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カテゴリー「梅崎春生」の235件の記事

2018/01/16

ブログ・アクセス1050000突破記念 梅崎春生 葬式饅頭

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月号『新潮』に発表された。

 底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 「勝味」は「かちみ」で勝ち目と同じ。

 「金壺眼」とは落ちくぼんでいて丸い目のこと。

 「ワクドウ」ネットの天草方言集の中に()、ポルトガル語“wakudo”由来で、「蝦蟇(がま)」「蟇蛙(ひきがえる)」(そういえば、そこに記載されている英語の“toad”も発音が似ているように思える)の意とある。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1050000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年1月16日 藪野直史】]

 

 

   葬式饅頭

 

 寺内孝治の席が、二日前から空席になっていた。三日目の朝早く、僕が学校に行くと、校門のそばのポプラの木のかげから熊手伍一がぬっと出て来て、僕を呼びとめた。偶然にそこにいたのではなく、僕を待伏せして、ポプラのかげにかくれていたのらしい。

「おい。お前。知ってるか」

「な、なにをだい?」

 熊手に対すると、どうも僕の声はどもり勝ちになる。いじめられまいとして、虚勢を張るせいだ。

「何かあったのか」

「ワクドウが死んだぞ」

「ワクドゥが? ま、またウソをつく!」

 伍一はよくウソをつく癖があって、ウソツキ伍一と言うあだ名がついていた。ことに伍一は僕みたいな体力の弱い者にウソをつき、きりきり舞いをさせて、それを見て楽しむような傾向があった。強い者相手にウソをつくと、報復されるおそれがあるからだ。僕は強(し)いて落着き、わざとにやりと笑って言い返した。

「そうそうだまされてばかりはいないぞ」

「なに。おれがウソをついてるとでも言うのか」

白眼を剝(む)き出すようにして、伍一は詰め寄って来た。見るともう両掌が拳固になっている。僕は逃げ腰になった。向うは身軽だが、こちらはカバンを肩から下げているので、格闘になっても勝味はない。カバンを下げていなくても、先ず先ず勝味はないのだが。

「友達が死んだと言うのに、笑ってもいいのか」

「笑ってやしない」

 飛びかかって来る気配を見せたので、僕はカバンを押え、横っ飛びに飛んで逃げた。力は弱いけれど、脚は僕の方が早い。伍一はとても遅い。運動会の徒競走でも、伍一はいつもビリだ。がに股だから、がたがたして、速く走れないのだ。伍一のお父さんは石屋で、石屋と言っても石塔専門の石屋で、やはりがに股だった。伍一のがに股はお父さんに似たのだろう。

 伍一は僕を追っかけてがたがたと走ったが、途中で走るのを止め、大声で怒鳴った。

「あとからひどい目に合わせてやるからな。覚悟しておれよ」

 その日はまだ五月だと言うのに、むんむんとしてむし暑い日だった。どろりと空気が淀んでいて、校庭の木の葉はそよともそよがなかった。やがて中庭の鐘がカーンカーンと鳴り、授業の一時間目が始まった。それなのに僕らの組担任の富岡先生は、なかなか教室にやって来なかった。だから皆は騒ぎ始めた。十分間ぐらいたって、扉をがたがたと引きあけ、詰襟服を着た富岡先生が、出欠簿をきちんと脇にかかえ、ぬっと姿をあらわしたから、ぴたりとがやがや騒ぎはしずまった。富岡先生が教壇に上ったので、僕は大声で号令をかけた。

「いち。礼。に」

 いち、と言うのは、起立と言うこと。に、とは、着席のことだ。何故僕が叫ぶかと言えば、その時僕は級長だったのだ。

「今日は皆さんに悲しいお知らせをする」

 いつもなら直ぐ出欠薄を開くのに、今日は先生はそうしなかった。詰襟のカラーに指を突込み、いかにも暑そうに、それを拡げる恰好をした。

「寺内孝治君が昨夜、なくなられた」

 カラーに指を突込んだまま、先生は金壺眼(かなつぼまなこ)で皆をぐるぐると見回した。引込んだ下瞼にも、鼻の頭や顎(あご)などにも、先生はぶつぶつと汗をかいていた。出欠簿を机の上に置き、それを開いた。

「病気は盲腸炎だ。皆も用心せんけりゃならん」

 カラーから指を引抜き、先生はうつむいて出席を取り始めた。その隙(すき)に乗じて、前方の席の伍一がふり向き、僕に向って憎々しげにアカンベーをして見せた。僕は知らんふりをしていた。級長ともあろうものが、アカンベーなんかに応じるわけには行かない。

(やはりワクドゥは死んだんだな。ウソじゃなかったんだな)と僕は考えた。(伍一の親父ほ石塔屋だから、ワクドウの親父が石塔を注文に行ったんだろう。だから伍一がそれを知ったのだ)

 寺内孝治の家は魚屋で、ちょっと顔がヒキガエルに似ていて、だからワクドウと言うあだ名がついていた。僕らの地方では、ヒキガエルのことをワクドウと呼ぶのだ。ワクドウは組中で一番背が低く、いつも筒袖の着物で学校に通って来た。その筒袖の着物は、いつもぷんぷんと魚のにおいがした。寺内魚屋で製造するシべツキカマボコはうまかった。店の一番奥に掘抜井戸があり、そこらの薄晴い場所に石臼(うす)が据(す)えられ、石臼の中の魚肉を機械仕組の鉄棒が、ぐっしゃ、ぐっしゃ、とこね回す。これがこね上ると、千切って形をととのえ、ワラシべをまぶし、そのまま一箇十銭のカマボコになるのだ。もうこれからは、寺内魚屋に孝治を誘い出しに行っても、井戸と石臼の間から孝治の姿は出て来ないのだ。そして孝治も、出来上ったカマボコを聯隊(れんたい)に納めに行かなくても済むし、納めに行きたくとももう行けないのだ、と思った時、急に頭の奥が熱くなって、僕は汗を拭くふりをしながら、瞼の上から眼玉を押えていた。その時先生が僕の名を呼んだ。元気よく返事したつもりで、僕の声は甲高くかすれたらしい。先生は出欠薄から眼を上げ、不審げな視線を僕に向けた。僕は恥じて、うつむいた。

 

 しかしワクドウの死は、それほどショックを僕ら級友に与えはしなかった。ワクドウはそれほど級では派手な存在ではなかったからだ。地味で、目立たず、それに勉強もあまり出来なかった。だから僕らは午前中、いつもと余り変らぬ気持で、授業を受けた。

 お昼になった。気温はじりじりと上って、ひどく暑くなった。弁当を開くと、おかずにカマボコが入っていた。お母さんがそのカマボコをどこで買って来たのか知らない。(孝治は昨夜死んだ筈だから)僕はカマボコを嚙みながら思った。(寺内魚屋でカマボコをつくる筈がない。これは他の店のカマボコだろう。だからうまくない)

 昼飯が済むと、僕は教員室に呼ばれた。教員室はいつも煙草のにおいがこもっている。今日放課後、先生と一緒に葬式に行くから、帰らずに待っているように、とのことだった。僕はお辞儀をして、教員室を出た。葬式に行くのはこれが初めてで、葬式に行ってどういうことをするのか、ただじっとしておればいいのか、そこのところがよく判らなかった。判らないままお辞儀をしてしまったのだ。教員室を出て、咽喉が乾いたから、水道の蛇口からがぶがぶと水を飲んでいると、隣の蛇口に熊手伍一がやって来て、同じく水をごくごくと飲み始めた。こんなに暑いと、誰だって咽喉が乾く。

「おい。お前」

 飲み終ると伍一は僕に呼びかけた。

「葬式に行くんだろ。ワクドウの葬式に」

「どうして?」

「お前、今、教員室から出て来たじゃないか」

 ふしぎなことだが、伍一の顔は一瞬おどおどと、不安そうな色を浮べているようだった。でもこれは僕の勘違いで、あまり暑かったからそう見えたのかも知れない。

「先生に呼ばれたんだろ」

「そうだよ」

「葬式に行けと言われたんか」

「まだ判らんよ」

 朝からずっとつきまとっているようで、変にうるさい感じがしたから、僕はつっぱねた。

「じゃ、教員室で、何の話をしたんだい?」

「うるさいなあ。何の話だっていいじゃないか」

「ほら。やっぱり葬式だな」

 伍一は僕の腕を摑(つか)んで、ねつっこい調子でくり返した。

「葬式だ。やっぱり葬式だ。な、お前、葬式に行くんだな」

「そんなに行きたけりゃ――」

 僕は腹を立てて怒鳴った。

「お前も行けばいいじゃないか」

「誰があんなとこに行くものかい」

 伍一は僕の腕をぎゅっとねじ上げた。

「あんな線香くさいとこ、誰が行きたがるもんか」

「行きたくなけりゃ、放っとけばいいじゃないか」

 僕は伍一の手を力をこめて振り払った。

「あんまりしつこくすると、先生に言いつけてやるぞ!」

 只今教員室から出て来たばかりだから、僕のその言葉には実感があったらしい。何時もと違って、伍一は僕に飛びかからず、口惜しげに唇を嚙み、僕をにらむだけだった。その伍一を尻眼にかけて、僕は教室の方に歩いた。

 

 葬式はひどく退屈だった。

 僕は富岡先生と並んで、ござをしいた板の間に坐らせられた。ござの上には、ぎっしりと人が坐っていた。お経は長いこと続いた。永久に続くのかと思われるほど、いつまでも続いた。学校の読方の本なら、大体終りの見当がつくが、お経となるとそうは行かない。僕の前には大人が坐っているから、和尚さんの姿は見えない。だからなおのこと退屈だった。

 退屈だけならいいけれど、足が痛くてつらかった。ござがしいてあっても、もともと板の間だから、板の堅さがごりごりと脛(すね)に当る。葬式だから、あぐらをかくわけには行かない。ちゃんと正座して、膝に手を置いていなければならない。

 隣の富岡先生をぬすみ見ると、先生も青黒い顔を緊張させて、たいへんつらそうだった。子供より大人の方が、体重があるから、その分だけつらいだろう。板の間にぎっしりつまった人々の、身じろぎする度にごりごりと鳴る脛骨の音が、お経の間(あい)の手のように、あちこちで鳴った。

 つらいのは足の痛さだけでなかった。板の間は風通しが悪く、暑さがむんむんとこもり、汗がひっきりなしにしたたり落ちた。大人と違って、ハンカチなんて気の利(き)いたものを、僕は持っていない。掌で拭くより仕方がない。掌が濡れて来たら、あとは上衣の袖口だけだ。汗は拭いても拭いても吹き出した。一番噴出量の多いところは、鼻の両脇とおでこだった。おでこの汗は、油断をすると、玉になって、眼にするりと流れ入った。流れ入ると、眼玉がやけに塩辛かった。塩辛いから、それを薄めるために涙が出る。辛いから涙が出るのか、悲しいから涙が出るのか、よく判らないような気分になり始めた頃から、僕は何となく悲しくなって来たらしい。

(ワクドウよ。死んだお前もつらかろうが、生き残ったおれたちもラクではないぞ)

 気分をごまかすために、僕はそんなことを考えた。

(しかし、お前はまあいいよ。ごりごりの板の間に坐らずにすむし、もう勉強なんかしなくてもいいし、伍一などにもいじめられないし)

 実際ワクドウも、伍一からはよくいじめられた。ワクドウは顔に似ず力は弱いし、勉強は出来ないし、誰だってちょっといじめたくなるような感じの子だった。しかしワクドウは泣き虫じゃなかった。いくらいじめられても、泣かなかった。だから、なおのこといじめられるのだ。泣いてしまえば、いじめは終るので、それではいじめ甲斐がない(お前が死んだんで、いじめ相手が一人減って、伍一もきっと淋しがってるぞ)

 永々と果てしなく続いていたお経が、突然と言った感じで、ふっと終った。樹にとまって啼(な)いていたセミが、とらえてやろうと樹に近づくと、ふっと啼きやめて飛んで行く。それに似ていた。お経が終ると、あたりがちょっとざわめいて、安堵のあまりに汗がひとしきりどっと吹き出した。

 

 ワクドウは白茶けたような顔で、棺の中で死んでいた。閉じた瞼は、青みを帯びていた。僕は先生と並んで棺の前に坐り、先生がする通り頭を下げた。頭を畳にこすりつけた。すりつけたまま先生が頭を上げないので、頭をずらすようにして横眼でうかがうと、先生は突然、ううっ、と言うような声を立てた。そして先生は急いで頭を上げ、右腕を眼に当て、肩をがくがくと上下に動かした。

 先生が泣いているんだと、僕はその時初めて判った。

 先生が泣いてるのに、生徒の僕が泣かないなんて、ちょっと具合が悪いと思ったが、そう思ったせいで、もう涙が出なくなってしまった。眼をばちばちさせて催促したが、どうしても出て来なかった。余儀なく出来るだけ神妙な顔となり、ワクドウの顔ばかりを眺めていた。ワクドウの全身は白布でおおわれ、出ているのは顔だけだった。その顔だけをにらんでいることは、悲しいと言うよりも、苦痛だった。

 早く棺から離れたいと思うのに、先生はまだ泣きやまない。

 

 ずしりと重い紙袋を呉れた。

 それを持って表に出ると、もう夕方になっていた。十間ばかり歩いて、紙袋の中をのぞくと、饅頭が二つ入っている。祝日に学校で貰う饅頭より一回り大きく、平べったかった。色も紅白でなく、表に茶色の焦げ目がつき、葉っぱのような模様が浮き出ていた。僕は唾を呑んだ。夕方だから腹が減っていたのだ。

 いくら腹が減っているとは言え、また人通りが少いとは言え、街中でむしゃむしゃと食えない。葬式の帰りだし、級長がそんな行儀の悪いことは出来ない。

 カバンにしまい込もうかと思ったが、カバンは教科書や筆入れで満員で、入りきれない。

 仕方なくぶらぶらと下げてあるいた。

 ずんずん歩いて、静かな寺町に入ると、うすら夕日の射す道端で、ウソツキ伍一がひとりで淋しそうに、石蹴りをして遊んでいた。ここで伍一なんかに会うのはまずい。別の道に変えようか、と立ち止ったとたん、僕は伍一に見つけられてしまった。伍一は石蹴りを中止し、長い長い影を引きずって、僕の方に大急ぎでかけて来た。砂ぼこりがばたばたと立った。

「葬式、済んだのか」

 つぶつぶ汗の吹き出した顔の、下唇を突き出すようにして、伍一は言った。

「面白かったか」

「面白いわけがあるもんか」

 脛の痛さを思い出して、僕はとげとげしく言い返した。

「お前、待ってたのか」

「何をだ」

「おれをだよ。待伏せしていたのか」

「誰がお前なんかを待伏せするもんかい」

 道にころがった小石を、伍一は溝の方にえいとばかり蹴飛ばした。

「おや。それは何だい」

「何でもないよ」

 紙袋をうしろに僕はかくすようにした。

「貰ったんだよ。饅頭だ」

「なに。饅頭だあ?」

 伍一は僕のカバンの紐をしっかと握った。逃げ出さないためにだ。

「見せろ」

「イヤだ」

 僕はふりほどこうとしたが、伍一の握力が強かったので、失敗に終った。だから仕方なく言った。ここらで手間取ると、帰りが遅くなる。

「では、見せるだけだよ」

 僕は紙袋を出した。伍一は眼を丸くしてのぞき込み、さっきの僕と同じように、ごくりと唾を呑み込んだ。

「すごく大きいなあ。この饅頭は」

「大きいにきまってるよ。葬式饅頭だもん」

 僕は知ったかぶりをした。葬式なんて初めてだから、饅頭の大きさなんか知っているわけがない。

「小さけりゃおかしいよ」

「二つもあるじゃないか」

「あたりまえだ。葬式饅頭だもの」

「二つとも、お前が食べるのか」

 伍一は上目遣いで、じろりと僕を見た。

「二つなんて、ぜいたくだ。一つ、おれに呉れ」

「イヤだよ。おれが貰ったんだから」

「だから、呉れと言ってるんじゃないか」

 要求を拒まれると、むきになってしつこくなる癖が、伍一にはある。

「おれだって、ワクドウの友達だ」

「しかし葬式には行かなかったじゃないか」

「行かなかったから、頼んでるんじゃないか」

 カバンの紐ごと、伍一は僕の身体をがくがくとゆすぶった。

「どうしてもイヤだと言うのか」

「どうしてもイヤだ」

「なに。こんなに頼んでも、イヤだと言うか」

 伍一はいきなり紙袋をひったくろうとした。僕はそうさせまいとした。紙袋が四つの手の間でもつれ、饅頭がころころと空間に飛び出した。あわてて受止めようとしたが、遅かった。饅頭はぼとぼとっと続いて地面に落ち、砂ぼこりの中にころがった。

「あ!」

 伍一もびっくりしたらしい。烏の囁くような声を立てると、そのまま後しざりした。僕と饅頭を七三に見ながら、どもった。

「お、おれのせいじゃないぞ。おれのせいじゃないぞう」

 そのままくるりと背を向けて、伍一はがに股をすっ飛ばして逃げて行った。

 僕は全身汗だらけになって、饅頭を見おろしていた。途方もなく大切なものをこわしたような気分で見おろしていた。どうしたらいいのか。

(拾ってうちへ持って帰って、割って中の饀(あん)だけ食べようか)

  そう考えた次の瞬間、僕はひどく腹が立って、何やかやに対してむちゃくちゃに腹が立って来て、エイ、エイ、とかけ声をかけて、饅頭を次々に溝の中に蹴り込んだ。蹴り込む足の先が、しびれるような気がした。

 

 家に戻ると、帰りの遅いのを心配して、門のところにお婆さんが立って待っていた。僕は孝治の葬式の話をした。お婆さんが聞いた。

「何も貰わなかったのかい」

「いいえ」

 僕はウソをついた。

「何も貰わなかったよ」

「ほんとかね」

 お婆さんはきつい眼をした。僕はうなずいた。葬式饅頭を貰って、途中で食べてしまったのではないか、とお婆さんは疑っているのだ。その証拠にお婆さんは、晩の食事で僕が平常通り食べるかどうか(葬式饅頭を食えば、夕食の量は減るだろう)眼を光らしているようだった。

 そのお婆さんの気持は了解出来るが、どうしてあの伍一が一日中、ワクドウの葬式にばかりこだわっていたかは、今もって判らない。

 

 

2017/12/26

ブログ1040000アクセス突破記念  阪東医師 梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年八月号『新潮』初出。既刊本未収録作。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 本篇は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1040000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年12月26日藪野直史】]

 

 

 阪東医師

 

 僕はたいへん身体が弱かった。

 小学校の通信簿の、甲乙丙を書き込む欄の外に、その学期の学課、操行、出席という欄があって、それぞれの成績が良ければ、ホタル型の印を先生がべたりと押して呉れる。僕の通信簿においては、その「出席」の欄は、いつも空白だった。ホタル印が押してあるためしがなかった。つまり僕は、ただひとつの学期でも、皆勤ということを一度もしなかったことになる。もちろんその欠席も、ズル休みではなく、ほんものの病気休みだった。ズル休みなんか、僕に出来るわけがない。うちにはとても厳しいお婆さんがいて、ズル休みなどをしようもんなら、鉄火箸でもって尻をぴしぴし打たれるにきまっていた。

 そんな具合に僕は、しょっちゅうと言っていい程、次から次へ病気にかかっていた。風邪ひきや腹痛などの初歩的なやつから、扁桃腺や気管支カタル、盲腸炎や腎臓炎などの中級的高級的なもの。ボウコウ炎なんて言う妙なのにもかかったことがある。これは結石で、石が二つ三つ出た。何だか知らないが、顔じゅうがカサブタだらけになって、お天気の日にも洋傘をさし、お母さんにつれられて病院通いをしたこともある。人目を忍ぶという気分を、僕はその時生れて初めて味わった。その期間中、お母さんはしょっちゅう僕に言い聞かせた。

「痺(かゆ)いからと言って、かいてはだめだよ。あとになって残るよ」

 あの病気は、一体何だったんだろう。言いつけをよく守ったおかげで、その痕跡は今の僕の顔には残っていないのだが。

 病気にかかると、お医者さんが来る。

 うちのかかりつけは、阪東先生と言って、うちから三町ばかり離れた小さな医院だった。古ぼけた建物で、黄昏(たそがれ)時になるとその『阪東医院』と書いた軒燈に、蝙蝠(こうもり)が二三匹ひらひらと飛んでいたりした。

 その頃阪東先生は何歳ぐらいだったか、僕にはよく判らなかった。大人(おとな)は大人と言うだけで、その年齢がいくつぐらいか、僕たち子供らにはあまり興味のないことなのだ。三十であろうと、五十であろうと、大人は大人にかわりはない。爺さんは別だ。阪東先生はとにかく爺さんではなかったようだ。すこし猫背の、顔色はあまりよくない、低い声でものを言う先生だった。僕が寝ている部屋に入って来る時でも、猫のような歩き方で、足音をほとんど立てない。しかし足音がしなくても、先生が来たなということが、寝ている僕にはすぐに判った。先生には先生のにおいがあったからだ。あの薬局に入った時と同じにおいが、先生の身体や洋服にしみついていた。

 夜中に僕が病気になって、先生がやって来る時には、別のにおいがした。それは酒屋の前を通る時と同じにおいだった。先生が低い声でものを言うたびに、お酒のにおいが僕の鼻のあたりにただよった。昼間の阪東先生は、なにか孤独で淋しそうだったけれども、夜の先生はそうでもなかった。僕は昼間の阪東先生の方が好きだった。たとえば腹痛なんかの時、昼間の先生だったら遠慮がちに、痛む箇所をやわやわと押えるが、夜の先生はいくらか乱暴だったからだ。

 しかし、お医者さんのやり方は、どうしてあんなに千編一律なんだろう。脈を見る。舌を出させる。検温器をはさむ。聴診器で胸のあちこち、つづいて身体を裏返して背中のあちこち。打診がやはり裏表。下痢の時でも、頭痛の時でも、おできの時でも、この行事に変りはない。よくお医者さんはあれで退屈しないものだと思う。病人の僕の方がもう退屈していると言うのに。

 診察が終ると、先生は病名を低い声で告げる。時にはそのあとでつけ加える。

「もっと栄養をとるように。ふだんの栄養が大切ですぞ。では後ほど、お薬をとりに来て下さい」

 小さな紙にさらさらと処方をしたためて、封をする。それを枕もとに置いて、音もなく立ち上る。猫のように病室を出て行く。出て行ったあとでも、先生のにおいはしばらくそこらに残っている。

 お薬はたいていの場合、散薬と水薬の二つにきまっていた。どちらも僕の舌には不味く、のみにくかった。それをのませるのがお婆さんの役目になっていた。

「そら。ミツグスリの時間だよ。早くのみなさい」

 僕のお婆さんは水薬のことを、ミツグスリと発音した。お婆さんの生れた地方、育った地方では、ズとヅの発音をはっきりと区別していて、だからミヅグスリと発音するのだそうだが、僕の耳にはミツグスリとしか聞えないのだ。ミツグスリは蜜薬のように響いて、とても甘そうに感じられるが、実際のんでみると全然甘くなく、ひどくにがかったり、いやなにおいがするのが常だった。はき出したくても、お婆さんがにらみつけているから、はき出すわけには行かない。

「そのミツグスリはよく効くんだよ。それをのんで、早く直って、肥りなさい」

 お婆さんの言葉は、正確にはこうでなくて、もっとひどく訛(なま)っているのだが、そのお婆さんの言い方を、今の僕は再現出来ない。

 僕はいつも瘦せていた。かまきりみたいに瘦せていた。かけっこは一番ビリだったし、体操の時間がもっともにが手だった。皆が飛びついてぶら下る平行棒に、僕だけが飛びつけず、小野道風の蛙みたいに、何度も何度も飛び上っていたりした。体操の時間になると、僕の自尊心はささらのようにささくれて、当分は元に戻らなかった。

 僕の栄養不良の原因は、僕の食生活に因していたと思う。その頃のうちの食生活はお婆さんが中心で、うちのお父さんやお母さんはたいへん親孝行、姑孝行だったのだろう。一家そろって脂肪やタンパク質の乏しい老人食をとっていた。

 朝は茶粥(ちゃがゆ)、やわらかな茶粥で、味噌汁はつかない。お婆さんの出生地のしきたりで、だからうちでもそれが守られているわけだ。おかずはタカ菜の古漬。うちのタカ菜の古漬はうまいと、来る客々がほめるのだが、お世辞にちがいないと僕は心に決めていた。あんなへんなにおいのする漬物が、うまくってたまるものか。

 昼が問題だった。僕の通っていた小学校は妙な小学校で、級友同士でおかずを牽制し合う。つまり倹約する方にだ。先生もそれを黙認、あるいは奨励しているような気配すらあった。ドンが鳴って授業が終る。弁当の時間になる。弁当の蓋(ふた)を取りながら、周囲の友達の弁当に横眼を使う。ふり返る。あるいは立って見に行く。

「今日はあいつのはカマボコだ。ゼイタクだ」

「ゼイタクだぞ」

「ゼイタクだぞ」

 ゼイタクだとはやされた男は、恥辱で顔がまっかになり、蓋でかくすようにして、こそこそと弁当を食べる。カマボコがゼイタクと目されるくらいだから、余は推して知るべしで、大休標準のおかずは梅干一箇、またはタクアンの二三片、ということになっていた。僕だってゼイタクゼイタクと、皆からはやし立てられるのはいやなので、朝おかずの点検して、それがゼイタクおかずだったら、必死になってお母さんにだだをこねる。

「へんな子だねえ。この子は」

 お母さんは呆れて言う。

「梅干なんかより、これの方がおいしいんだよ。それに栄養もあるし」

 しかし、僕が頑としてうまさと栄養を拒否するので、お母さんも渋々梅干かタクアンに取り換える。

 夜は夜で、淡味な老人食。お魚はあまり脂肪のない白身を、焼いたり煮たり。肉であることもまれにはあったが、子供の時の僕の町の肉は、固くて固くて嚙み切れなかった。だから僕たちは、肉というものは固いものと決めていた。嚙み切れなくて、最後にははき出すものと決めていた。牛肉も豚肉も鶏肉も、おしなべて固かった。僕らの丈夫な歯でも固かったのだから、お婆さんにとっては、もっともっと固かったに違いない。肉類がうちの食膳にあまり姿をあらわさなかったのは、そのせいだろう。

 僕らの町の肉屋が売っていたのは、田圃でこきつかった揚句の牛や、卵を産まなくなった老鶏の肉だったと今にして思う。それでなければあんなに固かった筈がない。

 トーガン。僕はこの植物が大嫌いだった。ところが因果なことに、お婆さんがこれを大好きだった。お婆さんが好む食物は、おおむね僕の嫌いなものだった。カボチャ。ニンジン。ネギ。ネギの青い部分を、醤油でべちゃべちゃ煮たのなど、僕は見るだけで食欲を喪失した。

 

 あまりたびたび病気をするものだから、阪東先生は僕の身休のからくり、傾向、その他のすべてを知り尽していたと思う。カメラだって、自分の物にして、長いこと使用していれば、くせが全部わかって来る。それと同じような具合にだ。

 ところが一度だけ、阪東先生にも理解し難い症状が、僕の身体におこったことがある。

 それは先ず風邪ひきのような恰好だった。水洟(みずばな)やせきが出て、それから熱が出た。二三日そういう症状が続いた。阪東先生は毎日々々、午後になるとやって来た。型通りの診察をして、水薬と散薬を呉れる。いつもの風邪ならば、三日も経てばなおるのに、この時は熱がすこしも下らなかった。咽喉(のど)のへんが重苦しくて、ぼったりふくれて来るような気がする。実際にふくれていたのだ。

 四日目、僕の脇の下から検温器を引っこ抜き、阪東先生は首をかたむけて目盛りを読んだ。それから少し青いような眼付きになって僕を見おろし、聴診器をごそごそと鞄から振り出した。いつもより丁寧に、時間をかけて、僕の身体を診察した。道具を全部鞄にしまうと、手を伸ばして僕の咽喉に触れた。そこらをごろごろとまさぐった。

「痛いか?」

「痛くはない。重苦しい」

 すると阪東先生は手を放し、しばらく宙をにらんでいたが、やがてさらさらと処方箋を書きつけ、つきそっていたお婆さんに渡しながら言った。

「薬をかえて見ましょう」

 薬がかわったけれども、熱は下らなかった。水洟やせきは治まったが、熱だけはむしろじりじりと上昇して行く傾向があった。それと同時に、咽喉全体がぼたぼたと腫(は)れ上って来た。

 どうして腫れて来るのか、もちろん僕には判らなかったし、お父さんやお母さんにも判らなかったが、阪東先生自身にも全く見当がつかなかったらしい。先生の診察態度には一層の真剣味と共に、一層の困惑ぶりが加わって来たようだった。腫れた僕の咽喉をさわる時、先生の指はぶるぶるとふるえた。おろおろ声で先生は訊ねる。

「痛いか?」

「痛くはない」

 僕は熱にあえぎながら答える。

「なんだか重苦しい」

 咽喉の腫れは増大する一方だった。来るたびに期待を裏切って増大するものだから、先生の態度は目立って自信がなくなり、また信じがたい怪物を見るような眼付きで、僕の咽喉をにらみつけたりした。そういうにらみ方をされると、僕は一層胸苦しくなり、また泣き出したいような気特になった。死ぬのかも知れないな、と考えた。

 ついに一遇間目に僕の咽喉は、顎(あご)と同じ高さになった。あおむけに寝ていると、顎から段落がなくのっぺらぼうに咽喉となり、そのまま胸につづいている形となった。毎日氷で冷やしているので、咽喉には感覚がなく、ぼったりと無限に重い感じだけがあった。変形した僕の咽喉を、お父さんはいたましげに眺めていたが、しばらくしてお母さんを呼び寄せて言った。

「これはただごとでない。大学の先生にいっぺん診て貰おう」

 それをどういう具合に阪東先生に話したのか、僕は居合わせなかったから知らない。とにかく立合診察ということになった。

 大学教授は人力車に乗ってやって来た。八字髭(ひげ)を生やして、鷲(わし)のような眼を持った瘦せたひとだった。時刻は夕方だったので、僕の寝ている部屋は薄暗かった。入って来るなり教授は重々しい声で言った。

「電燈をつけなさい」

一時間ほど前からきちんと坐って待っていた阪東先生は、バネがかかったようにぴょんと立ち上り、電燈のスイッチをひねった。

 その阪東先生に眼もくれず、教授は僕の蒲団を引き剝(は)ぎ、非常にかんたんな診察をした。最後に僕の咽喉をさわりながら、怒鳴るように言った。

「すぐ入院だ。すぐ手術しなければ、生命にかかわる!」

 そして教授はぐいと阪東先生をにらみつけた。

「今までどんな治療をしたのか。生命というものは、大切なものだぞ。これまでどうして放っといた?」

「はい」

 阪東先生は肩をすくめて、ひと回り小さくなった。口をもごもごと動かしただけで、はっきりした説明はしなかった。教授は今度はつけつけした声でお母さんに言った。

「早く入院の用意をしなさい。放っといたら、大変なことになりますぞ」

 お母さんは顔色をかえて、僕を病院に運ぶための人力車を呼びに行った。教授はすっくと立ち上ると、足音を立てて部屋を出て行った。教授が僕の部屋にいたのは、五分間ぐらいだったと思う。

 阪東先生はひと回り小さくなった姿勢のまま、じっとしていた。じっと畳をにらんでいた。やがて人力車が来て、僕が運び出される時も、そのままの姿勢で動かなかった。陶器か金物のように動かなかった。よほど口惜しかったんだろうと思う。
 

2017/12/06

ブログ1030000アクセス突破記念 時任爺さん 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月発行の「別冊文藝春秋」初出。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 第二段落の「訳あい」は「訳合(わけあ)い」で「理由・事情・道理」の意。

 「ヒネタクアン」は捻ねこびた、やせ細った大根を用いた沢庵のことであろう。

 「稲田堤」は神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場する地名である。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作桜島(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版は)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。

 「代用醬油」ウィキの「代用醤油によれば、『第二次世界大戦前後、日本では物資の不足のため、本来の醤油醸造に必要な原料である大豆や小麦の入手が困難となり、醤油の生産量が低下した。さらに戦後、醤油は配給品となり、流通量が不足することとなった。参議院において』『「加工水産物、蔬菜、味噌、醤油等についてもその配給量を増加し得るような方策を講じ」と、増産と流通統制が提案されているように、食糧不足の中でもさらに重要な問題として扱われていた。しかし普通の醤油は、原料の問題のみならず』、『醸造のために大規模な設備と長期間の醸造期間を必要とし、短期間での増産はできない。そのため代用品として、醤油粕を塩水で戻し、さらに絞ったものを用いたり、魚介類やサツマイモの絞り汁、海草などを原料として用い、カラメルや、前述の醤油粕の絞り汁等で風味を調整したものを用いることがあった』。『これを代用醤油と呼ぶ』。『醤油の味と香りに似せるためには、うまみと香りを得る必要があり、物資不足の際は入手可能な様々なもの』『を原料としている。その際は動植物を問わず生産の原料とされ、研究対象としては、人間の廃毛髪を原料としたものも検討された』とあり、他の多くの記載でも人の髪の毛からの醤油製造は実用化されなかったとし、二〇〇四年に中国国内で人の毛髪で醬油を作っている業者の話がすっぱ抜かれた時も、おぞましい感じで私の友人らはその記事の話していたが、現に私が二十代の頃に理髪して貰っていた理容師は、昭和三十年代の小僧さん時代、店の毛髪を多量に買って行く業者がいたので、「何にするの?」と訊いたら、「醬油を作るんじゃ。」と答えたと私に語って呉れた。日本でも非合法に裏で人の毛髪で醬油は造られていたし、その醬油を知らずに使っていたのだと私は信じて疑わない。その製法は毛屑を十%の塩酸の中に入れて二十四時間ほど煮沸した後、濾過して苛性ソーダで中和させるのだそうである(ウィキの「人毛醤油に拠る)。そうしてまた、別にそうして作った醬油を私は「おぞましい」とは思わない人間である。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1030000アクセスを突破した記念として公開した。【2017年12月6日 藪野直史】]

 

   時任爺さん

 

 昭和二十一年の四月十日夜、僕は時任(ときとう)爺さんと喧嘩をした。

 どういういきさつだったからか、もうはっきりは覚えていないけれど、僕が買ってきた朝鮮濁酒(どぶろく)を二人して飲んでいるうちに、話が戦争の話になり、僕が戦争の悪口をさんざん言っている中に、時任爺さんがしだいに怒り出してきたのだ。どんな気持で怒り出したのかよく判らない。

「戦争に負けてよかっただなんて、あんたそんなことを言ってもいいのかい」

 言っていいにも悪いにも、真実そう思っているのだから仕方がない。承服出来る訳あいのものでない。だから僕は前言を取消さず、ますます言いつのる。今思うと、相手は爺さんだから、手加減すればよかったのに、生憎(あいにく)僕の身体には、濁酒の酔いが回り過ぎていた。どうも朝鮮濁酒という飲料は、僕には抑制力を失わせるように働くようだ。

「いいとも。いいとも。言って何が悪いんだい」

「何が悪いって、悪いにきまってるじゃねえか。第一、戦死した何百万という人に、そんなこと言っちゃ済むめえ」

「戦死した人は戦死した人さ。おれたちは生きてるんだよ。生きて酒を飲んでるんだよ。安楽に飲んでるところに、戦死者を引っぱり出すなんて、その方がよっぽど悪いや」

 そんなことを言い合っているうちに、時任爺さんの顔がしだいにどす黒くなり、額ににょきにょきと青筋が立ってきた。時任爺さんは生来の癇症(かんしょう)で、戦争前は屋台のスシ屋で、その頃もよくお客と喧嘩をした。爺さんの屋台スシは七箇で十銭で、形は小さかったけれども、小額の金でたくさん食ったような気分になるから、割に繁昌(はんじょう)した。〈時寿司〉という屋号で、僕もその頃お客の一人として、時任爺さんに知り合ったのだ。僕なんかいい顧客だったが、それでもその頃二三慶、爺さんと喧嘩したことがある。その頃から爺さんは立腹すると、顔がどす黒くなり、青筋がもりもりとふくらんだ。怒るのにふさわしい、都合のいい顔だった。

「どうしても取消さねえというのか」

 気分を落着けるためか、濁酒を入れた瓶を耳のそばに持って行き、爺さんはことことと振った。僕は答えた。

「そうだよ」

「では、仕方がねえ」

 瓶をどすんと畳に戻し、時任爺さんは思い切ったように言った。

「じゃあこの家を出て行って貰おう。おれの家なんだからな。明日にでも出て行って貰おう。そんな不当なことを言うやつに、部星は貸して置けねえ」

 僕は黙っていた。すると爺さんはたたみかけた。

「明日だぞ。明日、とっとと出て行って呉れ」

 そのままふらふらと立ち上って、自分の部屋に戻って行った。自分の部屋と言っても、三つしか部畳がない掘建小屋で、唐紙(からかみ)や障子も破れたりへし折れたりしているから、全体がひとつの部屋と言っていい。その玄関に当る部屋を数箇月前、僕は時任爺さんから借り受けたのだ。ちゃんと間代は払ってある。爺さんは戦時中に婆さんと死に別れ、息子が一人いるが、これがだらしない息子で、横浜の方の会社に勤めていて、当時で月給を六百円以上取っていたが、給料を貰ったとたんに進駐軍のチョコレートを二百円も買い込み、一晩で食べてしまったりして、ろくに爺さんに金を入れない。だから爺さんとしては、僕の払う毎月の部足代を、大いにあてにしているのだ。

 そこで僕も面白くなくなり、どたんばたんと蒲団をしいて眠った。

 翌朝、時任爺さんが僕の蒲団のそばに立ちはだかり、足で僕を揺り起した。

「今日だぞ。今日、とっとと出て行くんだぞ」

「判ってるよ」

 僕もむっとしてはね起きた。他人を足で起すなんて、言語道断のやり方だ。見ると爺さんはまだ青筋を立てている。戦争前のスシ屋時代は、怒っても三十分も経(た)つと元の顔になったもんだが、一晩越しても青筋がとれないなんて、年齢のせいで身体や気持がこちこちにこわばっているのだろう。

「手続きを済ませて、とっとと出て行くよ」

 時計を見ると九時だ。外に出て小川で顔を洗い、それから外に飛び出した。飯なんか食っている暇はない。町会、営団、煙草屋など回った。下駄の鼻緒ががくがくしてきたので、煙草屋で鼻緒を買った。十一円五十銭だ。それからとっとっと登戸の駅前に来ると、地べたにむしろを拡げて、いろんな露天商が店を出していた。その一つ一つを横目で見ながら歩いていると、下駄売りがいて、それが時任爺さんぐらいの年頃の老人で、水洟(みずばな)をすすり上げながら、ええ安い下駄、ええ、途方もなく安い下駄、と調子をとって歌っていた。

 見ると安い方の下駄が八円で、高い方のが十円だったので、僕はもうむらむらとして、ポケットの鼻緒をにぎりしめた。ちょっと見た感じでも、僕が買った鼻緒と、八円のやつの鼻緒と、品質はほとんどかわりがなかったからだ。鼻緒だけで十一円五十銭だというのに、こっちの方は八円で、しかも台までついている。

 それで気分をこわしたから、更に足早になって、とっとっと家に戻ってきた。家に戻ったとたんに、下駄の鼻緒がぷっつり切れた。

「ちくしょうめ」

 声には出さないが、そんな気持で玄関に飛び上り、せっせと荷造りを始めた。

 荷造りはまたたく間に済んだ。僕の荷物というのは、蒲団だけだったからだ。復員して来て、蒲団だけ持って上京、電車の中でぱったりと時任爺さんと再会、そして誘われるまま爺さんの家にころがり込んだのだから、それも当然だ。

 もっともこの数箇月で、生活のかすみたいながらくた道具がたまったが、それはさっぱり燃すことにきめた。がらくたなんて手足まといだ。いくら物がない時でも、物に執着するようでは、強く生きて行ける筈がない。

 僕は玄関の上り框(がまち)に腰をおろし、おもむろに下駄の鼻緒をすげ替え始めた。あのいまいましい鼻緒でだ。上り框の下には、俵にくるんでさつま芋が一貫目あまりころがっている。一週間ほど前、買出しに行ってきたその残りだ。それを見た時、やっと空腹が僕にやってきて、腹の虫がググウと啼(な)いた。

「おおい。爺さん」

 僕は首を奥にふり向けて呼びかけた。

「爺さんは朝飯を食ったかね?」

 返事はなかった。いないわけではない。唐紙や障子は破れたりへし折れたりしているから、部屋の真中に向うむきになって、うずくまっている時任爺さんの姿が見える。この爺さんが朝飯を食ったかどうか、わざわざ訊(たず)ねてみないでも僕には判っているのだ。同じ家に住んでいるから、そんなことぐらい直ぐ判る。昨夜濁酒を飲み始めた頃、明日芋の買出しに行こうと向うから持ちかけたのだから、爺さんの食糧の手持は底をついたにきまっている。

「ここに芋がすこし残ってるから、お別れのしるしに、一緒に食べないか」

「いやだ」

 声が戻ってきた。

「食うんなら、お前だけで食え!」

「だって爺さんは、朝から何も食ってないんだろ」

「食っても食わなくても、余計なお世話だ」

「おいしいよう、焼芋」

 僕はわざと声を大きくしながら、芋を俵ごとごそごそと引きずり出した。

「お庭で焼いて食うんだよ。爺さんも一緒に食えよ」

「まっぴらごめんだ」

 針金のような声が飛んできた。まだ額に青筋を立てているにちがいない。

 僕は芋俵を庭に運び、更にがらくたをえっさえっさと庭に運び出した。庭というのは、爺さんの部屋の前にあるのだ。がらくたを底に置き、芋俵をその上に乗せて、マッチで火をつけた。儀一枚では足りそうになかったので、そこらをかけ回って空俵二枚を探し出し、火にたてかけた。

 火は景気よく、面白いようにぽんぽん燃えた。芋が焼けてくるらしく、焼芋のにおいが立ち始めた。

 すると破れ障子をひらいて、たまりかねたように時任爺さんがのそのそと姿をあらわした。丼を手に持っている。縁側に大あぐらをかいた。丼を膝の上に置き、指でつまんで、小量ずつをむしゃむしゃと食い始めた。

 その丼の中に何が入っているか、わざわざのぞかないでも、僕には判っている。ヒネタクアンと土筆(つくし)の煮付けだ。ヒネタクアンは稲田堤の百姓からゆずって貰ったもの、土筆は多摩川べりから摘んできて、それを代用醬油で煮付けたものだ。あんなもの、いくらむしゃむしゃ食べたって、腹の足しになるわけがない。足しになるわけがないと言っても、芋のにおいに刺戟されれば、それでもつまむ他はないのだろう。

 天気がおそろしく良かった。まるで天の底が抜けたように、雲が一片も見えないし、風もそよとも吹かなかった。がらくたと俵は勢いよくぼうぼうと燃え、煙はまっすぐ一筋に空に上り、やがて燃えつきて下火になってきた。がらくたは燠(おき)になり、俵はそのままの形で灰になった。灰になっても、風がないから、俵の形はくずれない。

 僕は縁側に、時任爺さんのすぐ前に新聞紙をしいた。台所から竹箸(たけばし)を探し出し、燠の中から焼芋を一箇ずつつまみ出し、縁側にかけ寄っては、一つ一つ新聞紙の上に並べた。数えて見ると、拳固ぐらいの大きさのが、一ダースあった。一ダースの芋はこんがり焼け、ほやほやと旨そうな湯気を立てていた。僕は縁側に斜めに腰をおろし、時任爺さんの顔を見た。

「爺さん。食べろよ」

「いやだ」

 土筆をつまみ、口に放り込み、不味そうににちゃにちゃと嚙んでいる。額にはまだ青筋を立てている。見るまいと思っても、どうしても視線が焼芋の方に行くらしく、爺さんの表情は苦しそうだった。

「そんなに強情を張らないで、食べたらいいじゃないか。あんまり腹をへらすと、身体に毒だよ」

「余計なお世話だ。おれは食いたい時、おれのものを食う。お前のものは、お前が食え」

「おれも食うよ。しかしここに、こんなにあるんだから――」

「こんなにある? たったそれっぽっち」

 時任爺さんはおそろしく軽蔑したような口をきいた。

「それっぽっち、一人で食えねえのか。若いもんが何というざまだ」

「なに」

 僕もいささか腹を立てた。

「食えるよ。折角(せっかく)半分食わせてやろうと言うのに、食わないんなら、おれひとりで食っちまうぞ」

「ああ食いな。ぞんぶん食いな。おれがここで見ててやるからよ」

 僕は憤然と芋の一箇をつまみ上げた。口に持って行った。一ダース全部を食う自信はなかったが、もうこうなれば、食い尽さなければいけなくなった。僕は縁側に飛び上って、時任爺さんと向い合って大あぐらをかいた。土筆の煮付けを嚙む爺さんの顔を、真正面に眺めながら、むしゃむしゃと僕は焼芋を嚙んだ。

 三つ目ぐらいから、僕はしだいにかなしくなってきたが、それに負けないために眼を大きく見張り、意地になって芋を食い続けた。

2017/11/10

ブログ1020000アクセス突破記念 梅崎春生 弁慶老人

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十月号『オール読物』に発表され、同年十一月刊の作品集「春日尾行」に収録された。

 最後にオリジナルな注を附した。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1020000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年11月10日 藪野直史】]

 

   弁慶老人

 

「その老人は名前を大河内弁慶と言うんですがね、弁慶とはまた大時代な名前をつけたもんですな。近所の人の話によると、それが通称とか雅号とかでなく、戸籍面の本名だと言うんだから、まったくの驚きです」

 友人の画家早良(さがら)十一郎君がある日やってきて、その大河内という老人について語り始めた。

「こういう突拍子もない名前を子供につけた親の顔がみたいようなもんです。一体どういう気持なんでしょうねえ」

「さあ。僕にも判らないが、弁慶のように強くあれかしという親心じゃないのか」と僕は答えた。「で、その大河内老人は、弁慶的性格を持っているのかね。たとえば弁慶のように強いとか、悲劇的であるとか――」

「さあ」

 早良君は腕を組んで考え込んだ。

「僕は武蔵坊弁慶についてあまり知識がないんでねえ、よく判らないけれども、膂力(りょりょく)はそれほど強くはなさそうですね。背は高いけれども瘦せっぽちだし、そうだ、内弁慶という言葉があるが、あの爺さんは内弁慶じゃないようだな。むしろ外弁慶だ。陰気なる外弁慶と言うべきでしょうねえ。おかげで隣人たる僕もいろいろ困ることがある。遠くに住んでりゃ、たんに風変りな老人として眺めることが出来るんですが、なにしろ垣根ひとつ隔てての隣り合わせでしょう。それに大河内老人の家と僕の家は、敷地の広さも同じだし、家屋の恰好(かっこう)も間取りも全然同じ、いや、同じというのではなく、裏返しの形にすると全然同じになるのです。よく二軒長屋なんかにあるような、垣根を中心として左右相称の間坂りです。すぐ隣に自分とこの裏返しの家があることは、なにかむず痒(がゆ)いような、妙な気分のものですねえ。むしろ都営アパートか何かみたいに、同じ形の同じ間取りがずらずら並んでいる方が、まだしもさっぱりと落着くでしょう。こちらが居間に坐っている、そうすると向うの家の居間では、大河内老が僕と裏返しの恰好で坐っている。そういうことを考えると、とたんにムズムズして来るんですな。また便所にしゃがんでいる時、向うでは老人が逆の形にしゃがんでいる、そう思ったとたんに便意が消滅して、そうそうに飛び出さざるを得ない。考えまいとしても、つい考えがそっちに行ってしまう。これも一種のノイローゼと言うものでしょうねえ。相手がうすぎたない老人でなく、妙齢の美女ででもあれば、別の感じがするんでしょうが、大河内老ではどうにも仕方がない。もっとも大河内老は昔からそこに住んでいるんだし、僕は近頃そこに引越したんだから、こちらから文句をつける筋合いのものじゃありません。ありませんけれども、困るという点では確実に困るんです。そこで僕はあれこれと考えた。如何にしてこの状況を打開すべきや」

「あの家に引越して――」と私は訊ねた。「もうどのくらいになるんだね?」

「ええ。もう半年余りになりますよ」早良君は指を折って数えた。「権利金もバカ高でなし、家賃もまあまあだし、手頃の家と思って入ったんですが、入ってみるといろいろとアラがあるもんですねえ。もっともアラがあるからこそ、権利金や家賃が割安になっていて、僕みたいな貧乏画家にも入れたんでしょうけれどねえ」

 

 引越してきて判ったんですが、実にここらは押売りの多いところで、多い日は一日に五人も六人もやってくる。押売りの他には、洋服地売りや学生アルバイト。洋服生地売りはこれはどうせ買えないから、撃退はかんたんです。学生アルバイトもかんたんに撃退。ほんとならアルバイトのやつは買ってやりたいのですが、アルバイト学生が持ってくる品物で、安くて良い品物を僕は一度も見たことがない。みんな市価より割高で、しかも品質はお粗末と来ている。あれはどういう訳あいのもんでしょう。学生アルバイトは商人でないから、それでいいと思っているのでしょうか。

 学生アルバイトは割に純真なのが多いようですが、中には相当なしたたか者もいます。先だっても僕が奥で昼寝をしていると、玄関に学生アルバイトがやってきた。うちの婆さんが出て、いらないよ、いらないよと言うんだが、なかなか帰ろうとしない風(ふう)です。

「十円でも二十円でもいいですから」

 と哀れっぽい声でねばっている。うちの婆さんは気が弱くて、同情っぼい性質と来ているものですから、つい品物を拡げさせたんですな。すると箱の中には、百円とか百五十円のものばかりが入っている。僕はむっくりと起き上って、玄関に飛び出して行った。飛び出さなきや、婆さんが買わせられるにきまっていますからねえ。

「今なんて言った。十円でも二十円でもと言ったじゃないか」と僕はきめつけた。「見ろ。どこに十円や二十円の品物がある?」

「十円二十円の品物があると僕は言わないです」そのアルバイト学生はすこしも騒がず、僕の顔を見て平然と答えました。「十円でも二十円でもいいから儲けさせて呉れって、そう申し上げたんです」

 ふり上げた拳固のやり場がないような恰好で、僕はもごもごと口をつぐんでしまった。なるほど、どこかの大臣みたいな、ぬけぬけとした見事な答弁ですねえ。見たところニセ学生でもなさそうな、おとなしそうな少年でしたが、全く油断もすきもありません。

 しかし押売りにくらべれば、学生アルバイトなんて、脅威の点において物の数じゃありません。近頃の押売りというと、ゴム紐(ひも)の一点張りにきまっていますが、あれはどういうわけでしょう。よく覚えていないが、戦前の押売りはもっと品物にバラエティがあったようです。品物に変化があれば、ついその中に必要なものもあって、買わせられるという形にもなるのですが、入れかわり立ちかわりゴム紐ばかりとは、いくらなんでも芸がない。押売りの芸も戦後は地におちたと言うべきでしょうねえ。

 しかもそのゴム紐がやたらに高い。街で一本三十円ぐらいの代物を、六十円だの百円だのとふっかけて来る。おどしたり下手に出たり、さまざまの術策を弄(ろう)して押し売ってしまう。僕が在宅中ならいいのですが、婆さんだけの時なんか、百発百中で売りつけられてしまうのです。しかし僕が在宅中ならば、彼等がいかに術策を弄そうとも、これは全然ダメ。

 実のところ僕は押売りが大好きです。押売りそのものが好きではなく、押売りをかまい、そして撃退するのが大好きなのです。毎日うちで絵を描いていると、退屈な気分になってくる。そこへ玄関や庭先に「ゴメン」とか「コンチワ」と言う声とともに押売り氏がぬっと入ってくる。押売りというやつはその声で直ぐに判りますな。僕は直ちに絵筆を投げ捨てて、いそいそとして、縁側や玄関先に飛んで行く。そして敵がさまざまの術策を弄して押売ろうというのを、僕もさまざまの術策をもってこれを受け、そしてついに撃退してしまう。魚釣りやパチンコとちがって、相手が生身の人間だけに、はるかにスリルがあって面白いですな。

 もっともいきなり僕が出て行くと、僕の顔を見ただけで相手はげんなりとし、半分諦(あきら)めてしまうような傾向もないではありません。きやつらは男が苦手らしいです。だから彼等は僕の前で一応の演技はやるが、こちらが強く出ると、たいていチェッとかなんとか捨言辞(すてぜりふ)を残して立ち去って行く。

 それでは面白味があまりないので、時には婆さんを先に出し、僕は唐紙(からかみ)のかげでじっと待機している。すると押売り氏は大いに張り切って、すごんでみたりおどしてみたり、中には地下足袋(じかたび)のまま玄関にずり上って来るような奴もいるのです。

「こんな家構えで、五十円百円の金がないとは言わせぬぞ」

 そこへ僕が肩肱(かたひじ)を張り、眉の根をふくらませて、ぬっと姿をあらわす。たいていの押売りはそれでギョッとするようですな。なにしろ僕は残念ながらあまり人相は良くないし、それにいつも無精ヒゲなんかを生やしている。その上応対しながら空手チョップの練習みたいなことをするので、敵はとたんに元気がなくなり、玄関にずり上った奴はこそこそと土間にずり降り、そしてこそこそと退散ということになるのです。その間の醍醐味(だいごみ)はちょっと言うに言われぬ趣きがありますな。

 家から二町ほど離れたところに僕の先輩の家がありますが、僕に押売り撃退の趣味あるを知って、時に獰猛(どうもう)な押売りがやってくると、先輩宅の女中さんが僕を呼びに来るのです。先輩が留守の時なんかですな。この間も、押売りが居坐って全然動かないというので、女中さんが呼吸をはずませて僕を呼びに来た。昨日刑務所から出所したとか何とか、しきりにスゴ味を利かせて、玄関に大あぐらをかいているというのです。僕は直ちに絵筆を投げ捨て、身仕度をととのえ、女中さんとともにエッサエッサと二町の道を走り、先輩宅についた。すると先輩の奥さんが汗を拭きながらあたふたと出て来て、

「まあ。残念でしたねえ。一足違いで今帰っちゃったんですのよ」

「なんだ。もう帰ったんですか」僕もがっかりして汗を拭きました。「そうですか。タダで帰ったんですか」

「タダじやないんですよ」奥さんは口惜しそうにゴム紐をぶらぶらさせた。「とうとうこれを買わされちゃったんですよ。火をつけてやるとか何とか言い出して来たので、怖くなったんですよ」

「なんだ」僕は膝をたたいて口惜しがった。「もう二分か三分、頑張ればよかったのに。そうすれば僕が撃退して上げたのになあ」

 暑い中をエッサエッサと走ってきたというので、奥さんが気の毒がって、冷蔵庫の西瓜(すいか)を割って僕に御馳走して呉れました。よく冷えておいしい西瓜だったので、四片か五片頂戴に及び、また炎天の道をトコトコと家に戻ってくると、うちの婆さんが玄関に飛び出して来ました。

「どこに行ってたんですよ。ものすごい押売りが来て、あたしゃとうとう三百円がとこゴム紐を買わされましたよ」

 僕はアッと叫び、よくよく事情を聞いてみると、刑務所を出たばかりという先輩宅のと同一人物と判った。僕は玄関でじだんだを踏んで口惜しがった。西瓜なんか食べずに直ぐ戻ってくれば、三百円がとこ買わされずに済んだのに、と思ってもそれはあとの祭りです。その押売り氏も、わざわざ僕の不在をねらって来たのではなく、たまたまそうなったのでしょうが、僕の側からすれば、なんだか策略にかけられたみたいで、後味が悪かった。その後は僕は、先輩宅に駈(か)けて行っても、撃退がすむと直ぐ家に駈け戻り、我が家の来訪に具(そな)えるということに方針を改めました。よそのを撃退しても、うちで押売られては、元も子もないですからねえ。

 このようにここらは押売りその他の多い地区ですから、被害は我が家のみならず、当然大河内弁慶老人のところにも押売りその他は押しかけて行く。

 ところが大河内老も、前に申し上げた如くなかなかの外弁慶ですから、押売り諸君も手を焼くらしいのです。

 大河内家の家族は、大河内老人と老夫人の二人きりで、大河内夫人もうちの婆さんと同じでまったく気弱な性分のようです。そこで大河内老が不在の節は、つい押売られてしまうらしいが、大河内老が在宅の時はとてもそういうわけには行かない。どうも大河内老は僕と同じく、押売り撃退の趣味を持っているのではなかろうか。そう思われる節(ふし)があります。なにしろ両家をへだてるのは、かんたんな四ツ目垣だけですから、向うの動静は手に取るようにこちらに判るのです。

 大河内老は以前にどういう職業に従事していたか、僕もよく知らないけれども、何か権力を持つ職業についていたのではないか、と僕は推察しています。たとえば軍人とか、税務吏員とか、視学とか刑事などですな。その挙措(きょそ)動作からそう推定するのですが、他人を見る時にこの老人は、とたんにとがめ立てするような眼付きになってしまうのです。あれはたしかに権力者の眼付きであり、そしてその権力も人間そのものに具わっているのではなく、職業によって賦与(ふよ)されている、そんな感じの眼付きなのです。大河内老は過去においてそんな職業に従事し、そしてその恩給か何かで老後を暮しているのでしょう。たとえばヤドカリのように、ひっそりと殻にこもって生活しているのです。

大河内老の眼がランランととがめ立ての色を帯びるのは、そういう生活の殻を他から犯されようという場合なのです。押売りなんかはそれの典型的なものですな。そして大河内老は、そういう殻を破ろうとしてくる奴を、一面においては蜘蛛(くも)の如く待ち受けている。

 学生アルバイトなんかが大河内家を訪ねると、これはもう大変です。飛んで火に入る夏の虫みたいなものです。たちまち大河内老のいいカモになってしまう。

「なになに。学生アルバイトだと?」

 大河内老は眼をランランと光らせて、縁側なり玄関なりにのそのそと出て行きます。

「まさか君はニセ学生ではあるまいな。ニセでなければ、ちょっと学生証を見せなさい」

 本物であることを示せば買って呉れるだろうと思うものですから、ここでたいてい学生証を出す。すると大河内老は表をしらべ裏をしらべ、学校にはどんな先生がいるかとか、何を勉強しているかとか、一日売り回ってどの位の収入になるかとか、君はまだ童貞であるかとか、愚にもつかない質問を三十分もやり、そしてやっと学生証を返してやるのです。返しながらアッサリと宣言する。

「品物は全部間に合ってるから、帰りなさい!」

 これにはアルバイト学生も怒りを感じるらしいですな。退屈しのぎに三十分も相手をさせられて、しかも何も買って呉れないとは、怒るのもあたり前でしょう。しかしさすが学生で、その場で怒ったりわめいたりするようなのはいないようです。玄関の扉をガチャリとしめるとか、外に出て門柱を憤然と蹴りつけるとか、そんな隠微な表現をもって彼等はその待遇に酬(むく)いるもののようです。この間などは門柱を蹴りそこなって、ストンと石畳にひっくり返り、痛そうにお尻をさすりながら、泣き顔で立ち去って行ったアルバイト学生もいました。これには僕も義憤を感じましたねえ。僕みたいにぽんと断るのならまだしも、さんざん相手をさせて断るんですからねえ。どだいやり方が悪質です。押売り。これがまた大変です。押売り撃退のやり方は、大体僕のと同じようなものですが、なかなか居直って動かないとなると、大河内老は突然大声を張り上げて、夫人を呼び立てる。

「婆さん。婆さん。パチンコを早く持って来なさい!」

 そうすると夫人が奥の間から、いそいそとパチンコを捧げ持って、老人のところにかけつける。ここでパチンコと言うのは、街にあるチンジャラジャラのパチンコではありません。木のふた股にゴムを取りつけて、小石などをはさんでピュツと飛ばすあのパチンコのことです。しかも大河内家のパチンコは子供用のとちがって、相当に大きくて頑丈(がんじょう)につくられているのです。

「これを見なさい」老人はそれを見せびらかすようにしながら、すご味のきいた声を出す。「先ほどから言う通り、うちにはゴム紐は馬に食わせるほどあるのじゃ。見なさい。こんなものにまで、うちでは押売りのゴム紐を使用しておる!」

 ここらでたいていの押売り氏はギョッとするようですな。すかさず老人はたたみかける。

「三十米離れた雀もこれで打ち取れるぞ。婆さん、それ、パチンコ玉を持って来なさい。この仁(ひと)に威力を見せて上げる」

 声に応じて老夫人は直ちに奥にかけ込む。老人はおもむろにパチンコをかまえ、トレーニングとして押売りの顔面にねらいをつけ、ぎゆうとゴム紐を引き絞る。パッと指を放す。玉は入っていないけれども、ゴム紐はヒユウというような音を立てて縮み、空間にはねくりかえるのです。さすがの押売りも飛び退き、老夫人がパチンコ玉を持ってかけつけてくる頃には、おおむね退散に及んでいるようです。本物のパチンコ玉を正面に受けると、額なんか割れてしまいますからねえ。退散して行く押売りの後ろ姿を、老人は実に嬉しそうな表情で見送るのです。撃退の醍醐味をしみじみと味わっているに違いありません。

 こういう具合に、大河内老在宅の節は、押売り強談(ごうだん)物貰い寄付強要策は見事に撃退されるようですが、老夫人だけの時はそうは行かない。根が気の弱い性分らしく、かんたんにしてやられているようです。では隣人の誼(よし)みとして撃退に行ってやればいいではないか。押売り撃退はお前の趣味ではないか、とお思いになるかも知れません。ところがそうは行かない事情があるのです。僕としても撃退に赴(おもむ)きたいのは山々なのですけれども。

 

 前にも申し上げたように、大河内夫妻はヤドカリの如く、自分の殻にかたく閉じこもっている趣きがある。

 近所つき合いもほとんどないようで、四ツ目垣にかこまれた五十坪ほどの土地にしがみついている。そして極度に無愛想な表情で、あるいはとがめ立てをするような眼付きで、周囲に対しているのです。

 こういう無愛想な老人と隣り合わせになったのは、僕の不幸ですが、最初のうちはそんな性格の老人とは知らないものですから、朝などに顔を合わせると、

「お早うございます」

 などと僕が頭を下げる。僕が頭を下げるとたんに、あるいは下げそうな気配を感じたとたんに、大河内老はふっとそっぽを向く。ひどい時になると、くるりと背中を向けてしまうのです。これには腹が立ちましたねえ。折角あいさつをして、そして頭を上げて見ると、もう背中を向けているんですからな。バカにしてやがる。何て横柄な爺だろうと、もうその頃から僕は面白くなかった。

 今考えると、大河内老は僕を憎んだりバカにしているのではなく、つまり近所つき合いをするのがイヤだったんでしょうねえ。あいさつを返せば、それから何となくつき合いが始まる。つき合いが始まれば、自然と往き来のきっかけが出来る。そうすると自分の生活が犯されそうな予感がして、それで老人は僕のあいさつを拒否したのかも知れません。もっともこれは僕の好意的解釈ですが。

 今年の春のことですが、大河内家との境の四ツ目垣の根元に、僕はせっせと朝顔の苗を植えつけたのです。ただの四ツ目垣だけでは殺風景だし、それに見通しですからね。個人生活が見通しということは、あまりいいことではありません。

 すると苗を植えつけている最中に、大河内老が縁側にぬっと姿を現わした。僕が苗を植えていることを、老夫人が急いで報告に行ったらしいのです。大河内老はそそくさと庭下駄をつっかけ、つかつかと垣根のところにやって来ました。

「貴公はそこで何をやっている?」

 大河内老は例のとがめるような眼付きになって言いました。

「朝顔の苗を植えているんですよ」

 僕は顔を上げて答えた。これが引越し以来老と交した最初の会話です。

「苗を植えちゃいけないんですか?」

「いけないとは言わない!」大河内老はじろりと僕をにらみつけました。「苗を植えるとだ、やがてそのツルが伸びる。貴公はそのツルをどこにからませるつもりかね?」

「もちろんこの垣根にですよ」

「この垣根?」彼は憤然と肩をそびやかしました。「この垣根は貴公の所有物か?」

 ぐつと詰って僕が黙っていると、彼はかさにかかって声を大きくしました。

「勝手な真似はつつしんで貨おう。早速全部引っこ抜け!」

「イヤだ!」僕もむっとしたから怒鳴り返してやりました。「引き抜けなんて言う権利があんたにあるのか。絶対に僕は引き抜かないぞ。いかにもこの垣根は僕の所有物じゃない。しかしこれはあんたの所有物でもなかろう!」

 僕が大声を出したものだから、大河内老はびっくりしたらしく、黙ってしまった。そこで僕はたたみかけました。

「どうしても引っこ抜けと言うんなら、そちらで引っこ抜いて貰おう。そのかわり、家宅侵入並びに毀傷(きしょう)の罪をもって、ケイサツに訴えてやるからな!」

 そして僕はさっさと植えつけを再開した。

 大河内老は口惜しそうに僕をにらんでいたが、やがて足音荒く縁側に戻り、家の中に入って行きました。ケイサツと言う言葉が利いたのかも知れません。

 垣根というやつは両家の境界ですから、もちろんどちらの所有ということはないでしょう。しかしこのやりとりにおいて、案外僕が手強な相手だと言うことを、大河内老ははっきりと認識したらしいのです。それまではたかが絵描き如き、組しやすしと考えていたのでしょう。つまりアルバイト学生並みになめられていたんですな。

 それから三、四日経って、僕が所用から戻ってくると、婆さんが急いで僕の耳に口を寄せてささやきました。

「あの垣根の根元に、今日はあちらの方で何かセッセと植えてましたぞ」

 僕も興味をもよおして庭に出、垣根のところに行って見ますと、まさしく婆さんの言う通り、何か苗がずらずらと植えつけてある。僕側の朝顔に対抗する如く、数も丁度(ちょうど)同じですが、苗の種頼はちがうようです。あとについて来た婆さんに僕は訊(たず)ねました。

「これは何の苗だろう。朝顔より頑丈に出来てるようだけれど」

「カボチャですがな」

 婆さんは大河内家をにらみつけました。大河内夫妻は家の中に閉じこもっていると見えて、姿は見えないようです。婆さんはにくにくしげに言いました。

「これじゃ土地の養分は全部カボチャに吸い取られて、朝顔にまで回りませんがな」

「なるほどねえ。やりやがったな!」

 僕は半ば感服、半ば怒りを発して、そう呟(つぶや)いた。なるほど、そういう方法をとれば、引っこ抜くことなしに、僕の朝顔を合法的に圧迫出来るわけです。それに僕の方から向うのカボチャを引っこ抜くと言うわけには行かない。引っこ抜けば彼は僕の言葉を逆用して、早速ケイサツに届けに行くでしょう。

 

 これが僕と大河内老とのつめたい戦いの始まりでした。

 それを始まりとして、物干竿事件、肥料事件、雨水流入事件、塵芥(じんかい)廃棄事件と、両家の間にはさまざまの事件が次次起って来ました。その事件のひとつひとつをくわしく話したいのですが、話すと腹の立つことばかりでしてねえ。事件が起きるたびに、いつも僕の方がしてやられているのです。もうあんな老人と隣り合わせに住むのは、つくづくイヤになって来たのですが、そうかと言ってかんたんによそに引越すというわけにも行かないしねえ。だから最初にお話ししたようなノイローゼが僕に起って来たのです。

 たかが無愛想で強欲な隣人だと、気持の上で黙殺しておればいいのですが、なにしろこの暑さでしょう、ぼんやりと寝ころんでいても、どうも放って置けないような気分になってくる、一体今頃あの爺は何をしてやがるんだろうな、そんなことばかりを考えている。やはり暑いから俺みたいとにぼんやり寝ころがっているんじゃないか、などと考える、急に畳がべとべとして来るような気がして、僕はパッとはね起きてしまう。飯を食っていればいたで、それを考えると、とたんに食欲がなくなってしまうのです。

 やはりこれも一種の強迫観念と言うべきでしょうねえ。両方の家が裏返しの形で相似しているということが、一番よろしくない。

 え? 四ツ目垣ですか?

 四ツ目垣はね、今はカボチャの花盛りで、ふてぶてしい形の葉や幹の間から、黄色い花が点々と咲き乱れ、実に無風流な景観を呈しています。僕の方の朝顔は伸びるには伸びたけれども、婆さんの予言のように養分をすっかりカボチャに吸い取られ、お情けでヒョロヒョロと伸びた恰好で、ろくに花もつけないような有様です。最初僕が意図した目かくしの目的はそれで達せられたわけですが、面白くないですねえ。それに大河内のカボチャは遠慮なく僕の家の空間にも伸びてきて、僕の領知内でもたくさん黄色の花を咲かせています。それらの花々がやがてはあの不恰好なカボチャの実になるでしょう。僕の領域に実ったカボチャは、一休どちらの所有物になるのでしょうね。あれやこれや考えると、僕も頭が痛く、そのうちに本物のノイローゼになって来そうです。

 押売りですか?

 さすがにこう暑くなると、あまりやって来ないようですねえ。やはりカンカン照りに照らされて、ゴム紐を持って歩くのは、ラクじゃないのでしょう。あるいは彼等は春の間に大いに儲け、今頃は海か山に避暑にでも行っているかも知れない。押売りとは利幅の多い商売ですからねえ。そんなことを考えると、もう僕はいらいらと腹が立ってくるのです。なにかいい療法はありませんかねえ。

 

[やぶちゃん注:本作は私が梅崎春生の作品の中でも特に偏愛する一篇、「断片」(「三角帽子」との二篇構成であるが、相互の関係性はない)の中の「鏡」と相同のモチーフ(壁を隔てた住まいの空間構造が鏡像対称関係にあるということ)が使用されている。但し、本篇が昭和三〇(一九五五)年の発表であるのに対し、「鏡」を含む「断片」は昭和二六(一九五一)年(一月号『文学界』初出)で、発表年では四年ほど先行する。しかし、春生は、このモチーフの使い回しを隠そうとはしておらず、寧ろ、確信犯でヴァリエーションを読者に示していることは、本作と「断片」を同じ単行本「春日尾行」に収録していることによって明らかである。

「友人の画家早良(さがら)十一郎」梅崎春生の友人で「カロ三代」など、彼の随筆・小説にしばしば登場する画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年:「立軌会」同人。元「自由美術協会」会員。春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下。作家色川武大とは麻雀仲間)がモデルであろう。彼或いは彼をモデルとしたと推定されるキャラクターが登場する際には、かなりエキセントリックなトリック・スターとして描かれるが、ここでも一風変わった内容を自己にとっては至極当然な事柄として、マシンガンのようにほぼ一方的に喋り続けている。

「僕の領域に実ったカボチャは、一休どちらの所有物になるのでしょうね」現行の民法上の解釈では、早良の敷地内に完全に侵入して転がっていても、カボチャの所有権は基本的に弁慶老人のものである。これは当該のカボチャが空中或いは地面から離れた蔓を伝って水分や栄養を吸収しており、その根元は弁慶老人の敷地内にあり、その吸収した主たる成分は弁慶老人の宅地内から得られたと考えられるからである。早良の敷地内に無断で伸び出ている事実はあるが、カボチャは地面に接しているものの、早良の宅地内の地中には入っておらず、成長栄養を早良の宅地内から得ているとは解釈されないからである。但し、カボチャという果実(これは普通の野菜としての「カボチャの実」を言っているのではない。民法八十八条一項の「天然果実」の既定する『物の用法に従い収取する産出物を天然果実とする』(元物の経済的用途に従って採り収められる産物)という法的規定としてのそれであるので注意されたい)が、宅地内の地面に接触した状態で侵入している点では邪魔であり、腐れば、それこそ迷惑であるから、法的には弁慶老人に取り去って貰うことを口頭で依頼するのが、まず、筋である。それを弁慶老人が拒否したり、無視したり、請けがいながらも一定期間実行に移す気配がない場合(腐る前でよい)は、次に「私の宅地内に侵入しているあなたのカボチャ一個を取り除き、所有責任者であるそちらに引き渡します」と本人と面談して通告するのが正しい。しかし、彼の特異な性格から考えると、彼が居留守を使って対面を拒否することも考えられる。その場合は、弁慶老人が在宅で、声が聴こえる位置関係にあり、覚醒している彼に明らかに聴こえていると判断される位置(早良の庭内からで構わない)から、「私の宅地内に侵入しているあなたのカボチャ一個を私が代わって取り除きます」と複数回(三度は必要)大声で通告し、自分の庭に侵入している蔓の手前(切った際に蔓が弁慶老人の宅地内に戻ると厄介なので)で切って構わないと解釈されているはずである。問題はそのカボチャを食べてよいかどうかであるが、最初の言った通り、カボチャの実自体はそうして採取しても依然として弁慶老人のものであるから、返却せねばならない。出て来なければ、玄関先に採取経緯を簡単に記したメモと一緒に置いておく。弁慶老人が「そんなものはいらない」「勝手にしろ」とはっきりと言った場合に限り、賞味期間内ならば、そこで食して何ら、問題ない、というのが私の民法上の解釈である。というより、この問題は、若い頃から法律関係書でかなり調べて来たので、いい加減な思いつきではない。柿(自宅敷地内の空中に侵入しても、支持する本体が宅地外の物である場合、空中にある物体には侵入された側の所有権は発生しないとされるようである)筍(地下には所有権が発生し、本件とは逆に水分や栄養分を宅地内から摂取していると見做されるので、相手に通告しても音沙汰ない場合は、最終的には勝手に切り取ってよいはずである。食べても構わないとする解説書もあるが、私は竹藪の所有者に持って行くのが無難と考える)などがとみに知られるが、私は落花生の場合(ストロン状に空中に茎が出て、それが地面に突き刺さって脹らんで実がなるケースでその実が成った先がたまたま隣の別人の敷地だった場合である。これはかなり難しいと今でも考えている)など、かなり微妙なものまで、大学時分、法学部の友人と検討したことがあるのである

2017/10/15

ブログ1010000アクセス突破記念 西村少年 梅崎春生

 

[やぶちゃん注昭和三一(一九五六)年十二月発行の『別冊文藝春秋』に初出。翌年四月角川書店刊の作品集「侵入者」に収録された。

 本篇は恐らく、梅崎春生自身の実体験に基づく小説と考えてよい。午砲(ドン)が鳴らされ(彼の知られた三篇アンソロジー小説「輪唱」の中の一話砲」は昭和二三(一九四八)年九月発表)、「聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店」とあることから、戦前であり、春生の年譜的事実から言えば、彼は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校に入学しており、本文に「西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た」とあるから、作者の事実に則したものであるとするならば、大正一五(一九二六)年の時代設定と捉えて問題ない。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1010000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年10月15日 藪野直史】]

 

   西村少年

 

 その西村という級友に、僕らはヨリトモという綽名(あだな)をつけた。ヨリトモとは源頼朝のことで、義経なんかをいじめた関係上、頼朝は僕ら子供の間ではあまり人気がなかった。むしろ憎まれてさえいた。

 西村は頭でっかちで、背もあまり高くなかった。頭でっかちのくせに、走るのが速く、体操もうまかった。色が白くて、皮膚もつやつやしていた。つまり、見るからに、僕たちよりは栄養が良かったのだ。僕らの級友は平均的にあまり栄養が良くなかったらしい。

 毎年の秋、その市の小学校が全部代表選手を出して、リレー競走をやるのだが、僕らの学校はいつもビリか、ビリから二番だった。

 代表選手はもちろん六年生だが、その六年の選手の校庭での練習を僕らは見る。選手たちは得意になって走っている。何と速いんだろう、まるでオートバイみたいじゃないか、と僕らはささやき合うのだが、いざ大会になって僕らが見物に出かけると、我が校の選手はたいがいの場合どんじりで、校庭の練習で見せた颯爽(さっそう)さはなく、疲れ果ててよたよたと足を動かしているに過ぎないのだ。どんなに声援をおくってもダメだった。

「何故だろうなあ」

 がっかりして帰途につきながら、僕らは話し合う。

「練習の時はあんなに速かったのになあ」

 校庭で走っているぶんには結構速く見えるのに、他校との競走となるとどうもうまく行かないと言うのも、つまるところは実力が劣っていたのだろう。体力がそれだけ劣っていたわけだ。そしてそれは栄養にも大いに関係している。

 僕らの小学校は海辺にあった。

 学区内には、漁師町や商人町や下級給料者の住宅街だのが、ごちゃごちゃに入り乱れていた。

 海辺の埋立地には格納庫があり、水上飛行機の発着場になっていた。そこから小さな港があり、港を抱くようにして腕みたいな形で岬(みさき)が伸びて曲っていた。その腕の掌にあたる場所にも人家があって、また午砲(ドン)打ち場がそこにあった。

 正午になってドンが鳴ると、学校中の窓ガラスがびりびりと慄えた。ドンの響きはいつも僕らの腹に強くこたえた。それほど僕らのお腹は空いていたわけだ。

 ドンの砲手が、西村のお父さんだった。

 西村のお父さんは退職軍人で、恩給でゆったりと暮していて、ドン打ちは道楽みたいな副業だということだった。八字髭(ひげ)を立てた、眼つきのするどい、ずんぐりした体格の小父さんだった。頭と背骨をまっすぐに立てた、特有の歩き方を見ただけでも、それはいかにも在郷軍人の典型という感じがした。

 

 西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た。

 何故西村小父さんほその息子を、優秀な付属から僕らの小学校に、あまり優秀でないこの小学校に転校させたのか、今考えてみてもよく判らない。何か特別な理由があったのか、それともただ通学距離が近いという理由だけだったのか。僕らは五年の一学期から、中学校や女学校に進学するものだけ集まって、特別学級をつくっていた。進学する者の数が少く、男女合わせて五十人ぐらいしかいなかった。だから僕らの組は、男女組または混合組と呼ばれていた。

 僕らは女はニガテだった。それまで男の子ばかりの級で、女と机を並べたことがなかったのだから、今までは校庭や講堂だけのつき合いで、無視出来たのだが、机を並べて一緒に学ぶ、あるいは成績を競うということになると、そんなわけに行かなかった。

 その頃この学校では、女の子は男の子より一段下位にあるもの、質的に段差があるもの、と一般に考えられていた。あるいは僕らだけでそう考えていた。強いてそう考えていた。だからこれを呼ぶのに「オナゴ」を以てした。あるいは「メス」。

 学校の用事以外では、僕らはオナゴと話し合うことはなかった。話しかけもしなかったし、話しかけられもしなかった。休み時間に一緒に遊ぶことはなかった。学校の帰りも別々に帰った。

 オナゴとつき合うことは恥辱であるという具合に、僕らはお互いにけんせいし合っていた。

 オナゴは恥辱である、と僕らが考えるのに、理由がないでもなかった。僕らは何かあるたびに男子ばかりの組の者から、「やあい、男女組」「やあい、混合組」とののしられた。男女組、あるいは混合組という名称そのものが、恥辱の代名詞になっていたわけだ。ところが僕ら自身は、恥辱ではあり得ない。すなわちかんたんな引き算によって、オナゴは恥辱である、という答が出て来るわけだった。

 しかし、引き算ではそう答が出ても、そっくりそのままを信じるわけにも行かない節があった。学校のふだんの成績、またはモギ試験の成績などで、大体においてオナゴの方が良好だったのだ。いつかのモギ試験などでは、一番から七番までが全部オナゴで、やっと八番目に男が入るということなどもあって、僕らはたいへん面白くなかった。そうなるとオナゴだのメスだのと呼び捨てることによって、軽視したり無視したりは出来ない。もっともそういう面白くなさが、かえってオナゴを蔑視する方向へ、蔑視しようとあがく方向へ、僕らを追いやっていたということもあるが。

「なんだい。あたしたちがメスなら、あんたたちはオスじゃないか」

 女子の中で勇ましいのがいて、ある時こう反発した時の、僕らの激昂ぶりは実にはげしかった。入学以来、こんなに怒ったことはないほどに、集団的に怒った。オスとは何ごとだ。動物や植物じゃあるまいし、オスとは何ごとだ。人間をつかまえて、オスとは何ごとだ。メスのくせに生意気な。あやまれ。あやまれ。その勇敢なる女子の名前は、河合政子と言ったが、河合政子はあやまるかわりに泣き出した。声を放って机に泣き伏した。豊かな黒髪を机に這(は)わせ、白いうなじを慄わせながら、河合政子は口惜しげに大泣きに泣いた。

 

 その河合政子と西村一作が、時折教室で顔を見合わせて、にっこりと笑うということを見つけたのは、いや、見つけたのか創作したのか知らないが、とにかくそういうことを言い出したのは、アンパンという綽名の子だった。アンパンの由来は、その子が聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店の子だったからだ。

「今日も顔を見合って、ニヤッと笑ったぞ」

 アンパンは口をとがらせて、僕らに報告した。

「あいつら、お互いにホレ合っとるらしいぞ」

 僕らは単純にして複雑な気持でその報告を聞いた。西村の席も河合の席も、教室の後部にある。アンパンの報告によると、後部であることを利用して、つまり皆に気付かれないと安心して、笑いを交しているというのだ。では、どういう時に笑いを交すか。先生から指されて、西村がうまく答える。そして西村は着席する。ちらと河合を見る。そこに笑いが交される。あるいは河合が指され、うまく答える。河合は着席しながら、ちらと西村を見る。笑いがそこに交されるというのだ。その説明を聞いた時、僕らすべての胸にもやもやとした、隠微な感情がしばらくたゆたった。怒り。憎しみ。妬(ねた)み。悲しみ。その他百千の気持が。

「付属から来たくせに生意気な!」

 僕らは付属小学校を憎んでいた。憎み、反発し、軽蔑していた。羨望するかわりに侮蔑していた。柔弱であるという点において、ゼイタクであるという点において、侮蔑していた。それはオナゴに対する僕らの感情と、どこか似通っている点もあった。その付属から転校してきたということで、西村は僕らの仲間の中で、ある特殊な位置に置かれていたのだ。

「西村を殴(なぐ)ろうか」

 アンパンが提議したが、それに応じるものはなかった。殴るという行動によって、僕らの百千の感情が表現されるわけでなし、かえって誤解される(誰に?)おそれもあるような気がするし、先生に見つかると叱られるにきまっているし、それに西村の喧嘩の実力がまだ判っていないし(足も速いし休操も巧いから、相当に強いかも知れない)提議したアンパンもうやむやにそれを引っ込めてしまった。

 そして誰言うとなく、西村のことをヨリトモと呼ぶことになった。オナゴが政子なら、男はヨリトモにきまっている。それがその綽名(あだな)の由来だった。おそらくその頃、歴史の時間で、そのくだりを習っていたのだろう。

「ヨリトモ」

「おい。ヨリトモ」

 誰も西村の本名を呼ぶものはなくなってしまった。もちろん僕らが何故彼をヨリトモと呼ぶか、直ぐにそれはオナゴたちに伝わったし、当の政子にも伝わったに違いなかった。

「ヨリトモ」

 この綽名に西村はすこし当惑したらしい。僕らの組のほとんどが綽名を持ち、それで呼び合っているのだから、綽名をつけられたと言って、そのことで怒るわけには行かない。それから、何故ヨリトモ政子とはやし立てるのか、おそらく付属在校時代はもっと男女間が親しくて、だからそんな綽名をつけられても、軽いからかいに過ぎなかっただろうから、僕らのつけたヨリトモという呼称に対して、どう身構えていいのか判らなかったらしい。軽いからかいにしては、その呼び方に悪意その他が強くこめられていたからだ。

 しかしそういうことで、西村と河合の間は妙にぎごちなく、つまりひそかに笑いを交すということが、そのままの形でこわばってきたのだ。そのこわばりは僕らにも感染した。そのこわばりの中でヤユすることで、僕らの呼び方にはますます悪質なものがこもって来た。

「ヨリトモ」

「ヨリトモ」

 河合政子も明かにこわばっていた。そしてそのこわばりに全身をもって反抗していた。彼女は組で一番美しい容貌と身体を持っていた。そして勇敢で、寛容だった。いくら寛容でも、こわばる時にはこわばる。成績も良かった。モギ試験でも必ず上位の五人のうちに入っていた。つまりいろんな点において、オナゴの中では、群を抜いていたわけだ。だから僕らが西村をヨリトモと呼び、それが直ちに政子に反応して、政子が困惑することを、内心快とする一部のオナゴたちもあったのだ。そういうオナゴたちは西村のことを、さすがに面と向ってではないが、かげではヨリトモと呼んでいるらしかった。

 そしてある日のこと、西村とアンパンは大喧嘩をした。

 アンパンがあまりにも西村のことを、ヨリトキ、ヨリトモと呼び過ぎたからだ。それも西村が単独にいる時でなく、また男ばかりの時でなく、直ぐ近くに女子たちが、河合政子などもいる時に、そう呼び過ぎたのだ。西村は顔面を硬化させて、黙っていた。その綽名には応答しなかった。

 争いが起きたのは、放課後の掃除当番の時だ。女子たちは皆帰って、当番の男子たちだけが机を動かしたり、帚(ほうき)ではいたりしていた。その帚の使い方がなっとらんと言うので、アンパンが西村の帚を取り上げようとしたのだ。

「帚をよこせ。お前は机運びになれ!」

「イヤだ」

 西村は拒絶した。机運びより帚使いの方が高級だという考えは皆にあった。

「だってお前のはき方は、ムチャじゃないか。ゴミがあちこち残っとる。帚はおれがやる」

「イヤだ」

「よこせったら。ヨリトモ!」

 瞬間に西村は帚を床に投げ捨てた。パッとアンパンに飛びかかった。二人の身体は床にころがり、格闘となった。ごろごろところがり回り、手足がはげしくぶつかった。

 僕らは慣習にしたがって、ぐるりとそこに輪になり、見物した。一対一の喧嘩にはたから手を出さない不文律があったのだ。西村はアンパンを組み伏せながらあえいだ。

「ヨリトモと言うか! まだ言うか!」

「何をヨリトモ!」

 今度はアンパンが力をこめてひっくり返した。

「何を。このヨリトモ野郎!」

 そのアンパンを足で蹴り上げて、西村がアンパンの上におっかぶさった。西村は涙を流しながら、アンパンの顔を両手で連打した。

「まだ言うか! まだヨリトモと言うか!」

 僕は知っていた。西村が怒っているのは、自分がヨリトモと呼ばれることではなく、自分がヨリトモと呼ばれることによって、河合政子が困惑することであることを。そのことは僕の胸をはげしくしめつけた。それはあきらかに嫉妬の感情だった。強い強い嫉妬の情が、僕の全身をがたがたと慄わせた。

 

 そしてその喧嘩は、ついに西村の勝利に終った。西村の執拗(しつよう)な攻撃に、アンパンは戦意を失ったのだ。西村の最後の打撃に、アンパンはワッと泣き声を上げ、敗北を表明した。

 しらじらとした喧嘩の終りが来た。西村はほこりをはらって立ち上ったが、勝利者の表情ではなかった。見物の僕らも別にどよめかず、勝利者を祝福することもなく、敗北者を慰撫することもなく、しらじらと元の掃除の部署に戻った。アンパンの泣き声だけが、いつまでもひびいた。

 アンパンの表現を借りれば、僕も西村に負けないほど、河合政子にホレていた。口には出さなかったけれども、心の底からホレていたのだ。

 そしておそらくアンパンも、またその他の大部分のわが組のオスたちも!

2017/06/05

飯塚酒場   梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十月号『新潮』初出。後に作品集「侵入者」(昭和三二(一九五七)年四月刊)に収録された。

 「熱𤏐」の「𤏐」はママ。

 この飯塚酒場について、梅崎春生はエッセイにも記している。一つは「悪酒の時代――酒友列伝――」昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』)、今一つは金史良のこと(昭和三二(一九五七)年五月号『文芸首都』)であるが(リンク先は孰れも私の電子テクスト)、前者には、

   *

 飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。

「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」

 おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、

「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」

 とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。

 ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。

   *

とあるから、本作の『飯塚は戦災で焼けた』というのは小説結構中の虚構であろうかと思われる。]

 

 

   飯塚酒場

 

 

 飯塚酒場の横丁の塀越しに、大きな柳の木が一本立っていた。夏の夕方などには、そこらに蝙蝠(こうもり)がひらひらと飛んだ。

 昭和十八年の初め、行列は大体そのへんまでであった。酒場の入口からその柳の木まで、一列にぎつしり並んで、せいぜい四十人か五十人ぐらいのものである。

 だから五時開店で、次々に入場し、飲み終ったら外に出て行列の末尾につき、また入場し、そんな風にして、飲もうと思えばいくらでも飲めた。いくらでも飲めるとなると、人間はそういくらでも飲まない。いい加減満足すると引上げるということになる。今日無理に飲まなくっても、明日もあれば明後日もあるからだ。つまりその頃は、飲酒は遊びであり楽しみであり喜びであって、反抗とか闘いとか自棄(やけ)の域には達していなかったのだ。明日という日があるのに、何を無理することがあろう。

 飯塚酒場はがっしりした建物で、染(はり)や柱も太い材木が使ってあり、総体にすすけて黒くなっていた。窓がすくないので、内はうす暗かった。入口にかかった『官許どぶろく』という看板も、黒くすすけて、文字の部分だけが風化しないで浮き上っている。店から更に奥の土間に踏みこむと、そこに大きな掘抜き井戸があって、その水でどぶろくがつくられていたのだ。

 その頃すでに、一人一回分の飲み量は制限されていた。一回入場すれば、どぶろくの徳利が二本、それに一皿のサカナ。サカナの種類は豊富で、その種類と値段が壁にずらずらと貼り出されてあり、どれもこれも質や量の割には安かった。戦時中の品不足の時代としては、もっとも良心的な飲み屋の一つと言えた。

 だから三月、四月の頃から、行列がしだいに伸び始めた。新顔が日に日に加わってくるからだ。伸び始めたなと思うと、行列ほばたばたっと伸びて行った。その伸び方の速度は驚嘆に価した。行列は伸びるだけでなく、それに比例して行列のつくられる時刻が、ぐんぐんせり上って行った。

 五時開店で、それまでは五時すこし前にかけつけると、最後尾の柳の木の位置に並べたのに、行列が伸長するにしたがい、柳は最前方にかすむようになってきた。柳はもう末尾の象徴でなく、ひとつの目標に変ってきていた。行列が徐々に動いて、やっと柳の位置に到達すると、人々はほっと肩をおとし、ポケットから金を数えて出したりして、入場の準備をととのえたりした。手早く券を買い、手早くどぶろくを飲みサカナを平らげねば、また表に出て走って行列の末尾につくことにおいて、他人におくれをとるのだ。

 のんびりと行列していた状態から、こんな状態に変るまで、ものの二箇月もかからなかったと思う。

 戦時日本のやりくりが苦しくなって、その昔しさがいきなり民需に皺(しわ)寄せになってきたのは、昭和十八年の春から夏にかけてだろうと、飯塚酒場の行列の具合から、私は今でも推定している。飲食業者への配給が手薄になったために、業者はその乏しい配給をもって生活するためには、高価なサカナなどを抱き合わせて売る他はなかったのだろう。もちろん品薄を利用する商人の商魂もあったわけで、そんな具合であちこちの店がいきなり値上げをしたり、居丈高(いたけだか)になってきたりしたから、伝手(つて)を持たない善良にして貧しい大衆は、安くて良心的な店をあちこち探し求めて歩き、探し当てるとそこに蝟集(いしゅう)するということになってきた。私は今でも眼を閉じると、その頃あちこちに残った僅かな良心的な店の名を、その店構えや雰囲気などを、次々に思い出すことが出来る。飯塚酒場の柳の木の枝ぶりなどもそのひとつで、それはありありと私の記憶の夕暮れの中で今でも揺れているのだ。

 

 この飯塚酒場に貧しい飲み手が蝟集してきた理由のひとつは、他の店にくらべて品物が潤沢(じゅんたく)であったからである。何故潤沢であったかと言うと、この店は政府の配給にたよらず、自ら生産をしていたからだ。

 生産をしていたと言っても、原料の米は割当てにたよる他はないが、なにしろ生産の歴史が古いので、その実績を無視するわけには行かない。あの頃は、諸企業や事業の改廃統合は、おおむねその実績を第一としていた趣きがあって、実績というものがなければ、どうにもならなかった。実績は最大の強みであった。飯塚には徳川時代以来の実績がある。やすやすと配給を削減するわけには行かなかったわけだ。

 そこで彼等(つまりその頃権力を保持していた者ども)は、配給を削減しないかわりに、製品を自己の組織用に捲き上げることによって、実質的な削減をした。すなわち飯塚酒場は、毎日二石八斗乃至(ないし)三石のどぶろくを税務署、警察、消防署などに義務として納めなければならなかった。毎日のことだから、大変な分量にのぼるのだ。そして蝟集した善良な飲み手への配当は、日に一石から一石五斗、多くて二石ぐらいなものだったと推定される。一人当り二合として、二石では千人分ということになる。

 千人というとたいへんな数のようであるが、東京中からこの酒場を目指して集まってくるから、ものの数に入らない。

 そこで行列の意味が、柳が末尾の時代から柳が目標の時代へと変化し、また飲むことの意味も内容的に変化してきた。楽しみや疲労回復のために飲むのではなく、「飲むために飲む」という形になってきたのだ。自分の身体がどぶろくを欲するか欲さないか、「飲むために飲む」のであるから、そういうことは問題にも何にもなりやしない。

 戦時中あるいは戦後の配給制度が、酒をたしなまない人を酒飲みにさせ、煙草をのまない人に煙草の味を教えた。それにちょっと似たような関係がここに発生してきた。人人は飲むために行列し、そして一回でも余計に飲むために、大急ぎで飲み干して行列の末尾に奔(はし)った。どぶろくは味わうためにあるのではなくて、早く嚥下(えんげ)されるためにそこにあった。飯塚のどぶろくはたいへんな熱𤏐(あつかん)だったから、それを他人より早く飲むのは、さまざまの工夫と技術と、咽喉(のど)や舌などの訓練を必要とした。

 

 妙な気取りというかダンディズムというか、そんなものがそういう具合にして行列の常連たちの間に、しだいに芽生えてきた。

 それは以前の楽に飲めた時分には絶対に見られなかったもので、つまり他人より早く飲むことを誇りにし、また走つて他人より早く末尾につくことを偉(えら)しとする。それが一種のダンディズムの形をとってあらわれてきた。

 酒飲みくらべではあるまいし、早く飲むことが誇りになるかどうか、ちょっと考えれば判る筈なのだが、それはまたたく間に常連の一般的風潮としてひろがるようになった。

 どぶろく一日分の絶対量に対して、需要者の行列がむやみに伸びたこと、そういう歪(ゆが)みの中において、そういう風潮は自然のものだったかも知れぬ。どうせ早く飲むからには酒の味はしない。酒の味がしないものなら、せめて早さにおいて競う以外に楽しみはないのである。一人だけゆっくりとどぶろくの味をたのしむということは、その頃はもう許されないシステムになっていた。

 何故かというと、定刻が来ると行列の先頭から、三十人なら三十人だけ入場させる。そしてそれらが全部飲み終って退場するまで、次の三十人は入ることが出来ないのだ。二十九人が退場したあと悠々と一人で飲んでおれば、次の三十人が入口から顔を出して罵声(ばせい)や怒声をあびせかける。気が立っているから、袋叩きにもあいかねない。

 すなわちこの酒場においては、早く飲める者でないと、どぶろくをビールみたいにあおれる者でないと、入場の資格はなかった。それが資格であるからこそ、その資格の最上を競おうという気特になるのも、ある程度はうなずける話だろう。

 日本記録や世界記録を競うように、短時間であけることを競争する。それは本当の常連、早くから馳(は)せ参じて先頭の方に並んでいる連中に、それはいちじるしかった。

 定刻が来る。先頭の何十人かが入場して、その分の合い間を詰める行列の動きが最後部まで波及しないうちに、先頭グループのトップはいちはやく店を飛び出して、末尾目指して疾走して行く。後尾の連中は、行列の動きではなく、トップが走ってくることによって、もう開店したことを知るわけだ。そして次々走ってくる。皆そろって傾いた恰好(かっこう)で走ってくる。均勢のとれた正常な走り方をする者はほとんどいない。たいてい右か左に傾いて、マラソンの最終コースの走者みたいに走ってくる。

「飯塚のどぶろくにはね」ある男が私に教えた。「焼酎がすこし混ぜてあるんだ。だから利きがいいし、長年飲んでいると、どうしてもあんな走り方になってしまうんだ。あの万ちゃんがいい例だよ」

 万ちゃんというのは飯塚酒場の長年の常連で、本来は俥夫(しゃふ)なのだが、本業にはあまりいそしまず、消防署下で八百屋をやっている弟の庇護(ひご)を受けながら、毎日飯塚に通っていた。アルコール中毒というより、どぶろく中毒というべき人物で、トップに立って走ってくるのは、たいていの場合この万ちゃんであった。万ちゃんの走り方は三十度ばかり左に傾いていた。

(万ちゃんは別として)万ちゃんやその他の連中の走り方を観察しながら、私は時々考えた。(皆そろって傾いて走るのは、自然にそうなるのではなくて、やはり一種のダンディズムじゃないのかな。気取り、あるいは、照れ)

 そして実際に自分の番になり、行列の視線を逆にしごいて走る時、傾いて走る方がやはり具合のいいような感じもあった。私の場合は、照れの気分もすくなからず混っていた。なにしろたくさんの視線を逆にしごくのに、胸を張って堂々と走るわけには行かない感じがたしかにあったのだ。やはり傾走がその場にふさわしかった。万ちゃんのはそんな気取りやポーズではなかった。長年のどぶろくが身体のどこかをむしばんでいて、運動神経の働きもすこしは鈍っていたらしい。彼は戦後のある日新宿で飲み、(飯塚は戦災で焼けたから)電車はタダ乗りして帰宅の途中、電俥から飛び降りたとたん、大型自動車に衝突して、彼らしい壮烈な最後をとげた。やはりどぶろくのために運動神経が弱まっていて、ついタイミングを誤ったのであろう。

 しかし神経はにぶっていても、彼のどぶろくの飲み方は、群を抜いて早かった。コツがあったのである。

 徳利から盃(さかずき)についで飲む、そんな正常の方法を彼はとらなかった。その方法はどぶろくが熱𤏐だから、かなり時間がかかるのだ。

 先ず器(うつわ)の大きいサカナを注文する。サカナの種類は問わない。器が大きければ大きいほどいいのだ。その器の中のサカナを指でぶら下げ、空いた器の中にどぶろくを注ぎ込む。それをあおるのである。器は盃より大きいから冷え方も早い。だからスピードが上るのだ。それであおって、サカナは指にぶら下げたまま飛び出し、走りながらそれを食べるのだ。

 空気の抵抗を極度に排除するために、航空機は非常に美しい流線形のかたちをとる。眺めるだけでもこころよい。万ちゃんのやり方もそれと同じく、その合理性において、ほとんど美しく壮烈であると言ってもよかった。

 では、万ちゃんはその飲み方の速さにおいて、衆人の畏敬の的になっていたかと言うと、それはそうでなかった。畏敬と正反対のものの的になっていた。

 皆もその速さを競い争っていたにもかかわらず、万ちゃんが畏敬されなかったのは、その極致の姿において、競い合いのバカバカしさがあらわに出ていたからだろう。極致というやつはどんな場合でも、奇怪でグロテスクなものである。人間という生身(なまみ)の場合においては特にそうだ。

 

 行列が伸び、後尾は角を曲り、更に伸びてまた角を曲ってくるようになると、どうしてもそれを整理する人間が必要になる。つまり世話人だ。

 それらの世話人は、行列の伸長につれて自然的に発生し、やがてそれらは一種のボスとなって行った。

 その世話人の発生、ボス化は、実に典型的な過程を示していて、私は今でも思い出しては興味をそそられる。

 ボスの元締めと言うべきは「棒屋」という男で、何で棒屋というのか知らないが、棒か何かの製造に従事していたのだろう。

 その下にレンガ屋、赤鼻、なんて言うのがいて、その下に万ちゃんがいた。万ちゃんは小ボスというより、ボスの手下であり、手下であることによって行列に割り込んだり、あるいはタダで飲ませて貰ったりしていた。

 彼がそういう位置を占め得たのも、実力によるものでなく、この酒場に何年何十年と通った「実績」による方が大きかったのだ。

 実績という言葉は、判ったような判らないような、たいへん日本的言葉で、私はこの実績ならびにボスの形成の有様を、いつか別の形でくわしく書いてみたいと思う。

2017/02/11

910000アクセス突破記念 熊本牧師 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月号『新潮』初出、同年九月河出書房刊の単行本「紫陽花」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第四巻」を用いた。

 登場する貨幣(銅貨)単位でも判るが、これは梅崎春生の少年期をモデルとしているから、大正一〇(一九二一)年(春生はこの年に福岡市立簀子小学校に入学。六歳)から、大正一五(一九二六)年よりも前(彼は昭和二(一九二七)年に修猷館中学校に入学している。十二歳)の時制として読むべきであろう。後半に出る「五厘銅貨」は大正十年頃には既に製造をやめているようであり、作中でそれを「正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばい」とするところ、牧師に行動を変に疑われるところから考えると、大正十三、十四年、梅崎春生小学四、五年生の頃がモデルと考えてよいように思われる。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが910000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年2月10日 藪野直史】]

 

 熊本牧師

 

 その教会は町なかにあった。

 それは幅三間ばかりの商店街で、商店街というより商人町と言った方がピッタリするような小さな呉服屋や荒物屋やアンパン屋や自転車屋、そんなのがごちゃごちゃ並んでいるまんなかに、その教会はぬっと聳(そび)え立っていた。教会そのものはそれほど大きな建物でなかったが、あたりの家家が小さいので、ことのほか大きく見えるのだ。それに建物の様式が周囲とかけ離れていて、屋根上の十字架や色ガラス、石階や小さな鉄柵に囲まれた花壇、古ぼけた町がこういう異物をかかえこみ、そしてたいへん当惑しているようにも見えた。実際に町は当惑していたのだろう。よほど古い町筋で、そこの住民たちはたいへん保守的で、それに排他心の強い傾向もあったから。僕がその教会の日曜学校に通っているというだけで、その町の子供たち、僕の同級生やあるいは下級生までもが、僕の背後から嘲笑的にはやし立てたりするのだ。[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチほど。]

「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」

 日曜日の朝になると、小学生の僕はだんだん心が重くなり、身体のふしぶしがだるくなってくる。日曜学校に行きたくないのだ。日曜学校で讃美歌をうたったり、お祈りをしたり、聖書のお話を聞いたり、そんな一時間が退屈の故もあったが、その往き帰りに同級生たちがそそぐあの嘲弄的なまなざし、それが耐えがたかったのだ。思うだけでも気が滅入(めい)ってくる。他の同級生にとっては、日曜はたいへん愉しい日なのに、僕だけは日曜というやつが重苦しい。重苦しいと言ってもそれは午前中だけで、午後からはすっかり愉しくなるのだけれども。つまりその頃の僕の日曜は、午後から始まると言ってもよかった。

「日曜学校だよ」

 とお母さんが僕を揺りおこす。乱暴に揺りおこす。

「遅れると熊本牧師さんに叱られるよ!」

 僕は渋々と食卓に向う。腹が痛いことはないか、風邪の徴候はないか、そんな具合に自分の身体を探るようにしながら。病気になれば日曜学校を休めるのだ。(そのかわり牛後の愉しさもふいになる危険はあったが)。その頃僕の家の朝食は、週日はいつもオカユだった。茶を入れてたいた茶ガユというやつだ。それをタカナの古漬けか何かをオカズにして、さらさらとかっこむ。その茶ガユが僕には苦手だった。今でも僕は茶ガユというやつは、子供に与えるのは不適なものだと思っている。毎日学校の行き道に、道沿いの長屋の部屋々々で、その住人たちが真白な御飯や味噌汁を旨(うま)そうに食べている。それを見て僕はうらやましいと思う。唾が出てくる。なぜ家(うち)では硬い御飯を朝食べないんだろうなあ。その方がおいしいし、力もつくのになあと思う。お婆さんが佐賀の出で、それでしきたり上朝は茶ガユにするとのことだった。僕は子供心にいつも佐賀をのろっていた。

「さあ、御飯だよ」

 日曜日の朝だけは茶ガユでなく、白くて硬い御飯なのだ。僕のお父さんは官吏で、日曜日は休みで朝寝が出来るから、そこで御飯ということになっていたのだろう。茶ガユというやつは御飯にくらべて、はるかに簡単に手軽に出来るし、それにオカズがほとんど要らないのだ。しかし真白な御飯でも日曜日の朝は面白くない。飯のあとにイヤな行事が待っているからだ。

「さあ。服はここにあるよ」

 飯が済むとお母さんが言う。ふつうの週日、月曜から土曜までの学校行きは、小倉の服に下駄ばきなのに、日曜学校行きとなるとサージの服で、しかもそれが折襟で、穿(は)くのは靴と来ている。そんな恰好(かっこう)であの商人町を歩くと、どんなことになるか。[やぶちゃん注:「小倉」小倉織(こくらおり)。江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)の特産で縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布を指す。「サージ」オランダ語“serge”(セルジ)。しばしば「セル地」と書くが「地」(布地)は当て字。主に梳毛糸(そもうし:羊毛から長い繊維を縒り分けた上でこれを梳いて縮れを伸ばし、平行に並べて作った毛)を用いた薄手の毛織物。英語は同綴りで発音は「サージ」である。「折襟」ここは立折襟(おりえり)で所謂、学生服様(よう)の詰襟のことであろう。]

「ふだんのでいいよ」毎回僕はお母さんに哀願する。「靴なんかイヤだ」

「駄目だよ。教会に下駄穿いて行く人なんかありますか」

 お母さんはなかば暴力的に、僕にそのゼイタク服を着せてしまうのだ。そして靴も同じく無理矢理に。そしてポケットに二銭銅貨をひとつぽとんと入れてくれる。献金用にだ。実際あの頃の二銭銅貨は大きかったなあ。ずしりと持ち重(おも)りがして、まるで文鎮(ぶんちん)みたいだった。それをポケットにまさぐりながら、僕はしょんぼりと出かける。腹が痛いといいんだがなあ、などと考えながら、まるで屠所にひかれる羊みたいに。

 そして僕はあの商人町に足を踏み入れる。同級生の眼にとまらないようにと、軒下をうつむき加減にして、そそくさと足早に歩く。でも駄目なのだ。かならず誰かに見つかつてしまう。たとえばアンパン屋の息子などに。アンパン屋は教会の隣にあって、その息子が僕と同級で、そいつがまたあまり出来が良くなくて、アンパンというあだ名がついていた。

 「またアーメンソーメンかい」アンパンは僕を見付けてにやにやしながら言う。「アーメン、ソーメン、ウドンソバ」

 一週間で日曜をのぞいたあとの六日なら、僕もひとかどのがき大将で、アンパンのそういう雑言を許しはしないのだが、日曜となるともう駄目なのだ。ゼイタク服を着て皮靴を穿いているというだけで、僕の気持はたちまち萎えひるんでしまう。ストレートジャケットを着せられたみたいで、手も足も出なくなってしまうのだ。僕は歯を食いしばり、恥で顔をあかくして、こそこそと教会の門に飛び込む。門に飛び込んでしまえば、もうこっちのものだ。いく らじたばたしたってアンパンたちはここに入れないのだから。(帰りがまた辛いのだけれども)。そして僕は熊本牧師のところにあいさつに行く。[やぶちゃん注:「ストレートジャケット」“straitjacket”は、囚人などでも粗暴な者や、暴力傾向の強い精神疾患を持った患者に強制的に着用させるズック製などの拘束着のこと。]

「牧師さん。こんにちは」

 熊本牧師は背が高く、肩幅もがっしりとしている。真黒な鬚(ひげ)を頰から顎(あご)に生やして、まるで熊襲(くまそ)のようだ。その熊本牧師が渋団扇(しぶうちわ)みたいな大きな掌を僕の頭にのせる。

 その教会の正牧師はずっと病気中で、この熊本牧師がその代理としてやっているとのことだった。[やぶちゃん注:「正牧師」プロテスタントで当該の教会の主任牧師を指す。熊本牧師はその下で経験を積むために奉仕している副牧師ということであろう。]

 九時から日曜学校が始まる。日曜学校と言っても、十時から始まるふつうの礼拝の大人たちがもうやって来ていて、僕たちの世話をやいたりするから、まるで大人と子供とまぜこぜの学校みたいだった。子供たちはこの町のはいなくて、たいてい他の学区の少年たちで、この町の子供たちとちがってツンとすましていて、やはりゼイタク服と皮靴を穿いていた。僕もゼイタク服は着ていたが、気分的にはこいつらと全然親しめなかったのだ。だから教会堂の中でも僕は孤独だった。

 やがてお祈り(天にましますわれらの父よ、というやつ)、それから讃美歌(学校の唱歌とちがうあのキナキナした感じの歌)、それから小部屋にわかれて聖書の話、また元に戻って讃美歌(その時に献金箱が回ってくる)、最後にピラピラの絵入りカード(神は愛なり、などと印刷してある)を貰って、それでおしまい。なんとも退屈な一時間だった。[やぶちゃん注:「キナキナ」方言と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。]

 こんな退屈な一時間に、二銭銅貨を献ずるなんて、もったいなくて仕方がない。

 そこで僕はその二銭銅貨を途中でくずして、つまり一銭分だけニッケ玉か飴玉を買い、それを食べ、献金は一銭ということにしていた。献金箱には各自がそっと入れるのだから、二銭だって一銭だってかわりはない。

 今考えると、入れたふりして次に回すことが出来るのだが、当時の僕は純真で、そこまで悪智慧が回らなかった。

 そんな具合で、この日曜学校においては、僕はあまり良い生徒ではなかった。

 聖書の話中に居眠りをしたり、暗誦(あんしょう)させられてもてんで出来なかったり。

 それに総員起立で讃美歌を歌っている時などに、突如として僕は身をかがめ、椅子の下にもぐり込んだりするのだ。何故かというと、隣のアンパン屋の物干台の上から、アンパンが窓ごしに会堂内をのぞき込んだりするからだ。もちろん僕がいるかいないか、どんな顔をして讃美歌をうたっているか、それを見てやろうとの魂胆からだ。すなわち僕は椅子の下にもぐり込まざるを得ない。

 そういう僕を、熊本牧師は恐い眼をしてにらみつける。会堂の秩序を乱したものとして、ぎろりとにらみつける。にらみつけるだけならいいが、居残りを命じて、僕を叱りつけたりするのだ。

「お父さまやお母さまに言いつけますぞ!」

 それが熊本牧師のきまり文句だった。

「そんなことをしてもいいと思っているのか。この前の日曜も椅子の下にもぐり込んだではないか。一体何のためにもぐり込むのですか?」

 僕は答えられない。

 その答えられないということにおいて、熊本牧師は僕を誤解したんじゃないかと思う。僕をなるだけ女生徒の近くに腰かけさせないようにし始めたのだ。僕のそばに女生徒がいると、直ちに恐い眼になって僕に命じる。

「××君。君の席はあちら!」

 僕は情なかった。そういう具合に誤解されたことにおいて、僕は情なかった。アンパンがのぞき込むからこそ、僕はもぐり込まざるを得ないのだ。近くに女生徒がいようといまいと、それは全然関係ない!

 だから僕はいつか熊本牧師をすこしずつ憎み始めるようになっていた。そういう僕をひねくれ子供として、熊本牧師は憎んでいたにちがいない。

「また君はお祈りの中に首をちぢめたりして、皆を笑わせようとしたな。お父さまに言い付けるぞ。君のおかげで場内の空気が乱れては、わたしの立つ瀬がないではないか!」

 絵入りカードがくばられる前に、熊本牧師はその日の献金額を皆に報告する。たとえば次のような具合だ。

「今日の献金は総計一円五十五銭でした。皆さんのこの浄らかな献金は、いつもの通り、貧しい可哀そうな人たちに贈りたいと思います」

 熊本牧師はおちょぼ口でそういう報告の仕方をする。表面におちょぼ口は全然似合わないのだ。そして熊本牧師は食堂の入口に立ち、帰って行く僕らに満足そうに、一枚ずつ絵入りカードを渡す。

 ある日曜の献金報告の時、熊本牧師は大へん困ったように、口をもごもごさせた。

「本日の献金は、ええ、合計一円三十五銭と――」熊本牧師はちょっとためらった。「ええ、一円三十五銭と、五厘でした」

 わあ、と皆が笑い出した。

 熊本牧師は威厳を傷つけられたように、顔をまっかにして唇を嚙んだ。思いなしか僕の方をじろりとにらみつけたようである。

 もちろん僕もわらっていた。その五厘銭は僕が入れたのだ。二銭銅貨でニッケ玉を三個買い、おつりの五厘銭を献金箱に投げ込んだのだ。五厘の価値しかないと僕が判定したわけだ。それに五厘に格下げすれば、ニッケ玉が一個余計に手に入る。

 その頃五厘銅貨というやつは、もう正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばいで、なにか滑稽で愛橋のある銅貨だったのだ。[やぶちゃん注:画像。]

 その日曜から三回にわたって、教会の献金額には五厘という端数がついた。その度に熊本牧師は少からず威厳を損じた。

 それならば五厘という端数を省略して報告すればいいのに、やはり熊本牧師は神の子だから、虚偽の報告は出来なかったのだろう。それを思うと気の毒でもあるが、しかし彼にも充分な責任がある。彼も罪を犯している。誤解という罪を犯している。

 その次の日曜日はもっとひどかった。

 献金箱の中に天保銭が一枚入っていたのだ。

 熊本牧師の面目は、その瞬間においてまったく丸つぶれになった。そして彼はすでにその犯人の目星をはっきりつけていた。

 僕は居残りを命じられた。絵入りカードも貰えずにだ。熊本牧師は乱暴にも僕の耳を引っぱって、いきなり隅の小部屋につれて行った。

「君だな。献金箱に天保銭を入れたのは!」

 熊本牧師は顔をまっかにして、こめかみをびくびくふるわせながら、そう怒鳴りつけた。

「君だろう。君以外にこんな大それたことをやる者はいない。ああ、何ということだ。聖なる神様に天保銭だなんて!」

 僕は黙っていた。かたくなに黙って、ポケットのニッケ玉をまさぐっていた。一箇食べただけだから、それはまだ三箇残っていたのだ。

 とたんに熊本牧師ががくんと床に膝をついたので、僕はびっくりした。彼は大げさに指を組み、天井に顔を向け、白眼を出すようにしながら、お祈りを始めたのだ。それは神様に向って、僕のような悪い子供のいることを許して呉れ、という風(ふう)な意味のものだった。堅い木椅子に腰かけたまま、僕はしだいに居ても立ってもいられないような、むずむずした気分になってきた。うらがなしいような自責の念もあった。しかしそれはその奇妙な気分の主調ではなかった。もっと別の、もっと生理的な、汗がじりじり滲み出てくるような、えぐいような、嘔吐(おうと)を伴ったようなイヤな気分。そして瞬間僕はかるい貧血を起して、そのまま椅子から辷(すべ)り落ちて、床にしゃがみ込んでしまったのだ。熊本牧師はあわててお祈りを中止して、僕を抱き上げたらしい。黒い毛織の服のにおいがふわっと僕の鼻にただよった。

 

 次の日曜日の朝、僕は腹痛をおこした。

 その次の日曜日は、腹くだしを。

 その次は、鼻カタルを。

 だから三回つづけて日曜学校に行かないで済んだ。ふしぎなことにはそれらの病気は、午後になるとピタリと快癒(かいゆ)した。まったく奇妙なぐらいだった。

 その次の日曜日も、僕は朝から身体のあちこちが具合が悪かった。

 寝ている僕を見て、お父さんがにがにがしげに言った。

 「また日曜病気か。仕様がないな」

 そしてお母さんを呼んで言いつけた。

「もう日曜学校に通わせるのは、止めにしなさい。ほんとに仕様のない子供だよ、こいつは」

 その日以来、僕はずっと日曜学校に行かないですむことになった。日曜病気もそれ以後全然起らなくなった。僕は日曜の度にたいへん健康だった。あのゼイタク服はお正月に着用するぐらいなもので、そのうち身体に合わなくなったから、割に新しいまま弟に下げ渡した。

2017/01/18

ブログ900000アクセス突破記念 梅崎春生 風早青年

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月発行の『別冊文藝春秋』(第四十七号)に初出。後に単行本「侵入者」(昭和三二(一九五七)年角川書店刊)の所収された。

 作中に出る「マンボ・イタリアーノ」(Mambo Italiano)は一九五四年に私の好きなアメリカ人ジャズ・シンガーのローズマリー・クルーニーRosemary Clooney)が歌い、全米ビルボード・チャート最高位十位を記録するヒットとなった曲で、同年中にペギー葉山が、翌年には雪村いづみがレコード録音しており、ペギー葉山はまさにこの初出の年の大晦日の「NHK紅白歌合戦」で本曲を歌っている(リンク先は総てYou Tube の音源。ローズマリー・クルーニーのそれは動画)。

本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが900000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年1月18日 藪野直史】]

 

   風早青年

 

 初めに荷物が送られてきた。大きな荷物、小さな荷物、固い荷物、やわらかい荷物。それらがどさどさと我が家に運び込まれてきた。納戸(なんど)はほこりだらけになった。

 二三日経って、風早青年の姿が、風の如く我が家の玄関にあらわれた。ズックの手提(てさ)げをひとつぶら下げ、手拭いを首に巻き、シャツ姿の軽装である。僕の顔を見て、エへへとわらった。眼尻をゆるめるようにしてわらった。

「とうとうクビになりましてね」と風早青年は左手で首の根をチョンチョンと叩いた。「それで思い切って、東京に出て来ましたよ」

「君のクビが飛んだって、それが僕に何の関係があるんだい?」僕は言った。「勝手に荷物なんか送りつけられては困るねえ」

「はて。先にお願いのハガキを出しといた筈ですが――」

「そんなハガキ、受取らないよ」

「はて、おかしいな」風早君は手提げを下に置き、あちこちポケットなどを探す仕種(しぐさ)をした。「すると、出し忘れたのかな」

 僕が黙っていると、彼はますますあわてて、ズボンの折返しなんかを調べたりしている。そんなところにハガキがはさまる筈があるものか。仕方がないから僕は言った。

「まあ一応上れよ」

 風早君は玄関先で靴も靴下もとり、手拭いを首から外し、足をばたばたはたきながら、のそのそと上ってきた。六年前からくらべると、身体もやや大きくなり、うすら鬚(ひげ)なんかを生やして、大人びてきている。

 畳に坐るとピタリと両手をつき、ていねいに頭を下げ、下げたまま諳誦(あんしょう)みたいな口調であいさつをした。

「ながらく御無沙汰をいたしました。今後ともなにぶんよろしくお願いいたします」

『今後とも~』と僕は胸の中で言った。『今後ともはイヤだよ。俺は君に何かしてやる義務もなければ、責任もない』

「君の荷物はあちらにあるよ」僕はむっとした顔で納戸の方を指さした。「飯は食ったか?」

 食っていないと言うので、僕はおひつとおかずを出してやった。風早君はおひつの中の御飯をおどろくべく多量に食べた。おかずはカマスの干物にツクダ煮だ。カマスの干物はあまり新しくなかった。

「東京の魚はおいしくないですね」食後の番茶を飲みながら、風早君は言った。「あちらのとくらべものにならん」

 あちらとは彼の故郷で、九州の海浜の町で、魚がよく獲れるところだ。そりや獲りたての魚の方が旨いにきまっている。

「東京の魚。東京の魚ってどこで食ったんだ。まだ東京に来たばっかりだろう」

「来たばっかりです」彼はきょとんとして言った。「ここでカマスを食べました」

 僕はうんざりして、もう何も言う元気がなくなった。それから彼は納戸に入り、荷物の梱包(こんぽう)を解き始めた。口笛を吹きながらその作業をやっている。時々、チェッとか、アリャとか、乱暴だなあ、なんてひとりごとを言ったりしている。しばらくして僕がのぞくと、荷物をすっかり整頓し、納戸のあちこちに配置し、当人は納戸の主みたいな表情であぐらをかき、キザミ煙草をくゆらしていた。若いくせにキザミ煙草とは生意気な! その煙草盆も、我が家のではないところを見ると、梱包の中に入れて持ってきたにちがいない。彼は僕の顔を見るなり、先手を打つように言った。

「実際鉄道会社は乱暴ですなあ。蓄音器なんかガタガタになって、こりゃ使いもんにならん」

 見ると隅の茶簞笥(ちゃだんす)(これも彼のもの)の傍に、小型の電蓄がちゃんと置いてある。電蓄がどうなろうと、僕に何の関係があるというのか。彼はけろりとして、電蓄の上の一枚の紙片を僕にさし出した。

「ハガキ、ありましたよ。出し忘れて、蒲団(ふとん)の間にはさまっていた」

 うっかりと僕はそれを受取ってしまった。ひっくりかえして見ると、今度会社をクビになったから上京したいということ、東京には知人もなければツテもないから、メドがつくまで同居させて呉れということなどを、下手くそな字と文章で、くにゃくにゃと書きつけてある。僕が読み終えると、彼は茶簞笥からがさがさした紙包みをサッと僕の前にさし出した。

「オヤジから呉々(くれぐれ)もよろしくとのことでした。これは詰らないものですが」

 それもうっかりと受取ってしまった。

 それで風早青年はまんまと僕の家に居付いてしまった。

 納戸を居城として、毎日々々どこかに出かけて行く。

 狐みたいな顔をしているくせに、なかなかのおしゃれで、ポマードや化粧品や、小型の鏡台までも買い込んだ。金使いも割に荒いらしい。

 クビになったのなら無収入の筈だが、どこから金を都合してくるのか。その点を質問すると、彼はへへッと首をすくめて言った。

「退職金がありますし、それに失業保険もね」

 失業保険というやつは、月に三回か四回に分割して支払われるのだそうで、その度に彼は職安にそれを受取りに行く。毎日外出するのは職安その他に職を探しに行くというのだが、どうもそれは信用出来ない。

 映画を見たりパチンコをやったり、そんなことばかりをしているらしい。酔っぱらって戻ってくることもある。納戸の中でへんな身振りをしながら、ヘイとかウーとかうなっているのを、僕は見たことがある。

 ある日家内が僕に言った。

「あの子ねえ、どうも失業保険が切れるまで、東京でブラブラ遊ぶつもりらしいわよ」

「何故それが判る?」

「うちの子供にそんなことを話したらしいのよ。半年は東京で遊ぶって」

「おい、おい。半年もうちで遊ばれちゃ困るよ」

「あたしも困るのよ。だってあの子はひどい脂足(あぶらあし)で、歩くと畳や廊下がべたべたになるのよ。それにあの子はへんなにおいがする。動物園の狐みたいな」

 メドがつくまでという約束だったが、当人にはメドを早くつける気持はないし、その努力もしていないらしい。仕方がないから追い出そうという気特にこちらがなると、それを察するのか偶然なのか、彼は何か土産物を持って戻ってくる。子供に絵本を買って来たり、玩具を買って来たりするのだ。子供がワッとよろこぶものだから、ついにこちらも切り出しにくくなってしまう。

 子供を手なずけることによって、彼は延引策をはかっているらしい。

 童謡のレコードを買ってきて、それをあのガタガタの蓄音器にかける。子供は大よろこびだ。ところが器械のどこかが狂っているので、レコードは波を打ちながら回り、したがって歌声も酔っぱらいのそれのように、呂律(ろれつ)が乱れるのだ。その呂律の乱れを子供たちは喜んでいるのかも知れない。

 彼がいないところで子供に歌わせると、その蓄音器の影響で、へんな歌い方になってしまっている。教育の上からもそれは面白くないことだ。僕は言ってやった。

「その電蓄、修繕に出したらどうだね?」

「出そうと思ったんですが、修理屋に聞いてみると、四千円もかかるそうで、もったいない」

「四千円かかったって、使い物にならないよりいいじゃないか。修繕しない方がよっぽどもったいないぜ。それに子供にへんな歌い癖がついてしまって、教育上も面白くないよ」

 次の失業保険がおりたら修繕する、という約束になったが、その前に彼の方が家を出て行くことになった。失敗をやって家内を怒らせたのだ。

 どういう失敗かと言うと、彼はごきげん取りのつもりで、子供にマンボ・イタリアーノと言う歌を教え込んでしまったのだ。これではその母親が怒るのも当然だ。

「何ですか、あの子!」母親は激怒して僕に訴えた。「年齢も行かぬ子に、ヘイ・マンボなんかを仕込んで!」

 仕方がないから僕も覚悟をきめて、風早青年を書斎に呼びつけた。

「君の生活態度を見ていると、もうこれ以上君が僕の家にいるのは、不合理のように思う」と僕は言った。「君は来た当座はキザミ煙草などを吸っていたが、近頃では洋モクを吸っているようだね」

「はあ。洋モクの方がおいしいものですから、どうしても」

「しかしだね。洋モクを吸えるような経済状態なら、なにも僕の家にいないで、よそに部屋を求めたらどうだね?」

「へえ」きょとんとしている。

「それに君は仕事を探しに毎日外出しているというが、ウソだろう。毎日遊んでいるのだろう」

「いや、探すには探しているんですが、なにしろこの不景気で、職が見付からないんですよ。遊んでいるなんて、飛んでもない」

「だって君のポケットには、喫茶店のマッチや、映画のプログラムや、パチンコの玉なんかがよく入っているぜ。遊んでないとは言わせないよ」

「ひでえなあ」あわててポケットを押えて、彼は大声を立てた。「他人のポケットを無断でしらべるなんて、ひでえなあ」

「ひどいことはないよ。しらべるなんて人聞きが悪い。のぞいて見ただけだ」

 それからマンボ・イタリアーノの件などを取り上げ、それを極め手にして、ついに彼を説き伏せることに成功した。納戸がタダであることに彼は大いに未練があるらしかったが、ヘイ・マンボの弱味があるので、ついに退散の気特になったようである。

 それから三日後に、彼はふたたび荷物をまとめて出て行くことになった。

 出て行くすこし前に、彼は蓄音器をかかえて、僕の部屋にやって来た。

「ながながお世話になりました」彼はピタリと両手をついて、ばかていねいな頭の下げ方をした。「二箇月も御厄介になったお礼心に、この電蓄を差し上げることにいたします」

「それは有難う」僕は頭を下げた。「喜んでいただいとくよ」

「それについてですけれどね」彼は電蓄をいとしげに撫でさすった。「この電蓄はちょっとこわれているでしょう。それでその分だけの金額を僕にいただけませんか」

「え?」

「ええ、つまりね、この電蓄は、故郷(くに)からあなたのところに送ったために、こんなにガタガタになったのでしょう?」

「それはそうだ」

「だから、つまり、こわれたのは、あなたの責任ということになりますね。あなたがいなければ、この電蓄はこわれるような運命にならなかった。そういうわけでしょう?」

「おいおい、それはおかしいよ」

「おかしくはないですよ」彼は断乎として言った。「昨夜考えてみたが、理窟としてはそうなるんですよ。その電蓄をあなたに差し上げる。そのかわりに、こわした責任をあなたに持って貰う。これでピッタリと計算が合うんですよ」

 実に自信あり気な口調だったし、そう思い込んでいるのを説得するのも面倒なので、僕は千円紙幣を四枚とり出して、彼に渡してやった。彼は器用な指付きでそれを数え、ポケットにしまい込み、またばかていねいに頭を下げた。

「へっ、確かに」

 その日の午後、彼は意気揚々と、荷物と共に我が家を出て行った。いつの間につくったのか、女友達が二人も手伝いに来たのには僕もおどろいた。もっともその二人ともあまり美しくはなく、それに手伝いとは名ばかりで、キャアキャアと歌ったり騒いだりしてばかりいた。

 その日以来、風早青年は一度も僕の前に姿をあらわさない。別段こちらも用事はないのだから、それでも結構だ。

 れいの電蓄は、がらんとした納戸の片すみに、今でもこわれたままで置かれてある。四千円出せば修繕出来るのだが、風早青年に四千円をとられ、また別口に四千円を支出するのは、何だかもったいない気がするから、そのままにしてあるのだ。こわれたままだから、物の役には立たない。どうも僕は風早青年から、四千円をタダで巻き上げられたような気がして仕方がないのである。

2017/01/10

小さい眼   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年一月号『新潮』に発表。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻に拠った。

 文中に出る「厚司」はアイヌ語語源で、平織り又は綾織りの厚い木綿織物。紺無地或いは単純な縞柄で仕事着として用いる。冬の季語である。]

 

 小さい眼

 

 初めに誤解があった。思い違いをしたのは、おれじゃない。相手の方だ。相手の思い違いが判った時、おれはすぐ訂正すればよかったのだ。

「そうじゃないんだ」

 しかし、おれはしなかった。これはまあ気合のもので、一瞬の機を失すると、もうどうにもならない。強いてやると、たいへん具合の悪いことになる。おれは対人関係で、具合の悪いところに落ちるのはイヤだ。自分が落ちるのもイヤだけど、相手が落ちるとそのはねっかえりで、なおのことイヤになるのだ。

 相手というのは、婆さんだ。婆さんと言っては悪いかも知れないが、その頃はおれも若かったからそう見えた。地味な着物をきちっと着て、白い上っ張りをつけ、その上に襟巻を巻いている。小肥りに肥っていて、したがって顔も丸くつやつやしていて、よく熟(う)れたドングリの実のような感じがする。そのドングリ顔についた小さな眼がおれを見て、それからちらと時計を見上げた。時計は九時五分を指していた。

「まあまあ、お気の毒に」

 婆さんは視線を戻してそう言った。何が気の毒なのか、とっさにはおれに判らなかったが、あわれまれているのが自分だということだけは、ぼんやりと判った。そういう不安定な事態に時々遭遇するが、その時のふるまいかたがむつかしい。まだ平衡を保っているから、こちらからぶち破ることはない。そんな気の弱さが、いつもおれにはある。おれは自分の衣服をしらべ(裏返しに着てやしないか)また鏡にそっと顔をうつした。丁度都合よくそのミルクホールには、壁に鏡が帯状にはめこまれていて、そこにうつったおれの顔は、不精髭こそ生えていたけれども、とくに汚れていたり、またへんなものがくっついていもしなかった。顔や身なりで気の毒がられているのではない。素早くそのことをたしかめて、おれは何気ないような歩き方で、あやふやに椅子に腰をおろした。せまい店だから、婆さんに遠く離れるというわけにはいかない。一卓をへだてて、婆さんに背を向ける椅子をえらんだ。おれはミルクコーヒーを飲もうと思っていたのだ。

「ミルクコーヒー」

 おれが声に出してそう注文する前に、背後で婆さんががたがたと立ち上った。傍を通り抜けて、そのまま店を出て行くのかと思ったら、ゆっくりと身体を回して、おれの前の椅子に腰をおろす。椅子がぎゅうとふやけたような音を立てた。

「あんたったら、運が悪いねえ」

 おれは顔を上げたまま黙っていた。返事しようにも、しようがなかった。

「あんた、学生さんかい?」

 おれはうなずいた。すると婆さんは腰を浮かし、手を伸ばしておれの肩にふれようとした。婆さんの手は短いし、おれが肩を引いたものだから、ついに接することはなかったけれども。

「うちにおいで!」

 婆さんはそのままの姿勢で、言葉に力をこめた。力をこめても怒っているわけじゃない。小さな眠が善意と憐憫(れんびん)のようなものにあふれて、おれをじっと見入っている。

「うちにおいで。うちに来ればどうにかなるよ!」

 事情が判らないまま、その語調につられて、おれは何ということなく立ち上った。まだためらうものがあって、おれは立ったまませまい店中を(未練げに?)見回した。客はおれたち二人だけで、あとはがらんとしている。各卓の上には空のコップや空の皿。空の皿には赤いものがくっついている。ジャムだ。

「あ。ここではジャムトーストを食わせたんだな」

 とおれは思った。その頃、というともうずいぶん昔になるが、戦争でそろそろ物が窮屈になって来て、配給制度が強化され、切符なしで食べられるものが底をつきかけていた時分なのだ。婆さんが坐っていた卓にも、その空皿が三つ並んでいた。婆さん一人で三つ食べたのか、三人で食べて二人は出て行き、婆さんだけ残っていたのか、それは知らない。婆さんがガラス扉をがたがたと引きあけて、じれったそうに振り返ってさしまねいた。

「何してんだよ。もうおしまいだよ。おいでったらおいで!」

 婆さんの眼がも少し大きかったら、普通の眼の大きさだったら、おれはそこで踏みとどまったかも知れない。おれはもともと小さな眼に弱いのだ。なぜ小さな眼に弱いのか、それはこの話と特に関係がないから省略するけれども、ついおれはふらふらと婆さんについて行く気になった。おれは血のめぐりはいい方じゃないが、婆さんが何か思い違いをしていること、その思い違いがジャムトーストに関係あるらしいことは、うすうす判っている。だからおれはここで訂正すべきだったのだ。婆さんの丸い顔、その両側についた小さな双の眼が、おれにその機会を失わせた。おれが店の外に出ると、婆さんがガラス扉をしめた。つまりおれは手を使わずに、ふところ手のまま、店の外に出たことになるのだ。大切にされているみたいだ。外ではかすかにつめたい風が吹いていて、日曜日の朝だから、あまり人通りはなかった。扉をしめると婆さんはおれを見上げた。おれは背が高いが、婆さんは肥っていても五尺そこそこだ。人は見上げる時、ふつう視線をしゃくり上げるようにするものだが、この婆さんはそうでなかった。

「ここはね、九時までに来なきゃ、トーストは出ないんだよ」

 婆さんはまっすぐな視線で、おれに説明した。近くで見ると、婆さんの顔の皮はとても厚ぼったい感じがする。俗に面の皮が厚いということとは違う。皮膚そのものが分厚くて丈夫そうだという意味だ。動物でも、眼が小さいのや細いのは、皮が厚いのが多い。象もそうだし、河馬(かば)なんかもそうだ。皮膚が厚いからその末端が盛り上って、眼の領域をせばめて来るのだろうか。

「はあ」

「あんた、日曜だから、朝寝坊したんだね、きっと」

 しだいに事情が判って来る。別段トーストを食べに来たんじゃない。しかし店の中でならそうことわれたけれど、ふところ手で外に出た今は、そうは言えないのだ。何のために外に出たのか説明出来なくなるし、婆さんの思い違いをここまで引き延ばして、それでぴしゃりとさえぎれば、とたんに向うは具合悪くなり、それがたちまちおれにはねかえって来るにきまっている。

「寝坊したわけじゃないですけどね」

 おれは口の中でもごもごと抗弁した。

「ここはいつでも、九時までに来れば、トーストが食えるんですか?」

「毎日じゃないよ。ある日とない日があるんだよ。知ってるくせに」

 婆さんは慣れ慣れしくおれの腕をひっぱたいた。

「だからあんたは、あわててたじゃないか。ちゃんと知ってるよ」

 あわててた? おれが?

 今日はトーストが出る。九時前に来た運のいい奴たちがそれにありついて、食べ終ると満足して、ぞろぞろと出て行ってしまう。婆さんは年寄りだから食べるのが遅い。一人残ってやっと食べ終った時に、くたびれた着物を着た不精髭の若者が、血走ったような眼付きで、せかせかと入って来る。その時の婆さんの気持の動きや変化。自分は食べて満足した。この若者は食いはぐれた。湧然(ゆうぜん)とわき上って来る憐憫、同情、側隠の情、そう言ったもの。同一の地平での共感でなく、高みから見おろしたようなその感情群。

「どうして妙な顔をするんだい?」

 婆さんの手がおれのたもとを頼む。

「恥かしがらなくてもいいんだよ。こんなことは、よろずお互いさまなんだから」

 かさねがさね誤解されている。おれは当惑する。その当惑を顔に出せば、婆さんは更に誤解するだろう。おれは出来るだけの無表情を保ちながら、婆さんを見おろしていた。婆さんの眼の中に、やがてある過剰な色があふれて来る。――

 

 あの男の眼も、そうだった。

 浅草の飲み屋で、おれは友達と酒を飲んでいたのだ。寄宿舎の食堂にあるような細長い木のテーブルの、その両側に腰かけを置いて飲ませる式の安酒場だ。その男はテーブルの向う側に腰かけて、山かけか何かで銚子をかたむけていた。おれはその男に全然注意を払っていなかった。注意を払わなくていい仕組みだったし、そういう雑然とした空気の飲み屋だったから。注意を払う方がかえってとげとげしいようなものだった。

 ところでおれたちは、持ち金がたいへん乏しかった。

 持ち金がすくないから、肴など取らずに酒ばかり飲んでいたのだが、飲み進むにつけ、だんだん在り金が底をついて来た。そこでおれたちは顔を近づけ合わせ、ぼそぼそと相談して(大声で相談するわけにはいかない)帰りに食う予定だった牛飯代を、酒の方にふり替えた。時刻が時刻で、いま時下宿に戻っても飯は出ないから、そのふり替えはおれたちにとってかなりの犠牲だった。

 運ばれて来た銚子も、十分ぐらいで空(から)になってしまった。

 牛飯代と引き合うぐらいの酒だから、値段としてはたいへん安い。安いから、水っぽいのだ。おれたちはまだ満足しなかった。

 おれたちはまた顔をつき合わせた。

「帰りは歩くことにして、も少し飲むか」

 バス代を酒にふり替えようというわけだ。おれたちの下宿は本郷にあった。浅草から本郷までかなり歩きでがある。もう一押し酔いを深めて、歩くのが苦にならない程度になるかどうか、お互いに自信はなかった。だからなおぼそぼそと相談を続行した。

 その時その男が声をかけて来たのだ。

「にいさん。これでどうぞ」

 男は勘定をすませて立ち上っていた。右手をおれたちの方に突き出している。掌には五十銭玉が二つ乗っかっていた。

「こ、これで飲んで、あとバスで帰んなさい」

 この時おれは初めてその男に気がついたのだ。男は四十前後で、厚司(あつし)を着ているところから見ると、小さな商店主か何かだったのだろう。売りかけを集金に行って、その帰りに一杯かたむけたという恰好(かっこう)だった。酔いにあからんだ善良そうな顔に、小さな眼が二つついていて、それは熱っぽい光を帯びておれにそそがれていた。熱っぽいというと積極的にひびくが、そういう感じじゃない。働きかけを持たない、そこで起きてそこで完了する、何か重苦しいような過剰さ、それがその男の眼を熱っぽく見せかけていたのだ。

 おれははげしい当惑と羞恥を感じた。

 金をめぐまれる自分自身が恥ずかしかったんじゃない。相手になりかわって、というと傲慢不遜(ごうまんふそん)になるが、おれの当惑と羞恥はあきらかにこちら側のものじゃなかった。

「そんな金、貰ういわれはない!」

 立場としてはそう拒絶してもよかった。しかしおれはそうしなかった。早くこの感情の決着をつけねばならない。背後から追い立てられるような気分になって、こちらも掌を突き出した。男の掌からおれの掌に、五十銭玉二枚がころがって移動して、男は急におどおどした態度となり、そそくさと足早に店を出て行った。まるですべてのあと始末を、こちらに預けてしまったみたいに。

 婆さんはおれのたもとを摑んで離さない。あの厚司姿の男にあった重苦しい過剰さと同じ性質のものが、婆さんの小さな眼にあふれていて、それがじっとりとおれにからみついて来る。逃げ出したくとも、逃げ出せない。

 

 おれが連れられて行った家には『白菊派出看護婦会』という小さな看板がかかっていた。それで婆さんは看護婦かと思ったら、そうではなく、そこの主人だった。何故判ったかと言うと、出て来た小女が婆さんのことを、会長さま、と呼んだからだ。

 おれはこぢんまりした部屋に通された。長火鉢なんかが置いてあるところを見ると、ここが会長の私室らしい。座蒲団を出されたけれども、落着いて坐る気になれない。おれが落着かないのに反比例して婆さんはますます落着き、おれに向ってにっと笑いかける。婆さんの眼は、笑うと糸屑みたいに細くなるのだ。善意を行使するものの傲慢さとでも言ったものが、婆さんの全身にみなぎつていて、それがいよいよおれの気分を重苦しくさせる。

「ラクにしなさいよ。ラクに」

 おれが坐るのを見届けて、婆さんは押しつけがましく言う。

「今おにぎりでもつくって来て上げるからね」

 婆さんは部屋を出て行く。廊下を足音が遠ざかって行く。あとにひとり残されて、おれの頰はだんだんこわばって来る。にぎり飯にするくらい飯があるのなら、何も会長自身がとことことトーストを食べに行かなくてもいいじゃないか。トーストを食べに行っても差支えはないけれど、罪もないおれをつかまえて、あまつさへ誤解して、善意の獲物にしなくてもいいではないか。何というおれは腑甲斐(ふがい)ない男なのだろう。

「このまま、そっと逃げ出してやろうか。すべての感情の決着を向うに預けて――」

 やり方としては、それが一番ふさわしかった。おれはすでに朝飯は食べていたから、おなかはすいていなかった。そう決心して、長火鉢に手をかけ、腰を浮かせかけた時、廊下の向うから足音が聞え、しだいにこちらに近づいて来る。とたんに身体の中で何かがみるみる収縮して、おれは腰をおろす。婆さんが敷居に姿をぬっとあらわす。皿を捧げ持っている。皿には大きなにぎり飯が三箇乗っている。婆さんの小さな眼は実に満ち足りた光をはらんで、にこにことおれを見おろしている。……

2017/01/01

2017年お年玉電子テクスト 梅崎春生 「犬のお年玉」

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年三月号『小説新潮』初出。

 発表当時、梅崎春生は満四十を迎えたばかりであった(彼は大正四(一九一五)年二月十五日生まれである)。

 また、作中に登場する画家「秋山」というのは、「立軌会」同人の画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)がモデルである。元「自由美術協会」会員。より七つ年下。「カロ三代」やエッセイ「二塁の曲り角で」にも登場する(リンク先は私の電子テクスト)、実際、ちょっとエキセントリックな人物である。梅崎春生は、彼とかなり親しかったようである。

 「長者門」と出るが、梅崎春生の当時の家は練馬区の建売住宅で、そんな御大層なものではない。唯の普通の家の門柱を想起されたい。念のため。

 「六百匁」は二・二五キログラム。

 「半町」は五十五メートル弱。]

 

   犬のお年玉

 

「人間も四十になれば、そろそろ自分の顔に責任を持ち、自分の仕事にも責任を持たねばいけませんな」そして秋山君は盃をぐっとあけ、酔いであからんだ眼で、私の顔を見据(す)えるようにした。「あなたもそろそろ、四十でしょう。もう四十男になったでしょう?」

「四十男だなんて、厭な言葉を使うな」と私は答えた。

「まだ四十男でなんかあるものか。あと二箇月ばかり、間がある」

「二箇月なんか、月日の中に入りませんよ」秋山君はきめつけた。「あんたはすでに、立派な四十男です。いつまでも若い気持でいては困ります。はた迷惑ですよ。自分の所業に責任を持たなくちゃダメ!」

 私と彼とはおでん屋でさし向いで飲んでいたのだが、どういういきさつでこんな話になったのか、私も相当に酔っていたから、今は覚えがない。秋山君というのは、私より五つか六つ年少の画家で、素面(しらふ)の時はそうでもないが、酔っぱらうと、とかく他人に訓戒を垂れたり、意見をしたがる癖を持っている。この場合も何かの言葉のやりとりで、その訓戒癖が出て来たのだろう。

「四十になれば責任を持つべきなんて、それは昔風の考え方だよ」と私は反駁(はんばく)した。「今どきそんな考え方は通用しない」

「何故です?」

「何故って、昔と今とは、人間の平均寿命が全然ちがう。昔の尺度で今は計れないんだ」と私は攻勢に出た。「孔子様は、三十にして立ち、四十にして惑わず、とおっしゃった。ところがあの時代の人間の平均寿命より、今のはずっと伸びて来ているんだ。老人医学なんかがずいぶん発達したからね。だから孔子の言葉を、今にあてはめれば、四十にして立ち、六十にして惑わず、というところかな。現今では四十歳なんか、まだまだ責任をとるべき年齢じゃないよ。四十はまだ青年だ」

「あんなことを言ってらあ」と秋山君はせせら笑った。

「いくら平均寿命が伸びても、四十は四十です。四十年間生きてきたという事実にかわりはありません。それをごまかそうなどとは、虫がよすぎる」

「いや、年齢というものは、世の中のふり合いで考えるべきだよ。つまり、相対的にだね。現に君だって、三十をとっくに越しているくせに、一向に立っていないじゃないか」

「立っていますよ」秋山君は弱味をつかれたのか、顔をあかくして、とたんに声を大きくした。「立っていますとも。朝から晩までただ立ち通し、ですよ」

「さあ、どんなものかな」と今度は私がせせら笑った。

「山田の中の一本足のカカシみたいなせりふだが」

「おや」秋山君は盃(さかずき)を置いて、眉の根をふくらました。

「あんたは僕のことを、カカシあつかいにするのですか。かりそめにも、チャンと生きている人間をつかまえて、それをカカシとは――」

「お客さん。お客さん」

 頭がすっかり禿げ上ったおでん屋の主人が、事態急と見たのか、台の向うから言葉やわらかく注意した。

「お静かに願いますよ。なにしろ歳末は警戒がうるさいんでね」

「喧嘩してるんじゃないよ」と私が答えた。「ちょっと議論していたんだよ」

「そうだ。議論だ」秋山君は面白くなさそうに口をとがらせて、唇に盃をあてた。「ワカラズヤがいると、直ぐに議論が始まる」

「ワカラズヤとは、僕のことか?」

「きっぱりあんたのことだとは言いませんよ」秋山君は憎憎しげに言い放った。「言いませんけれどもだ、その傾向があるということだけは、間違いありません」

 年の瀬ともなれば、男という男はたいてい、精神的あるいは経済的な理由によって、気持が鬱屈(うっくつ)してくる。むしむしとやり切れなくなってくる。おそらく秋山君もそういう状態におちていて、それが酔いとともにこじれて、そしてかくの如く私につっかかってくるのだろう。大体そういう具合に推察したから、私は真正面から相手にならないことにした。丸禿げ主人の手前もあるし、四十に間近いという自覚と自重があって、秋山君のつっかかりを左に避け右にすかし、ずんずん盃を重ねているうちに、酔いがしたたか全身に回って、あとの記憶はすっかりなくなってしまった。

 ふと目が覚めると、私は自分の家の寝床に、ひとり横たわっていた。ズボンもはいたままだし、身体の節々がぎくしゃくと痛い。咽喉(のど)がひどく乾いている。干鮭みたいにカラカラに乾いている。

 私はけだるく半身を起して、枕もとを見た。ギョッとした。

 枕もとに盆が置かれ、その上に薬罐(やかん)とコップが乗っかっている。その大きな薬罐が、見覚えのない新品で、ピカピカと電燈の光を反射させていたのだ。その反射光でちょっと眠がくらみ、それが薬罐であると理解するのに、五秒ぐらいはかかったと思う。

「なんだ。薬罐か。驚かせやがる」と私は口に出して舌打ちをした。「こんな薬罐を、何時の間に買い込んだんだろう」

 しかし薬罐とわかれば、もう驚くことはないので、私はおもむろにそれに手を伸ばした。水がたっぷり入っているから、ずっしりと重い。コップに注いで二杯たてつづけに飲んだ。我が家の水は井戸水であるので、水道の水に比較して、酔いざめの水としてもはるかに旨い。しかしこの夜の水は、水が新薬罐になじまないせいか、きめが荒いような感じで、いつもほどは旨くなかった。旨くないけれども、咽喉がカラカラだから、夜明けまでに三四度目を覚まして、コップで合計六杯か七杯飲んだ。すなわち新薬罐の水の半分を、朝までに飲み干したことになる。

 朝八時過ぎ、私はごそごそと起き出で、新薬罐をぶら下げて茶の間に出て行った。もう朝の食卓の用意がととのっている。卓上に薬罐を置き、熱い茶をすすりながら、私は家人に言った。

「新しい薬罐もいいが、やはり酔いざめの水は古い薬罐がいいね。どだい水の旨さがちがうようだ」

「そうですか」

「今夜からやはり中薬罐にして貰いたいな。中薬罐はどうした?」

 私の家には薬罐が三つあって、その大きさによって、大薬罐、中薬罐、小薬罐、と名がついている。大薬罐は家族全般用、中は枕もとの水のためのもの、小は私が酒をあたためる用のもので、それぞれ用途がちゃんと定まっている。三つとも六七年前に買い求めたものだから、型も古いし、相当にくたびれている。生活の垢(あか)とでも言ったものが、三つの薬罐の肌に滲みこんでいて、見るからに古色蒼然放としているのだ。

 私は訊ねた。

 「こんな新式の薬罐、お歳暮にでも貰ったのか。それとも歳末売出しの福引きで当ったのかね?」

「あんなことを言ってる。福引きなんかで当るもんですか。自分で買ってきたくせに!」

「自分で?」私はびっくりして新薬罐を見た。「これ、俺が買ってきたのか?」

「そうよ。昨夜、ぶら下げて帰ってきたじゃないの」

「そうかなあ。全然記憶にないが――」私は憮然(ぶぜん)として周囲を見回した。「どうしてそんなものを買う気特になったんだろう?」

「しっかりしなくちゃ困りますよ」つけつけした口調で、「もうそろそろあんたも四十ですからね、自分の所業に責任を持たなくちゃ、こちらが困りますよ。夢うつつで薬罐なんか買い込まれては、全然はた迷惑です」

 秋山君とそっくり同じことを言っていると思いながら、私は口をつぐんでいた。抗弁する余地もなかったし、それに自分でも少し気味が悪かった。自分の意識の外で、薬罐を買ったり、その他どういう行動をとったのだろう。ものを買うという意志的行為を、夢うつつでやったことが面白くない。夢遊病者というのがあるが、私も一時的なそれにおちいったのではないか。

「しょんぼりしてやがるな」

 その気持をごまかすように、しきりにあたりを見回しながら、私はひとりごとを言った。

「何が?」

「いや、古薬罐のことだよ」

 大薬罐は火鉢の上でシュンシュン鳴っていたし、中薬罐は食卓の下、小薬罐にいたっては石油コンロのかげに小さくなって、しょんぼりしていた。新薬罐は食卓上に倣然と坐りこんでいる。新薬罐は柄も太く、胴体に固定していて、口もずんぐりと短い。見るからに安定感がある。蓋の湯気の出る穴も新型で、湯気が上方にではなく、横にふき出るような工夫がしてあるのだ。

 その卓上の新薬罐を、三つの古薬罐はそれぞれの位置から、しょんぼりと眺めているように見えた。薬罐にも表情があることを、この朝私は初めて知った。新入者に対する畏怖と妖妬、自分の型の古さにおける引け目、そんなのが三つの薬罐の表情にありありと感じられた。

「なかんずく、大薬罐が一番しょんぼりしているよ」

 大薬罐は火鉢の上で、景気よくシュンシュンと鳴っていたが、それもどうやら虚勢のようで、見渡したところ、これが一番がっくりと打撃を受けているらしく見えた。それはそうだろう。新薬罐の出現によって、その位置を取ってかわられそうなのは、まさしくこの大薬罐であったから。大薬罐は新薬罐とほぼ大きさは同じだが、なにしろ型が古くてよごれているし、柄なんか外れかかっているし、地肌にもところどころ凹みが出来ている。とても新鋭の薬罐に太刀打ちは出来ない。第一姿がひょろひょろと不安定だ。

 その時家人がその大薬罐を、急須の茶に注ぐために、火鉢から外した。早速私は新薬罐の柄をつかみ、火鉢に乗せてみた。底がピタリと五徳に合い、まことに具合がいい。私は言った。

「夢うつつで買ったにしては、なかなか具合がいいじゃないか。見なさい、この坐りのいいこと」

 食卓に置かれたその大薬罐は、湯気をはくことを止め、げっそりと肩を落して坐っていた。それは貧寒に、不機嫌にすら見えた。皆の注意と関心が新薬罐にあつまり、自分が完全に無視されていることを、大薬罐はあきらかに嘆き怒っていた。

 私はその大薬罐に同情をかんじながら、注がれた茶を口に持って行った。

 

 間二日おいて、秋山君が自転車に打ちまたがり、バクをしたがえて、私の家にやって来た。

 バクというのは秋山君の愛犬で、黒い毛がふさふさと生えた、見るからにバクバクとした犬で、バクと言う名がこれほどぴったりした犬は他にない。

 そのバクの姿を見ると、我が家のエスが縁の下から、プロレスラーみたいにおどり出て、けたたましくほえ立てた。バクもいきり立ってほえ返した。

「バク!」と秋山君が叱った。

「エス!」と私が叱って、縁から飛び降り、エスを鎖で柿の木につないだ。

 その間に秋山君はバクを、長者門の門柱に同じくつないだ。そしてのそのそと縁側に上ってきた。

「こんちは。先日は失礼しました」と秋山君はぺこりと頭を下げた。「いい忘年会でしたなあ」

「あまりいい忘年会でもなかったよ」と私は答えた。「それは何だね、手に持ってるのは?」

「お年玉ですよ、エスの」秋山君は手にした包みをごそごそと解いた。あらわれたのは、金属製のボールだ。「これです」

「エスにお年玉?」私はいささか驚いて反問した。「エスにお年玉とは、また奇抜なことを考えたもんだね」

「奇抜?」秋山君はきょとんとした。「奇抜にも何も、エスにお年玉を買えって、あんたが強要したんじゃないですか。エスの食器が古くなって、可哀想だからって」

「え。僕がそんなことを言ったか」

「言いましたとも。そしてあんたは、自分へのお年玉として、薬罐を買ったでしょう。あれ、チャンと持って帰ったでしょうね」

「持って帰りはしたが――」私は困惑してへどもどした。

「そこらへんの記憶が、今全然ないんだ。どういう具合にして、僕はあの薬罐を買い求めたんだね」

「へえ、全然覚えてないんですか。驚いたなあ」秋山君は嘆声を上げた。「そんなにあの夜、酔っぱらってたんですか。そんなに酔ってるようには見えなかったがなあ」

「やはり酔ってたらしいんだよ」私は小さくなった。「それ以外に解釈がつかない。一体あれはどこで買ったんだね?」

 秋山君の話によると、おでん屋を出て二人でふらふらと駅に歩く途中、歳末売出し中の金物屋があって、店頭に薬罐がずらずらとかざられていた。『薬罐祭り』と貼紙がデカデカとしてある。私は予定の行動の如く、その店につかつかと入りこみ、最新型の薬罐を指差した。それを店員に包ませながら、私は秋山君に言ったという。

「これが僕自身へのお年玉だよ。なかなかしゃれてるだろう」

「あんまりいい趣向でもないですな」

「いい趣向だよ。君もひとつ買え。ああ、そうだ。うちのエスの食器が古くなって、ボロボロになっちまったから、お年玉として新しいのをひとつ買って呉れよ。エスだって、きっと君に感謝するよ」

 秋山君が辞退し尻込みするのを、私はほとんど脅迫的に、秋山君に金を出させて、ボールを買わしたと言う。身に覚えのないことながら、あまり紳士的な所業ではなかったらしい。

「そうかね。それは済まなかったな」私はあやまった。

「でも折角持って来て呉れたんだから、やはりエスにお年玉ということにしよう。僕の家の台所用にしたら、君も不本意だろう」

「もちろんですよ」秋山君は口をとがらせた。「もちろんエスの食器ですよ。金を出させられた揚句、あんたの台所用に使われたら、僕の立つ瀬がどこにありますか」

「だからエスの食器にすると言ってるじゃないか」

 庭ではエスとバクが、それぞれの鎖を最大限に引っぱり、眼を険しくしてさかんにほえ合っている。鎖の関係上、組打ちは出来ないようになっているが、何故犬というやつはあんなにほえ合ったり、かみつき合ったり、格闘したがるのだろう。それぞれの主人には忠実に仕えるが、同族同士では眼を吊り上げて盛んにいがみ合う。同族間の団結心というのが全然ないのだ。これじゃあとても、人間族が地球から亡びた場合、次代を犬に任せるわけには行かない。犬に任せたら世界はめちゃめちゃになってしまうだろう。やはり次代は蟻とか蜂とかネズミとか、団結心の強い、組織力のある動物にとって代られるだろう。犬なんてやつは、主人がいなけりゃやって行けない動物だから、おそらく人間と共に亡びてしまうだろう。思えば哀れな動物だ。エスにお年玉を貰いっ放しでは気の毒なの一で、帰るという秋山君を引きとめて、夕食を共にした。魚屋からアンコウを六百匁買い求め、アンコウ鍋をかこみ、酒を飲んだ。歳末のやりくりはどうにか果たしたと見え、この夜は秋山君はあまり訓戒癖も出さず、つっかかる気配もなかった。

 酒をあたためたのは、れいによって小薬罐である。

 新薬罐は石油コンロの上にでんと坐って、シュンシュンと盛大に湯気をふき上げていた。

「さすがに威風堂々としていますなあ」と秋山君は感嘆した。「まるで戦艦大和みたいだ」

「そんな逆コース的表現はいけないよ」私はたしなめた。「この新薬罐のおかげで、古薬罐たちがしょんぼりしているよ」

 そして私は、古薬罐たちの表情について、一席の説明をこころみた。秋山君はアンコウの肝(きも)ばかりをよって食べながら、私の話に耳を傾けていたが、私が話し終ると、膝を乗り出すようにして言った。

「実はそれに似た経験が、僕にもあるんですよ。つい近頃」

「へえ。やはり薬罐かね」

「僕のは薬罐じゃなくて、湯タンポです」と秋山君はまた肝をつまんだ。「今まで使っていた湯タンポはブリキ製で、どうも具合がよくないもんですから、新しくシンチュウ製を買って来たんです」

 シンチュウ製を買って来たら、ブリキ製のやつがとたんにしょんぼりして、やるせない表情をつくったと言う。で、その夜はひどく寒かったものだから、秋山君は二つの湯タンポに湯をたっぷり入れ、寝床に入れて寝た。たいへんあたたかくて快適であったそうだが、その夜半、古湯タンポの栓がゆるんだかどうかして湯をふき出して、蒲団がびしょぬれになったという。

「古湯タンポのやつが、大いにひがみ心を起して、絶望的レジスタンスを行ったらしいんですな」秋山君は憮然として、また肝を探してつまみ上げた。「その前の晩まで、そんな不始末はしなかったのに、その夜に限ってそんなことになったのは、偶然だとは考えられないのです」

「そうかねえ。しかし、二つも入れて寝たから、あたたか過ぎて、君が夢うつつで足で蹴とばしたんじゃないか?」

「そんなことはありませんよ」秋山君は断乎として言った。「あたたかいからって、湯タンポを蹴とばすなんて」

「その古湯タンポは、そこでどうした?」

「しゃくにさわったもんですから、古毛布にくるまったままのそいつを、雨戸をあけて縁の下にたたき込んでやりましたよ。人間に反抗するなんて、とんでもない奴です」

「毛布にくるんだままだって。では古湯タンポの栓がゆるんでたかどうかは、調べてみなかったのかね?」

「調べるもんですか。しゃくにさわって、そんな余裕はありませんよ」

「じゃ、びしょぬれの犯人がその古湯タンポかどうか、判らないじゃないか」

「調べなくったって、判りますよ」秋山君は宙をにらむようにした。「そんなことを仕出かすのは、あのやくざなブリキ湯タンポにきまっています」

 犯人はブリキ製湯タンポでなく、君自身、すなわち君のオネショではなかったのか、と口まで出かかったが、やっと我慢した。三十をとっくに越した男にそんなことを言って、怒られたらこまるからだ。折角いい気持で飲み食いしている秋山君を、刺戟することもなかろう。

 大いに飲み、かつ食ったけれども、鍋にはまだアンコウが相当に残った。それをエスとバクに食わせることにして、秋山君が気軽に立ち上り、夜の庭に出て行って、両犬にそれぞれ食器をあてがった。両犬はほえ疲れて、地べたに寝そべっていたが、アンコウを見ると、いそいそと立ち上った。秋山君が庭から私を呼んだ。

「おなかを空かしていたと見えて、両方ともガツガツ食べていますよ。おや、エスの方はあまり食べないようだな」

 私は縁側に出て行った。見るとエスの方には洗面器をおろした古食器をあてがい、新品の金属ボールの方をバクの前に置いている。バクは大喜びしてボールの中のアンコウをむさぼり食べている。

「おい、おい」と私はとがめた。「その新食器は、エスへのお年玉じゃないか。困るよ。取っかえて呉れ」

「いいじゃないですか。今晩だけだから」秋山君はバクの頭をいとしげに撫でた。「バクだって食器らしい食器を持っていないんですよ。そのバクをさしおいて、わざわざエスにお年玉を持ってきてやったんだから、その僕の気特に免じて、今晩だけはバクに使わせてもいいじゃないですか」

 エスはそのバクの食器が気になるらしく、じっとそちらの方をにらみ、思い出したように古食器に頭を突込んでいる。よその犬が自分よりいい食器を使っていることを、面白くなく思っているらしい表情であった。私は言った。

「エスがひがんでいるよ。エスはひがみっぽいから、きっと後でロクなことにならないよ」

「大丈夫ですよ」

 やがてアンコウをすっかり食べ終えたバクを、自転車につなぎ、秋山君は夜道を自宅に帰って行った。

 

 私が心配した通り、食器の問題において、エスは大いにひがんだ。

 秋山君のお年玉の新食器では、エスは食事をとろうとしないのである。相当に味良くつくってやっても、においを嗅ぐ真似をするだけで、のそのそと退散してしまう。それを古食器にうつしてやると、どうにかむさぼり食べる。他犬のお古をあてがわれてたまるか、と言ったような心意気がうかがわれる。

 このエスという犬は、どこか変ったところのある犬で、二年ほど前私の家に何となく居ついてしまった。居ついたと言っても、それは昼間だけの話で、夜はどこかに行ってしまうのだ。

 それからふしぎに思っていろいろ調べてみると、このエスという犬は、私の家から半町ほど離れたK氏宅の飼犬で、K氏宅ではジョンと呼ばれていることが判明した。つまりエスは、エスとジョンの二つ名をもって、両家にかけもちで飼われていたわけになる。どういうわけでK氏宅の番犬だけに甘んぜず、私の家にも仕官する気になったのか、エスは言葉がしゃべれないから、その間の事情は一切不明である。

 そういう飼犬は私も困るし、K氏宅でも困るだろうと思つたから、私がK氏に交渉して、首尾よく私の家に引取ることになった。すなわちエスは二重生活をきっぱりと清算したわけだ。ところがこの処置を、エスはあまり満足には思わなかったらしい。

 両方で飼われている方が、食事の量も多いし、また食物の種類にも変化がある。そんな事情かとも思うが、それも推察の域を出ないのだ。犬の気持は判らない。

 私の家に正式に飼われるようになってから、エスはとみに怠惰な犬となった。わざと怠けているような気配さえある。怠けるのみならず、大へんにひねくれてきた。

 正式に飼った以上、犬小屋をつくってやろうと言うので、材木屋から板を買い込み、私は手が不器用なので、秋山君に来てもらった。

 ところが秋山君もあまり器用なたちでなく、まるまる半日をついやして、やっと不恰好な犬小屋が完成した。それ以後エスはそこに寝泊りする身分になった。

 先日この犬小屋の位置を移動させる必要がおこり、私は犬小屋に綱をつけ、エッサエッサと庭のすみまで引っぱった。

 それがエスの気に入らなかったらしい。小屋の住み手に一言の相談もなく、位置を勝手に移動させたこと、それがエスのカンにさわったらしいのだ。

 移動させたその日から、エスは犬小屋に寝泊りすることをピタリとやめた。毎晩ふくれっ面をして縁の下に寝ている。

 犬小屋の方は寝わらが敷いてあるし、縁の下より快適であろうと思うが、エスは頑として犬小屋に入らない。ぶるぶるふるえながらも縁の下から出て来ようとしないのだ。

 犬小屋を旧の位置に戻せば、エスは犬小屋に戻ることはハッキリ判っているが、こうなれば私も意地である。飼主には飼主としての見識もあれば自尊心もある。そうそうエスの御機嫌ばかり取っているわけには行かない。私が屈伏すれば、エスはますます増長するだろう。増長させることはエスのためにもよくない。

 そこで私は犬小屋の古わらをすっかり撤去し、ふかふかした最上等のわらを近所の農家から分けて貰い、それを具合よく犬小屋の床にしきつめた。そして犬小屋の板壁の隙間もメバリして、防寒設備をしてやった。これほどサービスしてやったから、エスが機嫌を直して呉れるかと思ったら、全然そうでない。その快適な犬小屋を横目でにらんで、相変らず縁の下でふるえている。何と言う強情な犬だろう。もうこれ以上のサービスは私には出来ない。

 食べ物のことだってそうだ。

 犬の動作の中で何が私が一番好きかというと、それはものを食べている時の有様である。犬がバリバリと骨をかみ砕き、がつがつと食べているところを眺めるのが私のたのしみのひとつである。私自身あまり食欲が旺盛でないので、その代償作業として、エスのさかんな食欲を眺めるのを好むのだ。

 だからエスの食事は、もっぱら私がこさえてやることになっている。私はエスの身になり、エスの口に合いそうな食事を、ありあわせの材料でせっせとつくる。

 ところがそのつくった食事を、エスが縁の下からのそのそと這い出で、ちょっとにおいを喚いで、フンと横に向くのだから、たちまち私は激怒する。折角苦心して犬食をつくり、がつがつの状況を眺めんものと楽しみにしているのに、そんなにカンタンにそっぽを向かれては、怒るのも無理はなかろう。

 すなわち私はエスの頭をひっぱたく。あるいは尻を蹴飛ばす。

 私からひっぱたかれたり蹴飛ばされたりすると、エスはもうその食事は絶対に口にしようとしないのだ。食事をそのままにして置いて、あとは何も与えないでいても、一日経っても、二日経っても、エスは我慢している。腹が減っていないのかと思って、別口のエサを与えると、エスは飛びつくようにして食べる。しかしひっぱたかれた件の食事だけは、絶対に近づこうとしないのだ。頑固一徹もここに極まれりと言うべきであろう。

 こういうエスであるから、秋山君お年玉の食器においてひねくれたとなると、もうこれは絶対と言ってよろしい。頭を新食器に突っこんでやっても、断乎として拒食するにきまっている。

 そしてお正月になった。

 私たち人間はおとそを飲み、お雑煮を食べて、正月を祝った。

 ところがエスの食事がない。

 昨夜の年越しソバは食べ尽したし、お雑煮はエスに不適当であるし、そこで元日の昼、わざわざエスのためにメシをたいた。

「お正月だから、エスにも御馳走してやった方がいいな。新年は人間だけにでなく、犬にも来るんだから」と私は言った。「今日はふんぱつして、二の膳付きと行こう。秋山君の呉れた食器もあることだし」

 そして古食器の方に汁かけメシをごてごてと盛り、新食器の方におせち料理のカズノコやゴマメやカマボコを入れて、柿の木の根元においてやった。

 エスは縁の下からのそのそと這(は)い出てきた。畜生のあさましさで、お正月を知らないから、お目出度いような顔もしていない。

 もっとも犬の側からすると、お正月を祝うなんて、人間の浅間しさだと思っているかも知れない。

 家族あつまって、縁側からエスの動作を眺めていた。エスはふてくされた顔で、両方の食器のにおいをそれぞれ嗅ぎ、おもむろに古食器の方に顔をつっこんで、汁かけメシをむしゃむしゃと食べ始めた。十分間ばかりかかって、一滴の汁一粒の飯も余さず、古食器の方は食べてしまった。

 そして顔を上げると、舌を長く出して自分の顎をペロペロとなめ、そのままとことこと縁の下に戻って行った。新食器の中の小田原カマボコやカズノコには全然口をつけずにだ。

「何という犬だろうねえ」と私は長嘆息した。「こんな強情な犬は見たことがないよ。あの新食器のやつを、古の方にうつしてごらん。どうするか」

 カマポコ、カズノコの類は、そこで古食器にうつされた。

 するとエスはそれを縁の下から眺めていたが、移動作業が完了したと見るや、またのそのそと縁の下から這い出してきた。そしておもむろに古食器に顔をつっこんだ。

 こうなればもう言うこともない。

 エスにはエス並みの鬱屈した気持があるのだろう。殴ったって蹴飛ばしたって、どうにもなるものでなかろう。

 折角の秋山君のお年玉だったが、最初にバクに使わせたばかりに、我が家ではムダなものになってしまった。しかしその責任の大半は秋山君にある。その金属ボールを別途に使用したとしても、私は秋山君から文句を言われる筋合いはない。

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