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カテゴリー「怪奇談集」の556件の記事

2018/06/23

諸國里人談卷之三 立山

 

    ○立山

立山は越中國新川郡(にゐかはのこほり[やぶちゃん注:ママ。「新川」の正しい歴史的仮名遣は「にひかは」。])なり。祭神、伊弉諾尊(いさなみのみこと)。力尾社(ちからをのやしろ)は手力雄命(たちからのみこと)也。是、麓(ふもと)の大宮(おほみや)也。此より絶頂まで三里余、其間、旧跡多し。此嶽(たけ)は佛尊の貌(かたち)に似たり。膝を「一の越(こし)」とし、腰腹(こしはら)を「二の越」、肩を「三の越」、頭を「四の越」、頂上佛面(ぶつめん)を「五の越」とす。市の谷(や)へ行道に、「小鏈(こぐさり)」[やぶちゃん注:「鏈」は「鎖」に同じい。]・「大鏈(おほぐさり)」とて、鏈(くさり)に縋(すが)りて登る所、有〔あり〕。此鏈は三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)が作る所なり。「地獄道(ぢごくみち)」に地藏堂あり。每年七月十五日の夜、胡蝶(こてふ)、あまた、此原に出〔いで〕て舞遊(まひあそぶ)ぶ。これを「精霊市(しやうりやういち)」といふ也。「一の越」より「五の越」まで、各堂あり。一宇一所づゝに、暖(あたゝか)なる地あり。これを「九品(くほん)」といふ也。行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也。

「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる、となり。

元祿のころ、江戸牛込、小池何某、同行〔どうぎやう〕三人、禪定(ぜんぢやう)しけるに、歸路に趣く時、行(ゆき)くれて、道の邊(ほとり)の木陰に一夜(や)をあかし、夜すがら、念佛して居たるに、誰人(たれひと)ともしらず、

「これこれ、同者衆、食事、まゐらせん。」

と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す。

「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」

と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしなひ、

「かほど近くに人家あらば、宿(やど)せんずるに、しらざれば、是非なし。」

など、いひて、夜、明(あけ)たり。

「かの椀を歸さん。」

と、邊(あたり)を見れども、人倫たへたる[やぶちゃん注:ママ。]所にて、人家、なし。

やうやうにして、一里ばかり下(くだ)りて、五、七軒の里、あり。或家に入〔いり〕て、湯茶を設け、夜中(やちう)の事をかたるに、

「その邊には、中々、人里、なし。」

となり。

件(くだん)の椀を出〔いだ〕し、見せければ、主(あるじ)、興をさまし、

「これは。向ふなる家の息(むすこ)が椀也。頃日(このごろ)、死(しゝ)て、今日、則(すなはち)、一七日〔ひとなぬか〕なり。」

と、かの家に伴ひ行て、しだいを語りければ、兩親、大に悲歎し、朝餉(あさがれひ)をすゝめて饗應しける、と也。

[やぶちゃん注:最後の「俗云、此山にして願へば……」以下の部分は原典では改行がないが、直接話法が多く、特異な怪奇談なれば、恣意的に改行を施した

「立山は越中國新川郡なり」現在は富山県中新川郡の立山町芦峅寺(あしくらじ)内である。標高は雄山(おやま)が三千三メートル、大汝山(おおなんじやま)が三千十五メートル、富士ノ折立(ふじのおりたて)が二千九百九十九メートルの三峰から成る総山体を「立山」と呼ぶ(或いは雄山と大汝山に南側の浄土山(二千八百八十七メートル)と北側の別山(べつさん:二千八百八十二メートル)を加えたもの)。立山はいずれも古期の花コウ。雄山のみを立山と呼ぶのは厳密には誤りである。立山連峰に「立山」という名の単独峰は存在しないからである。私は後に出る剣岳(二千九百九十九メートル)を含め、総て登攀した。

「祭神、伊弉諾尊」まずは、現在の雄山神社。霊峰立山自体が神体であり、立山の神として伊邪那岐神(江戸時代までは立山権現雄山神で本地阿弥陀如来)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ:同じく太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀ったもので、神仏習合の時代は神道よりも仏教色が強い、立山修験の神聖な道場であった。現行では、峰本社(みねほんしゃ)・中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)・前立社壇(まえだてしゃだん)の三社を以って雄山神社とする。各社の位置などは「立山大権現 雄山神社」公式サイトを見られたい。

「力尾社(ちからをのやしろ)」原典は①も③も確かに「力尾社」なのであるが、どうも読んだ当初から、魚の骨が咽喉に刺さったような違和感があったのだ。沾涼は後で「麓(ふもと)の大宮(おほみや)也」と言ってしまっているから、「ここは大きな前立社壇(ここ(グーグル・マップ・データ))を指していると読んで、何の不都合がある?」と文句を言われそうなのだが、しかし、やはり、どうもすっきりしないのだ。実はもっとおかしいこともある。それは、沾涼は後で「此より」本社のある雄山「絶頂まで三里余」と言っている点である。この短い距離では、中宮祈願殿でさえも遠過ぎるのである(地図上の直線でも二十キロメートルを超えてしまう)。思うに、沾涼は立山に実際には行ってないのではないか? 誰彼からの不確かな情報を無批判に繫ぎ合わせてしまったのが、この解説なのではないか? という疑惑である。しかも、この私の猜疑心の火に油を注ぐのは、本条の記載の幾つも箇所が、またしても、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」との有意な一致を見るのである。確かに雄山神社は本殿で天手力雄神も祀りはする。しかし、「雄山神社前立社壇」や「中宮祈願殿」が江戸以前は「力尾社」と呼ばれていたというのであれば引き下がるが、調べた限りではそのような事実はないようである。そうして彼の別名は前注で見る通り、太刀尾天神剱岳神である。則ち、私はこの「社」とは、雄山神社の併祀する彼を指しているのではなく、天手力雄神=太刀尾天神剱岳神を主祭神として祀っている神「社」を指しているのではないか? という疑義であり、最初に思ったのは本当に「力尾社」なのか? という疑いだったのである。そう、これは実は「刀尾社」なのではないか? という、謂わば〈烏焉馬の誤り〉的推理だ。調べてみると、あるのだ! 「刀尾神社」が! 「たちおじんじゃ」と読み、場所は芦峅寺内ではないが、富山市太田南町で、立山参りのアプローチ地点に当たる位置にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、サイト「北陸物語」の青木氏の記事「刀尾神社」によれば(写真有り。今は田舎の静かな社といった感じ)、立山の開山者である慈興上人が雄山神社の『前立の神としてこの地に社殿を作ったと言い伝えられて』おり、『手力男命(たぢからおのみこと)を主祭と』しつつ、その権現化されたところの『剱岳の地主神刀尾天神 (刀尾権現)を祀』っているとあり、しかも『昔は、西国方面からの立山参詣者は必ず立ち寄ったと言われてい』いるとあるのである。なお、他にも「刀尾宮」はありはする(例えばここ(グーグル・マップ・データ))。最後に極めつけと思しいものを掲げておく。沾涼が秘かに引いたのであろう「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」の頭の部分には、原典では確かに、

   *

力尾權現社手力雄命(タヂカラヲノミコト)也

   *

とあるのだが、東洋文庫版現代語訳では、ここがわざわざ、

   *

『刀尾(たちお)権現社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。

   *

と訳してあるのである。東洋文庫の訳者が、今度は、「力」を「刀」に見間違えたんですかねえ? わざわざルビまで振ってですよ? 如何? さても大方の御叱正を俟つものである。

「三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)」平安時代の名刀工三条宗近(むねちか 生没年未詳)の通呼称。永延(九八七年~九八九年)頃、京都三条に住したと伝え三条小鍛冶。現存作は極めて少なく、御物の「宗近」銘の太刀と、「三条」銘の名物「三日月宗近」の太刀がよく知られる。ことに後者は室町以来、天下五剣の一つに挙げられており、細身で小切先、反りの高い太刀姿は日本刀の中では、最も古雅にして品格があるものと評される。因みに、能の「小鍛冶」で、白狐を相槌に、太刀を鍛える刀工は、この宗近である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「地獄道(ぢごくみち)」地獄谷(ここ(グーグル・マップ・データ))に向かうルートであろう。

「地藏堂」「和漢三才図会」では、「立山」の概説部の『○室堂』の条の中で、現在の「ミクリガ池」らしき『神池』の後に、

   *

地獄道追分地藏堂毎歳七月十五日夜胡蝶數多(アマタ)出遊於此原生靈市髙率塔婆(タカソトバ)無緣菩提

   *

とあり、後の「地獄谷」の項の下にも割注で『有地藏堂』とあるから、確実にこの地蔵堂は地獄谷の中にあると読める。万葉の昔より、蝶は虚空を舞う奇体なもの、魂のシンボルとされていたと思われる。また、花同様に死体に群がることもある点で、蝶は美しいものとしてよりも、古くは忌まわしいものとしての認識が強かったと推察される。因みに、以上の引用からも、沾涼が、性懲りもなく、またまた「和漢三才図会」を丸ごと引用していることが、よぅく判る

「精霊市(しやうりやういち)」「市」は意味有り気に群集することを指すのであろう。

「九品(くほん)」五箇所の地熱の高い温まれる場所(或いは名数として九箇所あったのかも知れない)を、仏教に於ける往生の仕方の階級様態(下品下・中・上生から上品上生に至る九階梯)である「九品往生」に擬えたのであろう。「雄山神社」公式サイト白鷹伝 立山開山縁起(略記)にも『阿弥陀如来と不動明王の二尊』の御告げの中に『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり』という一節が出る。

「行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也」それぞれの参詣登山をする者は、それぞれ自身の様子を見計らって、これらの各堂のどこかで、それまで身を助けた杖や草鞋を置いて山上の本社に参るのである。

『「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ)たり』「和漢三才図会」に、

   *

○地獄谷【有地藏堂】八大地獄【各有十六別處】共百三十六地獄血池【水色赤如ㇾ血】處處猛火(キヤウクハ)燃起(モヘタチ[やぶちゃん注:ママ。])罵言(メリ[やぶちゃん注:ママ。])號泣(ガウキウ)ノ如ク人潰(ツブ)ㇾ肝(キモ)劔(ツルキ)【山腰石塔不思儀石塔】岩石峙(ソバタ)鋒過刃(キツサキ)嶮岨不ㇾ可ㇾ言

   *

とある。沾涼、流石にマズいと思うたか、ちょこちょこっと言い方を変えているところが、セコいね。

「俗云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる……」以下の話は沾涼のオリジナルか。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「江戸牛込」現在の東京都新宿区神楽坂周辺。

「禪定(ぜんぢやう)」この場合、一般には「修験道の行者が霊山に登ってする修行」を本来は指すのであるが、転じて、単に霊山の参詣登山を言っている。

「趣く」「赴く」。

「行(ゆき)くれて」下山が遅かったために、歩いているうちに日が暮れてしまい。

「同者衆」これは「同じ修験参詣のお方衆」という謂いではなく、恐らく「道者衆」のことと思われる立山では禅定登山には「道者衆(どうしゃしゅう)」と「参連衆(まいれんしゅう)」と二つの区別があったのである。こちらのむかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話) 道者衆と参連衆についてというページ(家が古くからの立山の「日光坊」という宿坊であった方の少年期の回想である)によれば、『宿坊に来られた人達は、道者衆と参連衆に分けることができました。宿坊の衆徒たちが、毎年各地の檀那場に出向き、立山曼荼羅を掛けて絵解き(解説)を行い』、『布教します。信者の方々が感動して』、『ぜひ』、『現地で体験したいと、少人数のグループで立山においでになります。この人達のことを道者衆(どうしゃしゅう)と言います』。『道者衆は、白装束で「立山禅定」と書かれた網代笠をつけ、布教を受けた衆徒の宿坊に』、『特別に村の講社の事務所を通さず』、『直接』、『宿泊ができます。子供の頃、父に「○○様お迎え」と書いた西洋紙をもらって』、『駅の待合室で電車を待ち、その紙をはにかみながら』、『顔の前に差し上げたことを覚えています。すると』、『向こうから「私です」と声がかかり、「お迎えに来ました」と先頭に立って、途中簡単な説明をしながら「ここが日光坊です」と、家まで案内しました。道者衆は、敷台(来客専用玄関)で草鞋を脱ぎ、足を洗って家に入り、衆徒と対面し、久しぶりの挨拶を交わします』。『一方、檀那場以外(担当布教地区外で師壇関係のない地区)から来られた人達を参連衆(まいれんしゅう)と言い、身につける衣類も』、『黒か紺の生地で、上着とズボン(タッツケ)に分けられ、笠も「立山登拝」と書かれた普通の笠をつけます。参連衆は、講社の事務所に宿泊を届け出、そこで指定された宿に行き、前の小川で足を洗って広間に入ります』。『食事は、道者衆が、宿代無料で』、『朱塗りのお椀とお膳でサービス付きであったのに、参連衆は、有料で』、『黒塗りのお椀とお膳でセルフサービスと接待の差があったことが脳裏に浮かんできます』とある。ここで、無賃で「食事、まゐらせん。」「と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す」のを、その通りに、「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」「と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしな」ったとあるのは、まさに「道者衆」ならではと思うのである。

「人倫」ここは単に「人間」の意。

「一七日〔ひとなぬか〕」「いつ(いち)しちにち」とも読む。初七日のこと。]

2018/06/22

諸國里人談卷之三 燒山

 

    ○燒山(やけやま)

陸奧國南部領八戸にちかし。大畑(おほはた)といふより登る事、三里半也。此山、時として燒(やく)る事あり。よつて、しかいふ。爰(こゝ)に慈覺大師の作る所、一千体の石地藏あり。中尊は長(た)五尺あまり、他(た)は、みな、小佛なるによりて、人、これを取(とり)去りて、僅に殘りけるが、近きころ、圓空と云〔いふ〕僧あつて修補し、今、千体に滿(みち)たり。巓(いたゞき)に「地獄」といふ所あり。「三途川(さんづかは)」・「賽河原(さいのかはら)」、小石を以〔もつて〕塔を作る。「修羅道」は、地の面(おもて)、みな、石にして、凡(およそ)長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈。其石に血色(ちいろ)のごとくなるもの、散り染(そま)りたり。「劒(つるぎ)の山」は、石、悉く尖りて、刀鉾(とうほこ)を連(つらね)て比(なら)べたるがごとし。「藍屋(あいや)の地獄」・「酒屋(さかや)、麹屋(こふじや[やぶちゃん注:ママ。])の地獄」といふは、それぞれの色をあらはせり。【玆に「柏葉石」と云〔いふ〕あり。「石の部」に見〔みゆ〕。】

[やぶちゃん注:最後の割注で思い出されるであろう、これは先の「卷之二」の「㊂奇石部」に出た「柏葉石」で、ロケーションもそれと同じ恐山(及び曹洞宗釜臥山恐山菩提寺)である。まず、そちらの注を参照されたい。「慈覺大師」等はダブっては注さない。

 いや! しかし、である。それ以前(「この文章に対して大真面目にまともに注する以前」の謂いである)に、この文章は、その全体が沾涼のオリジナルではない。何故なら、とんでもなく(「呆れるほど」の含みを持つ)酷似した先行する文章が存在するからである。

 それは、私が水族・虫類・禽類などの電子化注を手掛けている例の、大坂の医師寺島良安が約三十年もの歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)に完成させ、大坂杏林堂から板行した百科事典「和漢三才図会」(全百五巻八十一冊)の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の、ズバリ、「燒山」である。本「諸国里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、「和漢三才図会」は三十一年も前の出版である。ともかく、その原文を見て戴くに若かず、だ。

   *

燒山   在南部領【自大畑登三里半許】

 此山不時有燒故名之 開基慈覺大師作千体石地

 藏中尊長五尺許其他小佛而人取去今僅存

 近頃有僧圓空者修補千体像

 商賈有竹内與兵衞者用唐銅作彌陀日藥師三像

 安之

 頂上有三塗川及塞河原層小石爲塔形又有一百三

[やぶちゃん注:「頂」は原典では「頂」の上に「山」がつく字体。]

 十六地獄而名修羅者地靣皆石而凡長二十五六丈

 幅五六丈其石靣如血色者散染亦一異也名劔山者

 滿山石悉有劔尖而如刀鉾然其余酒造家藍染家麹

 造家等之地獄皆現其色狀凡有硫黃山必火煙出温

 泉涌故自可謂地獄者有之殊當山與肥前溫泉嶽見

 人莫不驚歎【諸地獄詳于山類下】

 慈覺護摩執行時無莚席取檞葉敷石上于今其石方

 二丈許薄※而幅一寸長二寸半許形如檞葉而有文

[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]

 理又當山有異鳥鳴聲如言佛法僧日光及高野亦有

 此鳥

○やぶちゃんの書き下し文(原典の訓点は完備していないので、一部の送り仮名は私が過去の同書の訓読経験に照らして妥当と推定されるもので補っている。〔 〕は私が同じ観点から補った読みである)

燒山(やけ〔やま〕)

南部領に在り。【大畑より登ること、三里半許り。】

此の山、不時〔ふじ〕に燒くること、有り。故に之れを名づく。

開基慈覺大師、千体の石地藏を作る。中尊、長〔た〕け五尺許り。其他は小佛にして、人、取り去りて、今、僅かに存す。

近頃、僧・圓空といふ者有りて、千体の像を修補す。

商賈〔しやうか〕[やぶちゃん注:商人(あきんど)。]竹の内與兵衞といふ者有り、唐銅(からかね)を用ひて、彌陀・大日・藥師の三像を作り、之れを安(を)く。

頂上に「三塗川(さうづがは)」及び「塞河原(さいの〔かはら〕)」有り。小石を層(かさ)ねて塔の形〔かた〕ちに爲〔な〕す。又、「一百三十六の地獄」有り。「修羅」と名〔なづ〕くる者は、地靣、皆、石にして、凡〔およそ〕長さ二十五、六丈、幅五、六丈。其の石の靣(おもて)、血の色のごとくなる者、散り染(そ)むも亦、一異なり。「劔(つるぎ)山」と名くる者は、滿山の石、悉く、劔-尖(とが)り有りて、刀-鉾(きつさき)のごとく然〔しか〕り。其の余、「酒造家(さかや)」・「藍染家(あをや)」・「麹造家(かうじや)」等の「地獄」、皆、其の色の狀〔かたち〕を現はす。凡そ硫黃〔いわう〕有る山は必ず、火煙、出でて、温泉、涌く。故、自〔おのづか〕ら、「地獄」と謂ひつべき者、之れ、有り。殊に當山と肥前の溫泉嶽(うんぜんのたけ)[やぶちゃん注:長崎の雲仙岳。]、見る人、驚歎せずといふこと莫〔な〕し【諸地獄は山類の下に詳らかなり。】。

慈覺、護摩執行〔しふぎやう〕の時、莚席(えんせき)無し。檞-葉(かしは)を取りて、石の上に敷く。今に、其の石、方二丈許り、薄く※[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。](へ)げて、幅一寸、長さ二寸半許り、形、檞〔かしは〕の葉のごとくにして文理〔もんり〕[やぶちゃん注:筋目。]有り。又、當山に異鳥有り。鳴く聲、「佛法僧」と言ふがごとし。日光及び高野にも亦、此の鳥、有ると云云(うんぬん)。

   *

どうであろう? これは正直、参考にしたという程度では、最早、ない。現代なら、良安から著作権侵害を訴えられるレベルである。しかも、これによって、先の「柏葉石」も結局、この「和漢三才図会」の記載の最後をお手軽に切り取って離して貼り付けたとしか言いようがない。引用元を示していればよかったものを、これははっきり言ってひどい(江戸の考証随筆ではちゃんと引用元の書名を記している筆者は実は結構いるのだ。江戸時代だからと言って好意的に甘く見るのはだめ!)。ひど過ぎるあきまへんて! 沾涼はん!!!

「大畑」青森県むつ市大畑町(おおはたまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中尊は長(た)五尺あまり」慈覚大師円仁は夢告によって恐山に来たって六尺三寸の地蔵菩薩を刻んだとされるが、それは現存しないようである。

「圓空」(寛永九(一六三二)年~元禄八(一六九五)年)江戸初期の僧侶で、私の偏愛する名仏師である。小学館「日本大百科全書」から引く。美濃国『竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)に生まれた。若くして仏門に入り、天台僧として修験道』『を学んだともいうが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったらしい。つねに諸国遍歴の旅を続け、その足跡は、北は北海道から、西は四国、中国にもわたっており、ほとんど日本全土に及んだかと思われる』元禄八年、『故郷美濃へ帰り、自ら中興した弥勒寺』近辺で同年七月十五日、六十四歳で没した。断食の上、土中に穴を掘って入り、即身成仏したと伝えられる。『彼をとくに有名にしたのはその造像で、一生に』十二『万体造像を発願したが、現在までに二千数百体が発見されている。大は名古屋荒子観音寺の』三・五『メートル余の仁王像、小は』二~三『センチメートルの木端(こっぱ)仏まで種々に及び、像種もさまざまである。丸木を四分、八分した楔(くさび)形の、荒く鑿(のみ)を入れただけの材からつくりあげることが多く、原材における制約をそのままに利用し、また鑿の痕(あと)をそのままに残すというように、大胆直截(ちょくせつ)な輪郭や線条で構成された彫像をつくりあげた。一見稚拙なようだが、当時のまったく形式化した作風の職業仏師たちの作に比し、熱烈な信仰の所産だけに、新鮮な魅力を備えており、激しく心を打つものがあって、現代にも通ずる素朴な美と力強さが認められる』。

 ちょっと脱線して円空について語りたい。

 彼の人生は必ずしも明らかでない。ただ、私は七歳で長良川の洪水によって母を失ったその心傷が、彼に仏体十二万彫琢の発願をさせたのだと深く信ずるものである。円空の彫った一部の女性的な仏体の表情やそのフォルムは明らかに慈母のイメージである。

 なお、彼が一所に永くは定住した痕跡がないのは、行脚修行以外に何か別な理由があったのではないかということも、彼に関心を持った学生の時以来、ずっと私の考えてきたことであった。

 例えば、まさにこの青森まで来た円空は、弘前藩から退去命令を受ける(これは、幕府の宗教政策によって寺を持たない僧侶の布教活動が禁止されていたから、と羽葉茶々氏のブログ「今日は何の日?徒然日記」の「多くの仏像を残した修業僧・円空」にはあるが、これは追放根拠としては私には承服出来ない)。これについては、滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」(PDFでダウン・ロード可能)によると、現存する「弘前藩庁日記」の寛文六年正月二十九日(一六六六年三月四日の条に(漢字を恣意的に正字化した)、『圓空と申僧壱人長町ニ罷有候處ニ御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而其段申渡候所今廿六日ニ罷出、靑森へ罷越、松前ヘ參由』とあるものの、この追放と言うべき理由について滝尻氏も『その理由は記されていない』、『国に指し置きまじ由』『ということから』見て『尋常ではなかった』理由であったといった旨、言い添えられておられる。但し、その後で弘前藩の修験が当山派であったのに対し、円空は白山の本山派であり、円空が藩内で行った加持祈禱などがそうした地元の修験者に嫌われて讒言された可能性を示唆してはいる。

 ところが、それでおとなしく南に戻るわけでなく、逆に、上記の通り、当時は松前藩があった渡島半島一帯のごく一部以外は一般人の渡航が許されていなかった蝦夷地に(先の羽葉茶々氏のブログに拠る)アウトローに渡っているその強烈なパワーは、どこか、日常からことさらに離れようとする強い意志を感じてきたのである。それは仏教的厭離穢土などの末香臭い教説などとはまた別なものとして、である。なお、あまり知られていないが、或いは、円空は当時、業病として忌み嫌われ、不当に差別されていた(現在も実は変わらない)ハンセン病患者だったのではないかという説をかつて読み、私は個人的には非常に腑に落ちたものがあったことを言い添えておく。

 支線を辿り過ぎた。本線に帰って、恐山の円空に話を戻す。

 先に示した滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」では、まさに「和漢三才図会」の私が電子化した箇所の頭から商人竹内のところまでが現代語で紹介され、その後に、むつ市大畑の在地資料「原始漫筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)」(文化一〇(一八一三)年癸酉三月八日の条にも(漢字を恣意的に正字化し、一部のルビを排除した)、

   *

『寛文六年』(一六六六年)『圓空渡海有て円仁』(慈覚大師)『作物の損せし木像を模して九体を刻み安置』……『堂宇に多くの作佛は、實は圓空の作ならんか。鉈削りやうにて、わきて殊勝に』

   *

とあると記された後、『円空は海を渡って北海道有珠山の善光寺に寄宿した。そこで慈覚大師円仁の作仏したという仏像が破損していたことから、この仏像に似せて』九『体の仏像を彫ったという。その後、恐山にやって来た。地蔵堂に安置されている仏像は円空の作で、筆者村林源助は「わきて(とりわけ)殊勝(優れている)」と絶賛している』。『そして、円空来村の約』百『年後に下北を巡った紀行家菅江真澄は』紀行「牧の冬枯」の寛政四(一七九二)年『霜月朔日の条で』(同じく漢字を正字化した)、

   *

そもそも此のみやまは慈覺圓仁大師のひらき給ひて、本尊の地藏ぼさち』(菩薩)『を作給ひ、一字一石のほくゑ』(法華)『經をかいて、つか』(塚)『にこ』(込)『め給ひ』、『として今に在り。はた』、『惠心』[やぶちゃん注:平安中期の天台僧で浄土教の基本仏典「往生要集」の作者源信(げんしん)。]『の佛も、なかごろの圓空のつくりたるぶち』(佛)『ぼさち』(菩薩)『もある也』

   *

『と記している』とされる。その後、滝尻氏は、かつて、円空は『下北半島には立ち寄って』おらず、『円空は津軽から北海道に渡り、そのまま秋田経由で帰っており』、『下北地方には立ち寄っていない』、『いま確認されている円空仏は江戸時代の海運によって運ばれて来た』ものであって、『現在、下北に現存する古文書は偽書で、それを菅江真澄らは円空が来村したものと信じて疑わず、来村したの』だ、と『考えたこともあったが、これだけ地方文書が残っていれば、下北地方を巡錫したことは確かである。円空の足取りを探る記録はこれだけで、あとは残された仏像から知るより術(すべ)はない』と述べておられる。

 この滝尻氏の叙述からみて、残念ながら、現在の恐山には少なくとも円空が「修補し」た「千体」仏というのは残っていないものと思われる。

 但し、恐山菩提寺の院代(住職代理)の方のブログ「恐山あれこれ日記」の「恐山の円空仏」に、『恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像』が写真附きで掲げられており(右側は拡大出来ない)、『左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像で』、『恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧』であるとある。私は十七年前に恐山に行っているのであるが、哀しいことに、これを見た記憶がない。見なかったようである。

「長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈」長さ七十五メートル七十五センチ、幅十八強から二十一メートル二十一センチ。]

2018/06/20

諸國里人談卷之三 妙義

 

    ○妙義

上野國妙義山は岩山にて、岑々(みねみね)、鋭(するど)に尖(とがり)て嵒々(がんがん)とし、鉾を立たるがごとく、樹木なく、たゞ繪にある唐(もろこし)の山に似たり。東の方、厩橋惣社(まへばしさうじや)の邊(へん)より此山を見れば、峰ちかき所に、眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也。土人(さとびとの)云〔いはく〕、「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」と云(いへ)。山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也。或(あるいは)云〔いはく〕、人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事にて、かく峙(そびへ)たる嶮山(けんさん)の滴(したゝり)にて育(そだ)人は、其心、極(きはめ)て劍(するど)也。又、京・奈良などの寬(ゆるやか)なる山の水にて養(やしなは)れたる人の心は、柔和(にうわ)なり。江戸、大坂などの曠野(くはうや)大河(たいが)の流(ながれ)を飮(のむ)人、心は至(いたつ)て廣しといふは、その理(ことわり)、なきにしもあらず。

 ふとん着て寐たるすがたやひがし山   嵐雪

都の山の悠(ゆう)なるすがたを、よく、いひ課(おほ)せたり。

[やぶちゃん注:これは本文の始まるページに「妙義山」とキャプションする挿絵がある(①)。妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に展開する日本三大奇景の一つとされ、赤城山・榛名山と合わせて上毛三山の一つに数えられる山である。ここ(グーグル・マップ・データ)。複数のピークから成るが、最高峰は表妙義の稜線上にある相馬岳で標高千百三・八メートルである(但し、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山(やきゅうやま)で千百六十二・一メートル)。私は登ったことはないが、車窓から見るその山容を、殊の外、愛するものである。私は、また、妙義というと芥川龍之介の「侏儒の言葉――病牀雜記――」(大正一四(一九二五)年十月発行『文藝春秋』初出。リンク先は私の古い注附き電子テクスト。なお、本作は単行本「侏儒の言葉」には収録されていない「侏儒の言葉」である)の一節(『九』)、『室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」』という絶妙な犀星の評言を思い出すのを常としている(「崔嵬」:「さいくわい(さいかい)」と読み、山の様子が岩や石でごろごろしていて険しいさまを言う語である。また、これは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、大正一四(一九二五)年八月二十三日に避暑に赴いていた軽井沢にて堀辰雄と三人して碓氷峠に登った折りのことされる)。

「岑々(みねみね)」「峰々」。

「嵒々(がんがん)」「嵒」は「岩石・大石・ごつごつして堅い岩」の他に、「山の嶮しいさま」を言う語である。

「厩橋惣社(まへばしさうじや)」「厩橋(まへばし)」は「厩橋(まやばし)」とも読む。平凡社「マイペディア」によれば、上野国の中央の利根川左岸の群馬郡の古地名で、無論、元は「うまやばし」であったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらに江戸初期に「まへばし」「前橋」と記されるようになって定着し、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれたとする。この古称は東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くにあった川(利根川の前身)に架けられていた橋の名に基づくともされる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ、上杉謙信・武田信玄・北条氏康らが関東の支配権を巡って争った際の拠点の一つとなったとある。従がって、この「厩橋惣社」とは、現在の前橋市元総社町にある上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)のことである(ここ(グーグル・マップ・データ))。妙義山は西南西二十八キロほどの位置になる。

「眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也」「山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也」これを読むと、沾涼は穴は実際には存在せず、岩の形状と形状、ハングしたものが距離を隔てて、たまたま重なりあった結果として、ある方向から見ると(「ふりによつて」の「ふり」とは「方位や角度をずらすこと・ずれていること・振(ぶ)れ」の意であろう)、穴が開いているように一見見えるだけであると言っているのであるが、調べてみると、この穴は、実際に、ある「国際山岳ガイド タナハシ TANA-アルパインガイドオフィス」のこのページの「表妙義縦走」の次の「妙義山 星穴岳」を見られたい。そこに『星穴伝説』として『その昔、百合若大臣が今の横川から妙義山に向かって放った矢が、みごとに射抜いたという“射ぬき穴”』及び『そのお供の男がお結びを力いっぱい投げつけて開いたという“むすび穴”』があり、『横川には百合若大臣の足跡と言われている石がある』とし、これは『星穴岳に強弓を射った折り、踏んでいた石が凹んだ』ものと伝え(サイト「バーチャル中山道で、当該の「百合若足跡石」が見られる。なお、後注も参照のこと)、さらに『妙義神社には鉄の弓と矢が奉納されている』とあって、『右がむすび穴、左が射ぬき穴』というキャプションを持った、麓から撮った崖に確かに二箇所の穴の開いた絶壁の写真がある。以下、ロック・クライミングで実際にその穴へ向かう写真が続き、「射ぬき穴」に現着。穴は横幅約二メートル、高さ三メートルほど。その「射ぬき穴」から「むすび穴」へは、「射ぬき穴」南側にある垂壁を四十メートルほど懸垂下降して到達、「むすび穴」の方は横幅十メートル高さ十メートルと、かなりの大きさがあって、『穴から北側を覗くと』、『表妙義の峰々が眺めます』とある。別にサイト日本の奇岩景+」の「穴」でも、より大きな画像で、この巨大な「むすび穴」が見られる(右に人が立っているのでスケールがよく判る)。さても、この挿絵にある丸い穴は想像図に過ぎぬのであろうが、私はこの「むすび穴」こそ、その穴であろうと思う。但し、この穴が前橋から見えるかどうかと言えば、それはちょっと無理だろうかとは思う。

「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」「百合若大臣」は室町後期に形成されたと思しい貴種流離譚の伝説上・語物上の英雄「百合若」のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、幸若や説経で「百合若大臣」として呼称されて活躍し、後に浄瑠璃・歌舞伎は勿論、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる伝承では、嵯峨天皇の治世(天皇在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣し、大勝するが、帰途、玄海の孤島で一休みしている間に、家臣の別府兄弟の悪計で置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死を告げ、九州の国司となるが、百合若の形見に残した緑丸という鷹が孤島にきて、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国し、別府兄弟を成敗して、宇佐八幡宮を修造して日本国の将軍となるというトンデモ話である。この伝説は、本来、山口県以南に分布していて、九州を本貫(ほんがん)とする説話が諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われている。伝説には諸種あって、例えば、百合若の足跡石という巨石を伝えたり、別称ダイダラボウシの名をもって祀られた百合若塚などもある。何れも、巨人伝説を踏襲するものであり、その他にも、緑丸の遺跡という鷹に関したものも多く、鷹を神使とする民俗の参与が考えられるという。また、壱岐島には「いちじょー」という巫女が、祭りの神楽として語る「百合若説経」と称するものがあり、これは五十センチほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、それを、叩きながら行うもので、病人祈禱の際にも同じことをする。「百合若」以外の話も語ったらしいが、今は他に残っていない。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混交はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡の本地(ほんじ)物となっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人(あま)部の伝承と八幡信仰との関係で民俗学的に注目されている、とある。なお、百合若とダイダラボッチについては、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛の本文及び私の注も是非、参照されたい

「或(あるいは)云〔いはく〕……」以下、妙義山から離れてしまい、山水の人格形成に与える何だかなの影響論へと語りが致命的にズレていってしまうのは残念である。しっかり妙義山を語れよ、沾涼さん、よ!!!

「人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事」個人の「人」の「身の上」の「事」柄を「自(みづから)と」呼称するのは、「みづから」=「水柄(みづから)」=「みづがら」で、水=山水(さんすい)の質によって、その人の人「柄」=性質は決定されるという「事」を指す、と謂いたいのであろう。

「峙(そびへ)たる」「峙」は「そばだつ」と訓じ、これは「聳つ」とも書き(「聳」は「そびえる」とも訓ずる)、元は「稜(そば)立つ」の意であて、山や峰が、角張って一際高く目立って嶮(けわ)しく屹立する、聳(そび)えるの意である。

「嶮山(けんさん)の滴(したゝり)」峻嶮なる山岳の齎すところの水。

「ふとん着て寐たるすがたやひがし山」「蕉門十哲」の一人である服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:江戸生まれ。名は治助(はるすけ)。武士から俳諧の宗匠となり、穏健な俳風で、江戸俳壇を其角と二分した)の代表的な句の一つで、京風物句としも人口に膾炙している一句である。句集「枕屛風」所収。

   東山晩望

 蒲團着て寐たる姿や東山

堀切実氏は(一九八九年岩波文庫刊「蕉門名家句選(上)」)、『おそらく元禄七』(一六九四)年冬、師芭蕉の『死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる。――ほう。なるほど。とすれば、この寝姿には芭蕉涅槃図の影があるのかも知れぬ――

「いひ課(おほ)せたり」「おほせる(おおせる)」は「果せる」或いは「遂せる」が一般的。「言いおおせる」で「美事に句として謂い遂せている」「すっかり表現し尽くしている」の意。]

2018/06/19

諸國里人談卷之三 阿蘇

 

    ○阿蘇

肥後國阿蘇山は、則(すなはち)、阿蘇郡(あそのこほり)なり。社(やしろ)は麓にあり。

神池(みいけ) 每日、猛煙、起聳(おこりそび)え、山谷、鳴動す。○「大明一統志」云(いはく)、『日本国阿蘇山、石火起接ㇾ天。俗異而禱ㇾ之。有如意寶珠大如鷄卵。色靑夜有ㇾ光。』。

[やぶちゃん注:「大明一統志」の返り点は③に従った。①では「有如意寶珠大如鷄卵」の「有如意寶珠」の一・二点が存在せず、吉川弘文館随筆大成版はそれを受けて「有」を前の「禱ㇾ之有」としているが、これは中国語としておかしいと感じた。中文サイトで「大明一統志」の原文を調べたが、現行の同書にはこの文字列を見出せなかった。しかし、黒木國泰氏の論文「壽安鎭國考―册封体制小論―」(『宮学短大紀要』第六号(平成二五(二〇一三)年度)の中に、「月令廣義」の一条を引かれ(一部の漢字が正字でないのはママ)、

   《引用開始》

統志(大明一統志カ)日本國阿蘇山、石火起接天、俗異而禱之、有如意寶珠、大如鶏卵、色青、夜有光、永樂初年、封為壽安鎭國山。

   《引用終了》

とあるのを見出せたので、かくした。なお、これはずっと先立つ「舊隋書」(唐の六五六年成立)の「卷八十一」「列傳第四十六」「東夷」「倭國」の条の、

   *

有阿蘇山。其石無故火起接天者。俗以爲異因行禱祭。有如意寶珠。其色靑大如雞卵。夜則有光。云魚眼精也。新羅百濟皆以俀爲大國。多珎物並敬仰之恆通使往來。

(阿蘇山、有り。其の石(せき)[やぶちゃん注:岩山。]、故(ゆゑ)無くして、火、起こり、天に接する者(こと)あり。俗、以つて異と爲(な)し、因(よ)りて禱祭(たうさい)を行ふ。如意寶珠、有り。其の色、靑く、大いさ、雞卵のごとくして、夜、則ち、光り有り。云はく、「魚(うを)の眼精(ぐわんせい)なり。」と。新羅・百済は、皆、俀(わ)[やぶちゃん注:倭。]を以つて、大國と爲す。珎物(ちんもつ)多く、並びに、之れを敬仰して、恆(つね)に通使し、往來す。)

   *

の古い記事を孫引きしただけなのではないかと私は疑っている。

「大明一統志」明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

 以下、原典③の訓点に従って「諸國里人談」所収の漢文を書き下す。

   *

日本国、阿蘇山、石火、起り、天に接(まじ)はる。俗、異(い)にして、之を禱(いの)る。如意寶珠(によいほうじゆ)、有り、大きさ、鷄(とり)の卵(かいご)のごとし。色、靑く、夜(よる)、光り、有り。

   *

「接(まじ)はる」高く昇って天に「交はる」。「俗、異(い)にして」民はこの噴火を異常な凶兆として捉え、の意であろう。「如意寶珠」はサンスクリット語の「チンターマニ」(「チンター」は「思考」、「マニ」は「珠」の意)の漢音写で、仏教で霊験を表わすとされる宝の珠(たま)で「意のままに願いを叶える霊宝」の意。但し、この宝珠は不詳。阿蘇神社にも現存しない模様である。個人ブログ「吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流」の阿蘇神界と火山神で、吉田氏は『如意宝珠については謎ではあるが』、『私は阿蘇の火口の寶池のことだと勝手に理解している。というのも以前飛行機から火口の寶池を見た際にエメラルドグリーン色の丸い眼のようだと思ったことがあるからだ』と述べておられ、共感出来る。それに火口と宝池とで火と水とのペアになる』「かいご」の「かい」は「殻」の意で、小鳥や鶏などの殻のついたままのたまごを指す古語。上代から鎌倉・南北朝期頃までは、「卵」は「たまご」ではなく、「かいご」と呼ばれていた。国語辞典編集者神永曉氏のブログ「日本語、どうでしょう?」の「たまご」は「卵」か「玉子」か?によれば、源順の平安中期の辞書「和名類聚抄」には、「卵 陸詞曰、卵【音「嬾」・加比古。】、鳥胎也」とあり、『「嬾」は「ラン」、「加比古」は「かひこ(かいこ)」で』、『「かひ(かい)」は「貝」や「殻」と同語源であろう』とされ、また、近世初期、日本イエズス会が宣教師の日本語修得のために刊行した辞書「日葡(にっぽ)辞書」(慶長八~九年(一六〇二年~一六〇五年)刊)には、『「Tamago (タマゴ)〈訳〉鶏卵。カミ(上)ではCaigo(カイゴ)という」という記載があることから、近世初期までは「かいご」「たまご」が併用されていたことがわかる』『(「カミ」とは近畿方言のこと』)とある。沾涼は伊賀の生まれであるから、彼が「卵」を「かいご」と訓じても、これ、何らおかしくないと私は思う。

「社(やしろ)は麓にあり」阿蘇山の東北麓の熊本県阿蘇市一の宮町宮地にある阿蘇神社。(グーグル・マップ・データ)。

「神池(みいけ)」先の吉田氏の述べられた、阿蘇の火口の宝池のことであろう。]

諸國里人談卷之三 淺間

 

    ○淺間

信州淺間嶽は佐久郡(さくのこほり)也。頂(いたゞき)、常に燃(もゆ)る。往昔(そのかみ)、大きに燒(やけ)たる時、吹出(ふきいだ)したる石也とて、輕井澤・沓掛(くつかけ)の間の曠原(くはうげん)に、燒石(やけいし)、限りなくありける。每年四月八日潔齊して登山(とうさん)するなり。人、皆、竹の筒に水を貯へ、草鞋を浸(ひた)して、火氣を防ぐ便(たより)とす。麓より四里半登るといへども、佐久郡は、多く、淺間山の内なり。上州より碓氷峠まで、自然(じねん)、上(あが)りにして、凡(およそ)四里ほど登る也。峠より輕井澤へは半里くだる也。是によつて考ふれば、上州地〔じやうしうぢ〕よりは、巓(いたゞき)まで、凡〔およそ〕八里の高山なり。富士は登る事、九里也。さのみかはらず。

[やぶちゃん注:二文目に現われる「頂」は原典では「頂」の上全体に(やまかんむり)が附された字体であるが、表記出来ないので、これに代えた。浅間山(あさまやま)は、現在の長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある成層火山で標高は二千五百六十八メートル。(グーグル・マップ・データ)。現在でも活発な活火山で、今二〇一八年現在、火口周辺規制(噴火警戒レベル2)で山頂と火口付近は入山禁止である。

「每年四月八日」は①・②に拠った。③では「四月四日」なのであるが、調べてみると、古来の浅間山の「山開き」の日は「卯月八日」と称し、旧暦四月八日と決まっていたからである(例えば寺子屋サロン氏のブログ「”現在・過去・未来” 歴史の日暦」の浅間山大噴火を見られたい。なお、そこにも少し記されてあるが、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から四十年後の「天明の大噴火」の最大の噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)で、山開きの翌日であった(実際にはその二日前の七月六日から噴火活動は続いてはいた)。溶岩流出・火山灰噴石降下・火砕流・土石流が発生、それらによって吾妻川が閉塞、直に決壊し、大洪水を引き起こし、被害は利根川にまで及んだ。この時の犠牲者は千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋 千百五十一戸・焼失家屋五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りであった(以上はウィキの「浅間に拠った)。

「沓掛」浅間山の南東麓の軽井沢町にある旧宿場町。東方に碓氷峠を控え、軽井沢・追分とともに中山道の浅間三宿として知られた。現在の長野県中軽井沢。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/06/18

諸國里人談卷之三 ㊄山野部 富士

 

諸國里人談卷之三   菊岡米山翁著

 ㊄山野部(さんやのぶ)

     ○富士

駿河國富土山は、相傳ふ、孝靈帝五年に、一夜(や)に、地、坼(さけ)て、大湖(たいこ)となる。是、江州琵琶湖也。其土、大山(たいざん)となる。駿河の富士、是也。江州三上山(みかみやま)は、簣(あじか)より溢(〔あ〕ふれ)て成。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、其形、似たりと云々。每年六月、登山(とうさん)するに、百日の潔齋也。江州の人は七日の潔齋也と云。山の荒(ある)る時、近江の土を蒔(まけ)ば、則(すなはち)、鎭(しづま)るとなり。【當山の事、諸書に委〔くはし〕ければ略ㇾ之〔これをりやくす〕。】

[やぶちゃん注:以下の長歌部分は原典では全体が一字下げ。前後を一行空けた。清音は清音のままに表記した。後の二首も同じ処理をした。「万葉」「西行法師」は小さく書かれているが、同ポイントで示した。「西行法師」は下一字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

「万葉」

 天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

 

秀吉公、朝鮮を征す時、加藤淸正、兀良哈(おらんかい)におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、一人を捕(とら)ふ。名を「世琉兜宇須(せるとうす)」と云〔いふ〕。元、日本松前の人なり。風飄(ふうひやう)して、濟州(さいしう)にある事、二十年也。淸正、悦(よろこん)で導(みちびき)とす。改(あらため)て、後、「藤次郞」と号す。次郞が云〔いはく〕、「此地、天、晴(はる)る時は、富士を見るに、甚(はなはだ)ちかし」。

又、朝鮮人來朝の時、駿河にて富士をさして、「此山、我國に見ゆる」と云〔いふ〕。凡(およそ)、日本に富士にひとしき山、二ツあり。一ツは奧州津輕弘前(ひろさき)の南、岩城山(いはきやま)といふ高山あり。形、富士に違(たが)はず。

 

                西行法師

 ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの

 

又、薩州穎娃郡(ゑのゝこほり[やぶちゃん注:ママ。])に高山あり。「うつほ嶋」と云〔いふ〕。是、又、富士に同じ。

 

 さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん

 

按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは「さつまふじ」なるべき歟〔か〕。

[やぶちゃん注:富士山」とキャプションする本条の挿絵がある(①)。富士誕生伝承については、吉田信氏の論文「富士山と琵琶湖についての言い伝えをめぐって」(PDF)が非常に精緻で、必読。そこにしばしば引かれる江戸時代の文献として、浅井了意の「東海道名所記」(万治四・寛文元(一六六一)年頃刊)の一節が引かれてあるが、それを参考に漢字を正字化したりして示すと、

   *

諺(ことわざ)に、むかし、富士權現、近江(あふみ)の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり。夜、すでにあけゝれば、簣(もつこ)かたかたを、爰(ここ)にすて給ふ。これ、三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしへ、孝靈(かうれい)天皇の御時に、此あふみの水うみ、一夜のうちに出(いで)きて、その夜に,富士山、わき出(いで)たり。その時しも、三上山も出來にけり。一夜の内に山の出(いで)き、淵(ふち)の出き、又は、山のうつりて、餘所(よそ)にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也。故なきにはあらず、と申されし。

   *

で、次に今一つ、吉田氏は大坂の医師寺島良安の百科事典「和漢三才図会」を現代語訳で引くが、ここは氏の訳された当該原典部分を私が翻刻して示し、訓点に従って書き下したものを添える(因みに、私は同書の水族関連の八巻の電子化注をサイトのこちらで完遂しており、このブログでも「蟲類」(完遂)や「禽類」(作業中)を手掛けている)。同書は約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃に完成したものである。

   *

相傳孝靈帝五年始見矣蓋一夜地坼爲大湖是江州琶湖也其土爲大山駿州富士也【國史等無其事亦非無疑】四時有雪絶頂有烟江州三上山自簣溢成故形畧似富士

○やぶちゃんの書き下し文

相ひ傳ふ、「孝靈帝五年、始めて見る、蓋し、一夜に、地、坼(さ)けて、大湖と爲(な)る。是れ、江州の琶-湖(みづうみ)なり。其の土、大山と爲る。駿州の富士なり【國史等、其の事、無し。亦、疑ひ無きに非ず。】。四時、雪、有り。絶頂に、烟、有り。江州三上山は簣(もつこ)より溢(こぼ)れ成れる故、形、畧(ほぼ)富士に似れり。」と。

   *

以下、吉田氏はこの伝承の文献上のルーツを遡ろうとされるのであるが、この濫觴探索はなかなか難しく、残念ながら、探しきってはおられない。ともかくも、同論文に引用されている、博学こだわり倶楽部編「あっぱれ!富士山 日本一の大雑学」(二〇一三年KAWADE夢文庫刊)からの引用の孫引きでここは終わりたい(コンマは読点に代えた)。『富士山成立に関する伝説「日本一の山と湖」ではつぎのとおり。その昔、日本の神々が集まって、日本一高い山と日本一大きい湖をつくることにした』。『神々は日本一高い山をつくる場所を駿河(するが)国、制限時間を』一『日と決め,力自慢の神々が近江(おうみ)国から掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)に入れて駿河国に運んだ。その土を盛(も)って山をつくろうというのだ』。『夕方からはじまった山づくりの作業は、明け方近くになって、あとひともっこで山ができ上がるところまできた。しかし,最後のひともっこを時間内に積み上げられなかった。そのため、富士山の山頂は尖(とが)った形でなく平らになってしまった』。『いっぽう、近江国の土を掘った跡地には日本一大きな琵琶湖ができた。積み上げられなかった最後の一杯の土は、琵琶湖近くにこぼれて近江富士となった』――どんとはらい――

「孝靈帝五年」「古事記」「日本書紀」に第七代天皇と伝える。西暦への機械的換算では、これは紀元前二八六年。

「江州三上山(みかみやま)」滋賀県野洲市三上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高四百三十二メートル。一般に「近江富士」の別名で知られる。

「簣(あじか)」「あじか」と読むと「竹で編んだ籠や笊」を指すが、ここはしかし、この漢字の第一義である、「土砂を運ぶための運搬用の箕(み)や籠」のもの、則ち、「畚(もっこ)」のことである。

「天地(あめつち)の……」は「万葉集」巻第三「雜歌」の山部赤人の長歌(三一七番)である。添えられた有名な短歌(三一八番)も添えて示す。

   *

  山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷(あは)せて短歌

天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り繼(つ)ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

  反歌

田子(たご)の浦ゆ打ち出いでて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける

   *

「い行き」の「い」は接頭語で、動詞に付いて意味を強める。悠々たるはずの白雲も高峰の富士の高嶺には流石に流れ泥(なず)んでしまい、の意。「時じくぞ」「時じ」で形容詞で「時を選ばない・時節にかまわない」の意。何時(いつ)と時を定めることなく、いつでも。

天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

「兀良哈(おらんかい)」後の旧満州、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。この元である「ウリャンカイ」(モンゴル高原北部周辺にいた民族集団の一つの呼び名)とは元来は興安嶺周辺の中国東北部北部からシベリア南部一帯の森林地帯に住んでいた狩猟民の総称であったと考えられ、現地のツングース語で「トナカイを飼育する民」を意味する発音などがモンゴル語風に訛ったものとも推測されており(ウィキの「ウリャンカイ」に拠る)、それに漢字を当てたものである。

「捕(とら)ふ」吉川弘文館随筆大成版は『捕ゆ』とする。採らない。

「世琉兜宇須(せるとうす)」この前後の話は、後、水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:号は中陵)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記「中陵漫録」の巻之三の「富士を望(のぞむ)」にも出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化し、読点を追加し、一部の歴史的仮名遣で読みを加えて示す。

   *

    ○富士を望

日本の高岳は富士より高大なるはなし。しかれども、是を望む事、二百里に過ず。奥州にては仙台の富の観音より、天晴を待(まち)て遙(はるか)に望む事、有り。故に此處を富と呼ぶ。此處を去(さり)て十里なれば、人の目、力及ばずして、望むと難(かたく)、見る事なし。西にては大阪より希に見る事、有り。大抵人の眼力にかぎりあればなり。然ども、濟州の世琉兜宇須は、本(も)と日本松前の人なり。彼(かの)國に至(いたり)て日本の富士を見る事、甚(はなはだ)近きに有(あり)と云ふ。此説、疑はし。若(もし)海を隔(へだて)て望めば、水氣に因(より)て見る事、有り。いまだ決しがたし。又、日本にても南部の富士、薩摩の富士、其外出羽の三山、鳥海山のごとき、富士に似たる高山、有り。此等を遠望して富士と見誤るか。異邦より望みし事は、甚だ疑はし。又、「五雑爼」に、天竺の雪山を見ると云ふ。雪山は二百里已外(いがい)に有りと見えたり。彼(かの)人の眼力も日本に相(あひ)同じ。甚だ遠ければ、絶(たえ)て見る事なし。此他、紀行の書にも、塞外の雪山、塞外の諸峰を見ると云説有り。此等も二百里已外と見えたり。

   *

「二百里」七百八十五キロメートルであるが、これはあり得ない。富士を中心とした円の直径としても三百九十二・五キロメートル圏内で見えることになるが(「仙台の富の観音」がどこを指すか私には不明だが、地図上は圏内には入るが)、これも事実とは異なる(仙台では見えないと思う)。こことか、ここのサイトで富士山の見える範囲が示されているが、単純な数理計算によれば、半径二百二十キロメートル圏内、大気の光学上の屈折作用からはその辺縁外側でも見られるとあり、最北可視位置は福島県相馬郡飯舘村の花塚山で(ここ(グーグル・マップ・データ))、現行で最も遠い可視位置としては、南西の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある色川富士見峠(標高約七百メートル)とされ、距離は約三百二十三キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

なお、井上泰至・金時徳共著「秀吉の対外戦争 変容する語りとイメージ 前近代日朝の言説空間」(二〇一一年笠間書院刊)の金時徳氏の「朝鮮で加藤清正言説はどのように享受されたか」に『済州に漂着した「日本人」世流兜宇須は誰か』という章があるらしい。いつか立ち読みしたら、追記する。

と云〔いふ〕。

「風飄(ふうひやう)して」海上で暴風に遭遇して朝鮮半島へ漂着したということらしい。

「濟州(さいしう)」山東省にも旧済州 はあるが、ここは大韓民国の南に浮かぶ済州(チェジュ)島のことか。

「岩城山」「津軽富士」とも呼ばれる。標高千六百二十五メートル。

「ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの」「西行法師」とあるが、彼の歌集にはなく、彼の歌とも思われない(どうも本書に西行の歌として出るぐらいらしい)。一応、整序しておくと、

 富士見ても不二とや言はむ陸奥の岩城の山の雪の曙(あけぼの)

か。

「薩州穎娃郡(ゑのゝこほり)」通常は「頴娃(えい)」と読む。薩摩国及び旧鹿児島県薩摩半島先端の西南部分で、現在の指宿市の一部(開聞(かいもん)各町)と南九州市の一部(頴娃(えい)町各町)に当る。位置は参照したウィキの「頴娃郡」の地図を見られたい。

「うつほ嶋」標高九百二十四メートルの「薩摩富士」開聞岳の別称の一つ(「うつぼ嶋」「空穗島」)。この名は貞觀一六(八七四)年にこの山で発生した「貞観の噴火」によって山頂に空洞(うつぼ)が生じたことに由来するものとされる。私が結婚したばかりの新妻と二人で完全登攀した(私は普通の革靴だった)唯一の山である。

「さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん」これは安土桃山から江戸初期の公家近衛信伊(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)の一首である。ウィキの「近衛信尹」によれば、初名を信基・信輔と称し、号は三藐院(さんみゃくいん)。天正五(一五七七)年に『元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長から一字を賜り』、『信基と名乗る』。天正八年に内大臣、天正十三年には『左大臣となる。関白の位をめぐり』、『二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに』、『内心』、『穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして』七百『年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深め』、それに『苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり』、文禄元(一五九二)年正月、『左大臣を辞した』。『幼い頃から父』(関白近衛前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年:彼は関白職にありながら、永禄三(一五六〇)年に越後に下向、更に永禄四(一五六一)年の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるため、上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一、越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物であった)『とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという』。『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って』、『信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』『したため』、『天皇や秀吉の怒りを買い』、文禄三年四月、『後陽成天皇の勅勘を蒙』り、信尹は薩摩国の坊津に、三年間もの間、配流となってしまう(『その間の事情は』日記「三藐院記」に詳述されている)。京より四十五人の『供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定』『)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿』の秋祭(現在の坊津町坊八坂神社の秋祭り。「坊ほぜどん」と呼ばれ、毎年十月第三日曜日に行われる。小京都風の振袖姿で「サイセンバコ」と呼ばれる桶を頭に掲げた少女たちの「十二冠女(じゅうにかんめ)」の行列で知られる)や、『御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡』である「繁栄節(はんやぶし)」の『作者とも伝えられる。また』、『この時期』、『書道に開眼したとされる』。『配流中の世話役であった御仮屋守噯(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている』。『遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう』一、二年いたい旨、『書状に残すほどであった』。慶長元(一五九六)年九月、勅許が下り、京都に戻ったが、慶長五年九月の『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠』七『代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍』するも、九月十五日に敗北、『撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事』、『枕崎に戻ることができた。また』、『島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事』、『薩摩に帰国した』。『信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付けた』。慶長六(一六〇一)年に『左大臣に復職』、慶長十年七月には『念願の関白となる』。翌年十一月には『関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降』、『滞った朝廷人事を回復させるためであった』慶長十九年より、『大酒を原因とする病に罹っていたが』、同年十一月二十五日に薨去、享年五十であった。

 歌を整序してみると、

 薩摩潟穎娃(ゑい)の郡(こほり)のうつぼ嶋是や筑紫の富士といふらん

であろうが、幾つかの資料を見ると、

 薩摩がた波の上なるうつぼ島これや筑紫の富士といふらむ

の表記も見る。前の句形は文化三(一八〇六)年序の「薩藩名勝志」が出典であるようだ。これ以上の検証は私には出来ない。悪しからず。

「按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは、「さつまふじ」なるべき歟〔か〕」という認定が出来る根拠が私にはさっぱり判らぬ。何方か、私に御教授あられたい。]

諸國里人談卷之二 片輪車 / 諸國里人談卷之二~了

 

     ○片輪車(かたわぐるま)

近江國甲賀(こうか)郡に、寬文のころ、「片輪車」といふもの、深更に車の碾(きしる)音して行(ゆく)あり。いづれより、いづれへ行〔ゆく〕を、しらず。適(たまたま)にこれに逢ふ人は、則〔すなはち〕、絶入(ぜつじゆ)して、前後を覺えず。故に、夜更(よふけ)ては、往來(ゆきゝ)、人、なし。市町も門戸(もんこ)を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(ちやうろう)などすれば、外(そと)より、これを詈(のゝし)り、

「かさねて左〔さ〕あらば、祟(たゝり)あるべし。」

などいふに、怖恐(おぢおそれ)て、一向に聲も立(たて)ずしてけり。

或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戸のふしどより、覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ。」

と云〔いふ〕におどろき、閨(ねや)に入〔いり〕て見れば、二歳ばかりの子、いづかたへ行〔ゆき〕たるか、見えず。歎悲(なげきかな)しめども、爲方(せんかた)なし。明の夜、一首を書〔かき〕て、戸に張りて置(おき)けり。

 罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ

その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、

「やさしの者かな。さらば、子を皈(かへ)すなり。我(われ)、人に見えては、所にありがたし。」

といひけるが、其後、來らずとなり。

 

里人談二終

[やぶちゃん注:特異的に改行を加えた。知られた妖怪「片輪車」譚である。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館「不思議な車」』で本条を電子化しており、そこには類話の中国版(但し、私はこれらが「片輪車」の原型だとは考えていない)や、本邦の類話(これは全通底)を纏めていて手っ取り早く流れを摑めるという点ではよい。無論、それぞれに原典を私が注で翻刻してある。また、そこに出る「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」カテゴリ「諸國百物語」(完遂)で独立して電子化注しているので、必ず比較参照されたい。何故なら、この「諸國百物語」(著者不詳)の「片輪車」が板行された現存する本妖怪の「片輪車」と確かに名指された最古形で(本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で六十六年も前である)あり、本「諸國里人談」や、宵曲が先の「不思議な車」で紹介し、私が原典を示した、それと酷似した構成(ロケーションが「信州某村」となっている以外はそっくり写されていると言ってよい)の津村淙庵(そうあん)の「譚海」(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞録)「片輪車」が、《子どもが無事に返される大団円和歌霊験譚》であるのに対し、原型である「諸國百物語」「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也」をコーダとする真正の《子どもが同時に問答無用で引き裂かれる猟奇凄惨怪奇譚》だからである。私? 和歌嫌いの私は無論、「諸國百物語」版「片輪車」に軍配を上げる

「近江國甲賀(こうか)郡」①は「こうか」、③は「こうが」。正しい①で採った(但し、①はルビでは濁点を打たない傾向は強い)。現在の滋賀県甲賀(こうか)市((グーグル・マップ・データ))と湖南市((グーグル・マップ・データ))の全域及び蒲生郡日野町下駒月(しもこまづき:(グーグル・マップ・データ))が旧郡域。因みに、「甲賀」を「こうが」と読むのは正確には《昔も今も誤り》で、清音「こうか」と読まねばならない。「こうが」とも読むのではなく、「こうが」は、本来、あくまで誤読であることを知っている人は実は少ないと思う。しかし、ウィキの「甲賀市によれば、『市内の公共施設における「甲賀」はほぼ「こうか」と発音する』とあるのである。「伊賀」は「いが」でよく、時代劇の「伊賀者」は「いがもの」でよいが、対する「甲賀者」は「こうかもの」でなくては正しくないのである。と、偉そうに言っている私も、つい先日まで「こうが」と読んでいた。この驚愕の事実は、朗読ボランティアをしている妻から知らされたものであった。

「寬文」一六六一年~一六七三年。第四代徳川家綱の治世。因みに、最古形を載せる「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊であるが、その話は「京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが」で始まる。則ち、原型は最低でも江戸初期、安土桃山時代頃までは溯る話柄として設定されていると読むべきであろう。

「碾(きしる)音」「軋る音」。

「絶入(ぜつじゆ)」失神。

「嘲哢(ちやうろう)」対象を馬鹿にして軽口をたたいて嘲(あざけ)ること。ここは「片輪車」の存在を信じて忌み籠っている者を馬鹿にし、そんな妖怪なんぞいるはずがないと豪語することを指す。

「外(そと)より、これを詈(のゝし)り」無論、以下、これは、その妖怪「片輪車」が、その嘲弄した者に言いかけた脅し文句である。

「かさねて左〔さ〕あらば」再び、そんなことを口にしたら。

「祟(たゝり)あるべし」必ずや、祟りのあると思え!

「戸のふしど」これは「戸の」とある以上、「節所」で節穴のことであろう。

「覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ」「我を」の「を」は③。①には「を」は、ない。

「二歳」数え。

「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ」畏れ多き御車(おくるま)を覗いた罪咎(つみとが)は私にこそあるけれども、御車がどこへ行ったやら判らぬのと同じに、ああっ! 私の可愛い幼(おさな)子も、どこか判らぬ知らぬところへと、隠されてしまった!]

2018/06/17

諸國里人談卷之二 木葉天狗

 

     ○木葉天狗(このはてんぐ)

駿遠(すんゑん)の境(さかひ)、大井川に天狗を見る事、あり。闇なる夜、深更におよんで、潛(ひそか)に封疆塘(どてつゝみ)の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに、翅(つばさ)の徑り、六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面(かはづら)にあまた飛來り、上りくだりして、魚をとるのけしきなり。人音(ひとおと)すれば、忽(たちまち)に去れり。是は俗に云〔いふ〕術(じゆつ)なき「木の葉天狗」などいふ類ひならん。

[やぶちゃん注:「封疆塘(どてつゝみ)」三字へのルビ。「疆」は「境」の意で、通常、「封疆」(ほうきやう(ほうきょう))は「国境(くにざかい)」を指す。ここはその意味でも(駿河国と遠江国の国境)一致している。「塘」は「堤」に同じ。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。因みに鳶(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の翼開長は一メートル五十センチから一メートル六十センチ程である。

「術(じゆつ)なき」はかばかしい神通力を持っていないこと。但し、ウィキの「木葉天狗を見ると、『江戸時代の随筆や怪談など各種文献に多く名が見られる天狗の一種。境鳥(さかいどり)とも呼ばれる』として、本書の本条を引いた上で、『人に似た顔と手足を持ち、くちばし、翼、尾羽を備えているとの説もある』。松浦静山の随筆「甲子夜話」巻七十三の六項には、『静山の下僕・源左衛門が』七『歳の頃に天狗にさらわれたとされる天狗界での体験談が述べられており、その中に木の葉天狗の名がある。それによれば、天狗界では木の葉天狗は白狼(はくろう)とも呼ばれており、老いた狼が天狗になったものとされ、山で作った薪を売ったり』、『登山者の荷物を背負ったりして、他の天狗たちが物を買うための資金を稼いでおり、天狗の中でもその地位はかなり低いという』。『また』、『山口県岩国の怪談を収集した書物』「岩邑怪談録」には『木の葉天狗が人間をからかった話がある。宇都宮郡右ェ門という猟師の前に木の葉天狗が小僧に化けて現れ』、『「銃を撃ってみろ」とからかい、郡右ェ門が小僧を木の葉天狗と見抜いて銃を撃つと、木の葉天狗は少しも驚くことなく「弾はここだ」と言って弾を返して姿を消したとある(当時の銃は火薬と弾を別に仕込むので』、『弾を抜いて空砲にする事が出来た)。このことから、地位の低い天狗といっても』、『変化能力などの神通力がある程度は備わっていたと解釈する説がある』。『一方では、河鍋暁斎による錦絵』「東海道名所之内 秋葉山」には、『樹上で寛ぐ木の葉天狗たちの姿が描かれていることから、術を持たない人畜無害な存在とする説もある』とある。]

諸國里人談卷之二 天狗遊石

 

    ○天狗遊石(てんぐのあそびいし)

伊賀國岡山に、むかしより、「天狗の遊び石」といひつたへたる石あり。方八尺ばかりにして、上、眞平(まつたひら)に切立〔きりたて〕たるごとくなるが、山の崕岸(がけぎし)にありて突落(つき〔おと〕)さば、おつべかりける場所也。寶永のころ、大守、庿所(びやうしよ)の禮拜石(れいはいせき)に宜(よろし)きとして、𢌞〔めぐ〕りの土を穿(うがち)て、谷へつきおとしければ、何の事なく、落たり。大勢の人夫をして、日每に、これを引〔ひき〕て、上野(うへのゝ)城下の坂口まで一里ばかりの所へ引付〔ひきつけ〕たり。其日、俄(にわか)に大白雨(〔おほ〕ゆふだち)して、雷(いかづち)、地を覆(くつがへ)す。よつて、人夫を引く。夜に入〔いり〕て、益(ますます)、やまず。やうやう、明方に靜(しづま)りける。然(しかる)に件(くだん)の石、夜中(やちう)に、元の山上へ、引戾(〔ひき〕もど)して、あり。依(よつ)て、其事を止(とゞ)む。

[やぶちゃん注:「天狗の遊び石」同名の菓子を現地の伊賀菓庵山本が販売しており、そこには『伊賀民話銘菓』と銘打っているので、伝承は残っている。「伊賀國岡山」三重県伊賀市寺田の附近(グーグル・マップ・データ)。「岡山口」というバス停や「岡山遊園地」があった。更に調べた結果、やはりここでよかった。個人サイト「View halloo!!ページを見られたい。石がこの園地内にあることもここで判った。最初の案内板の写真の右のピークの中腹やや上に「天狗の遊び石」とある。更に解説(案内板の翻刻か)を引かせてもらうと、『その昔、伊賀国の殿様が亡くなった時』(本条は亡くなる前でやや異なる)、『重臣たちは立派なお墓をつくろうと、四方八方を尽して石探しをした。その時、この岡山の石が選ばれたが、多くの人夫を使って運搬の途中、にわかに雷鳴をとどかす大雨が降った。その日はやむなく作業を中止し、翌朝雨がやんだので現地に行ってみると、何と運んできた筈の石が姿を消していた。石はいつの間にか元の岡山へ戻っていたので、これはきっと、普段この石を遊び道具に使っていた天狗が、大雨を降らせて取り返したのだと、里人がうわさをしたそうな』とある。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。

「大守」伊賀は津藩(つはん)の領有地で、宝永年間の藩主は第四代藤堂高睦(たかちか)と養子の第五代藤堂高敏の孰れかである。

「庿所(びやうしよ)」廟所。

「禮拜石(れいはいせき)」墳墓の手前に敷く石であろう。吉川弘文館随筆大成版はここを『礼許石』と翻刻するが、採らない。

「上野(うへのゝ)城下の坂口」上野城は、現地の西方、現在の三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった伊賀上野城。(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之二 窟女

 

     ○窟女(いはやのをんな)

勢州壱志郡川俣川、劔(つるぎ)が淵に、方一丈余の岩窟あり。寬文のころ、此窟の中に人、あり。川向(〔かは〕むかひ)の家城村より、これを見て、あやしみ、里人、筏(いかだ)を組(くみ)て、その所に至る。三十(みそじ)ばかりの女、髮をみだし、そらざまにして、髮のさきを、上の岩に漆膠(しつこう)を以〔もつて〕付〔つけ〕たるごとくに釣(つる)して、くるしげもなき躰(てい)にて、中(ちう)にあり。里人、抱きおろさんとするに、髮、はなれず。中(ちう)より髮を切(きつ)ておろし、里につれ行〔ゆき〕、水、そゝぎ、藥などあたへければ、正氣となりぬ。しだいを問ふに、前後をしらず。美濃國龍が鼻村の長(おさ)の妻なるよしを云〔いふ〕。此所は津(つ)の領分なれば、政所(やくしよ)に訴ふ。國主より濃州へ通じられける。迎(むかい)の者、大勢、來り、ぐして歸りぬ。

[やぶちゃん注:「勢州壱志郡川俣川」「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである。この川、ストリートビューで見ると、確かに岩盤河床が広がっている。

「一丈余」三メートル超。

「寬文」一六六一年から一六七三年まで。

「そらざまにして」上を向いているのであるが、これは何と、窟の上の方の岩に、髪の毛の先を漆(うるし)か膠(にかわ)で以って付着させたかようにして、そこから髪の毛だけで身体を吊るして、しかも一向に苦しそうな様子もせず、そのままぶら下がって、空中にいる、のである。なお、吉川弘文館随筆大成版は「漆膠」を『漆膝』と翻刻する。――ジーパンの末期風に――「何んじゃあ? こりゃあ!」

「中(ちう)より」髪の途中部分から。

「美濃國龍が鼻村」不詳。識者の御教授を乞う。]

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