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2019/08/24

諸国因果物語 巻之六 正直の人をそねみてむくひし事 / 諸国因果物語~電子化注完遂

 

    正直の人をそねみてむくひし事

Tenngu



[やぶちゃん注:本篇は底本の十九丁の裏(挿絵のみ)と二十丁の表(本文)が脱落しているため、そこは「ゆまに書房」版を参考にした。]

 丹後宮津の町に善藏といふ男、極めて正直・むよくのもの也。

[やぶちゃん注:「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の、宮津市街(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 人の事といへば、足手(あして)を空(そら)にして取もち、何とぞ首尾させたく、世話をやきて、やまず、吉事にも、あしき事にも、賴(たのま)れたる事を麁末(そまつ)にせず、夜を日についで、心にかけ、請(せい)にいれて、肝煎けるまゝに、てうほうの事におもひて、人もまた、おろそかにもせずありけれども、生れ付(つき)て貧なる事、我(われ)口ひとつさへ、心やすくはあらざりけるを、誰(たれ)々も笑止なることにおもひける。

 ある時、宮津の町にて、何がしといはるゝ冨貴(ふうき)の人、立願(りうぐはん)の事ありて成相(なりあひ)に七日こもりけるに、

[やぶちゃん注:「成相」天橋立を望む京都府宮津市成相寺にある、古来からの山岳信仰の修験場であった真言宗成相山(なりあいざん)成相寺(なりあいじ)。慶雲元(七〇四)年に文武天皇の勅願寺として真応が創建したとされる古刹。本尊は聖観世音菩薩。公式サイトはこちら。]

「伽(とぎ)のため、其方も、來りて、通夜(つや)したまふまじや。此つゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、何とぞ、[やぶちゃん注:以下、「ゆまに書房」版を参考に今までの仕儀で手を加えた。]其方も、身にとりて仕合(しあはせ)するや、この願(ぐはん)をもたて給へかし。」

と、すゝめられ、善藏も大に悅び、

「我も、さこそ常々に願ひつる事なり。さらば、御供申べし。」

とて、打(うち)つれ、成相にこもりつゝ、一心に何やらん、ふしおがみ、ふしおがみ、たゞ一度(ど)、祈る体(てい)なりしが、そのゝちは、又、拜むさまも、そこそこに見えて、此人の世說(せわ)[やぶちゃん注:ママ。]をやきつゝ、夜をあかしけるに、七日に滿けれども、すゝめつる人は、何の御示現(じげん)もなければ、

『又、七日、こもらん。』

と思ひて、善藏をさそはせけるに、

「最早、此方は御利生(りしやう)ありて、名譽(めいよ)なる、まじなひの法を覚えたり。『是(これ)にて汝が一代は安樂にくらすべし』との瑞夢ありて、しかも、ちいさき劔(つるぎ)一ふりを得たれば、また、外にねがふ事、なし。いまよりしては、隙(ひま)もなく候へば、餘(よ)の人をめしつれ給へ。」

と、返事しけるを、

『何が、示現あるべき。近ごろ、卒尓(そつじ)なる事にこそ。』

[やぶちゃん注:「卒尓」「卒爾」「率爾」に同じ。ここは「無礼なこと」で、掌を返したようにけんもほろろに断ったことを、そう感じて不満を言ったもの。]

と、おもへど、つねに、たはぶれ事、いはぬ人なれば、

『もしや。さもある事もこそあれ。』

と思ひ[やぶちゃん注:ここから本来の「霞亭文庫」に戻る。]ゐたるに、いつとなく、世間にひろく沙汰ありて、

「善藏こそ、ふしぎなるまじなひを覚えたれ。我も此まじなひにて、つぶれたる目を、二たび、あきたれ。」

と悅び、彼(かれ)も、

「此ほど、呪(まじなひ)を賴(たのみ)て、十死一生のやまひを、本腹(ほんぷく)したり。」

と、もてはやしける程に、三、四ケ月の内に、はや、よほど人の餘勢(よせい)ありて、時行(はやる)事、おびたゞしかりければ、一年の程に、大ぶんの德(とく)付(つき)て、下人ども、多くめしつかひ、家居(いゑゐ[やぶちゃん注:ママ。])なども、おびたゞしく、冨貴しけるを、おなじ邊(ほとり)に住(すみ)ける忠左衞門といふ男、うらやみ思ひけるまゝ、何となく此善藏に取いり、懇望して、

「我も、此まじなひの弟子になりつゝ、冨貴せん。」

と願ひしを、依怙(ゑこ[やぶちゃん注:ママ。])なき心から、いとやすく請(うけ)あひて、悉(ことごとく)おしへけるに、忠左衞門、悅びいさみて、ひた[やぶちゃん注:「行ふ」にかかり、「いちずに・ひたすら」の意。]、此まじなひを善藏と立ならびて行ふに、一さい、其しるしなければ、度々、行(ゆき)て、

「もしや。大事(だいじ)を穩して、傳へられざるにや。」

と、うらみかこちて習へども、善藏は、

「此外に、さらさら、奧意(おくい)をのこす事、なし。」

と、大誓文(だいせいもん)を立て[やぶちゃん注:「たてて」。]いへども、有無に[やぶちゃん注:全く。すっかり。]此まじなひのしるしなきをいきどをりて[やぶちゃん注:ママ。]、ひそかに善藏が寢間にしのび入り、彼(かの)、觀音より夢想に得たりし劔(けん)をぬすみ出し、是にて、人をまじなひしに、却(かへつ)て、まじなふ程のもの、本腹せず、あまつさへ、輕(かろ)き病(やまひ)は重く、腫物(しゆもつ)は腐(くさり)ひろがりける程に、いよいよ、まじなひをたのむものなければ、

「今は、善藏こそ敵(かたき)なれ。此とし比(ごろ)、懇望して、此事、習(ならは)んために、下人同前につかはれつる恩のほども思はず、『そらせいもん』を立て、我に此いつはりをおしへしは、堪忍ならず。」

[やぶちゃん注:「そらせいもん」「空誓文」ここは中身のない無効化の似非の呪(まじな)いを指す。]

と、夜ふけ、人しづまりてより、ひそかに刄(は)物をふところにさし、善藏が方(かた)へと行けるに、おもひもよらず、後(うしろ)より聲をかけて、いふやう、

「……心ばせ――直(すなほ)なら――蓄藏なればこそ――かゝる大事を傳へたるに……おのが心ばせ――よこしまにて――まことなき心から――きかぬまじなひをかへり見ずして……善藏を殺さんとや……あれ――引さいて捨よ。」

と、いふか、とおもへば、我ながら、風にふかるゝ木(こ)の葉のごとく、

『ふはふは、中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])にあがるよ。』

と、おぼへしが、やゝしばしありて、心づきけるまゝに、目(め)をひらきて、見まはすに、たしかに、丹波の國なる御嶽山(みたけさん)のほとりと覚えて、數(す)十丈ばかりもあらんとおもふ杉の木ずゑに、帶のすこし引かゝりたるにつながれて、谷のかたへ、さかさまにぞ、かゝりける。

[やぶちゃん注:「丹波の國なる御嶽山」兵庫県丹波篠山市にある標高七百九十三メートルの「御嶽(みたけ)」。ウィキの「御嶽(兵庫県)」によれば、『丹波篠山市の最高峰、多紀連山の主峰で』、「三嶽」『とも表記する』。『御嶽は小金ヶ嶽』(七百二十六メートル)・西ヶ嶽(七百二十七メートル)の『三山からなる』。『石室のある東峰、三角点のある西峰からなる』。『多紀連山は鎌倉時代から室町時代にかけては、丹波修験道場の中心地として栄え、御嶽はその中心であった。現在でも御嶽山頂から』六百メートル『離れたところに』、『当時の修験道の拠点であった大岳寺の跡や、東の峰には役行者を祀った石室が残されている。最盛期には大岳寺のほか、数ヶ所に堂が建ち、東の小金ヶ嶽の頂上には蔵王堂、その南側直下には福泉寺ほか数々の寺院群や里坊なども存在した』が、『丹波修験道は室町時代の文明一四(一四八二)年に、『大峰山に代表される大和修験道との争いに敗れ』、『主峰御嶽の南側直下の大岳寺など』が『焼き払われ』てしまった。]

 今は、中々、おもひし事もかなしく、人を恨(うらむ)氣もうせて、

『最後の時も、いまぞ。』

と、大ごゑを上げて、一心に念仏を申つゝ、たゞ、死のいたるを待(まつ)に、はるかむかふ[やぶちゃん注:ママ。]の山より、聲ありて、

「……その者……やつてのけよ――やつてのけよ……」

[やぶちゃん注:「やつてのけよ」は今の「遣って退けよ」であるが、ここは念仏が如何にも厭で五月蠅いから、「そ奴をそこからどこぞ遠くへ投げやって除(の)けろ!」と言っているのである。]

と、いひしを、我(わが)かりたる杉の下(もと)に音(こゑ)して、

「――よし――今は惡念も有(ある)まじ――念仏を申がやかましきに――歸してとらすべし――」

と、いふやいなや、此杉をとらへて、ゆする事、おびたゞし。

『さてこそ、今の内に、いかなる谷、いかなる岩角(いはかど)にあたりてか、みぢんになるべき。』

と、かなしくて、いよいよ、高聲(かうしやう)に念仏したりしに、あやまたず、

「ぶい。」[やぶちゃん注:底本のママの「ふい」でもよい。]

と、はなれて、はるかなる谷に落(おつ)る、と、おもへば、都の北山に聞へたる「僧正が谷」に立(たち)すくみて居たりしを、貴舩(きふね)の山人(やまびと)ども、見つけて、やうやうと、看病し、正氣になりてより、二たび、國に歸る事を得たりとぞ。

[やぶちゃん注:挿絵(右下に羽団扇を持った烏天狗、左上に天狗)で判る通り、善蔵に呪文を伝えたのは、魔道をテリトリーとする天狗であったのであり、さればこそ念仏を嫌うのである。]

 

諸國因果物語卷之六終

[やぶちゃん注:「僧正が谷」京都市左京区の北西部、鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷。僧正ガ谷不動堂(京都府京都市左京区鞍馬本町)があり、牛若丸が武芸を修業したと伝えられる場所として知られる。珍しく京嫌いの私も歩いたことがある。

 以下、跋。跋後の鷺水の署名は底本では下二字上げインデント。]

 

 近代諸國因果物語六卷は、さきだちて梓(あづさ)に入し[やぶちゃん注:「いれし」。]百物語の撰次後編(せんじこうへん)なり。猶、此續(つゞき)ありて、都合十八卷を全部とし、世と共に、是をもてあそび、語り傳へ、聞(きゝ)およぼし、兒女・童蒙の目(め)をよろこばしめ、且は覆轍(ふくてつ)の戒(いましめ)となすの助(たすけ)ともなれとおもふ心ざし、あなりといへども、筆、いとまなく、日月(ひつき)、しばらくも住(とゞま)る事なきに、いちはやく年も暮れ、後集(こうしう[やぶちゃん注:ママ。])、いまだ、功おはらざる所あるが故に、今、猶、桜がもとに、花を催して、ひそめり。今、我、梅園(うめぞの)の梅の榮へを羨(うらやみ)がほに、眉(まゆ)ごもる柳の糸永(なが)き春のうちには、此後編もかならず、といひて、やみぬ。

               白梅園鷺水

[やぶちゃん注:「近代諸國因果物語」「近代」はママ。

「百物語」既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している同じ青木鷺水の怪談集「御伽百物語」(六巻)のこと。本作の前年の宝永三(一七〇六)年にやはり江戸で開版したもの。

「撰次」は「選んで順序立てること」。

「覆轍」「ひっくり返った車の轍(わだち)」の意で、前の車が転倒した跡。転じて、「前人の失敗・失敗の前例」の意。

「花を催して」花を咲かせて。

「眉(まゆ)ごもる柳の糸」柳の細いえしなやかな枝葉を「柳眉」「柳の糸」と形容する。

 以下、広告と奥附。字のポイント違いや字位置は底本通りではない。現物はここ。「近代」は底本ではポイント落ちで、右から左に横書である。板元と書肆の下は右から左に「板行」とあるものを再現したもの。冒頭注で述べた通り、残念なことに、「近代 芭蕉翁諸國物語」は未刊に終わった。]

 

近代 芭蕉翁諸國物語   全部六卷

     近日出來申候

 

  寶永四年三月吉日

        江戸日本橋南一町目

           出雲寺四良兵衞 板

   書肆   京寺町松原下

           菱屋  治兵衞 行

2019/08/23

諸国因果物語 巻之六 犬密夫を殺す事

 

     犬(いぬ)密夫(まおとこ)を殺す事

 讚州高松の舩頭(せんどう)勘太夫(かんだゆう[やぶちゃん注:ママ。])といふ者、犬を、殊の外、寵愛して、寢起(ねをき[やぶちゃん注:ママ。])にも撫(なで)さすり、舩出(ふなで)になれば、共に舩(ふね)にのせて、大坂に來り行(ゆく)にも、歸るにも、

「ひた。」

と、犬をともなひて、はなさず。

 名を「素助」とぞいひける。

[やぶちゃん注:「素助」後の本文で「しろすけ」と読みを振る。]

 其内にめしつかひける太七といふ下人、勘太夫が女房と密通して、留守のあいだには、ひとへに、亭主のごとく、物事をさばきける事、二年ばかりにもなりぬ。

 過(すぎ)し元祿の午(むま)[やぶちゃん注:元禄三年庚午(かのえうま)。一六九〇年。]の春は、此事あらはるべき端(はし)にや、女房をはらませけるに、さまざまと藥をのませ、針をさせなどして、此子を水になさんと、もがきけれども、宿業のつもりにや、一切、おりる事、なし。

 とかくするほどに、勘太夫も、道中つゝがなく舩出して、

「四、五日が内には高松に歸る。」

と、さきだちて便宜(びんぎ)[やぶちゃん注:書信。]せしに、いよいよの氣づかひ多く、とりどりなるしあん、さだめがたく、太七と女房と、打よりては、

「先、此事をいかゞせまし。」

とぞいひける。

 されども、替りたる分別も出ず、日は、せんぐりに[やぶちゃん注:ますます。]近よるにつきて、所詮、いたわしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひながらも、

「いづれの道とても、命ありては、後のなん、のがれがたし。そのほうも假そめながら、今までのなじみなれば、無下に憎しとも思ひ給ふまじとおもへども、勘太夫といふ者を安穩(あんおん)に置(おき)ては日來(ひごろ)のちなみ、此たびにあらはれ、我のみにあらず、其方まで、いかなるうきめにか逢(あひ)給らんもしらず。我ふたり、さしちがへたりとも、此惡名、おのづから隱(かく)れはあらじとおもふ也。何とぞ、勘太夫を殺し、おもふまゝに夫婦となるべき思案には付給ふまじや。」

と、いひけるに、女房も心よげに打わらひ、

「それまでも、我をうたがひ、遠慮したまふこそ、うたてけれ。我にふたごゝろなき證據には、今にも、勘太夫、下りつきたまはゞ、手にかけて殺しこそすべけれ。はやく、その手だてを分別したまへ。」

といふ。

 太七も安堵して、

「しからば、勘太夫下りつきたまはゞ、いついつよりも、心よくもてなし、むつまじうあいしらひて、食(めし)をもすゝめ給へ。いつも酒を多く吞(のむ)なれば、おもふさま醉(ゑひ)のませて、心をやすめ給はゞ、例のごとく、膳にすはりたるまゝ、醉の來(く)るにしたがひて、ふらふらと眠るべし。其ひまを窺ひ、我、物かげより、半弓をもつて只中(たゞなか)を射ぬきて殺べし。かまへて、色(いろ)をさとられ給ふな。」

と、くれぐれ、いひかためて、勘太夫を待けるに、かくともしらず、勘太夫は何ごゝろなく舩に乘(のり)つゝ、高松ちかくまで漕(こぎ)わたりけるに、ある夜の夢ごゝろ、

「舟玉(ふなだま)。」

と名乘(なのり)て、枕がみに立(たち)より、勘太夫が顏を、

「つくづく。」

と、ながめ、

「……汝――つるぎの中にあり――身を動かす事――なかれ――舟は一寸を損じて――潮(うしほ)なれども――たのしみは――爰(ここ)にあるぞ……」

[やぶちゃん注:特異的にリーダとダッシュを用いた。]

と、

『くりかへし、くりかへし、のたまふよ。』

と思ふに、「素助(しろすけ)」、しきりに吼(ほえ)たちて、いがみけるに、目、さめぬ。

 あまり、心にかゝりしかば、舩をあがるより、先(まづ)、山ぶしのかたに行(ゆき)て、彼(かの)夢の事を判じさせけるに、山ふしの云(いふ)やう、

「是は。もつての外、身の大事にて、命の終る事、こよひを過(すぐ)さず。」

と、占ひしを、勘太夫、また詞(ことば)をかへして、

「其難は、家にあるか、外にあるか。」

と、いふ時、

「なるほど。内にあり。陰陽のめぐりの違(たが)ひたるゆへに、冬の氣すゝみて、次に秋を得たるやうの卦(け)なり。」

と、かたりぬ。

「さては。我(わが)留守(るす)の内(うち)に、あやしき者、出來(いでき)て、家をほろぼし、我を殺さんとする也。」

と、心に思案をきはめ、何となく歸りけるに、素助(しろすけ)、

「ひた。」

と、勘太夫が裾をくはへて、引とゞめ、内へいれず。

 心には、

『さてこそ。』

と、おもひながら、再三、もぎはなして入けるに、女房、いついつより、機嫌よく、心むかひ、しみじみとなつかしげに、足の湯、とり、飯(めし)なども、とりいそぎてすゑけれども、勘太夫は、

「何とやらん、けふは取わき、心あしく、時々、目まひなどもする。」

よし、僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])て、喰(くは)ず、酒も、

「氣のとりのぼりたるには惡敷(あしき)。」

とて、吞(のま)ず、旅のまゝにて、臺所に手(て)まくら、狸ねいりして、窺ひ居たるに、犬、また、庭につい居て、動かず。

 くひ物をくわすれども[やぶちゃん注:ママ。]、見むきもせず、たゞ太七を見とゞめて、目をはなさず。

 太七は、

『勘太夫、寢いりたり。』

と、おもひて、身づくろひ仕(し)て、半弓を取出(とりいだ)し、打(うち)つかふ時、勘太夫、目を

「くわつ。」

と、見ひらき、

「素助(しろすけ)。」

と、呼(よび)かけければ、此聲を聞(きく)とひとしく、飛かゝりて、太七が陰囊(きん)にくらひ付けるほどに、

「あつ。」

と、いひて仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ所を、やがて、咽(のど)ふゑに喰(くひ)かゝり、なんなく、太七を仕(し)とめたり。

 女房、今は、あらはれたると思ひ、井戶へ飛こまんとしたる所を、勘太夫、うしろより抱とめ、色々とせんぎしけるにぞ、不義の密通、あらはれて、終に殺さるべかりしを、近所の衆、あつかひしかば、なくなく、尼になして、追(おひ)はらひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「しろすけ! ようやったぞ!」――]

諸国因果物語 巻之六 貪欲のもの人魚にむまるゝ事

 

     貪欲(とんよく)のもの人魚(にんぎよ)にむまるゝ事

Ningyo



 出羽の國百合の里、ぬけ戶口に、橫山文左衞門といふものあり。

[やぶちゃん注:秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)東由利舘合(ひがしゆりたてあい)板戸口(いたとぐち)・東由利舘合岩井戸口(いいわとぐち)の地名があり、東由利舘合はここ(グーグル・マップ・データ)。但し、後に出る「關濱」は同市内には現在見当たらない。]

 宝永二年の比、周波和尙とかやいふ僧、比國に來り給ふ事ありけるに、此文左衞門、諸事を世話にし、その邊(へん)近鄕のものへ勸(すゝめ)、

「おのおの血脈(けちみやく)をうけ給へ。」

と、いひわたりけるまゝ、文左衞門をたのみて、我も我もと、心ざしをはこび、布施を持參し、血脈をうくる事にぞありける。

[やぶちゃん注:「宝永二年」一七〇五年。

「周波和尙」不詳。

「血脈」この場合は、在家(ざいけ)の受戒者に仏法相承の証拠として与える法嗣の系譜図。]

 あるひは、鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありけるを、ことごとく聊留(かくりう)し、周波和尙へは、わづかに鳥目(てうもく)百文づゝに積りて渡しけるば、欲の程、終にかくれなく、かたはし、ひそひそと取沙汰あしくなりて、

「此文左衞門は欲こそ多けれ、佛法のすゝめを請(うけ)んため、僧にたてまつりし物をおさへて、我ものにしける科(とが)輕からねば、此世こそ榮花はするとも、定(さだめ)て後生(ごしやう)にはぢごくのたねにこそあらめ。」

などゝ、女・わらべまで、陰口に爪(つめ)はぢきして、そしり、おもひけるを、聞(きゝ)つゝも、

「何ほどのことかあるべき。見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もせぬ後生より、さしあたりての此世こそ案ずべけれ。日本の内、あらゆる神のやしろ、佛の寺につきそひ、此かげにて身を過るもの、いづれか欲をせぬもの有べき、たとへ、日本(につぽん)のためとて、大分(だいぶん)の金をうけとるとも、纔(わづか)、日に一盃の飯(めし)をたてまつりて、その外は身をやしなひ、命をつなぐたよりにする也。我も、まんざら、橫取したらばこそ初尾(はつお)は、みなみな、和尙にやりたれば、神佛をうりて過る者とおなじ事。我は出家の德を賣(うり)て隙(ひま)入たる手間賃(てまちん)を取たるなり。何時(なんどき)にても、かゝる人あらば、我、また、一まふけのたねにすべしとおもふ也。」

などゝ、口ひろく、いひのゝしり、何の氣もなき顏つき、いよいよ、村中にも疎(うと)み、にくみたりしに、その年の秋より、文左衞門、ふらふらと煩ひ付て、臥(ふし)たり。

[やぶちゃん注:「聊留(かくりう)」漢字表記はママ。「ゆまに書房」版は『柳留』と判読しているが、意味が解らぬので採らない。但し、「聊留」でも「かくりう」とは読めないし(読もうなら「れうりう」)、それらしい漢字を私は当てただけではある。より適切な判読(読み・意味も含めて)が出来るとならば、お教え願いたい。ここである(左頁二行目)。

「鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありける」「疋」は鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、百疋をもって一貫とした。本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であった。同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータが別にあるから、百五十両は最大一千百二十五万円相当となる。対して文左衛門が周波和尚に小出しに渡していた、「百文」は僅か千二百五十円から千六百七十五円相当となる。

「爪(つめ)はぢき」指弾。非難すること。

「初尾(はつお)」初穂(その年に最初に収穫した穀物などの農作物を神仏に差し出すこと。また、その代わりとする金銭)に同じ。]

 醫者をよびて見するに、何のわづらひともしれず。

 六脈は常にかはらずして、たゞおびたゞしき熱ありて、食物(くひもの)は、すこしも咽(のど)にいらず、たゞ、水をこのみけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、天目(てんもく)に汲てもち行(ゆく)に、井の水は吞(のま)ず、池の水のにごりたるに、鹽をさゝせては吞(のむ)事、日に、四、五斗ばかりなり。

[やぶちゃん注:「六脈」(ろくみゃく)は漢方で脈拍の六種の状態を指す。「浮」・「沈」・「数(さく)」・「遅」・「滑」・「渋」の総称。鍼灸ブログ「一鍼堂」の「東洋医学メモ【脈診】祖脈」に詳しいので参照されたい(調べて見たが、「渋脈」はリンク先の「濇脈(しょうみゃく)」と同じである)。]

「いかゞしたる事ぞ。」

と、妻子もかたはらをはなれず、祈禱をたのみ、佛事をなし、さまざまのことをすれども、終に本復(ほんぷく)なくて、霜月のすゑにいたりて、いよいよ煩ひおもくなり、あがき死(じに)にしけるを[やぶちゃん注:孰れかの「に」は或いは衍字かも知れない。]、隣鄕(りんがう)のものども、聞(きゝ)て、

「さこそあるべけれ。」

「佛罰(ぶつばち)なり。」

「なを、あきたらず。」

などゝつぶやきけるに、明(あく)る年の二日[やぶちゃん注:宝永三年一月二日。グレゴリオ暦一七〇六年二月十四日。]に、關濱(せきはま)といふ所の海より、あやしき魚を網にかけて引あげたり。

[やぶちゃん注:「なを、あきたらず。」「かく死んでも、まだ、その罰は充分とは言えねえな。」であろう。さればこそ、以下なのである。]

 則(すなはち)、本庄(ほんじやう)の御領分(れうぶん)也ければ、御吟味をうけゝるに、長さ六尺、橫二尺ある魚にて、頭ばかりは男の首、肩さきより肱(かいな)まで、なるほど、人にかはらず、背筋より腹尾さき迄、鱗(うろこ)ありて、鯉(こひ)のごとし。

[やぶちゃん注:「肱(かいな)」肩から肘(ひじ)までの二の腕。或いは、肩から手首までの腕全体。挿絵は鱗が生えているものの左右の上肢は人間のように着いている。本文も挿絵も、首から下はしっかり巨大な魚そのものであり、モデル事実があったとしてもそれは、所謂、中・大型の海生哺乳類の誤認である可能性は全くない。]

 背の鰭(ひれ)もとに、文字(もじ)のやうに黑きうろこありけるを、博學の人に見せ、これを、

「古文字(こもじ)・梵字(ぼんじ)などか。」

と、寫させてよませけるに、慥(たしか)に

「『橫山文左衞門』といふ書付(かきつけ)なり。」

と、よまれしにこそ、人、みな、舌をふるひておどろきけるとぞ。

[やぶちゃん注:人魚伝説は私のフリークな守備範囲なのであるが、このような因果応報によって人魚となるというのは、ちょっと聴いたためしがない。しかも、証拠の書付までその身に記されてあるというトンデモ・リアリズムは前代未聞の人魚奇譚である。

「本庄(ほんじやう)の御領分」冒頭に注した通り、ここが現在の由利本荘であるとして、ウィキの「由利本荘市」によれば、同『市中心部(旧・本荘市)は、出羽国が設置された』八『世紀から、交通の要衝として栄え、子吉川河口付近には、出羽国府の出先機関である「由理柵(ゆりのさく・ゆりのき)」が置かれた』。『源頼朝による奥州合戦ののちは由利氏が本領を安堵されていたが、和田合戦を期に大井氏が地頭として入部し、大井氏の霜月騒動連座による失脚後は北条氏が地頭となり』、『小早川氏が地頭代となったと考えられている。軍記物には応仁の乱のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した』。『関ヶ原の戦いのあと、由利地域は、最上氏が治めることになり、その家臣・本城満茂が、現在の由利本荘市尾崎に本荘城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった』。慶長一八(一六一三)年頃、『本城満茂が本城城を築き』、十『年間居城した後、元和』八(一六二二)年、『最上氏』は『改易によって退去した』。『その後』、一『年間』、『宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊され』、『その後、本荘城には常陸国から六郷氏が入部し』、二『万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田には、岩城氏が亀田城を築き』、二『万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により』、一『万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の』三『藩による統治が行われることとなった』とある。海浜であるから、そのままこれを六郷氏本荘藩藩領と考えるのが妥当であろう。事実に即すなら、第四代藩主六郷政晴の治世となる。先に示した東由利舘合からは石沢川が東流し、下って子吉川に合流し、子吉川は本荘市市街を抜けて、日本海に流れ込んでいるから、この「關濱」というのも、この子吉川河口の南北の砂浜海岸のどこかにあったと考えてよかろうかと思う。]

2019/08/22

諸国因果物語 巻之六 夫に不孝なる妻盲目になる事

 

     夫に不孝なる妻盲目になる事

Akujyo



 河原町(かはらまち)蛸藥子上(たこやくしあが)る町(てう)に餠屋の三郞兵衞といふ者あり。

[やぶちゃん注:現在の京都府京都市中京区河原町通蛸薬師上る奈良屋町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此父は六十ばかりにて、元來、若きより、駕籠まはしにて、鐘木町(しゆもくまち)・嶋原(しまばら)の小揚(こあげ)せしもの也。

[やぶちゃん注:「鐘木町」「鐘」はママ。京都府京都市伏見区撞木町(しゅもくちょう)。京で一番小さな花街として永く知られた。町名は道路の形がT字形で鉦叩きのそれに似ることに由来する。本作が時制として好んで設定する元禄時代には山科に隠居していた大石内蔵助が出入りしたことで知られ、そのため、第二次世界大戦後まで続いた。

「嶋原」京都府京都市下京区にあった花街。「島原」とも書く。正式名は「西新屋敷」と称し、六つの町(上之町・中之町・中堂寺町・太夫町・下之町・揚屋町)で構成されている。現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っている。この中央附近。

「小揚」客を乗せて遊里へ往復した駕籠舁きを指す。]

 妻は三条の米澤(よねざは)屋に乳母(おち)をつとめたる者なりければ、宿はいりの時より、纔(わづか)の扶持を養ひ君(ぎみ)より、とらせられける程に、常々も、女ごゝろに高ぶり、鼻にかけて、つれあひの夫をあなどり、万(よろづ)に我まゝをぞいひける。殊に此乳(ち)ぬしなりしかば、一子三郞兵衞をも、米澤屋より何かと心をそへ給ひしに任(まか)せて、纔なる元手を打こみ、唐綿(たうわた)の商(あきなひ)をさせ、宿には餠をつきて賣(うる)などして渡世としけるにつきても、親七兵衞は、年たけ、よはひもかたぶきけるまゝに、思ふまゝのはたらきも得(え)[やぶちゃん注:漢字は当て字。呼応の副詞。]せず、よはりたるを、女房、はしたなくせめつかひ、昼はからうすを踏(ふま)せ、綿をうたせ、手すきあれば、木を割(わり)、水を汲(くま)せ、餠の手つだひとて、夜の内ゟ[やぶちゃん注:「より」。]、追(おひ)おこして、米をとがさせ、臼(うす)とりさせなど、片時も、下(した)におかず。

[やぶちゃん注:「三条」ここの東西。

「米澤屋」不詳であるが、以下の叙述から相当に裕福な格式の高い商家であったようだ。

「宿はいり」嫁入り。

「養ひ君」乳母として育てた米澤屋の御曹司、後の主人。

「唐綿」木綿(アオイ目アオイ科ワタ属アジアワタGossypium arboreum)のことであろう。本邦では戦国時代に普及した(それよりずっと以前の延暦一八(七九九)年にインドから種子がもたらされたが、栽培に結びつかなかったらしい)。]

 たまたま、彼岸十夜のころ、

「寺まいりせん。」

といへば、女房、大にしかり、恥しめ、

「わぬしは、常に何をまふけて、氣まゝに寺參りしたまふや。散錢(さんせん)一文も、むす子が物なり。あてがはぬ錢を盗(ぬすみ)て參りたる後生(ごしやう)は、罪にこそなれ。」

と、さんざんにしかりすくめ、食物(くひもの)なども、滿足にはくはせずして、十四、五年も過(すぐ)しけるに、いよいよ、年かたぶき、手あしよはくなりけるまゝに、木をわり、水くむ態(わざ)も成(なり)がたく見えしまゝに、

「さらば、草鞋(ぞうり[やぶちゃん注:ママ。])を造りて口を過(すぎ)給へ。人はたゞ居て口の過(すぐ)さるゝ物にもあらず。三郞兵衞が手ひとつをまもりて、三人は過(すぐ)されず。」

と、いひせたげて、夜は、八つ、七つ[やぶちゃん注:午前二時、午前四時。]までも、草履(ざうり)・草鞋(わらんじ[やぶちゃん注:ママ。])をつゞせけるに、それも、足の湯(ゆ)の下(した)を、燒茶(やきちや)を煮(にる)火(ひ)の影にて、つゞらせるのみか、冬の夜(よ)も、庭にむしろを敷(しき)、素布子(すのこ)ひとつにて置(おき)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、やゝもすれば疝氣(せんき)おこりて、二日、三日、打ふせども、藥などもくれず、

「死(しに)給へ、死給へ。」

と、せがみ、あげくに法体(ほつたい)させて、追(おひ)たて、

「毎日、『はちひらき』に出(いで)て、樂をしたまへ。」

と追やりしが、程なく、飢こゞゑて、七十五といふ冬、長兵衞は、死(しに)たり。

[やぶちゃん注:「彼岸十夜」限りなく、この三郎兵衛は今までの本書にしばしば見られた浄土宗の信徒であると思われる(私は作者青木鷺水も浄土宗と踏んでいる)。これは所謂、浄土宗で大切にする「御十夜(おじゅうや)法要」、正しくは「十夜念仏法要」を指すものと考えられるからである。浄土宗で旧暦十月六日から、十日十夜の間、念仏勤行を修する儀式のことで、後花園天皇の頃,後に室町幕府政所執事となった伊勢(平)貞国(応永五(一三九八)年~享徳三(一四五四)年)が京都の真如堂(天台宗)に参籠して三日三夜修して出家しようとしたところ、夢の告げで、「弥陀の誓願によって救われるから出家を思いとどまるように」と言われ、三日目に公命で家を相続することになったので、その後続けて七日七夜に亙って念仏勤行を修したという故事に由来するとされる。

「散錢」神供の一つで、本来は祓(はらい)や参拝の際に神前で米を散らす散米(さんまい・うちまき)が、近世に入って金銭に変わった。賽銭のこと。

「せたげて」「せたぐ」で「虐(せた)ぐ」(「しへたぐ」の音変化とする)。「攻めたてる」「きつく責める」の意。

「草履(ざうり)・草鞋(わらんじ)」草履は鼻緒があらかじめちゃんと作られてあり、そこに足の親指とひとさし指を挟んで履くもので、草鞋(歴史的仮名遣は「わらぢ」)は緒と呼ばれる紐があり、これを足首及び同前の指の間等に回して巻き絞って履くものを指す。後者と前者が大きく異なる点は、草鞋の方が遙かに足の裏に密着し滑りにくく歩き易い点で、昔は草鞋が長旅の必需品であったし、現在でも沢登りには草鞋が欠かせない。

「足の湯(ゆ)の下(した)を」意味不明。足を洗う洗い湯を置く土間のところで、の謂いか。

「疝氣」漢方で広く下腹部の痛みを総称する。胃炎・胆嚢炎・胆石・腸炎・腰痛・悪性腫瘍などを原因とするものが多い。

「はちひらき」僧が金品を乞い歩く托鉢(たくはつ)のこと。この人非人の女の救い難い酷さは、夫を出家させたのではなく、強いて「法体」(ほったい)を「させて」、「物乞いして来い!」と尻を叩いて出して、その施物をも奪い取ったに違いない点である。]

 人めを思ひてや、女房、いつにかはりて、淚をこぼし、旦那(だんな)[やぶちゃん注:旦那寺であろう。菩提寺。]の邊(へん)まで、いひありきて[やぶちゃん注:念仏を唱えるのを「いひ」(言ひ)と言っているか。]、葬礼、かたのごとく、とりおこなひける。

 三郞兵衞にも、ちかき比(ころ)、女房をよびて、内にありしが、

「產の氣(け)つきたり。」

とて、親もとより歸らず、後家と三郞兵衞と、忌中をつとめ、けふ、あすと、過しける内、はや、七日にあたるといふ、逮夜(たいや)[やぶちゃん注:初七日法要の前の晩の意。]の夜、とても、さのみ、とぶらひといふ心もちもせず、宵より、戸をしめて臥たりしに、人、みな、寢しづまりて、庭に、

「ひた。」

と、人の音して、いふやう、

「……扨も……日ごろのうらみを……何として……はらすべきぞ……先……あのかいなを……一本づゝ……もぎおとすべし……やゝもすれば……我にこぶしをあてし也……」

といふ聲、まさしく、夫の庄兵衞也。

 何とやらん、物すごくて、引かぶり臥(ふし)たりしに、間ぢかく、枕もとに、聲して、

「……おのれ……今……おもひしれ……片うでづゝ……もぎとり……眼(まなこ)をつぶし……咽(のど)をしめ……日かずを經て……我むねのはるゝまで……さいなむべし……我今のなりを……見よ……おのれゆへに……うかみもやらず……此すがたなり……」

と、たぶさを取て、引あふのけし時、たゞ一目見し、そのさま、すがたは、長兵衞が道心にて、かしらはすさまじき角(つの)はへ出、まなこは、日月とかゝやき、まことに、繪にかける、鬼、なり。

「あつ。」

と、おもひて、ふさぎたる眼、その夜より、うづき出、五、六日の間は、夜、ひるとなく、うめきけるが、終に、目は、二つながら、つぶれたり。

 扨、そのゝち、四、五日ありて左のかいな、しびれ出て、うづき、右にうつり、足にわたり、四十日ばかりありて、惣身(そうみ)なへけるうへに、膈(かく)をわづらひいだし、二年ほどありて、死(しに)たり。

 三郞兵衞も、それより、段々に、手まへあしく、ぼろぼろとなりゆきて、行かたを、しらず。

[やぶちゃん注:夫の亡霊の台詞に特異的にリーダを使用した。そうでもしないとこの悪女への恨みは伝わらないと思ったからである。この妻ほどひどい奴は、滅多にいない。今までの怪奇談の中でも頭抜けた超弩級の救い難い根っからの悪女である。一抹の憐憫さえ感じない。父を救う一言も浮かばなかった馬鹿息子も然りである。なお、挿絵師が角を描かなかったのは、私は、よかったと思う。

「膈」既出既注だが、再掲する。「膈噎(かくいつ)」。厳密には、「膈」は食物が胸の附近でつかえて吐く症状、「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病態を指すが、現在では、これで現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。ここはまさに進行したそれによって、夫にろくに食事を与えなかった報いでものも食えず、激しい痛みの中で死んで行ったのである。]

諸国因果物語 巻之六 目録・十悪の人も報をうくるに時節ある事

 

諸國因果物語卷之六

 

十悪の人も報(むくひ)を受(うく)るに時節ある事

夫に不孝なる妻盲目になりし事

貪欲(とんよく)の者人魚(ぎよ)に生れし事

犬(いぬ)密夫(まおとこ)をくらひ殺す事

正直の人を倩(そねみ)てむくひる受し事

[やぶちゃん注:「まおとこ」はママ。「倩」は「猜」の誤記。]

 

諸國因果物語卷之六

     十悪の人も報をうくるに時節ある事

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 江州下坂本(しもさかもと)に太郞兵衞といふ者あり。卅五六まで定(さだま)る妻もなく、手まへもよろしく暮しけれども、いかなる心にや召つかふ人もなく、手せんじにて、年ごろを過(すぎ)し、家なども、居宅の外に、二、三間(げん)もありしかど、

「是も世話なり。」

とて、入用(いりやう)もなきに、賣はらひ、とかくに「世の中の替(かは)りもの」と人にもいはるゝ行跡なり。

[やぶちゃん注:本篇には特異的に二枚(頁枚数では三枚)の挿絵がある。二枚目は適切と思われる個所に途中で挿入した。

「十悪」既出既注

「江州下坂本」現在の滋賀県大津市下(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「下阪本」によれば、『中世は大和荘のうちにあり、江戸時代には下坂本村となった』(ここに出る通り、「坂」)。『村高は寛永郷帳で』三千五百十七『であり』、その内、『延暦寺領が』三千四百二十七『石、西教寺領が』九十『石であった』とある。

「手せんじ」「てせんじ」で「手煎」。自炊すること。通常は貧乏で使用人を雇えない生活を言うが、ここは例外。]

 此弟は「輕都(かるいち)」とて、座頭なりしが、師の坊につれられ、おさなきより、江戸に住(すみ)て、かなたこなたと勤(つとめ)ける程に、藝などもすぐれ、心だて、又、「しほらしき者なり」とて、人々の情(なさけ)ふかく、年若き内より、四度、勾當(こうたう)に經(へ)あがり、出世も、日にそいて、まさる勢ひに、大かた、その比の座頭ども、輕都を、およそ、やすからぬ事にうらやみ、そねむものも多かりけり。

[やぶちゃん注:「勾當(こうたう)」中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の一つ。最高位の「検校(けんぎょう)」の下に降順で「別当」・「勾当」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」(以下の「衆分(しゅぶん)」と同じ)・「市名(いちな)」・「都(はん)」などがあった。

「そねむもの」は「ゆまに書房」版では『ほふもの』と判読しているが、見た感じ、「もの」の前は二字ではなく三字である(ここの最終行)。「む」と判読するは厳しいが、意味の通るように私はそう判じた。]

 かくて、元祿二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の夏は、衆分(しゆぶん)より勾當・檢校の三つを一度に經あがり、此序(ついで)に、御定(さだま)りの「凉(すゞ)み」もつとめたきねがひありて、前年より方々とかけめぐりて、旦那どもをたのみけるに、さなきだに、氣かさなりける、江戶人、

[やぶちゃん注:「凉(すゞ)み」古くからある盲人の職能集団である当道座(とうどうざ)の中では鎌倉時代以降、「平家物語」を琵琶で語る「平曲」の「座」が象徴的権威となっており(座衆内では師匠の系譜によって「一方(いちかた)」と「城方(じょうかた)」の平曲二流に分かれており、彼らは公的に諸国往来の自由を獲得し、平曲上演の縄張を拡大して、室町時代に至り、彼らの平曲が最盛期を迎えていた)、天夜尊(あまよのみこと:仁明或いは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来が形成され、その祖神に因む二月十六日の「積塔(しやくとう)」、六月十九日の「涼(すずみ)の塔」に上位の盲官らが参集して祭祀を執行した。盲官内での昇進も金が物を言い、莫大な金が動いた。江戸中期以降は、その貯蓄を以って専ら金貸しばかりしていた上位盲官もおり、幕府が取締ったりしたが、効果はなかったようである。恐らくは、この「涼(すずみ)の塔」の祭祀に参加するだけでも、ここで言う「官錢」=膨大な参加料・賄賂を総検校や関連の公家らに渡す必要があったことも頷ける。]

「われ、一。」

と、すゝみだちて、官錢(くはんせん)、つゝがなく請取(うけとる)けるまゝ、

「此たびの上京は、ひとしほ、譽(ほまれ)ある身のおさまり。」

と、うれしさ、別して、

「坂本なる兄にも知らせ、故鄕の人々にも、この出世をひけらかさばや。」

と、おもひつゝ、矢橋より、右につきて、先(まづ)、下さかもとへと尋ねよりけるに、太郞兵衞も、大かたならずよろこび、心ばかりのもてなし、酒などもくみかはして、彼(かの)座頭、先、江戶よりたくはへ來りし官錢八百兩餘(よ)の金を取いだして、太郞兵衞に預け、

[やぶちゃん注:「八百兩」同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータがある。それだと、実に六千万円に相当する大金である。]

「いまだ『凉(すゞみ)』とても日數あり、御職(おしよく)へ案内しては、物ごとにむつかしければ、しばらく爰に休息すべし。」

[やぶちゃん注:「御職」総検校や「涼(すずみ)の塔」の祭祀を担当した上級実務職のことか。「物ごとにむつかしければ」とは、そうした人物たねの挨拶と捧金の間合いや順序がなかなかに難しいものがあるというのであろうか。]

とて、二、三日も居たりける内、何とかしたりけん、喉痺(こうひ)を煩ひいだし、咽(のど)、はれふさがりて、四、五日も打臥ゐたりし程に、太郞兵衞、才覚して、

[やぶちゃん注:「喉痺」咽喉(のど)が腫れて痛む病気、或いは咽喉に発生した腫瘍。]

「何とぞ、此咽の腫(はれ)を破りたらば、藥も通るべし。又は食(しよく)などもすゝみて治(ぢ)するに心やすかるべければ、先、何とぞして破るこそよけれ。いで。我(わが)するまゝになれ。」

と、小脇差にありける赤銅(しやくどう)の割笄(わりかうがい)をはづして、輕都(かるいち)が咽(のど)をのぞき、さまざまとせゝりしが、不圖、惡心おこりけるに任せ、彼(かの)笄をもつて、咽の穴へ、かしらの見えぬ程、さしこみしかば、輕都は、聲をたてゝ、さけばんとすれども、其あとへ手ぬぐひをおしこみ、口に手をあて、やゝしばらくおさへけるに、苦しげなるうめきの音、しきりに聞へしかば、隣(となり)あたりのものども、見舞しかども、只、

[やぶちゃん注:「赤銅」銅に金三~四%、銀約一%を加えた銅合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すので、日本では古くから紫金(むらさきがね)・烏金(うきん)などと呼ばれて重用された。

「割笄」元は髪を掻き上げるのに用いる笄(こうがい)の一種。根本が一つで、中途から二つにわかれた婦人用のものと、箸や小刀のように、二本からなる刀の鞘に鍔を通して差し添えたものがある。尖端を鋭く尖らせてナイフ状に成し、投擲用の実戦用の武器(飛び道具)ともなった。ここはその後者。]

「咽の、腫(はれ)ふさがりて、此ほど、食などもすゝまず、別して、今朝(けさ)より苦病と見えて、苦しがり候。」

などゝ僞り、なみだなどこぼして語りけるに、

「誠は。太郞兵衞と兄弟のかうなり。何に付ても始在(しよざい)あるべきにあらず。」

[やぶちゃん注:「かう」不詳。「孝」を思うが、「孝」はあくまで父母に対するもので、兄弟のそれは「弟(てい)」である。

「始在」不詳。「所在」で、「(何らかの)問題・行為」の意か。]

などいひて、さのみ氣もつけざりけるを幸と、思ふまゝにしめ殺し、此金をあわせて、大分の德(とく)、付(つき)しより、俄に、欲の心おこり、京の方へのぼりける序(ついで)、五条邊(へん)に母かたの伯父の、日錢借(ひぜにかし)といふ事をして居たるを、賴み、此金を元手にあづけけるに、壱步(ぶ)八の利足(りそく)、月々にまはるを、面白く、半年にもならんとおもふ比(ころ)、彼(かの)伯父の肝煎にて、西京山内(にしのきやうやまのうち)といふ所に、百石ばかりの田地をもちたる後家の方へ、入むこに遣(つかは)しぬ。

[やぶちゃん注:「五条」京の五条通

「壱步(ぶ)八の利足」こまごまと貸すのではなく、百両単位でポンと貸し、その代り、貸与した金額に対して八割というとんでもない高額の利息を附けたのであろう。でなければ、半年で京に土地を買えるほどの莫大な金を得られようがない。

「西京山内」現在の西京(にしきょう)区には当該地名を探し得ない。京都府京都市右京区山ノ内山ノ下町かとも思ったが、以下の叙述で田がかなり多いので違うようにも思われる。よく判らぬ。【2019年8月23日改稿・追記】いつも情報をお寄せ下さるT氏よりメールを戴いた。

   《引用開始》

現「右京区」は江戸時代は京と認識されていません。「西京」は江戸時代には葛野郡(かどの)西ノ京村を指し、ウィキの「西ノ京(京都市)」によれば、「西ノ京」を冠する町は現在、六十一町あるようです。

   《引用終了》

そこでウィキの「葛野郡」を見てみると、「町村制以降の沿革」の項に、西院(さいいん)村(現在の京都市下京区と右京区)と、山之内村(現在の京都市右京区)が西院村に統合された旨の記載があった(後者は後に旧名が復活して現在に至ったということになる)。T氏の続きを示す。

   《引用開始》

「山内」はやはり「京都府京都市右京区山ノ内」で旧「葛野郡山之内村」で、「西ノ京村」の南西に「山之内村」が位置します(「西京山内」は 京の西の端という感じで、具体的場所をぼかしています)。これらは豊臣秀吉の構築した御土居の西側ラインが貫通している場所です。北野天神の西を流れる天神川を利用する村々で、寺・公家の所領地がやたら錯綜しています。

   《引用終了》

そこで再度、地図を見ると、この附近には、現行地名に「山ノ内」を冠する地名が複数あり、その東に嘗つて統合された「西院」地区があることが判る(地図では京福電気鉄道嵐山本線山ノ内駅(右京区山ノ内宮前町)をポイントしてある)。やはり、ここで良かったのであった。T氏に御礼申し上げる。]

 此後家、太郞兵衞に五つばかりも姊(あね)にて、大みつちやの痘瘡顏(いもがほ)にて、色黑く邊土(へんど)にてそだちたれば、風俗、また、大に見にくきに、年たけたれば、髮かたちにもかまはず、萬うちとけたるありさまも見るに、心うく、さながら、女房とて、人中に立ならび、同じうき世に住ながら欲ゆへの妻よ、といはるゝもうるさければ、又、例の惡心おこり、

「いかにもして、此女さへなき物にしたれば、外におもふ事なし。」

などゝ、常々に心がけける折から、いつも秋のころは、田かり、稻こきに隙(ひま)なく、大ぜいの人をやとひ、年ごとに役をあてがひ、夜を日につぎてはたらくは、かゝるあたりの習ひにて、雇(やとは)るゝ男女(おとこをんな[やぶちゃん注:ママ。])も、また、大分(だいぶん)なり。

[やぶちゃん注:「大みつちや」「みつちや(みっちゃ)」は以下に述べる天然痘の瘢痕(あばた)が異様に多いことを言う。それがまた甚だ激しいのである。「みっちゃくちゃ」とも呼んだ。「めっちゃくちゃ」の語源らしい。

「痘瘡顏」痘瘡(天然痘)に罹患するも、治癒したが(天然痘(取り敢えず撲滅宣言は一九八〇年五月八日に成された)の致死率は平均で約二十~五十%と非常に高い)、顔面の激しい瘢痕(一般的に「あばた」と呼んだ)が残ったのである。]

 されば、此秋の田かりもちかく、

『二、三日の内に。』

と思ひたちけるまゝ、いつも用の時はめしよせてつかふ者あり、今年もかはらず、約束して、

「秋中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])のはたらきを賴來(たのみきた)るべし。」

と、みづから、暮がたより立出(たちいで)、西(さい)藏といふ所まで行たるを、

「ねがふ所のさひわひ。」

と、太郞兵衞も暮過(くれすぎ)てより、宿(やど)を出(いで)、苧屑頭巾(をくづずきん)、まぶかにかぶり、すそ、ほつきたる柹(かき)の惟子(かたびら)に、繩帶(なはおび)を引しめ、蒲脚半(がまきやはん)・足半(あしなか)、かろがろと出たち、二尺あまりなる大わきざし、ねたばをあはせて、西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ。

[やぶちゃん注:「西藏」京都府京都市南区吉祥院西ノ内町に浄土宗の延命山西蔵寺という寺があるが、この附近か。

「苧屑頭巾」苧(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の茎を編んで作った頭巾。切妻の屋根に似た形で、頭部を覆うように深く被る。鷹匠や猟師などが用いた。「おくそずきん」「ほくそずきん」或いは「山岡頭巾」「強盗(がんどう)頭巾」「細頭巾」とも呼ぶ。こちらの小学館「日本国語大辞典」の図を参照。以下、賎民の扮装をしているのである。

「ほつきたる」解(ほつ)れた。

「柹(かき)の」柿色の。防水用の柿渋を塗ってあるのである。

「蒲脚半」蒲(単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia)の繊維で拵えた脚絆(きゃはん)のこと。古くは脛(すね)に着ける装飾・防護用の「脛巾(はばき)」が一般的用語であったが、室町以後は専ら「脚絆」が用いられている。但し、その後も東北地方では布製のものを「脚絆」と称し、蒲・藺草・藁などで編んだものを「脛巾(はばき)」と呼んで区別している。基本的には、四角形又は扇形に編んで、上下に紐をつけ、これを足に巻いて固定する。かつては農作業や山仕事のほかに、旅行・外出・雪中や雨中の歩行に用いられた(諸辞書・事典を合成した)。

「足半」芯緒緒(芯繩)を利用して鼻緒を前で結んだ小さな形の藁草履。大きさが足裏の半ばほどしかないので「あしなか」と呼ばれ、我々が想起する草履である長草履と区別したもの。足裏に密着し、鼻緒が丈夫なことから、滑り止めとして、鎌倉・室町時代の武士階級がよく利用した。鼻緒の結び方や名称は地方により異なるが、冬の夜なべにこれをつくる農山村が多かった。この草履をはいて山野へ行くと,マムシに咬まれないとされた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ねたばをあはせて」「寝刃を合はす」とは刀剣の刃を研ぐことであるが、転じて、「こっそりと悪事を企(たくら)む」ことの意に用いる。ここは前の大脇差に続けて両様の意を掛けたととるべきであろう。

「西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ」西京山内や西蔵が今一つどこであるか判らないのであるが、孰れにせよ、これは太郎兵衛は一度、南を大回りして、桂川の西の堤を北上したのであろう。犯罪を犯そうとする彼が、犯人は自分が西京山内から来た者でないように大きく迂回して西蔵に向かうという偽装を施したルートを指すものとは思われる。【2019年8月23日一部修正・追記】T氏より『行き違いの可能性が大き過ぎると思います』と御忠告を得た。山内が確定してみれば、西蔵が西蔵寺方面だとすると、確かに桂川の西堤をわざわざ下って北に上る必要はなく(西にダイレクトに速やかに進んで待ち伏せしていればよいだけである)、それでは如何にもとぼけた迂遠な行動となってしまうことに気がついた。さすれば、まず、この西堤というのは桂川ではなく、T氏による前の追記に出る天神川で(確か旧天神側の流域は現在と異なり、かなり真っ直ぐに南に下っていた)、そこ、則ち、旧天神川の西堤まで西京山内から出て、そこでやおら少し北に向かって歩み、北から強殺犯が来たように見せかけたとするのがよかろうか。

 ころは、九月廿日あまり、宵闇の鼻つまむもしらぬ薄ぐもり、草むらを分(わけ)てしのびゆくに、ありき馴たる道とて、女房はくらき夜ともいはず、殊に㙒みちなれば、人通りとてもなき所を、高々と田歌(たうた)口ずさみて歸る所をやりすごして、後(うしろ)より、土堤(どて)の上にかけ上り、ぬきまふけし脇ざし、とりもなをさず、腰のつがひを、眞(ま)ふたつに切(きり)はなせば、

「あつ。」

と、いひける一こゑのみにて、屍(かばね)は、左右(さゆう[やぶちゃん注:ママ。])へ、わかれたり。

[やぶちゃん注:「ころは、九月廿日あまり」叙述の流れから見るとは、元禄三(一六九〇)年か翌年となろう。前者なら、グレゴリオ暦で十月二十一日辺り、後者なら閏八月を挟むため十一月九日頃となる。

「ぬきまふけし」「拔き設けし」あらかじめ抜刀して構えていた。]

『仕(し)すましたり。』

と、おもひて、何氣なく衣類を替、我宿へ歸りけるに、あまり遲きをふしんがりて出入のおのこども[やぶちゃん注:ママ。]、道まで迎ひに行しが、此体(てい)を見つけしより、太郞兵衞も始ておどろきたる顏して、しばらくは詮議もするやうにもてなして濟(すま)しぬ。

 それより爰も沽却(こきやく)して[やぶちゃん注:売り払って。]田地なども賣ける程に、彼是あはせて、千二、三百兩あしの身上(しんしやう)誰(たれ)うらやまぬ物もなく[やぶちゃん注:「あし」は「足」で「金銭」「額」の意か。]、坂本の家も拂ひて、みなみな、金とし、今はたとひ何程の榮耀を極(きは)めたりとも、一代は、らくに暮すべき身の程、いまだあきたらずや有けん、有德(うとく)なる人の娘の敷錢(しきがね)[やぶちゃん注:持参金。持ち金。]あるを聞(きゝ)たて、

「妻にせん。」

とたくみけるが、いまだ運つよき身のほどとて、下京松原にて名高き合羽(かつぱ)屋の娘、しかも惣領にて、家督もいかめしき迄ありけるに、取(とり)むすび、よく盤昌(はんじよう)[やぶちゃん注:漢字表記も読みもママ。]の花をさかせ、二年ばかり過けるまゝ、一人の子をまふけたり。

[やぶちゃん注:「下京松原」京都府京都市下京区松原通はこの附近。]

 太郞兵衞、殊に、てうあひにて、しばらくも見えねば、尋ねまはりて可愛がりけるが、やうやう五つばかりになりける年、疱瘡(はうさう)をしたり。

 煩惱(ほゝをり[やぶちゃん注:ママ。読みは不詳。こんな読みは見たことがない。「ゆまに書房」版もこの判読である。])も人よりは强く、何樣(なにか[やぶちゃん注:ママ。何につけても。])に心もとなき事のみ也しかば、

「かかる事には立願(りうぐはん)こそ世に賴(たのみ)ある物なれ。」

と、太郞兵衞みづから、「はだし參り」をおもひ立て、毎日曉(あかつき)ごとに淸水(きよみづ)へまいり、一心に立願し、明(あけ)て歸るを、役(やく)のやうにせしに、四日にあたりたるあしたは、寢(ね)まどひて、八つの比、宿を出(いで)、六はらを東へ㙒にかゝりけるころ、安井(やすゐ)を南へ、六はらの道を東へと、いそぎ行(ゆく)ものあり。

[やぶちゃん注:「はだし參り」「裸足(跣)參り」で、祈願のために日数を限って神社に裸足で詣でること。よく知られる「御百度参り」は境内の御百度石から社頭までを裸足で往復する。

「淸水」京都府京都市東山区清水にある、当時は法相宗の音羽山清水寺。本尊は千手観音。

「寢(ね)まどひて」眠れなくて。

「八つ」定時法で午前二時。

「六はら」「六波羅」。京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。「六原」とも書く。天暦五(九五一)年に浄土教の先駆者で口称念仏の祖である空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信が、この寺を補陀洛山(ふだらくせん)六波羅蜜寺(江戸時代には現在と同じく真言宗)と改名したことからこの一帯が「六波羅」と呼ばれるようになったとされる。この辺りは洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口に当たったことから、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた(以上はウィキの「六波羅」に拠った)。鴨川の東岸で清水寺の西方の麓。

「安井」安井金比羅宮附近であろう。下京松原から東に鴨川を渡ってすぐにあり、そこを南下して六波羅でそこをまた東に折れれば、清水寺である。]

 星あかりにすかして見るに、座頭なり。

 江戶ぶし、おもしろく諷(うた)ひ、杖に拍子をとりて行(ゆく)也。

[やぶちゃん注:「江戶ぶし」「江戶節」。三味線音曲の一つで、上方に対する江戸生まれの楽曲の呼称。具体的には「江戸肥前節」(始祖は江戸肥前掾)・「江戸半太夫節」(始祖は江戸半太夫)・「江戸河東節(かとうぶし)」(始祖は江戸太夫河東)のこと。柔らかみのあるもので、当初は主として「江戸半太夫節」のことを指していた(浄瑠璃で「江戸」または「江戸カカリ」というのは殆んどが「江戸半太夫節」のことを指した)が、「江戸半太夫節」が衰退してからは「江戸河東節」を指すようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 太郞兵衞も、夜ぶかに出(いで)て、道のほども心ぼそく、殊におさなき者の煩ひ、重きを苦にして、思ひ過(すご)しせられ、萬(よろづ)にものがなしく、氣のよはくなりたる比なれば、

『能(よき)つれこそ。』

と、四、五間口[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。「口」(ぐち)は「程」「許り」の意。]もこなたより、詞をかけて、

「座頭どの、夜ぶかに何所(どこ)へ御ざる。」

といへば、座頭は、すこし立どまるやうにて、

「我らは、願(ぐはん)の事ありて、淸水へ參るなり。」

といふも、賴もしく、

「さらば、我も淸水へ參るもの也。我は一人むす子の疱瘡になやみて、殊下(ことのほか)、重く見へ[やぶちゃん注:ママ。]、十死一生(しやう)のありさまを見るが心うくて、其願に參る者也。いざ、つれだち候はん。」

といふに、座頭は手を打て、

「扨は。そなたは太郞兵衞殿か。我は、また、そなたに預けたる、銀、あり。此官(くはん)錢を取かへさんと、年比、うかゞへども、其方の運がつよくありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、めぐり逢(あは)ず。此たびの愁(うれへ[やぶちゃん注:ママ。])も、これ、みな、我なす事也。覚えあるべし。」

とて、ふりかへるを見れば、以前手にかけて殺せし輕都(かるいち)にて、すさまじき眼(まなこ)を見出し、口より、火をふきつゝ飛かゝり、太郞兵衞をとらへんと、大手(おほで)をひろげて追(おひ)まはる程に、太郞兵衞は、氣も心も身にそはず、かなたこなたと逃まはりしが、あまりにつよく迫れて、息、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])、氣をとり失ひ、しばらくは、死(しゝ)てありしが、我(われ)と、本性(ほんしやう)になりて、起あがり、いよいよ、心おくれ、空おそろしくなりて、今は、一あしも行(ゆか)れざりければ、足に任せて走り歸りけるに、松原寺町の辻にて、めでつかふ[やぶちゃん注:「愛で使ふ」。]下女に行(ゆき)あひたり。

[やぶちゃん注:「松原寺町」松原通と寺町通が交差する、この中央部。]

 

10aku2

 

「こは。何をして、今時(いまどき)はありくぞ。子は何とぞあるや。」

と、いふに、下女も肝(きも)つぶしたる顏して、

「あまり、旦那の、夜ぶかに出させ給ひて、しかも、御歸りおそさに、人を仕立(したて)、御むかひに參らせんとて、駕籠の者を呼(よび)に參る也。御子は、今……わらはが……食(くひ)ころしたり――」

と、いひて、ふりかへりたるを見れば、山内(やまのうち)にて、手にかけたる女房なり。

 また、これに、氣をとりうしなひ、やゝしばらく絕入(ぜつじゆ)して居たりし内、おひおひに、宿より、人をはしらせ、子の病(やまひ)、おもりたるよしを知らせ、醫師(くすし)などのかたへも、人をつかはさんと迎(むかへ)に出しけるものども、此体(てい)を見つけ、やうやうに、たすけ、歸りしが、終に、是より、病(やみ)つきて、太郞兵衞も死ぬ。

 その跡、次第にすいびして、今は、その人の名も、しりたる者なく、絕はてたり。

[やぶちゃん注:最後の台詞のコーダ部分に特異的にリーダとダッシュを用いた。]

2019/08/20

諸国因果物語 巻之五 正直の人虵の難をのかるゝ事

 

     正直の人虵の難をのかるゝ事

Hebi



 越後新潟といふ所に傳介といふ百姓あり。我すむ所より畑(はたけ)までは半道ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、朝、とく、畑に出んとしては、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、焼めしを、二つ三つほど、こしらへ、昼食のたくはへとし、ちいさき藁(わら)づとに入て、もちゆき、畠(はたけ)の畝(うね)にをきて[やぶちゃん注:ママ。]、常に田をも打、畠をも、つくりけり。

[やぶちゃん注:「半道」一里の半分で二キロメートル弱。]

 ある年の夏の事なりしに、いつもの如くして畠へ行、彼(かの)やきめしの入たる畚(ふご)を、かたはらなる木の枝にかけ置、農業をつとめ、漸(やゝ)日も昼にかたぶきけんとおもふ比(ころ)、かの畚をおろして昼食(ちうじき[やぶちゃん注:ママ。])せんとせしに、食物は、なし。

「こは、いかに。」

と、思ひめぐらすに、慥(たしか)に今朝(けさ)入たるに、まがひなくおぼゆれども、さあればとて、人のとりたるかとおもふ事も、なし。

[やぶちゃん注:「畚」ここは竹や藁などを編んで作った容れ物。]

 ふしぎながら、腹のすきたるを堪忍(かんにん)して、其日をつとめ、歸りぬ。

 又、明(あく)る日、おなじごとくに木の枝に掛たりしが、又、焼めしを失ひて、なし。

『合点の行(ゆか)ぬ事。』

と、おもひて、さまざまにためしけるに、二、三日のほど、おなじ木にかけて、ためし見るに、何ものゝ態(わざ)ともしれず、只、かいくれて、失(うせ)けるまゝ、口おしき事に思ひて、此たびは畚ばかりを木にかけ、焼めしは手ぬぐひにつゝみて、腰にさげ、農業をやめて、うかゞひしに、やうやう日もたけて、八ツ[やぶちゃん注:夏で百姓であるから、不定時法で午後二時半頃。]にやなりぬらんとおもふころ、腰のまはりの、ひやゝかになりたるやうにおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、ふりかへりて見るに、三尺ばかりなる小虵(へび)の來りて、腰につけたるやきめしの手ぬぐひを、

「くるくる。」

と卷(まき)て、まん中ほどを、くいきりつゝ、かの食を、くらひける。

『にくいやつかな。扨は。此ものゝしわざなりけり。』

と、思ひしかば、鎌をひそかにぬき出して、まき付せながら、此虵を、

「ずたずた。」

に、切てすてたり。

『あら、心よや。けふよりして、又と焼めしは、とらるべからず。』

と、おもひて、畠をせゝり[やぶちゃん注:掘り起し。]、田の水をおとしなどして、いつもの夕ぐれになりければ、歸らんとせし所に、むかふより、見馴れざる女、のりものをかきて、こなたへ來りぬ。

 御こしもと・はした、それぞれの女中、あまたありて、おさへ[やぶちゃん注:護衛。]と見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]つるは、四十ばかりの[やぶちゃん注:人数。異様に多い。]侍・若黨など、きらびやかにて、すゝみ來るを、

『あれは、何方(いづかた)へ行人ぞや。此道は聖つゞきにて、末は道もなき所なるに。いかなる事にや。』

と、おもふ内、傳介が傍ちかくなりける時、あとにすゝ見つる侍、ことばをかけ、

「その男なり。のがすな。」

と、いふは、とこそあれ、若黨ども、

「ばらばら。」

と、取まはし、傳介をくゝりあげ、のり物の前に引すゑける時、のり物の戶をあけて、顏さしいだしける人は、年のほど、廿ばかりかと見へし、氣高(けだか)き女房の、いろいろの小袖ひきつくろひたるが、脇息にもたれて、數珠(じゆず)をつまぐり、淚、おしのごひて、腰元をよび、の給ひしは、

「先、姬が行ゑを見とゞけ、死骸を取て、彼が首にかけさせて、御前(ぜん)に引べし。」

と也。

 傳介は、一圓(いちゑん)、おぼへなき事なれば、合点ゆかず、何を何とわきまへたる所もなくて、うつぶき居たるを、何やらん、

「しか。」

と、重き錦(にしき)のふくろを、傳介が首にかけさせ、又、引たてゝ行[やぶちゃん注:「ゆく」。]事、一里ばかりして、大きなる惣門の内へ入りぬ。

 やゝありて、おくより、三十ばかりと見ゆる男、玄關に立いて[やぶちゃん注:ママ。「立ちゐて」。]、傳介にいふやう、

「おのれ、此國に生れて、此所に、かゝる御かたありといふ事をしらずや。年ごろの無禮はともあれ、今日、我君の姬を殺せしは、何事ぞ。此つみ、もつとも輕(かろ)からされば、今、すでに天帝へ申、雷神をもつて、たゞいま、汝がかうべを、打くだくぞ。」

と、あらゝかにいひける時、傳介、ふりあふのき、

「我、つゐに人を損ずる事、なし。君、また、何人と、しらず。定(さだめ)て、人たがひに候ぞ。」

と、いふに、又、いはく、

「此ほど、汝がわづかなる食をおしみて、さまざまとねらひしは、いかに。」

と、とひけるにぞ、

『扨は。我、けふ殺しつる虵の事なるべし。』

と思ふに、彼(かの)首にかけたる袋より、小虵、いくらともなく、わき出て、傳介が手足、すき間なく、まきたてしとぞ見えしが、俄(にはか)に、空、かきくもりて、雷(かみなり)、おびたゞしく、いなづま、しきりに、雨は車軸を流し、傳介が上におほふ、と見えしに、傳介、大ごゑをあげ、のゝしりて、いふやう、

「それ、天道は、まことをもつて人をたすけ、神鳴、また、正直のかたへにやどり給はずや。我を飢(うへ[やぶちゃん注:ママ。])つかれさせ、おのが口をたすけんと、人の目をくらましける盗(ぬすみ)は、天、これを惡む所にて、謀計(ぼうけい)の罪、のがれがたし。それをたすけて、我を殺したまはゞ、神明、なにゝよりて、人の信あるべき。よし、殺さば殺し給へ。我、まことある神となりて、此むくひは、しらせ申さん。」

と、飛(とび)あがり、飛あがり、大にいかりて、空をにらみて立けるに、今まで、ましぐらに[やぶちゃん注:まっしぐらに。]鳴(なり)おほひし空も雷も、すこし遠ざかるやうに覚へしが[やぶちゃん注:ママ。]、

「はた。」

と、落(おち)し神鳴に、傳介も氣を失ひ、しばし、うつぶきて居たりし内、やうやうに、空、はれ、月のひかりも花やかにさし出しかば、いましめの繩も、ことごとく、引ちぎれ、身(み)の内、何の事なかりしまゝ、急ぎ、我宿に歸りぬ。

 明(あけ)の日、かの所に行(ゆき)て見るに、大なる蝮(うはばみ)、いくらともなく、頭(かしら)を雷(らい)に打くだかれ、そのほとり、七、八丁がほどは、血にそみてありしとぞ。

 

 

諸國因果物語卷之五

[やぶちゃん注:この伝介、ただの百姓とは思えない類い稀れなる智者である。これまでの暴悪姦計の人非人どもとの対照が際立つ。

「七、八丁」約七百六十四~八百七十三メートル。

 本話を以って「諸国因果物語」巻之五は終わっている。]

諸国因果物語 巻之五 男の一念鬼の面に移る事

 

     男の一念鬼の面に移る事

Oninokubi



 京都冷泉(れいぜい)通油小路(あぶらのこうぢ)に小間物屋庄左衞門といふものあり。

[やぶちゃん注:旧交差位置から推すと、京都府京都市中京区大文字町(北)と橋本町(南)の孰れかが相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 此女房、十二、三より、去方(さるかた)につとめ、髮かたちも人に勝れ、琴・しやみんの態(わざ)も大かたに間(ま)のわたる程也しかば、ゆくゆく一國の御臺(みだい)樣などゝもいはるべかりける身の、心ざま、みだりがはしく、色ふかき人なりければ、十八、九のころより、親もとへ歸り居たりしが、不圖(ふと)したる緣にて、此庄左衞門につれそひ、はや、六、七年にもなりければ、六つになりける子と、四つになると、二人の子もちになりぬ。

[やぶちゃん注:伏せてあるが、彼女が奉公先から戻っらざるを得なくなったのも、その主人との色事やそれに関わる色事、或いは家人とのそれと匂わせている。]

 庄左衞門は、こまものを賣(うり)につきても、歷々の家に出入(いでいり)ごとには、女中まじはりの多きにつきて、芝居ばなし・物まねなど、そこそこに覚え、又は、はやり歌のはしばしをも、すこしは諷(うたひ)などする事、今時の小間物やは、大かた、これを屑(とりゑ)[やぶちゃん注:以前にも出た。これを見るにやはり誤字ではなく、得意なものの意である。]にしてあきなひもする事なれば、御日待ぞ、庚申ぞ、といふ内證(ないせう[やぶちゃん注:ママ。])のあそびには、出入の小座頭(こざとう)・魚屋の男など、御こゝろやすう、めしよせらるゝ中間ともなるためとて、其比、宇治外記(げき)とかやいひし淨瑠理の太夫に通ひて、託宣(たくせん)の道ゆき、「あふひのうへ」・「賴政」など、けいこ隙なく、折ふし、手まへにも、月待などゝかこつけて、彼(かの)外記を呼て、ふるまひなどする事、たびたびなりけるに、いつとなく心やすくなりて、時ならず、庄左衞門方へも行かよひしかば、後々は庄左衞門が留主をもいはず、晝も尋ねゆきつゝ、起(おき)ふしして淨瑠理[やぶちゃん注:ママ。]を口すさび、芝居ばなしなどしてあそぶ事、たびたびに及び、あまつさへ、庄左衞門が妻に、心をうつして、人しれず、何かといひ、渡りけるに、女房も心おほき生れつきといひ、殊に音曲などにおもひ、つらい[やぶちゃん注:ママ。]女こゞろの習ひなれば、何の事もなく、うちとけたり。

[やぶちゃん注:「日待」既出既注

「庚申」「庚申待(まち)」。私の「北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)」の私の「庚申塚」の注を参照されたい。

「内證のあそび」内輪だけの私的な遊宴の集まり。「日待」や「庚申待(まち)」は、とっくに名目ばかりで中身は単なる夜明かし遊びと化していた。

「託宣」ここは他者の指導する義太夫節を冗談めかして言ったものであろう。

「あふひのうへ」「源氏物語」の葵上が六条御息所の生霊に苦しめられるそれを謡曲化した「葵上」。世阿弥以前に作られて改作された能。詳細は「銕仙会~能と狂言~」のこちらを参照されたい。

「賴政」源三位頼政の霊を扱った複式夢幻能のそれ。世阿弥作。詳細は同じく「銕仙会~能と狂言~」のこちらを見られたい。

「中間ともなるためとて」「中間」は「なかま」。構文が今一つ上手くない。庄左衛門は、家へ出入りする小座頭・魚屋(うおや)の男などをも、貴顕の家に心安く呼ばれる際の、芸の磨きを掛けるための「仲間」ともなろうからしてと考え、太夫の外記を呼んでは自分と一緒に習わせた、というのである。

「宇治外記」これを名乗った太夫は実在する。川端咲子氏の論文「宇治一派の末流達 宇治姓の人形遣いを中心に」(一九九九年発行『待兼山論叢 文学篇』三十三巻所収・PDF)京都には「土佐」という太夫の名代があったが、これは延宝期に「宇治加賀掾」と並び賞された京都の太夫「山本角太夫」の『受領号であった。しかし、角太夫没後』、『その名代は所持していた角太夫の息子源助を経て、正徳五年十二月』『に源助の従弟で』宇治一派の一人であった宇治外記『へと譲られた』とあるからである。]

 外記は、いよいよ是に心をとられ、戀に、知惠、くらみて、

『我、いまだ定(さだま)りたる妻とてもなし。あはれ、かゝる情(なさけ)ある人を引とり、一期(いちご)[やぶちゃん注:一生。]、我ものとしても見ばや。』

と、思ひつゝ、寢(ね)るにも起(おき)るにも、心にかゝりて、いやましの戀しさ、やるかたなければ、さまざまと術(てだて)をこしらへ、庄左衞門が女房と相圖して、來らん時節を待たりしに、ある時、庄左衞門、三十六、七におよびて、痘疹(はしか)といふものを煩ひ、よほど、大事なりしが、さまざまの療治、手をつくしける功見へて、やうやう、本復(ほぷく)したりけるに、兄むすこの庄太郞、六つになりけるもの、食傷(しよくせう)をしそめてより、疳氣(かんけ)になり、是も、いくばくの世話となりて、

「少、此ほどは、心地よろしきかたになりしよ。」

と、見る内、また、女房、何となくふらふらと病出(やみいだ)して、物なども、しかじかと食(くは)ず。

「定て[やぶちゃん注:「さだめて」。]此ほどの、病人うちつゞきたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]は、情(せい)[やぶちゃん注:ママ。「精」の誤記か。]のつかれなるべし。」

などいひて、藥などのませけれども、しかじかと、そのしるしもなくて、同じ調子になやみ渡りける。

 庄左衞門も、病後いまだちからづくまでしなきに、惣領の子は、いまだ煩ひの心もとなくて、せがみ泣(なく)も悲しき中に、妻は、ふらふらと病ながらも、己(おのれ)の子をすかし、とりまはして、世話にするなど、是は何さまにも只事にあらずと、心もとなさも、一かたならねば、いつも德意(とくい)のやうにして[やぶちゃん注:神仏ずくで報酬を求める風もないようにして。]、此二、三年が間、一日・廿八日には、かならず見舞るゝ常德院とかやいふ山ぶしの來られしをたのみて、当卦(とうけ[やぶちゃん注:ママ。])を見てもらひけるに、

「今年は、夫婦ともに『禍害(くはがい)』といふ卦にあたれり。『禍』は『わざはひ』の文字、『害』は『殺害(せつがい)』とて『人を殺す』の卦なり。そのうへ、本番[やぶちゃん注:意味不祥。当該の卦の別な本来の属性を見ると、の意か。]は『離(り)』の卦也。『離』は『はなるゝ』の理ありて、たがひに、夫にわかれ、妻に別れ、子を失ふの年なりたれば、是を祈禱するには、七日が間、夫婦に別火(べつくわ)させ、所をかへて夜も寢て、たがひに目も見あはせず、物をもいふ事をいむ也。その心は、假(かり)に七日の内は離別する心まで居たまふを、某(それがし)、そのあひだに、祈り、加持して、夫婦の緣をむすび直して參らすべし。」

など、口に任せていひけるを、外記も、此ほどの不仕合(しあはせ)にたんじて[やぶちゃん注:「嘆じて」か。]、さらば、兎も角も、然るべきやうに祈禱を賴たてまつるよし、ひたすらにいひける。其しさ[やぶちゃん注:「示唆」か。「由真に書房」版は『ましさ』であるが、それでは意味がとれない。]もあらば、

「先、我らが、いふやうに仕たまへ。」

とて、家内にしめを張(はり)、ことごとく敷壇(しきだん)をかまへ、此壇の右左(みぎひだり)を仕切て、夫婦を置、たがひに別火をたて、俄(にはか)に、

「物もいはず、目も見あはせぬやうに。」

と、堅くいましめられ、亭主は、夜のねざめ淋しく、

『かやうの事にては、中々、七日もすぐしがたく、物うけれど、身のため、人のためなれば。』

と、心をとりなをし[やぶちゃん注:ママ。]、氣を持かためて待ぬるに、明日(あす)は七日の滿參(まんさん)といふ夜、常德院、きたりていふ樣、

「此ほど、つゝがなくつとめて、早(はや)、あすは、願(ぐはん)成就の日なり。假(かり)に、こよひ、夫の方より、暇(いとま)の状を書て渡し給へ。こよひ緣切(ゑんきり)のおこないをつとめ、明日は生をかへて、めでたく、緣をむすばせ申べし。」

と、すゝめけるまゝ、心には染ぬ[やぶちゃん注:「そまぬ」。]ながら、庄左衞門は、硯、ひきよせ、三行半(みくだりはん)に、妻を去よしの手形を渡しけるに、女房も、淚こぼして請取、そのまゝ、かけ硯の中へなげいれけるとぞ見えし。

[やぶちゃん注:「かけ硯」「掛け硯」で「掛硯箱(かけすずりばこ)」の略。掛子(かけご:箱の縁にかけて、中に嵌まるように作った箱のこと。蓋附きの箱)のある硯箱。外箱の縁に内箱が掛かって重なるようにしてあり、そこに硯や墨や水入れを入れ、別に小物を入れる引出(ひきだし)などを作り、また、蓋をした状態で提げることができるようになっているものを言う。]

 かくて、夜明けるまゝに、常德院がさし圖にて、女房を、先(まづ)、祇園の厄神(やくしん)へ參らせ、

「此人御かへりあらば、又、庄左衞門も參り給へ。晚ほど、來りて、祝言(しうげん)めでたくとりむすび申べし。」

などいひて、歸りぬ。

 庄左衞門、まづ、今は所願もかなひぬる心地して、女房の歸るを、今や今やと、待ゐけるに、日、くるれども、歸らざりしかば、心もとなく、悲しくなりて、さまざまと穿鑿しけるに、常德院と外記と、心をあわせた[やぶちゃん注:ママ。]ばかりて、女房を離別させ、今ほどは、大津百石町邊にふかく忍びて住(すむ)よしの沙汰を聞出(きゝいだ)し、腹立(はらたつ)るは山々なれども、一たび、僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])にもせよ、いとまとらせし女なれば、すべき方なくて、是を氣にしけるより、亂心になりて、井戶へ身を投(なげ)て、死けり。

[やぶちゃん注:「大津百石町」現在の滋賀県大津市中央のこの附近かと思われる。]

 かくともしらず、外記が家には、おもふまゝに仕おほせ、月日を送りけるほどに、明(あけ)の年の三月には、

「久しく都の花をも見ず。なつかしければ。」

と、女房をともなひ、京都に上り、東山のさくら、見めぐり、歸りには壬生(みぶ)の大念仏(だいねんぶつ)などおがみて歸りけるついで、

「近所の子どもへの土產にもせばや。」

と、鬼の面、一つ、買(かい[やぶちゃん注:ママ。])もとめ、道すがら、手にさげて大つなる宿へもどりぬ。

[やぶちゃん注:「壬生の大念仏」壬生狂言。京都市中京区壬生にある律宗の別格本山である壬生寺(宝幢三昧(ほうどうさんまい)院或いは地蔵院とも号して通称は壬生地蔵)で現行では四月二十一日から二十九日の「大念仏会」の間に行われる民俗芸能。「壬生大念仏」とも呼ぶ。鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年,壬生寺中興の円覚が、大衆を導くために始めたもので、鰐口(わにぐち)・太鼓・笛の囃子に合わせて舞い踊る無言劇。約二十曲が残っている(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。ウィキの「壬生狂言」によれば、『仮面をつけた演者が、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせ、無言で演じる』。『演目には、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、『平家物語』のほか御伽草子などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる「愛宕詣り」、紙でできた糸を観客席に投げる「土蜘蛛」、綱渡りをする「鵺」「蟹殿」、素焼きの皿(焙烙)を割る「炮烙割り」といった派手な見せ場を持つ演目もある。炮烙割で約』三『メートル下に投げ落とされる皿は』、『およそ一千枚にも及び、厄除けや開運のため』、『参拝客があらかじめ奉納する』。『鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている』とある。私は未見なので注した。]

 其夜は、くたびれて、宵より、夫婦ともに寢たる夢心に、彼(かの)面(めん)、おそろしき眼(まなこ)を見いだし、聲をいからかして、頻(しきり)に呼(よぶ)とおもへば、夢、さめぬ。

 女房、あまり、心うく、おそろしくて、かたはらなる外記を引おこしけれども、日ごろに違(ちが)ひて、殊さらに寢いりて、目をさまさず。

 後(うしろ)より、つかみ立るやうにおぼへて、あまり、こはくおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、油火(あぶらび)をかき立、うしろを見歸りしに、昼、買て來りし鬼の面、大きなる口をあき、眼(まなこ)をいからして、飛かゝりけるを、

「あつ。」

と、いひて、外記にしがみつきける所を、すかさず、くらひつきて、左のかたさきを、

「ほう。」

と、喰(くひ)ちぎりける。

 此ひゞきに、外記も目をさまし、此すがたを見るに、氣を取うしなひ、夜明がたまで、絕入(ぜつじゆ)したりしかども、誰(たれ)ありて、かいはうする人もなければ、昼の比になりて、やうやう、正氣になりしほどに、跡の事ども、とかくして取つくろひ、

「しばし、此事、おんみつに。」

と、ふかく忍びて、寺へもをくり[やぶちゃん注:ママ。]けれども、猶、かくれなければ、恥かしくて、引こもりありし内、又、外記も傷寒(しやうかん)といふ物をやみて、死けるとぞ。

[やぶちゃん注:鬼の面を巨大に描いた絵師に快哉。

「寺へもをくり」は、肩先を食い破られて絶命した妻(庄左衛門から奪った女房)の葬儀を内密に仕まわしたことを指す。

「傷寒」昔の高熱を伴う疾患。熱病。現在のチフスの類。]

2019/08/19

諸国因果物語 巻之五 美僧は後生のさはりとなる事

 

     美僧は後生のさはりとなる事

Bisou



 鎌倉建長寺のかたはらに、念性司(しやうず)といふ所化(しよけ)あり。生れつき美くしく器量よき僧にて學問も人にすぐれ、手をよく書けるほどに、人のもてはやしも、おほく、心ばへ[やぶちゃん注:ママ。]、又、やさしき人がらなれば、若きも老たるも、

「念性、念性。」

と、いひて、馳走し、假初(かりそめ)の齋(とき)・非時(ひじ)にも、かならず呼(よび)、衣類のすゝぎなども、我人と、あらそひて、此僧の事には隙(ひま)をいとふ事なくぞありける。されば、ゆくゆくは事なくぞありける。されば、ゆくゆくは似合しき寺にも肝いりて自他の菩提をも心よくとぶらはればやとおもふ者も、すくなからざりける。

[やぶちゃん注:「建長寺」流石に鎌倉史をずっとやってきた私にして注を附ける気になれない。私の「新編鎌倉志卷之三」をリンクさせておく。「かたはらに」とあるが、建長寺外を考える必要はあるまい。話の展開からも建長寺の塔頭の一つと読んで問題ない。なお、ここにあるような伝承や類似譚は鎌倉には全く現存しない。

「齋(とき)・非時(ひじ)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される。しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、午後の時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を広く「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になった。それにつれて、破戒僧も等比級数的に増殖したと言えるだろう。]

 此所の地頭より世話をやかれ、龜谷坂のあたりに草堂を取たて、念性司を爰(こゝ)に居(すへ)たりしに、近鄕の百性ども、おのづから此僧になつき、纔(わづか)半年ばかりが間に、樣子よく居黑め、しほらしく住つきけるまゝに、折ふしは、鎌倉一見の旅客(たびゝと)、あるひは、貴人(きにん)の御馬をもよせらるゝ程なり。

[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代には知行取りの旗本を指す(又は各藩で知行地を与えられて租税徴収の権を持っていた家臣も指す)。現在の鎌倉や大船地区の多くは、江戸時代はさえない農漁村となっていて、寺社領以外は複数の旗本に、かなり神経症的に細かく分割されて与えられていた。

「龜谷坂」「かめがやつざか」。底本は「谷」の右に『かへ』と振るが、採らない。建長寺門前から百八十メートルほど県道二十一号を大船方向に戻ったところを、左南西に扇が谷(おおぎがやつ)に下る亀ヶ谷坂。坂上の角(北西)に臨済宗建長寺派宝亀山長壽寺がある。]

 爰に粟舩といふ所に、小左衞門後家といふものあり。年、やゝ六十にあまり、七十にちかき身にて、子は一人もなく、纔の田地を人にあてゝ、身のたすけとしけれども、万(よろづ)たのしき後世(ごせい[やぶちゃん注:ママ。「ごぜ」が普通。])なりしかば、あけくれ、寺まいりを事とし、假(かり)にも仏道を忘るゝ事なく、賴(たのも)しき行跡(こうせき)也しかば、

「此人なくては、仏になるべき人もなし。」

などゝ、世のうわさにもいひなしける人也けるに、此後家、過(すぎ)し元祿十年[やぶちゃん注:一六九七年。]の冬、腹をわづらひて死(しに)けるを、彼(かの)念性に賴(たのみ)て、とりをき[やぶちゃん注:ママ。]、位牌なども、此草堂に居(すへ)て、毎日の仏餉(ぶつしやう)、夜毎(よごと)、廻向(えかう)をもうけさせける念性も、油斷なく勤(つとめ)、おこたらぬ人也しかば、朝暮(てうぼ)、佛前のつとめ、かゝさず。

[やぶちゃん注:「粟舩」「あはふね」。底本は「粟」にのみ「あふ」と振るが、採らない。現在の私の住んでいる大船の古い広域呼称。中世前までは現在の境川から柏尾川の筋を深沢やおこ大船地区近くまで粟を満載した輸送用の大型船が進入出来たことに基づくとされる。

「仏餉(ぶつしやう)」「仏聖」とも書き、仏に供える米飯。「仏飯(ぶっぱん)」「仏供(ぶっく)」。]

 ある夜、逮夜に行事ありて、おそく歸り、

「いまだ、けふの勤もせざりけるよ。」

と、いつもの如く、佛前にむかひ、香などもりそへ、燈明のあふらなとさして行ひにかゝらんとせしに、彼後家が位牌、にはかに、手足出來て、うごき出たり。

[やぶちゃん注:「逮夜」(たいや)ここはこの老女の月命日の前夜のことととっておく。]

「こは、いかに。狐狸(きつねたぬき)の我をたぶらかさんとて、かゝるあやしき事をなすにや。」

と、心をしづめ、

「きつ。」

と、座しけるに、此いはい[やぶちゃん注:ママ。「位牌」は「ゐはい」が正しい。]、佛壇よりおりて、念性に、とりつき、

「かなしや、我、此世にありける間は、年の程に恥(はぢ)、人めをおもひて、露ばかりもいはず、死しては、此まよひによりて、成仏(じやうぶつ)に疎(うと)く、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])にまよふこそ悲しけれ、我、念性司の庵に、毎日、おとづれ、佛餉を手づから奉り、衣(ころも)のせんたく、こぶくめの縫くゝり迄、二こゞろなくつとめしを、何と請(うけ)給ひしぞや。語り出すも恥かしながら、我、君(きみ)に心ありて、人しれぬ戀とはなりぬれども、今までは、つゝみ參らせし。今此はかなき姿なりとも、一たびの枕をかはし給はゞ、浮世の妄執、はれて、年ごろのつみ、すこしは消滅すべし。」

[やぶちゃん注:「成仏(じやうぶつ)」「ゆまに書房」版は『処仏』と翻刻するが、これでは意味も採れず、読みもおかしいので、採らない。

「中有(ちうう)」(歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい)は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「こぶくめ」判読・字起こしに非常な時間がかかった。「ゆまに書房版は『とふくめ』とするが、従わない。これは「小服綿(こぶくめん)」の省略形である。「小服綿」とは、僧侶が着用した十徳(じっとく:「直綴(じきとつ)」の転か。男子の上着の一つで、丈は短く、羽織に似る。武家のものは素襖(すおう)に似ていて胸紐がある。鎌倉末期から用いられ、中間や小者は四幅袴(よのばかま)の上に着た。江戸時代には医師・儒者・茶人などの礼服となった)に似た略衣で、白色の袷(あわせ)が通常であったが、尼は紅色を着用することもあり、室町時代頃から用いられた。また、広く「綿入れの着物」の意にも用いる。以上は小学館「日本国語大辞典」によるが、それを確定し辞書を引くに至るまでに、最大の確信を与えて呉れたのは、昭和二三(一九四八)年中央公論社刊の真山青果著「西鶴語彙考証 第一」の「こぶくめ」であった(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。心より感謝する。

などゝ、かきくどきけるに、念性も、今は、心みだれ、おそろしさいふばかりなければ、ふり切(きつ)て迯(にげ)けるに、足もとなる火桶より、雀(すゞめ)、いくらともなく飛出(とびいで)、念性をとりまはし、つゝきかゝりし程に、

「なふ、かなしや、たすけ給へ。」

と、大こゑをあげて、なげきさけびけるこゑにおどろき、近邊の人ども、出あひ、先(まづ)、念性を引すへ、氣付(きつけ)などのませ、聞きゝけるに、右のやうすを語りぬ。

「あまり、ふしぎなる事也。よもや、さほどの怪しみ、あるべき事に、あらず。定(さだめ)て、氣のくたびれしより、物にさそはれ、かゝる怪しき事、見たまひし事ぞ。」

と、藥などのませて、夜ひとよ、人々とりまわしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、守りあかしけるに、何事もなかりしまゝ、みなみな、心ゆるして、歸りぬ。

 又の夜は、近所の人、

「もしや、心あしき事もこそ。」

と、宵の程、かはるがはる、見まひしに、事もなし。

 いよいよ、藥など、すゝめ置て、

「又、明日(あす)こそまいらめ。」

と、いひて、歸りぬ。

 それより、二、三日も過(すぎ)て、ある朝(あした)、久しく草堂の戶のあかぬ事あり。

「いかなる事ぞ。齋(とき)に行(ゆか)れつる体(たい)もなかりしが。」

と、不審して、窓(まど)よりのぞきて、聲をかくるに、答(こたへ)ず。

 戶は、内よりしめたれば、門口よりはいるべき樣もなくて、心もとなきまゝに、生垣(いけがき)をくゞり、庭より簀(す)がきの下(した)へ、人を入つゝ、居間を尋(たづね)させけるに、念性が咽吭(のどぶえ[やぶちゃん注:ママ。])、くひ切(きり)たるあと有て、佛壇の間に、ふんぞりて、死(しゝ)てあり。

「こは、いかに。」

と、あたりを見れば、後家が位牌に、血、つきて、彼(かの)くひかきたる咽ふゑの、皮肉(ひにく)、此まへにありけるこそ、ふしぎなれ。

[やぶちゃん注:位牌に手足が生えて変化した七十歳に近い老女の亡霊から、若き美僧が「一たびの枕をかはし給は」れと言い寄られるシークエンス、コーダの、喉笛を喰いちぎられて死んだ彼のそばに、後家の位牌が血だらけになってあり、その前に美僧の喉笛の皮と肉が飛び散っていたというそれは、想像するだに素敵に慄っとするではないか?!

諸国因果物語 巻之五 願西といふ法師舍利の罪を得し事

     願西といふ法師舍利の罪(ばち)を得し事

Gansai



 山城國新田(しんでん)といふ所に与十郞といふものあり。彼が家にふしぎの本尊あり。御長[やぶちゃん注:「おんたけ」。]、立像二尺ばかりにて、いかさま、名作とは見ゆれど、いかなる仏工の作ともしらず、只、惣身[やぶちゃん注:「そうみ」。]より、ひた物、舍利の分し[やぶちゃん注:「ぶんし」。自然に分かれる。]給ふ事、たとへば、瘡疱(はうさう)の出たるが如くにて、毎日蓮臺のうへに落る所の舍利、七、八粒づゝありて、絕る事なし。

[やぶちゃん注:「山城國新田(しんでん)」現在の京都府宇治市広野町東裏にあるJR「新田駅」(グーグル・マップ・データ)の周辺か。]

 是を聞つたへ見及びたる人は、遠き國、はるかなる道をいとはず、信心のあゆみをはこびて、一たび拜(おがみ)たてまつり、後生の善果を得ん事をねがふ人も、おほく、又は、さまざまの所緣(ゆかり)をもとめて、此御舍利一粒(りう)を乞うけ、七寶の塔をたて、香花をさゝげ、他念なくおこなふ人もすくなからず。

 かゝる人のもとへ入給ひし舍利は、又、おのおの、分(ぶん)つぎて、二十粒、三十粒となり、あるひは、何とぞ、心いれ、あしくなる人、または、不信心になるやうの事ある時は、悉(ことごとく)減(へり)て、もとの一粒になりなどして、㚑驗(れいげん)あらたなりしかば、いとゞ、五幾内に此うはさのみにして、尊(たうと)み、もてはやす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「五幾内」大和・山城・河内・和泉・摂津。]

 爰に、南都より引こみける道心あり。願西といひしが、此新田にちいさき[やぶちゃん注:ママ。]庵をもとめ、二、三年ありけるが、彼本尊の驗(しるし)ある事を、うらやみ、そねみて、

『何とぞ、此本尊を我ものにし、世わたる業(わざ)のたねにも。』

と、おもへど、人の信(しん)まさるにつきて、參詣の人めしげく、与十郞は無欲のものにて、人の施物(せもつ)をむさぼる心なけれども、外より何かにつきて心をつけ、それとはいはねど、時おりふしの餘勢も、すくなからず、宥冨(ゆうふく)にくらして、殊に老の身のたのしみ、六十の暮より、隱居をかまへ、ひとへに本尊の守(もり)になりたる樣にて祕藏しければ、心やすく盗むべき手だてもなく、さまざまと心をくだき、やうやうに思ひ付て、都へのぼりけるについで、佛師のみせにありける立像二尺ばかりの古きほとけを買とり、ひそかに是を打わり、与十郞方より緣をもつて貰ひをきたる[やぶちゃん注:ママ。]佛舍利を、胎内にをさめ、惣身(そうみ)に、ちいさき穴をほりあけ、もとのごとく打あはせて、佛前にそなへ、香華をたてまつりて、二月ばかりありしに、彼(かの)造りこめたりし舍利、おほく分(ぶん)つきて、

「ほろほろ。」

と、彼あなより、こぼれ出たりければ、

『扨こそ。日ころの念願はかなひつれ。』

と、おもひ、急ぎ、佛檀をことごと敷(しく)かざり、庵(あん)など、きらひやかに普請(ふしん)しつゝ、さて、其あたりちかき村中へ、ふれをなし、

「我、このほど、都黑谷(くろだに)に法事ありて參りける歸るさ、筑紫(つくし)の善導寺の出家とて、旅の道すがら、打つれ侍りしに、伏見の宿にて頓死したり。同宿せし不肖といひ、僧の役とおもひ、彼(かの)死骸をかきいだきて、㙒道に送り、土葬せんと、暮過てあゆみ出たるに、二、三町も過ぬとおもふ比、殊外、背中輕くなりしやうにおぼへしまゝ、打おろして見るに、棺桶の中には、死骸はなくて、此本尊、おはしましたり。しかも舍利の分などつきて、おそろしくも尊き佛にてまします。いざ、參り給へ。おがませ申さん。」

と、ふれありきけるほどに、

「我も我も。」

と、足を空にしておしあひつゝ、群集(ぐんじゆ)せり。

 誠に、願西がいひしに違(たがは)ず、舍利の分など、所々にふき出て、

「殊勝さ、いふばかりもなし。」

と、めんめんに、珠數(じゆず)さしのばして、佛の御手にうけていたゞき、又は、善の綱にすがりてのびあかりつゝ、後より、佛の御面相をおがまんとして、

「ひた。」

と、おしあひけるほどに、何とかしたりけん、善の綱に、人、おほく取つき、あなたへゆすり、こなたへゆするひゞきに、本尊を引たをし[やぶちゃん注:ママ。]、御手なども打折[やぶちゃん注:「うちをり」。]けるほどに、胎内にこめ置つる佛舍利百粒ばかり、惣身の内にあけをき[やぶちゃん注:ママ。]たりける穴より、一度に、

「ざつ。」

と、こぼれ出たりしを、

「有がたや、舍利の分ありしは。」

といふほどこそあれ、いやがうへに、

「我、一。」

と、おりかさなり、手の上に手を出し、奪ひとり、せりあひて、一粒も殘さず、人の物になりぬ。

 願西は、たくみし事、相違(さうい)し、あまつさへ、舍利は殘なくひらはれける腹立に、本尊を、臺座より、引おろし、もとの繼目(つぎめ)を引はなしける時、右の手の内に、

『ちいさき契(そげ)、ひとつ、しかと立けるよ。』

と、おぼへしが、終に大なる種物(しゆもつ)[やぶちゃん注:ママ。「腫物」。]となり、三、四十日がほど、煩ひて、腐り死したりけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みにこの増殖する(信心がなければ、消滅する)仏舎利というのは、何らかのカビか粘菌の類の胞子体ではないかと想像したりした。

「黑谷」京都市左京区黒谷町

「筑紫の善導寺」福岡県久留米市善導寺町飯田にある浄土宗井上山(せいじょうざん)善導寺。建久二(一一九一)年開創。開山は法然上人の直弟子聖光(浄土宗第二祖)。

「同宿せし不肖」亡くなった同宿の名刹の僧侶に対し、自身をとるに足らない愚僧と謙遜したもの。

「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。

「足を空に」足が地に着かないほどに慌てて急ぐさま。

「善の綱」実際の仏像の手にかけておき、信者に引かせて仏の功徳に導かれるさまを比喩する綱。

「契(そげ)」「契」には「刻む」の意があり、それに「そげ」(削げ・殺げ:動詞「そげる」の連用形の名詞化。竹や木の薄くそげたもの。ささくれ。とげ)を当て訓したもの。挿絵では派手に右掌から血が噴き出している。]

2019/08/18

諸国因果物語 巻之五 目録・舍利の奇特にて命たすかりし人の事

 

諸國因果物語卷之五

 

舍利の奇特(きどく)にて命たすかりし事

願西といふ法師舍利の罰(ばち)を得し事

美僧は後生の障(さはり)となる事

男の一念鬼の面(めん)に移る事

正直の人蝮(うはばみ)の難を遁るゝ事

  

 

諸國因果物語卷之五

     舍利の奇特にて命たすかりし人の事

Syari



 津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)のほとりに、甚之丞といふものあり。そのかみ、荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城のおりふし、數度(すど)の高名ありて、感狀なども多く、攝津守、つゝがなく在世なれば、瀨川・本町・櫻塚、そのあたり廿鄕ばかりの押領使なりければ、天晴、よき武士となるべかりしに、伊丹沒落の後、やうやう居屋敷ばかりになりて、牢浪の身たりしが、今にいたりて三代、終に家の名を起さず、然も土民の數に入ながら、農業をしらず、心にもあらぬ隱逸の身なりなどゝ、人も問(とは)ぬむりを語り、身を高(たか)ぶりて、年ごろを過(すぐ)すもの、あり。せめてのとりへには、人に無心がましき事いはず、損かけず、何を所作(しよさ)する体(てい)もなけれども、見事、人なみに木綿衣裳さつぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆(しゆ)を呼(よび)て、碁(ご)・將棊(しやうぎ)にあそびなど、いかさま、天道、人を殺さぬためし、かゝる事にこそと、人もいひあへりける。

[やぶちゃん注:「津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)」現在の大阪府箕面市瀬川の千里丘陵西端にある小山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高七十七メートル。西国街道沿いの景勝地で歌枕として知られ、かの「枕草子」の「山は」の〈山尽くし〉の章段にも「まちかね山」として出る。大阪府豊中市待兼山町も山麓に接する。

「甚之丞」後で姓を「山中(やまなか)」と出すが、不詳。

「荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城」安土桃山時代の武将で「利休七哲」の一人とされる摂津伊丹(有岡)城主荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)の織田信長との籠城戦。初め池田氏、後に三好氏に属し、天正元(一五七三)年には織田信長に仕えた。同二年、伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めたが、同六年、信長に背いて籠城(天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日)、攻められては妻子を見捨てて居城を逃れ、毛利氏を頼って落ち延び、尾道に隠棲した。後に剃髪して「道薫」と号し、茶人として豊臣秀吉に仕えた、如何にも厭な奴である。

「感狀」戦さで立てた手柄を讃えて主君や上官が与える書付。

「攝津守、つゝがなく在世なれば」時制上は逆転したおかしな謂いである。

「瀨川」上記の豊中市瀬川の北で大阪府箕面市瀬川も接するのでそこも含むと考えるべきであろう。

「本町」大阪府豊中市本町。待兼山の少し南東に当たる。

「櫻塚」同前の南地区に「桜塚」地区が接して広がっている。

「押領使」暴徒鎮圧・盗賊捕縛などに当たった職。]

 其隣鄕(りんがう)、宮(みや)の森の邊(へん)に、重太夫とて、甚之丞とは無二の友なりけるあり。是は庄屋にて、餘程、下人などもめしつかひ、手まへ、冨裕の者なりしかば、隙(ひま)あるにまかせて、常にそのあたり、心やすき方に行かよい[やぶちゃん注:ママ。]、殊に甚之丞も遊び好(ずき)なると、悅びて、たがひに朋友のまじはり、淺からずぞありける。

[やぶちゃん注:「宮(みや)の森」不詳。但し、一つ、待兼山の西直近の大阪府池田市石橋に「宮の前遺跡」(弥生中期から古墳時代)の名を見出せた。]

 ある朝(あした)、用の事ありて、多田の方へ行けるに、大和河(やまとがは)の端(はた)に高札(たかふだ)を立たるあり、讀てみるに、

     當月十二日の夜此河の端にて金子

     三百兩入たる打替壱つ黑塗の箱

     封付壹つ捨申し間覚ある御かたは目

     祿御持參有りし引合候て本主へ相

     わたし申上候以上

         瀨川の客  山中甚之丞

と、しるしたり。

[やぶちゃん注:高札(ここは単なる私的な告知を書いたもの)の内容は高札らしく漢字のみで示した。以下に整序・訓読したものを示す。

   *

當月十二日の夜(よ)、此河の端(はた)にて、金子三百兩入たる打替(うちがへ)壱つ、幷[やぶちゃん注:「ならびに」。]黑塗(くろぬり)の箱〔封付(ふうつき)〕壹つ、捨(ひらひ)申し間、覚ある御かたは、目祿(もくろく)御持參(ごじさん)有り、し引合候て本主(ほんじゆ)へ相(あひ)わたし申上候。以上。

    瀨川の客(きやく) 山中(やまなか)甚之丞

   *

先にこの高札の注をしておくと、「三百兩」は既に示した一両(六千文)を現在の約七万五千円とする換算なら、二千二百五十万円という莫大な額に相当する。「打替(うちがへ)」は「打飼袋(うちがひぶくろ)」の略。これは本来は、文字通り、鷹・猟犬・馬などの食糧を納めて携行する容器を指したが、後に転じて、旅人の携行する食糧の容器を言う。時には貨幣や鼻紙の類も納めた(軍陣の際、歩卒が一食分の食糧を納めたものを点々と結んで肩に掛けた細長い袋のことを特に「数珠打飼(じゅずうちがい)」と呼んだ。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠る)。「目祿」とはここでは、紛失物についての、より細かい形状その他の事蹟・特徴を記したもので、当該物と同一であることを証明するためのものである。「し引合」「仕(し)引き合ひ」ととった。その目録の内容ととくと比較対照して吟味することを言っていよう。

「大和河」不詳。現行の大和川水系は大阪府のずっと南部寄りで、上記ロケーションとは重なる部分がない。地図では幾つかの無名の小流れはあるので、それらのどれかととっておく。

「多田」兵庫県川西市の多田地区か。直後で「有馬行」という語が出るのと合わせると、自然な位置であると私は思う。]

 往來の旅人、有馬行の駕籠の者など、是を見て、

「誠に此札は遠く京海道まで立をきたり。上枚にて始て見たり。」

と、いふに付て、

「我は櫻井にて見たり。」

と、いふもあり、あるひは、

「郡山・芥河・高槻(たかつき)の邊にありし。」

[やぶちゃん注:「上枚」大阪府高槻市神内(こうない)の阪急電鉄京都本線の「上牧(かんまき)」駅のある附近か。

「櫻井」大阪府三島郡島本町桜井か。先の上牧の東北部に接する。

「郡山」大阪府茨木市郡山か。後の「高槻」の南西。

「芥河」大阪府高槻市芥川町或いはその西端を流れる「芥川」。JR京都線「高槻駅」はこの住所内である。

「高槻(たかつき)」狭義の現在の大阪府高槻市高槻町JR京都線「高槻駅」南に当たる。]

など、口々にいふを、重大夫、つくづく聞て、感じ、

『誠に。甚之丞ならずば、かゝる高札も立まじ。さりとは、無欲の仕かた、此ごとく、所に札をたつる程の事を、我に何の沙汰せざりけるも。何とおもひて、語らざりけるぞ。』

と思ふ内にも、欲は、きたなき物かな、

『いで、此高札に付て、何とぞ、似つかはしき事を取繕ひ、自然、手にもいらば、德分よ。』

と、おもひけるより、引返して、甚之丞かたへ行、彼(かの)高札の事を問聞て、いふやう、

「我、手まはりの者、此ほど、池田へ屆(とゞく)る酒代を預り、大坂より歸りしが、荷物、何かと大分の擔(にな)ひものありしゆへ、此打かへをくゝり付しに、しやらとけして、落しを知らず、不念のいたり、其もの、夜前(やぜん)も承りしに、難義に及ぶよし。幸の事也。我に渡し給るべし。」

との挨拶、甚之丞、聞とゞけ、

「然らば、それに僞もあるまじ。殊に貴殿と某(それがし)の中なれば、早速も渡すべし。けれども、ケ樣の事には念入たるが互のため也。其人の口づから、箱の中の色品。上書[やぶちゃん注:「うはがき」。]の樣子、金子は封印に何とありけるぞ、目彔[やぶちゃん注:「目錄」に同じい。以下同じ。]を以て、引合せ、渡し申べし。」

との事也。

[やぶちゃん注:「しやらとけて」しゃらっと(「軽くさらっと」。オノマトペイア)ほどけて。]

 重太夫、聞て、

『是は。心もとなき。目彔、何とあるべしや。』

と、おもひしかども、内に歸り、似合しき案文(あんもん)をしたゝめ、持參せしに、二、三日過て、甚之丞方より、

『成程、目彔に相違なし。但、箱の内は封印のまゝなれば、何とあるも存(ぞんぜ)ざれども、今晚、相渡し申べし。』

との使(つかい[やぶちゃん注:ママ。])、うれしく、早速、うけ取に行けるに、

「金子三石兩封のまゝ。」

と、彼(かの)箱とを、渡しぬ。

 重太夫方より當座の礼として、金子百兩持參しけるを、甚之丞、堅く辭退しけれども、やうやうに渡し、酒など吞(のみ)かはし、夜ふくる迄、語り居て、歸りぬ。

 明(あけ)の日は、早天(さうてん)より起(おき)て、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此金子に灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])など奉り、重太夫、心に人しれぬ笑(ゑみ)をふくみ、氏神を幾度か拜みて、扨、かの封を切けるに、三百兩ながら、悉(ことごとく)眞鍮(しんちゆう)にて作りし似せ小判、壱文が物にもならず。

「こは、いかに。」

と、大に化轉(けでん)し、其まゝ、此金を引さげ、甚之丞が方へ行き、いろいろと穿鑿しけれど、却(かへつ)て、重太夫、言かけ者のやうになりて、樣子あしければ、

『一代の不覚也。』

と、肝をつぶして、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「化轉(けでん)」「怪顚」とも書く。吃驚すること。

「言かけ者」理屈に合わない言いがかりをつける輩。]

 元來、跡かたもない事なけれども、此似金(にせがね)[やぶちゃん注:金子に似せた贋金。]は、甚之丞の工出(たくみいだ)して、渡世の元債(もとで)となしける也。

 かゝる橫道をたくみて、人の金銀を手もぬらさずして取こみしかば、今まで樂々と過しけるに、此事のせんさく有けるより、何とやらん、ひそひそと、村中の取ざた、あしく、人まじはりも疎(うと)くなりしかば、此ほど、住なれたる家も纔(わづか)の金に代(しろ)なし、右の百兩に合て[やぶちゃん注:「あはせて」。]、大坂に下り、元鞚錦(うつぼにしき)丁に、少の由緣(ゆかり)あるを賴み、しばらく、付食(つけめし)に身を隱し、折ふし、北濱の米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て、少々の利分を窺(うかゞひ)けれども、始の程こそ、德分も付つれ、後々(のちのち)は、餘程の蹴込行(けこみゆき)て、次第に下りを請、よろづに心のまゝにとあらぬ矢先、此宿の亭主、ある夜、妻子を道修(だうしう[やぶちゃん注:ママ。])町なる親もとへ遣し、只ひとり、居間に寢もやらず、夜半のころまで、留守を守りて居たり。甚之丞は、其夜、谷(たに)町邊(へん)に用の事ありとて、出たりし跡なり。

[やぶちゃん注:「橫道」「わうだう(おうどう)」。「人としての正しい道に外れていること・邪道」或いは「不正と知りながら行うこと」。

「元鞚錦(うつぼにしき)丁」不詳。前に出た大阪府大阪市西区靱本町辺りか。次の「北濱」は、東北直近で、ごく近い。

「付食(つけめし)」賄い付きの居候か。

「北濱」大阪府大阪市中央区北浜。船場の「北」の「浜」(大阪では河岸(かし)を指す)の意。

「米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て」米の小売りに手をつけ。と言っても、これまでの甚之丞の様子から見ても、誰かを雇ってやらせものであろう。

「蹴込行(けこみゆき)て」舞台の蹴込に落ちるように、がっくりと儲けがなくなり。

「下りを請」「くだりをうけ」。赤字となって、であろう。

「道修町」大阪市中央区道修町(どしょうまち)。江戸時代からの薬種問屋街で、現在も製薬会社が並ぶ。北浜の南直近。

「谷(たに)町」大阪府大阪市中央区町。]

 比は元祿十五年[やぶちゃん注:一七〇二年。]の秋、もはや名月にちかき空、俄にかき曇り、時ならぬ夕立、一通り降(ふり)て、物さはがしくすさまじき折から、庭の沓(くつ)ぬぎの下より、人音して、立出(たちいづ)るもの、あり。

『こは、いかに。盗人にこそあるらめ。』

と思ふより、平生(へいぜい)、物おぢする人なりければ、憶病神(おくびやうがみ)[やぶちゃん注:ママ。]にひかされ、ちつともはたらかず、一念に大悲觀世音の名号をとなへ、

『所詮、此家にある程の宝、たとへ丸剝(まるはぎ)にして行たりとも、命さへあらば。』

と觀念し、他念なく念佛したりける後(うしろ)より、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]、一(ひと)太刀、きり懸(かけ)つる、と覚けるが、其後、夢中(むちゆう)のやうになりて、前後をしらず。

 盗人は、

「仕(し)すましたり。」

と、急ぎ、とゞめをさすべき心に成て、切つけし刀を引に[やぶちゃん注:「ひくに」。]、何に切つけしにや、有無(うむ)に[やぶちゃん注:どうしても。]、切込し所より、ぬけず。

「こは、いかに。」

と、心せきて、大汗(おほあせ)になりて、

「ゑいや、ゑいや。」[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。]

と引ける内、あるじの女房、手代などに送られ、歸りけるが運のつきとて、表の戶をしめざりける儘に、程なく、みなみな、門、一入[やぶちゃん注:「かど、ひとしほ」。]、音(おと)しければ、刀を捨(すて)て迯(にげ)んとせしが、何とかしけん、踏(ふみ)はづして、我着物の裾の破れに足を引かけ、

「どう。」

と、仆(たふ)れけるを、手代ども、見付て、やにはに、とらへて見れば、甚之丞也。

「扨は。きやつが手にかけ、旦那を殺しけるにや。」

と、切こみし刀を引ぬきて見しに、亭主には、露ばかりも疵つかず、持仏堂の戶を切割(きりわり)て、中なる舍利塔(しやりたう)に切先(きりさき)をきりこみて、ありける。

 かたじけなくも、此舍利は、和州法隆寺より申うけて、年比、侘心したりし、生身[やぶちゃん注:「しやうしん」。]の仏舍利にてありしとぞ。

[やぶちゃん注:「侘心」「わびごころ」か。心から静かに祀り拝んできたことを謂うか。

「生身の仏舍利」私も諸寺で見てきたが、高名な寺院のそれ、本物の仏舎利と称するものは、概ね、水晶であった。]

 亭主も此奇特に、性根(しやうね)も付かゝる不思議を得たりし悅に[やぶちゃん注:「よろこびに」。]、甚之丞が命をたすけるに、甚之丞も此瑞現(ずいげん)より、心ざしをあらため、其場にて髻(もとゞり)を切、すぐに道心の身となり、今に玉造(たまつくり)の邊にありとぞ。

[やぶちゃん注:「性根(しやうね)も付かゝる」心底をぶすりと突かれたような、の意でとっておく。

「玉造」大阪府大阪市中央区玉造。個人的には私なら、こんな近くに居てはほしくないね。]

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