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カテゴリー「「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注」の37件の記事

2016/08/21

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   飛行(ひぎやう) 人に在り 鳥羽の海 / 宗祇諸國物語~了

    飛行(ひぎやう)在ㇾ人(ひとにあり)鳥羽海(とばのうみ)

 

猿はよく樹にのぼり、水獺(かはうそ)は水にかしこく、鳥の雲に遊び、蟲の池底に集(すだ)く、皆、天性(てんしやう)の得たる所、それすら、人の教ふれば、輪をぬけ、舞をまひ、さまざまの藝を、なす。人は猶、能事の一藝有るべし。一とせ東國行脚の頃、志州(ししう)鳥羽の長汀(ちやうてい)、巡見しける、ある磯部に遊戯(ゆげ)の體(てい)とみえて、侍二十餘人、松陰(まつかげ)の席(せき)を設け、餉(かれいひ)よそひ、魚鳥を鹽梅(あんばい)し、十六、七なる扈從(こじう)の若者にわたす、此の者、とりて波上を靜々(しづしづ)と半町計りゆく。怪しや、化生(けしやう)の所爲(しよゐ)なるべしと、物かげより見居れば、又、沖の方より、四十計りの男、狩衣(かりぎぬ)に太刀帶びたる、此の中にては主人と見えしが、波を步みて則ち水に座して、食器をひかへ、酒飯(しゆはん)を味(あじは)ふ事、常の人の、席(むしろ)に座せる如し。若者、又、配膳給仕する事、波の上の往來(ゆきき)、先のごとくして、後(のち)、主從ともに岸に上る、侍共、皆首(かうべ)をたれ、渇仰(かつがう)す。主人の云く。今日は海上(かいじやう)風なくて波たゝず、無興(ぶきよう)也、歸らんにはしかじ、と、各、率(ひき)ゐて磯づたひに行きぬ。是迄も猶、人のやうには、おもはざりし。爰に此のあたりの蜑(あま)の子とみえて、寄藻(よりも)かく童部(わらはべ)ども、ふたり、みたり、來ぬ。子供よ、今、かゝるふしぎを見しは、と、いへば、夫(そ)れは當所に隱れなき大淀雲藏(おほよどうんざう)殿とて武勇の人、若者は玉繩(たまなは)兎(う)の助、主人におとらず、共に水練の上手と語りしにぞ、扨は人にて有りける、と、しりぬ。月日經て下の野州(やしう)にくだり、千葉常緣(ちばのつねより)に逢ひて、萬の物語りの次で、此の事をいひ出で、人にはかゝる拔群の一藝、あらまほし、と、いへば、常緣、きゝて、祇公もすぐれたる隱し藝はなきか、と、たはふる、予が藝こそ多く侍れ、食を飽迄(あくまで)たうべ、茶をしぶく好み、身、温かに着て、行きたき方に行く、かしかましく口をきく事、此の外、此類ひの藝、數ふるに不ㇾ足(たらず)、と、いへば、笑ひになりて止みぬ。

 

■やぶちゃん注

 末尾に「宗祇諸國物語卷之五大尾」とある。本篇を以って「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注」を終わる。

・「能事の一藝」生涯に於いて必ず成し遂げるべき、修練によって身につけたところの、特別の一つの技能・技術・技芸。

・「長汀(ちやうてい)」長い水際(みぎわ)・海浜。

・「遊戯(ゆげ)」ここは物見遊山の謂い。

・「扈從(こじう)」貴人につき従う家来。

・「半町」凡そ五十四メートル強。

・「渇仰(かつがう)す」心から敬愛して仰ぎ慕って丁重に挨拶しているさまを指す。

・「寄藻(よりも)かく」浜辺に寄せる食用に供する藻を搔き獲っている。

・「大淀雲藏(おほよどうんざう)」不詳。

・「玉繩(たまなは)兎(う)の助」不詳。

・「千葉常緣(ちばのつねより)」宗祇に古今伝授をした東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年?)のこと。ウィキの「東常縁」により引く。『室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される』。『東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる』(下線やぶちゃん)。『室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが』、宝徳二(一四五〇)年、『正式に二条派の尭孝の門弟となる』。康正元(一四五五)年、『関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため』、第八代『将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った』。『更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという』。文明三(一四七一)年、『宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている』(下線やぶちゃん)。『常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある』。宗祇より二十年上。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   千變萬化

    千變萬化

 

越後に居し時、ある夜、雨のつれづれ、野本外記、音づれ、なにはの物がたりし侍り。外記の云く。凡そ此の世に生をうる物、胎、卵、濕、化(け)の四つに限る。此の内に化生(けしやう)は神變にひとしく、形ち、自在を顯す物としれたれば、不思議、却(かへつ)てふしぎならず。胎、卵、濕の三つは、各(おのおの)、定まりあり。其の中にして、希に異形あるこそ、誠にふしぎに侍れ。祇は日本國中、ひろく巡り給へば、をかしき物も珍しき物も見給はん、と、此の國にも、ある百姓の娘に目の一つある者あり、と、いふ。祇、さも有なん、東國にて手の三つ有る男を見し、二つは常のごとく、今ひとつは背に有りて、指のならびは右の手におなじ。又、飛驒(ひだ)の國にて、女の髮の二丈にあまるあり。俗に、髮の長きは毒蛇の相なり、と、いふほどに、己れも、うるさくおもひて、能きほどに切りて捨(すつ)れど、一夜の内に、もとのごとくなるとぞ、上野佐野(かんづけさの)の西には、女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ。あはぢの國には、面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり。食類(しよくるゐ)、よのつね、五人ほど、おほく食ふ、と、いふ。讃岐(さぬき)には手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり。是らは皆、賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り。此の外、よき人の家にもさまざまの不具の人、有り、と聞けど、みぬきはゝかたるにたらず。人間ならぬ者にも、天性(てんしやう)の外(ほか)、生れつくもの、多し。是も讃州(さんしう)に、一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)あり。豐前にては三足の犬を見たり。若狹(わかさ)にては鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなきを釣りたり。阿波(あは)に馬に角(つの)生(お)たるを三疋迄、見たり。其のわたりには珍しともいはず。播磨(はりま)にて猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり。是は生(むま)るゝ時、おや猫、穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし。さもあらんか、又、人畜の外、非情の類ひにも多し。つの國、川尻(かはじり)の北に、椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり。實を取りて外に植うれども、生(お)ひつかず、と、いひし、陸奧(むつ)の仙臺に、赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし。伊豆の北條(ほうでう)にて、七葉(えふ)の松をみたり。五葉三葉は世におほし。是さへ、ことやうなりかし。同所に栢(かや)の菓(このみ)を松に結びし事あり。此の外、少し計りのけぢめどもかぞふるにいとま非ず。

 

■やぶちゃん注

・「野本外記」「怪異(けい)を話(かた)る」で既出の「情報屋」。

・「胎、卵、濕、化(け)の四つ」通常の仏教上の生物学では、これを「四生(ししょう)」と称する。「胎生」と「卵生」は現行の認識とほぼ同じと考えてよいが、「湿生」は湿気から生ずることで、例えば蚊や蛙がこれに相当すると考えられ、「化生(けしょう)」とは、それ自体が持つところの、一般的には人知の及ばない、超自然的な力によって忽然と生ずることを指す。天人や物の怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどをも広汎に指す。

・「目の一つある者あり」実際の奇形とすれば、先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)である。また、民俗社会の「一つ目」の象徴性についてなら、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で『柳田國男「一目小僧その他」』の電子化注を行っているので、そちらも参照されたい。

・「手の三つ有る男」多手(肢)症。実際に奇形(結合胎児ではなく)として存在するが、正常位置にない三本目の腕は意志によって動かすことが困難な場合が多い。

・「二丈」六メートル強。但し、この話は「一夜の内に、もとのごとくなる」で眉唾。

・「上野佐野(かんづけさの)」現在の群馬県高崎市内の旧佐野村地区。

・「女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ」これは轆轤首伝承ではしばしば聴くもので、単に頸部の皺が色素沈着を起こして赤黒くなっているのを、首が外れる(切れて飛翔するタイプの中国系の飛頭盤型)或いは延びる箇所と気味悪がったに過ぎぬ。

・「面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり」先に示した先天性奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)の変形型では絶対にあり得ないことではないが、通常の食物を食し、しかもその量が成人の五人分も食すというのであるから、全くの眉唾である。

・「手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり」四肢欠損児はサリドマイド児や合指(複数指が癒着したもの)など、それほど稀な奇形ではない。逆の多指症もやはり同様である。

・「賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り」「たぐひびと」で結合した語句か。続く部分からも、賤民に特に業(ごう)によって奇形が起こるとする誤った仏教的差別認識が強く臭う。

・「みぬきはゝかたるにたらず」見ぬ際(実見し得ぬ高貴な家柄の内輪の事柄)は語るに足らぬ、空言である。

・「人間ならぬ者」人間以外の外の動物。

・「天性(てんしやう)の外(ほか)」本来の正常な状態以外の形状。

・「一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)」二羽の結合奇形であろうが、これは摂餌もままならず、生育し得ないと思われる。或いは、成鳥になる過程かなった後に、何らかの羽根状及び脚状の腫瘤や腫瘍が形成され、それが別な対の羽、後肢に見えただけかとも思われる。

・「三足の犬」これは普通に奇形として出現する。

・「鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなき」双頭で尾部を持たないブリ(条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata というのであるが、プラナリア(Planaria:動物界扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida に属するウズムシ類。頭部に三つの切れ込みを入れると三つの頭を再生させる)じゃあるまいし。

・「馬に角(つの)生(お)たる」伝説上に角を持った馬の話があり、角質化した皮膚腫瘤が角状になるというのはあり得ぬことではない。しかしここで宗祇が「三疋迄、見たり」というのは、民俗風習か何かで、馬の頭に何かを被せたものを誤認したと見る方が自然である。「其のわたりには珍しともいはず」というのが却ってそれである可能性が深く疑われることを、よく示していると言える。

・「猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり」猫の先天性結合胎児奇形。

・「穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし」「穢血」は胎児に附着した後産の胞衣(えな)などのことであろう。母猫が、それを食べ嘗めて、双生児の小猫を綺麗にしてやらず、そのままに放置していたから、そのままに弾きが横腹の部分で癒着してしまったのだ、とまことしやかに説明しているのである。

・「非情の類ひ」仏教では人間と動物を「有情(うじょう)」とし「山川草木」は非情とする。

・「つの國、川尻(かはじり)の北」摂津国で「川尻」に相当する現在の地名は、大阪府豊能郡豊能町川尻と、同地の十六キロメートル西方の兵庫県宝塚市下佐曽利川尻があるが、前者か。識者の御教授を乞う。

・「椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり」挿し木にすれば普通に生ずる。稀なケースではない。

・「赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし」既にこの文章を記している時制に於いて、もう少しも珍しくなっている、と宗祇本人が述べている通り、これも全く以って今は珍しくも何ともない。

・「伊豆の北條(ほうでう)」現在の伊豆の国市韮山一帯。

・「七葉(えふ)の松」伊豆では確認出来なかったが、調べてみると、新潟県新発田市上館加治山に伝わる伝説に「七葉の松」というのがあった(個人サイト「登山日記  静かな山へ」の「要害山~箱岩峠」を参照されたい)。通常の松は二葉。

・「五葉」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora は和名の通り、五葉。

・「三葉」現に私の家の居間に、二十年も前に京都の寺で拾った三葉の松の葉(千切ったのでは断じてない)が飾ってある。

・「栢(かや)」マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera はご覧の通り、マツ目ではあるが、マツにカヤの実は生えない。たまたま直近にカヤの木があって、枝が混成していたか、或いは松の洞(うろ)などの中にたまたまカヤの種子が落ちて根付き、成長して実をつけたものか。

・「けぢめ」本来は、ある物と他の物との相違・区別の謂いであるが、ここでは、次第に移り変わってゆく対象物の、前と後の相違、の意も含んでいる。

2016/08/20

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   貧福、定まり有り

    貧福有ㇾ定(ひんふくさだまりあり)


Hinphukusadameari

此世の有樣、能きもあしきも前業(ぜんごふ)による事、いふは更なれど、殊に貧福の分ち計り正しきはなし、都京極春日のわたりに、甚六といふ者あり。俄かに家とみ、豐かなれば、世に沙汰する。此の男、工商の家業もなく、士農の勤めもせず、醫(い)にあらず、巫(ぶ)ならず、何によつて德をつき、かく富裕に成りぬらん。疑ふらくは盜賊(たうぞく)の徒(と)か、博奕(ばくえき)の手利(てきゝ)か、と、いふほどに、其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて、一和尚(わじやう)三太夫といふ者に、ひそかに此の不審を問はする。甚六が云く。疑ひはさる事に侍り、我れ、衣服、金銀のゆたかなる事、大事の所作(しよさ)によつて也。他人は申すにおよばず、妻子從者(じうしや)にも深く包みて申さぬ事なれども、各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り。我れ、元來、家、貧しく、身、つたなければ、朝(あした)の煙(けむ)り、たえだえに、夜の肌、衾(ふさま)、薄し、ねらぬまゝに思ひ出づるは、賣買(ばいばい)も、道、うとく、細工も刀(かたな)きかず、さる無骨(ぶこつ)の身は、奉公せんも扶持(ふち)する人なし。強盜は又、さすが、恥しくもおそろし、果報を天に任せ、人の落したらん物を拾はんと思ひ、夜每に小路々々(こうぢこうぢ)をありくほどに、或時は帽子、かづら、紙扇(かみあふぎ)の小分(せうぶん)を、ひろふ折りもあり。宵より朝(あした)迄、一物(もつ)も得ぬ事も、又、多し。ある夜、さる所にて金子三百兩をひらふ。それより、かやうの有德と成り侍る。今に至りて、月夜には、そことなく縱橫(じうわう)に、ありく。されど、身の貧しき時のごとき、更くる迄も、をらず、歸る也、と、かたる、もとより、三太夫は欲心無道の男、うらやましく、扨、珍しき事をもたくみ出で給ふ事よ、と、いひて、甚六は歸しぬ。扨、つくづくと思ふ。此の事、人に披露せば、外(ほか)に此のたぐひの者、出來べし、と暫し包みて、己(おの)れ、又、甚六を眞似て、ひろひに出で、傾城町こそ、金銀もてる若き者共の往來(ゆきゝ)する所なれば、落し置く事もあらめ、と、才覺(さいかく)らしく九條の町に行くに、畑(はた)の細路(ほそみち)を黑面(こくめん)にうつむきて、爰を大事と目をくばる、道の左右(さう)に相向(むか)うて革袋(かはぶくろ)などやうの物ふたつ有り、月さへ入りてくらき夜なれば、定かならねど、嬉しさ限りなく、兩の手にて、一度に、つかむ。見れば、一つは古き馬の沓(くつ)、ひとつは大きなる蟇(ひきがへる)にて在りし、驚きてなげ捨て、猶、こりずまの、淋しきかたこそ心惡(にく)けれ、と、あわてありく、ある人の門に、くろき小袖とみえし在り、あはや、と立ちよつて、引きあぐれば、人くふ犬の黑きが、餘念なくねいり居たる、なじかはこらふべき、散々にくらひつかれ、はうはう逃げて歸るとて、若侍の、遊女町より醉(ゑ)たゞれて歸るに、情(なさけ)なく行きあたる、惡(にく)きものゝしわざ、と刀(かたな)を拔きて追ひつくるに、足は早くて逃(のが)れ去りぬ。あくる夜も猶、殘り多く思ひ、又、出る。今夜は觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ、東畑(ひがしはた)を、さすらふ。爰かしこ、みぬくまもなく、搜せども、ちり計りの物も、ひろはず。打腹立(うちはらだ)ちて歸り足に、白川堤(しらかはづゝみ)の柳かげに、女のかづら有り、是よ、と、いひて、引きあぐれば、黑蛇の、俗に、からすぐちなは、といふ物也けり。取るや否や、腕くびにまとひつきて、ふれども投(なぐ)れども更に解けず。片手を添へて、もぎはなさん、とすれば、同じくまき添へて兩手(りやうしゆ)ひとつにしむる。せんかたなく其さまながら宿に歸り、人の力(ちから)にて漸々(やうやう)とき捨てけり。此の後、おのが貧分(ひんぶん)の因果を知りて、おもひとゞまりにけり。おもふに蛇は陽蟲(やうちう)にて、夏出で、冬蟄居し、晝、ありき、夜、かくるゝ物なるに、夜かげに是が手にかゝる事、貪心(どんしん)のまよひを天のにくみ給ふより、災難にあひける物ならし。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「都京極春日」現在の京都府京都市西京区大原野南春日町附近か。他にも「春日」と名うつ場所はあるが、孰れも「京極」と冠するのが不審であるからである。この「京極」とは通り名ではなく、平安京に於ける東西の果て(の外)の謂いと読む。

・「巫(ぶ)」「神降ろし」をする下級の神職、或いは民間の祈祷師。

・「德をつき」この「つき」は他動詞の「付く」で「身につける」の意。

・「手利(てきゝ)」手業(てわざ)の優れている者。腕利き。

・「其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて」その町方の甚六の家の者以外の者どもが、彼が何か不法な行為に手を染めて裕福になったのだと邪推し、それによって町方一同が連帯責任を負わされて罰せられる(知っていたのに訴え出なかったという不作為犯である)かも知れない、とお上を恐れ、そうした後の難儀を想定、それを防ぐために合議して。

・「一和尚(わじやう)」狭義にはかく読んだ場合は、律宗・法相宗・真言宗で授戒の師となることの出来る修行を積んだ高僧を指すのであるが、名を「三太夫」と称し、後に本文で「三太夫は欲心無道の男」と出、何より、挿絵に出るその「三太夫」の姿形(どう見ても遊び人である)から、この「和尚」とは一種の、ある程度、その時代の裏世界にも通じた、いろいろなトラブルの際の交渉人、何でも屋「三太夫」という手合いと見てよかろう。

・「大事の所作(しよさ)」さる重大なある出来事に遭遇したこと。

・「各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り」今、あなたのおっしゃったように町衆が皆、後々に降りかかるかもしれない禍いなどを心配し、あなたに私を質すよう依頼したということを知りまして、申し上げるので御座います。

・「かづら」頭髪の少ないのを補うために添える毛髪。かもじ。添え髪。

・「小分(せうぶん)」とるに足らない金にもならぬ物。

・「傾城町」「けいせいまち」と読み、所謂、遊里遊郭、「いろまち」のこと。

・「才覺(さいかく)らしく」小賢しく智恵を働かせたつもりで。

・「九條の町」現在の京都市営地下鉄烏丸線「九条駅」(烏丸通と九条通が交差する九条烏丸交差点の地下)のある京都市南区東九条南烏丸町附近か。

・「馬の沓(くつ)」蹄(ひづめ)を保護するための藁(わら)や皮革・和紙などで作った馬用の履物。

・「こりずまの」「懲りずま」で一般には副詞として「懲りずまに」で用いられる。「ま」は「~のような状態である」の意を表す接尾語で、全体で「前の失敗に懲りもせずに・性懲りもなく」の意である。

・「淋しきかたこそ心惡(にく)けれと、あわてありく」傾城町に入る、畑中の淋しげな細道だったからこんないぶかしくもつまらぬ拾い物をこそしたのだ、と、慌てて相応な屋敷のある方へと向かって歩いてゆく。

・「なじかはこらふべき」反語。主語主体は「犬」。どうして野良の狂犬が「こらふ」、耐える、ただ静かなままにされていることがあろうか、いや、あろうはずがない。

・「とて」格助詞で「~しようとした際に」。

・「醉(ゑ)たゞれて」すっかりだらしなく酔っ払ってふらふらして。

・「情(なさけ)なく」あきれたことに運悪く。

・「殘り多く思ひ」やはり大枚を拾えるかもしれぬという未練が多く残って。

・「觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ」猿楽能役者の三世観世大夫音阿弥(「おんなみ」とも 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)の猿楽興行(ここは一般庶民向けであるから勧進興行)を見るために高く作った桟敷席の軒下辺りを目当てとして。音阿弥は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。ウィキの「音阿弥によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿・金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を押しのけて猿楽能が芸界の主流となる道を作って、祖父観阿弥、伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した』。『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』。『実父は世阿弥の弟四郎。この四郎については詳しい来歴は知れず、諱も清信とする後代の伝書、元仲とする近世の系図、久次とする説など一致を見ない。世阿弥・音阿弥という天才の間に埋もれた「殆ど見るべきものの無い存在」と見る向きもあったが、世阿弥から著書『風姿花伝』を相伝されたことが分かっており、最近では観世座の脇之仕手として兄を支えて大夫にも匹敵する活躍をしていた人物と考えられている。子の大成後はそのワキも務めたようだ』。『音阿弥の少年時代については不明だが、「三郎」の通称は祖父の観阿弥、伯父の世阿弥も使用したものであり、これを継承していることから、幼くして伯父・世阿弥の養嗣子になっていたと考えられている。間もなく世阿弥には実子の元雅が生まれるが、音阿弥の元服に際してこの「三郎」の名を与えたことからも分かるように、世阿弥は観世座の後継者として音阿弥を考えていた時期があると思われる』。『その期待に応えて成長した音阿弥は、二十代前半の応永二十年代からその活動記録があり、若くして観世座の次世代の担い手として活躍を始めていたことが分かる』。『しかしながら、応永二九年(一四二二年)、観世大夫の地位を受け継いだのはいとこの元雅であった。しかしこの頃世阿弥父子はその創作活動の充実と反比例するように、田楽の増阿弥などに圧され、将軍家の寵を失いつつあった。一方で音阿弥は青蓮院門跡義円の寵愛を受け、応永三四年(一四二七年)には義円の後援の元で勧進猿楽を行い、成功を収めた』。『正長二年(一四二九年)、この義円が還俗して将軍・足利義教となったことで、観世座の運命は大きく変わることとなる。義教は音阿弥を熱烈に支援する一方で世阿弥父子を冷遇し、永享元年(一四二九年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が中止となり、翌年には世阿弥の有していた醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪され、音阿弥に与えられている。またこの年の興福寺薪猿楽では、前年の元雅に代わり、音阿弥が大夫として参勤している。なおこの際、興福寺は彼の都合に合わせてか日程の変更・延長まで行っており、その権勢のほどがわかる。こうして「観世大夫両座」と言われるように、音阿弥の活動も独立性を強め、ついには観世座の主導権を握るに至った』。『そんな中で永享四年(一四三二年)元雅は伊勢で没し(暗殺説も)、同六年には世阿弥自身が佐渡に流罪となる。かくして観世座から世阿弥父子の勢力は一掃され、これを受けて永享五年、音阿弥は正式に観世大夫の地位に就き、名実ともに能楽界の第一人者となる』。『永享五年四月、音阿弥の大夫就任披露の勧進猿楽が、京の糺河原で挙行された。これを祝って人々が義教の元に参上していることから、この催しが義教の手で行われたものであり、音阿弥が将軍家の御用役者として認められていたことが分かる。諸侯は義教の意を迎えるためもあって音阿弥を厚遇し、将軍をもてなす席には音阿弥の能が欠かせぬほどであった』。『我が世の春を謳歌する音阿弥であったが、一方で同九年、突如義教の勘気を蒙っている。この事件は貞成親王の耳にまで届き、「不定之世毎事如此」と驚嘆させしめたが、赤松満祐のとりなしで十日ほどで許されている』。『嘉吉元年(一四四一年)、その赤松満祐が、自邸で義教を暗殺するという挙に出る(嘉吉の乱)。それはまさに、饗応のため呼ばれた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事であった』。『最大の後援者を失った音阿弥は一時困窮し、私的な勧進能を行うなどしてその打破に努めたようだ。文安元年(一四四四年)の勧進能では観客席の値段を下げるなどの努力をしている。一方で金春座とともに幕府に訴えて、他座が京で猿楽を舞うのを妨害したりもしている』(下線やぶちゃん)。『しかし義教の子・足利義政が長じて後の享徳元年(一四五二年)頃からは、その厚遇を受けることになる。応仁の乱の中でも能を見ていたほどの愛好家である義政は音阿弥を高く評価し、再び表舞台に引き上げた』。『六十歳を迎える長禄二年(一四五八年)頃には子の又三郎正盛に大夫の座を譲って出家し、以後法名の「音阿弥」を名乗るこの名は観阿弥・世阿弥の後継者としての自負を示すものであろう(一字目を並べると「観世音」となる)世阿弥同様に出家の後も第一線で活動を続け、寛正五年(一四六四年)には正盛が義政の後援で行った糺河原での勧進猿楽でも、「邯鄲」「恋重荷」「二人静」「養老」など二十九番のうち十二番でシテを務めている。この催しには義政・日野富子夫妻は無論のこと、関白二条持通、また有力守護大名たちが臨席し、観世座の権威を見せ付けた。同年には後花園院の御前で能を舞い、「老いて益々健在である」と義政を感嘆させた』。『とはいえ政情の不安もあり、暮らし向きはそれほど楽でなかったようで、文正元年(一四六六年)には相国寺の蔭涼軒を訪ね、押し売り同然に小歌・小舞を披露したことが記録に残っている』(下線やぶちゃん)。『翌二年に死去。一休宗純に帰依してその引導を受けたと『四座役者目録』などに語られるが、疑わしい』とある。宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)より二十三も年上で、宗祇が四十六の時に死んでいる。本篇はそもそも宗祇が出て来ないから、歴史的事実との齟齬などの問題の生じようはない。あるとすれば、ここで勧進興行をしている音阿弥は上記のどの時期のことかという点一つであろう。下線を引いた中期の足利義教暗殺直後の辺りの不遇な時期と考えると面白いが、話者の宗祇が如何にも若過ぎる(満二十歳)。寧ろ、この本文ではっきりと「音阿彌」と呼称していることを考えれば(引用の後の下線部分)、彼が隠居後、実際に「音阿彌」を名乗った長禄二年(一四五八年)頃から、経済的には苦しかったとする死去までの九年間辺りを措定すると、自然な感じにはなる気がする。

・「みぬくまもなく」「見ぬ隈もなく」。見なかった物蔭は一ヶ所としてないほどに。

・「歸り足」帰りがけ。

・「白川堤(しらかはづゝみ)」鴨川右岸の祇園白川の堤。

・「黑蛇」「からすぐちなは」俗称と黒い個体という条件から考えると、気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビによれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名Elapheは音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属の解説をご覧あれかし。

・「貪心(どんしん)」「西村本小説全集 上巻」では右に「とんしん」、左(二字全体に)に「むさぼる」とルビする。

2016/08/18

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   化女 苦し 朧夜の雪

    化女(けじよ)苦(すご)し朧夜(おぼろよ)の雪


Yukionnna

きくならく、越路(こしぢ)は年ごとの雪、深く、去年(こぞ)の名殘の村消(むらぎえ)より、ことしの雪降つゞくとかや。其の國の人は馴れこし身のならはしに、物うくも思はざらん、我は南紀の陽國(やうこく)にそだち、花洛(くわらく)の中央にありし程だに、故郷に增(まさ)りつめたかりし、越後にむつまじくいふ人の來よ、と物する、老苦さへあるに、と暫(しば)しまからず侍るを、さりとて、風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを、無下(むげ)に憶病(おくびやう)の人哉(かな)、と物せられ、行きて二とせを送りにけり。初めのとしの雪、わきておびたゞしく、所の人も近き年に稀れなり、と、いひき。長月の末、蝶の羽うつ計り、大ひらに降りそめてより、神無月(かんなづき)の最中(もなか)は野路(のぢ)の草葉ひとつも見ゆるなく、山邊の木立(こだち)も七尺計りより下はふりうづみぬ。今さへかゝれば、極寒の末いか計り、と思ひやれど、はや、往來(ゆきき)の道たえて、袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ、京にも得歸らざりけり。霜月の始めは、民家、悉く、埋れて、屋の棟(むね)より出入するほど也。されど、祇は人の情(なさけ)にたすけられ、身に衣服を取重ね、口に羹(あつもの)を飽(あ)く、此の年、漸うくれて、陸月(むつき)も寒く、二月(きさらぎ)もさえかへれど、誠は冬のやうにもなし。南面は稍(やゝ)きえにけり。ある曉、便事(べんじ)のため、枕にちかきやり戸押しあけ、東の方を見出でたれば、一たん計りむかふの竹藪の北の端(はし)に、怪しの女、ひとり、たてり。せいの高さ一丈もやあらん。かほより肌、すきとほる計り、白きに、しろきひとへの物を着たり。其の絹、未だ此國にみなれず、こまかにつやゝか也。糸筋(いとすぢ)、かくやくとあたりを照し、身を明らかに見す。容貌のたんごんなるさま、王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え。かくや姫の竹にあそびけん、かくやあらん。面色(めんしよく)によつて年のほどをうかゞはゞ、二十歳(はたとせ)にたらじ、と見ゆるに、髮の眞白(ましろ)に、四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる、いかなるものぞ、名をとはん、とちかづき寄れば、彼(か)の女、靜かに薗生(そのふ)に步(あゆ)む。いかにする事にや、見屆けて、と思ふほどに、姿は消えてなく成りぬ。餘光(よくわう)、暫し、あたりを照して、又、くらく成りし、此の後、終(つひ)に見えず。明けて、此の事を人に語りければ、夫は、雪の精靈、俗に雪女といふものなるべし。かかる大雪の年は稀れに現はるといひ傳へ侍れど、當時(たうじ)、目(ま)のあたり見たる人もなし。ふしぎの事に逢ひ給ふかな、と、いはれし、予、不審をなす。誠(まこと)、雪の精ならば、深雪(しんせつ)の時こそ出づべけれ、なかば消失(きえう)せて春におよびて出づる事、雪女ともいふへからず、と、いへば答へて、去る事なれど、ちらんとて花うるはしく咲き、おちんとて紅葉(こうえふ)する、燈(ともしび)のきえんとき、光り、いや、ますがごとし、と、いはれし、左もあらんか。

 

■やぶちゃん注

 恐らく「宗祇諸國物語」の中でもよく知られた一篇であり、いろいろなところで、学術研究者を含め、この一篇をかの小泉八雲の「怪談」の名品「雪女」の原典とし、鬼の首を獲った如くに賞揚すること頻りなのであるが、どこがどう原典なのか、どこをどうインスパイアしたら、あの名品に書き換えることが出来るのか、私にはさっぱり分らない。これは小泉八雲の「雪女」の原典(素材の一つとして参考にしたとしても)ではあり得ない。但し、この話柄は話柄として、私は雪女を語る一話として嫌いではないと言い添えておく。なお、終りの方の「予、不審をなす。」の箇所は底本では「予れ不審をなす。」となっているが、これでは読めない。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「予(よ)不審(ふしん)をなす。」となっており、自然に読める。特異的に訂した。今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いたが、今回は、雪女イメージを押し出すため、図の枠部分を恣意的に除去し、汚れも可能な限り、除去して白くした

・「村消(むらぎえ)」「斑消(むらぎ)え」という名詞で、雪などが斑(まだ)らに消え残ることを指す。従って、昨年の斑らとはいえ、残雪が消えぬうちに、翌年、雪が降り出すというのである。

・「風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを」寒風を嫌がるぐらいのことは承知の上、そのための防寒の備えについては心配せずともちゃんとしておるのに。

・「長月」旧暦九月。

・「大ひらに」非常に大きな平たい切片になって。

・「神無月」旧暦十月。

・「七尺」二メートル十二センチメートル。

・「袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ」「袖打はらふ陰(かげ)もなし」は言わずもがな、「新古今和歌集」「卷第六」の「冬歌」の藤原定家(六七一番歌)、

 

   百首歌奉りし時

 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 

である(「佐野」は大和国のどこかの渡し場で歌枕とされる)。この歌では馬を留めている主人公の姿だけは吟詠の映像の中にいるわけだが、その一人の人影(「人の形」の謂いで、これが怪異の伏線になっている)さえも、七尺も積もってしまった雪だらけの景色の中には全く見出せないというのである。

・「得歸らざりけり」「得」は呼応の副詞の「え」に当て字したもので、帰京しようと思うのに帰京それが全く以って出来なくなってしまった、の謂い。

・「霜月」旧暦十一月。

・「埋れて」「うもれて」。

・「羹(あつもの)」元は「熱物(あつもの」で、ここは野菜を煮込んだ熱い吸い物。

・「漸う」「やうやう」。

・「陸月(むつき)」ママ。「睦月」で旧暦一月。

・「さえかへれど」厳しく冷え込みはするが。暦上では春になっているけれど、寒さがぶり返しはする、しかし。

・「便事(べんじ)」厠へ行くこと。

・「一たん」十二メートル五十センチメートル。

・「一丈」約三メートル。

・「かほより肌」顔より顎や首、胸の合わせの間の露出している肌部分。

・「かくやく」既出既注。「赫奕」で、光り輝くさま。

・「たんごん」既出既注。「端嚴」で、きちんと整っていて威厳のあるさま。

・「王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え」不老長寿の妙薬たる桃の生い茂った仙境の林の中で絶世の美神西王母を拝謁し。

・「四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる」「四手」は当て字で「垂(しで)が正しい。これは動詞「垂(し)づ」(物を垂らす・垂らし下げる)の連用形が名詞化したもので、神道で玉串(たまぐし)や注連縄(しめなわ)などに下げる紙のことを言う。ここは――その女の真っ白な髪が、梳かれたり、削ぎ揃えられるた感じが一切なく、垂(しで)の如くに奇妙なリズムで独特の感じに切ったように長く垂れているのが、如何にも異様な感じがした――というのである。

・「薗生(そのふ)」庭、或いは、菜園。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   人面、巖に休らふ

    人面(じんめん)巖(いはほ)に休らふ

 

猶、南(みんなみ)に山路、暮して行く。案内しらず、とふべき家なき時は、草結(くさむすび)と云ふ物をして柴(しば)の枝(はし)ずえをくゝりて、後(しり)への人の道しるべとする事にて、みちみちそれを便に步み、それに又、むすびそへて、とまる、やけ山といふにかゝる。爰は近き頃まで、諸木(しよぼく)、いやが上に生茂(おひしげ)りて、枝と枝とすれあふ程に、火をもみ出して、やきはらふ。その故、草むすびのしるしも、なし。跡(あと)の里(さと)にて問ひたる儘に、右につき、左にまはり、いくばくの難所(なんじよ)をしのぎ、又、ひとつのしげ山に入る。いつしか、道をふみまよひ、こしかた、遠く行べき道、たえたる所に、亡然(ばうぜん)と、あきれ果つる。爰に熊のごとく眞黑(まくろ)なる男、大弓に大のかりまたを、くはへ來る。狩人(かりうど)と覺ゆ。嬉しくて立ちむかへば、此の男、肝(きも)をけし、爰は抑(そも)、人倫かよふ所にあらず、化生變化(けしやうへんげ)の我れをたぼらかさんとするにぞあらん。おもひよらず正體をみせずは、一矢(や)の下に射ころさん、と、肘(うで)まくり、氣色(きそく)し、すびきしたる。否(いや)とよ、左樣(さやう)の類ひにはあらず。かやかやうの者にて。此の山道にふみまよひたり。平(ひら)に疑ひをやめ給へ、と斷りけるにぞ、弓絃(ゆんづる)はゆるめたれど、猶、打解けぬ氣色(けしき)見ゆ。しみじみと語り續くるに、信じにけり。人里を教へ給へ、と、いへば、待せ給へ、をしへ參らすとも、ひとりはいかで道に出で給はん、某、歸さに同道し侍るべし。但し、今日は狩の料(れう)なく侍る。兎のひとつもとめて歸らんに、と、いふほどに。風、一とほり、さはがしく、村雨(むらさめ)、しきりにして、松柏、左右にわかつて一筋の道をなす、一町あまり向(むか)ふの岩の上に、異形のものこそ見えたれ、縱(たと)へば、大さ三尺計りの女の顏(かほ)、うるはしくゑめる、髮は赤くして長し、肩より下は岩にかくれて見えず、狩の男、射とらん、と、いふを押しとめて、自然(しぜん)、射損じ給はん時、此の者、いかなる仇(あだ)とやならん。先づ、是は、何といふ物ぞと問へば、獵師も未だかゝる異形を見ず、と、さゝやきて、問答する内に、かの首(くび)、岩のあなたに入りて、なくなる、と、みえし、諸木、又、もとのごとく、起きあがりて、道もふさがりぬ。是より、此の男も、今日の狩をやめて、家に歸り、我も里にいさなはれぬ。

 

■やぶちゃん注

 最後の一文中の「家に歸り、」は底本では「家に歸り。」で句点であるが、特異的に読点に訂した。この山中の女怪(これはシミュラクラSimulacra)現象なんぞではないので注意!)は、突如、岩の上に巨大な首だけを見せて、そして岩に向うに姿を消し、さらに「ザワザワ」と動物の如くに周りの草木が動いて、その岩影自体が茂みの中へと消えてゆくのである。正体も澄江堂遺珠釣原の理由も一切、説明がない。そこが又、すこぶる高品位の怪談に仕上がっていると言えるのである。

・「草結(くさむすび)」ここでは草に小枝を結びつけて、旅の道中の道標(みいしるべ)とした、実用的なもの(後に来る旅人のためや(ここでも「やけ山」は摩擦熱による自然発火のためにそのあった草結びが焼失してしまって、存在しないので、道に迷ったという設定になっていることから、ここ以外では宗祇自身も先達(せんだつ)の結んだそれに助けられたことを暗示している)、自分自身が迷ってリングワンデルング(ドイツ語:Ringwanderung:方向感覚を失調して同一地帯を何度も彷徨してしまう現象)をした場合の、或いは元の道筋に戻る目印にする)を指すが、本来は上代、男女が二人して草と草を結び合わせることによってそこに互いの魂をとり籠めて両者の心が永遠に離れないように祈ったり、或いは旅する自分や相手の安全や幸運などを願ったりする民俗信仰に基づく宗教的儀式に起源する(なお、草を束ねて枕にする意から旅の野宿・旅寝の単純な意味もある)。

・「やけ山」やはり熊野古道の難所として恐れられた、現在の三重県尾鷲市南浦にある八鬼山(やきやま)(峠)であろう。尾鷲市のほぼ中央に位置し、標高は六百二十七メートル。「八木山」「焼山」などの他称がある。

・「跡(あと)の里」前に最後に発った人里。

・「氣色(きそく)し」怒りや強い警戒の表情を見せ。気色(けしき)ばみ。

・「すびきしたる」「すびき」は「素引く」弓の弦を引いて張ること。ちゃんと矢を番えずとも、その準備動作として即座に矢を放てるように見せて、相手を威嚇しているのである。

・「待せ給へ」「またせたまへ」。

・「某」「それがし」

・「歸さ」「かへさ」或いは「かへるさ」。名詞。帰り・帰りがけ・帰り道。

・「一町」約百九メートル。

・「大さ」「おほいさ」。

・「三尺」九十一センチメートル弱。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   侘びて住む南山の月

    侘びて住む南山の月

 

伊勢より熊野へこゆる行程百餘里、山、峻(けは)しく、川、深し。ある所には、山、皆、巖(いはほ)こりかたまつて、一寸の土なく、家居(いへゐ)、悉く、板を壁とし、石を竃(かまど)とす。ある所には、四方二、三里、水なくて雨を賴み、用水(ようすゐ)にし、雪を封(ふう)じて食をかしぐ、或は、一生、五穀をくらはず、樫の實おち、椎(しひ)を拾ひためて、命(いのち)の便りとし、猿、狸、狩りつくして、常の糧(かて)とす。男女ともに髮(かみ)けづらず、湯あみせず。眼(まなこ)のみ白く、一身に毛(け)生(お)ひたれば、つかれたる牛のごとし。他(ひと)の國にこそかゝる異形の人間はありと聞きし、目(ま)の邊りみるこそ哀れにも覺えけれ、旅の用意に遠く持ちし八木(はちぼく)、少々ありし、油單(ゆたん)より取出で、自(みづか)ら煮て食(くら)ふを、一家の者ども、詠め入りたる淺ましさ、我れも食するにたへず、當用に分散(ぶんさん)して家内(かない)七人に與ふ。其の中に此の家の祖父(おほぢ)と見えて七十計りの翁が云く。やよ、孫共、汝等は果報の者かな。生れて十年(とせ)過ぎぬ内に飯(いひ)くらふ、此の翁は、五十一歳の時、始めてたべたるさへ、大かたの宿世(すくせ)とは思はざりし、相かまへて旅僧を疎(おろそ)かに思ひ參らするな、と、いひしも、耳なれず哀れ成りし。此わたりの者は、次生(じしやう)には必らず、王城(わうじやう)に生ぜしめ給へ、と祈るとぞ、實(げ)に人界(じんかい)の内にして、雪墨(せつぼく)のかはりめあれば、淨刹(じやうせつ)の説なんどは、一向(ひたすら)、願ふとも及ばじ、と思ふは、愚かながら、理(ことは)りにこそ覺ゆれ。爰を出て行くに、殊に勝(すぐ)れたる高山あり。千木生ひ茂りて茸々たり。名を蜘取(くもとり)山といふ。ふもとの家に立ちより、休む所に、山の上より一つの鯉魚(りぎよ)、祇が前に落ちけるが、撥々(はつはつ)と尾をふるひて踊る。怪しや、此の嚴(いたゞき)に、山川か、若しは、池水のあるにや、と家の主に問ふ。答へて。去れば、此の邊(ほと)り、山のみつゞきて、江河(かうが)遠し、と、然らば、此の魚の落つる事、不審(いぶかし)、と、いへば、主(あるじ)の云く、惣而(そうじて)、鯉魚に不ㇾ限(かぎらず)、種々(しゆじゆ)の魚の、かくの如くなる事、間間(まま)、多し。此の山上に、人倫至らぬ一峰の嶮岨(けんそ)あつて、前後數千丈の谷、深し。巖(いはほ)の肩(かた)にひとつの鷲(わし)の巣有りて、卵(かいご)をあたゝむ。卵(かいご)われ、鷲の子、漸々(やうやう)巣(す)出でん、と、する頃、親鳥、是に餌(ゑ)を與へんため、江河(こうが)の上を飛行す。水上にうかめる所の魚大魚小魚に不ㇾ限、摑んで、此の山に至る。然るに鷲の餌をふくむるは、諸鳥にかはれり。巣より一段高き梢に羽を休め、件の餌物を巣の前へ落すと否や、巣より出でゝ是を取る。若(も)し誤りて取得ざれば、此の所へ落り侍る、と語りし、かゝる深山邊鄙(しんざんへんぴ)をめぐれば、めづらしきけはひをも見聞く事かな。此の家の主(あるじ)なからましかば、かゝる不思議は、はれまじきを、かしこくも尋ねける、誠に道は道に入りてとふにしかず、と、いひし、宜(むべ)なるかな、と、ひとりごちて行く。

 

■やぶちゃん注

・「八木(はちぼく)」米の異名。「米」の字を分解して「八」(上下回転)と「木」の二字に分けたもの。

・「雪墨(せつぼく)のかはりめ」「雪墨」は想像だに及ばぬほど、二つの対象が正反対であることの譬え、或いは、二つの対象の違いが余りに大き過ぎて、比較にならないことの譬え。「かはりめ」は極端なその違い、その状態・様態の謂いであろう。

・「淨刹(じやうせつ)」清浄(しょうじょう)なる領域、即ち、浄土。

・「茸々たり」「じようじようたり(じょうじょうたり)」と読み、草が盛んに茂っているさまを指す形容動詞。

・「蜘取(くもとり)山」現在の和歌山県南東部の那智山の一部である大雲取山。九百六十六メートル。大雲取越え・小雲取越え(小雲取山という固有の山はない)は熊野三山の那智と本宮を結ぶ山越えの道で熊野古道最大の難所とされる。

・「撥々(はつはつ)と」元は魚が生き生きとして泳ぐさまを指すが、ここはまさにピチピチと尾を元気に跳ねらかすことを指す形容動詞。

・「數千丈」誇張表現であるが、馬鹿正直に計算してみると(教科書などでは誇張表現と言って終りにして実数を示さないのは私はアウトだと思う。だから多くの若者は古い度量衡を何時までたっても覚えず、古文が何時までも嫌いなのだと思う)、一丈は三・〇三メートルであるから、千で三千三十メートルで、単純数値(不定数「數」を私は常に「六」前後と採る)として出すなら、一万八千メートルとなり、対流圏と成層圏の境目に相当する。

・「卵(かいご)」歴史的仮名遣は「かひご」が正しい。卵の古い呼称で「殻(かい)子」(殻を持った(中の)子」の意。

・「江河(かうが)」後では「江河(こうが)」とルビするがママとした。何故なら「江」は呉音では「コウ」で歴史的仮名遣でも「コウ」であるが、漢音の場合は「コウ」でも歴史的仮名遣は「カウ」と表記するからである。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   始めて聞く飯綱の法

    始めて聞く飯綱(いづな)の法(はう)


Idunanohou

宮古左目牛(さめうじ)に、舟や文治といふ富裕の者有り、萬(よろづ)、利根(りこん)に人をみくだす本姓なれば、惡むものおほかれど、彼れが有得(うとく)に媚びへつらひて、出入る族(やから)も亦多し。高倉楊梅(たかくらやまもゝ)に重次郎とかやいふ者、刀を磨ぎて世を渡る。日頃、文治か家に行來(ゆきゝ)けるほどに、いつしか兄弟の交りをなす。此の者、或夜の夢に、飯綱(いづな)の靈像(れいざう)、口より入り給ふと覺えてより、忽ち、幻術士(げんじゆつし)となる。我れながら、ふしぎに覺えけるのみにて、親類朋友にもかたらず、され共、いはぬ事の洩るゝならひ、ひとりふたり聞つけ、さまざま取沙汰しければ、今は包まず人の好みによりて慰めける程に、世人、是がふしぎの術(じゆつ)を稱美する、然れ共、文治は例(れい)の疑心(ぎしん)つよく、己(おの)れをたかぶりて、更に信用せず、ある時、重次に云ふ。其方は魔法(まはふ)を得たりと聞く、いか計りのふしぎをかなす。答ふ。幻術さまざまなる内、勝(すぐ)れて過不及(かふきふ)なるをいはゞ、芥子(けし)の中に須彌(しゆみ)を隱し、蒼海(さうかい)を掌(たなごゝろ)に顯(あらは)し、大船を往來(ゆきゝ)させ、灯心を以て盤石を釣り、焰(ほのほ)の中に魚を踊らせ、其の外、夏の雪、冬の螢、春の紅葉(もみぢ)、秋の梅、好みに應じ見すべし、と云ふ。文治、氣早(きはや)き男なれば、彼(か)れ、昨日今日迄、何のあやめも知らぬものゝ、左計り、神通を得べき樣(やう)なし、詮ずる所、斯樣の亂氣者、長命(ながいき)させて恥(はぢ)かましき目を見せんより、我が手にかけて失はんは、此の者が爲め、情(なさけ)なるべし、と、術者に云く。わどのがいふ所、我れ、更に信用する事なし、螢雪梅楓(けいせつばいふう)の外をもとめて益なし。手近き證據を見んには、某、此の匕首(ひしゆ)を持て切付けんに、隱れ遁(のが)るべきや、と、重次、聞きて打笑ひ、愚かのいひ事や、汝が手に及ばゞ、討ちてみよ、と、いふ。討ちおほせたらん跡にて、我が誤ちとならん、支證(ししやう)の一筆、をせよ、と、いへば、又、笑つて、千にひとつもうたれんにこそ支證も入るべけれ、と、あざける。文治、こらへで、言下(ごんか)に引きぬいて切付けたり。正(まさ)しく目の前に座したるが、忽ち、後に立ちて、予は爰に侍り、と、いふに、ふりかへし、後ろを討てば、又、右の座に立ちたり、心得たり、と切付くれば、天井に、ひし、と、とりつきたるさま、ひとへに蜘蛛(ちちう)のごとく、きつさきにて、空(そら)さまを突けば、いや、爰に、とて、疊に臥す、此時より、おなじ形(かたち)のもの、五人、四方に立ち竝びたり、今は爲方(せんかた)なく、草臥れ、さりとも、ふしぎの所爲(わざ)を覺えたり。今は、さみする事なし、と、いふに、いで、さらば、浴室(よくしつ)に入れて、今の疲れを休め申さん、と、いふとひとしく、障子の間より、あつからず、ぬるからぬ湯、蕩々と湧出(わきい)でゝ、座したる首だけにみつる時、又、もとの道より流れ去りて、いづちへ行きけむ、不ㇾ知。此の後、まゝ術を行ひける事、怪しくも、ふしぎの事のみ多かりし、此ののち、都を出でゝ、我れは修行の身となりしかば、彼ものゝ終(をは)る所をしらず。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いた。

・「飯綱(いづな)の法(はう)」管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ。後述)と呼ばれる霊的小動物を使役して、託宣や占い、呪(のろ)いなど、さまざまな法術を行った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術。飯綱使いの多くは修験系の男であった。「管狐」ウィキの「管狐」より引く。『日本の伝承上における憑き物の一種である。長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(「オサキギツネ」とも呼ぶごく典型的な狐の憑き物。「尾先」「尾裂」「御先狐」「尾崎狐」とも表記呼称する)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、或いは、『マッチ箱くらいの大きさで』七十五匹に『増える動物などと、様々な伝承がある』。この「管狐」自体を『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。「管狐」の呼称通り、『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』・「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」と『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく』、『家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五匹にも『増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。

・「左目牛(さめうじ)」左女牛小路(さめうしこうじ)。サイト「花の都」の「左女牛小路」によれば、現在の通称、上ノ口通(かみのくちどおり)・花屋町通(はなやちょうどおり)・旧花屋町通(きゅうはなやちょうどおり)に相当するとある。名の由来は『六条若宮の邸内にあった「左女牛井(さめがい)」という名水に由来するという』とある。因みにこの六条若宮邸は西洞院大路との交差点の北東角とあり、ここで単に「左目牛」と呼んで位置を示す以上は、由来の地に近いと考えてよく、この「舟や文治」なる男は「舟や」であることからも同小路の東寄り、鴨川の六条河原直近であったと考えてよかろう。位置は同サイトのこちらが分かり易い。同小路が左京(右側)の南端東西の九条大路から北へ十二番目のところに示されてある。このサイト、凄い!

・「利根(りこん)」口が達者で小賢しいこと。

・「惡む」「にくむ」。

・「有得(うとく)」特に室町時代以降、「有福・金持」の意で用いられるようになった語である。

・「高倉楊梅(たかくらやまもゝ)」先のサイト「花の都」によれば、高倉小路(現在の「高倉通」)と楊梅小路(現在の「楊梅通(ようばいどおり)」と「中堂寺通(ちゅうどうじどおり)」)の交差附近の謂いである。前に示した同サイトの地図で確認されたい。高倉小路は左京の東端南北の東京京極大路から西に四番目、楊梅小路は南端東西の九条大路から十四番目。旧六条院の東南角、旧河原院の西近くに当たり、先の左女牛小路とは、間に六条大路を挟むだけで、ごく直近であることも判る。

・「過不及(くわふきふ)」度が過ぎることと及ばないことで、まず「適度でないこと・過不足」の意であるが、そこから転じて、「過不足がない適度な状態であること・丁度良い」の意となり、ここは後者で、この場ですぐに見せ得る術の中で最適なもの、の意。

・「芥子(けし)」小さなケシの実。

・「須彌(しゆみ)」本来は「須彌山(しゆみせん(しゅみせん))」で、仏教の宇宙観に於いてこの世界の中央に聳える山の固有名詞であるが。ここは単に峨々たる高山の意の一般名詞である。

・「盤石」「ばんじやく(ばんじゃく)」と読んでおく。巨大で重い岩の塊。

・「何のあやめも知ぬものゝ」「あやめ」は「文目」で物事の道理・筋道の意。刀研ぎという下賤な分際で何の道理も弁えぬ愚か者が。

・「亂氣者」乱心者。狂人。

・「某」「それがし」。

・「匕首(ひしゆ)」あいくち。鍔の無い短刀。しかし、挿絵のそれは鍔があってしっかり長い太刀であるのは御愛嬌。ドスでは描いても今一つ、さまにならぬ。

・「支證(ししやう)」明白な証拠。具体には、それ(術の実験であって殺意を以って彼を切り殺したのではないことを証明する証文のこと。

・「障子の間(ま)」障子の間(あいだ)の意。

・「我れ」仮託された主人公宗祇の一人称。

2016/08/17

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   秀句問答

宗祇諸國物語卷五

 

    秀句問答


Syuukumondou

京都に侍りし時、大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公の御所に、折々參り侍り。或日、御歌物がたりに、夜更る迄侍りて、其夜は御所にあかしぬ。御内に若侍、多し。中に飯島造酒、草尾杢工丞といふ在り、飯島は武藏の國兒玉黨(こだまたう)が族(やから)也。草尾は御家相傳の侍なりしが、二人ともに歌に志し有りて、當話戯語(たうわげご)をなす。こよひ、祇と襖一重を隔てゝいねたり。ねながらの戯(たは)ふれと聞えて、草尾がいふ。何と、飯島は關東の武(ぶ)、弓矢(きうし)の家に生れながら、いかにや、名字も名も賤しき食物(しよくもつ)をつぎ給ふといへば、答ふ。愚かのいひ事や、世の中の寶(たから)の最上、食類に過ぎず。貴(たと)より賤しき迄、此の樂しみつくる時、命(のち)、更に、むなし。空しくば、萬寶(ばんぱう)、何の益かある、殊に軍場に兵糧(ひやうらう)を以て第一とす。去るによつて昔しより、猛き武士に食類の名をつく人多しと、いへば、こは珍し、うけ給はらん、と、いふ。あらあら語り侍らん、と數ふるこそおかしけれ。まづ、大友の眞がも、藤原の煮方(にかた)、江豚(いるかの)臣、石首魚山丸(いしもちのやままる)、肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)、相馬鱒門(さうまのますかど)、米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)、多田饅頭(ただまんぢう)、渡部源五鮒(ふな)、肴金時(さかなのきんとき)、薄身貞光(うすみのさだみつ)、浦部椎茸(うらべのひたけ)、八幡鱈尾(はちまんたらを)、鱧次郎(はもじろう)、鱰三郎(しいらさぶらう)、珍膳(ちんぜん)八郎、かまぼこの御曹司、武藏坊辨當(むさしばうべんたう)、源九郎はうはん汁、ひたち坊貝藻(かいさう)、鱸(すゞき)三郎、弟の鰈(かれひ)の六郎、砂糖兄弟、紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)、紫蘇四天王(しそがしてんなう)に、うま井、干鮻(ひぐち)、蓼(たで)、根芋(ねいも)、煮〆(にしめ)、高梨子(たかなし)、鯛等貞文(たいらのさだぶみ)、粘(あめ)の貞任(さだたう)、畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)、鯣鮫(さはらの)十郎、腸義盛(わたのよしもり)、佐々木餅綱(もちつな)同四郎蛸綱(たこつな)、※(えぶな)源八[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「子」。]、岡鮭(おかさけ)四郎、粥板蠣(かゆのいたがき)、鹽漬(しほづけ)になすの與一、其外、熊谷平(くまがやら)山が一の谷のせんじちや、梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)、或は、このしろに籠り、又、魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)の備へ、太刀に鯰尾(なまずを)あり、矢に蕪(かぶら)あり、武のすぐれたるを大こんの兵(つはもの)といひ、智謀あるを葡萄(ぶだう)の達者と、ほむ、猶、數ふるに詞(ことば)たへたり、と、いふ。さてさて、いへば、いはるゝ物かな、と笑ふ。飯島の云く。和殿は數代(すだい)御家にあつて文を學(がく)し、和歌に遊ぶ。何ぞゆへなき草木(さうもく)を名字と名とに顯す、歌人は草木に便(たよ)りありや否や、と、とふ。答ふ。見給はずや、古今(こきん)の序に、やまと歌は人の心をたねに蒔きて萬(よろづ)の物の葉とぞなれりける。野の中にある人、言草(ことぐさ)しげき物なれば、蒜(ひる)の事、菊の事につけて、いひ出せる也。花になく鶯菜(うぐひすな)、水にすむ川柳(かはやなぎ)、いづれか歌によまざりける。力をも入れずして、城菖(あやめくさ)を引拔き、目にあぶなき鬼薊(おにあざみ)をも哀れとおもはせ、男(を)松女(め)松の枝をも和(やはら)げ、高き椵(もみ)の木の梢をもなびかするは、歌也。此の歌、赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ。しかありて、世にはびこる事、久かたの雨ふりには、下てるもみぢにはじまり、あら鍬の土をほりては、苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)よりぞ、おこりにける。白茅(ちがや)なる神代には、餅(もち)つゝじのねばつきて、苔(こけ)の下道、分けがたかりけらし、人の世となりてぞ、鼠尾草(みそはぎ)のあたり、葱(ひともじ)はよみける。【下略】或は萬葉金葉詞花前栽(しくわのぜんさい)、皆、植物に名づく。又、歌人をいはゞ、橘諸枝(たちっばなのもろえ)、柿本人丸(かきのもとのひとまる)、山邊赤草(やまべのあかぐさ)、猿丸猿(さるまるのさる)すべり、藍(あゐ)の仲丸、在原水葱平(ありはらのなぎひら)、文屋康稗(ぶんやのやすひえ)、樹貫之(きのつらゆき)、棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)、實生忠岑(みばえのたゞみね)、坂上苔則(こけのり)、竹の深藪(ふかやぶ)、木友則(きのとものり)、源下刈(みなもとのしたかり)、清原元菅(もとすげ)、藤原荻風(をぎかぜ)、山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)、大納言鷄頭(けいたう)、參義竹村(さんぎたけむら)、茅原(かやはらの)左大臣、平枯森(たひらのかれもり)、源の橡賴(とちより)、大江苣人(ちさと)、春道椿(はるみちのつばき)、參議葱(さんぎひともじ)、定家蔓(ていかかづら)、從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)、後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)、僧には花山遍照(くわざんのへんせう)、草生法師(さうせいはふし)、木仙(きせん)法師、白蓮(びやくれん)、農人(のうにん)、女には小野小松(をのゝこまつ)、泉樒(いづみしきみ)、伊勢が櫻(さくら)、紫(むらさき)が藤(ふじ)、赤染蓬(あかぞめのよもぎ)、蘇枋内侍(すはうのないし)、芹少納言(せいりせうなごん)、大二の山歸來(さんきらい)、議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)、二條院茶木(ちやのき)、或ひは和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり、玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)は蘆邊(あしべ)の波にたゝせ給ひ、伊勢の濱荻、三輪の杉、立田(たつた)の紅葉(もみぢ)に、難波の梅、いづれか、植物にあらざる、此外、指を折るにいとまなし、と、わらひて止みぬ。しどけなきたはふれなれど、きゝし當座(たうざ)のをかしさにかき付けぬ。

 

■やぶちゃん注

 冒頭の一文中の「御所に、折々參り侍り」の「參り」は底本では「來り」となっているが、「御所」なのにおかしい。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「参り」となっており、自然に読める。特異的に訂した。同じく後の「定家蔓(ていかかづら)」は底本では「定家(ていか)、蔓(まんまん)」となっているのであるが、これでは一向に洒落になってこない(とわたしは思う)。やはり、「西村本小説全集 上巻」によって特異的に訂した。今一つ、変えた箇所があるが、それは注で述べる。なお、今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いた。

・「大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公」大炊御門信宗(明徳二/元中八(一三九一)年~応仁二(一四六八)年?)は公卿。ウィキの「大炊御門信宗」によれば、応永二五(一四一八)年一月従三位となり、公卿に列し、応永二六(一四一九)年三月、陸奥権守を兼任。応永二八(一四二一)年、正三位権中納言、応永三二(一四二五)年、従二位権大納言に叙任される。永享元(一四二九)年、右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享四(一四三二)年一月正二位に昇り、八月内大臣に任じられたが、十一月には左大将を辞任し、翌年十月には内大臣も辞任している。嘉吉二(一四四二)年一月には従一位に昇叙、享徳二(一四五三)年に『出家したが、その後の消息は明らかでない』。彼は『後土御門天皇の養外祖父であることから』、文明一二(一四八〇)年一月二十六日に『太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという』とある。宗祇より二十一年上である。

・「飯島造酒」「西村本小説全集 上巻」に「いひじまみき」とルビ。不詳。

・「草尾杢工丞」「西村本小説全集 上巻」に「くさをもくのぜう」とルビ。不詳。「杢工丞」(木工丞)は土木関連職由来の通称や名で、必ずしも珍しいものではない。

・「兒玉黨(こだまたう)」ウィキの「児玉党」によれば、『平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた』。武蔵一円の同族武士団の集団名数である武蔵七党(諸本で異なり、横山党・猪俣党(いのまた)・児玉党・村山党・野与(のいよ/のよ)党・丹(たん)党・西(にし)党・綴(つづき)党・私市(きさい)党の九党の内)の『一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた。本宗家の家紋(紋章)は、軍配団扇紋であるが、随身・随兵して行くことで諸氏による派生紋・続葉紋が生まれた。その後、時代の流れと共に各地へ散らばってゆく。児玉党をはじめとする武蔵七党の各武士団・諸氏族は蒙古襲来(元寇)に備えるため鎌倉幕府の命により西方遠くは、安芸国・九州(最西は、小代氏の肥後国・野原荘)まで及びその防備につくため下向し土着してゆく』。『氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった』有道(ありみち)氏である。『子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている』。『児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。この』三『氏族の内、庄氏は戦国時代の備中国で華々しい活躍を見せる事となる。また、本庄氏は東国における戦国時代の遠因となった五十子の戦い、つまり、その最前線地に立つ事となった』。『児玉(遠峰)氏は児玉郡の阿久原牧を運営しながら河内庄(河内村)を本拠地としたが、庄氏の時代となると、北方へ移り、児玉庄』『(栗崎村)を本拠地とした。本庄氏は北堀村を拠点としながらも児玉庄を引き継いだと考えられる』。『古い本などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかった為に滅びにくかったと言うだけの事であり、負け戦も少なくはない。但し、他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実である。南北朝以降は弱体化し、党の本宗家たる本庄氏も小田原征伐で没落し、事実上解体している。弱体化の遠因は南朝廷側についた事と、本庄氏の拠点が武蔵国北部の国境付近、台地上であり、戦国時代ではその地理上、激戦区の一つと化してしまった事が挙げられる』とある。

・「當話戯語」当意即妙な戯(ざ)れ言を上手く詠み込むこと。

・「大友の眞がも」大伴家持の「やかもち」を鴨に代えたパロデイ。以下、原則、パロディ元を示すにとどめる。中には同定を誤っているものもあると思う。識者の御教授を乞うものである。

・「藤原の煮方(にかた)」藤原鎌足の「かまたり」の「か」「た」をパロッたか。

・「江豚(いるかの)臣」廷臣蘇我入鹿。

・「石首魚山丸(いしもちのやままる)」石上麻呂か。「石首魚(いしもち)」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata、或いは同じニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す。

・「肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)」坂上田村麻呂。

・「相馬鱒門(さうまのますかど)」平将門。彼は母の県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)の出身地相馬御厨(そうまのみくり)で育ったことから「相馬小次郎」とも称したと伝える。

・「米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)」藤原俵藤太秀郷。「俵」から「米」に洒落た。

・「多田饅頭(ただまんぢう)」多田源氏の祖源満仲。彼は実際に多田満仲(ただのまんじゅう)とも音で呼ばれる。

・「渡部源五鮒(ふな)」源頼光四天王の筆頭渡辺綱。

・「肴金時(さかなのきんとき)」頼光四天王の一人、坂田金時。

・「薄身貞光(うすみのさだみつ)」頼光四天王の一人、碓井(うすい)貞光。「薄身」は鯛や鮭の脇腹の薄い身の部分を指す。通人はここを美味とする。

・「浦部椎茸(うらべのひたけ)」頼光四天王の一人、卜部季武(うらべのすえたけ)。

・「八幡鱈尾(はちまんたらを)」源八幡太郎義家。

・「鱧次郎(はもじろう)」源義綱。義家の同腹の弟。京都の賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と称した。

・「鱰三郎(しいらさぶらう)」源義綱のやはり同腹の弟源新羅三郎義光。通称は近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことに由来する。

・「珍膳(ちんぜん)八郎」源鎮西八郎為朝。

・「かまぼこの御曹司」鎌倉の御曹司で源頼朝か。しかし、彼を「鎌倉の御曹司」とは逆立ちしても呼ばないが。

・「武藏坊辨當(むさしばうべんたう)」武蔵坊弁慶。

・「源九郎はうはん汁」源九郎判官義経。「判官(ほうがん)」に「芳飯(ほうはん)」を掛けた。芳飯は室町から戦国にかけて流行した飯料理の一つ。ウィキの「芳飯によれば、『飯の上に野菜や魚を刻んで乗せ、その上から味噌汁を注いで食べたもの』、或いは『具材をそれぞれの持ち味に合せた下味で煮て飯に乗せ、夏には冷した汁、冬には温めた汁をかけたとも』、『煮たり焼いたりした野菜や魚を飯に乗せて汁をかけたともいう』。『食べやすい上に見た目も綺麗なことから人気を博し、特に上流階級で流行した』。『室町期に僧たちが食べ始めた「法飯」が起源とされ』、『僧たちの間では精進料理として肉類を用いず』に『野菜のみを具として食べられていた』。『また、中国にはスープを飯にかける』「泡飯」という料理があり、『日本の室町期にあたる時代から食べられていたため、日本の芳飯は中国から伝来したものとも考えられている』。『後世のちらし寿司』や丼(どんぶり)物、『茶漬けの原型になったとも見られている』とある。

・「ひたち坊貝藻(かいさう)」常陸坊海尊。

・「鱸(すゞき)三郎」鈴木三郎重家。義経の忠臣で、衣川の戦いで義経と最期をともにした。

・「弟の鰈(かれひ)の六郎」鈴木重家の弟亀井重清(しげきよ)。同じく衣川で兄とともに自害した。

・「砂糖兄弟」義経郎党の兄佐藤継信(屋島の戦いで討ち死)と、浄瑠璃「狐忠信」で知られる弟佐藤忠信(都落ちする義経に同行するも、宇治の辺りで別行動をとり、京に隠れ潜んでいたが、潜伏先の中御門東洞院を知られて襲撃されて自害した)。

・「紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)」源木曾冠者義仲。

・「紫蘇四天王(しそがしてんなう)」木曽義仲四天王。

・「うま井」義仲四天王の一人、今井兼平。「美味い」に掛けた。

・「干鮻(ひぐち)」義仲四天王の一人、樋口兼光。先に出した「グチ」、条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata の干物に掛けた。

・「蓼(たで)」義仲四天王の一人、楯親忠(たてちかただ)。

・「根芋(ねいも)」義仲四天王の一人。根井行親(ねのいゆきちか)。

・「煮〆(にしめ)」大江広元の五大孫の兵部丞公広なる人物に始まる西目氏がいるが、これか?

・「高梨子(たかなし)」高梨高信・高梨忠直など、木曾義仲傘下の高梨氏がいるが、建久元(一一九〇)年に頼朝上洛の際の御家人の中には「高梨次郎」の名が見えることから、鎌倉時代も御家人として存続していた(ウィキの「高梨に拠る)。言わずもがな、「梨」の実に掛けたもの。

・「鯛等貞文(たいらのさだぶみ)」平中物語で知られる好色家として知られる歌人平貞文。

・「粘(あめ)の貞任(さだたう)」安倍貞任。

・「畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)」畠山重忠。彼の別名「庄司次郎」を「精進」(物:料理)に掛けた。

・「鯣鮫(さはらの)十郎」佐原(さわら)十郎義連(よしつら)。三浦義明の子で三浦氏の本拠相模国衣笠城の東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居まっていたことから佐原氏を称した。スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius に掛けた。

・「腸義盛(わたのよしもり)」和田義盛。

・「佐々木餅綱(もちつな)」後に佐々木高綱を「同」として出しているところからは、。後の承久の乱で官軍に属して梟首された高綱の兄佐々木広綱(佐々木定綱嫡男)か? しかし「廣(広)」と「餅」では繫がらぬ。不審。

・「同四郎蛸綱(たこつな)」宇治川の梶原景季との先陣争いで知られる佐々木四郎高綱。

・「(えぶな)源八」(「」=「魚」+「子」)海老名源八季貞のことであろう。頼朝の挙兵時には大庭景親に属して敵対したものの、後に許され幕府御家人となっている。根拠地は相模国の高座郡で現在の神奈川県海老名市に当たる。一見、「海老名」でそのままエビで使えばよいと思われるが、それでは洒落にならないのである。

・「岡鮭(おかさけ)四郎」義朝以来の源氏の忠臣岡崎義実。

・「粥板蠣(かゆのいたがき)」平安末期の清和源氏義光流の武将板垣兼信。甲斐源氏武田信義三男。板垣氏の始祖。言わずもがな、「甲斐」を「粥」に掛けた。

・「鹽漬(しほづけ)になすの與一」那須与一。「那須」を「茄子」に読み換え、その塩漬けとしたもの。

・「熊谷平(くまがやひら)山が一の谷のせんじちや」熊谷直実。言わずもがな、彼は寿永三(一一八四)年二月の「一ノ谷」の「戦陣」で、「先陣」を争った同僚の「平山」季重ともども討死しかけ、さらに少年武将「平」敦盛の首を泣く泣く斬っている。個人的には度が過ぎる洒落で、ちょっと厭な感じがする。

・「梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)」梶原景時。ウィキの「梶原景時」によれば、一ノ谷の戦いで、当初、景時が源義経の侍大将、土肥実平が源範頼の侍大将になっていたが、これが孰れもそれぞれが全く気が合わず、所属を交替、範頼の大手軍に替わった景時は嫡男景季及び次男景高らと『生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わ』ったとあり、この「二度駆け」を「二度懸鯛」(昔の正月飾り。二尾の鯛の尾を奉書紙で包み、双方の喉を藁繩で繋いだものを竈の上や門松などに掛けたもの)に掛けた。当然、祭祀が終われば、食されたものと思われるから(神人共食は古祭儀の基本)、おかしくない。

・「このしろに籠り」「此(こ)の城に籠り」に新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus に掛けた。

・「魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)」本邦に於ける戦闘の陣形を示す語で対称的な陣形である。ウィキの「陣形より引く。「魚鱗(ぎょりん)」は、『中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形。「」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため駆動の多い大陸平野の会戦には適さないが、山岳や森林、河川などの地形要素が多い日本では戦国時代によく使われた。全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる』。『多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する』。『実戦では、武田信玄が三方ヶ原の戦いに於いてこの陣形で徳川家康と戦闘し、これを討ち破っている。家康は後の関ヶ原の戦いで西軍の鶴翼に魚鱗をもって対峙した』。「鶴翼(かくよく)」とは、『両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。そこで中央部本陣を厚くし、Y字型に編成する型がある。完勝するか完敗するかの極端な結果になりやすいため、相手より兵数で劣っているときには通常用いられない。こちらの隙も多く、相手が小兵力でも複数の方向から攻めてくる恐れのある場合には不利になる。部隊間の情報伝達が比較的取りにくいため、予定外の状況への柔軟な対応には適さない』。『実戦では、徳川家康が三方ヶ原の戦いにおいてこの陣形で武田信玄と戦闘し、惨敗している。第四次川中島の戦いでは、武田信玄の本隊が別働隊が帰ってくるまでの間、車掛の陣形で襲い掛かる上杉謙信の軍勢を鶴翼の陣形で凌いだ』。

・「鯰尾(なまずを)」鎌倉時代中期の刀鍛冶で、正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られた田口吉光(あわたぐちよしみつ)の作刀中、彼の特異とした焼き直しの代表格として、小薙刀を磨り上げて脇差に直した名物「鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)」があり、この名はその姿が鯰の尾を連想させるような、「ふくら」(刀の切先のカーブしている部分)がふっくらしている姿が鯰の尾に似ていることに由来するという。豊臣秀頼が好んで差したと伝えられる(以上は主にウィキの「粟田口吉光」に拠った)。

・「蕪(かぶら)」鏑(かぶら)矢。

・「大こんの兵(つはもの)」「大こん」は「大魂」か?

・「葡萄(ぶだう)の達者」武道の達者。

・「數ふるに詞(ことば)たへたり」「たへたり」は「たえたり」(絶えたり)ではあるまいか? 説明する言葉がなくなってしまうほどに多く例はある、と私は読むからである。

・「蒜(ひる)の事、菊の事」対句になっている意味がよく判らぬ。「蒜」は葱・大蒜(にんいく)・野蒜(のびる)など百合の仲間(単子葉植物綱ユリ目ユリ科 Liliaceae)の多年草の古名であるが、これらは食用となり、精もつく代わりに、臭いが強く、下賤の物として気品のある雅びな菊に対称させたものか。

・「鶯菜(うぐひすな)」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種コマツナ Brassica rapa var. perviridis

・「川柳(かはやなぎ)」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla 

・「城菖(あやめくさ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea 

・「鬼薊(おにあざみ)」双子葉植物綱キク目キク科アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense

・「椵(もみ)」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma 。。「西村本小説全集 上巻」は「樅」となっている。

・「赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ」過去推量の助動詞を用いているところからは、原初、神代の時代の、噴火して積もり積もった赤土から最初の植物が萠え初めた頃のことを語っているものか。

・「あら鍬」荒鍬。農事の初めに最初の土の粗(あら)起こしに使う鍬。

・「苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)」キク目キク科アキノノゲシ属チシャャ(萵苣・苣) Lactuca sativa はレタスのこと。地中海沿岸・西アジア原産であるが、本邦では古くから栽培されてきた。「をの實」はレタスの実を「麻実/苧実」(をのみ(おのみ)、即ち「麻の実」(バラ目アサ科アサ属 Cannabis の種子)に譬えたものが? 但し、レタスの種子は滴形であるのに対し、麻の実は丸い粒子状で、かなり異なる。識者の御教授を乞う。

・「白茅(ちがや)なる神代」茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )の生い茂っていた神代(かみよ)の昔。

・「餅(もち)つゝじ」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属モチツツジ Rhododendron macrosepalum ウィキの「モチツツジ」によれば、『花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌される液滴によって粘着性を持つ。野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は手ひどく食害される』。『また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる』とあり、『花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある』とある。

・「鼠尾草(みそはぎ)」フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps

・「葱(ひともじ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum 

・「【下略】」は底本原本の割注をかく表現したもの。読者の飽きをしっかりと見据えた原著者の感覚が凄いと私は思う。

・「前栽(ぜんさい)」「千載和歌集」を庭の植え込みの意の「前栽(せんざい)」に掛けた。

・「橘諸枝(たちっばなのもろえ)」橘諸兄。

・「柿本人丸(かきのもとのひとまる)」柿本人麻呂。これは特異的にまんまで捻られていない。

・「山邊赤草(やまべのあかぐさ)」山部赤人。

・「猿丸猿(さるまるのさる)すべり」猿丸太夫。

・「藍(あゐ)の仲丸」阿倍仲麻呂。

・「在原水葱平(ありはらのなぎひら)」在原業平。「水葱」は「菜葱(なぎ)」「みずなぎ」は単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii、或いは同じミズアオイ属のコナギ Monochoria vaginalis var. plantaginea を指す。

・「文屋康稗(ぶんやのやすひえ)」文屋康秀。

・「樹貫之(きのつらゆき)」紀貫之。

・「棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)」凡河内躬恒。ここは「楝」(おういち:ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の別名)「柑子」(こうじ:バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa 或いは近縁の柑橘類の総称)の二種が掛けられてある。

・「實生忠岑(みばえのたゞみね)」壬生忠岑。

・「坂上苔則(こけのり)」坂上是則(これのり)。

・「竹の深藪(ふかやぶ)」清原深養父。

・「木友則(きのとものり)」紀友則。

・「源下刈(みなもとのしたかり)」源順(したごう)。

・「清原元菅(もとすげ)」清原元輔。

・「藤原荻風(をぎかぜ)」藤原興風。

・「山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)」「小倉百人一首」の「三条右大臣」の名で知られる藤原定方。

・「大納言鷄頭(けいたう)」大納言公任で藤原公任のこと。

・「參義竹村(さんぎたけむら)」参議小野篁(たかむら)。

・「茅原(かやはらの)左大臣」河原左大臣源融(とおる)。

・「平枯森(たひらのかれもり)」平維盛(これもり)。

・「源の橡賴(とちより)」源俊頼。

・「大江苣人(ちさと)」大江千里。

・「春道椿(はるみちのつばき)」「小倉百人一首」に所収される平安前期の官人で歌人の春道列樹(はるみちのつらき)。

・「參議葱(さんぎひともじ)」「小倉百人一首」に「参議等」の名で所収される平安前期から中期にかけての公家で参議であった歌人源等(みなもとのひとし)。

・「定家蔓(ていかかづら)」藤原定家。リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum ウィキの「テイカカズラによれば、『和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく』とある。

・「從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)」この「從二位」は実は底本では「從(じゆ)一位」となっているのであるが、どうもこれでは人物同定出来なかった。「西村本小説全集 上巻」を見ると、ここは「従二位(しうにゐ)」となっており、これで眼から鱗であった。これは「小倉百人一首」に「従二位家隆」の名で所収される鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆のことで、この名「家隆」は有職(ゆうそく)読みでは「かりう(かりゅう)」とも呼ばれるのである。而して、特異的に本文を訂した。

・「後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)」「小倉百人一首」に「後京極摂政前太政大臣」の名で所収される九条良経。

・「花山遍照(くわざんのへんせう)」僧正遍昭。「花山僧正」とも号した。これもまんま(僧名は「遍照」とも書く)で芸がない。

・「草生法師(さうせいはふし)」素性(そせい)法師。

・「木仙(きせん)法師」喜撰法師。

・「白蓮(びやくれん)」寂蓮法師。

・「農人(のうにん)」能因法師。

・「小野小松(をのゝこまつ)」小野小町。

・「泉樒(いづみしきみ)」和泉式部。

・「伊勢が櫻(さくら)」三十六歌仙の伊勢。それに地名の「伊勢」を掛けて、さらに伊勢神宮神領の境界を成す神域に入るための禊(みそぎ)をする神聖な川とされる宮川の、京や東国方面からの入口となる「桜の渡し」(下の渡し)を掛けたものであろう。

・「紫(むらさき)が藤(ふじ)」紫式部と「源氏物語」の「紫」の所縁(ゆかり)の「藤」、源氏の母「藤」壺や、「若紫」(紫の上)なども連想するように仕掛けてもある。

・「赤染蓬(あかぞめのよもぎ)」赤染衛門。キク目キク科キク亜科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii は染料(黄色みのある草色)とする。

・「蘇枋内侍(すはうのないし)」周防内侍。「蘇枋」はマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連 Caesalpinieaeジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan

・「芹少納言(せいりせうなごん)」清少納言。         

・「大二の山歸來(さんきらい)」「小倉百人一首」に「大弐三位(だいにのさんみ)」の名で所収される藤原賢子(かたいこ/けんし)。藤原宣孝の娘で母は紫式部。「山歸來」は単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra、或いはシオデ属サルトリイバラSmilax china を指す。

・「議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)」「小倉百人一首」に「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」として所収される高階貴子(たかしなのきし/たかこ)。「儀同三司」は息子藤原伊周の官職であった「准大臣」の唐名。「梔子」はリンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides のこと。

・「二條院茶木(ちやのき)」二条院讃岐。

・「和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社周辺は白砂青松の風光明媚なことから、万葉の時代から歌枕として知られ、平安時代以降は歌道を志しす者が必ず参拝する和歌の神として崇敬されているが、中でも「古今和歌集」の「卷第十七 雜歌上」のよみ人知らずの歌(九〇五番歌)、

 

 我見ても久しくなりぬ住吉の

     岸の姫松いく代へぬらむ

 

があり、この歌は現在でも神楽の曲として歌われていると住吉公式サイト内の解説にもあるから、この「まじはり」とは、そうした神が姫松に感応交合し、豊饒とミューズの霊感を産み出すとでもいうのであろうか。

・「玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)」和歌山県和歌山市和歌浦にある玉津島神社(「玉津嶋神社」とも書く)も古来より和歌の神様を祀る神社として尊崇されてきている。

2016/08/16

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り

    老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り

 

愛宕(あたご)山に詣でゝ、峯ごしに高雄、栂尾(とがのを)にこゝろざし、行く道の中間より、月の輪、遠からず、と、きけば、柴の翁(おきな)に道をたづねて、觀音の靈場を拜す。かたへに、怪(あや)しの庵室(あんしつ)あつて、いたう年たけたる僧ひとり住めり。とへば、御堂の承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり。かゝる幽谷の人倫たえたる所に、晝さへあるに、夜なんど、さぞ物すごく、あぢきなき思ひあらん、と、いへば、左も覺え侍らず、わかくより此所に住みて、古來稀れ也といふ此の齡迄、さしてふしぎも見え侍らず、なれぬ程は、鹿、狼(おほかみ)の聲もけうとく、村猿(むらさる)の數千つゞき、狐火(きつねび)の幽(かす)かにともしけつなんど、心よき物にも侍らず、されど、おもひ入りて、佛につかふまつる身を、いかゞ、けだ物も心なくては、と、たのもしく自(みづか)らおもひあがりて年月をふるほどに、中古ののちは、此の獸類(じうるゐ)も馴(な)れしたしみて、己が友とひとしくなつきぬ。我れ、また、かれらが來ぬ時は、松のあらしの物さびて、須磨の浦に時雨(しぐれ)聞く心ち、し侍る。物はなるゝ程こそ、うゐうゐ敷く、是をおもふに、生死出離(しやうじしゆつり)の道、曠劫(くわうごふ)より馴染(なれそ)めて、出がてに、まよひ來ぬるは、理(ことは)りにこそ侍れ。始め、獸(けだもの)、おそろしく、ねんじ兼たる時、終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを、今はこれらの獸さへ、かはゆく覺えて、心苦し、世にある人の財寶にみち、子孫多く、時めくは、いかばかり、と推量られ侍る、と、いふも、すせう也。去る折しも、猿の大きなるが、ふたつつれて、覆盆子(いちご)のうるはしきを一つかね宛(つゝ)持ち來り、庵(いほ)にいらんとせしが、祇のあるを見て、足はやにかへるを、主の法師手うつてよび返すに、いちごをさゝげ、庭をさらず遊ぶ。あるじの云く、見給へ、かくの如く、山野の菓(くだもの)を、かはるがはる持ちはこびて、我れに親しんずるを、と、いふにぞ、實(げ)に往生の期(ご)に思ひや出でん、と迄、苦しがりし理(ことは)り、と、おもひしりぬ。此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける。

 

■やぶちゃん注

 底本では末尾に「宗祇諸國物語卷四」とある。

・「愛宕(あたご)山」現在の京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山で標高九百二十四メートル。信仰の山としても知られる。

・「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑(うめがはた)にある標高四百二十八メートルの山で、中腹に真言宗高雄山神護寺(じんごじ)があり、ここはその寺を指す。

「栂尾(とがのを)」現在の右京区梅ヶ畑栂尾町にある、明恵の寺として知られる真言宗栂尾山高山寺(こうざんじ/こうさんじ)。

・「月の輪」現在の京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗鎌倉山(かまくらやま/けんそうざん)月輪寺(つきのわでら/がつりんじ)。本尊は阿弥陀如来であるが、十世紀に遡ると考えられている平安中期の古式の木造十一面観音立像の外、平安後期の木造千手観音立像や木造聖観音立像がある。

・「承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり」仙洞 (せんとう)・摂家・寺院などの雑役を務めた者で僧形 であったが、妻帯は随意であった。単に承仕とも呼ぶ。灯明を守る堂守。

・「古來稀れ也といふ此の齡」「齡」は「よはひ」と訓じておく。杜甫の「曲江」の「人生七十古来稀」に基づく謂いである。

・「けうとく」「氣疎く」で、気味が悪くの意。

・「村猿(むらさる)」群猿。

・「たのもしく」(かえって)頼もしいものにも感じられるように。直には「自(みづか)らおもひあがりて」を修飾していると読む。前の「けだ物も心なくては、と、」を受けると読んでも問題はない。述懐の意味上は同等である。

・「中古ののちは」棲みついてから後、今までの期間の半ば頃には。

・「うゐうゐ敷く」歴史的仮名遣は「うひうひしく」が正しい。(遁世者としてははなはだ)気恥ずかしく。

・「出がてに、まよひ來ぬる」「出がてに」「いでがてに」これは自身のことを指す(「がてに」は本来は「~しにくく・~しかねて」の意の上代語「かてに」(補助動詞「かつ」(~できる・~に堪える)の未然形「かて」+打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」)であったものが、後世、「かてに」の「かて」を「難(がた)し」の語幹と誤認にし、濁音化したものである)。遁世者は須らく厭離穢土の心であるべきでありますが、しかし、やはりこの世の情愛というものからは鮮やかに出離することは難く、このように迷ったままに棲みきたっておることは。

・「ねんじ兼たる時」こらえかねるに至った折りには。「終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを」と、さらに「念じ」て我慢して参ったのですが。

・「推量られ」「おしはかられ」。

・「すせう」「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)も同じ。本性の意の「素性」であろうか。しかし、だとすると、歴史的仮名遣は「すしやう」でなくてはならない。識者の御教授を乞う。

・「此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける」私はこのエンディングが好きだ。上田秋成の「頭巾」や、それをインスパイアした小泉八雲の「鬼」のそれと比した時(孰れも私の電子テクスト。後者は拙和訳。英語原文はこちら)、私は――「喝!」なんどの怪しげな一声によって、悟ったんだか、何だか分らずに、ただの骨の山となるのよりも――この猪に跨って、山中へと消えて行く、生き物たちへの愛敬(あいぎょう)を捨てられずに現世の山野を永遠に彷徨っているこの僧を――確かに――選ぶ。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   敵(かたき)を知らぬ假寐の枕

    不知敵假寐枕(かたきをしらぬかりねのまくら)


Katakisiranukarinenomakura

若狹の國に入りて、靑葉山の邊り、徘徊しけるに。里を遙にはなれ、あやしの草の庵を結びて、おこなふ僧あり。年いとわかう、天性(てんしやう)きよらに、げしうはあらぬ人の發心と見ゆ。立ちより、湯ひとつ給はらん、と、いへば、安き御事、いづこよりいづこへとをり給ふぞ、日もやうやう暮れちかく成りぬ。里も遠く侍れば、是にとまり給ひてんや、と、いふ。こなたより望み侍らんを、嬉しくもの給はせける哉、と、打ちとけて、足を休む。國さとの出所(しゆつしよ)などとはれけるほどに、つゝまずかたりて、扨、御僧は、と發心の始えを尋ねければ、僧の云く、某(それがし)は筑紫(つくし)の者に侍り、弓馬の家に生れながら、襁褓(むつき)の内より父におくれ、母の養育にて成長(ひとゝなり)、七才より出家し、豐後の松浦寺(しようほじ)に入りて學をつとめ、十九歳迄、爰に侍り。其の年の暮、薩州上求寺(じやうぐじ)といふに法會(はふゑ)あり。師の名代(みやうだい)に爰に下りて、ある旅店(りよてん)にやどる。此の屋の主(あるじ)、五十有餘とみえ、せい、あくま高く、筋骨(すじほね)ふとく、眼(まなこ)、よのつねにかはれり、宵のほど、あるじも我もならび寢ながら、世間の物語りして、亭主は寢入れども我、れはしぶ茶を過ぐしたるげに、つやつや目もさえて、夢もむすばず、爰に亭主あはたゞしく、御坊々々、と、いふ。我れ、聞く、寢言(ねごと)の相手して言(もの)いふ時、いひまけたる方、即座に死す、と、言(もの)をもいはず、猶、亭主がねごとをきくに、御坊をこよひ、殺す子細あり、覺悟せよ、と、いふ。此の時にこそ驚き、何の科(とが)あつて我を殺さんといふや、と問ふ。和僧(わそう)が親の津山源吉は、力量といひ剣術弓矢のきり者成りし、豐後にて、某(それがし)と傍輩(ぼうはい)、相互(あひたがひ)に威(ゐ)を諍(あらそ)ふといへど、動(やゝ)もすれば、威勢兵術、我れにすぐれける程に、十九年以前、明神の森にたばかり出し、我が弟子共に心を合せ、手ごめにして討ちぬ。暫らく、人に包むといへど、世にかくれなく、津山が弟子、又、我れをねらふ。是によつて、跡をくらまし、此所にかくれすめども、旦暮(たんぼ)に安き思ひもなし。其の頃に僧は生れたり、と、きけば、根をたち、葉をからんとするに、母が懷(ふところ)に隱して、いづちしらず、落ちかくれぬ。津山が弟子、多くとも他人なれば、さりとも、年月(としつき)過ぐるにしたがつて、遺恨はうすく成るべし。此の子は生長するに隨つて、我れを討んと思はん、眼前に今、敵(かたき)の末(すゑ)を置きて、徒(いたづら)に生けて歸すべきや、と、いふ。我れ、此の事を聞くに定かに覺えたるにも非ず、又、所々、身の上の有りこし事もきこゆれど、詮ずる所、寢言なれば用ふるに不ㇾ足(たらず)、唯、いひまけぬまでよ、と思ひ、おことがいふ所、更に理(り)にあたらず、科(とが)なき津山を殺して、あまつさへ、子孫まで害せんとは、頗る重罪、のがるに所なからん。返答あらば申さ給へ、と、たゝみかけていふに、此の後、一言(ごん)のいひなく、亭主、いたく寢入ると覺えし。われも又、ねぶりきざしければ、打ち寢(ね)ぬ。あくる朝(あした)、あるじを起せば、息絶え空しく成りぬ。此の法師、曲もの也、と一在より詮義すれど、毒害刀杖のわざならねば、卒病(そつうびやう)に糺明(きうめい)して、我れは、のがれぬ。行程、遙ならねば、故郷(ふるさと)母のもとによりて、有りし次第をかたる。母、驚きて云く。天命なるかな。其の者は文月(ふづき)新九郎、和僧が親のかたき也。父源吉といひしを、かの者、非法を以て、うつ、此の恨み、骨髓に透れども、きくならく、仇(あだ)を以て仇を報ゆるは、曠劫(くわうごふ)にも、つきず、と、所詮、敵(かたき)を忘れ、一子に出家をすゝめ、父の菩提をとはせんに、眞實を語らば、和僧も父のかたきよ、と、しつて、害心(がいしん)をおこさん、と父が名も、今迄、隱し、かへ名をして、最後のさまをも病ひに死に給ひぬ、と、かたり置きぬ。今、此の事を聞くにぞ、因果の業報は、のがれぬ事なり、と語られけるにぞ、我れも始めて驚き侍る。倩(つらつら)おもふに、父は人に討たれ、人、また天の爲めに命(めい)をほろぼす、我れ此の跡を吊らはでは、と思ふに、寺院のにぎにぎしき中にては、世事に紛ぎて信(しん)起らず、遁(のが)るにはしかじ、と生國を遠くはなれ、爰にすみ侍り、と、かたり終はる。ぼだいは緣よりおこる、と、いへど、かゝるふしぎなる發心(ほつしん)の因緣は、きかず侍り。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「げしうはあらぬ人」身分・才知などが悪くはない、かなり立派なである人物。

・「豐後の松浦寺(しようほじ)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「薩州上求寺(じやうぐじ)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「寢言(ねごと)の相手して言(もの)いふ時、いひまけたる方、即座に死す」民俗社会では多く、寝言は寝ている本人の霊的存在が語っていると考えた。

・「此の法師、曲もの也」変死した僧の庵にいたこの若き僧を指して一在の村人が言った台詞である。

・「詮義」詮議。

・「曠劫(くわうごふ)」極めて長い年月。

・「吊らはでは」「とむらはでは」。

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