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カテゴリー「柴田宵曲」の154件の記事

2017/07/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「虎の皮」

 

 虎の皮

 

  虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。

[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。

「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。

   *

崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。

   *]

 

 これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。

   *

天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。

   *]

 

「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。

[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。

   *

申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。

   *]

 

 虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。

「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。

「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。

「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。

   *

鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。

   *]

 

 尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。

「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。

「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。

「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。

   *

明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。

   *

原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]

 

 由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。

[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。

最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。

   *

石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。

   *

この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる

   *

 後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。

   *

開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、皆豪強。數有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。

   *]

 

 かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。

 以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。

   *

向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。

異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。

   *

例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。

   *

 

 向杲

 

 向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。

 そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、

 「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」

 母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。

 荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。

 それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。

 ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。

 嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、

 「とにかく、これと易(か)えなされ」

 と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。

 杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。

 趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。

 家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。

 しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、

 「虎は、おれさ!」

 と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。

   *

天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、

――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――

といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]

2017/07/19

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その2)~「龍の變り種」了

 

 盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。

   *

故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。

   *]

 

 支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。

[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。

「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。

『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。

「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。

   *

「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」

   *

 以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。

   *

唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。

   *]

 

「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。

「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。

 以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。

   *

於陵曲銀臺公、讀書樓上、陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。

   *

 柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。

   *

 

 蟄竜(ちつりゅう)

 

 暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、

 「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」

 と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。

   *

「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]

 

「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。

「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。

「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。

 以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。

   *

李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。

   *]

 

 日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。

 

 高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。

「折々草」は既出既注。

「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。

 以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。

   *

 

    龍石をいふ條

 

 大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。

 主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる

 何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は 接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。

 此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。

 又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。

 かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。

   *]

 

 龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。

 

2017/07/18

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その1)

 

 龍の變り種

 

 山道を歩いてゐて妙な石を拾つた人がある。雞卵ほどの大きさで、靑や赤の斑が甚だ美しい。持ち歸つて五六年も箱に入れて置いたが、子供が持ち出して遊んだことから遂に見失つてしまつた。數日後の晝間、風雨晦冥になって、庭前の木を垂れる雨水が、あだかも瀧のやうに見える。皆珍しがつて眺めてゐるうちに風雨がやみ、木の下に忽然としてこの石が現れた。石は已に破れて卵の殼のやうになつてゐたので、人々ははじめてこの石が龍の卵であつたことを知つた(原化記)。

[やぶちゃん注:「原化記」は「太平廣記」に載るものが残存する総てである。以上は「龍七」の「斑石」である。

   *

京邑有一士子、因山行、拾得一石子。靑赤斑斕、大如雞子。甚異之。置巾箱中五六年。因與嬰兒弄、遂失之。數日、晝忽風雨暝晦、庭前樹下、降水不絶如瀑布狀。人咸異其故。風雨息、樹下忽見此石已破、中如雞卵出殼焉。乃知爲龍子也。

   *]

 

 これも山中の話であるが、華山に遊んだ人が盛夏の事で暑くて堪らず、溪川のほとりに休んでゐると、大きさ掌ぐらゐの葉が一枚流れて來た。眞赤な色をして如何にも美しいので、拾つて懷ろに入れてゐると、何だか妙に重くなつたやうに感ぜられる。氣味が惡くなつて取り出して見たら、葉の表面に鱗のやうなものがあつて、むづむづ動いてゐる。びつくりしてこれを林の中に棄て、同行者にその話をしたところ、それはきつと龍に相違ない、早く歸らうと云ふ。忽ち白い烟が林中にひろがり、遂に谷一杯になつて、一同が山を下るより早く大風雨が襲つて來た(酉陽雜俎)。

[やぶちゃん注:「華山」現在の陝西省華陰市にある中国五名山(東岳泰山(他の四つは山東省泰安市泰山区)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)・北岳恒山(山西省大同市渾源県)の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

有史秀才者、元和中、曾與道流遊華山。時暑、環憩一小溪。忽有一葉、大如掌、紅潤可愛、隨流而下。史獨接得、置懷中。坐食頃、覺懷中漸重。潛起觀之、覺葉上鱗起、栗栗而動、史驚懼、棄林中、遽白衆曰、「此必龍也、可速去矣。」。須臾、林中白煙生、彌於一谷。史下山未半、風雷大至。

   *]

 

 この二つの話は龍が昇天に先立つて、意外なものに化けてゐた例であるが、靑赤斑爛たる雞卵大の石は一見して異樣なものを感ぜしめる。掌大の紅葉が溪を流れて來る間は、たゞ人目を惹く程度だつたのが、先づ懷中に在つて重くなり、次いで鱗をむづむづ動かし、林中に棄てられるに及んで、白姻濠々と林中に立ちこめて來る。この徐々漸々と進む工合が甚だ龍らしい。無氣味ながら美しい話として掌大の紅葉を推さざるを得ぬ。

 

 朱梁の尹皓が華州に居つた時分、若干の兵を連れて巡警に出た途中、荒地の中で石のやうな卵のやうなものを拾つた。「原化記」の記事と似たものであるが、この方は色が靑黑く、光滑愛すべしとなつてゐる。左右の者に命じてこれを拾はせ、二三十里行つたところで佛寺に一宿した。その夜は恭しく本尊の前に安置して寢たところ、夜半に大雷雨となり、すさまじい大雨の中に雷が落ち、寺は燒けてしまつたが、佛像は無事であつた。院外の柳樹數百株が悉く根こぎになつたといふのだから、風雨の烈しかつたことは想像出來る。皓の拾つたのは龍卵であつたので、妄りにこれを拾つて携帶したことが、彿寺を燒く災厄を齎したらしい。雷雨去つた後は龍卵も行方不明になつてゐた(玉堂閑話)。

[やぶちゃん注:「朱梁」既注であるが、再掲しておくと、後梁(こうりょう)のこと。五代の最初の王朝で、唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝から禅譲されて建国した。

「尹皓」「インコウ」と読んでおく。

「華州」前段の陝西省の「華山」附近の広域地名。

以上は「玉堂閑話」の「尹皓」(「太平廣記」に引く)。以下に示す。

   *

朱梁尹皓鎮華州、夏將半、出城巡警、時蒲、雍各有兵戈相持故也。因下馬、於荒地中得一物如石、又如卵、其色靑黑、光滑可愛、命左右收之。又行三二十里、見村院佛堂、遂置於像前。其夜雷霆大震、猛雨如注。天火燒佛堂、而不損佛像、蓋龍卵也。院外柳樹數百株、皆倒植之、其卵已失。

   *]

 

 釣りの好きな人が川の寫眞を見て、この川にはきつと鮎がゐると云つた話があるが、唐時代には水を一見しただけで、そこに龍が栖んでゐるかどうかわかるといふ人があつた。この人が龍を持つて歸るといふ評判があつた時、華州刺史であつた李納は、虛妄だと云つて信じない。その龍といふのを見せて貰ふと、瓶の中に泳いでゐるのは二尾の鰍魚であつた。納は怒つたやうな顏をして、どうして龍だとわかるか、と詰め寄ると、相手は平然として、これを證明するのはむづかしい事ではありません、小さな穴を掘つて水を入れて下さい、と云つた。云はれるまゝに穴を掘つて、水中に魚を放つたところ、二尾が相逐うて泳ぎ𢌞り、尾が穴の緣に觸れる每に、四隅は次第に崩れ、水もずんずん殖えて、忽ち何尺もある闊(ひろ)い穴になつた。その人李納に向ひ、如何でせう、これ以上穴が大きくなつては、私の手に合はなくなります、と云ふが早いか、魚を捕へてもとの瓶に入れてしまつた。納大いに奇とし、多くの錢帛を贈る。鰍魚は無事都に持ち歸ることが出來たと「中朝故事」に見えてゐる。この話はまだ龍にならぬ狀態であるが、もし李納がいつまでも強情を張つて、魚の泳ぐに任せてゐたら、恐らく天地晦冥になつて風雨到り、龍は華州に於て昇天し去つたことであらう。

[やぶちゃん注:「鰍魚」「シウギヨ」或いは「どぢやう」と当て読みしておく。本邦では「鰍」は条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(華州の位置から同種の純淡水産の河川型)を指すのであるが、これは国字であって、中国ではあくまで「鰍」はかの泥鰌(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)のみを意味するからである。

「中朝故事」は五代南唐の尉遲偓(いちあく)の撰した随筆。以上はその「卷下」の冒頭にある以下。但し、中文サイトの二種を見たが、「李納」ではなく「李訥」(りとつ)である。

   *

古有豢龍氏、長安有豢龍戸、觀水卽知龍色目、有無悉知之。懿皇朝、龍戸上言、「龍池中走失兩條。」。往關東尋訪數十日、東都魏王池中見之、取而歸闕。經華州、時李訥爲華州刺史。訥父名建杓、向與白居易相善。訥爲人正直、聞得龍來、大以爲虛妄、命就公府視之。則於一小瓶子中、倒於盆、乃二細鰍魚也。訥怒目曰、「何以爲驗。」。其人對曰、「驗非難也。」。請於地中鑿一穴、闊一尺、已而注水其間、收鰍投水内。魚到水中、相趁旋轉、尾觸穴四隅、隨觸而陷、水亦暴漲。逡巡、穴已闊數尺。其人諮訥云、「恐穴更廣、卽難制也。」。遂搦入瓶中。訥方奇之、厚贈錢帛、攜歸輦下。

   *]

 

 龍が水中に潛むことを考へれば、雲を得る以前に於て魚の形を取るのも、一應尤もなやうな氣がするが、魚族に關する話はいろいろある。韋顏子の壻が井戸替への際に捕へたといつて、一尾の鯉を齎らした。長さ五尺餘りあつて、鱗が金色に光るのみならず、その眼光は人を射る如くであつた。これが雨龍であつたといふし、汾水のほとりに住む老婆の獲た緋鯉も顏色自ら普通の魚と異なつてゐた。老婆これを憐れみ、小さな池を掘つて放して置くと、一月ばかりたつた後、その池から雲霧が立ちのぼる。緋鯉は騰躍逡巡の體であつたが、遂に風雲に乘じ汾水の中に入る。その際空中より落した珠が靈藥で、後に老婆の子の難病を治するといふ話が「瀟湘錄」にある。嘗て「病牀讀書日記」(正岡子規)を讀み、「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐ろしと思ふ」とあるのを不思議に思つたが、鯉と龍とに密接な關係のあることを知らぬためであつた。

[やぶちゃん注:「韋顏子の壻」「韋顏子」は柴田の誤読(或いは「韋顏の子」の脱字)と思われる。以下の原文通り(後掲)、「韋顏」なる官人の娘の婿(むこ)の意である。

「汾水」汾河。山西省を南北に流れる大河で渭河に次ぐ黄河第二の支流。ここを流れている川(グーグル・マップ・データ)。

「病牀讀書日記」正岡子規の晩年の公開日記。明治三三(一九〇〇)年七月のクレジットを持つが、内容は前年のものであろう。その十一月十一日のクレジットを持つ記載の冒頭に出る。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。

「鯉と龍とに密接な關係のある」柴田は明治三十年生まれで、恐らくはごく少年期に子規のそれを読んだものの、未だその頃は登龍門の故事(治水伝説の夏の聖王禹(う)が山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いて出来た急流の瀧「龍門」を登ることが出来た鯉は龍となるという伝説)を知らなかったというのである。博覧強記の宵曲の言としてはちょっと意外である。

 以上の前者「韋顏」の話の出典を柴田は落しているが、これは「太平廣記」の「龍六」に「劇談錄」(唐の康駢撰の志怪小説集)を出典として載せる「崔道樞」(さいどうすう)である。私は中国語が読めないので、後半の展開はよく判らぬが、以下に見る通り、結構、長いものである。

   *

唐中書舍人韋顏、子婿崔道樞舉進士者屢屢。一年春下第、歸寧漢上所居。因井渫、得鯉魚一頭長五尺、鱗鬣金色、其目光射人。衆視異於常魚。令僕者投於江中。道樞與表兄韋氏、密備鼎俎、烹而食之。經信宿、韋得疾暴卒。有碧衣使人引至府舍、廨宇頗甚嚴肅。既入門、見廳事有女子戴金翠冠、著紫繡衣、據案而坐。左右侍者皆黃衫巾櫛、如宮内之飾。有一吏人從後執簿領出。及軒陛間、付雙環靑衣、置於繡衣案上。吏引韋生東廡曹署、理殺魚之狀。韋引過。道樞云、「非某之罪。」。吏曰、「此雨龍也、若潛伏於江海湫湄、雖爲人所食、卽從而可辨矣。但昨者得之於井中、崔氏與君又非愚昧、殺而食之、但難獲免。然君且還、試與崔君廣爲佛道功德、庶幾稍減其過。自茲浹旬、當復相召。」。韋忽然而寤、且以所説、話於親屬、命道樞具述其事。道樞雖懷憂迫、亦未深信。才及旬餘、韋生果歿。韋乃道樞之姑子也。數日後、寄魂於母云、「已因殺魚獲罪、所至之地、卽水府、非久當受重譴。可急修黃道齋、尚冀得寬刑辭。表弟之過亦成矣、今夕當自知其事。」。韋母泣告道樞。及暝、昏然而寢、復見碧衣人引至公署、俱是韋氏之所述。俄有吏執黑紙丹文書字、立道樞於屛側、疾趨而入。俄見繡衣舉筆而書訖、吏接之而出、令道樞覽之。其初云、「崔道樞官至三品、壽至八十。」。後有判云、「所害雨龍、事關天府。原之不可、案罪急追。所有官爵、並皆削除。年亦減一半。」。時道樞冬季、其母方修崇福力、才及春首、抱疾數日而終。時崔妻拿咸在京師、韋顏備述其事。舊傳夔及牛渚磯是水府、未詳道樞所至何許。

   *

また、後者(汾水の河畔の老婆の逸話)は「瀟湘錄」の「汾水老姥」である。以下に示す。

   *

汾水邊有一老姥、獲一赬鯉、顏色異常、不與眾魚同、既攜歸、老姥憐惜、且奇之、鑿一小池、汲水養之。經月餘後、忽見雲霧興起、其赬鯉騰躍、逡巡之間、乃漸升霄漢、其水池卽竭、至夜、又復來如故。人見之者甚驚訝、以爲妖怪、老姥恐爲禍、頗追悔焉、遂親至小池邊禱祝曰、「我本惜爾命、容爾生、反欲禍我耶。」。言才絶、其赬鯉躍起、雲從風至、卽入汾水、唯空中遺下一珠、如彈丸、光晶射人、其老姥得之、眾人不敢取。後五年、老姥長子患風、病漸篤、醫莫能療、老姥甚傷、忽意取是珠、以召良醫、其珠忽化爲一丸丹、老姥曰、「此赬鯉遺我、以救我子、答我之惠也。」。遂與子服之、其病尋愈。

   *]

 

 鯉には限らぬ、魚の話は他にもある。「錄異記」には古井戸の中に長さ六七寸の魚が住んで居り、これが上の方に浮むと、必ず井の水が湧き返る。この井戸には龍がゐると傳へられて居つた。饒州の柳翁は常に小舟に乘つて鄱陽江に釣り、水族の事、山川の事に關しては知らざるものなしといふ人であつたが、嘗て江の南岸の一箇所を指し、今日はこゝに小龍が居る、だから魚が澤山集まつてゐるのだと教へた。人々はこれを信じなかつたけれど、網を入れた結果は果して大漁であつた。獲物を大桶に放つて見ると、中に一二尺ばかりの鱓魚があり、兩眼明かに長い鬚を動かしてゐる。鱓にはいろいろな意味があるやうだが、こゝは魚の一種類と見て置けばよからう。この魚が桶の中を泳ぎ𢌞ると、他の魚はこれに隨從するやうに見える。舟を北岸に著けた頃には、もうどこへ行つたかわからなかつたと「稽神錄」に出てゐる。これが柳翁のいはゆる小龍だつたのであらう。

[やぶちゃん注:「天祐年間」唐の最後の昭宗の治世に用いられた元号。「天佑」とも書く。九〇四年~九〇七年であるが、ウィキの「天祐(唐)」によれば、唐の滅亡後も河東・鳳翔・淮南地方では『天祐を使用し続け、石碑碑文に「天祐二十年」の用例がある。また前蜀、南漢、呉、呉越では唐滅亡後も天祐の年号を使用している』とある。

「饒州」(じょうしゅう:現代仮名遣)は現在の江西省上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鄱陽江」鄱陽の西部は広大な鄱陽湖となっている。そこの入り江或いは鄱陽の市街地に流れ込む往時の長江の支流の名か。

「鱓」国字では海産のウツボ(条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)であるが、これは中国で好んで食べられ、多く棲息する条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus  albus のことである(後掲するある訳者の訳文でも「タウナギ」としてある)。柴田は「こゝは魚の一種類と見て置けばよからう」などとお茶を濁しているが、先の「鰍魚」も丸投げで、どうも彼は魚類同定の興味にはあまり食指が動かぬらしい

 「錄異記」のそれは「卷五」に載る以下の短文。

   *

成都書臺坊武侯宅南乘煙觀古井中、有魚長六七寸、往往游於井上、水必騰涌。相傳、井有龍。

   *

 「稽神錄」のそれは「第四卷」に載る「柳翁」。

   *

天祐中、饒州有柳翁、常乘小舟釣鄱陽江中、不知其居處妻子、亦不見其飮食。凡水族之類與山川之深遠者、無不週知之、凡鄱陽人漁釣者、咸諮訪而後行。呂師造爲刺史、修城掘濠、至城北則雨止、役則晴、或問柳翁、翁曰、「此下龍穴也、震動其土則龍不安而出穴、龍出則雨矣。掘之不已、必得其穴、則霖雨方將爲患矣。」。既深數丈、果得大木、長數丈、交加構疊之、累之數十重、其下霧氣衝人、不可入、而其木上皆腥涎縈之、刻削平正、非人力所致。自是果霖雨爲患。呂氏諸子將網魚於鄱陽江、召問柳翁、翁指南岸一處、「今日惟此處有魚、然有一小龍在焉。」。諸子不信、網之、果大獲。舟中以瓦盆貯之、中有一鱓魚長一二尺、雙目精明、有二長鬚、繞盆而行、羣皆翼從之。將至北岸、遂失所在。柳翁竟不知所終。

   *

こちらに訳が載る(メイン・ページが判らないので訳者を紹介出来ない)。引用させて戴く(注記記号を省略した)。

   *

 天祐年間、饒州に柳翁がおり、つねに小舟に乗り、鄱陽江で釣していたが、その住居と妻子を知らず、飲食するところも見なかった。水族の類と山川の深遠なところも、すべて知っていた。およそ鄱陽の人で漁や釣りするものは、みなかれに尋ねてからいった。呂師造は刺史となり、城を修理し、濠を掘鑿したが、城の北にゆけば雨がふり、工事が終われば晴れた。あるひとが柳翁に尋ねると、翁は言った。「この下は龍穴で、その土を震わして動かせば龍は不安となって穴を出、龍が出れば雨が降るのです。掘ってやまなければ、きっとその穴にたどり着きますが、霖雨が禍をなしましょう。」深さ数丈になると、ほんとうに大木が見つかったが、長さは数丈、たがいに重なり合い、数十重に累積し、その下は霧気が人を衝き、入れなかった。そしてその上の木にはすべて腥い涎が纏いついていた、彫刻はきちんとしており、人力によって致されたものでなかった。それからほんとうに霖雨が禍をなした。呂氏の子供たちが鄱陽江で魚を網でとろうとし、柳翁を召して尋ねると、翁は南岸の一か処を指し、言った。「今日はこちらにだけ魚がいますが、一匹の小さな龍がいます。」子供たちは信じず、網すると、ほんとうにたくさん捕らえた。舟の中で瓦盆に貯えたが、中に一匹の鱓魚(タウナギ)がおり、長さは一二尺、両目は澄明で、二つの長い鬚があり、盆を巡ってゆくと、魚たちはみな従った。北岸に着こうとすると、所在を失った。柳翁は最後はどこで死んだか分からなかった。

   *

訳者は「龍穴」に『山の気脈の結ぶところをいう。墓穴を作るのによい』、「瓦盆」に『陶瓦製の口の広い容器』と注しておられる。]

2017/07/16

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍に乘る」

 

 

 

 龍に乘る

 

「今昔物語」に陸奧國で鷹の子を取るのを業としてゐる男の話がある。鷹の方でも年々育てようとする子を皆取られてしまふので、大海に臨んだ屛風のやうな巖の遙か下の方に生えてゐる木の梢に巣をかけた。男は方々搜し𢌞つて、漸く巣の在るところを見付けたけれど、所詮人間の到り得べき場所ではない。失望して家に歸り、生活の途の絶えたことを歎いてゐると、鄰りの家の男がかういふ智慧を貸してくれた。この巖の上に何かしつかりした木を打ち立て、長い繩を結び付け、その繩の末に大きな籠を付けて、巣のところまで下ればいゝ、といふのである。計量はその通り實行され、鷹取りは自分が籠に入つて、鷹の巣のところに達することが出來た。先づ目的物を籠に入れて引上げて貰ひ、その次に上るつもりでゐたところ、籠はもう下りて來ない。繩を持つた滯りの男は、鷹の子を手に入れてしまふと、再び籠を下ろすことをせずに、自分だけどんどん家に歸つてしまつたのである。

 

 かういふ惡事は古來多くの話の中で、共同作業者によつて屢々繰返されてゐる。取り殘された鷹取りは、觀念して死を待つより仕方がなかつた。人間はこの期に臨んで深い自責の念を起す。この男も長年鷹の子を取り、それを育てた擧句、今度はその鷹に鳥を捕らせる。年來の罪業が身の上に報いを與へたことを思ひ、一心不亂に觀世音菩薩を念じ、この世はこれで終るとも、後世は必ず淨土に迎へ給へと祈つた。然るに觀世音菩薩の姿は見えず、大海の中から大蛇が現れて、切立てたやうな巖をするすると昇つて來た。こゝで大蛇に呑まれるくらゐなら、海に落ちて死んだ方がいゝと決心した男は、刀を拔いて大蛇の頭に突き立てる。大蛇は驚きながらも昇ることをやめなかつたので、男の身體は自然に絶壁の上に出た。氣が付いた時には大蛇はどこへ行つたか、影も形も見えなかつた。男は觀世音菩薩の冥助とよろこび、空腹の足を引き摺つて家に歸る。鄰りの男から海に落ちて死んだと聞いて、物忌(ものいみ)の札を立てて門を閉してゐた妻子は、男の無事な姿を見て淚を流してよろこんだ。

 

 鷹取りは平生深い佛心があつたわけでもないが、毎月十八日だけは精進して觀音經を讀むことを怠らなかつた。死ぬべき命を助かつて歸つた後、間もなく十八日になつたので、觀音經を讀誦するつもりで經筥(きやうばこ)をあけて見ると、經の軸に刀が立つてゐる。それは紛れもない、死を決して大蛇の頭に突き立てた自分の刀であるから、あの大蛇は全く觀世普菩薩の化身であつたと知り、直ちに髻(もとどり)を切つて法師となつた、といふのがこの結末である。

[やぶちゃん注:以上は「法華驗記」を典拠としつつ、オリジナルにインスパイアしてある「今昔物語集」の「卷第十六」の「陸奧國鷹取男依觀音助存命語第六」(陸奧國(みちのおくのくに)の鷹取の男(をのこ)觀音の助けに依りて命を存する語(こと)第六)である。

   *

 今は昔、陸奧國に住みける男、年來(としごろ)、鷹の子を下(おろ)して、要(えう)にする人に與へて、其の直(あたひ)を得て、世を渡りけり。

 鷹の樔(す)を食(く)ひたる所を見置きて、年來、下けるに、母鷹、此の事を侘びけるにや有りけむ、本(もと)の所に巣を食はずして、人の可通(かよ)ふべき樣も無き所を求めて、樔を食ひて卵(かひご)を生みつ。巖(いはほ)の屛風を立てたる樣なる崎(さき)に、下は大海(だいかい)の底ひも不知(しら)ぬ荒磯(あらいそ)にて有り。其れに、遙に下(さが)りて、生ひたる木の大海に差し覆(おほ)ひたる末(すゑ)に生みてけり。實(まこと)に、人可寄付(よりつくべ)き樣(やう)無き所なるべし。

 此の鷹取の男、鷹の子を可下(おろすべ)き時に成りにければ、例(れい)巣食ふ所を行きて見るに、何しにかは有らむずる[やぶちゃん注:反語。]、今年は樔食ひたる跡も無し。男、此れを見て、歎き悲しむで、外(ほか)を走り求むるに、更に無ければ、

「母の鷹の死にけるにや。亦、外に樔を食ひたるにや。」

と思ひて、日來(ひごろ)を經て[やぶちゃん注:毎日毎日。]、山々峰々を求め行(あ)りくに、遂に此樔の所を幽(かすか)に見付けて、喜び乍ら寄りて見るに、更に人の可通(かよ)ふべき所に非ず。上より可下(くだるべ)きに、手を立てたる樣なる巖の喬(そば)[やぶちゃん注:断崖絶壁。]也。下より可登(のぼるべ)きに、底(そこ)ゐも知らぬ大海の荒磯也。鷹の樔を見付けたりと云へども、更に力不及(およば)ずして、家に返りて、世を渡らむ事の絶えぬるを歎く。

 而るに、鄰(となり)に有る男に此の事を語る。

「我れ、常に鷹の子を取りて、國の人に與へて、其の直を得て、年の内に貯へとしては年來を經つるに、今年、既に鷹の巣を然々(しかしか)の所に生みたるに依りて、鷹の子を取る術(ずつ)絶えぬ。」

と歎くに、鄰の男の云く、

「人の構へば[やぶちゃん注:人間が何か工夫をすれば。]、自然(おのづか)ら取り得る事も有りなむ。」

と云ひて、彼の樔の所に、二人相ひ具して行きぬ。

 其の所を見て教ふる樣、

「巖の上に大なる楴(はしだて)[やぶちゃん注:「梯」。杭。]を打ち立てて、其の楴に百餘尋(ひろ)[やぶちゃん注:人体尺。一尋(比呂)は両腕を広げた長さで百五十一・五センチメートルであるから、百五十二メートル超以上。]の繩を結ひ付て、其の繩の末に大なる籠(こ)を付けて、其の籠に乘りて、樔の所に下(お)りて可取(とるべ)き也。」

と。

 鷹取の男、此れを聞きて、喜びて家に返て、籠(こ)・繩・楴(はしだて)を調へ儲(まう)けて、二人相ひ具して、樔の所に行きぬ。支度の如く楴を打ち立てて、繩を付けて、籠を結び付けて、鷹取、其の籠に乘りて、鄰の男、繩を取りて、漸(やうや)く下ろす。遙かに樔の所に至りぬ。鷹取、籠より下りて、樔の傍(かたはら)に居(ゐ)て、先づ鷹の子を取りて、翼を結びて、籠に入れて、先づ、上げつ。我れは留まりて、亦、下りむ度(たび)昇らむと爲(す)る間(あひだ)、鄰の男、籠を引き上げて鷹の子を取りて、亦、籠を不下(おろさず)して、鷹取を棄てて家に返りぬ。鷹取が家に行きて、妻子に語りて云く、

「汝が夫(をうと)は、籠に乘せて然々(しかし)か下ろしつる程に、繩切れて、海の中に落ちて死ぬ。」

と。妻子、此れを聞きて、泣き悲しむ事、限り無し。

 鷹取は樔の傍に居て、籠を待ちて昇らむとして、

「今や下ろす、下ろす。」

と待つに、籠を不下(おろさず)して日來(ひごろ)を經ぬ。狹(せば)くして少し窪める巖に居(ゐ)て、塵(ちり)許(ばか)りも身を動かさば、遙かに海に落ち入りなむとす。然れば、只、死なむ事を待ちて有るに、年來、此く罪を造ると云へども、毎月十八日に、精進にして、觀音品(くわんおむぼむ)を讀み奉りけり。爰(ここ)に思はく、

「我れ、年來、飛び翔(か)ける鷹の子を取りて、足に緒(を)を付けて繋ぎ居(す)へて、不放(はなた)ずして鳥を捕らしむ。此の罪に依りて現報を得て、忽ちに死なむとす。願くは大悲觀音、年來、恃(たの)み奉るに依りて、此の世は、今は、此くて止みぬ、後生(ごしやう)に三途(さむづ)[やぶちゃん注:ここは広義の三悪道たる地獄道・餓鬼道・畜生道。しかし、この鷹取りはちゃっかりしていて、その対世界の三善道(天上道・人間(じんかん)道・修羅道)どころか輪廻を解脱して極楽浄土へ往生させてくれと言っている。]に墮ちずして、必ず、淨土に迎へ給へ。」

と念ずる程に、大なる毒蛇(どくじや)、眼は鋺(かなまり)の如くにして、舌甞(したなめず)りをして大海(だいかい)より出でて、巖の喬(そば)より昇り來て、鷹取を呑まむとす。

 鷹取の思はく、

「我れ、蛇(じや)の爲に被呑(のま)れむよりは、海に落ち入りて死なむ。」

と思ひて、刀を拔きて、蛇(じや)の我に懸かる頭(かしら)に突き立つ。

 蛇(じや)、驚きて昇るに、鷹取、蛇に乘りて、自然(おのづか)ら岸(きし)[やぶちゃん注:断崖。]の上に昇りぬ。其の後(のち)、蛇(じや)、搔き消つ樣に失せぬ。爰(ここ)に知りぬ。

「觀音の蛇じや)と變じて、我れを助け給ふ也けり。」

と知りて、泣々(なくな)く禮拜(らいはい)して、家に返る。

 日來、物食はずして、餓へ羸(つか)れて、漸(やうや)く步みて家に返りて、門(かど)を見れば、今日、七日(なぬか)に當りて、物忌(ものいみ)の札を立てて門(かど)閉ぢたり。門を叩き、開けて入りたれば、妻子、淚を流して、先づ、返り來たれる事を喜ぶ。其の後、具(つぶ)さに事の有樣を語る。

 而る間、十八日に成りて、沐浴精進にして、觀音品を讀み奉らむが爲に、經筥(きやうばこ)を開(ひら)きて見るに、經の軸に、刀、立てり。我が彼(か)の樔にして蛇の頭(かしら)に打ち立てし刀也。

「觀音品の蛇(じや)と成りて、我れを助け給ひける。」

と思ふに、貴(たふと)く悲き事、限り無し。

 忽ちに道心を發して、髻(もとどり)を切りて法師と成りにけり。

 其の後(のち)、彌(いよい)よ勤め行ひて、永く惡心を斷つ。

 遠く、近き人、皆、此の事を聞きて、不貴(たふとば)ずと云ふ事、無し。但し、鄰の男、何(いか)に恥かりけむ。[やぶちゃん注:鷹取は。]其れを恨み惡(にく)む事、無かりけり。

 觀音の靈驗の不思議、此(かく)なむ御(おはし)ましける。世の人、此れを聞きて、專(もはら)に心を至して念じ可奉(たてまつる)べし、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この鷹取りの話によく似てゐるのが、元時代の「湛園靜語」にある。廬山の南、大江に臨んだ絶壁の中途に、藤蔓のからんだ古木があり、その上に蜂の巣が四つあつた。奧の大きさから云つて蜜の分量も大體想像出來るが、場所が場所なので誰も手が出ない。たまたま二人の樵夫が相談して、利益は山分けといふことにして蜂の巣取りにかゝつた。一人が腰に繩を付け、二三十丈も下つて蜜を取る。他の一人が繩を持つて、引上げては下ろし、引き上げては下ろししてゐたが、蜜も取り盡したと思はれる時分に、上の男は繩を切つてどこへか行つてしまつた、すべて「今昔物語」と同じ筋書である。

[やぶちゃん注:「湛園靜語」(たんえんせいご(現代仮名遣))は元の白珽(はくてい 一二四八年~?)の著。]

 

 取り殘された樵夫は不信心だつたと見えて、別に紳備に祈念を凝らしたりしてはゐない。巣に餘つてゐる蜜をすゝつて飢ゑを凌ぎながら、一路の活を求めて石の裂け目を攀ぢて行くうちに、一つの穴を見出した。深い穴の奧には蛟(みづち)か蟒(うはばみ)のやうなものが蟠(わだかま)つてゐるらしく、非常に腥(なまぎさ)い。時に大きな眼を開くと、暗い中に爛々と輝いた。樵夫は恐ろしくて堪らぬけれども、逃げる路もなし、穴の中は暖いので、出たり入つたりしてゐる。或日雷鳴が聞えると同時に、穴の中の物が俄かに動き出した。二度目の雷鳴が耳を驚かした時は、もう穴から拔け出さうとしてゐる。樵夫は運を天に任せて、巨大な物の上に攀ぢ上つたが、空中を一二里も行つたかと思ふと、忽ち地上に振り落された。倂し死にもせず、大した怪我もなかつた。――前半は洞中に蟄して動かず、後半は懸命に縋(すが)り付いてゐる形だから、その正體ははつきりせぬが、どうも尋常の蟒らしくない。雷鳴に乘じ、雲に駕して天外に飛び去る龍だらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一二里」以下に見る通り、原典もそうなっている。元代の一里は現在の五百五十二・九六メートルしかないから、

 これは「湛園靜語」の以下。せいぜい一キロ百メートルちょっとの短い距離である。短いと言っても、龍の身に貼り付いて、しかも空中をこの距離は私でも勘弁ではある。次段の半日は想定外である。

   *

廬山之陽、顚崖千尺、下臨大江、崖之半懸絡古木藤蔓、有蜂室其上、如五石甕者四、過而利之者、下睨無策。俄有二樵謀取之、得其利、可以共濟。於是一人縋巨木而下、約二三十丈達、得蜜無算。一人於其顚、引繩上下之。蜜且盡、則上之人欲專其利、繩而去、不顧。一人在下叫號久之、知不免、采餘蜜並其滓食之、因不饑。蹣跚石罅、得一穴、頗深暗、顧見一物、如蛟蟒蟄其中、腥穢不可近。又久之、忽開兩目如鉦、光焰爍人、然亦不動。其人怖甚、而無地可遁避、且其中氣燠可禦寒、因出沒焉、待盡而已。忽一日、雷聲作、其物蜿然而起、雷再作、則挺身由穴而出。其人自念等死爾、不若附之而去、萬一獲免。遂攀鱗而躍、約一二里頃、竟爲此物所掉著地、得不死。後訴於官、捕專利者、杖殺之。廣信朱復之説。

   *

因みに、中国の伝奇や志怪小説でしばしば不満に思うのは、現世での報恩返報に非常に拘る中国人であるはずなのに、この話のように主人公を裏切った人物(この場合、もう一人の木樵り)に対する後日談が語られないケースにしばしば遭遇することである。恰も、前半の話の導入設定をすっかり忘れてしまったかのような塩梅のものをかなり見かけるのである。或いは、書写を繰り返すうちについ漏れてしまったか、或いは実は後半を全く別人が書き加えたかとも疑われることがよくあるのである。]

 

 支那にはかういつた話がまだいくつもあるらしい。「太平廣記」に見えた韋氏の話も趙齊嵩の話も嶮しい路を馬で進むに當り、誤つて谷底に落ちる。數百丈乃至千餘仞(じん)の絶壁であるから、同行者は救ふべからずとして立ち去つてしまふが、本人は枯葉の積つた上か何かに落ちて、命に別條はない。韋氏の方は木の葉に雪を裹(つつ)んで食べたりして、一箇月もその谷底にながらへてゐると、傍の嚴穴の奧に一點の燈の如きもののあつたのが、漸く大きくなつて二つになり、遂に五六丈もある龍が姿を現し、遂に天をさして昇り去つた。その時は懼(おそ)れて見てゐるだけであつたが、暫くしてもう一つの龍が現れる さうになつた時、意を決してこれに跨がつた。龍は半日ばかり空を翔つた後、次第に低空飛行となり、海岸に近い草木などが目に入つて來たので、水に投ずる覺悟で龍から離れると、一旦絶息してまた蘇る。齊嵩の方は谷底に落ちた翌日、已に雷鳴があつて、石窟の中から雲氣が渦卷き起り、鱗甲煥然として雙角四足を具へた龍が現れる。これに跨がつて南海に到り、低空飛行の磯を窺つて身を投じ、蘆葦の間に墮ちて命を全うするあたり、韋氏と相似た成行きである。この二つの話はいづれも奇禍によつて谷底に落ちるので、鷹の子や蜂蜜を取る前日譚もなし、觀世音の御利益を知る後日譚もない。特に韋氏が女性であるのは、この種の話の中に在つて頗る異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:「趙齊嵩」「ちょうせいすう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「數百丈乃至千餘仞(じん)」話柄設定(後掲する原典参照)を唐代とする。唐代の一丈は三・一一メートルであるから、大真面目に換算すると、千八百メートル程度となり、「仞」は先に掲げた人体尺の「尋(比呂)」と同義であるから、機械的換算では千五百十五メートル越えというトンデモ落差となる。まあ、中国お得意の誇張表現だから気にすることはあるまい。

「五六丈」十六~十九メートル弱。

 最初の話は「太平廣記」の「卷第四百二十一 龍四」にある「韋氏」。「原化記」を出典としてある。

   *

京兆韋氏、名家女也、適武昌孟氏。唐大曆末、孟與妻弟韋生同選、韋生授揚子縣尉、孟授閬州錄事參軍、分路之官。韋氏從夫入蜀、路不通車輿、韋氏乘馬、從夫至駱谷口中、忽然馬驚、墜於岸下數百丈。視之杳黑、人無入路。孟生悲號、一家慟哭、無如之何。遂設祭服喪捨去。韋氏至下、墜約數丈枯葉之上、體無所損、初似悶絶、少頃而蘇。經一日、饑甚、遂取木葉裹雪而食。傍視有一岩罅、不知深淺。仰視墜處、如大井焉。分當死矣。忽於岩谷中、見光一點如燈、後更漸大、乃有二焉。漸近、是龍目也。韋懼甚、負石壁而立。此龍漸出、可長五六丈。至穴邊、騰孔而出。頃又見雙眼、復是一龍欲出。韋氏自度必死、寧爲龍所害。候龍將出、遂抱龍跨之。龍亦不顧、直躍穴外、遂騰於空。韋氏不敢下顧、任龍所之。如半日許、意疑已過萬里。試開眼下視、此龍漸低。又見江海及草木。其去地度四五丈、恐負入江、遂放身自墜、落於深草之上。良久乃蘇。韋氏不食、已經三四日矣、氣力漸憊。徐徐而行、遇一漁翁、驚非其人。韋氏問此何所、漁翁曰、「此揚子縣。」。韋氏私喜、曰、「去縣幾里。」。翁曰、「二十里。」。韋氏具述其由、兼饑渇。漁翁傷異之、舟中有茶粥、飮食之。韋氏問曰、「此縣韋少府上未到。」。翁曰、「不知到未。」。韋氏曰、「某卽韋少府之妹也。倘爲載去、至縣當厚相報。」。漁翁與載至縣門。韋少府已上數日矣。韋氏至門、遣報孟家十三姊。韋生不信、曰、「十三姊隨孟郎入蜀、那忽來此。」。韋氏令具説此由、韋生雖驚、亦未深信。出見之、其姊號哭、話其迍厄、顏色痿瘁、殆不可言。乃舍之將息、尋亦平復。韋生終有所疑。後數日、蜀中凶問果至、韋生意乃豁然、方更悲喜。追酬漁父二十千、遣人送姊入蜀。孟氏悲喜無極。後數十年、韋氏表弟裴綱、貞元中、猶爲洪州高安尉。自説其事。

   *

 後の話は「太平廣記」の同じく「龍四」の「趙齊嵩」。「博異志」を出典とする。

   *

貞元十二年、趙齊嵩選授成都縣尉、收拾行李兼及僕從、負劄以行、欲以赴任。然棧道甚險而狹、常以馬鞭拂小樹枝、遂被鞭梢繳樹、猝不可、馬又不住、遂墜馬。枝柔葉軟、不能碍輓、直至谷底、而無所損。視上直千餘仞。旁無他路、分死而已。所從僕輩無計、遂聞於官而歸。趙子進退無路、墜之翌日、忽聞雷聲殷殷、乃知天欲雨。須臾、石窟中雲氣相旋而出。俄而隨雲有巨赤斑蛇。麄合拱。鱗甲煥然。擺頭而雙角出、蜿身而四足生。奮迅鬐鬣、搖動首尾。乃知龍也。趙生自念曰、「我住亦死、乘龍出亦死、寧出而死。」。攀龍尾而附其身、龍乘雲直上、不知幾千仞、趙盡死而攀之。既而至中天、施體而行。趙生方得跨之、必死於泉矣。南視見雲水一色。乃南海也。生又歎曰。「今日不塟於山。卒於泉矣。」。而龍將到海、飛行漸低。去海一二百步、捨龍而投諸地。海岸素有蘆葦、雖墮而靡有所損。半日、乃行路逢人、問之、曰、「淸遠縣也。」。然至於縣、且無伴從憑據、人不之信、不得繾綣。迤𨓦以至長安。月餘日。達舍。家始作三七齋、僧徒大集。忽見趙生至、皆驚恐奔曰、「魂來歸。」。趙生當門而坐、妻孥輩亦恐其有復生。云、「請於日行、看有影否。」。趙生怒其家人之詐恐、不肯於日行。踈親曰。若不肯日中行、必是鬼也。」。見趙生言、猶云、「乃鬼語耳。」。良久、自叙其事、方大喜。行於危險、乘騎者可以爲戒也。

   *

「貞元十二年」は唐の徳宗の治世で西暦七九六年。]

 

 以上の話より時代が下つて「輟耕錄」の中にも「誤墮龍窟」といふのがある。或商人が難船して小さな嶋に吹き寄せられ、辛うじて岸に匍ひ上つたが、深夜の眞暗な中で穴に落ち込んでしまつた。いくらもがいても攀ぢ登れるやうな、なまやさしい穴ではない。そのうちに夜が明けたらしく、薄明りの中に無數の大蛇の蟠つてゐるのが目に入つた。はじめは恐怖に堪へなかつたけれど、彼等は商人を呑まうともせぬ。いさゝか安心すると共に、今度は俄かに腹が減つて來た。蛇は時々石壁の間にある小石を舐める外、絶えて飮食をせぬので、自分もその眞似をして小石を口に含むと不思議に飢渇を忘れる。そのうちに一日雷鳴が聞えたら、大蛇ははじめて身を動かし、穴から外へ出ようとする。これは單なる大蛇でない、神龍であるとわかつたから、その尾に縋つて地上に出で、船を搜して家に還ることが出來た。穴の中で口に含んだ小石を何十か持ち歸り、都の人に見せた結果、皆貴重な寶石と鑑定された。話としては最も單純であるが、雷鳴を聞いて龍が上騰せんとし、その機を逸せずに龍窟を脱するところは、大體前の話と步調を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「輟耕錄」の「卷二十四」にある「誤墮龍窟」。

   *

徐彦璋云、商人某、海船失風、飄至山島、匍匐登岸、深夜昏黑、偶墜入穴、其穴險峻、不可攀緣。比明、穴中微有光、見大蛇無數、蟠結在内。始甚懼、久、稍與之狎、蛇亦無吞噬意。所苦饑渴不可當。但見蛇時時砥石壁間小石、絶不飮咽。於是商人亦漫爾取小石之、頓忘饑渇、一日、聞雷聲隱隱、蛇始伸展、相繼騰升、才知其爲神龍、遂挽蛇尾得出、附舟還家、攜所小石數十至京城、示識者、皆鴉鶻等寶石也、乃信神龍之窟多異珍焉。自此貨之、致富。璋親見商人、道其始末如此。

   *

2017/07/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「木馬」

 

 木馬

 

 トロイの木馬は少し古過ぎる。あの木馬は巨大な點で人を驚かしたかも知れぬが、腹中に人が潛んで、城を陷れる謀略用に供せられたものだから、話としての妙味は寧ろ少い。「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る。ペルシャ王に獻ぜられたこの馬は、昇降の裝置が出來てゐるので、昇る裝置だけ教へられた王子は、暫く空を飛び續ける外はなかつたが、そのうちに漸く下る裝置を見出して、或王宮の屋根に下りる。話はその後二三曲折があつた末、王子が姫と同乘して故國に飛び戾るといふ大團圓になる。不思議な木馬に伴ふ謀計は無論あるけれど、トロイの木馬のやうな大がかりなものでないだけに、話の興味もあれば、童話的な親しみもあるわけである。

[やぶちゃん注:「トロイの木馬は少し古過ぎる」木馬の奇策戦法についてはトロイアの木馬を参照されたい。小アジアのトロイア(現在のトルコ北西部のダーダネルス海峡以南にあったとされる。私は行ったことがあり、遺跡の入り口には木馬の複製が建てられてあった)に対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争トロイア戦争については、紀元前一二五〇年頃にトロイアで大規模なモデルとなった戦争があったとする説もあれば、全くの絵空事であるという説もあるという(ウィキの「トロイア戦争」による)。

『「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る』梗概は、ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」にある黒檀の馬奇談(第414夜 - 第432夜)の項を参照されたい。]

 

 空を飛ぶ木馬は支那にもあつた。話は極めて簡單なもので、或童子が歸りがけに馬を請うた時、戲れに木馬を作つて與へた。童子は困ると思ひの外、私は泰山府君の子です、この馬は有難く頂戴いたします、と一禮して、ひらりと跨がると同時に、木馬は忽ち天空に騰り去つたと「太平廣記」にある。あまり簡單過ぎて「アラビアン・ナイト」に對抗することは出來ぬが、頭も尻尾もなしにいきなり飛び去るところに、木馬奇譚らしい面白味がないでもない。

[やぶちゃん注:「騰り」「のぼり」或いは「かけあがり」と訓じているか。

「頭も尻尾もなしに」別に与えた木馬が頭も尻尾もない馬だったのではない。話の頭も尻尾もよく判らぬうちに忽ちに終わる短章だからである。以下の通り、原典は字数にしてたった四十六字である。

 以上は「太平廣記」の「妖怪二」に載る「後魏書」にあったとする「段暉」。

   *

段暉、字長祚、有一童子辭歸、從暉請馬。暉戲作木馬與之、童子謂暉曰、「吾泰山府君子、謝子厚贈。」。言終、乘木馬、騰空而去。

   *]

 

 宋の紹興元年、兵亂を避けて江南に居つた人々が、だんだん故郷へ歸らうとする中に、山陽地方の士人が二人あつた。准揚を通過して北門外に宿を取らうとしたが、宿の主人は丁寧に謝絶した。長い兵亂の後で家も穢くなつて居り、盜賊どもが徘徊するので甚だ物騷である、こゝから十里ばかり先に呂といふ家があるから、そこへ行つてお泊りになつたらよからう、僕や馬を添へてお送りさせる、といふのである。呂といふのは前から知つてゐる家なので、二人は主人の云ふ通りにした。主人は別れを告げるに當り、日が暮れたから馬にお召し下さい、と云ひ、歸りにもまた寄つて貰ひたい、と云つた。僕二人、馬二頭の道中は何事もなかつたが、呂氏の家ではいろいろ物騷な噂のある折から、二人が夜を冒して來たのを怪しむ樣子であつた。そこで前の宿の話によつてこゝまで辿り着いた事情を説明し、馬から下り立たうとすると、馬も人も全然動かない。燈に照らして見た結果、人と思つたのは二本の太い竹、馬と思つたのは二脚の腰掛けであることがわかつた。支那では竹を切つて人の身代りにすることがよくあるが、腰掛けの馬はあまり聞かぬやうである。役目を果した木と竹は、その場で燒かれてしまつたけれど、何も怪しい事は起らなかつた。五六箇月たつて北門外へ行つて見たら、その家は空家で、主人らしい姿も見えなかつた(異聞總錄)。

[やぶちゃん注:「紹興元年」底本は「紹與」であるが、中国の「宋」を名乗った国の元号にこんなものはない。以下の原文によって誤字と断じ、特異的に訂した。南宋時代に高宗の治世で用いられた元号で元年は一一三一年。この五年前の一一二六年、北宋は靖康(せいこう)の変(北宋が女真族(後の満州族の前身)を支配層に戴く金(きん)に敗れて華北を失って北宋が滅亡した事件。靖康は北宋の最後の当時の年号)によって宋は一旦、滅び、戦闘こそ収束したものの、国内は著しく混乱していた。

「山陽」現在の西安の南東にある陝西省商洛市山陽県か。(グーグル・マップ・データ)。

「淮揚」淮陽か。であれば、現在の江蘇省淮安市淮陰区西部附近。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「異聞總錄」の「卷之四」に出る以下。

   *

紹興十年、兩淮兵革甫定、避地南渡者、稍複還郷。山陽二士子歸理故業、道經淮揚、舍於北門外、日已暮矣、主人慰諭綢繆、云、「吾主張此邸、惟恐客寓不久、然於二君之前、不敢不以誠白、是間殊不潔淨、又有盜、不可宿也。距此十里呂氏莊、寬雅幽肅、且有御寇之備、願往投之、當以僕馬相送。」。士子見其忠告、且素熟呂莊、頷之而去、主人殷勤惜別、仍囑囘途見過、遣兩健僕控馬、其行甚穩。夜未半抵莊、莊乾出迎、云此地多鬼物、何爲夜行、士子具道所以、方解鞍、僕馬屹立不動、亟躍下、取火視之、但見大枯竹兩竿、木橙兩條而已、卽碎而焚之、後亦無他。歷數月再到其處、北門寂然、無所謂主人也。

   *

この話は岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にも「竹人、木馬」として訳が載る。青空文庫」で読める。]

 

 この話の山は愈々目的地に達して氣が付いたら、人も馬も武人腰掛けに變つてゐたといふ一點に在る。物騷な夜道をとぼとぼと行く腰掛けの馬は、百鬼夜行の圖に漏れた愛すべき化物でなければならぬ。

 

 「廣異記」の高勵が桑の木の下に立つて、人の家の麥打ちを見てゐるところへ、東の方から馬を飛ばして來る男があつた。高勵の前に來て再拜し、お願ひでございます、馬の足をなほしていただきたう存じます、と云ふ。わしは馬醫者ではないから、馬の療治などは出來ないと答へたら、その男は笑つて、いえ、そんなむづかしい事ではありません、たゞ膠(にかわ)で付けていたゞけばよろしいのです、と云ふのである。高勵には先方の云ふことがよくわからぬので默つてゐると、男ははじめて自分の事を説明した。實は私は人ではありません、この馬も木馬なのです、あなたが膠で付けてさへ下されば、この木馬でずつと先まで行けるのです――。高はまだ十分腑に落ちなかったけれど、云はれるまゝに膠を持つて來て、火にかけて溶かしてやつた。男の話によれば馬の病氣は前足に在るといふことなので、その箇所に膠を付けてやり、膠を煮た鍋を片付けてもう一度出て來たら、馬は見違へるやうに元氣になつて、いづれへか走り去つた。

 

 膠を高に乞うた男は、自ら人に非ずと云つた。「太平廣記」はこの話を鬼の部に入れてゐるから、いづれその邊に所屬するのであらう。倂し前足を痛めた木馬に跨がつて、どこからどこへ行かうとしたのか、高を見かけて膠を乞うたのは全くの偶然か、それとも何か因緣があつたのか、さういふ點に關しては「廣異記」は何も書いてない。通りがかりにこんな事を賴まれただけで、別に後腐れがなかつたのは、高に取つては幸ひであつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「鬼二十三」に「廣異記」を出典として「高勵」で載るもの。

   *

高勵者。崔士光之丈人也。夏日、在其庄前桑下、看人家打麥。見一人從東走馬來、至勵再拜、云。請治馬足。勵云。我非馬醫、焉得療馬。其人笑云。但爲膠黏即得。勵初不解其言、其人乃告曰。我非人、是鬼耳。此馬是木馬。君但洋膠黏之。便濟行程。勵乃取膠煮爛、出至馬所、以見變是木馬。病在前足。因爲黏之。送膠還舍、及出、見人已在馬邊。馬甚駿。還謝勵訖。便上馬而去。

   *]

2017/07/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「金の龜」

 

 金の龜

 

 玄宗皇帝の時に或方士が一疋の龜を獻じた。直徑一寸ぐらゐの小さなものであるが、總身から金色の光りを放つてゐる。方士の言によると、この龜は何も食はぬが、枕の笥(はこ)にでも入れて置けば、大蛇の毒を避けることが出來るといふ話であつた。たまたま帝の寵を受けた臣下の一人が、何かの連累の罪を問はれて、南方に流竄(るざん)されることになり、帝としては赦してやりたく思はれたが、國家の法を枉(ま)げるわけに往かぬので、ふとこの龜のことを思ひ出して、びそかにこれを與へられた。聞けば南方には大蛇が多いさうな、これを常に身邊近く置いたらよからう、といふことで、その男は有難く頂戴して出發した。

[やぶちゃん注:「枕の笥(はこ)」常に寝台の枕元に置いて枕を収納する箱のことと解釈しておく。]

 

 象郡の或村に著いた時、彼の泊つた宿屋には一人の旅客もなく、ひつそり閑としづまり返つてゐた。その夜は晝のやうにいゝ月夜であつたに拘らず、雨風の聲が遠くに聞え、それがだんだん近付いて來る模樣なので、例の龜を出して階上に置いた。やゝ暫くして龜は首を伸ばし、冠の紐ぐらゐの氣を吐いたが、その氣は三四尺の高さに上り、徐々に散じて行つた。龜は一たび氣を吐いた後、安らかに休んで居り、風雨の聲も聞えなくなつた。この人は室内に在つて、これだけの事實を見たに過ぎなかつたが、夜が明けると驛の役人達がやつて來て意外な話を知らせた。昨日役人達がこの人を迎へに出る途中、あやまつて一疋の報冤蛇(はうえんだ)を殺した。今夜は必ず祟りを受けると覺悟して、附近の人々は三十里、五十里の遠方まで避難したが、役人達はさう遠くには行かず、近くにある山の中の岩穴に隱れて夜の明けるのを待つた。こゝにゐながら何事もなかつたのは、全く神助によるもので、人力の及ぶところでない、といふのである。やがて往來の人が相次いで到著する。その人達の話によると、來る道に大蛇が十數疋も糜爛(びらん)したやうになつて死んでゐる。これ以來報冤蛇の話は全く耳にしなくなつたが、どうして多くの蛇が一時に斃(たふ)れたか、その消息を知る者は一人もなかつた。一年ほどたつて南方流竄の臣も赦されて歸り、金の龜を皇帝に返上する際、彼は感泣して、自分の生命のみならず、南方一帶の人間が災害から救はれたのは、第一に聖德、第二に神龜の力による旨を奏上した(録異記)。

[やぶちゃん注:「象郡」(ぞうぐん)は秦及び漢代にかけて現在のベトナム北部から中部に置かれた郡であるが、この話柄内時制にあっても既に旧郡名で、ここは恐らくベトナム国境を越えたベトナム北部附近を指しているように思われる。中部(現在のベトナムのゲアン省)はこの頃、徳州となり、さらに驩(かん)州と改められた。六二八年には驩州都督府が置かれているが、ここは後に現在のハノイの安南都護府の管轄となっている。

「報冤蛇(はうえんだ)」「太平廣記」の「蛇一」に「報冤蛇」として「朝野僉載(ちょうやせんさい)」(既注)からの引用として『嶺南有報冤蛇、人觸之、卽三五里隨身卽至。若打殺一蛇、則百蛇相集。將蜈蚣自防、乃免』とある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「報寃蛇」によれば、「二尺ばかりの青い蛇」とあって大蛇ではない。しかし、その晩泊まった宿屋の亭主から、それに手出し(そこでは杖で撃っただけ)をしただけで、その毒気が人体に転移し、しかもその蛇本体が「百里の遠くまでも追って来て、かならず其の人の心(むね)を噬(か)」むと言われて恐懼する。旅人が「懼れて救いを求めると、主人は承知して、龕(がん)のなかに供えてある竹筒を取り出し、押し頂いて彼に授け」、「構わないから唯ただこれを枕もとにお置きなさい。夜通し燈火(あかり)をつけて、寝た振りをして待っていて、物音がきこえたらこの筒をお明けなさい」と忠告した。「その通りにして待っていると、果たして夜半に家根瓦のあいだで物音がきこえて、やがて何物か几(つくえ)の上に堕ちて来た。竹筒のなかでもそれに応(こた)えるように、がさがさいう音がきこえた。そこで、筒をひらくと、一尺ばかりの蜈蚣(むかで)が這い出して、旅人のからだを三度廻って、また直ぐに几の上に復(かえ)って、暫くして筒のなかに戻った。それと同時に、旅人は俄かに体力のすこやかになったのを覚えた」。「夜が明けて見ると、きのうの昼間に見た青い蛇がそこに斃(たお)れていた。旅人は主人の話の嘘でないことを初めてさとっ」たとある。岡本の同書「支那怪奇小説集」は所持するが、時間を節約するため、以上は「青空文庫を加工させて貰った。なお、この蛇、大きさと色からは実在する蛇がモデルではあろうが、中文サイトでも積極的に実際の種に比定する叙述は見当たらないようである。

「三十里、五十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、十七キロメートル弱から二十九キロメートル相当となる。

 以上は五代の蜀の道士杜光庭(八五〇年~九三三年)の撰になる志怪集「錄異記」の「卷五」に載る以下。

   *

明皇帝、嘗有方士獻一小龜、徑寸而金色可愛。云、「此龜神明而不食、可置之枕笥之中、辟巨蛇之毒。」。上常貯巾箱中、忽有小黃門、恩渥方深而爲骨肉所累、將竄南徽、不欲屈法免之、密授此龜。敕之曰、「南荒多巨蟒、常以龜置於側、可以無苦闔者。」。拜受而懷之。洎達象郡之屬邑、里市綰舍、悄然無一人。投宿于旅館、飮膳芻、豢燈燭、供具一無所闕。是夜、月明如晝、而有風雨之聲。其勢漸近、因出此龜、置於階上。良久、神龜伸頸吐氣、其大如艇直上、高三四尺、徐徐散去。已而龜遊息如常、向之風雨聲亦已絶矣。及明、驛吏稍稍而至、羅拜庭下、曰、「昨知天使將至、合備迎奉、適綠行旅、誤殺一蛇。衆知報冤、蛇必此夕爲害。側近居人、皆出三五十里外、避其毒氣。某等不敢遠去、止在近山巖穴之中、伏而待旦。今則天使無恙、乃神明所祐、非人力所及也。」。久之、行人漸至云、當道有巨蛇十數、皆已糜爛。自此無復報冤之物、人莫測其由。逾年、黃門應召歸長安、復以金龜進上、泣而謝曰、「不獨臣性命、賴此生全。南方之人、永祛毒類、所全人命、不知紀極、實聖德所及、神龜之力也。」。

   *

なお、宵曲の梗概はよく抑えてあるが、原文との比較対象のために、やはり岡本綺堂の「中国支那)怪奇小説集」の「青空文庫」版の「異亀」の載る頁をリンクさせておく。なお、岡本のそれは戦前の昭和一一(一九三六)年の刊で、本書より遙かに先行する。]

 

 これに似た金の龜の話は同じ唐時代にもう一つある。史論が將軍になつた時、妻女の室に當つて不思議な光のあるのに氣が付いた。それから夫婦一緒に室内を隈なく搜して見たが、何も見當らぬ。或日妻女が早く起きて、化粧箱の蓋を取つたら、中に錢ぐらゐの大きさの金色の龜がゐて五色の氣を吐き、その氣は見る見るうちに室内に滿ち渡つた。これは方士が玄宗皇帝に獻じ、皇帝から南方流鼠の臣に賜はつて、南方の報冤蛇を掃蕩した龜の同類らしい。鏡ぐらゐの大きさで金色の光りを放つところ、五色の氣を吐くところ、一々比較對照するまでもあるまいと思ふ。史論が將軍になつた時に出現したのだから、吉兆瑞相であることは疑ひを容れぬが、この龜の吐いた氣は室内に滿ち渡つただけで、一夜にして報冤蛇を斃し盡すやうな奇蹟は演ぜられてゐない。その家常にこれを養ふといふ外、何の記載もないのが物足らぬ。

[やぶちゃん注:「史論」不詳。但し、出典である「酉陽難狙」の、別な「卷二」の「玉格」の話にも登場している。

「五色」道家思想の根本にある陰陽五行思想では「五色」は緑(東)・赤(南)・黄(中央)・白(西)・黒(北)が五色として配される。

「その家常に」「その家、常に」。以下に見る通り、原文は「後常養之」。

 以上の出典を宵曲は記していないが、次段で語る「酉陽難狙」の「卷十五 諾皋記下」に出る以下である。しばしば宵曲はこうした不親切をする。現行、彼は書誌学者と片書きされるが、これはその名にし負うていない残念なことである。

   *

史論作將軍時、忽覺妻所居房中有光、異之。因與妻遍索房中、且無所見。一日、妻早妝開奩、奩中忽有五色龜、大如錢、吐五色氣、彌滿一室。後常養之。

   *]

 

「酉陽雜俎」によれば、寧晉縣の沙河の北に大きな棠梨の樹があり、百姓が常に祈禱するところになつて居つたが、或時何千といふ群蛇が東南より來つて、沙河の北岸及び南岸に集結した。これを見た三疋の龜がその周圍を繰り繞り步くと、蛇は悉く死んでしまつた。その蛇の腹には矢で射られたやうな疵があつたさうである。前の象郡の話と云ひ、またこの沙河の話と云ひ、龜と蛇との間には何か宿敵のやうな因緣があつて、一溜りもなく斃されるのであらうか。この龜は何色をしてゐたかわからぬが、やはり直徑一寸ぐらゐの小さなものであつた。

[やぶちゃん注:「寧晉縣」現在、河北省邢台(けいだい)市寧晋県。(グーグル・マップ・データ)。「沙河」の地名は確認出来なかった。

「棠梨」(とうり)は、本邦で「ずみ」(「酸実・桷)とも呼ぶ林檎の近縁種、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ズミ Malus toringo に一応、同定はしておく。

 以上は「卷十 物異」の以下。原典は時制が記されている。建中四年は七八三年で唐の徳宗の治世である。

   *

龜、建中四年、趙州寧晉縣沙河北、有大棠梨樹。百姓常祈禱、忽有群蛇數十、自東南來、渡北岸、集棠梨樹下爲二積、留南岸者爲一積。俄見三龜徑寸、繞行積傍、積蛇盡死。乃各登其積、視蛇腹各有瘡、若矢所中。刺史康日知圖甘棠奉三龜來獻。

   *]

 

 報冤蛇などといふ厄介なものの居らぬ日本には、不思議な金の龜も棲息せぬのかも知れぬ。「めでたき風景」(小出楢重)の中の「龜の隨筆」を讀むと、小出氏の家は大阪堺筋の藥屋で、膏藥天水香の龜の看板が屋根の上に飾られてゐたさうである。それは殆ど一坪を要する木彫りの大龜で、用材は楠であつたが、この龜が「地車の唐獅子の如く、眼をむいて波の上にどつしりと坐り、口を開いて往來をにらんでゐる」相貌は、近所の子供達の魂を脅かしたものらしい。この龜には奇蹟があつて、嶋の内燒けといふ大火の火の手が、鄰家まで來て急に風向きが變つたのは、天水香の龜が水を噴いた爲だといふことになつてゐる。その後堺筋の樣子が一變したので、龜も屋根の上にゐられなくなり、下町の心光寺に預けられた。或年心光寺の本堂が炎上した際も、この龜は庫裡に在つて燒失を免れた。奇蹟は二度繰り返されたといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「めでたき風景」昭和五(一九三〇)年創元社刊の小出の随筆集。

「小出楢重」(こいでならしげ 明治二〇(一八八七)年~昭和六(一九三一)年)は洋画家。彼は大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)の一子相伝の膏薬「天水香」の製造販売を家業とする家の長男として生まれ、所謂、典型的な大阪の「ぼんち」(お坊ちゃま)であった。

「龜の隨筆」青空文庫の「風景」で全文が読める。

「心光寺」大阪府大阪市天王寺区下寺町にある浄土宗心光寺。心斎橋筋の南東直近である。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 生きた金の龜に對し、木彫りの大龜を擔ぎ出したのでは釣合ひが取れぬやうだが、吾々の手には然るべき持ち駒がない。日本でうつかり金龜子などと書くと、コガネムシと間違へられる虞れがあるから、しばらく天水香の看板に名代を勤めさせることにする。金の龜は氣を吐いて報冤蛇を斃し、木の龜は水を噴いて火を斥ける。「和漢新撰蒙求」の材料にならぬこともなからう。天水香の大龜は今存否を知らぬけれど、「めでたき風景」の插畫の中にこの龜があり、水を噴いて火焰をしづめるところまで畫いてあるから、たとひ本物は亡びても、永くその面影を偲ぶことが出來る。

[やぶちゃん注:「和漢新撰蒙求」(わかんしんせんもうぎゅう:現代仮名遣)これは恐らく架空の書物で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「六」で迷亭が仮想書として示す「新撰蒙求」を捩ったものであろう。因みに「蒙求」は無論、知られた中国の初学者向け教科書で、本邦でも平安時代以降、長期に亙って使用された。そもそもが同小説のこのシーンには仕掛けがあり、臍曲がりの頑固者の「漱石」というペン・ネームの濫觴である「漱石枕流」の故事は、実にこの「蒙求」に記されているのである。

「天水香の大龜は今存否を知らぬけれど」「めでたき風景」の「龜の隨筆」の末尾には、心光寺回禄の際にも焼けずに残った話の後に、

   *

 近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝(だいちょう)の鍋平朝臣(なべひらあそん)、一日、私に宣(のたも)うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸(ようや)くこの養老院において、万年の齢(よわい)を保とうというのである。

   *

(青空文庫版より引用)とあるが、大阪市民博物館なるものは存在せず、あったとしても果たしてそこに寄贈されたかも確認出来ず、「膏薬 天水香 亀 看板」のグーグル画像検索を掛けてもそれらしいものは出ない(因みに、これで掛けると、驚くべきことに頭に出るのは何故か私の芥川龍之介の「江南游記」の画像ではないカイ!? 何じゃあ? こりゃ?!)。現存しないと考えた方がよかろう。]

2017/07/07

柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯

 

 茶碗の中

 

[やぶちゃん注:本文にも出る通り愛する小泉八雲が“In a Cup of Tea”(「茶碗の中」)に英文翻案した、私の偏愛するところの、正体不明の妖しい者たちがわけも分らずに波状的に出現してくる異様に截ち切れたような(少なくとも八雲のそれはそうであり、そこがまた私はすこぶる附きで好きなのである)怪奇である。従って、注には特に力を入れた。]

 

 天和四年正月四日と明かに年月日が書いてある。中川佐渡守が年禮に出た時、その供に堀田小三郎といふ人が居つた。本郷の白山の茶店に休息し、そこで召し連れた關内といふ者が水を飮むと、茶碗の中に美しい若衆の顏がうつつた。その水は地に打ち明け、新しい水を汲んだところ、やはり同じやうな顏が見える。仕方がないので今度は飮んでしまつたが、その晩關内の部屋に一人の若衆が訪れた。晝間はじめて御意を得申した、式部平内と申す者でござる、と云ふ。關内はびつくりして、私に於ては全然おぼえがない、そなたは表の門をどうして通つて來られたか、不審である、よもや人間ではあるまい、と云ふなり拔き打ちに斬り付けた。逃げ出すのを追駈けて鄰家の境まで行つたが、途に若衆を見失つてしまつた。家中の人々が出て來て、關内の話を聞いたけれど、誰にもどういふわけだかわからなかつた。然るにその翌晩また關内をたづねて來た者があり、誰かと問へば、式部平内の使ひ松岡平藏、岡村平六、土橋文藏と申す者である、折角思ひを寄せて來たものを、いたはるほどの事はなくとも、手を負はせるとは何事であるか、平内は疵養生のため湯治に參つたが、十六日には歸るであらう、その時恨みを酬いるから、と云ふ。關内は心得たりと脇差を拔いて斬り付けると、鄰りの境まで逃げて行き、壁に飛び上つたと見る間に消え失せた。その後は遂に何も來なかつた。

[やぶちゃん注:「天和四年正月四日」グレゴリオ暦一六八四年二月十九日。第五代将軍徳川綱吉の治世であるが、善政としての「天和の治」は終りを告げ、この年以降、綱吉は大老を置かずに側用人牧野成貞や柳沢吉保らを重用し、老中らを遠ざけるようになった。なお、この年は二月二十一日(グレゴリオ暦四月五日)に貞享に改元している。

「中川佐渡守」豊後岡藩第四代藩主中川久恒(寛永一八(一六四一)年~元禄八(一六九五)年)であるが、ウィキの「中川久恒」によれば、この事件があったとされる二年前の天和二年には、『生来』、『病弱だったため』、『弟たちによって藩政が代行されている』とある。

「本郷の白山」現在の東京都文京区白山(はくさん)。江戸幕府によって開園された小石川御薬園(おやくえん)、現在の小石川植物園を含む一帯。寺院が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀田小三郎」一般に「ほったこさぶろう」(現代仮名遣)と読まれているようである。この人物名は小泉八雲のIn a Cup of Teaには登場しない。以下、人名の表記や読みはウィキの「茶碗の中」及び平川祐弘編小泉八雲「怪談・奇談」の解説などを参照した。

「關内」ネットでは平然と「かんない」の読みを振るものが多く見られるが、原典は「せきない」で、小泉八雲の表記も“Sekinai”である

「式部平内」一般に「しきぶへいない」と読まれている。小泉八雲もIn a Cup of Tea“Shikibu Heinai”とする。

「松岡平藏」小泉八雲のIn a Cup of Teaでは“Matsuoka Bungo”で、各種の和訳では「文吾」を当てるものが多い。

「岡村平六」In a Cup of Tea“Okamura Heiroku”

「土橋文藏」原典には「つちばし」と濁音でルビが振られてある。In a Cup of Tea“Tsuchibashi Bungo”と変わっている。訳では「土橋文吾」を当てるものが多い。

 次の段に出る通り、これは「新著聞集」の「卷五」の「奇怪篇 第十」の「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の面(をもて)を現(げん)ず」である。吉川弘文館随筆大成版を加工データとしつつ、オリジナルに漢字を増やし(一つは原典の歴史的仮名遣が誤っているのを隠すためもある)、一部に読みも添えた。その際、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「新著聞集」の原本PDF版(カラー)を参考視認した。また、読み易さを考え、句読点と記号及び改行をオリジナルに変更・追加しておいた。

   *

 天和四年正月四日に、中川佐渡守殿(さどのかみとの)、年禮におはせし供(とも)に、堀田(ほつた)小三郎といふ人、參り、本郷の白山の茶店(ちやだな)に立(たち)より休らひしに、召仕(めしつかひ)の關内(せきない)といふ者、水を飮(のみ)けるが、茶碗の中に、最(いと)麗(うるは)しき若年の顏、うつりしかば、いぶせ思ひ、水を捨てて、又、汲(くむ)に、顏の見えしかば、是非なく飮てし。

 其夜、關内が部屋へ若衆(わかしう)來り、

「晝は初(はじめ)て逢(あひ)參らせつ。式部平内といふ者也。」

關内、驚き、

「全く、我は覺え侍らず。扨(さて)、表の門をば何として通り來れるぞや。」

『不審(いぶかし)きも物なり。人にはあらじ。』と思ひ、拔き打ちに切りければ、逃出(にげいで)たりしを、嚴しく追(をひ)驅(か)くるに、隣の境(さかひ)まで行(ゆき)て見失ひし。

 人々、出合)いであ)ひ、其由を問ひ、

「心得がたし。」

とて、扨、やみぬ。

 翌晩、

「關内に逢はん。」

とて、人、來る。

「誰(たれ)。」

と問(とへ)ば、

「式部平内が使ひ松岡平藏・岡村平六・土橋(つちばし)文藏といふ者なり。思ひ寄りて參りしものを、勞(いたは)るまでこそなくとも、手を負(をは)せるは、如何(いかゞ)ぞや。疵(きず)の養生(やうじやう)に湯治(たうぢ)したり。來(きた)る十六日には歸りなん。其時、恨(うらみ)をなすべし。」

といふを見れば、中々、荒けなき形(かた)なり。關内、

「心得たり。」

とて、脇指を拔き斬りかゝれば、逃げて、隣の壁(かべ)に飛(とび)上がりて、失(うせ)侍りし。後、又も來(きた)らず。

   *

「荒けなし」の「なし」は「無し」ではなく「甚だし」の意の接尾語で、意味は「ひどく荒々しい・乱暴である」の意である。]

 

「新著聞集」に出てゐるこの話は、小泉八雲が「茶碗の中」といふ題で紹介した。勿論原話通りではない。八雲一流の想像でいろいろ補つたところもある。最初茶碗の中に現れた美しい顏から云つても、二度目に來た三人の言葉に「思ひよりて參りしもの」とあることから云つても、當然衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の説明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある。もう一つはかういふ顏が幻に現れる以上、關内の方からその若衆に思ひを寄せるのが當然で、茶碗の水に現れた若衆が關内をたづねて來るのは、順序が逆のやうに思はれる。吾々はこゝでこの話を種に使つたらしい野呂松(のろま)狂言の「水鏡」を擧げなければならぬ。

[やぶちゃん注:「衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の説明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある」宵曲は後の方でも、原話の「新著聞集」も含めて「畫龍點晴」(がりょうてんせい)を欠くなどと暗示的に述べて、小泉八雲の脚色に異様に不満たらたらなのであるが、私はそうした理由不明の怪異の出来(しゅったい)の持つ突き放された感じにこそ、真正怪談の凄さがあると感ずる人種である。亡魂の恨みの内実や怪異出来の真の動機・原因が論理的(仏教的な因果論であっても)に明らかにされてしまった瞬間、怪談は鮮やかに怖くなくなるのである。怪異を丸ごとわけの判らぬものとして体感する時にのみ、真の怪談の怖さは発揮される。宵曲がかく文句を言うその顔に、私は、男色でニンマリする大人のえげつないほくそ笑みしか、見えないのである。そうしてまた、そのような若衆道をあからさまに示すような筋立てにしてしまった時、本話は永久に少年少女の読む怪談集から外されしまい、大人の隠微な怪談集でしか読めない、完全封印作品となってしまったに違いなく、私が少年期、この話から受けた半端ない恐怖の衝撃も、あり得なくなったに違いないと断ずるものである。

 ではまず、満を持して、小泉八雲の明治三二(一九〇二)年刊のKottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs(「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中のIn a Cup of Teaの原文を示す。冒頭の作者の附言が、これまた、ゴシック・ロマン風にお洒落である。“Internet Archives”こちらで原典画像を視認した。原注の欄外注は[ ]で当該段落末に配した。

   *

 

In a Cup of Tea

 

HAVE you ever attempted to mount some old tower stairway, spiring up through darkness, and in the heart of that darkness found yourself at the cobwebbed edge of nothing?  Or have you followed some coast path, cut along the face of a cliff, only to discover yourself, at a turn, on the jagged verge of a break ?  The emotional worth of such experience ― from a literary point of view ― is proved by the force of the sensations aroused, and by the vividness with which they are remembered.

   Now there have been curiously preserved, in old Japanese story-books, certain fragments of fiction that produce an almost similar emotional experience. . .  Perhaps the writer was lazy;  perhaps he had a quarrel with the publisher; perhaps he was suddenly called away from his little table, and never came back; perhaps death stopped the writing-brush in the very middle of a sentence.

   But no mortal man can ever tell us exactly why these things were left unfinished. . . .  I select a typical example.

 

*     *

 

   On the fourth day of the first month of the third Tenwa,― that is to say, about two hundred and twenty years ago, ― the lord Nakagawa Sado, while on his way to make a New Year's visit, halted with his train at a tea-house in Hakusan, in the Hongō district of Yedo.While the party were resting there, one of the lord's attendants, ― a wakatō 1 named Sekinai,― feeling very thirsty,filled for himself a large water-cup with tea. He was raising the cup to his lips when he suddenly perceived, in the transparent yellow infusion, the image or reflection of a face that was not his own. Startled,he looked around, but could see no one near him. The face in the tea appeared, from the coiffure, to be the face of a young samurai :it was strangely distinct, and very handsome, delicate as the face of a girl. And it seemed the reflection of a living face for the eyes and the lips were moving.Bewildered by this mysterious apparition,Sekinai threw away the tea, and carefully examined the cup. It proved to be a very cheap water-cup, with no artistic devices of any sort. He found and filled another cup and again the face appeared in the tea. He then ordered fresh tea, and refilled the cup; and once more the strange face appeared, ― this time with a mocking smile. But Sekinai did not allow himself to be frightened. “Whoever you are,”he muttered,“you shall delude me no further!”― then he swallowed the tea, face and all, and went his way, wondering whether he had swallowed a ghost.

[1The armed attendant of a samurai was thus called. The relation of the wakatō to the samurai was that of squire to knight.]

 

   Late in the evening of the same day, while on watch in the palace of the lord Nakagawa, Sekinai was surprised by the soundless coming of a stranger into the apartment. This stranger,a richly dressed young samurai, seated himself directly in front of Sekinai, and, saluting the wakatō with a slight bow, observed: ―

   “I am Shikibu Heinai ― met you to-day for the first time. . . .  You do not seem to recognize me.”

   He spoke in a very low, but penetrating voice. And Sekinai was astonished to find before him the same sinister, handsome face of which he had seen, and swallowed, the apparition in a cup of tea. It was smiling now, as the phantom had smiled;  but the steady gaze of the eyes, above the smiling lips, was at once a challenge and an insult.

   “No, I do not recognize you,”returned Sekinai, angry but cool; ― “and perhaps you will now be good enough to inform me how you obtained admission to this house ?”

   [In feudal times the residence of a lord was strictly guarded at all hours; and no one could enter unannounced, except through some unpardonable negligence on the part of the armed watch.]

   “Ah, you do not recognize me !”exclaimed the visitor, in a tone of irony, drawing a little nearer as he spoke. “No, you do not recognize me! Yet you took upon yourself this morning to do me a deadly injury ! . . .”

   Sekinai instantly seized the tantō1 at his girdle, and made a fierce thrust at the throat of the man. But the blade seemed to touch no substance. Simultaneously and soundlessly the intruder leaped sideward to the chamber-wall, and through it! .  .  .  The wall showed no trace of his exit. He had traversed it only as the light of a candle passes through lantern-paper.

[1The shorter of the two swords varried by samurai, the longer swoed was called katana.]

 

   When Sekinai made report of the incident, his recital astonished and puzzled the retainers.

No stranger had been seen either to enter or to leave the palace at the hour of the occurrence; and no one in the service of the lord Nakagawa had ever heard of the name “Shikibu Heinai.”

 

  On the following night Sekinai was off duty, and remained at home with his parents. At a rather late hour he was informed that some strangers had called at the house, and desired to speak with him for a moment. Taking his sword, he went to the entrance, and there found three armed men, ― apparently retainers, ― waiting in front of the door-step. The three bowed respectfully to Sekinai; and one of them said :―

   “Our names are Matsuoka Bungo, Tsuchibashi Bungō, and Okamura Heiroku.We are retainers of the noble Shikibu Heinai. When our master last night deigned to pay you a visit, you struck him with a sword. He was much hurt, and has been obliged to go to the hot springs, where his wound is now being treated. But on the sixteenth day of the coming month he will return; and he will then fitly repay you for the injury done him. . . ."

   Without waiting to hear more, Sekinai leaped out, sword in hand, and slashed right and left, at the strangers.  But the three men sprang to the wall of the adjoining building, and flitted up the wall like shadows,  and  . . .

 

*     *

 

   Here the old narrative breaks off; the rest of the story existed only in some brain that has been dust for a century.

   I am able to imagine several possible endings; but none of them would satisfy an Occidental imagination.  I prefer to let the reader attempt to decide for himself the probable consequence of swallowing a Soul.

 

   *

 次に、田部(たなべ)隆次氏の訳を電子化する。原本は古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」(昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊)のものでこちらPDF化されたものを視認した。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

    茶碗の中

 

 讀者はどこか古い塔の階段を上つて、眞黑の中をまつたて[やぶちゃん注:「真縦」の意か。]に上つて行つて、さてその眞黑の眞中に、蜘蛛の巢のかかつた處が終りで外には何もないことを見出したことがありませんか。或は絶壁に沿うて切り開いてある海ぞひの道をたどつて行つて、結局一つ曲るとすぐごつごつした斷崖になつて居ることを見出したことはありませんか。かういふ經驗の感情的價値は――文學上から見れば――その時起された感覺の強さと、その感覺の記憶の鮮かさによつてきまる。

 ところで日本の古い話し本に、今云つた事と殆んど同じ感情的經驗を起させる小の斷片が、不思議にも殘つて居る。……多分、作者は不精だつたのであらう、或は出版書肆と喧嘩したのであらう、いや事によれば作者はその小さな机から不意に呼ばれて、かへつて來なかつたのであらう、或は又その文章の丁度眞中で死の神が筆を止めさせたのであらう。とにかく何故この話が結末をつけないで、そのままになつて居るのか、誰にも分らない。……私は一つ代表的なのを選ぶ。

          *

        *

          *

 天和四年一月一日[やぶちゃん注:ママ。原文では天和三年となっていて「新著聞集」の原典クレジットを変えてある。小泉八雲が改変した理由は不詳。或いは、前に注した改元との絡みで、八雲は天和四年はないと誤認したからかも知れぬ。]――卽ち今から二百二十年前――中川佐渡守が年始の廻禮に出かけて、江戸本郷、――白山の茶店に一行とともに立寄つた。一同休んで居る間に、家來の一人――關内と云ふ若黨が餘りに渇きを覺えたので、自分で大きな茶碗に茶を汲んだ。飮まうとする時、不意にその透明な黃色の茶のうちに、自分のでない顏の映つて居るのを認めた。びつくりしてあたりを見廻したが誰もゐない。茶の中に映じた顏は髮恰好から見ると若い侍の顏らしかつた、不思議にはつきりして、中々の好男子で、女の顏のやうにやさしかつた。それからそれが生きて居る人の顏てある證據には眼や唇は動いてゐた。この不思議なものが現れたのに當惑して、關内は茶を捨てて仔細に茶碗を改めて見た。それは何の模樣もない安物の茶碗であつた。關内は別の茶碗を取つてまた茶を汲んだ、[やぶちゃん注:読点はママ。]また顏が映つた。關内は新しい茶を命じて茶碗に入れると、――今度は嘲りの微笑をたたへて――もう一度、不思議な顏が現れた。しかし關内は驚かなかつた。『何者だか知らないが、もうそんなものに迷はされはしない』とつぶやきながら――彼は顏も何も一呑みに茶を飮んで出かけた。自分ではなんだか幽靈を一つ呑み込んだやうな氣もしないでもなかつた。

 

 同じ日の夕方おそく佐渡守の邸内で當番をして居る時、その部屋へ見知らぬ人が、音もさせずに入つて來たので、關内は驚いた。この見知ちぬ人は 立派な身裝[やぶちゃん注:「みなり」。]の侍であつたが、關内の眞正面に坐つて、この若黨は輕く一禮をして、云つた。

『式部平内でござる――今日始めてお會ひ申した……貴殿は某を見覺えならぬやうでござるな』

 甚だ低いが、鋭い聲で云つた。關内は茶碗の中で見て、呑み込んてしまつた氣味の惡い、美しい顏、――例の妖怪を今眼の前に見て驚いた。あの怪異が微笑した通り、この顏も微笑して居る、しかし微笑して居る唇の上の眼の不動の凝視は挑戰であり、同時に又侮辱でもあつた。

『いや見覺え申さぬ』 關内は怒つて、しかし冷やかに答へた、――『それにしても、どうしてこの邸へ御入りになつたかお聞かせを願ひたい』

〔封建時代には、諸侯の屋敷は夜晝ともに嚴重にまもられてゐた、[やぶちゃん注:読点はママ。]それで、警護の武士の方に赦すべがらざる怠慢でもない以上、無案内で入る事はできなかつた〕

『あゝ、某に見覺えなしと仰せられるのですな』その客は皮肉な調子で、少し近よりながら、叫んだ。『いや。某を見覺えがないとは聞えぬ。今朝某に非道な害を御加へになつたではござらぬか……』

 關内は帶の短刀を取つてその男の喉を烈しくついた。しかし少しも手答がない。同時に音もさせずその闖入者は壁の方へ橫に飛んで、そこをぬけて行つた。……壁には退出の何の跡をも殘さなかつた。丁度蠟燭の光が行燈の紙を透るやうにそこを通り過ぎた。

 

 關内がこの事件を報告した時、その話は侍達を驚かし、又當惑させた。その時刻には邸内では入つたものも出たものも見られなかつた、それから佐渡守に仕へて居るもので『式部平内』の名を聞いて居るものもなかつた。

 

 その翌晩、關内は非番であつたので、兩親とともに家にゐた。餘程おそくなつてから、暫時の面談をもとめる來客のある事を、取次がれた。刀を取つて玄關に出た、[やぶちゃん注:読点はママ。]そこには三人の武裝した人々――明かに侍達――が式臺の前に立つてゐた。 三人は恭しく關内に敬禮してから、そのうちの一人が云つた。

『某等は松岡文吾、土橋久藏、岡村平六と申す式部平内殿の侍でござる。主人が昨夜御訪問いたした節、貴殿は刀で主人をお打ちになつた。怪我が重いから疵の養生に湯治に行かねばならぬ。しかし來月十六日にはお歸りになる、その時にはこの恨みを必ず晴らし申す……』

 それ以上聞くまでもなく、關内は刀をとつてとび出し、客を目がけて前後左右に斬りまくつた。しかし三人は隣りの建物の壁の方へとび、影のやうにその上へ飛び去つて、それから……

          *

        *

          *

 ここで古い物語は切れて居る、話のあとは何人かの頭の中に存在してゐたのだが、それは百年このかた塵に歸して居る。

 私は色々それらしい結末を想像することができるが、西洋の讀者の想像に滿足を與へるやうなのは一つもない。魂を飮んだあとの、もつともらしい結果は、自分で考へて見られるままに任せて置く。

              (田部隆次譯)

          
In a Cup of TeaKotto.

 

   *

「野呂松(のろま)狂言」江戸前期の人形浄瑠璃の道化人形の遣い手野呂松勘兵衛(のろまつ かんべえ 生没年不詳)なる人形遣が、頭が平たくて顔の青黒い「のろま人形」なるキャラクターを使って演じて評判になったという滑稽な新作(改作)狂言。寛文から延宝(一六六一年~一六八一年)頃、上方では「そろま」、江戸では「のろま」と呼ばれた道化人形の上演記録が確認されてはいるが、この野呂松勘兵衛も江戸の和泉太夫座や土佐座という人形座に出演していた道化人形遣の一人であろうと推測されている。菊岡沾凉の随筆「近代世事談」(享保一八(一七三三)年刊)では「野郎松勘兵衛」という者を「のろま人形」の創始者としているが、資料的には貞享頃(一六八四年~一六八七年)の人形遣い「のろま治兵衛」によって「のろま人形」が有名になったと言われている(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「水鏡」不詳。ネット検索でも掛かってこない。]

 

 野呂松狂言の主人公は浪人者で、東海道を上る途中、美しい若衆を見かけ、あとを慕つて來るうちに、茶屋の一段が出て來る。それも若衆の飮んだ茶碗をすゝがずに水を一杯くれと所望するので、これなら若衆の顏が茶碗に現れても不思議はない。浪人は祇園の二軒茶屋ではじめて言葉を交し、明日は出立するといふので、夜明けに大津で待ち受けたが、遂に逢ふことが出來ず、五十三次を江戸まで戾つて來た。「新著聞集」と「男色大鑑」とを搗き交ぜた形である。失望の餘り病氣になつたところへ、知り合ひの者がやつて來て、委細の話を聞いた末、その若衆は自分のところに逗留中であると云ふ。これからの滑稽は野呂松狂言には肝要なところであらうが、話の本文には格別の關係はない。ただ最後に若衆が化け猫となり、浪人と立𢌞りをする一段は畫龍點晴といふべきもので、最初の式部平内を鄰家の境で見失ひ、翌晩の三人もその邊で壁に飛び上つて消えるあたり、どうしても妖怪でなければ納まりの付かぬ話である。八雲は「茶碗の中」の書き出しに、塔の階段を上つて行つて、眞黑な中で蜘蛛の巣以外に何もないところが終りになつてゐることや、海沿ひに切り開かれた道が斷崖に盡きることなどを擧げ、日本の古い書物にはそれに似た氣持を起させる斷片があると云ひ、作者は無性であつたか、出版書肆と喧嘩したか、不意に誰かに呼ばれて机を離れたまゝ戾らなかつたか、或は文章の眞中で死の神が筆を止めさせたかであらうと云つてゐる。ぷつりと切れたやうな「新著聞集」の記載に滿足して居らぬことは明かである。八雲に野呂松狂言を見せたにしても、化け猫の結末ではやはり滿足しなかつたかも知れぬ。たゞいさゝか物足らぬ話の筋を補つた一つの空想として、こゝに附け加へるまでである。

[やぶちゃん注:「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ:現代仮名遣)は井原西鶴による浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻・各巻五章・計四十章。詳しくは参照したウィキの「男色大鑑」などを読まれたいが、その「概略」の項には「男色大鑑 本朝若風俗」正式書名で、前半四巻二十章は、『主に武家社会における衆道を取り上げており、総じて非職業的男色の世界』を後半の四巻二十章は『町人社会に属する職業的な歌舞伎若衆を取り上げている』とある。「男色大鑑」では『武家社会と町人社会という二つの社会において、習俗として公認されていた男色が総合的に描かれている。武家社会は戦国の余風として男色をたしなみ、しかも武士道における義理を男色のモラルとし、衆道(若衆道)と称するに至った。歌舞伎界においては、元禄期まで若女方(わかおんながた)・若衆方など、若くて美貌の歌舞伎若衆は、早朝から夕刻までは舞台を勤め、夜は茶屋で客の求めに応じて男色の相手をするのがしきたりであった。なお男色における弟分である「若衆」は』、十八、九歳で『元服して前髪を剃り落とすまでで、それ以後に月代頭さかやきあたま(野郎頭)になってからは兄分である「念者」』(ねんじゃ)『になるのが、武家社会・町人社会を通じての一般的なルールであった』とある。

「無性」「ぶしやう」。無精。]

 

「茶碗の中」に似た話が支那になかつたかどうか、吾々の見た範圍に於ては「酉陽雜俎」中の一話があるに過ぎぬ。江淮に士人の住ひがあり、その子の二十歳餘りになるのが病臥してゐた時、父親が茶を飮まうとして、茶碗の中から泡が盛り上るのを見た。透き通つた泡の上に、一寸ばかりの人が立つて居り、子細に視るとその衣服から容貌に至るまで、病中の子にそつくりである。忽ちその泡が碎けて何も見えなくなり、茶碗ももとの通りであつたが、今までになかつた小さな疵が出來たといふのである。「新著聞集」のやうに錯綜した話ではない。茶碗の泡の中に我が子の幻を認めるといふに過ぎぬけれど、對比すれば若干の共通性を見出し得るやうな氣がする。

[やぶちゃん注:以上は「酉陽雜俎」の「卷十」の「物異」の中の「瓷碗」(じわん)である。

   *

江淮有士人莊居、其子年二十餘、常病魔。其父一日飮茗、甌中忽起如漚、高出甌外、瑩凈若琉璃。中有一人、長一寸、立於漚、高出甌外。細視之、衣服狀貌、乃其子也。食頃、爆破、一無所見、茶碗如舊、但有微璺耳。數日、其子遂著神、譯神言、斷人休咎不差謬。

   *

但し、宵曲はケリのつかない話と見せかけるために、最後の一文を訳していない

「数日後のこと、その病臥(別な伝本では或いは「夜魘(うな)されること」とあるようだ)していた子は、そのまま神霊が憑りついて、神の言葉を語るようになり、人々の吉凶を断ずるに正確で、そのお告げには少しの誤りも違いもなかった。」

と終わっているのである。ずるいぜ、柴田さんよ!

2017/07/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「巖窟の寶」

 

 巖窟の寶

 

 アラビアン・ナイトのアリ・ババは、偶然の機會に盜賊が盜んで來た品物を隱す窟の所在を知り、重い岩の扉を開く呪文をおぼえてしまふ。無形の合鍵を拾つたやうなものである。アリ・ババは盜賊等が立ち去つた後、その呪文を唱へて扉を開き、持てるだけの金貨の袋を駿馬に積んで歸る。彼は忽ちにして驚くべき富豪になつた。前から金持であつた兄のカシムは、弟の幸福を羨み、「開け胡麻」の呪文を教はつて出かけたが、金銀寶石に目がくらんで呪文を忘れたため、どうしても窟から出ることが出來ず、遂に盜賊に殺されるのである。

[やぶちゃん注:「アラビアン・ナイト」のアリ・ババの話は、先行する「診療綺譚」などでさんざん注してきたので、そちらを参照されたい。]

 

 アリ・ババも貧乏で毎日森へ行つて薪を採るのを仕事にしてゐたが、「輟耕錄」の趙生の生活もほぼ同じであつた。アリ・ババは森の中で木を伐りつゝある際、一隊の人馬が來るのを見て木の上に遁れ、盜賊の頭が岩の扉を開くのを目擊するのだが、趙生も木を伐る溪のほとりで眞白な大蛇を見、斧も何も投げ棄てて家に歸る。女房は趙生からその話を聞くと、さういふ白蛇は何か寶物の變化したものかも知れません、と妙な事を云ひ出し、夫をすゝめてその山中まで一緒に出かけて行く。白蛇はまだもとのところに居つたが、夫婦が來たのを見て、そのまゝ上流に遡り、巖穴の中に入つてしまつた。巖穴の中に石があり、それに歳月姓名などが刻んである。九つの穴の中央に金甲があり、あとの八つの穴に無數の金銀があつたのを攫み出し、前の通り蓋をして歸つて來た。

 

 超生の持ち辟つた金銀はどれほどあつたかわからぬが、彼の生活は俄かにゆたかになり、もう薪を探りに行かないで濟むやうになつた。この生活の變化は第一に鄰人の疑ふところとなり、その姉の夫で嘗て役人をしてゐた者に告げられた。趙生は敢て隱さず、白金の五錠を贈つたけれど、役人は慾張つてゐて、そんなことでは承知しない。趙生も仕方なしに大きな家を構へ、九穴の富を散じて盛に賄賂を用ゐたから、甚しく追窮されずに濟んだ。例の金甲は特に派遣された役人に獻じ、珍藏されてゐたところ、或風雨の夕、どこかへ消ええてなくなつた。鍵などもそのまゝで、中身だけなくなつてゐたさうである。趙生には子なく、終に巨室に老ゆとある。

[やぶちゃん注:以上は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕錄」の「卷七」にある以下。は引用元の中文サイトの脱字らしき部分。

   *

黃巢地藏趙生者、宋宗室子也。家苦貧、居閩之深山、業薪以自給。一日、伐木溪滸、所見一巨蛇、章質盡白、昂首吐舌、若將噬己。生棄斧斤奔避、得脱。妻問故、具以言。因竊念曰、「白鼠白蛇、豈寶物變幻邪。」。卽拉夫同往。蛇尚宿留未去、見其夫婦來、囘首逆流而上。尾之、行數百步、則入一岩穴中、就啓之、得石。石陰刻押字與月姓名、乃黃巢手瘞。治爲九穴、中穴置金甲、餘八穴金銀無算。生掊取畸零、仍舊掩蓋。自是家用日饒、不復事薪。鄰家疑其爲盜、告其姊之夫嘗爲吏者。吏詢之嚴、不敢隱、隨饋白金五錠。吏貪求無厭、訟之官、生不獲已。主一巨室、悉以九穴奉巨室、廣行賄賂。有司莫能問、迨帥府特委福州路一官往廉之。巨室私獻金甲、因囘申云。具問本根所以、實不會掘發寶藏。其事遂絶。路官得金甲、珍襲甚、至任滿他適、其妻徙置下。一夕、聞繞榻風雨聲、頃刻而止。頗怪之、夫婦共取視、鑰如故。啓籠、乃無有也。生無子、夫婦終老巨室。嗟夫、天地間物苟非我有、是雖得之亦終失也。巢之亂唐天下、剽掠寶貨、歷三四百年、至于我朝、而爲編氓所得。氓固得之、不能保之、而卒歸於富家。其路官者、得金甲、自以爲子孫百世計、一旦作神物化去。是皆可爲貪婪妄求者勸。

   *]

 

 最初趙生が白蛇を見て逃げ歸つた時、その妻は何によつて寶物の變化したものと斷じ、夫と共に見屆けに行つたか、この點がはつきりわからない。日本にも錢掛松の話をはじめ、錢に對する執念が蛇になる事はあるが、特に白蛇と現じて貧者に幸福を與へる例は見當らぬやうである。他人が俄かに幸福になつたのを羨み、同じ手段で富を得ようとしても、さうは問屋が卸さぬことは、舌切雀、花咲爺その他の童話がこれを示してゐる。アリ・ババや趙生の得たものが天與の福であるならば、易々と他人の手に渡る筈がない。

[やぶちゃん注:「錢掛松」サイト「日本伝承大鑑」(「日本伝承大鑑」制作委員会製作)内の「銭掛松(ぜにかけまつ)」(三重県津市高野尾町(ここ(グーグル・マップ・データ))の伝承)に以下のようにある。文中の「伊勢別街道」は「いせべつかいどう」と読む(但し、江戸時代にはこの街道は「いせみち」「参宮道」「山田道」などと記されてあり、「伊勢別街道」の名が使われるようになったのは明治一〇(一八七七)年以降と思われるという記載がネット上の別な記載にあった)。

    *

 東海道の関の宿から分かれて津で伊勢街道と合流するのが、伊勢別街道である。その旧街道沿いにあるのが銭掛松と呼ばれた松を祀るお堂である。お堂の中にはかつての松の古木が納められており、境内には今でも何代目かの松が植えられている。

 伊勢街道はその名の通り、伊勢神宮参拝のための主要街道である。そして銭掛松もその伊勢参拝にまつわる伝承が元になっている。

 西国に住む男が伊勢参にこの地までやって来た。しかし路銀がわずかであるために、そばの茶店の主人に伊勢神宮まであとどれぐらいか尋ねた。すると主人はまだ半月ほど掛かると答えた。それを聞いてこれ以上の旅は無理と諦めた男は、松の木に銭を掛けて、ここから神宮に遙拝すると帰路についてしまった。

 喜んだのは茶店の主人である。嘘をついてまんまと銭をせしめることが出来たばかりに、男の掛けていった銭の束を盗もうと近寄った。すると突然銭の束は白蛇に変わり、主人の方を睨みつけて威嚇するではないか。肝を冷やした主人は結局銭を盗むことも出来ず、そればかりかそれ以降客足は遠のいてとうとう茶店も潰れてしまったという。

 一方、帰国した男は、実際に伊勢神宮へ行った者からその場所が神宮から目と鼻の先であったことを聞かされ、翌年再び参拝を決意する。そして例の場所へ来てみると、松の木には自分が掛けた銭の束がそのまま残されていた。男はそれを取ると、改めて神宮に納めたのである。その話はいつしか参拝客の噂となり、その松に銭を掛けて道中の安全を祈願する風習が広まったという。

 この伝説にはいくつかのパターンがあり、隠岐に流された小野篁の妻が夫の赦免を祈願して伊勢神宮に参るという話も流布しているが、いずれも伊勢神宮参拝途中で諦めかけた者が銭を松の木に掛け、それを盗もうとした者がその罰を受けるという展開となっている。

   *]

 

 天明三年刊「諸越の吉野」にある「樵夫白蛇を迫つて兜の瑞を見たる事」は明かに「輟耕錄」の話を日本に移したものである。時代は天文年中、場所は吉野の里で、彌五郎といふ樵夫が山奧へ薪を取りに行き、白蛇を見て歸つてから妻に話す事、妻に白蛇は寶の精であると云はれて翌日見に行く事、七つの岩穴の中央に黃金の兜が輝き、左右の穴に金銀が滿ちてゐた事、彌五郎が俄かに有福になつたのを怪しんで庄屋が取り調べる事、すべて原話の通りで、飜案といふほどの働きはない。庄屋が彌五郎に口止めして共に山中に赴き、庄屋は兜を取り、彌五郎夫婦は金銀を持ち歸る。翌日もう一度慾張つて出かけたら、穴は皆崩壞して金銀は跡形もなかつたといふあたり、作者の工夫かと思はれる。作者の素姓はわからぬらしいが、「諸越の吉野」といふ書名は、支那の舞臺を日本の吉野に轉じたこの話から來てゐるのかも知れぬ。原本でもこれを最後に置いてある。

[やぶちゃん注:『天明三年刊「諸越の吉野』「近古奇談諸越の吉野」。「天明三年」は一七八三年。それ以外は不明。私は所持しないので原文を示せない。]

 

 巖窟ではないけれども「稽神錄」にある次の話なども、こゝに擧げて置いた方がいゝかも知れぬ。建安の村人で小舟に乘つて谿中を往來し、薪を採つて生活してゐる者があつた。或時舟を繫いで岸に登り、例の如く薪を取つてゐると、山の上に銀が何故か落ちてゐるのが目に入つた。少し登るに從ひ數十枚拾ひ得たので、更に注意したところ、山腹の大樹の下に高さ五六尺の大甕があり、その中に錢が一杯入つて居つた。甕が少し傾いた爲に、銀がこぼれ落ちたものらしい。そこで石を持つて來て甕を支へるやうにし、さし當り五百枚ほど懷ろに入れて歸つたが、今度は家人を全部引き連れて出かけた、[やぶちゃん注:読点はママ。]然るに見おぼえのある大樹の下に、肝腎の甕が見當らぬ。村人落膽してその邊を排徊すること數日に及び、容易にあきらめられなかつた。夢に何人か現れて、あの錢には持ち主がある、甕が傾きかけたので、お前に五百枚だけ與へたのだ、あまり慾張らぬがいゝ、と諭された。

[やぶちゃん注:以上は「稽神錄」の「第五卷」にある以下。

   *

建安有村人、乘小舟、往來建溪中、賣薪爲業。嘗泊舟登岸、將伐薪、忽見山上有數百錢流下、稍上尋之、累獲數十、未及山半、有大樹下一甕、高五六尺、錢滿其中、而甕小欹、故錢流出。於是推而正之、以石支之、納衣襟得五百而歸。盡率其家人復往盡取、既至、得舊路、見大樹、而亡其甕。村人徘徊數日不能去、夜夢人告之曰、「此錢有主、向爲甕欹、以五百僱而正之、不可再得也。

   *]

 

 建安の村人は五百枚の銀で滿足しなければならなかつたわけであるが、これは畢竟それだけしか福分がなかつたものであらう。同じ「稽神錄」にある話で、徐仲寶の家の南に大きな枯木があり、その下を掃く下男が砂の中から錢を百餘枚見付け出した。その話を聞いた仲寶も自分で搜しに行つて、數百枚を拾ひ得た。更に飽きずに掃除をしてゐたら、數年間に積り積つて數十萬に達したといふから大したものである。仲寶はよほど福分に惠まれた人と見えて、後に揚都に移り住んでからも、地中より一道の白氣が立ちのぼり、それが強い勢ひで斜に飛び去らうとするのを見た。白氣の中に何者かゐるやうなので、その妻が手で攫(つか)んで見たら、玉で作つた珠で驚くべき精妙な細工物であつた。仲寶の福分はそれでもまだ盡きず、後に樂平の令となつた時は、廚(くりや)の側の鼠穴を掘り下げたところ、數尺の下から一羽の白雀が飛び出した。白雀は庭の木にとまつたので、その下を掘つて百萬錢を得た。かうなると彼の赴くところ、必ず福が隨ふわけで、正に掘れども盡きざる概がある。白雀が錢の精とすれば、最初の鼠穴から錢が出さうなものであつたが、庭の木にとまつて錢の所在を知らせたのは曲折があると云はなければならぬ。尤も彼の掘り當てたのは常に錢ばかりで、玉の燥の外に寶らしいものはないけれど、それも福分の限界とすれば致し方はあるまい。青錢と雖も數十萬、百萬に達したら、それで世上の寶を購ふに足るであらう。あまり慾張るものではない。

[やぶちゃん注:「白雀」文字通り真っ白な雀。特定の種を指すものではないようである。

「概」「おもむき」。

 以上もやはり「稽神錄」の同じ「第五卷」にある以下。

   *

徐仲寶者、長沙人、所居道南、有大枯樹、合數大抱。有僕夫、灑掃其下、沙中獲錢百餘、以告仲寶。仲寶自往、亦獲數百。自爾、每需錢卽往掃其下、必有所得、如是積年、凡得數十萬。仲寶後至揚都、選授舒城令。暇日與家人共坐、地中忽有白氣甚勁烈、斜飛向外而去、中若有物。其妻以手攫之、得一玉蛺蝶、製作精妙、人莫能測。後爲樂平令、家人復於廁廚鼠穴中得錢甚多。仲寶卽率人掘之、深數尺、有一白雀飛出、止於庭樹。其下獲錢至百萬錢、盡、白雀乃去、不知所之。

   *]

 

 スペインのグラナダで水汲みを業としてゐる男が、病氣のムーア人を世話してやつたところ、愈々この世を去るに臨んで、小さな白檀(びやくだん)の箱をくれた。箱の中にはアラビア文字の卷物と短い蠟燭の燃えさしが入つてゐるだけで、如何なるものともわからなかつたが、或アラビア人に讀んで貰ふと、この蠟燭を焚いてこの祈禱の文句を讀む時は、如何なる鐡の蓋でも自然に開くのだといふ。水汲み男はそのアラビア人を誘つてアルハムブラ宮殿の地下室に乘り込み、石の扉を開いて多くの金貨と寶石とを手に入れた。事は一切祕密に行はれ、女房にも他人に話してはならぬと固く戒めて置いたが、女房が急に身分不相應な贅澤をはじめた事から、裁判官に呼び出され、自白せざるを得ないことになつた。慾の皮の突張つた裁判官は警察官と相談して、水汲み男とアラビア人との案内の下にアルハムブラの古宮殿に向ふ。水汲み男が俄かに富を得たことを密告して、彼を不幸に陷れた理髮師も隨行した。先夜の通り蠟燭と祈禱の魔力で、重い石の扉は一種の音響を立てて撥ね返つた。經驗のある二人は平氣で地下に入つたけれど、裁判官等にはその勇氣が出ない。倂し二人が金貨と寶石の壺を擔いで戾り、まだ大きな金櫃に寶石が一杯入つてゐると聞いて、急に勇氣を振ひ起し、もう一度地下へ行くのは御免だと云ひ張る二人を殘して、恐る恐る三人だけで七層の石階を下りて行つた。これを見すましたアラビア人は直ちに魔法の蠟燭を吹き消す。石の扉は例の音響と共に閉され、裁判官以下の三人はそのまゝ地下に封じ込められてしまふのである。アラビア人は蠟燭の燃え殘りを谿に投げ棄て、寶石や金貨を山分けにした上、アラビア人はアフリカのテチユアンに、水汲み男はポルトガルのカリレシアに歸ることにした。

[やぶちゃん注:「テチユアン」モロッコ北部にある町テトゥアン(ベルベル語;Tiṭṭawin/英語:TetouanTittawin)。(グーグル・マップ・データ)。私は十八年ほど前に行ったはずなのだが、暑さにやられてあまり覚えていない。ウィキの「テトゥアンによれば、紀元前三世紀には町があったと考えられており、『ローマ人やフェニキア人のつかった品々がタムダの遺跡から出土している。ベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、ローマに征服され』、『属州マウレタニア・ティンギタナの一部となった』。モロッコに十二世紀末から十五世紀末にかけて存在していたイスラーム国家『マリーン朝の王が現在のテトゥアンの町を築いたのは』一三〇五年頃のことで、一四〇〇年頃には『カスティーリャ王国により海賊行為への反撃として破壊された』。十五世紀末には、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動であるレコンキスタ(特に一四九二年のグラナダ陥落)によって『イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンを再建した。彼らはまず城壁を築き、その内部を家々で埋めた。スペインではテトゥアンは海賊(バルバリア海賊)で悪名高』い。ここには十三世紀のイスラムのアルアマール王によって建設されたアルハンブラ宮殿が出るので、それ以降の話となる。

「カリレシア」不詳。古代ローマの属州ガラエキア(英語:Gallaecia:現在のスペイン西部とポルトガル北部の地域)のあったポルトガルの旧地名か? そこだとすれば、現在のポルトガル北西部の都市ブラガ(Braga)附近である。]

 

 この話は「魔宮殿見物記」(吉田博)といふ書物に出てゐる。書中の傳説は多くワシントン・アービングの「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」に據つたとあるから、多分その中の一篇であらう。嘗て田部隆次氏がラヂオでこの話をされたのを聽いたおぼえもある。

[やぶちゃん注:「魔宮殿見物記」明治四三(一九一〇)年博文館刊。著者吉田博(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の同書のから視認出来る(コマ112から136まで)。

「ワシントン・アービング」ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~一八五九年)はアメリカ合衆国の作家で、「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」(Tales of the Alhambra)は彼の一八三二年刊の小説集。

「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれ。東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後に彼(小泉八雲)の研究と翻訳で知られる。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈して「ヘルン文庫」を作った。私も彼の小泉八雲の作品の訳文を幾つか電子化している。]

 

 アルハムブラ古宮殿の話には多分にアリ・ババの匂ひがする。魔法の蠟燭と祈禱によつて扉の開くところ、俄かに得た富によつて人の疑惑を招くところ、他の幸福を羨んだ者が封じ込められるところ、皆アリ・ババの後塵を拜するものである。慾張りの役人が登場するあたりは、「輟耕錄」の趙生とも共通するが、これは寧ろ偶然の一致かも知れぬ。

2017/06/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「樽と甕」

 

 樽と甕

 

 唐の汝陽王は酒が好きで、一日中飮んでも醉拂ふなどといふことがなく、客があればその人を相手に幾日でも飮み續ける。或時葉靜龍といふ術士が來たので、例によつて酒を飮ませようとすると、葉はこれを辭退して、私は酒はいたゞきませんが、弟子に酒量測るべからずといふのがございます、見かけは小さな男ですが、酒ではひけを取りません、明日この男を伺はせることに致しませう、と云つた。翌日道士持滿と稱する男がやつて來たので、直ちに引見したところ、成程葉の云つた通り、極めて矮小な男である。倂し座に就いて話しはじめると、三皇五帝以來、歷代の治亂興亡の迹を説くのに、種々の書物を引用すること、あだかも掌を指すが如くであつた。王は啞然として口を拜むことが出來ない。持滿はやがて話頭を轉じ、通俗的な方面に持つて行つたから、王もホツとした樣子で、見受けるところ、師は酒を好みさうだがどうか、と問うた。いくらでも頂戴致します、といふ答へを得て、左右に命じて酒を注がせる。盃が幾度か巡つたが、持滿はもどかしさうな樣子で、かやうな小さなものでは酒を飮む中に入りませぬ、もつと大きなものに入れて、好きなだけ飮むやうにしていたゞきたい、十分頂戴致しましたら、それでやめることに致します、と云ひ出した。王は承知して數石を容れる大きな器(うつは)に、なみなみと酒を湛へ、大きな盃で酌むことにした。さうして飮み續けるほどに、王は少し醉ひを發して來たが、持滿は全然亂れず、端坐したまゝである。この狀態はやゝ暫く續いた。今度は持滿の方が、私はこの一杯でやめます、もう醉ひました、と云つた。師の量を見るのに、このくらゐではまだ足らぬだらう、と云つて更にすゝめても、持滿は頭を振つて、あなたは度量に限りあることを御存じありませぬか、と云ひ、その一杯を盡したかと思ふと、その場に倒れてしまつた。よくよく見たら彼は人間ではない、大きな酒樽であつた。樽は五斗入りであつたから、正に定量に達したものであらう。

[やぶちゃん注:「五斗」唐代の原典であるから、当時の「斛」(こく=石)は十升ながら、一升が現行の半分である約〇・六リットルしかなったので、約三十リットルとなり、現在の一升瓶では十六本と半分ほどとなる。

 以上は「河東記」の「葉靜能」。

   *

唐汝陽王好飮、終日不亂。客有至者、莫不留連旦夕。時術士葉靜能常過焉、王強之酒、不可、曰、「某有一生徒、酒量可爲王飮客矣。然雖侏儒、亦有過人者。明日使謁王、王試與之言也。」。明旦、有投刺曰、「道士常持蒲。」。王引入、長二尺。既坐、談胚渾至道、次三皇五帝、歷代興亡、天時人事、經傳子史、歷歷如指諸掌焉。王呿口不能對。既而以王意未洽、更咨話淺近諧戲之事、王則歡然。謂曰、「觀師風度、亦常飮酒乎。」。持蒲曰、「唯所命耳。」王即令左右行酒。已數巡、持蒲曰、「此不足爲飮也、請移大器中、與王自挹而飮之、量止則已、不亦樂乎。」。王又如其言。命醇酹數石、置大斛中、以巨觥取而飮之。王飮中醺然、而持蒲固不擾、風韻轉高。良久、忽謂王曰。「某止此一杯、醉矣。」王曰。「觀師量殊未可足、請更進之。」。持蒲曰。「王不知度量有限乎。何必見強。」乃復盡一杯、忽倒、視之則一大酒榼、受五斗焉。

   *

「太平廣記」でも「持滿」ではなく「持蒲」であるが、グーグル・ブックスのある中文書では「持滿」で出るから、或いはそうした伝本があるのであろうし、比喩名とすれば確かに「滿」の方が問題ない。]

 

 この「河東記」の話に似たのが「瀟湘錄」に出てゐる。妻修なる者は井州の酒家で、常に酒浸りになつて居り、少し醒めた時に喜んで人を相手に飮むといふ風であつた。井州の人達は彼の大酒に恐れをなし、多くは敬遠して近付かなかつたから、修の交友は極めて少かつた。然るに或日突然黑衣の客がたづねて來て、酒を飮ませて貰ひたいと云ふ。修が出て見ると、身の丈(たけ)は三尺ばかりしかないが、腰の幅は頗る廣い。二人は早速席を設けて飮みはじめた。客は愉快さうに笑つて、私は平生酒が好きなのですが、殘念ながら腹一杯飮んだといふことがありません、もし腹一杯飮めたらどんなに嬉しからうと思ふのです、幸びあなたにお目にかゝりましたから、久しい私の望みを叶へていたゞけるでせう、と云つてゐる。修の方でも、あなたは眞に我が黨の士だ、といふやうな相槌を打つうちに、遂に三石近くの酒を平らげてしまつたが、客は少しも醉はない。これには修も驚くと同時に、たゞの人ではあるまいといふ畏敬の念を生じて來た。容(かたち)を改めて客を拜し、その郷里や姓氏を問ふと、我が姓は成、名は德器と答へたが、郷里に至つては甚だ明瞭でない。更にどうしてそんなに多く飮み得るかを尋ねたら、自分は已に老いてしまつた、腹を滿たし得る量は五石であらう、腹を滿たせば初めて安んずることが出來る、と云つた。修はこの言葉を聞いて、また酒をすゝめた。途に五石に達するに及び、客は俄かに醉態をあらはし、狂歌狂舞とゞまるところを知らず、遂に地に倒れてしまつた。修は家の者に命じ、醉客を室内に連れて行かせたが、室内に至ると共に客は躍然として外へ飛び出した。心許ないので後を逐はせると、何か石にでもぶつかつたやうな音がして、客の姿はそれきり見えなくなつた。夜では搜しやうがない。明方になつて行つて見たら、多年使用した酒甕がこはれてゐるだけであつた。

[やぶちゃん注:「瀟湘錄」唐の李隱撰の伝奇小説集。

「井州」は「幷州」の誤りと思われる(以下の原文参照)。

 以上は「瀟湘錄」の「薑修」(きょうしゅう」現代仮名遣)。

   *

薑修者、幷州酒家也、性不拘檢、嗜酒、少有醒時、常喜與人對飮。幷州人皆懼其淫於酒、或揖命、多避之、故修罕有交友。忽有一客、皂衣烏帽、身才三尺、腰闊數圍、造修求酒、修飮之甚喜、乃與促席酌、客笑而言曰、「我平生好酒、然每恨腹酒不常滿。若腹滿、則既安且樂、若其不滿、我則甚無謂矣。君能容我久托跡乎。我嘗慕君高義、幸吾人有以待之。」。修曰、「子能與我同好、真吾徒也、當無間耳。」。遂相與席地飮酒、客飮近三石、不醉、修甚訝之、又且意其異人、起拜之、以問其郷閭姓氏焉、復問何道能多飮邪、客曰、「吾姓成、名德器、其先多止郊野、偶造化之垂恩、使我效用於時耳。我今既老、復自得道、能飮酒、若滿腹、可五石也、滿則稍安。」。修聞此語、復命酒飮之、俄至五石、客方酣醉、狂歌狂舞、自歎曰、「樂哉樂哉。」。遂仆於地。修認極醉、令家僮扶於室、至室客忽躍起、驚走而出、家人遂因逐之、見客誤抵一石、割然有聲、尋不見、至曉睹之、乃一多年酒甕、已破矣。

   *]

 

 二つの話は同工異曲、大同小異である。樽にしろ甕にしろ、酒を容れる分量に限りがあるから、定量に至れば倒れてしまふのであらう。持滿といひ、成德器といふ名前を見てもわかるやうに、どこか一點の理が潛んでゐて、神韻標瀞たるところは寧ろ乏しい。共に矮小な男であるといふのも、最後に樽や甕の正體をあらはす伏線と思はれる。倂し得體の知れぬ男がやつて來て、えらさうな事を云ひながら、いくらでも酒を飮むあたりはちよつと面白い。支那人でなければ思ひ付きさうもない話である。

 

2017/06/27

柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」

 

 不思議な車

 

 崔彦章といふ人が客を送つて城東に宴を張つた時、どこからともなく小さな金色の車が現れた。高さ一尺餘り、席を一巡する樣子が何か求むるところあるものの如くであつたが、彦章の前まで來ると、ぴたりと止つて動かなくなつた。彦章の眼には何が見えたものか、その場に倒れ、輿に乘せられて饒州に歸つた。幾何もなく彼の訃が傳へられた。

[やぶちゃん注:「崔彦章」「さいびんしょう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「饒州」(じょうしゅう)は現在の江西省上饒市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 十朋といふ僧が弟子を連れて澄心僧院に宿ると、初夜(午後八時)の窓外が急に明るくなつた。一團の火の燃える中に金の車があつて、火と一緒にごろごろと音を立てて行く。十朋は初め頗る懼れて主人に話したが、主人は存外平氣で、これを見るのはもう何年にもなります、每晩必ず僧堂の西北隅の地中から出て、堂の周圍を幾度か𢌞つて、またもとのところへ消えてしまひます、別にこのために何事も起りませんから、土を掘り返して見る者もないのです、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「十朋」「じっぽう」(現代仮名遣)と読んでおく。]

 

 この二つの話は共に「稽神錄」に出てゐる。金色の車乃至金の車といふ點は似てゐるやうだが、崔彦章の場合は明かに凶兆であるし、十朋の方は每晩出ても遂に何事もないといふのだから、性質は全然違ふのであらう。ちょつと讀むと、火を伴ふ車の方が物騷に感ぜられるに拘らず、その方は無事で、何事もなささうな小車が凶を載せて來たものと見える。尤も彦章に關する記事は極めて簡單だから、こゝに記す以外の事は少しもわからない。

[やぶちゃん注:最初の話は「稽神錄」の「第四卷」の「崔彦章」。

   *

饒州刺史崔彦章、送客於城東、方燕、忽有一小車、其色如金、高尺餘、巡席而行、若有求覓、至彦章遂止不行。彦章無因卽絶倒、攜輿歸州而卒。

   *

後者は同じ「第四卷」の少し前にある「僧十朋」。

   *

劉建封寇豫章、僧十朋與其徒奔分寧、宿澄心僧院。初夜見窗外有光、視之見團火高廣數尺、中有金車子、與火俱行、嘔軋有聲。十朋始懼、其主人云、「見之數年矣。每夜必出於西堂西北隅地中、繞堂數周、復沒於此。以其不爲禍福、故無掘視之者。」。

   *]

 

 日本の話にはかういふ不思議な車は見當らぬが、「諸國里人談」は片輪車の話を載せてゐる。寛文年間、近江國甲賀郡に片輪車といふものがあつた。夜更けに車のきしる音がして通るだけで、どこからどこへ行くのかわからぬ。たまたまこれに逢ふ人は、氣絶して前後不覺に陷るので、夜更けては往來の人がなくなる。町中の家も戸を締めて、しんとしづまり返るのである。もしこれを嘲つたりすると、外より罵り、重ねてかやうな事があれば崇りをするといふので、皆恐れて聲も立てなかつた。或家の女房がこの事の正體を見屆けたくなつて、車のきしる音が聞える時、戸の節穴からそつと覗いて見た。曳く人もない片輪車に、美女がたゞ一人乘つてゐたが、その家の前に車をとゞめ、我れを見るよりも我が子を見よ、と云つた。驚いて閨(ねや)に戾つて見れば、二歳になる子の姿が見えぬ。悲歎に暮れても詮方なく、翌晩は「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」といふ一首の歌をしたゝめて、戸に貼り出して置いた。片輪車はその夜も同じやうに來て、闇の中でこの歌を高らかに讀んでゐたが、やさしの者かな、さらば子は返すぞ、我れ一たび人に姿を見られては、この地に居りがたい、と云ひ、それきり片輪車の音は聞えなくなつた。「諸國里人談」には何も書いてないが、子供はいつの間にか母の手に還つてゐたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「寛文年間」一六六一年から一六七二年。

 以上は「諸國里人談」の「卷之二」の掉尾にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読点と読み(歴史的仮名遣)及び記号や改行をオリジナルに附した。

   *

 近江國甲賀郡に、寛文のころ、片輪車といふもの、深更に車の碾音(ひきおと)して行くあり。いづれよりいづれへ行(ゆく)を知らず。適(たま)にこれに逢ふ人は、則(すなはち)、絶入して前後を覺えず。故に夜更ては、往來、人なし。市町も門戸を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(てうらう)などすれば、外(そと)より、

「これを詈(ののし)りかさねて左(さ)あらば崇(たたり)あるべし。」

などゝいふに、怖恐(おそれ)て一向に聲も立(たて)ずしてけり。

 或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戸のふしどより覗見(のぞきみ)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて車をとゞめ、

「我(われ)見るよりも汝が子を見よ。」

と云(いふ)におどろき、閨(ねや)に入(いり)て見れば、二歳ばかりの子、いづかたへ行(ゆき)たるか見えず。歎悲(なげきかな)しめども爲方(せんかた)なし。

 明けの夜、一首を書(かき)て戸に張りて置けり。

    罪科(つみとが)は

     我にこそあれ

        小車(おぐるま)の

      やるかたわかぬ

         子をばかくしそ

その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、

「やさしの者かな、さらば子を歸すなり。我、人に見えては所にありがたし。」

といひけるが、其後、來らずとなり。

   *

なお、この妖怪「片輪車」に就いては、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」の本文及び注も参照されたい。そこでは覗いた女の子供は共時的に引き裂かれて殺されている。]

 

 これは日本の近世の怪談としては、型の變つた物凄い話である。片輪車なればこそ、特にきしる音が耳につくのであらうが、深夜に美女一人、曳く人なしに行くことも、眞暗な中にその姿が見えることも、すべて普通の幽靈などと違つた凄みがある。歌を書いて罪を謝し、その歌に感じて子供を還すあたり、江戸時代よりもつと古い書物にありさうな氣がする。「譚海」にはこの話が信州某村の話として出てゐるが、二つの國に同じ話が傳へられたか、一方の話が後に移動したか、這間の消息は吾々にはわからない。

[やぶちゃん注:「譚海」のそれは「卷の七」の「信州某村かたわ車の神の事」。底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。読みは総て私のオリジナル推定で歴史的仮名遣で附した。因みに、海」電子化ってい(作業中で未だ「卷之二」)。

   *

○信州某村に片輪車と申(まうす)神まします。此神御出の日は一村門戸をとぢ、往來をとゞめて堅く見る事を禁ずれば、昔よりいかなる事とも物がたりするものなし。ある年御出の日その村の一人の女、ゆかしき事におもひて、ひそかに戸に穴をうがちうかゞひしに、遙なる所より車のきしる音きこへて、やうやうその門を過(すぐ)るほどなれば、此女穴よりうかゞひみしに、誠に車の輪ひとつにて、誰(たれ)挽(ひく)人もなきにめぐりて過る。そのうへにうつくしき女房一人乘(のり)たるやうにて有(あり)、車の過るまで見て此女閏へ歸りたれば、先までありしいとけなきむすめの、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにやみえず。しばしははひかくれしにやと、おぼつかなくまどひしが、所々さがしても見へず。さてはうせぬるにや、此神のあるきをみぬ事にいましめたるを、もどきて[やぶちゃん注:ママ。不詳。「のぞきて」の誤字か?]うかゞひしゆゑ、神のとり給ひし成(なる)べしといひ合(あひ)て、歎(なげく)事限(かぎり)なし。一二日(ひとふたひ)過(すぎ)けれど行方(ゆくゑ)しれねば、此女おもひわびて、その社(やしろ)にもふでて、あやまちをくひなげきて、扨(さて)一首の歌をよみける、「罪科は我にこそあれ小車のやるかたもなき子をなかくしそ」といひて、なくなくありて歸りなんとするときに、むすめの聲すればふりかへりて見るに、社頭に此むすめありしままにて泣居(なきゐ)たれば、いとうれしくかきいだきて歸り來りけるとぞ。和歌には神もなごみ給ふ事、かしこしといへり。

   *]

 

 火の車といふものは、日本では地獄の連想がある。「今昔物語」に放逸無慚の人が末期(まつご)に及んで火の車を見、地獄に墮ちること必定であると悔い悲しんだが、僧に勸められて一心に南無阿彌陀佛を唱へる。僧が火の車はまだ見えるかと尋ねたら、火の車はもう消えました、金色の大きな蓮の花が一つ目の前に見えます、と答へた。この火の車と金色の蓮華は「六の宮の姫君」(芥川龍之介)の中に用ゐられてゐる。六の宮の姫君の事は「今昔物語」にあるけれども、火の車も蓮華もそれには見えぬ。緣もゆかりもない人の話を應用したのである。

[やぶちゃん注:「六の宮の姫君」(大正一一(一九二二)年八月発行の雑誌『表現』に発表)は私の特に偏愛する一篇で、私は私の古い電子テクスト芥川龍之介「六の宮の姫君」で、その本文だけでなく、芥川が素材とした「今昔物語集」中の三つの話の本文「卷第十九 六宮姫君夫出家語第五」(六宮(ろくのみや)の姫君の夫(おうと)、出家する語(こと)第五)」(これがメイン・ストーリー)、「卷第十五 造惡業人最後唱念佛往生語第卌七(惡業(あくごう)を造る人、最後に念佛を唱へて往生する語第卌七)」(悲劇に変質させた形で姫君の末期に使用される)、「卷第二十六 東下者宿人家値産語第十九(東(あづま)に下る者、人の家に宿りて産(さん)に値(あ)ふ語第十九」(作中の男の話の中に現れる不吉な挿話)の原文を末尾に総て電子化してあるので参照されたい。]

 

 平淸盛の病中、北の方の夢に見えた火の車は、牛頭馬頭(ごづめづ)が前後に立ち、車の前に「無」の一字が現れてゐた。おびたゞしい火の燃える車であつたので、北の方が夢の中で何處より何處へと尋ねると、入道殿の惡行超過し給ふにより、閻魔王宮より御迎への車である、無間(むげん)地獄に沈める筈で、「間」の字はまだ書かれぬのぢや、と答へた。「夢に見てさへよいとや申す」といふことがあるが、火の車などは夢に見ただけでもよくない。

[やぶちゃん注:以上は「平家物語」の「卷第六」の「入道逝去」の一節。講談社文庫版を参考に、漢字を正字化して示す。

   *

 又、入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ける事こそ恐ろしけれ。猛火(みやうくわ)の夥しく燃えたる車の、主(ぬし)もなきを、門の内へ遣り入れたるを見れば、車の前後に立つたる者は、或いは牛の面(おもて)の樣(やう)なるものもあり、或は馬(むま)の樣なる者もあり。車の前には、「無」といふ文字許り顯はれたる、鐵(くろがね)の札(ふだ)をぞ打つたりける。二位殿、夢の内に、

「これは何(いづ)くより何地(いづち)へ。」

と問ひ給へば、

「平家太政(だいじやうの)入道殿の惡行(あくぎやう)超過(てうくわ)し給へるに依つて、閻魔王宮(えんまわうぐう)よりの御迎(おんむか)ひの御車なり。」

と申す。

「さて。あの札は如何に。」

と問ひ給へば、

「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅(こんどう)十六丈の盧遮那佛(るしやなぶつ)、燒き亡ぼし給へる罪に依つて、無間(むげん)の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳(ちやう)に御沙汰(おんさた)ありしが、『無間』の『無』を書かれたれども、未だ『間』の字をば書かれぬなり。」

とぞ申しける。二位殿、夢覺めて後(のち)、汗水(あせみづ)になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人、皆、身の毛よだちけり。靈佛靈社へ金銀(こんごん)七寶(しつぱう)を投げ、馬鞍(むまくら)・鎧甲(よろひかぶと)・弓箭(ゆみや)・太刀(たち)・刀(かたな)に至るまで、取り出(い)で、運び出(いだ)して、祈り申されけれども、叶(かな)ふべしとも見え給はず。只、男女(なんによ)の君達(きんだち)、跡・枕にさしつどひて、歎き悲しみ給ひけり。

   *

因みに、「無間」の「間」が書かれていないという不全性は恐らく、この時点では未だ清盛には救いようがあることを意味するように私には読める。]

 

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