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カテゴリー「柴田宵曲」の144件の記事

2017/06/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その3) /「名劍」~了

 

 併し名劍に關する話は悉くかういふ物騷な材料で充たされてゐるわけではない。唐の符載は文武雙絶の人で、常に一劍を藏して居つたが、一たび鞘を拂へば神光を放ち、夜も晝のやうに明るくなる名劍であつた。或時旅に出て海を渡る際、蛟(みづち)のために船が動かなくなつた。符載起つて一劍を揮つたところ、血そゝぐこと雨の如く、船は無事に進行することが出來た。ところがその後人の家へ行つて、寒食の日の粽(ちまき)を出されたことがある。それがまた別製と見えて、桶のやうな粽であつたから、普通の食刀ではどうにもならぬ。已むを得ず一劍を以て斬つたのはよかつたが、それ以來全く光りを失ひ、頑鐡の如く無用の品になつてしまつたと「芝田錄」に見えてゐる。「昔の劍は今の菜刀」といふ諺があるけれど、現在明晃々たる劍を直ちに食卓に用ゐたのはひど過ぎる。粽切丸では黃表紙の種ぐらゐにしかならぬであらう。

[やぶちゃん注:「寒食」(かんしよく)は古代中国に於いて冬至から百五日目に火気を全く用いずに冷たい食事をしたことを指す。この時期は風雨が激しいことから、火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促す予祝行事起原ともいう。

「頑鐡」「ぐわんてつ(がんてつ)」。ただの鉄の塊り。

「芝田錄」宋の丁用晦の撰になる小説集。全一卷 。

 以上は「太平廣記」の「器玩四」に「芝田錄」から「符載」として載る以下。

   *

唐符載文學武藝雙絶、常畜一劍、神光照夜爲晝。客游至淮浙、遇巨商舟艦、遭蛟作梗、不克前進。擲劍一揮、血灑如雨、舟舸安流而逝。後遇寒食。于人家裹秬粽。麤如桶、食刀不可用、以此劍斷之訖。其劍無光、若頑鐵、無所用矣。古人云。千鈞之弩。不爲鼷鼠發機。其此劍之謂乎。

   *]

 

 唐の鄭雲達が若い時分に一劍を得た。時に靈あるものの如く吼えたりするので、常に身邊を離さず愛玩して居つたが、或時突如として庭樹の上から下りて來た者がある。紫の衣に朱の頭巾をかぶり、一劍を手にして立つてゐる。黑氣が霧のやうにその周圍に立ち騰るので、異樣な感じはしたものの、鄭は大體な男だから、わざと見て見ぬふりをしてゐると、先方から口を開いて、自分は上界の人であるが、足下が異劍を有せらるゝ由を聞いて參つた、ちょつと拜見させていたゞきたい、と云ふ。いや、これは凡鐡です、あなたのやうな上界の方が御覽になる代物(しろもの)ではありません、と取り合はずにゐたところ、その男は執拗に見せてくれ、と請求する。鄭は隙を窺つて斬り付けたが、打ち損ねた。忽ち男は所在を失し、然も黑氣は容易に去らず、數日を經て漸く散じた(酉陽雜俎)。この男の正髓はわからない。黑氣といふのが魔を連想せしめるが、忽然として姿が見えなくなつただけで、後の崇りはなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「鄭雲達」東洋文庫版訳では「鄭雲逵(ていうんき)」とし、これだと唐代の官人(?~八一〇年)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷六」の「器奇」の中にある以下。

   *

鄭雲達少時、得一劍、鱗鋏星鐔、有時而吼。常在莊居、晴日藉膝玩之。忽有一人、從庭樹窣然而下、衣朱紫、虯髮、露劍而立、黑氣周身、狀如重霧。鄭素有膽氣、佯若不見。其人因言、「我上界人、知公有異劍、願借一觀。」。鄭謂曰、「此凡鐵耳、不堪君玩。上界豈藉此乎。」。其人求之不已。鄭伺便良久、疾起斫之、不中、忽墜黑氣著地、數日方散。

   *]

 

「廣異記」の破山劍はいはゆる「胡人採寶譚」の一である。或士人が畑から掘り出した劍を胡人が欲しいといふ。錢一千から百貫までせり上げたが、士人はなかなか承知しない。胡人の執心は非常なもので、市から士人の家までやつて來て、遂に百萬錢で契約が成り立ち、明日錢を持つて取りに來ます、と云つて歸つた。士人は土中から得た劍にそれほどの自信はなかつたので、胡人があまり欲しがるため、だんだん釣り上げて行つたに過ぎぬ。その晩妻と一緒に月を見ながら、こんなものにそんな價値があるものか、と云つて笑つたくらゐである。たまたま庭に帛を搗く石があり、劍の先をその方に向けたら、急に眞二つに割れたけれど、深く氣にも留めずに居つた。然るに夜が明けるのを待つて、錢を携へて束た胡人は、劍を見るなり歎息し、劍光が已に盡きてしまつた、一體どうしたのか、と云つて、もう買はうとしない。彼の云ふところによれば、これは破山劍といふもので、一度しか用ゐることが出來ない、自分はこれを用ゐて寶の山を破らうとしたのだが、今光鋩が盡きてゐるのを見れば、何か觸れるところがあつたのだらう、といふのである。士人夫妻は深く後悔して昨夜の話をした。胡人は鏡十千だけ拂つてこれを買つて行つた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「器玩四」に「廣異記」から引いて「破山劍」と出る。

   *

近世有士人耕地得劍、磨洗詣市。有胡人求買、初還一千、累上至百貫、士人不可。胡隨至其家、愛玩不捨、遂至百萬。已尅明日持直取劍。會夜佳月、士人與其妻持劍共視。笑云。此亦何堪、至是貴價。庭中有搗帛石、以劍指之、石即中斷。及明、胡載錢至。取劍視之、嘆曰。劍光已盡、何得如此。不復買。士人詰之、胡曰。此是破山劍、唯可一用。吾欲持之以破寶山。今光鋩頓盡。疑有所觸。士人夫妻悔恨、向胡其事、胡以十千買之而去。

   *

 

 これは今までに出た殺人劍ではなしに、一山起すべき有利の劍である。かういふものが手に入れば、土中の鑛脈を掘り當てる如きは易々たるものであらう。符載の劍は一たび粽を切つて光りを失つたが、これも搗帛石を二つに割るといふ無意義な事のために光鋩盡き、倂せて破山の實を喪つた。魚石の話にもこれに類似の事がある。破山劍は一度しか用ゐられぬといふところに、甚深の意味があるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「魚石」先行する「魚石」を参照。]

 

 名劍の話を列擧して來て、最後に加へたいのが「列子」にある孔周の三劍である。一は含光、「之れを視て見るべからず、之れを遲らしてその有るを知らず」といふのだから、存在するかどうか不明と云つて差支へない。二は承影、明方とか夕方とかいふ時分に、北面してこれを見れば、淡々たる物が存するやうであるが、その形はわからず、物に觸れれば微かに音がするけれども、痛むやうなことはないといふ。こゝに至つて少しく感覺の世界に入るわけである。三は宵練、晝は則ち影を見て光りを見ず、夜は光りを見て形を見ず、物に觸れても痕跡を止めず、痛みはあつても血は出ない。この三劍は十三代持ち傳へてゐるが、一度も使用したことがないといふのである。父の敵(かたき)を討たうとする來丹なる者がこれを借りに來て、含光や承影ではいさゝかたよりない、宵練を拜借したいと云つた。孔周は來丹と共に七日間齋戒し、恭しく宵練を授けた。來丹これを提げて、敵の黑卵が醉つて寢てゐるところを、頭から腰まで三つに斬つたけれど、黑卵は少しも氣が付かない。十分に敵を討ち果したと思ひ、門のところまで出て來ると、黑卵の子が外から歸るのに遇つた。こゝに於て擊つこと三度、恰も空を切る如くである。黑卵の子は來丹が何でそんな眞似をするのかわからなかつた。來丹も孔周の名劍眞に人を殺す能はざるを知り、歎じて歸るとあるが、斬れない刀を敵討に用ゐるのは、擂木(れんぎ)で腹を切るのと一般でなければならぬ。黑卵は目がさめて後、何も掛けずに寢た爲、咽喉と腰が痛いと云ひ、その子もまた來丹に三度招かれたら身體が痛いと云つた。もしこの來丹の敵討を傍觀する者があつたとしたら、喜劇として噴飯する外はなかつたに相違ない。

[やぶちゃん注:「擂木(れんぎ)」連木。擂りこぎ棒のこと。「連木で腹を切る」「擂(す)り粉木(こぎ)で腹を切る」という諺が本邦にはあり、出来もしないこと・あり得ないことの譬え。因みに、「れんぎ」は主に本邦の西日本(中国・四国・北九州)での呼称である。

 以上は「列子」の「湯問」にある以下。来丹が黒卵に仇を討たんとして、三宝の剣を持つ衛の孔周に面会するまでの導入部を宵曲はカットしている。

   *

魏黑卵以暱嫌殺丘邴章。丘邴章之子來丹謀報父之讎。丹氣甚猛、形甚露、計粒而食、順風而趨。雖怒、不能稱兵以報之。恥假力於人、誓手劍以屠黑卵。黑卵悍志眾、力抗百夫、筋骨皮肉、非人類也。延頸承刀、披胸受矢、鋩鍔摧屈、而體无痕撻。負其材力、視來丹猶雛鷇也。來丹之友申他曰、「子怨黑卵至矣、黑卵之易子過矣、將奚謀焉。」。來丹垂涕曰、「願子為我謀。」。申他曰、「吾聞衛孔周其祖得殷帝之寶劍、一童子服之、卻三軍之衆、奚不請焉。」。來丹遂適衛、見孔周、執僕御之禮請先納妻子、後言所欲。孔周曰、「吾有三劍、唯子所擇。皆不能殺人、且先言其狀。一曰含光、視之不可見、運之不知有。其所觸也、泯然无際、經物而物不覺。二曰承影、將旦昧爽之交、日夕昏明之際、北面而察之、淡淡焉若有物存、莫識其狀。其所觸也、竊竊然有聲、經物而物不疾也。三曰宵練、方晝則見影而不見光、方夜見光而不見形。其觸物也、騞然而過、隨過隨合、覺疾而不血刃焉。此三寶者、傳之十三世矣、而无施於事。匣而藏之、未嘗啓封。」。來丹曰、「雖然、吾必請其下者。」。孔周乃歸其妻子、與齋七日。晏陰之閒、跪而授其下劍、來丹再拜受之以歸。來丹遂執劍從黑卵。時黑卵之醉、偃於牖下、自頸至腰三斬之。黑卵不覺。來丹以黑卵之死、趣而退。遇黑卵之子於門、擊之三下、如投虛。黑卵之子方笑曰、「汝何蚩而三招予。」。來丹知劍之不能殺人也、歎而歸。黑卵既醒、怒其妻曰、「醉而露我、使我嗌疾而腰急。」。其子曰、「疇昔來丹之來。遇我於門、三招我、亦使我體疾而支彊、彼其厭我哉。」。

   *]

 

 非常にすぐれた劍客で、生涯一人も人を斬らぬといふ話がある。干將莫耶から孔周の三創に目を移せば、或はこれが劍の至れるものなのかも知れぬ。倂し一面から考へれば、美しい衣服を身に著けたつもりで街頭に出た裸の王樣の如く、來丹は孔周に愚弄されたと解せられぬこともない。復讎の愚を喩(さと)すために、ありもせぬ劍を與へたのだといふ風に見て來ると、話が急に理窟つぽくなつて興味索然とする。やはりさういふ神變不思議の名劍があつたことにして置いた方がよからう。

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)

 

 この話はいつ頃日本に傳はつたものか知らぬが、全部が「太平記」のやうに書いてあると考へては間違ひを生ずる。平康賴の書いたといふ「寶物集」は大體同じやうな事だけれど、最後に三つの頭の鼎の中でぐるぐる巡る樣を、巴にかたどつたといふ一項が加へられてゐる。更に時代の古い「今昔物語」を見ると、眉間尺の頸を持參した者は干將の友人ではない。楚王の命を受けた使が山中で眉間尺に逢ひ、自分は君の頸と劍とを尋ねる者だと云つたら、眉間尺自ら頸を斬つて與へたことになつてゐる。この邊からして已にわからぬのに、楚王の頸は糊付けか何かのやうに、鼎の中を窺ふ時に自然と落ちるのである。二つの頸の食ひ合ふのを見て、頸を持參した使が眉間尺を弱らせんがために劍を鼎に投ずるのはいゝとして、使の頸もまた自然に落ちる。「三ノ頭交リ合テ何卜云フコトヲ知ラズ」といふのだから、勿論巴の由來などはない。かういふ場合はあまり諸書を參酌しない方がいゝかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「寶物集」(ほうぶつしふ)は白河院の近臣で鹿ヶ谷 (ししがたに) の議に参加して俊寛らとともに鬼界ヶ島に流されたが、翌年には許されて帰り、仏門に入った平康頼著(生没年未詳 法名:性照)の著。治承年間(一一七七年~一一八一年)頃の成立か。嵯峨の釈迦堂に於ける会話の聞書の形式を採り、多くの説話を例に引きながら仏法を説いた仏教説話集。そうした構成のため、引用話は独立した章としては書かれていない。当該話柄は「卷五」の「楚王干將を殺す 付 介之推(かいしすい)が文公を恨みし事」の前半部。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来た。当該箇所も短いので、当該部(前を少しだけ付随させた)を視認して以下に電子化しておく。

   *

楚王の干將が劔をせめし[やぶちゃん注:「責めし」。]終りに。眉間尺が恨を蒙り。夫差の伍員(ごうん)を失ふ末に越王勾踐に亡さる。周伯夷が首陽山に飢えし。武王の仁いつくしみ)の心がなきが故なり。介子推(かいしすい)が綿上山に燒けし。文公の政を恨みしなり。楚王干將といふ鍛治に劔を責め給ひて。干將が首を刎ねられしかぱ。その子の眉間尺といひし者。憤を舍みて父の怨を報ぜんとしけるに。干將が古の朋友の人憐みて。其に謀りていはく。汝その劔頭を三寸瞰ひ切り口中に含んで死すべし。我れ汝が首を持ちて楚王に獻せば。王心解けて汝が首を見給ふべし。その時口に含める劔の頭を楚王に吐懸けて。共に怨を謝すべしとぞ申しける。眉間尺是を聞き大に悦び。劔頭を口に含みて自ら己が首を撥(はね)落し。舊友の前にぞ置きたりける。朋友その首を楚王に獻すれば。王喜んで獄門に掛けらるゝに。三月までその首その目を怒らし齒を食ひしばり。常に齒がみを爲しける程に。楚王恐れて鼎に入れて七日七夜煎らる。楚王鼎の蓋を明けさせ見給ふに。彼の含める劔頭を潑(はつ)と吐懸けつれば。その劔あやまたず楚王の頭の骨を切り落し。鼎の中にて王の頭と眉間尺が頭と。上に成り下に成り喰合ひけるに。動もすれぱ眉間尺が頭喰ひ負けぬべう見えければ。朋友自ら己が首を撥(はね)落し鼎の中に入れ。諸共に楚王の頭を喰破りて。眉間尺が頭は死の後父の怨を報ずと呼(よば)はり。朋友の首は。泉下に朋友の恩を謝すと悦び聲して。後共に煎爛(にえくさ)りにけり。その三の頭の鼎の中にして巡る樣を。巴には形どれる共申し給ひるめれ。

   *

「今昔物語集」のそれは「巻第九」の「震旦莫耶造釼献王被殺子眉間尺語第四十四」(震旦(しんだん)の莫耶(まくや)、釼(つるぎ)を造りて王に献じたるに、子の眉間尺を殺されたる語(こと)第四十四)である。標題はママであるが、言葉が足らず、内容を充分に伝えるものとなっていない。□は欠字。

   *

 今は昔、震旦の□□代に莫耶と云ふ人、有りけり。此れ、鐡(くろがね)の工(たくみ)也。

 其の時に、國王の后、夏の暑さに不堪(たへ)ずして、常に鐡の柱を抱き給ふ。而る間、后、懐妊して産せり。見れば、鐡の精(たま)を生(しやう)じたり。国王、此の事を怪び給ひて、

「此れは何(いか)なる事ぞ。」

と問ひ給へば、后の云く、

「我れ、更に犯す事、無し。只、暑さに不堪ずして、鐡の柱をなむ、常に抱(いだ)きし。若(も)し、其の故に有る事にや。」

と。國王、

「其の故也けり。」と思ひ給て、彼の鐡の工、莫耶を召して、其の生じたる鐡を以て、寶の釼(つるぎ)を造らしめ給ふ。

 莫耶、其の鐡を給はりて、釼を二つ造りて、一つをば國王に奉りつ。一つをば隱して置きつ。國王、其の莫耶が奉れる所の一つの釼を納めて置き給ひたるに、其の釼、常に鳴る。國王、此れを怪しび給ひて、大臣に問ひ給ふ。

「此の釼の鳴る、何(いか)なる事ぞ。」

と。大臣、申して云く、

「此の釼の鳴る事は、必ず樣(やう)有るべし。此の釼、定めて夫妻(めをと)二つ有るらむか。然れば、一を戀ひて鳴る也。」

と。

 國王、此れを聞きて、大きに嗔(いか)りて、忽ちに莫耶を召して、罪を行はむと爲るに、未だ其の召使の莫耶が所に不至(いたらざ)る前に、莫耶、妻に語りて云く、

「我れ、今夜(こよひ)、惡しき相(さう)を見つ。必ず、國王の使ひ、來らむとす。我れ、死せむ事、疑ひ無し。汝が懷妊する所の子、若し、男子ならば、勢長(せいちやう)の時に、『南の山の松の中を見よ』と語るべし。」

と云ひて、北の門より出でて、南の山に入りて、大きなる木の中に隱れて、遂に死にけり。

 其の後、妻、男子を生ぜり。其の子、十五歳に成る時に、眉間、一尺有り。然れば、名を「眉間尺」と付きたり。母、父の遺言を具さに語る。子、母が教への如く行きて見れば、一つの釼(つるぎ)、有り。此れを取りて、

「父の敵(かたき)を報ぜむ。」

と思ふ心、有り。

 而る間に、國王、夢に見給ふ樣(やう)、眉間一尺有る者、世に有りて、謀叛(むほん)して、我れを殺害(せつがい)せむとすと。

 夢覺めて、恐(お)ぢ怖れて、卽ち、四方に宣旨を下して、

「世に眉間一尺有る者、定めて有らむ。其れを捕へて奉れ。若(も)しは、其の頸を取りて奉らむ者には、千金を與へ、賞を給ふべし。」

と。

 其の時に、眉間尺、此の事を自然(おのづか)らに聞きて、逃げ隱れて、深き山に入りぬ。宣旨を奉りたる輩(ともがら)は、足手を運びて、四方に伺ひ求むる間、眉間尺、山の中にして、此の使に會ひぬ。使、見るに、眉間一尺有る者有り。喜びて、問ひて云く、

「君は眉間尺と云ふ人か。」

と。答へて云く、

「我れ、然(しか)也。」

と。使の云く、

「我等、宣旨を奉(うけたま)はりて、君が頭(かしら)と、持ちたる所の釼とを尋(たづぬ)る也。」

と。其の時に、眉間尺、自ら釼を以つて、頭(かしら)を斬りて、使に與へつ。使、頭を得て、返りて、國王に奉る。国王、喜び給ひて、使に賞を給ふ。

 其の後、眉間尺が頭を使に給へて、

「速かに此れを可煮失(にうしなふべ)き也。」

と仰せ給ふ。使、仰せの如くに、其の頭を鑊(かなへ)に入れて、七日、煮るに、全く不亂(みだれ)ず[やぶちゃん注:煮崩れない。]。其の由を奏すれば、國王、怪しび給ひて、自ら鑊の所に行きて、見給ふ間に、國王の頭(かしら)、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。二つの頭、咋(く)ひ合ひ諍(あらそ)ふ事、限り無し。使、此れを見て、

「奇異也。」

と思ひて、眉間尺が頭(かしら)を弱らしめむが爲に、釼(つるぎ)を鑊(かなへ)の中に擲(な)げ入る。

 其の時に、二の頭(かしら)、共に亂れぬ。使、亦、鑊(かなへ)の中を見る間に、亦、使の頭、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。然れば、三(みつ)の頭、交はり合ひて、何と云ふ事を不知(しら)ず。此れに依りて、一つの墓を造りて、三の頭(かしら)を葬(はふ)りしてけり。

 其の墓、于今(いまに)尚(なほ)、宜春縣と云ふ所に有るとなむ、語り傳へたるとや。

   *]

2017/06/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)

 

 名劍

 

 支那の名劍として最も日本人に知られてゐるのは干將鏌耶(かんしやうばくや)の劍であらう。先づ雌雄の二劍を打出したのを、妻のすゝめに從ひ、雌劍をどこかへ隱して雄劍だけを楚主に獻ずる。雄劍が劍匣の中で悲啼の聲を發するため、群臣の意見を問はれたところ、雌雄あるものの一所にあらざる故であらうといふことになり、第一に干將が頸を刎ねられる。その子が眉間尺(みけんじやく)で、十五の時に父の遺書を讀んで雌劍の所在を知り、楚王に對し恨みを晴らさうとする。その時干將の友人なる者が來て、汝父の讎を報いんとならば、その劍の先三寸を食ひ切り、口中に含みて死すべし、我れ汝の頸を取つて楚王に獻ぜん、王悦んで汝の頸を見る時、劍の先を吹きかくべし、といふ助言を與へた。眉間尺その言に從ひ自ら頸を刎ね、計畫通り楚王に獻じたけれど、容易にその頸を近付けぬ。鼎(かなへ)に入れて七日七夜煮た上、楚王が鼎の蓋を取つて中を窺ふ時、あやまたず劍の先を吹きかけて、楚王の頸を打ち落した。それから鼎の中で頸同士の學びになつたが、眉間尺の方が形勢が惡い。干將の友人も自分の頸をかき落し、眉間尺に協力して楚王の頸を食ひ破つたとある。「太平記」あたりにも出てゐる有名な話であるが、一劍の故に四人まで頸を失ふのは尋常一樣の出來事ではない。劍の凶器である所以を證明すべき好材料であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「干將鏌耶」は現行では干將(干将)・莫耶と表記することが多い。伝承によってその内容に変化が大きい。現存するもので最も古いものは、後漢初期の趙曄(ちょうよう)の書いた歴史書「呉越春秋」のそれであるが、少なくとも現在の同書には後半部の圧巻の復讐譚は存在せず、「王」も楚王ではなく、かの「臥薪嘗胆」で有名な、後に越王勾践に滅ぼされてしまう呉王闔閭(こうりょ)という設定で、魯の使者がこの剣を見、呉の不吉な将来を予知するところで物語は終わっている。その辺りの違いはウィキの「干将・莫耶」が判り易くよく纏められてあるので参照されたいが、基本、名剣の名となる「干將」と「莫耶」は、もともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。宵曲が梗概の原拠としたものが何であるかちょっと判然としないが、恐らくは本伝承の中でも最も人口に膾炙しているものは、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」に載る以下の話である。少なくとも、私が高校時代に最初に本話を現代語訳で読んだのはそれであったし、今でも放課後の誰もいない図書館で、読み終わって後、何かひどく心打たれたのを覚えているのである。

   *

楚干將莫邪爲楚王作劍、三年乃成、王怒、欲殺之。劍有雌雄、其妻重身、當、夫語妻曰、「吾爲王作劍、三年乃成。王怒、往、必殺我。汝若生子、是男、大、告之曰、『出、望南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是卽將雌劍往見楚王。王大怒、使相之、劍有二一雄、一雌、雌來、雄不來。王怒、卽殺之。莫邪子名赤、比後壯、乃問其母曰、「吾父所在。」。母曰、「汝父爲楚王作劍、三年乃成、王怒、殺之。去時囑我、『語汝子。出戸、往南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是子出戸、南望、不見有山、但睹堂前松柱下石砥之上、卽以斧破其背、得劍。日夜思欲報楚王。王夢見一兒、眉間廣尺、言欲報讎。王卽購之千金。兒聞之、亡去、入山、行歌。客有逢者。謂、「子年少。何哭之甚悲耶。」。曰、「吾干將莫邪子也。楚王殺吾父、吾欲報之。」。客曰、「聞王購子頭千金、將子頭與劍來、爲子報之。」。兒曰、「幸甚。」。卽自刎、兩手捧頭及劍奉之、立僵。」。客曰、「不負子也。」。於是屍乃仆。客持頭往見楚王、王大喜。客曰、「此乃勇士頭也。當於湯鑊煮之。」。王如其言。煮頭三日、三夕、不爛。頭踔出湯中、躓目大怒。客曰、「此兒頭不爛、願王自往臨視之、是必爛也。」。王卽臨之。客以劍擬王、王頭隨墮湯中。客亦自擬己頭、頭復墮湯中。三首俱爛、不可識別。乃分其湯肉葬之。故通名三王墓。今在汝南北宜春縣界。

   *

思い出の作品なので、敢えて自然流で書き下してみる。東洋文庫版の竹田晃氏の現代語訳を訓読する際の参考にした。

   *

 干將莫耶、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃(すなは)ち成る。王、怒りて、之れを殺さんと欲す。劍に雌雄有り。其の妻、重身にして、産に當る。夫、妻に語りて曰く、

「吾、王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、往かば、必ず、我を殺さん。汝、若し、子を生みて、是れ、男ならば、大なるときは、之れに告げて曰く、『戸を出でて、南山を望まば、松、石上(せきしやう)に生ず。劍、其の背に在り。』と。是(ここ)に於いて、卽ち、雌劍(ゆうけん)を將(も)ちて往き、楚王に見(まみ)ゆ。王、大いに怒りて、之れを相(しやう)[やぶちゃん注:占って調べる。]せしむるに、「劍、二つ有り、一(いつ)は雄(おす)、一は雌(めす)なり。雌、來たるも雄、來らず。」と。王、怒りて、卽ち、之れを殺す。莫邪の子、赤と名づく。壯たらん比後(ひご)[やぶちゃん注:青年となった頃おい。]、乃ち、其の母に問ひて曰く、

「吾が父の在る所はいづくぞ。」

と。母、曰く、

「汝の父、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、之れを殺す。去る時、我に囑(しよく)すに[やぶちゃん注:頼んだことには。言伝てたことには。]、『汝の子に語れ。戸を出でて、南山に往かば、松、石上に生ず。劍、其の背に在り。』と。」

と。

 是に於いて、子、戸を出でて、南を望む。山、有るを見ず、但だ、堂前の松、柱の石砥(せきと)[やぶちゃん注:柱を支えるための礎石。]の上に下(さが)れるを覩(み)る。卽ち、斧を以つて其の背を破り、劍を得(う)。

 日夜、思ひて、楚王に報ひんと欲す。

 楚王、夢に一兒を見たり。眉間(みけん)、廣きこと、尺[やぶちゃん注:東晋の一尺は二十四・四五センチメートル。]にして、

「讎(あだ)を報(むく)はんと欲す。」

と言ふ。

 王、卽ち、之れを千金に購(あがな)ふ[やぶちゃん注:千金の報奨金を掲げて探させた。]。

 兒、之れを聞きて、亡(に)げ去り、山に入りて行歌(かうか)す。

 客[やぶちゃん注:旅人。]、逢ふ者、有り。謂(いは)く、

「子、年、少(わか)し。何ぞ哭(こく)すること、甚だ、悲しきや。」

と。曰く、

「吾は干將莫邪が子なり。楚王、吾が父を殺す。吾、之れに報はんと欲す。」

と。客、曰く、

「王、子が頭(かうべ)を千金に購ふと聞く。子が頭と劍とを將ちて來たり、子の爲に之れに報ひん。」

と。兒、曰く、

「幸甚なり。」

と。卽ち、自刎(じふん)し、兩手に頭及び劍を捧げて之れを奉じ、立ちながらにして僵(けう)す[やぶちゃん注:立ったままで硬直して死んだ。]。

 客、曰く、

「子に負(そむ)かざるなり。」[やぶちゃん注:「そなたのその心意気、これ、決して、ないがしろには、せぬぞ。」。]

と。是に於いて、屍(かばね)、乃ち、仆(たふ)る。

 客、頭を持ち、往きて、楚王に見(まみ)ゆるに、王、大いに喜ぶ。

 客、曰く、

「此れ、乃(すなは)ち、勇士の頭なり。當に湯鑊(たうかく)[やぶちゃん注:沸騰した湯を入れた足のない大釜。]に於いて、之れを煮るべし。」

と。

 王、其の言(げん)のごとくす。

 頭を煮ること三日、三夕(せき)なるも爛(ただ)れず[やぶちゃん注:一向に爛れもせず、煮えもしない。]。頭、湯中より踔出(たくしゆつ)し[やぶちゃん注:撥ね上がって飛び出し。]、躓目(ちもく)して[やぶちゃん注:苦痛に目を歪めるの意か。訳す際は「目を怒らせて」でよかろう。]大いに怒る。

 客、曰く、

「此の兒の頭、爛れず。願はくは、王、自ら、往きて、之れを臨視(りんし)せんことを。是れ、必らずや、爛るるなり。」

と。王、卽ち、之れに臨む。客、劍を以つて、王を擬(う)ち、王の頭、隨ひて[やぶちゃん注:それと同時に。]、湯中(たうちう)に墮(お)つ。

 客、亦た、自(みづか)ら、己(おの)が頭を擬(う)ち、頭、復た、湯中に墮つ。

 三首、倶に爛れ、識別すべからず。乃ち、其の湯の肉を分ちて[やぶちゃん注:残った肉を適当に三つに分けて。]、之れを葬れり。故に、通(つう)じて[やぶちゃん注:(誰が誰の首(の肉)であるか判らぬので)一纏めにして。]「三王が墓」と名づけり。今、汝南の北、宜春縣が界(さかひ)に在り。[やぶちゃん注:現在の江西省宜春市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

   *

『「太平記」あたりにも出てゐる有名な話』「太平記」の「卷第十三」の「兵部卿(ひやうぶきやう)の宮薨御(こうぎよ)の事 付けたり 干將莫耶が事」である。所謂、中先代(なかせんだい)の乱(建武二(一三三五)年七月に故鎌倉幕府第十四代執権北条高時の遺児時行(ときゆき)が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱)によって、大塔の宮守良(もりなが)親王が鎌倉から落ちる足利直義の命により殺害されてしまうシークエンスに挿入されているものである。メイン・ストーリーは私の好きな話であり、全体はかなり長いが、「干將莫耶が事」自体が三分の二弱なので、敢えて全部を引く。その代り、細かな注は附さぬ。

   *

左馬頭(さまのかみ)、既に山の内を打過給ける時、淵邊(ふちべ)伊賀守を近付けて宣ひけるは、[やぶちゃん注:以下、直義の台詞。]

「御方(みかた)、無勢に依つて、一旦、鎌倉を引き退くと雖も、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓(やが)て又、鎌倉へ寄せんずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可踵(くびす)を囘(めぐ)らすべからず[やぶちゃん注:時を要することはあるまい。]。猶も只、當家の爲に、始終讎(あた)と成らるべきは、兵部卿親王(しんわう)なり。此御事(このおこと)、死刑に行なひ奉れと云ふ勅許はなけれども、此の次(つい)でに、只、失ひ奉らばやと思ふなり。御邊(ごへん)は急ぎ藥師堂が谷(やつ)へ馳せ歸つて、宮(みや)を刺し殺し進(まゐ)らせよ。」

と下知せられければ、淵邊(ふちべ)、畏(かしこま)つて、

「承はり候。」

とて、山の内(やまのうち)より、主從七騎、引き返して、宮の坐(ましま)しける牢(らう)の御所(ごしよ)へ參りたれば、宮は、いつとなく、闇の夜(よ)の如くなる牢の中に、朝(あした)に成りぬるをも知らせ給はず、猶、燈(ともしび)を挑(かか)げて御經あそばして御坐(ござ)有りけるが、淵邊が御迎ひに參りて候ふ由を申して、御輿(おんこし)を庭に舁(か)き居(す)ゑたりけるを御覽じて、

「汝は我を失はんとの使ひにてぞ有るらん。心得たり。」

仰せられて、淵邊が太刀を奪はんと、走り懸からせ給ひけるを、淵邊、持つたる太刀を取り直し、御膝(おんひざ)の邊りをしたゝかに打ち奉る。宮は半年許り牢の中に居屈(ゐかがま)らせ給ひたりければ、御足(おんあし)も快よく立たざりけるにや、御心(おんこころ)は、やたけに思召しけれども、覆(うつぶ)しに打ち倒され、起き上がらんとし給ひける處を、淵邊、御胸の上に乘り懸かり、腰の刀を拔いて御頸(おんくび)を搔かんとしければ、宮、御頸を縮めて、刀のさきを、しかと、呀(くは)へさせ給ふ。淵邊、したたかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引き合ひける間(あひだ)、刀の鋒(きつさき)一寸餘り折れて失せにけり。淵邊、其刀を投げ捨て、脇差(わきざし)の刀を拔いて、先(まづ)、御心(おんむな)もとの邊(へん)を、二刀(ふたかたな)、刺す。刺されて、宮、少し弱らせ給ふ體(てい)に見へける處を、御髮を摑んで引き上げ、則ち、御頸を搔き落とす。牢の前に走り出でて、明(あか)き所にて御頸を見奉るに、噬(く)ひ切らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とど)まつて、御眼(おんまなこ)、猶、生きたる人の如し。淵邊、是を見て、

「さる事あり。加樣(かやう)の頸をば、主(しゆ)には見せぬ事ぞ。」

とて、側(かたはら)なる藪の中へ、投げ捨ててぞ歸りける。

 去る程に、御介錯(おんかいしやく)の爲に、御前に候はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此の有樣を見奉(みたてまつ)て、餘りの恐しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたたで坐(ましま)しけるが、暫く肝(きも)を靜めて、人心(ひとごころ)付きければ、藪に捨てたる御頸を取り上げたるに、御膚(おんはだへ)も、猶、冷(ひ)えず、御目も塞(ふさ)がせ給はず、只、元(もと)の御氣色(ごきしよく)に見へさせ給へば、

「こは、若し、夢にてや有らん、夢ならば、さむるうつつのあれかし。」

と泣き悲しみ給ひけり。遙かに有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、

「斯(かか)る御事(おんこと)と承り及び候。」

とて葬禮の御事(おんこと)、取り營み給へり。南の御方は、軈(やが)て、御髮おろされて、泣く泣く、京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。

 抑(そもそも)淵邊が宮(みや)の御頸(おんくび)を取りながら、左馬頭殿に見せ奉らで、藪の傍らに捨てける事、聊か思へる所あり。昔、周の末(すゑ)の代(よ)に、楚王と云ひける王、武を以つて天下を取らん爲に、戰ひを習はし劍(けん)を好む事、年、久し。或る時、楚王の夫人、鐵(くろがね)の柱に倚傍(よりそ)ひてすゞみ給ひけるが、心地、ただならず覺えて忽ちに懷姙したまひけり。十月(とつき)を過ぎて後、産屋(うぶや)の席に苦しんで一つの鐵丸(てつぐわん)を産み給ふ。楚王、是を怪しとしたまはず、

「如何樣(いかさま)、是れ金鐵(きんてつ)の精靈(せいれい)なるべし。」

とて、干將と云ひける鍛冶(かぢ)を召され、此の鐵(くろがね)にて寶劍を作つて進(まゐ)らすべき由を仰せらる。干將、此の鐵を賜はつて、其の妻の莫耶と共に呉山(ござん)の中に行きて、龍泉の水に淬(にぶ)らして[やぶちゃん注:焼き入れをして。]、三年が内に雌雄(しゆう)の二劍(にけん)を打り出だせり。劍、成つて未だ奏せざる前(さき)に、莫耶、干將に向つて云ひけるは、

「此の二つの劍(けん)、精靈(せいれい)、暗(あん)に通じて、坐(ゐ)ながら、怨敵(をんでき)を滅ぼすべき劍也。我[やぶちゃん注:汝。]、今、懷姙せり。産む子は必ず猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然(しか)れば一つの劍をば、楚王に獻(たてまつ)るとも、今一つの劍をば、隱して我は子に與へたまふべし。」

と云ひければ、干將、莫耶が申すに付いて、其の雄劍一つを楚王に獻じて、一つの雌劍(しけん)をば、未だ胎内にある子の爲に、深く隱してぞ置きける。

 楚王、雄劍を開いて見給ふに、誠(まこと)に精靈(せいれい)有りと見へければ、箱の中に收めて置かれたるに、此の劍、箱の中にして、常に悲泣(ひきふ)の聲あり。楚王、怪みて群臣に其の泣く故を問ひ給ふに、臣、皆、申(まう)さく、

「此の劍、必ず、雄(ゆう)と雌(し)と二つ有るべし。其の雌雄、一所(いつしよ)に在らざる間、是れを悲しんで泣く者也。」

とぞ奏しける。

 楚王、大きに忿(いか)つて、則ち、干將を召し出され、典獄の官に仰(おほ)せて頸を刎ねられけり。

 其の後(のち)、莫耶、子を生めり。面貌、尋常(よのつね)の人に變つて長(たけ)の高き事、一丈五尺[やぶちゃん注:本邦の換算なら四メートル五十四センチメートル。]、力は五百人が力を合はせたり。面(おもて)、三尺(さんじやく)有つて、眉間(みけん)一尺有りければ、世の人、其の名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付けける。

 年十五に成りける時、父が書き置きける詞(ことば)を見るに、

 

  日出北戸南山其松 松生於石劍在其中

(日 北戸(ほくこ)に出づ 南山に其の松あり 松 石に生ず 劍 其の中に在り)

 

と書けり。

「さては此の劍、北戸の柱の中に在り。」

と心得て、柱を割つて見るに、果たして一つの雌劍あり。眉間尺、是れを得て、

「哀れ、楚王を討ち奉つて、父の仇(あた)を報ぜばや。」

と思ふ事、骨髓に徹(とほ)れり。

 楚王も眉間尺が憤りを聞き給ひて、彼、世にあらん程は、心安からず思はれければ、數萬(すまん)の官軍を差し遣はして、是れを責められけるに、眉間尺一人が勇力(ゆうりき)に摧かれ、又、其の雌劍の刃(やいば)に觸れて、死傷する者、幾千萬と云ふ數(かず)を知らず。斯(かか)る處に、父干將が古への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)、來(きたつ)て、眉間尺に向つて云ひけるは、

「我れ、汝が父干將と交はりを結ぶ事、年久しかりき。然(しか)れば、其の朋友の恩を謝せん爲(ため)、汝と共に楚王を討ち奉るべき事を謀るべし。汝、若し、父の仇(あた)を報ぜんとならば、持つところの劍の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)、嚼(く)ひ切つて口の中に含んで死すべし。我、汝が頸を取つて楚王に獻ぜば、楚王、悦んで、必ず、汝が頸を見給はん時、口に含める劍のさきを楚王に吹き懸けて、共に死すべし。」

と云ひければ、眉間尺、大きに悦んで、則ち、雌劍の鋒(きつさき)三寸、喫(く)ひ切つて、口の内に含み、自(みづか)ら己(おのれ)が頸をかき切つて、客(かく)の前にぞ指し置きける。

 客、眉間尺が頸を取つて、則ち、楚王に奉る。楚王、大きに喜びて、是れを獄門に懸けられたるに、三月(みつき)まで其の頸、爛れず、目をみはり、齒をくひしばり、常に齒喫(が)みをしける間(あひだ)、楚王、是れを恐れて敢て近づき給はず。

 是れを鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ、煮られける。

 餘りにつよく煮られて、此の頸、少し爛れて、目を塞ぎたりけるを、

「今は子細、非じ。」[やぶちゃん注:「最早、大事あるまい。」。]

とて、楚王、自ら、鼎の蓋(ふた)を開けさせて、是れを見給ひける時、此の頸、口に含んだる劍(けん)の鋒(きつさき)を、楚王に、はつと、吹き懸け奉る。

 劍の鋒、誤らず、楚王の頸の骨を切りければ、楚王の頸、忽まちに落ちて、鼎の中へ入りにけり。

 楚王の頸と眉間尺が頸と、煎え揚(あ)がる湯の中(なか)にして、上になり、下に成り、喫ひ相(あ)ひけるが、ややもすれば、眉間尺が頸は下に成つて、喫ひ負けぬべく見へける間、客(かく)、自ら、己(おのれ)が頸を搔き落して鼎の中へ投げ入いれ、則ち、眉間尺が頸と相ひともに、楚王の頸を喫ひ破つて、眉間尺が頸は、

「死して後(のち)、父の仇(あた)を報じぬ。」

と呼ばはり、客(かく)の頸は、

「泉下(せんか)に朋友の恩を謝しぬ。」

と悦ぶ聲して、共に皆、煮え爛れて失せにけり。

 此の口の中に含んだりし三寸の劍、燕の國に留まつて太子丹(たいしたん)が劍となる。太子丹、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦の始皇を伐たんとせし時、自(みづか)ら差圖の箱の中(なか)より飛び出でて、始皇帝を追ひ奉りしが、藥の袋を投げ懸けながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切つて、遂(つひ)に三つに折れて失せたりし匕首(ひしゆ)の劍(けん)、是れ也。

 其の雌雄二つの劍は干將莫耶の劍と云はれて、代々の天子の寶(たから)たりしが、陳(ちん)の代(よ)に至つて[やぶちゃん注:この辺り以降、登場人物と歴史的時制は齟齬する。]、俄かに失せにけり。或る時、天に一つの惡星(あくせい)出でて、天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云ひける二人(ににん)の臣、樓臺に上(のぼ)つて此の星を見るに、舊(ふる)き獄門の邊(へん)より、劍(けん)の光り、天に上(のぼ)つて惡星と鬪かふ氣あり。張華、怪しんで、光の指(さ)す所を掘らせて見るに、件(くだん)の干將莫耶の劍、土(つち)五尺(ごしやく)が下に埋(うづ)もれてぞ殘りける。張華・雷煥、是れを取つて天子に奉らん爲に、自(みづか)ら是れを帶(たい)し、延平津(えんぺいしん)と云ふ澤(さわ)の邊(へん)を通りける時、劍、自(みづか)ら拔けて、水の中(なか)に入りけるが、雌雄二つの龍(りゆう)と成つて遙かの浪(なみ)にぞ沈みける。

 淵邊、加樣(かやう)の前蹤(せんじよう)[やぶちゃん注:故事。]を思ひければ、兵部卿親王の刀の鋒(きつさき)を喫ひ切らせ給ひて、御口の中に含まれたりけるを見て、左馬頭に近か付け奉らじと、其の御頸をば藪の傍らに棄てけるとなり。

   *]

 

2017/06/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「金銀の精」

 

 金銀の精

 

 北齊の武成の時、安陽縣に黃といふ家があつた。代々の大金持であつたが、或時占者から、君の家の財物を占つて見るのに、皆外へ出ようとしてゐる、よくこれを守らなければならぬ、それが出てしまへば大貧になる、と注意された。それから每晩手分けをして、よく守るやうにしてゐたところ、或晩黃色の著物を著た人が馬に乘つて北門から出て行く。白衣の一隊は西門から、靑衣の一隊は東門から、いづれも馬に乘つて出るのに氣付いた。それが皆口々に、趙虞の家はどこか、こゝからどのくらゐの距離か、と尋ねる。その時はぼんやりしてゐて、あとになつて氣が付いたが、黃衣は金、白衣は銀、靑衣は鏡だつたので、一口に黃白靑餞といふ貨幣が、相率ゐて黃の家を去るところだつたのである。やゝしばらくして今度は跛を引いた男が、薪を背負つて出て來て、こいつまでが趙虞の家を尋ねてゐる。癇癪を起して下男に棒で撲らせたら、足の折れた鍋であつた。これ以來、黃の家は次第に貧乏になつた(靈怪錄)。

[やぶちゃん注:「北齊の武成の時」南北朝時代に高氏によって建国された北斉(ほくせい 五五〇年~五七七年)の第四代武成(ぶせい)帝の治世は五六一年から五六五年。

以上は「太平廣記」の「妖怪三」にある「廣古今五行記」を出典とする「安陽黃氏」と同じである。「靈怪錄」では確認出来なかった。

   *

北齊武成時、安陽縣有黃家者、住古城南。其先累世巨富、有巫師占君家財物欲出、好自防守。若去、家卽大貧。其家每夜使人分守。夜有一隊人。盡着黃衣。乘馬、從北門出。一隊白衣人、乘馬、從西門出。一隊青衣人、乘馬、從東園門出。悉借問趙虞家此去近遠。當時並忘、去後醒覺、撫心懊悔、不可復追。所出黃白靑者、皆金銀錢貨。良久。復見一人、跛脚負薪而來、亦問趙虞。家人忿極。命奴擊之。就視、乃家折脚鐺也。自此之後、漸貧、死亡都盡。

   *]

 

 一家の沒落する時は大體こんなものであらう。いくら嚴しく守るつもりでも、金銀錢が各自一隊を率ゐて出て行く形勢になつては、人力の防ぐ餘地はなささうである。

 

 建安の村に住む者が、常に一人の小僧を城中まで使ひに出してゐたところ、その家の南に大きな古塚があつて、城中へ出るにはどうしてもこゝを通らなければならぬ。小僧がこゝを通る每に、必ず黃色の著物を著た少年が現れて、角力を挑んで來る。筑後川の河童のやうなわけである。その相手になつて角力を取るから、往復の時間は每日おくれる。主人に叱られて、小僧はつゝまず白狀したが、主人は何か腑に落ちぬところがあつたらしく、今度は俺も一緒に行かうと云ひ出した。果して少年が現れて角力を挑むのを、草の中に隱れてゐた主人が不意に飛び出して、持つてゐた槌で打ち据ゑた。少年の姿は一擊して黃金製の小兒となり、それを持ち歸つた主人は急に金持になつた。

[やぶちゃん注:後に出るように、これは「稽神錄」の「第五卷」にある「建安村人」である。

   *

建安有人村居者、常使一小奴出字城市、經過舍南大塚、塚旁恒有一黃衣人與之較力爲戲、其主因歸遲將責之、奴以實告、往覘之、信然。一日挾撾而往、伏於草間。小奴至、黃衣兒復出、卽起擊之、應手而僕、乃金兒也。因持以歸、家遂殷富。

   *]

 

 これに似た話は廬州の軍吏蔡彦卿が柘皐の鎭將になつてゐた頃、夏の晩に鎭門の外に出て涼んでゐると、路の南にある桑林の中で、白衣の女が一人舞つてゐるのが見える。不思議に思つて近付いたら、女の姿はもう見えなかつた。翌晩、蔡が杖を携へて桑林の中に潛んでゐるとは知らず、白衣の女はまた現れて舞ひはじめた。蔡が飛びかゝつて打ち倒すと同時に、女は一枚の白銀に變つた。蔡は更にその邊の土を掘り返して、數千兩の銀を發見した。

[やぶちゃん注:これも「稽神錄」の同じ「第五卷」の「蔡彦卿」。

   *

廬州軍吏蔡彦卿爲拓皐鎭將、暑夜坐鎭門外納涼、忽見道南桑林中、有白衣婦人獨舞、就視卽滅。明夜、彦卿扶杖先往、伏於草間、久之、婦人復出而舞、卽擊之墜地、乃白金一餠。復掘地、獲銀數字千兩、遂致富裕雲。

   *]

 

 この二つの話は共に「稽神錄」に出てゐる。角力を挑む少年の變つたのは、一箇の黃金像であつたが、桑林に舞ふ白衣の女は、自身一片の白銀に化したのみならず、他に數千兩といふ同類を蔡に發見させてゐる。「靈怪錄」の黃氏の場合と違ひ、これは新たに獲得される話であるが、古塚の中や桑林の蔭に埋もれた金銀の側から云へば、やはり世に出でんとする心持があつて、わざわざ人の目に付く擧動に出たのかも知れぬ。「靈怪錄」及び「稽神錄」の記載により、金は人に化するに當つて黃衣を著、銀は白衣を著ることを知り得た。

 

 天寶中の長安永樂里に凶宅があつた。こゝに住む者は皆祟りを受けるので、後には誰一人としてとどまらず、家は荒れ放題、草木は茂り放題といふ狀態になつてゐた。たまたま蘇遏なる者が貧乏に苦しむところから、一つこの家でも借りて見ようかといふ氣になり、約束だけしてまだ一錢も拂はなかつたに拘らず、先づ寢を運んで一晩泊ることにした。凶宅の話はいろいろ聞かされてゐるので、容易に睡ることが出來ぬ。家の中をぶらぶらしてゐると、突然東の牆(かきね)の下から赤い物が現れた。人のやうな形をしてゐるけれど手足がなく、全身透き通つて一種の光りを放つ。この物が爛木と呼ぶと、西の牆の邊に答へる者がある。それから兩者の間に電信文のやうな、禪問答のやうな、簡單な言葉が交換されたが、やがて赤い物は見えなくなつた。遏はびくびくしながらも好奇心が動いて、中庭に立つて爛木と呼んで見た。爛木は先刻と同じ聲で何か云ふ。この家で人を殺害した者は今何處に在るかと問ふと、別にさういふ者がゐるわけではない、金の精なのであるが、福分の薄い者は一緒に居ることが出來ず、自分で死んでしまふのだ、殺傷した者などは一人もゐない、と答へた。一夜は無事に明けたので、遏は早速鋤鍬(すきくは)を持つて來て西の牆の下を掘る。地下三尺ばかりのところから出たのは、一本の古い柱で、石のやうに堅く、その心(しん)が血のやうな色をしてゐる。次いで東の牆の下を掘つたら、長さ一丈八寸、幅一丈四寸の石に、篆書で「夏天子紫金三十斤賜有德者」と記されたものが出て來た。遏は自ら省みて、何等德と稀すべきものを持ち合せてゐない。果してこの寶を得る資格があるかどうか、容易に決心が付かぬうちに夜になつた。その時爛木の聲で、君は何故名を改めぬのだ、有德といふ名にすればいゝぢやないか、といふのが聞えたので、やつと分別がきまつて有德と名乘ることにした。爛木は更に發言して、わたしを昆明池の中へ送つて貰へれば有難い、と云ふ。有德は直ちにこれを首肯し、翌朝更に一丈ほど掘り下げると、鐡の甕(かめ)が地中に在つた。石に記された通り、紫金三十斤がその中にあつたので、直ちにこの金で宅の價を拂つたのみならず、荒れた建物に修理を加へるに至つた。凶宅と稱したのは昨日までの夢で、有德は思ひがけぬ安住の地を得たのである。彼は約に從ひ爛木を昆明池に送つた後、閉戸して書を讀むこと三年、途に冀州刺史になつたが、その家は永く無事であつたと「博異志」に見えてゐる。この話では最初に赤い人のやうな形を現した金の精が主役で、爛木はワキのやうに思はれる。金の精が人の命を取るといふのは受け取りにくい話だから、これは爛木が説明したやうに、凶宅の名におびえた人が自ら死んだので、逆に云へば福分の乏しい者は同じ家に在りながら、その金を所有し得ぬといふことになるのであらう。遏の名を有德と改めて紫金を手に入れたのも、畢竟それだけの天分があつたからに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「天寶中」唐の玄宗の治世後半に使用された元号。七四二年から七五六年。

「爛木」「ランボク」であろうが不詳。妖怪の名ではあるが、ムクロジ目ウルシ科カイノキ属カイノキ Pistacia chinensis は、「楷樹」以外にも「爛心木(らんしんぼく)」と呼び、又、「孔子の木(くしのき)。現代中国では「黃連木」とも呼ばれる。ウィキの「カイノキ」によれば、『カイノキは、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が代々植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされる』とあり、中国では古代からそうした霊の宿る樹として認識されていた感じがする。

「長さ一丈八寸、幅一丈四寸」唐代であるから、長さ約三メートル三十六センチ、幅三メートル二十四センチほど。

「夏天子」中国の史書に記された最古の王朝夏(紀元前一九〇〇年頃或いは紀元前二〇〇〇年頃~紀元前一六〇〇年頃)の君主の謂いか。

「紫金」赤銅(しゃくどう)の異称。

「三十斤」約十八キログラム弱。

「昆明池」本来は雲南省昆明の南方にある湖、滇池(てんち)の別名であるが、後、漢の武帝がそれを真似て、長安城の西に掘らせた池の名でもある。ここは本来のそれか。

「冀州」「きしゅう」(現代的仮名遣)と読み、唐代のそれは河北省の一部。詳しくはウィキの「冀州」を参照されたい。

 これは「太平廣記」の「寶一金上」に「博異志」を出典として出る「蘇遏」(ソアツ)である。

   *

天寶中、長安永樂里有一凶宅、居者皆破、後無復人住。暫至、亦不過宿而卒、遂至廢破。其舍宇唯堂廳存、因生草樹甚多。有扶風蘇遏、悾悾遽苦貧窮、知之、乃以賤價、於本主質之。纔立契書、未有一錢歸主。至夕、乃自攜一榻、當堂鋪設而寢。一更已後。未寢、出於堂。徬徨而行。忽見東墻下有一赤物、如人形、無手足、表裏通徹光明。而叫曰、「咄。」。遏視之不動。良久、又按聲呼曰、「爛木、咄。」。西墻下有物應曰、「諾。」。問曰、「甚沒人」。曰、「不知。」。又曰、「大硬鏘。」。爛木對曰、「可畏。」。良久、乃失赤物所在。遏下階、中庭呼爛木曰、「金精合屬我、緣沒敢叫喚。」。對曰、「不知。」。遏又問、「承前殺害人者在何處。」。爛木曰、「更無別物、只是金精。人福自薄、不合居之、遂喪逝。亦不曾殺傷耳。」。至明、更無事。遏乃自假鍬鍤之具。先於西墻下掘。入地三尺、見一朽柱、當心木如血色、其堅如石。後又於東墻下掘兩日、近一丈、方見一方石、闊一丈四寸、長一丈八寸。上以篆書曰、夏天子紫金三十斤、賜有德者。遏乃自思、「我何以爲德。」。又自爲計曰、「我得此寶、然修德亦可禳之。」。沈吟未決、至夜、又歎息不定、其爛木忽語曰、「何不改名爲有德、卽可矣。」。遏曰善、遂稱有德。爛木曰、「君子儻能送某於昆明池中、自是不復撓吾人矣。」。有德許之。明辰更掘丈餘。得一鐵甕、開之、得紫金三十斤。有德乃還宅價修葺、送爛木於昆明池。遂閉讀書、三年、爲范陽請入幕、七年、獲冀州刺史。其宅更無事。

   *

なお、以上は高西成介の論文「『太平広記』訳注(稿)―巻四百 「宝」部金上(下)」(PDF。高知県立大学リポジトリ」のでダウンロード可能)で総ての書き下し文と訳注が読める。必見。]

 

「博異志」にはまだこんな話もある。岑文本といふ人が山亭に暑を避けて晝寢から覺めたところへ、忽然として門を敲く者があつた。上淸量子元寶と名乘つて、是非拜顏を得たいといふことだから、元來道を慕ふ文本としては等閑に附することは出來ない。座に通つたのを見れば、二十歳にはならぬと思はれる若い男で、冠り物も衣服も履も悉く淡靑色づくめである。衣服の地は何ともわからぬが、齊紈魯縞(さいぐわんろかう)より更に輕いものであつた。元寶は若僧(わかぞう)の癖になかなか雄辯で、自分の家系や著てゐる衣服に就いて、種々の引き事をして滔々と辯ずる。永い夏の日も夕方になつて漸く辭し去つたが、門を出たか出ぬのにもう姿は見えなくなつた。文本はひそかに彼を異人としたが、元寶はその後も屢々やつて來て、得意の談論に時を移して行く。彼の歸るあとを人につけさせて見たら、山亭を出て數步東へ行つたあたりの牆の下で、忽ち姿を消してしまつた。人を雇つてその邊を掘らせたところ、三尺ばかりにして一つの古い墓に掘り當てたが、墓の中には何もなく、たゞ一枚の古鏡があるきりであつた。文本は初めて彼が錢の精であることを悟り、元寶は鏡の面に鑄出された文字とわかつた。彼が談論の中で、「夫れ道は方圓の中に在り、僕外服は圓にして心は方正なり」などとむづかしいことを竝べてゐたのも、寶は孔のあいた鏡の形に外ならぬのである。靑衣の銅鏡であることは「靈怪錄」によつて立證せられる。文本はこの時の記念に古鏡を藏してゐたが、十餘年後にその鏡を見失ひ、それから間もなく東本自身も亡くなつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「寶六錢」の中の「博異志」を出典とする「岑文本」(シンブンホン)で示す。

   *

唐貞觀中、岑文本下朝、多於山亭避暑。日午時、寤初覺、忽有扣山亭院門者。藥豎報云、上清童子元寶、故此參奉。文本性素慕道、束帶命入。乃年二十已下道士、儀質爽邁、衣服纖異。冠淺靑圓角冠、衣淺靑圓用帔、履靑圓頭履。衣服輕細如霧。非齊紈魯縞之比。文本與語。乃曰、「僕上淸童子、自漢朝而果成。本生於呉、已得不凝滯之道、遂爲呉王進入、見漢帝。漢帝有事、擁遏教化、不得者無不相問。僕嘗與方圓行下、皆得通暢。由是自著。文、武二帝、迄至哀帝、皆相眷。王莽作亂、方出外方、所至皆沐人憐愛。自漢成帝時、遂厭人間、乃尸解而去。或秦或楚、不常厥居。聞公好道、故此相謁耳。」。文本詰以漢魏齊梁間君王社稷之事。了了如目覩。因言史傳間、屈者虛者亦甚多。文本曰、「吾人冠帔、何制度之異。對曰、「夫道在於方圓之中、僕外服圓而心方正、相時之儀也。」。又問曰、「衣服皆輕細、何土所出。對曰、「此是上淸五銖服。」。又問曰、「比聞六銖者天人衣、何五銖之異。」。對曰、「尤細者則五銖也。」。談論不覺日晚、乃別去。纔出門而忽不見。文本知是異人。乃每下朝、卽令伺之、到則話論移時。後令人潛送、詣其所止。出山亭門、東行數步、於院墻下瞥然而沒。文本命工力掘之、三尺至一古墓。墓中無餘物。惟得古錢一枚。文本方悟、上青童子是靑銅、名元寶、錢之文也。外圓心方、錢之狀也。靑衣銅衣也。五銖服亦錢之文也。漢時生於呉。是漢朝鑄五銖錢於王也。文本雖知之、而錢帛日盛、至中書令。十年、忽失古錢所在、文本遂薨。

   *]

 

 「伽婢子」の作者はこの話を「和銅錢」と題して日本風に書き直した。文明年中に長柄(ながら)の僧都昌快が西院の里に引籠り、草庵を結んで靜かに暮してゐるところへ、秩父和通と名乘る五十ばかりの怪しき人が訪ねて來る。この人が僧都に向つて説く深遠玄妙の理の中に、例の外圓心方の説があるのは云ふまでもない。客の姿が庵の東方二十間ばかりの藪の前で見えなくなつたので、翌日里人を賴んで掘らせたら、一つの箱に入つた百文の古鏡が出て來た。秩父和通と名乘つたのは、元明天皇の御宇に武州秩父の郡より銅を貢することがあり、和通は卽ち和銅通寶の略である。この前後の説明はいさゝか馬琴(ばきん)流で、煩はしい感がないでもない。僧都はその百文を里人に分ち、自分は眞言陀羅尼を唱へて供養遂げたが、その後に應仁の亂が起つて里人は散り散りになり、僧都も行方不明、古鏡も皆とり失へりといふ、と結んでゐる。此較的原本に忠實な飜案と云へるであらう。

[やぶちゃん注:以上は「御婢子」の「第五巻」の冒頭にある「和銅錢(わどうのぜに)」、別題「長柄僧都が錢の精靈に逢(あふ)事」。明白な翻案であるので、内容の本邦の時制的事実や、例示故実などは五月蠅くなるだけなので、注さなかった。参考にした岩波の新古典文学大系版の挿絵を添えた。

   *

 

   和銅錢

 

Wdounozeni

 

 京都四條の北大宮の西に、いにしへ淳和天皇の離宮ありける。こゝを西院(さゐん)と名づく。後に橘の大后(おほいさき)の宮すみ給へりといふ。時世移りて宮殿は皆絶えてわづかに名のみ殘り、今は農民の住家(すみか)となれり。

 文明年中に長柄(ながら)の僧都(そうづ)昌快(しやうわい)とて學行(がくぎよう)すぐれたる僧あり。世を厭うて西院の里に引籠り、草庵を結びて靜かに行はれしに、或日怪しき人尋ねて入來(いりきた)る。年五十ばかり、其姿はなはだ世の常ならず、いたゞき圓(まろ)くして下に角(かど)ある帽子をかづき、直(なをし)衣の色、淺黃(あさぎ)にて其織りたる糸細く、かろらかに薄き事蝉のつばさに似たり。みづから秩父和通(ちゝぶかずみち)と名乘りて、僧都とさし向ひ坐してさまざま物語りす。

「我は元、これ、武州秩父郡(ちちぶのこほり)の者、中比(なかごろ)、都に上り、それより本朝諸國の内、ゆかざる所もなく見ざる所ものなし。」

といふ。僧都、心に思はれけるは、これまことの人にあらじと推量(おしはか)りながら、しばしば問答して時を移す。眞言三部、兩界(りやうかい)の曼茶羅、印明陀羅尼(いんみやうだらに)、潅頂(くはんぢやう)の事までも、其深き理(ことはり)を陳(の)ぶるに、僧都、未だ知らざる事、多し。それより世の移り行く有さま、昔今の事、親(まの)あたり見たるが如くに語りけり。僧都問ひけるは、

「君の帽子は本朝の制法に似ず、外(ほか)、圓(まろ)くして、内、方(けた)[やぶちゃん注:四角。]なるは何故ぞや。」

と。和通(かずみち)答へけるは、

「凡そ天地萬物のかたち、品々ありと雖(いへども)、つゞまる所は圓(まろ)き、方(けた)なる、二つの外なし。我、外を圓(まど)かに、心を方(けた)にす。天のかたちは方也。圓きは物のかたよらざる所、方(けた)なるは物の正しき所也。されば、我が道(たう)は萬物にかたよらずして、しかも萬物にはづれず、正しくして曲(まがり)ゆがまず。これをあらはして頭(かしら)に戴けり。」

といふ。僧都の曰、

「君の直衣(なほし)ははなはだ、かろく、細(ほそう)して、薄し。是、いづれの國より織り出だせる。」

と。和通、答へけるは、

「是、五銖(しゆ)[やぶちゃん注:「銖」は重量単位。一銖は〇・五九グラム。]の衣(きぬ)と名付く。天上の衣は三銖といへども、下天の衣は皆、重き五銖・六銖なり。」

といふ。僧都、さては、いよいよ人間にあらずと思ひて、重ねて問ひけるは、

「君、まことは如何成る人ぞ。名乘り給へ。」

と云ふに、此人、打笑ひ、

「僧都の道心深きによりてこそ來りて物語はすれ、わが名を名乘るには及ばず、やがて名乘らずとも知ろしめされむものを。今は日も暮がた也、いとま申さむ。」

とて座を立ちて出づる。其(その)行く跡を認(とめ)て見れば、庵(いほり)の東のかた二十間[やぶちゃん注:三十六メートル強。]ばかりにして、竹藪の前にて姿は見失へり。

 明日(あくるひ)、里人を賴みて、其(その)所を掘らせらるゝに、三尺ばかり下に一つの箱あり。其中に錢百文を得たり。其外には何もなし。僧都、是を取りて見るに和銅通寶の古錢なり。つらつら思うに、秩父和通は此錢の精なる事疑ひなしとて、地を堀ける里人をよびて、僧都、物語せられけるやう、

「此人の形、初めより恠しみ思へり。今、是を案ずるに、昔、本朝人王四十三代元明天皇の御宇、七月に武州秩父の郡より初めて銅(あかゞね)を貢(たてまつ)る。其時の都は津の國灘波(なには)の宮におはしませり。是によりて慶雲(けいうん)五年を改めて、和銅元年と改元あり。此年始めて貢(たてまつ)りし銅をもつて錢を鑄(い)させらる。されば今、この和銅通貨の古錢は、其時の錢なるべし。帽子の外圓(まろ)く内方(けた)なるも、これ錢の狀(かたち)也。靑き色のひたゝれは、これ銅の衣(さび)ならん。五銖の重さは、錢の重さをあらはし、和通と名のりしは、和銅通貨の略せる名也。秩父の者と云ひしは、もと銅(からかね)の出(いで)そめし所也。それより都に上り、諸國あまねく巡り見たるといひるも、錢となり諸國につかひわたされし事なるべし。それ、錢のかたち、外圓きは、天にかたどり、穴の方(けた)なるは地にかたどり、表裏(おもてうら)は陰陽なり。文字の數四つは四方にかたどり、其年號をあらはして、天下に賑はす寶とす。錢はこれ足なくして遠く走り、翅(つばさ)なくして高く揚(あが)る。容曲(かほくせ)わろきも、錢に向へば、笑ひを含み、詞(ことば)少なき人も、錢をみては、口を開く。杜預(とよ)に左傳(さでん)の癖あり。樂天に詩の癖あり。樊光(はんくわう)は錢の癖ありいといへ共、錢の曲癖(くせ)は人每(ごと)にあり。鬼をしたがへ兵(つはもの)をつかふも、みな錢に過ぎたる術(てだて)はなし。欲深き者、錢を見ては飢(うゑ)て食を求るが如く、貪り多き人、錢を得ては病人の醫師(くすし)に逢ふに似たり。まことに寶(たから)なり。」

とて打笑ひ、かの百文の錢を分ち、里人に與へ、みづから眞言佗羅尼となへて供養をとげらる。里人それより、家々賑はひゆたかになりて、僧都を敬ひかしづきしが、後に山名が亂に逢ふて、里人皆ちりぢりになり、僧都も行きがたなく、古錢(こせん)も皆、とり失なへりといふ。

   *]

柴田宵曲 續妖異博物館 「押手聖天」

 

 押手聖天

 

 相州鎌倉宿の下に押手聖天(おしでしやうでん)といふ歡喜天を祭るところがあつた。その緣起によれば、むかし官女を戀うた男があつて、叡山の聖天に祈り、神助によつて時々逢ふことが出來た。官女が黃昏時には行方不明になるのに不審を懷いた宮中の人々が本人に質(ただ)すと、自分の意思ではなしに夢の如く誘はれて行くのだといふ。然らば手に墨を濺いで、その家の門の戸に押して來たらよからうと勸め、教への通りにして見たが、翌日人を遣はして見させたところ、京中の戸には悉く手の形が押してあつたので、どれがどれだかわからなくなつた。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」に(リンク先は私の全電子テクスト注)、

   *

靑梅聖天 靑梅聖天(あをむめのしやうでん)は、雪下(ゆきのした)より小袋坂(こふくろさか)へ登る左に小坂(こさか)あり。巖窟(いはや)の内に聖天の宮(みや)有。故に坂を聖天坂と云ふ。是を靑梅の聖天と云事は、俗に傳ふ、鎌倉の將軍、一日疾(やま)ひ劇(はなは)だしふして、時ならず靑梅を望まる。諸所を尋ぬるに、此宮の前に俄かに靑梅實(み)のる。是を將軍に奉て、終に疾ひ愈へぬ。故に名くと。

   *

とのみ出る。これは実は現存し、現在の雪ノ下二丁目、旧巨福呂坂切通(現在は民家で行き止まりになっていて通行は不能であるが、江戸末期まではこの旧切通)の傍らに立つが、あまり知られているとは言えない。南北朝期の作とされる双身歓喜天を祀る(私は残念ながら写真のみで実見したことはない。現在は七月十六日の例祭時以外は国宝館寄託か? アンドエム氏のブログ「恵比寿ゲイバーアンドエムのブログ」の「鎌倉×密教展」で後姿の写真が見られる。かなり人型に近いそれである(一般の歓喜天は人身象頭)ことは分かるものの、やはり鼻は象である)。ところが、実は同じ書の「卷之一」(同じく私の電子テクスト注)の鶴岡八幡宮の、かつて存在した僧坊「相承院」の条に、

   *

相承院 初は頓學坊・良嘉律師たり。平家の一門なり。寛喜三年十月七日に寂す。八十二。本尊は、正觀音也。【東鑑】に、治承四年八月廿四日。椙山(すぎやま)敗亡の時、賴朝髻(もとゞり)の中の正觀音の像を取て、或(ある)巖窟に安じ奉らる。土肥實平(とひのさねひら)、其の御意(をんこゝろ)を問(とひ)奉るに、仰(をほせ)に云、首(くび)を景親(かげちか)等(ら)に傳(つたふ)るの日(ひ)、此本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非るの由、人定て誹(そしり)を貽(のこす)べし。件(くだん)の尊像は、賴朝三歳の時、乳母(めのと)淸水寺に參籠せしめ、嬰兒の將來を祈る事懇篤にして、二七箇日を歷ヘて靈夢の告を蒙り、忽然として、二寸の銀の正觀音の像を得て歸敬し奉る所也。同年十二月廿五日、巖窟に納らるゝ所の小像の正觀音、慧光坊の弟子閼伽桶(あかをけ)の中に安じ奉り、鎌倉に參著す。數日山中を搜し、彼巖窟に遇て希有にして尋ね出し奉るの由申す。武衞合手(てをあはせ)請取(うけとり)給ふとあり。今此の木像の頂に納(をさめ)てあり。又、押手(をして)の聖天(しやうてん)と云ふ。此(こゝ)にあり。是は本(もと)叡山にあり。後一條帝の時、左京の大夫道雅(みちまさ)、伊勢の齋宮(いつきのみや)を戀(こふ)て、「今は只(たゝ)思ひ絶(たへ)なんとばかりを、人つてならていふよしもかな」と詠じて、且つ此の聖天に祈る。其の利生により、齋宮、男の家に通ひ給ふ。此事宮中に顯はれて、其の由を糺し問(とふ)に、齋宮、我が心共なく夢の如(ごとく)にさそわれ行(ゆく)となん。羣臣謀(はかつ)て、齋宮の手に墨を付(つけ)て行(ゆき)、彼の門(もん)に押(をさ)しむ。歸(かへり)て後(のち)、人をして見せしむるに、路中の門々(もんもん)に皆手形(てがた)ありて、何れをそれと知(しり)がたし。是れ聖天の所爲也。佛力とは云ながら、齋宮をかくせし罪(つみ)なりとて、鎌倉に捨られしを、此(こゝ)に安ずとなり。故に押手の聖天と云。縁起に詳(つまびらか)なり。此の聖天は、慈覺大師異國より將來の像也と云ふ。

   *

とある後半部と完全に一致する話柄である。ここに出る「左京の大夫道雅」は公卿で歌人の藤原通雅(正暦三(九九二)年~天喜二(一〇五四)年)。儀同三司伊周長男で、一条天皇皇后定子の甥に当たる。幼児期は祖父中関白道隆に溺愛されて育ったが、道長の政権奪取、父伊周の花山院への不敬事件(長徳の変)などによる実家の中関白家の凋落する中で成長、世に「荒三位」「悪三位」と呼ばれ、殺人教唆を含む数々のスキャンダルに飾られた人生を送っているが、本件はその一つで、長和五(一〇一六)年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王(長保三(一〇〇一)年~治安二(一〇二二)年):三条天皇第一皇女。)と密通、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った事件を指す。ウィキの「当子内親王」によれば、『二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母娍子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれてしまう。世間では「伊勢物語の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情する声もあったが、内親王は悲しみのうちに』翌寛仁元(一〇一七)年、病により出家している。その六年後に短い生涯を閉じた、とある。一方、通雅は和歌に巧みで、中古三十六歌仙の一人としても知られ、「小倉百人一首」には道雅がこの当子内親王に贈った歌が採られている。「後拾遺和歌集」の詞書を附して併詠された二首も加えて以下に掲げておく(底本は岩波新日本古典大系版を用いたが、恣意的に正字に直した)。

 

   伊勢の齋宮わたりよりのぼりて侍りける人に

   忍びて通ひけることをおほやけも聞しめして

   守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はず

   なりにければ、詠み侍りける 左京大夫通雅

 

 逢坂は東路とこそ聞くきしかど心づくしの關にぞありける

 

 さかき葉のゆふしでかけしその神にをしかへしても似たるころかな

 

 いまはたゞ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな

 

案外、この二首目当たりがこの「押手の聖天」のルーツかも知れない。但し、実は私は最終的に、この相承院にあったとする聖天像と、青梅聖天のそれは、残念ながら、全くの別物であったと判断している。それについては、私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  靑梅聖天」の私の注を参照されたい。

 

 天野信景はこの話を「鹽尻」に書いて、「唐の書に見え侍らぬにや」と云つてゐるが、これは二つに分けて考ふべき要素があるやうである。一つは例のアリ・ババの話にある女奴隷モルギアナの才覺で、アリ・ババの家を突き止めた盜賊が、扉の上に白墨で目じるしを付けて歸ると、モルギアナは直ちにそれを發見して、近所の家の扉に皆同じ目じるしを付けてしまふ。第二の盜賊は赤い白墨を用ゐたが、これもモルギアナの炯眼に看破されて、折角の目じるしが二度まで失敗に了る話である。かういふ目じるしを無數にする話は、世界お伽噺の中の「夢の三郎」にもあつた。楚の莊王が群臣に酒を賜うた時、燭の消えたのに乘じて美人の衣を引く者があり、美人がその冠の纓(えい)を絶つたと聞き、王が群臣に皆纓を絶たしめて、誰だかわからぬやうにした「説苑」の話なども、動機は少し違ふけれど、同じ範疇に入るべきものであらう。

[やぶちゃん注:「天野信景」(あまのさだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)は江戸中期の尾張藩士で国学者、「塩尻」は彼が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し、歿年まで書き継がれた、国史・地誌・文学など多岐に亙る全千巻とも伝えられる壮大な随筆集(現存するものは百七十巻に過ぎない)。私は所持しないので、そちらの原典は示せない。国立国会図書館デジタルコレクションにあるにはあるが、捜すのが頗る面倒なので諦めた。悪しからず。

「女奴隷モルギアナ」「アリババと四十人の盗賊」に登場する、アリババの兄で強欲なカシムの家に仕えていた若くて聡明な女奴隷。「モルジアナ」「マルジャーナ」などと音写する。カシムが盗賊らに殺された後はアリババを助け、ウィキの「アリババと40人の盗賊」によれば、結末で『盗賊たちは、聡明なモルジアナの機転により』、『全員返り討ちにされ』、『この功績によって、モルジアナは奴隷の身分から一躍カシムの息子の妻になり、洞穴の中に残っていた莫大な財宝は国中の貧しい人たちに分け与えられて、アリババの家は末永く栄えた』とある。なお、彼女のこの名は「小さな真珠」の意味があり、『かつてアラビアでは、奴隷を宝石・珊瑚・真珠・花などの名で呼ぶ風習があった』ことによる、とある。因みに、『「ババ」という言葉は、アラビア語・ペルシャ語で「お父さん」の意』であり、また、実は本物語は『『アラビアンナイト』(千夜一夜物語)の中の一編として認識されることが多いが、『アラビアンナイト』の原本には収録されていなかった』ともある。

『世界お伽噺の中の「夢の三郎」』巖谷小波編になる「世界お伽噺」(合本は明治四一(一九〇八)年博文館刊)に載る。原話はハンガリーのもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。小波が元としたフランツ・オットー(Franz Otto)のDer Jugend Lieblings-Märchenschatz(「少年少女のためのメルヒェン集」)では「末子(すえこ)の夢」と題されているらしい。

「楚の莊王が群臣に酒を賜うた時、燭の消えたのに乘じて美人の衣を引く者があり、美人がその冠の纓(えい)を絶つたと聞き、王が群臣に皆纓を絶たしめて、誰だかわからぬやうにした」「纓」は冠を被った際に顎の下で結ぶ付属の紐のこと。これが載る「説苑」(ぜいえん)は前漢の学者で政治家の劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)の撰(或いは編)になる故事・説話集で、以上の話は以下の「復恩」の下線部。

   *

楚莊王賜群臣酒、日暮酒酣、燈燭滅、乃有人引美人之衣者、美人援其冠纓、告王曰、「今者燭滅、有引妾衣者、妾援得其冠纓持之、趣火來上、視絶纓者。」。王曰、「賜人酒、使醉失禮、奈何欲顯婦人之節而辱士乎。」。乃命左右曰、「今日與寡人飲、不絶冠纓者不懽。」。群臣百有餘人皆絶去其冠纓而上火、卒盡懽而罷。居三年、晉與楚戰、有一臣常在前、五合五奮、首卻敵、卒得勝之、莊王怪而問曰、「寡人德薄、又未嘗異子、子何故出死不疑如是。」。對曰、「臣當死、往者醉失禮、王隱忍不加誅也。臣終不敢以蔭蔽之德而不顯報王也。常願肝腦塗地、用頸血湔敵久矣、臣乃夜絶纓者。」。遂敗晉軍、楚得以強、此有陰德者必有陽報也。

   *

しかし、宵曲は肝心要の後日談をカットしている。即ち、

   *

 その三年後のこと、晋と楚が戦ったが、その場に荘王の覚えのない(彼にとっては見知らぬ)一人の臣下が、常に先頭に立って戦い続け、五戦する間、五回とも敵の首を落し、そのためにその戦闘に勝つことが出来た。王は不審に思い、その者に、

「私の不徳とするところであるが、これまでそなたには目をかけてこなかった。そなたは何故に、そうまで、死力を尽くさんとするのか。」

と。すると、男はそれに答えた。

「我らはこれ、既に一度死んだも当然の者にて御座います。以前、酔うて無礼を働いた折り、王御自身が、我らに隠徳を施して下さったお蔭で、誅さるることを免れました。我らはそのように、全く表立たぬ形で――王御自身、誰に恩を施したかも判らぬ形で、御恩恵を敢えて忝くもお受け申したわけで御座います。さればこそ、我が王への御報恩のため、常に戦さ場では腸や脳髄をぶちまけてでも、己(おの)が頸から吹き出る血を敵に浴びせ掛けんとする日のやって来ることを、ずっと心から願って参ったので御座います。――あの夜、冠の纓を切られたのは――我らなので御座います。」

と。かくて王は晋軍を敗走させ、楚はその強さを示し得たのであった。

 さすれば、隠れて施した恩恵にも、必ずや、目に見えた報恩があるものなのである。

   *

である。これをつけないと、この話、ピンときませんぜ、宵曲センセ!

 

 もう一つは官女喪失の件で、この方は明かに唐の「妖妄傳」にある。開元中に宮禁に美人あり、夜夢の如く人に邀(むか)へ去られ、歡を極めて歸る。この事を帝に奏したところ、それは衞士の所爲にきまつてゐる、もしまた同じ事があつたならば、何かにしるしを留め來れといふことであつた。その夕夢中に誘ひ去られたので、半醉の裡に石硯のあるを認め、ひそかに手の形を曲房の屛風に印した。よつて遍く(あまね)宮觀中を物色し、東明觀の屛風にその跡を發見したが、道士は已にいづれへか遁れ去つてゐた。

[やぶちゃん注:「妖妄傳」唐の朱希濟の撰になる伝奇小説集。

「邀(むか)へ」「迎へ」に同じい。

「曲房」家屋内の部屋の意。

「觀」道教の寺院・祭祀場。

 以上については「太平廣記」の「幻術二」に「開天傳信記」を出典として「東明觀道士」として載るのは見つけたので、それを示す。

   *

唐開元中、宮禁有美人、忽夜夢被人邀去、縱酒密會、極歡而歸、歸輒流汗倦怠。後因從容奏於帝、帝曰。此必術士所爲也。汝若復往、但隨宜以物識之。其夕熟寐、飄然又往。美人半醉、見石硯在前、乃密印手文於曲房屛風之上。寤而具。帝乃潛以物色、令於諸宮觀中求之。果於東明觀得其屛風、手文尚在、所居道士已遁矣。]

 

 夢中に誘ひ去られ、手の形を遺すまでは同じであるが、他の物に手の形を印して紛らはしくする一條はない。これは押手聖天のやうな神助がないためばかりでなく、時代が古いだけに話が單純なのであらう。

 

「通幽記」の記すところは「妖妄傳」に比べると大分長い。これは官女でなしに、蜀郡の呂誼なる者がその女を奪ひ去られ、崔簡といふ衞士に取り返し方を賴む。それから術くらべのやうな形になつて、結局女は呂の手に戾るが、冥然として睡るが如くである。醒めて後尋ねても、猪頭人身の一物來つて自分を取り去る、といふのみで遠近の如きは一切わからぬのであつた。この話は官女と違つて胡僧の手にとゞめ、こゝは天上だなどと稱してゐたのだから、女自ら手の跡を印するやうな才覺はないが、不思議な事にやはり僧房の門に脂粉を以て三指の跡を印すといふことが附帶して居り、それがどうやら猪頭の者の手印らしい。女を取り返し得た呂誼は、勿論厚い贈り物をして簡に酬いた。數箇月たつて東巖寺に遊んで曲房に入つた時、偶然門の右屛に指の跡を發見したが、胡僧は疾うの昔にどこかへ去つてゐた。寺と呂誼の住ひとは、十里ぐらゐの距離しかなかつたさうである。

[やぶちゃん注:「通幽記」陳劭(ちんしょう)の撰になる唐代伝奇。散佚。

 「太平廣記」の「卷第二百八十五」の「幻術二」にある「通幽記」を出典とする「東岩寺僧」から引く。

   *

博陵崔簡少敏惠、好異術。嘗遇道士張元肅曉以道要、使役神物、坐通變化。唐天寶二載如蜀郡。郡有呂誼者、遇簡而厚幣以遺、意有所爲。簡問所欲、乃曰、「繼代有女、未嘗見人、閨帷之中、一夕而失。意者明公蘊非常之術、願知所捕、瞑目無恨矣。」。簡曰、「易耳。」。卽於別室、夜設幾席、焚名香以降神靈。簡令呂生伏劍於戸、若胡僧來可執之求女、慎無傷也。簡書符呵之、符飛出。食頃間、風聲拔樹發屋。忽聞一甲卒進曰、「神兵備、願王所用。」。簡曰、「主人某日失女、可捕來。」。卒曰、「唯東山上人、每日以咒水取人、得非是乎。」。簡曰、「若然、可速捕來。」。卒去、須臾還曰、「東山上人聞之駭怒、將下金剛伐君、奈何。」。簡曰、「無苦。」。又書符飛之。倏忽有神兵萬計、皆奇形異狀、執劍戟列庭。俄而西北上見一金剛來、長數十丈、張目叱簡兵。簡兵俯伏不敢動。簡劍步於壇前、神兵忽隱、即見金剛駭矣。久之無所見。忽有一物、豬頭人形、著豹皮水褌、云、「上人願起居仙官。」。簡踞坐而命之。紫衣胡僧趨入。簡讓曰、「僧盜主人女、安敢妄有役使。」。初僧拒詐。呂生忽於戸間躍出、執而尤之。僧迫不隱、即曰、「伏矣。貧道行大力法、蓋聖者致耳、非僧所求。今卽歸之、無苦相逼。向非仙宮之命、君豈望乎。願令聖者取來。」。俄頃、見豬頭負女至、冥然如睡。簡曰、「宜取井花水爲桃湯、洗之卽醒。」。遂自陳云、「初睡中、夢一物豬頭人身攝去、不知行近遠、至一小房中、見胡僧相凌。問何處、乃云天上也、便禁閉無得出。是夜。有兵騎造門、豬頭又至、云、崔真人有命。方得歸。然某來時、私於僧房門上涂少脂粉、有三指跡、若以此尋可獲。」。呂生厚遺簡、而陰求僧門所記。餘數月、游東岩寺、入曲房、忽見指跡於門右扇、遽追之、僧宿昔已去、莫知所之。寺與呂生居處、可十里有餘耳。

   *

ネット開始以来、よくお世話になっている梅子(フアメイズ)氏のサイト「寄暢園」のに全訳が載るので参照されたい。]

 

 かういふ妖術の話は「子不語」の中にもあるが、特筆すべき點もないから、日本の話の風變りなのを擧げて置かう。

 

 尾張國犬山の酒屋に深夜異相の人が來て酒が飮みたいと云ふ。枡でいくら飮ませても、醉つた樣子が見えぬ。これは只者でないと知つて少しも惜しまず、飮み放題に飮ませたところ、このお禮に何でも望みを叶へてやらうと云つた。別に望みと云つてありませんが、近頃女房を亡くしてこれだけに弱つて居りますと答へると、異人は承知したと云つて去つた。その後また深夜に來て、懷ろから小さな人を出し、これが約束したお前の妻だと云ひ、そのまゝ置いてどこかへ行つてしまつた。小さな人は忽ちに大きくなり、一人前の女になつたが、びどく疲れてゐる樣子なので、何も云はずに寢かして置いたら、翌朝目が覺めて茫然としてゐる。いろいろ尋ねて江戸新川の酒屋の娘だとわかり、人を遣つて尋ねると、月初めにゐなくなつたといふことであつた。酒屋の女房だから酒屋の娘を連れて來たのかも知れぬ。天狗などの仕業であらうといふ噂もあつたが、神の結んだ緣として夫婦になつたと「事々錄」に出てゐる。懷ろに入つてゐた者が直ぐ風船玉のやうに膨らむのは妙だけれど、餘計な穿鑿はせぬことにする。

[やぶちゃん注:「事々錄」作者不詳の江戸末期の随筆。所持しないので原典は示せない。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「信仰異聞」

 

 信仰異聞

 

 泉城といふところの民は、毎年中秋の夜に八十になる老翁の一人を推薦して、橋の上に設けた高座に据ゑ、しづかに夜の更けるのを待つてゐる。夜半になつて紅い燈火が二つ現れて、空中に昇降すると、そこに集まつた人々は、神が迎ひに來たと云つて騷ぎ、老翁の子孫親戚の者はおびたゞしい酒饌を設け、群集に饗するといふ風習があつた。推薦された老翁はいつの間にか見えなくなるが、これを昇天するものと信じ、その高座に上るのを名譽として、遂にその橋を登仙橋と呼ぶに至つた。然るにたまたまそこを通りかゝつた斐老人は、物怪(もののけ)の所爲であると悟つたから、劍を拔いて高座に上るや否や、近寄つて來た燈火に一擊を食はせた。燈火は忽ち消滅し、高座の上に血が流れる。老人は驚き騷ぐ群集を制し、翌日血の痕を辿つて行くと、淸原山の麓にある大磐石のところで盡きてゐた。そこでその石を掘り起し、大蛇の死骸を發見した。傍の洞穴の白骨は從來食はれた人のものであつた。

[やぶちゃん注:「泉城」現在の山東省済南市(さいなんし)の別称か。

「斐」は音「ヒ」。]

 

 斐老人といふのは「列仙全傳」に出て來る仙人の名である。支那の人身御供(ひとみごくう)であるが、どうしてそんな老翁を擇むのか、その邊の消息はよくわからない。倂しかういふ例は他にないことはないので、「博異志」にある仙鶴觀では、道士が七十人以上も集まつて常に修行して居り、こゝでは毎年九月三日の夜に道士の一人が仙人になつて昇天すると云はれた。從つてこの夜に限り、仙鶴觀では戸を締めず、仙人になる機會を待つわけである。張竭忠がこの邊の令となつた時、彼はこの事を信ぜず、ひそかに二人の勇士に命じて樣子を窺はしめた。初めは何事もなかつたが、三更の後に至り、一疋の黑い虎が入つて來て、忽ちに一人の道士を銜(くわ)へ出した。二人の勇士は用意の矢を射かけたので、虎には中(あた)らなかつたけれど、道士を棄てて走り去つた。果して當夜は登仙の道士がない。勇士の復命を聞いた竭忠は、官に申請して一隊を組織し、この邊を狩り立てて石穴中の數虎を討ち取つた。白骨その他の殘留物を見出したことは、登仙橋の場合と同じである。この事あつて後、登仙の噂は跡を絶ち、仙鶴觀にも道士の影が見られなくなつた。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、ネットでも電子化されていない模様で、原典を示し得ない。

「張竭忠」「チョウケツチュウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上の「博異記」のそれは、「太平廣記」にも「虎三」に「張竭忠」として引かれる以下。

   *

天寶中、河南緱氏縣東太子陵仙鶴觀。常有道士七十餘人皆精專。修習法籙。齋戒咸備。有不專者、不之住矣。常每年九月三日夜有一道士得仙、已有舊例。至旦、則具姓名申報、以爲常。其中道士每年到其夜、皆不扃。各自獨寢、以求上昇之應。後張竭忠攝緱氏令、不信。至時、乃令二勇士持兵器潛覘之。初無所覩。至三更後、見一黑虎入觀來。須臾、銜出一道士。二人射之、不中。虎棄道士而去。至明、無人得仙者。具以此物白竭忠。申府請弓矢、大獵於太子陵東石穴中、格殺數虎。有金簡玉籙洎冠帔及人之髮骨甚多。斯皆謂每年得仙道士也。自後仙鶴觀中、即漸無道士。今並休廢、爲陵使所居。

   *

なお、この話は南方熊楠が、かの「十二支考」の「虎に関する史話と伝説民俗」で、

   *

支那には虎に食われたのを知らずに天に上ったと思っていた話がある。『類函』に『伝異志』を引いて唐の天宝中河南緱氏(こうし)県仙鶴観毎年九月二日の夜道士一人天に登るといって戸を締む、県令張竭忠これを疑いその日二勇者に兵器を以て潜み窺わしむ、三更後一黒虎観に入り一道士を銜(ふく)み出づるを射しが中(あた)らず、翌日竭忠大いに太子陵東の石穴中に猟し数虎を格殺(うちころ)した、その穴に道士の冠服遺髪甚だ多かったと見ゆ。後漢の張道陵が蟒(うわばみ)に呑まれたのをその徒が天に上ったと信じたのにちょっと似て居る。

   *

と述べている(同作は大正三(一九一四)年の発表だから、本書(昭和三八(一九六三)年刊)より遙かに早い)。]

 

「幻異志」にあるのは雲母谷といふので、これも奇蹟の現れさうな土地であつた。谷を五里ばかり入つたところに惠炬寺といふ寺があり、西南に面した庭が澗(たに)に臨んで居り、崖緣づたひに峯に至つたところを靈應と稱へる。こゝに塔があつて、觀世音菩薩の鐡像が安置してある。嘗てこの臺上に觀世音菩薩が現れたといふ傳説があるので、長安の市人は爭つて參詣する。大齋日には參詣者千人、少くとも數百人を下らぬと云はれて居つた。近頃は夜になると聖燈が拜まれるといふ評判が高い。その燈は或は山腹に現れ、或は平地に在り、その位置が更に定まらぬ。大歷十四年四月八日の夜、大衆が聲を合せて禮拜してゐると、西南の近い空の上に忽然として二つの聖燈が現れた。群集の中に在つた一人の兵卒の如きは殆ど夢中になつて、一歩一歩聖燈に近付いて行つたが、あツといふ間に虎に銜へ去られてしまつた。二つ竝んだ聖燈と見えたのは、實は虎の目の光りだつたのである。

[やぶちゃん注:「惠炬寺」一読、深山幽谷にあるような書き振りであるが、「長安の市人は爭つて參詣する」とあり、原文も「長安城南四十里」プラス、谷に入ること、「五里」にその寺はあるので、長安城からそう遠くない(唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、凡そ二十五キロメートルの位置である。Harumachigusa氏のブログ「にゃんころりん猫守のつぶやき」に、本話の邦訳「聖なる二つの燈(ともしび)」が載り、語注が厳密で素晴らしい(必見!)。彼女の注によれば、この寺は長安の南方の名山終南山の神禾原(しんかげん)にあったが、元代には荒廃してしまったとある。終南山ならば、前記の距離ともよく一致する。

「大歷十四年」後の原典の引用から、唐の代宗の治世最後に使用された元号「大曆」と判るので、その十四年は同元号の末年であり、ユリウス暦七七九年に相当する。

 これ、中文サイトの「幻異志」に見出したが、完全なベタの白文で読み難いため、「太平廣記」の「妖妄二」の「雙聖燈」にあるものを引く。但し、そこでは出典を「辯疑志」(陸長源撰の散佚した唐代伝奇集)とし、「幻異志」でも「雲母谷」ではなく、「靈母谷」である。

   *

長安城南四十里、有靈母谷、呼爲炭谷。入谷五里、有惠炬寺。寺西南渡渡原作庭。據明鈔本改。澗、水緣崖側。一十八里至峯。謂之靈應臺。臺上置塔。塔中觀世音菩薩鐵像。像是六軍散將安太淸置造。衆傳觀世音菩薩曾見身於此臺。又塔鐵像常見身光。長安市人流俗之輩。爭往禮謁。去者皆背負米麯油醬之屬。臺下幷側近蘭若四十餘所。僧及行童。衣服飮食有餘。每至大齋日送供、士女僅至千人、少不減數百、同宿于臺上、至於禮念、求見光。兼云、常見聖燈出、其燈或在半山、或在平地、高下無定。大曆十四年、四月八日夜。大衆合聲禮念。西南近臺、見雙聖燈。又有一六軍健卒、遂自撲、叫喚觀世音菩薩、步步趨聖燈向前、忽然被虎拽去。其見者乃是虎目光也。

   *]

 

 いづれも夜の話であるが、仙鶴觀には聖燈の事はなかつた。登仙橋の大蛇は斐老人に斬り付けられ、仙鶴觀の虎は張竭忠の討伐を免れなかつたのに、靈應臺の虎だけは無事だつたのであらうか。前の二者が登仙を逆用して年々人命を奪つてゐたのに比べれば、雙聖燈の評判の下に一兵卒を銜へ去つたなどは、まだ罪が輕い方だと云へるかも知れぬ。靈應臺は流俗の信仰を集め得たにせよ、登仙の一事はなかつたやうだから、いさゝか性質を異にするとも云へるであらう。

 

 田原藤太秀郷が龍神に賴まれて三上山の百足(むかで)を射た時には、かういふ雙燈のことはなく、松明(たいまつ)二三千餘り焚き上げて、三上山の動くが如く動搖して來るとあるが、眉間の眞中とおぼしきところを覘つて矢を放つ以上、爛々たる雙眼の光りは秀郷の目に入つたに相違ない。かういふ巨大な妖物の前に出れば靈應臺の雙聖燈の如きは月前の螢火に等しいものである。

[やぶちゃん注:藤原秀郷の百足退治伝説は先行する「百足と蛇」で既注。

「三上山」(みかみやま)は現在の滋賀県野洲(やす)市三上にある標高四百三十二メートルの山。一般には「近江富士」の名で知られる。この俵藤太大蜈蚣退治から「ムカデ山」の異名も持つ。

「覘つて」「うかがつて」。]

 

 以上の話とは少し達ふけれども、「諾皐記」に見えた蜘蛛の話なども、やはりこゝに倂記して置いた方がよからう。元和年間に蘇湛なる者、蓬鵲山に進んで高い崖に鏡の如き光りを見、あれは靈境と思はれるから、明日彼處に投ずるつもりだ、と云ひ出した。妻子等が泣いて止めても、云ふことを聞かぬ。翌日遂に出發したので、妻子等はひそかに奴婢(ぬひ)を率ゐて、あとからついて行つた。山に入ること數十里、成程遙かな岩に、直徑一丈もある白い光りが見える。蘇は次第に近付いて、殆ど側まで行つたかと思ふ時、忽ち恐ろしい叫び聲を擧げた。妻子が救はうとして駈け寄つたら、蘇の身體は繭のやうに絲にからまれ、眞黑な大蜘蛛が爪を立ててゐた。一同巖の下に集まり、奴は刀を揮つてその網を切つたけれど、蘇は已に頭をやられて死んで居つた。乃ち蜘蛛を斃し、薪を積んで燒く。臭、一山中に滿つとある。

[やぶちゃん注:「元和」この場合は唐の憲宗の代の元号で、八〇六年から八二〇年まで。

「蘇湛」「ソタン」。

「蓬鵲山」「ほうじゃくさん」(現代仮名遣)。

「投ずる」飛び込む。身を投じる。或いは崖であるから、上からぶら下がって降りる、の謂いかも知れぬ。

「奴婢(ぬひ)」下男下女。

「一丈」唐代の一丈は少しだけ現在の日本のそれ(三・〇三メートル)より長く、三・一一メートルである。

 本話は「酉陽雜俎」「卷十四 諾皋記上」に載る以下。

   *

元和中、蘇湛游蓬鵲山、裹糧鉆火、境無遺跬。忽謂妻曰、「我行山中、睹倒崖有光鏡、必靈境也。明日將投之、今與卿訣。」。妻子號泣、止之不得。及明遂行、妻子領奴婢潛隨之。入山數十里、遙望巖有白光、圓明徑丈、蘇遂逼之。纔及其光、長叫一聲、妻兒遽前救之、身如爾蟲矣。有蜘蛛黑色、大如鈷金莽、走集巖下。奴以利刀決其網、方斷、蘇已腦陷而死。妻乃積柴燒其崖、臭滿一山中。

   *

「鈷金莽」今村与志薄雄氏の東洋文庫版訳注では「金莽」は「金(へん)+莽(つくり)」で一字であり、「こぼく」と読んでおり、意味を小さな釜とする。]

 

 この話は「蛛の鏡」といふ題で「伽婢子」に取り入れられてゐる。永正年中、越中國礪竝山の話になつてゐるが、「諾皐記」の借り物であることは云ふまでもない。二頁見開きの插繪があつて、「その蜘蛛の大さ、足を伸べたるかたち車の輪の如し」と書いてゐるのは、「諾皐記」の條から採用したのである。かういふ聖燈、靈光の類は滅多にあるまいが、似たやうな奇蹟に惑はされる例は、現代にも絶對にないとは云はれぬ。支那の昔話とのみ看過することは出來ない。

[やぶちゃん注:「永正年中」一五〇四年から一五二〇年。室町時代。

「礪竝山」富山県小矢部市と石川県津幡町の境にある砺波山。かの木曾の義仲の戦さで知られる倶利伽羅山と同義ともされるが、広義には一山の総名であって最高所国見山(二百七十八・八メートル)や倶利伽羅山・源氏ヶ峰・矢立山などの支脈を含むともされる。

 宵曲の言っているのは、「伽婢子」の「第六卷」にある「蛛(くも)のかゞみ」。注は一部、新古典文学大系の脚注を参考にした。

   *

 

   蛛(くも)の鏡(かゞみ)

 

Otogiboukokumonokagami

 

 永正年中の事にや、越中の國砺竝(となみ)山のあたりにすむ者あり。常に柴をこり、山畑を作り、春は蠶(かひこ)を養うて、世を渡る業(わざ)とす。蠶する比(ころ)は猶、山深く入(いり)て、桑の葉を買(かひ)もとめ、夏に至れば、又、山中の村里を尋ねめぐり、糸帛(いとわた)を買あつめ、諸方に出し、あきなうて利分(りぶん)を求む。山より山をつたひて深く分入(わけいる)ところ、谷深く、水みなぎりて、渡りがたき所多し。或は藤葛(ふじかづら)の大綱(おほづな)を引渡し、苔の兩岸の岩根・大木につなぎ置く。道行(ゆく)人この綱に取つき、水を渡る所もあり。然らざれば、みなぎる水、矢よりはやくして押流され、岩角(いはかど)に當りて、くだけ死す。或は東の岸より西の岸まで葡萄蔓(ぶだうずる)の大綱を引張り、竹の籠を懸け、道行人を是に乘せ、向ひより籠を引寄する。その乘(のる)人もみづから綱(つな)をたぐりて傳ひ渡る。もし籠の緒(を)きれおつれば、谷の逆卷(さかま)く水に流れ、岩に當りて死する所もあり。

 五月の中比(なかごろ)、砺竝(となみ)の商(あき)人、糸帛を買ために山中深く赴きしに、さしも險しき谷に向ひ、岸は屛風をたてたるが如く、水は藍(あゐ)をもむに似て、大木はえ茂り、日影もさだかならぬに、谷のかたはらに徑(わたり)三尺ばかりの鏡一面(おもて)あり。其光り輝きて水にうつりて見えたり。

「かのもろこしに聞えし、楊貴妃帳中(ちやうちう)の明王鏡(みやうわうきやう)[やぶちゃん注:鍾馗の精霊が楊貴妃の病魔を退治するため、玄宗に枕元の几帳に立て添えさせたとする鏡。本邦の謡曲「皇帝」が出典か。]、汴州(べんしう)張琦(ちやうき)が神恠鏡(しんくわいきやう)[やぶちゃん注:「汴州」は河南省開封県であるが、以下の神鏡は不詳。]といふとも、これにはまさらじ。百練(れん)の鏡こゝに現れしや、天上の鏡のおちくだれるや。いかさまにも靈鏡なるべし。岩間を傳ひて取りて歸り德つかばや[やぶちゃん注:金儲けをしようぞ。]。」

と思ひ、其あり所をよく見おほせて家に歸り、妻に物語りければ、妻のいふやう、

「いかでか其谷かげにさやうの鏡あるべきや。たとひありとても身に替へて寶を求め、跡に殘して何にかせむ。もし、足をあやまち、水に落入らば、悔むとも甲斐なからん。只(ただ)思ひとまり給へ。」

といふ。商人いふやう、

「更にあやまちすべからず。未だ人の見ざるあひだに早くとりをさめて、徳つかばや。」

とて、夜の明くるを遲しと、刀を橫たへ出(いで)て行(ゆく)。妻、こゝろもとながりて、召し使ふ男一人、我が子と共に三人、鐵垢鑓(さびやり)・鉞(まさかり)なんどもちて、跡より追て行。山深く入て谷に向へば、白き光り輝き、まろく明らかなる大鏡あり。商人、谷の岩かどを傳ひ、其光のあたり近く行(ゆく)かと見れば、大音(だいをん)あげてさけび呼ぶ事、只、一聲にて、音もせず。妻と子と驚きて谷にくだりければ、商人は蠶の繭の如く糸にまとひ包れて、大なる蜘蛛の黑色なるが取り付きてあり。三人のもの立かゝりて鑓にてつきおとし、鉞にて切倒し、刀を以て糸を割(さき)破りしかば、商人は頭(かしら)の腦(なう)おちいり、血流れて死す。その蜘蛛の大さ、足を伸べたるかたち、車の輪の如し。妻子、なくなく、柴をつみ、火を鑽(きり)て蜘蛛を燒ければ、臭き事、山谷に滿ちたり。夫(をつと)の尸(かばね)をばとりて歸り、葬(さう)しけり。其かみより鏡に化(け)して、をりをり人をたぶろかしとりけるとぞ。

   *]

 

 併し支那にある聖燈なるものは、悉く動物の眼を誤認したものかといふと、決してさういふわけでほない。もう少し神韻縹渺たる話もある。廬山の天池峯は曼殊室利菩薩の道場であるが、ここにも夜夜聖燈が現れた。一燈が准山の方から飛んで來たかと思ふと、忽ち七つになり、七つはまた變じて四十九となり、遂に百千萬億の算ふべからざるに達する。その燈が山谷に滿ち、自ら相集まつて毬の如く、珠數の如く、華蓋の如く、香煙の如き觀を呈するのである。これを見た役人の中に頑固な男があつて、これは妖である、然らずんば木石の光焰に過ぎぬ、もしあの火が自分の手に飛び集まるならば、その神を信じよう、と云つた。然るにその言葉がまだ了らぬうちに、一燈飛來して役人の左の肱にとどまつた。あかあかと燃えてはゐるが、一向熱くない。これを手に取つて香奩の中にしまつて置き、翌日あけて見たら、一片の木の葉であつた。この木の葉は無限の詩の詩趣を藏してゐるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「廬山の天池峯」江西省九江市南部の名山廬山の大天池ならば、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「曼殊室利菩薩」文殊菩薩(サンスクリット語カタカナ音写:マンジュシュリー)。そもそも「文殊」は「文殊師利(もんじゅしゅり)」の略称で、漢訳では「「曼殊室利」とも書く。

「香奩」は「かうれん(こうれん)」と読む。化粧道具を収める箱のこと。

 宵曲は出典を明らかにしていないが、調べて見たところ、春秋時代の晋の董狐(紀元前六五一年~紀元前五七五年)の撰になる志怪小説集「鬼董」(一名「鬼董狐」・全五巻)に載る以下である。

   *

廬山天池峰高、曼殊室利菩薩道場也、夜夜有聖燈來供之。楷禪登山、夜見一燈自淮山飛來、須臾變而爲七、七變而爲四十九、又爲百千萬億不可説、彌山偏穀、已乃聯比相屬有、如繡□者、數珠者、華蓋者、香爐者。一官人號木強詆之曰、「此妖耳。不然則木石光焰能飛集吾手、乃信其神言。」。未口、一燈飛來左肱上、紅焰赫然而不熱。摘取之、封寘香奩中。明日視、止木葉一片耳。淮山蓋四祖、五祖道場、亦夜有燈垂塔前鬆楸上。天池燈間亦飛渡江供之。予叩之友禪人、其不異。

   *

 

2017/06/02

柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“Common Sense”原文+田部隆次譯 / 「佛と魔」~了

 

 佛徒が佛を奉ずるのはさる事ながら、信に徹せざる輩は往々にして魔に致される虞れがある。「宇治拾遺物語」にある伊吹山の念佛僧などはその適例であらう。この想は阿彌陀佛の外は何も知らず、多年念佛ばかり唱へて居つたが、或夜深く念佛の際、空に聲あつて「汝ねんごろに我をたのめり、今は念佛の數多く積りたれば、明日の未(ひつじ)の時に必ず必ず來りて迎ふべし、ゆめゆめ念佛怠るべからず」と告げた。僧は歡喜に堪へず、水を浴み香を焚き花を散らし、弟子どもにも念佛を唱へさせながら西に向つてゐると、佛像より金色の光りを放つさま、秋の月の雲間より現れ出づるが如くである。さまざまの花を降らし、白毫(びやくがう)の光りは僧の身を照らす。觀音が蓮を上げて僧の前に寄れば、紫雲厚くたなびき、僧は蓮臺に乘つて西の方に去る。坊に殘つた弟子達は、泣く泣く有難がつて居つたところ、七八日たつて奧山へ薪を探りに行つた下衆法師(げすほふし)が、遙かな瀧のところに差出た木の梢に何者か縛り付けられてゐるのを發見した。木登り上手の一人が登つて見たら、極樂へ迎へられた筈の師匠が裸のまま縛り付けてあつた。僧はこの期(ご)に及んでも佛に迎へられたことを信じ、縛を解くのを拒んだが、構はず坊に連れ歸つた。氣の毒な念佛僧は、人心地もなしに二三日を過して亡くなつた。「宇治拾遺物語」は「智慧なき聖はかく天狗にあざむかれけるなり」と評し、この最期を魔往生と稱へてゐる。

[やぶちゃん注:「伊吹山」現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐郡揖斐川町・不破郡関ケ原町に跨る伊吹山地の主峰。標高千三百七十七 メートル。山頂は滋賀県米原市に属し、滋賀県の最高峰でもある。記紀に於いて倭建命がここの山の神との誤認の戦いによって致命的病態に陥って以来の古来の霊峰で、修験道の開祖役小角、白山開山の泰澄を始めとした連中によって山岳信仰のメッカとなり、九世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として多くの寺院が山中に建立され隆盛を極めた(後の戦国時代の兵火で殆んどが焼失して残っていない。以上はウィキの「伊吹山」に拠る)。

「未(ひつじ)の時」午後二時前後。

 これは「宇治拾遺物語」の第一六九話「念佛僧、魔往生の事」。

   *

 昔、美濃國伊吹山に久く行ひたる聖(ひじり)有けり。阿彌陀佛よりほかの事しらず。他事なく念佛申てぞ、年經(へ)にける。

 夜深く、佛の御前に念佛申てゐたるに、空に聲ありて告げて云く、

「汝、念比(ねんごろ)に我れを賴めり。今は念佛の數(かず)、多く積りたれば、明日(あす)の未の時に、かならずかならず來たりて迎ふべし。ゆめゆめ念佛おこたるべからず。」

と言ふ。その聲を聞きて、限りなく念比に念佛申して、水を浴(あ)み、香をたき、花を散らして、弟子どもに、念佛もろともに申させて、西にむかひてゐたり。

 やうやうひらめくやうにする物あり。手を摺りて、念佛を申して見れば、佛の御身より、金色(こんじき)の光を放ちて、さし入りたり。秋の月の、雲間よりあらはれ出たるごとし。さまざまの花を降らし、白毫の光、聖の身を照らす。此時、聖、尻をさかさまになして拜み入る。數珠(ずず)の緒(を)も切れぬべし。觀音、蓮臺(れんだい)をさし上げて、聖の前に寄り給ふに、紫雲あつく棚引く。聖、はひ寄りて蓮臺に乘りぬ。さて、西の方(かた)へ去り給ひぬ。さて、坊に殘れる弟子共、なくなく貴(たうと)がりて、聖の後世(ごぜ)をとぶらひけり。

 かくて、七日、八日、過ぎて後、坊の下種(げす)法師原(ばら)、

「念佛の僧に湯わかして、浴(あ)むせ奉らん。」

とて、木こりに、奧山に入りたりけるに、はるかなる瀧に、さし掩(おほ)ひたる杉の木あり。その木の梢に、さけぶ聲、しけり。怪しくて、見上げたれば、法師を裸になして、梢に縛りつけたり。木登りよくする法師、登りて見れば、極樂へ迎へられ給ひし我が師の聖を、葛(かづら)にて縛り付けて置きたり。此の法師、

「いかに我師は、かかる目をば御覽ずるぞ。」

とて、寄りて、繩を解きければ、

「『今、迎へんずるぞ。その程、しばしかくてゐたれ』とて、佛のおはしまししをば、なにしにかく解きゆるすぞ。」

といひけれども、寄りて解きければ、

「阿彌陀佛、我れを殺す人あり。をうをう。」

とぞ、叫びける。されども法師原、あまた登りて、解きおろして、坊へ具して行きたれば、弟子ども、

「心うき事なり。」

と歎き惑ひけり。聖は、人心もなくて、二、三日斗(ばか)りありて死にけり。

 智惠なき聖は、かく天狗に欺かれけるなり。

   *]

 

「十訓抄」にあるのは千手陀羅尼の持者となつてゐるけれど、ところも同じ伊吹山で、高い木の梢に縛り付けられるのだから、全く同じ話であらう。三善淸行なども噂を聞いて、この僧に逢つて話をしたことがあり、この人は行德あるやうに見えるが、無智であるから、終には魔界のためにたぶらかされるであらう、と云つたさうである。正にその言の通りであつた。

[やぶちゃん注:「千手陀羅尼」千手観音の徳について説いた梵語の呪文。これを唱えれば、千手観音の功力(くりき)によって救済されると信じられた。

「三善淸行」(きよゆき/きよつら 承和一四(八四七)年~延喜一八(九一九)年))は公卿・漢学者。ウィキの「三善清行」によれば、『淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている』。『巨勢文雄に師事。大学寮に入って紀伝道』(大学寮に於ける歴史(主に中国史)を教授した学科)を修め、二十七歳で文章生(もんじょうしょう:漢文学学科有資格者)、翌年には文章得業生(とくごうしょう:同文章生中の優秀生二名に与えられる文章博士(大学寮紀伝道教官)の候補生)となり、三十七歳で方略式(大学寮の最難関の国家資格試験)に『合格した。一度官吏の登用試験に落ちたが、この時の試験官が菅原道真で、後にことあるごとに道真と対立することになる。また紀長谷雄等代々の文章博士との激しい論争でも知られる』。仁和三(八八七)年、大内記(中務省直属の官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌としていた内記の長官職)に属したに任ぜられ、同年の阿衡(あこう)事件(阿衡の紛議:宇多天皇が即位した際に藤原基経を関白とする勅書の中の「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」の語について基経が阿衡は位のみで職掌を伴わないとして政務を放棄してしまい、遂に天皇が勅書を書き改めた事件)に『際しては藤原佐世・紀長谷雄とともに所見を述べ、橘広相の説を退けた』(最初の勅書(書き換えがあって二度出ている)は殷代の故事を橘広相が引用したものであった)。昌泰三(九〇〇)年に晴れて文章博士に就任、翌年には大学頭となった』。その頃、藤原時平と対立、『朝廷内で孤立を深めつつあった菅原道真に対して書簡を呈して引退を勧告したが、道真は長年の確執からこれを退けてしまう。ただし、書簡を受け取る』前、『道真は既に幾度も、政治家をやめ』、『学業に専念したいので辞退したい、と宇多天皇に上申していたが、悉く却下されている。やがて清行の危惧は』的中し、昌泰の変(昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善(みなもとのよし)らを左遷又は流罪にした事件)で失脚してしまう。なお、この時、『清行は時平に対して、道真の関係者全てを連座の対象とすると、道真の祖父清公以来の門人が全て処罰の対象となり』、『朝廷が機能停止に陥る事を指摘し、処分を道真の親族と宇多上皇の側近のみに留めたことや、清行が道真の嫡男高視の失脚で後任の大学頭に就いたことから、清行の政変への関与も指摘されている』。『陰陽天文に明るく』、昌泰四年は『讖緯説による辛酉革命の年に当たると指摘、「延喜」と改元することを提唱して革命勘文・辛酉改元の端緒を開』いている。その後、「延喜格式」の『編纂に参加。文章博士・大学頭・式部大輔の三儒職を兼任』、延喜一四(九一四)年には朝廷の求めに応じ、「意見封事十二箇条」を上奏した後、七十一歳で『参議に昇り、宮内卿を兼ねた』とある。

 これは「十訓抄」の「第七 可專思慮事」(思慮を專らにすべき事)の中の以下の一条。

   *

 延喜年中頃、美濃國伊吹の山に、千手陀羅尼の持者住みけり。二三十日なれども、斷食にて、驗得のかたがた、不思議多かりける間、遠近の貴賤集まり拜みける時に、善宰相淸行卿、これを聞き亙りて、彼(か)の所へおはして、この僧に對面して物語し給ひけるが、かたはらの人々に語りて云く、

「この人は、かく行德あるやうなれども、無智の間、終(つひ)には魔界のためにたぶらかさるべし。」

と云ひて、歸り給ひにけり。

 その後(のち)、ほど經て、或る時に、諸(もろもろ)の天女、紫雲に乘りて、妓樂をなし、玉の輿を飾り來て、この僧を迎へ取りて去りにけり。見る者、幾(いくば)く、皆、奇異の思ひをなしたりけるほどに、四、五日ありて、樵父(きこり)の、山へ入りたりければ、遙かに高き木の上に、蚊の鳴くやうにて、人のうめく聲聞えけるを、怪しみて、人に告げたりければ、近邊の住人、集りて是れを見るに、人の樣(やう)には見なしたれども、たやすく昇るべき木ならねば、鷹の巣下(おろ)す者をやとひて、のぼせたりければ、法師を木の末に結ひ付けたり。やうやうに支度をして、解き下したるを見るに、この千手陀羅尼の持者なりけり。あさましとも愚かにて、具し歸り、さまざまあつかひければ、命ばかりは生きたりけれども、惚々(ほれぼれ)として、云ふかひなければ、行德施すにも及ばず。

 これは、かの僧のすすめることにはあらず、天魔の所爲なれども、愚かなるより起れる上、先のこと[やぶちゃん注:「十訓抄」のこの話の直前の話。実は「續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(3)」に梗概が出、私が注で原話を既に電子化してある。参照されたい。そっちの方が映像的に遙かに面白い。]に相ひ似たる間、註(しる)す。

 これらは扨ておきつ。然(しか)るべき人の習ひとして、心をはかり見むために、何ごとをも、あらはに見せ知らせず、心を𢌞らして、つくりも出だし、云ひもせられたらむを、能々(よくよく)案じ𢌞らして、不覺せぬやうに振舞ふべし。萬(よろづ)に付けて用意深くして、人のあざむき、たばからむことなどをも、能々思慮すべし。その案に墜つまじきなり。

   *]

 

「宇治拾遺物語」にあるもう一つの例は「獵師佛を射る事」である。愛宕山に年久しく住む聖が普賢菩薩を目のあたり拜むといふ話を懇意な獵師に聞かせ、そなたも今夜泊つて拜んだらよからう、と勸めた。聖に使はれてゐる童も已に五六度拜んだといふ。獵師は果して自分に拜めるだらうかと疑ひながら、その夜は寢ずに待つてゐると、九月二十日の月が東の山から出るらしく、坊の内が明るくなつて來た。その時白象に乘つた普賢菩薩が坊の前に現れたので、聖は淚を流して禮拜する。倂し獵師は合點が往かなかつた。多年修行を積み經を讀む聖の目に見えるのは不思議もないが、この童や自分にまで菩薩が見えるのはいぶかしい。一つ試して見ようと尖り矢を弓につがへ、禮拜しつゝある聖の上から差越すやうにひようと射た。矢は菩薩の胸に中(あた)つた樣子で、今までの光りは一時に消え失せた。何といふことをしてくれたのだ、と聖は泣き惑ふこと限りもなかつたが、獵師はしづかにかう云つた。あなた方なればこそ菩薩も拜まれませうが、私のやうな罪深い者にまで拜まれるのが不審なので、試しに矢を射て見たのです、まことの佛ならば矢は立ちますまい、立つた以上は怪しい者に相違ありません。――

[やぶちゃん注:「愛宕山」(あたごやま)は現在の京都府京都市右京区の北西部の嵯峨、山城国と丹波国の国境に跨る山で、山頂に愛宕神社があり、古来より火伏せの神として信仰を集め、全国各地に愛宕権現信仰として広がっている。

 ここと次の段に続く以上のそれは、私が幼少時より、後に出る小泉八雲のそれを皮切りとしてひどく偏愛してきた話である。まず、ここの「宇治拾遺物語」のそれは、第一〇四話「獵師、佛を射る事」である。

   *

 昔、愛宕の山に久しく行ふ聖(ひじり)ありけり。年比(としごろ)行ひて、坊を出づる事なし。西の方(かた)に、獵師あり。この聖を貴(たうと)みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく參らざりければ、餌袋(ゑぶくろ)[やぶちゃん注:元来は鷹狩の鷹の餌を入れて携帯する袋を指したが、後に人の食糧を入れて携行するものとなった。]に干飯(ほしいひ)など入れて、まうでたり。聖、悦びて、日比のおぼつかなさ[やぶちゃん注:遇わずにいた間の相互の消息や心配事。僧の生活の不如意の謂いとする訳もあるようだが、私は採らない。それでは初めっから、バカ坊主になるからである。]などの給ふ。その中にゐよりてのたまふやうは、

「この程、いみじく貴き事あり。此年來(としごろ)、他念なく經をたもち奉りてある驗(しるし)やらん、この夜比(よごろ)、普賢菩薩、象に乘りて見え給ふ。今宵、とどまりて拜給へ。」

といひければ、この獵師、

「よに貴きことにこそ候なれ。さらば、泊りて拜み奉らん。」

とて、とどまりぬ。

 さて、聖の使ふ童(わらは)のあるに、問ふ、

「聖のたまふやう、いかなることぞや。おのれもこの佛をば、拜み參らせたるや。」

と問へば、

「童は、五、六度ぞ、見奉りて候ふ。」

と言ふに、獵師、

「われも見奉ることもやある。」

とて、聖の後(うしろ)に、いねもせずして起きゐたり。

 九月二十日の事なれば、夜も長し、今や今やと待つに、夜半(よは)過ぎぬらんとおもふ程に、東の山の峰より、月の出づるやうに見えて、峰の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さし入たるやうにて、明(あか)くなりぬ。見れば、普賢菩薩、白象(びやうざう)に乘りて、やうやう、おはしてはべり、坊の前に立ち給へり。

 聖、泣く泣く拜みて、

「いかに、ぬし殿は拜み奉るや。」

と言ひければ、

「いかがは。この童も拜み奉る。をいをい、いみじう貴し。」

とて[やぶちゃん注:と狩人は申し上げながらも。]、獵師、思ふやう、

「聖は、年比、經をも、たもち、讀み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、經の向きたるかたもしらぬに、見え給へるは、心得られぬこと也。」

と心のうちに思ひて、

「このこと、試みてむ、これ、罪(つみ)得べきことにあらず。」

と思ひて、尖(とが)り矢を弓につがひて、聖の拜み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやう、と射たりければ、御胸の程にあたるやうにて、火をうち消(け)つごとくにて、光も失せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。

 聖、

「これはいかにし給へるぞ。」

と言ひて、泣き惑ふ事かぎりなし。

 男、申しけるは、

「『聖の目にこそみえ給はめ、わが罪深き者の目に見え給へば、試み奉らむ』と思ひて射つるなり。まことの佛ならば、よも矢は立ち給はじ。されば、怪しき物なり。」

と言ひけり。

 夜明けて、血をとめて[やぶちゃん注:血糊の跡を問い求めて。]、行きて見ければ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり行きて、谷の底に大きなる狸(たぬき)の、胸より尖り矢を射通されて、死して伏せりけり。

 聖なれど、無智なれば、かやうに化(ば)かされけるなり。獵師なれども、慮(おもんぱかり)ありければ、狸を射害(いがいし)[やぶちゃん注:射殺(いころ)し。]、その化けをあらはしけるなり。

   *]

 

 夜が明けてから血の跡を辿つて行くと、一町ばかり行つた谷の底に、大きな狸が胸を射通されて死んでゐた。「聖なれど無智なればかやうにばかされけるなり、獵師なれども慮ありければ狸を射害、そのばけをあらはしけるなり」といふのが「宇治拾遺物語」の批評であるが、小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した。「慮」といふ言葉が常識に當るらしい。

[やぶちゃん注:「慮」「おもんぱかり」。考えをめぐらすこと。思慮。

『小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した』以下に見る通り、英文原題は。Common Sense(「常識」)である。柴田は「慮」の訳語としては不満がありそうな口吻であるが、しかし、私はこの題が与えられたことによって、この本邦の古い伝承は永劫に優れた名品として、多くの人に読み継がれることとなったのだと思う。八雲先生に快哉!!!

 小泉八雲のそれは一九〇二年刊のKottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs(「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中の、Common Senseである。まず、原文を示す(普賢菩薩の注は我々には不要と考え、除去した)。

   *

 

Common Sense

 

ONCE there lived upon the mountain called Atagoyama, near Kyōto, a certain learned priest who devoted all his time to meditation and the study of the sacred books. The little temple in which he dwelt was far from any village ; and he could not, in such a solitude, have obtained without help the common necessaries of life. But several devout country people regularly contributed to his maintenance, bringing him each month supplies of vegetables and of rice.

   Among these good folk there was a certain hunter, who sometimes visited the mountain in search of game. One day, when this hunter had brought a bag of rice to the temple, the priest said to him : —

   " Friend, I must tell you that wonderful things have happened here since the last time I saw you. I do not certainly know why such things should have happened in my unworthy presence. But you are aware that I have been meditating, and reciting the sutras daily, for many years ; and it is possible that what has been vouchsafed me is due to the merit obtained through these religious exercises. I am not sure of this. But I am sure that Fugen Bosatsu comes nightly to this temple, riding upon his elephant. . . .  Stay here with me this night, friend ; then you will be able to see and to worship the Buddha."

   " To witness so holy a vision," the hunter repHed, " were a privilege indeed !  Most gladly I shall stay, and worship with you."

   So the hunter remained at the temple. But while the priest was engaged in his religious exercises, the hunter began to think about the promised miracle, and to doubt whether such a thing could be. And the more he thought, the more he doubted. There was a little boy in the temple, — an acolyte, — and the hunter found an opportunity to question the boy.

   "The priest told me," said the hunter, "that Fugen Bosatsu comes to this temple every night. Have you also seen Fugen Bosatsu ? "

   " Six times, already," the acolyte replied, " I have seen and reverently worshipped Fugen Bosatsu."

   This declaration only served to increase the hunter's suspicions, though he did not in the least doubt the truthfulness of the boy. He reflected, however, that he would probably be able to see whatever the boy had seen ; and he waited with eagerness for the hour of the promised vision.

 

   Shortly before midnight the priest announced that it was time to prepare for the coming of Fugen Bosatsu. The doors of the little temple were thrown open ; and the priest knelt down at the threshold, with his face to the east. The acolyte knelt at his left hand, and the hunter respectfully placed himself behind the priest.

   It was the night of the twentieth of the ninth month, — a dreary, dark, and very windy night; and the three waited a long time for the coming of Fugen Bosatsu. But at last a point of white light appeared, like a star, in the direction of the east; and this light approached quickly, — growing larger and larger as it came, and illuminating all the slope of the mountain. Presently the light took shape — the shape of a being divine, riding upon a snow-white elephant with six tusks. And, in another moment, the elephant with its shining rider arrived before the temple, and there stood towering, like a mountain of moonlight, — wonderful and weird.

   Then the priest and the boy, prostrating themselves, began with exceeding fervour to repeat the holy invocation to Fugen Bosatsu. But suddenly the hunter rose up behind them, bow in hand ; and, bending his bow to the full, he sent a long arrow whizzing straight at the luminous Buddha, into whose breast it sank up to the very feathers.

   Immediately, with a sound like a thunder-clap, the white light vanished, and the vision disappeared. Before the temple there was nothing but windy darkness.

   " O miserable man ! " cried out the priest, with tears of shame and despair, " O most wretched and wicked man ! what have you done ? — what have you done ? "

   But the hunter received the reproaches of the priest without any sign of compunction or of anger. Then he said, very gently : —

   "Reverend sir, please try to calm yourself, and listen to me. You thought that you were able to see Fugen Bosatsu because of some merit obtained through your constant meditations and your recitation of the sutras. But if that had been the case, the Buddha would have appeared to you only — not to me, nor even to the boy. I am an ignorant hunter, and my occupation is to kill ; — and the taking of life is hateful to the Buddhas. How then should I be able to see Fugen Bosatsu ?  I have been taught that the Buddhas are everywhere about us, and that we remain unable to see them because of our ignorance and our imperfections. You — being a learned priest of pure life — might indeed acquire such enlightenment as would enable you to see the Buddhas ; but how should a man who kills animals for his livelihood find the power to see the divine ?  Both I and this little boy could see all that you saw. And let me now assure you, reverend sir, that what you saw was not Fugen Bosatsu, but a goblinry intended to deceive you — perhaps even to destroy you. I beg that you will try to control your feelings until daybreak. Then I will prove to you the truth of what I have said."

   At sunrise the hunter and the priest examined the spot where the vision had been standing, and they discovered a thin trail of blood. And after having followed this trail to a hollow some hundred paces away, they came upon the body of a great badger, transfixed by the hunter's arrow.

   The priest, although a learned and pious person, had easily been deceived by a badger. But the hunter, an ignorant and irreligiousman was,gifted with strong common sense; and by mother-wit alone he was able at once to detect and to destroy a dangerous illusion.

 

   *

次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「常識」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。

   *

 

   常 識

 

 昔、京都に近い愛宕山に、默想と讀經に餘念のない高僧があつた。住んでゐた小さい寺は、どの村からか遠く離れてゐた、そんな淋しい處では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであつたらうが、信心深い田舍の人々が代る代るきまつて每月米や野菜を持つて來て、この高僧の生活をささへてくれた。

 この善男善女のうちに獵師が一人ゐた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々來た。或日のこと、この獵師がお寺ヘ一袋の米を持つて來た時、僧は云つた。

『一つお前に話したい事がある。この前會つてから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のやうなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知つての通り、愚僧は年來每日讀經默想をして居るので、今度授かつた事は、その行ひの功德かとも思はれるが、それもたしかではない。しかし、たしかに每晩、普賢菩薩が白象に乘つてこのお寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緒に、ここにゐて御覽。その佛樣を拜む事ができる』

『そんな尊い佛が拜めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一緒に拜みます』と獵師は答へた。

 そこで獵師は寺にとどまつた。しかし僧が勤行にいそしんで居る間に、獵師はこれから實現されようと云ふ奇蹟について考へ出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑ひ出した。考へるにつれて疑は增すばかりであつた。寺に小僧がゐた、――そこで獵師は小僧に折を見て聞いた。

『聖人のお話では普賢菩薩は每晩この寺へお見えになるさうだが、あなたも拜んだのですか』獵師は云つた。

『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拜みました』小僧は答へた。獵師は小僧の言を少しも疑はなかつたが、この答によつて疑は一層增すばかりであつた。小僧は一體何を見たのであらうか、それも今に分るであらう、かう思ひ直して約束の出現の時を熱心に待つてゐた。

 

 眞夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給ふ用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戸はあけ放たれた。僧は顏を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、獵師は恭しく僧のうしろに席を取つた。

 九月二十日の夜であつた、淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であつた、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待つてゐた。やうやくのことで東の方に、星のやうな一點の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて來た――段々大きくなつて來て、山の斜面を殘らず照した。やがてその光は或姿――六本の牙のある雪白の象に乘つた聖い菩薩の姿となつた。さうして光り輝ける乘手をのせた象は直ぐお寺の前に着いた、月光の山のやうに、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立つた。

 その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもつて普賢菩薩への讀經を始めた。ところが不意に獵師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取つて滿月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向つて長い矢をひゆつと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささつた。

 突然、落雷のやうな音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなつた。お寺の前はただ暗い風があるだけであつた。

『情けない男だ』僧は悔恨絶望の淚とともに叫んだ。『何と云ふお前は極惡非道の人だ。お前は何をしたのだ、何をしてくれたのだ』

 しかし獵師は僧の非難を聞いても何等後悔憤怒の色を表はさなかつた。それから甚だ穩かに云つた。――

『聖人樣、どうか落ちついて、私の云ふ事を聞いて下さい。あなたは年來の修業と讀經の功德によつて、普賢菩薩を拜む事ができるのだと御考へになりました。それなら佛樣は私やこの小僧には見えず――聖人樣にだけお見えになる筈だと考へます。私は無學な獵師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、佛樣はお嫌ひです。それでどうして普賢菩薩が拜めませう。佛樣は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拜む事ができないと聞いて居ります。聖人樣は――淨い生活をして居られる高僧で居らせられるから佛を拜めるやうなさとりを開かれませう、しかし生計のために生物を殺すやうなものは、どうして佛樣を拜む力など得られませう。それに私もこの小僧も二人とも聖人樣の御覽になつたとほりのものを見ました。それで聖人樣に申し上げますが、御覽になつたものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺さうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。さうしたら私の云ふ事の間違でない證據を御覽に入れませう』

 日出とともに獵師と僧は、その姿の立つてゐた處を調べて、うすい血の跡を發見した。それからその跡をたどつて數百步離れたうつろに着いた、そこで、獵師の矢に貫かれた大きな狸の死體を見た。

 

 博學にして信心深い人であつたが僧は狸に容易にだまされてゐた。しかし獵師は無學無信心ではあつたが、強い常識を生れながらもつてゐた、この生れながらもつてゐた常識だけで直ちに危險な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。

               (田部隆次譯)
       
                  Common Sense.Kotto.

 

   *]

 

 神通自在の天狗ならばまだしも、狸に致されるに至つては、その信に間隙ありと見倣さざるを得ぬ。伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる。愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である。猪が狸に化けるのは奇拔だが、異説として附け加へて置く。

[やぶちゃん注:『伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる』「三修禪師」は実は実在した法相宗の碩学で、小学館「古典文学全集」版の「今昔物語集」(馬淵・国東・今野訳注/昭和五四(一九七九)年刊(第五版))の注によれば、『菅野氏。東大寺の僧』で『少年にして出家、霊山を巡礼修行し、仁寿年中』(八五一年~八五四年)、『伊吹山に登山止住。元慶二』(八七八)『年二月十三日、三修の奏請によって伊吹山護国寺が定額寺』(じょうがくじ:奈良・平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)『に列せられた。寛平六』(八九四)『年維摩会講師、同七年』には『任権律師』となり、『昌泰三』(九〇〇)『年五月十二日没。年七十二』。『湖東三山の一、西明寺』の草創者でもあり、『後代』には『身軽きこと三朱(約五グラム)の飛行自在の三朱沙門と称せられた』とある知られた高僧である(下線やぶちゃん)。何故、そんな彼がここで無能な僧とされて、ここに描かれているのか? これはどうも寺門間の法論に関わる対立が原因らしい。興味のある方は、田中徳定論文「三修禅師魔往生譚の流伝をめぐって『三国伝燈記』の記事を手掛りとして―」(PDF)を読まれたい。以上は、先の「宇治拾遺物語」に先行する酷似した同源の話。「今昔物語集」の「卷第二十」の「伊吹山三修禪師得天狗迎語第十二」(伊吹の山の三修(さむしゆ)禪師、天狗の迎へを得る語(こと)第十二)である。煩を厭わず示す。

   *

 今は昔、美濃の國に伊吹の山と云ふ山有り。其の山に久しく行ふ聖人(しやうにん)有り。心に智り無くして、法文(ほふもん)を不學(まなば)ず。只、彌陀の念佛を唱ふるより外の事、不知(しらず)。名をば三修禪師とぞ云ひける。他念無く念佛を唱へて、多くの年を經にけり。

 而る間、夜(よ)深く念佛を唱へて、佛の御前に居たるに、空に音(こゑ)有りて、聖人に告げて云く、

「汝、懃(ねむごろ)に我れを憑(たの)めり。念佛の員(かず)多く積りにたれば、明日の未(ひつじ)の時に、我れ來たりて、汝を迎ふべし。努々(ゆめゆめ)、念佛怠る事無かれ。」

と。聖人、此の音(こゑ)を聞て後、彌よ心を至して念佛を唱へて、怠る事無し。

 既に明くる日に成りぬれば、聖人、沐浴し淸淨(しやうじやう)にして、香を燒き、花を散(ちら)して、弟子共に告げて、諸共(もろとも)に念佛を唱へて、西に向ひて居たり。

 而る間、未の時下(さが)る程[やぶちゃん注:午後三時頃。]に、西の山の峰の松の木の隙(ひま)より、漸(やうや)く曜(かかや)き光る樣に見ゆ。聖人、此れを見て、彌(いよい)よ念佛を唱へて、掌(たなごころ)を合せて見れば、佛の綠の御頭(おほんかしら)、指し出で給へり。金色(こんじき)の光を至せり。御髮(みぐし)の際(きは)は金(こがね)の色を磨(みが)けり。眉間は秋の月の空に曜くが如くにて、御額(ひたひ)に白き光りを至せり。二つの眉は三日月の如し。二つの靑蓮(しやうれん)の御眼見(まみ)延びて[やぶちゃん注:離れたところから見えて。]、漸く月の出づるが如し。又、樣々の菩薩、微妙(みめう)の音樂を調べて、貴(たふと)き事限り無し。又、空より樣々の花降る事、雨の如し。佛、眉間の光りを差して、此の聖人の面(おもて)を照らし給ふ。聖人、他念無く禮(をが)み入りて、念珠の緒も可絶(たゆべ)し。

 而る間、紫の雲厚く聳えきて、庵の上に立ち渡る。其の時に、觀音、紫金(しこん)[やぶちゃん注:紫磨金(しまごん)。紫色を帯びた純粋の黄金。]の臺を捧げて、聖人の前に寄り給ふ。聖人、這ひ寄りて、其の蓮華(れんぐゑ)に乘りぬ。佛、聖人を迎へ取りて、遙かに西を差して去り給ひぬ。弟子等(ら)、此れを見て、念佛を唱へて貴ぶ事、限り無し。其の後(のち)、弟子等、其の日の夕(ゆふべ)より、其の坊にして、念佛を始めて、彌よ聖人の後(あと)を訪(とぶら)ふ[やぶちゃん注:後世(ごぜ)・冥福を祈る。]。

 其の後(のち)、七八日を經て、其の坊の下僧(げそう)等、念佛の僧共(ども)に沐浴せしめむが爲に、薪(たきぎ)を伐りに奧の山に入りたるに、遙かに谷に差し覆ひたる高き椙(すぎ)の木有り。其の木の末に、遙かに叫ぶ者の音(こゑ)有り。吉(よ)く見れば、法師を裸にして、縛りて、木の末(すゑ)に結(ゆ)ひ付けたり。此れを見て、木昇り爲(す)る法師、卽ち昇りて見れば、極樂に被迎(むかへら)れ給ひし我が師を、葛(かづら)を斷りて縛り付けたる也けり。法師、此れを見て、

「我が君は何(いか)で此(かか)る目は御覽ずるぞ。」

と云ひて、泣々(なくな)く寄りて解(と)きければ、聖人、

「佛の、『今、迎へに來たらむ。暫く、此(か)くて有れ』と宣ひつるに、何の故に解き下(おろ)すぞ。」

と云ひけれども、寄りて解きければ、

「阿彌陀佛、我れを殺す人有りや、をうをう。」

とぞ、音(こゑ)を擧げて叫びける。

 然れども、法師原(ばら)、數(あま)た昇りて、解き下して、坊に將(ゐ)て行たりければ、坊の弟子共、心踈(う)がりて[やぶちゃん注:嘆き、悲しがって。]、泣き合へり。聖人、移し心[やぶちゃん注:正気。]も無く、狂心(わうしん)のみ有りて、二、三日許り有ける程に、死にけり。

 心を發(おこ)して、貴き聖人也と云へども、智惠無ければ、此くぞ天宮(てんぐ)[やぶちゃん注:「天狗」に同じい。]に被謀(たばかられ)ける。

 弟子共、又、云ふ甲斐無し。

 如此(かくのごとき)の魔緣[やぶちゃん注:天魔の眷属。]と、三寶(さんぽう)の境界(きやうがい)とは、更に似ざりける事を、智(さと)り無きが故に不知(しら)ずして、被謀(たばからる)る也、となむ語り傳へたるとや。

   *

『愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である』「今昔物語集」の「卷第二十」の「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山(やま)の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たばか)らるる語(こと)第十三)。(この注の先の引用の直続きである)やはり、否、好きな話だから、煩を厭わず示す。なお、字面だけを見ると、宵曲のように「猪」(いのしし)であるが、この原典のルビ(但し、これは後人が附したものと推定されている)は不祥な読みで、今のイノシシではなく狸・貉(むじな/アナグマ)の古称かともされることは言い添えておく。

   *

 今は昔、愛宕護の山に久しく行なふ持經者(ぢきやうしや)の聖人有りけり。年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉りて、他(ほか)の念(おもひ)無くして、坊の外に出づる事、無かりけり。智惠無くして、法文(ほふもん)を學ばざりけり。

 而るに、其の山の西の方に、一人の獵師、有りけり。鹿・猪(ゐのしし)を射殺すを以つて役(やく)とせり。然(しか)れども、此の獵師、此の聖人をなむ懃ろに貴びて、常に自らも來たり、折節には可然物(しかるべきもの)などを志(こころざし)ける。

 而る間、獵師、久しく此の聖人の許(もと)に不詣(まうで)ざりければ、餌袋(ゑぶくろ)に可然(しかるべき)菓子(くだもの)など入れて、持て詣でたり。聖人、喜びて、日來の不審(いぶか)しき事共など云ふに[やぶちゃん注:こちらの方が良い。互いに遇わなかった間の安否・消息を問うたのである。]、聖人、居寄りて、獵師に云く、

「近來(このごろ)、極めて貴き事なむ侍る。我れ、年來(としごろ)、他(ほか)の念(おもひ)無く、法花經を持(た)もち奉りて有る驗(しるし)にや有らむ、近來、夜々、普賢なむ現じ給ふ。然(しか)れば、今夜(こよ)ひ留(とどま)りて、禮(をが)み奉り給へ。」

と。獵師、

「極めて貴き事にこそ候ふなれ。然(さ)らば、留りて、禮み奉らむ。」

と云ひて、留りぬ。

 而る間、聖人の弟子に幼き童(わらは)有り。此の獵師、童に問ひて云く、

「聖人の『普賢の現じ給ふ』と宣ふは、汝もや、其の普賢をば、見奉る。」

と。童、

「然(し)か。五、六度許りは見奉たり。」

と答ふ。獵師の思はく、

「然らば、我も見奉る樣も有りなむ。」

と思ひて、獵師、聖人の後(しりへ)に、不寢(いね)ずして居たり。

 九月(ながつき)廿日餘りの事なれば、夜(よ)、尤も長し。夕(ゆふべ)より、今や今やと待ちて居たるに、夜中は過ぎやしぬらむと思ふ程に、東の峰の方(かた)より、月の初めて出づるが如くて、白(しら)み明くる。峰の風、吹き掃ふ樣にして、此の坊の内も、月の光の指し入りたる樣に、明るく成りぬ。

 見れば、白き色の菩薩、白象(びやくざう)に乘りて、漸(やうや)く下り御ます。其の有樣、實(まこと)に哀れに貴し。菩薩、來りて、房に向ひたる所に近く立ち給へり。

 聖人、泣々(なくなく)禮拜恭敬(らいはいくぎやう)し、後(しりへ)に有る獵師に云く、

「何ぞ。主(ぬし)は禮(おが)み奉り給ふや。」

と。獵師、

「極めて貴く禮み奉る。」

と答へて、心の内に思はく、

「聖人の、年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉り給はむ目に見え給はむは、尤(もつとも)可然(しかるべ)し。此の童・我が身などは、經をも知り不奉(たてまつら)ぬ目(め)に、此(か)く見え給ふは、極めて怪しき事也。此れを試み奉らむに、信(しん)を發(おこ)さむが爲(ため)なれば、更に罪(つみ)可得(うべき)事にも非じ。」

と思ひて、鋭鴈矢(とがりや)[やぶちゃん注:獣殺傷用の鋭く尖った征矢(そや)の鏃(やじり)に、箭(せん)に四枚の羽の附けてある矢。]を弓に番(つが)ひて、聖人の禮(おが)み入りて、低(ひ)れ臥したる上より差し越して、弓を強く引きて射たれば、菩薩の御胸(おほんむね)に當る樣にして、火を打ち消(け)つ樣に、光りも失せぬ。谷(たに)ざまに、動(どよ)みて、逃げぬる音(おと)す。

 其の時に、聖人、

「此(こ)は何(いか)にし給ひつる事ぞ。」

と云ひて、呼ばひ泣き迷(まど)ふ事、限り無し。

 獵師の云く、

「穴鎌(あなかま)給へ[やぶちゃん注:「穴」「鎌」ともに当て字。人声や物音をたてることをことを制止する際の発語で、ここは「どうか、お静かになさりませ!」の意。]。心も得ず怪しく思(おぼ)えつれば、『試みむ』と思ひて射つる也。更に罪(つみ)得給はじ。」

と懃ろに誘(こしら)へ云けれども[やぶちゃん注:宥めすかしたけれども。]、聖人の悲しび不止(やま)ず。

 夜明けて後(のち)、菩薩の立ち給へる所を、行きて見れば、血、多く流れたり。其の血を尋ねて、行きて見れば、一町許り下(くだ)りて、谷底に大きなる野猪(くさゐなぎ)の、胸より鋭鴈矢(とがりや)を背に射通されて、死に臥せりけり。聖人、此れを見て、悲びの心、醒めにけり。

 然(しか)れば、聖人也と云へども、智惠無き者は、此く被謀(たばからる)る也。役(やく)と[やぶちゃん注:副詞。専ら。]罪を造る獵師也と云へども、思慮(おもぱかり)有れば、此く野猪(くさゐなぎ)をも射(い)顯(あら)はす也けり[やぶちゃん注:その化けの皮を剝いで正体を暴露させることも出来るのである。]。此樣(かやう)の獸(けだもの)は、此く人を謀(たばか)らむと爲(す)る也。然(さ)る程に、此く命を亡ぼす、益(やく)無き事也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 倂し菩薩來迎の話は必ずしも日本の愛宕山にはじまるものではない。唐の代州に一女あり、兄は遠く征途に上つてゐるので、母と共に家を守つてゐると、忽然として雲に乘つた菩薩が現れ、母に向つて、汝の家甚だよろし、我れこゝに居らんと欲す、速かに修理すべし、と告げた。修理は忽ち村人の手によつて行はれ、菩薩は五色の雲と共にその室に下つた。「宇治拾遺」の普賢菩薩は聖と小僧とが禮拜しただけだから、廣く世間に知れ渡らなかつたが、この方は最初から村人を煩はしたので、彼等はそれからそれへと奇瑞を傳へ、信心の輩は次ぎ次ぎに集まつて來た。然るにその菩薩が女と私通するといふ事實があり、馬脚ではない狐脚をあらはしかけたところで、兄の歸還といふ段取りになつた。菩薩は男子を見るを欲せずと云ひ、母をしてこれを逐はしめた爲、兄は家に入ることが出來ない。そこで財を傾けて道士を求め、道士が祕法を修した結果、菩薩は一老狐に過ぎぬことが明かになつた。老狐は斬られて事が終るのである(廣異記)。

[やぶちゃん注:「代州」山西省北東部の古称。

 以上は「廣異記」の「代州民」。

   *

唐代州民有一女、其兄遠戍不在、母與女獨居。忽見菩薩乘雲而至、謂母曰、「汝家甚善、吾欲居之、可速修理、尋當來也。」。村人競往。處置適畢、菩薩馭五色雲來下其室。村人供養甚眾。仍敕眾等不令有言、恐四方信心、往來不止。村人以是相戒、不説其事。菩薩與女私通有娠。經年、其兄還、菩薩云、「不欲見男子。」。令母逐之。兒不得至、因傾財求道士。久之、有道士爲作法、竊視菩薩、是一老狐、乃持刀入、砍殺之。

   *]

 

 この菩薩は愛宕山で普賢菩薩となつて現れた狸よりも更に程度が低い。村人の信仰を集め得たあたりで消え去れば、一時の榮華で身を全うすることが出來たのに、慾にからんで一所に執著したのが誤りであつた。娘との關係の暴露するのを恐れ、母親をして兄の入るを拒ましめるに至つては、この種の徒に屢々見る最後のあがきに外ならぬ。これだけの狂言を書く以上、年ふる狐だつたには相違ないが、その質は上等ではなかつたのであらう。早く身の破滅を招いたのは眞正の菩薩の崇りかも知れぬ。

 

2017/06/01

柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その2)

 

「十訓抄」の天狗は自分の命を救はれた恩に報ゆるため、靈山大會の幻術を見せたのであるが、天狗が佛に現ずる話は先例がないでもない。醍醐天皇の御代といふから、今の話より少くとも百年以上前である。五條の道祖神のあるところに、成らぬ柿の木といふ大木があつた。大和から瓜を馬に載せて運ぶ者が、不思議な老人に出過つて、持つて來た瓜を全部失ふ話も、慥か成らぬ柿の木の下であつたから、かういふ奇譚に緣のある木なのかも知れぬ。この柿の木の上に佛の現じ給ふ事があつて、微妙の光りを放ち、樣々の花を降らせ、極めて貴く見えたので、京中の人の集まること引きも切らず、車も立たぬ有樣であつた。その時、光の大臣だけはこれを信ぜず、まことの佛が木の上などに俄かに現じ給ふ筈がない、天狗などの所爲であらう、外術は七日を過ぎるものでないから、今日行つて見ようと思ひ立ち、裝束を整へ、枇榔毛(びらうげ)の車に乘つて出かけられた。その日もやはり人が集まつてゐたのを立ち退かせ、車をとどめ榻(しぢ)を立て、簾を卷き上げて見ると、柿の梢に佛の姿が見える。金色の光りを放ち、虛空より花を降らす有樣、噂の通りであつたが、大臣頗るこれを怪しみ、一時ばかり見守つてゐたら、なほ暫くは光りを放ち、花を降らせたものの、忽ち大きな屎鵄(くそとび)が翼も折れたやうになつて落ちて來た。鵄は地に落ちても死んだわけではなかつたのを、子供達が打ち殺してしまつた。

[やぶちゃん注:「醍醐天皇の御代」在位は寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年。

「大和から瓜を馬に載せて運ぶ者が、不思議な老人に出過つて、持つて來た瓜を全部失ふ話」は「今昔物語集」の「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十(しじふ))。既に先行する本書の「大和の瓜で語られ、そこで私が原話も電子化済みである。

「光の大臣」「ひかるのおとど」と読む。仁明天皇の第十一皇子で公卿の源光(みなもとのひかる 承和一二(八四五)年~延喜一三(九一三)年)のこと。正二位・右大臣。なお、彼が右大臣に叙任されたのは昌泰四(九〇一)年正月で、これは前職菅原道真失脚(光もその謀略の張本人の一人とされる)の後人事であった。その十二年後、光は鷹狩に出、不意に塹壕の泥沼の中に転落、溺死した上、遺体が上がらなかった。世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝えられる(後半部はウィキの「源光(公卿)」に拠った)。言わずもがなであるが、「源氏物語」の主人公光とは無関係で、モデルでもない。話者自体はずっと後代になってこの話を語っているのであるから、当時は大臣ではなかった彼を「光の大臣」と呼んでも何ら誤りではない。

「外術」(げじゆつ(げじゅつ))はここでは仏教や朝廷の認めた公的な陰陽道を外れた妖しくまがまがしい目くらましの幻術・魔術の意。

「七日には過ぎず」この幻術の有効期間の根拠は不詳。

「檳榔毛(びろうげ)の車」白く晒した檳榔(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ Livistona chinensis のことで、ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu とは全くの別種なので注意が必要である(諸注はこれらを混同しているか或いは逆にした誤った記載が思いの外、多いように私には感じられる)。ウィキの「ビロウ」によれば、ビロウ Livistona chinensis は『東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島』とある(ビンロウ Areca catechu の方は本来は本邦には自生していないと思われる)の葉を細かく裂いて屋根及び側面を覆った牛車で、よく知れる牛車の側面にある物見(窓)はないのが普通らしい。前後は赤い蘇芳簾(すおうすだれ)で、その内側の下簾(したすだれ:前後の簾の下から外部に長く垂らした絹布。多くは生絹(すずし)を用い、端が前後の簾の下から車外に出るように垂らし、女性や貴人が乗る場合に内部が見えないように用いた。)は赤裾濃(あかすそご:裾に向かって徐々に糸の色が赤く濃くなる染め技法をいう。)。上皇以下・四位以上の上級貴族が乗用したが、入内する女房や高僧なども用いた。檳榔がない場合は菅(単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex)の類を用いたようである。

「榻(しぢ)」牛車(ぎつしや)の道具の一種。牛車を牛から外したとき、前方に左右に突き出た「轅(ながえ)」の前方先端でその二本を繫げて牛を止める「軛(くびき)」を載せる台。これはまた、牛車から乗り降りする際の踏み台としても用いた。なお、これは車添いの者が持ち運んだ。

「屎鵄(くそとび)」鳥綱タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicusトビ(タカ科トビ属トビ Milvus migrans:全長は約六〇~六五、翼開長は約一五〇~一六〇センチメートル)よりも一回り小さく、全長五〇~六〇、翼開長一〇〇~一四〇センチメートルの鷹類の一種。上面は褐色で、下面は黄色味もある灰褐色で模様があり、その色彩から「糞鳶」「馬糞鷹」などの有り難くない呼称も持つていた。地上の餌を探す際に空中の一点でホバリングする特徴的な飛び方をすることがしばしばある。

 以上で梗概が語られるそれは同じ「今昔物語集」の「卷第二十」の「天狗現佛坐木末語第三」(天狗、佛に現じて木末(こずゑ)に坐(ま)す語(こと)第三)である。以下に示す。表記は参考底本とした小学館「古典文学全集」版のそれ(馬淵・国東・今野訳注/昭和五四(一九七九)年刊(第五版))を基本、使用した。されば「ぐゑじつ」等はママ。

   *

 今は昔、延喜の天皇の御代に、五條の道祖神(さへのかみ)の在(まし)ます所に、大きなる成らぬ柿の木、有けり。

 其の柿の木の上に、俄かに佛(ほとけ)、現はれ給ふ事、有りけり。微妙(めでた)き光を放ち、樣々の花などを令降(ふらし)めなどして、極めて貴(たふと)かりければ、京中の上中下(かみなかしも)の人、詣で集まる事、限り無し。車も不立敢(たてあへ)ず、步人(かちびと)、はたら[やぶちゃん注:副詞。まして。況や。]云ひ不可盡(つくすべから)ず。此くの如き、禮(をが)み喤(ののし)る間、既に六、七日に成りぬ。

 其の時に、光の大臣(おとど)と云ふ人、有り。深草の天皇の御子(みこ)也。身の才(ざい)賢く、智(さと)り明らか也ける人にて、此の佛の現じ給ふ事を、頗る心得ず思ひ給ひけり。

「實(まこと)の佛の、此く俄かに木の末(すゑ)に可出給(いでたまふべ)き樣(やう)無し。此れは、天狗などの所爲にこそ有るめれ。外術(ぐゑずつ)は七日には過ぎず。今日、我れ、行きて見む。」

と思ひ給ひて、出で立ち給ふ。日の裝束、直(うるは)しくして、檳榔毛(びんろうげ)の車に乘りて、前驅(ぜんくう)など直しく具して、其の所に行き給ひぬ。

 若干(そこばく)の諸(もろもろ)集まれる人を掃ひ去(の)けさせて、車を搔き下(おろ)して、榻(しぢ)を立てて、車の簾を卷き上げて見給へば、實(まこと)に木の末に佛、在(まし)ます。金色(こんじき)の光を放ちて、空より樣々の花を降らす事、雨の如し。見るに、實に貴き事、限り無し。

 而るに、大臣(おとど)、頗る怪しく思(おぼ)え給ひければ、佛に向ひて、目をも不瞬(まじろが)ずして、一時(ひととき)[やぶちゃん注:現在の二時間相当。]許り守り給ひければ、此の佛、暫くこそ、光を放ち花を降しなど有りけれ、強(あなが)ちに守る時に、侘(わ)びて、忽ちに、大きなる屎鵄(くそとび)の翼(つばさ)折れたるに成りて、木の上より土に落ちてふためくを、多の人、此れを見て、

「奇異也。」

と思ひけり。小童部(こわはべ)、寄りて、彼の屎鵄をば打ち殺してけり。

 大臣は、

「然(さ)ればこそ、實の佛は、何の故に、俄かに木の末には現はれ給ふべきぞ。人の此れを悟らずして、日來(ひごろ)、禮(をが)み喤(ののし)るが愚なる也。」

と云ひて、返り給ひにけり。

 然(しか)れば、其の庭(には)[やぶちゃん注:場。]の若干の人、大臣をなむ讚(ほ)め申しける。世の人も、此れを聞きて、

「大臣は賢かりける人かな。」

と云ひて、讚め申しけりとなむ、語り傳へたるとや。

   *

 少し語注しておく。

・「延喜の天皇」醍醐天皇。この時期、形式的ながら、天皇親政が行われ、後にこれをその在位中の主たる時期の元号延喜(九〇一年~九二三年)を用いて「延喜の治」と称したことによる。なお、小学館「古典文学全集」の注によれば、以下は「帝王編年記」に昌泰三(九〇〇)年正月二十五日の事実として載る。

・「深草の天皇」仁明天皇。死後の陵墓の在所地名による異称。

・「前驅」「せんく」「ぜえん」「ぜんぐ」等とも読む。貴人の行列の先頭に立ち、馬に乗って先導する役。

・「目をも不瞬(まじろが)ずして」瞬きもせずに凝っと。]

 

 この話は「今昔物語」の傳ふるところであるが、天狗が死んで屎鵄になる話は同じ書物に見えてゐる。讚岐國の萬能の池に棲む龍が、小蛇となつて堤の日向に居つたのを、比良の山の天狗に攫み去られた。龍は小蛇になつてはゐても、天狗には攫み殺し得ず、比良に歸つて狹い洞の中に押し込めて置いた。河童の皿の話ではないが、さすがの龍も一滴の水なくしては威力を發揮するわけに往かぬ。そのまゝ洞に閉ぢ込められて居つた。たまたま天狗が叡山から一人の僧を攫(さら)つて來て、その僧の持つ水瓶に殘つた一滴の水が、逐に龍を救ひ、僧をもとの寺へ還すことになる。龍はこの怨みを報ぜんがために天狗の所在を求め、荒法師の姿になつてゐるところを蹴殺してしまつた。「翼折れたる屎鵄にてなむ大路に踏まれける」とある。以上の天狗が鳶として人の手に捕へられるのは、かういふ場合であるかどうかわからぬが、とにかく佛の樣相を學ぶのは、天狗に取つて朝飯前の仕事だつたのであらう。叡山の老僧が靈山の大會の有樣を拜みたいと云つた時、容易にこれを引き受けてゐるのでもわかる。あの天狗は頻りに信を發してはならぬと戒めてゐたが、さうかと云つて最初から全然これを信ぜぬ光の大臣のやうな人やまた困るので、その人に一時も見詰められた結果、通力を失ひ、幻術が破れたものらしい。

[やぶちゃん注:「萬能の池」現在の香川県仲多度(なかたど)郡まんのう町にある日本最大の灌漑用溜池である満濃池(まんのういけ)。大宝年間(七〇一年~七〇四年)の頃に讃岐国の国守道守朝臣が創築したが、洪水による決壊を繰り返し、復旧に難航、弘仁一二(八二一)年に弘法大師空海が築池別当として公的に派遣されて改修したことで知られる。現在の周囲は約二十キロメートル、貯水量は千五百四十万トンに及ぶ。「満濃太郎」とも呼される。

「比良の山」広義には滋賀県中西部の琵琶湖西岸一帯の比良(ひら)山地の高峰群を指し、最高峰は武奈(ぶな)ヶ岳で標高千二百十四メートルであるが、狭義にはその南部にある修験者の霊山であった蓬莱山を指し、こちらは標高千百七十四メートル。天狗が常住する山としても古来より知られた。

「水瓶」「すいびやう(すいびょう)」と読む。修行僧が水を入れる容器。飲料水を入れる「淨瓶」と用便の後に手洗するための「觸瓶」の二種があるが、ここは以下の原典から後者である。

 以上は「今昔物語集」「卷第二十」の「龍王爲天狗被取語第十一」(龍王、天狗の爲に取らるる語(こと)第十一)。□は欠字。

   *

 今は昔、讃岐の國□□の郡(こほり)に、万能(まの)の池と言ふ、極めて大きなる池有り。其の池は、弘法(こうぼふ)大師の、其の國の衆生(しゆじやう)を哀はれがり、爲に、築(きづ)き給へる池也。池の𢌞り遙かに廣くして、堤を高く築き𢌞したり。池などとは不見(みえ)ずして、海とぞ見えける。池の内、底(そこひ)無く深ければ、大小の魚共、量り無し。亦、龍の栖(すみか)としてぞ有りける。

 而る間、其の池に住ける龍、

「日に當らむ。」

と思けるにや、池より出て、人離れたる堤(つつみ)の邊(ほとり)に、小さき蛇(へみ)の形にて蟠(わだかま)り居(ゐ)たりけり。

 其の時に、近江の國比良(ひら)の山に住ける天狗、鵄(とび)の形として、其の池の上を飛び𢌞るに、堤に小蛇の蟠て有るを見て、□鵄、反(そ)り下つて、俄かに搔き抓(つか)みて、遙かに空に昇りぬ。龍、力強き者也と云へども、思不懸(おもひかけ)ぬ程に俄かに抓まれぬれば、更に術(ずつ)盡きて、只、抓まれて行くに、天狗、小さき蛇(へみ)を抓み碎きて食(じき)せむとすと云へども、龍の用力(ようりよく)[やぶちゃん注:「膂力(りよりよく)」の借字。体筋力。]強きに依りて、心に任せて抓み碎き噉(つら)はむ事不能(あたは)ずして、繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:扱い兼ねて。持て余して。]、遙かに本(もと)の栖(すみか)の比良の山に持て行きぬ。

 狹き峒(ほら)の可動(うごくべ)くも非ぬ所に打ち籠め置きつれば、龍、狹(せば)く□破(わ)り無くして居(ゐ)たり。一渧(ひとしづく)の水も無ければ、空を翔ける事も無し。只。死なむ事を待ちて、四、五日有り。

 而る間、此の天狗、比叡(ひえ)の山に行きて、短(ひま)を伺ひて、

「貴き僧を取らむ。」

と思ひて、夜(よ)る、東塔の北谷に有りける高き木に居て伺ふ程に、其の向ひに造り懸けたる房(ばう)有り。其の坊に有る僧、緣に出づるに、小便をして、手を洗はむが爲、水瓶(すいびやう)を持ちて手を洗ひて入(い)るを、此の天狗、木より飛び來たりて、僧を搔き抓(つか)みて、遙かに比良の山の峒(ほら)に將(ゐ)行きて、龍の有る所に打ち置きつ。僧、水瓶を持ち乍ら、我れにも非で[やぶちゃん注:呆然として。]居(ゐ)たり。

「我れ、今は限りぞ。」

と思ふ程に、天狗は僧を置くままに去りぬ。

 其の時に、暗き所に音有りて、僧に問ひて云く、

「汝(なむぢ)は此れ、誰人(たれひと)ぞ。何(いづ)くより來たるぞ。」

と。僧、答へて云く、

「我れは比叡の山の僧也。手を洗はむが爲に、坊の緣に出たりつるを、天狗の俄かに抓(つか)み取りて、將(ゐ)て來たれる也。然(さ)れば、水瓶(すいびやう)を持ち乍ら來れる也。抑(そもそ)も、此く云ふは誰(たれ)ぞ。」

と。龍、答へて云く、

「我れは讚岐の國万能(まの)の池に住む龍也。堤に這ひ出でたりしを、此の天狗、空より飛び來りて、俄かに我を抓(つか)みて此の峒(ほら)に將(ゐ)て來たれり。狹(せば)く□て、爲(せ)む方(かた)無しと云へども、一渧(しづく)の水も無ければ、空をも不翔(かけら)ず。」

と。僧の云く、

「此の持たる水瓶に、若し、一渧(しづく)の水や殘りたらむ。」

と。龍、此れを聞きて、喜びて云く、

「我れ、此の所にして、日來(ひごろ)經て、既に命、終りなむと爲(す)るに、幸ひに來たり會ひ給ひて、互ひに命を助くる事を得べし。若し、一渧(しづく)の水有らば、必ず、汝を本(もと)の栖(すみか)に將(ゐ)て至たるべし。」

と。僧、又、喜びて、水瓶を傾けて龍に授くるに、一渧(しづく)許りの水を受けつ。

 龍、喜びて、僧に教へて云く、

「努々(ゆめゆめ)、怖る事無くして、目、塞ぎて、我れに負(お)はれ可給(たまふべ)し。此の恩、更に世々(せせ)にも忘れ難し。」

と云ひて、龍、忽ちに小童(こわらは)の形と現じて、僧を負ひて、峒(ほら)を蹴破りて出づる間、雷電霹靂(へきれき)して、空陰(くも)り、雨降る事、甚だ怪し。僧、身、振ひ、肝、迷(まど)ひて、

「怖ろし。」

と思ふと云へども、龍を睦(むつ)び思ふ[やぶちゃん注:心より信頼している。]が故に、念じて負はれて行く程に、須臾(しゆゆ))に比叡の山の本の坊に至りぬ。僧を緣に置きて、龍は去りぬ。

 彼の房の人、

「雷電霹靂して、房に落ち懸かる。」

と思ふ程に、俄かに坊の邊(ほとり)、暗(やみ)の夜(よる)の如く成りぬ。暫し許り有りて晴れたるに、見れば、一夜(いちや)、俄かに失せにし僧、緣に有り。坊の人々、奇異(あさま)しく思ひて問ふに、事の有樣を委しく語る。人皆、此れを聞きて、驚き、奇異しがりけり。

 其の後(のち)、龍、彼の天狗の怨(あた)を報ぜむが爲に、天狗を求むるに、天狗、京に知識を催す[やぶちゃん注:勧進を催す。]荒法師(ああらはふし)の形と成りて行きけるを、龍、降(お)りて蹴殺してけり。然(しか)れば、翼(つばさ)折れたる屎鵄(くそとび)にてなむ、大路に踏まれける。彼(か)の比叡山(ひえのやま)の僧は、彼の龍の恩を報ぜむが爲に、常に經を誦(じゆ)し、善を修(しゆ)しけり。

 實(まこと)に此れ、龍は僧の德に依りて命を存(そん)し、僧は龍の力に依りて山に返る。此れも皆、前生(ぜんしやう)の機緣なるべし。此の事は、彼の僧の語り傳ふるを、聞き繼ぎて、語り傳へたるとや。

   *]

 

「十訓抄」は古鳶になつた天狗の話に續けて、天竺の似た話を掲げてゐる。優婆崛多(うばくつた)といふ羅漢は天魔に恩を施したことがあり、報恩のため何にても命じられたいと申し出た時、叡山の僧と同じく、佛の有樣を學んで見せよと云つた。易き事なれども、見て拜まれるやうなことがあると、自分のために甚だよくない、ゆめ拜み給ふなといふ天魔の註文も天狗と同じ事であつた。暫くして林中より步み出るのを見れば、長(たけ)は一丈六尺、頂は紺靑、身からは金色の光りを放つてゐる。崛多これを見て不覺の淚を流し、聲を揚げたので、天魔は忽ち本の形をあらはしてしまつた。日本の天狗はこの後塵を拜したわけであるが、單なる話としては靈山の大會の方が面白い。優婆崛多の話は「今昔物語」にもほゞ同じやうに出てゐる。佛典に原話のあることは疑ふべくもない。

[やぶちゃん注:「婆崛多(うばくつた)」ウパグプタ。釈迦が涅槃に入って百年後に出たともされる、仏法を守護したアショーカ王(阿育王)の師僧ともされる、上座部仏教の尊者。

「證果」修行の結果として確かな悟りを得た状態で、しかも衆生を教化する資格「阿羅漢果」を釈迦によって認められることを指す。

「學んで見せよ」似せて演じて見せよ。後掲する「十訓抄」や「今昔物語集」の「學び」の読みは「まなび」ではなく、「まねび」である。

「一丈六尺」本邦では四・八五メートルになるが、これは中国経由の経典を原典とするから、中国の周尺換算で、三メートル六十五センチメートル

 これは宵曲の言う通り、先の「第一 可定心操振舞事」(心の操(きさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の「後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて……」の次に載る話。以下。注は附さぬ。

   *

 昔、中天竺(てんぢく)に、佛滅後百歳ばかり過ぎて、優婆崛多と申す證果の羅漢おはしけり。天魔のために、芳恩をほどこし給ふことあるによりて、何事にても、命によりて、其恩をゝくべきよしを請ひ申すに、崛多いはく、

「われ、仏の有樣、きはめて戀ひしく思ひ奉る。學び奉て見すべし。」

とのたまふ。

「やすき事なれとも、見て拜み給はば、をのれがため、きわめて惡(あ)しかるべし。」

と云ふ。

「更に禮(おが)むまじ。」

とのたまへば、

「努々(ゆめゆめ)。」

と口がためて、林中に隱れぬ。しばしありて、步み出でたるを見れば、たけは丈六、紫金(しこん)の色也。頂上の肉髮、烏瑟(うしつ)のみぐしに耀き、靑蓮の眸、丹菓(たんくわ)の唇、萬字胸、千輻輪(せんぷくりん)の趺(あなうら)、三十二相八十種好、一もかけたることなし。光明赫奕(かくやく)として春の日のはじめていづるがごとし。金山の動くがごとくして、不覺のなみだをおとし、こゑを上げて哭す。其時、天魔、本形に現はれ、頂にもろもろの骨角をかけて、瓔珞(ようらく)としたりけり。今の天狗の所變にかはらず。人倫のためにしはうちまかせたる習(ならひ)なれば、敢てしるすべからず。

   *

 「今昔物語集」のほぼ同じような話というのは、「卷第四」の「優婆崛多降天魔語第八」(優婆崛多(うばくつた)、天魔を降(くだ)せる語(こと)第八)のこと。というより、「十訓抄」より遙かに理が通っていて達意である。

   *

 今は昔、天竺に優婆崛多と申す證果の羅漢、在(まし)ます。人を利益(りやく)し給ふ事、佛の如し。亦、法を説きて、諸(もろもろ)の人を教化し給ふ。世の人、來たりて法を聞くに、皆、利益を蒙(かうぶ)りて、罪を滅す。然(しか)れば、世擧(こぞ)りて指し合へる事[やぶちゃん注:互いにぶつかり合うほどに群がり集まること。]、限り無し。

 而る間、其の庭に一人の女出で來たりたり。形㒵(ぎやうめう)端正(たんじやう)にして、有樣美麗なる事、並無(ならびな)し。其の時に、此の法を聞くの人、皆、此の女の美麗なるを見て、忽ちに愛欲の心を發して、法を聞く妨(さまた)げと成りぬ。

 優婆崛多、此の女を見、

「此れは天魔の、『法を聞きて益(やく)を得る人を妨げむ』とて、美しの女と變化(へんぐゑ)して來れる也。」

と見給ひて、女を呼び寄せへば、女、詣(いた)りたるに、優婆崛多、花鬘(くわまん)[やぶちゃん注:生け花を紐に通した首飾り。]を以ちて、女の頸に打ち懸け給ひつ。女、

「花鬘ぞ。」

と思ひて、立ち去りてと見るに、諸(もろもろ)の不浄の人・馬・牛等の骨を貫きて、頸に懸けたり。臭く、むつかしき[やぶちゃん注:気味が悪い。]事、限り無し。

 其の時に、女、本(もと)の天魔の形に成りて、取り棄てむと爲るに、更に棄うる事を不得(え)ず。東西南北に走り𢌞(めぐ)ると云へども、力、及ばず。法を聞く人、此れを見て、

「奇異也。」

と思ふ。

 天魔、繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:困惑して。]、大自在天[やぶちゃん注:この場合は天魔の首魁天魔波旬。即ち、ここでこう言って甚だ困っている「天魔」は「波旬」の配下の天魔ということになる。]と云ふは、魔の首(かしら)也。其の所に昇りて、此の事を愁ひて、

「此れ、取り去(の)けよ。」

と乞ふ。大自在天、此れを見て云く、

「此れは、佛弟子の所爲にこそ有るめれ。我れ、更に取り去け難し。只、此の懸けむ者に、『取り去けよ』」と乞ひ請けよ。」

と云へば、云ふに隨ひて、亦、優婆崛多の許に來り下りて、手を摺りて云く、

「我れ、愚かにして、『法を聞く人を妨げむ』と思ひて、女と成りて來たる事を悔ひ悲しむで、此(これ)より後、更に此の心を發さず。願はくは、聖人、此れを取り去け給へ。」

と云へば、優婆崛多、

「汝(なん)ぢ、此れより後、法を妨ぐる心、無かれ。速かに取り去くべし。」

と宣ひて、取り去けつ。

 天魔、喜びて、

「何(いか)でか、此の事をば報じ申さむと爲(す)。」

と云へば、優婆崛多の宣はく、

「汝は佛の御有樣は見奉きや。」

と。天魔、

「見奉りき。」

と云ふ。優婆崛多の宣はく、

「我れ、佛の有樣(ありさ)ま、極めて戀し。然(さ)れば、佛の有樣を學(まね)び奉りて、我れに見せてむや。」

と。天魔の云はく、

「學(まね)び奉らむ事は安き事なれども、見て禮(をが)み給はば、己(おのれ)が爲に極めて堪へ難かりなむ。」

と。優婆崛多の云く、

「我れ、更に禮み奉るべからず。猶、學び奉りて見せよ。」

と責め給へば、天魔、

「努々(ゆめゆ)め禮み給ふな。」

と云ひて、林の中に步み隱れぬ。

 暫く有りて、林の中より步み出たるを見れば、長(たけ)は丈六、頂は紺靑の色也。身の色は金の色也。光は日の始めて出づるが如し。優婆崛多、此れを見奉るに、兼ては

「禮まじ。」

と思ひつれども、不覺に淚落ちて、臥して音(こゑ)を擧げて哭(な)く。

 其の時に、天魔、本(もと)の形ちに顯はれぬ。頸に者の骨共を懸けて、瓔珞と爲(し)たり。

「然ればこそ。」[やぶちゃん注:天魔の台詞。「あのように申し上げましたにも拘らず、やはり恐れた通りだった……」。]

と云ひて侘びけり[やぶちゃん注:天魔は歎いた。]。

 然れば、優婆崛多、天魔を降伏(がうぶく)し、衆生を利益し給ふ事、佛に不異(ことなら)ずとなむ、語り傳へたるとや。

   *]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)

 

 

 

 佛と魔

 

 後冷泉院の御代の話ださうである。叡山の西塔に住む僧が京へ出て歸らうとすると、東北院の北の大路で、子供が五六人ばかり、鳶を縛つて枝で打つたりしてゐる。殺して羽を取らうといふ話なので、扇を與へて鳶を貰ひ、繩を解いて放してやつた。今日はいゝ功德をしたと明るい氣持になつて、暫く步いて來るうちに、路傍の藪から異樣の法師が現れた。自分のあとからついて來る樣子だから、避けてやり過さうとしたところ、法師が丁寧に會釋をして、お情けを蒙りまして命が助かりました、御禮申上げます、と云ふ。何の事かわからず、どなたでしたかと問ひ返せば、東北院の北の大路で辛き目に遭つた者でござる、生ける者に取つて命より大事なものはござりません。このお禮には何事にもあれ、お望みの事を一つ叶へて差上げませう、といふことであつた。自分は年七十に及んで、この世には何の望みもない、たゞ釋迦如來の靈山に於ける御説法は、どれほどめでたいものであつたか、一目拜みたいものと思つて居ります、その有樣を見せては下さるまいか、と云ふと、お易い事ぢや、さういふ者眞似こそ拙僧得意とするところ、と或山へ連れて行つた。こゝで暫く目を閉ぢてゐて下さい、佛の御説法の聲が聞えたら目をあけて下さい、くれぐれも御注意して置きますが、尊いと思はれる事は必ず御無用、あなたが信(しん)をお發しになると、拙僧の爲に宜しくないので……と云ひ捨てて峯の方へ步み去つた。やがて説法の聲が聞える。目を開けば山は靈山となり、地は紺瑠璃となり、木は七重寶樹となり、釋迦如來の獅子の牀の上に居られるお姿が見える。普賢文珠は左右に、菩薩聖衆は雲霞の如く、帝繹四王龍神八部、所もなく充ち滿ちて、空からは四種の花が降り、香(かんば)しい風が吹き、天人は雲に列(つらな)つて微妙の音樂を奏する。佛在世の説法の庭に臨んだやうな氣がして、思はず手を額に當て、歸命頂禮(きみやうちやうらい)した。途端に山は凄まじく鳴動し、眼前の物象は悉く消え失せて、自分は依然草深い山中に居る。叡山へ歸る途中、例の法師に逢つたが、あなたが約束を守らずに信を發せられたので、護法の天童下り給ひ、何でかやうの信者を誑かすかと嚴しく呵責(かしやく)されました、雇ひ集めた法師どもも肝を潰して逃げ去り、拙僧も片羽打たれてこの爲體(ていたらく)でござる、といふなり、法師の姿はもう見えなかつた。

[やぶちゃん注:「後冷泉院の御代」後冷泉天皇の在位は寛徳二(一〇四五)年から治暦四(一〇六八)年。

「東北院の北の大路」「東北院」は現在、京都市左京区浄土寺真如町にある、時宗の雲水山東北院であるが、この当時は現在の京都市上京区荒神口通寺町東入の北側(現在の京都御所の東(大内裏直近外側の鴨川右岸縁)にあった天台宗法成寺(ほうじょうじ:平安中期に藤原道長によって創建された摂関期最大級の寺院であったが、鎌倉時代に荒廃し、現存しない)に付属する天台宗寺院であった。なお、この東北院は道長の娘で一条天皇中宮であった、かの上東門院彰子所縁の寺である。従って、この「北の大路」とは大内裏北端の一条大路から一本北へ下がった大路である土御門大路と考えられる。

「靈山」「りやうぜん(りょうぜん)」と読む。霊鷲山(りょうじゅせん)の略称。インドのビハール州のほぼ中央にあり、釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。「鷲峰山」とも別称し、本邦に見られる同名・類似の山名はこれに擬えたものが多い。

「紺瑠璃」色ではなく、仏教の七宝の一つ金緑石のこと。実在するラピスラズリ(lapis lazuli)とする説もある。

「七重寶樹」「しちぢゆうほうじゆ(しちじゅうほうじゅ)」と読む。極楽浄土にあるとされる金樹・銀樹・瑠璃樹・玻璃樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・硨磲(しゃこ)樹が七重にも並らび生えた宝樹林又は黄金の根・紫金(しこん)の茎・白銀の枝・瑪瑙の条・珊瑚の葉・白玉の花・真珠の果実から成った宝の木とも言われる。

「獅子の牀」「ししのとこ」と読んでおく。場の上座のこと。

「菩薩聖衆」「ぼさつしやうじゆ(ぼさつしょうじゅ)」と読む。諸菩薩及び声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)或いは比丘などの多くの修行者や聖者の集団。]

 

 小泉八雲が「天狗の話」として書いたこの原話は「十訓抄」に載つてゐる。八雲の氣に入るべき話であることは云ふまでもないが、靑木繁も非常にこの話に興味を持つてゐたさうである。彼が蒲原有明のためにこの話を説いた時、その言葉が紺瑠璃に染まつたやうな氣がした、倂し靑木に教へられて「十訓抄」を買ひ求め、この話を讀んだら、たゞきたない活字の列に過ぎなかつた、と有明は書いてゐる。

[やぶちゃん注:小泉八雲の「天狗の話」は明治三二(一八九九)年刊のIn Ghostly Japan(「霊の日本にて」)に所収するStory of a Tenguである。原文を示す。

   *

 

Story of a Tengu

 

IN the days of the Emperor Go-Reizei, there was a holy priest living in the temple of Saito, on the mountain called Hiyei-Zan, near Kyōto. One summer day this good priest, after a visit to the city, was returning to his temple by way of Kita-no-Ōji, when he saw some boys ill-treating a kite. They had caught the bird in a snare, and were beating it with sticks. "Oh, the, poor creature!" compassionately exclaimed the priest;—"why do you torment it so, children?" One of the boys made answer:—"We want to kill it to get the feathers." Moved by pity, the priest persuaded the boys to let him have the kite in exchange for a fan that he was carrying; and he set the bird free. It had not been seriously hurt, and was able to fly away.

 

   Happy at having performed this Buddhist act of merit, the priest then resumed his walk. He had not proceeded very far when he saw a strange monk come out of a bamboo-grove by the road-side, and hasten towards him. The monk respectfully saluted him, and said: —"Sir, through your compassionate kindness my life has been saved; and I now desire to express my gratitude in a fitting manner." Astonished at hearing himself thus addressed, the priest replied:—"Really, I cannot remember to have ever seen you before: please tell me who you are." "It is not wonderful that you cannot recognize me in this form," returned the monk: "I am the kite that those cruel boys were tormenting at Kita-no-Ōji. You saved my life; and there is nothing in this world more precious than life. So I now wish to return your kindness in some way or other. If there be anything that you would like to have, or to know, or to see,—anything that I can do for you, in short,—please to tell me; for as I happen to possess, in a small degree, the Six Supernatural Powers, I am able to gratify almost any wish that you can express." On hearing these words, the priest knew that he was speaking with a Tengu; and he frankly made answer:—"My friend, I have long ceased to care for the things of this world: I am now seventy years of age; neither fame nor pleasure has any attraction for me. I feel anxious only about my future birth; but as that is a matter in which no one can help me, it were useless to ask about it. Really, I can think of but one thing worth wishing for. It has been my life-long regret that I was not in India in the time of the Lord Buddha, and could not attend the great assembly on the holy mountain Gridhrakuta. Never a day passes in which this regret does not come to me, in the hour of morning or of evening prayer. Ah, my friend! if it were possible to conquer Time and Space, like the Bodhisattvas, so that I could look upon that marvellous assembly, how happy should I be!"―"Why," the Tengu exclaimed, "that pious wish of yours can easily be satisfied. I perfectly well remember the assembly on the Vulture Peak; and I can cause everything that happened there to reappear before you, exactly as it occurred. It is our greatest delight to represent such holy matters…. Come this way with me!"

   And the priest suffered himself to be led to a place among pines, on the slope of a hill. "Now," said the Tengu, "you have only to wait here for awhile, with your eyes shut. Do not open them until you hear the voice of the Buddha preaching the Law. Then you can look. But when you see the appearance of the Buddha, you must not allow your devout feelings to influence you in any way; —you must not bow down, nor pray, nor utter any such exclamation as, 'Even so, Lord!' or 'O thou Blessed One!' You must not speak at all. Should you make even the least sign of reverence, something very unfortunate might happen to me." The priest gladly promised to follow these injunctions; and the Tengu hurried away as if to prepare the spectacle.

   The day waned and passed, and the darkness came; but the old priest waited patiently beneath a tree, keeping his eyes closed. At last a voice suddenly resounded above him,—a wonderful voice, deep and clear like the pealing of a mighty bell,—the voice of the Buddha Sâkyamuni proclaiming the Perfect Way. Then the priest, opening his eyes in a great radiance, perceived that all things had been changed: the place was indeed the Vulture Peak,— the holy Indian mountain Gridhrakûta; and the time was the time of the Sûtra of the Lotos of the Good Law. Now there were no pines about him, but strange shining trees made of the Seven Precious Substances, with foliage and fruit of gems;—and the ground was covered with Mandârava and Manjûshaka flowers showered from heaven;—and the night was filled with fragrance and splendour and the sweetness of the great Voice. And in mid-air, shining as a moon above the world, the priest beheld the Blessed One seated upon the Lion-throne, with Samantabhadra at his right hand, and Mañjusrî at his left,—and before them assembled— immeasurably spreading into Space, like a flood Of stars—the hosts of the Mahâsattvas and the Bodhisattvas with their countless following: "gods, demons, Nâgas, goblins, men, and beings not human." Sâriputra he saw, and Kâsyapa, and Ânanda, with all the disciples of the Tathâgata,—and the Kings of the Devas,—and the Kings of the Four Directions, like pillars of fire,—and the great Dragon-Kings,—and the Gandharvas and Garudas,—and the Gods of the Sun and the Moon and the Wind,—and the shining myriads of Brahma's heaven. And incomparably further than even the measureless circling of the glory of these, he saw —made visible by a single ray of light that shot from the forehead of the Blessed One to pierce beyond uttermost Time—the eighteen hundred thousand Buddha-fields of the Eastern Quarter with all their habitants,—and the beings in each of the Six States of Existence,—and even the shapes of the Buddhas extinct, that had entered into Nirvana. These, and all the gods, and all the demons, he saw bow down before the Lion-throne; and he heard that multitude incalculable of beings praising the Sutra of the Lotos of the Good Law,—like the roar of a sea before the Lord. Then forgetting utterly his pledge,—foolishly dreaming that he stood in the very presence of the very Buddha,—he cast himself down in worship with tears of love and thanksgiving; crying out with a loud voice, "O thou Blessed One!"…

   Instantly with a shock as of earthquake the stupendous spectacle disappeared; and the priest found himself alone in the dark, kneeling upon the grass of the mountain-side. Then a sadness unspeakable fell upon him, because of the loss of the vision, and because of the thoughtlessness that had caused him to break his word. As he sorrowfully turned his steps homeward, the goblin- monk once more appeared before him, and said to him in tones of reproach and pain:—"Because you did not keep the promise which you made to me, and heedlessly allowed your feelings to overcome you, the Gōhotendo, who is the Guardian of the Doctrine, swooped down suddenly from heaven upon us, and smote us in great anger, crying out, 'How do ye dare thus to deceive a pious person?' Then the other monks, whom I had assembled, all fled in fear. As for myself, one of my wings has been broken,—so that now I cannot fly." And with these words the Tengu vanished forever.

 

   *

 これはパブリック・ドメインの電子化訳が見当たらない。但し、小林幸治氏のごく最近の訳で全文をここ(2ちゃんねる掲示板)で読めるのを発見したので紹介しておく(電子出版をされているようなので、短期に消える可能性があるので注意されたい)。訳の頭にあるのは題に附された原注の“1”

 

   1 This story may be found in the curious old Japanese book called Jikkun-Shō. The same legend has furnished the subject of an interesting Nō-play, called Dai-É("The Great Assembly").

   In Japanese popular art, the Tengu are commonly represented either as winged men with beak-shaped noses, or as birds of prey. There are different kinds of Tengu; but all are supposed to be mountain-haunting spirits, capable of assuming many forms, and occasionally appearing as crows, vultures, or eagles. Buddhism appears to class the Tengu among the Mârakâyikas.”

 

の訳である。

 原話の「十訓抄」のそれは「第一 可定心操振舞事」(心の操(きさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条。以下。三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したものを示した。

   *

 後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて、世の中さはがしかりけるころ、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京に出でて歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鳶(ふるとび)のよにおそろしげなるを、しばりからめて、棒もて打さいなみけり。

「あらいとほし。などかくはするぞ。」

といへば、

「殺して、羽とらむ。」

と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこひうけて、ときゆるしやりつ。

「ゆゆしき功德造行(くどくざふぎやう)。」

と思ひて行くほどに、切堤(きれつつみ)のほどに、いやうなる法師のあゆみいでて、おくれじと步みよりければ、けしきおぼえて、片方(かたへ)へたちよりて、過ぐさむとしけるとき、かの法師、ちかくよりていふやうは、

「御あはれみ蒙(かうぶ)りて、命生きてはべれば、その悦び、きこえむとてなん。」

など云ふ。たちかへりて、

「えこそおぼえね。誰人(たれひと)にか。」

ととひければ、

「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛き目みて侍りつる老法師(らうはうし)に侍り。生きたるものは、いのちに過ぎたるものなし。とばかりの御心ざし、いかでか報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても、懇ろなる御ねがひあらば、一事(ひとこと)叶へ奉らむ。小神通(せふじんつふ)をえたれば、なにかはかなへざらん。」

と云ふ。

「あさましく、めづらかなるわざかな。」

とむづかしくおもひながら、

「こまやかにいへば、やうこそあらめ。」

と思ひて、

「われはこの世の望み、さらになし。年七拾になれりたれば、名聞利養(めうもんりよふ)もあぢきなし。後世(のちのよ)こそおそろしけれど、それはいかでかかなへ給ふべき。されば申すにをよばず。但し、『釋迦如來の、靈山にて法をときたまひけむこそ、いかにめでたかりけめ』とおもひやられて、朝夕(あさゆふ)心にかけて見まほしくおぼゆれ。其ありさま、まなびて見せたまひてんや。」

といふ。此法師、

「いとやすき事也。さやうのものまねするを、おのれが德とせり。」

といひて、さがり松の上の山へぐしてのぼりぬ。

「ここにて目をふさぎてゐ給へ。佛の説法し給ひてん聲のきこえんとき、目をば見あけ給へ。但し、あなかしこ、貴(たふと)しとおぼすな。信(しん)だにも起こしたまはば、をのれがためあしかりなむ。」

といひて、山の峯のかたへのぼりぬ。とばかりして、法(のり)の御こゑきこゆれば、目を見あけたるに、地、紺瑠璃となりて、木は七重寶樹となりて、釋迦如來、獅子の座上(さしやう)におはします。普賢・文殊、左右に座したまへり。菩薩・聖衆、雲霞のごとく、帝釋・四王・龍神八部、掌(たなごころ)を合せて圍繞(いにやう)せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、玉冠を地に付けて恭教(けうけい)し給へり。空より四種(ししゆ)の花降りて、かうばしき香四方にみちて、天人、空につらなりて、微妙(びめう)の音樂を奏す。如來、寶花(ほうげ)に座して、甚深(じんじん)の法門を宣りたまふ。そのこと、大かた、こころもことばも及びがたし。しばしこそ、

「いみじくまねび似せたるかな。」

と、興(けふ)ありて思ひけれ。さまざまの瑞相(ずいさう)を見るに、在世の説法の砌(みぎり)にのぞみたるがごとく、信心、忽ちに起こりて、隨喜のなみだに浮かび、渇仰(かつがう)の思ひ、骨にとをるあひだ、手を合せて心をひとつにして、

「南無歸命頂禮大恩教主釋迦如來。」

と唱へて恭教禮拜(らいはい)するほどに、山、おひただしくからめきさはぎて、ありつる大會(たいくわい)、かき消(け)つやうに失せぬ。夢のさめたるがごとし。

「こはいかにしつるぞ。」

と、あきれまどひて見まはせば、もとありつる山中の草深(くさふか)なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へのぼるに、水のみのほどにて、この法師、出で來て、

「さばかりちぎりたてまつりしことをたがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力(しんりき)によりて、護法天童(ごはふてんどう)下り給ひて、『かばかりの信者をば、みだりにたぶろかす』とて、われら、さいなみ給へる間、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃げ去りぬ。をのれ、片羽(かたはね)がひ、打たれて、術(じゆつ)なし。」

といひて、失せにけり。

   *]

 

 八雲や靑木繁の興味を刺激したこの話は、謠曲では「大會」となり、黃表紙では戀川春町の「吉原大通會」になつた。春町が黃表紙にする以前、元祿版の「新百物語」にも「かねをかけたる鳶の秤、附天狗物語」といふのがある。「新百物語」で鳶を助けるのは、鳴瀧の邊に住む僧であるが、霊山の大會を見る一條はない。鳶を助けた後、山伏に導かれて忽ち東福寺の開山忌に到り、寸地もない群集の中を易々と行くといふに過ぎぬ。それでも僧は神變のふるまひとし、それほどの人が何でつまらぬ男に捕へられ、愚僧に助けられねばならぬかを不審してゐる。山伏の答へに、自分は神變の身ながら、一月に六度づつ鳶になるといふ苦しみがある、その時には鳶だけの力よりないから、先のやうに人に捕へられたりするのだ、とある。「十訓抄」の話は山中鳴動して雲散霧消してしまふから、かういふ疑問を質してゐる暇がない。從つて何で鳶になつたかもわからぬので、後世の作者がかういふ解繹を付けたものと見える。

[やぶちゃん注:「大會」(だいゑ(だいえ))は五番目物で作者不詳(金春禅竹 作ともされる)。天狗 が魔術によって、釈迦が霊鷲山 で行った説法の様子を再現するが、帝釈天 がその術を破るというストーリー。「大槻能楽堂」公式サイトのこちらを参照されたい。因みにそこでは原話素材を「平家物語」の巻十とするが、従えない。

『戀川春町の「吉原大通會」』春町晩年の天明四(一七八四)年の作。全三巻。謡曲の「大會」を元に、大通の主人公の「すき成」が天狗の通力によって粋人の遊びの限りを尽くすという大パロディ物。私は未読であるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。絵も春町のもので、リンク先のそれを見るだけでも楽しい。

「新百物語」元禄五(一六九二)年刊の洛下俳林子(実は本書の版元である西村市郎右衛門)作の「諸國新百物語」。以上は同作の「卷之五」の「二 かねをかけたる鳶(とび)の秤(はかり付(つけた)り天狗物語」。国書刊行会の叢書江戸文庫版を参考に、恣意的に正字化し、一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附し(読みで左にも附されてあるものは「/」以下で示した)、読点・濁点を追加した。注は附さぬ。底本の挿絵も附すが、残念なこと元画像そのものの僧と天狗の顏の部分が汚損している。

   *

Touhukujitenngu

 世の中は夢か幻(うつゝ)か、うつゝともゆめとも見えず、ありてなき身のほど、暫しもやすく閑かならんかたこそと、心の水の淸き、なる滝の邊(ほとり)にすめる僧あり。名を直眞(ぢきしん)とよぶ。隱逸の心すぐれ、身によするあさ衣も、垢のまゝに着なし、思ひそめたる墨染の、もすそもほころびながら、かけたる。木の葉破庵(はあん/やぶれいほ)を埋づみ、千草(せんさう/ちくさ)壁に諍(あらそ)ふ。誠にふりたる栖(すみか)なりかし。頃は神無月中の六日、東福禪林寺の開山忌とて、諸人袖をつらねくびすをつぐ事引きもきらず。めでたき靈寶ども拜みなんとて、此僧も都の大路に出でて、万里(まで)の小路を過ぎ、五條の坊門を東へ行く。爰(こゝ)に若き男ふたりみたり、大きなる鳶をとらへ、「此(この)儘にやころさん、又日頃へてやしめなん」といふを、此僧たち聞きて、哀れにも淺ましさ身にしみて覺へければ、人々にわびていふ、「我大俗の昔よりかゝる殺生の命をすくはんと、ふかく誓ふことあり。願はくは此命、愚僧に給はれかし」と、手を合はせ再三におよぶ。一人の男、眼(まなこ)をいららけ、「御僧は何事をかの給ふ。我が家に傳へしかうやくあり。かくのどとき鳶の大きなるを、酒に煮る事七日して膏(かう)となすに、諸々の腫物(はれもの)癒(いえ)ずといふ事なし。日頃望みし折からござむなれ」と、あらけなく罵るに、僧、「しからば此鳶の替りに死したる鳶を求むるの價(あたひ)を得させん。我此事に所願空しからんも心うし、平(ひら)に御芳志あれ」といふに、漸々(やうやう)心とくれば、懷(ふところ)より代(しろ)を出しあたへて、鳶は虛空に放ちやりぬ。「淺ましき事に日のたけ行きけるよ」と獨言(ひとりごと)して、大佛殿を拜み、猶(なほ)南へおもむくに、俄(にはか)につちかぜ烈しく、砂を吹き上げ小石をとばせ、偏へに闇のどとく、雲の中に怪しき山伏立ちむかひ、「扨ても只今途中にてあやうき命を御僧にたすけられ參らせぬ、此御恩いかにしてかは報じ參らすべき。御僧のはこび給はんには、御寺の法事終りぬべしと覺ゆ。いさこなたへ」と、手を取りて行き、未だ十步にもたらざるに、東福寺の門前はいたる。貴賤むらがり集りて寸地(すんち)もなきを、「たゞ我に隨ひ來たり給へ」と、手を引きて佛前に參る事やすやすと、心靜かに拜み、猶もとのごとく出づるに、人の上をのりこへのりこへ行けど、とがむ人なし。山伏のいふ、「とてもの事に庵(いほり)まで送り屆け參らせん」と、北をさしてゆく。此時、僧、とふて云ふ、「誠に只今のふるまひ見奉るに、更に凡夫の所爲に非ず、皆、神變(じんへん)のふるまひなり。しかるを先きに纔かの男に手どめにせられ、愚僧がたすけにあひ給ふこといぶかし」と。山ぶし答へて、「されば人大將と仰がるゝ時は、大敵をほろぼし、國家を治め、數萬人を隨がへるの威あり。是れ則ち千萬人のちからなり。又落人(おちうど)となりて、隨がふ郎從もなき時は、たゞ壱人の力なり。盛衰かくのごとし。さのごとく我神變の身ながら、一月に六たびづゝ、鳶に此身を變ずるのくるしみあり。此時に至りて又鳶のちからより外なし。此故に手ごめにあひぬ。是れを世に魔境とも天狗道ともいふぞかし。皆一心の憍慢(きやうまん)より、さばかりたとき上人も、此さかひに入り給ひし。御僧は道心堅固に、しかも名利(みやうり)なし。是れをよく知りて慢心のいたる事なく、安心決定(けつじやう)して往生をとげしめ給へ。いとま申す」と、夕月(ゆふづき)のかげに失せてかたちなし。僧は夢の心ちにてありしが、やうやうそこらみまはすに、庵もちかくなる滝の道のかたはらに出でぬ。是れよりますます世をつよくいとひ、深き山にかくれて、めでたき終焉をとり給ひしとぞ。是れしかしながら慈悲心のつよきより、魔道のふしぎを見聞(けんもん)して、行ひすまし給ひけり。ありてもありたきは慈悲、願ひてもねがふべきは佛の道なりけり。

   *]

 

2017/05/28

柴田宵曲 續妖異博物館 「くさびら」

 

 くさびら

 

 菌(きのこ)といふものは陰濕の地に生ずるせゐか、時に若干の妖意を伴ふことがある。狂言の「くさびら」などもその一つで、庭に異樣な菌が現れたのを、山伏に賴んで祈禱させる。最初は簡單に退散したが、あとからくと同じやうな菌が現れて包圍するので、山伏も閉口頓首に及ぶといふ簡單な筋であるが、何しろ菌に扮するのが悉く人間である。もしあんな大きな菌に包圍されたら、如何なる山伏も珠數を切らざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:ウィキの「茸(狂言)」によれば、大蔵流では「菌」、和泉流では「茸」と表記する。『細かい部分は流派などで違いが見られるが、基本的な筋立ては変わらない』。『また、山伏が登場する際の台詞は能の』「葵上」の台詞と同じで、「葵上」の山伏はその法力によって調伏を成功させるが、こちらはかくなる結末で『一種のパロディーになっているという』とある。You Tube の茂山家の動画取り放題狂言会での撮影になるsagiokarasu氏の「菌(くうびら)」が、山伏が調伏に滑稽に失敗し、茸が面白く退場するさまをよく伝える。お時間のある方は、「オリキャラの子貫さん」氏のブログ「肯定ペンギンのぶろぐ」の「狂言「くさびら」メモ程度の現代語訳?」に全篇画像(You Tube・洗足学園音楽大学提供・約十六分)とブログ主による全現代語訳が載るのでじっくりと楽しめるのでお薦め!]

 

 相州高座郡田名村の百姓が株(まぐさ)刈りに行つて蛇を殺した。まだ死にきらぬのを繩に縊(くく)り、木の上に吊して置いたが、年を經てその事を忘却した頃、また株刈りに來て見ると、大きな菌が澤山出てゐる。採つて歸つて食膳に上せたところ、俄かに苦しみ出して遂に亡くなつた。一緒に食べた母親や弟は何ともなかつたので不審であつたが、前年株刈りに同行した弟の話で蛇の一條が知れた。「眞佐喜のかつら」にあるこの話などは、菌の陰濕の氣に蛇の恨みが加はつてゐる。尋常の毒菌の類ならば一樣に中(あた)る筈なのに、當人だけといふのが奇怪なる所以である。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「眞佐喜のかつら」は所持しないので原典は示せぬ。

「高座郡田名村」現在の相模原市田名(たな)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 支那の或家で井戸の水を汲ませたところ、釣瓶(つるべ)が重くなつて、どうしても上らない。數人がかりで漸く引き上げたら人であつた。大きな帽子を被り、井桁(いげた)に上つて呵々大笑するかと思へば、忽ちもとの井戸に飛び込んでしまつた。その後は遂に姿を見せなかつたが、彼の被つてゐた帽子だけは、釣瓶にかゝつて上つて來た。それを庭樹に掛けて置いたら、雨每に雫が落ちて、そこに黃色の菌が生えた。

[やぶちゃん注:次に書かれているように出典は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下の一条。

   *。

獨孤叔牙、常令家人汲水、重不可轉、數人助出之、乃人也。戴席帽、攀欄大笑、却墜井中。汲者攪得席帽。挂於庭樹、每雨所溜處、輒生黃菌。

   *

「獨孤叔牙(どくこしゆくが)」はその家の主人の名。この「獨孤」姓は匈奴出自であることを意味する。「席帽」「席」は蒲(がま)の一種であるから、それで編んだ笠か。]

 

 この話は割り切れないところに面白味がある。黃色の菌を食べた者が皆中毒したなどといふ後日譚が加はらぬため、井桁に上つて大笑した者も神仙じみて來て、少し誇張すれば神韻標縹渺たるものがあるが、同じ「諾皐記」所載の次の話になると、さう簡單には片付けられぬ。

 

 京の宜平坊に住む官人が、夜に入つて歸る途中で、駿馬を引いた油賣りに出逢つた。彼は大きな帽子を被つた小男であつたが、官人に對して道を避けようともしない。從者の一人が癇癪を起して撲り付けたら、頭がころりと落ちると同時に、路傍の大邸宅の門内に入つてしまつた。不思議に思つた官人があとについて行くと、彼の姿は大きな槐の木の下で見えなくなつた。それからこの事を邸の人々に告げ、槐の下を掘つて見たところ、根は已に枯れて、疊のやうな蝦蟇(がま)がうづくまつてゐた。蝦蟇の持つた二つの筆筒には、樹からしたゝる汁が溜つてゐる。白い大きな菌が傍に泡を吹いてゐたが、その笠は地に落ちてゐた。油賣りと見えたのは菌、駿馬は大蝦蟇、油桶は筆筒であつたらしい。この油賣りは一月餘りも里に油を賣りに來たので、價の安いところから皆よろこんで買つてゐたが、彼の正體が暴露されるに及び、油を食用に使つた人は悉く病氣になつた。

[やぶちゃん注:「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

京宣平坊、有官人夜歸入曲、有賣油者張帽驅驢、馱桶不避、導者搏之、頭隨而落、遂遽入一大宅門。官人異之、隨入、至大槐樹下遂滅。因告其家、即掘之。深數尺、其樹根枯、下有大蝦蟆如疊、挾二筆金沓、樹溜津滿其中也。及巨白菌如殿門浮漚釘、其蓋已落。蝦蟆即驢矣、筆金沓乃油桶也、菌即其人也。里有沽其油者、月餘、怪其油好而賤。及怪露、食者悉病嘔洩。

   *

「宣平坊」は長安の坊里の名。「筆金沓」筆を収める(携帯用?)銅で出来た筒状の入れ物。蝦蟇は二本のそれを両手脇にそれぞれ挟んでいたのであろう。]

 

 別に因縁纏綿しては居らぬが、如何に支那らしい話である。菌が人になつて、蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步くなどは、日本人の思ひもよらぬ奇想であらう。この話を讀んでから見直すと、前の井桁に上つて大笑した先生も、どうやら菌の化身らしく感ぜられて來る。殊にあとから釣瓶にかゝつて來た帽子が曲者で、それが菌の笠であつたとしたら、その雫から黃色の菌を生じても、何等不思議はないわけである。

[やぶちゃん注:「蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步く」「蝦蟇の、驢馬につけた、油を賣りに步く」。まあ、「驢馬につけた蝦蟇の油を賣りに步く」の方がすんなり読めると思います、宵曲先生。]

 

 徽州の城外三里ばかりのところに、汪朝議の家祖の墳墓があつた。紹興年間に惠洪といふ僧を招き、附近の小庵の住持たらしめたが、毎日腹一杯食べて安坐するのみで、讀經念佛三昧に日を送るといふ風もなく、佛事の方は簡略を極めてゐる。たゞ循々として自ら守り、これといふ過失もなしに經過した。庵住二十年、乾道二年に病氣で亡くなつたので、汪氏では遺骸を近くの山原に葬つた。そのほとりに大きな楮(かうぞ)の木があつて、鬱蒼と茂つてゐたのに、惠洪を葬つてから間もなく枯れてしまつた。そのあとに菌が生える。たまたま牛を牽いて通りかゝつた汪氏の僕がこれを見出し、採つて歸つて主人に見せた。料理して食べると非常な美味で、殆ど肉に勝るほどである。今日全部採り盡したかと思つても、明日はまた新しいのが生えてゐて、容易になくなりさうもない。この評判が四方に聞えた爲、錢を持つて買ひに來る者もあつたが、汪氏では拒絶して與へず、人の盜みに來るのを恐れて周圍に低い垣を作り、菌を保護するやうにした。これを見た鄰人が憤慨して、夜ひそかに垣を越えて入つたら、楮の枯木は突如として人語を發した。これはお前達の食べるものではない、強ひて取れば必ず災ひを受ける、わしは昔の庵主であるが、徒らに布施を受けるのみで、慙(は)づるところがなかつたので、身歿するの後、冥官の罰を受け、菌となつて生前の償ひをせねばならなくなつた、この菌が美味なのは、わしの精血の化するところだからである、倂しその罰も已に了つたので、もうこゝを立ち去るつもりだ、といふのである。隣人は驚いてこの話を汪氏に告げた。汪氏は直ちにその事を信じなかつたが、自分で行つて見ると、成程菌は一つもなくなつてゐる。楮の木は伐つて薪にした(寃債志)。

[やぶちゃん注:「徽州」現在安徽省の黄山市歙(きゅう)県附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紹興年間」南宋の高宗の治世で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。

「汪朝議」不詳。「朝議」は名ではなく、文官の名誉職である朝議大夫のこと。

「乾道二年」「乾道」南宋の孝宗の治世で用いられた元号で、「乾道二年」は一一六六年。先の「紹興」との間には「隆興」(二年間)が入る。「庵住二十年」と言っているから、逆算すると、三十年前は一一三六年で、その紹興六年或いはその前の年に「惠洪」(えこう)を招いたことになる。

「精血」純粋にして新鮮な血液。

「寃債志」(えんさいし)は晩唐(八三六年頃から九〇七年)のの撰になる伝奇集であるが、「紹興年間」はおかしい原典も次の最終段落の後に示すように宋代のものしか私には見当たらなかったし、それなら「紹興」は合う。]

 

 この菌は蛇の恨みから成つた類ではないから、毒にならぬのは當然である。けれども一たび僧の精血の化するところと聞いた上は、如何に肉に勝る美味であつたにせよ、汪氏も平氣で食ふことは出來なかつたらう。恰も自分の責任を果して立ち去るに臨み、はじめて鄰人の口を藉りて菌の由來を明かにしたものと思はれる。

[やぶちゃん注:以上の話は、宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の撰になる「夷堅志丙卷八」の「支景色卷八」に「汪氏菴僧」として出るのを見つけた。

   *

徽州城外三里、汪朝議家祖父墳庵在焉。紹興間、招僧恵洪住持。僧但飽食安坐、未嘗誦經課念、於供事香火亦極簡畧。僅能循循自守、不爲他過。主家皆安之。凡歷歳二十、乾道二年病終。汪氏塟之於近山。元有大楮樹、鬱茂扶疏。數月後、頓以枯死、經雨生菌。汪僕牧羊過之、見其肥白光粲、采而獻之主人。用常法煠治、味殊香甘、殆勝於肉。今夕摘盡、明旦復然、源源不窮、至於三秋。浸浸聞於外、或持錢來求、求輟買、悉拒弗與。又畏人盜取、乃設短牆闌護之。鄰人嫉憤、夜半踰牆入、將斧其根、楮忽作人言曰、「此非爾所得食、強取之必受殃災。我卽昔時菴主也。坐虛受供施、不知慚愧。身没之後、司罰爲菌蕈以償。所以肥美者、吾精血所化也。今謫數已足、從此去矣。」。鄰人駭而退、以告汪。汪猶不信、自往驗之、不復有菌、遂伐以爲薪。

   *

「根」(コンガツ)は枯れた木の根元の部分に芽生えた(ひこばえ)のこと。原話ではそこを斧で掘り起こして茸を探ろうとしている。

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