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カテゴリー「柴田宵曲」の220件の記事

2018/01/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 「しゃくられの記」三篇

 

     「しゃくられの記」三篇

 

 この年の六月二十四日、居士は高等中学の卒業試験を了(お)え、その結果を見るに先(さきだ)って、七月一日出発、帰省の途に就いた。[やぶちゃん注:「先って」とは、卒業試験の結果を待たずにの意である。以下、漱石の葉書は前後を一行空けた。宵曲は読み易くするために読点を打っており、日附と結語の位置も逆になっていて、おかしい。見た目の臨場感を出すため、岩波の旧「漱石全集」に載る通りに、書き換えた。明治二三(一八九〇)年七月五日『牛込區喜久井町一』より『松山市湊町四丁目正岡常規』宛葉書(但し、原本からではなく、「筆まか勢」からの転載)である。]

 

 早速御注進

 先生及第乃公及第山川落第赤沼落第米山未定 頓首敬白

    七月五日夜

 

という漱石氏の葉書は、居士より早く松山に着いていたのである。

[やぶちゃん注:底本では「乃公」は「だいこう」で一人称。男が仲間や目下の者とざっくばらんに話す際に用い、「僕」なんぞよりぞんざいな語。「山川」不詳。岩波旧漱石全集の注には「赤沼」は赤沼金三郎とする。彼は一高の自治寮の自治組織の中心的人物で、野球もともにした子規の友人である。「米山」保三郎。既出既注。]

 この帰省の際は三並良、小川尚義両氏と行を共にした。江尻に泊り、大垣に泊り、大阪神戸間に少しく彽徊して、九日故山に帰着するまでの顚末は、「しゃくられの記」上篇に記されている。この記事は大阪中ノ嶋の旅亭に筆を起し、待つ山に帰って後完成したらしいが、場所を異にするに従って文体を変えたのが居士の趣向であろう。江尻の条を「羽衣」の謡もどきにしたのと、大垣、大阪間を松山言葉の言文一致にしたのが殊に奇である。「しゃくられの記」なる題名の由来は大垣の宿にある。小川氏が養老の滝を見んことを主張して、どうも養老が引張るように思われてならぬというのを、それは養老の滝から糸をお前の身体につけ、手でしゃくっているのだろうと居士が評した、その言葉が同行者の間に盛に用いられたのを、直に採って題名としたのであった。

[やぶちゃん注:「三並良」既出既注

「小川尚義」(明治二(一八六九)年~昭和二二(一九四七)年:正岡子規より二歳歳下)は後の言語学者(台湾諸語研究者)・辞書編纂者で台北帝国大学名誉教授となった人物。ウィキの「小川尚義によれば、長男(第四子)の小川太郎は、戦後の同和教育の第一人者で『全国部落問題研究協議会会長も務め、日本作文の会にも関わった』とある。

「しゃくられの記」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像全文が視認出来る。]

 八月十八日、居士は松山から久万山(くまやま)、古巌屋(ふるいわや)に遊んだ。同行者は藤野古白をはじめ、皆親戚の年少者である。かつて明治十四年にここに遊んだのが、居士としては最初の旅行であり、当時の同行者は皆自分より年長であった。十年後に至り、年少者を率いて再達したことは、居士としても感慨に堪えなかったであろう。

 

 脱帽溪頭居石看

 危巖如劍欲衝天

 山靈能記吾顏否

 屈指曾遊己十年

  渓頭に帽を脱ぎ 石に据(すは)りて看る

  危巖 劍の天を衝(つ)かんと欲するがごとく

  山靈 能く吾が顔を記(き)するや否や

  指を屈すれば 曾て遊びしより 已に十年

 

の詩がある。この時の事を記したのが「しゃくられの記」中篇である。

[やぶちゃん注:「久万山(くまやま)」既出既注

「古巌屋(ふるいわや)」愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬にある古岩屋。岩峰が連なる名所で国の名勝に指定されている。現在、四国カルスト県立自然公園内に含まれている。]

 八月二十六日、松山を発して東上、先ず大阪に大谷是空、太田柴洲の二友を訪ねた。コレラの噂は久万山行の中にもちょっと出て来るが、大阪は殊に猖獗(しょうけつ)であったらしく、居士はここに止らず、大津の旅店に投じた。翌日義仲寺に芭蕉の墓を弔い、国分村に幻住庵の址をたずねなどしている。二十九日の夜は日暮から小舟を僦(やと)って湖に浮び、月明に乗じて辛崎まで赴いた。

 

 見あぐるや湖水の上の月一つ

 月一つ瀨田から膳所へ流けり

 

という句はその際の作である。「寒山落木」に「湖やともし火消えて月一つ」「明月は瀨田から膳所へ流れけり」とあるのは、後に改刪(かいさん)したものであろう。月は高く澄み、山々あh烟(けぶ)るが如き湖水の中を、しずかに舟を漕がしむる清興は、居士の一生を通じて前にも後にもない経験のようである。

[やぶちゃん注:「大谷是空」既出既注

「太田柴洲」既出既注

 八月三十日、大津の宿を去って、三井寺観音堂前の考槃亭(こうはんてい)に移り、滞留数日に及んだ。居士後年の句に「鮒鮨や考槃亭を仮の宿」とあるのは、この時のことを詠んだものである。松山出発以来のことを記した「しゃくられの記」下篇の冒頭に「ことしは上京の道すがら近江の月をながめんとてかくは早くたびだちけるなり」とあるから、琵琶湖畔に月を見ることは最初からの予定だったのであろう。ただ月に乗じて辛崎に遊んだ後は、附近に筇(つえ)を曳いたらしくもないし、考槃亭に宿を定めてからの消息は「しゃくられの記」を読んでもはっきりわからない。

[やぶちゃん注:「考槃亭(こうはんてい)」三井寺の門前にあった旅宿の屋号。]

 居士が帰省もしくは上京の途中を利用して各所に悠遊を試みるようになったのは、喀血後著しく目につく傾向である。それには保養の意味も含まれていることと思うが、往復と在郷中とを併せて三篇の「しゃくられの記」を産むようなことは、この年はじめて見るといわなければならぬ。

 

2018/01/07

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 その後の俳句

 

     その後の俳句

 

 ここで少しこの時分までの子親居士の句を調べて見る。

 「寒山落木」の二十一年の条には、前に「七草集」から挙げたものの外に、

 

 萩ちる檐(のき)に掛けたる靑燈籠(あをどうろ)

 靑々と障子にうつるばせをかな

 

というような句がある。二十二年にはまた

 

 水鳥や蘆うら枯れて夕日影

   袋井

 冬枯の中に家居や村一つ

 

のような句があり、徐(おもむろ)にその歩を進めてはいるけれども、大体においてさのみ見るべきものがない。居士が三津浜(みつがはま)に大原其戎(おおはらきじゅう)という旧派の宗匠を訪ねたのは、明治二十年夏帰省の際、居士自身「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」と『筆まかせ』の中に記している。しかしここに「始めし」とあるのは、恐らく先輩について教を乞うの意であろう。居士の歌は十八年より早く――松山時代三並良氏に寄せた手紙の中にもあり、十六年最初の上京の事を記した「上京紀行」の中にもある――作られたものがあるし、俳句の方も「寒山落木」に十八年から句を存していることは已に述べた通りである。大原其戎は梅室門下で、居士が勝田氏の紹介でその門を敲(たた)いた時、八十近い老人であったという。次の時代に一新紀元を劃(かく)すぺき使命を持って生れた居士が、この老俳人によって何らかの暗示を受けるということは、如何なる意味からいっても先ず望みがたいとしなければならぬ。

[やぶちゃん注:「二十一年」一八八八年。

「袋井」旧山名郡袋井宿、現在の静岡県の西部の中央に位置する袋井市。この年に町制が施行されて町名は「山名郡山名町」であった。これは子規(第一高等中学校本科二年)がこの明治二二(一八八九)年の冬、汽車で東京から松山に帰省する際、袋井の駅から見えた風景を詠んだ一句とされる。

「三津浜(みつがはま)」現在の愛媛県松山市三杉町三津浜地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大原其戎(おおはらきじゅう)」(文化九(一八一二)年~明治二二(一八八九)年)は伊予松山の俳人で「四時園其戎」とも称した。ウィキの「大原其戎によれば、『伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商』(ふとものしょう:絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物などの太い糸の織物を扱う商人。江戸時代の大手の呉服商の看板にはしばしば「呉服 太物商」の表記が見られる)『で俳人』でもあった(号は其沢(きたく))。万延元(一八六〇)年、『京都に出て』、『七世桜井梅室』(我々の知っている天保の三大家(他は成田蒼虬と田川鳳朗)の一人である桜井梅室(明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)の後継者ではあるものの別人)『に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り』、『俳諧結社の明栄社を興し』、明治一三(一八八〇)年には『月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は』八百人にも『達した。上京後、俳句に興味を持った正岡子規が』、この『帰郷の際』、年下の『友人の勝田主計』(しょうだかずえ 明治二(一八六九)年~昭和二三(一九四八)年:後に大蔵官僚を経て政治家となった)『の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。この時、其戎は』既に七十五『歳であった。同年、子規の』「蟲の音を蹈(ふみ)わけ行くや野の小道」の『句が『真砂の志良辺』に掲載され、これが彼の初めて活字になった句とされている。以後、子規は「丈鬼」などの俳号で、明治二十二年に『其戎が没し、子の其然が刊行を継承した後の』明治二十三年八月まで、正岡子規は『同誌に投稿を続け』ており、『『真砂の志良辺』に掲載された子規の句は』四十四句に上ぼる、とある。

「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」「筆まか勢」の明治二十一年のパートの「哲學の發達」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(左ページ四行目から)で視認出来る。「井手眞棹」天保八(一八三七)年~明治四二(一九〇九)年は本名、正雄。真棹は号。旧松山藩士。実業家で歌人。秋山眞之・正岡子規の和歌の師。松山城下三番町で松山藩士西村清臣の長男として生まれた。嘉永三(一八五〇)年に家督を継ぐ。和歌を嗜んだ父に手ほどきを受け、後に上京して桂園派の僧性海に師事し、松山へ帰省して「蓬園吟社」を設立、松山歌壇の第一人者となった。

「三並良」「良」は「はじめ」と読む。既出既注

「上京紀行」私は不詳。]

 二十二年中の『筆まかせ』に「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」という一章がある。それによると居士比較譬喩ということについて、格段に発句の上に感じたといい、来山(らいざん)が女人形を詠んだ「折ることもたかねの花や見たばかり」以下五十余句を挙げ、普通の譬喩は剽窃(ひょうせつ)、効顰(こうひん)の毀(き)を免(まぬか)れぬが、新趣向に出たものはいちいち面白いといっている。例句の中には元禄俳人の句なども相当入っており、悉くが見るに足らぬわけではないけれども、句の価値よりも譬喩に重きを置き過ぎた嫌がある。後年居士自らこの条に註して「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」といったのは固より当然であろう。この点は二十二年から二十三年に移っても、格別の変化はなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来る。事実、子規の掲げる句はろくなものがない。個人的には、

 

   いもうとの追善に

 手の上にかなしく消ゆる螢かな   去來

   家を出る時

 五月雨に家ふりすてゝなめくしり  凡兆

   因果應報の心を

 おどしたる報いにくちるかゞし哉  不覺

 

ぐらいが目を惹いたぎりである(不覺の「報い」はママ)。

「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」原文は「譬喩ハ多ク理窟ナリ。理窟ハ文學ニアラズ。余ハ文學ニアラザル所ヨリ俳句ニ入リタリ(自註)」とカタカナ表記である。]

 碧梧桐氏がはじめて子規居士の許に送って来た句稿には、明治俳句の曙光と認むべきものは何も見当らない。これに対する居士の添削にも、いまだ新しい世界を開拓すべき素地は出来ていないようである。むしろこの頃までの居士は、一たび薫染(くんせん)した旧趣味から脱却し得ぬような状態であるかに見える。ただ自己の所信の上に立って常に後進の指導を怠らぬ居士の態度は、已にこの時代に現れている。これは居士の一生を通じて終始渝(かわ)らなかったというべきであろう。

 

2018/01/03

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 文学熱と野球

 

明治二十三年――二十四年

 

[やぶちゃん注:「明治二十三年」は一八九〇年。]

 

     文学熱と野球

 

 明治二十三年(二十四歳)の新春は松山で迎え、一月末近くなって上京した。在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている。この年あたりより居士の『筆まかせ』を草すること頗る多く、かつ従前に此して長文のものが交るようになった。十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したものなどが、その最も長い部類に属するであろう。

[やぶちゃん注:「在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ以降の複数条で総量はかなりある。

「十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したもの」「淸水則遠」(慶応四・明治元年(一八六八)年~明治一九(一八八六)年)は子規の江ノ島無銭旅行の同行者の一人で、松山中学では子規の一年後輩であったが、大学予備門で子規が落第したために同級生となった。栄養失調を起因とする脚気衝心で十八歳で夭折した。彼の死に、子規は一時、錯乱状態にさえなったという。「筆まか勢」のそれ、「淸水則遠氏」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の以降。後に「淸水則遠氏」という追記短章()も併せて読みたい。]

 二月十二日、常盤会寄宿舎に「もみじ会」なるものを開いた。第一回の顔触は成田四舟、若隠居(五百木飄亭)、佐伯蛙泡、あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))、新海非凡(はじめ非凡と号し、後非風と改む。この時分はまだ非凡であった)、伊藤鉄山、正岡子規の七名である。連月(れんげつ)題を課し、歌俳狂句短文戯画など、何ということなしに持寄ったものを集めて「つゞれの錦」と題する。作品として見るべきものはないけれども、居士を中心とした常盤会寄宿舎内の文学熱の一半は、ほぼこれを以て察することが出来る。

[やぶちゃん注:「成田四舟」不詳。

「若隠居(五百木飄亭)」「いおきひょうてい」。既出既注

「佐伯蛙泡」不詳。

「あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))」既出の「河東銓」。の別称。正岡子規の友人で、河東碧梧桐の兄。

「新海非凡」「後非風と改む」「にいみひぼん」「ひふう」。既出既注

「伊藤鉄山」不詳。

「つゞれの錦」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから読める。]

 常盤会寄宿舎内における文学熱の流行を面白く思わぬ傾向は、勿論舎内の一部にあった。それは監督の鳴雪翁よりも、舎監をつとめていた佃(つくだ)一予氏などがその急先鋒で、攻撃の目標になったのは居士と諷亭、非風両氏とであったらしい。「もみじ会」などもこの三人が雪見に行った帰途、相談して起したものなのだから、攻撃の鋒先(ほこさき)の向くのも当然であったが、居士は文学者志望だから直接には攻撃しない。諷亭氏もその時已に医者の免状を所持していたから、他の修行中の者とは違うというので、甚しくは攻撃しない。最も風当りが荒かったのは、陸軍志望の非風氏であった。一方は三人を一種の道楽者として、他の舎生に悪影響を与えるものと見る。三人の側ではまた、何を俗骨がという風で冷嘲する。『筆まかせ』の中にある「寛? 厳? 中庸?」という文章は、佃氏が大学を卒業するとともに舎監をやめた際、常盤会寄宿舎に開かれた茶話会の模様を記したものであるが、両者対立の模様、それに臨む鳴雪翁の態度などが、交錯してよく現れている。

[やぶちゃん注:「寛? 厳? 中庸?」(「寛? 嚴? 中庸?」)は私の所持する岩波文庫「筆まかせ抄」には確かに第三編として明治二十三年のパートにあるが、先の国立国会図書館デジタルコレクションには漏れているので提示出来ない(文庫本で六頁余りもある)。]

 けれども当時の居士は文学に耽るといった上ころで、他の一切を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。ベースボールの如きは発病後といえども全く廃するに至らず、常盤会寄宿舎内にも二十人位の同好の士が出来たので、この年三月二十一日に上野公園博物館横の明地(あきち)で試合をやったことが『筆まかせ』に出ている。それによると居士は赤軍の捕手をつとめており、竹村黄塔(たけむらこうとう)を投手として白組の勝田(しょうだ)(主計(かずえ))佃のバッテリーに対峙しているようである。五百木(三塁)、新海(左翼)が居士と同じく赤軍に加わっているのは、文学党のために気を吐くものというべきであろう。居士が運動服にポールとバットを携えた写真を大谷是空に贈ったのはこの頃の話であるが、決して殊更にああいう恰好をしたのではない。野球選手として活躍するだけの余力を、一面にはまだ有していたのである。

[やぶちゃん注:「『筆まかせ』に出ている」確認出来なかった。

「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注。]

 喀血後一周年の五月は何事もなしに過ぎた。ただ四月初旬以来腸を害することなどもあり、筆を執ることが厭になったとあるのは、健康と関係があるのかも知れぬ。

 河東碧梧桐が松山から書を寄せて、処女作の俳句の添削を乞うたのは、この五月頃の出来事である。河東静渓並に黄塔、可全両氏の関係からいって、碧梧桐氏は早くから居士を知っているはずであったが、文学方面で接近するにはやや年齢の距離があり過ぎた。居士と碧梧桐氏とを結びつけた最初のものは、小説もなければ俳句でもない、ベースボールであったと碧梧桐氏の書いたものに見えている。ボールの投げ方や受け方をはじめ、野球の一般法則に至るまで、一応居士の手ほどきを受けたのだそうである。碧梧桐氏が居士に逢うのはその帰省中に限られていたから、そう度々機会はないわけであるが、野球の話は自然爾余(じよ)の方面に及び、文学方面において居士の示教(しきょう)を乞うようになったのであろう。これまで居士の文学仲間といえば、大体常盤会の寄宿友達ときまっていたのに、ここにほじめて年少の文学志望者を待たのであった。

[やぶちゃん注:「河東碧梧桐」(かわひがし へきごとう 明治六(一八七三)年~昭和一二(一九三六)年:本名、秉五郎(へいごろう)は後に友人高浜虚子とともに「子規門下の双璧」と謳われ、子規亡き後の俳句革新運動の後継者は碧梧桐であった。当初、小説への色気を出して俳句に重きを置いていなかった虚子は、碧梧桐の新傾向俳句による定型を破った動きに俄然、反旗を翻して「守旧派」として復帰、結局、伝統的有季定型俳句の牙城の首魁となった。碧梧桐は結社を転々とし、ルビ俳句なども提唱したが、結局、支持を得られず、昭和八(一九三三)年三月の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。

「爾余」自余。そのほか。]

2017/12/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 身辺に現れた人々 / 明治二十二年以前~了

 

    身辺に現れた人々

 

 居士が秋になって上京したのは何日頃かわからぬが、「歸郷中武市子明と中秋を三津(みつ)に賞す」ということが『筆まかせ』に見えるから、その後だったのであろう。「啼血始末」の序に「九月上旬」とあるのは上京前か、上京後か、それも明でない。

[やぶちゃん注:ここ以下、明治二二(一八八九)年の事蹟。

「歸郷中武市子明と中秋を三津(みつ)に賞す」「筆まか勢」の對」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。これは明治二二(一八八九)年九月九日(旧暦八月十五日)で、この日、友人武市子明(本名、庫太)と三津(現在の愛媛県松山市三杉町三津浜地区。(グーグル・マップ・データ))に赴き、料亭で月を賞した。伊予歴史文化探訪に詳しい。]

 十月に至り、居士は一時常盤会寄宿舎を出て不忍池畔に下宿した。「水戸紀行」はここで成ったので、十月十七日に稿を起し、二十日に書上げたと序文に見えている。居士は水戸旅行の後、一カ月余にして病を獲たため、遂に紀行を草する遑(いとま)がなかったが、その病はまた水戸旅行が近因をなした観があるので、『子規子』を草した後、遡って「水戸紀行」の筆を執るに至ったもののようである。

 不忍池畔に宿を転じて後、一夜五百木飄亭(いおぎひょうてい)氏が新海非風(にいみひふう)とともに訪ねて来た。この晩のことは飄亭氏が後年『ホトトギス』に掲げた「夜長の欠(あく)び」なる文中に見えている。月明(げつめい)に乗じて上野を徘徊し、三人各〻当夜の事を記す約束であったが、翌日居士が「三傑句合せ芭蕉泣(なか)せ」という草稿を携え来ったのみで、他の二人は何も出来なかった。「大空に月より外はなかりけり」という非風の句が圧巻であったというによって、ほぼ大体を察すべきであろう。「三傑句合せ芭蕉泣せ」なるものはどうなったか、今は伝わっていない。

[やぶちゃん注:「五百木飄亭」五百木良三(いおきりょうぞう 明治三(一八七一)年~昭和一二(一九三七)年)は国粋主義者。飄亭は俳号。ウィキの「五百木良三」によれば、『伊予国温泉郡小坂村新場所(現・愛媛県松山市日の出町)の生まれ』で、明治一八(一八八五)年に『松山県立医学校に入学』、明治二十年には『大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学にはげみ』、十九『歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった』という。明治二二(一八八九)年、『上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮でドイツ語の研究に専心し、正岡子規と文学を論じ、子規から俳句の指導をうけた』。翌年、『徴兵に合格し、陸軍看護長に採用され、青山の近衛連隊に入営し』、明治二五(一八九二)年まで『軍隊生活をおくった。日清戦争で』明治二七(一八九四)年六月、『第五師団にしたがって出征し、筆名「大骨坊」で従軍日記を「日本」に』一『年間』、『連載した』。『帰国後、明治二十八年に『「日本」に入社し、陸羯南と活躍し』、翌明治二十九年には『近衛篤麿を擁し』、『国民同盟会を結成』、『中国の保全を主張した。篤麿のもとで「東洋」を発行し、対アジア対策をあきらかにした』。明治三四(一九〇一)年に『「日本」編集長となって対外硬派として論を展開し』、明治三十六年退社、『桜田倶楽部同人として対露同志会に力をつくし、翌年の『日露戦争開戦に影響』を与えた。明治三八(一九〇五)年九月五日の『日露講和条約議定書の調印に』際しては、『東京日比谷に国民大会をひらき、講和条件不服、条約破棄の世論を呼び起こした』。大正二(一九一三)年、『内田良平その他と対支連合会をおこし、翌年、『国民義会を結成』、大正四年には『大隈内閣の密命をうけて満州に』入った。昭和四(一九二九)年、『政教社にはいって「日本及日本人」を主宰した』とある。子規より四歳歳下。

「新海非風」(明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。高浜虚子の「俳諧師」の五十嵐十風は彼がモデルと言われる。]

 十一月二十一日、居士は大磯に遊び、故林館に投宿した。大谷是空(おおたにぜくう)氏が脳を病んでここにおったので、数日同宿したのである。この時の事は「四日大尽(よっかだいじん)」なる一篇に悉(つく)されている。居士はこの一篇に冠するに「水戸紀行裏」なる文字を以てした。「水戸紀行」は病を獲(え)る前の記録、「四日大尽」は病後の保養である点からいっても、明に表裏をなすわけであるが、その内容も自らこれに伴うものがある。「水戸紀行」は雨に濡れて歩いたり、菊池仙湖氏が不在だったり、宿屋で冷遇されたり、那珂川で震慄(ふるえ)を覚えたり、失望と落胆とを以て充されているに反し、「四日大尽」は放林館を中心に大磯をぶらぶらしたに過ぎぬから、「得意と快樂とを以ておはりぬ」というのは、いささか誇張であるにしても、とにかく明るい気分に終始している。篇中の俳句も十余に及んでいるのは、同宿者が是空氏だった関係もあろうと思われる。

[やぶちゃん注:「大谷是空」正岡子規の最も親しい友人の一人であった、俳人で教育者・評論家の大谷藤治郎(慶応三(一八六七)年~昭和一四(一九三九)年)。美作国西北條郡西苫田村(現在の岡山県津山市内)出身。東京大学予備門に入学、子規・漱石らと同級となった。この明治二十二年に脳痛のために退学、郷里や大阪の地で療養後、津山尋常中学校創立とともに教員となった。明治三〇(一八九七)年には津山の地を離れ、汽船会社に勤務し、中国に渡航するなどしたが、明治四二(一九〇九)年頃から『中外商業新報』の論説・社説を担当、その後ほぼ亡くなるまで執筆を続けた(以上は和田克司氏の論文「正岡子規と大谷是空」PDF)に拠った)。

「四日大尽」(「四日大盡」)国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]

 この十二月居士は故山に帰省している。冬季休暇の帰省はこの時がはじめてである。けだし病後の故であろう。藤野古白を伴い、途中大磯、浜松、名古屋に各二泊、京都に三十三間堂を一見するなど、帰省としてはかなり悠々たる道中であった。

 二十二年中の居士についてはなお記すべきものが少くない。第一は夏目漱石氏との交遊である。居士が漱石氏の「木屑録(ぼくせつろく)」に加えた評語に

 余知吾兄久夫。而與吾兄交者。則始千今年一月也。

 (余の吾兄(ごけい)を知るや久し。而れども吾兄と交はるは、則ち、今年一月に始まるなり。)

とあるから、二十二年に入ると間もなくはじまったものらしい。漱石氏の後年語ったところによると、交際し始めた一原因は寄席の話にあったそうである。「二人で寄席の話をした時、先生大いに寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足ると思つたのであらう。それから大いに近よつて來た」のだという。同じ予備門に籍を置いていたのだから、顔位は早くから知っていたに相違ないが、互に相許すまでには大分時間がたっている。明治文壇に不朽の痕迹をとどめた両者の接近が、学問や文章でなしに寄席の話であったのは頗る面白い。子規居士に宛てた漱石氏の書簡で、今伝わっている最古のものは、居士の喀血当時医師について意見を質した当時の一通であるが、例の天然居士米山保三郎なども、漱石氏と共に医師を訪ねた一人のようである。

[やぶちゃん注:同年の「筆まか勢」に「木屑錄」の一章もある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。但し、この「評語」はここにはない。

 以上の漱石の引用は夏目漱石「正岡子規」(『ホトトギス』明治四一(一九〇八)年九月号初出)。岩波旧全集で校訂した(底本には誤りがある)。

「子規居士に宛てた漱石氏の書簡で、今伝わっている最古のもの」明治二二(一八八九)年五月十三日附正岡常規宛書簡(旧全集書簡番号一)。正岡子規を診ている山崎医師を『不注意不親切なる醫師』と断じており、追伸部分に『何れ二三日中御見舞申上べく又本日米山龍口の兩名も山崎方へ同行し呉れたり』と、米山保三郎(既出既注)の名も出る。]

 もう一つ面白いのは、両者の名を不朽にした子規、漱石の号が各〻この年にはじまっていることであろう。子規の号が喀血に因ることは前に記した。漱石の号もこの年の五月、居士の「七草集」に評語を加えるに当ってはじめて用いられたので、「七草集には流石の某(それがし)も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて當座の間に合せに漱石となんしたり顏に認(したた)め侍り」と手紙で断っている。しかも漱石なる号は居士が松山時代に一度用いたことがあるというに至っては、いよいよ出でていよいよ奇といわなければならぬ。

[やぶちゃん注:引用は明治二二(一八八九)年五月二十七日附正岡常規宛書簡(旧全集書簡番号二)の追伸部。表記に違いがあったので校訂した。]

 第二は内藤鳴雪翁との交渉である。居士はそれ以前にも、同郷の人々と共に翁に漢詩の添削を乞うたことなどがあったが、この年翁が服部嘉陳(よしのぶ)氏に代って常盤会寄宿舎の監督となるに及び、俄に親しい間柄となった。居士が喀血したのは、服部氏がまさに帰国せんとする際だったというから、翁はそれ以前に監督となったものであろう。当時居士はいまだ俳句に多く力を用いず、従って翁も直にその世界に引入れられるようなことほなかったが、故山以来の詩友である竹村黄塔(たけむらこうとう)が入舎してから、翁と三人の間に言志会なるものが結ばれることになった。言志会の草稿たる「言志集」は鳴雪翁の手許にとどまり、その内容の一斑は後年翁が紹介されたことがある。文学的価値からいえば殆ど見るに足らぬものであるが、翁が俳句界に足を踏み入れる素地はこの間に作られたもののように思う。但当時は鳴雪と号するに至らず、南塘あるいは破蕉の号が用いられていた。

[やぶちゃん注:「内藤鳴雪」(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士、後に明治政府の官吏で俳人。本名は師克(もろかつ)、後に素行(もとゆき)と改名した。俳号鳴雪は訓の「なりゆき」で「何事も成行きに任す」の当て字という。ウィキの「内藤鳴雪」によれば、『伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれ』、八『歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時』十五、六歳)『と会っており、遊んで貰った事もあった』。安政四(一八五七)年、『父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館で漢学を学び、また、剣術も習ったが』、「武」より「文」に優れたという。文久三(一八六三)年十七歳の時、『元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ』。翌年、『藩主の嗣子松平定昭の小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従っ』ている。慶応三(一八六七)年、『隠居した前藩主松平勝成の側付とな』り『(春日)チカを娶』る。同年、命ぜられて『京都の水本保太郎の塾に学び、翌年』、『水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した』明治元(一八六九)年、『松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった』。明治一三(一八八〇)年三十三歳の時、『文部省へ転じ』、『累進して』『書記官・往復課長』・寄宿舎舎監(東京に学ぶ松山の子弟のための常磐会という寄宿寮)・『参事官兼普通学務局勤務』を勤め、明治二四(一八九一)年に退官したが、寄宿舎監督は続けた。『寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐・五百木瓢亭・勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった』りしたが、翌明治二五(一八九二)年四十五歳の時、二十一も年下の子規の俳句の弟子となった

「服部嘉陳」常盤会寄宿舎初代監督。子規の縁戚でもあった。抹消歌であるが、この時の送別に詠んだ一首が、

 

 ほとゝぎすともに聞かんと契りけり血に啼く別れせんと知りねば

 

とされる。]

 五百木飄亭氏のことは前にちょっと述べた。飄亭、非風、それに藤野古白を加えた三人は、明治俳壇の先駆者として、最も早く居士の身辺に現れた人々である。その飄亭氏が上京して、常盤会寄宿舎の人となったのは、この年の五月であった。

 本郷の夜店に『風流仏』を発見して、大に愛読するに至ったのもこの年の秋であるらしい。はじめこの善が出版された当時、その文章のむずかしいことと、内容の面白いこととを説いた同室の友人というのは、新海非風ではないかと思うが、よくはわからぬ。居士は最初友人が『風流仏』を読むのを聞いて、その意味がよくわからず、とにかく人に解し難い文章を書く者は尋常でないと感じたところから、これを買ったのであった。『風流仏』は『書生気質』以後に以て、居士の深く傾倒した第一の小説である。『風流仏』に関しては後に改めて説かなけれはならぬが、ここではさし当り『風流仏』を夜店に得て愛読するに至ったことだけを記して置くことにする。

[やぶちゃん注:「風流仏」幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:子規と同年)作の小説。明治二二(一八八九)年『新著百種』に発表。旅先で出会った花売りの娘に恋した彫刻師珠運の悲恋を描いた露伴の出世作。

「書生気質」既出既注の坪内逍遙(春廼屋朧)の小説「當世書生氣質」。]

2017/12/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 啼血三旬号子規

 

     啼血三旬号子規

 

 明治二十二年(二十三歳)の四月三日、吉田匡という友人と共に水戸に遊んだ。東京より徒歩で藤代に一泊、翌日は雨中土浦を経て石岡まで行った。三日目も徒歩の予定であったのを、疲労のため中途から人力車で水戸に入った。この行の一の目的は菊池仙湖氏の家を訪(と)うにあったが、菊池氏が入違いに上京してしまったので、同夜は水戸市中に泊り、その翌日舟で那珂川を下って大洗に遊んだ。この旅中の顚末は「水戸紀行」一篇に詳(つまびらか)であるが、那珂川の舟中で居士は非常な寒さを感じ、震慄(ふるえ)が止まなかった。後にして思えばこれが最初の発病の原因になったらしい、と居士自身記している。前年一塊血を見たのも鎌倉の風雨の中であったし、この水戸行も雨の中を大分濡れて歩いている。那珂川の震慄は結果となって現れたので、この徒歩旅行は多少の無理があったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「明治二十二年」一八八九年。

「吉田匡」(名は「ただす」と読んでおく)宿舎としていた常盤会(ときわかい)寄宿舎(本文後述)の松山出身の舎友。

「菊池仙湖」菊池謙二郎(慶応三(一八六七)年~昭和二〇(一九四五)年)は後の歴史研究者で衆議院議員。仙湖は号。藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られた。同い年であった正岡子規・夏目漱石らと交友があった。ウィキの「菊池謙二郎」によれば、『水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老も務めた』『菊池慎七郎の二男として水戸に生まれ』た。『茨城中学校(水戸一高の前身)入学』後、退学、明治一七(一八八四)年五月に上京し、『共立学校へ転学』した。この時、正岡常規と同級となった。『東京帝国大学文科大学国史科を卒業』、『山口高等学校教授、津山中学校校長、千葉中学校校長、第二高等学校校長を歴任』、『さらに清に渡って東亜同文書院監督兼教頭、三江師範学堂総教習兼両江学務処参議となった』。『帰国後は水戸中学校校長を務め』たが、大正一〇(一九二一)年に『「国民道徳と個人道徳」という講演で祖先崇拝の無意味を説いたところ』、『批判を受け』、『辞職を余儀なくされた。これに対し』、『水戸中学生が復帰を求めて同盟休校をする騒ぎに発展した』。大正一三(一九二四)年の第十五回『衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした』。明治十七年九月、共立学校の同級では子規と二人だけが『大学予備門に進み、子規と親しくな』った。翌明治十八年三月頃には、『神田猿楽町板垣方で子規』と『同宿』となっている。同年九月、子規と一緒に学年試験に落第している。『ベース・ボールをやり、子規はCatcher、菊池仙湖はpitcherの役だった』という。その後もしばしば子規の「筆まか勢」に彼の名が登場している。ここに記された通り、明治二十二年四月、子規が吉田匡と二人で、『水戸市まで大部分、徒歩で旅行し、謙二郎の実家を訪問、この時のようすを』「水戸紀行」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像(大正一四(一九二五)年アルス刊「子規全集」第八巻。以下、同じ)でここから視認出来る)『として、半年後にまとめている』。『人力車で常磐神社のもとに着いた後、仙波湖』(千波湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。彼の号の由来。彼の実家はこの湖畔にあった)『を離れ』、『「坂を上れば上市なり、町幅広く店も立派にて松山などの比にあらず」と記し、大工町への坂を上り、現在の国道』五十『号線の泉町方面への道筋と一致する。宿に寄った後、謙二郎の実家を訪ねたが、子規が二日前、旅に出た直後に出したはがきも届いておらず、謙二郎が今実家の下を通った列車に乗って上京した直後のため、謙二郎には会えなかった。子規はノートに

 

 この家を鴨ものぞくや仙波沼

 

と記している』。『帰京後、子規が謙二郎を訪ねたところ、会えなかったことを残念が』った。『子規は、この旅が病の元となったとしている』。『同年、子規は朋友として』十九『人を挙げ』ているが、七人目に厳友として菊池を、次に畏友として夏目漱石を挙げている。『また、かつて仙湖』は『子規を十返舎一九にたとえたことがあると』ともある。]

 当時居士は常盤会寄宿舎にあった。旧松山藩主たる久松家が、同藩子弟のために建てたので、明治二十年十二月創立以来、居士はこの寄宿舎の人となっている。舎生の文章を集めた『真砂集』なる小冊子が出来たのは、二十二年四月の事であったが、居士はこの書のために「詩歌の起原及び変遷」を草した。『真砂集』とは常盤会寄宿舎が本郷真砂町にあったからの名であろう。「詩歌の起原及び変遷」は居士の文章が印刷に附された最初のものだという点でも興味があるが、居士の興味がどういう方角に向っていたかを卜(ぼく)し得る上からも注目する必要がある。

[やぶちゃん注:「詩歌の起原及び変遷」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像ここから視認出来る。]

 五月九日の夜、居士は突然喀血した。翌日は朝寝して学校へは行かなかったが、医師の診察を受けただけで、午後は集会へ出るために九段まで行った位だから、さほどの事とも思わなかったのであろう。然るに同夜十一時頃再び喀血、それより午前一時頃までの間に、ほととぎすの句を作ること四、五十に及んだところ、翌朝またまた喀血した。子規と号するはこの時にはじまるのである。

 この喀血の模様は、二十二年九月に至って居士の草した『子規子』一巻に委しく記されている。『子規子』は「啼血始末(ていけつしまつ)」「読書弁(どくしょをべんず)」「血のあや」の三篇より成り、一夜四、五十吐いたというほととぎすの句が「血のあや」に当るものではないかと思われるが、名前だけで内容は伝わっていない。「啼血始末」の中に「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」などとあるのが、僅にその片鱗を示しているに過ぎぬ。「啼血始末」は閻魔大王の訊問に答えて自己の体質、病を獲(え)るに至るまでの経過を審(つまびらか)に陳述するという体裁のもので、居士の病に関する最も清細な記録である。那珂川の舟中の寒かったこと、帰京後数日を経て後、腹痛に伴う震慄が一夜に三度起ったことなども記されている。居士の喀血は一週間ばかり続いて漸く止んだ。

[やぶちゃん注:「子規子」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここから視認出来る。判事閻魔大王・立合検事牛頭赤鬼・同馬頭青鬼と被告正岡子規の台詞からなるレーゼ・ドラマ風の「啼血始末」は二十二の子規が既にして俳諧的諧謔の真骨頂を捉(つらま)えていることを示す快作である。]

 

 繫將生命細如糸

 啼血三旬號子規

 不敢紅塵衣帶涴

 猶期靑史姓名垂

 廿年人事幾甘苦

 五尺病軀多盛衰

 遮莫東風又新歳

 且陪諸友共傾巵

  繫ぎ將(も)つ生命 細きこと 糸のごとし

  啼血 三旬 子規を號す

  敢へて 紅塵に衣帶を涴(けが)さず

  猶(なほ)期す 靑史に姓名の垂るゝを

  廿年の人事 甘苦 幾ばくぞ

  五尺の病軀 盛衰 多し

  遮莫(さもあらばあ)れ 東風(とうふう) 又 新歳(しんさい)

  且(しばら)く 諸友に陪(ばい)して 共に巵(さかづき)を傾けん

 

とは、翌二十三年の歳始書懐の詩であるが、痰に血痕を印することは一カ月余に及び、医師もその長いのに驚いたとあるから、「啼血三旬号子規」は必ずしも誇張ではなかったのである。

[やぶちゃん注:「涴」「汚(けが)す」に同義。「靑史」歴史。紙のなかった時代、青竹の札を炙って文字を記したことに由来する語。]

 居士は最初の喀血の翌日、医師から肺患の宣告を受けた時、意外に感じたと「啼血始末」の中で述べている。この年の春学校で測ったところによると、肺量は二百二十リットルあり、充盈(じゅうえい)と空虚の胸周の差も殆ど二寸あったから、その辺の懸念はあまりなかったのだそうである。けれども十一日朝、三度目の喀血を見てからは、静臥の外に方法はなかったらしく、「無口のお願をかけたが、獅子にでも出つくわして死んだまねをする樣に、かれこれ難儀をしました」とある。医師は帰国静養をすすめ、親類なども同意見であったが、居士はそれに従わず、試験を済まして後、はじめて帰省の途に就いた。松山に帰ったのは七月七日であった。

[やぶちゃん注:「充盈(じゅうえい)と空虚」空気を肺にめいっぱい吸い込んで空気を充満させた状態を「充盈」、すっかり吐き出した状態を「空虚」と言っているものと思われる。

「無口のお願をかけたが、獅子にでも出つくわして死んだまねをする樣に、かれこれ難儀をしました」底本は「無口のお願をかけたか、獅子にでも出っくわして死んだまねをするように、かれこれ難儀をしました」であるが、先の国立国会図書館デジタルコレクションの「啼血始末」の当該画像で訂した(「啼血始末」の被告正岡子規の台詞)。但し、文脈からは「が」は「か」の方が正しいかも知れぬ。]

 三度目の喀血があった十一日に、故山の叔父大原恒徳氏に送った手紙には「右の肺がわるき故何をするも左手をつかふは眞の杞憂にして苦痛のわけには無之(これなく)候」とある。居士は幼少の時から左利で、箸なども左で使いつけており、それをやかましくいわれるため、学校へ弁当を持って行かなかったという位だから、左手で手紙を書いたりすることは、格別苦痛でもなかったろうと思われる。また同じ手紙に「病氣の事母上はじめ他の方々へはなるべく御話無之樣祈上(これなきやういのりあげ)候」とあり、病気の程度などは母堂に秘してあったらしいが、松山に帰ってから暫くたってまた喀血した。この時は居士自身気管の出血だろうと判断し、医師に見せたら果してそうであった。十日ばかりで癒えたということである。

 この故山における喀血は時日がわからないが、「読書弁」の終に「明治二十二年八月十五日褥中(ぢよくちゆう)筆を執りて記す」とあるのは、その際の臥林を指すのではないかと思う。「読書弁」は喀血後の居士が、病によって廃学せず、読書を棄てざる所以を述べたもので、「啼血始末」では閻魔大王の法廷で青鬼がこれを朗読することになっている。居士はこの文章において、先ず人間の慾望の総量を同じと見、それを充す慾望の種類の割当に各人各様の差があるといい、然る後己(おのれ)の読書慾に及んだ。

[やぶちゃん注:「明治二十二年八月十五日褥中(ぢよくちゆう)筆を執りて記す」国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここ

「読書弁」「讀書辯」は国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像のここから全文を視認出来る。

 以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。国立国会図書館デジタルコレクションの同前画像の当該箇所を視認にして表記を訂した。]

 

 多情の人に至りては其多情の爲に生命の慾を減殺することあり。他語以て之を言へば生命を輕んずることなり。自分の讀書の慾も少しはこの域に達し、此慾の爲にならば多少は生命を減消するもかまはぬとの考を起したり。自分は固より朝に道を聞て夕に死を恐れざる聖人にもあらず、又此世に生を受けし限りは人間の義務として完全無缺の人間に近づかんといふが如き高尚なる德を有するものにはあらねども、自分も亦沐猴にあらず、鸚鵡にあらず、食ふて寢ておきて又食ふといふ樣な走戸行肉となるを愧づるものなれば、數年前より讀書の極は終に我身體をして脳病か肺病かに陷らしむるとは萬々承知の上なり。只〻今日已に子規生なる假名を得んとは思の外なりしかども、これもよくよく考へて見れば少し繰あげたるのみにて、今更驚くにも足らざるべし。

 

という一節の如きは、慥に居士の性格を見るべきものである。一年廃学して五年なり十年なりの生命を延し得ればいいようであるが、多情なる自分は到底徒然に一年の長日月を経過することは出来ない。一年廃学の結果として、自分の慾の大部分たる読書慾が減却された後、何を以てこれを充すか、というのがこの文章の主眼であるらしい。

[やぶちゃん注:「沐猴」は「もくこう(もっこう)」で、猿の類を指す。]

 思うに当時の居士の周囲には、廃学乃至休学に関する意見があり、「読書弁」はそれに対して学を廃せざる所以を述べたものと見るべきであろう。「読書弁」の終に近いところにある「客問ふて曰く、然らば君をして廢學せしむる方これなきか。曰く、有り。只〻行ひ難きのみ。何ぞや。曰く、我に鉅萬の財を與へて息ふ存分に消費せしむるのみ。客瞠若たり。我曰く、誰か我に鉅萬の財を與ふる者ぞ。天を仰いで呵々として大笑す」の問答の如きは、暗にその消息を語っているように思う。外聞から見た居士は世上一般の勤勉学生の類ではなかったかも知れぬ。しかしその学問とか、読書とかに対する態度はもっと本質的であり、根柢に確乎不動のものが横(よこたわ)っている。徒(いたずら)に歳月を空費するに堪えぬということは、恐らく居士の一生を通じて渝(かわ)らなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:以上の引用部は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。それで訂した。

「鉅萬」(きよまん(きょまん))の「鉅」は「多い」の意。

「瞠若」(だうじやく(どうじゃく))とは驚いて目を見張るさま。]

2017/12/22

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 向嶋生活――「七草集」

 

     向嶋生活――「七草集」

 

 予備門の同級生に米山保三郎という人があった。大学院時代に亡くなって、夏目漱石氏をして「文科大學あつてより文科大學閉づるまでまたとあるまじき大怪物」と評せしめた人である。

[やぶちゃん注:以上の漱石の言葉は、米山が亡くなった十日後の明治三〇(一八九七)年六月八日に漱石が知人齋藤阿具に宛てた書簡(熊本発)手紙に記されたものである。岩波版旧全集で校合し、正字化した。

「文化大學あつてより文科大學閉づるまで」明治一九(一八八六)年三月二日に伊藤博文内閣(初代内閣総理大臣/第一次伊藤内閣)は「帝國大學令」を発して、「東京大學」を「帝國大學」へと改組し、文学部は法・医・工・文・理の五分科大学の一つとしての、「帝國大學文科大學」とした。漱石がこの痛恨の畏友の詩を慟哭した時にはまだ「文科大學」は続いていることに注意が必要。形の上での「文科大學」は三十三年余り続き、大正八(一九一九)年四月、原敬内閣によって「帝國大學文科大學」は「東京帝國大學文學部」と改称された

「米山保三郎」あるQ&Aサイトの回答で、『北國新聞』『富山新聞』を情報とするとするものを示す。米山保三郎(明治二(一八六九)年~明治三〇(一八九七)年五月二十九日:死因は腸チフス)は金沢の旧本馬町(現在の野町二丁目)に生まれた。父は加賀藩の財政に携わった算用者であった。東京帝大で哲学を学び、大学院では空間論を研究したものの、二十九で夭折した、長生していれば西田幾多郎以上の哲学者になったかも知れないと評する方もいる。明治二十年代に、漱石・子規・保三郎は第一高等中学校(後の旧制第一高等学校)で机を並べ、当時、建築家を志していた漱石に対し、保三郎は「文学をやれ。文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか」と説いたという。後に漱石はこの助言に深い感謝の念を示している。保三郎は名作「吾輩は猫である」にも「天然居士(こじ)」として登場。漱石が「またとあるまじき大怪物」と評した手紙も残り、漱石研究者の間では名が通っているという。子規も、数理・哲理に長じた保三郎との出逢いに「四度驚かされた」と回想しており、その衝撃は、子規が翌日の野球の試合に出場する元気を失わせるほどであったという。子規は哲学の道を諦め、国文科へ進んでいる。彼についてのネット記載は豊富にある。それらも参照されたい。個人ブログ「かわうそ亭」の「漱石の悼む大怪物」で漱石と並んで写る彼らしき人物が見られる。必見。]

 『吾輩は猫である』の中に噂の出る天然居士は米山の事だといわれている。この人が明治十九年の秋、偶然居士の下宿を訪ねて来て、一夜哲学に関する話をした。居士は相手が自分のまだ知らぬ哲学書を読んでいるのに驚いたが、それ以上に驚かされたのは相手が自分より二歳も年少だということであった。その翌日菊池仙湖氏に逢ったら、「実に豪(えら)い男がわれわれの級にいるよ」といい、「将来哲学を専攻するそうだが、あんな男がいてほとても競争は出来ない」と歎じたそうである。居士が国文を志望するようになったのは、勿論これが唯一の動機ではあるまいが、漠然たる哲学者志望に或動揺を与えたことは事実であろうと思う。

[やぶちゃん注:「吾輩は猫である」の「三」にかなりの分量を割いて、「天然居士」について語られている(「青空文庫」のこちらで確認されたい)。岩波旧全集の古川久編の「天然居士」の注解に『漱石の親友米山保三郎が円覚寺官長の今北洪川から貰った居士号』とあるから、「いわれている」ではなく、確定である。

「相手が自分より二歳も年少」子規は慶応三(一八六七)年生まれ。]

  学校における居士は決して勤勉な学生ではなかった。業余の時間は雑書の雑読や寄席行(よせゆき)に費されたのみならず、ベースボールの練習に費された。この新しい競技は当時の居士の興味を刺激したものと見えて、後年一橋外の高等中学寄宿舎――大学予備門は明治十九年に高等中学校と改称された――にいた頃のことを回想して、「バット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」といっている。居士が『松蘿玉液』の中に記したベースボールの事は、野球文献の一としてしばしば引合に出されるが、実際球を弄んだ上からいっても、居士は日本野球史の早いところに記さるべき一人であろう。

[やぶちゃん注:「バット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」は「新年二十九度」(『日本人』十三号・明治二九(一八九六)年(一月か)発行)に出る言葉で、『明治二十一年は一橋外の高等中學寄宿舍の暖爐のほとりにて迎へぬ。此頃はベースボールにのみ耽りてバット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」とある(和田浩一氏のレジュメと思しい「『菊とバット』2「Baseball」と「野球」の比較文化的スポーツ論――子規の「愉快なベースボール」』PDF)にあるものを正字化して示した)。

「松蘿玉液」新聞『日本』に明治二九(一八九六)年四月二十一日から十二月三十一日まで連載した随筆。野球(「ベースボール」と表記)の記載は七月十九日の終りから始まって、続く二十三日及び二十七日まで連続して、挿絵入りで語られてある。]

 明治二十一年の夏、居士は「無可有洲七草集(むかうしまななくさしゅう)」なるものを草した。自ら浄書して知友間を回覧せしめた程度のものであったが、居士が文学的述作に向う第一歩としては、この一巻を挙げなければならぬ。この夏季休暇中、居士は三並(みなみ)松友(良)、藤野古白(ふじのこはく)(潔)と三人で、向嶋森崎村、長命寺境内の月香楼に寓し、二人の相次いで去った後も、なおここに留って筆を執った。「七草集」とは秋の七草によって名づけたので、「蘭之巻」の漢文、「萩之巻」の漢詩、「女郎花(おみなえし)の巻」の和歌、「芒(すすき)のまき」の俳句、謡曲に擬した「蕣(あさがお)のまき」は滞留中に成ったが、向嶋辺の変遷を地名から研究しようとした「葛(くず)の巻」は二十一年末に漸く出来上った。向嶋を去る後に草した「刈萱(かるかや)のまき」は「七草集」に加えず、翌二十二年春に至って「瞿麦の巻」を草し、はじめて完きを得たのである。「瞿麦の巻」は在原業平、梅若丸など、墨田川に関する伝説中の人物を題材に採った小説風のものであるらしいが、最後の一駒を存するだけなので、全体の筋はよくわからない。要するに「七草集」の内容は居士のために重きをなすものでないにしても、その文学的感興がかなり多方面に動きかけていること、向嶋僑居(きょうきょ)を中心として題材を近きに求めていることなどが注目に催する。「蘭之巻」中にある

 

 有風遠而徴 漸來吹庭樹

 梧戰樅動 聞細波打岸

 忽聞烏烏聲 敧耳漸近

 至窗前 聲調嘹喨

 乃知共漁歌

 櫓聲咿軋如雁鳴

 使人悄然

 起而開窗 江月印流

 前岸如烟

 只見一燈浮波而去

  風有り 遠くして微かに

  漸(やうや)く來りて 庭樹に吹く

  梧(あをぎり)は戰(おのの)き 樅(もみ)は動(ゆ)れ

  細波(さざなみ)の岸を打つを聞く

  忽ち聞く 烏烏(うう)の聲

  耳を敧(そばだ)つれば 漸く近づく

  窗前(さうぜん)に至り

  聲調 嘹喨(れうりやう)たり

  乃(すなは)ち其の漁歌なるを知る

  櫓聲(ろせい) 咿軋(いあつ)して雁の鳴くがごとく

  人をして悄然たらしむ

  起(た)ちて窗(まど)を開くれば 江月は印(うつ)りて流れ

  前岸(ぜんがん)は烟(けぶ)りのごとし

  只だ一燈の波に浮かびて去るを見るのみ

 

という一節の如き、平々他奇なき文字ではあるが、極めて写生的で、その景、その人を想い浮べしむるものがある。

[やぶちゃん注:「無可有洲七草集」第一高等中学校に在学中だった明治二一(一八八八)年の夏季休業中、向島須崎村(現在の墨田区向島須崎町。附近(グーグル・マップ・データ))の宝寿山長命寺門前の桜餅屋山本屋の二階に仮寓して前半をものした漢詩文集(筆者不詳の「正岡子規が隅田川向島墨堤から眺めた蒸気船?」PDF)を参考にした。これには本書の概要が宵曲の以上よりも詳しく書かれており、必見)。宵曲の言う通り、子規はこれを友人たちに回覧して批評を求めたが、この時、漱石は漢文による批評の末尾に、「明治己丑五月念五日 辱知 漱石妄批」と記し、これが「漱石」の号を用いた初出とされる(これは「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」のこちらの記載に從った)。

「藤野古白」(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)は俳人で作家。正岡子規の従弟。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。リンク先にある古白の句を掲げておく。

 

 今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな

 東京といふ名に殘る暑さかな

 南とも北ともいはず秋の風

 

「瞿麦」他の巻の名から推して「なでしこ」(秋の七草の「撫子」)と訓じていよう。

「僑居」仮住まい。寓居。

「咿軋」軋んで立つ音のこと。]

 「女郎花の巻」の歌五十余首、「芒のまき」の俳句三十余句、共に後年の居士の作品と関連して考うべきものは見当らぬけれども、九十日に及ぶ向嶋生活の記念として、二、三を録して置くことにする。

 

   夏日向嶋閑居

 檐(のき)のほにうゑつらねたる樫の木の下枝(しづえ)をあらみ白帆行く見ゆ

   五月雨(さみだれ)將(まさに)霽(はる)

 さみだれの間なく時なくふる空のこのもかのもに光見えけり

    ○

 秋の蚊や疊にそふて低く飛ぶ

   我生れつき弱く殊に去年の春

   いたくやみ煩ひしよりいつい

   ゆべうもおもほえず、人生五

   十といふそれさへ覺束なけれ

   ばただけふも無事に過ぎたり

   とて日每に喜びゐる身こそか

   なしけれ

 朝顏や日うらに殘る花一つ

 

 この向嶋滞在中、佐々田採花という友人に誘われて、鎌倉に遊んだことがあった。「しらぬ海や山見ることのうれしければいづくともなく旅立にけり」と詠んで出発したのであったが、鎌倉に着いた翌日は朝からの大雨である。風雨を衝(つ)いて賴朝の墓から鎌倉宮に詣(まい)ろうとした途中、一塊の血を吐出すこと二度に及んだ。それまでも咽喉を痛めて血を出すことはないでもなかったが、この血は何かわからぬ。ただ二度血塊を吐いたきりで、雨に濡れながら方々歩き廻ったが、何の事もなかったと当時の随筆『筆まかせ』に出ている。この血塊は翌年の喀血とどういう関係を有するか、「七草集」を草した二十一年夏の出来事として、この一条は特に書添えて置く必要があるように思う。

[やぶちゃん注:「筆まか勢」第一編の「鎌倉行」(明治明治二一(一八八八)年筆)に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から視認出来る。「佐々田採花」は同級生である以上は不詳。鎌倉がロケーションでもあり、短いので、視認して電子化しておく。踊り字「〱」は正字化した。「猶豫」は「猶予」(いうよ)。

   *

      ○鎌倉行

 夏期休暇に佐々田氏と共に蒸気船にて浦賀に至り橫須賀に超え金澤より鎌倉につきぬ。其日ははやくれなんとすれぱ見物をやめて宿屋につき、翌朝起きて見れば大雨なり。されど猶豫すべきにあらねば一本の蝙蝠傘に二箇の頭をつきこみ、鶴岡を拜み後の山にまはり、賴朝の墓より鎌倉宮にまはらんとせし頃は暴風暴雨にて寒きことも冬の如くに感じけるが、余は忽ち一塊の鮮血を吐き出したり。佐々田氏驚きて如何したるやといひし故、如何にもあらず、余は度々咽喉をいためて血を出すこと多ければ大方その類ならんといふ内、再び一塊の血を吐きたりしが、それのみにてなんのこともなし。果して咽喉なりしか何處なりしか保證の限りにあらず。それより士牢をのぞき路を轉じて大佛を雨中に拜み七里ケ濱に出でし頃は、雨風ますますはげしく衣服は肩より裾まで絞るばかりにぬれたり。山にそひし細道をたどるに、海岸なれば風は遠慮なく正面より迎へ擊つ。十間許り橫には山の如き大波幾段となく重なりては攻め來り、一ツ倒れては又後のもの來り、さもすさまじく鳴りひゞきければ身の毛もよだつばかりなり。波の高さは何間なるや分らねど二三間もあると思はれたり。とにかく余は生來始めてこんな波を見たり。やうやう繪嶋の向ひ側につきて一泊し、翌朝雨はやみたれど風猶やまず。繪嶋へ渡りしかども洞穴も見ず、御馳走もくはず、すごすごと歸りぬ。

   *]

2017/12/21

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 上京後の数年

 

      上京後の数年

 

 松山時代の子規居士には、あまり遠くに遊ぶという経験がなかった。僅に明治十四年(十五歳)の時に松山城南八里なる久万山(くまやま)、岩屋に友人と遊んで一泊したことがあるのと、その翌年大洲(おおす)に遊んで四、五泊して帰るということが伝えられているに過ぎぬ。それが一躍して東京遊学を決行するに至ったのだから、この東上は居士最初の大旅行でもあったわけである。けれども旅行の顚末を記した「上京紀行」は神戸旅舎に至って断えているので、その後の委しい事はわからない。六月十四日に東京の地を踏み、日本橋から本郷へ行く途中、小伝馬町(こてんまちょう)通で鉄道馬車の鉄軌(てっき)に逢着して、踏切っていいかどうか躊躇しているうち、傍の人の横切るのを見てこわごわそれに倣ったという話もある。そうかと思うと上京後間もなく、加藤恒忠氏を向嶋(むこうじま)に訪ねる途で、言問団子(ことといだんご)へ入って悠然と団子を食っていたという逸話も伝えられている。彼の話は多少居士の風丰(ふうぼう)を窺うべきものがあるかと思う。

[やぶちゃん注:現在の愛媛県上浮穴(かみうけな)郡久万高原町(くまこうげんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千メートルを超える四国山地に囲まれた町(久万山というピークがあるわけではない)で、四国では比較的、冷涼な気候であり、「四国の軽井沢」と呼ばれることもあるという。

「大洲」現在の愛媛県南予地方に位置する大洲市。ここ(グーグル・マップ・データ)。肱川(ひじがわ)の流域にある大洲城(旧大洲藩藩庁)を中心に発展した旧城下町。「伊予の小京都」と呼ばれる。

「上京紀行」不詳。以下の東京着後の記事は、随筆「筆まか勢」第一編の「東京への初旅」(明治一七(一八八四)年筆。署名は「四國 沐猴冠者」)に基づく。冒頭では、

   *

去年六月十四日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ 人力にて日本橋區濱町久松邸まで行くに銀座の某を通りしかば 東京はこんなにきたなき處かと思へり

   *

と記している(「久松邸」とは旧松山藩主久松家。当時の当主は最後の藩主であった松平定昭の養子で軍人の伯爵久松定謨(さだこと 慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年:静岡県の元旗本松平勝実三男)であるが、子規の訪問したのが明治一六(一八八三)年六月、定謨はその五ヶ月後の十一月にフランスへ留学している。何よりここは、子規の帝都のカルチャー・ショックの基本は「汚ない」であったことに着目したい。

「小伝馬町(こてんまちょう)通」「東京への初旅」出は先の引用に続いて、

   *

やしきにつきて後川向への梅室といふ旅宿に至り柳原はゐるやと問へば 本郷弓町一丁目一番地鈴木方へおこしになりしといふ 余は本郷はどこやら知らねど いゝ加減にいて見んと眞直に行かんとすれば 宿の女笑ひながらそちらにあらずといふにより その教へくれし方へ一文字に進みたり 時にまだ朝の九時前なりき それより川にそふて行けば小傳馬町通りに出づ こゝに鐵道馬車の鐵軌しきありけるに余は何とも分らず これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内 傍を見ればある人の橫ぎりゐければこはごはとこれを橫ぎりたり

   *

と続いて出る(「こはごは」の後半は原文では踊り字「〲」)。この「小傳馬町通り」は現在の「江戸通り」で、中央区日本橋小伝馬町の、この附近(グーグル・マップ・データ)と推測される。

「加藤恒忠」(安政六(一八五九)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。松山藩大原有恒(先に出た儒者観山のこと)の三男。明治九(一八七六)年に司法省法学校に入学、中退後、仏学塾に学んだ。明治一三(一八八〇)年には廃絶していた縁戚の加藤家を継いで御家を復興、明治十六年、パリ法科大に入学、同十九年、帰国(従ってこの話が事実とすると、彼は明治十六年にパリ留学前(久松定謨と同じく同年十一月)の加藤を訪問したことになる)とともに外交官試補となり、フランス公使館に勤務した。その後、ベルギー公使を経て、万国赤十字会議全権に就任したものの、政府側と対決して辞職、衆議院に立候補、当選した。後に大阪新報社長に就任。大正元(一九一二)年、貴族院議員、大正八(一九一九)年の「パリ講和会議」には随員として出席、シベリア派遣臨時大使となり、反赤軍を支援した。大正一一(一九二二)年には松山市長に就任している。なお、彼の三男忠三郎(阪急電鉄車掌・阪急百貨店職員)は子規の妹リツの養子となり、正岡家の祭祀を嗣いでいる

「言問団子」隅田川に架かる桜橋の向島側の橋詰(現在の東京都墨田区向島五丁目)にある和菓子店及びそこで販売されている団子の商品名。ウィキの「言問団子」によれば、元は『植木の植木師の外山佐吉が江戸時代末期に創業』したもので、『「言問」の名は、在原業平の和歌「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」(『古今和歌集』)にちなむもので』、『この歌の舞台が隅田川沿いと目されていることによる。この店が著名になるにつれ』、『一帯の別称ともなり、現在は桜橋の下流に架かる言問橋等にその名が見られる』。近代以降は多くの文人墨客に愛された。『団子は小豆餡と白餡、味噌味の餡の』三『つの味が楽しめる趣深い菓子である』。『団子は四文銭が流通する前は串に』五『つ刺さって価格』五『文が常であったが、四文銭が流通すると蕎麦の』十六『文のように』四『の倍数での支払が多くなり、団子も』四『つ刺さって』『四文となった。現在でも』、『その形が継承されているが、言問団子は串には刺されておらず、土産用としては箱の中に味ごとに分かれて入って売られている。店内で賞味することも可能で、』三『つの団子に緑茶の付いた三色セットが標準メニュー。入店して着席すると、後述の最中を頼まない限り、黙っていてもこの団子が運ばれてくる』。四『つから』三『つにかわったのは、言問団子創業の年に貨幣が両から円に変わったことによるともいわれている』とある。]

 上京後の居士は赤坂丹後町の須田学舎に入り、次いで共立学校に入学した。当時の共立学校には高橋是清氏が英語の先生として、パーレーの『万国史』などを講義していたそうである。『荘子(そうじ)』の講義を聴いて、こんな面白い本はまたとあるまいと思ったのも、共立学校時代であることが「哲学の発足」なる文中に記されている。

[やぶちゃん注:「赤坂丹後町」現在の赤坂四丁目内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「須田学舎」当時の進学予備校。

「共立学校」後の開成中学、現在の開成高等学校。

「高橋是清」(嘉永七(一八五四)年~昭和一一(一九三六)年)は元仙台藩士で官僚・政治家。立憲政友会第四代総裁・第二十代内閣総理大臣(在任 : 大正一〇(一九二一)年~大正一一(一九二二)年)。彼は少年時に横浜のアメリカ人の医療伝道宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年:ヘボン式ローマ字の考案者として知られる)の私塾であるヘボン塾(現在の明治学院大学)で英語を学んでいた。

「パーレーの『万国史』」アメリカの作家・児童文学者サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ(Samuel Griswold Goodrich 一七九三年~一八六〇年:ペン・ネーム/ピーター・パーレー(Peter Parley)が亡くなる前年に完成した『万国史』(Universal History)。ウィキの「サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ」によれば、本書は『全世界で読まれ、日本でも』一八八〇年代(明治明治十三年~二十二年)『頃には全国の小学校の英語の授業で原書を読んでいたとされる。また』一八七三年に出版された、A pictorial Natural Historyは明治八(一八七五)年に『須川賢久訳、田中芳男校閲で『具氏博物学』として翻訳され、明治』十『年代の小学生の博物教科書として使われた』とある。

「哲学の発足」「筆まか勢」第一編の「哲學の發足」(明治二一(一八八八)年筆)。]

 明治十七年(十八歳)の七月、大学予備門の試験を受けて及第した。同級生でこの試験を受けた者が数人あったが、合格したのは居士と菊池仙湖(謙二郎)氏と二人であった。後年の『墨汁一滴』の中にこの時の回想が出ているが、共立学校の第二級であった居士は、試験に対する自信がなく、殊に英語の力に不足を感じていた。戯に受けて見る位のつもりであったのが、意外のまた意外に及第したのだという。同級生が片隅の机に陣取っていて、英文のむずかしい字の訳を隣から伝えて来る。或(ある)字の意味がわからないので困っていると、隣の男が「封間(ほうかん)」と教えてくれた。どう考えても幇間では意味が通じないが、知らない字だから仕方なしに幇間と訳して置いた。隣の男も実は英語不案内で、更に二、三人先から順々に伝達して来たのを、そのまま教えてくれたのであったが、按ずるにホーカン違いで、法官が封間になったものらしい、という滑稽もこの際の事であった。

[やぶちゃん注:以上の「墨汁一滴」(明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで新聞『日本』連載)の「六月十四日」のクレジットを持つ条々に出る。「青空文庫」のこちらで読め、それを見て戴くと判るが、先の「高橋是清氏が英語の先生として、パーレーの『万国史』などを講義していた」という記載内容もここがネタ元であることが判る。

「明治十七年」一八八四年。

「菊池仙湖(謙二郎)」(慶応三(一八六七)年~昭和二〇(一九四五)年)は教育者・歴史研究者。仙湖は号。正岡子規や夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。]

 試験は幸に通過し得たが、依然語学の力足らざるを憂い、十七年の夏は本郷の進文学舎に通って英語を勉強した。その時『ユニオン読本』の第四を講義してくれたのが、坪内雄蔵氏であつた。「先生の講義は落語家の話のようで面白いから、聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのような初学な者には英語修業の助けにはならなんだ」と『墨汁一滴』に見えている。

[やぶちゃん注:「進文学舎」進学予備校の一つ。洋学・漢学を扱った。かの森鷗外もここでドイツ語を学んでいる。

「ユニオン読本」アメリカの教育者・著作家チャールズ・ウォルトン・サンダース(Charles Walton Sanders 一八〇五年~一八八九年)は多数の教科書・読本の編纂執筆によって知られたが、特に彼の編纂になる英語教科書や読本の多くは、「ユニオン・リーダー(Union Reader)」の語を表題に含み、明治時代の日本では「ユニオン読本」、「ユニオンリードル」などと称され、代表的な英語教科書の一つとして盛んに使用された。「リーダー」は番号順に水準が高くなっていくように編纂されており、当時の上級学校に於いては英語の試験範囲を「ユニオンの第四リーダー程度」などと告知することも一般化していた(以上はウィキの「チャールズ・W・サンダースに拠った)。

「坪内雄蔵」坪内逍遙(安政六(一八五九)年~昭和一〇(一九三五)年)の本名。]

 或時何かの試験に居士の隣席の人が英文で答案を書いている。別に英文の必要はないのに、自分の勝手ですらすらと横文字を書いているのを見て、居士は自分の英語の力と同級生との相達に想い到り、いよいよ心細くなったが、この英文の答案者が間もなく文壇に打って出た山田美妙斎(びみょうさい)だったそうである。居士が学年試験に落第したのは、幾何学の点が足らぬためであり、当時は数学の時間に英語以外の言葉を使わせぬ規則であったので、幾何学よりも英語の方で落第したという方が適当であろう、と同じく『墨汁一滴』の中に記されている。

[やぶちゃん注:以上も以上の「墨汁一滴」(明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで新聞『日本』連載)の「六月十四日」のクレジットを持つ条々に出る。

「山田美妙斎」言文一致体及び新体詩運動の先駆者として知られる作家・評論家山田美妙(慶応四(一八六八)年~明治四三(一九一〇)年)。子規より一歳歳下。]

 居士が東上した当時の目的は政治家たらんとするにあった。これは前年来の自由民権の影響と、漢学的教育の結果、文学芸術の如きは余伎(よぎ)として見る習慣とによるものであろう。次いで哲学者たらんとする志望を懐くに至ったのは、如何なる動機によるかわからぬが、真に哲学を目的として誰がすすめても変るまいと思い込んだのは、明治十八年(十九歳)の春だとある。但この目的なるものもいまだ漠然たるを免れなかった。

[やぶちゃん注:以上も「筆まか勢」第一編の「哲學の發足」(明治二一(一八八八)年筆)にある。]

 一面において居士の文学趣味は次第に濃厚になりつつあった。貸本屋から頻に春水の人情本を借出して読耽ったのも、『経国美談』(矢野竜渓)や『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』(春廼屋朧(はるのやおぼろ))などの新著に瞠目したのも、皆この上京後の出来事である。殊に『書生気質』には深く傾倒し、『小説神髄』に示された議論と相俟って、この種の小説、この種の文体より外にわれわれが執るべき筋道はないと思ったとあるが、当時の居士としては進んで作家たらんとするまでには至らなかったであろう。居士自ら整理した俳句稿「寒山落木」には十八年以後の句を録してあり、

 

 朝霧の中に九段のともし哉

 

の如きも十八年中の作である。しかし居士の俳句に対する態度はむしろ消極的で、特にこれに力を傾注しようとするような抱負はなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「春水」為永春水(ためながしゅんすい 寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年)は戯作者で、「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)など人情本の代表作家。本名は佐々木貞高。

「経国美談」元佐伯藩士で官吏・著作家・ジャーナリスト・政治家であった矢野龍溪(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年:太政官大書記官兼統計院幹事・『郵便報知新聞』社長・宮内省式部官・清国駐箚特命全権公使・大阪毎日新聞社副社長を歴任した)の政治小説。二冊から成り、前編は明治一六(一八八三)年三月刊、後編は翌年二月刊。ウィキの「経国美談によれば、『古代ギリシャの歴史に取材し、ペロビダスとエパミノンダスの』二『人を主人公に』、『テーベ勃興の一部始終を描写する。前編はテーベの士たちが国に民政を回復するまでを描き、後編はスパルタの侵略を退けてテーベがギリシャの盟主となる過程を描く。翻訳と創作の中間的な作品で、雅俗折衷体の文体による。本の「凡例」には参照したギリシャ史の書名を挙げ、史実に価値を置く姿勢を表明しているが、登場人物に「智」「仁」「勇」の観念を当てるなど、読本(具体的には曲亭馬琴『南総里見八犬伝』)の系譜にも連なっている。講談や演劇にもされ、広く流布した』。『作者自身が属する立憲改進党の理想も盛り込まれている』とある。

「当世書生気質」坪内逍遙(春廼屋朧は彼の別号)の小説。明治一八(一八八五)年から翌年にかけて刊行された。ウィキの「当世書生気質によれば、『「はしがき」において、逍遥は、本作が、『小説神髄』で示した、勧善懲悪を否定し、写実主義を主張する文学論を実践したものであることを明らかにしている(『小説神髄』は本作より先に執筆されているが、版元のトラブルのため、出版は本作より後となった』『)。『明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ様子も描く。日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開された理論の具体化であるとされる』が、『文体は戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説類をすべて〈別冊〉にくくりこん』でいる。『この小説は当時から世評が高く、長く読み継がれたため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解されるのを苦にした野口英世が清作という本名を英世に変えたという、思わぬエピソードも生んだ』とある。

「小説神髄」坪内逍遙の文芸評論。明治一八(一八八五)年から翌年にかけて刊行された。ウィキの「小説神髄によれば、『上巻において、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、下巻において具体的な方法を示す』。『明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するための政治小説が中心だったが、『小説神髄』は道徳や功利主義的な面を文学から排して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与した』とある。

「朝霧の中に九段のともし哉」底本は「ともしかな」であるが、原典に徴して訂した。「ともし」とは東京招魂社(現在の靖国神社)の社前にあった、石積みの台の上に二層の望楼があり、屋根の上に金色の大きな玉が載って風見の矢がある、高さ二十メートルほどの常燈明台(じょうとうみょうだい)のこと。当時は現在ある場所とは反対の、九段坂を挟んだ真向かいの辺りに建っていた。以上はサイト「伊予細見」の東京の子規に拠った。]

 十八年の夏、居士は上京以来はじめて松山に帰った。京都に遊び、厳嶋(いつくしま)に遊び、厳嶋で祭礼を見たというのは、多分この帰省の途次であろう。翌十九年(二十歳)の夏は帰省は断念したが、旧藩主の令息たる久松定靖氏に供して日光及(および)伊香保に遊んだ。この時の事は後に回想して記した「十年前の夏」なる一文に詳(つまびらか)であるが、当時としては漢詩十数首を得たに過ぎなかった。文学的感興を鼓(こ)するに足る材料はあっても、後のような作品を生むだけの素地が出来ていなかったのである。

[やぶちゃん注:「久松定靖」(明治六(一八七三)年~?:「さだやす」と訓じておく)は旧第十三代高松藩主松平勝成の子。

「十年前の夏」確かに全集には載るが、所持しないので、いつか図書館で確認してみたい。これはちゃんと読んでみたい気がする。題の子規の文章を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来が、これは抄録と思われる。なお、その冒頭には、『はや十二年の昔とはなりぬ』とある点で、標題通りの、かっきり十年前ではない。さすれば、この回想随筆は明治三〇(一八九七)年か翌三十一年の作と思われる。]

2017/12/20

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 最初の詩「聞子規」

 

     最初の詩「聞子規」

 

 子規居士の生れたのは慶応三年九月十七日である。三歳にして火災に家を失い、六歳にして父君を襲った居士の幼年時代は、決して幸福なものではなかった。幼時における居士は雛祭、七夕の如き女らしき遊びを好み、火災に焼失を免れた庭園の植物の花を見るのを何よりの楽とした。後年「わが幼時の美感」なる文章にその頃の事を回想して、「幼時より客觀美に感じやすかりしわれ」といい、「我家をめぐる百步ばかりの庭園は雜草雜木四時芳芬(はうふん)を吐いて不幸なる貧餌を憂鬱より救はんとす」と記してある。この事は居士の文学における傾向を考える上に、何らかの暗示を与えているように思う。

[やぶちゃん注:「慶応三年九月十七日」一八六七年十月十四日。ウィキの「正岡子規」によれば、子規は『伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女』。明治五(一八七二)年(子規五歳)、『父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け』、『政談にも関心を熱中したという』とある。以下、本文の年齢は総て数えである

「わが幼時の美感」明治三一(一八九八)年十二月発行の『ホトトギス』初出。「青空文庫」のこちらで読める。引用文は原文と校合して一部を訂した。

「芳芬」香(かぐわ)しい香り。良い匂い。]

 明治八年、居士九歳の時、外祖父大原観山翁が没した。観山翁は一藩の儒宗(じゅそう)として多くの尊敬を得た人である。居士はこの人に就(つい)て素読を学んだ。たまたま「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」という訓戒を受けて、勉強しなければならぬという奮発心を起したことが居士の書いたものにある。観山翁は学者として居士に影響を与えた最初の人であり、遺伝的にいっても、居士はその好学の性質を享(う)けたと見るべきであろう。

[やぶちゃん注:「大原観山」(文化一五・文政元(一八一八)年~明治八(一八七五)年)は伊予国出身の儒者。本名は有恒。ウィキの「大原観山」によれば、『正岡子規の外祖父にあた』り、『伊予松山藩士加藤重孝の次男として生まれ、大原家の養子となる。歌原家の長女と結婚し、昌平坂学問所舎長を経て、松山藩藩校明教館教授とな』った。『明治維新後は、私塾で孫の正岡常規(後の子規)を教えていた。亡くなるまで』、『丁髷を切ることはなかった』とある。

「儒宗」代表者や師と成るべき優れた儒者のこと。

『「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」という訓戒を受けて、勉強しなければならぬという奮発心を起したことが居士の書いたものにある』以下は、子規の随筆「筆まか勢」第一編の「當惜分陰」(明治二二(一八八九)年筆)に出る。引用文は原文と校合して一部を訂した。標題は「當(まさ)に分陰を惜しむべし」で「当然、僅かな時間をも惜しむべきである」の意)。]

 今伝わっている居士の作品中最も古いのは明治十一年(十二歳)の夏に作った左の一絶である。

 

   聞子規

  一聲孤月下

  啼血不堪聞

  半夜空敧枕

  古都萬里雲

    子規を聞く

   一聲 孤月の下

   血して啼けり 聞くに堪へず

   半夜 空しく枕に敧(よ)りぬ

   古郷 萬里の雲

 

[やぶちゃん注:底本では承句を『血をはきて啼(な)けり、聞くに堪(た)へず』と訓ているが、私は従えなかった。]

 

 この頃居士は毎日五言絶句を一つずつ作り、観山翁歿後の素読の師であった土屋久明に添削を乞うた。その最初の作品が「聞子規」であったのは、偶然にして偶然でないような気がする。自ら子規と号するより十年も前の話だからである。観山翁の塾生が朱を加えられた詩稿を持っているのを見、朱黒相交(あいまじわ)る美しさに感じて、自分も早く年を取って詩を作るようになりたいと思ったのが、意外に早くその日が来たのであった。

[やぶちゃん注:『春や昔~「坂の上の雲」のファンサイト~』の「登場人物」のこちらに、『松山藩の儒学者で、明教館の助教授を務めていた人物。大原観山の依頼で子規に漢学を教えていた。 解らない字が出てきた場合でも誤魔化すようなことはせず、子規らを待たせて字引で一々引いてから教える堅実な人物であったという。家禄奉還金を使いきった後、食を絶ち』、『餓死した』。『子規と共に学んだ三並良は後に「土屋三平先生」と証言しており、柳原極堂は著書の中で「久明」が字、「三平」が通称ではないかと推測しているが、子規追悼の座談会席上で近藤我観が「久明と三平は別人」と証言したことも記している』とある。]

 居士の文学趣味は詩作に端を発して以来、いろいろな形を以て現れるようになった。松山中学校に入学した明治十二年(十三歳)には、友人と共に『桜草雑誌』『弁論雑誌』『故山雑誌』などの小回覧雑誌を作っている。半紙四ツ折の大きさに毛筆で記したもので、十三年から十四年へかけて作った『莫逆詩文』『五友雑誌』『雅懐詩文』『雅感詩文』なども皆同じ形のものである。五友というのはその頃最も親しかった詩文の仲間で、太田柴洲(おおたさいしゅう)(正躬(まさみ))、竹村錬卿(たけむられんしょう)(鍛(きたう))、三並松友(みなみしょうゆう)(良)、安長松南(やすながしょうなん)(知之(ともゆき))及(および)居士の五名を指す。当時の居士は香雲と号していた。居士の家は中ノ川に臨んでいたため、「中水」の号を習字の師より与えられたが、あまり用いる機会がなかった。「香雲」は武智五友の揮毫にかかる額の字をそのまま号にしたので、居士の庭に一株の老桜があって、庭の半(なかば)を蔽うに因んだものである。前年の雑誌に『桜草雑誌』などと名づけたのも、けだしこの一樹の縁によるのであろう。この時代の詩文は河東静渓翁(竹村黄塔(こうとう)、河東銓、同碧梧桐氏らの厳父)の添削を乞うを常としていた。けれども少年時代の居士は、学業の余暇を詩文に銷(しょう)していただけではなかった。大会堂の寄席に軍談を聞きに行くこともあれば、貸本屋から借出した本を耽読したこともある。『水滸伝』や『八犬伝』の中の名文に逢着すると、これを写し取るということさえやっていた。居士は少時より字が達者で、写本をする労などは何とも思わなかったらしい。この事は後年の仕事と或関連を持っている。

[やぶちゃん注:「太田柴洲」太田正躬(生没年未詳)は明治二一(一八八八)年に東京商業学校(現在の一橋大学の前身)を卒業、府立大阪商業学校に赴任している。

「竹村錬卿」竹村鍛(慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年)。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。

「三並松友」三並良(みなみはじめ 慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は牧師。明治一六(一八八三)年に東京の「獨逸学協会学校」に入学、ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーの感化を受け、四年後の明治二〇(一八八七)年に新教神学校に入学、卒業後は「普及福音教会」の設立に参加し、教会の機関紙『真理』の編集に携わった。明治二四(一八九一)年に壱岐坂教会の牧師になったが、その後、「普及福音協会」を離れ、「ユニテリアン」(キリスト教の伝統的な核心的真理とされてきている「三位一体」(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称。イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、その神としての超越性を否定する立場に立つ一派)に加わった。明治三三(一九〇〇)年には「日本ゆにてりあん協会」機関紙『六合雑誌』の編集長となった。後に、「ユニテリアン」の牧師となり、「日本ゆりてりあん協会」会長を務めた(以上はウィキの「三並良に拠った)。

「安長松南」安長知之(生没年未詳)は事蹟不詳。後に森姓を名乗ったか。]

 そのうちに若い居士の心を揺り動かすような、新時代の波が起って来た。自由民権の声がそれである。当時の岩村(高俊)県令も、中学校長草間時福氏も、熱心な自由民権の宣伝者で、街頭に立って政談演説をやる位であった上に、同志社一流の雄弁家が土佐からやって来ては、頻(しきり)に演説会を開催するという風であったから、中学生たる居士も自然その感化を受け、演説会へ聞きに行くだけでは満足出来ず、寺の本堂を借りて自分でも演説を試みるまでになった。後年居士は当時のことを顧みて

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。以下は、引用元が不明であるので、恣意的に概ね、漢字を正字化した。続く「演説会の草稿」の標題も同じ処理を施した。]

 

 この時余は中學校にありながら学課は全く抛(なげう)ち去りて、たゞ夜ごとに寺院學校などを借り受け、學友十人ばかりと共に「自由の權利」「參政の權利」などと演説するを無上の快樂とはなしたるなり。今よりして思へばこれも自由黨の餘波を受けし者なるべし。

 

と述べている。これは居士の一生を通じて、そう意義のある時代ではなかったかも知れぬが、新時代の空気の影響を受けた点で、看過すべからざるものであろう。「自由何くにかある」「諸君まさに忘年會を開かんとす」「天まさに黑塊を現さんとす」など、当時の演説会の草稿とおぼしきものが裁つか遣っている。これらは明治十五年から十六年――居士の十六歳から十七歳へかけての出来事である。

 明治十六年五月、居士は諸友と共に故山中学を退(しりぞ)いた。

 

  故山中學只虛名

  地少良師從孰聽

  言道何須講章句

  染人不敢若丹靑

  喚牛呼馬世應毀

  今是昨非吾獨醒

  忽悟天眞存萬象

  起披蛛網救蜻蜓

   松山中學は 只だ虛名

   地に良師少なく 孰れに從ひて聽かん

   道を言ふは 何ぞ章句を講ずるを須(ま)たん

   人を染むるは 敢へて丹靑に若(し)かざらんや

   牛を喚び 馬を呼びて 世 應(まさ)に毀(こぼ)たんとし

   今は是(ぜ) 昨は非にして 吾 獨り 醒(さ)む

   忽ち 天眞 萬象の存するを悟り

   起(た)ちて 蛛網(ちうまう)を披(ひら)きて蜻蜓(せいてい)を救ふ

 

[やぶちゃん注:底本の訓読文では、「世應(まさ)に毀(こわ)れんとし」、「天眞の萬象を存するを悟り」とするが、従えない。「蜻蜓(せいてい)」は一般には昆虫綱蜻蛉(トンボ)目不等翅(トンボ)亜目ヤンマ(蜻蜓)科 Aeshnidae 等に属する大型の蜻蛉の通称である「やんま」のことであるが、日本最大種のトンボであるオニヤンマ科 Cordulegastridaeオニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii はこれに含まれず、ヤンマ科でない種(例えば、サナエトンボ科 Gomphidae Hageniinae亜科コオニヤンマ属コオニヤンマ Sieboldius albardae や、サナエトンボ科ウチワヤンマ亜科 Lindeniinaeウチワヤンマ属ウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus も和名に「ヤンマ」が附されるから、ここは寧ろ、蜻蛉(とんぼ)類の中の大型種や大型個体を指していると採るのがよい。]

 

の一詩がある。この退学についての委しい事情はわからぬが、当時已に東京にあった三並良民(居士の再従兄(またいとこ))に与えた手紙を見ると、上京の志勃々として禁じがたきを述べ、同窓の士の出京せんとする者相次ぐ旨が記されているから、東都遊学の前提として退学を決行したものであろう。

 居士の上京が実現したのは、叔父加藤恒忠氏(号拓川、大原観山翁の第三子)の書簡を得てからで、加藤氏は遠からず欧洲に赴くことになっていたため、その前に来いということで急にきまったらしい。事決するに及び、明教館の演説会に臨んで一場の演説を試み、ひそかに留別の辞とした。前年末の演説会において「河流は鯨鯢(げいげい)の泳ぐ所に非ず、枳棘(ききよく)は鸞鳳(らんぽう)の棲む所に非ず、海南は英雄の留まる處に非ず、早くこの地を去(さり)て東京に向ふべし」と論じた居士が、爾後半歳にして東上の機を得たのだから、得意の状想うべきものがある。いよいよ故山を発して上京の途に上ったのは六月十日の正午であった。

[やぶちゃん注:「演説会」の知られた台詞部分は恣意的に正字化した。「鯨鯢」「鯨」は雄の鯨、「鯢」は雌の鯨で、古くは「けいげい」とも読んだ。大魚の謂い。「枳棘」枳殻(からたち)や茨(いばら)の悪しき草木の生えた悪所。「鸞鳳」想像上の聖獣である鸞鳥と鳳凰(ほうおう)。君子・高邁な理想に燃える同志・夫唱婦随の夫婦の譬え。「海南」四国。

「得意の状想うべきものがある」「得意の状」(じょう)、「想」(おも)「うべきものがある」。]

2017/12/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 始動 / はしがき・明治二十二年以前 自筆の墓誌

[やぶちゃん注:柴田宵曲の正岡子規の評伝「子規居士」は昭和一七(一九四二)年三月に三省堂より刊行された。後、三省堂及び当時の著作権者(現在は柴田宵曲(昭和四一(一九六六)年八月二十三日没)の作品はパブリック・ドメイン)の諒承を岩波文庫で「評伝 正岡子規」と改題して、一九八六年に刊行された。

 底本は上記の岩波文庫版(新字新仮名)を元としたが、私のポリシーに則り、宵曲が引用する正岡子規の著作物及び関連した他者の著作物の引用は、基本、漢字を正字化して示すこととした。これは、それが原著作者たちの意志により添うものと判断するからであり、原著に当たれるものはそれで宵曲の引用と校合し、宵曲の引用に誤まりがあった場合は、注でそれを注で指摘した上で、本文事自体を正すこととする。これも現著作者を尊重する意図に基づく。加えて、表題まで変更した岩波文庫版とはこれによって有意な差別化がされ、岩波書店の編集権を冒さないものと判断するからでもある。但し、私は「子規全集」を所持していないことから、例えば子規の書簡などは原文の確認が全く出来ない国立国会図書館デジタルコレクションの画像を主として、ネットで探って参考になるような場合は可能な限り、原文に即して書き換えを行ったが(底本とは異なるものに書き換えた場合は注記した)、全く原典が判らぬ場合は、不本意乍ら、そのまま手を加えずに示すこととした。但し、原典に当たれぬ場合(校合不能)でも、明らかに原文は正字漢字で示されていると推定し得る漢詩などのケースでは、恣意的に漢字を正字化して示してある(後者の場合は特に注していない)但し、原典に当たれず、底本のママにせざるを得なかったケースでは、それぞれの形式段落の最後に注を附すこととした。また、漢詩には底本では、各句の下に丸括弧附きで蜂屋邦夫氏の手に成る訓読文が附されてあるが、訓読文に読点を用いるなど、私が違和感を覚える点で、参考にさせて戴きつつも、オリジナルに訓読し、当該漢詩の後にそれを回すこととしたなお、詩歌俳諧の前後は一行空けた。

 また、ストイックにオリジナルな注を附す(原則、各形式段落末)ことともする。

 ブログ・タイトルの表題も著者の意志を尊重し、「子規居士(「評伝 正岡子規」原題)」で通すこととした。読みは、岩波編集部による附加が行われているので、一部を採用するに留め、擬古文の場合箇所へのそれは歴史的仮名遣に変換して附した

 なお、私は既に本ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・俳諧関連随筆七種・「俳諧博物誌」の電子化オリジナル注を完遂している。【始動:2017年12月19日 藪野直史】]

 

 

 子規居士

 

 

     はしがき

 

 子規居士三十六年の生涯の輪郭を描こうとして筆を執ったら、本書のようなものが出来上った。便宜上年代を逐って書いたため、一応伝記のような体裁になったけれども、これを伝記と名づくべきかどうかは固より疑問である。微に入り細を穿ち、一物をも剩(あま)さざらんとする最近の伝記の傾向からいえば、粗大に失するものというべきであろう。

 つとめて居士の全般に触れようとしたため、部分的には意を悉さぬ箇所が少くない。当然挙げなければならぬ材料も挙げず、加えなければならぬ説明も省いて、なおかつ予定した紙数を大分超過してしまったのは、著者の不手際によることは勿論であるが、記すべき事柄が余りに多いためでもある。要するに画ならば白描の如きもので、これに色彩や濃淡を施すには、他日を期して出直すより仕方がない。

 出来るだけ多くの事を要約して述べようとした結果、多少前後錯雑したところがある。年によって別(わか)って置きながら、過去の事実に遡ったり、逆に後年の事に言及したりしたのは、前後の関係上やむをえぬというものの、やはり著者の不手際に帰せなければなるまい。

 著者はこの書を成すに当り、何ら特別な材料を用いておらず、独自の研究と称すべきものも持合せていない。かくの如き小著によって子規居士の面目を伝え得たとは信ぜぬが、もし幸にして甚しい誤(あやまり)がなかったならば、著者はそれを以て満足すべきだろうと考える。

   昭和十六年十一月三日夜

 

[やぶちゃん注:「子規居士三十六年」正岡子規(本名は「常規(つねのり)」、幼名は「處之助(ところのすけ)」、後には「升(のぼる)」と改めた)は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれで、明治三五(一九〇二)年九月十九日に亡くなっているから、満三十四歳と約十一ヶ月であった。

「昭和十六年」一九四一年。]

 

 

  明治二十二年以前


[やぶちゃん注:「明治二十二年」一八八九年。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれであるから、満二十二歳以前となる。]

 

     自筆の墓誌

 

 明治三十一年七月十三日、子規居士が河東銓(かわひがしせん)氏に与えた手紙の中に、「アシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ石碑立テヽモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ッテ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノヂャケレド、万一已ムヲ得ムコツデ字ヲ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ盡シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字增シテモ餘計ヂャ、但シコレハ人ニ見セラレン」とあって、次のような自筆の墓誌が添えてあった。

[やぶちゃん注:書簡は、底本ではひらがな書きで「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、むしろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで字を彫るなら、別紙の如き者で盡しとると思うて書いて見た。これより上一字増しても余計じゃ、但しこれは人に見せられん」あるが、個人ブログと思しい「伊予歴史文化探訪」の子規自撰の墓誌の解説に一部が電子化されており、それを参考に、一部は類推して全面的に書き換えた。将来的には「子規全集」に当たって字を確定したいとは思っている。

「明治三十一年」一八九八年。子規、満三十歳。子規の最初に喀血は、明治二一(一八八八)年八月の鎌倉旅行の最中で、翌明治二十二年五月には大喀血を起こし、医師に肺結核と診断されている。

「河東銓」可全とも。子規の友人で、河東碧梧桐の兄。

 以下の自筆の墓碑銘は底本では全体が二字下げである。]

 

正岡常規又ノ名ハ處之助マタノ名ハ升又ノ名ハ子規マタノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓

[やぶちゃん注:以上は、秋尾敏氏のサイト「秋尾敏の俳句世界」の「子規の墨跡」に掲げられた自筆に基づいて電子化した。底本に句読点があるが、排除した。]

 

 この墓誌は居士の歿後直にその墓に刻まれはしなかったが、昭和九年の三十三回忌に、この墓誌を刻んだ碑が新に大竜寺の墓畔に建てられた。居士の筆蹟そのまま銅板に鋳て板碑風の石に取付けたのを、その後改めて石に刻んだものとなっている。

[やぶちゃん注:「大竜寺」現在の東京都北区田端にある真言宗和光山大龍寺。(グーグル・マップ・データ)。]

 子規居士はどうして明治三十一年にこの墓誌を撰し、河東銓氏にこれを送ったか、その理由は固(もと)より明(あきらか)でないが、居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助(おちところのすけ)なる名を用いていた。

[やぶちゃん注:「日本人」国粋主義団体政教社の総合雑誌。明治二一(一八八八)年より、三宅雪嶺を中心に雑誌『日本人』として発行していたものを、後(明治三五(一九〇二)年)、『日本及日本人』改題継承して創刊、大正一二(一九二三)年に雪嶺は退社し、その後は右翼の手に移って昭和二〇(一九四五)年に終刊した。]

 越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふうのぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽(らんちゅう)して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事にある。居士が獺祭事屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「又ノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。

[やぶちゃん注:「又ノ名」は底本では「マタノ名」であるが、先の校合した原典に徴して訂した。

「李義山」は晩唐の政治家で妖艶と唯美の名詩人であった李商隠(八一二年或いは八一三年~八五八年)のこと。ウィキの「獺祭魚」同「李商隠」によれば、彼は『作中に豊富な典故を引いたが、その詩作の際』、『多くの参考書を周囲に並べるように置いた』ことから「獺祭魚」と呼ばれた(前者では自らそう号したとあるが、後者に従った)という。]

 孫悟空の如意棒は伸(のば)せば三十三天より十八層地獄に及び、縮めれば一、二分ばかりの縫針となって耳の中に蔵(かく)すことが出来る。子規居士の一生も縮めれば有余字の墓誌に収(おさま)るが、扱い方によってほどの辺まで伸びるか、ちょっと見当がつかない。以下本書の頁数と筆者の能力との許す範囲において、その引伸しを試みることにする。

[やぶちゃん注:「三十三天」仏教の天上界の一種で、六欲天の第二の天である忉利天(とうりてん)のこと。須弥山の頂上、閻浮提の上、八万由旬の処にあり、中央に善見(喜見)宮がある。四面それぞれ八万由旬の大きな城があり、そこに帝釈天が住し、四方には各八つの城があり、その所属を支配する天部の衆徒や神々が住んでいる。故に、これらに善見城を加えて計三十三天となる(ウィキの「忉利天に拠る)。

「十八層地獄」中国の道教の影響を受けた地獄(我々の馴染み深い地獄思想自体が中国で形成されたもので、原始仏教では地獄はただ永遠の闇の世界でしかない)の十八の階層。本邦ではあまり言わないが、まさに「西遊記」には吊筋獄・幽枉獄・火坑獄・酆都獄・拔舌獄・剝皮獄・磨捱獄・碓搗獄・車崩獄・寒冰獄・脱殼獄・抽腸獄・油鍋獄・黑暗獄・刀山獄・血池獄・阿鼻獄・秤桿獄が挙げられている。]

 

2017/12/17

柴田宵曲 俳諧博物誌(30) 鶴 四 /「俳諧博物誌」電子化注~完遂

 

       

 

 子規居士の『病牀六尺』に「漢語で風聲鶴唳(ふうせいかくれい)といふが、鶴唳を知つて居るものは少い。鶴の鳴くのはしはがれたやうなはげしき聲を出すから、夜などはよほど遠くまで聞える。聲聞于天(こゑてんにきこゆ)というも理窟がないではない。もし四、五羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人を驚かすであらう」と書いてあるが、この説は根岸近況数件の「某別莊に電話新設せられて鶴の聲聞えずなりし事」と関連があるらしい。鶴のいた別荘と子規庵との距離は何ほどでもなかったから、あの声は勿論居士の病牀にも聞えたはずである。われわれの鶴唳についての知識も、煎じつめれば某別荘の鶴に帰著するのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」の前者は明治三五(一九〇二)年の「九月四日」のクレジットを持つ「百十五」。傍点「●」は太字に代えた。

   *

○漢語で風聲鶴唳といふが鶴唳(かくれい)を知つて居るものは少い。鶴の鳴くのはしはがれたやうなはげしき聲を出すから夜などはよほど遠くまで聞える。聲聞于天(こゑてんにきこゆ)といふも理窟がないではない。もし四、五羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人(おちうど)を驚かすであらう。

   *

単に「鶴唳」と言った場合は「鶴が鳴くこと・その声」であるが、「風聲鶴唳」は故事成句で、「怖気(おじけ)づいた者らが、何でもない少々のことに驚くことの譬え。戦さに敗れた前秦の苻堅(ふけん)の軍が風の音や鶴の鳴き声などにも驚き騒いで敗走したという「晋書」の「謝玄傳」の故事に基づく。だから子規も「落人(おちうど)」を出したのである。

後者は既出既注で、同年の七月十一日のクレジットを持つ「六十」の「○根岸近況數件」の五番目の条。]

 しかし一般に鶴が珍しくなったのは、銃猟の発達した明治以後の話で、田圃郊野にしばしばその姿を見かけた昔は、鶴唳は実際に落人を驚かしたのみならず、耳にする機会がいくらもあったものであろう。古人はいろいろな場合にこの声を捉えている。

 

 引鶴(ひくづる)の聲や流れて磯の月 后覺

 時鳥(ほととぎす)聲まじる鶴の聲  杉風

 萩の花咲そろふ日や鶴のこゑ     鼠彈

 大名の耳にもさむし鶴の聲      風叩(ふうこう)

 乘懸(のりかけ)の見𢌞し寒しつるの聲

                   昌尚

 鶴の聲菊七尺のながめかな      嵐雪

 名月や江はさわさわと鶴の聲     木導

 蕣(あさがほ)の庭にのどけし鶴の聲 其糟(きさう)

 秋ふかしみこの足どり鶴の聲     尺草

 鶴の聲疊におつる火燵かな      野紅

   翁の病中祈禱の句

 木がらしの空見直すや鶴の聲     去來

   畫讚

 鶴啼くやその聲に芭蕉やれぬべし   芭蕉

   畫讚

 浦嶋(うらしま)がたよりの春か鶴の聲

                   其角

   九日洛外にて

 菊の日や旅の寢覺の鶴の聲      舎羅

   わかのうら

 ゆく月や國なきかたに田鶴(たづ)の聲

                   几董

   和歌浦にて

 春雨や松に鶴なく和かの浦      樗良

 

 俳人は伝統的な風声鶴唳などということに深く拘泥しないから、ここにある鶴の声は多種多様である。同じ画讃の例にしても、芭蕉の句が如何にも鶴唳らしい悲涼な響を伝えているのに対し、其角の句はあくまで長閑(のどか)である。長閑でありながら、仙禽たる鶴の感じを失わぬのはさすがといわなければならぬ。和歌の浦の鶴は赤人(あかひと)の「和歌の浦に汐みち來ればかたをなみ」の歌を連想せしめやすい。九重の句はいまだこの歌の範囲を脱却せずに居るが、樗良は慥に別な世界に出た。松に鶴という極めて陳腐な配合が、春雨の中に置かれたため、絵画に見られぬ趣を発揮しているのは注目に催する。

[やぶちゃん注:嵐雪の「鶴の聲菊七尺のながめかな」は「其袋」(そのふくろ:嵐雪立机二年後の元禄三(一六九〇)年に成った彼の編になる大著の俳諧集。全二冊。江戸蕉門の俳人の句を主に収録)に載るが、菊を詠じた「菊花九唱」の一句、

 

   菊花九唱 其五

   菖(あやめ)のたけみやびやか

   なるは哥のすがたなる也けらし。

   菊をみて句をまうく

 鶴の聲菊七尺のながめかな

 

という前書を持つ。「菖(あやめ)のたけみやびやかなるは哥のすがた」とは「古今和歌集」の「卷第十一 戀歌一」の冒頭を飾る、読み人知らずの一首(四六九番歌)

 

郭公(ほととぎす)啼くや五月(さつき)の菖草(あやめぐさ)あやめも知らぬ戀もするかな

 

を指す。実は芭蕉もこの歌を

 

 ほとゝぎす啼くや五尺の菖草

 

とインスパイアしている(元禄五(一六九二)年)夏の作か)が、ここで嵐雪は「菖蒲(あやめ)」に「杜鵑(ほととぎす)」のカップリングを、遙かにすくっと佇立した「菊」と「鶴」に転じて、諧謔というよりも、原歌よりも遙かにフレーミングが大き、しかも雅びやかな世界を現出させていると言える。

 芭蕉の「鶴啼くやその聲に芭蕉やれぬべし」は前書に「畫讚」とするが、これは引用元が判らぬ。「曾良書留」には

 

   はせをに靏(つる)繪がけるに

 靏鳴(なく)や其聲に芭蕉やれぬべし

 

元禄二(一六八九)年四月十五日、「奥の細道」の旅の奥州のトバ口黒羽での贈答句。この句にはある種の棘があるように私は思っている。それについては私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅10 黒羽 鶴鳴や其聲に芭蕉やれぬべし 芭蕉』を参照されたい。

「和歌の浦」は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキの「和歌浦」によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、

 若の浦に潮滿ち來れば潟をなみ葦邊をさして鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))

『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。ここ一帯(グーグル・マップ・データ)。]]

 芭蕉が大坂の客舎で最後の病牀に就いた時、たまたま旅中にあって駈付けた其角は、師の平癒を祈るべく、

 

 吹井(ふきゐ)より鶴をまねかん時雨かな 其角

 

という句を詠んでいる。この句は「天つ風吹飯(ふきい)の浦にゐるたづのなどか雲居にかへらざるべき」の歌を蹈えたもので、特に「吹井より鶴をまねかん」といったのは、回春を望むの意を寓したのであろう。去来の「木がらし」も同じ場合の作であるが、この鶴の声にも明るい希望の光がある。もし作者が風声鶴唳にのみ捉われていたならば、到底こういう鶴の声は点出し得なかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「吹井(ふきゐ)」は本来は和泉国の歌枕としての「吹飯の浦」があるが、紀伊国の歌枕である吹上浜の異名と混同され、そちらで認識されることの方が多く、これもそのケース。先の「和歌浦」の北、和歌山城に至る部分にかつて存在した砂丘海岸。この附近(グーグル・マップ・データ)。以下に引く元歌は、「新古今和歌集」の「巻第十八 雑歌下」に載る、藤原清正の一首(一七二三番歌)、

 

   殿上離れはべりて詠み侍りける

 天つ風ふけひの浦にゐるたづのなどか雲ゐにかへらざるべき

 

天歴元(九五六)年正月に紀の国の守を任じられて、殿上から退く際に詠んだ歌。最昇殿の望みを期した一首。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「藤原清正」の同歌の解説によれば、『『清正集』の詞書は「紀のかみになりて、まだ殿上もせざりしに」とあり、紀伊国守となって都を離れる時、紀伊の歌枕「ふけゐの浦」に言寄せて、いつか帰京し昇殿を許されることを願って詠んだ歌。但し『忠見集』によれば、清正が紀伊守となった頃、壬生忠見が清正に代わって少弐命婦に贈った歌とある。清正の代表歌とされ、彼が三十六歌仙に選ばれたのも』、『この歌あってのことに違いない。因みに清正が紀伊守に就いたのは』天暦十(九五六)年『正月で、同年十月には還昇を果たしている』とある。]

 古人の描いた鶴の姿に平凡なものが多いことは、前に例句を挙げた通りである。平凡な鶴の声に人を驚かすものが少いのは怪しむに足らぬ。強いてその種類の句を求めるとしたら、風叩、昌尚の二句位なものであろうが、それとても特筆大書するほどのことはない。但(ただし)仙家の友とならず、山野に棲息する以上、鶴といえども時に生命の不安を免れぬのは当然である。『甲子夜話』に筑前の蘆屋川(あしやがわ)のほとりで、鶴を逐う声を耳にすることが記されているが、その辺は年々鶴に穀物を害せられること甚しく、しかも領主の放鷹の場で、これを捕えることを禁ぜられているため、昼夜をわかず声をあげて逐うより仕方がないのだとある。明治になって保護鳥の列に入る以前、鶴の捕獲が禁ぜられたのは、多くの場合放鷹のためであった。猟師の筒先を逃れた鶴は、鷹狩の犠牲にならざるを得ない。

[やぶちゃん注:松浦静山の「甲子夜話」は電子化注しているが、なかなか進まぬ。これもどこに書いてあるかが判らぬと原典が引けぬ。何方か、御存じの方、巻数をお教え下されよ。

「明治になって保護鳥の列に入る」ツルの禁猟が明記されたのは、明治二五(一八九二)年十月の旧「狩猟規則施行細則」。]

 

 鶴の首も追(おひ)すくめたる鷹野かな 尚白

 小男のさし荷(にの)うてや鷹の鶴   冶天(やてん)

 鷹組(くみ)て鶴の毛散(ちら)すみそらかな

                    曉臺

 

 和漢の詩歌に幾多の資料を提供した雁も、実生活の面より見る時は「麥くひし雁と思へど別れかな」の歎がある。鷹狩の一事がなかったならば、田野に及ぼす鶴の害はもっと大きく伝えられたかも知れぬ。治夫の句の「鷹の鶴」は鷹狩の獲物の鶴なので、俳諧以外には通用しにくい省略法であろう。首の長い鶴を荷う小男の姿は、俳画にはならずとも、漫画に取入れらるべき要素を十分に具えている。

 鷹狩の鶴を捉えた俳人は、一転して地上にとどめた鶴の遺失物も見逃さなかった。

 

 花はまた下かげ寒し鶴の屎 五明

   高砂

 松の花ちるや眞砂の鶴の糞 燕説(えんぜつ)

   西岳亭記

 柑類の花のはやしや鶴の糞 露川

 

 これらの句には殊更に奇を好んだ形迹は認められぬ。どこまでも自然である。花も名所も鶴の糞も、一切平等と観じ得る時、その詩眼ははじめて豁然(かつぜん)と開けることになるのであろう。

[やぶちゃん注:「豁然」視野がぱっと大きく開けるさま。転じて、心の迷いや疑いが一気に消えるさま。]

 鶴に関する文学は支那に多いが、漢土の鶴はいささか仙界に偏し過ぎた嫌がある。「後赤壁賦」の中で江の空を飛ぶ孤鶴の如き、「翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也」というだけで十分であるのに、東坡はそれに満足せず、夢裏の一道士として再びこれを登場せしめている。実際の光景は「鳴渡る鶴の高さよ霜の月」や「明月や江はさわさわと鶴の聲」と大差ないはずであるが、文章の趣向に一歩を進めただけ、自然を遠ざかる結果になったのは何とも致し方がない。

[やぶちゃん注:「後赤壁賦」宋の詩人蘇軾(東坡)の「前赤壁賦」と「後赤壁賦」とは、一〇八二年の秋七月と、その三ヶ月後の冬に、流罪地であった黄州を流れる長江の名勝赤壁に遊んだ際の作。

「翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也」底本は総ルビであるが、排除した。もう少し前から引けばいいものをと思う。少し前から原文を引いて、後に訓読で示す。

   *

時夜將半。四顧寂寥。適有孤鶴。橫江東來。翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也。

(時に夜、將に半ばならんとし、四顧すれば、寂寥たり。適(たまた)ま、孤鶴あり、江を橫ぎりて東より來たる。翅(つばさ)は車輪のごとく、玄裳(げんしやう)縞衣(かうい)、戛然(かつぜん)として長鳴(ちやうめい)し、予が舟を掠(かす)めて、西せり。)

   *

宵曲の言う通り、この後に続けて、詩人は床に入るのであるが、その夢に道士が登場することで鶴―仙界の構造が発生している。

   *

須臾客去。予亦就睡。夢一道士。羽衣扁遷。過臨皋之下。揖予而言曰。赤壁之遊樂乎。問其姓名。俯而不答。

(須臾(しゆゆ)にして、客、去り、予も亦、睡りに就く。一道士を夢みむ。羽衣、扁遷として、臨皋(りんかう)の下を過ぎり、予に揖(いふ)して言ひて曰く、「赤壁の遊び、樂しかりしか。」と。其の姓名を問へど、俯して答へず。)

   *

「臨皋(りんかう)」臨皋亭(りんこうてい)。この時、蘇軾の滞在した寓居の名。「揖(いふ)」中国の昔の礼法の一つ。両手を胸の前で組んで、これを上下したり、前に進めたりする礼式を指す。]

 日本の歌にもまた鶴を詠じたものが少からずある。しかし『万葉集』中のものを除けば、概して生趣に乏しく、動(やや)もすれば松上に巣を営んで画裡に化し去ろうとしている。

[やぶちゃん注:「万葉集」には意想外に四十二首にも及ぶ鶴(たづ)の和歌が収録されている。個人サイト「たのしい万葉集」の葉集 たづを詠んだ歌を参照されたい。]

 

 名月や鶴のびあがる土手の陰 且只(しよし)

 

の如き自然の小景を身近に捉え来ることは、けだし俳人の擅場(せんじょう)で、俳句ほど多種多様の鶴を描いたものは、あるいは他に類がないのかもわからない。

 

 盜鶴捨賣にするしぐれかな  朱拙

 

に至っては、その多種多様な俳句の中でも珍しい題材の一である。どこかの鶴を苦心して盗んだものの、そう右から左へ売れるものでもなし、勿論大びらに売り歩かれもせず、遂に捨売にしてしまう。西鶴のような作家でもなければ、小説中の趣向に取入れそうもない事柄である。蕪村、太祇以下の天明の俳家は好んで小説的事件を句にしたが、これほど奇抜なものは見当らぬ。朱拙は苦心惨澹、如是(にょぜ)の趣向を拈出(ねんしゅつ)し得たのでなしに、何らかの事実に基いてこの十七字を成したように思われる。

[やぶちゃん注:以上を以って日本古書通信社から刊行された柴田宵曲著「俳諧博物誌」(全十章。没後十五年後の遺稿出版)は終わっている。

 最後に本邦に於いては鶴が高級食材として戦前まで食されていたことを知らぬ人が多いように思われるので、私の杉田久女句集 240  花衣 Ⅷ 鶴料理る 附 随筆「鶴料理る」をリンクさせて私の博物誌的注の終りとする。]

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