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カテゴリー「原民喜」の295件の記事

2018/09/15

原民喜 旅空

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四一)年一月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

「落柿舍」の章(言わずもがなであるが、ロケーションを示すために注しておくと、落柿舎は蕉門十哲の一人向井去来の別荘で、芭蕉も三度訪れ、「嵯峨日記」を著した場所としても知られる。現在の京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町(ひのみょうじんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は本篇ではここ以外は訪れたことがない)の「吻とした」は「ほつとした(ほっとした)」と読む。

・「杜絶えて」は「とだえて」。

・「現身」は「うつそみ」と万葉語で読みたい。この世に生を享けている己が姿。

・「晒天井」(さらしてんじやう(さらしてんじょう))は部屋の天井板を張らずに屋根裏や梁が見えたままの造りを指す。

「伊賀上野」の章の「蓑蟲庵」は「三冊子(さんぞうし)」で知られる芭蕉の同郷の門人服部土芳(とほう)の庵。訪れた芭蕉が詠んだ挨拶句「みのむしの音(ね)を聞(きき)にこよ草の庵(いほ)」からかく名指された。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「愛染院」は「あいぜんゐん(あいぜんいん)」。三重県伊賀市上野農人町(うえののにまち)にある真言宗遍光山愛染院願成寺(がんじょうじ)のこと。本尊愛染明王。松尾芭蕉の松尾家代々の菩提寺。ウィキの「願成寺(伊賀市)によれば、芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に滞在先であった大坂で亡くなり、門弟らによって遺命に従って大津の義仲寺(ぎちゅうじ:滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山(あさひざん)義仲寺。ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られたが(墓はこれウィキの「義仲寺」の画像)、先に出した『伊賀上野の門弟服部土芳』『と貝増卓袋が、形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の墓所に納め、後に故郷塚が築かれた。現在の場所に移されたのは』芭蕉五十回忌の元文三(一七三八)年の時と伝えられる。寺の位置及び故郷塚の画像は「伊賀市観光協会連絡協議会」公式サイト内の「愛染院・故郷塚」を見られたい。

・「私の喪神」「喪神」は「もがみ」と訓じておく(「さうじん(そうじん)」と読む熟語としては存在するが、その場合は「喪心」と同じで、「放心状態」や「意識喪失(気絶・失神)」の意でしか用いないと思われる)。自身に近しい人の神霊、則ち、永く喪に服すべき親族の死者の霊魂のことを指している。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「逢遭」(ほうさう(ほうそう)」は「めぐり逢うこと・出会い」の意。

・「櫟」は「くぬぎ」。ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

・「腰板」壁や障子等の下部に張った板。

「義仲寺」の章の「窄めた」は「すぼめた」。

「幻住庵」の章(幻住庵(げんじゅうあん)は滋賀県大津市国分(こくぶ)にある芭蕉が滞在し、「幻住庵の記」をものした小庵。ウィキの「幻住庵」によれば、『「奥の細道」の旅を終えた翌年の』元禄三(一六九〇)年三月頃より、『膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水』(きょくすい:俳号は「曲翠」とも記す。本名は菅沼定常。膳所藩重臣で芭蕉の門人。芭蕉の死から二十三年後のことであるが、享保二(一七一七)年、不正を働いていた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らも切腹した。墓所は芭蕉と同じ義仲寺である)『の奨めで同年』四月六日から七月二十三日の約四ヶ月間、ここに『隠棲した』。『元は曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社(ちかつおじんじゃ)境内にある。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現したが、その趣は』『今も変わらず』に『残っている』(現在の建物は一九九一年の復元)。『敷地内には幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」との記述があるように、芭蕉が自炊していた』とされる「とくとくの清水」が『今も木立の中、水を湧き出している』とある。

・「藥師堂」いろいろ調べてみたが、私自身、行ったことがない場所なので遂に判らなかった。ここが判ると、或いは後の主人公の行路がより明確に判るように思われるのであるが。後の私の注の杜撰な考証の限りでは、前の「義仲寺」に素直に続くものとするなら、この薬師堂なるものは大津市馬場の義仲寺と大津市別保の国分寺の間、膳所駅と石山駅の間(中央附近。グーグル・マップ・データ)にあることになるのだが、私の後注の考察が誤謬である可能性もあるので確信はない。識者の御教授を乞う。〈裏に坂道がある薬師堂〉である。

・「展がる」は「ひろがる」。

・「眼路」は「めぢ(めじ)」。目で見通した範囲。視界。「目路」とも書く。

・「新草」は「にひくさ(にいくさ)」。春先に芽を出した草。「若草」に同じい。

・「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、読むと判るが、主人公は寺を訪れたのではなく、単に遠望しただけである。

・「川」瀬田川。

・「戰いで」は「そよいで」。

・「國分寺」これは以下に続くシークエンスと地図を照らし合わせてみたりして、大津市国分にある近江国分寺跡に比定されており、幻住庵の北北西二百四十メートルほどのごく直近にある(ここ(グーグル・マップ・データ))国分聖徳太子堂(こくぶたいしどう)、或いは、その東北方の新幹線を跨いだ滋賀県大津市光が丘町付近にある国分寺跡(遺跡で建築物等は全く残っていない)、揚句は瀬田川の対岸の滋賀県大津市野郷原(のごはら)・神領(じんりょう)地区の国分寺比定地跡なども画像で見たが、国分寺跡どちらも遺構地であって、少なくとも現在は、ただ比定を示す石柱が建つだけで、本文にあるような「門を潛る」というようなロケーションの場所ではないし、流石に原民喜がこの殺風景な跡地を「國分寺」とは言うとは思えない。国分聖徳太子堂ならば、寺形式の建築物も門もあるから(ブログ「竹林の愚人 Ⅲ」の「国分聖徳太子堂」が写真豊富で(視認判読可能な現地の解説板を含む)よい)それらしい感じで、当初、ここだと決めかけたのだが、次のシーンで道を教えて呉れる老人は「向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた」とあり、地図を見る限りでは、この国分聖徳太子堂附近からだったなら、川を渡らずに山裾を廻り込めばよい(ただ、主人公が東に川を渡ってしまっていた可能性はある)近さなので、如何にもおかしいと私は感じてしまった。さらに、表現は圧縮されているものの、「私はもう大分步いたやうだが」と、実は相当な距離を歩いてきたことが判る。とすれば、この「國分寺」とはずっと北の、東海道本線を跨いだ滋賀県大津市別保にある現存する曹洞宗別保山(べっぽざん)国分寺ではなかろうかという気がして来たのである。(グーグル・マップ・データ)である(この寺は旧粟津国分尼寺で、後に兼平寺(無論、木曾義仲の乳母子にして義仲四天王の一人の、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した今井兼平所縁の寺名であろう。南東直近に兼平の墓はある)を経て、国分寺としてある寺で、巴御前の供養塔がある。但し、の訪れたい方に言っておくと、ネットで見ると、今あるのはピッカピカの新造塔である)。但し、私の思い違いがあるかも知れない。現地に詳しい方の御教授を切に乞うものである。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「八幡宮の神殿」近津尾神社の祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇の諱で、八幡神と応神天皇は同一とされてきた。

・「凝と息を凝してゐた」前は「じつと(じっと)」、後は「こらして」。

・「人格」は「じんかく」でよかろうが、ここは「人の影」「人らしい姿のもの」といった謂い。見慣れぬ使い方であるが、そこは原民喜の確信犯の用法なのである。……ともかくも読まれるがよい……まっこと、味なことやるねぇ! 民喜!……

・「遽かに」は「にはかに(にわかに)」。

・「煮えたぎつ心地がした」ママ。「激しく沸き立つ」の古語「滾つ・激つ」(タ行四段)ならおかしくないが、この前後は全くの口語なのだから、奇妙である。「たぎる」の原民喜の誤記か、底本の誤植か、或いは初出の『文藝汎論』の誤植の可能性もある。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 旅空

 

  落柿舍

 

 私は釋迦堂の方ヘアスフアルトの道を步いて行つた。背中に正午の陽が熱く射して、眼はさつき見た渡月橋の賑はひに疲れてゐた。今朝、京都驛へ着いて、疲れたままの體を嵯峨まで運んで來たのだつた。すると此處は花見客でひききりなしの人通りである。その人通りのなかに紛れて、渡月橋まで來たが、尋ねる落柿舍は見あたらなかつた。角の餠屋で訊ねると、娘が耳馴れない言葉でぼんやりと教へて呉れた。おぼつかなくは思つたが、來た道を逆に引返して行くと、暑さが背に匐登つて來るのだつた。

 そのうちにどうやら右に石の道しるべがあつて、私は吻とした。その小路に這入つて行くと、もう人通りは杜絶えて、竹籔がさらさら風に搖れてゐた。畑中の道に添つて、ところどころに人家があつた。はじめそれかと思ふ門口の額を見上げると、異つてゐる建物であつた。畑には豆の花が咲いてゐて、槪して、纖細さうな植物が眼に著いた。落花がひらひらと竹籔に散つて來るのを見送つて、道は更に白く伸びてゐた。ふと立留まつた小さなな門に立札があつて、石に落柿舍と彫つてあつた。

 見上げると、後は竹籔で、生垣をめぐらした、藁葺の一軒家だつた。門を這入つて行くと、日陰と日向の入混つた庭で、突當りの戸に蓑が掛けてあつた。飛石を踏んで座敷の緣側まで行くと、内から人の氣配がして、若い男の顏がのぞいた。私は默つて、帽子をとつた。私は緣側に立つて、藁葺の屋根を仰いだり、座敷の奧の方を眺めた。座敷の壁に笠が掛けてあつて、内部は爽やかな薄明りだつた。緣側に腰かけて、私は煙草を吸つて、ふと側にある柿の樹を見上げた。梢に靑い芽がつやつやと光つてゐた。庭の隅に句碑らしい石もあつた。山吹に似た花が咲いてゐて、地面を割つて蕨が二つ三つ伸びてゐた。

 私は立上つて、半分戸のひらいてゐる土間の方を覗はうと步いて行つた。すると、座敷から、「お茶をどうぞ」と聲がした。見ると、土間の片隅には茶釜が据ゑてあつて、そのまはりに切株の腰掛が置いてあつた。私はそこに腰掛けて、竹筒の茶碗に柄杓で汲んで飮んだ。茫と疲れてゐる現身に、番茶の味が沁み亙るやうだつた。粗壁のところどころに色紙などが貼つてあり、晒天井やくねつた柱がまひるの愁ひを湛へてゐる。お茶を飮んで少し元氣になつて、私はそこを辭した。門を出て、あたりを見渡すと、なかなかいい眺めだつた。畑のむかふの山麓に、杉らしい木立や、寺院の甍や、桃や櫻の花が見えた。そして畑はほんとに風光るといつた趣きだつた。

 

  伊賀上野

 

 木津近くの竹籔が窓の外に搖れ、桃、梨、櫻など咲いてゐる野原に、若芽をもつた枝や、日の光で潤んだ枯枝など混つてゐた。木津驛で降りて、鳥羽行を待つた。驛のホームは寒い風が吹きとほした。鳥羽行に乘ると、團體客で滿員で、昇降口にまで一杯乘客が詰つてゐた。笠置で少し席が空いた。笠置は櫻が滿開で、靑い溪流と由が迫つてゐた。それから汽車は山の中を暫く進んで、伊賀上野に着いた。その驛で降りたのは、私ともう二人位の人だけだつた。

 さて、私は驛の前の廣場に立つて暫くぼんやりしてゐた。そのうちにそこに留まつてゐたバスはみんな行つてしまつた。私は寂しい廣場を過ぎて、一本道の家並の方へ步いて行つた。古びた百姓家ばかり並んでゐて、すぐ側は田だつた。私は一軒の家で、伊賀上野といふのはこのあたりのことですかと訊ねてみた。すると、伊賀上野といふのはまだここから大分あるから、バスで行つた方がよからう、バスは汽車の着く度に迎へに來ると教へられた。それで驛に引返して、三十分程、待つた。やがて、次の汽車が着いて、漸く私はバスに乘ることが出來た。

 バスは畑道を走り、四方に薄く山が霞んでゐた。櫻の咲いてゐる山坂を越えると、視野が改まつて、バスは町中に這入つた。終點で降ろされたものの、私はどう行つていいのか見當もつかなかつた。足の向くままに行くと、天滿宮があつた。それから狹い町中を步いて行つたが、靜かな町だと思つた。私は誰かに蓑蟲庵へ行く道を訊ねたいのだが、誰に訊ねていいのか戸惑ひながら步いた。ふと、橫から坊さんが出て來たので、その坊さんに訊ねてみた。坊さんは蓑蟲庵を知らなかつた。そのかはり芭蕉の祀つてあるお寺なら愛染院だから、そこへ行くといいだらうと、道筋を教へて呉れた。教へてもらつた道筋は途中で忘れてしまひ、二三人の人に訊ね、訊ねして、やつとそのお寺へ來た。町はづれの、坂の下にはすぐ畑などがある道を通つて來たのだつた。

 門を潛つて、ぼんやり境内を見渡してゐると、橫の建物から中年の婦人が現れて、「芭蕉のことですか」と聲をかけられた。私が頷くと、婦人はさきに立つて案内してくれた。遺髮が收めてあるといふ塚を見て、そこから次いで庭に椿の咲いてゐる一つの庵室に案内された。そこに位牌が祀つてあつた。私はその前に坐つてゐると、ふと喪にゐるやうな氣持がした。今、私に説明したり案内してくれる婦人の聲も、それは何か私の喪神に對つて悔みを云はれてゐるやうな錯覺を與へた。御遠方からよくおいでなさいました、と云はれると、それは賴りない身空で逢遭した慰籍の語のやうに思へたり、しかし、私は何のために遍歷してゐるのかよくわからなくなるのでもあつた。私は蓑蟲庵へ行く道順を教へてもらつて、そのお寺を辭した。

 蓑蟲庵は更に町はづれの溝に添つた路にあつた。黃色い高い塀からは庭樹がこんもりと見えてゐた。玄關を入つて、案内を乞ふと、年寄つた主が現れた。それから橫の徑を這入つて、庭に出た。古びた、よく手入れされた廣い庭だつた。飛石づたひに行くと、藁葺の舊い平屋が控へてゐた。

 緣側の前に立てば、半分開かれた襖の向ひに、薄暗い部屋が並んでゐて、突當りの部屋の壁は眞暗だが、圓くくり拔かれた障子窓が、遠くぼんやりと朧月のやうな光を放つてゐる。私は暫くその光に見とれてゐたが、勸められるままに座敷へ上つて坐つた。閾も柱も障子もところどころ朽ちかけてゐた。主は床柱を指差して由來を語つた。白い細い節くれだつた柱で櫟の木ださうだ。六疊の座敷の次に四疊の部屋があつて、その奧の突當りの六疊には爐が切つてあつた。そして、臺所と境の障子の越板が一寸位缺けたままになつてゐた。片隅に、朱塗の行燈が置いてあつた。主はその行燈を顧ると、こんなものを使つてゐた頃のことをあなたは知つてゐますかと云つた。私にもそれは遠い記憶のうちに殘されてゐる行燈のあかりがあるやうに思へ、何故か苦惱に近いものが眼前を橫切るのだつた。

 

  義仲寺

 

 電車を石場で降りると、アスフアルトの往來が一本續いてゐた。私はそば屋で晝餉を濟まして、義仲寺へ行く道を訊ね、それから、ぶらぶらと步いて行つた。塀の外に芭蕉の葉が覗いてゐるお寺があつた。門を入ると、婆さんが出て來た。芭蕉の墓は兼て寫眞で見知つてゐた通りで、今も靑い木の葉が供へてあつた。狹い庭に日が明るく射してゐた。婆さんは緣側の白い砂挨を眺めながら、「昔はこの邊もさぞよかつたことだと思ひますが、この頃ではすぐ外を走るバスの挨がみんなこの緣側に來るのでかなひません、それに、私は永く東京で暮してゐて、年とつてからここへ來たものですから、どうも朝夕は冷えて寒くてなりません」と肩を窄めた。

 

  幻住庵

 

 藥師堂の裏の坂路を行くと、私は次第に何ものにか憑かれてゐるやうな心地がした。雨は小止みなく降りつのり、展がる眼路は濡れて、ひつそりした畑であつた。ほんとに人一人見かけない畦道となつた。あぜ路に田の水が溢れ、靴の底に踏む枯草は水を吐いた。新草もちらちら見える細い徑は、うねり高くなり低くなり續いて行つた。雨靄に籠められてゐる山や森は薄墨色であつた。

 この寂寞とした眺めにひきかへ、私は後に殘して來た湖水の姿が次第に哀感を含んで訴へるやうであつた。さきほど見た石山寺の對岸の景色は、ほどよい距離に川があるためか、それはうつとりとして、柳と櫻が立並んだ岸の青草の上を雨傘が靜かに進んでゐた。湖水の仄かなる表情がまだ遠くで戰いでゐる。

 そして今私の對つてゐる路は、現世のはてのやうに寂れてゐた。境涯の夢が何時かはこんな場所に人を運んで來さうな感じがした。それで私は私の小説を腹案してゐるのか、實踐してゐるのか、さだかならぬ氣持で路を傳つて行つた。暫くすると、繁みがあり、靑い小さな池が足もとにあつた。それから路は更に畑のなかに煙つてゆく。やがて、人家のまばらに並んだ一角に來ると、私は漸く人心地づいたやうだつた。けれどもどこの家もひつそりとして雨だつた。ふと、後から黑い犬が現れて、默々と私の後をつけて來た。國分寺があつた。門を潛ると、犬もついて來た。そこから道幅は廣くなつてゐて、遠く畑の中へ伸びてゐた。暫くすると、犬の姿も無くなつてゐた。

 私はもう大分步いたやうだが、幻住庵は何處にあるのか、見當もつかなかつた。その時、橫の人家から、とぼとぼと憔悴した老人がこの雨の中を步いて來た。私はその老人を立留まつて待つた。老人は向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた。私は雨の中を更に急いだ。小さな溪流の岸では、工夫が二人土を掘返してゐた。橋を渡つて、山坂にかかると、路はぬかるんで、滑りさうになつた。日和だつたら、それほど難儀な坂路でもなからうが、私は呼吸切れがして、びつしより汗になつてゐた。

 鳥居の上に大きな枯葉を重ねてある處を潛り、間もなく頂上へ來た。八幡宮の神殿の格子がまづ眼についたが、私はその奧を覗いてみるのが何だか怕くなつた。その橫に、瓦屋根の粗末な平屋が雨戸をたてきつてゐる。それが幻住庵跡なのか。雨戸一めんに落書の句が誌してある。ふと見ると、目の前に椎の木もあり、句碑が立つてゐるのだつた。私はぐつたりして、繪馬堂の板敷の上に腰を下した。そして、煙草を吸つた。雨の音が頻りで、下の溪流の音も聽きとれる。絶えず鳥の聲がひそまり返つた空の方でしてゐた。

 それからどれほどの時間が經つたのか私にはわからなかつた。が、ふと見ると、幻住庵の雨戸が靜かに一枚開け放たれてゐるのだつた。私はもう奇異な感に打たれたまま、繪馬堂の方から凝と息を凝してゐた。たしかに淡い影のやうな人格が今私を手招きしだした。私はおそるおそる、しかし、抗ふことも出來ず、その招かれる方へ近づいて行くと、相手はぼんやりと頷いたまま、すつと雨戸の奧の方へ消えて行つた。私は靴を脱いで、その奧の方へ上つてみた。暗闇の家の中央に、さつきの人格は坐つてゐた。私はその人の前に行つて坐ると、遽かに悲しさと羞恥がこみあげて來た。しかも、何か云ひ出したい衝動が私をその人の前に釘づけにしてゐた。ありうることであらうか、その人はまだ生とも死ともわかたぬ存在を今この眼の前に保つてゐるのだ。私はそれを疑ふ前に既に烈しい感動で眼が煮えたぎつ心地がした。とうとう口を開いて私はその人に訴へた。

「私は何のつもりで、今迄、あなたの遺跡を巡つてゐたのか、自分でもよくわからなかつたのですが、今あなたにお逢ひ出來たので、遽かにおたづねしたいことが出來ました、あなたは以前、昔を慕はれてよく旅をなさいましたが、その頃と今とでは何も彼も全く變つてしまつたやうですが、昔の景色はどんなものでせうか、その昔の姿を、直接あなたの口からきかせて頂けませんか」

 私は自分の訊きたいと思ふことさへ、うまく云へなかつたが、その人は私の言葉を凡そ了解してくれたのだらうか、何度もかすかに頷いてゐるやうに思へた。けれどもその人はなかなか口をあけて話してはくれさうになかつた。私は凝と耳を澄して聲を待つた。卽ち聲はあつた。はつきりした聲で、「朧ぢや」と一ことその人は言ひ放つと同時に、もうその人の姿は消え失せてゐた。

 

 

2018/09/14

原民喜 夢時計

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

・主人公の名「千子」であるが、これは既に電子化した後の「淡章」(昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出)の「榎」の主人公の名としても出る。個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。なお、本篇の描写から、この千子には原民喜の妻貞恵(昭和八(一九三三)年に結婚後、昭和一四(一九三九)年に結核(糖尿病も併症)発病、本篇発表の二年後の昭和一九(一九四四)年九月に三十三歳で逝去した。逝去当時、民喜三十八歳)の影が色濃く感じられるように思われた。

・「機み」は「はづみ(はずみ)」と読む。

・「歇なかつた」は「やまなかつた(やまなかった)」。

・「閊へてゐる」は「つかへている」。

・「蹠」は「あしのうら」或いは「あしうら」。

・「顰めた」は「しかめた」。

・「顴骨」は「かんこつ」(「頰骨」のこと)と読んでおくが、これは慣用読みで、実際には「けんこつ」が正しい読みである。

・「視凝めて」は「みつめて」。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「鞴」は「ふいご」。

・「矢次速に」は「やつぎばやに」。「矢継ぎ早に」に同じい。

・「捋し去らう」は「らつしさらう(らっしさろう)」。「拉(らっ)し去ろう」に同じい。

・「その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた」このままでも不自然とは言えないが、せめても「その星は砂地を亙つて墓地に、柵の方へ走つて來るのだつた」と読点を打つべきで、或いは「その星は砂地を亙つて墓地柵の方へ走つて來るのだつた」の誤字か誤植かも知れぬ。「の」の方が躓かぬ。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「𢌞角」は「まはりかど(まわりかど)」と読んでおく。「曲角」としないのであるから、直角でない曲線の通路と採っておく。

・「ぺつとりと」「べつとりと」ではないので注意。

・「這入る」経験上から、原民喜はこれで「はいる」と訓じている。

 

・「吻として」経験上から、原民喜はこれで「ほつとして(ほっとして)」と訓じている。

・「麥藁眞田」は「むぎわらさなだ」で「麦稈真田(ばっかんさなだ)」のこと。麦藁を平たく潰し、真田紐のように編んだもので、夏帽子や袋物などを作るのに用いる。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 夢時計

 

 白い露のおりてゐる草原の線路に、いくつもいくつも提燈が犇いてゐて、汽車が近づいて來るに隨つて、遠くの方の提燈が波打ち、そして段々こちらの提燈も波打ち、あかりをつけた窓々には默々と人々の顏が見えてゐて、それが過ぎ去つてしまふと、天の川がくつきり見え、提燈を持つた人々はぞろぞろと步きだし、千子は人と提燈の流れに從つて步いてゐるうちに、枯れた黍の穗が塀に悶え、石塊が灰白く、いつしか足許は不安に吸込まれるやうであつたが、やがて人々は小學校の講堂へ雪崩れて行つた。いつの間にか板の間には白衣の勇士が坐つてゐて、壇上では假裝行列の樂隊が始まり、どつと人々は哄笑に沸き立つ。近所の知つた人の變裝を見つけて、千子もほつと笑ひかけたが、どうした機みか、淚が浮ぶと、もうそれはいくら制しようとしても歇なかつた。わあわあと溢れ出る淚に千子は轉び伏してゐたが、そのうちにこんなに泣いては皆に迷惑かけると思ひあたると、そのことがまた切ない淚を誘つて、今度は一生懸命で聲を消さうと努めると、息が妙に塞がつて來た。

 今、咽喉の奧の方で死にかけた蟋蟀の聲のやうな音がゆるく絡つてゐて、細い細い今にも折れさうな針金のやうなものが閊へてゐるので、千子は不思議さうに何度もそれが咽喉の奥から引張り出せさうに思つて、顏を顰めた。すると、蹠の方や指のさきから、ザラザラとした熱の微粒が湧いて來て、それは潮のやうに皮膚の全面を撫で𢌞つてゆき、あるところでは渦を卷き、あるところでは急流となつて、その振舞がいよいよ募つてゆくと、心臟は脅えながらも、づしんづしんと音を高め、やがてもの狂ほしい勢で家政婦の姿がをどり出た。

 相手は理不盡なことを要求し、口ぎたなく罵りながら、今廊下を足音荒く逃げてゆく。どこまでが廊下なのか、どこまでが千子の心臟なのか、みんなわからなくなつてゆくうちにも、家政婦の尖つた顴骨やギツギツした眼ざしは濛々とした中に閃き、相手が撒き散らして行つた呪詛の言葉はくらくらと湯氣を發した。その湯氣は眞黑な闇となつてあたり一めんを領した。その時、千子の軀はぐつたりとして、透き徹つて消えてゆくやうにおもへたが、暫くして氣がつくと向の黃色な壁のところにひそひそと身を屈めて、靑ざめた女が茶碗に一杯溜まつた液體を訝しげに視凝めてゐる。千子はそれが自分自身の姿であることを識り、あの壁はどうやら野村病院の壁だつたらしいと思ひあたると、茶碗の中のものはもとよりわかりきつてゐた。ところが向の靑ざめた女はとろとろとした袋のやうな血の塊を指でつまんでは舌のさきにやり、無理矢理に吞込まうとしてゐる。

 千子はぎよくつとして、それを見るのが怕くなつた。ジンジンと厭な鋭い音が針の亂れて降りかかる闇に續き、わたしはどこにゐるのだらう、わたしのからだはどこにあるのかしら、と茫漠とした悶えを繰返してゐると、ふと掌に觸れたシイツの端から、顏全體の輪廓が浮び上り、どうやら千子の魂はそこへ舞ひ戾つて來た。だが、その掌はお湯に浸したやうに熱く、頰の下の一とところは焰がゆらいでゐるやうに火照つて、心臟の疼くことも前と變りなかつた。深夜の部屋は墓のやうにひつそりしてゐた。

 千子は心弱く溢れ出た淚の眼瞼を、ぼんやり閉ぢてゐると、眼球がずんずん腦の方へ沈んで行きさうになり、くらくらする頭の内部の暗がりに、腫れて少し大きくなつてゐるらしい眼球の恰好がまざまざと描かれて來たが、夢にまでこの眼は泣かされてゐるのかしらと思ふと、一たん沈みかかつた眼球の運動が今度はだんだん上方へ昇つて行き、そのうちいつの間にか風呂場の煙突の折れ口がパツと口を開いてゐた。

 嵐でへし折られたその煙突はぶらんぶらんと頭上に搖れ、今にも降り出しさうな空模樣の中に、歪んだ針金を突出し、その針金には蜘蛛の巢が汚れてぶら下つてゐる。今にもあれは墜ちるかもしれないと、千子は口惜しくて耐らなく、眼もとが昏んでゆく思ひだつたが、ふと見ると、その煙突の傍には靑ぶくれした顏の煙突屋がぼんやり腰を下してゐる。何度賴みにやつてもやつて來なかつた煙突屋は今も修繕に取掛らうとするでもなし、氣心の知れない顏附で煙草を吸つてゐた。ところが煙突屋は誰か向に知人を見つけたらしく、一寸手をあげて合圖した。怪しんで千子がその方向を見𢌞すと、塀の破れ目から爛々と光つてゐる家政婦の眼があつた。と、思ふとバタバタ逃げだす足音がして、千子の心臟はまた張裂けさうになる。

 軀は鞴のやうに音を發し、その上をいくつもいくつも其黑いものがつ走り、矢次速に黑い塊は數を增してゐた。ザザザと彼の音が聞えた。海岸の空に懸つてゐる三日月がキラリと一瞬美しく見えた。と思ふと、眞黑いものは更に猛り立ち、その巨大なものは無理矢理に千子を捋し去らうとする。風の唸りや稻妻の中に折れ曲つた煙突があはれに浮んだ。暫くして、あたりは氣の拔けたやうに靜かになつた。

 仄暗い砂地にはささやかな波形の紋が一めんに着いてをり、重たい空氣の中にヒリヒリと草の穗の熟れる匂ひが漾つて來た。今、千子の眼の前に黑い柵がくつきりと蹲つてゐて、柵の向にも砂地は起伏し、そのあたりの光線は奇妙にはつきりしてゐたが、その上に被さる漆黑の空には無數の星が刻んであつた。千子の眼は吸込まれるやうに星空に見入つてゐると、病苦に滿ちた空の星は瞬く每にいよいよ美しくなつてゆくやうであつた。ふと、一つの星が白い尾を曳いて砂地に落ちた。今、落ちたところの星は遠くの地點にあつて、ぐるぐると囘轉してゐるやうであつた。暫くすると、その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた。見れば砂煙をあげて音もなく走つて來るのは灰色の豚であつた。千子は目を疑ふやうに空を見上げた。流星はひつきりなしに砂地を日懸けて墜ち、豚の數ほ陰々として增えて行く。無言のまま砂塵をあげて突進する豚の群は黑い柵のすぐ側を犇き流れた。ある限りの星は地上に向つて墜落しつづけた。

 千子はぐつたりと脅えて、傍の柵にとり縋つた。黑い柵のほとりには何時の間にか千子の夫の顏もあつた。

「ああ、あれはどうなるのでせう」と千子は凄じい動物の群を指差した。「そつとしておいた方がいい」と夫は口籠つた聲で答へた。そのうちに、あたりの樣子は徐々に變つてゆき、今も眼の前に不可解な現象は生起してゐたが、次第にそれはレントゲンに映る肺臟の風景に似かよつて來た。

 星の消えた空はうつろに靑ざめてゐた。家畜の群も既に散じて見えなかつた。起伏する砂丘の一端に黑い岩帶があつて、そこから白煙がゆるゆると立騰り、あたりの空氣を濁してゐた。麓の方に目も覺めるばかりの薊の花が一むら咲いてゐるのは、千子が旅で見たことのある風景ではなからうか。だが、傍で誰かが説明を加へてゐた。あの煙が消えて、あの黑い岩穴が塞つてしまふまでは、まだまだ養生をしなければいけません。千子はその人に對つてお時儀をして、部屋を出て行つた。

 草を敷いた長い廊下を步いてゐると、扉や𢌞角で看護婦とすれ違つた。その看護婦たちの足はみんな廊下から宙に二三寸浮上つて進んでゐるのに、千子はぺつとりと足が下に吸込まれてゆくやうで、草を敷いた廊下は汗ばんだ足の下をずるずると流れて行つた。廊下は容易に盡きなかつたが千子は一心に步いてゐた。次第に行交ふ人の數が增えて、それは巷で見かける人々の服裝になつてゐたが、遂にある部屋の前に人々は殺到してゐた。

 千子は立並ぶ人の中に捲込まれてゐると、すぐ後からも人が來て並んだ。その傍を自轉車に乘つた男が蜻蛉のやうに飛んで行つた。後から押されるやうにして、部屋の中へ這入ると、薄暗い光線の中に押込められて立つてゐる人々の顏はみんなぼんやり霞んでをり、千子は呼吸をするのもつらくなつた。苔の生えた大きな柱が高い天井を支へてゐて、ものものしい殿堂に似た場所であつた。漸く人數が減つて、眼の前に石の臺が見えた。千子は 吻として、石の臺に肘を凭せ、向に立働いてゐる人に對つて、何か訊ねようとした。すると白い顏をした小僧がヂロリと千子を見咎め、「切符の無い人は駄目だよ」と云つた。忽ち周圍に居合はせた人々が笑ひだした。千子は喘ぎながら辨解しようとした。「オイオイ、病人のくせして出しやばるない」と、ステツキを持つた男の聲がした。

 すると、人々は遠かに動搖しだした。女達はあわてて千子の側を避けながら、鼻に袖をあて、お互に耳打ちしては千子の方を振向く。男は忌々しさうに顏を外けた。千子はブルブルと戰へながら立疎んでゐたが、そのうちに立つてゐる力を失ふと、ワツと泣き崩れて行つた。死ねるものなら死んでしまひたい、早く死んでしまひたいと轉倒しながら泣き叫んだ。

 倒れてゐる千子の軀から二つ三つ白い影が立迷ひ、ぐるぐるぐる立迷ひ、倒れてゐる千子はすべてを失つて行くやうであつた。しかし暫くすると、足指の方から枕の方へふわりと影は戾つて來た。夜の部屋は死のやうにひそまつてゐた。こんなに興奮してはまた軀に障るだらうと、千子はおづおづと眼を閉ぢた。暫くすると、眼を閉ぢてゐる筈なのに、すぐ側の押入の内部がはつきりと眼の中に飛込んで來た。もう長い間整頓したことのない押入は、行李や新聞の包みが歪んで脹らんでゐたが、それに天井板の方からぶら下つた麥藁眞田がぐるぐる髮毛とともに絡んでゐる。あんな麥藁眞田などをどうして今度の女中は持つて來たのかしらと思ふと、隅の方に笊が置いてあつて、豆もやしとマツチの軸木が一緖くたに混ぜこぜになつてゐるし、鼠の開けたらしい穴からは隣の家の庭がまる見えになつてゐて、そこから蛞蝓がずるずると匐ひながら行李の方へやつて來る。蛞蝓はもう行李の蓋にべつとりと一杯群がり、次第に行李の中の衣類へ移つて行く。着古した着物の襟や、裾の裏地にまで、蛞蝓はねとねとと吸ひつき、そのままじつと動かなくなる。と、袂の隅が少し脹らんで動きだしたと思ふと、そこからは大きな蛾が跳ね出して、パタパタと押入の中を飛𢌞つた。眼のキンキン光る蛾は翅からパラパラと粉を撒き散らし、押入は濛々と煙つてしまつた。

 千子は無性に腹が立ち、今にも飛起きて、あそこを片附けたくなつた。あの着物はもうみんな洗張して縫ひ直さなければいけないと思ふと、ヂリヂリと氣は苛立ち、夜具の上にきつと坐り直した。だが、暫くすると、がくりと姿勢は崩れて、今度はふらふらと手探りで催眠劑のありかを求め、小さな箱にコロコ搖れる藥を掬ふやうに掌に取ると、そのまま睡りに陷ちてゆくやうであつた。


 

2018/09/08

原民喜 望鄕 (オリジナル詳細注附)

 

[やぶちゃん注:昭和一八(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。

 なお、第二段落にある伏字『□□□□』は底本のママである。初出誌を見ることが出来ないが(『三田文学』は原本画像が限定公開されているが、大学・研究機関に所属する者にのみに閲覧許可が下りる甚だ差別的で不当な設定である。日本の文学研究のレベルの低さがよく判る)、無論、同じであろうと思われる。当然、筆者自身による伏字と考えられる。

 また、この伏字の主である主人公の「叔父」であるが、太平洋戦争は既に昭和一六(一九四一)年十二月八日未明(日本時間)に開始されており、その当時、この主人公の叔父はアメリカ合衆国(或いはカナダ)の在留邦人であったと考えられる。「神戸大学経済経営研究所」の「新聞記事文庫」の『大阪毎日新聞』の昭和一八(一九四三)年四月十八日附(本篇が発表される前月)の「米加在留邦人状況 外務省事務室の調査報告」によれば、『現在敵国に在留する邦人総数は約五十七万に達し、そのうち抑留されているもの一万三百、集団移住生活者は十三万らに上っている、米国およびカナダの邦人に関してはこのほど詳細な調査が出来たので十七日同事務室から別表の』如き『報告が発表された』とあって、詳細な数値が示されてある。されば、この太平洋戦争での本邦の敵国となっていたアメリカでの邦人抑留者の中に「叔父」は入っていたという意味であることが判る。

 さらに言い添えておくと、原民喜の父信吉は広島市幟町で陸海軍用達の原商店を経営しており、彼の五男であった民喜の上には、三男の信嗣(後に家を継いでいる)と四男の守夫の二人の兄がいた(守夫とは中学時代に同人誌を作るほど馬が合った。長男と次男は夭折)。この事実は、本篇で入れ子構造になっている作品内小説(断片)の人物設定と非常に強い親和性(モデル性)を感じさせる。さすれば、この叔父も実在し、原商店で働いた事実があり、その後、アメリカに渡り、この時、アメリカで抑留されていたのかも知れない。父方か母方は不詳だが、全体を通して読むと、兄の一家と若い時には一緒にいたこと、主人公の姉の死に激しい悲痛を感じていることなどから推すと、主人公の父の弟であるように私には思われる。

 当初、以上以外にも簡単な読解に不可欠な必要最小限の注を附すつもりであったが、考証を重ねるうちに量が増えてしまい、しかも本文の細かな内容に触れる(ネタバレを含む)ことにもなったため、最後に別に注を附すこととした。

 一箇所だけ先に注しておくと、太字で示した「きつぼ」は底本では傍点「ヽ」なのであるが」、これは「きっぽ」で、「傷跡」、則ち、「傷口が盛り上がって跡が残った状態」を指す広島弁である。

 なお、二度目の有意な作品内小説の引用(⦅ ⦆で囲まれてある)の後は、底本では改ページとなっており、一ページ行数を数えると、行空けは施されていないことが判る。しかし、第一回目の引用の後は、同じように底本で改ページでありながら、行数を数えると、間違いなく一行空けが施されてある。一番良いのは、初出誌を確認することであるが、前に述べた通りで、私にはそれが出来ない。そこで――取り敢えず――先例に徴して――一行空けを施した。しかし、これは本篇の中に現われる〈ある現象〉との関連性が疑われ、或いは、原稿でも初出でも行空けは施されていないのかも知れない。これについては最後の最後に別に注することとした。]

 

 望鄕

 

 靜かな朝であつた。春はまだ淺く、日曜日の朝であつた。――それを彼は部屋に坐つてひとり意識してゐた。ずつと、むかうの方に、しかし、ただならぬものがある。そこにも、朝の光は降りそそぐであらうか。もの音はきこえるであらうか。その老いたる胸にはどんな感慨がたぎつことだらうか。

 ――叔父の面影を描かうにも、あまりに隔たるものが重なつてゐた。しかし、たしかに叔父は敵國の收容所で、身に降りかかるものを峻拒するが如く、毅然とした姿でゐる。さうして、大きな運命に身を委ね、自らの胸に暗淚を抑へてゐるにちがひない。不思議と彼には叔父の感情が解るやうな氣がした。さつき、何氣なく朝刊の抑留邦人の氏名を見てゐると□□□□といふ活字が彼の目に大きく觸れた。やはり、さうであつたのか、と彼は感慨にゆらぐ心を、じつと視凝めるのであつた。

 それにしても、叔父は今、幾歳になつたのだらうか……と彼は自分の齡をまづ顧みねばならなかつた。彼自身も今はもう若いといふ齡ではなかつた。……ずつと前から、彼は幼年時代の記憶をもとにして、短篇を書いてゐた。明治末の鄕里の景色をくどいまでに描寫することに、何か不思議な情熱を覺えるのであつたが、容易に筆ははかどらず、まだ一册の本にもならなかつた。しかし、少し前までは、彼はその本が出來上つたなら、一册はアメリカの叔父に送るつもりでゐた。二度ほど歸國したことのある叔父は、その度に鄕里の街を貪るやうに步き𢌞つてゐた。叔父なら、――ごたごたした過去の描寫も喜んでくれさうに思へた。

 

⦅簿記の棒を弄つてゐた叔父が、突然、机の上の戸棚へ意氣込んで掌を觸れた。秋夫はその動作を待ち兼ねてゐたのだ。しかし叔父は今ランプを引寄せると、ゆつくり戸棚の中を搜してゐる。叔父はなかなか見つけ出さないので、秋夫は少し心配になる。「あ、さうだつた」叔父は腰掛から立上つて、机の橫の抽匣を開いた。「ほら、どうだ」と、叔父は一枚の大きな紙を秋夫の前に突附けた。すると、秋夫の眼はそれに吸ひ着けられたまま動かない。そこには、赤・黃・紫・綠・何十種類の切手が縱に橫に斜に重なり合つて犇いてゐるのだ。秋夫はわくわくして眺め入つた。

「皆に見せてやらう」と、叔父は秋夫の手から紙片を取上げて、應接間の方へ行く。そこには大きな火鉢を圍んで、父や姉や兄や店員達の顏があつた。今、皆の目は一勢にその紙に集中されてゐる。――秋夫は叔父が前から舊い手紙の封筒に貼られた切手を鋏で捩取つて蒐めてゐるのを知つてゐた。消印のところは巧く重ね合せて隱し、大きな紙に貼り附けてみるのだと叔父は云つた。秋夫はそれが出來上る日を待ちつづけた。そして、今、立派に出來上つたそれは、てつきり自分が貰へるものだと思ひ込んでゐた。しかし、叔父は人に見せびらかすばかりで一向に呉れさうな氣配がない。「呉れよ」と兄の春彦は叔父の方へ手を伸した。「呉れよ」と秋夫も叔父に迫つた。ところが叔父はそれを高々と頭の上に翳して、片手を振つた。「ただではやれない、五拾錢、五拾錢でなら讓らう」秋夫は茫然として、叔父の姿を見上げた。すると、彼の側にゐた店員が蟇口を開けて、銀貨を一枚取出した⦆。

 

 彼の未完結の作品の一節にこんなところがある。彼は五拾錢銀貨を摘み出した店員が誰であつたかも、その紙片を貰へたものであつたかも、そのあたりの記憶はぼやけてゐるのであつたが、ただ、叔父の意氣込んで、子供をからかふ時の姿がはつきり浮ぶのだつた。

 叔父が父の店へ手傳に來るやうになつたのは、一年志願の兵役を濟してからであつたが、秋夫の記憶にも、軍服を着た叔父が、庭の飛石傳ひに、緣側の方へやつて來る姿が仄かに殘つてゐる。幼い彼は緣側で叔父にきつく抱き上げられたやうな氣がする。さういふ時も、叔父は何か意氣込んで、子供の氣持を高く引上げようとするやうだつた。

 しかし、それ以前の叔父の姿となると、古い寫眞の記憶と母からきいた話によるほかはない。商業學校の卒業紀念に撮つたらしいその寫眞は、細面のすつきりした靑年の姿であるが、右の頤のところに小さな絆創膏が貼つてある。叔父は頤のところにきつぽがあるのを氣にして、いつも絆創膏を粘つてゐたといふ。そんなお洒落ではあつたが、あんまり色が白いため學校で揶揄されるのを口惜しがつて、何時も物乾臺に登つて、天日で皮膚を焦がさうとした。母はよくこんな話を繰返した。彼はかすかにカオールの匂ひを思ひ出した。若い日の叔父が常に愛用してゐた藥である。

 

⦅その日――秋夫は兄の春彦と一緖に叔父と戲れてゐた。叔父は白いシヤツをまくり上げて、拳固を振𢌞したり、草履で廊下を踏み鳴して、二人を追拂つた。逃げては進み、逃げては進みしてゐるうちに、秋夫も春彦ももう無我夢中であつた。

「惡い子供だな」と、ふと思ひがけぬところから叔父の尖つた聲がした。稻妻のやうに物尺が閃いて來た。わあ! と二人は緣側を轉ぶやうにして逃げて行つた。避難所まで來ると、秋夫は息が切れて、へとへとであつた。背後にはまだ眞赤な興奮があつて、暫く秋夫と春彦は棕櫚の葉蔭に弄つてゐた。「ようし、あれを歌つてやらう」兄の春彦が棕櫚の葉を弄りながら云つた。「いいか、靜かに、そろつと、知らない顏して行くのだぞ」

 暫くして二人はそろそろ店の方へ引返した。見ると、叔父はもういつもの顏附で椅子に腰掛けてゐた。二人は默つて、叔父の近くまで進んだ。それから春彦が合圖した。忽ち二人は琵琶を彈く手眞似で聲をはりあげて歌つた。

  屋島と北里 どちらがお好き ビ ビン ビン ビン ビン

 叔父はものをも云はず椅子から立上つた。柱にかけてある帶に叔父の手が觸れた瞬間、ガチヤリと異樣な音響がした。次いて硝子の破片がベリベリと崩れ落ちた。箒は商品棚の硝子戸に大穴を穿つてゐた。もの音を聞いて、父がやつて來た。叔父は奮然と無言のまま立つてゐる。

「一體どうしたのだね」父は訊ねた。

「どうしたと云つたつて、あんまり子供が腹立てさすから……」と、叔父の聲はひきつつてゐる。

「子供を相手にそれはあんまり亂暴ぢやないか」

 父は靜かにたしなめた。突然、叔父はワーツと大聲で泣き出した。秋夫は大人がこんなに號泣するところをまだ見たことがなかつた。その泣聲は何ものかと抗爭するやうにひしひしと續いて行つた。

「出て行きます、出て行きます、これを機會に僕はどうしてもアメリカへ行くのです」

 叔父は兩掌で顏を押へながら、頭を持上げては、また泣いた。⦆

 

 このことがあつてからすぐ、叔父の姿は店から見えなくなつた。コナゴナに碎かれたガラスはやがて新しいのが張りかへられた。店の前の往來を人が行交ふ夕暮、西の空に雲が其赤に燃えてゐた。秋夫はアメリカといふ方向も知らなかつたし、叔父がどうなつたかも知らなかつた。彼が小學校へ入つた頃、叔父はアメリカにゐるといふことを母から聞かされた。

 秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)五月の日曜日の朝彼が緣側に腰かけてゐると、ステツキを小脇に抱へた叔父の姿が庭の方から現れた。叔父は緣側のところに立つて家のうちを眺めてゐたが、靴を脱ぐと同時に、「春彦はゐないか、春彦は」と、つかつか奧の方へ上つて行つた。「何、二階? 二階にゐるのか」ともう叔父は忙しさうに階段の方へ𢌞つた。恰度、聲をきいて兄は階段から降りて來るところであつた。兄と叔父とは階段のところで出逢つた。と思ふと、叔父は兄の手を摑んだ。「やあ、春彦だな、春彦だな、憶えてるか、憶えてゐるか」中學四年の兄が羞みながら頷くと、「さうか。憶えてるかなあ」と叔父は懷しさうに兄の手を搖するのであつた。それからまた忙しさうに裏庭の方へ叔父は𢌞つた。そこには虞美人草や罌粟が一めんに咲いてゐた。「うん、變つてゐないな」と、叔父は滿足さうにあたりを眺めた。しかし、一年あまり前に父はもう死んでゐたし、家のうちも氣持も秋夫にはもう變つてゐたやうだつた。

 秋夫は叔父が兄を把へて、「憶えてるか、憶えてるか」と訊ねた時、幼い日の出來事がすぐに思ひ出された。あの日どうして、叔父はあんなに怒つたのか、叔父を怒らした⦅屋島と北里……⦆といふ歌の意味もその頃は分つてゐなかつたのだつた。そこで、――ずつと後のことであるが――彼ほ兄にその歌の由來を訊ねてみた。意外にも、兄はあの歌は大きな姉が作つて子供達に歌はせてゐたのだと云ふ。琵琶を彈く手眞似は、當時流行の筑前琵琶を叔父が習つてゐたためらしい。そのうち、屋島と云ふ姓がふと彼の記憶の底から思ひ出された。小學六年の時、學藝會に出て以來有名になつた女の子に屋島といふのがある。その屋島といふ家が、嘗て叔父の住んでゐた家と同じ町内にあることを知つたのは、秋夫が父の葬儀の囘禮に𢌞つた折のことであつた。彼は何となしに、その女の子に美しい姉があつて、若い日の叔父の胸中に存在してゐたやうに勝手な想像をするのであつた。

 半年あまり滯在の後、叔父は新妻を伴つて再び渡米した。毛皮の上に並んで立つた叔父とその花嫁の寫眞が暫く皆の目にはもの珍しがられた。叔父の二度目の歸朝は亡妻の遺骨を持つて、その時から九年後のことになる。

 

 ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである。アメリカから悔狀が來てゐるので返事を書いてくれと彼は母から賴まれた。その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた。彼は何氣なく母の依賴に應じたが、その上質の紙に深く喰ひ込むやうな勢で書込まれてゐる字句を讀んで行くうちに、彼ははたと困惑を感じた。

 それは通り一遍の悔狀ではなかつた。嫁いでから死ぬる迄あまり惠まれなかつた姉への追憶と哀悼に滿ち、同時に人生の激浪を乘切らうとする者の激しい感慨の籠つた、あまりにもさまざまの心情を吐露した告白のやうなものであつた。さうして、最後に自作の短歌が一首添へてあつた。

 

 叔父が二度目に歸鄕したのは、その手紙から二三年後のことで、妻の骨を納めるためにはるばる歸つて來たのだつた。妻を喪つて叔父は、しかし、相變らずキビキビした動作で、快活さうに見えた。小さな子供をとらへては、 Bad boy! と呼び、口笛を吹いて、大股で步き𢌞つた。男盛りの、仕事もどうやら快調とある、明るい精力に溢れた顏であつた。それにひきかへて秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた。

 叔父は再婚の話も肯かず、渡米を急いだ。最後に家に暇乞に來た時、叔父はわざわざ二階の方にゐる秋夫のところへもやつて來た。

「やあ、それではこれで當分お別れだが」さう云つて、叔父は彼に握手を求めた。

「君の氣持もよく僕には分るし、君には同情してゐるのだよ、いいかい」

 はじめ叔父が何のことを云つてゐるのかよく解らなかつたが、秋夫は默つて頷いた。

「いいかい、しかしだね、とにかく勉强し給へ、何でもかんでも頑張らなきやいかん」さう云つて叔父は頻りに彼を激勵するのであつた。

 

 アメリカに渡つた叔父は間もなく、秋夫のところに時折雜誌を送つてくれた。MJBのコーヒーやサンメイドの乾葡萄も家の方へ送られてゐた。

 しかし、それから程なく、彼は母から叔父の身の上に生じた大きな災難を聞かされた。歸朝の間留守にされてゐた商舖は叔父の友人に依つて經營されてゐたが、その男は叔父の名義を利用していろんな無謀を企て、これが發覺して遂に起訴されたといふのである。叔父を知るほどの人はみんな同情しても、責任上、刑務所へ入らねばならなくなるだらうといふことであつた。それから後は叔父の消息も殆ど彼の耳にははいらなかつた。彼は叔父が相變らず人生の激浪と鬪つてゐるもののやうに想像してゐた。

 

 彼は叔父のことを書いてみようと思ひながら、それもまだ果さなかつた。叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた。ところが、母の七囘忌でこんど歸鄕してみると、こゝで彼は叔父に關する耳よりなことをきかされた。一人の叔母が親戚の家々を𢌞つては、「定次郞はもう近いうちに歸つて來ます」と頻りに力説してゐるのである。狂信家の叔母は何の靈感に打たれたものか、「あれが歸つて來たら、住宅にも困るから今のうち早く何とか借家をみつけてやらなきやいけません」と、急き立てる。叔父はまだ杳として何の消息もないのに、この叔母は骨肉との再會をまぢかに信じて疑はないのであつた。

 

[やぶちゃん注:・「峻拒」(しゆんきよ(しゅんきょ))は「きっぱりと拒むこと・厳しい態度で断ること」の意。

・「暗淚」(あんるい)は「人知れず流す涙」のこと。

・「簿記の棒」「簿記棒」「丸定規」或いは「ルーラー(Ruler)」と呼ぶ、記帳の際に罫線を引くのに用いた円筒形の特殊な棒。「一橋大学附属図書館」公式サイト内の特別展「明治初期簿記導入史と商法講習所」にある「簿記棒」(写真有り)によれば、使用し易い標準的なものは、直径一センチメートル、長さ十五センチメートルで、材質は樫(カシ)等のような『木質堅靱にして密に』、『且つ』、『反りの生ぜざるを良しと』し、その『使用上』より『重きを可とするが故に』、『材料も成るべく重きものを撰ぶと同時に』、『木材の中心に鉛を入れ』、『目方を付するが如き手段をとることあり』とある。私自身、このページで初めて現物を見た。

・「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

・「抽匣」「ひきだし」。

・「カオール」現在も東京都江東区毛利に本社を置く化粧品・医薬部外品の製造・販売を行っている「オリヂナル」株式会社が、明治三二(一八九九)年に発売を開始した口中香錠の商品名(現在も販売されている)。これは知られた「森下仁丹」の「仁丹」が発売される六年ほど前の発売である。

・「避難所」比喩。普段、何かがあった時に決まって兄治彦と弟秋夫が逃げる場所の意であろう。

・「屋島と北里」「平家物語」の「屋島の戦い」の地名に、叔父の知っていたその「屋島」という女性を掛けたもので、「北里」もやはり叔父のそうした知人女性の姓であるぐらいの推理しか私には働かぬ。「北里」という固有名詞は私の知る限りでは、「平家物語」には出ないように思う。

・「秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)」「中學四年の兄」「一年あまり前に父はもう死んでゐた」第一次世界大戦が終わったのは大正七(一九一八)年十一月十一日で、この翌年である大正八年、原民喜(明治三八(一九〇五)年生)は満十四歳で、事実、この年の四月に広島高等師範学校付属中学校に入学しているから一致する。冒頭の注で示した彼の兄の三男信嗣(明治三二(一八九九)年生)は当時二十、四男守夫(明治三五(一九〇二)生)は十七で中学四年で、これによって作品内小説の「治彦」が確かにこの守夫をモデルしていることが確定される。彼らの父信吉は実際には大正六(一九一七)年二月に胃癌のために逝去しているから、一年のズレはあるけれども、ほぼ事実に即していることが明確に見てとれるのである。

・「筑前琵琶」盲目の琵琶法師の系譜をルーツとする語りものの一ジャンル。参照したウィキの「筑前琵琶」によれば、『日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。筑前琵琶は、それに対し、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立したものであり』、『近代琵琶楽の第一号にあたる』。『近代琵琶楽としての筑前琵琶の成立にあたっては、福岡藩藩士の娘であった吉田竹子の活躍が大きい。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している』。『筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風が全体的におだやかであり、楽器、撥ともやや小ぶりである。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べて軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。薩摩琵琶では歌(語り)と楽器は交互に奏されるが、筑前琵琶の音楽には三味線音楽の要素が取り入れられており、歌いながら琵琶の伴奏を入れる部分がある。著名な曲としては「湖水渡」「道灌」「義士の本懐」「敦盛」「本能寺」「石堂丸」などがある。筑前琵琶の種類は四絃と、四絃より音域をより豊かにする為に初代橘旭翁とその実子である橘旭宗一世によって考案された五絃があり、五絃の方が全体にやや大きい。撥も五絃用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。この他、高音用の「小絃」、低音用の「大絃」も作られたが、一般的に普及はしていない』。『筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)(本名:橘智定(たちばなちてい)が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出された。琵琶奏者の鶴崎賢定(つるさきけんじょう)や吉田竹子がこの新しい琵琶音楽を広めるのに一役買った』。明治二九(一八九六)年、『橘旭翁は東京へ進出し』、『演奏活動を開始して注目を浴びた。そして雅号として「旭翁」と号し、筑前琵琶 橘流を創始、明治天皇の前で御前演奏をするなど急速に全国に広まったり、人気を評した。橘流は創始者である初代橘旭翁の没後、「橘会」と「旭会」の』二『派に分かれて現在に至っている。また吉田竹子の門下から高峰筑風(高峰三枝子の父)が出て一世を風靡したが、後継者がなく』、『その芸風は途絶えた』。『筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。旧福岡市内には多い時で』五十『人もの琵琶の師匠がいたといわれる』。『また、一時期は花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという』とある。

・「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」原民喜は大正一三(一九二四)年四月に慶応義塾大学文学部予科に入学している。「その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた」とあるが、民喜の長姉操は明治二四(一八九一)年生まれで、この大正十三年に亡くなっており、ここでも事実と一致していることが判る

・「悔狀」「くやみじやう(くやみじょう)」。

・「肯かず」「きかず」。うけがわず。承知せず。

・「秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた」前の「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」を民喜の長姉操の逝去の翌年、大正一四(一九二五)年ととると、「二三年後」というのは昭和四(一九二九)年か五年となり、民喜は慶應義塾大学英文科一、二年となり、当時の民喜は「日本赤色救援会」に参加し、昭和五年十二月下旬頃には、広島地区救援オルグとなったりしている(昭和六年には組織の衰弱と崩壊につれて活動から離れた。ここは底本全集の第Ⅲ巻の年譜に拠った)。

・「MJBのコーヒー」現在も続く、一八八一年創業のアメリカ合衆国のコーヒー・ブランド会社。公式サイト日本語)歴史をリンクさせておく。

・「サンメイドの乾葡萄」Sun-Maid は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト日本語)沿革をリンクさせておく。

・「母の七囘忌」原民喜の母ムメは明治七(一八七四)年生まれで、明治二三(一八九〇)年に信吉と結婚、昭和十一年九月に尿毒症で亡くなっている。その七回忌であるから昭和一七(一九四二)年九月となる。本作の発表(昭和一八(一九四二)年五月)の八ヶ月前となる。冒頭注に出した在米邦人抑留の記事は昭和十八年四月のものであるが、彼らはそれ以前から抑留されていたわけであり、昭和十七年春ぐらいに邦人抑留の新聞報道があってもなんらおかしくなく、「叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた」というのも特におかしいとは思われない。

[やぶちゃん最終注:最後まで読まれた方は判ると思うが、本篇に作中内小説の主人公として出る「秋夫」というのは、言わずもがな、本篇を執筆している主人公がモデルなのであるのだが、二度目の作中内小説の引用が終わった後の個所以降の本篇の後半では、この区別は実は作品の本文と融解して一体化してしまっているのである。しかし、それは殆んど違和感を感じさせないと言ってよい。私はこれは原民喜の確信犯の仕儀なのだと思う私が冒頭注の最後でたかが行空けの有無を意味深長に記したのは、その確信犯を匂わせるために、民喜はわざと行空けをしなかったのかも知れないという思いがあるからでなのであった。今のところ、『三田文学』の画像を見ることの出来る雲上のアカデミストの研究者にしか、その真相は⦅藪の中⦆ということになる。何方か、ご確認あられたい。そうして、こっそり私に教えて呉れると有り難い。その時は行空けがないことだけをここに追加補注して、私は私の⦅在野の一分(いちぶん)⦆に於いて、電子テクストはこのままとする積りである。

 ともかくも――上手いぜ、民喜!――]

原民喜 淡章 《恣意的正字化版》

  

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データと、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までのカテゴリ「原民喜のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。なお、私が既に同カテゴリで電子化した、初出誌未詳の、昭和四一(一九六六)年芳賀書店版全集第二巻に所収された「淡章」群岐阜以下の九篇。私のブログでは分割掲載した)とは同名異作であるので注意されたい。

 簡単に語注を附しておく。

 「榎」の主人公「千子」は個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。

 「藏」の「躊躇ふ」は「ためらふ」。「猿の腰掛」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae の漢方薬や民間薬とし用いられるそれ。

 「五位鷺」の「擘く」は「つんざく」。「對つて」は「むかつて」。

 「五月幟」の「罌粟」は「けし」。本邦では通常は双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum を指す。「窄んで」は「つぼんで」或いは「すぼんで」。私は後者で読むが孰れでも。]

 

 

  

 

 誰だかよく解らないが、女學校の友達と一緖に千子は日の暮れかかつた海岸を步いてゐた。海水浴の疲れが路の上にまで落ちてゐるやうな時刻で、うつとりと頭は惱しくなるのだつた。路は侘しい田舍の眺めを連らね、それも刻々、薄闇に沒して行くのだつた。ふと、千子は甘く啜泣くやうに呼吸をした。すると、幼い頃のやはり、かうした時刻の一つの切ない感覺が憶ひ出されるやうだつた。

 見ると、路の曲り角に大きな榎が聳えてゐた。根元の方はもう薄暗くぼやけてゐたが、くねくねと枝葉を連らねた榎の方にはまだ不思議に美しい色彩が漾つてゐた。たしか、あの邊には藁屋根の駄菓子を賣る店が、ずつと昔からあつたやうに想へた。

 やがて、千子がその榎の側まで來た時である。足は自然に立留まつた。榎の根元には、大きな、黑い、毛の房房した動物が繫いであつた。千子はその何とも知れない動物に氣づいた時から、怖さはずんずん增して行つたが、動物の方では尊大に蹲つた儘、人の恐れを弄んでゐるやうであつた。怖さはもうどうにもならなくなつた。千子はとり縋るやうに友達の方を顧みた。

 ところが、伴侶の顏は吃と變つてゐた。突然、懷中電燈を點したかと思ふと、友達はすつすつと走りだした。懷中電燈の明りだけが向ふの闇にすつすつと走つて行く。そしてそれは眞直くこちらへ迫つて來るやうであつた。千子はパタパタひとりで逃げ惑つた。路は眞暗でどこをどう逃げてゐるのかわからなくなつた。そのうちに千子の足が叢に引懸ると、路傍に斃れてゐた死人の手がぐいとその足を摑んでしまつた。

 

  土藏

 

 夏の日盛りの庭を過ぎて、突當りに土藏がある。つゆは吸ひ込まれるやうに土藏の中に這入つて行くと、蹠に冷たい草履を穿いて急な階段を昇つて行つた。眼の霞むやうになつてからは、心の呆ける時が多かつたが、――慣れた階段を昇りつめると、手探りで窓を開いた。すると、飛込んで來る風が、梁に吊された燈籠の房をさらさらと搖るがし、小さな窓からは油照りの甍に夾竹桃の紅がはかなく見えた。

 つゆは錆びた鐵の引手の附いた簞笥の前に行つて、暫く蹲つてゐた。微かに睡氣をそそるやうな空氣の中に蹲つてゐると汗が襟首にじっとり滲んだが、つゆは何を探しにここにやつて來たのかもう忘れてゐた。それは針のめどを求めて躊躇ふ糸のさきに心がとろけて行くやうに快い瞬間でもあつた。

 いつの間にか、つゆは簞笥の上にある黑塗の函を抱へ降すと、その中に一杯詰つてゐる寫眞を取出してゐた。つゆは一枚一枚眼の近くへ寫眞を持上げて眺めた。だが、その繪は弱い視力のやうにひどく色褪せてゐた。ただ、乾燥した挨の淡い匂ひがつゆを闇の手探りへ導いて行くやうであつた。

 つゆは立上つて、薄闇の中をもう一つの窓の方へそろそろと步いて行つた。大きな長持の上にアイスクリームを造る道具があつた。嘗てつゆの亡夫が都會から求めたものである。白木の棚の上には、亡夫が愛用してゐた小道具の類が朧な闇に並べてあつた。鶴の恰好をした瓢簞、蜂の彫刻のある煙草入れ、籠の中にとり蒐められた猿の腰掛、――つゆはその側を通りながら、それらの存在を疼くやうに感じた。

 漸く、小窓の壁につゆの手は屆いてゐた。鐵の引手を把んで、つゆは重みのある窓をぐいとこちらへ引いた。すると、淸々しい朝の光線とともに、三十年前の異樣な光景が轟々と展開された。今、向うの靑空の下に白い大きな土藏が――これははじめてこの土藏が出來た時のことだつた――萬力の力によつて、見る見る方向を變へて行くのであつた。つゆは茫然として、足許がぐるぐる囘轉して行くやうであつた。

 

  五位鷺

 

 雄二はキヤツと叫ぶと、その聲が自分の耳まで擘くやうに想へた。その聲が五位鷺に似てゐるのだつた。キヤツと叫ぶ時、咽喉の奧から何か飛出すやうだ。そして、時々、どう云ふ譯か突然叫びたくなるのだつた。

 五位鷺は、晝間でもそつと池に降りて來て、鯉を攫つた。人の姿を見た時にはもう水の靑ばかりが殘されてゐるのだつた。

 父はランプの下で、謠を復習つた。その聲を聞いてゐると、雄二はとろとろと睡むたくなり、妖しく瞬く火影のむかうに不圖もの凄い翳を感じた。さう云ふ時、屋根の上を五位鷺は叫んで通つた。

 父は池に網を張つて、五位鷺を獲る工夫をした。ふと、雄二は父が五位鷺ではないかとおもつた。鞍馬天狗の話を聞くと、その天狗も父ではないかとおもへた。月の冴えた夜の庭から雄二がなにものかに攫はれてゆく夢をみたのはその頃のことだ。

 

 三十年後のことである。ある宵、彼は窓の向うに出た月を見てゐた。松の枝に懸つて、細く白い橫雲の下に、晚秋の月は冴えるとも冴え亙つてゐた。見てゐるうちに、彼はただならぬ興奮を覺えた。松も雲も空も叫んでゐるのだ。彼のゐる陋屋も今は消え失せたやうで、遠く深山のせせらぎの音が聞えた。攫つてゆけ、攫つてゆけ、と彼は月に對つて叫んだ。

 その夜、彼は寢床のなかで、ふと目が覺めた。ひとり耳を澄してゐると、たしかに五位鷺の渡る聲がした。

 

  五月幟

 

 どこかで、娯しさうな子供がひとり進んでゐた。罌粟の花が咲いて、屋根の瓦の上には晝前の靑空が覗いてゐる。靑空は背伸びして、その子供を見つけようとする。すると、子供の方はそつと隱れるので、罌粟の花が笑ひ出す。子供は跳ねだして、罌粟の花を搖すぶる。子供は風だ、微風であつた。

 しかし、もう一人の子供は夜具の中で、ぼんやりと眸を開いてゐた。その眼は生れてからまだ一度も笑つたことのない眼であつた。眼ばかりではない、顏も手足も日蔭の植物のやうに靑白く、寢かされてばかりゐるので、頭は扁平になり、首筋はだらりと枕に沈んでゐた。誰かが彼の名前を呼ぶと、虛ろな表情の儘、微かに「うん」と答へる。それが生れて以來今日までの彼の唯一の言葉であつた。

「松ちやん、松ちやん、松ちやん」

 母親はよく松雄の返事を求めて夢中であつた。しかし、この二三日、松雄は母親の呼聲にも應へなかつた。そして、いつの間にか額に幼い皺が刻まれてゐた。

 

 もう一人の子供は跳ね𢌞つた揚句、ふと、いいものを見つけた。見上げると高い竿の上に大きな鯉幟がさがつてゐた。鯉幟は今、だらりと窄んでゐるのであつた。「よし」と、子供は跳ね上つた。すると、鯉幟はふわりと脹んでゆき、ゆるゆると空を泳いだ。「泳げ、泳げ」と子供は夢中で叫んだ。

 幟の鯉はぐるぐる𢌞つて、松雄の家の高窓の方へ姿を現した。松雄のうつろな眼に、大きな異樣なもの影が映ったのはその時である。彼はかすかに脅えたやうに、そして、かすかに誰かに應へるやうに、「うん」と靜かな聲を洩した。

 

原民喜 もぐらとコスモス / 誕生日

 

[やぶちゃん注:二篇ともに、原民喜自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分)の二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』初出の、原民喜の遺稿童話である。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」を用いた。

 本二篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 

 もぐらとコスモス

 

 コスモスの花が咲き乱れてゐました。赤、白、深紅、自、赤、桃色……花は明るい光に揺らいで、にぎやかに歌でも歌つてゐるやうです。

 暗い土の底で、もぐらの子供がもぐらのお母さんに今こんなことを話してゐました。

「僕、土の上へ出て見たいなあ、ちよつと出てみてはいけないかしら」

「駄目、私たちのからだは太陽の光を見たら一ぺんに駄目になつてしまひます。私たちの眼は生れつき細く弱くできてゐるのです」

「でも、この暗い土の底では、何にも面白いことなんかないもの。それなのに、ほら、このコスモスの白い細い根つこが、何かしきりに近頃たのしさうにしてゐるのは、きつと何か上の方で、それはすばらしいことがあるのだらうと僕思ふのだがなあ」

「あ、あれですか、コスモスに花が咲いたのですよ。夜になるまでお待ちなさい。今夜は月夜です。夜になつたら、お母さんも一寸上の方まで行つてみます。その時、ちよつと覗いてみたらいいでせう」

 もぐらの子供は、夜がくるのをたのしみに待つてゐました。

「お母さん、もう夜でせう」

「まだ、お月さんが山の端に出たばかりです。あれがもつとこの庭の真上に見えてくるまでお待ちなさい」

 しばらくして、お母さんは、もぐらの子供にかう云ひました。

「さあ、私の後にそつとついて、そつと静かについてくるのですよ」

 もぐらの子供はお母さんの後について行きましたが、何だか胸がワクワクするやうでした。

「そら、ここが土の上」

 と、お母さんは囁きました。

 赤、白、深紅、白、赤、桃色……コスモスの花は月の光にはつきりと浮いて見えます。

「わあ」

 もぐらの子供はびつくりしてしまひました。

「綺麗だなあ、綺麗だなあ」

 もぐらの子供は、はじめて見る地上の眺めに、うつとりしてゐました。

 すると、コスモスの花の下を、何か白いものが音もなく、ぴよんと跳ねました。これは月の光に浮かれて、兎小屋から抜け出して、庭さきを飛び廻つてゐる白兎でした。

「あ、また兎が庭の方へ出てしまつたよ」

 と、このとき誰か人間の声がしました。それから足音がこちらに近づいて来ました。すると、もぐらのお母さんは子供を引張つて、ずんずん下の方へ引込んで行きました。

「綺麗だつたなあ。いつでも土の上はあんなに綺麗なのかしら」

 もぐらの子供は土の底で、お母さんにたづねました。

「お月夜だから、あんなに綺麗だつたのですよ」

 お母さんは静かに微笑つてゐました。

 

 

 

 誕生日

 

 雄二の誕生日が近づいて来ました。学校では、恰度その日、遠足があることになつてゐました。いい、お天気だといいがな、と雄二は一週間も前から、その日のことが心配でした。といふのが、この頃、毎日あんまりいいお天気はかりつづいてゐたからです。このまま、ずつとお天気がつづくかしら、と思つて雄二は、校庭の隅のポプラの樹の方を眺めました。青い空に黄金色の葉はくつきりと浮いてゐて、そのポプラの枝の隙間には、澄みきつたものがあります。その隙間からは、遠い遠かなところまで見えて来さうな気がするのでした。

 雄二は自分が産れた日は、どんな、お天気だつたのかしら、としきりに考へてみました。やつぱり、その頃、庭には楓の樹が紅らんでゐて、屋根の上では雀がチチチと啼いてゐたのかしら、さうすると、雀はその時、雄二が産れたことをちやんと知つてゐてくれたやうな気がします。

 雄二は誕生日の前の日に、床屋に行きました。鏡の前には、鉢植の白菊の花が置いてありました。それを見ると、雄二はハッツとしました。何か遠い澄みわたつたものが見えてくるやうでした。

「いい、お天気がつづきますね」

「明日もきつと、お天気でせう」

 大人たちが、こんなことを話合つてゐました。雄二はみんなが、明日のお天気を祈つてゐてくれるやうにおもへたのです。

 いよいよ、遠足の日がやつて来ました。眼がさめると、いい、お天気の朝でした。姉さんは誕生のお祝ひに、紙に包んだ小さなものを雄二に呉れました。あけてみると、チリンチリンといい響のする、小さな鈴でした。雄二はそれを服のポケツトに入れたまま、学校の遠足に出かけて行きました。

 小さな鈴は歩くたびに、雄二のポケツトのなかで、微かな響をたててゐました。遠足の列は街を通り抜け、白い田舎路を歩いて行きました。綺麗な小川や山が見えて来ました。そして、どこまで行つても、青い美しい空がつづいてゐました。

「ほんとに、けふはいい、お天気だなあ」

と、先生も感心したやうに空を見上げて云ひました。雄二たちは小川のほとりで弁当を食べました。雄二が腰を下した切株の側に、ふと一枚の紅葉の葉が空から舞つて降りてきました。雄二はそれを拾ひとると、ポケツトに収めておきました。

 遠足がをはつて、みんなと別れて、ひとり家の方へ戻つて来ると、ポケツトのなかの鈴が急にはつきり聞えるのでした。雄二はその晩、日記帳の間へ、遠足で拾つた美しい紅葉の葉をそつと挿んでおきました。



 

2018/03/13

原民喜 曲者 ―― 六十八回忌の祥月命日に

 

[やぶちゃん注:初出は底本(以下)の「編註」には『世界評論』に初出とあるが、掲載原資料は『未確認』としており、発行年月日も未詳である。底本は芳賀書店版「原民喜全集」第二巻(昭和四一(一九六六)年刊)を元にしている。この初出誌とされる『世界評論』はよく判らないのだが、国立国会図書館の書誌データによれば、東京の世界評論社発行で、昭和二一(一九四六)年二月に創刊しており、昭和二五(一九五〇)年五月に第五巻第四号で休刊していることが判った。因みに、原民喜は昭和二六(一九五一)年三月十三日の午後十一時三十一分、吉祥寺・荻窪間の鉄路に身を横たえて自死した

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「夏の花」の後の「拾遺作品集Ⅱ」のパートに配してある)、以上の書誌データ及び底本の配置から、本作の発表は明らかに敗戦後であることが判るが、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今まで通り、かく処理した。本文中の段落の頭にある『☆』印は底本のママである。

 なお、本篇はその内容から見て、戦前の原民喜の作品のシュールレアリスティクな幻想的雰囲気が、ある意味、濃厚に感じられ、また、作中に「燈火管制」「戰鬪帽」「疎開荷造」と出るから、或いはもしかすると、戦中又は戦後すぐに書かれたもの(特に最終条はその臭いを漂わせてはいる)の可能性がかなりある、と私は秘かに感じてはいる

 本篇を、私は、原民喜の六十八回忌の祥月命日に公開することとする。【二〇一八年三月十三日 藪野直史】

 

 

 曲者

 

☆その男が私の前に坐つて何か話してゐるのだが、私は妙に脇腹のあたりが生溫かくなつて、だんだん視野が呆けてゆくのを覺える。例によつて例の如く、これは相手の術策が働いてゐるのだなと思ふ。私は内心非常に恥しく、まる裸にされて竦んでゐる哀れな女を頭に描いてゐた。そのまる裸の女を前にして、彼は小氣味よさうに笑つてゐるのである。急に私は憎惡がたぎり、石のやうに頑なものが身裡に隱されてゐるのを知る。しかし、眼の前にゐる相手は、相變らず何か喋りつづけてゐる。見ると彼の眼もかすかに淚がうるんでゐる。ところで、漸くこの時になつて私は相手が何を話してゐたかを了解した。ながながと彼が喋りつづけてゐるのは自慢話であつた。

☆わはつと笑つて、その男が面白げに振舞へば振舞ふほど、後に滑り殘される空虛の淵が私を困らせた。その淵にはどうやら彼の祕密が隱されてゐることに私は氣づいてゐたが、そこは彼も見せたくない筈だし、私も見たくない筈であつた。それにしても彼は絶えず私の注意を動搖させておかないといけないのだらうか、まるで狐の振る尻尾のやうに、その攪亂の技巧で以て私を疲勞させた。生暖かいものが疼くに隨つて、その淵に滑り墜ちさうになると、私ははつとして頓馬なことを口にしてゐた。すると、餌ものを覘ふ川獺の眼差がちらりと水槽の硝子の向に閃いてゐるのだつた。

☆私はその男と談話してゐる時、相手があんまり無感覺なので、どうやら心のうちで揉み手をしながら、相手の團子鼻など眺めてゐる。私を喜ばす機智の閃きもなく、私を寛がす感情のほつれも示さず、ただ單にいつもやつて來てはここに坐る退屈な相手だ。どうしたらこの空氣を轉換さすことが出來るかと、私は頻りに氣を揉んでゐるのだが、そんな時きまつて私は私の母親を思ひ出し、すると、私のなかに直かに母親の氣質が目覺め、ついつまらないことを喋つたりするのだ。待つてゐた、とこの時相手はぶつきら棒に私の腦天に痛擊を加へる。すると、私はひどく狼狽しながら、むつとして、何か奇妙に情なくなるのだつた。

☆私はそこの教室へ這入つて行くと、默りこくつて着席するのだが、這入つてゆく時の表情が、もうどうにもならぬ型に固定してしまつたらしい。はじめて、その教室に飛込んだ時、私は私といふ人間がもしかするとほかの人間達との接觸によつて何か新しい變化を生むかと期待してゐたのだが、どうも私といふ人間は何か冷やかな人を寄せつけない空氣を身につけてゐるのか、どんな宿命によつてかうまでギコチない非社交性を背負はされたのか、兎に角ひどく陰氣くさい顏をしてゐる證據に、誰も今では私を相手にしようとしないのである。皆はそつと私を私の席にとり殘しておいてくれるだけである。そこで私は机に俯向いた儘、自分の周圍に流れる空氣に背を向けてゐる。私は目には見えない貝殼で包まれた一つの頑な牡蠣であらうか。すぐそのまはりを流れてゐる靜かな會話や娯しげな笑聲や、つまり友情といふものの溫氣さへ――まるで、ここへはてんで寄りつくことを拒まれてゐるやうに、凝と無性に何か我慢してゐるらしいのである。

☆その男は私の部屋にやつて來て、長い脚を伸して橫になつてゐる。時々、鼻でボコボコといふ大きな息をしたり、あーいと、湯上りのやうな曖昧な欠伸をしてゐる。さうかと思ふと、間の拔けた聲で流行歌を歌ひ出す。私は大きな棒が一本ここに轉がり込んだやうに面喰らひながら、だんだん不機嫌にされる。何時になつたら腰をあげるつもりなのだらうと焦々する。この男と暮してゐたのでは、こちらまで氣持が墮れてしまふし、私は私の時間が浪費されるのをじつと恨みながら、我慢しなきやならないのか。こんな相手は御免だと思ひながら、いつもいつもこんな目に遇はされてゐるので、さうすると、私はもう一生を空費してしまつたもののやうに、茫として、とりかへしのつかぬ思ひに身は痛くなるのだ。そして、今、彼の方を見れば、相手は牛のやうに部屋の隅で假睡してゐるのだつた。

☆その人に久振りに過つた私は、すぐ暇を乞ふつもりでゐたところ、その人はじつに私をうまうまと把へてしまつたのである。日は暮れ燈火管制の街は暗く、歸りを急ぐ心は頻りなのに、「まあもう一寸」とその人はゆるやかなオーバーを着込んだまま娯しさうな顏をしてゐるのである。電車やバスに搖られて、混み合ふ中だから、話もとぎれとぎれしか出來ないのに、さうして、廣い會場に連れて行かれると、ここではなほさら人が騷いでゐて話も碌に出來ないのに、その人はどの人とも巧みに二こと三こと冗談を云ひ合つたり、私が置てけぼりになりさうなのをちやんと心得てゐて一寸側に戾つて來たりする。そして、だらだらと粘強いこの人の親和的な辯舌を聞いてゐると、私は例の曲者を私のうちに意識する。一體この人のどこからああ果てしない糸のあやは流れ出、その綾に私はつつまれてゐるのだらうか。隨分昔からの交際ではあるが、今更ふしぎになつてもくるのだ。「もう遲いから失禮しますよ」と電車の中で私が時計を取出すと、「なあにまだ早いさ」と云つて、その人も懷中時計を出したが、その時計は停つてゐた。「この時計も、古いのだなあ、君も知つてゐるだらう」とその人は時計を見つめながら何か昔のことを喋り出したが、あたりの雜音にかき消されてしまつた。――翌日、私は勤め先でどうも私のものごしに、人に對して親和的な調子が溢れさうになるのを、どうすることもできなかつた。あの人の調子がずるずるとまだ私に働いてゐるのであつた。

☆私はその女を雇つてゐたため、食ひ辛棒の切ない氣持にされてしまつた。はじめ、その若い女が私の家へやつて來た時、眼玉がギロリと光つて暗黑な魂を覗かせてゐたが、居つくにつれて、だんだん手に負へない存在となつた。いつでも唾液を口の中に貯へてゐて、眼は貪欲でギラギラ輝く。臺所の隅で何かゴソゴソやつてゐるかとおもふと、ドタバタと疊を蹈んで表に飛出す。だらりと半分開いた唇から洩れて來る溜息は、いつも烈しい食欲のいきれに滿ちてゐた。そして、何かものを云はうとする時、眼玉をギヨロリとさせて、纏らない觀念を追ふやうに唇をゆがめ、舌足らずの發音で半分ほど文句を云つておき、さて突然烈しい罵倒的表現に移るのであつた。いつもその女は私の氣質を嘲弄するのであつたが、私も相手に生理的嫌惡を抱きつづけた。が、悲しいかなしかも、どうしたことであらう、凡そ、今日世間一般が飢餓狀態に陷つてしまつたお蔭で、私も四六時中空腹に惱まされてゐるのだが、どうかすると、私の眼はあの女の眼のやうにキロリとたべものの方へ光り、私の溜息は食慾のために促され勝ちで、私の魂はあの女のやうに昏迷し、食つても食つても食ひ盡せないものを食ひきらうとするやうに、悲憤の焰を腸に感じるのである。

☆私はその男に賴みごとがあつて行くと、相手は大きな木の箱へ釘を打込んでゐた。ワンピース(?)の作業服を着て戰鬪帽を橫ちよに被り、彼ほもつぱら金槌の音に堪能してゐるらしい。私の言はうとすることなんか、まるで金槌の音で抹殺されるのだし、相手は社長さんでありながら、好んで人夫のやうなことをしてゐながら、人足だ人足だ、今や日本は人足の時代だ、と云はんばかりの權幕で疎開荷造に餘念なく、靑く剃りあげた顎をくるりと𢌞して、こちらを睥んだりする。愈々私はとりつきかねるのだが、何だか忌々しく阿呆らしいので相手をじろじろ眺めてやると、向もこちらを忌々しげに睥み返し、用事がなければさつさと歸れ、と金槌の音を自棄につけ加へるのであつた。

☆私はその男の親切な顏をどういふ風に眺めたらいいのだらうかと、いつも微妙な惱みに惱まされるのだ。柔和な表情はしてゐるが、どこか底知れないものを湛へてゐるし、どうかした拍子に顳顬(こめかみ)に浮かぶギラリとしたものが、やはり、複雜な過去を潛めてをり、さう單純に親切ではあり得ないことを暗示してゐるやうでもある。どうにもならない戰災者の棄鉢で、やたらにその男にものごとを賴みに行けば、その男は萬事快く肯いてくれるのではあるが、それでゐてやはり私は薄暗い翳にうなされてゐるやうだつた。

☆私は家を燒かれ書齋を喪ひ、隨つて外部から侵略されて來る場所を殆ど持てなくなつた。むしろ、今では荷厄介なこの己の存在が、他所樣の安寧を妨げるのを、そつと靜かにおそれてゐるのである。どうしても、他所の家の臺所の片隅で乏しい食事を頒けてもらはねばならぬし、縮こまつて箸をとつてゐる己の姿は自分ながら情ないのである。私は知人から知人の間を乞食のやうな氣持で訪ねて行く。昔ながらの雰圍氣のいささかも失はれてゐないもの靜かな田舍の廣い座敷に泊めてもらつて、冬の朝そこの家の玄關をとぼとぼと立去つてゆく私の後姿には、後光が射してゐるのであつた。後光が?……おお、何といふ痛ましい幻想だらう。しかし、私はその幻想をじつと背後に背負ひながら、この新たなる曲者に對つて面喰つてゐるのであつた。

 
 

2018/03/12

原民喜 鶯

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年四月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、今まで通り、戦前の作品であること、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本篇はネット上では電子化されていないと思われる。

 明日は原民喜の命日である。【二〇一八年三月十二日 藪野直史】]

 

 

 

 

 その友達は私の部屋に這入つて來るなり、机の上にドカンと腰を下した。ポケツトから煙草を出してマツチを擦つた。

 ところが非常にあわてて擦つたものとみえて、マツチ箱に火が移つて、しゆつと燃え上つた。チエ! といまいましさうに舌打して、友達は燃えてゐる箱を窓から道路の方へ捨ててしまつた。

 なほ、何だかいまいましさうな容子で、眉の邊をもずもずさせてゐる。むにやむにや! 今日は大變面白くなくて立腹だぞ! とその顏には書いてある。

 それで、私は何だか濟まないやうな氣持になり、ぐつたり草臥れてしまふ。すると、友達はひよいと私に對つて憐むやうな視線を投げつけると、また何か腹が立つらしく、顏をそむける。それから、また一寸私の顏を睥み、顏をそむけては煙草を一服吸ふ。五六度そんな痙撃的な動作を續けてゐるうちに、自分でもをかしくなつたのか、破顏一笑して机から離れた。それから友達は五六囘部屋の中をぐるぐる𢌞つてゐたが、ひよいと私に對つて「表へ出ようぜ」と云ひ殘すと、どかどかと廊下へ步き出した。

 私は友達が投げつけた鈎のやういな合圖に引懸つて、そのまま彼の後について行く。友達は玄關のところで、二三足の下駄を忌々しさうに蹴散らかすと、道路へ出た。

 何時の間にか外は夜になつてゐて、露次にはさつき友達が投捨てたマツチの箱がまだ美しく燃えてゐた。すると、友達はその側を通りかかつて、非常に怒つて、私の方を振返つた。そして靴のさきをくるくる𢌞しながら、その火を消すと、なほぶつぶつ何か不平さうに呟いて步く。

 その露次には貧相な侘しげな家ばかり並んでゐて、路が凸凹なので、友達はその惡口を云つてゐるらしい。かういふ貧相なところへ私が下宿して不景氣な顏して學問するなんて、以ての外であると云つてゐる。第一、お前なんか、ぐにやぐにやのべらべらの腦味噌しかない、と、その友達は肩でさう云ふことを私に暗示しながら步いてゐる。

 私は次第に情なくなつたが、恰度左手に支那料理屋があるので、其處で一杯のそばでも食べたら、その、べらべらのぐにやぐにやの腦味噌が少しは肥えるかと思へたので友達の肩をそつと叩いた。すると友達は「何!」と振返つて物凄い眼つきで私を睥みつけたが、ふと合點して微笑むと、亂暴に支那料理屋の扉を蹴つて開けた。

 そこには普通の女の三倍もありさうな大女が、ぺつたりと後の壁に凭掛つた儘腰掛けてゐた。大變あてやかな茫とした顏で、時々彼女は思ひ出したやうに小さなあくびをした。すると、透きとほつたあくびの輪がふわふわと浮いて友達の鼻さきに漾つて來る。そのふんわりしたあくびの輪のために友達の氣持も少しは鎭まつたのか、妙に子供らしい顏つきになつた。

 ところが間もなく友達はすぐ隣りのテーブルに鳥籠が置いてあるのに眼をつけた。その烏籠のなかには玩具の鶯がゐて、五錢白銅貨を入れると囀り出す仕掛になつてゐた。友達はポケツトから大きな蟇口を出して、五錢白銅貨を投じたが、鶯は一向に啼かない。で、友達は籠を手許に引寄せて、さかさまに搖すぶつてみたり、橫にしてみたり、不器用な手つきで修繕しようとし出した。どうしてもうまく行かないので、チエ、チエ、と一度に二囘の舌打をしながら一生懸命工夫した。友達の頰は焦れて靑ざめ、眼球は乾いて光り出した。

 そのうちに鶯はホーホと一聲啼いたが、それはまるで彼を調弄つてでもゐるのか、後はもう絶對に續けなかつた。到頭、友達は引込みのつかない程、憤然とした。そして、輪を吹く女と私を交互に睥んで、今にも兩方へ喰つてかからうとした。

 その時、女は靜かに懶さうな顏をして、壁の隅の方を指差した。友達も私も何事かとその方角を眺めると、そこには鉢植ゑの酸漿があつた。奇妙なことに、その眞紅に熟してゐる酸漿の實は時々、枝が自然に土の方へ吸ひ寄せられ酸漿が土に接する度に、じゆつ、じゆつと鳴る。鳴つてはまた上の方へ釣上げられ、暫くするとまた土に近づいて來る。何だかその袋は女の眉のやうに思へて、私には段々氣味惡くなつた。酸漿の上には雨が降つて來て、あたりはまつ暗になり、ただ赤い塊りだけが、じゆつ、じゆつと緩い運動を續けてゐた。

 

2018/01/14

原民喜「眩暈」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十月号『文藝汎論』発表。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「瞠いて」「みひらいて」と訓じていよう。

 「ブラツケー」は不詳であるが、文脈からは貝の方言名と読める。すると、個人サイト「お魚の図鑑 珍魚すくい」ページに、ホラガイ(腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis)の異名として「ブラゲー」(他に「ブラ」「ブラー」「ブラゲー」「ブラヌーン」などもある)を見出せた。これでよいとしたいところだが、気になるのは前に民喜が「法螺貝」を出してしまっていることである。「がうな貝」は一般にヤドカリの異名であるが、ここは貝と見て、小型の巻貝(腹足類)を指すと考えるなら、ここで民喜が「ブラツケー」と言ったものは「法螺貝」に似ているが、違う巻貝、もっと大きな或いはもっと高そうに見える絢爛たる巻貝を指しているかのように私には思われる(但し、本邦産で法螺貝を超える大型種は存在しない)。或いは、「稀れに見る巨大な法螺貝」を特異的に「ブラツケー」と読んでいる野かもしれぬと私は思ったりした。

 「蒟蒻」は「こんにやく(こんにゃく)」。

 「齒朶」は「しだ」。羊歯。

 「見憶」「みおぼえ」。「見覺え」。

 「饂飩」「うどん」。因みに「饂飩のマントを纏ひ」はママである。

 「覗間」「すきま」と訓じておく。

 「在處」「ありか」。

 「凭つたまゝ」「よりかかつたまま(よりかかったまま)」と訓じておく。

 「蔓り」「はびこり」。

 「雞」「にはとり」或いは単に「とり」と訓じているかも知れぬ。「鷄」に同じ。

 「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」。一目散に。

 「鸚哥」「いんこ」。小鳥のインコのこと。

【2018年1月14日 藪野直史】]

 

 

 眩暈

 

 溝の中でくらくら搖れてゐる赤い糸蚯蚓、太陽は泥に吸ひつく蛭の化けもの。

 砂がザラザラ押流され、ザラザラと睡むたい顏が溝の緣で、眼球を瞠いてゐる。

 それは彼であるが、彼ではない。

 砂はザラザラと彼の眼の前を橫切り、今は貨幣であるが、がうな貝、法螺貝、ブラツケー、見たこともない異樣な貨幣で彼の頭は混濁してゆく。

 見よ、數字が雜音とともに、この時、一齊に攻擊して來る。

 夢中で彼は求める。何かを、何ものかを、――たしかに、はつきりしたもののきれつぱしを。

 そして、彼は怪しく不自由な手つきで、空間を探る。

 電車の釣革の如きもの、ベルの如きものが彼の指に在る。その手觸りは遠い母親の乳房に似てゐる。

 と、(誰だ、そんなものを拾ふのは)と耳許で叱聲。

 彼はあわてゝ飛びのく。

 彈の破片が眼を掠め、くらくらと鋪道は蒟蒻と化し、建物が飴のやうにとろける。

 かすかに(明日の天氣豫報を申上げます)明日の、待つて呉れ。とたんに彼は目を白黑させてゐる。

(教へてあげないわよ)と女の聲。まごついてしまつた窓。

 暫くして、白い柱の嘲笑の列。

 

 いくつもいくつも太い眞白な柱は天井へ伸び、その白い柱の前に立留まつた彼は、出口を探さうとしてゐるが、この、きてれつの大ビルヂングは混沌として答へず。

 見上げる天井に水晶の三日月。

 はや足許に蔓草が茂り、蛇を潛めし太古の闇は階段の方を滑つて來る。バサバサと齒朶類は戰ぎ、鈍重な太鼓の音が陰濕と熱氣を沸きたたせば、既に彼は身動もならず悶死の姿で橫臥してゐた。

 やがて、巨龍の顎によつて、彼はカリカリと嚙碎かれてゐる。記憶を絶し、記憶を貫く、今の、昔の、彼の眼底に、ひそかに白象の妙なる姿は現じた。

 と、忽ち、外科醫の鋸が彼を強く威嚇する。不思議な裝置に依つて彼を裁くもの、實驗材料は縮まつて、悲しい啞の眼をしばたたく。その寢臺のまはりを群衆は無關心に通過してゐる。祭日めいた群衆の旗は散じ、彼は身の自由を得てゐる。

 しかし、混沌とした建物の内部にゐることに變りはない。彼は出口を求めて、再び放浪する。

 向に見憶のある噴水の池。

 明るい造花の房を音樂の蜜蜂が𢌞り、ロボットの女は默々と糸を紡いでゐる。そのあたりから、いけない豫想が微かに唸りを放つ。

 忽ち、彼の同僚の一人が裸身に饂飩のマントを纏ひ、池をめがけて突走つて來る。

 その顏は苦業に火照り、裸身は飜つて、池に投じた。くらくらと湯氣に饂飩は崩れ、その男の眼が發狂して彼を睥む。

 發散する湯氣はその言え池を消し、その男を消し、疲勞を重加された彼のみが、いつしか昇降機によつて運ばれてゐる。密林や暗雲が鐵格子扉の覗間に、時折、靑い紋條をもつ宇宙の破片も閃き、遂に眞暗な天蓋に達したと思ふ時、昇降機ははや針金の如き細き一本の煙突にすぎなかつた。

 彼の重みによつて、煙突はもろくも傾きはじめる。全身全靈の祈願と戰慄は彼を乘せた細い煙突の割目に集中され、やがて呻吟とともに身は放り落された。

 

 その足は床に達せず、いつまでもコンクリートの廊下の上を腹匍ふやうに飛んでゐる。この苦しい低空飛行がはじまるとともに、彼は飢えを覺え、食堂の在處を探してゐるのだが、群衆の往交ふ廊下は侘しい障害物である。

 ふと、この混迷の中を彼の幼友達が同じ恰好で飛んでゐるのを見つけ、彼は微かに安堵を覺えた。だが、彼の蹠(あしうら)に轉がる空氣の球をうまく操りながら進むには、妖しい一つの氣合が保たれねばならぬ。

 苦しい努力に依り、彼はゆるやかにタイルの上を流れ、テーブルの一隅に辿りついた。人々の犇めく空氣が背後で杜絶え彼の眼の中には眞白なテーブル・クロース。眼の前にある銀の匙とカツプに陰々と困憊の影はこもり、それをもし指にて觸れば、忽ち金切聲で感應するであらう。觸ることの豫想の苦惱に悶え疲れ、暗澹と彼は椅子に凭つたまゝ、妖しくゆらぐ空氣を吸ふうち、椅子はひとりでに床を進行してゆく。

 

 椅子のエスカレーターに運ばれて、彼はホールに來てゐる。

 會衆は暗闇の中に茸の如く蔓り、合唱とも囁きともつかぬものが刻々に高まりゆけば、暗黑の舞臺に突如、劍を閃かして一人の老人が舞ふ。雞の冠を頭につけ、眼は瞋恚に燃え、莊嚴な劍にて突差すところから、めらめらと焰が發して、見る間にあたりは火の海と化した。黑烟の渦と噴出する火に追跡されて彼は逸散に遁走する。

 

 曲つた柱。黑焦の階段。鉛の水槽。痙攣する窓枠を拔けて、彼は巨大な梁の上を傳ふ。

 今、凄慘な工事中の建物の橫腹が彼の頭上に聳え、赤黑い錆の鐵材と煉瓦の懸崖が目を眩ます場所にある。

 彼は墜落しさうな足許を怖れて、一心に異常な風景を描く。

 靑葉の中に閃いてゐた鮎。白い美しい網で掬はれた蝶。消えてしまつた幼年の石塊。

 その彼の骨を引裂く大速力の車輪のなかの情景の露が空中に見え隱れして、彼は危い梁の上の匍匐狀態を脱した。

 

 やがて屋上に來た。こゝでは工夫達が身を屈めて、コンクリートの床に鯖を釘で打つけてゐる。

 何のために、そんなことをするのか。困惑がこゝにも落ちてゐるといふのか。

 困惑する彼の眼に、一匹の鯖は近寄り、一本のネクタイと化せば、次いで彼の全視野は雜貨商品の群に依つて滿たされた。

 蜥蜴の靴下。彫刻の馬。鸚哥の女。猫の帽子。苺の指環。金魚の菓子。火打石。

 それらの虹も疲勞の渦で灰色となり、すべては存在しないに等しい。ゆるくゆるく灰色ばかりが彼の眼蓋をすぎてゆき、やがて罫線の麗しい白い紙があり、彼は靜かに氣をとりなほした。

 彼はペンを執つて、事務のつづきを始める。ペンの音が紙の上を空滑りしてゐて、間もなく數字は葡萄の粒々となる。

 すると、いつもの天井の方からするすると一すぢの綱を傳つて、一人の兇漢が彼の背後に近寄る。

 わあつと、呻き聲とともに、彼は兇漢のまはりを泳いでゐる。

 

2018/01/13

原民喜「弟へ」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一九(一九四四)年二月号『三田文學』に発表されたものである。原民喜三十八歳の時の作品。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「弟」は原家七男(民喜は五男。六男六郎は四つで夭折している)の十一年下の敏であろう。

 冒頭前書で「なにしろ中學生相手の僕のことだから」と出るが、原民喜は妻貞恵が昭和一四(一九三九)年九月に発病(糖尿病と結核)しており、小説で食えないので、昭和一七(一九四二)年一月より千葉県立船橋中学校(現在の千葉県船橋市東船橋にある県立船橋高等学校)に英語教師として週三回通勤を始めていた。但し、本篇が発表された翌月には退職している(同年夏頃に朝日映画社嘱託となる。九月、貞恵、逝去)。

 「燕」の「大神宮下の驛」京成電鉄の千葉県船橋市宮本にある「大神宮下(だいじんぐうした)駅」。(グーグル・マップ・データ)。一キロメートルほど西北西に現在の千葉県立船橋高等学校がある。

 「貝殼」の「八千代橋」は大神宮下駅の東直近の海老川に架かる橋。(グーグル・マップ・データ)。

 「牛」の「宮本」は(グーグル・マップ・データ)。「怺へたまま」は「こらへたまま」。堪(こら)えたままで。

 「津田沼」の「菠蔆草」は「はうれんさう(ほうれんそう)」のこと。「生き」は名詞。生きざま。生活のさま。

【2018年1月13日 藪野直史】]

 

 

 弟へ

 

 僕は近頃「無心なるもの」と題して短文をノオトに書溜めてゐる。これは通勤の道すがら、目に觸れた微笑ましいものを、何氣なく書綴つたものにすぎないのだが、それがだんだん溜つてゆくといふことも何となく僕にはたのしいことなのだ。今日はそのうちから、三つ四つ君にお目にかけよう。なにしろ中學生相手の僕のことだから、文章も中學生じみてゐるかもしれないが、まあ笑つて讀んでくれ給へ。

 

 

  

 

 大神宮下の驛では、電車が着くホームの軒に、燕の巢がある。軒とすれすれのところに電車の屋根は停まるのに、燕はあやふく身を飜へして巢に戾る。それにしても、巢の中の仔は電車の雜音でおちおち睡れないであらう。國民學校の生徒を引率した先生が、珍しげに軒の巢を見上げてゐた。あまり天氣は良くないが、平穩な遠足の歸りなのだらう。燕は線路を飛越え、人家の陰へ消えてしまつた。

 

  貝殼

 

 八千代橋の手前の貝殼に埋れたやうな露次は、どこよりも早く夏の光線が訪れる。どの軒下も大概貝殼が積重ねてあり、それは道路の方にも溢れ、奧では盛んに貝を剝いでゐるので、刻々に殖えて行く白い殼で、やがてそこいらは埋沒してしまひさうだ。空の辨當箱を示し、貝を賣つてくれないかと男に尋ねると、あまりいい顏もせず默つて貝を剝いでくれる。それが出來る迄暫く軒下にたたずんでゐると、地面の白い光線がくらくらして、ふと側に子供が立つてゐる。よごれた繪本を展げて、眩しげにこちらを見てゐるのだが、その展げた繪本は南洋の椰子の樹の日の丸の繪で、その中から子供は拔け出して來たやうにもおもへる。

 

  

 

 暑い暑い宮本町の坂。夏の朝、牛はゆつくりゆつくり、このだらだら坂を二つ越えて行く。途中の家畜病院の空地に牛や馬が繋がれてゐるところまでやつて來ると、步いてゐた牛ほもーおと鳴く。繋がれてゐる牛の方は何とも應へない。ある日休暇の兵隊が二三人づれで、繫がれてゐる牛の側に立寄つた。そして一人がそろつと牛の耳を撫でてみた。

 坂を下つて來る牛もつらさうだ。よく見ると牛の鼻のまはりには四五匹の蠅が黑くくつついてゐる。牛はそれをじつと怺へたまま步いてゐるのだ。

 

  

 

 ある朝、坂の下の方から猫の啼聲がだんだん近づいて來た。と思ふうちに後から自轉車がやつて來た。後に函らしい風呂敷包が括り附けてあり、啼聲はその中からするのだ。ところで、自轉車に乘つてゐる人の後姿は、妙に忙しげで、どうも早く片づけてしまひたいといふ風なのだが、哀れな泣聲はなかなか歇まない。自轉車がもう遠ざかつてしまつても、まだその泣聲はまだつづいてゐる。あの坂の向ふは茫々とした畑となつてゐるのだ。

 

  津田沼

 

 上野行に乘替へるため一番線ホームに行くと、そこら一杯に葱・菠蔆草・大根の束をちらかし黑い大きな風呂敷包の山の中に坐り込んで、辨當を披いてゐるもの、襤褸ぎれを綴り合はせて足袋を拵へてゐるもの、女行商人の生きの姿はとりどりであつたが――それも今は既に見られない風景となつた。嘗て、このホームから向のホームを見てゐたら、國民服を着た靑年と若い娘が睦じげに佇んでゐた。その娘の姿は婦人雜誌などのよく出來た繪にありさうな、凛とした姿で、靑空を背景に、並んで立つてゐる男の胸のあたりをたのもしげに見上げてゐるのであつた。

 

  木の葉

 

 烈風が歇んだ野の道を、二三人の子供がパラパラと駈出して來た。背の低い羽織を裏返しに着てゐる、何か興奮してゐると思つたら眼には靑い木の葉をくり拔いて嵌めてゐるのだつた。

 

 

2018/01/12

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 魔女 / 「死と夢」~了

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「魔女」は昭和一三(一九三八)年十月号『文藝汎論』に発表された。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「活人畫」は「くわつじんぐわ(かつじんが)」と読み、布などに描いた背景の前で、扮装した人がポーズをとって、一幅の人物画のように見せる芸能を指す。明治から大正にかけて余興などで行われ、古今東西の名画や歴史上の有名人などが題材とされた。「翳して」は「かざして」と読む。「かなめ垣」(かなめがき)は若葉が紅色を帯びて美しい要黐(かなめもち:バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra)で作った垣根のこと。「簷忍」は「のきしのぶ」と読む。「つりしのぶ」のこと。「黔んだ」は「くろずんだ」と読む。

 なお、本篇には主人公(姉からは「順ちやん」と呼ばれている)の姉が登場するが、因みに原民喜には二人の姉がおり、孰れからも民喜は非常に可愛がられた。長姉の操は十四年上で大正一三(一九二四)年に亡くなっており、次姉のツル(民喜より八つ年上)は大正七(一九一八)年(民喜十三歳)の時に亡くなっている。この二人の思い出が本篇に強く作用していることは間違いない。

 以上を以って原民喜作品群「死と夢」は終わるが、発表年次は順列となっておらず、公開する場合を考えて、原民喜が並べ替えている(ブログ・カテゴリ「原民喜」の公開順を参照)。同作品群十篇を発表年次で並べ替えると

「行列」(昭和一一(一九三六)年九月号『三田文學』)・「幻燈」・「玻璃」・「迷路」・「暗室」・「魔女」・「曠野」・「湖水」・「溺沒」・「冬草」(最後の「溺沒」と「冬草」の二篇は『三田文學』(昭和一四(一九三九)年九月号)への同時発表)

となる。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 魔女

 

 私は姉や姉の友達七八人に連れられて、人喰人種を見に行くのだつた。恰度、夕方のことで街は筒のやうに暗かつた。うまくすると、人喰人種が夕食を食つてゐるところが見せて貰へるかもしれない、と一人の女學生は云つた。昔の女學生は庇髮のやうな髮を結つてゐて、丈が高かつた。そして長い袴を穿いてゐて、氣高い顏をして步いた。私は人喰人種が今夜は何を食ふのかしらと思つた。人喰人種はきつと寒がつて、裸體の上に赤い毛布をくるくる卷いて、宿直の屋の疊に六七人蹲つてゐるやうな氣もした。

 そのうちに石疊の狹い露次へ來ると、旅館が二三軒並んでゐた。姉達は一軒一軒旅館の玄關で、人喰人種は來てゐないかと訊ねて步いた。どうも人喰人種が泊つてゐる宿屋はもつとさきらしかつた。もう一つ裏側にある路へ這入ると、今度はたしかにそれらしい旅館だつた。皆は眞暗な玄關の土間に立つて、一人が聲をかけた。すると眞暗な障子がするりと開いて、婆さんが現れた。「人喰人種が泊つてゐるのはこちらで御座いますか」と一人が訊ねた。婆さんは頷いた。それで私は何だか吻とした。「人喰人種が御飯食べるところ見せて下さいませんか」とまた一人が口をきいた。婆さんは何を思つてか、ぢつと默り込んでしまつた。それで、もう一人が同じことを嘆願した。「駄目です!」急に婆さんは口惜しさうな聲で呶鳴つた。皆はびつくりして、そのまま往來へ飛出した。それからだんだん急ぎ足になつて、とうとう走り出した。

 

 私は門口の處で、石に蹴躓いて膝頭を擦剝いた。膝坊主は火がついたやうにヒリヒリ痛んだ。見ると、膝頭には土がくつついてゐて雲母の破片がキラキラ光つてゐるので、私の眼さきは曇つてチラチラ慄へ出した。家に歸ると、もう辛抱が出來なくて、おいおい泣いた。すると、緣側で活花をしてゐた姉は靜かに鋏を置いて、私の傷を調べ出した。姉は私を疊の上に寢轉がして、「眼を閉ぢてゐなさい」と命令した。私が素直に眼を閉ぢると、姉は私の額の上に何か輕いものを置いた。靑々した木の葉の匂ひがするので、一寸眼を開けてみると、やはり額の上に置かれてゐるのは木の葉らしかつた。「まだ、眼をあけてはいけません」と姉はおごそかに云つた。

 私は眼を閉ぢた儘、どういふことが次に起るのだらうかと、少し面白くなつて來た。暫く何の物音もせず、靑靑した木の葉の匂ひが鼻さきを掠めてゐた。やがて姉がそつと立上る氣配がして、疊の上を靜かに步いて行く跫音がした。姉は簞笥の前で立止まつたらしく、微かに簞笥の環が搖れる音がした。間もなく、すーつと抽匣を拔く音がしたので、成程繃帶を持つて來るのだな、と私は思つた。そこから姉が私の側へ歸つて來るまでには隨分時間がかかつた。とうとう私は、何時、姉が、どういふ風に私の膝頭に槻帶を卷いてくれたのか、わからなかつた。姉はパチパチと植木鋏を使ひながら、「もう眼をあけてもいいよ」と云つた。

 

 私は父の大切にしてゐた萬年筆を踏んで壞してしまつた。生憎、見てゐる人がなかつたので、それが却つていけなかつた。壞れた萬年筆が父親の顏のやうに思へて、もう私は怖くてその方を見ることも出來なかつた。私はびくびくしながら緣側の方へ行つた。すると、何も知らない姉が、「もう、お風呂よ」と云つて、私を捉へた。それから私の帶をほどいて、私を裸にさせた。姉は私に手拭を渡した。それから姉は湯を汲んで、私の背中にざぶざぶ掛けた。

 磨硝子の窓に靑葉を照す陽光が搖れてゐて、風呂場は明るかつたが、私は窓の外に蓑蟲がゐることや、漆喰に黑い苔が生えてゐるのを見ると、何だか地獄に陷ちてゐるやうな氣がした。やがて、姉も頤のあたりまで湯に浸つて、私の顏と姉の顏は對ひ合つた。私は天井を見上げると、太い竹で組んだ天井は煤けて怕さうだつた。その時、私は姉が何か訊ねるやうな眼をしたので、「地獄極樂」と口走つた。すると、姉は一寸呆れたやうな顏をして、私の眼の中を視凝めた。それから姉の眼は、私の惱みの種を見つけて摘み出さうとする眼に變つてゐた。

 

 私は姉に連れられて街を步いてゐた。公會堂で活人畫や何かがあるのを見に行くのだつた。打水をされた路はピカピカ光つて、時々泥が裾の方に跳上つた。どの店舖も日覆を圓く脹らまして、奧の方はひつそりして薄暗かつた。屋敷の塀の續いてゐる日蔭へ來ると、ポプラが風車のやうに葉を飜してゐた。氣持のいい微風が路の角や電柱の橫から吹いて來ることもあつたが、斜上から差して來る陽はかなり蒸暑かつた。姉は白いパラソルを翳して步いてゐた。靑い木蔭へ來ると、パラソルも顏も靑く染められた。

 私は稍ひだるい氣持になり、少しぼんやりして來た。その時、一匹の大きな揚羽蝶がかなめ垣から飛出して來て、姉のパラソルの上を橫切つて消えた。暫くすると、またその揚羽蝶はふわふわと漾つて來て、姉のパラソルのまはりを飛んでゐた。それから間もなく揚羽状の姿は何處かへ見えなくなつたが、私は別に氣にも留めず步いてゐた。ところが、ふと、氣がつくと、姉の白いパラソルには何時の間にか、さつきの揚羽蝶が刺繡にされて、くついてゐるのだつた。私はびつくりして聲を放てなかつた。刺繡の蝶はまだパタパタと片方の翅を動かして、そこから今にも飛出さうとしてゐるのだつた。

 

 私が夏の午後、小學校から歸つてゐる途中のことだつた。電車道を越えると、路は片蔭になつてゐて、靜かな家が並んでゐた。妙に靜かな時刻で、家のうちの時計の振子の音が外でも聞えるのだつた。私はその時、屋根の方から誰かが呼んでゐるやうな氣がした。すると、聲はまた確か「順ちやん」と云つてゐた。見上げると、二階の障子が半分開いて、蔭から姉の顏が覗いてゐた。私は無言のまま暫く立留まつてその家を見た。ベンガラを塗つた格子のある中位の家で、二階の軒には簷忍と風鈴が吊つてあつた。そこへ姉は嫁入してゐたのかしら、と私は久し振りに見る姉の顏が妙に透徹つてゐるやうに思つた。すると、姉は默つて障子の奧へ引込んでしまつた。私はそれから間もなく自分の家へ戾つた。

 ところが、家へ戾ると、私の父は、「今、これから姉さんを停車場へ出迎へに行くのだから、お前も一緒に來い」と急きたてるのだつた。私はカバンを家に置いて、そのまま父の後に從いて出掛けた。急ぐと、太陽が後からギラギラ照りつけて大變暑かつたが、驛へ來ると、そこは風があつて涼しかつた。絽の羽織を着た女の人と、父と私と三人はホームに出た。やがて汽車が着くと、中から姉が出て來た。姉は透徹つた顏をしてゐて大變疲れてゐるやうな容子だつた。それから皆は俥に乘つた。姉の俥が先頭に街を走つた。俥は私の家の方へ行かないで、小學校へ行く路の方へ折れた。そして、さつき私が驚いて見上げた家の前で俥は留まつてしまつた。

 

 私は姉の入院してゐる病院に見舞に行つた。姉はベットに寢た儘、だるさうな容子で暫く私を相手に話してゐたが、枕頭の藥壜を取つて、唇に含んだ。「少し睡いから、これを飮んで睡むらう」さう云つてゐるうちに、もう姉はすやすやと小さな鼾をたてはじめた。私は椅子に腰掛けた儘することもなかつた。窓の外には侘しい病院の庭があつて、常盤木の黔んだ姿が見えるはかりだつた。壁に懸つてゐる額や、小さな人形や植木鉢のほか、目に留まるものもなかつた。白い侘しい時間だつた。

 ふと、ベットの方で姉の起上る氣配がした。見ると、姉は蒲團の上に坐り直つて、頻りに兩手を上の方へ伸しながら、何か綱のやうなものでも把まうとしてゐる恰好だつた。その眼は虛ろに大きく開かれて、何にも見えないのではないかと怪しまれた。姉は同じやうな動作を續けながら、次第に身體の重みを失つてゆくらしかつた。突然、姉は宙を浮上ると、天井の處に姉の身體はあつた。と思ふと、ベツトの下の方で姉の得意げに笑ふ聲がした。それから姉は額の裏や、植木鉢の下や、電球の中に、自在に身を潛めて、暫く飛𢌞つた。その間私は凝と椅子に縛り附けられてゐるやうな氣持だつた。やがて、ベツトの方で姉のうめき聲が聞えた。見ると姉はぐつたり疲れたやうに蒲團の中に埋れてゐた。

 

 私は午睡から覺めて、ぼんやりと玄關のところへ行つた。西の方の空にはまだ雲の峰が出てゐて、表の道路は白つぽく乾いてゐた。さうして往來を通る人も殆んどなかつた。無性に誰か私は人が現れないかと待つた。すると、近所の氷屋のおかみさんがバケツを提げて通つた。あのバケツの中にはけむりの立つ氷を入れてゐるのかと思ふと、一寸をかしくなつた。おかみさんは、しかし、すぐに視野から消えて、往來は再びもとの靜寂にかへつた。

 暫くして、何か異樣な影が路傍に落ちて來た。が、それは今、人力車が通るのだつた。その人力車の上には、つい先日死んだ姉がちやんと乘つてゐて、頻りにこちらの家の方を氣にしてゐる容子だつた。俥はそのまま家の前を通り過ぎた。私は早速下駄を穿いて門口に出てみた。すると、俥の姿はもう見えなく、往來はひつそりとして、砂がギラギラ光つてゐるばかりだつた。

 

 私はサーカスの綱渡りの女に姉がなつてゐるのを見た。姉が死んだ頃から算へると、もう二十年も經つてゐた筈だが、綱渡りをしてゐる女は恰度死んだ姉の齡頃であつた。何時か姉は内證で私の家の前を俥に乘つて通り過ぎたのは、こんな所に身を潛めるためだつたのだらうか、――さう思ふと、今、衆目に晒されてゐる姉の身の上が氣の毒でもあり、腹立たしかつた。子供の時の私は姉に魔術を懸けられて、いろんな不思議な目に遇はされたが、私ももう成長してゐるので、さう簡單な暗示には陷るまいと思つた。しかし、どうもけしからんのはその女が現に死んだ姉なのだから、これは大變いけないことにちがひなかつた。私は樂隊の音につれて、今、綱を渡つて來る姉の眼をぢつと遠方の客席から視凝めてゐると、姉もどうやら私に氣が着いたらしい。しかし、私は腹に力を入れて、猶も視線をはづすまいと努めた。が、どういふものか、私のすぐ眼の前に小さな塵がくるくるくるくる𢌞り出した。樂隊の音が急に高まり、姉の眼に悶絶の色が浮んだと見たのは一瞬であつた。もう客席は總立ちになつて、墜落した姉の樣子を見ようとしてゐた。

 私はその後、負傷した姉を病院に見舞つた。けれども彼女はけげん相に私の顏を眺めてゐるばかりで、一向私に氣がつかないらしかつた。私は先日姉が綱から墜ちた時のことを話して、姉の記憶を甦らさうとした。すると、姉は突然私を睥みつけて、「出て行け、この馬鹿野郎!」と口ぎたなく罵り出した。私は姉が負傷のため精神に異狀を呈したのだらうと察し、そのまま其處を立去つた。

 

 私はその後、暫く姉と邂逅ふこともなかつた。しかし、姉は魔法使だから何時何處に現れて來るかわからないと思つてゐた。そのうちに、私の生活は段々行詰つて來て、私の精神は衰弱して行くばかりだつた。ある蒸暑い夏の深夜、私はふらふらと寢床を匍ひ出すと、緣側の天井の太い橫木に自分の帶を吊した。さうして蹈臺の上に立つてゐると、何處かで車井戸を汲上げてゐる音がした。どうもその物音がをかしいので、暫く耳を傾けてゐると、蹈臺のすぐ下で、ほほほほと笑聲が洩れて來た。

 何時の間にか私は死ぬることを忘れてしまつて、秋になると、高い山へ登つて行つた。山の宿で一泊する積りで、早くから寢間に這入つてゐたが、不思議と目が冴えて來た。何かぷつりと雨戸に突當る音がしたので、私は雨戸を開けてみた。月明を含んだ一めんの霧だつた。恰度、眞上の方の雲が裂けて、どうやら月が現れ始めるところだつた。私は下駄を穿いて外に出てみた。頭をあげて月の方を見てゐると、よはど速い雲脚なのだらう、月の面輪は絶えず光を變へてゆく。そして、氣がつくと、向うの杉の木立の中をちらちら何か眞白なものが跣足で走り𢌞つてゐるのだつた。

 

 私は見知らぬ地方の靑葉の景色をたつぷり眺めて、最後にケーブルカーに乘つて、火口湖があるところまで行つた。火口湖のほとりに小さな四阿があつて、そこで私は腰を下してゐた。氣がついてみると、そんなところに休んでゐるのは私一人であつた。湖水の靜かな波の音と小鳥の聲が聞えるばかりで、あたりはひつそりしてゐた。外輪山は薄い雨雲につつまれてゐて、雨に濡れた靑葉に混つて、躑躅の花も咲いてゐた。そのうちに私が眺めてゐる山も湖水もみんなうつとりと大氣の中に溶けて行き、しまひにはもうなにもなくなつてゆくのかとおもへた。ただ、向うの森の澤山の小鳥の囀りのなかから、一羽だけ注意を惹く鳥の音があつた。その小鳥の聲は何か無意識に私の心を支配しさうだつた。やつぱし居たな、と私は森の方を彈んで苦笑ひした。

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