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カテゴリー「怪奇談集」の456件の記事

2018/02/05

松風庵寒流(三坂春編)著「老媼茶話」目録~全電子化注終了

 

[やぶちゃん注:底本の目録には本文の標題で補塡された箇所が〔 〕で添えられてあるが、それは( )に代えて示した。【 】は二行割注。一部にある読点は除去した。無論、添えられた頁数は除去した。いちいちリンクするのは面倒なので、カテゴリ「怪奇談集」で表題で検索されたい。]

 

 

    老媼茶話卷之壱目錄

 

一 桂廣宗(太平廣記)

一 王宇窮(述異記)

一 山魅(廣異記)

一 知通(酉陽雜爼曰)

一 盧處(宣室志)

一 蘇陰(潛確居類書曰)

一 溫會(酉陽雜爼曰)

一 醉人(茅亭客話)

一 石中の人(二程全書十九

一 文淨(聞奇錄)

一 膈噎の僧(廣五行記)

一 顧光寶

一 石憲(宣室志)

一 興進(事文類聚【後集二十】)

一 小町髑髏

一 註千字文

一 齋地記

一 佛祖統記

一 三才圖會

一 群居解頤

一 保暦間記

一 琵琶法師傳

一 釜渕川猿

一 大蛇(鬼九郎左衞門事)

一 大蛇(海の恆世)

一 大蛇(船越殺大蛇

一 化佛

 

    老媼茶話卷之弐目錄

 

一 山寺の狸

一 惡人

一 敵打

一 猫魔怪

一 怨積靈鬼

一 只見川毒流

一 伊藤怨靈

一 狸

 

    老媼茶話卷之參目錄

 

一 猪苗代の城化物

一 舌長姥

一 會津諏訪の朱の盤

一 藥師堂人魂

一 亡魂

一 血脈奇特

一 酸川野幽靈

一 飯寺村の靑五輪

一 允殿館大入道

一 杜若屋敷

一 幽靈

一 天狗

一 女大力

一 如丹亡靈

 

    老媼茶話卷之四目錄

 

一 高木右馬助大力

一 大龜の怪

一 安部井強八兩蛇をきる

一 魔女

一 山伏惡靈

一 堀主水蓮女惡靈 幷 主水行末

 

    老媼茶話卷之五目錄

 

一 男色宮崎喜曾路(男色敵討)

一 男色玉川典禮

一 猪鼻山天狗

一 播州姫路城

一 嶋原城化物

一 山姥髢

一 奇病

一 窟村死女

 

    老媼茶話卷之六目錄

 

一 大鳥一平

一 水野十郎左衞門

一 尾關忠吉

一 五勇の辨

一 血氣の勇

一 老人夜話

一 磐梯山怪物

一 飯綱の方

一 狐

一 彦作亡靈

一 一目坊

一 山中の鬼女

一 狼

一 邪見の報

 

    老媼茶話卷之七目錄

 

一 釜煎

一 牛裂

一 燒松灸

一 鋸引

一 狐

一 冨永金左衞門

一 八天幻術

一 因果卽報

一 沼澤の怪

一 夢の告

一 入定の執念

 

    老媼茶話拾遺

 

一 菊渕大蛇

一 諏訪越中

一 由井正雪

一 由井正雪 丸橋忠彌が謀叛

一 丸橋忠彌

一 切支丹

一 耶蘇征罸記曰

 

老媼茶話拾遺 耶蘇征罸記曰 / 老媼茶話~全篇電子化注完遂

 

     耶蘇征罸記曰(いはく)

 

 杉浦氏正友の同心のやしき、油屋作右衞門、借地して住せる。或とき、作左衞門女房、夫に申樣、

「あきもあかれもせぬ中なれども、わらわには、いとま玉はり候へ。御身、このたび、きびしく御改めの切支丹にて候へば、本宗に歸り給へと、いくたび申候へども、合點し給はず。夫(おつと)なればとて、天下の御法度(ごはつと)を背きては、現世未來、父子親類への不孝也。」

とて、強(しい)ていとまをとり、家を出(いで)にけるが、窓の障子に古歌を書(かく)。

  いてゝいなは心かろしと云やせん世の有樣を人のしらねは

 作左衞門、耶蘇宗、改めざるにより、火罪におこなわれける。女房は法華宗たり。此故に、御ゆるしを蒙(こうむり)けり。

  或(ある)記にいわく、

 南蠻國の人、五月五日の曉(あかつき)、山へ入り、七の惡蟲(あくむし)をとり、壺に入、山に埋置(うづめおく)事、一七(ひとなぬか)夜晝(よるひる)を經て、掘出(ほりいだ)し、是を見るに、壹むし、六の惡蟲を喰殺(くひころ)して、其身(そのみ)、堅固(けんご)に、のこりあり。此壹の惡むしをも殺し、七惡のむしの、にくを、ほり、其(その)油をとり、鏡にぬり、その後(のち)、かゞみをとぎ、本朝の人に見せしむる。鬼形(きぎやう)・畜類、變體(へんたい)し、見ゆるといへり。

 

 

老媼茶話拾遺終

 

[やぶちゃん注:「或記にいわく」の二字下げはママ。本章を以って「老媼茶話」は終わっている。

「耶蘇征罸記」村田彰氏の資料『国立公文書館内閣文庫蔵『耶蘇宗門制禁大全』解題・翻刻⑴』(PDF)によれば(コンマを読点に代え、注記記号を省略した)、『姉崎正治『切支丹伝道の興廃』によれば、『耶蘇征伐記』は、「正保』(一六四四年~一六四八年)『頃、島原乱後、江戸で出来たものらしい)」とされ、「議論や叙景文なしに史料集録として出来たもので,頗る史実を捕ふべきものがある」、と肯定的に評価されている。また、訛伝としてあげられている点についても、「筆者の態度は頗る冷静に客観的であるから、此等の訛伝も、何か基くところはあつたのであらう」、と推測されている。そして,『耶蘇征伐記』に「少しづゝ増補したもの」が『耶蘇制禁大全』および『耶蘇征罰記』などであるとされる。いずれにせよ、『耶蘇宗門制禁大全』が世に出たのは『耶蘇征伐記』が出た後である、ということは明らかである』(下線やぶちゃん)とある。この「耶蘇制禁大全」というのは幕府側の手になる切支丹制禁に関わる記録集である。

「杉浦氏正友」「杉浦氏正」不詳。或いは「「杉浦氏」の「正友」(親友)の意かも知れぬ。原典を見ることが出来ないので判らぬ。

「やしき」「屋敷」。

「油屋作右衞門」不詳。

借地して住せる。或とき、作左衞門女房、夫に申樣、

「あきもあかれもせぬ中」「飽き飽かれせぬ仲」。

「わらわ」ママ。「妾(わらは)」。

「いてゝいなは心かろしと云やせん世の有樣を人のしらねは」整序して示す。

 

 出でて去(い)なば心輕しと云ひやせん世の有樣(ありさま)を人の知らねば

 

「或(ある)記」不詳。但し、以下に書かれているのは、所謂、「蠱毒(こどく)」或いは「巫蠱(ふこ)」と呼ばれる、古代中国から伝わり、道教や陰陽道等に受け継がれていった呪術であることは判る。ウィキの「蠱毒によれば、『動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている』。『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として『医学綱目』巻』二十五『の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ。」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は、『隋書』地理志にある「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す。」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合』、『あるいは殺そうとした場合、これらを教唆した場合には死刑にある旨の規定があり』、「唐律疏議」では絞首刑、「大明律」「大清律例」『では斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ、養老律令の中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、(神護景雲二(七六九)『年に県犬養姉女らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』が、また宝亀三(七七二)年には『井上内親王が蠱毒の罪によって廃されたこと』などが「続日本紀」に記されており、『平安時代以降も、たびたび詔を出して禁止されている』とある。しかしながら、ここでは「南蠻國」とあるから、以下は中国の話ではないことになる。が、これはどう見ても中国の「巫蠱」でげすよ!なお、渡来した紅毛人が長崎でいろいろな妖術を見せたという記録はある。例えば実際の鏡ではないが、水盤を鏡のように用いたケースが「耳囊 之四 蠻國人奇術の事にある。私の好きな話である。是非、お読みあれ。

「七惡のむしの、にくを、ほり」判ったようなことを平然と言っているが、生き残った一匹の悪虫から油を搾り出すことは出来ますが、消化されてしまった他の六種の虫の「肉」をそこから「掘り出す」ことは出来ないと思います! はい!

「かゞみ」底本『かゝみ』。「鏡」。

「とぎ」底本『とき』。「研ぎ」「磨ぎ」。

「本朝の人」日本人。]

老媼茶話拾遺 切支丹

 

     切支丹

 

 日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く。その勒右の宗と見へたり。然れども、其頃、權化(ごんげ)の名僧多くして、萬民を化度(けど)し給ふ故、邪法にかたむく者なくして、邪法、用ゆる事、かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)。

 そのゝち、星霜はるかに押移(おしうつり)て、人皇百六代後奈良院の御宇、天文二十年秋九月、切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり。

 同人皇百八代後陽成院永祿年中に、再(ふたたび)、南蠻切支丹國より、奢備鬼留といふ伴天連並(ならびに)いるまん、江川(がうしう)あづちへ來り、宗門を廣め、邪法を説(とく)。此節、織田信長、安土(あづち)におわしましければ、左(さ)もあるべきに、此宗を禁じ給はず、伴天連、安土に耶蘇寺(やそでら)を建て、天帝(てんてい)を本尊とし、

「サン多摩利耶蘇須切に。」

と唱へ、丸念數を建立し、一の大鏡を雲臺(うんだい)にすへ、あまねく萬人に見せしむ。諸宗門の人人の、鏡に向ふ時は、牛馬狐狸(ぎうばこり)の面(おもて)に見へ、耶蘇宗に歸伏(きぶく)せしむもの、此鏡を見る時は、佛・菩薩の面にみへけるまゝ、愚癡無知(ぐちむち)の者共、此宗にかたむき入る事、幾百萬といふ限(かぎり)なし。其上、伴天連四民の貧敷(まづしき)者どもに、金銀をあたへ、忽(たちまち)、とめる者となし、又、富貴(ふうき)成(なる)ものには珎(めづ)らしき珎寶(ちんぱう)をあたへける間(あひだ)、此宗門を尊(たつと)み、なつく事、幼子(をさなご)の母をしたふが如し。此億萬の金銀のついへをば、日本を奪ひとつて後、日本國の諸氏にかけて、つぐのわんとの工(たくみ)也。其外、無邊法師・如路因果居士などゝいふ邪法僧、多く安土にあつまりける。伴天連の勤(つとめ)を得て、今迄、崇(あがめ)うやまひける國國の神社・佛閣・寺院・坊舍、悉(ことごとく)破却して、獅子の或(あるい)は狛犬を碎き打(うち)、薪(たきぎ)となし、阿彌陀佛・地藏菩薩の尊容を、みぞ・堀・路頭に捨(すて)、日本は既に魔國ならんとす。

 家康公、此由を聞召(きこしめ)し及(およば)れ、「是、みな、蒙古三韓の賊、干戈(かんくわ)を動(うごか)さずして日本を手に入れんとの斗(はか)りごと也。日本國中にある伴天連、ことごとく根をたち、葉を枯(から)すべき」よし尊命あるは、慶長六年辛丑(かのとうし)十月、板倉伊賀守勝重、京都の所司代たりければ、耶蘇が寺を燒拂(やきはらひ)、洛中洛外、ことごとく此宗を禁斷せしむ。切支丹改宗せざるものどもをば、俵(たはら)に入れ、卷立(まきたて)て、五條の橋づめに積(つみ)ておく事、山のごとし。そのころ、狂歌に、

  ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる

 又、切支丹の宗旨を改め、本宗に歸る時は、伴天連本尊天帝を地にしき、念佛を申(まうし)、そのうへをまたぎこし、是を「轉ぶ」と云(いふ)。其後、五人組、本尊の寺請狀(てらうけじやう)を持(もち)て是を改め、所司代へ起請文を捧ぐ。其辭に曰、

[やぶちゃん注:以下の証文は底本では全体が「一」が突出して三字目にあるのを除いて三字下げ(ここでは「一」は四字目に下げた)。前後を一行空けた。]

 

  證文之事

一 御法度の切支丹宗門にて無御座(ござなく)候。もし僞り爭申(あらそひまうし)候においては、上は天公・天帝・散多摩利屋(さんたまりや)・ぜす切支(きりし)と・せうすうすの御罪を請(うけ)、陰邊留野(インヘルノ)に落(おち)、諸天狗の手にわたり、追付(おつつけ)、らさけに成り、白癩(びやくらい)・黑癩と呼(よばは)るべき物也。依(よち)て恐敷(おそろしく)、證文如斯(かくのごとき)に御座候。以上。

 

 慶長十七壬子(みづのえね)三月廿一日、駿河の阿部川原に於て切支丹改宗せざるもの、公方近士(くばうきんし)岡本大八をはじめ、數百人、國中を引(ひき)さらし、火あぶり・磔に行わるも、これのみならず、四國西國は、就中(なかんづく)此宗門に傾(かたむか)ざるはなし。尾張大納言義直卿御領内十二ヶ村の民、殘(のこら)ず、切支丹に入(いり)、極刑に逢ひ、近國遠國より搦來(からめきた)る切支丹、江戸へつれ來り、品川表(しながはおもて)の波打際へ、かきのごとくに柱をたて、數百人の切支丹を逆樣(さかさま)つるし置(おき)、滿汐(みちしほ)には、面(つら)・おとがひまで、波にひたり、則(すなはち)、息絶(いきたえ)る。汐引(しほひく)と、いきかへる。かくすれども、壱人も本宗にかへらず、ことごとく、おぼれ死す。

 長崎奉行曾我又右衞門、切支丹の男女(なんによ)大勢をからめ、出雲國より、隱岐へわたり、嶽(だけ)の熱湯へつれ行(ゆき)、湯の勢(いきほひ)烈しくして、あたりへよる事ならざれば、足輕ども、柄の長きひしやくへ熱湯をくみ入(いれ)、八、九才、十二、三才ばかりのわらべを赤裸(あかはだか)になし、溫泉の端へ引出(ひきいだ)し、父母のみる所にて、あたまより、件(くだん)の熱湯をくみかくるに、皮肉、たちまち、にへとけて、白骨と成(なる)。此有樣を眼前にみるといへども、父母兄弟、少しもかなしむ色なし。又、罪人の繩を解(とき)て熱湯のもとへあがり、黑煙のたつる湯の中へ飛込(とびいこま)しむるに、臆する氣色もなく、眞一文字に飛(とび)、一通り、うかみ出(いづ)るを見れば、瓦(かはら)のごとくにとけ、氷の如くに消へて、黑髮と骸骨、うかみ出(いづ)る。數百人の切支丹、改宗の者、ひとりも、なし。

「切支丹の宗門をあらためるものには、金銀田薗(でんゑん)を多(おほく)下され、家に歸り、妻子、安樂に過(すぐ)る。」

といへども、此宗門にかたむき入(いる)もの、老若男女・幼童に至る迄、其志(こころざし)、金鐵(きんてつ)のごとく、死をおそるゝ心、露(つゆ)程もなし。

 此前(このまへ)、國國所々に於て刑罪せらるも、切支丹幾千萬人と云(いふ)數をしらず。奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して、まづ、幼きわらわべを、父母の眼前にて、兩手を、きり落し、兩足を、またのつけ根、打(うち)おとすに、幼きわらべども、壱人も改宗せず、

「天帝・伊留滿・散多摩利屋・ぜすきりす、磔罪上天火罪明朗。」

と唱へ、われ先にぞ死をあらそふ。

 寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日、横澤丹波と申(まうす)者の家の二重かべより、伴天連、尋出(たづねいだ)し、紙小(かみこ)ばたに六字の名號を書き、是をさゝせ、切支丹宗の大事にして、片時(かたとき)もはなさず、晝夜首にかけ尊(たつと)む「こんだつ」といふものをはづして、淨土珠數(じやうどじゆず)を首にかけさせ、伴天連をはじめ、横澤氏が一族三十餘人を馬にのせ、町町を引(ひき)さらし、此日(このひ)、藥師堂にて殺されける。本朝の人を逆磔(さかさはりつけ)にかける事、時は二日を過して死。伴天連は一七夜(ひとななよ)を經て、死したり。伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり。此とき、刑罪せらるゝ吉利支丹、百三十餘人。

 其頃、加藤明成の御内(みうち)の徒士(かち)寶戸太郎作(はうどたろさく)といひしもの、北方(きたかた)へ用の事ありてゆき、歸り道、夜更(よふけ)て、雨の降(ふる)に、からかさをさし、足駄(あしだ)をはき、藥師堂を通りけるに、刑罪に逢ひける切支丹の獄門の首、二、三十ありけるが、此首ども、一同にうなり出(いだ)し、獄門臺より、飛拔(とびぬけ)て、手まりの樣にはづみ上(あが)り、太郎作足もとへ、こけ來り、手足や頰へしひ付(つき)けるを、太郎作、はらいのけ、蹴ちらし、少しも動ぜず通りけるに、「惡人成佛」と書(かき)し大卒都婆(おほそとば)の元に、人(ひと)煎(い)る大釜の有(あり)けるが、其かたわらに、首なき髑骸(むくろ)六有ける。その内より一の髑骸、

「むつく。」

と起き上り、太郎作に、

「ひし。」

と、だきつきける。太郎作、ことゝもせず、力を出(いだ)し、彼(かの)死骸を突倒(つきたふ)しける。五體、ちりぢりに碎け、地に伏して、二ど、起上らず、といへり。

 唐(もろこし)にて劉先生といふ者、山へゆき、大雨に逢ふて、みちのかたはらの塚穴に入(いり)て雨をやめ、雨晴て後、月明也。邊りをみるに、白骨、一具あり。則(すなはち)、立上(たちあが)り、劉先生にいだき付(つき)たり。劉先生、力をきわめて、ふるひ打(うつ)所、倒(たふれ)て、又、起上らず。是、あやしむにたらず。劉が眞氣(しんき)盛んなるにより、枯骨、かつは附して如此(かくのごとし)。「暌事志(けいじし)」にみゆ。太郎作も此類(たぐひ)にやあらん。

 

[やぶちゃん注:「日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く」も、「かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)」「人皇七十五代の御門(みかど)後白河院」は不審。現行では第七十七代天皇である。単なる誤りか。また、「保元平治の頃」(ユリウス暦一一五六年から一一六〇年二月十八日(平治二年一月十日)まで。平治は二条天皇(但し、後白河院の院政)の即位した保元四年四月二十日(一一五九年五月九日) に始まるが、僅か八ヶ月で「平治の乱」によって永暦に改元されている)に、直接にキリスト教国から「伴天連(ばてれん)」(「父」・「神父」の意のポルトガル語「padre」(パードレ)の本邦での当て字で、トリックの宣教師のを指す切支丹用語)や「伊留滿(いるまん)」(「兄弟」・「神弟」の意のポルトガル語「irmão」の本邦の当て字。宣教師の称号の一つで、「助修士」「平修道士」などと訳す。「イルマン」が司祭職に叙階されると「パードレ」となる)が来日して、キリスト教を布教したという記録は現存しないから、これも不審である。ウィキの「日本のキリスト教史」によれば、『日本にいつキリスト教が到来したか』『ということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が』五『世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある』が、『歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い』。唐以降の中国との貿易の中で景教の存在が伝えられ、それに個人的に関心を示した人物はいるかも知れぬが、『歴史的・学問的に見て証拠が多く、日本史の文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエル』(スペイン語:Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年頃~一五五二年:バスク人。没したのは次の布教先として上陸した明の広東省の海島上川島(じょうせんとう:現在のマカオ近くの広東省江門市台山。ここ(グーグル・マップ・データ))で病死)『による布教で』、これは言わずもがな、戦国時代の天文一八(一五四九)年『のことであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみでキリスト教布教が開始された』と、我々が歴史で習った通りのことが書かれている。

「その勒右の宗と見へたり」「勒」では意味が通らぬ。或いは、布教の「勤」(つとめ)の誤記か? さすれば、その布教活動の内容から見て、右の宗教と考えられる、の謂いで意味としては附には落ちる(無論、その事実自体は不審である)。

「權化(ごんげ)の名僧」優れた権威ある仏教僧。

「化度(けど)」仏教用語。「教化済度(きょうげさいど)」の略。人々を教え導いて、迷いから救うこと。

「人皇百六代後奈良院」室町・戦国期の第百五代天皇後奈良天皇(明応五(一四九七)年~弘治三(一五五七)年/在位:大永六(一五二六)年~弘治三(一五五七)年)。この数字の違いについては前章で注したように、明治以前では神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものとすれば、腑に落ちる。

「天文二十年秋九月」一五五一年。ユリウス暦では旧暦九月一日は九月三十日である。ウィキの「フランシスコ・ザビエル」によれば、ザビエルは、明の上川島を経由して、『薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て』、天文一八(一五四九)年八月十五日、『現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた』。同年九月には、『伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た』が、『貴久が仏僧の助言を聞き入れ』、『禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)』。翌天文十九年八月、『ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行』い、同年十月『下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し』て『平戸を出立』、十一月上旬に『周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い』、同年十二月十七日、『周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪』(『ひびやりょうけい;後に堺の切支丹の総代となった)『の知遇を得』、天文二〇(一五五一)年一月、『日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐』(こにしりゅうさ:堺の豪商で豊臣秀吉の家臣。熱心な切支丹宗徒となった。後にかのキリシタン大名となる小西行長の実父)『の歓待を受けた』。『ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て』、天文二十年三月には平戸に戻っている。その後、『ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度』、『山口に入っ』て同年四月『下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった』という。『これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約』二『ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約』五百『人にものぼった』。その後、『豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約』六百『人を超えていたといわれる)』、同年九月、『ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)』が、『日本滞在が』二『年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にし』、『一旦』、『インドに戻ることを決意』、同年十一月十五日に日本人青年四人『(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して』日本を離れた『種子島、中国の上川島を経て』、『インドのゴアを目指し』、一五五二年二月十五日、『ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった』。同年四月、ザビエルは、日本全土での布教のためには』、『日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年』九月、『上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症』、十二月三日に『上川島でこの世を去った』四十六歳であった、とある。本文では「切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり」とあるから、事実とは齟齬していないことが判る。

「人皇百八代後陽成院」安土桃山から江戸初期にかけての第百七代天皇後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七:グレゴリオ暦)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一:グレゴリオ暦)年)。

「永祿」一五五八年~一五七〇年(未だユリウス暦。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日より開始)。

「奢備鬼留」永禄の年号と齟齬するが、これは天正七(一五七九)年七月に来日し、天正十年まで第一回目の日本滞在・布教・宣教師巡察を行い、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見し、天正遣欧少年使節派遣を計画実施したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)(Alessandro Valignano Valignani 一五三九年~一六〇六年)のことであろう。彼の邦名(漢名)は「備慈多道留」であるからである。彼はウィキの「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」によれば、天正九(一五八一)年の織田信長への謁見の『際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス』十三『世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したため』、『これを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている』ともあるからである。

「安土に耶蘇寺(やそでら)を建て」これは信長の許可を得て、ヴァリニャーノが現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦に土地を得て、天正八(一五八〇)年に創建されたセミナリヨ(ポルトガル語:seminário:イエズス会によって日本に設置されたイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校))のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「サン多摩利耶蘇須切に」「蘇須切に」が今一つ判らぬが、強引に意味を持たせるならば、「さんたまりや、そ、すべからく、せつに」か。「蘇」は復活蘇生の意で採った

「丸念數」丸念珠(まるねんじゅ)で「コンタツ」、ロザリオ(rosário)のこと(ポルトガル語:contas:元は「量る・数える」の意)。キリシタン信徒が用いる数珠(じゅず)。大珠六個・小珠五十三個を鎖で繋いで輪状とし、さらにそれに十字架を繫いだもの。この珠を繰りながら唱える「ロザリオの祈り」に用いる。ロザリオの原語はラテン語「rosarium」でこれは「薔薇(rosa)で編まれた花冠」の意。これは「ロザリオの祈り」の十五の〈主の祈り〉と百五十の「アベ・マリア」が、主キリストの十五の秘義及びマリアに譬えられる教会の織りなす「祈りの花輪」に擬えられたことに基づく。

「とめる者」「富める者」。

「なつく」「懷く」。慣れ親しむ。親近感を抱いて近づき馴染む。

「ついへ」「費」。正しい歴史的仮名遣は「つひえ」。

「つぐのわん」「償(つぐの)はん」。

「工(たくみ)」企(たくら)み。

「無邊法師」不詳。識者の御教授を乞う。

「如路因果居士」不詳。識者の御教授を乞う。

「みぞ」「溝」。

「日本は既に魔國ならんとす」明治の廃仏毀釈と同じだね、こりゃ。

「蒙古三韓の賊」元(既に末期であった)と朝鮮(「三韓」は元は朝鮮半島南部にいた種族と、その地域を指し、半島南部にいた種族を「韓」と称し、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なることから「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の三つに分かれていたことによる称)。

「干戈(かんくわ)」武器。武力。

「慶長六年辛丑(かのとうし)」一六〇一年。

「板倉伊賀守勝重」(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)は安土桃山から江戸前期にかけての旗本・大名。江戸町奉行・京都所司代(京都に駐在して京都の警備・朝廷や公家の監察及び、京都・伏見・奈良の町奉行の管理、近畿全域の訴訟の裁決、西国大名の監察などに当った。慶長五(一六〇〇)年に創設された(慶応三(一八六七)年廃止)。「所司代」の「所司は鎌倉幕府の侍所の次官で、長官である別当の補佐・代役、則ち、「代」はその別当の「代」役である「代官」の意である)。ウィキの「板倉勝重」によれば、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで』、『名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』。『三河国額田郡小美村』『に生まれ』、『幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』、永禄四(一五六一)年、『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟・定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し、天正十四年に『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同十八年『に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』一千『石を給され、関東代官、江戸町奉行となる』、「関ヶ原の戦い」の後の慶長六(一六〇一)年、三河国三郡に六千六百石が与えられるとともに、『京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し』、『春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同十四年『には近江国・山城国に領地を加増され』、一万六千六百『石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年『からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった』。元和六(一六二〇)年、『長男・重宗に京都所司代の職を譲った』とある(下線やぶちゃん)。但し、ウィキの「禁教令」によれば、江戸幕府(既に家康は隠居して慶長一〇(一六〇五)年四月一六日に秀忠が第二代将軍に就任している)は慶長十七年三月二一日(一六一二年四月二一日)に『江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告』しはしたが、当初、『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため』、『京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた』。しかし、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」を、続けて元和五(一六一九)年に『改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認でき』なくなり、『キリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして』同年十月六日、『市中引き回しの上』、『京都六条河原で』五十二『名が処刑される(京都の大殉教)。この』中には四人の『子供が含まれ、さらに妊婦も』一『人いた』とある通り(下線やぶちゃん)、勝重を非情残忍なる役人として見るのは誤りである。

「橋づめ」「橋詰」。

「ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる」整序して示す。

 

 轉(ころ)び吹く尺八竹(しやくはちだけ)の吉利支丹俵(たはら)に卷かれ薦僧(こもさう)となる

 

「薦僧」は虚無僧(こむそう)の旧称。「轉び」は俵巻きにされて、ごろんと「転」がされて積み上げられたさまに、切支丹を棄教する「転ぶ」を掛けたもの。この俵巻き=菰(こも)巻きとそこで苦しさに呻く声から、行脚する薦僧(虚無僧:禅宗の一派である普化(ふけ)宗の僧)とその尺八の音を連想したものであろうが、こういう狂歌は正直、好きくない。

「そのうへをまたぎこし」「その上を跨ぎ越し」。踏絵の原型。

「五人組」江戸時代に領主の命令によって組織された隣保(りんぽ)制度。ウィキの「五人組(日本史)」より引く。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ、慶長二(一五九七)年、『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』とある。

「本尊の寺請狀」この「本尊」は菩提寺を指す「本寺」の誤記ではないか? 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請(てらうけ)制度。寺請証文(ここに出る「寺請狀」)を受けることを民衆に義務付けたが、これは特に禁制のキリシタン宗徒及び日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派(日蓮が教義とした「法華経」を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという不受不施義を厳格に守った一派で、幕府から強い弾圧を受けていた。但し、幕閣や徳川家内部等にさえも秘かな信者がいた)でないことを菩提寺によって証明させることが主眼であったが、宗門人別改帳など、住民調査票の役割をも担った。

「所司代」この場合は代官のこと。

「せうすうす」ザビエルたちが、キリスト教の神を表わすのに用いていたラテン語「Deus」の音写「でうす」の転訛であろう(但し、本来のラテン語の「deus」は古代ローマの多神教の神々を表わす語である)。この部分は何だか非常に興味深い。切支丹でないことを、棄教した神の名に於いても(即ち、所謂、あらゆる切支丹の神の名の下に「私は切支丹の神ではない」とし、もし、それを信じていたならば、それらに邪神によっても罰せられるのだからという、驚天動地のパラドキシャルな書き方になっているからである。

「陰邊留野(インヘルノ)」ポルトガル語「Inferno」。地獄。魔界。

「らさけ」不詳。仏教でいう原型の「羅刹(らせつ)」、人を食うとされる悪鬼の転訛か(これは後に仏教に入って仏法の守護神となった)。識者の御教授を乞う。

「白癩(びやくらい)・黑癩」ハンセン病のこと。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状、黒く焼けたように見えるものを区別して呼んだ。ハンセン病は抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、生きながらにキリスト教の煉獄や仏教の地獄などに落ちた救い難き者と見做され、洋の東西や宗教を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見が続いた。その中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されても、それは未だ終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は当然、解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

「慶長十七壬子(みづのえね)」一六一二年。

「岡本大八」(?~慶長十七年三月二十一日(一六一二年四月二十一日))は徳川家康の側近で老中にもなった本多正純の重臣で、「岡本大八事件」で知られる(事件はかなり複雑なので、詳しくは以上のリンク先のウィキの記事を参照されたい)。ウィキの「岡本大八によれば、『江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれる。キリシタンでもあり、洗礼名はパウロという』。当初、『長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、やがて本多正純の家臣となった』。慶長一四(一六〇九)年、肥前日野江藩初代藩主有馬晴信が『長崎港外においてマードレ・デ・デウス号』(Madre de Deus)『を攻撃したとき(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(Nossa Senhora da Graça)『事件』)、晴信の監視役を務めた。ところが』、『大八は、この事件の際の恩賞を徳川家康に斡旋する』、『と偽って』、『多額の賄賂を晴信から受け取った。しかし、いつまでたっても恩賞の沙汰が無いことにしびれを切らした晴信が』、『正純と直談判したため』、『詐欺行為が発覚』、慶長一七(一六一二)年に晴信と直接対決が行なわれ』、大八は『駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された』とある。しかし、この箇所、ちょっと不審である。大八の処刑時に、同時に切支丹信徒数百人が一緒に火炙りや磔に処せられたというのは、どうも納得がいかない。彼は切支丹であったが、彼の場合、罪科の主体は切支丹であったことよりも、収賄や詐欺の咎によるものだったのであり、彼を「はじめ數百人」の信徒が云々というのはおかしいと思うからである。サイト「家康公を学ぶ」のこちらによれば、家康によって『東海道は美しく整備され』、『街道を往来する旅人の中にはイギリス人の記録も残され』ており、そこにはしかし、『駿府で始まったキリシタン大弾圧によって、安倍川の河原に晒(さら)されたキリシタン信徒の処刑場の様子が記されて』おり、『そんな時期に徳川家康公の家臣であったキリシタン岡本大八の重大な犯罪が発覚し』、彼は『安倍川の処刑場で火刑に処せられた。岡本大八の上司であった原主水(はらもんど)もキリシタンであったことから、彼は両手の指を切られ、火印(焼印のこと)を額にあてられ』、『追放となった』(原は切支丹であったのに、ここでは死刑になっていないのである)。『藁科川右岸の牧ヶ谷の耕雲寺住職は、怪我をして空腹に苦しむ原主水を匿(かくま)っていたことが、駿府町奉行彦坂九兵衛の配下に発見され』、『住職も同罪として寺は廃寺となった。原主水は江戸送りとなって、江戸の鈴が森で処刑された(「徳川実記」)』とある。私はこの「老媼茶話」の「數百人」という数字は、別な日時の別な切支丹の処刑を含んでいるのではないかとも思うのである。識者の御教授を乞う。なお、原主水胤信(たねのぶ 天正一五(一五八七)年~元和九(一六二三)年)の凄絶な信仰人生はウィキの「胤信」を是非、参照されたい。

「引(ひき)さらし」「引き晒し」。

「尾張大納言義直」徳川家康の九男で尾張藩初代藩主(尾張徳川家始祖)徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年)

「かきのごとく」垣根の如く。

「逆樣(さかさま)」に「つるし置(おき)」。

「おとがひ」「頤」。あご。

「息絶(いきたえ)る」失神する。

「曾我又右衞門」曽我古祐(ひさすけ 天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)。奉行在任は 寛永一〇(一六三三)年から翌十一年と短い。

「嶽(だけ)の熱湯」不詳、というか、不審。隠岐に自然温泉や、融けたマグマの露出した火口なんぞは、今もないし、当時もない! 島前は確かに巨大なカルデラだけど、約五十万年前に終息してそのままんまやで、あんたぁ! 隠岐の「嶽」(「だけ」は私の推定読み)もよう判らん。これって、もしかして、隠岐の島前の西ノ島南部にある焼火山(たくひやま)って名前を勝手に活発な活火山と勘違いした噂話かなんかなんやないかいのぉ?

「あたりへよる」「邊りへ寄る」。

「ひしやく」「柄杓」。

「にへとけて」「煮え融けて」。

「熱湯のもとへあがり」の「あがり」は「あげさせ」でないとおかしい。

「うかみ」「浮かみ」。浮かんで。

「田薗」「田園」に同じい。

「奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して……こ以降の切支丹宗徒などの会津での処刑の話は既に「藥師堂の人魂」で語られており、処刑場である「藥師堂」の位置推理なども行っている。また、後掲される伴天連を二重壁の隠し部屋に匿っていた「横澤丹波」も、同じ章に「橫澤丹後」の名で登場しているので、そちらの本文及び私の注を参照されたい。

「わらわべ」ママ。「童(わらはべ)」。

「磔罪上天火罪明朗」底本の編者はルビを全く振っていないから、当然の如く、音読みせよということであろうから、「たくざいじゃうてんかざいめいらう」と読んでおく。磔刑はキリストと同じ、火炙りになっていないから「火罪」はよく判らぬ。というより、この二字は他本の校合によって追加したものであるから(その記号が底本にはある)、寧ろ、なしと考えてよいのではあるまいか? 何故なら、「藥師堂の人魂」ではこの台詞はシンプルに「死後には上天明朗」となっているからである。それなら、昇天の後には天国の永遠の晴明なる楽園に迎えられるという言葉として腑に落ちるからである。

「寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日」一六三六年一月二十七日

「紙小(かみこ)ばた」「紙小旌」。紙で出来た小さな幟旗。通常は罪名を書くが、ここは最早、いるはずのない外国人宣教師(神父)であるから、逆にシンプルに「南無阿彌陀佛」の「六字の名號」を書いて彼の背に差し掛けさせたのである。

「こんだつ」先に注した「こんたつ」、ロザリオのこと。

「伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり」処刑人の着衣なので、賤民らに払い下されたか。それは驚くべき伸縮性を持った繊維で出来ており、大人が着ても、子供が着ても、孰れもきつかったり、だぶだぶだったりすることがなかった、ということとしか読めない。「伴天連」が主語でなく、日本人ではない不思議な人型の生物だったなら、これは今なら、宇宙人のスーツだ! という都市伝説になるところだ。

「加藤明成」複数回、既出既注。最初に出る猫魔怪の注を参照されたい。

「寶戸太郎作(はうどたろさく)」不詳。読みは私の勝手なもの。

「北方(きたかた)」現在の福島県喜多方市のこと。

「しひ付(つき)」「強い付く」。ぴたりとくっつくことか。

「髑骸(むくろ)」読みは私の推定。

「劉先生」不詳。出典の「暌事志(けいじし)」(読みは私の勝手なもの)自体が不詳なの「眞氣」真の正常なる陽気としての精気の謂いであろう。

「枯骨、かつは附して如此」この箇所底本は『枯骨かつは附して如此』で『勝は』の右には編者によって補正漢字として『合羽』と添えてあるのであるが、私が馬鹿なのか、この補正字の意味がまるで解らぬ(今までの述べて来ていないが、底本の「老媼茶話」の校訂者は高橋明彦氏)。寧ろ、私は、

――枯骨(ここつ)、且つは、伏(ふく)して、此(か)くの如し。

で、

――劉先生の健全なる陽気が強かった故に、陰気の籠った妖しい骸骨も、一度は立ち上ったものの、すぐに(同時に)、倒れ伏してしまって、かくの如くなったのである。

の意で読んだのだが?]

 

2018/02/04

老媼茶話拾遺 丸橋忠彌

 

     丸橋忠彌

 

 慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻、今度の謀叛の頭人(とうにん)丸橋忠彌、召しとらるも、今宵、忠彌方へ徒黨の者、しのび來り、密事を談じける間、忠彌、酒を出しもてなしけるが、愛酒(あいしゆ)なりければ、忠彌、覺へず吞醉(のみゑひ)て、徒黨の者ども、歸りける跡にて、女房にかたりけるは、

「なんじ旬日ならずして貴人の夫人となり、翠帳紅閏(すいちやうかうけい)の内にして糸竹管弦に日を送らん。其折に、昔の賤しきになれて、水をつみ、薪をひさぎ、米をかしぎ、物がたり忘れても語り出し、かならず、數多(あまた)の官女に笑わるゝ事、なかれ。」

と心よげにたわむれて、傍(かたはら)なる枕、引(ひき)よせ、いびきをかひて臥したりしが、目を覺(さま)し起上(おきあが)り、妻に申樣、

「我、今、不思義の夢を見たり。我身、ほね、うごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり。是は近きうち、日本國の大將軍と成(なる)べき天の告(つげ)なるべし。目出たし、目出たし。」

と、いふて、いつものふしどへ入(いり)、休(やすみ)けり。

 女房は、かねて、忠彌、目を覺(さま)し、喉を乾かし、茶をのむ事を知りければ、茶釜へ水をうつし、柴、折(をり)、くべて、にへたちけるに、釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし。

 忠彌母、老衰して蚊をいとひ、暮より早く紙帳(しちやう)をつりて、臥(ふし)ける。

 釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし。

 立(たた)んとすれども、起(おき)られず。聲をたつて、忠彌が女房をよびける。

 女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也。

 扨、又、石谷將監(いしがやしやうげん)殿、忠彌が討手に向ひ給ひ、今日が究竟(くつきやう)の捕手(とりて)の同心五十人、其外、二百人の足輕を召連れて、忠彌が家【御茶の水といふ所也】二重三重に追取(おつとり)まき、てん手(で)に竹をわり、

「火事よ火事よ。」

と訇(ののし)りけるに、忠彌、寢耳に竹の割るゝを聞付(ききつけ)、起き直り、刀もとらず、東の障子をひらき、四方を見𢌞し、内へ入らんとする處を、一番のとり手駒込彌右衞門、走りかゝり、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」

とおもひしが、彌右衞門が元首を取り、二、三間、突(つき)のくる。

 二番に、米村平六、透(すか)さず飛んでかゝりけるを、忠彌、こぶしを握り、橫山、忠彌が下手(したて)をくゞり、細腰を抱あげ、なげたをさん、とする。

 忠彌、元より、強力(がうりき)にて、橫山を押居(おしす)へんと力足(ちからあし)をふみけるが、すのこ緣(えん)、げた、ふみはなし、兩人、組(くみ)ながら、雨落(あまおち)へころびける。殘(のこり)の者ども、いやがうへに、なり重(かさな)り、忠彌を、手どり足どりして、高手小手(たかてこて)にいましめ、先(まづ)、かたわらへ引(ひき)すへける。

 此(この)橫山は、後、會津へ召(めし)かゝへられける、とか。

 忠彌が母、此騷動を聞(きき)、起上り、枕元の小長刀(こなぎなた)、追取(おつと)り、戸の口にたちふさがり、込入(いりこむ)足輕に立(たち)むかひ、とやかく問答する内に、忠彌が女房、紙帳を引(ひき)さき、連判帳をおしつゝみ、有明の灯(ともしび)をもつて、燒捨(やきすて)ける。

 忠彌が母、連判帳をやきけるを見て、長刀を投捨(なげすて)、我(われ)と、うしろへ手を𢌞し、しばられける。

 女房、色をも變せずして生捕(いけど)られける。

 忠彌下人、八藏といふ者あり。起合(おきあは)せ、隨分はたらきけるが、大勢にとりこめられ、終(つゐ)に、からめられける。

 此(この)八藏は一國一城の大將分(たいしやうぶん)のものなりしが、正雪のはからひにて、所所(しよしよ)、密書の使(つかひ)をさせん爲(ため)、態(わざ)と、忠彌、下人になし置(おき)ける。

 忠彌をはじめ、四人の者ども、急ぎ、獄屋へ込置(こめおき)ける。

 忠彌が家内より出(いで)たるもの、鐵砲五挺、鑓三本、大きなる房付(ふさつき)團傘三本・但(ただし)揚(あげ)なし、五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

 其外は家さがしすれども、あやしきもの、みへず。

 かくて忠彌をは、松平伊豆守殿、獄屋へ、雜(ざふ)しきどもに申付(まうしつけ)られ、きびしく拷問にかけられけれども、終に一言の白狀に及ばず、伊豆守殿、下知として靑竹を割(わり)、皮をゆひし、是を籠に組(くみ)、忠彌をおし込(こみ)、左右に大の柱を立(たて)、上拔(ぬき)、くさりをもつて中につり上(あげ)、その下へ炭火を山の如くにおこし、雜人原(ざふにんばら)、四方より、大うちはにてあふぎたつる。折節、七月下旬、殘暑は天にこがるゝがごとくにて、只さへ、あつさ、たへがたきに、ほのう、うづまき上(のぼり)り、忠彌が形もみへず。忠彌、身よりしたゝる油、ほのうに和して、

『あび大焦熱のくるしみにもかくやあらん。』

と、みるもの、魂をうしなふといへども、忠彌は曾て物ともせず、黑煙(こくえん)内に折節、高高と念佛の聲、聞ふる斗(ばかり)也。

 信綱、役人に命じ、火をしめさせ、籠を下(おろ)し、水をたまふ。

 忠彌は、唯、眞黑になりて目斗(ばかり)働(はたらき)けるに、伊豆守殿、忠彌に向ひ、

「忠彌、さこそ、くるしかるべき。なんじ、逆徒のものども、殘らず白狀して、速(すみやか)に死を急ぐべし。然らずんば、たとへ年月ふるといふとも、彌(いよいよ)きびしく拷門にかくるべし。」

と、の給ふ。

 忠彌は、もくねんとして目をとぢ居たりけるが、此言葉を聞て、水を好みければ、伊豆守殿、手づから、錫(すず)の天目(てんもく)へ水をくみ、差出(さしだ)し給ふ。

 忠彌、つゝしんでおし戴き、水をのみ、天目をかたはらに置(おき)、畏(かしこまつ)て申けるは、

「我等如きの賤敷(いやしき)もの、此度(このたび)、謀叛の頭人に罷成(まかりなり)候はずは、いかで、當時天下の執權たる豆州(づしう)どの、御手づから、御給仕を得てみづを下さるべきや。此段、恐入(おそれいり)奉り候へば、曾(かつ)は冥土黃泉(めいどかうせん)の思ひ出に爲(な)し奉り候。又、逆徒のもの、御尋被成(なられ)候へども、此義は骨を碎(くだか)髓(ずい)を拔(ぬか)候とも、得(え)こそ申間敷(まうすまじく)候。ましてや、加樣(かやう)の責(せめ)ものゝ、數とも存(ぞんじ)候はず。天下の、あるとあらゆるせめを得て、其後(そののち)、牛裂(うしさき)に逢(あひ)候事、兼て存極(ぞんじきは)め罷在(まかりあり)候。謀叛存立(ぞんじたつる)五ヶ年の内、かたろふ所の者、四、五千人也。誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき。一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなされ)ざる。」

とて、其後、物言(いは)ず、あるとあらゆる拷問に懸られけれども、終に徒黨を顯さず。伊豆守殿、詮方なく、責(せめ)をさし置(おき)給ひける。

 忠彌、八月九日の朝、起(おき)て、役人に向ひ聞けるは、

「我が輩、近日、罪せらるべし。其沙汰、なきや。」

と云。

 役人、答(こたへ)て、

「何故に、かく尋(たづぬ)るや。」

と、いふ。

 忠彌、答て、

「我等、昨夜、夢に正雪來りて誘引(さそひ)、しらぬ山路を越(こゆ)る、と見たり。此故に、かくいふ也。」

と云果(いひはて)て、よく日、十日に鈴ケ森にて、此度の逆徒の者共、死刑に行れける。

 眞先に平味次郎右衞門・柴原彌五兵衞・同久兵衞・加藤市右衞門・岡野治右衞門・櫻井彦兵衞・同父三太夫・伊右衞門・淸兵衞・丸橋忠彌、以上、拾五人、跡より、柴原彌五兵衞母・龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助・櫻井が母・忠彌母・同女房・淸兵衞母、其外、四人、名知れず、以上、十一人也。〆(しめ)て二十六人、磔(はりつけ)也。

 其外、七人、輕罪(けいざい)、徒黨の内、四十餘人、淺草にて刑罪(けいざい)也。

 磔に上(あげ)られ、忠彌が女房、母に向ひ問ひけるは、

「大坂落城の折、天守に火懸りて、淀殿御母子、御生害(ごしやうがい)の節も、我我、今、磔に懸られ、鳶烏(とびからす)の餌食(ゑじき)と成(なる)も、前世の宿業にて候半(さふらはん)。」

といふ。

 母、聞て、嘲(あざけ)りわらひ、

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也。忠彌、孤獨の牢人ものにて、天下に望みをかけ、今、斯成(かくなる)は人間の本望也。並並のもの、及ぶ所にあらず。大坂の名城へ龍り、天下の勢(ぜい)を引受(ひきうけ)、自害被成(なされ)しも、我我、此(この)磔柱(はりつけばしら)も、一事也。運命盡(つく)る期(ご)は是非に不及(およばず)。無益の事云(いは)ずとも、念佛、申(まうす)べし。」

と答へける間(あひだ)、詞(ことば)を留(とめ)、念佛申けると也。

 其頃の狂歌也。

  とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる

  丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける

 會津の西に牛澤(うしざは)といふ在郷、有り。此(この)時に、大德寺といふ寺あり。延寶の頃、此寺の住職の僧、元江戸の人也。幼きころ、忠彌、刑罪せらるゝを、鈴ヶ森に行(ゆき)て見たるよし、坂下村安兵衞といふ者に語(かたり)給ひしと也。

「忠彌は眼(まな)ざし、さかつり、四角づらにて、なでつけ天窓(あたま)にて、能(よ)き男也。黑羽二重(くろはぶたへ)に丸の内にだき蝶のもん所付(つけ)し新敷(あたらしき)袷(あはせ)、着たり。唯、壱鎗(ひとやり)にて、息、たへける。」

と也。

「忠彌母と女房、問答も我は近寄(ちかより)見しに、見物、大勢にてのゝめく故、分けは聞(きこ)へざりしが、口はきゝける樣子也。足洗村、半右衞門といふ者は、血にまよひけるか、高聲に色色の口をきゝ、壱鎗每(ごと)に、念佛、申ける。」

と語られける也。

 此度(このたび)、正雪・忠彌を訴人しける奧村八郎右衞門、或とき、近くへ出(いで)て暮に歸りける折、正雪・忠彌が俤(おもかげ)、目のまへにありける樣にて、頻(しきり)に寒けだち、恐ろしかりければ、急ぎ、我宿へ歸(かへり)、伏したりしに、其夜の夢に忠彌妻女、短刀をもち來り、八郎右衞門が咽(のど)ぶへを突通(つきとほ)すと思ひしが、夢、覺(さめ)けり。是より、熱痛起り、頻に、

「忠彌、來(きたり)、我が胸を押(おさ)へ、妻女、短刀にて、わがのんどを突(つく)。」

と訇(ののし)りさけびけるが、一七日(ひとなぬか)過(すぎ)て、死しけり、といへり。此事、「望遠錄(まうゑんろく)」にもあり。

 

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。先の「由井正雪」とも重複する箇所もあるが、カメラ・ワークが異なり、より丸橋忠弥とその女房と忠弥の母をクロース・アップして、全く、飽きさせない。

「慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻」グレゴリオ暦一六五一年九月七日であるが、この「子の刻」は午前零時頃で、ここは後で「今宵」とも言い、前に「廿三日夜」として、しかも、「密事を談じ」、酒好き(「愛酒」)の忠弥が思わず呑み過ぎて酔っぱらって「徒黨の者ども」が「歸りける跡にて」であるのだから、ここは実は日付の変わった七月二十四日(一六五一年九月八)日の午前零時過ぎのシークエンスとなって、先の「由井正雪」で、駿河の梅屋の正雪が、その翌日の七月二十五日の曙の江戸の空の変異を見て占い、忠弥の捕縛を知った、とするのと齟齬はないドラマなら、タイトに詰めて後者を二十四日朝にするところだろうが、駿府城ジャック・テロ担当の正雪らが江戸を発ったのは七月二十二日で、紀州藩士を騙っての旅、その間に箱根の関所越えも間に挟んでいるから、二十四日に駿府着は逆に無理で不自然である。

「頭人(とうにん)丸橋忠彌」彼は、江戸城内への侵入によって起す騒擾、及び、二箇所の幕府火薬庫の爆破と、大名火消に変装して要人を無差別に狙撃して暗殺する江戸広域テロを担当した首魁である。

「翠帳紅閏(すいちやうかうけい)」夫唱婦随の翡翠を縫い取りした帳(とばり)を垂れ、鮮やかな紅色に彩り飾った貴婦人の閨(ねや)。

「内」底本本文は「ゆか」。編者の訂正の添え漢字を採用した。

「水をつみ」水を井戸から手ずから汲み揚げて持ってきてしまい。

「米をかしぎ」飯てづから炊いてしまい。

「物がたり忘れても語り出し」意味不明。底本は『物かたり忘れても語り出し』。或いは「物語(かた)り」乍ら、語ったことを「忘れて」、又「も語り出し」か。忠弥の妻が話し好きなのだが、忘れっぽい性質(たち)でもあって、同じことをたびたび彼に話したとすれば、この解釈はすこぶる腑に落ちるのである。

「たわむれて」ママ。

「いびきをかひて」ママ。「鼾をかき(い)て」。

「我身、ほねうごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり」これは逆に恐るべき不吉な大凶の予知夢であったわけだ。彼が処刑される鈴ヶ森刑場は現在の東京都品川区南大井(ここ(グーグル・マップ・データ))にあり、それは「品川の海邊」である。「ほね、うごき、かわ」(ママ)「ぬけて」は、「骨」がぐらぐらと「動」くほどに激しい殴打で骨折をすること、「皮」膚がべろりと「脱けて」しまうような火傷を負わされること、真っ「赤」な「肉」の塊りのようになるというのは、それらに加えて以下に見るようなありとある残酷な拷問を受けた結果の、彼の惨たらしい全身の赤剝けた肉の塊りをこそ暗示させる。さすればこそ「大勢」の「供人」とは、後に出てくる、彼に、ありとある責めを加える多くの「雜(ざふ)しき」「雜人(ざふにん)」(下役人)に他ならない。そうして、そこで暫く「納涼す」るのは、彼が阿鼻叫喚地獄・焦熱地獄もかくやと人の見た、秋とは暦の上だけのこと、残暑厳しき折りから受けることとなる、残酷な炭火燻(いぶ)しの火刑の逆説的シンボルであったのである。

「ふしど」「臥所」。

「にへたちける」ママ。「煮え立ちける」。

「釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし」湯の沸いた音の聞き違えともとれるが、寧ろ、作者はこの直後に訪れるカタストロフを予兆させる怪異として確信犯でセットしているものと感ずる。

「紙帳(しちやう)」紙を貼り合わせて作った蚊帳(かや)。冬季でも防寒具として用いた。「釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし」「女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也」これも同じく凶事(まがごと)の前の怪異として配してある。筆者の怪談に慣れた手並みが非常に効果的に生きていると言える。

「石谷將監(いしがやしやうげん)」既出既注

「究竟(くつきやう)」「くきやう(くきょう)」と読んでもよい。元は仏語で「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」であるが、ここは選りすぐりの極めて屈強(くっきょうな「捕手(とりて)の同心五十人」ということで、私はそれも掛けてあるように読んだ。

「駒込彌右衞門」先の「由井正雪」では「間込彌右衞門」。しかし、こういう相違を、当時は作者も読者も殆んど五月蠅く言わなかったのだろうなあ、と、江戸時代の怪奇談や随筆を読んでいると、しみじみに思う今日この頃である。

「二、三間」三メートル半強から五メートル半弱。

「米村平六」不詳。

「なげたをさん」ママ。「投げ倒(たふ)さん」。

「橫山」突然、出てくる姓。しかも、底本でも独立改行一行で彼のことだけ、「此橫山は後會津へ召かゝへられけるとか」と出るのが、却って異様。しかも調べたって、別に偉くなった有名人でもないようで不詳である。

「八藏」不詳。

「團傘」「揚(あげ)なし」全く意味不詳。識者の御教授を乞う。

五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

「松平伊豆守」松平伊豆守信綱。既出既注

「皮をゆひし」底本は『ゆへし』。編者の添え訂正字で直したが、これでも何となく、おかしい。割った青竹を組み、それを「革を」以って「結」ったという意でとっておく。

「大うちはにてあふぎたつる」「大團扇にて煽ぐ立つる」。

「天にこがるゝがごとくにて」中天に太陽が焦げるかのようにギラギラと輝いているようで。

「ほのう」底本では『ほなう』。編者の補正字で直したが、それでもおかしい。「炎(ほのほ)」である。

「みるもの、魂をうしなふといへども」ここはなかなか痛烈な部分である。これを見ているのは、拷問している奉行・同心と奉行所の下役人らのみだからである。自分たちのやっている拷問の酷さに失神しそうだというのである。さればこそ、テロリストであるけれども、この後の丸橋忠弥の毅然たる態度に、読者は(少なくとも私は)強く惹かれるのである。

「しめさせ」「閉めさせ」「〆させ」「濕させ」か。

「もくねん」「默念」「默然」。凝ッと黙って何か考えている風。

「天目(てんもく)」ここは単に茶碗の意。

「得(え)こそ」「得」は当て字であろう。禁止の呼応の副詞「え」(~打消)であろう。

「誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき」反語。

「一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなられ)ざる」意味がよく判らぬ。「ものゝ問給こそあれ、」は底本では「ものゝ問給こそあれ。」であるが、私は「こそ」(已然形、……)の逆説用法ととった。一つ、無理矢理、訳してみるなら、

――貴方が知りたがっておられる、我等の首領は、下僕の一人をも、拙者のところに遣わすことはごく稀にには御座ったものの、このような変革の大望を心にしっかりとお持ちの君子たる人物は、凡そ、拙者のような、もともとのかくなる前科者(或いはこうして捕えられて拷問を受けている今の罪人としての自分)には、そもそも気軽に近寄ってきて、頻繁に接触するようなことは致さぬものにて御座る。これ以後は、あなたさまが如何にお訊ねになられたとしても、一言もお答え申し上ぐることは致さぬことと致しましょう。それにしても、流石に、松平伊豆守様とは存じ上げませず、私のような男に、かくも直(じか)に親しくものをお訊ねになられましたけれども、あなたさまは、どのような「男」であるか御存じには遂になれませぬ……

或意は最後は、「その頭目について、あなたは遂にお知りになることは出来ませぬ」という意味かも知れぬなどと、妄想訳した。全く自信はない。大方の御叱正と、正しい訳の御教授を切に乞うものである。

「眞先に」「由井正雪」では忠弥が引き回しの際の先頭だったが、ここは実際の鈴ヶ森での処刑の順序を言っているのであろうか。一応、そうとっておく。

「平味次郎右衞門」不詳。

「柴原彌五兵衞・同久兵衞」ともに不詳。

「加藤市右衞門」丸橋忠弥の妻の従兄という(山下昌也氏の「実録 江戸の悪党」(二〇一〇年学研刊)に拠る)。後の「龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助」の二人はその叙述から彼の子となる。

「岡野治右衞門」不詳。

「櫻井彦兵衞・同父三太夫」ともに不詳。

「伊右衞門」現在の静岡県安倍郡千代田村大字下足洗の豪農足洗半左衛門の婿か。個人サイト「街角 歴史散歩」の悲運の豪農・足洗半左衛門~由比正雪事件~」に拠る。それによれば『幕府の老中指令は厳しく、「半左衛門、婿の伊右衛門とそれぞれの女房は磔、男子は斬罪、女房の腹にいて男子が生まれれば斬罪、娘なら卑しい身分に落とせ」という過酷なもの』だったとある(「慶安大平記」によるものとある)。ここには出ないが、本章の最後で「足洗村、半右衞門」が出、丸橋と一緒に処刑されていることが判る

「淸兵衞」不詳。

「丸橋忠彌、以上、拾五人」前に書かれた人名は十人分しかいないですけど(五人の内の一人は後に出る先に示した足洗村の半右衞門だ)。

「淺草にて刑罪(けいざい)也」明確に断言は出来ないが、小塚原刑場のことではないかと思う(何故、留保するかというと、同刑場の解説はまさにこの慶安四(一六五一)年のことだからである)。千住大橋南側の旧小塚原町(こづかはらまち)にあり、現在の東京都荒川区南千住二丁目に相当する。(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴ければ判る通り、今でこそ地名は千住であるが、浅草寺の裏(北)一・五キロメートしか離れていない。

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也」底本は『殊のなるとならさると本命也』。編者の補訂添え漢字で訂した。なお、「由井正雪」では人物として妻の影に隠れていた、この忠弥の母、ここでは俄然、強烈なキャラクターとしてクロース・アップされ、妻が後退している(捕縛された際も、長刀を持って捕り手の前に立ちはだかったりして、このお母さん、強い!)。

「とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる」整序する。

 

 泥龜(どろがめ)と土龍(もぐら)は土に隱(かく)れても加藤は死んでふらふらとなる

 

「絵本慶安太平記」を読むと、彼は京都で捕縛されているが、剛勇の彼は不覚にも睾丸を摑まれて『眼眩みて跼々(よろめく)』ところを搦め捕られている。下の句はそれを指していよう。それ以外にも、「龜」や「土龍」に何か隠れた意味があるようだが、判らぬ。ふと思ったのは、徳川南「龍」公頼宣(南海の伏龍)が関与したが、辛くも追及を免れたのを土竜(もぐら)に掛けているとかどうだろう? しかしだとすると、「龜」も黒幕の誰かでないとおかしいことになる。判らん。

「丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける」整序する。

 

 丸橋が蹈み返へされて母親も妻もろともに沈み果てける

 

「丸橋」を、まんま、橋に掛けただけの、つまらぬもの。橋板が踏み返された結果、橋に穴が開き、母も妻もそこから諸共に奈落の水底(みなそこ)へと沈み果ててしまったというだけのことだろう。これは裏はなさそうだ。

「牛澤」後に「坂下村」が出るから、現在の会津若松の西方の福島県河沼郡会津坂下町牛川に曹洞宗大徳寺であろう。位置はを参照されたい。

「延寶」一六七三年から一六八一年まで。

「さかつり」逆吊り。目尻が吊り上っていることであろう。

「なでつけ天窓(あたま)」総髪(そうはつ)のことか。月代(さかやき)を剃らずに、前髪を後ろに撫でつけて、髪を後ろで引き結ぶか、髷を作ったもの。江戸前期では神官・学者・医師などの髪型として知られる。

「丸の内にだき蝶のもん所」「だき蝶」は「抱き蝶」○に「向かい蝶」辺りの紋か。を参照されたい。

「奧村八郎右衞門」既出既注。こいつは死なないと確かに気分が悪い。

「熱痛起り」「痛」は衍字かも知れぬ。しかし、あっても問題はない。

「望遠錄(まうゑんろく)」全く不詳。識者の御教授を乞う。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

     由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

 人皇百十一代後光明院、慶安四年四月也。楠正雪、駿河へおもむく折に、鈴ヶ森にてしばらく休息して、

 

 門出に鑓の穗先は尾花かな   正雪

 秋にふるれは鳴鈴ヶ森     郭然

 月のこり二千里の外年のうち  鵜野九郎兵衞

 

 由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云。由井正雪最期の後、旅行の荷札に、紀伊の家中の士の樣に書付けるうへ、紀伊大納言賴宣卿御判形(ごはんぎやう)あるあいだ、酒井讚岐守、賴宣卿へ參上、直(ぢき)に御判の事を申上、

「此書は謀書(ぼうしよ)にてもこそ候はめ。御墨色、大に違ひ申候。加樣の反古(ほご)、燒捨(やきすて)て能(よく)候。」

とて、卽座に引破(ひきやぶり)、火にくべ、其後、申上(まうしあげ)けるは、

「御判形などは、御身近く召し仕わるゝ人々に、御油斷被成(なされ)ざる事、肝要に候。」

と申上ける。

 賴宣、仰(おほせ)けるは、

「此判形、いささか、覺へなし。然(しかれ)ども、判形あるうへは、貴殿申さるゝ通り、向後(きやうこう)、油斷なりがたし。」

と、御小性(こしやう)中(ちゆう)の語合(かたりあひ)居たる邊(あたり)をみやり給ひけるに、加納何某(なにがし)とかや申(まうす)若輩成(なる)人、御緣先へ立(たつ)よ、とみへしかば、御目通りにて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

 此人、知りたるにあらざれとも、主君の御難を身に引受(ひきうけ)、腹切て死にけるとぞ。

 賴宣卿御代は、其(その)子ありけるをば、熊野のおくにさし置(おか)れ、對山大納言殿に召出(めしいださ)れ、段々、立身し、加納平次右衞門と申(まうし)ける也。

 紀伊大納言賴宣卿、東照宮の十男君也。

 御心、甚(はなはだ)たくましくして、友嶋遊獵(ゆうりやう)の節は、御腰をかけられし休息、動出(うごきいで)、龍のごとき者、あらわれける。志津(しづ)の長刀(なぎなた)、蛇の頭(かしら)へ差當(さしあ)て、

「山神(せんじん)、伏木(ふしき)と變じ給ふらん。動き給はゞ、忽ち、刺殺(さしころし)申(まうす)ぞ。」

と、いわせ怒らせ給へば、元の朽木(くちき)と成(なり)し、といへり。

 その日、大雨洪水(たいうこうずい)にて、御鷹野に成(なり)かねければ、海上三里、うごきければ、こぎもどりしに、雷、御舟へ落(おち)ける。

 火の玉、御座近くころび來(きた)るを、毛氈(もうせん)をなげ、

「夫(それ)、手どりにせよ。」

と御下知也。

 御近習の何某、爰かしこ、おさへ取らんとするに、其手の下より拔出(ぬけいで)、天へのぼる。

 此(これ)、火の玉にて、水主(すいしゆ)五、六人、みぢんに成(なり)、骨(ほね)迄、碎(くだけ)たり。

 寛文年中、遠江國渡りにて、御船(おふね)を卷上げ、茶臼のまはす如く、海上、荒(あれ)けるに、平生の御顏色にて、事ともし給はざるとかや。

 寛文十一年正月十日、御逝去也。紀州鴨谷(かもだに)に葬りて、南龍院殿(なんりゆういんでん)と號し奉る。七十歳とかや。御兄弟十一人の内、長壽尤(もつとも)ましましける。御歌に、

 

  思ふ事一かなへは又二かしの世や

 

[やぶちゃん注:慶安の変絡みの逸話と事後談から、同事件で関与が疑われた徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年:徳川家康十男。紀州徳川家祖。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩を経て。元和五(一六一九)年に紀伊国和歌山藩五十五万五千石に転封、藩主となった(数え十八)。慶安の変(慶安四(一六五一)年四月から七月)当時は満四十九歳。徳川家康直系の長老の生き残りで、ここのエピソードにも出る通り、性格的にも戦国武将的な一面を持っており、幕府にとっては煙たい存在であった。そこに由井正雪の遺品から頼宣の印判を偽造した文書が出てきたことから、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、十年もの間、江戸に留め置かれて、紀州へは帰国出来なかった)の本件の逸話から、慶安の変とは無関係な彼の怪奇武勇伝にスライドして、やや「老媼茶話」の怪奇談の面影を示す。発句和歌の前後は一行空けた。

「人皇百十一代後光明院」後光明天皇(寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年/在位:寛永二〇(一六四三)年~承応三年)は現在は第百十代天皇とする。これは、明治以前、神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものであろう。

「門出に鑓の穗先は尾花かな」整序して示す。

 

 門出(かどいで)に鑓(やり)の穗先は尾花(をばな)かな

 

正雪が駿府城ジャックのために江戸を出立したのは、前に出た通り、慶安四年七月二十一日、グレゴリオ暦では一六五一年九月五日で既に秋であった。

「秋にふるれは鳴鈴ケ森」整序して示す。

 

 秋にふるれば鳴る鈴ヶ森(すずがもり)

 

「ふる」は「経る」(時が経って決起の時となる)と「鈴ヶ森」の鈴に「触る」、及び、鈴を「振る」に掛け、恐らくは決起に「奮(ふる)ひ立つ」の「奮ふ」や「武者震ひ」の「震ふ」にも掛けていよう。しかし、ここ鈴ヶ森に、まさにこの僅か十九日後に、丸橋忠弥一党が磔にされることまでは思い至らなかったわけである。

「郭然」前章では「郭善」と出る。正雪一味であった正体不明の巨魁の怪僧。正雪の介錯役を成して後、同時に自害したものと思われる。

「月のこり二千里の外年のうち」整序して示す。

 

 月殘り二千里の外(ほか)年の内

 

何時も非常にお世話になっているかわうそ氏の「暦のページ」で当日の月没時刻を調べると、十一時六分である。「二千里の外(ほか)」は恐らくは日本国全土、帝のしろしめす国土を謂い、「年の内」には現政権を打ち亡ぼし、新たな御代が到来することを言祝いだ予祝の意味が込められていよう。

「鵜野九郎兵衞」既出既注。正雪門人の中でも高弟で大将格。

「由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云」ウィキの「由井正雪」によれば、『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では』慶長一〇(一六〇五)年、『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたという。治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。軍学者の楠木正辰の弟子となり軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』とある。

「酒井讚岐守」老中酒井忠勝(天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵川越藩第二代藩主で、後に若狭小浜藩初代藩主。家光から次代の家綱時代の老中・大老。寛永元(一六二四)年十一月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となり、寛永一五(一六三八)年十一月に土井利勝とともに老中を罷免されて、大事を議する日のみの登城を命ぜられ、これが後の「大老」職の起こりとなった。

「判形」書き判。花押。

「謀書」偽造文書。但し、徳川頼宣の慶安の変への加担或いは彼こそが影の首謀者だったとする小説的仮説を好む者は現在でも多く、その手の小説類で以下の小姓切腹に一件も完璧な事実であるかのように、かなり流布している

「加納何某(なにがし)」不詳。この話は「徳川実紀」(幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年完成)などに載るが、私はやや不審を感じる。さらに言えば、頼宣の信頼厚かった紀州藩家老に加納直恒(慶長五(一六〇〇)年~貞享元(一六八四)年)がいる。彼はウィキの「加納直恒」によれば、『上総に生まれ』、慶長一五(一六一〇)年、『母の姉佐阿が駿府城大奥で徳川家康の侍女を務めていた縁で、家康に小姓として召し出され』、二百『石を賜る。母の兄・加納久利の猶子として加納氏を称した』(同ウィキの注に『加納氏は、松平泰親の庶子久親の子孫で、後に、主君と同じ松平の苗字を称することを憚り、代々居住する加納を称した。また故あって、氏も藤原氏に改めた』ともある)。翌年、『上洛して二条城で家康と会見した豊臣秀頼への答礼の使者として、大坂城に赴く徳川義直、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長二十年の『大坂夏の陣の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり』、元和五(一六一九)年、『駿河で加増を受け知行』三百『石。頼宣の紀州入りに従』って、翌年には『加増を受け、知行』二千『石』、六十『人の与力鉄砲同心を預かる。』寛永二〇(一六四三)年に大番頭、万治二(一六五九)年、『年寄列に加わる』。寛文七(一六六七)年には隠居して家督を嫡男政直に譲っているが、「慶安の変」は彼の勤仕中の出来事である。しかもウィキには、『軍学者・由井正雪が、家老・渡辺直綱を介して紀州藩に仕官を求めた際に、直綱が仕官の希望を頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、直綱に意見を問うと、猛反対したため仕官は見送られた。後に、正雪が慶安の変を引き起こすと、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った』(下線やぶちゃん)と「加納五郎左衛門行状記」からとして記してまであるのである。ここに出る「加納某」は頼宣の小姓であり、主君への疑いを晴らさんがためだけに(由井正雪とは何の関係もないのに)、ただ黙って腹を切った(と筆者は考えている)とすれば、タダモノではない。とすれば、この加納直恒所縁の縁者であると考えるのが至極当然と私は思うのであるが、そんな話はどこにも出て来ない。だから不審なのである。

「御目通りにて」主君頼宣及び酒井忠勝ら貴人の御前にての意。

にて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

「知りたるにあらざれとも」正雪との一味同心や公文書偽造に関わったわけではさらさらなかったのであるけれども、の意。

「對山大納言」「たいざんのだいなごん」と読んでおく。頼宣の長男で紀州藩第二代藩主徳川光貞(寛永三(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)のこと。言わずもがな、後の第八代将軍吉宗の父。「對山」は元禄一五(一七〇二)年に出家した後の号。法号も「淸溪院殿二品前亞相源泉尊義對山大居士」。

「加納平次右衞門」だからね、不審だって言うわけよ! 先に注した加納直恒は引用した通り、寛文七(一六六七)年(七月十五日)に隠居して家督を嫡男政直に譲って、それから十七年も悠々自適に生き、貞享元(一六八四)年十月四日に享年八十五で亡くなっているのだが、その息子加納大隅守政直(元和八(一六二二)年~正徳五(一七一六)年)は無論、紀州藩家老となったわけで、その通称は平次右衛門だぜ?! ウィキの「加納政直」によれば、慶安二(一六四九)年、数え二十八歳の時に『部屋住みで召し出され』、『大番与頭となり』、『名を平次右衛門と改める』。寛文七(一六六七)年七月、『父直恒の隠居により』、『家督と知行』二千『を相続し、家老となる』(直後に二千石加増で知行四千石)。貞享元(一六八四)年十月には、『生まれた藩主・光貞の四男・源六(後の徳川吉宗)を預けられ、屋敷で』五『歳まで養育』している。元禄一二(一六九九)年に隠居し、『家督を嫡男政信に譲』った。享年は九十四。『次男・久通は、本家・加納久政の養子となり』、『家督相続、吉宗に仕え、吉宗の徳川宗家相続に伴い、江戸に移り、旗本として仕え』、享保一一(一七二六)年『には大名に列し、伊勢八田藩初代藩主とな』っている、というわけよ。ここに出る加納本家というのも相応に紀州藩で幅を利かしていたんだろう。されば、腹切りした小姓加納某はその本家筋かぁ? それにしちゃ、どうにもこうにも俺にはコンガラガッちまってキモチワルイんだけど? 誰か、キモチヨク、俺に説明してクンナイかなぁ?

「友嶋」友ヶ島(ともがしま)。和歌山と淡路島の狭隘する紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ、現在の和歌山県和歌山市加太(かだ)に属する無人島群の総称。地ノ島・神島・沖ノ島・虎島(沖ノ島北東部に連なる陸繋島)でから成る。ウィキの「友ヶ島」によれば、『江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における』五『つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「御腰をかけられし休息、動出」何だか、おかしい。後で「元の朽木と成し」とあるのだから、「御腰をかけ、休息せられし古木、動き出で」あたりであろうか。

「龍のごとき者」頼宣は自身を「南龍」と号し、神号も「南龍大神」、法号も「南龍院殿從二位前亞相顗永(がいえい)天晃大居士」で、世間でも「南龍公」と呼び、「南海の臥龍(がりょう)」と評した者もいるらしいから、如何にもハマり過ぎたエピソードである。

「志津の長刀」鎌倉期の刀工で正宗十哲の一人とされる志津三郎兼氏の作(伝)の長刀。因みに、近世長刀術の一流派に「静流(しずかりゅう)」と称するものがあり、この名は流祖を源義経の愛妾静御前に仮託する説がある一方、使用する長刀の形式がこの志津三郎作の小反刃(こぞりば)長刀に由来するとする(志津ヶ流)説があるというから、長刀の名刀としては知られたものであったようだ。

「蛇」友ヶ島群には蝮(マムシ)を始めとする蛇類が多く棲息することが、ウィキの「友ヶ島」から判る。

「山神(せんじん)」この読みは底本の編者ルビに従ったが、何故、「せんじん」なのかはよく判らぬ。私は「さんじん」でもよかろうとは思う。

「大雨洪水(たいうこうずい)にて」ということはそれはやはり、そんじょそこらのちょっとした妖蛇の怪だったのではなく、伏龍だったということになるわな。

「御鷹野」御鷹狩りと同義。

「海上三里、うごきければ」海上は十二キロ四方が激しく波立って時化たので、の意でとっておく。因みに、沖ノ島から直進すると、和歌山の港までは十四キロメートルほどある。

「毛氈(もうせん)」獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦を加え、繊維を密着させて織物のようにしたもの。幅広で敷物に用いる。

「手どり」取り押さえること。

「水主(すいしゆ)」水主(かこ)。船頭や漕ぎ手。

「みぢん」「微塵」。球電(プラズマ)か。

「寛文」一六六一年~一六七三年。但し、以下にある通り、「寛文十一年正月十日」に亡くなっている。寛文は十三年まで。元年なら、満で五十九歳。

「紀州鴨谷(かもだに)」この地名は不詳だが、頼宣の墓所は現在の和歌山県海南市下津町にある天台宗慶徳山長保寺で、ここには紀州藩主紀州徳川家歴代(但し、第五代吉宗(後の第八代将軍)と第十三代慶福(よしとみ:後の第十四代将軍家茂)の墓は東京)の墓所である。ここの旧地名は紀伊国海部郡浜中荘上村で、「鴨」も「谷」も関係ないが?

「思ふ事一かなへは又二かしの世や」整序すると、

 

 思ふ事一ツ叶(かな)へば又二ツ三ツ四ツ五ツ六ツかしの世や

 

であるが、これは頼宣のものではない(戯れ歌として好んで口ずさんだことはあり得るかも知れぬ)。所謂、諺・教訓(特に坊主が宗派を問わず好むようだ)風の狂歌で、ネットを探ると、

 

 世の中に一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 物事は一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 憂きことの一つ二つもあらばこそ三つ四つ五つむつかしの世や

 

のヴァリエーションが腐るほど、見つかる。最後のものは、十六世紀の興福寺の僧の日記に出ると、興福寺貫首多川俊映氏の「心に響く99の言葉 東洋の風韻」(二〇〇八ダイヤモンド社刊)にあり、この手のものでは古いものの一つであろう。思うことの一つも叶えばこの世は幸せだろう。一つも叶うことなく死んでいった人々はさわにいる。こんなことをうそぶく宗教人というのは私の最も嫌う輩だ。]

 

2018/01/29

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その4) / 由井正雪~了

 

 由井正雪は、駿河の國旅籠屋梅屋庄右衞門といふものゝ方にて、七月廿五日、早天に障子を開(あけ)、東武の方を詠けるに、江戸に當(あたり)、黑雲一村(ひとむら)、眞黑に立(たち)、一天をつゝむ。しばらく有(あり)て風に吹(ふか)れ、四方へ散行(ちりゆ)けるをみて、障子、引立(ひきたて)、内へ入(いり)、水仕(みづし)の者の釜より飯を移(うつし)けるが、煙の結ぼふれ、其氣のくろく座中に滿(みち)けるを、正雪、みて、元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)三通みち、氣を鎭(しづめ)、是をみて、則(すなはち)、熊谷三郎兵衞・鵜野九郎兵衞・玉井半七・星崎岩鐵・原田次郎右衞門を召集(めしあつめ)、正雪、申けるは、

「我、忠彌を殺さずして、此謀叛、顯(あらはれ)候。東武に一村(ひとむら)の雲氣、立(たち)候を、考へみるに、忠彌、からめられ候に疑なし。後悔、今更かへるべからず。只今、討手の向ふべし。各(おのおの)、此時、臆病を働き、后(のち)の笑ひを取(とり)玉ふな。露と成(なり)煙と成(なる)も、過去遠々の因果なり。臆し給ふな。」

と諫立(いさめたて)、頭(かしら)を剃(そら)せ、身を淸め、裝束改め、香(かう)をとめ、謀叛往返(わうへん)の書通をやき捨(すて)、一通、書置、認(したため)、料紙に添(そへ)、床(とこ)に置(おき)、討手(うつて)の來(きた)るを待居(まちゐ)たり。

 正雪が討手に駒井右京進、被仰付(おほせつけらる)。

 右京進、早馬にて七月廿五日八(やつ)時分、駿河缺付(かけつけ)、御城代大久保玄番頭(げんばのかみ)、町奉行落合小平次より相談致し、旅籠町觸(ふれ)を𢌞し、旅人を押置(おしおき)、正雪人形(ひとがた)を以て改め玉ふに、梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ、駒井右京進、正雪かたへ人を遣はし、

「江戸表にて御家人を切殺(きりころし)、此地隱れ居(をり)候者、有之(これあり)。きびしく御詮儀にて候。其者、手疵(てきず)負(おひ)候間、改申(あらためまうす)。町役所出(いで)られ候樣に。」

と被申越(まうしこされ)しかば、正雪、兎(と)かく難澁して、其夜も既に明(あ)ければ、大久保玄番頭、聞へたる荒人(あらびと)なれば、大(おほき)に怒りて、

「天下に對し、大事の囚人を斯(かか)る手延(てのび)の詮義を仕(つかまつり)、萬一、取逃(とりにが)して如何可仕(いかがつかまつるべき)。併(しかし)、紀伊大納言殿御家來と申(まうす)を利不盡に搦取(からめとり)候も麁忽(そこつ)にて候。善惡、我等、罷越(まかりこし)、對面仕(つかまつる)。其上にて埒(らち)明可申(あけまうすべし)。」

と、足輕、大勢、召連(めしつれ)、梅屋方へ立越(たちこし)、申入(まうしいれ)られけるは、

「此度(このたび)、武州にて天下對し、狼籍者、有之。依之(これによつて)、度々、町役所出られ候樣に申越候へども、兎角に出(いで)られず候。尤(もつとも)不審にて候。大久保玄番頭罷越候上は、御のがれ有間敷(あるまじく)候。御出(おいで)、御對面候へ。」

と、あらゝかに申入られける。

 正雪、是を聞て、

「さらば、出(いで)て對面可仕(つかまつるべし)。」

とて、練(ねり)に桃色の裏、付(つけ)たる袷帷子(あはせかたびら)、菊水の紋所、伏縫(ふせぬひ)にしたるを着(ちやく)し、唐綾(からあや)の帶を前に結び、金龍(きんりやう)の目貫(めぬき)打(うつ)たる九寸五分の小脇差を指(さし)、杖を突(つき)、路次下駄(ろじげた)をはき、郭善坊(くわくぜんばう)とて、丈六尺餘(あまり)、面(つら)赤く、眼(まなこ)大きく、口廣(ひろき)、大力(だいりき)の入道に刀を持(もた)せ、其外、宗徒(むねと)の剛勇のもの、十人餘(あまり)も前後を圍(かこま)せ、閑(しづか)に立出(たちいで)、大久保どのに對面し、

「我等事、紀伊大納言殿家來に星崎玄正と申ものにて候。先々(まづまづ)、被仰聞(おほせられきこえ)候狼籍者の儀、家來共(ども)迄、詮義仕(つかまつり)候に、手疵負(おひ)候もの、無之(これなく)候。若(もし)疑敷(うたがはしく)思召(おぼしめし)候はゞ、爰(ここ)にて、銘々、御改め候へ。」

と申ける。

 玄番殿、被申けるは、

「天下の大法にて、手疵の事は兎も角もにて候。玄番罷越候上は御供可仕。御病氣にても、苦(くるし)からず、籠にて御出候へ。町の前後をば足輕を以て十重廿重(とへはたへ)に取かこみ申候。天上り地をくゞる神變も候はゞ存ぜず、人間の所爲(しよい)にて叶(かなふ)まじ。覺悟御究め候へ。」

と申さる。

 正雪、笑(わらひ)て、

「御尤にて候。病氣にて候へば、籠の通る程、道を御明(おあけ)下され候へ。」

とて内へ入、

「もはや、遁れぬ所にて候。各々覺悟候へ。」

とて、盃を出(いだ)し、最期の酒盛を始めける。

 郭善坊に盃をさし、

「御身、一度、出家得脱(とくだつ)の佛身也。介錯、賴入(たのみいり)候。死出(しで)の山の魁(さきがけ)仕(つかまつり)、各(おのおの)進(すすみ)候へ。」

とて、氷の如くなる小わきざしを拔(ぬき)て、左の腰突立(つきたて)、右一文字に押𢌞(おしまは)し、首、さし延(のべ)ければ、郭善坊、透(すか)さず、首、打落(うちおと)す。

 殘る者ども、

「後(おくれ)じ。」

と、肌、押脱(おしぬぎ)、腹を切(きる)も有(あり)、差違(さしちがへ)、おもひおもひに念佛題目を唱(となへ)、算(さん)を亂して重り臥す。

 此有增(あらまし)、表に扣(ひかへ)し足輕ども、聞付(ききつけ)て、

「すはや、自がいをするは。搦捕(からめとれ)。」

と、戸、押明(おしあけ)、押破(おしやぶり)、我先にと込入(こみいり)けるが、正雪、兼て扉をかすがいにて強く打〆(うちとめ)、細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)、たゝみ、ひしをさし、容易(たやすく)込入事、ならず。

 見ながら、自害をとげさせける。

 則(すなはち)、各(おのおの)首切(くびきり)、酒にて洗ひ、正雪を始め、徒黨の奴原(やつばら)、駿河阿部川原にて獄門にかけさせさらせり。

 其ころ、狂歌、

  正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり

[やぶちゃん注:「元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)」「元享利貞」(げんりこてい)とは「易経」で乾(けん)の卦(け)を説明する語で、「元」を「万物の始・善の長」、「亨」を「万物の長」、「利」を「万物の生育」、「貞」を「万物の成就」と解して、天の四徳として春夏秋冬・仁礼義智に配する。但し、それを「三通みち」というのはよく判らぬ。先ほど見た江戸の空の黒雲と、室内の黒い湯気と煙の中に、その印(シンボル)が三つも満ち満ちているのを幻視したとでも言うのだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「玉井半七」不詳。

「星崎岩鐵」不詳。

「原田次郎右衞門」不詳。

「香(かう)をとめ」薫じていた香を消しであろう。後で衣裳改めるので、香を焚き染めたでは私はおかしいと思う。

「謀叛往返(わうへん)の書通」謀叛企画のために諸方との往復の書簡類。

「料紙に添(そへ)」「認(したため)」た「書置」を書いた余りの紙で包んだものか。

「駒井右京進」不詳。甲斐武田氏の旧臣に同名の者の名を見出せるから、その末裔かも知れぬ。

「八(やつ)時分」午後二時頃であろう。

「缺付(かけつけ)」「驅けつけ」。

「大久保玄番頭(げんばのかみ)」当時の駿府城代大久保忠成(在職:寛永一〇(一六三三)年~明暦二(一六五六)年)であろうか。「絵本慶安太平記」を見ると、例の大久保彦左衛門忠教(ただたか)の弟とし、この時、七十九歳とするが、本当かどうかは確認出来なかった。

「町奉行落合小平次」旗本。駿府大手組奉行(寛永一七(一六四〇)年就任)。「川崎市立博物館だより」第三十三号(PDF)で、彼へ宛てた徳川秀忠の知行宛行(あてがい)朱印状(知行地の割り当てと、その権利保障をした文書)の画像と解説が見られ、その解説の最後に正雪一党の捕縛の事実も載る。

「人形(ひとがた)」人相書き。但し、絵ではなく、特徴を述べた文書である。絵はテレビの時代劇の真っ赤な嘘である。

「梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ」同も文章としてはしっくりこない。意味は「梅屋庄右衞門方の人(者)、人體書(にんていが)きの通りにて、正雪に究(きは)まりければ」で判る。

「兎(と)かく難澁して」のこのこ出て行っては、抵抗も出来ず、ただ捕縛されるだけだからである。

「伏縫(ふせぬひ)」絵革と革を突き合わせて紐状に縫ったものをかく称するが、これは非常に手間の掛かるもので、江戸時代ではそのように見せた、二本の捻り糸を並べて縫いつけたものを言うようである。

「九寸五分」約二十九センチメートル。「鎧通し」の別称でもある。

「路次下駄(ろじげた)」露地下駄(この場合は歴史的仮名遣は「ろぢげた」となる)。雨天や雪の場合に露地(茶室の庭)を歩く際に履く、柾目の赤杉材に、竹の皮を撚った鼻緒を付けた下駄。

「郭善坊(くわくぜんばう)」不詳。

「六尺餘(あまり)」一メートル八十二センチメートルほど。

「星崎玄正」出まかせの名であろう。

「人間の所爲(しよい)にて」は遁るることは「叶(かなふ)まじ」。

「差違(さしちがへ)」るも有り。

「算(さん)を亂して」占いの算木を乱り散らした如く、入り乱れて。

重り臥す。

「自がい」「自害」。

「かすがい」ママ。「鎹(かすがひ)」。木製のものを相互に繋ぎ止めるために打ち込む両端の曲がった大釘。

「細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)」周囲の部屋に無暗矢鱈、縦横無尽に張り渡したのである。侵入を困難にさせる賢い方法である。

「たゝみ、ひしをさし」「疊」に「菱を刺し」。忍者のアイテムでお馴染みの鉄菱(てつびし)であろう。

「見ながら、自害をとげさせける」ただただ見物するばかりで、彼らの思う通りに、自害を遂げさせてしまったのであった。

「駿河阿部川原」駿府城西近くを流れる安倍川の河原。

「正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり」特異的に手を加えず、底本通りに示した。整序すると、

 

 正雪は元が紺屋(こうや/こんや)てありければ獄門振りも見事なりけり

 

であるが、何を掛けているのか(「こんや」と「ごくもん」)私にはよく判らぬ。単に血染めの梟首の様か或いは、染色作業の何かと関係があるか。なお、現在も静岡県庵原郡由比町由比に「正雪紺屋」として生家が現存し、今も縁者が営んでいるとこちらにある(地図附き)。]

 

 斯(かく)て八月十日、忠彌を始(はじめ)、謀叛の輩(ともがら)、妻子一族殘らず、武州鈴森にて磔(はりつけ)に行(おこなは)るゝ。

 忠彌、三十七歳也。

 磔に行はるゝ時、次々のもの迄も念ごろにいとま、こひ、禮を伸(のぶ)。辭世に、

 

 雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ

 

[やぶちゃん注:辞世の前後は一行空けた。

「次々のもの迄も」彼の後に処刑される同志及び妻子・母並びに連座させられた親族の一人一人にまでも。

「雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ」やはり底本のままに示した。整序すると、

 

 雲水(くもみづ)の行衞(ゆくゑ)も西の空なればたのむ甲斐(かひ)あり道しるべせよ

 

別に「雲水」を音読みしてもよいが、硬い気がする。]

 

 或説に、丸橋、召捕(めしとら)れ、品川へ引(ひか)るゝ折、忠彌は、はな馬にて、其跡より、だんだん、妻子同類引渡(ひきわたさ)るゝに、至(いたつ)て幼き童部(わらはべ)どもをば、切繩を結び、首にかけさせ、手に風車(かざぐるま)などの遊(あそび)物を持(もた)せ、穢太(ゑた)ども、肩車にのせ、母親どもの乘(のり)し馬の脇付添(つきそひ)參り候。外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまりへ、丸橋が馬の、先(まづ)のぼり參り、屆きしかども、跡の紙幟(かみのぼり)は、いまだ、糀町土橋邊やうやう見へたり。

「斯る大勢の罪人、引晒(ひきさ)らされし事も、前前(まへまへ)、なかりし。」

と見物の諸人、申けると也。

 忠彌が、品川表(おもて)にて、馬より抱卸(だきおろ)されける警固の者共禮を云(いひ)、少も臆するけしきはなかりける。

 磔柱叢取付られ、柱、おし立(たて)ける折(をり)、忠彌、高聲(かうしやう)に念佛申けるを、母、顧(かへりみ)て、頻(しきり)にむせび入(いり)、淚を流しけるを、忠彌が女房、是を見て、母の心中、押(おし)はかり、悲しくや思ひけん、母に申樣(まうすやう)、

「此世は假の宿(やどり)にて、永き來世こそ大事にて候。何事もおもひ捨(すて)玉へ。」

と目を塞き、

「御念佛、御申(おんまうし)候へ。」

とて其方(そのはう)は念佛を申(まうし)、母にも勸(すすめ)ければ、母、打(うち)うなづき、念佛を申(まうし)けるといへり。

 母子恩愛の情は、かゝる大惡人を子に持(もち)、そのあらき浮目(うきめ)に逢(あひ)ける。「子の善惡は父母の教(をしへ)による」といへば、子の父母たる人、貴賤にかぎらず、心得有(ある)べき事共(ども)也。

 

 丸橋かかゝるしな川なりけれは安房上總まていひ捗るかな

 

[やぶちゃん注:「はな馬」「端馬」。ここは引き回しの先頭の馬の意。

「穢太(ゑた)」差別意識から「穢多」の字を当てた、中世以降、賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制では、民衆支配の一環として非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理や、ここに見るように罪人の処刑や見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや河原などの特定の地域に居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)の注を参照されたい。

「外櫻田(そとさくらだ)」外桜田門(現在の桜田門)周辺。日比谷堀・桜田堀と外堀に挟まれた範囲で、武家屋敷が立ち並んでいた。もともとは東京湾の入江であったが、文禄年間(一五九二年~一五九六年)に江戸城西丸造営で生じた大量の残土で埋め立てられた。江戸時代を通じて諸大名の屋敷地となった。国立国会図書館解説を使用させて戴いた。この部分「外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまり」と一応読んだが、底本は『外桜田外馬(そとさくらだそとうま)とまり』であって、これ全体が地名や位置名を指しているかも知れぬ。よく判らぬ。ただ、「のぼり參り、屆きしかども」とあることから、この場所が周囲からは有意に高い丘状になっていたことが判る。だからずっと後ろ、列の最後の幟(次注参照)が、遠望出来たのである。

「跡の紙幟(かみのぼり)」後尾に掲げられた罪状などを書いた(と思われる)市中引き回しの紙製の幟(のぼり)。

「糀町土橋」半蔵門附近か。そこなら直線でも凡そ一キロメートルは離れている。引き回しの行列の異様な長さ、また、それだけ多量の処刑者がいたことがよく判る。八月十日に一味とその親族三十五人の処刑で一件は落着したと、小学館の「日本大百科全書」にはあり、同じ記載には正雪が計画に引き入れた浪人の数は二千人と伝えられている、とある。この時、丸橋忠弥とともに鈴ヶ森刑場で処刑された江戸工作担当のメンバー(他に小塚原刑場でも処刑されている)は後に出る「丸橋忠彌」によれば、全部で『二十六人』とある。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その3)

 

 正雪は七月廿二日、

「駿河の久能の御城を乘取(とつとら)ん。」

とて、宗徒(むねと)の者ども、大勢、先達(さきだつ)て登(のぼ)し、其身はかごに乘(のり)、わづか供人(ともびと)二十人斗(ばかり)召連(めしつれ)、東空[やぶちゃん注:ママ。「東雲」(しののめ)の誤字か。]に東武を立(たち)、駿河へ下(くだる)とて、神奈川の宿外(しゆくはず)にて鵜野九郎兵衞を招(まねき)、

「忠彌は武勇の者なれども、其氣質、物に忍(しのび)ず、短慮未練にして、大功、とげ難し。汝、東武に忠彌を密(ひそか)に差殺(さしころ)し、後難を除(のぞく)べし。はやはや、急げ。」

と申付(まうしつく)。

 九郎兵衞、聞(きき)て、

「忠彌は四天八勇の隨一にて候。かの忠彌を、今、故(ゆゑ)なく殺(ころし)候ては味方、甚(はなはだ)疑(うたがひ)を生じ、返忠(かへりちう)のものも候わん。其上、武州にて、又、誰(たれ)か大將の人と成(なる)。此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて、先(まづ)、駿河へ御登(おのぼり)候て、今度の大望(だいまう)をとげ候へ。」

と、熊谷三郎兵衞・九郎兵衞、とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「是は紀伊大納言殿の家來由井正雪と申(まうす)者にて候が、長病(ちやうびやう)にて紀州へ罷登(かまりのぼ)り候。乘打(のりうち)御免あるべし。」

といひければ、「苦(くるし)からず。御通り候へ。」

とて相違なくかごを通ける。

 夫より、正雪は駿河の府中の旅籠町梅屋庄右衞門といふものの方へ落着(おちつき)ける。

[やぶちゃん注:「鵜野九郎兵衞」正雪門人の中でも高弟で大将格。鵜野九郎衞門。

「物に忍(しのび)ず」冷静に期を見ることが出来ず、やたらに血気に逸り、肝心なる忍耐が出来ない。

「四天八勇」仏法を守護する四天王・(天龍)八部衆に掛けた勇猛なメンバーの名数。

「返忠(かへりちう)」裏切ること。

「此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて」この度(たび)の世を覆す大事を成すを支えるに相応しき者は、かの丸橋忠也弥をおいては、他に御座らぬと存ずればとて。「は」は「取り立て」(強意)の係助詞と採り、濁音化しない。

「熊谷三郎兵衞」浪人。由比正雪の乱に参加し、加藤市右衛門とともに、京都二条城奪取計画を担当したが、乱の未然露見によって逃亡、同慶安四年七月二十九日、江戸で自殺した(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「九郎兵衞」彼の弟か。

とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「乘打御免」病者であるから、駕籠から降りずに、乗ったままで関所を打ち越す(通過する)ことを許す(許してもらう)こと。

「梅屋庄右衞門」この宿「梅屋」は実に徳川頼宣の定宿であった。]

 

 爰に正雪が徒黨隨一奧村八郎右衞門と云(いふ)もの有(あり)けるが、親(したし)き友に十時醉龍子(とときすいりやうし)といふ隱居あり。此者、八郎右衞門方へ來(きたり)、語(かたり)けるは、

「我、先夜【七月九日なり】、天文をみるに、一星(いつせい)、月の正東(しやうとう)に出(いで)て月中(げつちう)を直通(ぢきつう)にし、寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日戌の刻、斯(かか)る天變有けるが、肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り、其上、賊星(ぞくせい)、盛(さかん)にして、直(すぐ)に主星を犯す。不思義成(なる)事也。」[やぶちゃん注:【七月九日なり】は二行割注。]

と語(かたる)。

 奧村、密(ひそか)に正雪が事を語りければ、醉龍子、大(おほき)に驚き、奧村を禁(いましめ)て曰、

「今は天下泰平にして、萬民、堯舜(げうしゆん)の世に逢(あひ)て鎖(とざさ)ぬ御代(みよ)を樂(たのしみ)、百歳彌勒の代に及ぶ共(とも)、何者か天下を亂すべき。然るに況(いはんや)、正雪・忠彌が分ざいにて、かゝる大望、企(くはだて)候事、蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)に似たり。其上、當陽成院御在位也。公家に西八條殿おはしまし、武家には幼君御堅めとして井伊・保科(ほしな)の名將を始(はじめ)、御家は重代の御大名、雲の如く霞の如(ごとし)。昔の楠、再び生出(いきいで)るとも、容易には叶(かなふ)まじ。訴人に出(いで)て後(のち)の大難を遁れ玉へ。疾々(とくとく)。」

と進(すすめ)ければ、奧村、忽ち心を變じ、松平伊豆守殿へ訴人に出(いで)けるこそ、忠彌・正雪が謀叛は顯われける[やぶちゃん注:「わ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「奧村八郎右衞門」一般には訴人は奥村八左衛門と、その従弟奥村七郎右衛門とされる。但し、鏡川伊一郎氏のブログ「小説の孵化場」の「慶安事件と丸橋忠弥 5」その他のネット記載を見るに、この二人は実は幕府の間者であったと考えられ(八左衛門の兄奥村権之丞は当時の老中首座松平伊豆守信綱(後注参照)の家来であったからである)、のちに彼らは三百石を得て御家人となっており、鏡川氏によれば、彼らの兄奥村権之丞もこの慶安の乱未遂直後に百石加増されて千石の知行取りとなり、しかも公儀からは別に金十枚と『着物二かさねを貰っている。弟たちの密偵の成功報酬であったと思われる』と述べておられる。また、奥村八左衛門・七郎右衛門だけでなく、別に林理左衛門なる訴人もおり(同じく松平伊豆へ知人を通じて訴え出ている)、彼も実に五百石を貰っている、とある。「絵本慶安太平記」などでは丸橋が奥村に借金を願い出て、早急に融通してもらうために計画を打ち明けてしまってその謀略の内容に驚いた奥村が訴え出たと書かれているいるが、堪え性がないとは言え、丸橋の低劣軽率なる粗相とするそれは鏡川氏同様、受け入れられない。なお、変わった形での本件の公儀側への情報露見が、根岸鎭衞の「耳囊 卷之七 備前家へ出入挑燈屋の事」、及び、松浦静山の「甲子夜話卷之一 28 松平新太郎どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事」(孰れも私の電子化注。前者は訳もつけてある)に出る。短い上に面白いので、参照されたい

「十時醉龍子」不詳。この星占の老人を出す辺り、如何にも持って回った芝居染みた「ありがち」な展開で、却って作りものっぽい

「七月九日」慶安四年のそれは、グレゴリオ暦で一六五一年八月二十四日。

「寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日」「寛文十四年」は存在しない。寛文は寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日) 延宝に改元している。後の天草の乱勃発から、これは「寛永十四年丁丑」(一六四七年)の誤りであることが判る。こういう誤り自体が、このシークエンスの作話性を物語っている。因みに、以上の誤りなので注する必要もないが、延宝二年は甲寅(きのえとら)である。寛永十四年の二月八日はグレゴリオ暦で一六四七年三月四日

「戌の刻」午後八時前後。

「肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り」天草の乱は寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)に終っている。しかし、十ヶ月弱も後(同年は閏三月がある)の乱の予兆というのは、これ、今の感覚では、如何にも間が抜けているように私には思われる。

「賊星(ぞくせい)」彗星。流星。

「主星」陰陽五行説で、その日の干支の干と、他の五行の気との関係に於ける相生相剋の変化を星に置き換えた時に措定される十大主星の孰れかを指す。

「百歳」永い年月の意。

「彌勒の代」弥勒菩薩は釈迦入滅から五十六億七千万年後に地上に如来となって来臨し、衆生を救うとされる。

「分ざい」分際。

「蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)」孰れも「力のない者が自分の実力も顧みず、天下をとろうとしたり、強い者に立ち向かう無意味な行為を指す譬え。前者は、虫のカマカリが前足を振り上げて車の輪に向かおうとすることで、「蟷螂が斧を以って隆車に向かう」「蟷螂車轍に当たる」などとも言う。前漢の韓嬰(かんえい)「韓詩外伝」に基づく故事成句。後者は、蚊(か)や蜂(はち)が鉄製の牛の像(或いは本物の屈強な猛牛の角でもよい)の、その角を刺して血を吸おうとすること。

「陽成院」不審。当代の天皇は後光明天皇(ごこうみょう 寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年:反幕府的であったともされる)である(追号も後光明院)。彼の祖父で三代前の後陽成天皇(後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年:追号・後陽成院)とごっちゃにしてしまったものか。この辺りも、あってはならない誤りで、やはりこのシークエンスの作話性の証左とは言えまいか?

「西八條殿」不詳。識者の御教授を乞う。

「井伊」井伊家。当代の井伊家では、家督を譲ったものの、存命であった井伊直勝(天正一八(一五九〇)年~寛文二(一六六二)年:上野安中藩初代藩主で直勝系井伊氏初代)がいる。徳川四天王の一人井伊直政の長男で家康の信望も厚かった。

「保科」保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)会津松平家初代。信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫で第三代将軍徳川家光の異母弟。家光と第四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。

「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。]

 

 去程に、江戸中、騷動し、御老中御寄合ましまし、忠彌が討手には石谷(いしがや)將監殿、向(むかは)れける。

 此折(このをり)、忠彌、女房に向(むかひ)、申けるは、

「家は近き内、百萬石取(どり)の大名と成(なる)ならば、汝、御臺所と仰(あふ)がせ、大勢、侍女を召仕(めしつかひ)、榮華の春を迎(むかへ)、今の貧苦を忘るべし。賢者の戒に糟糠の妻は堂をくたさず、貧賤の朋(とも)をば捨(すつ)べからず、と云(いへ)り。汝、貧にして朝暮のくらしに侘(わび)ながら、老母に孝有(あり)て、我によく仕(つか)り。報恩の酬(むくふ)べき折、來(きたる)也。」

と、心よげに語(かたり)ければ、女房、泣(なき)て曰、

「貧は先(さきの)世の宿報也。然るに、御身、及(および)なき天下を望(のぞみ)、今にも此事顯(あらはれ)なば、御身は心からなれば、いか成(なる)荒き刑罪にあひ、釜に煎られ、牛裂(うしざき)に逢(あひ)給ふとも、是非もなき次第也。七十に餘(あまる)母人(ははびと)、常々まづしき渡世なれば、心に任せ給ふ御事もなくて、子故(ゆゑ)にうきめを見玉はん事、餘りにいたわしく候。急(いそぎ)て此惡事を思ひ留(とどま)り、訴人に出(いで)玉はゞ、天下に對しては大忠臣、母御(ははご)へは孝行の第一に候。今夜の内に心を飜し、善人となり給へ。」

とさまざまに勸めければ、忠彌、笑(わらひ)て、

「大丈夫といふ者は、生(いき)て公侯に封(ふうぜ)られずんば、死して五體を煎らるゝ共(とも)、悔(くい)なかるべし。」

と云(いひ)ける。

 其詞(ことば)の未終(いまだをはらざる)に、捕手(とりて)の足輕、忠彌が家をおつ取卷(とりまき)、大竹を手々(てんで)にひらき、

「火事よ、火事よ。」

と呼(よばは)る。

 忠彌、竹の割るゝ音を聞(きき)て、帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)、障子、押明(おしあけ)、緣先へいでけるを、石谷殿の組の同心、間込彌右衞門、一番に走懸(はしりかけ)、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」と思ひしが、

「忠彌に組(くむ)は氣健(けなげ)也。」

と、彌右衞門が元首(もとくび)をつかみ、押付けるを、彌右衞門、忠彌を懷(いだき)、緣より下へ落(おち)けるを、二番三番の捕手ども、すかさず大勢折重り、忠彌をからめ引居(ひきすゑ)ける。

 足輕ども、大勢、家の内へ込入(こみいり)ければ、忠彌が女房、申樣(まうすやう)、

「此家の内には只(ただ)自(みづから)と老母斗(ばかり)にて、靜(しづか)に御入候へ。」

とて、連判狀の有(あり)けるを、爐に入(いれ)、燒捨(やきすて)、髮を撫付(なでつけ)、我(われ)と後へ手を𢌞し、顏色も變せず、靜に繩をかけられける。斯(かく)て、母をも禁(いまし)め、三人、獄屋へ引(ひき)たりける。

[やぶちゃん注:丸橋忠弥の妻の健気さが如何にも哀れである。

「石谷(いしがや)將監」石谷貞清(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。本事件の一ヶ月前の慶安四年六月十八日(一六五一年八月四日)に江戸北町奉行に就任していた。但し、彼が従五位下左近将監に叙任されたのは同年八月十六日である。しかし、別に後代に書かれたものであるから、これは何ら、問題はない。

「堂をくたさず」底本では「堂」を「黨」(党)の誤字(右に補正注がある)とするが、意味は「堂(家・家門を腐(くた)さず」で通るように私には思われるので、字はそのままとした。

「うきめ」「憂き目」。

「いたわしく」ママ。

「大竹を手々(てんで)にひらき」逃走を防ぐためのバリケードではなく、後に見るように、竹を折り割って、火災の際、家屋が焼けて爆ぜる音を出すためのものであろう。

「帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)」妻と就寝しようとしたところであったか。

「間込彌右衞門」不詳。「まごめやゑもん」と読んでおく。

「無手(むず)」オノマトペイアに漢字を当てたもの。上手い当て字だ。

「元首(もとくび)」頸根っこ。

「からめ」「搦め」。]

 

2018/01/28

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その2)

 

 今年慶安四年辛卯(かのとう)四月廿日、大將軍家光公御他界の折を幸と悦び、正雪、忠彌が方へ來り申けるは、

「天の與ふる時節にて候。かねがねの大望、當七月廿六日曉を限りにおもひ立申(たてまうす)べし。某(それがし)、かねて御城の堀の淺深を探置(さぐりおき)候。丹波國より金掘(かなほり)を呼寄(よびよせ)、御城の水下を掘ぬき、御城へ死間(しくわん)を入(いれ)、二の鹽焇藏(えんしやうぐら)へ火を付(つけ)、御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし。其上、福原右馬介が孫福一鬼とて、能(よく)猿(さる)遣ふ者、有(あり)。此頃、密(ひそか)に道灌山へ猿廿疋程、集(あつめ)、火を付(つく)る事を教(をしへ)候。此猿どもを大名衆の屋敷屋敷へ忍入(しのびいら)せ、火を付(つけ)させ申べし。又、七月廿六日は天ほう日と申(まうし)て、大風の吹(ふく)日にて候。又、江戸の町々へ、二、三百人の忍びを入(いれ)、諸所より火をかけ、虛空生(こくうむしやう)に燒立(やきたて)、江戸中の用水、玉川の水上(みなかみ)、とめ、事を闕(かか)せ申べし。又、鐵炮上手にて物馴(ものなれ)たる者ども、二、三百人程、火消裝束に出立(いでたた)せ、腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮を以て、御老中其外大名登城の節、撰打(えらみうちに)打落(うちおと)し、面立(おもてだち)たる大名屋敷へ、五十人、六十人、一組に組合せ、火炮(くわはう)鳴物(なりもの)を以て人の耳目を驚(おどろか)し、前後左右より亂入(みだれいり)、散散(さんざん)に切殺(きりころし)申さすべし。駿府の御城は、我(われ)、幾度か忍行(しのびゆき)、淺間山へ登(のぼり)、とくと、懸り場・引場(ひきば)迄の事、細(こまか)に見置(みおき)たり。乘取(のつとり)候に手間(てま)入(いり)候まじ。神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候。其家士、御當家を恨(うらみ)奉るよし承る。其上、駿河大納言忠長卿、爲差(さしたる)御咎(おとがめ)にてましまさゞるを、大將軍、神君へ申させ玉ひ、安藤右京亮へ御預(おあづけ)、寛永十年十月、御腹召させ玉へば、忠長卿御一門を御つぶし、品川辻門(つじもん)に被成(なされ)しを、京童(きようわらべ)、

『此門は亞相(あしやう)忠長樣御首の獄門のかわり也。』

と沙汰いたし候。加樣に、四民、背申(そむきまうし)候は、我等の幸(さひはひ)に候。我々、後(うしろ)だて、紀伊大納言樣の御名を借(かり)申べし。賴宣公は剛勇無雙の御大將也。世、以て、恐(おそれ)奉る事、唐の項王の如し。今日の敵は明日の味方となるもの也。久能山御城、乘取候はゞ、集置(あつめおか)れし金銀を以て、諸牢人召かゝへ申べし。必(かならず)、手配、違(たがひ)玉ふな。御身(おんみ)、勇(ゆう)は萬人に勝ㇾ候(すぐれさふら)へども、短慮、なるが第一の大疵(おほきず)にて候。此事、能能(よくよく)愼み給へ。」

とて、立別(たちわかれ)けるが、又、立歸り、又、申樣、

「唯今申述(まうしのべ)候通り、愼(つつしみ)候へ。當月廿六日を成納(なしをさめ)の大吉日と定(さだめ)、一時に事を斗(はかり)申べし。能々、徒黨の方の面々へしめし合(あはせ)候へ。」

迚(とて)立別ける。是は正雪が永き冥途の別(わかれ)なる。

[やぶちゃん注:「慶安四年辛卯四月廿日」一六五一年六月八日。

「大將軍家光公御他界」同日、病気のため、徳川家光は逝去している。

「七月廿六日」グレゴリオ暦九月十日。

「を限りにおもひ立申(たてまうす)べし」を以って予てよりの行動を実行に移そうと存ずる。

「御城」江戸城。

「死間(しくわん)」「孫子」の間者(かんじゃ:スパイ)の一種。潜入させるが、自分からわざと捕らえられて、偽(にせ)の情報を自白して相手を攪乱させる間者のこと。処刑され、生きて帰れないことが前提のスパイである。但し、もう少し広義に、噓の情報を巷に流し、それと同時に、同胞のスパイにもその偽情報を本当と信じこませて流し、結果的にそれを探査する敵のスパイを誑かす間者の意もあるようだ。

「鹽焇藏(えんしやうぐら)」煙硝蔵(焔硝蔵・焰硝蔵)。鉄砲弾薬の火薬庫。江戸城の安全性を考えて、和泉新田御焔硝蔵(現在の杉並区永福の明治大学和泉キャンパス。京王線の「明大前」駅は以前は「火薬庫前」と称した)と千駄ヶ谷御焔硝蔵(新宿御苑の南東端の貼り出した附近。ここ(グーグル・マップ・データ))の二箇所に配されてあった。

「御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし」江戸城周辺で二つの大火災が発生すれば発生すれば、飛び火や延焼を確認し易くするために、江戸城内の灯りは当然、ごくごく制限されるからであろう。

「福原右馬介」安土桃山時代の武将で大名の福原長堯/直高(ながたか/なおたか ?~慶長五(一六〇〇)年)か。初め、豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えた。福原右馬助を称した。後に馬廻衆。慶長二(一五九七)年で十二万石を得、府内新城へ転封された。後は豊臣秀頼に仕えていたが、慶長四(一五九九)年の石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められて、当時の五大老筆頭であった徳川家康により府内領が没収され、臼杵六万石のみの領有となった。翌年の「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、敗北、後に自刃した(一説に殺害されたとも。ここはウィキの「福原長堯」に拠った)。

「孫福一鬼」不詳。

「天ほう日」不詳。「ほう」の表記も不詳。識者の御教授を乞う。

「虛空無生(こくうむしやう)」四字で一語と見た。完全に灰燼に帰して、生きているものがないような状態。

「事を闕(かか)せ」消火活動が出来ないようにさせて。

「腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮」管打式短筒銃。現在の短銃・拳銃の類。所持していることが見破られ難い。

「撰打(えらみうちに)」選り取り見取りに。

「火炮(くわはう)」通常は大筒(大砲)であるが、ここは普通の鉄砲でよかろう。しかも、この場合、嚇しだから、弾丸を入れない空砲でも構わない。

「淺間山」この浅間山は駿府城西方直近にある静岡市葵区宮ケ崎町の現在の静岡浅間(せんげん)神社の後背地、現在の賤機山(賎機山)公園であろう。確かに(グーグル・マップ・データ)からなら、駿府城はよく見下ろせる。

「懸り場」舟の寄せ場をかく言うが、この場合は城壁等でとっ懸かって最も侵入し易い箇所の意であろう。

「引場(ひきば)」退却ではなく、ある程度、攻めた後に、一時、待つか、少し後退したと見せておいて、敵を待って再度、攻めるに都合の良い箇所の謂いであろう。

「神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候」近世史に疎いため、この家康逝去の際にお取り潰しとなった両加藤家というのが、誰を指すのか、全く判らぬ。お恥ずかしながら、識者の御教授を乞う

「駿河大納言忠長卿」(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)は秀忠の三男で家康の孫。母は浅井(あざい)氏。父母の寵愛を一身に集め、兄家光をさしおいて世子に擬せられたが、実現しなかった。元和二 (一六一六) 年、甲斐に封じられ、寛永二(二五)年さらに駿河・遠江を加増されて五十五万石を領した。翌年八月には従二位大納言に叙任したが、寛永八年五月、乱行を理由として甲州へ蟄居を命ぜられ、翌年には上州高崎へ移されて二年後の同十年、高崎の大進寺で自刃した。

「大將軍、神君へ申させ玉ひ」この辺の言い方も判らぬ。家光が家康の御霊(みたま)に申し上げなさって、その御神霊の許諾を得、蟄居を命ぜられた、というのか。そもそもが幕府転覆を画策する由井正雪が、「大」将軍とか、「神君」とかいうのは、これ、変だと素人の私でも思うのだが?

「安藤右京亮」上野高崎藩第二代藩主安藤重長(慶長五(一六〇〇)年~明暦三(一六五七)年)改易となった徳川忠長を預かって、高崎城に幽閉した。

「品川辻門(つじもん)に被成(なされ)し」後の京童の洒落も含めて、意味が判らぬ。識者の御教授を乞う

「紀伊大納言」ウィキの「慶安の変によれば、『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』とある。

「久能山御城」戦国時代からあった山城。現在の静岡県静岡市駿河区根古屋で、久能山東照宮がある。(グーグル・マップ・データ)。以下の正雪の謂いを見るに、ここに家康の埋蔵金伝説でもあったのであろう。

「成納(なしをさめ)」絶対の祈願成就決定(けつじょう)の謂いか。]

2018/01/26

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その1)

 

     由井正雪

 

 慶安年中、駿河國油井と云(いふ)所に正雪(しやうせつ)といふものあり。元賤しき紺屋(こんや)の子也(なり)しが、十三の歳、高松半平と云浪人者を師として手習をならひ、隙に小瀨甫庵(おぜほあん)入道が作(つくり)し「太閤記」をみて、謀叛の志(こころざし)あり。十六の春、信濃國淺間嶽に立(たち)玉ふ水守大明神(みづもりだいみやうじん)とて楠(くすのき)が守り本尊を登りける。此(この)神主と示合(しめしあはせ)、神前の乾(いぬゐ)の角(すみ)の大杉の下をほり、石櫃(いしびつ)一箇(いつか)を埋(うみ)、其内、菊水の旗・甲(かぶと)一刎(ひとはね)・吉光(よしみつ)の九寸五分の脇差を埋(うづ)み、其後、年月、遙(はるか)に移り、東武淺草に來り、

「紀州家の牢人也。」

といふ。楠(くすのき)流の軍法を教(をしへ)、諸旗本の歷々を取(とり)、「平家物語の評判」廿四册を作り、我(わが)智を人にしらしむ。

[やぶちゃん注:本編は長いので、部分部分で注することとし、注の後は一行空けた。筆者は由井正雪とその謀叛話が非常に好きで、既に前でも記しているが、本最終巻は最後の二篇(切支丹物)を除き、総てがその関連譚である。注も既に記したものが多いが、最後なの煩を厭わず、再掲することとした。

「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「慶安」一六四八年から一六五二年(慶安五年)までであるが、慶安四年年七月二十六日(グレゴリオ暦一六五一年九月十日)、由井正雪の幕府転覆計画は未然に知られてしまい、計画遂行のための駿府城の乗っ取り計画実行のために駿府に赴いていた正雪は、宿泊した駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に於いて、駿府町奉行所の捕り方に囲まれ、自決している。

「駿河國油井」現在の静岡県静岡市清水区由比。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高松半平」ネット情報や「絵本慶安太平記」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像のここ)では、江戸を逐電してきた福島家の浪人とし、正雪が修学のために奉公した吉岡家の菩提寺清光寺(禅宗。所在不祥)の住職の親類筋に当たる人物とある。

『小瀨甫庵入道」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)。豊臣秀吉の生涯を綴った「太閤記」(初版は寛永三(一六二六)年。全二十巻)や、織田信長の一代記「信長記(しんちょうき)」の著者として知られる(但し、「太閤記」や「信長記(信長公記)」は彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作が複数ある。その中でも小瀬のそれは著名なもので、単に「太閤記」といった場合は小瀬のものが最も知られる)。

「水守大明神(みづもりだいみやうじん)」不詳。現在の浅間山の祭神としては見られない。調べてみるに稲荷神に「水守」を多く冠する。謀叛を祈念するには稲荷の妖力は頗る腑に落ちるが、以下で「楠(くすのき)」を「守り本尊」とするとあるから、もっと古い北欧神話の「ユグドラシル」(古ノルド語:世界樹)のような大樹崇拝の神か。浅間は火山神であるから、それを鎮めるための「水守」であるのかも知れぬが、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「乾(いぬゐ)」北西。

「刎(はね)」兜(かぶと)などを数えるのに用いる助数詞。「跳ね」と同語源とされるともあるが、これはもう、首を刎(は)ねるのそれであろう。

「吉光(よしみつ)」十三世紀鎌倉中期の刀工粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)。正宗と並ぶ名工で特に短刀作りの名手として知られた。

「九寸五分」二十九センチメートル弱。

「紀州家の牢人也。」

「楠(くすのき)流の軍法」楠木正成を祖とする軍略法。

「取(とり)」教授の門下に取り入れ。迎え入れ。

「平家物語の評判」小学館「日本大百科全書」によれば、新井白石が『正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀(れんじゃく)町の五間(いつま)の裏店であったこと、『平家物語評判』という書物を著したこと、などを書き残している』とあり、「慶安太平記 下巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像)にも「正雪平家物語評判記を作る事」という章がある。]

 

 或時、弟子大勢の前にて語けるは、

「我、此間、每夜、ふしぎの夢をみたり。『楠大明神也』と自(みづから)名乘(なのり)、甲冑(かつちう)を帶(おび)玉ふ人、我(わが)枕がみに立(たち)、『汝は我(わが)再身(さいしん)也、必(かならず)、疑ふ事なかれ、其印に我(わが)軍神、淺間嶽水守大明神、乾の老松(おいまつ)の下を掘(ほり)てみよ、必、印あるべし』といふ。三夜續(つづけ)て見申(みまうし)たり。如夢現泡影(によむげんぱうやう)とて、兒女子(じぢよし)だに、是をとらず。かやうの夢物語仕(つかまつり)候も、おこがましく、はぢ入申(いりまうす)。」

といふ。

 鵜野九郎兵衞、進出(すすみいで)、

「尤(もつとも)左樣に候へども、亦、夢にも神夢(しんむ)靈夢と申(まうす)事候へば、強(あながち)、はかなし、とて、捨(すつ)べからず。」

と申(まうす)。

 其後、五、六人、申合(まうしあはせ)、乾の大杉の下を深く掘(ほり)、見るに、果たして石櫃あり。弟子とも不思義におもひ、ふたをひらくに、しころなき桃形の甲一刎(はね)・眞向に銀にて正成(まさしげ)と象眼(ざうがん)を沈(しづめ)たる菊水の旗一流・九寸五分の小脇差・軍書一册、有(あり)。

 弟子ども、互に目を見合(みあはせ)、

「扨は正雪は楠が再來、必ず、疑ふべからず。」

と立歸(たちかへり)、正雪に、

「かく。」

と語(かたる。

 正雪、僞(いつはり)て淚を流し、

「此事、深くかくして玉はるべし。」

と、皆々の口を堅め、夫(それ)より密(ひそか)に「楠正雪」と、あらためける。

[やぶちゃん注:おう! モロ田舎芝居! 奸計じゃのう、楠正雪!

「如夢現泡影(によむげんぱうやう)」如何にも仏典や禅語に有りそうな文字列だが、そのまんまは見当たらないようだ。「夢現(ゆめうつつ)のごとき泡影(ほうえい:水の泡と物の影法師で、儚い対象を譬えて言う語)なり」の謂いか。或いは後半は四字熟語で「夢現泡影のごとし」と読む方がそれらしいか。

「鵜野九郎兵衞」門人として「慶安太平記」や「正雪記」に登場する。]

 

 是より聞傳(ききつたへ)て、正雪を重んじ、其名、夥しく世に弘(ひろま)り、爰(ここ)に東武弓町に四國浪人丸橋忠彌秀勝といふ者あり。生(うまれ)不敵にして、人を人ともおもわず、管鑓(くだやり)の師として、隙もなく大勢の弟子にもてなされありける。弟子どもに語(かたり)けるは、

「我父は太閤秀吉公より三代の孫也。關白秀次公、文祿四年の七月五日、人の讒言(ざんげん)に依(より)て紀州高野山にて御生害(ごしやうがい)の折節、愛妾の賤き御子(みこ)をはらむもの有(あり)。此女、四國の丸橋に逃來(にげきた)り。我祖父を儲(まうけ)、我に至り。我(わが)氏(うじ)、豐臣也。」

と語。諸人、是をきゝて誠(まこと)とす。

2018/01/06

老媼茶話拾遺 諏訪越中

 

     諏訪越中

 

 奧州會津に諏訪越中と云(いふ)大力の大人あり。或春の末つかた、川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり見に、遠乘(とほのり)乍(ナガラ)、破籠(わりご)・吸筒(すひつつ)、取(とり)もたせ、供、二人三人(ふたりみたり)、召連(めしつれ)、「春風(はるかぜ)」と云(いふ)遠(とほ)がけの馬に乘(のり)、塔のへつりに至り、岩窟堂(いはやだう)の虛空藏にて酒をのみ、歸路におもむき、闇川橋(くらがはばし)を通りけるに、橋姫の宮の邊(あたり)にて、丈高(たてたかく)、したゝかなる座頭の坊、びわ箱を負(おひ)て、

「がたり、ぴしり。」

と、杖をもつて橋柱をさぐり居たり。

 越中、馬を扣(ひか)へ、

「座頭の坊、何をするぞ。」

といふ。

 座頭、聞(きき)て、

「此橋は、昔、聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し其内にて、御よしつたへうけ給り候。誠にて候哉(や)。」

といふ。

「成程、夫也。」

と云(いふ)。

 座頭、申(まうす)やう、

「吾等、先年、音に聞(きこ)へし信濃なる彼(かの)木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候。木曾の掛橋と氣色(けしき)同じ事ながら、橋の風景には歌詠(うたよむ)人もなき哉覽(やらん)。木曾の橋を西行法師の春花の盛(さかり)に通りたまいて、

 

 生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋

 

 又、源賴光中納言、平の維仲卿の御息女を戀させ玉ひ、

 

 中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ

 

 かへし、

 

 掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり

 

 此外色々の歌も侍るよしうけ給(たまはり)候。」

といふ。

 越中、聞て、

「見かけは辨慶ともいふべき人柄奉れども、心だての殊勝さは喜撰法師にもおとるまじ。」

と譽(ほめ)、夫(それ)より道連(みちづれ)をして、野寺の觀音近く成(なる)と、座頭、傍の石につまづきて、うつふしに倒(たふれ)けるが、起直(おきなほり)、腹を立(たて)、

「道端にあつて往來の障(さはり)と成(なる)。」

と、二、三十人斗(ばかり)にても動(うごかし)がたき大石の角に手を掛(かけ)、

「曳(えい)、やつ。」

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「さてさて。御座頭は大力かな。我も少し力あり。何と慰(なぐさみ)ながら、力競(ちからくらべ)せまじきか。」

といへば、座頭、聞(きく)と、

「御慰になるべくば、御相手可仕(つかまつるべし)。」

といふ。越中、

「然らば。」

とて、野寺の觀音堂の拜殿へ上り、越中、申樣(まうすやう)、

「其方(そのはう)、盲人にて角力(すまひ)はなるまじ。腕(うで)おしか天窓(あたま)はりくらか、此二のうちにせん。」

 座頭、申すは、

「然らば、しつぺい張(はり)くらべを仕(つかまつり)候はんまゝ、其天窓(あたま)を御はり候へ」

と云(いふ)。

 越中、

「しからば、請(うけ)候へ。」

とて、座頭があたまへ、したゝかにしつぺいを、はる。

 座頭、おぼへず、頭をちゞめ、面(つら)をしかめ、暫し、あたまを撫(なで)て、

「扨(さて)、強き御力かな。そなたは聞及(ききおよ)びし諏訪越中な。さらば、某(それがし)も慮外ながら一(ひと)しつぺい仕らん。請(うけ)て御覽候へ。」

とて、越中がつぶりを撫見(なでみ)、一口、笑(わらひ)、一さし指に鼻油(はなあぶら)を引(ひき)てしつぺい張(はら)んと、齒嚙(はがみ)をなし、立上(たちあが)りし面魂(つらだましひ)、さながら、鬼のごとく、扨(さて)冷(すさま)じかりしかば、越中、密(ひそか)に立(たち)て、鐙(あぶみ)をはづし、座頭がしつぺいを鐙の鼻にて受(うく)る。座頭、乘掛聲(のりかけごゑ)をかけ、

「曳(えい)、やつ。」

と、

「はつし。」

と張(はり)、鐙の、雉子(きじ)のもゝのまがりめ、二に張碎(はりくだく)。

 越中、鐙を投棄(なげす)て、馬に乘(のり)、一さんにかけて逃行(にげゆく)。

 座頭、腹を立(たて)、

「比興(ひきよう)也。何國(いづく)へ逃(にぐる)ぞ。」

と、大聲あげ、追(おひ)かけしが、忽ち、雲、起(おこり)、眞闇(まつくら)に成(なり)、大雨、降出(ふりいだ)し、雷電、稻光(いなびかり)して、大風、吹(ふく)がごとく成(なる)音して、座頭は、いづくに行(ゆき)しやらん、跡方もなく、成(なり)たり。

「定(さだめ)て天狗か化物の類ひなるべし。」

と、聽(きく)人、云傳(いひつたへ)たりと云(いへ)り。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後は一行空け、和歌は濁点を打たずに示した。さてもこの話、泉鏡花の随筆「怪力」の中で、類話(講釈物で本篇をもととしたものらしい)と並べて、本篇をそっくり、小説風に原文引用に評言を添える形で面白く紹介している(初出は明治四二(一九〇二)年六月及び七月春陽堂発行の『新小説』)。出所が「老媼茶話」であることは鏡花は記していないけれども(論文じゃない随筆なんだから全然問題ない)、本話の伝承形態が明らかにされているので、是非、一読をお薦めする。岩波の「鏡花全集」の「卷廿八」の「雜記」パートに載る。新字旧仮名であるが、「青空文庫」のこちらでも読める(しかし、どうも、鏡花の新字というのは偽物臭くていけない)。

「諏訪越中」諏訪越中守ということであるが、こちらの「諏訪家 家臣団」に諏訪越中守(生没年未詳)として『諏訪一族。一説に粟沢城主』とある。粟沢城は長野県茅野市玉川にあった戦国時代の山城であるし、そもそもが戦国時代の武将で信濃諏訪氏当主で武田信玄と息子の勝頼に仕えた諏訪頼豊(?~天正一〇(一五八二)年)の官途名が越中守であり、城郭サイトのこちらを見ると、織田軍の攻撃によって粟沢城は落城、その際に城主諏訪頼豊も討死した、とあるから同一人物であろう。しかし、ここでは場所が会津なわけで、この「諏訪越中守」「諏訪諏訪頼豊」ではないことは明白である。或いは、その生き残りの末裔ででもあったか、などと考えたくなるわけだが、そこはそれ、前に示した「怪力」で鏡花がちゃんと不審がって一つの面白い仮説を導いて呉れている。ちょっと引く(岩波の全集を底本としたが、読みは一部に留めた)。

   *

 で、主題と云ふのは、其その怪力の按摩と、大力(だいりき)無双の大將が、しつぺい張(はり)くら、をすると言いふので。講釋の方は越前國一條ケ谷(たに)朝倉左衞門尉義景十八人にんの侍大將の中(うち)に、黑坂備中守と云ふ、これは私の鄰國(りんごく)。隨筆の方は、奥州會津に諏訪越中と云ふ大力の人ありて、これは宙外(ちうぐわい)さんの猪苗代から、山道三里だから面い。

 處で、此の隨筆が出處(しゆつしよ)だとすると、何のために、奥州を越前へ移して、越中を備中にかへたらう、ソレ或ひは越中は褌(ふんどし)に響いて、強力(がうりき)の威嚴を傷つけやうかの深慮に出(で)たのかも計(はか)られぬ。――串戯(じようだん)はよして、些細な事ではあるが、おなじ事ことでも、こゝは大力が可(い)い。強力、と云ふと、九段坂(くだんざか)をエンヤラヤに聞えて響(ひゞき)が惡い。

   *

実に言葉の響きを掬すように大切にした鏡花らしいお洒落な微笑ましい解釈ではないか。なお「宙外さん」とは友人で小説家の後藤宙外(慶応二(一八六七)年~昭和一三(一九三八)年:鏡花(明治六(一八七三)年生)より六つ年上)のこと。彼の生まれは出羽国仙北郡払田村(現在の秋田県大仙市払田)であったが、明治三三(一九〇〇)年に春陽堂に入社してまさに『新小説』編集主任(鏡花の「怪力」が載ったのもこれ)となると、翌年の五月から、田園文学の実践として福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建てて、そこから月に一週間ほど上京して編集事務を勤めるという生活を明治四〇(一九〇七)年十月に鎌倉に移り住むまで続けたことから(ここはウィキの「後藤宙外」に拠った)、鏡花は数年前の彼の田園生活を思い出して、かく書いたのである。

「川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり」現在の福島県南会津郡下郷町白岩地区の(ここ(グーグル・マップ・データ))直ぐ直近の阿賀川沿いにある「塔のへつり」(福島県南会津郡下郷町弥五島下タ林。ここ(グーグル・マップ・データ))という景勝地。塔のへつり(とうのへつり)は、福島県南会津郡下郷町にある景勝地。ウィキの「塔のへつり」によれば、『河食地形の奇形を呈する好例として、国の天然記念物に指定されている』。『「へつり」とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことである。なお、「へつり」は「岪」』『という漢字表記があるが』、他に使用しない漢字であるため』、『かな表記が標準化している』。『福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、大川羽鳥県立自然公園の一角を占め』、『一帯は第三系凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩などが互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による侵食と風化の作用によって形成された柱状の断崖である。一帯は樹木に覆われており、新緑や紅葉の頃は一際』、美しい。全長二百メートルに『わたって、大規模な奇岩が整列している。主なものには屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩などがあり、これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、吊橋を渡している舞台岩周辺以外は』現在は『立ち入り禁止となっている』とある。

「破籠(わりご)」檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって、被(かぶ)せ蓋(ぶた)をする。現在の弁当箱に相当する。

「吸筒(すひつつ)」竹筒を用いた水筒。但し、飲料水よりは酒を入れることの方が多く、ここもそれであろう。竹を一節分、輪切りにしておいて、その一方の端に飲み口の穴を空けたもので、通常、使い捨てにした。「ささえ」「さすえ」などとも呼ばれた。

「岩窟堂(いはやだう)の虛空藏」現在、福島県耶麻郡西会津町奥川大字高陽根大出戸(いでと)に岩屋虚空蔵尊があるここ(グーグル・マップ・データ)。同町の公式サイト内の「岩屋まつり」 参拝客でにぎわうに五百年続く祭祀が村民によって続けられているという記載があるのだが、しかし、先の「塔のへつり」とは、ここは全くの方向違いで、ここは直線でもそこからは北西に五十四キロメートル以上もあり、馬の遠乗りとは言え、遠過ぎて明らかにおかしい。他に同名の場所が「塔のへつり」の手前にでもあったものと推測する。何故なら、次の「闇川橋(くらがはばし)」の私の比定位置が、「塔のへつり」の下流八~九キロメートルの位置だからである。郷土史研究家の御教授を俟つものである。

「闇川橋(くらがはばし)」既出既注であるが、再掲する。私はこの中央付近ではないかと推測した。この中央附近に架かっている会津鉄道の橋梁の名が「闇川橋梁」という名称だからである。因みに、本話当時、この「若郷湖」という湖(ダム湖)は存在しない。

「橋姫の宮」不詳。橋姫伝説は日本全国に広がっており、橋詰めにこれを祀るのはごく一般的ではあった。詳しくは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』以下、十回分をお読みあれ。

「したゝかなる」「強かなる・健かなる」で、「なかなか手ごわそうなこと・見るからに一筋繩では相手に出来そうもない偉丈夫な様子」の意。

「がたり、ぴしり」底本は「かたり、ひしり」。杖で橋柱(欄干であろう)を打つオノマトペイアと採って、濁点と半濁点を打った。因みに鏡花も「怪力」で「がたりぴしり」と記している。鏡花はこの杖の音にまず、怪異の端緒が始まるように読んでいるのが、流石!

「扣(ひか)へ」引き留め。

「聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し」不学にしてこのような伝承は私は聴いたことがない。

「木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候」これもなんだかおかしい。「木曾の掛橋」というのは、川に掛ける橋ではなく、断崖絶壁に支えの柱を下に斜めに打ち込み、その上に道とする木を横に打ち込み、それを連続させて上に板などを当てて通り道とした、所謂、「棧道(さんどう)」なのであって、「橋」ではないからである。ここで、この怪しい座頭の言っているのは、まさに日本三奇橋として知られる、山梨県大月市にある「猿橋」のように、谷が深いために橋脚(ここで言う「橋枕」)が立てられないため、橋脚を一切使わず、両岸から張り出した幾層かの(猿橋は四層)の組んだ木材によって橋を支えたものに、橋の固定と通行人の落下を防ぐための鎖を渡したものを言っているようにしか見えぬからである。

「生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋」整序すると、

 

 生(おひ)すがふ谷の梢(こずゑ)を蜘蛛手(くもで)にて散りぬる花蹈む木曾の掛橋

 

であるが、私は知らない。西行のものでは「山家集」所収の、

 

 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曾のかけはし底もみえねば

 さまざまに木曾のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ歸る山人

 駒なづむ木曾のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり

 

辺りが知られる。

 

「源賴光中納言」丹波国大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で知られる源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:平安中期の武将で摂津源氏の祖)が「平の維仲卿の御息女」と恋仲になったというのは、例えば、大久保龍著「少年源頼光と四天王(大江山鬼退治)」(大正一五(一九二六)年大同館書店刊)の「(八)賴光と中納言維仲の娘」に詳しい(最後にこの一首も出る。但し、そこでは初句が「ながなが」(後半は踊り字「〱」)、「はなさで」が「はなたで」となっている)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。平惟仲(これなか 天慶七(九四四)年~寛弘二(一〇〇五)年)は桓武平氏平高棟流で従四位上(贈従三位)美作介平珍材の長男。官位は従二位・中納言であった。この娘は実は養女で実際に源頼光の妻となった。元は藤原忠信の娘で「五節の弁」と同一人物ともされる。

「中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ」「中中」の後半は底本では踊り字「〱」。整序すると、

 

 なかなかに言ひも話さで信濃なる木曾路の橋の掛けたるはなぞ

 

「信濃なる木曾路の橋の掛けたる」は「危いこと」を意味すると同時に話し「かけたる」を文字通り、掛けているか。或いは繋がり「かけたる」は「缺たる」を含んで、繋がりが途絶えたことの残念さを含むものか。

「掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり」整序すると、

 

 掛け染めし木曾路の橋も年(とし)經(ふ)れば中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり

 

これは分かり易い。かくして「中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり」は杞憂となり、この縁で「中」(仲)良くなった二人は目出度く、夫婦となったのであった。因みに、鏡花の「怪力」では、返しの女の歌のみが頼光の歌として示されている。しかもそこでは、

 

 戀染(こひそ)めし木曾路の橋も年(とし)經(へ)なば中(なか)もや絶えて落(おち)ぞしぬめり

 

となっていて、何だか、おかしい。鏡花の見た「老媼茶話」の写本がいい加減なものだったのかも知れない。

「野寺の觀音」現在の会津若松市門田町堤沢字上村にある野寺薬師堂の誤りか。「極上の会津プロジェクト協議会」(会津若松市役所観光課の組織)のこちらを見られたい。ロケーションからが問題がないが、薬師は如来だし、ここには観音堂はないと思う。

「うつふし」「打伏」。濁音化は敢えてしなかった。

「曳(えい)」「曳」の音は確かに「エイ」で、「曳(ひ)く」(引きずる・引き寄せる)の意でもあるわけだが、ここはそれを掛け声の感動詞に掛けた使用法で、甚だ面白い。

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「力競(ちからくらべ)せまじきか」「力比べをしてみてはどうであろう?」。この助動詞「まじ」は近世に頻繁に用いられた単なる推量の用法である。

「腕(うで)おし」腕相撲のことであろう。

「天窓(あたま)はりくら」頭を叩き合って有意に揺るがなかった方が勝ちという力比べか。

「しつぺい張(はり)くらべ」「竹箆(しつぺい)」による「天窓(あたま)」の「張り比べ」。竹箆(しっぺい)は本来は禅で用いる竹製の棒で、座禅する者の気の緩みを戒め、気合いを入れるために肩を打つ例の長い竹の箆(へら)のことだが、ここはまさに今も我々が用いている「しっぺ」、則ち、人差し指と中指を揃えて、それを竹箆に見立てて、手首辺りを打つ指竹箆(ゆびしっぺ)のことであろう。但し、ここでは、座頭の所作を見ると、打つのは人指し指一本で、それで脳天を打つものか。普通、「張る」というのは頭部側面を打つことを指すのだろうが、しかし、座頭が張られて「頭をちゞめ、諏訪が後で座頭のそれを鐙で受けたというのだから、ここは真っ直ぐに頭頂を打ったものと解したい。

「慮外ながら」御無礼なことであるが。

「つぶりを撫見(なでみ)」諏訪の頭を撫でるように見回し。

「一口、笑(わらひ)」ちょっと笑い。

「立上(たちあが)りし」突っ立った。

「面魂(つらだましひ)」その顔つき。

「冷(すさま)じかりしかば」凄まじいものであったので。

「密(ひそか)に立(たち)て」相手から判らぬようにそっと馬に寄り添って立ち。

「鐙(あぶみ)」馬具。鐙革(あぶみがわ)で鞍から左右一対を吊り下げ、騎乗する際に足を乗せるもの。現代は金属やプラスチックであるが、ここは木製であろう。

「鐙の鼻」鐙の前方の丸く突き出た部分。

「乘掛聲(のりかけごゑ)」ある動作をする際の気合の掛け声を言っているものと思う。

「雉子(きじ)のもゝのまがりめ」鐙自体が雉子の形に似ているから、かく言ったものか。

「比興(ひきよう)」卑怯。本来は「比興」で「卑怯」は当て字かとされる。但し、歴史的仮名遣は「ひけふ」であるから、この当て字もおかしい

「何國(いづく)」「何處」。「國」は単に「別な場所」の意であろう。]

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