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カテゴリー「「進化論講話」丘淺次郎」の92件の記事

2018/06/24

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(五) 五 突然變異説 / 第十六章 遺傳性の研究~了

 

     五 突然變異説

 

 親子兄弟の間でも幾らかの相違のあることは常であるが、稀には親とも兄弟とも飛び離れて著しく違つた者が生ずることがある。例へば普通の親から六本指の子供が出來るとか、普通の綠葉を持つた植物から白斑[やぶちゃん注:「しろふ」。]入りの變り物が出來るとかいふ類であるが、これ等は昔からたゞ變異中の特殊の場合と見倣すだけで、別に名稱も定めてなかつた。所が、ド・フリースは之に突然變異といふ新しい名を附け、性質が子孫に遺傳するのはこの類の變異のみであると論じ、之に依つて、生物各種の生じた原因を説明しようと試みた。突然變異説と呼ばれる今日名高い學説は卽ち之である。

 

Tukimisou_2

 

[月見草 (右)原種(左)變種]

[やぶちゃん注:左の図が非常に暗いので、飛ぶほどに明るさを大きくした。種は段落末の後注参照。]

 

Sidahensyu

 

[羊齒の一種中に現れた著しい變異]

[やぶちゃん注:種は不明。]

 

Koutyuuheni

 

[甲蟲の一種中に生ぜる最も著しい突然變異]

[やぶちゃん注:三図とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた(後の蝸牛も同じ)。昆虫は苦手なのだが、背部の独特の模様から見ると、甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科レプチノタルサ属コロラドハムシ Leptinotarsa decemlineata か、その近縁種かなぁ?]

 

 前にも述べた通りド・フリースは遺傳や變異のことを研究するに都合のよい植物を探して居るとき、不圖[やぶちゃん注:副詞「ふと」。]月見草の一種に面白い變異のあるものを見附け、早速之を大學の植物園に移して多年その研究に從事して居たが、突然變異説の根抵とする事實はこの間に得たことである。その大要を述べて見ると、澤山に植ゑた月見草の中から稀に一見して他と異なつたものが一二本生ずることがあり、これから種子を取つて蒔いて見ると、その性質が純粹に子孫に傳はつて、一の新しい品種を造ることが出來た。例へば葉の滑かなもの、雌蘂の殊に短いもの、莖が太くて節の短いもの、葉脈が紅色を帶びて居るもの、葉の色の薄いもの、全體に小形なものなど、樣樣な品種が出來たが、ド・フリースは、これから論を立てて、自然界に於ける生物各種の出來たのも、自然淘汰によつて長い年月の間に漸々變化して生じたのではなく、各種ともに初は月見草の各品種と同じく、一囘の突然變異で起つたものであると説いて居る。實はかやうな例は月見草で初めて知れた譯ではなく、ダーウィンの著書にも已に幾つか掲げてある。脚の短い羊や角のない牛の品種が、斯くして出來たことは、已に第三章に述べたが、その他にも上顎の短い牛、蹄の一つよりない豚など、飼養動物の方にも幾らかの例があり、また園藝植物の方には更に澤山ある。野生の動植物に於ける突然變異の例を一二擧げれば、羊齒類の一種には、上圖に示してあるやうな樣々の著しい變異を示すものがあり、アメリカに産する甲蟲の一種にも幾通りもの變異がある。その他探して見たら色々のものがあるに違ひない。然しながら概していふと、突然變異は比較的に甚だ稀なもので、ド・フリースも月見草を見附ける前に樣々の植物を培養して見たが、一つも著しい變異を生ずるものはなかつた。

[やぶちゃん注:「前にも述べた通り」「第十六章 遺傳性の研究(一) 序・メンデルとド、フリース」参照。そこで私はこの「月見草」をこの場合は、リンク先のド・フリースの前注で示した通り、フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta に同定した。その後、マツヨイグサ類の品種改良史などを管見しても見ても、また、ここで改めて示された原種と変種の図を見ても、私は同定を変える必要はない、と考えている。挿絵の原種と変種の違いは、見る限りでは、草体上部に見られる花の蕾の形状に大きな違いが認められるようには思う。]

 

 さてド・フリースは普通の變異のことを彷徨變異と名づけ、之と突然變異とは全く別種のものと見倣して、突然變異の方はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異の方は決してその性質を子孫に傳へることはない。隨つて彷徨變異なるものは生物の進化には何等の關係もない。新しい種屬の起る源は、全く突然變異のみに限ると説いて居るが、多くの事實に照らし合せて見ると、之は餘程疑はしい。先づ第一に、所謂彷徨變異と突然變異との相違を考へて見ても、前者には極端から極端までの間に細かい移行があり、後者には全くかやうな移行がないといふが、之も材料を極めて多數に集めて見たらばどうであらうか。例へば月見草にしても、一植物園内だけから材料を取れば、葉の大小、莖の長短などの彷徨變異は、一本一本の間の相違は眞[やぶちゃん注:「まこと」。]に僅であるに反し、突然變異の方は他との相違が顯著であらうが、世界中の、月見草を殘らず比べて見たならば、所謂突然變異もやはり細かい移り行きの階段によつて原種と相繋がつて居るのではなからうか。また所謂彷徨變異の方でも個體の數の少い場合には、一個一個の間の相違はやはり幾分か一足飛びなるを免れず、時には相應に著しいこともあらう。突然變異といひ彷徨變異といふも、實は單に程度の問題で、程度の低い突然變異と極端な彷徨變異とは、到底區別が附くわけのものではない。また從來突然變異と名づけ來つたものの中には、無數に生じた變異を培養者が若干の組に分けて、その中から各組の模範と見倣すべきものを選り出して、互に最も相異の著しいものを竝べたやうな場合も少くない。前に例に擧げたアメリカ産の甲蟲なども之である。彷徨變異と突然變異とを嚴重に區別する人は、ダーウィンは突然變異を度外した如くに論ずるが、ダーウィンは變異といふ中に、無論所謂突然變異をも含ませて考へた、倂し突然變異なるものは生ずることが極めて稀であるから、人が特に之を保護して子孫を繼續させる場合の外は、恐らく忽ち他に壓倒せられて、その性質も後には殘らぬであらうから、生物種屬の進化には比較的重要なものでないと論じたのであつて、著者の意見は全く之と同じである。

[やぶちゃん注:「彷徨変異」(fluctuation)。環境変異(environmental variation)。或いは個体変異(差)。生育環境の差や発育の途上で起る偶然的要因などの影響により、同一生物集団内の個体間に生ずる量的変異。遺伝的変異と対する。一般に、変異の大きさは、ある値を中心に連続的に分布する。この変異は遺伝しない(以上は「岩波生物学辞典」)。以下、平凡社「マイペディア」の「彷徨変異」では、全く同じ遺伝子構成をもつ個体の集りの中で見られる形質の違い。一本の植物に実った種子の大小・軽重などが、その例であり、形質の変動は、ある値を中心として両側に次第に減少していく山形の曲線、所謂、正規分布を示す。山の両端、則ち、値の小さいもの、或いは、大きいものを採って、子孫の形質の変動を調べても、中心値は変わらず、再び、同様の曲線を示す。単一の遺伝子群が環境条件の影響のもとに生み出すところの表現型の確率論的な変異と解すべきもの。現在では、この語は、殆んど用いられない、とある。]

 

Katatumurinoheini

 

[蝸牛の變異]

 

 また突然變異はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異はその性質を遺傳せぬといふが、前にも述べた通り、低度の突然變異と極端の彷徨變異とは、區別が出來ぬのみならず、若し性質を子孫に遺傳する變異を總べて突然變異と見倣すならば、之と彷徨變異との區別は愈無くなつてしまふ。前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如きも、彷徨變異の兩端に位するものであつた。卽ち圖に示す通り、樣々の移行の階段のある變異の中から最も相異なつたものを取つて、その間に雜種を造つて見たら、その殼の色、模樣などが、一定の規則に隨つて子孫に傳はつたのである。かやうな例は他にも素より澤山にあるが、之から推し考へると、所謂突然變異なるものは、變異中の極端な場合を指すのであつて、普通の變異とはたゞ程度が違ひ、種屬の平均の性質に比して相違が著しいだけに、その遺傳が培養者の目に觸れるのであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如き」を参照。]

 

 ド・フリースの説に對して、こゝに詳しい批評を試みることは出來ぬが、著者は決して全然之に反對するといふ譯ではない。突然變異が生物新種屬の生ずる原因と成ることも無論あるべき筈で、現に一囘の突然變異が基となつて、新しい品種の出來ることは、ド・フリースの實驗にもその他にも幾つも確な例がある。また天然に於ても、或る突然變異が生じた場合に、丁度それがその時の生活狀態に適し、且その性質が優勢を以て遺傳して、第二代以後に純粹な一變種を成すといふ如きことがないとは限らぬ。併しながら著者の考へによれば、たとひかやうな場合があるとしても、之はやはりダーウィンのいうた自然淘汰の中に當然含まるべきもので、決してその範圍以外の別種の現象とは見倣されぬ。同時に生じた多くの變異の中から、生存競爭の結果として、適者のみが生き殘ることを自然淘汰と名づけるのであるから、その變異が突然變異であらうとも、彷徨變異であらうとも、孰れも自然淘汰のために材料を供給するものなることに違ひはない。たゞ突然變異と彷徨變異とを強いて區別し、性質の遺傳するのは突然變異のみに限るといふ説に對しては、前に簡單に述ベた如き理由により、到底賛成を表することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:現在でも突然変異を進化の原動力と考えている人がいるが、これは全くの誤りである。DNARNA上の塩基配列に変化が生ずる遺伝子突然変異や、染色体数や構造に変化が生ずる染色体突然変異は別だが、当たり前のことながら、多細胞生物の突然変異は生殖細胞で起こらない限りは遺伝はしない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(四) 四 各性質の獨立遺傳

 

     四 各性質の獨立遺傳

 

Endoudainidai

 

[碗豆の第二代雜種

(上右)靑、丸、(上左)黃、皺、(中)第一第雜種、黃、丸]

[やぶちゃん注:豆の様態が判り易い、学術文庫版を用いた。]

 

Toumorkosizatu

 

[「たうもろこし」の雜種]

[やぶちゃん注:学術文庫版を用いた。但し、原本では縦に配されてある図が学術文庫版では横に配されているので、九十度回転させ、立てて示した。]

 

 メンデルの實驗研究によつて明にせられたことの中で最も有益なのは、兩親の各性質がそれぞれ獨立に分離し、遺傳することである。前には兩親が何かたゞ一つの點で相異なつた場合を例に擧げて、その第二代以後に分離することを述べたが、初め兩親が二つ以上の點で相違するときには如何といふに、メンデルの實驗によれば、この場合には、兩親の相異なる各性質は、他に構(かま)はず獨立に分離し遺傳する。例へば、豆が靑くて丸い碗豆と豆が黃色で表面に皺のある碗豆との間に雜種を造つて見ると、靑に對しては黃、皺に對しては丸が優勢であると見えて、第一代雜種には悉く黃色で丸い豆ばかりが生ずるが、更に第二代となると、黃色で丸いもの、黃色で皺のあるもの、靑くて丸いもの、靑くて皺のあるものの四種類が出來て、然もその數が約九と三と三と一との割合に生ずる。これは何故かといふに、メンデルの考へた如くに、黃性と靑性と、若しくは丸性と皺性とが、同一の生殖細胞内に雜居せぬものとすれば、第一代雜種が成長して花の咲く頃には、その花粉にも胚珠にも、右の四種類のものが出來て、これが相合する時には十六通りの異なつた配合が行はれるが、混合性のものは、何時も外見上優勢の性質だけを現すから、之を通算すると以上の如き數の割合となるのである。ここに圖を掲げた「たうもろこし」の果實は、粒の色と形との二點で異なつた二品種間の第二代雜種であるが、粒に四種類あることは前の碗豆に於けると少しも違はぬ。動物界から同樣な例を一つ擧げれば、曾て外山氏が蠶に就いて行つた明瞭な實驗がある。卽ち、體が白くて黃色い繭を造る品種と、體に黑い橫紋があつて白い繭を造る品種との間に、雜種を造つたら、第一代のものは悉く體には橫紋があつて黃色の繭を造つたが、第二代には體に橫紋があつて黃色の繭を造るもの、體に橫紋があつて白い繭を造るもの、體が白くて黃色の繭を造るもの、體が白くて白い繭を造るものとの四種が、約九と三と三と一との割合に出來た。總べてこれ等の場合にも、初め兩親の相異なつた性質、例へば、豆の色の黃と靑、豆の表面の丸と皺、もしくは蟲の體の白と斑[やぶちゃん注:「まだら」。]、繭の色の白と黃の如くに相對した性質か二組づゝ別に離して考へると、孰れもメンデルの「分離の法則」に隨つて遺傳して居るが、各組が他に構はず恰も自身だけであるかのに分離し、遺傳するから、それが同一體の内で重なり合つて斯く樣々の性質の組合(くみあはせ)が出來るのである。また以上は各組の兩性質の間に優劣の判然したものに就いて述べたのであるが、若しも各組の兩性質の間に優劣の差が十分でない場合には、純優性のものと混合性のものとが外見上已に明に違ふから、第二代に於て相異なる種類の數が更に多く出來て、複雜になるはいふを待たぬ。

[やぶちゃん注:「外山氏」遺伝学者で蚕種改良家でもあった外山亀太郎(慶応三(一八六七)年~大正七(一九一八)年)。蚕を用いて、世界で初めて、動物で「メンデルの法則」を確認した学者として知られる。相模国愛甲郡小鮎村生まれ。明治二五(一八九二)年、帝国大学農科大学卒業。在学中に養蚕学教室で動物学教授石川千代松の指導の下、蚕の精子形成を研究し、明治三三(一九〇〇)年、その遺伝学的研究に着手した。主としてこの研究は農商務省の蚕業技師長としてシャム(現在のタイ)帝室養蚕研究所へ派遣されていた間(一九〇二年~一九〇五年)に行われた。研究成果は明治三十九年の大学紀要で発表されており、メンデルの遺伝研究の価値の「再発見」(一九〇〇年)からわずか六年後という早さは高い評価の対象となっている。大学卒業後、同助手・水産講習所教師を勤めた。明治二十九年には福島県蚕業学校の校長となるが、研究に熱中してしまい、排斥運動を受け、明治三十二年に退職、その後にシャムへ渡り、帰国後の明治三十九年に農学博士の学位を受け、明治四十一年に帝大助教授、三年後には原蚕種製造所の技師を兼務した。同年、ヨーロッパの養蚕事情視察に赴き、大正元(一九一二)年に帰国、大正六年には東京帝国大学教授となったが、この頃から、脊髄の病いに侵され、加療するも効なく、五十二歳で他界した。著書「蚕種論」(明治四一(一九〇九)年刊)で蚕の第一代雑種利用を提唱し、日本の蚕種業の発展に貢献、帝国発明協会から恩賜記念賞を贈られている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 次に兩親が三つの點で相異なつて居る場合には如何といふと、之も全く前のと同樣で、第一代雜種には總ベて優勢の方の性質のみが現れ、第二代になると二の三乘卽ち八種の異なつたものに分れる。誰も知る通り碗豆には一粒每に外面に一枚の皮があり、内部は半球形の子葉二つで充ちて居るが、メンデル自身が行ふた例を擧げると、形が丸く、子葉が黃色で、外皮が茶色の碗豆と、表面に皺があり、子葉が綠色で、外皮の白い碗豆との間に、雜種を造つたら、第一代には形が丸くて、子葉の黃色い、外皮の茶色の豆ばかりが出來、第二代には次の八種類に分れた。文句を略して、表面の形と子葉の色と外皮の色とを各一字づゝ竝べて書くと、丸黃茶のもの、丸黃白のもの、丸綠茶のもの、丸綠白のもの、皺黃茶のもの、皺黃白のもの、皺綠茶のもの、皺綠白のものとの八種であるが、然も之が豫期の通りの數の割合に生じた。豫定の割合とは二十七、九、九、九、三、三、三、一の割合であるが、丸と皺、黃と綠、茶と白といふ如き相對して角力をとるべき二つの異なつた性質が、同一の生殖細胞内に雜居せぬとすれば、第一代雜種の生じた花粉にも胚珠にも、性質の組合せの異なつたものが各八種類づゝ出來て、これが相合する時には六十四通りの配合の仕方があり、而して混合性のものは總べて外見上優勢の性質を現すとすれば、以上の如き割合に成るべき筈であるから、之も學説の豫期する所と、實地試驗の結果とがよく一致したのであつて、メンデルの説の正しい證據と見倣すことが出來る。各組の兩性質の間に優劣の著しくない場合には、第二代雜種が外見上更に複雜になることはいふを待たぬ。

 かやうに兩親が二つ以上の點で相異なる場合に、それらの相異なつた性質が、各獨立に分離して遺傳するといふことは、メンデルの發見の最も大切な部分であつて、培養植物の品種改良を圖るに當つては頗る有望なものである。已に英國の或る學者はこの知識を應用して小麥の改良を試みた。卽ち收穫は多いが、白錆という黴[やぶちゃん注:「かび」。]のための病に罹り易い小麥と、收穫は稍少いが、この病に對して一向平氣な小麥との間に、雜種を造り、第二代に現れた種々の性質の組合の違ふものの中から、收穫が多くて白錆に罹らぬものを選び出し、終にこの兩性質を兼ね具へた新しい品種を造ることに成功した。かやうな例は今日の所では植物にもまだ極めて少く、動物には一つもないが、今後は恐らく同樣の方法で動植物ともに種々の良種が造られ得るであらう。

[やぶちゃん注:「白錆という黴」一般の植物の錆(さび)病は、カビ(黴)の仲間である担子菌門 Basidiomycota サビキン(錆菌)亜門 Pucciniomycotina サビキン目Pucciniales(またはUredinales)に属する種によって引き起こされる病気で、日本では五十六属約七百五十種が知られており、ムギ・マメ・マツ・ナシなど、多くの重要な農作物や林木に寄生して被害を与える(寄生を受けた植物は葉や茎に胞子の塊(胞子層)を多数作るが、そのの胞子の塊が金属に生じた錆によく似ていることに由来する)。しかしながら、ここで丘先生の言われるムギの「白錆」病は、調べる限りでは、真正のサビキン類ではなく、全く別の不等毛類 Heterokonta に属する卵菌門 Oomycota シロサビキン目 Albuginales シロサビキン科 Albuginaceae に属するる菌類によって引き起こされるものである。ところが、ムギの白さび病で調べてみても、出てこない。寧ろ、サビキン目の錆菌類によって引き起こされれるムギ類の「黒さび病」「黄さび病」(サビキン目Puccinia属であるが、それぞれ発生する植物種により菌種も異なる)がある。或いは、丘先生は何か勘違いをしておられる可能性があるのかも知れない。失礼乍ら、「白」は余計なのかも知れない。なお、この時代、「白錆病」(根菜類に多く見られるらしい)がサビキン目の種によるものと考えられていた可能性は高いように思われる。]

 

 以上は雜種を造る兩親が、ただ二つか三つの性質だけで相異なるものと假定して述べたのであるが、實際に於てはかやうなことは極めて稀であつて、たとひ同一種に屬する個體と雖も、單に一點もしくは二三の點だけで相異なり、他の點に於ては悉く絶對に相同じといふ如きものは滅多にない。されば假に總べての性質がメンデルの考へた通りに第二代以後に分離すると見倣しても、實際に於て兩親の孰れかと寸分違はぬ子孫の出來る望みは極めて少ない。兩親がたゞ一つの性質で相異なる場合には、第二代に至つて兩親の各と相同じものが總數の四分の一づゝ出來る勘定であるが、兩親が二つの性質で相異なる場合には、第二代雜種の中、兩親の何れかと相同じものが僅に十六分の一づゝよりなく、兩親が三つの性質で相異なる場合には六十四分の一づゝ、四つの性質で相異なる場合には、二百五十六分の一づゝよりない。若し兩親が十の性質で相異なるとすれば、孫の代には約百萬の中に一つづつだけより、兩親の何れかと全く同じものがない勘定になる。かやうな次第であるから、一個一個の性質は分離するものとしても、個體としては皆兩親の性質の種々に相混じたもののみである。メンデルが特殊の材料について實驗するまで、誰も遺傳する性質の分離に氣が附かなかつたのもこの故であらう。

 遺傳する性質の優劣にも不完全なものが多く、分離にも不十分なものが幾らもある如く、各性質が獨立に遺傳するといふても、決して總べての場合に獨立に遺傳する譯ではない。近來の研究によると、二つ以上の性質が組み合つたままでなければ遺傳せぬこともあり、また他の性質から影響を蒙つて左右せられることもある。これ等に就いて詳しく述べることは略するが、遺傳の現象はなかなか複雜なもので、研究すればするほど一定の型に嵌まらぬものが出て來る。今日遺傳を研究する學者は、斯かる場合をもメンデルの型に嵌めて説明せんと試み、樣々の想像的の性質を考へ出した。例へば、雜種の第二代に色の變異が豫定通りにならぬ場合には、色を生ぜしめる性質の外に、色の發生を止める性質、色の發生を軟げる性質、色の發生を促す性質、色を深くする性質など、やう々な性質が兩親に具はつてあつたものと假定し、これ等の性質の組合によつて眼前の變異が生じたものと考へて居る。

 メンデルの發見した優劣の法則でも分離の法則でも、またはメンデル以後の雜種研究でも、兩親が已に有した性質が如何に子孫に傳はるかを調べるだけであるから、生物の進化を説明するに當つては、寧ろ間接に相觸れるのみである。幾億萬年の昔から今日までの間に、極めて簡單な先祖から次第に進化して複雜な生物各種が生じたのは、常に新しい變異が現れ、新しい性質が附け加はつて、子孫に傳はるの外に途はないから、新な變異は如何にして起るかといふ問題の方が、進化論に對しては遙に大切である。

2018/06/06

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(三) 三 遺傳する性質の分離

 

     三 遺傳する性質の分離

Eodouzasyu

[豌豆の雜種]

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。後の「蝸牛の雜種」も同じ。]

 

 メンデルが實驗研究によつて見出した最も大切なことは、雜種の第二代以後には兩親の相異なつた性質が再び分離することである。前に例に擧げた碗豆の實驗によると、黃色い豆のなる品種と靑い豆のなる品種との間の第一代雜種には、黃色の豆ばかりが出來たが、更に之を蒔いて第二代の雜種を造ると、この度は黃色い豆と靑い豆との兩方が出來る。然もその間には數の割合が略一定して、全體の數を出來るだけ多くして實驗して見ると、大抵黃色の豆三に對して靑い豆一の割合になつて居る。メンデル自身の行つた實驗に實際現れた數をいうて見ると、總數八千二十三粒の豆の中で、黃色いのが六千二十二粒、靑いのが二千一粒あつた。外見上は斯く二種類に分かれたやうであるが、之を蒔いて、更に第三代の雜種を造つて見ると、靑い豆からは、たゞ靑い豆ばかりが生ずるが、黃色い豆からは、黃色い豆だけのなるものと、黃色い豆と靑い豆とが、約三と一との割合に出來るものとの二種類が生れる。而してこの二種類の數の割合は、前のもの一に對して後のもの二に當る。かやうな結果から考へると、第二代雜種は實は三組に分れたのであつて、その中の二組が外見上區別が出來ぬために混同せられてあつたことが知れる。卽ち第二代雜種の總數の約四分の一は純粹な靑い豆、約四分の一は純粹な黃色い豆、而して殘り四分の二は第一代雜種と同樣な混合性のものである。第三代は前に述べた通りであるが、更に引き續いて雜種の第四代・第五代等を培養すると、靑い豆からは靑い豆のみが生じ、純粹の黃色の豆からは黃色の豆のみが生じ、混合性の黃色い豆からは黃色い豆と靑い豆とが三と一との割合に生ずる。それ故、一代每に初めの兩親と同じやうな純粹な黃色い豆と靑い豆との數が盛に殖え、混合性の黃色い豆は總數に比して著しく減じ、十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數百粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合、二十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數十萬粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合と成り、雜種の子孫も殆ど悉く初の[やぶちゃん注:ここは底本は「い」であるが、読めないので、学術文庫版で訂した。]兩親と同樣な純粹な二品種に分かれてしまふ。之がメンデルの所謂「分離の法則」である。

[やぶちゃん注:「分離の法則」(ドイツ語:Spaltungsregel, Spaltungsgesetz/英語:law of segregation)はメンデルの遺伝法則の一つで、最も基本的なもの。対立形質を支配する一対の対立遺伝子が、雑種第一代(F)の個体で維持され、配偶子が形成される際、互いに分れて、別々の細胞に入ることを指す。より普遍的には、接合体に於いて、相同染色体上の同一遺伝子座を占める両親由来の二個の遺伝子は、配偶子が形成される時に、分離し、その結果、雑種第二代(F)や、戻し交雑(最初の親の内の片方と再び交配させること)第一代(B)で形質の分離が起ることを指す。以上は所持する「岩波 生物学辞典 第四版」に拠ったが、同辞典の「分離の歪み」(英語:segregation distortion)も引いておく。メンデル遺伝において、期待される分離比が得られない、則ち、「分離の法則」に従わない現象を「分離の歪み」と呼ぶ。メンデル遺伝では接合体中の相同遺伝子は配偶子に均等に分配される。しかし、この公平さを誤魔化す遺伝子が存在し、メンデル遺伝の歪みとして現われてくる。最もよく知られた例は、キイロショウジョウバエのSD因子(segregation distorter)で、SD/+ヘテロ接合体では+染色体を持つ精子の形成が阻害され、SD染色体を持つ精子が高率で形成される。その結果SD/+SDホモ接合体のような分離比を示すケースである。この他にも、マウスのt遺伝子をはじめ,蚊やバッタ類、植物ではトウモロコシ・タバコ等でも類似の「誤魔化し遺伝子」が存在する、とある。]

 

Katatumurizasyu

[蝸牛の雜種

圖中白色は黃色を表すまた第二段は第一代

雜種を表し以下順次第二代第三代を表す]

 

 かやうなことは素より碗豆に限る譯ではなく、その他にも澤山な例がある。動物から一例を擧げて見るに、蝸牛の或る種類には樣々の變異があるが、その中で、殼が全部黃色で條の少しもないものと、五本の太い黑條のあるものとの間に、幾代も雜種を造つて見た所が、實驗の結果は全く碗豆の場合と同じく、黃色のものが優勢、黑條のある方が劣勢で、第一代雜種は悉く黃色のものばかりが出來、第二代雜種に至つて、黃色のもの約四分の三と黑條のあるもの約四分の一とに分れた。また蠶の白色のものと黑い橫條のあるものとの間では、蝸牛とは反對に、黑條のある方が優勢で、第一代雜種には悉く黑條が現れ、第二代雜種に至つて黑條のあるもの約四分の三と白色のもの約四分の一とに分れる。

 

Osiroibanazasyu

[おしろい花の雜種]

[やぶちゃん注:下部の図の外に右下に、図中の「一」「二」「三」の記号について、

一 第一代雜種

中央下に、

二 第二代雜種

左下に、

三 第三代雜種

のキャプションがある。これも国立国会図書館デジタルコレクションの画像。講談社学術文庫版ではこの図はカットされて存在しない。]

 

 前にも述べた通り、第一代雜種が一方の親のみに似ず兩親の中間の性質を現すことがある。例へば「おしろい花」の赤と白との間の雜種は、第一代には皆桃色であるが、これが第二代になると、赤と白と桃色との三種類に分れる、而してその數の割合は約赤一・白一に對して桃色二となるから、たゞ純粹の赤と混合性の桃色とが外見上明に區別せられ得るといふだけで、その他には何も碗豆の場合と違つた所はない。櫻草などの品種にもかやうな中間の性質を示す雜種を生ずるものがある。第一代雜種が丁度兩親の中間の性質を現すときは、雨親の相異なる性質の中、何れを優勢何れを劣勢と定めることは困難であるが、斯かる場合にでも第二代になると、明に兩親の性質が相分離する。アンダルーシャンといふ鷄の黑色の品種と白色の品種との間には、第一代雜種として黑白の極めて細かい霜降りのものが出來るが、鳥屋は從來之を「靑」と呼んで居る。所が、この「靑」の産んだ子、卽ち第二代雜種には如何なるものが出來るかといふと、決して「靑」のみが生れず、約白一・黑一・靑二の割合に三種類に分れてしまふ。されば「靑」といふ定まつた品種は、何時まで過ぎても出來ず、絶えず黑と白とを親鳥として新に造らなければ、「靑」の數は一代每に著しく減じて行く。この遺傳の仕方は前の「おしろい花」に於けると全く同樣である。

[やぶちゃん注:「アンダルーシャンといふ鷄の」「品種」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 さて、かやうに雜種の第二代目以後に兩親の性質が再び分離するのは何故であるかとの問に對するメンデルの考は、略次の如くである。凡そ子の出來るのは動物でも植物でも、雄性と雌性との二種の生殖細胞が相合することが必要である。動物ならば精蟲と卵細胞、顯花植物ならば、雄蘂の先に出來る花粉と雌蘂の内部にある胚珠とが、合して初めて一個の新しい生物個體が生ずるのである。そこで黃色の豆のなる碗豆には豆を黃色ならしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてあり、また靑色の豆のなる碗豆には豆を靑からしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてある。それ故、孰れの花粉を孰れの花に附けて造つても、第一代雜種は皆黃の性質と靑の性質とを合せ具へ、黃が優勢ならば、外見上たゞ黃の性質のみを現すが、この代の碗豆が成長して花粉や胚珠を生ずるに當つては、黃と靑との性質は決して同一の生殖細胞内に雜居せず、相別れて、或る花粉と胚珠とには黃の性質のみが傳はり、他の花粉と胚珠とには靑の性質のみが傳はる。卽ち花粉も胚珠も黃性と靑性と二通りづつ出來る故、之が相合して子を生ずるものとすれば、黃性の花粉が黃性の胚珠に合する場合と、靑性の花粉が靑性の胚珠に合する場合と、花粉と胚珠との何れか一方が黃性で他方が靑性の場合と、都合三つの合し方があり、隨つて出來た子にも、純粹の黃色のもの、純粹の靑色のもの、及び混合性のものとの三種類が出來る筈で、若し黃色が優勢ならば混合性のものは外見上黃色のみを現すであらう。また若し花粉も胚珠も黃と靑とが同數であつたとすれば、以上三種類の子の數は、約一と一と二との割合に出來る筈であつて、若し混合性のものが純粹の黃色と少しも違はぬ場合には、靑一に對し黃三の割合となる。讐へていへば、こゝに男を千人集めて、五百人には黃札を渡し、五百人には靑札を渡し、別に女を千人集めて、これにも五百人に黃札、五百人に靑札を持たせ、互に札を見ずに勝手に配偶を求めしめたとすれば、恐らく男も女も黃札を持つて居るものが約二百五十組、男も女も靑札を持つて居るものが約二百五十組、黃札と靑札とか二枚づつ持つて居るものが約五百組出來る勘定である。而して黃札か二枚でも二枚でも持つて居る組と、靑札より外は持たぬ組とに分けて算へれば、黃組七百五十に對し、靑組は二百五十で、丁度その三分の一に當る。メンデルの考は概略これに似たもの故、兩親の相異なる性質が雜種の第二代目に至つて明に豫定の割合に分れる場合には、學説の豫期する所と實驗研究の結果とが、完全に一致したことに成る。されば、碗豆の雜種、蝸牛の雜種、その他これと同樣の場合には、メンデルの考へた説が事實に當て嵌まつて居ると認めるの外はない。

 然し總べての雜種は第二代以後に至つて、段々初めの兩親の通りのものに分れるかといふと、實際に於てはなかなかさやうなわけではない。例へば人間の皮膚の色に就いていうても、日本人と西洋人との間の子[やぶちゃん注:「あいのこ」。多分に蔑称として用いられてきた経緯があるので今は使うべきではない。]が、同じ間の子と結婚したならば、その子は平均四人の中、人は純日本人、人は純西洋人で、殘り二人が間の子の色であるかといふと、決してさやうには行かぬ。南アメリカ邊では、黑人と白人との間の子が已に幾代となく繼續して居るが、たゞ色の稍黑い者や稍白い者などが樣々に生ずるだけで、決して黃色の碗豆と靑い碗豆との如くに速に分離しさうな傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]は見えぬ。我が國の犬でもその通りで、初めは純粹な日本種ばかりの所へ純粹な西洋犬が入り込んで、盛に間の子が出來たのであらうが、その後今日に至るまで、種々の程度の雜種が跋扈するばかりで、純粹な日本犬の毛色も、純粹な西洋犬の毛色も、往來などでは殆ど見られぬやうになつた。また兩親の性質に優劣の差のある場合には、第二代に劣勢の性質を現して居るものは、悉く一方の親と同樣に純粹なもので、その子孫は總べてその通りの性質を示すべき理窟であるが、實際には之からまた相手の優勢の方の性質を現す子が生れることがある。例へば普通には眼の色の靑いことは劣勢の性質、鳶色は優勢の性質であるが、兩人ともに眼の靑い夫婦の間に往々鳶色の眼を持つた子供の出來ることがある。その他、第一代雜種は總べて性質が揃つて居ても、第二代になると種々雜多なものが出來て、殆ど類別するにも困るやうな場合がある。

 斯くの如き次第故、雜種の二代以後に兩親の性質が如何に遺傳するかは、決して何時でも一種の型に從ふものではない。卽ち兩親の性質が判然と相分れる場合もあれば、不完全に分れる場合もあり、また全く分れぬ場合もある。且判然と分れる場合にも、數の割合が丸で豫定と反對のこともあり、不完全に分れて樣々のものの生ずる場合などは、到底數の割合も一定せぬ。前の碗豆の例の如きは、その中で最も簡單な、最も規則正しい場合であつて、メンデルの「分離の法則」がそのまゝに當て嵌まるのはかやうなものだけである。その他の場合には餘程變更しなければ當て嵌まらぬものが多く、また如何に變更しても全く當て嵌まらぬものも少くない。一言でいへば、メンデルの所謂分離の法則は、遺傳の仕方に樣々の種類のある中の一つの型に過ぎぬ。素より、斯かる型のあることを發見したのは、メンデルの大なる功績で、遣傳の研究上に一新紀元を造つたことは疑ないが、今日はメンデル説全盛のため總べての遺傳はこの型に從ふべきものと見倣し、如何なる場合をもこの型に嵌め込んで説明せんと努める學者が多勢あり、その結果として澤山の眞[やぶちゃん注:「まこと」]らしからぬ假説が考へ出されて居るやうに見受ける。

2018/05/26

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(二) 二 遺傳する性質の優劣

 

     二 遺傳する性質の優劣

 

 メンデルが實驗研究によつて見出したことは、先づ第一には、相異なる品種がそれぞれの性質を雜種に遺傳するに當つて、その勢力に優劣の差のあることである。一例を擧げて説明すると、こゝに碗豆の黃色い豆のなる甲品種と、靑い豆のなる乙品種とがある。この兩種は若し純粹に培養したならば、甲品種はどこまでも黃色い豆、乙品種はどこまでも靑い豆が出來るが、この兩品種の間に雜種を造ると如何なるものが生ずるかといふと、第一代の雜種としては悉く黃色い豆のみが出來て、一つも靑い豆は出來ない。而して雜種を造るに當つて、甲の方の花粉を乙の花に著けても、乙の方の花粉を甲の花に著けても、結果は全く同一である。かやうに第一代の雜種では、豆の色に關しては兩親の中の一方だけの性質を受けて、他の方からは何も傳はらなかつた如くに見えるが、更にこの豆を蒔いて引き續き培養して見ると、第二代以後にまた靑い豆の出來ることから考へれば、乙品種の性質は全く子に傳はらなかつた譯ではなく、雜種の第一代に於てはたゞ表面に現れなかつた

といふに過ぎぬ。この事實を見てメンデルは次の如き説を考へ出した。卽ち第一代雜種の體内には黃色い豆を生ぜしめる甲品種の性質も、靑い豆を生ぜしめる乙品種の性質も竝び存するが、一方の勢力が優つたために、その方のみが表面に現れ、他の方は負けて隱れて居るのであると見倣して、之を優劣の法則と名づけた。二品種の相異なる點は、皆相對立せしめることの出來るもので、例へば、甲は果實の色が黃色で乙は靑いとか、甲は花の色が白で乙は赤いとか、または甲は葉の幅が廣くて乙は狹いとか、甲は莖が長くて乙は短かいとかいふ類であるが、かやうに相對する性質の中で、一方が優勢で他が劣勢である場合を明にしたのは、メンデルの功績である。なほメンデルは實驗の結果、碗豆に於ては豆の形の丸いこと、莢の形の簡單に膨れたること、若い莢の綠色なること、莖の丈の高いことなどが、優勢の性質で、之に對し、豆の形に角あること、莢の形の豆粒の間に縊れてあること、若い莢の黃色なること、莖の丈の低いことなどが、劣勢の性質であることを確めた。またメンデル以後の研究によると、かやうなことは、碗豆の外にも、動物・植物ともに隨分澤山あつて「たうもろこし」では粒の黃色が優勢で白が劣勢、兎では毛の短いのが優勢で長いのが劣勢、鷄では普通の羽毛が優勢で、烏骨鷄のやうな絹樣の羽毛が劣勢である如きは、最も確な例である。

 

Kurosiromadarareguhon

[黑白斑のレグホーン]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 然しながら、二品種の間に雜種を造れば、いつでもこゝに述べた如きことが生ずるかといふと、決してさやうではない。雜種は當然兩親の間の性質を有すべき筈とは誰も考へることであるが、近年盛に行はれる實驗の結果で見ても、雜種には樣々な場合がある。碗豆の如くに一方の親の性質のみが現れるものもあるが、また兩親の中間に位する性質を示すものが頗る多い。例へば「おしろい花」の赤い花の咲く品種と、白い花の咲く品種との間の雜種には、桃色の花が咲く。丈の高い「たうもろこし」と丈の低い「たうもろこし」との間には、中位の丈の雜種が出來る。白い卵を産む鷄の品種と、茶色の卵を産む品種との開の雜種は、薄茶色の卵を産み、耳の長い兎と耳の短い兎との間には、中位の耳を持つた子が生れる。京都の動物園には西藏産の二瘤駱駝とアラビヤ産の一瘤駱駝とが飼つてあるが、その間に生れた雜種は二つの瘤が連續して一つになつた如き中間の形の瘤を持つて居る。兩親の中間の性質というても、必ずしも兩親の性質を合せて二で割つたやうな性質が、總べての子に揃つて現れるといふわけではない。尾の長い犬と尾の短い犬との間には、尾の稍長い稍短い子など、樣々なものが生れる。白人と黑人との間の子も之と同樣で、やはり兩親の間の色を有するが、その中に色の黑さに種々の程度がある。また、生れた子の體部によつて、兩親の性質の優劣の關係が違ふものがある。例へば、頭は父に似て、尾は母に似るとか、左半は男親の通りで、右半は女親の通りとかいふ如き場合がある。四本指のドルキンと五本指のドルキンとの間には、往々左足には四本、右足には五本の指のある雛の生れることがある。黑と白との兩親の性質が子の體部により優劣を異にすれば、その結果として斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が生ずるが、黑いレグホーンと白いレグホーンとの間には、時々全身に黑白の細かい斑點のあるものが生れる。その他、最も相異なる鳩の變種の間に雜種を造ると、往々兩親の何れにも似ずして、却つて野生の「かわら鳩」に似たものが生ずることは已にダーウィンも知つて居たが、鷄なども甚しく違つた品種間の雜種に、今日マレイ地方に棲んで居る野生の鷄にそのまゝのものが生ずる。これらは恐らく先祖の姿に戾つた譯であらうが、「おしろい花」の白い品種と黃色の品種との間に、赤と桃色との斑の花の咲く雜種の出來た場合の如きは、餘程關係が複雜で、なかなか一々の性質の遺傳の道筋を明にすることは容易でない。

[やぶちゃん注:「おしろい花」ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa。花は赤・黄・白及び絞り模様(同じ株でも複数の色の花を咲かせる場合もある)などであるが、白と黄の絞りは少ない。

「たうもろこし」単子葉植物綱イネ目イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea maysウィキの「トウモロコシによれば、『トウモロコシは長い栽培の歴史の中で用途に合わせた種々の栽培品種が開発されている。雑種強勢(異なる品種同士を交配すると、その子供の生育が盛んとなる交配の組み合わせ)を利用したハイブリッド品種が』一九二〇年頃から『アメリカで開発され、以後収量が飛躍的に増加した。また、近年では遺伝子組換えされた栽培品種も広がりつつある』。『一般にトウモロコシの分類に用いられるのは、粒内のデンプンの構造によって種を決める粒質区分で』、『種によって用途や栽培方法に違いがある』とある。我々がよく呼び、食用としている「スイートコーン(甘味種)」は Zea may svar.saccharata である。

「西藏産の二瘤駱駝」「西藏」は「チベット」であるが、ここは現在の中国のチベット自治区も含まれ、その周辺域まで広げておいた方がよいであろう。ウシ目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus ferus。中央アジア原産で、トルコ以東のイラン・カスピ海沿岸・中央アジア・新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで棲息している。頭数は百四十万頭程度で、ラクダのうちの十%程度に過ぎない(後は総てヒトコブラクダ)。しかもこれらは家畜個体の頭数であり、野生のフタコブラクダの個体数は世界中で約千頭しかいないとされており、野生のフタコブラクダは二〇〇二年、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されている(ウィキの「ラクダ」に拠る。次も同じ)。旧版やそれの一つを底本としている講談社学術文庫版では『滿州産』『満州産』となっている。どちらが正しいのかであるが、実際に運ばせたのは中国東北部(旧満州地方)で家畜していた個体であったのだろうが、それは恐らく、中央アジアから運んだものであるから、まあ、この「西藏」の方が当時としてはよりよいとは思う。

「アラビヤ産の一瘤駱駝」ヒトコブラクダ Camelus dromedaries。西アジア原産で、インドやインダス川流域から西の、中央アジア・イランなどの西アジア全域、アラビア半島・北アフリカ・東アフリカを中心に広汎に分布している(現在、飛び地的にオーストラリア中央部の砂漠地帯に約七十万頭が棲息するが、これは人為移入したものが野生化したもの)。なかでも特に「アフリカの角」地域(Horn of Africa:アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島部の広域呼称)では現在でも遊牧生活に於いてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている。但し、これは総てが家畜個体で、ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅している。

「ドルキン」鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ(ガルス・ガルス・ドメスティカス)Gallus gallus domesticus の英国産品種の一つである“Dorking chicken”のことであろう。英文ウィキを参照されたい。

「レグホーン」“Leghorn”。レグホンとも呼ぶイタリア原産のニワトリの品種。イギリス・アメリカで改良された。白色・褐色・黒色があるが、白色が最も産卵数が多い。「レグホン」はイタリアのトスカーナ州の西のリグリア海に面した港町リボルノ(Livorno(グーグル・マップ・データ))が本種の特産地であったことから、その英語名に由来する。

「かわら鳩」ハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia。最も普通に見かけ、我々が通常、「鳩」と呼んでいる種である。

「マレイ地方」現在のマレー半島(Malay Peninsula)。太古には周辺域に広がるスンダ列島とともに大スンダ大陸を形成しており、その頃からの生物では島嶼部からマレー半島にかけて原生棲息しているような種群が多く見られる。現在、北西部はミャンマーの一部、中央部と北東部はタイの一部、南部の大部分はマレーシアである(ウィキの「マレー半島」に拠った)]

 

 また兩親の性質に明に優劣があつて、第一代雜種が兩親の孰れか一方に似る場合でも、いつも必ずメンデルの碗豆に於ける如く、簡單に規則正しく行はれるとは限らぬ。例へば同一の性質でも相手によつて或は優勢となり、威は劣勢となることもある。黃色い繭を造る蠶の甲品種が、白い繭を造る乙品種に對しては優勢で、その間には黃色い繭のみを造る雜種を生むに拘らず、同じく白い繭を造る丙品種に對しては劣勢で、それとの間に出來た雜種は悉く白い繭を造るといふ如き例もあり、また蠶の甲乙二品種の間の雜種で、繭の色が兩親の孰れに似るか全く不規則で定まらぬこともある。また、若いときには親の一方に似、成長するに隨つて、他の一方の親に似るものもある。例へば、殼の黃色い蝸牛と殼の紅い蝸牛との間の雜種では、幼時に出來た殼部は黃色で、成長してからは紅い殼を生じた。鳥類にも之に類する例がある。その他、子が雄ならば一方の親なる甲品種の性質が優つて現れ、雌ならば他の一方の親なる乙品種の性質が優つて現れるといふやうな場合も少くない。

 以上述べた通り、相異なる兩親の性質が子に傳はるには、種々の仕方があつて、然もその間には判然した境界は附けられぬ。單に優劣の點のみに就いて論じても、白と赤との間に中間の桃色の生ずる如き殆ど優劣のない場合から、碗豆の如くに優劣の明なものまでの間に、無數の階段がある。また桃色の最も濃いのは赤と區別が出來ず、桃色の最も薄いのは白と區別が出來ぬ。試に赤インキに二割の水を混じて字を書いて見るに、元の色との區別は到底分らぬ程であるから、第一代雜種が全く一方の親のみに似て居ても、必ずしも他の方の親の性質が少しも混じて居らぬとの斷言は出來ぬ。赤と白との斑も、赤が段々減ずれば終には全く白となり、白が段々減ずれば終には全く赤となる。赤と白との斑が細かくなれば絞りとなり、霜降りとなり、更に細かくなれば全部一やうの桃色となる。斯く考へると、雜種には兩親の性質が或る割合に相混じて現れるのが通則であつて、メンデルの實驗した碗豆の如きはその一方の極端に位する特殊の場合と見倣すが至當であろう。メンデルは偶然にも初め碗豆を用ゐて實驗したから、兩親の性質が雜種の體内で相爭ひ、勝つた方が負けた方を壓服して居る如くに想像したが、若し他の材料を用ゐたならば、恐らく雜種には常に兩親の性質が或る形に相混じて現れることが明に知れて、優劣の區別には斯くまで重きを置かなかつたかも知れぬ。且碗豆の場合と雖も、第一代雜種が一方の親と全く同一で、少しも相違がないやうに見えるのも、或は見る人に識別力が足らぬためであるかも知れぬといふことに氣が附いたであらう。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(一) 序・一 メンデルとド、フリース

 

    第十六章 遺傳性の研究

 

 前にも述べた通り遺傳に關する實驗的研究は、今より二十六七年前から遽に[やぶちゃん注:「にはかに(にわかに)」。]盛になつたものであるが、その理由は次の如くである。前世紀の中頃にオーストリア領のブルンといふ町の或る寺にグレゴール・メンデルといふ和尚があつて、この人が寺の仕事の餘暇に、種々の碗豆[やぶちゃん注:「えんどうまめ」。]を庭に植えて、違つた品種の間に雜種を造り、數年間實驗を續けた結果、遺傳に關する頗る面白い新事實を發見したので、之を短く書き綴つて、その地方の博物學會の會報に載せて置いた。然るに田舍の小雜誌であつたためか、世間の學者は一向これに注意した人がなくて、三十幾年かの間は全く忘れられて居たが、一千九百年に至つて、オランダド、フリースドイツコルレンスオーストリヤチュルマックといふ三人の植物學者によつて、偶然にも殆ど同時に見附け出された。ド、フリース等はその前から品種間の雜種を造つて、遣傳の研究に從事して居たが、他人の古い論文の中に、自分の研究に關係のあることが出ては居ないかと、彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]探す中にこの報告を見出して、讀んで見ると極めて面白いことがあつて、然もそれが已に三十何年も前に發表せられてあつたから、大に驚いて、直に之を世に紹介した。それから急に、こゝでもかしこでもメンデルの曾て行つたのと同樣な實驗を試みる人が澤山に出來て、續續と新しい事實が發見せられ、雜種研究の有望なことが明になると同時に、メンデルの名は遽に世間に弘まり、非常に有名となつて、今では遺傳のことを論ずるに當つて、メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた。今日盛に行はれて居る遺傳の研究も、その大部分は、昔メンデルの行つたと同樣のことを、たゞ材料を變へて試して居るだけである。

[やぶちゃん注:「オーストリア領のブルン」旧オーストリア=ハンガリー帝国領であった、現在のチェコ共和国第二の都市でモラヴィア地方の中心都市ブルノ(チェコ語: Brno)。ドイツ語名はブリュン(Brünn)またはブルン Brunn)。メンデルが入った修道院は“Augustinian St Thomas's Abbey”(英語)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「グレゴール・メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)は司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』、一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが』、『失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった(太字下線やぶちゃん。以下、同じ)。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ』(キク亜綱キク目キク科タンポポ亜科ヤナギタンポポ属ミヤマコウゾリナ(深山顔剃菜・深山髪剃菜)Hieracium japonicum)『による実験を勧められ、研究を始めたが』、『この植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから』、『交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、ここに出る三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「碗豆」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativumウィキの「エンドウ」によれば、『メンデルは遺伝の研究』では『特に』『遺伝子雑種と』『遺伝子雑種の研究が有名であ』り、その『遺伝子雑種の研究について』は、

・エンドウの種子には「丸型」と「皺(しわ)型」があること。

・純系の「丸型」と「皺型」を自家受精させたものの種子を調べると全てが「丸型」であったこと。

が大きなポイントで、これは「丸型」の形質が「皺型」の形質に対し、『優性であることを示して』おり、『メンデルはこれを『優性の法則』と呼んだ』。として、

・生まれてきた丸型の種子を自家受精させると、丸型:皺型=31の比率で種子ができたこと。

で、『これは体細胞で対になっている対立遺伝子は配偶子形成の減数分裂第一分裂の際、二手に分かれ』、『それぞれ別の配偶子に入ることを示してい』るものであった。『メンデルはこれを『分離の法則』と呼んだ』。『メンデルがエンドウを材料に使った理由は、そのころ』、『すでに数人の研究者によって、遺伝実験の材料として使われたことがあったためと思われる。エンドウは自家受粉が可能で、多くの品種があり、このことも遺伝の実験には好都合だったと見られる』とある。

「ド、フリース」ユーゴー・マリー・ド・フリース(Hugo Marie de Vries 一八四八年~一九三五年)はオランダの植物学者・遺伝学者。ウィキの「ユーゴー・ド・フリース」によれば、オオマツヨイグサ(フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta)の栽培実験によって、一九〇〇年に『カール・エーリヒ・コレンスやエーリヒ・フォン・チェルマクらと』、それぞれ独自に『メンデルの法則を再発見した。さらにその後も研究を続け』、翌一九〇一年には『突然変異を発見』、彼は『この成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという「突然変異説」を提唱した』。『政治家の息子としてオランダのハールレムに生まれた。ライデン大学・ハイデルベルク大学で植物分類学を学び、オランダの植物相の専門家となった。のちにヴュルツブルク大学のユリウス・フォン・ザクスの研究室へ入り、ここで植物生理学の分野で重要な貢献をした(膨圧、呼吸、成長、原形質分離など。「原形質分離」という言葉を作ったのもド・フリースである)。ここでの研究はヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフの浸透圧の研究にも影響を与えた』。一八七八年に『アムステルダム大学の植物学の教授となり、この頃から遺伝の研究に移』り、一八八九年には『これまでの遺伝に関する研究をまとめた『細胞相互間のパンゲネシス』(Intracellular Pangenesis)』(「パンゲネシス」は獲得性遺伝を説明するためにダーウィンが一八六八年に唱えた仮説。「gemmule(ジェミュール:芽球)」という自己増殖する粒子が各細胞にあって、それが外界から種々の影響を受け取って生殖細胞に集まり、次代になって再び各器官に分散して遺伝現象を起こすというもの。これによれば、後天的獲得形質は遺伝可能となる。無論、現在は歴史的興味を留める旧説に過ぎない。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を出版した。論文中で彼は遺伝を決定する細胞内の要素をパンゲンと名づけた。この理論を研究するため』、一八九二年から『植物の栽培実験を始めた。そして』四年後の一八九六年、『メンデルの法則を再発見した。彼はこの結果をしばらく発表しないでいたが』、一九〇〇年に三十四年前の『グレゴール・ヨハン・メンデルの論文を知り、自身の論文を発表した』。『微小な変異が蓄積して新種が生じるというチャールズ・ダーウィンの説に懐疑的にだったド・フリースは』一八八六年から『アムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。彼は、この研究において生じたいくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気付いた。彼はこれをパンゲンが変化したために』、『それに支配される形質だけが標準型と異なる「新種」が生まれたとして、これを突然変異と名づけた。そして進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え』、その結果を一九〇一年から『突然変異論』(The Mutation Theory)として出版した』(「から」というのは後で丘先生が本文で言われるように、一九〇三年にも追加しているからである)。『しかしながら』、『後にこの植物の染色体の遺伝的構成はきわめて複雑なことが判明し、ド・フリースの観察した結果は三倍体ないし四倍体による変異であると説明されるようになった。それでも、彼の理論は現在でも』、『ある種について進化に繋がる変異がどの程度起きるかを考察するために重要なものとみなされている』とある。

「コルレンス」カール・エーリヒ・コレンス(Carl Erich Correns 一八六四年~一九三三年)はドイツの植物学者・遺伝学者。ウィキの「カール・エーリヒ・コレンス」より引く。『彼は第一に、彼自身の遺伝学における法則の発見によって、そして遺伝学に関するグレゴール・ヨハン・メンデルの初期の論文を、植物学者であるエーリヒ・チェルマック及びユーゴー・ド・フリースとほぼ同時に、しかしそれぞれ独立して再発見した(いわゆるメンデルの法則の再発見)ことによって知られる』。『コレンスは、当初はカール・ネーゲリの学生であった。ネーゲリは、メンデルが自分のエンドウマメで行った遺伝の研究について論文を送ったにもかかわらず、その研究の重要性を理解できなかった著名な植物学者であ』り、『また、チェルマックはメンデルのウィーンでの学生時代に植物学を教えた人物の孫であった』。『ミュンヘンで生まれた。幼い頃に両親を亡くしたので、スイスに住む叔母によって育てられた』。一八八五年に『ミュンヘン大学に入学し、そこでメンデルが自身の行ったエンドウマメの実験について論文を送付した植物学者であるカール・ネーゲリに師事して植物学を学んだ』。『自身の学位論文を書き上げた後』、一八九二年に『テュービンゲン大学の私講師となり、さらにライプツィヒ大学およびミュンスター大学での教授職を経て』、一九一三年、『ベルリン郊外のダーレムに新しく設立されたカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所の初代所長となった』。『コレンスは』十九『世紀の変わり目頃に遺伝学の分野における多くの基礎的な仕事を行った。彼はメンデルの業績を別のモデル生物を用いて独自に追試し、再発見した。彼はまた、メンデルの法則の重要な進展となる細胞質遺伝を発見したが、これはメンデルの法則を越えて遺伝学を大きく拡大したものであり、表現型に関係を持つものが染色体外にも存在することを証明していた。しかし、コレンスのほとんどの研究は未発表に終わり』、一九四五年の『ベルリンの戦いにより』完全に破壊され』てしまっている。『テュービンゲン大学時代の』一八九二年、『コレンスは植物における形質の遺伝について実験を開始した。彼はメンデルによるエンドウマメの実験の結果を知らないで、メンデルが行ったのと同じ実験を、主にヤナギタンポポ』(キク目キク科ヤナギタンポポ属ヤナギタンポポ Hieracium umbellatum『により行った。コレンスは最初の論文を』一九〇〇年一月二十五日に発表しているが、『彼はその中でチャールズ・ダーウィンとメンデルの両方を引用したが、遺伝学とダーウィンの進化論の関連性については十分に理解していなかった。コレンスの論文『交配種の子孫の様式に関連したグレゴール・メンデルの法則』において、彼はメンデルの研究結果、分離の法則及び独立した組み合わせの法則について言及した』。『メンデルの遺伝の法則を再発見した後、コレンスはオシロイバナ』(ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa)『を用いて、その変化に富んだ(緑と白のまだらの)葉の色の遺伝を研究した。彼が再発見したメンデルの法則は染色体の振る舞いそのものであったが、彼はオシロイバナの研究によって、メンデルの法則に対する明確な反例を探しだした。メンデルの法則では、その形質はその元になる両親の性別とは独立して振る舞うのに対して、コレンスは、この例では葉の色はその性質を持つ親がどちらの性であるかに大きく依存していることを発見した。例として、白い枝に別の区域の白い花からの花粉で受粉すると』、『白い子孫を生じ、これは劣性遺伝子であれば当然予測される結果である。緑の柱頭に緑の花粉を受粉すると、すべて緑色の子孫を生じ、これも優性遺伝子ならば期待通りの結果であった。しかしながら、もし白い柱頭を緑の花粉で受粉すると子孫は白くなるが、花粉と柱頭の組み合わせを逆にして緑の柱頭を白い花粉で受精すると、子孫は緑であった』。『この、メンデルの法則から外れた遺伝のパターンは、後に』 IOJAP(葉緑体蛋白質合成が起こらない白色変異の一つを出現させる遺伝子)『と名付けられた遺伝子であることが突き止められた。これは、葉緑体リボソームを適切に組み立てるために必要な小さな蛋白質をコードしたものである。たとえ』IOJAP『がメンデルの法則にしたがって類別しても、もし母系がホモ接合型劣性であるなら、その蛋白質は産生されないので葉緑体リボソームも形成されず、細胞小器官の中にリボソームは取り込まれないことからプラスミドは機能しない結果となる。子孫は iojap の機能的なコピーを持っているかもしれないが、たいていの被子植物では、葉緑体はその大部分が母方から排他的に伝えられるので、それらはそれ以前の世代では不活性であり、白い植物となったことだろう。逆にもしも父方が白く、緑色の母方と交配すると、この母は機能を保った葉緑体を持っているから、子孫は機能的な葉緑体のみを引き継いで緑色になる』。一九〇九年の『論文において、彼は葉の斑入りが細胞質遺伝の最初の包括的な例であることを立証した』とある。

「チュルマック」エーリヒ・フォン・チェルマク(Erich von Tschermak-Seysenegg 一八七一年~一九六二年)はオーストリアのウィーン出身の農学者(遺伝・育種)。ウィキの「エーリヒ・フォン・チェルマク」より引く。『初期は園芸品種の改良に関心を示した』。『フライブルクの農場で従事し、病害に強い品種の開発を行い、その中には交雑種を含むムギの品種改良が含まれている』。一九〇〇年に『オーストリアの国営農場でエンドウの交配実験を行い、チェルマクはユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンスと並び、グレゴール・ヨハン・メンデルが』一八六〇年に『発表したメンデルの法則を再発見した人物とされ』る。一九〇六年には『ウィーン農科大学の教授を務めた』とある。

『メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた』私は聴いたことがないが、明治末から大正期にかけてはこんな新語があったのであろう。面白い。]

 

 遺傳に關する近頃の議論を書いたら、その大要だけを摘んでも悠に一册の書物となる程であるから、本書に於ては無論その一部分より述べることは出來ぬ。元來本書は生物進化のことを通俗的に説明するのが目的てあるから、遺傳に就いての樣々の假説を掲げる必要はないやうにも思ふが、遺傳のことを書いた新しい書物の中には、往々事實と假説とを混合して、或る一派の人々の唱へる假説までも、已に確な事實であるかの如くに書いたものもあつて、讀者をして自然淘汰説が已に他の新説と交代したかの如き感を抱かしめぬとも限らぬから、本章に於て、近來の實驗で確められた遺傳上の事實と、之を説明するために考へ出された學説の中で重要な部分だけを短く紹介する。


     一 メンデルド、フリース

 

Mendel

[メンデル]

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。後のド・フリースの肖像も同じ。]

 

 グレゴール・メンデルは一千八百二十二年にオーストリヤシュレジヤ地方の或る村で生れた。姓を聞くとユダヤ人かと思はれるが、實は純粹な獨逸人で、高等學校を卒業してから、ブルン町の寺に入つて僧侶となり、寺の費用でヴィーン大學に人學し、三年間理科を修め、歸つてからは町の實科學校で、理科を受持つて居た。遺傳の實驗をしたのはその頃で、八年間寺の庭で研究を續け、その結果を千八百六十五年の春、ブルン博物學會の例會で講演し、後これを同會の會報に掲げた。後世の實驗遺傳研究の手本となつたのは、この僅に三十頁ばかりの報告である。一千八百六十八年、卽ち我が國の明治元年に教員を止めてからは、專ら寺の和尚となり、研究も中絶したが、その後、寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ。さればメンデルの名が急に世に知られたのは、當人の死後十數年を經てからである。

[やぶちゃん注:「オーストリヤ領シュレジヤ地方の或る村」メンデルは旧オーストリア帝国のハインツェンドルフ(Heinzendorf:現在のチェコ・モラヴィアのヒンチツェ(Hynčice)。ここ(グーグル・マップ・データ))に小自作農の果樹農家の子として生まれた。母語はドイツ語であった。

「寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ」小学館「日本大百科全書」によれば、後年の『メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ』、一八六八年の『選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、遺伝研究を続けることができなくなった』一八七四年、『オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、彼はその反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの』十『年間は』、『その撤回のための闘いに全精力を傾けた。政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、しだいに人を信じない気むずかしい老人となり』一八八四年一月六日、『この世を去った』とある。私は中学生の頃、少年向け科学書で、彼の発見が生前、全く顧みられなかったこと、そしてこの晩年の話をも読み、それ以来、メンデルがとても可哀想に思われた。今も同じである。]

 

 メンデル以前にも相異なつた品種間に雜種を造つて見た人は幾らもあつたが、特にメンデルが他人の見出し得なかつた面白い新事實を發見したのは何故であるかといふに、一はかの選んだ材料が偶然にも丁度適當なものであつたにも因るが、また彼の用ゐた實驗の方法が頗る注意深くあつたためである。雜種を造るに當つて、彼は決して一代で滿足せず、更に引き續いて幾代も培養し、常に他の花から花粉の飛んで來ぬやうに、一個一個の花を保護して、その花だけで果實を生ぜしめ、更に之を蒔いて、性質の相異なつたものが生えれば、一代每にその數を精密に算へて置いたが、斯くして第一代雜種は皆一樣である場合にも、第二代以後には樣々の相異なつたものが出來て、然もその間の數の割合が略々一定して居ることなどを發見した。今日でも彼の用ゐたのと同じ材料を用ゐ、同じ方法で實驗さへすれば、誰でも容易に彼の得たと同樣の結果を見ることが出來る。雜種による遺傳研究の今日頗る盛であるのも、一はその比較的容易に行はれ得るためであらう。

 

Dofrice

[ド、フリース]

 

 フーゴー、ド、フリースは一干九百年にメンデルの古い研究を世に紹介した一人であるが、この人は一千八百四十八年にオランダハールレム市で生れ、自國ではレイドン、獨逸ではハイデルベルヒヴュルツブルヒ等の大學で修業し、一千八百七十七年卽ち明治十年にアムステルダム大學の植物學教授となつて、今もそのまゝ勤めて居る。初めは主として植物生理を研究して居たが、遺傳・變異等の問題にも大なる興昧を持ち、曾て「細胞内パンゲン説」と題する面白い册子を書いたことがある。遺傳・變異等の實驗研究の材料として、最も適當な植物を色々探して居る内、一千八百八十六年にアムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村の荒畑で、不圖[やぶちゃん注:「ふと」。]月見草に面白い變異のあることを見附け、早速、アムステルダム大學の植物園に移し植ゑ、それからは全力を盡して月見草の變異の研究に從事し、何萬本ともなく培養したが、一千九百年には曾てメンデルが發見したと同樣の事實を確め、一干九百一年と同三年とには「突然變異説」と題する二册物の立派な書物を著した。この書はド、フリースが十五年間の實地研究に基づいたもので、議論の基礎とする事實が頗る確實で且豐富であつたから、忽ち非常な評判となり、後アメリカから招かれて講演に行つたときなどは、同地の新聞紙にはダーウィンの自然淘汰説は全く倒れて、ド、フリースの突然變異説がその代りに立つた如くに囃し立てた。動植物學者間に雜種の研究の流行し始めたのは丁度その頃で、それ以來は新しい實驗の報告が殆ど絶え間なく澤山に發表せられ、今日では之を掲載するための專門の雜誌が、イギリスドイツ等に二三種も刊行せられ、最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた。

[やぶちゃん注:「オランダのハールレム市」ハールレム(Haarlem)は現在のオランダの北ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、州都が置かれている都市。因みに、ニューヨークのハーレム(Harlem)地区の名称はこのハールレムに由来する(オランダ移民が作ったからという。以上はウィキの「ハールレム」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「レイドン」ライデン大学(オランダ語: Universiteit Leiden)。オランダ国内の大学としては最も古い。一五七五年設立。

「ハイデルベルヒ」「大學」ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク(ドイツ語:Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)。一三八六年創立のドイツ最古の大学。通称は「ハイデルベルク大学」。

「ヴュルツブルヒ」「大學」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク(ドイツ語:Julius-Maximilians-Universität Würzburg)。通称は「ヴュルツブルク大学」。一四〇二年創立。

「細胞内パンゲン説」序の注のド・フリースの中で注した「パンゲネシス」(Pangenesis)の略称。

「アムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村」オランダ中部北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)ヒルフェルスム(オランダ語:Hilversum)。(グーグル・マップ・データ)。

「月見草」この場合は、ド・フリースの先の注で示したフトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta を指している。一般に本邦では本種や同属のオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala、及びコマツヨイグサ Oenothera laciniata などを「月見草」と呼んでいるので、世間一般での呼称に合わせたならば間違いではないが、狭義の種としては、マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera を指すので、生物学書としては、ここは「マツヨイグサ」或いは「月見草(マツヨイグサ)」としなければ、甚だまずい。なお、以上の種は総てが帰化種である。因みに、私は黄色いオオマツヨイグサ・やマツヨイグサが嫌いである(従って太宰のあのキャッチ・コピーも好かぬ(太宰治の小説「富嶽百景」昭和一八(一九四三)年新潮社刊)の有名な『富士には月見草がよく似合ふ』というフレーズの「月見草」とは実はオオマツヨイグサのことである。だって富士に『相(あひ)対峙(たいじ)し』て『けなげにすつくと立つてゐた』と出るのはとてもとてもツキミソウではない!)。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサやハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する。やはり帰化種)はいい。しかし、前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい。可哀想!)。ユウゲショウ Oenothera rosea (帰化種)に至っては、これ見よがしな紅がはっきり言って嫌い! 私が好きなのは、もうお分かりと思うが、唯一正統る「月見草」、白色の可憐なツキミソウ Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera――白い花だけをご覧下)。……三十五年前、独身だった私の新築前の古い家の地所内の玄関脇には、野生の、この白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があったのだった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣したのだった……私はそれを偸んだ奴を実は知っている……あの裏山を越えたところに今も住んでいる老婆だ……今も私は恨んでいる……『君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから』……(漱石「こゝろ」より)……

『最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた』不詳。識者の御教授を乞う。]

2018/05/19

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(6) 六 最近の狀況 / 第十五章 ダーウィン以後の進化論~了

 

     六 最近の狀況

 

 以上はたゞダーウィン以後には種々の相反する議論が絶えず鬪はされて居たことを、二三の例に就いて示しただけであるが、大體は斯かる有樣で今日まで繼續して來た。但、最近十四五年間はその以前に比べると、著書にも議論にも著しく趣の異なつた所が出來た。その理由は、この頃から遺傳の實驗的研究が急劇に盛になつて、生物學の舞臺の正面に出たため、多數の人はこの方に注意を惹かれ、生物進化の大問題は却つて暫く等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]にせられたからである。尤も實驗的研究といつても、單に相異なる品種間に雜種を造つて、その結果を見るだけであつて、植物では特に行ひ易いから、近來は大に流行の氣味で、植物園とか、農事試驗場とかいふ所では、盛に行はれ、隨つて、近頃急に多數に出版せられる遺傳に關する書物も、その内容は大概この種類の實驗の結果で充たされて居る。何故斯く急に盛になつたかは次の章に述べるが、かやうな書物を讀み議論を聞く時に、特に忘れてならぬことは、事實と學説とを明に區別することである。多數の人々が、種々の材料を用ゐて熱心に實驗を行へば、それだけ遺傳に關する事實上の知識が增すこと故、學問の進步の上に極めて喜ぶべきことで、その事實に就いては疑を插むべき理由はないが、之を基として學者の考へた理論や學説の方は、素より各個人によつて、相異なるを免れぬ故、互に批評し講究すべき餘地は十分にある。遺傳に關する近頃の書物を讀んで見るに、雜種研究者は兎角、長い間に於ける生物の進化を忘れ、僅に二三代に亙る實驗の結果から推して、一々の性質を固定せるものの如くに見倣し、性質の組合(くみあはせ)はどうにもなるが、一々の性質そのものは一定不變のものである如くに考へる傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]がある。後天的性質の遺傳を否定して居る者の多いのも、その爲ではないかと思ふ。素より今日も力を靈してラマルク説を主張する學者は相變らず有るが、數の上からいふと、親の新に得た性質は子に遺傳せぬと論ずる人の方が遙に多いであらう。現に我が國の著書を見ても、石川氏の進化新論はいふに及ばず永井氏の生命論、池野氏のローマ字書き實驗遺傳學など、皆この組に屬するもので、之に反對の考へを有する者は殆ど本書の著者人の如き有樣である。

[やぶちゃん注:「石川氏」動物学者で進化論学者の石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』(明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったエドワード・シルヴェスター・モースが蝶の標本を見に来宅したことがモース著石川欣一訳「日本その日その日」の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」に出る。リンク先は私のオリジナル注附きの全電子化の一部)。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっている。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「進化新論」石川千代松が明治二四(一八九一)年敬業社から刊行したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇。進化論が日本の生物学者に消化され、紹介され、論じられる時代の第一歩となる著作とされる(以上は八杉龍一「進化論の歴史」(一九六九年岩波書店刊)の評言)。

「永井氏の生命論」医学者で生理学者の永井潜(ひそむ 明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年):広島県賀茂郡下市村(現在の竹原市)出身。明治三五(一九〇二)年、東京帝国大学医科大学を卒業後、翌年からドイツのゲッティンゲン大学に留学、冬眠動物の代謝生理の研究を行い、四年後に帰国、大正四(一九一五)年には東京帝国大学医科大学生理学教室第二代教授に就任した。その前後から、一般雑誌や婦人雑誌などに、盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数、発表し、昭和五(一九三〇)年に「日本民族衛生学会」を設立、理事長として優生学研究の推進と、悪名高き「国民優生法」(昭和一五(一九四〇)年の前身である「民族優生保護法案」の提出に大きな役割を果たした。昭和九年、東京帝国大学医学部長となり、昭和一五(一九三七)年に定年退官するが、その後も海外に赴任して、台北帝国大学医学部長・京城帝国大学医学院名誉教授を歴任している(以上はウィキの「永井潜に拠る))が大正二(一九一三)年に洛陽堂から出版した「生命論」か。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇

「池野氏のローマ字書き實驗遺傳學」植物学者・遺伝学者の池野成一郎(せいいちろう 慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年:明治二三(一八九〇)年、東京大学植物学科卒業。明治二九(一八九六)年ソテツの精子を発見し、同年、平瀬作五郎を指導してイチョウの精子も発見させている。この植物学上重要な研究発見により、種子植物とシダ植物が系統的に近いことが明らかにされた。明治三九(一九〇六)年にドイツ・フランスに留学、帰国して東京大学教授となった。彼は熱心なローマ字普及論者としても著名で、主著の一つであるこの「実験遺伝学」(大正七(一九一八)年「日本のローマ字社」刊)は総てローマ字で書かれており、書名も無論、Zikken-Idengaku」である(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。圧倒的に読み難いと思われるにも拘らず、評判が良くて売れ、再版まで出ていることが、新著紹介資料PDF。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)で判る。内容は植物の実験遺伝学のようである。]

 

 生物進化の理を明にするには先づ以て、遺傳及び變異の現象を詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]にすることは無論必要であるが、品種間の雜種を造つて研究する方法は、たゞ已に存在する性質が如何に子孫に傳はるかを調べるのであるから、遺傳に關する一部分のことを知り得るだけである。されば、飼養動植物の品種の改良を圖るに當つては、この種類の研究は甚だ有益なものであるが、長い年月の間に、自然に生物各種が進化し來つた原因を探るためには、他に之よりも更に重大な問題がある。それは、先づ人工的に生活狀態を變へて、或る生物に新しい變異を起させ、それが少しでも子孫に遺傳するか否かを試して見ることであるが、ダーウィン以後の論爭の中心點ともいふべき後天的性質の遺傳に關する疑を解くには、之が最も大切な實驗的研究である。この方面の研究も近年は幾らも行つた人があるが、品種間の雜種を造るのとは違つて、稍大仕掛けの設備と費用とを要する故、到底雜種研究の如くに手輕くは行はれず、隨つてその結果の發表せられた數はまだ比較的に少い。倂し、この方面の研究の結果は、殆ど皆外界から生物個體に及ぼす影響は、たゞその一代に止まらず、後の代にまで及ぶことを示すものばかりである。遺傳及び變異に關する最近研究の結果は次の二章に略述するが、現今の生物學理論界の狀況を一言でいへば、雜種研究に重きを置いて、後天的性質の遺傳を否認する多數者と、人工的飼養實驗によつて後天的性質の遺傳を證明せんとする少數者との戰の最中であるというて宜しかろう。然もその爭の大部分は、事實に就いての爭ではなく、同一の事實を眼の前に控へながら、その説明を異にするとか、用語の意味が違ふとかの爲に相爭つて居るのである。

[やぶちゃん注:本箇所より以降、底本で「」を「々」としていたのを、原本通りに表示することとした。]

2018/05/17

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(5) 五 ローマネスとヘルトヴィッヒ

 

     五 ローマネスヘルトヴィッヒ

 

 所謂新ダーウィン派の説に反對する學者はなかなか大勢あつて、專門の學術雜誌上で之を攻擊した人も餘程澤山にあるが、纏まつた書物を書いて、その中でウォレースヴァイズマン等の説を駁したのは、イギリスローマネスドイツヘルトヴィッヒなどである。また近頃ではヘッケルの後を次いでエナ大學の動物學教授になつたプラーテもその著「淘汰説」の中にヴァイズマンの説を排斥して居る。

[やぶちゃん注:「ローマネス」ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes  一八四八年~一八九四年)はカナダ生まれのイギリスの進化生物学者・生理学者。ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓は』ローマネスや『ロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった』(ダーウィンより三十九歳歳下)。『進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六『年後にメンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま』、『大学に入学し』、一八七〇年に卒業した。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続け』、一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『しかしロマネスの、経験的なテストよりも、逸話的な証拠を重視する傾向は心理学者ロイド・モーガンによって警告され』てういる。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気の間に、いくらか』、『信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスは』、『しばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は』、『明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは何か』? という疑問への『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった』但し、『現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。

「ヘルトヴィッヒ」オスカー・ウィルヘルム・アウグスト・ヘルトウィヒ(Oskar Wilhelm August Hertwig(一八四九年~一九二二年)はドイツの発生学者・細胞学者。イェナ・チューリヒ・ボン各大学で医学・動物学を学び、イェナ大学では先に出たエルンスト・ヘッケルに師事した。一八七五年イェーナ大学講師となり、六年後に教授に就任、その後、ベルリン大学の解剖学及び進化学教授となった(一八八八年~一九二一年)。受精に於いて、精子と卵子のそれぞれの細胞核が合体することを発見し、また、生殖細胞が造られる際の細胞分裂で、染色体の数が半減し、受精によって元の数に戻ることを明らかにした。これらの発見は、形質の遺伝を決定する物質が染色体に存在することを示唆するものであり、遺伝学の形成に大きな影響を与えた。また、発生学での業績も多く、胚を構成する個々の細胞の性質は、その細胞に含まれる物質によってではなく、それが胚全体の中で占める位置によって決定されると主張した。進化に関しては、獲得形質の遺伝を認め、淘汰説を批判している(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、以下は「岩波生物学辞典」第四版・小学館「日本大百科全書」及びドイツ語ウィキ()等を参照に付け加えた。後文で言及されるからである)。彼の弟リチャード・ウィルヘルム・カール・テオドール・リッター・フォン・ヘルトウィヒ(Richard Wilhelm Karl Theodor Ritter von Hertwig 一八五〇年~一九三七年)も動物学者で、兄とともに多くの研究を行った。ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)・ボン・ミュンヘンの各大学の教授を歴任、兄とともに体腔説を提唱した。また、無脊椎動物の諸類、特に原生動物の研究から細胞学の研究に進んだ他、カエルの性に関する研究なども行っている。一八九一年に書いた動物学の教科書Lehrbuch der Zoologieは名著の誉れが高い。

「プラーテ」ルートヴィッヒ・ヘルマン・プラーテ(Ludwig Hermann Plate 一八六二年~一九三七年)はドイツの動物学者。ヘッケルの後を継いでイェナ大学教授(一九〇九年)となり、ヘッケルの創設した「系統博物館」館長となった。輪形動物・軟体動物及びその他の無脊椎動物の系統論的研究を行い、環境の定向的変化との関係に於ける定向進化に注目、「定向淘汰」の語を作った。但し、彼は一方で優生学や人種(民族)衛生学に強い関心を持ち、これは彼をして、ナチズムの反ユダヤ主義政策を積極的に推し進める役割を担ってしまった。]

 

Romanes

[ローマネス]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。]

 

 ローマネスは今より三十四年ほど前に「ダーウィン及びダーウィン以後」と題する三册續の書物を書いた。その第一册にはダーウィン自身の説いた通りを紹介し、先づ生物進化の證據を列べ、終りに自然淘汰説の大要を述べたもので、圖畫なども澤山に插し入れ、その頃の最も新しい材料を選んで用ゐ、文句も極めて平易に書いてあるから、進化論の一般を知りたい人が始めて讀むには最も適當な書物であらう。實はダーウィン自身の書いた「種の起源」を讀むよりは、先づこの書を讀んだ方がダーウィンの説が明瞭に解る位である。第二册にはダーウィン以後の進化論が述べてあるが、その大部分はウォレースヴァイズマンとの説の批評で、所謂新ダーウィン派の議論の穩當でない所を指摘してその誤れる點を明に示して居る。第三册目はたゞ或る假説を述べてあるだけで、最も重要な部分ではない。ローマネスは今より三十二年前に僅に四十六歳で世を去つた。上述の書物の第三册目は、死後友人の手で纏めたものである。

[やぶちゃん注:「ダーウィン及びダーウィン以後」一八九二年から一八九七年まで五年かけて刊行したDarwin, and after Darwin。]

 

 ローマネスがこの書の中に書いたことは、たゞダーウィン自身の説を紹介し、ダーウィン以後に出た進化に關する學説を批評しただけで、別に新しい説を發表したのではないから、こゝには改めて述べる程のこともないが、その要點を摘んでいへば、やはりダーウィン自身と同じく生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とによつて起るとの考であつた。ローマネスは特に心理學の方面に興昧を持ち、「動物の智惠の進化」・「人間の智惠の進化」・「動物の知力」などといふ書物を著したが、孰れも頗る面白いものであつた。若し長命であつたならば、更に有益な研究が出來たであらうと思ふと、彼が比較的若くて死んだことは實に惜まざるを得ない。

[やぶちゃん注:「動物の智惠の進化」一八八三年刊のMental evolution in animals, with a posthumous essay on instinct by Charles Darwin(「動物の精神上の進化、及びチャールズ・ダーウィンの本能に関する死後に刊行されたエッセイについて」)。

「人間の智惠の進化」一八八八年刊のMental evolution in Man

「動物の知力」以上の著作より前の一八八一年に刊行したAnimal Intelligence(「動物の知能」)。]

 

 ドイツにはヘルトヴィッヒといふ有名な生物學者が兄弟二人あつて、兄はベルリン大學に、弟はミュンヘン大學に教授を務めて居るが、その中、兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興昧ある書物を著し、その中に「生物發生説」といふ假説を掲げた。この假説は實驗上確に知れたことだけを基として、餘り甚だしく想像を加へてない故、ヴァイズマン説の如く細かい所まで完結したものでもなければ、またかの如く著しい特徴もないが、或はそれだけ眞に近いものかも知れぬ。全體、この書は頗る面白く出來て居るが、全く專門的のもの故、一通り組織學・細胞學・發生學等を修めた者でなければなかなか解りにくい。その中の生物發生説も同樣で、その大部分は全く細胞・組織等に關することであるが、ヴァイズマンとは反對で、生物の身體を生殖物質と身體物質とに分ける如きことを爲さず、後に子となる部分も、他の働きを爲す體部も、最初は全く同性質であるが、發生の進むに從い、その間に次第に相違が生じて相別れたもの

であると論じ、隨つて遺傳に就いての説もヴァイズマンとは正反對で、やはりヘッケルローマネススペンサー等と同じく、親が外界から受けた身體上の影響は確に子孫にも傳はると論じて居る。

[やぶちゃん注:『兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興昧ある書物を著し』前者は一八九二年から一八九八年まで五年をかけて刊行したDie Zelle und die Gewebe、後者はそれの第二版に当たる一九〇六年刊のAllgemeine Biologie。]

 

 またウォレースヴァイズマン等の新ダーウィン派と反對の極端論には、コープオズボーンの等の如き化石學者が主として唱へる説がある。之は所謂新ラマルク派の議論で、生物の進化には自然淘汰位では到底間に合わぬ。寧ろ主として一代每に新に獲た性質が遺傳して進化し來つたのであらうと説いて居る。また之とは別に、生物各種にはそれぞれ進化し行くべき方角が僅め定まつて居て、眞直にその方に向うて進んで行くと論ずる人もある。尚やう々な議論があるが、煩はしいから他は略する。

[やぶちゃん注:「コープ」エドワード・ドリンカー・コープ(Edward Drinker Cope 一八四〇年~一八九七年)はアメリカの古生物学者・比較解剖学者。定向進化論者であり、その仮説「コープの法則(Cope's law)」(同じ系統の進化の過程に於いて大きなサイズの種がより新しい時代に出現する傾向があるとする法則)に名を残している。彼の事蹟はウィキの「エドワード・ドリンカー・コープを参照されたい。

「オズボーン」ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(Henry Fairfield Osborn 一八五七年~一九三五年)はアメリカの古生物学者・地質学者・優生学論者でもあった。ウィキの「ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンによれば、一八七七年、『プリンストン大学を卒業後』、『イギリスに渡り、動物学者の』『バルフォア』や『ハクスリーらに師事した。帰国後』、一八八三年、『プリンストン大学の比較解剖学の教授に』、一八九一年には『コロンビア大学の生物学の教授に就任し、また』、一八九六年からは『動物学の教授を務めた』。一八九一年には『アメリカ自然史博物館のキュレーター』(学芸員としての専門職と管理職の兼帯職)『に就任し、自らが長を務める古脊椎動物部門を設置』、一九〇八年から一九三三年の『長きに』亙って『館長を務め、在任中には同博物館に世界最高レベルの化石コレクションを収集した』、一八七七年の『コロラド州とワイオミング州を筆頭に、北アメリカ西部をはじめアジア、アフリカに意欲的に化石発掘団を派遣した』。研究の専門は化石哺乳類(サイ、ブロントテリウム、長鼻類、ウマ)で』、『これらの研究から適応放散、平行進化などの概念を立てた。 また、数多くの恐竜類の命名、記載者としても知られ』、『ティラノサウルス・レックス』(爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱 恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目 Tetanuraeティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属Tyrannosaurus rex)、『ペンタケラトプス』(恐竜上目鳥盤周飾頭亜目角竜(ケラトプス)下目ケラトプス科カスモサウルス亜科ペンタケラトプス属 Pentaceratops)、『ヴェロキラプトルなど』(テタヌラ下目ドロマエオサウルス科ヴェロキラプトル亜科ヴェロキラプトル属 Velociraptor)は皆、彼の命名になる。『特にデイノドンの可能性があった』『標本に対し、より状態の良い標本に響きもよいティラノサウルス・レックス(暴君竜の王)をあたえ』、『普及させた功績は大きい』。『自身の研究活動や、研究支援活動を通じてアメリカの古脊椎動物学の発展に大きく貢献し指導的立場にあった。本人も大いに自負し』、『時には尊大と思われる行為も行ってはいるが』、『評価は得ている』。『一方で』、『オズボーンの寄与には』、現在は『ほとんど評価を受けていないものもある。化石哺乳類とくに絶滅長鼻類の研究から、今日では疑わしい説とされるラマルキズムに傾倒した定向進化説を支持したことや、そこから派生した優生学に関する活動がこれらに該当する』とある。私は不学にして、かの知られた恐竜の命名者である、この古生物学者を全く知らなかった。]

2018/05/13

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン

 

     四 ウォレースヴァイズマン

 

Wores

[ウォレース]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヴァイズマンも同前)。]

 

 ウォレースダーウィンと同時に自然淘汰説を發表した人で、後にまた「ダーウィン説」と題する書を著して生物の進化を通俗的に論じたから、進化論の歷史に於ては最も有名な一人であるが、その説く所はダーウィンに比べると、甚だしく違つた點が幾つもある。その主なるものを擧げれば、ダーウィンは自然淘汰以外にも尚生物進化の原因があると明言して、後天的性質の遺傳をも認めて居るが、ウォレースは全く後天的性質の遺傳を否定し、自然淘汰以外には生物進化の原因はないやうに説いて居る。またダーウィンは人間も他の獸類と同じ先祖から起り、同じ理法に隨つて進化し來つたもので、身體の方面に於ても精神の方面に於ても、他の獸類と同じ系統に屬すると論じたが、ウォレースは進化論は他の生物には一般に適するが、人間には當て嵌まらぬ、人聞だけは一種特別のもので肉體の方は他の獸類と共同の先祖から降つたが、精神の方は全く別の方面から起つたものであると説いて居る。その他、動物の彩色の起源、雌雄淘汰の説などに就いても、種々意見の違ふ所があるが、こゝにはたゞ自然淘汰に關することだけを述べて見るに、ウォレースの考では、生物の進化し來つたのは全く自然淘汰のみの働による。それ故、動植物の有する性質は、如何に些細な點でも、必ず今日生存上に必要であるか、或は昔一度必要であつたもので、一として生存競爭上に無意味なものはない。たとひ一個の斑點、一本の線と雖も、自然淘汰の結果として今日存するのであるから、必ず競爭上有功であつたものに違ひないとのことであるが、之は實際如何であらうか。我々は今日の不十分な生態學上の知識を以て、動植物の或る性質を捕へて、之は生存競爭上確に無益なものであるとの斷定は勿論出來ぬが、如何に些細な點でも必ず生活上有益なものであるといひ切ることもまた決して出來ぬ。昔何の役に立つか解らなかつた構造・彩色等も、生態學上の研究が進むに隨つて、その功用が知れた例は澤山にあるが、さりとてこれらより推して、總べての構造・彩色は悉く生存競爭上に一定の意味を有するものであると論ずる譯には行かぬ。ウォレースの著したダーウィン説といふ書物は、野生動物の變異性のこと、動物の彩色のことなどに關しても、種々面白い事項が載せてあつて、確に研究者の一讀を價する書ではあるが、前に掲げた二點に就いては、議論が頗る怪しいやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「ウォレース」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)については一度注しているが、再掲し、少し補足しておく。以下、ここで丘先生が言及している点をウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」に拠って補ったが、詳しくはリンク先を通読されんことを強く望む。『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。『ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した』。一八六七年に『ダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた』。一八六九年に『ウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。『警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった』。一八七八年の『著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した』。一八八九年に刊行した「ダーウィニズム」(Darwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications(「ダーウィニズム:自然淘汰理論の解説、及びその適用例」)。ここで丘先生が「ダーウィン説」として示しているものである)では、『この問題を詳細に再検討している』。この「ダーウィニズム」では『自然選択について説明し』、『その中で、自然選択が二つの変種の交雑の障害となることで生殖的隔離を促すという仮説を提唱した。これは新たな種の誕生に関与するかも知れない。このアイディアは現在ではウォレス効果』(Wallace effect)『として知られている。彼は』一八六八年という『早い時点で、ダーウィンへの私信で自然選択が種分化に果たす役割について述べていたが、具体的な研究を進めなかった。今日の進化生物学でもこの問題の研究は続けられており、コンピューターシミュレーションと観察によって有効性が支持されている』。一八六四年には「人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ」(The Origin of Human Races and the Antiquity of Man Deduced from the Theory of 'Natural Selection)という論文を発表し、『進化理論を人類に適用した。ダーウィンはこの問題についてまだ述べていなかったが、トマス・ハクスリーはすでに』「自然の中の人間の位置」(既注済み、一八六三年に刊行したEvidence as to Man's Place in Nature(「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)のこと)を『発表していた。それからまもなく』、『ウォレスは心霊主義者となった。同時期に彼は数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考、ウィットやユーモアは自然選択では説明できないと主張した。そして結局、「目に見えない宇宙の魂」が人の歴史に少なくとも三回干渉したと主張した。一度目は無機物から生命の誕生、二度目は動物への意識の導入、三度目は人類の高い精神能力の発生であった』。『また』、『ウォレスは宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩であると信じた。この視点はダーウィンから激しく拒絶された。一部の史家は自然選択が人の意識の発達の説明に十分でなかったというウォレスの信念が直接心霊主義の受容を引き起こしたと考えたが、他のウォレス研究家は同意せず、この領域に自然選択を適用するつもりは最初から無かったのだと主張した。ウォレスのアイディアに対する他の博物学者の反応は様々だった。ライエルはダーウィンの立場よりもウォレスの立場に近かった。しかし他の人々、ハクスリー、フッカーらはウォレスを批判した。ある科学史家はウォレスの視点が、進化は目的論的ではなく、人間中心的でもないという二つの重要な点で新興のダーウィン主義的哲学と対立したと指摘した』。以下、「進化理論史におけるウォレスの位置」の項。『進化学史ではほとんどの場合、ウォレスはダーウィンに自説を発表させる「刺激」となったと言及されるだけであった。実際には、ウォレスはダーウィンとは異なる進化観を発展させており、彼は当時の多くの人々(特にダーウィン自身)から無視することのできない指導的な進化理論家の一人と見なされていた。ある科学史家はダーウィンとウォレスが情報を交換し合って互いの考えを刺激し合ったと指摘した。ウォレスはダーウィンの』一八七一年の「人間の由来」(“The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex”(「人間の由来と、性に関連した選択」))で、『もっとも頻繁に引用されているが、しばしば強く同意できないと述べられている。しかしウォレスは残りの生涯を通して自然選択説の猛烈な支持者のままであった』。一八八〇年までに『生物の進化は科学界に広く受け入れられていた。しかし』、『自然選択を進化の主要な原動力と考えていた主要な生物学者はウォレスとアウグスト・ヴァイスマン、ランケスター、ポールトン、ゴルトンなどごく少数であった』とある。彼はしばしばダーウィンによって埋もれさせられた(貧乏籤を引いた)と同情されるが、私はこれは多分に彼の心霊主義への執拗な偏頗が齎した自業自得であると考えている(次段以降で丘先生も指摘しておられる)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。]

 

 尚ウォレースの説に就いて不思議に感ずるのは、その結論である。ダーウィン説の最後の章を讀んで見ると、「生物の進化し來る間に自然淘汰で説明の出來ぬことが三つある。卽ち第一には無機物から生物の生じたこと、第二には生物中に自己の存在を知るものの生じたこと、第三には人類に他の動物と全く異なつた高尚な道德心の生じたことであるが、これらは如何に考へても自然の方法で發達したものとは思へぬ。必ず物質の世界の外に靈魂の世界があつて、そこから生じたものに違ひない」と書いてあるが、かやうな論法は事物を理解しようと勉める科學の區域を脱して、最早宗教的信仰の範圍に蹈み込んだものと見倣されねばならぬ。さればこの書は表題に「ダーウィン説」とあるが、その内容はダーウィンの説とは大に異なり、人類の進化に關することに就いては、全くダーウィンとは反對の説が載せてあるから、この書を先に讀む人は彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]相混ぜぬやうに注意せねばならぬ。

 ウォレースはまた先年「宇宙に於ける人類の位置」と題する書を著して、奇怪な説を公にした。その大要をいへば、我が太陽系は宇宙の中心に位する。地球は宇宙の中心の特別の位置にあるから、他の星とは異つて、靈魂を有する人類の發生すべき特殊の條件を具へて居たのであらうといふやうな意味であるが、太陽系を以て宇宙の中心にあるものとは、何を基にして考へたか。現今天文學で知れて居る星の在る所だけを以て、宇宙と見做せば、太陽系がその中央に位するは無論であるが、之は五里までより見えぬ望遠鏡を用ゐて四方を見れば、自身は直徑十里ある圓形の宇宙の中央に位するやうな心持がするのと同じで、實は少しも意味のないことである。往年南アメリカインド諸島を探險し、「島の生活」、「動物の地理的分布」などを著した人が、老後斯かる論文を公にするやうになつたのは、實に惜しむべきことである。ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つたが、死ぬときまで絶えず著作に從事して、數多くの書物を公にした。倂し老後の著作は概して平凡なもので、新進の壯年學者の著書に比しては、遙に劣つたやうである。最後に著した「社會的周圍と道德の進步」と題する書物の如きも、現代文明の缺陷を竝べた所は聊か痛快であるが、その救濟の考案に至つては頗る幼稚なやうに感じた。宗教家はウォレースが靈魂を説くのを見て大に悦び、進化論の泰斗、自然淘汰の發見者でさへ靈魂の存在を唱へるから、之は確であるなどというた人もあるが、晩年のウォレースは餘程不思議な方面へ傾いたから、ダーウィンと竝べて論ずることは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「宇宙に於ける人類の位置」一九〇四年刊のMan's Place in the Universe

「島の生活」一八六九年刊のThe Malay Archipelago(「マレー諸島」)のことであろう。

「動物の地理的分布」一八七六年刊のThe Geographical Distribution of Animals

「社會的周圍と道德の進步」没年の一九一三年刊のSocial Environment and Moral Progress

ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つた」ウォレスは一九一三年没で、本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行されたものである。今までは、いちいちこの注をつけていたが、煩瑣になってきたので、本書の一九二五年刊行をここで覚えて戴きたい。以下ではこうした注は省略する。悪しからず。

 

Wizman

[ヴァイズマン]

 

 ウォレースの如く自然淘汰を以て生物進化のたゞ一の原因と見倣す人々のことを、今は「新ダーウィン派」と名づけて居るが、その最も有名な代表者は、近頃までドイツフライブルグ大學の動物學教授を勉めて居たヴァイズマンである。この人は若いときから進化論に心を注ぎ、先に「進化論の研究」と題する有益な書物を著し、今より二十四年前にまた「進化論講義」といふ一部一册の立派な本を書いて、大に進化論を鼓吹したが、嘗て「自然淘汰全能論」といふ小册を公にしたこともある位で、自然淘汰以外には生物進化の原因は決してないとの極端な説を取つて居る。而してかやうな説を取る論據は何であるかと尋ねれば、全く自分の考へ出した一種の遺傳説で、その大要は略々次の如くである。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」ドイツの動物学者(専門は発生学・遺伝学)でフライブルク大学(正式には「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。(グーグル・マップ・データ))ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)動物学研究所所長であったフリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年)。十九世紀、ダーウィンに次いで重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人とされる以上はィキの「アウグスト・ヴァイスマンに拠る)。以下は「岩波生物学辞典」第四版の記載に拠る(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『ゲッティンゲン大学で医学を修め、のち』、『ギーセン大学で』『動物の発生学および形態学を学んだ。フライブルク大学の準教授』(一八六六)年、同大教授(一八七一)年となる。『諸種の無脊椎動物の発生を研究したが、眼疾のため』、『主として理論家として遺伝・発生・進化などに関する理論を展開するに至った。彼の考察には遺伝・発生の染色体学説を予見するものが多くある。粒子説(デテルミナント)』(determinant:「決定子」とも称する。ヴァイスマンが生物の遺伝と発生を支配する細胞内の基本の粒子的単位として仮定したもの。彼は単位的構造が順次に「いれこ」となって構成されると考えた。則ち、最小の単位は「ビオフォア」(biophore)であり、これが組み合わさって「デテルミナント」となり、次いで後者が集合して「イド」(Id)となり、さらに「イド」が集って、これが現在の遺伝子概念に対応するが、異なる「デテルミナント」が各種分配されることにより、細胞の分化が起こると考えた点で、遺伝子の同じ組合せが全身の全細胞に配られるという事実と異なっている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『的見解に基づいて生殖質の連続を主張し、獲得形質の遺伝を否定した。進化に関して自然淘汰の理論を拡張適用し』、自説を「ネオダーウィニズム」(neo-Darwinism/ドイツ語:Neodarwinismus)と称した、とある。「ネオダーウィニズム」は丘先生の言われる「新ダーウィン派」と同義で、同辞典によれば、『ダーウィンの学説内容のうち』、『生存闘争の原理だけを強調し』、『変異とその遺伝に関するダーウィンの見解を根本的に改めた』ヴァイスマン『の考え。すなわち、彼は生殖質の独立と連続の思想にもとづき、獲得形質の遺伝、つまり、いわゆるラマルキズム的要因を絶対的に否定した。これがネオダーウィニズムとよばれたが,現代の自然淘汰説も』、『その観念の発展の上にあると見て同様の名でよばれ、現在では主にそれを指す』とある。

「進化論の研究」一八七五年刊のStudien zur Descendenz-Theorie. I. Ueber den Saison-Dimorphismus der Schmetterlinge(「進化論に関する研究:蝶の季節的二型性に就いて」)及び翌年のStudien zur Descendenztheorie: II. Ueber die letzten Ursachen der Transmutationen(「進化論に関する研究:変異の最後の要因に就いて」)であろう。

「進化論講義」一九〇二年にフライブルク大学で行われた講義に基づくVorträge über Deszendenztheorie

「自然淘汰全能論」一八九三年刊のDie Allmacht der Naturzüchtung : eine Erwiderung an Herbert Spencer。著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)への回答という形式を採っている。]

 

 ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年[やぶちゃん注:単純計算すると、一八八五年頃になるが、ヴァイスマン]ほども前のことであるが、その後屢々説を改めたゆえ、前のと後のとを比べると、餘程違つた所がある。細胞學上の細い研究に關する學説は暫く省いて、その全部を摘んで述べて見るに、ヴァイズマンは生物の身體をなしてゐる物質を生殖物質と身體物質との二種に分ち、後に子孫となつて生まれ出ずべき物質を生殖物質と名づけ、その他身體の全部をなせる物質を身體物質と名づけて、この二者を區別した。而して生殖物質といふものは、一個體の生涯の中に新に出來るものではなく、生れるときに既に親から承け繼いで來て、子が孫を生むときには、またそのまゝに孫に傳はつて行く。卽ち親が子を生むときには、親の身體の内に在つた生殖物質が親から離れて獨立の個體となるのであるが、その際、親の生殖物質の一部は變じて子の身體となり、一部は變ぜずして、そのまゝ子の生殖物質となる。それ故、今日生物の有する生殖物質といふものは、皆各々その先祖の有して居た生殖物質からそのまゝ引き繼いで來たものである。生殖物質は生物の初から連綿として存するもので、代々生れたり死んだりするのは、たゞ身體物質の方だけであるとの説故、これを「生殖物質繼續説」と名づけた。この考によると、生物の身體は恰も前の代から引き繼いだ生殖物質を後の代に讓り渡すために、暫時これを保護する容器の如きもの故、一生涯の間に如何に身體が外界から直接の影響を被つても、その子は先祖代々の生殖物質から出來るのであるから、之には少しも變化を起さぬ。恰も重箱に傷が附いても、その中の牡丹餅(ぼたもち)に變化が起らぬ如くに、身體物質に起る變化は生殖物質に對して何の影響も及ぼさぬから、親が一生涯の間に得た身體上の變化は、決して子には傳はらぬとの理窟になるが、之が卽ちヴァイズマン説の徽章(はたじるし)とも見るべき「親の新に得た性質は子に遺傳せぬ」といふ考の根據である。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年ほども前のことである」本書刊行から単純計算すると、一八八五年頃になる。ィキの「アウグスト・ヴァイスマンの「進化生物学への貢献」の一八八二年から一八九五年のパートの記載よれば、『ヴァイスマンが獲得形質を最初に否定したのは』一八八三年に『行われた「遺伝について」と題された講義で』、それ以降、彼は『強固な選択万能論者に転向した。彼は生物の全ての特徴が自然選択によって形作られると宣言した』とある。]

 

 斯く生殖物質といふものが、生物の初から今日まで直接に引き續いて居て、代々の個體がその生涯の中に得た新しい性質は少しも生殖物質の方に變化を起さぬとすれば、生物は如何にして今日の有樣までに進化し來つたか、生物には變異性といふものがあるから、自然淘汰も行はれ得るのであるが、この變異性は如何にして生じたかとの問が、是非とも起らざるを得ぬが、之に對するヴァイズマンの答は卽ち雌雄生殖説である。ヴァイズマンの考によれば、雌雄生殖の目的は甲乙二個體の生殖物質を種々に合せて無限の變化を起し、以て自然淘汰に材料を供給することであるが、その論據とする所は、近年急に發達した細胞學的研究、特に生殖作用に關する顯微鏡的研究の結果で、なかなか複雜な議論である。先づヴァイズマンの説を摘んでいへば、「生物の進化し來つた原因は全く自然淘汰ばかりで、淘汰が行はれるためには、生存競爭をなす多數の個體の間に多少の相違が無ければならぬが、この相違は雌雄生殖により、異なつた個體の生殖物質が種々の割合に混ずるによつて生じたものである。生殖物質と身體物質とは常に分かれて居るから、身體物質に生じた變化は生殖物質には關係せず、隨つて子孫に傳はらぬから、生物進化の原因とはならぬ」とのことである。

 右の説を實際に照して見ると、なかなか之によつて説明の出來ぬ場合、若しくは之と反對する場合などが澤山にあるが、ヴァイズマンは自分の説を維持し、且これらの場合をも解釋するために、更に種々の假想説を考へ出しては追加した。それ故、之まで人の考へた生物學上の學説の中で、凡そヴァイズマンの説ほど假説の上に假説を積み上げた複雜なものはない。本書に於ては到底その詳細な點までを述べるわけには行かぬが、以上掲げた大體のことだけに就いて考へて見るに、第一身體物質と生殖物質とを判然と區別するのが既に假説である。生長した生物の體内には特に生殖のみに働く物質のあることは事實であるが、この物質が先祖から子孫まで直接に引き續くとのことは、實物で證明することも出來ねば、また否定することも出來ぬ全くの想像である。素より學術上には假説といふものは甚だ必要で、或る現象の起る原因のまだ十分に解らぬときに當り、先づ假説によつて之を説明することは、その方面の研究を促し、隨つて眞の原因を見出す緒ともなるもの故、學術の進步に對して、大に有功な場合もあるが、假説はどこまでも假説として取扱はねばならぬ。而して假説の眞らしさの度は之を以て説明し得べき事項の多少に比例するもの故、若し一の假説を以てそれに關する總べての事項を説明することが出來る場合には、差當り之を眞と見倣して置くが至當であるが、それを以て説明の出來ぬ事項が過半もある時には、之を誤と見倣して棄てるの外はない。ヴァイズマンの説の如きは事實と衝突する點も少からぬやうで、今日の所、尚幾多の論者が之に反對を表して居ること故、直に之を取つて推論の根據とするわけには行かぬ。蛙や鷄の發生を調べて見るに、最初の間は生殖の器官もなければ他の器官もなく、全く何の區別もないが、發生の進むに隨ひ、身體の各部が漸々分化し、腦も出來れば、肺も出來、胃も心臟も追々現れ、それと同時に生殖の器官も生ずる。之だけは眼で明に見えること故、確な事實であるが、かやうに分化せぬ前にも生殖物質と身體物質とは全く分れて居て、後に生殖の器官となるべき部には、初から特別な生殖物質が存して居るといふのは單に想像に過ぎぬ。

 また雌雄生殖を以て無限の變異を生ずるための手段と見倣すことも頗る受取り難い説である。ヴァイズマンは「雌雄生殖によれば、二個の異なつた個體の生殖物質が組み合つて子の生殖物質が出來るから、斯くして生じた子が自分と同樣な相手を求めて孫を生めば、孫の代には父方の祖父母と母方の祖父母と都合四個の生殖物質が組み合ひ、三代目には八個の個體の生殖物質が組み合ひ、代々益々多數な個體の生殖物質が組合つた結果、生殖物質の種類が無限に出來るが、子孫の身體は總べてその親の體内にあつた生殖物質から生ずるもの故、生殖物質に斯く無限の種類があれば、生れる子孫にも無限の變異が現れる。而してこれ等のものが生存競爭をして、その中最も適するものだけが生き殘るから、その生物の種屬は漸々進化する」と論ずるが、若し個體間の變異が單にかやうにしてのみ生ずるものならば、その變異は如何に多くても、決して一定の範圍を超えることは出來ぬ。先祖の性質を種々に組み合せれば、幾らでも變異を造ることは出來るが、先祖の性質以外のものが新に生ずることがないから、この中から代々どれが選ばれようとも、先祖に見ぬやうな全く別な性質が發達する望はないやうである。尚ヴァイズマンの説に對する批評は、別に後の章に述べるから、こゝには略するが、同説は前にも論じた通り、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質の方は先祖より子孫へ直接に繼續し、身體物質の方は一代每に新に生殖物質から分かれ生ずるものであるとの假定を根據とし、この假定を護るために必要に應じて樣々な假説を附け加へたものであるから、若しこの根本の假定が誤であつたとすれば、他の部分は皆これとともに不用と成るべき性質のものである。またヴァイズマンは前以て幾度も論文を發表して、如何なる種類の後天的性質でも子に遺傳する如くにいうた傳來の俗説を見事に敗り終つた後に、生殖物質繼續説を著して、更に理論上から後天的性質の遺傳を否定したから、その功果は著しく現れ、多數の學者は之に化せられて、ラマルク説を全く度外するに至つた。今日親が新に獲た性質は子に遺傳せぬと論じて居る學者は隨分澤山にあるが、皆ヴァイズマンの説を採つて居るのであるから、この説は、ダーウィン以後の學説の中で、確に最多數の人に對して最大な影響を及ぼしたものであらう。

2018/05/09

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル

 

      三 ハックスレーヘッケル

 

 「種の起源」が出版になるや否や、直に之に賛成し、廣くこの考へを普及せしめやうと盡力したのはイギリス國ではハックスレードイツ國ではヘッケルである。この二人は孰れも有名な動物學者であるが、或は演説により、或は雜誌上の論説により、幾度となく通俗的に進化論を敷衍して述べたので、比較的短い間に一般の人民の間にも、進化論の大要が廣く知れ渡るやうになつた。進化論の普及上には最も功績の著しい人等である。尚兩人ともに宗教上の迷信を遠慮なく攻擊し、その上僧侶の墮落を激しく罵つた故、宗教界からは惡魔の如くに言はれて居る。

[やぶちゃん注:「ハックスレー」生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『ロンドンで医学を修めたが、もともと物理学に関心があったために、生体機能の物理・化学的側面を扱う生理学に興味をもった。生計をたてるために海軍の軍医となり、ラトルスネーク号でオーストラリア方面に航海し』(一八四六年から一八五〇年まで)、とくにクダクラゲ類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophorae)『について優れた研究を行った。帰国後、王立鉱山学校教授となり、化石の研究や生理学、比較解剖学に従事。王立学会員となり』、一八八三年からは『同会長を務めた。腔腸』『動物の内・外胚葉』『が、高等動物の内・外胚葉と相同であることを示し、また』、従来の『頭骨は脊椎』『骨の変形したものであるとする「頭骨脊椎骨説」の誤りを正した』。『ダーウィンとは、航海から帰国後まもなく知己となり、終生』、『親交を結』び、彼の「種の起原」(一八五九年)が『出版されるや』、『ただちにダーウィン説に賛同し、ダーウィン自身にかわってこの説の普及者となることを決意し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれた。とくに』一八六〇年に『イギリス学術協会において、ダーウィン説の反対論者であった』司教サミュエル・ウィルバーフォース(Samuel Wilberforce 一八〇五年~一八七三年)を『論破したことは、その後の進化論の受容に大きな影響を与えた。しかしハクスリーは、ダーウィン説を無批判に受け入れたわけではなく、その欠陥も鋭く指摘し、またダーウィンが避けた人間の起源の問題にも言及した』とある。

「ヘッケル」何度か注している、生物学者で哲学者でもあったエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)。「ブリタニカ国際大百科事典」より引く(コンマを読点に代えた)。『父は行政官。ウュルツブルク、ベルリン両大学で医学を学ぶ。ベルリン大学で当時教授であった』ヨハネス・ペーター・ミュラー(Johannes Peter Müller 一八〇一年~一八五八年)の『影響を受け、海産動物の研究に関心を』持ち、一八六一年には『イェナ大学より動物学の学位を取得、同年員外教授』、一八六五年からは正教授となった。ダーウィンの「種の起原」が『出版されると、それを支持し、進化論の普及・啓蒙に努めた。彼は自然界全体を一元的に説明することを志し、そのための基礎理論としての役割を進化論に求めた。また』、『無生物界から生物界への連続的な移行を想定し、両界をつなぐものとしてモネラという原始的な生物を仮想』し、『それは蛋白質から成る無構造の塊とされ、これに物理法則が働いて単細胞生物へ、さらに多細胞生物へと進化すると考えた』(但し、『この仮説を一時裏づけていたモネラの発見は、誤りであることが』後に判明している)。生物を物理法則で説明しようとする基本姿勢は、遺伝に関する理論においても』採『られており、原形質をつくっている分子の運動で遺伝の仕組みを説明』、『理論的考察のみに基づいてではあるが、核が遺伝に関係していることを』、一八六六年という『早い時期に示唆した。また、有名な反復説』(「個体発生は系統発生を繰り返す」)『を定式化し、「生物発生原則」とも呼んで重視した』とある。]

 

Haksuri

[ハックスレー]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヘッケルも同前)。]

 

 ダーウィンは「種の起源」の中には、たゞ動植物ともに互に相似た種屬は共同の先祖から進化して分かれ降つたといふ一般に通ずる論を述べただけで、人間は如何なる先祖から進化し來つたものであるかといふ特別の論は、全く省いて掲げなかつた。之はそのときの世の有樣を考へて、人間の先祖のことを第一版に直に書いては、そのため世人の反對を受け、肝心の生物進化論や自然淘汰の説までが、世に弘まらぬ恐があるから、ダーウィンが態々略して置いたのである。倂し文句にこそ書いてはないが、この書の中に書いてある一般の論を、人間といふ特別の場合に當て嵌めて考へれば、是非とも人間と他の獸類とは共同の先祖より分かれ降つたとの結論に達せざるを得ぬことは誰にも明に知れる。然るにハックスレーは早くもその翌年に處々で人間と猿とは同一の先祖より降つたものである、人間の先祖は獸類であると明に斷言して演説し、尚後にこれらを集め、書き直して、「自然に置ける人類の位置」と題する書を著した。之は從來人間は神が態々自分の形に似せて造つた一種特別のもので、天地萬物は皆人間に役に立つために存在するなどと説き込んで居た耶蘇教に對しては、非常に大きな打擊であつたから、宗教家からはな暗に嫌はれ、彼等の攻擊の的は殆どハックスレー一人の如き有樣となつた。餘程前のことであるが、或る耶蘇教の雜誌を開いて見たのに、その中に「進化論の本家であるダーウィンは神を尊敬する人である。たゞその取次をするハックスレーといふ男が無神論を主張して、世に害毒を流すのである。けしからぬは實にこの男である」といふやうなことが書いてあつた。倂し實際ハックスレーの述べたことは、ダーウィンの説と少しも違つた所はない。たゞダーウィンが生物全體に就いて論じた所を、人間といふ特殊の場合に當て嵌めただけで、その主張する點は全く同一であつた。ダーウィンもその後「人の先祖」と題する書を著して、進化論を特に人間に應用し、人間も他の獸類と先祖をともにするもので、猿の類から分れ降つたものに相違ないとの説を明に述べた。この書は今より五十五年前の出版故、その後に發見になつた澤山の面白い事實は載せてないが、その頃までに知れて居た材料だけは、十分に集め、且議論も餘程鄭重にしてあるから、かの「種の起源」と共に進化論を研究しやうとする人の、一度は必ず讀まねばならぬ本である。ハックスレーがその著書の中に述べた最も著しいことは、人間と猿類との比較解剖によれば、人間と高等の猿類との相似る度は、高等の猿類と下等の猿類との相似る度よりも遙に優つて居るとの論である。同じく猿類といふ中には、猩々もあれば狒々もあり、南アメリカには長い尾を樹の枝に卷き附けて身を支へる類があり、又鼠猿(ねづみざる)というて殆ど、鼠のやうな類もある。これらは皆四肢ともに物を握ることが出來るから、從來は總べて合せて四手類と名づけて居た。また人間が哺乳類に屬することは如何なる動物學者も疑ふことが出來ぬが、猿と違つて手が二つよりないといふ所から、別に二手類といふ目を設けて、猿類とは離してあつた。然るにハックスレーの研究によると、この區別は解剖上少しも根據のないことで、猿の後肢と人間の足とは骨骼・筋肉ともに全く一致して居るから、決して一を手と名づけ、一を足と名づくべきものでない、若し猿類が前後兩肢ともに人間の手と同じ構造を有するならば、眞に四手類の名に背かぬが、實は後肢の方は人間の足と解剖上同一の構造を有するもので、單に之を以て物を握るだけであるから、この點を以て猿と人間とを別の目に分つのは無理である。特に猿類の中でも、猩々の如きものと、南アメリカの尾を卷く猿などとを比べて見ると、その間の相違は人間と猩々との間の相違よりは遙に著しいから、若しかやうなものを同じ目の中に編入して置くならば、無論人類もその中に入れなければならぬ。現今の動物學書を開いて見れば、孰れもこの考を取り、人類と猿類とを合して靈長類と稱する一目として、哺乳類中に置いてあるが、之は比較解剖上の明な事實に基づくこと故、動物學上では誰も異議の出しやうがないからである。

[やぶちゃん注:「自然に置ける人類の位置」ハックスリーが一八六三年に刊行したEvidence as to Man's Place in Nature(「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)。

「人の先祖」ダーウィンが一八七一年に刊行したThe Descent of Man, and Selection in Relation to Sex(人間の祖先、及び生殖に関わるところの淘汰)。

「今より五十五年前」本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された『新補改版』(正確には第十三版)。数えとすれば問題ない。

「猩々」オランウータン(哺乳綱霊長目直鼻亜目Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト上科 ヒト科オランウータン属 Pongo で、現生種はスマトラオランウータンPongo abelii・ボルネオオランウータンPongo pygmaeusPongo tapanuliensis(二〇一七年にスマトラオランウータンのトバ湖以南の個体群が形態や分子系統解析から分割・新種記載されたもの)の三種)の別名(漢名)。

「狒々」直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio

「長い尾を樹の枝に卷き附けて身を支へる類」直鼻猿亜目広鼻下目オマキザル上科オマキザル科オマキザル亜科オマキザル属 Cebus としておく。オマキザル類の上位タクソンでもよい。

「鼠猿(ねづみざる)」マダガスカル島の林に広く分布するサル目コビトキツネザル科ネズミキツネザル属ネズミキツネザルMicrocebus berthae 辺り(或いは同属の近縁種)を指しているものと思われる。]

 

 ハックスレーの專門學上の功績はなかなか夥しいもので、その中に進化論の材料となるものも決して少くはないが、この人はその外に理科の教育、進化論の普及に盡力して、澤山な論文を公にした。而してその文句は總べて極めて平易で、學者の通弊ともいふべき、むずかしい字をわざと竝べたやうな形迹は少しもないから、誰も明瞭に著者の意を解することが出來る。それ故、特に生物學に志す人でなくても、一般の教育ある人は、誰が讀んでも利益があるが、英語を學ぶ人などにはまた最も善い手本として見るべき價値があらう。

 

Hekel

[ヘッケル]

 

 ドイツ國で盛に進化論を主張し、通俗的に之を普及せしめたのは、有名なヘッケルである。この人は近頃までエナ大學[やぶちゃん注:現在のドイツ・テューリンゲン州のイェーナにあるフリードリヒ・シラー大学イェーナ(Friedrich-Schiller-Universität Jena)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の動物學教授を勤めて居たが、動物學者兼哲學者ともいふべき人で、生物學上確に知れて居る事實を基とし、之に自分の理論上の考を加へて、一種の完結した宇宙觀を造り、進化論を説くに當つても常に自説を附け加へて吹聽した。それ故ヘッケルの著書を讀んで見ると、どこまでが學問上確に知れて居ることで、どこからが想像であるか、その境が判然せぬ樣な感じが起るが、斯くては一般の讀者を誤らしめる虞があるというて、動物學者の中にも之に不賛成を表する人が澤山にある。倂し兎も角も事實の間を想像で繫いで、始から終まで纏まつた考が貫いて居るから、讀んで解り易いことはこの上はない。この人の著書は專門の動物學の方にも非常に多くあるが、通俗的の方で最も有名なものは「自然創造史」と「人類進化論」との二册で、兩方とも大抵の國語には飜譯せられてある。またその後「世界の謎」及び「命の不思議」と題する面白い書を二册著したが、之も早速大評判となり、忽ちイギリス語・フランス語等に譯せられた。

[やぶちゃん注:「自然創造史」一八六八 年刊のNatürliche Schöpfungsgeschichte

「人類進化論」一八七四年刊のAnthropogenie oder Entwicklungsgeschichte des Menschen

「世界の謎」一八九九年刊のDie Welträtsel

「命の不思議」恐らくは、一九〇四年に刊行された、先のDie Welträtselに補足する形で書かれたDie Lebenswunder. Gemeinverständliche Studien über Biologische Philosophie(「生命の不思議/生物哲学についての分かり易い研究」)であろう。]

 

 「自然創造史」といふのは、既にその名前で知れる通り、今日我々の見る天地間の萬物が神といふやうな自然以外の者の力を借らず、たゞ自然の力によつて漸々出來上つた有樣を書いたものである。その大部分は素より想像に過ぎぬが、今日知れてあるだけの科學上の知識を基礎としたもの故、全く空に考へ出した想像とは違つて、多少眞に近いものと見倣さねばならぬ。倂し事實上の知識の足らぬ所を餘り奇麗に推論で補つてあるため、この書を讀むと恰も今日既に天地間の事物が悉く解釋せられ盡したかの如くに思はれ、かの「講釋師見て來たやうな虛言をつき」といふ川柳などを思ひ出して、却つて全體を疑ふに至り易い。ヘッケルも素よりこの書の中に書いてあることを悉く確乎たる事實と見倣しては居ないが、進化論を通俗的に述べて、一般の人民間に普及せしめるには、科學上確乎たる事實だけを掲げ、他に如何に眞らしいことがあつても、事實上の證據の出るまでは尚疑を存して置くといふやうな愼重な遣り方では、なかなか間に合はぬ。それよりは寧ろ多少の想像を加へて、生物進化の有樣を具體的に造り上げて、所謂「中(あた)らずと雖も遠からず」といふ位の所を示した方が、功力が多いとの考から、恐らくかやうに書いたのであらう。「人類進化論」も之と同樣で、人類の進化し來つた徑路をその出發點から説き起し、初め何の構造もない簡單な生物から漸々進化して、終に今日の複雜な人間になるまでの歷史を詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]に書いてあるが、之も無論大部分は想像で、その中には隨分眞らしからぬ點も少くない。一言で評すれば、餘り明瞭過ぎるのである。今日我々の不完全な知識を以て、既に人間の進化の徑路を、始から終まで到底斯く明に説けるわけのものではないが、このことはヘッケル自身も承知で、たゞ當時知れて居た人間の發生學上の事實を基として推し考へた想像を、具體的に書き綴つて、やはり「中らずと雖も遠からず」と思つた所を公にしたに過ぎぬ。以上二種ともに解り易く書いた本であるから、進化論を研究したい人は一度は讀んで見るが宜しい。こゝに述べたことを心得て讀みさへすれば、別に誤解するやうな憂[やぶちゃん注:「うれひ」。]はなからう。また「世界の謎」と「命の不思議」とは生物學を基礎としてヘッケル流の宇宙觀ともいふべきもので、讀む人によつて無論批評も違ふであらうが、哲學的の趣昧を有する者には至極面白い書物である。

 ハックスレーヘッケルもともに初期の進化論者であるから、主として生物進化の事實を世に弘める方に力を盡したが、理論の方は先づダーウィンの説と同じであつた。特にヘッケルは明にラマルク説をも主張し、その著書の最新版にも後天的性質の遺傳を認めなければ、生物進化の原因は到底説明が出來ぬと斷言して、次に名を揚げたウォレースヴァイズマンの學説を頭から攻擊して居る。ヘッケルは已に數年前に亡くなったが、從來の議論から見ると、自然哲學的見地から常に生物進化の全局面を普く考へて論を立て、一局部の現象を重く見過ぎて、その方に偏する如きことはなかつたやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「ウォレース」「ヴァイズマン」は次の章で注する。

「ヘッケルは今年の二月に既に滿八十歳に達した」ヘッケルは一九一九年八月八日に没している。本書は既に示した通り、大正一四(一九二五)年九月に刊行された版である。]

 

 序にいうて置くことは、ヘッケルの著書にはドイツ國の詩人ゲーテを非常に尊重し、恰もゲーテを以て生物進化論の首唱者の如くに説いてある。ゲーテの大詩人であつたこと、及びその生物學に非常な興昧を持つて居たことは、誰も疑ふものはないが、彼を以て進化論の首唱者と見倣すのは殆どヘッケル一人だけで、他の生物學者は之に同意を表するものはないやうである。またヘッケルは機會さへあれば、口を極めて耶蘇舊教を罵り、その僧侶の不品行を攻擊して、往々必要のない所に之を引合(ひきあひ)に出すこともあるが、これらは單に癖とでも見て置くが宜しかろう。

 兎に角イギリスではハックスレードイツではヘッケルといふやうな人等が「種の起源」の出版後、直に進化論を普及せしめようと大いに盡力したから、この二國では忽ち下層の人民までも進化論といふ題位[やぶちゃん注:「だい」「くらゐ」。]は知るやうになつたが、そのため反對論もまた盛に起り、一時は何雜誌を見ても、進化論に關する記事が必ず掲げてあるやうな有樣であつた。フランスその他の國々では、ハックスレーヘッケルに比すべき人がなかつたから、たゞその著書を飜譯しただけで、隨つて進化論の普及することも幾分か遲かつたやうである。

2018/05/02

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(2) 二 理論の比較的に進まぬこと

 

     二 理論の比較的に進まぬこと

 

[やぶちゃん注:前章末尾で注した通り、この冒頭部は底本はページが一枚分、欠損している。そこで、一番近い次に新しい版である、同じ開成館の大正三(一九一四)年発行の初版修正版十一版と、講談社学術文庫版を校合し、今までの丘先生の癖などを参考に電子化こととする。]

 

 生物進化の事實はダーウィン以後の研究によつて益々確となり、最早疑ふべからざるものと成つたが、生物各種は如何なる原因により、如何なる法則に隨つて、進化し來つたものであるかといふ問に對する説明理論の方は、今日と雖もダーウィンの時に比べて餘り著しい進步は無い。近來種々の相反する新説が出たために、却つて渾沌たる狀態に戾つた如くに見える。前にも述べた通り、ダーウィンは生物に變異性のあること、及び生れる子孫の數の非常に多いことを事實と認め、之を基として生物種屬の進化は主として自然淘汰によると論じたが、變異性や遺傳性の詳細な點までは説き及ばなかつた。勿論其の頃には今日の如き實驗的の變異・遺傳の研究は全く無かつたから、詳しいことは何も知れて居なかつたのである。ダーウィン以後の生物進化に關する理論の變遷を述べるには、先づダーウィン自身は變異や遺傳に就いて、如何に考へて居たかを明にして置くことが必要であるから、次に其の要點を簡單に紹介する。

 自然淘汰の行はれるには、生物各種ともにその個體の間に若干の變異のあることが、第一の條件で、若し總べての個體の性質が皆同じであつたならば、無論如何なる淘汰も行はれる筈がない。所で、出來上つた生物個體の有する性質の中には二種類の區別がある。卽ち一は生れながら有する性質で、一は生れてから後に外界よりの影響を蒙つて新に[やぶちゃん注:ここで欠損ページは終わるので。以降は底本に戻る。]獲た性質である。例へば黑奴[やぶちゃん注:「こくど」。黒人奴隷或いは黒人の蔑称。孰れも明白な差別漢語である。後に「黑人」と使っているから、ここは「漁夫」に対してガレー船を漕いだ前者の可能性が強いが、それでも差別用語であることに変わりはない。]の色の黑いのは、生れながらに具はつた性質であるが、日本人の漁夫の色の黑いのは、生れてから後に日に燒けて新に獲た性質である。隨つて變異にも二種の區別があつて、黑人と白人との色の違ふのは、生れながらの性質に基づくが、呉服屋の番頭と濱の船頭との色の違ふのは、生れてから後の生活狀態の相違によつて起つたことである。使宜上前者の如きものを先天的の性質、後者の如きものを後天的の性質と名づけて置く。さて先天的の性質が親から子に遺傳することに就いては、疑を抱くものはないが、後天的の性質が子に遺傳するか否かは大に議論のあつたことで、ダーウィン以後に起つた生物學上の大議論は、殆どこの問題を中心とした如き觀がある。後天的の性質が遺傳するとは、曾てラマルクの主張した所であるから、恰も自然淘汰説をダーウィン説と呼ぶ如くに、後天的性質の遺傳を認める學説をラマルク説と名づけるが、ダーウィン自身は如何に考へたかといふに、素より自然淘汰に重きを置いたが、それと同時にラマルク説をも容れて、後天的の性質も往々子孫に傳はるものと假定して論を立てた。この事は「種の起源」の緒言の終に明に書いてあるが、ダーウィン説に反對する人の中には、ダーウィンは生物進化の原因は自然淘汰以外にはないと論ずるやうに誤解し、往々或る事實を捕へ來つて、之は自然淘汰では説明が出來ぬではないかというて、駁擊の材料としたものも多勢あつたので、後の版には更に第十五章結論の中に、かやうに誤解せられては實に迷惑であるとの文言を新に加へてある。

 斯くの如くダーウィン自身は自然淘汰を主とするダーウィン説と、後天的性質の遺傳を認めるラマルク説とを倂せ採つたが、ダーウィン以後、化石學・細胞學、または變異・遺傳の實驗的研究の進むに隨ひ、奇妙にも兩方の極端説が唱へ出された。卽ち一方ではダーウィン説を排斥して、自然淘汰は生物進化の原因と認めるに足らぬと考へ、ラマルクの唱へた如くに後天的性質の遺傳のみによつて、總べての進化を説明せんと試みる者が出來、また他の一方では、その正反對にラマルク説を全然拒絶して、後天的性質は決して遺傳するものにあらずと斷定し、生物進化の原因はダーウィンの唱へ出した自然淘汰以外には決してないと主張する者が出來た。素よりこの兩派の孰れにも屬せぬ學者も澤山にある。されば、最近五十年間に發表せられた種々の説を集めて見ると、互に相反對したものが多數にあるが、之を大別すれば、先づ次の三組に分けることが出來るやうに思ふ。卽ち第一には、生物進化の原因は主として後天的性質の遺傳であつて、自然淘汰の如きは著しい力はないといふ説、第二には、生物の進化はたゞ自然淘汰のみによることで、後天的性質の遺傳は決して之に與らないといふ説、第三には、生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とに依つて生ずるといふ説である。右の中、ダーウィン自身の説は卽ち第三の組に屬するが、本書の著者の考へる所によれば、今日と雖も最も無理の少いのはやはりこの組の説である。

 生物進化の原因に關する議論は今日の所、大別しても右の三組になるが、各組の中の議論がまた樣々で論者によつて主張の點が著しく違ふから、たゞ喧しいばかりで、如何に決著するやら殆ど見込みが立たぬ。倂しダーウィンの唱へた自然淘汰説が既に倒れたなどといふことは決してない。この説の勢が幾分か下火になり來つたことは明であるが、之は一時無暗にこの説を有難がり過ぎた反勤とも見るべき現象で、自然淘汰説の眞の價値は、當今と雖も靜に考へる多數の學者の十分認めて居る所である。またラマルク説の方も斷然之を排斥する學者がなかなか多くあり、隨つて近來の書物には之に關して恰も既に議論が決定したかの如くに書いてあるものも尠くないが、實際は決してさやうなわけではなく、最近の實驗研究によると、更にこの説の證據とも見るべき新事實が幾つも確められた。これ等に就いての著者の意見は、後の章に改めて述べるから、こゝでは一先づ切り上げて置く。

 

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