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2018/10/19

古今百物語評判卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事

Gawatarou

  第二 河太郞(がはたらう)丁初(ていしよ)が物語の事

一人のいはく、「河太郞とはいかなるものを申(まうし)候哉(や)。某(それがし)が女房の在所、江州野州河(やすがは)の近所にて候が、その河邊(かはべ)に、子供の水をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]して居申(ゐまうし)候内(うち)に、折々はみえ申さぬ事御座候を、河太郞のしはざのやうに申しならはし侍る。自らも、おぼれてながれ候はんと存候が、いかなるやらむ」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり[やぶちゃん注:本巻は「早稲田大学図書館古典総合データベース」にある二種では欠損していて、原典を確認出来ないので、国文学研究資料館公式サイト内電子資料館」古今百物語評判」(お茶大学図書館本)当該頁を視認したが、確かにこうなっている。])のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」と評せられき。

[やぶちゃん注:「河太郎」=河童も、私はかなりのフリークであるので、諸記事は雌河童にキスされた河童の嘴のように腐るほどある。私の電子化した怪奇談記事で最も古い(私の記事で、である)ものでは、「耳囊 卷之一 河童の事」で(「耳囊」には面白い(前のリンクのそれは残念ながら平凡)河童の話がわんさか載る)、変わり種では老女河童みたような報告である「谷の響 一の卷 四 河媼」(「谷の響(ひびき)」も河童関連が多い)、「怪奇大作戦」じゃないが、水棲人間ばりの「譚海 卷之二 下總國利根川水中に住居せし男の事」、水死体の凄絶リアリズムの「北越奇談 巻之一 河伯」などがある。纏まったものでは、「柴田宵曲 妖異博物館」のそれがよい。柴田も河童フリークで、特異的に実に同書で四章を河童に裂いている。「河童の力」「河童の藥」「河童の執念」「海の河童」で、これを通読すれば、まずは君も即席の河童研究家にはなれよう。他にも私は、芥川龍之介の「河童」のオリジナル・マニアック注釈芥川龍之介「河童」決定稿自筆原稿の電子化本文版火野葦平の単行豪華本「河童曼陀羅」の全電子化注など、数え上げれば、枚挙に暇がない。

「江州野州河(やすがは)」滋賀県を流れる一級河川野洲川。琵琶湖南端に南東方向から流れ込む。琵琶湖へ流入する河川の中では最長の長さを持ち、さても「近江太郎」の通称を持つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「自らも」問うている話者自身。

「河瀨(かはをそ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 及び北海道産亜種Lutra lutra whileleyi。前者は昭和二九(一九五四)年頃までに絶滅(推定)後者も、昭和三〇(一九五五)年の捕獲を最後に絶滅(推定)した。河童が「河瀨の劫を經たる」ものが成った(獺を妖獣とする認識自体が古くからあり、棲息域の親和性の強さから、事実、獺変じて河童となるとする伝承は多い)のだとすれば、カワウソをヒトが絶滅させたことが明白な今、河童は、もう、いない。というより、河童を滅ぼしたのもヒトであるということだ。

「河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つ」太陽の運行を元にした「二十四節気」(中国の戦国時代に季節のずれる太陰暦とは無関係に、季節を春夏秋冬の四等区分する暦のようなものとして考案された区分手法の一つ。太陽が移動する天球上の道である「黄道(こうどう)」を二十四等分したものである。黄道を「夏至」と「冬至」の「二至」で二等分し、さらに「春分」と「秋分」の「二分」で四等分し、それぞれの中間に「立春」・「立夏」・「立秋」。「立冬」の「四立(しりゅう)」を挟んで「八節」とすると、一節は四十五日となり、これを十五日ずつの三等分にすることで「二十四節気」とした)を、さらに約五日ずつで三等分して時候を表したものを「七十二候」と呼び、それをまた、五日ずつで分けて、「初侯」・「次候」・「末候」としたが、さて、「二十四節気」の第二である「雨水(うすい)」(陽気は地上に発して、雪から雨に変わり、根雪が溶け始めるが原義(実際には未だ積雪の只中であるが、『この時節から寒さも峠を越え、衰退し始める』とする解説が参考にしたウィキの「雨水」にはある。形式上の春の兆しのプレ・ポイントで、古くから農耕の準備を始める目安とされてきた)は正月中(通常は旧暦一月の内。現行では二月十九日頃)に始まり、期間としては次の節気である「啓蟄」前日までに当たる。その「雨水」の「初候」は同ウィキによれば、『土脉潤起(つちのしょう うるおい おこる):雨が降って土が湿り気を含む(日本)』とあり、その下に、古来、中国では『獺祭魚(かわうそ うおを まつる):獺が捕らえた魚を並べて食べる』とされたことを指す。所謂、「獺祭(だっさい)」で、これは寧ろ、人農耕開始の予祝行事として祖霊や神を祀って物を並べ供える様子を、獺が捕らえた魚を川岸に並べて祭りをしている見えたことに逆比喩(多くの解説はその逆を言っているのはヒトより永く生き、ヒトに滅ぼされた獺に対し、頗る失礼であると私は真面目に思うのである)した節気象徴の名である。

「狗(いのこ)」元隣は先行でもこのルビをこの漢字にしていて、厄介だ。「狗」なら「犬」、「いのこ」な「猪」。まあ、ここは獺の大きさと牙がないことから、犬或いは「い」ぬ「のこ」の意で採っておく。

「蝙蝠(かうふり)」「かはほり」「かうほり」が普通。近世初期以前には「こうぶり」とも呼んだようである。哺乳綱:獣亜綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera のコウモリ類。本邦の一般的な種はコウモリ亜目 Rhinolophoidea 上科キクガシラコウモリ科キクガシラコウモリ亜科キクガシラコウモリ属キクガシラコウモリ Rhinolophus ferrumequinum 及びコキクガシラコウモリ Rhinolophus cornutus

「丁初と云(いひ)し者……」「太平廣記」(小説集。宋の李昉 (りぼう) らの編。全五〇〇巻。九七八年成立)の巻第四百六十八の「水族五」の「丁初」に、

   *

呉郡無錫有上湖大陂、陂吏丁初、天每大雨、輒循堤防。春盛雨、初出行塘、日暮間、顧後有小婦人、上下靑衣、戴靑傘。追後呼、「初掾待我。」初時悵然、意欲留伺之、復疑本不見此、今忽有婦人冒陰雨行、恐必鬼物。初便疾行、顧見婦人、追之亦速。初因急走、去之轉遠。顧視婦人、乃自投陂中、汜然作聲、衣蓋飛散。視是大蒼獺、衣傘皆荷葉也。此獺化爲人形、數媚年少者也。【出「搜神記」。】

   *

とあるが、これはそこにある通り、東晋(三一七年~四二〇年)の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の第十八巻が原典である。丁初は「陂吏」とあるから、堤防を管理する下役人で、「天每大雨、輒循堤防」とある通り、物見遊山で歩いていたのではなく、大雨の際の巡視をしていたのである。

「長塘湖」元隣はこれを湖の固有名のように使用しているが、原文の「上湖大陂」は無錫(むしゃく:現在の江蘇省無錫市)にあった上湖(位置や現在の名称(現存すれば)は不明)という湖の大きな「陂」=「塘」=堤(つつみ)の意である。

「絹がさ」「絹傘」。

「太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」太郎が長男の称であることに掛け、年を経たことを暗示させ、さらに彼らが川辺水中での生活に「長じ」ていた、抜きん出ていたことを添えるものであろう。]

2018/10/18

古今百物語評判卷之四 第一 攝州稻野小笹附呉隱之が事

 

 百物語評判卷之四

 

  第一 攝州稻野小笹(いなのおざゝ)呉隱之が事

某(それがし)たづね侍るは、「攝州伊丹(いたみ)と神崎(かんざき)とのあはいの、いなのと申す處に、方(はう)四、五間[やぶちゃん注:約七~九メートル四方。]なる笹原あり。是れ、和歌に詠ぜし『いなのさゝ原』の名殘(なごり)なるよしにて、其所の者、まうせしは、『たとへば、誰(たれ)にてものあれ、その竹をきりとる者候へば、たちまち、狂氣になりし事、數をしらず。其故、たゞ今は、其まはりに堀をほりをきて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、人のよらぬやうにいたし置きつ。「これ、『いでそよ』の歌、名歌なる故にや」と、人々、申しき』と、かたり侍る。此事、先年、有馬へ湯治仕りし時、うけ給はり候(さふらふ)て、今に不審に存じ候ふが、いかなる事にて候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいへらく、「それがしも過(すぎ)にし比(ころ)、其所を通りしに、皆人、さやうに申(まうし)き。樣子をくはしく尋(たづぬ)れば、此地、むかし、『いなの寺(でら)』と申(まうす)古跡のよしにて候へば、伊丹はことに近き比まで、荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)、戰場となりし故、何とぞ、其さくの邊(へん)に剛(がうきやう)なる侍の墓など候ゆへ、その氣、殘りて、不思議をなし候が、又、其邊に歸る狐など、住(すま)ゐして、かく、人をおそふなるべし。又は、何事もなき事なるを、古跡なれば、その竹をたやさじとて、かしこき人の申(まうし)をきしを、愚(おろか)なる土民などの折りたる時、かたへより、皆人、寄會(よりあひ)て、『汝、かのさゝをおりたるや、すは、狂氣ならん』などいはむ時に、もとより、おろかなる心ゆへ、自(おのづか)ら、其詞(ことば)にひかされて、血あがり、氣くるふ事、あるべし。たゞしき人の、いらで叶はぬときに折りとらんに、何の子細か候ふべき。もろこしにも、是に似たる事のあり。荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。「貪」には「タン」の音もある。])といふ水あり。此水をのめば、必ず、人毎(ごと)に、むさぼる心出來(いでき)て、慾心、ふかふなるよし、いひしかば、呉隱之といふ賢人、こゝろみに吞みしに、いよいよ心淸かりけり、とみえたり。『いなのお笹』もさる事にや侍らん」と評せられき。

[やぶちゃん注:「攝州伊丹稻野小笹」山本俊夫氏のブログ「我が町伊丹.jp」の「27 猪名野笹原」(地図有り)によれば、現在の伊丹市東有岡五丁目にある「東洋リノリューム株式会社」敷地内附近に比定される「猪名野笹原(いなののささはら)」である。山本氏が「説明プレート」を電子化されておられるので、以下に引用させて戴く(一部の表記の誤りとしか思えない部分については、bittercup氏のサイト「摂津名所図会」のこちら(後に出す「摂津名所図会」の「いなのさゝはら」の絵図のトリミング彩色画像もある)で電子化されている本文と校合して訂し、一部の行空けを省略、最後のクレジット以下は上に引き上げて示した)。

   《引用開始》

猪名野笹原旧蹟

 

   有馬山 ゐなの笹原風吹けば

    いでそよ人を忘れやはする

        小倉百人一首 大貳三位

 

   しなが鳥 猪名野を来れば有馬山

    夕霧たちぬ 宿りはなくて

        万葉集 巻七

 

万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。

その後、荒涼とした笹の原野が次第に開墾されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保二年(西暦1645年)頃の摂津国絵図の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政十年(西暦1798年)頃の摂津名所図会には「猪名笹原」とあります。(図の左半分に小さく示されています)

今この庭にある笹は、学名ネザサと呼ばれ、植物学者室井 綽氏の御説により往時の笹を偲ぶよすがとして弊社が植付けたものです。

左側に植えられた笹は学名オカメザサと呼ばれるものです。有馬山の歌の笹をオカメザサとする学者もおられますので、御参考のため、併せて植えることにいたしました。

ところで、当地には明治二十四年から大正八年まで、綿糸に稲わら繊維を用い経糸に綿糸を用いた平敷織物である由多加織の工場がありましたが、現在ではこれを継承進展した東洋リノリューム株式会社が操業いたしております。

敷地の中には猪名の笹原に祭られていたお社を継承したといわれる笹原稲荷や(黄)金塚があり、弊社によって保存されています。

 平成元年121日 創業70周年記念日 造園

        東洋リノリューム株式会社

   《引用終了》

・本文でも「『いでそよ』の歌」と指し、ここで最初に掲げられている一首は「小倉百人一首」の五十八番歌で、出典は「後拾遺和歌集」巻十二 恋」(七〇九番)。

   かれがれになる男(をとこ)の、

   「おぼつかなく」などいひたるに

   よめる

 有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

作者大貳三位(だいにのさんみ)は紫式部と藤原宣孝(婚姻後三年で死去)の娘である藤原賢子(かたいこ 長保元(九九九)年頃~永保二(一〇八二)年頃)。

・二首目は「万葉集」巻第七の「攝津((つのくに)にして作れる歌」(よみびと知らず)の冒頭の一首、

 しなが鳥猪名野を來れば有馬山夕霧たちぬ宿(やどり)はなくて

「しなが鳥」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis の古名かとされる。雌雄連れる相愛の鳥とされた。

・「摂津名所図会」「猪名笹原」は(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)。電子化しておく。

   *

猪名笹原 昆陽寺(こやでら)の東、田圃(でんぽ)の中にあり。此(この)小篠[やぶちゃん注:「篠」はママ。後も同じ。](をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす。或人曰く、此篠(をざゝ)はむかし佐藤繼信(つぐのぶ)箆竹(のだけ)をこゝに立て置きしが、枝葉(しえふ)繁茂すとなり。此人の苗孫(べうそん)今に昆陽村にあり。

   *

ここに出る「佐藤繼信」(保元三(一一五八)年~文治元(一一八五)年)は義経の忠臣として知られる武士。陸奥湯の荘司元治の子で、狐忠信の伝承で知られる彼の兄。源義経が藤原秀衡のもとにいた頃から弟忠信とともに義経に仕え、鎌田盛政・光政とともに「四天王」と称された。「屋島の戦い」で義経を庇って、平教経の矢面(やおもて)に立ち、討死にした。「箆竹(のだけ)」は「矢竹」、タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica のこと。茎の節と節との間が長いことから、古くから良質の矢柄として利用された。

 但し、先行する別項に「猪名笹原」の項もあり(電子化する)、

   *

猪名笹原(いなのさゝはら) 伊丹の南、街道の東に、方三間許の篠原あり。舊蹟の印に遺せしものならん。猪名野笹原、猪名野の惣號なり。

   *

とあり(ここ(同前))、絵図も附す()。位置的には、この後者の方がより現在位置にはしっくりくる。位置的には昆陽寺の東ではあるが、「摂津名所図会」の筆者が確信犯で別々に挙げている以上は、二つあると考えねばならぬ。結界とされる神聖性からは前者であるが、現行の比定地との関係と古跡として指示されてあるという点では、圧倒的に後者の方が自然である。

・「メザサ」は単子葉植物綱タケ亜科メダケ属アズマネザサ変種ネザサ Pleioblastus chino var. viridis。植物学的にはKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「ネザサ」に詳しい。

・「オカメザサ」はタケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasacaウィキの「オカメザサ」によれば、『日本原産であるが、野生種の発見は難しい。各地で栽培されている』とある。写真は、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「オカメザサ」がよい。

「呉隱之」(?~四一三年)は東晋(三一七年~四二〇年)の名臣。永一直人氏の中国史愛好サイト「枕流亭」の「中国史人物事典」のこちらによれば、『字は処黙。濮陽郡鄄城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、清廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて晋陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。元興元』(四〇二)年、『広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志を明らかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます清廉で、時弊を改めるのに力を尽くした』。同三年には、『盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ』とある。

「神崎」位置的に見て、伊丹の南東四キロ半ほどの位置にある現在の兵庫県尼崎市神崎町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いなの寺(でら)」「摂津名所図会」のこちら(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に(視認電子化)、

   *

猪名寺(ゐなでら) 猪名寺村にあり。法園寺(ほふをんじ)といふ。古(いにしへ)は伽藍巍々たり。今(いま)古礎(こそ)あり。其中に方一間(けん)餘(あまり)の石あり。土人云ふ、大塔の礎(いしづゑ)なりとぞ。

 本尊藥師佛 行基の作。座像。長(たけ)二尺。初(はじめ)法道仙人大化年中に開創し、其後(そのゝち)行基こゝに止住(しぜう)して、諸堂莊麗たり。天正の荒木が兵火に罹(かゝ)りて灰燼(くわいじん)となり。今(いま)小堂一宇に天王祠(てんわうのほこら)あり。これを生土神(うぶすな)とす。

   *

ここに出る「法道」は本邦に伝わる伝説上の仙人僧天竺(インド)に生まれたが、紫雲にのって唐・百済を経て、日本に渡来し、播磨の法華山に棲んで、「法華経」を読誦し、密教の灌頂を修し、十一面観音信仰を伝え、孝徳天皇の病気を治したとされる。また、「飛鉢(ひばち)の法」を駆使して供物を集めたことから「空鉢(からはち)仙人」とも呼ばれた。さても、この寺、現在、真言宗猪名野山法園寺として、兵庫県尼崎市猪名寺にある。ウィキの「法園寺(尼崎市猪名寺)」によれば、『本尊は秘仏・薬師如来像で、平安時代後期の作』。『寺伝によると』、大化元(六四五)年、『インドの僧・法道が開創』、天平一三(七四一)年に『行基が中興し、孝徳天皇が七堂伽藍三廊四門を建立し』、『寺領八百八町を下賜したと伝えられる』。元亨元(一三二一)年の「元弘の乱」では『兵火に遭い、寺領・伽藍を失うも』、『再興』した。しかし、天正六(一五七七)年の『荒木村重と織田信長の戦いで』『完全に焼失した。その後、本尊が池から発見され』、宝暦七(一七五六)年、『小堂を再興、翌年』、本堂が建立されているとあるから、「摂津名所図会」のなんとなく侘しいそれは、これであることが判る。その後、明治六(一八七三)年、『無住のため』、『廃寺とな』ったが、明治十一年、『檀家の努力で再興された』とある。なお、『上記の寺伝や』「摂陽群談」によれば、『北隣にあったとされる大寺院・猪名寺と同一であったと思われる記述も見られる』ともある。

「荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)み」「刻み」は「折り」。荒木村重(天文四(一五三〇五)年~天正一四(一五八六)年:利休七哲の一人で摂津伊丹(有岡)城主。池田氏から三好氏に属し、天正元(一五七三)年に織田信長に仕えた。同二年に伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。しかし、同六年、突如、信長に叛き、攻められ、翌年、居城を逃れて毛利氏を頼った。後、剃髪して道薫・道董を号し、豊臣秀吉に茶人として仕えて、おぞましくも命脈を保った)が信長に謀反を起こしたことに端を発する、「有岡城の戦い」。天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日まで続いた籠城戦。城に残った荒木一族と重臣や家臣の妻子他、実に約六百七十名が凄惨に処刑されたことでも知られる。

「其邊に歸る狐」やや不自然。「人をおそふ」とあるから、「その辺り」を永(なが)の棲み家として「帰る」、年経る妖「狐」、の意で採っておく。

「たやさじ」「やさじ」。先の「摂津名所図会」の「猪名笹原」に「此小篠(をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす」とあるのには、これは、よく適合する解釈である。

「いらで叶はぬときに」「要(い)らで」は」「叶はぬ時に」で、無くては済まされぬ、どうしても必要な折りに。

「何の子細か候ふべき」反語。何の差し障りなど、あろうはずが、ない。

「荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。])といふ水あり。……」「晉書」巻九十の「良吏傳」の「呉隱之傳」に、

   *

廣州包帶山海、珍異所出、一篋之寶、可資數世、然多瘴疫、人情憚焉。唯貧窶不能自立者、求補長史、故前後刺史皆多黷貨。朝廷欲革嶺南之弊、隆安中、以隱之爲龍驤將軍、廣州刺史、假節、領平越中郎將。未至州二十里、地名石門、有水曰貪泉、飮者懷無厭之欲。隱之既至、語其親人曰、「不見可欲、使心不亂。越嶺喪淸、吾知之矣。」。乃至泉所、酌而飮之、因賦詩曰、「古人云此水、一歃懷千金。試使夷齊飮、終當不易心。」。及在州、淸操踰厲、常食不過菜及乾魚而已、帷帳器服皆付外庫、時人頗謂其矯、然亦終始不易。帳下人進魚、每剔去骨存肉、隱之覺其用意、罰而黜焉。元興初、詔曰、「夫孝行篤於閨門、淸節厲乎風霜、實立人之所難、而君子之美致也。龍驤將軍、廣州刺史呉隱之孝友過人、祿均九族、菲己潔素、儉愈魚飧。夫處可欲之地、而能不改其操、饗惟錯之富、而家人不易其服、革奢務嗇、南域改觀、朕有嘉焉。可進號前將軍、賜錢五十萬、穀千斛。」。

   *

とあり、他の中文サイトの異なる書物のそれを調べても、皆、「廣州」であるから、「荊州」は元隣の誤認であろう。全文は気が重いので、太字部分だけを力技で訓読してみる。

   *

 未だ州に至らざること、二十里、地、ありて、「石門」と名づく。水、有りて、「貪泉(たんせん)」と曰ふ。飮む者は無厭(むえん)[やぶちゃん注:飽きることがない。]の欲(よく)を懷くとす。隱之、既に至りて、其の親しき人[やぶちゃん注:同行の付き人であろう。]に語りて曰はく、「欲せんとすべきものを見ざれば、心をして亂らざらしめん。『嶺を越さば、淸を喪ふ』とは、吾も之を知れり。」と。乃(すなは)ち、泉所に至り、酌みて之れを飮み、因りて、詩を賦して曰はく、

 古人云ふ 『此の水

 一(ひと)たび歃(すす)らば 千金を懷(いだ)く』と

 試みに 夷(い)・齊(せい)に飮ましむるとも

 終(つゐ)に當(まさ)に 心(こころ)易(か)はらざるべし

と。

   *

「夷・齊」は言わずもがな、「史記」列伝の巻頭を飾る、殷末の孤竹国の王子にして高名な礼節の隠者兄弟、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。]

古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀教法印の事 / 古今百物語評判卷之三~了

 

  第八 「徒然草」『猫またよや』の事觀教(くわんげう)法印の事

かたへの人の云はく、「『徒然草』に『ねこまた』といふ物あるよし、しるされたり。其外、此比(このごろ)にいたり、『彼(かし)こにもばけたり』『爰(ここ)にもおそろしき事ありし』など、風説、おほし。猫の化(ばく)る事の候ふやらん、不審(いぶかし)」と云ひければ、先生、いへらく、「古(いにしへ)は『ねこまた』と云へり。『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし。『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり。陰獸にして、虎と類せり。其故に『手飼(てがひ)のとら』などゝも云(いへ)り。唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり。其(その)むまれつきを見るに、智あるにもあらず、德あるにもあらず、其さま、膝にふし、はだへに馴れ、身を人にまかすか、と思へば、よぶ時は心よく來らず、繩(つな[やぶちゃん注:ルビはママ。])を以て引(ひく)時は、必ず、しりぞく。あながち、人にさかふとにもあらざめれど、自ら、ひがみ疑ふ心あり。女の性(しやう)に似たり。宜(むべ)なる哉(かな)、化(ばけ)て老女と成(なり)て人をたぶらかすと云(いへ)る事、猶、其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり。瞳の、十二時にかはりて、大小あるも、氣味わろし。況や、身の後(のち)だに皮(かは)の聲(こゑ)すらも、雅樂(たゞしきがく)をみだる調子あり。心すべき物にこそ。其うへ、常の猫にてさへ、鼠をとらしめむ爲に畜(か)ひをけども[やぶちゃん注:ママ。]、又、鼠より、さまたげある事、多し。たゞ飼はざらんにはしかじ。且、又、「著聞集」に、觀教法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに、よく、玉(たま)を取りければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出(とりいだし)て玉にとらせけるに、件(くだん)の刀をくはへて、何地(いづち)やらん、逃げ失せぬ。人々、尋求(たづねもとむ)れども、行きがた、知られずなりにき。此れ、『猫魔の變化(へんげ)なり』と、人々、沙汰し侍り、としるせり。兎角、怖しき物にこそ」。

[やぶちゃん注:『「徒然草」『猫またよや』の事』知られ過ぎた「徒然草」の第八十九段。

   *

 「奧山に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる。」

と、人の言ひけるに、

「山ならねども、これらにも、猫の經(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」

と言ふ者ありけるを、何(なに)阿彌陀佛とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の邊(へん)にありけるが、聞きて、

『ひとり步かん身は、心すべきことにこそ。』

と思ひけるころしも、ある所にて、夜(よ)ふくるまで連歌して、ただひとり、歸りけるに、小川(こがは)の端(はた)にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へ、ふと寄り來て、やがて[やぶちゃん注:いきなり。]、かきつくままに、頸(くび)のほどを、食はんとす。膽心(きもこころ)も失せて、防がんとするに、力もなく、足も立たず、小川へ轉び入りて、

「助けよや、猫また、よやよや[やぶちゃん注:感動詞。強く呼びかける際に発する語。「おおい! おおい!」]。」

と叫べば、家々より、松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。

「かは如何に。」

とて、川の中より抱(いだ)き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など、懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ[やぶちゃん注:這うようにして。]、家に入りにけり。

 飼ひける犬の、暗けれど主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

   *

因みに、私はこれを中学二年の国語の授業で読まされたのを覚えている。その時、この糞擬似怪談を書いて悦に入っている兼好という男は、つくづくつまらぬ男だな、と思ったことを思い出す。私は第七段の「あだし野の露」の絶対無常観の辛気臭い表明(しかし兼好はそんなこと微塵も信じていなかったことは請け合う)や、百三十七段の「花は盛りに」の「大路みたるこそ、祭見たるにてはあれ」に例外的にシンパシーを持った以外には、糞知れ顔のそれを、笑ったことも、感心したこともない。寧ろ、同じ頃に、手にした芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、

   *

       つれづれ草

 わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでしせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

   *

を読んで、快哉を叫んだものだった。当時の私は既にフロイトの「精神分析学入門」や「夢判断」を耽読しており、こうしたあまりに単純な心理錯誤は、既にして、退屈の極みだったのである。

「猫又」については藤原定家の日記「明月記」の天福元(一二三三)年八月二日の条にも以下のように出る(国立国会図書館デジタルコレクションの「明月記」(版本)の画像のここを視認して起した)。

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夜前、自南京方來使者小童云、當時南都云猫跨獸出來、一夜噉七八人、死者多、或又打殺件獸、目如猫、其體如犬長云々。

(夜前、南京の方より、使者の小童、來たりて云ふ、「當時、南都に、猫跨(ねこまた)と云ふ獸(けもの)出で來て、一夜に、七、八人を噉(くら)ひ、死する者、多し、或るは又、件(くだん)の獸を打ち殺すに、目は猫のごとく、其の體は犬の長(たけ)のごとし」と云々。)

   *

「『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし」源順の「和名類聚鈔」には「猫(ネコマ)」「祢古萬」とし、ネコの古名として掲げる。「こま」は小学館「日本国語大辞典」に、猫の『古名「ねこま」の略』とし、さらに、『猫の愛称としても用いられた』とする。また、千葉県の方言として『飼い猫につける』通用『名』ともある。ウィキの「猫又」も引いておこう。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種がある。『中国では』、『日本より古く』、隋代には『「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては』先に示した定家の「明月記」の記事『が、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、以上の「明月記」の猫又の形態は、果たして猫の『化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという』記述も別にあることから、『狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』という。『江戸時代の怪談集である「宿直草」や「曽呂利物語」でも、『猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』(私の「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」を参照。後者は、その私の注で先行する類話として指示した「曾呂里物語」の巻三の五「ねこまたの事」である)、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年の「新著聞集」で『紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の「倭訓栞(わくんのしおり)」では、『猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている』文化六(一八〇九)年の「寓意草」で『犬をくわえていたという猫又は』全長九尺五寸(約二・八メートル)とする。『越中国』『で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津』『で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による』「安斎随筆」には『「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また』、『江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでも』、『こうしたネコの怪異が報じられていた』。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある』。『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり』、『分かれているように見えることが由来との説もある』。『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七『代までたたられるなどと恐れられており、そうした俗信が背景となって』、『猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている』。元文二(一七三七)年刊の「百怪図巻」など『では、人間女性の身なりをした猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』、『もしくは一種の皮肉などと解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では(リンク先に画像有り)、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』二『本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二『本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』二『本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』とある。

「『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり」猫が年経て、妖獣となったとするものの名。

「唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり」確かにあると思うし、読んだ記憶あるが、即座にこれと示せない。思い出したら、追記する。まんず、私の「柴田宵曲 妖異博物館 ものいふ猫」でもお茶濁しにリンクさせておこう。やや不満ながら、清初の文人褚人穫(ちょじんかく)の随筆「堅瓠集(けんこしゅう)」に載る、それぞれ男に雌のそれが、女に雄のそれが憑いた場合は助からぬとある、浙江省金華(ハムで有名なあそこ)地方の妖猫怪「金華貓(きんかびょう)」は一つ、候補か。

   *

 金華貓精

聽、金華貓、畜之三年後、每於中宵、蹲踞屋土、伸口對月、吸其精華。久而成怪、入深山幽谷、朝伏匿、暮出魅人、逢婦則變美男、逢男則變美女。每至人家、先溺於水中[やぶちゃん注:小便をし。]、人飮之、則莫見其形。凡遇怪者、來時如人、日久成疾。夜以靑衣覆被土、遲明視之、若有毛、必潛約獵徒。牽數大至家捕貓、剝皮炙肉。以食病者方愈。若男病而獲雄、女病而獲雌、則不治矣。府庠張廣文有女、年十八、殊色也。爲怪所侵、發盡落、後捕雄貓始瘳。

   *

Masahiro Aibaraサイト「幻想世界神話辞典に最後の部分を除いて、訳が載る。

「其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり」薬餌としての漢方の公的なそれはよく判らぬが、ウィキの「猫食文化」によれば、『中国の両広(広東省および広西チワン族自治区)とベトナム北部では、冬にネコの肉を食べると身体が温まると考える人々がおり、特に高齢者の間で』猫食は『多い』。『中国では年に』四百『万匹の猫が食べられており、猫の消費は増加傾向にある』。『食べられる部位は胃腸とモモ肉で、後者は肉団子にして汁物に入れる。頭部と残りの身は捨てる。広東料理にはヘビを竜、ネコを虎、鶏を鳳凰に見立てた龍虎鳳(中国語版)という料理があり、強壮効果があると信じられている』。『現地の動物保護に詳しい弁護士によると、中国国内の猫肉取引は禁じられており』、二〇〇七『年の法律でも「国内で通常食されない食物」の取引には特別な許可が必要としている』が、『華南の飯店で出される猫肉は主に、許可を得たブローカーが安徽省や江蘇省から仕入れたものである』とある。但し、『中国ではペットとしてのネコの飼育が増えるにつれ、猫食文化への風当たりが強まり、抗議行動も起こるようになって』おり、『犬食や猫食に対する抗議運動』も増えているという。『日本では幕末までネコが食されることもあった』。『沖縄県では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにしたマヤーのウシルなどが食べられていた』。『朝鮮では、茹で肉から』、『神経痛や関節炎に効く強壮剤がつくられた』。『ベトナムではネコ肉を「幸運を呼ぶ」として提供する食堂があり、中国などからの密輸が増えている』とある。

「瞳の、十二時にかはりて、大小ある」サイト「子猫の部屋」の「猫の文化」の「猫の都市伝説」にある「猫の目を見れば時間がわかる」が、出典確認から検証まで完璧に行っておられ、必見要保存! 原拠は唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「続集」の第八巻「支動」の以下。

   *

貓、目睛旦暮圓、及午豎斂如糸延。其鼻端常冷、唯夏至一日暖。其毛不容蚤虱。黑者暗中逆循其毛、卽若火星。俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓有褐花者。靈武有紅叱撥及靑驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。

(貓(ねこ)、目晴(もくせい)、旦(あさあ)けと暮れは圓(まろ)く、午(ひる)に及びて、堅く斂(おさ)まりて、糸を延ばすがごとし。其の鼻の端は常に冷え、唯だ夏至一日のみ暖かし。其の毛、蚤・虱(しらみ)を容(い)れず。黑きは、暗中、其の毛を逆さに循(な)づれば、卽ち、火の星のごとし。俗に言ふ、「貓、面(かほ)を洗ひて耳を過ぐれば、則ち、客、至る」と。楚州謝陽、褐花(かくわ)の有る猫、出づ。霊武に紅叱撥(こうしつはつ)及び靑驄(せいそう)の色の者、有り。貓、一名、「蒙貴(まうき)」、一名、「烏員(ういん)」。平陵城は古への譚國(たんこく)たり。城中、一貓(びやう)有り、常に金の鎖を帶び、錢(ぜに)有りて、蛺蝶(きようてふ)のごとく飛ぶ。士人、往往、之れを見たり。

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・「目晴」眼晴。眸。

・「黑きは」黑き貓は。

・「火の星のごとし」火花のようなものを発する。静電気か?

・「楚州謝陽」現在の江蘇省淮安(わいあん)。

・「褐花」「紅叱撥」「靑驄」よく判らぬが、毛の色とそこに現れた模様或いは特異な形態を含んだ一種の異種総称名のように思われる。

・「霊武」現在の寧夏回族自治区霊武県の西北に相当。

・「平陵城は」春秋時代の斉(せい)の邑(ゆう)。古城は現在の山東省歴城県の東にある。

・「譚」周代の国名。春秋時代に斉に滅ぼされた。

・「蛺蝶」立羽蝶(現行分類では鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科 Nymphalidae)この猫、背に羽を持っていて飛ぶように見えたのであろう。先の引用にも、背の皮が剥けて後ろに垂れ下がるケースが出たが、私も、背部に奇形があり、まさペガサスの翼のようになった個体の動画を見たことはある。

「皮(かは)の聲(こゑ)」言わずもがな、三味線の皮となって、あの俗なる音を出すこと。

『「著聞集」に、觀教法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに……」「老媼茶話巻之弐 猫魔怪」の私の注で電子化しているので、そちらを見られたい。なお、私の電子化したものの中の妖猫譚は枚挙に暇がない。他にも比較的長い話柄では「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」等がある。しかし、猫の報恩譚もあり、私はそちらの方が好きだ。特にお薦めは、「耳囊 卷之九 猫忠死の事」の私の真正現代語大阪弁訳版である。未読の方は、是非、どうぞ! 関西弁ネイティヴの教え子の校閲も経たものである。]

2018/10/17

古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事

 

  第七 叡山中堂油盜人(あぶらぬすびと)と云(いふ)ばけ物靑鷺の事

Aburanusubito

 

[やぶちゃん注:本条は挿絵を含め、既に本話の梗概を中で紹介した『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の注で電子化してあるが、今回は底本が異なり、零から総てやり直し、挿絵も改めて清拭した。

 比「叡山」の「中堂」は天台宗開祖最澄が延暦七(七八八)年に創建し、自ら刻んだ薬師如来像が安置されている。ここは、初期原型の最澄創建になる三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置したことから、薬師堂を「中堂」と呼ぶようになったが、この三堂が後に一つの伽藍に纏められたため、「中堂」という伽藍名が残ったものとされる。比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」と称し、比叡山では「東塔」という名の公域区域の中心的建築物である。元亀二(一五七一)年に織田信長の焼き打ちで灰燼に帰したが、後、徳川家光が慈眼大師天海の進言を受け、八年をかけて寛永一九(一六四一)年に現在の姿に再建した。創建以来、千二百年、不断に灯もり続ける「不滅の法灯」は、焼き打ち前に分灯されていた火が移され、僧侶が毎日、油を足し、現在も輝き続けている。

 「靑鷺」博物学的上のそれは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」』を見られたい。最後に本条の類話を示すために、再注する。

 「坂本兩社權現」これは本来、狭義には、現在の滋賀県大津市坂本にある日吉大社(通称「山王権現」)の身体山である牛尾山(八王子山)山頂にある牛尾宮と三宮を指すものと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「日吉大社」によれば、文献では、「古事記」に「大山咋神(おほやまくひのかみ)、亦の名を山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。此の神は近淡海國(たかつあふみのくに)の日枝の山に坐(ま)し」と『あるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである』。『日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇』七『年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという』。『また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ』二『社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇』七『年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である』とある。『最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬し』、『中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した』神輿は『日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる』。『織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在』の『建造物は安土桃山時代以降』、天正十四(一五八六)年から『再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した』。『これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから』(山王権現は猿を神使とする)、『当社を特別な神社と考えたためである』とある。]

 

かたへの人の云(いはく)、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云(いへ)る人の物語に、そのかみ、叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壹萬石ばかり知行ありしを、東近江の住人、此油料を司りて、家、富(とみ)けるに、其後(そののち)、世かはり、時移りて、此知行、退轉[やぶちゃん注:ここは「次第に衰えること」及び「中断すること」の両意であろう。]せしかば、此東近江の住人、世にほい[やぶちゃん注:「本意」。]なき事に思ひ、明けくれ、嘆きかなしみしが、終(つゐ)に此事を思ひ死(じに)にして死(しに)にけり。其後、夜每に、此者の在所より、ひかり物、出(い)でて、中堂の方へ來(たり

て、彼(かの)油火のかたへ行(ゆく)とみえしが、其さますさまじかりし故、あながち、油を盜むにもあらざれど、皆人、『油盜人』と名付たり。はやりお[やぶちゃん注:ママ。「逸り男」。]の若者共、是を聞(きき)て、『如何樣にも其者の執心、油にはなれざる故、今に來(きた)るなるべし。しとめて見ばや』とて、弓矢・鐵砲をもちて、飛來(とびきた)る火の玉を待(まち)かけたり。あんのごとく、其時節になりて、黑雲一叢(くろくもひとむら)、出づる、と見えし。その中に彼(かの)光り物、あり。『すはや』といふ内に、其若者共の上へ來りしかば、何れも、『あつ』といふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にも、たしか成(なる)者ありて、見とめしかば、怒れる坊主の首、火熖を吹きて來たれる姿、ありありと見えたり。是、百年ばかり以前の事[やぶちゃん注:元隣の没年は寛文一二(一六七二)年であるから、ここを起点限界とすれば、百年前は元亀三(一五七二)年よりも前となる。信長の比叡山焼打はまさに元亀二(一五七一)年であるから、この直前と見ると、何やらん、怨霊めいて面白いではないか。話者もその確信犯で「百年前」と言っているように思われる。]にてさぶらひしが、その後はに來(きたり)て、只今も、雨の夜などには、其光物、折々、出申(いでまうし)候を、湖水邊(へん)の在所の者は、坂本の者にかぎらず、何れも見申候。此事、かくあるべきにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「人の怨靈の來(きた)る事、何かの事に附(つけ)て申ごとく、邂逅にはあるべき道理にて侍る故、其『油盜人』も有(ある)まじきにあらず。しかしながら、年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり。其(その)死ぬる人の精魂(せいこん)の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近(ゑんきん)のたがひ、あるべし。また、只今にいたりて、其物に似たりし光り物有(ある)は、疑ふらくは靑鷺なるべし。其仔細は江州高島の郡(こほり)などに、別して、あるよしを申侍る。靑鷺の年を經しは、よる、飛ぶときは、必ず、其羽、ひかり候故、目のひかりと相(あひ)應じ、くちばし、とがりて、すさまじく見ゆる事、度々なり、と申しき。されば、其ひかり物も、今に至りて見ゆるは、靑鷺にや侍らん」。

[やぶちゃん注:「年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり」卷之二 第五 うぶめの事幽靈の事」で、彼は「其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし」と述べている。

「江州高島の郡」ほぼ現在の滋賀県高島市(琵琶湖北西岸)に相当する地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 さて鷺類、特に五位鷺(博物学的には私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい)と怪異は実は親和性が強い(私には彼らは時に隠者か哲人の後ろ姿にさえ見えるのであるが)。但し、それは寧ろ、元隣の言うような擬似的発光現象に絡む擬似怪談として記されているものが優位に多い。五位鷺の典型例は「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事(私の電子化注)や「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事(私の電子化訳注)であろう。青鷺らしきものでは、私の推定であるが、「谷の響 一の卷 五 怪獸」(私の電子化注)がある。実は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」で私は「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」とある本文に以下のような引用注を附した。

   *

 これはサギの鳥体が夜間に青白く発光するもので、江戸時代から妖怪或いは怪異現象として「青鷺火(あおさぎび)」「五位の火(ごいのひ)」などと呼ばれている。ウィキの「青鷺火」より引く。『「青鷺」とあるが、これはアオサギではなく』、『ゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔畫圖續百鬼」や「繪本百物語」などにも『取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者』桜川慈悲功作・歌川豊国画の「變化物春遊(ばけものはるあそび)」(寛政五(一七九三)年刊)にも、大和国で『光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩』、一『人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている』(原典の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る)。『新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の論文「光る鳥・人魂・火柱」(『茨城の民俗』昭和五六(一九八一)年十二月)にも、昭和三(一九二八)年頃に『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など』、『青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている』。『サギは火の玉になるともいう』。『火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある』。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』とある。

   *

私は自身の複数の経験から、発光細菌やバクテリア説は退けたい(そういう派手に発光する陸上や空中での現象(海上・海中では発光クラゲ・クシクラゲ類・夜光虫・ウミホタル・ホタルイカ等で多数見たが)を私は六十一年の生涯の中で一度も経験したことがないからである)。胸元の白い毛の錯覚説を強く支持するものである。

2018/10/16

古今百物語評判卷之三 第六 山姥の事附一休物語幷狂歌の事

 

  第六 山姥(やまむば)の事一休物語狂歌の事

又、問(とふ)ていはく、「世に、山姥(やまうば)といふ物ありて、人をとるよし、又は、人の女房にばけたる物語なども候ふ、實(まこと)の女ににて候ふや、不審(いぶかし)さよ」と云(いひ)けるに、先生、評していはく、「山姥といふは深山幽谷の鬼魅(きみ)の精たるべし。此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず。併しながら、其(その)姥(うば)といへるは、『龍田姫(たつたびめ)』・『山姫(やまひめ)』などの日本の云ひならはしなるべし。其名に付きて、しづはたのたくみにかゝずらひ、苧(を)うみ、絲(いと)つむぐやうに、謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)にも諷(うた)ふなるべし。さて又、此曲舞を、一休和尚、作り給へる時、『佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり』と作りて、此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる時、螺河(にながは)新右衞門、來たりて、『「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」と候はゞ、あとさき、相應して侍らむと付けられし、と申(まうし)ならはせり。又、過ぎし頃、某(それがし)、『ばけ物』を題にして、『戀(こひ)』の狂歌、讀みしに、『山姥』をよみしは、

 とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね

     聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる

 春さればこなたのことや忘るらん

     花をたづねて山めぐりして」

[やぶちゃん注:「山姥」の標題の「やまむば」と本文の「やまうば」(本文は総てこれ)のルビの相違は原典のママ。妖怪「山姥」については、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず」化生説である。

「龍田姫」ウィキの「竜田姫」を引く。『日本の秋の神。立田姫と表記されることもある。別称・龍田比売神。竜田山の神霊で元々は風神。秋の季語』。『五行説では西は秋に通じ、平城京の西に位置する竜田山(現在の奈良県生駒郡三郷町の西方)の神霊が秋の女神としての神格を持ったもの。龍田比古龍田比売神社』(たつたひこたつたひめじんじゃ:奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)龍田にある龍田神社の旧正式名。ここ(グーグル・マップ・データ)。「延喜式神名帳」にもこの社名で記載されており、小社に列している。しかし、後に龍田大社(奈良県生駒郡三郷町立野南)から天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、本来の祭神は忘れられてしまった。現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している)『に祭られる龍田比古神が夫神であり、鮮やかな緋色や黄金の秋の草木の錦を纏った妙齢の女性として想像される』。「竜」が「裁つ」に『音が似ているため裁縫の神としても信仰される。また』、『竜田山を彩る紅葉の美しさから、紅葉を赤く染める女神として染色が得意ともされた』。「源氏物語」の「帚木(ははきぎ)」の、知られた「雨夜の品定め」の場面には左馬頭のかつての妻が染色が巧みであったことを龍田姫になぞらえている。当時、染めものが得意であることは』、『良き妻の条件の最たるものだった』。『春を司る佐保山の佐保姫と東西・春秋の一対の女神として知られ、他にも夏を司る「筒姫」、冬を司る「宇津田姫」(白姫・黒姫とされることも)が四季それぞれに配される』とある。

「山姫」原初的には山の守り神たる女神を指したが、後に山中の妖怪に変質し、人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えが、全国各地に広く残っている。以前は先の「龍田姫」と同じであったに相違ないが、零落するに従って「山女(やまおんな)」「山母(やまはは)」「山女郎(やまじょろう)」「山姥(やまうば/やまんば)」果ては「鬼婆(おにばば)」などへと変容するとともに、若くて抜けるような白い肌を持った美女から、醜悪な老婆へと変じて蔑称となってゆくのは実に皮肉で憐れを誘う。「谷の響 一の卷 三 山婦(やまおみな)」の本文及び私の注、及び私の「宿直草卷三 第五 山姫の事」も参照されたい。

「しづはたのたくみにかゝずらひ」「賤機の巧み」であろうか。機織りは女性の専業であるから女の意に転じ、賤しい女の巧みな誘惑に心を惹かれ。無論、文学的情緒的比喩としてである。

「苧(を)うみ」「苧を績(う)む」「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)」ウィキの「曲舞」によれば、『中世に端を発する日本の踊り芸能のひとつで、南北朝時代から室町時代にかけて流行した。単に「舞」と称することもあり、「久世舞」「九世舞」などとも表記する』。『幸若舞の母体になった舞である』。その『起源は不詳であるが』、十五世紀末から十六世紀『初頭にかけて成立したとみられる』「七十一番職人歌合」には『白拍子と対にして描かれており、両者の服装や囃子などの共通点から、平安時代末期に成立した白拍子舞に源流を求める見解がある』。『曲舞は、ストーリーをともなう物語に韻律を付して、節と伴奏をともなう歌舞であり、踊り手には稚児と男があった』。稚児舞は『水干、大口、立烏帽子の服装、男舞は水干にかわって直垂を着用して、扇を手にもつスタイルを基本とした』。『また、男装した女性による女曲舞もあった』。謡曲の「山姥(やまんば)」や「百万」(ひゃくまん:観阿弥原作・世阿弥改作になる狂女物の代表作。実在の鎌倉時代の女舞い手百万をモデルとする主人公「百万」の芸が披露されるとともに、失った子を探す母の母性が描かれる。前の「山姥」は、ツレとして曲舞の名女舞い手芸名「百万山姥」が登場し、本作との親和性が強い)は『古来の曲舞の様相を現代に伝えるとの評がある』『一方、室町時代の中期以降は、特にその一流派であ』った『幸若というスタイルで継承されてゆくこととなった』とある。謡曲の「山姥」は世阿弥作で、都の曲舞の名手の遊女が山で迷い、山姥に助けられ、山姥は境涯を語り、山巡りの舞を見せて消える。詳しくはサイト「the能.com」の「山姥」及び次注のリンク先を見られたい。

「此曲舞を、一休和尚、作り給へる時」「銕仙会」公式サイトの「能楽事典」の「山姥」の中野顕正氏の解説によれば、『本作のクライマックスとなってい』る『場面では、〈仏法と世俗〉〈悟りと煩悩〉〈仏と人間〉といったこの世のあらゆる存在が、本来は二項対立的に存在するものではなく、ひとつの真理の異なる現れ方に過ぎないのだと述べられており、その中で「人間も山姥も、本来は同じ存在なのだ」と主張されています。こうした「邪正一如」という仏法の理を、禅の言葉などを多用しながら綴っているところに、本作の特色はあるといえましょう』。『現在では、本作の作者が世阿弥であることは資料上から明らかとなっていますが、かつては、このような難解な作品を書いたのはきっと僧侶に違いないと考えられていた時期もあり、本作は室町時代の有名な禅僧・一休宗純の作だと考えられていました。一休の死後にその事績をまとめた『一休和尚年譜』では、本作や《江口》は一休の作であるとされ、以前はこうした理解がなされていたのでした。それほど、本作では深遠な禅の理法が説かれ、輪廻を逃れ得ぬ鬼女の身でありながらこの世の真理をきわめた存在として、本作のシテは描かれていたといえましょう』とあり、この元隣の言っている意味が判然とする。謡曲「山姥」の上記のクライマックス・シークエンスで、元隣の引く「佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり」という詞章の出るのは以下(新潮日本古典集成「謡曲集 下」(伊藤正義校注・一九八八年刊)を参考にし、漢字を恣意的に正字化した。太字下線は本条のために私が施したもの)。

   *

【クリ】

シテ〽「それ山といつぱ 塵泥より起こつて 天雲掛かる千丈の峰

地謠〽「海は苔の露より滴(しただ)りて 波濤を疊む萬水たり

【サシ】

シテ〽「一洞(いつとう)空しき谷の聲 梢に響く山彦の

地謠〽「無聲音(むしやうをん)を聞く便りとなり 聲に響かぬ谷もがなと 望みしもげにかくやらん

シテ〽「殊にわが住む山家(さんか)の景色 山高うして海近く 谷深うして水遠し

地謠〽「前には海水瀼々(じやうじやう)として 月(つき)眞如の光を揭げ 後(うしろ)には嶺松(れいしよう)巍々(ぎぎ)として風(かぜ)常樂の夢を破る

シテ〽「刑鞭(けいべん)蒲(かま)朽ちて螢空しく去る

地謠〽「諫鼓(かんこ)苔深うして 鳥驚かずとも言ひつべし

【クセ】

地謠〽「遠近(をちこい)の たづきも知らぬ山中(やまなか)に おぼつかなくも呼子鳥の 聲凄き折々に 拔木丁々(とうとう)として 山さらにかすかなり 法性(ほつしやう)峯聳えては 上求(じやうぐ)菩提を現はし 無明(むみやう)谷(たに)深き粧ひは 下化(げけ)衆生を表(ひやう)して金輪際に及べり そもそも山姥は 生所(しやうじよ)も知らず宿(やど)もなし ただ雲水(くもみづ)を便りにて 至らぬ山の奧もなし

シテ〽「しかれば人間にあらずとて

地謠〽「隔つる雲の身を變へ 假に自性(じしやう)を變化(へんげ)して 一念化生(けしやう)の鬼女となつて 目前に來れども 邪正一如(じやしやういちによ)と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法(せはう)あり 煩惱あれば菩提あり 佛(ほとけ)あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり 柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々

地謠〽「さて人間に遊ぶこと ある時は山賤(やまがつ)の 樵路(せうろ)に通ふ花の蔭 休む重荷に肩を貸し 月もろともに山を出で 里まで送る折りもあり またある時は織姫の 五百機(いをはた)立つる窓に入つて 枝の鶯絲繰り 紡績(ほうせき)の宿に身を置き 人を助くる業(わざ)をのみ 賤(しづ)のめに見えぬ 鬼とや人の言ふらん

シテ〽「世を空蟬の唐衣(からころも)

地謠〽「拂はぬ袖に置く霜は 夜寒(よさむ)の月に埋(うづ)もれ 打ちすさむ人の間にも 千聲萬聲(せんせいばんせい)の 砧(きぬた)に聲のしで打つは ただ山姥が業なれや 都に歸りて世語りにせさせ給へと 思ふはなほも妄執か ただうち捨てよ何事も よしあしびきの山姥が 山𢌞りするぞ苦しき

シテ〽「あしびきの

地謠〽「山𢌞り

   *

「此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる」この詞章の意味するものは如何なる意味かと考えていた。

「螺河(にながは)新右衞門」不詳。元隣の友人の俳諧師かと思ったが、ウィキの「蜷川氏」を見たところ、『室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて』三『代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)』。『また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる』。『長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る』とし、さらに『蜷川氏の当主は代々』、『新右衛門と名乗っている』とある。更に『蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ』「一休さん」(一九七五年~一九八二年)に『足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった』蜷川親当(ちかとも ?~文安五(一四四八)年:出家後に智蘊(ちうん)と称した。室町中期の元幕府官僚で連歌師)『が仕えたのは足利義教であり、そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも』、『親当が出家して智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した』「親元日記」や、一休の「狂雲集」には『蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる』とある。ウィキの「智蘊」によれば、『法名は五峰』とあり、『室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる』。『応安(およそ』一三七〇『年代前半)の頃まで越中国太田庄にあった。足利義教の政所公役を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の』「正徹物語」下巻の『「清巌茶話」は彼の聞書きとされている』。『連歌では』、永享五(一四三三)年の『「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に』「親当句集」、他にも「竹林抄」や「新撰菟玖波集」に『入集している。宗祇が選んだ連歌七賢の一人』とある。無論、元隣が当時の蜷川氏当主と親しかったのかも知れないが、或いは、この部分、元隣の創作の可能性もあるのではないか、と感じた。則ち、彼の元にやってきたのは、実在する「螺河(にながは)新右衞門」ではなく、二百数十年前の蜷川新右衛門親当(智蘊)の霊という設定であり、彼が歌合せ風に詠んだとして掲げる二首の狂歌は、実は元隣の作ではないか、という疑いである。大方の御叱正を俟つ。

「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」前掲の謡曲「山姥」の詞章の引用(太字下線部)。新潮日本古典集成「謡曲集 下」の注の指示する謡曲「芭蕉」の「柳は綠 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木(さうもく)も成佛の國土ぞ」という詞章の頭注に、『〈柳は緑、花は紅」に、それぞれあるがままの姿が仏の体だと知ってみれば、それはとりもなおさず』、『色香を保つ草木のままで成仏している仏国土なのだ〉。「柳緑花紅真面目」は蘇東坡の詩と伝えられているが』、『元拠不詳。元来』、『禅語らしいが「世間相常住」の例証として流布し、天台本覚論』(平安後期に始まり、中世に盛行した天台宗の現実や欲望を肯定的に捉える理論。本覚の解釈を拡大して、現実の世界や人間の心がそのまま真理であり、本覚そのものの姿であると説き、煩悩と菩提を同一のものとし、修行を軽視する傾向をもつ。ここは三省堂「大辞林」に拠った)の『中にも説かれる』とある。

「あとさき、相應して侍らむと付けられし」謡曲「山姥」の当該箇所、「邪正一如と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法あり 煩惱あれば菩提あり」に続けて「佛あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり」とした後に、「柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々」と、論理的に相応しく、詞章を繫げたことを指す。

「とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる」底本は「あげ路」とする。「ろ」の読みは原典に拠った。「とちほどの」は「栃程の淚」で、栃の実ぐらいの、大粒の涙(これは子供っぽい無垢さ、山姥の中の少女(姫)性を含ませるか)の意。「あけ路(ろ)」はまず、底本の「あげ路」で「上げ路」、山へ登る道で、それに己が宿命に声を「あげろ」(上げていること)を掛けるか。或いは「あけろ」で「明け路」、一夜泣き叫ぶうちに「朝明けを迎える山路」にやっと僅かな眠りを持つ、の謂いか? よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「春さればこなたのことや忘るらん花をたづねて山めぐりして」「されば」は「来れば」の意。単品ではどうということはないつまらぬ一首だが、左の悲壮な一首と合わせ読むと、なにか胸を撃つものがある。この歌は何かの元歌がありそうだが、和歌嫌いの私には判らぬ。同じく識者の御教授を乞うものである。]

2018/10/15

古今百物語評判卷之三 第五 貧乏神幷韓退之送窮の文、范文正公物語の事

 

  第五 貧乏神韓退之送窮の文(ぶん)、范文正公物語の事

Binbougami

[やぶちゃん注:入れ子の会話文が多いので、特異的に改行・字下げ及びその他の記号を施して読み易くしてみた。]

 ある人の云(いはく)、

――去(さる)物語たりに云へるは、河西(かはにし)あたりの、きはめてまづしき者、何事も『左(ひだり)ずまふ』をとるがごとく、くる年も侘しく、明くる年も心にかなはねば、

「とやせん、かくやらむ。」

と、身のをき所さへ案じくらす折ふし、何かは知らず、肩の上より、五寸ばかり成(なる)物、落ちたり。

 取りあげ見れば、人形(ひとかたち)にて、目・鼻・口・舌も、そろひたり。

 彼(かの)貧者、おどろきて、

「汝、何者なれば、我が肩より落ちたる。」

と云へば、答(こたへ)て云く、

「我、世に、いはゆる、貧乏神にて、日頃、こなたの身に住(すま)ゐせし者なり。」

と云へば、貧者、よろこび、妻子を呼(よび)て云ふやう、

「扨々、嬉しきこと哉(かな)。此日比(このひごろ)、此者、我につきまとへばこそ、汝等にも、からき目を見せつれ、向後(けうかう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「きやうこう」。])よりは、手前もなをり、物每(ものごと)、潤澤なるべし。打ち殺しても捨(すつ)べきなれども、いぬると云へば、其まゝにてたすけやるべし。」

と云へるに、貧乏神、わらつていふやう、

「御悦(おんよろこび)は御尤(ごもつとも)なれども、我、そなたの身をはなるゝに非ず。こなたの身のうへ、頂(いたゞき)より、足のつまさき迄、ひしと、諸方の貧乏神、つきまとひたるうへに、此比(このごろ)、また、新しき神どもの、遠方よりつどひ來たりし故、おり所なく誤(あやまり)て落ち侍る。」

といへば、彼者、興さめて、あきれはてたり、と申す事の候が、若(もし)、此神候哉(や)、左(さ)候はゞ、萬(よろづ)のばけ物よりもおそろしき者にて御座候。――

 

と問(とひ)ければ、先生、評していはく、

 

――此神を『窮鬼(きうき)』[やぶちゃん注:貧乏神。]と名附たり。

 夫(それ)、人の貧富は、天命の禀受(ひんじゆ)[やぶちゃん注:授かり受けること。]の、あつき・薄きによれば、聖賢君子の、德義正しく、智慮ふかしといへども、如何ともする事、なし。孔子・顏淵・曽參(そしん)・原憲(げんけん)の類(るい)、あげてかぞふべからず。

 然るを、愚なる者は(しい)て貧(まづしき)を去り、富を求めむとして、其身をくだし、名をはづかしめ、後には刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:刑罰に処すること。死刑に処すること。]に落ちゐる[やぶちゃん注:ママ。]たぐひ、此れ、天命を知らずして、幸(さひはひ)を願ふがゆへ成(なる)べし。

 常體(つねてい)の者は、天命の説も、ことむつかしければ、佛家(ぶつけ)に、いはゆる、三世(さんぜ)の説を立てゝ、過去の宿業(しゆくごふ)と云へるも、害あるにあらず。

 かく、天運によるなれば、神(かみ)有(あり)て司(つかさどれ)るにもあらざめれど、唐の韓退之と申せし大儒も、正月・晦日(つごもり)に酒肉をのせて、文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひしかど、一生が間、不仕合(ふしあはせ)のみ、打續(うちつづき)候故、宋の陳簡齋(ちんかんさい)といふ詩人の詩にも、「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」(韓愈 窮を推せども窮去らず  樂天 富みを待てども 富み來らず)と作りしとかや。

 又、宋の范文正公と云(いへ)るは、宋朝一人の人品(じんひん)にて、學問才藝は更にもいはじ、好むで、人に施し給ふ。後に饒州(ぜうしう)の守護職に成(なり)給ひて、家、富み、門、榮(さかえ)たり。

 然(しかる)に、其友に、きはめてまづしき浪人ありて、渡世のたつきなかりければ、范文正公と舊友なるによつて、

『合力(かうりよく)に預らばや。』

と思ひて、遙々、饒州にいたりて、此事を嘆きしかば、文正公、もとより、人に物ををしまぬ心なれば、大守たりといへども、一錢のたくはへ、なし。

 折節、六月の頃なれば、文正公、仰せけるは、

「當夏(とうなつ)の税(みつぎもの)に麥を數萬石(すうまんごく)おさめしを、せがれ某(それがし)をして、慰みがてら、奉行にそへて、賣りに遣したり。此者、歸らば、此金をあたふべし。」

とて、待(まち)給ふに、子息、歸りて申さるゝは、

「むぎをそれぞれに賣(うら)せける所に、古鄕(ふるさと)を通りしかば、親類どもの、まづしく候ふ者に、のこらず、あたへて歸り候ふ。」

と申されし故、文正公も、彼の友だちも、力をおとしぬ。

 さて、其後(のち)、文正公、仰出(おほせいで)らるゝは、

「此州に晉(しん)の王義之の石碑あり。是を石ずりにうつ時は、壹枚を黃金(わうごん)一斤(いつきん)には賣れ、やすかるべし。されども、平人(へいにん)の是をうつ事、あたはず。我、幸(さひはひ)、守護なれば、心易し。」

とて、則(すなはち)、其石摺り百枚をうち給ふべき紙硯(かみすゞり)をとゝのへ給ひ、

「既に、いついつの日、打ち給ふべき。」

とて、其(その)近邊に仰付けられ、既に明日はその所へ文正公も諸共(もろとも)に出で給ふべきと定(さだま)りたる今夜、俄に、土民ども、來たりて申(まうす)やう、

「今夕、俄に夕立して、雷(いかづち)、その石碑へ落(おち)候が、雨晴れて後、見候へば、石碑、微塵にくだけ、いづちへ飛びしやらん、行(ゆき)がたを存ぜず。」

と申(まうし)けり。

 その友、とかうすべきやうもなくて、手をむなしくして、かへり侍りぬ。

 誠にけつかう[やぶちゃん注:ママ。「結構」。]なる文正公を友達にもち、かく念比(ねんごろ)に預(あづか)れども、其數(すう)のきはまりには、是非にも及ばぬ事ならずや。東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りしは、此事なり。――

とかたられき。

[やぶちゃん注:「河西(かはにし)」よく判らぬ。辞書では、京都市の西洞院川又は堀川の西、下京二条通り以南の一帯。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に職人・小商人が多く住んでいたとし、別に京の賀茂川の西の遊所。陰間茶屋が並んでいた、とはある。

「左(ひだり)ずまふ」「左相撲」であろうが、不詳。「左前」と同じなら、「運が傾くこと・経済的に苦しくなること」で腑には落ちる。

「顏淵」孔子第一の高弟顔回の字(あざな)子淵からの呼称。

「曾參」孔子の弟子曾子の諱(いみな)。

「原憲」孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる弟子。

「三世(さんぜ)」前世・現世・後世(ごぜ)。

「韓退之」中唐の詩人で唐宋八大家の一人、文学者・政治家でもあった韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。才気煥発であったが、監察御史の時、京兆尹(いん)李実を弾劾し、却って連州陽山県(広東省)令に左遷され、後に中央に復帰し、刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたことに反対したため、再び、潮州(広東省)刺史に左遷された。後に憲宗が死去して穆宗(ぼくそう)が即位すると、再び召され、国子祭酒から兵部侍郎・吏部侍郎を歴任するなど、政治家としては波乱に満ちた生涯であった。

「文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひし」八一一年、韓愈四十四歳の折り、正月に作った「送窮文」(窮を送る文)を指す。「結柳作車、縛草爲船」(柳を結びて車と作(な)し、草を縛りて船と爲し」て、窮鬼を送り出す祀り(貧乏神送りの儀式。唐・宋以来、年越し前に広く行われていた年中行事の一つ)を述べたもの。この文で彼は行事に託して「窮鬼」と自分との架空の対話を述べている。「紀頌之の中国詩文研究のサイト」の「韓愈の生涯」の「第五章 中央朝廷へ復帰」の「送窮」がよい。梗概を彼が陥れられた冤罪を含め、解説と評を交えて語られており、原文も後に示されてある。

「陳簡齋」(一〇九一年~一一三九年)は南宋初期の詩人で政治家の陳与義の号。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、左遷されたりした。しかし、一一三八年には参知政事となり、大いに朝廷の綱紀を粛正した。詩に優れた。人格的にも非常に厳格で、濫りに笑わなかったという。

「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」陳与義の以下の詩の冒頭二句であるが、「韓愈」は「退之」の誤り。本名を詠み込むのは礼を失している。訓読は歯が立たないのでやめる。悪しからず。

   寄若拙弟兼呈二十家叔

 退之送窮窮不去

 樂天待富富不來

 政須靑山映白髮

 顧著皂蓋爭黃埃

 何如父子共一壑

 龐家活計良不惡

 阿奴況自不碌碌

 白鷗之盟可同諾

 三間瓦屋亦易求

 著子東頭我西頭

 中間共作老萊戲

 世上樂複有此不

 問夢膏肓應已瘳

 歸來歸來無久留

 竹林步兵非俗流

 爲道此意思同遊

「范文正公」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。

「饒州(ぜうしう)」(現代仮名遣「じょうしゅう」)は江西省に嘗て設置されていた州。現在の上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。仁宗の親政の時、范仲淹は中央で採用されて吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して、饒州に左遷されている(後に欧陽脩の推輓により中央に復帰)。

「古鄕(ふるさと)」范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。

「王義之」東晋の政治家で書家として「書聖」と謳われる王羲之(三〇三年~三六一年)。

「石ずりにうつ」石摺りに叩いて拓本として採ること。

「一斤」宋代のそれは五百九十六・八二グラム。

「やすかるべし」それで生活を安んずることが出来よう。

「念比(ねんごろ)に預(あづか)れども」非常な好意に預かったにも拘わらず。

「其數(すう)のきはまり」その浪人の貧として生まれつきの宿命として規定されたその限り。

『東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りし』中文サイトを判らぬながら、いろいろ調べて見たが、蘇軾の「窮措大」(「貧乏学者」の意)という詩の一句らしいところまでしか判らなかった。また、以上の後半部の王義之の碑に纏わるこの不幸譚は、例えば、宋の恵洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」という書に、

   *

範文正守鄱陽。有書生獻詩甚工。文正延禮之。書生自言、平生未嘗得飽。天下之至寒餓者。無出其右。時盛習歐陽率更字。薦福寺碑墨本直千錢。文正爲具紙墨打千本。使售于京師。紙墨已具。一夕雷撃碎其碑。故時人語曰、有客打碑來薦福。無人騎鶴上揚州。東坡作窮措大詩、有一夕雷轟薦福碑句。

   *

と載る。また……いろいろ検索しているうちに、『薦福寺碑  僧人大雅又集王羲之行書刻成之「興福寺碑」』というページを見つけましたが、これがそれかどうかは、もう疲れました、勘弁して下さい、悪しからず。

古今百物語評判卷之三 第四 錢神の事附省陌の事

 

  第四 錢神(ぜにがみ)の事省陌(せいはく)の事

かたへより、問(とふ)て云(いはく)、「世に錢神といふものありて、たぞかれ時に薄雲のやうなる物の氣、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]、其聲をなして、人家(ひとのいへ)の軒だけを、ざゝめきわたれり。見る人、刀をぬきて切りとむれば、錢多くこぼれ落つる、と云へり。然れども、誰(たれ)得たりといふ者を聞かず候。あるべきものにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れ、世界の錢の精、空中に靡(たなび)く物なりけらし。何にても、其物、あつまれば、其精、必ず、生ず。陽の精は日となり、陰の精は月と也(なり)、金石(きんせき)の精は星となれば、錢、もと、人爲(じんゐ)にいづる物なれども、その集(あつま)るに及(および)ては、其精、なきにしもあらじ」。又、問て云く、「『子母錢(しぼせん)』と申すもの御座候よし。如何成(なる)事にて候ふや」。云く、「是れ、仙術のひとつにして、昔より申(まうし)ならはし侍る。其法は『靑蚨(せいふ)』といふ蟬と似たる蟲の、かいこのごとくなる子を、草村(くさむら)に生じをけるを、とれば、其母、必(かならず)、たづね來れるを、とりて、母の血をしぼり、八十一の錢にぬり、子の血をも、又、八十一の錢にぬりて、その一方の錢を以て市(いち)に出(いで)て物を買へば、子母(しぼ)の契り、淺からぬ故に、其錢、飛歸(とびかへ)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、へる事、なしといへり。『子母錢成(なつて)豈患ㇾ貧(あにひんをうれへんや)』と唐の人の作りしも此事に侍る。されど、我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず。そも錢の起りは、外(そと)の圓(まる)きは天になぞらへ、内の方(けた)なるは、地にかたどりて、もろこしにては女媧氏(ぢよかし)の、世に、作り出(いだ)せり。本朝にては聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや。其文(もん)は『開基』・『太平』・『萬年勝寶』・『元寶通寶』など也。猶、後にはもろこしにても、年號を加へて、其名とせり。開元・淸和(せいわ)の類(るい)、是れなり。むかしより、新しき錢出(いで)來ては、古きはすたりし時もあり、又、新舊ともに用ひらるゝ政(まつりごと)も、あり。皆、其時のよろしきに隨(したがへ)り。猶、此銅錢どのは、いかなる心よしやらん、智のあるも、をろかなる[やぶちゃん注:ママ。]も、ちかづかまほしく思へり。され共、類(たぐひ)[やぶちゃん注:ここは「るい」の方が判りがいい。]を思ふ物にて、其多き所には、まねかざれども、集(あつま)り、すくなき所には、たまたま至れども、一夜(いちや)の宿(やど)をも、かる事なし。就ㇾ中(なかんづく)和漢ともに私(わたくし)に鑄る事は、つよき禁制なり。金錢・銀錢は名高き物なれど、私にも鑄るならはしも侍るは、何事ぞや。銅錢は通用の寶(たから)にして、金銀は私の寶なればならん。それ、人の富饒(ふねう)・貧乏は天命のなせる分(ぶん)也。縱逸(ほしいまま)に通寶を鑄ば、誰(たれ)か貧しからん。もし、人の力(ちから)をもつて、貧富を自在にせば、人、よく天に勝(かて)るなり。豈(あに)よく天に勝たむや。又、錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし。唐土(もろこし)にても、時と所により、九十文、或は、八十文、五十七文なるもあり。これを『省陌』と云ふよし、明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」に見えたり」。

[やぶちゃん注:「錢神」という妖怪・怪異は私は他に聴いたことがない。ウィキに「金霊」があり、そこでは「金霊」「金玉」が挙げられ、「かねだま」或いは「かなだま」と読むとあるものの、『金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある』とする。私はこれらと、この「銭神」なるものは、ルーツは同じであろうが、属性や様態に致命的な変質が起こって、肝心の部分(善人限定・家業繁栄・幸運招来等々)が、皆、抜け落ちてしまい、出来(しゅったい)の謂れも脱落し、それこそ、神から零落して妖怪に堕してしまったもののように思われる。まず、「金霊」であるが、『鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)に『よれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている』(所持する刊本の原典画像で以下は補正した。返り点「二」はないが、挿入し、句読点・鍵括弧を打った。リンク先に原画像もある)。

   *

 金靈(かねだま)

金(かね)だまは金氣(きんき)也。唐詩に「不ㇾ貪夜識金銀氣(むさぼらずして よる きんぎんのきをしる)」といへり。又、「論語」にも「冨貴在ㇾ天(ふうきてんにあり)」と見えたり。人、善事(ぜんじ)を成せば、天より福をあたふる事、必然の理(り)也。

   *

以下、私が独自に示す。この「不貪夜識金銀氣」は「唐詩選」にある杜甫の七律「題張氏隱居」の五句目である。

  題張氏隠居

 春山無伴獨相求

 伐木丁丁山更幽

 澗道餘寒歷冰雪

 石門斜日到林丘

 不貪夜識金銀氣

 遠害朝看麋鹿遊

 乘興杳然迷出處

 對君疑是泛虛舟

    張氏の隱居に題す

  春山 伴(とも)無く 獨り相ひ求む

  伐木 丁丁(ちようちよう) 山 更に幽なり

  澗道(かんだう)の餘寒 冰雪(ひようせつ)を歴(へ)

  石門の斜日(しやじつ) 林丘に到る

  貪らずして 夜(よ) 金銀の氣を識り

  害に遠ざかつて 朝(あした)に麋鹿(びろく)の遊ぶを看る

  興に乘じては 杳然(ようぜん)として出處に迷ひ

  君(きみ)に對し 疑ふらくは 是れ 虛舟を泛(うか)べしかと

最終句は、「荘子」の「山木篇」の「方舟而濟於河、有虛船、來觸舟、雖有惼心之人不怒」(舟を方(なら)べて河を濟(わた)るに、虛船有り、來たりて舟に觸るれど、惼心(へんしん)の人有りと雖も怒らず:舟で川を渡ろうとした折り、人の乗っていない舟が流れ来たってその人の舟に衝突したとしても、どんなに短気な人であっても腹の立てようはない。)という話に基づき、張氏の無心さを譬えている(以下、引用に戻る)。

『からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。また』(以下、私が補填した)「冨貴在天」は「論語」の「顔淵第十二」の「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣、死生有命、冨貴在天。君子敬而無失、與人恭有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」(司馬牛、憂へて曰はく、「人は皆、兄弟(けいてい)有り、我に獨り亡(な)し。子夏、曰はく、「商(しよう)、之れを聞く。死生(しせい)、命(めい)有り。冨貴(ふうき)、天に在り。君子、敬して失ふ無く、人と與(まぢ)はるに恭(うやうや)しくして禮有らば、四海の内、皆、兄弟なり。君子、何ぞ兄弟無きを患へんや。:「商」は子夏の名。)『からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから』、『石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている』。『同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている』。享和三(一八〇三)年の『山東京伝による草双紙』「怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)」では『「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている』。『昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという』。『東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば』、『幸運になれるといわれている』(以下に本書の本条の梗概が紹介されているが、略す)。以下、「金玉」の項。『その名の通り』、『玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという』。『東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい』、『千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている』。『静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると』、『手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし』、『金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり』、『傷つけたりすると、家は滅びてしまう』。滝沢馬琴編の都市伝説集「兎園小説」では、文政八(一八二五)年の『房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという』。そこでは、『では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく』、『金玉の方を語った話だと述べている』また、『同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している』。『東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている』とある。最後の部分は「兎園小説第七集」の、文政八(一八二五)年乙酉七月一日の「兎園会」での「文寶堂」(薬種商。詳細事蹟不詳)の報告の一つである「金靈(かねだま)幷(ならびに)鰹舟(かつをぶね)の事」(読みは推定)であり、私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」で原文を電子化しているので見られたい。

「子母錢(しぼせん)」ここにある通り、青蚨(せいふ)というセミに似た虫(以下に注する)の母と子の血を、それぞれ、別の銭に塗ると、一方を使った際、残った他方を慕って飛んで帰って来るとある故事(以下に原典を示す)であるが、そこから、世に回り回って流通するところの普通の「銭(ぜに)の異名」となった。また、別に「子銭(利息)と母銭(元金)」の意もあるので注意されたい。さて、故事の元は干宝の「捜神記」の「巻十三」に載る以下である。

   *

南方有蟲、名「𧑒𧍪(とんぐ)」、一名「𧍡蠋(そくしよく)」、又名「靑蚨」。形似蟬而稍大、味辛美、可食。生子必依草葉、大如蠶子、取其子、母卽飛來、不以遠近、雖潛取其子、母必知處。以母血塗錢八十一文、以子血塗錢八十一文、每市物。或先用母錢、或先用子錢、皆復飛歸。輪轉無已。故「淮南子」術以之還錢、名曰、「青蚨。」。

   *

「靑蚨(せいふ)」私は既に「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 青蚨」の注で、迂遠な考証をし、その結果として、これは蟬の類ではなく、所謂、俗に呼んでいる広義の「蜉蝣(かげろう)」類であろうと推定比定した。広義のそれとは、真正の「カゲロウ」類である、

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものである(この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい)。しかも、この拡大比定は、実は、まさにここで書かれてある草の中に産みつけられる「靑蚨」の卵と「錢神」の親和性が強いように思われる点でも都合がいいように思われるのである。「捜神記」でも「靑蚨」は卵を草の中に産むとあり、「和漢三才図会」の中でも「多く蒲(がま)の葉の上に集まる。春、子を蒲の上に生ず。八つ・八つ、行〔(れつ)〕を爲し、或いは九つ・九つ、行を爲す」(これは実は真正カゲロウでは説明がつかない)の部分が、クサカゲロウの卵である、見るからに目を引くところの不思議な形の「優曇華(うどんげ)の華」で説明をつけることが可能だからである。そうして、どうだろう? 「優曇華の華」の先端の楕円円筒体の卵はそれこそ私は銭っぽく見えないだろうか? そうだ! これは

フレーザーの謂う類感呪術なのではあるまいか?

「かいこのごとくなる子」カゲロウ類のそれは、まあ、蠶のようだと言えば、そうも見えなくはないが……ちとムズい気もする。

『「子母錢成豈患貧」と唐の人の作りし』晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)

の七律「贈王山人」の一節。後の訓読は私の暴虎馮河の力技で訓じた。

   *

   贈王山人

 貰酒攜琴訪我頻

 始知城市有閑人

 君臣藥在寧憂病

 子母錢成豈患貧

 年長每勞推甲子

 夜寒初共守庚申

 近來聞燒丹處

 玉洞桃花萬樹春

 (  王山人に贈る

  酒を貰(か)り 琴を携へ 我れを訪ふこと 頻りなり

  始めて知る 城郭にも閑人有るを

  君臣の藥 在らば 寧(いか)んぞ病ひを憂へん

  子母の錢 成りて 豈(あ)に貧を患はん

  年(とし)長(た)けて 每(つね)に甲子(かつし)を推(お)すに勞(らう)し

  夜(よ)寒くして 初めて共に庚申(かうしん)を守る

  近來 聞説(きくなら)く 燒丹(しやうたん)の處

  玉洞 桃花 萬樹の春)

   *

なお、この詩は「和漢朗詠集」巻下に、頸聯が「年長けては每に勞(いたは)しく甲子を推す 夜寒うしては初めて共に庚申(かうじん)を守る」と訓じて引かれて(原詩句古点)、菅原道真が「己酉年終冬日少 庚申夜半曉光遲 菅」として「己酉(きいう)年(とし)終(を)へて冬の日少なし 庚申の夜(よ)半ばにして曉(あかつき)の光(ひかり)遲し」(古点)と訓じて、庚申の夜の所懐を詠じている。

「我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず」青蚨の術が目的語。

「女媧氏」古代中国神話の女神。天地を補修し、人類を創造した造物主とされる。「淮南子(えなんじ)」によれば、太古に天を支えていた四本の柱が折れると、大地はずたずたに裂け、至る所に大火災が発生し、洪水が大地を覆い、さらに猛獣や怪鳥が横行して、人々を苦しめたという。そこで女媧は、五色に輝く石を溶かして天の欠けた部分に流し込み、これを補い、大亀の足を切り取って天と地を支え直したので、地上には再び平安が甦ったとする。一方、後漢末の「風俗通義」では、女媧が人間を創造したという物語が見え、それによれば、彼女は初め、黄土を人の形に捏ね上げて、人間を丁寧に一人ずつ、創っていたが、作業に骨が折れ過ぎ、休む暇もないのに業(ごう)を煮やし、遂に繩を泥中に浸してそれを引き上げ、その際に繩から飛び散った泥の滴(しずく)が、総て、人間に成ったとする。こうした創造神としての伝承はやがて変化し、女は三皇の一人となったり、また、男性神でる伏羲(ふっき)と夫婦とも考えられるようになった。しかし、上半身は人間だが、下半身が蛇形に描かれた伏羲と女媧が、互いの尾を絡み合わせて並んでいる姿が石などに残されており、寧ろ、こうした蛇身の姿こそ、本来の女媧に近いものと思われる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。女媧は錬金的創造を行っており、手に「規(コンパス)」を持つ姿で描かれることから、金を最初に作ったというのも、頷ける気はする。

「聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや」聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年/在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)。和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)であるが、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)は和銅元(七〇八)年に鋳造・発行されたもので、これは、聖武の二代前の女帝元明天皇が慶雲五年一月十一日(七〇八年二月七日)に武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたことから、元号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させたというのが正しいウィキの「和同開珎」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四ミリメートル『前後の円形で、中央には一辺が約』七ミリメートル『の正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は』、六二一年に『発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である』一『文として通用した。当初は』一『文で米』二キログラム『が買えたと言われ、また新成人』一『日分の労働力に相当したとされる』。『現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある』。『唐に倣』う『目的もあった』。七〇八年五月には『銀銭が発行され』、七『月には銅銭の鋳造が始まり』、八『月に発行されたことが』「続日本紀」に『記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して』、『私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年』八『月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い』。『当時の日本は』、『まだ』、『米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いて』、『あまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において』、『大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている』『ことから、律令国家は農本思想の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して』、『地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある』。『それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている』。『発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間で』は『なかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するため』、『税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど』、『様々な手を打ち』、和銅四(七一一)年には『蓄銭叙位令が発布された』。『これは、従六位以下のものが十貫(』一『万枚)以上蓄銭した場合には位を』一『階、二十貫以上の場合には』二『階』、『進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため』、延暦一九(八〇〇)年にはこの法令は廃止されている。『政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し』、『律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった』。天平宝字四(七六〇)年には『万年通宝が発行され、和同開珎』十『枚と万年通宝』一『枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後』、宝亀一〇(七七九)年に『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭は、同一価を持つものとされ、以後』、『通貨として混用された』。『その後』、延暦一五(七九六)年に四年後をめどに』、『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭の流通を停止する詔が出された』『ものの、実際に停止できたのは』大同二(八〇七)年の『ことであり、それも翌年には取り消された』。また、延暦十五年の『詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された』三『銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは』九『世紀半ば』『と推定されている』。『「わどうかいほう」と読む説が主流であるが、「わどうかいちん」と読む説が一部にある』。『「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか』、「東大寺献物帳」には『「寳」の意で「珎」を用いている事例があることや、「寳」は「貨幣」の意であることによる。そもそも和同開珎は』六二一年に初鋳されて三百年以上に『わたり』、『唐および周辺諸国で広く流通した開元通寳を模倣しており、和同開珎の「開珎」は開元通寳を略したものと推察されること、引き続き鋳造された萬年通寳をはじめ、皇朝十二銭、その後流通した宋銭、元銭、明銭および江戸時代の銅銭の全てが「寳」であることなどを根拠にしている』。『「ちん」と読む説は、「珎」は「珍」の異体字であり』、『「国家珍寳」を「国家珎寳」と表記していると考えられる事例があること、などを根拠にしている』。また、『上下右左に「和開同珎」という読み順の可能性を指摘する説もある』。他にも、『「和同」とは官民が互いに納得して取引が出来るように願いを込めた名称であるとする説もある』。『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られて』おり、一九九九年には、『奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている』とある。

「文(もん)」以下の列挙からこれは一文銭ではなく、広義の貨幣の意。

「開基」天平宝字四(七六〇)年に初めて試鋳された日本最初の金貨である開基勝宝のことウィキの「開基勝宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、『太政大臣である恵美押勝(藤原仲麻呂)』(慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年)『の命により鋳造されたが、鋳造数は極少数であり、質量のばらつきが大きな貴金属貨幣であることから』、『計数貨幣としては不適格であり、流通目的ではなく』、『萬年通寳』百『枚で金貨一枚と価格設定することにより、銅銭の価値を高める狙いがあったとする説がある』。『円形に方孔が開き、文字「開基勝寳」は吉備真備の筆と伝わる』が、現存するものは三十二枚しかない、とある。

「太平」前の開基通宝と同時に発行された銀銭太平元宝。ウィキの「太平元宝」によれば、発光に際して『出された詔には』、『同時に発行された貨幣との交換比率が示され、大平元宝』十『枚で開基勝宝(金銭)』一『枚分』、『また、大平元宝』一『枚は万年通宝(銅貨)』十『枚分に当てると定められた。これらの貨幣の発行権は前年に太政大臣に任ぜられた藤原仲麻呂(恵美押勝)に専制的に与えられた』。しかし、『大平元宝が発掘調査で見つかった事例は報告されておらず、大正時代には某家』から、昭和三(一九二八)年に『唐招提寺で宝蔵から発見され伝わる』二『品が現存していた』(三『品が伝存するとする説もある』)。『現在はその』二『品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。しかし』、『拓本によれば』、何れも、「続日本紀」に『記された「大平元寳」ではなく「太平元寳」と表記されており、贋物説さえ囁かれていた』。『一方で』、『「大平」は「太平」と同じく天下太平を表す吉語であり、淳仁天皇の治世が太平であることを願ったものともされる』。『現存が僅少である、また確認されていないということは』、『当時一般流通がなかったものと推定され、新規発行の万年通宝』一『枚を従来の和同開珎』十『枚分と』、『高額に設定するために、銀貨の』十分の一『に相当する価値の高いものであることを示す目的の見せ金であったとする説もある』。また、『和同開珎』百『枚分の価値に相当することから』、『私鋳銭が現れることは必至であり、このことによる貨幣経済の混乱を避けるため、大平元宝を流通に投じることはなかったとする説もある』。『現存していない理由として、奈良国立博物館列品室長の吉澤悟は、淳仁天皇や藤原仲麻呂の事績を打ち消したい称徳天皇が回収させて銀壺(現在は正倉院宝物)に鋳直させ、東大寺に奉納したとの説を』二〇一七年に『唱えた』とある。なお、「太平通寶」というのが存在するが、これは太平興国元(九七六)年、北宋の第二代皇帝太宗の時代に鋳造された銅銭で、銭貨が不足していた日本に輸出され、渡来銭としても利用されたもので、和銭ではない

「萬年勝寶」天平宝字四(七六〇)年に鋳造・発行された銭貨。ウィキの「万年通宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四~二十五ミリメートル『前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。銭文(貨幣に記された文字)は、時計回りに回読で萬年通寳と表記されている。裏は無紋である。量目(重量)』三グラムから四グラム『程度の青銅鋳造貨』。先に引用した通り、和銅元(七〇八)年以来、五十年以上、『通用していた和同開珎に替わる通貨として発行されたが、万年通宝』一『枚に対し』、『和同開珎』十『枚の交換比率が設定されたため、貨幣流通が混乱した。不評のためか』、『わずか』五『年で鋳造は中止された。また、万年通宝発行が藤原仲麻呂(恵美押勝)が推進した政策であり、恵美押勝の乱で仲麻呂が反逆者として殺されたことも中止の原因であったと考えられている』。この時、『同時に金銭開基勝宝、銀銭太平元宝も同時に発行された。その交換比率は金銭』一枚に対して、銀銭十枚、銀銭一枚に対し、万年通宝十枚で『あったが、これらの発行は流通させることを目的としていなかったといわれる。銀銭に至っては現存しない』とある。

「元寶通寶」これもおかしい。唐代以降の中国の通貨の用例に「元宝」・「通宝」の両方の例があり、本邦の発行通貨にはない。これは前に示した「太平元宝」と「万年通宝」を混同した誤りではあるまいか。私は貨幣には疎いので誤りがあるかも知れない。

「開元」開元通宝。唐代において六二一年に初鋳され、唐代のみならず、五代十国時代まで約三百年に亙って流通した貨幣。但し、これが創られたのは武徳四年(唐の高祖李淵の治世に行われた年号で唐朝最初の年号)で、開元は後の玄宗の治世の前半で七一三年から七四一年であるウィキの「開元通宝」によれば、唐代の開元二六(七三八)年に『出版された』「唐六典」には、「武德中、悉く五銖(しゆ)を除き、再(あら)ためて開通元寳を鑄る」と『記述しており』、『一方で』、『詔勅文としては』「旧唐書」の中に「仍令天下置鑪之処並鑄開元通寳錢」と『記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約』百『年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない』とある。

「淸和」不詳。中国の元号には「淸和」はない。或いは、北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)が大観五年に政和と改元して政和元(一一一一)年に銭文を「政和通寶」として銭を鋳造している(「政和重寶」銭も発行している)から、それを誤ったものか。

「此銅錢どの」人が惹きつけられることに洒落て、人称の尊敬語を附したものか。

「心よし」「心由」も考えたが、前の擬人化を考えると、「心良し」で「気立てがよいこと」の意であろうか。

「錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし」個人サイト「雑木林」の「96文=100文」には、江戸時代、一文銭九十六枚は百文として使えたとあり、『この数え方を「九六銭」、「省銭」、「省百」などと呼』び、その起源は、六『世紀頃の中国にさかのぼる』らしい。中国では「百文」相当を七十枚・八十枚・九十枚など、『いろいろな数え方があったのに対して、江戸時代の日本ではだいたいが』九十六『枚で共通してい』るとある。『なぜこのような数え方になったのかについての定説は』ないとされつつも、百『文分を数えて、藁の紐に通す手間賃として』、四『文を差し引いた』とする説、『金貨の単位は』一両=四分=十六朱という四進法であったが、十六で『割り切れる』九十六『の方が何かと便利』であったからという説、百『文で仕入れて』、十『文ずつ』十『人に売ると、それだけで』四『文の儲けになる』からという説を掲げておられる。

「省陌」短陌とも呼んだ。ウィキの「短陌」によれば、『近代以前の東アジア地域で行われてきた商慣習で』、百『枚以下の一定枚数によって構成された銅銭の束(陌)を銅銭』百枚(=〇・一貫)と『同一の価値として扱う事。中国で発生した慣習とされ、日本で行われていた九六銭(くろくせん)と呼ばれる慣習もその』一『つである』。『短陌の慣例の由来については不明な点もあるが、少なくとも前漢の時代には存在しなかった。これは紀元前』一七五『年に書かれた賈誼の上奏文によれば、当時四銖半両(四銖銭の半両銭)』百『銭の重さが』一斤十六銖(=四百銖)が『基準とされ、それより軽い場合には』、『それに何枚か足して』一斤十六銖分『にしてそれを』百『銭分としたこと、反対に』、『それよりも重い場合には』百『枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれていることによる』(「漢書」『食貨志)。これは裏を返せば、銭』百『枚分の重量があっても、実際の枚数がともなわなければ通用しなかったことを示しており、銭』百『枚以下を』百『枚として通用させる短陌の慣例は』、『まだ存在しなかったことを示している』。『東晋の葛洪によって書かれた』「抱朴子」(三一七年完成)には、『「人の長銭を取り、人に短陌を還す」の言葉があり(内篇』六『微旨)、この時期に既に短陌の慣行があったことが知られる。梁の時代に経済的混乱から』、『短陌が問題視されたことが知られている。この当時、国の東側では銭』八十『枚を』一『陌として「東銭」と称し、西側では銭』七十『枚を』一『陌として「西銭」と称し、首都の建康でも銭』九十『枚を』一『陌として「長銭」と称した。このため、大同元』(五四六)年『には、短陌を禁じる詔が出されたが』、『効果はなく、梁朝末期には銭』三十五『枚を』一『陌とするようになったという』(「隋書」『食貨志)。この習慣は梁と対立関係にあった北周にも伝わり、甄鸞』(けんらん)『が著した数学書』「五曹算経」には『短陌に関する問題が登場している』。『唐代以後、中国王朝が発行する銅銭は高い信用価値をもって通用されて』、『日本をはじめとする周辺諸国においても』、『自国通貨に代わって用いられるようになった』。『だが』、『中国の銅の生産能力は決して高いとは言えない上に、経済の急速な発展から』、『銅銭の需要が銅銭発行量を上回るペースで高まったために、結果的には市中に流通する銅銭が慢性的に不足すると言う銭荒現象が生じるようになった』。『そのため、銅銭の実際の価値が公定の価格以上に上昇して経済的に大きな影響を与えるようになった。そのため、唐代末期以後に銅銭の穴に紐をとおして纏めた束(陌)一差しに一定枚数があれば』、『それをもって』、百『枚と見なすという短陌の慣習が形成されるようになった。これは、実質上の通貨の切り上げになると同時に』、『銅銭を多く取り扱う大商人に有利な制度として定着した。これに対して、短陌を用いずに銅銭』百『枚をもって支払うことを』、『中国では「足銭」、日本では「長銭(丁銭・調銭)」・「調陌」と呼ぶ』。『短陌そのものの規制もしくは公定のレートを定める動きは唐の時代から存在したが、五代十国の一つである後漢の宰相であった王章は、乾祐年間に』七十七『枚をもって銅銭』百『枚として見なす事を公的に定めた』『きまりが定着し、宋以後の王朝でも採用された。「省陌」の異名は特に公定のレートもしくは』、『それに基づく陌に対して用いられることが多い。なお、王章の時には民間より政府への納入は』八十『枚をもって』百『枚としてみなしており、納税時の短陌を政府に有利にする方法が用いられていたが、北宋の太平興国』二(九七七)年に『至って』、『この仕組みが廃止されて』七十七『枚に統一された』。『だが、公式なレートによって短陌のレートを統一することは出来ず、民間では更に少ない枚数での短陌が行われ、政府にとっては民間よりも高い陌の価値を利用した物資調達における有利さを得たに過ぎなかった。民間では』、『更に少ない枚数での短陌レートが設けられていた。孟元老の』「東京夢華録」巻三の『「都市銭陌」においては、官用』七十七『・街市使用』七十五『・魚肉菜』七十二『・金銀』七十四『など、官が使うレートと民間のレートが異なり、更に業種によっては』、『それらとも異なる業界独自のレートが存在したことが記されている』。『短陌が社会に定着すると、陌及び陌』十『束分で構成される「貫」と文(銅銭』一『枚)は同じ貨幣を用いながら、別の体系を有する貨幣単位として機能するようになり、陌を構成する実際の枚数が多少異なっていても公定のレートである省陌から大きく離れたものでなければ、同一単位の陌(』百『枚相当)として認められる慣例も生じた』。『短陌は銅銭不足であった当時の経済状況に合わせた慣習であり、銅銭の輸送の不便さを軽減する上では歓迎された。だが、銅銭を多く保有して多額の取引を行う大商人には』、『実質上の資産価値の増大に繋がる一方、短陌を外してしまうと』、『銅銭本来の公定価値に戻ってしまう(宋代の公定価値を元にすると、短陌を外した銅銭を全て合わせても』七十七『枚分の価値しか有しないために』、二十三『枚分の損となる)ために、日常生活において小額の取引がほとんどである庶民にとっては大変不利な制度でもあった。更に明・清においては』、『悪質な銭を用いた取引に対する良質な銭の使用レートを指す例も現れた』。『なお、近年においては、調銭(』百『枚単位)が本来の通貨流通のあり方であることを前提とした通説を批判して、日常生活や取引の場面において銀や商品の相場との関係などを理由として』、百『枚以下の枚数(』九十六『枚や』七十七『枚など)で束を作った方が使い勝手が良かった場合もあり』、百『枚以下の銭束は』、『その枚数分が必要であった(銭』八十『枚分が相場であった商品を買うために』八十『枚の銭束を作ることが広く行われていた)ケースも含まれている可能性もあるとして、短陌はそれ程広くは行われてはいなかったのではないかとする説も出されている』。以下、「日本」の項(下線太字やぶちゃん)。『日本においては、鎌倉時代後期から室町時代にかけて銅銭』九十七『枚をもって』百『枚とみなす商慣習があったと言われている。その頃には差額の』三『枚分は目銭(めぜに)と称し、長銭(』百『枚)揃っているものを加目銭(かもくせん)・目足(めたり)、省陌(』九十七『枚)のものを目引(めびき)と称した。江戸時代に銅銭』九十六枚(=九十六文)の束をもって銭百文と『見なした慣習も短陌の一つと見なされるが、その慣習は戦国時代初期の』永正二(一五〇五)年の『室町幕府による撰銭令の中において、(銅銭』九十六『枚を』百『文とすることを前提として)』百文の三分の一を三十二文として『換算する規定が見られ』るとある。また、『江戸時代初期の数学書である』「塵劫記」第十四「銭売買の事」にも、九十六枚を百文として『計算する問題が提示されている。こうした慣行を九六銭または省銭とも呼び、これに対して』、銅銭百『枚を』百『文とするものを調銭(長銭・丁銭)と称した』九十七『銭が』九十六『銭になった理由については、江戸時代の』「地方落穂集」が『示した計算上の便宜を図る(』九十六『枚であれば』、三・四・六・八などで『割り切れる)とする説が有力である。また、これとは別に独自の短陌を設けている地方があり、周防・長門・土佐では』八十『枚、伊予では』七十五『枚をもって』百『文とみなす慣習があった。明治維新後の』明治五(一八七二)年、『大蔵省は貨幣の計数貨幣化を推し進めるため、九六銭などの短陌・省陌の慣習を禁止した』とある。

『明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」』明代の文人学者楊慎(一四八八年~一五五九年)。升庵は号。一五一一年に進士に及第して翰林修撰となったが、後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について、帝に反対したために怒りを買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間、配所で過して没した。若き日より、神童と称えられ、詩文をよくし、博学であった。雲南にあって奔放な生活を送りながら、多くの著述を残し、その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。「丹鉛總錄」は一五五四年の序がある彼の代表作の一つで、諸対象を考証した一種の博物学書と思われる。]

2018/10/14

古今百物語評判卷之三 第三 天狗の沙汰附淺間嶽求聞持の事

 

  第三 天狗の沙汰淺間嶽(あさまだけ)求聞持(ぐもんじ)の事

 

Tengu

 

[やぶちゃん注:戸惑う人もあろうかと思うので、最初に注しておくと、この通称「朝熊山」、正式名「淺間が嶽」とは、三重県伊勢市(山頂は同市朝熊町(あさまちょう))・鳥羽市にある「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」である(ここ(グーグル・マップ・データ))。山頂の少し南東に臨済宗勝峰山(しょうほうざん)兜率院(とそついん)金剛證寺(こんごうしょうじ)があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。この山はこの地方の最高峰であり、古くから山岳信仰の対象となっていた。ウィキの「金剛證寺」によれば、創建は六『世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の』天長二(八二五)年に『空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお』、『鳥羽市河内町丸山』『の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後』、『衰退したが』、南北朝期の末年に当たる明徳三(一三九二)年に、『鎌倉建長寺』五『世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより』『東岳文昱』(ぶんいく)『を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗』、『禅宗寺院となった』。『室町時代には神仏習合から伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった』。「関ヶ原の戦い」から『敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い』、『金剛證寺に出家し、金剛證寺第』十二『世となった』。『江戸時代には徳川幕府が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した』とある。]

 

一人の云(いはく)、「天狗といふ物は、今の世に、誰(たれ)か、さだかに、其形を見たるといふ者なけれども、いにしへより、其すがたを繪にも書(かき)、又、おそろしき物語ども、多く御座候うへ、就中(なかんづく)近き頃、たしかにおそろしき事の御座候(さふらふ)は、伊勢山田に檜垣氏某(ひがきうぢそれがし)、たしかに物語いたされ候は、周防(すはう)の國、智遁(ちとん)といふ出家、淺間が嶽に來りて、『求聞持(ぐもんぢ)の法を行ひたき』よし、望みけるに、『此所は魔所なるゆへ、其法、成就しがたき』よし、申し候へ共、『たつて』と望みて、其法を修しけるに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日目。]にあたる比(ころ)、俄に大風吹き來(きた)ると見えしが、彼(かの)求聞持くりたる僧[やぶちゃん注:「繰りたる」で順に呪法の文句を続けていた、の意味であろう。]、いづかたへ行きしやらん、見えざりければ、『今にはじめぬ事[やぶちゃん注:謂いとしては逆接であろう。「今に始まったことではないが、忽然と消失してしまったのは、のニュアンスであろう。]、不思議の至り』と思ふ所に、兩月(りやうげつ)[やぶちゃん注:二た月。]ばかりありて、周防より、『彼(かの)僧、いついつの比、忽然として來りしが、今に人心(ひとごこ)ちなき』と申しこせしに、其日ざし[やぶちゃん注:「日指(ひざ)し」で、伝えられたところのその月日の意である。]、伊勢にてうせし日と同(おなじ)日なり。幾百里の道を、一日(いちにち)が内に送りしも、おそろし。又、其古鄕(こきやう)の寺へとゞけたるも、あやし。此事、更にうきたる[やぶちゃん注:「憂きたる」。超自然で気持ちが悪い。]事に、あらず。其外、爰元(こゝもと)にても[やぶちゃん注:話者の住む辺りでも、の謂いであろう。]、礫打(つぶてうち)し事、度々あり。いかなる術を得しものに候哉(や)、兎角、心得がたく侍る」といへば、先生、云へらく、「天狗といふ名はもろこしには見えず。『(くはん)』と云ふ獸(けもの)の異名に『天狗』と侍れど、此類(たぐひ)にあらず。又、星の名に『天狗星(てんぐせい)』といふ、ほし、「史記 天官書(てんぐはんしよ)」・「天文志」等に見え候へども、いかなる星とも、はかりがたし。只、『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし。是れ、皆、深山幽谷にすむ魑魅の類(るい)なり。國々所々にあり。尤(もつとも)、多年多力なる物にして、其ふしぎをなす事、狐に百倍せり。木を折り、岩をまろばし、風雨を自在にし、大小の身を現(あらは)せり。順[やぶちゃん注:源順(みなもとのしたごう)。]が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり。おもふに、此もの、天竺・唐土(もろこし)の魔の類(たぐひ)と一所にもあらざめれど、所々の山谷(やまたに)の氣より生ずる所のものなるべし。其かたちをさだかに見ざるは、此もの、もとより、變化(へんげ)の物なればなるべし。世俗に『太郞坊』『次郞坊』など云ひて、山伏のやうに云(いひ)なせるは、其住む所、愛宕(あたご)・ひえの山・鞍馬などいひて、出家の住(すむ)所なればなるべし。『日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する』といふは、人間とても怒れる氣につれて、瞋恚(しんい)[やぶちゃん注:原典は『しんるい』であるが、訂した。「しんに」でもよい。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。]のほむらをもやせば、熱丸をのむにひとしければ、其いかれる心を、たとへて、いふなるべし。さて、此妖怪、かならず、人倫遠き所にあるは、是れ、純陰の處より生ずるなれば、人家など多くつゞきて、たゞしき氣のあつまる處には、其術も、うすらぐ心にや侍らん。されば、淺間の嶽のふしぎも、さもありなんかし。又、『天狗礫』と云ふ事、多くは、狸のしわざなるよし、古き文(ふみ)に見えたり。狸を殺し、煮(に)えくらひて[やぶちゃん注:ママ。]、こらしめ詈(のゝしり)などすれば、其事、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、やむよし、「著聞集」に見えたり。孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば、かやうの類(たぐひ)に似たる沙汰も候はねど、たゞ人道をおさむれば、其怪しき事も、おのづから、消えうするにこそ侍れ」と語られき。

[やぶちゃん注:「智遁」不詳。

「求聞持(ぐもんぢ)の法」虚空蔵求聞法。密教で虚空蔵菩薩を本尊として行うもので、記憶力増進のための修法として知られる。

(くはん)」「本草綱目」の「獣部 獣類」に「」として出る。

【「食物」。

釋名音歡。天狗。時珍曰、又作貆。亦狀其肥鈍之貎。蜀人呼爲天狗。

集解汪頴曰、狗處處山野有之、穴土而居。形如家狗、而脚短、食果實。有數種相似。其肉味甚甘美、皮可爲裘。時珍曰、貒猪也、也、二種相似而畧、殊狗似小狗而肥、尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮可爲裘領。亦食蟲蟻爪果。又遼東女直地面有海皮、可供衣裘、亦此類也。

氣味甘、酸、平、無毒。

主治補中益氣、宜人【汪頴。】小兒疳瘦、殺蛔蟲、宜噉之【蘇頌。】。功與貒同【時珍。】。

   *

とあり、確かに異名を「天狗」とするが、これはどう見ても実在する動物で、調べて見りゃ、現代中国語では、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles meles に種同定されていた。

天狗星(てんぐせい)」音を立てて落下したり、地上に落ちて燃えたりする、大きな流星のこと。

「史記 天官書(てんぐはんしよ)」「史記」の中の「天官書」(てんかんしょ)。司馬遷が書いた当時の星の運行や雲気について詳細に書き記されているが、「天人相関説」に則り、星座を官階に比して「天官」とし、北極を中心とした「中官」と、「二十八宿」を七宿ずつに分けて東・西・南・北の四官に区分した星座群として記録されてあるが、そこに、

   *

天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及、望之如火光炎炎沖天。其下圜如數頃田處、上兌者則有黃色、千里破軍殺將。

   *

とある。天狗星の形は大きな流星のよう、激しい音がし、地上に落ちると、それは丁度、犬のようなものに見える。落下する際に観察すると、強烈に耀く火の光が(後の描写からは火柱のようである)めらめらと燃え上って、中天を突き抜くようである。その流星が流れ落ちた下方の地は、丸く数頃(漢代であるので三万三千坪ほどか)の耕作地の表面はまっ黄色になり(熱で焼けることか)、その一帯の千里に於いては、戦敗や将軍が殺される、という意味か。

「天文志」特に「漢書」と「晋書」にある「天文志」のことであろうか。

「『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし」これで、上手くジョイントしないのを誤魔化したつもりですか、元隣先生?

『順が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり』同書の獣の部(巻十八「毛群」)を懸命に探して見たが、遂に出てこない。識者の御教授を乞う。

「日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する」面白いね! 天狗には宿命的な持病があって、毎日服用しなきゃいけなっかった! 「三熱」というのは、一般には仏教で竜蛇などが受けるとされる三つの苦悩で、「熱風・熱砂に身を焼かれること」・「悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること」「金翅鳥(こんじちょう)に食われることであるが、薬を服用する以上は、内憂で「熱丸」とあるからには、やっぱり最初の熱病だろうなぁ。

『「著聞集」に見えたり』巻第十七の「三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事」を指す。

   *

 三條の前(さき)の右の大臣(おとど)の白川[やぶちゃん注:鴨川の東一帯の広い範囲を指す呼称。後の叙述からロケーションは現在の東山区五軒町(ちょう)附近である。(グーグル・マップ・データ)。]の亭に、いづこよりともなくて、飛礫をうちけること、たびたびになりにける、人々、あやしみ、おどろけども、なにのしはざといふことを、知らず。次第にうちはやりて、一日一夜に、二盥(たらひ)ばかりなど、うちけり。蔀(しとみ)・遣(やりど)をうちとをせども、その跡、なし。さりけれども、人にあたる事はなかりけり。

「このことを、いかにしてとゞむべき。」

と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、或る田舍侍の申しけるは、

「此事、とゞめん、いとやすきことなり。殿原(とのばら)、面々に、狸を、あつめたまへ。

又、酒を用意せよ。」

といひければ、このぬしは田舍だちのものなれば、『さだめてやうありてこそいふらめ』と思ひて、おのおの、いふがごとくに、まうけてけり。

 その時、この男、侍の[やぶちゃん注:侍の詰所の。]たたみを、北の對(たい)の東の庭にしきて、火をおびたゝしくをこして、そこにて、この狸を、さまざま、調じて、おのおの、よく食ひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、

「いかでか、おのれほどのやつめは、大臣家をば、かたじけなく打まいらせけるぞ。かゝるしれ事する物ども、かやうにためすぞ[やぶちゃん注:味見してやるぞ!]。」

と、よくよくねぎかけて[やぶちゃん注:「ねぎかく」は「祈ぎ懸く」で、原義は「神仏に祈願をかける」であるが、ここは叱責・脅迫を闡明することを指す。]、その北は勝菩提院なれば、そのふる築地(ついぢ)のうへへ、骨、なげあげなどして、よく、のみくひてけり。

「今は、よも別(べち)のこと、候はじ。」

といひけるにあはせて、そののち、ながく、つぶてうつこと、なかりけり。

 これ、さらにうけることにあらず[やぶちゃん注:根も葉もないいい加減な作り話なのではなく。]、近きふしぎなり。うたがひなき、たぬきのしわざ、なりけり。

   *

「孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば」「論語」の「述而第七」に出る、君子たる者の在り方の一つ。

   *

子不語怪力亂神。

(「子は怪・力(りき)・亂(らん)・神(しん)を語らず。」と。)

「怪」怪奇・怪異なこと。「力」腕に恃んだ暴力的な武勇。暴虎馮河。「亂」背徳行為。道を乱す無秩序な様態を指す。「神」鬼神や魑魅魍魎に関わること。しかし、孔子がわざわざこれを言わなければならなかったほどに、中国人は、古えより、怪奇談が大好きな証しと言える。]

2018/10/13

古今百物語評判卷之三 第二 道陸神の發明の事

 

  第二 道陸神(だうろくじん)の發明の事

先生の云へらく、「世人(よのひと)の、いはゆる『道陸神』と申すは、『道祖神』とも、又は『祖道』とも云(いへ)り。旅路のつゝがなからん事を祈る神なり。「左傳」に祖(そ)すと云るも、此神を祭り侍る。和歌には『ちふりの神』など、よめり。「袖中抄(しうちゆうせう)」に云(いふ)『みちぶりの神』と云る心なり。貫之が歌に、『わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん』と讀めり。隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』といふ所に、『わたつみの宮』といふ神おはしますと云り。「古今」の序に『逢坂山(あふさかやま)に手向(たむけ)を祈る』と侍るも此事なり。もろこしには、黃帝の子累祖(るいそ)と云へる人、遠遊(ゑんいう)を好みて、道に死(しに)給ひしを、後の世に、まつりて、行路神(かうろじん)とせり。かく云(いへ)ばとて、あながち、黃帝の子を、我朝にも祭るとにはあらざるべけれど、和漢ともに、其わざの通ずるなるべし。然るを、今の世に、田舍も京も女童部(をんなわらんべ)の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石佛(いしぼとけ)、さまざまの妖怪をなし、人を欺(あざむ)き、世を驚(おどろか)すと云り。つらつら、案ずるに、中昔(なかむかし)のころ、なき人のしるしの石をたつとては、必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり。今の、石塔每に名號をゑりつくるがごとし。その法名などは星霜ふるに隨(したがひ)て、石とても消えうせ侍るに、佛體計(ばかり)は、鼻、かけ、唇、かけながら、のこりけるを、聞傳(ききつた)ふるばかりの末々(すゑずゑ)も、はかなくなりうせて、道に捨(すて)られ、岐(ちまた)にはふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり。思ふに、佛は拔苦與樂(ばつくよらく)の本願、六波羅密(ろくはらみつ)の行體(げうたい[やぶちゃん注:原典のルビ。])なり。菩薩常不經(ぼさつじやうふきやう)の法身(ほうしん)を具し給へば、まして、佛體におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、人に捨てられ、世に用られずとて、かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや。其妖をなせる物は、石佛(いしぼとけ)には、あらず。其とぶらはるべき子孫も、なき亡者の亡念によりて、天地の間に流轉せる亡魂、時に乘じ、氣につれて、或は瘧(おこり)の鬼(おに)となり、又は疫(えやみ)の神(かみ)ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、世に瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)はやり侍る時は、道端に捨(すて)られたる石塔を、繩もてしばり、或は牛馬の枯骨(かれぼね)を門のにかけて、其惡鬼をおどし侍るまじなひあり」。或人の云(いは)く、「その、佛をしばりて病(やまひ)のいゆる事、如何」。云く、「是れ、佛をしばるにあらず、其石塔に屬する所の亡魂をいましめこらすなり」。云く、「しからば、卽(すなはち)、其石塔にきざまれたる亡魂、其病者(やむひと)を知りて、なやませるにや」。云く、「さにあらず。天地(てんち)の間(あひだ)、多く、善惡の二氣なり。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、爰(こゝ)の惡鬼をしりぞくれば、彼(かしこ)の惡鬼も退(しりぞ)くなり。是、一佛を供養すれば、三世諸佛の本懷にかなふと云る心なり」。又、云(いはく)、「瘧(おこり)は、もと、脾胃の虛より生ずる所なり。其故に諸病と、かはり、おこれるにも、其時、必(かならず)、定(さだま)り侍るは、脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして、五常の『信』にあたり侍れば、其おこれる時節のたがはぬも『信』なり。勿論、其病(やまひ)をうくる所は脾胃なり。病は件(くだん)の、惡氣の世上(せじやう)の邪氣にくみして、人をなやまし侍るなり。さればにや、諸病とかはり、此二病(ふたつのやまひ)は醫書にも、まじなひ侍るなり。又、云く、「しばれるほどなる石佛(いしぼとけ)ならば、いえて後(のち)も、其繩をゆるし、また、香花をそなへ、供養する事、如何」。云く、「われに災(わざはひ)をなせば、邪氣なり。そも又、退(しりぞけ)る時は、邪氣にあらず。兼ては又、我が願ふ所に應ずる物、などかは、手向のなかるべき。其上、佛體に寓(ぐう)する邪氣なれば、にくみはつべき、いはれなし」。又、云(いはく)、「既(すでに)其理(ことわり)は聞(きき)き。其理を知りたる人の、まじなひて、いゆるは、勿論なり。其理をしらざる人も、まじなへば、いゆる事、如何」。云く、「萬(よろづ)のまじなひ事、其理を知りたる人のみ、せるにあらず、たゞ其傳(つた)へと信仰とによりて、其しるしは侍るなり。その功は作者にあり、其德は無窮にのこれる物なるべし」。

[やぶちゃん注:まず、小学館「日本大百科全書」の「道祖神」より引く。「道祖神」「塞(さえ)の神」・「塞の大神(さえのおおかみ)」・「賽(さい)の神」・「衢(ちまた)の神」」・「岐(くなど)の神」・「道(みち)の神」・「道六神(どうろくじん)」(道に通ずる「陸」(くが・おか)が原型であろう。別に「陸」には「六」の意味があり、その方が庶民の認識が容易である)「祖道」(これには同様の予祝の意味を含んだ「旅の餞(はなむけ)の宴」の意もある)などと呼ばれたりし、猿田彦命や伊弉諾・伊弉冉尊などにも付会されて伝承されていることもある。『境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において』、道祖神・塞の神・道陸神などを『別々の神として祀』『っている所もあり、地域性が濃い。、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある』(下線太字やぶちゃん。以下同じ。後の「古今和歌集仮名序」の「逢坂山」は峠に当たる。但し、明治以後の合祀により強制移動で庚申塔などと一緒に集積されただけのものも多いので注意が必要)。『神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは』、『地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人はや村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている』。『道祖神の祭りは、集落や小地域ごとに日待ち』(旧暦一・五・九月の十五日又は農事の暇な日に、組織された特定集団である「講」の構成員が「頭屋(とうや)」(当屋とも書く。祭礼や講で行事を主宰する人やその家)に集まり、斎戒して神を祀り、徹宵して日の出を待つ行事。「待ち」とは、本来、神の傍に伺候して夜明しすることを意味し、類似した月の出を待つ「月待」や十干十二支の特定の日に物忌する「庚申講」・「甲子(きのえね)講」などを総称して「待ちごと」と称する)『や講などで行われることもあるが、小(こ)正月の火祭りと習合し、子供組によって祭られることが多い。また、信越地方では』、『家ごとに木で小さな人形を一対つくり、神棚に祀ったあと』、『道祖神碑の前に送ったり、火祭りに』して『燃したりする所もある。このほか』、二月八日或いは十二月十五日に『藁馬を曳(ひ)いてお参りに行く所もある。これらの祭りには、厄神の去来とその防御、道祖神の去来など、祭りの由来についての説話が伝えられていることがある。また』、『中部地方や九州地方などで、祭祀』『の起源を近親相姦』『と結び付けて語る所もある』。

 次にウィキの「道祖神」を、なるべくダブらぬように部分的に引く(リンク先には多彩な道祖神現存像の写真有り)。『道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる』。『全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り』、『本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い』。『各地で様々な呼び名が存在』し、上記以外にも、「障(さい/さえ)の神」「幸の神(さい/さえのかみ)」「手向(たむ)けの神」などがあり、『秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる』。『道祖神の起源は不明であるが』、「平安遺文」に収録されている八世紀半ばの『文書には』、『地名・姓としての「道祖」が見られ』、「続日本紀」(菅野真道らが平安初期の延暦一六(七九七)年に完成させた)の文武天皇天平勝宝八(七五六)年の条には』、『人名としての「道祖王」が見られる』。『神名としての初見史料は』、平安中期の承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう)によって編纂された辞書「和名類聚抄」で、『「道祖」という言葉が出て』『おり、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている』。また、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に比叡山横川中堂首楞厳院(しゅりょうごんいん)の鎮源の著した「大日本国法華験記」には、『「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されていおり』、平安末に成立した「今昔物語集」にも、『同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている』。十三世紀前半に成った「宇治拾遺物語」に至って、「道祖神」が「だうそじん」と訓じられている。『後に松尾芭蕉の』「奥の細道」の『序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない』(「道岨神のまねきにあひて取もの手につかず」(芭蕉真筆本)。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』より)。『道祖神が数多く作られるようになったのは』十八『世紀から』十九『世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である』。『神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために』、『村の男性たちが海にくり出しており、皆が』海路の安全の『祈りをこめて道祖神が作られている』。『初期は百太夫』(ももだゆう/ひゃくだゆう:傀儡師や遊女が信仰する神で、特に西日本各地の神社の末社として祀られる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。広く道祖神や疱瘡除けの神としても信仰された)『信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した』。また、『岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり』、『猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた』。『また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた』。『道祖神はまた、集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界とされている』。『道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である』。『像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む』。『双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神』『の呼称』。『双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる』。『山間部において濃密に分布する一方で』、『平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される』。『伊藤堅吉は』昭和三六(一九六一)年の時点で全国に約三千基を報告しており』、『紀年銘が確認される中で最古の像は』、『江戸時代初期のものとしている』。『道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている』。『長野県安曇野市には約』四百『体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約』三百七十『体の石像道祖神があるが、対して』、『旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている』(t-katsuhiko氏のサイト「飛鳥の石造物」のこちらのアルバムで飛鳥資料館蔵の現物が見られる)。『道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある』とある。

『「左傳」に祖(そ)すと云る』「春秋左氏伝」の昭公七(紀元前五三五)年の、「三月、公如楚」(公、楚に如く)の注部。

   *

公將往。夢襄公祖。祖、祭道神。梓愼曰、君不果行。襄公之適楚也、夢周公祖而行。今襄公實祖。君其不行。子服惠伯曰、行。先君未嘗適楚。故周公祖以道之。襄公適楚矣。而祖以道君。不行何之。【杜注。祖、祭道神。】。

(公、將に往かんとす。夢みらく、『[やぶちゃん注:先王の。]襄公、祖(そ)す』と。祖は、道神を祭るなり。梓愼(ししん)曰く、「君、行くことを果たさじ。襄公の楚に適(ゆ)きしや、『周公、祖す』と夢みて、行きぬ。今、襄公、實(じつ)に祖す。君、其れ、行かざらん。」と。子服惠伯、曰く、「行かん。先君は未だ嘗つて楚に適かず。故に、周公、祖して以つて之れを道(みちび)きぬ。襄公は楚に適けり。而れば、祖して以つて君を道く。行かずして何に之(ゆ)かん。」と。【杜注:「祖」は「道神を祭る」なり。】)

「杜」は三国末期から西晋の政治家・将軍で学者であった杜預(とよ/どよ 二二二年~二八四年)。「春秋左氏伝」は杜家の家学で、これは彼自らが施したもの。

「ちふりの神」「道觸の神」。「ちぶりのかみ」とも。陸路・海路の旅の安全を守る神。知られた和歌での古い用例は後に出る「土佐日記」のものであるようだ。後の「みちぶりの神」も同じい。因みに、「日本国語大辞典」で「みちぶり」を引くと、「みちゆきぶり」(道行触・道行振)の略とし、赤染衛門集から、

 みちふりのたより計(ばかり)はまともせんとけては見えじ雪の下草

の歌を示すので、「みちゆきぶり」を引くと、『①道で行き会うこと。道中でのすれちがい』として、「万葉集」の巻第十一に載る一首(二六〇五番)、

 玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹を相見て戀ふる頃かも

を例示する(この一首は、男女が道で行き逢ってすれ違っただけで思はぬ片思いの恋に落ちてしまうことを指している)。これは物理的な交差ではなく、魂の接触(或いは「魂振(たまふ)り」的運動)を意味し、異界である異国や旅路の逢魔が時のそれに於いては、すれ違うものは人とは限らず、神霊や魑魅魍魎であることを考えれば、既にしてこの「みちゆきぶり」の語には民俗的な神概念が起原に存在すると考えてよいように私には思われる。

「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)は歌学書。全二十巻。顕昭(大治五(一一三〇)年頃~承元三 (一二〇九)年頃:平安末から鎌倉初期の歌人で歌学者。藤原顕輔の養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成した)著で、文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃の成立。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合(うたあわせ)から約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。同書の「十九」に、

 行く今日も歸らん時も玉鉾(たまぼこ)のちぶりの神を祈れとぞ思ふ

と出る、と「日本国語大辞典」の「ちぶりのかみ【道触神】」の用例に出る。新潮日本古典集成の「土佐日記 貫之集」(木村正中校注)の注に、「袖中抄」に、

   *

「ちふりの神」とは、「みちふりの神」といふにや、海路のもよめり。

   *

とあると記す。

「貫之が歌」「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん」「土佐日記」の以下(事実に即せば、承平四(九三四)年の二月二十六日となる)。

   *

廿六日。まことにやあらむ、「海賊追ふ」といへば、夜(よ)なかばかりより、船をいだして漕ぎくる途(みち)に、手向けする所あり。楫取りして、幣(ぬさ)たいまつらする[やぶちゃん注:「奉らする」のイ音便。これはくだけた口調で、軽い気持ちで水主(かこ)に奉幣させたことを指す。]に、幣の東(ひむがし)へちれば、楫取りの申し奉ることは[やぶちゃん注:主人公の気持ちとは正反対の水主の厳粛な気持ちを表わす。]、

「この幣の散るかたに、御船(みふね)速かに漕がしめ給へ。」

と申して奉る。

 これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、

  わたつみのちふりの神に手向けする

    幣の追風(おひかぜ)やまず吹かなむ

とぞ詠める。

 この間(あひだ)に、風のよければ、楫取り、いたく誇りて、船に帆上げなど、喜ぶ。その音を聞きて、童も媼(おうな)も『いつしか』[やぶちゃん注:早く早く。]とし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。

 このなかに、『淡路の專女(たうめ)』[やぶちゃん注:淡路の老女の意。]といふ人のよめる歌、

  追風の吹きぬる時はゆく船の

    帆手(ほて)うちてこそうれしかりけれ

とぞ。

 天氣(ていけ)のことにつけて、祈る。

   *

「隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』「わたつみの宮」島根県隠岐郡知夫村(ちぶむら)島津島にある渡津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「Islander's diary~離島ライフ~」の「知夫里島ジオツアー 後書き」に、「土佐日記」の前掲歌を示された上で、先の「袖中抄」に、

   *

岐の國にて知夫利崎といふに、「わたすの宮」といふ神おはすなり。舟いだすとて其神に奉幣してわたすを祈るとぞ

   *

という歌があるとされ、

   《引用開始》[やぶちゃん注:改行部を繋げさせて貰った。]

『ちぶりの神』とは漢字で書くと『道触神』。全国で広く信仰されている、旅の安全を守る道祖神です。知夫里島は隠岐諸島の中で一番本土に近い島。本土から来た船にとっては、隠岐の国の玄関口であり、反対に、隠岐からは本土への出発点であったところ。ここ渡津海岸に航海の無事を祈って『道触神』が祀られるのも当然です。そしてその神様の名がそのまま知夫里島の名前になったとしてもなんの不思議もありません。新潟にも『道触神』が由来ではないかと考えられている地名があるそうです。神島という名前の島もあるし、なんだか神様に囲まれてるというか、神様だらけ(言葉が悪いけど)の場所に住んでる気分になります[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

『「古今」の序に『逢坂山に手向(たむけ)を祈る』と侍る』「古今和歌集仮名序」の後半部に出る一節。岩波の新日本古典文学大系を基礎底本として、一部に手を加え、漢字を正字化して示す。

   *

 かゝるに、今、皇(すべらぎ)の天(あめ)の下(した)知ろしめすこと、四つの時、九囘(こゝのかへり)になむ、成りぬる。遍(あまね)き御慈(おほむうつくし)みの浪、八州の外(ほか)まで流れ、廣き御惠みのかげ、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、萬(よろづ)の政(まつりごと)を聞(きこ)し召す暇(いとま)、もろもろの事を捨給はぬ餘りに、古(いにしへ)の事をも忘れじ、古(ふ)りにしことをも興(こ)し給ふとて、今も見そなはし、後の世にも傳はれとて、延喜五年[やぶちゃん注:九〇五年。]四月十八日に、大内記紀友則・御書所預(ごしよのところのあづかり)紀貫之・前甲斐少目宮(さきのかひのさうくわん)凡河内躬恒(おふしかふちのみつね)・右衛門府生(うゑもんのふのさう)壬生忠岑(みぶのただみね)らに仰せられて、「万葉集」に入らぬ古き歌、自(みづか)らのをも、奉らしめ給ひてなむ。

 それが中(なか)に、梅(むめ)を插頭(かざ)すより始めて、郭公(ほとゝぎす)を聞き、紅葉(もみぢ)を折り、雪を見るにいたるまで、又、鶴・龜に付けて、君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て、妻を戀ひ、逢坂山(あふさかやま)に至りて、手向けを祈り、或(ある)は、春(はる)・夏・秋・冬にも入らぬ、種々(くさぐさ)の歌をなむ、選ばせ給ひける。統(す)べて、千歌(うた)二十卷(はたまき)、名付けて「古今和歌集」 と言ふ。

   *

「黃帝の子累祖(るいそ)」平凡社「世界大百科事典」の道祖神には、「漢書」「十三王伝」の臨江王栄の伝において、顔師古は、後人が黄帝の子累祖を行神に当てたと注してある。しかし、中文サイトでは圧倒的に黄帝の子ではなく、妻とする。個人ブログらしき「プロメテウス」の「祖:古代中国神話中で絹を発明した黄帝の正妃」によれば、祖(れいそは、別名を「累祖」とも称し、『古代中国の神話中に出てくる女性です。西陵氏の娘で、黄帝軒轅の妃でした。祖は養蚕を発明したことから、祖は養蚕の始祖と言われています』。『祖は黄帝との間に玄』(げんごう)と『昌意の二子を儲けています。玄の子は蟜極と言い、蟜極の子は五帝の一人である帝嚳です。一方の昌意は蜀山氏の娘を娶り、高陽を生み高陽は帝位を継承し』、『五帝の一人の帝顓頊として即位しました』。『司馬遷の史記の五帝本紀には』「黄帝は軒轅の丘に住み、西陵の娘を娶り祖となした。祖は黄帝の正妃で二人の子を産み、その後は両者とも、天下を治めた。その一人を玄と言い、青陽と為し、青陽に降り、江水に住んだ。二人目は昌意と言い、降って若水に住んだ。」『とあります』。祖については、「山海経」の「海内経」にも『記載が見られ』、「黄帝の妻である雷祖(祖とも。)は昌意を生んだ。昌意は自ら天に上り降り、若水に到り住み、韓流を生んだ。韓流は長い頭を持っており、小さな耳、人面で豚の長い口、麒麟の体、ぐるりと丸い二本の足、子豚の蹄で淖子族の阿女を妻として娶り帝顓頊を生んだ」と『あります』。『神話中では祖は養蚕と絹による縫製の創造者となっています。北周以降には』「先蚕」、所謂、『蚕神として祀られるようになりました。祖が絹糸を創り出す物語が以下のように伝わっています』とあって、以下に詳しい養蚕神伝承が記されてあるので、リンク先を見られたい。顔師古の謂いからみても、玄昌意の二氏のこととも思えない。私のネット探求はここまでである。

「遠遊」故郷を離れて遊学すること、或いは、単に遠出の旅。

「妖怪」怪異。

「たつ」「建つ」。

「必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり」これはおかしい。江戸前期の元隣の言う「中昔」とは鎌倉・室町時代であろうが、当時のそれは圧倒的に供養塔であって、下に遺骸や骨が埋まっているわけではなく、また必ずしも法名は刻まれていないない。元隣が「はふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり」と言っているのは、知ったかぶりの大間違いの感じが強い。彼は総ての名もない廃石仏が総て墓標だと暗に脅しているのである。

「岐(ちまた)」分かれ道。分岐する道は村落の辺縁に存在し、民俗社会では複数の外界からの気が流れ来たって、ぶつかり、澱む場所であって、イコール、異界への通路と見做された。さればこそ、そこに墓や異界に去ったはずの死者の霊を供養するものとして供養塔が置かれたと考えられ、これは或いは荒ぶるかも知れぬそうした御霊(ごりょう)を、そこに祀り置くことによって、村落への外部からの邪気の侵入を防防禦機構としても機能した。そうしたものとして、道祖神以下の集合信仰を捉えることが出来ると私は考えている。

「拔苦與樂」仏・菩薩が、その慈悲を以って、衆生の苦を取り除き、楽を与えること。

「六波羅密の行體」仏教に於ける六つの修行様態。布施(見返りを求めずに施しを行うこと)・持戒(身を慎んで傲(おご)りの心を持たぬこと)・忍辱(にんにく:広い心で苦難に耐えること)・精進(純粋な心を以って努力を惜しまないこと)・禅定(ぜんじょう:精神を鍛えて真の平常心を持つこと)・智慧(正法(しょうぼう)を見極める力を持つこと)。

「菩薩常不經の法身」不詳。これは思うに、法華経に登場する菩薩である「常不輕菩薩」(じょうふきょうぼさつ)を指す誤りではなかろうか? ウィキの「常不軽菩薩」によれば、「法華経」の「常不軽菩薩品」に『説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる』。『釈尊の前世、むかし』、『威音王如来という同じ名前をもつ』二『万億の仏が次々と出世された。その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中に』、『この常不軽菩薩が出現したとされる。常不軽菩薩は出家・在家を問わず』、「我深く汝等(なんだち)を敬ふ。敢へて輕慢(きやうまん)せず。所以は何(いか)ん、汝等、皆、菩薩の道(だう)を行(ぎやう)じて、當(まさ)に作佛することを得べしと。」『と礼拝したが、四衆は悪口罵詈(あっくめり)し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した』。『常不軽菩薩は臨終が迫った時、虚空の中において、威音王仏が先に説いた法華経の』二十『千万億の偈を聞き、六根の清浄を得て』、二『万億那由他』(なゆた)『という永い寿命を得て、広く人のために』「法華経」を『説いた。これを聞いた増上慢の四衆たちは、その所説を聞き、みな信じ伏し』、『随従した。常不軽菩薩は命終して、同名である』二『千億の日月燈明如来という仏に値遇し、また同名である』二『千億の雲自在燈王如来という仏にも値遇し』、「法華経」を『説き続け、諸々の善根を植え、さらにまた』、『千万億の仏に遇い』、さらに「法華経」を『説いて功徳を成就し』、『最終的に彼も仏と作(な)ることができたという』。『常不軽菩薩は自身が誹謗され』、『迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず』、『教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される』とある。ここで元隣が紹介するに最も相応しい菩薩の法身(仏陀の究極の本体。仏陀の姿を三種に分類した三身(さんしん:後の二つは「報身(ほうじん:単なる永遠の真理でも、無常の人格でもなく、真理を悟った力を持った人格的な仏身を指す)・応身(おうじん:衆生救済のために真理により現世に多様な姿を仮に現した仏身を指す)の内の一つで、「仏陀は真理そのものである」として、真理を本体の仏陀の身体とする捉え方を指す)と私は思う

「かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや」反語。

「瘧(おこり)の鬼(おに)」「瘧」は狭義にはマラリアを指す。重篤な熱病の疫鬼(えきき)。

「疫(えやみ)の神(かみ)」流行り病いの邪神。

「瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)」同前二つの総称。

「いましめこらすなり」「縛(いまし)め懲らす」。

「三世諸佛」こう言った場合の「三世」(さんぜ)は時間軸のそれ。過去・現在・未来の各世(せい)。

「脾胃」漢方では広く胃腸・消化器系を指す語。

「虛」「脾胃」の虚証は消化器系の働きが著しく低下した下痢などの症状を指す。

「おこれる」瘧が発症すること。

「脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして」五行説に於いて「五臓」は「肝」に「木」を、

「心包(しんぼう:心)」の「火」を、「脾胃」に「土」を、「肺」に「金」を、「腎」に「水」をそれぞれ配する。

「五常の『信』」五常は五徳で儒教で説く五つの徳目。五行説では「仁」に「木」を、「礼」に「火」を、「信」に「土」を、「義」に「金」を、「智」に「水」をそれぞれ配する。

「其おこれる時節のたがはぬも『信』なり」判ったような判らぬ謂いである。他の臓器の疾病でも発生時期が極めて限定的なものはゴマンとある。

「此二病」瘧と流行り病い。

「まじなひ侍るなり」「封じるためのそれに特化した呪文があるのである。」。これもまた、判ったような判らぬ謂いである。他の臓器に発生する病気に就いて呪文染みた記載は李時珍「本草綱目」の「附方」にはゴマンとありますがね、元隣センセ?

「寓(ぐう)する」仮にそこにとり憑いていただけの。

「にくみはつべきいはれなし」「憎み果つべき謂はれ、無し」。憎み通すような理由は全く以って、ない。

「作者」呪(まじな)いを最初に考案作成した人物。]

2018/10/11

古今百物語評判卷之三  第一 參州加茂郡長興寺門前の松童子にばけたる事

 

百物語評判卷之三

 

 

  第一 參州加茂郡(かものごほり)長興寺門前の松童子にばけたる事

 

Doujimatu

 

[やぶちゃん注:漢詩は前後を空け、完全な分かち書きとし(原典は二段組)、後に訓読文を附した。]

かたへの人のいはく、「某(それがし)、生國は三河にて御座候(さふらふ)が、國元にてふしぎなる事侍りしは、加茂郡に長興寺と申す寺あり、門前に、むかしより、松二本、御座候ふが、龍のかたちにつくりなしをき[やぶちゃん注:ママ。]候ふ故、人みな、此松を『二龍(じりやう)松』とも申し候ふ。此松、大木にて、いづれの時より植(うゑ)をきしともさだかならず。あるとき、其寺へ、童子二人、來たりて云ふやう、『われは此邊(このあたり)の者にて候が、少し樣子[やぶちゃん注:わけ。]の侍れば、硯をかし給へ』といふ。則(すなはち)、硯に料紙をそへて出(いだ)し奉れば、一首の絶句をかきつけたり。

 

 客路三川風露秋

 袈裟一角事勝遊

 二龍松樹千年寺

 古殿苔深僧白頭

  客路(かくろ)三川(さんせん) 風露(ふうろ)の秋

  袈裟(けさ)一角(いつかく) 勝遊(しやうゆう)を事(こと)とす

  二龍松樹(じりやうしやうじゅ) 千年の寺

  古殿 苔(こけ)深くして 僧 白頭(はくとう)

 

此詩をかき置(おき)て歸りければ、寺僧、あやしみて、其ゆくさきを見るに、彼の門前の松の木陰に行(ゆく)と見えて、跡かたなくなりければ、皆人、『松の精の、童子となりたる』と申し侍るは、さも候ふやらん」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、既に『こだまの事』[やぶちゃん注:古今百物語評判卷之一 第五 こだま彭侯と云ふ獸狄仁傑の事を指す。]に付きて、其ためしをかたりき。猶も、非情の有情(うじやう)は化(か)する事は、化生(けしやう)と申しならはして、目前に、まゝある事なり。朽ちたる木の蝶となり、くされる草の螢に變ずる事、何れも見給ふ通りなり。殊更、松は衆木の長(をさ)にて、年久しき物なるゆへ、君子の德に比(たぐ)らべて[やぶちゃん注原典のルビ。]候ふ。其童子になりけんも、さも、あらんかし。既に童子となりたるうへは、寺のほとりに住むものなれば、詩をつくるべからざるにはあらず。古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事、もろこしの書にも見えたり」。

[やぶちゃん注:「參州加茂郡(かものごほり)長興寺」現在の愛知県豊田市長興寺にある臨済宗集雲山長興寺。(グーグル・マップ・データ)。

「客路」旅路。人間の短い生涯が辿る永い時間の「流れ」を象徴するか。

「三川」は濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三つの川を指すか。二本の松は龍の形をしているから、川とは親和性が強く、「風」と雨「露」も龍の守備属性である。

「袈裟一角」不詳。「角」の龍との親和性で思ったのは袈裟の様態の一つである「僧綱領(そうごうえり)」で、僧綱の位にある僧が衣の襟(えり)を折り返さずに、背部の後ろで立てたままにし、頭を隠すように着るそれで、あれなら、角のようには見える。孰れにしても、この漢詩はこの寺への永代祝祭の言祝ぎの献詩と感じられる。

「古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事」これは晩唐の学者段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる、荒唐無稽な怪異記事を集録した「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「續集」巻一の「支諾皋(しだくこう)上」の以下。

   *

臨瀨(一作湍)西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數里、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自

   *

老媼茶話 酉陽雜俎曰(樹怪)がよく原文を訓読している。また、柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」ではよく現代語訳している(孰れのリンク先も私の電子化注)。なお、岡本綺堂も訳編「支那怪奇小説集」の中で「怪物の口」として訳出している。ここでは、同書の昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊の正字版を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認底本として電子化して示す。新字の怪談集なんて、それだけで、怖くなくなる。但し、読みは振れるもののにみ限った。

   *

 

   ◇怪物の口◇

 

 臨湍寺(りんたんじ)の僧智通は常に法華經をたすさへてゐた。彼は人跡稀なる寒林(かんりん)に小院をかまへて、一心に經文讀誦(どくじゆ)を怠らなかつた。

 ある年、夜半にその院をめぐつて、彼の名を呼ぶ者があつた。

『智通、智通。』

 内ではなんの返事もしないと、外では夜(よ)のあけるまで呼びつゞけてゐた。かういふ事が三晚も止まないばかりか、その聲が院内までひゞき渡るので、智通も堪へられなくなつて答へた。

『どうも騷々しいな。用があるなら遠慮なしに這入(はい)つてくれ。』

 やがて這入つて來た物がある。身のたけ六尺ばかりで、黑い衣(きもの)をきて、靑い面(かほ)をしてゐた。彼は大きい目をみはつて、大きい息をついてゐる。要するに、一種の怪物である。而も彼は僧にむかつて先づ尋常に合掌した。

『おまえは寒いか。』と、智通は訊いた。『寒ければ、この火にあたれ。』

 怪物は無言で火にあたつていゐた。智通はそのまゝにして、法華經を讀みつゞけてゐると、夜も五更(かう)[やぶちゃん注:現在の午前三時から午前五時、又は、午前四時から午前六時頃。]に至る頃、怪物は火に醉つたとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、爐(ろ)に倚(よ)りかゝつて高鼾(たかいびき)で寢入つてしまつた。智通はそれを觀て、香(かう)を掬(すく)ふ匙(さじ)を把(と)つて、爐の火と灰を怪物の口へ浚(さら)ひ込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるやうな音がきこえて、それぎり鎭まつた。

 夜(よ)があけてから、智通が表へ出てみると、彼がゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちてゐた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登つてゆくと、數里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百五十九・八メートル。六掛けだと、三キロ半弱。]の奧に大きな靑桐の木があつた。梢(こずゑ)は已に枯れかゝつて、その根の窪(くぼみ)に新しく缺けたらしい所があるので、試みに彼(か)の木の皮をあてゝみると、恰(あたか)も貼付(はりつ)けたやうに合つた。又その根の半分枯れたところに洞(うつろ)があつて、深さ六七寸、それが怪物の口であらう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに殘つてゐた。

 智通はその木を焚(やい)てしまつた。

   *]

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