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2017/10/18

老媼茶話巻之四 高木大力

老媼茶話卷之四

 

 

     高木大力(だいりき)

 

 高木右馬助、美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼祕藏の士、世に聞へたる大力(だいりき)なり。

 壱年、本國を浪人して京・伏見に徘徊せし。此折、「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」と詠じて、伊勢路を越(こゆ)る山道にて、夕陽、西にうすづく頃、七尺斗(ばかり)の大男、柿の頭巾を引(ひつ)かぶり、四尺斗(ばかり)の大刀を差(さし)、兩人、道の眞中(まんなか)に立(たち)はだかり、大の眼(まなこ)を見出し、

「いかに旅人。命、惜しくば、衣類・大小・平包、殘らず渡し、丸裸にて通るべし。さらずば、一足もやらぬ也。」

と云(いふ)。

 右馬介、聞(きき)て打笑(うちわら)ひ、

「己等は三輪の謠(うたひ)を知らざるや。『秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ』と云(いへ)り。我も衣裳一にて、秋風、身に染(しみ)て、はだ寒し。先(まづ)おのれらが衣裳を、こなたへ渡せ。」

といふ。盜人共、はらを立、

「扨々、存知の外(ほか)、きも、ふとき男哉(かな)。おのれ、いにしへの大竹丸(おほたけまる)におとらざる鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎をしらざるか。いで、もの見せん。」

と兩人の盜人、右馬介が左右より、進みよる。

 壱人の男、右馬介が右の腕を取(とる)所を、振(ふり)はなち、件(くだん)の男が元首(もとくび)をしめ付(つけ)、中(ちう)に提(さげ)、はるかなる谷底へ人礫(ひとつぶて)に抛捨(なげすて)る。

 殘りし男、是を見て、太刀引拔(ひきぬき)、天窓下(てつぺんおろ)しに切付(きりつけ)たるを、引(ひき)はづし、刀持(もち)たる手を、つかともに握りひしぎ、前へ引居(ひしす)へ、

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし。己、さこそ命のおしかるべし。我を誰(たれ)とかおもふ。愛宕山太郎坊天狗とは我(わが)事也。然に、此道におのれが樣なるあぶれもの有(あり)て旅客をなやますと聞(きき)、いましむべき爲(ため)、あらはれたり。命斗(ばかり)はたすくるなり。已來、能々(よくよく)愼め。」

とて刀をもぎ取(とり)、刃(やいば)の方を首のかたへ押(おし)まげ、二重三重に卷付(まきつけ)、道の傍(かたはら)なる松の木へ、したゝかにくゝり付(つく)。

 其後は、上方へ登り、五、六年も過(すぎ)て、右馬介、入湯(にふたう)するに、骨ふとく、長(たけ)たかき坊主の、俄道心(にはかだうしん)とみへたるが、首へ布切を卷(まき)ながら、湯へ入あり。

 右馬介、見て、

「御出家、首のまわりを布にて包み給ふは、いたみ有(あり)ての事か。布をといて、入(いり)玉へ。」

といふ。

 坊主は目をふさぎ、唯、餘言(よげん)なく念佛斗(ばかり)申居(まうしゐ)たりけるが、是を聞(きき)て申(まうす)樣(やう)、

「さんげに罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

 某(それがし)は元近江路にて、鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎とて、隱れなき盜人の内にて、天狗次郎とは我(わが)事也。某、十三の年より、辻切(つぢぎり)をいたし、四、五年以前迄、凡(およそ)人の弐、三百も切殺(きりころ)し候べし。

 關山通(どほり)に立出(たちいで)、往來の旅人を待(まつ)所に、壱人の旅の男、來(きた)る。

『尋常の者ぞ。』

と、やすやすと心得、引(ひつ)とらへひつぱがんと致し候得ば、彼(かの)もの、十刀太郎が首元をとらまへ、蟲けらをひしく樣にひしぎ殺し候へて、其後、我をとらへ、殺しもやらず生(いか)しもやらず、如此(かくごとく)刀の刃を首の方へおし𢌞し卷付置(まきつけおき)て、則(すなはち)、壱丈斗(ばかり)の大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候。此刀、何とぞ首よりはづし申度(まうしたく)、樣々致し候得ども、人力(じんりき)に及不申(およびまうさず)。是非なく、ケ樣(かやう)に首を卷、差置候に隨ひ、霜、刃にふれ、皮、切(きれ)、肉、たゞれ、痛(いたみ)、難忍(しのびがたし)。此(この)湯に入(いり)、痛をたて候得ば、白瘡(はくさう)をさゝげ、ふた、作り、膿水(のうすい)、とまり、暫(しばらく)の内、心よく罷成(まかりなり)候。今は昔の猛惡を後悔し、一心に彌陀成佛を願(ねがひ)候。」

とて首の布をはづすをみれば、我(われ)からみたる刀なり。

 右馬介、

『扨は伊勢路の盜賊よ。』

と心に思ひ、人なき所へ坊主をよひよせ、

「其時の旅人は、我也。此(これ)以來、必(かならず)、惡心をひるがへし、佛道に歸依して、生涯を終るべし。」

と、能々(よくよく)、後來(こうらい)、禁(いまし)め、刀のまきめに、ゆびを入(いれ)、一はじき、はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

 坊主、手を合(あは)せ、淚を流し、

「我、深き御慈悲にて大苦痛をまぬかれ、現世未來成佛身(げんせみらいじやうぶつしん)を得候。此以來、いかならん御奉公成(なり)とも可仕(つかまつるべく)候。御家來になし、召仕(めしつか)はれ給はるべし。命、限り御みや仕へ申すべし。」

とて、夫(それ)より、主從の契約(ちぎり)をなし、隨身(ずゐじん)、給仕なしたりとなん。

 此右烏介、尾州より美作の國へ越(こゆ)る時、乘物、弐挺(ちやう)の棒をくゝり合(あはせ)、老母と妻と男子弐人とをのせて、棒の先へ具足櫃(ぐそくびつ)・葛籠(つづら)のたぐひ、結ひ付(つけ)、夫(それ)を右馬介壱人にて、かるがると荷行(にゆき)たり。

 又、ある時、ためしものを切に、目釘穴、くぼく、目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに、目釘竹を取(とり)て、目釘穴にあてて指を以(もつて)是(これ)ををすに、目釘竹のめぐり、削(けずるる)がごとくにかけて、目釘穴のうら迄、通りたり。鐵槌(かなづち)にて打共(うつとも)、可入(いるるべき)物に、あらず。

 力の分限、知りがたし。

 森家の侍には、すべて、大力、多し。不破伴左衞門は、其身、鐵體(てつたい)にてや有(あり)けん、名越三左衞門、備前兼光を以(もつて)切に、澁皮(しぶかは)も、むけず。

 森家の者共、指料(さしれう)の刀、壹腰(ひとこし)も切るゝ事なく、鎗にて、やうやう、突殺(つきころ)しけるといへり。

 不破が力は高木に一倍ましたり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「高木右馬助」(明暦二(一六五六)年~延享三(一七四六)年)は江戸前期から中期にかけて実在した知られた武術家。名は重貞。もと、美作津山藩士で、十六歳で高木折右衛門より高木流体術の極意を受け、後に竹内流を学んで、「高木流体術腰回り」を創始した。自らの号をとって「格外流」とも称した。その後、浪人して美濃に住み、九十一歳の天寿を全うした(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼」(慶長一五(一六一〇)年~元禄一一(一六九八)年)は大名。寛永一一(一六三四)年に美作津山藩(現在の岡山県津山市)第二代藩主。延宝二(一六七四)年に隠居した。後、死の前年の元禄十年に津山藩改易されるが、備中西江原藩二万石を与えられて、そこで森家を再興している。本来、彼は森忠政の重臣関成次の長男であったが、忠政の実子が全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。

「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」これは「新古今和歌集」の「巻第十七 雑歌」に載る西行法師の一首(一六一三番歌)、

 

    伊勢にまかりける時よめる

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん

 

を指す。

「七尺」二メートル一二センチメートル。

「柿の頭巾」柿渋で染めた頭巾。防水効果がある。

「四尺」一メートル二十一センチメートル。これはとんでもない長刀である。

「兩人」ここまで叙述はやや不親切。盗人は二人組である。

「平包」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「三輪の謠(うたひ)」謡曲名。玄賓僧都(げんぴんそうず)(ワキ)が毎日庵を訪れる一人の女(前シテ)に衣を与えたが、三輪の神杉にその衣がかかっているというので行ってみると、三輪明神(後シテ)が現れ、三輪の神話を語り、天の岩戸の神楽を舞うというストーリー。

「秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ」謡曲「三輪」の前半の前シテとワキの問答の一節(太字部分)。前後を含めて引く。

   *

上ゲ歌

地〽 秋寒き窓の内 秋寒き窓の内 軒の松風うちしぐれ 木の葉かき敷く庭の面(おも) 門(かど)は葎(むぐら)や閉ぢつらん 下樋(したひの)の水音も 苔に聞えて靜かなる 此の山住(やまず)みぞ淋しき

問答

シテ

「いかに上人に申すべきことの候。秋も夜寒(よさむ)になり候へば、おん衣(ころも)を一重(へ)たまはり候へ。

ワキ「易き間(あいだ)のこと。この衣を參らせ候ふべし。

シテ「あらありがたや候。さらば御暇申し候はん。」

ワキ「暫く。さてさておん身はいづくに住む人ぞ。」

シテ「わらはが住み家(か)は三輪の里。山もと近き處なり。その上、『我が庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは』とは詠みたれども、何しに我をば訪(と)ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば、訪(とふら)へ來ませ。」

   *

シテの台詞の「我が庵は三輪の山もと戀しくは」は「古今和歌集」の「雑下」に載る「よみ人知らず」の一首(九八二番歌)「わが庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひ來ませ杉立てる門」で、古注では「三輪の明神の歌」とされるので、伏線と言える。

「大竹丸」大嶽丸。ウィキの「大嶽丸」より引く。『伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼。峠を雲で覆って暴風雨や雷、火の粉など神通力を操った』。『鈴鹿峠周辺には大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂を祀る田村神社(甲賀市)や、大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)などが今も点在している』。『御伽草子『田村草子』では、俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗が退治した伊勢鈴鹿山の鬼神が大嶽丸である』。なお、『『田村草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』ではそれぞれ名前が異なるため、以下』、『田村麻呂で統一する』。『桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民や都への貢物が届かなくなり、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じ、田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かった。大嶽丸は悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村麻呂の軍を数年に渡って足止めした』。『一方で鈴鹿山には天下った鈴鹿御前という天女が住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化して夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、思いは叶わなかった。大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村麻呂が神仏に祈願したところ、その夜に微睡んでいると』、『老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村麻呂は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと見目麗しい女性が現れ、誘われるままに館へ入り閨で契りを交わす。女性が「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と鈴鹿御前であった女性の助力を得た』。『鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されて倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻り、夜になると童子に変化した大嶽丸がやってきた。鈴鹿御前が大嶽丸に「田村麻呂という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。次の夜も館へ来た大嶽丸と、待ち構えていた田村麻呂が激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となり』、『日月の様に光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や鉾を投げつけたが、田村麻呂が信仰する千手観音と毘沙門天が払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村麻呂が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれて数千もの鬼の顔を射る。大嶽丸は抵抗するも、最後は田村麻呂が投げた騒速』(そはや:坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀)『現に首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村麻呂は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らした』。『ところが大嶽丸は魂魄となって天竺へと戻り、顕明連の力で再び鬼神となって陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めたため、田村麻呂と鈴鹿御前は討伐のために陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村麻呂はかつて鈴鹿山で鬼が城を見ていたため』、『搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに大嶽丸が蝦夷が島の八面大王の元より戻ってきて激戦となり、再び田村麻呂によって首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村麻呂の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため』、『難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。大嶽丸の首は宇治の平等院に納められたという』。『江戸時代の東北では、御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などを底本として、東北各地に残る田村麻呂伝説と融合した奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』で語られた』。『渡辺本『田村三代記・全』では大嶽丸は鈴鹿山に棲んでおらず、登場時から奥州霧山嶽を居城としている』。『鈴木本『田村三代記』では天竺の八大龍王の配下、青野本『田村三代記』では天竺の金毘羅大王の配下とされる』。『「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ東北での田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、地域に即した改変がなされているのも『田村三代記』の特徴である』。『大嶽丸は悪路王と同一視されることもある。伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している』。『小松和彦は今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないが、かつての京の都では大嶽丸は大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとしている』とある。本篇は、今までの諸篇と異なり、奥州色がないが、或いは、この再生した大嶽丸の奥州での再起や、平安時代初期の蝦夷の首長悪路王伝承との絡みによって、或いは三坂の意識の中で奥州と通底していたものかも知れない

「十刀太郎」読み不祥。「じっとう」か「とがたな」か。

「引(ひき)はづし」真後ろへ素早く退いて、かわし。

「握りひしぎ」「握り拉ぎ」。握り潰し。

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし」ネット検索を掛けると、「源平盛衰記」の一本(私の所持するものには見当たらなかった)の「巻第十五 宇治合戦」(治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の「橋合戦」のシーン)の中にこの文字列を見出せた「一切衆生法界圓滿輪皆是身命爲第一寶(いつさいしゅじゅあほうかいゑんまんりんかいぜしんみやうだいいつほう)とて生ある者は、皆、命を惜しむ習ひなれ共」である。これが出典か?

「愛宕山太郎坊天狗」無論、相手を決定的に脅すための詐称。相手が「天狗次郎」(この時には相手がそっちだは認識していない)ならば、当然、言上げで勝てる名であるからである。

「入湯(にふたう)するに」温泉名が書かれていない。有馬か。

「布をといて、入(いり)玉へ」高木は布を巻いた首の部分まで(というよりも、後で判る通り、その首のためにこそ入っているのであるが)湯にどっぷりと浸かっているのを見て、不潔を咎めたのである。

「さんげ」「懺悔」。本邦では近世まで清音が普通。に罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

「關山通(どほり)」宿(ここ(グーグル・マップ・データ))から北西に鈴鹿峠を越える道筋。関山は関宿の後背の山並みを指す。

「壱丈」約三メートル。

「大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候」話を作ったというより、その恐るべき怪力(刀の先を首の周りに曲げて輪にして枷のようにかけた事実に驚愕し、その詐称を鵜呑みにして、幻覚を見たとすべきところであろう。或いは、作話する意識が幾分かあり、そこにこの男の弱さを見て取った高木は最後の仕上げを以下でした、と言うのが正しいのかも知れない。

「痛をたて」「たて」は「斷て」か。一時的に痛みを止めることが出来るというのであろう。「白瘡(はくさう)をさゝげ」傷口の爛れた部分が白い瘡になって剝がれてぶら下がり。

「ふた、作り」その後に瘡蓋が出来て。

「膿水(のうすい)、とまり」膿の浸出もおさまり。

「からみたる」「絡みたる」素手で捻じ曲げて頸に絡ませた。

「まきめ」「捲き目」。曲げて捲きつけた箇所。

「はじき」「彈(はじ)き」。はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

「ためしものを切ルに」名刀工の名物や新たに打った刀の試し切りをする際に。

「目釘」刀身が柄から抜けるのを防ぐため、刀の茎(なかご)の穴と柄の表面の穴とに刺し通す釘。竹・銅などを用いる。目貫(めぬき)とも呼ぶ。

「くぼく」窪んでいるだけで、中央に穴が開いているだけであったか、或いは後の叙述から見るに、針ほどの貫通穴さえ開いていなかったのかも知れぬ。

「目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに」目釘竹の方は、穴(或いはただの窪み)よりも一回り大きいものであったのであるが。

「不破伴左衞門」不詳。「不破が力は高木の」その「倍」はあったというのだか、どうも私はこの最後の部分がよく判らぬ。「森家の侍にはすべて大力」が多かったとして、彼の名を出すのだから、不破は森家の家臣としか読めないだろう。

彼は「森家の者共」がその「指料(さしれう)の刀」を如何に振っても、一つの傷も不破に与えることが出来ず(さすればこそ恐らくは最初に出る「名越三左衞門」(不詳)も森家家臣であろうとしか読めぬのだ)、結局「鎗」(やり)で、やっと突き殺した、というのは、訳が分からん。不破なる大力の家臣が乱心したのかしらん? 識者の御教授を乞うものである。

「備前兼光」既出既注。]

老媼茶話巻之三 如丹亡靈 / 老媼茶話巻之三~了

 

     如丹(じよたん)亡靈

 

 奧州會津大口(おほくち)村といふ所に大仙寺といふ山寺有(あり)。此寺に如丹(じよたん)といふ美僧、住居(すまゐ)せり。此僧、元、しら川の武士、男色のことにて人を打(うち)、十六の年、出家し、當年貳拾三に成(なる)と、いへり。

 其頃、曹洞宗の學僧多き中に、文志・愚學・如丹、此三僧也。文志は金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村龍谷寺に住し、愚學は五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)の住呂(ヂウりよ)。如丹は此寺に住せり。

 此村に庄右衞門といふ百姓の娘に「まき」といふ美女あり。如丹、究(きはめ)て美僧なりしかば、まき、深く思ひ込(こみ)、人目を包(つつ)み、月日を送れり。

 大仙寺の庭に、梅・桃、多(おほく)植(うえ)て、數をつらね、花開落の後(のち)、實を結ぶ。

 夏の初(はじめ)より、まき、來り、寺の軒端に彳(たたずみ)て、もの思(おもふ)氣色(けしき)有(ある)に似たり。

 ある時、又、女、來り、礫(つぶて)を以て桃を落(おとす)。

 如丹、戸をひらき、女をしかりて、

「いとけなき童は桃を落すも是非なし、汝、いくつの年にて、いたづらをするぞ。桃も未(いまだ)、熟すまじ。重(かさね)て來たらんは、くせ事たるべし。」

といふ。女、笑(わらひ)て、

「桃に色々有(あり)、山桃・さ桃・姫桃。」

と云(いひ)て、目に情をよせ、戲(たまむれ)て、梅子(ばいし)をなげて如丹に打(うつ)。

 如丹、女のけしきをみて、心有(こころある)事を知り、戸をとぢて、取(とり)あわず。

 或(ある)五月雨(さみだれ)の夕(ゆふべ)、小夜更(さよふけ)て、如丹が寢屋の戸をたゝく。

「誰(たそ)。」

といへば、音なく答へねば、また、たゝく。

 如丹、止事(やむごと)なく、戸をひらけば、女、急ぎ、内いる。

 如丹、驚(おどろき)て、

「汝、何(なん)とて、夜、來(きた)る。」

女の曰(いはく)、

「日頃、御僧の我を匂引し玉ふ、其心有(そのこころある)を知(しり)て、今宵、爰(ここ)に來れり。」[やぶちゃん注:「匂引」は注で考証する。]

 如丹、女を押出(おしいだ)し、

「佛邪婬(ぶつじやいん)の、いましむ。汝、我(わが)爲の外道(げだう)なり。早々家に歸れ。」

女、聞(きき)て、

「我、爰に來る事、覺悟なきにあらず。僧、かたく情(なさけ)をいどまば、爰に死(しし)て、二度(ふたたび)、家に歸らじ。さのみ、こと葉(ば)をついやすべからず。もし、壱度(ひとたび)同床に枕をならべば、此(これ)已後、二度(ふたたび)情(なさけ)をしとふまじ。」

 如丹、是非なく、其夜は、かの心に隨ふ。

 女、悦(よろこび)て日頃の心ざしをとげ、曉、家に歸りぬ。

 是より、如丹、行義、大きに亂れて破戒の僧と成(なる)。

 此事、度重(たびかさなり)て、如丹が噂、村に沙汰有り。

 或時、秋の頃、時雨ふりける夕べ、村の若きものども、

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」

とて、打連(うちつれ)、行(ゆき)けるに、寺のはゐり口に、雨にぬれたる女足駄(をんなあしだ)有(あり)けるを、かたがたは、如丹が寢屋へ打込(うちこみ)、かたがたは手にさげ、持歸(もちかへ)り、女の親に見せけるに、まさか、父庄右衞門、是を見て、大きにいかり、娘を呼(よび)て強(つよく)いましめ、

「己(おのれ)、奸僧(かんそう)の爲にたぶらかされて、生涯をあやまる、と、きけり。以來、かたく愼(つつしみ)て、女の行義を亂すべからず。もし、又、心あらたむる事ならずは、此弐品を以て心の儘に死を定むべし。」

と云(いひ)て、細繩(ほそなは)壱筋・剃刀(かみそり)一刃(いちぢん)をあたへ、一室に押入(おしいれ)、外より堅く戸をとぢ、湯水を絶(たた)す事、一日、庄右衞門妻、是を見て、悲み泣(なき)て、

「我娘、終日食(シヨク)せず、きかつ、忍びかたかるべし。邪見の親、何(なん)とて斯(かく)情(なさけ)なき。是、皆、人の空言(そらごと)なり。何ぞ、さのみつらくあたるべきや。」

といふて、食事を調へ、扉を開き見るに、娘は、みづから、首を〆(しめ)て倒れ居(をり)たり。

 母、大きに驚き、聲を上(あげ)て、近所の者を呼立(よびたつ)る。

 皆人(みなひと)、集り來りて是を見るに、死(しし)て程經(ほどへ)たりとみへて、身體、ひえかへり、又、生(いく)べき能(よき)手立(てだて)なし。

 女、既に死して後、彌(いよいよ)此事止むべからずして、如丹が不義、上(かみ)へ聞(きこ)へ、此(この)故に、如丹、犯戒(ぼんかい)の掟(おきて)のがれずして、邪婬の罪、悉(ことごと)く禁札に書顯(かきあらは)し、如丹をいましめて、傳馬(てんま)にしばり付(つけ)、辻々町々、引晒(ひきさら)し、藥師川原にて、はつつけに懸(かけ)らるゝ。

 如丹、最後にいはく、

「我、壱度(ひとたび)釋門に入(いり)て三衣(さんえ)を着し、一寺の住呂と成(なり)、今、破戒の刑に行はるゝ。是、過去宿惡の報ひなり。大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也。」

と、いへり。

 誠に最期の忘念や、此寺に、とゞまりけん、此(これ)以後、大仙寺の住持、若(もし)、如丹が噂かたり出せば、必(かならず)、妖怪有(あり)、といへり。

 事を好む者有(あり)て、かの寺へ尋行(たづねゆき)、住寺に逢(あひ)て此よしを聞(きく)に、住寺、答(こたへ)て、

「此事、誠に在(あり)候。今宵、此寺に留(とどま)りて其怪敷(あやしき)を見給へ。」

といふ。

 既に日も暮過(くれすぎ)て、夜、三更に及(および)て佛壇の方に、若き男女の聲にて、かなしみ歎く音(こゑ)、有(あり)て、いつくしき僧の、年頃、廿四五斗(ばかり)成が、十六、七の、女の首を、いだき、此者の枕本(まくらもと)に來り、立居たり。

 程有(ほどあり)て、庭の方より、靑き玉の光、渡り、草村(くさむら)を、こけありき、首もなき女のむくろ、手に細引(ほそびき)をさげ、いづくともなく、走り來り。

 件(くだん)の男、此妖怪を見て、曉を待得(まちえ)ず、早々、我宿へにげ歸(かへり)ぬと、いへり。

 材木町秀長寺の卓門(たくもん)和尚、正德三年の秋九月の末、大仙寺無住の折、僧衆弐、三人、大仙寺尋行(たづねゆき)て、一夜(ひとよ)、とまりし。

 暮より、雨ふりいだし、いとゞだに住僧もなき古寺の淋しさに、各各(おのおの)いろりへ立寄(たちより)、柴(しば)折(おり)くべて、茶を煮て、如丹が噂物語せし折、佛壇のかたより、弐拾弐三のうつくしき僧、ぬり笠をかぶり、手にぬり鉢をさゝげ、杖をつき、暫く座中をあるき𢌞りて、消(きえ)ては、又、顯(あらは)れ、あらはれては消(きゆ)。終夜、迷ひあるきしを、卓門和尚、見たる、との物語なり。

 

 

老媼茶話三終

 

[やぶちゃん注:「奧州會津大口(おほくち)村」不詳。識者の御教授を乞う。底本に『おおくち』とルビする以上、編者は判っているものと思われるのだが。

「しら川」白河藩。陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した。

「大仙寺」不詳。識者の御教授を乞う。現存すれば、大口村の位置も判るのだが。

「如丹」不詳。並称された秀でた曹洞宗の学僧とする「文志」「愚學」も不詳。

「金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村」「金山谷」は現在の福島県大沼郡金山町であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「板おろし村」は不詳。金山町内に現在、「玉梨新板」という地名ならば、確認出来る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「龍谷寺」不詳。現存しない模様。

「五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)」現在の福島県喜多方市のこの中央付近一帯の広域地名と推定される(グーグル・マップ・データ)。根拠はこちら(陸奥国耶麻郡之十一の五目組地理図。但し、上が東なので注意)。現在の複数の地名・河川名がこの旧地図とよく一致する

「住呂(ヂウりよ)」「住侶」。但し、歴史的仮名遣「ぢゆうりよ」が正しい。

「人目を包(つつ)み」人目を避けて、というより、ここはまだ、如丹へのモーション以前であるから、彼に恋い焦がれていることをおくびにも出さず、人に察せられぬように気を遣って、の意。

「くせ事」道義にもちるゆゆしき事。

「桃」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「山桃」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra

「さ桃」「早桃」で早生の桃の古名、或いは現行ではバラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina の一品種の名ともなっているが、前者でよい。

「姫桃」矢張り、現行では早生の桃の名としてあるようである。「まき」は自分が山家の田舎娘で未だ男を知らぬこと、しかし、今、熟れかけている確かな女性(にょしょう)であることをこの三種の表現で示そうとしている。

「情」「じやう」或いは「おもひ」。

「匂引し玉ふ」「匂」はママ。牽強付会すれば、美僧の男性フェロモンが娘に影響して彼女の方から惹かれて彼のところにやってきたの意として、「にほひびき」とでもやってみたくはなるところだが、どうもそんな熟語も読みも知らぬ。これは思うに、「勾引」の誤字(或いは底本編者に失礼乍ら、誤判読)ではあるまいか? さすれば、その美貌のあたなが、あなたの意志とは無関係に、私の心を常日頃から無理矢理にあなたのtころへ連れ去らせる、「勾引(かどわか)し給ふ」と読めるからである。

「其心有(そのこころある)を知(しり)て」如丹もまんざらではない、私に惹かれていることを知って。無論、「まき」の思い切った誘惑(モーション)に過ぎないが、結局、効果を発揮することにはなる。

「いどまば」抗って拒否するというのであれば。

「しとふ」「慕ふ」。

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」底本では「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、」の部分を字の文とし、直接話法は『寺へ行遊ぶへし』のみ。従がえない。

「はゐり口」「入り口(ぐち)」。

「かたがたは」ある者たちは。

「手にさげ」女足駄を。

「きかつ」「飢渇」。

「邪見」ここは、厳しさを越えて惨たらしい点に於いて仏教的に正しくない考えの意。

「是、皆、人の空言(そらごと)なり」純真無垢の処女の少女であってほしいと思う母親の誤った悲しい好意的理解。

「傳馬」本来は逓送用の馬。江戸時代は主要幹線路の宿駅ごとに一定数を常備させて公用にあてた。公の仕置き(処罰)であるから、伝馬を使うのは腑に落ちる。

「藥師川原」既出既注

「三衣(さんえ)」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に袈裟で、正規の僧(彼は一寺の住持となっている)として認められたことを指す。

「大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也」なかなか難しい。「大仙寺が続く限りは、我が悪名を常に謗るべき恥ずべきものとして、憎み、その穢(けが)れ故に、決して口に出すことなかれ! 我れのような破戒僧のあったことをおくびにも出すな! 何故なら、我れの堕地獄の恨みの一念は、この寺にずっと留まり続けるからである!」というの意味で採っておく。そうしないと、後の怪異を上手く説明出来ないからである。

「草村(くさむら)」「草叢」。

「こけありき」「轉(こ)け步き」。

「むくろ」「骸(むくろ)」。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町(ざいもくまち)内。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「材木町(会津若松市)によれば、『材木町は』慶長一五(一六一〇)年、『それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる』。『河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する』五『間の通りであった。また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる』とある。

「秀長寺」曹洞宗龍雲山秀長寺。現存。(グーグル・マップ・データ)。

「卓門和尚」不詳。

「正德三年」一七一三年。第七代将軍徳川家継の治世。]

2017/10/16

老媼茶話巻之三 女大力

 

     女大力(をんなだいりき)

 

 三州吉田の城主、池田三左衞門輝政の妹、惡女にて大力(だいりき)なり。山崎左馬之助妻と成(なり)、離別の後、剃髮して天久院といふ。

 ある時、吉田城内、狼籍者、有(あり)。

 人、數多(あまた)、斬殺(きりころ)し、天久院のもとへ切入(きりい)

 天久院、鉢卷をし、袴の裾、高くからげ、大長刀(おほなぎなた)をかい込(こみ)、仁王立(にわうだち)にたち、大(だい)の眼(まなこ)を見ひらき、扣(ひかへ)玉へば、狼籍もの、此けんまくをみて、大きに恐れ、逃行(にげゆく)を、追懸(おひかけ)、串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ。

 凡(およそ)、百人力有(あり)と、いへり。

 又、吉田城中に化物ありて、女房のうせける事、數多(あまた)也。人々、おそれおのゝく。

 或日、天久院の、ぼたん臺(だい)の下に生敷(なましき)人のほね、あり。

 是を見る者、

「化物、他より通ひ來(きた)るにあらず。城中に紛居(まぎれゐ)たり。」

とて、彌(いよいよ)、怪(あやし)み、おそれける。

 ある夜、天久院、つふりへ、女の衣裳をかぶり、寢たるふりをなしてうかゞひ給ふに、「小ちく」といふ女房、此所へ來り、頻りに高鼻をかぎて、馬の息のごとし。

 天久院、ひそかに是を見玉ふに、彼(かの)女房、氣色(けしき)、すさまじく成(なり)、眼(まなこ)、光(ひかり)、口、耳の際(きは)迄、さけ、天久院飛懸(とびかか)り、衣裳ぐるみにおしつゝみ、表へ、かけ出(いで)むとする。

 天久院、腕をのべ、件(くだん)の化物のつふりを、

「みし。」

と、とらへ、抓(つかみ)ふせ玉へば、牛のほへるごとく、うなりけるを、こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり。

 尾、二股にさけ、五尺餘の大猫にてありし、となり。

 

[やぶちゃん注:恐るべき烈女である!

「三州吉田」三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町にある豊橋公園内)にあった城。戦国時代の十六世紀初頭にその前身が築城され、十六世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁となった(以上はウィキの「吉田城」に拠る)。

「池田三左衞門輝政」(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主から、この三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。天正一八(一五九〇)年の小田原征伐・奥州仕置での功績によって、同年九月に秀吉の命で吉田城主となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げ(岐阜城の戦い)それによって戦後、家康の命で播磨姫路に加増移封されて姫路藩主となっているから、ここは冒頭で「三州吉田の城主」と言っている以上、その閉区間が作品内時制となる。

「山崎左馬之助」山崎家盛(永禄一〇(一五六七)年~慶長一九(一六一四)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名で摂津国三田城主・因幡国若桜藩初代藩主。ウィキの「山崎家盛によれば、「関ヶ原の戦い」で、『石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝える一方、大垣城に拠っていた三成と面会し西軍に与することを約束した。家盛は、西軍として細川幽斎が守る丹後国田辺城攻め(田辺城の戦い)に加わるが、積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。戦後、家盛は西軍に与した罪により』、『改易されそうになるが、義兄・池田輝政の尽力』『や三成の挙兵の報告をした功があるとして許され』、慶長六(一六〇一)年『に因幡若桜』『に加増転封となった』とある。彼女との離別の年次は明らかではないが、こちらの記事(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : 池田家の猛女、天球院と関ヶ原)によれば、『家盛は側室を作って正妻ほったらかしで殆ど家に戻ろうともしなかった』ともあり、それ以下の関ヶ原以降の叙述を読む限りでは、「関ヶ原の戦い」の直後には別居していたと読める。池田輝政に再嫁した徳川家康二女督姫(良正院)を妻とともに救ったという、物語佐馬奥方三田)(PDF)では二人がともに謀って戦国を乗り切ったとあるが、どうも前のリンク先の話の方がしっくりくる(そこでは弟で因幡鳥取藩初代藩主池田長吉(ながよし)の所に行って弟に養わせたともある)。

「天久院」天球院が正しい(永禄一一(一五六八)年~寛永一三(一六三六)年)。輝政の妹。山崎家盛との間には子はなく後に離縁して池田家に戻った。龍峰寺の江山景巴に帰依し、寛永八(一六三一)年に妙心寺天球院の開基となっているらしい。

「けんまく」「劍幕(見幕・權幕)」。怒って興奮しているさな。いきり立って荒々しい態度や顔つき。

「串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ」腹部辺りを一突きにした後、その胴体を完全に上下に切り離したということであろう。とんでもない臂力(ひりょく)である。

 凡よそ)、百人力有(あり)と、いへり。

「うせける事」「失せける事」。

數多(あまた)也。人々おそれおのゝく。

「ぼたん臺(だい)」「牡丹臺」。城の中の庭園の牡丹の鉢植えを並べた観賞用の棚であろう。

「生敷(なましき)」未だ新しい骨。舐りそこなった皮肉などが附着していたものかも知れぬ。

「つふり」頭。

「女の衣裳をかぶり」彼女は剃髪して尼僧の格好をしているのであるが、か弱く見せて化け物に油断させるため、女房の上着を被ったのである。

「小ちく」「こちく」でよかろう。女房の名。

「高鼻をかぎて」高く鼻を上げては、何か、ものを嗅ぐ様子を見せて。

「のべ」「伸べ」。

「こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり」何もつけていない素手の拳固で、巨大な(「五尺」は一・五メートル)猫又の頭を殴りつけて、完全に潰してしまったというのである。恐るべし!

「尾、二タ股にさけ」妖怪猫又。詳しくは「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」の私の注を参照されたい。]

2017/10/15

老媼茶話巻之三 天狗

 

     天狗

 

 加藤嘉成の士に、小嶋傳八、一子(いつし)惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるか、ひぐれて見へず。さまざま尋見(たづねみ)れ共、行衞、更に知れず。傳八夫婦、鳴悲(なきかな)しみ、佛神へきせいをかけ、御子(ミコ)・山伏を賴み、色々、祈禱なす。甲賀丁(ちやう)に古手屋(ふるてや)甚七といふもの、傳八方へ來り申(まうし)けるは、

「是(ここ)の惣九郎樣、廿日斗(ばかり)前の曉(あかつき)頃、我等、用事有(あり)て、はやく起(おき)、見せの戸をひらき候折(をり)、大山伏兩人、跡先(あとさき)に立(たち)、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそぎ候が、壱人の山伏、我等が方へ參り、

『此邊に十斗(ばかり)成(なる)子共のはくべきわらぢのうりものは、これなきや否や。』と申(まうす)。

『無(なし)。』

答へ候へば、夫(それ)より、いづく行(ゆき)候や、姿を見失ひ申候。」

と語る。

 傳八夫婦、聞(きき)て、

「扨(さて)は天狗にさらわれたるもの也。」

とて、其頃、妙法寺の日覺上人といふ、たつとき出家を賴(たのみ)、五の町車川の端に護摩壇をかざり、法家坊主弐拾人斗(ばかり)にて經讀祈禱する。

 七日にまんずる日中(ひなか)、一點の雲なき靑天、虚空にちいさき物、見ゆる。見物の諸人、山をなして、空を見るに、東より大とび壱羽、飛來(とびきた)り、是をさらい取(とら)んとする事、度々なり。

 時に、壱羽、金色(こんじき)の烏(からす)、何方共(いづかたとも)なく飛來り、此鳶を隔(へだ)て近づけず、段々に地にくだり、間近く見るに、人なり。三拾番神の壇に落(おち)たるを見るに、小嶋惣九郎也。

 諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をば、

「佛の再來也。」

と諸人、沙汰せし、といへり。

 惣九郎は、一生、空氣(うつけ)に成(なり)、役にたゝざりしと也。

 

[やぶちゃん注:これは、柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」にも紹介されている(リンク先は私の電子化注のそれが出る最後のパート)。

「加藤嘉成」陸奥会津藩初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)とその嫡男で陸奥国会津藩第二代藩主となった加藤明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)(複数回既出既注)の名を混同した誤り今までの記事から見て、後者と思われる。但し、先の柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」では、勝手に父の方「加藤嘉明」として紹介してある。不審。

「小嶋傳八」不詳。

「ひぐれて」「日暮れて」。この前後、原典は「何方へ行けるかかひくれて見へす」。「搔い(き)暮れて」と読めなくもないが、底本編者は「か」の一字ダブりは衍字と判断しているので、今回は除去した。

「きせい」「祈誓」。

「御子(ミコ)」「巫女」。

「甲賀丁(ちやう)」現在の福島県会津若松市相生町(あいおいまち:(グーグル・マップ・データ))の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『甲賀町(こうかまち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、南側は甲賀町口、北側は滝沢組町に接する幅』四『間あまりの通りであった。傍出町として大工町があったほか、甲賀町は文禄年間の成立で、蒲生氏郷が日野(近江)から移住した商工業者を置いた町であるとされる。このため、かつては日野町と呼ばれていたが、加藤氏が甲賀町と改称したとされる』とある。

「古手屋(ふるてや)」古着や古道具を売買する店。

「子共のはくべきわらぢのうりもの」「子供の履くべき草鞋の賣り物」。

「さらわれたる」「わ」はママ。「攫はれたる」。

「妙法寺」現在の福島県会津若松市馬場本町(相生町の東隣接地区で、前の古手屋甚七の家からごく近いと思われる)に、現在は顕本法華宗の別格本山である宝塔山妙法寺があるから、ここであろう。ウィキの「妙法寺会津若松市)によれば、明徳二(一三九一)年に『会津出身の僧日什が、故郷会津に帰国した際、城主蘆名氏が寄進』したとある。但し、『戊辰戦争で堂宇』は全焼してしまったとある。(グーグル・マップ・データ)。

「日覺上人」不詳。識者の御教授を乞う。

「五の町」同じく先の相生町の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『五之町(ごのまち)は、若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、西側の大町から馬場町を経て東側の中六日町に至る幅』三『間の通りであった。また、四之町の北に位置していたほか、五之町には元禄年間に移った臨済宗実相寺があった。西側の大町から馬場町までを下五之町、東側の馬場町から中六日町までを上五之町といった』とある。

「車川」河川名であるが、不詳。地図を見ると、現在の相生町の北西には川らしきものがあり、その直線上を辿って同地区を越えた辺りに身近に川らしきものが南東に少し見えるから、現在は相生地区下では暗渠になっていると推定されるものが旧車川なのかもしれない。この川らしきもの、実は妙法寺の北直近でもあるのである。

「法家坊主」ママ。「法華坊主」。川端での祈禱パフォーマンスは布教にも一役買ったことであろう。

「大とび」「大鳶」。

「是」空中に浮かぶ「ちいさき物」。実は空中を浮遊する小嶋惣九郎である。

「さらい」ママ。「攫ひ」。

「金色(こんじき)の烏(からす)」神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされて、彼を熊野から大和橿原へと道案内したとされる神の使いたる鴉(一般的に三本足とされる)である八咫烏(やたがらす)の変形であろう。山伏らの修験道と密接な関係を持つ熊野三山に於いて、八咫烏は太陽の化身(金色と連関)ともされ、またミサキ神(死霊が鎮められた神霊としての神の使い)ともされており、熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されるが、「日本書紀」では同じ神武東征の場面に金鵄(きんし:金色の鳶(とび))が長髄彦(ながすねひこ)との戦いで神武天皇を助けたともされることから、「八咫」と「鵄」がしばしば同一視或いは混同されるからである(ここはウィキの「八咫烏を参考にした)。

「三拾番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

2017/10/14

老媼茶話巻之三 幽靈

 

     幽靈

 

 融通寺(ゆつうじ)町に古館山城安寺と云(いふ)淨土寺有(あり)。爰に女の幽靈の像あり。幽靈は蒲生秀行の乳母なり。其折は此寺に住僧もなく、覺夢といふ閑主坊(かんしゆばう)住めり。此うば、その僧にゆかり有りけん、兼て導師を賴置(たのみおき)り。しかるに乳母、罪なくして人の爲にざんせられて、秀行卿の御母公(おんははぎみ)の御にくみを蒙り、終(つゐ)に、其つみ、申(まうし)ひらく事あたはず、自ら刃(やいば)にふして死(しに)たり。最後に申置(まうしおく)、

「葬(はふ)り、火葬。」

の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り、則(すなはち)、

「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし。」

と、なり。

 覺夢、元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧なれば、引導のすべを知らず。

「いかゞせん。」

と案じ居たり。

 葬の義、申來辰の下刻成(な)るに、日中に、佛壇、ひゞき渡り、何となく物すごく、空のけしきもたゞならず、かき曇(くもり)、風吹(かぜふき)、小雨ふり出(いで)て、物さわがしく、覺夢、寺にたまりかね、桂林寺町、九郎右衞門といふ繪師とかねがねむつまじく交(まじは)りける間、急ぎ、かの九郎右衞門方へ來り、右の有增(あらまし)を語る。

 九郎右衞門、其頃、金輪組(かなわぐみ)と云(いふ)男だての内(うち)也。此由聞(きき)、云(いふ)は、

「何樣(なにさま)、今日の氣色(けしき)、空のたゝずまひ、けしからぬ樣子なり。必(かならず)、今夕、葬(はふり)の節は妖怪有るに極(きはみ)たり。引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後(そののち)、念佛を申せば、すむ事也。我も汝とひとつに、棺にはなれず、立添(たちそひ)て、火車(くわしや)來りて抓(つかみ)さらはんとせば、刀を拔(ぬき)て切拂(きりはら)ひ寄せつけまじ。わらと、柴とへ、油を多くそゝぎ、假(たとへ)大雨ふる共(とも)、火のきへざる樣にすべし。急ぎ、寺へ歸り、葬禮の儲(まうけ)をすべし。」

とて、覺夢と打(うち)つれて、九郎左衞門も寺へ來り、待居(まちゐ)たり。

 すでに、日、暮(くれ)、棺を寺へ持來りけるに、俄(にはか)に、雨ふり出(いだ)し、風吹(かぜふき)、稻光(いなびかり)、隙(ひま)なくして、空は墨を摺(すり)たるごとく、眞闇(まつくら)に成(なり)、すさまじさ限りなし。送りの者共も、已に棺へ、黑雲、覆ひ懸り、雷、ひゞき渡り、大雨、頻りにふり、數ある灯燈(ともし)も消(きえ)ければ、棺を寺の前に打捨(うちす)て、壱人もなく、逃(にげ)たり。

 覺夢坊、かいがい敷(しく)、衣の袖をたすきにかけ、棺へ乘懸(のりかか)り、念佛を大音(だいおん)に申(まうす)。

 九郎右衞門は、大はだぬぎに成(なり)、大脇差をさして、是も棺へ立懸り、黑雲の、うづ卷(まき)、𢌞(めぐ)る内を、打拂ひ、打拂ひすれば、黑雲、次第に遠ざかり、雨風、忽(たちまち)、止(やみ)、元の靑天に成りしかば、棺をわら・たきゞの上にすへ、引導にも及ばず、火を懸(かく)。

 猛火、さかんにもへのぼり、火定(くわじやう)も既に成納(じやうなう)し、曉(あかつき)、白骨を拾(ひろ)ひとり、寺の乾(いぬゐ)の角(すみ)、大き成(なる)榎の下へ埋(うづめ)たり。

 其後(そののち)、一日ありて、此女の幽靈。晝夜となく、寺中を、まよひ、ありく。

 覺夢、九郎右衞門に件(くだん)の由を語る。

 九郎右衞門、密(ひそか)に寺へ來り、片影(かたかげ)よりのぞき見て、此幽靈の像を寫(うつし)たり、と云(いへ)り。

 年月を舊(ふり)て、幽靈も出(いで)ず成りにけり。

 此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)て、彼(かの)者を突倒(つきたふし)たりければ、件(くだん)の男、死入(しにいり)ける、といへり。

 今も、乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)・古入道の類(たぐひ)は、見るもの、度々(たびたび)なり。

 

[やぶちゃん注:「融通寺(ゆつうじ)町」福島県会津若松市大町に融通寺という寺ならある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ところが、ウィキの「本町(会津若松市)」によれば、現在の会津若松市本町(ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の融通寺の南西一キロ圏内)内は嘗て融通寺町(ゆつうじまち)があった。『若松城下の城郭外、当時の下町に属する町で、融通寺口郭門から北に続き、西名古屋町に至る幅』四『間の通りであった。浄土宗城安寺があり、これは融通寺が文禄元年に大町に移転した跡にあるとされる。また、昭和時代には呉服商などの商店が多かったとされている』(下線やぶちゃん)とある。

「古館山城安寺」鶴ヶ城下の若松観音霊場の第二十三番として大町の「城安寺」が挙がっているが、確認出来ない。諸データを見る限り、廃寺となっている。従って山号の読みも不詳である。

「蒲生秀行」(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。既出既注

「乳母」とあるから、話柄の時制は秀行が生まれた天正一一(一五八三)年以降から、彼が重臣同士の対立による御家騒動(蒲生騒動)によって秀吉の命で慶長三(一五九八)年三月に会津九十二万石から宇都宮十八万石で移封された十五年間か、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって、陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した時から、慶長一七(一六一二)年五月十四日の死去(享年三十)の凡そ十二年の間の孰れかとなる。

「覺夢」不詳。

「閑主坊(かんしゆばう)」特に何をするでもなく、管理者がいないので、管理をしている僧形の名ばかりの坊主の謂いらしいが、私は嘗てこの熟語を見たことがない。

「導師」亡くなった際の葬儀に於いて死者に引導を渡す(僧が死者に迷いを去り、悟りを開くように説き聞かせること)僧。

「ざんせられて」「讒(ざん)せられて」。讒言(ざんげん:他人を陥れようとして、事実を枉(ま)げ、偽って悪(あ)しざまに告げ口をすること)をされて。

「秀行卿の御母公」蒲生氏郷の正室で織田信長の次女であった相応院(そうおういん 永禄元(一五五八)年或いは永禄四年~寛永一八(一六四一)年)。ウィキの「相応院(蒲生氏郷正室)」によれば、『信長の四男である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから』、『共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる』。永禄十一年、『近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が織田氏に臣従したとき、信長は賢秀の子・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として取ったが、その器量を早くから見抜いて』、永禄一二(一五六九)年の『大河内城の戦い後に』、『自らの娘を与え』、『娘婿として迎えた』。彼女は秀行との間に『息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている』。『その後、夫・氏郷は豊臣秀吉に臣従し、陸奥会津』九十二『万石の大名になるが』、文禄四(一五九五)年に四十歳で死去』し、『後継の秀行は家臣団の統制がままならず』、『会津から宇都宮』十二『万石に減封・移封された』。彼女もともに『宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから』、会津六十万石に戻されている。しかし、慶長一七(一六一二)年に秀行が三十歳で死去、『その跡を継いだ孫の蒲生忠郷』も寛永四(一六二七)年に二十五歳で死去してしまう。しかも『忠郷には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが』、彼女が『信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから』、『特別に、姫の孫にあたる忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩』二十『万石へ減移封の上』、『家督を継ぐことを許された』。しかし『その忠知も』寛永一一(一六三四)年に『嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった』。『晩年は京都嵯峨で過ごし』、八十一歳で死去した。『法名は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼姉』で『墓所は京都左京区の知恩寺』とある。

「にくみ」「憎み」。

「ふして」「伏して」。短刀に咽喉を突き立てて。

「葬(はふ)り、火葬」「の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り」「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし」自害に至る状況から考えて、彼女が自由に城を出て、覚夢の元に直接に告げに行くことは考えられないから、孰れも御付きの使者の申し越しによるもの考えられる。この時代、本邦では特に火葬は特異な葬送法ではなかったが、ここでは自死に至る状況の中に投げ込まれた遺言として、明らかに特殊な意図、讒言によって死を迎えねばならぬ彼女の強い遺恨の思いを、火葬の紅蓮の炎に幻視していると見るのが正しい。

「元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧」「引導のすべを知らず」経文が読めぬどころか、恐らくは文盲に近い状態の坊主とは名ばかりの輩(やから)であったものらしい。浄土宗の寺だから、「南無阿彌陀佛」を唱える、書くこと、寺名を漢字で書くぐらいしか出来なかったと考えてよかろう。

「辰の下刻」午前八時二十分頃から九時頃まで。

「桂林寺町」現在の会津若松市七日町・融通寺(ゆつうじ)町のあった本町・西栄町・日新町などの旧町名。この中央を中心とした一帯と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「九郎右衞門といふ繪師」不詳。

「金輪組(かなわぐみ)」不詳。「男だて」とあるから、やや侠客的な集団のようである。

「引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後、念佛を申せば、すむ事」「らしき」が非常に面白く利いている。

「火車(くわしや)」悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を、葬儀や墓場から奪い去って行くとされる妖怪の名。既出既注

「儲(まうけ)」「設け」。準備。

「灯燈(ともし)」読みは私の趣味で当て読みした推定。

「かいがい敷(しく)」如何にも僧侶然として頼もしい感じのする様子で。その内実はそうではないのであるが、ここは葬儀の参列者が皆、逃げ帰ってしまったので、逆に噓の読経なんぞをせずともよくなったから、どこかでホッとして余裕が出たとも言え、正統幽霊話ながら、覚夢はピエロ役として非常に上手く笑いを採る機能を果していると言える。

「うづ卷(まき)」「渦巻く」の動詞の連用形で採り、下の「𢌞(めぐ)る」(読みは私の趣味で推定)と対とした。

「火を懸(かく)。」底本は『火を懸、』と「かけ」と読み、以下に続けているが、それでは、以下のシーンとの繋がりがだらだらするので、私は採らない。

「さかんにもへのぼり」「盛んに燃え昇り」。「もへ」はママ。

「火定(くわじやう)」火定(かじょう)は仏語で、本来は、不動明王が三昧(さんまい)に入って身から自然に炎を発すること(火生(かしょう)三昧或いは単に火生とも言う)。或いは、即身成仏を願う修行者が、自ら焼身死することによって入定することを指す、特殊な語であるが、ここは単に死者を火葬にすることを指している。

「成納(じやうなう)」あまり聴かない熟語であるが、ある行為や現象が完全になし遂げられることの謂いであろう。火葬に於いて完全に遺体を焼き終えることを指している。

「乾(いぬゐ)」北西。何か意味があるようだが、判らぬ。或いは、「此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)」たりしたとあり、今は寺内には出ぬものの(そこがミソ)彼女の遺骨を埋めた「乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)」(童女姿の妖怪(あやかし))や「古入道の類(たぐひ)は、見るもの」(者)「度々(たびたび)」あるというとこから見ると、覚夢から聴いたか、或いは以前から妖怪が寺の建物内に出現することを知っていた九郎右衛門が知恵を利かせて、そうした妖怪をこの場所に封じ込める手段として、この榎の下を選んでわざわざ強い怨念を持った彼女の骨を埋めたのだと逆に読める。但し、それでもこの方位との関係性は判らぬ。識者の御教授を乞う。

「片影(かたかげ)」「片蔭」。物蔭。

「死入(しにいり)ける」気絶した。]

2017/10/13

老媼茶話巻之三 杜若屋敷

 

      杜若(かきつばた)屋敷

 

 天正十八年庚寅(かのえとら)九月五日、蒲生飛驒守氏郷、近江國蒲生郡(がもうのこほり)より奧州黑川の城へ入(いり)玉ふ。鳴海甲斐守も御供して黑川來り、三の町と云(いふ)所にて屋敷給り、住せり【甲斐守錄千石。常世村を領せり。】。

 江州より遠來(とほくきた)りける禿小性(かむろこしやう)に花染(はなぞめ)といふ美童(びどう)有(あり)。容色、甚(はなはだ)うるはしく、「桃花の雨をふくみ、海棠の眠れる姿」といふべし。

 甲斐守、寵愛して、傍(かはら)を離れず、宮仕(みやづかひ)せり。

 花染、小鼓・謠(うたひ)好みければ、大町(おほまち)當麻(たいま)の寺近くに了覺院といふ山伏、小鼓・謠の上手なりければ、此山伏を師匠として、花染、謠を習(ならひ)けり。

 花染、杜若(かきつばた)を甚(はなはだ)愛しければ、甲斐守、花染をなぐさめん爲、庭に深く池をほらせ、杜若を植(うえ)させ、くもでに橋を渡し、三河の國のやつはしの面影をうつし、片原に小亭を作り、花染、明暮、爰(ここ)に有て小鼓を打(うち)、杜若のうたひ、樂しみけり。誠花染は、唐のあい帝の御袖を立(たち)給(たまふ)薰賢(くんけん)、周のぼく王の餘桃(よたう)のたはむれをなせし彌子賀(びしか)にも劣(おとる)まじき男色なりしかば、了覺、深く愛念し、便(たより)を求(もとめ)、ふみ玉章(たまづさ)を書送(かきおく)る。

 甲斐守、此よしつたへ聞(きき)、華染に、

「了(りよう)覺が汝に心をかけ、數通(すつう)の艷書を送ると聞(きく)。汝、何とて、今迄、我につゝみたる。子細を申すべし。」

といひければ、花染、是を聞(きき)、淚を流し、なくなく申けるは、

「我は、元近江の佐保山の賤敷(いやしき)土民の子にて候を、御取立、御身近く召仕(めしつかまつら)れ候。誠公恩の深きを思へば、山より高く、海よりも探し。かゝる御情を無(む)に仕(つかまつり)候て、いかで、かかり染(そめ)にも、外人(ほかびと)に心を移し申(まうす)べき。君(きみ)に、にくまれ奉りては、我身の行衞、如何可仕(いかがつかまつるべき)。露程(つゆほど)も御疑心を得奉りては、命(いのち)有(あり)ても、生(いき)がいなし。若(もし)了覺に同床の契り有(ある)かと御疑も候はゞ、今宵、ひそかに了覺が方に罷り越(こし)、了覺が首を打(うち)、御目に懸(かく)るへべし。」

と云(いひ)ければ、甲斐守、

「尤(もつとも)然るべし。是(これ)にて切(きり)とゞむべし。」

とて、差居(さしをき)たる脇ざしを花染にとらせける。

 花染、押戴(おしいただき)、其夜、更(ふけ)て、うす衣を打(うち)かつぎ、人目を忍び、了覺院が庵の軒に立忍(たちしの)び、ひそかに扉を音(おと)づれければ、了覺、立(たち)て戸をひらき、花染をみて、大きに悦び、急ぎ、内へしやうじ入るゝ。

 花染、座に着(つき)、了覺に申(まうす)樣、

「日頃、わりなくの玉(たま)ふを、かり染の御たわむれと、うわの空に存(ぞん)ぜしに、僞(いつはり)ならぬ御心底と告(つげ)しらするものありて、御心ざし、もだしがたく、主人、甲斐守、今宵、他行(たぎやう)せしを幸(さひはひ)に、是迄、忍び參(まゐり)候。數ならぬ某(それがし)に、深き御心盡しの程、返す返すも過分に候。」

とて、目に秋波の情をよせ、こと葉を盡し、嘲(アザムキカ)ければ、了覺、深く悦び、色々、心を盡し、馳走をなす。

 はな染、機嫌克(よく)戲れ懸り、了覺に酒をしいければ、了覺、いたく呑(のみ)、醉(ゑひ)ける。

 花染、盃をひかへ、小鼓取(とり)て、打ならし、肴に杜若の謠、所望しければ、了覺、扇拍子を取(とり)、うたふ。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」

と謠(うたひ)なから、了覺、おぼへず、とろりとろりと眠(ねふり)ける。

 折を見すまし、花染、鼓、抛捨(なげすて)、甲斐守が呉(くれ)たりし脇差、壹尺八寸備前長光を拔(ぬき)て、了覺が高もゝ、車骨(くるまぼね)より筋違(すぢちがひ)にかけて、

「ふつゝ。」

と切落(きりおと)す。

 了覺、目を覺(さま)し、手を突(つき)て起直(おきなほ)り、

「己に油斷をなし、闇打(やみうち)にせらるゝ事、無念也。」

と齒がみをなし、血眼(ちまなこ)を見ひらき、にらみ付(つけ)たる面魂(つらだましひ)、鬼神(きしん)のごとくなれば、花染、二の刀を打得(うちえ)ずして走り出(いで)、逃行(にげゆき)しを、

「何方迄(いづかたまで)も、のがさじ。」

と、刀を拔(ぬき)、杖につき、跡より追懸(おひかく)る。

 花染、道の側(そば)なる觀音堂に走り付(つき)、柱を傳へ、天井へあがり、隱れ居(ゐ)たり。

 了覺、程なく追來(おひきた)りけるが、花染が隱居たるを見付(みつけ)、傳へ上(のぼ)らんとするに、五體不具にして上り得ず、次第に、正念、亂(みだれ)れば、はがみをなし、

「己、三日とは、やりたてしものを。」

とて、みづから首かきおとし、うつふしに倒れ伏(ふし)、死す。

 花染、急ぎ、天井よりおり、了覺が首を引(ひつ)さげ、我家へ歸り、甲斐守に見せければ、甲斐守、大きに悦(よろこび)、花染をほめて申けるは、

「汝、容色の人に勝れたるのみならず、心の勇も人に勝れり。此了覺は、力も強く、打物(うちもの)も達者にて、世に聞へたる強勢(がうぜい)ものなるを、斯(かく)やすやすと打留(うちとむ)る事、幼年の働(はたらき)には、けなげなり。老行(おひゆく)末(すゑ)、賴有(たのみあり)。」

と、色々の褒美をあたへける。

 扨(さて)、了覺が首を瓶(かめ)に入(いれ)、裏の乾(イヌイ)に埋(うづ)めける。

 或説に了覺が首を摺鉢に入、土器(かはらけ)を蓋(ふた)にし、埋(うづみ)けり、といへり。是、陰陽師(おんみやうじ)のまじないの法にて、かくすれば、跡へ祟(たたり)をなさず、といふ。「壓勝(あつしやう)の法」といへり。

 其夕べ、花染、何心なく伏(ふせ)たりしに、了覺が亡靈、花染が枕元に彳(たたず)み、脇差を拔(ぬき)、花染がのんどを搔切(かきき)ると覺(おぼえ)けるが、其曉(あかつき)、血を吐(はき)て死(しに)たり。

 甲斐守、是を聞、いと不便(ふびん)に覺ければ、花染が死骸、當麻の寺に送り埋(うづめ)、法名を「萃容(ふやう)童子」と名付、跡(あと)、能(よく)、とむらひける。

 昨日迄、盛(さかり)なりし花の姿も、今日引(ひき)かへて、古塚の主(ぬし)となるこそ、哀(あはれ)なれ。

 了覺院、殺されし後より、甲斐守屋敷にては、夜、うしみつ過(すぐ)る頃にもなれば、震動して、座敷にて小鼓を打(うち)、毎晩、杜若の謠をうたふ間(あひだ)、家内の男女、おそれをなし、日、暮(くる)れば、書院行(ゆく)者なし。

 或時、甲斐守、只ひとり、座敷に有ける折、日たそかれ過(すぐ)る頃、庭の築山(つきやま)の隱(カゲ)より、了覺院、手に小鼓を提(さげ)、出來(いできた)り、座敷へ上(あが)り、甲斐守と對座(タイザ)し、眼(まなこ)を見ひらき、甲斐守を、

「礑(ハタ)。」

と白眼付(にらみつけ)、いたけ高(だか)になり、またゝきもせず、守り居たり。

 甲斐守、元來、大剛の者なりしかば、少も臆せず、

「己、修驗(シユゲン)の身として邪(ヨコシマ)の色におぼれ、みすから霜刃(さうじん)の難(なん)に逢へり。なんぞ我にあだなすの理(ことはり)あらんや。すみやかに妄執を去(さつ)て、本來空(ほんらいくう)に歸れ。」

と、

「ちやう。」

ど、にらまへければ、了覺が死靈、白眼負(にらみまけ)て、朝日に消(きゆ)る霜のごとく、せんせんとして、消失(きえうせ)けり。

 其夜、甲斐守伏(ふし)たりし枕元に、了覺が靈、來り、つくねんと守り居たり。

 甲斐守目を覺(さま)し、枕元の脇差、取(とり)、拔打(ぬきうち)に切に、影なく消失(きえうせ)たり。

 甲斐守、間もなく、櫛曳(くしびきの)陣に討死し、子、なくして、跡、絶(たえ)たり。

 其後、會津の御城主替りける度々、此屋敷拜領の士、了覺が死靈になやまされ、住(すむ)者なく、誰(たれ)云(いふ)ともなく、「杜若屋敷」とて、明(あき)屋敷となる。

 足輕、番を致しけるに、壱人弐人にては、おそろしがり、勤不得(つとめえず)して、拾人斗(ばかり)にて勤ける。

 いつも、暮每(くれごと)に、座敷にて、鼓の聲有(あり)て、杜若の謠(うたひ)をうたふ。足輕共、おづおづ座敷の體(てい)を窺(うかがふ)に、大山伏のおそろしげ成(なる)が鼓を打(うち)て謠をうたふ也。是を見るもの、氣をうしなひ、死に入(いり)ける。

 寛永四年五月廿五日、加藤式部少輔明成、會津入部ましましける。

 此時、杜若屋敷主(あるじ)は天河作之丞と云(いひ)て三百五捨石取(とる)士也。或(ある)夕(ゆふべ)、奧川大六・梶川市之丞・佃(つくだ)才(サイ)藏・守岡八藏、作之丞方へ夜咄(よばなし)に來(きた)り、醉後(すゐご)に、大六、

「誠や、此屋敷にて杜若の謠をうたへば、さまざま不思義有(あり)といへり。心見(こころみ)に謠ふべし。」

とて、各(おのおの)、同音に杜若の「くせ」をうたふ。

 折節、さも美敷(うつくしき)兒(チフゴ)、かぶり狩衣を着し、扇をひらき、謠につれて舞けるが、暫く有(あり)て消失(きえうせ)たり。

 次の間に、六尺屛風を立置(たておき)しが、其上を見越して大山伏、面(おもて)斗(ばかり)出(いだ)し、

「此屋敷にては其謠はうたわぬぞ。止(やめ)よ、止よ。」

といふて失(うせ)たり。

 猶、謠、止(やめ)ず謠(うたふ)折、例の山伏、座敷へ來り、

「未(いまだ)止ぬか。」

と云て、才藏があたまを、はる。

 才藏、刀を拔(ぬき)、山伏を切らんとすれば、姿、忽(たちまち)、消失(きえうせ)たり。

 其後も、了覺が靈、甚(はなはだ)あれけるまゝ、作之丞、了覺が靈を祭り、「杜若明神」と名付(なづけ)、私(わたくし)にほこらを立(たて)、祭りをなし、僧をやとい、靈を吊(とむらひ)ければ、其後、了覺が亡靈、靜(しづま)りて、何の崇りもなさず。

 杜若明神、後には家護靈神と號せり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「天正十八年」一五九〇年。

「蒲生飛驒守氏郷」(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)近江出身。初名は賦秀(やすひで)。キリスト教に入信(洗礼名・レオン或いはレオ)。織田信長・豊臣秀吉に仕え、九州征伐・小田原征伐の功により会津四十二万石(後に九十二万石)を領した。転封から没するまで陸奥黒川城(=鶴ヶ城)主であった。最後は病死で享年四十。

「蒲生郡」旧郡域は現在の蒲生郡に加えて、竜王町の全域・日野町の大部分・近江八幡市の大部分・東近江市の一部に当たる。参照した旧域はウィキの「蒲生郡」を見られたい。

「鳴海甲斐守」不詳。識者の御教授を乞う。

「三の町」「三之町」。ウィキの「上町(会津若松市)」(「うわまち」と読む)によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、二之町の北に位置していたほか、幅は』三『間であった。西側の大町から馬場町までを下三之町、東側の馬場町から甲賀町までを上三之町といった。ただし、本町は現在の上町の町域には含まれないとされている』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「錄」ママ。「祿」。

「常世村」非常に珍しい地名であるから、現在の福島県喜多方市塩川町常世(とこよ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禿小性(かむろこしやう)」年少の小姓(こしょう)。ここに見るように、多く男色の相手であった。

「大町(おほまち)」現在の福島県会津若松市大町(ここ(グーグル・マップ・データ))附近。

「當麻(たいま)の寺」会津若松市日新町(ここ(グーグル・マップ・データ)東北角が先の大町の西南角と接する)内の「当麻丁(たいまちょう)」。ウィキの「日新町(会津若松市)」によれば、『若松城下の城郭外北部、当時の下町に属する町で、南側は赤井丁、北側は大和町に接し、桂林寺町の西側に位置する幅』四『間の通りであった。当麻丁は当麻町とも書いたほか、職人、商人などが住んでいたとされる。また、町名は当麻山東明寺があったことによるとされる』とあるから、この「寺」とは現存しない、この当麻山東明寺のことである。

「了覺院」不詳。

「杜若」「伊勢物語」の「東下り」を素材とした後シテを杜若の精とする複式様の夢幻能で、洗練された詞章・音楽・煌(きら)びやかな装束としっとりした舞いで知られる謡曲「杜若」を指すと同時に、実際の杜若(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。見分け方は花蕚体の中央内に綾目がなくことと、葉に中肋がないこと)の花をも含ませる。

「くもで」「蜘蛛手」。「伊勢物語」の「東下り」の段に擬えた。

「三河の國のやつはし」同前。現在、愛知県知立市八橋町寺内にある無量寿寺内にある「八橋旧跡」に比定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐のあい帝」これは前漢の第十二代皇帝哀帝(紀元前二十五年~紀元前一年:在位期間:紀元前七年~没年まで:姓・諱:劉欣)の誤り。唐王朝最後の皇帝哀帝(十七歳で暗殺)とは別人。

「御袖を立(たち)給(たまふ)」底本には「立」の右に編者による添漢字『断』がある。ウィキの「哀帝(漢)」によれば、『男色を意味する』「断袖」『という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた』寵愛していた美童「薰賢」(人呼称の固有名詞。そうした慈童の源氏名のようなものであろう)『を起こさないようにするため』、『衣を切って起きた、という故事に基づく』とある。

「周のぼく王」周の第五代穆(ぼく)王(紀元前九八五年?~紀元前九四〇年)であるが、以下の注で述べるように、ここは戦国時代の衛の君主霊公の誤り

「餘桃(よたう)のたはむれ」美童の少年相手の男色行為のこと。故事成句「余桃の罪」に基づく。昔、衛の霊公に寵愛された慈童弥子瑕(びしか:後注参照)は、食べた桃があまりにも美味だったので、食べかけを主君に献じて喜ばれたことに由来する。しかし、寵愛が衰えてからは、それを理由に罰せられたという「韓非子」の「説難篇」にある故事で、「余桃の罪」は現在、「権力者の寵愛などが気まぐれであてにならぬこと」の譬えである。

「彌子賀(びしか)」「彌子瑕」が正しいウィキの「弥子瑕」によれば、『弥子瑕(びしか、旧字体=正字体:彌子瑕)は戦国時代の衛国の君主霊公に寵愛されていた男性。韓非の著した』「韓非子」の「説難篇」において、君主に諫言したり、『議論したりする際の心得を説く話に登場する』。『当時』、『衛国では君主の馬車に無断で乗った者は足斬りの刑に処された。ある日』、『弥子瑕に彼の母が病気になった』、『と人が来て知らせた。弥子瑕は母の元へ、君主の命と偽って霊公の馬車に乗って駆けつけた。霊公は刑に処されることも忘れての親孝行を褒め称えた』。『別のある日、弥子瑕は霊公と果樹園へ遊びに出た。そこの桃は大層美味だったため、食べ尽くさずに半分を霊公に食べさせた。霊公は何と自分を愛してくれていることかと彼を褒め称えた』。『歳を取り』、『美貌も衰え』、『霊公の愛が弛むと』、過去の出来事が蒸し返され、『君命を偽って馬車に乗り』、『食い残しの桃を食わせたとして弥子瑕は刑を受けた』。『韓非はこの故事(「余桃の罪」)を以って、君主から愛されているか憎まれているかを察した上で自分の考えを説く必要があると説いている』。「春秋左氏伝」によれば、『衛の大夫・史魚が弥子瑕を辞めさせ、賢臣・蘧伯玉を用いるよう進言し、史魚の死後にそのことがかなえられたという』とある。史魚の謂いから考えると、弥子瑕はイケメンではあったが、内実はただのチャラ男だったということになろう。

「ふみ玉章(たまづさ)」ラヴ・レター。

「華染」ママ。

「つゝみたる」「包みたる」。包み隠してきたのか?

「近江の佐保山」近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山附近の古称と思われる。ここにあった佐和山城(ここ(グーグル・マップ・データ))は佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦が前身で、この城は古くは「佐保山城」と呼ばれていたからである。

「かかり染(そめ)」ママ。「假染め」。

「生がい」ママ。「生き甲斐(がひ)」。

「しやうじ」「招じ」。

「わりなくの玉(たま)ふを」何とも尋常でなく私めへの思いを述べらるるを。

「もだしがたく」黙って見過ごすわけにもゆかず。

「しいければ」「強いければ」。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」読点を使用せず、謡曲の間に合わせて間隙を入れて示した。謡曲「杜若」の前半のシテとワキとの掛け合いの終りから、上ゲ歌の途中まで。私の持つそれでは「主は昔に業平なれども」とある。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。

「高もゝ」「高股」。

「車骨(くるまぼね)」不詳。当初、車のように丸い膝の膝蓋骨を考えたが、文脈を子細に検討すると、高股(大腿部)を、「車骨」なる部分から「筋違(すぢちがひ)に」袈裟がけにして、ばっさり、「と切落」したとあるから、これが片足の大腿部自体が斬り落とされたと読むしかなく、そうすると、「車骨」とは、大きな円形を成し、車軸が入るように大腿部が丸い孔に入っているところの骨盤骨を指すのではないか? と次に推理した。しかし、ここで「日本国語大辞典」を引くと、「車骨」は「大きな骨」とあるから、これはただ「大腿骨」を指すことが判明した。大力無双の男の大腿骨を、斜めに、しかも小振りの脇差で一刀両断するというのは、相当な力と技が必要である。この「花染」、ただの美少年ではない

「三日とは、やりたてしものを」意味不明。底本は「三日とはやりたてしものを」。識者の御教授を乞う。私は「逸り立て」(気負い立つ)から「覚悟をもってやり遂げる」の意ととり、直後に自害していることから、「(この恨みを以って)三日とは(待たさずに、貴様のいの命を)奪い去って見せてやるぞッツ!」という意味で取り敢えず採った。実際には三日どころか、その翌日(「その夕べ」そうとらえるのが時制的には自然である)の夜にとり殺されているのであるが

「乾(イヌイ)」北西。

「壓勝(あつしやう)の法」不詳。そもそもがこれ、陰陽道の悪鬼・怨霊の祟り封じの呪法だとうのであるが、それが前者の「了覺が首を瓶に入、裏の乾(イヌイ)に埋めける」という仕儀がそれなのか、以下の「了覺が首を摺鉢に入、土器を蓋にし、埋けり」という仕儀がそれなのか判らぬ。両方を足せばよいのだろうが、そうなると甕と擂鉢の有意な相違があるから、駄目である。

「萃容(ふやう)」「萃」は集まるの意。従ってこれは花の「芙蓉」の意味ではなく(それも掛けているかも知れぬが)、美しい「容」姿が「萃」(あつま)っているの謂いであろう。

「古塚の主(ぬし)」「ぬし」は謡曲の読みに合わせて私が振った。

「うしみつ」「丑三つ」「丑滿つ」。

「いたけ高(だか)」「居丈高」。「威丈高」とも書くが、当て字。人に対して威圧的な態度をとるさま。

「霜刃」霜のように光る鋭い刀の刃。

「あだなす」「仇成す」。

「本來空(ほらいくう)」仏語。一切のものは、元来、仮りの存在でしかなく、実体のない「空」であるという、そうした本質を指す。

「ちやう。」「ちやうど(ちょうど)」で「はったと・かっと」の意。目を見開いて対象を睨みつけるさまを指すが、私は今までもそうしたオノマトペイアを直接音(直接話法)に準じて、かく、表わしている。それが、より怪奇談の臨場感を倍化せると信ずるからである。

「にらまへ」「睨まへ」。「にらまふ」は他動詞ハ行下二段活用で「睨みつける」の意。

「せんせんとして」「閃々として」か。きらきらと輝きを伴いながら。

「つくねんと」副詞。独りで何もせず、ぼんやりしているさま。

「櫛曳(くしびきの)陣」九戸政実(くのへまさざね)の乱(天正一九(一五九一)年)を指すか。これは南部氏一族の有力者であった九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣方軍勢(蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政)に対して起こした反乱。この反乱軍側の武将の一人に櫛引清長がいるからである。則ち、私の推理が正しいとすれば、蒲生氏郷の家臣の一人であった鳴海甲斐守なる人物はこの九戸政実の乱制圧軍の一人として参戦し、敵の櫛引清長の陣に突撃して果てたという解釈である。

「寛永四年五月廿五日」一六二七年七月八日。

「加藤式部少輔明成」「猫魔怪」に既出既注。

「天河作之丞」不詳。以下の人名も同様なので、注を略す。

「くせ」掉尾の「序ノ舞」の前にある後半の山場。以下に示す。

   *

地〽 しかれども世の中の ひとたびは榮え ひとたびは 衰ふる理(ことは)りの 誠なりける身の行方 住み所(どころ)求むとて 東(あづま)の方に行く雲の 伊勢や尾張の 海面(うみづら)に立つ波を見て いとどしく 過ぎにし方の戀しきに 羨ましくも かへる浪かなと うち詠(なが)めゆけば信濃なる 淺間の嶽(だけ)なれや くゆる煙(けふり)の夕氣色

シテ〽 さてこそ信濃なる 淺間の嶽に立つ煙

地〽 遠近人(をちこちびと)の 見やはとがめぬと口ずさみ 猶はるばるの旅衣 三河の國に着きしかば こゝぞ名にある八橋の 澤邊に匂ふ杜若 花紫のゆかりなれば 妻しあるやと 思ひぞ出づる都人 然るに此物語 その品(しな)おほき事ながら とりわき此八橋や 三河の水の底(そこ)ひなく 契りし人びとのかずかずに 名を變へ品を變へて 人待つ女 物病(ものやみ)み玉簾(たますだれ)の 光も亂れて飛ぶ螢の 雲の上まで往(い)ぬべくは 秋風吹くと 假(かり)に現はれ 衆生濟度の我ぞとは 知るや否や世の人の

シテ〽 暗きに行かぬ有明の

地〽 光普(あまね)き月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして 本覺眞如の身を分け 陰陽(いんによう)の神といはれしも ただ業平の事ぞかし 斯樣(かやう)に申す物語 疑はせ給ふな旅人 遙々來ぬる唐衣 着つつや舞を奏(かな)づらん

   *

以上に後に、シテの「詠」、

シテ〽 花前(くわぜん)に蝶舞ふ。紛々たる雪

地〽 柳上(りうしやう)に鶯飛ぶ片々たる金(きん)

が入って「序ノ舞」となる。

「うたわぬ」ママ。「謠はぬ」。

止(やめ)よ、止よ。」

「あれける」「荒れける」。

「やとい」ママ。「雇ひ」。

「杜若明神、後には家護靈神と號せり」怨霊を祀って宥め、それを逆に家や一族や都市及び国家の防備に転用するのは、御霊信仰に限らず、古来からの汎世界的な老獪なシステムの代表的な方策である。]

2017/10/11

老媼茶話巻之三 允殿館大入道

 

     允殿館(じやうどのだて)大入道

 

[やぶちゃん注:今回、以上の通り、「允殿館」を「じやうどのだて(じょうどのだて)」と読んだ。これは個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」に振られたルビに従ったものである。]

 

 飯寺村庄九郎と云もの、小力(こぢから)有(あり)て相撲(すまひ)なども取(とり)、米も、五、六俵、背負ひありくもの也。

 此もの、南町といふ所に親類有。行(ゆか)で叶はぬ用有(あり)て、雨のそぼ降(ふる)黃昏(たそがれ)に宿をいで、中野ゝ十文字原に懸(かか)り、允殿館弐五輪の前より成願寺前へ出(いで)んと、弘眞院(こうしんゐん)の北の細道をとふるに、荒神堂の大杉の本(もと)に、白き物、見ゆる。

 庄九郎、怪敷(あやしく)おもひ、立留(たちどま)り、能(よく)見るに、かの者、間ぢかくきたるを見れば、面(おもて)の長さ、三尺斗(ばかり)有(ある)女、竹杖を突(つき)、髮を亂し、眼(まなこ)は皿のごとくにて、かたびらをかぶり、

「まてまて。」

と云(いひ)て來(きた)る。

 庄九郎、したゝかものなれば、少も臆せず、脇差に手をかけ、

「おのれ、我に何用有るぞ。」

と足早に行過(ゆきすぐ)る。

 彼(かの)女いふ。

「歸りに此道を通り見よ。其時、思ひしらせん。」

と云。

庄九郎、是を聞かぬふりにて、南立町の親類の方へ行(ゆく)。

 折節、近くより、人、數多(あまた)打寄居(うちろりゐ)たりけるが、庄九郎が顏色を見て、

「其方が色あひ、常ならず。道にて口論にてもせぬか。」

といふ。

 庄九郎、右のあらまし語りければ、何(いづれ)も驚(おどろき)、

「允殿館には化物有り、といい傳ふるは誠にて有りし。必(かならず)、歸りには晒屋町へ出(いで)、湯川を渡り、石塚前より材木町出(いで)、歸るべし。」

と云。

 庄九郎、元來、じやうこわきものなれば、

「もとの道を歸らずは、臆病なりとはらはるべし。」

と思ひ、

「たとい、化物出(いで)たりとも、何事のあるべき。近道也。先の道を歸るべし。」

とて、もと來(きた)る道を歸るに、夜も深々と更過(ふけすぎ)、杉の木梢(こづゑ)をわたる風、身に染々とおそろしく、頭(かしら)の毛、立(たち)のぼる心持するに、道の傍に、先の女、立居(たちゐ)たりけるが、庄九郎をみて、

「それこそ、さきの奴め。それ、とり逃(にが)し玉ふな。」

と、こと葉を懸(かく)るに、眞黑なる大入道、大手をひろげ、飛(とび)て懸りける。

 庄九郎、此時、日頃の強氣(がうき)、失(うせ)、ころぶともなく、走(ハシル)ともなく、田も畑も一參(いつさん)に飯寺村へかけ付(つけ)、戸を蹴放(けはな)し内へ入(いり)、氣を失ひ、死入(しにいり)ける。

 其後、四、五十日、打伏(うちふし)、氣色、常ごとくに成(なり)にけるが、夫(それ)より大臆病(おほおくびやう)ものと也、氣拔(きぬけ)て、日暮は外出もならぬやうに成たり。

 その明(あく)る春、夫(ブ)にさゝれ、江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける。

 

[やぶちゃん注:「允殿館(じやうどのだて)」既出既注であるが、再掲しておく。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。冒頭注で示した個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」も参照されたい。

「飯寺村」既出既注であるが、本話柄では地理が一つのネックとなっているので、再掲する。現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「五、六俵」幕府の制度規格では一俵は三斗五升であったが、時代や地域によって増減があった。一応、規格値で換算すると、一俵は三十七・五キログラムのなるから、百八十七・五から二百二十五キログラムに相当する。

「南町」現在の福島県会津若松市南町(みなみまち)か。鶴ヶ城の南直近。(グーグル・マップ・データ)。

「中野ゝ十文字原」現在の福島県会津若松市門田町大字中野附近であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「允殿館弐五輪」允殿館跡にあった二基の五輪塔か。

「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺はない。

「弘眞院(こうしんゐん)」福島県会津若松市門田町年貢町(附近(グーグル・マップ・データ)。但し、地図には寺は出ない)に現存する。真言宗。

「とふるに」ママ。「通(とほ)るに」。

「荒神堂」不詳。

「三尺斗(ばかり)」九十一センチメートルほど。

「かたびら」「帷子」。

「まてまて。」「待て待て。」。

「南立町」「みなみたてまち」と読んでおく。先に「南町」とあったから、同町内の地名と思われる。ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「竪町」があったとあるから、これであろう。

「晒屋町」「さらしやまち」と読んでおく。前注同様、ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「晒屋町」があったとある。後の地名から察すると、現在の南町の西にあったと推定する。

「湯川」既出既注。

「石塚」現在の湯川新水路を渡った東の石塚観音堂であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町。(グーグル・マップ・データ)。このルートから飯寺に帰るのは、地図を見て戴けば判る通り、決して異様に無駄に大きな遠回りではないようだ。但し、彼は「先の道を歸る」のが「近道」だと明言しているから、彼の住まいは恐らく、飯寺地区の南方東にあったのであろう。

「じやうこわきもの」底本の編者の添漢字によれば「じやう」は「情」。「情強(こは)き者」で、頑固者の意味であろう。

「はらはる」ママ。「笑はる」。

「一參(いつさん)」「一散」。

「夫(ブ)にさゝれ」幕藩領主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していた夫役(ぶやく)の一人に指名され。

「江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける」彼の死と、本怪異の直接の連関性は認められないものの、人格変容を起させたからには、死の致命的遠因とは言える。彼は、この怪異(帰りの)に遭遇しなければ、力自慢としてのきっぱりとした剛毅の自負も失うことは無かったし、長生きもしたであろうからである。そうした暴虎馮河の蛮勇への戒めの意味が、この何気ない後日談には込められているように私は思う。]

老媼茶話巻之三 飯寺村の靑五輪

 

     飯寺(にひでら)村の靑五輪(あをごりん)

 

[やぶちゃん注:「飯寺(にひでら)」の「ひ」は推定「飯」の「いひ」からの転訛と考えて「にひ」とした。底本は『にいでら』とするが、これは底本が現代仮名遣ルビを方針としているからに過ぎない。以上から、今回は敢えて歴史的仮名遣を「にひでら」と考えた。]

 

 南山(みなみやま)街道飯寺村、道ばた右の方の田の中に、大垣あり。其塚の上に大榎(おほえのき)有(あり)。

「慈現院壇と云(いふ)山伏、生(いき)ながら入定(にふじやう)せし所故(ゆゑ)、俗、慈現院壇と云。」

と、ふるき者の噺(はなし)也。

 今も深夜に聞(きか)ば、塚の中にて、ほら貝を吹(ふく)音、聞ゆ、といへり。

 此塚の東向ひ、靑五輪と云(いふ)有(あり)。此五輪、夜々(よなよな)、化(ばけ)て、慈現院より靑五輪迄、一面に鐵のあみをはり、往來の人を、さまたぐる。

 或夜更過(よふけすぎ)て、南山のもの、此所を通りけるに、六尺斗(ばかり)の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

と笑(わらふ)。

 此男、元來、不敵氣(ふてきげ)もの也。

 是をみて、走り懸り、大入道がてつぺんを、したゝかに切付(きりつく)る。

 手ごたへして、網も、山伏も、入道も、消失(きえうせ)て、深夜の闇と也けり。

 其夜明(そのよあけ)て、件(くだん)の男、夕べ、化物に逢(あひ)ける道筋へ來(きた)る。

 尋見(たづねみ)るに、靑五輪の天窓(アタマ)を、半分、切りくだき、血の色、すこし、見えたり。

 是より、刀をば「五輪くだき」と名付(なづけ)、祕藏せりと也。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、前の「酸川野幽靈」とともに紹介されている。

「飯寺村」現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「南山街道」会津西街道。会津藩主保科正之によって整備された、会津若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは「下野街道(しもつけかいどう)」「日光街道」「江戸街道」「南山通(みなみやまどお)り」とも呼ばれた、とウィキの「会津西街道にある。この「南山」とは天領であった会津南山御蔵入領(あいづみなみやまおくらいりりょう:現在の福島県南会津郡・大沼郡の大半)を指す。個人ブログ「花鳥風月visual紀行」の南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その1)を参照されたい。

「慈現院壇と云(いふ)山伏」不詳。しかし、今も地中で法螺貝を吹くばかりか、以下に見るように、人を脅すとなれば、彼は入定なんぞ、していないばかりか、煩悩の果てに妖怪していることになる。但し、これらは狐狸の類いが、慈現院壇の話に合わせて、かく成しているのかも知れぬ。それは、判らぬ。

「慈現院より」「慈現院壇より」が正しい。これでは慈現院という寺があるように読めてしまう。

「六尺斗(ばかり)」一メートル八十二センチほど。

の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

「不敵氣(ふてきげ)もの」大胆で恐れを知らぬ、蛮勇を誇るような輩。

「てつぺん」天辺。脳天。]

老媼茶話巻之三 酸川野幽靈

 

   酸川野(すかはの)幽靈

 

 いつの頃にや有りけん。猪苗代御城代何某と云(いふ)人、酸川野河原(すかはのがはら)なぐさみに出(いで)けるに、畑中に、いかにも年ふりたる燈籠有(あり)。畑打(はたうつ)老人に尋(たづね)ければ、

「いつの世に誰(たれ)か立置(たておき)し燈籠に候やらん、知りたる人もなく候。此燈籠取捨候得(とりすてさふらえ)ば、其人に祟ると申(まうす)ならはし候儘(まま)、畑中に御座候得ば、じやまに成(あり)候得共、無是非(ぜひなく)置(おき)候。爰(ここ)は昔、寺院に候と申傳へ候」と語る。何某、聞(きき)て、

「怨靈の祟りといふは、夫(それ)、人のいゝなしなるべし。何にもせよ苔(コケ)むしたる燈籠にて庭に立(たてて)然るべし。」

とて、下人に持(もた)せ歸り、則(すなはち)、築山(つきやま)の植込(うえこみ)に立置(たておき)たり。

 其夜、更(ふけ)て、御城の御門、けはしくたゝき、

「我は堀貫村の彦兵衞と云(いふ)者なり。爰、明けよ。」

と云。

 門番、戸扉の透(すき)より見れば、髮を、はらにて、たばね、上につゞれを着、繩帶をしたる、いかにも賤敷(いやしき)土民也。此故(このゆゑ)に門番、門をひらかず。やゝ暫有(あり)て、彦兵衞、

「何とて、門をひらかざるぞ。」

とて、門を飛越(とびこえ)、内へ入(いる)。

 門番、すかさず、彦兵衞と引組(ひきくみ)、夜明(よあく)るまで捻合(ねぢあひ)て、曉、彦兵衞、行衞なく成(なり)たり。

 門番の足輕、氣を失ひ、死入(しにいり)けるを、人、見付(みつけ)、水を吞ませ、氣付(きつけ)をくれ、漸(やうやう)人心地付(つき)たり。

 其明(あく)る夜、亦、來り。

 いつものごとく、門をたゝき、

「爰、明(あけ)よ、爰、明よ。」

といふ。

 別の足輕、番を勤(つとめ)いたりしが、有無(うむ)に答へず。

 彦兵衞、腹を立(たて)、門をおどり越(こえ)、御城代何某の伏居(ふしゐ)たる枕に彳(たたずみ)て、大きにいかりたるけしきにて、

 「其方、何故に、纔(わづか)、形斗(ばかり)殘りたる我(わが)なきあとの印(しるし)の燈籠を奪取(うばひとり)たる。急ぎ、元の所へ返すべし。返さば、其通り、返さずは、恨(うらみ)をなさん。」

と云。

 何某は夢覺(ゆめさめ)、枕元の刀、引拔(ひきぬき)、切付(きりつけ)たるに、彦兵衞は、影なく、消失(きえうせ)けり。

 曉、みれば、庭に建(たて)たる件(くだん)の燈籠の笠石に、刀の疵跡、有(あり)。

 燈篭を元の所へ返しければ、何の怪敷(あやしき)事もなかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、次の「飯寺村の靑五輪」とともに紹介されている。

「酸川野河原(すかはのがはら)」現在の福島県耶麻郡猪苗代町若宮地区大字酸川野(すかわの)。中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。藩政時代の宿場町。

「なぐさみ」気晴らし。

「じやま」「邪魔」。

「いゝなし」ママ。「言ひ做(な)し」。事実とは違うことを事実らしく言うこと。

「堀貫村」不詳。

「はらにて、たばね」「藁にて、束ね」。底本の編者添漢字に拠る。

「つゞれ」「綴れ」。破れた部分を継ぎ接(は)ぎした襤褸(ぼろ)の衣服。

「いかにも賤敷(いやしき)土民也」灯籠とそぐわぬが、或いはこの「彦兵衞」なる者、遠い昔、富裕な農民であった者が没落したものか。

「有無(うむ)に」副詞。全く。

「其通り」我、何事もなさず、平静たらん。

「燈篭」「篭」は底本の用字をそのままとした(「燈」は底本は前も総て「灯」)。底本で、ここまで総て「籠」であったものが、ここのみ「篭」であるからである。]

老媼茶話巻之三 血脈奇特

 

     血脈奇特(けちみやくきどく)

 

 會津塔寺(たふじ)、鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞といふ者、元、江州の、やばせの者なり。喜右衞門代に塔寺に移る。前度(まへど)、九郎兵衞、諸國順禮して國々を𢌞りける折節、西國の内、鰐(ハニ)の御崎といふ所を通るに、此所、船渡(ふなわたし)にて、弐、三拾人、取乘(とりのせ)、風間(かざま)も克(よく)、船を押出(おしいだ)し、船、沖中へ漕出(こぎいだ)しけるに、船、沖中にて、

「ひし。」

と引居(ひきすへ)、動かさず、船、海へ沈まんとす。

 船頭、大きに色を失ひ、乘合(のりあひ)のもの共へ申(まうし)けるは、

「斯(かく)申(まうす)某(それがし)を始(はじめ)、各(おのおの)、何にても、海上へ抛入(なげいれ)給ふべし。其内(そのうち)、鰐(わに)の見入(みいり)たる人の抛入給ふ品を海中引込(ひきこま)ば、其人、入水(じゆすい)いたさるべし。是は前度も有りし事にて候。」

と云。

 乘合の者共、てん手(で)に題目・念佛・我國々の氏神を大音(だいおん)に念じ、或は菅笠・羽織・ゆかた・かたびら・手拭の類(たぐひ)、思ひ思ひに、なげ入(いれ)ける。

 九郎兵衞、なげ入(いれ)し三尺手拭、中(なか)を一結(ひとゆ)ひ、なげ入しが、抛(なぐ)るとひとしく、海中へ引込(ひきこみ)ける。

 殘る者とども、口々に申(まうす)樣、

「何國(なんごく)の御人(おひと)かは存不申候得共(ぞんじまうさずさうらえども)、前世宿業と思召(おぼしめし)、御入水の事、是非も無御座申(ござなくまうす)も御笑止、情なく候得共、御壱人にて數多(あまた)の人の命、御助けと申(まうす)。かく申内(まうすうち)に、今にも此船、くつ返り候へば、壱人も、命、たすかる者、是、なし。迚(とて)も御遁有間敷(おんのがれあるまじき)事なり。御覺悟、有(ある)べし。」

と、船頭・乘合の者ども、一同、申(まうし)ける。

 九郎兵衞も、

「是非に及ばぬ事也。委細心得候。」

とて船のへさき立出(たちいで)、高聲に、念佛、百遍斗(ばかり)、既に海へ飛入(とびい)らんとする折、なかば沈(しづみ)たる船、

「くつ。」

と、浮上(うきあが)りけるまゝ、船頭力を得、櫓(ろ)をはやめければ、難なく、岸に着(つき)たり。

 各(おのおの)も悦び、九郎兵衞も、不思義の命、助かり、急ぎ、船より上(あが)るに、九郎兵衞、首に懸(かけ)たる血脈袋(けちみやくぶくろ)のひも、とけて、血脈、なし。

 大勢乘合のもの、奇異の思(おもひ)をなしたり。

 血脈の奇特(きどく)ゆへ、命、助(たすか)りたるに疑(うたがひ)なし。

 此血脈は奧州會津若松、允殿(じやうどの)館成願寺(じやうぐわんじ)、決觀和尚の血脈なり。

 元祿年中の事也。

 

[やぶちゃん注:酷似した前半の展開を持つ話に「宗祇諸國物語 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口がある。リンク先の私の電子化注を参照されたい。但し、そちらは後日談が悲劇である

「血脈(けちみやく)」仏教用語。広義には、師が弟子や信徒に仏教の精髄を受継がせること、師弟の系譜という様態を言うが、ここは狭義で、密教や禅宗に於いて、師から弟子や信徒に戒を授ける際、その保証として師が与える正統な授戒の証しとしての証明書たる血脈図のこと。

「奇特(きどく)」神仏の持っている超人間的な力。霊験。一般に広く「非常に珍しく、不思議なさま」の意もあるが、ここは前者。私は後者(「言行や心がけなどが優れており、褒めるに値するさま」の意もある)の場合は「きとく」と分けて読むことにしている。

「會津塔寺(たふじ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺一帯の旧地域名。周辺(グーグル・マップ・データ)。

「鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞」孰れも不詳。

「江州の、やばせ」矢橋(やばせ)。現在の滋賀県草津市の集落地名。ここから船に乗って対岸に達すると、東海道の近道になることから、古くから、琵琶湖岸の港町として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」でも知られる。附近(グーグル・マップ・データ)。

「前度(まへど)」以前。読みは底本の編者ルビに従った。

「鰐(ハニ)の御崎」「鰐」は鮫(さめ)のことであるが、位置不詳。識者の御教授を乞う。「風間」風が止んでいることも指し、それでとってもよいが、ここは風の吹き具合の意で採っておく。その方が、沖合で船が(風があるのに)鰐に魅入られて止まってしまうというシーンがより生きると考えるからである。

「克(よく)」「良く」。

「御笑止」「笑いうべきおろかなこと・ばかばかしいこと」であるが、ここは寧ろ、『「そんな馬鹿な!」とはお思いでしょうが』という意味であろう。

「會津若松、允殿(じやうどの)館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建つ。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「成願寺」不詳。

「決觀和尚」不詳。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。]

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