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カテゴリー「怪奇談集」の1000件の記事

2020/08/03

「萬世百物語」始動 / 序・ 卷之一 一 變化玉章

[やぶちゃん注:百物語系怪談集の一つ「萬世(ばんせい)百物語」の電子化注を始動する。同書は全五巻で寛延四(一七五一)年正月(同年は十月二十七日(グレゴリオ暦一七五一年十二月十四日に宝暦に改元)に江戸芝明神前の和泉屋吉兵衛の開版になるが、これは実は五十四年も前の元禄一〇(一六八七)年に江戸川瀬石町の伊勢屋清兵衛開版になる「雨中の友」の改題本である。序に署名のある「東都隱士烏有庵」という作者については全く伝不詳である。改題本とは言うものの、この直後の宝暦・明和期(一七五一年~一七七一年)に何度目かの流行を見る百物語系怪奇談集の先駆作品として重要である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本である国書刊行会編「德川文藝類聚 第四 怪談小說」(大正三(一九一四)年国書刊行会刊)の当該作の画像を視認したが、底本にはルビが殆んどない。そこで加工用データとして読みとった国書刊行会「叢書江戸文庫」第二十七巻「続百物語集成」(太刀川清氏校注。底本は国立国会図書館蔵の原版本。原本の書誌データなどもこの太刀川氏の解説を参照した)にあるルビを参考(原版本には歴史的仮名遣が多い)にして、独自に正しい歴史的仮名遣で必要と思われる箇所に読みを添えた。句読点も底本では従えない場合、後者を参考にしつつ、必要と認めた場合にはオリジナルに追加もした。挿絵はあまり面白いものではないが、添えられてこそのものであるからして、国書刊行会「叢書江戸文庫」第二十七巻「続百物語集成」にあるものをスキャンし、トリミングして合成(中央で分離しているため)して添えた。踊り字「く」「ぐ」は正字化した。底本はベタであるが、比較的、一話が長いことから、読み易さを考えて、一部に鍵括弧や記号を施し、段落も成形した(序は除く)。

 太刀川氏曰く、『本書は怪異小説には珍しく、その表現は雅文体を中心としたもので、それに応じるかのように、各説話の始めを「あだし夢」(巻一第一話だけ「きのふはけふのあだし夢」)で始まる形を採っ』ており、相応の内容を持った話柄には『つとめて情緒的な叙述を心がけている』あたりが特異点の特徴と言える。太刀川氏は改題再版行を促したのも、『多分』この『珍しい雅文体の表現のためであろうが、それが中国外来的な』最初の読本とされる怪奇談集「古今奇談英草紙(はなぶさぞうし)」(近路行者 (都賀(つが)庭鐘)作。全五巻。寛延二(一七四九)年刊。全九話。中国の白話小説「喩世明言」「警世通言」「醒世恒言」などの短編から材をとって翻案、時代を鎌倉・室町としたもの)『の余波の中であっただけに意義があったのである』と評しておられる。中には怪談という属性を持たない宮者武蔵を主人公とする武勇談に旧怪奇談をインスパイアしたものなども含まれる。

 注はストイックに附した。注を附した後は一行空けておいた。【202083日始動 藪野直史】]

 

 

萬 世 百 物 語 序

 

奇怪を語るは聖人のいましめ給ふ所、しかはあれども古今小說家の載(のす)るを見るに、怪談傳奇枚擧(あぐる)に遑(いとま)なし。實(まこと)に漢も倭(やまと)も好事(かうず)の人こそをゝき。予去年(こぞ)の秋、故人の幽栖(ゆうせい)を尋ねて雨夜のつれづれに茗話(めいわ)せし事ありしに、我にひとしき客(かく)の訪(と)ひ來たれるありて、珍(めづ)らかにあやしき事ども語り出(いだ)して、主(あるじ)とともに耳を傾(かたむ)け、席を前(すす)め侍りしに、秋の遙夜(ながきよ)を、しのゝめちかく語り明(あか)しぬ。徒(いたづら)に聞き捨てなんもおしく、書留めて里の兒輩(わらはべ)に土產(つと)にもかなと、硯(すずり)需(もと)めてひとつひとつに綴り侍りしに、終(つひ)に五つ卷になりぬるを、すぐに題して萬世百物語と名づくる物ならし。

  寬延三年正月   東都隱士 烏 有 菴

[やぶちゃん注:「をゝき」はママ。「多(おほ)き」。

「故人」旧友。

「幽栖」俗世間から離れてひっそりと暮らしているその人の住居(すまい)。

「茗話」ここは「茶話(さわ)」と同義であろう。「茗」には「遅摘みの茶」(新芽のそれの対語が「茶」)の意がある。

 以下に目録が入るが、総てが終わった後に配することとする。]

 

 

萬世百物語 卷之一

 

    一、變化玉章

 きのふはけふのあだし夢、丹後の國宮津(みやづ)のあるじ京極何がしは、佐々木佐渡の判官(はんぐわん)道與(だうよ)がむまごなりける。ひとりのいつきむすめありしが、優に生(むま)れ、心ざまもあてなりにければ、ふたりの鍾愛(しようあい)たゞこの一所になんとゞまりける。

[やぶちゃん注:標題は「へんげのたまづさ」で、「玉章」は「巻いた手紙の中ほどをひねり結んだ捻(ひね)り文・結び文のことで、古く恋文(ラブ・レター)を指す雅語

「丹後の國宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の宮津市街(グーグル・マップ・データ)であろう。

「京極何がし」「佐々木佐渡の判官道與がむまごなりける」婆娑羅大名佐々木道誉(永仁四(一二九六)年/異説に徳治元(一三〇六)年~文中二/応安六(一三七三)年)の表記を意識的にずらしたものか。「譽」の(かんむり)部分は「與」の上部と同じである。彼は佐渡判官入道(佐々木判官)の名で知られる。「道誉」は法名。本名は高氏。彼は鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の中の京極氏に生まれたことから、京極高とも呼ばれた。「むまご」は孫。道誉の嫡男秀綱とその子に秀詮(ひでのり)・氏詮は南朝勢との戦いで戦死しており、佐々木(京極)氏の家督は唯一生き残った弟佐々木(京極)高秀(嘉暦元(一三二八)年~元中八/明徳二(一三九一)年)が継いでおり、彼の子京極高詮(正平七/文和元(一三五二)年~応永八(一四〇一)年)がいるので、彼がモデルか。彼は近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見の守護大名にして室町幕府侍所頭人であった。

「いつきむすめ」「斎娘・傅娘」で「大事に守り育てている娘」の意。

「優に生れ」生まれつき知的で美しく。

「あてなり」上品だ。優美だ。

「鍾愛」「鍾」は「集める」の意で、大切にしてかわいがること。]

 

 おなじ國、何の島とかやは、海原ひろく見わたし、よき境地にして、常は國のものどものなぐさめ所になせりし。

 おりから、春のいろ、野邊もやうやうけしきたつほどなれば、

「つのぐむあしのあをみわたるより、すみれ・つばなの姿おもしろからんは。」

と、つきづきの女どももそゞろだち、娘もゆかしがりければ、長閑(のどか)なる日、したてゝ、彼(かの)島にわたしける。

[やぶちゃん注:「つのぐむ」「角ぐむ」で、草木の芽が角のように突き出し始めることを謂う。特に水辺に多い葦・真菰 (まこも) ・荻 (おぎ)・薄などに多く用いる。

「つばな」千茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の葉鞘から出る前の膨らんだ花穂を指す。]

 

 島はいさゝかの所にて、立ちしのぶべきかたもなきゆへ、男のかぎりは、みな、船に殘し、女どちばかりかけあがりぬ。ねやふかく忍ぶ心、ひろき詠(ながめ)めづらしくて、手々につまどる春草にのみ心をいれ、そこらしどけなくたゝずみける。

 いづくよりともみへず、いやしからぬ小坊主、錦欄のゑりかけたる、うつくしき染物の、袖なき羽織を着て、むすび文(ふみ)もてるが、

「是れあげさせ給へ。」

といふ。

 女ども、おどろき、

「こは、めなれぬ子なり。いかにして何方(いづかた)よりこゝにはいできたるぞ。爰はかしこまる所なり、かろがろしきしかた、いかにぞや。とく、いね」

と、くちぐちにいふ。

「いやとよ、此文をだに奉ればわけしるゝものを。やはりあけさせ給へ。」

といひすてゞ、いづちいにけん、あとけして、みへずなりぬ。

 あやしきながら、よりて、文ひらきみれば、うつくしき文字すがた、けだかき懸想文(けさうぶみ)なり。名もなくて、心のゆくかぎり、かりそめならぬさまをいひつゞけ、

――扨、此事かなへ給はずは、おそろしきめみせなん。心得給へ――

と、かいたり。みるよりせなかのほど、そゞろさむく、皆々、かほ、とく見あわせ、けうさめて立ちける中にも、「つぼね」などいふべき老(おい)たる女、

「いやいや大事の姬君、よしなき所の長居なり、かゝる所は、はやう、たちさりたるこそよけれ。」

とて、だらになど、うちずし、あしばやに行きければ、たれか跡にとゞまるべき、

「我先に。」

と、船に、こみのり、道々もたゞ此事のみいひさゝで歸りぬ。

[やぶちゃん注:「めなれぬ」「目馴れぬ」。見慣れない。

「だらに」陀羅尼。サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写で、「総持」「能持」「能遮(のうしゃ)」と訳す。「総持」「能持」は「一切の言語からなる説法を記憶して忘れない」の意であり、「能遮」は「総ての雑念を払って無念無想の状態になること」を指す。ここは翻訳せずに梵語の文字を唱えるもので、不思議な法力を持つものと信じられる呪文。比較的長文のものを指す。

「うとずし」「打ち誦し」。

「いひさゝで」「言ひ止(さ)す」は「言いかけて止める」ことであるから、それをさらに打消の接続助詞で重ねて否定しているのだから、「その怪しいことについては誰も彼もちょっとでも言い出そうとすることなく」である。不吉な事柄を言上(ことあ)げすることでそれを招くことになるから、ことさらに忌んだのである。]

 

 ふたりのおやに、

「かく。」

と啓(けい)すれば、

「あらまし、こは、人のわざともおぼえず。ただものとこそみへ[やぶちゃん注:ママ。]たれ。まことや、此家の北なる森には、ふるきけものにやあるらん、つねにあやしき事すなるときゝつるが、さだめて、かのもののわざなるべし。弓して射させよ。」

とて、つはものをゑらび、蟇目(ひきめ)さすれば、森々(しんしん)たるもりのうち、何のあて所はなけれど、思ふままにぞ、射たりけるを、森の中に大ごゑあげて、

「どつ」

と笑ひ、扨(さて)、射たりける矢のかぎり、ことごとくつがねて、束(つか)ふたつになして、なげ出(いだ)すにぞ、

「是れも甲斐なし。」

とて、あきれて、やみぬ。

[やぶちゃん注:「啓す」申し上げる。

「みへ」ママ。

「蟇目」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢のことを言う。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。

「つがねて」まとめて束(たば)にして。

「束(つか)ふたつになして」沢山の矢を射たのだが、それがたった二つの束(たば)に圧縮され、ひしゃげた塊りにされて投げ返されたのであろう。]

 

 その矢射させける夜よりして、娘の方に、化(け)、おこりて、あやしき事多き中に、不淨の、ゑもいはれぬあしき臭(かざ)座(ざ)にみちて、そこら立ち寄るべきかたもなく、いかなる香を焚きても、いさゝかまぎるべきやうなし。

[やぶちゃん注:「化」異常な様子を指す。物理的に見える発熱などかも知れぬし、ひどく何かを怖がるといった神経症的症状や、もっと重い何かに憑かれたようなヒステリー状態などかも知れぬが、具体に記していないので判らぬ。まあ、有りがちな展開ではある。

「臭(かざ)座(ざ)にみちて」「江戸文庫」本では「臭座」二字に対して『かざ』とルビするが、これはおかしい。「臭氣」が「かざ」で異常にして奇体・不吉なる臭いをかく表現しているので、それが家内の孰れの部屋=「座」にも満ちてしまったというのである。

 

 ある夜はこうじて、きたなき物のかぎり、床(ゆか)より高くもて埋(うづ)みければ、上下(かみしも)、にがにがしく侘びける。

[やぶちゃん注:「こうじて」「困(こう)じて」で困って。

「きたなき物のかぎり、床(ゆか)より高くもて埋(うづ)みければ」今一つ明言出来ぬが、これはあまりの体験したことがないひどい臭気にたまりかねて、主人京極何某が命じて、それを紛らすため、既に知っているところの、日常的な汚い臭いものを持ってきて、堆(うずたか)くあらゆる部屋に積ませたということなのではなかろうか。そう採った時、本話の奇体性がいやさかに増すからである。

「上下」主人を除いた家内の家人や下僕ら総て。]

 

「かゝる事には、かたたがひすれば、うするもの。」

とて、新殿(しんでん)をしつらい、むすめをうつし、兵(つはもの)のかぎり、ゑらびて、まもらせける。初(はじめ)より驗者(げんざ)・法(のり)の師(し)、つゆおこたるまもなきが、いよいよつとめ、加持(かぢ)の僧なんど、いかめしく壇かざりて、すゆ。

[やぶちゃん注:「かたたがひ」「方違」。本来は、陰陽道で外出する際、天一神(なかがみ)・太白 ・金神 (こんじん) などのいる方角を凶として避けるために、前夜或いはもっと以前に他の方角の場所に行って泊って、そこからその当日、目的地に向きを変えて行くことを指す。平安時代には日常的に盛んに行われた。但し、ここは単に何かに憑かれたらしい病人である娘を全く別な位置に移すという処置を指す。京極邸家屋内は総てダメなため(臭気蔓延)に新しい建物を設え、そこに彼女を移したことを謂う。

「うする」失せる。

「驗者」次に僧が二回出るので、修験道の行者と採っておく。実際には僧侶の加持祈禱を行う者も「驗者」に含まれる。

「法の師」法力の新たかな高僧。

「すゆ」「据ゆ」。「安置した」の意。]

 

さればこそ、うつろひて、一夜二夜は何の事なきを、

「かくてぞやみなん。」

とさゝめきあゑり。

 いつしか、また、おなじやうに、あれける。

[やぶちゃん注:「さゝめき」「囁(ささや)き」に同じい。

「あゑり」はママ。

「あれける」「荒れける」。]

 

 ある時は女どもを五人三人づゝ、髮と髮をあつめて、繩になひ、網にくめど、つゆしる人もなく、たがするわざともみへず、あやしき事のかず、ましけるに、かゝるうちに住みなんこと、みなみな、うき事におもへば、この事、かのことにかこつけ、みやづかひの女ども、里がちにぞなりける。今は、とのゐさへまばらなれば、

「かくてはかなはじ。」

と、絕えてそれより出人りを掟(おき)て、かりにも、人をちらさゞりける。

[やぶちゃん注:女性の象徴たる長い髪は、民俗社会では、女の命・魂であるからして、巫女たる存在としての女性の霊力をシンボライズする、呪術的な対象となった。ここでは女性の髪で作った綱や網が、邪鬼を侵入させない結界としての効果を期待して、娘の周りでかく行われたものと考えられる。

「とのゐ」「宿直」。

「掟て」は動詞「掟(おき)つ」の連用形。前もって指示して行動をとらせることで、ここは、里下がりを願い出ることを禁ずる命令を出して、の意である。

「かりにも」ここは呼応の副詞で、後に打消の語を伴って)打消の意を強めている。決して、一人でも奉公を断ったり、逃げ去ることを許さなかった、の意。]

 

 娘もかなしがり、父母もせんかたなう覺えけるに、小枝元齋(ささへげんさい)といへる儒學者、いひけるやうは、

「今はすべての事しつくさせ給ふうへなれば、殘る所なし。しかれども、爰(ここ)にひとつおもひよりあり。なしてんはしらず、我らにまかさせ給はゞ心つくしてみん。」

といふ。

[やぶちゃん注:「小枝元齋」不詳。読みは「江戸文庫」版に拠った。

「なしてんはしらず」意味不明。「成し」「爲し」か? 完全に成し遂げ得るかどうか、或いは、完全なる効果を及ぼすかどうかは今は判らないが、の意か?]

 

 何がしきゝて、

「それこそあなれ。いかにもして此事さへやみなば、しさいにやおよぶ。」

といふ。

 元齊それより齋(ものいみ)し、つゝしび、かの森に至りて、あらたなる神に敬するがごとく、武士(もののふ)に仰(おほせ)て、弓(ゆみ)射させし、あやまりより、靈をあなどるの事、ねんごろに詫びなげきて、

「さりとはいヘど、ものゝふの家に生(うま)るゝ身、靈にむすめとられたるなんどいわれむは、後代までの恥辱、いかにとも、ゑこそかなひ候ふまじ。是れひとつはゆるし給ふて、何ならん、ねがひにても、御心にかなひ候はんことをいたしつべし。」

と、二(に)なう願たつるに、びんづらゆふたる童子となり、元齋にむかひ、

「につこ。」

と打ち笑ふて、

「日ごろは、しかたのあまり、にくさにぞ、ものしける。かくまでわぶる事、殊勝なり。今はゆるすべし。何のねがのある身にもなきが、『おどり』といふ事なん、おもしろかるべし。是れ我が心なり。」

といふに、かしこまり悅びて、いそぎ、歸りて、何がしに、きかす。

 家のうち上下、いきづき、悅び、それより領内にふれて、町・田舍・男女の數つくし、

「なみなみにて、かなはじ。」

と、侍も、わかき男は出(いで)まじわり、風流をつくして大勢なれば、若狹境の「ゑいけいじ野」といふ所の廣場にみちあまり、棧敷(さじき)なんどかけわたし、靈の座、淸めて、おもしろう、まひおどる事、二十日あまりなり。

 そのほど四日五日がほどは、美なる少年となりて、彼(か)の座にみへけるが、たへてのち、願もなければ、

「さては。」

とてやみける。

 是れに感應や有(あり)けん、娘のかた、ことなう、めでたかりし。

[やぶちゃん注:「それこそあなれ。いかにもして此事さへやみなば、しさいにやおよぶ」「それこそ願ってもない、私の望んでいたことなのであるのだ! 何んとしてもこの異常な事態が収まるのであれば、何も私は言うはずも、ない!」。

「つゝしび」ママ。「愼しみ」。

「あらたなる神に敬するがごとく」「江戸文庫」は「神」に『しん』と振るが、従わない。

「靈にむすめとられたる」「江戸文庫」はここのみ「靈」に『りやう』と振るが、従わない。

「びんづら」「角髪(みづら)」の音変化。ここは、江戸時代の少年の髪型。元は上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分けて両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後、概ね少年の髪形となった。

「ゑこそ」ママ。

「二なう」ここは「二つとなく」で「この上なく」の謂いであろう。

「びんづら」ここは少年・青年の古い髪形を謂う。

「おどり」ママ。「踊(をど)り」。

「出まじわり」ママ。「まじはり」が正しい。

「いきづき」ほっと安心してやっと息をついて。

「ゑいけいじ野」不詳。漢字表記も判らぬ。識者の御教授を乞う。

「みへ」ママ。

「たへて」ママ。「絕へて」であろうから、「たえて」が正しいだろう。それがひとまず終わってしまって翌年からは、の意であろう。]

2020/07/27

三州奇談續編卷之八 八幡の靈異 / 三州奇談 全148話 電子化注 完遂!

 

    八幡の靈異

 埴生(はにふ)の神社は彼(かの)大夫坊が願書に名高くして、此邊の所々は木曾義仲倶利伽羅を說くの證跡にして、此話は事古りたれば筆を止(や)めつ。社頭石階遙に上る。石壇悉く累文(るいもん)ありて、雨中の長きにも道辷(すべ)ることなく、心穩かに坂を上る。危きを忘るゝも又々妙あり。社頭物さび、尊さは云ふにや及ぶ。應現(わうげん)の神なるは書き續くとも盡し難し。爰に土人の奇話あり。

[やぶちゃん注:「埴生の神社」現在の富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの麦水も登った階(きざはし)をリンクさせておく。

「大夫坊が願書」既に出た通り、大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した木曽義仲の右筆。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

「倶利伽羅」とはサンスクリット語「クリカ」の漢音写で、インドで八つの龍の王の内の一柱の名であり、「陀羅尼集経」では「鳩利龍王」とも漢訳されている。仏教に取り入れられた「倶利迦羅竜王」は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついている様で形象され、この竜王は「不動明王」の化身として集合されて特に武家に崇拝された。剣と火炎は一切の邪悪罪障を滅ぼすとされる。寿永二(一一八三)年木曾義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面に當深い谷に攻め落としたことで知られる倶利伽羅峠であるが、この名も、その峠に倶利迦羅不動を祀る堂が存在したことに由来している。倶利迦羅不動寺は養老二(七一八)年、元正天皇の勅願により、倶利迦羅不動明王を奉安されたのが始まりと伝えられ、弘仁二(八一二)年、弘法大師が本尊と同体の不動尊像を彫って別当山として長楽寺が開山されたのが確かな創建である。ここで麦水が「說く」と言っているのは、倶利迦羅竜王が絶対の正義を以って戦うことで仏敵を滅ぼす如く、我らが平家を倒すことが必定されていることを神に誓い、部下の将兵らに説いたという謂いであろう。

「累文」重なった層状の紋様。]

 

 近く元文三年の春の事とにや。一夜社頭

「ざはざは」

と人音し、鈴鳴り馬嘶(いなな)く躰(てい)のこと曉に至れり。近鄕の人怪しみ思ひしとなり。音を聞きたる人は甚だ多かりしが、其中に宇兵衞と云ふ者は、

「むつく」

と起きて社頭へ走り登り見けるに、最早朝日煌々と出で輝きて、辰(たつ)にも及ばんとする頃、倶利伽羅山の東谷なる須小池(すこいけ)と云ふ上に、魚津浦に見なれし喜見城(きけんじやう)と云ふ物の立ちて、人家城廓はもとより、人馬旌旗(せいき)の行かふさま、ありありと見え渡る。併(しか)し先づ異國の人のやうに覺え、城樓も異國のけしきに思ひし。只彩色の樣(さま)照り輝き、見事なること云ふばかりなし。然るに此御神は、敵國降伏の誓言なればにやありけん。暫くして此社頭より、

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天白日となりき。

 其二三年は殊に豐年打續き、世上(せじやう)里民(りみん)腹を皷(こ)して樂しみ、諸國民安かりし。是を思へば神の遊戯にして、異靈吉祥(きつしやう)なるためしとぞ思はる。

 蜃氣の樓をなすは、此邊(このあたり)海上の常ながら、蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし。「南島變」の中に詳しく記す。

 扨は北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか。又は須小池は元來大いなる鯉(こひ)住む故に名づくと云へば、鯉も又氣を吐くものにや。辨じ難し。此外往々此山畔霧裡(きりのうち)に、城廓を見ること折々ありと云ふ。扨又此邊及びみとだ海道筋に、醬油を造る大家どもは、大釜に鹽を入れて湯に燒くこと折々なり。然るに時々には鹽固まりて解けざるものあり。其形樓閣の如し。其形誠に怪しき迄なるもの出來ること多し。門・戶・扉まで備(そなは)りたること奇妙なり。終(つひ)に石となる。又皆解けてかたまらざる日もあり。かたまれば必ず家居なり。思ふに地氣家の形をなすは、天然の妙にして、家居もと人工の外に出たること明らけし。然れば山氣・湖氣現(うつつ)に樓閣を結ぶ、又故ありと覺ゆ。

[やぶちゃん注:面白い。蜃気楼の城郭や兵馬・旌旗(軍旗)が異国のそれであったが故に、倶利伽羅龍王(不動明王)の法力(「敵國降伏の誓言」通り)が自動的に働き、蜃気楼も成敗されて消えたというのである。

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天

「元文三年」一七三八年。

「辰」午前七時。

「須小池」倶利伽羅峠東谷には多数の池沼があるが、どれだか分からない。一番大きなそれは「埴生大池」或いは「大池」(グーグル・マップ・データ)と呼ばれる。一応、これを第一比定候補としておく。先の埴生護国神社とは直線で二キロほどしか離れていない。倶利伽羅合戦ではこの池のすぐ南方に義仲軍の初期本陣が配された。

「魚津浦に見なれし」富山湾の内で最も本格的な蜃気楼が見られるのは、現在でも魚津である。

「喜見城」本来は梵天と並ぶ仏教の護法大善神たる帝釈天の居城の名(サンスクリット語「スダルシャン」の漢訳語「ス」は「適切な・良い」、「ダルシャン」は「見る」の意)。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽するという。ここは、それを転じた蜃気楼の異名。

「蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし」「近世奇談全集」では「山雉」に『やまどり』とルビするが、従えない(後述)。一般には「蜃気楼」の「蜃」は大蛤(おおはまぐり)或いは蛟(みづち:龍の一種)の吐き出す気とされるのが伝統で(根っこは「蛤」の方が正解のようだ。「蜃」が龍の一種を表わす字として別に用いられたことによる混同が始まりのようだ。既に古く「礼記」の「月令(がつりょう)」では両者が同名異物であるとする記載がある)あるが、蛤より龍の方が人の想像を飛翔させやすいことからと思われるが、龍説が増殖し(確かにどデカい蛤というのでは本体が動かないから、関連して伝説を作るのに食指が動かない気はする)、ウィキの「蜃」には、『一方で竜とする説は、中国の本草書『本草綱目』にあり、ハマグリではなく』、『蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある』。『この蜃とはヘビに似たもので、角』・『赤いひげ・鬣』(たてがみ)を持ち、腰より『下の下半身は逆鱗』(げきりん)『であるとされている』。『蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯しても幻の楼閣が見られるとあ』り、『さらにこの蜃の発生について、ヘビがキジと交わって卵を産み、それが地下数丈に入ってヘビとなり、さらに数百年後に天に昇って蜃になるとしている』。宋代書かれた百科辞典である「埤雅(ひが)」の『著者である陸佃』(りくでん)も同じく、『蜃はヘビとキジの間に生まれるものと述べている。『また『礼記』にはキジが大水の中に入ると蜃になるとあり』(私がさっき注したのは個々の部分で、日本ではその注記が無視されて広まったのである)、『この発想は日本にも伝わっている』とあった(下線太字は私が附した)。『「山鳥」と「山雉」は同じだろ?』と御仁がいるとすれば、それは大いなる誤りである。

「雉」はキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor(但し、現在、学名を Phasianus colchicus とする主張もある)

であり、

「山鳥」は日本固有種でキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

で属で異なる別種だからである。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を読まれたい。

「南島變」「寬永南島變」。本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。最後ぐらい、宣伝は大目に見て上げよう。

「北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか」それは火山なら幾らもあるし、硫黄ガスは有毒成分硫化水素を含むし、二酸化炭素や一酸化炭素で人は簡単に窒息死する(そうしたものが滞留した窪地で人が亡くなったり(自衛隊演習での事故が十年ほど前に実際にあった、体が動かなくなるのはそれで、民俗社会では「ダリ」という妖怪のせいとしたりしたのである)。天然ガスもそう感じられるであろう。

「大いなる鯉」「鯉も又氣を吐くものにや」登龍門伝説で年経て上流に至れば龍と成るのだからね。本邦での鯉の妖異も甚だ多い。でかい奴の顔を見てると、何か人語を喋りそうだもんな。

「みとだ海道」射水市水戸田へ向かう街道か。ここからなら現在の県道九号あたりがその後身か。

「大釜に鹽を入れて湯に燒く」この「鹽」は「潮」とあるべきところであろう。

「地氣家の形をなすは、天然の妙」というより、海水を使っているのだから、やっぱ、大はまぐりの気でごわしょうぞ! 麦水どん!

 以上を以って「三州奇談續編」全巻の終りである。今年の一月十七日開始だから、半年がかりとなった。何か一つの達成感はある。麦水さん! また、何時か、何処かで!!!

三州奇談續編卷之八 妖鼠領ㇾ墳

 

    妖鼠領ㇾ墳

 鼠は社によりて尊(たつと)しと聞しが、塚に依れば妖をなすことも故ありや。「今目(ま)のあたり見たり」と人の語るあり。越中礪波郡金谷本鄕の下にて、木船の續きに五社と云ふ村あり。道明村と云ふに隣りて、さまで人遠き所にも非ず。されど此兩村の間墓所にして、古墓も又多し。爰に妖鼠住みて久しく小獸の類(るゐ)を取殺す。初めは人々『狼・犬などの所爲にもや』と思ひ居(をり)しが、近年頻りに飼猫失せてけるに、多くは此墓邊(あたり)に嚙殺(かみころ)されて死骸を殘す。

[やぶちゃん注:標題は「妖鼠(えうそ)墳を領(りやう)す」。

「鼠は社によりて尊し」国津神を統べる大国主命は素戔嗚尊の娘須世理毘売(すせりひめ)と互いに一目惚れして、素戔嗚尊に婚姻の許しを貰いに行くが、素戔嗚からは許諾するに際して様々な過酷な試練を命ぜられてしまう。その試練の一つに、大野原で火攻めにされるシークエンスがあるが、その時、鼠が現われて逃げ道を教えることから、大国主命の神使は鼠とされ、また、神仏習合の下で彼は大黒天(七福神の一つ)と同一とされたことにより、豊饒の米と縁の深い鼠が眷属とされた。されば、大国主命を祀る神社では鼠をかく扱う。

「越中礪波郡金谷本鄕」不詳。しかし、以下の地名からして、この地図の小矢部川右岸の表示範囲(或いはもっと広域。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の、現在の高岡市福岡町の一部及び小矢部市の一部の広域を、かく呼んでいたものと考えてよかろう。

「木船」高岡市福岡町木舟

「五社と云ふ村」木舟の南に接して小矢部市五社がある。

「道明村」その五社の南に接して小矢部市道明がある。

「此兩村の間」表現からは五社地区と道明地区の間となるが、現在の地区境界は複雑に凸凹している。但し、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても、今は田圃と道で、そこに墓の痕跡らしきものは見当たらない。但し、ストリート・ビューで見たところ、一箇所、碑石のようなものがあった。新しくて墓石とは思われないものの、奇妙な形の小さな石が三つ、二基の碑の間に明らかに人為的に整然と並べて鎮座されてあるのはいささか気にはなった)。なお、狭義の古墳時代以前の墳墓遺跡はこの付近にはないようである(小矢部川左岸の丘陵辺縁部にはかなりの数を認める)。]

 

 然るに安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の春、五社村の勘兵衞が子伊兵衞と云ふ者、廿七歲にて角力(すまふ)も取り、力量も剛(つよ)し。知音(ちいん)ありて道明村へ咄(はな)しに行き、夜半頃に夜咄し終りて歸りしが、心しぶとき男なれぱ、塚原古墳を通るも心にかゝらず、常に行き通ひしが、今宵は人より猫を一つ貰ひて、懷ろに抱き歸ることゝなりしに、此塚原へ來るに、頃は二月十三日の夜なれぱ、朧寒き薄曇り、何とやら恐ろしげなる景色に、とある塚の積揚げたる石、

「がば」

と崩るゝ音するとひとしく飛出づる怪しき物あり。只飛鳥(ひてう)の如く走り來りて、伊兵衞が膝口のあたりに飛付き、懷ろへ傳ひ登る。懷の猫は、身を震はし恐れ屈む。五社村の伊兵衞は力勝れたる者なれば、

「こは心得ず」

と怪物が首と覺しきを引摑みて二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]投ぐるに、中(ちゆう)より飛來りて伊兵衞が足に喰付(くらひつ)くに、是を蹴放(けはな)して待つ所に、又肩に飛付き、或は背中に嚙付き、或は乳(ち)の邊りを五ヶ所嚙破(かみやぶ)る。伊兵衞怒りて、力を盡して首を捕へ、ふり下げて見るに、長さ二尺許なり。鼬・𪕐(てん)の類(たぐひ)にやと、力に任せて首筋をしむるに、血を吐きて死したり。懷ろの猫も、いかなる故にや死しぬ。依りて此怪物を手に下げて家に歸り、翌日見るに大いなる鼠なり。顏甚だ長く大にして、四寸五分[やぶちゃん注:約十二センチ。]あり。身は一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチ。]。首にかけて二尺三四寸[やぶちゃん注:七十一センチ前後。]の鼠にて、尾の長さも二尺[やぶちゃん注:六十・六センチ。]あるべし、其末切れ居(をり)たり。毛兀(は)げ皮古びて、恐ろしきさまなり。近所の猫を集めて取らしむるに、いかなる猫にても、一度見ると逸足(いちあし)出して迯去(にげさ)る。只毒氣を恐るゝ如し。

「是は不思議」

と場中(ばなか)[やぶちゃん注:大勢の人が集まっているところ。]にさらし置きて、是を喰ふ猫もあるかと、普(あまね)く隣々村々の猫を集むるに、輙(たやす)く傍(かたはら)へ進む猫もなし。

 然るに靑雲の間より鳶(とび)下りて、一摑みに引(ひつ)さげ去る。曾て心とせざる躰(てい)なり。扨(さて)枝上にありてむしり喰ふ。他の鳶も又餘肉を得て爭ひ喰ふこと、常の鼠の如くして更に怪しむ躰(てい)なし。

 扨は其好惡さまざまありて、道違へば少しも功威(こうい)なきこと眞然たり。

 是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし。尤も深く考へあるべきことにや。

 其後(そののち)にも此塚中程に剛鼠(がうそ)あり、躰(すがた)折々見ゆ。

「久しく猫を取りし鼠は、此塚なりけり」

と知らるゝなり。

 世の變易斯く迄に及ぶ。分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり。

[やぶちゃん注:「𪕐(てん)」漢字の意味不明。大修館書店「廣漢和辭典」にも載らず、ネット上の中文サイトでも意味を附記せず、それどころか音不詳とさえあった。ここで読みは「近世奇談全集」に拠った。「てん」は「貂」でネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus のことであろう。本邦のそれは日本固有種である。但し、テン属自体は北アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本と広く分布はする。

「分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり」「鼠の肝」というのは「虫臂鼠肝(ちゅうひそかん)」のことで、「虫臂」は「虫の肘(ひじ)」で、「鼠肝」は「鼠の肝(きも)」で「取るに足らないこと・くだらないこと」或いは「物事の変化は人間には予想することが難しいということ」の喩えであるから、猫だけを愛玩する嗜好や、人の僅かな好悪は所詮、他者には理解出来ないものだということか。にしても、「是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし」という糞のような教訓を最後に置きたがるこの晩年の麦水は、最早、奇談を純粋に怪奇なる話としてそのまま味わうという素直な気持ちがかなり薄れてしまっているような気がしてならない。……いやさ、後、一話で、「三州奇談」は、終わるのだが……。]

三州奇談續編卷之八 蛇氣の靈妖

 

    蛇氣の靈妖

 龍の上るといふを望めば、雲中ゆたかに下りたる物あり。大小長短時として異なり。紅毛人は

「水柱なり」

と云ひて、

「『佛狼機(イシビヤ)』を發して打倒せば、降りかゝりたる空も晴天に直る」

と云ふ。「生物にあらず」と云ふ說もあり。然れども是必ず龍氣なること眞然たり。滑川水橋の邊りは、時として數疋登る。誰彼是を望むことなり。實(げ)にもあたりの風荒きには似ず。甚だ鈍き物なり。折には雲を呼ぶに遲き時やありけん、頭を跡へ下(おろ)す時あり。爰に於ては顯(あら)はに見ゆるとなり。細く四角にして髭あり。繪に書く雨龍(あまりやう)と云ふものに似り。或は橫にも落つ。

「甚だぬるきものなり」

と、人々證を立てゝ咄せし。

「雲も波もすさまじく上る物なり」

と云ふ。扨は龍なることは決せり。上る時初めは蛇なりとぞ。

[やぶちゃん注:本格的な巨大な竜巻から時に見かける旋毛風(つむじかぜ)或いは雲の形の変形するのを擬えて誤認したものと採れる。

「佛狼機(イシビヤ)」「石火矢」「石火箭」で、原義は石・鉄・鉛などを飛ばして城攻めに用いた兵器を指すが、ここは「紅毛人」の言うとあるから、近世初期に西洋から伝来した大砲のことである。

「滑川水橋」既出の現在の富山湾沿岸の富山市水橋町(グーグル・マップ・データ)であろう。東で僅かに滑川に接する。

「雨龍」龍の一種螭龍(ちりゅう)を指すともされ、雨乞いの対象となったり、家紋となったりしている。グーグル画像検索「雨龍」をリンクさせておく。]

 

 安永八年三月の頃、這槻川(はひつきがは)の際(きは)に川越(かはごえ)を以て世を渡る忠右衞と云ふ者ありき。兄は三ケ村(さんがむら)の長右衞門と云ふ、[やぶちゃん注:読点はママ。]此長右衞門の門(かど)に大松ありき。先年願ひて是を伐る。此根蟠(わだかま)りて大きくありしを、頃日(けいじつ)此根を掘廻しけるに、最早引越(ひきこさ)さん[やぶちゃん注:引き抜こう。]とする時、松の根の底に蛇あり。三尺許と見ゆ。常の蛇とは見えながら、何となく怖ろし。手傳ひの人長右衞門に向ひ、

「何とやら此蛇は主らしき顏つきに候まゝ、又土を掛けて埋(うづ)むべし」

なんど云ふを、長右衞門聞かず。

「かゝることは打捨つるに若かず」

とて、杖を入れてはね出(いだ)す。

 初めは動く如く、後(のち)には重うして出難(いでがた)し。漸く十人許り寄り、鐡捧など入れて刎出(はねいだ)したるに、土の上へ出せば五六尺ばかりの蛇となる。則ち是をろばし[やぶちゃん注:転がして。]、濱表へ捨てたるに、水に入ると其儘眞直(まつすぐ)に立ちて、長右衞門を追かくる。凡そ一丈餘の丈(たけ)に見ゆ。長右衞門逸足(いちあし)出して逃げゝるに、幸ひ川越忠右衞門家は側(かたは)らに掘切あれば、橫に飛び堅に走りて家に駈入るに、蛇は只直ぐに馳せ過ぎ、又掘出したる松の根に入りしとも云ふ。又何國(いづこ)へや行けん見えず。

 是より長右衞門煩(わづろ)うて人心地なし。

 魚津の法華山長慶寺は旦那寺と云ひ、に名高きことなれぱ、人を遣はし此趣を申して賴みけるに、

「是は蛇氣のかゝれるものなり。必ず物に狂ふことあるものぞ。用心せよ」

と申越(まうしこ)す。

 實(げ)にも其如く、其夜より長右衞門亂心の躰(てい)となり、橫に倒れて這廻る。又大(おほい)なる石を寢ながら打返す。凡(およそ)十人許の力を寄せたるが如し。

 弟忠右衞門甚だ驚き、大勢を賴みて縛りからげて家の柱につなぎ置く。されども業(げふ)[やぶちゃん注:それぞれの仕事。]あれば皆々外へ出る其跡へ、近付きの馬士(ばし)[やぶちゃん注:馬子(まご)。]寄りしに、人は居らず、長右衞門縛られてありしかば、

「是は如何に」

と問ふ。長右衞門云ふ。

「我れ弟に縛られたり、この縛り解きてくれよ」

と賴む。馬士いぶかりければ、

「さらばそこに生ひたる草を一つかみ我が口ヘ入れてくれ」

と云ふ。馬士不便(ふびん)に思ひ、指圖の草を與へければ、暫くして繩を

「ぶつぶつ」

押切りて、手を打振り立出づる。

 馬士驚き、駈け行きて弟忠右衞門に語る。忠右衞門大に驚き、

「夫(それ)にては定めて往來の人の障りを仕出(しいだ)さん」

と、馬士を初め近鄕の人三四十人をやとひかけ返り見れば、長右衞門は大童(おほわらは)になり、あたるを幸ひに石礫(いちづぶて)を打ち、往來の人々通ることを得ず。

 忠右衞門氣の毒がり、馬士に恨(うらみ)を云ふ程に、馬士連(れん)は是非なく押かゝり、大勢にて捕へしが、力市ばい手強(てごは)く當り打伏せし故にや、縛り置くうちに其夜長右衞門は死したり。

 是に依りて只今騷動にならんやと詮議最中なり。然れども蛇のつきたるには證據多けれぱ、下にて濟むべき沙汰なり。

[やぶちゃん注:蛇が特殊な草を食って威力を示すというのは、各地の伝承にあり、メジャーなものでは上方落語の古典「蛇含草(じゃがんそう)」、それを江戸落語でインスパイアした「そば清」(「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」とも)が知られる。但し、それは消化効果のある草である。

「安永八年」一七七八年。堀麦水は天明三(一七八三)年没であるから、後の「頃日」(近頃)の用字が腑に落ちる。

「這槻川(はひつきがは)」前にも出てきたが、私は上市川の異名か、当時の分流のようには私は読めるように感じている。上市川の河口付近の左岸が前段に出た水橋地区に近い(一部は接している)からでもある。なお、後のロケーションからは「忠右衞」の家は下流の河口付近にあったと私には読める。【2020年7月27日追記】何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。「這槻川」は「万葉集」巻第十七巻の四〇二四番の大伴家持の一首、

  新川郡の延槻河(はひつきがは)を渡りし時に作れる歌一首

 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の

    川の渡瀨(わたりぜ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

で「延槻河(川)」 は現在の早月川であるとされ、「大日本地誌大系」第二十八巻「三州地理誌稿」(昭和六(一九三一)年蘆田伊人編・富田景周著)に(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)、

早月川【萬葉集】作延槻川、其源小又北又之二水出立山麓、西北數十町至折戶村、北轉小早川自東入焉、右升方村、左大島新村、而達于海

とあるとのことであった。私も「早月川」と音が酷似することが気になっていたが、前の「水橋」との地理上の位置に拘り過ぎた。]


   *

「川越」人馬や物資を川渡しする生業であろう。

「三ケ村」不詳。近い地名で中新川郡上市町三日市がある。「今昔マップ」を見ると、現在の上市町の上市川左岸の現在よりももっと広い地域を「三日市」と呼んでいたことが判る。但し、ここから上市川河口(海岸)までは六キロ弱はあり、蛇を転がして行くには長過ぎるので違う。もっと河口近くになくてはおかしいが、見当たらない。【2020年7月27日削除・追記】前記のT氏より、現在の富山県魚津市三ケ(さんが)であるとの御指摘を頂戴した。ここである。注意されたいのは、片貝川の内陸山岳部と、早月川の河口右岸という約九キロメートル以上も離れた飛び地を持つことである。こうした現象は山間部が専ら河川運送に頼り、周囲と隔絶したケースでまま見られる(和歌山県飛び地がその最も良い例である)。ただ、片貝川と早月川は丘陵を隔てて六キロ以上離れおり、実際に如何なる理由でこの飛び地が形成されているのかは、厳密には判らない。しかし、この早月川右岸の「三ケ」地区がこの話柄の場所と考えると、蛇を転がすというシーンが腑に落ちる。さすれば、忠右衛門は現在の早月川河口右岸で早月川の渡し業を営んでいたと理解出来る。いつも乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「三尺許」(九十一センチ)が「土の上へ出せば五六尺」(約一・五二~一・八二メートル)というのは、最初は蜷局(とぐろ)を巻いていたために誤認したのである。

「一丈餘」三メートル越え。

「法華山長慶寺」不詳。現在の魚津にはこの寺はない。富山県内にもこの山号を持つ長慶寺はない(但し、長慶寺は富山市にはある)。]

 

 されば蛇の變はさまざまに聞ゆ。

 富山の金草山と云ふは、片貝谷の上なり。然るに滑川の木樵の人到りしに、八九尺許なる蛇の逃げ走る躰(てい)を見る。

『如何に』

と思ふに。暫くして猿とや云はん、狒々(ひひ)とやせん、三尺許の人躰(ひとてい)のもの、續きて追掛け行く。樵者(きこり)其跡を見るに、早うして風の如し。家に歸りて人に問ふに、

「夫は『狒々王』と云ふものなり。能く蛇を喰ふ」

と云ふ。

 又同じ片貝谷にて蛇の追ひし獸あり。猫か鼬(いたち)かと覺ゆ。追詰められて松の穴へ入り、空へ逃げて梢より飛ぶ所を、樵夫(きこり)鍬(くわ)にて打殺しけるに、匂ひ堪へ難く、着物にもいつ迄か其香殘りしと云ふ。其香を問へば

「反魂丹(はんごんたん)の匂ひなり」

と云ふ。山人なれば外の香を知らで斯く云ふにや。

「麝香(じやかう)の屬(たぐ)ひならん」

と人々惜(をし)む。

 されば越中の東は信・飛に接すれば、獸蛇(じうだ)の異甚だ多くして筆にあまれり。

[やぶちゃん注:「金草山」不詳。但し、「片貝谷」は片貝川のこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、非常に広域である)であるから、その何れかのピークではあろう。

「狒々」ここは実見した対象は大型の猿の謂いととっておいてよかろう。妖怪のそれにしては、やや小さめだからである。

「狒々王」ここはもう妖獣としてのそれである。ウィキの「狒々」によれば、『日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう』。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという』。『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。『また同書では』、天和三(一六八三)年に越後国で、正徳四(一七一四)年には『伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長』四尺八寸、後者は七尺八寸あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき』、『源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』(以上の話は「三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼」にも出ている。「肯搆泉達録」は越中通史の先駆けとなった記録で、文化一二(一八一五)年)の完成。富山藩御前物書役野崎伝助の書いた「喚起泉達録」を孫で藩校広徳館の学正を勤めた野崎雅明が書き継いだもの。当該原本の話は明二五(一八九二)年の活字本があり、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める)。『もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている』。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈』(三・〇三メートル)『あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「狒狒」も是非、参照されたい。

「能く蛇を喰ふ」好んで食うとは思われないが、ニホンザルは雑食性で動物の肉も食う。

「反魂丹」一般には「越中富山の反魂丹」で知られる、胃痛・腹痛などに効能がある丸薬。本邦の中世よりの家庭用医薬品として知られる。ウィキの「反魂丹」によれば、元々、『「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)』。『室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は』第三『代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし』、第八『代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った』。『越中富山藩』第二代藩主『前田正甫』(まさとし)『が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫』が、天和三(1683)年にその万代家第十一代目の『万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した』という。元禄三(一六九〇)年のこと、『江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった』とある。『江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他』二十『数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられ』、『一例は以下のようなものである』として、『龍脳、牽牛子、枳実、枳殻、胡黄連、丁子(丁香)、木香、黄芩、連翹、黄連、縮砂、乳香、陳皮、青皮、大黄、鶴虱、三稜、甘草、赤小豆、蕎麦、小麦、麝香、熊香、白丁香、雄黄、辰砂』を挙げてある。私は所謂、鼻を撲(う)つ感じの薬臭い外郎(ういろう)臭のことを言っているものと思う。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう)(ジャコウジカ)」の注を読まれたい。

「信・飛」信濃・飛驒。越後を外さんといてぇな!]

2020/07/26

三州奇談續編卷之八 山王の愛兒

 

    山王の愛兒

 滑川西口瀨羽(せは)町と云ふに、山王の神社あり。祭禮には神輿出で、人崇め、神靈あること限りなし。目のあたり神靈種々を見る、算(かぞ)へ盡すべからず。

[やぶちゃん注:「滑川西口瀨羽町」現在の滑川市瀬羽町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は、宿場や物資の集産地としての宿方と、漁業や物資の船積みの浦方に分かれており、北陸街道沿いに西から東へとメイン・ストリートが形成されて非常に栄えていたという。

「山王の神社」滑川市加島町にある加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)の江戸時代の呼称。創建は不詳。古くは社域も広大で社家・社僧が奉祀した大社であったとされる。先に出た同じ滑川の櫟原(いちはら)神社(ここ。滑川市神明町)を「東の宮」と呼称するのに対して、当社を「西の宮」と通称する。国司として越中に赴任した大友家持も度々当社に参詣し、源義経が奥州へ下る際には武運を祈願して拝殿に沓を残したという。江戸時代も山王社と称して前田家の崇敬も篤く、幣帛・諸器物などの寄進を受けている。]

 

 然るに明和七年六月廿九日と七月朔日の兩夜、不思議の神燈ありき。此社は拜殿の奧に障子あり。此外は石階にして、六尺許去りて本殿の階ヘ上る。然るに夜五時頃に至り、朗(ほがら)かなる灯火ありて、障子の内にかくる立合せの二間(にけん)前なる所に、三角に照り輝く。拜殿中の備へ物。高麗狗(こまいぬ)甚だ明かに見え、繪馬も見分くベき程なり。夜九つ頃に灯沈みて見えず。如斯(かくのごとき)の事兩夜なり。

[やぶちゃん注:「明和七年六月廿九日と七月朔日」この記載は或いは麦水の記載ミスかも知れない。何故なら、この年は六月が閏月で閏六月があるからで、普通は閏を外しては表現しないからである。但し、閏が落ちただけだとすると、怪異出来が連続した二日に亙って発生したことになって話としては腑への落ち具合がすっきりする。明和七年閏六月は小の月で二十九日で終わり、翌日が七月一日だからである。明和七年閏六月二十九日はグレゴリオ暦一七七〇年八月二十日で、同七月一日は八月二十一日に相当する。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「夜九つ」午前零時。]

 

 諸人怪しみ、

「此火は何なるぞ」

と打擧(うちこぞ)り見る。役人某なる人來り窺ひ、若しくは

「隣家の灯火の漏れ來(きた)るにや」

と、近隣を制し火を消さしむるに、灯明(とうみやう)變ること更になし。

 火は西の方より來りかゝり、暫くして下へ引入り消ゆ。初めは竹の子の如く四五寸許なり。暫くして二三寸許となり、一時許にして一寸許となり、將棊(しやうぎ)の駒の如くになれば、下ヘ落ちてなし。又暫くして西の方よりかゝり來ること前の如し。

 此役人なる人怪みて後ろへ廻(まは)り窺ふに、闇(くら)うして火光(くわくわう)なし。前に廻れば又本(もと)の如く、障子に移りて明らかにかゝれり。

 二夜にして近隣神靈を恐れ、又火災を恐れて、櫟原(いちはら)の神主吉尾(よしを)氏を招じて、幣(ぬさ)を捧げて神樂(かぐら)を奏す。爰に納受ありけん、火消えて再び出でず。

 神主も役人も予が親友なれば、悉く聞けり。此靈火何と云ふ事を知らず。尤も此通は鬼火多し。眼目山立川寺(がんもくざんりゆうせんじ)へは龍女が献ずる灯、必ず七月の間に、此邊(このあたり)加茂川を上る。

[やぶちゃん注:プラズマや雷球ではこのようにはなるまい。しかも二日続けてである。されば、この怪火現象は私には説明がつかない。

「吉尾氏」不詳。

「眼目山立川寺」富山県中新川郡上市町眼目にある曹洞宗の名刹

「加茂川」富山県魚津市を流れる鴨川(地図中央を西に流れる川。別名「神明川」、古くは河口付近では「鬼江川(おんねがわ)」とも呼ばれていた)があるが、立川寺と位置が全く合わない。同寺直近を下るのは上市川であるから、その誤りではなろうか?]

 

 又近き頃蓬澤(よもぎざは)と云ふ所に、山缺(か)けたりしに、缺口(かけぐち)に夜々火光あり。光り二三十步を照すべし。每夜の事なれば、見に集(あつま)る人多し。奉行所へ聞えなぱ里の費(つひ)へならんと、里民談じて夜中火光の所へ印しに竹をさし置き、翌日に至りて掘出(ほりいだ)し見るに、三尺計なる丸き石なり。靑紫にして斑紋あり。火光の出づべき樣(やう)なし。打破りて捨て、後再ぴ火光なしと聞えし。

[やぶちゃん注:「蓬澤」中新川郡上市町蓬沢であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「奉行所へ聞えなぱ里の費へならん」このような山間部の不審火は大きな山火事となる可能性が頗る高いから、当然、早急に藩に届け出なくてはならない。しかし、そうすれば、以前に述べた通り、大変な手間(常時監視と現場保全)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。なお、この怪光(石)現象は私は原因を想起出来ない。所謂、地殻内の圧力によるプラズマ発生ともされる地震光かとも考えたが、ここでは実際にその光が二、三十歩を照らすほどの明るさであるというのはそれと附合しないと思う。識者の御教授を乞う。]

 

 されば

「此等の内にや」

と、色々宮殿の火をためすに、中々さにも非ず。火の色は黃にして常の灯なり。靑き妖火の類(たぐひ)とは見えず。只神靈の然らしむることゝ覺ゆ。此神の靈は度々(たびたび)にして常の如し。堂再建の時も、近所の老人の枕上に立ちて、再興を乞ひ給ふこと幾人もありし。夢裡(ゆめうち)の裝束(さうぞく)かたり合ひて見るに、皆同じ事なり。再興終りて拜殿の屋根をこけらに葺(ふ)く。然るに誤ちて屋根より落つる大工ありし。然るに恙なし。屋根より落ちなば、本殿の石の階(きざはし)に打たれて甚だ痛むべきなるに、此大工落ちたる時、下に赤衣(しやくえ)の袴着て烏帽子(えぼし)召したる人出で、抱きて社殿の内に入れらるゝと覺ゆ。故に痛まず。何ぞ屋根より落つるとて、四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も違ふ拜殿の中へ臥するの理(ことわり)あらん。眞に冥慮とぞ見えし。【大工には非ず、手傳(てつだひ)の息子なり。越前屋惣五郞と云ふ者の子なり。】故に大工の親一跡(いつせき)を賣りて、御戶帳(みとちやう)を拵へ、其日に寄進すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:この割注は注目すべきところで、父の手伝いにきたうら若い青年或いはちょっと年嵩の少年(父の正式な弟子になっていないから若いと考えるべき)なのである。本話の以下の神霊の愛童の性質の本筋と繋がるのである。

「越前屋惣五郞」不詳。

「一跡」後継ぎに譲るべき全財産。身代。まあ、ここは、その時に実際に持っていた金を総て、といった謂いであろう。

「御戶帳」「御斗帳」とも書く。仏像などを安置する厨子などの上に懸ける覆い。金襴・錦など美しい高級な布で作られる物が多い。斗(ます)を伏せたような形をしていることからかく呼ぶ。]

 

 又其後漁人の夢に告げて、

「鮹(たこ)の頭を備ヘよ」

となり。其頃鮹來(きた)ることなし。然れども告げに任せ、鰯網(いはしあみ)をかへて鮹網を入るゝに、大(おほい)に鮹を得たり。

 早速此頭(あたま)に米を添へて献供(けんぐ)すと聞ゆ。

 安永の頃も、神輿又一つ新しく出來(しゆつたい)せしに、此人足(にんそく)の内に親(おや)死して十日許なる者交(まぢは)り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大(おほい)に疵(きず)付きしことあり。靈罰も又いちじるし。

 小兒を愛し給ふこと、諸社にすぐれて甚し。不思議にも小兒集り、此拜殿を荒し遊ぶこと、いかなる雨風(あめかぜ)の日といへども絕えず。雪二三丈に及ぶ日も、小兒二三人は必ず來り遊ぶなり。然して戶の鍵をはづし、神供をあらす。然れども是を叱れば、叱る人に祟りて、小兒には咎めなし。故に役人なる人は格別、下僕などは小兒を追ふことならず。只大いに一威を恐る。一年(ひととせ)小兒御神躰を盜み出(いだ)し、大皷(たいこ)をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る。近隣の人大いに恐れ、小兒を叱り御神躰を本(もと)の所へ納む。其夜の夢に、

「汝等いかなれば構ふこと斯(かく)の如きぞや。神慮終日小兒と遊びて樂(たのし)むに、汝が爲に興(きよう)盡きたり。然れども是本(も)と神忠に出づ、故に祟りをなさず。重ねて如斯(かくのごとき)の事あらぱ大(おほい)に罰せん」

とありし。小兒へは一向咎(とがめ)なし。御本躰の失ひたるも多し。小兒の業(わざ)なる時は咎めなし。御本躰は一尺許の木像なり。【一說に、弘法大師作正觀音(しやうくわんのん)共(とも)云ふ。然れ共衣冠正しく見ゆ。神躰實(じつ)なり。】初めは二十一躰ありしよし。今は八躰ならではなし。然れども賞罰同じ事なり。

 此(この)靈威にして此和柔(なごやか)なるの理(ことわり)計り難し。實(げ)に小兒を好き給ふと見ゆ。布袋和尙は川渡りにもあたまをいたゞき、地藏菩薩は賽(さい)の河原に石積みて鬼に詑び給ふも、慈悲計りにはあらじ。元來天性(てんせい)小兒好きより事發(おこ)ると覺ゆ。

 菅相丞(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末(すゑ)通らば人程有難きものはあらじ」

と宣ひ、貞德法師はふり袖着て交り、長頭丸(ちやうづまる)の童(わら)べ好(ず)き聞えし。

 然るに儒者先生殿のみ小兒の遊びを叱り廻(まは)し、作り馴れたる澁面(じふめん)にかたいぢなるを仕似(しに)せとす。是れ此門の「店(たな)の出しそこなひ」にて、不はやり思ひ知らるゝなり。只々此神の和光、人近き咄(はな)しを聞くに付けて、尊(たつと)さ優(まさ)りし心地して、予が唐好(からずき)の癖も、少しは薄らぎ覺えしも又神思(しんし)にや。

[やぶちゃん注:「備へよ」はママ。「供へよ」。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「親死して十日許なる者交り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大に疵付きしことあり。靈罰も又いちじるし」ここは単に死穢を嫌ったもの。

「一年小兒御神躰を盜み出し、大皷をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る」底本は「大皷をたゝきつれ、」であるが、どうもおかしいのでかく読点を特異的に挿入した。「つれ」はその悪童の「連れ」の意で採ったのである。一貫して小児は複数形ではないが、複数でやったほが賑やかでよいではないか。太鼓を担うのも杖で二人の方が叩き易かろう。

「神躰實(じつ)なり」二行割注のため、よく見えない。「寳」のように見える。但し、「近世奇談全集」は『實』であり、神体が宝なのは当たり前だから、ここは御神体が鏡などのシンボルではなく、実際の像であることを言っていると採った。

「布袋和尚は川渡りにもあたまをいたゞき」よく意味が判らぬ。子どもらを面白がらせるために蛸坊主のようにしてという意味か。伝説の仏僧布袋和尚(唐末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされ、本邦では専ら七福神の一人として知られる)は、沢山の子ども(十八人とも)を引き連れていたと言われており、小難しい説法をせず、笑顔で子どもたちと遊んだとも伝えるので、ここに例として出すのは腑には落ちはする。

「菅相丞」菅原道真。(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末通らば人程有難きものはあらじ」出典未詳。

「貞德法師」江戸前期の俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳。彼は別号にここに出る「長頭丸(ちょうずまる)」や保童坊があり、子供好きであったとされる。

「仕似(しに)せとす」必ずそれをトレード・マークとする。

「此門」儒家。

「店の出しそこなひ」当然あるべき態度としては誤った行為であること。

「不はやり」「不流行(ふばや)り」か。「評判が悪い悪しき姿勢」であることを言うのであろう。只々

「和光」「和光同塵」の略。元は「老子」の第四章にある「和其光、同其塵」からで、「光をやわらげて塵(ちり)に交わる」の意にして、「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間と普通に交わること」を言う。仏語に転じて、仏・菩薩 が本来の威光を和らげ、塵に穢(けが)れた現世に仮の身を現わし、衆生を救うことをも指す。

「人近き」民に親しむ。

「予が唐好(からずき)の癖」麦水は和学より漢文学がお好き。

「神思」本邦の神の御心を無意識のうちに受けた精神の在り様(よう)。 ]

 

三州奇談續編卷之八 妙年の河伯

 

    妙年の河伯

 新川郡(にひかはのこほり)滑川(なめりかは)は大鄕にして、其稱する滑川を知らず。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」

と是を尋ぬるに、滑川は古名にて、元來川あり。今は海入り來て、其水源なる中河原村の小淸水に近し。纔(わづ)かに湧出づる水なり。昔は「小濱松」と云ひしより寺家(じけい)・神家(じんけ)と川を隔(へだ)て、兩側ありしよし。今は町名に殘れり。濱表は伏木と云ふ。伏鬼千軒の號殘れり。賑はしき湊のよし。

「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」

とにや。今の地は辰尾にして、小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ。町の東に櫟原(いちはら)の神社あり。式内の神なり。辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや。是等の號皆々變じて、小名(こな)の滑川を總名となすも又因緣と覺ゆ。西に「水橋の渡り」あり。是は常願寺川の末(すゑ)にして甚だ深く、水所々より落合ふといへども、「あまが瀨」と云ふ渡りあり。義經奧州下りの頃、畑等(ハタケラ)右衞門尉といふもの、此渡り瀨を敎へしとて、今に畑等淸兵衞とて百姓の中に其後孫あり。今も飛脚など、此家に渡りを習ひて打渡り、舟の隙入(ひまいり)を免かるゝとかや。世には飛鳥(あすか)の川もあるに、數百年の今日迄淵・瀨替らざるも又妙なり。扨は水中靈あること怪しむに足らんや。湘靈鼓瑟(こひつ)の事を聞けば、舜(しゆん)の二女(にぢよ)猶水底に瑟を鳴らせるとかや。左(さ)もあるべし。越中は大川多き所なり。俗諺あり。折々は深淵に鈴の音(ね)あり、小兒の踊る時に袂に鈴ありて鳴るに似たること多し。究むべき道もあらねば、誰(たれ)見とむる者もなし。

[やぶちゃん注:標題は「みやうねんのかはく(みょうねんのかはく)」と読んでおく。「妙年」は「妙齢」と使う如く、「妙」は「若い」の意で「若い年頃」。先例に徴して「かはく」と読んだが、「近世奇談全集」の本文ルビは『かつぱ』である。しかし、以下の叙述は明らかに中国起原の記載となっているので、従わなかった。河伯は本来は中国の河川に棲息する異獣で、本邦の河童とは形態の一部がやや類似してはいるものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物であって河童とは異なる。河童はあくまで日本固有の妖怪である。

「新川郡滑川」現在の富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「其稱する滑川を知らず」「今、この地に滑川という川は存在しない」の意。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」鎌倉後期の武士青砥藤綱。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川」及びそこにもリンクさせた私の「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」を読まれたい。麦水がかく言ったのは、その有名な錢探しのエピソードが鎌倉の滑川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることに拠る。現在の鎌倉市浄明寺のここに「青砥藤綱邸舊蹟碑」があり、エピソードのロケーションとされる「青砥橋」があるが、実際のロケーションはずっと下流の現在の「東勝寺橋」附近ともされる。しかし、実はこの人物自身、実在が疑わしい。

「其水源なる」「なる」は存在を意味する用法で「というのは」の謂い。

「中河原村の小淸水」不詳。位置的に見ると、滑川市清水町が相応しいか。

「小濱松」不詳。

「寺家(じけい)」滑川市寺家町(じけいまち)。読みは現在の行政地名に従った。

「神家(じんか)」滑川市神家町(じんかまち)。同前。

「川」早月川水系と思われる。

「濱表は伏木と云ふ」不詳。現存しない。「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」と後に出るから、高岡市伏木へと移転したというのか? こんな話は伏木に六年いたが、聴いたことがない。ともかくも滑川の「伏木」の地名は早い時期に消失してしまったものと見える。しかし、この辺り、記載の意味がよく判らない。

「伏鬼千軒」不詳。

「賑はしき湊のよし」滑川漁港のことか。

「辰尾」富山市辰尾があるが、「小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ」『辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや』もどこを指し、叙述で何を意味したいかがよく判らぬ。

「櫟原(いちはら)の神社」ここ(滑川市神明町)。現在の呼称でルビした。「近世奇談全集」では『いちゐばら』とルビする。創建は大宝元(七〇一)年とも、また、人皇第十三代成務天皇の御宇の勧請で、文武天皇大宝年間の再興とも言う。ともかくも往時は相当な大社であったらしい。

「式内の神なり」「延喜式」の「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載がある。

「小名(こな)」村や町を小分けした小字 (こあざ) のこと。しかし、ここも何故、小字を「滑川」と称したかが、明らかとなっていない。それが分からなかったことが麦水をしてこのよく判らない叙述となってしまったような気もする。

「水橋の渡り」富山市水橋町。常願寺川の河口の近く(東)で滑川市に東方部分が僅かに接している。

『「あまが瀨」と云ふ渡り』「富山市立水橋西部小学校」公式サイトの校長の談話の中に、自校の生徒を『天瀬っ子』と呼んでいるのを見つけた。場所は不明。

「畑等(ハタケラ)右衞門尉」富山市水橋畠等(みずはしはたけら)という地名を見出せた。しかも、これを調べるうちに、内藤浩誉氏の論文「川を渡る静御前」PDF)を発見、そこで詳細を尽くして、ここの義経伝説が載る。是非、読まれたいが、それによれば、常願寺川を古くは海士瀬川と呼んだとある。流域は恐らく変化していると思われるが、「あまが瀨」という水深の浅いそれは原常願寺川にあったものと判った。

「習ひて」場所を教えて貰って。

「隙入(ひまいり)」手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。

「飛鳥の川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、「明日香川」とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた(ウィキの「飛鳥川(奈良県)」に拠る)。ここ

「湘靈鼓瑟」「湘靈 瑟を鼓(こ)す」で「楚辞」の屈原作と伝える「遠遊」の一句(第八段の中)の「使湘靈鼓瑟」(湘靈(しやうれい)をして瑟(しつ)を鼓(こ)せしめ)。「湘水の神である湘君に大型の琴(二十五弦の琴)を弾かせる」の意。湘君は楚の民の信仰の厚かった洞庭湖一帯の水神。以下にある通り、伝説によれば、伝説の聖王堯(ぎょう)の二人の娘であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)は、堯を継いだ舜が、悪神三苗(さんびょう)を征伐するために、沅・湘(洞庭湖の南方一帯)の辺りに至った際、そこの蒼梧(そうご)の地で崩じたと聴いて、悲しんで自ら入水して水神となつたとされる。ここはその詩によれば、祝融(南方の火の神)が彼女たちにその水底で瑟を弾かせた、というのである。原文でよければ、「維基文庫」のこちらに全文がある。]

 

 然るに安永四年八月の事なりし。滑川の南有金(ありかね)村の傍(かたはら)に今井川と云ふあり。是(これ)這槻川(はひつきがは)の枝川(しせん/えだがは)なり。高月村專福寺は弓の庄(しやう)柿澤(かきざは)の圓光寺の二男なり。早朝用事ありて柿澤より專福寺へ歸ることありしが、此今井川に臨む。

 朝六半時(むつはんどき)頃の事なり。川に來りて向ひを見れば、岸に一人の小女(こをんな)ありて顏を見合(みあは)す。其顏色白きこと雲の如く、光ありて甚だ美麗、只(ただ)雛の如し。長(た)け二尺餘り。髮のかざりは常の如く、簪(かんざし)をはさむ。ゆるく步みて立てり。衣服を見るに五彩ありて見事なり。人間(じんかん)中の織物とは見えず。兩脚甚だ露(あら)はれ、着物は腰の廻(まは)りと覺ゆ。白き膝あらはに出でたり。手元・袖口のあたり網の如き物下り居(をり)て、手も又甚だ白し。人間(にんげん)に相異(あひことな)ることなく、只甚だ低し。

 專福寺と顏を見合すこと度々なり。笑(ゑみ)を含めるけしきにも覺ゆ。

 依りて專福寺總身汗出で、戰慄止(と)め難し。

 暫くして岸を來る商人(あきんど)二・三人連(づれ)なるものあり。

 此妖物(えうぶつ)人音(ひとおと)を忌みけん、暫く川緣(かはふち)によるよと見えしが、楊株(やなぎかぶ)の間(あひだ)より水に入るに、音もなく消ゆるに似て、又再び見えず。

 專福寺は暫く立去りかねしが、漸(やうや)く迎(むかへ)を待ちて、川を渡り過ぎて寺に歸る。

 下人顏色の異(い)なるに驚き、色々藥を調(ととの)へ養生をなさしむ。

 數日(すじつ)にして本復に至るとなり。

 是れを櫟原(いちはら)の神主(かんぬし)なる人に尋ねしに、答へて、

「是は必ず河伯(かはく)ならん」

となり。

 いろいろ聞き合(あは)するに、良々(やや)河伯に決定(けつじやう)す。

 思ふに是(これ)河伯水靈の類(たぐひ)にしては、甚だ幼童なるものと覺ゆ。

 湘靈の瑟を鼓するを思へば、是等は小女(こをんな)にして踊り遊ぶらんも計るべからず。

 扨は淵底やゝもすれば鈴音を聞きしも、若しや是等の河伯遊びむれて唄ふ折(をり)ならんか。

 郡(こほり)の名の新川(にひかは)に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理(ことは)りと云はんか。

[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。

「有金(ありかね)村」滑川市有金

「今井川」不詳。有金は上市川の右岸であるが、同地区を少なくとも四つの細い川が現認出来る。或いはこれらの孰れかかも知れない。後の「這槻川の枝川なり」の「這槻川」が上市川のようには読めるように感ずる。

「高月村」滑川市高月町。上市川の河口右岸。

「專福寺」文脈上は人の名であるが、以下で「專福寺へ歸ることありし」とあるから、やはり寺の名である。因みに、富山市内には専福寺という同名の浄土真宗の寺が二ヶ寺、存在する。一つは富山市南田町に、今一つは富山市米田にある。孰れかは不詳。

「弓の庄柿澤の圓光寺」富山県中新川郡上市町柿沢にある浄土真宗大悟山円光寺

の二男なり。早朝用事ありて柿澤よりが、此今井川に臨む。

「朝六半時頃」午前七時頃。

「下人」専福寺の寺男。

「良々(やや)」ほぼ。概ね。(よくよく)河伯に決定す。

「郡の名の新川に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理りと云はんか」私が馬鹿なのか、ちっとも理屈に合っているとは思われない、というか、どこが符合するというのかも判らぬ。]

2020/07/25

三州奇談續編卷之八 唐島の異觀

 

    唐島の異觀

 氷見の唐島は、萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ。事多ければ略す。地は氷見の川口を離(はな)るゝ事十二町[やぶちゃん注:一キロ三〇九メートル。]、海中に孤立せり。遠望愛すべく、島に上(あが)りて又驚くに堪へたり。凡(およそ)竹生島(ちくぶしま)・江の島に類(たぐひ)す。元(も)と坤輪(こんりん)より岩を疊みて涌出(ゆうしゆつ)せる物なれば、風景豈(あに)俗物ならんや。大躰は前段に記す如く、遠くは佐渡を望み、近くは能越の嶺嶽累々と廻(めぐ)らし、海深く、蒼濱白砂(さうひんはくさ)、舟の行違(ゆきちが)ふものは浪に敷くに似たり。既に渡舟(わたしぶね)岸に至れば、石を飛び岩を這ひて上る。坂中(さかなか)鳥居あり。大巖(おほいは)には必ず六道能化(のうげ)の兄息子を彫む。本堂は辨財天、三間四面許(ばかり)莊嚴(しやうごん)せり。四方欄干の緣を廻る。大凡(おほよそ)堂景備前の島「あぶとの觀音」に類(るゐ)す。爰も向うの海中の飛島(とびしま)を「あぶが崎」と云ふ。能州にも「あぶや」の號あり。思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ。扨(さて)堂の後ろの下り坂、岩をくぐり石に迫りて、刀頭(たちがしら)に蟹這ひ履下(りか)に蜷(にな)を踏む。甚だ江の島の奧の院金龜山(きんきさん)より「兒(ちご)が淵(ふち)」に下る邊(あたり)に似たり。「胎内くぐり」と云ふ岩を出で、波かゝる平岩に飛移れば、此岩橫に臥すこと二十丈許、又一路あるに似て銀漢にや續くらんと疑はる。此岩の五六町[やぶちゃん注:五四六~六五四メートル半。]波路を隔て「牛島」あり。又「机が島」あり。其形(かた)ち相似たれば號(なづ)く。牛は臥牛にして生けるが如し。海荒き日は牛頭の波數丈に打上り、唬々吼々(がうがうこうこう)として聲あるが如し。三所の龍灯は、必ず爰の波底より出づと云ふ。都(やが)て唐島の岩は洲入りて捉ふるに易く、能く傳へば此島を一周するに危ぶからず。岩間々々土自らありて、草樹色々生ひたり。近年大樹大松枯れてなし。是れ遊人多く火を焚きて慰み、或は岩穴に火藥をつめて大鳥銃の術をまねびなどして、巖半ば死(しに)枯るゝ如くなりし故ともいふ。鳥居の邊(あたり)には淸水の出づる大石あり。「義經の水乞石(みずこひいし)」と號(な)づく。一年(ひととせ)開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられしことなど、詞(ことば)をかざる僧ありしと聞く。必ず虛ならん。石穴には辛螺(にし)・蛸など群り住みて、遊人肴(さかな)に不足なし。釣竿を下せば黑鯛といふ物かゝりて、又々一興をなす。此山を廻(めぐ)るに、必ず和國になき面影を見ることあり。草木石貝に限らず。折々怪しきものを得るといふ。名(な)空(むな)しからず。友文鵝(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ。故に多く『唐(もろこし)を見ん』とて、内股の間に首を入れて興ず。人家或時はふしぎにも見え、又見馴れざる所の見ゆることもあり。先年開帳の時は、麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直(ぢか)に生洲(いけす)となして鯛・蛸の類(たぐひ)を放し置き、酒を賣りしに、人々多く押合ひて食するに、其頃我も渡りて酒に興じ、打倒れて夢も半(なかば)の頃、早や人大方歸り盡きて淋しくなりし頃、不圖(ふと)目覺めて彼(かの)俗諺を思ひ出して、股より覗き見しに、山上より來る一人あり。唐裝束(からしやうぞく)を着し、髮は女の如く唐子髷(からこまげ)にして、手に大旗を持來(もちきた)る。大いに怪しみ、

『不思議不思議』

と感ずる間に、異人(いじん)間近(まぢか)く來り、

『ハンメリハンメリ』

といふ。驚きて手に持つ旗を見れば、

『ハシリカンフラ』

と書き付けあり。扨は藥賣殿(くすりうりどの)にてありしと初めて知りしが、時しも此内股より覗く所へ來かゝりしは、渠(かれ)も又應(わう)の遁(のが)れざることありしにやと、をかしく歸りしぞ。今日も岩間岩間探し給へ、異物あるべし」

とて終日遊ぶ。

[やぶちゃん注:「唐島」は既出既注であるが、メインだから再掲する。氷見漁港から三百メートル沖合にあり、濃い緑に包まれている小さな島。県指定の天然記念物に指定されました。氷見漁港の守り神を一度は見ておきたいものです。にある小島の無人島で、氷見市丸の内にある曹洞宗海慧山海慧山光禅寺(グーグル・マップ・データ。漫画家藤子不二雄A氏の生家。昨年の三月に友人らと訪れた)が全島を所有し、唐島は同寺の境内とされており、島内には弁天堂・観音堂・「火ともし地蔵」・「弁慶の足跡」・「夫婦岩」などがあり、昔から地元の信仰を集めている。光禅寺を創建した明峰素哲が唐の大火を消し鎮め、その返礼に唐から島を贈られたという言い伝えから、「唐島」と呼ばれる。地質学的には石灰質砂岩から成る。遠い昔、十九の頃、演劇部の後輩の女性と、他の連中が泳いでいる間、何か訳あって泳がずに寂しそうにしていたので、誘って船で行ったことがあった。

「萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ」「万葉集」巻第十九の四二三二番歌に出る「雪の島」を唐島とする説は、既に「多湖老狐」で否定した。「國君」は加賀藩第三代藩主前田光高。既出既注だが、再掲すると、徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。万葉で売らんかなの氷見ならば、唐島の和歌を集成したページを誰か作っていようと調べたが、見当たらない。調べる気も起らない。悪しからず。

「竹生島」言わずもがな、琵琶湖北部に位置する島。現在は全域が滋賀県長浜市早崎町に属する(グーグル・マップ・データ。左のサイド・パネルの写真がよかろう)。正直、小さな唐島と比較するのはどうかなと思う。

「江の島」言わずもがな、私の思い出だらけでくしゃくしゃになった神奈川県藤沢市江の島(グーグル・マップ・データ。同じく左のサイド・パネルの写真がよかろう)。比較は同前。

「坤輪」「乾坤(けんこん)」で判る通り、「坤」は易学に於いて「天」を意味する「乾」とともに万物を生成する「地」の表象であり、単純にこの大地は「坤輪」という地軸によって支えられていると考えられた。

「能越」能登国と越中国。

「蒼濱」「蒼」は海の色。

「六道能化(のうげ)の兄息子」「六道能化」六道の巷 (ちまた) に現われて衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。「兄息子」は「一番年上の息子」や「年かさな息子」を指すが、意味が判らぬ。或いは「兄・息子」で大きい地蔵や小さい地蔵のことか。そう読んでおく。

「三間四面」五メートル四十五センチ四方。

『備前の島「あぶとの觀音」』広島県福山市沼隈町能登原にある臨済宗海潮山磐台寺(ばんだいじ)の本尊十一面観音。瀬戸内海に面した阿伏兎(あぶと)岬(先端の高所)にあるので「阿伏兎観音」とも呼ばれる。私は「阿伏兎観音」を見たことはないが、写真を見るにロケーションは唐島の比ではなく、悪いけれど、記憶の中の唐島のそれは如何にもしょぼかった。グーグル画像検索「阿伏兎観音」もリンクさせておく。

『向うの海中の飛島を「あぶが崎」と云ふ』「牛島」「机が島」グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、唐島から東北沖合三百メートル圏内に三つの岩礁を現認出来る。海図を見ても同じ方向に六つほどの岩礁或いは暗礁に近いものを認める。これらのうちの孰れかであろう。スタンフォード大学の「參謀本部」の「邑知潟(オウチガタ)」(明治四二(一九〇九)年作図・昭和九(一九三四)年修正)を見ても、同じ東北沖に明らかに三つの岩礁を認める。地元も漁師の方に聴けば、総ての岩礁や岩根に名があるはずだが。何方かお調べ戴けまいか?

『能州にも「あぶや」の號あり』西能登であるが、石川県羽咋郡志賀町安部屋(グーグル・マップ・データ)があり、その海岸も安部屋海岸と呼ぶ。しかし、だいだい、ここで言うなら、唐島の北北東八キロ半の位置にある虻ガ島(グーグル・マップ・データ)をこそ言うべきであろう。

『思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ』この「蠻音」「蠻語」は外来語・外国語の意。仏教用語で仏に供える水を「閼伽(あか)」と呼ぶが、これはサンスクリット語由来の「アルガ」(ラテン文字転写「argha」)の漢音写であり、一説にラテン語の「水」を意味する「aqua」(アクア)もそれが語源だという話を聴いたことがある。

「刀頭」麦水は御用商人の次男であるから帯刀していないので、単に頭の上の方の謂い。

「蜷」腹足類。巻貝。

「江の島の奧の院金龜山」伝承によれば、弘仁五(八一四)年に弘法大師空海が金窟(現在の江の島の南にある「お岩屋」)に参拝し、国土守護・万民救済を祈願して社殿(岩屋本宮)を創建し、神仏習合によって金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったとする。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之六」或いは「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」をどうぞ。

「兒が淵」江の島の最西端(グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルの写真を見られたい)。由来となった若衆道の悲話は同前の「新編鎌倉志卷之六」の「兒淵(チゴガフチ)」の条を見られたい。麦水はそこに「下る邊に似たり」(爼岩のことと思う)などと言っているが、唐島は凡そ及ばない。

「二十丈」約六〇メートル六〇センチ。唐島の現在の裏手(東北の富山湾側)は四十五メートルもない。但し、当時とはかなり島の形も潮下線も異なると考えられるので、これは信じてよかろう。

「銀漢」銀河。天の川。

「唬々吼々(がうがうこうこう)」読みは「近世奇談全集」に従った。後半を「くく」と読んだのでは迫力を欠くように思われる。「唬」は「脅(おど)す・脅(おびや)かす・驚かせる」の意があり、「吼」は獅子吼(ししく)で知られる通り、「獣がほえる・わめく・どなる」の意。そうした意味と、激しい波濤の立てる音のオノマトペイアと考えてよい。因みに、十六小地獄(八大地獄の周囲に付属する小規模な地獄)の一つに「吼々処」(くくしょ)と呼ばれる地獄がある。ここには恩を仇で返した者や自分を信頼してくれる古くからの友人に対して嘘をついた者が落ち、獄卒が罪人の顎に穴をあけて舌を引き出し、それに毒の泥を塗って焼け爛れたところに、さらに毒虫がたかる、という苦痛を繰り返すという。

「三所の龍灯は、必ず爰」(牛島)「の波底より出づと云ふ」「朝日の石玉」の本文及び私の注を参照。朝日山上日寺にある「龍灯の松」に「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」とある、それ、でである。なお、そこに同寺の背後にある山を泰澄が牛に駕してやってきたとあるから、或いはこの「牛島」は、単に形のシミュラクラではなく、その泰澄が跨った牛が最後に化したというような伝承があるのかも知れない。

「洲入りて」砂州が島の周囲に形成されて。

「大鳥銃」不詳。「近世奇談全集」では「鳥銃」の部分に『てつぱう』とルビする。ということは大銃(おおづつ)・大砲のことではなかろうか。とすれば、ここも「おほづつ」と読む方がいいし、躓かずにすんなり読めるではないか。

「義經の水乞石」不詳。現存しないか。日本海から東北果ては北海道にまで無数にある義経伝説の一つとして理解は出来る。すぐ近くの雨晴海岸にある義経岩(グーグル・マップ・データ)もそれで、こちらは風雨に見舞われ、弁慶が岩を押し上げて穴を作って雨宿りしたという古跡があり、その時の「弁慶の足跡」もちゃんとあったやに記憶している。雨晴海岸は私の青春のアンニュイの海岸である。

「一年開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられし」彼の生涯にそんな平穏な日々はなかったことは馬鹿でも判る。

「辛螺(にし)」外套腔から出す粘液が辛い味を持っている食用の腹足(巻貝)類の総称であるが、辛くない巻貝にも有意に当てられている。テングニシ(軟体動物門腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科テングニシ科テングニシ属テングニシ Hemifusus ternatanus:肉もワタも美味い)・アカニシ(アクキガイ超科アクガイ上科アクキガイ科チリメンボラ亜科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa:刺身が美味い。「薙刀鬼灯」はこの種の卵囊である)などがあるが、ナガニシ(アクキガイ超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus:身が美味いが、身を出すのに殻割しかないのが面倒)・イボニシ(アクキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ Thais clavigera:塩ゆでの辛みがなんとも言えず美味い)はとくに辛い。

「黑鯛」スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

「文鵝」不詳。麦水の友人でこの名となれば、俳句仲間であろう。

(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ」股覗きはせずとも、富山湾名物蜃気楼であろう。それともファタ・モルガーナか?(イタリア語:Fata Morgana:モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)のイタリア語の呼び名。「アーサー王物語」に登場する女でアーサー王の異父姉にして魔女とされる。イタリアでは彼女がメッシナ海峡に蜃気楼を作り出し、船乗りを惑わして船を座礁させてしまうという伝説が残されており、一説に死に至る真の悲しみに沈んだ者にのみ見えるともされる) 無論、ここでの「股覗き」とは異界を覗くための非日常的行動としての呪的な意味を持っているものではあるが、ただ「股覗き」というのはここの場合、視線が海水面に非常に近づくため、或いは温度・湿度・屈折率が通常の目の高さとは異なることから(その時の太陽の位置も関係してくる)、蜃気楼或いは浮島現象等が見えやすくなるのかも知れないなどと私は夢想した。

「人家或時はふしぎにも見え」というのはまさに蜃気楼である。私も六年間伏木いた内で、数度、見たことがある。一度は巨大なタンカーが沖を航行しているかと思ったのだがが、よく見ると、それは自分の立っている背後の海端の石油タンク群なのであった。

「麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直に生洲となして鯛・蛸の類を放し置き、酒を賣りし」江の島の稚児が淵から爼岩や「お岩屋」にかけての岩礁帯で、近代まで、ほぼ同じようなことが行われていた。酒客の出す金銭に応じて、海に入り、鮑などの魚介を採って供するのである。実際には予め海中に網で生け簀を沈めてあったものかとも思われる。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島」の文章(記者が酒に酔って岩場で転倒して怪我をするシーンがある)や挿絵、同じく『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島お岩屋(龍窟)の図』を見られたい。また、芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「六 友だち」を読まれたい。江の島の「潜り」の少年や海女に主人公(芥川龍之介自身)の友人である男爵の長男が硬貨を海に投げ入れて獲らせるという差別的なシークエンスが描かれている。彼らは実はまさにそうしたことを生業としていた者たちなのである。ロケーションは江ノ島、時は旧制高校時代の四月であるから、明治四四(一九一一)年四月及び翌年の四月或いは大正二(一九一三)年四月となる。

「山上より來る一人あり」酔っているから、向きも判らず、海を見ずに島の方を見てしまっているのである。滑稽の極みで、面白い。

「唐裝束(からしやうぞく)を着し」彩色豊かな、妙ちきりんな服だったのをかく見違えたのである。

「唐子髷」中世から近世へかけての、元服前の子供の髪の結い方の一つ。唐子(中国風の服装や髪形をした子供)のように、髻 (もとどり) から上を二つに分け、頭の上で二つの輪に作ったもの。近世には女性の髪形となった。

「ハンメリハンメリ」不詳。個人ブログ「秋残り」のこちらに、『ハンメルという、音をめる、という。半音を上げ下げるハンメリという。メリヤッセという』とある。大阪弁らしいが、このブログ記事全体が、失礼乍ら、何を書いておられるのか、よく判らぬ。観賞用多肉植物に単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ハオルシア属Haworthia の中に、Haworthia mirabilis 'hammeri'(アオルシア・ミラビリス・ハンメリ)という名の種がいるようだ。現代の日本人には愛好家が多いらしく、オークションや栽培記載に、この名が掛かってはくる。英文サイトのこちらに同種の記載と写真が載る。それによれば、南アフリカの喜望峰の東のスウェレンダム(Swellendam)というところが原産地らしい。ドイツ語に「hummel」という語がある(発音は「ヒュンメル」だが、文字列だけを見ていると「ハンメリ」と読みそうになる)がこれは「マルハナバチ」(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科又はマルハナバチ亜科マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus)を表わすという。どれもピンとこない。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。判らぬ。オランダ語か、ポルトガル語か。識者の御教授を乞う。或いは酩酊した人物が、股覗きで頭に血が上って聴いているのだから、当てにならぬので、聴き違いをそのままに妖しい外国語のように記しただけのことかも知れぬ。

「ハシリカンフラ」「近世奇談全集」は『バシリカンフラ』とする。やはり孰れでも不詳。小学館「日本国語大辞典」にも似たものさえも載らぬ。しかし、酩酊している文鵝はこの言葉を聴いて相手が異界の異人ではなく、当たり前の薬売りであったことを認知している以上、これには意味がなくてはおかしい。当時の失われた富山弁なのであろうか? 同じく識者の御教授を乞う。

「藥賣」所持する三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊)の「薬」のパートの絵図を見るに、しっくりくるような姿の者はいない。その冒頭にはまさに越中富山の「反魂香売り」が載るが、それは大きな縦長の箱を天秤棒で前後に担いで行商する形である。旗を持っているのは同書では一人だけで、それは「石見銀山鼠取受合」の文字を青地に白く染め出した旗であったとあり、幟(のぼり)は縦五尺で、『大体貧乏そうな服装が多い』とあるし、そもそもがちっぽけな唐島に石見銀山を売りに来るのもヘンだから違う。お手上げ。相応しい薬売りの姿を見つけられた方がおられたら、是非、御一報を!

 本篇は「三州奇談」の中では疑似奇談で可笑しく面白いエンディングという点でも特異点と言える。なお、「学校の怪談」や口裂け女の追跡でブレイクした民俗学者常光徹氏の「異界をのぞく呪的なしぐさ」PDF)に珍しくこの「三州奇談續編」の本篇の一部が活字化されているのであるが、惜しいことに『著者の麦水自身も関心があったようでご開帳で島に渡った際に見ている。そのとき見えた唐装束の異人は実は旗を持って歩いてきた薬売りだったとオチがついている』と読みを間違えている。これが素人なら何も言わない。都市伝説(アーバン・レジェンド)研究の騎手たる常光氏だからこそゆゆしき問題なのである。私がこの章の電子化をしない限り、私がここで常光氏の誤読を指摘しない限り――「三州奇談」(そもそも厳密には「三州奇談続編」でなくてはいけない)に麦水がそれを経験したと載っているという誤認が、これからずっと一人歩きして行ったであろうからである。そうした致命的な誤りが真実扱いされるというのが噂話=都市伝説の病理だからである。常光氏は自らそうした噂話形成の病的なミスを犯してしまっている――からなのである。

2020/07/23

三州奇談續編卷之八 阿尾の石劍

[やぶちゃん注:遂に最終巻に突入する。]

 

 三州奇談後編 卷 八

 

    阿尾の石劍

 氷見の西北阿尾(あを)の古城は、往昔菊池伊豆守住館(ぢゆうかん)の地にして、海岸猶今殘壘(ざんるい)巍然(ぎぜん)たり。左は灘(なだ)に折れ、右は間島(ましま)になだれて、後ろに藪波(やぶなみ)の里あり。彼(か)の「萬葉集」にも詠ずる所となり、海中阿武島(あぶがしま)・唐島(からしま)左右に見ゆ。唐島は國君光高(みつたか)公の、「大和にはあらぬ唐島」と讀ませ給ひし高詠あり。本より有磯の浦波(うらなみ)萬里(ばんり)の遠きを狹(せば)めて、佐渡が島宮崎の端よりあら波のよせ來(きた)れば、眺望詞(ことば)も及ばず。眼涯(がんがい)豈(あに)極まりあらんや。此磯は本(も)と「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし「有磯の渡り」にして、「大崎」や「有磯の渡り」と云ひし。「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語、今は「尾ヶ崎」といふ。渡りは此地とて、猶海中に石路(いしのみち)髣髴と見ゆ。今も猶血氣の人、勇める馬を試みに打渡すに、輙(たやす)く唐島に行き渡る。其間一里許ならん。海苔(のり)生ひ海雲(もづく)亂れて、左右の深さ千仭(せんじん)とにや。近頃も二丈に及ぶ海松(みる)を引上げたり。是「千年木(せんねんぼく)」と云ふものゝよし、根莖(ねくき)十(とお)かゝへなり。今其木を切りて姿(すがた)といふ村に殘れり。菊池の古城は海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し、切岸(きりぎし)絕壁眼(め)くるめきて見上(みあ)ぐべからず。上を少し下りて石上(せきしやう)に松あり。稀に鷹の巢をなすことありとかや。急なる所(ところ)繩を下(おろ)して量るに、十六丈餘となり。

[やぶちゃん注:「阿尾」富山県氷見市阿尾(グーグル・マップ・データ航空写真)。私の好きな場所。高校時代、ここから通う綺麗な女の子がいたのをふっと思い出した。

「古城」富山湾に面した独立丘陵の岬である城ケ崎に築かれた戦国時代の山城。ウィキの「阿尾城」によれば、『能登へ向かう街道と海上交通をおさえる要衝に位置し、戦国末期の城主として肥後菊池氏の末裔である菊池武勝・安信親子が知られる』。『菊池武勝は上杉謙信に従った後、織田信長と結び、越中入りした佐々成政配下として活躍した。信長死後は成政と対立した前田利家方につき、佐々成政に攻められるも前田勢の加勢により撃退している』。『菊池氏は前田方についた後も阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの』、慶長元(一五九六)年に『当主が没すると』、『阿尾城もまもなく廃城となった』。『なお、菊池氏が前田方についた』天正一三(一五八五)年に『阿尾城に入った前田方の武将のひとりが傾奇者』(かぶきもの)『として知られる前田慶次郎である。城主だったとする見方もあるものの、実際に城にとどまったのは』五月から七月頃までの僅か三ヶ月ほどだ『と考えられている』。また、『氷見市教育委員会が行った発掘調査の結果』では、『明確な城郭遺構は確認されなかった。ただし、伝二の丸・伝三の丸地区で』十五世紀から十六世紀の『遺物が出土しており、ここを中心に城として機能していたと』は『考えられている』とある。より詳しくは、写真も豊富なこちらをお薦めする。

「往昔」今までも何度も(全十二箇所)も出てくる語句であるが、読みは確定し難い。音は「わうじやく(おうじゃく)」であるが、当て訓で「そのかみ」或いは「むかし」とも読めるからである。私は一貫して「そのかみ」と読むことにしている。

「菊池伊豆守」前注に出た菊池武勝(享禄三(一五三〇)年~慶長一一(一六〇六)年)。肥後菊池氏の末裔。越中国射水郡阿尾城主。ウィキの「菊池武勝」によれば(先とダブるが、ほぼそのまま引いた)、『別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、入道後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守(自称)。子は安信。また陸奥国は糠部郡・鶴ヶ崎順法寺城、田名部館城主だった菊池正義は弟』。永禄四(一五六一)年頃、『阿尾城主として上杉謙信に仕える。謙信の死後は織田信長に属し』、天正八(一五八〇)年三月十六日には、『信長より屋代十郎左衛門尉・菊池右衛門入道宛てに知行を安堵する朱印状が与えられて』おり、翌年二月、『信長は征服途中にあった越中の一職支配権を佐々成政に与え、武勝はその与力と』なっている。「本能寺の変」後、『佐々成政が』、『羽柴秀吉や同じ信長子飼いでありながら秀吉と同調姿勢を取るようになった前田利家と不仲になると、武勝は秀吉・利家側に付くことを選択』、天正十三年五月には、『前田勢を阿尾城に迎え入れた。この際、入城した前田勢の』一『人に傾奇者として知られる前田慶次がいた』。その後の同年七月には『阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの、ほどなく武勝は山城国柴野へ退去し、嫡子安信も』慶長元(一五九六)年に『没すると、その子大学が相続したものの』、『代って新知』千五百石に代えられ、『以降、菊池氏は代々加賀藩に仕えた』、また、『阿尾城は安信が亡くなってほどなく廃城となったものと考えられる』とある。

「壘」外敵を防ぐために築造した構造物。

「巍然」山や構造物が高く聳え立っているさま。

「灘」ここは波や潮流の荒い水域の謂いではなく、沿岸水域面を指している。

「間島」島嶼名ではなく、地名。氷見市間島(グーグル・マップ・データ)。

「藪波の里」現在の氷見市薮田(グーグル・マップ・データ)の旧地名と推定される。阿尾城北の後背地で、北西に延び、南東部分は海岸に接している。

『「萬葉集」にも詠ずる所となり』巻第十八の大伴家持の一首(四一三八番)、

   墾田(こんでん)の地を檢察する事に
   緣りて、礪波郡(となみのこほり)の
   主帳(しゆつやう)多治比部北里(た
   ぢひべのきたさと)が家に宿る。時に、
   忽ちに風雨起こりて、辭去するを得ず
   して作れる歌一首

 荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に

    隱(こも)り障(つつ)むと

          妹(いも)に告げつや

  二月(きさらぎ)十八日、
  守(かみ)大伴宿禰(おほ
  とものすくね)家持の作。

前書の「墾田の地」は口分田(「大化の改新」後に「班田収授法」によって人民に正式に支給された規定の田畑)以外に開墾を許可した地区のこと。国守の采配でそれを設けることが許されていた。「主帳」郡官職の四等官で書記役。一首は同行した男たちに戯れに言ったもの。後書のそれは天平勝宝二年二月十八日。但し、この「荊波(やぶなみ)」(「藪波」でもよい)の地の比定は、この阿尾の「藪波の里」(現在の薮田)以外に、富山県小矢部市浅地薮波(グーグル・マップ・データ)をも比定候補地とする。しかし、主帳の名の中の「北里」や、「忽ちに風雨起こりて、辞去するを得ず」というのは、藪田の地がよりロケーションとしては相応しいように私は思う。

「阿武島」現在の虻ガ島(あぶがしま:グーグル・マップ・データ)。阿尾からは直線で七キロ以上離れる島嶼。富山県最大の島で無人島。氷見市姿の東の沖合い一・八キロ沖合にある。海産無脊椎動物が非常に多く見られ、また、寒流と暖流の影響を受けるため、冷帯系植物と温帯系植物が共生植生し、固有種もいる。私は残念ながら機会(高校時代の生物部の採集合宿で行く機会があったが、私は演劇部と掛け持ちしており、合宿が重なったことから参加しなかった)を逸して渡ったことがない。

「唐島」複数回、既出既注。氷見市街直近の島。

「光高公」加賀藩第三代藩主前田光高(元和元(一六一六)年~正保二(一六四五)年)。第二代藩主利常の長男。母は第二代将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。正室は第三代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘大姫。徳川家康・浅井長政・お市の方の外曾孫であり、藩祖前田利家の嫡孫。満二十九歳で急死したが、これは、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺説や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる。

「大和にはあらぬ唐島」は徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。

「佐渡が島宮崎」不詳。私は佐渡が好きで三度も行き、全島を周回しているが、「宮崎」という地名・岬名は知らない。小佐渡の最南端の沢崎(グーグル・マップ・データ)の誤りではないろうか。

『「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし』不詳。一つは、巻十八の「京(みやこ)に向かはむ時に、貴人(うまひと)を見、及(また)、美人(うまひと)に相(あ)ひて飮宴(うたげ)する日の爲に、懷(おもひ)を述べて、儲(ま)けて作れる歌二首」と前書する天平感宝元(七四九)年閏五月二十八日に詠まれたものの第一首(四一二〇番)、

 見まく欲(ほ)り

    思ひしなへに

   蘰(かづら)懸け

     かぐはし君を

      相ひ見つるかも

であるが、これは上京のための、事前作成歌であって、阿尾のロケーションとは関係がないから違う。今一つは、巻十七の天平一九(七四七)年四月二十六日に大伴家持が詠んだ賦を真似た長歌(三九九一番)、

   *

  布勢の水海(みづうみ)に遊覽せる賦一首

    この海は射水郡の舊江(ふるえ)に
    あり

物部(もののふ)の 八十伴(やそともの)の緖(を)の 思ふどち 心遣(や)らむと 馬並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 澁谿(しぶたに)の 崎(さき)徘徊(たもとほ)り 松田江の 長濱過ぎて 宇奈比川(うなひかは) 淸き瀨ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)の海に 舟浮(う)け据ゑて 沖邊(おきへ)漕ぎ 邊(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群騷(むらさは)き 島𢌞(しまま)には 木末(こぬれ)花咲き 許多(ここばく)も 見の淸(さや)けきか 玉匣(たまくしげ) 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通ひ いや每年(としのは)に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

の「延ふ蔦の」である。ここは一日、原十二町潟に遊んだ折りの詠であるから、阿尾には近い。但し、「延ふ蔦の」は比喩であって実景ではない(「二上山にいやさかに這い伸びて決して切れぬ蔦葛(つたかづら)の如く、これから先もずっと別れることなく、かくもここに通い続けて、毎年、ここで遊ぼうではないか」)。しかも「蔦」であって「葛かづら」ではない。しかし、そもそもが「蔦」「葛」「蘰」は「かづら」と同訓するように総て「つるくさ」であって一緒である。私はこの長歌を指しているのではないかと思う。他に適切な一首があるとせば、是非、御教授あられたい。

「大崎」確認出来ない。なお、虻ガ島の近くの海岸に大境(おおざかい:グーグル・マップ・データ)がある。六つもの文化層を持つ縄文中期から中世にかけての複合遺跡である大境洞窟住居跡で知られる。ここも私のとても好きな場所である。

『「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語』信じ難い。「あおのわたり」が「おーさき」に音転訛するとは思えない。いや、こんなものは簡単に阿尾のある岬が有意に「大」きく三「崎」として突き出ているという形状からの異名としてよいではないか?

『今は「尾ヶ崎」といふ』確認出来ない。今も「阿尾」は「阿尾」である。私はこの地名が好きだ。

「唐島に行き渡る。其間一里許ならん」阿尾から直線で唐島は一・六キロメートルしかない。ということは、この起点は阿尾のもっと北の藪田か小杉ということになる。しかし、この場合は直線渡渉ではなく、海岸線を渡って行くのでなければ騎馬では実際には絶対に無理である。そこで旧海岸線(現在の氷見市街の北西部は埋め立てで有意に張り出している)を想定して浜辺を実測してみると、確かに阿尾の先端から唐島までは確かに一里ほどになるのである。

「海苔(のり)」狭義には、岩海苔(いわのり/いのり)とも呼ばれ、分類学上では紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属するグループに属する一群の総称。板海苔に加工されるものが殆んどである。但し、この言葉は古くは今少し広義の食用海藻類にも使われていた形跡もあるので、緑色植物門緑藻亜門アオサ藻綱アオサ目アオサ科のアオサ属 Ulva やアオノリ属 Enteromorpha、また、かつてアオサ目に分類され、アオサの別名とさえされていた「海苔の佃煮」の原料にするアオサ藻綱ヒビミドロ目ヒトエグサ Monostroma nitidum 等も含めて考えてよい。前者は冬から春に生育し、概ね食用となるが、中には処理を誤って生食すると有毒な種もあるので注意が必要である。詳しい博物誌は寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うみのも 海藻」の項及び私の注を参照されたい。有毒性のそれはその「おごのり 於期菜」の項で私が注してあるので、気になる方は、是非、読まれたい。既に死亡例があるのである。

「海雲」褐藻綱ナガマツモ目 Chordariales のモズク科 Spermatochnaceae やナガマツモ科Chordariaceae に属する海藻類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」はナガマツモ科に属するオキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズク Sphaerotrichia divaricata が九割以上を占めている。しかし、私にとっては一九八〇年代までは正しくモズク科の標準和名モズク Nemacystus decipiens が「モズク」であったように思われ、当時、今はなき大船の沖縄料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私は『このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を、食品名としてこのように命名したのか』と、長く思い込んでいたものである。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖縄を愛すること、人後に落ちないつもりである。が、モズクに関して言えば、あのオキナワモズクを「モズク」と呼称することについては、私の味覚や食感記憶が今でも強い違和感を覚えさせるのである)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズク Nemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるこちらはイトモズクとかキヌモズクとか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当である!)の養殖が行われており、商品として沖縄産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖縄産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラ Sargassum fulvellum)等に付着することから「藻に付く」となって語源となったされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生する。なお、他にモズク科フトモズク Tinocladia crassa やニセモズク科ニセモズク Acrothrix pacifica 等が類似種としてある。なお、モズク Nemacystus decipiens の学名の属名は、ギリシャ語の「Nema」(「糸」の意)と「cystus」(「嚢」)の合成で、種小名「decipiens」は「虚偽の・欺瞞の」という意味である。言い得て妙ではある。但し、麦水がモズクをちゃんと種として認識していたかどうかは怪しい。広義の潮下帯以下に植生する海藻の異名としてこの「海雲」を使用した可能性の方が高いと考える。

「千仭」単位としての一仭は八尺或いは七尺から、二千百二十メートルから二千四百二十四メートルとなるが、ここは無論、非常に深い意である。因みに、通常の大陸棚は海岸から水深が約二百メートルのところを指すが、富山湾ではこの大陸棚の幅が狭く、少し沖合に出ただけで急激に深くなる。沖合二~三キロメートルで既に水深が八百メートルほどになり、最深部では千二百メートルにも達する。但し、海図を調べたところ、阿尾の半島周辺部分は深くても二十メートルから五十メートル前後である。

「二丈」六メートル六センチ。

「海松」現行はこれや「水松」は、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指すが、無論、これは小さなミル(それでも成体個体は四十センチメートルにはなる)ではあり得ず、既に想像されている通り、これは所謂、広義の「珊瑚」類のことを指している。恐らくは

通称総称でウミマツ(海松)と現在も呼ばれるところの刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間

ではないかと考えられる。当初は樹木状で有意に長いという点から、

ツノサンゴ目ウミカラマツ科ムチカラマツ Cirripathes anguina

を同定候補としようと思ったが、いっかな、「二丈」で「根莖十かゝへ」は、これ、大き過ぎて話にならない。まあ、孰れも今までもありがちだった誇張表現として許せば、ムチカラマツの群れが生えている場合は、その仮根の塊り部分は相応に大きくはなる。しかし、沢山、枝状になっているという記載がない以上、そう解釈するのにはやや無理があるようにも読める。それでもこれが最有力候補としてよいし、後に出る麦水の実見した「石劔」はまさにこれであると私は思っている。

他に

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科 Ostreoidea に属するカキの仲間

には、驚くほど管状に生育して直立する個体があることは知っているが、こんなに大きなものはいない。

次に、海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じい)と呼ぶが、こんな高木状には、まず、ならない。但し、その蠔山の一部が損壊してそのような感じで崩れたとなれば、こうなるかも知れぬ。が、しかし、蠔山は想像を絶するほどに非常に堅固なもので、そんなに簡単に都合よい形に外れたりは、恐らく、しない。

或いは大型のクジラやサメ類或いはイルカ類の死骸のその脊椎骨

などをも考えたが、それらの場合、海中に一度落ちて、何らかの生物が表面に繁殖でもしない限り、それらはバラバラになってしまって、樹木状にはならない。

翻って、或いは

それらの肋骨や顎骨ならあり得るかも知れぬ

が、しかし、老練の漁師ならばそれと必ず見抜けるはずであるから不審である。

まず以ってこの奇体な「千年木」に対する私の推理はここまでである。もっと相応しい比定物があるとせば、是非、御教授戴きたい。

「姿(すがた)といふ村」富山県氷見市姿(グーグル・マップ・データ)。虻ガ島が沖に位置する。

「菊池の古城」阿尾城のこと。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し」というのが、腑に落ちる。

「十六丈餘」約四十八メートル半。阿尾城跡の現在の最高標高は四十メートルほどである。]

 

 安永八の今年、此所に網して石劍を得たり。漁人役所に訟(うつた)ふることを憚りて、他の海へ投捨(なげす)つるに、又かゝり來(きた)ること三度なり。因(ちな)みありて菊池の古城を慕ふに似たり。依りて終(つひ)に鄕首(がうしゆ)加納(かなう)某へ持來(もちきた)る。則ち此主(このあるじ)予に示さる。是を見るに長さ一尺ばかり、鍔(つば)・鞘(さや)石間(いしのあひだ)に顯はれたり。石・貝色々に廻(めぐ)り、刀を包みて又一箇の劍(つるぎ)の如く、又亂木(らんぼく)にも類(るゐ)せり。かたヘの人いふ。

「此刀眞(まこと)に鬼を追ふに宜(よろ)しきなるべし」

と。實(げ)にも左(さ)に覺ゆる。いかなる時にか海中に入りけん。

「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」

といふ人もあり。何の緣にか今歸り來(きた)るや。元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐるに事よく似て、人の用ひざるも又(また)時(とき)なり。今(いま)靜平上(せいへいじやう)に一箇の紛失物なし。何れへ向ひ誰を皷動(こどう)して奇特(きどく)を求むべき道なく、慾僧邪士(よくそうじやし)も思ひを止(や)めて、石は石となりて無用の寳(たから)を尊(たつと)むことなし。我れ爰に於て濱邊を見んと過ぐるに、灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり。是は別卷に記す。時を思うて止まず。無用の石劔何ぞそれ來るや何ぞそれ來るや。

[やぶちゃん注:最後の部分は底本では「無用の石劔何ぞそれ來るや」に踊り字「〱」で、セオリー通りならば、動詞のみを繰り返して、「無用の石劔何ぞそれ來るや來るや」となるのだが、どうもパンチがない。敢えてかくした。

「安永八の今年」一七八〇年。これはすこぶる興味深い叙述である。堀麦水は享保三(一七一八)年金沢生まれで、天明三(一七八三)年没であることが判っている。正編のみを載せる所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻)には「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるとするが、これは正編のそれであろう。即ち、麦水は「三州奇談」正編完成後、実に八年以上をかけて、本続編を書き継いできたことが判る。他にも実録物をガンガン書いているのだから、相当なパワーである。まあ、この年で二十九だから、やる気満々だったわけだな。でも三年後には亡くなっているのだな。老少不定。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……

「石劍を得たり。漁人役所に訟ふることを憚りて、他の海へ投捨つ」実際の刀剣類であるなら、実際には使用不能であったとしても、武家のものである可能性があるわけで、これは当然、漁師が持っていてはいけないし、藩に届けなくてはならない。そうすれば、大変な手間(保護保存)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。

「鄕首」恐らくは複数の村を束ねる郷(ごう)の代表者のことであろう。

「加納某」これは無論、人の姓であるが、例えば、阿尾から南に接する間島の内陸に接して、現在、富山県氷見市加納(グーグル・マップ・データ)がある。

「鬼」「き」と読んでおきたい。邪鬼。

『「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」といふ人もあり』とわざわざ記しているのは、麦水にはとてもそんな風には見えなかったという示唆である。

「元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐる」三種の神器(他に「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」)の一つで天皇の持つ武力の象徴とされる、素戔嗚が八岐大蛇を退治した際に大蛇の尾から見出だした天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:別名倭武尊の東征での窮地を救ったエピソードから「草薙剣」とも呼ぶ)は、素戔嗚によって高天原の天照大神に献上された後、天孫降臨に際して他の神器とともに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に託され、地上に降った。崇神天皇の御代に、草薙剣の形代(かたしろ:レプリカ)が造られ、形代は宮中に残され、本来の神剣は笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたとされる。景行天皇の御代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は東征する倭武尊にこの神剣を託すが、彼の死後、本剣は神宮に戻ることなく、宮簀媛(みやずひめ:倭武尊の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたとされ、これが熱田神宮の起源となり、現在も同宮の御神体として秘物として祀られている。一方、形代の方の剣は「壇ノ浦の戦い」における安徳天皇入水により関門海峡に沈み、失われてしまう。結局、後鳥羽天皇は三種の神器がないままに即位している。平氏滅亡によって神鏡と勾玉は確保されたが、神剣は欠損したままとなったのである。その後、朝廷は伊勢神宮から朝廷に献上された剣を「草薙剣」と措定し、南北朝時代には北朝陣営・南朝陣営ともに神剣を含む三種の神器の所持を主張して正統性を争うこととなり、この混乱は後小松天皇に於ける「南北朝合一」(「明徳の和約」)まで続いた。なお現在、形代として措定された神剣は宮中に祭られている(以上はウィキの「天叢雲剣」他に拠った)。この最後の部分を言っているのであろう。

「又時なり」時間と人とその対象物との不可知の関係性からの巡り合わせである。

「靜平上」太平であるこの地上。

「一箇の紛失物なし」ただの一つも必要であるべき一箇のこの剣に相当する対象物が紛失しているという事実はどこにもない。

「何れへ向ひ誰を皷動して奇特を求むべき道なく」何処の誰と言って突き動かして音を立て有難い恵みをこの剣に求めるという正道を述べる教えや遺言(いげん)もなく。

「慾僧邪士も思ひを止めて」法を外れた売僧(まいす)や邪悪な道術を使う輩も誰(た)れ一人としてそれを求めんとする希求(けぐ)をやめてしまっており。

「灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり」ここ、全く意味が判らない。識者の御教授を乞う。「灰俵」は灰を詰め込んだ俵で、見掛け倒しの中身のない、或いは、価値のないものの謂いか? 「黑魚」はメジナ(棘鰭上目スズキ目スズキ亜目メジナ科メジナ属メジナ Girella punctata)か。その大きなメジナ(成魚では四十センチメートルを超える)の腹を裂いて、その胃の中にある四匹の「子魚」が出てくることか。しかし、メジナは魚食性ではないから違う。「クロウオ」の異名を現在持つものに、超巨大(最大二メートル)になる深海魚の棘鰭上目カサゴ目ギンダラ亜目ギンダラ科アブラボウズ属アブラボウズ Erilepis zonifer がおり、彼は肉食性で小魚を捕食するのでぴったりだが、残念なことに日本海側には棲息しないようだ。とすれば、悪食で知られ小魚も食い、老成すると、巨大(最大七十センチメートル)になるだけでなく、横縞がぼけて全体に黒ずんで見えるところのスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ととってよかろう。

「是は別卷に記す」「三州奇談續編」は本巻を以って終わっている。麦水の「三州奇談續編」は未完成で終わったものか。没年とさっきの「安永八の今年」が逆に不吉に作用してしまった。]

2020/07/19

三州奇談續編卷之七 朝日の石玉 / 三州奇談續編卷之七~了

 

     朝日の石玉

 朝日山上日寺(じやうにちじ)に登る。此地や風潔く水淸し。元來有磯・奈湖の海を眸中(ばうちゆう)に盡(つく)し、立岳(りふがく)・寳嶺(はうれい)に目を極むれば、景は云ふべきにも非ず。寺は莊嚴(しやうごん)物さび、「龍灯の松」あり。是は大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ。上の山を「牛潜(うしもぐ)り」と云ふ。越の大德泰澄の牛に駕(が)して、山路を通ひ給ふよし物語るを聞きしが、略す。寺院は白鳳年中に開かれし山なれども、中興我が國君の歸依により、芳春尼公の佛忠懇志(こんし)より起るよし。大和の法師、慶長十八年に緣起を殘す。本尊は觀世音一寸八分の尊像にして、石玉(せきぎよく)に乘じて太田の濱に上(あが)り給ふよし。御佛(みほとけ)は後に、鳥佛師(とりぶつし)が作の五尺の木像の頭上(とうじやう)に納(をさま)り給ひて、拜見し難し。其乘り給ふ石を「兩曜石(りやうえうせき)」と號す。寺號・山號も爰に起るとにや。親しく手に移し戴くに、掌中濕(うるほ)ひ石に汗を發す。此石大(おほい)さ三寸ばかり、蓮花(れんくわ)一葩(ひとひら)の形に似て、兩面に日月(じつげつ)の紋あり。色黃にして不思議殊(こと)に多しとなり。既に太田濱に上り給ふ時も、石ありて損ぜんことを恐れ、百餘間の石を退(の)け給ふとて、岩崎は石甚だ多けれども、太田濱には今に小粒なる石だにもなしとにや。能く能く其兩曜石を愛(めで)し給ふと見ゆ。依りてつくづく拜し奉るに、是咋嗒(さたう)の類(たぐひ)にして、靈鹿(れいろく)・妙兎(めうと)の類(たぐひ)、是を捧げたるならんと思ふ。

[やぶちゃん注:「朝日山上日寺」富山県氷見市朝日本町にある真言宗朝日山上日寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は一寸八分(約五・五センチメートル)の千手観世音菩薩。創建は天武天皇一〇(六八一)年、開基は法道上人と伝える。嘗ては七堂伽藍が完備し、十八坊を有した大寺であったが、数度の火災により、現在は江戸時代の本坊銀杏精舎(いちょうしょうじゃ)、観音堂など数宇を残すのみである。毎年四月十七日と十八日の観音縁日に行われる祭礼「ごんごん祭り」は、寛文四(一六六四)年の大干魃の際に雨乞いをして待望の慈雨を得たことへの感謝のために始められた祭りと伝え、現在も盛大に行われて参詣者は鐘を打ち鳴らして厄除け・諸願成就を祈る。境内の大銀杏は樹齢千三百年、周囲十二メートルに及ぶ大樹で、乳(ちち)授けの霊木とされて、国の天然記念物である(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真)。……ああっ!……何んということか!?!……ここは……私にとって秘密の場所である……遠い昔の……若き日の私の心臓の高鳴りが……聴こえる!…………

「立岳」立山の異名。

「寳嶺」立山連峰の他の霊峰の峰々。

「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「龍燈」として、小倉学氏の「北陸の龍燈伝説」(『加能民俗研究』通巻十七号・平成元(一九八九)年「加能民俗の会」官発行所収)に「誹諧草庵集」・及び本書を出典として、この氷見市『朝日山の山腹にある観音堂の前の松に、毎年正月朔日と六月十七日の夜龍燈がかかる。本尊の観音様が太田浜から上がったものだが、龍燈は三ヶ所一団となって牛島から飛来する』とある。「牛島」は後の最終巻「三州奇談續編卷之八」の「唐島の異觀」によって、唐島から五、六百メートル離れた岩礁の名前と出る。

「越の大德泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で、当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。既出既注であるが、再掲しておく。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「白鳳年中」寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも呼ぶ。「日本書紀」に現れない元号を指す)の一つで、通説では元号の白雉(六五〇年〜六五四年)の別称・美称であるともされている。他に六六一年から六八三年とも、中世以降の寺社縁起等では六七二年から六八五年の期間を指すものもあるという。なお、「続日本紀」の神亀元(七二四年)年冬十月の条には『白鳳より以來、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』という記載がみられる(ここはウィキの「白鳳」に拠った)。

「中興我が國君の歸依により、芳春尼公」前田利家の正室まつ(天文一六(一五四七)年~元和三(一六一七)年)の戒名。上日寺は江戸時代は前田家の祈願所となった。

「慶長十八年」一六一三年。

「太田の濱」現在の太田地区の海浜で、松田枝(まつだえ)浜及び島尾にかけての広域呼称(グーグル・マップ・データ航空写真)と考えられる。私の好きな美しい海岸である。

「鳥佛師」鞍作止利(くらつくりのとり 生没年不詳)のこと。飛鳥時代の仏師。「鳥仏師」とも書くが、これは「司馬鞍作部首止利仏師(しばのくらつくりべのおびととりぶっし)」の通称。中国の南梁からの渡来人司馬達等(しばたっと)の孫とされるが、司馬一族自体が四世紀頃に渡来した「鞍作村主(すぐり)」なる人物の子孫とする説もある。聖徳太子や当時の権力者蘇我氏に重用され、「日本書紀」によれば、推古天皇一四(六〇六)年に飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造像したとされ(但し、彼の作仏を否定する説もある)、六二三年には、聖徳太子と母后・妃の菩提を弔うため、法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍像を完成している。先の「飛鳥大仏」が後世の補修が多いのに比べ、この三尊像は殆んど完全に残っており、光背裏の刻銘から、彼の確実な作品と知られる貴重な仏像である。作風は中国北魏竜門系の様式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的に整斉された「止利様式」を確立しており、単純な形の大きく張った目、両端が釣り上がってアルカイック・スマイルと称される不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねたように堅く直線的な衣の襞など、象徴的で力強く、威厳に満ちており、名実ともに七世紀前半の彫刻界を代表する作家であったことを示している(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「兩曜石」日月石のこと。全国的な非常に古い岩石信仰として、太陽と月を象徴するとする磐座(いわくら)によくつく名前であるが、時に晴雨や潮の干満を司る石ともされ、豊穣のシンボルとして陰陽石との関連も認められる。ここでは、海浜に漂着したものである点や、風雨を支配する龍との絡みから、そうしたニュアンスが匂う。実際に「親しく手に移し戴くに、掌中濕ひ石に汗を發す」という辺りはそうした水を司る水石とも読める。但し、ネットで検索する限りでは、同寺には現存しないようである。

「百餘間」百間は約一八二メートル。

「岩崎」伏木の東、国分浜の先の岩崎ノ鼻から雨晴海岸の東に至る岩礁地帯。ここも私にはとても懐かしい場所である。跋渉もし、釣り(甚だ岩掛かりしたものである)もした。

「太田濱……」確かに現在も穏やかな美しい砂浜海岸である。

「能く能く其兩曜石を愛し給ふと見ゆ」主語は流れ着いた本尊観世音菩薩(像)である。

「咋嗒(さたう)」これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、普通は「鮓答」と書き、「さとう」と読む。「牛の玉(たま)」とか「犬の玉」という風にも呼ぶ。「詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。

「靈鹿・妙兎」ただの鹿や兎ではない神霊神仏の使者や眷属であるそれら。]

 

 されば氷見は海畔也。又遙か二里奧なる蒲田・神代(こうじろ)の間にさへ鹽井(しほゐ)を出(いだ)す。【粥(かゆを燒(たく)に甚だよしとなり。他村へ汲めば水となるといふ。】海近き此邊(このあたり)、水潔(きよ)きこと近鄕の例すべきに非ず。妙智力能く靈淸水(れいせいすい)を御手洗(みたらひ)となし給ふ故となり。緣起の中にも、此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る。然共善には惡添ひ、幸ひには害隨ひて、功德は黑闇女(こくあんによ)と須臾(しゆゆ)も相離れず。又々此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す。其後も海氣(かいき)の押して登るを、銀杏の大樹能く支へ、或は人家火災起り、御手洗の麗水(れいすい)數日(すじつ)留(とま)る事抔(など)聞えし。近年も靈風起り、末院山王の堂を吹潰(ふきつぶ)し、其再興勸化(くわんげ)より氷見の人々論起りて騷(さはが)しき迄に及ぶ。是は年近ければ記さず。

[やぶちゃん注:「蒲田」富山県氷見市蒲田(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神代」蒲田の西及び北に接する富山県氷見市神代(こうじろ)(同前)。ここの北の末端でも海岸線から四・二キロ内陸で、南部分は山間地である。

「鹽井」塩水の井戸。

「此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る」思うに「と稱して」の「と」は「を」の誤判読か、誤写ではなかろうか。後半は本邦(や中国)どころか、インド・チベット中にあって稀有の才女という謂いであろう。利家の正室芳春院まつは、学問や武芸に通じた女性として頓に知られる才媛であった。

「黑闇女」吉祥天の妹であるが、容貌醜く、人に災いを与える女神とされる。密教では閻魔大王の妃とする。「胎蔵界曼荼羅」の「外金剛部」に属す。像は肉色で、左手に人頭の杖を持つ。

『此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す』既に何度も注した通り、自己宣伝。正しい書名は「慶長中外傳」で本「三州奇談」の筆写堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。同書を読むことが出来ないので、上記の内容は不詳。

「末院山王の堂」「末院」とあるので上日寺の僧坊と思われるが、現存しない。山王権現は神道系であるから、「其再興勸化より氷見の人々論起りて騷しき迄に及ぶ」というのは、或いは本寺側や一部の信者が再興にあまり乗り気でなかったのかも知れない。]

 

 扨濱表(はまおもて)に下りて見渡すに、本(も)と是(これ)古戰の地なり。町はづれの「三本松」と云ふ地下には「首數(しゆすう)何百の内」と云ふ札を掘出(ほりいだ)せし話も聞えたり。

[やぶちゃん注:上杉謙信や佐々成政の侵攻の際にこの辺りは戦場となっている。

『町はづれの「三本松」』不詳。「町はづれ」で、以下続けて「柳田」を経てとあるのだから、氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)の市街地との境に比定は出来ようか。]

 

 是より柳田を過ぎて彼(かの)の太田濱なり。此濱實(げ)にも小石迚(とて)もなし。眞(まこと)に梵力(ぼんりき)能く泥沙にも及ぶこと驚くに堪へたり。此邊大鳥(おほとり)の死する物多し。人に尋ぬるに「是れ信天翁(あはうどり)」となり。得て人の喰ふべき肉なければ、打殺して捨つとかや。多くは狗(いぬ)の取り、小兒の戲れにて撲(たた)き殺したるなり。

「大悲の誓ひの濱なるに無用の殺生哉(かな)、鳥も又逃(にげ)よかし」

と委しく尋ぬれば、和莊平(わさうへい)なる人ありて敎へて曰く、

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふは、人のあまり肉の如く無用より號(なづ)く。元來此鳥目耳(みみ)用をなさず。然るに小魚を投ぐるに寄り來(きた)るは、氣(かざ)を以て相求むるなり。

『こうこう』

と呼ぶに來(きた)るも、氣(かざ)の氣(き)に對するなり。目見えず耳なき故、呼びよせて捕へ得るに甚だ易し。形ちは鴈(かり)に似てまた大いなり。毛は必ず白し、而していやしき黑毛を交(まぢ)ゆ。口嘴(くちばし)黃にして大なり、曲珠(まがたま)の形ちをなす。かゝる巨躰(きよたい)を、何を喰ひてか生涯を送るらんと見るに、纔(わづ)かに鷗の取落したる小魚を喰(くら)ひ、網を遁れ出でたる細鱗(さいりん)を甞(な)めて世の樂(たのし)みとす。然るに此中(このうち)小賢(こざか)しき贅鳥(ぜいてう)ありて、彼(か)の觀音の佛力にすがり、

『我にも目を明けさせて景淸(かげきよ)の昔をなさしめ給へ』

と、此濱に願ひし鳥あり。功力(くりき)豈(あに)魚鳥(ぎよてう)に至らざらんや。忽ち眼(まなこ)明きたる鳥となりしに、數日(すじつ)にして瘦せ衰へ、既に死せんとす。則ち同類の信天翁(あはうどり)に氣(き)を以て示して曰く、

『汝等今の身を樂みて別願を起すことなかれ。我が眼明きて甚だ樂しからんと思ひしに、却りて大害爰に來(きた)る。憂ひて今死せんとす。元來我曹(われら)は死せんとする時鳴くこと悲し。是(これ)人の善言(ぜんげん)と同事(おなじこと)なり。能く聞き置くべし。先づ眼見ゆると物を恐るゝ事甚だ發す。人にも心ひかれ。大魚にも退(しりぞ)け去らんとす。扨(さて)他の鳶(とび)・鴉の多く食を得るを見て、羨みてねたみ、又怒ること燃ゆるが如し。頻りに奔走するに餌(ゑさ)小鳥程も得がたし。故に心痛して悲瘦骨(こつ)に至る。高く飛ぶ鴻鶴(こうかく)を見ては羽の及ばざることを恨み、水に潜る鸕鷀を見ては身の重きを歎く。只日々に物に恐るゝと怨むとの爲に苦しみ多くして、彼(か)の耳なく目なく氣の餌(ゑ)を求むるの思ひにて、人の側(かたはら)とも大魚の眼(まなこ)とも知らず走り行き、鰯一つ得る時、「天地の間此樂みの上なし」と思ひしを思へば、今悔(くや)しきこと限りなし。若し經說に云ふ、「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」、暫く日を重ねなば、肩たゆみ目埃(ほこり)入りて其悲しみ云ふべからず。願ひたることは初め叶ひたる一時(いつとき)のみにして早(はや)苦し。汝達(なんぢたち)天性のまゝ樂みて、願ひ求(もとむ)ることあるべからず』

と遺言しき。此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る。大悲の誓ひにはこり果てたる鳥ぞや。死鳥(してう)にあたらしき感慨を必ず起し給ふな」

と、杖をかゞめかして去りし。

[やぶちゃん注:「柳田」氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)。

「信天翁(あはうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご)(ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を参照されたい。なお、ごく近年の学術調査による「DNAメタバーコーディング」と呼ばれる手法によってアホウドリが摂餌した生物を糞から特定した結果、彼らが特異的に好んでクラゲを摂餌していることが判明している。

「得て人の喰ふべき肉なければ」というわけではない。食用にはなるが、あまり美味いものではないというネット記載をやっと見つけた。しかしヒトはただ捨ててはいない。本邦では専ら羽毛を採取する目的で撲殺し(和名はヒトが近づいても地表での動きが緩慢で、捕殺が容易であったことに由来する)、乱獲が続いて絶滅しかかった。

「大悲の誓ひの濱」この浜に漂着した観世音菩薩は、「世」の人々の「音」声を「観」じて、その苦悩から救済する菩薩の謂いで、人々の姿に応じて「大」慈「悲」を行ずることを「誓」われたところから、千変万化の相となると称し、その姿は六観音・三十三観音などに多様に表わされる。

「和莊平」不詳。何か、怪しい名前だね(後述)。

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふ」太田浜の異称を「あほうどり」言うというのである。後の結果は「信天翁」も裏切られる。

「人のあまり肉の如く無用より號く」前の地名の漢字を見ると、「贅鳥」で「贅肉」のそれで、「人のあまり肉」(余分な肉)の意である。これは恐らく先行する――「人」がその「肉」を不味いとして「あまり」食わず、殺してもその肉は「あまり肉」として捨てるように「無用」な鳥のいるところ――という意味にも通じているのであろう。

「こうこう」これはヒトがアホウドリを遊びで打ち殺すために呼び寄せる時の声のオノマトペイア。因みに、アホウドリの鳴き声は「サントリーの愛鳥活動」のこちらでどうぞ。

「氣(かざ)」臭い。

「氣(かざ)の氣(き)に對するなり」「臭いの気(き)の流れに応じているのである」の意で採るためにかく読んだ。

「鴈(かり)」「がん」と読んでもよい。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「此中小賢しき贅鳥(ぜいてう)ありて」以下、どうも二重に「贅鳥」を掛けているところ、これ、諧謔に過ぎた話で、如何にも作り物臭い、鼻白む展開である。目が見えなかった時の方が幸福、目が見えるようになって恐怖や憤懣に満ちるようになって不幸になったという、如何にもな感官による煩悩を戒める説教のようなところが、どうにも厭な感じだ(「ジョン・M・シング(John Millington Synge)著 松村みね子訳 聖者の泉(三幕):The Well of the Saintsの方が遙かに面白い。リンク先は私の電子テクスト)。麦水の見え透いた創作のような気さえしてくる。もし、現地のこの伝承があるとならば、是非、お教え戴きたい。

「景淸の昔」藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した。この謡曲「景清」では、落魄して盲人となった彼と、一人娘人丸との再会悲話仕立てで、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい。

「善言」人のよき言葉、後の者たちへの戒めとなる言葉。

「鴻鶴」ここは大きな鳥のこと。アホウドリは確かに高高度を飛ぶことは出来ない。但し、「空を飛ぶのは苦手」などとしばしばネット記載されているのは大変な誤りで、飛ぶのに長い滑走距離を必要とするに過ぎない。そもそもが彼らは渡り鳥であるから、実は気流に乗って滑空をしながら、一度も羽ばたきをせずに、驚くべき長距離をも飛ぶことが出来るのである。

「鸕鷀(ろじ)」鵜(う)の異名。ここは海浜なので、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。なお、事実、本邦産のアホウドリは海中に潜ることは出来ない。

「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」広い海の上に一ヶ所だけ穴が空いている一本の木が浮かんでおり、この海に住んでいる百年に一度だけ海面に浮かんできて頭を出す一匹の目の見えない亀が、その木の穴に頭を突っ込むことは非常に難しい。人が人としてこの世に生まれ出ずることは、この盲亀が浮木に頭を入れることよりも難しい想像を絶することなのであるという譬え話。釈迦が阿難に諭したそれとされる。

 さても。この話のエンディング、信天翁(あほうどり)はその目や耳の不自由故に「無為自然」の中に自(おのず)とその「分」(ぶん)を知って生き死にしてゆくのであればこそ、「此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る」というのだ。仏説のありがたい観世音菩薩なんぞの「大悲の誓ひには」すっかり「こり果て」てしまっていると言うのだ。さればこそ――そうした「死鳥」に「あたらしき」皮相的な勝手な「感慨」なんぞは、これ、決して起こされぬが身のためじゃ――と言って悠然と杖を突いて去ってゆく「和莊平」という男の後ろ姿は、「漁父之辭」の道家的人物として描かれる漁父のラスト・シーンの映像とよく合致しているではないか! 則ち、この男は「和」(倭・日本)の「莊」子的な在野の真人としての「平」民であることが判るのである。ますます麦水の作り話の可能性が高くなってくるように私は思うね。しかし、これはこれで、いい。老荘好きの私としては。

 以上で「三州奇談續編卷之七」は終わっている。]

2020/07/17

三州奇談續編卷之七 布施の白龍

 

    布施の白龍

 氷見は古(いにしへ)の大郡(だいぐん)の名、今に國府をし「氷見の庄古國府(ふるこふ)」と書く。上古は「火見」と云ひし。海上火光の靈あるに依りしと聞きしが、中頃火災に忌むことありて、「氷見」と改むと云ふ。尙又「郡内」の稱あり。古き山人は今に氷見に出づるを「郡内(ぐんない)へ行く」と稱(とな)ふ。されば有磯海(ありそうみ)を前に抱へ、布勢の湖(うみ)を後ろに湛ふ。布勢湖(ふせのうみ)は、凡一二里丸山と云ふに、中納言家持の勝遊の樓の跡と云ふあり。今は式内の神布施明神ましくて、宮柱古び、藁のやね纔(わづか)に舊(きう)を思ふ媒(なかだち)となれり。里俗云ひ傳へて、

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」

と云ふ。一說には此宮を「御影(みかげ)の神社」と云ひ、布施の神社は地(ち)沒して定かならずとも云ふ。向ひに「三社が崎」あり。扨は古代神主爰に多かりしと知る。古墳も又多し。「十三塚」・「十三入江」とも云ふ。其古墳雅(みやび)なるを知らず。「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず。「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん。思ふに「いくぼ」・「ゆやまの池」及び三社の端(はし)などのうちと思はる。今は布施の湖、多く桑田となり減じて、其景悉く失して國用の富饒(ふぜう)の地となる。故に景秀でたるに非ず。依りて今唐島の絕景なるに付すれども、必ずさにあらじ。けふ此丸山に登りて遠望するに、氷見の地橫たはり、濱松は左右に連(つらな)り、此上を蜑(あま)の釣舟或は沖の白帆など打越えて見ゆるさま、繪も及ぶべからず。况や目の下の靑田悉く布施の湖ならんには望景絕勝ならざらんや。或人云ふ、

「中頃飯久保(いくぼ)に狩野中務(かのうなかつかさ)が籠りし頃は海なり。飯久保大手先を「南條(なんぜう)の浮橋(うきはし)」と云ひ、今(いま)田となれども、大雨洪水の折は浮(うき)ありくと云ふ。猶又近く此百年以前迄、此山入悉く湖なりしと云ふ。されば千年以前の家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて、都より美人下向の事ども「萬葉集」に委し。絕景察すべし。

[やぶちゃん注:「氷見の庄古國府(ふるこふ)」現在、富山県高岡市伏木古国府(グーグル・マップ・データ)がある。因みに、江戸時代以前に「射水郡」を二つに分けて「中郡」と「氷見郡」と俗称したが、江戸初期の加賀藩政下に於いて「射水郡」から一度、「氷見郡」として分離されたものの、延宝二(一六七三)年には再び「氷見郡」は「射水郡」に吸収されている。本書の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃であるから、加賀藩の行政上は「射水郡」であるものの、旧来の「氷見郡」時代の土地呼称を人々は使っていたに違いない。さすれば、「氷見の庄」は腑に落ちるのである。因みに、この「かたかご幼稚園」を北に下った伏木小学校前の向かいの東角のボロ屋に私は鎌倉から移って一年ほど暮らした(当時、中学一年)。グーグル・ストリートビューのこの車庫と化している建物と空地の後ろ部分である。その後、そこから東に少し行った「赤坂光泉」(ここは当時は銭湯だった)を古国府側に入ったところの三棟合わせて建てられた住宅の一番奥(現存していた。グーグル・マップ・データ航空写真)に移り、それから二年弱で前に述べた二上山麓の矢田新町に建てた新居に移ったのだった。なお、私の一番の親友は今もこの古国府に住んでいる……ああ……ひどく哀しく懐かしい……

『上古は「火見」と云ひし』氷見市観光協会と氷見市観光交流課の作成になる「きときと ひみどつとこむ」の氷見市の公式見解に、諸説あるが、として、
・古代、蝦夷防備の狼煙を監視する場所で、狼煙の火を見るところだから火見と言った。
・海をへだてて、立山連峰の万年雪が見えるところだから氷見と言った。
・海の漁り火が見えるところだから火見と言った。
・海が干し上がって、陸地になったところだから干海 (ひみ)と読んだ。
を挙げてある。ちなみに「きときと」とは富山弁で新鮮なことを意味する。

「丸山」、前の「多湖老狐」に注したが、再掲しておくと、「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」PDF)の裏表紙には、十二町潟には一つぽつんと島があった、として「布施の丸山」の写真が載る。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、「中納言家持の勝遊の樓の跡」というのはどうか? ここは当時、十二町潟の中の孤島であったはずである。そこに別荘を建てたというのは、私は少し眉唾であるように思われる。但し、ここに「式内の神布施明神ましくて」とある通り、布勢神社(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイト「玄松子の記録」の同神社に、『古文献によると、当社に関する社名は、布勢社、諏訪社、御影社などの相違が見られる。現在、御影社は、境内社として大伴家持を祀り、本社では、大彦命を祀る。ともに、当地へ赴任してきた開拓者としての立場。諏訪社に関しても、出雲から信濃への途上に当地へやって来たものだろう』と分析され、以下に出る「御影(みかげ)の神社」についても、『境内社の御影社は、本殿の後方に鎮座。大伴家持は、越中国守に赴任し、当地「布勢の水海」を愛したという』。昭和六〇(一九八五)年の「大伴家持千二百年祭」の折りに、『御影社は新築され、旧社殿は、右端に残されている。御影社は、文献によっては見影社、水影社とも書かれるが、「水影社」という表記は、布勢の水海にちなんだものだろうか』と述べておられる。麦水が布勢神社と御影社を混同しているのは、この当時、既に後者が廃頽していたことを意味するように思われる。さらに、「社頭案内」の電子化に「布勢の円山」は『今から約』千三百『年前は、ここから見える田園一帯は「布勢水海」と呼ばれる大きな水海でした。大伴家持は』七四六年から七五一年まで『越中の国守として越中国府(現在の伏木)に住んでいました。大伴家持は、布勢水海をこよなく愛し、遠く都から訪ねてきた友人らと舟遊びをし、美しい風景を数多く歌に詠んでいます』。

 布勢の海の沖つ白波あり通(がよ)ひ

    いや每年(としのは)に

      見つつ偲(しの)はむ

(以上は「万葉集」巻第十七の長い賦(三九九一番。こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「布勢の海(富山県氷見市)」を参照されたい)に添えた短歌(三九九二番)

『(布勢の水海の沖に立ちさわぐ白波の美しい景色を、 こうしていつも通ってきて、毎年眺めることとしよう)』とあり、「境内案内」の「布勢の円山」の電子化には、『布勢の円山は、水田の中に島のように盛り上がっているので、どこから見ても丸く見える。周囲約三百メートル、高さ約二十メートル、そこから の眺めはありし日の布勢水海を思いめぐらすのに最適である』。『祭神は、四道将軍の一人として北陸道の鎮撫にあたったという大彦命で、布勢一族が祖先神をまつったものと伝えられている』。『この社の後ろに境内社として「御影社」があり』、『大伴家持をまつっている』。『布勢神社境内にある石碑は万葉にかかわる碑として、県内最古のものといわれる享和二年(一八〇二)の古碑(山本有香撰文)と明治三十三年、大伴家持の千百年祭が行われ、地元の有志によって建てられた大伴家持卿之碑(重野安繹撰文)が向かい合っている』とあり、同じく「万葉の歌碑と御影社」には、

 明日の日の布勢の浦みの藤波に

    けだし來鳴かず散らしてむかも

(巻第十八の四〇四三番。一本には初句を「ほととぎす」とする)

『この歌は、天平二十年(七四八)三月二十四日、奈良の都から使者として越中に来た田辺福麿の歓迎宴の席上、国守大伴家持が「明日はまず越中の名所布勢の水海へ案内しましょう」と福麿を誘ったのに対して、福麿との間にとりかわされた歌のなかの一首』で、『福麿が』、

 藤波の咲き行く見ればほととぎす

       鳴くべき時に近づきにけり

(同四〇四二番。五首詠んだうちの最後のもの)

『とよんだのに対して家持が「明日眺めようという布勢の海べの波のように咲き匂う藤の花に、ほととぎすが来て鳴かないで、せっかくの花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです」と答えたもの』で、『藤波とほととぎすによって布勢の水海の季節感を美しく歌いあげている』とある。これらの歌は国府の館での詠。先の古国府の勝興寺附近にあったのである。

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」以下に古墳が多いことが記されてあり、埋蔵金伝説には古墳がつきものであるから腑に落ちる。

「三社が崎」不詳。原十二町潟の奥の岬か。

「古墳も又多し」「北村さんちの遺跡めぐり」のマップ参照。サイト「北村さんちの遺跡めぐり」にはここから五回に亙って詳細に氷見市の古墳の解説がある。但し、氷見市上田子の北の柳田の知られた柳田布尾山古墳を除いて、殆どは十二町潟の北或いは北西に展開している。原十二町潟の範囲を考えると腑に落ちる。

「十三塚」現在、脇方(わきがた)十三塚古墳群があり、この氷見市脇方には旧地名に「十三塚」がある。

「十三入江」不詳。個人サイト「万葉のふるさと氷見」の「氷見の遺跡・古墳」を見ると、万尾川(もおがわ)及び仏生寺川流域にある広域の古墳群を総称するのに「十三谷」という呼称が存在するようである。

「雅(みやび)なるを知らず」豪華なものは知らない、の謂いか。

『「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず』中西進氏の講談社文庫「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、「布勢」で、題を含めると十五を数え、歌に詠まれたものは九首を数える。

『「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん』既出既注。前の「多湖老狐」の「雪の島」の私の注を参照。唐島説は私も否定する。というより、そこで述べた通り、これは島の固有名詞ではない。従って以下の麦水の同定考証も無効である。

「いくぼ」富山県氷見市飯久保(いくぼ)。ここは原十二町潟の最奥部に当たる。

「ゆやまの池」不詳。富山県氷見市森寺には湯山城跡があるが、ここ(グーグル・マップ・データ)は内陸の山間部で阿尾(あお)から海が貫入していたとしても、十二町潟とは有意に離れており、おかしい。

「三社の端(はし)」不詳。先の「三社が崎」の端という謂いではあろう。

「富饒(ふぜう)」現代仮名遣「ふじょう」。富んで豊かなこと。特に本邦では米をはじめとした穀類や農作物に対して言う。

「故に景秀でたるに非ず」麦水はしかし、ここでは、なかなか正鵠を射ている。確かに今の景色は絵にかいたように素晴らしいけれども、かつて、ここに広大な幻の十二町潟が広がっていた万葉の時代を想起するがよい、でなくては万葉人たちのしみじみとした感懐は、これ、到底、味わえぬと示唆しているものと私は読む。

「狩野中務(かのうなかつかさ)」先の飯久保には飯久保城跡がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。ウィキの「飯久保城」によれば(そこでは「いいくぼ」と読んでいるが、現在の地名でも「いくぼ」である)、『富山県氷見市南部を支配していた狩野氏の居城。越中国鞍骨山城、越中国惣領砦も狩野氏の持ち城だったと云われており、以前は鞍骨山城が狩野氏の居城であったとされていたが、近年ではその立地から飯久保城が居城であり鞍骨山城はその詰城だったのではないかと考えられている。もしくは当初は山間部の鞍骨山城に拠っていたが、勢力を強めて徐々に平野部へと進出した過程で飯久保城が築かれ、これを拠点としたとも考えられよう。また戦国時代の一時期には越中国池田城城主三善一守が拠っていたと云うが、正確な時期は不明』。『狩野氏は元々は加賀国の在地領主であった。鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてこれに拠っており、中先代の乱では宮方として活躍している。その後は加賀国守護富樫氏の家臣であったが』、長享二(一四八八)年に『発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死。加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行した。狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと云う。飯久保城の正確な築城年代は不明だが、これ以降であろう』。『狩野氏は越中国守護代神保氏の配下であった様だが、その動向を窺うべき史料は少なく、不明な点が多い』。永禄年間(一五五八年~一五六九年)には狩野中務丞良政の名が見え、『良政は富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られる』。永禄四(一五六一)年には『一族の宣久が飯久保城の近くに在る光久寺に対して寺領を寄進し』、『租税を免除している(『光久寺古文書』)。また上杉謙信や佐々成政に仕えている事から、神保氏の中でも越中国守山城主神保氏重、氏張系統の家臣団に組み込まれていた様である。狩野右京入道道州は、神保家没落後上杉家に臣従し、子の狩野秀治は上杉景勝に仕え重用されている』。天正一三(一五八五)年八月に『豊臣秀吉が越中へと攻め込んで成政が降伏した(富山の役)後、狩野氏は没落して飯久保城を離れたと云う。その後飯久保城の名が史料から見えなくなり、また前田氏が領する事でその戦略的利用価値を失ったと考えられる事から、さほど時を置かずして廃城になったと思われる』とある。

「大手先」本丸の正面出入り口「大手口」に当たる部分。パソコンの会社組織の作成に成る「史跡 飯久保城跡」にある「枡形虎口」(写真豊富で解説も詳しい。但し、一番上の現地案内板の左の図は南北が逆になっているので注意)から降りた平地附近であろう。現在も田圃で北を仏生寺川が流れるが、往古は原十二町潟の入り江がここまで伸びていたものと思われ、北の丘陵部にかけて以下の浮橋があったものと考えられる。

「南條(なんぜう)の浮橋」「浮橋」水上に筏や多くの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋で、江戸時代までは特異なものではなく、各地で見られた。舟橋(ふなはし)。とも呼ぶ。「神通巨川」の「舟橋川」の注に出した、「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」を見られたい。「南條」という地名は見出せない。

「家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて」麦水はよほどこの孤島の丸山に家持の別荘を建てずんば止まずである。されば、少なくとも「万葉集」所収のその十五の前書出現の歌や賦及び詠み込まれた九首総てを読み、解釈したが、それらは布勢(後の十二町潟)の水際に遊んだ、遊ぼう、舟を浮かべた、浮かべよう、そこの美景を見ずにはおられない、という内容ばかりであって、どこにも「布勢の海」「布勢の浦」「布勢」に島があるとは記されておらず、当然の如く「丸山」などという地名も出現しない。狭い孤島「丸山」島に別荘を作ったなどとも、そこに人々を招待したなどとも一言も書いてないし、それを匂わせる部分もない。この拘りは何? って感じ。或いは彼は既にただの干拓地になってしまっていた田舎さびたポンコツの歌枕の地を「万葉」の名所にして売り出そうとでもどっかの誰かさんみたように思ったものか? とすれば、今も昔も変わらんわい、という気はしてくるのである。

 

 其後のことにやあらん。「白女(シラメ)」と聞えし遊君の歌人下向のことありしに、此地の何某いかなる宿緣にや、一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく、明暮恨みて伸び上りのびあがり是を望むに、自(おのづか)ら長竿郞(ながかんらう)の如し。終に人の交りを絕し、此湖に入りて、執念凝りて白龍と化すと、古き物語に聞えし。其地は今や岡野に變し、布勢の湖も十が一にも狹まりたれば、何れの土中か測り難し。然れども地下は必ず龍窟と覺えて、雪島と指すべきあたり龍氣あること顯然たり。近く安永の初め、此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通りに、白く長きもの住みて久しく去らず。折々川口にも遡(さかのぼ)り遊びし躰(てい)なり。渡(わたし)の舟より是を見るに、水底(みなそこ)に居る時は水悉く白し。折々は脊を顯す、白く丸く只雪の如し。脊のみ見えて首尾を出(いだ)さず。或人稀に首を見るに「四角なりし」と云ふ。浦傳ひに遊泳して日を經て隱る。然るに誰云ふともなく、

「白男(しらを)白男」

とよぶ。思ふに是(これ)白女か[やぶちゃん注:「が」か。]夫にして、雪島の地下の主(ぬし)是ならん。湖中狹まりたりといへども、國恩撫育(ぶいく)民(たみ)に濕(うるほ)へば、猥(みだ)りに地を沒し作毛を損ひ難(がた)く、折々近き海畔(かいはん)に遊泳して、又雪の島の地中に歸り住むこと眞然(しんぜん)たり。誰が名付くともなく、世人の「白男」と云たるは、誠に天然の妙と覺えたり。されば「六渡寺の渡り」と云ふは、則ち伏木の浦口にして、雪解(ゆきげ)の流(ながれ)の頃は、「シガ」と云ふ物張りて舟を塞(ふさ)ぐ。是又氣あるが如し。慶長の年、「靈鬼」なる男此渡りを通りて、龍氣を閲(けみ)せしこと「中外傳」に見えたり。思ひ合すに是ならん。古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く。又故ありと覺ゆ。是等の事など問合(とひあは)せて、舟を氷見に還しぬ。

[やぶちゃん注:「白女(シラメ)」不詳。珍しい底本のルビ。

「遊君の歌人」歌を詠み、気が向けば体も鬻(ひさ)いだであろう女性芸能者。恐らくはこの伝説は、前の「多湖老狐」に出た「万葉集」巻第十九の四二三二番を詠んだ「遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)」がルーツであろう。しかし、「一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく」って何よ? 端折り過ぎいーの、圧縮し過ぎいーの、解凍不能のカチンコチンやないけ?

「長竿郞(ながかんらう)」憧(あくが)れ出ずる魂が長々と伸ばした釣り竿のような状態になった情けない野郎の意か。全然、同情が湧かぬわい。

「雪島と指すべきあたり」だからね! そんな島は、ない、ちが!!

「安永の初め」一七七二年が元年。一七八一年までの十年。

『此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通り』既注既注。射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称。現地の駅名標などでは「ろくどうじ」(現代仮名遣)が正しい。伏木の小矢部川対岸の庄川河口である。但し、「此續き」と言っているが、続きっちゃ続きだけど、氷見市街からだって実測十キロメートルは離れてますからね。元の十二町潟だった干拓地の下に埋まった白龍が何だってわざわざ十キロ以上も離れた、無関係なこんな場所まで出張って来てまで、姿を現わさにゃならんがいね? わけわからんちが!

「渡(わたし)」こここそ、実は何を隠そう、かの有名な「勧進帳」の原型、「義経記」の「如意の渡し」ぞ!

「眞然たり」とは全く思いません!

「シガ」河氷の一種。厳冬期に気温と川の水温が適度に低くなると、水面に無数のシャーベット状の氷が現われ、その氷が、そのまま川の流れに乗って流れる現象をかく呼ぶ。河川の流下断面積を減少させるため、用水路の取水障害を発生させることがある。日本での発生地域として、福島県と茨城県を流れる久慈川上流部の矢祭町から大子町袋田付近にかけての約十五キロメートルの区間が挙げられるが、これは世界的に見ても、比較的、低緯度の地域で発生する流氷現象である。学術的には「晶氷」「氷晶」と表現する。なお、「氷花」或いは「氷華」と表記する例も見られるが、これらは漢字の当て字である。古来には川底の石の表面に氷ができ、それが浮かび上がる現象と言われてきたが、これは発生原因を正しく表したものではない。発生の初期段階においては、川の水温が摂氏零度近くまで下がると、水面付近にある厚さ数ミリメートルの熱境界水層で水が局所的に冷却されて氷となり、川面を流れ始める。その状態がさらに進むと、川全体が過冷却となり、水面から露出する石の周囲や川岸・川底に氷が形成されることもあるが、大半は水面由来のものである。また、北海道などの寒冷地では水面上への降雪によって生じる。この降雪によって生じた晶氷は比較的柔らかい(以上はウィキの「シガ」に拠った)。なお、小学館「日本国語大辞典」にも方言として載るが、語源は記されていない。

「是又氣あるが如し」「この現象もまた、白龍の気が、かく不思議なことを成しているかのようにも見える」と言うのであろう。

「慶長の年」一五九三年から一六一五年。

「靈鬼」「れいき」か「りやうき」か。分からん。こないな名前、附けよるは、偏奇なやっちゃな、知らんわ、もう。

「中外傳」既出既注であるが、再掲しておく。さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。

『古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く』伏木に六年いたが、こないないくそるような話は聴いたことがないっちゃ!

「白男」はあ……大量発生したミズクラゲ(鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia aurita)でないの?……

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