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カテゴリー「柴田宵曲」の125件の記事

2017/04/24

柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その2) / 「妖魅の會合」~了



 唐の貞元中、大理評事韓生なる者も駿馬を飼つてゐたが、或朝馬丁が厩舍に行つて見ると、馬は首を垂れ、汗びつしよりになつて喘いでゐる。非常な遠距離を疾驅したものの如くであつた。韓生は馬丁の報告を聞いて非常に怒り、夜ひそかに我が馬を盜み出して、そんなに疲弊させたのは何者だと云ひ、馬丁は苔で打たれたが、翌日も馬の疲勞してゐることに變りはない。馬丁は怪訝(けげん)に堪へず、その夕方は厩舍の戸を悉く閉ぢ、自分は中に入つて樣子を窺ふことにした。韓生の家には黑犬が一疋飼はれてゐたが、それが厩舍の戸に近付いて、且つ吠え且つ躍るやうにしてゐたかと思ふと、忽ち化して黑衣の一壯漢となつた。衣冠の類もすべて眞黑である。鞍を置き馬に跨がつて門のところに至り、世間並より遙かに高い門の垣を、一鞭くれて躍り越えた。黑衣の人はそのまゝいづくともなく駈り去つたが、何時聞かたつて戾つて來ると、先づ馬から下りて鞍を解く。黑衣の人はまた犬に逆戾りするのである。馬丁は仰天したけれど、誰にも話さず、依然注意を怠らなかつた。一夕黑犬が人に化し馬に乘つて去り、明け方近く歸つて來たのを見て、馬丁はその足跡を尋ねることにした。丁度雨あがりだつたので、蹄の跡は歷々と地に印されてゐる。南方十餘里の地點にある古墓の前で足跡は盡きた。馬丁は犯人を突き止めた探偵のやうに、この墓の側に小さな小屋を作り、先づこゝに來て張り番してゐると、果して夜になつて黑衣の人は馬に乘つてやつて來た。馬を下りて樹に繫ぎ、墓の中に入つて行く。墓の中には大勢居る樣子で、賑かに談笑してゐる。馬丁は小屋の中に俯伏しになつて、ぢつとその話を聞いてゐたが、暫くして黑衣の人は暇を告げて去らうとする。何人かぞろぞろ送つて出て墓の中は空になつた。褐色の衣を著た人が黑衣の人を顧みて、韓氏の名籍は今どこに在るか、と云ふ。あれは擣練石(きぬたいし)の下に隱して置きました、御心配御無用です、と答へてゐる。褐衣の方はまだ氣になる樣子で、用心して人に知られるなよ、知られると吾々の破滅だからな、と盜賊團めいたことを云つてゐたが、話を轉じて、時に韓氏の赤ン坊はまだ名が付かぬか、と聞き出した。あれはまだです、付いたら早速名籍に書き入れます、決して忘れあしません、などと云ふ。愈々以て探偵小説氣分が濃厚である。それでは明日の晩また來い、ゆつくり話さう、と褐衣の人が云ふのを最後に、黑衣の人は歸つて行つた。馬丁も明け方に家に還り、逐一韓生に密告に及んだ。韓生はじめて事の次第を知り、先づ肉を以て黑犬を誘ひ、出て來たところを縛つてしまつた。次に擣練石の下を調べて見たら、果して一軸の書があつて、韓氏の兄弟妻子から雇人に至るまで、洩れなく名前が記されてゐる。これが韓氏の名籍なるもので、一月ほど前に生れた子供だけが記されてゐない。犬は庭前に於て撲殺され、その肉は烹て雇人達に食はしめた。更に近郷の人を驅り催して、手に手に武器を携へ、郡南の古墓をあばいて數疋の犬を退治した。彼等はそれぞれ異つた毛色をしてゐたと「宜室志」にある。黑犬が突如として黑衣の人に化するあたりは、「西斑牙犬の家」(佐藤春夫)の趣があるが、あゝいふ超然たる存在ではない。彼等はどうしても惡黨の集團で、韓氏の名籍などを拵へ、何か惡事をたくらみつゝあつたとしか考へられぬ。

[やぶちゃん注:「貞元」七八五年~八〇五年。

「大理評事」大理寺(中央政府で裁判を扱うのはここと審刑院と刑部で、この三機関を「三法司」と呼んだ)の属官で、地方に派遣されて裁判の審理を掌り、断獄の際の連署を任とした。

 以上は「太平廣記」の「畜獸五」に「韓生」として「宣室志」から引いてある。

   *

唐貞元中、有大理評事韓生者、僑居西河郡南。有一馬甚豪駿。常一日淸晨、忽委首于櫪、汗而且喘、若涉遠而殆者。圉人怪之、具白于韓生。韓生怒。若盜馬夜出、使吾馬力殆、誰之罪。乃令朴焉。圉人無以辭。遂受朴。至明日、其馬又汗而喘。圉人竊異之、莫可測。是夕。圉人臥於廐舍。闔扉、乃於隙中窺之。忽見韓生所畜黑犬至廐中。且嘷且躍。俄化爲一丈夫、衣冠盡黑、既挾鞍致馬上、駕而去。行至門、門垣甚高、其黑衣人以鞭擊馬、躍而過。黑衣者乘馬而去、過來既。下馬解鞍。其黑衣人又嘷躍。還化爲犬。圉人驚異、不敢洩于人。後一夕、黑犬又駕馬而去、逮曉方歸。圉人因尋馬蹤、以天雨新霽、歷歷可辨。直至南十餘里。一古墓前、馬跡方絶。圉人乃結茅齋於墓側。來夕、先止於齋中。以伺之。夜將分、黑衣人果駕馬而來、下馬、繫于野樹。其人入墓、與數輩笑言極歡。圉人在茅齋中、俯而聽之、不敢動。近數食數頃、黑衣人告去。數輩送出墓外至於野、有一褐衣者。顧謂黑衣人曰、「韓氏名籍今安在。」。黑衣人曰、「吾已收在擣練石下。吾子無以爲憂。」。褐衣者曰、「慎毋泄、泄則吾屬不全矣。黑衣人曰、「謹受教。」。褐衣者曰、「韓氏稚兒有字乎。」。曰、「未也、吾伺有字、即編于名籍、不敢忘。」。褐衣者曰、「明夕再來、當得以笑語。」。黑衣唯而衣唯而去。及曉、圉者歸、遂以其事密告於韓生。生即命肉誘其犬。犬既至、因以繩系、乃次所聞。遂窮擣練石下。果得一軸書、具載韓氏兄弟妻子家僮名氏。紀莫不具、蓋所謂韓氏名籍也。有子生一月矣、獨此子不書、所謂稚兒未字也。韓生大異、命致犬于庭、鞭而殺之。熟其肉、以食家僮。已而率隣居士子千餘輩。執弧矢兵仗、至郡南古墓前。發其墓、墓中有數犬、毛狀皆異、盡殺之以歸。

   *

 この話、本邦文人間ではかなり好まれている(?)ようで、南方熊楠は、かの名著「十二支考」の「犬に関する伝説」(大正一一(一九二二)年『太陽』初出)で、

   *

唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日櫪中(れきちゅう)で汗かき喘(あえ)ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒(ぎょそつ)が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼(ほ)え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍(くら)を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。圉人驚異したが敢えて洩(も)らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅(かや)の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋(つな)ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。暫くして黒衣の人を褐衣(かつい)の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣(つ)く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童(ちどう)は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣(う)つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭(むちう)ち殺し、その肉を煮て家僮(かどう)に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発(あば)くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。

   *

と引用し(引用は「青空文庫」版のそれを用いた)、岡本綺堂はその「支那怪奇小説集」(昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊:この本は現在、「支那」を「中国」と改変して呼称されている。私はこの見当違いの自主自粛コードは書誌学的に極めて馬鹿馬鹿しいことだと考えている)に「黒犬」という題で訳されてある。「青空文庫」のこちらから引く。

   *

 

  黒犬

 

 唐の貞元年中、大理評事(だいりひょうじ)を勤めている韓(かん)という人があって、西河(せいか)郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い駿足(しゅんそく)であった。

 ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、厩(うまや)の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。

「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」

 韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその折檻(せっかん)を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして喘(あえ)いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで跳(おど)りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって傲然(ごうぜん)と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと鞭(むち)くれると、駿馬(しゅんめ)は跳(おど)って垣を飛び越えた。

 こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで猶(なお)も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに茅(かや)の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。

 夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。

「韓の家(いえ)の名簿はどこにあるのだ」

「家(うち)の砧石(きぬたいし)の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。

「いいか。気をつけてくれ。それを見付けられたら大変だぞ。韓の家の子供にはまだ名がないのか」

「まだ名を付けないのだ。名が決まれば、すぐに名簿に記入して置く」

「あしたの晩もまた来いよ」

「むむ」

 こんな問答の末に、黒い人は再び馬に乗って立ち去った。それを見とどけて、厩の者は主人に密告したので、韓は肉をあたえるふうをよそおって、すぐにかの黒犬を縛りあげた。それから砧石の下をほり返すと、果たして一軸(いちじく)の書が発見されて、それには韓の家族は勿論、奉公人どもの姓名までが残らず記入されていた。ただ、韓の子は生まれてからひと月に足らないので、まだその字(あざな)を決めていないために、そのなかにも書き漏らされていた。

 一体それがなんの目的であるかは判らなかったが、ともかくもこんな妖物をそのままにして置くわけにはゆかないので、韓はその犬を庭さきへ牽ひき出させて撲殺(ぼくさつ)した。奉公人どもはその肉を煮て食ったが、別に異状もなかった。

 韓はさらに近隣の者を大勢駆り集めて、弓矢その他の得物(えもの)をたずさえてかの墓を発(あば)かせると、墓の奥から五、六匹の犬があらわれた。かれらは片端からみな撲殺されたが、その毛色も形も普通の犬とは異っていた。

   *

『「西斑牙犬の家」(佐藤春夫)』ネット上に正規本文の電子テクストが見当たらないので、この注のために先程(二〇一七年四月二十四日)、ブログのこちらに電子化注しておいた。]

 この二つの話の共通點は、駿馬の疲勞が怪事發覺の發端をなすところに在る。一は妖異譚に傾き、一は探偵小説じみてしまつた爲、結末の空氣は大分違ふものになつたが、厩に繫がれた馬がいくら飼葉を與へても瘦せて行つたり、夜中人の乘る筈がないのに甚しく疲勞の色を見せてゐたりするのは、僅かに一つの話の核心をなす無氣味な事實である。

 日本人は一種の概念に捉はれて、むやみに猫を化けるものとし、犬を忠勤の例に引くけれど、支那の書物を讀めば犬の妖も決して少くない。「搜神後記」に出てゐる林慮山下の亭などは、男女倂せて十何人かの人が居り、白や黑の著物を著てゐるが、これが宿する者に害をなすといふ評判であつた。郅伯夷なる者がこゝに一宿した時、燭を明かにして坐し、經を誦してゐたところ、夜中に十數人の人間が入つて來て、そこで博奕を打ちはじめた。伯夷がひそかに鏡に照らして見るのに、人にあらずして群犬であつた。そこで燭を秉(と)つて起ち、麁相したふりをして一人の衣を燒いて見たら、間違ひなしに毛の燃える臭ひがした。今度は刀を以て刺す。初めは人の形をしてゐたが、遂に犬になつた。他は悉く走り去つたとある。前の「宣室志」の群犬が盜賊團なら、これは博奕打の一味であらう。妖をなす犬にもいろいろ階級があるらしい。

[やぶちゃん注:「麁相」は「そさう(そそう)」でしくじることの意の「粗相(そそう)」に同じい。

 以上は「搜神後記」の「第九卷」に載る以下。

   *

林慮山下有一亭、人每過此宿者、輒病死。云嘗有十餘人、男女雜沓、衣或白或黃、輒蒲博相戲。時有郅伯夷、宿於此亭、明燭而坐、誦經。至中夜、忽有十餘人來、與伯夷並坐、蒲博。伯夷密以鏡照之、乃是群犬。因執燭起、陽誤以燭燒其衣、作燃毛氣。伯夷懷刀、捉一人刺之、初作人喚、遂死成犬。餘悉走去。

   *]

 馬も犬も登場せぬが、もう一つ似た話を附け加へる。徐安は下邳の人で常に漁獵を好み、その妻の王氏は美貌を以て知られて居つた。開元五年の秋、安は海州に遊び、王氏が獨り下邳に暮らして居ると、一人の少年が現れて王氏と慇懃を通ずるやうになつた。ほどなく安は歸つて來たが、細君の態度は頗る冷かである。安はこれを怪しんだものの、歸つたばかりで俄かにその謎を解くことが出來ない。王氏は夕方になると粧ひを凝らして一室に居り、夜更けに見えなくなつて曉に戾つて來る。その出入するところは更に不明である。一日安がひそかに樣子を窺つてゐると、妻は古い籠に乘つて窓から外に出、曉になればまた同じやうにして歸ることがわかつた。安はこの行く先を突き止めなければならぬと思つたので、翌日は妻を一室に閉ぢこめ、自分が女のやうに着飾つて、短劍を袖にし、古籠に乘つて待ち構へた。二更の頃に至り、籠は自然と窓から飛び出し、忽ちに一つの山の頂きに達した。この邊は「廣異記」の話と大同小異で、そこには幕をめぐらし、華やかな灯をともし、酒肴を竝べてあつた。たゞ席に居るのは三人の少年だけで、女裝した安を迎へて、今日はお早いぢやありませんか、と云ふ。安は何も云はず、いきなり短劍を振り𢌞して三人をその場に斃した。然る後また籠に乘つて歸らうとしたが、籠はもう少しも飛ばうとせぬ。夜が明けて見たら、自分の斃した三人はいづれも古狐であつた。安はそれからどうして歸つたか、委しいことは何も書いてないが、安が家に歸つた後、細君は夕方になつてもお化粧をしなかつたといふので「集異記」の話は終つてゐる。

[やぶちゃん注:「下邳」(かひ)は現在の国江蘇省徐州市に位置する県級市の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「開元五年」七一七年。

「慇懃を通ずる」男女がひそかに情交を結ぶの意で、「史記」の「司馬相如傳」に基づく。

「二更」午後九時~午後十時以降の二時間。]

 この話は前の戸部令史や韓生に比して大分手輕く出來上つてゐる。徐安は相談相手がなかつたせゐもあるが、一切獨斷專行で、細君と同じ裝ひをして古籠に乘つた。籠が自然と窓から飛び出すのは、令史の馬や箒が空を飛ぶのと同じく、妖魅の致すところなのであらう。妖狐の化けた三少年は、所詮平素好んで漁獵を事とする徐安の敵ではない。事件は何人の手も借らず、安一人の手で解決してしまつた。その點簡單に過ぎる嫌ひはあるが、前の話と對照して見ると、自ら別種の興味を生じて來る。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「狐四」に「徐安」として、「集異記」の引用で載る。

   *

徐安者、下邳人也。好以漁獵爲事。安妻王氏貌甚美、人頗知之。開元五年秋、安遊海州、王氏獨居下邳。忽一日、有一少年狀甚偉、顧王氏曰、「可惜芳艷、虛過一生。」。王氏聞而悅之、遂與之結好、而來去無憚。安既還、妻見之、恩義殊隔。安頗訝之。其妻至日將夕、卽飾粧靜處。至二更、乃失所在。迨曉方囘、亦不見其出入之處。他日、安潛伺之。其妻乃騎故籠從窻而出。至曉復返。安是夕、閉婦于他室、乃詐爲女子粧飾、袖短劍、騎故籠以待之。至二更。忽從窻而出。徑入一山嶺、乃至會所。帷幄華煥、酒饌羅列、座有三少年。安未及下、三少年曰、「王氏來何早乎。」。安乃奮劍擊之、三少年死于座。安復騎籠、卽不復飛矣。俟曉而返、視夜來所殺少年、皆老狐也。安到舍、其妻是夕不復粧飾矣。

   *]

柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)

 

 妖魅の會合

 

 泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話は「廣異記」に出てゐる。唐の開元中の話で、戸部令史の妻が姿色あり、不思議な病ひにかゝつたが、その病源を知ることが出來ない。令の家には一頭の駿馬が居つて、いくら飼葉(かひば)をやつても次第に瘦せて行く。令が鄰りに住む胡人の術士にこの話をすると、彼は事もなげに笑つて、馬は百里を行けば疲れる、況んや千里を行つて瘦せなかつたら寧ろ不思議だ、と云つた。令の家には他に馬に乘るやうな人が居らぬ。そんな筈はないと云つて承知しなかつたところ、胡人は更に驚くべき事實を語つた。君が當直で家に居らぬ夜、細君が乘つて出る、君はそれを知らぬのだ、もし僕の云ふ事が信ぜられなかつたら、當直の晩にそつと還つて樣子を見るがいゝ、といふのである。令は半信半疑ながら、その言に從ふと、果して夜になつて病妻は起き出し、粧ひを凝らして馬に鞍を置かせ、どこかへ出かける模樣である。婢は箒に跨がつてこれに隨ふ。忽ち空に舞ひ上つて見えなくなつた。令史大いに騷いて翌日胡人の許に行き、成程お説の通りだが、どうしたらよからうかと相談した。もう一晩樣子を見ろと云はれたので、その夜もひそかに歸り、幕の中に隱れて居つた。妻は昨夜の如く出かけようとして、そこらに誰か居りはせぬか、と問ふ。婢は箒に火をつけて四邊を照らす。令は狼狽の餘り大甕の中にもぐり込んだ。妻が乘る馬には事缺かぬが、婢の跨がるべき箒は燃してしまつて無い。何でもあるものにお乘り、箒に限つたことはないよ、と云はれて婢は大甕に乘り、馬のあとから空中に舞ひ上る。令史は恐ろしさに身じろぎもせずにゐると、やがて到著したのは山頂の林間であつた。このあたり正に支那のブロツケン山の概がある。群飮するもの七八輩、大いに歡を盡して散ずるに當り、婢は甕の中の令史を見付け出した。妻も婢も一杯機嫌で主人を引き出し、馬と甕とに乘つて去る。取り殘された令史が夜明けになつて見𢌞すと、もう誰も居らず、昨日の焚火がくすぶつてゐるに過ぎぬ。とぼとぼ步いて一月がかりで歸つたが、令の顏を見ると妻は驚いて、こんなに長いことどこへ行つていらしつたのですと云ふ。そこはいい加減に答へて置いて、また胡人のところへ相談に行つた。胡人はうなづいて、よろしい、今度出かけた後で施すべき手段があると云ひ、次の機會を待つて盛に火を焚きはじめた。やがて空中に憐れみを乞ふ聲が聞えたが、ぱたりと落ちて來たのは一羽の蒼鶴であつた。鶴は火の中に落ちて焚死し、妻の病ひはそれつきりよくなつた。令の妻を魅した者の正體は不明であるが、天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬやうに、遂に蒼鶴となつて最期を遂げたものであらう。

[やぶちゃん注:先に本文の語注をしておく。

「唐の開元」七一三年から七四一年。これは玄宗の治世の前半で、彼が積極的に良政を行い、特に「開元の治」と呼ばれた唐の絶頂期であった。

「戸部」(こぶ)は尚書省に属した六部(他に吏部・礼部・兵部・刑部・工部)の一つで、戸籍・土地管理・租税や官人俸給などの財務関連の行政を司掌した官庁。

「令史」(れいし)は中央官庁の事務官の称。

「百里」唐代の一里は五五九・八メートルであるから、五十六キロメートル弱。

「千里」五百六十キロメートル弱。

「ブロツケン山」ドイツ中部のハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken)。標高千百四十一メートル。古代ケルト時代からの伝承がキリスト教の侵入によって変形された、年に一度、魔女たちが集まって饗宴(「ヴァルプルギスの夜」(Walpurgisnacht)と呼ぶ)山とされる。ゲーテの戯曲「ファウスト」で人口に膾炙する。、太陽光が背後から射し、影の側にある雲や霧の粒子によってその光が散乱されて、見る人の映じた影の周囲に虹と似た光の輪となって現れる「ブロッケンの妖怪」(ブロッケン現象)が起こりやすいことでも知られる。ここは夜に妻と下女が空中を飛び去って山頂でオーギーを開くこと、下女のまたがるのが箒であることなど、明らかにそうした西洋の魔女伝説の影響が見てとれる唐代伝奇と言える。

「蒼鶴」「サウカク(ソウカク)」と読んでおく。因みに、東洋文庫版の前野直彬氏の訳では『黒い鶴』とある。

「天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬ」飛翔する妖怪であった天狗は、古くは、下級の烏天狗などを見ても判る通り、鳥類の変化(へんげ)として理解され、鷲・鷹や鳶(とび)の類の延長上に措定された想像上の生物とされた。「屎鴟」(くそとび:糞鳶)は現在ではタカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus の別称ともされる。

『泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話』は鏡花四十歳の、明治四五(一九一二)年に書いた中国伝奇小説集「唐模様」の中の一章「魅室(みしつ)」である。一九四二年刊の岩波半版全集第二十七巻「小品」に載るそれを以下に電子化する。底本は総ルビであるが、読みは振れると判断した一部に限った。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

      魅室

 

 唐の開元年中の事とぞ。戸部(こぶ)郡の令史(れいし)が妻室(さいしつ)、美にして才あり。たまたま鬼魅(きみ)の憑(よ)る處となりて、疾病(やまひ)狂(きやう)せるが如く、醫療手を盡すといへども此(これ)を如何ともすべからず。尤も其の病源(びやうげん)を知るものなき也。

 令史の家に駿馬(しゆんめ)あり。無類の逸物(いちもつ)なり。恆に愛矜(あいきん)して芻秣(まぐさ)を倍(ま)し、頻(しきり)に豆を食(は)ましむれども、日に日に瘦せ疲れて骨立(こつりつ)甚だし。擧家(きよか)これを怪(あやし)みぬ。

 鄰家(りんか)に道術の士あり。童顏白髮にして年久しく住む。或時談(だん)此の事ことに及べば、道士笑うて曰く、それ馬は、日に行くこと百里にして猶(なほ)羸(つか)るゝを性(せい)とす。況や乃(いま)、夜(よる)行くこと千里に餘る。寧ろ死しせざるを怪(あやし)むのみと。令史驚いて言ふやう、我が此の馬はじめより厩(うまや)を出(いだ)さず祕藏せり。又家(いへ)に騎るべきものなし。何ぞ千里を行くと云ふや。道人の曰く、君(きみ)常に官に宿直(とのゐ)の夜(よ)に當りては、奧方必ず斯(こ)の馬に乘つて出でらるゝなり。君更に知りたまふまじ。もしいつはりと思はれなば、例の宿直(とのゐ)にとて家を出でて、試みにかへり來て、密かに伺うて見らるべし、と云ふ。

 令史、大(おほい)に怪(あやし)み、卽ち其の詞(ことば)の如く、宿直の夜(よ)潛(ひそか)に歸りて、他所(たしよ)にかくれて妻つまを伺ふ。初更に至るや、病める妻なよやかに起きて、粉黛盛粧(ふんたいせいしやう)都雅(とが)を極め、女婢(こしもと)をして件(くだん)の駿馬を引出(ひきいだ)させ、鞍を置きて階前(かいぜん)より飜然(ひらり)と乘る。女婢(こしもと)其の後(しりへ)に續いて、こはいかに、掃帚(はうき)に跨(またが)り、ハツオウと云つて前後して冉々(ぜんぜん)として雲に昇り去つて姿を隱す。

 令史少からず顚動(てんどう)して、夜明(よあ)けて道士の許に到り嗟歎(さたん)して云ふ、寔(まこと)に魅(み)のなす業(わざ)なり。某(それがし)將(はた)是(これ)を奈何せむ。道士の曰く、君乞ふ潛(ひそか)にうかゞふこと更に一夕(ひとばん)なれ。其の夜(よ)令史、堂前の幕の中(なか)に潛伏して待つ。二更に至りて、妻例の如く出でむとして、フト婢(こしもと)に問うて曰く、何を以つて此のあたりに生(いき)たる人の氣(き)あるや。これを我が國にては人臭(ひとくさ)いぞと云ふ議(こと)なり。婢(こしもと)をして帚(はうき)に燭(ひとも)し炬(たいまつ)の如くにして偏(あまね)く見せしむ。令史慌て惑ひて、傍(かたはら)にあり合ふ大(おほい)なる甕(かめ)の中に匐隱(はひかく)れぬ。須臾(しばらく)して妻はや馬に乘りてゆらりと手綱(たづな)を搔繰(かいく)るに、帚は燃(も)したり、婢(こしもと)の乘るべきものなし。遂に件(くだん)の甕に騎(の)りて、もこもこと天上(てんじやう)す。令史敢へて動かず、昇ること漂々(へうへう)として愈々高く、やがて、高山(かうざん)の頂(いたゞき)一(いつ)の蔚然(うつぜん)たる林(はやし)の間(あひだ)に至る。こゝに翠帳(すゐちやう)あり。七八人(しちはちにん)群(むらがり)飮むに、各(おのおの)妻を帶(たい)して並び坐して睦(むつま)じきこと限(かぎり)なし。更闌(かうた)けて皆分れ散る時、令史が妻も馬に乘る。婢(こしもと)は又其の甕に乘りけるが心着(こゝろづ)いて叫んで曰く、甕の中に人あり。と。蓋(ふた)を拂へば、昏惘(こんまう)として令史あり。妻、微醉(ほろゑひ)の面(おもて)、妖艷無比(えうえんむひ)、令史を見て更に驚かず、そんなものはお打棄(うつちや)りよと。令史を突出(つきだ)し、大勢一所に、あはゝ、おほゝ、と更に空中に昇去(のぼりさ)りぬ。令史間(ま)の拔けた事(こと)夥(おびたゞ)し。呆(あき)れて夜(よ)を明(あか)すに、山深うして人を見ず。道を尋ぬれば家を去ること正(まさ)に八百里程(りてい)。三十日を經て辛うじて歸る。武者ぶり着いて、これを詰(なじ)るに、妻、綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して、些(ちつ)とも知らずと云ふ。又實(まこと)に知らざるが如くなりけり。

 

   *

少し語注すると、「初更」は現在の午後七時又は八時からの二時間で戌の刻に同じい。「都雅」とは雅びやかなことで、「冉々」は次第に進んでいくさま、「二更」は午後九時又は午後十時からの二時間で亥の刻、「八百里程」は四百四十八キロメートル弱。「綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して」は高級な軽い綾絹や薄絹を羽織ってでさえその重みを持ちこたえることが出来ない、則ち、そのような批難の言葉に耐えられぬという風に、と言う意味で鏡花が好んだ表現である。

 ご覧の通り、原話(後掲)の後半部を完全にカットしていて、魅入られて妖女となった妻に「そんなものはお打棄(うつちや)りよ」と鏡花らしい一言をコーダとして言わせて実に慄然且つ極美である。

 原話は「廣異記」の「十」の「戸部令史妻」。以下に示す。

   *

唐開元中、部令史妻有色、得魅疾而不能知之。家有駿馬、恒倍芻秣而瘦劣愈甚。以問鄰舍胡人、胡亦術士、笑云、「馬行百里猶勁、今反行千里餘、寧不瘦耶。」。令史言、「初不出入、家又無人、曷由至是。」。胡云、「君每入直、君妻夜出、君自不知。若不信、至入直時、試還察之、當知耳。」。令史依其言、夜還、隱他所。一更、妻做靚妝、令婢鞍馬、臨階御之。婢騎掃帚隨後、冉冉乘空、不復見。令史大駭。明往見胡、瞿然曰、「魅、信之矣。爲之奈何。」。胡令更一夕伺之。

其夜、令史歸堂前幕中。妻頃復還、問婢、「何以有生人氣。」。令婢以掃帚燭火、遍然堂廡。令史狼狽入堂大甕中。須臾、乘馬復往。「適已燒掃帚、無復可騎。」。妻云、「隨有即騎、何必掃帚。」。婢倉卒、遂騎大甕隨行。令史在甕中、懼不敢動。須臾、至一處、是山頂林間、供帳簾幕、筵席甚盛。群飲者七八輩、各有匹偶。座上宴飮、合昵備至、數更後方散。婦人上馬、令婢騎向甕。婢驚云、「甕中有人。」。婦人乘醉、令推著山下。婢亦醉、推令史出、令史不敢言、乃騎甕而去。

令史及明都不見人、但有餘煙燼而已。乃尋徑路、崎嶇可數十里、方至山口。問其所、云是閬州、去京師千餘里。行乞辛勤、月餘、僅得至舍。妻見驚問、「久之何所來。」。令史以他答。復往問胡、求其料理。胡云、「魅已成、伺其復去、可遽縛取、火以焚之。」。聞空中乞命、頃之、有蒼鶴墮火中焚死。妻疾遂愈。

   *]

 

2017/04/23

柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」

 

 羅生門類話

 

 近江守といふだけで名は傳はつて居らぬが、その館(やかた)に若い男どもが集まつて、今昔の話をしたり、碁や雙六を打つたりして酒を飮んでゐるうちに、安義の橋の話になつた。昔はこの橋へ人も行つたものだが、今は絶えて人が行かなくなつた、と一人が云ひ出すと、いや安義の橋を渡るぐらゐは自分にも出來る、どんな恐ろしい鬼がゐようとも、この御館にある一の鹿毛にさへ乘れば渡れぬ筈がない、と力む男があつた。一座の者は口を揃へて、それは面白い、眞直ぐに行かずに橫道を𢌞つたのでは、譃か本當かわかるぞ、と云ひ、端(はし)なく一場の爭論になつた。この事が近江守の耳に入つて、無益の事を云ひ爭ふ者どもぢや、倂し馬はいつでも貸してやるぞ、と云はれたので、もうあとへ引込むわけに往かぬ。已むを得ず、馬の尻の方に油を多く塗り、腹背を強く結び、輕やかな裝束を著けて乘り出した。已に安義の橋の橋詰めにかゝつた頃は、先程の酒も興奮もさめかけてゐる。日も山の端近くなつて、何となく心細げである上に、人里遠く離れた場所で、振り返つて見ても家の夕煙りが幽かに目に入るに過ぎぬ。橋の半ばまで來ると、思ひがけず人が欄干にもたれてゐる。然もそれが女で、濃い紅(くれなゐ)の袴を長く穿き、口許を袖で覆うて居つたが、馬上の男が通り過ぎるのを見て、恥かしながら嬉しいと思つた樣子である。これが普通の場所であつたならば、男の方も自分の馬に乘せて行きたいところであるが、音に聞えた安義の橋の上では、今頃こんな女のゐるわけがない。必定鬼であらうと分別して、目を塞いだまゝ走り過ぎる。女は男が何も言はずに通り過ぎるのを見て、これはつれない、私は思ひがけぬ場所に捨てて行かれた者でございます、せめて人里までその馬でお連れ下さい、と言葉をかけた。「今昔物語」の作者はこゝに「頭身の毛太る樣に」覺えたといふ形容を用ゐてゐるが、男は馬を早めて行く。あら情(つれ)なの人や、と後から追つて來る女の聲は、もう前のやうな可憐なものではなかつた。男は一心不亂に觀世音菩薩を念じ、駿馬に鞭打つて駈け拔けようとする。鬼は馬の尻に手をかけて引摺らうとしたが、油で滑つて思ふやうにならぬ。男が走りざまに見返ると、朱色の顏は圓座のやうに廣く、額に琥珀色の目が一つ、手の指は三つで五寸ばかりの鋭い爪が生えてゐる。頭髮は蓬の如く亂れ、身の丈九尺ばかりもある鬼であつた。男は肝潰れながら、たゞ觀世音を念じて走るほどに、漸く人里らしいところまで來た。そこまで追つて來た鬼は、また逢はうぞ、と云つて消え失せてしまつた。

[やぶちゃん注:「安義の橋」「あぎのはし」は通常は「安吉の歌詞」で近江国蒲生郡安吉郷の地区内を流れていた日野川(現在の滋賀県中部(湖東地域)を流れる)に架かっていた橋と推定されている。「梁塵秘抄」にも出、かつては近江の名所として京でも知られていたものらしが、それが平安末期にはかくも怪異出来の場所とされて人の通りもなくなったのは解せぬ。

「端なく」(はしなく)副詞で「思いがけなく・出し抜けに」の意。

「頭身の毛太る樣に」「かしらみのけ、ふとるやうに思ひければ」で、「今昔物語集」で頻繁に現われる最大級の恐怖感覚を現わす常套表現であるが、言わずもがな、芥川龍之介が「羅生門」で、下人が門の二階の死骸の中に、松の木端に灯をともして蹲っている老婆を見つけたシークエンスの後に、『下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。』と表現したことで、誰しも知るところの恐怖の語として今も生きている。

 この話は「今昔物語集」の「卷第二十七」の「近江國安義橋鬼噉人語第十三」(近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと)第十三)であるが、これは既に私の柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目の注で電子化注を行っている。そちらを参照されたい。]

 それから近江守の館までどうして歸つたか、男は殆ど何も覺えぬくらゐであつた。館の人々は彼を出迎へて、口々にいろいろ問ひかけたが、男は腑拔けのやうになつてものも言はぬ。皆で氣を取り鎭めて、漸く安義の橋の顚末を聞くことが出來た。近江守は無益の爭論をして命を失ふところだつたではないかと戒めながら、馬はその男に與へた。男はしたり顏で家に歸り、妻子眷屬に安義の橋の話をして聞かせたが、内心の恐怖は全く去らぬ。その後も屢々家に怪しい事があるので、陰陽師(おんやうじ)に問ふと、これこれの日は重く愼むやうにといふことであつた。その日は朝から門をさし固めて、堅く物忌みをしてゐるところへ、門を敲く者がある。この男には同腹の弟があつて、陸奧守の家來になり、一人の母と一緒に任地に下つてゐたのが、久しぶりに歸つて來たのである。今日は堅い物忌みだから、明日になつたら對面しよう、それまでは人の家でも借りて居るやうに傳へさせたが、もう日は暮れてゐる。自分一人はどうにでもなりますが、連れて來た供の者やいろいろ持つて來た物の始末に困ります、實は母上も疾うに亡くなられましたので、そのお話も申さなければなりません、と云ふ。年頃老母の事は心許なく思つてゐたところではあり、この話を聞くと淚がこぼれて、たうとう禁を破つて逢ふことにした。廂の間の方に通して、兄弟泣く泣く語り合つてゐる。妻は簾の中で聞いてゐるうちに、どういふきつかけからか、二人が組打ちをはじめて、上になつたり下になつたりしてゐる樣子である。どうなさいました、と聲をかければ、早くその刀を持つて來い、と云ふ。氣でもお違ひなさいましたか、喧嘩はおやめなさい、と云つて刀を持つて行かなかつたところ、早く持つて來い、それではわしを死なせるつもりか、といふ聲が聞えたのを最後に、今度は弟が兄を組み伏せて、首をふつと食ひ切つてしまつた。取つた首を携へ、躍り上つて步きながら妻の方を見返つた顏は、夫から聞いた通りの鬼であつた。家内の者どもは皆泣き騷いだけれど、もうどうにもならぬ。鬼の姿は見えず、持つて來た品物とか、乘つて來た馬とかいふものは、すべて何かの骨や頭の類であつた。

 この話は何よりも謠曲の「羅生門」に似てゐる。つはものどもの酒宴に鬼の話が出て、爭論の末に渡邊綱が出かける順序は殆ど同じ事である。尤もこの男は綱のやうな勇士でないから、鬼の腕を切るどころの話でなく、辛うじて安義の橋を渡つて逃げ了せたにとゞまるが、羅生門の鬼が「時節を待ちて又取るべし」と云つたのと、腕を切られもせぬ安義の橋の鬼が「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」と云つたのとは揆を同じうするやうである。謠曲の作者は「今昔物語」のこの話からヒントを得たものと思はれる。

[やぶちゃん注:『謠曲の「羅生門」』観世信光(永享七(一四三五)年或いは宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能楽。羅生門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝を謡曲化した五番目物の鬼退治物。電子化してもよいが、こちらの宝生流謡曲 「羅生門」の』ページが、謡曲本文の電子化もなされており、いろいろ周辺的事象についての解説も豊富である。必読!

「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)はウィキの「渡辺綱」によれば、『嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)』。『通称は渡辺源次』。源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:父は鎮守府将軍源満仲。藤原道長の側近として知られ、後の清和源氏の興隆の礎を築いた名将)『四天王の筆頭として知られる』。『武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に』住み、『渡辺氏の祖とな』った。『摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。また先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである』。寛仁四(一〇二〇)年、『主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙され』ている。

「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」「……よし! よし!……たとえ今逃げおおせたとしても……何時か必ず再び会って……おのれの命、これ、捕らずに! おくものかッツ!」。

「揆を同じうする」「揆」は「き」で「軌を一にする」と同義。]

「前太平記」によれば、綱は雨の夜に羅生門まで出向いて鬼に出逢つたのではない。夜道にひとり佇む美女に同情して馬に乘せ、その家まで送り屆けようとする途中、忽ち鬼女と變じて綱を宙に吊り上げる。そこで刀を拔いて腕を切り落すのであるが、この趣向の端緒は安義の橋の女に見えてゐる。男は更に來し方行く末も思ほえず、搔き乘せて行かばやと考へたが、再案して通過するのである。綱だからこそ腕を切つて脱却し得たので、もしこの男が馬に乘せたら、卽座にお陀佛であつたに相違ない。物忌みに當つて腕を取り返しに來る一段も、「前太平記」では伯母になつてゐるが、これは弟を振り替へたのであらう。取り返すものはないから、命を取りに來たのである。綱のところへ來た鬼も、腕を取り返すばかりでなく、組み伏せて首を食ひ切りたかつたかも知れぬが、相手は賴光四天王中の隨一人で、さう手輕には往かなかつた。

[やぶちゃん注:「前太平記」のそれは「卷第十七」の「洛中夭怪(えうかい)の事 幷 渡邊綱鬼の腕を斬る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。なお、この話は「平家物語」の「劔卷」にあるものとコンセプトは殆んど同じである。]

「今昔物語」に現れた鬼の話はいくつもあるが、もう一つ羅生門の參考になるのは「獵師母成鬼擬敢子語」である。兄弟の獵師が山へ行つて、高い木の又に横樣に木を結ひ、そこにゐて鹿の來るのを待ち構へる。兩人は或距離を置いて向ひ合つてゐるわけである。九月の下旬で夜は極めて暗く、何者も見えぬから、たゞ耳ばかり澄ましてゐたが、鹿の來るけはひがない。そのうちに兄の登つてゐる木の上から、何者か手を下して髮を摑んだ。驚きながらも摑まれた手を探つて見ると、かさかさした人の手である。兄は眞暗な中で弟に聲をかけて、わしの髻(もとどり)を取つて上に引上げようとする者があつたら、どうするか、と尋ねた。現在髻を摑まれた者の言ひ草としては暢氣過ぎるやうだが、弟は目分量で射たらよからうと云ふ。實は今わしの頭を摑んで引き上げるやつがあるのだ、と聞いて、弟は聲を目當てに鴈俣(かりまた)の矢を放つた。正に暗中のウイルヘルム・テルである。慥かに手應へがあつたらしいので、頭の上を探つて見たら、細い手が髻を摑んだまゝ手首から斷ち切られてゐる。鹿は來ず、怪しい手に摑まれたりしたので、その夜は斷念して家に歸つた。兄弟には起ち居も不自由な老母があつたが、二人が山から戾ると頻りに唸る聲が聞える。どうかなされたか、と聞いても返事がない。灯をともして射切つた手を見るのに、どうも老母の手に似てゐる。二人が老母の居間の遣戸(やりど)を明けると、寢てゐた老母が起き上り、おのれ等は、と云つて摑みかゝらうとする。その時例の手を投げ込み、これは御手か、と云つて、またぴたりと締めてしまつたが、老母はほどなく死んだ。兄弟が立ち寄つて見れば、母の手は懷かに手首から射切られて居つた。母が老耄の結果、鬼になつて子供を食はうとしたのだと書いてある。

[やぶちゃん注:以上はかなり知られた「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十三)である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化注しているので参照されたい。]

 かういふ話は後世の化け猫によくある。化け猫の場合は大概猫が食ひ殺して、老母に化けてゐるやうであるが、これは母がそのまゝ鬼になつたので、羅生門の鬼のやうな恐ろしいものではない。倂し羅生門の鬼もうしろから綱の兜のしころを摑んでゐる。切られた腕があとに殘ることも同じである。老母は片腕切られたまゝ死ぬのだから、何かに化けて取り返しに來る一條を缺くのは云ふまでもない。

「山嶋民譚集」(柳田國男)にある駄栗毛左京は、佐渡の本間氏の臣下であつた。風雨の夜に馬が急に進まなくなつたり、熊の如き手で馬の尾を摑まれたりするのは、渡邊綱の佐渡版に近いが、これは越後の彌彦山附近に住む農夫彌三郎の母親で、惡念增長して鬼女となつたものであつた。左京に腕を切られた後、毎晩のやうに戸を敲いて哀願し、身分を白狀して腕を返して貰ふのだから、大した鬼ではない。片腕返還の際、左京との約束によつて永久に佐渡を去つたとある。

[やぶちゃん注:「駄栗毛左京」の姓は以下に示す柳田國男の原典では「だくりげ」と読んでいる。但し、サイト「福娘童話集」のこちらを見ると、「たくもさきょう」(歴史的仮名遣なら「たくもさきやう」)と読んでいる。

 以上は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の中の河童伝承の手接ぎ等に続く、「羅城門」の標題パートの中の「鬼」(頭書きパート)附近に出る。当該の「羅城門」の前半部分に当たる、「鬼」パートの前後のみを「ちくま文庫」版全集から引く。本文自体は連続した記述になっているため、ここだけを抜き出すとやや読み難いのは悪しからず。本文は漢字カタカナ混じりである。但し、底本は新字新仮名。ルビは拗音がないが、そのままで附した。頭書きは省略した。しかし、こういう文章を新字新仮名にするというのは、まっこと気持ちの悪いキテレツな文章が出来上がるという美事な例と私は存ずる。打ちながら、虫唾が走った。

   *

羅城門 肥前ト甲斐・常陸トノ河童談ヲ比較シテ最初ニ注意シ置クべキコトハ、後者ニハ馬ト云ウ第三ノ役者ノ加ワリテアルコト也。但シ釜無(カマナシ)ノ川原、又ハ手奪川(テバイガワ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ単純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々研究ノ歩ヲ進メ行クトキハ、此ノ系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ズ順序トシテ羅城門(ラジヨウモン)ノ昔話ヲ想イ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大将軍摂津守(セツツノカミ)殿頼光ノ家人(ケニン)ニ、渡辺綱通称ヲ箕田源二ト云ウ勇士アリ。武蔵ノ国ヨリ出タル人ナリ。或ル夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼卜闘イテ其ノ片腕ヲ切リ取リテ帰リ来ル。其ノ腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ摂津ノ田舎ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問ン来タリ、見セヌト云ウ腕ヲ強イテ出サシメ之ヲ奪イ還(カエ)シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至(ナイシ)ハ凧(タコ)ノ絵ニ詳(ツマビラ)カナリ。羅城門ニハ古クヨリ楼上ニ住ム鬼アリテ悪(アシ)キ事バカリヲ為シ居タリシガ、一旦(イツタン)其ノ毛ダラケノ腕ヲ箕田源二[やぶちゃん注:渡辺綱の通称。]ニ切ラレシ頃ヨリ、頓(トミ)ニ其ノ勢ヲ失イシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其ノ取リ戻シタル腕ハ帰リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日評ハ此ノ世ニ伝ワラズトイエド(イエドモ)、兎(ト)ニモ角(カク)ニモ近代ノ河童冒険譚ト頗(スコブ)ル手筋ノ相似タルモノアルハ争ウべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ宝剣ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。頼光サント太閤サントヲ同ジ人カト思イシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全国ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思エリ。然(シカ)ルニ、海ヲ越ユテ佐渡島ニ行ケバ、此ノ話ハ忽(タチマ)チ変ジテ駄栗(ダクリゲ)毛左京ノ武勇談トナリテ伝エラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或ル年八月十三日ノ夜、河原田(カワラダ)ノ館ヨリノ帰リニ、諏訪(スワ)大明神ノ社(ヤシロ)ノ傍ヲ通ルトキ俄(ニワカ)ノ雨風ニ遭(ア)ウ。乗リタル馬ノ些(スコ)シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ掴摑(ツカ)ム者アリ。大刀(タチ)ヲ抜キテ之ヲ斬リ払エバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁(ノガ)レ行キ、其ノ跡ニ一本ノ逞(タクマ)シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾イテ我ガ家ニ蔵シ置キタルニ、其ノ後毎晩ノヨウニ彼ノ処ニ来テ戸ヲ叩キ哀願スル者アリ。九月モ中旬ニ及ビテ終(ツイ)ニ対面ヲ承諾シタル処、這奴(コヤツ)ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺・拐帯(カイタイ)ヲモセズ、又何等ノ礼物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉(コトゴト)ク其ノ身上ヲ白状シタル後、イトド萎(シナ)ビタル右ノ古腕ヲ貰イ受ケテ帰リタリ。彼女ノ言(ゲン)ニ依レバ、以前ハ越後国弥彦(ヤヒコ)山附近ノ農夫弥三郎ナル者ノ母ナリ。悪念増長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此ノ島ニハ渡ラヌ筈ニテ国元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神様トナル。今ノ弥彦山ノ妙虎天(ミヨウトラテン)卜云ウ祠(ヤシロ)ハコノ弥三郎ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ伝エタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヨウタラテン)トアリ。岩瀬ノ聖了寺ノ真言法印(ホウイン)之ヲ済度(サイド)シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ッテ阿弥陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我ガ子ノ為ニ斬ラレタリト云ウコト也。越後三島郡中島村ニ弥三郎屋敷ト云ウ故迹(コセキ)アリ。鬼女ハ此ノ地ノ出身ナリト云ウ。弥三郎或ル夜鴨網(カモアミ)ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居クルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。持ッタル鎌ヲ振イテ其ノ腕ヲ斬リ取リ家ニ帰リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言イテ納戸(ナンド)ニ臥(フ)シ起キ出デズ。翌朝戸ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻(マド)ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ為ニ鬼女ナルコト露顕シ、終ニ家ヲ飛ビ出シテ公然ト悪行ヲ営ムコトトナリタリト云ウ〔越後名寄(エチゴナヨセ)四〕。此ノ話ニハ言ウ迄モ無ク前型アリ。『今昔物語』ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、倅(セガレ)ガ「スワ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寝処ニ榔擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ弥三郎婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。刈羽(カリワ)郡中鯖石(ナカサバイシ)村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼(オオカミ)ニ成ッテ漆山(ウルシヤマ)ト云ウ処ニテ人ヲ食イ、後ニ我ガ子ノ為ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト伝ウ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライジャト云イテ棺ヲ奪イ中ノ屍骸(シガイ)ヲ食ウ故ニ、飛岡ノ浄広寺ノ上人(シヨウニン)ノ代ヨリ青キ日傘ニ青キ法衣卜改メタリ〔日本伝説集〕。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *]

 綱の切つた腕も、左京の切つた腕も、もとの持主に還つた以後の消息はわからない、「譚海」の記載によると、大坂の藤堂家の藏屋敷には化物の足を切り取つた話があり、天滿の別當の許に納めてあつたさうである。うしろ足らしく、節のところから切られて居り、犬の爪のやうなものが生えて居つた。月山(ぐわつさん)の刀で切つたといふことが傳はつてゐるだけで、それに關する武勇傳もなし、化物の正體に就いても全く記されてゐない。

[やぶちゃん注:これは「譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事」である。リンク先の私の電子化注でお読みあれ。]

 

2017/04/22

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その2) / 「龍宮類話」~了

 

 孫思邈の話で思ひ出すのが嘗て讀んだ「世界お伽噺」の「指環の魔力」である。前後にいろいろ話があるけれども、必要な點だけに切り詰めると、マルチンといふ少年が金持の百姓のところに奉公する。一年勤めた報酬に一袋の砂を貰つて、大きな森にさしかゝつた時、女の泣き聲が聞える。森を出はづれた草原の隅に火が燃えてゐて、その中に女の子が苦しがつて泣いてゐるのであつた。マルチンは卽座に袋から砂を搔き出して振りかけ、火が消えたと思つたら、女の子の姿は見えなくなつて、小さな綺麗な蛇がマルチンの頸に卷き付いた。自分は蛇の王の娘であるが、うつかり遊びに出たところを村の子供達に見付かり、燒き殺されるところであつた、あなたにお禮をしたいから一緒に來て貰ひたい、父に今の話をすれば、お禮に何か上げるといふに違ひないが、その時は他の何も望まず、あなたの指に嵌めていらつしやる指環をいただきたいと仰しやい、といふ。これだけ教へた蛇はまた女の子の姿になり、マルチンを案内して洞窟の中の御殿に導(みちび)いた。蛇の王は孫思邈の場合と同じく、マルチンを上座に坐らせ、寶物を澤山持つて來させて、何でも好きな物をお持ち下さい、といふことであつたが、マルチンは女の子に教はつた通り指環を望む。王は何をか君に惜しまんやと承知し、この指環の魔力の事は誰にも話してはならぬ、とくれぐれも注意した上で渡してくれた。一つ擦れば直ちに十二人の若武者が出て、どんな事でも仕遂げるといふ不思議な指環を手に入れたマルチンは、これによつて俄かに幸福を得、これを失ふに及んでまた不幸に陷ることになつてゐる。

[やぶちゃん注:私は生憎、この話を知らなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで全話を読むことが出来た。巖谷小波編「世界お伽噺第五十七編 露西亞(ロシヤ)の部」(明治三七(一九〇四)年博文館刊)とあり、『ヰルヘルム、ゴルドシユミツト』が収集したお伽噺集の中の『魔法の指環(ツアウベル リング)』が原文であるとする。]

「指環の魔力」の前年と不思議によく似た話が「今昔物語」にある。京に住む若い男といふだけで、名は傳はつて居らぬが、侍だらうといふことになつてゐる。觀音の信者で、每月十八日には必ず寺參りをして佛を禮拜することを怠らなかつた。或年の九月十八日に例の如く寺參りをして、南山科(やましな)の邊まで行つたところ、山深く人里離れたあたりで五十ばかりの男に出逢つた。杖の先に一尺ぐらゐの斑らな小蛇を懸けてゐるのが、まだ死にもせずに動くのを見て憐愍の情を起した。それから二人の間に問答があつて、若い男はその蛇を助けてやつてくれと云ふけれども、五十ばかりの男は承知しない。人間にはそれぞれ世渡りの道がある、自分は年來如意を作つてゐるので、牛の角を延すためには小蛇の油が必要なのだといふ。然らば自分の著物と替へて貰ひたいといふ話になり、結局綿衣と蛇とを交換する約束が成立した。男はその蛇のゐたといふ他の近くに行つて放し、水の中へ入るのを見屆けた上、安心して次の寺のある道を步いて行つた。二町ばかり來たところで、年の頃十二三ぐらゐの美しい少女に出逢ふ。この少女が、自分の命を助けていただいた御禮を申上げたいので、お迎ひに參りましたと云ふのを聞いて、はじめて先刻の小蛇であると知り、恐ろしくなつた。少女はお出で下さればお爲にならぬことはありませんと云ひ、大きな池のところまで來ると、ちよつとこゝでお待ち下さいと云つたまゝ、どこかへ見えなくなつた。再び姿を現した少女に伴はれて、型の如く目を閉ぢてゐる間に立派な宮殿の門前に立つて居つた。男は宮殿に入つて龍王に對面し、種々の饗應があつた後、あなたには如意の珠でも差上げたいが、日本は人の心がよくないから、とても持ちきれまいと云つて、厚さ三寸ばかりの金の餠を半分にしてくれた。少女はまた男に瞑目させて池の邊まで送り、繰り返し禮を述べて消え失せた。家に歸つたら、長い間どこへ行つてゐたかと云はれたところを見れば、浦嶋ほどの事はないにせよ、相當の時間を經過してゐたものらしい。如意の珠といふのはマルチンの貰つた指環に近い力のある寶物ではないかと想像せられるが、龍王が將來を見通して與へなかつたから、この男にはマルチンのやうな後難はない。金の餠は割つても割つても無くならぬので、男は生涯富裕であつた。

[やぶちゃん注:「如意」は「によい(にょい)」で、読経・説法・法会などの際に僧侶が手に持つ仏具。元はインドに於ける「孫の手」とされるもので、棒状で先端が指を曲げたように丸くなっている。獣骨や角或いは竹・木・金属など各種の材料で作った。

「二町」約二百十八メートル。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十六」の「仕觀音人行龍宮得富語第十五」(觀音に仕(つかまつ)る人、龍宮に行きて富(とみ)を得る語(こと)第十五)である。

   *

 今は昔、京に有りける年若き男(をのこ)有りけり。誰人(たれひと)と語り傳へず。侍(さむらひ)なるべし。身貧しくして世を過ぐすに便(たより)無し。而るに、此の男、月每(ごと)の十八日に持齋(ぢさい)して、殊に觀音に仕りけり。亦、其の日、百の寺に詣でて、佛(ほとけ)を禮(らい)し奉りけり。

 年來(としごろ)、如此(かくのごと)く爲(す)る間、九月(ながつき)の十八日に、例の如くして、寺々に詣づるに、昔は寺少なくして、南山階(みなみやましな)の邊(ほとり)に行きけるに、道に山深くして人離れたる所に、五十許りなる男(をのこ)、値(あ)ひたり。杖の崎(さき)[やぶちゃん注:先。]に物を懸けて持ちたり。

「何を持ちたるぞ。」

と見れば、一尺許りなる小さき蛇(へみ)の斑(まだら)なる也。行き過ぐる程に見れば、此の小さき蛇、動く。此の男、蛇持ちたる男に云く、

「何(いど)こへ行く人ぞ。」

と。蛇持(へみもち)の云く、

「京へ昇る也。亦、主(ぬし)は何(いど)こへ御(おは)する人ぞ。」

と。若き男の云く、

「己(おの)れは佛(ほとけ)を禮(をが)まむが爲(ため)に寺に詣づる也。然(さ)て、其の持ちたる蛇(へみ)は何(なに)の料(れう)ぞ。」

と。蛇持の云く、

「此れは、物の要(えう)に宛(あ)てむが爲に、態(わざ)と取りて罷る也。」

と。若き男の云く、

「其の蛇(へみ)、己(おの)れに免(ゆる)し給ひてむや。生きたる者の命(いのち)を斷つは、罪得る事也。今日(けふ)の觀音に免し奉つれ。」

と。蛇持の云く、

「觀音と申せども、人をも利益し給ふ要の有れば、取りて行く也。必ず者の命を殺さむと不思(おもは)ねども、世に經(ふ)る人は樣々(さまざま)の道にて世を渡る事也。」

と。若き人の云く、

「然(さて)も、何の要に宛てむずるぞ。」

と。蛇持の云く、

「己(おの)れは、年來(としごろ)、如意(によい)と申す物をなむ造る。其の如意に牛の角(つの)を延(の)ぶるには、此(かか)る小さき蛇(へみ)の油を取りて、其れを以て爲(す)る也。然れば、其の爲に取りたる也。」

と。若き男の云く、

「然(さ)て、其の如意をば、何に宛て給ふ。」

と。蛇持の云く、

「怪しくも宣(のたま)ふかな。其れを役(やく)にして、要(えう)し給ふ人に與へて、其の直(あたひ)を以つて衣食に成す也。」

と。若き男の云く、

「現(げ)に去り難き身の爲の事にこそ有んなれ。然(さ)れども、只にて乞ふべきに非ず。此の着たる衣に替へ給へ。」

と。蛇持の云く、

「何に替へ給はむと爲るぞ。」

と。若き男の云く、

「狩衣にまれ、袴にまれ、替へむ。」

と。蛇持の云く、

「其れには替ふべからず。」

と。若き男の云く、

「然(さ)らば、此の着たる綿衣(わたぎぬ)に替へよ。」

と。蛇持、

「其れに替へてむ。」

と云へば、男、衣(きぬ)を脱ぎて與ふるに、衣を取りて蛇(へみ)を男に與へて去るに、男の云く、

「此の蛇は何(いど)こに有りつるぞ。」

と問へば、

「彼(か)しこなる小池に有りつる。」

と云ひて、遠く去りぬ。

 其の後(のち)、其の池に持ち行きて、可然(しかるべ)き所を見て、砂を崛(ほ)り遣りて、冷(すず)しく成(な)して放ちたれば、水の中にり入ぬ。心安く見置きて、男、寺の有る所を差して行けば、二町許り行き過ぐる程に、年、十二、三許りの女(をむな)の形(かた)ち美麗なる、微妙(みめう)の衣袴(きぬはかま)を着たる、來たり會へり。男、此れを見て、山深く此く値(あ)へれば、

「奇異也。」

と思ふに、女の云く、

「我れは、君の心の哀れに喜(うれ)しければ、其の喜び申さむが爲(ため)に來たれる也。」

と。男の云く、

「何事に依りて、喜びは宣ふぞ。」

と。女の云く、

「己(おの)れが命を生(い)け給へるに依りて、我れ、父母に此の事を語りつれば、『速(すみや)かに迎へ申せ。其の喜び申さむ』と有りつれば、迎へに來たれる也。」

と。男、

「此れは有りつる蛇(へみ)か。」

と思ふに、哀れなる物から、怖しくて、

「君の父母(ぶも)は何(いどこ)にぞ。」

と問へば、

「彼(かしこ)也。我れ、將(ゐ)て奉らむ。」と云ひて、有りつる池の方に將て行くに、怖ろしければ、遁れむと云へども、女、

「世も御爲に惡しき事は不有(あら)じ。」

と強(あなが)ちに云へば、憗(なまじひ)に池の邊(ほとり)に具して行きぬ。女の云く、

「此に暫く御(おは)せ。我は前(さき)に行きて、來たり給ふ由(よし)、告げて返り來たらむ。」

と云ひて、忽ちに失せぬ。

 男、池の邊に有りて、氣六借(けむつか)しく思ふ程に、亦、此の女、出で來たりて、

「將て來たらむ。暫く、目を閉ぢて眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、教へに隨ひて眠り入ると思ふ程に、

「然(さ)て、目を見開(みあ)け給へ。」

と云へば、目を見開けて見れば、微妙(めでた)く莊(かざ)り造れる門(もん)に至れり。我が朝(てう)の城(じやう)を見るにも、此(ここ)には可當(あたるべ)く非ず。女の云く、

「此に暫く居給ふべし。父母(ぶも)に此の由、申さむ。」

とて、門に入りぬ。

 暫く有りて、亦出來たりて、

「我が後(しりへ)に立ちて御(おは)せ。」

と云へば、恐々(おづお)づ女に隨ひて行くに、重々(ぢうぢう)に微妙(みめう)の宮殿共(ども)有りて、皆、七寶(しちほう)を以つて造れり。光り耀く事、限り無し。既に行き畢(は)てて、中殿(ちうでん)と思しき所を見れば、色々の玉を以つて莊(がざ)りて、微妙の帳床(ちやうどこ)を立てて、耀き合へり。

「此(こ)は極樂にや。」

と思ふ程に、暫く有てり、氣高く怖し氣(げ)にして、鬢(びん)長く、年六十許りなる人、微妙に身を莊(かざ)りて、出來たりて云く、

「何(いづ)ら、此方(こなた)に上り給へ。」

と。男、

「誰(たれ)を云ふにか。」

と思ふに、

「我を呼ぶ也けり。」

と。

「何(いか)でか參らむ。此(か)く乍ら仰せを承らむ。」

と畏(かしこま)りて云へば、

「何でか迎へ奉りて對面する樣有(やうあ)らむとこそ思さめ。速(すみや)かに上り給へ。」

と云へば、恐々(おづお)づ上(のぼ)りて居(ゐ)たれば、此の人の云く、

「極めて哀れに喜(うれ)しき御心(みこころ)に、喜び申さむが爲に迎へ申つる也。」

と。男の云く、

「何事にか候らむ。」

と。此の人の云く、

「世に有る人、子(こ)の思ひは更に知らぬ事、無し。己(おの)れは、子、數(あまた)有る中に、弟子(おとご)[やぶちゃん注:末っ子。]なる女童(めのわらは)の、此の晝、適(たまた)ま此の渡り近き池に遊び侍りけるを、極めて制し侍れども不聞(きか)ねば、心に任かせて遊ばせ侍るに、『今日、既に人に取られて死ぬべかりけるを、其(そこ)の來り合ひて、命を生け給へる』と、此の女子(をむなご)の語り侍れば、限り無く喜(うれ)しくて、其の喜(よろこ)び申さむが爲に迎へつる也。」

と。男、

「此れは蛇の祖(おや)也けり。」

と心得つ。

 此の人、人を呼ぶに、氣高く怖し氣なる者共(ども)來たれり。

「此の客人(まらうど)に主(ある)じ仕つれ。」

と云へば、微妙(みめう)の食物(じきもつ)を持ち來たりて居(す)へたり。自らも食ひ、男にも、

「食へ。」

と勸むれば、心解けても不思(おもは)ねども、食ひつ。其の味はひ、甘(むま)き事、限り無し。下(おろ)しなど取り上ぐる程に[やぶちゃん注:食べ残した料理を下げ始める頃合いに。]、主人の云く、

「己(おの)れは、此れ、龍王(りうわう)也。此に住みて久しく成りぬ。此の喜びに、如意(によい)の珠(たま)[やぶちゃん注:願うものを総て叶える魔法の宝珠(ほうじゅ)。]をも奉るべけれども、日本(につぽん)は人の心惡しくして、持(たも)ち給はむ事、難(かた)し。然(さ)れば、其こに有る箱、取りて來たれ。」

と云へば、塗たる箱を持ち來たれり。開(ひら)くを見れば、金(こがね)の餠(もち)一つ有り。厚さ三寸許り也。此れを取り出だして、中(なから)より破(わ)りつ。片破(かたわれ)をば箱に入れつ。今、片破を男に與へて云く、

「此れを一度に仕ひ失ふ事無くして、要(えう)に隨ひて、片端(かたはし)より破(わ)つつ仕ひ給はば、命(いのち)を限りにて、乏(とも)しき事、有らじ。」

と。

 然(しか)れば、男、此れを取りて、懷(ふところ)に差し入れて、

「今は返りなむ。」

と云へば、前(さき)の女子(をむなご)出で來たりて、有りつる門に將て出でて、

「前(さき)の如く眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、眠りたる程に、有りし池の邊(ほとり)に來たりにけり。女子の云く、

「我れ、此こまで送りつ。此れより返り給ひね。此の喜(うれ)しさは、世々(せぜ)にも忘れ難し。[やぶちゃん注:生涯、忘れることは御座いませぬ。]」

と云ひて、掻き消つ樣(やう)に失せぬ。

 男は家に返り來たれば、家の人の云く、

「何ぞ久く不返來(かへりき)たらざりつる。」

と。暫く、と思ひつれども、早う□日(か)を經(へ)にける也けり。[やぶちゃん注:「□」は意識的欠字であろう。「ちょっとの時間と思っていたものが、なんとまあ!……日をも経ってしまっていたのであった!」と、何日もが経過していたことに、この時、初めて気づいたその驚きを示したのである。]

 其の後(のち)、人に不語(かたら)ずして、竊(ひそ)かに此の餠の片破(かたわれ)を破(わ)りつつ、要(えう)の物に替へければ、貧しき事、無し。萬(よろづ)の物、豐かにて、富人(ふにん)とり成にけり。此の餠、破(わ)れども破れども、同じ樣に成り合ひつつ有りければ、男、一生の間、極めたる富人として、彌(いよい)よ觀音に仕(つかまつ)りけり。一生の後(のち)は、其の餠、失せて、子に傳ふる事、無かりけり。

 懃(ねむご)ろに觀音に仕れるに依りて、龍王の宮(みや)をも見、金(こがね)の餠をも得て、富人と成りる也けり。

 此れ、何(いづ)れの程の事と不知(しら)ず、人の語るを聞き傳へて、語り傳へたるとや。

   *]

 孫思邈より觀音信仰の男に至る話には共通性が多い。何かの話が支那、ロシア、日本に分れて別々の苗を遺したものかも知れぬが、その原典も徑路も一切不明である。孫思邈も「今昔物語」も皆水中の宮殿であつたのに、マルチンの話だけが洞窟なのは、國民性の相違によるか、龍王と蛇王の相違によるか、その邊も俄かに斷定出來ない。

 話は時代を遡るほど單純なのが原則ならば、こゝに「搜神記」の一話を擧げて置くのも無意義ではなからう。隋侯が周王の使者として齊に入つた時、深水の沙邊で三尺ばかりの小蛇が、熱沙の中にのたうち𢌞り、頭から血を出してゐるのを見た。隋侯これをあはれみ、わざわざ馬から下りて、鞭を以て水中に撥(は)ね、汝もし神龍の子ならば我を擁護すべしと云ひ、また馬に乘つて過ぎ去つた。使の用事を果して二箇月後に同じ道を通ると、一人の子供が珠を持つて來て隋侯に捧げた。お前はどこの子だ、と問へば、先日一命をお救ひ下さいました御恩は忘れませぬ、これはお禮のしるしに差上げたいのです、と云ふ。お前のやうな子供から、そんなものを貰はんでもいゝ、と云ひ捨てて去つたところ、その夜の夢に小兒はまた珠を捧げて現れた。私は蛇の子です、本日この珠を差上げましたのに、お受け下さいませんので、ここまで持つて參りました、どうか柾げてお納め下さい、といふのである。夜が明けて見たら、その珠は隋侯の枕許に在つた。傷蛇なほ恩を知り、重く報ずることを解す、人にして豈に恩を知らざらんや、と歸つて珠を周王に獻上したとある。

[やぶちゃん注:「隋侯」平凡社東洋文庫版の竹田晃訳「捜神記」(昭和三九(一九六四)年刊)の注によれば、『隋は漢の東にあった国で、周の諸侯であったと伝えられている』とある。現在の湖北省内。

「枉げて」「まげて」。]

 この話は熱沙中の小蛇を水中に撥ねやるだけで、財を投じて命を救ふこともなし、後日に宮殿に迎へられる話もない。たゞ小蛇が救命の恩を忘れず、珠を獻じて隋侯に酬ゆるに過ぎぬ。珠も明晃々たるものではあつたらうが、神異の點は記されてゐない。かういふ單純な話が後世になるに從ひ、種々の條件が加はり、雪まろげのやうに次第に大きくなるのではなからうか。

[やぶちゃん注:「明晃々たる」「めいくわうくわう(めいこうこう)たる」は「明煌煌たる」とも書き、きらきらと明るく光り輝くさまを言う。

 以上は「搜神記」の「第二十卷」の以下と思われるが、それは、胴の中央が大きく裂け傷ついた大蛇であって、しかも隋侯はそれを薬を以ってちゃんと治療してやっており、元気になった大蛇は自ら走り去る。そうして一年ばかりして、そのお礼として明光珠を持って来るのは童子なんぞではなく(そもそもが「大蛇」なんだから「童子」はおかしい)、その大蛇がそのままに銜えてくることになっている。どうも柴田のそれは話が頗る小説的(作為的)に膨らんでいる気がする。柴田が見たものは、この原話を後代の誰かが翻案してしまったものなのではなかったろうか? それとも別な伝本があるのか? 識者の御教授を乞う

   *

隋縣溠水側、有斷蛇邱。隋侯出行、見大蛇被傷、中斷、疑其靈異、使人以藥封之、蛇乃能走、因號其處斷蛇邱。、蛇銜明珠以報之。珠盈逕寸、純白、而夜有光、明如月之照、可以燭室。故謂之「隋侯珠」、亦曰「靈蛇珠」、又曰「明月珠」。邱南有隋季良大夫池。

   *

「隋侯珠」「靈蛇珠」「明月珠」先の東洋文庫の竹田氏の注によれば、『周代の和(か)氏(卞和(べんか)が楚の山中で見つけたいわゆる「和氏の璧』(へき)『」と並んで、中国では至宝とされていた』名立たる宝珠であったらしい。その名宝の璧と、そのために二度に渡って左足、次に右足を斬られる刑に処せられた卞和の話はウィキの「卞和に詳しい。因みに、この和氏の「璧」は遙か後に戦国時代の趙へと渡り、かの「完璧」の故事の由来となった。それもリンク先をどうぞ。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その1)

 

  

 

 龍宮類話

 

 浦嶋太郎の話は、一番早い「浦嶋子傳」を見ても、その次の「續浦嶋子傳記」を見ても、浦嶋は海上に靈龜を釣り、船中に眠る間に靈龜變じて美女となり、蓬萊宮に伴はれることになつてゐる。御伽草子の時代になると、先づ釣り上げた龜を海に放し、翌日小舟にたゞ一人乘つた女房に逢ふ。これが龜の化したものであることは、龍宮城に伴はれて三年を過し、暫しの別れを告げる段になつてわかるのである。小學唱歌で習つたり、お伽噺で讀んだやうに、子供から龜を買ひ取る一條はどれにもない。

[やぶちゃん注:「浦嶋子傳」「うらしまこでん」と一応、読んでおく。柴田は「一番早い」と言っているから、これは浦島伝説の現存する最古の記載である「日本書紀」(舎人親王らの撰により養老四(七二〇)年完成)の「雄略紀」中の雄略天皇二二(四七八)年秋七月の下りである。ウィキの「浦島太郎」によれば、『丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明』である。孰れにせよ、「日本書紀」が完成した『頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる』とあり、「日本書紀」の当該条は以下の下線部。後の下線部の訓読は自己流。

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廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

(秋七月、丹波國(たにはのくに)餘社郡(よざのこほり)の管川(つつかは)の人、端江浦嶋(みづのえのうらしま)の子、舟に乘りて釣りす。遂に大龜(おほがめ)を得たり。便(たちま)ちに女(をとめ)と化-爲(な)る。是に、浦嶋の子、感(たけ)りて婦(め)にと爲(な)す。相ひ遂(した)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙-衆(ひじり)を歴(めぐ)り觀る。語(こと)は別の卷に在り。

   *

「餘社郡」は現在の京都府与謝郡は若狭湾奥西端と丹後半島の先端東部にあるが、「管川(つつかは)」は現在の河川名の「筒川(つつかわ)」と思われ、その川沿いのここ(グーグル・マップ・データ)に「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町本庄浜)も現認出来る。同神社は創祀年代を天長二(八二五)年七月二十二日とし、「浦嶋子」を「筒川大明神」として祀るのが始めであると伝えられている。主祭神は「浦嶋子(浦島太郎)」である。

「續浦嶋子傳記」「ぞくうらしまこのでんき」と読む。作者不詳。延喜二〇(九二〇)年成立で、浦島伝説を神仙譚風に漢文で記し、後に主人公「浦島子」に代わって詠じた七言二十二韻、浦島子の和歌、絶句各十首に、「亀姫」の和歌・絶句各四首を付す。「丹後国風土記」(これが古浦島伝承では記載が最も詳しい。先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい(但し、中間部が省略されてある)。柴田が記す通りの展開で、海中の「博大の嶋」(龍宮城というより蓬莱山っぽい)へと向かう)「日本書紀」「万葉集」(八世紀半ば以降の成立。「卷九」の「高橋虫麻呂」作の長歌(第一七四〇番歌)に「詠水江浦嶋子一首」として浦島伝説が韻文化されている。やはり先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい)などの浦島伝説を基に、中国の「柳毅伝」・「漁父辞」・「高唐賦」・「洛神賦」「桃花源記」「続斉諧記」中の「劉阮天台」・「遊仙窟」などによる潤色を施したものである(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「御伽草子の時代」室町時代に成立した短編物語集「御伽草子」の「浦島太郎」が代表例で、現行の伝説の「亀の報恩」モチーフ(但し、ここでも自身が亀を釣るも放生の仏心を起こして海へ返すのであって子らが亀をいじめているのではない)や竜宮城・乙姫・玉手箱などのアイテムがここで完備された。しかし、竜宮城は依然、島嶼か陸地の如く描写されており、道教的な仙界としての蓬莱山の呪縛から自由になっていない。

「小學唱歌」文部省唱歌「浦島太郎」は、明治三三(一九〇〇)年の「幼年唱歌」の「中 第五 浦島太郎」(石原和三郎・作詞/田村虎蔵・作曲)が最初。その一番の歌詞は以下で、

   *

一 むかしむかし、うらしまは、

  こどものなぶる、かめをみて、

  あはれとおもひ、かひとりて、

  ふかきふちへぞ、はなちける。

   *

ここで初めて、積極的生物虐待者としての「チビッ子ギャング」像が形成されたのである。

「お伽噺」先のウィキの「浦島太郎」によれば、『明治期には長谷川武次郎が『日本昔噺』(ちりめん本)の一篇としてまとめ、ジェームス・カーティス・ヘボンやバジル・ホール・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳を行った』。明治三〇(一八九七)年『にはハーンの著書『Out of the East』によっても紹介されている』。『さらに巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治』四十三年から三十五年間の長きに亙って、『国定教科書の教材になり定着していった』とあるから、まさに先の石原和三郎の作詞になる「浦島太郎」が小学校の音楽の授業で歌われるようになった明治三十年代こそが、「チビッ子ギャング」出現のエポック(現在(二〇一七年)から丁度、百二十年前)であったことが判るのである。]

 龜を助けて放す話は支那にもある。「稽神錄」の宋氏も、「河東記」の韋丹も、漁夫に捕へられた龜を憫れみ、その價を拂つて水中に放してやるので、韋丹の如きは寒空に脱ぐべき著物もなし、自分の乘つてゐた驢馬を以て龜に易(か)へるのであつた。後日いづれも龜の化した人物にめぐりあび、宋の子は水死しなければならぬ運命を免れ、韋丹は四十歳近くまで碌々としてゐたのが、俄かに運が開けて御史大夫に至る。胡蘆先生なる者の説によると、韋丹に助けられた龜は實は神龍だといふことであつた。他人の運命を左右するほど靈威ある者が、どうして漁夫に捕へられて苦しんだか。それは一時の困厄で、聖人たると凡人たるとを問はず、皆免れ得ぬのだといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:『「稽神錄」の宋氏』は「太平廣記」の「水族八」に「宋氏」として、「稽神錄」からとして載る。

   *

江西軍吏宋氏嘗市木至星子、見水濱人物喧集、乃漁人得一大黿。黿見宋屢顧、宋卽以錢一千贖之、放于江中。後數年、泊船龍沙、忽有一僕夫至、云、「元長史奉召。」。宋恍然。「不知何長史也。既往、欻至一府、官出迎。」。與坐曰、「君尚相識耶。宋思之、實未嘗識。」。又曰、「君亦記星子江中放黿耶。」。曰、「然、身卽黿也。頃嘗有罪、帝命謫爲水族、見囚於漁人、微君之惠、已骨朽矣。今已得爲九江長、相召者、有以奉報。君兒某者命當溺死、名籍在是。後數日、鳴山神將朝廬山使者、行必以疾風雨、君兒當以此時死。今有一人名姓正同、亦當溺死、但先期歳月間耳。吾取以代之、君兒宜速登岸避匿、不然不免。」。宋陳謝而出、不覺已在舟次矣。數日、果有風濤之害。死甚衆。宋氏之子竟免。

   *

「河東記」のそれは「韋丹」。

   *

唐江西觀察使韋丹、年近四十、舉五經未得。嘗乘蹇驢、至洛陽中橋。見漁者得一黿、長數尺、置於橋上、呼呻餘喘、須臾將死。群萃觀者、皆欲買而烹之。丹獨憫然、問其直幾何。漁曰、「得二千則鬻之。」。是時天正寒、韋衫襖褲、無可當者、乃以所乘劣衛易之。既獲、遂放於水中、徒行而去。時有胡蘆先生、不知何所從來、行止迂怪、占事如神。後數日、韋因問命、胡蘆先生倒屣迎門、欣然謂韋曰、「翹望數日、何來晚也。」。韋曰、「此來求謁。」。先生曰、「我友人元長史、談君美不容口、誠托求識君子、便可偕行。」。韋良久思量、知聞間無此官族。因曰、「先生誤、但爲某決窮途。」。胡蘆曰、「我焉知。君之福壽、非我所知。元公即吾師也、往當自詳之。」。相與策杖至通利坊、靜曲幽巷。見一小門、胡蘆先生卽扣之。食頃、而有應門者開門延入。數十步、復入一板門。又十餘步、乃見大門、制度宏麗、擬於公侯之家。復有丫鬟數人、皆及姝美、先出迎客。陳設鮮華、異香滿室。俄而有一老人、須眉皓然、身長七尺、褐裘韋帶、従二青衣而出。自稱曰、「元浚之。」。向韋盡禮先拜。韋驚、急趨拜曰、「某貧賤小生、不意丈人過垂採錄、韋未喩。」。老人曰、「老夫將死之命、爲君所生、恩德如此、豈容酬報。仁者固不以此爲心、然受恩者思欲殺身報效耳。」。韋乃矍然、知其黿也、然終不顯言之。遂具珍羞、流連竟日。既暮、韋將辭歸、老人卽於懷中出一通文字、授韋曰、「知君要問命、故輒於天曹、錄得一生官祿行止所在、聊以爲報。凡有無、皆君之命也。所貴先知耳。」。又謂胡蘆先生曰、「幸借吾五十千文、以充韋君改一乘、早決西行、是所願也。」。韋再拜而去。明日、胡蘆先生載五十緡至逆旅中、賴以救濟。其文書具言、明年五月及第、又某年平判入登科、受咸陽尉、又明年登朝、作某官。如是歷官一十七政、皆有年月日。最後年遷江西觀察使、至御史大夫。到後三年、廳前皂莢樹花開、當有遷改北歸矣。其後遂無所言、韋常寶持之。自五經及第後、至江西觀察使。每授一官、日月無所差異。洪州使廳前、有皂莢樹一株、月頗久。其俗相傳、此樹有花、地主大憂。元和八年、韋在位、一旦樹忽生花、韋遂去官、至中路而卒。初韋遇元長史也、頗怪異之。後每過東路、卽於舊居尋訪不獲、問於胡蘆先生。先生曰、「彼神龍也、處化無常、安可尋也。」。韋曰、「若然者、安有中橋之患。」。胡蘆曰、「迍難困厄、凡人之與聖人、神龍之與耑蠕、皆一時不免也、又何得異焉。」。

   *

「碌々と」(ろくろくと)は平凡なさま・役に立たないさま・何事もなし得ないさま。]

 宋や韋に助けられた龜は、それぞれ恩に報いてゐる。たゞその世界は浦嶋太郎とはかけ離れたもので、全然詩趣がない。後世の作者がこれにヒントを得て、浦嶋太郎の話に龜を助ける一條を加へたと解するのは躊躇せざるを得ぬ。現實的な宋や韋は最後の一段に於て、玉手箱から立ちのぼる一道の白氣のために、忽ち白髮の老翁と化するやうなこともなかつたが、浦嶋太郎の話が永く傳承され、多くの文藝に取入れられた最大眼目はこの玉手箱の白氣に在る。それは勿論蓬萊宮中の歡樂と照應すべきものだから、最初からさういふ場面を缺いてゐる「稽神錄」や「河東記」では玉手箱の出しやうがないのかも知れぬ。

「列仙全傳」の中で多少浦嶋の面影があるかと思ふのは孫思邈(そんしばく)である。或日一人の童子が小蛇を苦しめてゐるのを見、それを貰ひ受けて衣に包み、藥を塗つて放してやつた。十日ばかりたつて郊外の道を行くと、馬に乘つた白衣の少年が現れ、自分はあなたに命を助けられた蛇の兄であると名乘り、強ひてその家に連れて行つた。金碧燦爛たる立派な城郭で、庭には花木が生ひ繁つて居つたが、やがて多くの從者を隨へた紅い衣服の人が、彼を上座に招じ、厚く恩誼を謝した後、靑い衣服の少年を紹介して、これがあなたに助けられた者であるといふ。それから山海の珍味が出たけれど、恩遇は五穀を避けてゐる道士なので、酒だけしか飮まぬ。傍の人にこゝは何といふところかと問うたら、徑陽の水府であると答へた。彼ははじめて水底に不思議な世界のあることを知つたのである。三日ばかりして辭し去らうとした時、主人は多くの金銀絹綃の類を出して贈らうとしたが、堅く辭して受けぬので、今度は龍宮の妙藥凡そ三十種ばかりを持ち出し、何かの御用に立つこともあらうと云つて贈つた。果してこの藥は效驗の著しいものばかりであつた。

[やぶちゃん注:「孫思邈(そんしばく)」(五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋末から初唐の医家。京兆華原(けいちょうかげん:現在の陝西省耀県)の人。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳で学問を始め、二十歳の頃には老荘思想や百家の説を論じ、併せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文や暦算)・医薬に精通していたが、太白山に隠居し、隋の文帝・唐の太宗や高宗が高位を約して招くも、これを受けなかったという。著書である「備急千金要方」の自序に『幼時に風冷に遭い、度々、医者に掛かり、家産を使い果たした。故に学生の時から老年に至るまで。医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時には間に合わぬ。そこで、多くの経方書(けいほうしょ)から集めて簡易につくったものが「備急千金要方」三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある』と記しているという。他にも「福禄論」「摂生真録」「枕中素書」などの著書がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「金銀絹綃」「きんぎんけんせう」と読んでおく。「綃」は畳語で「絹」と同じく「生糸(きいと)」の意。

 原文は以下(現代中国語(繁体字)に書き直したものか)と同源の話であろう。中文サイトからの引用だが、出典は明記されていないが、既に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、中文サイトでも探し方が悪いのか、見当たらぬので、孫思邈のポリシーではないが、応急処方として示しておくこととする。

   *

一次孫思邈外出、碰見一個牧童砍傷了一條小蛇、很是同情、就用衣服包好帶囘家來、用外傷藥敷好、包紮好傷口、放囘了草叢中。十幾天後、孫思邈出遊在外、遠遠來了一位穿白衣的少年。少年來到跟前、翻身下馬、跪倒便拜、「感謝你救了我的弟弟。」。孫思邈還未明白過來、少年又邀他到家中一坐、著就把自己的馬讓給孫思邈、自己跟在後邊走得很快。不多會兒就走進了一個城廓、但見花木盛開、殿宇輝煌。

有一個人穿戴打扮像是一位王者、帶著很多侍從、起身迎接他、説、「深蒙先生大恩、特意讓我的孩子請你。」。説著指著一個穿靑衣的小孩説、「前些天這孩子一個人外出、被一個牧童砍傷了、多虧先生您脱衣相救、這孩子才有今天。」。又讓穿靑衣的小孩跪倒磕頭。

孫思邈才想起脱衣救靑蛇的事、悄悄地問一個隨從的人這是什麼地方、那人説這是涇陽水府。王者便設下酒席歌舞宴請孫思邈。孫思邈正在練習道術的辟穀服氣、只喝了一點點酒。

在這個地方過了三天、孫思邈要走、王者搬出金銀綢緞相賜、孫思邈堅辭不要、王者又叫龍宮奇方三十首他兒子拿了、送給孫思邈説、「這些方子可以幫您濟世救人。」。就用車馬送孫思邈囘去了。孫思邈用這些方子試著給人治病、非常效驗、就把它編進了他撰寫的「千金方」一書中。

孫思邈一生治病救人、到了唐永徽三年、孫思邈已經一百多了。一天、他洗完澡穿好衣服、端端正正地坐在那裏對兒孫們説、「我將要到無何有之去了。」。説完就咽了氣。過了一個多月、臉色還像生前一樣、沒有改變、到盛殮時、忽然屍體不見了、只剩下了一堆衣裳。

   *]

 この話は宋氏や章丹に比べて大分浦嶋に似たところが多い。伴はれた場所が水底の城郭であり、歸りがけに土産をくれたりするあたり、日本の龍宮譚とほゞ同じである。殊に發端が童子の苦しめる蛇である一點は、最も看過すべからざるものと思はれる。

2017/04/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「首と脚」

 

 首と脚

 

 唐の至德の初め頃、魯旻の部將に王穆といふ者が居つた。南洋の戰に敗れて軍馬の潰走する中に穆もまじつてゐたが、この男が形貌雄壯である上に、乘つた馬も珍しく大きなものであつたため、頗る目立つたらしく、賊の一騎がうしろから迫ひ付いたと思ふと、忽ちその首を斫(き)つてしまつた。穆は一溜りもなく地に落ち、筋骨ともに斷たれたに拘らず、咽喉の筋だけが僅かに繫がつてゐた。はじめは冥然として何もわからなかつたが、ふと氣が付いた時、自分の首は臍の上に在る。手で持つて首をもとのところに附けようとしても、また直ぐ落ちてしまふ。暫くして自覺を取り戾したので、首を正しい位置に据ゑ、髮を二つに分けて縛つた後、はじめて坐つて見たが、精神は全く茫然たるものであつた。穆の馬は終始傍を離れなかつたので、夜になつていさゝか氣分がはつきりしたところで、馬が寢てくれれば乘れるのだが、とふと考へた。馬はその意を察知したらしく、脚を折つて穆の前に橫になつた。そこで辛うじて上に乘ると、馬はおもむろに起き上つて、東南に向つて步き出した。穆は首が落ちぬやうに兩手で押へてゐる。四十里ばかり行くと、穆の部下の兵卒が十餘人かたまつて步いてゐるのに出逢つた。彼等の方でも穆を認め、一先づ村の家に運び込んだが、こゝらは賊の據點からあまり離れて居らぬので、危險をおもんぱかつて本營のゐるところまで連れて行つた。穆はその城中に病ひを養ふこと二百餘日、遂に癒えたものの、頭は少し偏(かたよ)つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「唐の至德」玄宗の三男粛宗の即位と同時に改元されて用いられた元号。七五六から七五八年。同二載(年)には安禄山が息子安慶緒に殺され、唐軍は長安を奪還、し粛宗は長安に帰還、史思明も一旦、唐に降伏している

「魯旻」「ろびん」と読んでおくが、調べてみると、当時の南陽(後注参照)の節度使(ここでは各地方の募兵集団の司令官)として魯炅(ろけい)と記すものが多い。彼は南陽郡太守であったが、安禄山の乱の勃発によって、その討伐軍の将の一人となった。後の七五九年、再蜂起した史思明を攻めたが、流れ矢に当たって死んでいる。

「王穆」「わうぼく(おうぼく)」と読んでおく。

「南洋」以下の原典を見ると「南陽」の誤りである。魯旻が節度使であった南陽郡である。現在の河南省南陽市と湖北省の随州市棗陽市に跨る地域であるが、この「至德」の末年に「鄧州」と改名されて消滅している。

「四十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二十二キロ三百九十二メートル。

 柴田は出典を後で「再生記」と記すが、これは「太平廣記」の「卷第三百七十六」の「再生二」を指している(「再生記」という書物はないので注意)。その「王穆」がそれで、原典は「廣異記」と記す。

   *

太原王穆、唐至德初、爲魯旻部將、於南陽戰敗、軍馬奔走。穆形貌雄壯、馬又奇大、賊騎追之甚眾。及、以劍自後穆頸、殪而隕地。筋骨俱斷、唯喉尚連。初冥然不自覺死、至食頃乃悟、而頭在臍上、方始心惋。旋覺食漏、遂以手力扶頭、還附頸、須臾復落、悶絶如初、久之方蘇。正頸之後、以發分係兩畔、乃能起坐、心亦茫然、不知自免。而所乘馬、初不離穆。穆之起、亦來止其前。穆扶得立、左膊發解、頭墜懷中、夜後方蘇。係發正首之後、穆心念、馬臥方可得上、馬忽橫伏穆前、因得上馬。馬亦隨之起、載穆東南行。穆兩手附兩頰、馬行四十里、穆麾下散卒十餘人群行、亦便路求穆。見之、扶寄村舍。其地去賊界四十餘里、眾心惱懼。遂載還昊軍。軍城尋爲賊所圍。穆於城中養病、二百餘日方愈、繞頸有肉如指、頭竟小偏。旻以穆名家子、兼身殉王事。差攝南陽令。尋奏葉令。餘、遷臨汝令。秩滿、攝棗陽令。卒於官。

   *

原文を見る限り、彼はその後も存えて官職を歴任している。]

 この話は戰場插話の一つで、斬られた首が全く身を離れず、不思議に命を取り止めたといふのであるが、奇談の種には困らぬ支那の事だから、失つた脚を取り戾す話もある。これは戰爭で脚を切られたわけではない。急病で亡くなつたのである。ところが愈々亡くなつて見ると、本人の命數がまだ盡きて居らぬ。もう一度娑婆へ還さなければならぬ段になつて、本人は脚が痛くて步けないと云ひ出した。冥官の間にもいろいろ評議が行はれたが、命數の盡きぬ者を呼び寄せたのは冥官の手落である。何とか臨機の處置を講ずることになつて、かういふ意見が提出された。たまたま新たに亡くなつた胡人があり、この者の脚は甚だ達者だから、これと取り換へたらよからうといふのである。誤つて亡くなつた男はこれを聞いて逡巡せざるを得なかつた。醜い胡人の身體の中で、最も醜いのが脚だから、それを身に著けて蘇るのは甚だ困る。倂し脚を取り換へなければ、お前はいつまでもこゝにゐなければならぬぞと云はれると、飽くまで強情を張り通すこともならず、たうとう足の取り換へを承認して、豁然復活した。人一倍綺麗好きなこの男は、生き返つた自分の脚を見る每に、殆ど死にさうな氣持になる。更に困つたのは、一方の胡人の子がこの男の脚を慕ふことで、道で出逢つたりする每に、必ず泣いて脚に抱き付いて來る。この難を免れるために、門には番人を置いて胡子の來るのを防ぎ、三伏の盛暑と雖も、衣を重ねて脚を現さぬやうにしなければならなかつた。

[やぶちゃん注:「胡人」中国人が北方や西域の諸民族を広く指して言った呼称で蔑称でもあった。唐代でも主として西域人を指したが、北方民族の意も存続した。前者の場合は東トルキスタンの住民の他、ペルシアやインド方面の民族、逆にソグド人だけを称することもあった。乾燥地帯で食に乏しく、日差しも強い地方であるから、彼らの足は日焼けして焼け、しかも骨張っていたものかとも想像され、それをここでは足が最も醜いと言っているのであろう。

「三伏」「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注の一つ)で初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。通常は現行の七月中旬から八月上旬の酷暑の頃に合致することから、現在でも「三伏の候」「三伏の猛暑」など、酷暑を表わす言葉として用いられる。

 これは前の「太平廣記 卷第三百七十六 再生二」の「王穆」の六条後に出る「士人甲(易形再生)」で、原典は「幽冥錄」と注する。

   *

晉元帝世、有甲者、衣冠族姓、暴病亡、見人將上天、詣司命、司命更推校、算歷未盡、不應枉召。主者發遣令還。甲尤痛、不能行、無緣得歸。主者數人共愁、相謂曰、「甲若卒以痛不能歸、我等坐枉人之罪。」。遂相率具白司命。司命思之良久、曰、「適新召胡人康乙者、在西門外。此人當遂死、其甚健、易之、彼此無損。主者承教出、將易之。胡形體甚醜、殊可惡、甲終不肯。」。主者曰、「君若不易、便長決留此耳。」。不獲已、遂聽之。主者令二並閉目、倏忽、二人已各易矣。仍卽遣之、豁然復生、具爲家人説。發視、果是胡、叢毛連結、且胡臭。甲本士、愛玩手足。而忽得此、了不欲見。雖獲更活、每惆悵、殆欲如死。旁人見識此胡者、死猶未殯、家近在茄子浦。甲親往視胡屍。果見其著胡體。正當殯斂。對之泣。胡兒並有至性。每節朔。兒並悲思。馳往、抱甲。忽行路相逢、便攀援啼哭。爲此每出入時、恒令人守門、以防鬍子。終身憎穢、未曾視。雖三伏盛署、必復重衣、無暫露也。

   *

父の足を慕う胡人の少年が哀しい

 首と脚とを具へた二つの話は、「再生記」の終りに出てゐる。記憶のいゝ人ならば、以上の筋書を讃んだだけで、芥川龍之介の小説を想起するであらう。「首が落ちた話」の何小二は、日淸戰役に出て高梁の畑で遭遇した日本騎兵のために首を斬られる。彼は疵を負つたまゝ馬に搖られて行くうちに、川楊の生えた水際の泥の上に投げ出された。こゝで何小二に竈の黃いろい炎だの、母親の裙子(くんし)だの、磨い胡麻畑だの、大きな龍燈だの、纏足(てんそく)した女の足だの、種々の幻影を見させるのは、小説の主人公らしく仕立てるための作者の用意と思はれる。何小二の首は王穆のやうに落ちたわけではなかつたが、戰後理髮店の主人となつてから、人と喧嘩した際に古疵が破れ、咽喉の皮一枚を殘して床の上にころがり落ちた。「首が落ちた話」の主題はこれである。いくら支那が舞臺であるにしろ、明治の事柄になつてゐる以上、唐時代の話をそつくり嵌め込むわけには往かない。

[やぶちゃん注:「何小二」「かせうじ(かしょうじ)」。

「川楊」(かはやなぎ)は双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のネコヤナギ Salix gracilistyla のこと。

「裙子(くんし)」中国で女性が腰から下に着ける衣。裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。

「龍燈」燈夜(元宵(上元)節(陰暦正月一五日の夜)に行われる祭りでは、各家の門前に灯籠を飾って祝うが、その時、街中を練り歩く竹製の一際、大きな灯籠として「首が落ちた話」に描出されてある。以下のリンク先の原文を参照されたい。

 芥川龍之介の「首が落ちた話」は大正七(一九一八)年一月発行の『新潮』に掲載されたもの。エンディングの首が再度落ちるのは、明治二八(一八九五)年四月十七日に下関で行われた日清戦争後の日清講和条約の締結され、その『一年ばかりたつた、ある早春』のこと、とする。私の古い電子テクストでお読み戴きたい。但し、芥川龍之介がインスパイアした原話は、現行では清の蒲松齢の「聊齋志異」の「第三卷第二十二」の「諸城某甲」であるとされる。以下に示しておく。

   *

學師孫景夏先生言、其邑中某甲者、値流寇亂、被殺、首墮胸前。寇退、家人得尸、將舁瘞之、聞其氣縷縷然。審視之、咽不斷者盈指。遂扶其頭、荷之以歸。經一晝夜、始呻、以匕箸稍稍哺飲食、半年竟愈。又十餘年、與二三人聚談、或作一解頤語、衆爲鬨堂、甲亦鼓掌。一俯仰間、刀痕暴裂、頭流、共視之、氣已絶矣。父訟笑者、衆斂金賂之、又葬甲、乃解。

異史氏曰、一笑頭落、此千古第一大笑也。頸連一綫而不死、直待十年後、成一笑獄、豈非二三鄰人、負債前生者耶。

   *

「流寇」は匪賊のこと。蒲原有明の「『聊斎志異』より」明治三八(一九〇五)年『新古文林』初出)に訓読が出るので、「青空文庫」の新字新仮名版のを参考されたい。但し、伝本が異なるらしく、上記の文章そのままの訓読とはなっていない。

 なお、「首が落ちた話」は、柴田がのたまうような、切断された首が元に戻ったものの、その癒着部がまた奇体にも破裂して落ちて死んだ、という怪異を語るところなんぞに「主題」があるのではなお。何小二という市井の中国の民の一箇の生死の無惨さをシンボリックに描いた、芥川龍之介の反戦小説の走りとして評価すべきものである、と私は思う。私は何小二の走馬燈のようなシークエンスがすこぶる好きで哀しいのである。

 もう一つの小説は「馬の脚」である。主人公は忍野半三郎といふ三菱會社員で、腦溢血のために頓死したところ、これは人違ひであつた。もう一度送り返さなければならぬが、半三郎の脚は已に腐つてゐる。取り換へるべき人間の脚がないため、馬の脚が代用を勤めることになり、半三郎は頻りに拒んだけれど、本人の意志は毫も認められぬ。蘇生後の彼が「再生記」以上の悲劇に陷つたのは云ふまでもない。彼は一たび失踪し、その後細君の許にちよつと姿を見せたきりで、永久にわからなくなつた。作者は半三郎の日記を出したり、新聞記事を使つたり、いろいろ苦心をしてゐるが、第一革命以後の支那にこんな趣向を持ち出すのが最初から無理である。唐時代の話なら、命數未だ盡きずで納まるところを、入違ひの死者を迭り返すのは更に無理である。人の脚に繼ぐに馬の脚を以てするのは、胡人の脚を用ゐるのと同日の談ではない。

[やぶちゃん注:「忍野半三郎」「おしのはんざぶらう」。]

 作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月であつた。「馬の脚」は大正十四年一月である。前者を草した當時「再生記」は見てゐる筈なのに、約十年も後者を持ち出さなかつたのを見れば、この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう。

[やぶちゃん注:『作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月』既に記した通り、クレジット上は翌年一月一日(発行)である。

『「馬の脚」は大正十四年一月』同作は大正一五(一九二六)年一月及び二月号の『新潮』への二回分割連載であるから、明らかに柴田の誤認である。新字新仮名であるが、「青空文庫」ので読める。

「約十年」誤認に加えて「数え」の年数としてもおかしい(それでも「九年」である)。事実上の発表スパンは八年ほどである。

「この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう」本作は確かに全体は「士人甲」に依拠し乍らも、実際にはゴーゴリの「鼻」を意識的にインスパイアした寓話小説としてとるべきであって、これもまた怪奇は額縁であって柴田の読みは浅いと言わざるを得ない。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)

 

 ノツペラポウ

 

「東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極めて廣い濠があつて、それに沿つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた」――小泉八雲の「貉」はかういふ風に書き出されてゐる。

[やぶちゃん注:「ノツペラポウ」(のっぺらぼう)は「野箆坊」などと漢字表記し、通常は顔に目・鼻・口のない妖怪を指す。ウィキの「のっぺらぼう」によれば、明和四(一七六七)年の怪談集「新説百物語」には、『京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある』。しかし諸怪談の同形(目鼻口総て或いは孰れかの複数欠損)の妖怪(多出する)の場合は正体が不明の場合も多く、寛文三(一六六三)年の初期江戸怪談集の白眉とも言える「曾呂利物語」では、『京の御池町(現・京都市中京区)に身長』七尺(二メートル強)の『のっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない』。『民間伝承においては大阪府』、『香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている』とある。

「紀國坂」(きのくにざか)は現在の東京都港区元赤坂一丁目から、旧赤坂離宮の外囲りの堀端を喰違見附(くいちがいみつけ:ここ(グーグル・マップ・データ))まで登る紀伊国坂(きのくにざか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。坂の西側の現在の赤坂御用地及び迎賓館の位置に、江戸時代を通じて、紀州徳川家の広大な屋敷があったことが名の由来。また、「茜坂(あかねざか)」「赤坂(あかさか)」は、この紀伊国屋坂の別名であって、それは根を染料とする茜(キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi)が生えていた赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることに由来し、付近一帯の広域地名である「赤坂」の由来にもなっている。

「貉」(むじな)は、実在生物である穴熊(食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や貍(食肉目イヌ科タヌキ属ニホンタヌキNyctereutes procyonoides viverrinus)などの古称としてもあるが、民俗伝承中では専ら、狐や狸と併称される人を騙す通力を持った妖怪・妖獣としての怪奇生物の通称で、伝わるところの一般形状は狸に近い。但し、八雲がここで言った「むじな」はまさにそうした人を化かすところの妖狐・妖狸を中心とした妖怪獣類の総称として捉えるのがよい。因みに、後で示す原話の一つと目されるものでは「貉」ではなく「獺(かわうそ)」となっている。獺(食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属日本本土亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。他に北海道亜種 Lutra lutra whiteleyi もいた。ともに生物学的には絶滅したと考えざるを得ず、環境省も二〇一二年八月の「レッド・リスト」改訂でやっと正式に絶滅を宣言した。但し、愛媛県は二〇一四年十月更新の「愛媛県レッドデータブック2014」では依然として「絶滅危惧種」として指定している)も、本邦の民俗社会では年古ると通力を持つ妖獣と考えられていたのである。]

 八雲に從へば、この邊によく徘徊する貉(むじな)を見た最後の人は、京橋方面に住む商家の老人であつた。或晩おそく紀國坂を登つて行くと、濠の緣にんで泣いてゐる女がある。老人は咄嵯に身を投げるのではないかと判斷し、近寄つて聲をかけた。倂し女は依然として泣きやまぬ。ここは夜若い御婦人などの居るべき場所ではない、泣かずに事情を話して貰ひたい、と繰り返した時、女は泣きながら徐(おもむ)ろに立ち上つた。さうして今まで顏を掩つてゐた袖を下に落し、手で自分の顏を撫でたのを見ると、目も鼻も口もない。女を救ふ筈であつた老人は、きやツと叫ぶなり、一目散に逃げ出して紀國坂を駈け登つた……。

[やぶちゃん注:「蹲んで」「しやがんで」と読みたくなるが、後に出る戸川の訳では「かがんで」である

 小泉八雲の「狢」は原題が“Mujina”でかの名作品集“Kwaidan”(「怪談」一九〇四年刊)中の知られた一篇。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”原本画像を使用して校合した。なお、原注(“O-jochū”soba)は除去した。

   *

 

MUJINA

 

   ON the Akasaka Road, in Tōkyō, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka, ―which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens; ―and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

   All because of a Mujina that used to walk there.

 

   The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyōbashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it :―

   One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power. She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. “O-jochū,”he exclaimed, approaching her,―“O-jochū, do not cry like that! . . .  Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you.” (He really meant what he said; for he was a very kind man.) But she continued to weep,―hiding her face from him with one of her long sleeves. “O-jochū,” he said again, as gently as he could,―“please, please listen to me! . . .  This is no place for a young lady at night!  Do not cry, I implore you!―only tell me how I may be of some help to you!” Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:―“O-jochū!―O-jochū!―O-jochū! . . .  Listen to me, just for one little moment! . . . O-jochū!―O-jochū!”. . .  Then that O-jochū turned round, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;―and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,―and he screamed and ran away.

   Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the old soba-seller, crying out, "Aa!―aa!!― aa!!!

   “Koré! Koré”roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you?  Anybody hurt you?"

   “No―nobody hurt me,”panted the other,――“only. . . Aa!―aa!”. . .

   “―Only scared you?”queried the peddler, unsympathetically.  “Robbers?”

   “Not robbers,―not robbers,”gasped the terrified man. . . . “I saw . . .  I saw a woman―by the moat;―and she showed me . . . Aa! I cannot tell you what she showed me!”. . .

   “Hé! Was it anything like THIS that she showed you?”cried the soba-man, stroking his own face―which therewith became like unto an Egg. . . .  And, simultaneously, the light went out.

 

   *

 次にこちらにある、同作の戸川明三(戸川秋骨の本名。パブリック・ドメイン)氏訳になる「狢」(PDF)を視認して電子化しておく。画像底本は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部、記号に不審がある箇所は恣意的に訂した

   *

 

    貉

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も廻り道をしたものである。[やぶちゃん注:「廻」は底本の用字。]

 これは皆、その邊をよく步いた貉のためである。

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

 この商人がある晩おそく紀國坂を急いで登つて行くと、ただひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝(みなり)も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましせう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此の人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來る限りやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御婦人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやツと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で何もない空虛であつた。振り返つてみる勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた擧句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それは道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あゝ!――あゝ!!――ああ!!!』……

『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

『否(いや)、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あゝ!――あゝ!』……

『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろばう)にか?』

『盜賊(どろばう)ではない――盜賊(どろばう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あゝ! 何を見せたつて、そりや云へない』……

『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

               (戸川明三譯)

          
 Mujina.Kwaidan.

 

   *

ここで、柴田宵曲は原話の後半部の二度目のオドシ(一般に「再度の怪」と称される怪談の駄目押し構成の常套法の一つ)の梗概を示していないが、後段でそれをごく手短に示している。これは別に忘れた訳ではなく、読んでいくと判るが、話柄の展開上、男の「のっぺらぼう」を出したくなかったのである

 さて、本作の種本については柴田は問題としていないのであるが、平川祐弘編の小泉八雲「怪談・奇談」(一九九〇年講談社学術文庫刊)の「解説」では、小泉八雲は明治二七(一八九四)年七月刊の町田宗七編「百物語」の「第三十三席 御山苔松」の怪奇咄を原拠に比定している。但し、落語ネタとしてはもっと古くからあったものと想像され得るもので、江戸随筆等を丹念に探れば、より古式の原話或いは類話を見出し得るように思われる。取り敢えず、同書の「原拠」に出るそれを、恣意的に漢字を正字化して示しておく。底本は総ルビであるが、読みはごく一部に留めた。本文の拗音表記はその儘にしておいた。踊り字「〱」は正字化した。一部の原典の誤記と思われる漢字を恣意的に変更した

   *

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郎といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎雨は降(ふり)ますし殊に夜中の事で御坐いますからドットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ致方なくスタスタとやッて參り紀の國坂の中程へ差掛ッた頃には雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり風さへ俄(にはか)に加はりまして物凄きこと言はむ方も御坐りませんからなんでも早く指(さ)す方(かた)へまゐらうと飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、ポント何やら蹴付(けつけ)たものがありますから、ハット思ッて提灯(てうちん)を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人の女が俯向(うつむけ)に屈(かゞ)んで居(を)りますから、驚きながらも貴女(あなた)どうなさいましたト聞(きく)と俯向(うつむい)たまゝ持病の癪(しやく)が起りましてといふからヲヽ夫(それ)ハ嘸(さぞ)かしお困り、ムヽ幸ひ持合せの薄荷(はつか)がありますから差上(さしあげ)ませう、サヽお手をお出しなさいと言ふと、ハイ誠に御親切樣にありがたう御坐いますと禮を述(のべ)ながら、ぬッと上(あげ)た顏を見ると顏の長さが二尺もあらうといふ化物、アッと言(いつ)て逃出したのなんのと夢中になッて三四町もまゐると、向ふの方(はう)から蕎麥うわウイーチンリン蕎麥うわウイーチンリンと一人の夜鷹(たか)蕎麥屋がまゐりましたから、ヤレ嬉しやと駈寄(かけよつ)て、そゝ蕎麥屋さん助けてくれト申しますと蕎麥屋も驚きまして、貴郎(あなた)トど如何(どう)なさいました。イヤもうどうのかうのと言(いつ)て話しにはならない化物に此(この)先(さき)で遭ひました。イヤ夫(それ)は夫はシテどんな化物で御坐いました。イヤモどんなと言(いつ)て眞似も出來ませんドヾどうかミヽ水を一杯下さいト言ふとお易い御用と茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、モシその化物の顏ハこんなでハ御坐いませんかト、言ッた蕎麥屋の顏が、また弐尺、今度はあッと言(いつ)た儘(まゝ)氣を失ッてしまひまして、時過(ときすぎ)て通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ御堀(おほり)に栖(す)む獺(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この説話は決して獺(うそ)の皮ではないさうで御坐います。

   *]

 かういふ顏の持ち主を普通にノツベラボウと宿してゐる。支那にも同類はあると見えて、某家の下男が夜茶を取りに行くと、若い女が木の蔭に向うむきに立つてゐる。暗くてよくわからぬが、どうやら同じ家の女中らしく思はれたので、笑談半分にその臂を捉へた。途端に女が振向いた顏を見ると、白粉を塗つたやうに眞白で、然も目も鼻も口もない。下男は絶叫して地に朴れたと「閲微草堂筆記」にある。

[やぶちゃん注:「茶を取りに行く」訳が不全。原文を見て戴くと判るが、別棟に「茶道具」をとりに行ったのである。

以上は「閲微草堂筆記」の「第八卷如是我聞二」の以下の太字で示した部分。

   *

崔莊舊宅廳事西有南北屋各三楹、花竹翳如、頗爲幽僻。先祖在時、奴子張雲會夜往取茶具、見垂鬟女子潛匿樹下、背立向墻隅。意爲宅中小婢於此幽期、遽捉其臂、欲有所挾。女子突轉其面、白如傅粉、而無耳目口鼻。絶叫仆地。眾持燭至、則無睹矣。或曰、「舊有此怪。」。或曰、「張雲會一時目眩。」。或曰、「實一黠婢、猝爲人阻、弗能遁。以素巾幕面、僞爲鬼狀以自脱也。」。均未知其審。然自此群疑不釋、宿是院者恒凜凜、夜中亦往往有聲。蓋人避弗居、斯鬼狐入之耳。又宅東一樓、明隆慶初所建、右側一小屋、亦云有魅。雖不爲害、然婢媼或見之。姚安公一日檢視廢書、於簏下捉得二。眾曰、「是魅矣。」。姚安公曰、「弭首爲童子縛、必不能爲魅。」。然室無人迹、至使野獸爲巢穴、則有魅也亦宜。斯皆空穴來風之義也。後西廳析屬從兄垣居、今歸從姪汝侗。樓析屬先兄睛湖、今歸姪汝份。子姪日繁、家無隙地、魅皆不驅自去矣。

   *

原典の後の部分は一九七一年平凡社刊の中国古典文学大系第四十二巻の訳によれば(拠った底本が異なるものか、訳が必ずしも明確には一致しない)、続く部分は、張雲のその怪異目撃事件への解三つ(実際に化物が出来した・張雲の錯覚・あの婢は性質(たち)の悪い奴で密会を見つけられて逃げられなかったことから白い巾(きれ)を被って化物の真似をした)を示す。最後のパートは、この邸宅は実はここだけでなく、他にも怪異の出来する棟があり、ある日、姚安(ようあん)公が書籍整理中、『竹籠(つづら)の下にいたムジナのような動物を二匹つかまえた』(下線やぶちゃん)。人々はこれこそ化物の正体であると騒いだが、姚安は「だったら、こんなに子どもの手を捻るのようにやすやすと捕えられてしまうはずもないと否定した。しかし、野獣の巣窟に成したというこの状況に至らせてしまった以上は、魑魅魍魎がここに巣食っているというべきである。それは「空穴來風の義」(「穴が開けばそこには当然、風が吹き込むものだ」式の道理。「荘子」に基づく諷喩)であるとそれに反論附記している(筆者袁枚のそれと採っておく。中文サイトではこれを姚安の続く言として採っている)。最後の部分は、その後、この邸宅の人の住んでいなかった建物には、ことごとく親族らが住むようになり、『空地がなくなったので、化物どもはすべて、追い払われなくても自分から出て行ってしまったろう』とある。柴田は何故、このムジナ(原文「」。現代中国語では「アナグマ」を指すから、まさに「貉」である)を出さなかったのか? まあ、事例があまりにも無抵抗でショボいからやめたものでもあろう。]

「夜譚隨錄」に出てゐる話は十何人も集まつて酒を飮んだ擧句であつた。大分いゝ機嫌になつて或地點まで歸つて來ると、これは月夜だつたので、紅い衣を著た婦人が牆(かきね)の邊にうづくまつてゐるのが見えた。醉ひに乘じてうしろから袖を引いたのは「閲徽草堂筆記」と同じであり、振向いた顏に眉目口鼻のないことも同じである。たゞ見る白面模糊として、豆腐の如く然りと記されてゐる。この男はよほどびつくりしたらしく、地上に仆れて氣絶してしまつた。仲間が駈け付けて介抱したので、暫くして漸く蘇つた。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の「卷二紅衣婦人」。

   *

西十庫在西安門内、例有披甲人宿其中。某甲與同十餘人、沽酒夜飲、皆半酣。二更後、甲起解手、至庫旁永巷中、於月光下、隱隱見一紅衣婦人、蹲身牆邊、如小遺狀。甲醉後心動、潛就摟之、婦人囘其首、別無眉目口鼻、但見白面模糊、如豆腐然。甲驚僕地上。同人遲其來、往覘之、氣已絶矣、舁至鋪中救之、逾時始蘇、自述所遭如此。

   *]

 この三つの話は全く同工異曲である。夜の事だから、少し隔たつてゐれば顏などはよくわからない。うしろから臂を捉へたり、袖を引いたりするほどの近距離で、おもむろに振り向く顏に目鼻がないといふところに、この話の人を驚倒せしむる一大要素がある。

 併しノツペラポウを見るのは、悉く以上のやうな狀態に限られたわけではない。「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話は、文久三年の七月といふ時代がはつきり書いてある。夜の十時頃に高輪の海端を歩いて來ると、田町の方から盆燈籠の灯が近付いて來た。摺れ違ひざまに見ると、草履を穿いて稚い兒を背負つた女である。盆燈籠はその兒の手に持つてゐるのであつたが、その女の顏がノツペラボウであつた。擦れ違つたのは武士であるから、思はず刀の柄に手をかけたが、世の中には病氣か大火傷(やけど)などでこんな顏になる者がないとも限らぬと、思ひ返して躊躇するうちに、女は見返りもせずに行き過ぎてしまつた。このノツペラボウの女は、同じ晩に札の辻のところで蕎番屋の出前持が出逢つて居り、その男は恐怖の餘り自分の店の暖簾をくゞるや否や氣を失つて倒れた。翌朝品川の海岸に浮き上つた女の死髓は、二つばかりの女の兒を背負ひ、女の兒は紙が洗ひ去られて殆ど骨ばかりになつた盆燈籠を手にしてゐた。こゝで話は當然ノツペラボウの女に結び付かなければならぬが、水死者は目も鼻も口も尋常だつたさうである。

[やぶちゃん注:「文久三年」一八六三年。

 『「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話』は大正六(一九一七)年一月号『新小説』初出の「父の怪談」の一節。短いので「青空文庫」版からコピー・ペーストしておく。

   *

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。

 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。

 父はそのままにして帰った。

 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢ったという者があった。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持って行った帰り路で一人の女に逢った。女は草履をはいて子供を背負っていた。子供は小さい盆燈籠を持っていた。すれ違いながらふと見ると、女は眼も鼻もないのっぺらぼうであった。かれはびっくりして逃げるように帰ったが、自分の店の暖簾(のれん)をくぐると俄かに気をうしなって倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確かにのっぺらぼうであったと主張していた。すべてが父の見たものと同一であったのから考えると、それは父の僻眼(ひがめ)でなく、不思議な人相をもった女が田町から高輪辺を往来していたのは事実であるらしかった。

「唯それだけならば、まだ不思議とはいえないかも知れないが、そのあとにこういう話がある。」と、父は言った。

 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮きあがった。女は二つばかりの女の児を背負っていた。女の児は手に盆燈籠を持っていた。燈籠の紙は波に洗い去られて、ほとんど骨ばかりになっていた。それだけを聞くと、すぐにかののっぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃っていた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとかいうことであった。

 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映ったのっぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負っていた子供が同じように盆燈籠をさげていたというのはよく似ている。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持っている子供は珍らしくないかも知れない。しかしその場所といい、背中の子供といい、盆燈籠といい、なんだか同一人ではないかと疑われる点が多い。いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには判らない。

   *]

「近代異妖篇」の著者は、ノツペラボウの女がいはゆる死相を現じてゐたものではないかといふ説を持ち出してゐる。死相の事は何ともわからぬが、病氣や大火傷で不思議な顏になる方は想像出來ぬでもない。「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話などはその一例である。日暮れ方の湯桁(ゆげた)の中に、耳も目も鼻もない瘦法師のひとり入つてゐるのを見て、物蔭から窺つてゐるうちに、匆々に出て行つたが、その姿は繪にかいた骸骨同樣であつた。狐狸の仕業かと疑ひ、宿の主人に尋ねたら、その答へは實に意外なもので、その人は伏見屋といふ大坂の唐物一商人の娘、美人の聞えがあつたのを、姑の病中に鄰りより火事が起り、誰も助け出す者のなかつた時、火の中に飛び込んで抱へ出した。その火傷のために、目は豆粒ほどに明いて僅かに物を見、口は五分ほどあつて何か食べるには事缺かず、今年七十ばかりになるといふのである。かういふ人物に薄暗い浴槽などで出くはしたら、何人も妖異として恐れざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:『「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話』は「卷之一」にある以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁の中に耳、目、鼻のなき瘦法師の、ひとりほとほとと入りたるを見て、予は大いに驚き、物かげより窺ふうち、さうさう湯あみして、出行く姿、骸骨の繪にたがふところなし。狐狸どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にも入らで臥しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ、折ふしは來り給ふ人なり。彼女尼は大坂の唐物あき人、伏見屋てふ家の娘にて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病牀にせまりしかど、たすけ出さん人もなければ、かの尼、とびいりて抱へ出しまゐらせし人なり。その時、燒けたゞれたる疵にて、目は豆粒ばかりに明て、物見え、口は五分ほどあれど食ふに事たり。今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いとあり難き人とおもひて、後も折ふしは、人にもかたりいでぬ。

   *

この話は岡本綺堂も「温泉雜記」(『朝日新聞』昭和六(一九三一)年七月(連載)初出)の「四」で疑似怪談の珍奇な例として挙げている(「青空文庫」のこちらで読める)。それにしても、これは……なにか……ひどく哀しい真相ではないか…………]

 話の上に現れたノツベラポウはすべて女性である。紀國坂の先生だけは、もう一度夜蕎麥賣りとなつて、卵のやうな顏を見せるけれども、これは最初の女からして貉の化けたものなのだから、別問題として考へなければなるまい。

「子不語」の「陳州考院」にあるのは、偶然通りがかりに出くはすやうな單純なものでないが、身長二丈、面の長さ二尺、目なく口なく鼻なしといふから、やほりノツぺラボウの一味であらう。二尺ぐらゐの髮が逆さに直立してゐるなど、なかなか物凄い。これもまた女鬼であつた。

[やぶちゃん注:

 以上は「子不語」の「卷四」の「陳州考院」。以下に示す。

   *

河南陳州學院衙堂後有樓三間封鎖、相傳有鬼物、康熙中、湯西崖先生以給諫視學其地、亦以老吏言、扃其樓如故。時盛暑、幕中人多屋少、杭州王秀才煚、中州景秀才考祥、居常以膽氣自壯、欲移居高樓。湯告以所聞、不信。斷鎖登樓、則明窗四敞、梁無點塵、愈疑前言爲妄。景榻於樓之外間、王榻於樓之間、讓中一間爲起坐所。

漏下二鼓、景先睡、王從中間持燭歸寢、語景曰、「人言樓有祟、今數夕無事、可知前人無膽、為書吏所愚。」。景未答、便聞樓梯下有履聲徐徐登者。景呼王曰、「樓下何響。」。王笑曰、「想樓下人故意來嚇我耳。」。少頃、其人連步上、景大窘、號呼、王亦起、持燭出。至中間、燈光收縮如螢火。二人驚、急添燒數燭。燭光稍大、而色終靑綠。樓門洞開、門外立一青衣人、身長二尺、面長二尺、無目無口無鼻而有髮、髮直豎、亦長二尺許。二人大聲喚樓下人來、此物遂倒身而下。窗外四面啾啾然作百種鬼聲、房中什物皆動躍。二人幾駭死、至雞鳴始息。

次日、有老吏言、先是溧陽潘公督學時、試畢、明日當發案、潘已就寢。將二更、忽聞堂上擊鼓聲。潘遣僮問之、堂吏曰頃有披髮婦人從西考棚中出、上階求見大人。吏以深夜、不敢傳答。曰、「吾有冤、欲見大人陳訴。吾非人、乃鬼也。」。吏驚仆、鬼因自擊鼓。署中皆惶遽、不知所爲。僕人張姓者、稍有膽、乃出問之。鬼曰、「大人見我何礙。今既不出、卽煩致語、我、某縣某生家僕婦也。主人涎我色奸我、不從、則鞭撻之。我語夫、夫醉後有不遜語、渠夜率家人殺我夫喂馬。次早入房、命數人抱我行奸。我肆口詈之、遂大怒、立捶死、埋後園西石槽下。沉冤數載、今特來求申。」。言畢大哭。張曰、「爾所告某生、今來就試否。」。鬼曰、「來、已取第二等第十三名矣。」。張入告潘公。公拆十三名視之、果某生姓名也、因令張出慰之曰、「當爲爾檄府縣査審。」。鬼仰天長嘯去。潘次日卽以訪聞檄縣、果於石槽下得女屍、遂置生於法。此是衙門一異聞、而樓上之怪、究不知何物也。王後舉孝廉、景後官侍御。

   *

原典は「身長二尺」であるが、他の身体サイズと齟齬が生ずるので柴田が「二丈」(六メートル強)としたのは判る気はする。中国文学者小山裕之氏のサイト内の「子不語」の現代語訳注ページのこちらの「陳州の考院」で、柴田の語っていない、後半部の、この女性の「鬼」(死者)の恨みの悲惨極まりない(!)真相がよく判る。必読!!

 

2017/04/20

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その2) / 「首なし」~了

 

「宣室志」の黃魚は事前に頻りに訴へたに拘らず、その意志が柳宗元に通じないで首を切られてしまつた。幽靈になつて現れる場合、首はあつてもよささうなものであるが、黃魚としてはその形を柳宗元に見せて、遺恨を示したかつたのかも知れぬ。倂し首を失ふのは魚になつた者には限らない。北齊の朱世隆が尚書令であつた時、晝寢をしてゐると、その妻の奚氏が誰か世隆の首を持ち去るのを目擊した。びつくりして世隆のところへ行つて見たら、彼は依然としてぐうぐう寢てゐたが、目がさめて後、先刻首を切られた夢を見た、そのせゐかどうも氣分がよくない、と云つた。久しからずして誅せられたと「集異志」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「北齊」(ほくせい 五五〇年~五七七年)は中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に「斉」であるが、春秋戦国時代の「斉」や南朝の「斉」などと区別するために「北斉」或いは「高斉」と現在は呼称する。しかし、以下の主人公と時代が合わない

「朱世隆」爾朱世隆(じしゅ せいりゅう 五〇〇年~五三二年)は北魏の軍人で、権力の限りを尽くしたが、謀略を起こして処刑されている。詳しくはウィキの「爾朱世隆」を参照されたい。

 以上は「太平廣記」の「徵應八人臣咎徵」の「爾朱世隆」に、「廣古今五行記」からの引用として出る以下のものと同話である。

   *

後魏僕射爾朱世隆、晝寢。妻奚氏、忽見有一人、攜世隆頭出。奚氏遽往視之、隆寢如故。及隆覺、謂妻曰、「向夢見有人、斷我頭將去。」。數日被誅。

   *]

 けれども夢に見るうちはまだよろしい。「夜譚隨錄」にある護軍の永某は、阜成門内に凶宅があり、借りて住む者は往々驚きの餘り死を致すと聞き、挺身してその家に住んで見ようと云ひ出した。護軍仲間の承諾を得て、日暮れ方から獨り酒肉を携へ、夜具なども用意して出かけて行つた。夜の十時頃になると、相當に醉ひが𢌞つて來たので、劍を拔いて柱を擊ち、化物がゐるなら何故姿を現さんのだ、隱れてゐるのは卑怯だぞ、と大きな聲でどなり立てた。倂し家の中は相變らず靜まり返つてゐる。これは豪傑を以て任ずる人のよくやる手だが、眞に肝玉(きもつたま)の据わつた人のやることではない。江戸の小咄はかういふ先生を捉へて、化物屋敷で醉ひ潰れ、夜が明けてから大威張りで門を出ると、化物が、べらぼうめ、出る時は寢てゐやがつて、といふ滑稽を描いてゐる。永某もこの同類であつたかどうかわからぬが、とにかく大いに笑つて橫になつた。然るにうとうとしたかせぬのに、何かの足音が耳に入つて飛び起きた。向うの室内にはいつの間にか明るい灯がついてゐる。彼は用意の劍を提げ、ひそかに門の隙から覗いて見たところ、灯の下に一人の首なし婦人の坐つてゐるのが見えた。彼女は一方の手を膝の上に置き、一方の手で髮を梳いてゐる。しかもその兩眼は炯々として永の覗く門の隙を見詰めてゐるのだから、永は少からず驚いて、もう足を動かすことが出來ない。婦人は已に髮を梳き了つたのであらう。兩手で耳を捉へて身體の上に置き、きよろきよろしながら立ち上つて、外へ出て來ようとしする。永は覺えず恐怖の叫びを揚げて逃げ出したので、これを聞きつけた鄰家からは、松明(たいまつ)を持つたり武器を携へたりして人が出て來る。永は已に階下を匍ひ𢌞つて、肘も膝も疵だらけになつてゐた。永から委細を聞いた人々は皆驚いたが、永もこの凶宅から引揚げて後、幾日も病氣になり、爾來彼は仲間から嘲笑されても、一言の辯解も出來なかつた。自分の首を膝に置いて、しづかに髮を梳く婦人の正體は何だかわからない。首と胴と離れながら、炯々たる光りを放つ兩眼の凄さはまた格別である。

[やぶちゃん注:「夜譚隨錄」清の和邦額の撰になる志怪小説集。以上は「卷二」の「永護軍」。柴田の梗概はちょっと不親切(確信犯かも知れぬが)で、首なしの婦人は首を膝の上に置いてその自身の首の髪を梳いているのであり、その膝の上の生きた首の両眼がおどろおどろしくも炯々と耀いているのである。

「護軍」皇帝の親衛隊職か。

   *

阜城門内某胡同、有空宅一區、甚凶、而居者、往往驚狂致死。護軍永某、素以膽勇自詡、同人欲以凶宅試之、謂有人敢宿其中者、當醵金具酒食相款。永曰、「舍我其誰。」。挺身請往、眾許之。既暮、獨攜酒肉襆被以往。二更後、飲至半酣、拔劍擊柱、大言曰、「果有鬼物、何不現形一鬧。卻何處去耶。」。久之、寂然、永大笑、尋亦就枕。甫交睫、似有步履聲、張目視之、見室燈光瑩瑩、急起捉刃、潛於門隙窺之、則燈下坐一無婦人、一手按頭膝上、一手持櫛、梳其發、二目炯炯、直視門隙。永駭甚、不能移步。既而梳已、以兩手捉耳置腔上、矍然而興、將戸、欲出。永失聲卻走、鄰家聞之、明炬操兵來探、永已訇匍階下、肘膝皆傷。述其所見、聞者胥驚。永歸、病數日方起、同人見則嘲笑之、永不複置辯焉。

   *]

 王鑑なる者は剛強な性格で、常に鬼神を侮つて居つたが、或時醉ひに乘じて部外の別莊まで出かけた。五六年以上來たことのない道なので、十里ばかり來るうちに日が暮れてしまつたが、林の下から一人の婦人が現れて一つの包みを渡したかと思ふと、直ぐ見えなくなつた。中から出たのは紙錢とか枯骨とか、墓に緣のあるものばかりで、普通の人なら氣にしさうなところを、鑑は笑つて行き過ぎた。今度は路傍に火を焚いて、十何人もの人が煖を取つてゐる。寒くもあり、道が暗くもなつたので、馬を下りてその側に寄り、氣輕に話しかけて見たけれど、一人も答へる者がない。焚火明りでその人達の顏を見れば、半ばは首がなく、首のある者は皆面衣を掛けてゐる。これにはさすがの鑑も驚懼して、馬に飛び乘るが早いか一散に駈け出した。別莊に到著した時は夜も大分更けて居り、莊の門は固く鎖されて、いくら敲いても出て來る者がない。腹立ちまぎれに大聲で罵つてゐると、一人の下男がしづかに門を明けた。こゝの召使どもは今どこに居るか、と云ひながら、下男の持つた灯を見れば、その色が甚だ靑い。鑑は思はず鞭を振り上げて下僕を打たうとした途端、その男は陰に籠つた聲で、實は旦那様、この十日間にこゝに居つた者は七人とも、皆急病で亡くなりました、と云つた。それでお前はどうしたのか、と尋ねると、私も亡くなつたのです、先刻から旦那樣があまりお呼びになりますので、その屍がちよつと立ち上つて來たのです、と云ふなりそこに倒れてしまつた。鑑は日頃の勇氣を全く喪失し、どこをどう通つたかわからずに家に歸つたが、一年ばかりして彼も亡くなつた。

[やぶちゃん注:「面衣」死者の顔に掛ける白い布である「幎冒(べきぼう)」のことであろう。]

「靈異集」に出てゐるこの話に至つては、氣味が惡いとか物凄いとかいふ域を遙かに越えてゐる。林下の婦人も焚火の人も無言なのが殊に凄涼の感を強めるやうな氣がする。首の有無の如きは深く問題とするに足らぬが、首なしの話の最後にこれを列べて置く。

[やぶちゃん注:唐代伝奇の一つである張薦の撰になる「靈怪集」のことであろう。同話は「太平廣記」の「鬼十五」に「王鑑」として「靈怪集」から引いたと出るからである。以下。

   *

兗州王鑑、性剛鷙、無所憚畏、常陵侮鬼神。開元中、乘醉往莊、去郭三十里。鑑不渉此路、已五六年矣。行十里已來、會日暮。長林下見一婦人、問鑑所往。請寄一襆。而忽不見。乃開襆視之。皆紙錢枯骨之類。鑑笑曰。愚鬼弄爾公。策馬前去。忽遇十餘人聚向火。時天寒、日已昏、鑑下馬詣之。話適所見、皆無應者。鑑視之、向火之人半無頭、有頭者皆有面衣。鑑驚懼、上馬馳去。夜艾、方至莊、莊門已閉。頻打無人出、遂大叫罵。俄有一奴開門、鑑問曰。奴婢輩今並在何處。令取燈而火色靑暗。鑑怒、欲撻奴、奴云。十日來、一莊七人疾病、相次死盡。鑑問汝且如何。答曰。亦已死矣。向者聞郎君呼叫、起尸來耳。因忽顛仆。即無氣矣。鑑大懼、走投別村而宿。周、發疾而卒。

   *]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)

 

 首なし

 

 柳宗元が永州の司馬に左遷され、荊門の驛舍に宿つた夜、夢に黃衣の婦人が現れて、自分の命が旦夕に迫つてゐることを訴へ、再拜して泣いた。これはあなたでなければお救ひ下さることは出來ぬ、もし救つて下されば、あなたの御運を展開して大臣の椅子に就けるやうにする、といふのである。柳宗元は夢の中で承諾の意を示したものの、夢がさめて見ると、全然心當りがない。婦人は三たびまで歎願に現れた。最後の時はよほど運命が切迫してゐるらしく、憂懼に堪へぬ顏色であつた。役人の中に不幸な立場の者があるのかと考へたり、たまたま荊州の帥(そつ)から朝飯の招待を受けてゐるので、或は自分のために魚が殺されるのであるかと考へたり、思案の決せぬうちに時間が來て、その饗應の席に出た。柳宗元から不思議な夢の話を聞いた帥が、下役人を呼んで尋ねたところ、一日前に大きな黃魚が漁師の網にかゝつたので、それを今朝の膳に上せたといふことであつた。宗元もこゝに至つてはじめて黃衣の婦人のこの魚であつたことに氣が付いたが、もう間に合はぬ。その魚を川に投げ捨てさせて出發するより外に仕方がなかつた。その夜婦人は四たび夢に現れたが、彼女は首がなかつたと「宣室志」にある。

[やぶちゃん注:「柳宗元が永州の司馬に左遷され」中唐名詩人柳宗元(七七三年~八一九年)は徳宗の治世に若手改革派として台頭、宦官勢力を中心とする保守派に対決し礼部侍郎まで昇ったが、政争に敗れ、『改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元』三十三歳であった。『以後、永州に居を構えること』十年、八一五年に、一旦は『長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま』、四十七歳で歿した。『政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである』(引用は参照したウィキの「柳宗元」に拠る)。

「黃魚」「クワウギヨ(コウギョ)」。これは現行の中国語では、スズキ目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea という海水魚である。体色は美しい黄金色で、背鰭・臀鰭は高さにして三分の一以上が鱗に覆われており、東シナ海や黄海に多く棲息し、中国料理ではポピュラーであるが、本邦では長崎県で少し漁獲され、大型個体では五十センチメートルに達すると、サイト「WEB魚図鑑」のなどある。海水魚であるが、スズキ類にはかなり河川を遡上する種もいるので、少なくともこの近縁種ではあろう。

 これは「宣室志」の「柳宗元」。「太平廣記」引用を示す。

   *

唐柳州刺史河東柳宗元、常自省郎出為永州司馬、途至荊門、舍驛亭中。是夕、夢一婦人衣黃衣、再拜而泣曰、「某家楚水者也、今不幸、死在朝夕、非君不能活之。儻獲其生、不獨戴恩而已、兼能假君祿益、君爲將爲相、且無難矣。幸明君子一圖焉。」。公謝而許之。既寤、嘿自異之、及再寐、又夢婦人、且祈且謝、久而方去。明晨、有吏來、稱荊帥命、將宴宗元。宗元既命駕、以天色尚早、因假寐焉、既而又夢婦人、嚬然其容、憂惶不暇、顧謂宗元曰、「某之命、今若縷之懸甚風、危危將斷且飄矣。而君不能念其事之急耶。幸疾爲計。不爾、亦與敗縷皆斷矣、願君子許之。」。言已、又祈拜、既告去。心亦未悟焉。即俛而念曰。吾一夕三夢婦人告我、辭甚懇、豈吾之吏有不平於人者耶。抑將宴者以魚為我膳耶。得而活之、亦吾事也。」。即命駕詣郡宴、既而以夢話荊帥、且召吏訊之。吏曰、「前一日、漁人網獲一巨黃鱗魚、將爲膳、今已斷其首。」。宗元驚曰、「果其夕之夢。」。遂命挈而投江中、然而其魚已死矣。是夕、又夢婦人來、亡其首、宗元益異之。

   *]

 この婦人はもともとたゞの魚で、鱗の黃色であるところから、黃衣の人と現れて命乞ひをしたまでかも知れぬが、それにしては柳宗元の運命を請け合ひ、私をお救ひ下されば大臣になれるなどは少しえら過ぎる。何か柳宗元とこの魚との間に、前世の因緣が繫がつてゐなければならぬところであらう。

 上田秋成が「雨月物語」に書いた「夢應の鯉魚」は、小泉八雲が「僧興義」として「奇談」の中に紹介したことがある。三井寺の僧の話になつてゐるが、これは云ふまでもなく支那種で、「魚服記」の飜案らしい。興義は一たび息絶えて後、三日たつて蘇(よみがへ)り、自分がその間に鯉になつた話をした。彼は病ひの熱に苦しんで水に飛び込み、あちこち泳ぎ𢌞るうちに、いつか自分が鯉になつてゐる。空腹のまゝに釣の餌を呑み、文四といふ男に釣り上げられ、平の助の館に運ばれた。興義の鯉はかねて顏見知りの人々に向ひ、自分を忘れられたか、寺に歸して下さい、と頻りに叫んだけれど、誰の耳にも入らず、料理人が兩眼を押へ、研ぎすました庖刀で切りにかゝつた刹那、夢のさめるやうに蘇つた。彼は絶息してゐた間のことを記憶して居り、つぶさに館の樣子などを話したので、一同肝を潰し、殘りの膾は皆湖に捨てさせた。もう一步のところで柳宗元に訴へた黃魚と同じ運命に陷るわけであつた。彼は幸ひに首を失はなかつたのみならず、その後天年を全うした。愈々亡くなる前に自ら畫くところの鯉の畫數枚を湖に投じたら、魚は紙や絹の上を離れて泳ぎ𢌞つた、この故に興義の畫は世に傳はらぬといふおまけまで付いてゐる。

[やぶちゃん注:「雨月物語」の「夢應(むをう)の鯉魚(りぎよ)」は以下。

   *

 

 夢應の鯉魚

 

 むかし延長の頃、三井寺に興義(こうぎ)といふ僧ありけり。繪に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に畫く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小船をうかべて、網引(あび)き釣りする泉郎(あま)に錢を與へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍(あそ)ぶを見ては畫(ゑが)きけるほどに、年を經て、細妙(くはし)きにいたりけり。或ときは、繪に心を凝(こら)して眠をさそへば、ゆめの裏(うち)に江に入りて、大小の魚とともに遊ぶ。覺(さむ)れば、卽(やがて)、見つるまゝを畫きて壁に貼(お)し、みづから呼びて「夢應の鯉魚」と名付けり。其の繪の妙(たへ)なるを感(めで)て乞ひ要(もと)むるもの前後(ついで)をあらそへば、只、花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人每(ごと)に戲(たはふ)れていふ。

「生(しやう)を殺し鮮(あさらけ)を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚、必しも、與へず。」となん。其の繪と俳諧(わざごと)とゝもに天下(あめがした)に聞えけり。

 一とせ病ひに係りて、七日を經て、忽(たちまち)に眼を閉ぢ息絶えて、むなしくなりぬ。徒弟友どち、あつまりて歎き惜みけるが、只、心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖かなるにぞ、

「若(もし)や。」

と、居(ゐ)めぐりて守りつも、三日を經にけるに、手足、すこし、動き出づるやうなりしが。忽ち、長噓(ためいき)を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、

「我(われ)、人事をわすれて既に久し。幾日をか過ぐしけん。」

衆弟等(しううていら)、いふ。

「師、三日前(さき)に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣で給ひて葬(はふむ)りの事をもはかり給ひぬれど、只、師が心頭(むね)の暖かなるを見て、柩にも藏めで、かく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへ)り給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり。」

 興義、點頭(うなづ)きて、いふ。

「誰(たれ)にもあれ、一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿の館(たち)に詣でて告(まう)さんは。『法師こそ不思識に生き侍れ。君、今、酒を酌み、鮮(あらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく、宴(えん)を罷(や)めて寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり、聞えまいらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露(つゆ)たがはじ。」

といふ。

 使ひ、異(あや)しみながら、彼の館に往きて其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:座が高いから重き家臣の通称固有名と採っておく。]など、居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇(あや)しとす。助の館の人々、此の事を聞きて大きに異しみ、先づ、箸を止めて、十郎・掃守をも召し具して寺に到(いた)る。

 興義、枕をあげて、路次(ろじ)の勞(わづら)ひをかたじけなうすれば[やぶちゃん注:こちらから呼びつけてわざわざ来て貰ったことを心より労ったところ。]、助も蘇生りの賀(ことぶき)を述ぶ。

 興義、先づ問ひて、いふ。

「君、試みに、我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父(ぎよふ)文四(ぶんし)に魚をあつらへ給ふ事、ありや。」

助、驚きて、

「まことに、さる事あり。いかにしてしらせ給ふや。」

興義、

「かの漁父、三尺あまりの魚を籠(かご)に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面(みなみおもて)の所に碁を圍(かこ)みて、おはす。掃守(かもり)、傍らに侍りて、桃の實の大なるを啗(く)ひつつ、奕(えき)の手段を見る。漁父が大魚(まな)を携へ來たるを喜びて、高杯(たかつき)に盛りたる桃をあたへ、又、盃(さかづき)を給ふて三獻(こん)、飮(の)ましめ給ふ。鱠手(かしはびと)、したり顏に魚をとり出でて、鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所、たがはでぞあるらめ。」

といふに、助の人々、此の事を聞きて、或は異しみ。或はここち惑ひて、かく詳らかなる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋づぬるに、興義、かたりて、いふ。

「我、此の頃、病にくるしみて堪へがたきあまり、其の死したるをもしらず。熱きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に扶(たす)けられて門を出づれば。病ひもやや忘れたるやうにて籠(こ)の鳥の雲井にかへるここちす。山となく里となく行々(ゆきゆき)て、又、江の畔(ほとり)に出づ。湖水の碧(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴びて遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去てて、身を跳(をど)らして深きに飛び入りつも。彼此(をちこち)に游(およ)ぎめぐるに、幼(わか)きより水に狎(な)れたるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戲(たはふ)れけり。今、思へば愚かなる夢ごころなりし。

 されども、人の水に浮ぶは、魚のこころよきには、しかず。ここにて又、魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍らにひとつの大魚(まな)ありて、いふ。

『師のねがふ事、いとやすし。待たせ給へ。』

とて、杳(はるか)の底に去(ゆ)くと見しに、しばしして、冠裝束(かむりさうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に胯(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくず)を牽(ひ)きゐて、浮び來たり、我にむかひて、いふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧、かねて、放生(はうじやう)の功德(くどく)多し。今、江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。權(かり)に金鯉(きんり)が服を授けて水府(すいふ)のたのしみを、せさせ玉ふ。只、餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眛(くら)まされて。釣りの糸にかゝり、身を亡(うしな)ふ事、なかれ。』

と、いひて去りて見えずなりぬ。

 不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに、鱗(うろこ)、金光(きんかう)を備へて、ひとつの鯉魚(りぎよ)と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾(を)を振り、鰭(ひれ)を動かして、心のまゝに逍遙(せうえう)す。

 まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大灣(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚(おど)されて、比良(ひら)の高山影、うつる。深き水底(みなそこ)に潛(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火(いさりび)によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中(よなか)の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に淸(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくて、おもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、蘆間(あしま)の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀨田(せた)の橋守(はしもり)にいくそたびが追はれぬ。日、あたゝかなれば浮び、風、あらきときは千尋(ちひろ)の底(そこ)に遊ぶ。

 急(には)かにも、飢えて食(もの)ほしげなるに。彼此(をちこち)に𩛰(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち、文四が釣りを垂るに、あふ。其の餌(ゑ)、はなはだ香(かんば)し。心、又、河伯(かはがみ)の戒(いましめ)を守りて思ふ。

『我れは佛(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞも、あさましく魚の餌を飮(の)むべき。』

とて、そこを去る。しばしありて、飢え、ますます甚しければ、かさねて思ふに、

『今は堪へがたし。たとへ此の餌を飮むとも嗚呼(をこ)に捕はれんやは。もとより他(かれ)は相ひ識(し)るものなれば、何のはばかりかあらん。』

とて遂に餌をのむ。文四、はやく糸を收めて、我を捕ふ。

『こはいかにするぞ。』

と叫びぬれども、他(かれ)かつて聞かず顏にもてなして、繩をもて我が腮(あぎと)を貫ぬき、蘆間に船を繫ぎ、我を籠に押し入れて君が門に進み入る。君は賢弟と南面の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍らに侍りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。文四がもて來(こ)し大魚を見て、人々、大いに感(め)でさせ給ふ。我れ、其とき、人々にむかひ、聲をはり上げて、

『旁等(かたがたら)は興義をわすれ給ふか。宥(ゆる)させ給へ。寺にかへさせ給へ。』と連(しき)りに叫びぬれど、人々しらぬ形(さま)にもてなして、只、手を拍つて喜び給ふ。鱠手(かしは人)なるもの、まづ、我が兩眼を左手(ひだり)の指にて、つよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて、俎盤(まないた)にのぼし、既に切るべかりしとき、我れ、くるしさのあまりに大聲をあげて、

『佛弟子を害(がゐ)する例(ためし)やある。我を助けよ、助けよ。』

と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず、終に、切るる、と、おぼえて、夢、醒めたり。」

と、かたる。

 人々大に感異(めであや)しみ、

「師が物がたりにつきて思ふに、其の度(たび)ごとに魚の口の動くを見れど、更に聲を出だす事なし。かかる事、まのあたりに見しこそ、いと不思議なれ。」

とて、從者(ずさ)を家に走らしめて、殘れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

 興義、これより病ひ癒えて、杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死にける。其の終焉(をはり)に臨みて畫(ゑが)く所の鯉魚、數枚(すまい)をとりて、湖(うみ)に散らせば、畫(ゑが)ける魚紙繭(しけん/かみきぬ[やぶちゃん注:後者は左ルビ。])をはなれて、水に遊戲(ゆうげ)す。ここをもて、興義が繪、世に傳はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)[やぶちゃん注:平安初期の公卿で歌人の藤原冬嗣。]の障子に鷄(にはとり)を畫(ゑが)きしに。生ける鷄、この繪を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに戴せたり。

   *

因みに、三島由紀夫は、この金鱗の鯉となった興義の琵琶湖の歌尽くしを『窮極の詩』と評して高く評価している。私は三島の思想と狂った田舎芝居の自死行動を全く評価しないが、彼の文学的才能は別して買っている。そうして、その彼の賞讃する箇所についても同じように激しく共感する。

 小泉八雲の「僧興義」は“The Story of Kogi the Priest”(「僧興義の話」)で、作品集“A Japanese miscellany”(「日本雑録」 明治三四(一九〇一)年刊)に所収されている。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”の原本画像を使用して校合した。なお、原注は一部を除いて除去した。

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The Story of Kōgi the Priest

 

NEARLY one thousand years ago there lived ill the famous temple called Miidera, at Ōtsu in the province of Ōmi, a learned priest named Kōgi. He was a great artist. He painted, with almost equal skill, pictures of the Buddhas, pictures of beautiful scenery, and pictures of animals or birds; but he liked best to paint fishes. Whenever the weather was fair, and religious duty permitted, he would go to Lake Biwa, and hire fishermen to catch fish for him, without injuring them in any way, so that he could paint them afterwards as they swam about in a large vessel of water. After having made pictures of them, and fed them like pets, he would set them free again, — taking them back to the lake himself. His pictures of fish at last became so famous that people travelled from great distances to see them. But the most wonderful of all his drawings of fish was not drawn from life, but was made from the memory of a dream. For one day, as he sat by the lake-side to watch the fishes swimming, Kōgi had fallen into a doze, and had dreamed that he was playing with the fishes under the water. After he awoke, the memory of the dream remained so clear that he was able to paint it ; and this painting, which he hung up in the alcove of his own room in the temple, he called " Dream-Carp.”

   Kōgi could never be persuaded to sell any of his pictures of fish. He was willing to part with his drawings of landscapes, of birds, or of flowers ; but he said that he would not sell a picture of living fish to any one who was cruel enough to kill or to eat fish. And as the persons who wanted to buy his paintings were all fish- eaters, their offers of money could not tempt him.

 

   One summer Kōgi fell sick ; and after a week's illness he lost all power of speech and movement, so that he seemed to be dead. But after his funeral service had been performed, his disciples discovered some warmth in the body, and decided to postpone the burial for awhile, and to keep watch by the seeming corpse. In the afternoon of the same day he suddenly revived, and questioned the watchers, asking : —

“ How long have I remained without knowledge of the world ?”

“ More than three days,” an acolyte made answer. “ We thought that you were dead ; and this morning your friends and parishioners assembled in the temple for your funeral service. We performed the service ; but afterwards, finding that your body was not altogether cold, we put off the burial; and now we are very glad that we did so.”

   Kōgi nodded approvingly : then he said : —

   “ I want some one of you to go immediately to the house of Taira no Suke, where the young men are having a feast at the present moment — (they are eating fish and drinking wine), — and say to them : — ' Our master has revived ; and he begs that you will be so good as to leave your feast, and to call upon him without delay, beause he has a wonderful story to tell you.' . . . At the same time ”— continued Kōgi —“observe what Suké and his brothers are doing; — see whether they are not feasting as I say.”

   Then an acolyte' went at once to the house of Taira no Suké, and was surprised to find that Suké and his brother Jūrō, with their attendant, Kamori, were having a feast, just as Kōgi had said. But, on receiving the message, all three immediately left their fish and wine, and hastened to the temple. Kōgi, lying upon the couch to which he had been removed, received them with a smile of welcome ; and, after some pleasant words had been exchanged, he said to Suké : —

   “ Now, my friend, please reply to some questions that I am going to ask you. First of all, kindly tell me whether you did not buy a fish to-day from the fisherman Bunshi.”

   “ Why, yes,” replied Suké — but how did you know ?”

   “ Please wait a moment,” said the priest. . . . “ That fisherman Bunshi to-day entered your gate, with a fish three feet long in his basket : it was early in the afternoon, just after you and Jūrō had begun a game of go; — and Kamori was watching the game, and eating a peach — was he not ? ”

   “That is true,” exclaimed Suké and Kamori together, with increasing surprise.

   “ And when Kamori saw that big fish,” proceeded Kōgi, “ he agreed to buy it at once ; and, besides paying the price of the fish, he also gave Bunshi some peaches, in a dish, and three cups of wine. Then the cook was called ; and he came and looked at the fish, and admired it ; and then, by your order, he sliced it and prepared it for your feast. . . . Did not all this happen just as I have said ?.”

   “ Yes,” responded Suké ;“ but we are very much astonished that you should know what happened in our house to-day. Please tell us how you learned these matters.”

   “ Well, now for my story,” said the priest. “ You are aware that almost everybody believed me to be dead; — you yourselves attended my funeral service. But I did not think, three days ago, that I was at all dangerously ill : I remember only that I felt weak and very hot, and that I wanted to go out into the air to cool myself. And I thought that I got up from my bed, with a great efifort, and went out, — supporting myself with a stick. . . .Perhaps this may have been imagination ; but you will presently be able to judge the truth for yourselves : I am going to relate everything exactly as it appeared to happen. . . . As soon as I got outside of the house, into the bright air, I began to feel quite light, — light as a bird flying away from the net or the basket in which it has been confined. I wandered on and on till I reached the lake ; and the water looked so beautiful and blue that I felt a great desire to have a swim. I took off my clothes, and jumped in, and began to swim about ; and I was astonished to find that I could swim very fast and very skilfully, — although before my sickness I had always been a very poor swimmer. . . . You think that I am only telling you a foolish dream — but listen ! . . . While I was wondering at this new skill of mine, I perceived many beautiful fishes swimming below me and around me ; and I felt suddenly envious of their happiness, — reflecting that, no matter how good a swimmer a man may become, he never can enjoy himself under the water as a fish can. Just then, a very big fish lifted its head above the surface in front of me, and spoke to me with the voice of a man, saying : —‘That wish of yours can very easily be satisfied: please wait there a moment !’  The fish then went down, out of sight ; and I waited. After a few minutes there came up, from the bottom of the lake, — riding on the back of tlie same big ilsh that had spoken to me, — a man wearing the headdress and the ceremonial robes of a prince ; and the man said to me : — ‘I come to you with a message from the Dragon-King, who knows of your desire to enjoy for a httle time the condition of a fish. As you have saved the lives of many fish, and have always shown compassion to living creatures, the God now bestows upon you the attire of the Golden Carp, so that you will be able to enjoy the pleasures of the Water-World. But you must be very careful not to eat any fish, or any food prepared from fish, — no matter how nice may be the smell of It ; ― and you must also take great care not to get caught by the fishermen, or to hurt your body in any way.' With these words, the messenger and his fish went below and vanished in the deep water. I looked at myself, and saw that my whole body had become covered with scales that shone like gold ; — I saw that I had fins ; — I found that I had actually been changed into a Golden Carp. Then I knew that I could swim wherever I pleased.

   “ Thereafter it seemed to me that I swam away, and visited many beautiful places. [Here in the original narrative, are introdmed some verses describing the Eight Famous Attractions of the Lake of Ōmi, — “ Ōmi-Hakkei.”] Sometimes I was satisfied only to look at the sunlight dancing over the blue water, or to admire the beautiful reflection of hills and trees upon still surfaces sheltered from the wind. . . . I remember especially the coast of an island — either Okitsushima or Chikubushima — reflected in the water like a red wall. . . . Sometimes I would approach the shore so closely that I could see the faces and hear the voices of people passing by ; sometimes I would sleep on the water until startled by the sound of approaching oars. At night there were beautiful moonlight-views ; but I was frightened more than once by the approaching torchfires of the fishing-boats of Katase. When the weather was bad, I would go below, — far down, — even a thousand feet, — and play at the bottom of the lake. But after two or three days of this wandering pleasure, I began to feel very hungry; and I returned to this neighborhood in the hope of finding something to eat. Just at that time the fisherman Bunshi happened to be fishing ; and I approached the hook which he had let down into the water. There was some fish-food upon it that was good to smell. I remembered in the same moment the warning of the Dragon-King, and swam away, saying to myself: —‘ In any event I must not eat food containing fish; — I am a disciple of the Buddha.’  Yet after a httle while my hunger became so intense that I could not resist the temptation ; and I swam back again to the hook, thinking, — ‘Even if Bunshi should catch me, he would not hurt me; — he is my old friend.’  I was not able to loosen the bait from the hook ; and the pleasant smell of the food was too much for my patience ; and I swallowed the whole thing at a gulp. Immediately after I did so, Bunshi pulled in his line, and caught me. I cried out to him, ‘ What are you doing? — you hurt me! ’— but he did not seem to hear me, and he quickly put a string through my jaws. Then he threw me into his basket, and took me to your house. When the basket was opened there, I saw you and Jūrō playing go in the south room, and Kamori watching you — eating a peach the while. All of you presently came out upon the veranda to look at me; and you were delighted to see such a big fish. I called out to you as loud as I could : —‘I am not a fish ! — I am Kōgi — Kōgi the priest !  please let me go back to my temple ! ’  But you clapped your hands for gladness, and paid no attention to my words. Then your cook carried me into the kitchen, and threw me down violently upon a cutting-board, where a terribly sharp knife was lying. With his left hand he pressed me down, and with his right hand he took up that knife, — and I screamed to him : — ‘ How can you kill me so cruelly !  I am a disciple of the Buddha ! — help !  help !’  But in the same instant I felt his knife dividing me — a frightful pain ! — and then I suddenly awoke, and found myself here in the temple.”

   When the priest had thus finished his story, the brothers wondered at it; and Suké said to him : — “I now remember noticing that the jaws of the fish were moving all the time that we were looking at it ; but we did not hear any voice. . . . Now I must send a servant to the house with orders to throw the remainder of that fish into the lake.”

 

   Kōgi soon recovered from his illness, and lived to paint many more pictures. It is related that, long after his death, some of his fish-pictures once happened to fall into the lake, and that the figures of the fish immediately detached themselves from the silk or the paper upon which they had been painted, and swam away!

 

   *

次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「僧興義」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部の不審な空隙には読点を打った。

   *

 

   僧興義

 

 殆んど一千年前、近江の國大津の名聲い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ廻るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事がてきた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間病んだあとで、物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫みのある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絶えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んてゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んて居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」――同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟逹が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――私が云つた通り、宴會をしてゐないかどうか』

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郎が、家の子掃守(かもり)と一緒に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮べた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、――

『これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買ひませんでしたか』

『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べてゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緒に叫んだ。

『それから掃守がその大きな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三杯飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令でそれを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

『さうです』助は答へた、『しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。『御承知の通り殆んど皆の人逹は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に、私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に逹した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脱いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――「暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂みを得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない」かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を説明した歌のやうな文句が入れてある〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や本の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。――時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり、聲を聞いたりする事ができた、時時私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度も驚かされた[やぶちゃん注:「片瀨の漁舟」原文は“the fishing-boats of Katase”で“Katase”と大文字になっているから、小泉八雲は固有地名として記していることが判る。しかし、現在、琵琶湖畔には「片瀬」と称する地名を確認出来なかった。識者の御教授を乞う。或いは歌枕的な用法として使用したものか?]。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び廻つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れでゐた鉤に近づいた。それには何か餌がついでゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に緣側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく爼板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覺えた、――そしてその時突然眼がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた、――『今から想へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

                (田部隆次譯)

 The Story of Kogi the Priest.(A Japanese miscellany.)

 

   *]

2017/04/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「眼玉」

 

 眼玉

 

「めでたき風景」(小出楢重)の中に、「一部分といふものは奇怪にして氣味のよくないもの」といふ説がある。その實例として「テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあつたとしたら、吾々は氣絶するかも知れない」と云ひ、「電車の中の人間の眼玉だけを考へて見る。すると電卓の中は一對の眼玉ばかりと見えて來る。運特手が眼玉であり、眼玉ばかりの乘客である。道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが橫行してゐる事になる。幾億萬の眼玉。考へてもぞつとする」と云つてゐる。無氣味な事は他の一部分でも同じかも知れぬが、眼玉は特に表情を具へてゐるだけ、無氣味の度が強さうな氣がする。支那の書物などを讀んでゐると、成程と思ひ當ることが多い。

[やぶちゃん注:以上は洋画家小出楢重(明治二〇(一八八七)年~昭和六(一九三一)年)の随筆集「めでたき風景」の中の「グロテスク」である。初出は別にあるのであろうが、単行本では昭和五(一九三〇)年創元社刊のそれらしい(以下のリンク先「青空文庫」の「図書カード」の記載に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字新仮名で読める。「グロテスク」短章なので以下にコピー・ペーストしておく。

   *

 

   グロテスク

 

 一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。レールの側に下駄が一足並んでいてさえ巡査の何人かが走り出すのである。毛髪の一本がお汁の中に浮んでいても食慾に関係する。その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。

 私はいつも電車やバスに乗りながら退屈な時こんな莫迦ばか々々しい事を考え出すのである。電車の中の人間の眼玉だけを考えて見る。すると電車の中は一対の眼玉ばかりと見えて来る。運転手が眼玉であり、眼玉ばかりの乗客である、道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが横行している事になる。幾億万の眼玉。考えてもぞっとする。

 今度は臍へそばかりを考えて見る。日本中、世界中は臍と化してしまう。怖るべき臍の数だ。

 無数の乳房を考えて見る。そして無数の生殖器を考えて見る。全くやり切れない気がする。

 やはり人間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。

   *

文中の「アドルフマンジュウ」はアメリカの俳優アドルフ・マンジュー(Adolphe Jean Menjou 一八九〇年~一九六三年)のこと。サイレントからトーキーへの移行期から活躍を開始し、名優ルドルフ・ヴァレンティノ主演のロマンス・アクション「シーク」(The Sheik 一九二一年/サイレント)、チャールズ・チャップリン監督・脚本・製作の「巴里の女性」(A Woman of Paris 一九二三年/サイレント)。マレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパー二大饗宴になる「モロッコ」(Morocco 一九三〇年/トーキー)、今や一九七六年のリメイク版の方が知られるようになってしまった「スタア誕生」(A Star Is Born 一九三七年)といった名作に出演した(以上はウィキの「アドルフ・マンジュー」及びそのリンク先を参考にした)。私は残念なことに、指揮者レオポルド・ストコフスキーが本人役で出演した「オーケストラの少女(One Hundred Men and a Girl 一九三七年)のトロンボーン奏者ジョン役(主演のディアナ・ダービンに完全に食われている)ぐらいしか記憶にはない。

 なお、これは半ばは小出の冗談夢想であるのであろうが、普通人でも漢字の扁や旁りが意識の中で分解してしまうようなゲシュタルト崩壊的感覚があり(これは重い精神疾患を病んだ可能性が頗る高い夏目漱石も体験として述べているはずである)、強迫神経症や統合失調症の一症状にこうした自己の外界へとかぎりなく拡散してゆく病的妄想症状が実際に存在することも言い添えておく。]

「夜譚隨錄」にある「大眼睛」の如きは僅々五十餘字に過ぎぬ。倂し夜座讀書の際に、蝙蝠のやうなものが飛んで來て、危く燈にぶつかりさうになる。慌てて手で拂つたら、ぱたりと下に落ちて、大な眼睛になつた。幅が何寸もあつて、白と黑とが極めてはつきりしてゐる。頻りにぐるぐる𢌞つてゐたが、暫くして見えなくなつたといふのである。この時讀書しつゝあつたのは將軍らしいが、幅何寸もある眼玉が地に落ちてぐるぐる𢌞るのを見たら、仰天したに相違あるまい。假りにそんな大眼玉でなしに、吾々の持ち合せてゐる程度の眼玉にしても、此方が眼を𢌞すこと請合ひである。

[やぶちゃん注:「𢌞」は総て「まはる(まわる)」と読んでよかろう。

「夜譚隨錄」清の和邦額の撰になる志怪小説集。全十二巻。「大眼睛」は「卷二」にある。以下に示すが、柴田の言う通り、句読点を含まないで全五十三字しかない。

   *

宗室雙豐將軍、夜坐讀書。忽見一物、類蝙蝠、直撲燈來、急以手格之、拍然墜地。化一大眼睛、闊數寸、黑白極分明、繞地旋轉不息、久之方滅。

   *

「眼睛」「がんせい」は一般には部分としての黒目・瞳のことであるが、これは内容からして明らかに一個のまあるい眼球の意である。]

 唐の肅宗の時、尚書郎房集が頗る權勢を揮つてゐた。一日暇があつて私邸に獨坐してゐると、十四五歳の坊主頭の少年が突然家の中に入つて來た。手に布の囊を一つ持つて、默つて主人の前に立つてゐる。房ははじめ知り合ひの家から子供を使ひによこしたものと思つたので、氣輕に言葉をかけたけれど、何も返事をしない。その囊の中に入つてゐるのは何だと尋ねたら、少年は笑つて、眼玉ですと答へた。さうして囊を傾けたと思ふと、何升もある眼玉がそこら中に散らばつた。家中大騷ぎをする間に、少年の姿は見えなくなり、ばら撒かれた眼玉も消えてしまつたが、この事があつて後、房は事に坐して誅せられた(原化記)。

[やぶちゃん注:「肅宗」かの玄宗の三男(七一一年~七六二年:生母は「楊氏」であるが、かの楊貴妃とは別人)。安禄山の乱の最中、逃げ延びた霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で側近の宦官李輔国の建言によって自ら皇帝に即位し、元号を「天寶」から「至德」に改めた。ウィキの「粛宗(唐)によれば、『これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった』とある。粛宗の在位は七五六年~七六二年である。

「尚書郎」詔勅の実務執行機関である「尚書省」の長官。

「房集」不詳。

「原化記」は晩唐の皇甫氏の撰になる小説集であるが、散逸しており、以上は「太平廣記」の「妖怪四」の「房集」を指すのであろう。以下。

   *

唐肅宗朝、尚書郎房集、頗持權勢。暇日、私弟獨坐廳中、忽有小兒、十四五。髠髮齊眉。而持一布囊、不知所從來、立於其前。房初謂是親故家遣小兒相省、問之不應。又問囊中何物、小兒笑曰。眼睛也。遂傾囊、中可數升眼睛、在地四散。或緣墻上屋。一家驚怪、便失小兒所在、眼睛又不復見。後集坐事誅。

   *]

 前の大眼晴は突然燈下に現れただけで何事もなかつたけれど、房集の場合は明かに凶兆であつた。何升もある眼玉は驚魂駭魄に値する。「通幽記」に錦の囊を持つた華麗な婦人に便船を賴まれる話があつて、その囊の中には髑髏が一杯入つてゐたといふが、眼玉入りの囊は氣味の惡い點に於て、それに優るとも劣らぬものである。殊に十四五歳の少年が笑つて「眼玉です」と答へるなどは、氣味の惡い行き止まりであらう。「夜讀隨錄」の話のやうに、地に落ちてからぐるぐる𢌞る餘興はないにせよ、その代り數に於て他を壓倒するものがある。こんな話ばかり讀んでゐると、小出氏の云ふ通りぞつとして來る。口直しにもう少し無邪氣な話を持ち出すことにしよう。

[やぶちゃん注:「通幽記」陳劭(ちんしょう)なる人物が志怪小説集。散逸して「太平廣記」に三十篇近くが収録されてある。以上は同書の「鬼二十三」に載る、「通幽記」から引いたとした「王垂」。

   *

太原王垂、與范陽盧收友善、唐大曆初、嘗乘舟於淮浙往來。至石門驛旁、見一婦人於樹下、容色殊麗、衣服甚華、負一錦囊。王盧相謂曰、「婦人獨息、婦囊可圖耳。」。乃彌棹伺之、婦人果問曰、「船何適。可容寄載否。妾夫病在嘉興、今欲省之、足痛不能去。」。二人曰、「虛舟且便可寄爾。」婦人攜囊而上、居船之首。又徐挑之、婦人正容曰、「暫附何得不正耶。」。二人色炸。垂善鼓琴、以琴悅之。婦人美豔粲然、二人振盪、乃曰、「娘子固善琴耶。」。婦人曰、「少所習。」。王生拱琴以授、乃撫「軫泛弄」泠然。王生曰、「未嘗聞之、有以見文君之誠心矣。」。婦人笑曰、「委相如之深也。」。遂稍親合、其詼諧慧辨不可言、相視感悅、是夕與垂偶會船前。收稍被隔礙而深歎慕。夜深、收竊探囊中物、視之、滿囊骷髏耳。收大駭、知是鬼矣、而無因達於垂。聽其私狎甚繾綣。既而天明、婦人有故暫下、收告垂、垂大懾曰、「計將安出。」。收曰、「宜伏簀下。」。如其言。須臾婦人來問、「王生安在。」。收紿之曰、「適上岸矣。」。婦人甚劇、委收而迫垂、望之稍遠、乃棄於岸。併棹倍行數十里外、不見來、夜藏船處鬧。半夜後、婦人至、直入船、拽垂頭。婦人四面有眼、腥穢甚、齒咬垂、垂困。二人大呼、眾船皆助、遂失婦人。明日、得紙梳於席上、垂數月而卒。

   *

柴田の梗概は簡略に過ぎる。メルマガもとっている話梅子(huameizi)氏の「寄暢園別館」のこちら(「樹下の美女」)に全文の現代語訳が載るので参照されたい。]

 東都の陶化里に空宅があつた。大和年間に張秀才なる者がこの家を借りたところ、忽ち妙な不安に襲はれる。苟くも慷慨の志を抱く男子が、このくらゐの事に怯れるとは何事だと自ら叱して依然その家を去らずにゐたが、或夜ひそかに枕をそばたてて見ると、道士十五人、僧徒十五人が六列に竝び、威儀を正して控へてゐる。それとは別に二個の物があつて、絶ろずごろごろ轉がつて居り、この物には各々二十一の眼があつて、そのうち四つの眼は火の色に光つて居つた。この物の轉がる間を三十人が東西南北に走り𢌞つて、何か勝負を爭ふらしい。彼等の動作も、二つの物の眼の光りも、別に張秀才を恐怖させることはなかつたけれど、彼等が勝負の間にいろいろなことを云ひ合ふので、てつきり妖怪と信じ、枕を取つて投げ付けた。三十人も二つの物も、一時にあわてふためいて見えなくなつてしまつた。翌日その室内を搜して見たら、壁の隅のところに古い破れた囊があるに過ぎなかつた。囊は囊でも内容は安全なもので、三十箇の行子(こま)と一雙の賽(さい)だけであつた。

 この話は中途まで讀んで來ると、人間の眼玉などに緣のないことがわかるので、その點は頗る安心である。賽の目といふ言葉は現在でも通用するが、古い萬葉集時代の人も「一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡(ひとふたのめのみにはあらずいつゝむつみつよつさへありすぐろくのきえ)」と詠んでゐる。二十一の眼などといふところで、已に人間離れがして來るわけであらう。たゞ吾々はこの時代の遊戲に關する知識が乏しいため、三十箇の行子といふことが十分にわからぬのを遺憾とする。「太平虞記」はこの話の出典を缺いてゐるので、原話は何に出てゐるのかわからない。

[やぶちゃん注:「東都」ここは洛陽であろう。

 以上のそれは「太平廣記」の「卷第三百七十」の「精怪三」にある「張秀才」である。末尾には『原闕出處。按見「「宣室志補遺」』とある。

   *

 東都陶化裡、有空宅。大和中、張秀才借得肄業、常忽忽不安。自念爲男子、當抱慷慨之志、不宜恇怯以自軟。因移入中堂以處之。夜深欹枕、乃見道士與僧徒各十五人、從堂中出。形容長短皆相似、排作六行。威儀容止、一一可敬。秀才以爲靈仙所集、不敢惕息、因佯寢以窺之。良久、別有二物、輾轉於地。每一物各有二十一眼、四眼、剡剡如火色。相馳逐、而目光眩轉、砉有聲。逡巡間、僧道三十人、或馳或走、或東或西、或南或北。道士一人、獨立一處、則被一僧擊而去之。其二物周流於僧道之中。未嘗暫息。如此爭相擊搏、或分或聚。一人忽叫云、「卓絶矣!」。言竟、僧道皆默然而息。乃見二物相謂曰、「向者群僧與道流、妙法高、然皆賴我二物、成其教行耳。不然、安得稱卓絶哉。」。秀才乃知必妖怪也、因以枕而擲之。僧道三十人與二物、一時驚走、曰、「不速去、吾輩且爲措大所使也。」。遂皆不見。明日、搜尋之、於壁角中得一敗囊、中有長行子三十個、並骰子一雙耳。

   *

「一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡」これは「萬葉集」の「卷第十六」に載る(三八二七番歌)、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ:伝未詳。柿本人麻呂や高市黒人(たけちのくろひと)らとほぼ同時期に宮廷に仕えていた下級官吏と推定される。集中、短歌十四首が収録されている)八首の中の第四首。講談社文庫の中西進氏の読みを示す。読み易さを考えて字配を変化させた。

 

    雙六(すごろく)の頭(さえ)を詠める歌

 一二(いちに)の目 のみにはあらず

    五六三四(ごろくさむ)

   四(し)さへありけり

            雙六のさえ

 

「頭(さえ)」は賽(さい)・骰子(さいころ)のこと。「雙六」は黒白それぞれ十五の石を二つの骰子を振って出た数字だけ敵陣に進め、先に総てを送り込んだ方が勝ちとする遊戯。古くより、子どもの遊びとしてではなく、大人の賭博として流行し、持統天皇の治世(六九〇年~六九七年)には禁止令も出ている。

「行子三十個」調べて見たが、不詳。ただ、現在の中国将棋はそれぞれが十四の駒で計二十八駒あるから、かなり近いが、現行のそれは骰子は使用しない。]

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