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カテゴリー「怪奇談集」の838件の記事

2019/05/22

太平百物語卷五 卅九 主部隼太化者に宿かりし事

 

太平百物語卷之五

   ○卅九 主部隼太(とのべはやた)化者に宿かりし事

 伊豫の國に主部隼太といふ者あり。

 川(かはの江(ゑ)といふ所より、松山に用ありて行(ゆく)とて、東空(しのゝめ)の比(ころ)、宿(たど)を立出(たちいで)て、道を急ぎけるが、凡(およそ)、四、五里も行とおもへば、俄に、日、暮たり。

 隼太、おもふ樣、

『日は未(いまだ)午(むま)の刻には過(すぐ)べからず。然(しか)るに、かく、日の暮ける事のふしぎさよ。』

とおもひ、向かふの方(かた)をみれば、農人(のふにん[やぶちゃん注:ママ。])の家(いへ)と見へて、灯(ともしび)の光、幽(かすか)に見へけるを便りて、表を叩きければ、内より、あやしげなる老女、立(たち)いで、

「たぞ。」

と答へしまゝ、

「さん候ふ。是は旅人にて候ふが、未(いまだ)日は高く侍ると思ひしに、俄に暮たり。此所に一夜(いちや)を明(あか)させたび候へ。」

といふ。

 老女、きゝて、

「子細候はじ。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」

とて、頓(やが)て宿をかしけり。

 隼太、悅び、内に入りて休らひけるが、しばらくありて、隼太がふしける後(うしろ)の壁、

「めりめり。」

と。ゆるぎ出(いだ)し、そこらの柱より、臥居(ふしゐ)たる床(ゆか)に至るまで、殘りなくゆるげば、

「扨は、地震にや。」

と、暫くは、こらへけれども、次第次第に强くなりて、はや、臺所の方(かた)は、柱、たふれ、やね、落(おち)ければ、

「こは、いかに。」

と、迯出(にげいで)んとするに、納戶も崩れ、隼太が傍(そば)の柱も倒れかゝりて、天井、終に隼太が上に落たりければ、今は、なかなか動くべきやうもなくて、聲をばかりに泣(なき)さけび、

「やれ、人々よ、助け給へ。」

と、わめきければ、往來(ゆきゝ)の人々、これを聞付(きゝつけ)、立(たち)より見るに、とある三昧(さんまい)[やぶちゃん注:「三昧場(さんまいば)」。墓場のこと。本来は僧が中に籠って死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂であるが、そこから転じて、墓所や葬場を指すようになった。]に、卒都婆木(そとばぎ)おほく、引かづき、泣ゐたりしかば、ありあふ人々、あきれ果て、やうやうに助けおこせば、隼太、茫然として、そこらをみるに、皆々、墓所(はかしよ)にて、「柱」と見しは、「そとば木」にて、「夜(よる)」とおぼへしも、其まゝ元の「日昼(につちう)」となりければ、隼太は大きに打驚(うちおどろ)き、もと來(き)し道に助け出(いだ)され、夫(それ)より、松山へは行かずして、引返(ひつかへ)し、川の江に歸りしとなり。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける。」

とぞ申し合(あひ)ける。

[やぶちゃん注:「川の江」現在の愛媛県四国中央市川之江町(かわのえちょう)(グーグル・マップ・データ)及びその周縁地区。松山へは実測で九十キロメートル弱。

「四、五里」川之江からだと、実測では四国中央市土居(どい)町(グーグル・マップ・データ)かその手前の土井町野田附近となる。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける」という種明かしは、何故、牡狐(おぎつね)が主部隼太を憎んだのかが示されておらず、不全である。]

太平百物語卷四 卅八 藥種(やくしゆ)や長兵衞(ちやうびやうゑ)金子(きんす)をひろひし事

   ○卅八 藥種や長兵衞金子をひろひし事

 泉州界(さかい)[やぶちゃん注:ママ。固有名詞地名の大坂の堺のこと。]に藥種屋長兵衞といふ人、有(あり)。

 生得(しやうとく)、律義(りちぎ)なる人にて、常に此所の天神を崇敬(そうぎやう)し、每朝(まいてう)、怠る事なく社參しけるが、或日の事なりし、每(いつも)のごとく、未明に起き出でて參詣し、神前にぬかづき、歸らんとせしが、道の傍(かたはら)に、淺黃縞(あさぎしま)のさい布壱つ、落(おち)てあり。取り上げ見れば、金子(きんす)なり[やぶちゃん注:ずしりと持ち持ち重りのするのは明らかに多額の金子が入っていると見たのである。]。

『こは、誰(たれ)人の落しつらん。』

とおもひながら、先(まづ)取歸(とりかへ)り、改め見れば、五十兩包(つゝみ)にして、二つあり。

 長兵衞、思ひけるは、

『我、はからずも大分(だいぶん)の小判を拾ひたり。これ、我(わが)幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に似たれども、落せし人の難義(なんぎ)[やぶちゃん注:ママ。]をおもへば、我(わが)悅びの十倍ならん。所詮、御(おん)奉行所へ訴へ、町中(まちぢう[やぶちゃん注:ママ。])に御觸(おふれ)を願ひ、辻小路(つぢかうじ[やぶちゃん注:ママ。])に札(ふだ)を出(いだ)さば、金主(かねぬし)出來(いできた)らん事は有(ある)まじ。』

と、おもひ定め居(ゐ)る所に、常々こゝろやすく出入する五介といふ者、來(きた)りければ、長兵衞、此事を五介に語るに、五介がいふやう、

「それは心得ぬ事かな。左程の金子を、落すべき物、ならず。まづ、其金子を見せ玉へ。」

といふに、頓(やが)で[やぶちゃん注:ママ。]取出(とりいだ)し見せければ、五介、能(よく)々見定め、大きに笑つていはく、

「これ、誠の小判なるまじ。御身、常々律義(りちぎ)なる人ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]狐のたぶらかしける物なり。見給へ、明日(あす)も、又、不思議あらん。若(もし)、さもなくば、誠の金子ならめ。先(まづ)、一兩日(りやうにち)御待(まち)あつて、奉行所へ訴へ玉へ。」

といふに、長兵衞も、

『いか樣。』

とおもひて、其日の訴へ、延引せり。

 翌(あく)れば、長兵衞、例のごとく、疾(とく)起出(おきいで)て、

『天滿宮(てんまんぐう)へ參らん。』

と思ひ、表の戶口を開けば、檜臺(ひのきだい)の上に、何やらん、杉原(すぎはら)にて包みたる物あり[やぶちゃん注:「檜臺」ヒノキ材を平たい台状に削り出した台板であろう。檜材は当時は高級品であった。「杉原」杉原紙のこと。播磨 国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。コウゾを原料とした高級品で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉時代以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。但し、近世には各地で生産された。]。

 長兵衞、あやしくおもひながら、取入置(とりいれおき)て、天神宮(てんじんぐう)へ參詣し、急ぎ、歸り、五介を呼寄(よびよせ)、此体(てい)を語りて、さし出(いだ)し、みせければ、五介、是をみて、

「さればこそ。」

と、まづ、杉原の包を明(あけ)て見るに、内には芥(あくた)に馬(むま)の糞(ふん)をつゝみ、砂にまじへて包み置きたり。

 五介、長兵衞にいひけるは、

「御覽候へ。昨日(きのふ)、わがいひしに違(たが)はず。是、狐の所爲(しわざ)に極(きはま)りたり。昨日の金子も、はやく出(いだ)し玉へ。久しくおかば、いかなる災ひかあらん。某(それがし)、何方(いづかた)へも捨(すて)まいらせ申さん[やぶちゃん注:「まいらせ」はママ。]。」

と、いふ。

 長兵衞、よろこび、頓(やが)て財布を取出、五介に渡し、

「能(よき)にはからひたび玉へ。」

と賴めば、

「御心安(こゝろやす)かれ。」

とて、金子百兩と檜臺とを受け取りて、出でける。

 長兵衞は心をやすんじ、

「災(わざはひ)あらじ。」

と悅びけるが、後(のち)に能(よく)々きけば、金子は誠の金子にて、檜臺と杉原包は、五介が金子を橫取(よこどり)せん爲(ため)の工(たくみ)なりとぞ聞へける。

 然(しかれ)ども、道に背(そむき)たる事なれば、此五介、俄に癩病(らいびやう)を煩らひ出(いだ)して、彼(かの)金子も、いつしか療治の爲に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])はて、次㐧に、形(かた)り、くづれ、剩(あまつさ)へ、狂氣となり、每日、町小路(まちかうぢ)を裸になりて、くるひ步(あり)きしが、終に、苦しみ、死(しゝ)ける。

 これを聞く人、

「誠に眼前の天罸(てんばつ)なり。」

とて、皆々、眉をひそめて、恐れあひけるとぞ。

 

 

太平百物語卷之四終

[やぶちゃん注:今回は本文ブラウザでの標題の不具合を考えて、タイトルの方にルビを配した。悪事の因果応報譚(それも差別されたハンセン病罹患という差別的な不快なそれ)を最後に附け足してあるが、これは偶発に基づく擬似怪談であって、差別助長の点も大きく働き、私は本書の中では特異的に全く評価しない。

「五十兩包(つゝみ)にして、二つあり」本書は享保一七(一七三三)年板行で江戸中期初めであるから、現在の一両は時代換算サイトでは九万円から十万円相当と考えられてあるので、九百万円から一千万円相当となる。

「癩病」現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(細菌ドメイン放線菌門放線菌綱コリネバクテリウム目 Corynebacteriales マイコバクテリウム科 Mycobacteriaceae マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「い予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は完全に解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように、単なる「言葉狩り」をしても、各人の意識の変革なしには差別は永久になくならない)。ともかくも、コーダの部分はハンセン病への正しい理解を以って批判的に読まれることを強く望むものである。]

2019/05/21

太平百物語卷四 卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 

   ○卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 江戶牛込の片ほとりに、太郞市とて独り住(ずみ)の職人有(あり)けるが、淨土宗にて、殊に信心なる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])なれば、朝暮(てうぼ)、佛前にむかひて、念仏、怠る事なし。

 或夜、いつものごとく、念仏して居(ゐ)たりしが、後(うしろ)より誰(たれ)ともなく、念仏を唱ふる者、あり。

 太郞市、

『たれやらん。』

とおもひ、後を見やるに、人、なし。

 又、念仏すれば、同じく申すほどに、

『扨は、わが心の迷ひならめ。』

と、一心不乱に申しければ、うしろの念仏、次第次第に大音(だいおん)になりて、後(とち)には十人斗(ばかり)も唱へける程に、太郞市、ふしぎに思ひ、急に、うしろを歸りみれば、何やらん、

「ばさり。」

と、物音して、目にさへぎる物は、なし。

『こは、いかに。』

と、おもひ、心ならねば[やぶちゃん注:ここは、「如何にも不気味にして心落ち着かぬので」の意。]、明(あく)るを待ちて、急ぎ、旦那寺に行(ゆき)、住持に「此よし」告(つげ)申せば、和尙、しばらく思惟(しゆい)して申されけるは、

「これ㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]の所爲(しわざ)ならめ。我、はからふ子細あれば、今宵、御身の方に、ひそかに、行(ゆく)べし。」

との仰せ、

「有がたし。」

とて、太郞市は悅び、かへりぬ。

 和尙、則(すなはち)、夜(よ)に入て、太郞市が宅(たく)に來(きた)られ、一間所(ひとまどころ)に隱れて、樣子を窺ひ居(ゐ)らるれば、太郞市、每(いつも)のごとく念仏しけるに、実(げに)も、太郞市がいふに違はず、うしろより、同音に唱ふ者、あり。

 始(はじめ)の程は、一、兩人の聲なりしが、後(のち)には數(す)十人の聲となりて、責(せめ)念仏[やぶちゃん注:鉦(かね)を鳴らしながら高い声で激しい調子に唱える念仏。ここのシークエンスでは鉦の音の幻聴音も入れた方が効果的である。]、しきりなりし所を、和尙、能(よく)々見すまし、此者どもが後(うしろ)に廻り、

「南無阿彌陀仏。」

と、一聲(ひとこゑ)、落ちかゝるやうに、大音聲(だいおんじやう)に申さるれば、此一聲に肝を消し、俄に狐の化(ばけ)を顯し[やぶちゃん注:元の狐の姿を露見させてしまい。]、飛がごとくに迯失(にげうせ)たり。

 和尙、

「さればこそ。」

と、太郞市にむかひ、申されけるは、

「此後(のち)、又も來(きた)るまじ。心やすく、念佛し玉へ。」

とて、歸寺(きじ)せられしが、狐ども、こりけるにや、それよりして、ふたゝび來らざりけるとぞ。

[やぶちゃん注:前にも「太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事」で指摘したように、特異点の江戸ロケーションの怪談である。リンク先の話の浅草の一部が被差別民のアジールであったように、ここも江戸の東の辺縁である。やはり、この作者菅生堂人恵忠居士には何か江戸を忌避する意識が強く働いていると言ってよいように思うのである。

「江戶牛込」現在の東京都新宿区東部の地名であるが、当時は、谷の多い武蔵野(山手)台地からなる一帯で、古くより「牛込」の地域名は早稲田から戸山原方面にかけて呼称された広域地名で(この附近。グーグル・マップ・データ)、江戸市中の東端に当たり、東は、かく狐も住む野原であった。太郎市の家はその「片ほとり」とあるから、まさにその西の草原に近い位置にあったものと考えてよく、野狐も出入りし易かったのであろう。]

太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事

Rokurokubi

  

   ○卅六 百々(どゞ)茂(も)左衞門ろくろ首に逢(あひ)し事

 若狹の國に百々茂左衞門といふ侍あり。

 或時、夜更(ふけ)て、士町(さぶらひまち)をとをられけるが[やぶちゃん注:ママ。]、水谷(みづのや)作之丞といふ人の、やしきの高塀(たかへい)の上に、女の首斗(ばかり)、あちこちとせし程に、怪しくおもひ、月影に、能く[やぶちゃん注:「よく」。]すかし見れば、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、作之丞召使ひの腰元なりしが、茂左衞門を見て、

「にこにこ。」

笑ひければ、茂左衞門、いよいよ、ふしぎをなし、持(もち)たる杖にて、頭(かしら)を、そと、突きたりしが、是に恐れて、迯吟(にげさまよ)ふ風情(ふぜい)にて、やがて、高塀の内にぞ、落(おち)たり。

 茂左衞門、深更(しんかう)[やぶちゃん注:深夜。]の事なれば、不審(いぶかし)ながら、其儘にして、歸宿しける。

 此腰元、能(よく)臥居(ふしゐ)たるが、

「あつ。」

と叫び、苦しみければ、傍(そば)に臥たる下女、此音に驚き覚(さめ)て、

「如何(いかゞ)し玉ひける。」

とゝへば、此腰元、胸、押(おし)さすり、語りけるは、

「扨も、恐しき夢を見侍る。每(いつ)も心安く旦那殿と語り給ふ百々茂左衞門殿の、此門前を通りたまふに行逢(ゆきあひ)しに、わらはを見て、嶲(たづさ)へ給ふ杖を以て、わが頭(かいら)を、さんざん、打ち給ふ程に、余り苦しく、堪(たへ)がたさに、にげ走ると思ひしが、夢にてこそ侍べりつれ。」

と語りける。

 此事、作之丞耳(みゝ)にも入(いり)しが、

「夢は、跡かたなき物なれば、さる事もあらん。」[やぶちゃん注:「夢などというものは、所詮、他愛もない、意味なき幻しのものであるから、そんなこともあるであろうよ。」。]

と、いひて止(やみ)けるに、其(その)翌(あけ)の日、茂左衞門、來り、世上の物語などして後(のち)、ひそかに、作之丞傍(そば)に寄(より)、腰元が事を、「しかじか」のよし、語りければ、作之丞も、此腰元が物語も、少(すこし)も違(たが)はねば、

『扨は。世にいひ傳ふ「ろくろ首」ならめ。』

と、淺ましく、不便(びん)の事に思ひて、ひそかに此女を一間に招き、「此よし」を告(つげ)しらせ、能(よく)々さとしければ、此女、いと恥かしき事におもひ、直(すぐ)に主人に御いとまをこひ、髻(もとゞり)おし切(きり)、尼となり、前生(ぜんじやう)のかいぎやう[やぶちゃん注:「戒行」。戒律を守って修行すること。]、拙(つたな)き事を歎きて、一生、佛に仕へ、身罷(まか)りけるとぞ。

[やぶちゃん注:以上は「轆轤首(ろくろくび)」譚では極めて多く見出される常套的な轆轤首譚の典型的な一つである。本書は享保一七(一七三三)年刊であるが、恐らく、最も古い本邦を舞台とした酷似する類型話は近世初期の怪談話の古形をよく伝える「曽呂利物語(そろりものがたり)」(著者未詳。寛文三(一六六三)年刊の全五巻から成る仮名草子奇談集)の「二 女のまうねんまよひありく事」(女の妄念迷ひ步く事)であろうし、それを受けた「諸国百物語」(著者未詳。延宝五(一六七七)年刊。「百物語」系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、この「諸國百物語」ただ一書しか存在しない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))の「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」が、総ての本邦を舞台とした本パターンの源流と言えるであろう。以降のヴァリエーションは私の「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」でかなり電子化して示してあるので参照されたい。最も新しい私の轆轤首の注記載は江戸前期の文人山岡元隣による怪談本(貞享三(一六八六)年刊の著者没後の板行であり、元隣は寛文一二(一六七二)年没であるから、彼の見解は「轆轤首」が盛んに変形される前の、その原型に近いものを考証していることから、見逃し難い内容を持つ)「古今百物語評判卷之一 第二 絶岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」であり、そこで元隣も明らかにしている通り、轆轤首のルーツは中国の「尸頭盤」「飛頭盤」である(私の注は中国の原典も示してある)。なお、こちらで、江戸イラストレーターで、主人公と同じ姓の百々敬子氏が描かれた本話の十一コマの漫画が見られる。

「士町(さぶらひまち)」侍町(さむらまち)。当時のそれは亀山城山麓の東から北西部及び反対の南から南西部にあったものと推定される(グーグル・マップ・データの亀山城周辺。以上の位置はグーグル・マップ・データの史跡配置及び「図説福井県史 近世四 城下町のかたち(一)」の記載に拠った)。]

2019/05/20

太平百物語卷四 卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

Sennsaiyuurei

 

 

    ○卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

 河内の國に三郞兵衞とて、家、冨(とみ)さかへたる百姓あり。夫婦(ふうふ)の中もむつまじく、心豐かにくらしけるに、此女房、風の心地と煩ひ出(いだ)し、次第次第に重くなり、既に危(あやう[やぶちゃん注:ママ。])かりければ、三郞兵衞、かぎりなくかなしみ、枕下(まくらもと)に寄(より)て、口說きけるは、

「御身、若(も)し世を、はやふし玉はゞ、一人の幼子(やうじ/いときなき[やぶちゃん注:後者左ルビはママ。])、たれありて、養育せん。然(しか)れば、いかなる所へも遺(つかは)し、我は髻(もとゞり)を切(きり)て、世を遁(のが)れん。」

とぞ、かこちける[やぶちゃん注:「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。]。

 女房、苦しき床(ゆか)の上に、目をほそぼそと開き、三郞兵衞が顏を、つくづぐうち守り、

「実(げに)や。うき世の習ひながら、假初(かりそめ)にやまふ[やぶちゃん注:ママ。]の床にふし、御身に先達(さきだち)まいらする事の淺ましさよ。去(さり)ながら、愛別離苦の理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])は、知識(ちしき)の御身にも遁(のが)れ玉はぬと聞(きく)なれば、必ず、なげかせ玉ふなよ。我を不便(びん)と思召(おぼしめさ)ば、其御心を改め給ひ、後(のち)の妻を御入(いれ)ありて、跡に殘りしうなひごを守立(もりたて)、此家を續きさしめたび給へ。穴(あな)かしこ、忘(わすれ)させ玉ふな。」

と、是れを此世の限りにて、朝(あした)の霜と消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせり。

 三郞兵衞は、妻が遺言の不便さに、取分(とりわき)、一子をいたはり育(そだて)けるが、其年も、いつしか暮(くれ)て、明(あけ)の年にもなりければ、一家(け)の人々、打寄(うちより)、とかく、後妻をすゝめける。

 三郞兵衞も、始めのほどは承引もせざりしが、

『一子の爲。』

と思ふより、ぜひなく、後妻を定めける。

 扨、吉日を擇(ゑら)み、一家(いつけ)の人々、打集(あつま)り、祝言(しうげん)の儀式を取り行ひけるが、三郞兵衞、

「用事をかなへん。」

と緣に出で、扨、内に入(いら)んとせし時、ふと、軒の方を見やれば、死失(しにうせ)たりし女房、窓の透間(すきま)より、座敷の体(てい)を、ながめ、ゐける。

 三郞兵衞、大きに驚き、思ふ樣、

『扨は。先妻、未(いまだ)成仏をなさで、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])に迷ひけるかや。末期(まつご)に後妻を入れよと勸(すゝめ)しを、誠の心ぞとおもひの外(ほか)、嫉妬の一念、はなれやらず、今宵の祝言をねたみ來たりし淺ましさよ。』

と思ひながら、さあらぬ体(てい)にて内に入しを、先妻のゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、これを夢にも、しらず。

 さて、ことぶき[やぶちゃん注:祝言の本式。]も濟(すみ)て、皆々、私宅(したく)に歸れば、三郞兵衞も、後妻もろ共、ふしどに入て、私(ひそか)に後妻に語りけるは、

「我、此度、おことをむかへし事、先妻がわすれ記念(がたみ)の一子、いはけなければ、御身を賴み參らせんと、かくは招き侍りぬ。是、わが心ばかりにもあらず、先妻、すでに遺言せり。然るに、今宵、御身と夫婦の語らひをなす事、眞実(しんじつ)は亡妻(ぼうさい[やぶちゃん注:ママ。])、恨みおもふやらん、宵より、外緣(そとゑん)に彳(たゝずみ)て、此座敷を見入(いれ)しを、我、慥(たし)かに、見屆けたり。然れば、御身の爲(ため)も、よろしからず。御痛(いた)はしく侍(さぶら)へども、今宵、すぐに御いとまを參らするなり。此事、穴(あな)かしこ、人に語り給ふな。」

と、泪(なみだ)にくれて申しければ、此女も三郞兵衞が餘儀なき物語に、いひ出(いだ)すべき言葉なく、さしうつぶひてゐたりしが、俄に氣色(けしき)かはりて、

「のふ[やぶちゃん注:ママ。]、いかに、三郞兵衞殿、只今の御言葉こそ、かぎりなく恨(うらめ)しけれ。我等、末期に申せしごとく、『後妻をはやく入れ給へかし』と、おもふ日數も移り行く。御心ざしは有難きに似たれども、一子が母のなき事をおもへば、悲しくさふらひて、うかびもやらず、夜每(よごと)には、此座敷の緣先まで愛子(いと)が安否を窺ひ來(く)る。然るに、今宵、後妻を迎へ玉ふ有りさま見參らせ、心の内の嬉しさ、なかなか、言葉に盡されず。もはや、此世のおもひ、はれ、速(すみやか)に成佛せん事、うたがひなし。何しに、嫉妬の心を懷き申べき。必(かならず)しも、此女性(によしやう)と夫婦になり、愛子(いと)を守立(まもりたて)たまふべし。わが爲には、月每(つきごと)の忌日(きにち)をとひてたび給へ。さらば、さらば。」

と、いふかとおもへば、後妻は、かしこに倒れふす。

 三郞兵衞は隨喜の泪にくれけるが、臥(ふし)たる女を呼(よび)おこし、有りし次第を語り聞(きか)せ、先妻が願ひに任せ、再び夫婦の酒、酌(くみ)かはしけるに、後妻の心、貞節にて、繼子(まゝこ)を、能く[やぶちゃん注:「よく」。]いたはり、育(そだて)けるほどに、其後は、亡妻がゆうれひも、きたらず、一子も、年經て、成長しければ、跡式(あとしき)を讓り与へ、わが身は、後妻諸共に隱居し、目出度く、世をぞ辞しけるとかや。

[やぶちゃん注:「河内の國」現在の大阪府の東部。

「はやふし玉はゞ」この「はやふし」はママだが、「早くす」の連用形の「早うす」の転訛表現であろう。「早々に去る」で「死ぬ」の忌み言葉として用いていると私はとる。「はや/ふす」で「早臥す」「早伏す」、同じく「早々に死ぬ」の忌み言葉とも考えたが、「伏す・臥す」にそうした「死ぬ」の一般的な換語用法を見出し得なかった。

「かこちける」「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。

「知識(ちしき)」仏道に教え導く優れた導師たる名僧を指す。

「用事をかなへん」厠へ行ったのである。

「中有(ちうう)」既出既注

「いはけなければ」「幼(稚)け無し」は年端がゆかず、頼りない感じの意。

「今宵、すぐに御いとまを參らするなり」初夜の晩にこのような異常な理由から、彼女に非常に悪いが、一方的に離縁を申し渡すこととなったため、「參らす」という「やる」の謙譲語を用いて異例に表現しているのである。

「のふ」正しくは「なう」或いはそれの発音通りを表記した「のう」。感動詞で感嘆の声を示す語。「ああっ!」。

「いかに」感動詞で呼びかけの語。「もしもし!」。

「うかびもやらず」成仏することも叶わず。

「愛子(いと)」愛児の意の「愛(いと)し子(ご)」の約。広くは後に専ら「お嬢さん」の意で用いる、主に大坂言葉と認識されている「いとさん」「いとはん」(但し、後者の使用は明治以降であり、古くは男の子にも用いた)の原型であろう。寛政年間(一七八九年~一八〇一年まで)の並木五瓶一世・並木正三二世合作の「色盛八丈鏡(いろざかりはちじょうかがみ)」に使用例がある(一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠る)が、本書は大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする享保一七(一七三三)年の新刊であるから、それより五十年以上も前に、既にこの「愛児」の意味の「いと」はあったことが判る。

「必(かならず)しも」「しも」は副助詞で、ここは単に特にその事柄を強調するために附したもの。

「跡式(あとしき)」「後職(あとしき)」。先代の家督・財産を相続すること、又は、その家督や財産。「跡目(あとめ)」に同じ。鎌倉時代以後に生まれた語である。]

2019/05/19

太平百物語卷四 卅四 作十郞狼にあひし事

 

   ○卅四 作十郞狼にあひし事

 大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)に、白粉(おしろい[やぶちゃん注:ママ。])屋作十郞といふ者あり。

 常に佛法をふかく信じけるが、一子、成人しければ、家の業(わざ)を讓りて、日本囘國にぞ出(いで)ける。

 既に西國の方(かた)は廻(めぐ)り仕舞(しまひ)、關東の方に赴きけるが、上總の國、「かぎりの山」といふ所にて、日(ひ)暮(くれ)ぬ。

 然(しかれ)ども、此麓には家居(いへゐ)もはかばかしく見へず。

『いざや、此山を過て[やぶちゃん注:「すぎて」。]、あなたに宿らん。』

とおもひつゝ、たどり行きしが、むかし、重保(しげやす)とかやいひし人の、

   我爲(わがため)にうき事見へばよの中に

    いまはかぎりの山に入なん

[やぶちゃん注:「見へば」はママ。以下同じ。「入なん」は「いりなん」。]

とよみけるよしを、つくづく思ひ出(いづ)るに付(つけ)て、いとゞ我身の上も心ぼそく覚へけるが[やぶちゃん注:ママ。]、元より、命のかぎりを修行する身なれば、足に任せて行く程に、しらぬ山路(やまぢ)をよぢ登り、山ぶところ[やぶちゃん注:「山懷」。]に入(いり)ぬれば、俄に身の毛だちて、物すごく、足の立所(たてど)も、しどろになりぬ。

 作十郞、心におもひけるは、

『我、浮世の除(ひま)をあけ、佛法修行(ぶつはうしゆうぎやう[やぶちゃん注:ママ。])に、身命(しんみやう)を擲(なげうつ)とおもひしに、未(いまだ)煩惱のきづな、切(きれ)ざるにや。』

と淺ましくて、心中(しんぢう)に慚愧(ざんぎ)し[やぶちゃん注:現在は「ざんき」と清音で読むのが一般的。現在は専ら、ただ、「恥じること」の意味で使われるが、本来は仏教語で、しかも「慚」と「愧(ぎ)」とは別の語である。「慚」は「自らの心に罪を恥じること」を、「愧」は「他人に対して罪を告白して恥じること」を指す。或いは「慚」は「自ら罪を犯さないこと」を、「愧」は「他に罪を犯させないこと」とも言う。]、日比(ごろ)、尊(とうと)み奉りし「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」を高らかに唱へて、猶、山ふかく步み行(ゆく)に、道の眞中(まんなか)に大石(たいせき)のごとくなる物ありて、動くやうに見へければ、近く寄(より)てみるに、さも冷(すさま)じき狼にて、眼(まなこ)をいからし、大き成(なる)口をひらき、控(ひかへ)ゐたり。

『こは、いかに。』

と跡(あと)を顧りみれば、いつの間にか來りけん、同じく、劣らぬほどの狼、金(こがね)のごとき眼(まなこ)を光らし、只一口(ひとくち)に喰はん勢ひなり。

 作十郞、前後にはさまれ、今は遁(のが)るべき道なければ、

『我(わが)命、すでに限りの山(やま)に究(きはま)れり。』

と觀念し、肩に掛(かけ)たる笈(おひ)をおろし、心靜(こゝろしづか)に、念佛、四、五遍、唱へ終はり、狼にむかひ、いふやう、

「汝、畜生なりといへ共、わがいふ事を能(よく)聞(きく)べし。われ、此度(このたび)、日本囘國に志し、大方に廻(まは)りしまひ、今、既に關東に赴く所に、圖らずしも、此山にして汝等に出合(いであひ)たり。元來、不惜身命(ふしやくしんみやう)の修行者(しゆぎやうじや)なれば、命は、露(つゆ)よりも猶、かろし。されども、祈願、全(まつた)からずして、おことらが腹中(ふくちう[やぶちゃん注:ママ。])に入らん事、是、一つの歎きなり。畜類ながら、心あらば、此理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])を聞分(きゝわけ)て、わが一命を助くべし。然(しか)るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、汝等が來世、畜生道を除(のが)るべき經文を誦して、報謝とせん。心なくんば、只今、餌食と(ゑじき)せよ。」

と、眼(まなこ)を塞(ふさぎ)て觀念しゐけるに、前後二疋の狼、さしも惡獸なれども、此理にやふくしけん、怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]、忽ち、頭(かうべ)をうなだれて、遙(はるか)あなたに退(しりぞき)しかば、作十郞、此体(てい)をみて、

「誮(やさし)くも聞き入れけるかや。今は心安し。」

とて、又、笈を肩にかけ、道を求めて過行(すぎゆけ)ば、雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ。

 夫(それ)より、やうやう山を越(こへ)て[やぶちゃん注:ママ。]、里に出[やぶちゃん注:「いで」。]、とある家に宿を乞ひ、山中(さんちう[やぶちゃん注:ママ。])の有樣を亭(あるじ)に語れば、あるじを始(はじめ)、家内の人々、橫手(よこで)を打(うち)、

「抑(そもそも)、此[やぶちゃん注:「この」。]ふうふ[やぶちゃん注:「夫婦」。オオカミの雌雄のペア。]の狼にあひたる者、一人も生(いき)て歸りし例(ためし)をきかず。殊に御身は、有難き桑門(よすてびと)かな。」

とて、いと念比(ねんごろ)に饗應(もてな)し、夜明(あけ)て、東に心ざし、終に日本國中、おもふまゝに修行して、近き比(ころ)、目出度、往生をとげられけるとかや。

[やぶちゃん注:「大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)」現在の大阪府大阪市中央区北久宝寺町(まち)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「北久宝寺町」によれば、『かつて船場に久宝寺という寺院があったことに由来するという説と、道頓堀川が開削された際に河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためという説の』二『つがある』とある。

「白粉(おしろい)屋作十郞」屋号通りの職種であるとすれば、白粉の製造業或いは問屋か。ウィキの「おしろい」によれば、日本では、七世紀頃に『中国から「はらや」(塩化第一水銀)、「はふに」(塩基性炭酸鉛)という白紛がもたらされ、国産化された』。『白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡や重篤な障害を蒙る場合もあった(大正天皇の脳症も生母ら宮中の女性が使用していた鉛白が原因との説がある』『)。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。昭和九(一九三四)年には『鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、依然かなりの需要があったという』とある。

「上總の國」「かぎりの山」不吉な名であるが、サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」によれば、現在の千葉県夷隅郡大多喜町筒森にある筒森神社(グーグル・マップ・データ)から見える山とし、「壬申の乱」で敗れた大友皇子(大化四(六四八)年~天武天皇元年(六七二)年:弘文天皇とも称するが、即位していたかは定かでない)は琵琶湖の近くで縊死して自害したことになっているが、別伝承として、密かに大津の都を遁(のが)れ、上総の地に落ち延びたとするものがあり、ウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている』。特に千葉県の『君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており』、十七『世紀前半に書かれたと考えられている地誌』「久留里記」(編者未詳)や、宝暦一一(一七六一)年に『儒学者の中村国香が編纂した』「房総志料」『に記載がみえる』とある。サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」に齊藤弥四郎による、大友皇子と、その后妃十市皇女(とおちのひめみこ 白雉四(六五三)年?(大化四(六四八)年説もある)~天武天皇七(六七八)年:特に)の悲劇の伝承が語られてある(筒森神社の主祭神は十市皇女)ので、是非、参照されたい。また、そこでは、ここで「重保」(不詳。あり得そうなのは、賀茂重保(かものしげやす 元永二(一一一九)年~建久二(一一九一)年:京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(通称は上賀茂神社)神主で歌人としても有名。治承二(一一七八)年に藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開き、賀茂神社の歌壇を形成した)であろうが、以下に見る通り、これは彼の歌ではない)の作として後に出る和歌は、生き延びよ、と大友皇子から突き放された身重の十市皇女が、山中に分け入り、大多喜で一番高い石尊山(せきそんさん:前のリンクはグーグル・マップ・データ。ピークは千葉県君津市黄和田畑。東北一・九キロメートル位置に御筒大明神(筒森神社)が見える。国土地理院図では山名が確認でき、標高は八百四十七・八メートル)に辿り着いた際に詠んだとする

 わがために憂きこと見えば世の中に

   今は限りの山に入りなむ

一種であることが判る。作者が何故、このような錯誤をしたのかは不明。識者の御教授を乞う。

「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」通称で「大悲心陀羅尼」と呼ばれ、正式には「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(むげ)大悲心陀羅尼」と言ういい、「なむからたんのー、とらやーやー」という出だしで知られる、日本では特に禅宗で広く読誦される基本的な陀羅尼の一つ。陀羅尼とは、仏教に於いて用いられる呪文の一種で、比較的長いものを指す語。通常は意訳せずにサンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える。以下に見る通り、これは経典中の一部分を抽出したもの。ウィキの「大悲心陀羅尼」によれば、『禅宗依用のものは最初の漢訳とされる伽梵達摩』(がぼんだつま/だるま:生没年不詳。中国名は尊法。唐代の西インド出身の訳経僧)訳の「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼經」の『陀羅尼の部分(当然のことながら梵語の音写)を取り出したものとされる』。「宋高僧伝」では『訳出を唐高宗の永徽年間』(六五〇年~六五五年)~顕慶年間(六六一年~六五六年)『と推測している。また』、『サンスクリット本は』存在せず、『偽経ともいわれる』とある。リンク先には全文の漢字表記と平仮名訓読文がある。

「狼」我々が絶滅させてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(カニス・ルプス・ホドピラクス:北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。オオカミは雌雄のペアを中心とした平均四~八頭ほどからなる社会的な群れ(パック:pack)を形成し、群れはそれぞれ縄張りを持ち、特に大型の獲物を狩る時は雌雄のペアやそうした群れで狩うので、この挟み撃ちは決して架空ではない。

「不惜身命(ふしやくしんみやう)」仏道修行のためには身も命も惜しまず、死をも厭わない決意の謂い「法華経」の「譬喩品(ひゆぼん)」などにある語。

「怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]」怒り猛っていた表情や様子が、一転して変わって。

「雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ」先の牡牝の狼のそれぞれの遠吠えと読めるが、怪異のコーダの上手いSE(サウンド・エフェクト)である。

「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。

「桑門(よすてびと)」「太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事」で既出既注。]

2019/05/17

太平百物語卷四 卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

Jyorougumo

   ○卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

 作州高田に孫六とて、代々、家、冨(とみ)、田畠(たばた)、數多(あまた)持(もち)たる鄕士(がうざぶらひ)ありけるが、本宅より十五丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:一キロ六百三十六メートルほど。]を放(はな)れて、別埜(したやしき)をしつらひ、折ふしは此所に行(ゆき)て、心をなぐさめける。

 折しも水無月[やぶちゃん注:陰暦六月。]なかばにて、殊なふ夏日(かじつ/なつのひ)堪(たへ)がたかりければ、每日こゝに來りて、納凉(なうりやう/すゞみ[やぶちゃん注:前者はママ。])しけるが、竹緣(ちくゑん)に端居(はしゐ)して、床下(しやうか/とこのした)を流るゝ水の淸きに、こゝろをすまして、かくぞ詠じける。

  せきゐるゝ岩間の水のすゞしさを

   わがこゝろにもまかせつるかな

[やぶちゃん注:「ゐるゝ」はママ。]

 あまりに心能(よく)おぼへて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、そよ吹(ふく)風に睡眠(すいめん[やぶちゃん注:ママ。])の催しけるに、何國(いづく)よりか來りけん、年の比(ころ)五十(いそじ[やぶちゃん注:ママ。])斗なる女、身には五色(ごしき)の衣裳を著し、孫六が前に來たる。

 孫六、あやしく思ひ、

「いかなる人ぞ。」

と尋ければ[やぶちゃん注:「たづねければ」。]、老女のいはく、

「我は此あたりに住(すむ)者なり。御身、常々此所に來りて、四季おりおりの[やぶちゃん注:ママ。]詠(ながめ)も無下(むげ)ならず。殊更、今の御口ずさみを聞まいらせ、一人の我が娘、御身をふかくおもひ焦(こが)れ侍るなり。子をおもふ親のならひ、あまり不便(びん)に候へば、情をかけてやり給へ。いざや、わが住(すむ)方に伴ひ參らせん。いざゝせ玉へ。」

といふに、孫六も怪しながら、心そゞろに伴ひ行(ゆけ)ば、大き成(なる)樓門に至りぬ。

 内に入れば、所々に大小の門戶(もんこ)ありて、遙に奧の方(かた)に至り、むかふをみれば、其結構、こと葉に述(のべ)がたし。

 老女、孫六に向ひ、

「しばらく、爰に御待あれ。」

といふて、おくに、いりぬ。

 孫六、心におもふやう、

『こは、そもいかなる人の住家(すみか)やらん。心得ぬ事かな。』

と、且(かつ)、うたがひ、且、あやしみゐる所に、十六、七斗なる、さも美しき女の、身には錦の羅(うすもの)に、五色に織(おり)たる綾をまとひ、髮はながくて、膝(ひざ)をたれ、いと、たをやかに、只一人、步み來(きた)る。

 孫六、此体(てい)をみるより、心も消入(きへいり[やぶちゃん注:ママ。])、玉(たま)しゐ[やぶちゃん注:ママ。]も空に飛(とぶ)心地して守り居(ゐ)ければ、頓(やが)て孫六が傍(そば)に寄(より)、少(すこし)面はゆげに打ゑみていひけるは、

「誠に。御身をしたひ參らせ事は、はや、幾(いくばく)の月日也(なり)。其念力(ねんりき)の通じまいらせ、かく、まみへける嬉しさよ。今よりして、夫婦となり、行末久(ひさ)に、契りてたばせ候へ。」

と、おもひ入て[やぶちゃん注:「いりて」。]申にぞ、孫六、答へて申しけるは、

「誠に御心ざし有がたく候へども、我等如きいやしき身、などて、夫婦となり申すべき。其上、我は定(さだま)る宿(やど)の妻、あり。此事、おもひも寄(より)奉らず。いつしか見參らせし事もなきに、白地(あからさま)なる御志、疎(おろそ)かには承らず。夫婦の緣こそ拙(つたな)くとも、御心ざしは、忘れ奉らず。」

と、いと眞実(まめやか)に斷りければ、此姬(ひめ)、恨みたる顏(かほ)ばせにて、

「扨々、心づよき仰(おほせ)かな。我、御身を焦(こがれ)し事、母人、不便に覚し召(めし)、御身の別埜(したやしき)に來り玉へば、いつも緣のほとりまで行(ゆき)給ひ、御身の傍(そば)を放(はな)れ玉はず。然るに、一昨日(おとゝひ)の暮方、わが母を、御身、烟筒(きせる)を以(もつ)て、打ち殺さんとし玉ひしを、辛じて、命、助(たすか)り歸り玉ふ。加程(かほど)に心を盡し給ふも、子をおもふ心の闇(やみ)ならずや。角迄(かくまで)切なる我思ひを、晴(はら)させ玉へ。」

と、かきくどけば、孫六も岩木(いはき)ならぬおもひながら、元來、正直なる男なれば、所詮、わが一生そひはつる事もならぬ身の、かく、止(や)ん事なき御息女に、一夜(ひとよ)の枕をかはさんも、本意(ほんゐ[やぶちゃん注:ママ。])ならず。いろいろにすかし申せど、

「兎角、御身に、はなれず。」

と、すがり付(つけ)ば、孫六、今は、もて扱(あつか)ひ、あなた此方と逃げるとおもへば、有(あり)し家形(やかた)は消(きへ)うせて、元の竹緣にてありければ、孫六、忙然と[やぶちゃん注:ママ。]あきれ、

『夢か。』

と思へど、覚めたる氣色(けしき)もなく、

『正(まさ)しき事か。』

とおもへば、露(つゆ)形(かたち)も、なし。

 餘りのふしぎさに、從者(ずさ/めしつかひ)を呼(よび)て、

「われ、此所に假寢(かりね)せしや。」

とゝへば、

「さん候ふ。半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間。]斗も御寐(ぎよしん)なり候ふ。」

と、いふ。

 孫六、奇異の思ひをなし、あたりを能(よく)々見廻せば、ちいさき女郞蜘[やぶちゃん注:ママ。]、そこらを靜(しづか)に、步みゆきぬ。

 上の方(かた)を見やれば、軒には數多(あまた)の蛛ども、さまざまに巣をくみて、歷然たり。

 孫六、つくづく案じみるに、一昨日(おとゝひ)の暮方(くれかた)、烟筒(きせる)にて追ひたりしも、陰蛛(ぢやらうぐも)なり。

「扨は。此蛛、我が假寢の夢中に、女と化(け)し、われをたぶらかしけるならん。恐しくも、いまはしき物かな。」

とて、從者(ずさ/めしつかひ)にいひ付(つけ)て、悉く、巣をとらせ、遙(はるか)の㙒辺[やぶちゃん注:「のべ」。]に捨(すて)させければ、其後は、何の事もなかりしとかや。

[やぶちゃん注:「女郞蜘(ぢやらうぐも)」節足動物門 鋏角亜門蛛形(クモ)綱蛛形(クモ)目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata。ご存じのこととは思うが、非常に攻撃的でしかも視力も低く、交尾の際に相手の♂を餌と誤認して捕食してしまうこともある。ウィキの「ジョロウグモ」によれば、『視覚はあまりよくないため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知するが、大型の獲物は巣に近づいて来る段階で、ある程度視覚等により捕獲のタイミングを整え、捕獲している。巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー』(echo:反響振動)『により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲している。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう』に『処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれ』、『吊り下げられ』て『数日間かけて随時』、『捕食される。獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕食する。捕食は頭から食べていることが多い。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えても』、『これも食べる』。『雄は雌の成熟前から雌の網に居候し、交接のタイミングを待つ』、『交接の』八十%『以上は雌の最終脱皮をしている間に行われ、それ以外では』、『雌の摂食時に行われる。これらの時期は、雌の攻撃性が弱くなっているため、雄も安全に交接を行える』からである(それ以外の目的もある。後述される)。『他方で複数の雄と交接した雌では、その卵塊の』八十%『が最初に交接した雄の精子で受精したものであることがわかっており、雌が成体になる最終脱皮を交接の機会とすることはその意味でも有効である』。『雌の網には複数の雄が見られるが、これらの雄の間で闘争が行われることも知られる。先入の雄はそれ以降に侵入しようとする雄を排除しようと行動し、体格が違う場合は』、『大きい方が勝つ。同程度の場合、闘争が激化し、噛み付くことで足を奪われる雄が珍しくない。闘争の結果』、『振り落とされた雄が網に引っかかり、それを雌が食べてしまう例も見られる』。『また』、『ジョロウグモでは、交接した雄がそのまま網に居残ることが知られる。これはより多くの子孫を残すため、交接相手の雌と他の雄との交接を防ぐ目的での行動と考えられている。同属の別種では雄は』一『頭の雌との交接で全精子を消費することが知られている。本種もそうであれば、交接した雄が他の雌を探しに行く意義はなくなる』とある。

「作州高田」当時の美作国真島郡勝山(現在の岡山県真庭市勝山(グーグル・マップ・データ))にあった勝山城は、別名を高田城と称したから、その附近である。

「鄕士(がうざぶらひ)」江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した者。武士の身分のまま農業に従事した者や武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、いざという時には軍務に従った。郷侍。

「いざゝせ玉へ」「いざ」感動詞で誘いを示し、「させたまへ」尊敬の助動詞「さす」の連用形に尊敬の補助動詞「たまふ」の命令形で、この全体の形で連語としてよく使用され、「~なさいませ・お出掛けなさいませ・~お出でなさいませ」という尊敬の意を以って相手を誘(いざな)って行動を促す意を表わす。

「もて扱(あつか)ひ」この場合は「取り扱いに困る・持てあます」の意。]

2019/05/16

太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事

Matuurusyoudayu

 

 

   ○卅二 松浦正太夫猫また問答の事

 備中に松浦正太夫といふ侍あり。常に武勇を逞(たくまし)ふして、甚(はなはだ)殺生を好み、おほく獸(けだもの)の命(いのち)を取事、數年(すねん)なりし。

 一夜(あるよ)の事なりき。

 いつものごとく、夫婦、奧の間に臥居(ふしゐ)けるに、女房、俄に物に襲(おそは)れ、わなゝきければ、正太夫、おどろき覚(さめ)て、其体(てい)をみるに、居間を、手足にて、這步(はひあり)き、口ばしり、いひけるは、

「扨も、御身は情なき者かな。われ、おことの爲に仇(あだ)となりし事もなきに、能(よく)も殺せし。此恨み、はれやらねば、今、汝が妻の皮肉に入たり[やぶちゃん注:「いりたり」。]。見よ見よ、十日の内には責殺(せめころ)さんぞ。」

と、正太夫を白眼付(にらめつけ)ければ、家内(かない)の者は此体(てい)を見て、恐れあへるぞ理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りなる。

 され共、正太夫は心剛(こゝろがう)なる男なれば、打笑つて、いはく、

「おのれ、今、わが妻に取(とり)つき、樣々に口ばしれども、我、今迄殺せし惡獸(あくじう)、かぎりなければ、いかなる獸(けだもの)やらんもしらず。我、常に殺生を好むといへども、あへて咎(とが)なきを、殺さず。まづ、おのれは、何といふ獸(けだもの)ぞ。名乘るべし。」

と、いふに、伏したる女房、

「すつく。」

と、立(たち)、

「何。咎なきは殺さぬとや。われは、生駒八十介(いこまやそすけ)殿に、久しく育てられし、猫なり。昨日(きのふ)の暮方(くれがた)、何心なく緣先に伏(ふし)ゐたりしを、おこと、後(うしろ)に來たりて、情なくも、さし殺しぬ。かく、無罪の殺生をしながら、何とて、僞るや。」

と、

「はつた。」

と、ねめ付(つく)れば、正太夫、これを聞き、大きに怒つていふ樣、

「扨は。己(おのれ)は八十介が家の古猫(ねこ)なるや。おのれこそ、ちかき比(ころ)、さまざまに變化(へんげ)して、人を惱ませし事、限りなし。我、此事を慥(たしか)に、知る。此故に、昨暮(さくぼ)、折を得て、害しぬ。然るに、其恨(うらみ)をなさんため、妻を苦しめ、殺さん事、甚(はなはだ)以て、いはれ、なし。誠(まこと)、恨みをなさんとならば、など、我に付て仇を報ぜんや。」

と、いへば、答へていふやう、

「我も左はおもへど、おこと、心剛なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いかに窺へども、其間(そのひま)を得ず。此故に、妻に付し。」

と、いふ。

 正太夫、笑つていはく、

「畜生なればとて、比興至極の仕業(しわざ)かな[やぶちゃん注:「比興」は卑怯の意がある。]。既に己(おのれ)が產(うみ)たる子猫、八十介(やそすけ)方に數多(あまた)あれども、咎(とが)なければ、殺さず。然るに、恨みなきわが妻を苦しめ殺さん事、人間の道にして、殊にはづる所なり。よしよし、我が妻を殺すならば、我、又、汝の產たる子猫ども、なぶり、さいなみ、殺すべし。我、是れを殺す心はなけれども、おのれ、道に違(たが)ふゆへに、われ、又、止む事を得ざるなり。」

と、理を盡していひければ、俄におどろく風情にて、

「あら、かなしの仰せやな。然らば、御身の妻を殺すまじ。子共が命を助け玉へ。」

と、身をちゞめ、歎きしかば、正太夫、打點頭(うちうなづ)き、

「さあらば、遺恨をはらして、此所を、はやはや、離魂(りこん)すべし。我、汝が爲に成仏得脫(じやうぶつとくだつ)の法事をなして得さすべし。然るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、前生(ぜんしやう)の惡行(あくぎやう)、滅して、仏果を得べし。」

と、いひければ、

「扨々、有難きおほせやな。われ、畜生と生まれながら、人間に近付(ちかづき)、其家の寵愛ふかしといへども、更に恩顧を、しらず。剩(あまつさへ)年經るに從ひ、變化(へんげ)自在をなす。妙所(みやうしよ)に至れば、人を苦しめ、たぶらかす。是れ、倂(しかしながら)、わが生得(しやうとく)の因緣なれば、奈何(いかん)ともする事、なし。必ず、年經りたる猫は、われに限るべからず。然るに、今、有り難き示しによつて、邪氣偏執(へんしう)の角(つの)も折れぬ。必ず、御言葉を違(たが)へ玉はず、畜生道を遁(のが)るべき法事をなしてたび玉へ。今は、いとまを申なり。」

と、いひも終らず、緣先へ、

「つかつか。」

と出る[やぶちゃん注:「いづる」。]、と、おもへば、妻は、かしこに倒れしを、人々、助け抱き入(いる)れば、むかふの方の叢(くさむら)に、火の魂(たま)、飛(とん)で、炎(ほのほ)を顯はし、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせぬ。

 それより、正太夫は約束のごとく、跡を念比(ねんごろ)に吊(とぶら)ひやりければ、其後(そのゝち)は、何の災(わざはひ)もなくして、此正太夫、次第に立身しければ、

「扨は。此猫が佛果を得たる有難さに、災(わざはひ)變じて、此家(いへ)に幸(さひはひ)を守るならん。」

と、皆(みな)人、いひあへりけるとなり。

[やぶちゃん注:「備中」現在の岡山県西部。

「松浦正太夫」不詳。

「生駒八十介」不詳。]

2019/05/15

太平百物語卷四 卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

太平古物語卷之四

   ○卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

 備後の國尾道に小左衞門といふ者(ひと)あり。代々、冨有(ふゆう)の家にてありける。

 其親を觀勇(くはんゆう)と申せしが、此觀勇の父、故なくして、竹といひし召遣ひの女を、罪なきに罪におとし、剩(あまつさへ)、食物(しよくもつ)をたちて、なぶり殺しにせられけるが、此竹、死せんとせし時、苦しき眼(まなこ)を開きて、いひけるは、

「此恨(うらみ)、必ず、此家(いへ)のあらんかぎりは、おもひしらせん。」

と叫びて果(はて)しが、其死㚑(しりやう)、觀勇が父に付(つい)て、終に殺しけるに、猶も、末期(まつご)の言葉のごとく、又、觀勇をも惱(なやま)しける。

 觀勇、次第によはり、今はの限りとなりて、一子小左衞門を招きて申しけるは、

「われ、常に佛神(ぶつじん)を祈り、此災(わざはひ)を遁(のが)れんとすれ共、終に又、竹が爲に命を失ふなれば、汝、此家を相續し、能(よ)く能く佛神を信じ、貧しきものに慈悲を与へ、此災を遁るべし。」

と云終(いひおは)りて、死しけり。

 小左衞門、ぜひもなくなく[やぶちゃん注:ママ。「是非も無く」と「泣く泣く」を掛けたものととっておく。]、父を㙒邊におくり、追善殘る所なくして、一周忌をも念比(ねんごろ)に營み侍りしが、其翌(あけ)の朝、座敷に出(いで)て、前裁(せんざい)を詠(なが)め居(ゐ)けるに、疊より壁・柱等(とう)に至る迄、血、おほく、ながれかゝりてあり。

 小左衞門、

『こは、いかに。』

と思ひながら、私(ひそか)にこれを拭(のご)ひ取りて、家來の者にも、ふかくかくし居たりしが、次の日、何となく居間をみるに、爰(こゝ)も又、疊より板數に至るまで、夥しく、血に染(そみ)たり。

 小左衞門、大きにあやしみ、今は力なく、家來を招きて、「しかじか」のよしを語れば、家内(かない)の者、おどろき、其邊(そのあたり)見るに、血の付たる所、少しもなければ、此よしをいふに、小左衞門、腹を立(たて)、

「何条(なんでう)、これほどに血の付たるを、汝抔(なんぢら)が眼(め)には見へざるや[やぶちゃん注:ママ。]。はやく、拭(のご)ひ取るべし。」

と、いふにぞ、是非なく、小左衞門が差圖(さしず)に任(まか)せ、爰(こゝ)かしこ、ふけば、小左衞門、みて、

「雜巾(ざうきん)までも血にしたゝりぬ。取替(とりかへ)て、拭(のご)ふべし。」

と、いふ。

 元來、血なければ、雜巾も、ぬれず。

 されども、主命、(しうめい[やぶちゃん注:ママ。])黙(もだ)しがたく、取かへて、ぬぐへば、又、臺所に出(いで)て、同じく、前の如くに、いひ付(つけ)ぬ。

 それより、日每に、かく、いひ付けるまゝ、家來の者ども、あきれはて、

「こは、只事ならず。偏へに昔の竹が遠恨(ゑんこん/とをきうらみ)ならめ。」

と、私(ひそか)におそれ合(あひ)けるが、後(のち)には家來の者も、次第に疎み去(さり)て、終には小左衞門一人となり、自身、家内をふき廻りしが、日每に、血かさ、增(まさ)りて、小左衞門が座する所も、皆々、血に染(そみ)ければ、衣類にも、こぼれかゝりしを、

「ひた。」

と、引きさき、捨てぬ。

 此よし、一家(いつけ)[やぶちゃん注:一族の親類縁者。]の人々、聞きて、淺ましくおもひ、訪ひ來たれば、小左衞門いはく、

「誠に一類とて、能(よく)ぞ尋(たづね)給ひける。御志しは過分ながら、御らんのごとく、家内(かない)、血に漲(みなぎ)りて、尺寸(せきすん)の間(ま)も坐(ざ)し給ふ所、なし。早く歸り給ふべし。」

と、いふ。

 然(しかれ)ども、他(た)の人々、更に一滴も、血をみる事、なく、只、小左衞門が目にのみ、家内、何方(いづかた)も、血ならずといふ事なし。

「此上は、とに角に、小左衞門、心に背(そむ)かんも、いかゞなり。」

とて、皆々、歸りしが、余り、痛ましくて、食物(しよくもつ)、奇麗(きれい)にこしらへさせ、使(つかひ)の者にいはせけるは、

「此器物(うつはもの)は、能(よく)々改め、淸淨(しやうじやう)にさふらふ。きこし召(めし)候へ。」

と、つかはしければ、小左衞門、悅び見て、

「實(げに)々、奇麗なる食物かな。」

とて、少々、喰(くらひ)ける内に、はや、血、こぼれかゝりぬれば、もはや、喰ふ事、叶はず。

「淸めすゝがん事も、此方(こなた)にては思ひもよらず。」

とて、皆々、歸しぬ。

 かくする事、既に一年斗(ばかり)にして、終に、やせ衰へて、身まかりぬ。

 子孫なければ、其家(そのいへ)、斷絕しけり。

 誠に、無罪の者を殺したる恨(うらみ)によつて、親子三代、とり殺しけるこそ、恐ろしけれ。

[やぶちゃん注:以下は、全体が明らかに少し小さな字で書かれてあって、しかも全体が本文文字で二字分(ぶん)下に記されてある(ブログ・ブラウザの不具合を考えて引き上げてある)。無論、本文同様、実際には改行はなく、ベタで書かれてある。]

 或人のいはく、

「世上に『播磨の皿(さら)屋しき』といひ傳へしは、実は、此所の事なりける。」

とぞ。

[やぶちゃん注:実は原本では本文標題は「卅四」と誤記している。流石におかしいので訂した。またしても(「太平百物語卷三 廿八 肥前の國にて龜天上せし事」にもあった)最後の添書きが何とも面白い装置として働いている。殺された下女の名は「竹」で、これは「播州皿屋敷」の「菊」に応じており、「播州皿屋敷」のみならず、現存する皿屋敷譚の最古のもの(但し、そこでは皿ではなく、主君から拝領した五つ一組の鮑の貝盃)とされる、室町末期に永良竹叟(ながらちくそう)が書いた「竹叟夜話」(天正五(一五七七)年成立)の作者の名前と書名にも響き合う。食事を与えずに、なぶり殺しするというのは、「食物」で「皿」と縁語になっており、それが実際に後半分では血がしたたる「器物」=「皿」として行間に浮かび上がるのである。しかも、作者が最後の添書きで言いたかった真相はと言えば、

元の話は実は

――「皿」屋敷――ではなく

――「血」まみれの――「血」屋敷

であったのだ!……という「チョン!」(「血」一画目の点)という柝(き)が入って終わる、なかなかに手の込んだ仕掛けなのである。私は幼少期よりかねがね、「皿屋敷」譚の、例の、「一ま~い、二ま~い、……」という皿数えの声の妖気というのが、何と言うか、所謂、怪異の鋭い迫力としては、いやに間延びしていて、上質の怪奇シークエンスとは思えないと感じ続けてきた。寧ろ、「皿屋敷」譚の読者・観客の期待部分は、下女を猟奇的にいたぶって惨殺するシークエンスなのではないかとさえ思っているのである。本話のそれは、「罪なき罪」と、前振りの動機部分を思いっきりよくカットし、飢えさせた上で嬲り殺しとする残虐の極致という点でしっかりとそこをも押さえあり、血に塗(まみ)れた屋敷が小左衛門にのみ現出するというマクベス夫人もびっくりの、重篤な精神疾患か脳梅毒のような幻覚と、そのために遂に物を食うこと出来なくなって飢えたままに無残に衰弱死するという顚末は、「皿屋敷」より遙かに残虐でしかも怪異に富んでいて、よい、と思うのである。]

2019/05/14

太平百物語卷三 三十 小吉が亡妻每夜來たりし事

Kokitibousai

 

 

   ○三十 小吉が亡妻每夜來たりし事

 伊賀に小吉といふ者あり。

 年比(としごろ)、都に通ひて商ひをしけるが、上京(かみぎやう)彌次(やじ)兵衞といふ者の女(むすめ)、みめ美(よか)りしを、いつのほどよりか、人しれず、契りけるに、後(のち)々は親々もしりて、幸(さひはひ)と、ゆるし、与へければ、小吉、かぎりなくよろこび、夫(それ)より、伊賀に連下(つれくだ)り、いよいよ、夫婦(ふうふ)の交(まぢは)り厚く、偕老同穴のかたらひ、又、類(たぐ)ひなかりしかば、一家(いつけ)の人々も共に悅び、次㐧に、家、はんじやうしけるが、此女房、只(たゞ)かり染(そめ)に煩ひ出し、日每に病(やまひ)おもりて、今ははや、賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]すくなふ[やぶちゃん注:ママ。]見へければ、小吉、いとかなしくて、晝夜(ちうや)傍(そば)をはなれず。

 醫療・祈禱、心を盡しけれ共、生者必滅(しやうじやひつめつ)の理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])り遁るべきにあらずして、終に空しくなりければ、小吉は、人めも打忘れ、書口說(かきくど)きけるは[やぶちゃん注:「搔口說」の当て字。]、

「誠に御身に心を通(かよは)して、互におもひ思はれまいらせ、『頭(かしら)に霜をいたゞく迄』と、連理の契り、枝、朽ちて、かく、あへなく成玉ふ上は、我、存命(ながらへ)て何ならん[やぶちゃん注:「ながらへ」は「存命」二字へのルビ。]。はや、追付(おつつき)參らせ、死出(しで)三途(づ)をも、誘(いざな)ひ申さん。」

と、「既に自害」と見へしを、人々、あはて、おしとゞめ、樣々に諫(いさめ)ければ、小吉も今は詮方(せんかた)なく、それより、一間に閉籠(とぢこも)り、一向、人にも出合(いであは)はず、明暮(あけくれ)、亡妻をのみ、乞(こひ)したひければ、一人の老母をはじめ、一族の人々、打寄(うちより)て、

「かくては、行末、如何あらん。」

と氣をいためけるが、或夜、小吉がふしどに、物語する体(てい)の聞へしまゝ、老母、 あやしく思ひて、

「そ。」

と、のぞき見るに、小吉、一人にて、他人なし。

 其子細をきけば、偏(ひとへ)に死失(しにうせ)たる女房と、かたらふ体(てい)なりしが、小吉が聲のみして、亡妻の姿も聲もなかりしが、それよりして、每夜每夜、かくの如くにて、小吉は、身体(しんたい)瘦衰(やせおとろ)へ、次㐧次㐧に弱りはてければ、樣々の醫療又は有驗(うげん)の山伏を請(しやう)じ、祈り、加持すといへども、更に驗(しるし)もなければ、老母の歎き、いはん方なく、一家(いつけ)の人々、打ち寄(うちより)て、

「如何(いかゞ)せん。」

とぞ、煩ひける。

 然(しか)るに、其比(そのころ)、都(みやこ)北山に、道德堅固の律僧、おこなひすまし坐(おは)しけるを聞出(きゝいだ)し、一門の人々、急ぎ、彼(かの)所に行(ゆき)て、ありし次㐧を語り、御祈禱(ごきたう)を願ひ申ければ、此僧、始終を聞玉ひ、

「誠に痛はしき事なれば、祈禱をして參らせん。まづ、病人の樣体(やうだい)を見るべし。」

とて、此人々と打連(うちつれ)て、伊賀に立越(たちこへ[やぶちゃん注:ママ。])玉へば、老母を始め、一家中(いつけぢう)、

「こは、有難し。」

と請じ奉れば、頓(やが)て小吉が病下(びやうか)に至り、其有樣をつくづく御覽じ、小吉に仰有(おほせあり)けるは、

「誠(まこと)や。御身、近比、愛室(あいしつ)に後(おく)れ玉ひしに、猶も、亡魂、御身に付そひ玉ふとやらん。いと、しほらしき事にこそ侍れ。然(しかれ)ども、未(いまだ)其虛実、分明(ぶんみやう)ならず。是を正しく知るに、われ、一つの靈符(れいふ)あり。今宵、亡妻來り給はゞ、此(この)封(ふう)ぜし物を、折能(おりよく)出(いだ)し見せ玉ひ、『いかなる物や此内にある。さして見玉へ』と問(とひ)玉へ。眞實(しんじつ)、おことの妻ならば、必(かならず)知つて、答へ玉はん。若(もし)又、答(こと[やぶちゃん注:ママ。])ふる事、能はずんば、㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]・魔魅(まみ)[やぶちゃん注:人を誑(たぶら)かす魔物。]の類(たぐ)ひ、御身を、たぶらかし申なり。御身とても、此内(うち)を見玉ふ事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。」

とて、能々[やぶちゃん注:「よくよく」。]封じて、小吉に渡し玉へば、小吉、御符(ごふう[やぶちゃん注:ママ。])を押(おし)いたゞき、

「誠に有難く侍(さぶ)らふなり。恥かしながら、亡妻、在世に申かはせし事さぶらへば、死しても我に付そひ侍る事、更に疑ひなく候へ共、御示(しめ)しに任(まか)せ、猶も試み申さん。」

とて、其夜(よ)を待ちける。

 案のごとく、妻のゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。]、每(いつも)の刻限に來りて、打かたらふ。

 時に、小吉、いひけるは、

「誠に御身死すといへども、猶、我に付添玉ふ心ざしの有難さよ。其心、弥々(いよいよ)実(まこと)ならば、此(この)封ぜし内に、いかなる物や、ある。敎へ玉へ。」

と、かの幽㚑(ゆうれい)が前にさしおけば、此幽㚑、急に飛(とび)のき、身をふるはし、

「あら、いまはしの物や。はやはや、取捨(とりすて)たび玉へ。」

と、いと苦しげに聲ふるはし、邊りへ更によりつかねば、次の間(ま)に窺(うかゞ)ひ居玉ふ律僧、

「さればこそ。」

と、水晶の珠數(じゆず)、

「さらさら。」

と押(おし)もみ、「惡魔悉除(あくましつじよ)の法」を修(しゆ)せられければ、忽(たちまち)、白狐(びやくこ)と化(け)して、搔消(かきけす)やうに、失(うせ)にけり。

 小吉、このあり樣を見て、茫然とあきれたる所に、律僧、たち出、さとして仰(おほせ)けるは、

「御身の妻は、とく、成仏して中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。意味は既注。])には居玉はず。然(しか)るに、御身、愛執(あいしう[やぶちゃん注:ママ。])の心、ふかきゆへ、㙒干(やかん)の見入て[やぶちゃん注:「みいりて」。]、かくは惱し申たり[やぶちゃん注:「惱」には「なや」のルビのみで「ま」を落としてしまっている。]。今より惑(まどひ)を解(とき)て、本心に元づき玉はゞ、一家(いつけ)の相續、且(かつ)は、先祖・眼(ま)のあたりなる老母への孝心ならめ。」

と、さまざまに敎誡(きやうかい)し玉へば、小吉も、心の闇はれて、此間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、迷ひの雲、淸朗(せいらう)として、秋の月のくまなきに逢(あへ)るが如くなりければ、日を經て快復し、家業をつとめ、老母をいたはり、亡妻の跡をも吊(とふら)ひければ、次㐧次㐧に繁昌し、目出度く、さかへける、となり。

「誠に有り難き御僧(おんそう)の行跡(ふるまひ)かな。」

とて、聞(きく)人、尊(とうと)みけるとかや。

 

 

太平百物語卷之三終

[やぶちゃん注:一読、お判りと思うが、これは明の瞿佑(くゆう)作の志怪小説集「剪燈(せんとう)新話」の中の、知られた一編「牡丹燈記」を下敷きに妖狐譚にずらし、しかもハッピー・エンドに改変したものである。今は近代の三遊亭円朝作の「牡丹燈籠」がよく知られるが、江戸時代にはこの「牡丹燈記」が非常に好まれ、多くの翻案(私の「諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事」を参照。「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集である。但し、著者・編者ともに不詳である)や怪談話の粉本とされ、井原西鶴・浅井了意・山東京伝・鶴屋南北・柳亭種彦らによって盛んに小説や戯曲に改作されている。]

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