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カテゴリー「怪奇談集」の798件の記事

2018/11/04

古今百物語評判 跋 / 「古今百物語評判」全電子化注~完遂

 

 

 「百ものがたり評判」、すでに梓(あづさ)にちりばみてければ、かたへの人、とふていはく、「山岡而慍齋は、寬文壬子(じんし)の頃、身まかり給ひけるよし、卷軸(くわんぢく)に見えたり。しかあれど、「評判」のうちに、ちか比(ごろ)の例(ためし)をも引き用ゐられぬる事侍れば、故事、おくれ、評判、さきだち、何とやらむ、つゐで、ものぐるおし[やぶちゃん注:ママ。]。誠(まこと)には、而慍齋の外に和漢の達者ありて、評判、くはへながら、名、かくし侍るもののやうに思はれ候は、いかに」。予、云(いへ)らく、「いかにも、よき推量にて侍る。醫家に用(もちゆ)る「素問(そもん)」と云(いへ)る書は、其説、黃帝におこりながら、その書は戰國のすゑになりぬれど、なべての人は皆、黃帝の時に成(なり)けるやうに、おもひあへり。又、「莊子」と云(いへ)るふみも、戰國の時、漆園(しつゑん)老人があらはしぬれど、堯舜孔顏の、さながら、の給ひけるやうに、つくろひなして、三墳(ふん)の文(ふみ)にも見えず、三代の世も聞及(ききおよ)ばざる異人の姓名など、書載(かきのせ)侍るを、巵言寓言(しげんぐうげん)と申しならはせり。此草紙も、かゝるためしに類(たぐひ)せるなんかし。而慍齋の長子何がし、博識洽聞(がうがん[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」のルビ。])にて、父の才德にも越へたり。過(すぎ)つるころ、此卷(まき)を予にしめして云(いは)く、『乃(すなは)ち、翁(おう)、此書をあみなんとて、中半(なかば[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」の二字へのルビ。])にして身まかりき。いざとよ、父の志(こゝろざし)をなしてむや』と云(いひ)てければ、予、聞(きき)て、『あな賢(かしこ)、よくも知らせ給ひし物哉(かな)』とて、あらきを補ひ、しげきを除き、日あらで、此ふみなりぬれば、功(いさをし)を其(その)みなもとの作者にゆづりて、かく、梓(あづさ)になむちりばめはべる」。

 

  貞享丙寅曆季夏仲旬

    堀川通西吉水町

        梶 川 常 政

    植木町通福島町    梓行

        杉 原 正 範

 

[やぶちゃん注:最後の記名は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの「德川文芸類聚(とくがわぶんげいるいじゅ) 第四 怪談小説」(大正三(一九一四)年国書刊行会編刊)にはないので、国書刊行会「叢書江戸文庫」の巻二十七「続百物語怪談集」(一九九三年刊・責任編集/高田衛・原道生)のものを恣意的に正字化して用いた。

「百ものがたり評判」本書「古今百物語評判」の異名。

「梓(あづさ)にちりばみてければ」板行して市中に出回ってみると。

「寬文壬子(じんし)」寛文一二(一六七二)年。

「卷軸(くわんぢく)」文書に軸を付けて巻き込めるようにしたもの。「まきぢく(まきじく)」とも読む。

「評判」これは而愠斎の評言部分の謂いではなく、書物全体、則ち、「古今百物語評判」一書全体を指していると読むべきである。

「ちか比(ごろ)の例(ためし)をも引き用ゐられぬる事侍れば」「百物語評判卷之五 第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事」(「※1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「※2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)の「※1※2乙(きんじゆつおつ)」の私の注を参照。なお、そこで示した、太刀川清氏の論文「『百物語評判』の意義」(『長野県短期大学紀要』(一九七八年十二月発行)所収)PDF)は本「古今百物語評判」の論文(本書のみを真正面から論じた論文は少ない)としては非常に優れたものである。必読。

「つゐで」不詳。しかし、これが「ついで」の誤記ではあるまいか?(本書は歴史的仮名遣の誤りが(特にルビで)甚だ多い) とすれば、これは「ついで」で名詞「序(つい)で」(「次第(つぎて)」の転訛)で「順序・次第」の意ではないか? 時系列の順が狂っていて、読んでいるうちに、「ものぐる」ほ「し」く=異常な感じさえ覚えるようになってしまうというのである。

「評判」こちらは前後から、而愠斎の評言部分の謂いと採れる。而愠斎に問い対話する人間の話にならまだしも、この世にいない元隣の評釈部分の例に死後の巷間の出来事が語られるのでは、これこそまさに真の怪談ということになるからである。しかし、それも怪談集ならでは、寧ろ、あって読んだ後に「あれ?!」とその事実に想到して慄然とするのも、怪談の読後の醍醐味、基、凄みというべきであろう。

「予」不詳。最後の記名は版元で、この孰れかが記したというのは、通常は考えにくい。但し、この二人の名前は書肆の町人にしてやや格好が良過ぎる。先に示した、太刀川清氏の「『百物語評判』の意義」には、『近代日本文学大系「怪異小説集」の解説者(笹川種郎氏)は、版元の京都堀川通西吉水町梶川常政、植木町通福島町杉原正範の二人を、いずれも山岡元隣の門人であるというが、そうす』るなら、「序」に出る「やつがれも其座につらな」たったという下僕(やつがれ)は『そのうちの一人であったか。しかしその確証はない』とある。しかし、仮に孰れかが門人であったなら、「跋」は書けるであろう。

「醫家に用(もちゆ)る」山岡元隣は医師でもあったことをお忘れなく。

「素問(そもん)」中国最古の医書。「霊樞(れいすう)」とともに「黄帝内経(こうていないきょう:「内経」は本邦では「ないけい」「だいけい」とも読まれる。秦漢時代の成立(本文ではその少し前「戰國のすゑになり」(成り)「ぬれど」と言っている)、と伝えられ、黄帝(既出既注。中国古代の伝説上の帝王。名は軒轅(けんえん)。神農氏の時、暴虐な蚩尤(しゆう)と戦って勝利し、推されて帝となった。衣服・貨幣・暦・医薬・音律などを定めたという。五帝の一人)と名医との問答体で、古代中国の医術と身体観を記す。鍼灸医学の古典)」を構成する。「霊枢」よりも成立は古いとされ、自然哲学的な医学論が中心であるが、現行のものは唐代に大幅に改変されたものとされている。

「漆園(しつゑん)老人」荘子(紀元前三六九年頃~紀元前二八六年頃)の通称。「史記」の「老子韓非列伝」に、

   *

莊子者、蒙人也、名周。周嘗爲蒙漆園吏、與梁惠王、齊宣王同時。其學無所不闚、然其要本歸於老子之言。故其著書十餘萬言、大抵率寓言也。

(荘子は蒙人なり、名は周。周は、嘗つて蒙(もう)[やぶちゃん注:戦国時代の宋の地名。現在の河南省商丘市民権県。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の漆園(しつえん)の吏[やぶちゃん注:漆を採取する漆林の管理人。]と爲り、梁の惠王、齊(せい)の宣王と時を同じうす。其の學は闚(うかが)はざる所無く、然るに、其の要は老子の言に本(ほん)を歸(き)す。故に其の著書十餘万言、大抵は率(おほむ)ね寓言(ぐうげん)なり。)

「堯舜孔顏」古代の理想的聖王堯(ぎょう)・舜(しゅん)と、孔子と彼が最も愛した高弟顔回。

「の給ひ」「宣ひ」。

「三墳」中国古代の書籍と伝えられるものの、謎の書である「三墳五典」のこと。ウィキの「三墳五典」によれば、『どのような書であったかは諸説紛々としてわからない。三墳五典、またはそれを略した「墳典」「典墳」は、珍しい貴重な書籍を意味する語として、後世の詩文によく使われる』。但し、『三墳五典の名は』、「春秋左氏伝」昭公十二年に既に『見え、それによると』、『楚の霊王が左史の倚相をほめて「三墳・五典・八索・九丘を読むことができる」と言ったという。杜預の注は「みな古書の名である」と簡単に述べるにとどまる。このうち八索は』「国語」に『も出てくるが、韋昭は書物ではなく』、『身体の部位のこととする』。「周礼」の「春官・外史」に『「三皇五帝の書を掌る」とあり、鄭玄』(じょうげん:後漢末の学者)『注に三墳五典のこととする。三墳五典が何を指すかは、人によって説が異なる。もっとも有名なのは』、『孔安国に仮託された』『「尚書」序の『説で、「伏羲・神農・黄帝の書を三墳といい、大道を説いたものである。少昊』(しょうこう)『・顓頊』(せんぎょく)『・高辛』(帝嚳(こく)の別名)『・唐・虞の書を五典といい、常道を説いたものである」といい、また八索は八卦の説で、九丘は九州について記したものとする。書序はまた、孔子が三墳五典をもとに』「尚書」(=「書経」)百篇を『選び、八索九丘は孔子によって除かれたとする』。『そのほか、賈逵』(かき:後漢の儒学者・天文学者)『によれば、三墳は三王(禹、湯王、文王・武王)の書、五典は五帝の典、八索は八王の法、九丘は九州亡国の戒であるという。延篤は張衡の説により、三墳は三礼、五典は五帝の常道、八索は』「周礼」に『いう八議の刑(八辟)、九丘は九刑であるとする。馬融は三墳を天地人の気、五典を五行、八索を八卦、九丘を九州の数であるとする』。「釈名」(しゃくみょう:後漢末の劉熙(りゅうき)が著した辞典)『よると、三墳は天地人の三才の区分を論じたものであり、五典は五等の法であり、八索は孔子のように王にならなかった聖人の法であり、九丘は九州の地勢の違いに応じて教化するものであるとする。また、これらの書物はすべて上古の書物であり』「尚書」の「堯典」『以外は滅んだとしている』。『三墳を三皇の書とした場合、三皇は黄帝より前の人物であるので、「黄帝の時代に蒼頡が文字を作った」というもうひとつの伝説と矛盾する』。孔穎達(くえいたつ:初唐の学者)『よると、三皇の時代に字がなかったというのは緯書』(いしょ:漢代に儒家の聖典である経書類を神秘主義的に解釈した書物群。「緯」とは「経」(縦糸)に対する「横糸」であり、経書に対応する書物(群)を指して緯書と称している)に『もとづく説にすぎず、蒼頡が黄帝の史官であったとするのも一説にすぎないとして、伏犧以前に文字があったとする』。なお、「古三墳」という『書物が現存するが、宋以前の目録に見えず、宋代の偽書と考えられている』とある。

「三代」中国史で最も古い三つの王朝、夏・殷・周と採っておく。

「巵言寓言(しげんぐうげん)」「巵言」は、その時に応じて、便宜的に用いる臨機応変の言葉を指し、「寓言」は中国人の大好きな、他の事象に仮託して表現する譬え話のこと。

「洽聞(がうがん)」既出既注。通常は「かうぶん」が正しい(現代仮名遣は「こうぶん」)。「洽」は「遍(あまね)く」の意で、見聞や知識が広いことをいう。

「貞享丙寅曆季夏仲旬」「貞享」の「ひのえとら」は三年で、一六八六年。「季夏」(きか)は晩夏で陰暦六月の異称。この年は閏三月があるので、六月中旬はグレゴリオ暦では八月の上旬である。これは本「古今百物語評判」の初版のクレジットであることが確認される。

「堀川通西吉水町」現在の京都府京都市下京区吉水町(よしみずちょう)(堀川通)。(グーグル・マップ・データ)。

「梶川常政」不詳。他の書誌で書林梅花堂の書肆名を頭に被せるものがある。

「植木町通福島町」不詳。現行の福島町ならば、京都府京都市上京区福島町と、下京区福島町の二箇所がある。「植木町通」というのは現在の京都市街にはないようである。

「梓行」「しかう」。板行(はんぎょう)。出版。

「杉原正範」不詳。]

2018/11/03

古今百物語評判卷之五 第八 而慍齋の事幷此草紙の外題の事

 

  第八 而慍齋の事此草紙の外題の事

一座の人の云(いふ)、「今夜(こよひ)も既に深更に及びければ、いざ、御暇(おんいとま)申(まうし)侍らむ」とあれば、某(それがし)の云(いは)く、「此(この)ばけ物の次手(ついで)には、いな物にて候へども、今ひとつ、まぢかき不審の御座候は、先生のもの語(がたり)を承り候に、何事を尋ね候ひても、楯板(たていた)に水をながすごとく、然も、其(その)ふる事[やぶちゃん注:「古事」。]の御噂(おんうわさ)ども、まざまざ、書物を御ひかへなされ候やうに聞え侍る。かゝるうへは、さぞ、御胸中(ごきようちゆう)もすゞしく、萬(よろづ)の事に附(つき)ても、御いきどをりも有(ある)まじきやうに存じ候ふに、齋號を『而慍』と御附なされ候ふは、何事ぞや」と云へば、先生、こたへて云(いふ)、「余が齋號は御存じのごとく、「論語」に『人不ㇾ知而不ㇾ慍不亦君子乎』(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)といふ心を用ひ申候。此心は、『こゝに人あり、身によりより、習ひてつみをきたる才德ありとても、元より、人に賣(うる)べき心ならねば、人、知らずとて、露(つゆ)許(ばかり)いきどをる心、なし。若(もし)、あげ用ひたらむ時は、時にしたがふて行(おこな)ふべきのみ、と思へるは、君子ならずや』とのたまふ。されば、某(それがし)は、君子にあらず。然る故に、すこしばかりたくはへをきたる才藝を、人、しらず。然るを、憤るがゆへ、かく齋號を附(つき[やぶちゃん注:原典のルビ。])申たるなり。と申せば、今更、おこがましき事なれど、若きより書物にふけりて、あたかも、書癖(しよへき)あるに似たり。此故に經史子集(けいしししふ)の、まちまちなるに眼をさらし、上(かみ)、伏犧(ふつき)より、下(しも)、明・淸におよぶまで、世の治亂、政(まつりごと)の得失、人の賢否(けんぴ)、事の變易(へんえき)、ひとつとして覺えずといふ事なく、醫術・卜筮(ぼくぜい)・種樹・相牛(さうぎう)の事まで、殆んど、さとし。中比(なかごろ)、禪學を好みし故に、「大藏經」五百凾(かん)のくだくしきは、さらにもいはじ、諸宗の義論、諸師の語錄に、ほゞ通達し、我(わが)日のもとの道は、淺香山(あさかやま)のふもとへもわけのぼり、にほてるうみのながれをも汲み、連歌俳諧の小技(しやうぎ)まで心がけ候へども、誠に昌黎(しやうれい)の云へるごとく、頭(かしら)、かぶろに、齒、あばらばなるまで、させることなく、たゞさびしきに打ちまかせて、「四書詳論」・「曆代異考」・「源氏家傳抄」・「百人一首新抄」・「伊勢物語言餘抄」・「つれづれ增補鐵槌」・同(おなじく)「別傳」・「方丈記抄」・「歌本草增補」・「水鏡の抄」・「たが身のうへ」・「小さかづき」・「たからぐら」・「はいかい仕やう」など、あみをき[やぶちゃん注:ママ。「編み置き」。]候(さふらふ)を、人の望(のぞみ)にまかせて、梓(あづさ)にちりばめし[やぶちゃん注:出版した。]も、あり。又、家にのこせしも、あり。かくして、世にも、かず、まへられず[やぶちゃん注:ママ。「參られず」。たいして用いられず。]、時にも知られず、草木(くさき)とともに朽果(くちはて)むは、何ぞ『而慍(而(しか)るを慍(いきどほ)る)』ならざるべきや」。某(それがし)、また、云(いは)く、「今夜(こよひ)の御物がたりを、我々、かき附(つけ)をきて[やぶちゃん注:ママ。]、後に板行(はんかう[やぶちゃん注:原本のルビ。])いたさば、外題(げだい)を何と申(まうす)べく候哉(や)。此草紙に論じ給ふ處、古今(ここん)の不思議あきらかにきこえ、其(その)博識洽聞(かうぶん)なる事、五車(しや)の書をも恥ぢざるべし」といひしかば、先生、いへらく、「若(もし)、今夜(こよひ)のはなしを書附(かきつけ)給はゞ、「百物語評判」と名附(なづけ)給ふべし。淺き名のやうに侍れども、是、古人の心に叶ひ侍る。むかし、張橫渠先生、東西の窓の銘を書きて、「砭愚訂頑(へんぐていぐはん)」と名附け給ひしかば、程子、是れをきらひて、『たゞ東西の銘と號せよ』と教へ給ひき。されば、此草紙もさまざまの名も侍るべけれど、只、今夜の實事(じつじ)にしたがひて名附給ふべし」と申されて、眠(ねむれ)るやうに見えければ、各々、退出いたしぬ。其後(そののち)、先生、寬文壬子(みづのえね)のとし、六月二十七日に、四十二歳にして果(はて)られたり。若(もし)、是にかす[やぶちゃん注:寿命を「仮に与える」の意の「假す・藉す」か。「加す」で「齢(よわい)を加える」かも知れない。]に、年を以てせば、いかばかりの事か侍らんに、殘(のこ)り多く侍らずや。先生姓は平(たひら)、山岡氏(やまをかうぢ)、諱(いみな)は元隣、字(あざな)は德甫(とくほ)、父祖は勢州山田の人なり。是も、其夜の物がたりなれば、かきつけ侍る。

[やぶちゃん注:これが「古今百物語評判」本文の掉尾である。但し、この後に別人による跋文がある(無論、電子化する)。

「論語」「『人不ㇾ知而不ㇾ慍不二亦君子一乎』(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)」(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)」「論語」の巻頭「学而第一」の冒頭に配された名文、

   *

子曰、「學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」。

(子曰はく、「學びて時に之れを習ふ、亦、説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より來たる。亦、樂しからずや。人、知らずして、慍(いきどほ)らず、亦、君子ならずや。」と。)

の末尾。「慍」(音「ヲン(オン)」)は「憤」で「憤(いきどお)る・腹を立てる・不平不満を懐く」の意。「慍(うら)みず」という訓読も広く行われる。「慍」(「憤」も)和語の古語では「慍(ふつく)む」(近世には「ふづくむ」とも)とも訓じた。

「書癖(しよへき)」愛書・読書癖。

「經史子集」漢籍の分類法。「経書(けいしょ)」(「経」は縦糸。「古今を貫く真理を載せた書物」の意から、儒教の経典を指す。中国古代の聖賢の教えを記した四書・五経・九経・十三経の類いを指す)・「史書」・「諸子」(諸子百家の書群)・「詩文集」の四部に分けるもの。

「伏犧(ふつき)」複数回既出既注。中国古代の神伏羲(ふっき)。

「明・淸」明代・清代。元隣の亡くなった寛文一二(一六七二)年は、清(一六一六年に女真族のヌルハチ(太祖)が明を滅ぼし、国号を後金として建国)の康熙十一年に当たる。

「種樹」草木を植えること。ここは本草学(植物学)の知識を指すのであろう。

「相牛」牛の外見の相(そう)を見て、その性質を占うこと。ここは前と対で、動物学的知識を指すのであろう。

『「大藏經」五百凾(かん)』仏教の聖典を総集したもの。経・律・論の三蔵を中心にそれらの注釈書を加えたもの。一切経。「凾」は「箱」。「卷」に同じいが、版本により、巻数は一千とも五百とも称し、異なるので、限定すり意味はない。

「淺香山(あさかやま)」「安積山」とも書き、福島県郡山市日和田にある山(同市片平の額取(ひたとり)山とする説もある)で歌枕。葛城王 (かずらきのおおきみ:後の左大臣橘諸兄)と采女(うねめ)との山ノ井伝説で知られる。ここはその采女の詠んだ「万葉集」巻第十六(三八〇七番)の「安積山影さへ見ゆる山の井の淺き心を吾が思はなくに」に掛けて、和歌の道の修学の志向を指すものであろうか。

「にほてるうみ」「鳰照る湖」で、鳥のカイツブリが水面に浮かんで輝いている琵琶湖の意か。歌枕の代表として前の浅香山と対で、やはり和歌の学びの精進を指しているか。

「昌黎(しやうれい)」中唐の詩人の韓愈。昌黎(現在の河北省昌黎県)の出身であると自称したことから「昌黎先生」と尊称されるが、実際には鄧(とう)州河陽(今の河南省孟州市)の出身である。唐宋八大家の一人。才気煥発で政治家としても辣腕を奮ったが、政敵も多く、憲宗の逆鱗に触れ、左遷の憂き目を受けたこともあり、官人としての半生は必ずしも順調なものではなかった。

「頭(かしら)、かぶろに、齒、あばらばなる」後者は「疎(あば)ら齒」で、抜けて隙間が多くなった歯の意であろう。韓愈の若き日(三十五歳)の文「與崔群書」(崔群に與ふる書)に、歯槽膿漏で歯が抜け、目が翳(かす)み、鬢は真っ白、頭も半白と歎いており、五言古詩の「落齒(らくし)」もある。ともに紀 頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらを参照されたい。

「四書詳論」不詳。以下、山岡元隣の著作が列挙されるが、情報が乏しく、有益な注は附せられなかった。悪しからず。

「曆代異考」不詳。

「源氏家傳抄」「源氏物語」の研究書。

「百人一首新抄」不詳。「小倉百人一首」の注釈研究書か。

「伊勢物語言餘抄」「伊勢物語」の研究書。

「つれづれ增補鐵槌」「徒然草鐡槌增補」。「徒然草」の注釈研究書。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典全文が読める。

『同(おなじく)「別傳」』不詳。

「方丈記抄」明暦四(一六五八)年刊。「方丈記」の注釈書。早稲田大学図書館古典総合ータベースで原典全文が読める。

「歌本草增補」「食物和歌本草增補」であろう。元文二(一七三七)年に「食物和歌本草」が刊行されているが、後の寛文七(一八六七)年に増補版が出ている。和歌を対象とした一種の博物書のようである。共著。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらでも、彼が担当したと思われる原典部分が読める。

「水鏡の抄」「水鏡」の研究書。明暦二(一六五六)年刊か。

「たが身のうへ」「他我身之上」。仮名草子。明暦三(一六五七)刊。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「小さかづき」「小巵」。仮名草子。寛文一二(一六七二)刊。

「たからぐら」「寶藏」。俳書。寛文一一(一六七一)年刊。和漢の故事を多く引き、洒落飄逸な味を持つ俳文の嚆矢とされる作品。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「はいかい仕やう」「俳諧仕樣」。寛文二(一八六二)年刊の俳諧作法書「誹諧小式」の外題(げだい:書物の表紙に記してある書名・題名。書物の扉や本文の初めなどの内部に記されている「内題」と異なることがしばしばあり、それは本文内でもよくある。そもそもが本書でも、正式には「古今百物語評判」であるが、本文中には「百物語評判」とする箇所が多い)。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「洽聞(かうぶん)」現代仮名遣は「こうぶん」。「洽」は「遍(あまね)く」の意で、見聞や知識が広いことをいう。

「五車」荷車五台分。

「張橫渠」既出既注

「砭愚訂頑(へんぐていぐはん)」「砭愚」とは愚を治療すること。「砭」は中国の鍼術で用いる石で造った針。焼いて瀉血などに用いた。「訂頑」は文字通り、頑(かたく)なな点を正すの意。ここに出る話は、朱子学の入門書として南宋の朱熹と呂祖謙が編纂した「近思録」(北宋期の学者で宋学を始めたとされる、周濂渓・張横渠・程兄弟の著作をもととし、一一七六年に刊行された)に出る。

   *

横渠學堂雙牖右書訂頑、左書砭愚。伊川曰、是起爭端。改訂頑曰西銘、砭愚曰東銘。

(横渠、學堂の雙牖(さうゆう)の右に「訂頑」と書し、左に「砭愚」と書す。伊川(いせん)曰く、「是れ、爭ひを起こす端(たん)たり。『訂頑』を改め、『西銘』と曰ひ、『砭愚』を『東銘』と曰へ。」と。)

   *

「雙牖」は双方に並んだ窓の戸。

「程子」これは既出既注の北宋時代の儒学者で朱子学・陽明学のルーツとされる程兄弟「二程子」の弟の程頤(い 一〇三三年~一一〇七年)のこと。「伊川先生」と称された。

「寬文壬子(みづのえね)のとし」寛文十二年。グレゴリオ暦では一六七二年七月二十一日。]

古今百物語評判卷之五 第七 而慍齋化物ものがたりの事

 

  第七 而慍齋(じうんさい)化物ものがたりの事

一人のいはく、「宵よりの物語にさまざまの道理を仰せきかされ候が、先生は何にてもばけ物御覽候哉(や)」と問ひければ、先生、答(こた)へて云はく、「それがしこそ、ばけ物多く見候(さふらひ)て、此事を恐れ申(まうし)侍る。其次第を語り申さん。先づ、たゞ今は世に、儒學、はやり候ふ故、我、人ともに、少し、文字を讀(よみ)候へば、髮頭(かみかしら)異(こと)やうに、衣服、きらきらしくつくろひ、かしこげに物いひ、年よる人をあなどり、露(つゆ)許(ばかり)の學問に高ぶり、利慾は常の人に十倍して、口には見事に云ひなせども、實(まこと)の律義(りつぎ)、つゆばかりもなきは、俗儒・腐儒など云ひて、儒者の化物なり。身には三衣(さんえ)を着(ちやく)し、口には五戒をとけども、誠(まこと)の道心、ゆめばかりもおこらずして、破戒無慚のやからは、出家のばけたる賣僧(まいす)ならずや。其外、世俗のわざにも、傾城(けいせい)などいふ物の仕かたを見るに、思はぬ方に空啼(そらなき)し、髮をきり、爪をはなし、かたへに來りても、女房のごとく、ことかたにも、さのごとく、人をたぶらかし、金銀をすひとるは、是、女のばけ物なり。近比(ちかごろ)は又、『かぶき太夫』といふ物、あり。元より、男色(なんしよく)の道も、むかしよりいましめたれど、此比にいたりては、殊更に盛(さかん)になりて、おのれより年よりたるをも戀(こひ)しとふて、猶、まどひやすきは、好色のばけ物ならずや。其外、『判(はん)はんじ』・『はとのかい』などいふもの、一文不通(いちもんふつう)の身にて、人の分別を沙汰し、剃刀(かみそり)より薄きえりつきにて、人の貧富を論ずるは、いかなるばけ物ぞや。かやうの類(るい)、多しといへども、語り盡すまじ」と申されき。

[やぶちゃん注:コーダの一つ前で、「而慍齋」元隣(「而慍齋」は彼の別号)は遂に、この手の評釈系怪談にありがちな、真の化け物は現在の世の人の中にこそいる、という辛口の諧謔による世俗批判を展開する。そこでは、形の上では自身も含まれるという鏡返しの謙遜を加えてはいるものの、相当に辛辣であると言える。元隣の生涯が如何なるものであったかは詳らかには知らぬが、この口吻には同時代の自称文化人に対する彼の憤懣も現れているように見うけられる。

「三衣(さんえ)」既出既注であるが、再掲する。「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のこと。

「五戒」既出既注であるが、再掲する。在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「傾城」花魁(おいらん)・娼妓(しょうぎ)の異称。ここは広義の遊女・女郎でよい。

「思はぬ方に」思いもしなかった折りに。或いは、悪意にとれば、想像も出来ない方法でか。次注参照。

「空啼(そらなき)し」エキサイトニュースコラム嘘泣き、断髪、爪剥がし!?吉原遊郭の恒例、遊女とお客の駆け引きバトルは凄まじいに『吉原を始めとした遊里を端的に表現した言葉として名高いのが、『四角な卵と遊女の誠、あれば晦日に月が出る』と言うものがあり』、『これは』、『いずれも四角い卵と月末に出る月はあり得ないもの、それと並んで遊女の誠意はあるはずがないと揶揄している』とし、さらに『遊女にはミョウバンを着物に染み込ませて顔をこすり、涙を流して見せる“女郎のそら涙”つまり嘘泣きを中心に、客人を篭絡するための様々な策略があ』るとある。また、『客人を篭絡するための様々な策略があ』る『が、その最』『たる物が』「心中」で』、『一般的に心中と言えば』、『自害・自殺行為を連想させ』る『が、遊里での心中は』、「心中立」(しんじゅうだて:個人サイト「自傷行為と理解の「心中立」によれば、『自分の心の中をすっかり見せ、契りを交わした相手に愛の証拠をみせ、恋愛の誠実性を立証すること』とある)『とも言って』、『客人に対し』、『真心を示す遊女の行動を意味してい』『た。心中は大きく分けて』六『種類の行為があり、本項ではそのうちから』、「断髪」と「放爪(ほうそう)」を紹介するとある(以下、次注に続ける)。

「髮をきり、爪をはなし」上記リンク先の「2」に、一『つ目の断髪は文字通り』、『髪を斬ることで』、『遊里では髪の毛の一部を渡す』ことを指した。『しかし、殆どは髪にボリュームを持たせる』「かもじ」(髢・加文字とも書き、「髪文字」の略。髪を結ったり、垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪。人毛や牛の尻尾の毛が使われる)で『あったり、他の人から入手した物が多』かったとあり、『続いての放爪は指から爪を取って渡し、思いの丈を訴えるもので』、『爪が剥げたり』、『割れたりするのは痛い』『ので、その痛みを誓いの印としたので』あろうと思われるが、実際に自分の『爪の周りを切り回したり、痛み止めとして酢に浸すなど、色々な工夫が凝らされてい』たが、『これにも抜け道があり、妹分に頼んで』、『彼女の小指の爪を伸ばさせ、それを切って何食わぬ顔で渡したり』、井原西鶴の処女作「好色一代男」(天和二(一六八二)年の『ように死人から抜いた爪を商う業者から買う』、『などの計略があ』ったとある。

「ことかたにも」別な男のところでも。

「かぶき太夫」歌舞伎では女方の最高位の者を太夫と敬称するから、以下の叙述と一致する。それに掛けて、並外れた男色家を蔑称したものであろう。

「判(はん)はんじ」小学館「日本国語大辞典」に、「はんはんじ」、漢字表記「判判」で載り、『法師の姿をしたものや歌比丘尼』(六道図や熊野那智参詣曼荼羅などを絵解きしつつ、全国に熊野信仰を広めた熊野比丘尼が、江戸時代に宴席に侍るようになった者の呼称で、中には売春行為を行う者もいた)『などが、熊野牛王』印(熊野三山で配布した符印。妄語を正す熊野の神使である烏の絵で図案化した「熊野牛王宝印」の六文字が印刷され、朱の宝印が押してあるもの。護符や起請文を記すのに用いた)『の誓紙などで占をすること。また、その人』とある。

「はとのかい」同じく小学館「日本国語大辞典」の「鳩」の大項目内に「はとの飼い」として載り、『口先で人をたぶらかして世渡りをする人。詐欺師やいかさま師などにいう。もと、山伏や占者のような格好をして、家々を回り、熊野の新宮・本宮の事を語っては、鳩の飼料と称して金をだまし取ったところからという』とあり、「語源説」の欄に、『八幡神に託して鳩の飼料をむさぼるの義か』(「和訓栞」)、『ハトノカイ(法度害)の意か』(「大言海」)とある。

「一文不通(いちもんふつう)」一文不知とも言う。一つの文字も読み書きができないこと。「文」は文字の意で、一つの文字すらも、通じてさえ判ってさえもいないの意から。

「人の分別を沙汰し」人を占うと称して語り(事実は「騙り」)。

「剃刀(かみそり)より薄きえりつきにて、人の貧富を論ずるは」剃刀より薄い襤褸でさえないような代物を身に纏っていながら、人の金運不運を占って語る(事実は「騙る」)というのは。]

2018/11/02

古今百物語評判卷之五 第六 夢物がたりの事

 

  第六 夢物がたりの事

ある人の云(いはく)、「『かんたむ[やぶちゃん注:「邯鄲」。]の枕』といふは謠(うたひ)に御座候が、出處(しゆつしよ)さふらふや」と問(とひ)ければ、先生、こたへていはく、「山谷(さんこく)が『蓋ㇾ世成ㇾ功黍一炊』(世を蓋(おほ)ひ功を成す 黍(しよ)一炊(すい))といふ詩の註に、「異聞錄」を引きて云(いへ)り。これ、仙術の事なるを、謠には佛道の事にまじへたり。上(かみ)にて申(まうす)ごとく[やぶちゃん注:前条を指す。]、其術(じゆつ)なきにもあらねば、さる事もや侍らむ。さて、夢といふものこそ、さまざまのやうす、侍れ。先づ、人の寢入りたる時は、五臟六腑のつかさどる處々(ところどころ)、何れも其態(わざ)止(やむ)といへど、本心(ほんしん)の主人は、ねいらず、かるがゆへに、思ふ處の事あれば、起(おき)たる後(のち)、おもひ出(いだ)して、是を、夢、といふなり。さて其夢に、さまざまのかはりあり。たとへば、心(しん)の火(ひ)、虛(きよ)したる人は、水を夢み、腎の水(みづ)、虛したる人は、火を夢みなどするを、病夢といふ。又、其かたちの、ふるゝ[やぶちゃん注:「觸るる」。]事に附きて、見る事、あり。足を重ねて橫に臥(ふし)たるとき、其足、うへより落(おつ)れば、かならず、高き處より落(おち)たる、と思ふ事あり。是れまた、病夢の類(るい)なるべし。又、心(こゝろ)に富貴(ふつき)を願へば、富貴をゆめみ、苦勞を思へば、苦勞を夢み、其おもふところによつて、其事をみるは、思夢(しむ)といふ。孔子の、いはゆる、『夢にだに周公をみず』と仰せられしも、此類(るい)なり。又、瑞夢(ずいむ)といふは、丁固(ていこ)が松の夢、王濬(わうしゆん)が三刀(さんとう)の夢の類(るい)、よき事あらむとては、必ず、前より其氣の相(あひ)感じてみる夢をいふなり。彼の「詩經」にとける[やぶちゃん注:「説ける」。]夢あはせのごとく、蛇をみれば、女子(によし)生れ、弓をみれば、男子(なんし)生るゝ類(るい)、もしくは、こゝもとにて云へる、一富士二鷹の類(るい)なり。又、あしき夢のみえて、かならず、其難の來(きた)るも、其理(ことわり)、又、かくのごとし。人の心は神明(しんめい)に通ずるものなれば、自然(しぜん)と其善惡を、前より、さとるなるべし。されども、起(おき)ゐて、事にふれ、人に交(まぢ)はるときは、他念おほき故に、其事、なけれども、寢入りたるときは、却(かへつ)て心の働きも專らなるべし。又、瑞夢にも思夢にも病夢にもあらず候ひて、兵庫の湊より天竺の風景を詠(なが)め、車に乘りながら、鼠穴(ねずみあな)を通る、などゝみるは、是れ、實(まこと)の夢にして、はかなき事なるべし」と評せられき。

[やぶちゃん注:「『かんたむの枕』といふは謠(うたひ)御座候」ここで元隣は何だかぐちゃぐちゃ言っているが、「邯鄲の枕」(他に「盧生の夢」「黄粱夢」「黄粱一炊の夢」等)は、唐の沈既済(しんきさい)の伝奇小説「枕中記」(ちんちゅうき)が原典私の芥川龍之介「黃粱夢」では同作の注は勿論、『原典 沈既濟「枕中記」全評釈』及び『同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」』他を附してあるので、参照されたい(私のサイトでも最もアクセスの多いページのベスト・ファイブに入るものである。殆んどは高校生・大学生で、休業の終りや試験前の時期になると大繁盛らしい)。「謠」というのは、能の「邯鄲」のこと。同話を原素材に作られた能の演目であるが、ウィキの「邯鄲の枕」によれば、『しかし道士・呂翁にあたる役が、宿屋の女主人であり、夢の内容も』「枕中記」とは『異なり』、「太平記」巻二十五などに『見えるような』、『日本に入ってから変化した』、「邯鄲の枕」の『系譜上に位置づけられると言えよう。舞台上に設えられた簡素な「宮」が、最初は宿屋の寝台を表すが、盧生が舞台を一巡すると』、『今度は宮殿の玉座を表したりと、能舞台の特性を上手く利用した佳作である』。『なお、盧生の性格や描写から憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し』、この「邯鄲」の『盧生役のほか』、「高砂」の『住吉明神などの若い男神の役でも使用される』とある。詳しくは、サイト「宝生流謡曲名寄せ」の邯鄲(かんたん)」のページがよい。

「山谷(さんこく)が『蓋ㇾ世成ㇾ功黍一炊』(世を蓋(おほ)ひ功を成す 黍(しよ)一炊(すい))といふ詩」「山谷」道人は北宋の名書家にして名詩人として知られた黄庭堅(一〇四五年~一一〇五年:宋代の詩人としては、かの蘇軾・陸游と並称され、書家としては蘇軾・米芾(べいふつ)・蔡襄(さいじょう)とともに宋の四大家に数えられて、「詩書画三絶」と讃えられ、師でもあった蘇軾と名声を等しくし、「蘇黄」と呼ばれた)の号。一節は、彼の以下に示す七「王稚川既得官云々其二」の承句。

   *

從師學道魚千里

蓋世成功黍一炊

日日倚門人不見

看盡林烏反哺兒

 師に從ひて道を學ぶこと 魚(うを)の千里

 世を蓋つて功を成すも  黍(きび)の一炊のみ

 日日(ひび) 門に倚(よ)れども人(ひと)見えず

 看(み)盡くせり 林烏(りんう)反哺(はんぽ)の兒(じ)

   *

「異聞錄」晩唐の陳翰(ちんかん)が唐代の代表的伝奇作品を集めて編んだ撰集「異聞集」(全十巻)のこと。ウィキの「異聞集(陳翰)」によれば、沈既済の「枕中記」は『文字にかなりの異同があり、編者陳翰が手を入れた様を窺わせ』、『改編の跡が顕著に判る例であ』るとする。

「謠には佛道の事にまじへたり」謡曲の「邯鄲」の終局部は仏教的無常観を基底としており、最後はシテの盧生が「南無三寶南無三寶」と呼ばわり、地謠が「よくよく思へば出離(しゆつり)を求むる」と謡う。「出離」とは迷いを離れて解脱の境地に達すること(別に「仏門に入ること」の意もある)を指す仏語である。

「本心(ほんしん)の主人は、ねいらず」面白い。精神分析学や脳生理学的に正しいことを言っているかのように見えるではないか。

「孔子の、いはゆる、『夢にだに周公をみず』と仰せられし」「論語」の「述而篇」第七の五に出る。

   *

子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公也。

(子曰く、甚だしきかな、吾が衰ふや、久し。吾れ、復た夢に周公を見ず。)

   *

これは心理学的に正しい。孔子は自らの教えが受け入れられず、世が乱世を続けていることに耐え難く、無意識的には現実世界に失望していたものと思う。そのネガティヴなあってはならないはずの失意の致命的内実について、理想の政治を採った周公旦の夢を見なくなった自分を通して、肯定は出来ないまでも、実は強く感覚的には感じとっていたのである。

「瑞夢(ずいむ)」吉祥の予知夢。

「丁固(ていこ)が松の夢」三国時代の政治家で呉に仕えた丁固(一九八年~二七三年)は、二六八年二月に最高位の官職である三公の一つ、司徒に昇進した。「呉書」によると、以前、丁固が尚書であった頃、『松の木が腹の上に生えるのを夢に見て、ある人に「松の字は十・八・公からなる。十八年後、私は三公になっているであろう」と言っており、結局』、『夢のとおりになった』とウィキの「にある。

「王濬(わうしゆん)が三刀(さんとう)の夢」三国時代の武将で、魏・西晋に仕えて活躍した王濬(二〇六年~二八五年)は、『広漢太守だった頃』、三『本の刀を寝室の壁にかけ、その刀がもう』一『本増えるという夢を見た。不吉に思った王濬が主簿の李毅にこの話をすると』、『李毅は「三刀は州の字です。これに一刀が増えたのは領土の拡大に成功することです」とこれを祝賀した』と(事実そうなったのであろう)ニコニコ大百科」「王濬にあった。

『「詩經」にとける夢あはせ』「夢あはせ」は「夢合わせ」で「夢占」のこと。「詩経」には幾つかの夢占いが登場する。今場正美論文注 中国古代夢(PDF)によれば、

   《引用開始》

「詩経」中の関連記事によれば、[やぶちゃん注:中略。]占夢の制度は西周時代から春秋時代の初め頃の状況と概ね一致する。[やぶちゃん注:「詩経」の。]『小雅』正月に「彼の故老を召し之に占夢を訊(と)ふ」とあるのは、周王が故老(太卜[やぶちゃん注:「ふとまに」。鹿などの獣骨等を用いた占い。]は多く故老が任じていた)占夢の官を召喚して夢占いをさせていたことを示す。「小雅」斯干に「大人之を占ふ、これ熊これ熊は、男子の祥なり。これ虺[やぶちゃん注:「き」。蝮(まむし)。]これ蛇は、女子の吉祥なり」とある。「大人」は占夢官の尊称で、天子のために夢を占う。王妃が熊や羆の夢を見たら男を生み、虺や蛇の夢を見たら女を産むという予兆である。「小雅」無羊に「牧人乃ち夢む、……大人之を占ふ、衆とこれ魚とは、實にこれ豊年なり、旐とこれ旟とは、室家蓁蓁たり」とある。これは牧人が占夢の官に夢占いをしてもらうというもので、水中に魚がたくさんいる夢を見れば豊作の年となり、亀や蛇、あるいは鳥が描かれた旗の夢を見たら家族が増える兆しだと詠っている。『詩経』の小雅に見えるこうした情況から、当時、上は周王から、下は民衆まで、占夢を信じない者はいなかったといえよう。

   《引用終了》

とある。

「一富士二鷹」私の甲子夜話卷之五 5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事の本文及び私の注を参照されたい。

「實(まこと)の夢にして、はかなき事なるべし」これは死を予兆する正夢であるとぼかして言っているようである。]

古今百物語評判卷之五 第五 仙術幻術の事

 

  第五 仙術幻術の事

Sinsen

ある人、問(とひ)て云(いふ)、「仙術というものは、天仙・地仙のわかちありて、千萬年の齡(よわひ)をたもちて、空をかけり、地をくゞり、千里を目前にちゞめ、芥子(けし)を須彌(しゆみ)になし、さまざまの奇妙あり。猶、老子を先祖(ぐわんそ[やぶちゃん注:原典のルビ。])となせるとや。さて又、幻術とふものは、魔法とひとつにて、いろいろの不思議をなし、劔(けん)をのみ、火をつかみ、身を自由にかくしなどするよし、承り候が、いかやうの理(ことわ)りぞや。うけ給はり度(たく)侍る」といひければ、先生、こたへていはく、「仙人の沙汰、三代[やぶちゃん注:続く叙述から考えると。中国史で最も古い三つの王朝、夏・殷・周の時代を指すか。その時には仙道は少しも流行ってはいなかった、というのであろう。]の盛(さかん)なるときは、なし。戰國の末に起りて、秦漢にさかむなり[やぶちゃん注:盛んとなったものである。]。老子を元祖と云(いへ)るは、「老子經」[やぶちゃん注:「老子」のこと。]に『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)という論あるをとりて、無理につけそへたる説なり。秦の姶皇、徐福をして、不死のくすりをもとめしより此かた、世々の帝王、民を勞して、金(こがね)をついやし給へども、終(つゐ)に得給ふ事、あらず。其(その)仙人の大將たる者、多く、刑罰にあひたり。その僞りたる事、論ずるに及ばず。扨(さて)、空をかけり、雲にのぼる事は、程子(ていし)[やぶちゃん注:(二程子。北宋の思想家。程顥(けい)と頤(こう)の兄弟。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある。]の説に、人は陸(くが)につきて生るゝ者なれば、決して其理(り)なし。『もし、山中に深くこもり居て、人事をまじへず、欲をたち、松の葉をくらひなどせば、人の壽命より少し長生(ちやうせい)をする事あり』とのたまへる事、「二程全書」[やぶちゃん注:程兄弟の文集・語録・著述などを集大成した思想書。全六十八巻。明の徐必達の校訂になり、一六〇六年に刊行された。宋学の先駆となる著作集である。]に見えたり。かく、さだかならざる事を、愚なる人の信じて、深山幽谷に、猶も藥をもとめなどして餓死におよぶ者あれば、神仙の書に記していはく、『後(のち)に羽化(うげ[やぶちゃん注:原典のルビ。])して、其ゆく處を知らず』など、奧(おくゆ)かしきやうに申(まうし)なせり。又、其(それ)、刑りく[やぶちゃん注:「刑戮」。]にあふて死(しに)たる事を、たゞしき史官の書(ふみ)に記しをきたれば、又、其書には『尸解(しかい)なり』と書きたり。『尸解』とは、此形をもぬけて、たましゐを自由にするをいふことなり。其説の強(し)ゐたる事[やぶちゃん注:この場合は、「誣(し)ひたる事」が表記も意味も正しい。「事実と違うことを言うこと」である。]、知りぬべし。幻術の事は、元、天竺より起りたる事、こゝもと[やぶちゃん注:本邦。]にて云へる「魔法」のごとし。さまざまの術ある事、記したれども、仙術よりは、また、あさまなる[やぶちゃん注:程度が低い。]事にて、一通りの[やぶちゃん注:それなりに有象無象の。]法、有(あり)とみえたり。其(その)劍を吞(のむ)といふも、實(じつ)にのむにはあらず、人の目に、のむがごとく見ゆるなるべし。他(た)の事も、皆、是におなじ。さて、仙道にても幻術にても、さまざま、よく得たる者ありて、人をあざむく時は、必ず、害にあふ。畢竟、實事にあらず、もしくは、習(ならひ)あふせても[やぶちゃん注:完全に習得することが出来ても。]、身をとゝのへ、國を治(をさめ)る便(たよ)りにあらず。聖賢のいはざるところなれば[やぶちゃん注:今まで実在した真の聖賢が誰一人としてそれを述べていないものであるから。]、何の用にか立つべけむ[やぶちゃん注:反語。]。そのうへ、こゝもとにても其術の益なきしるしには、彼(か)の狐をつかふ者、白き狐を殺し、其靈をまつり、其面(おもて)の骨をさき、己(おのれ)がひたひ[やぶちゃん注:「額」。]につけぬれば、よく形をかくす、と云へり。されども、砂をまきをけば[やぶちゃん注:ママ。]、其足跡、つき、日影には、かげ、うつり、さかしき犬あれば、其(その)氣(き)を知る、と云へり。是れ、何ぞとげて益あるべけむや[やぶちゃん注:「とげて」は「遂げて」。反語。最終的に益のある術とは言い得ないものである。]。すべて、正法(しやうばう)に奇特(きどく)なしといふ事、世話(せわ)[やぶちゃん注:世間話。]ながら、よく道理にかなへり」と語られき。

[やぶちゃん注:「『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)」「老子」上篇の第六章に出る。

   *

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。

(谷神は死せず。是れを玄牝(げんぴん)と謂ふ。玄牝の門(もん)、是れを天地(てんち)の根(こん)と謂ふ。綿綿(めんめん)として存(そん)するがごとく、之れを用ゐて勤(つ)きず。)

   *

訳すなら、

――流れて已まぬ谷川の神は決して死なない。それは「神秘なる牝」と名ざす。「神秘なる牝」のその「入口」、そこが天と地の動静の根源である。それは細々とした流れであるが、どれだけ汲み出しても、在り続け、決して尽きることはない。――

の意である。

「尸解」元隣の謂いは正しくない。尸解とは尸解仙という仙人となる様態の一つを指す語である。これは、生きているうちに羽化登仙したり、仙化(せんげ)する高級なものではなく、人が、一旦、死んだ後に生返り、他の離れた土地で仙人になることを指すからである。「ブリタニカ国際大百科事典」に(コンマを読点に代えた)、『死体を残して霊魂のみが抜け去るものと、死体が生返って』、『棺より抜け出るものとがある。前者の場合も、死体は腐敗せず、あたかも生きているがごとくであるという』。晋(二六五年~四二〇年)の道教研究家葛洪(二八三年~三四三年)の撰した神仙術のバイブル「抱朴子」(内篇二十篇・外篇五十篇が伝わり、特に内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。私の愛読書の一つである)『では、昇天する天仙や名山に遊ぶ地仙よりも、尸解仙が低い地位におかれている。これは不死であるはずの仙人が死の形をとるからである』とある通りである。]

古今百物語評判卷之五 第四 龍宮城幷山の神附張橫渠の事

 

  第四 龍宮城山の附張橫渠の事

Ryuuguu


ある人、問(とふ)ていはく、「蒼海の底に龍王のある事、世俗にも申しならはし、又、諸經(きやう)にも多く見えたり。俵藤太(たはらのとうた)が物がたりには、湖にもあるやうにきこえ侍るが、覺束なく存ぜられ候。猶も、唐土(もろこし)に河伯(かはく)など申すは、河の神の事にや。又、山靈(さんれい)と申すも、山の神の事にて侍るか、此類いかゞ」と問ひければ、先生、答へて云ふ、「山神(さんじん)・水神・龍王の類、何れも、あるべし。然れども、其形は、その類々なるベし。もし、其(それ)、年を經たるものあらば、たまたま、人にも變化(へんげ)すまじきにあらねど、もと、人とはおなじ類(るい)にあらず。然るを其さまを人間のやうにいひ、住所をも、宮室のやうに作りなせるは、ひが事なり。佛經(ぶつきやう)に八大龍王などいへるは、佛(ほとけ)の説法によりて異類の感應したる道理をとけるなるべし。俵藤太の物語は、元より、さだかなる事にあらねば、論ずべきにあらず。そのかみ、張橫渠先生、海神を祭り給ふに、其形を人になして衣冠を着せ給へるを、張橫渠のあやまりなりと、朱文公そしり給へる事、「朱子語類」にみえたり。また、河伯の名、「莊子(さうじ)」が寓言に出でたり。「酉陽雜爼」などの妄説は信するにたらず」とかたられき。

[やぶちゃん注:「俵藤太が物がたりには、湖にもあるやうにきこえ侍る」湖は琵琶湖。藤原俵藤太秀郷の三上山(みかみやま)の百足退治で、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れるように、橋の下にある淵が竜宮に繫がっているとする伝承があり、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)もある。サイト「不思議のチカラ」の「龍宮城はどこにある? 浦島太郎、山幸彦の物語と俵藤太の百足退治伝説」が判り易くコンパクトに纏めてある。なお、南方熊楠の「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」(リンク先は「青空文庫」)も天馬空を翔るが如き熊楠の自在な思考の展開が格段に面白い。お薦めである。

「河伯」中国神話や幻想的地誌や博物書に出現する黄河の神。平凡社「世界大百科事典」によれば、中国の神話にみえる北方系の水神で、「山海経」の「大荒東経」に、殷の王亥が有易(狄(てき))に身を寄せて殺され、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が河伯の軍を借りて滅ぼした。そのことは「楚辞」の「天問」にも見え、殷と北狄との闘争に河伯が殷に味方したことを示す。卜辞に河の祭祀を言うものが多く、五十牛を犠牲として沈めることがあり、水神と牛との関係が指摘されており、「楚辞」の「九歌」の「河伯」は、その祭祀歌である、とある。また、ウィキの「河伯」からも引いておく。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも』、『河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。「西遊記」の『登場人物の沙悟浄は、日本では河童とされるが、中国では河伯とされる』とあるが、私は九州の河童伝承には河伯の影響が確かにやや認められる部分があるとも思うが(しかしそれは後代の後付のように感じられる)、其れとは独自に平行進化した本邦の水棲幻想生物としての河童が存在し、これが、混淆したものと考えている。則ち、本邦の河童の真正ルーツとしての「河伯」は私は認めないということである。

「山靈(さんれい)」は山の神も含まれるが、もっと広範で、本邦の山に纏わる神霊的存在から、山中の幻獣的魑魅魍魎・精霊(すだま)の類、及び、広く山中でしばしば起こる怪異現象を包含したものである。

「其形は、その類々なるベし」まさに前で注したような感じで、その形状・属性・生態は、そのそれぞれで違ったものを持っているようである、というのである。

「張橫渠」北宋の思想家張載(一〇二〇年~一〇七七年)。小学館「日本大百科全書」によれば、横渠鎮(現在の陝西省眉県)の出身であったことから、世に「横渠先生」と称された。『異民族の侵入もある土地柄から、青年時代、軍事を論ずることを好んだが、范仲淹(はんちゅうえん)との出会いを契機に名教(儒教)に志し、仏老の書にも目を向けながら』、『研鑽』『の日々を送った』三十八歳で親族であった、後に儒学者となる程頤(ていい)ら『とともに科挙に及第し、地方官として』、『特に辺境の民政軍事面に見識を示した。やがて神宗』『に召され、三代の治の復活を進言して古礼を説き井田(せいでん)制を主張したが、結局王安石』『とあわず、故郷に帰り』、『講学に専念した。陝西』(関中)『で講学したので、その学派を関学と称する。張載はとくに思想的に仏教との対決を試み、その幻妄説の排撃を意図して「太虚(たいきょ)即気」論を唱えた。そして仏者の心性説に対抗すべく、気の存在論と心性論の統一を図ろうとした。虚無・空無を否定して気が聚』『まると万物となり、気が散じると太虚となると考え、人間の認識のいかんにかかわらず』、『万物の変化は気によることを明確にした。物の生成をめぐる一気と陰陽の関係の分析や、気質という概念の提出は、天地の性、気質の性という性論、気質を変化させるという修養論とともに、朱子学の形成に大きく関与した。また明清』『時代、王廷相』『や王夫之』・『戴震』ら、『いわゆる気の思想家に多大の影響を与えている。著作には』「正蒙」・「西銘(せいめう)」「易説」などがある。同書を中文サイトで検索してみたが、残念ながら、当該記載は見出せなかった。

「朱文公」朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の諡。南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた大儒。

「朱子語類」朱熹がその門弟たちと交わした内容を没後に黎靖徳が集成し、門類に分類した書。全百四十巻。一二七〇年完成。

『河伯の名、「莊子(さうじ)」が寓言に出でたり』「荘子」の「外篇」の「秋水篇」にメイン・キャストの一人として登場する。人間の道徳律に縛られる黄河の河伯神に対し、黄海の神北海若が、「井蛙不可以語于海者、拘于虛也。夏蟲不可以語于冰者、篤于時也。曲士不可以語于道者、束于教也。」(井蛙(せいあ)は以つて海を語るべからず、虛に拘(とら)はれればなり。夏蟲は以つて冰(こほり)を語るべからず、時に篤(あつ)ければなり。曲士は以つて道を語るべからずとは、教へに束(しば)らるればなり。)と答えることで知られる。「篤」は生存を時季に限定固定されていることを指す。「井の中の蛙、大海を知らず」の原拠であるが、「荘子」本文の校異から言うと、「蛙」ではなく「魚」とするのが主流である。

『「酉陽雜爼」などの妄説』晩唐の学者段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる、荒唐無稽な怪異記事を集録した「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)には河伯が登場する奇談が複数載る。]

2018/10/31

古今百物語評判卷之五 第三 殺生の論附伏犧・神農、梁の武帝の事

 

  第三 殺生(せつしやう)の論伏犧(ふつき)・神農、梁の武帝の事

[やぶちゃん注:少し長いので、特異的に改行字下げを施し、注も途中の適当な位置に入れ込んだ。]

 ある人の云(いふ)、

「好(このみ)て殺生をなせし者は、怨靈、來たりて、仇(あだ)をなし、又は、其子孫にむくふ事、世に、物がたり、多し。此故に、佛家(ぶつけ)には五戒の第一とし、儒者には遠庖厨(庖厨(はうちう)を遠(さ)く)とやらむ申すよし、承り候ふ。されども、先祖のまつりに犧(いけにへ)をさき、饗應(あるじまうけ)に生類(しやうるゐ)を殺す事、これ又、聖賢の掟(おきて)なり。本朝には魚鳥(うをとり)を服(ぶく)すれども、四足をいむ事、昔より然(しか)り。此説、いかゞ。」

[やぶちゃん注:「五戒」在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「遠庖厨」「孟子」の「梁惠王章句上」に基づく。話し相手である斉の宣王が、嘗て生贄に連れて行かれる牛を見て、憐憫の情を起こし、助けて、羊に代えるようにせたところ、人民はそれを王が高価な牛を惜しんで吝嗇(けち)ったのだと思い込んでいると語り、

   *

曰、無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。

(曰く、傷(いた)むことなかれ。是れ、乃(すなわ)ち、仁術なり。牛を見て、未だ羊を見ざればなり。君子の禽獸に於けるや、其の生けるを見ては、其の死するを見るに忍びず、其の聲を聞きては、其の肉を食ふに忍びず。是(こ)れを以つて、君子は庖厨を遠ざくるなり。)

   *

「傷(いた)むこと」とは「愚かな民の見当違いな評価を気にすること」を指す。以上はの結論は、則ち、生贄や食用に供する動物を殺戮し、その断末魔の声が響き、血の匂いに満ちた台所には君子は決して近づいてならない、というのである。現行の「男子厨房に入らず」の謂いはこれを誤用したものである。

「服(ぶく)す」原本は「ふく」。厳密には魚鳥も動物であり、獣の仲間であるという認識は古くからあった(魚と鳥が四足でない、或いは四足に見えないことは四足獣と差別化して食用に供するには甚だ都合はよかったことは事実)ので、それら(四足獣も含む)を食する場合に薬としていやいや食べる、「藥喰(くすりぐひ)」と称したから、「服用する」の意の「服(ぶく)す」は、殺生・肉食(にくじき)嗜好を隠蔽するには格好の動詞となった。]

と問ひければ、先生、答(こたへ)て云(いふ)、

「是、むづかしき論なるを、とひ給へり。先(まづ)、佛家には、平等利益(りやく)をたつとぶ故に、人の親を見る事、わが親におなじく、蚤(のみ)蝨(しらみ)を見る事、人を見るにひとし。此故に、つよく殺生戒をたてゝ、一つの蟲をも殺さず。其(それ)、ひとつの蟲を殺す事、猶、我が親をころすにひとし、とおもへり。されば、落穗をひろひ、麻を着て、三衣一鉢(さんえいつぱつ)のまうけだに、かつかつなるを、本分(ほんぶん)の事とす。是れも又、たうとからずや。猶、六道流轉を立てゝ、人間より畜生になり、畜生より人間に生ず。されば、一疋の魚鳥を見るとても、是れ、何ぞ過去生(くはこしやう)のわが親なる事も、知るべからず。現在にても、おくれさきだつ親類の中、何(いづ)れか畜生に生れたらむも、心得がたし。況や、おなじ人におゐては、猶、其因緣を知るべからず。是れを以て、釋氏の教(をしへ)は、もつぱら、殺生戒をおもんず。行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれしも此心なり。

[やぶちゃん注:「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に身をただ包むに足る粗末な僧衣のこと。

『行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれし』この歌形は知らぬ。知られたそれは、「玉葉和歌集」(鎌倉末期の正和元(一三一二)年頃に成立した勅撰和歌集。全二十巻。伏見院の命により京極為兼が撰した)の巻第十九の「釈教」に載る、行基(天智七(六六八)年~天平二一(七四九)年)作の遠い昔の一首(二六二七番)、

   山鳥のなくを聞きて              行基菩薩

 山鳥のほろほろとなく鳴く山鳥の聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

の伝承変形異形か。しかし、古えの風葬(古えは墳墓を作るのは特別な階級の人間だけであった)・鳥葬地(一説には死者を木に吊るしてその肉を鳥に喰らわせる鳥葬が行われていたともされる)であった「鳥辺野」で、投げられたり、ぶら下がった人肉を喰らうのを争う「犬」の吠え声の方が、これ、遙かに凄絶で、私好みではある。

 儒家の説には、天を父とし、地を母として、其見識の大きなる事、釋氏にかはらねども、その中に『本末(もとすゑ)』の差別あり。『本末』といふは、先(まづ)、我親は天下の至つて年比(ねんごろ)なる物なれば、『本』とす。それにつぎて兄弟、又、其次は親類・眷屬、其つぎは朋友、その次は知らぬ世界の人、其次は禽獸草木(とりけものくさき)なり。是れを『末』とす。されば、天下を以ても、我が親一人にかへ申さず。此心を本末といふ。此故に、其親へねんごろなる心をおしてひろめて、兄弟・親類・朋友にほどこし、其あまれる處を他人へ及ぼし、又、其餘れる心を禽獸(とりけだもの)に至らしむ。かく差別あるゆへに、禽獸までは、その仁心(じんしん)、おなじごとくにはいたらねど、猶、其(それ)殺すに、禮義を立てゝ、天子國君も、故(ゆゑ)なければ、牛をころさず、其(その)孕めるにあたつては、ちいさき[やぶちゃん注:原典のママ。]鳥獸(とりけだもの)をも害せず。また、數罟不ㇾ入洿池(數罟(さくこ)洿池(をち)に入れず)といへば、ちいさき目の網をもつて魚の子までを取盡(とりつく)す事をきらひ、草木(くさき)も春夏の長ずるにあたつては折りとらず、葉落ちて後(のち)、杣(そま)を山林にいるゝ、と云へり。是れ、禽獸草木(きんじうさうもく)へおよべる愛心(あいしん)なり。

[やぶちゃん注:「天下を以ても、我が親一人にかへ申さず」世界全体を以ってしても、自身の親一人の存在に、それをとって代えるなどということは到底出来ぬことにて御座る。

「數罟不ㇾ入洿池」「孟子」の「梁恵王上」に基づく。

   *

數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。

(數罟(さくこ)、洿池(をち)に入(い)ざれば、魚鼈(ぎよべつ)勝(あ)げて食(くら)ふべからざるなり。)

   *

「細かな目の網を以ってして、水の溜まった浅い小さな沼や池の生き物を徹底的に漁(と)ることをしなければ、子魚や小さな鼈(すっぽん)は残され、未来に於いてもそこの生き物が尽きることはない」の意である。なお、これについては、魚類学者真道(しんどう)重明先生の『再び、「数罟不入夸池」について』という大変、興味深い論考がある。実は、真道先生は四、五年前、私のサイトでの栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」の電子化注を、お褒め戴くと同時に激励して下さった稀有の恩人であられる。]

 それ、天地開闢(てんちかいびやく)のはじめ、人は萬物(ばんもつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])の靈なれば、禽獸(とりけだもの)より、はるかの後(のち)に生ず。既に生じては、衣服なき事、あたはず。此故に禽獸(きんじう)の血をすひ、肉をくらひ、其皮を着るといへど、猶、その力のき物ありて、人の害をなせしを、其時の君、これを制する事を教へ給ふ聖人を伏犧と云ふ。「伏」とは「たいらぐる心」、「犧」といふは「鳥獸」といふ心なり。其後(そののち)、人民、おほくなりて、禽獸(きんじう)、たらざりしに至りて、始めて、五穀を食らふ事を教へ給ふ聖人を神農氏といふ。是れ、たゞ其時節のよろしきによれるのみ、何ぞ、其心にかはりあらんや。されば、蛛(くも)は蠅(はい[やぶちゃん注:原典のルビ。])をとり、雀は蛛をとり、鳶(とび)は雀をとり、鵰(たか)は鳶をとり、犬の小さきを制し、きが弱きにかつは、天地自然の勢(いきほひ)なれば、人倫の物をとる事も、なを[やぶちゃん注:ママ。]、かくのごとしといへど、既に其(その)殺すに禮儀を立(たつ)るは、人の萬物の靈なるゆへ、彼の親をしたしみ、人をおもむずる[やぶちゃん注:ママ。]心を、おしひろめたるのみ、是れ、周公・孔子の道なり。

[やぶちゃん注:「伏犧」「伏羲」が一般的だが、かくも書き、「庖犧」「虙戯」などとも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。華胥(かしょ)氏の娘が雷沢(らいたく)の中に残されていた巨人の足跡を踏んで懐妊し、生まれたのが伏羲であるという』。『三皇五帝の』一『人に数えられる』。「列子」では、『伏羲は人頭蛇身とされ、漢代の画像石には蛇身の伏羲と女媧(じょか)が尾を交えている姿がみられる。易の八卦』『を考案したり、網を発明して民に狩猟や漁労の方法を教え、さらに獲物を生(なま)のままでなく』、『火を使って料理することも教えたといい、庖犧の名はこれを表していると思われる。そのほか』、『結婚の制度を創始するなど、さまざまな事物の発明や諸制度を創設したといわれるが、これらは諸文物の起源を好んで聖天子の功績に帰そうとする中国古伝承の現れであって、史実とはいえない。民間では、伏羲と女が結婚して人類の祖となったという伝承が語られているが、むしろこのような伏羲が本来のおもかげをとどめているものと考えられる』。

「神農氏」同じく「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。神農の名前が最初に文献に現れるのは』、「孟子」で『あり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきであると主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である』「緯書(いしょ)」などに、『しばしば』、『神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃』『の琴を発明したとされる。こうした業績から三皇の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている』。

「鵰(わし)」タカ目(新顎上目タカ目
Accipitriformes)の内で大形で強力な鳥の総通称。

「周公」(生没年未詳)周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷を滅ぼし(紀元前十二世紀末)、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。]

 故(かるがゆへ)に、むかし、梁の武帝といふ天子、ふかく佛法を信じ、殺生戒をたもちて物を殺さず、宗廟の牲(いけにへ)を蠟(らふ)にて作り、織物にさへ生(いけ)るものをおらしめず。其(それ)たつときに、鳥獸をきりて、殺生戒をばやぶるに似たればなり。かくは有(あり)しかど、遠き敵國と戰(たゝかひ)て、數多(あまた)の群兵(ぐんひやう)をころして、大(だい)を輕んじ給ふを、儒家より笑ひしが、後(のち)果して、國、みだれて、臺城(たいじやう)に餓死(うゑじに)し給へり。

[やぶちゃん注:「梁の武帝」蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)南朝梁の初代皇帝(在位:五〇二年~五四九年)。武帝は諡(おくりな)。斉を滅ぼして建国。治世中、六朝を通じて最も貴族文化が栄えたが、晩年、仏教に傾倒し、財政を破綻させた。ウィキの「蕭衍」によれば、五四八年、『東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り』、『河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしま』った。『その後、武帝は侯景に軍を保持したまま』、『梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した』。『当時』、『建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武』三千『人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると』、『瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった』。『内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した』。『そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速』、武帝のお気に入りの政治家朱异(しゅい:低い身分の出身であった)の『家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り』、『錦を着て城中に』向かって『「朱异は』五十『年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」』と『叫んだという』。三日の『うちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに』五四九年三月、『内城を統率していた羊侃』(ようがん)『が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した』。『引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした』(以下、改行を会話の省略した)。『「江を渡る時、何人いたのか?」「千人です」「では、建康を囲んだ時は?」「』十『万人です」「今は何人なのだ?」「率土のうち、己の有にあらざるはありません」『そのまま、武帝は黙ってうなだれた』。『侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んだ』とある。後の『北宋の司馬光は』その「資治通鑑」の「梁紀」の論賛で、『次のように評している』。『梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上』、『加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした』。『名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ』とある。

「臺城(たいじやう)」六朝期に宮城を「臺所」と呼んだ。]

 さはいへど、ゆめゆめ、物をころせるがよきといふにはあらず。上(かみ)にまうせしごとくなり。其外、物の命をすくひて壽命を得、官位を得し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。さて又、我が日の本に四足をいむ事は、本朝人皇のはじめ、既に天地の風氣(ふうき)、ひらけて、五穀もみちみちけるにより、はじめより、四足の類を服(ぶく)するに及ばず。食事のたれるは、我が國の風俗なるべし。中頃まで、孔子の奠(まつり)[やぶちゃん注:「奠」は「神仏に物を供えて祭る」の意。]に狗彘(こうてい)[やぶちゃん注:犬や豚。]を用ひしかども、ある人の夢に、孔子、告(つげ)てのたまはく、『我、此國にまつられては、天照大神(てんしやうだいじん)と同座なる故、猪鹿(ちよろく)の類(たぐひ)、目にあたりて、惡(あし)し。國に入りては國にしたがふが我が心なれば、向後(きやうこう)、用ゆる事、なかれ』と御告(おつげ)ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それより用ひずといふ事、「著聞集」にも見えたり。思ふに、狗彘の類(るゐ)は既に魚鳥(うをとり)とはちがひて、人の類にちかき物なれば、殺さゞる風俗、たれか惡(あし)しといはむや。我が國を君子國(くんしこく)といふも、むべなるかな。さて、其(その)禮義もなく殺生を好めるものは、天地(てんち)の心、元(もと)、物を生ずる事を好み給ふにそむけば、何ぞ報(むくひ)もなからざらむ。もし、鷹かい[やぶちゃん注:ママ。「飼ひ」。]獵師などのなさで叶はぬものなり共、面々の遠慮あるべき事にこそはべれ」とかたられき。

[やぶちゃん注:『「著聞集」にも見えたり』「古今著聞集」の「巻第一 神祇」にある、「或人の夢に依りて、大學寮の廟供に猪鹿を供へざる事」(別本では前半を「孔子の夢の告に依り、」とある)。

   *

 大學寮の廟供(べうぐ)には、昔、猪(ゐのしし)・鹿(かのしし)をもそなへけるを、或る人の夢に尼父(ぢほ)[やぶちゃん注:孔子。字の仲尼と尊称。]ののたまはく、「本國にてはすすめしかども、この朝に來りし後は、大神宮、來臨して禮を同じくす。穢食(ゑしよく)、供(きやう)すべからず」とありけるによりて、後には供せずなりにけるとなん。

   *

「大學寮」は式部省(現在の人事院相当)直轄下の官僚育成機関。官僚候補生である学生(がくしょう)に対する教育と試験及び儒教に於ける重要儀式である釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん:孔子及び儒教に於ける先哲を先師先聖として祀る儀式)を執行した。「新潮日本古典集成」(西尾光一・小林保治校注/昭和五八(一九八三)年刊)の同書の注に、平安後期の宇治左大臣藤原頼長の日記「台記(たいき)」の久安二(一一四六)年四月一日の条に、『「大神宮つねに来臨す。肉を供ふるなかれ」との文宣王(孔子)の夢告によって獣肉の供えは廃された、という本話と類似する記事が見える』とある。]

2018/10/30

古今百物語評判卷之五 第二 蜘蛛の沙汰幷王守乙が事

 

  第二 蜘蛛の沙汰王守乙(わうしゆいつ)が事

 

Kumo

 

[やぶちゃん注:以下、底本では総て「蟲」であるが、原典を見ると、総て「虫」であるので、今回はそれに従った。途中の漢字の「へん」を表わす部分が「蟲篇」では如何にも無理があるからである。]

 

一人のいはく、「そのかみ、源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり。さしも賴光の名將にて、土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、さもあるべし。蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する[やぶちゃん注:ルビは原典のママ。]義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり。それ、春の蝶の、園をたづねて、花をすひ、秋の蟬の、林をもとめて、露をなむるも、皆、智のなすところなるに、何とて蜘(くも)のみ、智ある名には立ちけるぞや。まことに一寸の虫に五分の魂なきも侍らねど、花をすひ、露をなむるは、たゞ身のうへの事のみなり。それ、蜘は、もろもろのむしの心をはかりて、事なきに網をまうけ、懸らんものを己(おのれ)が餌(えば)にせんと、たくめる事、惡智のなせる處なり。此心を長じもてゆきたる大蛛(おほぐも)は、人をも害するたくみ、ありつべし。此故に、もろこしの人も、にくめるにや。王守乙といへる人は、蜘の網をみる每(ごと)に、杖もて、破り侍り。人、その故を問(とひ)けるに、「天地の間(あひだ)、飛びかけるたぐひ、みな、身を動して、口腹のたすけとせるに、たゞ蜘のみ、さがなきたくみをなして、物の命をそこなひて、身を養ひけるをにくみて、かく、やぶる」とぞ云へりとかや」。

[やぶちゃん注:「源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり」源家の伝家の宝刀のそれについては、所謂、「剣巻」と呼ばれる特異な軍記物の附録のようなものに載る。「平家物語」の幾つかの伝本や「源平盛衰記」に附帯するものが知られているが立国会図書館デジタルコレクション奈良絵本平家物語剣之巻の解題に、『源氏重代の名剣の由来を述べたもので』、「平家物語」の『屋代本、百二十句本に付されており、覚一本などの諸本にある「剣巻」とは、内容が異なる』とし、この「剣巻」は『江戸時代には』「太平記」の『版本にも付載されたので、「太平記剣巻」とも呼ばれる』とある。生憎、私は「剣巻」を含む、それらの軍記物の活字本を所持しないのだが、今回、国立国会図書館デジタルコレクションので通読し、また、絵本太平記も併読したところ、頼光絡みの部分は基本的にほぼ同一の内容であることが判った。ウィキの「髭切によれば、大元は平安時代の清和源氏六孫王源経基の嫡男であった武官貴族源満仲(延喜一二(九一二)年~長徳三(九九七)年)が、天下守護のために「髭切」と「膝丸」の二腰の剣を作らせた内の、「膝丸」がそれ(「源平盛衰記」にはともに二尺七寸(一メートル三センチ弱)の太刀とされている)。ゴースト・バスターのチャンピオン源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)の手に伝えられ、大山蜘蛛(この伝承を元にした謡曲「土蜘蛛」によってその名で大ブレイクした)退治したことから、名を「膝丸」から「蜘蛛切」と改名したと伝える。

「土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」「平家物語」の「剣巻」では、化蜘蛛に最後に襲われた際、生憎、頼光は瘧病(わらわやみ:マラリア)を患っていたから、それに乗じて来襲したのであって、この質問者へはその事実を語るべきところであろう、元隣は医師でもあるのだから。しかもしっかり頼光は一刀の下に決定的な傷手を与えているのだから。

「蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり」漢字の成立史(特に対象とそれから受けた印象と漢字音の強い関連性)から見て、この「ご隠居」元隣の解説に、思わず「熊さん」「八さん」になりそうになるが、彼の解字は概ね、マッカな嘘である可能性が頗る高い。元隣の言っているようにもっともらしく「誅」を説明している記載も見かけるが、この「朱」は「動かない」の原義で、「蛛」はシンプルに「巣を張って殆んど動かずに生きている生き物」というのが正しいようである。因みに、本文にある通り、「蜘」だけでもクモを指す。

「事なきに」何の苦労もせずに。

「餌(えば)」「餌食(えばみ)」の転訛した語。

「王守乙」不詳。出典も未詳。お手上げ。]

2018/10/28

古今百物語評判卷之五 第一 痘の神・疫病の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字の事

 

百物語評判卷之五

 

  第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事

[やぶちゃん注:「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」。]

 

Housousin

 

ある人、問(とふ)て云(いふ)、「痘の神・疫病の神と申(まうす)ものこそ、まざまざある物に候哉(や)。又、たゞ病氣のうへのみなるを、かく申(まうし)ならはせるや」と問(とひ)ければ、先生、答へて云はく、「痘の神・疫病の神、ともに、あるべし。痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたるよし、醫書にみえたり。元、人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり。されば、其根ざしは胎毒(たいどく)なれども、其いざなふ物は時の氣なり。そのあつまれる處、則ち、鬼神あり。是れ、痘の神なりけらし。それにより、世俗にしたがひて送りやりたるも、輕くなる理(ことわり)、なきにあらず。又、疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふれど、其靈(たましひ)の、今の世まで、さながら[やぶちゃん注:そのまま。]生き通して、我が日の本にわたれる事も、あるまじ。おもふに、疫病のはやる時は、多くは飢饉の後(のち)なれば、其道路にうへ死(じに)せるやからの、生(しやう)あるときだに、一飯もわけらるべき方(かた)[やぶちゃん注:手立て。]なければ、まして、死後にまつらるべきしたしみもなき亡魂どもの、あつまりて、人に[やぶちゃん注:ママ。]おそふが故に、その執(しう)に乘じていふ空言(そらごと)、おほくは、衣食(えじき)の事のみなり。又、兵亂(ひやうらん)の後(のち)にも行はるゝは、其戰場にて果(はて)し魂魄の疫鬼(えやみのおに)となれるなるべし。其(その)うけたる人の強弱にしたがひて、生死(しやうじ)の品(しな)もかはるにや。かくはあれど、孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば、其惡鬼をさくるやうに、まじなひて、名香をたき、雄黃(をわう[やぶちゃん注:原典のママ。])をかぎ、又、神符(しんふ)など書附(かきつけ)たるも、よろし。近比(ちかごろ)、家々に「2乙(きんじゆつおつ)」といふ字をはりしは、「群談採餘(ぐうだんさいよ)」僧(そう)の部に出でたる故事なり。元の末つかた、天下に疫氣(えきき)はやりし時、浙江(せつこう)といふ渡しのあなたなる在所は、いまだ、其(その)類(るい)なし。ある時、老僧一人來り、其わたしの船頭をよびて云(いひ)けるは、『たゞ今、此所を、黃なる裝束したる者五人きたりて、「渡らん」といはゞ、必ず、わたすべからず。此五人はたゞ今、天下にはやる疫鬼(えきき)なり。もし(しい)て「渡らん」と云はゞ、此文字を見せよ』とて、老僧は行きがたしれずなりにけり。船頭、あやしき事に思ひけるに、あんのごとく、五人の者、來たりて、『舟に乘せよ』といふ。船頭、うけがはざりければ、五人の者、大きにいかつて、船頭を打擲(ちやうちやく)せんとする。『すはや』と思ひて、彼(かの)文字のかきたるをみせければ、五人の者、見るとひとしく、跡(あと)をも見ずして、逃げたり。船頭、『さては。疫神にまぎれなし』とおもひ、急に追(おつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])かければ、五人の者の、背(せなか)にちいさき籠(かご)をおひたるが、捨(すて)て逃(にげ)たり。船頭、今は間(あい)もへだゝれば、是非なく、其かごをとり、歸りて、ひらき見れば、ちいさき棺桶、三百づゝを入れたり。驚き、在所に歸りて、始めおはりを語りて、彼(かの)文字を家々におしける、となん。此文字なかりせば、その棺のかずほど、人を殺さむ爲(ため)なるべし、といふ事、みえたり。今の「2乙」はそれを用ひたるなり」と語られき。

[やぶちゃん注:今までもそうだが、本条の原本のルビは歴史的仮名遣の誤りが特にひどい。今まで通り、勝手に私が訂しており、それについての注はしていない。本篇は元隣の話の五人の疱瘡神の話が私は知らなかったので面白く読めた。

「痘」疱瘡(ほうそう)。天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の「疱瘡」の注を参照されたい。序でに、ここに関連させて、「耳囊 卷之四 疱瘡神狆に恐れし事」「耳囊 卷之五 痘瘡神といふ僞説の事」「耳囊 卷之七 痘瘡の神なきとも難申事」等も読まれると面白かろう。

「痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたる」前者は正しいが、後者は誤りウィキの「天然痘によれば、『日本には元々』は『存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった』六世紀半ば(古墳時代末期)に『最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇』(びだつ 宣化天皇三(五三八)年?~敏達天皇一四(五八五)年?)『が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』。「日本書紀」には(敏達天皇十四(五八五)年三月丙戌三十日の条。オリジナルに示す)、

   *

發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。

(瘡(かさ)發(い)でて死(みまか)る者、國に充ち盈(み)ちたり。其の瘡を患はむ者、言はく、「身、燒かれ、打たれ、摧(くだ)かるるがごとし」と。啼き泣きつつ死ぬる。老いも少きも竊(ひそ)かに相ひ謂ひて曰く、「是れ、佛像を燒く罪か」と)。

『とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』五八五年の『敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている』とある。

「醫書にみえたり」言わずもがなかも知れぬが、筆者山岡元隣は医師であることをお忘れなく。

「人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり」誤りであるが、胎児性の先天性感染性疾患と見做している。しかし、これは漏れなく総ての人間に当て嵌まる現象ということになり、元隣はその天然痘の病原を含んだ悪血胎毒を出生後に持っていても、「時の氣」(ある条件と体調の一致)に遭遇しなければ発症しない、則ち、そうした健常者、「キャリア」もいる、と考えていることになる。

「送りやりたるも」痘の疫神を追儺(ついな)することによっても。

「輕くなる」病状が軽くて済む。

「疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふ」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ウィキの「瘟鬼には(下線太字やぶちゃん)、『瘟鬼(おんき)は、中国に伝わる鬼神あるいは妖怪。疫病、疱瘡を引き起こすなどして人間を苦しめるとされる』。『瘟部神(おんぶしん)、瘟司(おんし)、瘟疫神(おんえきしん)とも言う』。『疫病や伝染病をひとびとにもたらして苦しめるという存在である。季節ごとにこれらを迎えたり送ったりして病害が大きなものにならぬよう祈りをささげる行事などが民間に広く伝承されていた』。『また、天の神々がふとどきな行いをかさねている人間たちに対して罰を下すために瘟鬼などを向かわせるという伝承も古くは存在しており、天界にはそのための瘟神・瘟鬼たちが詰めている瘟部(おんぶ)という場所があるとも伝えられていた』。『瘟鬼たちは五人組で行動をとることが多いと言い伝えられており、それを五瘟(ごおん)または五瘟使者(ごおんししゃ)などと称した。家畜に起こる伝染病に対しての祈願との関係で五瘟鬼それぞれに馬・牛・鶏・羊・兎など別々の禽獣の頭を持つ鬼神の図が描かれたりすることもある。縁起の悪い文字を忌み吉字をもって記載をする地域では「瘟」の字を忌んで「福」とし、これを五福大神、五福使者などと表記することもある(台湾などで見られる)』とある。また、ウィキの「五瘟使者によれば、『五瘟使者(ごおんししゃ)は、中国に伝わる疫病をつかさどる神、鬼神。五方瘟神(ごほうおんしん)、五瘟大王(ごおんだいおう)、五福使者(ごふくししゃ)、五福大帝(ごふくたいてい)などとも言う』。『天界に存在する瘟部(おんぶ)に属するとされ、人々に流行病などをもたらしたりするとされた。「瘟」の字が縁起の悪い文字であるということから「福」という文字を用い、台湾などでは五福と表記することもある』。『五人の神によって構成されており、それぞれ』、東(春)を張元伯(東方青瘟)が、南(夏)を劉元達(南方赤瘟)が、西(秋)を趙公明(西方白瘟)が、北(冬)を鐘仕貴(北方黒瘟)が、中央を史文業(中央黄瘟)が『支配するとされる』。『支配下に五毒将軍(ごどくしょうぐん)が存在する』。中国の『南北朝時代』(北魏が華北を統一した四三九年から始まり、隋が中国を再び統一する五八九年までの中国の南北に王朝が並立していた時期)の『天師道』(「五斗米道(ごとべいどう)」に同じ。通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(或いは鵠鳴山とも。現在の大邑県)で起こした道教教団。二代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、三代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。ここはウィキの「五斗米道に拠った)『の書で鬼神のことについて記してある』「女青鬼律」の中にも、『張元伯・劉元達・趙公明・鐘仕貴・史文業は疫病に関する鬼たちを領している鬼主(五方鬼主)であると記されている』とある。実はウィキの「瘟鬼が典拠の一つとしている、澤田瑞穂氏の「修訂 地獄変」(一九九一年平河出版社刊)は所持しているのだが、今は書庫の底に沈んで見出せない。或いは、それでここに、よりよい注を附すことが出来るかも知れない。発掘し次第、追記する。

「空言(そらごと)」病人の譫言。

「生死(しやうじ)の品(しな)」回復や悪化といった病態。

「孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば」「論語」の「郷党篇」の「十之十」に、

   *

鄕人飮酒、杖者出、斯出矣。鄕人儺、朝服而立於阼階。

(鄕人(きやうひと)と酒を飮むに、杖者(ぢやうしや)出づれば斯(ここ)に出づ。鄕人の儺(だ)には、朝服して阼階(そかい)に立つ。)

   *

意味は、「故郷の村人と酒を飲み交わした時には、六十以上の年長者が退出されたなら、同時に退席する。故郷の村人が村の厄払いの追儺の式を成す時には、礼服を着て、客を迎えるべき東の階段に立ってそれを待つ。」の意。

「雄黃(をわう)」本邦では、毒性の強い硫化鉱物である雄黄(ゆうおう:orpiment)のことを指す。硫化砒素(arsenic sulfide:三硫化二砒素:As2S3)の塊りである。色調は黄色・褐黄色で、樹脂状の光沢を有する。但し、中国では同じ硫化鉱物で、同じく有毒な鶏冠石(realgar:四硫化四砒素:As4S4)を指し、対象が微妙に異なる(以上は製薬会社他の信頼出来る記載を複数確認した)。中国には、焼酎に少量の雄黄を入れた酒「雄黄酒」があり、解毒薬や厄払いのために端午の節句に飲んだり、室内に撒いたり、指にそれを附けて子どもの額に「王」の字を書いたりする(最後の習俗については、「人民中国」公式サイト内の丘桓興氏の「祭りの歳時記」の「端午節」に拠った)。

 

2乙(きんじゆつおつ)」(「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)「」の二字は恐らく造字と思われるが、不詳。そうした疱瘡除けの呪符を家の門口に貼る習慣が、本書が出版された寛文一二(一六七二)年以前にあったということは確認出来なかった。ただ、平成二〇(二〇〇八)年三弥井書店刊の三弥井民俗選書の大島建彦著「疫神と福神」の目次(リンク先は同書店公式サイト内の同書の広告)内に『「キシ乙」という呪符』とあり、ここを読めば、有効な注が附せそうであるが、私は所持しない。但し、太刀川論文『百物語評判』の意義長野県短期大学紀要一九七八十二発行)所収)PDF)に、この箇所について、本書の最後に附される「跋」の中で、本作の一部の実例が語り手の山岡元隣の死後のことであり、これは本作を整理・補筆をして貞享三(一六八六)年に板行した元隣の息子山岡元恕が、内容自体をも加筆しているのではないか、という読者の一人の疑問を提示しているのであるが、『これは例えば、「近頃家々に2乙といふ字を張りし」以下は『群談採余』の故事をひくところであるが、この2乙の守り札が天和貞享のころ』(元隣は寛文一二(一六七二)年没で、天和(てんな:一六八一年~一六八四年。寛文・延宝の次)『のことである確証が俟たれる』とあるから、この事実はメジャーに知られたものではないようだ。

「はりし」「貼りし」。門口に疱瘡除けの呪符を貼ったのである。

「群談採餘」明の倪綰(げいわん)撰。全十巻。一五九二年刊。よく判らぬが、邦人記事の抄録訳などを見ると、志怪が多く含まれているようである。原本には当たれなかった。原典を見たい気がする。

「さくる」「避くる」。

「元の末つかた」元(大元)が事実上、滅ぶのは一三六八年(本邦は南北朝期の正平二二/貞治六年)。

「浙江」これは本来は現在の浙江省を流れる銭塘江(せんとうこう)の旧称で、現行では杭州市市街の南を通り、東で東シナ海にそそぐ部分を銭塘江と呼ぶ(杭州市街を経た南上流で富春江となる)ので、舞台は杭州市街の南端辺りかも知れない。附近(グーグル・マップ・データ)。

「老僧」この人物の正体が知りたくなる。

「すはや」感動詞。「あっ!」。]

2018/10/27

古今百物語評判卷之四 第十一 黃石公が事 / 古今百物語評判卷之四~了

 

  第十一 黃石公が事

ある人のいはく、「なべて、人の存(ぞんじ)候、張良に一卷の書を授(さずけ)し老翁は、其(その)おきなの言葉に、『われ、黃石の精(せい)なり』と申されきと。さ候へば、石も劫(こう)を經ては、ばけ候やらん、いぶかしさよ」と云(いひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れは、石のばけたるにあらず。彼(かの)黃石公と申せし人は、其比(そのころ)、軍法(ぐうはう)の名人にて張良の師匠なる人なれば、則ち、智謀を用ゐたるなり。其故は、『我、世をのがれし者なるが、此書をたしなみをきたり[やぶちゃん注:ママ。]。汝に授けむ』など云はゞ、人の淺(あさ)まに[やぶちゃん注:「浅はかなに・軽薄に・いいかげんに」。]おもはむ事を思ひ、かくあやしくいひて、世の信仰をおこさしめむが爲なり。張長も其心をさとりて、後(のち)に黃石をまつりしなり。かやうの事、軍法におゐて、まゝある事なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。家柄は、代々、韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようとして、巡幸中の始皇帝を博浪沙(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗し、秦の追捕を逃れて、下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。この時、ここに出る不思議な黄石老人から、周の軍師として知られた太公望呂尚(りょしょう)の兵法書を授かったとされる。陳勝・呉広の挙兵に呼応して蜂起し、劉邦(後の高祖)に従って、その軍師となった。秦軍を破って関中に入り、秦都咸陽を陥落させ、かの「鴻門の会」では劉邦を危地から救い、さらに項羽を追撃し、自害へと追いやるまで、彼は常に劉邦の帷幕にあって奇謀をめぐらし、漢を勝利に導いた名臣であった。懐かしいね、漢文の授業が。ウィキの「張良の「下邳時代の逸話」も引いておこう。『ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある』。五『日後の朝にここに来い」と言った』。五『日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また』五『日後に来い」と言い残して去った』。五『日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「』五『日後に来い」と言い残して去って行った。次の』五『日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる』。十三『年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという』。『後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという』。『この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる』。『また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている』。]

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