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カテゴリー「怪奇談集」の729件の記事

2018/09/20

反古のうらがき 卷之三 大雅堂

 

    ○大雅堂

 大雅堂の畫のほまれは、「畸人傳」及び和泉やのとら吉が「書畫談」につまびらかなれば、こゝに略しぬ。此人の畫、東都にあるはことごとくいつはりなるよしは、みな人のしる事なれども、其門人どもが工みに似せたるは、いかにしても、しるよしなし、とぞ。京攝の間は其(その)もてはやしも又、甚しく、其門人といへども、あざむかれて僞物を賞翫するもあり。大雅堂、歿して後、其年忌に當れる日、門人共がいゝ[やぶちゃん注:ママ。]語らふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、「こたび打よりて追福の會を催し、おのおの師の手筆の畫持寄りて、大きなる寺院の廣座敷にかけ置て、互に見もし見せもして、終日供養なしたらんは、師もよろこばしく思(おぼ)し玉はん」とて、其日の酒飯の料出し合(あひ)て、貮、三十人寄り合けり。

[やぶちゃん注:「大雅堂」日本の文人画(南画)の大成者とされる、画家・書家の池大雅(いけのたいが 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の雅号の一つ。京都銀座役人の下役の子であった。

「畸人傳」江戸後期の歌人で文章家の伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:名は資芳(すけよし))著になる「近世畸人傳正編」(三熊花顚(みくまかてん)画・寛政二(一七九〇)年刊)の巻之四に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読め、「日文研データベース」のこちらでも横書挿絵入りで読める。

「和泉やのとら吉が書畫談」江戸後期の書画鑑定家で書画商であった和泉屋虎吉(通称)こと安西雲煙(うんえん 文化四(一八〇七)年~嘉永五(一八五二)年)の天保一五(一八四四)年刊の「近世名家書畫談」の巻之三巻頭の「本朝名山大雅畫に眞の幽趣を得る事」。「早稲田大学図書館」の「古典総合データベース」のこちらPDF)で読める(こちらから各ページの画像でも読める)。

「其年忌に當れる日」彼が没したのは安永五年四月十三日(一七七六年五月三十日)。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、記載時からだと、既に七十年以上が経過している。]

 こゝに何某といへる人あり。これは大雅堂の門人なれども、師の世にいませる頃より、師の僞筆をかきて、錢金(ぜにかね)にかゆる[やぶちゃん注:ママ。]をもてなりはひとしてありければ、同門の人々、賤しみ忌みて、常にも同門の數にもいれねば、此度の催しの事も告(つげ)しらせざりけり。すでに其日も時うつりて、皆、酒くみかはし、書道の物語りなどして、いと興ありける頃に、彼(か)の何某が麻の上下(かみしも)に黑小袖着て、手に壹幅の畫を携へ、其席に入來れり。人々、「あれは。如何に」といふに、「いや、吾も師が門人なれば、今日の列にくわへ玉へ。各(おのおの)が約(やく)の如く、師の畫幅も持(も)て來りぬ。寄合(よりあひ)の酒飯料も持て來(き)ぬ」とて、さし出(いだ)すに、皆々、かほ見合せて、「如何に計(はか)らはん」といふを、とし老(おい)たる門人がいふ、「此人、常に賤しみ、にくまれたりとて、師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の爲に催せし會に、數を加へじといふ理(ことわ)りなし。また、かれが持て來りし師の畫幅もあれば、もて歸れといふべき理りなし。許して列にいるゝこそ、よからめ」といふにぞ、皆人々も、「さらば」とて、通しけり。何某も大によろこびて、おのが持て來(きたり)し幅もかけ並べ、「各(おのおの)がたの持て來(き)玉ふ幅ども、見ん」とて、廣座敷、一と𢌞(まは)り見てけり。歸り來て、元の座に付(つき)けるが、「扨も。よく多く集まりて、めでたし。各(おのおの)が、師の道、慕ひ玉ふ心の深さも推計(おしはか)られて、よろこばしく侍るなり。しかし、今、見たりし中(うち)に、おのれがかきたる幅、三幅迄、見ゆるぞ」といふにぞ、皆人々、おどろきて、「にくきかれが廣言(こうげん)かな。師の門人が、まさしく師に授(さづか)りし畫なるに、彼(か)れが筆ならんいわれなし。いづれをか、自(みづ)からの筆といふや。ことによりては其まゝに拾置(すておき)がたし」など、口々にのゝしるにぞ、「いや。爭ひは無益なり。第幾番目の幅より、又、二つ置(おい)ての幅、末(すゑ)より幾番目の幅、此三幅は、みな、おのれが筆なり。但し、其持主はしらねども、親しく師の筆とりて書きしをみて授(さづか)りたるには、おそらくは、これ、あるまじ。市にて求め給ひつるならん。さあらんには正しき師の筆とは、いゝがたし。いかにぞや」と問ひたるにぞ、みな、目を見合ひて辭(ことば)なし。但し、市にて求(もとむ)るにも、一人の眼(め)に極(きは)め兼たれば、同師の友どち、助け合(あひ)て見極めたることどもなれば、今更に、師、自(みづか)ら授け玉へるなりとも、いつはり棄(かね)て、惡(あ)しとは思へども、爭ひにもならで、休(や)みけり。かゝればこの何某が僞筆は、おさおさ、師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、他人の見て眞僞を言ひ爭ふは益なきことぞと、京師より歸りたる人、語りける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体がポイント落ちで二字下げ。]

◎大雅堂・文晃(ぶんてう)・應舉ナドノ畫ハ僞(ぎ)シ易シ。椿山(ちんざん)ノ畫ニ至テハ、天眞爛漫、實(まこと)ニ企及(ききふ)スベカラズ。夫(それ)サへ、近時、僞物、オビタヾシクアリテ、庸凡(ようぼん)ハ、ミナ、アザムカルヽ也。余、鑿裁(せんさい)ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ畫ニ至ツテハ、闇中摸索スルモ、失ハジ。

[やぶちゃん注:「文晃」江戸後期の南画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)。田安家の家臣で漢詩人の谷麓谷(ろっこく)の子。

「應舉」江戸中・後期の画家で円山派の創始者円山応挙(享保一八(一七三三)年~寛政七(一七九五)年)。生家は丹波桑田郡の農家。

「椿山」江戸後期の南画家椿椿山(つばきちんざん 享和元(一八〇一)年~安政元(一八五四)年)幕府槍組同心で刀・槍・乗馬に優れた。

「企及」「跂及」とも書く。比肩・匹敵すること。

「庸凡」凡庸に同じい。

★「鍳裁(かんさい)ニ暗シ」は

☓底本は『鑿裁ニ倍シ』で意味が全く通らぬ。

☓国立国会図書館版では『鍳裁(かんさい)ニ愔シ』であるが、

○「鍳裁」は「鑑裁」で鑑定のことだからいいとして、

☓「愔」(和らぐ・静かに安らう・奥深く静か・沈黙する)では意味がとれない。

☓「倍」(背く・もとる・離れる・賤しい)でもなんともピンとこない。

万事休すという訳にもいかないので考えてみた。

○この「□シ」は、或いは、底本も国立国会図書館版も草書で書かれた文字の判読を誤ったのではないか?

そこである字を調べて見た。ああ! これなら「愔」や「倍」に誤りそうだ!

◎「暗」である!

さすればここは評者(例の天暁翁であろう)は謙遜して「私は鑑定眼=目利きには暗いが」と言っているのではないか?

そう採ると、腑に落ちるのである。かくして本文を特異的に弄った。大方の御叱正を俟つものである。

「闇中摸索スルモ、失ハジ」評者は椿椿山の画ならば鑑定眼に自信があると言っているのである。]

反古のうらがき 卷之三 狼

 

    ○狼

 いつの頃にかありけん、「鬼面山(きめんざん)」といへりける、すまひのほて、なん、ありけり。身のたけ九尺斗り、身の重り四十貫にすぎて、力もすぐれて、つよかりけり。江のすまひ事、はてゝ、いづれの國にか趣くとて出けるが、おしえ子等、多く從ひて行けり。所用のことありて、道より、只、獨り行けり。此道は山にかゝりて、日暮よりは狼出て往來をなやますと聞(きき)けれども、少し酒に醉(ゑひ)たるまゝに、人のとゞむるをも聞かで行(ゆき)けり。元より大男なれば、ふつうの人の十人廿人よりは、つよからんとおもふにぞ、人々も、おしても、とゞめざりけり。明けの朝にいたる迄、歸り來(こ)ざりければ、人々、怪しみて、其道筋、尋ね行て見るに、山より、山に入る道筋に、小高き所ありて、其あたりに狼壹つ、切(きり)ころして有りけり。「扨こそ」とて尋行(たづねゆく)に、又、狼の打殺したるもあり、引さきたるもあり、五つ六つぞありける。其あたりに、草履・竹笠など取ちらしたれども、其人はあらざりけり。おちこち走り𢌞りて見れども、血のしたゞりなど、少づゝ見へて、其人の行衞はしれざるにぞ、「扨は、狼に取られ玉ひつらん」と、人々、言合(いひあ)へり。「かゝる猛者(もさ)のやみやみと食殺さるゝといふは、定めて、狼、いくつとなく集りたるならん、五つ六つは切(きり)もしつ、引さきもしつらんが、手に獲物のあらざれば、はては、つかれ果て、取られたるなるべし。其時の樣、さこそすさまじかりつらん」と思われて[やぶちゃん注:ママ。]、殘(なご)り惜しかり。予が見たる「鬼面山」は、身の重さ四十貫と聞へし。四ツ谷に住(すみ)けり。それが師にや、または、又の師にや。

[やぶちゃん注:「鬼面山」四股名。因みに、鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)の後半生と交わる時期に生きた、文政九(一八二六)年生まれの大相撲力士に第十三代横綱となった美濃国鷲巣村(現在の岐阜県養老町)出身の鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう 明治四(一八七一)年没:本名・田中新一)がいる。身長百八十八センチメートル、体重百四十キログラム。武隈部屋。嘉永五(一八五二)年二月場所で「濱碇(はまいかり)」の四股名で初土俵を踏み、安政四(一八五七)年一月場所で新入幕を果たし、「鬼面山 谷五郎」に改名、この頃には徳島藩抱え力士となっている(ウィキの「鬼面谷五郎に拠る)。しかし、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃で、この鬼面山谷五郎が初土俵を踏んだ年(未だ四股名は「濱碇」)に桃野は亡くなっているから、ここに出る四股名を有する複数の「鬼面山」は彼ではなく、彼の先輩格に当たる力士らと思われる。

「すまひのほて」「すまひ」は「相撲(すまひ)」で力士。「ほて」は「最手」「秀手」で、最上位に位置する強い相撲取りを指す語。

「九尺斗り」約二メートル七十三センチメートル。誇張があろうが、恐るべき身長である。

「四十貫にすぎて」百五十キログラム超。

「所用のことありて、道より」後に「明けの朝にいたる迄、歸り來ざりければ」とあることから、ある集落(①)を起点として、別な山を越えた集落(②)に私的な所用があり、①を出て、②に戻る予定であったことが判り、「道より」は、とある「道から」は弟子らと別行動で「寄り」「道」をしたのである。

「おしても、とゞめざりけり」「押しても、止めざりけり」。強いては止めなかったのであった。

「おちこち」「遠近」「彼方此方」。場所や時を示す指示代名詞。あちらこちら。ここかしこ。

「したゞり」「下垂り」。「滴(したた)り」に同じい。

「やみやみと」「闇闇と」。副詞。どうすることも出来ないさま。みすみす。やすやすと。

「獲物」「得物」。武器。

「取られたる」目的語は「命」。

「思われて」ママ。

「殘(なご)り惜しかり」誠に残念無念なことであった。

「それが師にや、または、又の師にや」この狼に襲われて行方不明になった「鬼面山」は、私の見た四谷の力士「鬼面山」の師匠だったのか、又は、師匠のそのまた師匠に当たる人だったのだろうか。]

2018/09/19

反古のうらがき 卷之三 風俗

 

   ○風俗

[やぶちゃん注:読めば分かるが、所謂、トンデモ薀蓄の饒舌体なので、より判り易くするため、特殊な改行法を多用し、途中に注を挿入した。読み難いと思うが、悪しからず。桃野以上に私は我慢して注を附したのである。お察しあれかし。]

 文政の季年にかありけん、散り殘る花に靑葉打交りて、日永く、風淸らなる日、友人の家に訪ひ侍りしに、其あたりなる友がき一人二人集りて、酒、打のみて居にけり。各(おのおの)心々(こころごころ)のこと、語り合たる中に、一人がいふ。

[やぶちゃん注:「季年」末年。文政は十三年十二月十日、グレゴリオ暦で一八三一年一月二十三日に天保に改元しているから、一八三〇年の初夏のロケーションである。

「友がき」「友垣」。友人。交わりを結ぶことを垣を結ぶのに喩えた語。]

「扨も、此頃の風俗、いろいろの好みある中に、願ひの如くにとゝのわぬ[やぶちゃん注:ママ。]ことのみ多くて、花の咲く山遊び、又は川風すゞしき舟遊びなども、心のくるしき事あれば、樂しからず。かく友どち、二人三人(ふたりみたり)、打(うち)よりてかたり合ふとても、時の風俗に出立(いでたち)て、同じ心の人とよりあふが、反(かへ)りて、樂し。」

などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

[やぶちゃん注:「時の風俗に出立(いでたち)て」今の風俗の出で立ちをして。]

「いかなることか、時の風俗ぞ。」

[やぶちゃん注:これは貴殿の申される「時の風俗」とは「いかなること」を「か」言ふ「ぞ」の意か。或いは単に「いかなることが」貴殿の言ふ「時の風俗ぞ」の濁点落ちか。]

ととへば、先づ、男は、

「廿(はたち)のうへ、一つ二つ越たるが、さかり也。

身の丈(たけ)はひくき方ぞ、よき。

色は餘りに白からぬを、よく洗ひて、つやあるをよしとす。

目(まな)ざし・口元・鼻のかゝり、女めけるも反(かへ)りて、よろしからず。たゞにくからぬぞ、よき。

[やぶちゃん注:「かかり」作り。様子。]

髮のかゝりは、髭(ひげ)薄らかに、月代(さかやき)のそりたる跡、靑々として、油の氣(け)、少くて、つやあるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にすき立(たち)、元結の糸、數少(かずすくな)く卷(まき)て、手輕く推曲(おしま)げ、『イチ』の大きさと『ハケ』の長さと、其人の顏かたちにかなひたるが、よし。

[やぶちゃん注:「イチ」「日本国語大辞典」に、髷(まげ)の元結で括ったところから後方に出た部分を指すとあり、浮世風呂から『(イチ)が上り過たじゃあないかね』という引用例が示されてある。

「ハケ」「日本国語大辞典」に、男の髷の先端・髻(もとどり)の先・はけさき、とあり、「刷毛先」である。]

先づは『小銀杏』といへる結び樣(やう)ぞ、時の流行に叶へり。

[やぶちゃん注:ウィキの「銀杏髷」(いちょうまげ)によれば、『江戸時代を通して最も一般的だった男性の髪形』が「銀杏髷」=「銀杏頭(いちょうがしら)」で『現在』、『一般に「ちょんまげ」と呼ばれるのは』それであるとあり、『月代(さかやき)を剃り、髻を作って』、『頭頂部に向けて折り返し』、『その先(刷毛先)を銀杏の葉のように広げたもの(広げない場合も多い)』を指すが、『身分や職業によって結い方に特徴があ』あったとし、『武士の多くには』今の相撲取りのする『大銀杏が好まれた。髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。なかでも野暮ったい田舎の藩主などは頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷をこれ見よがしに結うものもいた』。『武士ではあるが、町人の中に住まって犯罪捜査に従事する「不浄役人」の与力はもっと町方風の粋な銀杏髷を結っている。髷尻が短く髷自体も短くて細い。髷先を軽く広げ月代の広いサッパリとした「細刷毛小銀杏」がそれで、町人とも武士とも見分けがつきにくい(現代でいう、私服姿の捜査員である)。同じ街中で暮らすにしても浪人などは月代をきれいに剃らず節約のため』、『五分刈り状態で伸ばしていた』。町人の『いわゆる「江戸っ子」は髪形に気を使っていて、いつもきれいに剃りあげようと散髪屋に足しげく通ったために散髪屋が社交場になるほどだった。彼らの好みはやはり「小銀杏」だが、ここでも職業によって微妙に違いが見られ』たとある(太字下線やぶちゃん)。「コトバンク」の「大銀杏」の「大辞泉」のところにある画像で「大銀杏(武士)」・「小銀杏(町人)」・「浪人銀杏(浪人)」の図が見られる。]

扨、春着の小袖ならば、『羽二重(はぶたへ)』にかあらん、『七子(なゝこ)』にかあらん、何(なんに)まれ、『通し小紋』といふに染(そめ)て、『花色染(はないろぞめ)』の『秩父絹(ちちぶぎぬ)』を裏となし、『フキ』多く出して上に着るぞ、よき。

[やぶちゃん注:「羽二重」経(たて)糸・緯(よこ)糸に撚(より)をかけない生糸を用いて平織り又は綾織りにした後で精練と漂白をして(「後練り」と称する)白生地とし、用途によって染め等を施す。一つの筬羽(おさば)に経糸を二本、二重にして 通すところからこの名がついたとされる。柔らかく上品な光沢がある高級品である。

「七子」「七子織り」「斜子織り」は経糸・緯糸ともに二本以上を一単位として平織りにした絹織物。同じ本数の経糸と緯糸を打ち込んで織る。織り目が籠目のように見えることから、現在は「バスケット織」「ホップサック織」とも呼ばれ、 漢字では他に「魚子織」「並子織」などの表記がある。「魚子織」は外観が魚卵のように粒だって見えることからと言う。ふっくらとした厚地の織物で、帯地や羽織に用いられる、と創美苑の「きもの用語大全」の「斜子織」の解説にあった。生地画像は株式会社アルテモンドのこちらがよい。

「通し小紋」「小紋」はウィキの「小紋」によれば、『全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている』とある。中でも「江戸小紋」は別格の格式あるもので、『江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。また、各大名で使える模様が固定化していった。代表的な模様として』「鮫小紋」(紀州藩徳川氏)・「行儀小紋」及び本「(角)通し小紋」があり、これを特に「江戸小紋三役」と称する。他にも『「松葉」(徳川氏)「御召し十」(徳川氏)「万筋」、「菊菱」(加賀藩前田氏)、「大小あられ」(薩摩藩島津氏)「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)があ』り、『このような大名の裃の模様が発祥のものを「定め小紋」「留め柄」という』とある。「通し小紋」の生地様態は、表参道の江戸小紋の店「染一会(そめいちえ)」のこちらがよい。

「花色染」「花色(はないろ)」は青系統の代表的な伝統色で、強い青色を指すので、ここもその染め色のことであろう。サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「花色」によれば、奈良時代以前は「はなだ色」、平安の頃は「縹色(はなだいろ)」の『色名で、江戸の頃より「花色」「花田色(はなだいろ)」と呼ばれるようにな』ったもので、『現代でいうところの』「青色」に当たるとあり、『ちなみに、「花色」の名前は平安時代にも見られ、これはもともと鴨頭草(つきくさ)(露草(つゆくさ)の古名)の花の青い汁で摺染(すりぞめ)していたことに由来し』、『いつからか』、『藍染(あいぞ)めに黄蘗(きはだ)をかけた色を指すようにな』っ『たが、色名はそのまま残ったようで』ある、とある。

「秩父絹」現在の埼玉県秩父地方で生産される絹。着物の裏地として、当時はその丈夫さで知られていた。

「フキ」「袘(ふき)」。創美苑の「きもの用語大全」の「袘」の解説から引く。『袷の着物や綿入れの袖口や裾の部分で、裏地を表に折り返して、表から少し見えるように仕立てた部分。ふき返しとも』称する。『表地の端の傷みや汚れを防ぐため』及び錘(おもり)の『役割などを担ってい』るもので、『かつては、ふきに綿を入れる「ふき綿仕立て」があり』、『ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで、裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも、ふっくらと柔らかな美しいラインが出て、重厚な感じや着物の豪華さを引き立て』る役割をした。『このため、武家や富裕な商家の女性に好まれ』たという。『ふきの分量は流行で変化もあり、江戸時代中期には』一『寸以上の幅や厚みを持つものもあったといい』、『時代が下ると庶民にも広がり、明治~昭和初期にはふき綿入りの晴れ着も一般的にな』った『が、現在は花嫁衣裳や舞台衣装などに残るのみで』あるとある。但し、『綿を入れないふきは、今でも袷の着物や綿入れの袖口や裾に見られ』、『表布からちょっぴりのぞいて見えるふきは、配色などにおいてのデザイン性も兼ね備えてい』て、『今も昔も変わらぬ、実用と装飾の両面を併せ持つ工夫といえ』る、とある。]

かさねには『中形小紋』といへる染(そめ)の縮緬(ちりめん)に、おなじ【花色の事。】[やぶちゃん注:以上の【 】内は割注ではなく、「おなじ」の右添え書き。]こん染(ぞめ)の裏付(うらつけ)て、二つ三つ、打重(うちかさ)ね、黑染(くろぞめ)の『龍門』といへる絹に、白く紋(もん)付(つけ)たる上着も、よし。それも家の紋にかぎらず、紋の樣(さま)、心にくからぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に見つくろふて[やぶちゃん注:ママ。]、大きさ二寸計(ばか)りに、三所、付(つけ)たる、よし。

[やぶちゃん注:「中形小紋」本来は。型染(かたぞめ)の技術で、「小紋」よりも少し大きな型を用いて、中ぐらいの大きさ紋を染め出すものを「中形」と称したようである(後に今のような専ら浴衣地の呼称となった)。幾つかのページを見たが、まず、グーグル画像検索「中形小紋」がよかろうか。

「龍門」染織品の販売用商品名であるようだ。沢尾絵(かい)氏の論文「『宗感覚帳』にみる江戸時代前期の染織品の受容と価格―西鶴作品との比較検討を中心に―」(『日本家政学会誌』第六十四巻第十二号(二〇一三年刊)PDF)の「(4)越後屋呉服店の経営と呉服商品」(「越後屋呉服店」は現在の「三越」の前身)の章に(ピリオド・コンマを句読点に代え、「日本永代蔵」の刊行年の個所の表記を変更、注記号を省略させて貰った)、

   《引用開始》

越後屋呉服店の繁盛の様子を、井原西鶴が『日本永代蔵』(貞享 五(一六八八)年)巻一ノ四「昔は掛算今は当座銀」でも取り上げている。ここでは、本来の三井八郎右衛門の名が三井九郎右衛門に置き換えられているが、店の規模、手代の人数、越後屋の特徴である現銀売り・掛値なしの商売といった内容は駿河町に移転後の越後屋呉服店の特徴であり、当時の越後屋呉服店の知名度の高さを窺うことができる。越後屋の大変な繁昌ぶりと共に、品揃えの豊富さも知ることができる。売場で扱われる商品の名称としては、金襴、日野・郡内絹、羽二重、紗綾、紅類、麻袴、毛織類、天鵞絨(天鳶兎)、緋繻子、龍門があげられる。これらの品揃えは、三井高好が記録した『宗感覚帳』の「亥七月店落残」「呉服物相場書上」の羽二重類、紗綾、紅類、羅紗や猩々緋(毛類)、びろうど、龍文といった名称と共通する。西鶴作品中の染織品と同じ名称を呉服屋の記録に見出せることで、西鶴作品に描かれている染織品を、当時実際に使用された呉服商品として捉える事が出来るのである。

   《引用終了》

因みに、同論文の注の十七に、「日本永代蔵」の当該箇所が引かれてあり、確かに『龍門』とある。沢尾氏によれば、事実は『龍文』が正しいようだが、この薀蓄は桃野が記憶の中にあるものを再録したものであるから、殊更に指弾する必要はない。]

肌着の襦袢(じゆばん)、縮緬のしぼり染(ぞめ)ぞ、よき。襦袢の袖は無地の茶染(ちやぞめ)なるべし。

半ゑりは、皆、黑染の『八丈』、打(うち)そろひたる、よし。

[やぶちゃん注:「八丈」八丈絹。原産地とされる伊豆八丈島産の「黄八丈」を中心とした、平織りの絹織物で、八丈島産のものを「本八丈」と呼び、類似品が各地で生産されるようになった。着尺地(きしゃくじ:大人用の着物一着を作るのに要する布地)・夜具地などに用いられる。また、各地で生産されているものに「黒八丈」・「米沢黄八丈」・「鳶八丈」・「八丈紬」・「紅八丈」などがあり、「美濃八丈」・「尾張八丈」などの名も残っていると、「ブリタニカ国際大百科事典」にはあり、同事典の「黒八丈」には、黒色無地の絹布で、略して「黒八」ともいう。生糸を落葉高木の夜叉五倍子(やしゃぶし:ブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma)の液に入れて煮出してのち、鉄分を多く含んだ泥土にもみ込むことで、ヤシャブシに含まれるタンニンと泥中の鉄分が化合して純黒色に染まる。現在の東京都あきる野市五日市付近を中心に産し、「泥染」と称したが、現在ではほかの機業地へ移ったとある。また、「大辞泉」には、主として和服の半襟・袖口や畳の縁などに使用される。黒色で、織り目を横に高くした絹織物で、初めは八丈島で織ったので、この名がある、とするから、八丈産ではない可能性が高い。]

ゆきたけは、少し身丈(みたけ)より長くして、ゆたかなる、よし。

[やぶちゃん注:「ゆきたけ」着物の裄(ゆき:着物の背の縫い目から袖口まで。肩ゆき)の長さ。

「身丈」この場合は、実際の背骨の中心から腕首までの長さを言っていよう。]

帶はよき品ほどよけれども、此頃の流行に隨ひては、『小白(こはく[やぶちゃん注:底本のルビ。])』の淺靑染(あさぎぞめ)ぞ、よき。幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて、『伊勢松』といふ縫物師が仕立たるぞ、よき。

[やぶちゃん注:「小白(こはく)」不詳だが、或いは光沢のある絹織物か? 識者の御教授を乞う。

「淺靑染」薄い青緑色の「浅葱(あさぎ)」色に染めるたものであろう。

「幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて」全然、意味不明。「くけ」は「絎(く)く」(現代語「絎(く)ける」)で、「縫い目が表に出ないような縫い方をする」の意か。そうすると、例えば帯の幅を曲尺(かねざし)の寸法で「一寸八分」(=五センチ二・七ミリ)分、内側に織り込んで縫い目を外に出さずに縫った帯の謂いか?

「伊勢松」帯職人の名前らしいが、不詳。]

『小白』の黑染をもて、袖形に作りたる頭巾のゆたかなるぞ、又なく、よし。

扨、上着の小袖、『黑小白』ならば、下着は『唐ざらさ』の靑にも、よし。

[やぶちゃん注:「唐ざらさ」「唐更紗」(からさらさ)であろう。インド産の更紗。木綿や絹に花・鳥などの模様を描いたもの。]

羽織は『七子』まれ、『八丈』まれ、『ケンボ』といへる小紋に染(そめ)たるに、同じく黑染の『八丈』の裏(うら)付(つけ)て、『毛拔合(けぬきあは)せ』といふに仕立(したて)、丈は二尺の上に出(いで)ざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にして、前下(まへさが)り無きぞ、よき。

[やぶちゃん注:「ケンボ」よく判らぬが、「憲法小紋(けんばふこもん)」のことではなかろうか。「憲法(けんぼう)染め」の「小紋」で、黒茶色の地に小紋を染め出したもの。慶長年間(一五九六年~一六一五)に吉岡流四代目憲法(直綱)(吉岡憲法は剣術吉岡流の歴代当主が世襲した名。渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える染織の技術も相伝した)が考案したとされる。「吉岡染め」とも。ここは赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指し、江戸時代には黒系統の平服として広く愛用された。私は「『ケンボ』といへる小紋」で、直ちに、芥川龍之介の「枯野抄」の、『と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)其角が、紬(つむぎ)の角通(かくどほ)しの懷(ふところ)を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々(りゝ)しい去來と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる』という去来のそれを思い出したのである。

「毛拔合せ」二枚の布を縫い合わせて、両方の布に縫い目から同分量の被(きせ:縫い目が表から見えないように糸道に沿って深く折った時の、縫い目から折り山までの部分。折りきせ)をかけて仕立てる手法。]

かゝれば、武士・町人の分ちなく、よけれども、武士には今一つの好み、多し。

大小の刀は、いづれも短きぞ、よき。

大の方は、二尺の外に出(いで)ざる、よし。備前の太刀、細くとぎへらして、地金(ぢがね)、あらび、心金(しんがね)、きらきらと出(いで)たるに、『丁字(ちやうじ)亂れ』の燒刃、刃(やいば)近き所斗(ばかり)殘りたるが、反(そ)り深く、輕きぞ、よき。

[やぶちゃん注:「とぎへらして」「砥ぎ減らして」。

「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」これは刀の真価としては、おかしいことを言っているように思われる。日本刀に求められるものは「折れないこと」・「曲がらないこと」・「よく切れること」で、この相い反する要求に応ずるため、折れぬように軟らかな「芯金(しんがね)」(ここで言う「心金」)という鉄を、曲がらずによく切れるようにするための「皮金(かわがね)」というよく鍛えた硬い鉄(炭素鋼)が包み込む構造になっているのである。「地金が出る」という言い方があるが、これは、太刀の研ぎをやり過ぎ、皮金が減ってしまって「芯金」がすっかり出てしまった状態を指すのであって(そこから、「表を取り繕っていたものが取れてしまい、悪しき本性が表われてしまった意味に転じた)、地金が「荒ら」んで、削れてしまい、その間から「心金」が「きらきらと」チラついて見える太刀はダメな刀なのではあるまいか? 実際に太刀打ちすることもなかった、このウンチク・ボンクラ侍のお飾り太刀であったとすれば、大いに満足、腑に落ちるとは言える。

「丁字亂れ」焼入れによって生じた文様「焼刃(やきば)」「刃文(はもん)」の一つ。丁子刃。代表的な乱刃の一つで、乱れの頭が丁子(クローブ)の蕾に似ていることに由来する。グーグル画像検索「丁子乱れ 刃文」を見られたい。]

小の方は一尺斗りの、極めて銘古く、極めて名高き品、よし。細き直(す)ぐ刀(がたな)の、金色(かねいろ)、白く見ゆるこそ、尊(たつと)げなれ。

茶染(ちやぞめ)の糸卷(いとまき)の柄に、黑塗りの頭(かしら)を卷(まき)かけて、白鮫(しろざめ)の粒(つぶ)揃(そろ)ひたるが、うるみのつやあるよふに[やぶちゃん注:ママ。]、うらに油をさし、それとしれざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にしたる、よし。

[やぶちゃん注:「日本刀・居合刀のNPS」のこちらの「柄巻き」(全三ページ)でその過程が具さに判る。

「頭」柄頭と採った。

「白鮫」サメの皮であるが、実際に使用されたのはエイの皮。表面がざらざらしていることから、滑り止め(柄の補強と柄糸がずれぬようにする)として柄木の被覆に使用された。

「うるみのつやあるよふに、うらに油をさし、それとしれざるよふにしたる」「潤(うる)みの光澤(つや)ある樣(やう)に、裏に油を注(さ)し、其れと知れざる樣にしたる」如何にも如何にもいやったらしい極みである。]

目貫(めぬき)は『いろ繪』あるぞ、よき。

[やぶちゃん注:「目貫」柄に附ける金具。「目抜」とも書く。元来は刀剣の茎孔(なかごのあな)へ通して、柄と刀身をがっちりと留めるための目釘(めくぎ)の上の金具であって、ごく実用的なもので(「目」とは「孔」のこと。それを「貫く」の意)、普通は、その上を前に出た柄糸で糸巻にしたので見えなかった。特に巻かずに露見しているものを「出(だし)目貫」と称した。しかし、中世末から近世に入ると、目釘と目貫は本来の機能的連結を失って分離してしまい、目貫は専ら、刀装(拵(こしらえ))の装飾の一つになってしまい、室町後期に装剣金工を業とする後藤家が出現して以降、「獅子」「虎」「竜」或いは「家紋」などの意匠がそこを飾るようになってしまうのである。

「いろ繪」「色繪」。金工用語。刀剣の装飾金具として、色彩の異なる数種の金属を組み合せて象眼(ぞうがん)文様を作ることを指す。]

『フチ』は銀の『四分一(しぶいち)』といへる、金或(あるい)は烏金(しやくどう[やぶちゃん注:底本のルビ。])の、立(たち)だけ、二分(ぶ)斗りなる平(ひ)ら形(かた)なるに、奈良の京にて作りたる細工のものぞ、このまし。

[やぶちゃん注:「フチ」縁金(ふちかね)。柄頭の逆の鍔側に附ける金具。

「四分一」色金(いろがね)の一つで、暗い灰色をした、銀と銅の合金。合金に於ける銀の比率が四分の一である事から名付けられた。参照したウィキの「四分一」によれば、『煮色仕上げで美しい銀灰色を示すことから』、『朧銀(ろうぎん、おぼろぎん)とも呼ばれ』、『朧銀には他に銀の表面に梨地(なしぢ)をつけ』て『光沢を消したものも含まれる』とある。

「烏金(しやくどう)」ルビで判る通り、赤銅(しゃくどう)のこと。銅に金を三~四%、銀を約一%加えた銅の合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すことから、本邦では古くから「紫金(むらさきがね)」「烏金(うきん)」などと呼ばれて重用された。

「立(たち)だけ」「だけ」は「丈」で、柄からの盛り上がったその高さ、の意であろう。

「二分」六ミリメートル。いやはや、細かい注文がお好きだね。]

鍔は、いかめしからぬぞ、よき。

其外の金(かな)ものは、金まれ、しやくどうまれ、さゝやかなる、よし。

さや塗(ぬり)は呂色(ろいろ)に『きすの魚の石』など塗(ぬり)こめたるか、又は『笛卷』といふに塗(るり)たるか、あわび貝の靑き粉(こ)をまきたるなど、いろいろ、あるべし。

[やぶちゃん注:「呂色」サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「呂色」によれば、『黒漆の濡れたような深く美しい黒色』で、『漆工芸の塗りの技法のひとつである呂色塗からきた色名で、蝋色とも書』く。『呂色塗は京漆の代表で、中でも本堅地(ほんかたじ)呂色塗は大変な工程と高い技術を必要とし、また』、『表面を平滑に磨き上げる非常に技術の高い塗りだからこそ』、『専門職の呂色師が存在するほどで』あるという。『生漆(きうるし)に油類を加え』ずに『精製したものを塗ることで、色は黒色に近い深い光沢をもつ色にな』るとある。漆アレルギーの私には触れない。

「きすの魚の石」キス類(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae)の耳石(じせき:脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織。平衡胞に含まれる平衡石で、平衡感覚と聴覚に関与する。よく目にする魚類のものが知られ、その断面は木の年輪のような同心円状の輪紋構造が見られ、事実、一日に一本の筋が形成される。これを「日輪(にちりん)」と呼び、年齢推定を日単位で行うことが出来る)であろう。キスは耳石が採取し易い。キス属シロギス Sillago japonica それは「福井県水産試験場」公式サイト内のこちらで見られる。

「笛卷」笛巻塗(ふえまきぬり)。「銀座上州屋」の「刀剣用語解説集」より引く。『刀の鞘或いは槍や薙刀の握部に施された、主として赤と黒の段塗り模様。一寸ほどの間隔で円周方向に段差をつけて塗る手法がとられる。竹笛の節模様に似ているところからの呼称だが、風流な趣が感じられる』とある。]

但し、此(この)刀の事に尤(もつとも)心を用ひで叶はざること、あり。

[やぶちゃん注:「尤心を用ひで叶はざること」最も心を用いないでは(細心の注意と意識の集中を行わない限り)、決して叶わぬ(実行不可能な)こと。]

さやの小じりに羽織のすそのかゝり過(すぎ)たるは、藥師(くすし)めきて、見苦し。餘りに刀の鞘、出過(いですぎ)たるは、田舍武士めきて、見苦し。刀の小じりは『螢小(ほたるこ)じり』とて、金まれ、銀まれ、極めて薄くして、橫に見ては、無きが如く、後(しり)へより見て斗(ばか)り見ゆるよふに[やぶちゃん注:ママ。]したる小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき。」

と、いゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「小じり」「鐺」「璫」等と書くが、元は「木尻」の意。刀剣の鞘の末端。また,そこに嵌める金物を指す。

「藥師」医師。

「螢小(ほたるこ)じり」以下に語られる構造から、何となくは判る。金銀の薄い薄片を埋め込んであれば、昼でも夜でも蛍の尻のようにそれこそ「木尻」が光るわけだ。

「後へより見て斗(ばか)り見ゆるよふにしたる」後ろから見たときだけ、辛うじて現認出来る様(よう)にした。

「小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき」ここまで私が我慢して聴いていたら、その様子をその場で滑稽に演技してこいつ以外の連中の笑いを誘う、ね。

「いゝけり」ママ。]

 余、こゝに至りて、聞(きく)事をおふるに得(え)たへずして、座を立(たち)て去りけり。

[やぶちゃん注:「おふる」ママ。「終へる」。私なら、一発、「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」のところでチャチャを入れて、へこまして黙らせる、ね。

「得」は呼応の副詞「え」の当て字。]

 數十年の後、思ひ出(いづ)るに、時の風俗は、目に見し事も忘れ侍れど、此事のみは耳に殘りて、今に語り出(いで)て話しの種となせり。

 

反古のうらがき 卷之三 隅田川の見物

 

    ○隅田川の見物

[やぶちゃん注:本篇は非常に長いので、適宜、改行を加え、途中に注を挟んだ。]

 近きころのことになんありける。大國、領し玉へる諸侯の國につかへまつる貮人の武士ありけり。こたび、江の館に召されて國を出しが、百餘里の道程を經て、江に付(つき)けり。初て君にまみへ奉ることおはりて、各(おのおの)それぞれの役儀をぞ受(うけ)たまわりける。公事のいとまある每に、城外に出(いで)て見るに、目なれぬことのみおゝく[やぶちゃん注:ママ。]て、いと興あるまゝに、今日は深川八幡、あすの日は淺草觀音と、名所々々を打(うち)めぐり、樂しみける。

 夏の初(はじめ)頃、日の永きに、朝、とく出で、此日は隅田繩手を行(ゆき)て、牛島(うしじま)・白髭(しらひげ)・梅若塚(うめわかづか)・關屋の里など見𢌞(みめぐ)り、此あたりの植木の花つくりが家に入(いり)ては、家每に見𢌞りければ、見なれぬ鉢植(はちうゑ)どもの多く、いと珍らかなり。

[やぶちゃん注:「牛島」底本の朝倉治彦氏の注によれば、『牛御前近辺をいう。向島洲崎町(現在は隅田公園に移っている)。長命寺、弘福寺と隣接して、隅田川に臨んでいた』とある。東京都墨田区向島の隅田川左岸の牛嶋神社石碑附近(グーグル・マップ・データ)。

「白髭」同じく朝倉の注によれば、『白髭明神をいう。寺島町一丁目。隅田川堤の下に鎮座』とある。現在の東向島白鬚神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「梅若塚」同じく朝倉の注によれば、『梅若山梅若寺(隅田区隅田町二町目)の境内にある。梅若丸の貴種流離譚が伝えられている』とある。但し、梅若寺は現在の木母寺の前身で、この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、後に復活して、現在の東京都墨田区堤通に現存する。ウィキの「木母寺」によれば、『寺伝によれば』、貞元元(九七六)年に『忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した』とされる『梅若丸を弔って』塚(梅若塚:現在の墨田区堤通二-六)を『つくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる』。天正一八(一五九〇)年には、『徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った』慶長一二(一六〇七)年、近衛信尹(のぶただ)に『よって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた』。『明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により』、『いったん廃寺となったが』、明治二一(一八八八)年に再興された。その後』、『白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した』とあるから、このロケーションは梅若塚のあるこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。

「關屋の里」同じく朝倉の注によれば、『隅田より千住河原までの一円の地で風光の名所、関屋天神があった』とある。これは今の北千住を中心とした一帯、現在の足立区千住仲町の関屋天満宮附近(グーグル・マップ・データ)である。]

 大(おほ)やかなる家は、門のかゝり、風流にして、座敷の樣、籬(まがき)結ひ𢌞せし樣、池の作り、石竹、いろいろの美を表せし庭の景色、こなたの家にて見たると、彼方の家にて見たると、又、別々の趣ありて、何れか勝れる、何れか劣れるなど、かたり合(あひ)て見るまゝに、幾家(いくいへ)ともなく、見てけり。最後に入たる家は、殊に門のかゝり風流にして、入て見れば、二重の板塀ありて、とみには入得ず、

「奧の方ぞゆかし。」

とて見𢌞るに、板の開(ひ)らきてあるより、入たり。

 水そゝぎ塵はらふ男の、三人四人(みたりよたり)出來て、

「いづくより。」

と問ふ。

「いや、くるしからず。何某が家の子なるが、こたび初て武藏の國に來(き)にたれば、名所古跡見𢌞るとて、此あたり迄來にけるが、植木の花作り共(ども)が、心も及ばず手を盡したる庭の面白くて、一と家一と家と見てければ、此方(こなた)は殊に大(おほ)やかなる構へに見受(みうけ)侍れば、奧の方ゆかしくて、こゝ迄は入來(いりきた)れり。ゆるして、見せ玉へ。」

といへば、

「こは、ふしぎの者どもが來にけり。」

とて、打(うち)どよめくを、耳にも留(とめ)で、籬に添(そひ)て入(いり)けり。

 主(あるじ)めける、道服(だうふく)[やぶちゃん注:僧衣。]着たる法師が是を見て、

「今の言葉に相違もあるまじ。苦しからず。こなたへ。」

といひて入(いれ)けり。

 これは、今迄見しとは、又一きわ立(だつ)て、大きなる石のいろいろなる形あるもあれば、石の燈籠の大きなるに、見も及ばぬ彫物したるもあり、池の𢌞り、松の枝、橫に竪に思ふまにまに作りなして、珍卉(ちんき)珍木、數をしらず、植込(うゑこ)めたり。四つ足の亭(あづまや)に唐木(からき)の珍らしきもて雕(ゑ)りたる桂・うつばり[やぶちゃん注:梁。]・椽板(えんいた)・簷(のき)のたる木[やぶちゃん注:垂木。]迄、思ひ思ひの珍木を集めたるもあり。大やかなる家の作り、又、わびたる家の作り、其所々によりていろいろに作れり。

 𢌞り𢌞(めぐり)て、元來(もとき[やぶちゃん注:底本のルビ。])し道のほとりに來て見れば、池に臨みたる家の、美を盡して作りたる椽前に大石を置(おき)、先の法師が椽にこし打懸(うちか)けて居(ゐ)にけり。

「扨も扨も、見事なる手入(ていれ)かな。」

とたゝへてければ、

「これにて、茶壹つ、まゐるべし。」

といふにぞ、

「辱(かたじけな)し。」

とておし並んで腰かけたり。

 淸らかなる女(め)の童(わらは)が茶を汲(くみ)て持ちて來るに、今一人の女の童が、見るに目なれぬむし菓子を、玉(ぎよく)の器に盛りて持(もち)て來にけり。

「一つ、まゐり玉へ。」

といふに任せて、手に取り見るに、是も目に見たる事もなき飴の如きものの煉り詰(つめ)たるに、砂糖の氷なせるを打碎(うちくだ)きてかけたる樣なるにこそありける。二人のもの、一つづつたうべたるに、得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」への当て字。]もいわれず[やぶちゃん注:ママ。]うまかりければ、茶も、二つ三つ、乞ひて飮(のみ)けり。

 法師もよろこべる樣に、

「酒まいり玉はんや。」

といふにぞ、

「元より、好める一所。」

とこたへければ、

「いざ。」

といひて椽に上れば、先の女の童が、酒壺・酒(さか)づき、其外いろいろの酒のな[やぶちゃん注:「菜」。肴(さかな)。]持出(もちいで)たり。

 武藏にては初鰹とて、四月の初より、松魚(かつを)を賞翫するよしは兼て聞(きき)つれども、未だ節(ふし)[やぶちゃん注:鰹節。]に作れるより外は見し事も無きを、差身(さしみ)に作りて出(いだ)したれば、問(と)はで、「鰹なるべし」とは知りけり。

 玉の鉢に盛り入(いれ)たるは、名もしらぬものゝ、いろいろに煮染(にそめ)たるを、三品五品(みしなごしな)取揃(とりそろ)へて小皿に取分(とりわけ)て、一人一人の前に差置(さしお)き、酒(さか)づきめぐらして、すゝめける。

「扨も、かゝる富貴なる家の植木の花作りもありけり。人の入來(いりきた)るに間もなくて、かゝる珍味を取揃へて出(いだ)しぬるは、絶へせず客の來ることにや。吾國は山野なれば、見る事(こと)每(つね)に珍らしく、今日程の樂しみは世に覺へなきことに侍る。」

など聞へければ、法師は、たゞうなづく斗(ばか)り、おほく物談(ものがたり)もせで座して居にけり。

 二人の者は酒の𢌞(めぐ)り、數重(かずかさな)りければ、いとゞ心よく、いろいろのこと語り出で、

「吾(わが)國主の庭も、よしといへども、手入方(ていれかた)おろかなれば、中々にかくは得及ばず。今日(こんにち)是迄、多く見し家家もこれには及ばず。殊に主(あるじ)の樣(さま)、又、主ぶりも、かくは行屆(ゆきどど)き侍らず。且(かつ)、もてなしぶりのみならず、種々の珍味に飽(あき)てけり。酒も數盃(すはい)に及びたれば、今は辭し侍る。」

といふに、一人がいふ。

「かく迄もてなしぶりよきに、如何なる謝儀の計らひにして歸らん。」

といへば、今一人がいふ。

「吾、聞及(ききおよ)びしは、江の風として、茶を乞ひたらんには、茶の價(しろ)を取らせ、酒肴(しゆかう)を出(いだ)したらんには、酒肴の價をとらすとこそきく。かゝる富貴めける家にても、其價はかはることなし。吾計(はから)ひ侍らん。」[やぶちゃん注:底本では「計」は「斗」であるが、国立国会図書館版を採った。後の『吾ながら、よく計ひけり』も同様の仕儀。

とて、懷中より細金(こまかね[やぶちゃん注:底本のルビ。])壹つ取出(とりいだし)て紙におしつゝみ、

「これは少し斗(ばか)りなれども、いさゝか先程よりの謝儀として、二人の者より送り侍る。」

とて差出(さしいだ)しければ、法師は、いなみもやらず、

「心づかひ、なし給ひそ。」

とて、火入の箱の上に置(おき)けり。二人はよろこびて、おもふに違(たが)はず受け納めぬれば、

『吾ながら、よく計(はから)ひけり。』

とて、いとまを乞ひて立(たち)ぬ。

 一人がいふ。

「かく迄によき主ぶりの家は又なきを、再び來りて訪(おとな)ひもし、又、何某々々など打連れて來らんに、家の名を問ひ侍らでは叶ひがたし。」

とて、家の名をとひしに、法師が、

「これ持(もち)玉へ。」

とて、札紙にかきたるを出(いだ)せり。

 請取(こひとり)て、紙挾みに入(いれ)たれば、『後日に見ん』とて、立出て家に歸りけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 明けの日は、國主の館につかへまつる日なりければ、二人の者も出で、諸人(もろびと)と樣々の物語する中に、

「扨も、昨日(きのふ)の遊び程面白かりつることは覺えず、隅田川の堤は絶景に侍れども、殊に勝れたるは植木の花作りが家の園なり。そが中にも白髭の社(やしろ)のこなたあるあたりに、殊に勝れたる植木師がり立(たち)よりて、酒肴のもてなしに預りたるは、又なく心よく覺ゆる。」

など語るに、諸人、問(とひ)侍りて、

「其家は何とかいふ家ぞ。」

ととふに、一人がいふ。

「札紙にしるせし名を請取たれども、家にのこし置たれば思ひ出でず。」

 一人がいふ。

「吾は名は問ひ侍らねども、座敷の鴨居の上に、石摺(いしずり)にしたる大文字を額に張りて懸けたるが、主じの名かと思ひ侍る。しかし、とくとも覺へ侍らねども、『石』へんに『頁』したる字と、今一字はわすれたり。扨、其(その)家の樣(さま)、主の法師の樣、細やかに問ふに、答ふる所、其あたりの植木師が家にあらず。

 諸人の内に心付(こころづき)たるものありていふ。

「先に聞けることあり。もろこしに、沈德潛(しんとくせん)といへる人ありて、しかじかの文字を書(かき)て額に張りしを、後の人、石摺となして、長崎の津に持(もち)て來にけり。こゝに又、何がしといへる有德人(うとくじん)あり、當都將軍の御覺(おんおぼえ)深くて、今は仕(つかへ)をやめて法師となりて、隅田川のつゝみにいませるよし、其名石摺の文字と音(こへ)おなじければ、さる人、送り奉りしより、額にはりて掛け玉ふときく。其文字に疑ひなし。其御人ならば、今仕へは止め給へども、常に將軍の御召しにより登城も爲し給ひ、御覺へ以前にかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、此御人にとり入(いり)候(さふらふ)てとあれば、如何なる望みある人も、叶はずといふことなし。こゝをもて、いづれの國主・城主たりとも、この御名を聞(きく)ときは、おそれ玉はずといふことなし。かの二人がもしあやまりて植木作りの家と見て、無禮のことあらば、一大事なり。とくとく家に行(ゆき)て名書(ながき)の札紙、もてこよ。」

といふに、二人も大(おほい)におどろき、

「左(さ)なりけるか。當所不案内のことなれば、是非なしとはいへども、云譯(いひわけ)もなき粗忽(そこつ)なりけり。」

などいう[やぶちゃん注:ママ。]内に、一人が歸り來て、

「違(たが)はざりけり。」

とて、差出(さしいだ)す名札は、まさに其御人の名にて有(あり)ければ、

「こは。いかにせん。」

と、みな一同に、かたづをのみけり。

 かくて、二人のものをば、先(まづ)、家におしこめ置(おき)て、國主には告げで[やぶちゃん注:底本「告けで」。国立国会図書館版「告げて」。後の展開から、特異的にかく表記した。]、重役のつかさ人(びと)より、使者もて、隅田つつみの館に言入(いひいれ)けるは、

「國主の家の者なるが、今度(このたび)國より出(いで)たれば、物のわきまへもなく、昨日(さくじつ)御館(おんやかた)に推參して、上(うえ)なき無禮に及びしよし、申出(まうしいで)侍るにより、二人ともに家におしこめ置(おき)て候が、いよいよ、さあらんには、如何なる刑に行ひ申(まうす)べきや、此むね、伺ひのため、參越(まゐりこ)したる。」

旨、申入(まうしいれ)ければ、頓(とみ)に使者の趣(おもむき)取次(とりつぎ)て申入(まうしいれ)けるに、

「使者、こなたへよべ。」

とて、召しけり。

 おそるおそる、入(いり)ければ、先(さき)の二人が申(まうし)つる法師、しとねの上にありて、

「きのふ來りしは、田舍の人なるべきが、庭の草木見んとて望むに任せて、ゆるして見せたるなれば、決(けつし)て無禮のことなし。『おしこめ置(おき)たり』とは、大(おほい)なるひがことなり。國主の耳に入(いる)べき理(ことわ)りなし。とく歸りて此趣き申聞(まうしき)けべし。」

とて、歸しける。

 其後は如何になり行(ゆき)て事濟(ことすみ)けんか、しらず。

 此法師も世を去り、故ありて隅田の花園も、今は田畠となりて、跡もなし。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体がポイント落ちの二字下げ。]

◎御小姓頭取中野播磨守隱居シテ石翁トイフ。墨田川ニ別莊アリ。其娘於美越、文恭廟ニ侍シテ加州公主溶姫、藝公主末姫ヲ産ム。

[やぶちゃん注:「中野播磨守」旗本中野播磨守清茂(きよしげ 明和二(一七六五)年~天保一三(一八四二)年)のことである。九千石。別名を中野碩(或いは「石」)翁(せきおう)。通称は定之助。ウィキの「中野清茂によれば、父は三百俵取りの徒頭(かちがしら)『中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔』(よしきよ:高家肝煎)『の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした』。『鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取』(原注(不詳の天暁翁のそれであろう)の「御小姓頭取」というのは、この誤認か)、『新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉』(彼の諡号は文恭院。原注の「文恭廟」は彼のこと)『の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある』(彼女は後注しるが、原注の「其娘於美越」の「越」は「代」の誤記か誤判読と思われる)『新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時』、『江戸城に登城する資格を有していた。このため』、『諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが』、天保一二(一八四一)年に『家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した』。『漢学者』五弓久文(ごきゅうひさぶみ)の「文恭公実録」に『よると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済』(はるさだ/はるなり)、『島津栄翁こと島津重豪』(しげひで)。『一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、彼が加増地没収と別邸取壊処分を受けてから、七~九年以内の記事となる。所持する江戸切絵図類を見ても、どの辺りかも探り得なかった。豪邸変じて田畑と成る。

「於美越」前注で示した通り、中野清茂の養子で第十一代将軍徳川家斉の側室の一人で、寵愛された専行院(せんこういん 寛政九(一七九七)年~明治五(一八七二)年)。俗名は「美代」或いは「伊根」とも。ウィキの「専行院によれば、『実父は内藤造酒允就相』(ないとうみきのじょう(「なりすけ」か))、『養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓とされている』『はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり』文化一〇(一八一三)年三月二十七日に溶姫を、文化一二(一八一五)年十月十六日に仲姫を、文化一四(一八一七)年九月十八日に末姫を産んでいる。『仲姫は夭折したが』、「溶姫」は加賀藩第十二代藩主前田斉泰(なりやす)の正室となり、「末姫」は安芸国広島藩第九代藩主浅野斉粛(なりたか)の正室となった。『家斉の寵愛が深く』、天保七(一八三六)年、『家斉にねだって』、『感応寺を建てさせ』、『将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。この感応寺では大奥の女性達が墓参りと称して寺を訪れ、若い坊主と遊興に耽っていたとされる。また』、『前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は』、『家斉に慶寧を』、『いずれ』、『将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている』。『家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した』。『慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である』。第十二代将軍『徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された』。『専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで』、『本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で』、『三田村鳶魚が天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも』、文久二(一八六二)年、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある』。明治五(一八七二)年六月十一日、『文京区の講安寺にて死去』、享年七十六歳と伝えている。『駒込の長元寺に葬られたが、後に金沢市の野田山の墓地に改葬された』とある。]

2018/09/14

反古のうらがき 卷之三 怪談

 

    ○怪談

[やぶちゃん注:本篇も長いので読み易さを考え、改行を多用し、注は本部内或いは各段落末に添えた。また、核心部分は本書では特異点の真正の怪談(但し、桃野が少年の日に「何がし」(相応な年長者と思われる)が話して呉れたもの)であることから、その部分を「――――*――――」の記号で挟んで区別し、また、その中のシークエンスをも「*」を用いて恣意的に区分けした。]

 段成式(だんせいしき)が酉陽雜爼(ゆうようざつそ)に、「朱盤(しゆばん)」といへる怪物をのせたるが、極めておそろしき物がたり也。

[やぶちゃん注:「段成式が酉陽雜爼」段成式(八〇三年?~八六三年)は晩唐の学者・文学者。現在の山東省の臨淄(りんし)の人。名家の出で、父段文昌は宰相。父の功績によって秘書省校書郎となり、その後、吉州刺史・太常少卿などを歴任し、晩年は襄陽(湖北省)に住んだ。博聞強記で、家伝の膨大な蔵書や宮中の秘書から得た知識をもとに、古今の異聞怪奇を記した随筆「酉陽雜俎」(本集二十巻・続集十巻。八六〇年頃成立)を著した。但し、私の知る限り、「朱盤」では同書には載らない。但し、「朱盤」は、本邦ではかなり著名な妖怪で、私の電子化注でも「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」(延宝五(一六七七)年刊・作者不詳)や、酷似した内容の「老媼茶話巻之三 舌長姥」(「老媼茶話(ろうおうさわ)」は寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したもので、作者は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている)、或いはそれを紹介した『柴田宵曲 妖異博物館「再度の怪」』辺りの本文及び私の注を読まれたい。なお、宵曲は中国の似たようなケースとして「捜神記」の「巻十六」に載る「琵琶鬼」を挙げているが、そこには「朱盤」という名は出ない。またそこで宵曲は本妖怪の本邦での後裔を小泉八雲の「怪談」で知られた「狢」のノッペラボウに認めてもいるので、未読の方は、是非お読みあれかし。

 正德(しやうとく)ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊(ばんばう)」となし、又、何某が「化生物語」といへる書に、武州淺草の堂に化物出ることとなせり。

 皆、朱盤をもととして書(かき)たるもの也。

[やぶちゃん注:『正德ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊」となし』「正德」は一七一一年から一七一六年。これが何という怪奇小説を指しているかは、よく判らない。題名は明らかに「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に極近いが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で作者不詳(「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)であるから、違う。或いは、桃野は正徳二(一七一二)年刊の北条団水著の怪談「一夜船」の、後の改題本「怪談諸国物語」とこの「諸國百物語」を混同しているのかも知れないとも思ったが、団水は談林派の俳諧師であって僧ではない(俳諧師は概ね僧形をしてはいたが)。

「化生物語」不詳。私は一般人よりは江戸怪談集に接してきた人間と自負するであるが、「化生物語」(「けしやう(けしょう)ものがたり」と読んでおく)という怪談集は知らぬ。江戸時代の怪談集には改題本や改竄本・他者による再編集本が多数生まれているから、それらの一つかと思われるが、特定出来なかった。ただ、「武州淺草の堂に化物出ること」という標題に近いらしいものに従うなら、私が電子化注を終えている、延宝五(一六七七)年に京の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)が編著した「宿直草(とのいぐさ)」に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」「宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事」が載りはする。しかし「宿直草」には「化生物語」の異名や異本(改竄本・再編集本)はないように思われる。

 されば、怪談の妄言も、才智、人に勝ぐれたる人にあらねば、世の人の「おそろし」とおもふ程には作りがたし。

 予が少年の頃、何がしが話したる怪は、大(おほい)に人意の表(ほか[やぶちゃん注:底本のルビ。])に出で、おそろしく覺ゆる所あり。

    ――――*――――

 いつの頃にかありけん、國一つ領し玉へる太守ありけり。其奧に宮づかへする少女の二八[やぶちゃん注:「にはち」。十六歳。]斗(ばかり)なるが、二人迄ありける。いづれも、容儀、世に勝れてうつくしく、太守の御いつくしみも深かりけり。一人は「金彌(きんや)」とよび、一人は「銀彌(ぎんや)」とよびけり。二人が仲も甚(はなはだ)睦まじく、座するも伏するも、皆、相(あひ)ともになしける。

 一年斗りありて、金彌は病めることありて、父母が家に下りけるが、程遠き方なれば、消息もなくて過(すぎ)ける。

   *   *

 二た月ばかり在りて、「はや快くなりぬ」とて、再び宮づかへに出けり。

 銀彌がよろこび、言斗(いふばか)りもなくて、前にかわらで[やぶちゃん注:ママ。]睦みける。

 每(つね)に語らひけるは、

「かゝる宮づかへの道は、人に惡(にく)まれ、そねまるゝこともおほければ、心にくるしきことのみたへせぬは、常のならひなるに、吾(わが)二人はよき友を得て實の姉妹のごとくなり。たらわぬことあれば、互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。])に心を付(つけ)て賴母(たのも)しく宮づかへするに、誰より指さす人もなく、假令(たとひ)人ありとも二人一體の如く睦むものから、おのづとたよりよく、心も安く侍るこそ、實(まこと)にうれしきことにぞ。」

など語り合ひて、つかへ[やぶちゃん注:「仕へ」。]のことも語り合せてはからへば、退(しりぞ)きて休むときも打(うち)つれて、片時も離るゝことなくて暮らしける。

 夜の間といへども、一つの衾(ふすま)の内に臥すこともあり、かわやに行(ゆく)とても打連(うちつれ)て行(ゆき)けり。

   *

 とかくすること、又、半年斗り有りてけるが、秋の末つかたに成(なり)ける。

 此日もともに君のみまへをしぞきて[やぶちゃん注:ママ。「しりぞきて(退きて)」の脱字と採る。]、同じ伏しに入けるが、夜深(よふけ)て、常の如く呼連(よびつ)れて、燈火(ともしび)てらして、かわやに行ける。

 金彌は、まづ先に入(いり)てけり。

 いかにかしけん、程經(ふ)れども、出でこず。

 あまりに待ちこふじたれば[やぶちゃん注:ママ。「待ち困(こう)じたれば」。待ち兼ねたので。]、何の心もなく、のすきよりうかゞひたれば、こはいかに、金浦がおもては常ながら、其色、朱の如く、目を見張り、齒をかみ合せて、左右の手に火の丸(まろ)がせを、二つ迄持(もち)て、手玉にとるよふにして居(ゐ)にけり。火の玉の光り、かわやの内にみちて、朱の如きおもてに、明らかに照り合(あひ)たる樣、いかなる「物のけ」なるやらん、二目ともみるべき樣(やう)ぞなかりける。

[やぶちゃん注:「丸(まろ)がせ」「まろ」は推定読み。「丸める」の意の動詞「丸かす・円かす」の名詞形で「丸くしたもの」の意。]

 銀彌は心おち付たるさがなりければ、日頃、かく迄に睦みたる金禰が、假令(たとひ)怪物なりとも、あから樣に人に告げて、此迄(これまで)の睦みを無にせんこと、得たへず思ふものから、

『たゞしらず顏にて濟(すま)さんにしくことあらじ。』

と、おそろしさをたへ忍びて、再びそともに立(たち)て待けり。

 しばしありて金彌は、何のかはりたる氣色(けしき)もなく、かわやより出(いで)けり。

 にこやかにものいひて、

「いつになく待せつること、面(おも)なく侍る[やぶちゃん注:恥ずかしく存ずる。]。」

など、なぐさめて、かわりて燈火を持(もち)てそともに立(たち)けり。

 銀彌もおそろしといふ樣は色にも出(いだ)さで、あとに入(いり)て用たしつれども、こゝろにもあらで[やぶちゃん注:内心は気が進まぬままに。]、打連れて、又、元の臥に入けり。つらく思ふに、

『かゝるあやしき人と此迄(これまで)深く睦みたれば、今更に立別(たちわか)れて別々に伏さんといふも言葉なし。さりとて、かくおそろしき人と、此迄の如く一つ衾(ふすま)に伏さんこと、いかでかこらへ果(はつ)べき。いかなる因果の報ひ來(きたり)て、口にも出し難く、人にも斗(はか)り難き心ぐるしきこととは成行(なりゆく)ことぞ。』

と、淚のしのびしのびに流るゝを、おしかくしおしかくしする程に、其夜はいねもやらねど、心よくいねたる樣(さま)するぞ、又なく心ぐるしかりける。

[やぶちゃん注:「いかでかこらへ果(はつ)べき」どうして恐ろしさを我慢し通すことが出来ようか、いや出来ない。

「いかなる因果の報ひ來(きたり)て」一体、如何なる因果の報いが私を襲いたるものか、と。やや表現に足らぬところがあるが、それが逆に銀弥の恐怖感を効果的に示している。]

 折々に目を開きて見るに、金彌は常よりも心よげに眠りて、少しも常にかわりたる樣(さま)もなし。

   *

 夜も明けければ、又、打つれて宮づかへに出けり。

 銀彌は心の中(うち)にちゞの思ひあれば、

『うき立(たつ)こともなきをさとられじ。』

と、立居(たちゐ)も常より心よげにふるまひて、又、夜に入て、ともにかわやに行たれども、こたびはうかゞひもやらず、伏に入てはいねもやらず、かくすること、日數へにければ、つかれはてゝ、顏の色・飮食とても、常ならずなりにけり。

[やぶちゃん注:「うき立つこともなき」「浮き立つ」は、「気持ちが落ち着かずそわそわする」の意があるが、それではあとの否定の「なき」が合わない。されば、ここは「うきうきする・気が晴れる」の意であろう。]

 金彌はおどろきたる樣にて、

「いかにせまし。」

と、いろいろに心をつくし、藥をあたへ、神彿をいのるなど、いとまめやかなり。

 銀彌は、いよいよおそろしく、

『少しなりとも傍(そば)を離れたらんには、心も少しおち居(ゐ)ん。』

と思へども、殊に心を盡して付添ひ居(を)れば、これも叶わず、おひおひ、おもひの病(やまひ)とはなりぬ。

[やぶちゃん注:「おもひの病」気鬱の病い。]

 金禰、其樣を見て、近くより、

「病の困(くる)しみ玉ふ樣(さま)は、物おもひによるとこそ見侍る。君は此程何(いか)なることか見玉へる事はなきや。」

ととふにぞ、

『扨は。』

とは思ひぬれども、色にも出(いだ)さず、

「それは何事にや、心に覺へなし。」

とこたへければ、

「さあらんには。」

とて、やみけり。

[やぶちゃん注:「扨は」「さては、私が彼女の変容を垣間見たことを薄々感ずいたものか?」の意。

「さあらんには」「それなら、いいのだけれど」。]

 銀彌が心に思ふは、

『先きの夜のことは、もしや、吾が目の迷ひにて、おそろしきことを見つることもや、と思ひ迷ひたれども、今、かの人がとふ樣(さま)を見るに、覺(おぼえ)あることとおもわれて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ物の怪に疑ひなければ、少しもはやく、病(やまひ)を言立(いひた)て、父母がり、歸るにしかず。』

と一定してけり。

 されども、

『此事、心に誓ひて、他人にはもらさじ。』

と思ひければ、病の趣き、ふみに認(したた)め、父母が許にいゝやりけり。

   *

 かくする程に、金彌は、いよいよ、夜の目もいねで、みとりなどするに、又、再び、先の如く、とひけり。

[やぶちゃん注:「夜の目もいねで」夜も寝ずに。]

 されども、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。]に答へければ、それなりにやみけり。

 其後は日の内に幾度となくとふ樣(さま)、顏ざし、少し其時斗(ばかり)は、かわるよふ[やぶちゃん注:「かわる」「よふ」の孰れもママ。]にて、もはや、こらへはつべくもあらず覺へけり。

 病は、いよいよ重くなるに、とふことはいよいよしげくなるにぞ、はては生ける心もなくて、「物の怪」に取らわれ[やぶちゃん注:ママ。]たるにひとしく覺ゆるにぞ、

『今は命も限り。』

とこそ、覺(おぼえ)ける。

   *

 父母、病(やまひ)の趣、聞(きく)とひとしく、醫師を送り、祝驗者(すげんざ[やぶちゃん注:「すげん」は底本のルビ。修験者。])を乞ひ、いろいろとする程に、先づ、家にては護摩を焚ひて[やぶちゃん注:ママ。]神に祈るに、祝驗(すげん)が、いふ。

「これは物の怪の付たるに疑ひなし、甚(はなはだ)危し。此日の夕暮時迄を免れたらば、又、する法もあるべけれども、それ迄の所、心元なし。早々、呼取(よびと)りて吾が傍(かた)に置(おき)玉へ。」

[やぶちゃん注:「此日」「今日」の意で採る。指定した時日を伏せた表現ともとれるが、それでは怪談としての切迫感が激しく減衰する。]

といふにぞ、父母、大(おほい)におどろき、先(まづ)、銀彌がおばなる方に、人、走らせて呼向(よびむか)へ、右の趣を説き示しければ、おばも大におどろき、

「これより行べし。」

とて、駕籠、つらせて、走り出けり。

 おばが夫は武士なりければ、これも賴みてやりけり。

 みち程も遠からねば、其日の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時頃。]斗りに行付(ゆきつき)て、直(ただち)に此よしを太守に告(つげ)て、駕籠に打乘(うちの)せければ、金彌、傍(かたはら)よりまめやかに手傳ひて、

「風に當り玉ひそ、駕籠にゆられ玉ひそ。」

など心付(こころづけ)て、又、別れのかなしさをかたりあひて泣(なく)など、實(まこと)に姉妹の如く、殘る方(かた)もあらざりけり。

[やぶちゃん注:「殘る方(かた)もあらざりけり」名残を惜しむという程度を越えて、激しく別れの悲しみにあるの意か。或いは、彼女はあたかも心は太守の屋敷に残らず、銀弥とともに一緒に行かんとせんばかりであったことを指すか。]

 扨、太守が門を出るとひとしく、祝驗(すげん)の言葉、「今日の夕暮を大切とする」こと迄を語り聞(きき)けけるに、銀彌もおどろきて、

「さては。さありけり。心に誓ひて、他人にはもらさじと思ひけれども、かく神の告(つげ)ありて、祝驗が言葉、明らかなれば、つゝむによしなし、先の姉妹と誓ひて睦みたる金彌こそ「物の怪」なり、其譯はしかじかなり。」

と告げれば、

「さあらんには、われわれ夫婦、附添(つきそひ)て家に歸るに、何の子細かあらん。おち居てよ[やぶちゃん注:安心して落ち着きなされ。]。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、道を早めて行(ゆく)程に、早、申の刻下り[やぶちゃん注:午後五時半前後。]になりにけり。

 其頃は空も曇りて、時よりは早く薄ぐらくなりて、折節、人ざとの家居もまばら成(なる)所にぞ來にけり。

「最早、家にも近ければ。」

とて、少し心おち付(つき)たりしが、俄に駕籠の内に、玉消(たまき)ゆる斗(ばかり)の聲なしければ、

「こはいかに。」

と駕籠のたれ、引上げて見るに、銀彌は仰(あを)のけに反(そり)かへりたり。

 其おもてを見れば、面(おもて)の皮、一重(ひとへ)むきとりて、目鼻も分たずなりて、息絶へて在(あり)けり。

 夫婦のものは、おどろきて、

「こは、口惜し。」

と悔めども、甲斐なく、其儘、家に持行(もちゆき)て、父母にも、祝驗(すげん)にも、途中の話、且、「物の怪」の業(しわざ)なるを語りて、直(ただち)に太守に、其よしを訟(うつた)へければ、

「ふしぎのことなり。」

とて、金彌を尋ね玉ふに、行衞なし。

 其(それ)、又、母が許(もと)に問ひ玉ふに、

「先に病にて家に下(さが)りてより、二月斗りにして死(しし)て、其後(そののち)、再び、宮づかへせしこと、絶(たえ)てなし。」

と答へければ、

「いよいよ、ふしぎの妖怪ぞ。」

と、人々、おそれあへり。

   *   *

 金彌が病も妖怪の取殺(とりころ)せしにや、又は、金彌が靈氣、妖怪をなせしにや、其事は、しりがたし、となん。

    ――――*――――

 

2018/09/13

反古のうらがき 卷之三 くるしきいつはりごと

 

   ○くるしきいつはりごと

[やぶちゃん注:一部の注を各段落の後に入れ込んだ。第二段落は長いので、適宜改行を施した。]

 これは余がしれる人なれども、其名、明(あか)し難し。此人、常に、ばくゑき・飮酒を好みて、世にいふ藏宿師(くらやどし)といふことを業となせり。かゝる人は思はざるこがねを得るによりて、そのこがねあらん限りは、花柳(くるわ)に遊び、美食を食ひ、こがね盡(つく)れば、再び、あしき謀事(はかりごと)を思ひ付(つき)て、筋にもあらざる小金を得るを每(つね)のこととは、なせり。故に今日は美服美食におごりくらすかと思へば、明日は破れたる衣服に、かしぐべき米もなくて暮らすを常とす。

[やぶちゃん注:「ばくゑき」「博奕」。歴史的仮名遣は「ばくえき」でよい。

「藏宿師」旗本・御家人などに雇われて、札差との間の金の貸借についての周旋や交渉・談判に臨んだ者。主に浪人で、幕府はこれを取り締まった。また、札差もこれに対抗して屈強な者を置いた(小学館「大辞泉」に拠る)。]

 一とせ、年の暮に當りて、仕合(しあはせ)あしく、一人の娘が衣服さへ破れ果て、春を迎ふべき手立(てだて)もなく、已に大つごもりの夜に成(なり)にたり。

 おひめをはたる人は、入替り、立替り、來れども、元よりつぐのふべき手當もなければ、皆、こふじ果て歸るにぞ、反(かへ)りて心安きことに思ふべけれど、娘が、

「春着の衣服を着せてたべ。」

とこふがくるしさに、金貮分斗(ばかり)の工面をせでは、かなはざる時宜(じぎ)とはなりにけり。

[やぶちゃん注:「おひめをはたる人」「おひめ」は「負ひ目」で「はたる」は「徴る・債る」で、借金を取り立てに来る人の意。]

 常の日さへ、かゝる人がこがねをからんといふに、こゝろよくかす人あらん理(ことわり)なきに、かく、年のつごもりになりて、何れへか、いゝよるべき。又、あしき謀事も、人々の心ゆるき時こそおこなへ、此時に望みて誰をかあざむかん。纔(わづか)に貮分のこがねの手に入(いる)べき術(すべ)の盡果(つきはて)ければ、やがて思ひ出(いで)し計りごとこそ、ふしぎにも、くるしかりけり。

 程近き所の、料理仕出して飮食うる家に行て、

「唯今、大一座の客來りたれば、あたへ、三兩斗(ばかり)の飮食を料理して卽時におくり越すべし。其品々には何にまれ、大やかなる魚を第一とし、塗りひらのうつわゝ、大きなる程こそよけれ、皿にまれ、臺にまれ、皆々、大やかなるに盛りてこせよ、とくとく。」

といひて、かへりぬ。

[やぶちゃん注:「あたへ」「價(あたひ)」。

「うつわゝ」「器は」。国立国会図書館版もママ。]

 程もあらで、もて來にけり。

 藍染付の大皿に鯛の魚の濱燒にしたるを、頭(かしら)・尾の外に出(いづ)る斗にもり、其傍にいろいろの取合せを盛りたり。同じ程の平らめる皿に、しびの魚と、ひら目の差身(さしみ)をしきならべ、くさぐさの、靑き紅き、海の草、山の草を盛り添(そへ)たり。沈金に朱塗りの大平のうつわには、魚の肉、鳥の肉、海山の珍味、打(うち)まぜて、葛のたまり、うすらかになして打かけ、山葵(わさび)の根のすり碎きたるを上におきたれば、湯げの烟りに蒸し立られて、かほり深く、めでたし。又、物の蓋(ふた)めけるふち高き板の、黑漆以(も)て塗(ぬり)たるに、金の箔(はく)切(きり)ふせ、其間に金粉(きんぷん)もて、山川の景色ゑもいわれず、手を盡して畫(ゑが)きたるに、魚の肉、鷄の卵、木の實、草の根、いろいろの物を五色に色取(いろど)りたるを、山の形(かた)、川の形、七曜の形などに、手を盡して盛り並べたり。其外、器にそれぞれの酸(す)き、辛らき、甘き、五味の外の味迄も取揃へて差出(さしいだ)しければ、

「三ひら斗(ばかり)の黃金(こがね)にて、かゝる品品の揃ひしは、思ふにもましたり。」

など、いひつゝ、物をば取收(おちりをさ)めて、其人をば歸しやりけり。

[やぶちゃん注:「しびの魚」「鮪(しび)」。まぐろ。

「葛のたまり」葛餡(くずあん)のこと。醤油や砂糖で味つけした汁に、水で溶いた葛粉を加え、とろ火で煮たもの。

「ゑもいわれず」「ゑ」も「いわれ」もママ。「えも言はれず」。言いようもなく素晴らしく。

「七曜の形」肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星及び太陽・月(陰陽)を合わせた七曜(天体)を当てた、円い或いは半円などを組み合わせた紋型・図形。]

 扨、客ありといひしは初より詭(いつは)りなれば、いかゞするやと思へば、打寄(うちよ)りても食はで、皆、前の小溝へ打捨(うちすて)たり。

 井の水、汲上(くみあげ)て、器ども、取集(とりあつ)め、其汚れをば洗ひ落し、打重(うちかさね)て廣布(ひろぬの)の風呂敷につゝみ、持出(もちい)で、ほとり近き質屋がり持行(もてゆき)て、こがね二分をぞかりてけり。其歸るさに古き衣類うる家に行て、娘が春着になるべき一ひらのきる物かひて歸りにけり。

[やぶちゃん注:「質屋がり」質屋へ。「がり」は接尾語で、通常は、人を表わす名詞・代名詞に付いて、「~のもとに・~の所へ」を添える。漢字表記では「許(がり)」。この後も結構、出るが、以下では注さない。誰もが、高校の古文で習ったはずだからである。]

 娘も吾も、

「よくしてけり。」

とて、喜びて年を越(こえ)けり。

 明けの日、飮食うる家より使ひ來りて、よべの器どもと其あたへとを乞ふに、

「今少し食ひ殘りて、器もの、みな、明(あ)き兼たれば、後にこそ。」

とて歸しぬ。後の刻に行(ゆけ)ば、

「客がりおくりたれば、器の歸らん時、歸さん。」

といふ。

「こなたにも、用ゆることのしげきによりて、送り玉へる方に行(ゆき)て請(こ)ひ取侍(とりはべ)らん。」

といへば、

「其方(そのかた)は彼、方(かなた)なり、此方(こなた)なり。」

などいふを聞けば、いづれも、一さと二里隔りたる方なれば、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]ゆかで歸りけり。

[やぶちゃん注:「一さと」は「一里」ではなく、村一つ分越えた所の意と採っておく。]

 二日三日過(すぎ)ぬれども、音もなければ[やぶちゃん注:一向、音沙汰なしなので。]、

「こは、あやし。」

とて、行(ゆき)てなじり問ふに、前のごとく答へて、明(あか)ら樣(さま)にもしりがたければ、

「扨は、いつはりにかゝりたるなり。飮食のあたへは思ひもよらず。せめてものことに、器どもの行衞にても知(しれ)たらば、請ひ取(とり)てかへれ。」

と、いひてやるに、

「今、しばしく。」

とて返さず。

[やぶちゃん注:「せめてものことに」底本も国立国会図書館版も「せめてものごとに」であるが、濁音を除去した。]

 こふじ果たれば、こなたより、わびていふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「飮食のあたへは請(こ)ひ奉らず。たゞ、器もののみ返し給はらば、上へなき御慈悲なり。いづちかへおくり玉ふ。それのみ、あかさせ玉へ。」

といへば、

「いや。飮食のあたへもあすは取らすべし。などて、故(ゆゑ)なく、たゞに食ふべき。器も其折(そのをり)こそ返し與(あた)ふべし。」

といふにぞ、いよいよ持(も)てあぐみて、ひたもの、器の行衞を問ふに、

「さらば。何屋がり行(ゆき)て取れ。」

といふ。「何屋」とは、近きあたりの質やなり。

「扨こそ、思ふには出ざりけり。此器のあたへ、飮食の料にたぐふべきならねば、利足、かさまざるまに、はや、行(ゆき)て請(う)け戾せ。」

とて、行て見れば、纔に貮分の質物に利足の付(つけ)たるまゝなれば、

「いと心安し。」

とて受戾(うえもど)して歸りにけり。

 器の中なる品々の飮食、人にもおくり、自分もたべたらんに、さこそうまかりつらんに、かゝる人は、ものおしみはせぬものなり。

[やぶちゃん注:「こふじ果たれば」歴史的仮名遣は誤り。「困(こう)じ果てたれば」。困り果てたので。

「あたへ」「價(あたひ)」。]

反古のうらがき 卷之三 三つのおそれにあふ

 

   ○三つのおそれにあふ

[やぶちゃん注:この一条、長いので、本文中に注を繰り込んだ。本文と識別が容易に出来るように注は太字とした。]

 伊豆國熱海の溫泉は、江戶より路程(みちのり)も近ければ、行(ゆき)て浴する人も多かり。深き疾(やまひ)・重き疾の癒(いゆ)るといふにはあらねども、亦、しるしなきにあらず。まづは夏のあつさをしのぐにはよき海邊なれば、富める町家のあるじなど、來りて、遊ぶもの多し。且、此地の湯本におきてありて、遊女を買ふことをゆるさず。其故は、病を療するとて來りたる人が、かへりて瘡毒(さうどく)[やぶちゃん注:梅毒。]など受(うけ)てかへりたらんには、益なくて害あり、あまつさへ熱海の湯はしるしなく、病(やまひ)、彌(いや)增(ます)などきこへんには、大(おほい)なる所の妨(さまたげ)なればなりとぞ。故に此地に湯女(ゆな)なし。偶(たまたま)諸國より來れる倡家[やぶちゃん注:女郎。娼婦。]の女あれども、皆、瘡毒の療治なれば、問はでもしらるゝ瘡毒の女なり。これが、おりおりは、ひそやかに客をとることあれども、極(きはめ)て祕密のことにて、湯本にきこへたらんには、速(すみやか)におひ去らるゝことのよし。されば、金錢を費さんに手立なき處にて、富豪のあるじ・其外、江戶にて多く金銀を費す人をば、人々、すゝめて此處に遊ばしめ、費(つひへ)を省(はぶ)く術(すべ)をなすとぞ。飮食も自由なれども、價貴(たか)き品々なく、魚類は其處にて獵するなれば、甚(はなはだ)、價、賤(やす)し。これも此地に遊ぶ人、金壹分[やぶちゃん注:一両の四分の一。江戸後期は現在の七千五百円から一万二千五百円に相当。]出して鯛網(たひあみ)[やぶちゃん注:タイを捕るのに用いる巻き網。金額から見て「沖縛り網」で、複数の船を出して円形に囲い込んで漁(すなど)るそれであろう。]を引(ひく)に、獲物多く、家々の遊客におくるに、猶餘りて打捨(うちすつ)ることもあるよし。諸遊藝の宗匠どもは、多く此地に來り、遊客の相手となり、其日を送るもあり。各(おのおの)好み好みのあそびに日をおくるといへども、遂に金錢多く費す術はなきを、此地の名譽となすことなり。湯の沸出(わきだ)す時は一日三度、朝・晝・暮と、時をたがへず、其熱きこと、筍(たかんな)などの類(たぐひ)を投入置(なげいれおく)に、程なくして、よく熱すとぞ。湯本はいふ、「此地に來り玉ふ人々、身分の上下を論ぜず、各(おのおの)同輩のこゝろにて、諸遊客と交り玉ふ程面白き事なし。もし、其意ならば、武家は刀劒を湯本に預け、富家は從者(ずさ)を同遊となし、衣服・身の廻り、人に異なる樣(やう)なく、此地の風俗に隨ひ、單(ひと)への衣一つに細き帶一筋、新らしき好み好みの褌(ふんどし)、其外は新らしき手拭・もみ紙の煙草入(たばこいれ)・きせるなど、大體、島中(しまなか)[やぶちゃん注:海辺の一帯。領分の「シマ」の意かも知れぬ。]一樣の出立(いでたち)にて、『互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。「互い」にと同義。])に身本(みもと)をしらるゝことなきを上々の遊びといふ也』と、人々に告げしらすにより、若き人々などは島中を橫行するに、誰(たれ)に心置(こころおく)ことなく、實(じつ)に心樂しく思ふ遊ぶなり。蓄への金銀も、同じく湯本へ預くる方(はう)、氣遣ひなし。入用程(いりようほど)づゝ受取り、若(も)し、多く費す人あれば、湯本、是を許さず」とぞ。

 余が族家、内海某[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の注に『桃野の祖母の実家』とある。]、「病(やむ)ことあり」とて公(おほやけ)に告(つげ)て、此地を遊ぶこと、數旬なりけり。老(おい)て後、其事を語るに、「實(じつ)に、魂(たましひ)そゞろに脱出(ぬけいづ)る斗(ばかり)に覺ゆる」とて、しばしば、余にも語れり。其島の東北七里斗りに小島あり[やぶちゃん注:不詳。熱海の東北二十七キロメートル半の駿河湾内にはこんな島はない。南東なら初島や大島があるが、前者では距離が近過ぎ(直線で約十キロメートル)、後者では遠過ぎる(約四十キロメートル強)。また後者なら名前を長く流人に島として知られていた(但し、明和三(一七六六)年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島・利島とともに寛政八(一七九六)年には正式に流刑地から除外されている)から名を出すはずである。但し、以下の海難未遂は外洋っぽく、また、大島西岸にある波浮港村は寛政一二(一八〇〇)年に立村しており、当村の鎮守波布比咩命(はぶひめのみこと)神社の例祭は七月二十七日ではあった。だが、やはり大島では遠過ぎ、以下に見るような大きさの舟ではとても無理だと思われるから、やはり初島とすべきか。]。七月何の日、土地の神社の祭禮ありて、此日は家々、酒樽の蓋、打拔き、來る程の人々飯を盛る碗もて、おのがまにまに[やぶちゃん注:思うがままに。]、くみて飮むことを例となせり。故に、男女(なんによ)打交(うちまじ)り、醉(ゑひ)たるまゝに打戲(うちたはむ)れ、舞歌(まひうた)ひすること、二日にして止むとぞ。内海某、從者(ずさ)二人、其外同道の客貮人と船二艘を買ひて、「此祭りを見ん」とて出ける。折節、海上、浪靜かに、幾尋(いくひろ)となき海底に、大小の鮫の魚、行かふ棲(さ)ま、見なれぬことのみにて、いと面白かりけり。人の語るにたがわず、其地の祭り舞歌ふ樣(さ)ま、珍づらしく、日のかたぶくもしらで遊びけるが、日も七つさがり[やぶちゃん注:午後五時半前後。]の頃、船をかへして三里斗來(きた)ると覺へしが、舟子ども、西の空を「き」と見て、「あれはいかに」といふとひとしく、碗(わん)程の雲、二つ、飛出(とびいで)たり。見るが間に傘(かさ)程となり、又、見る間に十たん斗(ばかり)のひらめる雲となり、俄に一天におほひ來(きた)る。「こは、早手なり、かなわじ」といふまゝに、二つの舟を橫樣におしならべ、帆柱二本を舟の上に橫たへて、二所を堅く繋ぎ合せ、かぢを引上げ、櫓を取上る程もあらせず、大風大浪、海をくつがへし、天を拍(う)つ樣(さ)ま、四方、やみの如く咫尺(しせき)を分たず、舟に入(いる)浪は山を崩しかくるが如く、舟のたゞよふ樣(さ)まは木の葉の空に舞ふが如し。人々、膽魂(きもたま)消失(きえう)せて、手に當る物、取持(とりもち)て水をかへ出(いだ)すに、舟中に有(あり)とあらゆる品々、皆、水と共に海中にかへ出(いだ)せり。されども浪は、彌(いよいよ)舟に入(いり)てかへ果(はつ)べくも見へねども、「命のあらん限り」と力を出して、かへ出す。『此あたりぞ、先に見て來にける大鮫などの多くありし處なるべし。鳴呼、不幸にして此禍(わざはひ)にあひ、かれらが腹に葬らるゝ事よ』とおもへば、かなしくも、又、せんすべなく、互に聲よびかわし[やぶちゃん注:ママ。]、力をつくるに、はや、よはり果て、黃水(おうずい)を吐くもあり、潮の中に倒れ伏すもあれども、是をかへり見るにいとまなければ、力のかぎりを命の限りとあきらめて、はたらきける。かくして、舟はいづこをさして洋(ただよ)ふやらん、岸もしらず、果もなき方へ洋ふに任せて、吹かれゆく。舟子共は、人々にまさりてはたらきける故に、はや力盡(ちからつき)て、只、聲斗りふり立(たて)て、「人々、浪にな取られ玉ひそ、風にな取られ玉ひそ」と叫べども、果(はて)には、舟中人ありとも見へず、皆、舟底の潮の中に打伏(うちふし)て、息出(いきいづ)る樣にも見えざりける。一時斗りも經ぬる頃、風、少し靜まり、浪も平らかになりゆくにぞ、人々漸く息出る心地して、舟底より這ひ出て見れば、四方の闇も漸く晴行(はれゆ)き、西の空と覺しき方(かた)、夕日の殘りたるが、「ひらひら」と紅く見ゆる夕暮の空の景色とはなりぬ。「扨も命(いのち)めで度(たく)、舟もくつがへらで、先(まづ)此迄にはしのぎ果(はて)ける、うれしや」とて、互に大聲出(いだ)して泣けり。しかし、舟中に一物なく、各(おのおの)いたく飢(うゑ)たるに、「こゝはいづこなるべき、先(さき)の舟路よりは幾里斗り洋ひたる」と舟子に問ふに、東北の諸島は、皆、見覺(みおぼえ)あり。未だ、霧、晴渡(はれわた)らねば、しかとも分たねども、西の空の日の入る光りのあたりぞ、先に渡りたる小島なるべし、十五、六里には過ぎざるべし、いで、櫓をおせ、かぢおろせ」とて、先の帆柱、とき分ち、舟二つ、おし並べてこぐ程に、矢を射る如くおし切(きり)て、夜の五つ半といふ頃に熱海の嶋に乘り入ける。是も、今少し早く、乘付(のりつく)べかりしが、「早手(はやて)[やぶちゃん注:疾風(はやて)。]のあとは、又も、『かへし風』[やぶちゃん注:吹き返しの風。それまでとは大きく異なる方向から吹いてくる風のこと。主に台風が過ぎ去った後に吹く逆方向からの強い風を指す。]といふことあることもあれば」とて、嶋影見ゆる方をさして乘(のり)たれば、直(ただちに)に[やぶちゃん注:風に逆らって無理に真っ直ぐには。]おし切らで、西をさし、南をさし、島が根近き方へ方へと行たれば、里數、四、五里の𢌞り道とはなりし也とぞ。これを、「一つのおそれに逢ひたる」とかぞへたり。

 湯治も日數經(へ)にたれば、家に歸るも、又、樂(たのし)みになるよふ[やぶちゃん注:ママ。]におぼへて、そぞろに歸り心出で、いまだ公に告たる日限(にちげん)にもいたらねども、「一と先(まづ)、熱海を立(たち)て金澤の八景見ん」とて、山路ごへ[やぶちゃん注:ママ。]に相模の國に入けり。夏の山の景色、得もいはれず、木影に立休(たちやす)らへば、涼風(すずかぜ)、客衣(かくい)を吹き、石によりて坐すれば、白雲、杖のもとよりおこるなど、早立(はやだち)の朝の空、いと晴(はれ)わたり、ひるの暑さにことかわりて、露深く、夕の日の入る山影、いろいろの雲の峯、形をかへて見ゆるなど、面白かりけり。道の案内する人を雇ひたれば、神社佛閤も殘りなく拜み奉り、山道にかゝり、向ひの山を見てあれば、一つの鹿の遊び居たるに、目なれぬ故に、各(おのおの)「あれを見よ、あれを見よ」と見るまに、此方(こなた)の谷合(たにあひ)に錢砲の音響くとひとしく、鹿は「ころころ」とまろびて、谷に落(おち)けり。「扨も、情けなき事よ」と見るまに、さしこの布もて一身すきまなく包みたる人、鐡砲をかたげ、山刀(やまがたな)、腰に橫たへたるが、小篠(こしの)の中、推分(おしわけ)て出(いで)けり。これ、このわたりの獵師にて、是が打留(うちとめ)たるとぞしられける。かくて行(ゆく)こと一里斗にして、道案内の者、彼方(かなた)の山を深く見入(みい)れ居(をり)たりしが、驚きたる樣に、人々を差(さし)まねき、「ひそかに、ひそかに」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、逸(い)ち足(あ)し[やぶちゃん注:速足。]を出(いだ)して、行くての路へ走り行(ゆく)にぞ、人々共、心は得ねども、それが招くに隨ひ走り行(ゆけ)ば、いづこを當(あ)てともなく、ひた走りに走る。『後れては惡(あ)しかりなん』と思ふにぞ、そゞろにこはけ立(だち)て[やぶちゃん注:「怖氣立ちて」であろう。]、互に言(こと)ばもなく、つかれたる足を引(ひき)つゝ、『力の繼(つづ)くだけは』と走りける。廿町[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]斗にして、先に立(たち)たる人、立止りて、待受(まちうく)るにぞ、人々、「何事なれば、かくはするぞ」と問(とふ)に、「人々は知り玉はじ、かく日暮近くなりては山路は行かよふ間敷(まじ)かりしを。此頃はさせることもなしと聞(きく)にぞ、人々を伴ひしが、先の處は狼の出入する所にして、年の内には、いくたりとなく、狼にとらるゝ者あり。先に彼(か)の山を見入(みいり)たるに、木葉(このは)がくれに狼の此方(こなた)に向ひ坐(ざ)せるを見付たり。其間、五、七町[やぶちゃん注:約五百四十六~七百六十四メートル。]隔(へだつ)るといへども、かれが見付たらんには、一足に飛來(とびきた)る。彼が一疋來らんには、いづこより來るともしらず、いくつともなく出來(いできた)り、ゆく手の路をふさぎ、又、後(しりへ)より送る[やぶちゃん注:尾行してくる。]。其時、幾人ありとも、敵すること能はず。又、運つよく害に逢(あは)ざる人もあれども、先づは稀なり。そが中に此方より狼の影を見付て、彼が心付かでやみたるといふことは、尤(もつとも)稀なることなり」と語りけり。人々、是を聞(きき)て、身の毛、立(たつ)斗りにおそれけれども、先に、走る頃、此事をしらば、殊に身もすくみて走りなやむべかりしを、其時はしらで走りけるぞ、めで度(たき)事とぞ祝(しゆく)しける。これなん、第二條のおそれにあひたるとかぞふる也。

 それより相州金澤に遊びて、名所古跡打𢌞り、しばし足を休(とゞ)めたれども、公に告し日數の限りにはあらざりけれども、年の若き人々なれば、山路或は幽邃の地にこふじ果(はて)たれば[やぶちゃん注:「こふじ」は、ママ。「困(こう)じ果てたれば」で、すっかり疲れ、或いは静か過ぎて飽きてしまったので。]、少しも早く歸り來(きたり)て、『家路近きあたりにて、心ゆるく遊ばん』と思ふにぞ、金澤には一夜もとゞまらで、神奈川の驛に宿りぬ。其夜、大風雨にて、海原の景色も見るによしなけれども、所の賑ひに取まぎれて一夜をあかしぬ。朝は早く立出(たちい)で、雨後の涼しさを追ひて、六合(ろくがふ)の渡し[やぶちゃん注:東海道は東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町の間の現在の六郷橋附近で多摩川を渡った。旧「六郷大橋」は慶長五(一六〇〇)年に徳川家康がを架けたが、貞享元(一六八四)年に五回目の架け直しをされたそれが、貞享五(一六八八)年に洪水で流された後は再建されず、「六郷の渡し」が設けられた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に來るに、夜べの嵐に水增して舟を出さず。心にもあらで、日の午後過(すぐ)る迄、此處に居(をり)しに、追々に聞へけるは、「昨夜の大風雨に大浪打入(うちいり)て、金澤の驛は、皆、引入(ひきいれ)られ、湖水[やぶちゃん注:この「湖」は「海(うみ)」の意。そうでなくても「金沢八景」は中国湖南省の洞庭湖付近の名勝名数「瀟湘(しょうしょう)八景」に見立てたものであるから、何ら、違和感はない。]に臨みたるあたりは、家人ともに影もなし」など聞(きく)にぞ、「さては、さることありけり。吾々、今一夜前に彼(かの)地に付(つき)たれば、思ひ設ざるの禍に逢ふべかりしを。そゞろに家路近くなして心おちゐん[やぶちゃん注:『何とはなしに「家路へなるべくより近くへ近くへ」と向け、これといってわけもないのに、そのようにして心を落ちつけよう』の意か。]と思ふものから、ひたいそぎに神奈川驛迄追ひ付しは、我にして我ならず、神佛の助け玉へるなりけり」とて、人々、又も、命のめで度(たき)を祝しける。程もあらで、川も明(あ)きければ、其日に家に付(つき)て、人々、旅中無事を賀し、且は「危きことども語り合(あひ)て、後の談(はなし)の種とせん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。是なん、第三條のおそれとかぞふべし。「其中に後の二條は、おそれたれども、其場にては心付かで過(すぎ)ければ、膽(きも)のつぶるゝ程にはあらざりけれども、最初一條はつぶさに其苦況を經(へ)にたれば、深く心に染入(しみいり)て、語るさへおそろしく覺ゆる」とて、此三つのくだりを畫(ぐわ)に寫(うつ)し、文に作り、家に傳へて、「『子孫無益の遊歷(あそびあるき[やぶちゃん注:底本のルビ。])して他鄕に至ることを禁ずべし』と成(なさ)しめたり」と語りき。繪は丹丘(たんきう)[やぶちゃん注:加藤好夫サイト浮世絵文献資料館に浮世絵師「丹丘」の事蹟が載るが、彼がこの人物かどうかは不詳であるものの、天明三(一七八三)年刊の四方赤良撰・丹丘画「狂歌三十六人撰」、享和元(一八〇一)年の大田南畝の山内穆亭宛書簡に名が載り、これは本「反古のうらがき」の成立(嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃)や桃野の生没年と同時代的であり、先行条によっても桃野は四方赤良(=大田南畝)と接触があった可能性が高いことから、彼であってもなんらおかしくはないと言える。]といふ人、かきたり。文は小野蓑水[やぶちゃん注:不詳。「蓑水」の読みは「さすい・さいすい」か。]、作れり。

反古のうらがき 卷之三 金貮枚刀

 

  ○金貮枚刀

 大判(おほばん)の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに、今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり。故をもて、金壹枚といふを小判七兩、本金一枚七兩貮分と定め、いにしへのあたへ[やぶちゃん注:ママ。]の名のみ殘し、刀劒の折紙などにしるす時のみ、此ことばを用ひ、常の賣買ごとに用ゆること、なし。又、小判一ひらを一枚といふ人もありて區々(まちまち)なれば、あやまることも多くありけり。

 天保弘化の頃、刀劒、大(おほい)に世に行はれ、刀師・とぎ師・拵師(こしらへし)、各(おのおの)かけ走りて利を得るとき也。

 予がしれるとぎ師が持(もち)ける刀は【銘、誰なるか失念。】、さる方に賴みて、

「金貮枚に賣りくれよ。」

と云ひやりしが、めぐりめぐりて、吾が弟子の方へ持來りけり。

 それともしらで、價ひを問ふに、

「貮枚。」

と答ふ【枚といふは大判金のことにて、小判なれば兩といふなり。】。世の稱呼、區々(まちまち)なれば、忽ち誤りて、「小判貮兩」と心得、とくと見るに名刀なり。

『いかに見おとすといへども、五、六兩をば下るまじ。』

とおもひけれども、さし當り、手元金子、間合兼(まにあひかね)たれば、先づ師が許に持行(もちうき)て、

「金貮兩貮分なり。いかにも、あたへ[やぶちゃん注:ママ。]、いやし。取置給へ。」

といひて、貮分の口錢のみを所德とする心なりけり。

 師、一目見ると、

「これは、大(おほい)に、價、安し。直(ただち)に代金を渡すべし。」

とて、出して買ひけり。

 弟子、うれしくて、刀屋が許に行て、金二兩を出(いだ)し、

「さる方にて、かひたり。」

といへば、刀屋、大におどろき、

「最初より貮枚といゝ[やぶちゃん注:ママ。]たるに、貮兩とはいかに。同じどしの刀・脇差やり取(とり)に、大判小判といはずとも、貮枚といはゞ大金、貮兩といはゞ、小金と聞(きき)しるは、われわれのみならず、何方(いづかた)も同じことなるを。今、かくの玉ふは餘りにおろかなり。且、又、品物も物によるべし、あの品が貮兩や三兩の品と見ゆる品なるか。かへすがへすもおろか敷(しき)人也(なり)。早々(はやばや)、取かへし來(きた)るべし。」

といふにぞ、

「さては。さありけり。いかさま、餘り、價の品より賤しと思ひしも、理(ことわ)りにてぞありける。間違(まちがひ)といふ物なれば、是非なし。取かへし來るべし。」

とて、再び師の許に來りて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「先の價は間違なり。大金(おほがね)貮枚なれば、小金十四兩なりけるを、只『貮枚』とのみいひて、大金といはざれば、吾、誤りて小金貮兩と心得、かくは謀らひける也。いざ、戾させ玉へ。代金はかへし奉る。」

といへば、師、且、笑ひ、且、怒りていふ、

「此刀は元吾が品にて、何某へ賴みて賣(うり)に出(いだ)せしが、價貮枚と申約(まうしやく)せし也。然るを、汝、おろかにして貮兩と聞(きき)誤りしは、理(ことわ)りあるに似たり。されども、汝、吾方に來りうるに至りて、『貮兩貮分也』といゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。故に、吾、其儘に價を取らせしぞ。但し、貮枚貮分といふ價なし。さすれば、貮分とは何の聞誤りぞ。もし、師弟の間にて口錢貮分を取らんとならば、恩をしらざるくせ者也。更に亦、罪あり。數年來の弟子なるに目きゝもなくて、金貮枚の品物、小判貮兩の品物と分(わか)ちなきは、おしへて甲斐なきおろか者也。此二罪あれば、師弟の約をも絶(たつ)べきやつなれども、只一つのゆるすべきことあるによりて、さし置(おく)なり。初め、此刀、『よき品』と見て、少しの所德もあるべしと思はゞ、他所(よそ)へこそ持(もち)あるくべきを、他所へは行かで、先(まづ)、吾方にもて來りしは、師によき物得させんと思ひしに似たり。此一點、良心あるにより、此度はさしゆるす。」

とて、ことすみけり。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。

「大判の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに」大判とは広義には十六世紀以降の日本に於いて生産された延金(のしきん/のべきん:槌やローラー状の機器で薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものを指す。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金(こがね)」と呼ばれ、「大判金(おおばんきん)」とも称した。享保大判金(享保一〇(一七二五)年~天保八(一八三七)年)は一枚を七両二分とする公定価格が設定されたと参照したウィキの「大判にあるのと一致する。なお、ウィキの「小判」によれば、『小判に対し、大判(大判金)も江戸時代を通して発行されていたが、大判は一般通貨ではなく、恩賞、贈答用のもので』、『金一枚(四十四匁』『)という基準でつくられ』、『計数貨幣としてではなく、品位と量目および需要を基に大判相場によって取引された(強いて言えば秤量貨幣に近く、現代的に解釈すれば、金地金(インゴット)に相当するものと言える)。また、天保年間に大判と小判の中間的な貨幣として五両判が発行されたが、金含有量の劣る定位貨幣でありほとんど流通しなかった』とある。

「今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり」Q&Aサイトの回答によれば、江戸前期・中期(明和九・安永元(一七七二年)頃(田沼意次が老中に就任した年である)まで)は一両は現在の十万円、後期(嘉永六~七年(一八五四)年頃(嘉永七年三月三日に日米和親条約が締結)まで)は八万円であった(それ以降の幕末期はインフレが進み、五万円相当まで下がった)から、この「貮拾五、六兩」は二百万円から二百八万円相当となる(本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

「天保弘化」一八三一年から一八四八年。

「拵師」日本刀の状態を確認したり、修理して使用可能な状態に仕立てる職人の総称。正確にはここに出る「研師」や鞘と柄を彫る「鞘師」、柄を鮫皮と柄糸で巻く「柄巻師」、刀身の手元部分に嵌める金具であるハバキを作る「白金師(しろがねし)・塗師などのさまざまな刀剣職人が、分業で一振りの刀剣を製作・修理した。

「予がしれるとぎ師」「吾が弟子の方へ」則ち、本一件の当事者の二人と桃野は知り合いであったのである。従って一読、落語のネタかと思わせるものの、まぎれもない事実譚なのである。

「それともしらで」ネタバレとまでいかないにしても、やや話を先取りしてしまった感のある表現ではあるが、或いは、私の弟子であっただけでなく、仲介した研師も知っていた、されば、この一件は後に、確実な情報として私の耳に入ることになってしまった、のニュアンスでの言い添えかも知れぬ。

「いかに見おとすといへども」どんなに安く見積もっても。しかし、「五、六兩をば下るまじ」で、大判金二枚=五十~五十二両の品をば、かく見積もったのでは、これまた実は救い難い目利き出来ぬ「かへすがへすもおろか敷(しき)」馬鹿弟子(桃野のそれではなく、後に出る(恐らくは剣術の)「師」のそれ)と言わざるを得ない

「あたへ」「あたひ」で「價」。

「いやし」「賤し」。安い。

「どし」「同士」。「どうし」または「どち」の音変化という。刀剣関連業の仲間同士。

「聞(きき)しる」~と認識する。~の意と採る。

「口錢」「こうせん」「くちせん」両様に読む。取引の仲立ちをした仲介手数料のこと。]

反古のうらがき 卷之三 打果し

 

    ○打果し

 いつの頃にか、若侍二人ありけるが、ともに武邊をはげみて、常に心も剛(こう)なりけり。いかなることにや、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふことありて、はては、互に「一分(いちぶん)立難(たちがた)し」などいふ程に、「打物(うちもの)の勝負して雌雄を決すべし」といふこととはなりぬ。されば場所よき所を選みて、「明朝、立合ふべし」と約して別れけり。既に其日になりければ、朝霜(あさじも)踏(ふみ)しだきて、年壹つおとりたる方、まづ其場に到れり。しばしありて年增(まさ)る方(かた)、來れり。出向(でむか)へて見れば、必死を極めたると見へて、草履もはかで、素足也。こなたも、「不覺なりけり」とて、草履ぬぎすて、「いざ、參らん」とて、刀ぬき合、しばし打合ふに、年增る方、其すきを伺ひ、足をのべて、敵のぬぎすてし草履をかきよせて、はきけり。としおとれる方、是を見るとひとしく、うしろざまにかへりみて、雲霧(くもきり)の如くにげ去りて、影をだに見ずなりぬ。これは年增りたる方は必死を極(きはめ)たるにあらず、途中にて草履踏切(ふみきり)たる故に、是非なく素足にて霜の中を踏み來りしが、敵があやまりて『必死』と見て、吾が不覺を悔ひ、草履脱(ぬぎ)すてつるを、膽太(きもふと)く奪ひて、足のひへ[やぶちゃん注:ママ。「冷え」。]をのがれし也。かゝれば、年おとれる方は、かへすがへす、不覺を取(とり)たることにて、勝負のほども心元なく、自然(おのづ)とおくれ出(いで)、立(たち)こらふべくもあらず、忽(たちまち)に逃去りたる也とぞ。人々、許しけるとぞ。かかればふるまひの中に不覺のことあれば、勝負にかゝはること多し。武邊に志し深き人は、思慮も深からんことぞ、ねがはし。

[やぶちゃん注:標題「打果し」は「うちはたし」で、果し合い・決闘のこと。]

反古のうらがき 卷之三 ふちがしら

 

 反古のうらがき 卷之三

 

    ○ふちがしら

 刀脇差の小道具は、物好(ものずき)多く、いろいろの美を盡(つく)す中に、古(ふ)るき品々取合せて作りたるは、殊に見所多き物也。されば、「大小の刀、同じ品揃ひたるは、物好(ものこの)まぬ人のする態(わざ)」とて、ことさらに別樣の物を用ゆる人、多し。かゝれば品がら、時代或は模樣よく出合(いであひ)たるは、あたへも貴(たか)く賣買することとなりぬ。此頃の人の尤(もつとも)物好する人は、いかなるよき品とても、揃ひたる物は深く惡(にく)みて買取らず、かたくなに似合(にあひ)の品ども取集めて、「よく出合たり」と誇りあへりけり。あき人、これを惡めども、せん方なく、是迄の揃ひたる品は、自然(おのづと)、あたへ、いやしく賣(うり)けり。其中に、わるがしこき者ありて、一揃ひの品を、先(まづ)、片方を持行(もちゆき)てうりけり。扨、これが取合せを求る樣(さま)を見て、後に又、片方を出(いだ)して賣(うり)ければ、「よく出合たり」とて、よろこびて買(かひ)とり、あたへも甚(はなはだ)たかく賣たるとなり。かく、あき人は、かしこく人を欺くなるに、「我は欺かれまじ」とて、あき人のごとく品物取扱ひ、多く見覺へ・聞覺へなどする人ぞ、あさまし。さまでに物好みの心はやみ難きものなるにや。あたへたかくよき念入(ねんいり)の品々は、誰(たれ)にもしり易きものぞ。かゝるゑせ[やぶちゃん注:ママ。]ごとして『貴き品にもまさらん』とする心の賤しきより、あざむかるることも多く出來(いでく)ることぞかし。

[やぶちゃん注:標題「ふちがしら」は「緣頭」で、刀の柄の頭の部分及びそこに付ける金具類を指す「柄頭(つかがしら)」に同じい。

「あたへ」ここは「價」であるから、「あたひ」が正しいが、「あたひ」が転じて「あたえ」「あたい」となった経緯から、すでにこの時代には誤記とは言い難い。

「ゑせごと」「似非事・似而非事」。鑑定家の(レベルの低い・間違いだらけの・杜撰な)真似事。歴史的仮名遣は「えせごと」でよい。]

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