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カテゴリー「柴田宵曲」の292件の記事

2018/07/05

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  糸瓜の水も間に合わず / ブログ「鬼火~日々の迷走」十三周年記念 全オリジナル電子化オリジナル注完遂

 

    糸瓜の水も間に合わず

 

 いよいよ最後の九月になった。「仰臥漫録」の「麻痺剤服用日記」は七月二十九日で絶えてしまったが、巻末に記された歌や俳句はその後も絶えなかったらしい。短歌では

 

   九月三日椀もりの歌戲(たはむれに)寄隣翁(りんおうによす)

 麩(ふ)の海に汐みちくれば茗荷子(みやうがこ)の葉末(はずゑ)をこゆる眞玉白魚(またましらうを)

 

というのが最後のものであろう。隣翁はいうまでもなく羯南翁である。

[やぶちゃん注:「仰臥漫録二」の『おくられものの歌數首「病牀六尺」の中にあり』と記した巻頭にあるもの。]

 

 「仰臥漫録」には記されてないけれども、九月五日の「病牀六尺」に左の長歌が出た。

[やぶちゃん注:ブラウザでの不具合を考え、頻繁に改行して示した。後も同じ。以下は「子規居士」で校合したものを示した。後で初出(表記が異なる)を改めて示す。

 

 くれなゐの、旗うごかして、夕風の、

 吹き入るなべに、白きもの、

 ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、

 ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、

 人か花かも、花の夕顏

 

 「くれなゐの旗」というのは、佐藤肋骨氏が天津から送って来た樺色の旗で、それが三二旒(にりゅう)床の間の鴨居にかけ垂(たら)してあった。この夕顔は前年「仰臥漫録」によく出て来た扁蒲(へんぽ)ではなしに、夜会草と称する鉢植の花の方である。彼の旗の下にこの鉢を置くと、また変った花の趣になる。「この帛(はく)にこの花ぬひたらばと思はる」といって詠んだのがこの長歌なので、これが最後の歌であった。

[やぶちゃん注:改めて初出で全部(「百十六」回分)を示しておく。

   *

○暑き苦しき氣のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の聲もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬ程に、向島より一鉢の草花持ち來ぬ。綠の廣葉う並びし間より七、八寸もあるべき眞白の花ふとらかに咲き出でゝ物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜會草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るに其傍に細き字して一名夕顏とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には天津の肋骨が萬年傘に代へてところの紳董[やぶちゃん注:「しんとう」。地方の高位の身分の有識者らをさす。]どもより贈られたりといふ樺色の旗二流おくり來しを掛け垂したる、其もとにくだり[やぶちゃん注:「件(くだん)に同じい。]の鉢植置き直してながむれば又異なる花の趣なり。此帛に此花ぬひたらばと思はる。

  くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹

  き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆ

  らく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐ

  はしみ、人か花かも、花の夕顏

   *

長歌中の清音はママ。なお、実は初出ではこの本文の後に、罫線が入り、四字下げで『鉢植の朝顏の明日の朝初めて』(改行)『咲くべきを蕾を見手よめる』という後書があるのであるが(現行の刊本にはない)、これは『日本』の編者が添えた半可通の添書きのように思われるが、如何?

「佐藤肋骨」(明治四(一八七一)年~昭和一九(一九四四)年:旧姓は高橋。養嗣子。肋骨は本名らしい)は後、陸軍少将で衆院議員・俳人。既出既注であるが、再掲しておく。『在外武官として』は二十『年余に及び、退役後は衆院議員、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などを務めた。支那通として知られ』、『「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書がある。近衛連隊に在職中五百木瓢亭、新海非風らに刺激されて俳句の道に入り、子規の薫陶を受けた。日清戦争で片足を失い』、別号を「隻脚庵主人」また「低囊」とも称した。『句集はないが』、『新俳句』『春夏秋冬』などに『多く選ばれている。蔵書和漢洋合わせて』三『千余冊と拓本』一『千余枚は拓殖大学に寄贈された』と、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にある。

「樺色」(かばいろ)は赤みのある橙色。

「扁蒲(へんぽ)」「夜会草」孰れも通常、被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ属Lagenaria siceraria 変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida のことを指す。宵曲はあたかも違う種類のように記しているが(食用の実を成らせることを専らの目的とした本種に対して、鉢植えにして専ら花を楽しむだけのために改良した品種の可能性もあるかも知れぬが)、私は全くの同一種と思う(子規の「病牀六尺」の記載もそう読める)。因みに、「仰臥漫録」の「二」に二枚の子規自筆の写生図が載る。私のこの本電子化注も最後なので、岩波文庫版に載るそれ(図のみ)を以下に転写する。

 

Yugao1

Yugao2

 

二枚目に「卅五年」/「九月三日写」/「夜会草ノ花」と手書きで添えてある。]

 

 この年居士は「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」をはじめ、比較的多くの長歌を作っている。八月には「おくられるものくさぐさ」六首があり、旱(ひでり)の歌二首がある。旱の歌が

 

 天なるや旱雲(かんうん)湧き、

 あらがねの土裂け木枯る、

 靑人草(あをひとくさ)鼓(つづみ)打ち打ち、

 空ながめ虹もが立つと、

 待つ久に雨こそ降らめ、

 しかれども待てるひじりは、

 世に出でぬかも

 

といい、

 

 旱して木はしをるれ、

 待つ久に雨こそ降れ、

 我が思ふおほき聖、

 世に出でゝわをし救はず、

 雨は降れども

 

といい、二首とも聖ということに言及しているのは注目に値する。

[やぶちゃん注:長歌は前と同様、恣意的に頻繁に改行した。

「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「煮兎憶諸友」で画像で読める。

『「おくられるものくさぐさ」六首』上記画像でも続けて読め、一部は以前にその中の一つ、新免一五坊が子規に贈ったヤマメの返礼歌を「歌の写生的連作」の「一五坊」の注で示したが、このは全部が「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)に載る。初出をリンクさせておく。

「旱(ひでり)の歌二首」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「旱の歌 二首」で読める。それで以上は校合した。各句改行したのは、実は校合したものが、明らかに読点の後を一字分ほど空けているからでもある。

「あらがねの」枕詞。一説に、粗金(あらがね:精製されていない金属)が土中にあるところからとも、また、金属を打ちきたえる鎚 (つち) の縁で同音の「土(つち)」にかかるとも言う。

「靑人草」人民・民草のこと。「古事記」に出る上代語。「人が増える」ことを「草が生い茂る」のに譬えた語とされる。

「わをし」「吾をし」で「し」は強意の副助詞であろう。]

 

 八月中の居士の手紙には、苦言忠告の書がぽつぽつ見えるが、九月に入ってからの「病牀六尺」にもまたそれがある。「近頃は少しも滋養分の取れぬので、體の弱つた爲か、見るもの聞くもの悉く癪にさはるので、政治といはず實業といはず新聞雜誌に見る程の事皆われをぢらすの種である」とあるように、癪に障った結果が「病牀六尺」に現れたのだとも解釈出来るし、何か目に見えぬ力が居士をしてこの種の文をなさしめたのだとも考えられる。

[やぶちゃん注:以上は「病牀六尺」の「百十九」(九月十日)の頭の部分。例の国立国会図書館デジタルコレクションの初出切貼帳のここで校合した。]

 

 九月九日には左千夫、四方太、節(たかし)の諸氏が枕頭にあった。居士の足にはすでに水腫(すいしゅ)が来ており、病の重大なることを思わしめたが、煩悶叫喚の間にはいろいろ雑談の出る余裕があった。「病牀六尺」百二十二回(九月十一日)には足の腫(は)れたことからはじまって、当日の談片が材料になっている。

[やぶちゃん注:「百二十二」回を初出で示す。

   *

○一日のうちに我瘦足の先俄に腫れ上りてブクブクとふくらみたる其さま火箸のさきに德利をつけたるが如し。醫者に問へば病人には有勝の現象にて血の通ひの惡きなりといふ。兎に角に心持よきものには非ず。

四方太は八笑人の愛讀者なりといふ。大に吾心を得たり。戀愛小説のみ持囃さるゝ中に鯉丈崇拜とは珍し。

四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]而[やぶちゃん注:「しかも」]網を外はずれて船に飛び込みたるマルタのみも三尾あり、總てにて一人の分前[やぶちゃん注:「わけまへ」。]四十尾に及びたりといふ。非常の大漁なり。昨[やぶちゃん注:「また」。]隅田の下流に釣して沙魚[やぶちゃん注:「はぜ」。]五十尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]同伴のもの皆十尾前後を釣り得たるのみと。その言にいふ釣は敏捷なる針を擇ぶことゝ餌を惜しまぬことゝに在りと。

左千夫いふ。性の惡き牛、乳を搾らるゝ時人を蹴ることあり。人之を怒つて大に鞭撻を加へたる上、足を縛り付け、無理に乳を搾らむとすれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性惡しとて無闇に鞭撻を加へて教育すれば益〻其性を害ふて[やぶちゃん注:「そこなふて」。]惡くするに相違なしと思ふ。云々。

節[やぶちゃん注:「たかし」。]いふ。かづらはふ雜木林を開いて濃き紫の葡萄圃[やぶちゃん注:「ぶだうほ」。葡萄畑。]となさむか。

   *

「八笑人」は「花曆八笑人」(はなごよみはしょうじん:現代仮名遣)のこと。滑稽本。滝亭鯉丈(りゅうていりじょう ?~天保一二(一八四一)年)らの作。五編十五冊(第五編上巻は一筆庵主人作、中巻と下巻は與鳳亭枝成作)。文政三(一八二〇)年から嘉永二(一八四九)年にかけて刊行。気楽な江戸庶民の八人の仲間が集って、文化文政期に盛んであった茶番狂言を仕組むが、思わぬ手違いから美事に失敗するという筋を滑稽に描いたもの。「マルタ」は「丸太」で、条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtiiウィキの「マルタ」によれば、最大で五十センチメートル、千五百グラム程度にはなり、大型個体では『近縁種のウグイ』(ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)『より大型になる。ウグイとの違いは、オスの婚姻色(赤色縦条)がウグイは』二『本であるのに対し、マルタは』一『本しかないことである。自然の状態でウグイと』『容易に交雑するか』どうか『は不明である』。『主に沿岸部から河川河口部の汽水域に生息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚である。幼魚は』一『年ほど河口付近で過ごし』、七~九センチメートル『ほどに成長して海に降る』。『寿命は』十『年ほどと比較的』、『長命である。動物食性で、貝類やゴカイ類、エビなどの甲殻類といった小動物を捕食する』とある。]

 

 十日の『蕪村句集』輪講は居士の加わった最後の輪講である。前日より元気はなかったけれども、なお輪講が済んでから、かつて「病牀六尺」で評した鳴雪翁の句について、翁が『ホトトギス』で応酬したのに対し、切れ切れながら再駁(さいばく)するだけの気力を失わなかった。

 十二日以後「病牀六尺」の記事が目立って短くなる。その文句も未曾有(みぞう)の苦痛を帯ぶるに至った。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。]

 

  百二十三

○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以來晝夜の別なく、五體すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。(九月十二日)

  百二十四

○人間の苦痛は餘程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像した樣な苦痛が自分の此身の上に來るとは一寸想像せられぬ事である。(九月十三日)

  百二十五

○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石(だいばんじやく)の如し。僅(わづか)に指頭を以てこの脚頭に觸るれば天地震動、草木號叫、女媧氏(ぢよかし)未だこの足を斷じ去つて、五色の石を作らず。(九月十四日)

 

[やぶちゃん注:「女媧氏」古代中国神話で人類を創造したとされる女神。姓は風、文化文明の創造者伏羲(ふっき)とは兄妹又は夫婦とされ、二人が蛇身人首の絡みついた姿で描かれることがある。ウィキの「女媧」によれば、『女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている。後漢時代に編された『風俗通義』によると、つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間が』、『のちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため』、『縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている』。『『楚辞』「天問」にも「女媧以前に人間は無かったが女媧は誰がつくったのか」という意味のことが記されており、人間を創造した存在であるとされていた』。『また『淮南子』「説林訓」には』七十『回生き返るともあり、農業神としての性格をも持つ』。『伏羲と共に現在の人類を生みだした存在であると語る神話伝説も中国大陸には口承などのかたちで残されている。大昔に天下に大洪水が起きるが、ヒョウタンなどで造られた舟によって兄妹が生き残り、人類のはじめになったというもので、この兄妹として伏羲・女媧があてられる。このような伝説は苗族やチワン族などにも残されている』。『聞一多は、伏羲・女媧という名は葫蘆(ヒョウタン)を意味する言葉から出来たものであり、ヒョウタンがその素材として使われていたことから「笙簧」』(しょうこう:笙のようなリード楽器)『の発明者であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している』。『『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は、五色の石を錬(ね)りそれをつかって天を補修し(錬石補天)、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある』とある。子規の「五色の石を作らず」とはそのカタストロフの天地の修復・再生・蘇生を引っ掛けた洒落である。阿鼻叫喚の痛みとともにこの期に至っても諧謔を忘れぬ子規は、やはり、タダモノではない。]

 

 十四日の朝、前夜一泊した虚子氏に口授して文章を筆記せしめた。「九月十四日の朝」がそれである。居士は「病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持(もっ)てこの庭を眺めた事はない」といい、「何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われた」といっている。一種いうべからざる沈黙の気が文章全体に添っていて、「たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけびらびらと動く」というような小さな描写も、そのままには看過しがたいような気がする。納豆売が来たのを聞いて、自分が食いたいわけではないが少し買わせる。「余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少いのである。それでたまたま珍しい飲食商人が這入(はい)って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる」というのである。居士の心持はこの期に至っても決して曇っていなかった。

[やぶちゃん注:以上の「九月十四日の朝」の引用部は、口述筆記であることを考慮して、敢えて全くいじらず、底本のママとした。明治三五(一九〇二)年九月二十日発行の『ホトトギス』に掲載された。子規が没する前日である。「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)で正字正仮名版が、こちらで新字新仮名版が読める。]

 

 居士が世の中に通した文章としては、先ずこの一篇を最後のものと見るべきであろう。「病牀六尺」は十五日には出たが、十六日は休み、十七日の百二十七回分は西芳菲山人(ほうひさんじん)の来書を以てこれに代えた。山人も「病牀六尺」の二、三寸に過ぎず、頗る不穏なのを見て見舞を述べ、「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」という狂歌を寄せ来ったのである。これが終に「病牀六尺」の最後になった。

[やぶちゃん注:「西芳菲山人(ほうひさんじん)」西芳菲(にしほうひ 安政二(一八五五)年~?:子規より十二歳歳上)は長崎生まれの理学士。東京帝国大学卒。工業学校長。教職の傍ら、狂歌などをよくし、正岡子規などとも交流があった。明治二二(一八八九)年二月十一日の大日本帝国憲法発布の日、森有礼文部大臣が暴漢に殺害された事件を題材にした狂句「ゆうれいが無禮のものにしてやられ」「廢刀者出刃包丁を橫にさし」を新聞『日本』に投句、これが後に同紙が川柳欄を開設する契機となり、明治新川柳の牙城となる端緒となった。後に彼は『日本』の時事句欄の選者ともなっている(以上は冨吉将平氏の論文「前田伍健の新出史料について」(二〇一六年十月発行の『松山大学論集』(第二十八巻第四号)の抜刷(PDFでダウン・ロード可能)に拠った)。達磨の収集家でもあったらしい。]

 

 何か写生するつもりで画板に紙の貼ってあったのを、無言で傍に持ち来らしめ、

 

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

 をとゝひのへちまの水も取らざりき

 痰一斗糸瓜の水も間にあはず

 

の三句をしたためたのは、十八日の午前である。これが居士の絶筆であった。

[やぶちゃん注:辞世三句は、全く別に、絶筆画像を見て、表記文字を比定した。句の提示順序は宵曲のそれに従った。因みに「へちま水」は鎮咳・利尿・むくみの除去などの効果があるとされ、古くから化粧水としても用いられた。]

 

 この日はあまりものもいわず、昏睡状態が続いていたが、その夜母堂も令妹も、一人残って泊っていた虚子氏も、誰も気づかぬうちに、居士の英魂は已に天外に去っていた。あまり蚊帳の中の静なのを怪しんで居士の名を呼んだ時は、手は已に冷え渡って、僅に額上に微温を存するのみであった。時に九月十九日午前一時、虚子氏が急を報ずるために外へ出たら、十七夜の月が明るく照っていたそうである。

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十九日は前日十八日が満月で、子規が没する一時時間前のその日が旧暦八月十七日であったのである。]

 

 『ホトトギス』第六巻第十一号は八月に出るはずのが出ず、九月二十日に至って漸く発行された。居士の文章は「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」及「九月十四日の朝」の二篇がこの号に載っている。

[やぶちゃん注:「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」既出既注。]

 

 「天王寺畔の蝸牛廬」は「月の都」執筆当時の回想を述べたもので、以前に筆記してあったのが偶然この号に掲げられたのである。「子規子逝く。九月十九日午前一時遠逝せり」という簡単な広告を「九月十四日の朝」の余白に辛うじて組入れることが出来た。

[やぶちゃん注:先に示した「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)正字正仮名版の末尾に、

   *

        子規子逝く

       九月一九日午前

       一時遠逝せり

   *

とある(字下げはママ)のがそれである。]

 

 居士の遺骸は二十一日午前九時、滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺(だいりゅうじ)に葬られた。会葬者は百五十余名に及んだ。戒名は「子規居士」と定め、明治三十八年に至って羯南翁の筆に成る墓石が建てられた。

 

 以上が子規居士三十六年の生涯の大体である。著者はここに至って更に結語や論讃めいたものを附加えようとは思わぬ。それは最初に予定した頁を超過したためばかりではない。居士の一生を要約して全体を結ぶような、適当な言葉を発見し得ないためである。

 孫悟空のように一度伸した如意棒を、また縮めて耳の中に収める手際を有せぬ限り、この辺で筆を擱くより仕方があるまいと思う。

[やぶちゃん注:三段落前と二段落前の間の一行空けは底本のママ。以上が本書のコーダである。

「滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺」現在の東京都北区田端の真言宗和光山(わこうさん)興源院大龍寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ミネコ氏のブログ「本トのこと。」の「正岡子規のお墓参りと田端文士村記念館へ行ってきました」がバーチャルによい。

「子規居士三十六年の生涯」正岡子規は一八六七年十月十四日(慶応三年九月十七日)生まれで明治三五(一九〇二)年九月十九日であるから、満三十五歳に満たずして亡くなっている。

 最後に。本章を以って私のオリジナルな柴田宵曲「子規居士」(「評伝 正岡子規」の原題)の電子化注を終了する。因みに、私はこの最終章の公開を、このブログ「鬼火~日々の迷走」の十三周年記念日(2005年7月5日始動)に合わせた。私のブログを愛読して下さる諸氏に心より感謝申し上げる――2018年7月5日朝 藪野直史――

2018/06/29

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  最後の厄月

 

      最後の厄月

 

 五月五日から居士は「病牀六尺」を『日本』に掲げはじめた。然るにその七日から容体が思わしからず、十三日に至って未曾有の大苦痛を現じた。厄月の五月はここに至ってもなお居士を脅(おびやか)すことを已めなかったのである。十四日は比較的無事であったが、前日の反動で非常に弱り、十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであったが、午後からは次第に苦痛が薄らぎ、あたかも根岸三嶋神社の祭礼であったので、豆腐汁、木(き)の芽和(あえ)の御馳走に一杯の葡萄酒を傾ける。祭の句が八句も出来るという風で、どうやら危険を脱し得た。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」では「五」(後の末尾クレジットは五月十日)に(例の初出で翻刻、二箇所で句点を挿入した)、

   *

○明治卅五年五月八日雨記事。

昨夜少しく睡眠を得て昨朝來の煩悶稍度を減ず。牛乳二杯を飮む。

九時麻痺劑を服す。

天岸醫學士長州へ赴任の爲め暇乞に來る。序に予の脈を見る。

碧梧桐、茂枝子[やぶちゃん注:「しげえこ」。]早朝より看護の爲めに來る。

鼠骨も亦來る。學士去る。

きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし畫本を碧梧桐らと共に見る。月樵の不形畫藪[やぶちゃん注:「ふけいぐわそう」。]を得たるは嬉し。其外鶯邨畫譜[やぶちゃん注:「わうそんぐわふ」。]景文花鳥畫譜、公長略畫など選り出し置く。

午飯は粥に刺身など例の如し。

繃帶取替をなす。疼痛なし。

ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコ若し食ひつきし時は勢よく竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。

鄕里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、彌八婆々の池、ホイト池、藥師の池、浦屋の池など。

フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。

茂枝子ちよと内に歸りしが稍〻ありて來り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄俄に樣子惡く巢の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなど云ふもあり。予は戲れに祈禱の句をものす。

  菜種の實はこべらの實も食はずなりぬ

  親鳥も賴め子安の觀世音

  竹の子も鳥の子も只ただやすやすと

  糞づまりならば卯の花下しませ

晚飯は午飯と略同樣。

體溫三十六度五分。

點燈後碧梧桐謠曲一番殺生石を謠ひ了る。予が頭稍惡し。

鼠骨歸る。

主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり。泣く、怒る、なだめる。此時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。

十一時半又麻痺劑を服す。

碧梧桐夫婦歸る。時に十二時を過る事十五分。

予此頃精神激昂苦悶已まず。睡覺めたる時殊に甚だし。寐起を恐るゝより從つて睡眠を恐れ從つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの歸る事遲きは予のために夜を短くしてくれるなり。

   *

とある(全文)。

『十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであった』これは「病牀六尺」の「九」(後の末尾クレジットは五月十八日)に出る。やはり全文を初出で示す。

   *

○余が病氣保養の爲めに須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて獨りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見ると其は誠に病氣の入口に過ぎないので、昨年來の苦みは言語道斷殆んど豫想の外であつた。其が續いて今年もやうやう五月といふ月に這入つて來た時に、五月といふ月は君が病氣の爲め厄月ではないか、と或友人に驚かされたけれど否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などゝ寧ろ自分では氣にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相變らず善くないといふ位で每日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が惡いのかどうだか知らぬが、兎に角今までに例の無い事と思ふた。八日には少し善くて、其後又た天氣工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臟の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやら其日は切拔けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といふ體溫は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず最早自分もあきらめて、其時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏の肖像を取つて其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠つたらこれが絶筆であるといはぬ許りの振舞、其も片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日は恰も根岸の祭禮日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走に祝の盃を擧げたのは近頃不覺を取つたわけであるが、併し其も先づ先づ目出度いとして置いて、扨て五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさぱりわからぬ。

○五月十五日は上根岸三島神社の祭禮であつてこの日は每年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえ[やぶちゃん注:ママ。句も同じ。]の御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、

  この祭いつも卯の花くだしにて

  鶯も老て根岸の祭かな

  修復成る神杉若葉藤の花

  引き出だす幣に牡丹の飾り花車[やぶちゃん注:「だし」。]

  筍に木の芽をあえて祝ひかな

  齒が拔けて筍堅く烏賊こはし

  不消化な料理を夏の祭かな

  氏祭これより根岸蚊の多き

   *]

 

 「病牀六尺」を読んで著しく目につくのは、絵画に関する文字の多いことである。常時居士の目に触れた絵画は主として木版刷の画本であったが、居士はこれによって病牀徒然の時を銷(しょう)すと共に、何らか語るべきものをその裏[やぶちゃん注:「うち」。]に見出し得たのであった。居士の画本を見るのは必ずしも画の鑑賞のみにとどまらぬ。座右の画本から鶴を画いたものを探し出して、その趣向を比較して見たり、広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする。文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもあるが、あれなどは居士が如何に画本を楽しんで見ていたかを語るもので、殆ど画を読むの域に達しているかと思う。

[やぶちゃん注:『広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする』「病牀六尺」の「卅五」(後の末尾クレジット「(六月十六日)」)の箇条書きの中の一条。『鳥づくしといふわけではないが』(太字「鳥づくし」は原典では傍点「●」)のという書き出しで始まるアフォリズム風超短編エッセイ群七篇である。以下の本文の太字は原典では傍点「◦」

   *

一、廣重の東海道續繪といふのを見た所が其中に何處にも一羽も鳥が畫いてない。それから同人の五十三驛[やぶちゃん注:これで「つぎ」と読ませているらしい。]の一枚畫を見た所が原驛[やぶちゃん注:これで「はらじゆく(はらじゅく)」と読ませているらしい。]の所にが二羽田に下りて居り袋井驛[やぶちゃん注:これで「ふくろゐじゆく(ふくろいじゅく)」と読ませているらしい。]の所に道ばたの制札の上にが一羽とまつて居つた。

   *

この「廣重の東海道續繪」というのは、知られた歌川広重の代表作「東海道五十三次」のヴァージョンの一つ。天保三(一八三二)年に初めて東海道を旅した広重が、その途中に写生した沿道の風景を版画にし、翌年、保永堂と仙鶴堂の合梓(ごうし)で「日本橋朝之景」から、順次、開版して行き、天保五年一月に五十五枚のシリーズを完成した。途中で保永堂が版権を独占したらしく、同版元のものが『保永堂版』と呼ばれ、二十種に亙る東海道シリーズの中でもこれが最も知られたものであり、子規の言っている「五十三驛」というのがその保永堂版である。ウィキの「東海道五十三次浮世絵では、三種に大別される「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」の全五十五図を比較しながら細部まで見ることが出来るが、

●「保永堂版」の、

「原驛」はこれ(田中の鶴であるが、正岡子規には悪いが、この富士の中腹には別に十七羽の鳥影が列を成している。子規が「これも鶴だからいいんだ」とぶつくさ言うのなら、まあ、それはそれでいいが

「袋井驛」はこれ制札の上に非常に尾の長い鳥(それもその尾はピンと上を向いている!)。しかし、これは私には雀には見えない

である。因みに、試みに私も以上の三種を一枚一枚、総て見てみたが、確かに、「保永堂版」には上記の二枚だけにしか鳥は描かれていないようだ。但し、「保永堂版」ではない、

●「行書版」ヴァージョンでは(以下のリンクは総てウィキの「東海道五十三次浮世絵の各個画像)、

・「日本橋」に遠景を飛ぶ様式化した千鳥模様風の鳥が五羽(朝烏か)

・「川崎」は大型の鷺が二羽

・「鞠子」に三羽(これは絶対に確かな雀)

描かれており、

●「隷書版」ヴァージョンでは、

・「大磯」(鴫立庵)に立つ一羽

・「興津」の廻船の帆の彼方に列を成す有意な数の鳥影(シルエット)

・「白須賀」の海上に二十羽の列を成す鳥影

・「桑名」の渡舟の帆の彼方に多数の鳥影

が描かれていて、個体数でなら、「隷書版」に鳥は断然、多く描かれている。子規が見た「東海道續繪」というのは、これら「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」完本の出る前の、単発で出していたものか?(刷りの悪さや劣化が想起される) 法政大学図書館の「正岡子規文庫」(子規の旧蔵書)を見たが、残念ながら、これらの絵図は含まれていなかった。

『文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもある』「病牀六尺」の「六」(「(五月十二日)」分)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。「文鳳」は河村文鳳(安永八(一七七九)年~文政四(一八二一)年)で、山城国出身で優れた人物画や山水画で知られた。ウィキの「河村文鳳」によれば、『歌川国芳』、『歌川国貞、渓斎英泉など後代の浮世絵師等にも大きな影響を与えた。俳句にも秀でており』、『上田秋成、与謝蕪村等と交遊し、俳画も好んで描いた。生前は有力絵師の一人でだったようで』、『文鳳原画による』「文鳳畫譜」・「帝都雅景一覽」・「文鳳漢畫」・「文鳳山水遺稿」などの画譜類が十『種類以上』、『出版されているが、なぜか現存作品は極めて少ない。速い運筆による人物画を得意とし』たとある。「南岳」は渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。この「南岳文鳳手競畫譜」というのは文化八(一八一一)年刊らしいが、稀覯画譜らしい。]

 

 「如何にして日を暮すべきか」これが居士の大問題であった。従来楽しみとしていたことも、かえって皆苦しみの種になった。畢竟周囲と調和することが甚だ困難になったので、「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」というのである。「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」と居士はいっている。「病牀六尺」の材料は訪客の話頭から生れたものも少くないが、それにしても範囲が実に広汎である。忽(たちまち)にして釣の話、忽にして能の話、忽にして水難救済会の話、信玄と謙信との比較が出るかと思えば、演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論も出る。あるいは庭園を論じ、あるいは盆栽を論じ、芝居と能との比較を論じ、あるいは女子教育の必要を論じ、あるいは飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望するなど、殆ど応接に遑がない。あらゆる楽(たのしみ)は変じて苦となる居士の境涯において、こういう活力が那辺に蔵されているか、不思議というより外に適当な言葉は見当らぬようである。

[やぶちゃん注:「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」「病牀六尺」の「四十」(「六月二十一日」)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの初出画像)。

「釣の話」複数箇所あり、ドンコ釣りは前の注で出したが、「二十九」(六月十日)が所謂、「釣尽くし」の章段である。以下、リンクが面倒なので、初出ならば国立国会図書館デジタルコレクションのこちら、新字新仮名でよいならば「青空文庫」のこちらで、各自、章番号などで探されたい。

「能の話」思いの外、多い。「十五」(五月二十七日)で狂言との歴史的絡みに触れ、「三十三」(六月十四日)では現代(当代)能楽界へ苦言を呈し、「五十二」(七月三日)では能と近世以降の芝居の比較論など(宵曲の言う「芝居と能との比較を論じ」)、快刀乱麻の体(てい)を成す。

「水難救済会の話」「三十四」(六月十五日)。

「信玄と謙信との比較」「三十六」(六月十七日)。

「演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論」「三十七」(六月十八日)。

「庭園を論じ」「四十六」(六月二十七日)。

「盆栽を論じ」「五十一」(七月二日)。

「女子教育の必要を論じ」「六十五」(七月十六日)から「六十七」(七月十八日)まで連続している。

「飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望する」「飯炊」は「炊飯」に同じい。飯炊きを専門にする業者である。「七十三」(七月二十四日)。]

 

 居士の枕頭にはかつて「古白曰来」の下に書かれた千枚通しがある。「俳句分類」に従事していた時分は、毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて綴込まぬことがなかったため、錐の外面は常に光を放ち、極めて滑(なめらか)であった。或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった。―――「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

[やぶちゃん注:『「古白曰来」の下に書かれた千枚通し』既に「古白曰来」の私の注で本文全部を電子化し、画像も載せてある。

「或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった」「四十九」(後の末尾クレジット「(六月三十日)」)。初出で全文を翻刻する。一部は底本の書き込みに拠ったもので示し、一箇所、句点を追加した。

   *

○英雄には髀肉の嘆といふ事がある。文人には筆硯生塵[やぶちゃん注:「ひつけんちりをしやうず(ひっけんちりをしょうず)」。]といふ事がある。余も此頃「錐錆を生ず」[やぶちゃん注:太字は初出底本では傍点「◦」。]といふ嘆を起した。此の錐といふのは千枚通しの手丈夫な錐であつて、之を買うてから十年餘りになるであらう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居たもので其頃は每日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、其書中に綴込まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけでは無いけれど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑らかであつた。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日不圖手に取つて見たところが、全く錆てしまつて、二三枚の紙を通すのにも錆の爲に妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまつて居るのである[やぶちゃん注:下線太字は初出底本では傍点「ヽ」。]。「錐に錆を生ず」といふ嘆を起さゞるを得ない。

   *

因みに、「髀肉の嘆」は、三国時代の蜀の劉備が、長い間、馬に乗って戦場へ行かなかったため、腿(もも)に無駄な肉がついてしまった、と嘆いたという「三国志」の「蜀書先主傳 註」の故事に拠るもので、活躍したり、名を挙げたりする機会がないことを嘆くことを指す比喩。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。後の文末クレジットでは「(六月二日)」分の全文。例の国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して校合した。なお、底本「評伝 正岡子規」の「狗子」のルビ「くし」に従った(こう読んでも、無論、構わない)が、私は「くす」と読みたい人間である。なお、これは「趙州狗子」の公案で、これは既に注した。]

 

○余は今迄禪宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りというふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平氣で生きて居る事であつた。

○因みに問ふ。狗子(くす)に佛性(ぶつしやう)ありや。曰、苦。

 又問ふ。祖師西來(そしせいらい)の意は奈何。曰、苦。

 又問ふ。………………………。曰、苦。

 

[やぶちゃん注:「祖師西來の意は奈何」やはり人口に膾炙した(んな評言は公案にとっては死の宣告と同じだ。人口に膾炙した公案など「糞の糞の極み」である)公案の一つ。やはり、私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引こう。

   *

  三十七 庭前栢樹

趙州、因僧問、如何是祖師西來意。州云、庭前栢樹子。

無門曰、若向趙州答處見得親切、前無釋迦後無彌勒。

   *

  三十七 庭前の栢樹(はくじゆ)

 趙州(でうしう)、因みに、僧、問ふ、

「如何なるか是れ、祖師西來(せいらい)の意。」

と。

 州云く、

「庭前の栢樹子(はくじゆし) 。」

と。

   *

  三十七 庭の柏(かしわ)の樹(き)

 趙州和尚は、ある時、機縁の中で、僧に問われた。

「達磨大師は、何故、西に行ったか?――禅とは何か?」

 趙州和尚は言った。

「あの庭の柏の樹。」

   *

リンク先では私は敢えて述べていないが、この「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指し、この木は中国では棺材として使用されてきた。]

 

 「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

 居士の病牀における煩悶は、生死出離(しょうじしゅつり)の大問題ではない。病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある。この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た。死生の問題はあきらめてしまえば解決されるということと、かつて兆民居士を評して「あきらめる事を知って居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」といったことと撞著(どうちゃく)しておりはせぬかというのである。居士はこれに対し譬喩(ひゆ)を以て答えた。

 子供が養生のために親から灸を据えられる場合、灸はいやだといって泣いたり逃げたりするのは、あきらめがつかぬのである。到底逃げるにも逃げられぬ場合だと観念して、親のいう通りおとなしく灸を据えてもらう。これは己にあきらめたのである。しかしその間灸のあつさに堪えず、棉神上に苦悶を感ずるとすれば、それは僅にあきらめたのみで、あきらめる以上の事は出来ない。親のいう通りおとなしく灸を据えるのみならず、その間書物を見るとか、いたずら亭でもしているとか、そういう事で灸の事を少しも苦にしなくなれば、はじめてあきらめる以上の域に達するのである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。最後に改めて全文を示す。]

 

兆民居士が『一年有半』を著した所などは、死生の問題についてはあきらめがついて居つたように見えるが、あきらめがついた上で夫の天命を楽しんでというような楽しむという域には至らなかったかと思う。居士が病気になって後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたようであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは楽しみの境涯にはいる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白味もない。

 

 この一段は「仰臥漫録」に「理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候」と書いたところを、更にわかりやすく敷街したもので、前年の「命のあまり」に説かるべくして説かれなかったところを、ここで補足したように思われる。この「あきらめ」と「樂しみ」に関する見解の如きは、居士のような病者にしてはじめて発せらるるものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:『病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある』「四十二」(後の文末「(六月二十四日)」クレジット)の条。以下に初出で示す。引用部のみを明らかにするために、そこのみ、初出と一行字数を同じにした。一部に句点を追加した。平仮名型約物の「こと」(「と」の上に「ヽ」が付着したもの)は正字化した。一部の活字脱字は岩波文庫版を参考に直した。

   *

○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本鄕の某氏より來たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。

 拜啓昨日貴君の病牀六尺を讀み感ずる所あり

 左の數言を呈し候

 第一、かゝる場合には天帝又は如來とゝもに

  あることを信じて安んずべし

 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の

  及ばざるところをさとりてたゞ現狀に安ん

  ぜよ現狀の進行に任ぜよ痛みをして痛まし

  めよ大化のなすがまゝに任ぜよ天地萬物わ

  が前に出沒隱現するに任ぜよ

 第三、もし右二者共に能はずとならば號泣せよ

  煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ

 小生は甞て瀕死の境にあり肉體の煩悶困頓を

 免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安

 靜を得たりこれ小生の宗教的救濟なりき知ら

 ず貴君の苦痛を救濟し得るや否を敢て問ふ病

 間あらば乞ふ一考あれ(以下略)

此親切なる且つ明鬯平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆んど此手紙の中に盡きて居る。唯余に在つては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病氣が身體を衰弱せしめたゝめであるか、脊髓系を侵されて居る爲めであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を來すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致し樣の無いわけである。併し生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より『現狀の進行に任せる』より外は無いのである。號叫し煩悶して死に至るより外に仕方の無いのである。たとへ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一樣にあきらめるといふより外にあきらめ方はない。此の十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになつたとしても矢張りあきらめるより外はないのである。けれども其れが肉體の苦である上は、程度の輕い時はたとへあきらめる事が出來ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出來ないのみならず、あきらめて居ても尚あきらめがつかぬやうな氣がする。盖しそれは矢張りあきらめのつかぬのであらう。笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病氣を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な兩脚を持ちながら車に乘るやうな人は笑へ。自分の後ろから巡査のついて來るのを知らず路に落ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中晝も夜も寐床に橫たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて樂しんで居るやうな自分ですら、麻痺劑のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。實に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるゝ時の余も同一の人間であるといふ事を知つたならば、餘が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるゝの人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日記)

   *

「困頓」は「こんとん」で「疲れ果てること・困り果てること」の意。「明鬯」は「めいちやう(めいちょう)」で「明暢」に同じい(「鬯」も「のびる」の意)。「言葉や論旨がはっきりしていること」を指す。

『この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た……」「病牀六尺」の「七十五」(後の文末「七月二十六日」クレジット分)である。太字は初出では傍点「●」。

   *

○或人からあきらめるといふことに就て質問が來た。死生の問題などはあきらめて仕舞へばそれでよいといふた事と、又甞て兆民居士を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩を以て説明するならば、こゝに一人の子供がある。其子供に、養ひの爲めに親が灸を据ゑてやるといふ。其場合に當つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。若し又其子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑて貰ふ。是は已にあきらめたのである。併しながら、其子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出來んのである。若し又其子供が親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑさせる許りでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫[やぶちゃん注:「か」。]の天命を樂しんでといふやうな樂むといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病氣になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る處などは稍〻わかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ處がある。居士をして二三年も病氣の境涯にあらしめたならば今少しは樂しみの境涯にはいる事が出來たかも知らぬ。病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

   *

私は、この子規の答えには「何の面白味も」感じないし、正直、思想もない中国の似非哲人が謂いそうな「糞」のような比喩としか感じない。そのような「樂しみの境涯に」ある人間のところに古白は何故に来たって「曰來」と言うのか? 而も、それを記して告白文学として公開することが「樂しみの境涯にはいる事」であり、「病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにな」るのだと言うか? 因みに言っておくが、私は幼少時に左肩関節骨髄部結核性カリエスに罹患している。

2018/06/28

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 「病牀苦語」

 

      「病牀苦語」

 

 居士の「麻痺剤服用日記」は六月二十日からはじまっているが、「これより以前は記さず」とあるから、何時頃から麻痔剤を服用しはじめたものかわからない。その前三月十日から十二日まで記した日記にも已に麻痺剤の事は見えており、二月十五日大原恒徳氏宛の手紙にも「私近來病勢進步每日麻醉劑を用ゐ居候へどもなほ苦痛凌ぎきれず昨今煩悶に煩悶を重ね居候」とあるのを見ると、それ以前からあったことは慥である。一月の容体不穏の時に用いた頓服なるものも、あるいは麻痺剤であったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]

                                                            

 四月及五月の『ホトトギス』に掲げた「病牀苦語」は、毎日二、三服の麻痺剤を飲んで、漸(ようよ)う暫時の麻痺的愉快を取っている間に、心に浮ぶところを述べたものである。例の秩序なしだと断ってあるけれども、秩序のないことは決してない。病牀における出来事と、居士の心の間題とが綯(な)い交ぜになって、比較的長い章を成している。

[やぶちゃん注:「病牀苦語」は『ホトトギス』明治三五(一九〇二)年四月二十日及び五月二十日発行号に掲載された。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 「病牀苦語」は先ず肉体の苦痛からはじまる。最初のうちは客の前を憚り、親しい友達の前と知らぬ人の前とでは、多少の差別をしていたようなことも、苦痛が募るに従ってそういう遠慮をする余地がなくなって来る。「野心、氣取り、虛飾、空威張、凡そ是等のものは色氣と共に地を拂ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であつたといふことがわかつた。今迄悟りと思ふて居たことが悟りでなかつたといふことを知つただけが、寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと氣取りと感違へして居る人が世の中にも澤山ある。そいつ等を皆病氣に罹らせて、自分のやうに朝晚地獄の責苦にかけてやつたならば、いづれ皆尻尾を出して逃出す連中に相違ない。兎に角自分は餘りの苦みに天地も忘れ、人間も忘れ、野心も色氣も忘れてしまふて、もとの生れたまゝの裸體にかへりかけたのである」といっている。居士の煩悶は死を恐れるがためではない。むしろ苦痛の甚しいために早く死ねばいいと思う方が多くなっているにかかわらず、宗教家らしい方面の人からは、精神安慰法――死を恐れしめない方法を教えてくれる。「その好意は謝するに餘りあるけれども、見當が違つた注意であるから何にもならぬ」というのである。しかも裸体にかえりかけた居士は、直にそのあとへ左の如く附加えることを忘れていない。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前の部分もこの後も「子規居士」で校合した。]

 

併しかくいへばとて自分は全く死を恐れなくなつたといふわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思ふけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覺悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し餘計つゞいた時に、不圖死といふことを思ひ出すと、常人と同じやうに厭な心持になる。人間は實に現金なものであるといふことを今更に知ることが出來る。

 

 「病牀苦語」の中には庭に据えた大鳥籠の歴史があり、草花を写生して一々それに歌を讃する記事もある。大鳥籠の最初の周旋者たる浅井黙語氏が、二、三ヵ月のうちに西洋から帰って来ると聞いて、「あるいは面會が出來るであらうと樂しんで居る。默語氏が一昨年出立の前に、秋草の水畫[やぶちゃん注:「みづゑ」と読んでいよう。水彩画。]の額を一面餞別に持て來てこまごまと別れを敍した時には、自分は再度黙語氏に逢ふ事が出來るとは夢にも思はなかつたのである」という一節も、垂死の居士の言として人に迫るものがあるが、それとはまた違った意味で看過しがたいのは家族に関する章である。碧梧桐氏一家の人々が赤羽へ土筆取(つくしとり)に行くに当り、「妹も一所に行くことになつた時には余迄嬉しい心持がした」といい、令妹が帰って来て愉快そうに土筆取の話をするのを聞いて「余は更に嬉しく感じた」とあるのがその一、母堂が碧梧桐氏一家の人と向嶋の花見に行き、「夕刻には恙なく歸られたので、余は嬉しくて堪らなかつた」とあるのがその二である。「内の者の遊山も二年越しに出來たので、余に取つても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼等の樂しみは卽ち余の樂みである」と居士は云う。

[やぶちゃん注:「浅井黙語」既出既注の浅井忠は正岡子規の生前に帰国しているので、逢えたはずであるが、幾つか調べてみたが、今のところ、彼が子規を訪れた記事を見出せない。]

 

 家を出でて土筆摘むのも何年目

 病牀を三里離れて土筆取

 たらちねの花見の留守や時計見る

 

などの句が惻々(そくそく)[やぶちゃん注:しみじみと身に沁みて感じること。]として人を動かすのも、この居士のよろこびを直に伝えているためであろう。

 「病牀苦語」は最後に碧、虚両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に「吾々の俳句の標準は年月を經るに從つて愈〻一致する點もあるが、又愈〻遠ざかつて行く點もある。寧ろ其一致して行く處は今日迄に略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]一致してしまふて、今日以後はだんだんに遠ざかつて行く方の傾向が多いのではあるまいかと思はれる」といい、「芭蕉の弟子に芭蕉のやうな人が無く、其角の弟子に其角のやうな人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆一人一人に違つて居る。それが必然であるのみならず、其違つて居る處が今日の吾々から見ても面白いと思ふのである」というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕迹は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸(のば)さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。

[やぶちゃん注:「羈絆(きはん)」「羈」も「絆」も牛馬を繋ぎ止めるものを指す。行動する者を掣肘(せいちゅう)する事柄。制約・規制・束縛のこと。

「賦性(ふせい)」天賦の質。生まれつきの性質。天性。

「驥足(きそく)を伸(のば)さしめ」むというのは、優秀な素質を持っている者がその才能を存分に現わすことが出来るようにしてやることを言う。「驥」は駿馬(しゅんめ)のこと。名馬は大道を疾駆して初めて、その脚力を存分に発揮することが出来るという譬えで、「三国志」の「蜀書龐統(ほうとう)傳」に基づく。

「汪洋(おうよう)」ゆったりとして広大なさま。]

2018/06/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 『獺祭書屋俳句帖抄』

 

  明治三十五年

 

    『獺祭書屋俳句帖抄』

 

 明治三十五年(三十六歳)[やぶちゃん注:一九〇二年。子規の没年である。]は来た。この一月二日に唐紙を展べて福寿草を画き、それに添えた文句にもやはり偈(げ)の気味があるから、全文を引用して置く。

[やぶちゃん注:以下底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。割注風のポイント落ち右寄せの箇所は、読みにくくなるので、【 】で同ポイントで示した。最後の二行の【 】は「ン――ン――」の後の、一行の二行割注であることを示すもの。]

 

明治卅五年一月二日朝

 コヽアを持て來い【無風起波】

コヽア一杯飲む【小人閑居不善ヲナス】

 菓子はないかナ【佛ヲ罵ツテ已マズマタ祖ヲ呵(か)セントス】

 もなかではいかんかナ

 いかん鹽煎餅はないかナ

 ない【趙州無字】

 ン――【打タレズンバ仕合セ也】

左千夫來ル【咄牛乳屋】

 御めでたうございます

 同【健兒病兒同一筆法】

 空也せんべいを持て來ました【好魚惡餌ニ上ル】

 丁度よいところで【釣巨鼈也不妨】

空也煎餅をくふ【明イタ口ニボタ餅】

 …………

 …………【空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス】

 …………

 コヽアを持て來い……蜜柑を持て來い【蜜柑ヲ剝ク一段落】

 ン――ン――【何ラノ平和ゾシカモ大風來ラントシテ天地靜マリカヘル今

        五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ掩テ來ランアナオソロシ】

 

[やぶちゃん注:最初の断っておくと、「偈」風のパロディであるから、十全には私自身、理解している訳ではない。但し、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の暴挙を成した私には多少判るところは、ある。そういうところだけを注する。悪しからず。

「コヽア」当時、牛乳は一般に独特の臭いが好かれず、子規もココアを入れて飲んでいたらしい。しかも後に「牛乳屋」左千夫が来るのが絶妙の洒落となるのである。

「無風起波」「無門關」の「序」に、「恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。」(恁麼(いんも)の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡(きず)を抉るに似たり。)とある私は「ここに記した以下の説話にしてからが、全く風がないのにあたら物騒ぎな波を立てたり、美しい肌(はだえ)を抉って醜く消えない瘡(きず)をつけるような厄介なものなんである。」と訳した。

「趙州無字」「でうしうむじ(じょうしゅうむじ)」。「無門關」第一に出る、非常によく知られたぶっ飛んだ公案「趙州狗子(でうしうのくす(じょうしゅうのくす))」。趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 七七八年~八九七年)は唐末の禅僧。「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。」(趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。「狗子に、還りて、佛性(ぶつしやう)有りや無しや。」と。州云く、「無。」と。)で、私は以下のように敷衍訳した。

   *

 趙州和尚が、機縁の中で、ある僧に問われた。

「犬ころ如きに、仏性、有るや!? 無しや!?」

 ――実は、この僧、嘗てこの公案に対して趙州和尚が既に、「有(ある)」という答えを得ていることを、ある人の伝手(つて)でもって事前に知っていた。――だから、その「有(ある)」という答えを既に知っている点に於いて、その公案を提示した自分は、趙州和尚よりもこの瞬間の禅機に於いて明らかな優位に立っており、その和尚が、「有(ある)」という答えや、それに類した誤魔化しでも口にしようものなら、この超然と構えている和尚を、逆にねじ込んでやろうぐらいな気持ちでいたのである[やぶちゃん注:子規の「マタ祖ヲ呵(か)セントス」とはこの僧の内実をパロったのだと私は思う。]――ところが――

 趙州和尚は、暫くして、おもむろに応えた――

「無。」

   *

である。詳しくは、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を読まれたい。

「打タレズンバ仕合セ也」公案を知ったかぶりしたりして増長慢になって自慢げに応じた者は警策で強かに打(う)たれるのが常。「打(ぶ)たれなかったなら、それだけ、マシ、だぜ」と子規はせせら笑うのである。

「左千夫來ル【咄牛乳屋】」割注は「チェッ! 牛乳屋かい!」。歌人伊藤左千夫は明治二二(一八八九)年から本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)で牛乳搾取業を自営していた。ここは但し、軽蔑しているのではない。禅問答によくある、超然としたポーズの一つである。

「健兒病兒同一筆法」「兒」は「男」或いは「人」。仏から見れば人赤子、乳児である。されば、ここは「健兒」が牛乳で壮健な左千夫、「病兒」が子規で、「同一筆法」とは、そんな両極の二人が同じ言葉で年賀の挨拶をしよる、という謂いである。

「空也せんべい」ネットを調べると、塩煎餅とするが、どこのどんなものか、何故、「空也」か判らぬ。上野池の端にあった明治一七(一八八四)年の和菓子屋「空也」(現在、銀座に現存)があるが、少なくとも今は煎餅を扱っていない。識者の御教授を乞う。

「好魚惡餌ニ上ル」意味は分かるが、出典未詳。

「釣巨鼈也不妨」「巨鼈(きよべつ)釣りしなり。妨げず。」か。土産の「空也せんべい」を指すか。ここは素直ということになる。

「明イタ口ニボタ餅」『明(あ)いた口(くち)に「ぼた餅」』。

「空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス」最後の割注部とともの。年頭、既にして、子規は何か自身の不吉なものを感じているようである。どうというわけではなしに、身体変調の予兆を感じていたのかも知れない(後の本文を参照)。

「五分時」「分時」と同じくごく短い時間、あっという間の意か。

「一嘯」「いつせう(いっしょう)」。一声、吠えること。

「掩テ」「おほひて」。]

 

 年頭は比較的無事であったらしく、

 

 藥のむあとの蜜柑や寒の内

 煖爐(だんろ)たく部屋暖(あたたか)に福寿草

 繭玉や仰向にねて一人見る

 解(げ)しかぬる碧巖集や雜煮腹(ざふにばら)

 

などと詠み、上根岸へ移って来た碧梧桐氏に「移居十首」を示したりしていたが、一月十九日に至り、不安な容体になって来た。特に痛が烈しいというわけではないけれども、どことなく苦痛を感ずる。知友相踵(あいつ)いで到り、夜は必ず誰かが泊って警戒することにしたところ、二十三日には大分気分がよくなった。警戒はこの日で解かれたが、この事あって以来看護輪番を設けることになり、左千夫、碧梧桐、虚子、秀美、鼠骨、義郎の諸氏が交〻(こもごも)その任に当った。午後から出かけて行って、深更まで病牀に侍(じ)するのを例とした。

 一月十六日の『日本』紙上に短歌を募る旨が見えている。居士を中心とする少数同人の歌は、その後も引つづき『日本』「週報」に掲げられていたけれども、一般から募ることは前年一月の旋頭歌以来中絶の形であった。今度の募集は社友三人に嘱してこれに当らしむという規定で、在来のと少しく種類を異にする。一人は病中にあって閲読意の如くならざるを致し、他の一人また事情に妨げられて期日を充す能わずという理由の下に、葯房(やくぼう)氏の選歌だけが紙上に掲載されることになったから、居士もその一人ではあったのであろうが、この三人選は遂に実現せず、「週報」には依然居士の目を通した歌が連載されつつあった。

[やぶちゃん注:「葯房(やくぼう)氏」当時、『日本』の記者であった後の中国文学者で文化勲章を受章した鈴木虎雄(明治一一(一八七八)年~昭和三八(一九六三)年)の歌人としての号。ウィキの「鈴木虎雄」によれば、『新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身』。『妻は陸羯南次女・鶴代』。『上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び』、明治三三(一九〇〇)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業、『同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て』、後の明治四一(一九〇八)年に、『新設間もない』、『京都帝国大学文科大学助教授に就任』した。『日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作』った。『他に、岳父羯南の著作や詩を収めた文集』「羯南文録」『を編んでいる』。「新聞『日本』との関わり」の項。『新聞『日本』には帝大在学中から漢詩・和歌を投稿しており、大学院中退後の』明治三二(一九〇一)年に『入社した。新聞『日本』の漢詩欄の選者で、長善館の門人だった桂湖村の勧めによる。月給は帝大出身者としては薄給の』二十五『円だった。新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり』、『短歌撰者を務めた。当時は寒川鼠骨と上野に同居しており、子規の「仰臥漫録」によると』、『家賃は』二円五十銭『だったという。子規の没後は根岸短歌会にも出席するようになった』。明治三六(一九〇三)年には『退社して台湾日日新報社へ移るが、日本新聞社との縁は切れず、帰国後の』明治三九(一九〇六)年に『陸羯南の娘と結婚している』とある。]

 

 一月中居士は「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」という一篇を口述、虚子、椿堂、鼠骨の諸氏をして筆記せしめた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻は居士の俳句を年代別に抄出したもので、二十五年から二十九年までの分を収めている。居士はそれについて先ず自分の句を選ぶことの非常に難いことから説き起し、各年における俳句の変化などにも言及したもので、一面からいえば明治俳諧史の一部を成すことになっている。居士自身としては自分の幽霊が昔の自分の句を選ぶような心持――病牀の慰みのために、自分一個のために、多くとも十数の俳友に見せる位な心持で選ぶので、「なかなか古人を凌がうなどといふ大胆不敵な野心は持つてゐない」という。そういう心持で過去の句を一々点検した結果、「自分の句は自分が輕蔑して居つたよりも更に下等なものである」と率直に述べているのである。この文章は早速二月の『ホトトギス』に掲げられた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻が刊行されたのは四月になってからであった。

 この春居士は比較的多くの歌を作っている。紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を左千夫氏から贈られては詠み、京の人から香菫(においすみれ)を贈られては詠み、碧梧桐氏が赤羽へ土筆を摘みに行くといっては詠むという風に、自在の趣を発揮している。前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時、「粗笨鹵莽(そほんろまう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて」と附記したが、この春の歌は更に「やすやす」の度を加えているように思う。

 

 くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘きぬがさ)にせる

 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく

 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く

 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り

     ○

 赤羽根のつゝみに生ふるつくづくしのびにけらしも摘む人なしに

 赤羽根に摘み残したるつくづくし再び往かん老い朽ちぬまに

 つくづくし摘みて歸りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひでてや食はん

 つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき

 つくづくし故鄕(ふるさと)の野に摘みし事を思ひ出でけり異國(ことぐに)にして

 

[やぶちゃん注:「前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時」末尾「(四月三十日)」クレジット分。例の初出で示す。

   *

病室のガラス障子より見ゆる處に裏口の木戸あり。木の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹もとは隣なる女の童の四五年前に一寸許りの苗を持ち來て戲れに植ゑ置きしものなるが今ははや繩もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたゝ歌心起りければ原稿紙を手に持ちて

  裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる

  山吹の花

  小繩もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにす

  る山吹の花

  水汲みに往來の袖の打ち觸れて散りはじめた

  る山吹の花

  まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年經

  る山吹の花

  歌の會開かんと思ふ日も過ぎて散りがたにな

  る山吹の花

  我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まく

  の山吹の花

  あき人も文くばり人も往きちがふ裏のわき

  の山吹の花

  春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見え

  ぬ山吹の花

  ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寐ながら

  見ゆる山吹の花

  春雨のけならべ降れば葉がくれに黃色乏しき

  山吹の花

粗笨鹵莽、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて。

   *

前書の「女の童」は「めのわらは」、歌の「往來」は「ゆきき」、「いく年」は「いくとせ」、「我庵」は「わがいほ」。

「粗笨鹵莽(そほんろまう)」「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。「鹵莽」は元は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒れ果てた土地」の意であるが、そこから転じて、前者と同じく「お粗末なこと・粗略・軽率」の意。

「ひでて」「漬(ひ)でて」。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  馬鹿野郎糞野郎 / 明治三十四年~了

 

    馬鹿野郎糞野郎

 

 「仰臥漫録」は十月二十九日に至って一先ず絶え、三十五年三月に三日ほど記事があるだけで、六月以降は麻痺剤服用日記ということになっている。即ち三十四年九月初より十月末までを以て主要なる部分と見るべく、これまで世間に発表された『墨汁一滴』の類に此し、更に瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる居士の真面目が現れているのは、これが日記であり私記であったためで、「仰臥漫録」の貴重なる所以は第一にこの点にあるといって差支ない。

[やぶちゃん注:「麻痺剤」モルヒネ(morphine)。正岡子規のモルヒネ服用は主治医宮本仲(安政三(一八五六)年~昭和一一(一九三六)年)の処方によるもので、明治三二(一八九九)年夏以降の脊椎カリエスの重篤化に伴って始められたものであろう。明治三十五年の「病牀六尺」の「八十六」(文末丸括弧クレジット八月六日分)では(国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して翻刻した。太字部は原文では傍点「◦」)、

   *

此のごろはモルヒ子を飮んでから寫生をやるのが何よりの樂みとなつて居る。けふは相變らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒ子を飮んで蝦夷菊を寫生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に畫いた花は稍成功してうれしかつた。午後になつて頭は愈〻くしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には餘りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて來た。そこで服藥の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ藥を飮む時刻には少し早いのであるが、餘り苦しいからとうとう二度目のモルヒ子を飮んだのが三時半であつた。それから復た寫生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を寫生した。この花は曼珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり畫いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ盡す迄もと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ氣合くそがわるくて堪らんので、また石竹を一輪畫いた。これも餘り善い成績ではなかつた。兎角こんなことして草花帖が段々に書き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。

   *

とあるから、既にこの死の凡そ一ヶ月前頃には服用の習慣性に加えて耐性的様態、常用によって鎮痛・鎮静が利かなくなっている事態が生じてしまっていることが判る。

「瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる」「礼記」の「聘義」に出る孔子の言葉の一節「瑕不掩瑜、瑜不掩瑕、忠也。」(瑕(か)は瑜(ゆ)を掩(おほ)はず、瑜は瑕を掩はざるは、忠なり)。瑕疵(かし:きず)があっても玉石はその美しい輝きを損なうものではなく、美事な光輝が玉石の傷を覆い隠さぬことこそは、曇りなき真心を示す「忠」そのものである、という言説を元とする。美徳と過失の双方を在るが儘に体現して決して隠さぬこと、それが「忠」というものの在り方であるという譬え。]

 

 「仰臥漫録」の初の方には画が多く、俳句も相当記されている。画は固より病牀に見得る範囲の写生であるが、句もまた即事即景を直叙して、淡々たる中に自在の趣を得たものが少くない。

[やぶちゃん注:以下は、「子規居士」で校合したが、そちらはひらがなはカタカナであり(但し、これが原表記)、そこは底本に従ってひらがなのママとした。]

 

 秋一室拂子(ほつす)の髯(ひげ)の動きけり

 病(やまひ)間(かん)あり秋の小庭の記を作る

 病牀のうめきに和して秋の蟬

 朝顏や繪の具にじんで繪を成さず

 秋風や絲瓜の花を吹き落す

   欲睡(ねむりをほつす)

 秋の蠅叩き殺せと命じけり

 臥(ふ)して見る秋海棠の木末かな

 西へまはる秋の日影や絲瓜棚

 筆も墨も溲瓶(しびん)も内に秋の蚊帳

 驚くや夕顏落ちし夜半(よは)の音

 

 人は容易に心の虚飾を去り得るものではない。豊富な天分の所有者が往々にして岐路に迷い、愚者の一道を守るに如かぬ点があるのはこのためである。「仰臥漫録」の句の及びがたいのは、すべてが朗然として一塵をとどめぬ居士の心胸の産物だからであろう。文字や技巧の上からのみ眺めて、平凡と評し去る者があるならば、それはこれらの句の真に蔵する醍醐味を味い得ぬために外ならぬのである。

 十一月二十日になって居士は「命のあまり」というものを『日本』に掲げた。「墨汁一滴」の筆を擱いて以来、はじめての文章である。当時世間の大評判であった『一年有半』を評して平凡浅薄といい、余命一年半の宣告を受けながら、なおこの書を書き、いやしくも命ある間は天職を尽しているのは感ずべきだというような世評に対し、これは見当違いの褒辞で、病中筆を執ってものを書くのは一種のうさ晴しに過ぎぬ、天職を尽したのでも何でもないといったりしたため、一部読者の反感を買ったらしく、『日本』紙上にもそういう意味の投書が何度か現れた。居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており、「命のあまり」はその意味を更に敷衍しようとしたものではないかと思われるが、当時居士の容体は甚だ悪く、「仰臥漫録」の筆さえ執り得ぬ状態であったから、遂に意の如く進行しなかった。ただ居士は前後三回で筆を按ずるに当り、投書に対しても次のように一矢(いっし)酬いている。

[やぶちゃん注:『居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており』前章「古白曰来」を参照。

 以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は「子規居士」を用いた。]

 

それから又「墨汁一滴」を讀んで同情を表したが、「命のあまり」を讀んであいそをつかしたといふやうな事が書いてあつたと思ふ。余が病氣であるについて同情を表せられる見ず知らずの人が澤山あつて、余は屢〻之が爲に感泣するのである。併しながら「墨汁一滴」を誤解して同情を表せられるやうなのは甚だ迷惑に感ずる。斯樣な同情は早く撤回せられたいものである。

又或人は『一年有半』の成功を余が羨んだとか妬んだとか言ふて居る。さう見られるなら仕方がない。要するに是等の誤解は余の文章の惡いといふよりも、寧ろ其人が余自身を誤解して居るのであらう。

 

誤解した同情は撤回してもらいたいというあたり、特に居士の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:大丈夫だ、子規君。私は君に一度として同情したことはないよ。]

 居士が『碧巌集』を読んで興味を感じたのは、三十四年後半の事ではないかと思われる。この年の蕪村忌は子規庵で催すことが出来ないので、道灌山胞衣神社に会場を持って行った。その時の写真を居士の許に齎(もたら)したら、居士は直に筆を執って裏面に次のような文句をしたためた。

[やぶちゃん注:「碧巌集」臨済宗の公案を集「碧巖錄」の別名。正しくは「佛果圜悟(えんご)禪師碧巖錄」。全十巻。宋の一一二五年に完成した。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が「傳燈錄」千七百則の公案の中から、百則を撰び、それぞれに偈頌(げじゅ:経典等に於いて詩句形式を採って教理及び仏・菩薩を褒め讃える言葉。四字・五字・七字を以って一句と成し、四句から成るものが多い。単に「偈」「頌」とも呼ぶ)を加えて、さらにそれに対し、圜悟が各則毎に垂示(すいじ:序論的批評)・著語(じゃくご:部分的短評)・評唱(全体的評釈)を加えたもの。圜悟の弟子によって編集刊行された後、中国や日本で何度も刊行され、参禅弁道のための宗門第一の書として珍重されて続けている。

「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。過去の事例を見ると、子規らはグレゴリオ暦の十二月二十五日に合わせて蕪村忌を行っている。

「道灌山胞衣神社」現存しない。胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など。後産(あとざん)として体外に排出されるが、これは古くから信仰の対象として丁重に扱われた)を祀るために明治二三(一八九〇)年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られている。大正時代に入ると、神社はなくなり、鉄道官舎となった、とクバ氏のブログ「次回オフの見どころ」の日暮里、谷中見どころにある。虚子の拒絶に子規は激怒した。明治二八(一八九五)年十二月九日のことで、虚子は小説家に色気があったからである。場所からも、私は即座に大正一五(一九二六)年一月一日発行の雑誌『新潮』に芥川龍之介発表年末の一日秀抜なコーダを思い出す。

 以下、底本では全体が、二字下げ。以下、同じ。「子規居士」で校合した。この部分に関してのみ(後の「題睡猫圖」以下は従わず、私の野狐禪で訓じた。因みに、私は九年前に無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版などというものをももものしている)、底本の蜂屋邦夫氏の訓読文をそのまま採った。但し、ルビは歴史的仮名遣で(底本のそれは現代仮名遣)必要と判断したところにのみ振った。]

 

菩薩子喫飯來 (菩薩子(ぼさつし)よ 飯(めし)を喫(きつ)し來たれ)

オ前方腹ガヘツテ一句モ吐ケヌヂヤナイカ

不堪奪飢人之食盈儞空腹 (飢人(きじん)の食(し)を奪ひて儞(なんぢ)が空腹を盈(み)たすに堪へず)

コヽニ天王寺蕪(かぶら)ノ漬物ガアル、コレデモ食ヒ給へ

翻吾溲瓶灑儞頭上 (吾が溲瓶を翻して儞が頭上に灑(そそ)がん)

  咄(とつ)

道(い)へ奈良茶三石ハ蕪ノ漬物ニ イヅレゾ

  道ヒ得ズンバ三十棒

  道ヒ得テモ三十棒

 

[やぶちゃん注:「天王寺蕪(かぶら)」大阪府大阪市天王寺付近が発祥地と伝えられるカブ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブBrassica rapa var. glabra)の品種。この蕪村忌には、この天王寺蕪の「風呂吹き」が毎年、配られたらしい。

「咄(とつ)」は感動詞。「舌打ち」の音に由来するオノマトペイアから生まれたもの。原義は「激しく叱る際に発する語の「チョッ!」で、禪の公案のやり取りではよく用いられる。]

 

 次のも同じ湯合のものである。

 

 お前ひとりか連衆(れんじゆ)は無いか連衆あとから汽車で來る

 好箇侶伴(りよはん)待チ合セテ共ニ行ケ、謹ンデ懷中ヲスリ取ラルヽ莫(なか)レ、芭蕉蕉村是レ掏摸(すり)ノ親玉

 

 この種の文字は咄嗟の間に成るので、もともと何かに発表するために書くのでないから、どの位あるものかよくわからない。香取秀真氏蔵の左の一篇なども、日次はないけれども、あるいは同じ頃の作ではないかと想像される。

 

  題睡猫圖

金猫兒 飽膏梁

群鼠如盜任跳梁

水仙花下睡方熟

總不管

 滿洲風雲太匇忙

米相場

株相場

  咄

新橋別有相識子

任他妻奴嚙糟糠

 

   睡猫圖(すいべうず)に題す

 金猫兒(きんべうじ) 膏梁(こうりやう)に飽き

 群鼠 如(も)し 盜まば 跳梁に任(まか)す

 水仙の花の下 睡りて方(まさ)に熟す

 総て管(かまは)ず

 滿洲の風雲 太(はなは)だ匇忙(そうばう)なるも

 米相場(こめさうば)

 株相場

   咄

 新橋 別に相識(さうしき)の子(し) 有り

 任他(さもあらばあ)れ 妻奴(さいど) 糟糠(さうかう)を嚙む

 

[やぶちゃん注:「膏梁」肥えた肉と美味い穀物。

「睡りて方(まさ)に熟す」まっこと、今まさに深く熟睡している。

「匇忙」俄かなこと。

「新橋 別に相識(さうしき)の子(し)」新橋芸妓のことを夢想したのであろう。

 

 諷亭氏が三十五年の年頭に居士を訪ねたら、この頃は頻に偈(げ)を稽古しているが、うまくなった、何でも知っているやつを片端から引導渡してやろうと思う、この間花和尚魯智深にやったのがこうだといって、

 

馬鹿野郎糞野郎。一棒打盡金剛王。再過五臺山下道。野草花開風自涼。

 

 馬鹿野郎 糞野郎

 一捧打盡 金剛王

 再過(さいくわ)す 五臺山下(ごだいさんか)の道(みち)

 野草 花 開きて 風 自(おのづか)ら涼し

 

を示したそうである。これもまた三十四年末に成ったものに相違ない。

[やぶちゃん注:「花和尚魯智深」言わずもがな、「水滸傳」の百八人の頭目の一人。本名は魯達、智深は法名。花和尚(かおしょう)は綽名(あだな)。

「五臺山」山西省東北部の五台県にある、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている霊山。標高三千五十八メートル。ウィキの「魯智深によれば、魯智深はここの長老智真に見込まれ、師匠自らの一字を取った智深という戒名を授かるが、二度、禁酒の戒を破り、泥酔して寺に帰り、大暴れしたため、智真長老はやむなく破門し、兄弟弟子の智清禅師がいる東京開封府の大相国寺を紹介したが、この際に偈を授けている、とある。]

2018/06/26

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  古白曰来

 

    古白曰来

 

 十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた。「僕はもーだめになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。それだから新聞建誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく」という書出しで、この頃としてはやや長い文句をつらねた末、次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校合には基本、「子規居士」を用いた。原典はひらがな部分はカタカナであるが、ここでは読み易さを考えて底本に従い、ひらがなとした。後の部分も同じ。]

 

鍊卿死に非風死に皆僕より先に死んでしまつた。

僕は迚も君に再會するヿは出來ぬと思ふ。萬一出來たとしても其時は話も出來なくなつてるであろー。實は僕は生きてゐるのが苦しいのだ。僕の日記には「古白曰來」の四字が特書してある處がある。

 

 漱石氏がロンドンにおける動静その他をこまごまと報じて来た長文の手紙は、ひどく居士を喜ばした。「倫敦(ロンドン)消息」と題して二度『ホトトギス』に掲げた上、更に「もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか」と申送ったのがこの手紙なのである。「僕の日記」というのは「仰臥漫録」のことで、「古白曰来」と特記したのは十月十三日の条であった。朝来(ちょうらい)恐しく降った雨がやんで、天気が直りかけた午後二時頃から、居士は俄に気持が変になって、「たまらんたまらんどーしようどーしよう」と連呼する。遂に四方太氏宛に「キテクレネギシ」と電信を打つこととし、母堂が頼信紙を持って車屋まで行かれる。令妹は風呂へ行って不在である。たった一人家の中に残された居士は、硯箱の中にある二寸ばかりの小刀と千枚通しとを見つめながら、頻に自殺することを考える。但(ただし)この錐(きり)と小刀では死ねそうもない。次の間へ行けば剃刀があるので、それさえあればわけなく死ねるのだけれども、そこまで匍(は)って行くことも出来ない。已むなくんば小刀か錐を用いるのだが、何分恐しさが先に立つ。死は恐しくないが苦(くるしみ)が恐しい。病苦でさえ堪えきれぬ上に、死損(しにそこな)って苦しんでは堪らない。小刀を手に取ろうか取るまいかという二つが、心の中で戦っているうちに、母堂はもう帰って来られた……。

  居士はこの心理経過を詳細に記し、

 

逆上するから目があけられぬ、目があけられぬから新聞が讀めぬ、新聞が讀めぬから只考へる、只考へるから死の近きを知る、死の近きを知るからそれ迄に樂みをして見たくなる、樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる、突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)[やぶちゃん注:こまごましたものに係る費用。雑費。]がほしくなる、雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる……………いやゝゝ書物は賣りたくない、さうなると困る、困るといよゝゝ逆上する。

 

という風に層々(そうそう)と書いて来て、最後に小刀と千枚通しの形を画き、上に「古白曰来」の四字を記したのである。黄泉(こうせん)に帰した知友が幾人もある中に、特に古白の名を挙げた理由は説明するまでもあるまい。

 

 「仰臥漫録」の中にはまた次のような箇所がある。

[やぶちゃん注:一部の漢文部分は読み易さを考え、恣意的に字空けを施した。読みは岩波文庫版「仰臥漫録」を参考に歴史的仮名遣で附した。]

 

天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。

天下の人あまり氣短く取いそぎ候はゞ大事出來申間敷候。

吾等も餘り取いそぎ候ため病氣にもなり不具にもなり思ふ事の百分一も出來不申候。

併し吾等の目よりは大方の人はあまりに氣長くと相見え申候。

貧乏村の小學校の先生とならんか日本中のはげ山に樹を植ゑんかと存候。

會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣。この心持にて居らば成らぬと申事はあるまじく候。吾等も死に近き候今日に至りやうやう悟りかけ申候やう覺え候。瘦我慢の氣なしに門番關守夜廻りにても相つとめ可申候と存候。只時々の御慈悲には主人の殘肴(ざんかう)きたなきはかまはず肉多くうまさうな處をたまはりたく候。食氣(くひけ)ばかりはどこ迄も增長可致候。

兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出(いで)候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由、吾等は腹、背中、臀(しり)ともいはず蜂の巢の如く穴あき申候。一年有半の期限も大槪は似より候ことゝ存候。乍併(しかしながら)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候。杏(あんず)を買ふて來て細君と共に食ふは樂みに相違なけれどもどこかに一點の理がひそみ居候。燒くが如き晝の暑さ去りて夕顏の花の白きに夕風そよぐ處何の理窟か候べき。

 

 左の一節もまた右と同じく、十月十五日に書かれたものらしい。

 

吾等なくなり候とも葬式の廣告など無用に候。家も町も狹き故二、三十人もつめかけ候はゞ柩(ひつぎ)の動きもとれまじく候。

何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辭傳記の類(たぐひ)讀み上候事無用に候。

戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾て古人の年表など作り候時狹き紙面にいろいろ書き竝べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などは無くもがなと存候。

自然石の石碑はいやな事に候。

柩の前にて通夜(つや)すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。

柩の前にて空淚(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。

 

 晩年の居士の心持は大体ここに尽きているかと思う。瘦我慢の気なしに門番関守夜廻りでもつとめる、というところまで脱落[やぶちゃん注:脱線。]して、病に管しむ一面極めて平(たいら)かな心を推持し得た。変態奇矯に陥りがちな病人心理と同日の談ではない。「貧乏村の小學校の先生とならんか、日本中のはげ山に樹を植ゑんか」ということは、十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る。「幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず。造林の事なども面白かるべきも其方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるゝの資格なし、自ら山を持つて造林せば更に妙なれど買山(ばいざん)の錢なきを奈何」というのである。明日を測られぬ病軀を抱いた居士の眼が、むしろ遠い世界を望んでいたことは、この一事からも想像することが出来る。

 居士が身後の事について記したものは、この数箇条の外に見当らない。「死後」という文章の中に書いたところは、まだ多少の文学的空想が加味されていた。ここにいうところは皆端的である。これらの言は必ずしも遺言と見るべきではないが、この条々は大体歿後においても居士の意志を尊重されたように思われる。

[やぶちゃん注:思うところあって、注は最後に纏める。標題は「古白、曰く、『来(きた)れ』と」と読む。「古白」は俳人で作家、正岡子規の従弟で盟友でもあった幼馴染み藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。子規の幻覚に彼が現われ、「来たれ」と呼びかけるのは、私は、彼が凄絶な衝動的自殺をしたことと、子規が彼の自死を国内にあって知りながら、大陸へ渡ったことに基づく、子規の強い心的複合(コンプレクス)によるもののように感じている

「十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた」宵曲は大部分を引いているが、ここで改めて全文を示す。ネットで発見したこちらの原書簡画像(個人ブログ「文学・歴史散歩」のもの)翻刻した

   *

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋[やぶちゃん注:「てがみ」。]ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ徃タ[やぶちゃん注:「いつた」。]ヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)

画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。

不折ハ今巴理[やぶちゃん注:巴里(パリ)。]ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。

虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。

鍊卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。

僕ハ迚モ君ニ再会スルヿハ出來ヌト思フ。万一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。[やぶちゃん注:ここに吹き出しで書き添えたもの(二字程。判読不能)を三重線で消してある。]ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

書キタイヿハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

 倫敦ニテ   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス

    漱石兄       東京  子規拜

   *

「コーラン」は不折がフランスで、この頃、二番目に師事した、フランス人画家で優れた美術教師でもあったジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens 一八三八年~一九二一年)の訛りであろう。因みに最後の「倫敦ニテ」というのは洒落のつもりだろうか。

「鍊卿」(れんきょう:現代仮名遣)は既出既注の竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年二月一日)の号。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。

「非風」既出既注の新海非風(にいみひふう 明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年十月二十八日)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。

「倫敦消息」明治三十四年五月と六月の『ホトヽギス』に載った。「青空文庫」のこちらは新字新仮名で気持ちが悪い。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十五巻(「初期の文章及詩歌俳句」)のこちらから正規表現で読める。

「仰臥漫録」の『「古白曰来」と特記した』『十月十三日の条』「仰臥漫録一」の掉尾。私が若き日に読んで(見て)激しい衝撃を受けた箇所である。正字正仮名のそれを入手出来る目途がない今、この際、ここだけでも電子化して示したい。岩波文庫版(一九八三年改版)を参考に漢字を恣意的に正字化して示すこととする。最後のショッキングな(私には強烈だった)絵も添える。なお、底本の行末で改行している箇所で、連続性を疑う部分二箇所で空欄を恣意的に空けたことをお断りしておく。

   *

十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴

 今日も飯はうまくない 晝飯も過ぎて午後二時頃天氣は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は默つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が變になつて來た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)亂れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と靜かな言葉、どうしてもたまらんので電話かけうと思ふて見ても電話かける處なし 遂に四方太にあてて電信を出す事とした 母は次の間から賴信紙を持つて來られ硯箱もよせられた 直(すぐ)に「キテクレネギシ」と書いて渡すと母はそれを疊んでおいて羽織を着られた「風呂に行くのを見合せたらよかつた」といひながら錢を出して來て「車屋に賴んでこう」といはれたから「なに同し事だ 向へまで往つておいでなさい五十步百步だ」といふた心の中はわれながら少し恐ろしかつた「それでも車屋の方が近いから早いだろ」といはれたから「それでも車屋ぢや分らんと困るから」と半ば無意識にいふた余の言葉を聞き棄てにして出て行かれた さあ靜かになつた この家には余一人となつたのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆(ちびふで)一本の驗溫器の外に二寸ばかりの鈍い小刀(こがたな)と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起つて來た 實は電信文を書くときにはやちらとしてゐたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀(かみそり)があることは分つて居る その剃刀さへあれば咽喉(のど)を搔(か)く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出來ぬ 已むなくんばこの小刀でものど笛を切斷出來ぬことはあるまい 錐で心臟に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直(すぐ)に死ぬるであらうかと色々に考へて見るが實は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出來ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい そればかりでない やはり刃物を見ると底の方から恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする 今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと[やぶちゃん注:ママ。]手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戰つて居る 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は歸つて來られた 大變早かつたのは車屋まで往かれたきりなのであらう

 逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が讀めぬ 新聞が讀めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに樂(たのし)みをして見たくなる 樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)がほしくなる 雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる………いやいや書物は賣りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する

 

Gyougamanrokukirikogatana

 

   *

「天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。……」以下は「仰臥漫録二」の十月十五日の条であるが、候文で判る通り、これは松山の伯父に宛てた手紙である。

「會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣」は「孟子」の「萬章章句下」の一節。

   *

孔子嘗爲委吏矣。曰、會計當而已矣。嘗爲乘田矣。曰、牛羊茁壯長而已矣。

位卑而言高、罪也。立乎人之本朝、而道不行、恥也

○やぶちゃんの書き下し文

 孔子、嘗つて、委吏(いり)と爲(な)る。曰く、「會計、當(あた)れるのみ。」と。嘗つて、乘田(じやうでん)と爲る。曰く、「牛羊、茁(さつ)として、壯長(さうちやう)さするのみ。」と。

 位、卑しくして言高(げんたか)きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道、行はれざるは、恥なり。

   *

「委吏」は穀物倉(ぐら)を管理する下級の村役人。「乘田」牧畜の実地管理をする下吏。「茁」順調に育つさま。「壯長」立派に成長すること。「人の本朝に立ちて」人民を正しく指南すべき朝廷に自ら立って居ながら。

兆民居士の『一年有半』」自由民権運動の理論的指導者として知られる、思想家・ジャーナリストで政治家(衆議院議員)であった中江兆民(弘化四(一八四七)年~明治三四(一九〇一)年十二月十三日)の評論集。かの門弟幸徳秋水が編集し、明治三四(一九〇一)年九月、「生前の遺稿」と副題して博文館より刊行された。同年三月、兆民は喉頭癌のため、余命一年半と宣告された。それより書き始めたもので、書名はこれに由来する。「民権、是れ、至理なり、自由平等、是れ、大義なり」の理義を堅持して、帝国主義や明治国家体制を断罪するなど、政治・経済から思想・文学・科学・人物論に至るまで、『社会百般にわたっての透徹した批判は文明批評家兆民の面目躍如たるものがある。また随所に、進行する病状が淡々とした筆致で誌(しる)されており、「癌との闘いの記録」ともなっている。その病苦との闘いのなかで亡国と国民堕落の状を「国に哲学無き」ことによる』、『と喝破した兆民は、引き続き『続一年有半』を執筆、同年』十『月に刊行したが、「ナカヱニスムス」と自称した壮大な思想哲学大系の完成を後進に託しながら』、十二『月に衰弱のため』、『死去した。解剖の結果は食道癌であった』(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。彼はまさに子規がかく書いた二ヶ月後に五十四歳で死去するのである。私は正直、こういう正岡子規の噛み付き方が嫌いである。その相手が二ヶ月後に衰弱死した報知を子規はどのような気持ちで聴いたのであろう。「先に死にやがったか、羨ましい」だったのか? 子規の精神不安の根底には、こうした自己中心的なディスクールに基づく潜在的自己呵責感があったのではないかとさえ思えてくる。だからこそ、古白の幻聴が聴こえてくるのではないか? いや、そうしたものが微塵もないと豪語するなら、私はそれこそ子規は人間として『劣り』たる輩と言わざるを得ないと言っておく。

『十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る』前と同様の仕儀で示す。

   *

十月十九日 雨、便通、秀眞去る、また便通、繃帶取替、午飯、まぐろのさしみ、粥四わん、大はぜ三尾、りんご一つ

十六、七歳の頃余の希望は太政大臣となるにありき 上京後始めて哲學といふことを聞き哲學ほど高尚なる者は他になしと思ひ哲學者たらんことを思へり 後また文學の末技(まつぎ)に非るを知るや生來(せいらい)好めることとて文學に志すに至れり しかもこの間理論上大臣を輕視するにかかはらず感情上何となく大臣を無上の榮職の如く考へたり しかるに昨年以來この感情全くやみ大臣たるも村長たるも其處に安んじ公のために盡すにおいて一重の輕重なきを悟りたり

 今日余もし健康ならば何事を爲しつつあるべきかは疑問なり 文學を以て目的となすとも飯食ふ道は必ずしもこれと關係なし もし文學上より米代を稼ぎ出だすこと能はずとせば今頃は何を爲しつつあるべきか

 幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず 造林の事なども面白かるべきもその方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるるの資格なし 自ら山を持つて造林せば更に妙なれど賣山の錢なきを奈何

 晚飯さしみの殘りと裂き松蕈(まつたけ)

 この日便通凡(およそ)五度、來客なし

   *]

2018/06/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「仰臥漫録」

 

     「仰臥漫録」

 

 「墨汁一滴」連載中は、前年のような気力はないにしても、執筆を妨げるほどの容体もなかったらしく、厄月(やくづき)の五月もまたどうやら通過した。『ホトトギス』にも「死後」「吾寒園の首に書す」「病牀俳話」「くだもの」など、比較的多くの文章を発表している。「くだもの」に関する記憶を叙した一篇は、枯淡の基に精彩があり、過去の事実を語っているにかかわらず、現在その境にあるの思(おもい)あらしむるものであった。俳句の選も中途共選となり、共選も困難になって他の選句の上に「規」の一字を記すのみと変ったが、その後は長く選から遠ざからざるを得なかった。但(ただし)鳴雪翁の許(もと)に催される『蕪村句集』輪講だけは、あとから筆記を閲(けみ)して自己の意見を書加えていたようである。

[やぶちゃん注:「死後」は自己の死・葬送空想の恐怖を諧謔的に反転映像させた怪作である(しかし初読時、私は、度に過ぎたその滑稽に、逆に子規の内奥の絶対的に孤独な真正の死への恐怖を哀しく見たのを記憶している)。新字新仮名なら「青空文庫」等にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「花枕 子規選集」(大正五(一九一六)年新潮社刊)のそれがよかろう。明治三四(一九〇一)年二月初出。

「吾寒園の首に書す」「吾寒園」はこの年の二月一日に亡くなった、既出既注の子規の幼馴染みの友人竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年:河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。号は錬卿(れんきょう)・黄塔)の作品で、本篇はその追悼文でもある。

「くだもの」新字新仮名なら「青空文庫」にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像から正字正仮名で読める。同年四月初出。]

 

 四月中『寒玉集』の第二編が出版され、五月には『春夏秋冬』の春の部が出た。『春夏秋冬』は『新俳句』に次ぐ俳句の選集で、居士は病をつとめて春の部だけの選抜を了え、序及凡例も自ら草した。この序及凡例は『春夏秋冬』の巻首に掲げられるに先って「墨汁一滴」に掲げられた。

[やぶちゃん注:「春夏秋冬」俳句選集。明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年刊。春・夏・秋・冬と新年の四季四冊。正岡子規一門による『日本』派の句集。子規が撰した春の部より刊行を始めたが、続刊の三冊は子規の病状悪化のため、河東碧梧桐と高浜虚子の二人が共撰した。全体に定型が守られており、穏やかな安定感に富む絵画的な句が多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。同「序」は「墨汁一滴」明治三四(一九〇一)年五月十八日クレジット分に載るが、ここでは一つ、所持する「春夏秋冬」復刻版(全四巻)で翻刻しておくこととする(私は近い将来、この「春夏秋冬」全巻も電子化翻刻したいと考えている)。

   *

春夏秋冬

     序

春夏秋冬は明治の俳句を集めて四季に分ち更に四季の各題目によりて編たる一小册子なり。

春夏秋冬は俳句の時代において「新俳句」に次ぐ者なり。

新俳句は明治三十年三川の依托より余の選拔したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して

[やぶちゃん注:以下の引用部は、原典では全体が一字下げ。]

(畧)元祿にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來るを見る(畧)しかも此特色は或る一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者この種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるには非ずやと思はる(畧)但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にその幾何か幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々

といへり。果して新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於いて新に俳句集を編むの必要起る。然れども新俳句中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者宜しく相參照すべきなり。

新俳句編纂より今日に至る僅に三四年に過ぎざれども其間に於ける我一個又は一團體が俳句上の經歷は必ずしも一變再變に止まらず。しかも一般の俳句界を槪括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。

蕪村崇拜の聲は早くも已に明治二十八九年の頃に盛なりしかど實際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より豫め知る能はず。

太祇蕪村召波几董らを學びし結果は啻に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雜なる事物を能く料理するに至り、從ひてこれまで捨てゝ取らざりし人事を好んで材料と爲すの異觀を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事實的に打破したるが如し。

春夏秋冬は最近三四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切拔帳に對して擇ばんとすれば俳句多くして紙數に限りあり遂に茫然として爲す所を知らず。辛うじて擇び得たる者亦到底俳句界を代表し得る者に非ず。されど若し新俳句を取つて之を對照せば其差啻に五十步百步のみならざるべし。

  明治卅四年五月十六日   獺祭書屋主人

   *]

 

 この時分の居士は寝返りすることも困難になっていた。畳に二三ヵ所麻で簞笥の鐶(かん)の如きものを拵え、これにつかまって寝返りを扶けようという方法を講じたことが、五月十日の事を記した「墨汁一滴」にある。苦痛は想像の外である。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「墨汁一滴」初出切貼帳冊子で電子化しておく(一部で濁点を加えた)。

   *

五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度[やぶちゃん注:華氏。十六・六度。]、昨日は朝來引き續きて來客あり夜寢時に至りしため墨汁一滴を認むる能はず因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出來ず。新聞も多くは讀まず。やがて僅に睡氣を催す。蓋し昨夜は背の痛く、終宵体溫の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。

睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。

十一時半頃午餐を喰ふ。松魚のさしみうまからず半人前をくふ。牛肉のタヽキの生肉少しくふ、これもうまからず。齒痛は常にも起らねど物を嚙めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五六箇。蜜柑五箇。

神田より使歸る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち歸る。こは成るべく齒に障らぬ者をとて擇びたるなり。

週報應募の牡丹の句の殘りを檢す。

寐床の側の疊に麻もて簞笥の環の如き者を二つ三つ處々にこしらえ[やぶちゃん注:ママ。]しむ。疊堅うして疊針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こは此麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶けんとの企なり。此頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を發明したる譯なるが、出來て見れば存外便利さうなり。

繃帶取替にかゝる。昨日は來客のため取替せざりしかば膿したゝかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、輕く拭はるゝすら堪へ難くして絶えず「アイタ」をぶ。はては泣く事例の如し。

浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退谷まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。此二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

著物二枚とも著かふ、下著したぎはモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。

三島神社祭禮の費用取りに來る。一匹やる。

繃帶かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に燈爐をたき火鉢をよせ懷爐を入れなどす。

繃帶取替の間始終右に向き居りし故背のある處痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥のまゝにて牛乳一合紅茶略同量、菓子パン數箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち來る。

豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り來る。

午後四時半体溫を驗す、卅八度六分。しかも兩手猶冷此頃は卅八度の低熱にも苦むに六分とありては後刻の苦さこそと思はれ、今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱發してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。

雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。

   *

「西洋葵」は思うに、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属アメリカフヨウ(草芙蓉(くさふよう))Hibiscus moscheutos(英語: rose mallowmallow はアオイ科、或いは特にゼニアオイ(Malvaceae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana を指す語)である)辺りではなかろうか

 なお、この前日のリンク先を見られたい。

 やはり、この切貼帳はただものではないのだ! 切貼りではなく、何と! 正岡子規自筆(!)と思しい原稿が貼り付けられてあるではないか!

   *

 墨汁一滴(五月十一日記) 規

試に我枕もとに一包若干の毒藥を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。

   *

この文章を原稿で見ると、痛烈である。]

 

 八月二十六日、子規庵に俳談会なるものが催された。突然の催であったが、それでも二十人ばかり集った。前年末の蕪村忌以来、絶えてなかった会合だけに、はじめて居士を見るというだけで満足した人もあったらしい。席上居士は庭前の糸瓜及夕顔の句を五句ほど作り、これを追加の話題にした。

 

 「仰臥漫録」の筆を執りはじめたのは九月に入ってからである。「仰臥漫録」は居士の日記であるが、単純な日記ではない。三度の食事や間食に至るまで、日々の食物が克明に記されているかと思うと、突として何かの感想が出て来る。画があり、歌があり、句がある。居士の日記として現在伝わっているのは、前にもちょっと記したように、二十五、六年と三十年の一部に過ぎぬが、「仰臥漫録」の内容は従前の日記の如きものではない。人間の手に成ったこの種の記録として、「仰臥漫録」ほど真実味に富んだ、しかも興趣の多いものは他に類例が少いのではあるまいかと思う。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は総て全体が二字下げ。何故か、ネット上には「仰臥漫録」の正字正仮名で読めるデータが画像を含めて存在しないので、「子規居士」で校合した。但し、「子規居士」ではひらがながカタカナであるため、読み易さを第一として、底本のひらがなを原則、採用した。なお、一部、底本は引用に増補がしてある。]

 

絲瓜の花一つ落つ 茶色の小き蝶低き雞頭にとまる 曇る 追込籠のジヤガタラ雀いつの間にか籠をぬけて絲瓜棚松の枝など飛びめぐるを見つける 鄰家の手風琴聞ゆ

ジヤガタラ雀隣の庭の木に逃げる 家人籠の鐡網を修理す 蟬ツクヽヽボーシの聲暑し 日照る 蜻蛉一つ二つ 揚羽、山女郎(やまぢよらう)或は去り或は來る 梨をくふ

 

というような平穏な観察もある。

[やぶちゃん注:九月九日の条より。

「ジヤガタラ雀」既出既注。スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。]

 

今年の夏馬鹿に熱くてたまらず、新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちよいと旅行して見ようと思ふ氣になる、それも場合によるが谷川の岩に激するやうな涼しい處の岸に小亭があつてそこで浴衣一枚になつて一杯やりたいと思ふた。

『二六』にある樂天の紀行を見ると每日西瓜を食ふて居る、羨ましいの何のてヽ

大阪では鰻の丼を「マムシ」という由、聞くもいやな名なり、僕が大阪市長になったら先づ一番に布令を出して「マムシ」という言葉を禁じてしまふ。

 

というような超然たる感想もある。

[やぶちゃん注:九月十六日の条より。

「『二六』にある樂天の紀行」大衆紙『二六新報』に記者で門弟でもあった中村楽天が同紙に載せた紀行記事と思われる。中村楽天(慶応元(一八六五)年~昭和一四(一九三九)年)は播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)出身の俳人でジャーナリスト。本名は中村修一。ウィキの「中村楽天」によれば、明治一八(一八八五)年に上京し、二十六歳の時、『徳富蘇峰の主宰する国民新聞に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となる。国木田独歩と交流し』、『青年文学』を刊行している。三十二歳になって『俳句を学び』初め、子規の『ホトトギス』同人となって『子規門として教えを受け』た。明治三一(一八九八)年、『子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力する。その後、和歌山新報の記者を経て』明治三三(一九〇〇)年に『秋山定輔の二六新報に入社。そこで主宰した二六吟社が楽天の名を高めることにな』った。『二六新報』の『売れ行きも相まって、与謝野寛(のちの与謝野鉄幹)や伊原青々園、喜谷六花など、多くの作家、歌人、俳人を輩出した。子規亡き後は同門である篠原温亭や嶋田青峰が主宰した『土上』の同人となり、晩年は自身も俳誌『草の実』を創刊、主宰した』。『口が悪く』、『皮肉や毒舌を公言して憚らない人物』で、『実際に伊藤博文首相を侮辱した罪で、禁錮』二『ヶ月の刑を受け』、服役した経験がある。なお、彼は『奇しくも』、『師である子規と同月同日の』昭和十四年九月十九日、七十四歳で没している。]

 

 そうかと思うとまた、自分の喰べる梅干の核(ため)から出発して

 

貴人の膳などには必ず無數の殘物(のこりもの)があつてあたら掃溜(はきだめ)に捨てらるゝに違ひない、肴の骨には肉が澤山ついてゐるであらう、味噌汁とか吸物とかいふものも皆迄は吸ひ盡してないであらう、斯ういふ者こそ眞に天物(てんぶつ)を暴(ぼう)何とかする者と謂ふべしだ。之を彼(かの)孤兒院とか養育院とかに寄附して喰はすやうにしたら善いだらう。自分の内でも牛乳を捨てることが度々あるので、いつでも之を乳のない孤兒に吞ませたらと思ふけれど仕方がない。何か斯ういふ處へ連絡をつけて過を以て不足を補ふやうにしたいものだ。

兵營や學校の殘飯は貧民の生命であるといふから家々の殘飯も集めて廻るわけに行かないだらうか。さう思ふと犬や猫を飼ふて牛肉や鰹節をやるなどは出來たことでない、小鳥に粟をやるさへ無益な感じがする。

 

という風に、対社会的な意見となって現れることもある。病牀に釘付にされて寝返りも自由に出来ず、日夜呻吟している人の書くものとは思われない。

[やぶちゃん注:九月十九日の条より。

「天物を暴何とかする」は「(天物を)暴殄(ぼうてん)す」であろう。「暴殄」自体が「天の物を損ないたやすこと」或いは「物品を大切にせず、あたら消耗すること」を言い、「殄」は「尽きる・尽くす・絶つ・悉く」の意である。]

 

 病苦の問題にしてもそうである。居士は病のために苦しむことは苦しんでも、病のために役せられてはいない。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕樣がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は默つてこらへて居るかする。其中で默つてこらえて[やぶちゃん注:ママ。]居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」と『墨汁一滴』にある通り、強いて平気を装ったりはしないが、病に任しながら時に病を離れるところがある。

[やぶちゃん注:「役せられてはいない」「えきせられてはいない」で使役されて、使われてはいない、の意。

「墨汁一滴」からの引用は四月十九日の全条。。]

 

こんなに呼吸の苦しいのが寒氣のためとすれば此冬を越すことは甚だ覺束ない。それは致し方もないことだから運命は運命として置いて醫者が期限を明言してくれゝば善い。もう三ケ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢや。それがきまると病人は我儘や贅澤が言はれて大に樂(らく)になるであらうと思ふ。死ぬる迄にもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどと云ふて見たところで今では誰も取りあはないから困つてしまふ。若しこれでもう半年の命といふことにでもなつたら足のだるいときには十分按摩してもらふて食ひたいときには本膳でも何でも望み通りに食わせてもらふて看病人の手もふやして一擧一動悉く傍(そば)より扶けてもらふて西洋菓子持て來いといふとまだ其言葉の反響が消えぬ内西洋菓子が山のやうに目の前に出る、カン詰持て來いといふと言下にカン詰の山が出來る、何でも彼でも言ふ程の者が疊の緣(へり)から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が出來るかも知れない。

 

という「仰臥漫録」の一節だけ見ても、居士の心境が如何なるものであったかを知り得るであろう。こう書いた居士がこの年の誕生日に当って岡野の料理を取寄せ、平生看護の労に酬いんがため、特に家内三人でこれを食い、「蓋し亦余の誕生日の祝ひをさめなるべし」として会席膳の献立を記しているのを読むと、われわれも涙なきを得ない。

[やぶちゃん注:前の長い引用は九月二十九日の条より。

「この年の誕生日」これは非常に探しづらい。何故なら、この誕生日は旧暦で換算した日であるからである。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)で、明治三四(一九〇一)年の旧暦九月十七日は新暦十月二十八日に当たる。ところが、さらに実は、この年はその誕生日の祝いを繰り上げて、前日に祝っており、宵曲の言っている記載は十月二十七日の内容だからである。やや長いが、「仰臥漫録」の十月二七日と二十八日の記事を翻刻する。岩波文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

十月廿七日 曇

 明日は余の誕生日にあたる(舊曆九月十七日)を今日に繰り上げ晝飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の勞に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は會席膳に五品

 さしみマグロとサヨリ 胡瓜 黃菊 山葵

 椀盛 莢豌豆(さやゑんどう) 鳥肉 小鯛の燒いたの 松蕈(まつたけ)

 口取 栗のキントン 蒲鉾 車鰕(くるまえび) 家鴨 蒲鉾 煮葡萄

 煮込 アナゴ 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

 燒肴(やきざかな) 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)

 

 午後蒼苔來る。四方太來る。

 牛乳ビスケツトなど少し食ふ 晩飯は殆んど食へず。

 料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病狀にありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生臺所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。

 去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虛鼠四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は實にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木棉を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するからこの白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫とさしたので右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 待ちかねた四人はやうやう夕刻に揃ふてそれから飯となつた。余は皆に案内狀を出すときに土産物の注文をしておいた。それは虛子に「赤」といふ題を與へて食物か玩具を持つて來いといふのであつたが虛子はゆで卵の眞赤に染めたのを持つて來た。これはニコライ會堂でやることさうな。鼠骨は「靑」の題で靑蜜柑、四方太は「黃」の題で蜜柑と何やらと張子の虎とを持つて來た。碧梧桐は茶色、余は白であつたが何やら忘れた。食後次第に話がはずんで來て余は晝の間の不安心不愉快を忘れるほどになつた。余は象の逆立(さかだち)やジラフの逆立のポンチ繪を皆に見せうと思ふて頻りに雜誌をあけて居ると四方太は張子の虎の髯(ひげ)をひねり上げながら「獨逸皇帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

 それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。體は去年より衰弱して寐返りが十分に出來ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯(ひるめし)頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝は泣(な)かしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりがく痛んで何とも仕樣がないのでただ叫んでばかり居たほどの惡日であつた。

 

 

十月廿八日 雨後曇

 午後左千夫來る 丈の低き野菊の類を橫鉢に栽ゑたるを携へ來る

 鼠骨來る

 包帶取換の際左腸骨邊の痛み堪へ難く號泣又號泣 困難を窮む

 この日の午飯は昨日の御馳走の殘りを肴(さかな)も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭[やぶちゃん注:前日の誕生祝いを指す。]の翌日は昔から さい[やぶちゃん注:「采」。]うまき日なり

 晚餐は余の誕生日なればにや小豆飯なり 鮭の味噌漬けと酢の物(赤貝と烏賊)の御馳走にて左千夫鼠骨と共に食ふ

 食後話はずむ 余もいつもより容易(たやす)くしやべる 十時頃二人去る

    *

因みに、「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季 (73) 201610月号 子規の誕生日には、この「仰臥漫録」を引いて、詳しい説明が載るが、その原文を見ると、岩波版とは表記に異同があり、やはり原文を見たい気がしてきた(「仰臥漫録」を電子化したい強い思いがあるのだが、これでは、正規表現のものをどこかで手に入れなくては、という気がした)。「例の財布」については、『子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣錢が欲しくなり、虛子から借りることにした』二十『圓のうちの』十一『圓と、所藏の俳書すべてを讓渡する約束で、岡麓から受け取った前金』二『圓などを入れて寢床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黃の段ダラの袋狀の財布に、麓がくれた更紗の錢入れ袋もそのまま入れてあったらしい』とある。さらに『岡野の料理』二『人前を』三『人で食べたとあるから』、一『人前を子規が食べ、母と妹でもう』一『人前を食べたのであろう。豪華な會席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで濟ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう』とある。なお、ここで回想される一年前の誕生日祝いは、正しく明治三三(一九〇〇)年十一月八日(旧暦九月十七日)に行われたが、これは既に先の最後の写真撮影にも出た部分である。虚子の持って来たのは、所謂、復活祭の卵、「イースター・エッグ」(Easter egg)である。]

2018/06/24

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  歌また歌

 

     歌また歌

 

 五月十三日、左千夫氏に与えた居士の書簡に「藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり」という歌がある。前年末に作りた「雪」の旋頭歌を新年の『日本』に揚げて以来、居士は殆どその歌を示さなかったが、四月二十八日に至って

 

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

 

の歌にはじまる藤の十首が先ず「墨汁一滴」に現れた。これに端を発して、山吹の歌、岩手の孝子の歌、かしわ餅の歌、ほととぎすの歌という風に、十首ずつの短歌が引つづき発表されたが、五月四日の「しひて筆を取りて」という一連の歌がその中の絶唱であろう。

[やぶちゃん注:名吟「瓶(かめ)にさす」の載るそれを以下に初出(国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子)で示す。私は中学二年の時、この一首を詠んで落涙するほどの感銘を覚えたのを忘れない。

   *

夕餉したゝめ了りて仰向に寢ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有樣なり。艷にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

  甁にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上

  にとゞかざりけり

  甁にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上

  に垂れたり

  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか

  どの昔こひしも

  藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫

  さんと思ふ

  藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべか

  りけり

  甁にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れ

  んとす

  去年の春龜戸に藤を見しことを今藤を見て思

  ひいでつも

  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き

  いでにけり

  この藤は早く咲きたり龜井戸の藤咲かまくは

  十日まり後

  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花

  よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

   *

「十日まり後」は「とをかまりのち」で音数律合わせのために「十日あまり後」を約したもの。「八入折の酒」「やしほりのさけ」で上代語。「何度も繰り返して醸(かも)した芳醇な酒」のこと。「八醞」「八塩折」或いは「やしぼり」と濁って読んだりもする。]

 

 佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

 別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ繪にかけるかも

 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

 若松の芽だちの綠長き日を夕かたまけて熱いでにけり

 いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 居士はこの歌の終(おわり)に「心弱くとこそ人の見るらめ」の一語を加えている。暮春の情と病牀の居士と、庭の風物とが渾然として一つのものになっていること、この一連の如きは少い。藤の歌の中にも「藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫さんと思ふ」「藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべかりけり」とあり、ここにまた「藤波の花の長ふさ繪にかけるかも」とあるが、この藤を画(えが)いて歌を題したものが今でも遺っている。紅の薔薇のふふむにつけても、五月という厄月(やくづき)の到ることを思い、夕顔の棚を作ろうとしながらも、秋まで持つべき命であるかということを念頭に浮べる。しかも居士は秋の草花の種を庭に蒔かしめ、命あらばそれを見ようとしているのである。この一連の歌を誦(しょう)して、居士の心持を直に身に感ぜぬというならば、その人は畢(つい)に詩を談ずるに足る人ではない。

[やぶちゃん注:「佐保神」(さほがみ(さおがみ))は「佐保姫」とも称し、春を司る神の名。奈良の都の東方には佐保山があったが(現在の奈良市佐法蓮佐保山附近であるが、開発が徹底的に進行してしまい、山の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ))、この方角は五行説で春に当たることに由来する。

「いちはつ」一初。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。屋根菖蒲。種小名 tectorum (テクトルム)はラテン語で「屋根の」の意味。和名はアヤメ類の中で一番先に咲くことに由来する。

「ふゝみぬ」蕾が膨らんだ。

「薩摩下駄」駒下駄に似た形を成すが、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多くは杉材で作る。

「いたつき」「勞(いたつき)」は病気。

「知らに」万葉以来の連語。「知る」の未然形に打消の助動詞「ず」の古型の連用形「に」が付いたもの。「知らないで・知らないので」であるが、ここは「知らず」がよかろう。

この藤を画いて歌を題したものが今でも遺っている」不詳。ネット上では捜し得なかった。

 

 五月九日の「墨汁一滴」にはこういうことが書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が橫臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力與(あづか)つて多きに居りし事を。嚙みたるが上にも嚙み、和らげたるが上に和らげ、粥さへ嚙み得らるゝだけは嚙みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。斯く嚙み嚙みたるためにや、咀嚼に最(もつとも)必要なる第一の臼齒左右共にやうやうに傷(そこな)はれて此頃は痛み強く少しにても上下の齒をあはす事出來難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも嚙まずに呑み込まざるべからず。嚙まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、膓胃直に痛みて痙攣を起す。是に於いて衛生上の營養と快心的の娯樂と一時に奪ひ去られ、衰弱頓に加はり晝夜悶々、忽ち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

 

 次の長短歌はこの文章の末に記されたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ、初出では二字下げであるが、長歌が不具合を生ずるので、特異的に完全に行頭に上げて示した。なお、「虫」は初出のママ。]

 

さへづるやから臼なす、奥の齒は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の實をば嚙みても痛む、武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の、ほそり行くかも

下總の結城の里ゆ送り來し春の鶉をくはん齒もがも

菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も來ずくらしかねつも

 

 居士の唯一の療養法は「うまい物を食う」にあった。この「うまい物」は多年の経験との一時の情況とによって定(さだま)るので、他人の容喙(ようかい)[やぶちゃん注:横から他人が口を出すこと。]を許さぬ底(てい)のものであったが、この療養法によって居士は垂死の病軀に一脈の活気を注入し、力を文学の上に伸(のば)し得たのである。かつて『ホトトギス』の「消息」において、一流の御馳走論を述べたこともあった。その御馳走を摂るべき第一関門たる歯が傷(そこな)われたのでは、居士の病牀生活は暗澹たらざるを得ない。「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」という歎声も、決して誇張の言ではないのである。

[やぶちゃん注:「さへづるやから臼なす」よく判らぬが、食事をするために口を動かすことを「さへづる」とし、咀嚼しようとしてみるのだけれど、ああっ!(間投助詞「や」)私の「臼」歯は役立たずで「から」(空)踏みするばかりの意か。「から臼」は「唐臼」を前提として「空」を掛けていよう。

「はたつもの」「畑つ物」で「はたけつもの」に同じ。粟・稗・麦・豆などの畑から穫れる農作物のこと(「つ」は「の」の意の上代の格助詞)。対義語は「たなつもの」(穀つ物)で対語的には稲を限定的に指す(但し、これは広く前者を含めた穀類を指す語でもある)。

「武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の」やはりよく判らぬが、全く咀嚼が不能になった結果、「粥汁」には「武藏野の甘菜辛菜を」「まぜても煮」ることが出来なくなったので(噛み切れぬから)、いや! 何とまあ! 何の美味そうな混ぜものもない「白」ら「け」きった熱い白粥、それを口に含んでは「我つく」落胆の溜「息の」白さ(粥の温度が高いから五月でも白い息となる)よ! という意味か。]

 

 「墨汁一滴」から会心の条を摘記(てっき)して行くとなれば、まだまだ容易に尽くべくもないが、三十四年には他に記さなければならぬものを控えているので、遺憾ながら割愛して先へ進もうと思う。「墨汁一滴」の稿は七月二日まで続いた。終らんとするに先って不折氏洋行の事があり、数日を費して送別の辞を述べた。『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事なども、この文中にある。

[やぶちゃん注:「『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事」明治二十七年の「『小日本』創刊の章のこと。初会のエピソードは六月二十五日クレジットの条に書かれてあり、そこから六月三十日までが中村不折の送別の記となっていて、短い七月一日と二日の記事で「墨汁一滴」は終わっている。漱石洋行に続く盟友の洋行(渡仏。不折の帰国は明治三八(一九〇五)年、で漱石同様、子規の死の床には居合わせることが出来なかった)といった友人の勇躍せんとして旅立つそれは、再び逢えないという感懐も含めて、子規にとっては非常に辛く淋しいものであったことは、彼の送別の語りや詩歌によって判り切ったことではあるが、強烈な芸術家意識を持った彼にはそれ故にこそ、激烈に耐え難いことだったのである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「墨汁一滴」

 

    「墨汁一滴」

 

 「墨汁一滴」が『日本』に出はじめたのは一月十六日からである。居士がこれを草することを思立って、二回ほど文章を送ったところ、一向新聞に出ない。この事は大に居士を失望せしめた。そこで鼠骨氏に書を送って、場所は択ばぬ、欄外でも差支ない、欄外を借りて欄外文学なども洒落れているが、欄外二欄貸さないだろうか、といった。毎日書くつもりではじめた「墨汁一滴」が載らないようでは新聞も読みたくない、病中は楽(たのしみ)が少いから、一の失望に逢った時慰めようがない、というのである。この書簡が十五日附のもので、その翌日から「墨汁一滴」は紙上に現れたのであった。

[やぶちゃん注:「墨汁一滴」はここに書かれた通り、新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載された。それは、以前にも紹介した国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で総てが見られる。それにしても、二回分のそれが、一向に掲載されなかったのは何故なのか? 或いは最初のそれ(前章注に電子化してある)に、編集者である当の鼠骨の贈った地球儀の話が出ることから、これを原稿というよりも彼宛ての年初の挨拶吟と誤認したものか? 二回目の原稿(翌日一月十七日のクレジット)の原稿も一月七日の会に岡麓が持ち来った年始祝いの七草を植えた竹籠の話で、最後に、

 あらたまの年のはじめの七くさを籠に植ゑて來

 し病めるわがため

という歌で締めくくっており、或いは、鼠骨は、この「墨汁一滴」と表題した二つの原稿は単なる歳旦の言祝ぎの二篇であり、まだ多少は続くかも知れぬから、孰れどこかでその標題で完結するであろうものを纏めて発表しよう考えていたのかも知れぬ。ところが、上記のような本格連載ものとして子規が考えていたことを知って、慌てて掲載したものではなかったか?]

 

 「墨汁一滴」は最初から一行以上二十行以下ということを大体の限度としていた。その日その日思いついたことを記して行く点は『松蘿玉液』などに似ているけれども、文の短いに反して含蓄は甚だ多い。『松蘿玉液』以後における五年間が、単に居士の病苦をのみ募らしめたものでないことは、どの箇所を開いて見て明な事実である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の第十二回目の一月三十一日クレジットのもの。切貼帳で校合した。句読点は底本と切貼のそれを合わせて用いた。以下も同じ。]

 

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確實になるならならひなり。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く步行(ある)き得ずともよし、庭の内だに步行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。其後一、二年を經て、步行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに餘りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮小は猶こゝに止まらず。座る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり。此次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釋迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。

 

 こういう世界は『松蘿玉液』時代の居士の想像を許さぬところであった。「墨汁一滴」の人に与える感銘が『松蘿玉液』の比でないのは固より当然といわなければならぬ。

 居士は『日本』紙上におけるあらゆる執筆を廃し、「墨汁一滴」に一切を集中しようとした。歌に関する問題も俳句に関する問題も、やはり「墨汁一滴」で埒(らち)を明けようとした。格堂氏から預ったままになっていた平賀元義の歌を天下に紹介したのも「墨汁一滴」においてであった。居士は世に知られず、不遇の裏(うち)に一生を了った元義の歌が醇乎(じゅんこ)[やぶちゃん注:「純乎」とも書く。全く雑じり気のないさま。]たる万葉調なるを見て「一たびは驚き一たびは怪し」んだが、広くその歌を知らしめんとしてこの筆を執ったのである。「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」といい、

 

四家の歌を見るに、實朝と宗武とは氣高くして時に獨造[やぶちゃん注:初出に拠る。岩波文庫版もママ。底本は「独創」。]の處ある相似たり。但宗武の方、霸氣稍きが如し。曙覽は見識の進步的なる處、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技倆の點に於いて調子を解する點に於いて曙覽は遂に元義に如かず。故に曙覽の歌の調子とゝのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子とゝのひたり。されど元義の歌は其取る所の趣向材料の範圍餘りに狹きに過ぎて從つて變化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にして若し自(みづか)ら大歌人たらんとする野心あらんか、其歌の發達は固より此に止(とど)まらざりしや必せり。其歌の時に常則を脱する者あるは彼に發達し得べき材能の潛伏しありし事を證して餘あり。惜しいかな。

 

という。居士の結論は常に断々乎としている。平賀元義は居士にょって顕揚(けんよう)せられた最後の歌人であった。「墨汁一滴」十二回を費(ついや)した元義の事は、直(ただち)に『心の華』に転載せられた。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、平賀元義の賞揚は「墨汁一滴」の二月十四日(クレジット)から始まり、二月二十六日までの、十二回、一日のブレイクもなしに連載されている。以上の長い引用部は最後の二月二十六日分の最終段落総てで、その前に本文中で引用されてある「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」という箇所も同日分の第三段落の冒頭部である。]

 

 歌に関する文章は必ずしも元義の事にとどまらぬ。有名な「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」という言葉もこの中にあり、短歌会の諸子に対する警策もまたこの中にある。或時の短歌会で、最もいい歌は誰にも解せらるべき者だという主張と、いい歌になるほどこれを解する人が少くなるという主張とが対立した一ことがあった。居士はこれを聞いて、「愚かなる人々の議論かな。文學上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて實地に就きて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ實地の歌を擧げよ。其歌の選擇恐らくは兩者一致せざるべきなり。歌の選擇既に異(こと)にして枝葉の論を爲したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか靑きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に屬すべきものならば赤き蛙も靑き蛙も兩方共にあるべし。我は解し易きにも善き歌あり、解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に」と「墨汁一滴」に書いた。こういう問題に対する居士の所論は、坦々たる中道を行くの概(おもむき)があった。

[やぶちゃん注:前者「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」は一月二十五日クレジットのもの。全文を初出で電子化する。ここは句読点もママとした。

   *

去年の夏頃ある雜誌に短歌の事を論じて鐵幹子規とへ並記し兩者同一趣味なるかの如くいへり。吾以爲へらく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり、鐵幹と子規とは並稱すべき者にあらずと。乃ち書を鐵幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は明星所載の短歌を評せん事を約す。葢し兩者を混じて同一趣味の如く思へる者の爲に妄を辯ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事數月未だ前約を果さゞるに、此の事世に誤り傳へられ鐵幹子規不可並稱の説を以て尊卑輕重に因ると爲すに至る然れども此等の事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をして稍歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益〻加はり殊に筆を取るに惱む。終に前約を果す能はざるを憾む。若し墨汁一滴の許す限に於て時に批評を試るの機を得んか猶幸なり。

   *

また、後者の長い引用は、三月二十七日クレジット分のほぼ全文である。宵曲が訳してしまった以下を頭の附ければ、全文となる。

   *

先日短歌會にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに從ひいよいよ之を解する人少き者なりと。他の人は之に反對し遂に一場の議論となりたりと。

   *]

 

 落合直文氏の歌に対し、精細なる批評を試みたのも「墨汁一滴」においてであった。居士は毎日一首、多くても二首位の都合で、一々これを解析して微に入り細を穿つ評語を加えた。こういう精細な歌評は、居士以前に誰も企てぬものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:歌人で国文学者であった落合直文(文久元(一八六一)年~明治三六(一九〇三)年:陸前伊達藩の重臣鮎貝の家に生まれたが、国学者落合直亮(なおあき)の養子となった東京大学古典講習科中退。叢書「日本文学全書」の刊行や「日本大文典」などの国語辞典編輯等、国文学者としての業績の他に、「青葉茂れる桜井の」「孝女白菊の歌」の作者として知られ、和歌改良を目指して『浅香社』を結成、与謝野鉄幹・尾上柴舟らの門下を育てた。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)の歌への「墨汁一滴」での批評は三月二十八日クレジット分から始まり、七日連続で四月三日分まで行われている。]

2018/06/23

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  昨年今年明年

 

   明治三十四年

 

    昨年今年明年

 

 明治三十四年(三十五歳)[やぶちゃん注:一九〇一年。]には、前年の「新年雑記」にあるような軽快な事柄は見当らない。

 

 うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寐ずて年明にけり

 

というような状態で新年を迎えたのである。居士の枕頭には巻紙・状袋などを入れる箱があり、その上に置いた寒暖計に小さい輪飾が括りつけてあった。

 

 枕べの寒さ計(はか)りに新玉(あらたま)の年ほぎ繩をかけてほぐかも

 

という歌はこれを詠んだのである。

[やぶちゃん注:「うまい」は万葉語で「熟寢(寐)」「味眠」などの漢字を宛て、「快く眠ること・熟睡」の意の名詞である。この後者の一首は、直後の「墨汁一滴」の巻頭(底本は朱の手書きで一月十六日のクレジットが入る。)に載っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で翻刻したが、読み易さを考え、一部に句読点を追加して打った。

   *

病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは、病中、いさゝか、新年をことほぐの心ながら、齒朶の枝の左右にひろごりたるさまも、いとめでたし。其下に橙を置き、橙に竝びて、それと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて、鼠骨の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつくづくと見てあれば、いささかながら、日本の國も特別に赤く書く[やぶちゃん注:底本は手書きで二重線でそれを抹消して「そめら」に修正。底本の切貼帳の製作者は不明であるが、或いは、子規に非常に近い人物で、子規の命によって、初出を改稿したものの原本である可能性もあるか。以下の改稿部も総て現行の「墨汁一滴」の通りだからである。]れてあり。臺灣の下には新日本と[やぶちゃん注:手書きで「記」を挿入。]したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の内にあれど、北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は、此赤き色[やぶちゃん注:手書きで「と」を挿入。]紫色との如何變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ、我病室の蓬萊なり。

  枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ繩を掛けてほ

  ぐかも

   *]

 

 この年『日本』にはじめて掲げたのは「書中の新年」及「御題の短歌を新年の紙上に載することにつきて」の二篇であった。「書中の新年」というのは「家人に命じて手に觸るゝ所の書籍何にても持ち來らしめ、漸次にこれを關してその中より新年に關する字句を拔抄(ばつしやう)」するという趣向のもので、その冒頭には次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。]

 

 明治卅四年は來りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年も亦病牀にありて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病牀にあり得るや否や。屠蘇を飮み得るや否や。雜煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。發熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切に此苦の永く續かん事を望むなり。明年一月余は猶此苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りて復諸君に紙上に見(まみ)ゆる事を得るは實に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。

 

 「新年雑記」に記されたところと大体似ているけれども、前年に比べるとどこか迫った点がある。一年間に著しく進んだ病苦が自ら然らしむるのであろう。

 一年前にはじめて「新年雑詠」の短歌を募集し、『日本』に掲げた居士は、今年は旋頭歌を募ってその結果を新年の紙上に発表したが、選に入った者は僅に七人、各一首ずつに過ぎなかった。これは居士の病苦が多くの歌を選むの労に堪えなくなったのではない。居士の歌に臨む標準が次第に高く、一年前とは全く程度を異にするためである。この傾向は已に歌会を廃する少し前あたりからの評語にも見えているが、旋頭歌の選に至って更に顕著になった。旧来の惰性によって歌を作る者は、勢い振落されざるを得ぬ。一面からいえばこの傾向は、居士の歌の世界を前より狭くしたように見えたかも知れない。居士の選歌の標準が高まったということも、外聞からは容易に窺い得ぬものであるだけに、これに従って進む者は固より不退転の勇気を必要とする。居士の晩年になればなるほど、その選に入る顔触が少数者に限られた観があったのは、全くこのために外ならぬのであった。

 一月の『ホトトギス』には「初夢」及「蕪村寺再建縁起」が出ている。「初夢」は睡中(すいちゅう)に見た夢というよりも、むしろ居士が胸裏に描いた夢の方であろう。新年と共に病から脱却して方々年賀に歩いたり、汽車に乗って帰郷したりする、これらの夢は居士に取っては実現すべからざるものになってしまった。富士山を下りながら砂を踏みすべらして真逆様に落ちたと思えば、腰の痛み、背の痛み、足の痛み、身動きもならぬ現実に還らざるを得ない。軽快な「初夢」の文章が読む者にいうべからざる悲哀を感ぜしむるのはこのためであろう。

[やぶちゃん注:「初夢」は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名で、国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂の「子規遺稿 第編 子規小品文集をお薦めする。

「蕪村寺再建縁起」の方は本文は小さくて読めないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」で不折の俳味に富んだ挿絵が見られる。それによれば、『蕪村宗の俳阿弥という行脚僧が、化物や狐狸と力を合わせて月並村の妨害をはねのけ、荒れ果てていた蕪村寺をみごと再建するというストーリー』とある。]

 

 「蕪村寺再建縁起」は黄表紙に擬したもので、不折氏が挿画を画いている。こういう趣向を新聞雅誌の上に凝すことは、居士得意のしところであったが、病苦はその余力をこういう方面に用いることを困難ならしめた。「蕪村寺再建縁起」は最後の趣向と見るべきものである。

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