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カテゴリー「怪奇談集」の887件の記事

2020/01/23

三州奇談卷之一 蘇子有ㇾ驗

 

    蘇子有ㇾ驗

 加州大聖寺に中野屋九兵衞と云ふ者あり。生質(うまれつき)强慾無慈悲にて神佛を輕(かろん)じ、罪業を恐るゝ事、夢許りもなし。利德のみに世を過しける。其報(むくひ)にや。子息九右衞門と云ふは、少しく慈悲も知り、生れ付朋友にも交りむつまじく、少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが、廿八の年(とし)世を早うして、又九兵衞が家内を取捌(とりさば)く。是にも無常は起らず、只今の利德のみに目をはたらかして、そろ盤の音を念珠ほどに所作とし暮しけるが、連合(つれあひ)の妻もほどなく死し、九右衞門の子安右衞門とて有しが、是も程なく死失(しにうせ)ける。

[やぶちゃん注:「少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが」「人徳のある息子のお蔭で、表向きは少なくとも親に対する批判を正面切って口にするものはあまりいないようであったが」の意であろう。

「無常は起らず」「商売から手を引いて楽隠居しても、現世で利を求めることの無常なることを悟る気持ちもまるっきり起らず」の謂いであろう。ただ、中野屋の商売が何であったかを記さぬのは話としては手落ちであろうと思う。]

 かゝる愁傷の打つゞきけるに、近隣にも

「中野屋の遠慮は常住事(じやうぢゆうごと)なり」

[やぶちゃん注:これは難しい。誹謗であることは判るが、それが迂遠な表現でなされてある。「遠慮」は「遠謀」でここでは「現世での利益のことのみについて先まで考え巡らすこと」を指し、「常住事」は前の「無常」に洒落たもので、「そうした我利我利亡者の性質(たち)は生きている間中、変わらない」、即ち、「馬鹿は死んでも治らない」的な謂いと私はとる。以下の続きから、この遠回しな批判は久兵衛の耳にも入ったもののようである。]

と云なしける。然共(しかれども)九兵衞、

「只是は浮世の常、驚くべきにも非ず」

と、いよいよ利德のみに眼を光らしけるが、今は只孫の中(うと)にても末の子なる左四郞と云ふもの一人のみぞ殘りける。是を夕に日に愛し暮しけるが、寶曆十二年[やぶちゃん注:一七六三年。]正月八日に、又此左四郞も不許(ふと)心地煩しが、忽ちに死(しに)けり。九兵衞、例(れい)の事に思ひ、少しも歎かず、手早く旦那寺に人を走らせ、忌中簾を下(くだ)し、悔帳(くやみちやう)店先に直し、近隣の人にも告渡(つげわた)りける。

[やぶちゃん注:「例(れい)の事に思ひ」日常に生ずる出来事の一つとして認識し。

「悔帳」通夜に参った者の来訪と香典(彼はこれが目当て)を記す帳面であろう。「直し」はその帳面をしかるべき場所に改めて置き据えるの謂い。]

 此他の習(ならひ)にて、一族親友打寄て野送りの葬具を拵(こしらへ)る事、家每の例(ためし)なれば、其親しきどち寄合(よりあひ)て、花を拵へ、菓子を積み、桶をはりなんどしけるに、九日の夜八ツ過(すぎ)[やぶちゃん注:午前二時(丑三つ)過ぎ。]の事にや、沐俗もさせ、小袖を逆樣にきせ、香華を備へ置ける亡者、折々に

「むくむく」

と起上る氣色(けしき)見へし程に、其夜詰居(つめゐ)たるは、豐田庄右衞門と云ふ足輕の役人、妻の一族にて居合(ゐあはせ)けるが、

「心得がたき事なり、二日二夜が間、死したる者の動くべき理(ことわり)なし。狐狸のわざならんには、猶更見屆(みとどけ)たきことなり」

とて、上の衣を打返して見たりけるに、少し息出で、手と胸の間にあたゝまり出來(いできた)りければ、

「扨は蘇生する」

とて、聲を出して

「左四郞左四郞」

と呼に、邊りの者も立騷ぎ、頻(しきり)に呼返しければ、

「うん」

と息を吹返して蘇生し、邊りの體(てい)を見て驚きながら、漸々(やうやう)に心を靜めて湯漬(ゆづけ)を好みける程に、人々忽ち悅びに引かへ、枕邊の人、俄に上下(かみしも)を脫捨(ぬぎすて)、僧を戾し、佛前を仕まひなど賑(にぎは)ひて、取持の者[やぶちゃん注:葬儀の接待に当たるためにいた者。]酒肴を好み出し、

「扨(さて)野送りの葬具は例のしわき親仁の事なれば、其元(そこもと)の時の分(ぶん)に取て置き給へ、跡は目出度祝ふぞ」

と、葬場の鱈汁前代未聞の一興にて有しと、其比の沙汰なり。

[やぶちゃん注:「其元(そこもと)」祖父吝嗇屋(しわきや)、基! 中野屋九兵衛を指すものであろう。ここ、左四郎の年齢が示されないのも恨みがある。かなり若いはずであるが、その彼がこの台詞や以下の記憶を語るには、ちと若過ぎるのでは異様とも言えるが、それはそれでまた面白いと思うのだが。]

 其後(そののち)左四郞人々にいひけるは、

「扨も扨も有難き所へ行居(ゆきゐ)たりし物かな。忘れぬ内に語らん」

とて、

「我、只寢入るが如く沈み入(いる)やうに覺えけるうちに、茫然として廣き所に行くともなく、一つの寺あり、結構[やぶちゃん注:寺の作りのこと。]云ふ計りなし。いづくともなく薰(かぐは)しき匂ひありて、有難く覺へ斤彳(たたず)みける。一人の御僧、美くしき顏(かんばせ)うるはしき衣にて手に鉢を持ち、さも奇麗なる菓子を盛りて通り給ふに、何となく此僧に隨ひ行べき心付きて、跡へ附きて寺院に入らんとするに、頻に其菓子一つ喰たきことやまず。然共餘り結構[やぶちゃん注:この場合はその僧の様子が極めて真面目であったことを指すのであろう。]に見へたる故、さも云ひ難くためらふうち、此御僧ふり向き、此菓子を一つあたへられ、嬉しさ限りなく、頓(やが)て食(たふ)べけるに、類ひなき味にぞ覺えける。今猶口の中あまきこと絕へず。僧の宣ひけるは、

『此門の中へ入べし、第三番目の堂にこそ、汝を尋(たづぬ)る人はあるなるものを』

と差しおしへ[やぶちゃん注:ママ。]給ひて立去り給ふにぞ、敎の儘に堂に行きければ、内よりもゆかしと聞えて立出給ふ人を見れば、別れて久しき祖母上と兄安右衞門となり。『是は是は』

と驚きければ、

『汝今度(このたび)は歸り行くべし、頓て逢見るべし』

となつかしげに撫廻し、弄(もてあそ)び給ふ。

『我は御僧に逢ひ此所(このところ)を習ひて尋來りぬ。菓子も與へ給ふぞ。うまきことにて侍りし。爰にもあらばたまへよ』

と云ひけるに、二人ともに打しほれ、

『汝は果報者にて其御菓子をもらひ侍る。我は善所(ぜんしよ)に有りといへども、跡に訪(と)ひ弔(とぶら)ひもなく、僧尼に施しもなき故に、目のあたり見ゆれども手に取ること能はず。斯く如くして久しく年を經れば、自(おのづか)ら慾心の基(もとゐ)と成りて惡趣にかはると、御僧の折々しめし給ふ有がたさに、けふ迄此菓子を得ざるなり。汝歸らば、此事を語りて、祖父君に施物も出し給へと吳々(くれぐれ)語れ』

[やぶちゃん注:国書刊行会本では最後の部分は「祖父君に何とぞ慈悲の心を以て世を立て、寺々へ寄進として施物も出し給ふと、吳々もかたれ』となっている。]

と示し給ひて

『早々外へ出(いづ)べし』

と、手を取て、寺門を押出さるゝやうに覺えしが、茫然として心付きたれども、何とやらんあたりの體(てい)心元なくうつゝのやうに覺えしに、呼(よば)はり給ふ聲を力にしかと心付たり。

『扨は蘇生して侍るか』

と、我も驚きながら、其後は題目のみ申す。御約束あれば參るものぞ」

とのみ云ひしが、程なく正月二十二日に再び實の死を遂ける。

[やぶちゃん注:実質、蘇生は十日未明であるから、蘇生期間は僅かに十三日間であったことになる。なお、「題目」とあるからこの家は日蓮宗であったことが判る。]

 かゝるまのあたりなるを見るにつけ、此世の樣を「さても」と驚くべきことなるに、此九兵衞、猶更驚かずして打過(うちすぎ)しが、或夜、殊の外苦しみける樣子に見えし。何にてか有けん、其後心急にあらたまり、自身にも懺悔(さんげ)して走り廻られける。猶末世を捨(すつ)るには及ばざれども、頓て千日寺參にも出べき志のよし、此程の取沙汰なり。

[やぶちゃん注:標題は「蘇子有ㇾ驗」「蘇(よみがへ)りし子、驗(しるし)有り」と訓じておく。この場合の「驗」は左四郎のあの世での奇異玄妙なる体験談と祖父への諌め、かくしてやっと最後の最後で九兵衛が改心することをまで含むものであろう。

 左四郎の葬儀の冒頭で「小袖を逆樣にきせ」とあるが、これは葬送儀礼の一つである「逆さ事(ごと)」の一つである「逆さ着物」のこと。遺体に死に装束を着せた後、死者が生前好きだった自身の着物をその上に被せる習俗が地方によってあり、この際には上下を逆にして襟元を故人の脚側へ、裾を故人の首元へ向けて被せるのである。特定の宗派とは無関係な古い習俗と思われ、死者の行く世界が現在の我々の世界とは逆(例えば昼夜が)であると考えたことに由来するともされる。但し、私は寧ろ、死者の魂の抜けた骸(むくろ)に邪悪な霊が入り込み、ゾンビのように再生することを阻止する一つの手段というのが本源ではないかと考えている。衣服は魂を包んでいたものとして聖的な呪力を持つからである。例えば、臨終の前後に屋根に上がって西の空に向かって当該人物の名を呼びながら、その人の着物を振って魂呼びをする習慣がやはり地方によってはあるのもその証左である。]

三州奇談卷之一 小野の老翁

 

    小野の老翁

 享保の末年の事にや、大聖寺の家士坂井數右衞門と云人は、年四十餘、武藝にも委(くはし)く、心も落付きたる沈勇の士といふべし。此家中の風俗、武事の爲にやあらん、夜と共に鳥狩(とがり)に出ること家業の如く、我一(われいち)と得物をあらそふ程に、人を誘ふことはなく、只一人出ることにぞ侍る。

 頃は冬枯の蔦かづら、枯葉ほろほろと松を下り、哀猿聲かれて、月さへ殊に足はやく入て、道たどたどしき町はづれを、此坂井氏も只獨り、夜半過とおもふ頃、しかも木下闇のさすとも知れぬ小野坂といふ山道に步み懸りけるに、向うへ行く人有り。灯を燈したる體(てい)故、

『我より先に行く人こそあんなれ、追付て誰ならんと見るべきものを』

と、頻に步みを早め行けば、此灯も又早く步(あゆみ)去る。立どまれば、又立とまる體なり。爰(ここ)にて心を付(つけ)てよくみれば、提灯・小行燈(こあんどん)などの灯にはあらず。只かゞやくけしき、星などの下(くだ)りたる類ひにぞ思はれける。

 いかにもあやしく、

「是非追付て眞性(しんしやう)を見ばや」

と、刀をくつろげ力に任せて進み行き、山の廻れる所にて、近々と追付き、急に高邊(たかきあたり)より下りて指覗(さしのぞ)けば、いか樣(さま)年の程九十許にもやと思ふ老翁の、手に玉(たま)をすゑ行き、此玉よりかゞやく光にぞ侍りける。後ろにも又人影の樣に見えける儘、其顏も見屆たくて、急に走り寄り指覗けば、後ろにも同じ年頃の老婆と見えけるに、後(うしろ)よりのびあがり、先へ行(ゆく)翁の持(もち)たる玉を

「ふつ」

と吹消すと見えしが、忽ち眞の黑闇(くらやみ)と成りて、一步も見えわかず。又二人の老人ども寂として聲なく、又いづくに去ることを知らず。

 或人云ふ、

「火を消したるは老婆が深切なり。是は、妖は正にして人は邪なり。玉光の老翁歸らば、必ず此事をあの方(はう)の奇談に留(とどめ)て、『怪に逢し』とは記し置成(おくなる)べし」。

[やぶちゃん注:「享保の末年」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。一般に改元した場合は前の年号部分も含めて新しい年号で呼ぶことが多いし、後で「冬」と言っているからには、享保二十年の末のことととるべきであろう。

「坂井數右衞門」不詳。

「沈勇」沈着冷静でしかも勇気があること。

「鳥狩(とがり)」通常は鷹を使って鳥を狩ることを指す。

「小野坂」現在の大聖寺市街の北の石川県加賀市内の小野坂隧道附近かと思われる。

「星などの下りたる類ひ」比喩。

「眞性(しんしやう)」正体。

「刀をくつろげ」いつでも刀を抜けるようにして。

「後ろにも又人影の樣に見えける儘」老人の背後にも別な人影のようなものが見えたによって。

『後ろにも同じ年頃の老婆と見えけるに、後(うしろ)よりのびあがり、先へ行(ゆく)翁の持(もち)たる玉を「ふつ」と吹消す』このシークエンスが本篇怪異の肝(キモ)である。

「火を消したるは老婆が深切なり。是は、妖は正にして人は邪なり。玉光の老翁歸らば、必ず此事をあの方(はう)の奇談に留(とどめ)て、『怪に逢し』とは記し置成(おくなる)べし」極めて変わったエンディングである。翁と老婆はやはり「妖怪」なのだが、この人物に言わせると、彼ら妖怪らの方が正しい異界の存在であり、彼らにとっては坂井を含めた人間が「邪」、よこしまな存在であると謂うのである。老婆が見越入道のように延び上がって翁の玉の光を吹き消したのは、恐らく坂井数右衛門に対する親切であって、そのままでは坂井が異界へと踏み込んで取り返しのつかぬ事態になることを謂っているように私は思う。それに添えて、異界へと帰った翁は異界世界での本書のような「奇談集」に「かくかくしかじかの怪異に逢った」と逆に坂井との遭遇を「奇談」として記したことであろう、というのである。若干、本奇談集を逆手にとった楽屋落ち的な話ではある。]

2020/01/21

三州奇談卷之一 火光斷絕の刀

     火光斷絕の刀

 加州大聖寺の全昌寺は、元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日門前の柳に一章を殘し、

  庭掃て出でばや寺にちる柳   は せ を

おしい哉(かな)其柳も近年の回祿のために跡もなけれども、其高名は世に聞え、其日の姿を彥根の五老井の人の書きたるに、翁の眞蹟を張りて爰(ここ)に猶殘れり。目のあたり其日にあふ心地ぞする。其頃曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る。】、

  夜もすがら秋風聞くやうらの山  曾  良

と聞へしも爰なり。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北海の大洋をへだつ佳景はしばらく論ぜず。

 元文年中[やぶちゃん注:一七三六年から一七四〇年。]の事にや、大聖寺家中に小原長八と云ふ人、用有て此寺の後ろを夜半頃通られしが、浦風の面に颯(さつ)とふくにしたがつて、向ふより火の丸風ゆらゆらと來(きた)る。此夜はことに暗闇なりしも、此火の光りにあたりも赤々(しやくしやく)と見えわたりけるに、長八が前に間近(まぢか)く飛來るを、長八も壯年の不敵者なれば、

「心得たり」

と拔打(ぬきうち)に

「丁(てう)」

と打切りけるに、手答(てごたへ)なく、只空を切るごとくなれど、火の玉は二ツに割れて、長八が顏に

「ひた」

と行あたりける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺え、兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ、

『忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらん』

と、袖を上げ兩手を以て頻に面(おもて)をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如くなるもの、多く衣類に付て、次第次第に元のごとく物見え、一時ばかりにしてぞもとの闇夜とは覺えける。何の替りたる事もなけれども、心もとなく、其邊り近き知れる人のもとを叩き起し、やどりて灯を點して[やぶちゃん注:「ともして」。]見るに、ねばねばとしたる計りにて、何とも分つべき方なし。翌一日も貌(かほ)には糊の懸りし如くせんかたなかりし。されども何のたゝりもなし。

 久しくして、浦邊に老(おい)たる者に此事を尋ねけるに、

「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」

と語りける。

「いかにも左(さ)にや。思ひ廻らせばなまぐささき匂ひも有ける樣にぞ覺へける」

とは云し。

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 光明世界」の私の注で、国書刊行会本を参考に電子化している。底本違いで実際に本文の一部に有意な違いがあるので、再電子化した。

「全昌寺」現在の石川県加賀市大聖寺神明町にある曹洞宗熊谷山(「ようこくざん」と読むか)全昌寺(グーグル・マップ・データ)。大聖寺城主山口氏の菩提寺である。現行、海浜からは丘陵を隔てて、三・五キロメートルほどである。

「元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり」以下の句とともに、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳』を是非、参照されたい。ずっと従ってきた曾良が、何故、芭蕉と分かれたかに興味があられる方は、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』を見られたい。腹の病いでと一般には言われているが、ちゃんちゃらおかしい。もっとメンタルなものである。

「回祿」火災。

「彥根の五老井の人」近江蕉門で蕉門十哲の一人森川許六(きょりく 明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)。名は百仲。「五老井」彼の別号の一つ。近江国彦根藩の藩士で絵師でもあった。

「世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る」という割注は次に掲げる「曾良」の「夜もすがら秋風聞くやうらの山」のことを指す。「芭蕉句選」(華雀編・元文六(一七四一)年跋)「俳諧十家類題集」(屋島編・寛政一一(一七七九)年刊)で芭蕉作と誤伝する。「芭蕉句選」では、ここで指摘する通り、

  金昌寺といふ寺に泊る

終夜(よもすがら)秋かぜ聞(きく)やうらの山

である。

「小原長八」不詳。

「兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ」これは何らかの理由で眼球及びその周辺の劇症型の急性炎症を起こしたものと私は考えている。後述。

「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」シチュエーションとしては浦風がかなり激しく吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られ、長八の顔面に附着することはないとは言えない。仮にその中に強毒性で乾燥した刺胞も極めて危険な刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica(別名「ハクションクラゲ」)、或いは、気泡体が風船のように発達する刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis なんぞであったなら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ(両者は海浜に打ち上げられて時間が経ってもも刺胞は物理的に十全に機能するし、前者は乾燥させた粉末を忍者が目潰しに使っていたという説もある)。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まあここは伝承でも珍しい「海月の妖怪」ということにしておこうではないか。それが、また、面白かろうからに。]

2020/01/20

三州奇談卷之一 菅谷の巨蟒

    菅谷の巨蟒

 寶曆三年[やぶちゃん注:一七五三年。]の五月何(いづれ)の日とやらん。江沼郡(えぬまごほり)荒谷(あらたに)といふ所に、六兵衞・長吉と云兄弟の獵人(かりうど)ありて、元より剛氣壯力(さうりよく)著しく、鐵砲に妙有。百步に猛獸を打つに一つもたがはず、音と共に倒る。故に日ごとに獸を得る事、袋を探つて物を出すがごとし。

 此日亦兄弟打連れて菅谷(すがたに)と云へる所の奧を探し盡すに、風に臭氣あり。草木凋(しぼ)むように覺え、何となく空恐しく、谷を出しが、

『いづれの谷へ入ても斯る事はなし。此菅谷は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』

と立戾りて、友の獵人に相話せば、

「しらずや此奧には年久敷(としひさしき)巨蟒(うはばみ)有て、人一度是に觸るゝ時は生(いき)て歸らずと聞く。必(なららず)此(この)わざならん、早く歸り去るべし」

と云捨てゝ過(よぎ)る。其詞の下より、長吉身拵(みごしらへ)して立向ふ躰(てい)なり。六兵衞は

「何れへ行くぞ」

と問へば、長吉曰く、

「其形の知れざらんにこそ詮方なし。既にうわばみ[やぶちゃん注:ママ。]と聞ては、何ぞ退(しりぞ)き歸る事有べき。我手の中(うち)は、猶蒼海の蛟龍(かうりやう)と云とも相敵すべき技あり。何ぞ一匹の小蛇の爲に、谷も盡さずして歸る理(ことわり)あらんや。」

六兵衞も點頭して、共に今來(きたり)し谷道を再び進むに、實(げに)も藤蘿(ふじかづら)生ひしげり、巨木ひとりと折れくちて、爰(ここ)なん菅谷に猫岩(ねこいは)とかや、人の耳に聞ても恐るゝ所なり。路は亂石毒瘴(どくしやう)[やぶちゃん注:山川に生ずる湿熱性の危険な毒気。]一步も進むべからず。玉の二つものに玉藥あく迄込みて、兄弟立ならびて聲をひそめて窺ふ。頃は五月雨の雲くらく、空晴の日あし深く胸にさし返し、露けき岩頭に白き茨の花のちりがてにみへたる中に、

「さてこそ見ゆれ」

と指覗(さしのぞ)き見れば、大(おほい)さ二抱(ふたかかへ)にもあまりつべき牛の頭の如き物あり。万物(ばんぶつ)我には敵せざる鼻息は、むべ山風とも云つらん。人身(じんしん)をつんざくばかり臭氣あたりを拂ひ、岩にまとふて長き事は計るべからず。六兵衞・長吉ちつとも恐れず、筒先を揃へ、彼巨蟒の鼻頭(はながしら)をねらい濟して、互に

「どつ」

と火ぶたを切て放しければ、何かは少しもはづすべき、思ふ坪ヘ二ツともに血煙り立て打込みたり。

 忽ち山鳴り、樹木めきめきと動き出で、臭氣黑烟見るうちに暗黑となれば、兄弟は鐡砲打かづき、逸足(いつそく)出して迯出(にげだ)しけるに、谷中(たにうち)暗々たる氣の内に、風吹き岩くだけ、大木ねぢ折るゝ音すさまじく震ひけるが、半時許りありて一聲に

「どう」

と倒(たふ)るゝ音有ける。其響くこと、只大地も裂け坤軸(こんぢく)[やぶちゃん注:古く大地の中心を貫き支えていると想像されていた軸のこと。]もくだけやすらんと夥(おびただ)し。さしも剛氣の獵人ながら、

「此時には足なへ、腰(こし)力(ちから)なくて、ぐさと路に座しける」

とは咄しぬ。

 其後(そののち)は此谷中にはうはばみ死し居(をり)ぬと、しばしば人もおそれしが、日數たつに隨ひ、大聖寺家中よりも一二人行(ゆく)ぞと見へしが、夥敷(おびただしく)見物人行集(ゆきつど)ひ、終(つい)に其姿を引おろして尺を計るに、まはり八尺計(ばかり)[やぶちゃん注:約二メートル四十二センチメートル。これから計算すると蟒の胴の直径は七十七センチメートルにもなる。]、長さ九間餘[やぶちゃん注:十六メートル三十六センチメートル超。]あり。

「おもひしよりは短かき物なり」

と、家中見來りし人の物語なり。

 此鱗とて今此邊(このあたり)所々に殘れり。

 實(げに)にも是より谷淺く樹(き)かれて、夜陰も人の通ひ自由を得たり。

 二子(にし)は今も熊を打ち、豬(ゐのしし)を追ふて恙(つつが)なし。

「常に深谷幽谿に行通(ゆきか)ふといへども、此蛇を打し時ほどのおそろしさはなし」

とかたりぬ。

[やぶちゃん注:「菅谷の巨蟒」「巨蟒」は「すがたにのうはばみ」と訓じておく(「菅谷」は以下に示す通り、固有地名。後者は音なら「きよまう(きょもう)」であるが、こうなっては音読みする意味がない気がする)。さてもここに非常な問題がある。写本版は孰れも標題を「荒谷巨蟒」とし、本文中の一部でも蟒蛇の出た谷を「荒谷」としているからである。しかし、一読、これはやはり底本通りで「菅谷」が正しく、「荒谷」は致命的に誤りと判るのだ。何故なら、頭の部分で「江沼郡(えぬまごほり)」の「荒谷(あらたに)といふ所に、六兵衞・長吉と云兄弟の獵人(かりうど)」住んでいたとあるからである。最初に蟒が出現するシークエンスで、二人(或いは兄六兵衛)が『此菅谷』(実に国書刊行会本はここも「荒谷」なのである)『は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』と激しい疑義を感じていることから、この蟒蛇の出現した谷の名は絶対に住んでいる「荒谷」ではなく、初めて分け入った「菅谷」でなくてはおかしいからである。疑義のある人に言っておくと、ど素人が考えても、山の狩人が、自分の住んでいる広域地名「荒谷」の中に、行ったことのない「荒谷」があるというのは、これ、ちゃんちゃらおかしいことになってしまうからである。その「荒谷」地区が異様に広域で人跡未踏の地を含むというなら、まだしもだが、調べてみると、この「江沼郡荒谷」とは、恐らく現在の石川県加賀市中温泉荒谷町付近であり(現在のここは決して広域でない。但し、山深い場所である)、その南の西方の、尾根を幾つか越えたニキロメートルほど行った山中に、現在の石川県加賀市山中温泉菅谷町があるのである(グーグル・マップ・データ航空写真こちらを参照されたい。二つの町を確認出来るようにした)。そうして、現在の後者菅谷は東で大聖寺川沿いに有意な集落群を持っていて(荒谷には見当たらない)、最後の「今此邊」はこの蟒退治以降、「谷淺く樹(き)」枯「れて」(蟒の死体の放つ毒気によって枯れたのである)、「夜陰も人の通ひ」、「自由を得」るまでに開けたというのと一致するからでもある。

『いづれの谷へ入ても斯る事はなし。此菅谷は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』この台詞を敢えて私は二重鍵括弧の心内語にした。何故なら、山の怪に遭遇した時は、決してこちらから半端な言挙(ことあ)げをしてはいけないからである。中途半端な認識や軽率な行動をすることが致命的に危険であることは、「古事記」の倭建命(やまとたけるのみこと)の伊吹山の神の化身であった大蛇を誤認したことを持ち出すまでもないことである(それは彼の悲劇の死の最初の契機となっているのである)。山でお喋りは禁物だ。山の神や怪物が攻撃をかけようとその相手の情報に聴き耳を立てていると考えられたからだ。いや、実際、登山でもお喋りな奴は最初にバテるし、怪我もし易い。

「蛟龍」中国古代の想像上のプレ段階の龍の一種。水中に潜んでおり、雲雨に逢えば、それに乗じて、天上に昇って龍になるとされる。「みずち」。

「點頭」うなずくこと。

「藤蘿」所謂、蔦(つた)類の総称。

「猫岩」と呼称するからには人跡未踏の禁断の地ではないことが判る。

「玉の二つものに玉藥あく迄込みて」単式鉄砲に、異例に弾丸を二つ込めて、しかもそれを射出するに可能な多量の火薬を入れたことを意味しよう。但し、銃身自身がそれに耐えられなければ爆裂して射手自身の命が危険になる確率が頗る高くなる。

「さてこそ見ゆれ」ここは実声と判じた。既に対象が邪悪な蟒に過ぎないと認めたからである。ここは逆に言挙げによる勝利性を高めると言える。

「むべ山風とも云つらん」「古今和歌集」の「巻第五」の巻頭に配された「秋歌下」の知られた文屋康秀の一首(二十二番)、

 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐(あらし)といふらむ

を掛けた洒落。「むべ」は「なるほど」の意。

「岩にまとふて長き事は計るべからず」毒気が岩、いや、谷を包んで、その致命的な窒息感は言うに及ばぬ、絶体絶命の事態であったことを謂う。

「黑烟」銃撃によって蟒の生命が瀕死になり、毒気を全身より発し、それが黒い煙のようになって谷全体を覆ったのである。

「逸足」「駿足」に同じい。

「半時」現在の一時間相当。

「大聖寺家」大聖寺藩。加賀国江沼郡及び能美郡の一部を領した加賀藩支藩。本時制の宝暦三(一七五三)年当時は第五代藩主前田利道(享保一八(一七三三)年~安永一〇(一七八一)年)の治世。彼の治世中は領内が多くの災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫していた。

「家中見來りし人の物語なり」この謂いから、原著者麦雀はその当時の藩士(或いは隠居した人物)から、直接、これを聴き書きしたことが判る。]

三州奇談卷之一 吉崎の逃穴

     吉崎の逃穴

 吉崎の里は加賀・越前の境。則(すなはち)加賀吉崎といふ有り、又越前吉崎といふ有り。水を隔てゝ國境なり。地は水によりて山を𢌞(めぐ)り、無双の勝景なり。

 眞宗の中興蓮如上人の舊跡城山嚴然として、「腰掛石」は草間に砥(といし)の如く、「瓶中(びんちゆう)の松」と云は、上人佛前の松の一色(ひといろ)[やぶちゃん注:一枝。]を取て指(さし)給ふに、此儘榮えしとにや。近年黑き苔付て六字名號の文字をなすと云ふ。松の立てる樣はさながら花瓶を出る物の如く、七つの道具皆揃へり。

 爰に東西本願寺の懸所(かけしよ)あり。莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)たり。三月廿五日には、蓮如上人御忌として、七ケ日が間隣鄕他國の道俗袖をつらねて夥し。前は瀨越・汐屋の浦をはさみて、波間に加島大明神いまそかりける。樹木森々、只一藍丸(いつらんぐわん)のごとし。此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つと云。此長井村は、初め越前に屬して、實盛出生の地といふ。【一説には越前のウネと云ふ所を實盛の生地といふ。】 蓮が浦・竹の浦、皆加越第一の名所也[やぶちゃん注:頭一字空けはママ。]。殊に吉崎は佛緣の地故か、人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し、平日も肩衣の老人、珠數の老婆多く行かよふ事隙(ひま)なし。

 寶曆十年の頃とにや、加賀吉崎の畑を打つ人、何心なく石をはね土を打返し居けるに、忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける。猶奧のいくばくともしれず。幸に口せばき所ありて、鍬の引懸りけるにすがりて、聲をかぎりに呼ぶと雖、折節あたりに畑打(はたうつ)人もなし。深き穴に落入しことなれば、遠き所よりは是をしらず。彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば、[やぶちゃん注:「めれども、」としたいところ。]

「月日(つきひ)の二鼠(にそ)[やぶちゃん注:白と黒の二匹の鼠。昼夜・日月などに譬える。「月日の二鼠」で時の経過の譬えである。後注もした。]、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」

と恐ろしくあしきに、いとゞ聲も出ず。されども浮世の緣や強かりけん、からうじて鍬の柄を力に、土に打立(うちたて)打立漸(やうやう)と上り出たりける。其後はのぞく人も恐れ驚きけるに、誰いふとなく、

「此穴極樂へ通じて、西の方へ深きこと測るべからず、彼(かの)國の近道なり」

などいひふらしける。實(げに)も繩を下(おろ)して見し人もありしかども、其深さ計りがたし。心からにや、折々は異香の薰する樣にも聞えける。心なき者は、

「むかしの古井戶か、亂世のぬけ道にか掘當りけん」

なぞいひし。一頃(ひところ)はしきりに見物も立集(たちつど)ひしが、風雨ごとに此道ふさがりて、今は元の田面(たのも)に成ぬ。是(これ)穴居の昔の家路にや、小野篁の忍び路にや。あはれ鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまほしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや、終に地獄𢌞(めぐ)りの沙汰も聞へずして止(やみ)ぬ。里人に尋れば、

「今猶此あたりは、其穴のことを恐れて、鍬も薄氷に打立る心地して、老鷄の步みを恐るゝに似たり」

と、一笑と共に聞へし。或人の曰く、

「佛穴は得がたし。是(これ)畑人不幸にして出る事を得しぞ」

と嘆ぜられし。是又一奇談成べし。

[やぶちゃん注:本篇は以前に「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で電子化しているが、底本が異なる。また、柴田の梗概訳も参照されたい。

「吉崎の逃穴」標題は本来の原本の四字漢字表記では音読みであろうが、ここでは「脫穴」は「ぬけあな」と訓じてよかろう。このロケーションは越前吉崎、現在の福井県あわら市吉崎(グーグル・マップ・データ)で、本文にも出る通り、嘗つて吉崎御坊のあった周辺である。吉崎御坊とは、室町時代の文明三(一四七一)年七月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世法主蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が本願寺系浄土真宗の北陸に於ける布教拠点としてこの地にある北潟湖(福井県あわら市北部(一部は石川県加賀市にかかる)にある海跡湖。面積約二・一六平方キロメートルの汽水湖)畔の吉崎山の山頂に建立した寺院で、ここには北陸はもとより、奥羽からも多くの門徒が集まり、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び、寺内町を形成した。文明七(一四七五)年八月、戦国の動乱で焼失し、蓮如は吉崎を退去、永正三(一五〇六)年、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を「九頭竜川の戦い」で退けた後、未だ吉崎に残っていた坊舎をも破却したため、以後は原御坊は廃坊となった(以上はウィキの「吉崎御坊」に拠った)。

「水を隔てゝ國境なり」「水」は吉崎の北直近の石川県南部を流れる大聖寺川。

「腰掛石」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」PDF)によれば、『ある夏のこと、何日も日照りが続き、村人たちは田んぼの水やりに忙しく、蓮如上人のお話を聴きに行く暇もなかった。蓮如上人は心配され、お腰掛け石の近くにあった水受けの水をすくい、お念仏を称えながらその水を振りまくと、ポツリポツリと雨が降り出したという。お腰掛け石には蓮如上人の温もりが今も残り、大雪の時でも一番はじめに雪が解けると伝わ』り、ここに蓮如が座っては、『美しい吉崎の景色を楽しまれ、和歌などを詠まれた』ことから、「お腰掛け石」と呼ばれるとある。現在、後の享保六(一七二一)年に吉崎御坊願慶寺(吉崎御坊とは本願寺からの任命による吉崎での本願寺直轄寺院を指すもので旧坊の吉崎道場の後身)となったその境内に現存する。同寺公式サイトのこちらで位置が確認でき(御坊跡の東北直近)、同サイトでは旧御坊の復元絵図なども見られる。また、サイト「ト⁠リ⁠ッ⁠プ⁠ア⁠ド⁠バ⁠イ⁠ザ⁠ー」のこちらで当該の石の写真が見られる。

「瓶中の松」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」PDF)の「お花松」よれば、『蓮如上人が、いつものように本堂でお勤めなさった後、ほとけ様のお花松を抜いた。お庭に出て、お花松を丁寧に挿し木し、お念仏を称えられ、お供の者に、「もし、この松が根付いたら、吉崎御坊が栄えること間違いない」とおっしゃった。松は根付き、江戸末期まであったという。御山には初代の古株が残っており、その横に二代目の松がある』とある。fu345氏のブログ「福井の魅力を知りたいブログ(時々県外)」の「あわら市 蓮如上人と吉崎御坊、お腰掛け石とお花松の伝説」で前の「腰掛け石」と合わせて初代とする切り株や周辺の画像が見られる。この「お花松」とは仏前に供える枝葉の仏花の意。

「七つの道具」立花(りっか:花や枝などを花瓶に立てて生けること。たてばな)で基本となる七つの役枝(やくえだ:立花に於いて主要な役割をする枝)。「真」(構成の中心となる枝)・「副え」(「真」の枝に添えて引き立たせる枝)・「受け(請け)」(「副え」の枝に対して低く横に出ている枝。植生しているそれでは地面に近い枝を指すようである)・「正真(しょうしん)」(「真」の内で正面にある限定部分を指すようである)・「見越し」(「正真」の下方から上方へ突き出る枝を指すようである)・「流枝(ながし)」(下方の上へ向いて反り出した枝を指すようである)・「前置き」(生花では水際に挿すものとするので地面に最も近い張り出した枝或いは前にある草木のことであろう)。一部は小学館「大辞泉」に拠り、判らぬ部分は「西本願寺」公式サイト内の仏華の解説(七つどころか十三ある)を参考に推定した。

「懸所(かけしよ)」東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい。

「巍々」厳(おごそかで威厳のあるさま。

「三月廿五日」「蓮如上人御忌」蓮如は明応八年三月二十五日京の山科本願寺で数え八十五歳で没した。

「瀨越・汐屋の浦」現在、石川県加賀市側の大聖寺川右岸に大聖寺瀬越町が、その西部分に加賀市塩屋町(グーグル・マップ・データ)がある。この大聖寺川はその蛇行様態や浸水ハザード・マップを見るに、かなり往時とは異なっていた(もっとこの両地区に海が入り込んでいた)可能性が高いと思われ、南に細長く貫入する北潟湖を含めて「浦」は腑に落ちる。

「加島大明神」大聖寺川と北潟湖の分岐する砂州状の突出部(陸繋島)にある、鹿島神社(グーグル・マップ・データ)。現在、「鹿島の森」として保全されており、ウィキの「北潟湖」によれば、『大聖寺川と北潟湖に囲まれた海抜』三十メートル、面積約三万平方メートルの『小高い山林で、全域が石川県加賀市に属している。もともと孤島だったが』、貞享五・元禄元(一六八八)年『頃から始まった加賀藩の土木工事により砂州が発達し』、正徳三(一七一三)年『頃には陸続きになった。山全体に照葉樹の原生林が広がっており、うちイヌマキなどは当地が植生北限とされている』。この森は昭和一三(一九三八)年に『天然記念物に指定』『された』。『鹿島神社があり、山全体が神域である』とある。これは非常に興味深い描写である。何故なら、本文ではこの「鹿島大明神」は「波間」に鎮座されておられると言っているからである。麦雀の書いた本作の原型がいつ成立したかは不明なわけだが、本「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃とあるから、その時は陸繋島となったずっと後である。即ち、麦雀が原作を書いた時には鹿島神社は「波間」にあって、完全な陸繋島化はしていなかったということを意味するものと読めるからである。即ち、原作者麦雀がここを実見したのは、少なくとも正徳三年よりも明らかに以前であり、へたをすると、貞享五・元禄元年頃か、それ以前にさえ遡ると考えられるからである。さすれば、麦雀(但し、彼の生没年は未詳)の原作の完成が、その辺りの閉区間にあったと考えてよいのではないかと思われるからである。俳号の一部一致からは一見、麦雀と麦水は同時代人のように錯覚するが、これは伊勢派であるからに過ぎない。しかも麦水がこの原作が散逸するのを憂えて再筆録したのであるからには、原作が書かれてから相応の年月が経過していると考えるが妥当であると私は考えるからでもある。

「一藍丸」一つの暗い青緑色の塊り。

「此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つ」この鹿島大明神の神域の樹木に巣くっているカラスは、加賀と越前の地をそれぞれ認識し、どちらかの一方の国を縄張りとしていて、競合しないということであろう。カラスは熊野大社を見ればわかる通り、古くは神鳥であり、神使であった。

「長井村」吉崎の東に接する石川県加賀市永井(グーグル・マップ・データ)のことであろう。

「實盛」加賀国の「篠原の戦い」で鬚髪を黒く染めて奮戦し、安宅で討死にした老名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。斎藤氏は代々越前を本拠地とした。また、彼が武蔵に移って長井に移り住み、長井斎藤別当と称した事実を考えると、ここでこの地名を「長井」と記しているのは、彼の別称に引かれた結果なのかも知れない。但し、ここが彼の「出生の地」というのは、あくまで伝承の一つで、彼は越前生まれではあるが、限定された出生地は不詳である。

「越前のウネ」不詳。ここに近いところでは(但し、近い必然性は全くない)、福井県あわら市畝市野々(うねいちのの)があり、少し離れると、福井県坂井市丸岡町長畝(ちょうのうね)がある。

「蓮が浦」福井県あわら市蓮ケ浦(グーグル・マップ・データ)。北潟湖の中央部の東岸地区。

「竹の浦」大聖寺地区まちづくり推進協議会制作のサイト「大聖寺 十万石の城下町」の中に「竹の浦館」があり(地図有り)、そこに、『竹の浦館が位置する瀬越町は、かつて多くの北前船主を輩出しました』。『この建物は』昭和五(一九三〇)年に『人材育成を願った北前船主をはじめ村の有志の方々の寄付により、『瀬越小学校』として建てられました』。『その後』、『「青年の家」として活用されていましたが、老朽化により取り壊しの計画が持ち上がりました』が、『地元の人々の建物を保存したいという強い熱意により』、『地域活性化と文化交流の拠点「竹の浦館」となり、各種のイベントや特産品の販売などを行っています』とあった。この名称からみて、この付近の、海が大聖寺川方向に貫入した部分の旧呼称と推定される。

「人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し」筆写本では「人民篤厚金僊(ホトケ)に奉仕し」(「ホトケ」のルビは二字へのそれ)。

「肩衣」(かたぎぬ)はここでは門徒の信者が看経(かんきん)の際に、着流しで肩に羽織るのに用いる衣のこと。

「寶曆十年」一七六〇年。徳川家重が家治に将軍職を譲った年。

「忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける」写本ではここは、「忽ち」はなしで、

足もとどうと落入て、見へぬ斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]に埋もれける。大に[やぶちゃん注:「おほきに」。]おどろき、土に取つき石にすがりするに、皆、落入て、深き穴にぞ成にける。

とあって以下の「猶奧のいくばくともしれず」に続く。

「彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば」「見上げてみると、落ちた穴の入り口辺りは、葛の根がさわに生えて塞がっており、しかし、そこから僅かな露水が滴り落ちるので、それで露のような儚い命をひと時は生を楽しむことが出来ようけれども」と言ったニュアンスか。

「月日の二鼠、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」『誰も来ず、時間がたてば、その葛の根も鼠(「月日の二鼠」の「鼠」から洒落たもの)に食い切られるやも知れず――さすれば、水を得る術もなくなり、渴えて死ぬ――そうした浮き世の生死不定(しょうじふじょう)の数々の譬えの謂うところも――まさにこの今のこの時のことじゃやて!』というような謂いであろう。なお、「月日の二鼠」は「月日(つきひ)の鼠」或いは単に「月の鼠」で、求那跋陀羅(ぐなばっだら)漢訳になる「賓頭盧(びんずる)説法経」(正しくは「賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経(びんずるとつらじゃいうだえんさんおうせっぽうきょう)」)にある法話による古事成句である。それは、象に追われた人が木の根を伝って井戸に隠れていたところ、井戸口の周囲には四匹の毒蛇がいて彼に噛みつこうとし、また、頼みの綱である木の根をば、黒と白の二匹の鼠が齧(かじ)ろうとしていたというたとえ話で、象が「無常」、二匹に鼠が「月と太陽」=「昼と夜」、四匹の毒蛇が「地・水・火・風」の「四大」に譬えられてあり、これ全体が「この世に於いて瞬く間に月日が過ぎ行くこと」と「生死無常の様態」を比喩している。

「心からにや」気の持ちよう(西方浄土に繋がるというのをどこかで信じて)によるものか。国書刊行会版では『いつからや』とあるが、直後とのジョイントが悪い。

「折々は異香の薰する樣にも聞えける」時によってはえも言われぬ、何やらん嗅いだことのない香りが薫ずるようなこともあるやに聴いている。「聞(きこ)ゆ」には「匂いが自然に漂ってくる」の意があるから、そう訳しても問題ない。文章を粉飾することが好きな傾向のある筆者の狙いは、寧ろ、そっちかも知れぬ。

「心なき者」無風流な現実主義的な人。

「穴居の昔の家路にや」古え、居生活をしていた人々があって、その地下の家々のある集落へと通ずる通路だったのか。

「小野篁」(おののたかむら 仁寿二(八五三)年~延暦二一(八〇二)年)は公卿で文人。異名は野相公・野宰相、その反骨精神旺盛な気質から「野狂」とも称された。承和元(八三四)年に遣唐副使に任命されたが、同五年の三度目(前の二回は都唐失敗)の出発に際し、大使藤原常嗣が浸水していたため、篁の乗る船を求められた(嵯峨上皇に上奏して認可された)ことに憤慨し、病気と偽って乗船を拒否(遣唐使節は篁を残して渡海)、後に遣唐使の事業を風刺する痛烈な漢詩「西道謡」を作ったことで(現存しない)上皇の怒りを買い、隠岐に流された。二年後、召還されて同十四年に参議となった。博識多才で漢詩は白楽天、書は王羲之父子に匹敵するとまで言われた才人でもあった。「経国集」・「和漢朗詠集」・「古今和歌集」などに作品を残すほか、「令義解」の編集にも携わった。また、冥官(地獄の閻魔王の庁の役人)となって冥土と現世を往来したといった幻想的逸話も多く(「今昔物語集」・「江談抄」)、京都市東山区の珍皇寺や上京区にある引接寺の千本閻魔堂には現在もそうした伝承が残る。

「あはれ」ここは単なる感動詞。

「鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまはしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや」「新田」は鎌倉初期の武士で伊豆国御家人新田(仁田)四郎忠常(?~建仁三(一二〇三)年)のこと。源頼朝が挙兵した際に馳せ参じた直参の一人で、以後、頼朝の側近として仕え、元暦二 (一一八五)年三月には範頼に従って鎮西各地を転戦した。建久四(一一九三)年五月の曾我兄弟による仇討の際には、兄十郎祐成を斬っている。建仁三 (一二〇三)年には北条時政の命により、第二代将軍頼家の外戚比企能員を暗殺して一族を攻め滅ぼしたが、その後、頼家の命を受けて時政を除こうとして露見、逆に加藤景廉に殺された。さても、頼家は洞窟フリークで、建仁三(一二〇三)年六月、富士の牧狩りの際、彼に命じて、現在の知られた溶岩性洞穴である「富士の人穴(ひとあな)」(国土地理院図)の探検をさせたことを指す。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」を読まれたい。私が「吾妻鏡」も引用して細かに注してある。

「地獄𢌞(めぐ)り」「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の四郎忠常の帰還後の報告部分を見られたい。

「佛穴」「得がたし」と言い、「是(これ)」、「畑人」はまっこと残念! 「不幸にして出」てしまったものだ「と嘆」いた、というのだから、これは前に出た一説の通り、この奇体な穴を西方極楽浄土への通路であったとするものであろう。先の電子化の「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で私は注して、『流石、「三州奇談」、穴落ち農夫の田舎話に豪華な風雅をサンドイッチしている辺り、著者はやはりタダモノではない。最後の「佛穴(ぶつけつ)は得がたし。」は「仙骨(せんこつ)は得難し。」(「杜子春傳」染みた台詞だ。但し、そこでは「仙才之難得也。」であったが。リンク先は私のオリジナル・テクストである)のパロディか?』と述べた。この印象は変わらない。

2020/01/19

三州奇談卷之一 大日山の怪


[やぶちゃん注:以下、本底本(立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)))では段落形成がなく、完全なベタ文なので、長いものはかなり読み難いことから、諸本を参考にしつつ、総てについて、独自に段落を成形することとし、直接話法箇所も改行することとした。各段落も現行の書式に従い、一字下げた。

    大日山の怪 

 爰(ここ)に云ふ、越の白根は知らぬ國無き名所、言續(いひつづ)けんは事古(ことふ)りたれど、彼(か)の「古今集」にも見えて、

  消はつる時しなければ越路なる

       しら山の名は雪にぞありける

となん。千古の眺望を盡して、今猶旅人の笠の端(は)だにさばかりに仰ぐなるを、一年(ひととせ)加州の太守松雲相公(しやううんしやうこう)の、

「此山の正面と云ふべきを𤲿(ゑ)に寫すべし」

と、𤲿工(ぐわこう)梅田何某(なにがし)にものせられしに、加越のかぎり普(あまね)く經(へ)めぐりて、終に加州小松の邊(ほとり)須天(すあま)といふ里のはづれを正面に究めて、圖(づ)し呈しけるを、公殊に御意に叶ひ、常の間の壁上(へきじやう)に懸けて愛翫なし給ふと聞きぬ。

 其地は白根のみか、北山の尾左の方に當りて大日山(だいにちさん)といふも見ゆ。是は富士に足高山(あしたかやま)のある如く、此山の左に匍(はひ)て彌々(いよいよ)白根の雄威を增す。抑(そも)大日山といふは、越の大德(だいとこ)泰澄大師の白山を開かんとして先(まづ)此山に宿ると、其邊(そのあたり)の土人の舌頭に殘り、大日山の絕頂には大きなる窟(いはや)あり。是泰澄の籠り給ふ跡にや。又半腹に池あり。夏天に雨乞をする時は、此池に鯖(さば)といふ魚を切りて投入るゝ時は、忽ち雨ふるといふ。地震に水潔(いさぎよ)く、麓はことに景するどからず、花草岩間に生じて人の目を慰むれば、人里遠しと雖、大聖寺・小松等の遊人、春花を追ひ又は秋禽を尋ねて、折には行通ふところなり。

 寬延[やぶちゃん注:一七四八年~一七五一年。徳川家重の治世。]某の年、新保屋(にひほや)何某二三人の友を催し、頃しも葉月[やぶちゃん注:旧暦八月。]の半過(なかばすぎ)、風未だ寒からず、日も亦强からねば、

「いざや此大日山に遊ばゞや」

と、破籠(わりご)[やぶちゃん注:檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって被せ蓋(ぶた)をする。今の弁当箱。]樣(やう)の物に折節海邊の佳魚したゝか入れて、一僕に風呂敷の沈むまで荷はせて、「若(もし)暮(くれ)なば月かけて串の里の靑樓に宿らんよ」と、「朝風(ていふう)の吹井(ふきゐ)」と云ふ銘酒など汲交(くみかは)しつゝ立出でぬ。行々女郞花(をみなへし)に立ち、野草に座し、淸水を掬(きく)し、蜻蛉をたゝきなど、ざれもて行く程に、秋の日の未(ひつじ)の刻にも下(さが)りぬらん[やぶちゃん注:ここは昼飯がやや遅いものの「下り」とあるからには午後三時過ぎということになろうか。]、彼(かの)山もとに着きぬ。とある岩頭に辨當を下(おろ)し、靑氈(せいせん)[やぶちゃん注:青色の毛氈。]纔(わづか)に延べて、

「今日の獲物は非ㇾ熊(くまにあらず)、羆(ひぐま)に非ず、松茸・初茸(はつたけ)こそくしき[やぶちゃん注:「奇しき」。変わった珍味としての。]望(のぞみ)なれ」

と戲れながら、皆々木の根さがさんと岩陰、樹の間に分け入りて、暫くして立歸り見るに、彼の辨當を(おき)置たる所、更に何處(いづこ)と知れ難し。人々呼傳(よびつた)へて是を語る。皆々あきれて、

「是こそ一大事の物、普(あまね)く探せや」

と、數町[やぶちゃん注:一町は百九メートル。]の間あちこちと尋求めけれども、終に行方(ゆきかた)なし。彼の御室(みむろ)法師の兒(ちご)をさそへる興になさんとするにもあらず、

「慥に此松、岩が根」

と水の手寄(たより)も目角(めかど)有るに、ひたぶる其あともなし。人々あきれて邯鄲(かんたん)に步(あゆみ)を失ふ人々の如く、顏靑う見合はせて暫く詞もなし。

「猶未だ日(ひ)西山に高ければ、是を力に出でよや」

と、興も盡き力も拔けて、足弱車(あしよわぐるま)の下り坂に、途(みち)五六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートルほど。]も下りけるに、一僕餘りに打腹立(うちはらだち)て、

「我が置ける物なれば、只我のみの責のやうに覺えて、今一度探し見てん。獵人(かりうど)・木樵(きこり)などの業(わざ)ならんには、やわか生けてはおかじ」[やぶちゃん注:「やわか」は副詞「やわ」+係助詞「か」で、下に打消の推量の表現を伴って「よもや」の意。怒り心頭に発して「よもや生かしておいてなるものかッツ!」という罵りのニュアンスである。]

などいひて、人々の留(と)むるをも聞かず、二三町走り歸りけるが、怪しく空を見上げて暫く立ち、人々を招きけるに、

「何事ぞ」

といひいひ、皆々歸り來る。僕が指さす方をみれば、遙に[やぶちゃん注:「はるかに」。]水一筋を隔たる向ふの山の岨[やぶちゃん注:「そば」。崖。]、二丈[やぶちゃん注:約六メートル。]許(ばかり)なる古き松の枝の蓋(ふた)のごとくなる上に[やぶちゃん注:枝が広がってこんもりとし、あたかも蓋を覆ったようになったその上に。]、靑くひらめく物あり。能々(よくよく)みるに彼(か)は是(これ)毛氈なり。辨當も吹(ふき)まどはれて見えければ、

「さては猿などの所爲にこそ[やぶちゃん注:句点が欲しいところ。]惡(にく)き事なり。若(もし)猿などの居なばたゝき殺せよや」

と、人々脇差・棒など打振(うちふり)て、彼の松のもとへ、俠氣(けふき)に任せて茨(いばら)を飛び水を渡りてかけ行き、近く成(なる)まゝに是を見れば、彼辨當にまがふべくもあらねども、只手にすくひて松が枝に載せたるごとく、人のわざとは見えず、又寂として他の生類(しやうるい)の見えず[やぶちゃん注:別本では「生類も見えず」。]。其中に彼(かの)僕は松に攀登(よぢのぼ)りて、繩を付(つけ)て辨當をおろし、毛氈をかゝへて枝を飛下(とびお)る。皆々悅び、彼道を越(こえ)て元の地に戾り、さて開き見るに、風呂敷の包樣(つつみやう)・結び目も何の替ることなし。人々拾ひたる心地して、何の分別もなく食をくらひ酒を吞み、少し腹力(はらぢから)もつき、飢もやみたるまゝに、人々云合せて見るに、飯・煮染(にしめ)樣(やう)の物は有しかども、蟹・甲いかの類(たぐひ)を初め、都(すべ)て魚類の物一種もなし。蟹などは殊に多くしたゝめ入來れば、食ふともからの狼藉たるべきに、影もなし。思ひ𢌞(めぐら)す程、理(ことわり)の濟むべき物ならず。

「木の上に有し時も、只風などの吹きすゑしやうに居すわり、風呂敷も重(ぢゆう)も包樣(つつみやう)替らずして、たゞ魚物は消(きゆ)るごとくになかりしは、大日山と云へるにより、魚類を忌み給ふ地にこそ」

なんどいひいひ、歸る[やぶちゃん注:句点が欲しい。]興もつき、氣力もぬけて、道のよるべき遊興も心なしと、一(いつ)さんに我家に歸る。其後(そののち)も此一事のみ云出(いひいだ)しては不審はれず。

 或醫師の人に尋けるに、

「山𤢖[やぶちゃん注:読みを含めて後注参照。]蟹をおしむといふ事、書にも候へば、扨は山丈(やまをとこ)・野女(やまうば)の類(たぐひ)、魑魅魍魎の仕業(しわざ)にこそ」

と聞(きこ)へけるに、彌(いよいよ)心付て思ひめぐらせば、

「侠氣に任せて谷を渡り松をよぢたりしこと共(ども)、今思ひ出して身ふるはれ、毛孔(けあな)皆立ち、再び山に至らず。我のみか人にも異見することにぞ成(なり)ぬ」

と聞えける。

[やぶちゃん注:私は実は本篇を一度、電子化している。二〇一七年のお雛さまの日の『柴田宵曲 妖異博物館 「行廚喪失」』である。柴田は、かなり丁寧に本篇を本文で現代語訳している。それに私は国書刊行会本を参考に本篇を電子化してあるのであるが、今回は全くのゼロからやり直した。そちらの柴田の梗概も参照されたい。

「大日山」は福井県勝山市及び石川県加賀市と小松市に跨る標高千三百六十八メートルの山。嘗つては二十四キロメートル東方の白山と並ぶ修験道の山であったらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越のしらね」先条の白山のこと。

「消はつる時しなければ越路なる」「しら山の名は雪にぞありける」「古今和歌集」の「巻第九 羇旅歌」に載る凡河内躬恒の一首(四一四番)、

  越の國へまかりける時、白山(しらやま)を見て、よめる

 消えはつる時しなければこし路なるしら山の名は雪にぞありける

である。これは表の風雅な詩想とは別に一種の掛詞的遊戯、駄洒落でもあって、「越路(こしぢ)」は「來(こ)し」を、「雪」はその「來し」に対する「行き」を引き出すようになっているものであろう。

「加州の太守松雲相公」加賀藩の第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。ウィキの「前田綱紀」によれば、『叔父徳川光圀や池田光政らと並んで、江戸時代前期の名君の一人として讃えられて』おり、また、『隣国の福井藩との争いである「白山争論」』(延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮・越前国霊応山平泉寺・美濃国白山中宮長滝寺の三者は白山頂上本社の祭祀権を巡って永く争いを続けたが、寛文八(一六六八)年、白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した)『に決着をつけた。また、母の冥福を祈って白山比咩神社に名刀「吉光」を奉納した(これは現在国宝となっている)』ともある。

「𤲿工梅田何某」個人名は判らぬが、梅田家は江戸前期から幕末にかけて加賀藩御用絵師を代々務めた狩野派の家系として知られるから、その中の一人であることは間違いない。

「小松の邊(ほとり)須天(すあま)といふ里」現在の石川県小松市須天町(グーグル・マップ・データ)。白山の北西正面に当たる。

「足高山」静岡県の富士山南麓にある愛鷹山(あしたかやま)(グーグル・マップ・データ)の古名。最高峰は標高千五百四メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七メートルの愛鷹山峰を指す。

「泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「地震に水潔(いさぎよ)く」濁らないことであろう。

「大聖寺」石川県江沼郡にあった大聖寺町(だいしょうじまち)。錦城山に白山寺(廃仏毀釈により廃寺)末寺である白山五院の一つ大聖寺(同前)があったことに由来する。この付近(グーグル・マップ・データ。白山を含めて示した)。

「小松」現在の石川県小松市(グーグル・マップ・データ)の市街部。

「秋禽」秋の鳥の声。

「新保屋(にひほや)何某」不詳。

「月かけて」月を空に懸けてと洒落て言ったのであろう。

「串の里」現在の石川県小松市串町であろう(グーグル・マップ・データ)。

「靑樓」遊郭。

『「朝風(ていふう)の吹井(ふきゐ)」と云ふ銘酒』叙述から醸造元の銘柄と考えた。「朝風に」なら、朝の風に吹かれながら「吹井」という銘酒を景気づけに飲み交わして、でよかろうが。

「羆(ひぐま)」無論、食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensisは北海道、当時の蝦夷にしかいないが、毛皮としてはかなり古くからその存在が知られてはいた。おどけて言ったわけである。

「初茸」菌界ディカリア亜界 Dikarya担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius hatsudake。本邦では非常に古くから食用とされてきた。

「木の根」の辺りを松茸・初茸あらのんかと「さがさんと」。

「呼傳(よびつた)へて是を語る」全員へ戻る前にそれを大声で伝えた。帰ってくる途中で、消えた弁当を探して貰うためである。

「御室(みむろ)法師の兒(ちご)をさそへる興になさんとするにもあらず」「御室(みむろ)法師」仁和寺の僧のこと。男色が黙認され、修行僧らの生活は堕落していた。ここは、「徒然草」の鼎を被ったかの話をまさに連想・想起させながら、滑稽、即ち、誰かが面白がって悪戯でわざとどこかへ弁当を隠したというわけでは、勿論、ない、という謂いであろう。既に未の刻で、全員、腹が減っているわけであるから、そのようなことであれば、まともに吊し上げを食らうことになる。

『「慥に此松、岩が根」と水の手寄(たより)も目角(めかど)有るに』確かに――弁当を置いた場所は――この松の――その形の岩の下――川の流れは――そう、この方角――と、概ね誰もがはっきりと正確な視認位置記憶をしているのにも関わらず、という意味であろう。「目角」は鋭く対象を観察して見切る能力のことである。

「ひたぶる」全く以って完全に。

「邯鄲(かんたん)に步を失ふ」「盧生の夢」の如き気持ちになること。説明するのも阿呆臭い。私はその話のフリークだからだ。私の『芥川龍之介 黃粱夢 附 藪野直史注 / 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 / 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』(サイト版)を読まれたい。ブログ版だってあるぜ。ただね、言っとくが――膨大だよ。

「足弱車(あしよわぐるま)」原義は車輪が堅固でない車であるが、ここはこの足弱連中の換喩。「下り坂」で膝ががくがくと笑いがちになって処置なしというのであろう。

「辨當も吹(ふき)まどはれて見えければ」引っかかっている青い毛氈は風でちらちらと時々少し舞い捲れているのだが、そこに、おりおり、載った弁当の片影も風に吹かれつつちらちらと垣間見えたので。

「居なば」「をりなば」であろう。国書刊行会本では『居(をら)ば』となっている。

「俠氣」義侠心。しかし、ここは食い物を猿に(と既に限定的に思い込んでいる)隠されたことへの腹立ちに発した、ただの粗野な性質(たち)のこと。

「水」小さな谷川の流れ。

「拾ひたる心地」あたかも拾い物をして得をしたかのような錯覚に陥って。

「蟹」ロケーションから季節的にはちょっと早いが、海産の甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目ケセンガニ科ズワイガニ属ズワイガニ Chionoecetes opilio と考えてよかろう。別に沿岸性のカニ類でもよいが、その蟹があれば、そこでは「食ふともから」(輩)」が先を争って食おうとして、「狼藉」紛々「たる」惨状となる「べき」ものであるとすれば、ズイワイガニしか私には考えられない(但し、これは一般論としてである。私は残念ながらズワイガニを美味いと思わない人間である)。

「甲いか」軟体動物門頭足綱二鰓亜綱コウイカ目コウイカ科コウイカ属スミイカ Sepia esculenta であろう。

「理(ことわり)の濟むべき物ならず」論理的に納得出来るような事態ではない。

「大日山と云へるにより、魚類を忌み給ふ地にこそ」この山を大日如来に関係づけ、仏教の生臭もの、動物の殺生を忌むという風に連想したもの。

「山𤢖」田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)ではこれに『やまざる』と振るのであるが、どうも気が進まない(少なくとも柳田國男はこんな読みは振らないと断言出来る)。それは直後にこの医師が人型怪奇生物である「山丈・野女」や「魑魅魍魎」を続けて、あたかもこの「山𤢖」と並列するように挙げているからである。しかしてそう考えると私はこれは断然、「やまわろ」或いは「やまをとこ」又は音で「さんさう(さんそう)」と読むべきだと考えるのである。「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖(やまをとこ)が事」を参照されたいが、「山𤢖」とは本来は中国に伝わる伝説上の生物或いは妖怪の名で、「山蕭」「山臊」とも書かれ、中国の古書「神異経」には、西方の深い山の中に住んでおり、身長は約一丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気に罹るという。本邦の「やまわろ」という語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」も参照されたい。

「山丈(やまをとこ)」やはり私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を参照されたい。

「野女(やまうば)」やはり私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「野女(やまうば)」を参照されたい。]

2020/01/17

三州奇談 電子化注始動 / 卷之一 白山靈妙

 

[やぶちゃん注:「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもので、金沢片町の蔵宿(くらやど:藩の年貢米の売却のために置かれた御用商人)の次男で金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家(歴史実録本が多い)の麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)が、先行する同派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集を散逸を憂えて再筆録したものとされる(後の坂井一調の「根無草」の記事に拠る)。「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。正編五巻九十九話、続編四巻五十話で全百四十九話からなる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)とする。但し、疑問箇所等は、正編は同じ国立国会図書館デジタルコレクションの中島亀太郎著「加越能三州奇談」(個人出版・明二八(一八九五)年刊。異題であるが、同書の正編の活字化である)を、続編は同じく国立国会図書館デジタルコレクションの田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)を参考にする予定である。また、正編では、所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻も参考にした。同書の底本は国立国会図書館蔵本とあるが、こちらは写本である。但し、正編のみで漢字は新字である)も参考にした。前記の書誌も同書の堤氏の解題に拠った。

 底本では冒頭に全巻の目録が載るが、これは公開の性質上、あまり意味を持たないと私は判断するので省略することとした。

 底本にはルビがなく、読み難い箇所も多々見られるので、上記の複数の書籍と校合し、丸括弧で歴史的仮名遣で推定の読みを禁欲的に附した(一部は先に挙げた近世奇談全集」のルビ(パラルビ)等も一部で参考にはしたが、従えないものもあった)。一部で鍵括弧や「・」(これは底本でも使っている)等も追加して添えて読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。二行割注は【 】で挟んで同ポイントで示した。]

 

三州奇談 卷一

 

    白山の靈妙 

越の鍾靈(しやうれい)なるものを「白山(しらのやま)」といふ。雪華天に聳え、峰四方に標(へう)す。崚嶒(りやうさう)百里ばかり、其最も神秀ものは「大女(おほなんぢ)」是也。其峯山の半腹に在り。又「隱女(をんなんぢ)」といふ。遙望すれば、壁立萬仭、嵯峨嶙峋(りんじゆん)として雲車象輿(うんしやざうよ)の常に歸往する所、秀氣天に薄(せま)り、人間の能く躋攀(せいはん)する所に非ざる也。山僧善心曰く、「貧道(ひんだう)山中に住すること凡そ十稔(ねん)、頗る山の窈窕(えうてう)を諳(そら)んず。かの『大女』に陟(のぼ)ること既に幾回なるに、前に人間(じんくわん)に在りて瞻望(せんばう)する所のものと形勢都(すべ)て異なり。こゝに指點するに、諸峯を𤲿(ゑが)くに似たるもの有るなし。杳然(えうぜん)終に其地を得ず。故に余曾て臆斷せり。大女・隱女蓋し別に二峰也。大女は皆登るべし。其(それ)隱女なるものは唯之を望むべく、求むるときは則ち隱匿して臻(いた)るべからず。古名も空しからず」と。他の登る者も云ふこと亦復(また[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])此(かく)の如し。何(いかん)ぞ其の神なるや。或は曰く、「蓋し有ㇾ之(これあらん)。曾て古記を讀むに、それ蓬壺(はうこ)を求むる者、遠く之を望めば雲の如く、巍然(ぎぜん)として海上に標す。乃ち近づけば所在を沒失(もつしつ)す。其人に非ざれば、則ち日夜粉碎すとも、敢へて臻ること能はず」。我日本亦此くの如きもの有り。怪ならざれば則ち神、神ならざれば卽ち怪。これ此書卷第一を作れるゆゑならし。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

山僧善心は滑稽名「梅石」、加州大聖寺人、食家吉崎屋の族(うから)。破產して佛門に歸し、越前平泉寺に入り。兼て白山山上の室堂(むろだう)に住す。因(ちなみ)に善心曰く、「別山の社中積雪の門常に山風有り。且一日赤蛇を見る。長さ二尺餘り、色火の如し。又鵜鳥(うのとり)有り。人の聲を聞けば羽毛を脫す。道者(だうじや)拾ひ得て守と爲すと。

[やぶちゃん注:まず、中島亀太郎著「加越能三州奇談」の当該序章び堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(写本底本)を見るに、本来、この序章(本文自体にこれを神霊にことよせて本書巻頭の靈妙な序章として祝祭していることが確信犯で窺える)ののみは漢文訓点附きで書かれてあったものと推察される。以下に正字である前者のそれを白文で示す(既に上記の訓読文(但し、表記・表現に有意な異同がある)があるから訓点は排除した。但し、句読点がないと比較しづらいことから、後者の句読点と鍵括弧を参考に附した。因みに、この二者にも異同があり、親本は同じ写本ではないと思われる)。

   *

    白山靈妙

越之鐘靈[やぶちゃん注:ママ。]者曰白之山。雪華聳天、雲峰四標。崚嶒百里所、其尤神秀者大女是也。其峯在山之半腹、又曰隱女。遙望之、壁立萬仭、嵯峨嶙峋雲車象輿常所歸往、秀氣薄天。非人間能所躋攀也。山僧善心曰「貧道住山中凡十稔焉、頗諳山之窈窕。陟彼大女既已幾囘、非從人間所瞻望者。形勢都異、於是指點盡諸峰而罔有所似者。杳然終不得其地。故余曾臆斷大女隱女蓋別二峰。大女皆可登。其隱女者可惟望之。求則隱匿不可臻焉。古名不空。」他登者、言復亦如此。奈其神。或人曰、「盖有之矣。曾讀古紀、夫求蓬壺者、遠望之如雲、巍然標海上。乃近之則沒失所在。非其人則雖日夜粉碎之、不能敢臻。」我  日本、亦有如斯者。不怪則神、不神卽怪。是所爲此書開卷第一者邪。

[やぶちゃん注:「日本」の前の字空けはママ。改行が正式と思うが、尊敬表記として腑には落ちる。以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

山僧善心滑稽名梅石、加州大聖寺人、良家吉崎屋之族。破產肆佛門、入於越前平泉寺。兼住之白之山上室堂。因善心曰、別山之社中積雪之門、常有嵐。且一日見赤蛇。長二尺强也、如火。亦有鵜鳥。聞人聲脫羽毛。道者、得拾爲守。

   *

中島亀太郎著「加越能三州奇談」の当該序章の基本、訓点に従って訓読したものを示すが、恣意的により読み易くして、底本本文と比較しやすくするために、句読点を適宜変更し、読点を増やし、段落形成を行った。訓読法は私のポリシーに従い、助詞・助動詞はひらがな、出すべきと判断する送り仮名を概ね出してあるので注意されたい。一部の送りがない箇所は推定で施し、一部で濁点がないと絶対におかしい部分にのみ濁点を打った。

   *

    白山靈妙

 越の鐘靈なる者を「白の山」と曰ふ。雪華、天に聳へ、雲峰、四も[やぶちゃん注:「よも」(四方)にの謂いか。]標す。崚嶒、百里所(ばか)り、其の尤も神秀なる者は「大女(をゝなんち)」[やぶちゃん注:左ルビで表記は「ヲヽナンチ」でママ。後もそうだが「なんぢ」と濁ってよいと思う。]、是れなり。其の峯、山の半腹在り、又、「隱女(をんなんち)」と曰ふ。之れを遙望すれば、壁立萬仭、嵯峨嶙峋として、雲車象輿、常に歸往する所、秀氣、天に薄(せま)る[やぶちゃん注:「セマシ」のようにも見えるが、国書刊行会本の訓点に従った。]。人間の能く躋攀する所に非ざるなり。

 山僧善心、曰く、

「貧道、山中に住すること、凡そ十稔、頗る、山の窈窕を諳ず。彼の『大女』に陟る既已(すで)に[やぶちゃん注:「ニ」は「既」にしか送られていないが、二字で読んだ。国書刊行会本には「已」はない。]幾囘なるに、人間より瞻望する所の者に非ず。形勢、都て異なり、是に於いて、指點、諸峰を盡すに、似る所の者、有ること罔(な)し。杳然、終に其の地を得ず。故に、余、曾て臆斷して、『「大女」・「隱女」、蓋し、別に二峰[やぶちゃん注:「二峰とし、」がよいか。]。「大女」は、皆、登るべし。其の「隱女」なる者、惟だ之れを望むべし。求むるときは、則ち、隱匿して臻るべからず。古名、空しからず。』」。[やぶちゃん注:最後は「と」が内外に欲しい。]

 他して[やぶちゃん注:ママ。]登る者も、言ふこと、復亦、此くのごとし。奈(いか)んぞ、其れ、神なりや。

 或る人、曰く、

「盖し、之れ、有らん。曾て古紀を讀むに、夫(か)の蓬壺を求むる者、之れを遠望すれば、雲のごとく、巍然として海上に標す。乃ち、之れ近ければ、則ち、沒して所在を失す。其れ、人に非ざるなば[やぶちゃん注:国書刊行会本は『非れば』。]則ち、日夜、之れを粉碎すと雖も、敢へて臻ぶ[やぶちゃん注:送り仮名は「フ」。「およぶ」と訓じてかく振った。]能はず。我が

日本、亦、斯くのごとき者の有り。怪ならずんば[やぶちゃん注:送り仮名なし。後の対句の送り仮名に合わせた。]、則ち、神、神ならずんば、卽ち、怪。是れ、此の書の開卷第一。と爲しせしむ者か。

[やぶちゃん注:最後は「所」に送りがないので、使役でとった。以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 山僧善心は滑稽の名「梅石」、加州大聖寺の人、良家吉崎屋の族。破產佛門に肆す[やぶちゃん注:「しす」で「連なった」の意で採るが、写本筆者の「歸」の誤判読の可能性が高い。]。越前、平泉寺に入る。兼ねて之[やぶちゃん注:「この」と訓じておく。「ス」と送り仮名するが、それでは読めない。]白の山上、室(むろ)堂に住す。因みに、善心、曰く、「別山の社中、積雪の門、常に嵐有り。且つ一日、赤蛇を見る。長さ二尺强(あま)りなり。火の如し[やぶちゃん注:国書刊行会本では『色如ㇾ火』。]。亦、鵜鳥、有り。人聲を聞きて、羽毛を脫す。道者、拾ひ得て、守と爲す。

   *

 以下、底本本文に即して語注する。

「白山」石川県と岐阜県の県境(石川県白山市及び岐阜県大野郡白川村)に聳える活火山(グーグル・マップ・データ)。両白(りょうはく)山地の中心を成す。最高峰の御前峰(ごぜんがみね:標高二千七百二メートル)・大汝峰(おおなんじがみね:二千六百八十四メートル)剣ヶ峰(二千六百七十七メートル)を中心とし、「白山」はその総称である。南方の別山と三ノ峰を加え、白山五峰と称されることもある。山頂部に千蛇ヶ池、翠ヶ池などの火口湖があり、南には溶岩流が形成した弥陀ヶ原がある。周囲には石川県・福井県・岐阜県の 三県に亙って大日ヶ岳・経ヶ岳などの古い火山群と、同時代に噴出した大日山・戸室山などがあり、実はこれら白山火山帯と呼ばれる火山形成の最後に白山が誕生したとされている。奈良時代の僧泰澄がここを宗教道場として開山したと伝えられ、富士山・立山とともに山岳霊場として古くから知られ。加賀・越前・美濃からの参詣道が開かれ、参拝者を集めてきた。「越の白山(しらやま)」として詩歌にも登場する。但し、本篇の表題のみに関しては、本書の各章全部が漢字四字で示されていることから、「はくさんれいみやう」と音読みしておくべきである。

「鍾靈」(しょうれい)「鍾」は「集める」の意があり、越の国のあらゆる神霊の集まる霊山の意であろう。私は当初「鎭」の誤記か誤読ではないかと思ったが、「鎭靈」とするテクストはなかった。しかし、漢文体の二種の「鐘」では意味が通じない。

「雪華天に聳え」雪を被った複数の峰が花弁のような形を成して聳えという謂いであろう。

「標」(ひょう)「す」は、複数の峰がそれぞれ目印となって仰がれることを謂うのであろう。

「大女(おほなんぢ)」(おおなんじ)及びその異名「隱女(をんなんぢ)」(おんなんじ)という山名の読み方は、本篇を取り上げて解説されてある千葉徳爾氏の論文『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』PDF)での読みに従って、それを歴史的仮名遣に直したものである。同論文では、その中で、一部を除いて、本篇の主要な箇所を現代語でしかもわかりやすく訳してある。必見。

「崚嶒」(りょうそう)山が高くしかも重なること。

「百里」誇張表現。両白山地は長く見積もっても百キロメートルほどしかない。

「嶙峋」(りんじゅん)山が嶮しく聳え立つさま。

「雲車象輿」(うんしゃぞうよ)これは山稜に発生する大きな雲を神霊が載る車に譬え、また、山の「象車」(しょうしゃ)と謂って、中国で王者の徳沢に応じて出現するという山の精の載る車(輿)を、やはり雲に擬えたもの。

「薄(せま)り」諸本の訓読に従った。「肉薄」のそれである。

「躋攀(せいはん)」攀(よ)じ登ること。登攀。

「善心」僧の法名であるが、詳細事績不詳。資料なし。

「貧道(ひんだう)」貧弱にして愚昧な道者(修行者)である拙僧。僧善心の自己卑称。

「稔(ねん)」「年」に同じい。

「窈窕」(ようちょう)山水自然の持つ奥深いさまを指す。

「瞻望」(せんぼう)遠く見渡すこと。

「指點」指し示すこと。

「諸峯を𤲿(ゑが)くに似たるもの有るなし」「盡」と「畫」の異体字「𤲿」は崩れていると判読は困難だ。漢文原体の「盡」では「指點、諸峰を盡すに、似る所の者、有ること罔(な)し」で、寧ろその訓読の方が腑に落ちる気がする。即ち、「一つ一つの峰を全て指さして確認してみるのだが、一つとしてそれ以前に見たのと似たような峰がないのである」の謂いである。これはメタモルフォーゼする神霊の峰のシンボライズであろう。但し、「𤲿(ゑが)く」を心内に「思い描く」(そして記憶する)の意で採れば、同じ意味で理解は出来る。

なお、千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』では、この辺りを(失礼乍ら、原文に必ずしも忠実な訳ではない)『山麓で望んだ光景と大汝頂上から眺めるのとは、山のようすがまったく異なってしまう』とある。当初、私もそうとったのだが、山麓と頂上近くでは様子が全く違うというのは当然のことであって、しかもそれでは、後の「終に其地を得ず」が今一つ明確に理解できないのである。

「杳然」(ようぜん)遙かに遠いさま。また、深く幽かなさま。

「終に其地を得ず」ついさっき見た眼前に峰でさえ、自分は動いていないのに違った峰と認識されるのであるから、遂にそれぞれの一峰の物理的存在を、自身、捉えることが出来ないと言っているのであろう。そう解釈して初めて以下の善心の言う「大女」峰とその異名と思っていた「隱女」峰は「蓋し別に二峰」なのであると臆断したという述懐の意味が腑に落ちてくるのである。以下から、「大汝が峰」はその場所が判る、しかし、同じはずの「隠女(おんなんじ)ヶ峰」の峰のある地は遂に判らないという意味でもよい。よいが、ここまでの文脈中では、そのように「隱女」が峰限定的に述懐していないのも事実である。千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』では、実はこの難解な部分を初めから解消するために、実は『最高峯は大汝と呼ばれます。また、その半腹を隠汝(おなんじ)とい』うとされているのである。私の初回、「大女」のピークがあり、そこに至る中腹に「隱女」のピークがあると読もうとした。しかし、それではそこでのその書き方が微妙に変だし、後の「別に二峰也」と、これまた微妙に齟齬するように感じて最初から読解をやり直した経緯があるので、やはり千葉氏の解釈には従えないのである。

「大女は皆登るべし」大汝が峰は、皆、誰もが登ることが出来る。

「臻(いた)る」「臻」は「至る。届く。及ぶ。来たる」などの意がある。

「古名も空しからず」この場合、空しくないのは「隱」の字を含む「隱女」の方であろう。しかし、それが古名である確証はない。また、「をんなんぢ」(隠女)が元でそれから「おほなんぢ」(大汝)へ転訛する可能性はこれ、否定も出来ない。寧ろ、あり得そうでさえある。

「或は曰く」ある人がこの不思議な現象について次のようなことを言っている、という挿入である。

「蓋し有ㇾ之(これあらん)」思うに、そのような不思議なことはあってもおかしくはないであろう。

「古記」古いある記録。

「蓬壺」(ほうこ)は古代中国で東方海上に浮遊しているとされた仙境蓬莱山の異名。

「巍然(ぎぜん)」山などが高く聳え立っているさま。また、ぬきん出て偉大なさま。

「沒失」(もっしつ)」見失うこと。

「其人に非ざれば」この「其(そ)の、人(ひと)に非(あら)ざれば」と読んで、ここは『「其の」は特定の資格、仙界に入ることが出来る超能力を持った「人」でなければ』の謂いで採る。

「粉碎」「粉骨碎身」の略。敢へて臻ること能はず」。

「ならし」連語で断定の助動詞「なり」に推量の助動詞「らし」の付いた「なるらし」の転じたものであるが、近世以後、推量の意味が減じて、単に断定を避けた婉曲的表現として用いられたものである。

「滑稽名」ここは俳号か狂名であろう。筆者は俳諧師であるから、その縁がこの僧とはあった可能性が高い確率で想起出来る。

「梅石」法名と同じく不詳。資料なし。

「大聖寺」石川県江沼郡にあった大聖寺町(だいしょうじまち)。錦城山に白山寺(廃仏毀釈により廃寺)末寺である白山五院の一つ大聖寺(本来の寺は現存しない)があったことに由来する。この付近(グーグル・マップ・データ。白山を含めて示した)。

「食家」原漢文の「富家」の誤判読であろう。

「平泉寺」福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。ここに記された中で、唯一私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。原型の筆者麦雀の生没年が未詳であるが、諸条件から考えると、この幕府の禅定道裁定の寛保三年というのはちょっと微妙である。本書完成時はまず、その後であるから問題ないが、原著者のそれだとすると、この裁定以前であった可能性が高いように思われる。

「室堂」修験者や行脚僧が宿泊したり、祈禱を行ったりする堂。白山のそれは現在の白山室堂ビジター・センター(グーグル・マップ・データ)にあった。標高約二千四百五十メートル。

「別山の社」麓の本社ではなく、別に山上に設けた社。この場合、善心は平泉寺で修行しているから、平泉寺が設けた祠(やしろ:神仏習合期で、しかもここは修験道とも濃密に絡んでいるので何らおかしくない)のそれであろう。

「積雪の門」社殿の門の固有名詞か。白山は冬季はがっちり雪に埋もれるから、この名はしっくりとくるようには思う。

「山風」思うに、高高度で風が常時あるのは当たり前に過ぎるから、ここは原漢文の「嵐」(強風・烈風)の一字を分解してしまった誤判読であろう

「鵜鳥(うのとり)」高高度の白山山頂にウ(まずは内陸にもいるカツオドリ目 ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo)がいるはずがない。千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』で、『鵜に似た鳥』の謂いで『雷鳥』(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta )『のこと』であることが判った。であれば、腑に落ちる。

「道者」道心者。]

2019/08/24

諸国因果物語 巻之六 正直の人をそねみてむくひし事 / 諸国因果物語~電子化注完遂

 

    正直の人をそねみてむくひし事

Tenngu



[やぶちゃん注:本篇は底本の十九丁の裏(挿絵のみ)と二十丁の表(本文)が脱落しているため、そこは「ゆまに書房」版を参考にした。]

 丹後宮津の町に善藏といふ男、極めて正直・むよくのもの也。

[やぶちゃん注:「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の、宮津市街(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 人の事といへば、足手(あして)を空(そら)にして取もち、何とぞ首尾させたく、世話をやきて、やまず、吉事にも、あしき事にも、賴(たのま)れたる事を麁末(そまつ)にせず、夜を日についで、心にかけ、請(せい)にいれて、肝煎けるまゝに、てうほうの事におもひて、人もまた、おろそかにもせずありけれども、生れ付(つき)て貧なる事、我(われ)口ひとつさへ、心やすくはあらざりけるを、誰(たれ)々も笑止なることにおもひける。

 ある時、宮津の町にて、何がしといはるゝ冨貴(ふうき)の人、立願(りうぐはん)の事ありて成相(なりあひ)に七日こもりけるに、

[やぶちゃん注:「成相」天橋立を望む京都府宮津市成相寺にある、古来からの山岳信仰の修験場であった真言宗成相山(なりあいざん)成相寺(なりあいじ)。慶雲元(七〇四)年に文武天皇の勅願寺として真応が創建したとされる古刹。本尊は聖観世音菩薩。公式サイトはこちら。]

「伽(とぎ)のため、其方も、來りて、通夜(つや)したまふまじや。此つゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、何とぞ、[やぶちゃん注:以下、「ゆまに書房」版を参考に今までの仕儀で手を加えた。]其方も、身にとりて仕合(しあはせ)するや、この願(ぐはん)をもたて給へかし。」

と、すゝめられ、善藏も大に悅び、

「我も、さこそ常々に願ひつる事なり。さらば、御供申べし。」

とて、打(うち)つれ、成相にこもりつゝ、一心に何やらん、ふしおがみ、ふしおがみ、たゞ一度(ど)、祈る体(てい)なりしが、そのゝちは、又、拜むさまも、そこそこに見えて、此人の世說(せわ)[やぶちゃん注:ママ。]をやきつゝ、夜をあかしけるに、七日に滿けれども、すゝめつる人は、何の御示現(じげん)もなければ、

『又、七日、こもらん。』

と思ひて、善藏をさそはせけるに、

「最早、此方は御利生(りしやう)ありて、名譽(めいよ)なる、まじなひの法を覚えたり。『是(これ)にて汝が一代は安樂にくらすべし』との瑞夢ありて、しかも、ちいさき劔(つるぎ)一ふりを得たれば、また、外にねがふ事、なし。いまよりしては、隙(ひま)もなく候へば、餘(よ)の人をめしつれ給へ。」

と、返事しけるを、

『何が、示現あるべき。近ごろ、卒尓(そつじ)なる事にこそ。』

[やぶちゃん注:「卒尓」「卒爾」「率爾」に同じ。ここは「無礼なこと」で、掌を返したようにけんもほろろに断ったことを、そう感じて不満を言ったもの。]

と、おもへど、つねに、たはぶれ事、いはぬ人なれば、

『もしや。さもある事もこそあれ。』

と思ひ[やぶちゃん注:ここから本来の「霞亭文庫」に戻る。]ゐたるに、いつとなく、世間にひろく沙汰ありて、

「善藏こそ、ふしぎなるまじなひを覚えたれ。我も此まじなひにて、つぶれたる目を、二たび、あきたれ。」

と悅び、彼(かれ)も、

「此ほど、呪(まじなひ)を賴(たのみ)て、十死一生のやまひを、本腹(ほんぷく)したり。」

と、もてはやしける程に、三、四ケ月の内に、はや、よほど人の餘勢(よせい)ありて、時行(はやる)事、おびたゞしかりければ、一年の程に、大ぶんの德(とく)付(つき)て、下人ども、多くめしつかひ、家居(いゑゐ[やぶちゃん注:ママ。])なども、おびたゞしく、冨貴しけるを、おなじ邊(ほとり)に住(すみ)ける忠左衞門といふ男、うらやみ思ひけるまゝ、何となく此善藏に取いり、懇望して、

「我も、此まじなひの弟子になりつゝ、冨貴せん。」

と願ひしを、依怙(ゑこ[やぶちゃん注:ママ。])なき心から、いとやすく請(うけ)あひて、悉(ことごとく)おしへけるに、忠左衞門、悅びいさみて、ひた[やぶちゃん注:「行ふ」にかかり、「いちずに・ひたすら」の意。]、此まじなひを善藏と立ならびて行ふに、一さい、其しるしなければ、度々、行(ゆき)て、

「もしや。大事(だいじ)を穩して、傳へられざるにや。」

と、うらみかこちて習へども、善藏は、

「此外に、さらさら、奧意(おくい)をのこす事、なし。」

と、大誓文(だいせいもん)を立て[やぶちゃん注:「たてて」。]いへども、有無に[やぶちゃん注:全く。すっかり。]此まじなひのしるしなきをいきどをりて[やぶちゃん注:ママ。]、ひそかに善藏が寢間にしのび入り、彼(かの)、觀音より夢想に得たりし劔(けん)をぬすみ出し、是にて、人をまじなひしに、却(かへつ)て、まじなふ程のもの、本腹せず、あまつさへ、輕(かろ)き病(やまひ)は重く、腫物(しゆもつ)は腐(くさり)ひろがりける程に、いよいよ、まじなひをたのむものなければ、

「今は、善藏こそ敵(かたき)なれ。此とし比(ごろ)、懇望して、此事、習(ならは)んために、下人同前につかはれつる恩のほども思はず、『そらせいもん』を立て、我に此いつはりをおしへしは、堪忍ならず。」

[やぶちゃん注:「そらせいもん」「空誓文」ここは中身のない無効化の似非の呪(まじな)いを指す。]

と、夜ふけ、人しづまりてより、ひそかに刄(は)物をふところにさし、善藏が方(かた)へと行けるに、おもひもよらず、後(うしろ)より聲をかけて、いふやう、

「……心ばせ――直(すなほ)なら――蓄藏なればこそ――かゝる大事を傳へたるに……おのが心ばせ――よこしまにて――まことなき心から――きかぬまじなひをかへり見ずして……善藏を殺さんとや……あれ――引さいて捨よ。」

と、いふか、とおもへば、我ながら、風にふかるゝ木(こ)の葉のごとく、

『ふはふは、中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])にあがるよ。』

と、おぼへしが、やゝしばしありて、心づきけるまゝに、目(め)をひらきて、見まはすに、たしかに、丹波の國なる御嶽山(みたけさん)のほとりと覚えて、數(す)十丈ばかりもあらんとおもふ杉の木ずゑに、帶のすこし引かゝりたるにつながれて、谷のかたへ、さかさまにぞ、かゝりける。

[やぶちゃん注:「丹波の國なる御嶽山」兵庫県丹波篠山市にある標高七百九十三メートルの「御嶽(みたけ)」。ウィキの「御嶽(兵庫県)」によれば、『丹波篠山市の最高峰、多紀連山の主峰で』、「三嶽」『とも表記する』。『御嶽は小金ヶ嶽』(七百二十六メートル)・西ヶ嶽(七百二十七メートル)の『三山からなる』。『石室のある東峰、三角点のある西峰からなる』。『多紀連山は鎌倉時代から室町時代にかけては、丹波修験道場の中心地として栄え、御嶽はその中心であった。現在でも御嶽山頂から』六百メートル『離れたところに』、『当時の修験道の拠点であった大岳寺の跡や、東の峰には役行者を祀った石室が残されている。最盛期には大岳寺のほか、数ヶ所に堂が建ち、東の小金ヶ嶽の頂上には蔵王堂、その南側直下には福泉寺ほか数々の寺院群や里坊なども存在した』が、『丹波修験道は室町時代の文明一四(一四八二)年に、『大峰山に代表される大和修験道との争いに敗れ』、『主峰御嶽の南側直下の大岳寺など』が『焼き払われ』てしまった。]

 今は、中々、おもひし事もかなしく、人を恨(うらむ)氣もうせて、

『最後の時も、いまぞ。』

と、大ごゑを上げて、一心に念仏を申つゝ、たゞ、死のいたるを待(まつ)に、はるかむかふ[やぶちゃん注:ママ。]の山より、聲ありて、

「……その者……やつてのけよ――やつてのけよ……」

[やぶちゃん注:「やつてのけよ」は今の「遣って退けよ」であるが、ここは念仏が如何にも厭で五月蠅いから、「そ奴をそこからどこぞ遠くへ投げやって除(の)けろ!」と言っているのである。]

と、いひしを、我(わが)かりたる杉の下(もと)に音(こゑ)して、

「――よし――今は惡念も有(ある)まじ――念仏を申がやかましきに――歸してとらすべし――」

と、いふやいなや、此杉をとらへて、ゆする事、おびたゞし。

『さてこそ、今の内に、いかなる谷、いかなる岩角(いはかど)にあたりてか、みぢんになるべき。』

と、かなしくて、いよいよ、高聲(かうしやう)に念仏したりしに、あやまたず、

「ぶい。」[やぶちゃん注:底本のママの「ふい」でもよい。]

と、はなれて、はるかなる谷に落(おつ)る、と、おもへば、都の北山に聞へたる「僧正が谷」に立(たち)すくみて居たりしを、貴舩(きふね)の山人(やまびと)ども、見つけて、やうやうと、看病し、正氣になりてより、二たび、國に歸る事を得たりとぞ。

[やぶちゃん注:挿絵(右下に羽団扇を持った烏天狗、左上に天狗)で判る通り、善蔵に呪文を伝えたのは、魔道をテリトリーとする天狗であったのであり、さればこそ念仏を嫌うのである。]

 

諸國因果物語卷之六終

[やぶちゃん注:「僧正が谷」京都市左京区の北西部、鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷。僧正ガ谷不動堂(京都府京都市左京区鞍馬本町)があり、牛若丸が武芸を修業したと伝えられる場所として知られる。珍しく京嫌いの私も歩いたことがある。

 以下、跋。跋後の鷺水の署名は底本では下二字上げインデント。]

 

 近代諸國因果物語六卷は、さきだちて梓(あづさ)に入し[やぶちゃん注:「いれし」。]百物語の撰次後編(せんじこうへん)なり。猶、此續(つゞき)ありて、都合十八卷を全部とし、世と共に、是をもてあそび、語り傳へ、聞(きゝ)およぼし、兒女・童蒙の目(め)をよろこばしめ、且は覆轍(ふくてつ)の戒(いましめ)となすの助(たすけ)ともなれとおもふ心ざし、あなりといへども、筆、いとまなく、日月(ひつき)、しばらくも住(とゞま)る事なきに、いちはやく年も暮れ、後集(こうしう[やぶちゃん注:ママ。])、いまだ、功おはらざる所あるが故に、今、猶、桜がもとに、花を催して、ひそめり。今、我、梅園(うめぞの)の梅の榮へを羨(うらやみ)がほに、眉(まゆ)ごもる柳の糸永(なが)き春のうちには、此後編もかならず、といひて、やみぬ。

               白梅園鷺水

[やぶちゃん注:「近代諸國因果物語」「近代」はママ。

「百物語」既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している同じ青木鷺水の怪談集「御伽百物語」(六巻)のこと。本作の前年の宝永三(一七〇六)年にやはり江戸で開版したもの。

「撰次」は「選んで順序立てること」。

「覆轍」「ひっくり返った車の轍(わだち)」の意で、前の車が転倒した跡。転じて、「前人の失敗・失敗の前例」の意。

「花を催して」花を咲かせて。

「眉(まゆ)ごもる柳の糸」柳の細いえしなやかな枝葉を「柳眉」「柳の糸」と形容する。

 以下、広告と奥附。字のポイント違いや字位置は底本通りではない。現物はここ。「近代」は底本ではポイント落ちで、右から左に横書である。板元と書肆の下は右から左に「板行」とあるものを再現したもの。冒頭注で述べた通り、残念なことに、「近代 芭蕉翁諸國物語」は未刊に終わった。]

 

近代 芭蕉翁諸國物語   全部六卷

     近日出來申候

 

  寶永四年三月吉日

        江戸日本橋南一町目

           出雲寺四良兵衞 板

   書肆   京寺町松原下

           菱屋  治兵衞 行

2019/08/23

諸国因果物語 巻之六 犬密夫を殺す事

 

     犬(いぬ)密夫(まおとこ)を殺す事

 讚州高松の舩頭(せんどう)勘太夫(かんだゆう[やぶちゃん注:ママ。])といふ者、犬を、殊の外、寵愛して、寢起(ねをき[やぶちゃん注:ママ。])にも撫(なで)さすり、舩出(ふなで)になれば、共に舩(ふね)にのせて、大坂に來り行(ゆく)にも、歸るにも、

「ひた。」

と、犬をともなひて、はなさず。

 名を「素助」とぞいひける。

[やぶちゃん注:「素助」後の本文で「しろすけ」と読みを振る。]

 其内にめしつかひける太七といふ下人、勘太夫が女房と密通して、留守のあいだには、ひとへに、亭主のごとく、物事をさばきける事、二年ばかりにもなりぬ。

 過(すぎ)し元祿の午(むま)[やぶちゃん注:元禄三年庚午(かのえうま)。一六九〇年。]の春は、此事あらはるべき端(はし)にや、女房をはらませけるに、さまざまと藥をのませ、針をさせなどして、此子を水になさんと、もがきけれども、宿業のつもりにや、一切、おりる事、なし。

 とかくするほどに、勘太夫も、道中つゝがなく舩出して、

「四、五日が内には高松に歸る。」

と、さきだちて便宜(びんぎ)[やぶちゃん注:書信。]せしに、いよいよの氣づかひ多く、とりどりなるしあん、さだめがたく、太七と女房と、打よりては、

「先、此事をいかゞせまし。」

とぞいひける。

 されども、替りたる分別も出ず、日は、せんぐりに[やぶちゃん注:ますます。]近よるにつきて、所詮、いたわしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひながらも、

「いづれの道とても、命ありては、後のなん、のがれがたし。そのほうも假そめながら、今までのなじみなれば、無下に憎しとも思ひ給ふまじとおもへども、勘太夫といふ者を安穩(あんおん)に置(おき)ては日來(ひごろ)のちなみ、此たびにあらはれ、我のみにあらず、其方まで、いかなるうきめにか逢(あひ)給らんもしらず。我ふたり、さしちがへたりとも、此惡名、おのづから隱(かく)れはあらじとおもふ也。何とぞ、勘太夫を殺し、おもふまゝに夫婦となるべき思案には付給ふまじや。」

と、いひけるに、女房も心よげに打わらひ、

「それまでも、我をうたがひ、遠慮したまふこそ、うたてけれ。我にふたごゝろなき證據には、今にも、勘太夫、下りつきたまはゞ、手にかけて殺しこそすべけれ。はやく、その手だてを分別したまへ。」

といふ。

 太七も安堵して、

「しからば、勘太夫下りつきたまはゞ、いついつよりも、心よくもてなし、むつまじうあいしらひて、食(めし)をもすゝめ給へ。いつも酒を多く吞(のむ)なれば、おもふさま醉(ゑひ)のませて、心をやすめ給はゞ、例のごとく、膳にすはりたるまゝ、醉の來(く)るにしたがひて、ふらふらと眠るべし。其ひまを窺ひ、我、物かげより、半弓をもつて只中(たゞなか)を射ぬきて殺べし。かまへて、色(いろ)をさとられ給ふな。」

と、くれぐれ、いひかためて、勘太夫を待けるに、かくともしらず、勘太夫は何ごゝろなく舩に乘(のり)つゝ、高松ちかくまで漕(こぎ)わたりけるに、ある夜の夢ごゝろ、

「舟玉(ふなだま)。」

と名乘(なのり)て、枕がみに立(たち)より、勘太夫が顏を、

「つくづく。」

と、ながめ、

「……汝――つるぎの中にあり――身を動かす事――なかれ――舟は一寸を損じて――潮(うしほ)なれども――たのしみは――爰(ここ)にあるぞ……」

[やぶちゃん注:特異的にリーダとダッシュを用いた。]

と、

『くりかへし、くりかへし、のたまふよ。』

と思ふに、「素助(しろすけ)」、しきりに吼(ほえ)たちて、いがみけるに、目、さめぬ。

 あまり、心にかゝりしかば、舩をあがるより、先(まづ)、山ぶしのかたに行(ゆき)て、彼(かの)夢の事を判じさせけるに、山ふしの云(いふ)やう、

「是は。もつての外、身の大事にて、命の終る事、こよひを過(すぐ)さず。」

と、占ひしを、勘太夫、また詞(ことば)をかへして、

「其難は、家にあるか、外にあるか。」

と、いふ時、

「なるほど。内にあり。陰陽のめぐりの違(たが)ひたるゆへに、冬の氣すゝみて、次に秋を得たるやうの卦(け)なり。」

と、かたりぬ。

「さては。我(わが)留守(るす)の内(うち)に、あやしき者、出來(いでき)て、家をほろぼし、我を殺さんとする也。」

と、心に思案をきはめ、何となく歸りけるに、素助(しろすけ)、

「ひた。」

と、勘太夫が裾をくはへて、引とゞめ、内へいれず。

 心には、

『さてこそ。』

と、おもひながら、再三、もぎはなして入けるに、女房、いついつより、機嫌よく、心むかひ、しみじみとなつかしげに、足の湯、とり、飯(めし)なども、とりいそぎてすゑけれども、勘太夫は、

「何とやらん、けふは取わき、心あしく、時々、目まひなどもする。」

よし、僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])て、喰(くは)ず、酒も、

「氣のとりのぼりたるには惡敷(あしき)。」

とて、吞(のま)ず、旅のまゝにて、臺所に手(て)まくら、狸ねいりして、窺ひ居たるに、犬、また、庭につい居て、動かず。

 くひ物をくわすれども[やぶちゃん注:ママ。]、見むきもせず、たゞ太七を見とゞめて、目をはなさず。

 太七は、

『勘太夫、寢いりたり。』

と、おもひて、身づくろひ仕(し)て、半弓を取出(とりいだ)し、打(うち)つかふ時、勘太夫、目を

「くわつ。」

と、見ひらき、

「素助(しろすけ)。」

と、呼(よび)かけければ、此聲を聞(きく)とひとしく、飛かゝりて、太七が陰囊(きん)にくらひ付けるほどに、

「あつ。」

と、いひて仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ所を、やがて、咽(のど)ふゑに喰(くひ)かゝり、なんなく、太七を仕(し)とめたり。

 女房、今は、あらはれたると思ひ、井戶へ飛こまんとしたる所を、勘太夫、うしろより抱とめ、色々とせんぎしけるにぞ、不義の密通、あらはれて、終に殺さるべかりしを、近所の衆、あつかひしかば、なくなく、尼になして、追(おひ)はらひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「しろすけ! ようやったぞ!」――]

諸国因果物語 巻之六 貪欲のもの人魚にむまるゝ事

 

     貪欲(とんよく)のもの人魚(にんぎよ)にむまるゝ事

Ningyo



 出羽の國百合の里、ぬけ戶口に、橫山文左衞門といふものあり。

[やぶちゃん注:秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)東由利舘合(ひがしゆりたてあい)板戸口(いたとぐち)・東由利舘合岩井戸口(いいわとぐち)の地名があり、東由利舘合はここ(グーグル・マップ・データ)。但し、後に出る「關濱」は同市内には現在見当たらない。]

 宝永二年の比、周波和尙とかやいふ僧、比國に來り給ふ事ありけるに、此文左衞門、諸事を世話にし、その邊(へん)近鄕のものへ勸(すゝめ)、

「おのおの血脈(けちみやく)をうけ給へ。」

と、いひわたりけるまゝ、文左衞門をたのみて、我も我もと、心ざしをはこび、布施を持參し、血脈をうくる事にぞありける。

[やぶちゃん注:「宝永二年」一七〇五年。

「周波和尙」不詳。

「血脈」この場合は、在家(ざいけ)の受戒者に仏法相承の証拠として与える法嗣の系譜図。]

 あるひは、鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありけるを、ことごとく聊留(かくりう)し、周波和尙へは、わづかに鳥目(てうもく)百文づゝに積りて渡しけるば、欲の程、終にかくれなく、かたはし、ひそひそと取沙汰あしくなりて、

「此文左衞門は欲こそ多けれ、佛法のすゝめを請(うけ)んため、僧にたてまつりし物をおさへて、我ものにしける科(とが)輕からねば、此世こそ榮花はするとも、定(さだめ)て後生(ごしやう)にはぢごくのたねにこそあらめ。」

などゝ、女・わらべまで、陰口に爪(つめ)はぢきして、そしり、おもひけるを、聞(きゝ)つゝも、

「何ほどのことかあるべき。見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もせぬ後生より、さしあたりての此世こそ案ずべけれ。日本の内、あらゆる神のやしろ、佛の寺につきそひ、此かげにて身を過るもの、いづれか欲をせぬもの有べき、たとへ、日本(につぽん)のためとて、大分(だいぶん)の金をうけとるとも、纔(わづか)、日に一盃の飯(めし)をたてまつりて、その外は身をやしなひ、命をつなぐたよりにする也。我も、まんざら、橫取したらばこそ初尾(はつお)は、みなみな、和尙にやりたれば、神佛をうりて過る者とおなじ事。我は出家の德を賣(うり)て隙(ひま)入たる手間賃(てまちん)を取たるなり。何時(なんどき)にても、かゝる人あらば、我、また、一まふけのたねにすべしとおもふ也。」

などゝ、口ひろく、いひのゝしり、何の氣もなき顏つき、いよいよ、村中にも疎(うと)み、にくみたりしに、その年の秋より、文左衞門、ふらふらと煩ひ付て、臥(ふし)たり。

[やぶちゃん注:「聊留(かくりう)」漢字表記はママ。「ゆまに書房」版は『柳留』と判読しているが、意味が解らぬので採らない。但し、「聊留」でも「かくりう」とは読めないし(読もうなら「れうりう」)、それらしい漢字を私は当てただけではある。より適切な判読(読み・意味も含めて)が出来るとならば、お教え願いたい。ここである(左頁二行目)。

「鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありける」「疋」は鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、百疋をもって一貫とした。本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であった。同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータが別にあるから、百五十両は最大一千百二十五万円相当となる。対して文左衛門が周波和尚に小出しに渡していた、「百文」は僅か千二百五十円から千六百七十五円相当となる。

「爪(つめ)はぢき」指弾。非難すること。

「初尾(はつお)」初穂(その年に最初に収穫した穀物などの農作物を神仏に差し出すこと。また、その代わりとする金銭)に同じ。]

 醫者をよびて見するに、何のわづらひともしれず。

 六脈は常にかはらずして、たゞおびたゞしき熱ありて、食物(くひもの)は、すこしも咽(のど)にいらず、たゞ、水をこのみけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、天目(てんもく)に汲てもち行(ゆく)に、井の水は吞(のま)ず、池の水のにごりたるに、鹽をさゝせては吞(のむ)事、日に、四、五斗ばかりなり。

[やぶちゃん注:「六脈」(ろくみゃく)は漢方で脈拍の六種の状態を指す。「浮」・「沈」・「数(さく)」・「遅」・「滑」・「渋」の総称。鍼灸ブログ「一鍼堂」の「東洋医学メモ【脈診】祖脈」に詳しいので参照されたい(調べて見たが、「渋脈」はリンク先の「濇脈(しょうみゃく)」と同じである)。]

「いかゞしたる事ぞ。」

と、妻子もかたはらをはなれず、祈禱をたのみ、佛事をなし、さまざまのことをすれども、終に本復(ほんぷく)なくて、霜月のすゑにいたりて、いよいよ煩ひおもくなり、あがき死(じに)にしけるを[やぶちゃん注:孰れかの「に」は或いは衍字かも知れない。]、隣鄕(りんがう)のものども、聞(きゝ)て、

「さこそあるべけれ。」

「佛罰(ぶつばち)なり。」

「なを、あきたらず。」

などゝつぶやきけるに、明(あく)る年の二日[やぶちゃん注:宝永三年一月二日。グレゴリオ暦一七〇六年二月十四日。]に、關濱(せきはま)といふ所の海より、あやしき魚を網にかけて引あげたり。

[やぶちゃん注:「なを、あきたらず。」「かく死んでも、まだ、その罰は充分とは言えねえな。」であろう。さればこそ、以下なのである。]

 則(すなはち)、本庄(ほんじやう)の御領分(れうぶん)也ければ、御吟味をうけゝるに、長さ六尺、橫二尺ある魚にて、頭ばかりは男の首、肩さきより肱(かいな)まで、なるほど、人にかはらず、背筋より腹尾さき迄、鱗(うろこ)ありて、鯉(こひ)のごとし。

[やぶちゃん注:「肱(かいな)」肩から肘(ひじ)までの二の腕。或いは、肩から手首までの腕全体。挿絵は鱗が生えているものの左右の上肢は人間のように着いている。本文も挿絵も、首から下はしっかり巨大な魚そのものであり、モデル事実があったとしてもそれは、所謂、中・大型の海生哺乳類の誤認である可能性は全くない。]

 背の鰭(ひれ)もとに、文字(もじ)のやうに黑きうろこありけるを、博學の人に見せ、これを、

「古文字(こもじ)・梵字(ぼんじ)などか。」

と、寫させてよませけるに、慥(たしか)に

「『橫山文左衞門』といふ書付(かきつけ)なり。」

と、よまれしにこそ、人、みな、舌をふるひておどろきけるとぞ。

[やぶちゃん注:人魚伝説は私のフリークな守備範囲なのであるが、このような因果応報によって人魚となるというのは、ちょっと聴いたためしがない。しかも、証拠の書付までその身に記されてあるというトンデモ・リアリズムは前代未聞の人魚奇譚である。

「本庄(ほんじやう)の御領分」冒頭に注した通り、ここが現在の由利本荘であるとして、ウィキの「由利本荘市」によれば、同『市中心部(旧・本荘市)は、出羽国が設置された』八『世紀から、交通の要衝として栄え、子吉川河口付近には、出羽国府の出先機関である「由理柵(ゆりのさく・ゆりのき)」が置かれた』。『源頼朝による奥州合戦ののちは由利氏が本領を安堵されていたが、和田合戦を期に大井氏が地頭として入部し、大井氏の霜月騒動連座による失脚後は北条氏が地頭となり』、『小早川氏が地頭代となったと考えられている。軍記物には応仁の乱のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した』。『関ヶ原の戦いのあと、由利地域は、最上氏が治めることになり、その家臣・本城満茂が、現在の由利本荘市尾崎に本荘城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった』。慶長一八(一六一三)年頃、『本城満茂が本城城を築き』、十『年間居城した後、元和』八(一六二二)年、『最上氏』は『改易によって退去した』。『その後』、一『年間』、『宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊され』、『その後、本荘城には常陸国から六郷氏が入部し』、二『万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田には、岩城氏が亀田城を築き』、二『万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により』、一『万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の』三『藩による統治が行われることとなった』とある。海浜であるから、そのままこれを六郷氏本荘藩藩領と考えるのが妥当であろう。事実に即すなら、第四代藩主六郷政晴の治世となる。先に示した東由利舘合からは石沢川が東流し、下って子吉川に合流し、子吉川は本荘市市街を抜けて、日本海に流れ込んでいるから、この「關濱」というのも、この子吉川河口の南北の砂浜海岸のどこかにあったと考えてよかろうかと思う。]

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