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カテゴリー「怪奇談集」の676件の記事

2018/08/19

反古のうらがき 卷之一 訛言

 

   ○訛言

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺(つりだい)にのせて持出(もちいだし)し事ありしに、何者か申出(まうしいだ)しけん、

「此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨(すつ)る者あり。人々、用心し給へ。」

といゝけること、市谷柳町へんより、初(はじま)りしよし。

 江戸中、大體一面に行渡(ゆきわた)り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆、屋敷々々に番人を出(いだ)し、高張り挑燈にて守りしに、二、三日にして止(やみ)けるとなん。

 其後(そののち)、一、二年過(すぎ)て、秋の末つかた、月、殊に明らかなりし夜、予、門外に出で、舍弟と倶に月を賞し居(をり)しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲(こうせい)に語りて來(きた)る人あり。「音羽」と書(かき)たる永挑燈(えいちやうちん)をともし、とびの者體(ものてい)なる人、二人也。其(それ)、語(かたる)に、

「世には殘忍なる人も有る者かな。あの女の首はいづこにて切(きり)たるか、前だれに包みたれば、賤(いや)しきものゝ妻にてもあるべし。切たるは、定(さだめ)て其夫なるべし。間男などの出入(でいり)と覺へたり。今、捨んとして咎められ、又、持去(もちさ)りしが、何(いづ)れへか捨つべし。其所は迷惑なる者なり。」

といふ話なり。

 予、是を聞(きき)て呼留(よびと)め、

「何(いづ)こにての事。」

と問へば、

「扨(さて)は。未だ知り玉はずや。こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり。夜深(よふけ)て門外に立玉(たちたま)ふは、定(さだめ)て其(その)捨首(すてくび)の番人かと思ひしに、左(さ)にはあらざりけり。こゝより先は、皆、家々に門外に出で、番をするぞかし。」

といゝて、打連(うちつれ)てさりけり。

 予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣(おもむき)申付(まうしつけ)、よく番をさせ置(おき)、入(いり)て眠りたりしが、兎角、心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが、耳に入(いり)て寢(いね)られず、立出(たちい)で見れば、最早、九つ今(ここのついま)の拍子木を打(うち)、番所の話を聞けば、

「組合より申付られたれば、眠る事、能はず。去ればとて、いつ、はつべき番とも覺へず、もし、油斷して捨首(すてくび)にてもある時は、申分に辭(ことば)なし、如何にせまし。」

といひあへり。

 予も、餘りにはてし無き事なれば、

「最早、程も久し。捨首あらば、是非なし。先(まづ)休むべし。」

と申渡し、入て寢(いね)けり。

 明(あく)る日、あたりを聞(きく)に、其事、絶(たえ)てなし。

「口惜哉(くちをしきかな)。あざむかれぬ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ]やみけり。

 此訛言(くわげん)も小石川・巢鴨へん、本鄕より淺草・千住・王子在(ざい)などの方(かた)に廣がりて、北の方、いづこ迄かしらねども、大(おほい)におどろきさわぎたるよし、予、親しく聞(きき)たれども、誰(たれ)にも告(つげ)ざれば[やぶちゃん注:底本は「されば」。濁点を添えた。]、此あたりは却(かへつ)て、しる人なし。

 「音羽」といへる挑燈なれば、是水へ、かへりかへり、申觸(まうしふれ)たるか、其先迄、申傳へたるなるべし。

[やぶちゃん注:「訛言」(くわげん(かげん))とは「誤って伝えられた評判」の意。この話は既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』の注で電子化注している。直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った

「文政の中年」「中頃」ならよく目にするが、どうも「中年」というのはまず目にしない。まあ、文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となるが、しかし、これ、或いは「申年」の誤記ではなかろうか。とすれば、文政七(一八二四)年に特定出来ることになるのだが。但し、国立国会図書館デジタルコレクション版も「中年」ではある。

「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。

「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。

「四つ頃」午後十時頃。

「永挑燈」提灯のサイズを指すようだ。縦が長くなると、直径もそれなりに大きくなる。ある提灯会社のメニューでは現行で「尺永」というのは、直径二十九センチメートル・高さ六十四センチメートルである。この上が既に「二永」である(三十三☓六十三)。

「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「九つ今」だいたい午前一時丁度の意の一語と採る。

「組合より申付られたれば」それらしい町触れが少なくとも桃野のいる町内には廻っていたのである。

「あたりを聞(きく)に、其事、絶(たえ)てなし」では、先の町触れは何だったのか? 町触れを出した組合の大元の発信地を探れば、どのような形で生じた「都市伝説」であったかが判明するのに。実に惜しい。鳶風の二人がその場でデッチアゲただけの、ただの冗談であったとしたら、そう簡単に、町触れにはならない気もするのだが? 或いは、実は町廻り連中も実はコロリと騙されちゃったのかもね。「口裂け女」の時も小学校が登校指導したり、警察まで不審者として動いたぐらいだからねえ。

「巢鴨へん」「巢鴨邊」で巣鴨辺り。

「王子在(ざい)」現在の東京都北区王子附近の村落。但し、江戸の辺縁地ではあるが、当時の王子は田舎ではなく、人気の王子稲荷があり、しかも日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、十八世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことを契機に江戸市民が頻繁に足を運ぶ、江戸市中からごく近い遊覧地として賑わった。

「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「是水」不詳。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じ。識者の御教授を乞う。音羽から「市ケ谷燒餅坂」は真南であるから、この鳶職風体(ふうてい)の二人組は現在の「外苑東通り」を南下してきたと考えてよいのではないかと私は思う。とすれば、桃野と舎弟が涼んでいたのは現在の新宿御苑の東方、信濃町辺りではないかとも思われる。しかし、その先(南や東)には「是水」に似たような地名は見当たらない。「是方」(これがかた)の誤判読か。]

反古のうらがき 卷之一 强惡

 

  ○

 天保の初年、靑梅(おうめ)在に風呂敷づゝみを持(もち)あるきて、

「質(しち)におかん。」

といふ浪人ありて、所々にて迷惑することあり。

 其包みの内は生首なり。

 包みの儘、質に取るといふことは無き故、

「是非、改めん。」

といへば、何かと六ケ敷(むつかしく)いひて改(あらたむ)事を許さず、兎角に面倒なる事なる上に、其包みの樣子、外(そと)より見ても、人の生首と知らるゝなれば、事を穩便に計(はから)ふにはしかずとて、金子少々達し、辭す事あるよし。

 初(はじめ)の程は、

「故なく金子は取らず。」

などいへども、遂には取て歸るよし也。

 度び重りて、八州𢌞(はつしうまはり)といふ役人に召取られ、吟味に及びし處に、固より盜なれば、陳(ちん)ずべき心もなし、いひ上(あが)るよふ[やぶちゃん注:ママ。]は、

「駿甲(すんこう)あたりより、東海道にも出(いで)、此業(このわざ)をすること、六、七年、首をきること、廿に餘れり。金子を得しことは數をしらず、今、命數、盡(つき)て召取れぬれば、何も存殘(ぞんじのこ)す事なし。」

と申(まうし)けり。

 扨、

「首は如何して得たる。」

と問(とひ)しに、

「これは最初より一計ありて、いくたり切(きり)ても、皆、一法なれども、一人も漏らしたることなければ、往(ゆく)所にて行(おこな)わる[やぶちゃん注:ママ。]、其法は野伏(のぶせ)りの宿なしを語らひていふ樣は、

『吾、浪人物となり、爾(なんじ[やぶちゃん注:ルビは底本のママ。])をしばりて手打(てうち)にする。』

とて、村近き邊(あたり)へ連行(つれゆく)べし。

『爾(なんぢ)、大聲に、「衆人、吾を助けて給はれ」と呼ぶべし。故(かれ)、人集りて問ふ時、「吾(われ)召使ふ下人、餘が金子(きんす)壹兩を取逃(とりに)げせしに、今、ゆくりなく行合(ゆきあひ)たれば、手打となすなり」と云はゞ[やぶちゃん注:底本は「ゝ」であるが、濁点を附した。]、爾が命を助けんとて、少々づつ、金子を出(いだ)すもの、あるべし。其金を得たらば、山分(やまわけ)にすべし。土地にては後難(こうなん)あり。遠くへゆくべし。』

とて、乞食を連行(つれゆき)、河原などにて荒繩をもて、かたくいましめ、かくして、

『村へ行(ゆく)なり。』

といつはりて、人遠き所に引行(ひきゆき)、口に、手拭(てぬぐひ)にても、土砂(どしや)にても、推入(おしいれ)、推伏(おしふせ)て、首を切る。甚(はなはだ)手輕なる法なり。」

といへり。

 又、問(とふ)。

「匁物(はもの)は何を用ひしや。」

 答ふ。

「數年前より、『サスガ』一本、身を離さず、重寶(ちやうほう)なる物なり。人の首を切るにも、『サスガ』にて、少しづゝ、切發(きりはな)ち、骨計(ばか)りを殘し、仰向(あおむけ)にもぐれば、大體、取れる者也。少し、つゞきたりとも、『サスガ』にて切發(きりはな)すに難き事なし。第一は、河原にて面(つら)斗(ばか)り水に押伏(おしふし)て切(きる)が切(きり)よし。」

と云いし[やぶちゃん注:ママ。]よし。惡虐殘毒なるも如ㇾ此(かくのごとき)は、亦、珍らし。

[やぶちゃん注:直接話法が多く、肉声らしく読んだ方が、この極悪の人非人のおぞましさがよく伝わると考え、特異的に改行と段落を設けた。

惡」「ごうあく」と読んでおく。

「天保の初年」天保は一八三一年から一八四五年までの十五年であるが、元年は文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)の改元であるから、二十日しかない。

「靑梅」東京都の多摩地域北西部にある青梅市附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八州𢌞(はつしうまはり)」文化二(一八〇五)年に設置された関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の略称。勘定奉行直属で、関八州(相模 ・武蔵・安房・上総・下総 ・常陸・上野 ・下野 の関東八ヶ国)を幕領・私領(水戸藩を除く)の区別なく巡回し、治安の取り締まりに当たった。

陳(ちん)ずべき」遜(へりくだ)って申し述べるような。

「いひ上(あが)るよふは」「言ひ揚がる樣は」であろう。異威丈高(いいたけだか)に声高(こわだか)に喋りたてることには。

「駿甲」駿河・甲斐。

「いくたり」「幾人(いくたり)」。

「野伏(のぶせ)りの宿なし」野宿をしている宿無しの放浪者。後で「乞食」と言い換えている。

「浪人物」「浪人者」。

「連行(つれゆく)べし」「これからお前を連れて行くわけよ。……まあ、怖がるな! 待て! 俺の話を聴け!」のニュアンス。

「故(かれ)」ここは「そうすると・そうすれば」という接続詞。別に読みは「ゆゑ」でもよいが、差別化するために、かく読んだ。古い読みは「かれ」である。

「ゆくりなく」副詞(形容詞「ゆくりなし」の連用形から)。思いがけなく・突然に。

「土地にては後難(こうなん)あり」「この地では、俺やお前を見知ってしまっている者がいるかも知れねえから、後でバレてまずいことになりかねねえ。」のニュアンス。

「サスガ」「刺刀(さすが)」腰に差す短刀。腰刀(こしがたな)。さても多くの方はここで、芥川龍之介の「中」を思い出すであろう(リンク先は私の古い電子テクスト)。真砂の所持したあの「小刀」だ。あれを龍之介は「さすが」とルビしていた。いやいや! この風呂敷生首を質入れする浪人の白状の如何にも自分のおぞましい悪行を誇るように語る様子やその「昂然たる態度」は、まさに白状する多襄丸を髣髴させるではないか!(或いは芥川龍之介はこの「反古のうらがき」の本条を読んでいて、あの台詞を書く際の参考にしたのではなかろうか? とさえ私は思うのだ) 「藪の中」は私の教師時代のライフ・ワークであった。何度も授業でやったし、独特の内容であったからして、多くの教え子諸君には今も記憶に残っているであろう。その都度、考証を加え、オリジナルの授業案を進化させ続けた。「藪の中」殺人事件公判記録サイト公開一九九〇年に原型を作製、最終改訂は二〇一〇年、早期退職する二年前である。よろしければ、ご覧あれ。懐かしく感じられるであろう。正直、私はネット上の如何なる「藪の中」推理を読んでも、自分のものよりも優れて現実的であると感じたことは、一度も、ない。

「切發(きりはな)ち」胴部と頭部を切り離し。

「骨計(ばか)り」脊椎骨の頸骨だけ。

「仰向(あおむけ)にもぐれば」首を仰向け、背部方向に捥(も)げば。この辺りの描出は、猟奇的といよりも頗るリアルで、本「反古のうらがき」で最初の怪談物ではない怪人・悪党・怪人物(かいじんもの)(怪談物以外の大きな範疇の一つ)の最初であるが、恐らく、最初に食らわされるスプラッター・ホラーの画面であると言える。

「殘毒」「殘」は「無殘」のそれ或いは「慘毒」(「むごたらしく傷つけること・むごたらしく苦しめること」、または「むごたらしい害毒」の意)の意。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

   ○幽靈

 麻布某の所の寺は、市(いち)に近き所なり。文化の頃、其墓所に幽靈ありて、夜な夜な物語りする聲聞ゆとて、人々、おそれあへり。其わたりに膽太(きもふと)き商人ありしが、或時、月もほのぐらき夜、宵の頃より、獨り、ひそやかに墓所に忍び入り、大(だい)なる墓所の蔭に身を潛(ひそ)めて窺ひける。夜も已(すで)に子(ね)を過(すぎ)て、蟲の音、彌(いよいよ)さへわたり、月も、おりおり出(いで)ては、又、雲に入る、夜風の身にしみて、ひとへぎぬ、しめりがちにて、ゑり元、ぞくぞくとして覺(おぼえ)けるが、こなたの芝がきのほとりより、人の立出(たちいづ)る樣に覺へしが、又、其あたりより、人、來(きた)ると覺へと[やぶちゃん注:清音はママ。]、相(あひ)かたろふ樣(さま)、いと睦(むつ)まじげなる物語りなり。商人(あきんど)、耳をすまして聞くに、多くは絶(たえ)て久しき離れをかたり慰(なぐさ)むるにてぞ有ける。『如何なる者にや』と、月の明るくなるを待得(まちえ)て、のび上りて見しに、一人は廿四、五の瘦(やせ)たる男なり。今一人は六十斗(ばかり)の老婦(うば[やぶちゃん注:底本のルビ。])にて、其(その)かたろふ樣(さま)は親子に似ずして、夫婦(めをと)に似たり。商人、一ゑん、解しがたく、猶、窺ひ居(をり)しが、折節、夜寒の風におかされて、高くはなびけるに、驚きて、かたちは見へずなりぬ。明(あく)る日、寺に行(ゆき)て、右の次第を語り、かの芝がきのあたりを見るに、合葬の墓ありて、今、無緣なり。「其墓のぬしは、去りし頃、廿四、五にて死せる商人なり。其妻、久しく生のびて洗(せん)だく婆々となり、此(この)二、三年跡(あと)に六十斗(ばかり)にて死せり。よつて合葬せし也。おもふに夫婦の者、無緣にて浮ぶこと能はず、幽靈となりて出(いづ)るなるべし。其樣は、皆、生前の形にて、其間(そのかん)、三十年も立(たち)たれば、不つり合(あひ)の姿なること、其理(ことはり)に當れり」と寺僧も申(まうし)あへりとぞ。しかし、其頃の、いたづらなる滑稽人の作りし話にや。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

幽靈は尋常のことなり。男、廿四、五、女房、六十計(ばかり)といふところ、有爲轉變の相を顯(あらは)し、巧(たくみ)に考(かんがへ)たるところ、夜譚・聊齋の二書にもなき新趣向なり。

[やぶちゃん注:もしこれが作話ではないとすれば、寺の名も記されてあるはずであり、作話としても時制的には新しい「都市伝説」の類いに含まれから、今に伝わり、尾鰭がついておかしくないと思うのだが。麻布に詳しい方がおられるので、お伺いを立てておく。【2018年8月21日追記】Blog - Deep Azabuで素晴らしい麻布文化史の考証をなさっていらっしゃる方(以前にも情報を戴いたことがあり、フェイスブックでも知り合いである)にお願いしてみたところ、以下の詳細な情報提供があった。『私なりの見解』との謙辞を添えておられるけれども、本条が眉唾的で簡単に噓の皮が剝がれるような都市伝説ではなく、実際のロケーションに基づくものである可能性が確かめられたように私は思う。提供者のお許しを得て、以下に転載させて戴く。

   《引用開始》

よく考えたら私もこの事象と思われる記事を書いておりました。ただ、出典を記していないので「反古のうらがき」だったか覚えておりません。

Blog DEEP AZABU-無縁をかこつ夫婦

先日お伝えしたとおりこの文章で場所確定の手がかりとなるのは

「市(いち)に近き所なり」

であると考えていますが麻布で一番有名な「市」を思い出しました。

それは十番馬場で行われる「馬市」で、ここでは仙台坂の仙台藩伊達家から馬が出品され大変な賑わいであったと言います。またこの馬場で使用された乗馬用の袴は「十番袴(じゅうばんばかま)」として有名であったそうです。

Blog DEEP AZABU-十番馬場

この市があった場所は現在の東麻布三丁目あたりでその西側には今も残る不自然に広い大通りがあります。

この通りは現在「東京法務局港出張所」前の通りとなっており、このあたりで一番の繁華地であった東麻布イースト商店街の道幅より広く不思議に感じていました。

もしこの十番馬場の馬市がここでいう「市」であるならば近くの寺院は麻布永坂にある、

大長寺(麻布永坂から1965(昭和40)年府中市若松町5-9-5に移転)

光照寺(麻布永坂から戦後八王子市絹ヶ丘3-8-1に移転)

天徳寺(狸穴・現経緯度原点。移転先不明・虎ノ門は同名別寺)

あたりになるかと思われますが、その中でも近いのは①②です。

 

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[やぶちゃん注:以上は提供者が添えて下さった地図である。]

にはこの話ではないのですが、念を残した女幽霊の話として以下の話が残されています。

Blog DEEP AZABU-扇箱の秘密

その他にも現在の麻布十番などでも市が立っていたとも思われますが、不明です。

また先ほどお伝えした法務局前の大通りですが江戸期の地図には麻布十番と記されていますが、現在はここを麻布十番とはいいません。

以上、私見ながらお伝えします。

   《引用終了》

 調べてみたところ、の大長寺は日蓮宗、の光照寺は話柄当時は浄土真宗である(はかつては現光寺と称して奈良県吉野にあったとし、その頃は天台宗で、元和年間(一六一五年~一六二四年)に浄土真宗に改宗し、寛永四(一六二七)年麻布永坂町へ移転している。は不明)。本話は宗派を匂わせるものは残念ながらないけれども、参考に教えて下さった「扇箱の秘密」というのは(因みに、この話は私が手掛けたことがある囊 之十 幽魂奇談の事のそれであった。但し、私が訳注したのは二〇一五年三月二日であり、「Blog DEEP AZABU」のそれは二〇一二年十一月七日の記事であるから遙かに速い。情報提供者の名誉を守るために一言言い添えておく)寺はちらっと霊の菩提を弔う寺とし出るだけであるが、怪談との親和性があるとは言えよう(それにしても、この「耳囊」のそれは細部まで緻密なリアリズムで構築された、極上の実話怪談として特異点的に凄いものである)。以上から私はこの光照寺が本条の「麻布某の所の寺」のモデルの最有力候補ではないかと感じている。最後に改めてBlog - Deep Azabuのブログ主である情報提供をして下さったT・I氏に、改めて感謝申し上げるものである。

「文化」一八〇四年~一八一八年。

「子」午前零時。

「其あたりより、人、來(きた)ると覺へと」この助詞の「と」は逆接の接続助詞「ど」であろう。その辺りから、人が来ている気配がしてくるのを感じた「が」(真夜中のことで、丁度、月も雲に入って陰っていたために視認は出来なかった)の含みである。さればこそ「月の明るくなるを待得て」という次のシークエンスとの繋ぎがスムースに流れるのである。

「離れ」「わかれ」と訓じたい。

「のび上りて見しに」商人が隠れ潜んだ墓が大きなものだったからである。映像的なインパクトがあるシーンだが、それ故にこれは実体験ではなく、寧ろ、作話された怪談という感じが私にはしてくる。カメラが一人称ではないからである。

「かたろふ」「語らふ」。

「一ゑん」「一圓」であるが、呼応の副詞。ここは打消ではなく「難し」の語を伴って「少しも・全く」の意。

「はなびける」「鼻びける」。くしゃみをしたのである。

「洗(せん)だく婆々」民家を巡って洗濯をしては僅かな手間賃を貰う婆さんのこと(静岡に伝わる妖怪に同名のものがおり、夜間、闇の中、川岸で洗濯をするような音が響く妖異を「小豆洗い」「米磨ぎ婆」などと同様に「洗濯婆」と呼び、狐の仕業などとするが、ここはそれとは無関係)。

「此(この)二、三年跡(あと)に」今から二、三年前に。

「三十年」されば、商人が亡くなった時の妻は二十歳前である。

「いたづらなる滑稽人」後の評言(本書の冒頭から見て桃野のものではなく、不詳の「天曉翁」のそれ)では知られた怪談には見られない新味の趣向があり、「巧(たくみ)に考(かんがへ)た」ところを高く評価しているから、或いは、そんな「いたづらなる滑稽人」=市井の滑稽談好きの好事家の作話ではなく、当時の本格的な戯作者が片手間に書いた怪奇小説ででも、あったものかも知れない。

「夜譚」不詳。以下の「聊齋志異」と併置するからには、それと並び得る中国の怪奇談集でなくてはならぬが、私もそちらのフリークの端くれであるが、ピンとこない。底本の朝倉氏の注も知らん振りしている。

「聊齋」私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。]

反古のうらがき 卷之一 縊鬼

 

   ○縊鬼

[やぶちゃん注:直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った。また、《とて、》はジョイントが悪いのを補填するために私が補ったもので、原典にはないものなので注意されたい。]

 これも叔氏(おじ)醉雪翁が話に、元がしら某、屋敷、麹町也。組内同心某、よく酒を飮み、落し咄(ばなし)・身振りなどする者ありけり。

 春の日永き頃、同役より合(あひ)のことありて、夕刻より酒宴あり。彼(かの)同心は、

「給事(きふじ)ながら來るべし。」

と申約(まうしやく)せしに、其日、來らず、家人も、みな、其伎(わざ)を見るを興(きよう)として待(まて)ども、來らず、大に不興なりし頃、忽々(そうそう)として來たれり。

「やむを得ざるの用向にて、御門前に人を待(また)せたれば。」

《とて、》御斷(おんことはり)の趣(おもむき)申入(まうしいれ)、

「直(ただち)に立歸る。」

といひてさらんとせしかども、家來、ゆるさず、

「先(まづ)、主人及び一座の客人に其趣申通ずる間、ひかへ候へ。」

といへば、甚(はなはだ)難澁の趣なれども、先(まづ)其意に從ひけり。

 かくて主人に告げしに、

「何用なるかはしらねども、御頭衆(おかしらしゆう)より合(あひ)に、先程より相(あひ)待こと、久し。縱令(たとひ)さり難き用なりとても、聞(ぶん)にも出(いで)ず去ることやある。」

とて無理に引出(ひきいだ)し、用の趣を尋(たづね)させしに、

「其事(そのこと)、別事にあらず。『くひ違ひ御門』内にて、首を縊(くゝ)る約束せし間(あひだ)、やむを得ず。」

といひて、ひた物(もの)、去らんことを請ひけり。

 主(あるじ)賓(きやくも[やぶちゃん注:底本のルビ。])彌(いよいよ)あやしみて、

「思ふに、亂心と見えたり。かゝらんには、彌(いよいよ)引出(ひきいだし)して酒を飮(のま)すべし。」

とて、座に引出し、先(まづ)、大杯にて續けさまに、七、八盃を飮す。

 扨(さて)、

「これにて許し給へ。」

といふを、又、七、八盃飮せけり。

 主人、聲をかけ、

「例の聲色(こはいろ)所望也。」

といへば、無ㇾ據(よんどころなく)、一つ、二つ、伎(わざ)を奏(そう)し、又、立出(たちいで)んとするを、賓主、各(おのおの)盃を與(あた)へ、飴程、酩酊の色見へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、賓主、是を興として、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。]に酒をすゝめ、動靜(どうしよう)を窺ひける。

 一時(いつとき)斗(ばか)りする内、先(まづ)去るを請ふ事は忘れたる樣にて、別に亂心とも見へずなりぬ。

 其時、家來、立出で、

「只今、『喰違ひ御門』内に首縊(くゝ)りありと組合より申通(まうしつう)ず。人、差出(さしいだ)すべしや。」

といひたり。賓主きゝて、

「扨は先頃の縊鬼(いき)、此者を殺すこと能(あた)はで、他人を取(とり)たると見へたり。最早、此者の縊鬼は離れたり。」

とて、先(さき)の樣子を尋(たづぬ)るに、

「夢の如く覺へてさだかならず。其頃、『喰違ひ』迄來りしは夕刻前なり。壹人ありて、

『此所にて首を縊るべし。』

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]しが、吾(はれ[やぶちゃん注:底本のルビ。])辭(じ)すること能(あた)はず、

『如何にも縊るべし。今日は御頭(おかしら)の元(もと)御給事(おきふじ)に行(ゆく)約束なれば、其(その)斷りをなして後、其意に從ふべし。」

といへば、其人、

『さらば。』

とて、御門迄、付來(つきいた)り、

『早く斷(ことはり)をいゝ[やぶちゃん注:ママ。]て來るべし。』

といひたり。

 其言(そのげん)、背(そむ)きがたき義理ある者の如く覺へて、其人の義、そむきがたく思ひしは、何の故(ゆゑ)といふことを、しらず。」

といひけり。

 扨、

「今は縊る心ありや。」

と問ふに、自から首に環をかくる眞似して、

「穴、おそろしやおそろしや。」

といひけり。

「全く、約を踐(ふむ)を重んぜしと、酒を飮たるとの德にて、命を助りし。」

といひあへりき。

 かゝる事も、まゝある事にや。

[やぶちゃん注:「縊鬼」(いき/いつき/くびれおに)はウィキの「縊鬼によれば、『中国または日本の妖怪。人に取り憑いて』、『首を括らせるとされる』。『中国での縊鬼は「いき」と読み、『小豆棚』『太平御覧』『聊斎志異』などの中国の古書に記述がある』。『中国の伝承においては、冥界には一定の人口が定められており、この人口を常に保つ必要があるため、死者が別の人間として転生して冥界を去ろうにも、自分に代わる後任の死者が冥界に入らなければ、転生の許可が下りない。このとき、死者が生者の死をただ待っているだけではなく、積極的に自殺や事故死を幇助することで自分の代替を求めることを「鬼求代」という』。『亡者が生まれ変わるには他者に自分と同じ死に方をさせることが条件らしく、縊死した死者が生者に取り憑き、自分と同じように縊死させようとしているものが縊鬼とされる』。『民間伝承や昔話に見られる縊鬼の話はどれもほぼ同じである。宿に泊まった者が、紐を手にした何者かの影を見かけた後、隣室で女が縊死を図り、慌てて止めたところ、先の影は縊鬼であり、隣室の女は理由もないまま縊鬼によって縊死させられようとしていた、という筋が多い』。『中華民国の時代に入ると「吊殺鬼(ちょうさつき)」「吊死鬼(ちょうしき)」などと呼ばれ、同様に自分の身代わりに死ぬ者を求める霊のことが、民間伝承や昔話の中で語られている』(以下、本「反古のうらがき」の条が現代語で紹介されているが、省略する。その訳とこの原本を読み比べれば、如何に現代語訳というのものが、怪異性もオチの滑稽さも削ぎ落してしまうかがよく判る)。『昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、この縊鬼は水死者の霊とされ、これに取り憑かれた者は、川に飛び込んで自殺したくなるもの、などと解釈されている』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』には「死神」と題した絵があるが、これは悪念を持ったまま死んだ者の霊が、同様に悪念を持った者を首括りなどに遭わせようとしているものとされ』、『近世の宗教における死神より、本項の縊鬼に近いものと指摘されている』とある。これはそもそもが全体が、実は怪談仕立ての滑稽オチの落語なのである。

「叔氏(おじ)醉雪翁」筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。二つ前の「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「元がしら」以前の先手組組頭。

「落し咄」落語。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)には江戸落語は隆盛を極め、ウィキの「落語」によれば、『文政末期には江戸に』百二十五『軒もの寄席があったといわれる』とある。

「身振り」滑稽な仕草や形態模写をしておどけること。

「より合(あひ)」「寄合」。

「給事(きふじ)ながら」雑用が御座いますが。

「來らず」言わずもがな乍ら、「なかなか来ない」の意。これを二度の畳み掛けて、しかし「來たれり」と出すのは話柄の展開を焦らす点で甚だ上手い。

「忽々(そうそう)として」如何にも何か忙しげな様子で。

「聞(ぶん)にも出(いで)ず」「聞」は「直接相手に話をすること」の意か。或いは「当然そうあるべきこと」の意(ここでは寄合の席に出て挨拶や芸をすること)か。

「くひ違ひ御門」江戸城外郭城門の一つで四谷門と赤坂門との間にあった喰違門(くいちがいもん)。ウィキの「喰違門」によれば、『清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前に当たることからの名であるという』。寛永一三(一六三六)年の『外濠普請の際、この門の升形は丸亀城主生駒壱岐守高俊の助役で組み上げられたものであるという』。『万治年間』(底本の朝倉治彦氏の注では万治二(一六五九)年とある)『にも造営が行なわれ、「府内備考」には、「万治二年所々御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし』、「万治年録」『に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん、今は仮そめの冠木門となれり、或は喰違土橋とも称す」とある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)にあった。なお、この元先手組組頭の屋敷のあった麹町は喰違門の北直近で((グーグル・マップ・データ))、近ければ直線で二、三百メートル、最も遠い東の半蔵門方向であっても、一キロ程しか離れていない。

「ひた物(もの)」「直物」「頓物」と漢字を当てるが、副詞。ひたすら。無闇に。

「聲色(こはいろ)」他人、特に役者や有名人の台詞回しや声を真似ること。歌舞伎役者などの声や口調を真似る滑稽芸や専門の芸人は既に元禄(一六八八年~一七〇四年)頃から存在した。

「一時」現在の二時間相当。

「約を踐(ふむ)」約束を履行する。]

2018/08/18

反古のうらがき 卷之一 官人天より降る

 

   ○官人天より降る

 予が祖父向陵翁、若かりし時、書齋に獨り居(をり)しに、忽然として、一人の衣冠の人、櫻の枝より降(くだ)り來る。よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し、衣冠の官人、此あたりに居(を)るべき理(ことはり)なし、況や天より降るべき理、更に、なし。おもふに、『心の迷ひより、かゝるものの、目に遮(さい)ぎるなり』と、眼を閉(とぢ)て見ず、しばしありて眼を開けば、其人、猶、あり。降りも來らず、やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る。また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る。如ㇾ此きこと、三、四度にして、終に椽頰(えんづら)迄來り、椽ばなに手を懸る。『こは、一大事』と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて、「氣分惡(あ)し。夜具を持來(もちきた)れ」と命じ、其儘打(うち)ふして、少しまどろみけり。心氣(しんき)しづまりて後、起出(おきい)で、見るに、何物もなし。「果して妖恠(ようかい)にてはあらざりけり」と、書弟子石川乘溪(じやうけい)に語りしとて、後、乘溪、予に語りき。此話、曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり。これは、曲淵、心しつまりて驚かざれば、妖氣、鄰家(りんか)に移りて、卽時に、鄰(となり)主人、こし元を手打(てうち)にして狂氣せしよし、語り傳(つ)たへたりとなり。

[やぶちゃん注:この話、既に『柴田宵曲 妖異博物館「異形の顏」』で電子化している。そこで宵曲は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などという無批判の肯定的解釈を示しているが、私はここは元にあった作り話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもがリンク先の注示した如く、酷似した話の登場人物が「河合」「川合」で、「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みて見えるからである(但し、後で注する如く「曲淵甲斐守」は実在する)。前話では超冷静だった鈴木桃野が、この「石川乘溪」(不詳)なる祖父の書道の弟子の怪しい話にコロリと騙されるとは、ちと、意外。

「祖父向陵翁」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)。底本の朝倉治彦氏の注には、本文には「祖父」とあるのに『母の兄』とする(それについての注記はない)。『石を愛し、特に愛した五石を以て五石居士の別号があった。四谷佐門町に住し、環翠堂なる塾を経営した。能書を以て知られ』、『不忍池弁天堂の裏手の武道家櫛淵虚冲軒の碑ははその筆』とある。

「遮(さい)ぎる」「さえぎる」(歴史的仮名遣もこのままで「さへぎる」は正しくない)の更に古形の読みで示した。

「降りも來らず、やはり其邊りにあり」この話の面妖な部分は私はここであろうと思う。最初に「櫻の枝より降(くだ)り來る」と言っているのに、ここでは「降りも來らず」と言って、更にこの後ではまた、「やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る」、「また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る」これを実になお、「三、四度」も繰り返して、だんだん、だんだん、降りて来るというのだ。私はここにある種の作為的な嘘臭さ(怖がらせる時間を引き延ばす或いは最後に眼を開けた時に目の前に官人の顔がアップであるかも知れぬという恐怖を演出する手法)を感ずる一方で、別に私はこれは桜の枝から空中を浮遊して下って来ているのではないか、「竹取物語」の天人の使者のように、地面から浮き揚がった形でだんだん近づく(あれは地上の穢れに触れぬためだと私は思っているのであるが)のと同じではないか? と考えもしたのである。とすれば、これは或いは宇宙人の来訪ででもあったのかもね! などと軽口を叩きたくもなった。私が嘗てUFOを研究し、宇宙人を信じていた頃の後遺症である。

「椽頰(えんづら)」大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。前条で既注。

「椽ばな」「縁端」。

「心氣(しんき)」心の動揺或いはそれによって引き起された心悸亢進。

「曲淵甲斐守」旗本で町奉行であった曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。ウィキの「曲淵景漸によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』。寛保三(一七四三)年、『兄景福の死去に伴い』、『家督を継承、寛延元年』(一七四八年)『に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』た、明和六年には『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って』、『奉行職を務め』、『江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した』。『経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高かった』。明和八(一七七一)年三月四日に『小塚原の刑場において』、『罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ』、かのオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」の『解剖図と比較することで』、『日本の医学の遅れを痛感することにな』ったのであった。後の左遷と、勘定奉行への返り咲きはリンク先を読まれたい。

「こし元」「腰元」。

「傳(つ)たへたり」「た」を送っているのはママ。]

反古のうらがき 卷之一 魂東天に歸る

 

  ○魂東天に歸る

 豫が叔父醉雪老人、加役(かやく)の吟味方を勤(つとめ)しが、科人(とがにん)をつよく詰問(きつもん)するとて、氣(き)上(あが)りしにや、休息所に入(いり)て其儘に打伏(うつぷ)し、中風の病(やまひ)起り、半身不隨にて人事を省(せい)せず、百藥驗(しるし)なく、凡(およそ)一月斗(ばかり)有(あり)けり。春の永き夜なれば、皆、看病につかれて、はては一人持(ひとりもち)となる。命、盡(つく)るの前夜は、予と甲麗生と二人也。半夜に至りて、あたり凄(すさま)じく、風、吹荒(ふきあ)れて、しばらくして止(やみ)ぬ。物靜(ものしづか)になりしは、さわがしきよりも、更にすさまじくて、打寄(うちより)て物語などする内に、屛風引𢌞したる外(そと)にて、殊に厲(はげ)しき物音して、一貫目斗(ばかり)のかたき物の、椽板(えんいた)などの上に落(おち)たる音也(なり)。出(いで)てみるに、物、なし。予、恠(あや)しみて燭を取(とり)て仔細に見るに、年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたるが、自然(おのづ)と切(きれ)て落たるにてぞ有ける。下に繪の具箱など重(かさなり)て有り。思ふに其上なる故に、殊に音もはげしかりしか。こなたの思ひよらぬ筋は、少しの事にもたまきゆる計(ばかり)におもふものなれば、世に人の死する前に、魂氣(こんき)、出(いづ)るなどいふも、此やうなる事などに驚きたる時、其事ありと思ふならん歟。

[やぶちゃん注:鈴木桃野自身の、日付も明確に分かる実体験擬似怪談である。桃野の、世間で怪異とされる現象に対する極めて冷静にして、近代的科学的心理学的な立ち位置がよく判る話柄であり、こうした事例を敢えて怪奇談集の頭の方に持ってくる態度は、私には優れて好ましく感ずるものである。標題「魂東天に歸る」は「魂(たましひ)、東天(とうてん)に歸る」。

「醉雪」底本の朝倉治彦氏の注に『母の弟。多賀谷氏。字』(あざな)『は仲徳。丈七と称す。兄のあとをついで先手与力』(先手組与力(さきてぐみよりき):江戸幕府の番方(軍制・武官)組織の一つ。若年寄に属し、江戸城各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持等を担当した。同じ治安を預かる町奉行及びその配下の町与力・町同心が役方(文官)であるのと対照的に、先手組の組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。ここはウィキの「先手組」に拠った)となった。天保一〇(一八三九)年『三月十五日歿、六五歳。法号酔翁院古庭雪道居士』とあり、高円寺鳳林寺の彼の墓にある古賀侗庵筆の漢文の碑文が記されてあるが、それを見ると、読書や詩を綴ることを好み、最も耽ったのが絵を描くことであったとあり、この条の「繪の具」が腑に落ちる。「命、盡(つく)るの前夜」とあるから、このシチュエーションは天保十年三月十四日と考えてよかろう。さすれば当日はグレゴリオ暦で一八三九年四月二十七日に当たる。標題から見て、三月十五日の明け方、逝去されたもののようである。

「加役」彼が先手組であることが前の注で判明していることから、彼は、かの江戸で最も恐れられた「火付盗賊改方」(主に重罪である「火付け」(放火)・「盗賊」(押し込み強盗団)・たちの悪い集団「賭博」等の凶悪犯を専門に取り締まった)であることが判る。実は「火盗改(かとうあらため)」(略称)は本来は臨時役職であって、幕府常備軍である御先手組弓及び筒(鉄砲組のこと)の頭(かしら)から選ばれ、御先手頭職務との兼役であったことから、「火盗」(やはる略称)は単に「加役(かやく)」とも呼ばれたのである(ここはウィキの「火付盗賊改方」を参考にした)。

「氣(き)上(あが)りしにや」血が頭にのぼったものか。「中風」(ちゅうぶう)「半身不隨」とあるから、脳卒中(重い脳梗塞)や高血圧性脳内出血の可能性が高い。

「人事を省(せい)せず」人事不省となること。通常の知覚や意識を失う、或いは失ったようにしか見えない状態となること。意識不明の昏睡状態を指すのが普通。この場合の「人事」とは「人として普通に為し得ること」「見当識があること」を指す。

「一人持」枕元に就く看病人が一人となること。ここは少し前から、夜伽では一夜を二人が交代して担当するようになってことを指すのであろう。但し、シークエンスは病人の容態が悪化していて気が気でなく(実際に翌日亡くなったのだから)、風も激しく吹いていたりして、二人とも起きていた(「打寄て物語などする」)のである。

「甲麗生」「甲麗」が名で「生」は青年男子を示す添え辞であろうが、不詳。

「半夜」真夜中。

「一貫目」三キロ七百五十グラム。

「椽板」縁側の板。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。

「年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたる」ちょっといみが採り難いが、私は――「永年、床の間に懸けてあった鯨の太い骨を刳り抜いて作った「腰差」(=腰刀(こしがたな):腰に差す鍔のない短い刀。いろいろな趣味を持っていたようだから、これも「醉雪老人」の手製の遺愛の品だったのかも知れない。でなければ、床の間には飾るまい)で、「挑燈の棹(さほ)」のような「なり」(=「形(なり)」)をした腰刀で、「細い皮を以」つて「釘に」掛けておいたのが」――という風に読んだ。

「こなたの思ひよらぬ筋」想定が思った以上に狭められている状況下。

「たまきゆる」「魂消ゆる」。]

反古のうらがき 卷之一 八歳の女子を産む

 

  〇八歳の女子を産む

 松平冠山老公の采地(さいち)は常州とか聞(きき)し。百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戸にての評判、甚し。板本(はんぽん)となして、市(いち)に賣るものも有けり。老公、家臣を召して尋給(たづねたま)ひしに、「さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなし」といひけり。老公、獨り信じ給はず、或日、駿足を命じ、一騎乘りにて家を出(いで)、三十里計(ばかり)の路程を一日に馳付(はせつけ)、名所(などころ)の如く尋行て、其家を求めしに、絶(たえ)て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣なるものなるべし幸に、三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり。若(もし)數百里の外の事ならば、疑(うたがひ)を解くに緣(よし)なく、終生、疑ひおもふべし。人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」といはれしよし。老公は予が翁と同甲子生(かつしうまれ)にて、同庚會(どうこうくわい)に會(くわい)せし人也、其後も、予が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

[やぶちゃん注:標題は「八歳の女(むすめ)、子を産む」である。さても、この奇談の元ネタは既に私の「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」にも載り(「下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿」と場所が異なる。恐らくは茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町で、現在の茨城県取手市藤代周辺、ここ(グーグル・マップ・データ)であると思われる。取手市は嘗ての常陸国と下総国に属した地域である)、ここにある通り、当時、いわば、「都市伝説」として爆発的にヒットしたもので(その結果として変形譚が数多くある)、かの滝沢馬琴編になる奇譚蒐集会「兎園会」の報告集「兎園小説 第二集」にも、海棠庵(常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮の号)の報告として「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」として載った。それらは総て「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」の注で電子化して注も附してあるので、是非、見られたい。また、このトンデモ噂は柳田國男も着目している(一目小僧その他」附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二を参照)。

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。

「采地」この場合、若桜藩の現地の藩領とは別に、飛び地として拝領している領地を指す。

「常州」常陸国。概ね、現在の茨城県に相当。前に示した「耳囊」

「三十里」約百十八キロメートル。江戸から直線だと、ひたちなか市辺りに当たる。但し、先に示した茨城県取手市藤代だと直線で四十一キロメートルで、実測距離としても、そんなにはないし、そもそもが藩主が供も連れずに行く距離ではない。一人で数値の誇張が疑われる。柳田も流石にあり得ないと思ったものか、上記リンク先の中で、『其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』と本文と違ったことを書いている。まあ、判らぬでもない。そうしないと、この池田定常が確認したという事実が無化されてしまい、折角のトンデモ話の否定が上手くゆかなくなっちゃうからね。

「人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」やや言葉が足らず、意味が採り難い。「世の中には、このように多くの人々が疑っていながら、確認出来ないために無批判に信じ込んでしまっていることが多くあるのであって、後に、それが本当にあったまことの怪奇談として認識されてしまうことが、これ、あるものなのである」という意味で採っておく。

「予が翁」鈴木桃野の実父である幕府書物奉行を勤めた鈴木白藤。

「甲子生」ここは単に同じ「干支(えと)」の生まれの意であるので注意。次注参照。

「同庚會」は底本の朝倉治彦氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載があり、そこに松平冠山の名もあり、『白藤は明和四』(一七六七年)『九月十六日生』まれとある(没年は朝倉氏の冒頭の解説によれば、嘉永四(一八五一)年)。或いは、明和四年の干支は丁亥(ひのとい)なに何故、同「庚」(コウ/かのえ)なのだろう? と疑問に思われる方がいるだろう。紛らわしいのであるが、この場合の「庚」は狭義の十干の七番目それを指すのではなく、「年齢」の意で、「同庚」で「おないどし」の意味なのである。「同甲」とも称する。

「予が祖母」底本の朝倉氏の注に『多賀谷氏』とある。多賀谷(たがや)氏は武蔵七党の一つである野与(のよ)党を祖とする一族である。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

  ○幽靈

 友人齋藤朴園が續從(のちぞひ)の妻は、これも新たに寡(やもめ)にして、再び朴園に嫁せし也。樣子がらもよろしく在(ある)に、安堵のおもひをなせしに、一日(あるひ)、忽(たちまち)、「吾に暇(いとま)くれ候へ」とせちにこひけり。固(もと)より留むべき辭(ことば)もなければ、其意に任せて歸しけるが、跡にて聞けば、「或夕暮、庭より内に入(いり)しに、前の夫と座敷の内に居(をり)し」とて、里付(さとづき)の婢(はしため)に語りしよし。其後、再び何方へか嫁せしよし也しが、此度は井に入て死せしよし、はたして狂氣に疑ひなし。朴園は早く歸せし故、此禍(わざはひ)を免れたりと語りあへり。

[やぶちゃん注:言っておくが、「前の夫と座敷の内に居し」の「と」は底本のママである。しかしだから読み採り難くなっている。「里付の婢」は女(後妻)が実家から伴って来た女中であろうから、前の台詞は後妻がその女中に語った内容であり、だからこそ「前の夫」なのであろうが、台詞自体が、甚だ妙である。ただ「前の夫」が「座敷の内に居」たのだったら、彼女は「前の夫と」とは言うまい。されば、この台詞を私は、

「ある夕暮れのことよ。私は庭から家の中に上ったの。そしたら――座敷の中に――死んだ前の夫と――私が――一緒に居たの。……」

という意味ではないかろうかと思うのである。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものでは、ここが、

『前の夫が座敷の内に居(をり)し』

となっている。これなら不審は雲散霧消するのであるが、正直、それでは――怪奇談としては常套に過ぎて今一つ――なのである。腑に落ち過ぎる怪談として、却って怖くないのである。しかし正直、大半の読者はここは「が」が正しいとお考えになり、ただの誤写か誤植であろうとされるのだろうが、にしても、だったら、「庭より内に入(いり)しに」という怪奇シーンの導入は何だったのか? と私は思うのである。寧ろ、日常から非日常への通路として、より驚くべき異界性を持って機能する(機能させる)ものなのであることは言を俟たない。さらに言えば、彼女の精神疾患を重篤な幻視性を持ったもの(後に井戸に飛び込んで入水自殺する点からもそう考えてよい)と捉えるなら、この幻視には――彼女自身が死んだ夫と一緒にいる姿が見えた――だから「と」なのだ――と考えた時、この短い話柄は慄然とさせる真正の怪奇性をも帯びてくると私は思うのである。或いは――そでただ二人は座っていただけなのか? 二人は何かしていたのではないか?――とまで私は妄想するのである。大方の御叱正を待つまでもない。私の深読み、いや、この解釈こそ私の中の怪奇趣味或いは狂気の由縁なのかも知れぬ。

「齋藤朴園」不詳。]

反古のうらがき 卷之一 狐 / 鈴木桃野「反古のうらがき」オリジナル電子化注~始動 

 

 次のブログ・カテゴリ「怪奇談集」は鈴木桃野著「反古のうらがき」の電子化注とする。

 鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は江戸後期の幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、名は成虁(「せいき」か)、字(あざな)は一足、通称は孫兵衛、号は詩瀑山人・酔桃子・桃華外史など。天保一〇(一八三九)年、部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。嘉永五(一八五二)年、前年と父の死を受けて家督を相続、射術を好み、随筆・画に優れた。甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)学頭の任命を受ける直前に死去した。著作に本書の他、随筆「無可有郷」「酔桃庵雑筆」「桃野随筆」等がある。

 本「反古のうらがき(裏書)」は謙辞の通り、事実、勤務していた学問所で出る反故紙等の裏を利用して書かれたものと推定され、完成は諸書き入れ等から考えると、嘉永元年から嘉永三年頃か。全四巻で怪奇談八十五話を収録し、底本(以下)の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の親戚友人、或いは居住地を中心とする近辺に起った異聞を興味のまま筆録した』ものである。

 底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の朝倉治彦氏校訂の「反古のうらがき」を用いたが、読み易さを考えて句読点や記号を追加(一部は変更)、読みは底本に振られたものの他、訓読にやや難のあると私の判断したものにも読みを歴史的仮名遣で振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した(一部は位置をずらした)。注は禁欲的に附した。また、疑義を感じた部分については、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものと校合し、その旨、注記した。【2018年8月18日始動 藪野直史】

 

 反古のうらがき

         醉 桃 子 著

         天 曉 翁 評 閲

 

[やぶちゃん注:「天曉翁」不詳。]

 

 反古のうらがき 卷之一

 

  ○狐

 谷町といふ所の名主を、片山五郞左衞門といひて、片山永孚といへる書家の八代の孫也けり。予に語りしは、十六、七歳の頃、父が方にありて【わら店(だな)也。】、市ケ谷御門外、「ことぶき」といへる水茶屋へ、より合に行けり。夜五つ時頃に、神樂坂より「牡丹屋敷」といふ所を通る時、そゞろにおそろしく覺えて、逢坂下にてふと見るに、土手の向ふを行かふ挑燈あり、行合て、一つとなり、行違ひて、二つとなりする樣、尋常(よのつね)の挑燈にあらずと見る中に、五つとなり、六つとなり、又、寄合て一つとなる。『これ、狐火なるべし』と思ひて、早足に行過て前後を顧るに、宵ながら、人通もなし、漸(やうやく)抹香屋の前あたりと覺しくて、再び土手の方を見やりしに、此度は、挑燈、いくつともなく行違ふを見るに、みな、此方へ向ひて來(きた)る、水の上を行にてぞありける。其(それ)、近くよるを見るに、挑燈、みな、足ありて步む也。此方より彼方に行も同じ。此時、おそろしきこと極りて、一足も行(ゆき)能はず、立留りて其近きほとり迄來るを見しに、挑燈も足も、みな、狐火にてはあらず。人也。「いかゞして水を渡り來りしや」と、其足元を見れば、水上にはあらで、市ケ谷見付の橋を渡り來るにてぞありける。但し、抹香屋の邊りと思ひしより、水上と思ひしのみにて、別に恠(あや)しき事にてはあらざりけると也。

[やぶちゃん注:のっけから残念だが、実際の「怪奇狐火」ではなく、夜間の遠近感喪失に基づく錯覚に因る擬似怪奇体験談の直話である。しかし、語り(或いは桃野の書き方)の絶妙さから、読者は、「狐火」が「提灯」に化け、しかもその「提灯に人間の足が生え」、遂に「人に化けた」か、と思わせる仕掛けとなっていて、極めて上質の怪談となっている点にこそ着目すべきである。

「谷町」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、現在の市ヶ谷地区の新宿区住吉町(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「片山永孚」不詳。名は音なら「えいふ」、訓では「ながざね」か。

「わら店(だな)」「藁店」固有地名。現在の東京都新宿区袋町の光照寺の東北(ここ(グーグル・マップ・データ))の地蔵坂の脇。個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「藁店(わらだな)は1軒それとも10軒」を参照した。

「市ケ谷御門外」底本の朝倉治彦氏の補註に、『麹町から市ヶ谷への出口。門外には、八幡町、市ヶ谷田町一丁目があるが、市ヶ谷八幡の門前町八幡町には水茶屋』(寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し、休息させた茶店の称。葉茶を売る葉茶屋と区別して、水茶屋といった。室町時代から見られた一服一銭の茶売りが、葭簀張りの掛小屋に床几を設えるなどするようになってからの江戸時代の名称で、これらが、やがて酒食を供するようになって煮売茶屋・料理茶屋となり、店の奥に座敷を設けるところが現れると,それが男女の密会や売春の場となっていった。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『があった。寛政五』(一七九三)『年』、『水茶屋の許可が出ている』とある。

「夜五つ時」定時法では午後八時頃。

「牡丹屋敷」現在の神楽坂一丁目附近(ここ(グーグル・マップ・データ))。先に出した個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』」に、「新宿区町名誌」(昭和五一(一九七六)年新宿区教育委員会発行)から引用して、

   *

神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保十四年(一七二九)十一月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。

 宝暦十一年(一七六一)九月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌十二月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥あすか井、花園等の受領地となって町屋ができた。

   *

とある。同サイトには「牡丹屋敷」の記載が他にも複数ある。

「逢坂下」「逢坂」は「大阪」「美男坂」とも称し、現在の東京都新宿区市谷砂土原町三丁目に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。先に挙げた個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に非常に詳しい。

「抹香屋」線香を商う店という一般名詞と採った。実は現在の神楽坂の一部は元は「通寺町」(とおりてらまち)と呼ばれ、寺が多かった。「東京理科大学理窓会埼玉支部」公式サイト内の「肴町は家光ゆかりの地」に以下の記載がある(一部の不審な字空けを除去させて貰った)。

   《引用開始》

 昔、神楽坂と言えば坂上(肴町)から坂下(牛込見付)までを指した。

 大久保道を横切り矢来に抜ける道は、左右に門前町が開け、神楽坂に比べ道幅も狭く雨が降ると傘をさす通行人が行き違い出来ない程、家の軒が迫っていた。通寺町、横寺町と呼ばれるように寺が多かった。明治のはじめ排仏毀釈により多数の寺が廃寺にされたがそれでもまだ狭い道の両側には向かい合うように寺が並び、朝夕どこともなく念仏や読経の声が左右から流れてきた。いまでも横寺町に入るとその雰囲気を残している。

   《引用終了》

以上の引用部の後の方に、『戦後、通寺町は住民から何の異論が出ずに神楽坂6丁目になったが、抹香臭い町名より神楽坂の方が格好良かったからであろう』とある。記者が、この『抹香臭い』と表現して呉れたお蔭で、このページを発見出来、「通寺町」の旧名も知り得た。御礼申し上げる。

「市ケ谷見付の橋」市ヶ谷見附から神楽坂へ架橋された現在の牛込橋。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/08/14

諸國里人談 目次(全) / 諸國里人談~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:最後に、各巻頭に存在する目次をここに纏めて出すここでは、刊行時のそれを伝えるため、早稲田大学古典総合データベースの最も古い①を用いた(但し、実は③も大差なく、巻之二の甚大な錯雑さえも無批判にそのまま写しとっている)。表記は①のママで、本文同様、迷ったものは正字で表記した。原典では概ね二段組表記(目次を二頁に納めるためで、項目数の多い第四巻では終りが三段組となっている)であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考え、一段で示した。字配も一致させてはいない。また、国名等を除いてルビが附されているが、五月蠅くなり、見た目の整列も悪くなるので、総て略した。読みは概ね、本文標題或いは本文内に附してある。

 

諸國里人談巻之一

   ㊀神祀部

○和布刈    豊前

○諏訪祭    信濃

○芝條     出羽

○吉備津釜   備中

○鹿伏神軍   佐渡

○飽海神軍   出羽

○龍王祭    淡路

○直會祭    尾張

○人魚     若狹

○龍虵     出雲

○梅園社    肥前

○犬頭社    三河

○熱田的射   尾張

○常陸帯    常陸

○筑摩祭    近江

   ㊁釋教部

○佛舎利    大和

○大佛     奈良 京都

○大觀音    泊瀨 鎌倉 江戸

○嵯峨釈迦   山城

○善光寺如來  信濃

○石羅漢    豊後 大和

○鬼押     伊勢

○金印     相摸

○高野山禁ㇾ笛 紀伊

○雷鳥     加賀

○三猿堂    近江

 

諸國里人談巻之二

   ㊂奇石部

○息栖甁    常陸

○要石     常陸

○※石     安藝

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)。「※石」で「さゝれいし」とルビする。「さざれいし」。]

○根矢鉾立   越後

[やぶちゃん注:以下、「○鸚鵡石」までは(ここここ)激しい錯雑が起こっており(①・②・③総て同じ)、前後するどころの騒ぎではないので、本文に合わせて特異的に順列を組み替えた(なお、吉川弘文館随筆大成版は正しく直されてある)。各条自体は①の表記に拠っている。]

○姨石     信濃

○文字摺石   陸奧

○名號石    相摸

○蛙石     摂津

○釣鐘石    摂津

○京女郞    讃岐

○巫石     下野

○殺生石    下野

○石燈籠    相摸

[やぶちゃん注:以上の「○石燈籠」は①・②・③総てで脱落しているので、補った。「相摸」の字は前後及び本文の表記に拠った。]

○石宝殿    播广

[やぶちゃん注:「广」は「磨」の略表記。]

○鬼橋     備後

○鵜飼石    甲斐

○龍淵     和泉

○栢葉石    陸奧

○隠水石    紀伊

○木葉石    出雲

○姥石     越中

○水口石    近江

○月糞     美濃

○星糞     信濃

○神石窟    出羽

○鸚鵡石    伊勢

○御福石    上野

   ㊃妖異部

○成ㇾ大會   山城

[やぶちゃん注:返り点は現在のように厳密に規則既定されたものとはされておらず、判り切っている場合、二字以上を纏めて戻る場合でも、しばしばㇾ点が用いられた。ここもそのケースで「大會(たいゑ)と成(な)る」(ルビはママ)と読む。]

○森囃     相摸

○髮切     伊勢

○雇天狗   江戸

○河童歌    肥前

○鬼女     三河

○皿屋敷    江戸 出雲 ハリマ

[やぶちゃん注:「ハリマ」のカタカナはママ。]

○窟女     伊勢

○天狗遊石   伊賀

○木葉天狗   遠江

○片輪車    近江

 

諸國里人談巻之三

  ㊄山野部

○富士     駿河

○淺間     信濃

○阿蘓     肥後

○妙義     上野

○燒山     陸奧

○立山     越中

○雲仙     肥前

○彦山     豊前

○白峰     讃岐

○洞穴     若狹

○風穴     和泉

[やぶちゃん注:上記は、「かさあな」のルビ。]

○風穴     甲斐

[やぶちゃん注:上記は、「ふうけつ」のルビ。]

○土團子    甲斐

○土饅頭    周防

○室八島    上野

[やぶちゃん注:「室八島」の「上野」は「下野」の誤り。]

○迯水     武藏

○野守鏡    大和

○阿漕塚    伊勢

○短尺塚    陸奧

○黒塚     武藏

   ㊅光火部

○火辨

○不知火    豊後

○橋立龍燈   丹後

○焚火     隱岐

○分部火    伊勢

○二恨坊火   摂津

○虎宮火    摂津

○嗟跎龍燈   土佐

○野上龍燈   周防

○光明寺龍燈  相摸

○狸火     摂津

○姥火     河内

○秋葉神火   遠江

○千万火    伊勢

○狐火玉    京

○油盗火    近江

○入方火    越後

○火浣布 寒火 异国

[やぶちゃん注:「异」は「異」の異体字。]

 

諸國里人談巻之四

   ㊆水邊部

○水辨

○若狹井    奈良

○塩井     陸奧

○塩泉     下野

○油池     出羽

[やぶちゃん注:「油池」の「出羽」は「越後」の誤り。]

○油泉     美濃

○掘兼井    武藏

○入梅井    摂津

○念佛池    美濃

○浮島     出羽

○嶋     西國

[やぶちゃん注:原典では「」(「遊」の異体字)は(てへん)を(しんにょう)の左に出した字体。]

○津志滝    安藝

○裏見瀧    下野

○鼓滝     摂津

○有馬毒水   摂津

○高野毒水   紀伊

○桜池     遠江

○龍池     相摸

○竜穴     信濃

  ㊇生植部

○曽根松    播磨

○不断桜    伊勢

○十六桜    伊与

[やぶちゃん注:「伊与」はママ。「伊予」の誤刻であろう。]

○八重桜    大和

○唐崎松    近江

○銭掛松    伊勢

○枝分桃    安藝

○無澁榧    甲斐

○青葉楓    相摸

○印杉     大和

○観音寺笹   三河

○大竹     駿河

○臥竜梅    武藏

○八幡木    土佐

○西行桜    山城

○遊行柳    上野

[やぶちゃん注:「遊行柳」の「上野」は「下野」の誤り。]

○小町芍藥   出羽

○一夜杉    出羽

○伐ㇾ桜    京

○大樹     筑紫 近江

○物見松    美濃

大番焦    堺

[やぶちゃん注:「大番焦」は「おほそてつ」とルビ。本文の表記標題は「妙國寺蘇鉄」。]

○八橋杜若   三河

○宮城野萩   陸奧

 

諸國里人談巻之五

   ㊈氣形部

○犬生ㇾ人   和泉

○源五郞狐   大和

○伯藏主    江戸

○横山狐    伯耆

○宗語狐    京

○稲荷仕者   京

○鯉社仕者   丹波

○黒島鼠    讃岐

○大鼠     信濃

○武文蟹    摂津

○大蟹     摂津

[やぶちゃん注:「大蟹」の「摂津」は「三河」の誤り。]

○大烏賊    相摸

○松喰虫    武藏

○石蛤     土佐

○眇魚     出羽

○片目魚    摂津

○玉島川鮎   肥前

○宮川年魚   伊勢

  ㊉器用部

○大峰鐘    大和

○三井鐘    近江

○須磨寺鐘   摂津

○無間鐘    遠江

○東大寺鐘   大和

○方廣寺鐘   京

○建長寺鑑   相摸

○長樂寺鈴   上野

○鴨毛の屏風  大和

○奇南     异国

○蘭奢待    大和

○永樂銭起   相摸

 

[やぶちゃん注:以上を以って菊岡沾涼「諸國里人談」のオリジナル電子化注を完遂した。]

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