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カテゴリー「柴田宵曲」の183件の記事

2017/11/20

柴田宵曲 俳諧博物誌 (4) 鳶 三 / 鳶~了

 

       

 

 「狐は穴あり、空の鳥は塒(ねぐら)あり、然(さ)れど人の子は枕する所なし」という。地球の上に産み付けられた鳶は、大空を我物顔に飛び廻るようであっても、結局土を離れることは出来ないので、

 

 雲に鳶五重の塔や蓮(はす)の花 許六

 鳶の舞梢は暑し坂ひとつ     枳邑(きいう)

 川越の鳶と舞たり秋の水     仙化

 鳶の眼もわたらぬ松のしみづかな 成美

 晝の間は鳶の留守にや高灯籠   左江

 引上て鳶に曇るや高灯籠     龍山(りゆうざん)

 

というような句を見ると、鳶の姿は空中にあるにかかわらず、大分地上の影が濃くなって来る。高灯籠などが顔を出すに及んで、殊にその感が強い。

 

 鳶の羽も刷(カイツクロヒ)ぬはつしぐれ 去來

 うしろ風鳶の身振ひ猶寒し        玄虎

 凩(こがらし)や鳶のすがたもふところ手 蜃水

 

等の句は、いずれも何かにとまった場合であろう。去来の「鳶の羽」は、今までのどの句にもないような高い響を持っている。「かいつくろひぬ」という引締った言葉も、この場合頗る通切である。場所も背景も描かず、ただ鳶だけを点出して、一句を斯(かく)の如く力あるものにしたのは、去来の気稟(きひん)の自(おのずか)ら然(しか)らしむる所でなければならぬ。「ふところ手」というのは、翼を収めている形を、懐手をしていると見立てたので、それが冬の季節を現すことにもなるのであろうが、あまり面白い観察ではない。もし「も」の一字が「人も懐手をしている」という意味を裏面に寓しているとしたら、いよいよ面白くないわけである。

[やぶちゃん注:去来の句は底本「刷ぬ」の「刷」に「かいつくろい」とルビし、本文も「かいつくろいぬ」とするが、歴史的仮名遣を平然と無視していて、宵曲の僻事(ひがごと)ではないが、『いよいよ面白くな』く、「てにをは」を命(いのち)とする俳諧の風上にも置けぬ、鳶も呆れて糞ひって飛び去ってしまうような低レベルのトンデモ仕儀である。これは一見、柴田宵曲のやったことのように見えてしまうが、そうではない。恐らくは編者小出昌洋氏が岩波編集部の方針――文庫化する当該文章『原文』全体『が文語文であるとき』に場合に限って『旧仮名づかいのままとする』であるが(尤も、本篇は引用以外の全体は口語文であるからこの条件に当て嵌まらないことに注意!)、しかし『振り仮名』については、『読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す』という融通の全く利かないトンデモ規則(二重鍵括弧が岩波文庫編集部による巻末にある編集付記の表記についての現行の編集方針内容)に従って許諾した(せざるを得なかった)仕儀と思われる。しかしこうした変更は、文学を編集する者の当然の『気稟』として、基本的に厭なもの・嫌悪すべきもの・おぞましく感じること・恥ずべき行為であると私は思っている。特に短詩文学である俳諧世界では絶対の禁足として指弾されるべきものであると断ずる。さればこそ、「猿蓑」原文によって(カタカナ・ルビは「猿蓑」のママ)句を訂し、本文のそれは、それをひらがな表記に直したもので特異的に訂した。因みに、堀切実編注の岩波文庫「蕉門名句選(下)」(一九八九年刊)の本句(無論、そこでは「刷」には『カイツクロヒ』とルビする)のこの語の注に、『「かき繕ひ」の音便形。乱れた筋目など整えなおすの意。また』、『身づくろいする意にも。本来は他動詞的用法のものであるが、ここは雨に濡れてかいつくろわれた、という意で、自動詞的に用いられている』とある。

「気稟」生まれつき持っている気質。]

 

 うろうろと何を燒野の鳶からす 母風(ぼふう)

 冬枯や物にまぎるゝ鳶の色   吏明(りめい)

 霜かれて鳶の居る野の朝曇   曉台

 

 これらは先ず地上にあるものと解せられる。

 

 しぐるゝや鳶のをりたる捨桴(すていかだ)

                智邑

 

の如く、その場合ははっきりしておらぬが、地に近づいた場合でないと、こうした感じは受取りにくい。「物にまぎるゝ鳶の色」の一語に、蕭条たる冬枯の色と鳶の羽の色とを併せて描き去ったのは、巧(たくみ)な叙法というべきであろう。

 俳人は下界の鳶を観察してその巣に及んだ。鳥の巣は春の季になっている。もし鳶そのものに季を求めるとすれば、春季の鳶の巣か、鳶の子を持出すより外に仕方があるまい。岡本綺堂氏の書いたものによると、鳶はわが巣を人に見せぬという俗説があるそうである。鳶の巣は如何なるものか知らぬが、いずれ高い木の上に巣くうのであろうから、容易に人に見つからぬものと思われる。

[やぶちゃん注:「岡本綺堂氏の書いたものによると、鳶はわが巣を人に見せぬという俗説があるそうである」先に出た岡本綺堂の随筆「鳶」(昭和一一(一九三六)年五月発行『政界往来』初出。後に単行本「思ひ出草」「綺堂むかし語り」に収録。後者が「青空文庫」で電子化されており、こちらで読める)の一節。ここでは死の二年前に出た随筆集「思ひ出草」(昭和一二(一九三七)年相模書房刊)から引く国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 私はこのごろ目黒に住んでゐるが、こゝらにはまだ鳶が棲んでゐて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞つてゐる。雨のふる日でもトロトロと鳴いてゐる。私は舊友に逢つたやうな懷かしい心持で、その鳶が輪を作つて飛ぶ影をみあげてゐる。鳶はわが巢を人に見せないといふ俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで來る鳶は近所の西鄕山に巢を作つてゐるらしい。その西郷山もおひおひに拓かれて分讓地となりつゝあるから、やがてはこゝらにも鳶の棲家を失ふことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追ひ遣らるゝの外はあるまい。

   *]

 

 鳶の巢と里の木のぼり霞みけり   冥々

 五月雨は鳶のうき巢を懸てけり   春澄(しゆんちよう)

 鳶の巢としれて梢に鳶の聲     北枝

 鳶の巢にひるまぬ藤や木の間より  桃鄰

 

 このうち鳶の巣を季としているのは、北枝の一句だけである。梢に鳶の声がするのを開いて、この木には鳶の巣のあることがわかる、という意味であろう。強いて理窟をいうならば、梢に鳶が鳴いているからといって、必ずしもその木に巣があるとは断定出来ないかも知れぬ。作者もそこを慮(おもんぱか)ったものか、一本には「鳶の巢としれず梢は鳶の聲」となっている。この方だと、梢に鳶の声がするけれども果して鳶の巣があるかどうかわからぬということになって、理窟は合うようなものの、いささか理が詰み過ぎる嫌がある。作者の最初の感じは「鳶の巣としれて梢に鳶の声」であったのを、だんだん考えた結果、右のように直したのではあるまいか。子規居士の歌に「森の木にくふや鳶の巢鶉の巢鶉の子鳴けば鳶の子も鳴く」とあるのは、多分この北枝の句から来たものであろう。『分類俳句』の春の部には、ちゃんと鳶の巣の一項があって、北枝及(および)桃鄰の句を収録しているからである。鳶の巣の近くに鶉の巣があって、鶉の子が鳴けば鳶の子も鳴くなどというのは、内容が複雑になっている代りに、想像の産物たるを免れぬが、「子」ということを点じただけは、慥に北枝のより一歩を進めている。子の鳴声が聞えるなら、巣のあることは明(あきらか)である。北枝の句に対する疑問は、ただ鳶の声を耳にしただけで巣を想像する点にあるかと思う。

[やぶちゃん注:「鳶の巣としれて梢に鳶の声」は宵曲の推測句形であるから、正字化はしていない。]

 北枝は十七字の中に「鳶の巢」と「鳶の聲」を重ねて用い、子規居士は更に二重奏の格で、「鳶の巢鶉の巢」「鶉の子鳴けば鳶の子も鳴く」と繰返した。この句も歌も別にすぐれたものではないけれども、こういう句法を用いたことに注意すべきであろう。北枝と同じ元禄人の連句に

 

 水仙や圍ひの花を藪に見る  淺生(あさお)

  尋ぬる家の留主(るす)てこからし 兎白

 鳶の立(たつ)鳶の跡から鳶啼(ない)て

                   杏雨

 

というのがあり、これは鳶の字が三つある。十七字の中に三度同じ名詞を繰返すのは、少し多過ぎるかも知れぬが、作者工夫の迹(あと)の認むべきものがないでもない。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが兎白の句は前の淺生の句の付句である。]

 桃鄰の句も一本には「鳶の羽に」となっている。この場合の「鳶の羽」は、その形や色よりも羽風(はかぜ)を連想せしめる。従って「ひるまぬ」という言葉には「羽」の方が適切らしいが、そういう猛禽の巣があるにも恐れず、高い梢に藤の絡んでいるところを詠んだとすれば、「鳶の巣」でも差支(さしつかえ)はなさそうである。木の間に垂るる山藤の花は、一句の世界を極めて美しいものにしている。

 巣の有無にかかわらず、梢の鳶を描いたものはいろいろある。

 

 蓬萊や動かぬ枝にとまり鳶   貞佐

 初午や梢に鳶のふき合せ    同

 下闇や梢は晝で鳶の聲     除風

 翠(みどり)して鳶鳴く楠(くす)の木ずゑかな

                闌更

 朝霧や枝に居ながら鳶の聲   可風

 蹈折(ふみを)つて枝なき鳶の師走かな

                淡々

 毛をこぼす鳶や梢の小六月(ころくぐわつ)

                蒼虬(さうきう)

 

 鳶は空を飛びながらも囁き、梢にとまっても暗く。初午の句はよくわからぬが、人の吹く笛に合せて鳶の啼くことを詠んだものであろう。鳶の声を捉えた句は、右に挙げた外にも各季にわたって散見する。

[やぶちゃん注:「蓬萊」は、この場合、神仙の住む蓬萊山を象った正月の祝儀物の蓬萊飾りを指す。一般的に見慣れた正月飾りの素材に添えて、松竹梅・鶴と亀・尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の人工的なフィギアの造り物を添えることがありここはその景を詠んだものであろう。]

 

 夕晴や柳に盈(こぼ)す鳶の聲 五明(ごめい)

 卯の花や巽(たつみ)ははれて鳶の聲 蘆角

 鳶啼(なく)や花も榎も蹈散(ふみちら)し

                   白良(はくりよう)

 さみだれや耳に忘れし鳶の聲     嘯山

 日の落(おち)て樹(き)になく鳶や秋の風

                   其雷(きらい)

 鳶の眞似してや棗(なつめ)の四十雀 楓井(ふうせい)

 浮雲やあふちの花に鳶の聲      涼菟(りやうと)

 鳶の啼く日の淋しさよ草の花     士朗

 鳶鳴(ない)て木を割(わる)音や冬籠り

                   海印

 柴漬(ふしづけ)に浪の立(たち)ゐや鳶の聲

                   我々(がが)

 茶の花に何を追込む鳶の聲      推柳

 十月やけさは鳶啼(なく)藪の空   風芝

 

 鳶の声はあまり愛すべきものでもないが、晴を卜(ぼく)するに足るというので、何となく明るい感じがする。嘯山の句は降り続く五月雨に、この頃鳶の声を聞かぬ、それを「耳に忘れし」といったのであるが、雨中といえども鳶は啼かぬわけではない。

[やぶちゃん注:「鳶の声はあまり愛すべきものでもないが、晴を卜するに足るというので、何となく明るい感じがする」敢然と言いたい私は鳶の声が好きだ。更に物言いを言っておくと、確かに快晴が有意に続いた日中には太陽光によって地面が暖まり、地表近くの空気温度が上がり、その結果として上昇気流が起こって、それに乗って鳶が狩りするために高いところへ飛び翔ける(晴天時は空気の透明度が高いから索餌に適しているとも言えるし、逆に湿度が高くなって視界が悪くなれば彼らは低い位置を飛翔する傾向があることも事実ではある)ことはままある。あるが、それは結果であって予兆でも何でもない。だから「卜するに足」らぬものだ。寧ろ、考えてみれば、晴天であっても、低気圧が近づけば上昇気流が発生し、それに鳶が乗って舞い上がるとも言えるわけであり、その時こそ、鳶は晴れを占うのではなくて、雨を予兆するのだと言えるではないか! 蘆角や一茶を引き合いに出そうが(次を見よ)、宵曲の謂いは博物学的には不十分であると私は思う。]

 

 朝鳶がだまして行(ゆく)や五月雨(さつきあめ)

                   一茶

 

 という句は、雨中に鳶の声が聞えても、更に晴れる様子のないことを詠んだので、一茶一流の騙(だま)すという擬人法は、この場合気象台の予報と同じく、全く天候の上に繋っている。蘆角の「卯の花」の句も雨である。但(ただし)辰巳の方の空は已に晴れかけて、爽かな鳶の声がするのだから、この雨は必ずあがると見てよかろうと思う。その他はすべて晴れた日の句と解すべきで、海印の「冬寵り」の如き、文字の上には何も現れておらぬにかかわらず、やはり好晴の天を想わしめる。晴れた空に鳶が啼き、どこかで薪(まき)を割る音が聞えて来る。一室を出ようともせぬ閑居の人の世界は、殆ど聴覚だけのものになっているのである。

 楓井の「四十雀」の句は、他の声を持って来て側面から鳶の声を現そうとした。その点前に引いた貞佐の「初午」の句に似ているが、鳶の声を如実に描いたものとしては、

 

 鳶ひよろひいよろ神の御立げな   一茶

 

を挙げなければならぬ。「神の御立」は神の旅である。出雲へ旅立ち給う首途(かどで)の合図に鳶が啼いたとすると、この句には笛の音に近いものが含まれているような気がする。

 

 鳶ついと社日(しやにち)の肴(さかな)領しけり

                  嘯山

 ふゆ木立鳶のかけたるわらぢかな  成美

 鼠喰ふ鳶のゐにけり枯柳      太祇

   眼前

 猫喰(くら)ふ鳶がむさいか網代守(あじろもり)

                  北枝

 

 油揚を攫う鳶は遂に俳句の中に発見し得なかった。冬木立の草鞋(わらじ)は果して鳶が攫って行ったものかどうかわからない。高い梢にかかっているのを見て、鳶が攫って行ったものと解釈したまでであろう。鼠も食われ、鼠を食う猫もまた食われる。そこに現世における自然の姿がある。北枝が前書に記した通り「眼前」の消息なのである。

[やぶちゃん注:「社日」雑節の一つで産土神(うぶすながみ:郷土の古来からの土地神)を祀る日。ウィキの「社日」によれば、『春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する』。『春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる』、但し、『戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とする。またこのような場合は前の戊の日とする決め方もある』。『この日は産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝する。また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)という。島根県安来市社日町などが地名として残っている』とある。]

 鳶はいろいろなものを攫って行く代りに、時に空中から取落すこともあるらしい。俳人はこれをも見遁(みのが)さなかった。

 

 古鳶の魚とり落すしぐれかな     卓池

 芋頭(いもがしら)鳶や落せし酉の市 抱一

 

 尤も抱一のは目撃でなしに想像である。明治以前に甚だ乏しい酉の市の句の、芋頭までが鳶によって拾われているのは面白い。

[やぶちゃん注:「芋頭」サトイモの塊茎。親芋。人の頭(かしら)に立つ意を通わせ、また子が多いところから正月の縁起物に用いる。通常は新年の季語であるが、ここは「酉の市」がロケーションで季語だから初冬となる。]

 

 あなかなし鳶にとらるゝ蟬の聲   嵐雪

 ひるがほに蝨(しらみ)のこすや鳶のあと

                  嵐蘭(らんらん)

 

 鳶の狙う対象としては、蟬は少し小さ過ぎる。嵐雪も現在鳶が捕る有様を見て、この句を詠んだのではなさそうである。耳に悲しげな蟬の声を聞いて、何かに捕えられたらしい蟬の運命を憐んだのであろう。「あなかなし」という上五字に、嵐雪一流の抒情味が溢れている。

 「ひるがほ」の句は鳶が地に下りた場合の遺留品と解せられる。俳人はこの種の観察を怠らなかったと見えて、元禄時代の句の中にも、「羽蝨(はじらみ)を花に落すなむら烏 正秀(まさひで)」「つばくらの蝨うつるなほとゝぎす 素覽」「梟の蝨落すな花のかげ 北枝」「蝙蝠の蝨落すな星祭 曲翠」等、いくつも算えることが出来る。ただ以上の句は悉く「落すな」「うつるな」という警戒的注意であるのに、嵐蘭は昼顔のほとりに遺された蝨を以て、明(あきらか)に鳶のものと認めている。

[やぶちゃん注:節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 咀顎(そがく)目 Psocodea に分類されるハジラミ(羽虱)類で、チョウカクハジラミ(ホソツノハジラミ)亜目 Ischnocera・ゾウハジラミ亜目 Rhynchophthirina・タンカクハジラミ(マルツノハジラミ)亜目 Amblycera 等に属する。ウィキの「ハジラミ」によれば、『鳥の羽毛や獣の体毛の間で生活し、小型で扁平、眼は退化し翅は退化している。成虫の体長は』〇・五~一〇ミリメートルで、『雄は雌より少し小さい。体色は白色、黄色、褐色、黒色と種によってさまざまである。大部分が鳥類の外部寄生虫で鳥類のすべての目に寄生し、一部は哺乳類にも寄生する。全世界で』二千八百『種ほどが知られ、うち』二百五十『種が日本から記録されている』。『ハジラミは全体の形はシラミに似るが、細部では多くの点で異なっている。胸部の各節は完全に癒合することはなく前胸部は明らかに分かれる』。『体表は剛毛に覆われ、多いものと比較的少ないものがある。また口器はシラミと違って吸収型でなく』、『咀嚼型で大顎が発達している。宿主の羽毛、体毛と血液を摂取するが、フクロマルハジラミ』タンカクハジラミ亜目タンカクハジラミ科メナカントゥス属メナカントゥス・ストラミネウス(フクロマルハジラミ)Menacanthus stramineus)『のように血液を成長中の羽毛の軸からとる種もある。ペリカンやカツオドリの咽喉の袋にはペリカンハジラミ属』(Pelecanus)『やピアージェハジラミ属』(Piagetiella)『が寄生し、大顎で皮膚を刺し、血液や粘液を摂取する』(以上の二属の属名は寄生される鳥と同名。上位タクソンは調べ得なかった)。『不完全変態で、卵若虫成虫となる。卵は長卵型でふつう白く、宿主の大きさに対応し』、一ミリメートル以下から二ミリメートル『近いものまである。卵は宿主の羽毛か毛に産みつけられるが、羽軸内に産みこむものもある。若虫は成虫に似ており』、一『齢若虫では小さく色素をもたないが、脱皮ごとにしだいに大きくなり』、『着色し』三『齢を経て成虫となる』。『ハジラミは温度や宿主のにおいに敏感で、適温は宿主の体表温度である。宿主が死に体温が下がるとハジラミは宿主から脱出しようとする。そのままでいれば、宿主が死ぬとハジラミも数日内に死ぬ』。『ハジラミの感染は交尾、巣づくり、雛の養育、砂あびなど宿主間の接触で起こる。もう一つの方法は翅のある昆虫に便乗することで、吸血性のシラミバエの体に大顎でしがみつき他の鳥に運ばれる。自然の集団では雌が多く、ある種では雄がほとんど見つからない。ウシハジラミ』(チョウカクハジラミ亜目ケモノハジラミ科Bovicola bovis)『では処女生殖が知られている。前胃にハジラミの断片が見つかることがあるが、この共食いの現象は個体数の調節に役だつと考えられている』。『ハジラミの最大の天敵は宿主であって、ついばみ、毛づくろい、砂あびによって殺される。また鳥の蟻浴も同様の効果がある。くちばしを痛めた鳥は十分毛づくろいができないので、非常に多数のハジラミの寄生をうけ弱る。哺乳類のハジラミは有袋類、霊長類、齧歯類、食肉類、イワダヌキ類および有蹄類に寄生し皮膚の分泌物や垢を食べているが、トリハジラミ』(タンカクハジラミ亜目トリハジラミ(鳥羽虱)科 Menoponidae)『ほど多くはない』。『ハジラミの祖先はチャタテムシのコナチャタテ亜目Nanopsocetae下目であると見られる』(確かに幾つかの拡大画像を見たが、形状が実に酷似している)。『自然の中で地衣類やカビを食べ自由生活をしていたチャタテムシが、三畳紀、ジュラ紀といった中生代初期から新生代の初期である古第三紀の間に羽毛を持つ動物の巣に寄生する生活を経て、生きた鳥の羽毛にとりつき寄生するようになったと考えられるが、化石は発見されていない。ちなみに、近年では羽毛は鳥の祖先の恐竜の一部の系統で既に発達していたことが知られるようになってきているので、初期のハジラミは鳥の出現以前に恐竜に寄生していた可能性もある』。『系統学的解析により、ハジラミは』二『つの系統が別々に進化したことがわかっている。哺乳類・鳥類に外部寄生するという特徴的な生態により、収斂進化が進んだ。うち』一『つの系統は、咀嚼性から吸収性へと進化したシラミを生み出した』。『ある種のハジラミは』二『種以上の鳥に寄生することがあるが、それは鳥の進化の速さがハジラミのそれを上まわったためと考えられている。つまり、宿主が環境に適応して変化しても、ハジラミにとっての生活環境である鳥体表面の条件、つまり食物の栄養や、温度条件などはあまり変化しないからだというのである。これをVL・ケロッグは遅滞進化と名付けた。例えばアフリカのダチョウと南アメリカのレアには共通のハジラミが寄生しており、今日では形態も分布も異なっているとしても、これらのダチョウは共通の祖先から分化したことを物語っている。ミズナギドリの仲間には』十六属百二十四種もの『ハジラミが知られているが、ハジラミの知見は大筋においてミズナギドリの分類系と一致するといわれている』。『アジアゾウ、アフリカゾウなどに寄生するゾウハジラミ』(ゾウハジラミ亜目ゾウハジラミ科 Haematomyzidaeゾウハジラミ属 Haematomyzus)『は体長』三ミリメートル『足らずの小さなシラミで、長い吻をもち吸血するが、その先端に大顎を』持ち、『完全にハジラミの形態をそなえており、ハジラミとシラミ』(咀顎目シラミ亜目 Anoplura:ヒトジラミ科 Pediculidae などの狭義のシラみ類を指している)『の間を結ぶ中間型とされる』。『人間に直接に加害するものはいないが、家畜や家禽につくものがある。ハジラミが多数寄生すると、鳥や獣はいらだち、体をかきむしり体を痛め、食欲不振や不眠をきたす。家禽は産卵数が減り太らなくなり、ヒツジは良質の羊毛をつくらなくなる。ニワトリハジラミはニワトリに寄生するハジラミ類の総称で、畜産上はニワトリナガハジラミ』(チョウカクハジラミ亜目チョウカクハジラミ科 Philopteridae ハジラミ属ニワトリナガハジラミ Lipeurus caponis)・『ハバビロナガハジラミ』(チョウカクハジラミ科Cuclotogaster 属ハバビロナガハジラミCuclotogaster heterographus)・『ニワトリマルハジラミ』(この和名では学名を探し得なかった)・『ヒメニワトリハジラミ』(チョウカクハジラミ科Goniocotes Goniocotes hologaster)の四『種が重要である。そのほか、ニワトリハジラミやニワトリオオハジラミも寄生する。これらはいずれも世界共通種である。キジ目の中には家禽となるものが多いが、同目のニワトリと近縁であるからいっしょに飼えばハジラミの混入が生ずる』。『多数寄生すればニワトリは羽毛がたべられ』、『かゆみのため体力が弱まり、成長が遅れ産卵率の低下をみる。防除には殺虫剤を使い、鶏舎内を清潔に保つことが必要である』とある。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、鳥類へのこのハジラミ類の寄生率は極めて高い。引用中にも出たが、私自身、弱って地に落ちた燕から、ぞろぞろと必死で逃げ出す彼らを見たことがある。何故か、無性に腹が立ったのを覚えている。]

 

 鳶の萊て蝨こぼすや家ざくら   雨江

 

という句もまた制止的命令でなしに、現在蝨をこぼすものとした。何か鳶に限って証迹(しょうせき)歴然たるものがあるのであろうか。もしそれがないとしたら、鳶罪の甚しいものといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「鳶罪」底本のママ。思うにこれ、冤罪の誤植ではないのか? それともそれを確信犯で洒落たとでも言うのか? とすれば、宵曲はかなり厭味な奴ということになろうかと存ずるが?

 

 かきつばたへたりと鳶のたれてける 蕪村

 

 この句は燕子花(かきつばた)のような美しい植物に対し、思いもよらぬ鳶の糞を配したところ、奇想というを憚らぬが、一面からいうと、あまり手際がよ過ぎるために、自然の感じは多少弱められているようである。鳶の糞を詠んだものは以前からあって、

 

 華科(とが)なしあたまから肩へ鳶の糞 素風

 鳶に糞しかけられたる瓠(ひさご)かな 鐡山

 

の如く、いずれも植物を題材に用いている。これらの句に比すれば、蕪村の句が一頭地を抽(ぬ)いていることは論を俟たぬ。

 鳶に関する俳人の観察は、以上の例句でほぼ尽していると思うが、なお数句を挙げて足らざる点を捕って置きたい。

 

 舞ふ鳶の中はせはしや夕雲雀   不卜

 鳶の羽風(はかぜ)靑梅ひとつ零しかな

                 求魚(きゆうぎよ)

 つゝくりて鳶もまだ寢ず初月夜  卓袋(たくたい)

 蓙(ござ)きれの鳶にもならずあきの暮

                 洞々(とうとう)

 いつまでか鳶にもならで古ぶすま 成美

 彼(かの)袴(はかま)鳶になつたか夕しぐれ

                 如行(じよかう)

 麥まきや風にまけたる鳶烏    吏明(りめい)

 

 雲雀も空の高くまで上る鳥ではあるが、軀(からだ)が小さいだけに大分忙しいところがある。「零し」は「オチシ」と読むのであろう。鳶が低くおろして来た羽風に、青梅が一つほろりと落ちる、自然の観察者に取っては看過しがたい小事実である。暮方の鳶を描いたものは、前に「日の落て」という其雷の句があったが、卓袋は進んで暮れた後を捉えた。「初月夜」は陰暦八月初の月をいうと歳時記にある。日はもう暮れて、繊(ほそ)い月が西にあるような場合であろう。「鳶もまだ寢ず」という言葉は、この場合いささか不明瞭であるが、高い梢の巣から啼く声が聞えて来るのをいったものではあるまいか。上五字が「つゝくりと」となっている本もあり、この語意がはっきりすれば、全体の趣ももう少しはつきりして来るのかも知れぬ。

 如行の句には「尾陽の鱠山(くわいざん)は一頭三面の市中に住て神や佛や儒や萬屋のあるじと成(なり)て等閑滑稽に心を遊(あそば)せ杜子(とし)が景情山谷が廣作を我物とする事久し、今年秋の末至日(しじつ)何やらむつかしと髪剃捨浮世(かみをそりうきよをすてん)に後さしむけ必(かならず)と西行遍照(へんじやう)ごときの佛たふとみにもあらず、旅衣か應(こた)ふ綸綴(りんてい)かおふるのかたちかるがるし、予ある日其閑戸を敲(たた)いて例の一笑を進む」という長い前書がついている。別に鳶には関係がないが、袴が鳶になるというのは説明を要するであろう。俗説に「古筵(ふるむしろ)鳶になる」ということがあって、木導なども「出女説(でおんなのせつ)」の中に「物皆終りあれば古筵も鳶にはなりけり」と書いている。洞々はそのまま一句の趣向としたのであるが、成美はこれを衾(ふすま)とし、如行は一転して袴とした。特に袴を持出したのは、鱠山が俗を捨てて法体(ほったい)になったためかと思う。今は不要になった彼の袴は多分鳶になったろうというところに、俳語らしい転化の迹(あと)が窺われる。

[やぶちゃん注:「袴が鳶になる」これは、ある程度の長い年月を経たものか、或いは、いわく因縁のある道具などに霊が宿った、所謂、「付喪神(つくもがみ)」の変容したものであろう。それらが化けて妖怪めいたものとなって百鬼夜行のように登場して跋扈することになったのは中世以降であったが、近世には早くもその流行は廃ってしまう。この無生物の化生説は、そうした名残りと読み取るべきであると私が思っている。]

 吏明の句は、麦蒔をする畑のほとりに、はじめのうちは鳶や鴉が集っていたが、風の強いのに辟易したらしく、遂に姿が見えなくなった。それを「風にまけたる」といったのである。見方によっては働き過ぎた言葉のようでもあるが、これだけの事を簡単に現すためには、やはりこの種の言葉を用いなければなるまい。

 

 むぎ蒔の鳶袖すりに落すかな   玉扇

 

などという句に比較すると、伎倆(ぎりょう)において同日の談でないことがわかる。

 

 鳶ひじり柿の衣をしぐれけり   星府

 

 『十訓抄(じっきんしょう)』に子供に捕えられた古鳶を助ける僧の話があって、鳶と見えたのは実は天狗であり、僧の乞に任せ釈尊説法の有様を見せるということになっている。しかも天狗が後シテの格で藪から現れる時は、法師の姿をしているのだから、どうもこの句に関係がありそうである。「鳶ひじり」という言葉は他に用例があるかどうか、鳶に化した聖、若しくは鳶の化した聖という『十訓抄』の典拠なしに、この言葉の解釈が出来るかどうか。もしその解釈が成立つとすれば、「鳶のすがたもふところ手」の句の如く、鳶そのものを聖と見立てたとしてもいいわけであるが、われわれは先入観に捉われているせいか、いささか無理なような気がする。

[やぶちゃん注:「十訓抄」のそれは「第一 可定心操振舞事」(心の操(きさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条。これは既に私が柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)の注で電子化してあるので、そちらを参照されたい。]

2017/11/19

柴田宵曲 俳諧博物誌 (3) 鳶 二

 

       

 

 鳶の舞台は天空である。しかも常に高所を飛んでいる。鳥と名がつく以上、空を飛ばぬ族(やから)は稀であるが、われわれの親しく見得る範囲において、鳶の如く悠々たる高空飛行を続けている者はあるまい。「鳶の輪」という言葉は、高空における鳶の動作を描いて遺憾なきものである。

 

 鳶の輪につれて寄らばや山ざくら   丈 艸

 鳶の輪の下に野中の柳かな      百 杖

 鳶の輪の下に鉦(かね)うつ彼岸かな 大江丸

 

 三句とも春の句であるのは偶然であろうか。丈艸の句は「つれて寄らばや」という中七字が、少しく不明瞭のように思われるが、一本に「鳶の輪の崩れて入(いり)や」とあり、これに従えば句意も明であるのみならず、今まで長閑に舞っていた鳶が、急に輪を崩して山桜の梢に見えなくなったという点で、一句の上に或(ある)変化を生ずることになる。先年山崎から宝寺(たからでら)辺に遊んだ時、図らずもこの句と同じ光景に遭遇してなるほどと思った。丈艸の句は何処かわからぬが、実景を捉えたものであることは疑(うたがい)を容(い)れぬ。

[やぶちゃん注:「山崎から宝寺(たからでら)辺」「宝寺」は京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)の天王山中腹にある真言宗天王山(又は銭原山)宝積寺(ほうしゃくじ:本尊十一面観音。養老八・神亀元(七二四)年に聖武天皇の勅命を受けた行基が開いたと伝承し、聖武天皇が夢で竜神から授けられたとする「打出」と「小槌」(両者は別の物。前者は短い握りとその上に刻みのついた打部がある小型の棒状のもの)を祀ることから「宝寺(たからでら)」の別名がある。この附近(東海道本線山崎駅から宝積寺辺り。グーグル・マップ・データ)を散策したということであろう。]

 

 春風や動くともなき鳶の羽   嘯山(せうざん)

 鳶飛(とん)で影も動かず花盛(はなざかり)

                乙由(おついう)

 澄切(すみきつ)て鳶舞ふ空や秋うらゝ

                正己(せいき)

 

 これらは「鳶の輪」の語は用いてないけれども、輪を描くのとほぼ同様の状態であろう。乙由の句は世界において丈州の句に近い。ただ丈州の方は「崩れて入や」の語によって、鳶の輪と山桜とを巧(たくみ)に繋いでいるに反し、乙由の「花盛」は漠然としていて、季節を現す以外に一向その景色が浮んで来ないのである。

 

 長閑(のどか)さや尾羽に楫(かぢ)取ル雲の鳶

                桃先(たうせん)

 はるの日や鳶の尾ひねるうら表 輕舟

 

の二句は、天空の鳶に対し、更にこまかな観察を試みたのであるが、少しく細工に堕した傾(かたむき)がある。桃先の句に「天の鳶淵の魚」という前書がついているのは、『詩経』の「鳶飛戾天。魚躍干淵」を引いたに過ぎぬにしろ、眼前の自然を直視する者に取っては、一枚の故紙も或隔りとならざるを得ない。しばらく『詩経』を伏せて、この句を三誦(さんしょう)して見ても、竟に生々(せいせい)たるものを欠いているのをどうすることも出来ぬ。

[やぶちゃん注:「鳶飛戾天。魚躍干淵」正字化した。「詩經」の「大雅」にある「旱麓(かんろく)」の第三連の一節。

 

 鳶飛戾天

 魚躍于淵

 豈弟君子

 遐不作人

  鳶(とび)飛びて天に戾(いた)り

  魚(うを)淵に躍(をど)る

  豈弟(がいてい)の君子よ

  遐(なん)ぞ人を作(な)さざらん

 

これは現在、幼き領主君子への祭事の後に捧げられた言祝ぎの詩と考えられており、「鳶が限りなき天空の果てまで自由自在に飛び上り、魚が深い淵で自ずから楽しんで飛び跳ねる如く、天然自然の理に従って、若き御子におかせられては、何事もなく成長なされ、立派な君子となられますように」と言った謂いであろう。]

 

 鳶に乘(のつ)て春を送るに白雲や 其角

 鳶の羽や夕日にすきて雲の峯    荻人(てきじん)

 雲の峯これにも鳶の舞ふ事よ    之房(しばう)

 鳶ののぼる限りなき哉雲の峯    榎柢(かてい)

 鳶鴉(からす)空は隙なし秋の雲  鼠彈

   風哉庵

 しぐれせぬ時には雲に鳶一つ    野坡

 

 鳶の句に雲が出て来るのは自然の順序であろう。其角の旬は『田舎之句合(いなかのくあわせ)』に出ている。彼がいまだ二十歳、蕉門の立脚地の全く走らぬ時代だから、自然の趣に遠いのは致方(いたしかた)がない。「鳶に乘て春を送る」は慥(たしか)に奇想で、後年の其角の面目は多少この裡(うち)に見えている。雲の峯の三句の中では、荻人の「鳶の羽」が最もすぐれているかと思う。夕日の前を飛ぶ鳶の羽が明に透いて見える光景は、われわれもしばしば目撃した。大きな雲の峯を背景にして、夕日の鳶をはっきり描いたところに、この句の特色を認めなければならぬ。之房及(および)榎抵の句はこれに比べると抽象的で、高く翔(かけ)る鳶の姿を髣髴するものがない。

 子規居士の句に「大凧(おほだこ)に近よる鳶もなかりけり」という句があるが、凧を紙鳶(いか)といい、支那には古く木鳶(もくえん)なるものもあったらしいから、因縁浅からざる間柄であろう。凧の揚る春の空に鳶も舞う。この二つの配合には、古人も興味を持っていたようである。

[やぶちゃん注:「木鳶(もくえん)」戦国時代の「韓非子」の「外儲左上」の中に、先行する「兼愛」の思想家で優れた技術者でもあったとされる墨子が「木鳶」(木製のグライダーのようなものと推定される)を作ったとする記載(但し、人の技術力は万能ではない例として批判的に)が出る。

   *

墨子爲木鳶、三年而成、蜚一日而敗。弟子曰、「先生之巧、至能使木鳶飛。」。墨子曰、「吾不如爲車輗者巧也、用咫尺之木、不費一朝之事、而引三十石之任致遠、力多、久於數。今我爲鳶、三年成、蜚一日而敗。」。惠子聞之曰、「墨子大巧、巧爲輗、拙爲鳶。」。

   *

 墨子、木鳶を爲(つく)り、三年にして成り、蜚(と)ぶこと、一日(じつ)にして敗(やぶ)る。弟子、曰く、

「先生の巧(かう)、能(よ)く木鳶をして飛ばしむるに至る。」

と。墨子、曰く、

「車輗(しやげい)を爲る者の巧みなるに如(し)かざるなり。咫尺(しせき)の木を用ひ、一朝の事を費さずして、三十石の任を引く。遠きを致すに、力、多く、歳數に久し。今や、我れ、鳶を爲るに、三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗る。」

と。

 惠子、之れを聞きて曰く、

「墨子は大巧なり。輗を爲るを巧とし、鳶を爲るを拙とす。」

と。

   *

「車輗」は車の轅(ながえ)の端と軛(くびき)とを結びつける小さな器具。]

 

 きれ凧も鳶も嵐の行方かな   玉羽

 寄見ては又のく鳶やいかのぼり 嘯山

 生烏賊(なまいか)や鳶引懸(ひつかけ)ていかのぼり

                箇口

 

嘯山の句は子規居士よりこまかいところを見せたが、少し説明に流れた嫌(きらい)がある。鳶の攫った生烏賊を直に「いかのぼり」というが如きは、滑稽というよりも駄酒落で、芭蕉以後の句らしくもない。嵐の空に凧は切れて飛び、鳶も遠く舞い去る玉羽の句は、平凡なように見えて、やはり生趣に富んでいる。

 

 古鳶のきげんなほりぬ朝がすみ    士朗

 鳶はまだ霞(かすみ)て居るや更衣(ころもがへ)

                   朱拙

 塵ほどに鳶舞上る卯月かな      梅室

 鳶舞て霧に霧ふる太空(みそら)かな 丿松(べつしよう)

 

 これらはいずれも天空遥(はるか)なる鳶を描いている。朱拙の句はちょっと人間が顔を出すようであるが、この場合の人はさほど重要な役をつとめていない。現在衣を更(か)えつつある人がどうとかいうよりも、更衣の季節が主になっている。即ち首夏(しゅか)の侯に当って衣を更える、折ふし鳶の舞う空は、春の名残をとどめて、ほのかに霞んでいる、という意である。暦の上の春と夏とは截然(せつぜん)と区別し得ても、風物の上では混雑を免れぬ。夏霞という季題さえ存在する以上、空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない。けれども「古鳶のきげんなほりぬ」という擬人的な趣向や、「塵ほどに鳶舞上る」という誇張された形容に比べると、やはり元禄期の句らしい自然なところがある。「霧に霧ふる」というのは、一面の霧の上に更に霧が立ち重(かさな)る場合であろう。大空の鳶もあるいはそのために姿を見失ってしまうかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「首夏(しゅか)」夏の初め。初夏。陰暦四月の異称でもある。

「空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない」と主張するのであれば、季語など不要であり、題詠に拠る無精詠吟など愚の骨頂である。私の俳句体験は中学時代に自由律俳句の「層雲」から始まった経緯もあり、無季俳句を支持する人間である。そもそもが、芭蕉は「季の詞ならざるものはない」とはっきり言っている。俳諧俳句に用いられる語彙が正しく正確に選ばれたものであればあるほど、その中には必ず絶対的属性として季節が既にして「ある」のである。]

 

 鳶の羽の力見せ行野分かな   玉志(ぎよくし)

 冬近き日のあたりけり鳶の腹  白雄

 

の如き句になると、同じく天空を舞いながらも、野分とか日光とかいうものが加わるために、自(おのずか)らその動きが中心になって来る。白雄の句は分類すれば秋の季に入るわけだが、一句から受ける感じはむしろ冬の分子が多い。頭上低く舞う鳶の腹に、やや斜になった日影があかあかとさすという光景は、われわれも何時(いつ)か何処かで仰いだ記憶があり、慥に「冬近き」季節とぴったり合うものである。こういう微妙な感じを捉えることは、正に俳人得意のところであろう。

 

 鳶ほどな雲夕立のはじめかな      鼠卜

   市中夕立といふ題

 鳶の香も夕だつかたに腥(なまぐさ)し 其角

 

 前の句は最初鳶位な大きさであった黒雲が、遂に一天にひろがって沛然(はいぜん)たる夕立を齎(もたら)すというので、鳶はただ雲の形容に用いられたに過ぎぬ。後の句は題を得て詠んだものの如くであるが、一句の趣は頗る異色に富んでおり、鳶の多かった江戸市中の空気が連想されるのみならず、爽快なる驟雨の感が十七字に溢れている。仮にこういう題があったにしても、この趣は都会詩人たる其角の実感から生れたものに相違ない。鳴雪翁は『其角研究』でこの句を説くに当り、漢詩では「龍氣腥」などといって、夕立に腥の字をよく用いる、という意味のことをいわれたかと思う。言葉は其角一流に捻っているが、鳶を描いて鳶を離れ、一脈の涼風を紙表に漂わしむる点で、この句は嶄然(ざんぜん)他を抽(ぬ)いている。渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあったことを思い出す。

[やぶちゃん注:「沛然(はいぜん)」雨が勢いよく降るさま。

「龍氣腥」例えば、晩唐期、李商隠とともに「温李」と並称された温庭筠の「秋雨」に、

 

   秋雨

 雲滿鳥行滅

 池涼龍氣腥

 斜飄看棋簟

 疏灑望山亭

 細響鳴林葉

 圓文破沼萍

 秋陰杳無際

 平野但冥冥

 

とある。

「嶄然(ざんぜん)」「嶄」は「高く険しい」の意で、「一段高く抽(ぬき)ん出ているさま」「一際、目立つさま」を言う。

『渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあった』「白雨(はくう)」は明るい空から降る雨。俄か雨のこと。この絵、見て見たい(但し、それらしい題名で贋物もあるようだ)。識者の御教授を乞う。]

 

 二里程は鳶も出て舞ふ汐干(しほひ)かな 太祇

 

 この句は天空の鳶を描くと共に、地上の世界をも描いている。その世界は一面の汐干潟であるため、天地の寄合の極みまで一陣に入る大観となつて、われわれの眼前に展けて来る。干潟の空に舞う鳶を遥に眺めて、あれは二里位も沖であろうと感じたのを、「二里程は鳶も出て舞ふ」と断定的な表現を用いたところに、太祇の長所もあれば短所もある。鳶が海天に舞うのは、汐干の際に限ったわけではないが、何ら眼を遮(さえぎ)る物のない干潟は、この高空飛行者に取って絶好の舞台でなければならぬ。彼は悠々と輪をかきながら、太祇の目測に従えば二里ほども沖の空に出つつある。瞰下(かんか)する大干潟に蠢(うごめ)く小動物は、悉くその鋭い双眼に収(おさま)り、時あって颯(さっ)とおろして来れば、漏(もれ)なくその餌食(えじき)になるのであろうが、太舐はそういう点に力を入れず、「二里程は鳶も出て舞ふ」の一語によって、汐干潟の広さを現そうとした。こんな大観を捉えたものも、鳶の句としては珍しいのである

 

 鳶鴉目早き空の雪解(ゆきげ)かな 素丸(そまる)

 蛙(かはづ)なく田のいなづまや鳶の影

                  野坡

 

 空中にある鳶の眼は何に注がれているか、素丸はその消息を詳(つまびらか)にしておらぬが、野坡はほぼこれを伝えている。春もやや深くなって、蛙が頻(しきり)に鳴立てる水田の上に、鳶が颯とおろして来る趣を「いなづま」と形容したものであろう。地上の小動物が鳶の影におののくことは前に述べた。平和な田園の音楽師も、一たびこの影の水田を掠(かす)めるに及んでは、敵機来襲以上に驚いて、鳴りをひそめるに相違ない。この句における鳶は、纔(わずか)にその影を水田に落すに過ぎぬけれども、それだけで猛禽の本色は十分に現れている。彼は徒(いたずら)に悠々として青天に輪をかいているわけではない。

 

2017/11/18

柴田宵曲 俳諧博物誌 (2) 鳶 一

 

[やぶちゃん注:「鳶」鳥綱タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans。]

 

       

 

 別所梅之助氏の『聖書動物考』という書物の中に、「トビ」について次のような事が書いてあった。

[やぶちゃん注:「別所梅之助」(明治四(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)は牧師(メソヂスト監督教会所属)。豊橋・川越などで牧師を勤め、その後はメソヂスト教会の機関紙『護教』主筆や青山学院教授を勤めてもいる。明治三六(一九〇三)年と昭和六(一九三一)年の賛美歌改訂編集作業に携わり、自身も賛美歌を創作、日本の讃美歌史に貢献した。大正六(一九一七)年の「大正改譯聖書」の改訂にも委員として参加している。

「聖書動物考」別所梅之助著。大正九(一九二〇)年警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで視認出来る。ここでは底本に従わず、その原典画像から全文を正字正仮名で再現した。因みに別所は翌年には同書店から「聖書植物考」という姉妹編も出版している(それも国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)。

 以下の引用は底本では全体が二字下げだが、無視した。その代り、引用が判然とするように前後を一行、空けた。]

 

 かつまた鳶の晴空に舞ふは、日本國土の風景として、すぐれたものゝ一であるのに、歌人も、俳人も、あまり詠じない。淸少は「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」と、けなしてゐる。さすがに畫工はこの鳥をうつしている。「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせても、「鳶の子鷹にならず」などと、日本人はよきものに馴れて、その美しさをも、強さをも認めてゐないらしい。

[やぶちゃん注:「淸少」清少納言。私は個人的に研究者などがしばしば口にするこの省略形には生理的に激しい虫唾が走るタイプの人間である。

「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」一般に「枕草子」の第三十八段とされる「鳥は」の鳥尽くしの中の長い鶯についての複雑な感懐を語る中の一節に出現する。

   *

鳶・烏などの上(うへ)は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものとなりたれば、と思ふに、心ゆかぬここちするなり。……

   *

訳すなら、「鳥の中でも、鳶(とび)や烏(からす)などといった、どこにでもいて、大方、憎らしく思われている手合いに関しては、それにわざわざ心を留めて注目してみたり、その鳴き声に聴き耳を立てたりするような人は、世の中に一人だっていはしないではないか。だから、鶯は、当然の如く、とっても素敵なものと相場が決まってしまっているものだと思うにつけて、いろいろな人の勝手な鶯に対する物言いや批判には、私は納得が行かない気持ちがするのである。」である。ここまでの前の鶯の叙述と絡んで述べているので、完璧に理解するためには原典を参照されんことを望む。「枕草子」の原文や現代語訳は有象無象腐るほど(残念ながら、一部は歴史的仮名遣も知らず、また、とんでもない誤訳が散見する、サイト全体が存在しない方がよい部類のものも多いので精選されたい)ネット上にある。

『「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせて』「御門」は「みかど」、「御軍」は「みいくさ」(底本にはルビがあるが、原典には「ゆはず」以外はない)。「弓弭」は弓の木製本体部の上下の両端の、弦(つる)の輪を掛ける部分の名称。弓を射る際に上になる方を「末弭 (うらはず)」、下になる方を「本弭 (もとはず)」 と称する。以上は「日本書紀」の「神武紀」の「神武天皇卽位前紀戊午年」(単純換算で紀元前前六六三年)の「十二月丙申」の冒頭の以下。

   *

十有二月癸巳朔丙申。皇師遂擊長髓彦。連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷。乃有金色靈鵄。飛來止于皇弓之弭。其鵄光曄煜。狀如流電。由是、長髄彦軍卒、皆迷眩不復力戰。長髓是邑之本號焉。因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑。今云鳥見。是訛也。

   *

以下、我流で私が理解出来るように訓読してみる。

   *

十有二月(しはす)癸巳(みづのとみ)朔(ついたち)丙申(ひのえさる)。皇師(くわうし)、遂に長髓彦(ながすねひこ)を擊つ。連(しきり)に戰ふも、取り勝つこと能はず。時に、忽然にして、天、陰(ひし)げ、雨氷(ひさめふ)る。乃(すなは)ち、金色の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たり、皇弓の弭(はず)に止まる。其の鵄、光り曄-煜(かかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)のごとし。是れに由りて、長髓彦が軍卒、皆、迷ひ眩(くら)みて、復た戰(いくさ)を力(きは)めず。長髓、是れ、「邑之本(むらのもと)」の號なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍の鵄の瑞(みつ)を得るに及ぶなり。時の人、仍りて「鵄邑(とびのむら)」と號(なづ)く。今、「鳥見(とみ)」と云ふは、是れ、訛(なま)れるなり。

   *]

 

 鳶は尋常詩歌の材料にはあまり取入れられていないかも知れない。しかし俳語の世界では相当活動しているような気がする。別所氏が「歌人も、俳人も」といわれたのは、いささか早計に失しはせぬかとも考えたが、さてどの位鳶の句があるかということになると、俄に挙げる便宜がない。俳諸には歳時記というものが発達していて、季題になっている動物の事はいろいろ研究してあり、句集も多くは季題によって分類されているので、容易に検出し得るけれども、それ以外の動物の句を特に分類して集めた本は見当らぬからである。相当数の多い鳶の句について、別所氏が前のように述べておられるのを見て、先ず古人が鳶をどう詠んでいるか、少し調べて見たくなった。勿論こういう仕事は、何人(なんぴと)も万全を期するわけに往かぬ。またわれわれの目的は、鳶が如何に俳人に扱われているかを見るにあるので、必ずしも手許にある句を全部羅列しようというのではない。これだけの材料について見ても、俳人が決して鳶に冷淡でなかったことは、十分立証出来るというに過ぎぬのである。

 かつて先輩から聞かされた話によると、以前は東京の空も、麗(うらら)かな日和(ひより)には鳶や鴉が非常に多く飛んだものだが、今は少しも見えない。これは市中の掃溜(はきだめ)が綺麗になって、彼らの拾う餌がなくなったためだろう、ということであった。なるほどその通りであろう。われわれの子供の時分を考えて見ても、鳶はまだそれほど珍しくなかった。漣山人(さざなみさんじん)のお伽噺に、高千穂(たかちほ)艦のマストにとまった鷹の話を聞いて、その運命にあやかろうとした鳶が、町中の電信柱にとまってわざと子供につかまるという筋のものがある。或時われわれの通っていた下町の小学校の屋根に、鳶がとまって長いこと動かぬのを発見し、この話の趣向の偶然ならざるを合点すると共に、鳶という鳥の意外に大きいのに驚いたことがあった。あの頃の市中には彼らの餌になるものがいくらもころがっていたに相違ない。

[やぶちゃん注:「漣山人(さざなみさんじん)」児童文学者巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)の別号。以上のお伽話は「鳶ほりよ、りよ」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該話の画像の冒頭)である。前年に日本が圧勝した日清戦争を題材にしたもので、明治二八(一八九五)年の『少年世界』第一巻第二号に発表された。「個人サイト「巌谷小波研究」の「7.小波御伽噺の展開(2)」にある「失敗するキャラクターたち」によれば、以下のようなおぞましい隠喩(メタファー)が隠されたおぞましい童話である。

   《引用開始》

 安倍季雄が心に残っていると回想していた「鳶ほりょ、りょ」を見てみよう。これは、高千穂艦の帆柱にとまった鷹の真似をして、鳶が電信柱の上にとまって、人間がつかまえてくれるのを待つ話である。子どもは鳶をつかまえて「豚尾、捕虜、虜」と町じゅうを引きずりまわす。鳶は清国の辮髪を豚尾と呼んだのとかけている。清国のアレゴリーである。寓意の方は、鳶が鷹の真似をする〈身の程知らずの大たわけ〉という小波お伽噺のなかでも一番馴染みのものである。この時期の作品は、大部分が清国を暗喩するキャラクターの一人芝居による失敗談だが、この鳶の失敗ぶりは、「鳶ほりよ、りょ」という語呂合わせの洒落もうまくいって、その代表といっていいものになっている。

   《引用終了》

題名の「ほりよ、りよ」は最後まで読むと判る。]

 ペルリ上陸の大きな記念碑の建っている久里浜の一角に、一泊がけで遊んだ時は、何よりも鳶の多いのに驚かされた。鳶の声で目を覚したのは、この時が最初の経験である。一泊した家の外側が直(す)ぐ広い砂地で、そこに魚か何かが干してあったから、それを狙って来るのであろう。多くの鳶は悠々と空に輪を描かず、砂の上に下りて頻(しきり)に鳴き立てる。全くうるさい位であった。鳶の少くなった今の東京でも、東京港となった芝浦の空には、しばしば鳶の飛翔するのを見かける。あれは御浜御殿(おはまごてん)の鬱蒼たる立木の中に、巣があるために相違ないが、同時に彼らの餌が絶無でない結果と思われる。

[やぶちゃん注:「御浜御殿(おはまごてん)」現在の東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園浜離宮恩賜庭園。]

 大正十一年であったか、亡友井浪泊村(いなみはくそん)君が須磨に病を養っていた頃、送って来た句稿の中に、鳶を詠んだものが沢山あった。今おぼえているのは、「亦今日も午後の曇や鳶の秋」という一句に過ぎぬが、その句が多いだけ須磨の空には多くの鳶が飛翔し、病牀(びょうしょう)の泊村君は窓外に眼を放って無聊(ぶりょう)を慰めつつあるものと想像された。同君を須磨に見舞ったのは八月の暑い頃で、蒼茫と暮れて行く海の色を見ながら、夜に入るまで雑談に耽ったが、鳶の事は記憶にない。その後また暫く須磨におった時分の句に、「秋の鳶返りつゝ鬪へり」というのがある。あるいは須磨の鳶は秋に入って特に人の眼に親しくなるのかも知れない。元禄時代にも

 

 鳴(なき)もせで鳶の山行(ゆく)須磨の秋 史顯

 

という句があるから、古人も夙(つと)に、須磨の鳶に著眼していたのである。山を負い海を控えた須磨のような土地に、多くの鳶が飛翔するのは当然でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「大正十一年」一九二二年。

「井浪泊村」不詳。]

 岡本綺堂氏の随筆に「鳶」という一篇があって、東京に鳶の多かった時代から、次第に少くなった昭和年間にまで説き及ぼしてある。麹町に生れた綺堂氏は子供の時分から鳶は毎日のように見ており、トロトロトロというような鳴声も聞慣れていた。鳶に油揚を攫われるという事実もしばしばあったし、肴屋が盤台をおろして肴を拵えているところへ、鳶が突然舞下って来て、魚や魚の腸(はらわた)などを攫み去ることも珍しくなかった、と書いてある。日露戦争前に東京に来ていた英国の留学生が、大使館の旗竿に鳶がとまっているのを見て、「鳶は男らしくて好い鳥です。しかしロンドン附近ではもう見られません」というのを聞き、心ひそかにおかしく思ったが、その鳶もいつか保護鳥になり、東京人もロンドン人と同じく、鳶を珍しがる時代が来た。自然の運命であるから、特に感傷的の詠歎を洩すにも及ばないが、「鳶の衰滅に對して一種の悲哀を感ぜずにはゐられない」というのである。都市の発展に伴う鳶の衰滅は、明治より大正昭和に至る変遷の一片であるが、「鳶」の書かれた昭和十一年から、約二十年たった今日でも、東京の鳶は絶滅に帰していない。大東京の空は以前とは比較にならぬ広さだから、まだまだ当分は高く舞う彼らの姿を眺め得るはずである。

[やぶちゃん注:『岡本綺堂氏の随筆に「鳶」』昭和一一(一九三六)年五月発行の『政界往来』初出。後の単行本「思ひ出草」「綺堂むかし語り」に収録された。後者が「青空文庫」で電子化されており、こちらで読める。]

 後徳大寺実定(ごとくだいじさねさだ)は寝殿に鳶がとまらぬように、屋の棟に縄を張った。西行法師がそれを見て、「鳶の居たらむ、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」といって、その後は実定のところへ行かなくなつた。しかるに綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)の小坂殿(こさかどの)の棟に、やはり縄を引かれたことがあったので、これも実定のような事かと思ったら、「鳥の群れ居て、池の蛙を取りければ、御覧じ悲ませ給ひてなむ」という慈悲に基づくものであった。後徳大寺にも何か理由があったのかも知れぬ。――こういう話が『徒然草』に出ている。藤岡東圃(ふじおかとうほ)博士の説によると、西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があったからで、鳶のために縄を張ったというような瑣々(ささ)たる話ではない、ということだったと思うが、そう脱線していては際限がないから、穿鑿には及ばぬこととする。もし鳶に手近な目的があって屋の棟にとまるものとすれば、その対象が池の蛙であるにしろないにしろ、愉快な事柄ではあるまい。われわれでもかつて雞(とり)を飼っていた頃、鳶が低く舞い過ると、雞が一斉に怕(おそ)れて声を立てるので、長閑(のどか)なるべき鳶の影にも、あまり親しみを感じなかった経験を有するからである。

[やぶちゃん注:文中の「綾小路(あやのこうじの)宮」の読みの「の」は私が恣意的に補ったもので底本にはない。

「後徳大寺実定」公卿で歌人の徳大寺実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)のこと、別名を「後徳大寺左大臣」と称したことから、「後」が附されてある。右大臣徳大寺公能(きんよし)の長男。最終官位は正二位・左大臣。親幕派で源頼朝から厚く信頼された。西行はその昔、徳大寺左大臣の家人(けにん)で、彼は元主君あった

「綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)」(生没年未詳)「しょうえほうしんのう」と読む。鎌倉後期の亀山天皇の皇子。母は三条公親(きんちか)の娘。弘安七(一二八四)年に天台宗妙法院で出家、翌年、親王となり、後、同院門跡となった。「綾小路宮」は通称。

「小坂殿(こさかどの)」不詳。妙法院内の性恵の居所の通称か、或いは、妙法院そのものの別号かも知れない。

「こういう話が『徒然草』に出ている」第十段。

   *

 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假(かり)の宿りとは思へど、興あるものなれ。

 よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立、もの古(ふ)りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

 多くの工(たくみ)の、心を盡してみがきたて、唐(から)の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間(ま)の烟(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

 後德大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寢殿に鳶ゐさせじとて、繩を張られたりけるを、西行が見て、

「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿(との)の御心(みこころ)、さばかりにこそ。」

とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟(むね)に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、

「まことや、烏の群れゐて、池の蛙をとりければ、御覽じかなしませ給ひてなん。」

と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覺えしか。德大寺にも、いかなる故(ゆゑ)か侍りけん。

   *

「藤岡東圃」東京帝国大学助教授で国文学者(専門は国文学史)の藤岡作太郎(明治三(一八七〇)年~明治四三(一九一〇)年の号。

「西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があった」私は藤岡氏の論考を読んだことがないので、不詳。ただ、この話、「徒然草」にやや先行する「古今著聞集」の「卷第十五 宿執」にも「西行法師、後德大寺左大臣實定・中將公衡等(ら)の在所を尋ぬる事」と題した一章としても載っており、そこではこの実定が、かくも物や金やに激しく執着し、主に経済上の問題から正妻をもないがしろにして別な女性に走っていたこと(新潮古典文学集成の頭注に有り)、また、彼の一族が出家に踏み切れぬことなどに対し、西行が完全に愛想を尽かしている様子が語られており、藤岡氏の言っているのは、或いはそうしたものと関係があるのかも知れぬ

「雞(とり)」鶏(にわとり)。]

 以上のように見て来ると、鳶のわれわれに与える印象も大分複雑である。別所氏は「この鳥も視力が強く、遠くよりおろし来って、ヘビや、ネズミをとり、腐肉を食して、人間を助ける」という功績を認められた。鳶が保護鳥になっているのもそのためであろうが、この能力が一面において油揚を攫い、魚や魚の腸を掠(かす)め去る上にも役に立っている。遂には人間にして白昼搔払(かっぱら)いを働く者が、昼鳶(ひるとんび)の尊称を受けるに至るのだから、なかなか油断は出来ない。尤も俳人はそんな点に深く拘泥せぬ。林若樹(はやしわかき)氏のいわゆる風流無責任論で、菜畑に舞う翩々たる蝶の姿も、卵を産みつけに来るのだと思えば、可憐とのみいい去ることは出来ぬかも知れぬが、俳人は蝶の前身や後身に思(おもい)を致さず、ただ眼前の姿の美を句にしている。「胡蝶にもならで秋ふる葉蟲かな」というような見方をしている者は極めて少い。鳶についてもまた同様であろう。

[やぶちゃん注:「林若樹」(明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は在野の考古学及び民俗学研究者で古書古物の収集家。本名は若吉。東京生まれ。ウィキの「林若樹」によれば、『早くに両親を失い、叔父の林董』(ただす 嘉永三(一八五〇)年~大正二(一九一三)年:旧幕臣で外交官・政治家)『に養われる。祖父の林洞海』(どうかい 文化一〇(一八一三)年~明治二八(一八九五)年:蘭方医で幕府奥医師)『から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校は中退する。その頃から遠戚にあたる東京帝国大学の教授・坪井正五郎の研究所に出入りし』、『考古学を修める。遺産があったので定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら古書に限らず』、『雑多な考古物を蒐集する』明治二九(一八九六)年、『同好の有志と「集古会」を結成。幹事となり』、『雑誌『集古』の編纂をする。人形や玩具の知識を交換し合うために』、明治四二(一九〇九)年に『「大供会」を結成。「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて』、『大槻文彦・』『山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・』『三田村鳶魚・内田魯庵・』『寒川鼠骨・』『森銑三・柴田宵曲といった人々と交流し、自らの収集品を展覧に任せた』(下線やぶちゃん)。]

 

2017/11/17

柴田宵曲 俳諧博物誌 (1)  はしがき

 [やぶちゃん注:本「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年八月日本古書通信社刊。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してあるので、必ず参照されたい。一部の引用部は底本の字配を無視しているが(ブログ公開時のブラウザの不具合を防ぐ目的のみ)、一々注さない。この注は以下、繰り返さない。]

 

     はしがき

 

 はじめてジュウル・ルナアルの『博物誌』を読んだ時、これは俳諧の畠(はたけ)にありそうなものだと思った。『博物誌』からヒントを得たらしい芥川龍之介氏の「動物園」の中に、

 

       雀

 これは南畫(なんぐわ)だ。蕭々(せうせう)と靡(なび)いた竹の上に、消えさうなお前が揚(あが)つてゐる。黑ずんだ印(いん)の字を讀んだら、大明方外之人(だいみんはうぐわいのひと)としてあつた。

 

とあるのを読んだ後、『淡路嶋(あわじしま)』に

 

 枯蘆(かれあし)の墨繪に似たる雀かな 荊花(けいくわ)

 

という句を発見して、その偶合に興味を持ったことがある。古今の俳句の中から、こういう俳人の観察を集めて見たら、日本流の博物誌が出来上るであろうが、今のところそんな事をやっている暇がない。墨絵の雀を手控(てびかえ)に書留めてから、已に何年か経過してしまった。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「動物園」の前後を一行空けた(以下の俳句以外の改行引用も同処理した。以下ではこの注を略す)またその引用は底本に従わず、私の岩波旧全集準拠の「動物園」の古い電子テクストに拠った

「ジュウル・ルナアルの『博物誌』」私の偏愛するフランスの作家ジュール・ルナール(Jules Renard  一八六四年~一九一〇年)が一八九六年に発表したアフォリズム風随想Histoires naturelles。私が如何に偏愛しているかは、電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)(ナビ派(Les Nabis:ヘブライ語「預言者」)のピエール・ボナール(Pierre Bonnard 一八六七~一九四七年)の挿絵全添付)をご覧になればお判り戴けるものと存ずる。

「大明方外之人」とは中国は「明の世捨て人」の意。

「淡路嶋」諷竹編になる俳諧選集。元禄一一(一六九八)年成立。全二冊。]

 尤も俳諧におけるこの種の観察は、元来一部的な傾向である。ルナアル的観察といえば新しく聞えるようなものの、やはり擬人とか、見立(みたて)とかいう平凡な言葉で片付けられやすい。奇警な観察が第一の価値である以上、その顰(ひそみ)に倣(なら)う者は、どうしても様(よう)に依って胡蘆(ころ)を画(えが)くことになる。仮に陳腐を嫌って、一々新意を出すとしても、その新しさが観察の範囲を脱却し得ぬとすれば、俳諧の大道にはやや遠いものといわなければならぬ。ルナアルの成功は散文の世界にああいう観察と、短い表現を持込んだ点にあるので、そこに若干の智的分子を伴うだけ、俳句のような詩では純粋な作を得がたいのである。

[やぶちゃん注:「様(よう)に依って胡蘆(ころ)を画(えが)く」旧来の定まった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描くという意で、先例に従っているだけで創意工夫がまるでないことの批判的な譬え。宋の魏泰(ぎたい)の随筆「東軒筆録」を出典とする。]

最も手近な一例を挙あげるならば、

 

  二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。

 

というのが、『博物誌』の中の「蝶」であるが、元禄の俳人は同じく蝶に関して

 

  封〆(ふうじめ)を蝶の尋(たずぬる)ぼたんかな 潭蛟(たんこう)

 

の句を遺(のこ)している。一は蝶の形を二つ折の恋文と見立て、一は牡丹ほたんの封〆を蝶が尋ねると観察したのだから、その内容は同一でないにかかわらず、この両者は異曲にして同工と見るべき点がある。しかも潭蛟の句は牡丹の句としても、蝶の句としても竟ついに記憶されるほどのものではない。

[やぶちゃん注:「二つ折りの恋文が、花の番地を捜している」宵曲はあたかも自分が訳したように平然と記しているが、これは明らかに岸田国士訳(昭和一四(一九三九)年白水社刊初訳)のそれである。柴田のこういうやり口は許されるものではない。なお、原文は以下。

   *

 

      LE PAPILLON

   Ce billet doux plié en deux cherche une adresse de fleur.

 

   *

 

 搗立(つきたて)に白粉かけてや春の月 露川

 眞中に一目置くや今日の月 十竹(じつちく)

 

 この二句はいずれも月を題材にしている。搗立の餅のすべすべした上に白粉をかける、それを朧(おぼろ)なる春の月に見立てたので、餅の形の丸いことから、月の完円なることを示しているのかも知れない。「眞中に」というのは碁盤の見立である。碁盤の真中に一つ碁石を置く。天心に懸かかる月をその一目の石と見たのだから、その形容からいって当然白石の方であろう。餅とか、碁盤とかいうことを文字に現さぬのは、作者として用意の存する所であるかどうか。譬喩(ひゆ)は一々説明してかからぬ所に面白味があるかと思うが、それだけまた智的に想像せしむる傾(かたむき)を免れぬ。

 

 人も巢に顔出してゐる紙帳(しちやう)かな 馬泉

 

 紙帳から首ばかり出している人の形を、鳥の巣から鳥が首を出しているかの如く見立てたのであるが、「人も巣に」の語は少しく窮した感がある。巣の一字だけで鳥の巣にすることも、この場合無理といえば無理であろう。

[やぶちゃん注:紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。季語としては夏であるが、防寒用にも用いた。]

 

 夕ばえの半襟(はんえり)赤き燕(つばめ)かな

           紫筍母(しじゆんのはは)

 蒲(がま)の穗や明(あけ)て狐のとぼしさし

           扶浪(ふらう)

 

 燕の衿許(えりもと)の赤いのを半襟に見立てたのは、さすがに女らしい観察である。蒲の穂の形は蠟燭に似ている。狐には狐火というものがあるところから、「明て狐のとぼしさし」といい、夜が明けて火の消えた蠟燭と見たのである。蒲の穂を蠟燭に見立てた句は他にもあったと思うが、狐火を取合せて「とぼしさし」の蠟燭にしたのがこの句の趣向であろう。但(ただし)信州方面には蒲の穂を「狐の蠟燭」と呼ぶ土地があるそうだから、もし元禄時代からそんな名称があったとすれば、作者の働きは少くなる。蒲の穂を乾かして油に浸すと、よく燃えるという話もある。いろいろな因縁は具(そなわ)っているが、この句も遺憾ながら智的な興味に堕している。

 

 蒲公英(たんぽぽ)の夕べ白骨と成(なり)にけり   桐花

 

 蒲公英の花が白い穂綿(ほわた)のようになったのを捉えたので、明(あきらか)に「朝(あした)に紅顔夕(ゆうべ)に白骨」ということを蹈ふまえている。ただ白骨はいささか強過ぎる。「たんぽゝもけふ白頭に暮の春」という句は雅馴(がじゅん)であるのみならず、蒲公英の形容としても白頭の方が遥(はるか)に適切である。

[やぶちゃん注:「朝(あした)に紅顔夕(ゆうべ)に白骨」朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨(はっこつ)となる」この世は無常であって人の生死(しょうじ)は予測出来ぬことを言う成句。後に蓮如が「御文章」で用いたのが知られるが、「和漢朗詠集 下 無常」の

   *

朝(あした)に紅顏(こうがん)あて世路(せいろ)に誇れども 暮(ゆふべ)に白骨(はくこつ)となて郊原(かうぐゑん)に朽ちぬ 義孝(よしたかの)少將

 朝有紅顏誇世路 暮爲白骨朽郊原 義孝少將

   *

が原出典である。]

 

 うづみ火も冬の雨夜の螢かな      鼠彈

 石摺(いしずり)のうらや斑(まだら)に夜の雁(かり)

                    露川

 燒飯に毛のはえて飛(とぶ)鶉(うづら)かな

                    昆綱

 何船ぞかまぼこうかぶ浦の雪      金水(きんすい)

 臍の緒の蔓も枯(かれ)ゆく瓠(ひさご)かな

                    兎格

 

 まだ必要があればいくらでも挙げ得るが、この種の句の見本としては先ずこんなところでよかろうと思う。以上は手許の俳書から目についたままを抽き出したので、もっと丹念に捜したら、多少は面白いものが出て来るかも知れぬが、畢竟こうした観察によって本筋の句の得にくいことを示せば足るのである。「俳諧博物誌」と銘打ったのは、決してルナアル的観察に終始するわけではない。これを冒頭として各方面にわたる俳句の世界を一瞥しようというので、フランスの『博物誌』とは縁の遠いものになりそうである。もともと博物だから、大概なものは包含される理窟だけれども、結果は恐らく羊頭狗肉におわるであろう。いささか由来書を述べて前口上とする。

 

2017/11/16

柴田宵曲 猫 五 / 猫~了


 猫の眼というものは慌しく変化する例に引かれるが、

 

 酔うた目と猫の目かはる胡蝶かな   貞佐

 

の如き句ではあまり面白くない。

 

 ひるがほや猫の糸目になるおもひ   其角

   里家春日

 猫の目のまだ昼過ぎぬ春日かな    鬼貫

 

 この二句は猫の目が午時(ひるどき)に至って、糸のように細くなることを捉えている。猫の眼の変化というのも、畢竟忽ちに糸の如くなるところから起ったのであろう。

 

 凩(こがらし)や眕(まばたき)しげき猫の面(つら)

                   八桑

 むらしぐれ猫の瞳子(ひとみ)もかはり行く

                   旨原

 

なども当然この範疇に属すべきものと思われる。

 

 猫の眼のいとたへがたきあつさかな  田女

 

 これは猫の眼がとろりとして、如何にも大暑に堪えぬように見えるというのであろうか。猫は寒に怖(お)じるけれども、暑には平然としている。猫を爾(しか)く見るのは、作者の方が暑に悩まされていることはいうまでもない。

 

 寒食や竃下(さうか)に猫の目を怪しむ 其角

 いなづまや黑猫のめをおびやかし    りん女

 

 暗きに青光りする猫の眼は無気味なものである。この二句はその趣を描いているが、真に妖気を発するところまで往っていない。十七字詩にこれ以上を求めるのは、あるいは無理なのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「寒食」(かんしょく)は陰暦で冬至から百五日目に行った行事或いはその日。古代中国に於いては、この日に火気を用いずに冷たい食事を摂った。これは、その頃に風雨が激しいことから、実用上の火災予防のためであるとも、また、一度、火を断って、新しい火で春を促すための予祝行事起原とも言われる。春の季語。]

 「猫の鼻は夏至の一日のみあたたかし」という諺がある。これは『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に「其鼻端常冷(そのびたんつねにひゆ)、唯夏至一日媛(ただげしいちじつのみあたたかし)」とあるから、支那伝来のものらしいが、日本でもよく耳にするように思う。

[やぶちゃん注:「酉陽雑俎」唐代の八六〇年頃に成立した段成式(八〇三年~八六三年)撰になる、古今の異聞怪奇を記した随筆。

「其鼻端常冷(そのびたんつねにひゆ)、唯夏至一日媛(ただげしいちじつのみあたたかし)」「のみ」は私が特異的に恣意的に附した。「酉陽雜俎 續集卷八」の「支動」に以下のようにある。

   *

貓、目睛暮圓、及午豎斂如糸延。其鼻端常冷、唯夏至一日暖。其毛不容蚤、虱黑者暗中逆循其毛、卽若火星。俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓、有褐花者。靈武有紅叱撥及靑驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。

   *]

 

 水無月や暑さを探る猫の鼻   銀雨

 

は明(あきらか)にこの趣である。俳人は猫の額より更に面積の狭い鼻にも、種々の観察を下している。

 

 立花にこすりてやらん猫の鼻  舟雅

 秋風の吹通し也(なり)猫の鼻 丿松(べつしよう)

 酒くさききく嗅ぐ猫や鼻の皺(しは)

                神叔

 石蕗(つはぶき)の日蔭は寒し猫の鼻

                抱一

 

 鼻をこすりつけるのは、猫が叱られる場合である。特に芳しい橘(たちばな)にこすりつけるというのに、何か意味があるのであろうが、これだけでは十分にわからない。「酒くさききく」というのは酒宴などの意味か、「鼻の皺」を捉えるに至っては、微細な観察の必ずしも近代俳人の檀場でないことがわかる。

 ひとり近代俳人が微細なる観察を誇り得ぬのみではない。俳諧という詩の生れるより数百年前に、平安朝の才女清少納言は、猫の耳を観察することを忘れなかった。『枕草子』に「むつかしげなるもの」として挙げた中に、先ず「ぬひ物のうら、猫の耳のうち」とある。これには蕉門の俳人もいささか驚いたと見えて、越人は享保十四年版の撰集に『猫の耳』という名をつけた。『蕉門珍書百種』がこの書を覆刻した時、野田別天楼(べってんろう)の開題に「枕草子に、宮中に飼われていた「命婦(みょうぶ)のおとど」という猫が、翁丸という犬に脅かされた談(はなし)が載っている。しかし猫の耳のことは見当らない」と断ぜられたのは、千慮の一失であろう。罔両子(もうりょうし)の序に「集を猫耳といふ事は淸女か筆にとるならし」というのも、機石の跋に「如何淸女かいへる猫耳を一刀に截斷(せつだん)して俳語の南泉と悟入し」云々とあるのも、皆前に挙げた「むつかしげなるもの」を指しているので、この才女の俳眼に感服した結果、採って我撰集の名としたに相違あるまい。現に『猫の耳』の跋を書いた機石は、『鵲尾冠(しゃくびかん)』に左の一句をとどめている。

[やぶちゃん注:「『枕草子』に「むつかしげなるもの」として挙げた中に、先ず「ぬひ物のうら、猫の耳のうち」とある」「枕草子」の「むつかしげなるもの」(一般に第百五十段とする)は、

   *

 むつかしげなるもの

 繡物(ぬひもの)の裏。鼠の子の毛もまだ生(お)ひぬを、巢の中よりまろばし出でたる。裏まだ付けぬ裘(かはぎぬ)の縫目(ぬひめ)。猫の耳の中。ことに淸げならぬ所の、暗き。

 ことなる事なき人の、子などあまた持(も)てあつかひたる。いと深うしも心ざしなき妻(め)の、心地あしうして久しう悩みたるも、夫(をとこ)の心地(ここち)はむつかしかるべし。

   *

であり、中の二品を恣意的に飛ばしていて、よろしくない。

「享保十四年」一七二九年。

『枕草子に、宮中に飼われていた「命婦(みょうぶ)のおとど」という猫が、翁丸という犬に脅かされた談(はなし)が載っている』一般に第六段とされる「上(うへ)にさぶらふ御猫(おほんねこ)は、かうぶり得て[やぶちゃん注:五位の位を賜って。]「命婦(みやうぶ)のおとど」とて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、……」で始まる長い章段(原文や現代語訳は有象無象あるのでご自分お探しあれ)。

「南泉」禪語の公案に洒落たもの。私の古い電子化野狐禪訳注無門關 十四 南泉斬猫を参照されたい。因みに、關」完全訳注にある。]

 

  淸少納言もよく見て

 木茸(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳 機石

 

 「よく見て」は「よく観察して」の意である。木茸を耳の形容に用いることは、明治年間までは極めて普通であった。この句は猫の耳を木茸に擬し、「むづかしや」の語に『枕草子』の「むつかしげなるもの」を利かせたのであろう。『鵲尾冠』もまた越人撰の集だから、機石の名が両方に見えるのは当然でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「木茸(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae。]

 

 木枯や更行(ふけゆく)夜半(よは)の猫のみゝ 北枝

 

 この句になると已に『枕草子』を離れている。木茸に似た猫の耳のうちの観察でもない。更け渡る木枯の夜に、座辺に睡っている猫が時に聴耳(ききみみ)を立てたりする。聴耳を立てるまで往かずとも、懶(ものう)げに耳を動かしたりする。人は冬夜の閑に坐して、その耳を見ているというような趣であろう。

 

柴田宵曲 猫 四

 

 猫の子という季題は、現在では夏になっている。猫の恋が春で猫の子が夏なのは当然過ぎるほど当然である。古句にも猫の子を詠んだものは少くない。

 

 猫の子や蠅を押へし菅(すが)むしろ  長久

 蚊屋釣(つり)ていれば吼(ほゆ)る小猫かな

                    宇白

 猫の子のざれて臥(ふし)けり蚊屋の裾 史邦

 猫の子も外へ出たがる蚊やりかな    和應

 猫の子に齅(かが)れて居るや蝸牛   才麿

 猫の子の巾著(きんちやく)なぶるすゞみかな

                    去來

 

 これらの例を以て見れば、古人は猫の子を夏と認めてはいるけれども、必ずしも独立した季題として取扱っていない。何か背景になるべき風物を捉えている。むやみに季題を多くすることは、歳時記を賑(にぎやか)にする代りに、季感を稀薄にする虞がないともいえぬ。配合物によって季感を豊(ゆたか)にするのも、句を作る上に欠くべからざる用意であろう。

 寺田博士は「鼠と猫」という随筆の中で「我家に来て以来一番猫の好奇心を誘発したものは恐らく蚊帳であったらしい。どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人が居て自分が外に居る場合にそれが著しかった」といい、この事実を解釈して「蚊帳自身か或は蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。或は蚊帳の中の蒼(あお)ずんだ光が、森の月光に獲物を索(もと)めて歩いた遠い祖先の本能を呼び覚(さま)すのではあるまいか。若(も)し色の違った色々の蚊帳があったら試験して見たいような気もした」と述べている。宇白及(および)史邦の句は、この意味において注意すべきものがありそうな気がする。

[やぶちゃん注:「鼠と猫」寺田寅彦の随筆。大正一〇(一九二一)年十一月発行の『思想』初出。以上はその「四」の冒頭である。「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 

 子をうんで猫かろげなり衣がへ   白雪

 子を食(くら)ふ猫とこそ聞け五月闇(さつきやみ)

                  吏登

 麥秋や猫の子を産む男部(をとこべ)や

                  馬厓(ばがい)

 灌佛(くはんぶつ)や猫は生れて目もあかず

                  呉天

 

 白雪の句は「子をつれて猫も身がるし」ともある。これらは同じ猫の子であるが、前の諸句のように独立性がない。人間でいえば襁褓(むつき)時代である。子を産んで身軽になった猫と、軽い袷(あわせ)に著替えた人間とは、季節の上ばかりでなしに、気分の上でも一致するところがある。そこへ行くと灌仏の猫の方は、涅槃会の猫と一脈の繫(つなが)りがありそうで、句としてはあまり面白くない。

 

 若猫やきよつと驚く初真桑(はつまくは) 木導

 

 どの位までを猫の子といい、どの辺からを若猫というか、それは人によって見方が違うかも知れぬ。木導のこの句も「ねこの子」となっているのがある。

 

 若猫を猶狂はする尾花かな        卜梢

 

 この若猫は初真桑に驚いたのより弟分であろう。秋になって生れる秋子も無論ある。

 

 猫の子もそだちかねてや朝寒し      元灌

 

というのがそれである。

 

 若猫のつはり心や寒の中(うち)     許六

 猫の子のまもれる軒の鰯かな       幸日(こうじつ)

 

などは、その秋子が無事に成長した場合と解せられる。

 

 盜み行(ゆく)猫のなきだす袷かな    木導

 

 これは猫の子と断ってはないけれども、盗んで袂(たもと)に入れたのが啼き出すのは、子猫でないと工合が悪い。

 夏の句になって著しく目につくのは、牡丹に配したものの多いことである。

 

 ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶    蕪村

 

 この句は『蕪村句集』にもなければ『蕪村遺稿』にもない。『新花摘』に出ている。従って子規居士以下の輪講には漏れてしまったが、居士はこれを風変りな句と評したことがあったかと思う。蕪村の専門である絵画より得来った題材であろう。但(ただし)実際そこに金を以て蝶を画き、銀を以て猫を画いてあったか、白猫黄蝶を理想化してこういったのか、その辺はよくわからない。白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり、

 

   西行の贊

 白かねの猫も捨けり花の旅   蓼太

 

などという句もあるが、この句はそれとは没交渉である。

[やぶちゃん注:「白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり」私の北條九代記 西行法師談話を参照されたい。]

 

   牡丹にてふの畫

 猫はまだ知らぬ牡丹の胡蝶かな    也有

   牡丹に猫の畫

 猫に蝶に賑ふ花の富貴(ふうき)かな 同

   牡丹に鳥の繪

 鳥が來て猫に罪なき牡丹かな     同

   睡猫に蝶の畫

 夢に牡丹見て居る猫の晝寐かな    同

 

 これらはいずれも画による著想である。その悉くが猫を画いたものではないにせよ、牡丹の画に対して猫を連想することの偶然ならざることは明(あきらか)であろう。

 

 何事ぞぼたんをいかる猫の樣     南甫(なんぽ)

 線香に眠るも猫の牡丹かな      支考

 牡丹には免(ゆる)さぬ猫の憎きかな 三笑

 

 この三句はいずれも元禄期の作であるが、絵画を経由せざる自然の配合である。「ほたんをいかる」というのは、はじめて牡丹の花を見た猫の驚異なのかも知れぬ。三笑の句意は十分にわからぬが、猫が牡丹を痛めるとか、花を散らすとかいうことを指すのではあるまいか。也有の句の「鳥が来て猫に罪なき」と併看すれば、どうやらそういう解釈が成立ちそうである。

柴田宵曲 猫 三

 猫に配した春の植物の句は梅が最も多く、桜、海棠、椿、藤、柳、菜の花、独活(うど)、蕗(ふき)の薹(とう)などいろいろあるが、それほど面白いものもない。

 

 うち晴て猫の眠るや庭さくら    春水

 ぬつくりと寢てゐる猫や梅の股   几董

 

の兩句は同じように睡猫を描いている。前者が背景を主にし、後者が状態を主にしたあたり、元禄と天明との相違を窺うべきものであろう。

[やぶちゃん注:「元禄と天明との相違」「元禄」(前者春水(但し、この人物も句も出典不明。識者の御教授を乞う)の活躍期)は一六八八年から一七〇四年まで。「天明」(後者の几董の天明俳諧を指す)は一七八一年から一七八九年まで。高井几董(寛保元 (一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は其角に私淑し、明和七(一七七〇)年三十歳の時に与謝蕪村に入門している。]

 

 猫逃て梅うごきけりおぼろ月     言水

 

も実景ではあろうが、やはり

 

 くはらくはらと猫のあがるやむめの花 許六

 

の方が生趣に富んでいるようである。

 尋常に甘んぜざる其角は、猫と蝶との配合において次のような趣を見出した。

 

 猫の子のくんづほぐれつ胡蝶かな      其角

   薗中(ゑんちゆう)の吟

 蝶を嚙(かん)で子猫を舐(なむ)る心かな 同

 

 猫の子が蝶に戯れる光景とも解せられ、猫の子同士が戯れる上に蝶の飛ぶ意とも解せられる。翩々たる蝶を捕えかねて追いかけるところを「くんづほぐれつ」といったとしても、甚しい無理とは思われぬが、猫の子同士が組んずほぐれつする方が自然であろう。「薗中の吟」は単なる実景でなしに、何か寓する所があるらしい。もし蝶が子猫の害をなす者であったら、憎愛の二色が判然として隠れたる所なしであるが、それでは趣がなくなる。或時は蝶を嚙み、或時は子猫を舐(なめ)る。薗中の趣は蝶の一字に発揮されているように思われる。

 

 酔うた目と猫の目かはる胡蝶かな   貞佐

 蛤を猫に預けてこてふかな同     同

 から猫や蝶嚙む時の獅子奮迅     抱一

 

 これらの句も猫に蝶を配したものであるが、其角のような妙味がない。抱一は其角の二句を学んでいるだけに、かえって及ばざること遠いところを暴露している。

[やぶちゃん注:貞佐の一句目、暗愚な私にはよく句意が汲めない。識者の御教授を乞う。

「其角の二句を学んでいる」言わずもがなであるが、主語は我々(読者)のこと。]

 

 まふてふの跡けがらはし猫の糞    笑成

 蝶飛(とび)て花くふ猫の木陰かな  枕螢

 

 これらも別にすぐれた句ではないけれども、貞佐や抱一とは比較にならぬ。前に挙げた太祇の「蝶とぶや腹に子ありてねむる猫」なども、違った趣を捉えている点で一顧する必要がある。

 釈尊の入滅に参り合せなかった動物は猫だけであるといい、だから涅槃像には猫が画いてないのだという。猫嫌いの人はこれを以て猫の情に乏しい一理由に算えるようだが、俳人は季題の関係からこの伝説を見遁さなかった。

 

 佛には別れて猫の化粧かな      直水(ちよくすい)

 涅槃會や猫は戀してより付(つか)ず 許六

 鼠とる涅槃の猫と詠めけり      言水

 戀ゆゑの猫のうき名や涅槃像     童平

 涅槃會や猫のなく音はうはの空    田女

 

 涅槃会に疎(うと)かった理由を「猫の戀」に結びつけるのは、浅薄でもあり、即(つ)き過ぎてもいる。そういう人間にしたところで、勝負事に耽っては親の死目に逢い損うのだから、あまり威張った口は利かぬ方がいいかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「涅槃會」(ねはんゑ(え))は釈尊が亡くなって涅槃に入ったとされる日に行われる仏教の法会。一般に二月十五日とされる。私の誕生日である。]

 けれども涅槃会の猫は大体において概念の世界を脱し得ない。そこへ往くと同じ人事に配した句でも、「出代り」の方には実感が伴って来る。

[やぶちゃん注:「出代り」「出替り」とも書く。主に商家に於いて、半季奉公及び年季(年切)奉公の雇人が交替したり、契約を更新・変更する日を指す。この切替えの期日は地方によって異なるが、半季奉公の場合は二月二日と八月二日を当てるところが多かった。但し、京や大坂の商家では元禄以前から既に三月と九月の両五日と定めてあった。二月・八月の江戸でも、寛文八(一六六八)年、幕府の命により、京阪と同じ三月と九月に改められたものの、以後も、出稼人の農事の都合を考慮したためか、二月・八月も長く並存して行われた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

 出かはりや猫抱(だき)あげていとまごひ 慈竹

 出替りや淚ねぶらすひざの猫       木導

 出替の留主事(るすごと)するか猫のつま 吾仲

 出代やあとに名殘の猫の聲        和嶺

 

 犬とか猫とかいうものは、雇人に親しむ機会が多いから、別を惜しむのに不思議はない。「猫抱あげていとまごひ」だの、「淚ねぶらす」だのということは、必ずしも拵えた趣向とのみいい去ることは出来ぬが、即き過ぎていることは慥(たしか)である。俳句の場合、往々にして人情が障りになるのは、この即き過ぎる点にある。

 猫に鰹節は常識に過ぎるせいか、あまり見当らぬ。

 

 氏よりもそだちや猫に花鰹   論派(ろんぱ)

 

の句が花で春の季になるなども、あまり働かぬ趣向である。

 いささか意外の感があるのは、燕を配合したものが数句に上ることで、家の軒に巣を食う燕と、屋根歩きをする猫とは因縁がありそうなところであるが、われわれには所見がない。

 

 巣立まで猫の御器(ごき)借ル燕かな 喜友

 燕(つばくろ)の出入や猫の夢ごゝろ 任長

   おもはずつばくらにつらをけられたる猫あり

 妻もやと燕見かへる野猫かな     魚兒

   かくいへる我も別をおしみて

 契りおく燕と遊ん(あそば)庭の猫  園女(そのめ)

 

 燕に面を蹴られるなどは、どう考えても不自然を観察である。それを妻かと思って見返るに至っては、いよいよ面白くない。猫の食器のものを利用することが果してあるかどうか。要するに猫の相手になるには、燕の動作が軽捷過ぎるので、調和を得にくいように感ぜられる。猫が睡っている上を燕が身軽に出入する。猫はそれを見るでもなく夢心でいるなどというのが、比較的無理のないところであろうが、句の出来はあまり面白くない。

 

 飛(とび)かはづ猫や追行(おひゆく)小野の奥

                   水友

 猫はのけ蛙も面を洗ふらん      百里

 

なども別にいい句ではないにせよ、猫と蛙の間には実際的な調和がある。先天的に虫を好む猫が蛙を銜(くわ)えて来ることは、決して珍しい話ではない。佐藤春夫氏の『田園の憂鬱』の中にも、そんなことが書いてあったように記憶する。蛙に取ってはありがたくない敵ではあるが、事実の上で調和するから仕方がないのである。

[やぶちゃん注:。佐藤春夫氏の『田園の憂鬱』の中にも、そんなことが書いてあった」ここ。前後は私の佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)分割注釈でどうぞ(一括版はこちら)。

   *

 猫は、每日每日外へ出て步いて、濡れた體と泥だらけの足とで家中を橫行した。そればかりか、この猫は或る日、蛙を咥へて家のなかへ運び込んでからは、寒さで動作ののろくなつて居る蛙を、每日每日、幾つも幾つも咥へて來た。妻はおおぎように叫び立てて逃げまはつた。いかに叱つても、猫はそれを運ぶことをやめなかつた。妻も叫び立てることをやめなかつた。生白い腹を見せて、蛙は座敷のなかで、よく死んで居た。

   *]

「猫の戀やむ時閨(ねや)の朧月」という芭蕉の句は、猫の恋が主になっているため、この文章では圏外に置かなければならぬが、猫と朧月乃至(ないし)朧夜との配合は、春の句を考えるに当り、どうしても看過することが出来ない。

[やぶちゃん注:「猫の戀やむ時閨(ねや)の朧月」という芭蕉の句は、元禄五(一六九二)年春か、それ以前の作。]

 

 月は尚それもおぼろに猫の聲   芳船

 火に醉(ゑひ)て猫も出(いづ)るや朧月

                 木導

 猫をよぶ氣疎(けうと)き聲や朧月

                 化蝶

 朧夜やいつぞや捨し猫歸る    尚白

 朧月猫とちぎるや夜ルの殿    越闌

 

 「猫逃て梅うごきけり」という言水の句も当然ここに加えなければならぬ。猫の活動する舞台は必ずしも夜には限らぬが、春の大気が温暖になるに従い、夜までのそのそ歩くに適して来ることは事実である。月も朧なら更に妙であろう。ここに挙げた五句は、最後の越闌の句を除き、いずれも春の夜らしい空気を描き得ている。固(もと)より涅槃会や出代りの比ではないが、就中われわれには尚白の句が面白い。大分前にどこかへ捨てたなり、誰も見かけなかった猫がひょっくり帰って来た。「いつぞや」の一語は捨ててから相当の日数を経ていることを現している。この時間的経過と、朧夜の世界と、突然帰って来たこととの三つが合体して、一たび捨てた猫に或なつかしみを感ぜしめる。平凡なるが如くにして異色ある句といわなければならぬ。

 

2017/11/15

柴田宵曲 猫 二

  

 『言海』にネコの語原を挙げた中に、「寐子(ねこ)の義」というのがある。「春眠不覺曉」などというのは人間の言草で、猫には関係ないはずであるが、春の猫の句について、睡猫を捜して見るのも一興であろう。

[やぶちゃん注:気持ちが悪い(特に私は新字の「暁」の字が間が抜けていて嫌いである)ので孟浩然の「春曉」の起句は正字化した(春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少(春眠曉を覺えず 處處(しよしよ)啼鳥(ていちやう)を聞く 夜來(やらい)風雨の聲 花落つること知んぬ多少))。なお、「言海」(大槻文彦)の「ねこ」の項は全文を四年ほど前に大槻文彦「言海」の「猫」の項 + 芥川龍之介の同項を批評したアフォリズム「猫」で電子化したので参照されたい。]

 

 ぬつくりと寢てゐる猫や梅の股    几董

 うち晴て猫の睡(ねむ)るや庭ざくら 春水

 うそ眠る猫のつらはる椿かな     一桃

 

 いずれも庭前の光景らしい。春になって寒さを恐れなくなった猫の様子は、「ぬつくりと」とか「うち晴て」とかいう言葉からも窺われる。如何にものびのびした様子である。椿の花がぽたりと落ちて、睡猫の面を打つというのは、巧を弄し過ぎた嫌(きらい)があるけれども、落椿は他の花に比して体積も重量も多いから、猫の睡を驚かすことはあるかも知れない。

 

 散花(ちりばな)や猫はね入てうごく耳

                   什佐

 

 この句は直(すぐ)に

 

   四睡の讚

 かけろふに寐ても動くや虎の耳    其角

 

の句を連想せしめる。其角は容易に他の後塵を拝する作家でないから、この趣向においても必先鞭を著けたものと思っていたところ、不思議なことに什佐の句を載せた『柱暦(はしらごよみ)』も、其角の句を載せた『千々之丞』も共に元禄十年に出ているので、先後を定めるのが困難になって来た。但(ただし)元禄の昔には生きた虎を見る便宜がない。其角のような逸才でも、画裡の虎で我慢せざるを得ぬ所以(ゆえん)であるが、この句は虎を画いて狗(いぬ)に類するのと反対に、猫を画いて虎に擬したようなところがある。一句の眼目たる「寐ても動く」耳は、これを猫に得て虎に及ぼしたものであろう。什佐の句はそれほど飛躍せず、どこまでも猫で終始しているから、その点は極めて安心である。落花の下に無心に睡っている猫が、しばしば耳を動かす趣は、画中の物でしかも画の捉え得ざる所を捉えている。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。]

 四睡というのは寒山(かんざん)と、拾得(じっとく)と、豊干(ぶかん)と、豊干の連れている虎とが、同じところで睡っている、長閑(のどか)であると共に浮世離れした光景である。其角がこの図に対して他の何者をも描かず、寐ても動く虎の耳だけを句にしたのは、仮令(たとい)猫から脱化したにもせよ、その才の尋常ならざることを示している。四睡を題材したものに

 

 海棠(かいだう)に女郎と猫とかぶろかな 卜宅

 

という句があるが、この場合も猫は虎の名代を勤めている。海棠は美人の睡る形容に用いられるから、これで季を定め、併せて四睡の一役を買わせたらしい。一句の感銘が甚だ弱いのは、すべてが女性であるためでなしに、単に役者を羅列するにとどまって、其角のように焦点を捉え得なかったためと思われる。

 

   睡猫の畫に

 思ひ寐の猫にかげろふもえにけり   也有

 

 この句は単なる睡猫図であるが、「思ひ寐」の一語に恋猫の意を現している。同じく陽炎(かげろう)を配してはあっても、これでは連想に訴えるものがない。ゆらゆら燃える陽炎を猫の思に擬するなどはそもそも末の事である。

 

 猫の尾の何うれしいぞ春の夢     賢明

 

 睡りつつある猫は耳を動かすのみならず、時に尾を動かすことがある。尾は猫の感情を現すところだから、夢中に尾を動かすのを見て、その夢に結びつけたのであるが、「何うれしいぞ」では仕方がない。そこへ往くと、

 

   つばくろ

 燕(つばくろ)の出入や猫の夢ごゝろ 任長

 

の句の方は、他の動きを配してあるだけに若干の変化を見せている。猫は室内にあり、燕は忙しく檐(のき)を出入するのであろうが、猫ははっきりそれを意識せず、うつらうつらとしているらしく解せられる。

 

 蝶とぶや腹に子ありてねむる猫    太舐

 屋根に寐る主(ぬし)なし猫や春の雨 同

 

 この句に至ると、著しく現実味が勝って来る。翩々(へんぺん)として蝶の飛ぶ下に猫の睡る光景は、什佐の句と大差ないにかかわらず、その猫が已に子を孕んでいるという現実問題が提起されたために、何となく感じが重苦しい。什佐や其角が睡猫そのものを観察しているのと異り、大袈裟(おおげさ)にいえば猫自身の生活状態に触れるところがある。それが春の懶(ものう)い感じと結びついて、蝶の飛ぶうららかな景色と調和することは慥(たしか)であるが、也有、賢明、任長等の描いた世界とは甚だ距離が遠い。

 俳諧に猫の恋を詠んだものが甚だ多く、孕猫(はらみねこ)を描いたものが少いのは、この現実感の過重によるものかも知れぬ。平福百穂(ひらふくひゃくすい)氏に「孕猫」の歌が八首あるが、雨、庭木、立春、というような自然が背景になっているため、現実感はよほど和げられている。太祀の句にしても可憐な猫蝶の動きが、全体の趣を和げていることは慥である。

[やぶちゃん注:「平福百穂」(明治一〇(一八七七)年~昭和八(一九三三)年日)は日本画家で歌人。後に一首出るが、他の当該短歌は確認出来なかった。]

 

 犬は主家の移転と共に直に移動するが、猫は旧栖(きゅうせい)の地を恋うて、そのままとどまることが往々ある。喪家(そうか)の狗(いぬ)と「主なし猫」との立場は同じであっても、事情は必ずしも同一ではない。今屋根に寐ているのは、如何なる事情であるかわからぬが、とにかく主を離れた浮浪猫である。猫が顔を洗うと天気が変るという俗説があり、それは猫の毛が水をはじかぬから、天気に敏感なのだろうと解している人があった。しかし現実の猫はそれほど雨を恐れない。春雨だから濡れても大事ないにせよ、大底の猫は平然として屋根で寐ている。百穂氏の「孕猫」にも「身ごもれる猫ひとり来てわが庭の春立つ雨に濡れて居るなり」というのがある。この場合も春雨であることが、その濡れる感じを和げていることは言を俟たぬ。

 

 春雨や寐返りもせぬ膝の猫      桃酔

 

 これも同じく春雨ではあるが、舞台はがらりと替る。一たび人の膝を占拠した猫は、容易に自ら動くものではない。久しきに及んで端坐の膝が痺(しび)れて来ても、依然として快眠を貪(むさぼ)っている。そのじっとしている様を「寐返りもせぬ」といったのである。閑居の徒然(つれづれ)に、膝を猫に貸して窓外の雨を眺める人も、蕩々(とうとう)たる天下の春の中に住しているのであろう。

 

 春雨や猫にあくびを移さるゝ     可得

 

 眠から一歩離れるけれども、春雨の因(ちなみ)によってここへ挙げて置こう。欠(あく)びは倦怠の発現であり、眠の前奏曲でもある。膝の上か、座辺かにいた猫が欠びをした。それを見た飼主も思わず欠びをした。凡そ天下に斯(かく)の如き瑣事(さじ)はない。しかしこの瑣事に何の興味を感ぜぬというならば、その人は春雨の趣を解せず、閑人閑中の趣を解せずというを憚らぬ。極言すれば竟(つい)に俳諧の或趣を解せずというところまで往くかもわからない。

 

柴田宵曲 猫 一

 

柴田宵曲 猫

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三二(一九五七)年七月及び十月と、翌昭和三十三年十二月と、昭和三十五年六月月と十月発行の雑誌『谺』にかなり時間を挟んで発表された「猫」絡みの俳諧随想である。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「猫」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。全五章(発表の順であろう)からなるので、各章毎に分割して電子化注するが、この冒頭注はここにのみ附す。]

 

       一

 

 俳諧の猫は殆ど恋猫に掩(おお)われた観がある。尤もそういう人間にしたところで、小説の世界から覗けば殆ど恋愛に終始しているわけだから、猫と甚しい逕庭(けいてい)はないのかも知れぬ。這間(しゃかん)の消息はすべて見る人の眼鏡によって支配される。小説世界が恋愛三昧だからといって、あらゆる人間が日夜恋愛に奔走しているとは限るまい。恋猫は季題として独立し、古今の句集に遍在しているため、人の目につく機会が多いに過ぎぬので、俳人の観察は固よりこれにとどまらぬのである。

[やぶちゃん注:「恋猫」初春の季語。

「逕庭」「径庭」とも書く。「逕」は「小道」、「庭」は「広場」の意。二つのものの間にある有意な隔たり、懸隔の意。元は「荘子」の「逍遥遊篇」に拠る。

「這間」既注であるが、再掲しておく。「この間(かん)」の意。但し、「這」には「この」という指示語の意はなく、誤読の慣用法である。宋代、「この」「これ」の意で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体が「這」と誤判読されたことに由来するものである。]

 

 元日や去年(こぞ)のめしくふ猫の顔 一友

 

 先(まず)歳旦第一日からはじめる。元日だからといって、猫の生活に変りはない。人間世界が屠蘇、雑煮その他、新年の季題に忙殺されるだけ、猫の方は閑却されざるを得ぬ。索莫として去年の皿に残された飯を食っている、というのである。甚だ冷遇を極めたようだけれども、実際問題からいうと、人間世界にも元日の飯はない。肝腎の餅は猫の御歯に合わざること、『吾輩は猫である』の証明する通りだから、しばらく去年の飯で我慢するより仕方があるまいと思う。

 この句は淡々と事実を叙し去ったようで、ちょっと面白いところを捉えている。元日としては普通の人の看過しそうな趣である。

[やぶちゃん注:「『吾輩は猫である』の証明する通り」「吾輩は猫である」の「二」の正月のロケーションに以下のようにある。引用は岩波版旧全集に拠った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着(かうちやく)している。白狀するが餅というものは今迄一返も口に入れた事がない。見るとうまさうにもあるし、又少しは氣味(きび)がわるくもある。前足で上にかゝつて居る菜つ葉を搔き寄せる。爪を見ると餅の上皮(うはかは)が引き掛つてねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃(おはち)へ移す時の樣な香(におひ)がする。食はうかな、やめ樣(やう)かな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰も居ない。御三(おさん)は暮も春も同じ樣な顏をして羽根をついて居る。小供は奧座敷で「何と仰しやる兎さん」を歌って居る。食ふとすれば今だ。もし此機をはづすと來年迄は餅といふものゝ味を知らずに暮して仕舞はねばならぬ。吾輩は此刹那に猫ながら一の眞理を感得した。「得難き機會は凡(すべ)ての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は實を云ふとそんなに雜煑を食ひ度くはないのである。否椀底(わんてい)の樣子を熟視すればする程氣味(きび)が惡くなつて、食ふのが厭になつたのである。此時もし御三(おさん)でも勝手口を開けたなら、奧の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜氣(をしげ)もなく椀を見棄てたらう、しかも雜煑の事は來年迄念頭に浮ばなかつたらう。所が誰も來ない、いくら躕躇して居ても誰も來ない。早く食はぬか食はぬかと催促される樣な心持がする。吾輩は椀の中を覗き込み乍ら、早く誰か來てくれゝばいゝと念じた。やはり誰も來てくれない。吾輩はとうとう雜煑を食はなければならぬ。最後にからだ全體の重量を椀の底へ落す樣にして、あぐりと餅の角を一寸(いつすん)許(ばか)り食ひ込んだ。此位力を込めて食ひ付いたのだから、大抵なものなら嚙み切れる譯だが、驚いた! もうよからうと思つて齒を引かうとすると引けない。もう一返嚙み直さうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳(かん)づいた時は既に遲かつた。沼へでも落ちた人が足を拔かうと焦慮(あせ)る度にぶくぶく深く沈む樣に、嚙めば嚙むほど口が重くなる、齒が動かなくなる。齒答はあるが、齒答がある丈(だけ)でどうしても始末をつける事が出來ない。美學者迷亭先生が甞て吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、成程うまい事をいつたものだ。此餅も主人と同じ樣にどうしても割り切れない。嚙んでも嚙んでも、三で十を割るごとく盡未來際(じんみらいざい)[やぶちゃん注:仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。ここは副詞的用法。]方(かた)のつく期(ご)[やぶちゃん注:決着のつくべき瞬間。]はあるまいと思はれた。此煩悶の際吾輩は覺えず第二の眞理に逢着した。「凡(すべ)ての動物は直覺的に事物の適不適を豫知す」眞理は既に二つ迄發明したが、餅がくつ付いて居るので毫も愉快を感じない。齒が餅の肉に吸収されて、拔ける樣に痛い。早く食ひ切つて逃げないと御三(おさん)が來る。小供の唱歌もやんだ樣だ、屹度(きつと)臺所へ馳け出して來るに相違ない。煩悶の極(きよく)尻尾(しつぽ)をぐるぐる振つて見たが何等の功能もない、耳を立てたり寐かしたりしたが駄目である。考へて見ると耳と尻尾(しつぽ)は餅と何等の關係もない。要するに振り損の、立て損の、寐かし損であると氣が付いたからやめにした。漸くの事是は前足の助けを借りて餅を拂ひ落すに限ると考へ付いた。先づ右の方をあげて口の周圍を撫(な)で廻す。撫(な)でた位で割り切れる譯のものではない。今度は左(ひだ)りの方を伸(のば)して口を中心として急劇に圓を劃して見る。そんな呪(まじな)ひで魔は落ちない。辛防が肝心だと思つて左右交(かは)る交るに動かしたが矢張り依然として齒は餅の中にぶら下つて居る。えゝ面倒だと兩足を一度に使ふ。すると不思議な事に此時丈(だけ)は後足(あとあし)二本で立つ事が出來た。何だか猫でない樣な感じがする。猫であらうが、あるまいが斯うなつた日にやあ構ふものか、何でも餅の魔が落ちる迄やるべしといふ意氣込みで無茶苦茶に顏中引つ搔き廻す。前足の運動が猛烈なので稍(やゝ)ともすると中心を失つて倒れかゝる。倒れかゝる度に後足(あとあし)で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる譯にも行かんので、臺所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起(た)つて居られたものだと思ふ。第三の眞理が驀地(ばくち)に[やぶちゃん注:禅語。副詞。激しい勢いで目標に向かって突き進むさま。いっさんに。一気に。まっしぐらに。]現前(げんぜん)する。「危きに臨めば平常なし能はざる所のものを爲し能ふ。之を天祐[やぶちゃん注:天の助け。]といふ」幸に天祐を享(う)けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戰つて居ると、何だか足音がして奧より人が來る樣な氣合(けはひ)である。こゝで人に來られては大變だと思つて、愈(いよいよ)躍起(やくき)となつて臺所をかけ廻る。足音は段々近付いてくる。あゝ殘念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雜煑を食べて踊(をどり)を踊つて居る」と大きな聲をする。此聲を第一に聞きつけたのが御三(おさん)である。羽根も羽子板も打ち遣つて勝手から「あらまあ」と飛込んで來る。細君は縮緬(ちりめん)の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さへ書齋から出て來て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云ふのは小供許(ばか)りである。さうして皆(み)んな申し合せた樣にげらげら笑つて居る。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる譯にゆかぬ、弱つた。漸く笑ひがやみさうになつたら、五つになる女の子が「御かあ樣、猫も隨分ね」といつたので狂瀾(きやうらん)を既倒(きたう)に何とかする[やぶちゃん注:韓愈の「進學解」に基づく。原義は「崩れかけた大波を、もと来た方へ押し返す」で、「形勢がすっかり悪くなったのを、再びもとに戻す」という譬え。]という勢で又大變笑はれた。人間の同情に乏しい實行も大分(だいぶ)見聞(けんもん)したが、この時程恨めしく感じた事はなかつた。遂に天祐もどつかへ消え失せて、在來の通り四よつ這になつて、眼を白黑するの醜態を演ずる迄に閉口した。さすが見殺しにするのも氣の毒と見えて「まあ餅をとつて遣れ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせ樣(やう)ぢやありませんかといふ眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺して迄見る氣はないのでだまつて居る。「取つてやらんと死んで仕舞ふ、早くとつて遣れ」と主人は再び下女を顧みる。御は御馳走を半分食べかけて夢から起された時の樣に、氣のない顏をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君(かんげつくん)ぢやないが前齒が皆(み)んな折れるかと思つた。どうも痛いの痛くないのつて、餅の中へ堅く食ひ込んで居る齒を情(なさ)け容赦もなく引張るのだから堪らない。吾輩が「凡(すべ)ての安樂は困苦を通過せざるべからず」と云ふ第四の眞理を經驗して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人は既に奧座敷へ這入つて仕舞つて居つた。

   *]

 

 初夢に猫も不二見る寢やうかな  一茶

 

 正月の縁端か、炉辺(ろばた)かに寝ている猫に対して、今どんな夢を見つつあるだろう、今日は初夢だから、一不二、二鷹、三茄子という、不二の夢でも見ているかも知れぬ、といったのである。人間の気持を直(じき)に禽獣に及ぼす、一茶一流の句であるが、何分拵(こしら)えものたるを免れぬ、現在自分の見た夢ですら、なかなか句には現しにくいのに、猫の夢裡の世界を伝えようとするが如きは、最初から無理である。初夢に跋(ばつ)を合せるために「不二見る寝やう」を持出すに至っては、奇ならんとしてかえって常套に堕している。

[やぶちゃん注:一茶の句は文政七(一八二四)年満六十歳の折りの歳旦吟と推定される。

「初夢に跋(ばつ)を合せる」自分が見た初夢を一つの話と譬えて、それに書物の「跋(ばつ)」(ここは後書き)を「合せる」ように句を捻り出した、という謂いか。]

 

 正月や猫も寒がる靑畳    素廸(そてき)

 

 新居であるか、年末に畳替(たたみがえ)をした場合か、いずれでも差支ない。畳が正月らしく青々としている。あたりもすっかり片付いて、あらゆるものがきちんとしている。こういう室内はすがすがしいと同時に、一種の寒さを感ぜしむるものである。就中(なかんずく)猫が寒そうな様子をしている、という句らしい。人間の正月気分と猫の生活とが一致せぬ一例である。

 

 猫の膝きのふはけふの著衣始(きそはじめ)

               范孚(はんぷ)

 

 この句も似たような趣であるが、一句の表現の上に、少しく曲折を弄したところがある。第一に「猫の膝」というのは猫に貸す膝の意である。昨日は猫の乗るに任せたが、今日は新な著物を著ているので、汚れるのを厭うて膝に乗らしめぬ。猫は不満かも知れぬが、晴著の膝の汚れを厭うところに、これを飼う婦女の気持が窺われる。

 著衣始は三ケ日のうち吉日を選ぶとある。日はきまっていないらしい。

 

 七草をたゝくむかふの小猫かな    諉水(いすい)

 古猫の相伴にあふ卯杖(うづゑ)かな 許六

 卯杖ともしらで逃けり猫の妻     卜史

 

 七草の粥は今なお行われているが、七草をたたく方は語り草に残るのみとなった。地方にはこの習慣が残っているところがあるかも知れぬ。卯杖に至っては更に遠い感じのする行事である。七草をたたく様子を見て、小猫がびっくりしているのも新春らしい光景であろう。この小猫は見物だから無事であるが、古猫の方は文字通り傍杖を食っている。そこでその次の猫の妻は、打たれぬ先から逃げているのである。

[やぶちゃん注:「七草をたゝく」正月六日の夜又は七日早朝に春の七種の菜を俎板の上に置いて、その年の福徳を司る歳徳神(としとくじん)がいる恵方(えほう)を向き、囃子詞を詠いながら、庖丁の背や擂粉木などを用いて七草を大きな音を響かせつつ、叩き潰す予祝行事。その際の祝詞は京都や大阪では「唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきになずな七草(ななくさ)はやしてほとと」、江戸では「唐土うんぬん渡らぬさきに七草なずな」。無論、こうして出来た七草を七日の朝の粥に炊き込んで食することでこの行事は完遂される。以上は古くからお世話になっている「みんなの知識委員会」の運営する非常に便利なサイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「七草がゆの儀式  七草たたき」に拠った。

「卯杖」新年の予祝行事で用いられた邪気を払うための杖。梅・桃・木瓜(ぼけ)などの木で作られ、いろいろな装飾が施される。長さは五尺三寸(約一・六メートル)で、二、三本ずつ五色の糸で巻いたりした。平安時代には正月初卯の日に、これを六衛府などから天皇・東宮に奉献する儀式があり、これを御帳の四隅に立てた。卯杖は漢の王莽の故事による剛卯杖の影響を受けており、また,年木(としぎ:戸口や門松のそばなどに置いて年神に供える木)や粥杖(小正月(正月十五日)に、望粥(もちがゆ:月の望であるが、後に餅を掛けて実際に餅を入れた)を煮る際に使う杖。これで子のない女性の腰を打つと男子が生まれるとされた)などとの関連も考えられる。現在、民間では用いられていないが,太宰府天満宮で正月七日の追儺祭 (ついなのまつり) にこれで鬼面を打ったり、和歌山県伊太祁曾(いだきそ)神社で正月十四日夕方、神前に卯杖を供えるなど、神事に用いている例は少くない(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」その他に拠った)。]

 

 つく羽や二階に猫の背を立る   古曆

 鳴く猫に赤ン目をして手まりかな 一茶

 

 この両句の相手は子供である。突羽子(つくばね)に驚いて背を立てる二階の猫にも、鳴く猫に赤ン目をする子供のふるまいにも、共に漫画的空気が溢れている。東京では「アカンベ」というのが普通だけれども、赤ン目が正しいのであろう。

[やぶちゃん注:一茶の句は文政四(一八二一)年の新年の句であるが、前年の句に、

 

 鳴く猫に赤ン目と云(いふ)手まり哉

 

があり、その改作と思しい。]

 

 山猫の下に昼餉や傀儡師(かいらいし)

                雁宕(がんたう)

 戀知らぬ猫さうさうし傀儡師  吐月

 あの猫も戀した果(はて)や傀儡師

                子交

 

 山猫廻しは傀儡師のことだと『塵塚談(ちりづかだん)』にある。人形を舞(まわ)して最後の一段になった時、鼬(いたち)のようなものを出してチチクワイチチクワイチチクワイとわめいて終にする、というのであるが、著者の小川顕道も少年時代に見たきりで、「今は絶てなし」という。われわれに全然見当がつかぬのはやむをえない。『続飛鳥川』の記載によると、「なく者は山猫にかましよ」と呼ぶのだそうである。雁宕(がんとう)の句は明(あきらか)に山猫廻しを詠んだものと思われる。「戀知らぬ猫」も「戀した果」の猫も、傀儡師から見た場合であろう。猫の老少を現すのに恋を持出したのは、やはり俳語の伝統に捉われたものかも知れぬ。山猫廻しとの因縁は稀薄なようである。

[やぶちゃん注:「傀儡師」「くぐつし」とも読む(わたしは「くぐつ」の読みが好きである)が句に読み込むには使い勝手が悪いことは判る)。人形を使って諸国を回った漂泊芸人。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。「傀儡(くぐつ)回し」「木偶(でく)回し」「箱まわし」「首掛人形」、また、ここに出るように「山猫廻(まわ)し」などとも称した。やはり、予祝演芸として新年の季語となっている。

「塵塚談」江戸(一時は相模国藤沢に住んだらしい)の医師小川顕道(あきみち 元文二(一七三七)年~文化一三(一八一六)年)が文化一一(一八一四)年に書いた随筆集。幸い、現代思潮社の「古典文庫」版を所持しているので以下に示す(但し、気持ちの悪い新字新仮名版である。悪しからず)。まさに「塵塚談」の巻頭(上之巻)を飾る記載である。原典に添えられている図も添えた。キャプションによれば、上が江戸時代の傀儡師、下が平安時代の「信西古楽図」からの引用らしい。

   *

傀儡師のこと

 傀儡師(くぐつし)を、江戸の方言に山ねこという、人形まわしなり。一人して小袖櫃のようの箱に、人形を入れ背負いて、手に腰鼓(こしつつみ)をたたきながら歩行(ありく)なり。小童その音を聞きて呼び入れ、人形を歌舞せしめ遊観す。浄瑠璃は義太夫ぶしにして三絃はなく、芦屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段の類を、語りながら人形を舞わし、だんだん好み[やぶちゃん注:出し物。演目。]も終り、これ切りというところに至りて、山ねこという鼬のごときものを出して、チチクワイくとわめきて仕舞いなり。われら十四五歳ころまでは、一ケ月に七八度ヅツも来りしが、今は絶えてなし。

 

Kugutusi

 

   *]

2017/11/12

柴田宵曲 俳諧漫筆コスモス

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二六(一九五一)年十月発行の雑誌『日本及日本人』に発表された。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「コスモス」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。後ろの方の句は、或いは、かなり新しい作品(或いは第二次世界大戦後のものも)も含まれているのかも知れぬが(宵曲は引用元を記していないので判らぬ)、基本、確率上の意味からも、やはり、句(俳号含む)表記は確信犯で総てを正字化した

「コスモス」一般的に狭義にこう言った場合は、キク目キク科キク亜科コスモス属オオハルシャギク(大春車菊)Cosmos bipinnatus を指す現在では、他にキバナコスモス Cosmos sulphureus・チョコレートコスモス Cosmos atrosanguineus(参照したウィキの「コスモス」によれば、『黒紫色の花を付け、チョコレートの香りがする』とある)の二種を見るが、これらは孰れも大正期になってから本邦へ持ち込まれたもので、本篇内の引用対象植物としては、候補として挙げないほうが良いように思われる。最後の方に出る句でも「大正初年」と宵曲は言っているからである。但し最後に掲げられる「左衞門」の眼に動くそれに、この二種が混じっていないとは断定出来ぬので掲げておくこととした。

(Hook.) Voss「新修歳時記」は種小名を「ヒブクリス」と音写しているが、現行のそれは「ビピンナツス」と読む。音写の誤りとは思えないので、シノニムを英文の植物学学名サイトで探してみたところ、Cosmos hybridus というのがどうやらそれらしい感じではある。しかし、だとしても音写は「ヒブリダス」で誤りである。種名のそれは「秩序」「調和」を意味するギリシャ語の“kosmos”(ラテン文字転写)に由来する(この語は後に「秩序立っていて統一されている」という意味から、「世界」「宇宙」の意を持つようになり、秩序正しく調和のとれた対象が一般に美しとされることから、「装飾」「美麗」の意味をも含むようになった)。種小名 bipinnatus “bi”」は「二つ」を意味し、“pinnatus”pinnate)は「羽状の」の意であるから、先の派生的意味も含めて「二枚の羽状の美しいもの」という意味となる。私は昔からコスモスが好きだ。]

 

 コスモスという花は何時頃(いつごろ)日本に渡って来たものか知らぬが、一般に普及するに至ったのはそう古いことではあるまい。われわれの漠然たる記憶によれば、日露戦争前後ではないかという気がする。『新俳句』や『春夏秋冬』には勿論ない。手許にある明治の歳時記を調べて見ると、明治三十七年刊の『俳句新歳時記』には出ておらぬが、四十二年刊の『新修歳時記』に載っている。但(ただし)「コスモス、ヒブクリスの略語。菊科の一年草本にして、春下種し、二、三寸に生長したる時移植すれば、秋の季高五、六尺に達し多く枝を分ちて紅白赤黃絞(しぼり)等の單辨の美花を開く。葉は細く數岐をなして柔く節ごとに對生す。葉花共に甚だ優美なり」とあるのみで、例句も挙げず、何時頃から普及したかというような点に少しも触れておらぬのは遺憾である。

[やぶちゃん注:「日露戦争」明治三七(一九〇四)年二月八日から明治三八(一九〇五)年九月五日まで。但し、ウィキの「コスモス」には、それよりも早く、『日本には明治』二十『年頃に渡来したと言われる』とある(下線やぶちゃん)。

「新俳句」既出既注であるが、再掲しておく。明治三一(一八九八)年に刊行された子規門下の俳句アンソロジー。

「春夏秋冬」既出既注であるが、再掲しておく。俳句選集。明治三四(一九〇一)年から同三十六年にかけて俳書堂から刊行された。春・夏・秋・冬と新年で四季四冊から成る。子規一門『日本』派の句集で、子規が撰した春の部から刊行を開始したが、続く三冊は子規の病状が悪化しため、高弟であった河東碧梧桐と高浜虚子の二人の共撰となっている。

「明治三十七年」一九〇四年。

「俳句新歳時記」寒川鼠骨編。

「新修歳時記」中谷無涯編。そこからの引用部は恣意的に漢字を正字化した。]

 三宅花圃(みやけかほ)女史が明治四十年の『日本及日本人』に連載した「花の趣味」の中にもコスモスがある。丈高く庭もせにひろごる事、絞りの花は珍しい事、風雨に倒れたのをそのままにして置くと、幹は横になりながら枝は上を向く事、その他いろいろな消息が記されているが、何時頃から多く見かけるようになったかなどということは書いてない。「去年も一昨年も裏の方に植(うゑ)つれば彼程(かほど)にはのびざりしをと今は丈高きもはびこれるをも、中々にめでていひさわげば」とあるによって、雪嶺博士の庭のコスモスはこの二、三年前からあったことが知られる。

[やぶちゃん注:「三宅花圃」(明治元(一八六九)年~昭和一八(一九四三)年)は小説家・歌人。著書「藪の鶯」(明治二一(一八八八)年発表)は明治以降で女性によって書かれた最初の近代小説とされる。本名は竜子。東京生まれ。東京高等女学校卒業の前年に「藪の鶯」を発表、その後、短編集「みだれ咲」(明治二五(一八九二)年)などを発表、三宅雪嶺(後注参照)と結婚し、夫の主宰する『女性日本人』の歌壇を担当した。『文学界』にも関与し、樋口一葉を同誌に紹介したのも彼女であった。なお、「花の趣味」の引用の読みは底本に従わず、歴史的仮名遣を用いた。

「明治四十年」一九〇七年。

「雪嶺博士」三宅雪嶺(みやけせつれい 万延元(一八六〇)年~昭和二〇(一九四五)年))は哲学者・評論家で国粋主義者。加賀国金沢(現・石川県金沢市)の生まれ。明治二十一年にの地理学者志賀重昂(しげたか)・思想家で国粋主義者の杉浦重剛(じゅうごう)らと「政教社」を設立し、国粋主義の立場を主張するために『日本人』を創刊した(後に『日本及日本人』に改題)。]

 明治三十九年四月に出た『伶人(れいじん)』という歌集がある。その中に金子薫園(かねこくんえん)氏の歌として

 

 こすもすの花の灯影(ほかげ)や胸像の詩人の頰にうす紅して

 こすもすの花はあるじが歌の趣と人の苦吟を笑むや宵の灯

 

の二首が出て来る。恐らく前年秋の作であろう。われわれはコスモスといえば先ず昼の眺めを思い浮べるのが常であるのに、二首とも灯影に配してあるのは、何だか不思議な感じがする。前の歌は明かに室内の灯影である。灯下の下に置かれた石膏の詩人の像にコスモスの花がうす紅く映えるなどは、当時としては新しい題材であったに相違ない。後の歌は室内の趣とも取れるし、室の灯が庭のコスモスにさす場合とも取れる。いささか不明瞭な境地である。

 俳句の方では三十九年の十月に成った

 

 コスモスの冬近し人の猿袴(さるばかま) 碧梧桐

 

が古い方に属するらしい。作者は当時奥羽の旅を続けつつあったから、その地方における所見であろう。薫園氏の歌のコスモスは二首ともハイカラな趣であったが、この句はまた思いきって野趣を発揮した。コスモスが已に各地に普及していた模様は、この一句で証することが出来るかと思う。

[やぶちゃん注:「猿袴」労働用の袴の一種。腰の周りはゆったりと作られており、下部は股引(ももひき)のように足にフィットするように仕立てられてある。グーグル画像検索「猿袴」をリンクさせておく。]

 

 靑く晴れてコスモスの花に飛雲かな 浅茅(あさぢ)

 コスモスに綠紗(りよくしや)を垂れぬ憎きさま

                  同

 コスモスの花や墓石の新しき    石楠居(しやくなんきよ)

 コスモスの畫室に狂ふ日影かな   瘦仏

 コスモスの掲焉(けちえん)なりや霧の垣

                  瓊音

 

これらは時代において前の句に次ぐものであろう。古人は「秋風起兮白雲飛」といった。青々と晴渡ったコスモスの空を真白な雲の飛ぶ趣は、眼前に秋晴の天地を展開せずには措かぬ。「綠紗を垂れぬ」といい「畫室に狂ふ日影」という、この種の景致は当時のコスモスに調和すべき新な趣だったのである。「掲焉」の語はコスモスの茎の高く聳(そび)えたところをいうのであろうが、言葉が際立ち過ぎて、花も葉もなよやかなコスモスにふさわしくない。同じ作者がそれより前に作った「紅茸や掲焉として霧の中」の句を並べて見ると、いよいよその感を深うする。

[やぶちゃん注:「綠紗」緑色の薄絹。

「掲焉」著しいさま。目立つさま。「けつえん」とも読む。

「秋風起兮白雲飛」「秋風 起こりて 白雲 飛び」。漢の武帝劉徹(紀元前一五六年~紀元前八七年)の知られた「秋風辞」の第一句目。彼が現在の山西省万栄県に行幸し、后土(土地神)を祭って、群臣とともに汾河(ここ(グーグル・マップ・データ))に船を浮かべて行楽した折り、四十四歳の時の作。菌

「紅茸」「べにたけ」。菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属 Russula に属するベニタケ類の総称。ウィキの「ベニタケによれば、『きのこの大きさは大小さまざまで、かさの径』五ミリメートル『程度、全体の高さ』一センチメートル『程度の小形種から、かさの径』が二十センチメートルにも『達する大形のものまで知られている。ほぼ共通して、成熟するとかさの中央部が大きくくぼみ、あるいは漏斗状に反転する』。『かさの色調も多種多様で、紅色系のものが多いのはもちろんであるが、そのほかに白・黒・暗褐色・黄褐色・黄色・橙色・桃色・紫色・緑色などを呈する種が知られ、一つの種の中でもさまざまな変異が見られ』、『一個のかさの中でも、部分的に異なる色調が混ざって認められることも珍しくない』という。『毒々しい色調のために、古くは毒きのこの代表格のように扱われてきていたが、すべてが有毒であるわけではない。ただし、辛味や苦味が強いものが含まれ、そうでないものも一般に歯切れが悪いために、食用きのことして広く利用されるものは少ない』。『ニセクロハツ』(ベニタケ属クロハツ節ニセクロハツ Russula subnigricans:主に夏期に富山県から愛知県以西のシイ林などの地上に発生する。傘は灰褐色でスエード状の質感があり、成長すると、中央が窪んで浅い漏斗状になる。襞はクリーム色を呈し、傷ついたり、老成すると、薄く赤変する。本邦以外では東アジア(中国、台湾、韓国)に分布する)『は致命的な有毒種として知られている』(ニセクロハツによる中毒事故は一九五四年に京都市で初めて報告され、以降、一九五八年から二〇〇七年にかけて愛知・富山・大阪・宮崎で六件計十五人が中毒症状を起こし、七人が死亡している。中国では南部で中毒事故が多発しており、一九九四年から二〇一二年までに発生したキノコ中毒患者八百五十二人の内の四分の一もが本種による中毒であり、死亡率は実に二十%以上に上ったという。致死量は二、三本とも言われ、潜伏期は数分から二十四時間で、嘔吐・下痢など消化器系症状の後に縮瞳・呼吸困難・言語障害・横紋筋溶解に伴う筋肉痛・多臓器不全・血尿を呈し、重篤な場合は腎不全を経て、死亡に至る。主な治療(対症療法)は胃洗浄・利尿薬投与及び人工透析となる。毒成分は二〇〇八年に京都産の個体から分離されたシクロプロペン誘導体の2-シクロプロペンカルボン酸(C4H4O2)で、症状の主因は、これが骨格筋の組織を溶解させ、その溶解物が臓器に障害を起すことによるものであることが判明している。以上のニセクロハツの記載はウィキの「ニセクロハツ」に拠った)。『ほかにもいくつかの有毒種が含まれているといわれているが、どの種が食用となり、どの種が有毒なのかについては、不明な点も多い』とある。危きに近寄らずに越したことはない。]

 

 張板に影コスモスと蜻蛉かな  成岩生

 靄の裾コスモス高き小家かな  未央

 コスモスや橋場の家の灯早き  梅女

   幼稚園

 コスモスは高く遊べる園兒かな 麥村

 

 「張板」の句は「靑く晴れて」「畫室に狂ふ」などと同じく、爽(さわやか)な秋晴を想わしむるものがある。「橋場の家の灯早き」というのは実景であろうが、コスモス趣味にはやや遠い。前に挙げた「墓石」の句などと同じく、動く嫌いがありそうに思われる。「幼稚園」の句は「高く」で一先ず意味が切れるのであろう。花をつけたコスモスの高く伸び立つ下に、嬉々(きき)として園児が遊んでいる。その子供たちは皆丈が低いのである。この趣もまた晴渡った秋天の下でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「橋場」(はしば)は固有地名であろう。現在の東京都台東区北東部にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くは武蔵と下総(しもうさ)間の渡し場で、中世の「義経記」「源平盛衰記」に浮き橋を架けたとする記載があり、それが地名の由来とされる。この浅草橋場では寛永通宝を鋳たとか、新銭座(しんぜにざ)が浅草に命ぜられたともされ、橋場明神の北東が銭座跡とされる。明治頃には別荘地帯となり、三条実美(さねとみ 天保八(一八三七)年~明治二四(一八九一)年:元公卿で三条暫定内閣の内閣総理大臣兼任(「兼任」は後の「代理」のこと。但し、明治二二(一八八九)年の十月二十五日からの二ヶ月のみ))の別荘(対鷗荘)等があった。現在は木材・染色など水に関連の中小工場が並ぶ東京北部工業地域の一角。謡曲「隅田川」で知られる妙亀(みょうき)塚があり、北東端に白鬚(しらひげ)橋がある(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠る)。江戸時代は江戸最大の焼き物の産地であり、また、遺体の火葬場としても知られたため、「橋場の煙となってしまう」という有り難くない比喩にも用いられている。

「動く嫌いがありそう」俳句の観察対象や感懐主体が本来(ここは「コスモス」)のものから、別なもの、橋場という固有名詞から想起される、例えば、ハイカラなコスモスの花の咲き乱れる別荘の庭から室内に動いて上流階級の優雅な暮らし振り(だからまだほの暗いうちから明かりが灯る)などへ意識が「動いてしまう」、スライドしてしまって詠吟の眼目が鑑賞者によってはズレてしまうことを言っているのではないかと私は思う。大方の御叱正を俟つ。]

 雪嶺博士は大著『宇宙』の跋の最後に「庭前のコスモスの咲き初(そ)むるを觀て」の一行を加えた。この言葉は花圃女史の『花の趣味』と併看するだけでも一種の興味があるが、『宇宙』の出た明治四十二年頃までは、まだコスモスに多少の新味が伴ったのではあるまいか。それが大正初年になると、

 

 コスモスの咲ける家と貸家教ふるに  繞石

 コスモスは束ねあり畫室半ば成る   同

 コスモスの雨に繚亂(れうらん)すあき家かな

                   瓊音

 小別荘庭はコスモスばかりなり    同

 

の如く、よほど平凡な存在になって来る。人の住まぬ空家の庭に咲き乱れたり、小別荘の庭がコスモスばかりだといわれたりするに至っては、花としては冷遇された形で、詩人の胸像に映じた全盛時代と日を同じゅうして語るわけには往かぬ。画室の庭に咲くことに変りはないにしろ、普請中(ふしんちゅう)束ねられているのは決して有難い現象ではない。コスモスがそれだけ平凡化したということは、各地に行わたったことを意味する。しかし花が珍しくなくなったからといって必ずしも詩材としての価値を減じたことにはならない。コスモスの句が多く生れるようになったのはむしろ大正以後である。明治年間のコスモスの句は、題材として新しかった代りに、いささか配合物に煩(わずらわ)されるところがあった、コスモスの真趣はそういう時代が過ぎてから発揮されたといっても過言ではない。例えば

 

 コスモスの吹かれ消ぬべき空の色   左衞門

 

の如く、コスモスそのものの姿を描いた句が、大正年間になって現れるのは、俳人の観察が進んだということもあるが、やはりコスモスが普及した結果として、種々の句が生れたものと解すべきであろう。

[やぶちゃん注:「宇宙」三宅雪嶺が政教社から明治四二(一九〇九)年に刊行した哲学書。]

 コスモスが非常な勢でひろがった頃、この花を野草として山野に放ったら、更に大(おおい)に蕃殖して、秋の眺めを賑かにすることになりはせぬかといった人がある。外国から渡来した月見草が忽ちにして夏の夜を飾る新たな景物になった例があるから、コスモスの野草化も面白いかも知れぬと思ったが、事実はこれに反して次第に振わなくなり、郊外住宅につきものであったコスモスまで影が薄くなって来た。終戦後は焼跡が多く、太陽が十分に照りつけるため、また復活の傾向を示しているけれども、いまだ旧観に還るには至らぬようである。考えて見るとコスモスの花は楚々たる家庭婦人の趣があり、街頭に出て活動するには適せぬところがある。コスモスに伴う一種の新趣味の如きも、この花が思いきって野草となり得ぬ所以(ゆえん)かも知れない。国家にしろ、個人にしろ、ものの繁栄には自ら限度がある。どこまで発展するかわからぬと思われたものが意外に早く衰兆(すいちよう)を示す例を、われわれはいくつも見て来た。一度日本の秋に立脚地を得たコスモスが、絶滅する気遣は決してないから、日当りのいい郊外住宅の庭にはびこって、楚々たる花に行人を顧みさせる程度で落著いたらよかろうと思う。

[やぶちゃん注:「終戦後は焼跡が多く、太陽が十分に照りつけるため、また復活の傾向を示しているけれども、いまだ旧観に還るには至らぬようである」冒頭に記した通り、本篇は昭和二六(一九五一)年十月の発表である。敗戦から六年後の東京の景への宵曲の感懐である。]

 コスモスを秋桜と称するのは何時頃誰がいい出したものか、一般には勿論行われていない。俳人は文字を斡旋する都合上、いろいろな異名を好む者であるが、『新修歳時記』時代にこの称呼がなかったことは、前に引用した文章によって明かである。俳句の季題には冬桜(寒桜)というものがあって、花の咲く季節を現しているから、何か混雑した感じを与えやすい上に、コスモスの花にはどう考えても桜らしいところはない。シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。少くともコスモスという言葉に伴う一種の新しい趣味は、秋桜という言葉には含まれていないように思う。ただ上五字乃至(ないし)下五字に置く場合、コスモスでは据(すわ)りが悪いからというので、五音の異名を択(えら)むというだけのことならば、今少し工夫を費してしかるべきである。如何に日本か桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。四音の名詞はコスモスに限った話ではないのだから、つまらぬ異名を作るよりは、このままで十七字に収まるようにする方が、むしろ俳人の手腕であろう。秋桜の名が広く行われないのは、畢竟(ひっきょう)コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない。

[やぶちゃん注:「秋桜」老婆心乍ら「あきざくら」と読む。驚くべきことに、ネット上には恐るべき忌まわしい「秋桜(こすもす)」アーバン・レジェンド(都市伝説)が蔓延している

「コスモスを『秋桜』などと漢字で書くことは現代までなかった」

「『秋桜』という語自体が一般的に殆んど全く知られていなかった」

「山口百恵の一九七七年の流行歌「秋桜(コスモス)」以降に世間で知られるようになった漢字表記で、一般人は全然知らない未知の熟語だった」

とか(これらを厳然と否定しておく。私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、小学生の時から「コスモス」を「秋桜」と書くと知っていたし、それは母から教えて貰ったことも覚えている)

「『秋桜』と書いて『あきざくら』と読まれることも殆んどなかった」

などとトンデモないことがそこかしこに書かれてある(但し、「秋桜」を「しゅうおう」と読む私の同世代は思いの外に多いことは事実である。これはある理由があるが、それは脱線になるのでやめておく)。果ては、まことしやかに、

「秋に咲く桜というコスモスの花のイメージから、山口百恵の曲の作詞者である、さだまさしが、独自に考案した造語熟語へのお洒落なカタカナ当て字の可能性がある」

などという、トンデモ回答をしている人物までいる(これはQ&Aサイトの「コスモスはなぜ秋桜と書くのでしょうか?」へのベスト・アンサーになっている回答者の答えであって質問者はそれに感謝の意を表している)。

 但し、瓢簞から駒で、その回答者が参考として引用しているページは非常な優れものであった。

 個人ブログ「takayanの雑記帳」のコスモスの由来3である。幾つか、大切な箇所を引用させて貰う。

 まず、『コスモスが日本に入ってきた』『時期は、江戸時代後期、明治時代中期らしいと書いてある。内容もはっきりしないが、その「らしい」という情報そのものも出典が分からないものが多』い、そん中で、『コスモスは、幕末に渡来し、イタリアの彫刻家で、工部美術学校の教師ビンチェンツォー・ラグーザが』明治一二(一八七九)年に『種子を持ち込んだのが最初だともいわれてい』るというのが確述的なもので、ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa 一八四一年~一九二七年)は日本最初の美術教育機関である「工部美術学校」に招かれたお雇い外国人三人のイタリア人教師の一人で、担当は彫刻科、彼は工部美術学校開校時の明治九(一八七六)年から明治十五年まで教授していた(この年に彫刻家は廃止され、翌明治一六(一八八三)年残っていた画学科も廃止され、同校は閉校した)。

 次にブログ主は「コスモス」が使われた最初の作品を「青空文庫」全文検索システムを用いて調べ、『明確な初出時期の分かる作品としては』与謝野晶子の「ひらきぶみ」(『明星』明治三七(一九〇四)年十一月号初出)『が見つかった。本文最後から二番目の文』で(踊り字「〲」を正字化し、漢字を正字化した)、

   *

 庭のコスモス咲き出で候はば、私歸るまであまりお摘みなされずにお殘し下されたく、軒の朝顏かれがれの見ぐるしきも、何卒歸る日まで苅りとらせずにお置きねがひあげ候。

   *

『これが出された』一九〇四年当時は、『既に一部の日本人の庭にコスモスが咲いていたと考えていいだろう。「君死にたまふこと勿れ」の批判への返答という形で出された作品だけに、この文章も多くの人に知られたことだろう。作品に使うことから』、『与謝野晶子の周囲では』、『それなりに「コスモス」が一般的な言葉だと認知されていたことも想像できる』とある。

 また、明治四二(一九〇九)年には『文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布したらしい』とある。ただ、配布の際に『「コスモス」という名前で呼んでいたのか』までは調べ得なかったらしい。しかし、翌明治四十三年の三月一日から六月十二日まで『朝日新聞』に連載された夏目漱石の「門」には既に「コスモス」という言葉が出て来ている(「八」の頭から四段落目。引用は私(藪野直史)の所持する岩波旧全集に拠った)。

   *

 緣先は右の方に小六のゐる六疊が折れ曲つて、左には玄關が突き出してゐる。その向ふを塀が緣と平行に塞いでゐるから、まあ四角な圍内(かこひうち)と云つて可(い)い。夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色を喜んだ事もあるし、又塀の下へ細い竹を立てゝ、それへ朝顏を絡ませた事もある。其時は起き拔けに、今朝咲いた花の數を勘定し合つて二人が樂(たのしみ)にした。けれども秋から冬へ掛けては、花も草も丸(まる)で枯れて仕舞ふので、小さな砂漠見た樣に、眺めるのも氣の毒な位淋しくなる。小六は此霜ばかり降りた四角な地面を脊にして、しきりに障子の紙を剝がしてゐた。

   *

 次にブログ主は『今度は「秋桜」という単語が使われているか、青空文庫で似たような検索をしてみた。これを「あきざくら」と読むのか、「コスモス」と読むのかは、検索後に確認すればいい』と考えられたのであるが、『結果は、青空文庫にある作品の本文では「秋桜」という表記そのものが存在しなかった。旧字体の「秋櫻」でも駄目。つまり著名な著作権切れの文学作品には、「秋桜」という文字自体が使われていない。「秋桜(あきざくら)」という言葉自体が一般的ではなかったのだろうか』と呟かれている。『いろいろ調べていると、俳人に』水原秋桜子(しゅうおうし 明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年:医学博士(専門は産科学)。本名・水原豊)『という人がいることが分かった。根拠は見つからなかったがこの名前はコスモスにちなんでいるだろうと考えられる。いつからこの俳号を名のっているかは知らないが』[やぶちゃん注:大正後期にはこの号を用いているものと推測される。]、遅くとも昭和九(一九三四)年に『俳誌『馬酔木』を主宰したときには既に水原秋桜子であるようだから、その時期には「秋桜(あきざくら)」もしくは「秋桜(しゅうおう)」という表現はあったと言うことができる』。『秋桜(あきざくら)をコスモスと当て字読みしだした時期については、はっきりしたことは分からなかった。山口百恵が歌ったさだまさし作詞作曲の』「秋桜(コスモス)」『が日本中にこの読み方を浸透させただろうことは簡単に想像できるが、おそらくそうなのだろうが、ここではそういう判断基準では書けない』[やぶちゃん注:その通り!]。『また広めただけでなく、この当て字の用法の始まり自体がこの歌であるかもしれないが、これを確かめるには、やはり詩歌を狙って調べれば』、『でてくるのではないかと思われる。もちろん直接、さだまさしに独自の当て字かどうか聞くのもいい。それでも一番かどうかは分からないが』とある。素晴らしい。]

 

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