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カテゴリー「怪談集」の303件の記事

2017/08/17

北越奇談 巻之三 玉石 其六(蛇崩れ海中の怪光石)

 

    其六

 

 出雲崎の南(みなみ)、勝海(かつみ)と云へる所、先年、海岸の絶壁、崩れ、蛟竜(こうりやう)出(いで)て、海に入(いる)。名付(なづけ)て「蛇崩(じやくづ)れ」と云ふ。其後(そののち)、村老(そんろう)五左衞門と云へる者、一夜(いちや)出(いで)て海上(かいしよう)を望み見るに、山のなだれ落(おち)たる所、水底(すいてい)に光(ひかり)ありて、波上(はしよう)に月影(げつえい)を見るがごとし。村老、怪(あやしみ)て、夜々(やゝ)、是を試(こゝろむ)るに、猶、燦然(さんぜん)たり。即(すなはち)、勇壯の若者に命じて舟を漕寄(こぎよせ)、光につきて水底を潛(くゞ)り、尋ね求むるに、一塊(いつくはい)の白石(はくせき)あり。是を得て、家に歸れば、即、水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)。此石、夜々(よゝ)、猶、照ㇾ席(せきをてらす)。見る人、市(いち)を成す。縣令(けんれい)、これを聞(きゝ)て、下官(げくわん)に命じて借りて見んことを欲す。村老、辭すること能(あた)はず。終(つゐ)に是を獻じて、東武に至る。後(のち)三年にして反(かへす)。其玉(ぎよく)石、已に、光、失(しつ)して、なし。今、猶、其家(いへ)、是を藏(かく)すと雖も、不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)、實(じつ)に惜(おし)むべし。

[やぶちゃん注:「勝海」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見。(グーグル・マップ・データ)。

「蛟竜(こうりやう)」登蛇(とうだ)に既出既注。かく記す以上、暗にこの石を龍に付属する霊石としての「龍の玉」だと言いたいわけである。

「蛇崩(じやくづ)れ」奇」の「其二 燃水(もゆるみづ)」に「上蛇崩(かみじやくづれ)」として既出既注であるが、再掲する。現在の勝見地区に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。今回、グーグル・ストリートビューで見たが、遠望と推定される。それらしい山体(尾根)ではある。

「光につきて」海底の発光するその光の筋(方向)に従って、発行源に向けて。

「水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)」海上に見えていた発光は見えなくなっていた。言わずもがなであるが、この石がその怪光現象の原因であったことの明示。

「照ㇾ席(せきをてらす)」「席」は会所で石を置いてある接待用(後で門前市を成すことから)の居間、大広間の意ととっておく。

「縣令(けんれい)」律令制に於いて国司の下にあって郡を統治した地方官である「郡司(ぐんじ)」の異称。ここは江戸時代の諸藩にあった天領(幕府直轄地)の行政に当たった代官のこと。江戸時代の出雲崎は佐渡からの金銀を荷揚げする港町であったことから天領であった。まさにこの蛇崩れ附近の東北のごく直近の出雲崎町尼瀬に代官所がある(グーグル・マップ・データ)。

「東武」江戸。

「藏(かく)す」所蔵する。

「不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)」最早、不思議な光りを失ってしまっているため、観賞するに堪えるものではなくなってしまっている。]

2017/08/16

北越奇談 巻之三 玉石 其五(靑石)

 

    其五

 

Kobunjisugi

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の自筆画。]

 

 蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)、里見氏(さとみうぢ)の庭前(にてぜん)に、老(ふるき)杉十圍(かかへ)なるもの、あり。枝々(しゝ)、四隣(しりん)に茂り掩(おほ)ふて、庭中(ていちう)、常に陰(かげる)。主人、甚だ、是を憎む。一日、僕に命じて伐(きら)しむるに、中(うち)、少し朽ちて空(うつぼ)也。以(もつて)、板(いた)に挽分(ひきわく)るに、土際(つちぎは)八尺ほど上(あが)りて、鋸(のこぎり)の齒の缺損(かけそん)じ、切斷すること不ㇾ能(あたはざる)所、あり。終(つゐ)に斧(おの)を以つて打割(うちわ)り見たるに、大さ、鞠(まり)の如くなる靑石(あをいし)ありて、甚だ重し。僕の云(いふ)、

「是を火打石にせば、よからん。」

と。木挽(こびき)、即(すなはち)、大斧(たいふ)を以(もつて)是を碎(くだ)く。忽(たちまち)、金石(きんせき)の響きを成して兩斷となる。中(うち)、自然に丸(まる)く、空所ありて、清水、傾き出づ。人々、後悔すれども不ㇾ及(およばず)。

 可レ憐(あはれむべし)、卞和(べんわ)氏なきことを。是等のもの、良工に命じて琢磨せば、必(かならず)、明珠なるべきか。可惜(おしむべし)々々。

 今、はた、是に似たるものあり。言傳(いひつた)ふ、

「源平の昔、五十嵐小文治と云へる者、勇力(ゆうりき)の聞(きこ)へありて、即(すなはち)、三条五十嵐川の水上(みなかみ)、矢木峰(やぎがみね)、流(ながれ)に臨んで絶壁勝地あり。此流(ながれ)に續きて、五十嵐の神社、古木大杉(こぼくたいさん)、多し。一日、小文治、此所(このところ)に至り、『己(おのれ)が力量を試(こゝろみ)ん』と大石(たいせき)をもつて此杉に打付(うちつけ)たるが、石、即、杉の中腹に止(とゞま)りて、落ちず。今、猶、是を見るに、其杉、根本より一丈ばかり上にして、石の大、三尺(じやく)もあらんか、靑色(あをいろ)に長し。中々、人力(じんりき)の及ぶべきとは見へず。」トソ

 是、又、一奇と稱すべし。

[やぶちゃん注:トソ。」の部分は原典の「ず」の左下に小さく明らかに見える何かの文字のようなものをかく判じたものであって、野島出版版にはない。「とぞ」と読むと、きりがいいのである。或いは「ト云」(といふ)かも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。

「蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)」現在の新潟県新潟市南区茨曽根附近と考えてよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「十圍(かかへ)」身体尺の比呂(ひろ:両腕幅)であるとすれば、約十五メートルであるが、ちょっと太過ぎる。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「卞和(べんわ)氏」春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に嘘をついたとして左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、ただの石だとされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、十五の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「五十嵐小文治」野島出版脚注に『鎌倉時代源頼朝の臣。名は扶昌』(「もとまさ」と読むか)『封十一万石、山形県南村山郡西郷村高松』(現在は上山(かみのやま)市内)の館跡はその『遺跡で、自然石の古墳は発龍沢山の麓にある』とあるのだが、この注、地名が現在のものと照応せず、場所がよく判らぬ。或いは最後のそれは現在の山形県上山市川口にある龍沢山(りゅうたくざん)川口寺(かわぐちじ)のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)) さらに同注は「吾妻鏡」に『小豊治となって居る。建保元』(一二一三)年五月二日に『和田義盛』が『挙兵』して、『北條義時を攻[やぶちゃん注:底本「改」。誤植と断じて訂した。]めた時、その軍』(北条軍)と激『戦して討ち死にしたという』とあるのであるが、まず、この注の中の「小豊治」は「小豊次」の誤りである。「吾妻鏡」の建暦三年(後の同年十二月六日に建保に改元)五月小二日の朝夷名(あさいな)三郎義秀の奮戦を語る条の頭に(前後を略す。太字下線は私が附した。人名の読みは所持する貴志正造氏の「全譯 吾妻鏡」第三巻(昭和五二(一九七七)年新人物往来社刊)に拠った)、

   *

就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂、五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。

   *

就中(なかんづく)に義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすこと、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等(ら)、死を免(まぬか)るること、無し。所謂、五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫(くずぬき)三郎盛重、新野左近將監景直、禮羽蓮乘、以下の數輩、害せらる。

   *

彼の名はここと、五月六日の戦後の味方の討たれた名簿の中に出るだけである。

ところが、である!

現地新潟では、この人物伝説上のかなりの有名人らしいのである!

 まず、個人ブログ「地域神話の風景とフィールド」の五十嵐小文治の伝説:新潟編①をご覧戴きたい。それによれば、『五十嵐小文治は現在の三条市にある旧下田村を中心に活躍したと伝えられる豪族で、文献においては、鎌倉時代から戦国時代にかけて五十嵐川流域に勢力を持った、一族と考えられてい』るとあり、『その五十嵐小文治の誕生にまつわる伝承が、この地域では、まだ語られてい』るとして、以下の伝説が記されてある。

   《引用開始》

「五十嵐川の上流のある村に美しい娘がいた。両親は一人娘のことで目に入れても足りない程大事に育てていた。だんだん娘も年頃になって来たので、よい聟でも探そうと思っていると、いつからともなく娘に忍び寄った若い立派な男があった。男は夜になると必ず娘の処へ来て、暁方に出て行った。それを知った母親は大変心配して、ある日娘に向かって「毎晩お前を訪ねて来る男は何処の何という者だ」と聞いた。しかし娘もその男が何処の誰だかを少しも知っていなかった。それで母親は娘に向かって、今夜尋ねて来たら男の着物の小褄にそっと糸を付けた針を差してやってみよと教えた。娘はその夜、教えられた通りにした。明朝になって娘が糸をたどって行くと、その糸はいんないの淵で尽きていた。娘が不思議に思いながら淵の端に立っていると水の中から、その男の姿が現れて「お前の腹には俺の子供が宿っているから、形見と思って大事に育ててくれ」といって消えた。大蛇は針の毒に当たって命を落としたのである。娘が生み落とした子供は腋の下に三枚のうろこが着いていた。大きくなって五十嵐小文治と名乗って、四十五人力といふ無双の豪傑となり、当時越後の国を荒し廻った黒島兵衛という怪賊を平らげて、勇名を馳せた。小文治が力試しに投げた石が今でも五十嵐神社の杉の大木に挟まっている(上写真)[やぶちゃん注:リンク先にまさにその画像あり!]」(文野白駒『加無波良夜譚』玄久社、1932162163頁より)。

   《引用終了》

『この大蛇と地域の女性との間に生まれた子供が、地域を開発し支配した豪族である、との伝承は、典型的な神話の語り口で』あるとされる。ブログ主は実際に当地を訪問探査されて、まず「いんないの淵」を探され、『五十嵐川の上流に「院内」という集落があって、その淵であることが』判明(やはりリンク先に写真有り)、その他にも調べるうち、「八木山下の淵」という伝承があることが判り、これも「八木鼻」(以下で私が発見した)という場所であることが判ったとあるのである。

 次に、しばしばお世話になっているサイト「龍学」内にも五十嵐小文治を発見した。そこではみずうみ書房『日本伝説大系3』からの引用で、『昔、笠堀の村の村長甚右衛門の娘のもとに、若い男が訪ねて来て褄重ねをする。男は夜毎通うが、名を名乗らず、所も告げぬ。ある夜、娘は男が帰る時に男の裾に針を刺し、夜明けにその糸をたよりに尋ねて行く』。『八木山下の川の淵に着くと中から苦しそうな声がする。覗いて見ると大蛇がいる。大蛇がいうには、毎晩通っていたのはこの俺だが、昨夜思わずも針を刺され、今は死ぬほかはない。お前の家は末長く守る、といい残して大浪を立てて姿を消す』。『その後、村長の家には腋の下に三枚の鱗が生えた男の子が生まれて当主になる。南北朝時代の勤王家五十嵐小文治が、その子孫だという。(『日本伝説集』)』となっている(こちらの小文治は時代が少し下っている。リンク先の考証はより深くこの「龍」伝承をディグしているので、是非、読まれたい)。

 また、「新潟小学校校長会」公式サイト内にある、三条飯田小学校署名ってい「五十嵐」姓発祥の地 五十嵐神社には、この「五十嵐」という姓はまさに、この新潟県三条市飯田(旧下田村)の「五十嵐神社」がルーツであるとあり(『これほどルーツがはっきりしている姓は珍しいそう』だともある)、この神社は第十一代垂仁天皇の第八皇子五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)を祭神とし、五十日帯日子命は四世紀中頃に越の国の開拓を任されて治水・農耕の技術を広め、『飯田宮沢の地で生涯を閉じ、舞鶴の丘に葬られたと』され、『この人物が、五十嵐一族の始祖』であると記す(神社本殿右手には五十日帯日子命の陵墓が建つとある)。以下、

   《引用開始》

 「五十嵐」とは、「伊賀多良志(いからし)」「伊賀良志(いがらし)」とも記され、農民の理想と希う「五風十雨(ごふうじゅうう)の天候の好順」を表す意と伝えられ、地域一帯を潤して流れる清流の五十嵐川の名称もこれに由来しています。 その後、「五十嵐・伊賀良志」神社が建立され、約700年後の大化の改新によってお墨付きを与えられ、五十嵐一族が宮司となります。さらに、約400年後、鎌倉幕府の御家人となって、五十嵐氏が地頭としてこの地を治めることになります。

五十嵐小文治伝説

 神社の鳥居から拝殿までの間にある大杉木(おおすぎぼく)の幹に石がめり込んでいます。これは、豪勇・五十嵐小文治吉辰が投げたものと言い伝えられています。五十嵐小文治吉辰は、鎌倉幕府将軍源頼朝の御家人でした。五十嵐館から大石を投げたら400メートルも飛んで、杉木に当たり、めり込んだという言い伝えです。真偽はともかくとして、この石の効果で五十嵐神社は、安産祈願の神社にもなっています。 大杉木の反対側には、五十嵐小文治吉辰の墓があります。歴代当主が小文治を名乗ったらしいので、いつの時代に建立したのかは不明です。山形県上山市にも領主開祖として、五十嵐小文治の碑があります。1201 年に越後から移ったという記録が残されていますが、たくさんの小文治がいるため人物を特定することはできません。

   《引用終了》

とある。

 さて極め付けは、『五十嵐姓の由来・歴史について考えるサイト』と名打つ「Igarashi's origin」の五十嵐神社を巡るである。我々はそこでガラス越しながら、食い込を見ることが出来、五十嵐文治も拝めるのである。

「五十嵐川」以下の「五十嵐の神社」のグーグル・マップ・データの南西に流れる。

「矢木峰(やぎがみね)」五十嵐神社からかなりの東南(七キロメートル強)であるが、五十嵐川上流に「八木鼻」という景勝地があり、その東の「院内」地区には「八木神社」を見出せた((グーグル・マップ・データ))。これだッツ!! グーグル・ストリートビュの「鼻」よ!!!

「五十嵐の神社」現在の新潟県三条市飯田に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」三メートル三センチ。

「三尺」約九十一センチ。]

2017/08/15

北越奇談 巻之三 玉石 其四(木葉石)

 

    其四(し)

 

 木葉石(ぼくやうせき)は栃尾(とちを)山谷(さんこく)の間、堀の内、十日町の山間、難波山(なんばやま)等(とう)に夛(おほ)く出ると雖も、皆、石性(せきせい)、和(やは)らかにして、灰白色、盆地(ぼんち)に入(いれ)、草木(さうもく)を植(うゆ)るに、よく水を上げて活(い)く。打碎(うちくだく)に、一片(いつへん)一片、諸木の葉、相重(あいかさな)り、皴紋(しゆんもん)、甚だ面白く、たまたま小魚(しようぎよ)・蜘蛛・蛙(かはづ)などの、葉の間にありて石と成れるものあり。只、魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄(せう)、大湯村(おほゆむら)【温泉の出る所。小出島より三里。】、同(おなじく)栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川といへる溪流の岸岩(きしいは)の間より、掘出(ほりいだ)すもの、黑色(こくしよく)にして堅實(けんじつ)なり。以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易(えやす)からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす。

 

[やぶちゃん注:地層面上に美しくリアルに印象保存(炭素粒で誇張されたもの)された木の葉(主に広葉樹)の化石。一ミリメートルから一センチメートル単位で葉理が発達している凝灰質頁岩(泥岩がさらに固結した粘板岩(スレート)との中間の岩石)。葉が炭化して残存する場合もあるが、殆どは木の葉の形の印象だけが残る。条件のよい場合は細かな葉脈なども観察され、種類の判別も可能である。栃木県塩原町に分布する洪積世(更新世)中期の湖沼堆積物中に含まれるブナ・カエデ・クリなどの広葉樹の葉が薄く割れやすい淡色の岩片に保存されていることから「木の葉石(このはいし)」と呼ばれたものが最も知られ、これは地質時代の木の葉が砂・粘土・火山灰などとともに静かな水底で堆積したものの化石化したもので、塩原化石植物群は約百三十種の、おもに広葉樹から成る。その組成から、当時の温帯北部に生育したものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」を主として他の辞書記載を合成した)。

「栃尾(とちを)」現在の栃尾(新潟県長岡市栃尾町)の東方部であろう。附近(グーグル・マップ・データ)。

「堀の内」新潟県魚沼市堀之内か。(グーグル・マップ・データ)。

「十日町」新潟県十日町市。(グーグル・マップ・データ)。

「難波山(なんばやま)」既出既注であるが再掲する。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「盆地(ぼんち)」盆栽で鉢(盆栽鉢・盆器)に敷き入れる基底土。

「よく水を上げて活(い)く」凝灰質頁岩は吸水性がある。

「皴紋(しゆんもん)」「皴」は「皺」(しわ)に同じい。転写された葉脈紋様のこと。

「魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄」現在、新潟県魚沼市今泉に東日本旅客鉄道只見線の無人駅に「藪神駅」がある。附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。先の藪神駅の南東約十一キロに当たる。

「小出島」新潟県魚沼市小出島。(グーグル・マップ・データ)。ここで魚野川に合流する東から流れている佐梨川の上流に大湯温泉がある。

「栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又のことであろう(栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立らしい。)。(グーグル・マップ・データ)。恐らくは「藪神の庄」から以下は、ここを指し示すためのものである可能性が強い。その奥にあるとする「羽根(はね)川」は確認出来ない。或いはこの栃尾又温泉のある栃尾又沢として佐梨川から分岐する支流の川名なのかも知れぬ。なお、後の「其七」でも大湯村温泉と栃尾又温泉は再述され、崑崙自筆の絵図が掲げられてある。

「以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす」現在、ここから硯石が産出されるという記載はネット上には見当たらない。]

2017/08/14

北越奇談 巻之三 玉石 其三(貝石)

 

    其三

 

 高田より、東三里、山に入(いる)事、二十余丁、横澄(よこすみ)川と云へる溪流在(あり)。此内、貝石(ばいせき)を出(いだ)すこと、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。螄螺(にしほら)・螺蚶(あかゞひ)・蜆(しゞみ)・蛤(はまぐり)・蜊(あさり)の數品(すひん)、皆、自然に形文(けいぶん)麗(うるは)しく、弄玩(ろうぐはん)、愛すべし。是を碎くに、内(うち)、實(じつ)し、玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり。又、其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり。皆、内(うち)、實(じつ)して、更に空所なし。たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る。是等の貝石、甚だ奇なり。密(ひそか)に按ずるに一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す。然(しか)れば、生(いける)貝、土中に落入(おちいり)て、數(す)十年を歴(ふ)るに及んで石と成るもの、其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし。又、螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし。他(た)の小貝(こがひ)を含むものは、是、又、不審なり。凡(およそ)北海所々(しよしよ)、山中に此類ありと雖も、其夛く出す所、横澄川に若(し)かず。古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)の岸(きし)、此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく、此一へんの間(あいだ)、貝石、數萬(すまん)を敷(しけ)り。香川啓益(かゞはけいゑき)は、『造化の然(しか)る所、此類(るい)多し』と云へ、が國、寺泊駅、丸山氏、「越後名寄(えちごなよせ)」に、『是は、只、山中自然の物なるべし。海中の貝殼、風雨に晒(さら)す時は、皆、化(け)して不ㇾ見(みえず)。然(しか)れば、石となる理(り)なし』と云へれど、其説、不明(あきらかなならざる)也。今、新に、海底の枯貝(こばい)、壳(こく)を以(もて)日に晒し、雨に濕(うるほ)さば、消(せう)するも理(ことはり)なり。山中(さんちう)にある所は、上古、土中(どちう)に落入(おちいり)たる貝壳(かいがら)なれば、風雨に晒すとは、格別なり。又、貝原(かひばら)先生、「大和本艸」に『混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)』と云へり。是、又、篤信(とくしん)の博識には方便に近き説と云ふべし。世界の變化、一へんして、子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる、なんどは、其始(はじめ)を明らかにするの假説にして、何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん。只、天地の變化は、此所(このところ)、山と成れば、彼所、落入て海と成り、何處(いづく)と云ふに定(さだめ)はなけれど、例へば、川の渕と成り、瀨と成るがごとし。只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)。後人(こうじん)、その源(みなもと)を明らかにせんがために、天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)・天神(てんじん)・地神(ちしん)など、假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ。されば、三皇氏(さんくわうし)と雖も、又、久しきとするに足らず。一たび、人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至るとも、何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん。天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし。されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし。「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」に、『石蝦(せきか)・石蠶(せきさん)・石鼈(べつ)』を擧(あ)ぐ。此類(たぐひ)か。只し、が國の貝石は、皆、上古、海磯(かいぎ)の変ずる所と思ふのみ。大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)は、我が知らざる所也。

 

[やぶちゃん注:「貝石(ばいせき)」は「かいいし」とも読み、ここでの用法は海岸ではなく、陸地から出土する、古代の貝殻の化石となったものを指している。

「二十余丁」二十町は二キロ百八十二メートル。「余」を三町程ととると、二キロ半、前の「三里」を加えると、当時の高田市街からは十四キロメートル強となる。

「横澄(よこすみ)川」不詳。但し、現在の高田市街からほぼ東へ直線で二十キロほどの山間の地区に新潟県上越市安塚区須川という地域があり、新潟県土木部砂防課の公文書を読むと、この地区の中には澄川という地域が存在する。ここは須川川を挟んだ山間渓流添いの一帯であるから、まずはここ(リンク先は国土地理院地図。他の操作をせずに左端の拡大ボタンをひたすら押されたい)を比定の第一候補としたい。但し、「三里」が短か過ぎる気はする。これ以外に気になるのは、新潟県上越市三和区大という地区にある石山という名のピークである。この山は高田市街から真東に直線で十キロで、麓に渓流がある。この立地条件と距離と山名から最初に気にはなったので、ここ(グーグル・マップ・データ)を比定の第二候補としておく。但し、「横澄川」という名称との連関性は全く見出し得なかった。但し、ここに出る貝化石は、その形状や種(推定)や日本列島の形成過程から見て、中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前)以降、新生代(約六千五百万年前から始まり、現代もそこに含まれる)のものであろう。

「螄螺(にしほら)」「螄」も「螺」と同じく腹足類「にな」を意味するから、これは特定種ではなく、螺高の高い巻貝類(軟体動物門腹足綱 Gastropoda)を広汎に指していると考えてよかろう。以下、古代のそれらであることに注意されたい。現生種にそっくりであっても全くの別種の可能性もあるからである。以下、くだくだしいが、それを考えて注してある。

「螺蚶(あかゞひ)」狭義には斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii を指すが、有意な肋を持って良く似るフネガイ科リュウキュウサルボウ亜科サルボウガイ属サルボウガイ Scapharca kagoshimensis 及び同形状を示すフネガイ科 Arcidae の広汎な種を含むと考えてよい。

「蜆(しゞみ)」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類或いはシジミ上科 Cyrenoidea に属する種群や形状の似た別種。

「蛤(はまぐり)」異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「蜊(あさり)」マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「形文(けいぶん)」貝殻の外側の肋や紋様。

「内(うち)、實(じつ)し」殻の内部が完全に土砂や石礫で満ちていることを指す。

「玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり」私は幼少の頃、現在の家の近くの切通しで、こうした貝化石を多数採取するのが趣味の孤独な化石少年であった(現在でも造成地の土中に多く現認出来る)が、殻の内部全体がこのように変質したものはついぞ見たことはなかったこうしたものに変性するのは非常に古い中生代の化石類である。

「其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり」これは単に貝化石群が造山運動の圧力によって圧縮され、多量の貝化石層を成しているのを一個の貝の内部に多数の貝が含まれていると誤認したものではなかろうか?

「たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る」これも山上の雨水や地下水が浸出した地層から出土した貝化石を太古から水を含んでいたものと誤認したに過ぎまい。

「一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す」これも誤認で、そんなことはない。貝化石地層では粉砕した片々のそれをよく見かける。ただ、完品以外の片々は重なっていると圧による粉砕が早く、特に崖に露出していると、即座に風化されてしまうから、崑崙はそれらの粉砕された殼片を殻と見做さなかっただけであろう。

「數(す)十年」崑崙先生、それはないでしょ? 後の人為的な貝塚を形成した縄文人の時代でさえ約一万五千年も前ですぜ!

「其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし」言わずもがな乍ら、死貝が海底に沈み、内臓は速やかに腐敗し、それが海底の砂泥中に埋没すれば、隙間から砂泥が侵入し、それが海水の圧力をかけられるから、二枚貝が殻を合わせた形で、内部に土を含んで化石化することは何ら不思議ではありません。崑崙先生。

「螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし」「貝子」とは貝の稚貝ということであろうが、通常の貝類はそのような生殖法を持たない。但し、淡水産の腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類は卵胎生で母体(雌雄異体)が稚貝を産む。しかし、これがタニシのそれであるとは私には思われない。やはり、貝化石層の圧縮されたそれを誤認したものであろう。いや、この後の「他(た)の小貝(こがひ)を含むもの」があるというのは、まさしくそうした誤認であることを図らずも証明しているものと言える(他の貝を捕食する肉食性の貝類はいるが、貝を貝そのままに摂餌してしかもその死貝を体内に保存するものなどは存在しない)。

「古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)」不詳。旧古志郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。識者の御教授を乞う。

「此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく」非常にくっきりとした地層が有意に凹凸を以って積み重なって岩礁性海岸の海食崖の露頭地層のようになっているというのであろう。

「香川啓益(かゞはけいゑき)」これは江戸中期の医師で字(あざな)を「啓益」と称した香月牛山(かつきぎゅうざん 元文五(一七四〇)年~明暦二(一六五六)年)の誤りではなかろうか? 「朝日日本歴史人物事典」によれば、彼は豊前国出身で、後に筑前に移って貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩(豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した)の医官として仕えたが、その後、辞して京都に出、二条で開業医となった。著書に「老人必要養草」「薬籠本草」「婦人寿草」「巻懐食鏡」などがある。ここの「造化の然(しか)る所、此類(るい)多し」(「貝のまるのままの化石というのは天然自然の造化の及ぼすところであって、こうした現象は多く見られる」という意味か)の出典は不明。識者の御教授を乞う。

『丸山氏』野島出版脚注に『「越後名寄」の著者。三島郡寺泊の人。元純』、また、『良陳と称す。其の祖某、長左ヱ門と称し、医を以て長岡牧野氏に仕へ、秩』(ちつ:俸禄。)『八十石を食んだ。其の子杢左ヱ門格勤能く其の職を奉じたが藩侯を諌めて其の怒に触れ、浪人となりて与板に移り、児童に教えて余生を送った。寺泊は諸国行旅の輻輳する所であるのみならず、国人の來往も頻繁であった土地なので』旧『記も多かった』ことから、『元純は書史を討究し或は歴訪捜索すること二十余年にして「越後名寄」三十巻』(三十一巻が正しい)『を著わした。宝暦八年』(一七五八年)、『七十二才で歿した』とある。なお、この人物の末裔が作家の丸山健二であるらしい(個人サイトのこちらに拠る)。「越後名寄」は越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。早稲田大学古典データベースのこちらで画像で全巻が読めるが、流石に厖大で捜す気になれない。悪しからず。見つかったら、どうかお教え下さい。お名前とともにリンクを張りたく存じます。

「山中自然の物なるべし」これは、「山中に自然に存在した陸生貝類であろう」と言っているようだ。有肺類の蝸牛の例はありますがね、ちょっとムリでっしょう、丸山先生!?!

「壳(こく)」原典は「売」の字であるが、かく、した。野島出版版は『殻』。意味は確かにそれである。

「貝原(かひばら)先生」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。

「大和本艸」益軒が編纂した本草書で宝永七(一七〇九)年刊。本編十六巻・付録二巻・図譜三巻で計二十一巻からなる大著。明治になって西洋の生物学・農学の教本が輸入されるまで、日本史上最高峰の生物学書・農学書であった。李時珍の「本草綱目」の分類法を基にしつつ、独自の分類を考案・編纂したもので、収載された品目は千三百六十二種に及ぶ。参照したウィキの「大和本草」によれば、『薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。また「大和本草」は古典に記載された物の実体を確定する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは薬用植物を扱う学問であるが、この大和本草に於いて日本の本草学は博物学に拡大された。これらは益軒が本草学にとどまらず農学、儒学、和漢の古典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある』。『漢名の無い品目も多数収載されている。益軒以前の日本の本草学は「本草綱目」を分析する文献学であった。他の学者は漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無理に当てはめるというようなことをしたが』、『益軒はそれをしなかった。また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われていることも当時の学問書としては異例のことである。これは益軒が学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである』。『益軒は自ら観察・検証することを基本とした。この後日本の本草学は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学者が現れるようになった』とある。この「混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)」(天地開闢以前のあらゆる物質がカオス(混沌)状態未分化の太古の世界に存在したものの遺物である。よく観察するがよい)は同書のどこに出るのかは不詳。同書の「金玉土石」の部を縦覧したが、見当たらない。「介」部にはないと思う。発見し次第、追記する。因みに私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化訳注も手掛けている

「篤信(とくしん)」先の注で述べた通り、貝原益軒の字(あざな)。

「博識には方便に近き説」博覧強記の益軒先生にしては、ちょっといなしただけの不十分極まりない説だというのである。崑崙、実に他の学者に対しては相当に辛口である。

「一へん」「一變」であろう。

「子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる」十二支を宇宙の生成と消滅を、始め(子)と途中(丑・寅)及び終り(亥)に割り振ったもの。

「何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん」宇宙の起源のカオスの世界など論理的にあろうはずがないと崑崙はいうのであるが、これは現在のビッグ・バン理論からすれば、益軒に軍配が挙がる。そもそも崑崙は自分の宇宙生成論をここで提示していないから、ダメである。しかしどうも、崑崙は鬼神を信じたが、私は実は「古事記」にあるかの神々による天地開闢神話は、これを、あまり信じていなかったようにも思われるのである何故か? だってそうでしょ? 「古事記」の冒頭の「くらげなすただよへる」時というそれは、文字通り、「混沌」(カオス)の「海」であり、この山の中の「貝」の化石が、まさにその原型(プロトタイプ)の大「海」に棲息していた貝であっても、これ、よいことになるだろうに、と私は考えるからである

「只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)」上古、人間の智は十全なものでなかったがために、その歴史的事実を記すことが出来なかった。

「天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)中国の天地開闢神話の中に登場する伝説上の帝王の名の一つ(複数あるものの中の一説)で、通常は「三皇」と称し、「天皇」・「地皇」・「泰皇」(「人皇」とも)を挙げる。ウィキの「天皇」によれば、天皇は『天地創造の神である元始天王が太元聖母と気を通じることによって生まれたとされ』、「三才圖會」の想像図では、外観上、『ほぼ人間と同じ(髭を生やした顔)であるが、体は鱗で覆われており(首と手首にはない)』、「地皇」が『部分的に鳥の肉体を有し』、「人皇」に至っては、ほぼ、『蛇として描かれていることからも』、「天皇」は『三皇の中で最も人に近い姿として描かれている』とある。一方、ウィキの「地皇」によれば、地皇は『天皇から生まれ、地皇は人皇を生んだとされ』、同じく「三才圖會」では『顔は人だが』、『頭頂部にとさかを有し(左右には髪が生えている)、肩から胸にかけて羽毛を生やし、両腕は鳥類の脚となっており、人と鳥を掛け合わせた「鳥人」のような姿で描かれている』とある。西晉の皇甫謐の著になる、三皇から漢魏にいたる帝王の事蹟を記録した「帝王世紀」(散逸したため、諸書の引用から復元されたもの)に『「春秋緯」云、天皇・地皇・人皇、兄弟九人、分九州、長天下也』と出る。

「天神(てんじん)」ここは前に「天皇」「地皇」を並べる以上は中国古代思想に於ける天の神を指すととる。万物を創造し主宰するところの最高神としての天帝。道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神とされ、或いは老子を神格化した「老君」とも同一視される。

「地神(ちしん)」前と同じようにとり、ここは中国古代思想の大地の神或いは有象無象の土地神としておく。

「假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ」これはまことに唯物的な主張である。私が崑崙は日本神話を信じていなかったとするのは、まさにこの断定に近い言辞によるのである。彼にとっては中国の神仏も日本の神仏も、辻褄合わせのために仮にでっち上げた児戯に等しい噴飯物でしかないとさえ思っているのではあるまいか? しかし、そうした立ち位置に居ながら「鬼神」の実在は疑いないとする、この男、いやはや、タダモノでは、やっぱり、ないわいな!

「人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至る」この数字は正しいね。

「何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん」反語。

「されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし」この順接の接続詞「されば」は判り難い。寧ろ、逆接で繋げるべきであろう。「天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし」というわけで、宇宙は千変万化にして無常迅速、桑田変じて滄海となるというわけだ「けれども」、大いなる自然としての「天地」は「長久無量」なのだと言ってよい、として初めて私はしっくりくるからである。

「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」南宋の范成大の著になる嶺南の山川・物産を記した地誌で、「巖洞」・「金石」・「香」・「酒」・「器」・「禽」・「獸」・「蟲魚」・「花」・「果」・「草木」(ここまで部の頭には「志」が附される)及び「雜志」と「蠻」に分類して記す。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

「石蝦(せきか)」同書の「志蟲魚」に『石蟹、生海南、形真似蟹。云是海所化、理不可詰。又有石蝦、亦其類』とある。これは甲の堅い蝦(えび)ともとれなくもないが、「石蟹」はどうも、蟹に酷似した石・蟹の化石のようにも読める。実は先の益軒の「大和本草」の「金玉土石」の部には明らかに蟹の化石と読めそうなものが項立てされてある。

「石蠶(せきさん)」同書には「石蠶」では載らない。「志果」に『地蠶、生土中、如小蠶、又似甘露子』となら、ある。因みに、やはり「大和本草」のまさに「石蟹」の次に「石蠶」が載り、そこには、

   *

石蠶 海濱ニアリヨク蠶ニ似タリ一ヅヽハナレテアリコレハ蠶ノ化シタルニハ非ス天然ニ生成セルナリ又石蠶ト云蟲アリ別ニ水蟲門ニノセタリ異類同名也

   *

とある。益軒の最後に言っているそれは、幸いにして既に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」として電子化訳注済である。そちらについて、私は「石蠶」昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫(及びその砂礫を繫げた棲管)に同定している。ただ、ここで益軒の言っている海産の「石蠶」はよく判らぬ。当初、ナマコのアルビノ(白化個体)かとも考えたが、益軒は別に「海鼠」の項を設けており、そもそもぐにゃぐにゃのそれを石と取り違えることあり得ない。この益軒の言い方は「天然ニ生成セルナリ」とあって、「金玉土石」の部に入れる以上、益軒は石だと思ったほどに堅いことを意味している。とすると、可能性は二つと思う。軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科Serpulorbis属オオヘビガイSerpulorbis imbricatu か、或いは、死んだ珊瑚の骨格片である。しかし、彼が福岡藩士とは言え、福岡の海岸線にいつも珊瑚の骨格片がごろころ転がっていたとも思えない。取り敢えずはオオヘビガイとしておく

「石鼈(べつ)」同書には「石鼈」は載らない。不審。或いは先に示した「石蟹」の誤読ではあるまいか? 「鼈」は狭義にはスッポンを指すが、ここは亀の化石ととってよい。

「大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)」これは判るぞ。腹足類でも開口部の大きな大型の巻貝類なら、死貝のそこに、小型の二枚貝類の死貝群が多量に入り込んだ状態で化石化したに過ぎまい。どうってことないよ、崑崙先生。]

2017/08/13

北越奇談 巻之三 玉石 其二(水昌石)

 

    其二

 

 蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)より東南一里、山谷(さんこく)の間(あいだ)、流(ながれ)にしたがつて尋ね求(もとむ)るに、水昌石(すいせうせき)、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。紫瑛石(しえいせき)・白(はく)瑛石、また、夛(おほ)し。此谷より、樵夫、日々、薪(たきゞ)を負(おふ)て五泉(ごせん)の市に賣(うる)。寛政の頃ならん、一日、樵夫、滑らかなる石の、大斗(と)のごとくなるを擔(にな)ひ來りて、市(いち)に賣(うら)んことを請ふ。一商家(いつしようか)某(それがし)なる者、其石の靑白色(せいはくしよく)に透き通り、しかも、水を包めるがごとくなるを以(もつて)、遂に樵夫に米五斗(と)を與へて求ㇾ之(これをもとむ)。曽(かつ)て、其奇石(きせき)なることを知ると雖も、又、如何(いかん)ともすること、なし。試に鐵槌を以つて、石頭(せきとう)を打(うつ)て是に穴を穿(うがた)んとするに、誤(あやまつ)て両断となす。忽(たちまち)、石中(せきちう)より淸水(せいすい)、傾出(かたむけいで)たり。これを見るに、中(うち)、自然に空所ありて、皆、水昌(すいせう)なり。其奇觀、絶品、云ふべからず。即(すなはち)、商人(しやうじん)、これを擔ふて東武賣る。見る人、惜しまずと云ふことなし。一日、雅客(がかく)來りて、是を十五金に求む。即(すなはち)、客(かく)の曰(いはく)、

「此石、兩斷とならずんば、正(まさ)に直(あたひ)千金なるべし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:話の中心となる石は高級装飾宝石としてしばしば見る、所謂、「晶洞(しょうどう)」を持った石で、内部の結晶体だけでなく、その外側も半透明の美しいものである。晶洞とは堆積岩や火成岩玄武岩の内部に形成された空洞を指し、鉱山などでは俗称で「がま」などとも称される。ギリシア語で「大地に似た」を意味する「ジオード」が海外での一般的な呼び名で、内部には熱水や地下水のミネラル分によって自形結晶が形成される(以上はウィキの「晶洞」に拠った)が、外見は汚いごつごつした岩の塊りであることも多い。この場合は、その中の空洞に古代水を封入したレア物であったわけである。この水に魚が生きて住んでいる(無論、そんなことはまずあり得ないのであるが)ものは「魚石」などと称し、愛石家の幻の奇石とされる。この話はそこまでぶっ飛んではいないから、事実であったと考えて何ら、問題はない。

「蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)」これも先の「無縫塔」で注した現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。ここ(グーグル・マップ・データ)。崑崙はどうも固有名詞の表記に注意力を欠くきらいが有意にある。

「水昌石(すいせうせき)」ここは水晶というより、結晶体を形成する広汎な鉱石・玉石類の総称と考えてよい。

「紫瑛石(しえいせき)」「瑛」は「玉の光・水晶などの透明な美石」の意であるから、これは「紫水晶(アメジスト:amethyst)か。現在の本邦では宮城県白石市の雨塚山や鳥取県で産出されるという。因みに、私の三女アリスの血統書上の本当の名は「Amethyst」である(先代の次女のアリスは正真正銘「Alice」であった。)。

「白(はく)瑛石」二酸化ケイ素SiOが結晶した石英(quartz:クォーツ)。六角柱状の美しい結晶を成すことが多いが、その中でも特に無色透明なものを水晶(rock crystal:ロック・クリスタル)と呼び、古くから「玻璃(はり)」と称されて珍重されてきた。

「五泉(ごせん)の市」「市」は後でルビが振られるように「いち」。五泉の市街は永谷寺の西北三キロ強。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「東武」江戸の異称。

「雅客(がかく)」風流人。

「十五金」野島出版脚注では、『金十五両、一両を今の二万円とすれば三十万円に相当する』とするが、江戸末期であるから、もう少し安く(一万円未満)見積もってもいいかもしれぬ。

「千金」江戸末期の一両を最低額で現在の三千円とする換算でも三百万円、前の野島出版脚注の換算値を採用すると、二千万円相当にもなる。]

北越奇談 巻之三 玉石 (「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」リニューアル終了)

 

北越奇談 巻之三

 
        北越 崑崙橘茂世述
 
        東都 柳亭種彦挍合
 
 
    玉石(ぎよくせき)
 

[やぶちゃん注:これは実は昨年の丁度今頃(2016年8月8日)、前頭葉挫滅一周年記念として、

「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」

としてオリジナル現代語訳附きで電子化注している。今回、たまたまほぼ一年にしてここに辿り着いたので、本文を今回の原典に則って、再校合を行い、さらに注も総てに目を通して、ブラッシュ・アップした。画像もあり、容量が重いので、ここでダブってのせることはせず、以上の通り、リンクとして処理するものである。しかし、画像はどれも素晴らしい。是非、再度、ご覧あれかし。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」) / 巻之二~了

 

其十五 「蓑虫の火(ひ)」【虫の部にあらず。】何れの所にも限らず、細雨蕭條(しやうじやう)たる夜(よ)、蓑笠に、獨り、路過(みちすぐ)る者あれば、忽然として、蓑の毛(け)に蛍火(けいくは)のごとく光るもの付(つき)、是を拂ひば、忽(たちまち)、蓑毛一面に火移つつて、笠の雫(しづく)手足の濡れたる所まで、盡(ことごと)く光(ひかり)燐然たり。落(おつ)る雨(う)、皆、火をなすことなり。心を靜め、身を動ぜず、過(すぐ)る時は、又、自然に消ゆる。蓑にも限らず、傘(からかさ)・衣類等(とう)、相同じ。又、船中・湖水の中(うち)にもあり。狐狸の怪ならんと云ふ説あれども、左(さ)にあらず。是、鬼火(きくは)なり。「老學庵筆記」『田野(でんや)、麥苗(ばくみよう)・稻穗、雨夜(うや)、忽(たちまち)、火の起(おこ)るを見る。是、古戰場の燐火也』と記(しる)せり。相同じ。

[やぶちゃん注:この崑崙得意の鬼神鬼火原因説を採る発光現象の真相は不詳。当該の発光生物もこの条件ではピンとこない(しかも崑崙は蛍などの昆虫類などの発光説を否定している)。静電気でここまではっきりとは光らんだろうし、球電とか、大槻教授のプラズマ説なら、六十年も生きた私が今までに一回ぐらい見てもおかしくないだろうに、一向、見たこと、ない。識者の御教授を乞う。

「虫の部にあらず」所謂、この名称は、真正の生物としての「虫類(ちゅうるい)」(江戸以前の「虫類」は昆虫だけでなくて爬虫類や広汎な無脊椎動物及び創造生物まで含むので注意されたい)とは全く違う対象及び原因を指しているので注意されたい、という意味の割注である。

「是を拂ひば」ママ。こうした一見すると誤文法にしか見えないものは、今までにもしばしば見かけたが、これだけ多いと、或いは、当時の北越の方言なのかもしれぬ、という気もしてきた。

「老學庵筆記」南宋の政治家で詩人として知られる陸游(一一二五年~一二一〇年)の随筆集。全十巻。野島出版脚注によれば、凡そ『五百八十の項目で雑事を記す』とある。

是、古戰場の燐火也」先の「石鏃」の中の崑崙の鬼神説、「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」と相響き合う。]

 

其十六 「土用淸水(どようしみづ)」は古志郡(こしごほり)長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村【一谷内村と云ふ。】田間(でんかん)小高き所より淸水出る。年々(としどし)、六月土用入前(いるまへ)より、水少しづゝ出(いで)、土用中(ちう)には、淸水、溢(あふ)るゝがごとし。十八日を歴(へ)て、次第に、水、減じて、なし。一説、小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池中納言賴盛、攝津一谷落城の後(のち)、此國へ來り、蒲原郡(かんばらごほり)三条の城に入る。此頃、中沢村に至り、水を求るに、時、六月の炎暑當たり、無ㇾ得ㇾ水(みづをうることなし)。即(すなはち)、以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)、と。此説、伏波(ふくは)將軍、源賴義の傳に似て信じがたけれど、何(いづ)れ、此泉(いづみ)の奇賞すべし。

[やぶちゃん注:この清水の流出と停水は特定時期の自然現象という部分では説明し難い。或いは、この山上の明神で同時期に行われた(行われる)特殊な祭事や作業、周辺の農作業等の水路調節或いはその変更時期とリンクしているのかも知れない。以下のグーグル・マップ・データを見ると、当該地の東南直近にはかなり大きな池沼群を現認出来るから、これと何らかの関係がありそうにも思われる

「土用」五行に由来する暦の雑節で、広義には一年の内の不連続な四回のの期間、具体的には「四立(しりゅう)」(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の約十八日間に相当する時期を指す。現行では専ら、「夏の土用」即ち、立秋の直前のみが取り沙汰されて鰻食を勧めるばかりに成り下がった。ここで述べているのも旧暦「六月土用」であるから、その時期である。

「長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村蒼柴神社(あおしじんじゃ)」「蒼紫明神(あをしみやうじん)」は現在の新潟県長岡市にある悠久山山内にある蒼紫神社(新潟県長岡市悠久町)。ウィキの「蒼紫神社」によれば、当初は祭神である越後長岡藩三代目藩主牧野忠辰(ただとき)の『尊号の蒼柴大明神と呼称されたが、神仏分離令により現在の名称となる。創建当初は長岡城内にあったが、後に悠久山に移り、北越戦争で長岡城が落城すると一時期、栃尾に遷座するが終戦後に現在地に安置』。享保七(一七二二)年に既に隠居していた牧野忠辰が死去したが、『これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られる。このために養嗣子で当時の藩主牧野忠寿が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まり』とする。明和三(一七六六)年に牧野忠精(ただきよ)が第九第藩主藩主となると、『社殿の城内からの移転が計画され』、最終的に天明元(一七八一)年八月八日に『遷宮式が行われて現在地に移転』したとある。本書刊行は文化九(一八一二)年であるから、この社殿は現在地と考えてよいここ(グーグル・マップ・データ)。

「小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池ノ中納言賴盛」トンデモ誤り「小松内大臣平(たいらの)重盛」(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は平清盛の長男であり、「池ノ中納言賴盛」は清盛の異母弟平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)のことである。頼盛は清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も、唯一、生き残った人物として知られるが、頼盛は後白河院の命を受ける形で実は秘かに源頼朝と通じていたと考えられ、源平の最終合戦前後も一貫して頼朝から厚遇されている。彼は源平合戦開始後も京に残留し、木曾義仲の京都制圧(寿永二(一一八三)年七月末)から数ヶ月後、鎌倉に亡命(鎌倉到着は閏十月頃か)しており、その後、翌年には京に戻って朝廷に出仕している。元暦二(一一八五)年三月、平氏一門は壇ノ浦の戦いで滅亡するが、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得、五月二十九日に東大寺で出家し、法名を重蓮と改め、翌年、享年五十四で病没(推定)している。晩年の彼は京では全くの「過去の人」であった。無論、彼が越後に行ったという事実は全くない。行く必要もない但し、越後には「越後池氏」という平頼盛の後裔を名乗る一族がおり、また、新潟県には平頼盛の伝説を伝える地が多く存在することも事実ではある。ウィキの「池氏によれば、『出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇の末裔を称する皇別氏族)の子孫であったとする説もある』とあり、親不知に伝わる伝承では、『壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも』「池」姓は『新潟県中越地方に多い苗字である』とある(下線やぶちゃん)。ここにも出る『三条、蒲原郡周辺には越後池氏の伝承が多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許の』弘安一一(一二八八)年の関東下知状で、この当時、『池氏は下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社の神官も務めていた』。元応二(一三二〇)年のクレジットを持つ『池新大夫為定が関東御公事の勤めをはたすことができないとの理由で所領を譲り渡している史料』『から、池一族は吉河荘(長岡市)にも所領を領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自を含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領の可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」』『では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫と通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族が越後に入部した説も唱えられている』元弘三(一三三三)年。鎌倉幕府滅亡の際、『討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清』『の名が認められる』。『鎌倉後期には関東御領の多くが北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的には北条氏の護持僧の所領とされており、北条氏に圧迫され』て『所領を奪われていったことが、池氏が討幕軍に参加した理由ではないかと推論されている』。『南北朝時代には南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った』とあるので、この話、この「池」一族が頼盛の末裔を僭称するために捏造した話として読み換えるなら、腑に落ちる

「攝津一ノ谷落城」「鵯越の逆落とし」で知られる「一ノ谷の戦い」は寿永三/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)、摂津国一ノ谷(現在の神戸市須磨区内)で行われ、搦手の大将源義経が丹波城(三草山)を、次いで、一ノ谷を落した。平氏は屋島へと敗走して鎌倉方の完全勝利に終わった。

「蒲原郡(かんばらごほり)三条の城」既出既注。既に本書の頃は廃城(寛永一九(一六四二)年の幕命による)となっており、往時の城は現在の新潟県三条市上須頃(かみすごろ)の附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。

「中沢村」現在の新潟県三条市中沢であろう。三条城跡から南東に九キロメートルほどの山中。

「以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)」これは弘法大師お得意の奇瑞。

「伏波(ふくは)將軍」新末期から後漢初期の武将馬援(紀元前一四年~四九年)のこと。後漢王朝の初代皇帝光武帝の強い信頼を受け、多くの反乱を征討した。四〇年に交州(現在のベトナム北部附近)で徴姉妹が反乱を起こしたが、翌年に伏波将軍に任ぜられてこれを鎮圧している。「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。

「源賴義」源家のチャンピオン源義家の、彼とともに前九年の役で安倍貞任を討ち、安倍氏を滅亡ささせたことで知られる義家の父源頼義(永延二(九八八)年~承保二(一〇七五)年)。同じく「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

其十七 「白螺(しろたにし)」。前に記(き)する古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)にあり。他邦の人、至(いたつ)て是を見んことを求むれども、村老(そんらう)、敢て、許さず、「今は、なし」と答ふ。是、地神(ちじん)の惜しむ所にして、山、大に荒(ある)る故なり。六月、雪を下(くだ)し、風雨・洪水あり。故に、恐れて、樵夫(しようふ)も、猶、至らず。今は他邦の人に池を見することだに、許さずと云へり。弱冠の頃、四月廿四日、此所(このところ)に至(いたり)て、路を失(しつ)し、黄昏(たそがれ)に吉ヶ平(よしがひら)に出(いで)、宿を求む。翌日より、風雨激しく、六日まで留宿(りうしゆく)せしが、其中(そのうち)、村老に請(こふ)て、山中七池水(ちすい)、盡(ことごと)く見物せり。

白螺(しろたにし)は田螺(たにし)の白きものなり。

[やぶちゃん注:「白螺(しろたにし)」既出既注であるが再掲しておく。腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで村民が殊更に隠すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層や池塘の底から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている。孰れにせよ、奇ではない。

「古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)」よく判らんが、この「諏門山」というのは現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことではないか? ここ(グーグル・マップ・データ)。山岳家の個人サイトを縦覧して見ると、三条市になるこの守門岳から北に連なる尾根を行った直線で五キロほどの位置にある番屋山の北側の登りの沢の名を「馬追沢」と呼んでいることが判った。しかも、さらに地図を精査してみたところが、この番屋山から北東一帯は新潟県三条市「吉ケ平(よしがひら)」ここ(グーグル・マップ・データ))なんである! これこそ「芦ケ平(あしがひら)」「吉ヶ平(よしがひら)」と考えてよかろう!! そうして! 遂に! この吉ヶ平の北地区にある「雨生ヶ池」は「まごいがいけ」と読むことを突き止めた!! 「まごいがいけ」は「むまおひがいけ」だろッツ!! こういう発見は地図好きには、何とも! こたえられない快感なんである!!!

「地神(ちじん)」(「ちがみ・ぢがみ」とも)「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に変更し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本の農村で特定の集団と関係する縁起をもち、特定の土地に祀られる機能神の総称。祖先信仰を基盤に、歴史的地域的に多様な信仰と結びついて発展を』遂げた『全国的規模の信仰であるが、呼称は地方によって異なる。信仰内容から次の三種に類別することができる。(一)一村または一集落単位の地縁集団が、土地の守護、農耕の神として祀る。包括神的性格を』持ち、『村の辻や神社の境内などに祀り、春秋の彼岸を祭日とする。地神講と称する講を組織する地方もあり、順番に宿をして祭りを行うこともある。(二)特定の家の田畑などに祀り、その田や畑を開拓した人を地神とするもの。田畑の守護神であると同時に、その家の開拓先祖として信仰されることが多く、祭場を屋敷内に』置いて、『屋敷神としての機能をもつことがある。(三)家人が死んで三十三年を経過すると、地神と呼ぶ祖先神になるというもの。多くは屋敷の一隅に常設の祠(ほこら)や』藁で作った『仮屋に祀る』。

「山中七池水」現在の三条市吉ケ平にも「雨生ヶ池」の他に「大池」を現認出来、さらに国土地理院の地図を精査すると、この二つの池の間を流れる守門川の両岸には二つの小さな池塘も認められた。最後に! 「まこと&かよこの山記録」という個人サイト内で吉ヶ平歴史散策ツアーというページを発見! 多分、私は実際に行くことはないこの「雨生ヶ池」の写真を見ることが出来た!!! 感無量!!! 因みに、その解説に『番屋山の下の文字に馬追沢とある』。『この池は馬が追われて池に落ちたとの説もあり』、『池の源流は馬追沢という名になっているとの事』(下線やぶちゃん)とある。

 なお、以下の最後の総括附言は、原典では全体が二字半下げになっている。この附記は崑崙の智に対する非常な厳密さと謙虚さを如実に示している。崑崙先生! わて、好きやねん!!!]

 

今の七奇を撰(ゑら)ばんとするに、古(いにしへ)の七奇の内(うち)、捨(すつ)べからざるもの、あり。新に加(くはへ)んと欲する物、あり。然(しか)れば、假令(たと)へ、今、他邦に同(おなじ)奇(き)を出(いだ)すと雖も、奇なるものは、即(すなはち)、奇なり。又、後(のち)の人、時の重きに從つて、後の七奇を撰述(せんじゆつ)し給ふべし。

 

 

 

    新撰七奇

 

「石鏃(せきぞく)」

「鎌鼬(かまいたち)」

  此二奇、古の「海鴨」・「白兎」に易る。

  新撰、「海鳴」は常に聞くべからず、

  「白兎」は近國、余類、甚だ多き故、

  除ㇾ之。

「火井(くはせゐ)」

「燃土(もゆるつち)」

「燃水(みづ)」

「胴鳴(ほらなり)」

「無縫塔(むはうとう)」

  此五奇は古より賞称するところをあらためず。

 

    右

 

北越奇談巻之二終

 

[やぶちゃん注:底本は解説部分全体が二字下げであるので、以上のような改行を施して原典の雰囲気を出した。無論、鍵括弧は原典にはなくて単に字空けで繋がっている。野島出版版では字空けなしで中黒が名数の間に打たれてある。最後なので贅沢にそれぞれ改行して並べ、ポイントも大きくし太字とした。

「易る」「かへる」。

「新撰」今回の私の提示する「新撰七奇」では、の意で、以下、「海鳴」は最近ではもう殆んど全く聴くことがなくなってしまった故、また「白兎」は越後の近国でも同様の毛の季節変化を示す兎が非常に多く見られることから越後固有の「奇」とは認められぬから、「除ㇾ之」(これをのぞく)と述べているのである。

「燃水(みづ)」「もゆるみづ」。

「古」「いにしへ」。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十四 「風穴」)

 

其十四 「風穴(かざあな)」【「風洞」。】。三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)弥陀堂の後(うしろ)、絶壁の下(した)に、經(わたり)、尺ばかりなる岩穴(いわあな)ありて、風を出(いだ)すこと、扇風(せんふう)の力(ちから)に比(ひ)すべし。俗説に、角田濱の洞口(とうこう)に相通じて此奇をなす、と云へり。其間(あいだ)、凡(およそ)、伊夜日子山(いやひこやま)を隔(へだて)て三里餘りなり。此説は、とるに足らざれども、又、外(ほか)に風の通ふべきと思ふ所だに、なし。即(すなはち)、地中深く大空所(だいくうしよ)ありて、自然に氣を發するものか。又、地中泉脉(せんみやく)の通ずる所か。只し、大山(たいさん)を穿(うがち)て溪間(けいかん)に通じたるか。又、頸城(くびき)難波(なんば)山にも風洞(ふうとう)ありと。未ㇾ見(いまだみず)。「水經(すいけい)」河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり、と。即(すなはち)、雲上山の風穴(ふうけつ)、これ劣らず。

[やぶちゃん注:後に注する角田浜の直近にある「角田山妙光寺」の公式サイト内の、小川英爾聖なる山と妙光寺の中の『妙光寺の裏手に〝岩屋″と呼ぶ大きな洞窟があ』り、『この岩屋の奥は国上山にある真言宗国上寺の本堂裏手に今も開いている風穴に通じ、岩屋の焚き火の煙が出てきたとか、追い込んだ犬が出てきたという伝説が双方に残っている。この国上寺は越後一の古刹としてかつて修験道の中心道場であり、弥彦神社とも深い繋がりがあった』(下線やぶちゃん)とあることから、この弥陀堂(本堂)の裏手には今もこの風穴があることが判った。なお、ウィキの「風穴によれば、『風穴は洞窟の内外で生じる気温差や気圧差により風の流れが生じ、洞口(洞窟の開口部、出入り口)を通じて体感的に速い大気循環がある洞窟の一形態で』、『比較的新しい時代の火山岩(溶岩台地、等)や石灰岩(カルスト地形』『等)が広がる地域や、海食崖が連なる海岸付近では特徴的に見られる』。『地中の空洞が、高低差のある複数の開口部で地表と結ばれている場合に風穴現象が起きやすい。冬場、空洞内で比重が軽い温かく空気が上方の温風穴から吹き出し、その分、冷たい外気が下方の冷風穴から吸い込まれる。日光が射さない空洞内の空気と岩盤は温度が上がりにくいため、夏になっても冷気が漏れ出る仕組みである』とあり、現象としては奇とするに足らぬ。

「三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)」現在の新潟県燕市国上(くがみ)にある、和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる、越後最古の古刹とする真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。山号は誤り(同寺北のピークである山は寺名と同じ国上山)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。さらに調べてみると、面白いことが判った。何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。さても! このどこに繋がっているか判らぬ妖しい国上の「風穴」こそは、まさにその「鬼穴」そのものではなかろうか?!

「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。国上寺からほぼ真北へ十二キロメートル離れている。

「伊夜日子山(いやひこやま)」既出既注の弥彦山。国上寺寄りにある。

「只し」ここは条件や例外を附すそれではなく、副詞「ただ」を強めただけの「もしかしたら」という仮定用法。

「難波(なんば)山」既出既注。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「水經(すいけい)」中国の河川について簡略に記した地理書。撰者は前漢の桑欽とも晋の郭璞とも伝えるが、未詳。三国時代頃の成立かと思われる。一般には、北魏時代に官僚で文人であった酈(れき)道元がそれに注を施した「水經注」(推定で五一五年成立)で知られる以下の崑崙の引用も、その「水經注」の「河水四」にある一節である。

河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり」「河水の南(みなみ)、北屈縣(ほつくつけん)の西十里を逕(へ)て風山(ふうざん)有り、山上(さんしよう)、穴有り、輪(りん)のごとし、風氣(ふうき)、蕭瑟(しようしつ)たり」。中文サイトで見ると、原文は「屈縣故城西、西四十里有風山上、有穴如輪、風氣蕭瑟、習常不止。當其衝飄也、略無生草、蓋常不定、故風之門故也」と続きがある。「輪」は馬車の車輪の大きさほどの謂いか。「蕭瑟」(発音は確かに「しょうしつ」であるが、歴史的仮名遣では「せうしつ」が正しい)は秋風が寂しく吹く形容。]

2017/08/12

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート12 其十三 「八房梅」)

 

Yatuhusanoume

 

[やぶちゃん注:落款「茂」「世」で橘崑崙自筆の絵であることが判る。左にあるキャプションは、

 

親鸞上人の

 旧跡八ツ房の

  梅の図

 

である。]

 

其十三 「八房梅(やつぶさのむめ)」。蒲原郡(かんばらごほり)小島村にあり。即(すなはち)、親鸞上人の旧跡【一坐論梅なり。】。今、猶、所々にあり。例へば、いづれの説にもせよ、誠に五百年來の古木にして、老根、如ㇾ虎(とらのごとく)屈し、枝々(しし)、如ㇾ龍(りやうのごとく)蟠(わだかま)りて、一根、八木(はちぼく)に分(わか)れ、天を指し、地を掃(はらつ)て、雅致(がち)、云ふべからず。其花、淡紅(たんこう)八重の大輪(たいりん)、枝々(しし)、坐(ざ)を爭(あらそ)ふて開き、其(その)淸香(せいかう)、芬然(ふんぜん)として數里(すり)に匂(にほ)ふ。遍(あまね)く諸國の老梅(らうばい)を見ると雖も、其奇勢(きせい)、是に對するもの、なし。其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へるは、敢て論に及ばず。

[やぶちゃん注:親鸞絡みの「越後七不思議」の一つ。現在の阿賀野市小島にある浄土真宗梅護寺((グーグル・マップ・データ))に現存する梅。天然記念物。親鸞が梅干の種を庭に植えて歌を詠んだところが、翌年、芽が出て、枝葉が茂り、薄紅の八重の花が咲き、一つの花に実が八つずつ実るようになったと伝える。これは梅の一品種で、花は白く、八重咲き。雌蕊(めしべ)が数本(十本という記載もある)あって、事実、一つの花に四個から七個(最初期には十個)の実を結ぶ(但し、ネットで調べてみると、成長途中で落果し、重量の関係からも最終的には概ね一つか二つになることが多いようである)。本文にもあるように、別名を「座論梅(ざろんうめ/ざろんばい」とも呼び、花の見頃は四月中旬、結実の見頃は五月から六月上旬とある。

「今、猶、所々にあり」これは同品種の梅が崑崙の時代に既に、この梅護寺以外に各所に植わっており、それぞれに伝承が付随していたらしいことが、これによって判る。

「五百年來の古木」親鸞が赦免されるのは配流から五年後の建暦元(一二一一)年十一月十七日で、その三年後の建保二(一二一四)年に東国布教のために家族や性信などの門弟とともに越後を出発、信濃の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かっている。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であるから、最短でも「五百年」どころか「五百九十八年」で、ここは「六百年來」とするのが正しい

「芬然(ふんぜん)」はっきりとよい香りの立つさま。香しい匂いがしきりに漂うさま。

「其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へる」元が芽生えるの筈がない塩漬けの梅干しのその「種」であったからというのであろう。崑崙の言う通り、こげなことは「敢て論に及ばず」じゃて!]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート11 其十二 「七ツ法師」)

 

其十二 「七ツ法師」。八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり。未(や)ツの時、日、西に旋(めぐる)頃、はじめて、滝、白く見え渡り、申(七ツ[やぶちゃん注:ルビ])の時に至れば、即(すなはち)、滝の中央、黑く、法師の形、現はれ出(いづ)ツ。其邊(ほとり)、さらに此(この)影(かげ)を成す。岩だになし、と云へれど、西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝと云ふがごとく、遠近(ゑんきん)の岑(みね)・高樹の陰など、相(あひ)映じて其形を成すなるべし。今町八幡(いままちはちまん)にて、是を見る。奇とするには足らざれども、景色(けいしよく)、甚だ、よし。又、糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす。雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん。

[やぶちゃん注:「八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり」上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。この滝がそれらのどこにあるかは不詳だが、蓑上誠一氏のサイト「峠と旅」の「南葉山峠(仮称)」というのはこの近くのロケーションと思われ、そこに「よもしろうの滝」というのが写真入りで出る。ここは一つ、候補としてよかろう。他にここだというところを知っておられる方は、是非、御教授願いたい。

「未(や)ツの時」未(ひつじ)の刻で午後二時前後。

「申(七ツ)の時」申(さる)の刻で午後四時前後。

「岩だになし」そのような翳をそこに落し得るようなちょっとした岩さえも全くない。

「西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝ」不詳。一つの候補として現在の京都府京丹後市大宮町谷内にある三つ(現在は一つが崩壊して二つ)からなる竜洞滝の内の落差六メートルの「影向滝」(別名「昇竜の滝」)を上げておく。現在、滝脇に不動尊像を祀る。ホージローサイト「全国滝」を参照した。

「今町八幡(いままちはちまん)」現在の新潟県見附市今町か。(グーグル・マップ・データ)。但し、同地区には現在、八幡社はない。識者の御教授を乞う。

『糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす』糸魚川((グーグル・マップ・データ))の南東に妙高山(みょうこうさん:所属は新潟県妙高市で標高二千四百五十四メートル)があるが、これは以下で「雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん」と崑崙が述べているように(但し、必ずしも大石があるわけではない)、雪が部分的に溶けて、地肌が牛の形(或いは馬)に見えるシミュラクラ現象で、雪国ではこの雪形を以って種蒔きや春耕開始の目安とするという呪的な意味があった。「上越タウンジャーナル」の妙高山の雪形「跳ね馬」の横に「牛形」現れるをご覧あれかし! 「牛形」の写真有り!! 下方の過去記事でも同様の過去の現象が見られるよ!!!]

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