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2020/05/27

三州奇談續編卷之三 擧ㇾ頭猫兒 / 三州奇談續編卷之三~了

 

    擧ㇾ頭猫兒

 前條日久し、樹上空しく鳴りて、宮田吉郞兵衞舊宅には、今は番人付きて徒(いたづ)らに秋を送る。然るに兩三夜續けて屋根の上に一聲あり。大方百貫目ばかりの物を投げ付くる勢ひなり。家内の人躍り上りて恐れけれども、夜明け見れば何の事もなし。いかなる由緣を知ることもなし。

[やぶちゃん注:またまたまたまた前話の続編である。表題はよく判らぬ。「頭(かうべ)を擧(あ)ぐる猫の兒(こ)」或いは「頭を擧ぐれば、猫の兒か?」か? 内容とぴったりはこない変な題である。

「百貫目」三百七十五キログラム。]

 隣家に小森番助と云ふ者あり。宮田とは前々より入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じい。]にて、今も折節は訪(とぶ)らひ來りけるが、或時家内嘆きのあまり、娘おらんを中に取り卷きて、妻子集ひ座して泣き恨み、

「汝(なんぢ)がいらざることを父に進めて、『敵(かたき)を討ちてたべ』の、『命終る』のと云ひしより此事起りて、大勢の子ども詮方なく、世に出づべき期(き)も見えず。又邊りの人々へも御厄介を懸けて、何一つ云ふベき方なし。汝が口一つなり。さらば死にもする事か。其身は息災に居ながら、父を殺し主(あるじ)を殺して、何の役に立つことぞ」

とせぐりかけて打うらみけるに、おらんも返答なく、泣くより外に申譯もなし。

[やぶちゃん注:「せぐりかけて」「せぐり掛ける」は忙(せわ)しく詰め寄ること。]

 あやまり入りたる樣子なりしに、側に隣家の小森番助有合(ありあ)ひしが、恨みながら傍(かたはら)へ寄り見るに、此おらん小猫を抱き居る樣子なり。

「さてさてかく眞實(まこと)に泣入る中(なか)に、慰みごとするは沙汰の限(かぎり)」

と、灯など引寄せ能くよく見るに、小猫とは見えながら、能く見れは河原毛色にして、猫にあらずとも見ゆ。狐にてもあらんか、顏付細きやうにも見えし。

 番助

『何にしても引出だしておらんをしからん』

と思ひ、頓(やが)て袖をまくり、手を急に懷にさし込み捕へけるに、初めは何ぞ捕へたると思ひしが、忽ち減(へ)り失せて、乳(ち)の間、腹の皮をしかと摑みたるなり。

 外に迯げ出づべき所もなし。

 人々取卷きし中のことなりしに、更に別物(べつもの)も見えずなりにけり。

「おらんに付居(つきを)るものにやありけん。病(やまひ)の形(かたち)にや」

と見合ひたる人々不審止まず。

[やぶちゃん注:「付居る」「憑きをる」。憑依している。

「病の形にや」(憑き物ではなくて)罹患している心の病いが形となって外に現れたものか?]

 番助が「しか」と摑みしは相違なしとなり。

 其後おらん病重(おも)り、日を經て直らず、終に死にけり。

「此ものは益氣湯(えききたう)を用ひしことありし。其間は家療治なりし」

と長家の醫師橫井三柳の物語ありし。

[やぶちゃん注:「益氣湯」現在の補中益気湯(ほちゅうえっきとう)であろう。これは漢方処方に於いて「天下の名方」と呼ぶべき薬剤で、金の李東垣(とうえん 一一八〇年~一二五一年)が創方し、既に約七百五十年に亙る歴史があり、中国・日本に限らず幅広く応用され続けてきているものだそうである。詳しくは北里研究所東洋医学総合研究所の医史学研究部室長真柳誠氏の論文「補中益気湯の歴史」を読まれたい。「漢方のツムラ」の解説によれば、『生命活動の根源的なエネルギーである「気」が不足した「気虚」に用いられる薬です。「補中益気湯」の「中」は胃腸を指し、「益気」には「気」を増すという意味があります。胃腸の消化・吸収機能を整えて「気」を生み出し、病気に対する抵抗力を高める薬です。元気を補う漢方薬の代表的処方であることから、「医王湯(イオウトウ)」ともいわれます』。『脈もおなかの力も弱く、全身倦怠感や食欲不振などをともなう、さまざまな不調が処方の対象となります。気力がわかない、疲れやすいといった人から、胃腸虚弱、かぜ、寝汗など、また、病後・産後で体力が落ちているときや夏バテによる食欲不振にも使われます』とある。]

 されば、此首尾、何となく宮田陪臣の身として御直參(ごぢきさん)の歷々を斬り、國主の御用を缺(か)きて妨(さまたげ)をなし、國君の御憤(おんいきどほり)をむかへ奉ることを忘れ、猶又萬事案内のことなど、長家より後手(ごて)になりしことゞも種々憚りあれば、長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき。尤も三十日を經て、國君より

「夫(それ)には及ばざる」

よしの御使者ありて開門せられけり。

[やぶちゃん注:「陪臣」ここは家臣の家来。

「御直參」ここは藩主の直の家臣で、特に目を掛けられて領地や料米を受けいるものを限って言っている。

「後手」底本は『御手』であるが、意味が通らぬので「近世奇談全集」で特異的に訂した。この不首尾は前話に出た。

「長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき」事実。前話の私の最後の注の引用を参照。]

 然れども

「河原毛の馬の怪は其儘違(たが)はず、終に門を閉ぢさせし」

と人々申合へり。

[やぶちゃん注:間違えてはいけない。これは長連起が閉門処分を受けて退いたという意味ではない。最初の「長氏の東武」で連起の老臣が三つの禁制を語った際、彼は「河原毛の馬」の禁忌を犯すと、『河原毛の馬を求め給へば、御門を閉ぢられ候御仕落を引出すよし申し來り候』と言ったことを指しているのである。ここでは、門を閉じなくてならない大変な間違い禍いを引き起こす、と言っているのであって、具体的な「閉門」の処罰を主人から受ける、とは言っていないのである。「この度の宮田乱心の一件で長大隅守連起の家は、ほうれ、言に相違せず、河原毛の馬の怪異がために、遂に家の門を自ら閉じさせて謹慎されたではないか!」言っているのである。]

 

 長大隅守殿にも忌み思はれてやありけん。河原毛の馬は、越中の末なる博勞(ばくらう)にとらせて遣はされしとぞ。

 其後又馬の譽れありてや、金城へ牽きたりとも云ふ。

 されば此河原毛色の妖を引くこと、其家其節に依りて必ず怪をなすと聞えたり。

 是は其後の事にやあらん、似たるかはらげの一變あり。後條に記して餘意を扶(たす)く。

[やぶちゃん注:「末なる博勞」「末」は越中の果ての、身分の低い知れる博労(牛馬の仲買人)。

「其家」でもいいが、これは「長家」の判読の誤りか、誤写ではないかとちょっと疑う。

 以下は底本では全体が一時下げ。一行空けた。]

 

一說に田邊父子を葬る地は野田山なり。宮田を葬る地は六道林(ろくだうりん)なり。然るに氣相結びて、折々見ゆるよしを見たる人もあり。附たり、田中の門を閉ぢたる事等略ㇾ之[やぶちゃん注:「之れを略す」。]。

[やぶちゃん注:「野田山」既出既注であるが、再掲する。前田利家の墓のある金沢市野田町(のだまち)であろう。拡大すると「野田山」という呼称も見える(グーグル・マップ・データ、以下同じ)。

「六道林」「三州奇談卷之四 陰陽幻術」(おどろおどろしい名であるが、関係ない。リンク先でそれも書いてある)で既出既注であるが、再掲する。金沢市弥生公民館刊の弥生公民館新館十周年記念の文集「弥生の明日のために」(平成七(一九九五)年刊・PDF)の記載によれば、現在の金沢市弥生一丁目及びその北の野町三町目附近の旧呼称であることが判る。

「氣相結びて、折々見ゆるよし」上記の二箇所は北東・南西に二キロほどしか離れていない。或いはその間辺りで、不可解な発光現象などを見ることがある、とでも主張する者がいたらしい。

「田中」河原毛馬の購入を強く勧め、三禁を否定した家臣の「田中源五左衞門」(「田中源五右衞門」とも)のこと。

 本篇を以って「三州奇談續編卷之三」は終わっている。]

三州奇談續編卷之三 宮田の覺悟

 

    宮田の覺悟

 田邊忠左衞門と云ふ士あり。祿糧(ろくりやう)に四百石なりといへども當たる時の諸用此身に懸り、百萬石の御用方勤め居る士なり。組外の番頭(ばんがしら)なれども、格別御用方當時一身に引受けて勤め居(を)るなり。惣領をば忠藏と云ひ、二十四歲、忠勇共に備(そなは)りて學問に精を入れ、剱術に油斷なく、日々に物を勵む。二番目は女子(ぢよし)なり。三男は忠三郞と云ひ、十五歲、是又勤むるに心利きたる若者なり。狗(いぬ)を好きて愛せしが、或夕暮に、惣構(そうがまへ)の川端を犬を引きて來りしに、何處(いづこ)ともなく

「侍ちませい」

と呼懸くる者あり。

 其内犬猛りて聞かず。

 聲は慥に藪の内と聞きしかば、犬を放し聲を懸け、杖を打なぐりて、是を追ふに、古狐二疋飛出で川端を走る。

「此狐めならん」

と頻りに追ふに、犬彌々(いよいよ)猛りて追掛くれば、狐ははうはう迯げて、長(ちやう)の家の塀に飛上りて隱れ失せぬ。

「己(おの)れ重ねて迯(のが)すべきか」

と罵りて家に歸る。

[やぶちゃん注:「惣構」「総構え」は狭義には城郭の外郭或いはその囲まれた内部を言う語であるが、広義には城の他に城下町一帯全体をも含め、その外周を堀・石垣・土塁で囲い込んだ日本の城郭構造を特に指す。「総曲輪・総郭」(孰れも「そうぐるわ」と読む)とも称する。「金沢市文化スポーツ局文化財保護課」が作成した「金沢城惣構跡」の公式パンフレットがやや小さいがこちらで見られる。当該ページの解説に『金沢城には、内・外二十の惣構がつくられました。内惣構は二代藩主前田利長が高山右近に命じて慶長』四(一五九九)年『に造らせたといわれています。さらに慶長』十五『年には、三大藩主利常が家臣の篠原出羽守』『一孝(かずたか)に命じて外惣構を造らせました。堀の城側には土を盛り上げて土居を築き、竹、松、ケヤキなどを植えていました』。この「惣構の管理」は、『惣構肝煎(きもいり)・惣構橋番人などの』限定された独自の『町役人を配置して、堀にゴミを捨てること、土居を崩すこと、竹木を伐採することなどを禁じていました。北国街道出入口の枯木(かれき)橋と香林坊(こうりんぼう)橋、港へ通じる升形(ますがた)はとくに軍事・交通の要衝とされていました』とある。

「はうはう」「這う這うの體(てい)にて」の意。散々な目に遭って今にも這い出すようににやっとのことで逃げ出すさま。]

 かゝること兩三度もありしとや。跡に思ひ當ればふしぎなり。されば宮田吉郞兵衞と長の家中に身小姓組(こしやうぐみ)の者なり。一向宗にして堅律儀(かたりちぎ)千萬なる仁(ひと)なり。元來長家の臺所に勤めし故に、小料理も利きて、近付(ちかづき)の町中(まちうち)をも振舞(ふるまひ)の取持ち手傳(てつだひ)して、料理方も務め世を渡らるゝ故、人もその律儀を能く知り、多くは是に賴みけり。されど家貧しきが爲に、姊娘おらんといヘるを奉公に出す。十四歲の時、彼の番頭の田邊忠左衞門の許に在着(ありつ)く。

[やぶちゃん注:「小姓組」ここは警護方ほどの意。]

 

 三十日もや過ぎけん、或夏の暮、晚暑(ばんしよ)蒸して身も倦(うま)れ果つる夕つがた、荼色の木綿浴衣を持ちて居たりしが、洗濯して庭に干して忘れ置きける。

 爰に彼の忠左衞門三男忠三郞、夕暮過ぎて歸りしが、庭に出でさまよふ所に、彼の干し捨し單物(ひとへもの)を見付け、

「是は新參のおらんが忘れて干し置きし物」

と知りて、

『幸(さひはひ)におどして戯れ、是を與へん』

と思ひて、頭にあらぬ物を被(かぶ)り、身は黃茶の單物に包み、月影に隱れて庭の内に待ちけるに、おらんは此に心付かずして便所に行んとて立出でける所、忠三郞折よしと思ひ、遙に遠き庭の木陰より

「わつ」

というて飛付きけるに、おらんは

「つ」

と魂消(たまげ)てけるが、其まゝ死してけり[やぶちゃん注:気絶してしまった。]。

 爰に於て家内の人々大(おほき)に驚きて、色々と呼び起し、藥を與へ、

「水よ湯よ」

とさわぎけるに、暫くして心付きけれども、終(つひ)に氣もぬけ、聲おぼろげにて、

「彼のかはらげなるは何にてあるぞ」

と恐れける。

「其方が單物なり」

と出し見するといへども、

「是にはあらず、あのかはらげなるものが今も目に見ゆる」

とて、少し物狂ひの躰(てい)に見えけるが。翌日も猶心よからざりける程に、御斷り申し我が宿に歸りける。

[やぶちゃん注:おらんの単衣の浴衣は茶色であったが、忠三郎の被り物の色が黄茶色でこれこそ「河原毛色」なのである。]

 

 扨(さて)家内の人に對し、色々と田邊氏の勤めがたき事を歎き訴へ、

「早く暇(いとま)を取りてたべ」

と、父母へ乞ひにけるにぞ。

 父母も聞きとゞけて、人して暇もらひに遺しけるに、田邊屋敷は大に疑ひ、

「忰どもが少しおどしたりとて、根もなき事を申し立(たつ)にして暇を乞ふこと沙汰のかぎりなり。おらんに今一度出(いで)て奉公し、其うへ勤めがたき趣あらば、いかにも暇を遣すべし。此まゝ申來(まうしきた)らば、着替(きがへ)を押へて返すまじきぞ[やぶちゃん注:奉公に参った際に持ち込んだ衣類一式を押収して帰さぬぞ。]」

と怒りて返答に及びければ、其段々をおらんに語り聞かするに、おらんは氣分愈々重(おも)り、其中(そのうち)に

「こゝの厩(むまや)の間(ま)かと覺えて、かはらけ[やぶちゃん注:ママ。]色なる物めしたる神の來り給ひて告(つげ)の有りし」

とて、いよいよ田邊氏を恨み出し、父吉郞兵衞に告げて、

「最早我等は空しく相成申すべし。田邊ゆゑ果て申す事にて候へば、子の仇敵(かたき)なり。刀をさし給ふは何の爲(ため)ぞ。早く田邊の家へ切込み、撫切(なでぎり)にして其恨みを報じ給はねば、父とも思はれぬことに候ぞ」

と、かきくどき歎くこと日夜絕えず。

 初めは聞捨(ききすて)にもしたりしが、每度のことなれば、其中に宮田吉郞兵衞もふと心に止(や)むことを得ぬやうに思ひなして、或日終に心を決し、我が屋の品々賣代(うりしろ)なし、白銀(はくぎん)五枚を整へ、是を東末寺(ひがしまつじ)の御堂に持行(もてゆ)き、我が法名を永代經に付けて、其請取(うけとり)を腰に括(くく)り、終に覺悟を極(きは)めたり。安心了解(あんじんりやうげ)の發願(ほつぐわん)、切死(きりじに)の用に立ちしも又妙なり。

 其後衣服を改め、一家知音(ちいん)の人々に暇乞(いとまごひ)に出づる。其たち樣(ざま)夫(それ)とは爾(しか)と聞えねど、後に思ひ合せてけふの哀れを語りあふに、家々の請けこたへをかしきことどもありし。是又怪異のことにして、正氣なることにはあらず。

[やぶちゃん注:「白銀五枚」「白銀」は銀を直径約十センチほどの平たい楕円形に作って白紙に包んだもの。通用銀の三分(ぶ)に相当し、主に贈答などに用いた。一両は四分であるから、十五分は四両弱となる。

「東末寺」真宗大谷派金沢別院(通称「東別院」)のこと(グーグル・マップ・データ)。

「永代經」「永代讀經」の略で永代供養のこと。ここはそれを菩提寺に依頼する願い状のようである。

「安心了解」安心 (=信心)を領納解了するの意で、「確かな信心のもとに、阿弥陀如来の命を受け取って、その道理を理解してしっかりと身につけること」を指す。

「其たち樣夫とは爾と聞えねど」その暇乞いに立ち出でた宮田の様子は、実際、どのようなものであったかは、はっきりとは判らないものの。

「をかしきこと」理解不能な部分。]

 

 終に心を一定(いちぢやう)して、七月廿六日田邊氏の家へ切込まんとおもひ立ちて、道は法船寺町と云ふを過ぎ、所々にて田邊氏の家を尋ね問ひしこと數ヶ所なり。終に田邊の門に至り、折節田邊忠左衞門は役所より歸りて、大肌脫ぎて臥し居られ、惣領忠藏は屋根葺(やねふき)の手傳(てつだひ)して屋根の上にあり。三男忠三郞は瘧(おこり)を病み手を額(ぬか)にあて、次ぎの間にうつぶき居(ゐ)る。

 宮田吉郞兵衞式臺に於て大音揚げ、

「我は是れ長大隅守家來小姓組宮田吉郞兵衞なり。我が娘らん命期(めいご)今日(けふ)にあり。是を顧みざるのみならず、道具を押へ暇をくれず。是れ恨み死に死(じに)せしむるなり。子の敵(かたき)覺えあるべし。いざ立合ひて勝負あれ」

と罵れども、元來覺えなきことなれば、居合ひたる家來は迯げかくれ、二歲の小兒を抱きけろ乳母立出で、

「何の事ぞ」

と問ふ所を、宮田長き刀をすらりと拔き、乳母大いに恐れ迯入るを拂切(はらいぎり)に切りたるに、乳母の袖二つにきれて、小兒の片足へ少し切込む。

 乳母大いに肝を潰し、逸足(いちあし)出して迯込むを、續いて追懸け、唐紙[やぶちゃん注:襖(ふすま)。]を蹴(けり)はなして次へ通(とほ)れば、三男忠三郞は瘧に目まひ立ちかねながら、刀を取らんと這ひ寄る所を、拔きまふけたる刀なれば、躍り掛りて一打に切放すに、肩先よりひばらに懸けて打込む。忠三郞は二言(にごん)もなくあへなき最期なり。

 此音に驚き、忠左衞門奧の紙ぶすま引明けて出づる所を、吉郞兵衞又躍りかゝりて

「丁(てう)」

と切る。此疵片耳より後ろ喉(のど)へかけて深疵なり。

 忠左衞門飛び入りて刀の手を捕へ、左の手を右の手に支へて

「えいやえいや」

と押し合ふ。

 此時

「忠藏忠藏」

と呼はる聲、やうやう屋根へ聞えしとなり。

 忠藏驚き屋根より飛び下り、父が躰(てい)を見るに、敵を捕へ緣先きに兩方挑(いど)み合ふ。

 忠藏書院の鎗(やり)おつとり、吉郞兵衞が脇腹に

「すつぱ」

と突込(つきこ)みしかば、組みながら兩人共に緣より落つ。

 依りて

「忠藏にて候」

と聲懸けしかば、父は心安堵して

「がつくり」

と息絕ゆる。

 忠藏駈け寄りて呼び生(い)ける間(あひだ)に、吉郞兵衞起上り、鎗を取り拔き捨て、其樣怪しく四つ這ひに飛廻(とびまは)り、人をはねのけて門へ出でんとする所を、田邊の家子共(いへのこども)先づ門を固めて出(いだ)さず。故に庭を走り廻ること飛獸(とぶけもの)の如く、其家の男女を追立(おひた)つること度々(たびたび)なりしに、家來共階子(はしご)を取りて是を押へんとするに、拔けくゞり出づること四五度なりしが、法船寺町の商家俵屋某(ぼう)の背戶へも至りしことありしとぞ。

 忠藏は馳付けし一族共へ父を預け、終に追懸けて詰め寄せ、吉郞兵衞を一打に打倒し、乘懸つてとゞめをさす。

 吉郞兵衞

「無念無念」

とおめけども、

「不斷煩惱得涅槃、」

終に最後に及びける。

依りて田邊一門知音駈付けし者ども集り、先づ誰ならんと改め見るに、更に見馴れぬ者なり。入來(いりきた)りし時名乘りしを聞きし者もあれども、何と云ひしやらん慥(たしか)に聞きし者もなく、

「誰よ彼よ」

と云ふばかりなり。

 先づ父忠左衞門手疵を養ふに、深疵にして存命不定(ぞんめいふぢやう)なり。

 三男忠三郞は一刀に息絕えたり。

 二歲の小兒は疵纔(わづか)にして死に至らず。

 其外家内の者どもは、皆少々の手疵なり。或は自ら轉びて疵付きし者も多かりし。

 偖(さて)殘らず遠方の一門中(うち)も駈け付け、喧嘩追懸者(けんかおひかけもの)役の衆中も來會(らいくわい)して首尾を問ひ、國君[やぶちゃん注:第十代加賀藩主前田治脩(はるなが)。]よりも御使者立ち、手疵を尋ね、人參を下され、御懇意又冥加なき[やぶちゃん注:神仏の御加護が過ぎるかのように忝(かたじけな)い、あり難い。]に似たり。

 尤も深く忠左衞門を惜み給ひて、此討人(たうにん)を御吟味ありけるに、兎角知れず。時は晝八つ時[やぶちゃん注:午後二時。]過ぎ宮田則ち田邊屋敷へ來りしに、落着は日落ちて切合ひすみしとぞ。思へば長き間なり。

 夜に至りても猶知れざりしに、吉郞兵衞を裸にせしかば、下帶に永代經の受取括(くく)りありしとぞ。

 終に行衞知れて、長氏へ案内に及ぶ。長家は一向に知らず、付けとゞけ・案内等後手(ごて)になりて、首尾不都合なり。されば詮議は近隣の御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺にてありし。是も一向宗の因緣にや死骸を渡す時色々の論(ろん)[やぶちゃん注:言い争い。]ありし。

 田邊忠左衞門は六十歲なるに、二十餘の深疵なれば、外科名醫丹誠を以て療養なれども終に叶はず、二三日の内に死去せり。

 されば事濟みたる時、一時にやありけん、忠左衞門・忠三郞・吉郞兵衞葬禮三つ並びて行きしも、又ふしぎの出合なり。此時葬所に於て葬らんとせし時、大いなる響きの音發して、人々膽を消しけること、

「猶修羅道に戰ふにや」

と、其頃人々申合ひしなり。

 されば田邊氏の屋敷及び役所へ、每度宮田吉郞兵衞の妻子呼出(よびい)だされ、御吟味嚴しかりし所、妻子の口上には、

「私どもの更に恨みなることも無之(これなく)候。たゞし吉郞兵衞罷出(まかりい)で候儀は、畢竟亂心に紛れあるまじく候」

との申譯(まうしわけ)にて、事濟みて歸りけれども、長大隅守殿よりは、宮田の支族妻子迄皆々しまり仰付けられ、殘らず同役どもへ御預けなり。

 田邊の家士剛膽(がうたん)御吟味ありて、その後忠藏へ家督仰付けられ、又々役儀仰渡しありて相勤め、事故なく榮ゆるなり。

[やぶちゃん注:「付けとゞけ・案内」詫びや見舞いのつけ届けや、事件に対する即応した多方面での対応や処置を指す。

「法船寺町」既出既注であるが、再掲する。現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。ADEACの「延宝金沢図」(延宝は一六七三年~一六八一年)の中央下方のやや左部分をゆっくり拡大されたい(左が北)。長九郎左衛門(連起)屋敷(二ヶ所。下方に下屋敷)が見えてきたら、それを左上にして停止すると、右手犀川右岸に「法舩寺」が見えてくる(目がちらついて田邊の屋敷までは探せなかった。悪しからず)。

「瘧(おこり)」マラリア。現在は撲滅(戦後)されているが、近代以前は本邦全域に感染が見られ、特に西日本の低湿地帯や南日本を中心にかなり多くの感染者がいた(光源氏や平清盛も罹患している)。本州では琵琶湖を中心として福井・石川・愛知・富山で患者数が有意に多く、福井県では大正時代はでも毎年九千から二万二千名以上のマラリア患者が発生しており、一九三〇年代でも五千から九千名の患者が報告されていた。嘗ての本邦で流行したマラリアは三日熱マラリア(アルベオラータ Alveolata 亜界アピコンプレクサ Apicomplexa 門胞子虫綱コクシジウム目 Eucoccidiorida マラリア原虫三日熱マラリア原虫 Plasmodium ovale による)である(以上は概ねウィキの「マラリア」に拠ったが、より詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合)の私の注を参照されたい」。

「拂切」右利きなら、引き抜いて右横に強く大きく払って斬ること。

「其樣怪しく四つ這ひに飛廻り」この段落部分(私が段落にしたのであるが)には麦水の確信犯の狐の憑依を匂わすところの示唆があると私は読む。

「不斷煩惱得涅槃」親鸞の「教行信証」の「行巻」の末尾に所収する「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の偈文。原拠は「維摩経」。「煩惱を斷たずして涅槃を得」。

「喧嘩追懸者」野次馬。

「御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺」これは「淨照寺」の誤り。法船寺の南東直近にある浄土真宗大谷派浄照寺である(グーグル・マップ・データ)。「加能郷土辞彙」に、『ジヨウショウジ 淨照寺 金澤下傳馬町に在つて、眞宗東派に屬する。寺記に、長祿二年[やぶちゃん注:一四五八年。室町時代。]慶正といふ者、之を能美郡土室に草創し、五代正慶の時金澤移ったが、今に土室御坊と稱するとある。能美郡德久の靜照寺と關係のあるものであらう』とある。旧町名もここの旧町名と一致する。よって田邊の屋敷はこの近くになくてはならないのだが、不思議なことにADEACの「延宝金沢図」にはこの寺さえも見つからない。不審。

「妻子の口上」私はここでおさんが何故、何も言わなかったのかが大いに不審なのである。真に狐憑きであったなら、役人など何するものぞ、ガツンと言い放つであろう。統合失調症その他の重い精神病であったとしても、同じように却って訳の分からぬことを訴えるはずである。その点が、私は頗る不審なのである。一つ――もしかすると、この田邊家の男(主人子息を含む。しかも複数である可能性も考える)からおさんは性的暴行を受けていたのではなかったか? そうすると、宮田の行動も説明がつくと私には思われるし、おさんがここで何も言わないのも、どこか納得出来るのである。

「家士剛膽」田邊当主他子息らや家来はその剛胆(肝が太く物に動じずにこの事件に対処したこと)が。

 またしても前話「三不思議」の強力な連関怪奇譚であるが、その内容は奇怪にして凄絶である。ここでは「三不思議」の最後の狐の話に登場する長大隅守連起(つれおき)の家臣である「臺所懸りの」「宮田吉郞兵衞」が思いもしなかった主人公として登場し、驚くべき仕儀をしでかしすのである。「前々篇からの、こんな連続的な怪異は如何にも作り物臭いぞ! 特にこれはねぇ」とお思いになる方が多かろうが、しかし、この異常にして凄惨な殺人事件は、確かに実際にあったことが「加賀藩資料」第九編の「安永二年」(一七七三)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)はっきりと記されてあるのである(ポイント落ちや下げは無視した)。

   *

八月廿六日。長大隅守の家臣宮田吉郞民衞、御馬廻組田邊忠左衞門を殺害す。

〔政隣記〕

九月十五日、大隅守殿今日より御自分指扣。

但、右は前月二十六日大隅守殿家來宮田吉郞兵衞と申者、定番御馬廻御番頭田邊忠左衛門方へ罷越、式臺より入、三男勇三郎を切殺候に付、忠左衞門立合候處、忠左衞門にも三ヶ所深疵を爲負、嫡子八左衞門立合、吉郞兵衞を捕令切害。忠左衛門右手疵癒之御屆相濟候上、今月十二日死去。右之趣に付而也。

[やぶちゃん注:以下、頭注。]【平癒の屆出を爲したるは殺害せられたる者は遺知相續を得ざればなり】

   *

・本篇では「七月」と異なるものの、日付は正しい。八月二十六日ならばグレゴリオ暦十月十二日、七月二十六日ならば同九月十二日である。

・長大隅守連起の「指扣」は「さしひかふ」と読む。自分の意志で自主的に暫く閉門(謹慎)したというのである。

・「三男」を「勇三郎」とするが、本篇では「忠三郎」である。既に述べたように通称は複数あったから、特に問題にするに足らない。

・「嫡子八左衞門」が本篇の通称「忠藏」。

・「捕令切害」は「捕(とら)へ切害(せつがい)せしむ」。

・「右手疵癒之御屆相濟候上」は「右手疵、之れ癒(い)ゆの御屆(おんとどけ)相ひ濟み候ふ上(うへ)」。

・「付而也」「つき、しかなり」で「以上、確かな事実である」である。武家で殺人の被害者となった場合、何の抵抗もなしに殺された時は、被害者にも応戦しなかった点に於いて落ち度(現刑法で言う不作意犯)が認められてしまい、通常の病死や老衰死の場合に認められるはずの死後の家督相続が認められないことがあったので、こうした一見おかしなまどろっこしい手続きが必要とされたであったのである。江戸時代、そうした相続(特に末期養子)のために死を実際より遅らせて届け出ることはかなり頻繁に行われた。実際、本篇では彼は事件から二、三日後に死んだと記してあるのである。

 さて。ここまでくると、思うに、作者堀麦水(享保三(一七一八)年~天明三(一七八三)年)は寧ろ、この長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)と個人的に親しかったのではないか? という逆の想像が働くのである。それは、今までもそうだが、長家絡みの話柄に於ける台詞や事件の経緯から結末に至るまでの内容が、実に克明に再現されているように見えるからである。これはまず、長家にごく近い人間が麦水にいなければ到底自信を以って記せるものではない。麦水亡きあと(連起はその後も十七年生きており、無論、長家は幕末まで続き、維新後は男爵家となっている)この「三州奇談」が書写されて加賀藩内で普通に読まれた可能性を考えると、そう考えるしかない。而して多少は長連起自身には都合の悪い部分、不名誉な箇所があるにしても、「三不思議」で引用させて頂いた展宏氏の仮説のように、この麦水の実録記載は――栄えある「畠山七人衆」として知られた能登畠山氏旧臣にして旧有力国人であった長(ちょう)一族の「三禁制」――として喧伝される効果を逆に持つ。この怪奇談が加賀藩の人持組頭(加賀八家)でありながら、今一つ、力を持てずに続いた長家の、しかしその武家一族としての正統性、サラブレッド性を補強するものとして、連起以後の長家に於いて確かな《実録》として容認されていたのではなかったか? とも思えてくるのである。

2020/05/26

三州奇談續編卷之三 三不思議

 

    三不思議

 抑(そもそも)長家(ちやうけ)三禁制の所以を尋ぬるに、鷹野の事は、遠く先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて、惱みながら芦間(あしま)に入りて湯にひたり養ふ。是を見給ひて溫泉の奇特(きどく)を知り、爰に湯坪(ゆつぼ)を開き給ふ。今の山中の湯是なり。其後白鷺觀音と化して鷹狩を戒(いまし)めしことなども、山中醫王寺の緣起に聞えたれども、昔語りにして其實(そのじつ)しかと知れ難し。されば今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見ることなれば、又別に鷹狩の此家に障(さは)ること近き理(ことわり)のありやしぬらん。【猶後に記す。】

[やぶちゃん注:「長家三禁制」前の前の「長氏の東武」を参照。各篇の重層・連鎖記載が止まらない。それは「三州奇談」本編にまで及んでいる(後注参照)。こういうことは「三州奇談」正編にはなかったし、どうも内容がダブってしまって怪奇談としての新鮮さが殺がれ、私はあまりいい気がしない。いちいち既出既注の注をするのは面倒なので、必ず「長氏の東武」を読まれて後にこちらを読まれたい。

「先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて……」これは「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」に出、ここに出る「山中醫王寺」真言宗国分山医王寺のことなども含めて詳しい注も私が附してある。そこにも記したが、山中温泉は別名白鷺温泉とも呼ばれるのである。なお、白鷺が観音となるというのは、イメージとしてはごく腑に落ち、医王寺の境内には石仏が多数あり、中でも観音らしきものは多いらしい。但し、医王寺の本尊は薬師如来である。

「今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見る」ブログの「展宏 ki-dan.com」の『加賀藩「三州奇談」 藩老長家の三禁制』で本篇を紹介され、「三禁制」について述べておられ、『が、この奇談にある長家の鷹狩り禁制は事実でなく、鷹狩りをしたという史料がある。賤ヶ岳七本鑓の一人、豊臣秀吉に仕えた片桐且元に、長家から鷹狩りでとった鶴を贈った文書が「長家文献集」に記されている。長家鷹狩りの禁制は、別の理由で語られたものだと考えている』とあって、『戦国時代の長家は、鎌倉時代の長谷部信連を祖だとしているが史料はなく、それをつなぐのが稲荷信仰と鷹狩りだと考える』と述べておられ、別な記事では、やはり長家絡みの「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」を紹介された後記事として、『話の前半で、長家には「別家に変りし事多し」として、放鷹禁止をあげており、また長家始祖・長谷部信連が戦場で、狐の助けによって戦功をあげることができたので、今でも狐を大切に飼っているという』。『鷹狩りの禁止と狐はどのように結びつくのだろう』。『まず』、『長家の狐伝説とはどんなものか。これは『長家家譜』、『長家由来記』といった家譜に出ている。さきの話では、信連は戦場で狐に助けられたとするが、『長家家譜』では、信連が伯耆国に配流されていた際、女に化けた狐に助けられた恩を忘れず、今でも長家では稲荷を祀っているとしている』(ここに本篇「三不思議」の紹介が入るが、省略する)。『鷹狩り禁制の理由のひとつは、このように観音となった白鷺の戒めによるものだが、もうひとつは狐が関係している。鷹狩りは人・鷹・犬が一体となり、鳥獣を捕獲するものであり、狐・狸も猟の対象となる。鷹狩りがあると狐は捕えられてしまう。長家の鷹狩り禁制の伝承の由来はここにある』。『ところで、長家の狐伝承はいつ頃、どのようにしてできあがったのか。狐伝承を、家譜の編纂と稲荷信仰を手がかりにして、つぎのように考えてみた』。『長家では近世にはいり、稲荷社を祀って信仰しており、同じ江戸中期には、武家の間で、家譜編纂が大流行していた。まず家譜編纂の事情をみたい』。『(1)全国諸家で一家の系譜を書き記し、始祖にはじまる歴代の続柄・事績を書き上げる家譜編纂が、とくに江戸中期に流行した』。『(2)加賀藩は、殿様九人ありともいわれ、藩主と重臣八人が割拠し、相互に家格への意識が強く、それぞれが家格を誇るための史料をまとめた』。『(3)こうしたなか』、『長家には、中世の信連以来の歴史があり、他家にはない三州はえぬきの、栄光の歴史があった』。『こうした状況があったが、長家の中興の祖といわれる連竜(一五四六~一六一九)以後の歴史は確かなものの、それ以前の信連と連竜をつなぐ史料が不足していた。その役割を果したのが、稲荷信仰であったと考えたい。江戸時代、稲荷信仰は長家に限らず、全国的に流行した。こうしたことで、稲荷信仰にはいってからのちに、それに関連して長家の狐伝説ができあがったと考えたい』。『稲荷信仰にはいった長家では、稲荷社を建立し、あわせて狐も大事にした。この流れのなかで、信連・稲荷・狐をからめた伝承が成立した。時を同じくして家譜の編纂が進んでおり、この狐が信連と連竜をつなぐ役割をはたし、長家の歴史を一本化した。このようにして長家の狐伝説は家譜に組みこまれ、伝承を後世に伝えたのである』。『長家の狐伝承は稲荷信仰を介して家譜編纂とつながる。長家の近世と中世は狐伝承によって結ばれた。近世人ははるか昔の先祖とされる人物との関係を結ぶために、いろんな手段を使い、苦労してますね』と考証されておられる。確かに、森岡浩氏の長氏の系図を見ても、信連と連龍の間は十七代で、その間の嫡流の長氏の名の中には全く見たことがない名が結構あり、頼連と藤連の間などには「某」とさえある。そういう系図の脆弱部分を補うために、「三禁制」を持ち出したというのは、外野から攻める面白い手法で、私などは非常に共感出来る。少なくとも、本篇の最後の訳の分からない麦水の謂いより百倍納得出来る「近き理」としての仮説ではないか。]

 

 「釣狐」の狂言の事は、先々よりなかりし所に、近年法船寺町ぬしや傳次、其頃「名人」と人の沙汰すればとて、此者に甲斐守殿仰付けられて、「こんくわい」の狂言ありし。其時は夜のことなりしとなり。庭の内

「どやどや」

として見物の來るが如し。傳次心の内大(おほき)に恐れを生じける。時しも狐の鳴聲の藝をする所にてありしに、かゝる時庭の内より聲を合せて聲を發せしに、「敎ふる」にも似て又「叱(しつ)する」にも似たり。

 是より傳次夢中にて漸(やうや)くに勤めて歸りしが、其夜より亂心して、夜每に町外れの山に分け入りて、狐の鳴聲して歸り、明(あく)る夜は海外(うみはず)れの磯に出で、狐の聲して歸りしが、心終に調はず。幾程なくて死にけり。御主人甲斐守殿も一兩年に世を早うし給ふ。最も若死なり。されば不吉と見えたり。

[やぶちゃん注:最後の段落の「勤めて」は底本は「勸めて」であるが、誤判読か誤植と断じて、特異的に訂した。

「法船寺町」現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。中央に町名となった法船寺が現存する。

「ぬしや傳次」前の話ではただの「傳次」であった。「塗師屋(ぬしや)」で狂言師の屋号か。

「甲斐守」既出既注であるが、再掲しておくと、長連起(つれおき)の先代の加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)は享年二十八で亡くなっており、正しく短命であったが、彼は叙任されていない。「甲斐守」であったのは同じく加賀藩年寄・長家第五代当主であった、その善連の父長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっているので、単に先代善連と先々代を混同したものである。]

 

 扨(さて)河原毛(かはらげ)の馬のことは、何に障るとは見えねども、此長の御家(おんいへ)は多く狐を養ひ給ふ。是も能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし由舊話あり。故に此屋敷の内常に狐住み居ること、常の犬の如し。これ故犬を禁じて一疋も門内に入れず。尤も白狐・玄狐(げんこ)[やぶちゃん注:黒狐。]もありといへども、狐の色多くは河原毛なる物なり。此毛色を忌みて狐の嫌ふにや。又河原毛の色には狐氣の通じて怪(あやし)みをなす物にや。又何か幽冥に別理(べつり)あるにや。猥(みだ)りに測り知るべからず。

[やぶちゃん注:「能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし」「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」の『其上(そのかみ)信連(のぶつら)戰場(いくさば)にて途(みち)に迷ひ粮(らう)盡(つき)たりし時、野狐來て路を敎へ、終に食を求めて功を立られし』とあった。]

 

 彼(かの)河原毛の馬(むま)來りて後、此厩(むまや)に色々怪しき事ありて、人の不審を立つること多し。馬取(むまとり)も夜を明し兼ね、馬もうつゝになりて、日頃の神駿(しんしゆん)の精氣失せ果て、阿房(あはう)[やぶちゃん注:「阿呆」に同じい。]の如くなりしと云ふ。

 又折々此馬屋の前に女の彳(たたず)むことあり。折節は家中の娘に略々(ほぼ)見まがふものも來り立居(たちを)ることもあり。

 爰に不思議なるは、此家の臺所懸りの人に宮田吉郞兵衞と云ふ者あり。此家の御先祖信連公を近年「武顯靈社(ぶけんりやうしや)」と崇め奉り、屋敷の内に御社(おやしろ)建つ。是に供御(くぎよ)を日々備ふる役を蒙れり。其跡は捨てゝ狐にあたふること言渡(いひわた)しあり。然るに折々は吉郞兵衞狐に與へず、隱して宿に歸り、妻子を育むを以て例とす。此故にや一度吉郞兵衞、供御の膳を持ちながら河原毛馬の厩へ迷ひ入りて、大きに驚きしことありと云ふ。

 かゝること人の知らざること多し。狐妖も又甚だ多し。恐らくは鷹狩を禁ずることも、昔の白鷺物語りは差(さし)おき、近く狐妖の知らしむることあるか。其禁ずるの理(ことわり)は知り難しと難しといへども、かゝる事を思ひ廻(めぐら)せばなり。

[やぶちゃん注:「宮田吉郞兵衞」(きちろべゑ(きちろべえ))は事実、実在した長連起の家臣であることが判っている(「加賀藩資料」に載る。続く「宮田の覺悟」は彼を主人公にし、その内容が衝撃的なので次回の当該話の注で本文を示すこととする)

「うつゝになりて」「うつつになる」は「夢か現(うつつ)か」などの形で用いられるところを意味を誤って「夢とも現実ともはっきりしない状態・夢心地」に転用したもの。「ぼんやりとした状態になって」。]

三州奇談續編卷之三 田中の馬藝

 

    田中の馬藝

 されば河原毛の馬(むま)凶(きよう)たるの說を破りて、其馬を求め得し田中源五右衞門と云ふ者の事を尋ぬるに、其親は浪人にて所々を奉公し世を渡りけるに、心中英雄にして終(つひ)に出世し、後は竹園(たけぞの)の攝家に仕へて、佐々木日向守とて五位の官職を給はり、近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり。其子は故ありて、加賀の家中長氏の家臣田中氏へ送りてけり。故に田中源五右衞門と名乘る。されば幼少の時より、江戶表にありて名高き山鹿甚五右衞門が後(のち)山鹿藤助、其孫新五左衞門が方に内弟子として仕へ、武學飽く迄も稽古して、依りて名も甚五右衞門と云ひしなり。甚五右衞門と申すは、則ち北條安房守が高弟にて、天下の奇才なり。一年天下の咎めを受けて播州赤穗に蟄居せしことあり。次でながら其趣を語らん。

[やぶちゃん注:前話「長氏の東武」から直に繋がる形で書かれてあるが、私は前話の田中に係わる話の部分に甚だ不審を感じている。そちらをまず読まれたい。

「竹園の攝家」藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家甘露寺家の支流に竹園家があるが、甘露寺家自体が摂家ではない。

「佐々木日向守」武野一雄氏のブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『並木町(2)静明寺②』に、佐々木日向守丹蔵なる人物の記載がある。

   《引用開始》

元文元年(17366月下旬、身の丈6尺余、色青く目鼻立ち鋭い風体いやしい男丹蔵は、主家多羅尾家の系図を盗み金沢を出奔した。丹蔵は武家に仕える仲間で、夜な夜な博打にふけり、その夜、つきに付き大金を手にしたのである。

元禄のインフレ景気が去り、8代徳川吉宗の時代、政策の反動でデフレが起こり、享保の改革からインフレ期一石銀七十匁~百匁がデフレで三十匁~五十匁にな り、武士も百姓も生活は苦しくなり、世態は醜悪、風紀は紊乱し、一攫千金を夢見る投機心が勃興し富籤や頼母子講がはやり挙句の果てには、詐欺窃盗騒ぎが頻 繁に起こった時代だったと言う。

主家の多羅尾八平次(300石取り)も賭博に嵌り、収納米の二重売却や近隣に住む鶴見和太夫の刀、脇差4本を盗み打ちつぶし売り飛ばすなど詐欺窃盗の常習で、おまけに兄弟骨肉の相食む乱脈であったと言う。元文2年(1737615日八平次は能登島へ流罪、弟(定番御馬廻組清太夫)は五箇山へ流罪になる。奉公人灯篭竹の丹蔵は、このような主人のもとでは実直に働くことが出来なかったようで博打三昧に走ったのも頷ける。主家の没落で扶持にも離れ、江戸に 活路を求めての出奔であったものと思われる。

江戸では、常陸笠間城主六万石の井上河内守(後、浜松城主井上大和守)の仲間奉公の職を得る。博徒とは言え、才気煥発で理財の才があり、河内守の勝手を建 て直し、知行500石の家老職に出世した。老年に至り、傍輩の子を養子として跡式を譲り、隠居となり、京に上り佐々木北翁と改め九条家[やぶちゃん注:九条家は摂家である。](左大臣尚実の時) に仕え、雑掌を勤める。

ここでも財政整理に成功して、自身も一万四千両の分限者となる。経済的非常時に知恵と才覚で成り上がる。金力には公家も大名も膝を屈せざるを得なかったのである。

明和元年(176410月佐々木日向守 (左京高安)は九条家雑掌の格式で故郷金沢を訪れるのである。[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」は安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事である。]

当時、金沢の法船寺町に実子田中源五左衛門(長家家来田中伴左衛門の養子御馬廻組200石)あり。大坪流の馬術の名手[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」には「兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門」と初めに出る。]で、灯篭竹の丹蔵が金沢時代博徒仲間、玄洞坊という山伏の妹との仲に生まれた長子である。

佐々木日向守(左京高安)が金沢に来た理由は、京の仁和寺、青蓮院の宮様の資銀を調達し、貸し付けると言う触れ出しで、当時は、どこも台所は火の車、長家 も前田駿河守家も村井家も、あからさまに言い出さないまでも、いずれも借銀に関する談合を円滑にしたいと思っていた事はうなずける。佐々木日向守(左京高安)は、金沢逗留6日間。

加賀藩では、10代重教の時代、藩では国賓として歓待した。また謝罪のため多羅尾家を訪れ、多羅尾家では憎しみを忘れ晴れ姿を祝福して迎えたという。

当時、養子縁組を利して苗字を改め諸太夫(従五位下)にまで昇進したものはいたが、この姓「佐々木」で諸太夫になった彼の手腕は稀有という。ちなみに当時、加賀藩での諸太夫(従五位下)を叙爵出来たのは、八家だけだった。

静明寺の墓は、源五左衛門により建立され、高さ六尺。法名は「義好院殿忠山北翁日勇大居士」左側面に俗名佐々木日向守、右側面に明和丁亥歳十一月二十二日、田中氏と刻してある。

参考文献 副田松園著(世相史話)石川県図書館協会発行より

(多羅尾家、旧味噌蔵丁、現在の消防署裏、珠姫に付いて来た甲賀忍者の末裔。菩提寺は蓮昌寺。)

   《引用終了》

即ち、前篇「長氏の東武」に出る「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」が、まさにここで語られるように、この佐々木日向守(左京高安)の実子である田中源五左衛門と考えてよいわけである。

「近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり」これはどうにも、前篇「長氏の東武」の酷似した「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」のエピソードが被さってしまって混同が生じるのであるが、以下を読むと、納得出来ないことはない。ともかくも親子揃って野心家・自信家であったことが判る。

「山鹿甚五右衞門」山鹿素行(やまがそこう 元和八(一六二二)年~貞享二(一六八五)年)は江戸前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。ウィキの「山鹿素行」によれば、『諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した』。『陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以』(山鹿高道とも)の『子として生まれ』、寛永五(一六二八)年に六歳で『江戸に出』、寛永七(一六三〇)年九歳の時、『大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び』、十五『歳からは小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ』。『朱子学を批判したことから』、『播磨国赤穂藩へお預けの身となった』。承応二(一六五三)年には『築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより』、『二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている』。寛文二(一六六二)年『頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究』し初め、寛文五年には、『天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている』。延宝三(一六七五)年に『許されて江戸へ戻り、その後の』十『年間は軍学を教えた』。『墓所は東京都新宿区弁天町』『の宗参寺(曹洞宗)にある』。『地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定して』おり、『名言に「常の勝敗は現在なり」がある』とある。因みに、『山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である』ともある。但し、これは素行の赤穂藩への思想的影響力が甚だ強かったことを傍証するものであることは間違いあるまい。他に若松一止(かずよし)氏のサイト「会津への夢街道 夢ドライブ」のこちらに、年譜形式の詳しい事績が載るが、そこにも、死後十七年目に『赤穂浪士の討ち入りが起こった』が、『赤穂藩での仕官ならびに謹慎で通算』二十『年ほど居住し、赤穂藩士へ与えた影響は大きかった』。『家老/大石良雄 (内蔵助) は素行の教えを直接受けており、用意周到に一致団結して主君の仇を討った行動は、素行の教え「死節論」そのものであった』。『忠臣蔵になくてはならない「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」は映画などでの創作であるが、いかに素行の影響が大きかったかの証であろう』と述べておられる。

「山鹿藤助」上記の若松氏年譜によれば、延宝九(一六八一)年素行六十歳の条に、『息子の萬助が元服し、藤助と改名する』とあり、さらに『息子/高基 (藤助) は、家督を継いで兵法を教えた。門弟も多かったという』とある。別な資料によると、彼は寛文六(一六六六)年(素行が赤穂にお預けとなった四十五歳の年)の生まれで、没年は元文三(一七三八) 年とあり、ウィキの「平戸城」によれば、第四代平戸松浦(まつら)藩主松浦重信(鎮信)は『山鹿素行と交流があり、平戸に迎えたいと希望したが叶わず』、『後に一族の山鹿高基・義昌(平馬・藤助とも)が藩士として迎えられた』ともあった。

「其孫新五左衞門」不詳。

「北條安房守」江戸前期の幕臣で軍学者にして北条流兵法の祖北条氏長(慶長一四(一六〇九)年年~寛文一〇(一六七〇)年)。]

 

 山鹿甚五右衞門元來儒學に入りて、林道春(はやしだうしゆん)の高弟にして朱子を尊む流(ながれ)なりしに、歌道は烏丸(からすま)公の一の弟子となり、神道は吉田卜部(うらべ)の源を盡(つく)し、佛學も終に黃檗(わうばく)の隠元禪師に參學して、其源を極められしが、次第に自らの見識を開きて、既に宋儒の說の惡(あし)きを見出し、自ら言を發して、

「我れ周公孔子を取りて漢魏晋宋以下の學說によらじ」

と、終に儒門を說き興(おこ)して自ら「聖敎要錄(せいけうえうろく)」を作り、「語類(ごるゐ)」を書して世に行ふ。號を素行子(そかうし)と云ふ。是(これ)日本「古學」を稱する初めなり。徂徠・仁齋の類(たぐひ)も是より心付くといへり。

[やぶちゃん注:「林道春」林家の祖にして朱子学派儒学者であった林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の法号。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。

「烏丸公」没年ぎりぎりだが、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ烏丸光広(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)であろうか。

「吉田卜部の源を盡し」「徒然草」の作者卜部(吉田)兼好(但し、彼の出自は怪しく今も不明である)で知られる神職家卜部氏の流れを汲む公家で神職である吉田家(信長の推挙によって堂上家となった)。吉田家は江戸時代、後の寛文五(一六六五)年の「諸社禰宜神主法度」で神職に優位を得た。但し、先の若松氏の記載によれば、彼が学んだ神道家として廣田(忌部(いんべ))坦斎(たんさい 生没年未詳)を挙げておられ、彼は忌部正通の神道説をうけて「神代巻神亀抄」を著わし、元本宗源(げんぽんそうげん)神道=吉田神道に対抗して、根本宗源神道=忌部神道を唱えた人物であり、不審である。

「黃檗」承応三(一六五四)年に来日した明僧隠元(後注する)が開祖で、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とし、明治九(一八七六)年には臨済宗から独立して一宗となった。「教禅一如」を提唱し、「念仏禅」に特色がある。

「隠元禪師」隠元隆琦(りゅうき 明万暦二〇(一五九二)年(本邦では文禄元年相当)~寛文一三(一六七三)年)。隠元は号。中国福州(現在の福建省)福清の出身で、俗姓は林氏。一度は学を志したものの、二十三歳の時、寧波の普陀山に登り、潮音洞で茶の接待役(茶頭(さずう))となって仏道修行に入り、二十九歳で福州黄檗山鑑源興寿について剃髪出家した。その後、嘉興の興善寺や峡石山碧雲寺などで学んだが、黄檗山に住した費隠通容禅師を知り、帰山して彼に参じ、四十三で費隠の法を嗣いだ。以後七年間、黄檗山に住して禅風を宣揚した。一六四四年に明が滅ぶに及んで、一六五二年(本邦の承応元年相当)から長崎の興福寺に渡っていた明僧逸然性融(いつねんしょうゆう)らの来日の懇請を受け、三年間の限定ででこれに応じ、承応三(一六五四)年、かの明憂国の士鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日した。興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺(そうふくじ)の唐三箇寺は幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑の檀那寺であり、隠元は直ちに興福寺、次いで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、特に禅僧たちに大きな反響を呼び、龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)らは隠元を京の妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)らの反対も強く、結局、摂津の普門寺に迎えられた。万治元(一六五八)年、江戸に赴き、将軍徳川家綱に謁見、翌年には酒井忠勝らの勧めで永住を決意、幕府から京山城の宇治に寺地を与えられ、寛文元(一六六一)年、一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。三年後に隠退、八十二歳で示寂した。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風を齎し、万福寺は、行事・建築・仏像など、万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。また彼は能書家としても知られ、隠元の書は幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集は今にその精力的な活動を伝えている(主文は来日前は平凡社「世界大百科事典」に、来日後は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、他にも複数の辞書類の記載を参考にしてある)。

「宋儒の說」朱子学。

「聖敎要錄」(現代仮名遣「せいきょうようろく」)は寛文六(一六六六)年素行四五歳の折りに書かれた。本篇二巻と附録一巻で全三巻。門人への講義である「山鹿語類」(やまがごるい:全四十三巻)から、その学説の中核を集録したもの。「聖人」から「道原」まで、全二十八項の簡潔な解説から成り、直接に周公旦・孔子の教えを学び、日用実践を重んずべきことを説いた朱子学批判の先駆を成す書である。

「古學」江戸時代に起った本邦独自の儒学の一派。既存の朱子学・陽明学などの解釈を批判し、「論語」「孟子」などの経書(けいしょ)の本文を直接に研究して、その真意を解明しようとするもの。山鹿素行その嚆矢とされ、他に以下に出る伊藤仁斎・荻生徂徠などが代表的人物である。「復古学」とも呼ぶ。

「徂徠」儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)。名は双松(なべまつ)。通称、惣右衛門。荻生方庵の次男で父の蟄居により二十五歳まで上総で過ごした。荻生家は三河物部氏を先祖とし、修姓して物(ぶつ)とも称した。元禄三(一六九〇)年江戸に戻り、後に柳沢吉保に仕えた。朱子学から出発しながら、それを超える古文辞学(こぶんじがく)を提唱、茅場町に「蘐園(けんえん)塾」をひらき、太宰春台・服部南郭ら、多くの逸材を出した。また、「赤穂事件」の裁定提言や、第八代将軍徳川吉宗に「政談」を提出するなど、現実の政治にも深く関わった。

「仁齋」儒者伊藤仁斎(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)。名は維楨(これえだ)。京の商家出身。朱子学を批判し経書復古を主張、寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾「古義堂」を開き、古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層に亙る門弟は実に三千人に及んだ。]

 

 されば水戶黃門公大いに是を稱し給ひ、此著本(ちよほん)を江戶御殿にて披露あり、紀州公・尾州公皆々感心に及ばれしとなり。然るに保科肥後守殿一人は御心に叶はず、不興して申されけるは、

「各々此書を御信仰と見えて候。左候はゞ某(それがし)に於ては只今迄公方樣を御後見申し上げ、天下の成敗を取行ひ候へ共、今日より御斷り申し上げ、逼塞仕るべきにて候。其故は、我ら今日迄御政務を執扱ひしは、全く宋儒の學を信じ、朱子の全書を以て執行(とりおこな)ひ來(き)申候。然る所此筋足らざる趣に依つては、明日(みやうにち)より退(しりぞ)き可申候(まうすべきさふらふ)」

と御斷(おことわり)に付、各(おのおの)大(おほき)に御驚き、色々と云直しありて、終に山鹿甚五右衞門に咎(とが)を歸(き)して、頓(やが)て罪科に極まりしなり。天下諸家中、皆々師範と賴む人なりし程に、事皆輕く取りて、先づ當分播州赤穗城主淺野内匠頭へ御預けにて年經しなり。是等の事(こと)「中外傳」附錄「南島變」等に記す。

[やぶちゃん注:「水戶黃門」大の廃仏家にして強力な儒教崇拝者として知られる常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)。寛文六(一六六六)年当時は三十九で、藩主となって五年目。

「紀州公」これは徳川家康十男で紀州徳川家の祖にして、当時、和歌山藩藩主であった徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)である。彼が嫡男光貞(吉宗の父)に跡を譲って隠居するのは寛文七年である。

「尾州公」尾張藩第二代藩主徳川光友(寛永二(一六二五)年~元禄一三(一七〇〇)年)。当時の名は光義。

「保科肥後守」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠四男で三代将軍徳川家光の異母弟にして、当時は陸奥国会津藩藩主であった保科政之(慶長一六 (一六一一)年~寛文一二 (一六七二)年)。信濃高遠藩主保科正光の継嗣。当時の第四代将軍徳川家綱の補佐として幕政に強く参与した。彼は山崎闇斎の朱子学、吉川惟足の理学神道を信奉していた。

「罪科に極まりしなり」先の若松氏の記載によれば、寛文六(一六六六)年、

   《引用開始》

  921

 朱子学を非難した内容の著書「聖教要録」を、密かに著す。

 幕府が正学としていた朱子学を非難することは、幕府への反抗であり、死罪もありうる行為であった。

 幼い将軍/家綱の後見者として武断政治から文治政治への移行を進めていた保科正之公としては、見過ごすことのできない事であった。

 15年前に将軍/家光が死去した3ヶ月後に慶安の変 (由井正雪) が勃発したが、「聖教要録」の発刊の著者が、はるかに超える影響力のある素行だったからである。

 「山鹿子 当は王愷石崇に合し 弁は蘇泰張儀を驚かし 兵器を設け 兵馬を備え 好んで遊説の士 豪英の徒を集め 一挙に乗じて事を起さんとす」

 羅山の門下生でもあり、すでに死去していたとはいえ師を非難することでもあった。

 

 10 3日未明

 北條安房守氏長から、突然、

 「相尋ぬべき御用の儀に付 早々私宅まで参らるべく候 以上」

との手紙を受け取る。

 一瞬にして密かに刊行した「聖教要録」のことだと悟ったという。

 

 10 4

 遺書を懐に入れ出頭すると、播磨国/赤穂藩にて謹慎との命が下った。

 

 10 9

 江戸/浅野藩邸を出発し、播州赤穂へ護送される。

 家族は、17日に出立し、114日に赤穂へ着く。

 

 1024

 赤穂の刈屋城に到着。

 6年ぶりの、赤穂入りであった。

 45歳から54歳までの10年間ほどを過ごすこととなる。

 待遇は幽閉とは名許りで、衣料、食事、住まいまで不自由なく厚遇された。

 家老/大石頼母助良重 (良雄の祖父) からは、毎日朝夕の2回、欠かすことなく野菜を送り届け続けたという。辞退すると、藩主/内匠頭の命だと答えている。

 素行は、因山と号した。

 朝寝などすることもなく、無作法な態度もとらず、1室にて謹慎していた。

 国家老/大石良雄をはじめ赤穂藩士たちも、素行宅を訪れては諸学、特に軍学を学び、後の討ち入りへとつながる。

 皮肉にも討ち入り後、山鹿流が「実戦的な軍学」としい大いに評価される。

   《引用終了》

とある。

「播州赤穗城主淺野内匠頭」言わずもがな、播磨赤穂藩第三代藩主官浅野長矩(寛文七(一六六七)年~元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日))のこと。

『「中外傳」』「慶長中外傳」。本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。自作の宣伝。既出既注。]

 

 其後十年ありて御免にて召返され、江戶に於て家を求め遣はされしとなり。此家を探るに、古き筆にて書きたる額を見出し、其文字を其儘「積德堂(しゃくとくだう)」と云ふ。世人甚だ用ひ、天下に大(おほき)に行はれて、浪人ながら十萬石の大名格なりしこと、諸人の見る所なり。山鹿甚五右衞門歸り來(きたり)て、「聖敎要錄」を取り引さき捨て、一生の間再び儒學を手に取らず。武學に篤實を守ることのみ敎へられしとなり。

 其子山鹿藤助高基、業(げふ)を繼ぎて其名高く、馬場を持ち馬をも常に五疋を飼ひ、家内に内弟子として仕ふる者二百八十四人となり。されば荻生總右衞門なる徂徠先生も、此山鹿藤助高基が弟子なり。此家にして「要錄」・「語類」等を見て、學問發明ありしと云ふ。

 かゝ筋目(すぢめ)の家に仕へし田中源五右衞門の事なれば、此度(このたび)の江戶表に盛名を響かし、主人の名をも揚(あげ)んと思はれしに、國君大主公度々(たびたび)馬場に召され、馬藝をも御上覽ありといへども、更に御目に留(とま)らず。彼(かの)河原毛の馬も徒(いたづ)らに朽ち、何の一つの御詞(おことば)のかゝることもなく、徒らに江戶表を人並に立歸ることに至りぬ。加州金澤に戾り來(きたり)て、主人御意も常に變らずといへども、心に懸ることは、只河原毛の空しく厩(むまや)に引かれて、折節は心に障(さは)るの端(はし)となり、心怏々(あうあう)として暮されし内、不慮に失念の事起りて、田中源五右衞門閉門申付けられしとなり。是等も彼馬の故にやあらん。

[やぶちゃん注:「國君大主公」前話「長氏の東武」 は安永三(一七七四)年十二月以降の出来事であることが確定しているから、加賀藩第十代藩主前田治脩(はるなが)を指す。

「怏々」(現代仮名遣「おうおう」)心が満ち足りないさま。晴れ晴れしないさま。

「不慮に失念の事起りて」思いもしなかった、うっかりした落ち度の顛末があって。

「閉門」武士や僧侶に科せられた処罰の一種。「公事方御定書」によれば、「門を閉し、窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが、同条但書及びこれより刑の軽い逼塞・遠慮の規定と引き比べてみると、出入りはやはり昼夜ともに禁止されていたことが判る。但し、病気の際、夜間に医師を呼び入れたり、火事の時、屋敷内の防火に当たったりすることは勿論、焼失の危険ありと判断されれば、退去して、その旨を届け出ればよいとされていたという(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2020/05/24

三州奇談續編卷之三 長氏の東武

 

    長氏の東武

 行(かう)を能浦(のううら)に發して、眼を波路(なみぢ)の萬濤(ばんたう)に極(きは)む。又何となく頭(かうべ)を舊里金城に廻(めぐ)らす所に、忽ち一箇の旅人あり、我を突過(つきす)ぎて足を早うする者あり。『いかにや』とさし覗き見たるに、兼て知己の友なり。頓(やが)て呼留めて其急ぐ謂(いは)れを聞くに、其人息喘(あへ)ぎ胸踊るを、頓て手を取り引きて、卯の氣川(うのけがは)の流(ながれ)に到りて水を喫(きつ)して暫く憩ふ。

[やぶちゃん注:「長氏」(ちやうし)は「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」の私の「長(ちやう)某公」の注の引用を参照されたいが、中世より長氏は能登の有力な国人領主であった。表題は「長氏の江戸参府」の意。

「能浦」能登の浦辺(ここでは能登半島の南西の根(南)の海浜となる)という一般名詞。前話「七窪の禪狐」からの続きの形をとるので、前回のロケーションに近い条件で探すと、「卯の氣川」が現在の宇ノ気川(うのけがわ)で、丁度、南の七窪と北の高松の間を流れることが判る(グーグル・マップ・データ)。但し、前話の注の古地図で判る通り、宇ノ気川の少なくとも中・下流は現在とはかなり異なっていた(河北潟がずっと北へ貫入していた)ことは念頭に置かねばならない。]

 行人(ゆくひと)我れに向ひて曰く、

「金城に一變あり。其事に付きて我れ今至るといへども、吾子(ごし)が求むる所も爰にあり。日高くとも今宵は今濱の驛に一宿して、夜もすがら談(かた)り申さん。

 元來長(ちやう)の家は能州に業(げふ)を立てし氏なれば、其話其因(ちな)みなきにしも非ず。十里去りて國の變話を聞く又珍らしからずや。幸(さひはひ)に怪異是に預れり、奇談とせすんばあらず。事は一毫(いちがう)より發す。爰に卯の毛(うのけ)【村名】に談り出ださん」

とて、たばこの口を留(と)め、左より煙管(きせる)を路次(ろし)の石に打たゝき、物語をはじむ。

[やぶちゃん注:以下、知人の川岸での一服に話に入ってゆき、それはそのまま以下、今浜宿での夜話に続いていると考えられる。

「吾子が求むる所も爰にあり」その友人はこれから語られる金沢での異変に絡んでここより先の能登の北の地に行かねばならない用が出来たようである。「吾子」は二人称代名詞。で親しみをこめて同僚格を呼ぶ語であるが、この謂いは、この友人は麦水と親しい故に彼の怪奇談蒐集癖をよく知っているという前提の言葉である。「君が求める怪奇なるところもまさにその異変の中にある」、さればこそ未だ日は高いが今夜は近くの今浜の駅で同伴にて一宿して、一つ、その奇体な話を夜もすがら、語り申そうぞ」というのである。但し、オープニングから後ろの金沢の方を何故か振り返って遠望するところに、友人が彼に気づかぬ勢いで抜いて行き、かく麦水嗜好の奇談夜話となるというのは、如何にも芝居がかって、作り話臭い感じがする。

「今濱」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町今浜(グーグル・マップ・データ)、ここは宇ノ気川沿いからは凡そ直線で十キロほどであるから、この川辺で一休みして、三時間もあれば着く距離である。

「卯の毛」現在の石川県かほく市宇気(うけ)であろう(グーグル・マップ・データ)。ここはまさに前話の七窪の北に接し、私が先ほど試しに今浜までの距離を計算しようと何気なく基点していたのがまさに、この地区内を貫流する宇ノ気川の北の川沿いであったのである。

「たばこの口を留(と)め」これは煙草を吸うのを止めての謂いであろう。]

「抑々(そもそも)元來能州半郡(ハンコホリ)の領主、天下の英維、諸人の知る所なり。されば此異に傳はる「武衞御敎書(ぶゑいごきやうしよ)」と稱する物あり。其文に

[やぶちゃん注:以下、引用は原本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

下能登國能登之郡。上日・下日・越蘇・八田・加島・與木・熊木・長濱・神戶。都合高三萬三千石。

右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執建如件。

 文治二年六月廿二日 從二位大納言 源 賴朝 判

  從四位下長馬新太夫 長谷部信連どの

 

斯くの如くありとなり。

[やぶちゃん注:「半郡(ハンコホリ)」珍しく原本のルビである。(能登)鹿島半郡(かしまはんごおり)或いは鹿島川西半郡とも表記する。鹿島郡全体はウィキの「鹿島郡」を見られたいが、現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部である。鹿島川西半郡という名から判るが、この川は二ノ宮川(グーグル・マップ・データ)を指し、半郡は鹿島郡内の二宮川以西を指した郡域である。天正八(一五八〇)年、長九郎左衛門連龍(つらたつ)は織田信長より、この鹿島半郡を領することが認められており、翌年、信長が前田利家に能登四郡を宛がった際にも、利家は九郎左衛門を与力大名とし、半郡を知行させている。その連龍の子で、江戸初期の加賀藩家老にして長氏二十三代当主であった長連頼(つらより 慶長九(一六〇四)年~寛文一一(一六七一)年)がいるが、ウィキの「長連頼」によれば、元和五(一六一九)年に『父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国・能登国内』三万三千石を継いだ。『鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった』。『そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をし』、『それを私有しているという噂が流れた。そこで』寛文五(一六六五)年二月、『新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は』、同年三月二十七日に『検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子の元連を仲介して提出した』。九『月には検地が一部』で行われようとしたが、『浦野は元連と連携し、十村頭の園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった』『これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し』、寛文七(一六六七)年二月十五日に、『本多政長、横山忠次、前田対馬、奥村因幡、今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した』。第四代藩主『前田綱紀は』、これを『鹿島半郡を直接統治する』絶好の『機会と考え』、『介入し、浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕した。このことを幕府の保科正之(綱紀の舅)に相談し』、同年中に『浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔』、三『人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった』。而して、『事件は長家の家中取り締まり不行き届となり、罪は子の元連にも及び、剃髪の』上、『蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件(浦野騒動)と』呼び、綱紀の思惑通り、『半郡も加賀藩の直接支配地とな』ったのであった。連頼は享年六十八で没した。彼の孫の尚連が十歳で『当主になると、前田綱紀は鹿島半郡を取り上げ、代わりに石高に見合う米を給することになった。これにより、長家の特権が完全に潰えた。その後、長家は高連(尚連の養子)、善連、連起、連愛、連弘』(加賀藩年寄本多政礼(まさのり)の次男)と、三『万余石の家老のまま、幕末に続いている』とある。調べてみると、以下に記される内容は時制的に見て、加賀藩年寄で加賀八家長家第六十七代当主であった長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)の代のことと思われる。則ち、後半の主たる人物は彼その人であるということである。『父は先々代長高連の弟長連安。母は佐々木博太夫の娘。養父は長善連。正室は三田村監物の娘。子は長連穀、長連愛、長連郷。幼名小源太。通称右膳、津五郎、三左衛門、九郎左衛門、号は恵迪斎。官位は従五位下大隅守』(下線太字は私が附した)。宝暦七(一七五七)年、『宗家善連の末期養子となり』、三月六日、家督と三万三千石の知行を相続、安永三(一七七四)年十二月に二十五歳で従五位下大隅守に叙任されている。天明五(一七八五)年に『長男連穀が早世したため』、翌年、『次男連愛を継嗣とする』。寛政一二(一八〇〇)年三月に『隠居して嫡男連愛に家督を譲り、恵迪斎と号する。隠居領として』二千『石を授かった』。筆者堀麦水は天明三(一七八三)年に没しており、齟齬がない。則ち、次の段の「今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ」という部分から、本篇が安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事であることが判る。因みに、当時の藩主は第十代前田治脩(はるなが)である

「武衞御敎書」「武衞」は将軍。ここは源頼朝を指す。この下されたとする相手「長谷部信連」は長(ちょう)氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)で複数回既出既注でああるが、再掲しておく。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが』、『捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも』、『屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘』(おおやのしょう:現在の能登半島の輪島市から穴水市一帯の地域)『を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。しかし、ここに既に「高三萬三千石」と、後代にもっと南の全く別な地域(しかも以下の地名は後代の鹿島郡内である)の石高と全く一致してあるのは、本御教書がそもそも偽物であることを物語っているように見える。なお、頼朝が征夷大将軍に任ぜられるのは後の建久三(一一九二)年七月十二日であるが、これは後にこの文書が長家に於いて「將軍御敎書」と呼ばれるようになったという意味であるから、その点では問題は全くない。しかし、後注するように、本状が真っ赤な偽物であることは、最後の肩書によって明白なのである。

「下」「くだす」と読んでおく。下知する。

「上日」上日(あさひ)。現在の石川県鹿島郡中能登町二宮(のとまちにのみや)にある天日陰比咩(あめひかげひめ)神社が上日庄郷十八ヶ村の総社氏神であったと「石川県神社庁」公式サイト内の同神社の解説にある。

「下日」「しもひ」か。サイト「千年村をみつける」の「能登郡下日郷(石川県)」に『現在の鹿島郡鳥屋町東武の大字良川・一青・春木・大槻付近から、七尾市の南西部の西三階町・東三階町にかけての地区とする説(地理志料)は妥当と見てよいであろう』とある(地図有り)。

「越蘇」「和名類聚抄卷七」の「加賀國第九十九 能登郡」に『越蘇【惠曾】』とし、読みは『エソ』と振る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明である。

「八田」同前で『八田【也太】』でルビは『ヤタ』。「千年村をみつける」の「能登郡八田郷(石川県)」に、『現在の七尾市八田町も遺称地に含め、ともに古代の八田郷の郷名を継承すつと説かれているが(能登志徴・郷土辞彙)、八田町は、江曽町・飯川町と至近の距離に連なっており、むしろ能登郡越蘇郷の合意期に属した可能性が強い(日本地理志料)』とある(地図有り。以下省略)。

「加島」同前で『加嶋(カシマ)【加之萬】』。同前の「能登郡鹿嶋郷(石川県)」に、『いまの七尾市の中心市街区の、特に西半部の御祓地区を郷域の中心とし、御祓川を挟んで東の八田郷と平行していたとする説(郷土辞彙)が妥当であり、加嶋津(香嶋津)も、当然現七尾港の一部に相当すると見なすべきである』とある。

「與木」同前で『與木(ヨキ)【與岐】』。同前の「能登郡与木郷(石川県)」に、『郷域は、邑知潟東岸と碁石ヶ峰北西麓の山麓線に挟まれた低湿地帯にあって、現在の羽咋市東端部から』旧鹿島郡『鹿島町西端部に連なる地区に比定され(日本地理志料・能登志徴)、郷域内に駅が置かれていた』とある。

「熊木」同前にあるのは『熊來【久萬岐】』で『クマキ』とルビする。これであろう。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「長濱」同前にあるのは『長濱(ナカハマ)【奈加波萬】』。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「神戶」同前にあるのは『神戸(カムヘ)』(割注なし)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。

「右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執達如件」推定で訓読しておくと、

   *

右の者、三條の宮(みや)へ平家亂入の刻(とき)、其方(そのはう)一身(いつしん)働(はたら)きを以つて、敵、數輩(すはい)、討ち捕り、暫く追ひ拂ひ、古今の高名(こうみやう)一騎當千の働(はたら)き、神妙(しんべう)なり。仍(よ)つて、能登の國能登の郡(こほり)所々、充(あ)て行き下(くだ)す者なり。子々孫々、長く收納有るべし。則ち、地頭職、申し付け候ふ。百姓をして安撫(あんぶ)せしむべし。仍(よ)つて執達(しおつたつ)件(くだん)のごとし。

   *

以上の内、「三條の宮」は以仁王の別称。

「文治二年六月廿二日」一一八五年。確かに、「吾妻鏡」の文治二年四月四日の条に、

   *

四日辛亥 右兵衞尉長谷部信連者。三條宮侍也。宮、依平家讒。蒙配流官鳧御之時。廷尉等亂入御所中之處。此信連有防戰大功之間。宮令遁三井寺御訖。而今爲抽奉公參向。仍感先日武功。態爲御家人召仕之由。被仰遣土肥二郎實平【于時在西海】之許云々。信連自國司給安藝國檢非違所幷庄公畢。不可見放之由云々。

   *

四日辛亥(かのとゐ) 右兵衞尉長谷部信連は三條の宮の侍なり。宮が平家の讒(ざん)に依りて、配流の官符を蒙り御(たま)ふの時、廷尉等(ら)、御所中に亂入するの處、此の信連、防戰の大功有るの間、宮は三井寺へ遁れしめ御(たま)ひ訖(をは)んぬ。而るに今、奉公を抽(ぬき)んでんが爲に參向す。仍つて先日の武功に感じ、態(わざ)と御家人と爲し召し仕ふの由、土肥二郎實平【時に西海(さいかい)に在り。】の許(もと)へ仰せ遣はさると云々。

信連、國司より安藝國檢非違所(けびいしよ)幷びに庄公(しやうこう)を給はり畢(をは)んぬ。見放つべからずの由と云々。

   *

とある。「檢非違所」とは都でない国郡や荘園の検非違使が職務を行う庁所。信連は既に安芸国の国司から同国の検非違使及び「庄公」(私有地である荘園と公領である国衙領を含む総ての所領地の管理者)を命ぜられているから、そのまま捨ておくわけには行かないというのである。ここには既に北条時政らが進言して構想されていた、幕府の諸国への守護・地頭職の設置とその任免権の獲得が視野に入っていたからであろう。実際、この五か月後の文治元(一一八五)年十一月二十八日に朝廷から頼朝にその勅許が下るのである。

「從二位大納言 源 賴朝」これはおかしい。確かにこの前年の元暦二年四月二十七日(元暦二年八月十四日(ユリウス暦一一八五年九月九日)に文治に改元)に頼朝は従二位へ昇叙はしているが、彼が権大納言に叙任されるのは五年後の建久元(一一九〇)年十一月だからである。

「長馬新太夫」これは致命的な誤りである。「長馬(ながま)新大夫(しんたいふ)」というのは信連の父為連(ためつら)の通称だからである。例えば、「吾妻鏡」の長信連の逝去の記事を見よ(二十三巻の建保六(一二一八)年十月二十七日の条)。但し、無論、この能登の一帯に長連の領地が頼朝によって安堵されていた事実は疑いようはない。私が言いたいのはこの「武衞御敎書」なるもの自体は後世に作られたものだということである)。

   *

廿七日丙寅。霽。秋田城介景盛爲使節上洛。依被賀申皇子降誕之事也。今日。左兵衞尉長谷部信連法師於能登國大屋庄河原田卒。是本故三條宮侍。近關東御家人也。長馬新大夫爲連男也。

   *

廿七日 丙寅(かのえとら)[やぶちゃん注:乙丑(きのとうし)の誤り。] 霽(は)る。秋田城介景盛、使節として上洛す。皇子降誕の事を賀し申さるるに依つてなり。

今日、左兵衞尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田にて卒(しゆつ)す。是れ、本(もと)は故三條の宮の侍、近くは關東の御家人なり。長馬(ながま)新大夫爲連が男なり。

   *

この「皇子」は順徳天皇の第三皇子懐成親王(四歳で践祚したが、祖父鳥羽上皇が起こした「承久の乱」によって戦後に執権北条義時により廃された仲恭天皇(九条廃帝))のこと。「河原田」は現在の石川県輪島市山岸町に現存する。「石川県観光連盟」公式サイト内の「長谷部信連の墓」を見られたい(地図有り)。]

 長家(ちやうけ)のことは「中外傳」附錄「昔日北華」と云ふに委し。餘事は是に依りて暫くさしおく。

[やぶちゃん注:『「中外傳」附錄「昔日北華」』さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。]

 

 然れば三萬三千石の數の事は久しき名目の事と覺えぬ。されば往古より一日として不覺不念の事なき家なり。

 然るに今度(このたび)一變事ありて門戶を閉(とざ)さるゝは千古の一不思議と云つべし。

 其所以を聞くに、今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ、其謝(そのしや)として東武へ趣き給ひし折しも、國主は兼て江戶表に在府ましまして、專ら騎射馬術行はるゝのよし聞ゆる時なれば、定めて長侯

「江戶表へ出府に於ては、先づ一番に家中の士を召させられ、馬術武藝覽(らん)せらるゝことあるべし」

とて、兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門【二百石を領す。】と云ふを撰びて召連(めしつ)れられ、江戶表に至り給ひぬ。

 然るに江戶御着成(おつきな)され、

「先づ馬藝のことより」

とて駒(こま)御覽なり。別して奧州閉伊(へい)の出の駒を第一に引かせて見給ふに、さして御心(おこころ)に叶ふ馬(むま)もなし。爰に少しの内緣を以て勤むる駒あり。百金[やぶちゃん注:百両。]に少しく足らざる價(あたひ)なりとて、誠に古今の駿足と見ゆる氣色(きしよく)にて、河原毛(かはらげ)の馬[やぶちゃん注:全体の毛が淡い黄褐色から艶のない亜麻色まであって、鬣と四肢の下部が黒色の馬を指す。]を牽き來りけり。長君(ちやうくん)も良々(やや)氣に入りし由にて、近臣に尋ね給ふに、各(おのおの)皆(みな)「御内緣にて進め上ぐる駒」と聞えければ、何れも詞を揃へ、「最も秀でし馬」の由を申上る。

 爰に一人の老臣あり。密(ひそか)に眉をそばめて申しけるは、

「昔より申傳(まうしつた)へし御家に三つの不吉あり。第一に鷹野(たかの)[やぶちゃん注:鷹狩りをすること。]、第二に「釣狐(つりぎつね)」の狂言、第三には河原毛の馬と申し傳へて候。未だ試みたることはこれなく候へ共、前々より格(かく)[やぶちゃん注:定まった禁忌の掟。]となり來り候。竊(ひそ)かに聞く所、鷹野遊(あそば)され候へば御家(おんけ)滅亡し、「釣狐」の狂言有之(これあり)候へば御命(おいのち)にたゝり、河原毛の馬を求め給へば、御門(ごもん)を閉ぢられ候(さふらふ)御仕落(しおち)[やぶちゃん注:手落ち。]を引出(ひきいだ)すよし申し來り候。されば此三事(さんじ)終(つひ)になし。御鷹野(おたかの)は川狩(かはがり)迄にて、御鷹は召されず候へども、狂言の儀は近年に至り先君甲斐守樣、狂言師傳次に仰付けられ、「こんくわい」の狂言ありて傳次(でんじ)も卽死し、先君も御短命にて候ひき。是も其たゝりかと、下々(しのじも)今に密(ひそか)に惜み奉り候。然るに只今あの馬を召上げられ候へば、俗言に申しならはし候所を御犯(おんをか)しのこと、甚だ御無用に奉存候(たてまつりぞんじさふらふ)。其上我々(われわれ)しき迄も意にかゝり奉存候間、御差止めも候はんや」

と申し上げれば、大隅守殿も少し御意(ぎよい)にかゝりしや、無言にて座を立給ふが、又近々御殿中(ごてんうち)の馬合(むまあは)せもあれば欲しくや思(おぼ)し召けん。則ち田中源五右衞門を召して、段々を御語り成され、

「此馬求めて苦しかるまじき哉(や)」

と御尋(たづね)の所、田中畏(かしこま)り謹みて申上ぐるは、

「此儀少しも御心に懸け給ふべきことに非ず。馬(むま)は則ち我が足なり、何の論かあらん。君子は斯言(しげん)に拘(かかは)らず。尤(もつとも)馬の色には相剋(さうこく)し候(さふらふ)趣(おもむき)も候へども、我等能(よ)く能く根元(こんげん)取り分けたること御座あれば、河原毛は必竟(ひつきやう)水色なり。御家は金(ごん)を以て立給ふことなれば、相生(さうしやう)して理(ことはり)よく侍る。俗說の申傳へは大人(おとな)に取(とる)べきことに非ず。女兒(をんなこども)の詞(ことば)豈(あに)用ゐるに足らんや。必ず必ず此度(このたび)の河原毛の馬(むま)求め給へ」

と勸めければ、御納得ありて、彌々(いよいよ)其馬御求めに極(き)まり、上(あ)げ主(ぬし)大(おほき)に悅びて田中が發明を譽立(ほめた)て、「當世の士」とぞ感じける。されば是に決し、御求めありて歸國ありけるに、奧方大いに心に懸け給ひしとぞ。是は「彼(かれ)無用」と云ひし老臣、奧方に申して密(ひそか)に先君の例などを告げしとぞ。依ㇾ之(これによつて)所々災害他散の御祈禱どもありける。

 別して御妾(おんせう)何某(なにがし)、甚だ心に懸けて、卯辰山(うたつやま)なる五行院といへる法華の行者へ步行(かち)にて賴みに行き、災(わざはひ)を轉じて他に移すことを專ら祈念賴まれ、五行院精心(しやうじん)を抽(ぬき)んでゝ修行せられ、專ら他に移す祈禱ありしとぞ。

[やぶちゃん注:「田中源五左衞門」「田中源五右衞門」無論、同一人物である。当時の通称は複数あるのが普通でこれは誤りではないと思われる。しかも、本時制より八年後のことであるが、加賀藩資料」第九編の「天明二年」(一七八二)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)彼の名を認めるのである。

七月九日。前田重敎、陪臣田中源五左衞門の馬術を觀る。

とあり、以下「政隣記」から引いた頭に、

七月九日、長大隅守殿給人君馬役領二百石田中源五衞門馬術、中將樣御覽。

と記されてある。「前田重敎」(しげみち)は第九代藩主で第十代藩主治脩の兄であり、この時は隠居していた。「長大隅守」は既に見た通り長連起である。これで史実上の実在は総て確認されるのである。なお、「給人」(きふにん(きゅうにん))とは大名から知行地或いは同等の格式を与えられた家臣を指す。

「奧州閉伊(へい)」馬の産地として知られた岩手県旧閉伊郡。旧郡域は明治一一(一八七八)年に発足した当時の郡域は現在の遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分に当たる。広いのでウィキの「閉伊郡」を参照されたい。

「内緣を以て勤むる駒あり」長連起の信頼出来る親しい内縁の人物が推奨する馬がいた。

「御家」長(ちょう)家。

『「釣狐」の狂言』狂言の演目。鷺流での名称は「吼噦(こんかい)」で、歴史的仮名遣は「こんくわい」だ。ウィキの「釣狐」によれば、「披(さば)き」(能楽師が特定の難曲や大曲を演じて修行の成果を披露し、一定の技量を持つことを周囲に認めて貰うための興行)として『扱われる演目の一つで、大蔵流では極重習、和泉流では大習と重んじられている』。『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは『靱猿』の猿役で初舞台を踏んだ狂言師が、『釣狐』の狐役を演じて初めて一人前として認められるという意味である』。『白蔵主』(はくそうず:本邦の妖狐・稲荷神の名。大阪府堺市にある少林寺に逸話が伝わっており、その逸話が本狂言の題材となったとされる)『の伝説を元に作られたとされており』、『多くの狂言師が、上演する際に白蔵主稲荷を祀る大阪府堺市の少林寺に參詣し、この稲荷の竹を頂いて小道具の杖として使っている』。あらすじは、『猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』とある。

「先君甲斐守」連起(つれおき)の先代は加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)で、享年二十八で亡くなっており、確かに「短命」であったが、叙任されていない。「甲斐守」であったのは、同じく加賀藩年寄・長家第五代当主にして、善連の父であった長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっている。ただ、先代善連と先々代を混同したものであろう。

「狂言師傳次」不詳。

「我々(われわれ)しき迄も」私のような無学な老いぼれのような者でさえも。

「御殿中の馬合せ」金沢城内で主だった家臣が自慢の名馬を引き出し、馬芸をして品評する馬合わせ。

「何の論かあらん」何の論(あげつら)うことがありましょうや! あれこれとやかく言って批評する必要なんど御座りませぬ!

「君子は斯言(しげん)に拘らず」優れた人格者というものは、そのような馬鹿げた理(ことわり)を欠いた発言には決して係わらぬものにて御座る!

「相剋」(そうこく)は五行相剋。木・火・土・金・水の五つの根元要素が互いに力を減じ合い、打ち滅ぼして行くとする陰の関係を言い、「木剋土」(木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる)・「土剋水」(土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める)・水剋火(水は火を消し止める)・火剋金(かこくごん:火は金属を熔かす)・金剋木(ごんこくもく:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。

「相生」(そうしょう)は相剋の対概念で、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係性を言う。順送りに相手を生み出して行く陽の関係であり、「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生み出す)・火生土(物が燃えれば灰となってそれは土へと還る)・土生金(どしょうごん:鉱物・金属の多くは土中にあって土を掘ることによってその金属を得ることが出来る)・金生水(ごんしょうすい:金属の表面には凝結によって水が生じる)・水生木(木は水によって養われる)という循環である。

「河原毛は必竟水色なり」「河原」から「水」かい! ただ何故あの色を「河原毛」というかを考えると、水場に生えるヨシの穂の色じゃなかろうか? と思っている私には「河原毛」=「水」は腑には落ちる。

「御家は金(ごん)を以て立給ふ」何故、長家が「金」なのかは判らぬが、長家の家紋は「銭九曜」紋で金属ではある。サイト「武家の家紋」の「長氏」を見られたい。

「奧方」連起の正室は三田村監物の娘。三田村監物定敬(さだのり)か。姉は加賀藩第五代藩主前田吉徳の母(名は「町(まち)」)預玄院。ただ彼だと、ちょっと年が行き過ぎる感じはする。

「御妾」連起の側室。

「卯辰山なる五行院」不詳。現存しない。

 但し、長連起が蟄居とか閉門になったりした事実はなく、恙なく逝去の年の二月十九日まで勤め上げた上、致仕して『惠迪齋』(「加能郷土辞彙」に拠る)と称し、隠居料二千石を賜って、九ヶ月後の寛政一二(一八〇〇)年十月十四日に享年六十九で亡くなっている(別資料でも確認した)。長連起自身、万一、これが事実と少しでも違っていたとしたら、麦水を訴えて捕縛し、著作の焚書や手鎖(てぐさり)の刑に処せられてしかるべきことだと思う。しかも「田中源五右衞門」なる実在する藩士の名を丸出し、正妻や妾の細かな話まで出すのは、事実としても如何なものかと私でさえ心配に思うのである。――しかし――ということは――かく今に平然と残っているということは、この出来事が実は、その出来事が起こって直ぐに広く知られてしまい、加賀藩では町人に至るまで知らぬ者のない周知の事実であったということを物語るものなのではなかろうか? さすれば「今度一變事ありて門戶を閉さるゝ」というのは、暫く自主的に戸を閉じて城に出仕しなかったという程度のことであり、そうした有意な自粛期間が実際にあった、ということになろうかと思うのである。【2020年5月25日:追記】現在、次の「田中の馬藝」を読み、注を施そうとしている最中であるが、これはどうも麦水の書き方がちょっとおかしいのであって、閉門の処罰を藩から受けたのは長善起ではなく、彼の家臣であり、本話後半の重要な人物であるところの田中源五右衞門(実は調べると記載によっては前に出る「田中源五左衞門」の名で出るものもある)のことらしい。しかし、だとしても、ますます善起にとって誤った記述となる。不審はやはり晴れないのである。

2020/05/21

三州奇談續編卷之三 七窪の禪狐

 

 三州奇談後編卷三

 

    七窪の禪狐

 七窪と云ふは海邊ながら地高うして、疇(うね)七つに下り上りありて高松に續く。則ち『「越の高濱」は爰を云ふ』とぞ。

[やぶちゃん注:前の「三州奇談續編卷之二」の掉尾の「薯蕷化ㇾ人」の擱筆で「七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん」と言っていた、その前の部分に相当する。

「七窪」「高松」「薯蕷化ㇾ人」の最後で示したが、現在、能登半島の南の端に石川県かほく市七窪があり、その北に少し離れて、かほく市高松がある。今回はグーグル・マップ・データ航空写真で示す(以下注なしのリンクは同じ)。下方の少し内陸の赤い枠(貫通する河川があるため、東西に分離しているように見える)が七窪、その上の海辺が高松(北東内陸部に複数の飛び地がある)である。参考までにここに高松北部海水浴場(但し、ここは現在はかほく市二ツ屋地区内である)のサイド・パネルの砂浜海岸の画像をリンクさせておく。因みに、ここから北へ十二キロほど行った千里浜海岸が長い砂浜海岸として美しいことで知られる。ここで大いなる不満を言っておくと、私は観光道路「千里浜なぎさドライブウェイ」と称して千里浜海岸に車の乗り入れを許している石川県の気が知れない。日本で海岸への車両の進入を許可して道路としているのはここだけなのである。

「疇(うね)」この場合は耕作地ではなく、山や丘の高くなっている部分を言う。スタンフォード大学の大正二(一九一三)年大日本帝國陸地測量部発行の「津幡」で七窪と高松の間を見ると、なだらかながら、高低に富んだ丘陵が続いており、概ね海側に針葉樹が、内陸側に広葉樹が植生し、ところどころに桑畑がある程度であるから、江戸時代後期にここに広大な耕作地(「疇」の第一義は人口の耕作地としての畝(うね)である)が広がっていたとは到底考えられないので、読みの「うね」を別にあるそのような意で採った。

「越の高濱」歌枕のように見えるが、私は知らないし、ネット検索でも掛かってこない。何かの聴き違いではないか。佐渡に「越の松原」「雪の高浜」があったという記事を見かけたが、それらは古く(歌枕とするには私は中世以前に詠み込んだものがなくてはならないと考えている)は遡れないようである。]

 されば低き地は必ず松あり。砂吹きならして一遍に見ゆ。爰に至りて行(ゆく)人路を誤る。古へより「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」とも云ふ。迷路(まよひみち)の理(ことわり)定め難し。廣野(ひろの)ながら樹(き)群立(むれだ)ちて妖もあるべき地と覺えたり。

[やぶちゃん注:「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」妖気を持つ狐らを飛砂が生きながら吹き埋め殺してしまい、その妖気が地に漂っているために。]

 此下(このしも)内高松(うちたかまつ)の池と云へるは、大洋よりの入江にして、渺々(べうべう)たる望(のぞみ)なり。近年も此池の中へ俄に島一つ吹出(ふきい)で、其上に草木も生ずる程なりしに、いつしか島消失(きえう)せて、今は元の入江の池となれり。地中の理は測るべからざること、まのあたりなり。

[やぶちゃん注:「内高松の池」「内高松」という地名ならば、高松の内陸に現在もかほく市内高松(うちたかまつ)(グーグル・マップ・データ)として高松に南北と西を抱かれるような塩梅で東に別個に存在する。そこに池もあるが、ここは内陸でとても潟として日本海と繋がっていた可能性はないように見える。しかし、もっと前の地図を見てみようと思った。そこで「ADEAC」を使って資料検索を掛けたところ、明治二(一八六九)年に描かれた加賀国絵図」を見つけた(北は左方向)。そこを開いて河北潟の部分をそのまま左部分を拡大して見て欲しい。すると、明治時代まで河北潟はずっと北まで驚くほど深く貫入していたことが判ったさらに左上方を「能登加賀國境」の文字が左側に大きく見えるまで拡大すると、国境のすぐ内側に二重丸(宿場町風)で囲われた「外高松」がある。これが現在のかほく市高松地区である。その右上を見て貰いたい。「内高松」(村であろう)とある。これが現在の内高松だ。そうしてその地名の脇に瓢簞型の池があるのが判る。それは地名で隠れた真下で左に流れる川に繋がっている。それを下って行くと村名が順に「橫山」・「宇氣」・「笠島新」・「鉢伏新」・「宇野氣新」とあって、「内日角」村の上方で河北潟に流れ入っているのが判る。この最後の三つの村名に「新」が附いていることに注目されたい。これは恐らくは江戸後期にここいら辺りまで、河北潟はさらに北に貫入していた、それを干拓して新しい村を作ったのではないか? とすれば、もっとずっと古くは、現在の横山や宇気にまで実は河北潟はあって、驚くべきことに現在の高松の東後方で入り江を作っていたのである! 諦めなかった結果、予想外の事実にたどり着くことが出来た! 目の前の日本海ではなく、ずっと南西から迂遠にぐるりと回って、日本海と繋がる汽水潟である原河北潟の北で、ここに正しく池を作っていたのである! 「地中の理」どころではない! 「海の貫入の理」こそ「測るべからざること、まのあたりなり」なのであった! 近現代の公式地図を見ていては到底思い至らぬことなのであった!

「渺々たる」現代仮名遣「びょうびょう」。果てしなく広いさま。遠くはるかなさま。

「望(のぞみ)」臨み。眺め。]

 七窪四疇(しうね)の高みには、地藏尊立ち給ひて、路次(ろし)の利益あること顯然たり。然れども今は砂、堂を吹き埋めて、八尺許りの尊像半ばを隱したり。

[やぶちゃん注:この地蔵尊は七窪地蔵として現存する。それも七窪神社の境内の中にちゃんと守られてある(元あった場所からここへ移転したもの)。「かほく市」公式サイト内の「七窪地蔵尊」に、『昭和の初め頃まで、宇野気から七窪に通じる道は低い沼地で、枯れた葦が風に揺れる寂しい光景が広がっていました。その上、「おまん狐」という人を化かす狐が出るので、夕方には人の往来もなくなっていました。これではいけないと思った七窪の人たちは、道行く人々の安全を願ってお地蔵様をつくり、道端に立てました。その後、お地蔵様は七窪神社の境内に移り、昔と代わらぬ微笑をたたえています』とあり、紹介動画(YouTube『石川県かほく市歴史・文化動画シリーズ「七窪地蔵」(かほく市教育委員会・かほく市ボランティア観光ガイド制作)もある! 必見! その中で地蔵は現在の津幡町(つばたまち)能瀬(のせ)に住んでいた渡邊家第六代当主で十村役(とむらやく)であった渡邊永忠弥右衛門が享保九(一七二四)年に造立したことが判っている。「十村役」とは加賀藩独自の制度で、名の通り十ヶ村ほどを纏めて取り仕切る頭役であるが、年貢の取立や藩からの掟の連絡・検地による地図作成・用水管理・各種の争い事の裁判まで殆んど藩の役人が行うべきことまで任されており、その屋敷には藩主や藩士が泊まることもあった非常に格式の高い百姓であった。因みに、本篇の作者堀麦水は享保三(一七一八)年生まれである。なお、上記動画の109のところに、国立国会図書館所蔵の「御鷹場等御定并繪図」の拡大図が出るが、そこでも前の内若松にあった池が見られる! ちょっとフライングするが、以下の話のロケーションをここで示す。妖狐の名は「おまん狐」という。「石川県神社庁」公式サイトの高松にある額(ぬか)神社の解説に、『当所は、加賀国より能登国に通じる街道にして街道の南、河北潟より七窪を経て当社に至る街道は、おまん狐の出でし所にして』とあることから、後のロケーションはここの中央南北の海寄りに相当する。]

 夏日(かじつ)景よしといへども、砂燒けて步み難く、秋日(あきび)は靜(しづか)なりと云へども、松覆ひて日(ひ)物凄し。冬・春は例の北地(ほくち)の雪風(ゆきかぜ)、奈何(なん)ぞ風景の望(のぞみ)に落ちんや。元來濱地の能登道(のとみち)なり。實(げ)に「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」と云ひし、戰後の地異をも寫すべし。

[やぶちゃん注:「松覆ひて日(ひ)物凄し」松が覆いかぶさるように生えているので、木下闇(こしたやみ)深くて日中でも陽光が差し入らず、何やらん、物凄い感じがする、という意味か。

「奈何ぞ風景の望に落ちんや」どうして風景を眺めようなどという気持ちになれようか、いや、なれぬ、一時も立っていられないほど寒く凄絶なる状況である。

「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」この前後の鍵括弧は私が附したもの。訓読すると、

 砂場(さじやう) 夜(よ)に入つて 風雨 多し

 人 云(いは)く 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)る」

か。どうもこの最後の「る」が私は気に入らない。この「る」は衍字で「來と」で、

 人 云(い)ふ 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)れ」と

と読みたくなる。而してしかし、この七律の出来損ないのようなものの原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。二句目の意味は『人は言う。「ここを通りたくば、鉄の鎧兜つけた勇猛な騎兵を身近に連れて通れ」と』の謂いか。

「戰後の地異をも寫すべし」これはこの付近で実際に戦闘があったことを指すのではないだろう。その一年を通してこの辺りに漂っている、どこか荒涼とした感じは、あたかも、沢山の人が死んだ戦場の地に染み滲んだ死者たちの古血の恨みの地妖を再現したような感じと謂うべきものがある、という謂いであろう。]

 享保[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]何れの年にや、爰に人を殺して懷中の物を奪ひ立ち隱れし事あり。金澤の檢使某(なにがし)死骸をとくと改むるに、

「切疵(きりきず)の躰(てい)刀・脇差の類ひにあらず。小刀(さすが)樣(やう)の物なり。况や糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる。」

檢使の人心(こころ)利(き)きて、

「是(これ)常人の所爲にあらず。必ず穢多(ゑた)仲間の者どもの仕業(しわざ)なるべし。人間には違(ちが)へる所あり」

とて、則ち役人を以て非田地(ひでんち)の者どもを吟味するに、終(つひ)に殺人(さつにん)知れて、穢多兩人刑に逢ひたり。

 さればいばりに付きて替りありと聞えしが、是に似たる怪談を近くも聞けり。

[やぶちゃん注:以上はこの辺りで起こった、一つの異常な殺人事件と、その不思議な捜査・判例を挟んだものである。

「檢使某」検死役としてやって来た役人の某(ぼう)。

「糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる」犯人は大小便を犯行現場に残しているが、その糞や小便が広範囲に、しかも方々に隔たってなされてある。

「心利きて」非常に利発で鋭く。

「穢多(ゑた)」「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注を参照されたい。

「非田地」「加能郷土辞彙」に『ヒデンチ 非田地 藩政の間、非田地のものといふのは農業に從事せざるものゝ意味で、藤内・穢多・舞々・非人等の總稱である』とある。この「藤内」は「とうない」と読むが、加賀藩独特の呼称で、藩内にいる被差別部落民の最上位のぐるーぷを指した。 「舞々」(まいまい)は中世に発生した曲舞(くせまい)・幸若舞(こうわかまい)などの流れを受けた歌舞音曲を演じて門付した芸能者たちを指す。

「人間には違(ちが)へる所あり」「たがへる」でもよい。小便の仕方に通常の人間とは違うところがある、というのである。それにしても「人間には」という物言いの、驚くべき差別感に慄然する。これが以下の話に繋がるポイントとなる。]

 安永初めの年、稀有なる狐妖(こえう)あり。秋も尾花の色ふりて、うら枯の野の露多き冬空近き頃なりき。能登の惣持寺(そうぢじ)へ行く僧の多き時なりし。

[やぶちゃん注:「安永初めの年」明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元している。

「惣持寺」表記はママ。現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸嶽山總持寺祖院(そうじじそいん)。旧曹洞宗大本山總持寺。本山機能が神奈川県横浜市へ移転する際、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」が「總持寺祖院」と改称されて別院扱いとなった。ウィキの「總持寺祖院」によれば、『加賀藩時代を通じて手厚い保護を受け』た寺で、『江戸幕府は』元和元(一六一五)年に『永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で』一千『両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが』、明治三(一八七〇)年の『栴崖奕堂以後』、『独住の住持が置かれた』。明治三一(一八九八)年四月、『大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失』、七年後に『再建されたものの、これを機に』、『より大本山に相応しい場所への移転を求める声が高ま』り、明治四四(一九一一)年十一月五日、横浜鶴見へ移されたとある。]

 一人の禪僧此七窪の砂道に行き倦(う)みて、松の古木に打もたれて一睡を快くせしに、秋の日早くたけて、夕風の冷(さむ)けさに忽ち驚き、夢打覺めて起返(おきかへ)り、傍らを見れば一僧あり。是れも今眠(ねむり)覺めたる躰(てい)に見えて、手を伸ばし欠伸(あくび)し、以前の僧をきよろきよろと見て物云ひたげなる躰(てい)なり。以前の僧は、元來關東出の遠慮知らずの氣儘坊主なれば、則ち問て曰く、

「偖(さて)此僧は何所(どこ)の僧だ、何方(どこ)へ往き召す」

と云ふ。跡の僧曰く、

「何所出(いづくで)の者でも僧は僧なり。夫(それ)を疑ふは何事ぞ。」

鬪東僧の曰く、

「此小僧は咎(とが)め好(ずき)の坊主だ。己(おれ)が問ふは尋ねるのだ。夫(それ)をはや疑ふとは是(これ)狐疑心(こぎしん)を持てるよな。」

跡の僧曰く、

「心中元來一物(いちぶつ)なし。疑ふを以て狐疑心と寫(うつ)すならば、汝も未だ五百生(ごひやくしやう)中(ちゆう)の野狐生(やこしやう)なり」

と云ふ。關東僧恐(いか)りて、

「野狐生とは其方が事よ。不落因果・不迷因果の理(ことわり)は濟んだか」

と云ふ。

 跡の僧曰く、

「偖(さて)も愚鈍なる問ひやうかな。不落も不迷も同じことにて、今日にては古反古(ふるほうご)書(かき)汚(けが)し紙の類(たぐひ)なり」

と云ふ。

 關東僧又橫に打倒れて足を延ばし、

「汝が師匠は誰じや[やぶちゃん注:ママ。]、何所(いづこ)の法嗣(はうし)ぞ」

と問ふ。

 跡の僧云ふ、

「我は師も求めず法も嗣(つ)がぬ。其方は不學者なれども氣丈なり。最(も)そつと問答せん」

と云ふ。

 關東僧彌々(いよいよ)怒りて、

「法も受けず師もなき者ならば、犬に劣れる類(るゐ)の者ぞ」

と云ふに、此僧又

「きよろきよろ」

と四方を見る。

 關東僧寢ながら片足を松にかけて、小便をみだりに放しけるに、跡の僧何と思ひ合せしや、驚く氣色(きしよく)見えしが、いかなる故にかありけん、

「クハイクハイ」

と鳴きて、三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]許り飛んで四足(よつあし)の形ちと變じ、小松隱れに逃失(にげう)せける。

 關東僧

「こはふしぎ」

と思ひ怪しむ中(うち)に、暫くして人も通り來りければ、打連立ちて今濱へ出で、道々此(この)ありし事ども語るに、其中に酒井の永光寺(えうくわうじ)の僧ありて申されけるは、

「夫こそは此野邊に年經る『黃藏主(くわうざうす)』と云ふ黃狐(きぎつね)ならん。我寺の和尙能く狐狸に馴るゝ故に聞けり。先々(まづまづ)日も暮るゝに今濱迄來られよ」

と。先達して宿をも指圖して、偖(さて)委しく語らせて聞合ふに、關東僧も心付き、

「思へば目付き物云ひ、是非(ぜひ)野狐には極まれり。犬に劣れる類(たぐひ)の者と云ひし時、けしからぬ顏付なりしに、小便する關東風(のふづ)の野躰(やてい)を見て、本(もと)より狐疑の者なれば、『若しや此僧は狗(いぬ)の化けたるなるか』と思ふより、急に逃去(にげさり)しとは覺えぬ」

と、今濱・子浦など宿々の夜話なり。

 七窪は禪僧の能く通る所なれば、かゝる法語を覺えてや、猶も疑ひを晴(はら)さんと出でたるなるべし。

 能(よ)く能く思へば、野狐生返つて人間の上に出づる說をなす。久しく諭ぜば妙論を出(いだ)すべき躰(てい)なりしに、狗の化けたるかと恐れて、半ばに止みしは残念にや。

 扨は人間の妖物を恐るゝのみにはあらず、狐狸も又妖物を恐るゝに違ひなし。さらば奇談の妙、人中(じんちゆう)のみの間(かん)にはあらず。

[やぶちゃん注:「以前の僧」「以前」は「もとより」の意。

「五百生中」五百年を生きて妖術を得たの意。

「野狐生」面白い。自ら「野禪」(禅の修行者が未だ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれるこ)に掛けて名乗っているのである。あり得ない。

「不落因果・不迷因果」私の「無門關」の「二 百丈野狐」を参照。

「クハイクハイ」面白い。表面上は狐の鳴き声のオノマトペイアであるが、一般には狐の鳴き声は歴史的仮名遣では「クハウクハウ」である。恐らくここには「解、解」(但し、これは「クワイクワイ」となる)、則ち、「悟ったぞ! 悟ったぞ」の意に掛けてあるのかと私は読んだ。

「今濱」高松の少し東北の海辺のこの付近であろう。

「酒井の永光寺」石川県羽咋市酒井町にある曹洞宗洞谷山(とうこくざん)永光寺(ようこうじ)

「黃藏主」tera 氏のブログ「【妖怪図鑑】 新版TYZ」にこの後半部が現代語訳されてあり、『加賀の化け狐』とある。この訳は完全ではないものの、なかなか本腰が入ったいいものである。

「是非」必ずや。

「關東風(のふず)」この当て訓は「近世奇談全集」を参考にした(但し、そこでは「のふづ」とあり、歴史的仮名遣としては誤りであると思う)。「のふず」とは「のふうぞく(野風俗)」の音変化で、「無作法であること・図太くいばっていること」、また、そのさまで、「のふうぞう」とも呼んだ。関東の男子が犬のように片足を上げて小便をするというのは、江戸期の風俗画の中で確かに見たことがある。

「子浦」今浜の少し北に子浦川が流れる。]

2020/05/17

三州奇談續編卷之二 薯蕷化ㇾ人 / 三州奇談續編卷之二~了

 

    薯蕷化ㇾ人

 「山高からずとも仙あれば靈あり」と。寳達山(はうだつさん)は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金(わうごん)を納む。然れば是仙境疑ふべからず。仙境ならば靈あるは固よりの事なるべし。地靈の變化(へんくわ)又他方にあるべきにあらず。さらば仙境にして金氣(きんき)を貯へ異人を釀(かも)す現證を述べんに、近き頃も此山の「北櫻馬場」と云ふ所に、山師の人靈神(れいしん)の意に戾りて、金山(きんざん)のしきを仕かけけるに、山潰れ穴塞がりて、山中死する人夥(おびただ)し。然れ共衆人こりず、猶神をいさめ、他所(よそ)にしきを構へて、今に金を掘るの催し絕えず。近年間部(まぶ)には掘當り得ざれども、其費用となす程宛(づつ)は、金子(きんす)出づること今に絕ゆることなし。何(いつ)の日いかなる人か、神の意に叶ひて多く金を掘得(ほりう)ることあらん。誠に賴母(たのも)しき寳山(はうざん)にはありけり。

[やぶちゃん注:表題は「薯蕷(やまいも)、人に化(か)す」と読んでおく。「薯蕷」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指す。日本薯蕷とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であり、別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なる。ここは無論、前者の真の「薯蕷」=ヤマノイモ Dioscorea japonica である。但し、ここでは通俗の呼称である「やまいも」と訓じておくこととする。

「寳達山」三つ前の「平氏の樂器」に既出既注。石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる。平家落人伝説や「小松大臣」(平重盛)の「黃金」伝説(こちらは読むに耐えない凡そ信じられない牽強付会の話である)もそちらを参照されたい。

「地靈の變化又他方にあるべきにあらず」この「他方」は「ここ以外の各所」の意であろう。この宝達山の地霊の変化(へんげ)、則ち、地霊の引き起こす変容・変異(広義のメタモルフォーゼ)は、他の地方で知られているような、通り一遍の変異ではない、と言うのであろう。

「金氣(きんき)」五行の金気(ごんき)ではなく、具体な黄金(おうごん)、則ち、「金(きん)の気」と採って、かく読んでおく。

「異人」人ではない人型の異人、化け物の意。

「北櫻馬場」古い地図を見てもこの地名は見当たらないが、現在、石川県羽咋郡宝達志水町上田出(はくいぐんほうだつしみずちょううわだで)に「中尾平坑跡」が金山跡として史跡指定されており、「宝達志水町役場」公式サイト内のこちらに、『宝達山では江戸時代に金が掘られていました。金山としての開山は天正121584)年とされ、最盛期には150人以上が従事していました』。『宝達山の東北側の斜面に9か所の廃坑口が確認されており、中腹にある中尾平坑跡には開口部が残っています』とあり、「石川県観光連盟」公式サイト内のこちらでも複数の写真が見られる。この九ヶ所の孰れかの旧地名と考えてよいであろう。

「山師の人」山を歩き回って鉱脈を見つける職人。

「靈神(れいしん)の意に戾りて」この「戾る」は「欲張る・貪(むさぼ)る」の意で、霊神の気を感ずるなどと称して、金採掘をせんと欲を出して、の意であろう。

「金山(きんざん)のしき」この「しき」は「式」で、金採掘の「法」「仕儀」「事業」の意であろう。

「神をいさめ」そうした神霊の報復を不当として。

「間部」この「まぶ」は「間府」「間分」「間歩」で本来は鉱山で鉱石を取るために掘った坑道を指す語であるが、それを金脈の意で使用したものであろう。

「金子(きんす)」ここは鉱物としての金(きん)を売って相応の金(かね)にすることを縮約した謂いであろう。

「寳山(はうざん)」宝の山。宝達山に掛けた謂い。]

 然るに近年の事とぞ、稀有の一說あり。密事(みそかごと)なれども、其邊(そのあたり)の里人のひそひそと云ひ傳ふる奇談あり。

 元來此山は薯蕷(やまのいも)の名所にして、多く掘出だす。大いなる物は五六尺より一丈に及ぶ。太さ小臼(こうす)の如し。其味ひ甚だ美なり。依りて近邊の山里の婦女共、是を業(げふ)として必(かならず)掘る。

[やぶちゃん注:ヤマノイモの「根」(植物学的には実は根ではない特殊な組織体であって「担根体(たんこんたい)」と呼ばれる茎の基部についた枝の下側部分が伸びたもの)は一メートルを超えることがある。私の家の裏山は嘗てはよく人が掘りに来ていたが、幼少の頃に二メートルになんなんとするそれを見事に折らずに(後に「掘廻(ほりめぐら)」すと出る通り、担根体を取り出すには、慎重にも慎重を重ねて、周囲を根気よく掘る必要があり、少しでも先が欠けると売り物としては驚くほど安くなってしまう。その老人は蔓から掘り出し易い斜面に植わっているものを探すのが大事なのだと教えてくれた)掘り出した老人と親しくしたことがあるから、一丈(約三メートル)も誇張とは思えない。

「業」現代仮名遣「ぎょう」で生業(なりわい)の意。]

 さればこの山里に白生と云ふ小村あり。此所に三四世も此山のいもを掘りて浮世を送る小民あり。いつしか末(すゑ)の露(つゆ)本(もと)の雫(しづく)となりて、今は娘一人になりて、猶(なほ)此山に土を穿ち岸を崩せども、隨分に山を尊(たつと)みて世を過ぎにけり。其娘名を「おさん」といふ。二十歲(はたち)許りにして、肥大ながら色白く、美女とも云ひつベき生れつきなり。

[やぶちゃん注:「白生」旧地図を見ても見当たらぬが、オックスフォードの明治四二(一九〇九)年測図の「石動」(いするぎ)の地図を見るに、宝達山の北に「南志雄村」・「北志雄村」を見出せ、現在の宝達志水町内の宝達山の北方の平野部には志雄小学校や志雄郵便局の名を見出せ、これらは現在「しお」と読んでいる。「白生」を「しお」と読むことは可能であり、「志雄」は歴史的仮名遣で「しを」乍ら、現代仮名遣(口語)では「しお」であるから、この旧「志雄」と「白生」が同一地名である可能性はあるかと思う。「近世奇談全集」では「しらふ」とルビするが、以上の私の推理から、それには従えない。

「末の露本の雫」葉末の露も、根元から落ちる雫も、後先はあれ、必ず消えるところから、「人の命には長短の差こそあっても何時かは必ず死ぬ」という人の命の儚さの喩え。]

 然るに或日山に入りて、「鶴(つる)の嘴(はし)」と云ふ物にて土を深く掘り、大いなる薯蕷を掘廻(ほりめぐら)し、

「折らさじ」

と心靜めて一心不亂に掘入りけるに、一念只(ただ)土にのみ染みて意(い)脫(もぬ)けたる如し。

[やぶちゃん注:「鶴の嘴」ピッケル様の「鶴嘴(つるはし」である。農学者大蔵永常(明和五(一七六八)年~万延元(一八六一)年)が著した農機具論「農具便利論」(全三巻・文政五(一八二二)年刊)は「木起こし」として紹介されているから、江戸後期には既にあった。恐らくは用途から見て、頭部の張り出しが片方にしかない「片鶴嘴(かたつるはし)」であろう。

「意脫けたる如し」「意」は意志・意識で、「他に何も考えることなく一心不乱となったような不思議な感じであった」の意であろう。既にして異界との接触が暗示されているのである。]

 久しうして後、土の下より幽かに聲ありて、

「おさんおさん」

と呼ぶ者あり。おさん大いに驚き恐れ、打捨て家に迯(に)げ歸らんとせしが、

『扨(さて)しも業(わざ)の捨つべきに非ず』

と、又そろそろ本の所へ行きて土を掘るに、又々地中に幽かに聲して

「おさんおさん」

と云ふこと度々なれば、心靜まりて

「何人(なんびと)ぞ」

と問ふに、

「私はおまへの妹にて候、驚き給はず」

「今少し深く掘給へ」

と云ふ。

 其時何となく心にいたはしき事生じて、

「然らば掘るべし、鶴に【「鶴」は「鶴の觜(はし)」の異語也。山人(さんじん)土を掘る物を「鶴」と云ふ。】

「あたらぬ樣にせよ」

とて、又々靜(しづか)に掘り入るに、今少しになりしと見えて、

「おさん樣しばし待(まち)給へ、穴を明(あ)けん」

と下より押す樣にせしが、一尺許り土陷りてけり。

 おさん頓(やが)て鶴の嘴を其明きたる穴に差込みけるに、何かは知らずして

「ひたひた」

と卷付く音して無音なり。

[やぶちゃん注:何かが鶴嘴にしゅるしゅると巻き付く幽かな音と振動がしたが、すぐに静かになったというのであろう。]

 おさん恐ろしながら力を極めて引上げければ、白き衣を纒ひたる八九歲許りの女子(をなご)、鶴の嘴の柄に

「くるくる」

と纒(まと)ひて上(のぼ)る。

 其さま地中の「ことこと虫」と云ふ物の如し。

[やぶちゃん注:「ことこと虫」「虫」はママ。不詳だが、白い色、「ことこと」が土の中にいてかさこそと音を発する程度には大きいことを意味していようから、甲虫類の幼虫のことと思われる。]

 橫に倒れて引出(ひきいだ)したり。

 之を見れば、色白く髮も又白し。然共顏の愛こぼるゝ如く麗(うるは)し。

 おさん何となく恐しげ止みて甚だ可愛く、前に抱き我宿に歸るに、物をも云はず生氣もなし。

 久しく暖めて、稗(ひえ)の粥・ふすまの湯などにて口をうるほしければ、目を明け物を云ひ出で、暫くして動き出で、這ふことも叶ひたり。

[やぶちゃん注:「稗」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta。近代まで本邦では主食穀物であった。

「ふすま」「麩」「麬」と書き、小麦を製粉したときに篩い分けられる糠(ぬか)のこと。]

 おさん嬉しく密(ひそか)に養ひて、三・四月(み・よつき)許り過しけるに、ふとりて十二歲許の女子となる。

 是よりおさんと二人連にて山に入り、薯蕷を掘るに、指圖する所甚だ妙を得て、多くいもを取得る。土の扱ひ手廻(てまは)しよく、程を知りて折ると云ふことなく、大いなる薯預の有る所を委しく敎へて、日頃三十日許も懸る仕事を、二日三日許りには調へける程に、麓の里に出(いで)て賣るに、よき價(あたひ)を得て、食分[やぶちゃん注:「くひぶち」と当て読みしておく。]に餘りしかば、

「いも掘藤五郞とやらんが富をも得べき有樣」

と、おさんは殊に嬉び、着る物など能く拵へ與へなどし、名をば「おつる」と付くる。是「鶴の嘴」を山詞(やまことば)に「つる」と云ふ。其つるに取付きし爲に得たればとて、直(すぐ)に名に用ゆとなり。

[やぶちゃん注:「いも掘藤五郞」芋堀藤五郎。加賀国にいたとされる民話上の人物で「金澤」の地名由来譚の主人公ともされる。ウィキの「芋堀藤五郎」によれば、『山芋を掘って生計を立てる欲のない人物だったとされる。藤五郎が掘り出した山芋には砂金が付いていて、芋を洗った沢が「金洗いの沢」と呼ばれたことが、金沢という地名の由来とされる。また、金沢神社のそばにある金城霊澤』(きんじょうれいたく:ここ)『が、この「金洗いの沢」であるとされている』。『金沢市南部の山科には、芋堀藤五郎を祀る藤五郎神社がある』(ここ)。『「いずみの」泉野小学校三十年の歩みと地域発展の譜籍(平成4年、泉野小学校体育館改築記念事業実行委員会著)によると、里人の話から大乗寺の西にある二王塚』(先の藤五郎神社の北東直近に大乗寺と大乗寺公園があり、神社の南西直近には満願寺山古墳群があるからそれであろう)『が藤五郎の墓だととしている』とあり、「金沢市」公式サイト内の「いもほり藤五郎」で全十一回に亙る彼の長者伝説が読める。]

 家居も少し繕(つくろ)ひて、おさんも新敷(あたらしき)着物を仕立て、立並びければ、彼(かの)「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘と云ふも、かゝる類ひにやと稱すべし。

[やぶちゃん注:『「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘』「五娘」は「五嫂」(ごさう)の誤り。初唐の伝奇小説。一巻。作者張鷟(ちょうさく 生没年不詳)は七世紀末から八世紀初めの流行詩人で、寧州襄楽県尉・鴻臚寺丞・司門員外郎(しもんいんがいろう)などに任ぜられた人とされる。物語は、作者が黄河上流に政務で向かった際、神仙の岩窟に迷い込み、仙女崔(さい)十娘と彼女の兄嫁であった王五嫂(おうごそう)という二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるという筋。文体は華麗な駢文(べんぶん)で、その間に八十四首の贈答を主とする詩を挿入し、恋の手管(てくだ)を語らせる。また、会話には当時の口語が混じっている。本書は中国では早くに散逸してしまったが、本邦には奈良時代に伝来し、「万葉集」では山上憶良が引用し、大伴家持が坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌に明白なその影響があり、その他、「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」・「唐物語」・「宝物集」などにも盛んに引用され、江戸時代の滑稽本や洒落本にさえも影響を与えている(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 されば一兩年には、隣村にも名に立つ美人の由をも云ひ立てし。

 或人の俳句に、

  薯預(いも)太き越(こし)の小里に暮したき

と聞こえしは、爰等(ここら)の事をや云ふならん。

[やぶちゃん注:一句の作者は不詳。「小里」は「こさと」「こざと」「おさと」「おざと」と読めるが、「太」に対で応じた美称の接頭辞であろう。]

 然るに二年許り過ぎて、或日此お鶴申出でけるは、

「我に白木綿(しらゆふ)の着物拵(こしら)へたべよ。金澤に出で薯蕷を賣らん」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「白木綿」白色の木綿(もめん)。

「拵へたべよ」「拵へ給(た)べよ」。新調して下されませ。]

 おさん、

「然らば我等も一所に出(いで)ん」

と云ふに、お鶴云ふ、

「先づ我れ許り出(いだ)し給へ、樣子あらん」

と云ふ。

「さらば着物は色よく染めて與へんに、好み候へ」

といふ。お鶴云ふ、

「我れ是にも樣子あれば、只白のまゝにて着るべし」

とて、白無垢にして着す。

[やぶちゃん注:「樣子」特別に考えているところにある事情。思うところ。]

 扨大薯蕷(おほいも)二三本負ひて。まだ闇きより立出で、金澤へ行去れり。

 然るに二三日立(たち)ても歸らず。六七日に及べども歸り來らず。

「金澤へは纔(わづか)に一日參りの道なれば、女足なりとも二日懸ることはあるまじ。是はいかなる事やらん」

と案じ居る。

 然れども十四五日も便りなし。おさん思ふやう、

『是は直ぐに伊勢參(いせまゐり)にても致したるにや。何とも心元なし。兎角(とかく)金澤へ出で樣子を聞かん』

と身拵へする所に、夕暮に至りて一人の武士らしき男、此白生村を尋來(たづねきた)り、

「おさん殿といふは爰か」

と云ふ。おさん聞きて、

「成(なる)ほど是(ここ)にて、私(わたくし)則(すなはち)おさんにて御座候が、何所(いづく)より御出(おい)で」

と尋ねたるに、彼武士云ふ、

「お鶴殿の姊御(あねご)にて候か。お鶴殿より言傳(ことづて)にて御座候故、尋參る」

よし申す程に、

「是は幸(さひはひ)なり、早々樣子を聞かせ給はり候へ」

といふに、侍申しけるは、お鶴殿仕合(しあはせ)の事候て、今はよき身におなりなされ候程に其元(そこもと)にも金澤へ御出(おいで)あるべし。迎へに籠(かご)にても進(しん)じ申さんや、但(ただ)步行(かち)にて御出候か」

と尋ぬる。

 おさん聞きて、

「我も金澤へ出(いで)たしと日頃用意する内なり。末寺の御庭(おには)へも御禮申度(まうしたく)も候間(さふらふあひだ)、必ず參り候べし。駕籠などは勿體(もちたい)なし、いやなり。此まゝ薯蕷を背負うて參るべし。扨其行く所はいづくいかなる所にて候ぞや」

といふ。

 侍の曰く、

「さきは御大家(ごたいけ)の事なり、今は云ひ難し。お鶴殿も『其許(そこもと)[やぶちゃん注:「おさん」のこと。]のさやうに仰せあるべし』とて、此(これ)參り候(さふらふ)品(しな)どもの候(さふらふ)、是をめして御出候へ」

とて、白木綿(しらゆふ)一疋、銀小玉五十目(め)、錢一貫文を出(いだ)し、

「是にて跡仕舞(あとじまひ)よくして、白無垢も仕立て御待ち候へ、追付(おつつ)け某(それがし)御迎ひに參り、御同道申すべし」

とて、色々内證(ないしよう)を申(まうし)含め、

「必ず他意はしたまふな」

とて、堅く約して歸りぬ。

[やぶちゃん注:「末寺の御庭」ここは自身の先祖からの菩提寺の尊称。幕府の本山・末寺制度の中で、末端の「普通の寺」を「末寺」と呼んだに過ぎない。なお、ここの「御禮」とは、結果して自分がいなくなった後の先祖の永代供養を依頼することが既に含まれているのであろうと私は考える。

「銀小玉五十目」「銀小玉」は当時の銀貨である小玉銀(こだまぎん)。小粒の銀塊で普通は豆のような潰れた形をしたものが多い。個々の大きさは不定であるが、概ね約十匁(もんめ:ここの「目」に同じ。十匁は三十七・三グラム)以下で標準的なそれは一つが五~七グラム程度であった。通常の換算では銀五十匁が一両である。

「錢一貫文」は一両の四分の一である。

「跡仕舞」里の家の後始末。

「色々内證を申含め」総ての点で内密なことと言い含め。「内證」は「内緒(ないしょ)話」の「内緒」に同じい。

「必ず他意はしたまふな」「決して他言は御無用にてあらせられよ。」。]

 おさんはとくとく聞き得て、翌日親類の末なる「およつ」なるものを呼びて、

「私は金澤へ出で、妹のたよりにてよき奉公の口もあり、又京の本願寺へも參る望(のぞみ)なれば、今立出で候ても、歸り時(どき)心もとなし。私若(も)し歸り申さず候はゞ、此家又此諸道具、皆其許(そこもと)へ遣はし申候間、村への公儀向(こうぎむけ)の所置(しよち)、御取捌(おとりさばき)これあるべし」

と、跡の事つくづく申置き、白木綿をひとへ物重ねに仕立て、山のいも苞(つと)をもよき程背負ひて待ちけるに、又々金澤より侍分(さむらひぶん)の者下人連れ來りて、

「迎ひに參り申(まうす)」

よし申入れ、銀子(ぎんす)なども持參して、跡のこと能く能く申置きて、おさんを同道にて金澤へ歸りし。

[やぶちゃん注:「山のいも苞」手土産としての山芋を沢山、藁苞(わらづと)に包んだもの。

「公儀向の所置、御取捌これあるべし」は――有意に時間が経って帰って来なかった場合は、これこれこういうことを言い残して家を去った旨、肝煎や村役人に正直に届け出て、そこで多少のお取り調べやご処置やお前(およつ)への指示などもあるだろうが、それを言われた通りにすれば、家の家財道具その他もそのままに、皆、お前のものになるだろうから安心おし――といったニュアンスであろう。彼女は山中の一人住まいで、山芋のみを掘り、それを売って生活していた、ごくごく底辺の、耕作地を持たない特別な農民であるから、所謂、逃散(ちょうさん)などの大事には発展しないと踏んだものであろう。後で判るが、おさんは公儀を含めた関係者がそのように判断するような後始末をちゃんとしており、そんな感じに受け取られるよう、金目の物その他を、事件性が疑われないように綺麗に整理してあるのである。事実、以下で、概ね、おさんの想像した通りの展開を示すこととなるのである。]

 扨およつは留守を預りて此家に移り居(をり)しに、待てども待てども歸らず。其年も暮れ、又の春にも及ぶ故、今は左ばかりも隱し包み難く、夫々手筋の人を招きて、右の次第をかたり、

「兎角おさんが家居(いへゐ)を相見(さうけん)にて改め見ん」

とてしらべ見るに、今迄少したまりたる錢金も其まゝあり、綿入・袷(あはせ)などの類(たぐひ)も相應にあり。五人前の輪島の朱椀家具、手次(てつぎ)の御坊を迎ふるとて用意せし器物(うつはもの)も、拵へしまゝにありし程に、此趣(このおもむき)村の役人へ達しければ、兎角穩便にて

「尋ねよ」

とのみの事なりしかば、三年過ぎて此およつ身拵へし、路用など調へ、金澤より京都まで尋ねに出(いで)る。

[やぶちゃん注:「相見(さうけん)」およしや近所の者などと村の肝煎が、揃って現場を立ち会い検分することであろう。]

 然るに金澤に滯留して聞合はすれども、行衞(ゆくゑ)を知りたる者なし。依りてそろそろ小松・大聖寺・三國(みくに)などへ行廻(ゆきめ)ぐり、京都へ出で尋ぬれども、是又似たる人もなし。

[やぶちゃん注:現在の福井県坂井市の三国地区。旧越前国坂井郡内。九頭竜川の河口周辺に位置し、嘗ては北前船の拠点として栄え、名勝東尋坊で有名。]

 是非に及ばす故鄕ヘ歸る道、又

『金澤に再び逗留して、今一度尋ね見ん』

と思ひ、人立(ひとだ)ちある所を聞合はすに、其頃犀川の橋の上(かみ)覺源寺と云ふ寺の門過ぎて、藤の花多く咲く宮ありて、時しも開帳にて伺やらん見物することもあるよしにて、人々多くこぞり押合ひ行くに、

「いざや彼のかたを尋ね見ん」

と、そろそろ犀川の堤を上(かみ)に步み行くに、新竪町(しんたてまち)とやらんの後ろあたりにて、向うより下女に小者連れたる町方の内儀と見えて、美々しく拵へて、進物の包など多く下男に持たせて通る者を、行違ひさまに是を能く能く見れば.彼(かの)尋ぬるおさんなりしかば、大いに驚き聲を懸けて、

「やれおさんさか。何をして居る事ぞ」

といふに、おさんはおよつを見て大いに驚き、

「先々(まづまづ)靜(しづか)に物を申し給へ」

とて、近所の密かなる所をかりて、彼(かの)およつを伴ひ、密(ひそか)に申しけるは、

「今は斯の如き身になりたり。左に候へば、跡の家居諸道具は其許(そこもと)御取候て、村へは沙汰なしにして給はるべし」

と、吳々(くれぐれ)賴みける程に、およつも安堵して、

「村には何の替ることなし、只行衞を案じ、自分(おのづ)と尋ねに出でたる」

よし申す程に、おさんも心打解けて、内諸吳々語り、

「お鶴ことはふしぎの者にて、彼(か)の山にて拾ひたる女なりしが、因緣如何なることにや、金澤へ白無垢を以て薯蕷賣(やまいもうり)に出で、或大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ、其緣を以て自らも白無垢にて金澤ヘ出で、町家の何某(なにがし)の女房となりて、お鶴は私の妹なるよし、慥(たしか)に急度(きつと)請け合ひて事濟み、さばかりの大人(だいじん)の御内室樣(ごないしつさま)に定まりたり。此上は其(その)元(もと)必ず隱し包み給へ、以來とても密(ひそか)に米・錢なども續け申さん」

とて、相應の土產物(みやげもの)を吳れて口を留(とど)めて歸しける。

 およつは寳達の麓の里に歸りて、村人小役の者などへ土產をすそわけして、彼(か)の家に住みて今に富榮(とみさか)ふるよし。お鶴・おさんの二人は、世上へは奉公に出でたる分(ぶん)にて事濟めども、内證には通路もあり。各(おのおの)知りたることゝて、其家跡を指して能州の路人(ろにん)委しく語りき。

[やぶちゃん注:「人立(ひとだ)ちある所を聞合はす」特に今、多くの人が参集する場所はないかと人に聴いたところ。

「覺源寺」石川県金沢市菊川にある浄土宗覚源寺。犀川右岸直近で、しかもすぐ角の交差点の名は「川上広見(かわかみひろみ)」で本文の「犀川の橋の上」(現在、近くの犀川に架かる菊川橋がある)とよく合う。この「上」は堤を歩くシーンでも用いられているが、「北」のことを指すのではないかと思われ、或いは「金沢城の方角」の意でも矛盾がない。

「藤の花多く咲く宮」不詳。そこを目指して歩く途中の「新竪町」で「おさん」とめぐり逢うわけだから、「新竪町」かその先にある神社でなくてはおかしいことになるが、どうもそれらしい神社は見当たらない。先の注に出した芋堀藤五郎の金城霊澤の隣りの金沢神社は、現在、藤の花が美しく、しかも最も大事な例大祭がその季節であるから、それを考えたが、グーグルアースを見ると、覚源寺から金沢神社は今は見えないようであるが、この文章、必ずしも藤の花やお宮が見えずともよい。そういう話を聴いたというのだから。一つの候補としては挙げておいてよいか。

「新竪町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「能州の路人」能登国へ行き来する、とある人。]

 思ふに桂(かつら)の精は女と化して明帝にまみえしためし。「ばせを」の女は僧家(そうか)に宿りしとやらん。日本にても「かくや媛(ひめ)」は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、竹とり物語にも聞えし。竹の子・山の芋共に筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交りなれば、出世の例(ためし)眞(しん)にあたれり。此末(このすゑ)串海鼠(くしこ)・靑山椒(あをざんせう)も心に留まる世なりけめ。浦島の龜・保名(やすな)の狐、何れも妻となる因緣にや。されど「つれづれ草」には、土大根の精勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して敵(かたき)を防ぎ守る由聞えたれば、精魂何とてか化せずんばあらず。されば淸正房の山伏は加藤虎之助と化し、武田信玄は由井正雪と再生せしとは、化(か)しそこなひの類ひにや。假令(たとひ)同じ物にても、伊勢道者(いせだうじや)の錢は蛇となり、作太郞が錢は蛙(かはづ)となるとや。いかなることなりともとは云はれざることながら、慥にきのふけふ聞えし白生女郞の事は、正しく薯蕷の化したることは奇なりと云ふも餘りあり。其事はまのあたり證據ある事とやらん、委(くはし)くは書とゞめず。其障りあらんことの外聞を恐れてなり。是ぞ山の芋のお内儀になるとは、かゝるためしにこそと思はるれ。されば自然生(じねんじよ)のおさんが傳記、あらまし斯くの如し。化(くわ)、化(くわ)、何をか正(ただ)しとせん。例の三世の定(さだめ)に入りて、暫く一見を赦し給へ。

[やぶちゃん注:「桂の精は女と化して明帝にまみえし」う~ん、読んだ記憶があるのだが、何に出ていたどんな話か思い出せない。識者の御教授を乞う。なお、日本の桂はユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum を指すが、中国の「桂」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii を指し、全くの別種である

「ばせをの女は僧家に宿りしとやらん」唐の楚の湘水というところに山居する僧が、夜、「法華経」を読誦していると、一人の女が結縁を求めて来て消え失せ、後ジテで非情とされる植物である芭蕉(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の精であると告げて舞を舞って消え去って「花も千草もちりぢりになれば 芭蕉は破れて残りけり」と終わる、金春禅竹作の複式夢幻能を指している。台詞を含め、より詳しくは、『宝生流謡曲「芭蕉」』のページがよい。「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」の私の注で細かく記してあるので参照されたいが、そこで示したように、この元の話は作者不詳の元の志怪小説集「湖海新聞夷堅續志」の「後集巻二 精怪門 樹木」の「芭蕉精」が元とされる。但し、他にも南宋の「夷堅志」に芭蕉の怪異の話があり、同書の「庚志巻六」の「蕉小娘子」、「丙志巻十二」の「紫竹園女」は芭蕉そのものが精怪になって出現する話である。

「かくや媛(ひめ)は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、竹とり物語にも聞えし」ブー! 皇后にはなっていませんよ! 麦水はん!

「筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交り」「筍羹」は、てっきり麦水が「管鮑の交わり」の「鮑」に引っ掛けて洒落た熟語だと思っていたら、小学館「日本国語大辞典」に「筍羹」として載ってた! 『筍を切って、鮑(あわび)』(!)、『小鳥、蒲鉾(かまぼこ)などと色よく煮含めて盛り合わせた普茶料理。節を抜いた筍に魚のすり身を詰めて煮たものもいう。しゅんか』で季語は夏だそうだ! 寛永二〇(一六四三)年刊の「料理物語」に出ており、サイト「江戸料理百選」のこちら(作り方有り)によれば、これは既に室町時代に流行していた筍の煮物だそうで、『冷めてから食膳に出された料理なので、別名、煮冷(にさまし)とも言われていた』とある(そうか! それで夏の季語なわけだ!)。『しかし』、享保一五(一七三〇)年刊の嘯夕軒・宗堅他の著になる「料理網目調味抄」に『なると、筍に限らず、菜類を中心に、海老、いか、あわびなどを加えた煮物のことになっている』とある。「料理昔ばなし」のこちらでは明らかに新春のそれとして「筍羹」(作り方と写真有り)が載ってます。これら見てると、うん、これに山芋かけて食べてもよかとデショウ!

「串海鼠(くしこ)」腸を取り除いた海鼠(なまこ:棘皮動物門ナマコ綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコApostichopus armata)を茹でて串に刺して保存できるように干したもの。ナマコの食用の歴史は古く、奈良時代には既にナマコの内蔵を抜いて煮干に加工した熬海鼠が(いりこ:この「くしこ」と基本的には同じような処理をしたもの)がまさにこのロケーションである能登国から平城京へ貢納されており、平安時代には海鼠の内蔵を塩辛にした海鼠腸(このわた)が能登国の名産物として史料に早くも登場している。則ち、現在に至るまで能登は海鼠の名産地なのである。

「靑山椒(あをざんせう)」初夏の実山椒は塩漬けにしてよう食べた。辛みがたまらんね。「心に留まる世なりけめ」という謂い添えからは、麦水は食には保守的で、ゲテモノではないものの普通でない「串海鼠」のような処理保存食や、ぐちゃぐちゃ詰めた非時期物(筍は夏じゃないでしょう)はあまり好まないタイプの人物であったのかも知れない。

「保名(やすな)の狐」安倍保名(やすな)。古浄瑠璃「しのだづま」の登場人物で摂津阿倍野の武士。和泉の信太(信田:しのだの)森で陰陽師芦屋道満の弟石川悪右衛門に追われた狐を助け、狐の化身の女「葛の葉」と結ばれて、二人の間に生まれた子が安倍晴明であるとされる。最も知られるのは「蘆屋道満大内鑑」であろう。

『されど「つれづれ草」には、土大根の精勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して敵(かたき)を防ぎ守る由』「徒然草」の第六十八段。

   *

 筑紫に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を、

「萬(よろづ)にいみじき藥。」

とて、朝(あさ)ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。

 或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來て、圍み攻めけるに、館の内に兵(つはもの)二人出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な召しつる土大根(つちおほね)らにさぶらふ。」

と言ひて失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。

   *

「押領使」は平安時代に諸国に設置された令外の官の一つ。「押領」は「引率する」の意で、地方の内乱・暴徒鎮定・盗賊逮捕などに当たった。後に常設化された。「土大根(つちおほね)」ダイコン。

「淸正房の山伏は加藤虎之助と化し」強力な日蓮宗信者であったかの加藤虎之助(介)清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)に対する、死後に発生した一種のファナティクな御霊信仰的再生伝承で「清正公信仰(せいしょうこうしんこう)」と音読みする。ウィキの「清正公信仰」によれば、清正の死から半世紀ほど過ぎた寛文年間(一六六一年~一六七三年)に成立した「続撰清正記(ぞくせんきよまさき)」に、清正は、その昔、六十六部の「法華経」を全国に納めることを成就した回国の聖「清正房(せいしょうぼう)」の生まれ変わりである、加藤清正の没後に廟の工事をしていると』、『清正房の遺骸の入った石棺が見つかったとする伝承を紹介している。同書の著者はこの伝承は史実ではないと否定しているものの、清正の没後』五十『年にしてこうした伝承が伝えられるほどの清正公信仰が既に成立していたことを示している』とある。

「化しそこなひの類ひにや」これは確かに清正と正雪の最期を知るに突っ込みたくはなるね。

「伊勢道者の錢は蛇となり」「柴田宵曲 續妖異博物館 錢と蛇」の本文と私の注をご覧戴きたい。

「作太郞が錢は蛙となるとや」原話を知らない。識者の御教授を乞う。一つ、山形の民話でサイト「日本むかしばなし」に載る「人が見たらカエルになれ」(銭緡(ぜにさし)に対して)という話があるのは見つけた(但し、これにはオチがあり、これは実際には銭が蛙に化したのではない)。

「白生女郞」「しらおじょろう」(現代仮名遣。「しらお」は前に注した)と読んでおく。女郎は単に(但しやはり卑称性はぬぐえないが)「女性」「少女」の意でも使う。

「其障りあらんことの外聞を恐れてなり」「おさん」は「町方の」かなり裕福な「内儀」となっており、それどころか、「お鶴」は、ある「大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ」というのだから当然である。

「化(くわ)、化(くわ)、」大笑する「呵、呵」に引っ掛けたか。但し、そちらだと歴史的仮名遣は「か、か」になる。にしても私はマズいとは思わないがね。

「三世の定(さだめ)」六道を輪廻する前世・現世・後世の再生の因業。その因果(例えば「お鶴」は何故、山芋から大名の寵愛者になれたのかということ)は実は凡夫には判らぬわけで、さればこそ一つ奇っ怪な話という程度のものとして「暫く一見を赦し給へ」(管見下されば幸いで御座います)と遜ったのである。]

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一時下げである。それのため、改行は行わず、この後に一行空けた。]

 

 此話は此十年許りの間とかや。證もある事とて不審がられしに、傍(かたはら)に物產先生あり。辨じて曰く、「是(これ)必ずあるべき事と思はる。山の芋年久しうして『大乙禹餘𩞯(たいいつうよりやう)』となると聞く。實(げ)に土のねばり、此(この)薯蕷に似たり。大乙禹餘𩞯强氣(つよきき)を請(う)くる時は、生物となると聞えたり。「おさん」薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈(あに)別に替りたる論ならんや。曾て聞く、外國に婦人のみ住む國あり。歸人子を求めんと欲(ほつ)しては、必ず井(ゐ)を覗きて影を移す。終(つひ)に孕みて女子を產すと聞えたり。おさん一婦(いつぷ)家を守る、一心只寳達の穴中に臨む。低向(うつむ)きて影をひたし、意を爰に留(とど)む。此時若(もし)大乙禹餘𩞯に化する薯蕷あらんには、陰氣を請けて生物を生ずるの理(ことわり)、豈なくて叶はざらんや。士中に向ひて化人(けにん)を求むること、別に珍らしき理とも思はれず」と、扇(あふぎ)「きりり」と廻して聞えぬ。予是を聞きて、『是も又奇談なり』として爰に書留(かきとど)む。是より彌々(いよいよ)能州に杖をつきて、北浦(きたのうら)の極(きはみ)を探さんとす。七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん。

[やぶちゃん注:「物產先生」一種の地方の博物学者である。

「大乙禹餘𩞯」中国の聖王「禹」の食べ残したもの、「大乙」は(「大一」「太乙」とも書く)古代中国に於ける宇宙の根元を神格化したもの。特定の超越的存在者が食べ残したものが化石などになり、際限なく増殖或いは再生することにより永遠に存在し続けるとするのである。こうしたものへの原始信仰は世界的に広く見られる。

『「おさん」』が「薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈別に替りたる論ならんや」「おさん」が孤独に一心に山芋を掘り続けた、その強い一念が、一心に土の中に「精」を入れ込み、その歳月が重なるに従って、遂に「人」(この場合、妹と称する「お鶴」)に変化(へんげ)して人と化して生まれたことは、どうしておかしな論であろうか、いや、正当な論理である。

「七窪」能登半島の南の端に、現在、石川県かほく市七窪(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。

「高松」現在、石川県かほく市高松がある。ここは「七窪」の北であるが、現行の行政区域で問題とするに足らない。

 というわけで、「三州奇談續編卷之二」は終わっている。それにしても、本篇は「三州奇談」の中でも異様なまでの長文で、草臥れたし、読み終えてみても、それほど面白い奇談でもない。麦水に、やや失望した。……正直言うと(言っておくと、この続編は読みながら電子化しており、過去に読んだことはないのである)……だんだん面白くなくなってきたなぁ……

2020/05/15

三州奇談續編卷之二 氣化有ㇾ因

 

    氣化有ㇾ因

 越中射水郡(いみづごほり)和田川といふあり。步渡(かちわた)りながら古戰(ふるきいくさ)の氣(き)あり。「木船の城」と云ふは、先段にも記す如く、地震の爲に地陷(おちい)りて今はなし。此城初めは石黑左近と云ふ者籠りし所と云ふ。其頃鎌倉將軍の御代と聞きし。其後和田合戰一亂終りて、木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ。故に越中多く「巴塚」と稱するあり。此和田川の川邊(かはべ)り蔓草(つるくさ)悉く力あり。葛(くづ)・蔦(つた)・葵(あふひ)・ぬかごの類(たぐひ)迄も、他に比すれば悉く肥えて甚だ異なり。山人(さんじん)葛などを以て柴を結び、或は重荷の「荷(にな)ひ繩(なは)」にして歸る。甚だしきものは蔓を以て、家居(いへゐ)のしまりにするともいへり。里俗

「是(これ)巴御前(ともゑごぜん)の執心なり」

とて「巴蔓(ともゑづる)」と云ふ、又妙なり。山中(やまなか)成(なる)べし。桃妖(たうえう)が

 山人の晝寢をしばれ葛かづら

と云ひて、ばせを翁の感を請けしは此咄(このはなし)に依りて案じたりと聞けり。

 又此渡りに德萬(とくまん)村と云ふあり。堂を建つるに、崇(たか)くして岩神(いはがみ)と云ふ產神(うぶすながみ)あり。此堂は岩を見立て、其上に堂を建つ。其岩年々大きくなり、五年許りにしては、堂を建て替へざれば堂傾くと云ふ。四十年許にては岩一倍に成りしを見ると、所の人の口實(こうじつ)なり。

 是は此里に往昔岩上德摩(いはがみとくま)と云ふ者住みにけり。領主などの如き者にやありけん。自ら身甚だ肥大にして、却りて是を愛す。召遣ふ所の婢妾奴僕(ひせうぬぼく)も、皆肥えふくれたる者にあらざれば愛せず。身終る迄是を求む。死して氣(き)岩に化すと云ふ。然れども何れの世なりけん、傳記とても傳はらず。俗諺と覺えたり。

[やぶちゃん注:表題は「氣(き)、化(か)するに因(いはれ)有り」と訓じおく。

「射水郡和田川」「西住の古碑」の注で示したように、現在の大門地区の西で庄川に合流する和田川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧流路(現在とは庄川の流路自体が大きく異なる)。

「木船の城」「縮地氣妖」を参照。富山県高岡市福岡町木舟にあった木舟城。

「石黑左近」ウィキの「木舟城」によれば、元暦元(一一八四)年、木曾義仲に従って前年の「倶利伽羅峠の戦い」で活躍した越中国の豪族石黒光弘によって築かれ、以後、石黒氏が治めたとあって、鎌倉時代の事跡はよく判っていなようである。文明一三(一四八一)年八月、『越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで』、『越中一向一揆勢の瑞泉寺門徒らと戦うが』、『敗退(田屋川原の戦い)。光義ら一族は安居寺で自害し』、『石黒氏本家』は衰退し、『その後』、『徐々に木舟石黒氏が勢力を強め』た。天文年間(一五三二年~一五五四年)には『木舟城主石黒左近将監が越中国安楽寺城を攻めて城主高橋與十郎則秋を討っている』。永禄九(一五六六)年、『城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館並びに越中国勝満寺を攻め、これらに放火している』(中略)。後、天正二(一五七四)年七月、『上杉謙信に攻め落とされて臣従した』とあって、天正五(一五七七)年十二月二十三日に書かれたと考えられる「上杉家家中名字尽」に『石黒左近蔵人(成綱)の名が見える』とある。しかし、天正六(一五七八)年、『上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方についた』。天正八、九年と二度に亙って『一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち』にし、結果、『焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされ』て奪われ、同天正九年七月に『成綱を始めとする石黒一門』三十『人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図』ったが、『近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)』とある。麦水は「初めは」と言っているが、彼の言う「石黑左近」はずっと後の、この石黒成綱(?~天正九(一五八一)年:通称は左近蔵人)との混同が生じていると考えるべきであろう。

「和田合戰」建暦三年五月二日から三日(ユリウス暦一二一三年五月二十三日~二十四日/グレゴリオ暦換算五月三十~三十一日)にかけて発生した鎌倉幕府初期の内乱。三浦義盛を筆頭とする和田一族が執権北条義時の策略によって滅ぼされた。その経緯と詳しい戦闘は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白狀 竝 和田義盛叛逆滅亡」の、

〈泉親衡の乱〉

〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉

を読まれたい。

「木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ」私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」を見られたい。そこで本文にブスの坂額(ばんがく:越後の平家方豪族で建仁元(一二〇一)年一月から五月にかけて実兄城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱に参加した女傑武将。但し、「吾妻鏡」の板額姐さんは超美人と出るから不当! なお、名前の表記は後世に「板額」に変化してしまう)と比較するところで、「和田義盛は木曾義仲の妾(おもひもの)巴女(ともゑ)を妻として、其力(ちから)を傳へて、淺比奈義秀(あさひなのよしひで)を生みたり。當時大力(ちから)の剛(がう)の者と世にその隱(かくれ)なし。是は美目善き女なり」と出るので、注をしてある。再掲する。ウィキの「巴御前」によれば、巴御前は義仲の妻と称されることが多いが、便女(びんじょ:武将の側で身の回りの世話をする下女。)であって、妻ではない(義仲は京で松殿(藤原)基房の娘藤原伊子(いし)とされる人物を正妻としている)。従って「妾(おもひもの)」という記載は正しい。一般には、義仲の討死の直前に別れて、消息不明となったとされるが、生きのびたのか、その消息は判らなくなったとされているが、「源平盛衰記」では、『倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされて』おり、『宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り』、九十一歳で生涯を終えた、という後日談が語られる。また、義仲と別れた際の彼女の年齢については、「百二十句本」で二十二、三歳、「延慶本」で三十歳程、「長門本」で三十二、この「源平盛衰記」では二十八歳としている、とある。

「蔓草」蔓(つる)植物。草本性蔓植物と木本性蔓植物がある。以下のクズ・ツタ及び「むかご」の本体植物であるヤマイモ類もそれらに含まれる。

「葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata

「蔦」ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata

「葵」本邦では古くはアオイ目アオイ科 Malvaceae の内、概ねゼニアオイ属 Malva・フヨウ属Hibiscus に含まれるものを指すことが多い。

「ぬかご」本来は自然薯(じねんじょ=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica)・長芋(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya)などの葉腋に生ずる栄養体である緑褐色を呈する珠芽を指すが、ここはその本体の蔓部分。

「家居のしまり」家の戸締りのための内側の諸器具を固定する括り縄。

「山中(やまなか)成(なる)べし。」ここは句点ではなく、読点であるべきところ。「山中温泉でのことであるが、」と続くように読まないとおかしいからである。

「桃妖」(現代仮名遣:とうよう 延宝四(一六七六)年~宝暦元(一七五二)年)は俳人で加賀山中温泉の旅宿「泉屋」の主人。通称は甚左衛門。別号に桃葉。元禄二年七月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年九月十日)にこの泉屋に到着して泊った松尾芭蕉から桃妖の号を送られた。但し、当時は未だ十三歳の美少年で、名は久米之助であった。享年七十六歳。著作に「首尾吟」。「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗敎 第六節 俳諧」の彼の父でやはり俳人であった又兵衛の逸話と息子桃妖の話を載せるので(頭書「泉屋又兵衞 桃妖」)以下に引いておく。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

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山中温泉の浴樓に泉屋又兵衞といひしものあり。諱は武矩、長谷部氏又は長氏を冐す[やぶちゃん注:「ばうす(ぼうす)」。姓を勝手に名乗る。]。洛の貞室曾て一面の琵琶を得たり。筐に南北と篆書し、四面に梅鶯鶴月の圖を描く。貞室之を愛すること深く、彼が山中に來りしとき日夕翫賞せり。又兵衞その名器なるに感じ、伊勢の望一が所藏したる南北にあらざるやと問ふ。貞室何を以て之を知るやを質しゝに、又兵衞は、望一が天滿宮に奉納せる獨吟百韻に、『梅ならば南の枝や北野殿。飛ぶ鶯の跡を老松。長閑なる光に鶴の羽をのして。月にほこりを拂ふ高窓。』とあるにより、所愛の琵琶を南北と名づけ、四絃を梅鶯鶴月と銘したることを以て答へたりき。是に於いて貞室は、自ら俳諧を知らざりしが爲に、田舍翁の愧かしむる[やぶちゃん注:「はづかしむる」。]所となりたるを思ひ、洛に歸りたる後、貞德に學びて遂に巨匠となれり。さればこの一村判詞を求むるものあるも、貞室は決して朱料を受くることなかりしといふ。この譚、奧の細道歴代滑稽傳に載せらるゝも、遲月庵空阿の俳諧水滸傳の記事を最も委しきものとす。芭蕉のこの地に至りて泉屋に泊するや、又兵衞既に死し、子久米之助家を繼ぎしが、彼は尚小童たりしも、能く俳諧を解したりき。芭蕉乃ちこれに桃夭の號を贈り、『桃の木のその葉ちらすな秋の風』と祝福せり。葢し詩經周南の桃之夭々其葉蓁々より採りしなり。而もこの後久米之助が常に桃妖の字を用ひたるものは、夭字に短折の義あるを忌みたればなるべく、楚常の卯辰集に桃葉に作り、句空の草庵集及び北枝の喪の名殘に桃蛘に作るも亦彼にして、所居を桃枝齋又は宿鷺亭といへり。その遠逝は寶曆元年十二月廿九日にして、周孝桃妖居士と諡せらる[やぶちゃん注:「おくりなせらる」。]、享年七十六。『山人の晝寢をしばれ蔦かづら。』『水鳥の藪に聲あり夜の雪。』等の吟あり。[やぶちゃん注:以下、次のページで、ここで突如別れることとなる曾良のその後の行程が書かれてある。]

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さても、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅』の、

「69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ」

「70 桃の木の其の葉ちらすな秋の風」

「71 いさり火にかじかや波の下むせび」

「72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別」

「73 湯の名残今宵は肌の寒からむ――タドジオとの別れ」

も是非お薦めである。……芭蕉は元禄二年八月五日(グレゴリオ暦一六八九年九月十八日)、八日間も滞在した山中和泉屋を発った。……「奥の細道」では「曾良は腹を病みて、伊勢の國、長嶋と云ふ所にゆかりあれば、先き立ちて行く」とあるが、……事実は違っていて、「曾良随行日記」によれば、……金沢から見送りのために同道して山中温泉にも同宿していた立花北枝とともに、同日の『晝時分』に芭蕉が先に那谷寺へと発ち、……曾良はその後、程なく山中を発っているのである。……これは奇妙と思わない人の方がおかしいだろう。……そうして、何を隠そう、この桃妖の存在こそが、長い間同行二人であった曾良が、芭蕉とここで別れることになる原因を作っているのである。以上のリンク先でそれを見られたいのである。

「山人の晝寢をしばれ葛かづら」「石川県史」との齟齬でお判りの通り、本句は「續猿蓑」の「龝草」(しうさう(しゅうそう)/あきくさ)の部に、

 山人の晝寐をしばれ蔦かづら 加賀山中桃妖

の形で出るので「蔦」(つた)の誤りである。「山人」は「やまひと」或いは「やまびと」で、山男・山女・山姥(やまうば)・山童(やまわらわ)などの、山に住む人型妖怪の総称である。「ばせを翁の感を請けしは此咄に依りて案じたりと聞けり」と、まさに『桃「妖」にしてよく言い出したり』と芭蕉が諸手を挙げて喜んでいるさまが見えるようだが、それが前の「巴蔓」を元にして詠んだのだ、というのは少し出来過ぎた話で鼻白む感じが私はする。

「德萬村」現在の砺波市徳万(とくまん)(グーグル・マップ・データ)。芹谷の西方と南方に位置する。

「岩神と云ふ產神」個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「五社神社」に、『この神社は県民公園頼成の森の西北西約2kmに鎮座しています。水田地帯の突き当たり、庄川が作った河岸段丘の下に鎮座するこの社の鎮守の杜は市保存樹林指定を受けており、遠くからその豊かさが確認できます。社名は「五社神社」ですが、入口の鳥居には「岩神」と刻まれた石の額が掲げられています』。『この社の南東約1kmに有る千光寺(真言宗)の守護神は、石動山の伊須流岐比古神社(五社権現)であったといわれ、昔の千光寺の参道入口は、庄川の方に1kmほど下った辺りにあったようなので、この社は明治の神仏分離で独立し、「五社神社」となった』ものか? とされ、『この社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明』とある(写真有り)。他にも調べてみたが、そのような隆起現象は少なくとも現在は認められないようである。川の中のある種の堆積岩や激しい活動をしている火山地形ならいざ知らず、普通の沖積平野にあるただの岩が有意に成長肥大するというのは非科学的である。

「一倍」現在の二倍という意味か。

「口實」単なる言い草で事実ではない、の意か。

「岩上德摩」読みは『北日本新聞』の二〇一五年八月七日附の記事「岩のご神体すっきり 砺波・徳万の五社神社」に従った。そこに、『五社神社は古くから「岩神の宮」と呼ばれ、鳥居に「岩神」の社額が飾られている。同神社には「岩上徳摩(いわがみのとくま)」という長者の伝説があり、太っていた徳摩が亡くなった後で岩になり、その上に堂が建てられたという。岩は年々大きくなり、5年ほどで建て替えないと堂が傾いてしまうと伝わる。伝説は江戸期の加越能の奇談を収めた「三州奇談」に記されている』。『ご神体は神殿に安置され、1955(昭和30)年ごろにお身ぬぐいを行った後、地元住民も見ることができなかった。1913(大正2)年に近くにあった稲荷社が合祀されて100年が経つことから、毎年8月6日に行っている「六日祭」に合わせて、お身ぬぐいを行うことにした』。『手袋とマスクを着けた氏子が、拝殿と神殿をつなぐ階段を順番に上り、黒田紀昭宮司からおはらいを受け、ご神体の岩をきれいに拭いた。氏子の有志が神殿と拝殿、鳥居のしめ縄を奉納した』とあるから、御神体が事実、岩であることが判る。この記事以外に岩上徳摩という人物についてはネット上に情報はないようである。]

 又此隣村の芹谷の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]の前には、細川勝光[やぶちゃん注:以下もママ。後注冒頭参照。]の塚あり。此所に稀れに兩面の蟹(かに)・蛙(かはづ)ありと云ふ。折々見たる者もあり。死したるを乾かして持ち傳へたる者もあり。怪しき物なりと聞えたり。今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども、此山の打越え飛驒の國の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]は、兩面宿禰(りやうめんすくな)出でしこと年代記に見えたり。兩面の男子にして、這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし。又思ふに、「細川勝光は其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ。今勝光が塚に蟾を出し、怪蟹(くわいけい)を出(いだ)すと聞くは、此氣の化したるも計り知り難し。變化(へんげ)は是より渠(かれ)に化し、渠又是に化せざれば、化の理(ことわり)叶ひ難しと聞きし故に、鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる話もあり。鶉(うづら)の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化(きくわ)にやあらん。

[やぶちゃん注:どうもこの部分、気に入らない。素人の私でさえ少なくとも後者の「飛驒の國の千杲寺」は「千光寺」の、「細川勝光」は「細川勝元」の誤りとしか思えないのに(孰れも本文中に二ヶ所もあるのに、である)、平然とこうしてあるということは、特に後者は有名人で気づかなかったはずがないとさえ思われてくるのである(日野富子の兄が日野勝光だが、室町史に冥い私でさえ間違いようはないぞ?!)。何故、ほかでは大々的に手を加えて校閲している日置謙氏がそれをかくもそのままにしておいたのかが大いに不審であり、不満であるからである。「杲」は「光」の書写或いは判読の誤りともとれなくもないが、千光寺は古く「千杲寺」と書いたなどとは公式サイトにも載らない。『堅いこと言わずに。「杲」には「日の光が明るいさま」の意があるからいいんじゃないか?』などとのたもう御仁がいるなら、それは絶対にダメなのである。何故かって? 「千光寺」の歴史的仮名遣は「せんくわうじ」、「千杲寺」のそれは「せんかうじ」で漢字としては意味は酷似するとは言えど、致命的に違う別な字であるからである。さあ! 万一、両方の千光寺或いは一方を嘗ては「千杲寺」と書いた、細川勝元ならぬ「細川勝光」という歴史上知られた人物が実在し、その人が勝元と同じくガマガエルの化身だったという証左をお持ちの方は是非とも御連絡戴きたいものである!

「芹谷の千杲寺」少なくとも現在は「千光寺」である。別名、千光眼寺。富山県砺波市芹谷にある真言宗芹谷山(せりたにざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「千光寺(砺波市)」によれば、開基は大宝三(七〇三)年とされ、『彌勒山安居寺(南砺市安居)とともに砺波地方でもっとも古い寺とされる。浄土真宗の多い富山県にあって真言宗の寺院は珍しく、その中でも特に古い伝承と多くの寺宝を保持しており、越中真言の古刹として著名である。また、閻魔像を安置する寺としてもよく知られる』。『天竺(インド)の僧法道円徳上人』(後述される)『の開基。桓武朝以後』、七『代に亘り皇室勅願所であった。上杉謙信侵攻の際焼失。その後』、元和四(一六一八)年の『火事で再度被災した。豊臣秀吉の越中平定のとき、復興を命じ禁制朱印状(現存)を下した。以後加賀藩の祈祷所となり』、『寺領安堵され』、『現在に至る』。『法道仙人は天竺(インド)の霊鷲山に住む五百時妙仙の一人で、日本に渡来したという伝説上の人物である』。『法道開基の寺は北陸では能登の石動山や越後の米山、越中では砺波市の千光寺(真言宗)のほか、氷見市の大栄寺(浄土真宗)、上日寺(真言宗)、小矢部市の観音寺(真言宗)などがある』とある。

「細川勝光」以下の『「其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ』(「その本性(生まれつき与えられた真の姿)は人間ではなくヒキガエル(本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよい(以下に述べる中国産種はヒキガエル属ではあるが、別種である)。「卷之一 蛙還呑ㇾ蛇」に後足が一本の前足とで三本の蛙が登場したが、捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されており、それを形象した置物も作られて売られている。ヒキガエルは妖怪としての巨大な怪獣であったり、妖気を吐いて人を誑かしたり、襲って食ったりする伝承や言い伝えは中国でも本邦でも枚挙に遑がなく、私のこの「怪奇談集」にも複数既出である。例えば、「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」と、その次の「北越奇談 巻之四 怪談 其十四(大蝦蟇)」(驚くべき大きさの「仮面の忍者 赤影」で見たような巨大蝦蟇(がま)の挿絵有り)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」も参照されたい)であり、それが人に姿を変えていたものなのだ」と言う)話から、これはかの「応仁の乱」の一方の張本で東軍総大将であった細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年しかいないわけよ! だけどね! 麦水さんよ! 細川勝元の塚がなんでこないな場違いな所にあるのかを探らずして、突然、言い出すのはどう考えてもおかしいだろ?! 何の関係もなかろうが?! ネットで調べても、今、この砺波の千光寺に細川勝元の塚なんか、ないぜ? あったら、嘘臭くても、誰かが採り上げて「おや!?! コンナところに細川勝元の塚がある!?!?」と絶対書き立てるはずだもん! それともやっぱり「細川勝元」でなくて「細川勝光」なる別人だと仰せかい!?! 何んとか言えや! 麦水!

「兩面の蟹・蛙」顔を二つ持った蟹や蛙。頭部の結合双生個体奇形。ヒト・ヒツジ・ヘビなどで時に知られるが、カエルのケースは想像できる(三つの個体が腹部で一部が繋がってしまったまま成体になったカエルの国外の事例が動画(ニコニコ動画)で見られる。視聴は自己責任で)ものの、蟹の双頭というのは頭部自体が非常に狭いから、ちょっと考え難い。柄眼が四本並んでいるということか? それでも「National Geographic」の「動物の奇形:3つ目のカニ、双頭のカメ」(画像有り。自己責任で。但し、それほど衝撃的ではない)に『目が3つ、鼻が2つ、頭から触覚が1本生えている生き物がニュージーランドで見つかった。8月に「Arthropod Structure & Development」誌で紹介されたヤワラガニの一種で、学名Amarinus Lacustrisと呼ばれる沢ガニの珍しい奇形だ。「3つ目」のカニの奇妙な体と脳の異常は、複数の奇形が重なった結果だと思われる。まず、体の一部が2匹分存在するというシャム双生児(または結合双生児)の特徴として、第3の目がついている。また、カニは目を損傷すると新しい目を再生する能力があるが、それがこの場合はうまく再生できずに触覚となって生えてしまった』とある。しかし、この解説はやや不満がある。甲殻類の場合は、眼よりも遥かに触覚の方が生活するに際して利用度・必要度が高い。しかも触覚と柄眼は多くの種ではごく近くにある。そのため、再生領域の認識を誤るか、或いは確信犯で眼(柄眼)を一つ欠損した場合にはある程度の確率で同じ部分に触覚が再生してくるのである。この場合、それを再生不全・奇形と見るか、実用的な意味における補完再生と見るかは、研究者によって見解が異なるものと思う。私はその三本目の触覚の再生する事実を高校時代に生物の再生に係わる参考書で実験結果の図を見て以来、非常に印象に残って今も脳裏を去らないのである。私はそれを奇形再生・誤再生とは思わない。生物体自身が実用度を勘案した結果として選んだのがそれであって、それは立派な正常な補完再生であると考えるからである。なお、私は生物再生では全くのド素人ではない。私は高校時代に演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、生物部ではイモリの手足を切断して再生実験を繰り返し行った。残念ながら、水槽の汚染を防ぐための抗生物質の投入が予算上出来なかったために、多くの個体を感染症のために死に至らしめてしまったが、中でも一体、体部の切断面から複数の指状のものが伸びてきて再生する様子を見せつつ、そこで再生がとまった個体があった。その子は永くそのまま元気に生きていた。

「怪しき物なりと聞えたり」奇怪な生きた生物体であると聴いている。「存在が怪しい物」=「偽物」の意ではあるまい。そういう意味で突き放した場合は、以下の「今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども」という謂い方はしないからである。

「此山の打越え」あのねぇ……南東の峨々たる山脈を幾つも越えて……五十四キロメートルも先にある寺をこうは言わないと思いますがねぇ……

「千杲寺」これも「千光寺」の誤り。飛驒千光寺が過去に「千杲寺」と書いた事実はない。岐阜県高山市丹生川町(にゅうかわまち)下保(しもぼ)にある真言宗袈裟山(けさざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。なお且つ、前の芹谷の千光寺とは同じ真言宗であるだけで、何の関係もない。両面蟹や両面蛙と両面宿儺を牽強付会するには、遥かに遠く、遥かに無縁、遥かに致命的に馬鹿げている! 「千光寺」公式サイトから引用する(円空物の写真も有り、以下に出る「両面宿儺」像も見られる)。同寺は仁徳天皇の御代、今から1600年前に飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が建立された古刹です』。『最近は「円空仏の寺」としても、その名は広く知られています』。『海抜900メートルの袈裟山に広がる寺の境内には、大慈門の近くに「円空仏寺宝館」があり、館内には64体の円空仏と寺宝の一部が展示され、年間2~3万人の拝観者が訪れます』。『仏教の寺院としては、平安時代に、嵯峨天皇の皇子で弘法大師の十大弟子の一人、真如親王が当山に登山され、本尊千手観音を拝し、法華経一部八巻と二十五条袈裟が奉祀されていたことから袈裟山千光寺と名づけ、自ら開基になりました』。『それ以来』、『高野山の末寺となり、「飛騨の高野山」とも呼ばれています』。『また、鎮護国家を祈祷する道場でもあったため、朝廷の帰依を受け、寺運は隆昌を極め、山上に19の院坊を持ち、飛騨国内に30ヶ寺の末寺をかまえていました』。『飛騨一宮神社の別当職も兼ね、天皇御即位の際には、国家安穏玉体安穏、万民豊楽、諸人快楽を祈念して一位の笏木の献上もしていました』。『ところが、室町時代に飛騨国内の内乱で一時衰退し、戦国時代に入り』、『永禄7年(1564年)、甲斐の武田軍勢が飛騨に攻め入った折、全山炎に包まれてしまいます。そして、諸伽藍や末寺、数万の経典儀軌等も悉く灰燼に帰してしまいました』。『しかし、本尊は守られ、その法灯は今も連綿として続いています。本尊は秘仏となっており、7年に一度御開帳があります』。『現在の堂宇は、江戸時代以降、高山城主金森長近公を始めとして、檀信徒や高山の旦那衆の力によって順次再興、建立されたものです』とある。ウィキの「千光寺(高山市)」も見ておこう。『両面宿儺像など、円空の手になる仏像が63体あり、円空仏の寺としても知られている』。『伝承によれば、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺が開山したと伝えられる。両面宿儺とは、『日本書紀』に拠ると、飛騨国に現れ、民衆を苦しめていた異形の人であり、朝廷が差し向けた武将・武振熊命(たけふるくまのみこと)により退治されたとされている。頭の前後に顔が二つ付いており、腕が前後一対の四本、足も前後一対の四本あるといわれている。しかし、飛騨国、美濃国では両面宿儺は伝説的人物であり、洞窟から現れた際、「我は救世観音の使現なり。驚くこと無かれ。」と村人に伝えたという』。『養老4年(720年)、泰澄により白山神社が開かれ、嘉祥3年(850年)頃、真如親王(弘法大師十大弟子の一人。俗名高岳親王。平城天皇第3皇子、嵯峨天皇皇太子)が開基する』。『天文年間、兵火で焼失し、天文15年(1546年)に桜洞城(現在の下呂市萩原地域に存在した城)城主三木直頼により再建されるが、永禄7年(1564年)に武田信玄の飛騨攻めにより』、『再度焼失する。天正16年(1588年)、高山城城主金森長近により再建される』。『貞享2年(1685年)頃、円空が千光寺に滞在し、両面宿儺像などを彫ったという』とある。さても、どこを見ても、越中の千光寺とは縁も所縁もない。因みに、私は大学生の時、父母とともにこの寺を訪れている。その時、丁度、その「円空仏寺宝館」が建築中であった。住職が親切に案内してくれ、特別にその竣工に近かった「円空仏寺宝館」の内部へも入れてもらい、既に運び入れてあった数体の円空仏も見た。父が頼むと、両面宿儺以下三体の写真の撮影も許可して下さった。その両面宿儺の衝撃は凄かった。それ以来、私は円空と両面宿儺の大ファンとなったのである。

「兩面宿禰」「両面宿儺」(現代仮名遣「りょうめんすくな」)の方が今は一般的だが、誤りではない(「宿儺」は「宿禰」とも書き、「足尼」「足禰」「少名」などとも書いて、本来は「すくね」の読みが一般的である。「すくね」は古代日本における称号の一つで、大和朝廷初期(三世紀~五世紀頃)にあっては武内宿禰のように武人・行政官を表わす称号として用いられていた。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた)。ウィキの「両面宿儺」によれば、彼は『上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神で』、「日本書紀」においては武振熊命(たけふるくまのみこと)に『討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話ものこされている』。「日本書紀」仁徳天皇六十五年丁丑(三七七年?)の条に以下のように両面宿儺が登場する(ウィキに拠らず、独自に示す)。

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六十五年。飛驒國有一人。曰宿儺。其爲人壹體有兩面。面各相背。頂合無項。各有手足。其有膝而無膕・踵。力多以輕捷。左右佩劒。四手竝用弓矢。是以不隨皇命。掠略人民爲樂。於是。遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。

   *

以下、ウィキの『現代語訳』を示す。『六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるが』、『ひかがみ』(「ひきかがみ」の音変化。膝の後ろの窪んでいる所。「膝窩(しっか)」「よぼろ」などとも呼ぶ)『と踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した』。『両面宿儺は、計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写される。神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲』(はしろくまわし:筑紫の国に名を馳せた部族の長)や、「日本書紀」「風土記」に『しばしば現れる土蜘蛛と同様、その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。仁徳記の記述は一般に、大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した』五『世紀における征服の事実の反映とされている』。『また、「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から、脛当てを着け、つまがけ』(ここでは藁製の深い雪靴のことを指しているものと思われる)『を履いた飛騨の山岳民が想像されることもある』。「日本書紀」では『皇命に逆らう賊とされる両面宿儺だが、飛騨から美濃にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承がのこり、その内容は』「日本書紀」のそれと『異なるものが多』く、例えば、元和七(一六二一)年の奥書を持つ「千光寺記」には、『高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺(高山市)の縁起が記されている』が、それによれば、仁徳天皇の頃、『飛騨国に宿儺という者があり、八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた。このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという』。『同じく丹生川町日面』(ひよも)『の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する』。『また、位山』(くらいやま:高山市一宮町内にある山。グーグル・マップ・データ)の『鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる』。『位山の付近には飛騨一宮水無神社があるが、享保年間に編纂された』「飛州志」では『神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す』。『下呂市金山町の伝承』としては、「金山町誌」に『よれば、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に』三十七『日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は』三十七『日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った。故にこの山を鎮守山と呼び』、『村人が観音堂を建てて祭ったともいう』。『関市下之保の伝承』では、「新撰美濃志」に『引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山の毒龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し』、『千手観音の像を安置した。千本』檜『はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。また』「美濃国観音巡礼記」では』『日龍峰寺の開基を「両面四手上人」として』おり、『この他に』も『両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある』。美濃や飛驒に点在する伝承は「日本書紀」の『記述に沿うものであっても、両面宿儺を単なる凶賊ではなく』、『官軍に討伐された飛騨の豪族とする。その』一方で、或いは『龍や悪鬼を退治し(高沢山・位山)』、或いは『寺院の縁起に関わる(千光寺・善久寺・日龍峰寺)など、地域の英雄にふさわしい活躍を見せている。大和王権に抗した古代の豪族を、その土地の人々が尊崇し続けてきたかのよう』に窺える部分が濃厚に感ぜられるのである。『とはいえ、伝説の多くは江戸時代以降に記されたものである。たとえ江戸期における信仰が在来の伝承に基づくとしても』、「日本書紀」に『登場する両面宿儺を寺院の創建と結びつけることは困難で』、『これらの伝説の起源については定説を見ないが、在地伝承に現れる両面宿儺に、王権によって矮小化され、観音信仰の蔭に隠れるようにして生き延びた英雄の名残を見いだし、位山を神体とする飛騨一宮水無神社の本来の祭神に想定する研究者もいる』とある。『日龍峰寺の縁起では、両面宿儺は身に鎧を着て、四つの手にはそれぞれ鉾・錫杖・斧・八角檜杖を持ち、その存在は救国の英雄だとされる。また至高神は双面神であるとする説があり、中国の武神である蚩尤(シユウ)に通じるという見方もある』。「日本書紀」の伝承については、仁徳天皇の時代は五世紀『前葉の時期であり、この時期に仏教が日本列島に到来したことは考え難く、また両面宿儺を退治したとされる武振熊命も仁徳朝より時期が少し早い成務天皇・応神天皇の時代に活動した武将であるため、伝承が全体として整合性がないと考えられる。しかし、両面宿儺伝承の記事は飛騨という地域の国史初見であり、現地に伝わる英雄伝承を考え合わせれば』、単なる『怪異伝承ではないと見る向きもある。これについて両面宿儺は双子(二人)の兄弟支配者を一体として表現した可能性も考えられ、また「宿儺」は「宿祢」(すくね、足尼)の敬称とも、斐陀国造の実質的な祖神である少彦名命を意味するとも考えられる』。『両面宿儺像は千光寺・善久寺・日龍峰寺などにあるが、いずれも頭の前後に顔があり、唐風の甲冑を着け斧や剣を帯びる。善久寺のものは合掌した手に斧を横に持ち韋駄天の像容に類似する。円空作と伝えられる像(千光寺蔵)は、二つめの顔が肩に並ぶ』。『ローマ神話のヤーヌスと外観上の類似(前後両面の顔)があるが、日本と地理的に近いのは、スマトラ西海のニアス島のシレウェ・ナザラタ(ロワランギの妹兼妻神)である。この神像は顔が二つ(かつ両性具有)として表現される』。『多面一身の神というだけなら』、「古事記」に『登場する伊予之二名島(四国島)・筑紫島(九州島)がそれぞれ四面一身の神として語られている』とある。

「年代記」上に示した「日本書紀」のこと。

「這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし」両面宿儺についてどこにそんな記載があるのか? あんたが、前に出した両面蟹に合わせて作った穴(ケツ)の穴の小さいつまらぬ創作なんじゃないのかッツ?! 「心許なし」なのは、誰あろう、堀麦水! お前のことよ!

「細川勝光は其性蟾の化したるなりと云ふ」浮世草子作者で書肆の林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:もと京の両替商であったが、貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業しているらしい。元禄五年に浅井了意の遺作「狗張子」に自ら序文を書いて板行し、それに倣って元禄八年に怪談集「玉櫛笥」(たまくしげ)を、翌九年に「玉箒木」(たまははき)を著している)の怪談集「玉帚木」の「卷之二」の巻頭に「蝦蟆(かへる)の妖怪」として出る。複数、活字本を所持しているのだが、山積みになって見当たらないので、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書株式会社編「近代日本文學大系」第十三巻の当該部を視認した。読みは一部に留め、踊り字「〱」は正字化した。読み易くするために段落を成形し、読点や記号も増やした。

   *

     蝦蟆の妖怪

 細川右京大夫勝元は、將軍義政公の管領(くわんれい)として武藏守に任じ、富貴(ふうき)を極め、威權を輝かし、凡そ當世公家武家の輩(ともがら)多くは、その下風(かふう)につき從ひ、その命を重んじ、敬ひあへり。かかりしかば、貸財・珍寶、求めざれども、來り集まり、繁榮日々に彌增(いやま)しにて、よろづ心に叶はずといふ事なし。

 その頃、洛西(らくせい)等持院(とうぢゐん)の西に德大寺公有(きんあり)卿の別莊あり、風景面白き勝地なれば、勝元、請ひ受けて菩提所の寺と爲し、義天和尙をもつて開祖とし給ふ。今の龍安寺(りうあんじ)是なり。

 勝元居宅の書院を引いて方丈とせり。この故に造作(ざうさく)の體(てい)、世の常の方丈とは變れり。

 勝元、元來、權柄(けんぺい)天下を傾(かたむ)けければ、私(ひそ)かに大船(たいせん)を大明國(だいみんこく)につかはし、書籍(しよじやく)・畫圖・(ぐわづ)・器財・絹帛(けんはく)の類(たぐひ)、かずかずの珍物(ちんもつ)をとり需(もと)めて祕藏せり。その時の船の帆柱は大明の材木にて造りしを、此の龍安寺普請(ふしん)の時、引き割つて方丈の牀板(とこいた)とせらる。その幅五尺ばかり、眞(まこと)に條理(でうり)堅密(けんみつ)の唐木(たうぼく)にて、和國の及ぶ所にあらずといふ。方丈の前に築山(つきやま)を構へ、樹木を植ゑ、麓には大きなる池あり、是は勝元自ら、その廣狹(くわうけふ)を指圖して、景氣おもしろく鑿(き)り開き給ふとなり。水上(すゐじやう)には鳧鴈(ふがん)[やぶちゃん注:カモとガン。]・鴛鴦(ゑんあう)、所得顏(ところえがほ)に羣れ遊び、嶋嶼(たうしよ)嶸𢌞(くわうくわい)[やぶちゃん注:高く廻(めぐ)ること。]して、松杉(しようさん)、波に映(うつ)ろふ、古人の、「綠樹影(かげ)沉(しづ)んでは魚(うを)木(き)に上る」と詠じけんも、こゝなれや。色々の奇石を疊みたる中(なか)に、勝れて大きなる石、九つあり。是れまた、勝元自ら配り置き給ふ。その作意絕妙なりとぞ。

 勝元、政務の暇(いとま)には、常に此寺に來り、方丈に坐して池中(ちちう[やぶちゃん注:ママ。])の景を詠め、酒宴を催し、殊更(ことさら)、夏の中(うち)、暑熱の頃は、しばしば池の邊に逍遙し、近習(きんじゆ)の人を退(しりぞ)け、たゞ獨り、ひそかに衣服を脫ぎて赤裸(あかはだか)になり、池水(ちすゐ)に飛び入つて暑さをしのぎ、しばらく、あなたこなた遊泳して立ちあがり、そのまゝ方丈に入つて打臥し、寐入り給ふ。

 ある年の夏の暮に、此の邊(あたり)を徘徊する山立(やまだち)の盜賊[やぶちゃん注:山を根城とする山賊。]ども七八人、此の寺に入り來り、ひそかに方丈の事をうかゞふに、人一人も見えず、いと物しづかなり。盜賊ども思ふやう、

『今日は管領も來り給はず、寺僧も他行(たぎやう)せしと見ゆ、究竟(くつきやう)一(いち)の幸(さひは)ひならずや、いでいで、しのび入つて財寶を奪はん』

とて、池の岸根をつたひ、隔(へだ)ての戶ども押し破り、方丈へはひあがらんとするに、おもひもよらず、座席の眞中(まんなか)に、その大きさ一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]ばかりの蝦蟆(かへる)うづくまり、頭(かしら)を上げ、眼(まなこ)を見いだす、その光(ひかり)、硏(と)ぎたてたる鏡のごとし。

 盜賊ども、肝を消して絕入(ぜつじゆ)し、そのまゝ臥したふる。

 此蝦蟆、忽ち大將と覺しき人となりて、起ちあがり、傍(そば)なる刀、押取(おつと)り、

「汝等は何者ぞ、こゝは外人(ぐわいじん)の來(きた)る所にあらず。」

と大きに怒りければ、盜賊ども、怖れ戰(をのゝ)き、わなわな慄(ふる)ひけるが、

「まことは[やぶちゃん注:実に。ほんに。]盜人(ぬすびと)にて侍る。物の欲しさに忍び入りしなり。御慈悲に命(いのち)を助け給へ。」

と、一同に手をあはせ、ひれ伏したり。

 此の人、打笑ひ、

「しからば。」

とて牀(とこ)の間(ま)にありし金(こがね)の香合(かふがふ)を投げ出(いだ)し、

「汝等、貧困に迫り、盜竊(ぬすみ)するが不便(ふびん)さに、これを與ふるなり。かならず、只今見つけたる體(てい)を人に語ることなかれ、とくとく歸るべし。」

といへば、盜賊ども、香合を受けず、其のまゝ戾し、

「ありがたき御芳志なり。」

といひも敢(あ)へず、跡をも見ずして逃げ出でけり。

 遙かに年經て後(のち)、此盜賊の中(うち)一人(ひとり)、勢州北畠家に囚(とら)はれ、此始末をかたりけるとなり。

 抑(そもそも)此蝦蟆は勝元の本身(ほんしん)にて、かく、かたちを現じ、思ひかけず亂れ入りたる盜賊共に見つけられたるにや。

 然らずば、又、此の後(うしろ)の山中(やまなか)には、蛇谷(をろちだに)・姥ヶ懷(うばがふところ)などいふ木深(こぶか)き惡所もあれば、かゝる妖怪の生類(しやうるゐ)もありて出でけるにやと云ふ。

   *

「勢州北畠家」とは細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と「応仁の乱」の前から抗争して京を追われ、伊勢から吉野に逃れて徹底抗戦し続けた畠山義就(よしひろ/よしなり 永享九(一四三七)年~延徳二(一四九一)年)であろう。

「鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる」読みはこれでは読めないので私が推定で施した。本邦ではかなり昔から「山芋変じて鰻となる」という俗説があった。ここはそれを反転させた諧謔であろう。面白くないが。

「鶉の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化にやあらん」これも俗説の「田鼠化して鶉となる」の諧謔。猫がウズラを襲うのは、ウズラの元のネズミの気が体から発散するからであろうか、というのである。但し、「田鼠」はネズミではなく、モグラだからこの洒落は厳密には不全に見えるが、実際、これは麦水に先行する蕉門の名俳宝井其角の句に「鶉かと鼠の味を問てまし」(「五元集」)があるので、広く田鼠が鼠に変換されていたものと見える(麦水より後代だが、小林一茶にも「飛鶉鼠のむかし忘るゝな」(「一茶句帖」)があるのを見ても、鼠が鶉に化すという言説は一般化していたのである。 なお、「田鼠化して鶉となる」は元は中国の「田鼠化爲鴽」で七十二候の一つである清明の第二候(現在の四月十日から十四日までの間に相当)を意味するもので、俳諧では晩秋のちゃんとした季題となっている。これは鶉が畑の麦の根元に巣食って(ここがモグラとダブる)、頻りに鳴くことに由来するようである。

2020/05/12

三州奇談續編卷之二 石蛇の夾石

 

    石蛇の夾石

 越中礪波郡庄川・千保川(せんぼがは)はもと一流にして、水源は飛州高山にて、凡(およそ)四十餘里を下る。もと是北陸道第一の大川なり。正保・慶安の間、瑞龍寺境内水勢障(さは)るにつき、小松黃門公の命を以て、材木・切石に鐡道具(てつだうぐ)を用ひて川除(かはよ)けを築かれて、兩川(りやうせん)の間良々(やや)易(やす)し。爰を大淸水村と云ふ。

[やぶちゃん注:表題は「せきじや(せきじゃ)のきやうせき(きょうせき)」と読んでおく。

「千保川」「西住の古碑」の私の注を参照されたい。庄川や瑞龍寺(高岡市関本にある曹洞宗高岡山(たかおかさん)瑞龍寺。開基は加賀藩第二代藩主にして前田家第三代当主前田利常で、開山は広山恕陽。高岡城を築城して、この地で亡くなった初代藩主で前田家二代当主前田利長を弔うために建立された。私の好きな寺である)との関係もその引用で明らかである。このグーグル・マップ・データで、西に南北流れているのが現在の千保川、中央に原庄川の流れで境内の損壊を受けた瑞龍寺、右に斜めに流れる大きな川が現在の庄川を配して三者の現在の位置関係を押さえるようしておいた。

「水源は飛州高山」ウィキの「庄川」によれば、『岐阜県高山市南西部の山中峠(1,375m)の湿原を水源としている。ただ、庄川水系の幹川は高山市荘川町一色で合流する一色川で、飛騨高地にある烏帽子岳(1,625m)が水源であ』『り、より厳密にいえば、鷲ヶ岳(1,671m)と烏帽子岳の間の谷が水源である』とある。国土地理院図のこの中央であり、グーグル・マップ・データで見ると判る通り(中央が先の水源)、飛騨高山、現在の高山市の西南の外れに当たる。

「凡四十餘里を下る」百五十七キロ超えとなるが、現在の測定では庄川の総延長は百十五キロである。

「正保・慶安の間」一六四五年~一六五二年。

「小松黃門公」加賀藩第二代藩主前田利常。「小松」は彼が小松城に隠居したことによる(彼にとっては思い出深い地で六歳の時、「関ヶ原の戦い」直前の「浅井畷の戦い」の後、講和を望んだ丹羽長重の人質となったが、その時の丹羽の居城は小松城であった)、「黃門」は中納言の唐名。利常は権中納言であった。

「大淸水村」現在、大清水地区というと高岡市戸出大清水であるが、瑞龍寺から有意に南(五キロ強)に離れた庄川左岸である。但し、上流で大規模な河川改修して流れを変えたはずであり、ここと見て問題はない。現在の戸出大清水地区は、拡大してみると、地域内と西地域外端を千保川及びその支流の複数が縦断していることが判り、同地区内の千保川の右岸には大清水神社もある。従って、ここと同定しておく。]

 此一里上(か)みに太日村といふに、般若野(はんにやの)と名づくる所あり。是者(これは)源平の戰(いくさ)の頃、今井四郞兼平越中の次郞兵衞と戰ひし所といふ。大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】爰を二つ塚と云ふ。彼(かの)「太平記」に見えし、名古屋遠江守が二ツ塚の城と云ふは爰なり。是も兩川の流(ながれ)の間なり。

[やぶちゃん注:「太日村」不詳。しかし、これは恐らく「太田村」の判読の誤りか、誤植ではないかと推定する。「今昔マップ」で明治期の地図の方を見ると、戸出大清水から庄川上流五キロ圏内(「一里上み」)に当たる位置に「太田村」があることが判る。

「般若野」上記の「今昔マップ」の古地図を再確認されたい。旧太田村から東の庄川を渡った先に「般若村」の名を見出せる。やはり「西住の古碑」で考証したが、ここは別名を「芹谷野」とも呼び、「芹谷野」はこれで「せんだんの」と読み、「栴檀野」とも書く。現在、砺波市芹谷(せりだに)の北西部直近一帯が「栴檀野」地区(グーグル・マップ・データ)であることは地図上の複数の施設名に「栴檀野」が冠せられてあることから判る。則ち、現在の芹谷周辺が古くは広域の「栴檀野」=「般若野」であったと考えてよいと思われるのである。

「今井四郞兼平」木曽義仲の名臣今井兼平(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)。

「越中の次郞兵衞」平氏にあってその豪勇を称えられた名将平盛嗣(?~建久五(一一九四)年)の通称。平盛俊(剛力の持ち主として知られ、清盛の政所別当をも務めた平家の有力家人。「一ノ谷の戦い」で猪俣範綱に騙し討ちにされた)の次男。ここの話は寿永二(一一八三)年五月九日にここで行われた平氏軍(平盛俊)と源氏及び北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の「般若野の戦い」を指す(「西住の古碑」で示したように、これから三百二十三年後の永正三(一五〇六)年に同じ場所で行われた越中一向一揆と越後守護代長尾能景との間の「般若野の戦い」と混同しないように)。同日明け方、加賀より軍を進め、般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曾義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲、平盛俊軍は戦況不利に陥り、退却している。盛嗣の後の数奇な運命(落人となるも捕縛され、由比ヶ浜にて斬首となった)はウィキの「平盛嗣」を読まれたい。

「大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】」何だか言っていることがおかしい。「大淸水」と「淸水」は同じとしか取り得ないが、そこから「六道寺」までは本文では「半道」(一里の半分。約二キロ)と言い乍ら、割注では「五里余」(十九・六三九キロ超)である。そもそもが「六道寺」がおかしい。これは「六渡寺」で射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称であろう。現地の駅名標などではこれで「ろくどうじ」(現代仮名遣)と読む。庄川河口右岸の海辺の地名である。現在の戸出大清水から六渡寺までは実測すると、十四キロはある。「半道」は「半日」の誤りではなかろうか?

「二つ塚」現在の戸出大清水から実測で四キロほど庄川左岸を下った富山県高岡市二塚(ふたづか)の「三ヶ首、鐘堀、太刀城跡の碑」(グーグル・マップ・データ)。

『「太平記」に見えし』巻第十一の「越中の守護自害の事付けたり怨靈の事」。

「名古屋遠江守」鎌倉最末期の越中守護であった名越(北条)時有(?~正慶二/元弘三年(一三三三)年五月)。北条氏名越流。ウィキの「北条時有」によれば、正応三(一二九〇)年、時有は越中国守護所として放生津城を築城している。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』て『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の』子である恒性(こうしょう/つねなり)『皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権(この時は既に退任)『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は』甥の『名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公』(ありきみ)・『貞持と共に放生津城』(ここ。グーグル・マップ・データ)『へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ』、『奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃し』たとある。]

 二塚村に澤田次郞兵衞(じろべゑ)と云ふ百姓あり。是は名古屋遠江守が兩家老の一人なり。今一人の家老は某と云ふ。此跡は故ありて國君に功あり。今戶出(といで)に移りて居(きよ)し、大庄屋を勤むる戶出の又八と云ふものゝ先祖なり。

[やぶちゃん注:「澤田次郞兵衞」不詳。

「此跡は」とは「今一人の家老」「某」の後裔ということだろう。

「國君」加賀藩主。

「戶出」高岡市戸出町(グーグル・マップ・データ)。二塚の南西直近。]

 されば次郞兵衞が家に、今に「海濱筐(かいひんきやう)」とて、「石蛇夾石(せきじやきやうせき)」と云ふ物あり。執念の餘勢といへども、世にも又間々あるものなり。「石蛇」とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣(せきき)ありて、貝より石(いし)を出(いだ)して、互に挾みて土を離れて石(いし)を生ず。其の石「蛇床石(じやしやうせき)」に似たり。相抱(あひいだ)きて連々(れんれん)離れざるが如し。是(これ)人の執氣(しふき)石によるか。又石氣自(おのづか)ら連理(れんり)をなす物なるか。

 又一變して此浦渡り及び能浦(のううら)に「眞珠貝」と云ふ物あり、必ず眞珠を含む。玉を得ること石決明(あはび)に十倍す。里俗「眞珠貝」と云ふ。此「眞珠貝」のうち、稀に「喰違貝(くひちがひがひ)」といふあり。只裏面相違(あひたが)ひて抱(いだ)く、稀なり。此中の眞珠も又枝の如く粒(つぶ)出(い)で、少しく喰違(くひちが)ふたる珠となる。是又妙なり。是や思ひ合はざる者の氣の化(か)する所なるか。將(は)た自然なるか。執氣凝(こ)らば、不執氣(ふしふき)も又凝らずんばあるべからず。

[やぶちゃん注:「海濱筐」(現代仮名遣「かいひんきょう」)=「石蛇夾石」(現代仮名遣「せきじゃきょうせき」)。以下、多くは音読みしておいた。「筐」は「四角な竹製の籠」・「四角な寝台」・「小さな釵(かんざし)」の意があるが、後で「蛇床石に似たり」と言っているので、二番目の意味か。但し、「海濱筐」も「石蛇夾石」も、そして「蛇床石」も見たことがない熟語で、対象物が如何なるものかはここに書かれた内容から推測するしかない。而も似ているという手掛かりになるはずの「蛇床石」(じゃしょうせき)なるものも正体が全く判らぬのでお手上げである。かの石狂木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の「雲根志」(安永二(一七七三)年(前編)・安永八(一七七九)年(後編)・享和元(一八〇一)年(三編)刊)にあっていいはずだと、知らべてみたが、それらしいものがいっかな、見つからなかった。当初、私は三葉虫(節足動物門†Artiopoda 亜門三葉虫綱 Trilobita のトリロバイト(Trilobite:カンブリア紀に現れて古生代の終期であるペルム紀に絶滅した)やアンモナイト(軟体動物門頭足綱アンモナイト亜綱 Ammonoidea のアンモナイト(Ammonite))の重合化石ではないかと思ったのだが、前者は日本では殆んど出土せず、後者も現行では北海道を除いて、あまり出土しないから、ハズレだろう。「石蛇とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣ありて、貝より石を出して、互に挾みて土を離れて石を生ず」という文を眺めながら、ここで「ハッ!」とした。自分が幼い頃から貝類研究をしてきたにも拘わらず、初っ端から実際の現生貝類を候補の中に全く想定していなかった愚かさに気づいて、「あれ? これって、オオヘビガイとかミミズガイとかの殻じゃあねえの?」と膝を叩いたのだ。

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

吸腔目カニモリガイ上科ミミズガイ科ミミズガイ Siliquaria cumingii

などである。記載の感じは、螺形が細く紐状で「ぐるぐると交」わっているとなると、後者のミミズガイがまさにぴったりなのだが、ミミズガイは房総半島以南の太平洋にしか分布しないので、だめだ。前者でとっておく。ウィキの「オオヘビガイ」を引用しておこう。言わずもがなであるが、変則的な形をしているが、巻き貝の一種であり、『岩石の上に殻を固着させて生活する。巻き方は不規則で、時にほぐれた形にもなる』。『岩の上に殻を固着させて成長するため、岩の形などによってその形は多少変わる』。『おおよそでは成貝で殻径50mm、殻高20mm程度になる。殻口の径は老成貝で15mm程度。固着して後は次第に殻の径を増しながら巻き上がってゆく形になり、上から見ると左巻きに見える』。但し、『巻かずに伸びてしまった形で育つ例もある。なお殻口部分はそこまで巻いてきた殻の上に乗るか、または多少基盤を離れて立つ傾向がある』。『螺管断面が半円形から円形で、表面には幾筋かの瓦状の螺肋と多数の糸状の螺肋がある。殻の表面は淡灰褐色で、殻口の内面は白い』。『殻は巻き上がっているので見た目は左巻きに見え、これを超右巻き(Superdextral)という』。『活動として殻から肉体を出すことはなく、せいぜい頭が見える程度である。摂食方法としては粘液を分泌してそれを水中に網状に広げ、これに引っかかったデトリタス等を回収して食べる』。『網となる粘液は足』(外套膜の辺縁)『から分泌される』。『食べる際は粘液ごと回収してしまう』。『繁殖時は夏で、卵の入った袋を殻の入り口の内側に』吊るす。『卵はこの嚢内で孵化し、ベリジャー幼生となって泳ぎ出』、『胎殻は右巻き』『で滑らかで光沢がある』。なお、『繁殖には他家受精が必要であるが、本種は集団を作らない。つまり他個体と接触する方法がない。受精に関しては雄が精子のカプセルを放出し、雌が粘液の糸で絡め取ってそれを回収、体内で受精が行われる、との報告がある』。『日本では北海道以南、それに台湾と中国に分布』し、棲息『地は沿岸岩礁の潮間帯で』、日『当たりの弱い岩場やタイドプールでよく見られる』。『日本本土ではどこでも普通だが、奄美ではこれに代わってリュウキュウヘビガイ Serpulorbis itrimeresurus が』いる。但し、『この種は四国南部からも知られ』、また、『殻に薄紫や褐色の斑があるソメワケヘビガイ』(Serpulorbis dentiferus)『も紀伊半島以南に分布する』。『なお、別属の』Dendropoma属フタモチヘビガイ Dendropoma maximum は殻に蓋を持』ち、『紀伊半島以南に見られる』。『本種の死んだ殻は岩の上にパイプ状の構造を作ることになり、岩表面の構造を複雑化し、他生物が利用することで種』の『多様性を高める効果がある。ナベカ』(スズキ目ギンポ亜目イソギンポ科ナベカ属ナベカ Omobranchus elegans)『やクモギンポ』(ナベカ属Omobranchus loxozonus)『が産卵床として利用することが知られている』。『コケギンポ』(ギンポ亜目コケギンポ科コケギンポ属 Neoclinus bryope)『では二枚貝に産卵する例もあるが、本種の殻を利用する率が高い。また』、『この種では雄が卵の保護を行うが、その際に雄が殻口から頭部だけを出すと、頭についている皮質の突起が周囲の付着生物と紛らわしく見え、一種の隠蔽の効果を持っているとみられる』。また、『本種の殻の隙間にはゴカイ類などが住み着いている。その中には本種が出して栄養分を集める粘液を食べるものがあると考えられる』。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科クマドリゴカイクマドリゴカイ Perinereis cultrifera は『実験室内の観察で』は、『本種が粘液を引き戻して摂食する際に殻口に出てきて、その一部を摂食することが観察された。これは一種の』「盗み寄生」と『考えられる。他にもゴカイの』一種 Nereis sp. やシリス科の一種 Ophisthosyllis sp. が同様の行動を取っているらしいことも観察されており、同様の関係を持っている可能性がある』。但し、『これらのゴカイ類の摂食が本種の栄養にどれほど影響があるかなどは未知である』。『一般に広く利用されるものではないが、肉は食べれば美味であり、食用とする地域がある』。『ハンマーや鏨』(たがね)『などを使って剥がす必要があるが、茹でたところで殻の口のところを割ってから口からすすり込むと食べやすく、粘液が多くとろりとした舌触りと甘みのある貝独特のうまみが絶品とのことである』とある。いつか食うてみよう。

「能浦」これは明らかに、富山湾の西方北の能登半島の海浜を指している。

「眞珠貝」ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii伊藤勝千代氏の論文「能登和倉の海產貝類目錄」PDF)によって富山湾にアコヤガイが棲息することの確認がとれた。

「石決明(あはび)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis。アワビ類は「鮑玉」と称された天然真珠を作ることが古くから知られている。

「喰違貝」左右の貝の形状が異なるという謂いであろうが、アコヤガイは両貝殻の辺縁が薄い層状になっており、折れ易い突起があり、また、容易に薄く剥がれる。そうした大きい損壊をきたして、その部分から大きな異物が入った場合に大きな真珠が形成されることは想像に難くない。

2020/05/11

三州奇談續編卷之二 平氏の樂器

 

    平氏の樂器

 奇は實の中に求め、理(り)は直(ちよく)の中に求めば、得て易く、說きて當ることもあらん。然共予が性虛惰にして爰に倦む。又廢して元の歌談となる。是をさまでは咎むまじ。

[やぶちゃん注:初めの語りは本巻の冒頭の「僧辨追剝」で若き僧がのたもうた見解である。「直」は「なほきこと」(歪んでいない事実・正直な話)を意味していよう。

「歌談」詩歌の話。]

 中昔(なかむかし)に聞けり。宗祗法師連歌の席に宗匠たる日にや、櫻井基佐(さくらいもとすけ)

「花舟(はなふね)くだす」

と云ふ事を云ひ出せしに、

「詞(ことば)艶(えん)なれども證歌なくては」

と難ぜらる。基佐取敢へず、

「石山櫻谷(いしやまさくらだに)の古歌にあると覺え候」

と云ふに、

「其歌は」

と問はれける。基佐俄(にはか)に作意して一首をつらね、

「古歌なり」

とて吟ず。

  水上は櫻谷にやつゞくらん花舟くだす宇治の川をさ

と申されしかば、宗祇も打笑みて其日の席興ありしと聞く。

[やぶちゃん注:「櫻井基佐」(生没年未詳)は室町~戦国時代の連歌師で、初め心敬に、後に宗祇に学んだとされる。名は元佐、元祐とも書く。通称は弥次郎、弥三郎、法名は永仙。歌集に「桜井基佐集」。晩年は山城に住した。宗祇らと多くの連歌会に加わったが、明応四(一四九五)年の宗祇の撰した「新撰菟玖波(つくば)集」には一首も選ばれていない。稲田利徳氏の論文「桜井基佐の作品における俳諧的表現」PDF)によれば、『基佐といえば、宗祇の撰した『新撰菟玖波集』に一句も入集されなかったため』、

  遙見筑波錢便入、不ㇾ論上手與下手

  足なくてのぼりかねたるつくば山

    和歌の道には達者なれども

『という落首を残し、賄賂としての金銭の多少によって、入集が左右されたことを揶揄した人物として著名である。この他、山名邸の連歌会で、自句の連歌の付合を正当化するため、自作の即興歌を「万葉歌」と偽って提出したが、宗祇に見破られて降参したとか、生活に貧窮したとき「露」を質に入れ「終生不ㇾ吟ㇾ露」と約束し、「露之質」と言い囃されるなど、逸話の多い人物である』とある。漢文部分は「遙かに筑波を見るに、錢(ぜに)、便(すなは)ち入るる、上手と下手とを論ぜず」であろう。ともかくも小賢しい詐術家であったようである。

 以下の漢詩は三段組であるが、一段に代えた。題や作者の字間も再現していない。]

    詠雪   梁  簡文帝

  鹽飛蝶舞

  花落粉奩

  奩粉飄落花

  舞蝶亂飛鹽

    呈秀野  宋  朱熹

  晚紅飛盡春寒淺

  淺寒春盡飛紅晚

  樽酒綠陰繁

  繁陰綠酒樽

  老仙詩夕好

  好夕詩仙老

  長恨送ㇾ年芳

  芳年送ㇾ恨長

是等は詩の狂體(きやうたい)、廻文(くわいぶん)類(たぐひ)なるべし。簡文皇帝は風流の君、縱橫(じゆうわう)左(さ)もあるべし。ただ堅親仁(かたおやぢ)の朱先生、猶斯くの如きの吟あらば、風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや。

[やぶちゃん注:筆者の述べる如く、以上の漢詩は回文である(但し、中国の詩の回文詩とは逆に詠むと全く別の意味になる詩を指すのが普通である)。前者は艶麗な宮体詩の確立者で「玉台新詠集」の編纂を命じたことで知られる南朝梁第二代皇帝簡文帝蕭綱(しょうこう 五〇三年~五五一年/在位:五四九年~五五一年)の作とされるもの。中文サイトでは「玉台新詠集」を出典とするのだが、私の持つ「玉台新詠集」には見当たらない。

    雪を詠ず

  鹽(しほ) 飛びて 蝶(てふ)の舞ひの亂れ
  花 落ちて 粉奩(ふんれん)に飄(ただよ)ひ
  奩粉 落花に飄ひ
  舞ふ蝶 飛ぶ鹽に亂る

全体は雪の降るさまを喩えたもの。「粉奩」は白粉箱(おしろいばこ)。

 後者はかの朱子学の創始者として知られる南宋の大儒朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の作。題は「菩薩蠻」とも。これはちゃんと朱熹の正規の詩篇として中文サイトに載る。こちらは私にはうまく訓読出来ないが、無理矢理示すと、

  晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
  淺寒の春 盡(すべ)て飛ぶ 紅(くれなゐ)の晚
  樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁し
  繁陰(はんいん) 綠酒の樽
  老仙の詩 夕べに好(よ)し
  好き夕べ 詩仙の老
  長き恨み 年送りて 芳(かんば)しく
  芳年 恨みを送りて 長し

当てにならぬ私の推測であるが、「晚紅」は晩秋の紅葉で、一行中に半年が経過して春となるのではないか? その時の経過をも「飛び盡して」が表わすのではと思った。二句目は意味が判って訓読しているわけではないので説明できないが、牽強付会させると、「紅の晩」は夕陽の時刻とするならば、「盡て飛ぶ」のは青空か、はたまた夕べの雲か、或いは夜空の星か? 「詩仙」は李白の異名であり、「芳年」は「若き日の年月」で、後半部は半可通ながらも、意味は通りそうではある。訓読から訳まで識者の御教授を乞うものである。【当日削除・改稿】教え子の中国語に堪能なS君に頼んだ。以下にその鮮やかな答えを示す。

   《引用開始》

 私もなかなか解読できません。自信も全くありません。とはいえ、いくつかの点について感じたことをもとに、書き記してみます。

『晩紅』:この言葉は、①花の色が暫し保たれているさま、②茘枝、という二つの意味で使われます。ここは前者と受け取りました。
『淺寒春盡』:ここは二字熟語の組み合わせと取り、和らいだ寒気のうちに春が終わりに近づいた、または和らいだ寒気のうちに春の一日も尽きようとしている、という意味かと思いました。
『飛紅』:花が散る、という意味で使うのが一般的かと思いました。
『老仙詩夕好』:年老いた翁が詩を嗜むこの良き夕べよ、というほどの意味と感じました。
『詩仙』:ご指摘の通り、やはりどうしても李白が思い浮かびます。
『年芳』:春の麗しい景色、と取ります。
『芳年』:麗しき青春時代、と取ります。

私の乱調破格勝手訓読および口語訳は次の通りです。

  晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
  淺寒 春を盡す 飛紅(らくくわ)の晚(ゆふべ)
  樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁く
  繁陰(はんいん) 綠酒の樽(たる)
  老仙 詩の夕べ 好(よ)く
  好ましき夕べに 詩仙 老ゆ
  長き恨み 年芳(ねんはう)を送り
  芳年(はうねん) 恨みを送ること 長し

最後まで残っていた紅(くれない)の花も今散り終え、寒氣も和らいだ。
肌寒さの中に一日も盡きようとしている。この黄昏(たそがれ)、最後に宙を舞う花びらよ。
もう夏がやってくる。樽には酒が満たされ、樹樹の葉は生い茂る。
ああ、仄暗(ほのぐら)い木陰に、翠(みどり)の酒。
年老いたこの私が、詩に遊ぶ麗しき、たそがれ時。
この黄金の時に、かの李白も静かに老いて行ったか。
私のとめどない想いは、春の後ろ姿を見送る。
そう! あの青春時代! 私は尽きせぬ想いに惱んだものであったのだ……

   《引用終了》

これ以上のこの解釈は――私は――「ない!」――と思う。S君に心から感謝申し上げるものである。

「縱橫」ここは「自由自在」の意。

「堅親仁」頑固親父。大学時代の漢文で「論語」の朱子集註(しっちゅう)の読解には一年間痛く苦しめられたのを思い出す。「論語」本文をあそこまで神経症的にほじくらずんばならずという朱熹は殆んど病気だ、という気が強くしたものだ。

「風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや」「風韵」(一字一句の形態や平仄・韻)に「狂醉」(狂ったようにのめり込むこと)して「さまで」「事實にも拘る」(四書読解で一字一句も蔑ろにしないで神経症的に拘ったことを指す)「まじきにや」(ことはなかったのではなかろうか?)の意でとっておく。]

 寳達山(はうだつさん)は密かに聞く、平重盛子孫を隱し殘されし所と云ふ。育王山(いわう)に金(かね)を納め申されしとは、若(もし)くは此山の事にや。寳達の文字も良々(やや)似たり。又夫(それ)かと覺えたる一奇談を聞けり。

[やぶちゃん注:「宝達山」石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる(以上はウィキの「宝達山」に拠った)。三つ後の「薯蕷化人」でも頭で、『寳達山は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金を納む』と述べており、この周辺には実は平家の落人伝説が多い。「津幡町役場」公式サイトの『平家伝説が残る「平知度の首塚」』を引いておく。『津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」には、平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)の墓と伝えられている首塚が残っています。1183(寿永2)年の源平合戦の時、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は倶利伽羅山に陣を取り、知度は従兄の通盛(みちもり)とともに兵3万で志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣を取っていました。倶利伽羅峠の戦いで、維盛が木曽義仲(きそ・よしなか)に敗れたことを聞いて援軍に来た知度は、激しい戦いの末、平谷において自害したと伝えられています(津幡地区の伝説「平知度の墓・首塚」の話より引用)』。『『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』29巻には、赤地錦の直垂に紫裾濃(むらさきすそご)の鎧を着け、黒鹿毛(くろかげ)の馬に乗る容貌優美な姿とともに、目じりは裂け、眉は逆さにつり上がった激しい表情で奮闘する知度の様子が描写されています』。『一帯の地名は「平谷」と呼ばれ、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで生活したところと伝えられています。『加賀志徴』によると、平谷は「平家谷」と記され、集落の入口にある首塚の側には大木の松が生え、「首塚の松」と呼ばれていました。ここに住み着いた末裔は、平田、平能、平林、平村を名乗り、現在でもこの首塚を大切に守り続けています』。『津幡町には、平家伝説が数多く残っています。河合谷地区の牛首(うしくび)・木窪(きのくぼ)の両区や英田(あがた)地区の菩提寺区も、平家の落人が村の開祖と伝えられています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています』とある。

「育王山に金を納め申されし」「育王山」阿育王山の略で現在の浙江省寧波(ニンポー)の東にある山(グーグル・マップ・データ)。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)がインドのマガダ国マウリヤ朝第三代の王阿育王(アショカ王)の舎利塔を建立した地で宋代には広利寺として中国五山の一つがあった。「平家物語」巻第三「金渡(こがねわた)し」の段に基づく(新潮日本古典集成版を参考に正字で示した)。

   *

 大臣(おとど)は天性(てんせい)滅罪生善(しやうぜん)の心ざし深うおはしければ、未來のことをなげいて、

「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんことありがたし。他國にいかなる善根をもして、後世(ごせ)を戶ぶらはればや。」

とて、安元のころほひ、鎭西より妙典(めうでん)といふ船頭を召して、人をはるかにのけて對面あつて、金(こがね)を三千五百兩召し寄せて、

「なんぢは大正直の者であるなれば、五百兩をなんぢに賜(た)ぶ。三千兩を宋朝へわたして、一千兩をば育王山(いわうざん)の僧に引き、二千兩をば帝(みかど)へ參らせて、田代(でんだい)[やぶちゃん注:寺領としての田畑。]を育王山へ申し寄せて、わが後世(ごぜ)とぶらはせよ。」

とぞのたまひける。妙典、是を賜はりて、萬里(ばんり)の波濤(はたう)を凌ぎつつ、大宋國へ渡りける。

 育王山の方丈、佛照禪師德光に會ひたてまつり、このよしを申したりければ、隨喜感嘆して、一千兩を僧に引き、二千兩をば帝へ參らせて、小松殿の申されける樣に、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、帝、大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞよせられける。されば、

「日本の大臣(だいじん)平朝臣重盛公の後生善處」

と、今にあるとぞうけたまはる。

   *

「寳達の文字も良々(やや)似たり」活字で見ると、凡そ似ているように見えぬが、草書の崩し字の「育」は、「寳」の簡体である「宝」のそれと、また「王」の方は、「達」の最も簡略した崩し字にかなり似ている。リンク先は「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍くずし字データセット」のそれぞれの字の画像付きの検索結果である。

 石動(いするぎ)の宿より一里半ばかり、寳達の山根によつて井勢村と云ふ一在所あり。昔は國主の命を請けずと云ひ傳へしも、今は礪波領の支配の内なり。

[やぶちゃん注:「井勢村」不詳。条件からみると、現在の高岡市福岡町の山間部と思われるのだが、いっかな、古地図を探しても「井勢」の名は見つからない。識者の御教授を乞う。]

 されども此一在所へ、他村の人を聟嫁(むこよめ)にも奉公人にも迎ふることなし。表向は公命に隨ふと云へども、内は別に「村の主人」と云ふ者ありて、其命を守ること神佛の如し。此主(あるじ)に尋ねて、後に公命にも隨ふなり。其主人と云ふ者別に立つにあらず。村中を年每に廻(まは)し預る。長持(ながもち)一棹あり。是を預る者「村の衆の頭(かしら)」にて、主人の如し。其長持の内何たることを知らず。封の上に封を付けて、大(おほい)さ一抱へに及ぶ。幾百年以前よりにやあらん。斯くの如きの例(ためし)と定めり。

[やぶちゃん注:「公命に隨ふ」庄屋・肝煎・村役人などは無論、定めるが。

「長持」ウィキの「長持」より引く。『主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱』。『箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものを、車長持という』。『室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及したことで掻巻や布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされたことで武家で長持が使用され始め、やがて庶民の間にも普及するようになった』。『一般的なそれは長さが八尺五寸(約一メートル七十四センチ)前後で、幅と高さは二尺五寸(約七十五センチ)が標準であった。『錠を備えたかぶせ蓋がある。上等の品は漆塗り、家紋入りのものもある』。『長端部には棹(さお)を通すための金具があり、運搬時はここに太い棹(長持棹)を通して』二『人で担ぎ、持ち運ぶ』。『移動しやすいように底部に車輪を組み込んだ車長持が普及したこともあったが』、明暦三(一六五七)年に『江戸で発生した明暦の大火で、家々から外へ運び出した車長持が路上にあふれ、人々の避難を妨げるという事態が生じたため、江戸・京都・大阪で使用が禁止された』。『一方、地方では引き続き用いられ』、宝暦四(一七五四)年の『仙台では火災のたびに車長持が引き回される状況があった』。『長持は代表的な嫁入り道具の一つでもあり、嫁入りに際して長持を運ぶ際の祝い歌は「長持歌」として伝承されたが、明治時代・大正時代以降、長持の役割は箪笥に譲られることとなった』とある。

「封の上に封を付けて」代々の後退した「村の主人」が主人になる度に蓋にある封印の上にさらに封印をして。]

 然るに寳曆元年[やぶちゃん注:一七五一年。]の事とにや、始て此里へ他鄕の者入聟(いりむこ)したり。是も例なきことゝて、村に肯(うけが)はざる人々多かりしかども、其年の主人役の者吞込(のみこ)みたる上、人もよきものなり。其頃また公用に色々の新法ども出來(いでき)て、物むづかしきこと度々(たびたび)なりしに、此入聟上公邊(じやうこうへん)の諸事を辨じ、能(よ)く村の難題を遁(まぬが)れしめければ、終に聟入り能く調ひける。是は石動(いするぎ)の花陽庵と云ふ人の甥なりし。

[やぶちゃん注:「人もよきものなり」その入り候補の人柄も評判よい人物であった。

「上公邊の諸事を辨じ、能く村の難題を遁れしめければ」たまたま、お上や御公儀の諸公事に彼が詳しく、それについて仲介に入って、上手く村の抱えていた難題を有利に処理して呉れたので。

「石動」これは現在の富山県小矢部市石動町(いするぎまち)(グーグル・マップ・データ)。

「花陽庵」不詳であるが、寺の庵号というよりも俳号っぽい。麦水の知れる俳人である可能性がある。]

 されば事整ひて、此井勢村の家主(やぬし)なりしに、其翌年此家の主人番とて、長持を荷ひ來りて、是に封印せんことを人々勸めけるに、此入聟の人(ひと)能く公邊馴れたる男なれば、一應に領承せずして、令を傳へ村中をよせて申しけるは、

「某(それがし)儀主人番にて長持を預り申すことに及べり。然共(しかれども)物として其主(ある)じなる者中を見ずして預かると云ふ理(ことわり)なし。此中いかなる罪にあたるべき物ならんや知らず。よしやさまでのものならずとも、紙などの物にても虫の入りたらんや、或は風にあて爭ば朽ち行きなん物にやあらんも知らず。預る者某(それがし)なれば、封を切りて開き見んと思へども、各(おのおの)年々(としどし)の封印を致され置かれぬれば、一應案内に及ぶなり。各(おのおの)立寄り申さるゝの上は、只今封を切りて中を改めん」

[やぶちゃん注:「虫」の字体はママ。]

と申渡す。村中の者色を失ひ、

「さればこそ『他鄕の方(かた)は宜(よろし)からず』と申したる是(これ)なり。こは何と成りぬべし。其長持は何百年に成りたるも知れず。『あけることはならぬ』と、往古よりの云ひ渡しなり。是(これ)は氣の毒のこと出來(しゆつたい)して、今の主人番の垣破(かきやぶ)りなる事云ひ出(いだ)したり」

[やぶちゃん注:「氣の毒」私は中高の六年間を富山で過ごした。富山では「大変ですな」「厄介かけます」の意で普通に「気の毒な」と言う。]

とて、皆々恨み泣きて差留めける程に、彼(かの)新來の聟申しけるは、

「各(おのおの)は惡くも聞入(ききいれ)られたる物哉(ものかな)、我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり。其上明けしとて何の咎(とが)かあらん。若(も)し又罰(ばつ)にても當る趣(おもむき)ならば、其(それ)身一つに請けぬべし。よき事を云ふを支(ささ)へ給ふこそ心得ね」

[やぶちゃん注:「惡くも聞入られたる物哉」私の行為を悪しきものとしてお聞きになられたものだ。

「我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり」と句点であるが、ここは読点であるべきところで、「こそ~(已然形)……」の逆接用法であり、「私が預かったものを壊してその中の物を捨てると言うのであれば、その言いも御尤もと言えましょうが、逆に『この中の大事なる物とされるそれが損壊していたなら、大変だ』と、心配に思うておりますれば、それに念を入れて確認致しましょうと申しておるので御座います」の意である。

「支(ささ)へ給ふ」邪魔をなさる。]

といへども、

「其元(そこもと)は外より來り給ふ故(ゆゑ)、譯を知り給はず。其箱は何(なん)にもせよ明(あく)ることならぬに極(きは)まりたり。あら物憂(ものうき)の人を此村の主人番にせしかな。主人番の云付(いひつ)けを聞かぬも、今迄の此村の例(ためし)に背くなり。偖々(さてさて)悲しき世に下(くだ)りし哉(かな)」

と、人々怪しみ留(と)むる。今の聟は

「とかく其理(ことわり)心に落ちず。歎くことは猶更に心元(こころもと)なし。さほど人に隱す物は、所詮見ずにはすまぬことなり。今は郡奉行(こほりぶぎやう)へ申出(まうしい)で、斯樣(かやう)の隱し物の候(さふらふ)段を、金澤へ披露するより外なし」

と申放(まうしはな)つにぞ。

 村の者共詮方なく、

「さらば是非なし」

とて日を極(き)め、鹽水(しほみづ)を打ちて淸めをなし、其上にて開きけるに、中には書き物一つもなし。裝束(しやうぞく)の如き物朽果(くちは)て、土の如くなり居たり。太刀(たち)二振(ふたふり)、是又損じて物の用に立たず。琵琶一面・太皷(たいこ)一挺(ちやう)入れ置きたり。

 其外何もなし。

 傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり。是(これ)に依りてさしてもなき事なれば、本(もと)の如く納めて封印し、主人番を廻して今に別條なし。往古より知れざる箱の内、緣(えん)ありて寳曆二年の秋初(はじめ)て開き、又納めしよし、珍說を聞けり。

[やぶちゃん注:「傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり」――中の物についての由来書も附属しない。その元の持ち主も不詳である。「村の主人」役という呼称の謂われも判らぬ。それ以外にもこの長持の由緒・伝来などを補助する資料などもなく、全く以って不明である。ただ『大切な物であり、これが御主(おんあるじ)さまの物なのである』と言い伝えるばかりにして、『この何の価値もないようにしか見えぬ品々を預かる者を「村の主人」と呼ぶのである』と言うばかりの口碑しかない――というのである(但し、次の部分で、納得出来る言い伝えがあることが附記される)。但し、この外から婿入りした人物はやはり人格者であった。この役に立たず、重宝とも思えぬものを元の通りに長持に収めて、封印を総て元通りにして、自身も封印し、今まで通り、御主人番廻りを続けたのである。この村の民俗社会のしきたりを守って続行させたのである。よい人物を村は迎えた。それだけにこの村が特定出来ないのは残念至極である。]

 思ふに平氏は伊勢なり。井勢村は平氏の緣あるに似たり。其上育王山に何某(なにがし)の公家(くげ)來り、爰に壽を以て病死す。其衣服・手廻りを主人と崇(あが)めて、守り奉るよしをほのかに云ひ傳へり。若しくは小松殿なるか。

[やぶちゃん注:「平氏は伊勢なり」平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があるが、後世に残ったその殆んどは葛原親王(かずらわらしんのう 延暦五(七八六)年~仁寿三(八五三)年:桓武天皇の第三皇子)の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはその内の高望王流坂東平氏の流れのみで、常陸平氏や伊勢平氏がこれに当たる。その伊勢平氏は「承平天慶の乱」に功のあった平貞盛の四男平維衡より始まる平氏一族の一つである高望王流坂東平氏の庶流である(ここまでは概ねウィキの「平氏」に拠り、以下はウィキの「伊勢平氏」に拠る)。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(「六波羅家」或いは「六波羅流」)を狭義に「平家(へいけ)」と呼ぶ場合がある(但し、『「平家」の語は本来』は『桓武平氏でも高棟王流(いわゆる「公家平氏」)を指すのに用いられ(『江談抄』(二))、伊勢平氏の全盛期には同氏が率いる他姓の家人・郎党を含んだ政治的・軍事的集団を指す呼称として用いられるなど、時代によって異なる用法があり、「伊勢平氏=平家」とは必ずしも言えないことに注意』が必要ではある)。十世紀末から十一世紀にかけて、同族の平致頼(むねより)との『軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層』の侍品(さむらいほん)であった。『伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず』、『伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ』。『その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡』(これひら))『以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった』。『さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代』で「前九年の役」・「後三年の役」を『平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり』、『白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく』、『摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし』、『勢力を減退させていった。一方』、『伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面』の『武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった』。『殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。正盛は』、嘉承二(一一〇七)年に『出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられ、翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った』。『その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった』。『平忠盛の死後、平清盛が継ぎ』、「保元の乱」・「平治の乱」を制して従一位太政大臣にまで昇進、平家一門の栄華を築き上げたことは御承知の通りである。

「小松殿」平重盛(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)のこと。六波羅小松第に居を構えていたことによる。史実上は病死(胃潰瘍・背部に発症した悪性腫瘍・脚気衝心などの説がある)で享年四十二であった。]

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