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2017/12/12

老媼茶話巻之七 釜煎

老媼茶話卷之七

     釜煎

 

 「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」には、釜煎(かまいり)は大臣家(だいじんけ)にあらずしては、なりがたし。臺德院樣御代、石川五右衞門といふぬす人、三條河原にて釜ゐりに被仰付(おほせつけ)らるゝ。御當代、これ、始(はじめ)也。

 蒲生藤三郎秀行卿、其身(そのみ)、正四位下宰相にて、領内の罪人、毎度、釜煎申付(まうしつけ)られ候。そのむくひにて、子孫斷絶せしといへり。

 宰相の御代、會津、中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村に平七といふ百姓、有(あり)。此もの、鳥殺生(とりせつしやう)を能(よく)する。

 ある時、「しらふ」の雲雀(ひばり)、本郷河原といふ所にて取(とり)、宿へ歸り、女房に見せ申(まうし)けるは、

「此(この)雲雀は、當時、珎敷(めづらしき)『しらふ』也。天下をしなべて、小鳥流行なれば、殿樣へ差上(さしあげ)、過分の御褒美いたゞくべし。嬉敷(うれしき)事なり。」

とて、大きに悦(よろこぶ)。女房、きゝもあへず、

「今の殿樣をば、『しぶ柹(がき)宰相樣』とて、人、皆、うとみはて、大欲無道のとの樣なり。たとへ、『しらふ』の雲雀は扨置(さておき)て、きんのひばりを上(あげ)給ふとも御褒美は存(ぞんじ)もよらず。けつく、『百姓の務(つとむ)べき農作は不動(はたらかず)して、殺生致(いたす)事、不屆也、身こらしに』とて、いかなるうきめにか逢(あひ)玉ふべき。とくして、仙臺へ持行(もちゆき)、仙臺の殿樣へ賣り玉ふべし。必(かならず)、當所の殿さまさしあげ玉ふな。」

と申ける。

 平七、女房の申(まうす)に任せ、忍(しのび)て閑道(かんだう)を經(へ)、仙臺へ行(ゆく)。

 仙臺中納言政宗卿へ賣上(うりあげ)、金子十五兩、くだされける。

 平七、大きによろこび、會津歸り、女房に向ひ、

「汝がおしへにしたがひ、如此(かくのごと)し。」

と、金子を差出(さしいだ)し、見せて、悦びける。

 女の饒舌(ジヨウゼツ)、末のわざはひを、知らざりけり。

 此(この)雲(ひ)ばり、政宗卿より將軍樣へ差上(さしあげ)玉ふ。將軍樣、甚御寵愛被遊(あそばされ)、

「此雲雀、『しらふ』にして、類(たぐひ)なき名鳥なり。鳴音(なくね)、大音(だいおん)にて、いさぎよく御所中にひゞく。定(さだめ)てつたへ聞召及(きこしめしおよ)ばれし、かの奧州名取郡宮城野ゝ、はぎの名所の野邊より、もとめつらん。」

との上意也。

 政宗卿、謹(つつしみ)て申被上(まうしあげられ)けるは、

「此鳥は我領内より求(もとめ)つるにては候はず。若君樣、小鳥御好被成(このみなさる)事故、若(もし)、珎敷(めづらしき)鳥も候はゞ、御慰(おなぐさみ)にさし上度存(さしあげたくぞんじ)候て、近國へ申遣(まうしつかは)し、會津領より、求め候て差上候。」

と被申上(まうされあげ)ける。

「會津に加樣(かやう)の名鳥出(いづ)るならば、宰相方(かた)よりこそ可差上(さしあぐべき)に、そまつなる仕形(しかた)なり。」

とて御機嫌あらく、秀行卿、めいわくなさるゝ。

 依之(これによりて)、秀行卿、御在國なりければ、江戸家老より會津國家老右の趣(おもむき)、こまやかに申遣(まうしつかは)す。

 兼々、會津にても小鳥殺生の役人有(あり)て、すべて小鳥をも其筋へ差上候掟(おきて)也。

 國家老、嚴敷(きびしき)詮義のうへにて、平七、罪、悉く顯れ、女房が惡言も知(しら)れければ、夫婦共に、大川河原にて釜煎に成

 其刑罪場所、「平七畑」とて近き頃まで有けるが、元祿十五年午(うま)の十月二日の洪水にて、其所、押流し、今は河原と成

 平七が幽靈、雨ふり闇夜は、夫婦ながら、くだんの刑罪場へ立出(たちいで)て、泣(なき)さけびしを、村人、度々、見たるなり。

 蟹川村寶光院の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

 石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)。辭世、

  石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ

 或記に、加藤左馬介、大坂より伏見へ被參(まゐられ)ける道、日暮がた、伏見なはてにて、ぬすびとの大將石川五右衞門、手下の盜人大勢、鐵砲三拾挺、其間へ鑓を組合(くみあひ)伏置(ふせおき)、使(つかひ)を以て左馬介殿へ酒手(さかて)を乞(こひ)ける。

 嘉明、聞(きき)て、

「につくき盜人め。それ、壱人もあまさず、なでぎりにせよ。」

と自身、大長刀(おほなぎなた)をおつ取(とり)、かけ出(いで)られける。

 此勢ひに恐れ、五右衞門を始(はじめ)、ちりぢりに逃失(にげうせ)たり。前々、此如(かくのごと)くして、諸大名より、大分(だいぶん)、金を取(とり)けり。

 

[やぶちゃん注:「釜煎」一般に「釜茹(かまゆ)で」で知られるが、大きな釜で熱せられた湯や油を用いて罪人を茹でる死刑方法で、石川五右衛門の場合は油が用いられたとする説があり、その場合は「釜煎り」が相応しくはある。ウィキの「釜茹でによれば、『日本においては、戦国時代から江戸時代まで、釜茹での刑が存在して』おり、それ以前に『刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり』十三~十四『世紀には、地獄の刑罰』として広く『認知されていたことがわか』り、従って、『京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる』とあり、『金沢藩では』元和四(一六一八)年、『姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された』とある。

「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた書。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「大臣家(だいじんけ)」江戸時代、大臣の資格があると認められていた家柄。中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじよう)・三条西の三家。

「臺德院」この箇所、底本では、改行して一マス目から書かれている。これは所謂、敬意を示すための書式であるが、私は無視して前に続けた。台徳院は第二代将軍徳川秀忠(在位:慶長一〇(一六〇五)年五月一日(征夷大将軍宣下)~元和九(一六二三)年七月二十七日隠居)を辞任の法号。但し、現行では石川五右衛門は安土桃山時代の人物とされており、この謂いはおかしい。思うに、本話柄の中心である「雲雀」事件の時制と勘違いしているのではなかろうか?

「石川五右衞門」(?~文禄三年八月二十四日(一五九四年十月八日))は安土桃山時代の盗賊の首長。ウィキの「石川五右衛門」より引く。『従来』、『その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている』。『江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た』。『都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による』。『史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の』二十『年ほど』、『日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した』「日本王国記」に『よると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、』その十五『人の頭目が捕らえられ』、『京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に』、『「この事件は』一五九四『年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族』九『人ないしは』十『人であった。彼らは兵士のようななりをしていて』十『人か』二十『人の者が磔になった」』『と記している』。また、公家の山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」には、文禄三年八月二十四日『の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの』、『宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの』、寛永一九(一六四二)年に編纂された「豊臣秀吉譜」『(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類』二十『人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている』とある。

「三條河原」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「蒲生藤三郎秀行」陸奥会津藩主。既出既注

「正四位下宰相」蒲生秀行は従四位下・飛騨守・侍従であった。侍従は参議(唐名「宰相」)の下であるから、正しい謂いではない。

「宰相の御代」文禄四(一五九五)年から慶長三(一五九八)年に宇都宮に移封されるまでの短い時期と、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって会津に復帰した時から、死去した慶長一七(一六一二)年五月十四日までになるが、後に仙台藩主として伊達正宗が登場するから後者の時期

「中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村」現在の会津若松市北会津町蟹川。ここ(グーグル・マップ・データ)。中荒井は現在、その地区の南西に接してある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、「中荒井組」とは村落共同体的なものを指すか。

「しらふ」「白斑」。たヒバリ(スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis)の背中には、それぞれの羽を縁取る多くの白斑が入るが、それは必ずしも珍しいものではない。

「本郷河原」JR東日本只見線に会津本郷駅(福島県会津若松市北会津町上米塚)があり、平七の住まう蟹川とも近く、阿賀川河岸であるから、この附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「しぶ柹(がき)宰相」「澁柹宰相」。蒲生秀行このような渾名があったことは調べ得なかった。

「うとみはて」「疎み果て」。

「けつく」「結句」。挙句の果ては。

「不動(はたらかず)して」「動」はママ。「働かずして」。

「身こらし」「身懲らし」め。

「いかなるうきめ」「如何なる憂き目」。

「とくして」「疾くして」。

「仙臺の殿樣」後に出る仙台藩の初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。彼が仙台に開府するのは慶長六(一六〇一)年。

「閑道(かんだう)」普通は「間道」。

「將軍樣」前に述べたように、蒲生秀行が会津藩主である時期は秀忠の治世である。

「奧州名取郡宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。

「はぎの名所」ここで言う「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。

「若君樣」かく言うのは父家康が存命であるからで、家康は元和二年四月十七日(一六一六年六月日)に没しており、蒲生秀行が死去したのが、慶長一七(一六一二)年であるから、秀忠がこの事件は、事実とするならば、その間(一六一二年から一六一六年)の間の出来事とみなすすることが出来る。秀忠は天正七(一五七九)年生まれであるから、この時、満三十三から三十七歳となる。

「仕形(しかた)」「仕方」。仕儀。

「めいわく」「迷惑」。

「大川河原」「大川」は福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。

「平七畑」位置不詳。

「元祿十五年」一七〇二年。

「蟹川村寶光院」福島県会津若松市北会津町蟹川に現存する。真言宗。ページで位置が確認出来る。

の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

「石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)」ウィキの「石川五右衛門」によれば、伝説上では、彼の『出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある』。『丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる』。また、『一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し』、十六『歳で主家の宝蔵を破り、番人』三『人を斬り』、『黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも』言われるとある。なお、彼が『処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある』という。因みに、三坂の自信を持った四十二が享年だとすれば、彼の出生は天文一三(一五五三)年ということになる。

「石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ」整序すると、

 

 石川や濱の眞砂(まさご)は盡(つ)きるともよも盜人の種は盡きまじ

 

であるが、一般に流布されているそれは、

 

 石川や濱の眞砂は盡くるとも世に盜人の種は盡くまじ

 

である。ウィキの「石川五右衛門」によれば、これは「古今和歌集」の「仮名序」にある、譬え歌として挙げられてある、

 

 わが戀はよむとも盡きじ荒磯海(ありそうみ)の濱の眞砂はよみ盡くすとも

 

の本歌取ではないかとする。

「加藤左馬介」伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人で、さんざん出てきた加藤明成の父。

「伏見なはて」「伏見繩手」。りか(グーグル・マップ・データ)。この場合の「繩手」は「田の間の道・畦道」或いは「真っ直ぐな道」を指す。

「なでぎり」「撫で斬り」。]

老媼茶話巻之六 邪見の報 / 老媼茶話巻之六~了

 

     邪見の報

 

 奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り。ほういつ邪見、類(たぐひ)なきものなり。父母、はやく死(しに)て、姉壱人、有(あり)。姉も若くして夫を失ひ、孀住(ヤモメずみ)にて、壱人の娘「ふじ」とて、十二成(なる)を持(もち)けり。此姉も、風をなやみて、死す。

 姉の娘、懸(かか)るべきよすがもなかりしかば、甚六、ひきとりけるに、つらくあたりける事、いふ斗(ばかり)なし。

 或時、ものゝうせけるに、

「ぬすみ取(とり)たるらん。」

とて、冬の事なるに、つよくしばりて、うらの栗の木にくゝり付(つけ)、食も喰(くは)せず。

 娘は、なきさけび、もだへこがるれども、誰(たれ)取(とり)さゆるものも、なかりしかば、曉方(あかつきがた)、終(つゐ)に、こゞへ、死す。

 死骸(むくろ)をも野原へ捨(ス)てけるまゝ、おのづから鳶・烏の餌食となしぬ。

 女郎(メロウ)がぬすみしといゝしものも、程經(ほどへ)て、おもわずの所より出(いで)にけり。

 其明(あく)る春、元朝に、持佛堂、頻りになり出し、誰業(たがわざ)とも知れず、位牌其外、佛具、甚六夫婦がひざ元へ、なげやりける。

 其夜より、めろうが面影、有有(ありあり)と甚六が目に見へて、いぶせかりしかば、山伏を賴み、祈禱をするに、しゆみだんに餝(かざ)り置(おき)たる、とつこ・花皿(はなざら)・れい・しやくじやう、不殘(のこらず)、表へなげ出(いだ)しけるまゝ、山伏、肝をけし、逃歸(にげかへ)る。

 甚六、

「神に願懸(ぐわんかけ)をして、此あやしみをのがれん。」

と思ひ、柳津(やないづ)へ參り、歸りに岩坂といふ處にて夕飯を認(したた)めけるに、茶屋の亭主、弐人前の膳を出(いだ)しける儘、

「我、壱人にて、つれは、なし。一膳の外(ほか)いらぬ。」

といふ。

 亭主申(まうす)は、

「慥(たしか)に、十二、三ばかりの女郎(メロウ)の、ふるきゆかたに三蔦(つた)の紋、付(つけ)しが、髮もゆわず、面(おもて)も洗はず、きたなげなるが、

『我等は甚六が姪にて候。膳を認(したた)め呉候得(くれさふらえ)。』

と申(まうし)て、座敷へ入(いり)候まゝ、二膳、儲(まうけ)しに、其めろうは、いづくへ行(ゆき)候哉。」

といふ。

 甚六、心に思ふ、

『扨(さて)は。「ふじ」めが亡靈、付(つき)ありくよ。』

と思ひながら、

「あるじは何を見玉ひし。我より外に、とものふ者もなきもの。」

といふて、其夜はとゞまり、曉(あかつき)早く、宿へ歸りけるに、坂下(ばんげ)と云(いふ)里にて咽(のど)かわきけるまゝ、折節、出茶屋(でぢやや)に冷麥(ひやむぎ)の有(あり)けるを、茶店に腰懸(こしかけ)ながら、喰けるが、弐、三度、さらを取落(とりおと)し、打(うち)こぼしけるうへ、皿を割(わり)ける。

「是は。おもわず、そそふ、いたしける。面目(めんぼく)なし。」

といへば、茶やの男、

「されは不思義なる事候。其方(そなた)の側(そば)に、十二、三斗(ばかり)の小(こ)めろう、付添居(つきそひゐ)て、冷麥を喰(くは)んといたさるれば、手を出(いだ)し、皿を引取(ひきとり)、打(うち)こぼし候。今も、左の方(かた)に、まぼろしごとく、居(ゐ)申(まうし)たり。」

といふ。

 甚六、彌(いよいよ)心をくれ、宿へ、かへりける。

 日暮て行灯(あんどん)をともしけるに、此行灯、持(もつ)人もなく、中(ちゆう)を飛(とび)あるきける間(あひだ)、家内の者共、驚見(おどろきみ)れば、行灯を持(もち)ける小(ちひさ)き手節(てぶし)斗(ばかり)有(あり)て、人は、みへず。

 とび懸り、おさゑんとすれば、手にさわるもの、なし。

 甚六夫婦ふしける寢屋鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)、

「是は。」

と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし。

 せんかたなくなりけるに、あるもの申けるは、

「是は何樣(なにざま)、狐狸の類ひ成(なる)べし。化ものゝ通ふべきと思ふ所へ干砂(ヒスナ)をふり置(おき)、足跡を見玉へ。」

といふ。

 甚六、

「實(げ)にも。」

とて、亡靈の來(きた)るべきとおもふ、高窓の下へ、砂をふりける。

 某日の暮方、件(くだん)の窓より、幽靈、顏を出(いだ)し高高(たかだか)と笑(わらひ)、

「我を狸狐とおもふかや。己(おのれ)が惡逆、已に報ひ、天より下(くだ)れる災(わざはひ)なり。いかゞして遁(のが)るべき。覺悟せよ。」

と言(いひ)て消失(きえうせ)たり。

 其後、甚六、さまざま、「ふじ」が跡、よく吊(とむら)ひければ、亡靈もきたらず、つゝがなかりし、とかや。

 

 

老媼茶話卷之六終

 

[やぶちゃん注:このエンディングは、この慈悲もなき甚六にして、怪談として承服することは私には全く出来ない。本篇は、冷麦のシークエンス及び行灯のところに小さな瘦せた手首だけが見えるシーンが、まっこと、絶品である。

「ほういつ」「放逸」。

「こゞへ」底本は「こゝへ」。歴史的仮名遣の誤りで「凍え」。底本も右に添漢字で『凍』とする。

「女郎(メロウ)」歴史的仮名遣は「めらう」が正しい(現代仮名遣は「めろう」)。後に出る「小女郎」とともに小娘・少女の意。

「しゆみだん」「須彌壇」。仏堂内等に置いて仏像を安置する台。帝釈天の住むとされる須弥山(しゅみせん)を象ったものとされ、四角・八角・円形などの形のものがある。

「とつこ」「獨鈷」。密教・修験道で用いる仏具金剛杵(しょ)の一つ。金属・象牙などを主材料とし、中央に握り部分があり、両端が尖っている杵形(きねがた)の仏具。元は古代インドに置いて敵に投げつける武具。独鈷杵(とっこしょ)。

「花皿(はなざら)」「花籠・華筥」と書いて「けこ」とも呼ぶ。法事の際に散華(さんげ:仏を供養するために周囲に花を蒔き散らすこと。現行では蓮の花弁に象った紙を用いる)に用いる花を入れる仏具。元は竹籠であったが、後には金属で皿形に作り、下に飾り紐や房を垂らし、装飾性が高くなった。

「れい」「鈴」。独鈷等と同じ法具の一つである五鈷鈴(ごこれい)であろう。独鈷の仲間で両端が五つに分かれているものを五鈷(杵)と呼ぶ(以下、私の目の前にずっと昔、タイで買ったそれが置いてある)が、その一方が鈴になっているもの。

「しやくじやう」「錫杖」。

「柳津(やないづ)」現在の福島県河沼郡柳津町(やないづまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「參り」とあるのは、同地区にある霊岩山円蔵寺であろう(縁起などによれば、大同二(八〇七)年に空海作とされる虚空蔵菩薩像を安置するために徳一なる人物が虚空蔵堂を建立したのを始めとする)ここの只見川畔にある臨済宗(現在)の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津の虚空蔵さま」として親しまれ、その本堂の前は舞台になっていることは既に注した。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「岩坂」柳津町柳津岩坂町甲があり、ここはまさに円蔵寺の北直近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ふるきゆかた」「古き浴衣」。

「三蔦(つた)の紋」これ(グーグル・画像検索「三ツ蔦」)。

「とものふ」「伴ふ」。

「宿」自宅。

「坂下(ばんげ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町(ばんげまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)以上の三つの地名から、冒頭、「奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り」と始めているものの、甚六の居所は現在の会津若松市内或いは猪苗代周辺と推理してよいと思われる。

「そそふ」「麁相・粗相」。

「中(ちゆう)」「宙」。

「おさゑん」「押さへん」。

「甚六夫婦ふしける寢屋江鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)」「是は」「と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし」「天狗の石礫」というよりも、これは最早、「ふじ」という未成年の少女(ここでは亡くなっているけれども)が関係するというあたりも、典型的なポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist)現象で、実に興味深い。]

2017/12/11

老媼茶話巻之六 狼

 

     

 

 武州江戸のもの、奧州の名所松嶋を見に、はるばると下りけるに、松嶋行詰(ゆきづま)て、山道に迷ひ、山中へ入りけるに、人目(ひとめ)稀(まれ)なる谷影に、時雨(しぐれ)も月も嘸(さぞ)もるらんと、あさましき賤(しづ)が家(や)あり。

「道をとはん。」

とおもひ、案内を乞ひ立入(たちいり)けるに、内には年寄りたる翁(おうな)と姥(うば)と有(あり)。

 娘と覺敷(おぼしく)て、廿(はたち)餘りの美女、しずのおだ、をへて、姥が側に有り。

 容氣、至(いたつ)て美麗なりしかば、旅人、愛念を生じ、暫(しばらく)休(やす)らいみるに、誠に天性の美人なりしかば、姥に向ひ、

「そこつに候得ども、懸(かか)るいぶせき山中に侘敷(わびしく)住(すみ)玉はんより、御娘を我(わが)妻にあたへ玉へ。然らば、老人夫婦をも武藏へ引取(ひきとり)殘曆(ざんれき)をたのしませ候はん。」

といゝければ、夫婦、申樣(まうすやう)、

「我等は齡(よは)ひ、すでにかたむき、あすをも知らぬ老の身にて候まゝ、この山中にすみ果て候とも、壱人の娘、世にあらせたく候。御望(おのぞみ)ならば、參(まゐら)せ候はん。」

といふ。

 旅人、大きに悦び、老人夫婦に金子(きんす)多くあたへ、松嶋の見物は差置(さしおき)て、急ぎ江、戸へ歸り登りけるが、三年を經て、妻、申樣、

「かりそめに父母にたち離れ、既に三年に及(および)候。其内(そのうち)、便りもなさゞれば、さこそ恨(うらみ)て過(すぐ)し玉ひなん。此度(このたび)、思ひ立(たち)、奧州下り、父母に對面申度(まうしたし)。」

と侘(わび)ければ、男、元より富有(フクユウ)の者なるうへ、松嶋も又、みまほしく、妻の望(のぞみ)にまかせ、供人少々にて、奧州へ下りける。

 程なく、件(くだん)の處に至り、ありこし宿を尋ねけるに、庵の跡は有(あり)ながら、柱、倒れ、壁、落(おち)て、絶(たえ)て、人もなく見へにけり。

 片原(かたはら)を能(よく)みるに、大きなる狼の骸(むくろ)の雨風にくちたるが、弐疋、打重(うちかさな)り、死居(しにゐ)たり。

 死(しし)て久敷(ひさしき)とみへて、肉は殘らず、かれけれど、皮・ほねは尚、全く續き有(あり)。

 女、此死骸を見て、

「我(わが)父母、すでに人の爲に殺され玉へり。口惜しさよ。」

といふて、身ぶるいすると見へしが、忽ち、大きなる狼となり、ほへ怒(いか)て夫に懸向(かけむか)ふ。

 夫、大きに驚き、刀を拔(ぬき)、ふせぎけるが、終(つゐ)に狼に喰殺(くひころ)さる。

 供の男ども、是を見て、跡をも見ずして、逃歸(にげかへ)りけるとかや。

 

[やぶちゃん注:これはかなり知られた狼の異類婚姻譚で、複数、存在する。私の読んだものは二つあり、孰れも東北が舞台であったが、私の記憶では、最後がこのように凄惨でないものもあったやに思う。今直ぐにそれらを提示出来ないが、書棚の中にはあるはずのものであるから、見出し次第、書誌等を示す。

「行詰(ゆきづま)て」進んだ道が完全な行き止まりで。

「もる」「漏る」。

「しずのおだ」ママ。「倭文(しづ)の苧環(をだ)」。苧環(おだまき)で「しづ」(上代は「しつ」と清音)は梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布を作るために、紡いだ糸を巻いて中空の玉にしたもの。

「をへて」不詳。「を」は格助詞で、「へて」は動詞らしいが、ピンとくるものが浮かばぬ。或いは「をへ」で「終(を)ふ」(ハ行下二段動詞)で、「巻き終えて」の意か。

「そこつ」「麁忽・粗忽」不躾な急な軽はずみな無礼なること。思慮もなき失礼なこと。

「いぶせき」山家(やまが)のこととてひどく不便で窮屈な。

「殘曆(ざんれき)」余命。

「片原(かたはら)」「傍ら」。

「かれけれど」「枯れけれど」。]

老媼茶話巻之六 山中の鬼女

 

     山中の鬼女

 

 信濃より都へのぼりける旅人、木曾路にて道にふみまよい、爰(ここ)かしこと、さまよひ、或山中に壱家(や)を見付(みつけ)、悦(よろこび)て立寄(たちよ)り、宿をかりけるに、五十斗(ばかり)の女、立出(たちいで)て、宿を貸(かし)ける。

 外に人もなく、かの女斗(ばかり)、いろりの側(そば)に、何やらん、なべに取り入れ、火を焚居(たきゐ)たり。なべより、

「ぐつぐつ。」

と煮上りける香(ニホイノ)、頻(シキ)りに、うまくにほひけるを、旅人、申樣(まうすやう)、

「我、山深く道にまよい、野くれ山くれ、道すがら、人家なかりしかば、甚だ、餓(ウヘ)に望みたり。侘(わび)しきものにても、くるしからず。何ぞ、食事をあたへ玉へ。」

 女、聞(きき)て、笑(わらひ)て答(こたへ)ず。

 旅人、重(かさね)て、

「鍋に、かしき玉ふ物は、何にて侍るぞ。それを少し、ほどこし給へかし。」

といふ。

 女、聞て、

「是は、魔ゑんの食物(くひもの)也。我(わが)夫、遠くへ行(ゆき)て押付(おつつけ)、歸り來(きた)るべし。其(その)てんしんを儲置(マウケおく)なり。人の喰(くふ)べき物にて、なし。」

と云(いふ)。

 女のつらつきをみるに、先(さき)みし面影とはこと替り、眼(まなこ)、大きく光り、口、耳もとへ切(きり)のぼり、さも、すざましき鬼女となれり。

 旅人、是を見るに、鍋にて煮るものは、皆、人の首・手足なり。

 旅人、覺へず、表へ飛出(とびいで)、息を限りに逃(にげ)はしる。

 鬼女も續(つづき)て飛出、

「おのれ、何方(いづかた)へやるべき。」

とて、山の覆ひかゝるごとく、透(すき)もなく、追懸(おひかく)る。

 旅人、今はせんかたなく、或(ある)辻堂走り込(こみ)、内陣入(いり)、御佛のうしろへ、

「助け玉へ。」

とて、隱れ臥(フ)す。

 女、續(つづき)て追(おひ)たり。

 爰(ここ)かしこ、尋(たづね)めぐりけるが、旅人を見出(みいだ)さず。

 さも、おそろしき聲を上(あげ)、

「取逃(とりにが)しける口おしさよ。」

と訇(ののし)りながら、風のふくよふに、出(いで)さりけり。

 旅人、からき命をたすかり、ほふほふ、都へ登りける。

 

[やぶちゃん注:「一(ひと)つ家(や)の鬼婆」(浅茅ヶ原(あさぢがはら)の鬼婆)の山深い木曾版で、あれは人気なく淋しい原とは言えど、現在の東京都台東区花川戸がロケーションであるのに対し、これは絶体絶命の深山(みやま)の逃げ場のない場所だけに文字通り、鬼気迫ってくる。しかも、鬼婆の謂う通りであるなら、彼女は独り者ではなくして、「人の首・手足」を煮込んだ「魔ゑん」(「魔緣」)「の食物(くひもの)」を大好物とする「夫」がいると言い、それが直に帰って来るというのだから、たまったもんではない。しかし、あまりに定番にハマり過ぎていて、話柄としてのオリジナルな怪異性は減衰してしまっている。

「ふみまよい」ママ。「踏み迷ひ」。

「野くれ山くれ」小石の多い野道や山道。また、野山で日が暮れてしまうこととも言う。両義ともに含んでいるととってよかろう。

「餓(ウヘ)」ママ。「ウヱ」が正しい。

「侘(わび)しきもの」粗末なもの。

「かしき」「炊ぎ」。「かしき」だと古形。「かしぎ」と読んでもよい。通常は飯を炊(た)くことだが、広く「火にかけて食い物を作る」「煮る」の意もある。

「てんしん」「點心」。ここは簡単な軽い食事の意。

「儲置(まうけおく)なり」調理なして供するために煮込んでいるのじゃて。

「つらつき」「面付き」。

「御佛のうしろへ」「助け玉へ」で、何故か、鬼婆は彼を見出せず、目出度く逃げおおせるというのは、仏力といことになろうが、これまたダメ押しでつまらぬ。]

 

2017/12/09

老媼茶話巻之六 一目坊

 

     一目坊

 

 最上の侍、辻源四郎といふもの、なやめる事ありて塔の澤の湯へまかりけるに、いづくより來(きた)る共(とも)知れず、六拾斗(ばかり)の僧、是も、ひとつに、湯入(いり)けるが、諸國にて、さまざま珎敷(めづらしき)物語をする間、源四郎、申(まうし)けるは、

「我等は最上のものにて候が、病氣にて是(これ)へ湯治致し、則(すなはち)、此湯の向ひの家に宿をかり、罷在(まかりあり)。折節、隙(ひま)の節、おとづれ、語り玉へ。」

といふ。

 僧、聞(きき)て、「忝(かたじけなく)候。夜さり、可參(まゐるべし)。」

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「我等は明曉(みやうげう)、最早、歸り申(まうす)にて候。われら住申(すみまうす)寺も、程近く候。前の谷川の水上へ登りはてゝ、杉のむら立(だち)の候。其杉原を二里斗(ばか)來(きた)り給へば「一目寺」と申(まうす)古寺の候。所がら、物ふり、殊(ことに)、靜(しづか)に淋敷(さびしく)、一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)ともなり申(まうす)べし。近々、おとづれ玉へ。」

とて、わかれける。

 四、五日ありて、源四郎、若黨を呼(よび)、

「日外(イツゾヤ)、我(わが)かたへ來りし僧の住(すむ)山寺、今日のつれづれに、たづねみばや。」

といふ。若黨、申(まうす)は、

「今日は、そらもうらゝかに候。思召立(おぼしめしたち)おわしませ。」

とて、主從、四、五人にて前の谷川の水上を尋登(たづねのぼ)れば、僧のおしゑし杉のむら立(だち)あり。

 それを、はるばると分行(わけゆけ)ば、實(げ)にも山陰に、崩れ、かたむきたるふる寺あり。さながら、人の住(すむ)とも見へず。

 源四郎、先達(さきだつ)て、若黨を遣(つかは)し、案内をいゝ入(いれ)けるに、十二、三の小(こ)かつしき、立出(たちいで)て、

「それより。」

といふ。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」

といふ。かつしきの曰、

「あるじの僧は、きり嶋が嶽參り候得ば、四、五日は歸り申まじ。」

と云(いふ)。

 若黨、かつしきを見るに、ひたひに、大きなる眼、壱ツ有(あり)。

 若黨、たまげ、歸り、源四郎に、このよしを語る。

 源四郎、不思義におもひ、急ぎ、寺へ行(ゆき)、客殿を見るに、一目の小僧共、四、五人、あつまり、人の首を取(とり)あつめ、

「壱。」

と、かぞへ、竹かご入るゝ。

 勝手へまはり見るに、面(おもて)赤き禿(かむろ)の一眼(ひとつめ)なるが、弐、三人、いろりをめぐり、人の首を、十四、五、火にくべ、あぶり居たるが、源四郎主從をみて、

「又、首數がふへたるよ。」

と、いふ。

 源四郎、大きに驚き、主從飛(とぶ)がごとく、急ぎ宿へ歸り、主(あるじ)を呼出(よびいだ)し、前々のことども、かたる。

 あるじ、聞(きき)て大(おほき)に驚き、

「それは大魔所にて候得ば、誰(たれ)も行(ゆく)人なく候。たまたま、道にふみ迷ひ、行至(ゆきいた)る人の、命たすかるは、なく候に、不思義の御命助り、御仕合(おしあはせ)にて候。先(まづ)、爰元(ここもと)を、はやく御立(おたち)候べし。」

と申しける間、源四郎、彌(いよいよ)肝をつぶし、早々、取急(とりいそ)ぎ、最上へ歸りける。

 

[やぶちゃん注:「最上」出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した新庄藩であろう。

「なやめる事」直ぐに命には関わらないものの、何らかの難治性疾患と思われる。

「塔の澤の湯」不詳。最上という起点地名と、現存しないと思われる温泉名では、ロケーション自体が判らぬ。ただ、本条を現代語訳しておられる山ン本眞樹氏のサイト「座敷浪人の壺蔵」の「一目寺」では、ここを『磐梯山の麓の塔の沢温泉』と訳しておられる。本「老媼茶話」のロケーションとしてはしっくりくるのだが、国土地理院の地図を拡大して見てもこの「塔の沢」も「塔の沢温泉」も見出せない。取り敢えず山ン本(恐らくは「稲生物怪録」のそれであろうから「さんもと」と読むものと思われる)氏のそれを採用させて戴こうと存ずる。同定証左を知っておられる方があれば、是非、御教授を乞う。

「夜さり」夜。「夜去り」で「去り」は時間が経過して「~が来る・~になる」の意の普通の動詞「さる」(去る・避る)の名詞化。私は中学高校時代を富山県高岡市伏木で過ごしたが、あちらの方言で「夜」のことを今も「よさり」と言う。

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「杉のむら立(だち)」杉の木が有意に固まって茂り生えている場所。

「一目寺」上手い手法だ。表題「一目坊」は確かに「ひとつめばう(ひとつめぼう)」と読む者は多かろうが、本文にこれが出て来ると、誰も初めっから「ひとつめじ」とは読むまい。そう読めば、主人公の源四郎も異様に思うであろうが、そんな雰囲気は全く出て来ないからである。されば我々もつい無意識に「いちもくじ」で読んでいるに違いない(題名のおどろおどろしさを、もう、忘れて、である)。それがさても、「そうか! 一つ目だ!」と膝を打った時にはこれ、既にして三坂の怪異の語りのマジックに搦め獲られてしまっているという寸法なのである。

一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)」詩歌俳諧などを一吟おひねりになる、その感懐の一つの手立てや素材。

「日外(イツゾヤ)」面白い当て訓である。

「思召立(おぼしめしたち)おわしませ」「『思い立ったが吉日』とも申しますれば、お遊びにお出で遊ばされませ。」。

「小(こ)かつしき」「かつしき」は「喝食」で現代仮名遣で「かっしき」。「かつ」は「唱える」の意。「しき」は「食」の唐音。狭義には、禅宗寺院に於いて食事を摂る際(規律では午前中に一度だけ)、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕をすること。また、その役に当たる未得度の者を指すが、後に禅宗に限らず、学問・仏道の修行のために寺に預けられて先の作業を務めた有髪(うはつ)の稚児(ちご)のこと。多くは僧の男色の相手とされた。ここはそれに「小」がついているから、幼童・年少の少年である。

「それより。」私はこれは後の若党の応答から見て、「どちらから?」或いは「どちらさまで?」という問いかけではないかと採る。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」底本は、この「辻源四郎」を地の文として前に出している。しかし、このシーンでは源四郎は離れた位置にいるのであるから、それは頗るおかしいことになる。されば、これは若党の台詞と採るべきである。則ち、「我らが主人、辻源四郎、和尚にお目見え申し上げんがため、参上仕った。」と言う伝言告知であると採る。

「きり嶋が嶽」これが磐梯山のピークにあればいいのだが、知らぬ。

「くべ」「燒(く)べる」。]

老媼茶話巻之六 彦作亡靈

 

     彦作亡靈

 

 出羽の國村山郡白岩は八千石酒井長門守、知行所也。

 白岩の名主喜太夫といふ者、百姓へ無理非道を度度(たびたび)申懸(まうしかける)ける間、彦作といふ百姓、直(ぢき)に目安(めやす)を添田八左衞門方へ差上(さしあげ)ける。喜太夫、是を聞(きき)、八左衞門方へ金銀を澤山にまひないける間、喜太夫、まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)、彦作は非公事(ヒクジ)に成、

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびやくしやう)の見せしめ。」

とて、彦作は萬松院河原の松原にて成敗(せいばひ)に逢(あひ)ける。

 このとき、彦作、けんぶつに向ひ申けるは、

「郡(こほり)奉行添田八左衞門、幷(ならび)に、喜太夫め。己(おのれ)、わが欲にふけり、上をかすめ、非を以(もつて)理(ことはり)となし、ほしいまゝに百姓に過役錢(くわやくせん)をかけ、取(とり)つぶす。我、是を見るに忍びす、惣百姓に代り、今、非命の死を請(うく)。各(おのおの)見玉へ、八左衞門・喜太夫兩人子孫迄、とりたやし、三年とは延(のぶ)まじき也。」

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

 半年程過(すぎ)て、八左衞門家に、彦作亡靈、晝も、折々、あらはれ出(いで)ける。

 祈願・祈念をなしけれ共、少(すこし)も印(しるし)なく、此故にか、八左衞門、亂心し、平兵衞坊といふ十七歳に成惣領、妹十三才になるを切殺(きりころ)し、其身も自害し果(はて)たり。亂心の所行とて、後(あと)、絶(たえ)たり。

 其頃、やき澤の百姓與四郎・孫三郎といふ者、萬松院河原へ畑打(はたうち)に行(ゆき)けるに、何方(いづかた)よりともなく、彦作、與四郎が側(そば)へ來(きた)る。

 與四郎、見て、驚き、

「彦作。そちはいかゞして、爰へ來(きた)るや。去年(こぞ)、此所にて御成敗に逢(あひ)、其怨念の、いまだ此地に留りて中有(ちゆうう)にさまよふものならん。」

 彦作、聞(きき)て、

「いかにも其通りなり。我、罪なくして刑に逢(あひ)ける。恨み、こつずひにとふり、その魂、此土に殘り、則(すなはち)、八左衞門をば子孫迄、取(とり)たやし、今、喜太夫が惡逆、司錄神(しろくじん)にうつたへ、是もゆるしを得て、宿報をとぐる折(をり)を待(まつ)といへども、喜太夫、いまだ運命のつゞく宿善(シユクゼン)有(あり)て、我、志を達せず。來春、彼等三人、はりつけに行るゝ陰惡(いんあく)、有(あり)。是、我(わが)宿意をとぐる折(をり)也。」

といふ。

 與四郎、聞(きき)て、

「魂といふ事は有(ある)事か、無(なき)事か。地獄極樂は、いかゞ。」

と云(いふ)。

 彦作、聞て、

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故、善惡の決談(けつだん)なし。御成敗に行はるゝ首の場にのぞみ、魂(たましひ)、骸(からだ)を放れ出(いで)、飛(とび)て、我身、松の梢にありて下を見下(みおろ)すに、我(わが)骸(からだ)を切(きり)、罪(つみ)する人、有(あり)て、首をごく門に懸(かけ)て有(あり)。是を見るといへども、我(わが)魂に、少しも、いたみなし。只、煙雲霞(けぶりくもかすみ)のごとく、きへては、また、結び、こりては、また、散ず。爰に魂ありといへども、すべて、きかつのうれいなく、寒暑のくるしみもなく、妻子をかへり見べきこゝろも、なし。只、わが恨める心、天より高く、地よりもあつし。最早、歸り去(さる)ぞ。」

といふ、とおもへば、一たいの陰火となりて、煙、ぜんぜんに消(きえ)て、さりける。

 與四郎も孫三郎も不思義の事に思ひながら、人にも語らずしてありけるが、其(その)明(あく)る春、喜太夫父子三人、同村の與次右衞門といふものに非道を申懸(まうしかけ)、是、又、公事に成(なる)。

 此時に至り、前々の惡事、委く顯(あらは)れ、喜太夫は最上の長町河原といふ所にて、すべて、三拾人、はりつけに懸る、その壱人なり。子ども弐人、成敗になり、家迄、公義へ召上(めしあげ)られける間、妻子、乞食となり、ちまたに袖をひろげ、道に倒れ、餓死(うゑじにし)けるとなり。

 

[やぶちゃん注:「出羽の國村山郡白岩」出羽国村山郡寒河江荘白岩は現在の山形県寒河江(さがえ)市白岩(しらいわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。後の石高から見ても、ここを中心とした広域と考えてよかろう。戦国時代より白岩城があり、江戸初期、短期に白岩藩(領)が置かれた。ウィキの「白岩城」によれば、『白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江広元宗廟吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。斯波兼頼との争いで父・大江元政を失った時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男・溝延茂信の子・政広を配した』。『白岩氏は』四代の『白岩満教を溝延氏から迎えると、両者は関係を強めながら』、『次第に自立性を高め』、『領主権を拡大するが、戦国時代末期』、『寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り』、『松根光広を養子として迎えた』が、『慶長出羽合戦では庄内から六十里越街道を経て侵入した下秀久に攻め落とされた』。元和八(一六二二)年に『最上氏が改易になると、白岩には旗本・酒井忠重(庄内藩主・酒井忠勝の弟)が入った。しかし忠重は苛政を布き』、寛永一〇(一六三三)年『には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった(白岩一揆)。これが原因となり』、寛永一五(一六三八)年『に酒井忠重は改易され』、『その後、白岩領は幕府領となり、代官の支配下に置かれた』とある。さすれば、本話柄はこの「白岩一揆」のプレ段階と考えて良かろうから、作品内時制は元和八(一六二二)年より後、寛永一〇(一六三三)年よりも前となり、凡そその閉区間の約十年の間に絞られることとなる。なお、本書の成立は寛保二(一七四二)年であるから、百年以上も前の古い話となる。

「八千石酒井長門守」酒井忠重(慶長三(一五九八)年~寛文六(一六六六)年)。出羽国村山郡白岩領八千石領主で旗本寄合。酒井家次三男で祖父酒井忠次(徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる家康第一功臣。但し、死後養子)の養子。ウィキの「酒井忠重」によれば、元和元(一六一五)年に『家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出され』、二年後には『従五位下長門守に叙任』、先に述べた通り、元和八年、出羽国村山郡白岩の領主(当初は四千石)となった(後に八千石に加増)。しかし、寛永十年、領内に於いて一千人余りに及ぶ餓死者を出すなどの苛政を強いたことから、『白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴え』出(白岩一揆)、四年後の寛永十五年、『江戸奉行所の判決により』、『白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられ』た。さらに寛永一九(一六四二)年には、『忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚』、十年後の承応元(一六五二)年には、『忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かった』ことに腹を立て、『幕府に提訴』、忠勝の長男で新藩主となった酒井忠当(ただまさ)から金二『万両を贈られて義絶され』てしまう。それでも懲りないこの男は、寛文五(一六六五)年、『息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり』、またしても『改易され』、その翌年の九月、『夜中、何者かに襲われて死亡』してしまったという。享年六十九。この救いようのない愚か者にこそ、彦作の亡霊の怨念は向かっていたものかも知れないな

「目安(めやす)」訴状。

「添田八左衞門」不詳。

「まひないける」「賂(まひない)」し「ける」。

「まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)」内容は明らかに喜太夫の負け(敗訴)が明らかな案件であったが、賄賂を受けた添田は悪しき「忖度」を喜太夫に有利に加え、喜太夫側の弁解には十分に正当な道理があるという裁定が下され。

「彦作は非公事(ヒクジ)に成」彦作の公訴は正当な訴えとして認められなかったばかりか。

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびゃくしやう)の見せしめ。」「お上(御主君)を軽んじて、かくも分不相応な言いがかりを公訴するは、不届き千万! 領内の総ての百姓らの見せしめじゃ!!」。

「萬松院河原」不詳。但し、一般にこの戦国明けのこの時期の刑場は藩庁(城)からそう遠くない位置にあったと考えてよく、白岩城は寒河江川の左岸近くにあったので、附近(グーグル・マップ・データ。この中央付近が白岩城跡と推定される)の寒河江川の河原ではないかとも考えたが、最後の出る刑場「最上の長町河原」は名前から明らかにずっと東の最上川の河原であろうから、これも寒河江川のもっと下流(東)かも知れない。

「けんぶつ」「見物」。

「郡奉行」(こおりぶぎょう)は室町中期以降に現れた武家の役職で、領国を数区域に分け、農政を担当した。江戸時代には諸藩では一郡に一人の郡奉行を配置し、郷目付・代官・手代などの部下を配して年貢の収納・訴訟・農民統制などに当らせた。郡奉行自身が現地で実務業務を行うこともあったが、通常は城下の郡役所で事務を司り、現地では代官などの属吏が実際の業務を行なった。

「かすめ」「掠め」。この場合は「騙(だま)す・欺(あざむ)く」の意。

「過役錢(くわやくせん)」ここは過剰な年貢。

「非命」天命ではなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。

「とりたやし」憑(と)りついて絶やし。

「三年とは延(のぶ)まじき也」「きゃつらに祟って亡ぼすには、おう! 三年とはかかるまいぞ!」。

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

「やき澤」不詳。

「中有(ちゆうう)」既出既注であるが、再掲しておく。仏語で四有(しう)の一つ(後述)。死有(しう)から次の生有(せいう)までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までを指す。「中陰」とも言う。「四有」の「有」は梵語の漢訳で「生存」「存在」の意で、「衆生の存在の在り方」を期間別に四種に分類したもので、死んでから次の生を受けるまでの期間を「中有」、それぞれの世界に生を受ける瞬間を意味するのが「生有」、その新たな生を受けてから死ぬまでの一生の期間を「本有」、その生あるものが死ぬ瞬間を意味するのが「死有」である。

「こつずひにとふり」「骨髓に通(とほ)り」。

「此土」仏教的な謂いならこの世で「穢土」で「ど」であるが、彼は百姓なので私は「つち」と訓じたい。

「司錄神(しろくじん)」地獄の裁判に於ける「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「はりつけ」「磔」。

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故」こうした恨みを持った魂は例外的に四十九日に拘束されないのである。

「善惡の決談(けつだん)なし」冥府に於ける十王による現世での善悪の裁定自体を全く受けていない。

「ごく門」「獄門」。

「きかつのうれいなく」「飢渇の憂ひ無く」。

「あつし」「厚し」。

「一たい」「一體」。一つの分離出来ない塊り。

「ぜんぜんに」「漸漸に」次第次第に。だんだんに。

「其(その)明(あく)る春」二人の農夫が彦作の亡霊を見たのは、彦作の処刑から半年後、でその翌年の春というのであるから、最大長でも一年半余り二年未満で、彦作の呪った三年未満という言葉もここで成就している。

「委く」「くはしく」ではおかしい。底本ではこの「委」の右に編者による『*』が附されてある(衍字・誤字等と判断したことを示す。但し、示すだけで内容は書かれていない)から、私はこれは草書の判読で誤り易い「悉」ではないかと思う。「ことごとく」はここの決めの言葉として相応しいと感ずる。

「最上の長町河原」不詳。寒河江川は東流して最上川に入る。]

老媼茶話巻之六 狐

 

    

 

 會津柳原(やなぎはら)といふ處に、又吉といふ百姓、有(あり)。

 或秋、七月初(はじめ)、深川といふ里へ、なす調(ととの)へに參りける折、天神のまへ、「ぼうし沼」の端に、いかにも、やせつかれたるきつね、北より南へ行(ゆき)けるを、又吉、見て、石を取(とり)、狐に打付(うちつく)る。左の足にあたり、漸(やうやう)、足を引(ひき)づり引づり、逃失(にげうせ)たり。

 又吉、家に歸り、熱病をなやみ、さまざまのたわごとを、いふ。

「我は晝の狐也。又吉に、我、少しも仇(あだ)なさず。何故に礫(つぶて)を抛(なげ)て我を痛めける。我々、遊行(ゆぎやう)せるにあらず、不叶(かなはぬ)用有(あり)て、日光中善寺の稻荷より、北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神へ使者に行者(ゆくもの)者也。然るに、道遠くして甚(はなはだ)つかれ、くるしむ。また吉に左のあしを痛められ、步行(ほかう)、成(なり)難し。此仇に、則(すなはち)、此者の命を、とるべし。」

といふ。

 妻子、驚き悲しみ、御子(みこ)・山伏をたのみ、樣々、侘言(わびごと)をする。狐が曰(いはく)、

「人間の命數(めいすう)は天元(てんげん)の數、有(あり)。命を取るべしといふは、我がたはむれにて、汝等を驚かす爲也。我にかぎらず、狐の人に取付(とりつき)なやまさんとする時は、先(まづ)、我(わが)骸(からだ)を、深き山谷影(やまたにかげ)が巖穴のうちへかくし置(おき)、其後(そののち)、魂(たましひ)斗(ばかり)、骸をはなれ、人に取付(とりつく)もの也。此故に、もし其骸を鷲・熊鷹、或は、人に見付(みつけ)られ、其からだをやぶり損ぜらるゝ時は、二度、魂の立歸(たちかへる)べき所なく、これに依(よつ)て、是非なく、一生、人體を離(はなれ)ず、魂、人の骨肉の内に住む。我(わが)骸(からだ)、かりに、天神の宮、緣の下にかくし置(おき)、たましゐ、又吉に取付(とりつき)たり。骸を人に見付られざる先に、明曉(みやうげう)、もどるべし。然(しかれ)ども、先(サキ)にいふ通り、又吉に足をいためられ、步行、不自由なり。七日の内、又吉がたましゐをかり、夫(それ)を供につれて、歸るべし。明曉、餞別の壽をなし、赤の飯かしぎ、赤鰯(あかいわし)・御酒をそなへ、我を送るべし。又吉がからだを靜成(しづかなる)所に置(おき)、人にみせ、おどろかしむべからず。必(かならず)、七日目には元の又吉と成(なる)。替(かは)る事、なかるべし。」

と、いふ。

 そのあかつき、家内の者ども、身を淸め、火を改(あらため)、赤飯をふかし、赤鰯・御神酒(おみき)をそなへ、狐の旅立(タビだち)を祝ひける。

 扨、又吉がからだをば、屛風を立𢌞(たてまは)し、靜成(しづかなる)所に置(おき)けるに、七日目の曉、又吉、起上(おきあが)り、常のごとく、酒食をなし、替(かは)る事なし。

 妻子、悦び、此間の事を尋聞(たづねきく)に、少も覺(おぼえ)ず。日光の道筋、中善寺地景、今市(いまいち)の樣子、事こまかに語るに、ちがひなし。今市の茶屋にて、小刀にて右の手のゆび切(きり)たると覺しが、ゆびに疵あり。足にまめなど多く出來、足にわらんじすれの跡、あり。又吉は、終(つゐ)に其前、日光へ行(ゆき)しこと、なし。關山(せきやま)村の百姓彦三郎といふもの、又吉に逢ひ、柳原へ狀を賴みける。其狀も、又吉が袖の内より、出(いで)たり。不思義のこと共(ども)なり。

 加藤明成の侍、川井勘十郎といふ者、御山近邊鳥殺生(としせつしやう)に出る。散々不勝負にて、歸りける道、中野の十文字はらの藪影に、古狐、前後も不知(しらず)ねて居たりける。

 勘十郎、見付(みつけ)、鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに、きつねの耳元にて鐵炮を打放(うちはな)す。

 狐思ひかけざる事にて、大(おほい)に肝をつぶし、一間斗(ばかり)、飛上(とびあが)り、倒れふためき、さけびないて、跡、ふり返り、ふり返り、見て、淨土の館三五倫(リン)のかたへ、はしり逃(にげ)たり。

 勘十郎家に歸り、狐のおどろきたる事、妻子にもの語りし、酒茶に夜を更(ふか)し、いねたり。

 其夜、八時分、門(かど)、けわしくたゝき、高提灯・箱提灯おびたゞしく、灯立(ともしたて)、

「月番(つきばん)・添番(そへばん)の物頭目付(ものがしらめつけ)誰々。」

と名乘(なのり)、

「上意によつて罷越(まかりこし)候。早々玄關ひらき候得。」

と言入(いひい)るゝ。

 勘十郎家内、騷動して、先(まづ)、急ぎ、勘十郎、袴を着し、出向ひ、玄關をひらき、座敷へ招じ入(いれ)、何(いづ)れも座敷へはいり、中にも其時の目付役伊東權平、添番の目付片山彌平次、兩人、進み出(いで)、申(まうす)樣、

「其方儀、今(こん)晝(ひる)、御鷹野の場所と云(いふ)御城近くと申(まうす)傍(かた)、遠慮有(ある)べき處、みだりに鐵砲を打放(うちはなち)、上を輕(かろ)しめ、法外の至り。此段、殿樣、以の外、御腹立(おはらだち)にて、早速、腹切らせ候樣にと被仰付(おほせつけられ)、我々を始(はじめ)、物頭誰々、罷向(まかりむかひ)候。早々切腹致すべし。」

と申渡(まうしわた)す間(あひだ)、勘十郎、大きに驚き、此節、是非を申上(まうしがぐ)るに不及(およばず)、

「行水(ぎやうずい)仕候内(つかまつりさふらううち)、御暇被下(おひまくだされ)候。」

樣に申(まうし)けれ共(ども)、ゆるされず。

 片山彌平次、

「かいしやく、某(それがし)に被仰付(おほせつけられ)たり。」

とて、羽織、拔(ぬき)すて、袴のもゝ立(だち)を取(とり)、勘十郎が後へ𢌞り、既に十分あやうき折節、勘十郎、家に、しゝ・狼まで能(よく)取(とる)名犬、弐疋有(あり)けるが、無二無三に表より座敷へ缺込(かけこみ)、先(まづ)、彌平次が首骨、くらひ懸り、首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)、猶、殘りのもの共(ども)へ、吠懸(ほえかか)る。今まで、物頭・目付役とて、りつぱに見へし士共(ども)、大きにあわて騷ぎ、則(すなはち)、狐と成(なり)て、十方(とほう)を失ひ、出方(でかた)に迷ひ、十字八點に逃𢌞(にげまは)りけるを、勘十郎も、家内男女も、てん手(で)に、棒、引提(ひつさげ)、打殺(うちころ)す。

 弐疋の犬、勇み進んで、喰殺(くひころ)し、かみ殺す間、あまたの狐、不殘(のこらず)打殺し、それより表出(いで)、門をひらき、二疋の犬を、足輕共に、けしかけける。

 足輕にばけし狐共、大きにさわぎ、うろたへ、右往左往に逃げ散(ちり)、壱疋もなくなり、狐、十二、三、打殺し、是にてこそ晝おどろかされしきつねの所爲(しよゐ)成(なり)けると知られし。

 

[やぶちゃん注:「會津柳原(やなぎはら)」現在の福島県会津若松市柳原町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「なす調(ととの)へに」茄子の苗木を買いに、という意で採っておく。

『天神のまへ、「ぼうし沼」』先の柳原町のグーグル・マップ・データを拡大すると、中央に菅原神社(「天神」)が現存し、その東北ごく直近に「帽子丸の墓」があるのが判るこの辺りに「帽子沼」があった(底本でも右に編者による添漢字で『帽子』とある)。石田明夫氏のサイト「会津の城」の「義経伝説と会津」に『③皆鶴姫の碑 会津若松市河東町指定有形文化財』とあって、そこに、『源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが』、『許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は』寛政五(一七九三)年に『会津藩で建てられた。下居合には、皆鶴姫が義経の名を呼んだ「よばる橋」というのがある』とあり、そうした伝承を伝えた沼であったことが判る。

「遊行(ゆぎやう)せるにあらず」漫然と遊び歩いていたのではないのだ!

「不叶(かなはぬ)」おろそかに出来ない。しないでは済まされぬ。

「日光中善寺の稻荷」「中善寺」はママ。中禅寺湖湖畔の栃木県日光市中宮祠にある二荒山(ふたら)神社内の二荒山神社中宮祠境内にある中宮祠稲荷神社のことか。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神」恐らくは、福島県喜多方市慶徳町豊岡不動前に現存する慶徳稲荷神社であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは少なくとも現在、この神社では田植え神事が行われているが、これはこの行事の分布上の日本の北限だそうである。狐だから、呼称の「卷尾」は納得。

「御子(みこ)」巫女。

「天元」万物成育の源である天の元気によって予め定められたものの謂い。

「骸(からだ)」死骸ではなく、魂(たましいが抜けた「骸(むくろ)」の謂い。

「山谷影(やまたにかげ)」「山谷蔭」。

「もどるべし」戻ろうと考えている。

「赤鰯」糠或いは塩漬け又は干して、脂分が酸化して赤茶けた色になった鰯のこと。

「今市」栃木県の旧今市市(いまいちし)。現在は日光市の一部。日光市役所本庁舎は旧今市市役所の建物を使用している。参照したウィキの「今市市」によれば、『江戸時代には、日光街道や会津西街道、日光例幣使街道今市宿の宿場町として繁栄した。現在も、日光へ至る鉄道は今市を経由する』とある。

「わらんじすれ」「草鞋摺れ」。

「關山村」不詳。孰れにせよ、日光近辺でなくてはなるまい。

「加藤明成」腐るほど、既出既注(初出の条にリンクしておいた)。

「川井勘十郎」不詳。

「御山」現在の会津若松市門田町大字御山附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。。

「散々不勝負にて」全く狩り(鳥撃ち)は不猟にして。

「中野の十文字はら」前の現在の門田町大字御山の西に門田町大字中野という地名を確認できる。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南二キロメートルほどで現地域に至るから、ここで鉄砲を撃てば、城に聴こえはするように思われる。

「藪影」「藪蔭」。

「鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに」かく言っている以上、ここで紙玉を詰めたのは、あくまで火縄銃の銃身、筒の中を掃除するためなのであろう。何もそれを狐に中てたわけではない。

「一間」一メートル八十二センチ弱。

「淨土の館三五倫(リン)」底本、右に編者の添字で『允殿』とあるから、既出既注の允殿館(じょうどのだて)。現在の福島県会津若松市に所在した城館で、中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の門田町大字中野の北直近で、より鶴ヶ城に近い。「倫」は「輪」の誤りで、恐らくはそこに古い三基の五輪塔が立っていたのではあるまいか。

「八時分」午前二時頃。

「けわしくたゝき」「險しく叩き」。激しく敲いて開門を促すこと。

「高提灯」高張提灯(たかはりちょうちん)。大形の棗(なつめ)形をした提灯で、先に上下二本の腕木を持った長竿(ながざお)の先に取り付け、その口輪・底輪を腕木にとめて高く掲げた。承応・明暦(一六五二年~一六五八年)頃になって現れたもので、初期は武家が用いたが、後には広く商家や遊廓などでも使い、一般にはここに出るような「高提灯」或いは単に「高張」と呼ぶ。提灯には定紋や屋号などを書き、専ら、目印として利用され、社寺・役所の門前、商家の店頭や祭礼・葬送の行列などの先頭に高く掲げ、目印として利用された。現在でも社寺の祭礼や葬礼の際に使われることが多い。

「箱提灯」浅い香箱のような丸形の木製の箱と紙の蛇腹本体及び丸い底蓋から成る円筒型の大形提灯。畳むと、全部が上下の木枠(箱)の中に収まるようになっている。蛇腹に家紋や屋号などを入れ、各種礼式の際、行列に加わったり、婚礼の門に掛けられたりした。

「月番」月番交代制の当該月の勤務。

「添番」先の月番役の補助役。

「物頭目付」弓組・鉄砲組などを統率する長を「物頭」(ものがしら)と称し、「目付」は諸藩では藩内諸士の監督のため設置された監察役を指すが、「物頭」自体が同時にそうした藩士の集団をも指し、後で二人の人物は孰れも「目付」と同等格で称しているから、ここは「物頭」と「目付」ではなく、藩内の藩士を統括する実務担当の事実上の監察役である「物頭目付」という一語で採る。

「伊東權平」不詳。

「片山彌平次」不詳。

「御鷹野」城主が鷹狩をするための禁足地。

「傍(かた)」底本は「旁」。その右に打たれた編者の添漢字に代えた。私の推定訓。先に勘十郎が狐を脅した場所が、その傍ら、ごく近くであったということ。

「行水(ぎやうずい)」死に面しての潔斎のため。

「かいしやく」「介錯」。

「袴のもゝ立(だち)を取(とり)」「袴(はかま)の股立ちを取り」既出既注であるが、再掲しておく。「腿立ち」は袴の左右両脇の開きの縫い止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「しゝ」「猪」。

「缺込(かけこみ)」「驅(か)け込み」。

「首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)」和犬であるから、そんなに巨体の犬とも思われないので、嚙みかかった瞬間、化けた狐の本来のサイズぐらいまで弥平次の姿が縮んだシチュエーションを想起すべきか。狐の姿に戻ってしまうより、その方が面白い

「十方(とほう)を失ひ」途方にくれ。

「出方(でかた)に迷ひ」逃げ出る方向に惑い。

「十字八點」東西南北に、その中間の十字方向を加えた八方の謂いで、「四方八方」と同義と思われる。]

2017/12/05

老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法

 

     飯綱(イヅナ)の法

 

 狐は、疑(うたがひ)多き、けだ物なり。能(よく)化(ばけ)て、人をまどわす。人、常に知る處也。聲、患(ウリヤウ)る時は、兒(チゴ)の鳴(なく)がごとく、聲、よろこぶ時は、壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世、本邦(ホンポウ)に狐を仕(つか)ふ者、有。呼(よび)て飯綱(イヅナ)の法といへり。其法、先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り、野山に遊び、狐の穴居をもとめ、孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、

「汝が今孕む所の狐、産(うまる)れば、我子とせん。必(かならず)、我に得させよ。」

と。

 それより、日夜にしのんで、食事をはこびて、母狐、子を産(うむ)に及び、彌(いよいよ)勤(つとめ)て、是を養ふ。

 子、すでに長じて、母狐、子を携さへ、術者の元に來り、

「子に名を付(つけ)て、今日よりして、如影(かげのごとく)、隨身(みにしたがひ)、心の儘にせよ。」

と云(いふ)。

 術者、兒狐に名を付(つく)る。母狐、悦び、拜して、子をつれて、去る。

 是よりして後、術者、事あれば、潛然(ヒソカ)に狐の名を呼(よぶ)に、狐、形を隱し、來りて人の密事を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者、狐のおしゑのまゝに妙を談ずる間(あひだ)、則(すなはち)、人、

「神(しん)に通ぜり。」

と思へり。

 若(もし)、狐を仕ふもの、少(すこし)にても色欲・とんよくにふける心有(ある)時は、此術、行ふ事、あたはず、狐も又、弐度來らず、と言へり。

 近所、奧州筋の國主に仕へける士に、能(よく)飯綱の法、修せる人、有。

 此人、江戸登り候折、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの、立出(たちいで)、申(まうし)けるは、

「我、壱人の娘、有。近きころ、妖狐の爲に惱まされ、半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘,昨日の曉より、たわ言を申候。『明日何時、其國の、たれがしと申(まうす)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)、宿をかすべからず。此侍、此宿に留(とどま)る時は、我、命、助(たすか)り難し。いかゞせん』と申(まうし)て身もだへ仕(つかまつり)、奧深く隱れ、ふるへ、わなゝき、罷在候。然るに、娘、申候に違いひなく、國所も御苗字も、ひとしき御士樣、御宿召(おんやどめされ)候まゝ、あまりふしぎにぞんじ、御供の衆に承(うけたまはり)候へば、かゝる怪敷(あやしき)病ひ、能(よく)御直しあそばし候由、承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども、老人二人が心底、哀み思召(おぼしめし)、娘が命、御助被下候得(おたすけくだされさふらえ)。」

と、手を合(あはせ)、地に伏(ふし)、淚を流し、賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、

「其娘、爰(ここ)へつれ來(きた)れ。先(まづ)、對面し、樣子を見るべし。」

と云。

 夫婦の者、悦んで、

「出間數(いづまじ)。」

と、泣悲(なきかな)しむ娘を、無理に引立(ひきたて)、來(きた)る。

 其年、十弐、三斗(ばか)成(なる)きれい成(なる)娘なるが、汗を流し、わなゝいて、士の前に、ひれふし、居たり。

 士、娘をつくづくと見て、

「汝、奧州二本松、中山の三郎狐にては、なきか。何の恨(うらみ)ありて、いとけなき者に取付(とりつき)なやまし、くるしむる。己(ヲノレ)、速(スミヤカ)にさらずんば、只今、命をとるべし。早々に去れ。」

と、いへども、娘、答へず、二、三度に及んでも返事、せず、且て、ふくせるけしき、なし。

 侍、怒(いかり)て、拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。

 あるじ夫婦の者、大きに動轉し、

「是は、いか成(なる)ことを、なし給ふぞ。」

と、あわてさわぐ。

 士の曰、

「驚(おどろく)事、なかれ。此(この)曉は、必(かならず)、其(その)正體を知るべし。」

とて、娘が死骸にふすまをかぶせ、屛風を以(もつて)、是を、かこふ。

 あるじ夫婦のものは、娘の死骸を守り、終夜、まどろまず。

 曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐、弐に切られて、ふすまの下に死居(しにゐ)たり。

 夫婦、悦び、娘を尋みれば、奧深き處に、心よく眠居(ねむりゐ)たり。

 引起(ひきおこし)、よく見るに、何の恙(つつが)もなく、日を經て、元のごとく成りしと、いへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。

 或時、友、相集(あひあつま)りて、酒、半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門、あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見、語りけるは、

「昨夕の雨に、銀河(ギンガ)、水、增して、桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟、浮木(うきき)に乘りて、すなどりを、なす。われも行(ゆき)て、天の川より、魚をすくふて歸り、おのおのを、もてなすべし。」

と云(いひ)て、笠をかぶり、網を提げ、はけごを腰に付(つけ)、わらんじをはいて、天へ、のぼる。

 暫(しばらく)有(あり)て、又、空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより、大魚、數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)、料理して、皆皆へ、ふるまひけり。

 是は其座に有(ある)人の、ものがたりなり。

 又、寛文拾年の夏、ある國へ、現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士といふ、幻術者、來(きた)り、樣々の不思義をなし、諸人をまよはす。

 其國主、是を聞召(きこしめし)、

「左樣の者、國にあれば、諸人、亂を發すの元也。」

とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申けるは、

「我等、只今、最期に及(および)候。仕殘したる術一候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々、鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣もなし。少し、繩を御ゆるし候得。」

と、いふ。

 警固の者ども、聞(きき)て、

「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき。」

とて、少し、なわをゆるめければ、未來居士、則(すなはち)、なわをぬけ、壹の鼠となり、はり付(つけ)柱の橫木あがり、うづくまり居たり。

 現世居士、鳶と成り、虛空に飛(とび)あがり、羽をかへし、空に舞ふ。暫く有(あり)て落懸(おちかか)り、彼(かの)鼠をさらひ、行方知らず成(なり)たり。

 警固のもの、大きに驚き、爰かしこ、尋(たづね)けれども、なわは、しばりし儘に殘り、身斗(ばかり)ぬけたり。

 其刑罪の場へ出(いで)し固(カタメ)の役人・足輕迄、いましめを蒙りたりと、いへり。

 かゝる怪敷(あやしき)者、ゆるがせにすべからず。必(かならず)、急に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず、何(なんの)獸(けもの)の血にても、振(ふり)そゝぎ、或は糞水(くそみづ)をそゝぎ懸(かく)れば、妖術、忽(たちまち)、滅して、魔法幻術、かつて行はれず。また、鐵砲を打(うち)はなてば、其法、破(やぶ)ると、いへり。是、古人の祕法也。

 またいつの頃にや有けん、武州川越の御城主、秋元但馬守殿領分、三の丁と云處行脚の僧壱人來り、宿をかりけるに、あるじ、けんどん成る者にて、宿をかさゞりけり。

 僧、ひたすらに歎き、

「日はくるゝ、いたく草臥(くたびれ)、一足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒の下なりと御かし候へ。夜、明(あか)ば、早々、出行可申(いでゆきまうすべし)。」

と云。

 主(アルジ)、是非なく、しふしぶ立て戸を開き、態(わざ)と灯をも立(たて)ず。

 坊主、内へ入(いり)、水を求(もとめ)、手足を洗ひ、たばこを呑(のみ)、休息し、

「灯は、なく候哉(や)。」

と、いふ。

「是、なし。」

と、いふ。

 其時、坊主、左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五のゆびを火にもやし、灯となし、目を張(はり)、こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事、ひぢまで也。

 其後、鼻をしかめ、口をあき、くさめをすれば、長(たけ)二、三寸斗(ばかり)の人形共、弐、三百、吐出(はきいだ)す。

 此(この)人形共、立上(たちあが)り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)、苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)、籾を蒔(まき)、靑田となし、穗に出(いで)てあからむを、人形共、鎌を取(とり)、大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ、數升の米と、なしたり。

 其後、坊主、人形共をかき集(あつめ)、大口をあき、一のみに飮納(のみをさめ)、

「鍋來(きた)れ、鍋來れ。」

と呼(よぶ)に、庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋、おのれとおどりて、坊主が前に來りければ、坊主、ふたを取(とり)、米・水を鍋に入(いれ)、左右の足を踏(ふみ)のべ、いろりの緣(フチ)へ當て、傍(カタハラ)に有(あり)ける大なたを以て、膝、節より打碎(うちくだ)き、打碎き、薪(たきぎ)となし、火にくべて、程なく、飯を焚納(たきをさ)め、數升の米、不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口、吞(のみ)、いろりに向ひ、吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)、いろり、泥水と成り、蓮の葉浮び出(いで)て、蓮の花、一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)、集り、かまびすしく泣(なき)さわぐ。

 あるじ、みて、大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て、若き者共を呼集(よびあつ)め、件(くだん)の事共を語りければ、聞(きく)者ども、

「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、てん手(で)に棒・まさかりを取持(とりもち)て、くつ強(きやう)の若男、十四、五人斗(ばかり)、家の内へ押入(おしいり)、見る。

 坊主、ゆたかに伏(ふし)て、いびきの音、高し。

「しすましたり。」

と、坊主が伏たる跡先を取(とり)かこみ、手足をとらへ、頭を強く押(おさ)へからめ、是をとらへんとするに、坊主、目を覺し、押へける手の下より、

「ふつ。」

と拔出(ぬけいで)る。

 是をみて、てん手に棒をふり上(あげ)、たゝき伏せんとするに、かげろふ・いなづまのごとく、飛𢌞(とびまは)り、手にたまらず、片原(かたはら)に有(あり)ける大きなる德利の内へ飛入(とびいり)たり。

「取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、この德利をとり上(あげ)るに、おもくして、あがらず、德利、おのれと、こけまわる。

「さらば。打碎(うちくだけ)。」

と、棒・まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より、黑煙(くろけぶ)り吹出(ふきいだ)し、德利の中、鳴(なき)はためき、終(つゐ)に二にわれたり。

 其ひゞき、大雷のごとし。

 十四、五人の者そも、氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに、倒れ、ふす。

 このさわぎの内に、坊主は、いづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形もなく、失(うせ)けり、となり。

 昔、松永彈正久秀、永祿の頃、多門の城にありし時、果心(クハシン)居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。

 

[やぶちゃん注:「飯綱(イヅナ)の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐」によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱) Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「疑(うたがひ)多き」(民俗学的な意味で)妖しい魔性部分の多い。

「聲、患(ウリヤウ)る時は」何か思い通りにならなかったり、悲しかったり、或いは心身を病んでいる時には。

『白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)』白居易の詩「古冢狐(こちようこ(こちょうこ))」(「古塚の狐」の意)冒頭の二句(「古冢狐妖且老 化爲婦人顏色好」)と途中の一句(見者十人八九迷)。サイト「龍神楊貴妃伝」の『白居易の「任氏行」・「古冢狐」』で原詩と訓読文及び訳が読める。

「飯綱(イヅナ)の法」標題では実は底本は「イツナ」なのであるが、ここは表記通り、「イヅナ」と濁点がある。それで統一した。

「けつさい」「潔齋」。

「遊び」逍遙しつつ探索し。

「子に名を付(つけ)て」底本はこの文を地の文としているが、後と呼応しないので従えない。母狐の台詞とすべきである。

「とんよく」「貪欲」。

「小金井の宿」「奥州筋」とあるから、これは現在の栃木県下野市小金井にあった旧小金井宿である。日光街道及び奥州街道に設けられた下野国の宿場。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧州二本松」現在の福島県二本松市内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中山の三郎狐」この「中山」は同二本松市渋川中山か(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「ふくせる」「服せる」。命令に従う。

「ふすま」「衾」。体の上に掛ける寝具。木綿・麻などで縫い、長方形或いは衣服同様に袖や襟があるものもある。現在の「掛け布団」の原型。

「奧深き處」屋敷内の、であろう。

「猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)」不詳。読みは幾つかの実名例から推定した。

「桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟」室町中期の応永三〇(一四二三)年頃に成立した一条兼良著の有職故実書「公事根源(くじこんげん)」の七月七日の七夕を語った条に、

   *

おほよそ、今日は牽牛(ケンギウ)織女(シヨクジヨ)二つの星の相遭ふ夜なり。鳥鵲の天の川に來たりて、翅をのべ、橋となして、織女をわたすよし、「准南子」と申す書に見えたり。又、「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、『七月七日に、織女、河を渉る事あり』。弟、問ひて、『なにしに渡るぞ』といひければ、『織女、しばらく、牽牛に詣づ』と答へき。是れを「織女牽牛の嫁 (トツ) ぐ夜となり」と、世の人申し傳へたるなり。

   *

とある。「續齋諧記」は梁の呉均によって書かれた志怪小説集で、これは仙人になって天界へ行ったとされる兄弟である(以上は、サイト「オリガミオドットコム」のこちらのページ他を参考にした)。「桂陽」は湖南省郴州(とんしゅう)市桂陽県か(ここ(グーグル・マップ・データ))。仙人だから天の川で漁が出来るわけである。

「浮木(うきき)に乘りて」浮いた流木である。考えて見れば、天の川に舟があったのでは、牽牛織女伝説に都合が悪いと、思わず、私は膝を打ったものである。

「すなどり」「漁る」。

「はけご」「佩籠」。腰に着けて用いる竹や藁で編んだ籠。ここは魚籠(びく)である。

「わらんじ」「草鞋」。

「寛文拾年」一六七〇年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士」不詳。トンデモない自称で、見るからに、妖しい。

「はり付柱」「磔柱」。

「急に殺すべし」「急に」は「つとに」「すぐに」などと当て読みしたい。

「牛馬鷄犬」総て音読みでよい。

「何(なんの)獸(けもの)」底本は『なにじゆう』とルビするが(底本のルビは現代仮名遣であるから正確には「なにじゅう」である)、従えなかった。

「糞水(くそみづ)」ここも底本は『ふんすい』だが、従えなかった。糞と尿(すばり)。この辺りの汚穢を以って幻術や魔術を破る方法は、民俗社会では汎世界的にかなりメジャーなものである。

「武州川越の御城主、秋元但馬守殿」武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した川越藩の藩主秋元家は初代の秋元喬知(たかとも:正徳元(一七一一)年に川越城を賜わっているが、三年後の正徳四年八月に死去)と、その後を継いだ子の喬房(但し、彼の但馬守への遷任は享保一〇(一七二五)年十二月で、元文三(一七三八)年九に死去している)がともに但馬守である。時間のスパンの長さから、ここは喬房の代と考えてよかろう。

「三の丁」不詳。識者の御教授を乞う。

「けんどん」「慳貪」。ここは無慈悲なこと、愛想がないことの意。

「日はくるゝ」「日は暮るる」。

「ひぢ」「肱」。

「くさめ」「嚏」。くしゃみ。

「まさかり」「鉞」。刃先幅が広い斧。

「ゆたかに伏(ふし)て」大の字になって呑気に。

「いびき」「鼾」。

「しすましたり」「なんとも! うまい具合だぜ!」。

「跡先」前後。

「かげろふ・いなづま」「陽炎・稻妻」。

「片原(かたはら)」「傍」。

「德利」「とくり」或いは当時は既に「とっくり」。酒などを入れる陶製・金属製などの、口の細い容器。お銚子(ちょうし)のこと。

「こけまわる」ママ。「こけ𢌞る」。転げまわる。

「鳴(なき)はためき」鳴り響き。響き渡り。「はた」はオノマトペイア(擬音語)。

「松永彈正久秀」(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)は専横の限りを尽くした戦国武将。当初は三好長慶(ながよし)の家老として権勢を揮い、信貴山(しぎさん)城・多聞城にあって大和を支配したが、長慶死後は将軍足利義輝を弑(しい)し、三好三人衆と対立した(彼らとの戦いによって東大寺大仏殿が焼失している)。永禄一一(一五六八)年に織田信長に降伏して大和を安堵されるも、直に信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もって、信長が欲しがった平蜘蛛茶釜とともに爆死したことで知られる。

「永祿」一五五八年から一五七〇年。

「多門の城」多聞山城。現在の奈良県奈良市法蓮町にあった平山の城塞。(グーグル・マップ・データ)。

「果心(クハシン)居士といふ魔術者」歴史的仮名遣は「くわしんこじ」(かしんこじ)で誤り。生没年不詳の室町末期の話柄に登場する伝説の幻術師。ウィキの「果心居士」によれば、『七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。筑後の生まれともされ、『大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆』「古老茶話」によると、慶長一七(一六一二)年七月、『因心居士』(彼の別名ともされるもの)『というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八歳と答えたとする。また、『天正一二(一五八四)年六月に『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とするが、『果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、これらの逸話は事実とは考えられないが、奇術の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある』とある。私の好きな妖しい幻術者である。興味のある方は、柴田宵曲 妖異博物館 果心居士をお読みあれかし。]

2017/12/03

老媼茶話巻之六 磐梯山の化物

 

     磐梯山の化物

 

 磐梯山の麓に温泉、有(あり)。此湯は蟲つかい・頭痛・疝氣(せんき)・眼病に、分(わけ)て奇妙也とて、此山、四時(しじ)雪をいたゞくにより、春三月末迄は、人(ひと)通ふべき樣もなく、漸(やうやう)四月初(はじめ)より九月迄、源橋(げんはし)と云(いふ)村より小屋を懸置(かけおき)、近國より大勢入(いり)つどふ也。諸士の湯治小屋は、別して、奇麗(きれい)にかこひ置(おき)、飮食(おんじき)・箸の類(たぐひ)まて委く儲置(まうけおく)。士小屋へは雜人原(ざふにんばら)をば置(おか)ず。近國・他國より百姓・町人、聞傳(ききつた)へ、幾百人とも限りなく湯治するゆへ、此折は野も山も、人なり。山は常に燃上(もえあが)り、煙、こくうにうづ卷(まき)、たな引(びき)、湯、雄の氣、みてり。若(もし)此山のけぶり、他國より見ゆるならば、駿河の富士のやま・信濃の國淺間ケ獄にもおとるまじき名山なり。此所、深山幽谷、人倫稀(まれ)にして諸鳥(しよてう)も不住(すまず)、諸獸も、まれなり。此故に、あやしき事も多し。

 近き頃、會津のもの拾人斗(ばかり)、此所へ湯治いたしけるに、至(いたつ)て天氣よく、はれ渡りければ、磐梯山登り、しやくなげ、掘(ほり)けるが、なぐさみに大石を谷底落しけるに、石、ゑんてんと、まろび、つまづき、躍り上り、まろび、つまづき、躍り上り、麓へ落下(おちくだ)る樣、興有りければ、聲を上(あげ)、のゝめき、笑(わらひ)、數多(あまた)の石を落しける。湯守、急(いそぎ)立出(たちいで)、申(まうし)けるは、

「是は。以(もつて)の外の御なぐさみ。此所にて大勢山へ登り、左樣(さやう)に聲を立(たて)、山をふみあらし候へば、四方天(テン)、霧(ム)、落(ヲリ)、山、荒(あれ)て、天狗、人を摑み取(とり)申候。各々も、今少し過(すぎ)候はゞ、大霧、山を包み、一寸先も見へず、中中(なかなか)、山を下(くだ)り給ふ事、成(なる)べからず。早々、下り候へ。」

といふ。

 皆々驚き、急(いそぎ)、小屋へ歸りけるに、案のごとく、忽(たちまち)、大霧、下り、四方、眞闇(まつくら)に成(なり)、大風・大雨、ふり出(いだ)し、いかづち、鳴渡(なりわた)り、小屋を吹倒(ふきたふ)さんとして、大石、山上より小屋のまへ・うしろ、轉落(まろびおつ)。

「只今、打殺(うちころ)さるゝか。」

と覺(おぼえ)けれは、拾人斗(ばかり)のものども、一所にこぞり寄(より)、ふるへわななき居たる折、はいり口の菰(こも)を明(あ)け、覗く者、有(あり)。

 みるに、面(おもて)、五尺、有(ある)大山伏也。

 暫(しばらく)有(あり)て、又、地震(ない)のごとくに、人のあゆむ音して、小屋の破風(はふ)に、面(おもて)、壱間程成(なる)女、かね黑く付(つけ)たるが、つらを差入(さしいれ)、内を見入(みいり)、寢て居(ゐ)たるものを守り居たりけるが、忽然として、消失(きえうせ)たり。

 長(た)七、八尺ばかり有る山伏共、大勢、湯入る折も有(あり)。

 又、山より大石を礫(つぶて)に打(うち)、其(その)ひゞき、雷の樣に聞ゆる事も有(あり)。

 極めて、坊主の入湯の節は、山、荒(ある)ると、いへり。

 あるひは、夜日(やじつ)、數拾の鷄(にはとり)、時を作るときも、有り。

 雨降(あめふり)、淋敷(さびしき)折、「さいの川原」といふ處にて、子どもや女のさけびなく聲、有(あり)。

 又、夜更(よふけ)て、大山伏、棒を突(つき)、四、五人連(づれ)にて𢌞りありく事も有(あり)、と、いへり。

 是は、その化物を見たる内にて語り侍る。

 

[やぶちゃん注:「磐梯山の麓に温泉、有」現在の福島県耶麻郡磐梯町内に、磐梯山南西麓の平地になるが、後に出る「源橋」という地名が現存するから(ここ(グーグル・マップ・データ))、ここから東北の磐梯山登山道を登った辺りにあった温泉か。現在も、磐梯山山麓には温泉が湧くが、例えば、かつては小磐梯山(現在の磐梯高原)の北斜面に上の湯・中の湯・下の湯の三箇所で温泉が湧出しており、湯治場となっていたが、明治二〇(一八八八)年七月に磐梯山が噴火、山体崩壊による岩屑のなだれによって、上の湯と下の湯は埋没し人的被害も発生、現在これらは跡(温泉は湧出)となっている、とウィキの「中の湯」にある。但し、福島県耶麻郡磐梯町源橋は磐梯高原からはかなり距離がある。この三湯の正確な位置は「磐梯山ジオパーク エリアガイドブック 磐梯火山エリアD」(PDF)の「3 中の湯と鶴巻浄賢と関谷清景」を参照されたい。

「蟲つかい」「蟲痞へ」。所謂、「逆蟲(さかむし)」或いは消化器疾患による嚥下困難や嘔吐などを広く指すものであろう。江戸期のヒト寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、中には「逆虫」と称して、多量に寄生した虫を嘔吐するケースさえ実際にあった。

「疝氣」広く、下腹部の痛む病気を指す。良性・悪性の内臓機能性疾患であるケースが殆んどであるが、実は前の寄生虫もその主原因の一つと考えられていたから、「蟲痞え」とは親和性のある病名ではある。

「分(わけ)て奇妙也とて」特に驚くほど効果があるのであるという評判で。

「四時(しじ)」概ね四季を通じて。

「雪をいたゞく」山頂部の残雪。

「諸士」藩士を初めとする武士階級の入湯者。

「かこひ」「圍ひ」。

「委く」「くはしく」ではおかしいから(底本でも編者に拠る不審字マークが右にある)、恐らくは「悉(ことごと)く」の誤字ではあるまいか。

「雜人原(ばふにんばら)」武家の世話をするには相応しくない下賤の者ども。

「人なり」人で一杯である。

「山は常に燃上(もえあが)り」但し、江戸時代の大きな噴火は記録されていない。

「こくう」「虛空」。

「雄の氣」盛んなる地熱の気。

「けぶり」「煙」。

「しやくなげ」「石楠花」。ツツジ目ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属 Hymenanthes のシャクナゲ類。江戸時代から園芸植物として好まれた。

「ゑんてんと、まろび、つまづき、躍り上り、まろび、つまづき、躍り上り」踊り字「〱」は最後の「躍り上り」の後に一つつくだけ(但し、底本は「ゑんてんとまろひつまつき躍り上り」で読点はない)であるから、通常なら「躍り上り」のみを繰り返せばいいわけであるが、どうもそれでは音読していてリズムが悪いと感じて、敢えてかく、してみた。

「四方天(テン)、霧(ム)、落(ヲリ)」底本は読点なし。「ヲリ」のルビはママ。霧(きり)が「降(お)り」ることであろう。

「大霧」前の湯守の謂いに従えば、「たいむ」と読むことになる。後のそれも同じ。

「下り」やはり同じくこれも「おり」と読むことになろう。

「大風・大雨」「大霧」(たいむ)に合わせるなら、「たいふう」「たいう」でなくてはならぬ。伝承譚では、そうした読みもないがしろには出来ぬのが私の癖である。

「大石」ここも先に従がうなら、これも「だいせき」と読みたい。くどいが、一度起動してしまった神話・伝承世界のシステムは自動的に後を表現に至るまで支配し牛耳るものだと私は考えているからである。

「菰」菰(まこも:単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia)や藁で織った筵(むしろ)。

「面、五尺」顏の長さが一メートル五十一センチメートルだから、これはまさに超弩級の大入道の「大山伏」型ということになる。しかし、顏の長さがこれだけあると、小屋の莚を捲って覗いたとしても中の者どもには顔しか見えず、それが大山伏であることが判ると言うのは、物理的に少し不審な気がせんでもない。まあ、細かいことは言うまい。

「地震(ない)」私の推定訓。地震の古称。「な」は「地」、「い」は「居(ゐ)」の意であるが、歴史的仮名遣は「ない」でよい。元はこれで「大地・地盤」であったが、「ない震(ふ)る」「ない搖(よ)る」などの形で、地震が起こる意で使われることが多く、「ない」そのもので地震を指すようになった。

「あゆむ」「步む」。

「破風(はふ)」屋根の切妻にある合掌形の装飾板で囲まれた三角形の所。ここは季節限定で建てた掘立の山小屋であるから、そこは煙り出しのように穴が開いていたか、そこを可動式の薄板や莚で覆っていたものであろう。

「壱間」一メートル八十二センチメートル弱。

「かね」「鉄漿」。お歯黒。これは「大首(おおくび)」と呼ばれる女の巨大な首だけの妖怪の典型的スタイルである。

「守り」見守って。見つめて。

「長(た)」「丈」。背丈(せたけ)。

「七、八尺」二・一三~二・四二メートル。

ばかり有る山伏共、大勢、湯江入る折も有(あり)。

「山より大石を礫(つぶて)に打(うち)、其(その)ひゞき、雷の樣に聞ゆる事も有(あり)」これも「天狗の石礫」として非常によく知られる快音現象である。私の宿直草卷一 第六 天狗つぶて打つ事及びそれに続く第七 天狗、いしきる事第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異はわざはひなき弁の事等を参照されたい。

「坊主の入湯の節は、山、荒(ある)ると、いへり」磐梯山は古くからの山岳信仰の山で、仏教に圧迫された修験道系の勢力がより限定的に強かったからであろうか。しかし、磐梯山には足長手長という邪神(土着の産土神の零落した姿であろう)を弘法大師が瓶に封じ込めて山頂に埋めたという伝承もあるんじゃがなぁ?

「夜日(やじつ)」夜、真夜中の謂いか。

「時」「鬨(とき)」。

「さいの川原」南方からの猪苗代からの磐梯山直登コースの途中に岩場で「賽の河原」という箇所はある。追い風氏のブログ『「行ってみたい」と思わせ隊。』の翁島口から磐梯山 ~見えない山頂~に地図があり、「賽の河原」の位置が確認出来、「裏磐梯ビジターセンター」の磐梯山登山(翁島口~裏磐梯スキー場口)にトレッキング情報とともに「賽の河原」の文字が書かれた巨石の写真がある。但し、その写真はイメージするような河原ではないし、火山で湯が湧き出る辺りには、まさに三途の川岸のそれに相応しい景観は幾らもある(あった)であろうし、湯治客が聴く怪異なら、そうした温泉近くの別な場所であろうと私は思っている

「その化物を見たる内にて」その化け物を実際に見たと言う者らから。]

2017/12/02

老媼茶話巻之六 老人の夜話

 

      老人の夜話

 

[やぶちゃん注:老人は複数のエピソードを語っているので、リーダと行空けを施した。最後の一首は前を行空けし、そのままの表記で示した。]

 

 赤羽隨世翁、我を以て小姪(シテツ)のごとくす。或夜、風淸く月白き夕(ゆふべ)、語られけるは、

「幼年にして土津(はにつ)靈神へ仕へ奉りける朋友朋輩、見し人、聞(きき)し人も、今壱人もなく身まかり、我、又、七拾有餘、殘曆(ざんれき)いくばくもなし。唯、あした夕べの死を待(まつ)のみなり。若き人に對し、壱人無益の長ものがたりなれ共(ども)、見し事聞し事、閑夜の茶話に聞置(ききおき)玉へ。士たるもののたしなむべきは利刃(りじん)なり。利鈍(りどん)を心見ずして帶(たい)すべからず。……

 

 最上に村越大次郎といふ士、常々、もの荒く、人を切(きる)事を好み、村越、市店(いちみせ)にて國綱の脇指をもとめ、

『刃(やいば)をこゝろみん。』

と願ひ居たり。

 折節、召仕(めしつかひ)の若黨、罪おかす事、有(あり)。幸ひ、

『國綱の道具にて手討(てうち)にせん。』

と思ひ、座敷へ若黨をよび、此者、既に殺さるゝをや知りたりけん、大脇指をさして、座を隔(へだ)て手をつき、居たり。

 大次郎、手紙を差出(さしいだ)し、

「是を何某(なにがし)へ持行(もちゆけ)。」

と抛(なげ)やる。

 かの者、手を延(のべ)、手紙取(とる)所を、間(ま)を見すまして拔打(ぬきうち)に、かのものゝ天窓(あたま)を打(うつ)。

 若黨、前へのめりけるが、をきあがり、飛(とび)しざり、脇差を拔(ぬき)、

「むたいに人を殺さば、旦那とは、いわせぬぞ。」

と身を捨(すて)て踏込(ふんごみ)踏込、切(きり)かゝる。

 大次郎、請(うけ)ひらき、切れ共(ども)切れ共、刃にふくして切れず、大次郎も數所手負けるが、すきをみて、踏込、組打(くみうち)にして、取(とり)ておさへ、むたいひに、首をかき落せり。

 大次郎、大力故(ゆゑ)、如此(かくのごとし)。若(もし)非力のものならば、此時、若黨に切(きり)ころさるべし。

 

 又、同家中に魚住登理(うをずみたうり)といふて、やせがれたる男あり。家の普代に冨右衞門といふもの、登理親の代より仕へける故、登理年若きをあなとどり、我儘をいふ。ある時、登理、朋輩、饗應する砌(みぎり)、冨右衞門、いか成(なる)事、有(あり)けん、惡口を出(いだ)し、登理を訇(ののし)。登理、常々やわらかなりし男成(なり)しか、堪忍成難(なりがた)くや有けん、備前長光壱尺八寸の脇指をぬひて、冨右衞門を大けさに打放(うちはな)す。冨右衞門忰(せがれ)、臺所に料理をなし居たりけるが、

「是は。」

と言(いひ)て刀を拔(ぬき)て走り懸り、無二無三に打(うつ)太刀を、魚住、首をふつて、太刀をよけ、かの男がかうべをわるに、瓜をわりたるごとく、おとがいまで切付(きりつけ)たり。登理、脇ざし大わざ物故、非力の小男といへども、如此。

 

 昔、毛利元淸と植木助冨と勝負の砌、助冨は水田國重三尺三寸手切三胴の刀にて、近付(ちかづく)兵、拾人斗(ばかり)、切り伏せたると有(あり)。いにしへより、刀のきれは三胴を以(もつて)、限りとす。三胴は細こし二。二の胴壱にて三胴と云。三胴の前切は兩車なれども三胴より兩車は落難(おちがた)し。物に心得ぬものゝ、車先の落たるをみて、

「兩車つばなしに落たり。」

なといふは不覺なる事ぞかし。

 

 以前、水崎團右衞門、ためし物をするに、「刎(はね)かふ」とといふ盜人(ぬすびと)、誅罪にあいける折、つりけさに仕懸、水崎、後ろへ𢌞り、刀の既に刎かぶとか肩先へ當る折、かの者、兩手をふるひ、拔足(ぬきあし)をちゞめ、立杭(たてぐひ)を踏折(ふみをり)、立上(たちあが)らんとせし間、立げさになる右のほう骨を添(そへ)、肩先より、から竹わりに成(なし)て、ふんどし三結(むすび)を拂ひ落せり。此刀は平安城藤原國俊なり。

 

 古河(こが)の御城主に國光の脇差、有(あり)。

 或時、御城主の夢に老翁まみへて曰、

「明夜、君、變化(へんげ)の爲になやまされ給ふべし。我、常に御側にあらざる故、かゝる怪物、近付(ちかづき)候。我は國光の刀の靈なり。」

といゝて消失(きえうせ)たり。

 城主、明朝、納戸(なんど)の者をめして、國光の脇ざしを取寄(とりよ)せ、是を帶し玉えり。

 案のごとく、其日、夜更、人靜まりて後、城主の寢殿へ、靑ざめたる大女房、來り、障子をあけ、入(いり)たり。

 城主に向ひ居て、きばをむき、目をはりて、飛懸(とびかか)らんとするけしきにみへたり。

 城主、件(くだん)の國光の脇差を以(もつて)、突(つき)とめ玉へり。

 女、急にのがれて、みへず。

 夜明(よあけ)て尋(たづね)給へば、大きなる猫、石垣の間に逃入(にげいり)、死(しし)たり。

 

……名作にはかゝる希代(けだい)のためし有(ある)事、あげてかぞふべからず。」

とて、其外、樣、々昔語(むかしがたり)をなし玉へり。

 其後(そののち)、間もなく、隨世翁、身まかり玉ふ。

 今日の夕べ、昔を思ひ出(いだ)し、落淚、おさへ難し。

 

  きのふみし人はととへは薄氷思ひもとけてあしきなのよや

 

[やぶちゃん注:「赤羽隨世」作者三坂春編は会津藩士と推定されるが、この作者が強く心惹かれ、しかも刀剣類についての極めて私的なエピソードに詳しい点から見て、この人物も年長の会津藩士の相当な人物と考えてよい。

「小姪(シテツ)」姪は甥に同じい。「小」は「かなり年下の」謂いで、さればここは、親族でもない、あかの他人であるにも拘わらず、まるで年若い甥っ子のように目を懸けて呉れたことを指していよう

「土津(はにつ)靈神」福島県耶麻郡猪苗代町にある土津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る。ウィキの「土津神社」によれば、同神社は延宝三(一六七五)年に『磐梯山麓見祢山』(みねやま)『の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は』寛文一一(一六七一)年に『正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。翌寛文十二年十二月十八日(一六七三年二月四日)、正之が逝去『すると、遺言通り』、『見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている』。『正之の葬儀のときに葬儀奉行であった会津藩家老友松氏興は、神社の維持管理の方法として、神社の神田を作って』、『そこからの収益で維持することを考えた。そして、荒野を切り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにたぜき)である。土田堰は長瀬川(酸川の合流地点よりやや北側の辺り)から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境内前を通り、大谷川下流にそそぐまでの約』十七『キロメートルの堰で、磐梯山の南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑している。土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれた。また、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々のために造った集落が土町(はにまち)である。土町は土津神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されていた』ともある。この話柄の老人はこの神社「へ仕へ奉りける」とし、そうした「朋友朋輩」がかつて沢山いたが、今は(当時の同僚で生きている者は)私一人となってしまったと言っていることから、三坂春編の生年が元禄一七・宝永元(一七〇四)年頃と推定されているから(政之逝去から約三十年後の出生)、まさに三十年前の土津霊社が創建され、その初期、亡き藩主の御霊を守るために藩から派遣された若き藩士の一人であったと考えてよいのではなかろうか。三坂は一貫して彼を「老人」「翁」と称しており、この話を聴いて間もなく、彼は亡くなったというから(本書の序は寛保二(一七四二)年で、本文には彼が自らを「七拾有餘」と言っている)、三坂が聴いたのが、三坂が非常に若い頃(だからこそ「小姪」と三坂は言っている)、二十代とするなら、この赤羽翁は政之の逝去の頃に生まれて、その十数年前後に若侍として土津霊社に奉仕したと考えてよいのではなかろうか?

「利刃(りじん)」よく切れる刃物・切れ味の鋭い刀で、以下の実際の名刀話のままであるが、ここはそこから、臨機応変に迅速に状況を判断して動くことを諭している。

「利鈍(りどん)を心見ず」鋭利か鈍麻かを試みることなしに。

「最上」出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた山形藩。

「村越大次郎」不詳。

「國綱」鎌倉時代の山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱及びその流れを汲むとされる一派。

「刃にふくして切れず」「刃に服して切」り殺さ「れず」、と読んでおく。

「むたいひに」「ひ」は衍字であろう(但し、底本には編者注記はない)。「無體に」でここは、無理矢理、の意。

「魚住登理(うをずみたうり)」不詳。読みは私の推定。

「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。

「壱尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「大けさ」「大袈裟」。上段に振りかぶって袈裟懸けにすること。

「かの男」冨右衛門の息子。

「おとがい」「頤」。下顎。即死したものと思われる。我儘な父親のために命を落としたこの青年が可哀想だ。

「毛利元淸」織豊時代の武将で毛利元就の四男が同姓同名であるが、戦国史には詳しくないので、不詳としておく。

「植木助冨」不詳。「冨」の字は底本のママ。

「水田國重」江戸初期の寛文(一六六一年~一六七三年)頃の備中の刀鍛冶。

「三尺三寸」九十九・九九センチメートル。一メートルの長刀。

「手切三胴」刀剣の実際の人体を用いた据え物切りに於いて三人分の人体(通常は罪人の死体)を重ね置いたものを、一刀のもとに鮮やかに両断し得た刀を「三つ胴」と称した。「手切」(「てぎり」であろうか)はよく判らぬが、普通に刀を以って普通に振り下ろしてすぱっと切ることと採っておく。要は、鋸引きのようにしたり、手で背を押して斬ったりしないことかと思う。

「三ツ胴は細こし二ツ。二の胴壱ツにて三ツ胴と云。三ツ胴の前切は兩車なれども三ツ胴より兩車は落難(おちがた)し」刀剣には詳しくなく、意味不明である。以下の「物に心得ぬものゝ、車先の落たるをみて」「兩車つばなしに落たり。」「なといふは不覺なる事ぞかし」を含めて識者の御教授を切に乞うものである。ウィキの「試し斬りによれば、「兩車」の「車」というのは人体の腰の部分を指すようである。脊柱骨三本よりは二人分の腰部の切断の方が難しそうではある。

「水崎團右衞門」不詳。

「刎(はね)かふ」「刎(は)ね公」か?

「あいける折」「あい」はママ。

「つりけさ」「吊り袈裟」であろう。木か柱から繩で吊り下げ、下半身(ここは以下のシークエンスを見る限り、中腰のような感じで地面に固定したものか)を動けぬようにした(そうしておかないと暴れて上手く試し切り出来ない)相手を袈裟懸けに斬るものであろう。

「刎かぶとか肩先へ當る折」意味不明。表記は底本のママ。思うにこれは「と」は衍字で、『「刎かふ」が肩先』の意ではあるまいか? 謂わずもがなであるが、「袈裟懸け」とは、一方の肩から他方の腋(わき)へ向かって刀で斬り下げることを指す。

「拔足(ぬきあし)をちゞめ」「足を縮め」、「拔き」の意であろう。地面に竹や棒杭で固定されてあった腰から下の、特に足を力任せに引き抜いて外したのであろう。

「立げさ」斜めではなく、体幹に対してより縦に打ち込む袈裟がけのことを言うか。

「右のほう骨を添(そへ)」「右の頰骨を添へ」斬りにしつつ、「肩先より」「から竹わり」(唐竹割り。ここから、相手が暴れたことから、予定していた普通の袈裟がけにする余裕がなくなり、明らかに肩の首により近い位置から縦に真っ直ぐ下していることが判る)にしたというのであろう。

「ふんどし三ツ結(むすび)を拂ひ落せり」体幹を縦割りにしたが、腹部上方で手前にさっと引いたのであろう。褌の方は、その結び目の部分だけが、ぱっと切れただけだった、というのである。

「平安城藤原國俊」不詳。鎌倉後期の刀工で来国行の子に来国俊がいるが、彼は藤原を名乗っていないと思う。

「古河(こが)の御城主」下総(現在の茨城県古河市)にあった古河藩の初期でも藩主は目まぐるしく変わっている。

「國光」新藤五国光(しんとうご くにみつ 生没年不詳)は鎌倉後期の相模国の名刀工。永仁元(一二九三)年~元亨四(一三二四)年までの在銘作刀が残存する。相州伝と呼ばれる作風・系統の実質的な創始者である。

「玉えり」ママ。

「きのふみし人はととへは薄氷思ひもとけてあしきなのよや」整序すると、

 

 昨日見し人はと問へば薄氷(うすごほり)思ひも溶(と)けて味氣(あじき)なの世や

 

である。三坂には悪いが、あんまり上手い歌ではない。]

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