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カテゴリー「怪談集」の211件の記事

2017/06/25

宿直草卷二 第一 急なるときも思案あるべき事

 

宿直草 卷二

 

  第一 急なるときも思案あるべき事

 

Kumokai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。中央のものが拝殿で、左手奥にあるのが祭殿で、そちらの天井裏が化け蜘蛛の巣であったものか。]

 

 靑侍(なまさふらい)ありて、道をゆくに、里遠き所にて、日、暮れたり。

「如何(いかゞ)せん。」

とあたりをかけるに、林下(りんか)に古き宮あり。すなはち、拜殿にあがり、柱にそふて、

「こゝにしも、夜をあかさん。」

と思ふに、朱(あけ)の玉垣は年ふる苔に埋もれ、幣帛(ゆふしで)、風に飛んで、淺茅(あさぢ)がもとに朽(く)つ。巫女(をとめ)の袖の鈴(すゞ)たへて、巫(きね)が手向(たむく)る祝(のつと)もなし。露になく滋野(しげの)の虫は、榊(さかき)をさそふ嵐にこたへ、壁に亂るゝ蜘蛛(くも)の網(ゐ)は、庭の眞葛(まくず)が蔓(つる)にあらそふ。荒れしをまゝの有樣は、いとゞ秋てふ悲しかりける。

 やゝ宵も闌(たけなは)にして、四更の空とおぼしきころ、十九(つゞ)二十(はたち)ばかりの女房、孩子(がいし)を抱(いだ)きて、忽然と、きたる。

「かゝる人家も遠き所へ、女性(によしやう)として夜更(よふけ)て來(く)べきにあらず。いかさまにも化生(けしやう)の者にこそ。」

と、うしろめたく用心して侍りしに、女、うちゑみて、抱きたる子に、

「あれなるは、父にてましますぞ。行(ゆき)て抱かれよ。」

とて、突き出す。

 この子、するすると來(く)るに、刀に手かけて、はたと、睨めば、そのまま歸りて、母にとりつく。

「大事ないぞ、行け。」

とて、突き出す。重ねて睨めば、また、歸る。かくする事、四、五度にして、退屈やしけん、

「いで、さらば、自(みづか)ら參らん。」

とて、件(くだん)の女房、會釋(ゑしやく)もなく來るを、臆せずも、拔き討ちに、ちやうど、斬れば、

「あ。」

といひて、壁をつたひ、天井へ、上がる。

 明けゆく東雲(しのゝめ)、しらみ渡れば、壁にあらはな貫(ぬき)を蹈(ふ)み、桁(けた)なんど傳(つた)ひ、天井を見るに、爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛、頭(かしら)より背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有(あり)て、天井も狹(せば)し。

 あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり。

 凡そ思ふに、化物と思ひ、氣(き)を逼(せ)きつゝも、五輪をきらば、莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)もあるは折れ、あるは刃(は)もこぼれなん。その時にして、人をとりしにや、よき工(たく)みなりかし。此人も心せきて、身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を斬らざるは、あゝ、果報(くはほう)人かな。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻三の一「いか成化生の物も名作の物にはおそるゝ事」のインスパイアであるが、そのプロトタイプは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「賴光郎等平季武、値産女語第四十三」(賴光の郎等(らうどう)平季武、産女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。また、「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は、その「曾呂里物語」版の完全な同話であり、同じ「諸國百物語」の「卷之四 十 淺間の社のばけ物の事」の趣向に至っては、本「宿直草」版に異様なほど酷似する但し、後者ではエンディングで主人公の肝試し目的の侍が脇差を逆手に持って塔の九輪を突き通していたという為体(ていたらく)となっており、本条の最後の荻田安静の評言は、あたかもこの後者の話を意識したかのように読めるのも面白い。以前に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同じ年の刊行であり、当時の人々が先に「諸國百物語」を読み、後で本話を読んだら、殆んどの人が、明らかに「宿直草」が「諸國百物語」をインスパイアし辛口評を附したのだとさえ考えるであろうと思う。こうなってくると、両書の影響関係は非常な興味を喚起すると言える(リンク先は孰れも私の電子テクスト注)ので是非、比較されたい

「靑侍(なまさふらい)」身分の低い若侍。なお、狭義の「あをさぶらひ」は公卿の家に仕える六位の武士で、彼らが「青色の袍(ほう)」を着たことに由来する。「袍」は衣冠束帯などの際に着用する盤領(まるえり)の上衣。更に言っておくと、この「青色の袍」は「麴塵の袍(きくじんのほう)」を指し、それは元来は天皇が略儀に着用した桐・竹・鳳凰・麒麟を組み合わせて一単位とした文様が織られた上着であったが、これを六位の蔵人が拝領して着用することがあり、それが以上の武士階級に広く着られるようになり、意味も格変化していったものである。

「かける」「驅ける」。よほどの鄙で、雨露を凌ぐべき場所が視界域には何も見えなかったから焦ったのであろう。

「幣帛(ゆふしで)」岩波文庫版では『木綿垂』と漢字表記する。「木綿四手」とも書くが、「四手」は当て字。元来は「垂らす」意の動詞「垂(し)ず」の連用形の名詞化したもので、原義は「木綿 (ゆう) を垂らすこと」である。「木綿 (ゆう)」は現行の木綿(もめん)ではなく、和紙の原料として知られる「楮」(イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera。「姫楮」(コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki)と「梶の木」(コウゾ属カジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)の皮の繊維を蒸して水に晒し、細かく裂いて糸としたものであって、主に幣(ぬさ)として神事の際に榊(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonicaの枝に懸けたものを指す。所謂、玉串(たまぐし)や注連繩(しめなわ) などに附けて垂らす現在は紙になってしまったあれである。ここは氏子も参る者もいなくなった廃社で、古い注連繩に附いていたその木綿垂(ゆうしで)も、すっかり風に吹き飛ばされて、なくなってしまっているのである。

「淺茅(あさぢ)」丈の低い茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の叢。

「巫女(をとめ)」後の「鈴」から神楽舞いをする未婚女性の巫女/神子(みこ)。

「巫(きね)」「巫覡」(音は「フゲキ」)とも書く。これは広義には神に仕える神官や巫女 (みこ)を指すが、前に「巫女」を出しているから、こちらは祭儀を主宰する男性神官を「祝(のつと)」祝詞(のりと)。

「滋野(しげの)」草生い茂る野原。

「虫」原典の字体。

「榊(さかき)をさそふ嵐」かつて神前に手向けられた榊を吹き散らす大風。ここの祠の荒廃の寂寥を次のそれに「「こたへ」(應へ)る如き虫の音とともに倍化させる。

「網(ゐ)」岩波版の漢字表記を用いた。「ゐ」は「居」で蜘蛛の巣であるが、「蜘蛛の網(い)」という語があり、それは「ゐ」ではなく、「蜘蛛の巣」或いは「蜘蛛の糸」の意も示す。

「眞葛(まくず)」葛(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata)の美称。

「いとゞ秋てふ悲しかりける」秋という季節の、激しく、哀しく切ないことを思わせることであろうか。詠嘆の連体中止法。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「十九(つゞ)」「つづ」は本来は「十」を意味する。事実、「つづはたち」という語が存在し、これは本来は「十かや二十」という不定数(或いは定倍数)を指す古語であったものが、特に「十(つづ)や二十(はたち)の」年齢の謂いとして使用された際に、誤まって「十九か二十の」の意に用いられてしまった結果、「つづ」が「十九」の意に慣用化されてしまったものという(「日本国語大辞典」等を参考にした)。因みに、この下の「づ」は「一つ」などの助数詞「個(つ)」と同語源で「十個(とつ)」が転訛したものとも言うが、何だか私には怪しい感じがしてならない。因みに、「十九(つづ)」から「九十九折(つづらおり)」を連想する方もいるかも知れぬが、これは「葛折」で藤蔓などの蔓性植物が幾重にも折れ曲がって伸びていることからの比喩表現であり、「九十九」は当て字に過ぎない。しかし、私は「九十九」が「つづら」なら、「十九」を「つづ」と読もうとする人間が居たとしても強ち変ではない気がした(その場合、牽強付会するなら「ら」は複数を現わす接尾語と考え、それを落すことが「九」の一つを外すことになり「十九」と洒落てみたい気もする)。それが「十九」を「つづ」と読むようになってしまったとする説があっても、これ、よさそうな気さえするのである。

「孩子(がいし)」幼児。現代中国語でも年齢制限なしに「子ども」の意で用いる。因みに、現代の本邦では五歳位までに亡くなった子どもの戒名にこれを附すぐらいで、日常の「子ども」という使用例はまず見ない。

「うしろめたく」どうなるか不安で。

「ちやうど」一種のオノマトペイア的副詞。濁音が古いあ、後に清音「ちやうと(ちょうと)」ともなった。物と物とが強くぶつかったり、打ち合う音の形容。所謂「はっしと」や現代の「バシッと」に同じい。

「貫(ぬき)」穴。

「桁(けた)」柱の上に横に渡して垂木 (たるき) を受ける材で、梁 (はり) と打ち違いになる。

「爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛」間違ってはいけない。脚の先端節部分だけで二尺、六十一センチ弱もある女郎蜘蛛(鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata)というのだから、巨大である。この数値を第一脚の先端の長い鉤のように湾曲した節の長さと採ると、その実際の同種の脚節と全長比から見て、脚の全長(第四対脚の先端まで。ジョロウグモは脚が長い種である)では五倍はあるから三メートルは有にあり、実際の同種の頭胸部+腹部だけの比で見ても、脚を本体も六十センチ以上はあるだろう。因みにジョロウグモは性的二形が著しいことで知られ、成体の体長はで十七~三十ミリメートルに対し、は六~十三ミリメートルとの半分以下である。ここは母として化けてもいたことでもあり、この異様な巨大さからも、まず、である

「狹(せば)し」原典は「せばし」。底本は『挾し』(ルビなし)であるがこれは採れない。岩波文庫版を参考に、かく、した。

「あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」この前後は原典は勿論、底本なども総て繋がっているのであるが、私は恣意的に以上のような改行を施した。その理由は、この堰を切ったような感懐表現は前の天井裏に山と積もれた「人の死骸」へのそれではなくて、青侍が恐怖の天井裏から降りて来て、ふと近くの地面を見て思わず「連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」と気づき、その崩れた五輪塔は一体「あゝ、誰(た)がかたみぞや」と感慨を催した倒置法と読むからである。

「莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)」名剣の譬え。この伝承(リンク先参照)で名剣の名となっている「干將(かんしょう)」と「莫耶(ばくや)」は、実はもともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。時間の許す方は、先日、電子化したばかりの柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)の私の注の冒頭の長い「干將鏌耶(かんしょうばくや)」を是非、参照されたい。

「その時にして、人をとりしにや」それを好機として蜘蛛怪は人を襲ったのではなかろうか。或いは、朽ち崩れた五輪塔には何箇所もの刀傷の痕があるのを青侍は見たのかも知れぬ。その方がまた、映像的には優れる。

「よき工(たく)み」蜘蛛怪が人間を襲うための巧妙な戦略。

「心の外(ほか)に」予想外の。

「越度(おつど)もあるべし」致命的な過ちを犯していたかも知れぬ。

「果報(くはほう)人」「人」は「にん」か。幸運な人、或いは、前世の善き因果によってかくもからき命を救われた人の謂い。]

2017/06/24

宿直草卷一 第十二 弓法の德をおぼえし事

 

  第十二 弓法の德をおぼえし事

 

 むかし、弓をたしむ人あり、ひとり、夜みちゆく。己(をの)がわざなれば、祕(ひ)めにし弓に矢を十筋(すぢ)取(とり)添へて出でけるが、また、道にて小竹原に入つて、篠(しの)を一本切(きり)、矢のたけにくらべ、根をそぎ、筈(はず)をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

 さて行くに、みちの眞中(まんなか)に、その色(いろ)、黑きもの、あり。人よりは小さふして、さらに動かず。

「退(の)け。」

といへど、いらへず。

「いかさまに狐、貉(むじな)なるべし。」

と思ひ、矢をはなちて射るに、手ごたへして、あたると見しも、飛(とび)のく音、かねなど、射るがごとし。しかれども、やをら、はたらきもせず。また射るも始めのごとし。一筋一筋と射るほどに、十筋みな射て、たゞ一本、殘れり。

 このとき、かの物、動きて、上(へ)にかづきし物を、わきへのけて飛(とび)かゝるを、のこる一すぢにて射止(いと)めたり。さて、間(ま)ちかく見れば、狸にて、上にかづきしは鍋(なべ)也。おそろしきたくみにあらずや。その十の數(まず)、知りしにや。また、十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ。狸すら、それをくりて、うかゞふ。まして、人なんどの智には考ふべきをや。きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る。

 『祕事(ひじ)は、まつげのごとく、これ、弓法(きうぼう)の德なり』といへり。惣(すべ)て、人にぬきでて藝ある人は、つねづねの心がけも各別なりけらし。この事にかぎらず、氣をつけ、心をくばらば、物ごと、よくとゝのふべきものをや。三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ。如夢僧都(によむそうづ)のゑぼしも、河風すさぶ折柄(をりから)には、ひとかど、晴(はれ)の用にたてりとあればとて、四明年(しみやうねん)にことくどき人も、我におゐて、うるさし。

 

[やぶちゃん注:弓で軽く連関。前話の一般論としての「見越し入道」が狸の変化(へんげ)であることを確定的なものするなら、狸の変化で直連関する。

「筈(はず)」矢筈(やはず)。弓矢の尻のV字形に加工した弓弦(ゆづる)を懸ける部分。

をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

「いかさまに」ここは副詞的用法で、「きっと・恐らくは」の意。

「貉」ここは前に狐を出して並列しているので狸のこと。

「やをら」元は対象生物などがゆっくりと動作を始めるさまを指す。ここは「おもむろに」。

「はたらきもせず」動こうともしない。

「十筋みな射て」その中で追加して作った即製の仮の箭(や)は既に交ぜ射ているのである。そうでないと、流石に篠竹の鏃なしのそれは、とどめを刺す一本にするには心もとないからである。

「かづきし」被っていた。

「その十の數(まず)、知りしにや」一応、疑問文であるが、この狸は、殆んど確述用法で十という数を認識していたのである。

「十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ」十という数はありとあらゆる場面の中で常用される数で、種々の複数の対象物の一揃えにこの数を用いている。

「それをくりて」「くりて」「繰りて」。その放った矢の数を冷静に順に一つずつ数えて。

「まして、人なんどの智には考ふべきをや」畜生の狸でさえそうなのだから。まして、人間なぞの普通の者の持つ智恵などに於いては、これ、容易に考えつくことに決まってる。

「きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る」そう考えると、この弓術師が敢えて即席の矢を作り添えて、総数を十プラス一にして夜道を行ったのは、まっこと、心憎い仕儀ではないか。

「祕事(ひじ)は、まつげのごとく」「祕事は睫(まつげ)の如し」容易くは理解出来ぬとされる奥義や秘密というものは学ばなければなかなか習得出来ないものの、実は睫毛は直ぐ眼の前にあるにも拘わらず、近過ぎて見えているという認識がないように、秘事・奥伝といったものは意想外に誰でも知っている常識のほんの近くにあるものであるといった意味の故事成句。「我が眼(まなこ)を以つて我が睫を見んとするが如し」或いはもっと短く単に「秘事は睫」とも言い、より知られた類義成句は「灯台下暗し」である。

「三番のあど」不詳。能狂言でシテに対する相手役を「アド」と称し、相手役が二人以上登場する場合は,主な相手役の「アド」を「主(おも)アド」または「一のアド」と称し、以下「次(じ)アド(二のアド)」、「三のアド」と言うが、その最後のものか? 端役であるが、能狂言の端役中の端役とも言えるが、彼が居なければ、芝居は成り立たないから、バイ・プレーヤー乍ら、芝居成立に必須な人物=知恵者の謂いか。そういう意味であるなら、ここはさらにその「三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ」と常人の気づかぬ、この世の中には実は必須であり、同時に名もなき知恵者の存在が厳然としてあるのだと謂うのであろうか。大方の御叱正を俟つ。

「如夢僧都(によむそうづ)」これは恐らく、「如無僧都」の誤りであろう。「十訓抄」の「上」の「第一」の中に、平等院僧正行尊の気配りを讃えた一条の最後に、

   *

昔、宇多法皇、大井川に御幸の日、泉大將の、烏帽子(ゑぼし)、落したりけるに、如無僧都、三衣(さんえ)箱より烏帽子取り出でたりけんに、劣らずこそ聞ゆれ。

   *

と出る出来事を指すものと思われる。如無僧都は平安前期の公卿藤原山蔭の子で法相宗の僧。興福寺に住し、延喜六(九〇六)年に権律師に任ぜられて宇多天皇の覚え宜しく、承平元(九三八)年に大僧都となって、天慶元(九三八)年に遷化している。

「四明年(しみやうねん)にことくどき人」不詳乍ら、四年も先のあれこれのことを、くどくど言っては何やかやとそのときのためにあれをしろ、これをした方が良いなどとお節介をする人の謂いか? 大方の御叱正を俟つ。

宿直草卷一 第十一 見こし入道を見る事

 

  第十一 見こし入道を見る事


Mikosinyuudou

 ある侍(さふらひ)の語りしは、

『我、ますらおの若かりしとき、犬をつれて狩(りやう)にいでしが、その夜、仕合(しあはせ)惡(あし)し。一里ばかりの道越えて、はや歸るべきとおもひ、山の頂上にやすらひしに、岩(いは)漏(も)る滴(しづく)、物さびて、篠ふく風もらうがはしく、天漢(てんかん)ほしひまゝに橫(よこたは)りて、昴星(はうせい)うつすべき露なし。落ち葉、道ふさぎては、蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり。

 此(この)山、西、ひがしに嶺つゞけるに、北向きてたちしが、前の谷より、なにとなふ、大きなるもの立ち上がる。そのかたち、彷彿(はふほつ)として見わけがたけれど、れんれんに立(たち)あがるにぞ、化け物とは知りぬ。かくて見守(まも)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]りゐるに、向ふの山のいたゞきより、その背、猶、高し。星の光りにすかして見れば、大きなる坊主なり。

「さては古狸などの化くる、見越し入道といふものにこそ。おそらくは射止めんものを。」

と、弓、取り直し、素引(すび)きして、猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢をとり、かの坊主の面(つら)を、目も離(はな)たず、睨(にら)みゐるに、ひた物、高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「もはや、時分もよし、一矢、射ん。」

と、弓引きしぼり、ねらへども、あまり大きにして、矢つぼ、定めがたく、案じわづらふ間に、ふつと、消えて、更にそのかたち、なし。

 このときに、見えし星の影もなく、にはかに暗ふして、前後、途(と)を失ふ。何の害もなかりしかども、有無(うむ)に、道、見えず。目指すとも知がたし。所詮、歸らんと思ひけるにも、行くべき方を知らず、口惜しく思へども、すべきやうなし。連れし犬に嘯(うそ)かけて呼び、犬の頸綜(くびたま)に鉢卷を結(ゆひ)、わが帶(おび)の端(はし)に是をつけて、行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず。犬にまかせて歸るに、ひとつの家、みえたり。其とき、心を付(つ)くるに、暗さも止みて、もとの星月夜(ほしづくよ)となり。見つけし家はわが家なり。その後(のち)は、友いざなひて、ひとりは出でず。」

と、いへり。

 

[やぶちゃん注:狩人が山巓で体験する怪として前話と繋がるが、全体の結構や巨怪の出現及び挿絵の人と見越入道の配置構成などは、二話前の「第九 攝川本山は魔所なる事」との親和性がすこぶる高い。

「見こし入道」日本の妖怪の一種としては、かなりメジャーな、しかもその巨大さとインパクトから、しばしば妖怪の首魁として登場する一種である。ウィキの「見越し入道」を引く。『江戸時代の怪談本や随筆、及び日本各地の民俗資料に見られる』もので、『夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくなる』。『見上げるほど大きいことから、見上げ入道の名がついた。そのまま見ていると、死ぬこともあるが、「見こした」と言えば消えるらしい。主に夜道を』一『人で歩いていると現れることが多いといわれるが、四つ辻、石橋、木の上などにも現れるという』。『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛』『をかみ殺されるともいう』。『九州の壱岐島では見越し入道が現れる前には「わらわら」と笹を揺らすのような音がするので、すかさず「見越し入道見抜いた」と唱えると入道は消えるが、何も言わずに通り過ぎようとすると』、『竹が倒れてきて死んでしまうという』。『岡山県小田郡では、見越し入道に出遭った際には頭から足元にかけて見下ろさなければならず、逆に足から頭へと見上げると食い殺されてしまうという』。『その他の対処法としては「見越した」「見抜いた」と唱えるほか、度胸を据えて煙草を吸っていたら消えたとか(神奈川県)』、『差金で見越し入道の高さを計ろうとしたら消えた(静岡県)などの例もある』。『岡山県のある地域では、厠で女性がしゃがんでいると、キツネが化けた見越し入道が現れて「尻拭こうか、尻拭こうか」と言って脅かすという』。『また、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ほととぎす」と唱えると必ず見越し入道が現れるともいう』。『これらの厠に関する伝承は、厠に現れるといわれる妖怪・加牟波理入道』(かんばりにゅうどう:僧形で厠を覗き、口から鳥を吐く妖怪))『と混同したものとの説もある』。『西村白鳥による江戸時代の随筆『煙霞綺談』では見越し入道は人を熱病に侵す疫病神とされており、以下のような話がある』。正徳年間(一七一一年~一七一五年)、『三河国吉田町(現・愛知県豊橋市)の商人・善右衛門が名古屋の伝馬町へ行く途中でつむじ風に遭い、乗っていた馬が脚を痛め、善右衛門も気分を害してうずくまっていたところ、身長』一丈三、四尺(約四メートル)『もの大入道が現れた。その入道はまるで仁王のようで、目を鏡のように光らせつつ善右衛門に近づいてきた。善右衛門が恐れおののいて地に伏していると、入道は彼を踏み越えて去って行った。夜明けの頃に善右衛門が民家に立ち寄り「この辺りに天狗などの怪異はあるか」と尋ねると「それは山都(みこしにゅうどう)と呼ばれるものではないか」との答えだった。後に善右衛門は目的地の名古屋に辿り着いたものの、食欲が失せ、やがて熱病に侵され、医者の手当ても薬も効果がなく』、十三『日目に亡くなってしまったという』。『見越し入道の正体は不明とされることが多いが、変化(へんげ)能力を持つ動物とする地方もある。福島県南会津郡檜枝岐村』(ひのえまたむら)『の伝承ではイタチが化けたものとされ、入道の巨大化につられて上を見上げると、その隙にイタチに喉を噛み切られるという』(ここで、ウィキの筆者は「宿直草」ではタヌキが化けたものとされていると記すが、それは本条で狩人が世間でそう言われているとして口にするものであって、この狩人が遭遇した見越し入道が本当に狸の変化(へんげ)であったかどうかは判らないようになっているので注意されたい)。『キツネが化けているという地方もある。信濃国(現・長野県)ではムジナが化けたものといわれる』。『また前述の檜枝岐では見越し入道は提灯、桶、舵などを手に持っており、その持ち物こそが本体で、持ち物を叩けば入道を退治できるともいう』。「妖怪画」の項。『単に見越し入道といっても、妖怪画では様々な姿として伝えられている』。『江戸時代の妖怪絵巻『百怪図巻』(画像参照)や妖怪双六『百種怪談妖物双六』では、顔や上半身のみが画面に大きく捉えられているのみで、身体的特徴ははっきりとしない構図となっている』。『鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に「見越」の題で描かれた見越し入道』(リンク先に画像有り)『は大木の陰から覆い被さるように出現した様子を捉えたもので、首が長めになっているが、これは背後から人を見る格好で、ろくろ首のように首の長さを強調しているわけではない』。『このように巨大な妖怪という特徴で描かれた見越し入道が存在する一方で、江戸時代のおもちゃ絵などに描かれた首の長いろくろ首かとさえ思える見越し入道も決して珍しくない』。『ろくろ首との関連を思わせるものも存在し』、『ろくろ首の伝承の多くが女性であることから、男性版のろくろ首とも例えられることもある』。『この首の長さは時代を下るにつれて誇張されており、江戸後期には首がひょろ長く、顔に三つ目を備えているものが定番となっている』。『妖怪をテーマとした江戸時代の多くの草双紙でも同様に首の長い特徴的な姿で描かれており、そのインパクトのある容姿から、妖怪の親玉として登場することがほとんどである』。北尾政美(まさよし)の黄表紙本「夭怪着到牒(ばけものちゃくとうちょう:天明八(一七八八)年刊)では、『尼入道(あまにゅうどう)という毛深くて長い首を持つ女の妖怪が登場しており、これは女性版の見越し入道とされている』(リンク先に画像有り)。『民間伝承における見越し入道に類する妖怪は、』「次第高(しだいだか)」・「高入道(たかにゅうどう)」・「高坊主(たかぼう)」・「伸び上り」・「乗越入道(のりこしにゅうどう)」・「見上入道(みあげにゅうどう)」・「入道坊主」・「ヤンボシ」或いは単なる「見越し」などがある。また、『静岡県庵原郡両河内村(現・静岡市)ではお見越しともいって、道端にいる人に小坊主の姿で話しかけ、話している途中に次第に背が高くなり、その様子を見続けていると気絶してしまうが、「見越したぞ」と言うと消えるという。道端に優しい人の姿で現れ、通りかかった人が話しかけると、話の内容によっては大きくなってみせるともいう』。『熊本県天草郡一町田村(現・天草市)では』漢字表記の異なる「御輿(みこし)入道」として『伝承されている。下田の釜という地の一本道に現れるという身長』五丈(約十五メートル)『の妖怪で、出遭った人を今にも嘗めるかのように舌なめずりをするという。ある者がこれに出遭い、一心に神を念じたところ、入道は恐れをなし、御輿のようなものに乗り、布を長く引いて山のほうへと飛び去ったという』とある。

「ますらおの若かりしとき」「ますらお」は「益良男・丈夫・大夫」などと漢字表記するが、歴史的仮名遣としては「ますらを」が正しい。若く、且つ、雄々しく強い男であった頃。採話した折りの話者は既に老齢に入っていると読める。

「仕合(しあはせ)惡(あし)し」猟の仕儀が頗る悪い。猟果が全くない。

「物さびて」何ともいえず、古めかしい感じで寂れており。

「もらうがはしく」騒がしく、耳について五月蠅い。

「天漢(てんかん)」銀漢。銀河。天の川のことであるが、ここは狭義のそれというよりも、星が密集している感じを与えるという謂いでとってよいと思う。

「ほしひまゝに」その光を夜空にそのままずらりと鏤め敷いたままに横たわって夜空を異様に明るくしてしまい、その結果として露に「昴星(はうせい)」(おうし座の散開星団であるプレアデス星団(Pleiades)。和名は「すばる」。通常、肉眼でも輝く五~七個の星の集まりを見ることが可能なほどよく光って集合して見える)の光りが見えないのである。ここは、その昴(すばる)の星の光りを映すはずの夜露が全くないという意味ではなく、あまりに満天の星空が冴えきって、総ての星が孰れも光り輝いているために、却って普段なら目立って小さな露にさえ映るはず昴の星の光りが、露の中に「つゆも」見えないというニュアンスで言っているものと私は採る。ここがそのように異様に降るような満天の星空であることは、「蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり」と、細い細い蜘蛛の糸にさえ、それらの星々の光りが輝いていることからも判るのである。そしてまた、この異様な綺羅星こそが、最後のシーンの暗転の恐怖へと転ずるための伏線なのである。

「彷彿(はふほつ)として」ここは、姿・形がぼんやりとしか見えないさま。

「れんれんに」形容動詞。その対象物がずっと続いていて絶えないさま。

「おそらくは」「きっと・必ずや」或いは「憚りながら」の意。

「素引(すび)き」弓に矢をつがえずに弦だけを引くこと。これは矢を射る準備行動ではなく、所謂、「弦打ち」で、妖魔を避けるための呪的防禦行動と思われる。

「猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢」岩波文庫版の高田氏の注に、『心臓形の猪の目の透かし彫りを施し、鏃の先を二股に作って内側に刃を付けたものを取りつけた矢。狩猟用』とある(挿絵がただの征矢なのは残念)。刀鍛冶福留房幸氏のブログ「一閑人 刀鍛冶 福留房幸の日々」のらねかりまたの画像を見られたい。素晴らしい!

「ひた物」副詞。無暗と。ひたすら。

高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「矢つぼ」「矢壺・矢坪」で矢を射る際に狙いを定める所。矢所(やどころ)。

「有無(うむ)に」副詞。すっかり。全く。

「目指すとも知がたし」完全な暗黒で、今歩いてはいても、自分が一体どこを目指しているものやら判り得ない為体(ていたらく)であることをいう。後の「行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず」も同じい。

「所詮」副詞。結局のところは。

「嘯(うそ)かけて犬を呼び」唇をすぼめて口笛を発し、犬を呼び。

「頸綜(くびたま)」犬の頸部に附けた索状か。それとも「首っ玉」という単に首の謂いか。識者の御教授を乞う。ただ、「鉢卷」一本を犬の首に結いつけてその端を腰帯に結び付けるというのはその鉢巻の長さが相当にないと無理と思われる。]

宿直草卷一 第十 本山の岑に天火おつる事

 

    第十 本山の岑(みね)に天火おつる事

 

 本山(ほんざん)の近邊に萩谷(はぎたに)といふ山家(さんか)あり。そこなる人、たゞひとり、夜行(やこう)に出でたり。しばし、あされども、狸の床にも尋ねあはず、高嶺(たかね)にいこふて、烟草(たばこ)なんど喰(た)うべしに、西の方よりも、物の鳴る音、おびたゞし。しばし有て、長さ一町もやあらん。太さも二腕(かい)ばかりの天火なり。其(その)左右(さう)に鞠(まり)ほどなる火とんで、さらに數へがたし。光り、爛漫として、あたかも白晝のごとし。とゞろきて本山の嶺(みね)に落(おち)たり。炎(ほのほ)、四方(よも)にちる事、五、六町もやあらん。落ちて響(ひゞき)やまず。三十町ばかりへだてし我がゐる山も地震(ぢしん)のごとし。

 さて、靜まるよ、と見るに、二、三千人の聲して、鬨(とき)をつくる事、押しかへして、三度、せり。山彦、こたへて、目覺(めさ)ましき有樣(ありさま)なり。恐ろしなんど云ふばかりなし。帝釋(たいしやく)、阿修羅(あすら)の戰(たゝかひ)のごとく、天狗どちの爭ひにやあらん。また、寺、近けれども、心なき身の、たゞ狩りくらしぬる我にしも、かしこくも示し給ふ、多聞天のつげにやと、日來(ひごろ)にあらため、これも獵(かり)を止(や)めけるとなり。

 

[やぶちゃん注:本山寺ロケーションで前話「第九 攝川本山は魔所なる事」と直連関するだけでなく、話柄内容も夜に狸を狩る狩人の殺生への誡めを変怪が示すという点で完全一致しており、しかも筆者は末尾の一節で「これも獵を止めけるとなり」とし、この「これも」は明らかに前話で二人の狩人が夜行をやめたことをダイレクトに受けた続篇として確信犯で記していることが判る。

「天火」一応、「てんくわ(てんか)」と読んでおくが、「てんび」「てんぴ」でもよい。一般名詞としては、落雷によって起こる火災である雷火、或いは、人為でない自然発火による火災一般を指すが、ここは明らかに空中に浮かぶ怪奇現象としての妖火、妖怪としてのそれである。ウィキの「天火」によれば、『天火(てんか、てんび、てんぴ)は、日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている』。『愛知県渥美郡では夜道を行く先が昼間のように明るくなるものを天火(てんび)といい』、『岐阜県揖斐郡では夏の夕空を大きな音を立てて飛ぶ怪火を天火(てんぴ)という』。『佐賀県東松浦郡では、天火が現れると天気が良くなるが、天火が入った家では病人が出るので、鉦を叩いて追い出したという』。『熊本県玉名郡では天上から落ちる提灯ほどの大きさの怪火で、これが家の屋根に落ちると火事になるという』。『佐賀県一帯でも火災の前兆と考えて忌まれた』。『かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、熊本県天草諸島の民俗資料『天草島民俗誌』には以下のような伝説がある。ある男が鬼池村(現・天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという』。『天火は飛ぶ』際、『奈良県のじゃんじゃん火のように「シャンシャン」と音を出すという説もあり、そのことから「シャンシャン火」ともいう』。『「シャンシャン火」の名は土佐国(現・高知県)に伝っている』(個人的には、この見た者に死を齎すともされる音を伴う不吉な妖火。「ジャンジャン火」は私の妖火の好みの最たるものである)。『『甲子夜話』によれば、佐賀の人々は天火を発見すると、そのまま放置すると家が火事に遭うので、群がって念仏を唱えて追い回すという。そうすると天火は方向転換して逃げ出し、郊外まで追い詰められた末に草木の中に姿を消すのだという』。『また、天火は雪駄で扇ぐことで追い払うことができるともいい、安政時代の奇談集『筆のすさび』では、肥前国で火災で家を失った人が「ほかの家の屋根に火が降り、その家の住人が雪駄で火を追いかけたために自分の家の方へ燃え移ったため、新築の費用はその家の住人に払って欲しい」と代官に取り計らいを願ったという語った奇談がある』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「天火(てんか)」として記述されており、これにより家を焼かれた者、焼死した者があちこちにいるとある。同書の奇談によれば、あるところに非情な代官がおり、私利私欲のために目下の者を虐待し、目上の者にまで悪名を負わせるほどだったが、代官の座を降りた翌月、火の気のないはずの場所から火が出て自宅が焼け、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類などもあっという間に煙となって消えた。この火災の際には、ひとかたまりの火が空から降りてきた光景が目撃されていたという』とある。但し、ここの「天火」は少なくとも現認した狩人の認識は毘沙門天(多聞天)の示した殺生の誡めとしてのものとして不吉なものではなく、事後に災いを受けた後日談もない。また、やめたのも狩り総てではなく(山家に住まう主人公はそれを主たる生計(たつき)としていた可能性がすこぶる高いから完全にやめることは出来ないはずである)、前の話を受けている点でも、危険な「夜行の狸狩り」のみと読める。なお、科学的な側面から見ると、現象的には激しい地響きを立てて落ちるところ(しかも落雷の光が先行して落ち、後に落雷音が時間差で聴こえる点)などは自然現象としての落雷の印象(放電や接地箇所を探るように延びるその細部をそれなりにスローで観察したもの。夜間に動体視力のある狩人が、ある程度の距離(後注参照)から観察したものとするなら、私はあり得ぬことではないように思われる)が強いようには思う。

「萩谷(はぎたに)」現在の大阪府高槻市萩谷であるが、本山寺より西或いは西南に四~五キロは隔たっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狸の床」「たぬきのとこ」タヌキの寝床。巣。

「いこふ」「憩ふ」。

「烟草(たばこ)なんど烟草喰(た)うべしに」煙草を吸っていたとろ。「たぶ」は「食ぶ」で、本来は「のむ」の謙譲語・丁寧語。

「一町」百九メートル。

「二腕(かい)」実際の腕二本分の太さでは長さと比して細過ぎるから(見かけ上の比喩で述べたのならそれで不信はない)、これを人体スケールの両腕幅(両腕で抱えた大きさ)である「比呂(ひろ)」と採るとすると、一比呂は一メートル五十一・五センチメートルであるから、三メートル強といったところか。ちょっと思ったが、この火の柱は毘沙門天がしばしば持つ宝棒、或いは宝塔の九輪をイメージしているものかも知れぬ

「四方(よも)」原典は平仮名で「よも」。底本は「四面」を当てるが、ルビがなく、不親切である。「よも」ならば「四方」の方がルビ無しでも「よも」と読めようと思い、変えた。

「五、六町」五百四十六~六百五十五メートル弱。

「三十町」三キロ二百七十三メートル。

ばかりへだてし我がゐる山も地震のごとし。

「帝釋」帝釈天。梵天とともに仏法の守護神で、十二天の一つとして東方を守る。須弥山(しゆみせん)の頂きの忉利天(とうりてん)の主で喜見城に住むとされる。古代インドのベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。

「阿修羅」古代インド神話の悪神で、インドラ神(仏教に入って帝釈天となる)と激しく戦ったとされる軍神である。釈迦によって教化されたと見做され、八部衆の一つとして仏教の守護神となった。]

宿直草卷一 第九 攝川本山は魔所なる事

 

  第九 攝川本山(ほんさん)は魔所なる事

 

Honnzannmasyo

 

[やぶちゃん注:図は底本のものであるが、清拭し、さらに汚い左右の枠を意図的に除去して空間的広がりを持たせた。]

 

 津の國本山(ほんさん)は毘沙門天の靈場なり。山城の鞍馬寺、河内(かはち)の國信貴(しぎ)の山、今此(この)所と日本の三毘沙門といへり。雲たなびいて、懸繒(けんぞう)たえず、月すみて、然灯(ねんとう)とこしなへなり。千尋(ちひろ)の溪谷(たに)、前後にふかく、數里(すり)の嶺峯(みね)、左右(さう)につゞけり。こゝにして現世安穩(けんぜあんをん)の寶祚(ほうそ)をいのり、當來解脱(たうらいげだつ)の惠炬(ゑこ)をかゝぐ。またかくれなき魔所なり。

 そのふもと、川久保と云(いふ)里に、獵(かり)する人、ふたりつれて、夜行(よこう)ひきにゆく【たぬきをとりに夜出づる事】。ひとりは弓箭(ゆみや)をもち、またの袖は樫(かし)の棒をつく。常になれたる犬を連れて、まだ宵かけて出でしに、やうやう月もおち、夜も更(ふけ)ゆけど、獵(りやう)、さらにきかず。あまり殘り多かりければ、多門(たもん)におそれて日ごろは行かざりけれど、今宵は本山さして向ふ。坂、けはしふて、いかんともしがたし。やゝ登れども、道、なをはるけきに、連れたる犬、震ひわななきて、あまさへ、股倉(またぐら)のしたに隱る。さだめて、猪(いのしゝ)、狼(おほかみ)やうのもの來るにこそと、片手、矢はげて進むに、行くべき坂の眞中(まんなか)に、その長(たけ)八、九尺にして、色は炭(すみ)にまがふ頭(かうべ)を下へなし、白き鉢卷(はちまき)を帶(おび)たり、足は上(かみ)にのけぞつて、弓手(ゆんで)のかた、丈餘の棒を、をく、眠るが如くにして仰(あふ)のきに臥したるものあり。

 其間(あひ)十間(けん)ばかりになりて、二人のもの、見つくるといへど、とかく物もえいはず。たゞ尻(しり)ざりに半反(はんだん)ばかり退(しりぞき)て、わが里十餘町の坂道を、石につまづき、僜僜(ころびころび)歸りしが、互(たがひ)に家になりて、

「今のもの見たるか。」

と吐息(といき)して云ひけり。

 そのゝち、夜行(よこう)を止(や)めしと也。

 

[やぶちゃん注:【 】はここで初めて出る割注。原典では二行でポイント落ち。

「本山」大阪府高槻市大字原にある天台宗北山(ほくさん)霊雲院本山寺(ほんざんじ)。本尊は毘沙門天。ウィキの「本山寺(高槻市)」によれば、高槻市北郊の京都府との境に近い山間部に位置する。『本山寺の寺号は戦国時代の記録には見えて』いるが、『寺伝によると、役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間』(七七〇年頃)『に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている』。『北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している』。天正一〇(一五八二)年の『山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹って』焼失したものの、慶長八(一六〇三)年には『豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建』、江戸時代に入って宝永年間(一七〇五年頃)に第五代『将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が改修を加え』ている。『現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる』。『戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住(よすみ)にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城』(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう:同高槻市の三好山にあった日本の山城から畿内にかけて広汎に『権勢を奮っていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している』。また、『江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受け』たとある。本文にもある通り、鞍馬寺・信貴山朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」の一つとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「毘沙門天」先行する「第二 七命ほろびし因果の事」の「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」の私の注やウィキの「毘沙門天を参照されたいが、毘沙門天(四天王の一人としては多聞天と呼び、本文の後に出る「多門(たもん)」は多聞天のことである)の像型ではしばしば右手に宝棒や三叉戟(さんさげき)を持ち、この異形の怪人が右手に持つそれとの類似性が認められ、首が炭のように人間の肌(はだえ)とは全く異なるところも、中国の民間信仰に於いて毘沙門天像の顔を緑色に塗るのと類似しているようには見える。

「山城の鞍馬寺」京都府京都市左京区鞍馬本町にある、当時は天台宗であった鞍馬山(さん)鞍馬寺(くらまでら)(戦後の昭和二四(一九四九)年に天台宗より離脱独立して鞍馬弘教総本山となった)。本来は当寺が都の北に位置することから、四天王の中で北方を守護する毘沙門天を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった(現在の鞍馬弘教としての本尊認識は独特な説明で異なるが、それはくだくだしくなるだけなので、ウィキの「鞍馬寺」などを参照されたい)。

「信貴(しぎ)の山」現在の奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)にある真言宗信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。本尊は毘沙門天。本寺は信貴山寺とも称する。

「懸繒(けんぞう)」「げんぞう」と濁るのが寺院では一般的か。「繒」は織りを詰めて細かく織った高級な絹の生地で、この帛(きぬ)絹を仏殿や内陣の天蓋(てんがい)に荘厳(しょうごん)として懸けることを称する。 ここは信者からの高価な布施が不断に多くあることを言うのであろう。

「然灯(ねんとう)とこしなへなり」「燃燈永久(とこしな)へなり」。「燃燈」は法灯のこと。絶え間なく燃え続ける実際の本尊の献灯を永遠に絶えることのない本寺の法灯及び仏法の光明に喩えたもの。

「嶺峯(みね)」二字へのルビ。

「寶祚(ほうそ)」天子の位・皇位。平安旧仏教である天台宗は国家宗教である。

「當來解脱(たうらいげだつ)」必ず来る来世に於ける煩悩から解き放たれた涅槃。

「惠炬(ゑこ)」岩波文庫版の高田氏の注には『大いなる光明』とある

「川久保」現在の高槻市川久保。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「夜行(よこう)ひき」これで一語であろう。殺生であることに注意

「またの袖」頻出している通り、「袖」は「人」の意。連れである今一人。

「さらに、きかず」一向に得物が得られない。

「あまり殘り多かりければ」一匹も獲れない(ものと思われ、それが実は怪異の前兆であることに彼らは気づいていないのである)ので、このまま手ぶらで帰るのは心残りであり、また無性に癪に障るので。

「矢はげて」矢を番(つが)えて。

「八、九尺」凡そ二メートル五〇センチから二メートル七三センチ弱。

「弓手(ゆんで)」右手。岩波文庫版は『弓矢』とするが、誤判読である。

「をく」歴史的仮名遣が誤っているが、「置く」。

「其間(あひ)十間ばかりになりて」狩人二人とその道に長々と横たわった怪人との距離が十八・一八メートルほどになったところで。月も落ちて更けた頃合いの山道に於いて、この距離で、この怪人の姿を二人がともどもにしかりと現認出来たというのは不審であり、それはとりもなおさず、彼らが異界に導かれてつつあったことを示し、或いは、狩人の夜目の良さというよりも、この怪人自体妖しく光っていたからだったのではなかろうか?

「とかく物もえいはず」互いにものを言い交すことが出来なかったというのであるが、実は、これが効果的であったと言える。変怪に遭遇した際、相手が何ものであるかを見切ることが出来ずに、恐怖の余り、言葉を発してしまうと、変怪に有利に事態が進行してしまうのが民俗世界での一つの定理でもあるからである。世界的な神話の形式に於いても誤った言上げや恐怖の叫び声は神霊鬼神の勝ちとなってしまうことが多いからである。

「尻ざりに」後退(あとじさ)りで。

「半反」「はんたん」で、「反」はかつての距離単位の一つ。「六間」(一〇・九メートル)を「一反」とするから、凡そ五メートル半。

「十餘町」十町は一キロ九メートル相当。

「僜僜(ころびころび)」「轉び轉び」。中文サイトを見るに、「僜」には酔って躓くの意があるようである。]

2017/06/23

宿直草卷一 第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異はわざはひなき弁の事

 

  第八 天狗つぶて心にかゝらぬ怪異(けい)はわざはひなき弁(べん)の事

 

 寛永改元、予、いときなき比、大坂石(こく)町邊へ細々(さいさい)行きて泊りしに、その町のさる家へ、夜ごとに礫(つぶて)うつ。數(かず)もおほからず、七つ八つ、あるは戸を十四、五も打つ。打ちて音なきもあり、また、玉霰(たまあられ)のかれ野の篠(しの)を走るが如く、その音(をと)、ころころするもあり。されど、覆垂(おほたれ)、雨落(あまお)ちまで轉(こく)ることは、なし。かくする事、夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず。

 合壁(がつへき)、これに怖れ、隣家(りんか)、眉をひそむ。露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も、

「ゆゝしき大事なり。天狗つぶて打つ家は、かならず燒亡(ぜうまう)の難あり。しかるべき祈りなんど、し給へかし。」

など、いさむれば、まして身ちかき人々は、猶、

「加持拂(かぢはら)へなど、し給へ。」

といふ。しかれ共、此(この)家主、一向宗(いつかうしゆ)なり。何と尊く聞きいれられしにや、

「我、もと、情(じやう)の強(こは)きにてもなし、萬行圓備(まんぎやうゑんび)の念佛より外、わが宗(しゆ)に別(べち)に祈り、なし。」

といひて、曾(かつ)て驚かざれば、いさむる袖も力なく、やめり。案の如く、そのけぢめもなく、家、つゝがなく住(すみ)侍り。

 四十(よそぢ)の春秋を經て、去年なん、その門(かど)を過(よぎ)りしかば、むかしの事思はれて、すぎがてに、内もせ、見いれしにも、あへて古へにかはる事もなし。主(あるじ)はまかりて子の代と見えたり。されば心にかゝらぬ怪異(けい)は、更にその難なきものをや。なふ、お目のまけを取(とり)給へ。空(そら)に花はさき候まじ。「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」と、忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり。梅をおもへば口に酢(す)たまり、虱(しらみ)ときけば肌(はだ)かゆくなる。心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず。いはれぬ氣つかひに、色々を案じ、まちまちのわざはひを設(まふ)く。芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出すが如し。むさと、物事、機(き)にかけまじき事也。惣(そうじ)て小事は身のたしなみ、心のおさめやうにもよるべし。

 身ほろび、家絶ゆるなどは因果なり。あへて觸(いら)ふべからず。

 子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。子の曰(のたふま)く、

「丘(きう)が祈る事、ひさし。」

と。

 目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。佛いはく、

「やみなん、やみなん、助くべからず。これ、因果なり。」

と。

 夫子の仁にをよばす、佛の慈(じ)に及ばず、業(ごう)のなせる所、さらに手はつけられじ。明德眞如(めいとくしんによ)を尊(たと)ぶ人こそ、げに、やんごとなき祈りならまし。咎(とが)をなしても祈るべきを賴(たの)みにせん人、なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき。世の中の憂(う)さには神もおはしまさぬに、すゞしめ給ひしいにし人は、いと愚かにはおはしまさずや。士農工商ともに、身の程をしり、職(しよく)の常(つね)をわすれず、理(ことはり)のとをりに勤めば、いづれのところに害あらんや。祈らずとても神は守らずやはあらん。

 また、易に遊ぶ人の外に、四條繩手(なはて)の風寒み、白川橋(しらかはばし)に踞(しりうた)ぎして、莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで、仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書を讀み、梅花心易(ばいくはしんゑき)なんど引きちらして、綴り侘(わ)びたる素紙子(すがみこ)や、垢(あか)につめたきひとへ物に、時ならぬ編笠の内、蓍(めど)など亂(みだ)しつゝも、人の吉凶(きつけう)直(なほ)すなんどひしめくこそ、嗚呼(おこ)がましくも受けとられね。

 さりとて、祈禱なんど無益(むやく)と云(いふ)にはあらず。をよそ、現世の利益(りやく)は佛(ほとけ)の道の方便(てだて)にして、いと有難き操(みさほ)なりけり。むかしの才(ざえ)すぐれ德(とく)尊(たと)き世捨人は、雨をこひ、疫(えき)をやめて、造化の變をとゞめ、人民(にんみん)の助けとす。是、その德にあらずや。たゞ怨むらくは、愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人、歎くにも猶あまりあり。わざはひは病(やまひ)なり。祈(いのり)は藥なり。藥、よく病をいやすとて、毒もおそれず用ひべくは、誰(た)があやまちぞや。平生(へいぜい)、此(この)理(ことはり)を以て、まどふべからず。理をたづねば、匹夫(ひつぷ)とても舜門(しゆんもん)の人ならん。あくまで道理をたづぬべきか。

 しかるに、此(この)つぶてうたれし家主も、自然と機にもかけざるは、理の常(つね)をえし冥加(みやうが)ならんか。

 

[やぶちゃん注:第六の「天狗の礫」から「天狗の石切」に移り、再びここで「天狗礫」へ、しかも筆者自身の実体験として戻ってくるのは、まことに実録怪談の真骨頂と言うべ観があって素晴らしいなお、再度示すが、「天狗礫」については、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。

「弁(べん)」漢字は原典のママ。道理に従った主張・論説。

「寛永改元」元和十年二月三十日(グレゴリオ暦一六二四年四月十七日)に改元している。徳川家光の治世。この前年、家光は第二代将軍秀忠とともに上洛し、七月二十七日に征夷大将軍の宣下を受け、江戸帰着後に秀忠は隠居している。この時、筆者荻田安静は「いときなき比」(ころ)であったと言っている。安静は生年未詳であるが、没年は寛文九(一六六九)年である。引き算すると、寛永元年は四十五年前である。「いとけなき」というのは数え十代未満と考えてよく、しかもその折りの天狗礫に纏わるこのような話をここまで正確に細部まではっきりと記憶しているとなると、満年齢で八~九歳を推定し得るとすれば、荻田安静の生年は元和元(一六一五)年か翌二年が大きな候補とはなろうと思う

「大坂石(こく)町」現在の大阪市中央区石町(こくまち)。大阪城の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「細々(さいさい)」漢字表記は原典のママであるが、これは「再々」で「たびたび」の意であろう。岩波文庫版でも「再々」と表記し直してある。

「覆垂(おほたれ)」「尾垂(おだ)れ」。屋根庇(やねびさし)の、主に関西での謂い。

「雨落ち」軒先から落ちる雨水が地面に当たっては跳ね返り、その跳ねた雨水で建物の壁等を汚してしまうことを避けるため、砂利を敷き詰め、雨水の跳ね防止を意図として考えられた軒下の人工部分。この当時、調べた限りでは、民屋で廂の先に雨樋(あまどい)を持っているというのは普通はなかったようである。

「轉(こく)る」転がる。

「夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず」ここでの天狗礫がこの期間限定で、しかも連続して発生し続けるものところが面白い。この特性は、これが全くの気象現象であるにしろ、人為であるにしろ、その真相を解明する一つの鍵となるやも知れぬ

「合壁(がつへき)」壁一つ隔てた隣家。後の「隣家」それよりも離れたそれであろう。

「露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も」「露の玉ゆら」は「訪ふ」を引き出す序詞。「訪ふ袖」はこの家を「訪問する」(親しい)「人」の意。

「加持拂(かぢはら)へ」怪しげな修験者の山伏風の者などが民間で行った加持祈禱染みたお祓い。

「一向宗(いつかうしゆ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『今の浄土真宗。専修念仏を重んじ、加持祈禱の類を嫌った宗旨』とある。だから、以下なのである。

「何と尊く聞きいれられしにや」反語。一向宗であればこそ、どうしてそんな慫慂を受け入れられようか、いや、断固として断った、というのである。

「情(じやう)の強(こは)き」人々の心配の思いに対して冷淡にして頑固な性質(たち)。

「萬行圓備(まんぎやうゑんび)」岩波文庫版の高田氏の注に、『仏教徒の修めるべき行が全て備わっていること』とある。

「けぢめ」岩波文庫版では『区別(けじめ)』とある。ある対象や状況が次第に移り変わってゆく、その前と後の違い。凶兆ならば禍いとなるような大きな変化があるはずであるが、そんなことは何も起こらなかったのである。

「去年」「こぞ」と訓じておきたい。

「すぎがてに」「過ぎがてに」無視して通り過ぎることが出来ずに。「がてに」は連語で、動詞の連用形に付いて「~することが出来ないで」の意を表す。これは元来は上代語「かてに」(可能の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形)であったが、その語源認識が薄れてしまい、「難(がた)し」の語幹変形と解されて生じた語。但し、既に上代からその誤用例は見られる。

「内もせ」岩波文庫版の高田氏の注に、『家がまえ。「もせ」はおもて、の意』とある。

「見いれしにも」何か、その後によくないことでも起こってはおるまいかとよく家構えを外から観察してみたが。

「お目のまけ」「眚」「目氣」等と漢字表記し、眼病の一種を指す。岩波文庫版の高田氏の注には『眼に白いもやがかかるように見えるのを指す。目気とも。転じて膜』とあるから、白内障の類いであろう。

「空(そら)に花はさき候まじ」「そら」は原典のルビであるから、空中に忽然と花が咲くとは御座いますまい、であろうが、意義としては何もない虚「空」(こくう)に「花」が化生(けしょう)して咲き開くなどということはあり得ないでしょう? と言っているのであろう。

「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(私のデータは昭和三二(一九五七)年に京都の其中堂が刊行した土屋悦堂編のそれであるが、これは近世に禅語の内容を判り易い俗謡にしたものを近代に蒐集して編したものと思われる)に「鳴子をば己が羽風に動かして心と騷ぐ群雀」とある。全くの自己責任に基づく疑心暗鬼という自業自得を意味していよう。

「忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり」確かに。「忌」という漢字は「己」と「心」から成る。解字としては「心」は音符。「己」も音符ではあるが、と同時に「畏れる」の意を持たせる。

「心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず」いい意味でも悪い意味でもある一つの心理状態が生成されると、それに対し、さまざまな見かけ上の「物の在り方」が生成される、但し、それは単なる仮りの現象に過ぎぬ、と言った意味合いであろうと私は解する。

「いはれぬ」はたの者どもが好き勝手に口にしてしまった。「ぬ」は完了。

「芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出す」そのままにしておけば、気持ちの悪いそれを見て不快な思いをすることもないものを、わざわざ必要もないのに、芥溜(ごみため)めをほじくりかえしては、蚯蚓を引っ張り出すような余計なことをする。

「むさと」「むざと」。むざむざと。無暗矢鱈に。

「機(き)」「氣」に同じい。誤字ではなく、禪機などのそれのように、心の働き方を表現する語。

「觸(いら)ふ」「弄(いら)ふ」。もてあそぶ。思いつきとして安易に口にすべきことではない。

「子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。……」「論語」の「述而篇第七」に載る。

   *

子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。

   *

 子の疾(やま)ひ、病(へい)す。子路、禱(いの)らんと請ふ。子、曰く、「諸(これ)、有りや。」。と。子路、對(こた)へて曰く、「之れ、有り。誄(るい)に曰く、『爾(なんぢ)を上下(しやうか)の神祇(しんぎ)に禱る』と。」と。子、曰く、「丘の禱ること、久し。」と。

   *

「諸(これ)、有りや。」「そのような病気平癒の祈禱などをし、それが治る、或いは、治ったとする先例などがあるのか?」。「誄」は本来は死者の生前の功績を讃える弔辞であるが、ここは祈禱を集めたものの篇名であろう。「丘の禱ること、久し。」「子路よ、そういった類いの祈禱ならば、私はもう久しい間、やってきたよ。――やってはきたが、思い通りになった試しはこれ、一度としてなかった。」と言うのである。但し、子路は孔子より先に細切れにされて塩漬けにされ死んでいるので、これは孔子の実際の死の直前のものではない。

「目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。……」目蓮は通常は「目連」で仏陀十代弟子の一人で「神通第一」とされた人物。これは恐らく、「太平記」の「北野通夜(つや)物語の事付けたり靑砥(あをと)左衛門事」の中で、法師が南朝には期待し得る臣下がいないことを説明するために語る仏陀の摩訶陀(まかだ)国絡みの故事を元にしている。非常に長いのである程度のシークエンスと因果律の語りが判る部分までを引用する。

   *

……斯かる處に釋氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へ返忠(かへりちゆう)[やぶちゃん注:裏切り。]をして申しけるは、

「釋氏の刹利種(せつりしゆ)[やぶちゃん注:古代インドの四姓の第二で釈迦もその出自である。]は五戒を持ちたる故に、かつて人を殺す事をせず。たとひ、弓強くして遠矢を射るとも、人に射當つる事は有るべからず。ただ寄せよ。」

とぞ教へける。寄せ手、大きに悦びて、今は楯をも突かず、鎧をも著ず、鬨(とき)の聲を作りかけて寄せけるに、げにも釋氏どもの射る矢、更に人に當らず、鉾(ほこ)を使ひ、劍(けん)を拔いても、人を斬る事無かりければ、摩竭陀國(まかだこく)の王宮、忽ちに責め落され、釋氏の刹利種、悉く一日が中に滅びんとす。この時、佛弟子目連尊者、釋氏の殘る所無く討たれなんとするを悲しみて、釋尊の御所(みもと)に參つて、

「釋氏、已に瑠璃王(るりわう)の爲に亡ぼされて、僅かに五百人殘れり。世尊、何ぞ大神通力を以つて五百人の刹利種を助け給はざるや。」

とされければ、釋尊、

「止みなん止みなん、因果の所感、佛力にも轉じ難し。」

とぞのたまひける。目連尊者、なほも悲しみに堪へず、

「たとひ定業(ぢやうごふ)なりとも、通力を以つてこれを隠弊(いんぺい)せんに、などか助けざらんや。」

と思し召して、鐡(くろがね)の鉢の中に、この五百人を隠し入れて、忉利天(たうりてん)に置かれける。

 摩竭陀國の軍(いkさ)はてて、瑠璃王の兵ども、皆、本國に歸りければ、今は子細あらじとて、目連、神力の御手を暢(の)べて、忉利天に置かれたる鉢を仰(あふ)けて御覽ずるに、神通を以つて隱さるる五百人の刹利種、一人も殘らず、死ににけり。目連、悲しみて、其の故を佛に問ひ奉る。佛、答へて宣はく、

「皆、是れ、過去の因果なり。爭(いか)でか助かる事を得ん。……[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

「明德眞如(めいとくしんによ)」仏教に於ける正しく公明な徳と、あるがままの絶対の真理。

「なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき」反語。「内證」は仏教に於いて自分の心の内で真理を悟ること。

「すゞしめ」「涼しめ」。清(きよ)め。祭事を行って神を慰めること。

「いにし人」「往にし人」「いにし」は連体詞で、元は動詞「往ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いたもの。過ぎ去った過去の人々。

「いと愚かにはおはしまさずや」反語。後の「いづれのところに害あらんや」も「祈らずとても神は守らずやはあらん」も同じく反語。

「易に遊ぶ人」易学を趣味好事(こうず)とする人々。ここに出すのは取り敢えず、本来の「易經」をちゃんと読み、学ぼうとする人々を指すのであろう。そうした人々より低級で胡散臭い「外」の自称易者が以下にリアルに描写されるのである。

「四條繩手(なはて)」四条以北の鴨川の土手の呼称。祇園白川は直近。

「白川橋」現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れる淀川水系鴨川支流の白川の、京都市東山区内に架かっていた橋。現行のそれは(グーグル・マップ・データ)であるが、ここで言っているのが、これと全く同一かどうかは知らぬ。

「踞(しりうた)ぎして」腰かけて。

「莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで」川風や寒気の防ぎにもなりそうにもない莚や屏風で狭く囲ったところで。

「仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書」「かんな」は「かな」に同じい。世俗に堕した怪しげな占い書。

「梅花心易(ばいくはしんゑき)」「先天易」と称する易学を樹立した北宋の思想家邵雍(しょうよう 一〇一一年~一〇七七年)の著わした占筮法(せんぜいほう)について書かれた書。岩波文庫版の高田氏の注には、『任意に一字の画数を取り、八を減じて余数から卦を得、易理に依って吉凶を断ずる。手引書が江戸初期に数種類』、出版されていた、とある。

「素紙子(すがみこ)」柿渋を引かない白地の紙子(かみこ:紙で仕立てた衣服)。安価で貧者が用いた。ここは見た目も妖しい、当時の売卜者・辻占い師などの着衣や被っていた笠の粗末さの描写であろう。

「蓍(めど)」占い師の用いる筮竹(ぜいちく)。

「ひしめく」野次馬のように群がっては言い立てて騒ぐ。

「嗚呼(おこ)がましく」分不相応にして差し出がましく、出過ぎたことだ、或いは、如何にも馬鹿げている、全くばかばかしいという謂い。文脈上は前者であるが、結局は後者の謂いで纏めていよう。

「疫(えき)をやめて」疫病の流行を収束させ。

「誰(た)があやまちぞや」「愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人」自身の過ちであると喝破するのである。

「舜門(しゆんもん)」「舜」は中国古代の伝説上の聖王舜で、ここはその正統な流れを汲むところの儒教の真の理解者のことを言う。]

宿直草卷一 第七 天狗、いしきる事

 

  第七 天狗、いしきる事

 

 右のはなしの次に、さる侍のいはく、

『我主(わがしう)も日光山の御普請の事承りて、筑紫(つくし)の山にて多く石を切るに、奉行三人云ひ付る内、我も其一人なり。ある夜、つれぐなるまゝに、小屋をいでゝ四方(よも)を見るに、例の山に火ありて、石切る音、高(たか)う聞えり。

「さては相奉行(あいぶぎやう)兩人の談合(だんかう)にて、夜普請を申しつくるにこそ。さてさて心得ぬ事かな。ことに此頃、石工人步(せきこうにんふ)、粉骨のせいを致すに、そのわたくしなし。しかるに夜詰(よつめ)までは情なし。よしまた思ひよるとも、我も奉行なり。したりがほに相談もなく申しつくる段、すこぶる奇怪の事、かつうは、はらぐろなり。意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき。」

と思ひ、小屋にかへりて臥(ふ)す。

 夜あくるを待ちかねて、杖つきの者を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「石の事、日算、用いたし候へば、やがて出來申べきに、いかで、さのみはいそぎ給ふ。夜前、三更まで仰つけられ候こそ、心得がたく侍れ。ことに吾(われ)、不祥なればとて、知らし給はず。隔意(きやくい)さしはさまるゝ段、うらみ入(いり)候。急度(きつと)、返事に聞かさるべく候。」

と云ひつかはしければ、兩人ともに、

「かつて知らず。」

といふ。石切り人步(にんぷ)に問へど、おなじ返事にして、あまさへ、我を胡亂(うろん)に思へり。

 さて、つぎの夜、三人ともに出て見るに、石切る音ありて、火、みえたり。

 あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし。

 夜も夜も切る音、十餘日にして、此石、出來ければ、舟につみ、東國へくだせしに、終(つゐ)に難風(なんふう)にあふて、遠江灘(とうとうみなだ)にて海底(かいてい)へしづめり。

 さては、此石、用にたつまじき先表(せんひよう)に、かゝる怪異はありけりと、後に思合(おもひあは)せし。』

とかたれり。

 

[やぶちゃん注:前話を採録したのと同じ席で、しかも同じ日光山普請であって、最早、前話の顕在的続話として確信犯で示されている。しかも「天狗礫」を変形した「天狗の石切」という怪異内容でもダイレクトにジョイントしてある。しかも実録怪談としては細部にまで実に気遣いがなされた超弩級にリアルな話であり、この藩を特定出来ないが(後注参照)、或いは、筑紫のある藩史の記載から、日光山普請のための石材の切り出し任務及びそれを運搬した輸送船が遠州灘で沈没した記録が見出され、それをこの話に附帯して示すことが出来たならば、これは恐るべき「本当にあった怪奇事実」として歴史に残る話となるレベルの一章である。こういう強い現実感を持つ怪談は創作性の強い近世の怪奇談物の中では実は珍しく(採録型の著聞奇談集では普通に多くあるが)、歴史的事実や人物に見え見えの齟齬を施す(或いはきたす)ものが殆んどだからである。

「筑紫(つくし)の山」広域としての旧筑紫国は現在の福岡県の東部(豊前国)を除いた大部分に相当するが、七世紀末までには筑前国と筑後国とに分割されている。しかしそれ以降も両国は「筑州(ちくしゅう)」と呼ばれており、筑前国は筑前福岡藩(江戸前期は黒田家)及び支藩として秋月藩と、一時期(本書刊行時と重なる)には東蓮寺藩(直方藩)があり、筑後国は北部が久留米藩、南部の内、現在の柳川市及びみやま市などの大半に当たる地域に柳河藩、大牟田市に相当する地域には柳河藩と親類関係にあった三池藩が置かれていた。この全六藩の内、藩内に石を切り出せるような山があるのが対象藩となるが、山と限定しなければ複数箇所存在する。ぴったり符合する箇所を郷土史研究家の御教授にて俟つものである。

「火」夜作業用の灯火(としか見えぬもの)。

「人步(にんふ)」人夫。

「そのわたくしなし」その粉骨砕身の日々の努力には、工賃目当てなどという私心などは、これ、微塵もない。あくまで御領主様への御奉公という思いでのみ精を出しているのだ。

「夜詰(よつめ)までは情なし」そんな風に昼間、身を粉にして働いている彼らに、残業の、しかも徹夜仕事をさせるなどというのは、あまりにも人として非情極まりない暴挙ではないか。

「思ひよるとも」そうした過剰労働を自分以外の二人或いは一人の奉行人(監督者)が思いついてやらせているとしても。

「かつうは」「且つうは」。副詞で「一つには・一方では」の意。「且つは」の音変化。

「はらぐろ」「腹黑」。

「杖つきの者」山案内の者の謂いであろう。

を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「日算、用いたし候へば、」予定通りの日程で普通に作業をやって御座れば。

「三更」子の刻相当。現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。

「ことに吾(われ)、不祥なればとて」主人公は他の二人の奉行とはこの石切作業の奉行人となる以前には殆んど面識がなかったということ。

「隔意(きやくい)」対人間に於いて内心に有意な隔たりがあること。まるで打ち解けないこと。要らぬ遠慮。

「急度(きつと)」即刻、きっちりと、必ず。

「石切り人步(にんぷ)に問へど」業を煮やした主人公は恐らく、翌日、昨夜、音のしたところの石切り現場に実際に行き、その人夫に直接、徹夜した事実を糺したのである。でなければ、彼らが主人公を胡乱(うろん)に思うこと、「何、訳わかんないこと、言ってんだ? 徹夜仕事なんぞしてねえのに。」と逆に疑わしく怪しむことはないからで、この辺りこそ、映像的で優れたリアルな描写であると言えるのである。

「三人ともに出て見るに」主人公の体験を猜疑していた他の二奉行を主人公は自分の小屋に招き、実地にその不審を晴らしたのである。それぐらいのことを相奉行らに要求するぐらい、主人公は頭に血が上っていた、怒り心頭に発していたのである。よろしいか? でなければ、彼らを「はらぐろなり」と断じ、「意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき」とまでは思わぬ

「あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし」ところが、三人して前夜に火と石切り音を皆で確認した場所に行ってみると、前日の夜になる前に終了した折りの石の切り跡は、全く変化していなかったのである。書かれてはいないが、複数の人夫に直接、その一帯総てを検分確認させたのであろう。

「夜も夜も」それ以降も毎夜毎夜。

「十餘日にして」そんなことが十日余り続いたちょうど、その頃。

「此石、出來ければ」実際の人夫らによる切り出し作業が終わったので。但し、予定の作業日程通りではなく、藩主の怒りを買わない程度には遅れたものと推定する。何故なら、この深夜の石切り音と灯火という怪異は誰よりも実地作業をする人夫らが知って、「山怪」として恐怖し、作業の遅滞や混乱がなかったはずはないからである。

「難風(なんふう)」船の航行を困難たらしめる暴風。海上の疾風(はやて)。

「遠江灘(とうとうみなだ)」所謂「遠州灘」であるが、これは広義には東海地方の太平洋岸沖合の東西の広い海域、伊豆半島先端の石廊崎から現在の三重県大王崎に至る約百八十キロメートルの海域を呼称し、狭義にはその中でも駿河湾の西に突き出る御前崎から渥美半島西側の伊良湖水道までを限定し、現行では「遠州灘」というと後者で認識されているが、ここは怪異のスケールを大きく採るために是非、前者で採りたく思う。

「先表(せんひよう)」歴史的仮名遣としては「せんへう」が正しい。「せんべう」「せんぺう」とも読み、「前表」とも書く。ある物事の起こる前触れ。前兆。]

2017/06/22

宿直草卷一 第六 天狗つぶて打つ事

 

    第六 天狗つぶて打つ事

 

 ある侍のかたりしは、

『日光山(につくわうさん)御普請(ふしん)の奉行にくだりしに、また他家に有て、ことにひさしくあはざる從弟(いとこ)、これも奉行にて、くだる。互に喜び、狀ども取りかはし、對面の望みありけれども、他家(たけ)の人を、小屋(こや)へいるゝ事、法度なりければ、力なふ、日數をふるに、一日(ひくらし)、從弟のかたより、

「その日其山にて話すべき。」

など云ひ越せしかば、やがて、

「しかるべき。」

と返事して、その日を待ちて出合、越しかた行くすゑまでをかたり、小竹筒(さゝえ)のかすみ汲みつゝも、あくとしもなく話し侍るに、はや、日の駒(こま)も端(は)山におち、餘光(よくわう)もやうやう影くらみければ、提燈(ちようちん)に燭(しよく)をかゝげ、今の時をおしむのみか、又いつの日の音信(をとづれ)など、名殘(なごり)までに及びければ、はや、亥の刻(こく)になりぬ。

 かく暇(いとま)ごひするうちに、いづちよりともなふ、大きなる石を礫(とぶて)[やぶちゃん注:「と」はママ。]にうつ。

「こは、狼籍。」

といへど、きかず。たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば、下下(しもじも)も一際(きは)働くべきに見えけれど、向ふべき相手もなし。とかくするほどに、氈(せん)むしろ疊まんとするに、刀(かたな)にうち、挾箱(はさみばこ)にうつ。あたれる程のもの、みな、損じて、あまさへ、賴み切(きつ)たる挑燈(ちようちん)も打(うち)くだきて、火もつゐに消えぬ。はふはふのていに暇乞(いとまこひ)して、道具などすてゝ、くらき道を主從ともに身(み)がら歸りしに、人には、かつて、あたらず。

 さて、朝(あした)、人をつかはしければ、碎(わ)れしとおもふ道具、そのまゝ有て、取りかへりしなり。

 あまり不審なりしかば、從弟のかたへ尋ねにつかはしければ、其下人が差したる刀の鞘も、

「ゆふべは割れしと思ひしに、けさ見れば、つゝがなし。」

と云ひこせり。まのまへ、かゝる不思議にあひし。』

と語れり。

 

[やぶちゃん注:前話とは天狗で連関し、暫く天狗譚が続く。前の浅草観音堂連関など、本書の筆者が、完全ではないにしても、ある種の構成上の各話の関連性を強く意識していたことが判る。そうして、こうした傾向はある意味で、前話に刺激されて次話が語られる百物語形式の萌芽であるようにも私には見受けられるのである。話者の直接話法形式を採る点でも、信じられる優れた構造を持ってもいる。ここに記された現象は「天狗礫(てんぐつぶて)」などと呼称された、石が空から突然降ってくるという、かなり知られた怪奇現象で、海外では、こうした「その場にあるはずのないもの」が突如、降って来る現象を総称して“Fafrotskies”(ファフロツキーズ:英語)と呼ぶが、そちらは石だけでなく、魚や蛙やオタマジャクシ、獣類の毛、血のような雨等を含んだ異物の広範囲な降下を含んでいる。なお、詳しくは私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。サイト「不思議なチカラ」の大天狗の住む日光。天狗の社・古峯ヶ原古峯神社(栃木・鹿沼市)によれば、古くから日光は天狗の棲家として知られ、日本の四十八天狗に数えられる「日光山東光坊」や、後に群馬県の妙義山に移ったとされる「日光山(妙義山)日光坊」という大天狗がいた。また、日光東照宮の南西十三キロキロメートルの位置にある、現在の栃木県鹿沼市の古峯ヶ原(こぶがはら)高原にある古峯ヶ原古峯神社(こみねじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))は別名「天狗の社」とも呼ばれ、古くから参籠宿泊を行う「天狗の宿」として知られていたという。そもそもが、日光の寺社の開山は奈良時代に遡るとされ、『現在の栃木県真岡市に生まれた勝道上人という人が日光の地に入り、紫雲立寺(現在の四本龍寺)という寺を建立したのが始まりで、中禅寺湖や華厳の滝を発見したのもこの勝道上人だと言われて』いるが、『その後、勝道上人は「古峯大神」というこの地の山神の神威によって、古峯ヶ原を修行の地とし』、それ以降、『多くの僧侶や修験者が古峯神社を中心とした古峯ヶ原を訪れ、修行に励んだという』。『そういった勝道上人や修験者の姿から、御祭神または古峯大神の使いである天狗への信仰が生まれたようで』、この『古峯神社には、天狗を崇敬する人にもし災難が起きたときには、天狗が飛んで来てその災難を取り除いてくれるという、天狗への民間信仰が生まれ』た。ここ『峯ヶ原には隼人坊という天狗がいたと』伝えるが、『この天狗は実は日本の修験道の開祖と言われる「役小角(役の行者)」の弟子であった妙童鬼(前鬼・後鬼)の子孫だという説もあ』り、『古峯ヶ原が修行の地であったことから、この地を護る天狗が修験道の開祖である役小角やそれに従った弟子の前鬼・後鬼と結びついたので』はないかとサイト主は述べられ、『このように修験道や山の神などを介して、鬼と天狗が結びつくこともあ』るとする。本書刊行よりずっと後のことであるが、文政一一(一八二八)年には第十一代『将軍家斉が日光に社参した際に、日光に棲む数万とも言われる天狗たちが騒がないように、一時退去させる命令が江戸幕府から出された』とあり、この時に『幕府の奉行と連名で名を連ねたのが古峯ヶ原の隼人坊であったそうで、一躍、隼人坊の名声が高まったという』話も遺っている、とある。

「日光山御普請の奉行」この場合の「奉行」とは普請奉行ではなく、現場の指揮監督者の謂い。とすれば、この二人の武士は所謂、幕府が各藩に命じた日光山の諸社修復のための「手伝普請(てつだいふしん)」で派遣された武士である。実は次の第七話も同じ場での別な侍からの採話でなのであるが、そこでは冒頭で自分の主君が日光山普請のために藩内の筑紫の山で多くの石を切り出したと始まるから、同席していたこの主人公もそうした手伝普請の派遣職であったと考えてよいと思う。現地には臨時の藩ごとの本部及び出張小屋(本文の「小屋」とはそれであろう)のが設けられ、単純な力仕事の人足などは近隣の村などからを集めて労賃を支払って作業に当たった参照したウィキの「手伝普請」によれば、『江戸時代の初期には、各藩が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われていたしかし、時代が下るにしたがって、落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり、さらには金納化も進行した。そして』、安永四(一七七五)年『以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には、各藩は費用を負担するだけとなり、幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった』。『江戸時代の手伝普請』に於ける『各藩の負担は過重であり、藩の財政を逼迫させる要因のひとつとなった。ただし、他の課役・重職を担っている藩には、手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では、尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩、老中などの要職在任中の藩、溜間詰の大名、長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた』(下線やぶちゃん)とあるが、本書の出版は延宝五(一六七七)年であり、話柄内の描写からも江戸初期のそれであることが判る。

「狀」書状。手紙。

「他家(たけ)」前の注で示したように、この二人は親戚ではあったが、仕えていた藩は違っていたものと思われる。

「その日其山」伏字。実際には実際の日付と実在する山の名が書かれてあったのである。

「小竹筒(さゝえ)のかすみ」「小竹筒」は「小筒」「竹筒」とも書き、それも「ささえ」と読み、酒を入れる携帯用の竹筒を言う。「かすみ」は酒の異名であるが、これは恐らく、現在の清酒以前の、滓(おり)の部分が含まれた「滓がらみ」を「滓(かす)み酒」と称したことによるものと推測する。

「あくとしもなく」「飽くとしもなく」。飽きるということもさらになく。「としも」は連語(格助詞「と」+副助詞「し」+係助詞「も」)で「ということも」の意。ここのように下に打消表現を伴うことが多い。

「日の駒(こま)」ギリシア神話の太陽神ヘリオス(古代ギリシア人は太陽は天翔けるヘリオスの四頭立て馬車と考え、これは後にアポロンと習合した)ではないが、太陽の運行を馬に擬えたものであろう。

「亥の刻」現在の午後九時から十一時。

「といへど、きかず」と石を投げた者を批難したが、それに応える様子もなく、礫の投擲はやまない。

「たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば」主人公と甥は、常人以上になおも武士としての面目をまず第一とし、いわれなき無礼を受けることの恥を、孰れも、最も嫌悪し、言語道断として許さざる性質(たち)の者たちであったので。

「下下」武士である主人公とその甥の、従者たち。

「一際(きは)働くべきに見えけれど」主人たちへの無法な無礼にいきり立って、その石を投げた者に立ち向かわんとしたところが。

「氈(せん)むしろ」毛氈の敷物。

「挾箱(はさみばこ)」諸道具(ここは物見遊山のための)を持ち運ぶための長方形の浅い箱、蓋ふたに棒をとりつけてあり、従者が担いだ。

「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」。副詞で「事もあろうに・あろうことか」の意。「あまりさへ」の転。

「身(み)がら」ただ己が身一つ。礫が異様なほど波状的に間断なく、寧ろ、ますます回数を増やして生じたことが窺われる。

「まのまへ」「目の前」。眼前(がんぜん)間近く実際に。]

宿直草卷一 第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

  第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

Tenngu

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のものであるが、汚損除去と合わせて、今回は四方の枠を総て除去して見た。]

 

 我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん。古今(ここん)の大德(だいとこ)これを病めり。今とても自勝他劣(じせうたれつ)の見(けん)にしづみ、我慢增上(がまんぞうじやう)の念あらば、嘴(くちばし)も翼もなくて、生(なま)の天狗なるべし。才智藝能につき、自(みづか)ら足れりと思はん人は、鞍馬の奧を訪ぬべからず。遠からぬ心の奧の道にまよひては、いにし世にもみな彼(か)の道に落ち給ひしぞかし。いはゆる、佛の毒、魅鬼(みき)のたぐひか。

 かゝるついでに、さる人の語りしは、醍醐へんにての事なりしが、あるつれつれ、出家たち寄り合(あひ)なんどして遊びしに、なにがしの沙門(しやもん)、ただかりそめに座を立(たち)て返らず。圓居(まとゐ)の僧、不審して、寺へ戾りしかと、人やりて見するに、居(ゐ)ず。醍醐中は申すにをよばず、伏見・栗巣野(くるすの)・宇治(うぢ)・瀨田のわたり、所々尋(たづぬ)れども、行方(ゆくゑ)さらにしれず。院内・門前・兒(ちご)・同宿(どうじゆく)、大きに歎きあへり。

 しかるにその三日過(すぎ)て、ある寺の下部(しもべ)、爪木樵(つまきこ)りに山に行きしに、遙けき嶺(みね)を見れば、其(その)色白きもの、大木の、えも至りがたき所に飜(ひるが)へりけるを、寺に歸り、諸人(もろひと)にかたりければ、人々、不審して、かの下部を率て行き、案内(あない)のまゝに鹿の通ひ路(ぢ)わけ越えて、岩の角(かど)、草の蔓(つる)にとりつき、九折(つゝらをり)を登りて見れば、まがふべうもなき、それとしるき、骸(から)なりけり。

 白き小袖は木にかゝり、屍(かばね)は方方へひきちらせり。印契(ゐんけい)むすびし左右(さう)の手も、所々にみだれ、陀羅尼(だらに)を唱(となへ)し唇(くちびる)も、はや、色かはりぬれば、中中に訪ねて悔(くや)む有樣(ありさま)なりかし。これなん天狗の所爲(しわざ)ならん。何たる犯戒(ぼんかい)したまひて、降魔(がうま)の加護もなかりけると、あさましくもかなし。

 

[やぶちゃん注:「天狗」「我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん」ウィキの「天狗」より引く。天狗は『日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物』で、『一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ』、外法様(げほうさま)ともいう。元来、『天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球』(流星)『はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている』。中国の史記を初めとして、「漢書」「晋書」には『天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた』。『仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし』、「正法念處經」の巻十九には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」『とあり、これは古代インドの』ウルカ『(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである』。『日本における初出は『日本書紀』舒明天皇』九(六三七)年二月、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん ?~白雉四(六五三)年:飛鳥時代の学僧で、ウィキの「旻」によると、元々が中国系の渡来氏族の出自で、魏の陳思王曹植の後裔とする系図があるとし、推古天皇一六(六〇八)年に『遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り』、二十四年間に亙って、『同地で仏教のほか易学を学び』、舒明天皇四(六三二)年八月に『日本に帰国』、『その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた』。この流星を天狗の吠え声とした他、七年後の舒明天皇十一年『に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった』と記す)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』と主張している。『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』。『空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方、民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する』。従って、『今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである』。『事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった』。『さらに驕慢な尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期の成立した「今昔物語集」には、『空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載され』ており、これは例えば、永仁四(一二九六)年の「天狗草紙」(「七天狗繪」)として描写されている。『ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった』七『大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれているこれら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる』。「平家物語」には、『「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介され』ている、とある。また、「吾妻鏡」の天福二(一二三四)年三月十日の条の記述には、「二月頃、『南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる』)」と記述されている。他にも「吾妻鏡」では彗星に関する記述が多く記載されてあるが、この記述からこのケースでは『彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)』。『天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられる。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された』とある(下線やぶちゃん)。

「見(けん)」見識。基本的な考え方。思想。

「鞍馬の奧」岩波文庫版の高田氏の注に、『天台宗鞍馬寺奥の院不動堂から貴船へ至る鞍馬山中の称。「そもそもこれは、鞍馬の奥僧正が谷に、年経て住める大天狗なり」(謡曲「鞍馬天狗」)』とある。所謂、牛若丸に兵法を教えたという、あれである。これを「訪ぬべからず」と禁ずるのは、増長慢から妖魔と化した鞍馬天狗は同じ機因を持つ輩を最も嫌うからであろう。

「佛の毒」岩波文庫版の高田氏の注に、『「仏頼んで地獄に落つ」という諺がある』とある。願っていたこととは正反対の意図しない結果に陥ることの譬え。

「魅鬼(みき)」「鬼魅(きみ/きび)」と同じい。鬼と化け物・妖怪変化。この二単語自体は恐らく、「日本書紀」の欽明天皇五(五四四)年十二月を初出とする(「有人占云、是邑人、必爲魅鬼所迷惑。」(人ありて占ひて云く、「必ず魅鬼(おに)の爲に迷惑(まど)はされん。)極めて古い語である。ただ、その意味には実在した当時の、主に日本国外の異民族の海賊などの意味もあった。後代、鼻の高い西洋人を天狗にカリカチャライズした後代との偶然の親和性が面白い。

「醍醐」現在の京都府京都市伏見区東部の広域地名であるが、地名自体が同区醍醐東大路町にある真言宗醍醐山(深雪山とも称する)醍醐寺に由来する。先の注の下線部を参照されたい。

「つれつれ」徒然(つれづれ)。暇な折り。

「圓居(まとゐ)」まどい。原義は丸くなって居並ぶ、車座になることであるが、ここは親しい人たちが集まって語り合ったりして楽しい時間を過ごしたその団欒に同席した者の意。

「栗巣野」ここは旧山城国宇治郡山科村(今の京都市山科区。町名等の中に栗栖野が残る)附近のそれであろう。稲荷山の東麓、醍醐寺の北西三キロ圏内に当たる。

「兒(ちご)」稚児。寺で召し使われた少年。概ね、男色の対象であった。

「同宿」同僚僧。

「下部(しもべ)」下僕。

「爪木樵(つまきこ)り」薪採(たきぎと)り。「爪木」(「つまぎ」とも読む)は手の爪先(指先)で折り取れる程度の、薪用の細い枝のこと。

「骸(から)」死骸。

「方方」ここは「はうばう」と読みたい。

「印契(ゐんけい)」現行では「いんげい」と濁る。印相(いんぞう)とも称し、密教の作法に於いて、手と指を組み合わせて印を結び、諸仏菩薩の悟りを行者の身に表示するもの。僧が行うそれは普通は法衣の下で結ぶのが作法(なお、仏像に於いては、手と指を組み合わせたものを「印」、それ以外の仏体が法具として剣・法縄・蓮華などを持つことを「契」と呼んでいる。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「陀羅尼(だらに)」サンスクリット語の「ダーラニー」の漢音写で、「能持」「総持」「能遮」などと意訳される(「保持すること」「保持するもの」の意)。本来は「能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持して忘失させない念慧(ねんえ)の力」を意味する。元は一種の記憶術であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを指し、それは種々な善法を能く持つことから「能持」、種々な悪法を能く遮ぎることから「能遮」と称する。通常は長い句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」の巻五によれば、聞持(もんじ)陀羅尼(耳で聞いたこと総てを忘れない呪文)・分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する呪文)・入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声から影響されることのない呪文)の三種の陀羅尼を説き、略説するなら「五百陀羅尼門」、広説するならば無量の陀羅尼門があるとしている。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」の巻四十五では、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている(ここまでは小学館の「日本大百科全書」に拠った)。意訳せずに梵語音写のまま唱える。

「犯戒(ぼんかい)」破戒。仏の戒めを犯すこと。

「降魔(がうま)」修行を妨害する妖魔(法理から言えばこれは本人の煩悩の外化したもの)を降伏(ごうぶく)すること。]

 

2017/06/21

宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事

 

  第四 淺草の堂にて人を引(ひき)さきし事

 

 聖曆(せいれき)寛永七、八の年かとよ。都の人、江戸へ下りて、見世(みせ)借(か)る風情(ふぜい)のあきなひし侍るに、そのあたりに町人の娘、ゆふに優しきありけり。またなきものに戀そめて、人づてならで云ふ由もなかりければ、しかるべき袖を託(かこ)ち、淺からず思ふまでを艷書(えんじよ)につらね、せちに落ちよと言(こと)の葉(は)を、かきくどきつゝ云はせければ、情(なさけ)に弱るならひかは、こがれ流るゝ稻舟(いなぶね)の、いなまでもなく打(うち)なびけり。さなきだに親には問はぬ妹背(いもせ)のみち、殊になをざりなふ包みければ、親はかつて是をしらで、結ぶべき緣(えん)の事など定むべきに聞えければ、娘、いとかなしく思ひ、通ひぬる男に、かくと知らせ、

「年頃日頃(としごろひごろ)、むつまじき中をもわかれ、また云ひをきし約言(かねごと)も、いつしか僞(いつはり)になりやはせん。いつまでとてか信夫山(しのぶやま)、忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ、うき事をたゝ、蛟(みづち)の峒(ほら)・わに住む沖(おき)のなかなかに、君(きみ)もろともに出(いで)なば、なにか、悲しからん。今宵、とく連れ給へ、紛(まぎ)れ出でん。」

と口説(くど)きけれは、男(おのこ)も年來(としごろ)ぬすみ出(いだ)し、都べに率(ゐ)て行きたく思ひし事なれば、まふけ得たる事に思ひ、さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに、手々(てで)取りくみて出でしかど、夜は、はや更(ふけ)ぬ、借(か)るべき宿もなし。

 先(まづ)、淺草の堂に行(ゆき)、こよひを明(あか)して旅立(だ)たんと、かの堂の緣(えん)に袖かたしきて、たゞ二人寢ぬるともなく打ち傾(かた)ふきしに、つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて、側(かたへ)を見るに女房なく、裝束(さうそく)・帶(おび)なんど引きちらせり。

「こは口惜しや。」

と、かなたこなた、尋ぬれども、見えず。途方なく呆(あき)れしに、眉(まゆ)、霜にまがふ翁(おきな)の來りて、

「汝は何を歎くぞ。」

といふ。泣く泣く、樣子、かたりければ、

「さては、汝が尋(たづぬ)るは、あれ、なるか。」

と指(ゆび)ざしするを見れば、十二、三間ばかりの大木の枝に、情なくも、二つに引き裂きて、かけたり。あるもむなしき骸(から)なれば、やる方もなふ悲しきに、教へたる翁も、あとかた失(うせ)てさりぬ。

 いとゞ恐ろしく思ひ、江戸には住みもあへず、今ほどは紀州にあり。かの人、直(ぢき)に懺悔(さんげ)ものがたりせりと、さる座頭(ざとう)のはなし侍り。

 

[やぶちゃん注:この一章は鬼に人が食われてしまうところの、所謂、「鬼一口(おにひとくち)」伝承ウィキの「鬼一口などを参照のこと)の変形譚で、その中でもシチュエーションの類似から、「伊勢物語」の第六段の有名な通称「芥川」の段が直接のモチーフと推定される本文中でも「伊勢物語」の中の別の章段の一首をインスパイアしている形跡がある(後注。しかし引用箇所が全然ひどくて話にならぬ)。また、前話の続きといった感じで浅草の観音堂がまた出るのであるが、実は浅草寺の東方一帯は浅茅ヶ原(あさじがはら)と呼ばれ、ここにはまさに「鬼婆」の一変形とも言うべき「浅茅ヶ原の鬼婆」の伝承があった場所であることもロケーションをここにした大きな一因があると私は思う(但し、この鬼婆は人食いはせず、金品を奪って殺すというものである。ィキの「浅茅ヶ原の鬼婆などを参照されたい)。しかし、どうにも描写が薄っぺらく、全体の分量が如何にも少ないのに修辞技巧をべたべたに重ねてしまった結果、リアリティも糞もなくなってしまい、最後の引き裂かれて高枝にぶら下がった女の遺体の肉感(肉は食われたから「皮膚感」と言うべきか)も伝わって来ず、つまらぬ一篇に堕してしまっているように思われる。なお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻四の「六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事」の類話とした上で、そのルーツを「今昔物語集」の「卷二十七」の「産女行南山科値鬼逃語第十五」(産女(うぶめ)、南山科に行きて鬼に値(あ)ひて逃げし語(こと)第十五)や同書の「卷第二十七」の「在原業平中將女被噉鬼語第七」(在原業平中將の女(おむな)鬼に噉はれむ語第七)及び「東人宿川原院被取妻語第十七」(東人(あづまびと)、川原の院に宿りて妻(め)を取られたる語第十七)に求め、後代では「伽婢子」の十三の七にある「山中の鬼魅」、「諸百物語」之二」十一 熊野にて百姓わが女ばうを変化にとられし事」及び」の 丹波申へんげの物につかまれし事」(リンク先は私の電子テクスト注)を挙げ、また本「宿直草」の「卷二」の「第四 甲州の辻堂にばけものある事」(後日、電子化する)も類話として掲げておられる。

「聖曆(せいれき)」ここは元号のこと。

「寛永七、八の年」一六二九年末から一六三二年年初相当。徳川家光の治世。

「見世(みせ)」店。

「借(か)る」借りる。

「しかるべき袖を託(かこ)ち」しかるべき仲介者に密かに(親に知られぬようにするため)頼んで。

「艷書(えんじよ)」恋文。

「せちに落ちよ」何としても靡いてこよ。

「ならいかは」の「かは」は反語の係助詞に、「川」を掛けて以下の「漕がれ」「流る」「稻舟」という縁語群を引き出す。

「こがれ」「漕がれ」と恋「焦がれ」を掛ける。

「稻舟」稲を運ぶそれに「否(いな)」を掛けて以下の「いなまでもなく」を引き出す。以下のこうした「信夫山」等の修辞技巧の説明は、私には判り切っていて、しかも退屈なので(私は和歌が嫌いで、そのうざうざした痙攣的に増殖する修辞技巧が好きでないからである)、ここに限らず、原則的にこれ以降の章でも省略することとする。

「さなきだに」そうでなくてさえ。

「親には問はぬ」親から教えてもらおうとなどはしない。

「妹背(いもせ)のみち」夫婦になるための恋人同士の関係。

「なをざりなふ」いいかげんな綻びなど全くないように。

「包みければ」包み隠していたので。

「結ぶべき緣(えん)の事」親が決めた具体的な縁談話。

「わかれ」別々になって逢えなくなってしまい。

「約言(かねごと)」未来を「予」測して口に出した「言」葉、具体には夫婦として契る「約束」言(ごと)ではあるが、岩波文庫版は『予言(かねごと)』とし、この方が古語としても、言上げとしての民俗語としてもよりしっくりくる。

「忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ」「こそ」已然形の逆接用法であるが、謂いの中身に焦燥的な捩じれのある表現である。耐え忍んでみても最早、約束は成就されないことになりそうな今日只今、それでもこうしてここにこうして現に二人して逢っていられるからこそ、まだ、こんなことも申し上げられますけれども。

「蛟(みづち)の峒(ほら)」「わに住む沖(おき)」深い川淵の底の蛟龍の住む水中の穴、大海の底の鰐(=鮫)の棲む海底洞窟、「の中」を繫ぎ出す序詞的修辞であろう。その「中」から「なかなかに」(ここはこのまま二人が別れるのとは全く「反対に」の意の副詞的用法であろう)の語をさらに引き出しているのである。

「ぬすみ出(いだ)し」親の許しを得ずに密かに駆け落ちし。

「都べに」京の方(かた)に。

「まふけ得たる」歴史的仮名遣としては「まうけえたる」で「設(儲)け得たる」、自分がもともと望んでいた通りの状況を手に入れた。

「さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに」岩波文庫版の高田氏の注に、『「さむしろに衣かなしき今宵もや恋しき人に逢はでのみ寝む」(『伊勢物語』)を踏むか。あわただしい情事のあとで、の意。「きぬきぬ」は普通、男女が共寝した翌朝のこと』とある。この一首は「伊勢物語」の第六十三段、通称「つくも髪」などと呼ばれる章段であるが、三人の子持ちの好色なとんでもないばあさんの大年増が、子の力で、在五中将と契りを結ぶも(というよりも在五中将がその子の健気さに哀れを感じたのであろう)、訪れは絶える。後に、彼女のことをいとしいとはこれっぽちも思っていない在五中将は、その老女のことを、これまた、哀れを感じて情けをかけるという、如何にも私にはいやな感じがする話で、ここに引く気も起こらない。挙げられた歌は、見限りとなった在五中将へ老女の思いを詠んだものである。

「淺草の堂」前章と同じく、浅草観音堂であろう。

「打ち傾(かた)ふき」岩波文庫版の高田氏の注に、『うとうととする』とある。

「つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて」「つゐ」は「じきに・忽ち」の意の副詞であるが、歴史的仮名遣は「つい」でよい。この時間経過の圧縮感覚には、私はおぞましき妖怪変化の眩暈力が彼に作用したのだと感ずる。

「十二、三間」二十一・八二~二十三・六三メートル。]

 

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