかったと思ったに違いない。

 おれはその時、万吉の心事につよく同情し、班員の苦痛にもつよく同情し、同時に万吉がおれの班でなかったことを、すこしばかり祝福した。しかし、自分は免かれて、他人の苦痛を眺めるのは、それほどいい気持のものじゃない。ことに軍隊においては、いつそのお鉢がこちらに廻ってくるか、判らないのだから。

 罰直が済んで、その夜、万吉は班員たちから、ひどく殴られたということだ。この出来事を境にして、万吉は急に無口な男になったようだ。よほどこたえたのだろうと思う。

 おれは今でも時々、卓の上に乗っかっている万吉の顔や恰好を、ありありと思い出す。それは捕鼠器にとらえられた鼠に、どことなく似ていた。出口を求めて空しくもがき苦しんでいるあの鼠の顔に。

 

 二十日ほどこの通信学校にいて、何かの都合で暗号術講習がとりやめになり、一行百名余り、再び佐世保海兵団に戻ってきた。

 戻ってくると、また毎日作業の連続だ。こんどは海兵団内の作業ではなく、遠くへトラックで働きに行く。行く末はどうなることか判らないし、ひょっとすると南方行きになるのではないかと、おれたちは毎日ビタビクしながら作業に従事していた。

 万吉が川棚(作業場の地名)で足指にケガしたのも、その頃だ。

 なんでも大砲の薬莢(やっきょう)か何かが、いきなりたおれかかってきて、足指がその下敷きになったという話だった。万吉はビッコを引きながらも、頑強に医務室には行かなかった。それでそこからはいきんが入って、ヒョウソになった。

 後になって、万吉はおれにこう話した。

「――脚一本ぐらい、折ってもいいと考えてたのさ。そうしたら召集解除になるだろうと思ってね。ところが下敷きになったのは、足の親指一本だけさ。人間の神経って、妙なもんだな。たおれかかってくるのを見て、やはり反射的に足を引っこめたらしいんだ。我ながら厭になってしまうよ」

 足を引っこめたばかりに、万吉の企図は挫折したわけだ。そのかわりにヒョウソとなり、作業も免ぜられ、彼は毎日医務室に通い始めた。うまくやったと、万吉をうらやむ者も出てきた。何しろ川棚の作業は、針尾のそれと違って、相当な重労働だったから。

 万吉は自分のヒョウソを、できるだけ長びかせるように、努めたのじゃないかしら。なかなかなおらないばかりか、次第に悪化して、ついに足指を切断しなけれはならない破目になったのだ。そしてある日、軍医の執刀で、右足の親指をチョン切られた。

 その丁度(ちょうど)同じ日、帰ってきた百余名の中から、三十人が選抜されて、佐世保通信隊に暗号術臨時講習員として派遣されることになったのだ。幸いにも、おれもそれに入っていたし、万吉の名も入っていた。しかし万吉は、生憎ヒョウソの手術で動けないというので、すぐに他の者が指名された。つまり万吉はヒョウソのために、海兵団に居残りになったわけだ。

 おれは身仕度をととのえて、急いで医務室に万吉に会いに行った。手術直後だったので、万吉はあおい顔をして、しょんぼりと片すみの椅子に腰かけて小た。足には真白な繃帯(ほうたい)がごてごてと巻かれていた。

「どうもおれは、しまったことをしたらしいなあ」

 おれを見て直ぐ、万吉はしみじみした口調で言った。うっすらと涙を浮べているようだった。

「まだ判らないさ」とおれはなぐさめた。「人間の運不運は、あとになってみなくちゃ、判らないさ、判りっこないさ」

「いや」と万吉はかたくなに首を振った。「でもお前も、生きてろな。おれもどうにかして、生きてゆくから。戦争が済んだら、またどこかで逢おうよ」

「足指を切って、それで解除にはならないのかね」声をひそめて、おれは訊ねてみた。すると万吉はふたたび力なく首をふった。

「実はおれもそう思ったりしたんだがね、どうも無理らしいや。もっとひどい奴が、解除にもならず、残っているんだから」

 そして万吉はボンヤリした視線を、足の繃帯におとした。その繃帯は真新しく、不吉を感じさせるほどの真白な色だった。そしてその一箇所だけ、鮮紅色の血が惨んでいた。やがて万吉は低い声で言った。

「痛かったぞ、この手術。軍医の奴、麻酔もかけないで、切りやがったんだ。ほんとうにムチャクチャだよ、海軍というところは」

 

 それきり万吉に逢わない。

 おれはそれからどうにか暗号兵となった。そして翌年の春、佐世保通信隊付の暗号兵として、勤務していた。沖繩の海軍部隊からの電報で、暗号書は「仁」だった。「仁」というのは、もっぱら人事関係の通報に使用する暗号だ。

「本日ノ戦死者氏名左ノ通リ」

 電報はそんな文章から始まっていた。暗号書を操るにつれて、次々氏名が訳出されてくる。「佐二補水第一〇〇〇〇号」と出てきたとき、おれはぎょっとした。おれは思わず声を立てそうになった。万吉ではないか。

 それはやはり、万吉であった。あの海兵団からどんな経過で、沖繩に渡るようになったのか、おれは知らない。しかし自分が訳出したその電文をじっと眺めていると、沖繩の焼野原で、あの体の小さな色の生白い万吉が、虫のように死んで行ったことを、まざまざと実感出来た。軍隊に入れば生死も常でないとは知っていたが、やはりおれはその時涙が出そうな気がした。

「あいつもとうとう死んだな」翻訳文を当直長のところに届けに行きながら、おれは思った。「あんなに軍隊や死を厭がり、平凡な生活への復帰を望んでいたあいつが――」

 おれのこの翻訳文で、万吉の戦死が確認され、鎮守府から万吉の両親へ公報が発せられる。そのことを思うと、なにか耐えがたい気持がした。兄二人も戦死したというから、彼の兄弟はすべて、戦争で殺されたという訳になる。その公報を、受け取って、彼のおやじやおふくろは、どんな気持でそれを読むのだろう。

 当直長はおれの翻訳文を、もちろん無感動な顔付で受け取った。そしておれはまた卓へ戻り、別の電報の翻訳にとりかかった。万吉との二箇月ほどの交情を、ちらちらと思い浮べたりしながら。――だからその翻訳はなかなかはかどらなかった。

 

 おれは今でも万吉のことを思い出す。時々思い出す。再軍備などという文字を見ると、すぐに彼のことを思い出す。もっとも拘束をいとい、もっとも平凡な生活にあこがれた万吉が、全くその反対の状況において、虫けらのようにむなしく死んで行った。「佐二補水第一〇〇〇〇号」という、囚人みたいな番号をぶら下げたまま。

 勿論これは万吉には限らなかったろう。たくさんの人間が、そうやって空しく死んで行ったのだろう。何という悲惨なことか。やはりこういうことは、再びあらしめてはいけない。そういう気がおれにはする。強くそう思う。

 

 

2019/07/03

ブログ1240000アクセス突破記念 梅崎春生 紐 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年六月号『新小説』に発表されたもので、後、同年九月に発表したヒット作「日の果て」を標題にした第一作品集「日の果て」(昭和二三(二九四八)年思索社刊。作品集「桜島」(大地書房)は翌月の刊行)に収録された、戦後の前年に「桜島」(昭和二一(一九四六)年九月『素直』(創刊号)初出)を引っ提げて登場した梅崎春生の作家デビュー直後の初期作品の一つである。当時、梅崎春生三十二歳。一月に雑誌『令女界』『若草』の編集者であった山崎江津と結婚し、当時は豊島区要町に居を構えていた。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが今朝方、1240000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年7月3日 藪野直史】]

 

   

 

 石で畳んだ廊下を靴で踏む堅い響きが、反響しながら次第に近づいて来た。そして房(ぼう)の前で止った。

「あ、これを!」

 そう言ったようだった。その声と一緒に鉄格子の間に、新聞紙にくるんだ小さな包みが押し込まれた。包みは鉄格子の横桟(よこさん)に二三度ひっかかりながら房の床にばさりと落ちた。

 壁に背をもたせてうつらうつらしていた鬼頭はその音でハッと眼が覚めた。その時鬼頭が見たものは床に落ちた白い紙包みと格子の外に立つ黒服の男の姿であった。男の腰には短い警察官用の短剣がキラと光った。鬼頭が思わず身を起しかけた時、男はへんに黄色い顔を格子の間からじっと鬼頭に向け、そしてその姿はあわてたように其処を離れた。堅い靴音は少し乱れながら、再び元の方向に戻って行った。理由の判らない不吉なものにふと鬼頭は怯えながら、身体を壁にずらして紙包みに手を触れた。湿気を含んだような柔軟な重みが指に感じられた。

(これは何だろう。何の為に投げ入れられたんだろう)

 指が少し慄えて紙ががさがさと鳴った。紙の中から出て来たものは、綺麗(きれい)にたたみこまれた一本の青い絹紐(きぬひも)だったのだ。

「紐が!」

 思わず叫びかけて鬼頭はあわてて口をおさえた。鬼頭の眼はその時、同房の向う側の壁に膝を抱いた男の視線とぴたりと合った。

 紐は鬼頭の指からすべって、膝から床に重く垂れくねっているのである。

 

 六車(と言うのがもー人の男の名であるが)は、紙包みの中から絹紐が生き物のように床に這い流れた瞬間、ぞっとする程の戦慄が背筋を奔り抜けるのを感じた。すべて直線で囲まれた此の狭い世界の中に、それは妖しく微光を放ちながら鬼頭の膝にまつわっているのだ。それはいきなり肉体に響いて来る不快な衝動をまじえていた。六車は乾いた唾を嚥(の)みこみながら、思わず手を伸ばしながらあえぐように呟いた。

「そ、それは何だね」

 彼は、鬼頭が瞬間の放心から覚めたようにぎょっと身体を堅くして、あわてて絹紐を拾い上げるのを見た。紐はその形で丸められたまま、鬼頭の懐(ふところ)に押込まれた。

「絹の紐だよ」

 鬼頭の顔は折檻(せっかん)を受けた幼児のような表情を浮べていた。そして片掌をしっかり懐の上にあてていた。そしてそれ切り二人は黙りこんだまま、探り合うようにお互の顔をみつめていた。房内の温気がこもるように高まって来た。

 暫(しばら)くすると鬼頭は急に頭を垂れて膝の間に埋めた。そして長いことそのまま動かなかった。

 泣いているのではないか。六車は神経質な眼を見はったまま、壁に背筋をぐりぐり押しつけながらそう考えていた。

 

 房の外では戦争の嵐が吹き荒れていた。

 しかし外界と此処とは、厚い混凝土(コンクリート)の壁と鉄格子で隔てられていた。ただ此の房の上の方に小さな窓が外にむいて開かれていた。

 それは人の背丈よりももっともっと高かった。そんな小さな窓にも頑丈な鉄棒が三本ほどはめられていた。そこからは区切られた青空が見えた。音が其の窓から入って来た。それは電車の軋(きし)る音でもあったし、万歳を叫ぶ人々の行列らしい音でもあったし、かけ忘れたラジオらしい音楽でもあった。それらの音が雑然と沈み込む暗い房の底で、二人の男は黙然(もくねん)と膝を抱いて向き合っていた。[やぶちゃん注:「かけ忘れた」「かけて切り忘れた」の意であろう。亡き母は何時もラジオをつけることを「ラジオをかける」と言っていたのを思い出した。]

 午後になると必ず六車は呼出されて房を出て行った。そして一時間程経って戻って来た。

 そんな時の六車の顔は汗いっぱいになり、眠が獣のようにぎらぎら輝いていた。房の床にくずれ落ちると、肩で荒い呼吸を支え、あえぐような呻(うめ)きを口から洩らしているのであった。その姿を見る度に鬼頭の胸にはある畏(おそ)れが突き上げて来た。

 鬼頭は此処に入れられて以来、一度も呼出されない。何時になったら取調べが始まるのか、数えて見るともう半月も経って、入房当初の剃刀(かみそり)をよく当てたすべすべした頰には、黒いちぢれた鬚(ひげ)が密生し始めていた。

 

 格子から投込まれた絹の紐を一目見た時、鬼頭はいきなり心臓をぐさと摑(つか)まれた気がしたのである。

 彼はある軍需会社の営業部の主任だった。突然ある朝刑事がやって来て彼を拘引した時、彼がさほどあわてなかったというのも、彼の会社での仕事というのが関係筋に付届けをする事であり、その関係筋というのが監督官や管理官や地方役人や、警察官だからであった。彼が口を割れば此の土地のそれらの人々は皆収賄の罪に問われる筈であった。彼はその朝おろおろと戸惑う妻に、何でもない直ぐ済む事だ、と一言残して拘引されて来たのである。妻の父も、此の土地で警察署長をやっていた。

 だから鬼頭は救いの手を信じて疑わなかった。その救いがどんな形で現われるのか、それを待って半月経った。

 あの時鉄格子に黄色い顔を押しつけてじっと彼を凝視したあの巡査は、彼が見覚えがない男だった。何時もの巡査とは違っていた。そして彼がふと脅えながら指に拾い上げたものがあの冷たいずっしりした絹紐の塊だったのだ。

(俺の口を割らせない為には、俺を救い出すよりも俺を殺した方が早いのだ)

 それがいきなり頭に来た。そして六車の神経的な鋭い視線に堪えながら、暫(しばら)く惑乱しようとするものを支えていた。そしてがっくり頭を落すと、瞼のうらにさまざまな人の顔が浮んで来た。入乱れた顔々の中に、思い詰めたような妻の顔がひとしお大きく浮び上って来た。

 

 その日も夕方近くになって、六車は呼出されて出て行った。暫くすると変に静まった通路の屈折を抜けて、呻吟(しんぎん)や叫喚(きょうかん)が幽(かす)かに此の房まで聞えて来た。それは毎日のことであったが、音が幽かであればある程、鬼頭には取調室の六車の姿がヴィヴィッドに思い浮べられるのであった。

(俺は死なないぞ。俺は死なないぞ)

 そんな事を呟きながら、鬼頭は懐の紐をしきりにまさぐっていた。

 やがて六車は汗みどろになって房にもどって来た。房に 入ると一時に気力を失うらしく、床にうずくまって犬のように荒々しくあえぎつづけていた。その細い肩や腺病質的な横顔を眺めながら、鬼頭は此の男を支えつづけている気力とは一体何であろう、とふと訝(いぶか)るのであった。そう訝かると直ぐ、彼は今日絹紐を見た時の六車の瞳のいろを想い出した。それは乾いてキラキラ光る瞳だった。それがまっすぐ彼にそそがれていたのだ。

(此の男はあの時、どんな事を感じていたのだろう~)

 鬼頭は六車から眼を外らすと、斜めに小窓を見上げた。昏(く)れかかった青空を切り取る三本の鉄棒が、浮き上るように彼の目にしみて来た。

 

 夜、うすい毛布にくるまって二人は寝ていた。消燈後のくらがりの中から、鬼頭は低い声で聞いた。

「お前は、政治犯なのか」

 うん、と暫くして六車の返事が戻って来た。鬼頭は更に問いを重ねた。

「毎日、何故打たれてるんだね」

 返事は無かった。長いこと沈黙がつづいていた。もう眠つたのかと鬼頭が寝がえりを打とうとしたとたん、六車のやや早口な声音が耳の側でした。

「俺が今白状すれば、皆駄目になるんだ。俺の白状が二日遅れれば遅れるだけ、すべてが有利になるんだ。俺はそう思って歯を食いしばって辛抱しているんだ。今日だって、俺がじっと堪えたばかりに、何人かが命をたすかっているのだ。何もかもうまいこと行っているんだ」

 急に烈しい呼吸(いき)使いが耳の側で乱れた。

「しかし――俺は白状してしまうだろう。明日か、明後日か、それは判らない。俺はあの苦痛には堪えられないのだ。声を立てまいとしても声が出てしまう。――頭がくらくらになってしまうのだ」

 声がとぎれ、深い溜息がそれにつづいた。鬼頭は毛布を顎(あご)にまで引上げながら、屈折した廊下を伝わって来る六車の苦痛の叫声を想い出した。

(此の男を白状から妨げているものは、彼自身の良心だ。ところが俺の場合、俺の口をつぐませようとしているものは――此の絹紐だ)

 鬼頭は汗ばんだ胸の膚にすべすべとからまる絹紐の感触を確めていた。

(しかし、此の紐で、どんなにして首をくくれというのだろう。どこにひっかければいいのだろう)

 

 暁方、鬼頭は夢を見ていた。何だかと格闘しているようなひどく苦しい夢だった。首を絞められて、鬼頭は夢の中で大声を立てていた。そして眼が覚めた。

 ぼんやりした朝の光が房の中にひろがっていた。髪を汗ばんだ額にへばりつかせたまま、鬼頭は起き上ろうとした。そして彼は、首の辺にしんなりとまつわる蛇のようなものを感じて、再び叫び声を上げて掌で払った。それはあの青い絹紐だった。紐は弓形にしないながら宙を飛んで壁に当った。

 鬼頭は異音な顔をしていた。

 その側で矢張り半身を起した六車が、薄く瞼を開いてじつと紐を見詰めていた。鬼頭の声に驚いて起き直ったものらしかった。六車もそして真蒼だった。紐はべたっと床に貼りついていた。その側に紐を包んでいた新聞紙が昨日の形のまま、小さく丸められてころがっている。……

 

 ――六車は昨日あの絹紐を一瞥(いちべつ)した瞬間から、紐が暗示する或る物へ、どうすることも出来ない牽引(けんいん)を感じ始めていた。

 その日もうつうつと膝を抱いて壁に倚りかかっていた。時々うすく瞼を開いて鬼頭の方を見た。その度に鬼頭は鬚の間から、暗欝な眼付を光らせて彼を見返した。

(此の男は何者だろう)と六車は考えた。

(此処に入って以来不敵な態度を保ちつづけていて、俺とも余り口を利こうともしない。それにしても、あの包みを開いた時の此の男の脅え方は何だろう?)

 あの絹紐が此の男にどんな意味を持つのだろう、そう思うと六車は直ぐ、床に貼りついたような不気味な紐の形を思い浮べた。

 壁が背のぬくみであたたまると、六車は身体をずらした。

 ずらした股のあたりに、何かがさがさしたものが触れた。ふと見ると、あの丸められた新聞紙であった。六車はそっと膝の間にそれを拡げた。

 ある記事がふと彼の心をとらえた。記事は次のような内容だった。

「何郡何村鬼頭利親(三四)は去四日朝贈賄の嫌疑で自宅から拘引された。背後関係に戦争を喰物にする某軍需会社を控え、官界各層や地方名士も連関あるらしく、成行を重視されている模様である。猶同人妻ハナ子(二三)は聖戦下に於ける世間体を恥じ……」

 新聞紙は其処で千切れていた。

 大車は二度その記事をゆっくり読み返した。そして音のしないように丸めると、床の上に落した。頭を膝の間に埋めるようにしながら、上目使いに鋭く鬼頭をぬすみ見た。

 鬼頭は頭を壁にもたせ、軽く眼を閉じていた。懐が少しふくらんでいた。紐がそこに入っているのである。

(紐の差入人は、此の記事を此の男に読ませたかったのだな)

 世間体を恥じて此の男の妻は何をしでかしたというのだろう。六車はそんな事を考えつづけながら、鬼頭の胸のふくらみから眼を離さないでいた。

 

 六車の神経的なまなざしが、ともすれば鋭く紐の在処(ありか)に走るのを、鬼頭ははっきりと感じ始めていた。眼を閉じていても、それは気配で判った。

(あの眼付は只の好奇心か?)

 いや、違う、と鬼顔は思った。そして彼は昨夜の六車の話を想い出していた。あれが入房以来交した最も長い会話であった。その時の六車の荒い呼吸はまるで泣声のようだった。

(そんなに辛けれは何故白状してしまわないのか?)

 しかし鬼頭はふと、あの紐を受取った時の自分の絶望に突当っていた。彼には白状する気はなかった。長い間救いを信じていた。もし彼が口を割れば――第一に傷つくのは妻の父にあたる隣村の警察署長だった。それが先ず彼に堪えられない事であった。彼は彼の若い妻を愛していたのだ。

(しかし誰があの紐を寄越(よこ)したのか?)

 鉄格子から覗いた巡査の黄色い顔が、嘔(は)きたくなるようなどぎつい鮮かさで彼の瞼のうらに浮び上って来た。彼は青ぶくれのした顔を大きく振ってその想念を追払いながら、向うの壁にうずくまる六車の姿に、ひととき眼を据えていた。

 昼過ぎになると六車は眼に見えて生気を喪いはじめるらしかった。瞼をふるわせて廊下を眺めたり、ぎょっとした風に聴耳を立てたりした。取調べの時刻が近づくのだ、と鬼頭は感じながら、何故か自分も一緒にいらだち始めている事に気がついた。

 彼は湧き上って来る衝動を嚙み殺しながら、陰欝な視線を六車の薄い肩のへんから暫(しばら)く動かさないでいた。

 

(今日こそは俺は白状してしまうかも知れない!)

 そんな暗い予感で、六車はじっと呼出しを待ちながら、背をしきりに壁に押しつけていた。そうしていらだたしく爪を嚙んだ。

 もはや彼の心の中では、外界の同志の記憶や運動の推移などは、実体的な形象を喪失し始めていたのだ。それは実体を失って、悪夢のような茫漠たるものになって、彼の心を遠くから取巻いているだけに過ぎなかった。昨夜ふと彼が激情にかられて鬼頭に口走ったことは、半分は真実だが、半分は嘘だった。白状が一日遅れれば、それだけ有利になる。この事を、彼は観念の中だけで計算し得たが、肉体ではもはや感じ得なくなっていた。

 肉体によって信じられるものは、あの堪え難い拷問の苦痛だけであった。それだけが真実の重さをもつて彼にのしかかって来た。

 彼が今辛うじて、その苦痛に堪えて口を割らぬのは、外界の情勢を思う故ではなかった。ただ彼の自尊心に外ならなかった。

(すべてが既に俺個人の問題だ)

 白状するという事は、もはや六車個体の敗北であったのだ。その敗北を自分に確認することが、救いようのない絶望に通ずることを彼ははっきりと予感していた。

(此の房に不用な物は一切あり得ないのだ)

 房の中に存在するものは総(すべ)て俺達の用に立てねばならぬ。六車は、敗北から逃れ得る唯一の可能な方法を、こんな形で思い詰めて居た。そんな時に六車の視線は、蛇のような執拗な力を帯びて鬼頭の胸の辺を走った。

 石畳の廊下を遠くから踏んで来る跫音(あしおと)を感じて、六車はぎょっと眼を見開いた。そして鬼頭の視線とひたと合った。鬼頭の眼も脅えたような光をたたえて、汗の玉が額から頰に幾筋も流れていた。

 

 六車が房を呼出されて独りになると、鬼頭は急に訳の判らない恐怖を感じた。鬼頭は思わず身体を壁に這わせてよろめき立ちながら、無意識に視線を小窓の明りに向けていた。懐の中で汗を吸って、絹紐はぐちゃぐちゃにかたまっていた。

 彼は切取られた青空に、大きな掌を幻影に見た。彼は視野の一部が錯乱して行くのを感じながら、一度それを確めようとした。するとその掌から、巨大なうねりを持った絹紐が垂れ下るのを感じた。

(死なないぞ。俺は死なないぞ)

 彼は心で呻きながら眼を外らした。そして房の中を見廻した。房の中には彼一人であった。すると彼は、六車がいないことに、言いようもない不安を感じた。彼は思わず脚をずらせながら、格子の所まで出て行った。

 石畳の廊下には人気がなかった。

 両掌で鉄格子を握り、無意識の中で彼は自分の背丈を鉄格子に合せていた。鉄格子は彼の顔より低かった。これではくくっても失敗する。そうぼんやり考えながら、彼はその事にぎょっと驚いていた。

(俺は何を考えているのだろう?)

 彼は顔を格子に押しあてて、じっと眼をつむった。瞼のうらに妻の姿を描き出そうと努力を集めた。しかし妻の顔も、彼の記憶から定かな形を薄れ始めるらしかった。――

 その時通路の彼方から、幽かに六車の叫声が屈折しながら流れて来たのだ。その叫声は笛のように断続しながら、切なく高まって来た。鬼頭のかたく閉じた瞼に、突然熱い涙があふれて来た。

 

 闇の底に沈み込んだ房の床に、うすい毛布にくるまって二人はじっと横たわっていた。

 六車は打たれた身体の節々が、今しんしんと疼(うず)き出すのに堪えながら、顔のすぐ近くで鬼頭の規則正しく動く厚い肩を感じていた。

(此の男は何も知らないのだな?)

 ふと六車はそう思ってみた。そして今日疲れ果てて房に戻って来た時、何故か鬼頭が甲斐甲斐(かいがい)しく介抱して呉れた事を考えていた。

(世間体を恥じて彼の妻は何をしたというのだろう。たしかハナコという名だったが)

 あの新聞紙は丸められたまま、まだ房の隅にころがっている筈であった。六車にとって世間というものは、感覚で到達出来ない遠離の彼方にあった。それは彼の心に痕跡を止めているだけであった。だから彼の前に横たわる鬼頭が、そんな世間と繫(つな)がっているという事が彼には極めて奇異に思われた。

(しかし此の男は、あの紐を受取ってからでも、まだ本当に絶望はしていない!)

 どこかの一点で彼が救いを賭けていることを、六車は漠然と感じていた。それはどの一点か六単には判らない。

 ただ昼間、鬼頭が彼を房に迎え入れた時、鬼頭は彼の耳に口をよせて一言、白状したのか、と鋭い声で訊ねたのだ。その声を今六車は胸が詰るような気持で手繰り寄せていた。それが此の房に生きる鬼頭の、真実の肉声だった。

 その声を六車は肉体でじかに受止めていた。その時六車はほとんど涙が出そうになるのを押えて、頭を振っていたのだ。此のような短い肉声を、単純な身振りを重ねて行けばどうなって行くのだろう。

(その時は俺達はもはや、此の小房に閉じこめられた二匹の昆虫だ!)

 六車はその時、今鬼頭を揺り起して新聞記事の内容を知らしてやりたいという強い欲望にかられていた。

「ちょつと――」

 彼は手を伸ばそうとして声を吞んだ。鬼頭の体が大きく身じろいだ、まだ眼覚めていることを示したからである。

 

 長い夜が明けて、また鈍色(にびいろ)の一日が始まった。

 六車の眼は赤く血走っていた。夜の間のまだ一日あるという幾分寛(ひろ)やかな気持が、寝覚めと共に暗い予感を伴って荒々しくいらだって来るのであった。身体の痛みは一夜を越えても既に恢復(かいふく)しなくなっていた。彼はもはや露骨なまなざしで鬼頭のふくらんだ懐をたじろがず眺めた。

(あの絹紐を執拗に隠し続けることこそ、此の男が絶望していない証拠だ)

 六車の刺すような視線を弾きながら、鬼頭は沈痛に膝を抱きかかえていた。

(昨夜は俺に何を言おうとしたのだろう)

 あの時鬼頭は眼覚めていて、全身でその言葉を聞いた。何か凝集した空気のまま言葉はそこで途切れたのだ。

(――あれは何か余程重大な事だったに違いない)

 鬼頭は大きく眼を見開いて床の肌理(きめ)を眺めていた。彼が今ぼんやり考えていることは、自分に自白する機会は永遠に来ないだろうという事であった。此の房を出る為には屍体となって出る他はないという想念であった。しかしその想念も、まだ彼にははっきりした現実感は無かった。

(俺は死なないぞ!)

 鬼頭は空虚な声で呟いた。しかし彼は心の中に、渦に次第に吸い寄せられる木片のようなものを、此の時はっきり思い浮べていたのである。渦の底には何があるのか。ただそのような擾乱(じょうらん)が彼の心いっぱいを満たしていたのだ。その擾乱が平衡を保って永遠に続いて呉れることを彼は必死に念願した。

 彼の姿をじっとみつめていた六車が、突然甲(かん)高い声で言った。

「お、お前に死ぬ必要があるのか?」

 鬼頭はぎょっと身体をすさり、暗欝な視線を上げた。

 

 午後になると房の中の気温が急に高まって来た。小窓が切取る空のいろは灰白色の雲影であつた。そして何時もの時間が近づいて来た。

 六車は午前中のあの毒々しい気色をすっかり無くして、蟹(かに)のように打ちひしがれた表情で、しきりに額の汗を拭った。鬼頭も黙りこくって頭を低く垂れていた。

 湿度に満ちた空気を伝って、石畳を踏む靴音が幽かにした。

 二人とも一度に頭を上げた。

 鬼頭は腰を浮かすようにして、早口で問いかけた。

「昨夜は、お前は何を言いかけたのだ?」

 六車は鬼頭の青ぶくれた鬚面の間からギラギラ光る眼の色をじっと見た。そしてゆっくりと床の隅の新聞を指さした。

「あれに書いてある」

 声はみじめにつぶれて聞き取れない程だった。

「――しかし、今は読むな。俺が戻って来るまで待て!」

 六車の眼は哀願の色を浮べて、青くまたたいた。跫音が房の外に止った。――

 

 鬼頭は鉄格子に全身をもたせかけ、掌でしっかり鉄棒を握っていた。掌と鉄棒の間にはあの紙片が押しつけられていた。

 通路の彼方の、長いこと続いていた六車の叫喚が急に止んだ。

 鬼頭は急いで身を離すと、紙片を慄える指で拡げて、光の方にかざした。食入るようにしてそれを読んだ。眠が一箇所に定まるとそれ切り動かなかった。

 むくんだ顔の青さから、やや血の気が落ちて行くようだった。しかし変化はそれだけであった。鬼頭は二本の脚の上に彫像のように動かないでいた。

 暫くすると、跫音が乱れながら石畳の通路を近づいて来るらしかった。それは段々反響を加えながら、此の房に戻つて来るらしい。

 

 狭いくぐり扉から床に崩れ込んだ六車は、荒々しく肩であえぎながら、汗で濡れて光る顔をようやく振りむけた。その眼は燃えるような色であった。そして鬼頭の顔を突通すように見た。

「――読んだか?」

 と六車はあえいだ。返事はなかった。が六車は真実を全身で感じ取った。そして鬼頭の低い声がゆっくり落ちて来た。

「自白したのか?」

 六車は子供のように首を振った。そして急に表情を歪めて上半身を起き直った。

「お、おれは、あと三十秒、あ、あの苦痛が続けば、口を割っていた。あ、あと三十秒だった」

 片腕を顔にあてると、六車は虫のように奇妙な声を立てて泣きじゃくり始めた。が、それも一分間経たぬ中に止んだ。六車はへんに乾いた眼で再び鬼頭を見上げていた。涙も涸れて流れ出ないらしかった。

 鬼頭の懐がゆるんで、青い絹紐が半分程だらりと垂れていたのである、六車の灼きつくような視線に気付くと、鬼頭もゆっくり顔をうつむけた。

 紐は淡い光を吸うて不気味にひかった。

 鬼頭はそのまま床にしゃがみ込んでいた。二人の視線がそろって光を求めるように小窓を見上げた。

「――俺もそう思っていたんだ」

 二人はそれぞれ踏台に、お互の背中の事を考えていた。鬼頭は六車の背に、六車は鬼頭の背に、そして青い絹紐を小窓の鉄棒にひっかける。――

 六車はまだ微かにあえぎながら、小窓の灰色を背景に浮出した三本の黒い鉄棒をにらんでいた。頸に始め柔かく、次の瞬間に烈しく食込む絹紐の感触を、ほとんど快よい戦慄と共に空想し始めていた。

 その六車の耳の側で、

「どうやって籤(くじ)をつくるんだ?」

 何か憎しみに満ちた鬼頭の声がした。

2019/06/09

ブログ1230000アクセス突破記念 梅崎春生 不動

[やぶちゃん注:本篇は作家デビュー以前の梅崎春生のごく初期の作品の一つである。昭和一八(一九四三)年六月発行の『東京市職員文芸部雑誌』第一号初出(当時、梅崎春生二十八歳)。戦後の昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。戦前の作であるから、少なくとも本篇初出は正字・旧仮名であるはずだが、原本を所持しないので、底本通り、新字新仮名とする。傍点「ヽ」は太字とした。本文中に私のオリジナルな注を挿入した。

 梅崎春生は昭和一四(一九三九)年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業(満二十五歳。卒業論文は「森鷗外」八十枚)後、この当時は東京市教育局養育研究所に勤務していた(同研究所は上野公園にあった。現在は国立西洋美術館が建っている)。実は本篇発表時は最後の「東京市」なのであって、この翌月七月一日に内務省主導による「東京都制」が施行され、地方自治体としての「東京市」と「東京府」は廃止されて現在の「東京都」が設置され、それまでの「東京市役所」の機能はこれ以降、「東京都庁」に移管されたのであった。但し、本作発表の前年の昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊したものの、肺疾患のために即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に同福岡市街の自宅で療養生活を送っているので、ほぼ一年近くの休職期間がある。因みに、翌昭和十九年三月には、徴用を恐れて東京芝浦電気通信工業支社に転職したが、六月に二十九歳で再び海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となって、終戦まで九州各地を転々としたのであった(以上は底本全集別巻年譜に拠った)。

 また、本作の主人公の友人として登場する「天願氏」は初期作品の傑作「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』(副題『新人創作特輯号』)に掲載された。リンク先は「青空文庫」のもの)でも一種、主人公のトリック・スターのように重要な役回りをするが、彼のモデルは梅崎春生の終生の友人であった同い歳の作家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学し、そこで梅崎春生と同級となって親交を結んだ)であるとされる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが昨夜、1230000アクセスを突破した記念として公開する。因みに、本作は掌品ながら、後の漫画家つげ義春のある種の作品のような、奇妙なるリアリズムを感じさせる佳品と思う。【2019年6月9日 藪野直史】]

 

   不  動

 

 午後の二時頃、天願氏と私は上野駅のホールに立って、壁にかかっている時間表を眺めたり、ぼんやりと構内の雑踏を見渡したりしていた。日曜日のことであつたから、駅内はいつもより混んでいて、リュックサックを背負ったような男女や、バスケットを提げた田舎風の人々や、野菜行商の女達が、改札のあたりから出入口にかけて忙がしく往来した。窓や出入口から射す昼の光はあかるくて、拡声器の声は、次から次に、はっきりしない語尾をひびかせながら、建物の天井を這って消えて行った。

 此処まで来ても、まだ何処に行こうというあてはなかった。曖昧な気特で時間表を見上げたり、また行くのは止そうかと思ったりした。駅の構内に入っただけで、もう疲れたような気がした。

「とにかく、松戸まで買おうか」

 うん、と生返事しながら、まだ私はためらっていた。新宿の、鬼堂という友人のところへあそびに行こうか、などと思ったりして、気持がはっきり定まらなかった。しかし、駅内の群集の動きや、時折聞える汽笛の音が、何となくしきりに天願氏の旅情をかき立てるらしかった。

「とにかく、先ず松戸まで買つて、気がむけば途中で江戸川あたりに降りてもいいじゃないか」

「それもそうですね。しかし、もう二時だから」

「充分だよ。日が長いからね。とにかく切符を買う」

 天願氏は、渋団扇(しぶうちわ)のように張った肩を左右に振るような歩き方で、切符売場の方に急いで行った。私は、ふところ手をしたまま、そのまま佇(た)っていた。郊外に、新緑を見に行くという試みを、さまたげる事情は私には何もなかった。しかし、野や山に生い立った青葉や若葉を頭に浮べようとしても、なにか感興がうすかった。

 やがて切符を買って来た天願氏と共に、改札を通って歩廊に出た。歩廊は、季節にしては強い日光のために、鮮やかに日の当る部分と影の部分にわかれていた。そして歩廊の果ての、混凝土(コンクリート)の坂になったあたりを、風が白く吹いていた。私達は、歩廊の真中ほどにあるベンチにもの憂(う)く腰をおろした。長い間経った。線路の遠くから、カーヴのところでは少し傾きながら、電車が近づいて来る。その振動が、微かではあつたが歩廊ににぶく伝わって来た。それはだんだん大きくなる。私達は莨(たばこ)を捨てて立ち上った。

 

 松戸で電車からはき出された。歩廊から見る松戸の町は、昼間だのに夕暮のような感じがした。奥行きのなさそうな、此の佗しい町のむこうは、砂塵がうつすりと立っている。

「なにも、無さそうだな」

 ふところに突込んだ手で、肋(あばら)のあたりを撫でながら、私は向うの歩廊に目を転じた。汽車が着いていて、機関車が白い蒸気を出していた。

「あの汽車は何処行きだろう」

「我孫子(あびこ)に行こう」

 突然天願氏がさけんだ。「あの汽車にのれば間に合う」

 私達はそのまま、考える間もなく歩廊を走った。階段をかけ降りて、またかけ昇った。昇降口にかけ込んだとき、汽車がごとりと動き出した。私達は息を切りながら、顔を見合わした。

「よかったですね。間に合って」

「まったく」

 何がよかったのか、自分でもはっきり判らなかったが、私はそう言い、大へん得をしたような気持になっていた。列車は、大へん混んでいた。

 私達は車掌室の横に止ち、それから中には入れなかった。人いきれのこもった室の中で、私はじっと立っていた。私のそばには、陸軍の将校が二人やはり立っていて、時折低く話し合っていた。故郷に行くところらしかった。二人とも純粋な東北訛(なま)りで話していたが、将校というものは何時も立派な標準語で会話するものだというような、漠然たる感じを持っていた私は、そのことが珍しく、また親しみ深い良い感じがした。久し振りにうちに帰ると、小さい子供が自分を見忘れていて、もとのようになるまで十日位かかるという話をしていた。一駅も過ぎないうちに私は疲れて、壁に身を支えたりしたけれど、二人の将校は毅然と立ったままの姿勢で、汽車が揺れてもあまり身体を動かさなかった。

 

「此処まで来たんだから、ついでに成田まで行って見ようじゃないか」

 我孫子で乗越し賃銀をはらい、待合室に入ったとき、天願氏がこう言った。

「そう、ぼくはどうでも良いですよ」

 私は、成田が何処にあるかは知らない。此の我孫子ですら、地図の上ではどの辺になるのか見当がつきかねた。東京を離れた以上は、どこにどう行こうと私は同じ思いであった。時間を調べると、三十分後に出る汽車があった。[やぶちゃん注:主人公同様に不案内の読者のために、東京と我孫子と成田の位置関係をグーグル・マップ・データで示しておく。]

 そこらを一寸歩くことにきめて、私達は駅を出た。変哲もない田舎町がつづいている。まずしげなお土産屋や飲食店が、ほこりだらけの道の両側にならんでいる。道側に遊んでいる子供たちの眼は、東京の子にくらべると変に鋭くて、敵意を含んでいるような気配があった。

 馬糞の多い道を一丁程[やぶちゃん注:約百九メートル。]行くと、突きあたり、道は両側に分れていた。一つは、沼に行く道らしかった。そこにある近郊案内の立て札を読み、また同じ道をあるいて戻って来た。何ということもない。また待合室に腰かけて、汽車を待った。「疲れたかね」[やぶちゃん注:「沼」現在の我孫子市の北辺縁に貼り付くように東西に長い手賀沼のこと。]

 天願氏がにやにやしながら私の顔を見た。「貴公は、自然というものに対して興味を持たんらしいな」

「いや」と私も少し笑った。「興味もたないという訳じゃないけれど、――人間の方が面白いですな、自然よりは」

 しかし、何事に対しても興味の持ち方がうすいということは、私にとって生来のものであった。私は、自分が異質のものであるとは思いたくなかったけれど、そうした傾向は否めなかったのだ。人間に対しても、ミザンスロピィの形でしか、感情なり興味なりを持ち得なかった。もつとも環境のせいもあつた。役所で毎日、話と言えは猥談か、気の利いたつもりで泥臭い冗談しか言えないような同僚や上司と一しょに働いていれば、馬鹿でない限りはそうなってしまう。[やぶちゃん注:「ミザンスロピィ」misanthropy。英語で「人間不信・人間嫌い」の意。]

「これでも昔は、野山に行くのは好きだったんですがね」

 指で肋(あばら)を一本一本おさえながら、私は天願氏に言った。

 そのうちに改札が始まった。田舎の内儀(おかみ)さんの群と一緒に、ぞろぞろと歩廊になだれ込んだ。

 

 沼が右手に遠く、鈍く光ってはまた隠れ、また樹々の間からあらわれた。日はようやく傾きかけたようであつた。汽車は、空いていた。汽車が進んでゆくにつれ、天願氏は少しそわそわし始めた。

「どうしたんです」

「いや、一寸」窓の外ばかり見ている。

 天願氏の、数年前別れた妻との間にある男の子が、今日は日曜日だから、母方の祖父のうちに遊びに行っているかも知れない。(その子供は、妻の方に引きとられていた)祖父のうちが、此の沿線の汽車の窓から見えるところにあると言うのだ。

「もすこし先なんだ。もすこし――」語尾が少しふるえた。

 窓の外を、松林や、丘陵や、小川が次々に通り抜けた。家がぽつぽつと現われて来たかと思うと、たちまちそれが小さな部落となり、樹々にかこまれた低い家々が限界をさえぎったとき、天願氏は身体ごと乗り出すようにして、目をきらきらと光らした。

「あそこ!」

 瞬間にして、汽車はその部落を奔(はし)り過ぎた。

 暫(しばら)くの間私達はむき合って、黙っていた。汽車の轟音だけが、ごうごうとひびいた。窓から入る光線が、天願氏の顔をゆっくりと移動して行った。顔の陰影が変化するのは、丁度(ちょうど)表情が変って行くように見えた。

「ああ、成田までじゃなく、どこか遠いところまで行きたいなあ」

 暫く経って天願氏は独り言のように低い声で言った。

 

 成田の駅前は、大広場になっていて、夕方の淡い光の中で、成田停車場はまるで玩具のように見えた。天願氏の髪を、風がばらばらに吹いた。私達は参詣近道と書いた裏通りをゆるゆるとあるき出した。狭い道は不規則に折れ曲り、怪しげなカフェや、居酒屋がつらなっていた。門口に厚化粧をした女たちが椅子を出して腰かけ、私たちをうさん臭そうな顔で眺めたりした。それは変に私の嫌悪をそそった。私は出来るだけ目を外らしながら、少し前屈みになって急いだ。道は僅かながらも、登り坂になっていたのだ。そのうちに、大通りに出た。

「裏参道などと書いて、あれはきっとカフェの連中が客寄せに書いたんだろう」と私達は笑い合った。大通りは、どこの神社の町にもあるような土産店や、表だけがけはけばしい旅館などがずらずらと列(なら)んでいて、人々が動いているにも拘らず、芝居の書割りのように生気がなかった。夕方のせいか参詣客らしい姿はあまり見えず、道を歩いているのは町の男たちや商人らしかった。夕方の空には、綺麗(きれい)な鰯雲(いわしぐも)が出ていて、白い昼の月がうすくかかっていた。旅情が、それを見たとき始めて私の胸にほのぼのと湧き上って来た。

 不動は、森にかこまれていた。亀のいる池の石橋をわたり、石段をのぼった。石柱が沢山立っていて、寄付金と名前、壱千円也某、五百円也某といった具合に、金額が多いほど石柱も大きかった。それらが石段の両側に、墓碑のように連なり、風はそれをおおう樹々の茂みにそうそうと鳴った。私たちは黙って一歩一歩、石階をふんだ。

 本堂を横に切れて、後ろに廻ると、もはや本堂の背は夜であったが、壁面に僅か黄昏(たそがれ)が残っていた。そこには木彫の板がいくつもはめこんであった。私たちは顔を寄せてひとつひとつ見てあるいた。何の図柄か判らなかったが、どの絵も人間がたくさん彫られ、どの人間も同じ表情をし、同じ着物を着ていた。俗っぽい彫り方にもかかわらず、妙な迫真力があつた。不意に何か不気味なものを感じて振り返ると、人一人いない境内が背後にしらじらとひらけていた。[やぶちゃん注:私は成田山新勝寺に行ったことがないので、調べたところ、公式サイト内の「釈迦堂」によって、ここは現在、「本堂」(江戸後期の建立に成る)から「釈迦堂」に変更されていること、彼らが見たのは、この旧本堂の回廊の堂壁部分に施された、嶋村俊表作「二十四孝」や、松本良山作「五百羅漢」(及びその外の外回りの彫刻を彫物師後藤縫之助が手掛けているとある)の彫刻群であることが判明した。リンク先には画像もある。]

「寒い」

 夕方になって、少し冷えて来たのだ。その感じも、東京を離れた思いに強かった。

 まだ数枚の木彫板を見残して、私達は境内を通り抜け、脇へ降りる道をあるいた。

「すこし、金があるかね」

 私は袂(たもと)を探った。乏しい銅貨の音がした。街路に出て、燈の下で天願氏は金入れを出して、内をかぞえた。七円なにがしの金があった。

 相談の末、汽車賃だけ残して、のこりで一杯のむことにし、私達は歩きだした。先に立った天願氏の肩は、骨太だけれども何処か影がうすく、わびしかった。暗いところをあるくとき、二人の影は淡く地面にうつり、天願氏の影は、歩きぐせのために地面で躍るように動いた。空には、二十三夜の月が少しずつ光を増し、私達はことさら明るい通りを避けて、適当な居酒屋を探して行った。[やぶちゃん注:「二十三夜の月」但設定と思われる晩春の狭義の「二十三夜の月」は、夜の十一時近くの「月の出」になるので、時刻が遅過ぎるから(実は後のシーンで「九時を廻っているらしかった」とある)、ここは二十三日以前の三日月に成りかけた下弦の月をかく洒落て言ったに過ぎないと採っておくべきであろう。]

 薄汚ない暖簾(のれん)をかかげ、指で盃の形をつくつて見せ、あるかね、と聞くと、台所から親爺が顔を出して、まあ入んな、と答えた。そこで私達は中に入った。土間には卓子(テーブル)が一脚あって、両側に紅殻(べんがら)の剝げた樽が腰掛け代りに五つ六つ置いてあった。

「白だけど、いいかね」

「ああ、結構だよ」

 あちらこちら探し歩いた後だったから、もはやどんなものでもいい気特になっていた。私は、樽に腰を下して、掌を何となくすり合わした。

 湯吞茶碗を前にして、暫くしたら親爺が奥から大切そうに持って来た瓶から、冷たい濁酒(どぶろく)がとくとくと注がれた。粒が多い、濃い濁酒であった。

 親爺が、注文もしないのに持って来た、ほうぼうの煮付や、白い魚肉の酢味噌、そんなものをつつきながら、茶碗をほした。

「此の白馬はどこから持って来たのかね」[やぶちゃん注:「白馬」「しろうま」で濁酒の異名。白馬は神の供をする、酒は神に供える、というところからの色彩連想による俗語。違法醸造によるものであるから、かく隠語として用いたもの。]

「なに、河向うからだよ」と答えて、えへへ、とわらった。もしかすると、汽車賃に食い込むかも知れないと思ったが、そのうちに酔って来て、そんなことはどうでもよくなった。

 私達に向い合って馬方らしい老人がやはり飲んでいて、親爺と、今日見た溺死人の話をしていた。

 土間のむこうは部屋になっていて、親爺の女房らしい大きな女が牛のように横になっていた。側で子供がひとり手習いしていた。

 その子供には顎(あご)がなかった。[やぶちゃん注:事故によるものでないとすれば、先天性下顎骨欠損症或いは下顎骨が痕跡しかない疾患となろうか。]

「わたしたち二人で」と親爺は寝ている女をゆびさした。

「月に七升要りますがな」

 風が、暖簾を動かしていた。

 私達は、琉球(りゅうきゅう)や台湾や、遠い国の話をした。パパイヤや檳榔(びんろう)や、停子榔や泣き女の話をした。酔いが廻って来るにつれて、天願氏の放浪癖は益々そそられるらしかった。ずっと若い頃の、数年間にわたる大放浪の話を天願氏は低い声でめんめんと語った。[やぶちゃん注:「停子榔」読みも意味も不詳。当初、私は以下の「泣き女」との対表現から、台湾で檳榔や煙草を売る若い女性を指す「檳榔西施」かと思ったが、それはごく直近の風俗らしいので当たらない(御存じない方はウィキの「檳榔西施」を参照されたい)。次に前の「檳榔」の「榔」の一致と「子」から、アジアの広い地域で嗜好品とされる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実、檳榔子(びんろうじ:アレコリン(arecoline)というアルカロイドを含み、タバコのニコチンと同様の作用(興奮・刺激・食欲の抑制など)を引き起こすとされ、依存性があり、また、発癌性が認められている)のことかとも思って調べて見たところ、ビンロウの中文ウィキに「倒吊子檳榔」の項があり、そこや他の中文記事を見ると、どうも檳榔子の中に下から上方へ成る実があり、その成分は他の実に比して激烈で、これを使用すると、死に至ることさえあるというようなことが書かれているようであり(私は中国語は解せない)、この「倒」は「停」と似ていて「子」も「榔」もあるから、これか? とも思ったのだが、そうすると「泣き女」との対表現が如何にも悪い。だったら、梅崎春生なら、「パパイヤや檳榔(びんろう)、その停子榔こと、或いは泣き女などの話をした」辺りの表現をするであろうと考えた。お手上げ。識者の御教授を乞う。但し、「停子榔」の文字列は日本語でも中国語でも引っ掛からない。「泣き女」葬儀や葬列の際に雇われて号泣する女性。本邦にも旧習としてあったが、中国・朝鮮半島・台湾を始めとして、ヨーロッパや中東など汎世界に見られる伝統的習俗であり、かつては普通に職業としても存在した。]

 そのうちに、もう何杯飲んだか判らなくなって、肴もあらかた食い尽した。全身が酔いのかたまりになるような気になった。馬方もかえってしまった。奥で寝ていた女房が起きて来て、土間に降りて暖簾を外し始めた。

「さて帰るかな」

 勘定をきくと、八円いくらになっていた。私は金は無いのだから、黙って天願氏の顔を見ていた。天願氏は黙然(もくねん)と金入れを出して、さかさに振った。しやがれた声で言った。

「親爺さん。一円ばかり足りない。上衣置いて行くから、明日まで待っと呉れ」

 器物を洗っていた親爺の顔に、ちょっと険しい表情が現われて、消えた。そして笑い顔になった。

「いや、そうおっしやるなら、明日でも良ござんす。上衣はいらないよ」

 私達は礼を言って、露地に出た。露地をあるくとき、私はにやにやした笑いが出てとまらなかった。理由はなく、可笑(おか)しくて可笑しくてたまらなかった。月が、馬鹿みたいに明るく照っていた。とうとう二人とも、一文なしになってしまった。天願氏も笑い出した。

「さて、これからどうするかな。今何時頃だろう」

 もう九時を廻っているらしかった。

「もう帰れないな」

「汽車賃もなし」

「宿屋に泊ろうか」

「金無しで?」と私は聞き返した。

 しかし、そうする外に方法はなかった。それでも私は苦境に立ったという気は少しもなかった。酔いのせいであったかも知れない。

 不動の裏手の、旧街道らしい道のそばにある成田屋という傾いた古い旅館に入って行った。女中も誰もいない。内儀らしい老女が出て来て、何だかだだっ広い部屋に通された。

 一本だけつけて貰って、二人で盃をゆるゆるとあけた。

「何だか変な具合になったな」

「新緑を見に来る筈だったんだが」

 ああそうだ、新緑を見に来たんだと、始めて気が付いた。しかし、上野を発ったときから、どんな新緑を見たか思い出そうとしても、頭に浮んで来るのは、灰色の家々や影のような人間の姿ばかりであった。

 此処の宿代は、今考えても仕方がないから、明朝起きて考えることにして、飯を食べた。酔いは依然として続いていた。

 部屋の硝子戸の外は不動の大樹がそびえ、月の光がぼんやりさしていた。私達は手拭いを借りて、階下の風呂場に行った。

 薄暗いじめじめした風呂で裸になり、代る代るすみっこの五右衛門風呂に入った。熱い湯に、腹から胸へと浸って行くとき、心臓がどきどき鳴って、咽喉(のど)まで何かかたまりが出て来るような気がした。手拭いで顔を拭きながら、にわかに荒涼たる想念が胸にのぼった。勿論、今日のことも、私にとってはごくささやかな放蕩にすぎぬ。しかし、此のような無定見な放蕩をくりかえすことによって、私の青春はやがて終って行くのであろう。

 流し場にしやがんでいる天願氏に、私は声をかけた。

「天願さん。ぼくが歌うから、あなた踊りなさい」

「よし」と天願氏は立ち上った。

 流し場の真中にきっと不動の如く立って、両手をそろえて体の両側につけた。肉の落ちた肩や胸をそらして、私の顔を見て、ハイツと言った。私はゆるく手を叩きながら歌い出した。天願氏の、故郷のうたであった。

 

  旅や浜宿い 草の葉ど枕

  寝(に)てん忘(わし)りらぬ  我家(わうや)のう側(すは)

  千鳥(ちじ)や浜うて  ちゅいちゅいな

 

 天願氏の肉体が、あやつり人形のように薄晴い電燈の下で、縦横無尽に動いた。ときどき歌の合のてに、元気よく掛声をかけた。出鱈目(でたらめ)の、その踊りを見ているうちに、私は変に悲しくなって来た。ふと先刻の汽車の中のことを思い出した。あのとき天願氏は、あの家の中に、自分の子供の姿をありありと見たのではないか。あのときは何も天願氏は言わなかったが、きっと子供の姿を見たに相違ない。私はそう思うといよいよ悲しくなり、顎を縁にのせたまま手拭いで風呂の湯をぴちやぴちやたたきながら、次第に歌の調子を早めて行った。


[やぶちゃん注:最後に天願氏が歌うのは、八重山民謡「浜千鳥」の一番である。たるー氏のブログ「たるーの島唄まじめな研究」の「浜千鳥」によれば、「浜千鳥」は「はまちじゅやー」と発音し、たる一氏の表記歌詞と沖繩方言音写では(歌詞には多様なヴァージョンがある旨の記載がある)、

 

旅(たび)や浜宿(はまやどぅ)い 草(くさ)ぬ葉(ふぁー)ぬ枕(まくら)

寝(に)てぃん忘(わし)ららん  我親(わや)ぬ御側(うすは)

千鳥(ちじゅやー)や浜(はま)うぅてぃ  ちゅいちゅいなー

 

である。私は梅崎春生はかなり正確に音写していると思う。リンク先では全曲と流派の異なる別バージョン、本民謡のルーツまで解説されているので、必見。]

2019/05/11

ブログ・アクセス1220000突破記念 梅崎春生 囚日

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年四月発行の『風雪』別冊第二号に発表され、後の同年十月に刊行された単行本小説集「ルネタの市民兵」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 以下、少し、事前に言っておくべきことと、語注をネタバレにならぬように附す。

 初っ端から躓く若い方がいるかとも思われるので、最初に言っておくと、冒頭(二段落目)に登場する「水野国手」の「国手」は名前ではなく、「水野医師」の謂いである。「国手」は「こくしゅ」で、「国を医する名手」の意味であって、「名医」或いは「医師の尊称」である。但し、この語には別に各種の技芸に於ける「すぐれた名人」、中でも特に「囲碁の名人」を指すことがあり、梅崎春生は囲碁が好きであったから、以下は想像だが、この水野医師も実在のモデルがおり、その人物は囲碁仲間で、しかも相応な囲碁力を持っていて、職業は医師であったという、読者には伏せた楽屋落ちの含みをも持たせてあるのかも知れない。なお、正直、私自身、この語を使ったことはない。因みに「国手」の由来は、原始人氏のブログ「原始人の見聞」の『「国手(こくしゅ)」の由来』によれば、春秋時代を対象とした史書「国語」(著者は「春秋左氏伝」の著者とされる魯(紀元前十一世紀~紀元前二五六年)の左丘明であると言われているものの定かではない。但し、古くから本書は「春秋左氏伝」の「外伝」であるとする説が唱えられており、「漢書」の中では「国語」のことを「春秋外伝」という名称で記している)、の『中に「晋(しん)の平公(へいこう)が病気になった時、秦(しん)の景公がこれを聞き、医師を遣わして診察をさせたことがあった。その際に趙文子(ちょうぶんし)という人が』、『「一国の王様を治療するのだから医が国に及ぶ訳ですね」と申し上げると、景公は「全くその通りだ。上医は国を救い、その次のものは人を救うものだ」と答えた」とあり、それから名医のことを「国の病を治すほどの名手」だと尊敬して「国手」と呼ぶようになったという』とある。

 また、本作の、特に前半部には、そのロケーションや登場人物の特異性と、書かれた時代の限界性とから、差別的な言辞・表現・描写がかなり出現する。また、登場人物の不適切にして差別用語をも含む感懐が語られる場面もある。また、現行では、患者に対して差別的であると同時に当該疾患を示すのに医学的にも不適切であるという理由から、廃止されて新たに改称されたり、今は使われることが少ない旧疾患名も出てくる。それらについては、批判的視点からの読解をなされるようにお願いする(ネタバレになりそうな具体的なそれらについての語注は作品の最後に後注として置いておいたので、読後に、必ず、読まれたい)

 「エレクトロンのアトム」というのは「電子」を意味する“electron”(或いは“elektron”)、「原子」を意味する“atom”で、恐らく登場人物は原子構造の模型に於ける電子殻(でんしかく:electron shell)、所謂、原子核を取り巻く電子軌道或いはその複数の集まりをイメージしたものであろう。この人物、もとは相応の知識人かとも思われる。

 「麻葉模様」(あさばもよう)は、基本形は正六角形の幾何学模様である。グーグル画像検索「麻葉模様」をリンクさせておく。

 「焮衝(きんしょう)」とは、身体の一局部が赤く脹れて、熱を持って痛むこと。「炎症」に同じい。

 「配給」とあるが、戦後の配給制度(米穀通帳による米分配販売配給が減衰する時期)は本作が発表された翌昭和二十五年から二十六年(一九五〇年~一九五一年)頃までは未だ残っていたのである。

 因みに言っておくが、私は、本作を非常に高く評価している。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1220000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年5月11日 藪野直史】]

 

 

   囚  日

 

 敷地が数万坪もあるというこの脳病院には、数百人の気の狂った人がいるという話であった。比較的軽症の人々は、敷地内の農耕にでていて、鍬(くわ)を使ったり収穫をはこんだりする姿が、遠くに見えた。重症の患者たちは、みな病棟に閉じこめられていた。空模様の面白くない午後であった。鉛色に垂れた雲のしたに、コの字型の病棟が、道をはさんでいくつも建っていた。

 水野国手に案内されて、病棟のなかをつぎつぎ、私たちは見て廻った。水野国手は白い清潔な診察着をつけ、廊下をゆっくりと先にたってあるいた。時々たちどまって、病室の患者と問答をかわし、私たちを振返って、その患者の病状をしずかな声で解説した。

 頑丈な扉のついた病室ばかりの棟があった。扉には銃眼に似た刳抜窓(くりぬきまど)があり、内部がのぞけるようになっていた。発作のはげしい患者などが、ひとりひとりそこに入っていた。扉の厚さは五寸ほどもあった。なかをのぞくと、布団にくるまって寝ていたり、またいきなり起き上って、顔を窓のところに持ってきたりした。そして訴えることは、訴えのなかだけで論理が通っていて、私たちの世界とは、ある一点ですさまじくかけ離れていた。この廊下には、動物の檻(おり)のようなにおいが、うっすらとただよっていた。麻痺性痴呆や、躁欝病や、分裂病の患者たちであった。そういう患者を、ひとりひとり見てゆくうちに、見ているこちらが狂っているのではないか、という錯覚に私はふと落ちたりした。廊下は乾いているにもかかわらず、踏むスリッパは、なにか濡れたものを引きずるような音をたてた。

 女ばかりの病棟があつた。

 うすぐらい一室の扉のかげに、わかい裸体の女が、顔を膝に埋めてうずくまっていた。一片の衣類もつけぬその裸体は、つめたく均勢がとれていて、むしろ陶器じみた白さであった。一切の物音から遮断されたかのように、それは身じろぎもしなかった。

 廊下の角に、いきなり声をあげてうたい出す女がいた。小刻みに身体をゆすり、身振りを交えながら、私たちのあとを追ってきた。女の顔は忘我的な陶酔のいろを濃く浮べ、瞳は色情をふくんで軽やかにうごいた。これほどたのしそうな歌声を、私は長い間、聞き忘れていたような気がした。

「躁病の爽快感情ですね」あるきながら水野国手が静かに言った。「あのひとは、発作が起きそうになると、自分で判って、進んで入院してくるのです。発作にも周期がありましてね、もう何回目の入院でしたかしら」

 眉をひそめた生真面目な表情で、忙しげに廊下の端をすりぬけてゆく中年の女もいた。襟(えり)には手巾(ハンカチ)をあて、歳にしては地味すぎる着物を、引き詰めるように着ていた。付添いの女かと思うと、これも患者なのであった。

 廊下をひとめぐりして、もとの入口にもどってくると、私たちは靴をはき、道をよこぎつて、また次の病棟に移って行った。その道をあるいていたり、入口の石段に腰かけて休んでいたりする男たちが、あれが軽症患者なのか、看護人なのか、私には見分けがつかなかった。私自身にしても、水野国手と同道でなかったら、他からはどう見えるかは判らなかった。その考えは幾分、私の心を寒くした。しかしそんなことを感じるのは、私だけであるらしく、数万坪のこの区域内に居住する人々は、おおむね他人の生き方に無関心なふうであった。放心とか黙殺というのではなく、もっとつめたく澄んだ無関心が、ここ全体を支配していた。

 大きな病室がつらなっている病棟では、ひとつの病室に、十人も十五人もいて、思い思いの姿勢で、じっと動かなかった。布団をかぶって寝ているのもいたし、壁に倚(よ)ったままにぶい眼を私たちにむけるのもいた。みな欝然として表情をなくし、自分の世界にとじこもっているようであった。病室をでて、中庭に休んだり、なんとなく廊下をゆききしているのも少しはいた。その一人は、私たちが廊下にふみ入ったとたんから、水野国手のそばにくっついて歩きながら、しつこく同じことばを操りかえしていた。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 十秒ほどの間隔をおいて、同じ言葉を同じ抑揚で、まるで同じところを廻転するレコードのように、この男は早口に発音するのであった。しかし男の顔には、その語調ほどの切実な表情はうかんでいなかった。相手にされなくても、ただその言葉を、飽きず繰りかえすだけであった。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 気持の重さをやや感じながら、私も水野国手のあとをあるいた。先に立つ水野国手の襟足は、わかわかしく脂肪をのせていて、なにか疲れを知らぬ、つよい精気のようなものが感じられた。医者という職業人が、ほとんど例外なくもつ、あの肉体的な感じであった。曲角の病室にくると、また水野国手は立ちどまって、廊下から部屋のなかに、しずかな声で話しかけた。

「どうだね。加減は?」

 話しかけられた男は、入口近くのすぐ下にうずくまり、布団をからだにぐるぐる巻きつけ、茸(きのこ)のように首だけを出していた。こちらに顔をあげて、のろのろとなにか答えた。男の答える言葉は、ひどく辛そうであった。唇のあたりに、亡友の死霊が憑(つ)いていて、どうしても離れず、それがいろんなことを命令するというのであった。

「……今朝からも、芋を食うな、食うちゃならん、と命令するもんですから、どうしても食べられんで、朝食も昼食も、まだすこしも食べずにおります……」

 くるしそうな声で、とぎれとぎれ言いながら、その男は片掌をあげて、黄色く褪(あ)せた唇の辺をはらうようにした。男の眼は、内側に折れまがったような暗い光をおびて、ちらちらと水野国手にむいて動いた。顔色は不自然なほど黄色で、すこしむくんでいた。自分の症状を正確にはなすことで、自分の苦痛をすこしでも柔らげることが出来るかのように、男はくるしそうに掌をふりながら、質問にこたえて、くぎりくぎり発音した。

「……なんと言ったらいいか……ここらあたりに……霧のような……もやもやとして……エレクトロンのアトムのような……そんな形になって……それがしょっちゅう私のここのところを……」

 男の指はふるえながら、しきりに唇の辺を探るふうにうごいた。水野国手の肩ごしに、私はその男を、そして身体に巻きつけた布団の柄を見おろしていた。その布団は、ところどころ生地がやぶれ、うすくなった綿が、ちぎれた旗のように垂れさがっていた。布もひどくよごれ、褪色(たいしょく)していたけれども、それはたしかに、青い地に白の麻葉の模様であった。その色調や模様と同じものが、とつぜん記憶の中からよみがえって、つよく私の心を射た。

(――ああ、あれは石狩の布団とおなじ模様ではないか――)

 まぎれもなく、同じ布地の布団であった。その布団を、まとめて千五百円でしか引取れないという古道具屋に、私は二千円で買えと、しつこく言いつのっていた。それは一週間ほど前のことであった。立合っていたわかい刑事は、腕組みをしたまま、にやにや笑っていたし、老人の古道具屋は、布団と本箱と古外套など合せて、六千円以上はだせないと、古物商特有の声を殺した口調で、頑固にくりかえした。

「コミじゃ困るんだ。別々に値をつけて」

「別々にしても、布団は千五百ですよ。結局は同じ値でさ。旦那」

 これらの品物の持主が私でないことを、ほんとの持主は警察に行っていて、当分戻る見込がないから、品物を処分していることを、この老人は知っているらしく、自分の言値をさらに動かす気配は見せなかった。その布団であった。その布団と同じ模様が、この怨霊(おんりょう)に憑かれた狂人の身体をくるんでいたのである。

「ええ。ええ」

 この男はほとんど泣きだしそうな声で、水野国手の質問にこたえていた。

「……それは、それは判っておりますが、それでも、なんだか、必ずたたりがあるような気がして……」

 声がだんだん小さくなって、そのまま麻葉模様に、顔をくるしそうに埋めた。もうなにも開いて呉れるなと、言っているように見えた。

「分裂病の病状としても、まだ初期ですから、幻覚じゃないかと言うと、あんな具合に反応するのですが――」

 廊下をあるきだしながら、水野国手が低い声で言った。

「これが進むと、すっかり自分の妄想の世界に入りこんでしまって――」

 つぎの大きな部屋には、私たちが廊下を通っても反応を示さない、うずくまったままの患者が何人も住んでいた。それらはなにか鉱物のように、ばらばらに孤立した感じであった。水野国手の指が、それらを漠然と指さした。

「ついには、あんな具合に、感情が鈍磨荒廃して、全く無為の状態になってしまったりするのです」

「――みんなああいう風になるのかね?」

 暫(しばら)くたって私の連れが、そんなことを聞いた。

「それが多いんだね」

 病棟の入口までもどってきたので、スリッパを靴にはきかえながら、水野国手はすこし陰欝な調子になってこたえた。

「彼等が閉じこもっている世界が、どんなものであるか、これは誰にも判らないんだよ。分裂病患者は、同一人に対して、愛と憎しみといったような、正反対の気持を同時に感じたり、また同時に泣くことと笑うことが出来たりするんだ。医者の方で、両価性と名付ける特性なんだが――」

 石階を降りて、鉛のような雲のいろを映した道に、私たちは出た。水野国手は道ばたにしばらく佇(たたず)んで、くろずんだ病棟の列をながめていた。

「――もう、こんなものですよ。あとの病棟も、同じようなものですよ」

 すこし経(た)って、水野国手がぼんやりと私にそう言った。その端麗な顔には、ふしぎな退屈の色が、つよく浮んでいた。それは、私の気持で、そう見えたのかも知れなかった。長い廊下をつぎつぎにあるいて、異様な緊張が私に持続していたにも拘らず、ある退屈感が私の胸に重くひろがっているようであった。なにかしなければならないことを、やり残しているような、そしてそれを忘れて思い出せないような、へんにはっきりしない気分が、鈍く私を押しつけてきた。

「ええ。もう結構です。これで大へん勉強になりました」

「――医局に行って、脳外科手術の器械などごらんに入れますか」

 もとの静かなはっきりした態度になって、水野国手がそう言った。

 本館にむかってあるくとき、すれちがって水野国手に頭を下げる軽症患者の、三人にひとりは、前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた。水野国手はいちいち会釈をかえしながら、また時には声をかけたりした。

「ちかいうちに、ここで演芸会をやりますよ。見にきて下さい」

 水野国手はそんなことを私に一言った。この病院のなかだけでやる会で、患者ばかりが出演する劇もあるそうであった。それを聞いたとき、焮衝(きんしょう)に似た感じが、私の胸の底をはしった。

「患者だけでもやれるのかい?」と私の連れが聞いた。

「やれるさ。軽症の患者だから」水野国手は連れの方をむいて答えた。「精神病というと、なにもかも僕らと違うと、君はかんがえているんだろう」

 本館の裏口から、看護婦がふたり、話しながら出てきた。背景が暗いので、それらは白く鮮かに浮き上って見えた。私たちはその方向へあるいた。

 

 郵便局によるために、新宿で私は連れの友人に別れた。別れると直ぐ、郵便局へゆくのも物憂くなって、また戻って友人の姿をさがしたが、人混みにまぎれてもう見当らなかった。この友人が水野医師と知合いで、今日見学に私を伴ってくれたのである。

 狭い鋪道の人混みを、私は反対の方角へのろのろ動きだした。人の進みが、いつもよりのろいような気がした。大きな建物が、ところどころ曇天をくぎっていて、その谷間にあたる小さな店に、おいしそうな麺麭(パン)がたくさん積まれていた。買おうかな、とふと思い、立ち止りかけたが、うしろから押されるまま、ずるずると通りすぎた。身体の芯(しん)が疲れているようで、気持を強く保つものが、私から失われているらしかった。はっきりしたあてもなく、大通りをそれて、私は横町にあゆみ入った。

 ある喫茶店に腰をおろして、私は珈琲(コーヒー)をのんでいた。珈琲はへんに甘たるかった。この契茶店は、両側の壁に椅子をならべてあるから、客たちはそれぞれ壁を背にして向きあうようになっていた。七八人の客がばらばらに腰かけていた。脚を組んだり頰杖をついたり、飲物を飲んだり莨(たばこ)をすったりしていた。鉢植の葉の影が、黄色の壁におちていた。お互につながりを持たぬ人々がかもしだす、ある一つの感じがそこにあつた。客が出て行ったり、新しく入ってきたりすると、その感じは揺れうごくが、やがて水面が波紋を消して倒影をとりもどすように、またもとの感じがたちかえってきた。

 遠くから流行歌が聞えていた。何かの具合で、聞えたり聞えなくなったりした。聞いたことがあるような節だと思うと、それはあの躁病の女がうたった同じ歌であつた。すると濡れたように重いスリッパの感じが、私によみがえってきた。つづいて私は唇に死霊がついた男の顔を思いうかべた。あの顔はむくんで、この喫茶店の壁のような色をしていた。とぎれとぎれにしゃべる声が、耳のそばで聞えるような気がした。

 そうだ、ととつぜん思い出した。あの男の口調が、なにか心にからみついたのも、私の故郷の訛(なま)りがそこにあったからであった。実際に聞いていたときに、なぜ私はそれに気が付かなかったのだろう。あの時、鼓膜にだけとどまっていたものが、今になって意識にのぼってきたのは何故だろう。

 あの病院は配給の関係上、患者を都民に限っていたから、あの男も私と同じ故郷から東京にでてきて、まだ訛りもとれないうちに発病して、そして病院に収容されたにちがいあるまい。どんな経歴の男か知るよしもないが、あまりゆたかでない証拠には、あれは公費患者の病棟であったし、そしてあの布団も、破れ目から綿がちぎれかけていた。布団の麻葉模様も、大きな汚れた蜘蛛のような形に見えた。

(布団まで売り払らったというのも、下獄の決心をしたからに相違ないのに、なぜ今となって、保釈をたのむような気特になったのか?)

 あの布団や道具をみんな整理して金に換えてくれと、最初に面会に行ったとき石狩は、直ぐ私に頼んだのであつた。留置場の食事は充分でないので、他から補充するために金を必要とするのかも知れなかったが、布団まで売る気持というのも、五年や七年の下獄を覚悟したからにちがいなかった。それだのに係りの刑事から、本人が保釈をつよく希望しているという連絡があったのは、昨日のことであった。その時私は、石狩の部屋で売れのこつたがらくたの中から持ってきた、彼の小説原稿をばらばらと拾い読みしていた。それはこういうところであった。主人公が暗い夜、北陸のある町をあるいている時、うしろから歩いてくる二人の男の会話を、ふと聞くともなく聞く場面であった。

 

「ええ、もう気持が駄目かと思った――」

「逃げれはよかったんだよ――」

「ええ、ほんとに逃げたいと思ったんです……だが――」

 くるしそうなほそい声だった。

「だがもなにもないよ、実行だけだよ此の世で通用するのは。逃げたいと思ったら逃げれはよかったんだ!」

 

 電話口にたって、保釈にかんする刑事の連絡をきいたとき、私ははげしい昏迷のようなものを感じた。

「保釈って、そんな簡単にできるものかしら。本人はどう言っているんです?」

 石狩が犯した罪というのは、強盗なのであった。一度は二三町離れた医者の家で、妻女をおどして六千円盗り、一度は四五軒はなれた家に入って、千円ほど盗ったというのであった。両方とも主人が留守の家であった。医者の家では、夜中に主人が往診にでかけるのを見すまして、玄関から押入ったのであり、あとの方は、主人が社用で遠方に出張していて、妻女と子供だけの留守宅であった。そのどちらも、彼は浴衣がけで、玄関にちやんと下駄を脱いで入って行った。面を覆うという細工もしなかったから、顔の特徴も見覚えられてしまっていた。すぐ近所に押入るというのに、覆面もしないというのは、なんという無計算だろう。しかもまるで招かれた客人のように、玄関にきちんと下駄をそろえて、捕縛されるのを予定しているようなふるまいであった。

「あなたにただそう連絡してくれという本人の話なんです」

 電話の声はそれだけであった。電話を切って部屋に戻ってきて、莨(たばこ)をいらいらと吸いつけながら、私はかんがえていた。

(――保釈で出てきて、何をやろうというつもりだろう、あの男は)

 保釈で出るとしても、いずれ刑の執行をうけねばならぬから、身の自由な期間もごく短い筈であった。それを石狩が知らぬわけがない。また保釈願いを出したとしても、再犯の危険なしとして、許されるかどうかは判らないことであった。そういう可能性のすくない保釈にまでたよって、束(つか)の間(ま)の自由を得たいというのは何だろう。警察に面会に行ったとき、留置場から刑事部屋へ呼出されてきた石狩の、くらい不気味な感じの眼を、私は思いだしていた。それはごく特徴のある眼のいろであった。

「うちには知らさないで」押しつけるような低い声でそう言った。「絶対にうちには知らさないで呉れ。心配させても仕様が、ないんだから」

 友人か誰かに会いたければ連絡しようか、と私が言ったとき、石狩はそれが聞えなかったのか、眼を宙に外(そ)らして、とつぜん早口で別のことを言った。

「あ。僕はやましくないんだよ。やましい気持はない」

 石狩の両親は、北陸のちいさな町にいて、鍼灸(はりきゅう)を業としていることを、私は聞いていた。父親は盲人であるし、母親もほとんど視力がなくて盲人に近く、だからそこの台所なども、よその家の台所とちがって、器物や棚の配置が、手探りに便利なように出来ているということであった。視力の欠けた者同士が、一緒になれるものかどうか、石狩の話を私はふと疑ったけれども、台所の話では、それは本当なのかも知れなかった。そういえば彼と相知ってから、私がよんだ七八篇の彼の小説はことごとく、ほとんど生理的な暗さに満ちていた。出生のくらさを底に秘めているようであった。そして近頃のものほど、その傾向がつよかった。光からわざと自分をしめ出すような作品が多かった。その頃から石狩は、自分の行手にくらい罠(わな)を感じていたのかも知れなかった。しかし石狩にとっては、小説そのものも暗い罠である筈であった。あの無計画な衝動に身をまかせたことが、彼にあっては、あのような小説を書き綴ることと、どう違うのだろう。違うと誰が言いきれるだろう。

 しかし石狩が、自分はやましくないと早口で言ったとき、私は聞えないふりをして、窓の外を眺めていた。しばらくして、金が要るかと私が聞いたとき、石狩は直ぐ、その時は自分の布団や道具を売払ってくれ、と私にこたえた。それは始めから考えていたような口振りであった。だから私はその日、刑事といっしょに石狩の部屋にゆき、古道具屋を呼んで、売れるものはみな売払った。復讐に似た感じが私にあった。古道具屋に、もすこし値良く買えと言いつのったのも、石狩の為をかんがえた訳(わけ)ではなかった。石狩が多くの金を得ようと得まいと、私の気特に関係はなかった。

 値段の折合いがついて、私たちは外に出た。古道具屋はリヤカーに荷をつんで、先をあるいた。布団はその一番上にのせられてあった。麻葉模様が白い蜘蛛の形にかんじられたのも、その時であった。私はあるきながら、金を刑事に手渡し、石狩にわたして呉れるようにたのんだ。石狩を逮捕したのは、このわかい刑事である。石狩にちがいないと目星をつけて、この刑事は四晩つづけて石狩の部星の窓のしたに、見張りをしていたということであった。あるきながら刑事はその時の話をした。

「二度やったんだから、また必ずやると思ってね。夜の九時頃から暁方まで、植込のなかに四晩張込みましたよ」

「その四日間は、彼は外に出なかった訳ですね」

「出なかったね。しかしあれはどうも変でしたよ。四晩とも、あれは三時ごろまで起きていてね。なにしてるかと思って、ときどきそっと窓から覗(のぞ)いてみたんだが――」

 石狩は机の前にすわって、本も読まず何も書かず、ただ眼をひらいたまま、いつ見てもじっとしていたという。何時間も何時間も、同じ場所にすわったまま、どんなことを石狩はかんがえていたのだろう。あの特徴のあるくらい眼を見ひらいたまま、彼が見ていたのはどんな世界なのだろう。それはもう救いというものがない世界にちがいなかった。今日脳病院で、ほとんど外界に反応をみせない分裂病患者をみたとき、私がすぐ思いうかべたのは、深夜の部屋にすわって、壁をながめている石狩のすがたであった。その石狩のすがたは、実際に私が見たわけでないにもかかわらず、眼底に鮮烈に浮き上っていた。あの時の刑事のかんたんな叙述が、私の胸にやきついていたのだ。

「――どうもあの眼は変だね。木莵(みみずく)の眼みたいな感じがしてね……」

 私はその日、刑事と途中でわかれると、心を決めて、その足で郵便局へ行った。そして石狩の実家あてに、電報を打った。そうすることに、気持の抵抗がない訳ではなかった。しかし家に知らせるなという石狩の言葉も、彼の根源のところではなにも意味がないのではないか。そう自分に言いきかせることで、私は電文を一字一字したためた。郵便局の備えつけのペンは、先が割れていて、粗悪な頼信紙はざらざらとささくれ立った。石狩がいま避けようとしている実家とのつながりを、この電文が一挙にむすびつけてしまうのだと、私は考えた。あるいはこのことが、彼の唯一の救いになるのかも知れない。しかしそう思うことは、私にひどく苦しかった。自分で嘘をかんがえていると思った。そして自分がそのつながりの中にいることが、私の心を重くした。私の気持は、ひどく退屈しているときの感じにそっくりであった。発信人の名前をしるすときに、ためらうものがあって、私は私の名を書かなかった。石狩の件について話があるから、あの警察まで来てくれ、という意味をつづり、名前は書かなかった。盲目の両親は、この電報をうけとって、どうやって読むのだろう。だれか晴眼のひとにたのんで、読んでもらうのだろうか。発信者のないこの電文を、ふた親はどういう心の状態でうけとるのだろう。それを想像したとき、軽い悪感(おかん)が身体をとおりぬけるのを私は感じた。

 

 石狩が保釈をのぞんでいる旨の電話を、あの刑事から受けたとき、まず私の頭にきたのは、親が上京したにちがいないということであった。しかし電話口で私がただしたところによると、その様子はなかった。それが私をすこし不安にした。電報は五六日前に、実家にとどいている筈であった。しかし盲人ゆえ、仕度に手間どるのであろうし、付添いの晴眼者も必要なのだろう。まだ上京していないとすれは、石狩のいまの心を揺り動かしているものは何だろう。あの時布団まで売払ったというのも、身の果てをそこに感じたからではなかったか。

(――両親に知らせてくれるな、と言った石狩の気持を、どう考えたらいいのか?)

 実刑を宣告され、執行されるときになれは、原籍地に通知がゆくことは、すぐ考えられることであった。あるいは石狩は、保釈で出る機会をつかみ、別の身の果てをかんがえているのかも知れないと思ったとき、強い疼(うず)きのようなものが私の心に起った。それはあの日、石狩の布団を売払ったときの気特にも似ていた。あの時の石狩の口吻(こうふん)は、直ぐ金が必要というのでもなさそうであった。いずれ機を見て金にかえてくれという語調であった。それにもかかわらず私は即日、刑事に立合いをたのみ、追っかけられるように一切を古道具屋に渡してしまった。そうすることによって、石狩がおちた罠の食いこみ目を、更に決定的にするかのように。すべて断ち切らせることで、彼の不幸が不幸でなくなるかも知れぬと、気持の表面だけでそのとき私は考えたが、しかもその足で、私は郵便局に行って電報を打ったのであった。それ以後は一度も石狩に面会しに行っていない。なにもかも放ったままであった。そういう自分の行動を、私は論理づけてとっている訳ではなかった。追われるように私はそうしていた。

 坂田という友人が、石狩に面会しての帰りだといって訪れてきたとき、先ず私が聞いたのはそれであった。

「保釈のことをなにか言ってたかね」

「そんなことも言っていた」

「どういうつもりだろうな、あれは。どうも判らない。おれはやましくない、と言やしなかったかい。おれのときは言ったけれど――」

「やましくなければ、保釈をねがわないだろう」

 坂田は考え考え、吟味するような口調で言った。坂田とはそんな言い方する男であつた。坂田は私と石狩の共通の友人で、どこかの小役人をつとめていた。

 この時私は脳病院で、この病室は不愉快だから変えてくれと、執拗(しつよう)に水野国手につきまとっていたあの患者を、ふと考えていたのである。あんなに執拗に言っていても、あの患者は常住それを感じているのではなく、医師の顔をみたとき、そんなことを思いついて繰り返しているにすぎないと、水野国手の説明はそうであった。石狩がその類だと思うのではなかった。ただ留置場が石狩にとって不愉快な場であるとしても、保釈で出てきた社会が、彼にとって不愉快な場でないとは、断言できないことである。むしろそれが不愉快な場であることは、彼が身をもって実験ずみの筈であった。

「保釈もあきらめさせるがいいだろうな。薄情のようだけれど」

「そうだな。それも相談してからだろう。おふくろさんも丁度上京したし――」

 今日坂田が石狩と面会していたとき、母親が刑事部屋にたずねてきたというのであった。そしてそこで始めて、石狩の犯罪を知った訳だった。それだけ言うと、坂田は口をつぐんで私を見た。つめたいものが身体を走りぬけるような気がした。

「今日出京してきたという訳だね」

「おふくろさんは眼が見えないということを、君は知ってるか?」

 知っていると私が答えると、坂田はなにか面白くなさそうな表情でうなずいた。

 坂田が帰ったあとで、私は気持がひどくだるい感じがした。退屈感に似たしらじらしさがあった。坂田が私のところに寄ったのは、石狩の伝言があったためだった。私に話したいことがあるから、一度来てくれという伝言であった。その言葉が、坂田だけとの面会中に話されたのか、母親が加わってから話されたのか、言わないままに坂田はかえって行った。母親が来ない前の言葉なら、母親が来たということで、意味がなくなったかも知れないとも考えたが、また新しく私に話したいことが出来たのかも知れなかった。私は石狩にかかわりを持つ自分を、微かにうとむ気分におちながら、また逆に、駆りたてられるような落着かぬ気特にもなった。

 身仕度をし、私は新宿にでて行った。そしてはっきりしない心持のまま、そこらをあるいた。あるきながら眼についた店で、ふくらんだ麺麭(パン)を三個買い求めた。石狩のところに直ぐ面会に行こうと、釣銭を待ちながら、ぼんやり私は考えていた。しかしこの麺麭も、石狩に食べさせようというはっきりした気持ではなかった。街では広告塔のような方向から、流行歌のにごった旋律がながれていた。あの脳病院の帰りに、横町の喫茶店に寄った日を、私はふと思いだした。

 ――脳病院だってあの喫茶店だって、似たようなものさ。

 人混みを縫って駅の方にあるきながら、そんなことを私は思った。その中にいる人たちが、お互に無関心で生きているという相似を、私はあの日も感じていたのであった。無関心で生きているというのも、ひとりひとりが他からは理解されない世界を、ひとつずつ内包しているせいなのだろう。その世界がだんだん歪んできて、この世の掟や約束を守れなくなると、人は脳病院に入ったり、刑務所に入ったりするのだろう。

 警察まで、電車で一時間かかった。警察は広い鋪装路に面した古い建物であった。玄関の脇から入り、逃亡防止の金網塀に沿ってすすむと、狭い廊下のむこうが刑事部屋であった。時刻が夕方であつたから、面会できるかどうかは判らなかった。あのわかい刑事がいれば、取計ってもらえるかも知れなかった。私は廊下に立ち、すこし背伸びして、部屋のなかをのぞいた。薄暗い部屋のなかには七八人の人間がいるらしかったが、眼の慣れない私には、よごれた硝子窓を通して、それはちらちら動く影であった。その影がしだいに私の限界に形をさだめてきて、私は机にむかって椅子にかけた小さな人影をとらえた。それは小さく黒い姿であつた。ある予感が私の胸をついた。

(石狩の母親か?)

 すこし背を曲げて机にむかっていた。そばに立っているのは、あの若い刑事に似ていた。視線をそこに定めたまま、私は身体をすこしずつずらせて、刑事部屋の扉のところまで来た。扉は半開きになっていた。押すとギイと軋(きし)んで、そこらにいる三四人が私の方を見た。椅子のそばに立っているのは、やはりあの刑事であった。

「あ、ちょっと」

 ちらと私の方を見て、手で制するようなしぐさをした。それも無意識でやったような軽いそぶりであった。椅子にはひとりの老女がかけていた。閾(しきい)に立って私はそれを見た。老女の手の指は机の上の白いものに触れていた。顔は半分伏せるようにして、眼のあたりは暗く影に沈んでいた。机上の白いものは、用箋じみた紙であった。横窓から入る夕方のあわい光がそこに落ちていて、紙面には黒い点のようなものが無数にちらばっていた。老女はその上に指をまさぐらせながら、顔をそこに近づけるようにした。

 ――点字電報だ、と私は直覚した。とたんに身体のどこかがばらばらに散らばるような不快な感覚が、私をはしって抜けた。それは石狩の母親にちがいなかった。そしてそれが、石狩の父親からの電報であることがすぐ胸にきた。すると紙の上にちらばった点々が、急におそろしいものとして、私の眼にせまってきた。老女の細い指が、確めるようにそこを動いた。

(このまま、帰ってしまおうか。石狩に会うのはこの次にして――)

 麺麭のつつみを振ったまま、私はそう考えた。ひとつの帰結をこういう形で見ることが、私に堪え難い感じを起させたのであった。ある無残な感じが、凝結してそこにあった。しかしそれは私の罪でもなければ、誰の罪でもなかった。老女の盲(めし)いた横顔から眼をそむけて、私は身体をうしろにずらした。

 

[やぶちゃん後注:「麻痺性痴呆」「進行性麻痺」「進行麻痺」という疾患名もあるが、一般人は「痴呆」にのみ目が行って心因性精神疾患と誤認する傾向があるので、ダイレクトであるが、「脳梅毒」の方が誤解を受けない病名であると私は思っている。脳実質が梅毒トレポネーマ(細菌ドメインのスピロヘータ門 Spirochetesスピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum)に侵されることによって発症する病気。梅毒に罹患してから数年から数十年ほどを経て後、梅毒の第二期及び第三期に出現する梅毒性脳膜炎(例外的に脳脊髄液に病的変化が認められるだけで他の症状を殆んど示さない無症候性神経梅毒もある)。第二期の場合は発熱・意識混濁・譫妄(せんもう:中・軽度の意識障害に加え、幻覚・妄想・運動不安などが加わった精神状態を指す)などの急性脳炎症状が強く出現し、第三期になると、他に性格変成・認知障害などの精神症状が強く現われ、正常な思考が不可能となり、末期は痴呆状態となる。完治は期待出来ない場合が多い。大正六(一九一七)年に野口英世が患者の脳からトレポネーマを発見し、疾患の原因究明に役立ったのみでなく、精神病に対する理解やその疾病分類学に大きく貢献した。進行麻痺は、嘗つては、精神科入院患者の二十%をも占め、統合失調症(後注参照)に次ぐ位置にあったが、梅毒罹患防止対策の進歩とともに患者数が減少し、日本では現在、殆んど発生することがなくなっている(以上は複数の百科事典を参考にして記載した。以下の二つも同様である)。著名人では哲学者のニーチェ、画家のヴァン・ゴッホ、小説家ギ・ド・モーパッサン等が高い確率でそれに罹患していたと考えられている。

「躁欝病」現行でも一般人や医師(患者や家族に判り易いため)もこの病名を現役のように用いているが、これは最早、病名としては古称であって、現在は「双極性障害」(Bipolar disorderと呼ぶ。有意な躁状態の時期と抑鬱状態の時期との病相を循環する精神疾患である。原因は外因性(或いは身体因性)・内因性・心因性(或いは性格環境因性)と多様であるが、一部の発症事例では遺伝的素因の可能性も指摘されている。

「分裂病」現在は「統合失調症」と呼び、「精神分裂病」の呼称は今は廃されており、使用してはならない。本邦では永く、かく呼ばれてきたが、もっとひどい呼称では「早発性痴呆」もかなり命脈を保った。思考・知覚・感情・言語・自己の感覚及び行動に於ける他者との歪みによって特徴づけられる症状を持つ精神疾患名(というか、原因(推定)や症状・病態遷移・器質的変化などによって明らかに異なる疾患の場合があるように見えることから「統合失調症候群」という方が私は正しいと考えている)。一般的には幻聴・幻覚・異常行動などを伴うが、罹患者によって症状は多種多様である。遺伝と環境の両方が関係しているが、現在では遺伝的要因の影響が大きいと考えられているものの、不明で、現代医学の一つの大きな壁とされる。欧米語の「スキゾフレニア」(英語:Schizophrenia/フランス語:Schizophrénie/ドイツ語:Schizophrenie)も元はギリシャ語由来の「schizo(分離した)+ phrenia(精神)」であるが、新称は、古くからの精神科医の本症状の観察の共通項である「思考の途絶」(思考が自分の意志に反して突如絶たれてしまうように感じられること)と「自生思考(じせいしこう)」(相互に無関係な考えが次々と浮かんでくることで思考が全く纏まらなくなったり、自身の意志ではなく、ある考えが自然に浮かんできて、それが異常な連想で以って繋がって拡大してゆく(関係妄想))という病態に基づいた新語として変更されたものである。ウィキの「統合失調症」によれば、本邦では当該疾患への理解が進まず、『患者の家族に対して』も『社会全体からの支援が必要とされておりながら、誤った偏見による患者家族の孤立』『も多く、その偏見を助長するとして』、『患者・家族団体等から、病名に対する苦情が多』くあり、『また、医学的知見からも「精神が分裂」しているのではなく、脳内での情報統合に失敗しているとの見解が現』わ『れ始め、学術的にも分裂との命名が誤りとみなされて』、二〇〇二年の「日本精神神経学会」総会で、『Schizophrenia に対する訳語を統合失調症にするという変更がなされた』とある。

「脳外科手術の器械」本作冒頭では「脳病院」とあり、後の病院内の様子からも判る通り、ここは精神病院であって、脳外科の専門病院ではない。但し、脳外科医はおり、脳外科の術式も行なうから、手術道具はあるということである。従ってここで言う「脳外科手術」というのは、この当時、精神疾患に有効とされた脳に対する外科的外部的術式を行う器具を指していることが判る。さすれば、時代的に見て、その「器械」とは、極めて高い確率で、かのおぞましい呪われたロボトミー(lobotomy:前頭葉白質切断術)の器具がそこにはあった可能性がある。まぶたの下から、単純な細く長いアイスピック状の器具(Orbitoclast当該の英文ウィキの画像)をハンマーで叩いて前頭葉まで打ち込み、それを左右に回すようにして、前頭葉を視床から切り離すという驚くべき粗野にして乱暴な術式である。かつては、統合失調症・双極性障害その他の精神疾患の内の重篤な患者に対して、抜本的な治療法として盛んに実施された。その歴史を辿ると、一九三五年、ポルトガルの神経内科医アントニオ・エガス・モニス(António Caetano de Abreu Freire Egas Moniz 一八七四年~一九五五年)が精神病患者に反復的な思考パターンを引き起こすと思われる神経回路を遮断するため、前頭葉前皮質に高純度のエチルアルコールを注入する手術を行なった。モニスはやがて脳内白質を切断する専用の器具を開発し、前頭前野と視床を繋いでいる神経線維の束を、物理的に切り離した。手術の結果にはばらつきがあったが、当時は興奮・幻覚・暴力・自傷行為などの症状を抑える治療法が他に殆んどなかったことから、この術式が広く行なわれるようになった。一九三六年、アメリカの脳神経科外科医ウォルター・フリーマン(Walter Jackson Freeman II 一八九五年~一九七二年)と同ジェームズ・ワッツ(James Winston Watts 一九〇四 年~一九九四年)が改良を加え、一九四〇年代にはごく短時間で行なえる術式を開発、多くの患者に実施した。ロボトミーを受けた患者の大部分は、緊張・興奮などの症状が軽減したものの、無気力・受動的で、意欲の欠如や集中力の減衰、さらには全般的な感情反応の有意な低下などの症状が多く現われた。しかし、こうした副作用は一九四〇年代には広く報じられず、長期的影響はほぼ問題視されなかった。それどころか、ロボトミーが幅広い成功を収めたという理由から、モニスは一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受賞してさえいる。しかし、一九五〇年代半ば(昭和三十年前後)に入って、精神疾患患者の治療や症状緩和に有効な向精神薬が普及すると、ロボトミーは殆んど行なわれなくなった(ここは主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた」間違えては困るが、これは前に注したロボトミーの手術痕ではない。「電気痙攣療法(Electro Convulsive TherapyECT)を複数回受けたその痕である(ネット上にはこれをロボトミーの手術佷と断定する記載を複数見かけるのであるが、私の認識する限り、この位置から切開したり、器具を挿入する術式を私は知らない。そうだと言う医師がおられれば、是非、御教授頂きたい)。ウィキの「統合失調症」によれば、『薬物療法が確立される以前には』、麻酔なしで行う、過酷な『電気痙攣療法(電気ショック療法)が多く用いられてきた。これは左右の額の部分から』百ボルト『の電圧、パルス電流を脳に』一~三『秒間』、『通電』することで、痙攣を『人工的に引き起こすものである』。『電気』痙攣『療法の有効性は確立されている』『が、一方で』、『有効性の皆無も臨床実験で報告されて』も『いる』。また、嘗つて電気痙攣療法が『「患者の懲罰」に使用されていたこともあり』(私は昭和四五(一九七〇)年の新聞連載記事(私は中学二年)で、その当時でも、この電気ショックによるサディズム的傷害懲罰行為が行われていた事実があったことを読んで、激しい憤りを覚えたのを忘れない。恐らく、その当時の切抜きは今も書庫の底に眠っているはずである)、『実施の際』、『患者が』痙攣『を起こす様子が残虐であると批判されている』。『稀に電気』痙攣『療法が脊椎骨折等の危険性があるため、現在では麻酔を併用した「無痙攣電気』痙攣療法」(修正型(modified)電気痙攣療法:mECT)が『主流である。しかし、副作用や無痙攣電気』痙攣『療法の実施の際には、麻酔科医との協力が必要であることなどからして、実質的に大規模な病院でしか実施できない。現在では、この治療法は主力の座を薬物療法にその座を譲ったものの、急性期の興奮状態の際などに行われることもある』。『NICE』(イギリス国立医療技術評価機構)『は「現在の根拠では、ECTを統合失調症の一般的管理としては推奨することはできない」として』、『ECTは全ての治療選択肢が失敗したか、または差し迫った生命危機の状況のみに使われるべきであるとしている』とある。]

2019/04/14

梅崎春生 ルネタの市民兵 (サイト版公開)

最近、梅崎春生のテクスト化を無沙汰していたので、「ルネタの市民兵」を電子化しようかと、ネットに先行するそれがないことを確認していたところ、ふと、『梅崎春生「ルネタの市民兵」―〈川俳会〉ブログ』というのが気になって開いて見たところが、コメント欄に『既に電子化されている主要作品以外も、早く電子化して欲しいものです』。『下の個人サイトでも、この作品はまだ電子化されていないようですし……』とあって、その下にはなんと私のブログ・カテゴリ「梅崎春生」がリンクされているのであった。

これは……「意気に感ず」と言わずんばなるまい!

さても本未明から今までかけて、電子化した。当初はブログでの分割電子化を考えていたが、それでは上記の御仁の御希望に応えるには失礼と存じ、久しぶりにサイト版ルビ附きで作成した。 以下である。

梅崎春生「ルネタの市民兵」

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