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カテゴリー「怪談集」の159件の記事

2017/04/28

「想山著聞奇集 卷の貮」 「麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事」

 

 麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事

 

Yamanbanoaminoke1

 

[やぶちゃん注:標題の読みは「目錄」より。図の右キャプションは、

 

 神田何某(かんだなにがし)よる差越(さしこし)たる圖(づ)

 

である。本文参照。]

 

Yamanbanoaminoke2

 

 我(わが)尾張の國春日井郡水野村の庄屋方に、焚殘(たきのこ)りの薪(たきぎ)の内なる接骨木(にはとこ)に似たる細き木に、【大き杖より少し太きほどの長さ三尺及びも有る枯木の樣にて枝も付居(つきをり)たる木なり。】長き女の髮の毛の樣なるもの幾筋も生(はえ)て有(あり)しを、風(ふ)と見出し、餘り珍敷(めづらしき)物とて、同所御代官陣屋へ訴出(うつたへいで)たり迚(とて)、大森何某なる人、名古屋へ持出(もちいで)たるを見しに、圖のごとく、成程(なるほど)、全く長き髮の毛、所々に生(はえ)て有(あり)。如何なるものとも評議付(つけ)かね、本草功者(こうしや)成(なる)ものなども居合(ゐあは)せたれども、唯珍敷と斗(ばかり)いふのみにて、辨(わきま)へ知り難くと、舊友神田何某、彼(かの)圖を文(ふみ)にそへて差下(さしくだ)しぬ。此(この)水野の邊(あたり)はすべて山中にて、柴(しば)薪(たきぎ)抔、所々にて苅取(かりとる)る故、何處(いづく)にて伐來(きりきた)りしにや分り兼たるとの事也。是は文政八年【乙酉(きのととり)】の事なり。記し置(おき)て異聞に備ふ。

 又、參州岡崎より西南一里程隔たる所に、大西村德性寺と云(いふ)寺有。【同國平地御坊の末寺なり。】右寺の其の方の庭前(ていぜん)に纔(わづか)斗(ばかり)の築山(つきやま)有。此所(ここ)の諸木には、幹並(ならび)に小枝にも、細き總(ふさ)の如き白苔(しらごけ)の長さ七八寸も有て、全く白髮(しらが)の如くにして、小枝などは圖のごとく双方へ見事に下(さが)り居(をり)たるも多く、又、生懸(はえかか)りなども有。同じ地續きにても、垣一重(ひとへ)隔たる隣家の雜木(ざふき)には更になく、右寺中にても、墓所などに生居(はえをり)たる木には少しもなし。その諸木と云(いふ)は、紅葉(もみぢ)・躑躅(つつじ)・柘植(つげ)・わくらなど色々あれども、いづれの木にも生居たり。全く地氣(ぢき)の然らしむるところなるか。珍敷事ゆゑ、心を留(とめ)て見來り置しなり。前文と、先(まづ)、似よりたる事とて、名古屋鶴重町眞廣寺の老僧の物語りなり。是を以て見る時は、か樣の類(たぐひ)は、隨分、諸國に有(あり)て珍敷からぬ事成(なる)歟(か)。聞(きき)まほし。

[やぶちゃん注:「麁朶」「粗朶」とも書く。切り取った木の枝。薪や諸対象の支えとしての添え木などに用いる。

「春日井郡水野村」現在の愛知県瀬戸市のこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。この木は民俗学的には興味深い木なのであるが、「似たる」なのでこれ以上は注さない。

「長き女の髮の毛の樣なるもの」これは恐らく、古くから「山姥の髪の毛(やまんばのかみのけ)」と呼ばれているキノコ類のライフ・サイクルに於ける一形態(器官)である「根状菌糸束(こんじょうきんしそく)」であろう。木に女の髮の毛が生えるとして、しばしば怨念話などを附会させた怪談として今でも聴くが、「株式会社キノックス」公式サイト内の「きのこの雑学」のこちらに以下のようにある。『ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)とは、特定のきのこ(子実体)を指す名前ではなく、樹木(小枝)や落葉上に「根状菌糸束」』(一般のキノコ類が我々が「きのこ」と呼んでいる、目に見える一般的にあの傘を持った子実体を形成する前段階として、地中や樹皮下等に形成されるもので、白色・褐色・黒色を呈し、直径数ミリメートルの紐状・糸状・根状のもの)『と呼ばれる独特の黒い光沢を持った太くて硬いひも状の菌糸の束に対して、伝説の奥山に棲む老婆の妖怪である「山姥(ヤマンバ)」の髪の毛になぞらえて命名されたもの』だとある。『この黒色の根状菌糸束を形成するきのこには、ホウライタケ属』(菌界担子菌門菌蕈(きんじ)亜門真正担子菌綱ハラタケ目ホウライタケ科ホウライタケ属 Marasmius)『やナラタケ属』(ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属 Armillaria)、『さらには子のう菌であるマメザヤタケ属』(子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱クロサイワイタケ亜綱クロサイワイタケ目クロサイワイタケ科マメザヤタケ属 Xylaria)『のきのこが含まれ、林内一面に網目状に伸びることもあれば、数メートルの長さに達するものまであ』る、とある。『通常、きのこの菌糸は乾燥に弱い』『が、ヤマンバノカミノケと呼ばれる菌糸束は細胞壁の厚い丈夫な菌糸が束の外側を保護していることから、乾燥や他の微生物からの攻撃に対して強靭な構造となってい』るとし、さらに『ヤマンバノカミノケの子実体を発見し、根状菌糸束であることを日本で始めて明らかにしたのは、世界的な博物学者として知られている南方熊楠で』あると記す(下線やぶちゃん。因みに、私は「南方熊楠」の電子化注も手掛けている)。『ヤマンバノカミノケは丈夫で腐り難いことから、アフリカのギニヤやマレー半島の原住民などは織物に利用しており、日本では半永久的に光沢があることから、神社やお寺などの「宝物」として奉納しているところもあるよう』だともある。あくまで怪談でないと御不満な方は、例えば、個人ブログ「俊平の雑学研究所」の「柿の木に生える恨みの髪の毛」などを、どうぞ。個人的にはの「木の断面から髪の毛???などはホンマに髪の毛に見えるで!

「文政八年」一八二五年。

「參州岡崎」旧三河国のほぼ中央に位置する、現在の愛知県岡崎市。

「大西村」現在の愛知県岡崎市大西。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「德性寺」同岡崎市大西一丁目七番地五に「徳正(とくしょう)寺」という浄土真宗の寺なら、現存する。

「平地御坊」「ひらちごばう」。旧岡崎城南西近くの岡崎市美合町(みあいちょう)にある浄土真宗本宗寺の別称。平地山の麓にあったかららしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「細き總(ふさ)の如き白苔(しらごけ)」子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea を見当にしてみたが、どうも画像を見る限り、それらしくないし、ロケーション(棲息域)もどうも同属が分布する場所としては相応しくない気がする。寧ろ、先の根状菌糸束は白いものの方が一般的のようだから、それを第一同定候補としておく。他にピンとくるものがあればお教え願いたい。

「名古屋鶴重町」現在の愛知県名古屋市中区錦三丁目。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「眞廣寺」現在の中区新栄に同名の寺があり、ここ(グーグル・マップ・データ)は旧鶴重町とは近いことは近い。宗派も同じく浄土真宗。]

 

2017/04/26

「想山著聞奇集 卷の貮」 「辨才天契りを叶へ給ふ事 附 夜這地藏の事」

 

 辨才天契りを叶へ給ふ事

  附 夜這地藏の事

 

Benten1

 

 元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某有。此人若きころ、江の島辨財天を格別に信仰なし、或年、かの嶋へ參籠してつらく思ふ樣(やう)、年頃、斯の如く信心なし奉れども、いか成(なる)尊容の天女にや、正眞(しやうしん)の御姿を拜したてまつらず。何卒、先(まづ)一度尊容を拜し奉り度(たし)と、大願を發し、頻りに其事を念じ奉るに、天女も祈願の切なるを納受(なうじゆ)なし給ひたるにや。或夜、内殿(ないでん)の扉を少し開き、差覗(さしのぞ)きて拜まれさせ給ふ。其御容貌の美敷(うつくしき)御事は申(まうす)迄もなく、寶冠の輝き、御衣(おんぞ)の美麗、見るもまばゆき御有樣にて、しかも女躰(によたい)の御事なれば、威あれども猛くましまさず。さはらば靡(なび)かせもし給はん[やぶちゃん注:「なびかす」は「気の動くままに従わせる」であるから、表面上は「触れなば、それに従って、身をなよなよとなびかせんとする」の意であが、他に「相手を自分の意に従わせる」の謂いもあるから、ここは「あたかも彼に身を任せるかのような媚態のポーズをとって見せる」の意も暗に含んでいる。深読みと思われるならば、以下の展開を読まれよ。]と見あげ奉りしに、更に天女とは思はれ給はず。昔の西施・貴妃などもかゝる有さまにて有しにやと、忽ち懸想(けさう)を發して、夫(それ)よりは晝夜戀(こひ)慕ひ奉りて、忘れ兼(かね)、あはれ拜まれさせましまさゞりしかば、かくの如き妄念をも發す間數(まじき)に、悲しき事とは成(なり)たり。元(もと)、わが誓願の空(むな)しからざるを不便(ひびん)に思召(おぼしめし)、納受なし給ひて、斯(かく)拜(をが)まれさせ給ひたる上は、天女の神通(じんつう)を以て、我等が妄想の切なるをも不便に思召、何卒、一度枕をかはし、深き煩惱を救ひ給へと、其後は晝夜他事(たじ)なく[やぶちゃん注:一つのことに専念して他のことを顧みず。余念なく。]、唯(ただ)此事をのみ祈願なし奉りしに、天女も誓願の切なるを默止兼(もだしかね)給ひたるにや、或夜、寢屋へ忍び來り給ひて託(たく)し給ふは、天女と現ぜし上は、凡夫(ぼんぷ)の如き色情の戲れは思ひもよらざる事なれども、汝が念願の切なるを默止兼て、今宵、願(ねがひ)の如く、一度、枕をかはし遣すべしとて、心よげに寶帶(ほうたい)を解(とき)[やぶちゃん注:単に羽衣のような美しい着衣の帯を解(ほど)くとも採れるが、ここは弁天であるから、被った宝冠の紐を解(と)き、帯を解(ほど)いてであろう。]、錦衣(きんい)の裳(もすそ)を掲げ、莞爾(くわんじ)として夜着の内へ入(いり)給ふ有樣(ありさま)、人間に少しも變らせ給はざれども、其玉顏(ぎよくがん)の美しき事、譬(たとふ)るに物なく、御肌(おんはだ)へのえならぬ匂ひは、伽羅(きやら)・麝香(じやかう)にもまさり、蓬萊(ほうらい)の仙女、上界の天女にも、斯迄(かくまで)の美人は二人とは有間敷(あるまじき)と、氣も魂(たましひ)も奪はれ、覺(おぼえ)なく添臥(そひふし)奉りしに閨中(けいちう)の御有樣は、何も人間に變る事なく、如何にも情相(あひ)細やかにて、首尾殘る所なく、世に珍敷(めづらしき)大望を遂(とげ)たり。然るに凡夫の淺ましさには、逢(あひ)奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥(うた)のごとく、彌(いよいよ)やるかたなく、觸(ふれ)奉りたる御肌の匂ひ、幾日も我身に殘りて苦敷(くるしく)、いかなる罪を蒙るとも、今一度の逢瀨を免(ゆる)させ給へと、一筋に慕ひ奉り、晝夜の差別なく念じつゞけたり。然るに又、念願の甚敷(はなはだしき)にや、現來(あらはれきた)り給ひて、再び枕をかはして打解(うちとけ)給ふ。其有さま、初にも增(まさ)りて嬉しく、かはゆく覺え奉りて、いつ迄も盡(つき)せず替らず、契(ちぎり)を籠(こめ)て給へかしと、一づに口説(くど)き續けたるに、天女もうるさくやおはしけん、我等は人間のごとく交りをなすべき身にあらねども、汝が二つなき命にもかへ、只管(ひたすら)、我を祈る心の切なるにめでゝ、一度ならず二度迄も契りを籠(こめ)たるは、汝の妄念を晴(はら)させんためなるに、いつ迄も飽(あく)事のなく、次第に思ひを重ね望(のぞみ)を增(ます)は、さりとは[やぶちゃん注:「これは、まあ! 何と!」。]、汝はわきまへのなき強慾邪淫の罪深き、足(たる)事をしらざるもの也(や)。左程のものとも思はずして、交りをなし、身を穢(けが)したるは、全く我等が誤りなり。よつて、過(すぎ)し節と今宵との汝が精液は、悉く返し戾すなりとて、夜具の上へ打付(うちつけ)給ふて、今より後は、再び我を念ずまじ、若(もし)、此上(このうへ)、念願を懸(かく)るものならば、初め汝が祈誓の如く、二つなき命を亡(なく)し、永く無間(むげん)地獄に墮し遣はすべきぞとの給ひて、天女は消失(きえうせ)給ひたり。是(これ)皆、まさしき事にて、夢にてはなく、殊に打付給ふ夜具の上に、固りる精液の澤山に有(あり)たるは、怪敷(あやしく)とも、恐敷(おそろしく)とも、實(げ)に縮入(ちぢみいり)たる事にて有しとて、後々は懺悔(さんげ)して毎々(しばしば)咄したるを聞(きき)おきたりとて、其(その)昔(むか)し或人の、予が友、内藤廣庭に折々咄したるを、又、予に咄したり。かの江の島の別當岩本院の先祖も、斯(かく)の如く、辨財天に馴染(なじみ)奉りたりとの咄し有て、聞置(ききおき)たれども、昔語りゆゑ、慥成(たしかなる)事を弁(わきま)へ兼(かね)、且は不審も多くて、今記(しる)すことを得ず。續古事談に云(いはく)、張喩(ちやうゆ)と云(いふ)もの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身つねに名所に遊びけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞(きき)て、愛念の心をおこし、見ずしらぬ世の人をこひて、心をくだき身をくるしむ。離宮の深きあとにのぞみては、昔を思(おもひ)て淚をながし、馬㟴(ばくわい)のつゝみのほとりに行(ゆき)ては、いにしへをかなしみて腸をたつ。斯の如く思ひかなしめども、おなじ世に有(ある)人ならねば、いひしらすべきかたなく、徒(いたづら)になげき、徒にこひて、年月をすごすほどに、ある時、夢にびんつら[やぶちゃん注:「みづら(みずら)」に同じい。漢字表記は「角髪・角子・鬟・髻」などで、「みみつら(耳鬘)」の転とされる。上代の男子の髪の結い方の一種で、頭頂で髪を左右に分けてそれぞれ耳の脇で輪を作って束ねた結い方を指す。]ゆひたる童子來(きたり)ていはく、玉妃(ぎよくひ)のめす也、速(すみやか)に參るべしと。夢の中に、心よろこびをなすことかぎりなし。童子を先にたてゝ、やうやう行(ゆく)程に、ほどなく玉妃の宮殿にわたりぬ。たまのすだれを入て、錦のとばりに臨みぬ。玉妃は床(ゆか)[やぶちゃん注:後に掲げる「續古事談」の原典に従った。これは後に「張喩はしもに居たり」とあるように、一段少し高いところに彼女の御座所はあうのである。但し、後のシーンからそこにまた寝台もあるのである。]の上にあり。張喩はしもに居たり。年來の心ざしをのべて、その詞(ことば)、盡(つく)る事なし。玉妃、ねんごろにあはれみ、かたらふこと、人間の女の如し。むつびちかづきて後、其(その)思ひいよいよふかく、玉妃の手をとりてゆかの上にのぼらんとするに、身おもくてたやすく登る事をえず。妃の云く、汝は人間の身也、けがらはしくいやしくして、わが床に登りがたし。張喩、ねんごろにちかづかん事をのぞむ。其時、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて其身を洗浴(せんよく)さしめて後、手を取(とり)て床のうへに登るに、身輕(かろ)くして思ひの如くのぼりぬ。交り臥(ふす)事、よのつねの如し。なつかしく睦間敷(むつまじき)事、すべて言葉も及ばず。別れの思ひ、いまだのべ盡さゞるに、曉(あかつき)の風、やうやくに驚かす。人間(じんかん)にかへらずして、爰(ここ)に止(とど)まらん事を望めども、玉妃さらにゆるす事なし。ゆるさずといへども、その思ひ淺からざるけしき也。後會(こうくわい)を契りて云く、今(いま)十五日有(あり)てそのところ[やぶちゃん注:特定地を秘した意識的ボカシ。]に行(ゆき)て、再びあひみる事をえんと。このちぎりをきゝて後、夢早く覺(さめ)ぬ。別れの淚、枕の上にかわく事なく、空敷(むなしき)床におきゐて泣悲(なきかな)しめども、甲斐なし。其後、十五日を過(すぎ)て、契りし所へ行(ゆき)ぬ。彼(かの)所は廣き野なりけり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、試(こころみ)に是(これ)を問(とひ)ければ、かの童のいはく、けさいまだくらきより此野に有(あり)、朝霧のたへまに、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、是(これ)にもし人をたづぬるもの有(あら)ば、必ず是(これ)をあたへよとて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。かの人の示せし人か[やぶちゃん注:「あの不思議な天女が言っていた人はあなたですか?」。]とて、其書を與へたり。是をきゝて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書を殘せる事を喜ぶ。心を靜めまなこをのごひて、是をひらき見るに、一紙、言葉すくなくして四韻の詩[やぶちゃん注:四箇所の句末で韻を踏む八句からなる律詩。通常、以下のような七言律詩では初句も踏むので五韻であるが、初句は踏まない場合もあり、そもそも「律詩」の大原則を「四韻」とするので問題ない。]を書(かけ)り。その中の一句にいはく、

  天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂  人間集散忽足ㇾ悲

となんありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間もおのづからかよふ。誠に哀れなる事なりと云々。

[やぶちゃん注:「元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某」第九代将軍徳川家重とその子第十代将軍家治に仕え、側用人(明和四(一七六七)年就任)となって権勢を誇った田沼意次は、同年四月を以って二万石の相良(さがら)藩(遠江国榛原(はいばら)郡(現在の静岡県牧之原市))藩主となっている(意次の父意行は紀州藩の足軽に過ぎなかったが、第八代将軍吉宗に従って幕府の旗本となり、嫡子意次の代で異例の出世を遂げた)。天明六(一七八六)年に家治が没し、翌年、第十一将軍家斉(御三卿一橋家当主一橋治済長男で家治の養子となった)は就任、松平定信が老中となると、意次は罷免されて失脚、蟄居・減封が命ぜられ、退隠した意次から家督を継いだ意次の嫡孫田沼意明(おきあき)は陸奥下村藩(信夫郡下村(現在の福島県福島市佐倉下(さくらしも))一万石に転出させられ、相良城も廃城となって天明八年に徹底的に破却されている。その後、相良は天領となったが、文政六(一八二三)年に陸奥下村藩主若年寄田沼意正(意次四男)が相良に一万石の領主として復帰して相良城跡に相良陣屋を構え、幕末まで続いている。本「想山著聞奇集」は想山没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されたものであるから、藩士が「流浪」したからといって、意次失脚・相良藩消滅まで遡ると、六十三年も前の話柄となってしまい、この近過去形の書き出しでは不自然である(と私は思う)。されば、ここは陸奥下村藩主田沼氏というよりも、相良藩復帰後の田沼氏の「藩中」と採る方がより自然であるように思われる。

「江の島辨財天」私の電子テクスト注「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」を参照されたい。そこでも注したが、この現在の神奈川県藤沢市江の島にある江島(えのしま)神社に祭られているこの弁才天像(元は本尊。現在は辺津(へつの)宮(旧下宮)に祀られてある)は女性生殖器がリアルに彫り込まれていることで知られる、やや童女形の裸形像で、通称「裸弁天」と呼ばれる、妙音弁財天像(鎌倉中期以降の作像と推定されている)である。昭和二十八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」によれば、この下宮は建永元(一二〇六)年に宋から戻った慈悲上人良真が将軍実朝に上奏して建てた神社とされ、その弁財天像はそこに良真が建立した宋様の竜宮門の楼上に少女の竜女(乙姫)として造形され、祀られていたものらしい。明治の廃仏毀釈の対象となった折り、誰かが役人の目を盗んで、中津宮の床下に隠し置いて消失を免れたとある。その後、いい加減に管理され、子どもらが生殖器部分を棒で突いたりし、全体も激しく損傷したが、修復されて現在に至っている。なお、当該書は修復前の本像の写真や生殖器の彫琢の細部解説(生殖器の接写写真もあるが惜しいかなマスキングされている)、修復の際の誤謬等、極めて興味深い著作である。一読をお薦めする。]

「伽羅」伽羅(きゃら)油。香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とある。

「麝香」「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus の♂の成獣にある麝香腺(陰部と臍の間にある嚢で、雌を引き付けるために麝香を分泌する)から得られる香料。ウィキの「麝香」によれば、麝香『は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種で』『ムスク(musk)とも呼ばれる』。『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられて』おり、『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることからそれ以前に伝来していたと考えられる。ヨーロッパにも』六世紀には知として知られ、十二世紀にはアラビアから実物が伝来したという記録が残る。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺してその腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からは』凡そ三十グラム程得られる。『これを乾燥するとアンモニア様の臭いが薄れて暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。麝香の採取のために『ジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること』『が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分』はムスコンと呼ばれる物質でこれを〇・三~二・五%程度含有し、ほかに微量成分としてムスコピリジン・男性ホルモン関連物質であるアンドロステロンやエピアンドロステロンなどの化合物を含むが、『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの』約十%程度が『有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち動物性油脂である』。「語源」の項。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり、中国明代の『本草綱目』によると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけつがいを作る。そのため麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり睾丸ではない』。因みに、『ジャコウジカから得られる麝香以外にも、麝香様の香りを持つもの、それを産生する生物に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。霊猫香(シベット)を産生するジャコウネコやジャコウネズミ、ムスクローズやムスクシード(アンブレットシード)、ジャコウアゲハなどが挙げられ』、『また、単に良い強い香りを持つものにも同様に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。マスクメロンやタチジャコウソウ(立麝香草、タイムのこと)などがこの例に当たる』とある。

「逢奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥」権中納言藤原敦忠(延喜六(九〇六)年~天慶六(九四三年)の「拾遺和歌集」(七一〇番歌)の、

 

   題しらず

 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物思はざりけり

 

これは「百人一首」に採られているが、そこでは一般に、

 

 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物思はざりけり

 

とされ、それで人口に膾炙されてしまっている。

「別當岩本院」「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」の当該条と私の注を引いておく。

   *

巖本院(いはもといん) 島の入口(いりくち)、右の方にあり。客殿に、額、巖本院、朝鮮國螺山書すとあり。此島の別當にて、眞言宗、仁和寺の末寺なり。此島に、下の宮・上の宮・本社とてあり。下宮は下の坊司(つかさ)とり、上の宮は上の司とり、本社は巖本院司とるなり。下の坊と巖本院とは妻帶(さいたい)なり。上の坊は淸僧なり。是を江の島の三坊と云ふ。

[やぶちゃん注:岩本院古くは岩本坊と称し、小田原北条氏が厚い信仰を持った室町期から存在し、江戸期には慶安二(一六四九)年に京都仁和寺の末寺となって院号の使用が許され、島内の全社寺を支配する惣別当となった。後、岩本院と上之坊及び下之坊の間では参詣人の争奪に絡む利権抗争が燻り続けるが、寛永十七(一六四〇)年に岩本院が幕府からの朱印状を入手、まず上の坊を、次に下の坊を支配下に置いた。かくして宿坊営業や土産物を始めとする物産管理、開帳や出開帳等の興業事業の総権益を握り、岩本院には将軍や大名家が宿泊するなど、大いに栄えていた。江の島には三重の塔や弁財天像が祀られていた竜宮門等の建物や仏像があったが、明治の廃仏毀釈令によって破壊されてしまう。]

   *

「内藤廣庭」既出既注であるが、再掲する。不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?

「續古事談に云、……」「續古事談」(鎌倉初期(跋文によるなら建保7(一二一九)年)に成立した説話集。先行する同時期の刑部卿源顕兼の「古事談」を受けたものであるが、編者は不詳である)のそれは設定から判る通り、大陸の作品の翻案物で、種本は北宋の秦醇(生没年未詳)の「驪山(りざん)記」「溫泉記」かと推定されている。例によって想山の引用はかなり正確であるが、想山のそれを加工データとして、岩波新古典文学大系版の「古事談・続古事談」の「卷第六 漢朝」当該章(但し、新字体)で校合しつつ、以下に示す。読みは一部にオリジナルに歴史的仮名遣で入れた。

   *

張喩[やぶちゃん注:原典では「張兪」「張愈」とも表記される。]といふもの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身、つねに名所にあそびけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞て、遙(はるか)に愛念の心をおこす。みずしらぬ世の人をこひて心をくだき身をくるしむ。離宮[やぶちゃん注:玄宗が楊貴妃を最初に召し出した温泉のある驪山宮。]の古き[やぶちゃん注:想山は「深き」と誤読している。]あとにのぞみては、昔を思ひて淚をながし、馬嵬(ばくわい)のつゝみのほとりに行ては、いにしへをかなしみてはらわたをたつ。かのごとくおもひかなしめども、おなじ世にある人ならねば、いひしらすべきかたなし。いたづらになげき、いたづらにこひて年月をすごすほどに、あるとき、夢に、みづらゆひたる童子きたりていはく、

「玉妃のめすなり。すみやかにまゐるべし。」[やぶちゃん注:「長恨歌」や「長恨歌傳」等によれば、楊貴妃は仙界に行ってそこでは「玉妃太眞院」などと名乗っていたことになっている。]

と。夢の中の心、よろこびをなす事限なし。童子をさきにたてて、やうやうゆくほどに、程なく玉妃の宮殿にわたりぬ。玉の簾を入(いり)て、錦のとばりにのぞみぬ。玉妃はゆかの上にあり。張喩は下に居たり。としごろのこゝろざしをのべて、その詞つくる事なし。玉妃、ねんごろにあはれみかたらふこと、人間(にんげん)の女のごとし。むつびちかづきて後、其思ひいよいよふかし。玉妃の手をとりて床のうへにのぼらんとするに、身おもくて、たやすくのぼる事をえず。妃のいはく、

「汝は人間(にんげん)の身也、けがらはしくいやしくしてわが床にのぼりがたし。」

張喩、ねんごろにちかづかむ事をのぞむ。そのとき、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて、その身を洗浴せしめて後、手をとりてゆかのうへにのぼるに、身かろくして思(おもひ)のごとくにのぼりぬ。まじはりふすこと、よのつねのごとし。なつかしくむつまじき事、すべて詞も及ばず。わかれのおもひいまだのべつくさざるに、曉の風やうやくにおどろかす。人間(じんかん)にかへらずして、ここにとゞまらん事をのぞめども、玉妃さらにゆるすことなし。ゆるさずといへども、其思ひあさからざるけしきなり。後會を契りていはく、

「今十五日ありて、その所にゆきて、ふたゝびあひみることをえん。」

と。此契(ちぎり)を聞て後、夢早くさめぬ。わかれの淚、枕の上にかわくことなし。空むなしき床におきゐて、なきかなしめども甲斐なし。其後、十五日を過て、契し所へ行(ゆき)ぬ。かの所はひろき野也けり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、こゝろみにこれをとひければ、かの童のいはく、

「けさいまだくらきより此野にあり。朝霧のた絶間(たえま)に、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、『これにもし人をたづぬるものあらば、かならずこれをあたへよ』とて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。彼(かの)人の示せし人か。」

とて、その書をあたへたり。これをききて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書をのこせる事をよろこぶ。心をしづめ。まなこをのごひて、これをひらき見るに、一紙、ことばすくなくして、四韻の詩をかけり。その中の一句にいはく、

  天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂  人間亦散忽足ㇾ悲

[やぶちゃん注:「天上の觀榮は樂しむべしと雖も 人間(じんかん)の聚散(しうさん)は亦(また)悲しむに足る」。岩波版はこのように「亦」であるが、その注に諸本では「人間聚散足ㇾ悲」とあるとあり、想山のそれは誤りではない。その場合は「人間(じんかん)の聚散(しうさん)は忽(すなは)ち悲しむに足る」であろう。]

となむありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間(じんかん)もおのづからかよふ。まことにあはれなる事也。

   *]

 

 

 又、日本靈異記に、和泉國和泉郡血渟上山寺有吉群天女摸像、聖武天皇御世、信濃國優婆塞來住於其山寺、瞻睇之天女像而生愛欲繫ㇾ心ㇾ之、每六時願云如天女容好女賜ㇾ我、優婆塞夢見婚天女像、明日瞻ㇾ之、彼像裙腰不淨染汚、行者視ㇾ之而慚愧言、我願似女、何忝天女專自交ㇾ之、媿不ㇾ語他人【中略】里人聞ㇾ之、往問虛實、並瞻彼像、淫精染穢、優婆塞不ㇾ得隱事而愆具陳語諒委、深信ㇾ之者无感不應也【下略】[やぶちゃん注:底本は一部の返り点が不全なので私が勝手に訂した。]と云々。全く同日の談也。神佛も人の眞實を以(もつて)祈誓するときは、むりなる事にも應じ給ふもの也。まして正直なる事を祈願するにおいてをや。さて是を以て見る時は、小野小町の少將に打解(うちとけ)ざりしを、今の世までもつれなき事にいひつたふるは、うべ成(なる)かな。

[やぶちゃん注:「日本靈異記」「にほんりやういき(にほんりょういき)」は正式には「日本國現報善惡靈異記」で、平安時代初期に書かれた、現在、現存するところの最古の仏教説話集。著者は法相宗大本山である奈良の薬師寺の僧景戒で、上・中・下三巻から成り、原典は変則漢文で書かれている。成立年ははっきりしないものの、序と本文の記載内容から、弘仁一三 (八二二)年 とも推定されている。以上は「中卷」の「生愛欲戀吉祥天女像感應示奇表緣十三」(愛欲を生じ、吉祥天女(きちじやうてんによ)の像に戀ひ、感應して奇表を示す緣(えん)第十三)である。原文(こちらのページのものを加工させて貰った)と書き下し文(板橋倫行氏校注になる角川文庫刊を参考にしつつも、一部を私の訓読ポリシー(助詞・助動詞以外は漢字を用いる)に基づいて漢字或いは平仮名に直し、一部の訓読(「之」の指示語が省かれている等)には従っていない)を示す。読みも一部、追加した。

(原文)

和泉國泉郡血淳山寺、有吉祥天女像。聖武天皇御世、信濃國優婆塞、來住於其山寺。睇之天女𡓳像而生愛欲、繫心戀之、每六時願云、如天女容好女賜我。優婆塞夢見婚天女像。明日瞻之、彼像裙腰不淨染汙。行者視之而慚愧言、我願似女、何忝天女專自交之。媿、不語他人。弟子聞之、後其弟子、於師無禮。故嘖擯去。所擯出里、訕師程事。里人聞之、往問虛實、竝瞻彼、淫精染穢。優婆塞不得隱事而具陳語。諒委、深信之者、無感不應也。是奇異事矣。如涅槃經云「多婬之人畫女生欲」者其斯謂之矣。

(書き出し文)

 和泉(いづみ)の國泉(いづみ)の郡(こほり)血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り。聖武天皇の御世、信濃國優婆塞(うばそこ)、其の山寺に來り住む。之(こ)の天女の像を睇(めかりう)ちて愛欲を生じ、心に繫(か)けて之れを戀ひ、六時每(ごと)に願ひて云はく、

「天女のごとき容好(かほよ)き女(をむな)を我に賜へ。」

と。

 優婆塞、夢に天女の像に婚(くがな)ふと見る。

 明くる日、之れを瞻(み)れば、彼(か)の像の裙(も)の腰、不淨に染(し)み汙(けが)れたり。行者、之れを視(み)て慚愧(ざんき)して言はく、

「我(われ)、似たる女を願ひたるに、何ぞ忝(かたじけな)くも天女專(もはら)自(みづか)ら之れに交(まじ)はる。」

と。媿(は)ぢて、他人(ひと)に語らず。

 弟子、(ひそ)かに之れを聞き、後、其の弟子、師に禮(いや)無し。故に嘖(せ)めて擯(お)ひ去る。擯(お)はれて里に出で、師を訕(そし)りて事を程(あらは)す。里人、之れを聞きて、往きて虛實(まことそらごと)ならんを問ひ、竝びに彼(か)の像を瞻(み)れば、淫精、染み穢れたり。優婆塞、隱す事を得ずして具(つぶ)さに陳(の)べ語りき。諒(まこと)に委(し)る、深う信(う)くれば、感の應ぜざる無きことを。是れ、奇異の事なり。「涅槃經(ねはんぎやう)」に云ふがごとく、『多婬の人、畫(か)ける女(ぢよ)に欲を生ず』といふは其れ、斯(か)く、之れを謂ふなり。

   *

「吉祥天女」吉祥天(きっしょうてん)は梵語の「シュリー・マハーデーヴィー」の漢語音写で、仏教の守護神である天部の一人。ヒンドゥー教の女神ラクシュミーが仏教に取り入れられたもので、「功徳天」「宝蔵天女」とも称する。ウィキの「吉祥天によれば、『ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする』。『早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。 北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来(きちじょうまにほうしょうにょらい)になると説かれる』。『吉祥とは繁栄・幸運を意味し』、『幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている』。『天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神([天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている』とある。仏教の像形では弁財天と並んで極めて女性性を具現したものとして造形されるもので、私は弁財天よりも遙かに好きで、特に浄瑠璃寺の吉祥天立像は私のお気に入りの仏像の一つである。

「和泉の國泉の郡血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り」参考にした角川文庫版の板橋氏の注によれば、「和泉の國泉の郡」は大阪府泉北(せんぼく)郡であるが、この「血淳(ちぬ)」は不詳であるが、「泉州志」に槇尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))に吉祥院の跡があると見え、それであろうとする。「𡓳像(せふざう)」は土で作った像のこと。想山は「摸像」としているが、これは誤読したものかも知れぬ。

「優婆塞(うばそく)」三帰(仏・法・僧の三宝に帰依すること)・五戒(在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」)を受けて正式の仏教信者となった男子。在家でもよい。因みに女性の場合は「優婆夷(うばい)」と称した。

「睇(めかりう)ちて」流し目で見て。淫猥のさまがよく伝わるいい語彙である。想山はここを「瞻睇」とし二字で「めかりうちて」と訓じているようである。おかしくはないし、そういう版本があるのかも知れない。或いは、彼が「睇」の字が一般的でなく読み難いと感じて、彼が省略した部分に出る「瞻(みる)」(注視して見る)をここに入れて判りやすくしたものかも知れない

「六時每(ごと)」板橋氏の注に、『晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜をといひ、その時每に佛前に勤行する』こととある。「後夜」は「ごや」で、既に翌日で、現在の凡そ午前二時から午前六時頃を指す。その間に行う勤行をも「後夜」と呼ぶ。

「婚(くがな)ふ」性交する。

「裙(も)の腰」女性が下に穿く現在のスカートに当たる着衣。但し、この場合は彫られたそれであって実際の衣服のそれではない。

「不淨に染(し)み汙(けが)れたり」精液が飛び散って滲みになっているのである。

「慚愧(ざんき)」自己に対して恥じること。

「忝(かたじけな)くも」もったいなくも。

「禮(いや)無し」無礼な振舞いがあった。但し、これは別にそのことを漏れ聴いたから軽蔑して無礼になったというのではないようだ。この弟子自体が天性、そうした無礼な輩であったのであろう。

 なお、本話は「今昔物語集」にも、その「卷十七」で「吉祥天女𡓳像奉犯蒙罸語 第四十五」として引かれてある。以下小学館の日本古典全集を参考にして示す。□は破損部。

   *

 今は昔、聖武天皇の御代に、和泉の國、和泉國の郡の血渟(ちぬ)の上(かみ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)在(まし)ます。其の時に、信濃の國より、事の緣有りて、其の國に來れる一人の俗[やぶちゃん注:この場合は在家であった道心者の謂い。後で弟子が出る以上、謂わば相応の修行をした半僧半俗の者であったと考えぬとおかしい。]有りけり。其の山寺に行きて、吉祥天女の𡓳像を見て、忽ちに愛欲の心を發(おこ)して、彼(か)の像に心を懸け奉りて、明け暮れ此れを戀ひ悲しむで[やぶちゃん注:恋い慕って。]、常に願ひて云く、

「此の天女の如くに、形(かた)ち美麗ならむ女(をむな)を、我れに得しめ給へ。」

と。

 其の後(の)ち、此の俗、夢に彼の山寺に行きて、其の天女の𡓳像を婚(とつ)ぎ奉ると見て、夢、覺めぬ。

「奇異也(なり)。」

と思ひて、明くる日、彼の寺に行きて、天女の像を見奉れば、天女の像の裳の腰に、不淨(ふじやう)の婬(いむ)付きて染みたり。俗、此れを見て、過(あやまち)を悔ひ、泣き悲しむで申さく、

「我れ、天女の像を見奉るに、愛欲の心を發すに依りて、『天女に似たらむ女を令得給(えしめたま)へ』と願ひつるに、忝なく□□□身を自らに交(まじ)へ奉る事を怖れ歎(なげ)く。」

と。然れば、此れを恥ぢて、此の事を努々(ゆめゆめ)、他(ほか)の人に語らず。

 而るに、親しき弟子、自然(おのづか)ら竊(ひそ)かに此の事を聞きけり。

 其の後、其の弟子、師の爲めに無禮(むらい)を成す故に、弟子、追ひ被去(さけられ)て、其の里を出でぬ。他の里に至りて、師の事を謗(そし)りて、此の事を語る。其の里の人、此の事を聞きて、師の許(もと)に行きて、其の虛實(こじち)を問ひ、幷びに、彼の天女の像に婬穢(いむゑ)の付きける事を尋ぬるに、師、隱し得る事不能(あたはず)して、具さに陳(の)ぶ。人皆(ひとみな)、此の事を聞きて、

「希有(けう)也(なり)。」

と思ひけり。

 誠(まこと)に懃(ねむごろ)に心を至せるに依りて、天女の權(かり)に示し給ひけるにや。此れ、奇異の事也。

 此れを思ふに、譬(たと)ひ多婬(たいむ)なる人有りて、好(よ)き女(をむな)を見て、愛欲の心を發(おこ)すと云ふとも、強(あなが)ちに念(おもひ)を繫(かく)る事を可止(やむべ)し。此れ極めて無益(むやく)の事也となむ語り傳へたるとや。

   *

 

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 又、三河國渥美郡豐川村に三明院(さんみやうゐん)と云ふ有(あり)て、大なる堂に辨財天を安置す。靈驗新たなりとて、近隣は申(まうす)迄もなく。遠方よりも步みを運ぶ所とぞ。この三明院より一里程東に賀茂村と云有。此村の馬士(まご)何とやらん云ひしもの、生得(しやうとく)、天然自然の妙音[やぶちゃん注:声がいいこと。]にて、其上、間拍子(まびやうし)もよく、仍(よつて)、馬士歌(まごうた)は至(いたつ)ての上手にて、毎(いつ)も能(よく)諷(うた)ひ步行(ありき)たるよし。此者、或夜、右三明院の邊りを通りけるに、此邊には絶て見馴ぬ類ひまれなる美人彳(たたず)み居(をり)て、此馬士にいひけるは、われは人間にあらず、三明院の辨天也。われ、故有(ゆゑあり)て汝をおもふ事久し、仍(よつて)、今宵、竊(ひそか)に現(あらは)れ出(で)て故にまみゆ、人しれずして契りを結ぶべし、其變りに、汝の生涯を護り、豐かに暮させ申べし、去(さり)ながら、此事、必(かならず)、人に語るべからず、もし聊(いささか)にてももらす時は、卽座に一命を斷(たつ)べし、呉々(くれぐれ)も謹むべしとて、打解(うちとけ)てそひ臥(ふし)給ふ。天女、又、の給ふ樣(やう)、汝、每夜、歸りには馬に乘(のり)、每(いつ)も曲(きよく)節(ふし)面白く歌ひ行(ゆく)。音聲(おんじやう)誠(まことに)に妙にして、久敷(ひさしく)我(わが)心を動(うごか)したり、などゝかたりつゞけ給ひしとなり。然るに輕きものゝはかなさは、わづか二三度逢(あひ)奉りて後、竊に友達に此事を語ると、速(すみやか)に卽死したりとの事。此(この)加茂村にて慥(たしか)に聞來(きききた)りたるものありしが、この聞(きき)たるものゝ意(い)[やぶちゃん注:話の内容。]に、餘り虛(うそ)ら敷(しき)事なりと思ひて、再應(さいわう)、問返(とひかへ)もせずして、心なく聞流(ききなが)しおき、しかも一向(いつかう)古き事にてもなき由なるに、年歷も聞(きか)ず、馬士の名迄も忘れ、今思へば殘念なりと語りしもの有。此時、出(いで)給ひし天女は、頭には寶冠も頂き給はず、身に錦繡も纏ひ給はず、麁服(そふく)[やぶちゃん注:粗末な服。]にはなけれ共(ども)、尋常の女の衣服を着給へりしと也。もしは妖魅狐狸の類(たぐひ)にてはなきか。去(さり)ながら、神佛にも和光同塵(わかうどうぢん)[やぶちゃん注:仏教用語では仏菩薩が本来の威光を和らげて塵に穢れたこの世に敢えて仮りの身を現わし衆生を救うことを言う。]と云(いふ)事あれば、何ともいひがたし。扨(さて)、此この)三明院の辨才天は立像にて、十八九歳の女程(ほど)に見させ給ふと。定(さだめ)て作佛[やぶちゃん注:名人の手になる優れた仏像。]にや有らん、聞(きき)まほし[やぶちゃん注:見に行ってみたいものだ]。例年正月七日やらんに開扉(かいひ)なし、御衣(おんぞ)をとりかへ奉り置(おき)て、翌年、見奉れば、御すそことごとくきれて居るは、常々步行(ほぎやう)なし給ふ故也との事も、衆人口ずさむ事なりと。左も有る事にや。此話、猶、篤(とく)と聞訂度(ききただしたき)ものなり。右邊にては誰(たれ)しらぬものもなきとの事也。全く同日[やぶちゃん注:(先に示した事例と)同様。]の談也。

[やぶちゃん注:「三河國渥美郡豐川村」現在の渥美湾湾奧の愛知県豊川市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三明院」これは現在の愛知県豊川市豊川町波通(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、曹洞宗龍雲山妙音閣三明禅寺三明寺(さんみょうじ)である。「豊川弁財天」の通称で知られる(本尊は千手観音)。ウィキの「三明寺によれば、寺伝に由ると大宝二(七〇二)年、『文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかったが、弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりという』。『以後、真言宗の寺院として続いていたが、平安時代後期、源範頼の兵火により焼失し』、荒廃したが、応永年間(一三九四年~一四二八年)に『禅僧・無文元遷(後醍醐天皇の皇子)が諸堂を復興し、この際に禅宗に改宗し、千手観音を本尊とした。また、三重塔を建立し、大日如来像を安置したといわれる』。享禄四(一五三一)年に『三重塔が再建され』、天文二三(一五五四)年)には『本願光悦により弁財天宮殿が再建される。現存する本堂は』、正徳二(一七一二)年に『岡田善三郎成房により再建されたもの』とある(本書の板行は嘉永三(一八五〇)年であるから、想山はこの記載時には実地検証に出向いてはいないものの、作品内時制の当時のままということになる)。『豊川弁財天、または馬方弁財天と称される弁財天像は、平安時代の三河国司・大江定基が、愛人の力壽姫の死を悼み、力壽姫の等身大の弁財天を自ら刻して奉納したものと伝えられている。弁財天は裸身であり、十二単を着ており』、十二年に一度、『巳年に御衣装替えを行う慣わしがある』。『現在では、三河七福神の霊場の』一『つとして紹介され、安産・芸道・福徳・海運の守護神となっている。毎年』、一月と八月に『開帳される』とある(下線やぶちゃん)。なんだか、行って拝顔したくなってきた。

「賀茂村」現在の愛知県豊橋市賀茂町(かもちょう)。豊川市の東に豊川(河川名)を挟んで存在する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天然自然の妙音」弁財天はしばしば(江ノ島や鶴岡八幡宮のそれ)琵琶を弾く姿で造形されるように、音楽・技芸神として知られ、「大日経」では「妙音天」とか「美音天」と呼ばれている。まさにこの美声の馬子の若者に音楽の神さまであるはずの弁財天の方が惹かれて〈感応〉してしまったわけである。ミューズの霊感に触れた(それはコイツスすることに外ならない)者は実は或いは若死するしかないということをも暗に示しているのであろうか。私は無能無才であったことに感謝しなくてはなるまいよ。]

 

 又、武州入間郡富村【江戸より十里餘西なる】の地藏尊も靈驗新たにして、遠近(をちこち)、步みを步(はこ)ぶ所也。此地藏尊の事を、土俗、富の夜ばひ地藏と云(いひ)て、其(その)名高し。予、此事を其村の長(をさ)たるものに聞試(ききこころみ)るに、夜ばひをなさるゝ故と申(まうす)事に御座候と答ふ。夜ばひとは如何(いかに)なし給ふにやと問ふに、若き女、よき娘など有(ある)所へ御出(おいで)なされ、徒(いたづら)をなさるゝと申ことに御座候と云(いへ)り。然(しか)らば、現在慥成(たしかなる)事の有(あり)たるをしれりやと尋(たづぬ)るに、夫(それ)は存(ぞんじ)申さず、去(さり)ながら、昔より所々にて口々に申(まうし)侍る事故、噓にも有(ある)まじきにやと答(こたへ)て、さだかならざれども、古來、衆口に申侍る事故、何とも申がたし。能(よく)糺し度(たく)おもふのみ。是又、同樣の談なり。

[やぶちゃん注:「武州入間郡富村」埼玉県の旧入間郡内には「上富村」「下奥富村」「水富村」などがあったが、単独の「富村」は捜し得なかった。ところが、川越原人氏のサイト「川越雑記帳」の「川越の仏像・石仏・板碑」の「30 西福寺の石彫り三尊と道標」(この寺は川越市南大塚にある)の記載の中に、この西福寺というのは『天台宗に属し、木ノ宮山地蔵院と号し、川越市南大塚、西武鉄道南大塚駅に近く所在し、西面してたつ。草創の寺歴については不詳』であるが、この寺、現在の埼玉県入間郡三芳町(みよしまち)上富で旧『三芳野富に所在する多福寺とのあいだに木ノ宮地蔵尊の所有権に関して長いあいだの』係争『があって、いつ結審するのか、全く知りえなくなった。かくては寺の信用にもかかり、信徒の参拝もおぼつかないというので、十余年前にようやく和解して多福寺が保存することになったという。木ノ宮山という山号は、多福寺に安置してある地蔵尊はわが所有であるというので木ノ宮の名をつけたという』。『参道の入り口に丸彫り、円頂、立高一・五メートル『の石彫り地蔵尊を安置する。天明七年の造立』とあり、更に『木ノ宮地蔵のお前立が西福寺にあったころは、八月二十三日に祭礼が行なわれ、お祭が終ると、今度は多福寺に移して夜祭りを行なう。お祭りに使用するための大提灯は、今も西福寺につるしてある。多福寺に安置してある木ノ宮地蔵のことを、土地の人は夜這い地蔵と呼んでいるが、その晩に唄う歌詞は色気がすぎて聞くにたえない句ばかりであって、ここに記載することをはばかる』とあるのを見出した(下線やぶちゃん)。多福寺はここで(グーグル・マップ・データ)、その南西(リンク先を航空写真に切り替えて見る限り、境内地内と思われる)に「木ノ宮地蔵堂」があることが判る。私が着目したのはこの多福寺のある場所の、川越原人氏の記載の旧称『三芳野富』である。これは明らかに「三芳野」の「富」であろう。これから推して、この「富村」とはこの多福寺のある、現在の埼玉県入間郡三芳町上富周辺(まさに「中富」も見出せる)と比定してよく、しかも『夜這い地蔵』とくれば、比定は確実である。「三芳町」公式サイトに「木ノ宮地蔵堂」があり、地蔵の写真も出ている(さすがにお役所なれば夜這いのことは一切書かれていないが)。これが夜這い地蔵だッツ! と快哉を叫びかけたところが、株式会社クレインエイトの運営するサイト「妖怪伝説の旅」のこちらに「夜這い地蔵 三芳町」として短文ながら、「想山著聞奇集」を挙げて、この『夜這い地蔵は上富多福寺の地蔵尊のことで、昔、夜な夜な出ては、強盗や追いはぎ、果ては婦女を犯したとまで伝えられています。その結果、村人達の手によって、土中深くに埋められたと言うことです』とある(下線やぶちゃん)。さて? 真相は如何?]

 

 或人、此書を見て評論して云(いはく)。天女の御容貌、餘り美麗にして、しかも其擧動、甚だ婀娜(あだ)たる風情に過(すぎ)給ふは、筆にまかせ、事に過て著述(しるしのべ)たる樣に思はれ、よつて如何成(いかなる)老翁野夫(らうをうやぶ)も此談を讀(よめ)ば、心を動かさゞるはなきやうに思はれて、面白過(すぎ)て却(かへつ)て都(すべ)ての實事を失ふ姿にはなきやといへり。予答て云(いはく)。初(はじめ)、凡例(はんれい)に云置(いひおき)たる如く[やぶちゃん注:本書冒頭の「凡例」のこと。]、惣躰(さうたい)、聞(きく)まゝを違(たが)へざる樣に記すが、予が存念なり。然(しかれ)ども、其咄す人の辯舌に種々有(あり)て、虛實の量りがたき多きまゝ、虛(うそ)と思ひたるは記さず、實(まこと)と思ひたるのみを記す樣にはすれども、別(べつし)て神佛の靈驗には、奇怪に過(すぎ)たりと思ふ程の事もまゝあれども、夫(それ)は猶更、取捨(としすて)なし難きまゝ、兎角、慥成(やしかなる)咄を撰びて其儘に記せるのみ。予も此天女の事は餘り婀娜に過たりと思へども、左にはあらざるか。[やぶちゃん注:本当にそうのように全否定されるものであろうか?」。]山門の發足院の覺深阿闍梨(あじやり)、日光山瀧尾權現の靈託記を具(つぶさ)に記されし後記中に、權現を觀拜(くわんはい)なし奉らるゝ事有。其文に云(いはく)、忽然更見一大杉横伏、其上直立其容顏極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂綠髮於背後、着白杉赤袴、身向北面向ㇾ予、云々。是を以、見る時は、權現の高貴にしてしかも美麗なりし事は、前の天女と全く同樣の御事と思はる。か樣の神々の、凡夫(ぼんぷ)の執欲(しふよく)を濟(すく)はんとて、打解(うちとけ)給ふ程ならば、其有樣、人間にはまさりたまふて、何程(いかほど)書解(かきとく)とて、文筆の及ぶ事にはあらざるか。尤(もつとも)、強(しひ)て實とするにはあらず。理非虛實は見る人の心にまかするのみ。去(さり)ながら、此條は、淫奔(いんぽん)の壯男(そうだん)に理念を興(おこ)さしむるとて書顯(かきあら)はせしにはあらで、誡めんとて記せしもの也。見誤り給ふべからず。

[やぶちゃん注:「山門の發足院の覺深阿闍梨」江戸前期の皇族で真言宗僧であった覚深入道親王(かくしん/かくじん 天正一六(一五八八)年~慶安元(一六四八)年)。後陽成天皇第一皇子。仁和寺第二十一世門跡。「山門の發足院」はよく判らぬが、或いは彼は応仁の乱で焼失していた仁和寺の再建に尽力しているから、「山門」は仁和寺で「發足院」は焼け残っていた「院」家(いんげ:塔頭)の真光院を彼が足場として再興を「発」足(ほっそく)したという意味ではなかろうかなどと妄想した。大方の御叱正を俟つ。

「日光山瀧尾權現」現在の日光二荒山(にっこうふたらさん)神社の別宮滝尾神社。「日光山内」の北の奥の「白糸の滝」付近にある瀧尾神社。ここは弘仁一一(八二〇)年に空海によって宗像三女神の一人である田心姫(たきりびめ/たぎりひめ)を祭神として創建されたという伝説を残す。

「靈託記」不詳。識者の御教授を乞う。

「忽然更見一大杉横伏、其上直立其容肅極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂綠髮於背後、着白杉赤袴、身向北面向ㇾ予」我流で訓読しておく。

忽然として更に一つの大杉の横伏(よこぶせ)なるを見るに、其の上、直立せる其の容顏、極めて高貴にして尊嚴たり。年齡(よはひ)十有七、八計(ばか)り、綠髮を背の後ろに垂らし、白き杉(さん)と赤き袴(はかま)を着(ちやく)し、身、北面に向きて予に向ふ。

誤りがあれば御教授願いたい。]

 

予思ふに、此(この)條に三明院の辨財天と云ふは、恐くは辨財天に非ずして樂音天なるべし。樂音天は妙音天とも云(いひ)て、一切の音聲の事を好み給ふ天女也。仍(よつ)て申酉(さるとり)に配す【西は秋にして聲を司る。[やぶちゃん注:厳密に言えば、「申酉」は西南西」。]】所謂、吉祥天女の事也。故に琵琶を持(もち)給ふ。如何となれは、馬士(まご)の音聲に惚(ほれ)給ひて出現なし給ひたる故也。又、辨財天は障碍(しやうがい)を排ひ給ふ天女ゆゑ、弓矢を持給ひて財寶をも司り給ふゆゑ、辰巳(たつみ)に配當して別女(べつぢよ)なり。然共(しかれども)、繹氏(しやくし)[やぶちゃん注:仏家。]にて所謂辨財天と云は、金光明經(こんくわうみやうきやう)の説にして、則(すなはち)、吉祥天同一躰と云(いへ)り。是は、淨嚴律師の辨天祕訣に議論細密にして、我等如き淺智にて、再び論する事能はざる姿なれども、實は二神とも世に云七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也。天の四七の神、地の四九の神、同一物にして、論群多々なれども、此所に辯論する事にあらざれば、略して委敷(くはしく)は論ぜず。何にもせよ、音聲(おんじやう)を慕ひて出現して契り給ふも、甚(はなはだ)の奇事なり。

[やぶちゃん注:ここで想山がいろいろ言っていることは、後代になって、煩雑な仏典解釈の分化の中で生じた同体異称を逆にやったものに過ぎない。しかし、弁財天は多様な分化を示しながらも、また反対に吉祥天や宇賀神その他の様々な神の属性やその存在を吸収しダブらせていったりもした。ここで彼が述べている「七福神」との集合も、ウィキの「弁財天」によれば、たかだか江戸期の新しい考え方で、『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。室町時代の文献に、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を、天台宗の開祖・最澄が祀ったという伝承があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られている』。『また、元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけて仏僧が日本各地で活躍した水に関する事蹟(井戸、溜池、河川の治水など)に、また日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神の市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂『として数多く祀られた。弁天島や弁天池など地名として残っていることもある。いずれも海や湖や川などの水に関係している』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることも多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある』とあるのも、ハイブリッド化し、しかも自由自在にメタモルフォーゼしてゆく弁財天の戦略が見えてくる。

「金光明經」「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」の漢訳語。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つとされた。参照したウィキの「金光明経によれば、『原題は、「スヴァルナ」(suvarṇa)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意』とあり、『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』。この経典の漢訳は、現存するものではインド出身の曇無讖(どんむしん 三八五年~四三三年)が四一二年から四二一年頃にかけて漢訳したものが最も古いらしい。本邦には古くからこの曇無讖訳の「金光明経」が伝わっていたようであるが、その後、八世紀頃に義浄訳の「金光明最勝王経」が伝わり、鬨の聖武天皇がこれを写経して全国に配布、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立』、それらを別に『金光明四天王護国之寺と称』しているという。

「淨嚴律師」浄厳(じょうごん 寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)は江戸中期の真言宗僧。ウィキの「浄厳」によれば、『河内国の出身。新安祥寺流の祖』。但し、『宗派に関しては』、『彼が公式に「如法真言律宗」という呼称を採用したことから、彼を真言律宗中興の人物として同宗の僧侶とする見解もある』。慶安元(一六四八)年に『高野山で出家し』、万治元(一六五八)年、『南院良意から安祥寺流の許可を受けた。畿内において盛んに講筵を開き、また幕府の帰依を受け』て、元禄四(一六九一)年には第五代『将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立した』とある。

「辨天祕訣」弁才天女法の修法が記された浄厳の著作で正しくは「大辯才天祕訣」。国立国会図書館デジタルコレクションのから画像で視認出来る。私しゃ、読む気には毛頭ならぬが、よろしければ、どうぞ。

「七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也」七福神が本地でその垂迹(シンボル)が北斗七星だというのであるが、七福神を北斗七星と結びつける解釈は確かにあるものの、安易な同数対応に過ぎない新しいトンデモ説であると私は思う。その証拠に七福神の中の「福禄寿」と「寿老人」(この二人は同一神ともされる)は、同源らしく孰れも道教では北斗星とは対極に配される南極星(現実には相応する星はない)の化身とされる。実際にもとは六福神だったかも知れぬし、地域によってはこれに一人加わる八福神だってある。そんな融通が利くのであれば、厳然たる北斗七星と強いて対応させる必要など、かえって方便の邪魔なだけであろう。

「天の四七の神」底本ではこの右に『(二十八神)』という編者注がある。

「地の四九の神」底本ではこの右に『(三十六神)』という編者注がある。前もこれも命数を挙げてもいいが、私もここの注の最初に述べ、想山も言っているように、これらは所詮、元は「同一物」である。知りたければ、御自分でお調べあれ。]

2017/04/14

「想山著聞奇集 卷の貮」 「馬の幽魂殘りて嘶く事」

 

 馬の幽魂殘りて嘶(いなゝ)く事

 

[やぶちゃん注:「嘶く」のルビは目録にある。]

 

Umanorei

 

 美濃の國岐阜の西の方に芥見(あくたみ)村と云(いふ)有(あり)。此邊(あたり)にては馬に灸治(きうぢ)せし後三つ目七つ目廿一日目とて、此三日の内に、一日は血返し迚(とて)、馬を休ませねば凶事(まがごと)有(あり)と云傳(いひつたふ)る事にて、必らず休まする風俗也。然るに同村何某の馬、灸治して七日目に當りし日、よき荷物の出來たるまゝ、主人、此馬を遣ふべしと云けるに、常々任せ置(おき)たる馬士(まご)聞(きき)て、三つ目にも休ませず、けふは七日目の血返しゆゑ、此馬は休ませて下されと云て賴む。主人の云(いはく)、廿一日目には休ませ申すべし。眼前によき荷の來(きた)るを差置(さしおき)て、休ますると云ふ事やある、汝はすゝまずばよせ、我等自身に牽行(ひきゆく)べしとて、やがて荷を付(つけ)て、主人自ら馬を牽て出行(いでゆき)ぬ。夫(それ)より關の方へ行(ゆく)道に、日野坂といふ有(あり)、【岐阜より關へは北の方へ七里程も有(あり)、此(この)日野坂迄は岐阜より三里なりと。】此所へ行懸(ゆきかか)ると、ギバのかけて、俄(にはか)に馬は斃(たふれ)たり。【ギバのかけると云事は、三の卷に委敷(くはしく)書記(かきしる)し置(おき)ぬ、頽馬(だいば)とも云(いひ)、馬の急死也。】夫より此馬の靈魂、此地に止(とどま)りたるか、其後、此所へ馬を牽行(ひきゆく)と、必(かならず)、馬の嘶(いななく)聲(こゑ)聞きこ)ゆるまゝ、牽行(ひきゆく)馬も、必、鳴合(なきあふ)事なれども、何も目に見ゆるものはなし。其嘶く所、道より右の方、五間[やぶちゃん注:九メートル。]程むかふの畑の中に當りて、いつにても同じ所にて嘶き、又、その馬の音色(ねいろ)も、いつとても同じ音(ね)とぞ。今、此邊の馬を牽(ひく)ものは、皆、現に此事をしり居(を)る事也。元來、かの抱(かかへ)の馬士(まご)が此馬を愛する事、大方(おほかた)ならざりし故、馬の斃(たふれ)たる後は甚(はなはだ)力を落し、主人の血合[やぶちゃん注:不詳。不審。仏教用語で貪欲を意味する「痴愛(ちあい)」の誤記か? 識者の御教授を乞う。]をも構はず、牽行(ひきゆき)たる事をいたく悲しみ、遂に是が病根と成(なり)て、此馬士(まご)も間もなく死(しに)たりとぞ。されば、若(もしく)は馬の靈と馬士の靈と合(がつ)して、か樣に魂魄を止(とど)めたるか。何にもせよ、名僧智識の引導などなし給ふものならば、忽ち得脱(とくだつ)して鬼(き)は散滅(さんめつ)なすべきものをと、殘(のこ)り多き事におもふなり。昔、唐土(もろこし)に幽明の鬼をよく見る覡(げき)有(あり)て、違(たが)ふ事なし。或人、鵞(がてう)の死(しに)たるを塚に埋置(うめおき)て、かの覡に鑑覽(かんらん)なさしむるに、再應(さいわう)考(かんがへ)て不審をなし、此塚には靈魂なし、唯、鵞一羽のみ彳(たたず)み居(をり)たりといへり。鵞にも鬼は【鬼とは俗に云(いふ)幽靈の事也。】有(ある)ものかとの事、酉陽雜俎(いうようざつそ)に見えたり。是を以て見る時は、此馬もかの覡に見せしめば、馬の鬼の殘り居るは、鏡に懸(かか)たる如き事也。此馬の斃(たふれ)たるは文政四年【辛巳(かのとみ)】[やぶちゃん注:一八二一年]の事とぞ。是は予が方(かた)の下男、同州志津野(しつの)村吉松が、自身に其地へ馬を牽步行(ひきありきゆき)、此事を能(よく)知居(しりゐ)て、具(つぶさ)に語りし事なり。

[やぶちゃん注:「芥見村」現在の岐阜市東部の芥見(ここなら(グーグル・マップ・データ)。但し、この地区外にも「芥見」を附す地名が点在する)・大洞・加野・岩井などの地区に相当する。

「馬に灸治せし」想山も後で割注する、先行する「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事を参照のこと。

「三つ目七つ目」「三つ日目」「七つ日目」の約。

「血返し」灸療治によって変則した血流を元の状態にゆっくりと戻すことを指すか。

「日野坂」附近(グーグル・マップ・データ)。現在の岐阜市日野東。

「關」現在の岐阜県関(せき)市附近。岐阜市の東北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「岐阜より北へ」とあるが、正しくは「北東」である。

「ギバ」先行する「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事を参照のこと。

「覡」古くは「巫(ふ)」。中国古代のシャーマン。舞を舞ったり、呪文を唱えたりして神霊を下ろし、祈誓して神を憑依させたりして、その神意を伺った。先秦時代からその存在は知られており、漢代になると女性で神がかりになる者を「巫」と呼び、男性のそれを「覡(げき)」と呼び分けるようになった。これら行事は中国道教史に於いてかなり重大な役割を持ち続けている。本邦ではこれや「巫」を「かんなぎ」(古くは「かむなき」。「神(かむ)和(な)ぎ」の意)と和訓する(後代では「みこ」と読むと、概ね「巫女」で、女性のそれを指すこととなった。日本の陰陽道や神道ではその役に未婚の女性が選ばれたことによるもので、本来は男でも「みこ」である)。

「鬼とは俗に云幽靈の事也」とは想山らしくもない不全な割注である。ここは中国の事例を引いた部分への割注である以上、本来の「鬼」の意、単なるフラットな「死者」の意をまずは挙げてから「幽魂」の意を述べるのが筋であろう。

「酉陽雜俎」(現代仮名遣では「ゆうようざっそ」)は唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。以上はちょっと調べてみたが、「酉陽雜俎」にはどうも見出せず(あるのかも知れぬが、中文サイトの同書の単語検索でも掛かってこない。訳文は持っているので発見したら、追加する)、中文サイト内の「欽定四庫全書」の陳元龍撰「格致鏡原卷八十」の「鳥四」の中に(何故か「雞」のパートにある)以下のようにあるのを発見した。

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抱朴子呉景帝有疾召覡視之得一人欲試之乃殺鵞而埋於苑中深小屋施牀几以婦人屣服物著其上乃使覡視之告曰若能説此家中鬼婦人形狀者加賞而即信矣竟日無言帝推問之急乃曰實不見有鬼但見一頭白鵞立墓上所以不卽白然則鵞死亦有鬼也

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明らかにシチュエーションが酷似するから、同源の話柄である。

「志津野村吉松」「志津野村」(現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ))も「吉松」も既出。「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事及び「想山著聞奇集 卷の壹」「狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」を参照。]

 

「想山著聞奇集 卷の貮」 「鎌鼬の事」

 

 鎌鼬(かまいたち)の事

 

[やぶちゃん注:「かまいたち」のルビは目録にある。]

 

 世に鎌鼬と云(いふ)もの有(あり)。【關東の鎌鼬、北國の魑魅、西國の河伯(かつぱ)、俗に江戸にて河太郎と云(いふ)、是を日本の三奇と云とぞ。】人にふるゝ時は、必(かならず)、其人知ずして大成疵出來(でき)、初(はじめ)は血出(いで)ず、痛(いたみ)もなくして、追付(おつつけ)、夥敷(おびただしく)血出(いづ)。痛み骨髓に徹し、惣身(そうしん)にせまるといふ。【さして血も出ず、痛みの薄きも有ある)よし。】鎌鼬と云ふ事を知らずして、疵の甚敷(はなはだしき)と血の多く出るとに驚き、小兒などは虫持(むしもち)とも成(なり)、大人にても驚顚(きやうてん)臟腑に入(いり)て、病身と成(なる)者も多く、中には死に至るものもあり。能よく)心得置(こころえおく)べき事也。故に、纔(わづか)、見及び聞及(ききおよ)びしかぎりを記置(しるしおく)なり。

[やぶちゃん注:「虫持」の「虫」はママ。「癇の虫」などの小児性の精神変調ともとれるし、後の大人の症例で激しいショックが「臟腑に入」って「病身と」なる「者も多く、中には死に至る」ケースもあるというところからは、何らかの消火器性寄生虫疾患を指しているようにも読めないことはない。しかし、やはり痛みのないところにパックリと傷口が開いて、血が出てくるというのは心因性ショックの方が腑に落ちる気はする。]

 此ものゝ形ち、人眼に見ゆる事なくして、疵斗(ばかり)つく也。その疵口、必、曲尺(かねじやく)のなり[やぶちゃん注:L字形。]に付て、鎌の形なればとて鎌鼬と云ふとぞ。疵、大小品々有。小なるは二三寸より五六寸[やぶちゃん注:六~九センチメートルから十五~十八センチメートル。]にいたる、深さ五六分より一二寸[やぶちゃん注:一・五~一・八センチメートルから三~六センチメートル。]に至る。野州大桑村にて、究竟(くつきやう)[やぶちゃん注:「屈強」に同じい。]なる土民をかけたるは、内股五寸[やぶちゃん注:十五センチメートル。]程の疵口にして、深さは骨迄當りて、白々と骨出たりと云。恐ろ敷(しき)曲物(くせもの)なり。

[やぶちゃん注:「野州大桑村」栃木県日光市大桑町(まち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「かけたる」「掛ける」「懸ける」で鎌鼬がその傷害を及ぼすの謂いか、或いは「鎌」を引っ「掻(か)けたる」の謂いであろう。]

 初、疵口付(つく)時は、必、我知ずして付事也。尤(もつとも)、怪物の目に見ゆる事はなき也。故を以(もつて)、もと獸はなくて、月々風の當りて切(きれる)といふ説あれども、左にはあらぬか。大桑村にては、風なくて切らるゝ事也。目に見えねば、鳥か獸か鬼か氣(き)かは分らざれども、何にもせよ不思議なる物也。先(まづ)最初、疵の付たる時は、肉白く切裂(きりさけ)、疵口少し黃色ににじみてねまり居(を)る也。【此白きねまりたる物は、俗説に鎌鼬の唾(つば)也と云傳(いひつたふ)る所もあり。】血はいでず、痛もなし。暫(しばし)過(すぎ)て血夥敷(おびただしく)出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしき)との事なり。疵は、能(よく)切れる剃刀にて切割(きりわり)たる如きもの也。

[やぶちゃん注:この疵口少し黃色ににじみてねまり居る也」という観察は興味深い。これは切創を生じさせたものが、何らかの個体か溶けかけた半固体物、或いは、ある種の生物(植物或いは動物)であった可能性を窺わせるものだからである。]

 此疵、必、人の股・膝・臑(すね)に出來るなり。多くは膝口抔(など)につく也。腰より上につく事は稀なり。此もの、察するに、地を離るゝこと僅(わづか)一尺餘りに過ず。猶考(かんがふ)るに、頭・顏などをかけられたるは、多くは轉びての事なり。又、立(たち)ながらかけたるは、皆、旋風の吹來る時也。左すれば、旋風に乘じて中を飛行するものか。前に云(いひ)たる大桑村にて股をかけられしと云ふは、深田の中へ入居ての事也。

[やぶちゃん注:私が中学生の時に目の前で実見し、「〈鎌鼬〉だ!」と教師が叫んだそれは、同級生の顔(眼球を含む)の部分だったがね。「耳囊 卷之七 旋風怪の事」の私の「鎌鼬」注の太字の箇所を参照されたい。私は今でもあれは〈鎌鼬なんかじゃあない〉と思っているのだ。

 以下、の一段落は営本では全体が二字下げ。]

予一年、野州大桑村に逗留の時、給仕に出(で)たる十五歳になる小童(しやうどう)の鼻より頰へかけてかぎ疵有(あり)、鎌鼬に似たる疵也(や)と問ふに、果して鎌鼬の疵也と云。童(わらは)の兩親、側(かたはら)に居て咄せしは、五歳の時、向(むかひ)の山へ子供どち遊びに行(ゆき)て轉びたるに、此の如き所、鎌かけ申候。小鎌(こかま)ながら子供の事故、其時は顏一面に疵と成り、鼻突拔(つきぬ)け、穴明(あなあき)て、頭中(かしらうち)悉く見え、甚(はなはだ)恐敷(おそろしき)ものに候ひしが、癒るに隨ひて、肉(にく)癒合(いえあひ)、穴埋(うづま)り、頭中も見えぬ樣に成(なり)しと云(いへ)り。是は轉びてかけられたる故也。大井川にて天窓(あたま)をかけられたるも轉びしゆゑなり。【此事、末に言。】

[やぶちゃん注:真相は違うんじゃないかい? 一緒に行った子供らが怪しい気が私はするね。]

 予が聞及びしは、多く素足の者なり。荷ひ物抔する者に多し。侍を懸しと云ふを聞かず。袴など身に纏(まとひ)たるは切(きり)がたきか。夫(それ)も構はず切割(きりわる)か。魔障の類(たぐひ)に至りては、人智の及ばぬ事をなすもの也。去(さり)ながら、多くは、か樣のものは、刀劍には恐るゝものなり。夫も利刀(りとう)有(あり)、鈍刀(どんとう)あり。甚敷(はなはだしき)に至りては竹刀(しない)・木刀有(あり)。侍なればとて侍の德を備(そなへ)ぬ人も有(ある)べし。猶考べき事なり。廣大和本草にも、貴人士君子ヲ傷ルコトアタハズ、皆、匹夫奴隷ヲ傷ルモノナリ、是又奇トスべシ、と有(あり)。

[やぶちゃん注:「廣大和本草」(こうやまとほんざう)は本草学家直海元周の著。宝暦五(一七五五)年刊。彼は儒家で知られた本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~ 延享三(一七四六)年)で、本居宣長とも接触があったが、人物も書籍も非常に評判のよくない人物である(こちらの個人サイト内の宣長の年譜の宝暦五年九月十三日の条を参照されたい)。同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全巻を視認出来るが、人柄を知ってしまっては、調べる気も起こらなくなった。悪しからず。

 武士が鎌鼬に遭わないなどといのは、ますます以っておかしいじゃあないか! 私が中学時代に見た被害者の脇には、呆然とした同級生のとある秀才が立っていたのを思い出すんだよ。そうして盛んに「鎌鼬だ! 鎌鼬なんだ!」と教師が異様に怒るように叫んでいたんだよ。]

 土俗多くは、此もの、旋(つじ)風に乘じて飛行(ひぎやう)すと云傳(いひつたふ)るなり。名古屋にては旋風(つじかぜ)の中に旋(つじ)と云(いふ)怪物有(あり)て、人に觸れば切るゝと云て、鎌鼬の方言、尾州にては旋(つむじ)ともいへども、名古屋は平穩の土地故か、懸られしと云ふ人を聞かず。

 尾州石田村にてかけたるは、旋風(つむじかぜ)吹來(ふききた)りし時、馬士(まご)、急ぎ、馬の頭(かしら)に着ものを打(うち)かけしのぎたるに、馬士の顏と馬の尻と二ケ所までかけて行(ゆき)たり。是は珍敷(めづらしき)所をかけたり。風に乘(じやう)ぜし故にや。此馬士の旋風を恐れて馬の頭を塞ぎしは、ギバのかける事を恐れてせし事なり。ギバの事は壹の卷に記し置たり。ギバも旋風に乘じて、馬の鼻より入ると云傳(いひつたふ)る故也。

[やぶちゃん注:「尾州石田村」複数あるので特定不能。

「ギバの事は壹の卷に記し置たり」「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を参照のこと。]

 此怪物、彼(かの)旋風(つむじかぜ)の渦卷(うづまく)所を好み、駈入(かけいり)て飛行(ひぎゃう)するか。大塚護持院の門前にてかけられしと云(いふ)前栽物賣(せんざいものうり)は、旋風吹來りて後、鎌疵、額に出來(でき)しとの事を聞(きき)ぬ。されども、此怪の多き所にては、尤、旋風の論なく[やぶちゃん注:つむじ風の発生の有る無しを問わず。]疵出來る事也。大桑村などの如し。

[やぶちゃん注:「大塚護持院」現在の東京都文京区大塚にある真言宗神齢山悉地院大聖護国寺(通称・護国寺)の東に隣接してあり、護国寺と一体のものとして存在した護持院(筑波山大御堂の別院)。新義真言宗で最も格式の高い寺院であったが、明治時代に護国寺に合併した。

「前栽物賣」庭の植え込みなどに用いる植え木(或いはその幼木)を売る露店商であろう。]

 此怪物、在所(ありどころ)知れ難しと雖も、第一、山川に多し。東海道にては箱根・薩埵(さつた)[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市清水区にある薩埵峠(さったとうげ)。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置し、山が直ちに駿河湾に迫っており、箱根に次ぐ東海道の難所とされた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]などの山路に常々有事なり。薩埵は興津川續き故、別(べつし)て多し。天龍川・富士川・大井川・金谷・佐夜の中山など、甚多き所と心得、僅一度の旅行にも隨分用心すべき事也。江戸も元は平山(ひらやま)[やぶちゃん注:平野が主体で山があっても低い丘陵程度であることを謂うのであろう。]との事、住能(すみよき)所ゆゑか、時々有(ある)事なれども、人數(にんず)多く、殊に廣き所故、夫程に人にも申傳へず。名古屋にては絶(たえ)て聞及(ききおよ)ばず。宮(みや)[やぶちゃん注:熱田宿。私の妻の実家が近いので、以下の地名は自明につき、注は附さない。悪しからず。]と鳴海(なるみ)の間、笠寺邊(あたり)にて、かけられて死たりと云ふを聞たり。これは天白川(てんぱくがは)など云(いふ)山川(さんせん)の末(すゑ)もあり。此先(このさき)、鳴海の東、桶狹間などいふ邊は如何にも居(ゐ)そふ成(なる)所也。却(かへつ)て淺き山にも多く居る也。【木曾深山などは如何にや、是等の事に志深く成て後、久々旅行もせず、仍(よつて)、探索せざりし。惣躰(さうたい)か樣な事は中々人傳(ひとづて)にて聞(きき)ては違(たが)ふなり、自身に探索せねば分らざるなり、廣大和本草には、近時には木曾山中にもありと云々。】名古屋のことき平穩なる所にては先(まづ)はなき事なり。諸國の人に尋(たづね)ても、多くは心なく知らぬ人多し。予、文政六年[やぶちゃん注:一八二三年]、野州大桑村に【日光の三里傍(かたはら)】暫(しばし)逗留せし時、此地は鎌鼬多き土地ならんと尋(たづぬ)るに、澤山にもなく候へども、村中にては、年々一人か二人はかけらるゝと云て不審とせず。【此大桑村はわづか八十軒餘の小村なり。此地は日光山の山續きながら、いかにも小(ちさ)き岡山の麓なれど、其山のすそに、日光山の奥栗山と云より出(いづ)る大河有(あり)、絹川の上也、又こなたの方には日光山より流れ出る大谷川(おほたにがは)有ㇾ之(これあり)、山川に挾(はさま)りたる所なり、夫(それ)故、澤山にある土地なり。】夫(それ)より歸路に宇都宮に宿りぬ。【此地は山遠(とほく)して畑多く平原の野地(のぢ)なり。】旅宿の主(あるじ)等(ら)呼出(よびいだ)して、鎌鼬の事を懇(ねんごろ)に尋(たづぬ)るに、左樣の儀は一向存(ぞんじ)奉らずと云。予、日光邊(あたり)にては有(ある)事也。僅(わづか)十里の違ひなり。聞及(ききおよ)ばすやと問ふに、成程、日光邊にては左樣の事も有樣(あるやう)に承りたることも御座候へども、虛實、一向慥(たしか)ならざる事と存奉り候と云へり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

是皆、夫地氣候の然らしむる所、人智も又此(かく)の如きか。我(わが)耳目に見聞(みきき)せぬ事は、知ぬ人多き物也。況(いはんや)、幽明三世一貫の理(ことはり)は會得せぬ人の多きも理也。大桑村の土民は、此怪は、世界中に常々有(ある)事と心得居(をり)、不思議を見て不思議とせず。宇都宮のものは、か樣の怪は世界になきことと思ひ居(をり)て、怪事を聞(きき)ても却(かへつ)て怪とせず。井中の蛙(かはづ)の俗諺(ぞくげん)、實(げ)にうべ成哉(なるかな)。

 

Kamaitatiwatasi

 

 元、尾州七里の者【七里の者と云は、東海道筋宿々(しゆくしゆく)に在住して、御屋形(おやかた)の御用飛脚。荷宰領などつかさどる者也。[やぶちゃん注:「七里」は「七里繼宿(しちりつぎやど)」で、尾張・紀伊の徳川家などの大名が、東海道筋七里ごとに役所を置いて、江戸と国元との急な連絡に備えた七里役所のことであろう。この「御屋形」もその尾張藩及び主家大名家を指すと考える。]】を勤(つとめ)し水野何某と云もの島田宿の在役中に、大井川に出(いで)て、御用荷を才領[やぶちゃん注:底本は「才」の右に訂正注で『(宰)』とする。]する折節、見付宿[やぶちゃん注:東海道五十三次の二十八番目の宿場である見附宿現在の静岡県磐田市中心部に当たる。天竜川の左岸であったが、ここの叙述とは違い、ウィキの「見附宿」によれば、『大井川と違って水深があったため』、『主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった』とあり、以下の叙述からは、やや不審ではある。宿の位置からして、渡しはの附近(グーグル・マップ・データ)かと思われる。]の輕き者、身延山へ拔參(ぬけまゐ)りするとて、渡し場へ來り、報謝越(ほうしやごえ)[やぶちゃん注:信仰目的の旅行者が川越えなどをする場合、渡守や人夫が施しの意味で無料で渡したことを指す。]を賴むゆゑ、こなたより向(むかふ)へ荷物をのせ行(ゆき)し明(あき)手の川越(かはごえ)[やぶちゃん注:渡した後に手ぶらで対岸に戻るはずの渡し人夫のこと。]、返り懸(がけ)に、大勢にて、彼(かの)者一人を直(ぢき)に其連臺(れんだい)[やぶちゃん注:人夫による川越えの際に旅客を乗せる平たい台。附図の右端の岸にある物や、川中の駕籠を載せているもの。通常は人夫四人で担いだ。]にのせて渡しゝが、無賃なれば、大事に扱ふ事なく、みなみな立(たち)ながら、肩より連毒を捨(すつ)る如く、其儘、地に下し置(おき)て散去(ちりうせ)りぬ。此響きに、彼(かの)者仰向(あふむけ)に倒れて、良(やや)暫くして漸(やつ)と起上(おきあが)りたるとき、面躰(めんてい)を見るに、一面に血流れたり。頭(かしら)を怪我したる事と驚き、人々寄來り、笠を取(とり)て見るに、月代(さかやき)[やぶちゃん注:成人男子が額から頭の中ほどにかけて髪を剃った部分。武士階級だけでなく、庶民の間にも広く見られた。]より髮の中(なか)懸(かかけ)て、六七寸程の鎌疵出來(でき)たり。血の出る事、誠に夥敷(おびただしき)ゆゑ、怪我をさせしかと、川越(かはごえ)共(ども)も驚(おどろき)てかけ集りたれ共、皆々、鎌鼬鎌鼬とて立去(たちさ)り、一向驚かざりしとぞ。【海道にては鎌と通言(つうげん)して鎌鼬とはいはず。】。是(ここ)に甚(はなはだ)奇成(きなる)事の有(あり)しは、此者、菅笠を冠り居(ゐ)たるに、笠にも笠當(かさあて)[やぶちゃん注:被り笠の内側の頭に当たる所に附ける小さな布団状の装具。]にも例の疵付(つか)ず。頭中(ずちう)に斗(ばか)り大疵出來たり。右何某、眼前に是を見居たり迚(とて)、具(つぶさ)に語りたり。是を以て見る時は、風氣(ふうき)の魔物にして、形ちなき物のやうにも思はる。

[やぶちゃん注:「拔參り」底本の注に、『主人や父母の許可を』得ずに、『神仏参詣の旅に出ること』を指す。『本来は、伊勢参りを意味したが、のちには、他の神仏の場合にも称されるようになった。正規の関所手形などは持たないが、信仰による旅行として』、大抵は『大目に』見られた、とある。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

又、行膝(はゞき)を懸(かけ)て居たる者、その行膝の下をかけられて疵付(きづつき)たるに、はゞきには聊のさはりもなかりし事も有(あり)と聞けり。此菅笠に疵の付(つか)ざると全(マツ卓)同日(どうじつ)[やぶちゃん注:同様。]の談なり。

[やぶちゃん注:「行膝(はゞき)」通常は「脛巾」「行纏」等と書いた。「脛穿(はぎはき)」の転とされ、幅布を脛(すね)に巻き付けて紐で結び、脚を保護しすると同時に、歩行時の動作をし易くするための固定保護パットとして用いたもので、後世の脚絆(きゃはん)や近代のゲートルに相当する。]

 此怪物、水中にも住ものと見えたり。四谷御門内にての事なりしが、凹成(なかくぼ)所[やぶちゃん注:平地でありながら妙に窪んだ箇所。]有(あり)て、雨上りに溜り水せし故、子供集り、水中を渡りて遊び居たるに、坊主なりし丹羽一德と云ふもの、いまだ幼少にて十歳斗りの節、右溜り水の中にて、此鎌にかけられたり。又、予が知る人、松井又市と云【御家人の隱居なり、麻布古川に居(をり)し時の事也。】の悴(せがれ)十八歳の時、魦(はや)をすくふとて近邊の川を渡り、水中にて、足の裏より甲をかけて懸られしが、対遂に此疵が基と成(なり)て身まかりしとなり。

[やぶちゃん注:「魦(はや)」ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としてはウグイ(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)・アブラハヤ(ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri)・タカハヤ(アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi)・オイカワ(コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus)・ヌマムツ(コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii)・カワムツ(カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)などが挙げられる(以上はウィキの「ハヤ他に拠った)。

 以下、一段落は底本では全体が二字下げ。]

鎌鼬に懸られたる咄は、數十人聞(きき)たり。此疵にて死たりと云ふは、前に云(いふ)、笠寺にて懸たるのと、此又市の悴と兩人のみ也。疵は大くとも、まづは死(しな)ぬものなりとぞ。

[やぶちゃん注:死亡した二例は、その傷から侵入した細菌やウィルスによる、何らかの重篤な感染症が深く疑われる。]

 又、此怪物、緣上(えんうへ)へも上(のぼ)るものと見え、過(すぎ)し頃、江戸四谷鮫ケ橋の裏店(うらだな)の者の妻、家の内、塵の上に居(ゐ)て、鎌鼬出來、久々難儀せしといふ事、慥に聞たり。又、四谷の天王橫町にては、婦人、便所にて尻をまくりしやがむ【蟄(ちつ)する事なり[やぶちゃん注:こんな割注をするということは「しやがむ」という語が尾張では通じないことを指すか?]】所をかけたり。又、牛込榎町御先手組にては、はきものをはくとて、床上(ゆかうへ)より足を出(いだ)すを、緣の下の方よりかけたり。此餘(このよ)、猶、珍敷(めづらしく)かけられたるも種々是(これ)有(ある)べし。

 凡(およそ)、此類の怪を避(さく)るには、五嶽の靈符[やぶちゃん注:中国の古来の霊山信仰に因む、道教的な五山、泰山・恆山・崋山・嵩(すう)山・衡(こう)山の咒符(じゅふ)か。]など、功驗新なるべし。九字十字護身法なども然るべきか。猶、密家[やぶちゃん注:真言宗や天台宗の密教。]には祕法種々有べく、呉々も眼前に奇を顯す不思議成(なる)怪物也。又、伽婢子(ぼうこ)續篇に、關八州の間に鎌鼬とて怪敷(あやしき)事侍り。旋風吹興りて、通行人の身にもの荒く當れば、股のあたり、たてざまにさけて、髮そりにて切(きり)たる如く口ひらけ、しかも痛み甚敷(はなはだしく)もなし。又、血は少しも出でず。女草(じよすいさう)をもみてつけぬれば一夜の内になほると云[やぶちゃん注:「」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」、その右に「生」を配した字。後の注で引いた原文の字とは微妙に違う。「女草(じよすいさう)」そのものは不詳。]。

何ものゝ業(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風の荒く吹(ふき)て當ると覺えて此(この)憂(うれひ)有(あり)。夫(それ)も名字(みやうじ)正敷(ただしき)侍(さむらひ)にはあらず。唯、俗姓(ぞくせい)賤(いやし)きものは、たとひ富貴(ふうき)なるも、是(これ)に當らると云(いへ)りと見えたり。大凡(おほよそ)、此書に有(ある)ごとくなれど、疵はたてざまに裂(さく)るに非ず。曲尺(かねじやく)なりになる也。昔は關東のみの事成(なり)し歟(か)。今は關東にも限らぬ事と覺ゆ。中國・西國筋は如何(いかん)。探り置度(おきたく)思ふのみ。

[やぶちゃん注:「九字十字護身法」「九字護身法」(くじごしんぼう)は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九つの文字から成る真言によって邪気を払う所作。九字の意味は「臨める兵、闘う者、皆陣を張り、列を成して、前に在り。」とする。元は道教を起源とするが、本邦では真言密教の印と結びついたものがよく知られる。「十字護身法」は先の九字の頭に一字を加えたもので、効果を一つのことに絞り込んで強化することを目的とするとされ、何に集中させるかによって加えられる一字が異なるという。加える一字としては、「命・水・行・天・鬼・大」などが知られているとネット上の記載にはあった

「伽婢子」のそれは「五 鎌鼬(かまいたち) 付(つけたり) 提馬風(だいばかぜ)」である。岩波新古典文学大系本を元に、恣意的に正字化して示す。読みは一部に限った。

   *

 關八州のあひだに鎌いたちとて、あやしき事侍べり。旋風吹おこりて道行人(みちゆきびと)の身にものあらくあたれば、股(もゝ)のあたり竪(たて)さまにさけて剃刀(かみそり)にて切たるごとく口ひらけ、しかもいたみはなはだしくもなし。又血はすこしも出ず、女草(ぢよすいさう)をもみてつけぬれば、一夜のうちにいゆるといふ[やぶちゃん注:「」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」で(その最終画を右に伸ばし)、その上((くさかんむり)の右下上部)に「生」を配した字。但し、底本脚注そのものに「女草(ぢよすいさう)」そのものを不詳とする。]。なにものゝ所爲(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風(つじかぜ)のあらく吹てあたるとおぼえて、此うれへあり。それも名字正しき侍にはあたらず。たゞ俗姓(ぞくしやう)いやしきものは、たとひ富貴(ふうき)なるもこれにあてらるといへり。

 尾濃駿遠三州(びでうすんえんさんしう)のあひだに、提馬(だいば)風とてこれあり。里人あるひは馬にのり、あるひは馬を引てゆくに、旋風おこりて、すなをまきこめまろくなりて、馬の前にたちめぐり、くるまのわの轉ずるがどとし。漸(ぜんぜん)にその旋風おほきになり、馬の上にめぐれば、馬のたてがみすくすくとたつて、そのたてがみの中にほそき糸のごとく、いろあかきひかりさしこみ、馬しきりにさほだち、いばひ鳴(いなゝき)てうちたをれ死す。風そのときちりうせてあとなし。いかなるものゝわざとも知人なし。もしつぢかぜ馬の上におほふときに刀をぬきて、馬の上をはらひ光明眞言(くはうみやうしんごん)を誦(じゆ)すれば其風ちりうせて馬もつゝがなし。提馬風と號すといへり。

   *]

 又、南谿が北窓瑣談に、佐渡の國に、かまいたちに懸らるゝといふ事ありて、其(その)氣の中(あた)る所、大いにきれて傷(やぶ)る。此時に、金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付(つく)れば、皆悉く死するなり。只、石菖根(せきしやうこん)一味、煎じて洗ふべしとなり。又、其まゝに捨置(すておく)時は數日(すじつ)にして愈(いゆ)[やぶちゃん注:底本では右に『(癒)』と訂正注がある。]るとぞ。佐渡の外科(げくわ)[やぶちゃん注:外科医。江戸時代は比較的、「がいりやう」と読むことの方が多いように思われるが、原典(後掲)に従った。]、本多勇伯、余に語り侍りしと云々。【前に云(いふ)松井又市の悴は、若(も)し膏藥抔を付(つけ)て死にたるのにはなかりしか、聞置(ききおか)ずして殘念也。】

[やぶちゃん注:「石菖根」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus の根茎。漢方で神経痛や痛風の治療に使用される。

 以上の「北窓瑣談」のそれは「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。柱の「一」は除去した。踊り字「〲」は正字化した。「愈」はママ。これによって想山が如何に正確に引用しているかが判る

   *

佐渡の國に、かまいたちにかけらるゝといふ事ありて、其氣の中るところ、大にきれて傷(やぶ)る。此時に金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付れば、皆ことごく死するなり。只石菖根(せきしやうこん)一味(いちみ)煎じて洗ふべしとなり。又其まゝに捨をく時は、數日にして愈るとぞ。佐渡の外科(げくわ)本多勇伯余(ほんだゆうはく)に語り侍りし。

   *

なお、「佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事」には、厚手の着衣が裏表中綿まで完全にすっぱりと切れてありながら、身体は全く切れていない(ということが逆に怪異である)という特殊な鎌鼬様のケースが記されてある。是非、参照されたい。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

右を以て見る時は、佐渡ならではなき樣に見ゆれども、左にあらず。前に記する如く、諸國に有(ある)事也。

 此怪物、漢土にも有(ある)歟(か)。又、漢名、如何成(いかなる)ものにやと、醫学家博識家等に尋れども、慥ならざりしに、此程、ふと本草綱目啓蒙の虫の部に、溪鬼虫(けいきちう)と云(いふ)を見當(みあた)りたり。是、鎌鼬の類と見えたり。漢名もいくらも附してあり。その譯の所は全く鎌鼬の事なり。

[やぶちゃん注:以上の段落中の「虫」はママ。但し、原典(「本草綱目啓蒙」)では「蟲部」である。

「本草綱目啓蒙」本草学者の大家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理した江戸後期の本草学研究書。全四十八巻。享和三(一八〇三)年刊。引用に自説を加え、しかも方言名等までも記してある。以下の「溪鬼蟲」は「卷之三十八蟲部 蟲之四 濕生類二十三種附錄七種」に掲げられている。今回は、以下の想山のそれと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから始まる重訂版の画像を視認して校合しておいた。なお、同原典には読みは殆んど示されていない。( )の読みは今までのそれと同じく私の推定である。なお、重訂版では冒頭の目録には「溪鬼蟲」の下に割注で「水虎」とあるが、これは本文の附録で河童のことである。]

 本草綱目啓蒙虫部(むしのぶ)に云く、

溪鬼蟲(けいきちう)

[やぶちゃん注:以下の部分(「本草綱目啓蒙」の「溪鬼蟲」の本文部分)は底本では全体が二字下げである。]

詳(つまびらか)ナラズ

一名射工蟲【抱朴子】 沙蝨(さしつ)【事物異名】 沙虎 溪弩【共(ともに)同上】

溪毒【典籍便覽通雅】 蜮魚(よくぎよ)【南寧府志】 石鏡【剪燈新話】

越後高田海遽ニテ、行人、曲阿(あづまや)ノ處ヲ過(すぐ)ルニ、忽チ砂高ク吹上リテ、下ヨリ氣(き)出(いづ)ルガ如ク覺ユレバ、ソノ人、コレニ射ラレテ卒倒シ、省(かへらザルコト[やぶちゃん注:ここは正気の戻らないの意。])傷寒[やぶちゃん注:熱病や腸チフスの類を指す。]ノ如シ、然(しかれ)ドモ、ミナ服藥シテ治ス[やぶちゃん注:「重訂版」ではここに『死ニ至ル者アラズ或ハ過酒酩酊シテ治ス』とある。]【同國鴨田郡】病人ノ身ニ、必、偃月(えんげつ)[やぶちゃん注:半月。]形ノ傷アリ、故ニカマキリムシ【高田】ト云(いひ)、或ハ、アカムシ【鴨田郡】。ト云、或ハ、スナイタト云フ、然レドモソノ蟲ノ形狀ハ詳ナラズ、從來、言傳(いひつた)フル越後七奇中ノカマイタチモ皆同事(おなじこと)ナリ、此事、越州ニ限ラズ、他國ニモアリ、是皆、溪鬼蟲ノ屬ナリ、正字通ニ、葛洪所ㇾ謂溪毒似射工而無ㇾ物者卽蜮類也ト云ヘリ。

[やぶちゃん注:各種の書名解説は煩瑣になるばかりなので省略する。以下、同断。

「鴨田郡」不詳。不審。蒲原郡の誤りではなかろうか?

最後の漢文は訓読しておく。

   *

葛洪(かつこう)が謂ふ所の「溪毒」は「射工」に似て、物、無きは、卽ち、蜮(よく)類なり。

   *

 これは、

   *

葛洪(二八三年~三四三年:西晋・東晋時代の道教研究家で、かの知られた神仙伝「抱朴子」の作者)が「抱朴子」の中で語っている「溪毒」は、同じ書で語っている「射工虫」に似ていて、姿・形が見えないという属性に於いて、まさしく「蜮」の仲間である。

   *

という意味であろう。「蜮」は水中に住んでおり、人に危害を加えるとされた伝説上の怪物鬼蜮(きよく)であるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(卷第五十四 濕生類)の「蜮(さごむし)」を読むと、この虫に射られた(と表現している)者は直ちに治療(蝸牛を口中に含むとある)しないと死に到るとあって、どうも鎌鼬らしくない。なお、「抱朴子」の原文を中文サイトで確認してみたが、「溪毒」は「射工蟲」は「抱朴子」の全く別々な箇所に記されてあり、関連性は一切述べられていない。「正字通」は明末の張自烈によって編纂された漢字字典である。]

 廣大和本草に、𤟎、和名カマイタチ、廣州方物記云、𤟎因ㇾ風騰躍甚捷、越ㇾ巖過ㇾ樹如鳥飛空中、人張銕綱得ㇾ之、見ㇾ人則如羞而叩ㇾ頭乞ㇾ憐之態、人撾擊之倐然死矣、以ㇾ口向風ㇾ須臾復活、惟碎其骨其腦、不ㇾ死、一云、刀斫不ㇾ入、火焚不ㇾ焦、打ㇾ之如皮囊、雖下銃擊其頭破上得ㇾ風起、惟石菖蒲塞其鼻卽死再不ㇾ活、嶺南人呼曰風狸、卽此獸也と見ゆ。此事は三才圖會にも有(あり)。然(しかれ)ども、予思ふに、風狸は狀(かた)ち有(ある)獸(けもの)と見えたれども、鎌鼬は前に云ひ置(おき)たる通り、誰も狀ちを見しものなければ、同類異種かとも思はる。同書に、本邦ニテハ能州ニ多シ、民家、夜庭シテ居ル所へ、イヅクトモナク此獸飛來(とびきた)リテ、人ヲ傷(きずつく)ル事多シ、其疵口、刀ニテソギタルガ如シ、石菖蒲(せきしやうぶ)ニテ急(すみやか)ニ洗ヒ、又ハ煎湯(いりゆ)中(うち)ニモ石菖蒲ヲ加へ用ユ。又、石菖蒲一味ノ煎湯(いりゆ)モ佳ナリ。又、舊曆(ふるこよみ)ヲ黑燒ニシテ付(つく)ルモ佳ナリ。早ク治(ち)セザレバ、癩疾(らいしつ)ノ如クニ爛(ただ)レルナリとも云(いへ)り。石菖蒲と舊曆(ふるこよみ)の黑燒が藥と見えたり。

[やぶちゃん注:「廣大和本草」の漢文を自然流で訓読しておく。句読点には従っていない。一部は意味が半可通なので、返り点位置を変更して読んだ(「以ㇾ口向風ㇾ須臾復活」のところ)。大方の御叱正を俟つ。

   *

𤟎(きつくつ)、和名「カマイタチ」、「廣州方物記」に云く、𤟎、風に因りて騰(のぼ)り躍(おど)り、甚だ捷(ずばや)く、巖(いはほ)を越え、樹(き)を過ぐし、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、銕(てつ)の綱を張りて之れを得(う)。人を見れば、則ち、如二羞(は)ぢて、頭を叩(たた)きて憐みを乞ふ態のごとくするも、人、之れを撾擊(かげき)すれば[やぶちゃん注:打てば。]倐然(しゆくぜん)[やぶちゃん注:たちまちにして。]死すれども、口を以つて風に向かへば、須臾(しゆゆ)にして復活す。惟だに其の骨を碎き、其の腦を破れども、死なず。一(いつ)に云ふ、刀斫(たうせき)[やぶちゃん注:刀や斧。]も入らず、火にて焚(や)くも焦げず、之れを打つも皮囊のごとくして、其の頭を銃擊して破ると雖も、風を得て起く。惟だ、石菖蒲(いししやうぶ)にて、其の鼻を塞げば、卽ち、死して再びは活(い)きず。嶺南人、呼びて風狸(ふうり)と曰ふは、卽ち、此の獸なり。

   *]

 又、康熙字典に水經注、永昌郡北山水傍瘴氣殊惡、氣中有ㇾ物、不ㇾ見其形、其作有ㇾ聲、中ㇾ木則折、中ㇾ人則害、名曰鬼彈と見えたり。此鬼彈の形容、日本の鎌鼬に似たり。參考の爲に抄出せり。

[やぶちゃん注:漢文部分を同じく自然流で書き下す。

   *

「水經注」に、『永昌郡北山の水の傍ら、瘴氣、殊に惡(あ)し。氣中に、物、有るも、其の形は見えず、其れ、作るに、聲、有りて、木に中(あた)れば、木、則ち、折れ、人に中れば、人、則ち、害せらる。名づけて「鬼彈(きだん)」と曰ふ。』と。

   *

ここに出る「永昌郡」は後漢時代の雲南省西部にあった郡で、郡庁は現在の雲南省保山市にあった。古くより、ビルマへのルートの要地として知られる。(グーグル・マップ・データ)。また「鬼彈」は「搜神記」の「第十二卷」にほぼ同内容で出る。以下に中文サイトのものを加工して示す。

   *

漢、永昌郡不違縣、有禁水、水有毒氣、唯十一月、十二月差可渡渉、自正月至十月不可渡、渡輒病殺人、其氣中有惡物、不見其形、其似有聲。如有所投擊中木、則折、中人、則害。士俗號爲「鬼彈。」。故郡有罪人、徙之禁防、不過十日、皆、死。

   *

しかしこの「鬼彈」、目に見えない点では共通するものの、致命的な損傷を人に加えるから、どうも鎌鼬と同類とは思われない。ロケーションと木や人を簡単に折ってしまうという状況から見て、私は実は、人の捕食例もある、有鱗目ヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ亜種ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus ではあるまいかと疑っている(本種は最大亜種で最大長は八メートル超の個体が確認されている)。]

 鎌鼬は越後七不思議の一にして、北越奇談・東遊記などにもしるしつれども、密ならず。右國にても、古曆を黑燒にして、さゆ[やぶちゃん注:白湯。]にて用(もちふ)る事にて、數日(すじつ)の間に愈(いゆ)ると也。越後には別(べつし)て多き事としられたり。

 又、飮膳摘要に、鎌鼬の疵には、大根の絞り汁をつけてよしと云ふ。

[やぶちゃん注:「越後七不思議」各種(総数四十余り)の名数があるが、「鎌鼬」が数えられているもので知られているのは、私の愛読する、越後国の文人画家橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年~?(文政二(一八一九)年には存命))の筆になる「北越奇談」の「俗説十有(ゆう)七奇(しちき)」(十七不思議)があり、彼はさらにこの十七種から「新撰七奇」として「燃土(もゆるつち)」(長い年月で形成された腐葉土のようである)「燃水(もゆるみづ)」(「臭水(くさみづ)」で石油)「胴鳴(ほらなり)」(秋の晴天に鳴る雷鳴でこれが鳴るのは風雨の予兆とする)。「無縫塔」(僧籍の者の墓である卵塔であるが、ここのそれは、とある淵から自然とその石が出現するという奇談である)「石鏃(せきぞく)」(橘の附図を見ると、所謂、出土した古代の鏃(やじり)や磨石斧・石棒である)「鎌鼬」「火井(くはせい)」(天然ガス)の七つを選んでいる。『柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬」』(未読の方はこれと併せて読まれることを強くお勧めする)の私の注で、その「鎌鼬」の部を引いているので参照されたい。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げである。]

武藏の國荏原(えばら)郡北澤村森嚴寺(しんがんじ)可雲上人、此書を閲(けみ)して曰く、下男熊藏は【生國越後の國長岡邊の者也。】今嘉永元申年六月七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八四八年七月七日。]、庭前の池の藻を苅らせけるに、極(きはめ)て深き所へ潛り入(いり)、根引にせん迚、池に入しに、忽ち右の足の向ふ臑を三寸斗、橫にきられたり。暫時、血も出ず痛みもなく、小兒の口あきたる如き疵故、兼て越後者にて、鎌鼬と知(しり)て驚きもせず。又、飛入(とびいり)て藻を苅盡(かりつく)し、再び水より上りし時は、血も出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしく)成(なり)たる由なれ共、其儘、外の用辨致し居しが、七月十日に其疵口を見るに、最早、大半癒(いえ)たり。今(いま)予、眼前に此事を見て、此書の説どもの誤らざる事を證すと語らる。よつてかき添置(そへおき)ぬ。

[やぶちゃん注:「武藏の國荏原郡北澤村」現在の東京都世田谷区北東部に位置する、知られた下北沢や上北沢・代沢の周辺に相当する。

「森嚴寺」東京都世田谷区代沢に現存する浄土宗八幡山森厳寺。]

2017/04/11

「想山著聞奇集 卷の貮」 「剜拔舟掘出したる事」

 

 剜拔舟(くりぬきぶね)掘出したる事

 

[やぶちゃん注:「くりぬきぶね」の読みは目録に従った。「剜」は「けずる・えぐる」の意。この掘り出された刳り舟は、なんと! 現存する! 「愛西市佐織歴史民俗資料室」(諏訪町郷西四五六番地一の「佐織公民館」内)に展示されてあるこちらのページの「諸桑(もろくわ)の古船」のところをご覧あれ! 写真もある! その記載によれば、この丸木舟は『複材くり船といわれるタイプのもので』『時代は古墳時代(三~四世紀)』にまで遡る古代の舟で、『三~四本の原木を縦に継いだ丸木舟で』、同様のものは『太平洋岸の各地で出土例があ』りとし、『材料には楠(くすのき)が用いられ』ていたと記す(用材は本文でもそう推定している)。また、『三ヶ所を継いで、カンヌキを用いて一つにしてい』たともある。また、「尾張名所図会」の記載から『三ヶ所を継いで、カンヌキを用いて一つにしてい』たともある(附図に描かれた枘穴(ほぞあな)でそれが確認出来る!想山先生! 二十一世紀になっても、残っていましたよ!!!

 

Kuribune1

Kuribune2

Kuribune3

Butuzouka

舟の形ち、木目(きめ)缺目(かけめ)、此圖の通りにて少しも相違なし。舟の上端(うはばた)、田づらより三尺程土中へ埋(むま)り居(ゐ)、舳先(へさき)のかたは數年來水中より出居(いでゐ)たれども、藪陰(やぶかげ)の所故(ゆゑ)、不審を立(たつ)る者もなく打過(うちすぎ)たりと。舟、惣(さう)長さ十一間貮尺[やぶちゃん注:二十メートル六十センチメートル。異様に長い!]程、幅の徑(わた)り廣き所にて五尺貮寸ほどあり、尤(もつとも)、舳先と艫(とも)の外は大躰(たいてい)同じ幅也、両舷(りやうふなばた)の木の厚さ三四寸[やぶちゃん注:九~十二センチメートルほど。]、深さはわづか七八寸[やぶちゃん注:二十一~二十四センチメートル。]より一尺ばかり中(なか)の方(かた)へ繰込(くりこみ)有(あり)て、舟底の方は厚(あつさ)は一尺餘も有て、至(いたつ)て手丈夫(てじやうぶ)にて不細工に見えたり。

 

[やぶちゃん注:以上は本文の途中に挿入された附図のキャプション(但し、活字化されたものにはルビはない)。一部に底本の判読の誤りがあったので訂した図は舟だけで全六枚に及ぶ長大なものであるが、図の初めの方の文章は本文の後半部である。

 後の二枚は一緒に周囲を掘っていて発見された(リンク先にそうある)木製の仏像(らしき物)であるが、これはこの舟とは無関係な後代のものと考えた方が無難である。古墳時代では仏像ではあり得ないし、この発掘箇所が寺の裏であったということは、或いは、もっと古い時代の別の寺や誰かの屋敷などが、ここにあった可能性もあるからである。キャプションは右が、

 

 向(けう)

 長(たけ)七寸

 

で「向」は正面向きの謂いであろう。「七寸」は約十八センチメートル。左の図は、

 

 背(はい)

 橫(よこ)四寸九分

 

で最長横幅は十五センチメートル弱とする。]

 

 天保九年【戊戌(つちのえいぬ)】閏四月三日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八三八年五月二十六日。]、尾張の国中嶋郡諸桑村(もろくわむら)【名古屋より四里半申[やぶちゃん注:南西。]の方、津島より半里程巽(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]の方。】[やぶちゃん注:現在の愛知県愛西(あいさい)市諸桑町(ちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、方角がおかしく、名古屋のほぼ西で、同じ方角の現在の愛知県津島市の北西に当たる。不審。]、地内に、滿成寺と云(いふ)寺有(あり)[やぶちゃん注:諸桑町に現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。浄土真宗。]。此裏の方、溝浚(みぞさらひ)にて、同所字竹越と云ふ所の沼田の纔(わづか)なる水付(みづつき)の場所にて、古木を掘當(ほりあ)てたり。大なる木ゆゑ、往古の倒木にやとて、段々村内のもの共寄集(よりあつま)り、掘穿(ほりうが)ちたるに、殊の外長くて、中々取𢌞しも成兼(なりかね)、掘起し難きゆゑ、三つに引切(ひききり)、同五日迄に漸(やつ)と掘出(ほりいだ)し見るに、惣長(さうながさ)十一間餘、差口(さしわたり)五尺餘の丸木を二つ割(わり)にして、中を剜(くり)ぬきたる丸木舟にて、梁木(はりき)の穴もあつて、甚だ古代の物なり。木品(きひん)は何とも聢(しか)とは分り兼たれども、俗眼にも楠とみえ、材木屋、又は大工などにも見せて穿鑿せしに、いづれも楠の類とはいひけれども、朽木ゆゑ、慥(たしか)には見わき難き由。所々餘程朽(くち)たる所も有(あり)。其上、掘出せしをりにも缺損(かけそん)じ、彌(いよいよ)形ちも替りたるよしなれども、誰(たれ)見ても舟には相違なし。木の色は、數百年泥中に沈み有(あり)たる故か、濃き鼠よりはまだ黑きかたにて、圖のごとき木目顯れ居たり。さて此場所にて、錢二文と大網の岩と見ゆる素焼の物[やぶちゃん注:網の錘である。先のリンク先に現物の写真がある。なお、これら(以下にも多くの発掘品が続く)を即、この舟と関連づけることは出来ない。古墳時代と漁師と銭では、必ずしもこれらが自然で腑に落ちる群としての出土物と位置付けることは出来ないからである。そもそもが原文自体、「此場所」と言っていて、一緒に出土したとは必ずしも言っていない(埋まっていた深さが異なることが以下に述べられてある。刳り舟よりも「上」の地層からである)からでもある。先の注で述べた通り、後の仏像様の物体も同断である。]、数(かず)廿(にじゆう)程も掘出し、其餘、素燒の小さき黑燒壺のごとき物の缺けも少々掘出したり。錢は上土(うはつち)を刎揚(はねあぐ)る内に有て、惣次郎と云(いふ)六歳に成(なる)小兒に持(もた)せ置(おき)たる故、何れへか失ひしを、所々尋けれども、再び出(いで)ざりし由。殘(のこ)り[やぶちゃん注:残念な思い。]多し。扨、夫より又、何ぞ有(あら)んかとて掘穿ちたるに、同八日、佛像のごときもの一つ掘出したり。是もやはり舟と同木と見ゆれども、何の像にや分りかねたり。圖の通り成(なる)ものなり。予、此年閏四月十五日に名古屋へ登り、程なく此事を口々に咄も聞(きき)、同六月十四日に此村へ行(ゆき)て一覽せしに、案内の土民の云(いふ)には、此舟の中に漆(うるし)をもつて書(かき)たる文字あれども、悉く磨滅して見えずと云故、予も見しに、此舟、彼(かの)寺の門前の藪陰に有て、中々漆の色さへ少しも分らず。讀得る事ならずして閣(さしをき)たりしは殘り多し。偖(さて)、此舟の事を人々に問(とふ)に、博識家も辨(わきまふ)る事成(なり)かね、一二の今案(こんあん)を申(まうす)人も有れど、點頭成兼(てんとうなりかぬ)る[やぶちゃん注:納得することはとても出来そうもない。]事のみなり。何にもせよ、斯(かく)のごとく、幅五尺ばかり、長さ十二間も續きたる楠の大木、今の世にはなし。假令(たとひ)、有(あり)たりとも、一國に一株か二株にすぎじと思はる。古へは、か樣の大木少からずして、斯のごとき剜拔舟も數艘有るものにや。又は昔も、か樣の舟はわづか一二艘には過(すぎ)ざりつるか。かく古風なる舟は、いつの昔遣ひしものにて、如何成(なる)故にて、幾百年此所(このところ)に埋(うま)り居(ゐ)たるか、推察なすべき由もなく、殘(のこ)り多し。此舟は掘出しぬしへ下されたるとの事なり。今は如何なりしにや。元來、此舟の舳先の所、年來、水中より出居(いでゐ)たれども、寺の藪陰、邪魔にもならず、誰(たれ)有(あつ)て見咎(みとがむ)る者もなく打過(うちすぎ)たりと。呉々も考(かんがふ)る程不審なる舟也。只書記(かきしる)しおきて、後昆(こうこん)[やぶちゃん注:「後」も「昆」も「後(のち)」の意で、「後世・後世の人」の意。]の良説を待つのみ。

[やぶちゃん注:全く同じ本件の内容を記載している「尾張名所圖會」の「海東・海西郡」にある「諸桑村古舟堀出圖」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(保護期間満了)と、それを視認して私が活字に起こしたもので最後に掲げておく。誤用箇所(「掘」が「堀」・「いは」が「いわ」・「こぐわ」(ルビ)が「こが」・「いぎやう」(ルビ)が「ゐぎやう」・「「すぢ」(ルビ)が「すじ」等)もそのまま活字化した。漢字の一部の略字(「図」「辺」「当」様のもの等。但し、確信犯の「余」「旧」等はそのまま打った)及び踊り字「〱」は正字化した。読み易くするために句読点を適宜、打った。

   *

 

Owarimeisyozuekuribune

 

 諸桑村にて古舩(こせん)を堀出(ほりいだ)す圖

 

天保九年閏四月、當村にて川浚(ざら)へをせしに、滿成(まんじやう)寺といへる寺の裏邊(うらべ)にて、古木(こぼく)の如き物に堀當りしかば、みなみな、いぶかしく思ひ、猶ふかく堀わりしに、いと大きなる舩(ふね)を堀出せり。此舩、往古(むかし)の製(せい)にして樟(くす)の丸木(まるき)舩なるが、三ケ所、つぎて、かんぬきをもつて、是をさす。また、舩中(せんちう)より大網(おほあみ)のいわ・古瓦(こが)・古錢、其余異形(ゐぎやう)の珍器(ちんき)多く出たり。夫より又、其ほとりを、ほりかへし見れば、木佛像(もくぶつざう)の半軀(はんく)を掘出せり。さて、當村は式内(しきない)諸鍬(もろくは)の神社もありて、千年に及ぶ旧地(きゆうち)なれど、其巳前いまだ此邊の、海にてありし時より、しづみし舩ならんか、又は隣(りん)村古川村は、もと、川筋(すじ)なりしを埋(うづ)めて今の村とせしよしなれば、此邊までも彼(かの)川筋にて、そこにありし川舩の、いつしか埋(うも)れありしにもやあらん。

 

   *

 以上を総て終わった後、検索しているうちに、佐織町教育委員会「諸桑の古船」小考という論文(PDF)をネット上で発見して快哉を叫んだ。これは恐らく、現在、披見し得る本件についての主要な古情報を恐るべき緻密さで網羅されており、以上の「尾張名所圖會」はもとより、本「想山著聞奇集」も翻刻されている(但し、新字体)。嬉しいことに石井謙治氏作成になる分断された図の一艘全体の復元図も示されてある! 他の諸記載とともに必見也!]

 

2017/04/08

「想山著聞奇集 卷の貮」 「風に倒れし大木自然と起たる事」

 

 風に倒れし大木自然と起たる事

 

Kusunosinboku

 

 伊勢の國松坂の入口左り側に、松崎屋と云(いふ)建場茶屋あり[やぶちゃん注:屋号と位置から推すと、現在の三重県松阪市久米町にある紀伊本線松ヶ崎駅周辺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]。其茶屋の側(そば)なる細道を七八十步入(いり)たる所に、五間[やぶちゃん注:九メートル九センチ。]四面程の社地に小祠有(あり)。土人、福神の社と云(いふ)。此祠の側に椋(むく)[やぶちゃん注:クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora]の樹一株あり。此樹、天保八年【丙酉(ひのえとり)】八月十四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八三七年九月十三日。]の大風に【諸國大風、別(べつし)て尾州は無類の大風にして三・勢・美[やぶちゃん注:三河:伊勢・美濃。]等これにつぐ。】根ごき[やぶちゃん注:根こそぎ。]と成(なり)て隣の民家へ倒れ懸りて、家も少し傾きたり。里人集りて評議するに、此樹は神木と云傳へたる木なれば、此儘にも打置(うちおか)れまじ。人足を集(あつめ)て、元の如く起さねばなるまじ、などいひあへり。然るに此樹、一夜の中(うち)に自然と元のごとく起直(きなほ)りたるは、誠に不思議成(なる)事也と人足どもの咄に驚き、かの社に至り見るに、方五六間[やぶちゃん注:「六間」は一〇メートル九十一センチ弱。]の社地にて、如何にも古き鎭座にや。五圍(めぐり)半[やぶちゃん注:これを身体尺で成人男子の両腕幅単位(「比呂(ひろ)」)とすると、一比呂は百五十一・五センチメートルであるから、約八メートル三十三センチなるが(クスノキの幹は周囲が十メートルを越える大木は稀ではない)、次の松の「五圍」がちょっと大き過ぎる感じはする。後で実地検証に行った人物の証言部分で実際の値が出てきて私はやっと納得した。]程の楠の木の梢は枯懸(かれかか)りて、枝葉の繁らざる大木一株と、五圍程の松一株と、件(くだん)の椋と三株のみにて、餘は小き雜樹、間ばらに生立(はえたち)たるのみにて、物凄き森にてもなく、其中に小き二つ續きたる祠有(あり)て、祠に向ひて右の方に此椋の樹有て、竹を立(たて)、注連(しめなは)を引𢌞(ひきまは)し、傍に建札(たてふだ)あり。其文に云く、

[やぶちゃん注:以下の立札の引用部(二段落分)は底本では全体が二字下げ。]

抑(そも)、此大福殿と申(まうし)奉るは、大國主命・事代主命御二柱の御所にて、椋を愛し給ふ。今年天保八酉八月十四日巳の上刻[やぶちゃん注:午前九時過ぎ。]、風雨甚しく、この神木、風雨の爲に根がへりし事ををしまぬはなかりしに、其夜、戌の上刻[やぶちゃん注:午後七時過ぎ。]、あやしき物音有(ある)を隣の人々、何事やらんと、當社の邊をながめしに、此椋、本のごとくに立替(たちかへ)り、生々(いきいき)と有(あり)し事。誠に大福殿の靈験いちじるき事、奇想、妙也。委敷(くはしく)は近家(きんけ)の人々にきゝ、その靈を感じ給ふべし。

 俗に、ゑびす大黑と申奉る御神なり。

 樹の𢌞り三圍半[やぶちゃん注:約五メートル三十三センチ。]あり。如何にも若々として、朽腐(くちくされ)たる樹には非ず。勿論、人力を以(もつて)は、中々起臥(きが)の出来る樹にあらず。此社の裏の方は、打開(うちひら)きたる田畑のみの所。又一方は松坂の町續きにて、社地の側(そば)より民家建續きたれば、近きわたりに天狗など棲べき森も見えず。いかにも不思議なる事也。松崎屋の亭主にも逢(あひ)て、篤(とく)と聞正(ききただ)すに、建札の趣に少しも違(たが)ひなし。本來、民間の一小祠ゆゑ、むかしより福神の社とは申せども、人の祈願する神にてもなく、又、別に利益(りやく)を得たると云(いふ)咄しも承らず。神慮のなさしめ給ふ事は人智の及ばざる御事なりとて、彼亭主も恐入(おそれいり)て咄たり。漢書(かんじよ)に云。山陽槖茅郷社有大槐樹吏伐斷ㇾ之、其夜、樹復立其故處、又昭帝時、上林苑中大柳樹斷仆ㇾ地、一朝起立生枝葉、有ㇾ蟲食其葉文字曰、公孫病已立、又哀帝建平三年、零陵有ㇾ樹、僵ㇾ地、圍丈六尺長十丈七尺、民斷其本長九尺餘皆枯、三月、樹卒自立故處など云(いふ)事を始め、漢土の書にも見えたれども、斯(かく)靦(まのあた)り慥(たしか)に見來(みきた)るこそ奇なれとて、具(つぶさ)に咄せし人より聞取(ききとり)て記しぬ。

[やぶちゃん注:これがそのまま成長して現存すれば、相応の大木となっているはずであるが、調べて見たが、なさそうだ。松坂市飯高町の赤桶字宮東にある水屋神社には、県内有数の大神木である巨大なクスノキがある(直径約三メートルとネット上にあるから、「めぐり」は九メートル半近い)が、ここはとても「松崎屋と云建場茶屋」のある伊勢参りの街道「の側なる細道を七八十步入たる所」ではない山間部で、地図で直線距離で測っても二十六キロメートル近くあるから、絶対に違う。

「漢書」後漢の章帝の代に班固・班昭らによって編纂された前漢史。全百巻。

「山陽槖茅郷社有大槐樹吏伐斷ㇾ之、其夜、樹復立其故處、又昭帝時、上林苑中大柳樹斷仆ㇾ地、一朝起立生枝葉、有ㇾ蟲食其葉文字曰、公孫病已立、又哀帝建平三年、零陵有ㇾ樹、僵ㇾ地、圍丈六尺長十丈七尺、民斷其本長九尺餘皆枯、三月、樹卒自立故處」これらは「漢書」「五行志」の中の一節を接ぎはいだもので、何故か、一部が「漢書」内の叙述の編年順列とは異なっている。まず、自己流で書き下す。読点の一部を句点に変えた。

 

山陽槖茅(たくばう)郷の社(やしろ)、大槐樹(だいえんじゆ)有るに、吏、伐らんとて、之を斷つに、其の夜、樹、復た、其の故(もと)の處に立てり。又、昭帝の時、上林苑中の大柳樹、斷(た)たれて地に仆(たふ)るるに、一朝、起立して枝葉(えだは)を生じ、蟲、有りて其の葉を食ふに、文字を成して曰く、「公孫病已立」(公孫たる病(びやう)、已に立つ)。又、哀帝の建平三年、零陵に樹(じゆ)有り、地に僵(たふ)れ、圍(めぐり)の丈(たけ)六尺・長さ十丈七尺、民、其の本(もと)の長(たけ)の九尺餘を斷ちて、皆、枯るるに、三月、樹、卒(つと)に自(み)づから故(もと)の處に立てり。

 

以下、若干の語注を附す。

・「山陽槖茅(たくばう)郷の社……」これは中文サイトの「漢書」原文に当たると、頭に「建昭五年」とあるから、紀元前三四年のことである。

・「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum中国原産で、古くから好まれた。かなりの大木になり、志怪小説ではしばしば霊が宿る。

・「上林苑」前漢の皇帝の造営した大庭園の名。長安の南方に広がっていた。

・「公孫病已立」ウィキの「眭弘(すい こう ?~紀元前七八年)によれば、眭弘は前漢の人で、『若い頃は任侠、闘鶏や馬を好んでいたが、年長になると『春秋』公羊伝を学び、百人以上の弟子を持つに至』り、『経書に通じていたことで議郎となり、符節令に至った』。昭帝の元鳳三年(紀元前七八年)のこと、『泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと』、三『つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた』。『眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した』。『当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された』が、果たして『その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位』し、『眭弘の子を郎とした』とある(下線やぶちゃん)。

・「建平三年」紀元前三年

・「零陵」湖南省永州市零陵区であろう。(グーグル・マップ・データ)。

・「六尺」漢代の一尺は二十二・五センチメートルであったから、一メートル三十五センチ

・「十丈七尺」漢代の一丈は二・二五メートル三十一メートル九十五センチ

・「本の長」主幹の材として最良の部分という謂いであろう。

・「九尺」。約二メートル。]

2017/04/07

「想山著聞奇集 卷の貮」 「山※(やまをとこ)が事」

 

 山𤢖(やまをとこ)が事

 

[やぶちゃん注:「やまをとこ」のルビは目録のそれを用いた。底本本文原文では編者によって丸括弧で附されてあるが、ということは原典では本文のここの標題にはルビはないということが判明する。「山𤢖」は私は「やまわろ」という読みの方が親しい。ウィキの「山わろ」によれば、元、『山𤢖(さんそう)とは本来中国に伝わる伝説上の生物あるいは妖怪』で、「山蕭」「山臊」とも『書かれる。中国の古書『神異経』には、西方の深い山の中に住んでおり、身長は約1丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とし、寺島良安の「和漢三才図会」などにおいては、『この山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山※4(やまわろ)」(山𤢖。古い電子化で当時はユニコードが使用出来なかった。悪しからず)条を是非、参照されたい。]

 

Yamawotoko

 

目白く、大さ通例の茶碗の𢌞り程も有たる樣に見受(みうけ)、面體(めんてい)は薄赤く見え、其身、惣體(さうたい)は黑く見たるよし。

是は篠竹と云(いひ)て矢竹(やだけ)にする竹なり。一面に生ひたり。別(べつし)て此山は奧深き山にて、先年より斧いらずと申(まうす)所もこれ有(あり)、竹の丈(たけ)は八九尺程づつより、一丈位のも有となり。

[やぶちゃん注:以上は本文に挿入された上図のキャプション。

「斧いらず」とは、斧が不要の謂いではなく、細い竹がみっちりと密生しているために、斧を入れる、揮っても、それらは切れず、前へ進めぬ難所という謂いと私は採る。

「八九尺」二メートル四十三センチから二メートル七十三センチ弱。

「一丈」三メートル三センチ。]

 

 深山に山男と云もの有て見たりと云(いふ)咄(はなし)は、所々にて云傳(いひつた)ふる事にて、其事の記したる書も、彼是(かれこれ)有(あり)て、其種類もいくらもある事にや。又は僅(わづか)一兩人有て、山々を巡り步行(ありく)事か量り難し。山魅木客(さんびもくかく)[やぶちゃん注:山やそこにある木の霊(すだま)や妖魅。読みは「さんみぼくかく」でもよかろう。「山精木魅」の方が一般的のようだ。]など云(いふ)も同種にや。何にもせよ、深山には、大いなる人躰(じんてい)をなしたるものあるには相違なく、我國君(わがこくくん)[やぶちゃん注:底本の編者注の読み。同注に『この場合は、尾張藩主徳川氏。十世斎朝から十二世斉荘(なりたか)の間であろう』とあるから、これは寛政十一(一七九九)年から弘化二(一八四五)年に相当する。]の御領、木曾の山奧へ入込居(いりこみゐ)たる木曾奉行[やぶちゃん注:木曾材木奉行のこと。木曽山林の管理を行った尾張藩の職名。]の下役などは、その足跡は折々見る事と追々聞たり。是(これ)謂ゆる巨人の足跡と云ものにや。【巨と云(いふ)字は、大足跡共(とも)訓(くんずる)字と聞置(ききおき)し。漢土にも、大なる足跡斗(ばかり)有て其人はいかなる人にやしれず、是を巨人の跡と云來(いひきた)れり。大足跡の事は廿三のまきに云置(いひおき)たり。[やぶちゃん注:この割注叙述から本文の「巨人」は「きよじん」と読んでいるように私は思う。なお、「廿三の」巻は刊行されず、散逸したものと思われる。残念至極。]】予が竹馬の友石川何某、先年、木曾方にて在勤をなし、年々深山へ入(いり)たる時、山男の草鞋(わらぢ)と云ひ傳(つたふ)る物の捨(すて)あるを二度見たり。藁にてはなく、藤の皮にて造(つくり)たる物にて、珍敷(めづらしき)品なり。今ならば、拾ひ來り、人にも見せ申べきに、若き節ゆゑ、心なく見捨來りしは殘念との事也。其大さ、佛足【長さ三尺斗】にはき給ふて宜しかるべき程に見請(みうけ)しといへり。元來、いか樣(さま)の所に住むものにや。年來(としごろ)、山入(やまいり)のみ致し居(をり)たる者の申傳へもなく、其形さへ容易(たやすく)は見せぬ者のよし。其頃【文化の末より文政のはじめの事なり。[やぶちゃん注:文化は十五年でグレゴリオ暦一八一八年。】木曾山の内玉瀧山[やぶちゃん注:底本では「玉」の右に『(王)』と訂正注する(後の「玉瀧村」も同じ)。「王滝山」は御嶽山の南東直近のピーク。]【御嶽山の南のかた、福島よりは七八里乾(いぬゐ)のかたなり。[やぶちゃん注:「福島」は現在の長野県木曽郡木曽町福島。ここ(グーグル・マップ・データ)。]】所にて見候は、是こそ山男に疑ひなしと申(まうす)事のよし。夫(それ)は玉瀧村杣人(そまびと)金兵衞と云者、全鉢、元氣も勇氣も我慢も強く、大膽者にて、常々他の杣人よりは朝も早く出る事にて、其日も明六時(あけむつどき)[やぶちゃん注:不定時法。夏なら四時過ぎ、冬なら六時半過ぎ。]比(ごろ)に杣道具を脊負(せおひ)て、本(もと)伐り[やぶちゃん注:予め、藩に決められた公的伐採区域を指すか?]に行(ゆく)とて、只一人元小屋より出、【元小屋とは木を伐(きる)節、深山に小屋を懸け役人を初(はじめ)、杣等(ら)出張居(でばりを)るところなり。】深山へ廿町[やぶちゃん注:二キロメートル強。]計り登りしに、後の方にて、大竹にてもわる樣成(なる)音響きたる故、振返りみれば、繪圖のごとき姿のもの故、夫成(それなり)に覺(おぼえ)なく[やぶちゃん注:そのまま判断する暇(いとま)もなく。]逃出(にげいだ)し、道迄も取違へ、一谷ひとたに)向ひの谷へ下りて、漸(やつと)氣も慥(たしか)に成(なり)たれども、愈(いよいよ)恐ろ敷(しく)、振ひ氣(げ)など出(いで)て、中々再び本伐(もとぎり)の場所へ行(ゆく)べくもあらず。早々元小屋へ歸りても、顏いろ猶(なほ)靑ざめ、兩三日も小屋に休居(やすみをり)ければ、居合(ゐあひ)たる者、一同不審して、其語(そのこと)を段々尋(たづね)たる所、前に記したる趣を具(つぶさ)に語り、兎角氣分勝れ兼(かぬ)る迚(とて)、下山の儀を願ふゆゑ、宿元へ歸らせし。形計りながら、其節の圖也とて、彼(かの)石川の見せし故、其儘寫し置(おき)ぬ。不敵なる男ながら、驚きたるもことはり也。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

山男の事は諸書にしるし有(あり)。近くは北越奇談・周遊奇談・北越雪譜等にも記し有(あれ)ども、みな一樣ならず。其内、周遊奇談に有(ある)豐前(ぶぜん)の中津領の奧山に住む山男と、北越雪譜に有る魚沼郡の山中にて出たる山男とは、其趣、能(よく)似たり。同じ種類かと思はれぬ[やぶちゃん注:「思はるる」の誤りであろう。]。され共、爰に記したる山男は又別種と見えたり。深山の奇怪、はかるべきに非ず。

[やぶちゃん注:「北越奇談」文化九(一八一二)年に刊行された随筆集で全六巻。越後国の文人橘崑崙(たちばなこんろん)の筆になり、校合・監修・序文は稀代の戯作者柳亭種彦、挿絵はその大部分を、かの葛飾北斎が描いている。想山の言っているのは、「四之卷 怪談」の「第十」であろう。以下に示す。底本は昭和五三(一九七八)年野島出版(新潟県三条市)刊の「北越奇談」を使用したが、恣意的に漢字を正字化した。図も附した(スキャンが上手くゆかず汚くなったので、図の右半分の左側の縁部分は除去した)。底本は総ルビであるが、ごく一部に留め、踊り字「〱」「〲」は正字化するか、「々」に変えた。歴史的仮名遣の誤りは総てママとした。

   *

 

Hokuetukidanyamaotoko

 

 妙高山・黑姫山。燒山(やけやま)皆高山なり。それより萬山相重り、信州・戸隱・越中・立山にいたるまで數十里に連(つらな)りわたりて、その深遠(しんえい)いふべからず。高田藩中數千家(か)の薪(たきぎ)皆此山中より伐出(きりいだ)すことなり。凡(およそ)、奉行より木挽・杣の平輩(ともがら)に至るまで各(おのおの)誓(ちかつ)て曰、山小屋の在中いかなる怪事ありとも人にかたるべからずとなり。一年(ひとゝせ)、升山(ますやま)某(それがし)此(この)役にあたりて數日(すじつ)山小屋にありしが、夜々(よるよる)人々打寄(うちより)火を焚くこと不ㇾ絶(たへず)。これをかこみて爐にあたる、しかるに山男(やまおとこ)といふものおりふし來りて、焚火にあたり、一時(いちじ)ばかりにして去(さる)。其形人倫に異なることなし。赤髮(せきはつ)裸身(はだかのみ)、灰黑色(はいくろいろ)長(たけ)八尺あまり、腰に草木(そうもく)の葉を着(つく)る、更に物いふことなけれども、聲を出(いだ)すこと牛のごとし。又よく人の言語(ごんご)を聞(きゝ)わくる。相馴(あいなれ)て知る人のごとし。一夕(いつせき)升山氏(うじ)是に謂(いひ)て曰、汝(なんぢ)木葉(このは)をまとふは其(その)恥(はづ)る所を知る。火にあたるは寒(さむさ)をおそるゝ也。然(しから)ば汝、夏冬となく裸身(はだかみ)にして寒暑堪(たえ)たるといふにもあらず。何ぞ獸皮をとりて暖身(あたゝかみ)にまとはざるやと。山男つくづく是を聞(きゝ)て去る。扨(さて)翌夜(よくや)忽(たちまち)羚羊(しらしゝ)二疋を兩(ふたつ)の手にさげて來り。升山がまへにおく。升山其意(こゝろ)をさとり、短刀をぬきその皮をとりて山男に與ふ。山男しきりに口を開き打笑(うちわら)ひ、喜び去(さる)。それより二夜(にや)過(すぎ)又小熊(こぐま)一ツ、兎一ツを持來りて、是を小屋の中(うち)になげ入(いれ)て去(さり)しが已にして又來る。人々是を見れば先の皮一枚は背を覆ひ、藤をもってつなぎ合せ、一枚は腰を纏ふたれ共、生皮をそのまま着たるゆへ、乾くに隨(したがつ)てちゞみより硬張(こはばり)たり。皆皆打わらひ、依ㇾ之(これによつて)熊の皮をとり十文字にさす。竹をいれ、小屋の軒に下げてその製(せい)しかたをおしへ、升山又是に山刀(やまがたな)【長一尺ばかり白さやなり】一丁をあたへて歸らしむ。其後(そののち)數日(すじつ)不ㇾ來(きたらず)といへり。予是を聞(きゝ)て按ずるに、凡(およそ)山男、山女(やまおんな)といへるは鬼神(きしん)の術(じゆつ)あるがごとく言傳へたれど、全く左にはあらざるべし。卽(すなはち)山中自然の人種にして言語(げんぎよ)習ふことなければいはず。服(ふく)製することをしらざれば裸なるものにして只(たゞ)夷地(いぞち)五十年前(ぜん)の風俗に同じく、愚(ぐ)の甚しきものなるべし。よく是にも人道のてだてを教(おしへ)ばいかならんと思ふのみ。予文化甲子[やぶちゃん注:文化元年。一八〇四年。]の夏、信州にあそび、蟲倉山と言(いへ)る高山に登(のぼり)て、山女の住(すみ)たる洞(ほら)を見たり。凡(およそ)三洞(さんどう)あり。古洞(こどう)は谷を隔(へだて)て古木(こぼく)林中(りんちう)にあり。山燕(やまつばめ)の巣甚だおほし。今洞(こんどう)といヘるは其上そのうへ)絶壁の中腹に在(あり)て、下より仰見(あふぎみ)ること數(す)十丈、かの山女は見へざれども、洞(ほら)の口(くち)草苔(くさこけ)のうち生(はへ)るなく甚だ奇麗(きれい)なり。いかにも住(すめ)るものがあるがごとし。雪中には山の中(うち)大なる足跡ありといへり。

   *

「周遊奇談」昌東舎著。文化三(一八〇六)年刊。私は所持しないので当該部を示せない。

「北越雪譜」既出既注。想山の述べているのは同「第二編卷之四」巻頭の「異獸」である。やや長いが、私の好きな「北越雪譜」なれば、以下に引いておく。底本は岩波文庫版だが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」は正字化した。【 】は原典の割注。図も附した。

   *

 

Hokuetuseppuijyu

 

 魚沼郡堀内(ほりのうち)より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道(かんだう)なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮(ちゞみ)なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の晝(ひる)すぐる頃竹助といふ剛夫(がうふ)をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途(みち)も稍々(やゝ)半にいたるころ、日ざしは七ツ[やぶちゃん注:午後四時頃。]にちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰(こし)かけ燒飯(やきめし)をくひゐたるに、谷間(たにあひ)の根笹(ねさゝ)をおしわけて來(きた)る者あり、ちかくよりたるを見れば猿(さる)に似(に)て猿にもあらず。頭(かしら)の毛長く脊(せ)にたれたるが半(なかば)はしろし、丈(たけ)は常並(つねなみ)の人よりたかく、顏(かほ)は猿に似て赤からず、眼(まなこ)大にして光りあり。竹助は心剛(がう)なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提(ひつさげ)、よらば斬(きら)んと身がまへけるに、此ものはさる氣色(けしき)もなく、竹助が石の上におきたる燒飯(やきめし)に指(ゆびさ)しくれよと乞(こ)ふさまなり。竹助こゝろえて投與(なげあた)へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかるがるとかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの禮にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨(けんそ)の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村(いけだにむら)ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語(かた)りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをりをりは此異獸を見たるものもありしとぞ。

前にいふ池谷村の者の話に、我れ十四五の時村うちの娘に機(はた)の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱(まど)のもとに機(はた)を織(おり)てゐたるに、囱(まど)の外(そと)に立(たち)たるをみれば猿のやうにて顏(かほ)赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ獨りなればことさらに惧(おそ)れおどろき、逃(にげ)んとすれど機(はた)にかゝりたれば腰にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃(めしびつ)に指(ゆびさ)して欲(ほし)きさまなり、娘此異獸(いじう)の事をかねて聞(きゝ)たるゆゑ、飯を握(にぎ)りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをりをり來りて飯を乞(こ)ふゆゑ、後には馴(なれ)ておそろしともおもはずくはせけり。

○さて此娘、尊用[やぶちゃん注:貴人の要請。]なりとて急(いそぎ)のちゞみをおりかけしに、折ふし月水[やぶちゃん注:生理。]になりて御機屋(はたや)に入る事ならず。【御機屋の事初編に委しく記せり】手を停(とゞ)め居れば日限に後(おく)る、娘はさらなり、雙親(ふたおや)も此事を患(うれ)ひ歎きけり。月やく[やぶちゃん注:「厄」。生理が始まりの謂い。]より三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農(のう)業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議とおもひながら身をきよめて御機(はた)を織果(おりはて)、その父問屋へ持去(もちさ)り、往着(ゆきつき)しとおもふ頃娘時ならず俄(にはか)に紅潮(ゆきやく)になりしゆゑ、さては我が歎(なげき)しを聞(きゝ)てかのもの我を助(たすけ)しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語(かたれ)り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連(つれ)ある時は形(かたち)を見せずとぞ。又高田の藩士(はんし)材用にて樵夫(きこり)をしたがへ、黑姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似(に)て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて燒火(たきび)にあたれり。たけは六尺ばかり、赤髮(あかきかみ)、裸身(はだかみ)、通身(みうち)灰色(はいいろ)にて、毛の脱(ぬけ)たるに似たり、腰より下に枯(かれ)草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴(なれ)しと高田の人のかたりき。按(あんず)るに和漢(わかん)三才圖會(づゑ)寓類(ぐうるゐ)の部(ぶ)に、飛驒(ひだ)美濃(みの)あるひは西國の深山(しんざん)にも如件(くだんのごとき)異獸(いじう)ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

   *]

「想山著聞奇集 卷の貮」 「海獺昇天するを打留る事」

 

 海獺(かいだつ)昇天するを打留る事

 

Kawausosyouten

 

[やぶちゃん注:「海獺(かいだつ)」のルビは目次にある。現行では「海獺」は食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ上科イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris に宛てられる漢字和名であるが、しかし本文のロケーション「豐後の國」(概ね大分県に相当)ではラッコではおかしい。底本の織茂三郎氏の注には、『かいだつ。「うみうそ」ともいう、海驢(あしか)あるいは「とど」のこと』とする。イヌ亜目鰭脚下目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus もラッコ同様、分布域は北海道沿岸が南限であるから無理で、ここはアシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類ということになろうか。絶滅してしまったとされる(生存を主張する説もある)本邦本土沿岸にいたアシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus は、ウィキの「ニホンアシカ」によれば(下線やぶちゃん)、『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』とするから、このロケーションでもおかしくはない。但し、何らかの別種の生物を誤認している可能性も捨てきれるわけでないが、死獣のそれは「アシカ」のような海獣類をイメージに大きさは別として形状は合致するように思われる。しかしデカ過ぎる。巨大さでは絶滅した北方種の海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigasが頭に浮かびはするが、毛が生えているというから違う。或いは、北方から流れ着いた同種の腐敗した遺体の可能性も考えたが、海流からも考えてもどうもあり得ぬ。却って巨大な鮫の腐乱の進んだ死体を候補とした方がいいかも知れぬという気はする。後半でその肉が「勞症」(労咳。肺結核)の妙薬であるという下りからは、俄然、海牛(カイギュウ)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon の可能性が高まるとは言える。]

 

 豐後の國佐伯侯[やぶちゃん注:佐伯(さいき)藩毛利家。本国は尾張で長州の毛利家とは別系統。]の藩士間(はざま)某、【七郎右衞門と云(いひ)て側用人にて勝手方勤(つとむ)る人のよし。】砲術を好て、江戸表、火術(くわじゆつ)の師家、淺羽某の門人也。天保五年【甲午(きのえうま)】九月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一八三四年の十月相当。]、一天よく晴渡りて秋景も格別故、山獵をせんとて、同僚一兩輩とともに六匁玉[やぶちゃん注:当時の換算では二十二・五グラムは超えていた。]の纖砲を携へ、佐伯の城下[やぶちゃん注:現在の大分県佐伯市。城下はの附近(グーグル・マップ・データ)。]より壹里半程有ける海岸に臨みたる雲止山(くもとゞめやま)[やぶちゃん注:不詳。城下から六キロ圏内で海に臨むというのは、佐伯城の南東にある灘山ぐらいしかない。]と云(いふ)に入(いり)て遊びける。然るに海上俄に黑雲を生じ、須臾に海面に掩ひ襲(かさな)り、卽時に烈風吹登り、海水を卷上げ、土砂を飛(とば)し、暴雨車軸を流し、山海一度に鳴動し、物凄敷(すさまじき)[やぶちゃん注:「すさまじき」は「凄敷」の二字へのルビ。]事いはんかたなし。遊士も獵を止め、側なる十羅刹女(じふらせつによ)[やぶちゃん注:「十羅刹女」仏教の天部に於ける十人の女性の鬼神(鬼子母神とともに「法華経」で諸天善神とするもの)。詳しくはウィキの「十羅刹女」を参照されたい]の堂に入りて雨を避け、海上を眺るに、何とは知(しれ)ず、海中より雲にうつり昇天する有さまにて、雲間に火焰ひらめき、眞一文字にこなたを差(さし)て鳴り來る有さま、いかにも奇怪なり。此時、同僚の云(いふ)には、斯(かか)る事は此邊(あたり)の海上にはまゝ有(ある)事にて、年經たる海獺(かいだつ)のなす業(わざ)とは申侍れども、誰も慥成(たしかなる)事を知たる者なし。さて如何成(いかなる)天魔にもせよ、斯(かく)怪敷(あやしき)物の此方(こなた)を差來(さしきた)るを見物して居るは臆(おく)したるに似て、武士たる者の本意に非ず、打取(うちとる)べしと云ふ。間(はざま)答(こたへ)て云ふ。勿論の事也。我等に與へ給へ、打試(うちこころ)むべしとて、失比(やごろ)になるをまちけるに、卽時に眼前へ來れども、何分、雲眞黑に襲(かさな)り掩ひて、怪物の形(かた)ちは見えず。しかれども、彼(かの)煽々たる火焰を目當(めあて)として、其(その)間(まあ)ひ一丁程もあらん大空の方を打(うち)たるに、手ごたへもなく、矢張、火焰は空中にひらめき渡り、風も益(ますます)烈しければ、玉も屆かず、打損(うちそん)じたる事と心得、差(さし)て心にも留(とめ)ざるに、其内に雨も止み、又、海も靜まり、勿論、火焰はいつしか消果(きえは)て、暫時に雲も大かた吹拂(ふきはら)ひ、夕陽(ゆうひ)海面を照して、時も七つ下(さが)り[やぶちゃん注:午後四時を過ぎた頃。]と成(なり)たり。因(よつ)て今日の興も是迄成(なり)迚(とて)、皆々歸宅なしたりと。扨、夫より第三日目に、同國北浦と云(いふ)所の獵師、代官所へ訴へけるは、十里程も向(むかふ)なる沖中に、何とも見分(みわけ)難き大ひなる海獸、浮漂(うきただよ)ひ居(を)るよしいひ出ける故、城下へも注進し、とりどり風説なし居(ゐ)たるうちに、第五日目に、一里半程有(ある)遠淺なる海濱へ、汐につれ漂着せしとて、城下より目付役を初(はじめ)、役人等も相越(あひこし)、獵師は大勢懸りて、汐道に矢來(やらい)[やぶちゃん注:竹や丸太を粗く組んで作った囲い。]を結ひ、大網を張切(はりきり)、手丈夫に[やぶちゃん注:堅固に。]用意して、段々樣子を窺ひ見るに、多分死獸の樣に見ゆる故、能々見極(みきはむ)るに、殊の外弱り居て、目もまだ動き、少しは息有る樣子故、死(しぬ)るを待居(まちゐ)たるに、夫より又、濱邊近くへ流れよりて、遂に七日目に斃(をち)たり[やぶちゃん注:死んだ。]と。因(より)て役人等も加(くはは)りて見分(けんぶん)なしけるに、かのものゝ頭幷に惣身(さうみ)、全く獸(けもの)にて、短き毛ひしと生(はえ)て、色は先(まづ)、茶色にて、背通りは黑く濃く、腹は至(いたつ)て薄白茶にて、鰭(ひれ)大(おほき)く、惣(さうの)長さ七間三尺[やぶちゃん注:十三メートル六十三センチメートル半。]、横幅九尺計(ばかり)有(あり)て、賓に珍敷(めずらしき)海獸なれば、見物大勢集りて、色々評議せしかども、何と云(いふ)獸にて何の爲に死したりと云(いふ)事はしられず。然れども、誰(たれ)云(いふ)となく、是(これ)所謂海獺(かいだつ)成(なる)べしと鑑定なし、彌(いよいよ)國中に評判甚しければ、彼(かの)間(はざま)氏も行(ゆき)て見聞なしけるに、此所にても、何人の申ともなく、風雲を起し邂逅(たまさか)昇天するものは老海獺と云傳(いひつたふ)るも、斯(かく)の如き獸にやなど噂する故、旁(かたがた)思ひ合すれば、若(もしく)は先日我(われ)打(うち)しものならんかと、其由を役人へ斷りて、逐一吟味しけれども、惣身に聊(いささか)の疵もなし。猶よく改見(あらためみ)るに、左の目に打貫(うちぬき)たるが如き穴有(あり)。細き棒を差入見(さしいれみ)れば、僅(わづか)深さ五寸程入(いり)て、ごつごつと鐡玉(てつだま)の如き物に突當(つきあた)りて、全く此所に打當(うちて)しものとしられたり。因て此事、具(つぶさ)に主君の聽(ちやう)に達しければ、其者の手柄にて打取たるものなれば、其者へ下さるべしと也。よつて車三輌をもつて城下迄引取(ひきとり)、先(まづ)、皮を剝(はぎ)て見るに、其下に、白く強堅なる大き筋(すぢ)、網のごとくすきまもなく、ひしひしと纏ひ居て、中々剛強なること、刄物(はもの)にて切割(きりわる)事も成兼(なりかね)たり。其筋の間の肉は、尋常の大魚の如きものにて、刄物を以て安々と切割るゝまゝ、かの筋と肉との間へ刄物を入(いれ)て切離(きりはな)し、夫より段々筋を上へ引揚(ひきあげ)、つゐに肉と筋と切離して、先、右筋を剝取(はぎとり)て、夫より肉を切割たるに、脊骨の外には小骨もなくて、にくのみなり。【脊骨思ふよりは細く、惣身肉のみ多かりしとなり。】其肉色も尋常の魚の通りの白色にて、鳥獸の如き赤色にてはなかりしといへり。扨、此肉は勞症(らうしやう)[やぶちゃん注:労咳。肺結核。]の病の妙藥にて、一度食へば子孫に至る迄、其病の起る事なしとて、遠近群集して喰(くひ)に來り、或は貰ひて行(ゆく)も多く、悉く施し盡したりと也。其風味、鯨に似て、夫よりは味ひ美にして、膏(あぶら)は甚だ多けれども、至て輕く、何程(いかほど)にても食(くは)るゝものにて、一家中、皆、間氏へより集り、是がために酒數樽(すうたる)を呑(のみ)たりと也。扨、其剝取たる皮を泥障(あふり)[やぶちゃん注:あほり。馬具の付属具で鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らして、馬の汗や蹴り上げる泥を防ぐ防具。下鞍(したぐら)の小さい鞍に用いるもので、概ね、毛皮や皺革(しぼかわ)を以って円形に作るのを例とする。]となして、第一を君侯へ獻じ、第二を國老(くにがらう)に贈り、第三を江府(がうふ)[やぶちゃん注:江戸。]に持來(もちきた)りて、師家淺羽(あさば)氏[やぶちゃん注:毛利家の主家筋らしいが、よく判らぬ。]に贈る。其餘、すべて泥障(あふり)十八懸(がけ)となりしを同僚共に分ち與へたりと。予、右淺羽氏へ贈りたる皮を見るに、厚き所と少し薄き所とはあれども、凡て其厚さ二分[やぶちゃん注:六ミリ。]程も有(あり)て、全て牛の皮のことく、毛の長さ至て短く、纔(わづか)五六分[やぶちゃん注:一・五~一・八センチメートル。]計(ばかり)にして、よく手入(ていれ)したる馬の毛に似たれども、夫よりは至(いたつ)て剛(つよ)く、色は曇色(どんしよく)を佩(はき)たる[やぶちゃん注:「刷く」で、さっと擦って塗ったような感じを言うのであろう。]白茶色の所多く、その中に薄白(うすしろ)の斑(まだら)、又鼠いろの斑なども有(あり)て、片泥障(かたあふり)は脊通り邊(あたり)と覺敷(おぼしき)ところ有(あり)て、其所は茶色を佩(はき)たる黑色にて、いづれも銀色を佩たる樣の光澤有て、老獸の毛色と見えたり。鰭は大(おほい)さ何程(いかほど)有(あり)しにや。全く鯨骨の如く、よくしなひて強ければ、馬上の腰差提燈(こしざしてうちん)の柄となして甚(はなはだ)宜(よろしき)もの也といへり。此(この)鰭、右の如く柔かにて自由にしなふといへども、先の尖(とが)りにて六七分[やぶちゃん注:一・八~二・一センチメートル。]の板などを突試(つきこころみ)るに、安々と突貫(つらぬ)く事、利劍よりも速(すみやか)にして、玄妙なるものなりと。都(すべ)て天地間(あめつちのあひだ)の造物(ざうもつ)には、夫々種々(いろいろ)の能不能有(ある)ものにて、元來、此海獸は、前のごとく、皮の下に剛筋(がうきん)あれば、利刀を以て切割(きりわく)事なりかね、たとひ存分に切付(きりつけ)たりとも、すぐれたる大獸なれば、淺手にてはなかなか死に至る事は難(かた)かるべし。又、錢砲にて打貫(うちぬ)かれ、或は矢一筋二筋負(おひ)たりとも、死すべきものとは思はれねども、何分、大事の頭腦へ鐡砲玉打込(うちこま)れたる痛手故、溜り兼(かね)、斯(かく)非業(ひがふ)の死をなしたる事としられたり。扨、此邊にては、此(かく)の如く折節昇天する事も有るや。咄のおもむきを以ては、全く餘國にて龍蛇の昇天すると同樣の有樣としられたり。石見の國の海上にて、魚數千聚(あつま)り、亂合(みだれあひ)て騷ぐ其中に、全く龍のごとく海水を卷(まき)て、正しく海魚の昇天すること有(あり)。是、魚、龍と成(なり)て天に登るのなりとのこと、故事因緣集にも見えたれば、ましてかく年を經たる大獺は、左(さ)も有べき事ながら、珍敷(めずらしき)事としられたり。【龍は神仙の使者。種類數千にして、尤(もつとも)、其中に魚龍も獺龍(だつりゆう)も有て、種々の變化(へんげ)をなす事は仙家(せんけ)の祕成(なる)事、前年(さいつかた)學び置(おき)たる事有(あり)、全く其類としられたり。】是は聞氏の淺羽氏へ來りて自(みづから)咄たる趣を、淺羽氏より聞取(ききとり)て書記(かきしるし)たり。かの間氏は大器なる人傑にて、惣躰(さうたい)小量なる事なく、か樣なる事は物の數とも思はぬ人故、自身より語る事なく、漸(やうや)く尋(たづぬ)るに隨(したがひ)て答(こたへ)たる趣、右の通(とほり)にて有しと也。【淺羽氏は御先手與力にて、牛込に住居(すまひ)の人なり。主馬政德(しゆめまさのり)と云(いひ)、諸國に門人も多く、高名なる人なり。】此(この)海獺を料理(つくり)たる膏(あぶら)、所々へ流れ溢(あふ)れ、城邊(あたり)の池水、一比(ころ)は平一面に膏と成(なり)、いつ迄も元のことくにならざりしと云(いへ)り。

[やぶちゃん注:「故事因緣集」「本朝故事因緣集」。著者不詳。諸国の故事逸話を集めもの。元禄二(一六九九)年板行。以上は同書の「卷五」の「百四十一 石見國龍木卷(いわみのくにたつきべき)」である。「国文学研究資料館」のの画像で視認出来る。これは思うに、海上に発生した竜巻が海中の魚類を巻き上げたのを見たものであろう。或いは、そこの巨大な魚様のものを確かに見たとするならば、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca などがエコロケーションを用いて摂餌する様子を見た可能性もあるか。

「主馬政德」「諸國に門人も多く、高名なる人なり」とあるが、不詳。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

因に云、奧州平泉は昔、奧羽二州の太守、鐸守府將軍秀衡父祖三代居住の地にて、秀衡・淸衡等、中尊寺建立の時分、基衡も佛法に歸依し、佛工運慶をして、丈六の藥師如來及び十二神將、其他佛像若干を造らしめんとして、運慶方に使者を遣して贈り物す。其品。

[やぶちゃん注:以下、字配は再現していない。]

 一金 百兩 一鷲羽 百尾

 一七間(けん)間中經(まなかわたり)の水豹(あざらし)皮 六十枚

 一安達絹(あだちぎぬ) 千疋 一希婦(けふ)細布 貮千端(たん)

 一糠(かす)部駿馬 五十匹 一白布 三千端

 一信夫文字摺(しのぶもぢずり) 千端

猶、此外に奧羽の産物珍奇を表して取揃へ、運慶に贈るとの事、南谿が東遊記に見えたり。此水豹(あざらし)は、基衡の何れより得られたるものにや。其頃は奧羽の海に、斯(かく)のごときの大水豹(おほあざらし)の居(を)りしにや。今にてはきかず。察するに、蝦夷地より渡來の品にや。蝦夷には水豹・海獺ともに澤山に居るとの事は、追々(おひおひ)聞及(ききおよ)びたり。然(さ)れども、此(かく)の如く、七間にも及びたる大水豹の今にても澤山に居る事にや、覺束(おぼつか)なし。然共(されども)、基衡の六十枚得られし事なれば、今も所に寄(より)ては澤山に居(を)る事なるか。尤(もつとも)、水豹と海獺とは別物ながら、大躰、種類は同じ事の樣に聞及び置(おき)たり。

[やぶちゃん注:「丈六」仏像の背丈の一基準を指す語。仏体の身長は一丈六尺(約 四メートル八十五センチメートル)あるとされることから、仏像もこの「丈六」を基準とし、その五倍或いは十倍或いは逆にその二分の一(約二メートル四十三センチメートル)などで造像された。

「七間」十二メートル七十三センチメートル弱。

「間中經(まなかわたり)」楕円状の皮でその長径が「七間」だという意味であろう。

「水豹(あざらし)」食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。しかし、北アメリカ東岸に棲息するゾウアザラシ属キタゾウアザラシ Mirounga angustirostris でも大型個体で四メートル強で、この数値は合わない。寧ろ、先に挙げた海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas ならば、最大長が九メートル弱には及んだはずで、分布域からも死体漂流や蝦夷以北での捕獲とすれば、幾分かはしっくりとはくるように思う。

「安達絹」現在の福島県伊達郡川俣町(旧安達郡内)で生産された絹織物の呼称。平安時代の古えから名品とされた。

「希婦(けふ)細布」起原不詳であるが、陸奥の国の「希布」という所から織り出す布であるとし(一説に秋田県鹿角郡(かづのぐん)の旧古川村とも)、原料は多年生の草木の紫の根から採取するとされる(こちらの記載に拠った)。

「端」「反(たん)」に同じい。布帛(ふはく)の大きさの単位。長さ・幅は材質・時代によって異なり、養老令では長さ五丈二尺(約十五メートル七十五センチ)・幅二尺四寸(七十二・七二センチメートル)。現在は一着分の幅と丈のものを一反とする。絹の着尺地では鯨尺で幅九寸(三十四センチメートル)・長さ三丈(約十一メートル三十六センチ)から三丈二尺(十二メートル十二センチ弱)が一般的であるから、鎌倉時代初期として、以上の中間値を採ればよかろう。

「糠部駿馬」底本では「かすべ」と読ませるとしか思えないルビの振りようであるが(事実、「東遊記」はそう読んでいる。後掲原典参照)、これは正しくは糠部(ぬかのぶ)郡が正しい。嘗て陸奥国にあった郡名で、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。参照したウィキの「糠部郡によれば、『糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制がしかれていた。 糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、その九の戸を東・西・南・北の四つの門に分属させたものであり、糠部郡内の主な地域を一戸~九戸に分画して余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる』。『一説には南部氏の領地になった順番とも言われるが、四門九戸の制がしかれた時期が鎌倉期以前ともされているので、必ずしも事実とは思われない。他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を差すとする説もある』。『「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある』とある(下線やぶちゃん)。

「信夫文字摺」福島県福島市に古代から伝わる染色技法。ウィキの「文知摺(もちずり)に、『草木汁で乱れた菱形文様に染めた絹織物のことである。福島県福島市の地名にもとられ、この地名としての文知摺は、その染色が盛んな地域であったことから地名としても定着したと考えられている』とある。「古今和歌集」「卷第十四」の「戀歌四」(七百二十四番歌)の河原左大臣源融(とおる)の知られた一首、

 みちのくの忍ぶもちずり誰(たれ)ゆゑにみだれむと思ふ我ならなくに

但し、本歌は別本や「百人一首」の第十四番歌、

 みちのくの忍ぶもちずり誰(たれ)ゆゑにみだれそめにし我ならなくに

の形の方でよく知られる。

「南谿が東遊記」先に出た橘南谿が寛政七(一七九五)年八月に板行した北陸・東北の紀行(旅行自体は十年程前)。以上は、その「卷之五末」の冒頭の「平泉」の条からの一部引用である。東洋文庫版の私の意に沿わぬ気持の悪い正字正仮名のそれであるが、これしか所持せぬので仕方がない。それで全条を引用しておく。読みは一部に留めた。挿絵も添えておくが、この挿絵は四方の枠が如何にも無粋に思われたので、恣意的に払拭した。この方が遙かによい。

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Hiraizumi

 

 奥州平泉はむかし奥羽二州の大守、鎮守府将軍秀衡父祖三代居住の古城跡なり。仙台の城下より行程二十四里余北の方にして、前に北上川、衣川を受け、うしろほ高山(こうざん)幾重ともなく重なり、実(じつ)に要害の地也。秀衡、清衡抔建立せる中尊寺今に存在して、昔の俤まのあたりに見えてあわれ也。

 此山を関山(かんざん)という。麓の街道に昔関所ありて、衣が関と名付く。此故に、此山を関山といいて、中尊寺の山号とせり。此近辺の里を、今にても上衣(かみころも)、下衣(しもころも)といいて、民家あり。衣という里に流るる川ゆえに衣川と名付け、衣の里の開所ゆえ衣の関ともいうなるべし。安部貞任が籠りし衣川の城は此中尊寺よりは一二里ばかりも山に入りてあり。又義経の住み給いし高館(たかだち)は直(じき)に此関山の下にて、纔かに街道壱筋をへだて中尊寺より五丁に近し。高館の跡は甚だ狭く纔かの所にて、中々当今(とうぎん)の城郭抔のごとき跡とは見えず。只暫時義経の住みし屋鋪の跡というべし。今は草木(そうもく)生茂(おいしげ)りて芭蕉の発句のごとし。此あたりは亀井六郎が塚、鈴木の三郎が塚等(とう)あり。皆古松(しょう)一本ずつありて明白也。弁慶が古跡もあり。又中尊寺の鎮守白山宮(はくさんぐう)のうしろより少し西へ行けば物見の亭の古跡あり。此所より見おろしよろし。向うに見ゆる山を陣場張山(じんばはりやま)と云う、二つの地名となれり。是は頼義義家、貞任宗任追伐の時、陣を張れる所と云う。又それより手前に見ゆる野を長者が原と云う。金売吉次信高が屋鋪の跡とて、今に郭石(かくせき)少し残れり。又東北の方に高く見ゆるはたばしね山也。西行の「聞きもせずたばしね山の桜花吉野の外(ほか)にかかるべしとは」とよめる山なり。むかしは桜多かりしが、今にては歌のごとくはあらず。余が京を出ずる時、佐々木長春(ながはる)、「陸奥にはたばしね山とて、桜多き山有り」といえり。「花の比(ころ)ならば、必ず尋ねて見るべし」とて和歌などおくられぬれば、奥州の地に入りてより日々尋求(たずねもと)めて、ようよう此所にて尋得(たずねえ)ぬれど、花無くて本意(ほんい)なし。されど一しおに昔思われて、例(れい)の腰折(こしおれ)などつづる。それより中尊寺に詣でて講堂順拝す。

 此中尊寺は弘台寿院(こうたいじゅいん)とも云いて、東叡山の末寺、開基は慈覚大師にして、其後年歴(としへ)て鎮守府将軍藤原清衡中興なり。清衡は秀衡の祖父にして、此時既に奥羽二州の太守、勢(いきおい)殊に盛(さかん)なりしかば、此中尊寺を中興して、堂塔四十余宇、禅房三宮余宇を建立すと也。其(その)結構金銀珠玉をちりばめて、全盛を尽くせり。此事、堀河院、鳥羽院等の叡聴(えいちょう)に達し、遂に大治(だいじ)三年丙午(ひのえうま)、按察使(あぜち)中納言顕隆(あきたか)卿を勅使として此国に下し給い、御願文(ごがんもん)の草稿は右京大夫敦光朝臣(あそん)、清書は冷泉中納言朝隆卿にて、今に此寺の什物(じゅうもつ)とす。猶此外に右大将頼朝の御教書(みぎょうしょ)、又北条相模守貞時、北畠中納言顕家、浅野弾正少弼(だんじょうしょうひつ)長政、豊臣関白秀次公等の文書数数(かずかず)有りと也。みだりに見る事を許さず。扨(さて)右の堂塔伽藍、建武四年回禄(かいろく)して、纔かに経蔵(きょうぞう)一ケ所、金色堂(こんじきどう)一字を残せり。是も星霜久敷(ひさしく)移り、段々破壊(はえ)に及びしを、百八十余年の後に至り、正応元年鎌倉将軍惟康親王歎き思召(おぼしめ)し、北条貞時に命じ、此二つの堂に又別に新に覆(おお)い堂(どう)を造り、風雨を避け、修営(しゅえい)を加えしめ給う。其後(のち)今に至り、時の国主より代々覆い堂を修理(しゅり)して風雨を防ぐ。此ゆえに、今日に至り清衡建立の金色堂、幷びに経蔵厳然と残りて、むかしの俤(おもかげ)有り、就中(なかんずく)、金色堂は殊の外美麗にして、日光山の外世間此(これ)に比すべきもの稀也。ことごとく布(ぬの)ぎせにして厚く漆(うるし)ぬり、其上に金箔を押して、堂中一様の金色なり。長押(なげし)の地紋(じもん)には、螺鈿(らでん)、珠玉をちりばめ、中壇四隅の柱は七宝(しっぽう)を以て荘厳(しょうごん)せり。既に五六百年を経てあれば、螺鈿も貝落(かいお)ち、珠玉も欠損(かけそん)じ、金箔も斑(まだら)なれど、元来結構丁寧なれば、今に猶あたりをかかやかす斗(ばか)り也。中壇の上には阿弥陀、観音、勢至等の仏像を安置し、壇中(だんゆう)には三人の棺(かん)を納む。中は清衡、左は基衡、右は秀衡なり。秀衡の棺の側に、和泉三郎忠衡の首桶(くびおけ)を納めて、今に祭(まつり)に配す。清衡は大治元年丙午七月十七日逝去、其子基衡保元二年丁丑(ひのとうし)三月十九日逝去、其子秀衡文治三年丁未(ひのとひつじ)十二月廿八日逝去すと云う。此堂に納むる所の什宝(じゆうほう)数々多き中(なか)に、清衡の納めしとて紺紙(こんし)に金泥銀泥にて楷書、行書まぜ書(がき)の一切経あり。是は清衡存生(ぞんじょう)の時、自在坊蓮光といえる僧に命じ、一切経書写の事を司らしむ。三千日が間、能書(のうじょ)の僧数百人を招請して供養し、是に書写せしめしと也。余も此経を拝見せしに、其書体(しょてい)楷法(かいほう)正しく、行法(ぎょうほう)亦(また)精妙にして、漢土の諸名家を集めて書かせしむるとも、中々是に勝るべからずと思う。彼(かの)時分日本にもかばかりの能書(のうじょ)多きに、今の世に誰(たれ)一人聞ゆる無きは、誠に歎息するにも余り有り。其後四海(しかい)戦争の事に、穏(おだやか)なるいとまなく、文華(ぶんか)地に墜ちたる故なるべし。其人の不幸ともいうべし。数多(かずおお)き一切経の事なれば、なるべき事ならば、一二巻ずつも世間に出だしたき事にこそ。経の箱は黒漆に螺鈿にて、経の題号をしるしたり。其箱も亦古雅(こが)甚だし。此外にも基衡納めし紺帋(こんし)[やぶちゃん注:紺色の紙。]金泥の楷書の一切経あり。是は世間普通の経のごとし。又、秀衡の納めしは宋板の折本(おりほん)の一切経なり。此外に玉軸(ぎょくじく)の法華経壱部、小野道風(おののとうふう)の筆跡なり。是は余見ることを得ず、殊に残念なりき。又、天台大師の影像一幅、地は竹布(ちくふ)というものにて、画(が)は唐人(とうひと)にて、其名知れず、讃は顔魯公(がんろこう)の筆という。是も当寺第一の宝物として、見ることを許さず。慈覚大師唐土(もろこし)より将来の物なりと云う。其外金岡(かなおか)の画(が)の十三仏、牧渓(もくけい)の観音等、種々(しゅじゅ)宝物多し。基衡も亦、最(もっとも)仏法に帰依し、毛越寺(もおつじ)、円隆寺、嘉祥寺等を造立(ぞうりゅう)す。仏工運慶をして、丈六の薬師如来、及び十二神将、其他仏像若干を造らしめんとして、まず運慶方へ使者を遣わし贈り物す。其(その)品(しな)、

[やぶちゃん注:以下の目録は二段組になっているが、ブラウザの不具合を考え、一段で示した。]

  一 金百両

  一 鷲羽(わしのはね) 百尾

  一 七間(けん)間中径(まなかわた)りの水豹皮(あざらしのかわ) 六十枚

  一 安達絹(あだちぎぬ) 千匹

  一 希婦細布(けふのほそぬの) 弐千端

  一 糠部駿馬(かすべのじゅんめ) 五十疋

  一 白布 三千端

  一 信夫文字摺(しのぶもじずり) 千端

 猶、此外に奥羽の産物珍奇を尽くして取揃え、運慶に贈る。運慶是を得て大いに悦び、奥州の練絹(ねりぎぬ)を称美す。使者帰りて此(この)由をいいしかば、基衡又練絹を三艘の船に積みて、別に運慶に贈る。運慶悦び、みずから件(くだん)の仏像をつくり、玉眼を入れて、三年の間に功(こう)を終り、奥州に送ると云う。仏像に玉眼を入るる事此時より始まれりと也。是等の事にても、当時平泉の盛(さかん)なりし事おもいやるべし。秀衡抔の頼朝をだにあなどり居た(い)りしもむべ也。

 是に付きておもうに、今の世程太平の久敷(ひさしき)事もあらず。それに依っては、金銀(きんぎん)も世の中にたくさんに成りぬと見ゆ。平泉の盛なるにてさえ、右の贈物に金は僅か百両と見えたり。外の物の多きにはつり合わず。又俊乗坊南都大仏殿建立の時も、鎌倉よりの寄附纔かに金五十両と聞及(ききおよ)べり。今にては、常の町人の分限(ぶんげん)にても千金万金の寄附するものすくなからず。されば今の世程金銀も沢山にて、よろずゆたかにおごれる時は、昔より無きことというべし。

   *]

 

2017/04/06

「想山著聞奇集 卷の貮」 「猫のもの云たる事」

 

 猫のもの云たる事

 

Nekonomonohiitarukoto

 

 牛込榎町(えのきちやう)御先手組に住(すめ)る羽鳥何某の家に、年久敷(ひさしく)飼置(かひおき)たる白黑ぶちの雄猫有(あり)。天保六年【乙未(きのとひつじ)】[やぶちゃん注:一八三五年。]の秋の事成(なる)が、此猫、椽側(えんがは)に居て、人の言葉をなして、來たかと云(いへ)ば、隣の猫來り、ニヤア、と答へたり。主人、直(ぢき[やぶちゃん注:「近いこと」の名詞と採った。])障子の側に居て、障子越(ごし)に此聲を聞(きき)、不審思ひ、外(そと)に人も居(ゐ)ず、正敷(まさしく)猫がもの云(いひ)たるなと知(しり)ながら、羽鳥も寛優(ゆたか)なる人にて、一向驚(おどろき)もせず。大切にして人にも語らず居たるに、又或日、常々出入する町の者來り居(ゐ)たるに、そのものゝ少し側(そば)にて、猫がニヤアと鳴(なく)と、直障子の外の椽の所にて、又來たなと云(いひ)たり。人なき所ゆゑ、驚き障子をあけて能(よく)見ると、隣の猫、向(むかひ)より來(きた)るに、内の猫もの云(いひ)たるに相違なし。因(よつ)て大(おほき)に驚き、主人に告(つぐ)ると、成程、夫(それ)は猫の物云たるに相違なし。此間、我等も聞たりとて、一向驚かずして、夫なりに飼置たるに、其後(のち)一年餘り過(すぎ)て、老(おい)て斃(おち)たり[やぶちゃん注:死んだ。]と。猫のもの云たりと云(いふ)咄はいくらも有(あり)て、新著聞集にも、淀の淸養院の住持、天和三年の夏、痢病を煩ひて、便(べん)に行(ゆか)れけるに、緣の切戸(きりど[やぶちゃん注:大きな戸に設けた出入りの小さな戸。])をたゝき、是々と呼(よぶ)聲聞えしに、飼置し猫、火燵(こたつ)の上に在(あり)しが、頓(やが)て走り出(いで)て、鎰(かぎ)をはづしけるに、外より大猫一疋來りしを、内にいれ鎰をかけ火燵の上に伴ひしと。かの猫が曰、今夜納屋町に踊(をどり)あり、いざ行(ゆか)んと有(あり)ければ、此頃は住持のやみ給ふて、伽(とぎ)をするまゝ、行事(ゆくこと)成(なり)難しと斷る。然らば手拭(てぬぐひ)をかせと云(いへ)ば、夫(それ)も住持の隙(ひま)なく遣ひ給ふて叶はじとて送り返し、本(もと)の如くに鎰かけたりとの事あり。全く同日の話なり。又、同書に、增上寺の脇寺德水院にて、猫、梁の上にて鼠を追(おふ)とて取(とり)はづし、梁の下へ落ち、南無三寶と大聲して云(いひ)たりと云(いふ)も、同日の談にて珍しからざれども、前の談は眼前の事也とて、羽鳥が同役の内藤廣庭(ひろには)より聞(きき)たるまゝを記しぬ。又、猫の人言(ひとごと)をなす事、天中記に、北夢瑣言(ほくぼうさげん)を引(ひき)て云(いふ)。左軍容使嚴遵美閹官中仁人也、嘗一日發ㇾ狂手足舞踏、傍有一猫一犬猫忽謂ㇾ犬曰、軍容改ㇾ常顚發也、犬曰、莫管ㇾ他從一ㇾ他、俄而舞定自驚自笑と云々是等も珍と云べし。見當り置(おき)しまゝ、記し添置(そへおき)ぬ。扨、猫の言(ものいふ)其(その)譯は、耳囊と云(いふ)隨筆に見えしは、成程、左も有べき事かと思ふまゝ、是又、其儘寫(うつ)しおきぬ。前の言(ものいひ)たる猫も、十年程、飼置たる猫との事なれば、怪(あやし)むにはたらざる事にや。耳囊に曰、寛政七年の春。牛込山伏町の何とかいへる寺院、祕藏して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の、心能(こころよ)く遊ぶをねらひける樣子ゆゑ、和尚聲を懸(かけ)、鳩を追逃(おひのが)し遣(や)るに、猫、殘念也と物云(ものいひ)しを、和尚大(おほき)に驚(おどろき)、右猫、勝手の方へ逃(にげ)しを押へて小柄(こづか)を持(もち)、汝、畜類として物を云(いふ)事、奇怪至極也、全(まつたく)化け候て人をもたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは、眞直(しんちよく)に尚又(なほまた)申(まうす)べし、若(もし)いなみ候におひては、我(われ)殺生戒を破りて汝を殺(ころさ)んと憤りければ、彼(かの)猫の申(まうし)けるは、猫の物云事、我等(われら)に限らず、十年餘りも生(いき)候へば、都(すべ)て物は申(まうす)物にて、夫(それ)より十四五年も過(すぎ)候へば、神變を得候事也、併(しかし)、右の年數ほど命を保(たもち)候猫これなきよしを申けるゆゑ、然らば汝等の物云も分りぬれど、未(いまだ)拾年の齡(よはひ)にあらずと尋問(たづねとひ)しに、狐と交(まぢは)り生れし猫は、其年功(ねんこう)なくとも物云事なりとぞ答(こたへ)ける故、然(さ)らば今日(けふ)物云しを外(ほか)に聞(きき)たる者なし、我(われ)暫くも飼置たるうへは何か苦しからん、是迄の通り罷在(まかりある)べしと和尚申ければ、和尚へ對し三拜をなして出行(いでゆき)しが、其後(のち)いづちへ行(ゆき)しか見えざりしと、彼(かの)最寄(もより)に住(すみ)ける人の語り侍る。

[やぶちゃん注:引用漢文中の「管」の字の(かんむり)は底本では「竹」ではなく「爫」であるが、中文サイトで原典を複数見るに総て「管」となっていることからそれで示した。

「牛込榎町」現在の東京都新宿区東榎町とその周辺(現行の東榎町・南榎町などを含む)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「御先手組」若年寄支配で江戸の治安維持を職掌とした。旧牛込榎町(えのきちょう)には彼らの屋敷(官舎)地があり、ここらは通称で「馬ノ組」と呼ばれたらしい。

「新著聞集」の前の話は「第十 奇怪篇」の「妖猫友をいざなふ」で、こちらは私の柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ猫」の本文及び私の注を参照されたい。私が原典を引いてそれに詳細なオリジナル注も附してある。

「新著聞集」の前の話は「第十七 俗談篇」の中の「猫人のためにかたる」である(前の話とはセットではないので注意されたい)。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

江戸增上寺の脇寺の德水院に、久しく飼れし赤猫あり。ある時、梁の上にて、鼠をおひまはしけるに、何としたるにや取はづし、梁の下へおち、南無三寶と大ごゑして云しかば、人々聞つけ、扨は猫またぞや。粗相なる化やうやと云ければ、それより、いづくへ逃さりしか。ふつに見へざりし。元祿年中の事なり。

   *

「内藤廣庭」不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?

「天中記」明の陳耀文編の典籍考証書。多くの珍しい典故や文章を出所を明記して原文の誤りを正した上、七百九十六類に分けて収録したもの。書名は著者の住居の近くにある天中山に因む。以下の原文は「卷五十四」にあり、中文サイトでは「人言左軍容使嚴遵美閹官中仁人也嘗一日發狂手足舞蹈傍有一猫一犬猫忽謂犬曰軍容改常也顚發也犬曰莫管他從他俄而舞定自驚自笑且異猫犬之言遇昭宗播廷乃求致仕」とある。

「北夢瑣言」唐末から北宋初の孫光憲が、唐末から五代にかけての著名人の逸話を集めた書。因みに同書の「六」にある「好事不出門、惡事行千里」(好事、門を出でず、惡事、千里を行く)は「悪事千里を走る」の典拠として知られる。

「左軍容使嚴遵美閹官中仁人也、嘗一日發ㇾ狂手足舞踏、傍有二一猫一犬一猫忽謂ㇾ犬曰、軍容改ㇾ常顚發也、犬曰、莫二管ㇾ他從一ㇾ他、俄而舞定自驚自笑。」自己流で書き下しておく。一部(「莫二管ㇾ他從一ㇾ他」の箇所)の読点には従わなかった。

   *

 左軍容使嚴遵美(げんしゆんび)、閹官(えんくわん)中の仁人なり。嘗て一日(いちじつ)、狂を發し、手足、舞ひ踏(をど)る。傍(かたは)らに一猫(びやう)・一犬有りて、猫、忽ち、犬に謂ひて曰く、

「軍容、常を改め、顚發(てんぱつ)せるなり。」

と。犬、曰く、

「他(かれ)を管(くわん)する莫(な)かれ、他(かれ)に從へ。」

俄かにして舞ひ定(しづ)まり、自(み)づから驚き、自づから笑ふ。

   *

語注しておく。「遵」を現行で「ジュン」と読むのは慣用読みである。「閹官」は宦官に同じい。「一日」ある日。「莫管他從他」の読みは個人サイト「肝冷斎日録」のこちらの記載を参考にしたが、その訳によればこれは「ほっとけ! やらせとけ!」といった謂いらしい。これ、ここでは前後がないので意味不明の唯の発狂に見えるが(だとしたらしかし、犬猫が言葉を発した「ぐらいのこと」で正気には戻らぬと私は思うのである)、リンク先を読むと眼から鱗である。或いは隠棲したい或いは仕事を辞めたいということから起した「佯狂」ででもあったのかも知れぬ。

「耳囊と云隨筆に見えし」私の「耳囊 之四 猫物をいふ事の電子化注を参照されたい。「耳囊」には別に猫が人語を操る例として之六 猫の怪異の事の外、猫の怪異や報恩譚が満載である。]

 

2017/04/05

「想山著聞奇集 卷の貮」 「品川千躰荒神尊靈驗の事」

 

 想山著聞奇集 卷の貮

 

 

 品川千躰荒神尊靈驗の事

 

Minamisinagawakannnonmahekasai

 

南品川觀音前火災の圖

此圖は文政四年同六年兩度の火事の圖なり、天保十一年の火事後は別に千躰荒神尊(せんたいくわうじんそん)の堂の前に又一つ門明(あけ)、其外、當時のおもむきは、此圖とは少々樣子變り居れり。

[やぶちゃん注:以上は底本の本文注に二字下げポイント落ちで挿入されてある、挿絵のキャプションの翻刻である(但し、読み(ルビ)は一切振られていない)。この叙述から考えると、この絵は二度の大火のの様子を合成した絵であるということになる。

「南品川」現在の東京都品川区南品川で、大井町駅の東北部分に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「觀音」現在の同南品川地区内にある真言宗海照山品川(ほんせん)寺(本文では「ひんせんじ」と読んでいるが、少なくとも現行では同寺公式サイトでも「ほんせんじ」と読んでいる)。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は水月観音と聖観音で江戸三十三箇所観音霊場の第三十一番寺に当たる。公式サイトの「歴史」によれば、大同年間(八〇六年~八一〇年)に開創された品川で最も古い寺とあり、江戸時代を通して同寺は本尊水月観音と大梵鐘・江戸六地蔵第一番尊の三つを寺の「三宝(さんぼう)」として大切にし、江戸町民の深い信仰と東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛されたとあるが、この記事の十年後の一八五〇年代(嘉永三年から安政六年頃)の幕末から明治維新を迎える頃には、『寺域は全く荒廃し、大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみとな』ったともある。

「文政三年」一八二〇年。

「天保十一年」一八四〇年。但し、本文の記載から見てこれは天保十二年の誤りである。

「千躰荒神尊」これは現在のやはり同じ南品川地区にある曹洞宗龍吟山海雲寺(建長三(一二五一)年創建(当初は臨済宗))に鎮守として祀られてある「品川千躰三宝荒神」のこと。先の品川寺のグーグル・マップ・データで、同寺から真南七十三メートルの直近に建つ。同荒神の公式サイトの「荒神さまの由来」によれば、『古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがあり』、『荒神様は台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様で』、『それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされ』る。『品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰され』『今を去る三百七十余年前、島原の乱』(寛永一四(一六三七)年)『に鍋島甲斐守直澄公がお年十八歳で出陣の折、天草の荒神が原にあ』っ『た荒神様にお詣でになり』、『必勝祈願なさったところ』、『甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れ』、『その行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさ』で、『流石の暴徒も敵し得ず』、鎮定さたという。以後、鍋島家では、この尊像を守護し、当時の東都高輪にあった屋敷に遷座して、篤く祀った。後に縁あって、明和七(一七七六)年にこの海雲寺に勧請し、奉られ、『それからはあらゆる多くの人々の参詣するところとなり、ついには当寺の春秋大祭は江戸年中行事の一つにもな』ったとする。『この尊像を信仰する人々の受けました霊験利益は数えきれないものがあ』るとあり、厨の火の神となれば、火難除けの呪力の強力なることが判る。]

 

 文化二年【乙丑(きのとうし)】十一月廿九日[やぶちゃん注:西暦では一八〇六年一月十八日。]、南品川妙國寺[やぶちゃん注:現在の南品川にある顕本法華宗鳳凰山天妙国(てんみょうこく)寺(戦後に改称)のこと。品川寺の北北西二百四十五メートルほどの位置にある。]門前より出火して、北風烈しく、觀音前の武藏屋・釜屋・三軒屋など云(いふ)大茶屋も忽(たちまち)に燒(やけ)て、品川寺(ひんせんじ)の直(ぢき)の南、村田屋と云(いふ)茶屋は半(なかば)燒て殘れり。其後、文政四年【辛巳(かのとみ)】正月十日[やぶちゃん注:一八二一年二月十一日。]、北品川の藤田屋と云(いふ)旅籠屋より出火して、此時も風烈しく、宿内(しゆくうち)十餘町[やぶちゃん注:一町は約百九メートル。]燒拔(やけぬく)、前の茶屋茶屋も燒たれども、村田屋の北隣、信濃屋と云(いふ)茶屋より南は燒殘り、又、其翌々未年正月十二日[やぶちゃん注:一八二三年二月二十二日。]、三田の古川町より出火のときも、北風烈敷(はげしく)、少し西も交りて惡風砂石(させき)を飛(とば)し、火も所々へ飛移(とびうつり)て、忽、品川の觀音前迄、燒拔たり。【此火は晝の八つ半時[やぶちゃん注:定時法なら、午後三時頃。]に出火して、古川町邊殘らず燒失せぬ。此古川町邊は場末故、差(さし)て燒る所もなかりしに、火は巽(たつみ[やぶちゃん注:南東。]の方へ飛(とび)て三田寺町片側二三町やけ、其火また東の方芝田町八丁目へ飛、同所南側殘りなくやけ、高輪は海岸にて家は片側のみの所なるに、火消(きえ)かね、町家の分十八丁殘らず燒ぬ。夫(それ)より風下(かざしも)巽の方は海にて東の方も海ゆゑ、火は多く海へ吹込(ふきこみ)、且は防ぎ力(ぢから)[やぶちゃん注:火消しの打ちこわしによる延焼防止策を指すものであろう。]も能(よ)かりしにや、此火先(ほさき)は薩州侯の中屋敷境(ざかい)にて燒止(やけどま)りたれども、風強かりし故か、其内に遙(はるか)風脇(かざわき)、南の方品川本宿の中(うち)へ飛火して兩側殘りなく南の方へやけ、遂に觀音前の建場茶屋釜屋三軒屋等もみな燒失ぬ。この三軒屋平右衞門と云(いふ)は、今の釜屋程大(おほき)なる茶屋にて、しかも舊家と聞えたれども、其時燒し後、漸(やうやう)近頃建(たて)たり。この火事、火元よりは凡(およそ)一里の上十餘丁程燒けたり、烈風故、殊の外の急火(きふか)なれども、此邊は夜に入て燒たりと。】此時もまた彼(かの)村田屋は殘れり。かく度々の火災を免れたるは、何ぞ故有(ゆゑある)事ならんと不審に思ひ、或時、大師河原へ參詣[やぶちゃん注:現在の神奈川県川崎市川崎区大師町(旧大師河原(だいしがわら)村)の所謂「川崎大師」真言宗金剛山金乗(きんじょう)院平間(へいけん)寺。]の歸りに、此村田屋へ立寄(たちより)、酒食して、此家の度々燒ざ(やけ)る事を評して、酌に出(いで)たる女に尋ね探れども、しれ兼(かぬ)る故、亭主に逢(あひ)て尋ぬべしと思ふに、主(あるじ)はなくて後家(ごけ)なりと云(いふ)故、頓(やが)てその後家を呼(よび)て、何ぞ神佛にても信仰するか、又は導き守(まもり)か御札にても有(ある)か、或は寶物(はうもつ)靈物(れいもつ)等にても有や、何ぞ此家の燒ざる心當り有べきやとくどふも尋ねたるに、金毘羅・秋葉・稻荷さまの類(たぐひ)を初(はじめ)、神も佛も隨分信仰なし、護摩御祈禱の御札も御座候へども、此御蔭と中程の別に心當りも候らはず。尤(もつとも)、差たる重物(じふもつ)靈寶等の所持もなきとて、分らざる儘、夫(それ)なりに酒呑(のみ)かはし居たるに、此後家、ふと咄し出せしには、私かたの燒たる節は、不思議なる夢を見申候。直裏(ぢきうら)の海雲寺の千躰荒神樣の御堂の棟の上に、炭取程の箱に火燃居申候。是は如何成(なる)事ぞ、火事の出來しにやと見るうちに忽、西の方より大風吹來り、此火の燃居たる箱は、海雲寺の門の方へ飛移りて燃出せし故、【海雲寺の門は村田屋の一軒置(おき)て隣也。尤(もつとも)この村田屋も此寺の門前地の町家のうちなり。】是はと驚き飛起(とびおき)て、其頃は未(いまだ)、夫(をつと)存生(ぞんしやう)の節なれば、火事なりとて、あはたゝ敷(しく)、夫(をつと)を起しながら、私は寢床を仕舞候と、夫も目を覺し、何事成(なる)やと申候故、何事所にてはなし、今、荒神樣の御屋根より隣の屋根へ火が飛來りて燃上りたりと申せば、夫は夢なるべし、いや夢にてはなしと爭ひながら、心を落つけ見れば、全く夢にて有(あり)しと見えて、何事もなし。大(おおき)に叱られて後、氣も慥(たしか)に成り、再び臥り申候へども、心にかゝり快からず。然るに、其翌日は未明より北風烈しく、土砂を飛(とば)し、散々の風成(なる)まゝ、此風にては江戸の遊人(あそびにん)も出らるまじ、か樣の風には、江戸の内に火事出來(いでき)なば、此所(ここ)迄も遮るゝ事なく燒來るべし。【此所は江戸日本橋より二里餘南なれども家續きなり。】殊に昨夜の夢見も甚だあしければ、けふは商ひの仕込を休み、道具をも片付(かたづく)るが宜(よろし)とて、料理人にも其日の仕入を止(やめ)させ、下男下女にも心得させて、朝飯過(すぎ)より、今火事の起る樣に、器物は勿論、手元の調度衣類に至まで、過半片付る程に、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]頃にもやありけん、夫(それ)火事よと申出(まうしいだ)すと直(ぢき)に、そこの妙國寺の門前より出火にて大騷(おほさはぎ)と成(なり)、【妙國寺は僅一丁餘り北也。[やぶちゃん注:この叙述によって、この村田屋の位置が概ね判る。恐らくこの中央附近(グーグル・マップ・データ)あったのではあるまいか?]】風筋(かぜすぢ)の急火なれども、最早、大躰諸色(しよしき[やぶちゃん注:緊急時に必要な色々の品物。])も片付居(つけをき)候へば、直(ぢき)に疊建具迄も土藏へ運込(はこびこみ)て、逃(にげ)る間もなく此邊殘らず燒(やけ)て、私家(わたくしいへ)も其時には見世(みせ)の方(かた)は燒(やけ)候へ共(ども)、此座敷は不思議に殘り申候と云(いふ)。【見世と此座敷とは棟は別なれ共、其間、僅九尺にたらぬ廊下橋有て、双方の庇の所にては漸一尺餘りも隔ち居(ゐ)て、全く棟續きも同樣なり。】夫(それ)は高運[やぶちゃん注「幸運の謂いであろう。]なり。定(さだめ)て防ぎ人にても多く辛うして助りし事ならんと云(いへ)は、左樣にてはなく、此所へ燃來(もえきた)る時は大西風と成(なり)て、火は皆、向の海へ吹込(ふきこみ)、自然と殘り申候。惣躰(さうたい)、此土地の火事には、江戸より來る火消(ひけし)は一筋道(ひとすぢみち)の所故(ゆゑ)、此所へ來る事なり兼(かね)、又、此南の鮫頭(さめづ)[やぶちゃん注:鮫洲。東京都品川区東大井、南品川の南東角の外郭位置。]より鈴が森邊[やぶちゃん注:刑場で知られた現在の東京都品川区南大井地区内。鮫洲の一・五キロメートル南南西。]にも、少しは火消の人數も候へども、北風にて燒來る時は、其邊も風下(かざしも)なれば、火消は一人も來らず、難儀成(なる)所にて御座候。然れども、其後兩度の火事も、隣の品川寺(ひんせんじ)の門前迄燒來ると、運能(よく)、西風と替るのみならず、下地(したぢ)の強風に又一入(ひとしほ)強く落風(おちかぜ)なし來り、火は悉く海へ吹込て、據(よんどころ)なく品川寺の門前の僅(わづか)なる明地(あきち)限りに燒止(やけどま)りて、夫(それ)より南へは燒來(やけきた)り申さず。依て自然と私方より燒殘り、向側は貝屋【土藏作りの家なり。】の迄は火足(ひあし)も續き燒候へども、火は海の方へ吹込、いつも貝屋より南は燒候はずと、細やかに答ふ。予、此(この)事を聞(きき)て篤(とく)と考(かんがふ)るに、是は全く隣地なる荒神尊の御蔭也。此神は兼て靈像と聞きき)及び居たり。風の每つね)も替りたるは、全く利益(りやく)の應驗(わうげん)也と教へ諭しければ、成程、左樣にや、所詮、人力にて助(たすか)る事にてはなく、何か神佛の加護にやとは思ひ居候へども、今日迄、心附(こころづか)ずに居(をり)申候、尤、近邊の事なれば、朝夕の内に參詣もなし、隨分信仰は仕りしとて、彼(かの)後家も靈驗の炳然(いちじるき)を初て心附、甚だ感伏(かんぷく)成(なり)奉りたり。神佛の靈驗は目に見え兼る事なれば、斯(かく)のごとく其利益を蒙り居(をり)ながら、知らずして居る事多し。尤、此事は、その場所を見、其火事の有樣をしれば知らるゝ事なれとも、何程(いかほど)精(くはし)く書記(かきしる)しても、文面にては分り難ければ、せめてもの事と共(とも)場所を末に圖し置ぬ。抑(そもそも)、此荒神尊と申奉るは、今更申も愚成(おろかなる)事ながら、大日・文珠・不動の垂跡(すいじやく)にして、三面六臂(ぴ)を具足し、大忿怒(だいふんぬ)の形相(ぎやうさう)を現じ、惡魔降伏の神にして、佛法僧の三寶を護持し、諸厄諸災を攘(はら)ひ給ふ神と聞(きけ)ば、火災を滅除し給ふは勿論の事なれ共、斯のごとく現顯(げんけん)を示し玉ひ、眼前、其奇特を聞(きき)し上は、予も忽、渇仰(かつげう)の首を傾け、夫より追々此寺へ參詣なして、緣起等をも委敷(くはしく)尋(たづぬ)るに、元來、この尊躰は昆首羯摩天(びかしゆかつまてん[やぶちゃん注:ヴィシュヴァカルマンの漢訳。インド神話に於ける万物を設計し工作とされる神。仏教に吸収されて帝釈天の支配下で工芸・建築などを司る神とされた。])の正作。【御丈一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五四センチメートル。]】御前立は飢渇・障碍(げ)の二神にして、運慶・湛慶の作、【御丈壹尺餘】にて、格別の靈神なれば、わけて靈驗の柄然(いちじるき)は尤たるべき事也。扨(さて)、此尊像は往昔、肥後の國天草郡にましまして、其所を荒神が原と云傳(いひつた)へて、其以前より靈驗新なりしと。寛永年中[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。]、肥前天草一揆起りし時、同國蓮池侯[やぶちゃん注:肥前国蓮池藩藩主鍋島氏。最初のキャプションへの私の注を参照。]の租先、未(いまだ)幼君におはしけれども、出馬の刻(とき)、深く此(この)尊躰に祈願し給ふやうは、荒神尊は惡魔降伏の神也。われ此度(このたび)の出陣に、必勝を諸軍に抽(ぬきん)で、誠忠を末代に輝かし玉はらば、永く尊像を守護し、供養し奉るべしと祈誓(きせい)なし給ひたるに、則(すなはち)靈應新にして、諸人に勝(すぐ)れたる譽れを得給ひて、遂に一家の租と成(なり)給へば、益(ますます)信仰淺からずして、東都高輪二本榎の別莊に遷座なさしめ給ひしを、天明年中、海雲寺十一世租印和尚在任の時、因緣有(あり)て當寺へ遷座なし奉りて後は、貴賤とも步みを運ぶ輩多く、隨(したがつ)て靈驗も日々に新にして、武門の族(うから)は、惡魔降伏・障碍退散のみにあらず、昇進發達の事を祈願するに、朝日の昇るが如く、奇瑞を得て、信仰の族多く、又、商人の類(たぐひ)は富饒繁昌を祈るに、響(ひびき)の物に應(わう)ずるがことく、利生(りしやう)を蒙る事炳然(いちじるき)とて、步みを運ぶ者も多く、古今無二の眞作なれば、左(さ)も有(ある)べき事にこそ。予、始め村田屋の靈驗を聞(きき)てより打置兼(うちおきかね)、させる心願もなけれども、其後わざわざ參詣をなし、初(はじめ)ての事なれば、結緣(けちえん)のため護摩をも供(きよう)じ度(たく)、且(かつ)、護摩の灰にて造た(つくり)る小き尊躰の厨子に入(いり)たるを與ふ)と聞傳(きkつた)ふれば、一軀(ぐ)申受(まうしうけ)て家内の守護神ともなさばやと案内を申(まうし)いるゝに、折節、住僧は隣寺へ行(ゆき)たりとて、弟子の僧は呼(よび)に行(ゆき)て、跡には木訥(ぼくとつ)たる下男壹人殘り居たるに、此尊躰の靈應はいかにと問へば、下男答(こたふ)るには、願(へがひ)さへなさるれば何にても(よく)能きゝ、不思議の奇瑞はいくらも有(あり)と申事(まうす)に御座候と云(いふ)。然れども、何ぞ眼前に其(その)驗(しるし)の有(あり)たるを見たりやと問(とふ)に、此間も漸(やつ)と夜の明渡(かけわた)る頃、庫裏(くり)に飯を焚居(たきをり)たるに、婦人壹人來りて申(まうす)には、神田の何とか云(いふ)者の妻の由。所も名も承り候へども、忘れ申候。護摩を願ひたくと申ゆゑ、この遠方を如何成(いかなる)祈願の候らひて、今頃來られたるにやと問(とへ)ば、此荒神尊の不思議の靈驗を以て昨夜、大の災難を免れし事の有(あり)がたきまゝ、未(いまだ)、夜も深かりけれども、夫(をつと)は其(その)事に付(つき)て用の有(あり)ければ、私(わたくし)まづ御禮に參りたりと云(いふ)。夫(それ)はいか樣(やう)なる靈驗を蒙られたるにやと問(とふ)に、昨夜、家内皆々寢靜りて後、夢寤(うつゝ)ともなく、臺所の方にて、何かすさまじき物音聞え候。其音にて、夫も私も目を覺し考ふれども、最早、再び音もせず。されども心濟(こころすま)ねば、若(もし)や盜賊にても忍び入たるにてはなきかと見𢌞りに行(ゆく)と、竈(かまど)の側の緣板(えんいた)もえ拔(ぬけ)て、既に出火に及ばんとせしゆゑ、驚天(ぎやうてん)なし、早々打消(うとけし)て事故(ことゆゑ)なく相濟(あひすみ)申候。是は臥す時に、火消壺へ火を入れて、蓋をする事を忘れ置(おき)、段々火誇(ほこ)りて、消壺素燒(すやき)なれば、壺越に緣板へ火移りて、右の次第と成(なり)たるにて候。扨、其時に音のせしを考(かんがふ)るに、棚の上に崇め置(おき)奉りたる千躰荒神尊の厨子(ずし)の、自(おのづ)と下へ落玉(おちたま)ひたる音にて、夫(それ)が寢耳に仰山(ぎやうさん)に聞え、驚(おどろき)て目を覺したるは、誠に有難き事に候とて感淚を流し、御禮に參り申候と答ふ。予、再び此奇特(きどく)を聞(きく)上(うへ)は、最早、其餘の靈驗を聞探(ききさぐ)るは却(かへつ)て恐れも少なからずと、深く感伏なし奉り、絶(たえ)ず祈願をもなし、利益を蒙りし事少なからず。扨、此尊像を千躰荒神尊と申奉るよしは、經説に、千躰雙眼に拜すれば、卽座に滿願圓成(ゑんじやうす)と云(いふ)事の有と(あり)聞けり。其故にや、又、前にいふ護摩の灰を以(もつて)、造立(ざうりふ)せし尊躰、數千萬に及びしゆゑにや。皆、分身の利益を施し給ふゆゑ、近年、何某講中など號して、信仰をなす輩(ともがら)少なからず。繁昌の靈像にておはします也。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

此寺は禪宗なれども、天台免許の護摩を修して、祈禱をもなす也。禪家にて護摩を修するは、遠州の秋葉山と、播州の人丸寺(ひとまるじ)と、當寺と、僅(わづか)海内(かいだい)、三箇(が)寺のみと聞及(ききおよ)ぶ。如何(いかが)にや。

[やぶちゃん注:「遠州の秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈の南端にある火防(ぶ)せの神として知られる秋葉山本宮秋葉神社に、かつてあった曹洞宗の別当寺秋葉寺。神社の方は修験道のメッカであったことから、古くは真言宗と関係が深かった

「播州の人丸寺」現在の兵庫県明石市にある曹洞宗人丸山月照(げっしょう)寺。元は真言宗。]

 

 追加

 天保十二年【辛丑(かのとうし)】閏正月八日[やぶちゃん注:一八四一年二月二十八日。]の早朝に又、問屋場の南の邊より出火。風も強く、忽ち四五丁南へ燒廣がり、品川寺門前の邊燒る時は、風、艮(うしとら[やぶちゃん注:東北。])より吹(ふき)たれば、武藏屋の燒(やく)る火炎、信濃屋の方へ吹付(ふきつけ)、此度は信濃屋も村田屋も燒失(やけうせ)たり。其時は海雲寺も風下と成(なり)、火の子吹付、既に危うかりしに、村田屋の座敷へ火移りたる頃、俄(にはか)に乾(いぬゐ[やぶちゃん注:西北。])の方より風はげ敷(しく)落來(おちきた)り、火は皆、巽(たつみ)の方へ吹拂ふほどに、又、海雲寺は別條なく燒殘りて、遙(はるか)南の方迄燒行(やけゆき)、此節には、向側は貝屋よりも一二丁南迄燒たり。尤、人も防ぎたるよしなれども、聊(わづか)の内の風の替り目にて、不思議に釜屋のみ只(ただ)一軒、燒殘りたり。是も守護神の有(あり)しにや。兎も角も、四度とも強風吹落(ふきおち)て、此寺の自然にして燒殘りしは、予は全く此尊像の靈驗也と知りあきらめたり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

かゝる靈佛靈神と雖ども、靈驗に隱顯(いんけん)有(ある)もの故、必(かならず)と云(いふ)にはあらず。予が知りたる所に無類の作佛數十躰有(あり)て、其(それ)靈赫々(しやくしやく)たりしに、悉く燒失(しやうしつ)なせし事あり。後に思惟(しゐ)なし奉るに、故有(ゆゑあり)て、皆、靈、去居(さりをり)給ひしにやと思ふ事有(あり)。何とも云(いひ)難き事なり。

 

Minamisinagawahaitizu

 

[やぶちゃん注:右の文章は、キャプションではなく、先の本文の、

 

此寺は禪宗なれども、天台免許の護摩を修して、祈禱をもなす也。禪家にて護摩を修するは、遠州の秋葉山と、播州の人丸寺(ひとまるじ)と、當寺と、僅(わづか)海内(かいだい)、三箇(か)寺のみと聞及(ききおよ)ぶ。如何(いかが)にや。

 

の太字下線の部分である。図内のキャプションはいちいち活字化しない。かなり読み易く、困難な箇所は(私には)ない。]

 

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