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カテゴリー「柴田宵曲」の320件の記事

2020/07/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈草 四

 

       

 

 芭蕉が館を捐(す)てた翌年、浪化の名によって『有磯海』が上梓された。この書の刊行は芭蕉生前からの計画であったらしく、題号について芭蕉に相談したという話も伝えられている。芭蕉が「奥の細道」の帰途、北陸道にかかって詠んだ「早稲(わせ)の香や分入(わけいる)みぎは有そ海」の句に因(ちな)んだもので、巻頭にこの句を記し、浪化以下十二人の早稲の句を列べてあるが、特に初の五句だけは「早稲の香や」を上五字に置いたほど、芭蕉に対する思慕の情の強いものである。

 この書の序は丈艸が書いた。少、長いけれども、全文をここに引用する。

[やぶちゃん注:「館を捐(す)てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「早稲(わせ)の香や」正字で示す。

 早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海

私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中国分 早稲の香や分け入る右は有磯海』を参照されたい。

 以下、原本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

はれの歌読むと思はゞ法輪に詣で所がら薄を詠(ながめ)よとおしへ、雪見の駒の手綱しづかにずして㶚橋[やぶちゃん注:「はけう」。]の辺にあそべと示しけん、よくも風雅のわり符を合(あはせ)て、向上の関を越過(こえすぎ)ける事よ。然(しかれ)どもつくづく思ふに是等はみな文吏官士の上にして、たまさかに市塵を離るゝ便(たより)なるベし。平生(へいぜい)身を風雲に吹ちらして心を大虚にとゞめん中には、限もなき江山に足ふみのばして行(ゆく)さき毎の風物をあはれみ、雪ちるやほやの薄としほれ果(はて)たる風情、いかでか其(その)法輪㶚橋にのみかたよらんや。されば芭蕉菴の主、年久しく官袴[やぶちゃん注:「くわんこ」。]の身をもぬけて、しばしの苔の莚にも膝煖(あたたま)る暇なく所々に病床の暁を悲しみ、年々に衰老の歩(あゆみ)を費してまたとなく古びたる後姿には引かへて、句ごとのあたらしみは折々に人の唇を寒からしむ。一年(ひととせ)、越の幽蹤(ゆうしよう)に杖を引て、袂(たもと)を山路のわたくし雨にしぼり、海岸孤絶の風吟心を悩されしかど、聞入(ききいる)べき耳持たる木末も見えず、辰巳(たつみ)あがりの棹哥[やぶちゃん注:「たうか」。]のみ声々なれば、むなしく早稲の香の一句を留(とどめ)て過(すぎ)られ侍(はべり)しを、年を経て浪化風人の吟鬚(ぎんしゆ)を此(この)道に撚(ひね)られしより、あたりの浦山頭[やぶちゃん注:「かうべ」。]をもたげ翠(みどり)をうかべしかば、いつとなく此の句の風に移り浪に残りて、えもいはれぬ趣の浮(うかび)けるにぞ、ひたすら其(その)境のたゞならざりし事をおしみ感ぜられけるあまりに、穂を拾ひ葉をあつめて終[やぶちゃん注:「つひ」。]に此集の根ざしとはなりぬ。この比(ごろ)洛の去来をして、あらましを記せん事を蒙る[やぶちゃん注:「かうむる」。]。かゝる磯山陰をもたどり残す方なくして、かゝることの葉をこそ、あまねく世の中にも聞えわたらば、猶ありとし国のくまぐまにはいかなる章句をか伝られ侍るにやと思ひつゞくる果しもなく、ありそめぐりの杖のあとをしたはれけん筆のあとも、又なつかしきにひかれて序[やぶちゃん注:「じよす」。]。

            懶窩埜衲丈艸謾書

[やぶちゃん注:野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。

「しづかにずして」不詳。「修(ず)して」があるが、これでは「修行して」の意で、タズ手綱を執っての意にはなるまい。上記リンク先では「しづかにして」である。これなら「靜かに」爲(し)「て」の意として不足はない。

「㶚橋」は現在の河南省許昌市西にあったらしい(当該位置は現在は不詳)覇陵橋のことであろう。曹操の陣営に留め置かれていた関羽が、劉備の無事を知って、曹操のもとを離れる。別れを告げずに去る関羽を、曹操は敢えて追手を出さず、曹操から送られた袍を関羽が矛で受け取って去ったという二人の英雄の別れの橋とされる。

「雪ちるやほやの薄」これは「猿蓑」に載る芭蕉の句、

   信濃路を過るに

 雪散るや穗屋の薄の刈り殘し

を指す。「猿蓑」の稿が成ったのは元禄四(一六九二)年四月であるから、元禄三年以前となるが、芭蕉は冬の信濃へ行ったことはなく、貞亨五(一六八八)年の「更科紀行」の折りの記憶かとも思われるものの、それは秋であって合わない。されば、本句は仮想景と思われる。原拠は恐らく「撰集抄」の「信濃野ほやのすすきに雪ちりて」であろう。これは「巻七 第一四 越地山臥助男命事」(越地(こしぢ)の山臥(やまぶし)男の命を助ける事)の冒頭の一文である。

   *

おなじ比、越のかたへ修行し侍りしに、甲斐の白根には雪積つもり、淺間の嶽(たけ)には煙(けぶり)のみ心細く立ち昇るありさま、信濃のほやのすゝきに雪散りて、

   下葉はいろの野邊のおも、おもひまし行く
   まののわたりのまろき橋、つらゝむすばぬ
   たに川の水の、ながれすぎぬる果てを知ら
   する人もなき、

峻(さが)しき山ぢの峯のくつ木の繁きがもと、木曾のかけ橋ふみみれば、生きて此世の思出(おもひで)にし、死にて後の世のかこつけとせんとまで覺え侍りき。あづま路(ぢ)こそ、おもしろき所と聞き置きしもし思ひ侍(はべり)しに、物數(かず)にもあらざりけり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私の引用は岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)で底本が異なるが、「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める。さらに実はこのフレーズの元はもっと遙かに遡るもので、「箕輪町誌(歴史編)」の電子化された中に「御射山祭」(後述)に触れた中に、『御射山の文献的初見は『袖中抄』(万葉集以後堀河百首ごろまでの歌集)の「信濃なる穂屋のすすきも風ふけばそよそよさこそいはまほしけれ」という詠み人知らずの歌で、平安期堀河天皇ころには東国の風がわりな祭りとして、都人の歌材になっていたという』というのである。「穗屋」は薄の穂で作った神の仮の御座所で、信州諏訪地方で毎年、諏訪大神が御射山(みさやま)に神幸されるに当たって、この「御狩屋」と呼ばれる穂屋を作る風習があり、秋の収穫の予祝行事として「御射山祭」として古くから名高いものであった。嘗ては祭りのために沢山の穂屋が建ち並び、一時、閑寂な山に村里ができたように賑わったとされる(御射山を名乗る神社は諏訪周辺に多数ある)が、現在は長野県諏訪郡富士見町の御射山神社(グーグル・マップ・データ)境内の膳部屋(ぜんぶや:神饌を準備する棟)のみが薄で覆われる唯一の穂屋となっていると、サイト「諏訪大社と諏訪神社」の「御射山社」にはある(サイト・ページの名称は「御射山社」であるが、地図上では「御射山神社」となっているものの、そのサイド・パネルの写真を見るに、解説板は「御射山社」となっていて、境内の写真も一致するから、ここに間違いない)。

「幽蹤」世間から離れてひっそりしている人の踏み分けた跡もかすかな地。

「山路のわたくし雨」ある限られた地域だけに降るにわか雨。特に下は晴れているのに山の上だけに降る雨を指す。

「辰巳(たつみ)あがり」声が高く大きいこと、或いは、言葉や動作が荒々しいこと。ここは後者であろう。語源は未詳のようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。

「棹哥」水子(かこ)が棹をさしながらうたう唄。舟唄。

「吟鬚」詩歌を吟ずることを鬚を向けること喩えた。中国で古くから、風変わりな鬚を詩人は生やしているとされた転語のようである。

「根ざし」濫觴。

「蒙る」その役目を与えられてしまった。

「ありとし国」「有りと有る」の協調形「有りとし有る國」の約縮。ありとあらゆる総ての国々。

「懶窩埜衲」「らんくわ(らんか)」丈草の別号。

「埜衲」「やどふ(やどう)」(底本は「やどう」)或いは「やのふ(やのう)」。「衲」は「衲衣(のうえ)」(出家修行者が着用する衣服のこと。「衲」は「繕う・継ぎ接ぐ」の意であり、人々の捨てた襤褸布を拾って洗って縫合せして着用したことに基づく。別に「糞掃衣 (ふんぞうえ)」 などとも称した)で、「田舎の僧・野僧」或いは一人称人代名詞で僧が自分を遜って言ふ語。ここは後者。

「謾書」「まんしよ」。妄(みだ)りに誤魔化して書いたものの意。]

 

 この序全体が芭蕉に対する思慕の情を以て埋められているのはいうまでもない。丈艸の観た芭蕉なるものを端的に示せとならば、第一にこの序を挙ぐべきであろう。が、この文章は芭蕉の風格を伝うると共に、丈艸その人の風雅観をも示している。二度まで法輪㶚橋を引合に出して、たまさかに市塵を離るる文吏官士に一拶を与えたのは、丈艸自身の体得した風雅の上から、期せずして生れた声でなければならぬ。

 芭蕉が「早稲の香」の一句を得た元禄二年には、丈艸もまだ俳壇の表面に姿を現していなかった。浪化は勿論のことである。『有磯海』一巻は単に芭蕉行脚の杖の跡を慕うだけではない、芭蕉その人を慕い、芭蕉によって遺された道を慕うのである。『有磯海』が元禄期の撰集中にあって、嶄然(ざんぜん)頭角を現しているのは偶然でない。今集中の丈艸の句を左に抄出する。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 

 わせのかややとひ出るゝ庵の舟   丈艸

[やぶちゃん注:「やとひ出るゝ」は「傭ひいでるる」で、座五は「いほのふね」。早稲を刈る頃ともなって、我が庵の舟遊びの小舟までが借り出されて行くという、秋の琵琶湖畔のフレーミングである。]

 

 聖霊も出てかりのよの旅ねかな   丈艸

[やぶちゃん注:「聖霊」は「しやうりやう」で、「出て」は「でて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『旅中に魂祭りを迎えての吟である。今宵は聖霊たちも一時(いっとき)この世にお帰りになる――その聖霊たちと一緒に、自分も旅中の仮り枕をすることだ、といったところであろう。このとき心喪に服していた丈草の夢枕には、生前から「世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉」(『虚栗』)と詠み、この世を仮りの世と観じていた芭蕉の姿があったのであろう』とある。私はこの宗祇の「世にもふるさらに時雨のやどりかな」にただその名を裁ち入れただけのこの芭蕉の句に非常に惹かれている。自分の生を宗祇という宇宙の中の僅かな点の時空間へと転じたそれは並大抵の詩人には出来ぬ絶対の仕儀だからに他ならない。]

 

 木啄の入まはりけりやぶの松    同

[やぶちゃん注:上五は「きつつきの」、中七は「いりまはりけり」。]

 

 啼はれて目ざしもうとし鹿のなり  同

[やぶちゃん注:上五は「なきはれて」で「鳴き腫れて」、「目ざし」は「めざし」で眼差(まなざ)し。妻恋に疲れた牡鹿(おじか)のそれをアップにするその手法は見事。]

 

 野山にもつかで昼から月の客    同

[やぶちゃん注:今夜の月を野で見るか、それとも、いっそ山でするかと、昼から落ち着かぬ風狂人を諧謔したもの。丈草自身のカリカチャイズではない。]

 

 友ずれの舟にねつかぬよさむかな  同

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「友ずれ」なのだから「友連(づ)れ」ではなく、舟の「とも擦(ず)れ」である。堀切氏は前掲書で、『船中夜泊の吟である。琵琶湖沿岸の水郷あたりに舟旅をしたときのことであろうか。自分の乗る舟と隣に碇泊する舟とが友擦れをする度に、軽い衝動を感じて、なかなか寝つかれないのである。折しも、秋の夜寒のころで、旅のわびしさが一層つのってくるのであろう』とされ、語釈も「友ずれ」に『共擦。互いにすれ合うこと。ここは、二艘の舟が並んでつながれていて、波にゆられる度に相方の舷』(ふなばた)『がぶつかりこすれ合うこと』とある。]

 

 寒けれど穴にもなかずきりぎりす  同

[やぶちゃん注:「きりぎりす」はここでは現在の蟋蟀(コオロギ)である。]

 

 やねふきの海をねぢむく時雨かな  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、『初冬のころ、浜心に近い家の屋根に乗って男が屋根葺をしている。そこへ突然ぱらぱらと時雨が降りかかってきたので、屋根葺の男は、来たなというふうに、かがんだまま身体(からだ)を棙じって海の方をふり向いたという光景である。男の視野には一瞬、時雨雲の下で寒々と光る海が入ったはずであるが、すぐさま身体を元へ戻して屋根葺の仕事を続けているのである。おそらく「海」は琵琶湖であろう』と適確な評釈をなさって、さらに『『句集』に中七「海をふりむく」とするのは改案か。「ふりむく」の方が表現に落ち着きが生じるが、「ねじむく」にも俳意が感じられて捨て難いところがある』と言い添えておられる。私は断然、「ねぢむく」でなくてはならぬと思う。]

 

 雪空や片隅さびし牛のるす     同

[やぶちゃん注:カメラがゆっくりとカーブしながらティルト・ダウンして、牛小屋へと進んでくる。私好みのワン・カットである。三好達治の散文詩「村」のようじゃないか!]

 

 竹簀戸のあほちこぼつや梅の花   同

[やぶちゃん注:「竹簀戸」は「たけすど」で、竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど:折った木の枝や竹をそのままに使った簡単な開き戸。多くは庭の出入口などに設ける)のこと。「あほちこぼつ」は「煽(あほ)ち毀(こぼ)つ」で「煽って壊す」こと。まさに瞬時のそれを高速度撮影でしっかりとスカルプティング・イン・タイムしたものである。]

 

 背戸中はさえかへりけり田にしがら 同

[やぶちゃん注:上五は「せどなかは」。堀切氏は前掲書で、『家の裏口の土間のあたりには食べたあとの田螺の殼がころがっていて、春とは名ばかり、ぶり返した寒さがひとしお身にしみることだ、というのである。元禄八年春の吟である。師を失くしたばかりの丈草の目には、殺生をしたあとの残骸である田螺の殼がうつろに映るのであろう』とされる。語注で「さへかへり」は『「冴え返る」の意。春になって寒さが戻ること。春の季題』とある。後の「田螺」も春の季題である。最後に『丈草が、生きるために殺生をしなければならぬ人のさだめに悶々としていたことは、「里の男のはみちらしたる田にしがらを、水底にしづめ待居』(まちゐ)『たれば、腥(なまぐさき)をむさぼれるどぢやうの、いくらともなく入こもりて」と前書した』、

 入替(いりかは)るどぢやうも死ぬに田にしがら(『初蟬』)

『の句などからも察せられる』とある。なお、ここで描写されるタニシであるが、これは琵琶湖固有種(過去は流下する瀬田川にも棲息したとされる)である一属一種の腹足綱原始紐舌目タニシ科アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科ナガタニシ属ナガタニシ Heterogen longispira である可能性が高いように思われる。殻高は五センチメートルから最大で七センチメートルほどにもなり、本邦在来のタニシの中では最大級で、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。螺管の上方に肩が生ずるため、螺塔部が有意に段々となるのを特徴とするが、時には肩が弱く、一見、ヒメタニシ(アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科 Bellamya 属(或いは Sinotaia 属)ヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica:殻高約三・五センチメートル。北海道から九州に分布。中国からの外来種であるとする説もある。小型であるため、本邦では食用に適さないとされる)やオオタニシ(Bellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)オオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica:殻高約六・五センチメートル。北海道から九州に分布)に似た個体が出現することもある。胎児殻の形態が他の種と大きく異なっており、殻頂自体は尖るが、それに続く螺層には特徴的な螺状の畝(うね)が生じ、畝の上が平坦部になる。大型であるため、古くからオオタニシなどとともに琵琶湖産として食用にされ、昭和末期頃までは年間数トンの漁獲量があったという。しかしその後、個体数が減少し、他の二枚貝類を目的とした貝曳漁(かいびきりょう)で少量が混獲される程度となったと言われ、中でも水質悪化の激しい南湖では激減しているとされる。二〇〇〇年には準絶滅危惧(NT)種に指定されてしまった(一部の琵琶湖水系以外の場所で見られるものがあるが、これは移入個体群で、神奈川県・岐阜県・京都府などの記録があるものの、琵琶湖産魚介類の放流移植に伴って無意識的に人為移入されたものと推定されている)。本種は胎殻の類似などから、中国雲南省のコブタニシ属 Margarya に近縁であると言われている。属名は変わった形の胎殻を表わし、種小名は長く伸びたような螺塔に由来する。他に本邦産種にはBellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)シナタニシ亜種マルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta:殻高約四・五~六センチメートル。北海道から沖縄に分布)がいる。他に「ジャンボタニシ」などという和名で呼んでしまった養殖用に持ち込まれて(昭和五六(一九八一)年)野生化した外来侵入種で、大型(最大八センチメートル)の原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata とラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が西日本を中心に増えているが、彼らはタニシとは縁も所縁もない全くの別種である。(以上は主にウィキの「タニシ」に拠った)。]

 

 片尻は岩にかけけりはな筵     同

[やぶちゃん注:座五は「はなむしろ」。花茣蓙(はなござ)。いろいろな色に染めた藺 () で花模様などを織り出した茣蓙。無地に捺染 (なっせん) を施したものもある。はなむしろ。夏の季題。]

 

 ほとゝぎすたれに渡さん川むかへ  同

[やぶちゃん注:この句、ちょっと意味をとりかねている。識者の御教授を乞う。]

 

 涼しさのこゝろもとなしつたうるし 同

[やぶちゃん注:季題は「涼しさ」で夏。されば蔦漆(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ツタウルシ Toxicodendron orientale は青々しくぺらぺらしている(ツタウルシは晩秋にならないと紅葉しない)。その微風に微かに揺れるのを詠んだ。「こゝろもとなし」は前後の「涼しさ」と「つたうるし」に掛かるようになっているのである。]

 

 この外にもう一つ「朝霜や茶湯の後のくすり鍋」という芭蕉迫慕の句があるわけであるが、前に引いたからここには省略する。

 「わせのかや」の句は『丈艸発句集』には「雇ひ出さるゝ」となっている。「出さるゝ」か「出らるゝ」か、二つより読み方はなさそうであるが、多分前者であろう。

 「友ずれ」というのは「とも擦れ」ではないかと思う。『丈艸発句集』には「友づれの」とあり、「有朋堂文庫」には「一本「友つれて」とあり」[やぶちゃん注:総て鍵括弧はママ。]と註してある。これでは人間の友達を連れて舟に乗ったが、なかなか寝られぬという風に解される虞(おそれ)がある。ここは友達などが登場しては面白くない。『曠野』にある「友ずれの木賊(とくさ)すゞしや風の音」という山川の句の「友ずれ」と同じことで、近く舫(もや)った舟が浪か何かのために互に擦れ合う、そのために眠れぬというのではあるまいか。少くともそう解した方が、夜寒の情が身に逼(せま)るような気がする。

[やぶちゃん注:「山川」寺村山川(さんせん 生没年不詳)。伊勢津藩士で榎本其角の門人。]

 「やねふきの」の句は『丈艸発句集』に「海をふりむく」となっている。現在屋根を葺きつつある最中に時雨が来た。直ぐ晴れるかどうか、空模様を見るために手を休めて後を振向いたのであろう。この句にあっては「海」の一字が画竜点晴の妙を発揮している。この一字あるによって、海を背にした家の屋根に人が上って、屋根を葺いているという景色がはっきり浮んで来る。更に想像を逞(たくま)しゅうすれば、黒み渡った海上には、時雨雲の下に遠い帆影なども動いているかも知れぬ。海の方から時雨が来たために其方(そちら)を見たのか、時雨が海の方へ抜けるためにその行方を見たのか、その辺はいずれでも構わない。余念なく屋根を葺いている男が、時雨が来たことによって背後の海を顧みたという、そこに巧まざる躍動がある。「ふりむく」ではいささか軽過ぎる。やはり「ねぢむく」という強い言葉の方が適切のようである。

 『有磯海』所収の句は必ずしも従来の作品に比して、特に異色あるものとも思われぬ。目まぐるしく変化するのを才分の豊なものと解する批評家は、丈艸の作品を以て一所に停滞するものと見るかも知れない。丈艸の丈艸たる所以は、変化を求めざる世界において、自在な歩みを続ける点に存するのである。

 芭蕉生前と歿後とでは、蕉門作家の句にも多くの変化が認められる。純客観の本尊と称せられる凡兆でさえ『猿蓑』集中の句と、十年後の『荒小田』集中の句とでは、よほどの軒輊(けんち)を示しているのを見れば、その他は推して知るべきであろう。但丈艸の句にはそういう意味の変化の差を認めがたい。彼の句が軽々に時流を逐って[やぶちゃん注:「おって」。]変化せぬのは、それだけ深い根抵に立っているためではあるまいか。

[やぶちゃん注:「荒小田」(あらおだ)舎羅編。元禄一四(一七〇一)年刊。

「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。]

 

 『続有磯海』は『有磯海』より三年後に、同じく浪化の名によって刊行された撰集である。この集における丈艸の句はさのみ多くないが、依然悠々たる歩みを続けている。

 柊にさえかへりたる月夜かな    丈艸

[やぶちゃん注:「月夜」で秋であるが、ここではシソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus が芳しい白い花を咲かせていると読むべきで、さすれば、季節は実際には初冬(現行では「柊の花」は初冬(「立冬」(十一月八日頃)から「大雪」の前日(十二月七日頃))の季語とする)を想定してよいように思う。花無しでは「さへかりたる」が生きてこない。因みに、私は季語を軽蔑しているので問題にする気も実はない。]

 

 胡床かく岩から下やふぢの花    同

[やぶちゃん注:初五は「あぐらかく」。藤の花を俯瞰するロケーションに新味がある。]

 

 あら壁や水で字を吹夕涼み     同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『「あら壁」は荒塗をしたままの』塗りたての『壁。夕涼みをしている子供が、口にふくんだ水を荒壁に吹きかけ、大きな字を書きつける。夕涼みの子供たちのいたずら』とある。それ叱らぬ丈草には後の一茶の優しさを感ずる。]

 

   嵯峨の辺に逍遥して

 猪追の寐入か藪の子規       同

[やぶちゃん注:「ししおひのねいるかやぶのほととぎす」。「猪追」は、農地の傍らに小屋や掛け物をして、そこで笛を吹いたり、板や撞木を打ち鳴らしたりして、通常は複数で交代したりして夜通し、田畑の見張りをする方法で、猪や鹿の害を避ける方法として、ごく近代まで行われていた。松尾氏の前掲書には、『猪を追いはらう役の猪追いも、どうやら寝てしまったよう』で、『竹藪から漏れてくるほととぎすの鳴く音』だけが、『静かな嵯峨野の夏の夜』に聴こえるばかりといった感じの評釈をされておられる。『嵯峨野は竹薮で知られる』ともある。因みに、ホトトギスは夜も鳴くことで古くから知られ、詩歌にも詠まれている。実際には深夜ではなく、宵の頃と、早暁の三時頃から日の出頃にかけてよく鳴く(私も暗い内に直上の裏山からの彼らの声のために起こされる)。特に飛びながら鳴くようである。]

 

 鹿小屋の火にさしむくや菴の窓   同

[やぶちゃん注:先に挙げた諸本では堀切氏も松尾氏も「鹿小屋」を「しかごや」と読んでおられるのだが、どうも私には従えない。これはこれで「ししごや」と読みたい。前の「猪追(ししおひ)」小屋と同じものであるが、山間では「鹿」で「しし」と読んで猪をも鹿をも指したし、前注で示した通り、セットで農作物や農地を荒らす害獣として一緒に認識されていたからである(私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』(全電子化注完結)の各所を読まれたい)。堀切氏は『仏幻庵の秋の景であろう。近くの山畠にある鹿』『小屋の灯がぽつんと一つだけ見える――その灯に向かい合うように、わが草庵の窓があるというのである。夜ごとに見える鹿小屋の灯だけが、草庵に孤独が生活を送る丈草の心に、人なつかしさの情けを蘇らせるのであろう』とある。松尾氏の評釈もほぼ同じである。]

 

   田家

 茶の酔や菜たね咲ふす裏合せ    同

[やぶちゃん注:「田家」は「でんか」で田舎の家であるが、この「田」は広義の農耕地畠地に接した田舎家の謂いであろう。堀切氏前掲書によれば、「菜たね」は『菜種の花で、菜の花のこと』、座五は『裏と表とが互いに向き合っていること。背中合わせ。元来は二軒の家が互いにうしろ向きに建っていること』を指すが、『ここは裏手がすぐ菜畑になっているのを、このように見立てたものであろう』とされ、評釈では『仏幻庵での生活ぶりのしのばれる句である。庵の裏手の畑には一面に菜の花が咲きふしている』(比較的低い位置で花が咲き広がっていることを謂っていよう)『が、自分もそれを眺めながら、茶を存分に飲』み味わって、『ぼんやりと寝そべっていることだ、というのであろう。芭蕉の俳文「月見ノ賦」(『和漢文操』巻一)によれば、師翁から白楽天に擬せられた丈草であるので酒の酔とも無縁ではなかったろうが、あえて茶の酔に悠然としているさまをとらえて詠んだところがかもしろい』とある。松尾氏前掲書では、丈草は茶の湯にも造詣が深かった旨の記載がある。]

 

 屋のむねの麦や穂に出て夕日影   同

[やぶちゃん注:こうした巧まざるトリミングの妙にこそ丈草の句の秘訣があると私は思っている。]

 

 芭蕉のような偉大な指導者を失った後、俳壇が乱離に赴くのは当然の話である。門弟が各異を立てて自己の主張を誇揚するのもまた已むを得ない話かも知れぬ。けれどもこういう形勢に左右されて、自分の足許までしどろもどろになるのは、その人の識量の大ならざることを語るものである。要は芭蕉生前に体得した道の深浅如何にある。丈艸の足許に狂いを見せぬのは、必ずしも彼の境遇が世外に超然としていたためばかりではない。一たび芭蕉によって得た道を、惑わずに歩み続けるだけの確信を有したために外ならぬ。

 去来が卯七と共に『渡鳥集』を撰んだのは宝永元年、芭蕉歿後十年の歳月を閲(けみ)しているが、丈艸の句には何の狂いも生していない。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)に元禄から改元。]

 

 山鼻や渡りつきたる鳥の声     丈艸

[やぶちゃん注:「山鼻」は「やまはな」で山の端の意。この鳥は渡り鳥(秋の季題)であればこそ評釈はいらぬ。]

 

 送り火の山にのぼるや家の数    同

[やぶちゃん注:「のぼる」のは送り火の煙。]

 

 戸を明て月のならしや芝の上    同

[やぶちゃん注:「明て」は「あけて」。松尾氏の前掲書によれば、『庵の戸を開けて外に出てみると、明るい月光が柴を一面に照らし出している。「月のならし」は月の光が隈なく照らすさま。元禄十六年八月十四日、小望月の吟』と評釈しておられる。「小望月(こもちづき)」は望月の前夜の月。陰暦十四日の月を指す。グレゴリオ暦では一七〇二年九月二十四日である。]

 

 鍋本にかたぐ日影や村しぐれ    同

[やぶちゃん注:初五は「なべもと」で鍋を使っている竈か七輪の下(もと)。独り夕餉の支度である。「村しぐれ」は「叢時雨」で、一頻り激しく降っては止み、止んでは降る雨のこと。冬の季題。]

 

 水風呂に筧しかけて谷の柴     同

[やぶちゃん注:「水風呂」は先にも出たが、再掲しておくと、「すいふろ」で、茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「筧」は「かけひ(かけい)」で水を引くために渡した樋(とい)のこと。風呂を沸かすに谷川の水を引くために筧を引き掛け、また、谷を歩いて焚き付けにする柴を集める、まさに隠者の体(てい)である。]

 

 狐なく岡の昼間や雪ぐもり     同

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書に、『「雪ぐもり」はいまにも雪になりそうな、底冷えのする曇り空。冷え冷えする雪催』(ゆきもよ)『いの昼下り、岡辺に鳴く狐の』「こうこう」という『声も、いかにも寒々しく聞こえる。元禄十五年二月二十二日、仏幻庵に浪化、支考らが来訪した折の吟』とある。グレゴリオ暦では一七〇二年三月二十日である。]

 

 啄木鳥の枯木さがすや花の中    同

[やぶちゃん注:「きつつきやかれきをさがすはなのなか」。キツツキは秋の季題であるが、ここは「花」で春。咲き誇る桜を尻目に、枯れ木を探しては餌を突(つつ)き探す啄木鳥へと、大胆にずらして、しかもその飛び移る鳥影に美しい桜の花を背景としてぼかしつつも出すという、まさに俳諧的妙味の句と言えよう。掲句は松尾氏の前掲書によれば「渡鳥集」(去来・卯七編。丈草跋文(元禄一五(一七〇二)年十一月)で刊行は宝永元(一七〇四)年刊)の句形で、「菊の道」(紫白女(しはくじょ)編・元禄十三年刊)では、

 木つゝきや枯木尋(たずぬ)る花の中

であり、「東華集」(支考編・元禄十三年刊)・「丈草句集」では、

 木つゝの枯木をさがす花の中

とする。私は断然、「木つゝきや枯木尋る花の中」を推す。]

 

   草庵

 火を打ば軒に鳴合ふ雨蛙      同

[やぶちゃん注:「ひをうてばのきになきあふあまがへる」。松尾氏前掲書に「志津屋敷(しづやしき)」(箕十(きじゅう)編・元禄十五年刊)所収の句として酷似した、

 火を打てば軒に答(こたふ)る蛙(かはづ)かな

の句を挙げてあり、こちらの方が出来がよい。同句の松尾氏の評釈では(踊り字「〱」を正字化した)、『句意は嘯風(しょうふう)宛書簡の「かちかちと打てども、例のしめりほくち、小腹のたついきほひ、ひゞきに軒近く、雨蛙の、をのが友の声かと取りちがへたるにや、かならず鳴き出すおかしさ」に尽きる。「打てば響く」の諺を連想させリズム。元禄十四年』春『の作』とある。]

 

   木曾川の辺にて

 ながれ木や篝火の空の時鳥     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『大水のために溢(あふ)れんばかりになった木曾川の川面を次から次へと』流木が落ち『流れてくる。堤には』『あかあかと篝火が焚かれ、物々しく警戒する人たちの姿が見える――そんなとき』、『時鳥が一声鳴き過ぎたというのである。凄絶な気配の漲った夜明け間近の情景である』と評され、「時鳥」について、『古来、鳴き声を賞美されてきた鳥であるが、その声は人の叫び声のようにも聞こえるもの』であるともされる。特異な緊張感や災害窮迫の恐怖を倍加させる効果を狙ったものともとれよう。また、堀切氏は本句を『元禄十三年夏の美濃路行脚の折の吟であろう』とされる。同年十二月五日附の丈草の書簡にもこの句が載っているとある。]

 

   元春法師が身まかりけるに

 世の中を投出したる団扇かな    同

[やぶちゃん注:「よのなかをなげいだしたるうちはかな」。

「元春法師」不詳。]

 

 「送り火」の句の如き、「鍋本に」の句の如き、あるいは「ながれ木や」の句の如き、調子の引緊った[やぶちゃん注:「ひきしまった」。]点からいっても、底に湛(たた)えた幽玄の趣からいっても、『有磯海』時代に比して更にその歩を進めているように思う。これらの句は年と共に澄む丈艸の心境の産物ではあるが、また句における不退転の努力を見るに足るものである。

 「啄木鳥」の句は『東華集』には「啄木鳥や枯木をさがす」とあり、『菊の道』には「枯木尋ぬる」とある。『東華集』『菊の道』は共に元禄十三年刊であるから、丈艸としては「啄木鳥の枯木さがすや」で落着(おちつ)いたのかも知れぬ。これは眼前の景色だけでなしに、何か寓するところがあるようである。

 元春法師追悼の句は丈艸の一面を窺うべきものであろう。団扇を投出す如く世の中を投出したというのは、尋常の追悼句ではない。如何にも禅坊主らしい気がする。

 

2020/07/29

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 三

 

       

 

 芭蕉が旅に病んで枯野の夢を見た難波の客舎(かくしゃ)には、丈艸も馳つけた一人であった。支考が『笈日記』に記したところを見ると、「膳所大津の間伊勢尾張のしたしき人、に文したゝめつかはす」とあるのが十月五日、正秀・去来・乙州・木節・丈艸・李由が報を聞いて馳せつけたのは一日置いた七日になっている。電報も速達も、汽車も自動車もない時代にあっては、江州と大坂との間で、これだけの時間を要したのである。

[やぶちゃん注:「原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)で読めるので、是非、参照されたい。]

 芭蕉の病状がよくないので、之道が住吉の四所に参って延年を祈ることになった時、病牀に居合せたものだけで所願の句を作った。丈艸の句は

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈艸

であった。「凩の空見なほすや鶴の声」と詠んだ去来、「初雪にやがて手引ん佐太の宮」と詠んだ正秀、「足がろに竹の林やみそさゞい」と詠んだ惟然、「起さるゝ声も嬉しき湯婆(たんぽ)かな」と詠んだ支考――師を思う情は同じであるが、各人各様の面目は自らその句に発揮されているように思う。

 其角が馳せつけた十月十一日の晩、夜伽(よとぎ)の面々が句を作った時、丈艸の詠んだのは

 うづくまる薬の下の寒さかな    丈艸

[やぶちゃん注:「下」は「もと」。]

である。この句が芭蕉の賞讃を得たということは、『笈日記』にもなければ『枯尾花』にもない。ただ去来が「丈艸誄」の中に次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句は「去来抄」(自筆稿本)では、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

先師難波病床に人々に夜伽の句をすゝめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、たゞ此一句のみ丈草出來たりとの給ふ。かゝる時はかゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

   *

という句形で出る。「やくわん」は「やかん」で「藥缶」、漢方の薬を煎じる鍋のことである。掲句の「藥」も意味は同じ。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

又難波の病床、側に侍るもの共に、伽(とぎ)の発句をすゝめ、けふより我が死後の句なるべし、一字の相談を加ふべからずとの給ひければ、或は吹飯より鶴を招むと、折からの景物にかけてことぶきを述[やぶちゃん注:「のべ」。]、あるはしかられて次の間に出ると、たよりなき思ひにしほれ、又は病人の余りすゝるやと、むつましきかぎりを尽しける。其ふしぶしも等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]に見やり、たゞうづくまる寒さかなといへる一句のみぞ、丈艸出来たり[やぶちゃん注:「でかしたり」。]とは、感じ給ひける。実にかゝる折には、かゝる誠こそうごかめ、興を探り、作を求る[やぶちゃん注:「もとむる」。]いとまあらじとは、其時にこそ思ひ知侍りけれ[やぶちゃん注:「しりはべしけれ」。]。

 

 「吹井より鶴を招かん時雨かな」は其角、「しかられて次の間へ出る寒さかな」は支考、「病中のあまりすゝるや冬ごもり」は去来である。この時の作者はすべて八人、芭蕉としては生前に与える最後の批判、弟子たちとしては師に示す最後の発句であるだけに、平生とは気分の異るものがあったに相違ない。芭蕉の批評が他の一切に触れず、直に褒詞(ほうじ)となって丈艸の上に落ちたことは、弟子としての最後の面目であるのみならず、また永遠に忘れ得ぬ思出でもあったろう。丈艸のこの句には表面的に躍動するものはないけれども、再誦三誦するに及んで、真に奥底からにしみ出て来るような或者を感ぜずにはおられぬ。垂死の芭蕉はこれを感得して、佳(よ)しとしたものと思われる。

[やぶちゃん注:「吹飯より鶴を招む」では「ふけひ」で、宵曲が示した「吹井より鶴を招かん時雨かな」であれば「ふけゐ」となる。この其角の句は「新拾遺和歌集」(勅撰和歌集。二条為明(ためあき)撰。貞治二(一三六三)年に室町幕府第二代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下って開始され、貞治三年十月の為明の死去後、頓阿が継いで、同年十二月に成った)の順徳天皇の一首(一七五〇番)、

 蘆邊より潮滿ちくらし天つ風吹飯(ふけひ)の浦に鶴(たづ)ぞ鳴くなる

を裁ち入れたもの。「吹飯の浦」は「万葉集」以来の歌枕で、現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海岸とされる。古来、「風が吹く」の意や「夜が更ける」の意を込めて和歌に詠まれることが多かった。]

 

 芭蕉を悼んだ丈艸の句は『枯尾花』に

    暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈艸

の一句がある。義仲寺における初七日(しょなぬか)及六七日(ろくしちにち)の追善俳諧の中にも丈艸の名は見えているが、芭蕉に対する追慕の情は必ずしも悉(つく)されているわけではない。丈艸の丈艸たる面目のよく現れたものは、そういう作品の上よりもむしろ芭蕉歿後における丈艸の態度である。この点に関し去来は「先師遷化(せんげ)の後は、膳所松本の誰かれ、たふとみなづきて、義仲寺の上の山に、草庵をむすびければ」云々と記しているに過ぎぬが、丈艸が亡師のために三年間、一石一字の法華経を書写したということは、特筆されねばならぬ事柄であろう。石経(せっきょう)のことは丈艸自身次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句、

 曉(あかつき)の墓もゆるぐや千鳥數奇(ちどりすき)

は元禄七年十月十四日(芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)没))の追悼吟である。芭蕉は、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥

(貞享四年十一月七日の歌仙の発句。私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉』を参照)を意識しての、芭蕉の千鳥への偏愛をインスパイアしたもの。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

国々の墓所も同じ墓所の霜にしらめる三年の喪は疎[やぶちゃん注:「まばら」。]ならぬ中に、湖上の木曾寺は其全き姿を収めて、人々のぬかづき寄る袖の泪[やぶちゃん注:「なみだ」。]も、一しほの時雨をすゝむる旧寺の夕べより朝をかけて梵筵(ぼんえん)吟席の勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]ねもごろなり。然れども野衲は独り財なく病有る身なれば、なみなみの手向(たむけ)も心にまかせず、あたり近き谷川の小石かきあつめて蓮経の要品[やぶちゃん注:「えうぼん」。]を写し、その菩提を祈りその恩を謝せむ事を願へり、誠に今更の夢とのみ驚く心、喪のかぎりに筆を抛(なげう)ち手を拱して[やぶちゃん注:「きやうして」。]唯墓前の枯野を見るのみ。

 石経の墨を添へけり初時雨     丈艸

[やぶちゃん注:以上は「香語」(かうご(こうご):導師が香を焚き、仏前に語りかけること。「拈香(ねんこう)法語」の略。因みに特に葬儀の際のそれを引導と呼ぶ)と題した句文で、句自体は芭蕉の三回忌に当たる元禄九年十月十二日頃に詠まれた句であると、堀切氏の前掲書にある。この哀切々たるモノクロームの絶対の映像はあたかもアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の無言の行に徹するルブリョフをさえ私は想起する。

「野衲」「やなう」。「衲」は衲衣(のうえ)の意で田舎の僧。転じて一人称の人称代名詞で僧が自身を遜(へりくだ)って言う語。愚僧。野僧。]

 

 何時(いつ)の世如何なる時代を問わず、一団の中心をなす大人物が亡くなった後には、必ず解体分離の作用が起る。その作用は外界より切崩されるものでなしに、一団の内部より生ずる性質のものである。元禄七年に芭蕉を喪(うしな)った後の俳壇にも、自らこの作用が現れた。今まで小異を棄てて大同についていた蕉門の作者たちも、各々自己の見地を主張して門戸を張ろうとする。其角、嵐雪以下の作者は、いずれも芭蕉の衣鉢を伝うるに足る高弟に相違ないが、その器局(ききょく)には自ら限度があり、芭蕉によって総括されていた俳諧の天地をそのまま継承するわけには行かない。この傾向に対して不満の意を表した去来の立場も、芭蕉に比して狭い自己の分野を語るに外ならなかった。丈艸は芭蕉の生前歿後を通じ、俳諧に関して議論らしいものを述べていない。門戸の見を有せぬことは勿論である。芭蕉を喪うと共に、永久に依るべきものを失った彼は、その菩提を祈りその恩を謝せむがために、一石一字の写経を怠らず、三年の喪に服したのであった。

[やぶちゃん注:「器局」才能と度量。器量。

「門戸の見」「もんこのけん」。他者と交流し、また外部の存在や見識を受け入れるために開かれるべき入り口。]

 

 以下少しく芭蕉歿後における丈艸の句を挙げて、その追慕の情を偲ぶことにする。

   いがへおもむくときばせを翁
   墓にまうでて

 ことづても此とほりかや墓のつゆ    丈艸

[やぶちゃん注:元禄一〇(一六八七)年七月、芭蕉の故郷伊賀に旅立つ折り、芭蕉の墓前に手向けた一句。「人生、朝露の如し」が、その「此(この)とほり」の「ことづて」であったことだ、という謂いである。こういう感傷句はこの丈草以外の有象無象の俳人が口にするや、直ちに薄っぺらく嘘臭いものに響くから不思議である。]

 

   越の十丈吟士此秋伊勢詣での道すがら
   山吟野詠文囊に満むとす、就中湖上の
   無名庵を尋ねて蕉翁の古墳を弔ふ余
   (あまり)、哀いまだ尽ずして予が草
   庵に杖をひかる、柴の扉は粟津野の秋
   風に霜枯て一夜の草の枕何おもひ出な
   らんとも覚えず、殊更発句せよと望ま
   るゝにせん方なき壁に片より柱に背中
   をせめてやうやうおもひ付る事あり、
   翁往昔麓の庵に寝覚して此岡山の鹿追
   の声をはかなみ、何とぞ句なるべき景
   情いづれはとねらひ暮されし夢の跡な
   がら、今又呼やまぬ声々をむかしがた
   りのひとつ趣向の片はしにもと筆を馳
   す

 鹿小屋の声はふもとぞ庵の客      同

[やぶちゃん注:「鹿小屋」は「ししごや」。これは「射水川」(いみづがは:十丈編。元禄十四年自序)に所収の句文「木曾塚」。野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。「十丈」は竹内十丈(?~享保八(一七二三)年)。越中生まれ。元禄九年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの松尾芭蕉の高弟を訪ね、その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて「射水川」を刊行した。以下、上記リンク先の「射水川」のそれを参考に(宵曲の引用が何に基づくか判らぬが、有意に異なる箇所がある)正字で記号も増やし、読みを推定で補った。

   *

      木 曾 塚

越の十丈吟士、此秋、伊勢詣での道すがら、山吟野詠、文囊(ぶんなう)に滿ちんとす。就中(なかんづく)、湖上の無名庵(むみやうあん)を尋ねて、蕉翁の古墳を弔ふ。餘念いまだ盡きずして、予が草庵に杖を曳かる。柴の扉(とぼそ)は粟津野(あはづの)の秋風に霜枯(しもがれ)て一夜(ひとよ)の草の枕、何おもひ出ならんとも覺えず。殊更「發句せよ」と望まるゝにせん方なく、壁に片より、柱に背中をせめて、やうやうおもひつくる事あり、翁、往昔(そのかみ)、麓の庵(いほり)に旅寢して、此(この)岡山の鹿追(ししおひ)の聲をはかなみ、「何とぞ句なるべき景情いづれは」とねらひ暮されし夢の跡ながら、今、又、呼びやまぬ聲々を、むかしがたりのひとつ趣向の片はしにも、と筆を馳(は)す。

 鹿小屋(ししごや)の聲はふもとぞ庵(いほ)の客

   *]

 

   芭蕉翁追悼

 ゆりすわる小春の海や塚の前      丈艸

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年序)所収。「小春」は陰暦十月の異名。「ゆりすわる」「搖り坐る」で、体をゆり動かして落ち着かせた状態に成して座ることで、松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『琵琶湖の動きと、丈草の心のゆらぎを掛ける。先師の墓前で穏やかな湖水を見つめる。自分にの心にもいくらか平常心が戻ってきた』と評釈しておられる。但し、ここは「ゆりすわる」の「ゆり」の方に重みがあるように思われ、寧ろ、未だ師を欠損した自身の心の揺らぎの方に傾きがあるように私には読める。]

 

   幻住庵頽廃の跡一見して

 霜原や窓の付たる壁のきれ       同

[やぶちゃん注:浪化編で元禄十一年刊の「続有磯海」所収。凄絶の景である。後の宵曲の評釈が正鵠を射ており、屋上屋はいらぬ。]

 

   芭蕉翁の七日々々もうつり行あはれさ
   猶無名庵に偶居してこゝちさへすぐれ
   ず、去来がもとへ申つかはしける

 朝霜や茶湯の後のくすり鍋       同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に従えば、元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)の芭蕉逝去の年内の冬の句で、丈草は芭蕉の死を悼んで三年の心喪を決し、木曾塚無名庵に籠っていたが、体調が思わしくなかったことを言う。だから「くすり鍋」(こちらは自身のための漢方薬を煮出すための鍋である。まず、先師のための「茶湯」(ちやとう)を供えてその「後」(あと)から、というところに丈草の思いが籠る)。「偶居」は「寓居」の誤記。「茶湯」は『茶を煎じて出した湯のこと。ここは仏前に供えるためのもの』と堀切氏注にあり、前書にある通り、去来にこの句を送った。その返しは、

 朝霜や人參つんで墓まいり

(「まいり」はママ)であったとある。]

 

   芭蕉翁の往昔を思ふ

 梅が香に迷はぬ道のちまたかな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、『「道」は蕉風の道。「ちまた」は別れ道。今咲き匂う梅の薫香のような亡師の教えを、これからも信奉してゆくのみ、との決意表明。芭蕉七回忌の元禄十三年春。去来と巻いた歌仙の発句』とある。前書は「丈草句集」のもの。]

 

  芭蕉翁の墳に詣でゝ我病身をおもふ

 陽炎や墓より外に住むばかり      同

[やぶちゃん注:「かげろふやはかよりそとにすむばかり」。丈草畢生の絶唱。元禄九年春の作。但し、掲句は「浮世の北」(可吟編・元禄九年刊)のそれで、私は「初蟬」(風国編。元禄九年刊)の、

   芭蕉翁塚にまうでゝ

 陽炎や塚より外に住(すむ)ばかり

の「塚」でありたい。それは個人的に偏愛する、芭蕉が亡き小杉一笑を詠じた絶唱、

 塚も動け我泣聲は秋の風

に遠く幽かに通うからである(なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』をも参照されたい。但し、そこでは私は比較に於いては批判的に丈草の句を評している)。そこにもリンクさせた私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」では、私は本句を以下のように評釈した。

   *

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

   *

私の訳では鼻白む向きも多かろうからして、堀切氏の前掲書のそれを引くと、『先師芭蕉翁の墓に詣でてみると、墓のあたりには陽炎がゆらゆらと立っている。たちまちにして消えるはかない陽炎と同じく、自分もいつこの世を去るかわからない。師と自分と今は幽明境を異にしているのであるが、幻のようなわが身は、ただ墓から一歩外の世界に住むだけのことであり、すでに心は墓の中、間もなく師翁の後を追う身なのである、といった句意であろう。平常から病身であり、仏幻庵に孤独なわび住いをしていた丈草の師翁への心服のほどが、痛いほどに伝わってくる句である。春の季節のおとずれの象徴でもあり、また幻のようにはかないものの象徴でもある「陽炎」がよく効いている』とされる。]

 

   越中翁塚手向

 入る月や時雨るゝ雲の底光り      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書によれば、元禄一三(一七〇〇)年に丈草が越中井波の翁塚(おきなづか)に向けて遙かに詠んだ手向(たむ)けの一句である(そこに行ったのではない。後述)。翁塚は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」の「翁塚・黒髪庵」に(地図有り)、『井波の町の緑あふれる浄蓮寺境内に』ある芭蕉供養塚である。『芭蕉の門弟だった瑞泉寺』第十一『代の浪化上人が、芭蕉の墓から小石』三『個を持ち帰り、浄蓮寺の境内に塚を建てました。その』二『年後には芭蕉の遺髪も納められたといいます。この塚を翁塚と言い、表面に「翁塚」の二字が刻まれています。翁塚は、伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚とされています』(私は大学時分に訪れたことがあるはずなのだが、全く記憶がない)とある。堀切氏前掲書に、『浪化が元禄十三年上洛の折、義仲寺の翁墓前の小石を三個拾って帰り、それを埋めて井波浄蓮社の翁墳を建立したが、この意図に合わせて』、同年中に『各地の門人に乞うて集めた十百韻の中の一つの発句が、この句であったという』とあり、『宵月が西空に入ろうとするあたりに時雨雲がかかってきたが、その雲が底の方から光っているように見えるという景色である。凄味を帯びた客観写生の句にみえるが、裏面には、芭蕉の没したことを「入月」にたとえ、その命日(陰暦十月十二日)を「しぐれ」に合わせ、さらにその没後の威光を「雲の底光」に示すという寓意がこめられているのである』と評されておられる。]

 

   芭蕉翁七回忌追福の時法華経頓写の前
   書あり

 待受けて経書く風の落葉かな      同

[やぶちゃん注:「頓写」(とんしや)とは追善供養のために大勢が集まって一部の経を一日で速やかに写すことを言う。「一日経」とも。松尾氏の前掲書では、『心待ちにした亡師の七回忌。風もこの日を待ちうけていたのか、写経する目の前を、落葉も経文字を書くような舞いかたで散っている』と評釈しておられる。]

 

   奈良の玄梅蕉翁の
   こがらしの身は竹斎に似たる哉
   といへる句を夢見て、其翁の像を画き
   て讃望みけるに

 木がらしの身は猶軽し夢の中      同

[やぶちゃん注:「玄梅」石岡玄梅(生没年未詳)。奈良の人。当初は貞門に属したが、貞享二(一六八五)年に奈良を訪れた芭蕉の門人となり、素觴子(そしょうし)の号を与えられた。編著に「鳥の道」(元禄十年序)がある。堀切氏は前掲書評釈で、『前書にみえるように、玄梅に求められて、芭蕉の像に賛をした句である。木枯しに吹かれながら瓢々と旅を続けられた芭蕉生前の侘姿』(わびすがた)『は、今、あなたの夢の中では、なおいっそう軽やかなものとして浮かんできたことであろう、という意である。もちろん、そこには丈草自身の故翁への想いもこめられているわけである』とされ、玄梅について、「鳥の道」によれば、『芭蕉に草扉を敲かれ、素觴子(そしょうし)の号を与えられて、「誉られて挨拶もなきかはづ哉」と吟じたことがあったという。そうした懐しい回想をこめ、丈草に翁の像への賛を望んだのであろう』とある。堀切氏も指摘されておられるが、前書の芭蕉の句は正しくは、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

「俳諧七部集」の第一「冬の日」(山本荷兮編。貞享元(一六八四)年刊)の巻頭「こがらしの卷」の破格の発句である。「冬の日」では芭蕉の前書があって、

   *

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘(わび)つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖(ふと)おもひ出(いで)て申(まうし)侍る。

   *

と附される。「長途」は「野ざらし紀行」の旅を指す。「狂哥の才士」「竹齋」は江戸初期の仮名草子でベストセラーとなった「竹斎(物語)」の主人公を指す。全二巻。烏丸(からすま)光広の作とする説もあるが、現行では伊勢松坂生まれの江戸の医師富山道冶(とみやまどうや)とする説が有力。元和七(一六二一)年から寛永一三(一六三六)年頃までの間で成立したもので、写本・木活字本・整版本などの諸本がある。京の藪医者竹斎が、「にらみの介」という郎党をつれて江戸へ下る途中、名古屋で開業したりしながら、さまざまな滑稽を展開する話。啓蒙的色彩も強く、また、名所記風な味わいもあり、後の「東海道名所記」から「東海道中膝栗毛」に至るまで大きな影響を与えた。伊東洋氏は「芭蕉DB」のこちらで、『やぶ医者が下男を連れて諸国行脚をする和製ドン・キホーテ物語。芭蕉は自らのやつれた姿と俳諧に掛ける尋常ならざる想いを竹斎の風狂になぞらえた。この旅の風狂は、芭蕉俳諧の一大転機になっており、名古屋の門弟に見せる並々ならぬ自信とみてよい。冒頭の「狂句」は、芭蕉の決意を示す並々ならぬ宣言であり、敢えて「狂句」という自虐的な言い方をしたのであろう。ただし、「狂句」は、後日削除したと言われている』とある。]

 

 これらの句は必ずしも年次を同じゅうするものではない。例えば「ゆりすわる」の句、「朝霜や」の句に現れた追慕の情と、「待受けて」の句、「木がらし」の句に現れたそれとでは、時間的に見て大分の距離があるに相違ないが、その底に流れるものには自ら一貫したところがある。

 「ことづても」の句は元禄十一年の『続有磯海』に出ているから、歿後数年を経ざる場合のものであろう。伊賀は芭蕉の郷里である。芭蕉の歿後その郷里へ行くことになった丈艸は、出発に先って義仲寺の墓に諧でた。「此とほり」というのは人生朝露の如きを意味するのであろうか。「ことづて」は無論郷里の人に対する伝言と思われる。亡師の郷里に赴かむとしてその墓前に立った丈艸は、今更の如く人生の無常なるを痛感せずにいられぬ。その感懐を一句に托したので、句としては面白くもないが、出家沙門たる丈艸の面目はよく現れている。

 「鹿小屋」の句はそれに比べるとよほど面白い。尤もその面白味の大半は、前書によって補われねばならぬものであるが、この感懐は前の句のような観念的なものでないからである。芭蕉の墳を弔い丈艸の庵を訪い寄った俳人が、強いて何か発句をと乞う。「感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸としては、いささか迷惑であったに相違ない。乃ち壁により柱に靠(もた)れて考えるうちに、芭蕉在世当時のことを憶出(おもいだ)した。「麓の庵」というのは栗津の無名庵であろう。「鹿追の声」は畑を荒す鹿を迫う百姓の声らしい。芭蕉がその声を寝覚に聞いて、何とか句になりそうなものだといっていたが、遂に意を果さなかった。その声は今でも聞えて来る。翁の興がった鹿小屋の声は、今麓の方に聞えるのがそれだ、と庵の客に対して語ったのである。この鹿追の追懐は前の句より更に数年後の作であるらしい。

 「幻住庵頽廃」のことは他に何か文献があるのかも知れぬが、姑(しばら)くこの句だけで考えても、芭蕉歿後数年にして全く頽(すた)れていたことがわかる。芭蕉の遺蹟をたずねた丈艸は、頽れた壁が落ちているのを見出した。その壁には窓の一部がついている。単に頽れた壁だけでは、われわれに訴える感じはさのみ強くない。「壁の付たる窓のきれ」というに至ってその印象がまざまざと眼に浮んで来るような気がする。

 「陽炎や」の句についてはまた芥川氏の説がある。許六が亡師迫善の句について、自己の「鬢の霜無言の時の姿かな」を挙げ、嵐雪の「なき人の裾をつかめば納豆かな」を罵倒した。芥川氏はそれに対し、

[やぶちゃん注:以下は、前に掲げた芥川龍之介『「續晉明集」讀後』の一節。

以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

これは大気焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶うの句に光焰を放ったものはなかったのであろうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問わず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤(ゆう)なるものである。いや、僕の所信によれば、むしろ許六の悼亡よりも深処の生命を捉えたものである。

 

といって、丈艸のこの句を挙げているのである。許六の「自得発明弁」に対して一拶(いっさつ)を与えるだけなら、あるいはこの一句で足りるかも知れない。丈艸はその他にもかくの如く先師に対する追慕の情を叙している。この一事は丈艸その人を考える上において容易に看過すべからざるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「自得発明弁」は既注であるが、再掲しておくと、俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」(許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る)の一章。]

2020/07/26

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 二

 

       

 

 元禄四年芭蕉が去来の落柿舎に滞在した時は、丈艸も訪問者の一人であった『嵯峨日記』四月二十六日の条に「史邦丈艸見ㇾ問」とあり、次の詩及(および)句が記してある。

[やぶちゃん注:「元禄四年」一六九一年。

「四月二十六日」二十五日の誤り。

「史邦丈艸見ㇾ問」「史邦・丈艸、問(と)はる」。]

 

   題落柿舎           丈艸

 深対峨峰伴鳥魚

 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵

 青葉分題堪学書

 

   尋小督墳

 強攪怨情出深宮

 一輪秋月野村風

 昔季僅得求琴韵

 何処孤墳竹樹中

 

 芽出しより二葉に茂る柿の実     丈艸

 

[やぶちゃん注:漢詩・発句の間は一行空けた。漢詩は実は訓点附き(ここでは各句末に句点まで打たれてある)であるが、向後は白文で示す。五月蠅くなるだけで、しかも一部で記される読みが現代仮名遣という気持ちの悪いもので、凡そ完全には電子化する気が起きないものだからである。今まで通り、以下に正字正仮名で一応本文のそれに概ね沿いながら訓読文を附す。但し、恣意的に正字とし、歴史的仮名遣を用い、句点は排除し、一部に字空けを施す。

 

  落柹舍に題す           丈艸

深く峨峰(がほう)に對し 鳥魚(てうぎよ)を伴ふ

荒(くわう)に就き 野人の居に似たるを喜ぶ

枝頭(しとう) 今 缺く 赤虬(せききう)の卵(らん)

靑葉(せいえふ) 題を分かちて 書を學ぶに堪(た)へたり

 

  小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ

强(た)つて怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して 深宮を出づ

一輪の秋月(しうげつ) 野村(やそん)の風

昔季(せきねん) 僅かに琴韵(きんいん)を求め得たり

何處(いづこ)ぞ 孤墳(こふん) 竹樹(ちくじゆ)の中(うち)

 

芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柹の實(さね) 丈艸

 

「落柹舍に題す」の語注。

・「峨峰」嵯峨の峰々。

・「鳥魚を伴ふ」鳥が楽しく囀り鳴き、魚が気儘に泳ぎ回っている。

・「荒」落柿舎への野道は荒れるに任せて。

・「野人」野夫(やぶ)。田舎の農夫。本来なら持ち主の去来を形容するが、ここはそれを芭蕉に置き換えている。

・「枝頭 今 缺く 赤虬の卵」枝先に今は柿の実はなっていないけれど。「赤虬」「虬」(きゅう)は「虯」(きゅう)の俗字で、本来は蛟(みづち=龍)の子の中で二本の角のある虯龍のこと。「赤い虯龍の卵」から転じて「赤く熟した柿の実」の異名である。]

・「靑葉 題を分かちて 書を學ぶに堪へたり」青々としたその若葉は、種々の詩歌を詠んで書きつけるに相応しい。木の葉に詩歌を記す故事は多い。

 

「小督の墳を尋ぬ」の語注。

・「小督」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために宮中から退けられて嵐山嵯峨野に隠棲し、そこに果てたと伝え、当時、既に複数の「小督塚」と伝えるものがあった。それは「去来 三」で詳しく考証して注したので見られたい。

・「强つて」已む無く。無理矢理。「出づ」を修飾する語。清盛の横暴によって帝への慕情を「已む無く」断ち切って身を引いたことを言う。

・「一輪の秋月 野村の風」隠棲した嵯峨野の荒涼寂寞をシンボライズする。

・「昔季 僅かに琴韵を求め得たり」「琴韵」は琴の調べで、ここは「平家物語」で、源仲国が高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされるエピソードを受けた、謡曲「小督」に基づくもので、琴の音を頼りに仲国が小督を探し当てて対面する部分を裁ち入れたもの。]

 

丈草の句、

 芽出しより二葉に茂る柹の實

「二葉」は実際の柿の実から芽を出した小さな二葉を以って「茂る」と見立て、秋の赤き実の壮観を匂わせたもの。タルコフスキイの「惑星ソラリス」の終わり近くの印象的な窓辺の容器からの発芽のシーンを私は図らずも想起した。]

 

 本によってはこの「芽出しより」の句を史邦の作とし、「途中の吟」という前書のある「ほとゝぎすなくや榎[やぶちゃん注:「えのき」。]も梅さくら」の句を丈艸としているそうである。「ほとゝぎす」の句は『己(おの)が光』にも丈艸として出ているから、あるいはその方が正しいのかも知れぬ。同時に来た二人の訪問者の句が、記さるるに当って混雑するなどということは、決してあるまじき次第ではない。同じく二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合(つけあい)あり、四句目に丈艸の「人のくむうち釣瓶(つるべ)まつなり」というのがある。誰も一句しかないところに丈艸だけ二度出るのは妙だから、発句を史邦とすれば工合がいいようであるが、『一葉集』の方で見ると、「人のくむうち」は凡兆になっている。いよいよ出でてわからない。『丈艸発句集』には「芽出しより」も「ほとゝぎす」も両方入っているが、前者を『嵯峨日記』に拠り、後者を『己が光』に拠ったとすれば、それまでの話である。『去来発句集』の前書には「芽立より二葉にしげる柿の実と丈艸申されしも」云、ということが見えるから、丈艸としても差支ないかと思う。但いずれにしてもこの両句は丈艸のために重きをなすほどのものではない。

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五(一六九二)年刊。

「同じく」「嵯峨日記」『二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合あり』

「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと次のここで確かに丈草とする。以下に五句附合部分を電子化しておく。

   *

廿六日

 

芽出しより二葉に茂る柿の實      丈草

 はたけの塵にかゝる卯の花      芭蕉

蝸牛たのもしげなき角ふりて      去來

 人のくむうちを釣瓶まつなり     丈草

有明に三度飛脚の行やらん       乙州

 

   *]

 

 丈艸の漢詩は相当作品があるらしいが、この二首の如きも嵯峨を背景としているだけに、特に看過しがたいものがある。小督の塚は芭蕉も落柿舎へ来た翌日に弔っている。「墓は三軒屋の鄰、藪の中にあり。しるしに桜を植たり。かしこくも錦繡綾羅の上に起ふして、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花のむかしもおもひやらる」といい、「うきふしや竹の子となる人の果」と詠んだのが、「昔季僅得求琴豹。何処孤墳竹樹中」に当るわけである。

[やぶちゃん注:以上は「去来 三」の私の注を参照されたい。]

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものの中に、次のようなことがあった。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

正秀(まさひで)問[やぶちゃん注:「とふ」。]、古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す、一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや、翁曰[やぶちゃん注:「いはく」。]貫之の好(このめ)ることばと見えたり、かやうの事は今の人はきらふべきを、昔はきらはずと見えたり、もろこしの詩にも左様の例あるにや、いつぞや丈艸の物語に、杜子美(としび)に専ら其(その)事あり、近き詩人の于鱗(うりん)とやらんの詩におほく有事とて、其詩も聞つれどわすれたり。

或禅僧詩の事を尋られしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人も名をしれるなり。かれ常に云、詩は隠者の詩、風雅にてよろしとなり。

[やぶちゃん注:「俳諧一葉集」(大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊)を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「遺語之部」のここに前者が(左の「541」ページ後ろから七行目)、ここに後者があった(左の「605」ページの前から四行目)。

「古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す」正秀の謂いには誤りがあり、最初のそれは、

   亭子院歌合に

 櫻散る木(こ)の下(した)風は寒からで

     空に知られぬ雪ぞ降りける

で貫之の歌ではあるが、「古今和歌集」ではなく、「拾遺和歌集」の「巻第一 春」に所収するものである(六四番)。以下は「古今和歌集」。

   春の歌とて、よめる      貫之

 三輪山をしかも隱すか春霞

     人に知られぬ花や咲くらむ

        (「巻第二 春歌下」・九四番)

   冬の歌とて、よめる    紀 貫之

 雪降れば冬ごもりせる草も木も

     春に知られぬ花ぞ咲きける

        (「巻第六 冬歌」・三二三番)

因みに、この遺語は芥川龍之介が「芭蕉雜記」の「十一 海彼岸の文學」に順序を逆にして引いている。その解析は驚くべく緻密なものである。リンク先の私の古い電子テクストを是非読まれたい。宵曲は或いはそれを知っていて、しかもやや嫉妬染みて紹介しなかったものかも知れない。]

 

 元禄人の漢詩に対する造詣は、固より今人の揣摩(しま)を許さぬ。杜詩を愛して最後まで頭陀(ずだ)に入れていたという芭蕉が、特に二人の説を挙げて答えているのは、頗る注目に値する。元禄の俳諧はその初期に当り、漢詩によって新生面を開いたと見るべき点がある。素堂は『虚栗』以前からの作家であり、漢詩趣味の人として自他共に許しているのみならず、芭蕉よりやや年長であるから、その説を引くのに不思議はない。年少の門下たる丈艸の説を特に引いているのは、漢詩に対する造詣の自ら他に異るものがあったためであろう。丈艸は俳諧に志すことが遅かったから、其角以下の諸作家の如く、形の上に現れた漢詩趣味はむしろ稀薄であるが、それは前に述べた禅臭の乏しいのと同じく、造詣の露出せざる点において、丈艸の風格の重厚なる所以を語るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「揣摩」「揣」も「摩」もともに「おしはかる」の意で、他人のことなどをあれこれと推量すること。]

 

 『猿蓑』以後における丈艸の句にはどんなものがあるか、少しく諸書から抄出して見ることにする。

 はね釣瓶蛇の行衛や杜若      丈艸

[やぶちゃん注:「はねつるべへびのゆくゑやかきつばた」。カット・バックで面白いが、ちょっと贅沢に対象を詰め込み過ぎていて、感興を引き出すのが「行衛や」だけで今一つパンチに乏しくなってしまった憾みがある。]

 辻堂に梟立込月夜かな       同

[やぶちゃん注:中七は「ふくろたちこむ」。月皓々たる中に、それを避けて梟が辻堂にぎっしりと籠っているのである。明暗を逆手にとった佳句である。]

 草庵の火燵の下や古狸       同

[やぶちゃん注:「火燵」は「こたつ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『貞享五』(一六八八)『年八月、丈草が病気を理由に遁世したあと、参禅の師玉堂和尚に所縁を求めて居を定めた京都深草の庵でのことであろう』と注されておられる。]

 しら浜や犬吠かゝるけふの月    同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『元禄六』(一六九三)『年の、仲秋』『八月十五夜の月』(「けふの月」でその日を特に指すことが出来る)を『惟然・洒堂たちと淀川に』『賞した折の句』とある。]

 藁焚ば灰によごるゝ竈馬かな    同

[やぶちゃん注:上五は「わらたけば」、「竈馬」は「いとど」。これはもう真正の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis でなくてはならない。かすかな赤いグラーデションが見える。好きな句である。]

 くろみ立沖の時雨や幾所      同

[やぶちゃん注:上五は「くろみだつ」、座五は「いくところ」。広角レンズで琵琶湖の沖を撮る。よく見ると、そこにところどころ黝(くろ)ずんだところが、幽かにぼやけるように動いて見える。それが動いてゆく時雨の驟雨のそれなのだ、というランドマークにダイナミズムを与えた丈草の名句に一つである。宵曲も後で述べるように、この「藤の実」所収の句形が素晴らしい。「炭俵」の「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」ではレンズが望遠で画面中の動的対象が一つに絞られて、完全に興が殺がれる。]

 朝霜や聾の門の鉢ひらき      同

[やぶちゃん注:中七は「つんぼのかどの」。「鉢ひらき」は「鉢開き」で「鉢坊主」のこと。所謂、托鉢して金品を乞い歩く僧を言う。]

 ほそぼそと塵焚門の燕かな     同

[やぶちゃん注:中七は「ちりたくかどの」。モノクロームに焚く火のたまさかに燃え上がる赤と、ツバメの喉と額の紅がさっとかすめて、部分彩色される。素敵な句だ。]

 野馬のゆすり起すや盲蛇      同

[やぶちゃん注:「野馬」は「かげろふ」と読む。座五は「めくらへび」。「陽炎」を「野馬」と表記するのは「荘子」の「逍遙遊篇」に基づくもの。岩波文庫(一九七〇年刊)の金屋治訳注の注によれば、『郭注に「野馬とは游気なり」とあり、成玄英の疏』『は「青春の時、陽気発動し、遙かに藪沢の中を望めばなおなお奔馬の如し。故に野馬という。」と説明する』とある。「盲蛇」は未だ寝坊の、冬眠から覚めぬ地中の蛇を言ったものであろう。「野馬」という当て字が非常に上手く機能して心理上の画像を豊かにしている。]

 うかうかと来ては花見の留守居かな 同

 人事の句が少いのは『猿蓑』已に然りであった。その後においてもこの傾向に変りはない。「うかうかと来ては」の句がその点でやや珍しいものであるが、花見そのものでなしに、「花見の留守居」であるところはやはり丈艸である。この句には丈艸一流の滑稽趣味の存することを見逃し難い。

[やぶちゃん注:堀切実氏の前掲書では、『春の日和につられて、うかうかと親しい人の家を訪ねたら、ちょうど一家そろって花見に出かけようとするところ、つい留守居を頼まれて引き受けてしまい、そのまま一日中その家に過ごすことになってしまったというのである。これはしくじったという気持もあろうが、まあ、これも一興よと留守居を楽しむ気分が中心であろう。隠棲の身とて、家族もなく、俗用もない気楽な丈草の立場が軽妙で剽逸な味わいとなって表われている』とされた上で、「留守居」について語注され、『留守番をすること。①花見に出かけたあとの留守番、②花見をしながらの留守番、の両解があり、西村真砂子氏は、江戸幕府職名の一「留守居役」にひっかけて、気取った言い方をしたもので、②の解がふさわしいとする』とある。私も花も何もない留守居では淋しい。一本(ひともと)の小さな桜の木を留守居宅の庭に配したい。さればこそ、「花見の留守居かな」がモノクロームから天然色に代わる。]

 

 ほそぼそと芥を焚く門の燕も悪くない。藁灰に汚れる竈馬に目をとめた点にも、その微細な観察を窺い得るが、就中(なかんずく)元禄俳諧の骨髄を捉えたものは、「くろみ立沖の時雨」の一句であろう。眺めやる沖の方は時雨が降っているために、幾所も黒み立っている。空も波も暗い。そういう海上の光景がひしひしと身に迫って来る。去来にも「いそがしや沖の時雨の真帆片帆」という句があり、句としては働いているけれども、この丈艸の句のような蒼勁(そうけい)な力がない。自然に迫るものを欠いている点で竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さねばなるまいと思う。『炭俵』には「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」となっているが、「くろみ立」の方が調子が強い。「行どころ」は「幾所」に如かぬようである。

[やぶちゃん注:宵曲の、去来の句との比較も含めて、全面的に支持するものである。

「蒼勁」筆跡や文章が枯れていて、しかも力強いさま。

「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)」すは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 大はらや蝶の出てまふ朧月     丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、「北の山」(句空編・元禄五(一六九二)年刊)の句形、

 大はらや蝶のでゝまふ朧月

で本句を示され、『朧月の夜、大原の里を逍遥していると、ほのかな明かりの中に白い蝶がひらひらと舞っているのが眼に映った、というのである。洛北の大原は『平家物語』や謡曲の『大原御幸』で知られる歴史的由緒のあるところ、朧夜に浮かび出た蝶は、あるいはこの地に隠棲した建礼門院の精霊の幻覚であるのかもしれない。「でゝ舞ふ」には、あたかも能舞台にシテが登場してくるときのような趣も感にられよう。句は、そうしたよ〝実〟と〝虚〟の入り交じった夢幻的な世界を一幅の画のようにとらえているのである。そニに作者の詩情が見事に形象化されているわけである。蝶は夜飛ばないものとされるが、作者の眼には確かにそれが蝶と映ったのであろう』と評釈され、語注されて、「大はら」は『洛北(京那府愛宕郡)の大原の地名とみる説と洛西(同乙訓郡)の大原(大原野)とみる説がある。前者は『平家物語』濯頂巻の「大原御幸」や謡曲『大原御幸』で知られ、建礼門院の庵室であった寂光院や三千院がある。また後者とみる説は地形的な点を考慮に入れた見解である。両者ともに「朧の清水」なる名所をもっている』とあり、「蝶」には、『春の季題。蝶は夜間飛ばないものという非難があるが、たとえ蛾などの虫であったにしても、作者はそれを蝶として詠んだものとすれば、それはそれで差し支えあるまい』とされる(「朧月」も春の季題である)。さらに、『出典とした『北の山』以外は中七「出て」とあり、これを「イデテ」と読む説もあるが、『北の山』の句形に従って、「デテ」と読むべきである。また去来の「丈草が誄」(『本朝文選』巻六・『幻の庵』所収)によれば、去来が知友の句を集めて深川の芭蕉に送ったところ、芭蕉が丈草のこの句について「この僧なつかしといへ」と返書に記して寄こしたと伝えられる。なお、出典としてあげた『幻の庵』』(魯九編・宝永元(一七〇四)年自跋)『では、去来の追悼詞(「丈草誄」と同文)中に出ている句である。元禄四年春、加賀から上洛した句空とともに大原に遊吟した折の作と推定される』とある。なお、夕刻陽が陰ってからでも飛翔する蝶はいる。渡りをする蝶は早朝暗い時間から飛び始める。実際、摂餌もパートナー探し(紫外線が必要)も出来ず、夜行性の他の動物に捕食されるリスクも高まるから、夜に蝶が飛んでメリットはないから、殆どの蝶は飛ばないことは事実である。しかし、文芸、特に和歌や発句に博物学的な正確さを要求するようになるのは、実際には近代以降の喧騒に過ぎず、堀切氏の言うように、丈草には見えたのだという〈詩的幻想〉で何ら問題ない。寧ろ、「これはあり得ない」と切り捨てる馬鹿に付き合ったり、これこれの種が朧月夜のこの時間帯なら飛ぶのでその種であると学名を記して鼻白ませる者を相手にする必要など、ない。但し、私はこれを以って丈草の代表句の一つに数えるのには、やや躊躇するものである。]

 

 雨乞の雨気こはがるかり著かな   同

[やぶちゃん注:「あまごひの あまけこはがる かりぎかな」。堀切氏は前掲書で、『それぞれに装いをした村人たちがそろって神社に集まり、雨乞いの祈願をしているが、その中には衣裳が借着であるために、黒雲が出てきて雨の降りそうな空に内心気が気でない者もいるようだ、というのである。人情のかかしみを道破したところに、俳意が働いている』と評釈しておられる。]

 

 蘆の穂や顔撫揚る夢ごゝろ     同

[やぶちゃん注:中七は「かほなぜあぐる」。堀切氏の前掲書評釈には、『舟旅をしているときのことであろう。舟が芦間を分けて進むとき、風にそよぐ岸辺の芦が舟端に仮睡していた自分の顔をすっと撫で上げたのを、半睡半醒の夢ごこちのうちに感じたというのである。前書がなく、表現が不十分なのが欠点であるが、いかにも世を捨てて自在な境地にあった丈草らしい一句といえよう』とある。]

 

 水風呂の下や案山子の身の終    同

[やぶちゃん注:「水風呂」は「すいふろ」。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶 の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「案山子」は「かがし」と濁っている(語源・表記については江副水城氏のブログ「日本語の語源〜目から鱗の語源ブログ〜」の「【かかし】の語源」が目から鱗、必読!)。座五は「みのをはり」。]

 

 榾の火やあかつき方の五六尺    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。囲炉裏や竈で焚く薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れ端。「ほた」と清音でも発音する。堀切氏前掲書に、『山家などに旅寝でもした折の吟であろう。暁方の寒さに起き出して炉に投げ入れた榾の火が、暁闇の中でぱあっと五、六尺の高さにも燃え上がったという光景である。冷え込んだ室内の空気の中に、勢いよく真っ赤に上がる榾の炎が強烈な印象で眼に映じたのである』とされ、『草庵独居の炉辺のさまとみる説もある』とある。]

 

 「大はら」の句は丈艸の句として人口に膾炙したものの一である。去来の「丈草誄」の中に「先師深川に帰り給ふ比、此辺の句ども、書あつめまいらせけるうち、大原や蝶の出て舞ふおぼろ月などいへる句、二つ三つ書入侍りしに、風雅のやゝ上達せる事を評し、此僧なつかしといへとは、我方への伝へなり」とあるのを見れば、当時から評判だったものに相違ない。後世のものではあるが『俳諧白雄夜話』はこの句について次のような話を伝えている。

[やぶちゃん注:『去来の「丈草誄」』榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで全文が正字正仮名で電子化されてある(因みに、このサイトには源義経の「腰越狀」芥川龍之介の詩「相聞」など、私のサイトへのリンクが附されたものがある)。

「俳諧白雄夜話」天保四(一八三三)年刊。ここ(「国文学研究資料館」の画像データベース。左頁の後ろから三行目「一大はらのおほろ月」と次のページにかけて)。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

  大原や蝶の出てまふ朧月

丈艸の句也、蕉翁の曰、蝶の舞さまいかゞあらんやと聞給ひしに、さく夜大原を通りてまさに此姿を見侍りぬと、翁曰、しかるうへは秀逸たるべし、誠に大原なるべしとぞ頌歎[やぶちゃん注:「しようたん」。]浅からずありしと。

 

 蝶が果して夜飛ぶか否かについては、芭蕉も先ず疑ったが、丈艸が実際そういう景色を見たというのを聞いて、それならよろしい、といったのである。丈艸は譃をいうような人とも思われぬ。近代科学の洗礼を受けた人たちは勿論、芭蕉以上にこの蝶の実在性を疑っている。夜飛ぶとすれば蛾に相違ないというのであるが、朧月夜に蛾の飛ぶというのも、何だか少しそぐわぬところがある。丈艸は『白雄夜話』にある通り、実際大原においてこういう光景に接し、特殊な興味を感じてこの句を作ったのではあるまいか。近代人の一人たる北原白秋氏の歌集にも、月夜の蝶を詠じたものがあるからである。

   ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

   現(うつつ)なき月夜の蝶の翅(はね)たゝき藤豆の花の上に揺れてをる

 この二首は丈艸の句よりも遥に写生的であるだけに、自然観察における実在性を疑う余地はあるまいと思う。自然界の現象の中にぱ、われわれのような見聞の乏しい者の速断を許さぬものがしばしばある。月夜を飛ぶ蝶にも何か理由があるのかもわからない。

[やぶちゃん注:以上の白秋の二首は詩歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年アルス刊)の中の「月下の蝶」と標題した二首(のみ)であるが、

 ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

 現うつつなき月夜の蝶の翅たたき藤豆の花の上に搖れてをる

とある。しかし、残念なことに、同詩歌集の序の中で一部の決定稿の推敲過程を並べて見せている中に、前者の原作として、

 ふと見つけて淚こぼるる月讀の光に白い蛾が飛んでゐる

を示してしまっている。即ち、白秋の見た実景は「蝶」ではなく、「蛾」であったことが明らかとなっているのである。さすれば、二首目それも実は蛾である可能性がいやさかに高くなるのである。まんまと宵曲は騙されたわけであった。

 

 但この「大はら」の句は、古来有名な割に、丈艸としては最高峰に立つ作ではないようである。人口に膾炙する所以はその辺にあるのであろうが、美しい代りに迫力には乏しい。蝶が夜飛ぶという特色ある景色も、大原に対する詠歎的な気持に覆われた憾(うらみ)がある。

 「雨乞」の句、「水風呂」の句にはまた例の滑稽趣味がある。滑稽としてはあくどいものではないが、いささか理が詰んでいるため、上乗のものとは目し難い。この点ではむしろ前にあった「草庵の火燵の下や古狸」の句を推すべきであろう。これらの句は見方によっては滑稽ではないかも知れない。但丈艸の滑稽趣味ということを念頭に置いて見る時、これらの句も一応留目する必要がありそうに思う。それほど彼の滑稽は淡いのである。

 「榾の火」の句は佳作とするに躊躇せぬ。「くろみ立」の句とは多少種類を異にするけれども、元禄俳諧の骨髄を捉えている点に変りはない。こういう句の人に迫る力を、文字で説明するのは困難である。「大はらや」の句などと併せ誦すれば、丈艸の面目の彼にあらずしてこれに存することは何人も認めざるを得ぬであろう。芥川氏は丈艸を説くに当って、二度とも「大はらや」及「榾の火」の二句を挙げていた。丈艸の句の幅を示すためには、固より両者を示さなければなるまい。ただ丈艸の真骨頂は、有名なる「大はら」よりも、比較的有名ならざる「榾の火」によく現れていることを語れば足るのである。

[やぶちゃん注:「一」で述べた芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(正確には初出は『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』)と「澄江堂雜記」の「丈草の事」を指す。]

2020/07/24

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 一

[やぶちゃん注:内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)は通称、林右衛門。名は本常。別号に仏幻庵・懶窩(らんか)・無懐・無辺・一風・太忘軒(たいぼうけん)など。元尾張犬山藩士の嫡子として生まれたが、早々に実母を失い、弟は皆、異腹であり、この体験や親族間のごたごたが彼の生活史や人格形成に大きな影響を与えたと考えられる。十四の時出仕し、青年時には漢詩を学び、黄檗宗の玉堂和尚について参禅したりしたが、貞享五(一六八八)年八月、二十七の若さで病気を理由に致仕し、遁世した(貞享五年は九月三十日に元禄に改元された)。中村史邦を頼って上洛し、彼の紹介で元禄二(一六八九)年の冬、落柿舎にて芭蕉に入門した。二年後に出た「猿蓑」では早くも跋文を任され、発句十二句が入集している。元禄六(一六九三)年には近江に移って無名庵に住し、翌年、芭蕉終焉の枕頭にも侍し、師逝去後は三年の喪に服すことを決意、木曽塚無名庵(むみょうあん)に籠り、「寝ころび草」を記し、次いで元禄九年からは義仲寺近くの龍ヶ岡に仏幻庵(現在の膳所駅南西直近にある龍ヶ岡俳人墓地跡」が跡地。グーグル・マップ・データ)を結んで、清閑と孤独を愛した。元禄一三(一七〇〇)年には一時、郷里に帰省したが、帰庵後は病がちとなり、閉関の誓いを立て、師追福の「法華経」千部の読誦・一字一石の経塚建立を発願、これを果たし、翌元禄十七年春二月二十四日に没した(元禄十七年は三月十三日に宝永に改元された)。享年四十三。前半生の部分については、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「内藤丈草」に、『尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母に死別し、継母にはたくさんの子供が産まれ、丈草に注がれるべき両親の愛情は薄かった。このトラウマは、丈草の生涯つきまとうこととなる』。『そもそも、内藤源左衛門は、元来は越前福井の貧乏武士だったのだが、源左衛門の妹、丈草の叔母が』、『犬山藩江戸屋敷に奉公中に藩主成瀬正虎のお手がついて一子をもうけ、この縁で、特に功も無いまま』に『犬山藩に取り立てられたものであ』った。『このタナボタ的幸運は長続きせず、藩主の代替わりと叔母・松壽院の死によって瓦解』してしまう。『丈草の従兄弟に当たる松壽院の一子直龍は尾張徳川家に養子に出されたが』、『狂疾を口実に蟄居させられ』、『失脚するに及んで内藤家も没落』、悪いことに『丈草は、この直龍に仕えていたので、この悲劇をまともに受けることになった。こういう度重なる不運に人生のはかなさを知った丈草は』、結局、『武士を捨てて遁世、近江松本に棲』むこととなったと記されている。さても。私は丈草の句が好きでたまらない人間である。]

 

      丈  艸

 

       

 芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸であった。大正の末頃に『俳壇文芸』という雑誌が出た時、第一号の第一頁に芥川氏の短い文章が載っており、その中に「丈艸の事」という一条があったと記憶する。全集についてその文を引用すれば左の如きものである。

[やぶちゃん注:以下、短い宵曲の付記を挟んで、引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。以下は、芥川龍之介の「澄江堂雜記」(大正一四(一九二五)年一月発行の雑誌『俳壇文藝』所収)に掲載されたもので、後に『梅・馬・鶯』に「澄江堂雜記」集成版で「二十五 丈艸」と番号を付して所収された。初出では『續「とても」』とのカップリングである。当該初出の「澄江堂雜記」(正字正仮名)は私のサイトの古い電子化を見られたい。]

 

蕉門に竜象(りゅうぞう)の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々(てきてき)と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈艸であろう。少くとも発句は蕉門中、誰もこの俳諧の新発意(しんぼち)ほど芭蕉の寂びを捉えたものはない。近頃野田別天楼氏の編した『丈艸集』を一読し、殊にこの感を深うした。

[やぶちゃん注:「竜象」徳の高い僧を竜と象に譬えた語で、一般に僧を敬っていう語である。

「新発意」発心 (ほっしん) して僧になったばかりの人。

「野田別天楼」(明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久(おく)郡磯上(いそかみ)村(現在の岡山県瀬戸内市長船町磯)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句、教職にあって報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。「京阪満月会」では幹事を務め、松瀬青々の『倦鳥』(けんちょう)同人となって関西俳壇で活躍した。昭和九(一九三四)年には『足日木』(あしびき)を、翌年には『雁来紅』(がんらいこう)を創刊・主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった。

「丈艸集」野田別天楼編で大正一二(一九二三)年雁来紅社刊。]

 

 しかして丈艸の句十余を挙げ、

 

これらの句は啻(ただ)に寂びを得たと言うばかりではない。一句一句変化に富んでいることは作家たる力量を示すものである。几董(きとう)輩の丈艸を嗤(わら)っているのは僣越もまた甚しいと思う。

[やぶちゃん注:「几董」蕪村の高弟高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)。複数回既出既注であるが、ここは必要があると判断するので再掲しておく。京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。]

 

と結んでいる。几董輩云々とあるのは『続晋明集(ぞくしんめいしゅう)』中の記載を指すのであろう。この事は「続晋明集読後」なる文章に記されている。これは「丈艸の事」ほど短くないから、全文を引くには便宜でないが、問題は几董が丈艸を評した「僧丈草ナル者ハ蕉門十哲之一人也。而シテ句々不ㇾ見秀逸。蓋テハ斯序文ㇾ謂ㇾ出ヅトㇾ群矣。不ㇾ及支考許六者也」[やぶちゃん注:「僧の丈艸なる者は蕉門十哲の一人なり。而して、句々、秀逸を見ず。蓋(けだ)し斯(この)序文に於ては群を出づと謂ふべし。支考・許六に及ばざる者なり」。]という数語に存するのである。芥川氏はこの文章についてこういっている。

[やぶちゃん注:同前で同前の仕儀を施した。原文全文は電子化されたものがネットにないので、この電子化のために、急遽、ブログで作成した。こちらである。芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、「几董と丈艸と――『「續晉明集」讀後』を讀みて」と題して掲載されたもので(龍之介満三十二歳)、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の代で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。是非、全文を読まれたい。先の「丈艸の事」の半年前のものである。]

 

僕はこの文章に逢著した時、発見の感をなしたといった。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拝した余り、晋明と号した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まない[やぶちゃん注:「くるしまない」。]であろう。が、丈艸を軽蔑していたことは一層その面目を明らかにするものといわなげればならぬ。

 

 この文章は表面的には必ずしも蔑意を以て書かれていない。しかも芥川氏が丈艸を推重する態度の朋(あきらか)である以上、敬意を以て書かれたものでないことは勿論である。芥川氏は次いで許六の言を引き、

[やぶちゃん注:以下二箇所、同前の仕儀を行った。]

 

 尤も許六も丈艸を軽蔑していたわけではない。「丈艸が器よし。花実ともに大方相応せり」とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といい、其角を「器きはめてよし」といったのを思うと、甚だ重んじなかったといわなげればならぬ。けれども丈艸の句を検すれば[やぶちゃん注:「けみすれば」。]、その如何にも澄徹[やぶちゃん注:「ちょうてつ」。澄んで透き通っていること。]した句境ば其角の大才と比べて見ても、おのずから別乾坤を打開している。

 

といい、丈卿の句十余を挙げて、

 

手当り次第に抜いて見ても丈艸の句はこういう風に波瀾老成の妙を得ている。たとえば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであろう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と称している。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と称している。

 

 芥川氏はここでもまた表面的に几董の言を否定していない。但丈艸の句を揚げることによって、逆に几董の言に多大の疑問を投げかけているのである。

 尤もこの問題の中心になっている几董の意見なるものは、丈艸評というほど改ったものではない。『流川集』に序した丈艸の一文に書添えた程度のもので、固より著書として公にしたわけでもない。「句々秀逸を見ず」という総評も、「蓋この序文においては群を出づといふべし」という限定的批評も、「支考許六に及ばざる者なり」という比較論も、その間に一貫したものがないように思われる。支考、許六に及ばぬというのも、句の上において然るのか、文章の上において然るのか、支考、許六共に文章の雄であるだけに、多少の疑なきを得ぬ。もし句の上においてもまた丈艸を以て二子の下に置くというならば、悠々たる几董の批評は達に解せざる者の悠々である。几董がよく衣鉢を伝えたはずの蕪村は、支麦(しばく)と称して支考、乙由(おつゆう)を軽んじた。几董と共に蕪村の高弟であった召波は、極端にこの説を奉じ、蕪村が「麦林支考其調(そのしらべ)賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白[やぶちゃん注:「げんぱく」。]をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟(そう)我をあざむきて野狐禅(やこぜん)に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかったと伝えられている。几董が支考を丈艸の上に置くということが、句の評価の上にも及ぶならば、几董は師説に徹すること、召波の如くなり得なかったというべきであろう。

[やぶちゃん注:「流川集」(ながれがわしゅう)露川編。丈草序。元禄六(一六九三)年刊。

「乙由」中川乙由(延宝三(一六七五)年~元文四(一七三九)年)は伊勢の人。別号は麦林舎。材木商から後に御師(おんし:伊勢神宮の下級神職。参拝の案内・祈祷及び宿の手配や提供をし、併せて信仰を広める活動もした。伊勢神宮の者のみを「おんし」と読み、全国的な社寺のそれは「おし」と読む)。俳諧は、初め、支考に学び、後に岩田涼菟(りょうと)に従った。涼菟没後は〈伊勢風〉の中心となったが、その一派は平俗な作風で似通った支考の〈美濃派〉とともに、通俗に堕した句柄として「田舎蕉門」とか「支麦(しばく)の徒」と卑称された。

「元白」は「げんぱく」で中唐の名詩人元稹(げんしん)と白居易を、或いは彼らを中心とした詩風を指す。二人には唱和の作が多く、孰れも平易な口語を取り入れており、「元和体」として当時、流行した。

「呉張」明代の画家呉偉と張路。呉偉(一四五九年~一五〇八年)は明の浙派 (せっぱ) の画家。江夏 (湖北省) の人で、多く金陵 (南京) に寓居した。成化・弘治年間(一四六五年~一五〇五年に画院に入り、天子に愛重された。絵は浙派の祖戴進に学んだと伝えられるが,、北宗画の画法を学んで山水・人物画を描き、粗放な筆墨法は戴進以上に増幅され、南宗を尊んで北宗をけなす「貶北論」を生む原因となった。張路(一四六四年?~一五三八年?)は同じく浙派の画家。号の平山で知られる。河南省開封の人で、かつて太学に学んだが仕官せず、一生を在野の画家として過ごした。浙派後期に属し、呉偉を学んで山水・人物を多く描いたが、筆墨が粗放に過ぎるとして、後の文人批評家からは「狂態邪学」と貶(けな)された。即ち、呉も張も北宋画派浙派の代表者にして奔放自在な画風で知られ、積極的に南画を誹謗したことなどから、南画を正統視する立場からは異端視、魔とされたというのである。

『蕪村が「麦林支考其調賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟我をあざむきて野狐禅に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかった』これは「春泥句集」(黒柳召波の俳諧集。召波の没後に遺稿を子の維駒 (これこま) が纏めたもの。春泥は春泥舍で召波の別号)の蕪村の序(安永六年十二月七日(既に一七七七年)クレジット)に出るもの。昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部分(六一八ページから六一九ページにかけて)が読める。]

 

 几董は其角を尊敬した。晋明と号し、『新雑談集(しんぞうだんしゅう)』を著し、筆蹟までこれに模したあたり、心酔したという方が当っているかも知れない。其角を崇拝するが故に丈艸を軽蔑するということは、芥川氏のいうが如く「一層その面目を明らかにするもの」であるにせよ、公平な批評でないことは勿論である。香川景樹(かがわかげき)は『新学異見』において「鎌倉のが右府(うふ)の歌は志気ある人決して見るべきものにあらず」といい、「右府の歌の如くことごとく古調を踏襲め[やぶちゃん注:「かすめ」。]古言を割裂[やぶちゃん注:「とり」。]たらんには」といって実朝の歌を貶(けな)した。この批評は真淵に反対する立場から、自己の信条に忠実なるものかも知れぬが、竟(つい)に公平を以て許し難いのと一般である。

[やぶちゃん注:「新雑談集」天明五(一七八五)年刊の几董晩年の句文集。書名自体が其角の「雑談集」へのオード。

「香川景樹」(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)は江戸後期の歌人。因幡出身。本姓は荒井。初名は純徳。二条派の香川景柄(かげもと)の養子。小沢蘆庵の影響を強く受け、後に養家を去り、「桂園派」を起こした。「調べの説」を唱え、先の賀茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)らの復古主義歌学を否定した。

「新学異見」香川景樹の歌論書。一巻。文化八(一八一一)年成立で同十二年に刊行された。真淵の「新学」に対して「古今和歌集」を擁護し、「現代主義」を主張した。国立国会図書館デジタルコレクションで明二五(一八九二)年しきしま発行所刊の活字本で読める(本歌論は短い)。当該部はここ(左ページ後ろから五行目から)。本文に附した読みはこれに拠った。

「踏襲め」そのままに新たな創意もなく奪い取り。]

 

 几董の丈艸評なるものは、実をいうとそれほど重きを置くに足るものではない。芥川氏が問題にしたから、本文に入るに先(さきだ)って少しく低徊して見たまでの話である。その芥川氏が已に「几董輩の丈艸を嗤っているのは僣越もまた甚しい」と打止めている以上、とかくの言説は無用の沙汰であろう。強いて蛇足を加えるならば、古人に対する後人の批判なるものが、往々にして几董の丈艸評に堕するのではないか、ということがあるに過ぎぬ。

 丈艸は芭蕉の傘下における沙門の一人である。彼が犬山の武士から、一擲(いってき)して方外(ほうがい)の人となったのは、指に痛[やぶちゃん注:「いたみ」。]があって刀の柄が握れぬからだともいい、かねてその弟に家禄を譲る志があったので、病に托したのだともいう。「多年負ヒシㇾ屋一蝸牛。化シテ蛞蝓タリ自由。火宅最涎沫キルヲ。追-法雨ヲ林丘」[やぶちゃん注:「多年、屋(をく)を負ひし一蝸牛(いちくわぎう)。化(け)して蛞蝓(かつゆ)と倣(な)り、自由を得たり。火宅、最も惶(おそ)る涎沫(せんばつ)の盡きるを。法雨(はうう)を追尋(つひじん)し、林丘(りんきう)に入る」。]という偈(げ)によってもわかるように、彼はたよりなき風雲に身をせめられたのではない。仕(し)を辞すると共に正面から「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)」に入ったのである。

[やぶちゃん注:「方外の人」俗世の外に身を置く人。広く僧・画家・医師などを指したが、ここは武士身分を捨てて僧となったことを言う。

「蛞蝓(かつゆ)」ナメクジ。

「涎沫(せんばつ)」泡のようなよだれ。ナメクジの粘液のこと。ここは儚い生への執着のシンボル。

「仏籬祖室」仏陀の籬 (まがき) と祖師達磨の部屋。転じて仏教と禅門のこと。]

 

 両刀を棄てて緇衣(しえ)を身に纏った丈艸は、どういう機縁で芭蕉に近づくようになったか。

[やぶちゃん注:「緇衣」「緇」は「黒い」の意で、墨染めの僧衣。]

 

   ばせを翁に文通の奥に

 招けども届かぬ空や天津鴈       丈艸

という句は相見(そうけん)以前のものと思うが、はっきりした年代はわからない。去来の書いた「丈艸誄(るい)」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寐し、先師にま見え初られし」とあるのを見れば、史邦の因(ちなみ)によったものらしい。芭蕉は逸早(いちはや)くその本質を洞見して、「此僧此道にすゝみ学ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」といったけれども、丈艸は強いて句作に力(つと)めるという風でもなかった。この事は「丈艸誄」にも「性くるしみ学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」とあり、許六も「同門評判」の中で「釈氏(しゃくし)の風雅たるによつて、一筋に身をなげうちたる所見えず、たとへば興に乗じて来たり、興つきて帰ると言へるがごとし」と評している。超然たる丈艸の面目は、これらの評語の裏にも自ら窺うことが出来る。

[やぶちゃん注:掲句の、

 招けども屆かぬ空や天津鴈(あまつかり)

は、季題は「天津鴈」で秋。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「龍ケ岡」(馬州編・宝暦三(一七五三)年自序)からで、前書は「丈草句集」にあるものとし、『「天津鴈」は空を飛ぶ鴈。あなたに師事したいと思う願いは、届きそうもない。江戸につながる空を自在に飛ぶ鴈を、ただ羨むばかり。二十五歳の貞享三年』(一六八六年)、『無懐の俳号で書き送ったと伝わる句』とある。]

 

 丈艸は其角や嵐雪のように、元禄度の俳諧の変選に際会していない。彼は蕉門らの礎(いしずえ)が殆ど確立してから出現した作者だけに、去未が経験したほどの俳風の変化も、身に感じなかったろうと思われる。彼の句が早く一家の風を具えていたことは、『猿蓑』所載の句が已にこれを明にしている。

 幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋     丈艸

[やぶちゃん注:上五は「いくたりか」。まるで歌川広重の傑作「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」か、葛飾北斎のどれこれを見るような、俯瞰のスカルプティング・イン・タイムである。「瀬田夕照」が定番なのに、そこに敢えて冬の昼間の時雨を持って来てしかも、かっちりとしたフレームの中に雨のと走る行人をすこぶる動的に撮った、まことに映像的なダイナミックな名句と言える。言わずもがなであるが、彼らの実際の卓抜した酷似する浮世絵群はこれから百年も後に描かれたものなのである。]

 

   貧交

 まじはりは紙子の切を譲りけり     丈艸

[やぶちゃん注:「紙子」は「かみこ」、「切」は「きれ」。「紙子」は紙子紙 (かみこがみ) で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が用い始め、後に一般に使用されるようになった着衣。軽く保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたことから、「みすぼらしい姿・惨めな境遇」の形容ともなったことをも無論、踏まえた選語である。前書に見る通り、杜甫の楽府「貧交行(ひんこうかう)」のネガティヴな感懐をもとに、それをアウフヘーベンして自身と友(不詳)の清貧の交わりの「直きこと」「まこと」を表わしている。

   *

 貧交行

翻手作雲覆手雨

紛紛輕薄何須數

君不見管鮑貧時交

此道今人棄如土

  貧交行

 手を翻(ひるがへ)せば雲と作(な)り

 手を 覆(くつがへ)せば雨

 紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須(もち)ひん

 君見ずや 管鮑(くわんんぱう)貧時の交はりを

 此の道 今人(こんじん) 棄つること 土のごとし

   *]

 

 背門口の入江にのぼる千鳥かな     同

[やぶちゃん注:「背門口」は「せどぐち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『琵琶湖の岸に接した旅宿の裏口からの眺めであろう湖上にまだ明るみの残る時分、千鳥が狭い入江へ水面に浮上したままやってくる情景に感興を発したのである。冬の湖辺の閑寂な情趣がよくあらわされている。一句、昼の景か夜の景か、また千鳥は飛翔しているのか、浮上しているのか、諸説の分かれるところであるが、「入江にのぼる」という言い方からみて、千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろうと考えられる』とされ、さらに『この句、おそらく、丈草が湖南の地へ移住する以前、京にあって、湖畔に旅したときの吟とみられる』とされる。「千鳥」チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。冬の季題である。但し、堀切氏の評釈には私はやや疑問が残る。それは『千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろう』というところで、種によってはチドリの中には有意な深さの水面に浮いているものもおり、中には水中に潜ることの出来る種もいるかとは思うが、一般的な認識から言えば(当時も今もである)、千鳥は水辺のごく浅い水辺や潟をせっせと歩いて摂餌行動をとるものである。寧ろ、この句の新味は、そうした千鳥足の元となった彼らの平面上の水平移動の映像を手前への動きとして捉え、あたかも湖から「のぼ」って来るように見た「見立て」のパースペクティヴにこそあるように私は思う。それはまさに、同書で堀切氏が並べて引く同じ丈草の、

 水底を見て來た㒵(かほ)の小鴨(こがも)哉

が、同じような逆方向へのモーメントとして詠まれているのと相応するように思われるのである。

 

 しづかさを数珠もおもはず網代守    同

[やぶちゃん注:「網代守」は「あじろもり」。堀切氏の前掲経書では、『川瀬の音のみがひびく冬の夜――この静寂境にあれば誰でも仏心を起こし、数珠を手にすることを想い起こしそうなものなのに、あの網代守はただ一心に簀』(すのこ)『に入った水魚をすくい捕って殺生を重ねていることだ、というのである。そうした救われない網代守の行為を憐んでいるようでもあり、またその無皆無分別の悠然たる姿を羨望しているようでもある』と評され、『「を」は逆接の意の接続助詞』、『「網代」は川瀬の両岸から、たくさんの杭をV宇形に打ち込み、その先端のところに簀を設けて、魚を誘い入れて捕る漁法。その網代の番人が「網代守」で、簀の側に簡単な床と屋根をしつらえ、夜間は篝火をたいて、網で魚を掬いとる。山城(京)の宇治川や近江(滋賀)の田上の氷魚』(ひお:鮎の稚魚。二~三センチメートル程で体は殆んど半透明。秋から冬にかけて琵琶湖で獲れるものが知られる)『を捕る網代がよく知られている。ここは琵琶湖のものか。冬の季題』とあり、更に「猿蓑さがし」(稺柯坊(さいかぼう)空然著になる「猿蓑」の最古の全評釈書「猿みのさがし」(文政一一(一八二八)年刊)『には謡曲『鵜飼』で、鵜使の仕方話として出る「面白の有様や、面白の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追ひ回(まわ)し、潜(かず)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報ひも後の世も、忘れ果(は)てて面白や」の場面を背景にしたものと説いている』とある。この最後のそれは原拠の当否は別として、句解の裾野がぐっと広がってきて面白い。]

 

 一月は我に米かせはちたゝき      同

[やぶちゃん注:「一月」は「ひとつき」。堀切氏前掲書に、『毎晩洛中を物乞いに歩きまわっている鉢叩きよ、もう喜捨の米も大分たまったことだろうから、どうか貧しいわたくしのためにひと月分ほど融通してほしい、というのである。鉢叩きに心の中で呼びかけているのであるが、物を乞うのが鉢叩きなのに、これを逆手にとって、鉢叩きに物を乞うとしたところが、俳諧らしいユーモアである。貧なる境涯にあって、このようにおどけたしぐさをみせるところに丈草の洒脱な境地がくみとれる』とある。「はちたゝき」は「去来 二」で既出既注。]

 

 ほとゝぎす滝よりかみのわたりかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『若葉のころの山中の趣深い情景である。滝になって流れ落ちているところより、さらに上流の山深い谷川の渡し場を、冷たい水に漬って徒渉(かちわた)りしていると、突然、周囲の静寂を破って、時鳥が一声鳴き過ぎた、というのであろう。樵夫などの通うような道がおのずと渓流の渡しにさしかかったところなのであろう。下流の方が滝になって轟々と流れ落ちているのが眺められるのである』とされ、「渡り」は『渡し場の意』。但し、『一説に「あたり」と解して、滝の落ちるところからさらに上方あたりに時鳥が鳴き過ぎたとみる』ものもある、とある。別解は景色全体が不分明となり、私は好かない。]

 

 隙明や蚤の出て行耳の穴        同

[やぶちゃん注:上五は「ひまあくや」とルビする。中七は「のみのいでゆく」。「蚤」は夏の季題。堀切氏は「隙明や」を「ひまあきや」と読まれ、『蚤もどうやら隙をもてあましたらしく、わが耳の穴を出てゆくことだ、というのである。隙をもてあます蚤に、おのれの懶惰(らんだ)なる境涯を重ねているのであり、そこに洒脱でユーモラスな味わいがある』と評しておられるが、語注で、「隙明」は『暇明。なすことがなくなって暇になること。閑暇の時。一説に「ひまあくや」また「ひまあけや」とも読み、語意も、戸や壁の隙間(すきま)から光がさし込んで夜が明けてゆくこと、あるいは「蚤の出て行く隙明(ヒマアキ)」(『猿蓑さがし』)で通路発見のこととするなど諸説がある』とある。想像の諧謔句として孤独を莞爾としてそのまま受けとめている丈草の人柄が淋しい笑いを誘う一句である。]

 

 京筑紫去年の月とふ僧中間       同

[やぶちゃん注:「去年」は「こぞ」、「中間」は「なかま」で仲間に同じい。堀切氏の評釈。『京の僧と筑紫から帰った憎とが、月見の座に同席して、互いに別れ別れに見た去年の名月のことを尋ね合いながら月見をしているのであろう。「去年の筑紫の月はいかがでしたか」、「留守にしていた京の月はどんな風情でしたか」と語り合うのである。「僧仲間」は四、五人とも考えられるが、ここでは二人の対座とみておいた。おそらくひとりは京住の丈草自身とみてよかろう。去年の月のことを話題にして、今年の月見の様子をとらえているのが趣向である。「京」「筑紫」といった古雅な地名を出したのも、月見にふさわしい』とあり、注で『「筑紫」は筑前と筑後の古称。いまの福岡県をさすが、広義には九州一円をいう。「京」と「筑紫」は都と鄙との対照をなす』とされ、「僧中間」には、『この相手の僧については不明であるが、一説には、これを脱俗の心をもった去来のこととみる。なお、この句をそれぞれ各地に修業に出かけてきた四、五人の僧たちが集まった場面とみる解も多い』とする。私は対座で相手を去来(彼は長崎出身である)する説に賛成する。]

 

 行秋の四五日よわるすゝきかな     同

[やぶちゃん注:私の偏愛の一句である。]

 

 我事と鰌のにげし根芹かな       同

[やぶちゃん注:上五は「わがことと」、「鰌」は「どじやう」、「根芹」は「ねぜり」。]

 

 真先に見し枝ならんちる桜       同

[やぶちゃん注:上五「まつさきに」。

 なお、以上の「幾人か」以下の総ての句は「猿蓑」所収である。まさに「引っ提げてやってきたな」の観が私にはする。]

 

 これらの句は何方(どちら)から見ても危気[やぶちゃん注:「あぶなげ」。]のない、堂々たる作品である。許六のいわゆる「釈氏の風雅」たるにかかわらず、御悟(おさと)り臭い、観念的なものが見当らぬのは、けだしその道に入ることの深きがためであろう。「京筑紫」の一句は僧の姿を句中に現しているが、その僧同士も去年見た月のことを語り合っているので、格別坊主臭いところはない。「隙明や」の句、「我事と」の句などに、ほのかな滑稽趣味が漂っているのは、丈艸の句の世界を考える上において、看過すべからざるものであろうと思う。

 丈艸は『猿蓑』のために漢文の跋を草している。「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]とあるに従えば、京都で凡兆、去来に頼まれたものの如くであるが、それにはどうしても頼まれるだけのものがなければならぬ。『猿蓑』は芭蕉監督の下に成った有力な撰集であり、殊に序文の方は蕉門第一の高足たる其角が筆を執っているのだから、いい加減に跋を書かせたものとも思われない。人は『猿蓑』における彗星的作家として凡兆を挙げる。けれども凡兆は『猿蓑』を以てはじめて出現した作家ではない。『曠野(あらの)』その他二、三の集にその片鱗を示していることは、かつて記した通りである。丈艸の作品が句々老成の趣を示しているのは、その天稟(てんぴん)に出ずるものとしても差支ない。ただ超然として「常は此事打わすれたるが如」く、「興に乗じて来たり興つきて帰ると言へるがごと」き丈艸が、一面において『猿蓑』の跋を草するほど重きをなしていたということは、慥(たしか)に注目に値する。当時の丈艸は漸く三十になったばかりだったのである。

[やぶちゃん注:「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛錫於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙この「𠰏」であるが、これは諸本や原本(「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の当該部)を見ても、特殊な「※」(「日」+「之」)という字体となっている(Unicodeその他でも表示不能)。しかしこれは調べた限りでは「時」の異体字であり、それであってこそ文意が通じる(底本も「とき」とルビはする。今までもそうだが、底本の漢文訓読部分は読みのルビは省略している。表示が出来ない以外にもそのルビが歴史的仮名遣になっていないのが厭だからである)。されば、この「𠰏」は誤字である。宵曲のそれか、底本編者のそれかは分からぬ(宵曲の原本が読めないので)。ともかくも以下に訓読するが、「※」はいやなので「時」で示す。

   *

維(こ)れ時に元祿四稔(ねん)辛未(かのとひつじ/しんび)仲夏。余、錫を洛陽の旅亭掛(かけ)て偶(たまたま)兆・來の吟席に會(くわい)す。此事(このこと)を記して書尾に題せんことを需(もと)めらる。卒(にはか)に毫(がう)を援(とり)て拙(せつ)を揣(はか)らず。

   *

「元祿四稔辛未」一六九一年。「稔」は「年」の言祝ぎの代字。「毫」は筆(ふで)。「揣らず」は「よく考えもせず」の意。

「高足」(こうそく)は門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。]

2020/07/21

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 五 / 去来~了

 

        

 

 去来とその郷貫(きょうかん)たる長崎とについては自(おのづか)ら専門研究家の手に俟たねばならぬものが多い。長崎帰省の如きも何度かあったことと思うが、句の上においてそれが著しく目につくのは元禄十二年[やぶちゃん注:一六九九年。]以後である。

   長崎立春
    幼ころ此浦を出四十の後春をむかへて
    みやこを古郷となす

 うぶすなにあまへて旅ぞ花の春 去来(小弓誹諧)

[やぶちゃん注:「郷貫」「貫」は「本貫地(ほんがんち)」などと使うように「戸籍」の意。本籍或いは郷里のこと。

「幼ころ」は「をさなきころ」、「出」は「いで」、「後」は「のち」、「古郷」は「ふるさと」。「うぶすな」ここは生まれた土地の守り神の意の「産土神(うぶすながみ)」を通わせながら、「その人の生まれた土地・生地」の意。「小弓誹諧」「小弓誹諧集」。東鷲編。元禄十二年刊。]

   長崎にて

 浦人を寐せて海見る月夜かな  去来(誹諧曾我)

[やぶちゃん注:「寐せて」「ねせて」であろう。「ねかせて」では字余りの弛みが厭だ。「誹諧曾我」白雪編。元禄十二年自序。]

   崎陽に旅寝の比

 故郷も今はかり寝や渡鳥    同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「崎陽」は「きよう」で長崎の異名。「比」は「ころ」。]

   長崎のうらに旅ねせし年

 とし波のくゞりて行や足のした 同(青蓮)

[やぶちゃん注:上五は寄る年波を匂わせた諧謔。当時(元禄十二年で)、去来数え四十九。]

   長崎にて

 海を見る目つきも出ず花の空  同

[やぶちゃん注:花の春の駘蕩たる空(陸)景色の方にどうしても目移りがしてしまい、故郷の懐かしい海本来の美景に目が向かぬというのであろう。]

 この帰省は恐らく元禄十一年、即ち『梟日記』に支考との応酬があった時であろう。秋の句の多いことから推して、「この人は父母の墓ありて此秋の玉祭(たままつり)せむとおもへるなるべし」という支考の言葉は首肯出来るが、同じく諸書に散見する九州方面の句も、やはりこの時の作と思われる。

[やぶちゃん注:「梟日記」は各務支考が元禄一一(一六九八)年四月二十日に難波津を門出した西国旅行の俳文。長崎七月九日に着き、二日後の十一日に、思わずも京から下向してきた去来に逢う。「四」に以下の条が概ね出ているのであるが、どうも新字が気に入らない。今回は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年蕉門珍書百種刊行会刊「蕉門珍書百種 第十編」の当該部を視認して二日分のそれを正字で電子化しておく(踊り字は「〱」は「々」に代えた。字配りは再現していない。句読点と濁点を補った)。

   *

十一日

此日、洛の去來、きたる。人々、おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會して、おもひがけぬ事のいとめづらしければ、

 萩咲て便あたらしみやこ人

牡年・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髮や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秋やきぬらん。野明はいかに野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舍の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戶にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに

 そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿   去來

   返し

 柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな    支考

 

十二日

  牡年亭夜話

卯七曰、「今宵は先師の忌日にして、此會、此こゝろ、さらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論し、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。」。答曰、「さだめがたし。時にあひ、をりにふれては、いづれかよろしく、いすれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て先師も我もあり、人々も又あるべし。名句のなきに有念相の人なればならし。たとへ俳諧しらぬ人も、いはゞ名句はあるべし。上手といふは霧屑をとりあつめて料理せむに、よしとあしきとのさかひありては、しめて、上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら、先師のむねをさだめねば、名句の事はしらず。

卯七曰、「公等(キンラ)自讃の句ありや。」。曰、「自讃の句はしらず。自性の句あるべし。」。

 應々といへどたゝくや雪の門

去來

 有明にふりむきがたき寒さかな

評曰、「始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、答をきゝてたゝくも推敲の二字、ふたゝび、世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」。

 膓に秋のしみたる熟柿かな

                      支考

 梢まで來てゐる秋のあつさかな

評曰、「始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。

されば、秋ふたつ冬ふたつ、そのさま、眞草の變化に似たれば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は、吾、しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句は、お月、その光におほはれあれども、あるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。

素行曰、「『八九間空で雨降柳哉』といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所、たしかならず。」。西華坊曰、「この句に物語あり。」。去來曰、「我も有。」。坊曰、「吾、まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人、此句をとふ。曰、『見難し。この柳は白壁の土藏の間か、檜皮ぶきのそりより、片枝うたれてさし出たるが、八、九間もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん』と申たれば、翁は『障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや、大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる』と申されしが、「續猿蓑」に、「春の烏の畠ほる聲」といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。」。去來曰、「我はその秋の事なるべし。我別墅におはして、『此春柳の句みつあり、いづれかましたらん』とありしを、『八九間の柳、さる風情はいづこにか見侍しか』と申たれば、『そよ大佛のあたりならずや、げに』と申、翁も『そこなり』とて、わらひ給へり。」。[やぶちゃん注:以下続くが、長いのでここまでとする。リンク先で読まれたい。]

   *]

 

   園木の宿にて小姫のまだらぶしうたふを
   きゝて

 月かげに裾を染たよ浦の秋  去来(小柑子・青莚)

[やぶちゃん注:中七は「すそをそめたよ」。

「園木」は「そのぎ」であるが、不詳。或いは旧彼杵(そのぎ)宿(長崎街道宿場町)のことか。現在の長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷(そのぎしゅくごう)を中心とした付近か(グーグル・マップ・データ)。但し、「彼杵」を「園木」と書いたという記載は見当たらなかった。

「小姫」少女の親しみを込めた呼称。門付の唄女(うたいめ)か。

「まだらぶし」「まだら」日本海沿岸の港町に多く見られる古い民謡。瀬賀章代氏の論文『石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について』(『歴史地理学』一九九三年九月発行・PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『九州佐賀県の唐津と壱岐にはさまれた壱岐水道に、馬渡(まだら)島がある』(ここ(グーグル・マップ・データ))。『「まだら」とは、この小さな島が発生の地とされる古民謡である。「まだら」はもともと船乗り唄であり、海唄であったが,起舟』(注に『船を起こす祝いの日であり、ふつうは』一月十一日に『行われる。漁師にとっては最も大切な日の一つである。この日を過ぎると漁師は初漁に出てもよいこととなる』とある)『・造船式のみならず、現在では結婚式・「建ちまい(建前)」の際にも唄われ、祝儀唄としての性格がかなり強くなっている』。『「まだら」は海上のルートによって九州から日本海沿岸を北上したと推測され、やや曲節(節まわし)が変化しているものの、明らかに「まだら」と思われる唄が、主に日本海側の各地に散在している。これらの唄を総称して、系統的に「まだら」と呼んでいる』。『「まだら」は、「めでためでたの若松様よ 枝もさかえる葉も茂る」を元唄とする。産み字』(注に『一音の母韻を引いて語るときのその音。たとえば「こそ」を「こそお」と引いて言う「お」の類』とある)『をたくさん持ち、嫋嫋(じょうじょう)とした長い節まわしが特徴であり、書けばわずかこれだけの文句を延々と唄いつなぐ。この長い節まわしが、「まだら」であるかどうかを判定する際の大きな指標となっている。あまりに長い節まわしのため、田んぼで農作業していた農民が「まだら」を唄いはじめ、牛をひいて我が家に帰り、再び田んぼへ戻り、二度目に我が家へ帰着したら、ようやく唄い終わったというエピソードもあるほどである』とある。詳しくは同論文を読まれたい。

「小柑子」「小柑子集(しょうこうじしゅう)」は野紅編。元禄十六年自跋。

「青莚」(あおむしろ)は除風編。元禄十三年刊。]

   筑前直方にて

 行秋や花にふくるゝ旅衣   同(はつたより)

[やぶちゃん注:現在の福岡県直方(のおがた)市(グーグル・マップ・データ)。]

   宰府奉納

 幾秋の白毛も神のひかりかな 同(そこの花)

[やぶちゃん注:「宰府」大宰府。「白毛」は「しらが」。「そこの花」は万子編。元禄十四年刊。]

   小倉にて七夕のひる

 七夕をよけてやたゝが舟躍り 同(泊船集)

[やぶちゃん注:「やたゝ」は「矢楯(やたて)」の音の交替形「やたた」か。軍陣の矢や鉄砲の攻撃を防ぐための防御具で、ここは船端にかける小楯であろう。七夕の日の歴史絵巻の軍船のショーがあったものか。]

   七夕は黒崎沙明にて

 うちつけに星待顔や浦の宿  同

[やぶちゃん注:「黒崎」(くろさき)「沙明」(さめい)黒崎は黒崎宿で、現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎。洞海湾の南岸。当時の洞海湾はもっと広かった。当時、この宿の商人富田屋(関屋)沙明(富田甚左ヱ門。砂明とも)が蕉門俳人として知られていた。中七は「ほしまつかほや」。]

   田上といふ山家にて

 山家にて魚喰ふ上に早稲の飯 同

[やぶちゃん注:「田上」現在の滋賀県大津市の田上(たなかみ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真。非常に広域で、「田上」を持つ地名が複数ある。山間部である)であろうか。]

   田上の名月

 名月や田上にせまる旅心   同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「けふの昔」朱拙編。元禄十二(一六九九)年刊。]

   はかたにて

 五里の浜月を抱て旅寐かな  同(当座払)

[やぶちゃん注:「抱て」は「かかへて」。「当座払」(とうざはらひ)は千山編。元禄十六年自序。]

   福岡にて

 福岡や千賀もあら津も雁鱸  同(菊の道)

[やぶちゃん注:「千賀」は「ちが」、座五は「かり/すずき」。

「千賀」は「値嘉(ちが)の浦」のこと。現在の福岡県の海の古称とも、長崎県及び五島列島周辺の海の古称ともされる。

「あら津」福岡県福岡市中央区荒津(グーグル・マップ・データ)。福岡湾東南の湾奥の突先に位置する。

「雁」は「かり」と読んでいよう。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。

「菊の道」紫白女(しはくじょ 生没年未詳)編。元禄一三(一七〇〇)年京都井筒屋刊。本邦初の女性による俳諧撰集として知られる。江戸前期から中期の俳人で肥前田代(佐賀県)の人。夫の寺崎一波とともに蕉門の坂本朱拙に学び、のち志太野坡に師事した。初号は糸白で、女を付けず紫白とも号する。]

   黒崎にて探題

 気づかうて渡る灘女や鱸釣  去来(旅袋集)

[やぶちゃん注:「探題」詩歌の会に於いて幾つかの題の中から籖引きのようにして取った題で詩歌を作ることを言う。座五は「すずきつり」。

「灘女」「なだめ」で海の浅瀬を歩いて渡って行く女性。海女と限定する必要はなく、海藻や貝などを漁っていると限定するのも要らぬお世話だ。まあ、漁師の妻か娘ではあろうが、何か必要があって、服をたくし上げて、一心に力強く、海歩く女を点景させるのが、私はよいと思う。というか座五こそ要らぬお世話で、私は鼻白む。

「旅袋集」「旅袋」。路健編。元禄十二年序。]

   筑前博多にて

 菊の香にもまれてねばや浜庇 同(そこの花)

[やぶちゃん注:座五は「はまびさし」。言わずもがなであるが、「新古今和歌集」(巻第四 秋歌上)の藤原定家の歌で、「三夕の歌」の一首として知られる(三六三番)、

   西行法師すゝめて百首歌よませ
   侍りけるに

 見わたせば花も紅葉もなかりけり

         浦のとまやの秋の夕暮

のインスパイアである。]

 

 宝永元年に至り、去来は甥の卯七と協力して『渡鳥集』を上梓した。巻の最初に芭蕉の「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」を置き、続いて十九人の渡鳥の句を掲げてあるが、「渡鳥」の名の由って来るところは、長崎に帰った去来の心境、「故郷も今はかり寝や渡鳥」の一句にあるのではないかと想像する。

 『渡鳥集』の中には去来の書いた「入長崎記」[やぶちゃん注:「長崎に入るの記」。]がある。「長途に垢つける衣装の上に腰刀よこたへ、あぶつけといふ物鞍坪にくゝり付、笠まぶかに両足ふらめかし」て、「漸く弟の家にたどり入」った去来が、長崎の様子を略叙したもので、「折ふしの盆会に照り渡りたる燈籠の火影(ほかげ)」を見ては、

 見し人も孫子になりて墓参      去来

[やぶちゃん注:「孫子」「まご・こ」。座五は無論、「はかまゐり」。]

の感を深うせざるを得なかった。短いながらも引締った文章であるが、この末に「故郷も今はかり寝」の一句あるによって、元禄十一年帰省の際のものたることは明である。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。

「渡鳥集」は写本が早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読め(全篇一括のPDFはこちら)、その冒頭に「入長崎記」がある。非常に綺麗な写本で読むに苦労がない。是非、見られたい。

「あぶつけ」「鐙付」あぶみつけ)」の変化した語か。乗掛馬(のりかけうま)の両脇に付けた荷物。]

 

 去来はこの時かなり長く郷里に滞在していたらしい。前に挙げた「とし波」の句、「うぶすな」の句は、その年をここに送った消息を物語っている。「海を見る目つきも出ず花の空」の前書に「田上尼の前栽の花見にまねかれて」とあるのを見れば、花の咲く時分までとどまっていたものであろうか。『渡鳥集』にはなおいくつも収穫を存している。

[やぶちゃん注:「田上尼」(たがみのあま ?~享保四(一七一九)年)は長崎の人。箕田勝(みのだ かつ)。去来の縁者で、夫の没後、長崎近郊の田上に隠居を構えて住んでいたことから、この名がある。去来の弟牡年は彼女の養子であり、卯七は彼女の実家の甥に当たる。発句もものしており、「猿蓑」・「有磯海」などに入集している。]

 

   立山下魯町がもとにて

 山本や鳥入来る星迎へ        去来

[やぶちゃん注:「やまもとやとりいりきたるほしむかへ」。

「立山下」(たてやました)長崎県長崎市立山はここで、丘陵部が多い。その下方に去来の弟で牡年の兄の向井魯町(?~享保一二(一七二七)年:儒学者で長崎聖堂の大学頭や江戸幕府長崎奉行所の書物改役も務めた)は居を構えていたらしい。]

   先放をあくの浦に訪

 八月や潮のさはぎの山かづら     同

[やぶちゃん注:「先放」は「せんぱう(せんぽう)」で去来の友人で長崎の人。生没年未詳で詳細事蹟も不詳。「訪」は「とふ」。

「あくの浦」長崎県長崎市飽(あく)の浦町(うらまち)(グーグル・マップ・データ)。]

   牡年亭にて

 海山を覚えて後の月見かな      同

[やぶちゃん注:月夜となったが、昼の間にそこに見た海山をモノクロームの画面の中に想起しているというのであろう。]

   影照院は崎陽の辰巳に有。
   入江みぎりに廻り、小嶋山
   向に横たふ。吟友支考が
   「蕎麦にまた染かはりけん
   山畠」と聞えしは秋の比に
   や来りけん、其年の名残惜
   まんと人に誘れて

 山畑や青み残して冬構        同

[やぶちゃん注:「冬構」は「ふゆがまへ」。

「影照院」現存しない。ここは現存する長崎県長崎市鍛冶屋町にある浄土宗正覚山中道院大音寺の末庵であった影照院で、寛永一七(一六四〇)年開創であったとされる。現在、その旧影照院の煉瓦造のアーチ型山門(明治元(一八六八)年頃の制作とされる)が残っているだけである(恐らくこれ。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。但し、ということは少なくとも明治前期までは影照院は存在したということが判る。

「辰巳」南東。

「入江みぎりに廻り」当時は長崎湾の東部分がこの辺りまで貫入していたものか。

「小嶋山」「今昔マップ」で見ると、南正面に「小嶋」(現在は複数の「小島」を含む地区に分割されている)の地名と丘陵部を見出せる(現在は宅地化が進んで、山のようには見えない)。この付近を指すと採っておく。]

   先放が別墅

 朝々の葉の働きや杜若        去来

[やぶちゃん注:「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」別宅。別荘。「杜若」は「かきつばた」。]

   風叩が春の気色見んと
   舟さし寄けるに乗て

 鶯が人の真似るか梅ケ崎       同

[やぶちゃん注:この句、意味が今一つ腑に落ちない。「風叩」は「ふうこう」去来の俳句仲間と思われるが、不詳。「気色」は「けしき」、「寄けるに乗て」は「よせけるにのりて」。

「梅ケ崎」長崎県長崎市梅香崎町(うめがさきまち)であろう。現在は、内陸地区だが、やはりここにも長崎湾は完全にここまで貫入していたのであろう。]

 いずれにしてもこの長崎行は去来晩年の大きな出来事であり、『渡鳥集』一巻は注目すべきものたるを失わぬ。

 元禄の末から宝永の初へかけての数年ほど、蕉門の有力者が相次いで世を去ったことはあるまい。『有磯海』以来、去来とは因縁の深かった浪化上人が元禄十六年に先ず逝き、翌宝永元年には丈艸も世を去った。浪化追悼の句としては

   悼浪化君

 その時や空に花ふる野べの雪     去来

[やぶちゃん注:浪化は三十二の若さで遷化した。彼は浄土真宗の僧で、父は東本願寺十四世法主琢如であったから、花は蓮華の花に相違ない。]

の一句が伝わっているのみであるが、丈艸の訃に接しては悵然(ちょうぜん)として「丈艸誄(るい)」一篇を草している。去来が丈艸に逢ったのは、元禄十五年の十月が最後であった。「丈艸誄」の末段にはこうある。

[やぶちゃん注:「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。

「丈艸誄」「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」(森川許六編の俳文選集。全十巻五冊。宝永三(一七〇六)年刊。松尾芭蕉及び蕉門俳人二十八人の俳文百十六編を集め、作者列伝を加えてある。「本朝文選」とも呼ぶ)所収。「誄」は死者の生前の功徳を讃え、哀悼の意を表することを指す語。

 以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

人は山を下らざるの誓ひあり。予は世にたゞよふの役ありて、久しく逢坂の関(せき)越(こゆ)る道もしらず。去々年[やぶちゃん注:「きよきよねん」。]の神無月(かんなづき)、一夜の閑をぬすみ、草庵にやどりて、さむき夜や、おもひつくれば山の上と申て[やぶちゃん注:「まうして」。]、こよひの芳話に、よろづを忘れけりと、其喜びも斜(ななめ)ならず。更行(ふけゆく)まゝに雷鳴地にひゞき、吹(ふく)風扉をはなちければ、虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更[やぶちゃん注:返り点のみ示した。底本の訓点を参考にしつつ、私流に訓読すると、「虛室(きよしつ)閑(しづ)かに夸(ほこ)らんと欲す 是れ 寶(たから)/滿山の雷雨 寒更に震(ふる)ふ」。]と、興し出(いで)られ、笑ひ明してわかれぬ。身の上を啼(なく)からす哉(かな)ときこえし、雪気(ゆきげ)の空もふたゝび行[やぶちゃん注:「ゆき」。]めぐり、今むなしき名のみ残りける。凡(およそ)十年のわらひは、三年のうらみに化し、其恨(うらみ)は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく、此一句を手向(たむけ)て、来(こ)しかた行末を語り侍るのみ。

  なき名きく春や三とせの生別(いきわか)れ

[やぶちゃん注:「人は山を下らざるの誓ひあり」丈草のそれを指す。彼は膳所近傍の龍ヶ岡に仏幻庵を結び、孤独の生涯を終えた。

「予は世にたゞよふの役ありて」私(去来自身)は世間に絡む仕事があって。しかし、具体に浪人になって後に何をしていたものか、不明。確かに親族から金銭的援助を受けて平然としているような男ではないから、何か、仕事をしていたのであろう。その仕事、何となく気になる。

「さむき夜や、おもひつくれば山の上」これは発句であるから読点はいらない。「おもひつくれば」は「考えて見れば」の意。この丈草殿の草庵は山の上にあるのだから、寒いのは当たり前という、駄句である。

「芳話」は「はうわ(ほうわ)」で「楽しい話」の意。

「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」「何もない部屋にいることが、これ、私の誇りであり(所謂、「無一物即無尽蔵」)、閑寂こそ、これ、私の宝である。一山総てに雷雨が襲って、寒い夜更けの全山を震わせている」の意。後半部は謂わば、禅の公案を模したものと私は読む。

「身の上を啼(なく)からす哉(かな)」丈草の句の一部。

 雪曇り身の上を啼く烏かな

が正格。

「凡(およそ)十年のわらひは」小学館「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の松尾靖秋氏の注に、『丈草は元禄十七年二月二十四日四十三歳で没したのだから、去来と面会したのが落柿舎に芭蕉をたずねた元禄四年とすれば、それから死没の三年前(去々年の神無月)の歓談まではおよそ十年間となる』とある。

「三年のうらみに化し」同前で、『一昨年の十月から三年間会わなかったことをさす』とある。「うらみ」は言わずもがなであるが、丈草を訪ねようしないかった去来自身への去来の恨みである。

「其恨は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく」白居易の「長恨歌」の最終シークエンスを意識したコーダであることは言うまでもなかろう。]

 

 芭蕉歿後、去来が最も志を同じゅうしたのは丈艸であったろう。芭蕉に参する年代もやや遅く、年齢も去来よりは大分下であったが、「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」という芭蕉の眼識に誤はなかった。去来が丈艸を悼む情の強かったのは、単にその句が秀抜なるがためのみではない。その人物において、道を楽しむ態度において、いわゆる群雄と選を異にするものがあったからである。

[やぶちゃん注:「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」やはり去来の「丈艸誄」の一節。

   *

先師の言(ことば)に、「此僧此道にすゝみ學ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」とのたまへり。其下地(したぢ)[やぶちゃん注:素質。]のうるはしき事、うらやむべし。然れども、性(しやう)くるしみ學ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し。

   *

「選を異にする」「せんをことにする」。別の部類に属する。]

 

 丈艸が亡くなったのは二月の末である。涙を揮って斯人(しじん)のために誄(るい)を草した去来が、その年のうちにまた後を逐うて世を去ろうとは、固より彼自身も思いがけなかったに相違ない。蕉門の柱石は相次いで倒れた。剛復(ごうふく)なる許六をして「いかなる蕉門滅亡の月日にやありけむ、去年の冬は、中越(ちゆうえつ)の院家[やぶちゃん注:「ゐんげ」。]薨(こう)じ給ひぬ。ことし衣更著(きさらぎ)、丈艸卒(しゆつ)す。秋九月此(この)郎[やぶちゃん注:「らう」。]去(さつ)て、手もぎ足もぎの思ひをさせて、人の腸(はらわた)を断(たた)せけるぞや。猶生き残りたる十大弟子の中にも、世のたすけとなりがたきもあるべし。其人かの人と、かへまくほしと思ふ方も有べし。従来の因縁ふかきえにしありて、しかも同じ痢疾(りしつ)のやまひをうけて、共に終りをとげり」と浩歎(こうたん)せしめたのを見ても、如何に去来の死が蕉門に取って大きな損失であったかがわかる。享年は五十三であった。

[やぶちゃん注:以上の引用は「風俗文選」所収の森川許六自身の手になる「去來誄」の一節。こちらのPDFがよい(全50コマの内の「10」コマ目から。引用部は「11」コマ目から)。

「剛復」度量が大きく、こせこせしないこと。大胆でもの怖じしないこと。太っ腹。

「去年の冬は、中越の院家薨じ給ひぬ」は先に出た浪化の逝去を指す。彼は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、京との間を頻りに往来した。「院家」はここでは単に「大きな寺院」の意。彼が没したのは元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)であった。翌元禄十七年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に没した。なお、丈草は元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)であった。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。

「痢疾」通常は赤痢を指す。ただ、俳人の死因というのは何を見ても、何故か載っていないことが多く、浪化・丈草・去来の死因も特定出来なかった。これが正しい(三人ともに赤痢が死因)とすれば、知られていない事実と言えよう。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。]

 

 許六の文中にある「中越の院家」は即ち浪化である。「同じ痢疾のやまひ」というのは芭蕉と同病であったことを指すので、芭蕉の病が急であったように、去来の病も急だったのであろう。篤実なる去来は師翁と同じ病を獲て逝くという点に、浅からざる因を感じていたかも知れない。宝永元年には丈艸、去来が相次いで逝き、宝永四年には其角、嵐雪がまた相次いで世を去っている。こういう事実の迹を見ると、そこに偶然ならざる何者かがあるように思われてならぬ。

[やぶちゃん注:芭蕉の死因は諸説あるが、食中毒・赤痢・感染性腸炎・潰瘍性大腸炎辺りが推定されている。]

 

 許六はまた去来の人物を評して「心ざし深くて、一とせ難波の変を聞て[やぶちゃん注:「ききて」。]、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]にともづなを解[やぶちゃん注:「とき」。]、義仲寺の葬り[やぶちゃん注:「はうふり」。]にも、肩衣(かたぎぬ)に鋤鍬[やぶちゃん注:「すきくは」。]を携ふ。死後の城を堅ク守り、諸生をなづけ、初心をたすく。越の浪化にかはりて、有磯(ありそ)砥波(となみ)の書を選じ、崎の卯七をたすけて、渡り鳥を集む[やぶちゃん注:「あつむ」。]」といっている。悄然として鋤鍬を手にした去来の肩衣姿は目に見えるようである。去来は其角のように流通無碍(むげ)でなかったから、その俳諧における態度は正に「死後の城を堅ク守」るものであった。従ってその門葉は多くなかったが、道のために「諸生をなづけ、初心をたすく」るの労は敢て吝(おし)まなかったのであろう。芭蕉生前の『猿蓑』といい、歿後の『有磯海』『渡鳥集』といい、去来の関係した撰集がいずれも粒の揃ったものであるのは、最もよくこれを証している。去来は妄(みだり)に事を起すを好まぬ。いやしくも撰集に携わる以上は、並々ならぬ用意と苦心とを以て事に当ったものと思われる。

[やぶちゃん注:引用は、やはり許六の「去來ガ誄」の一節。

「崎」長崎。

「流通無碍」融通無碍に同じい。]

 

 門弟に富まぬ去来の身辺には不思議に俳人が輩出した。魯町、牡年、卯七、素行に加うるに、可南女(かなじょ)、千子(ちね)、田上尼(たがみのあま)の三女性を以てすれば、一族一門だけでも侮るべからざる陣容である。俳句などに縁のなさそうな兄の震軒でさえ、芭蕉の訃(ふ)に接して「冬柳かれて名ばかり残りけり」と詠んでいる位だから、一門に対する去来の感化を想うべきであろう。妹の千子は貞享年中に去来と共に伊勢参宮の旅に上り、少数ながらすぐれた句をとどめたが、元禄元年五月「もえやすく又消やすき蛍かな」の一句を形見としてこの世を去った。「手のうへにかなしく消る去蛍かな」という去来の句は、この妹を悼んだものである。千子にして今少しくながらえたならば、去来一門のみならず、元禄女流のために気を吐くに足る作品を遺したことと思われる。

[やぶちゃん注:「可南女」向井去来の妻(生没年未詳)で「とみ」と「たみ」の二女をもうけた。夫の没後は尼となって「貞従」(或いは「貞松」とも)と称した。句は宝永二(一七〇五)年刊の去来追善集「誰身(たがみ)の秋」の他、蕉門の撰集に散見される。]

 

 去来について記すべき事はなお少くない。彼の俳句観を窺うべき『去未抄』『旅寝論』その他をも一瞥するつもりであったが、あまり長くなるから他日を期するとして、今まで引用するに及ばなかった句を若干挙げて置く。

 高潮や海より暮れて梅の花     去来

   弟魯町故郷へ帰りけるに

 手をはなつ中に落ちけり朧月    同

[やぶちゃん注:「中」は「うち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『弟魯町がはるばる故郷長崎へ帰ってゆくのを、早暁見送ったときの吟である。いつまでも名残を惜しんで、ずっと互いに手を握り合っていたが、やっと思い切って手を放してみると、先刻まで出ていた朧月はいつのまにかもう山の端に落ちて消えてしまっていた、というのであろう。別離を惜しんでためらう心の揺れを詠んだものであろうが、時間の経過を示すのに朧月を用いたところ、やや作意が過ぎているともいえる』とやや苦言を呈しておられる。また、「中」の読みについては、『一説には「なか」と読み、別れてゆく二人の間に、の意と解するものもある』とする。さらに、「去来抄」の「先師評」に『よると、芭蕉が「この句悪きといふにはあらず。功者にて、ただいひまぎらされたるなり」と評したこと、去来が結局これを「意到りて句到らざる句」と認めたことが伝えられる。なお、この句』は『「朧月一足づゝもわかれかな」(『炭俵』)の初案ではないかとも考えられる』とある。「去来抄」のそれは以下。

   *

  手をはなつ中に落ちけり朧月   去來

魯町に別るゝ句也。先師曰、此句惡きといふにはあらず。功者にてたゞ謂まぎらされたる句也。去來曰、いか樣にさしてなき事を、句上にてあやつりたる處有。しかれどいまだ十分に解せず。予が心中にハ一物侍れど、句上にあらハれずと見ゆ。いハゆる意到句不到也。

   *

「意到句不到也」読み下すなら、「意、到るも、句、到らざるなり」。]

 花守や白き頭をつきあはせ     同

[やぶちゃん注:「頭」は「かしら」。堀切氏の前掲書で評釈されて、『美しく咲き匂う桜花の下で、花守の老人がふたり、白髪頭をつき合わせるようにして、ひそひそとなにか話し合っている情景である。桜の花の華麗さと、花の番をする老人の沈静した白髪のすがたとの対照に、不思議な調和がある。芭蕉がこの句を「さび色よくあらはれ、悦び候」(『去来抄』)と評したゆえんである。謡曲『嵐山』に登場する花守の老夫婦からの趣向であると思われるが、ここは「花守」をそのまま老夫婦と限定しなくてもよかろう』とされ、語注で、「花守」は『花の番人。謡曲『嵐山』の冒頭部で、勅使が、吉野千本の桜が移植された嵐山の桜を見に出かけると、花守の老夫婦が花に対して礼拝しているので、そのいわれを尋ねる場面に「シテサシこれはこの嵐山の花を守る、夫婦の者にて候なり」、また「シテさん候これは嵐山の花守にて候。(下略)」とみえる。その他、謡曲『田村』にも「花守」が出てくるし、芭蕉にも「一里はみな花守の子孫かや」(『猿蓑』)の用例がある。春の季題』とあり、さらに、「去来抄」の「修行教」の『「さび」を説く条に例示されるほか、元禄六年十二月十七日付塵生宛去来書簡・同七年五月十四日付芭蕉宛去来書簡にも報じられ、さらに同八年一月二十九日付許六宛去来書簡にも「古翁の評に、さび色よくあらハれ珎重のよし、被仰下候。(下略)」と報じられている』。『なお、復本二郎氏は『芭蕉における「さび」の構造』において、先の謡曲『嵐山』をこの句の典拠として示した上で、一句は、これを一段すり上げて作したものであるとし、花守の老夫婦が白髪頭を「つき合せ」ているところに、「さび色」があらわれているのだと説いている』とある。「被仰下候」は「おほせくだされさふらふ」と読む。「去来抄」のそれは以下。

   *

野明曰、「句のさびはいかなるものにや。」。去來曰、「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帶し、戰場にはたらき、錦繡をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑かなる句にも、靜(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。」。

  花守や白き頭をつき合せ     去來

先師曰、「寂色よく顯はれ、悅べる」と也。

   *]

 小袖ほす尼なつかしや窓の花    同

 熊野路に知人もちぬ桐の花     同

   雲とりの峠にて

 五月雨に沈むや紀伊の八庄司    同

[やぶちゃん注:「雲とりの峠」熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)とを結ぶ参詣道の途中にある「大雲取越え」「小雲取越え」の孰れかと思われる。現行では「石倉峠」「越前峠」がある。この付近と推定する(グーグル・マップ・データ航空写真。)

「八庄司」熊野八庄司(はっしょうじ)。ウィキの「熊野八庄司」によれば、『紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える』が、『八つの庄については諸説ある』とある。諸説はリンク先を参照されたい。]

 青柴を蚊帳にも釣るや八瀬大原   同

[やぶちゃん注:「八瀬大原」は「やせおはら」。「大原女(おおはらめ)」で知られた京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された(以上はウィキの「大原(京都市)」に拠る)。この中央の南北部分の広域(グーグル・マップ・データ)。拡大すると、町名に「大原」及び「八瀬」の名を現認出来る。]

 石も木も眼に光るあつさかな    同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。この句、私は珍しく佳句と思う。]

   数十里を一日に過て

 打たゝく駒のかしらや天の川    同

   長崎丸山にて

 いなづまやどの傾城とかり枕    同

[やぶちゃん注:「丸山」は江戸時代から長崎の花街として栄えた遊廓。現在の長崎県長崎市丸山町・寄合町(グーグル・マップ・データ)のこと。当初は鎖国令により、オランダ商館と同様、平戸の丸山から移設されたものである。堀切氏前掲書評釈に、『一瞬、ぴかりと稲妻が光った。いったいあの稲妻はどの遊女と枕をかわし、仮りの契りを結ぶのであろうか、というのである』。前書を受けて、『遊廓丸山の遊女の身の上――その夜毎に相手を変えてゆかねばならぬ愛のはかなさを、瞬時に消えてしまう稲妻のはかなさに託して詠んだものである』とある。]

   仲秋の望猶子を送葬して

 かゝる夜の月も見にけり野辺送   同

[やぶちゃん注:「望」は「もち」。座五は「のべおくり」。「仲秋」とあるから旧暦八月十五日。「猶子」本来は兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れた養子のことであるが、ここは広義にそれを転じた甥の子の意。堀切氏の前掲書の本句の注に、『元禄三年八月十四日に没した向井俊素のことで、翌十五日に詠まれた追悼句である』とある。]

 浅茅生やまくり手おろす虫の声   同

[やぶちゃん注:「浅茅生」は「あさぢふ」(現代仮名遣「あさじう」。珍しく底本では歴史的仮名遣で振られてある)。疎らに或いは丈低く生えた茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)。文学作品では荒涼とした風景を表わすことが多い。虫取りの句。鳴き声を目当てに、虫を捕まえようと、茅の中に腕捲りをし、そっと手を下したその情景を切り取ったものであろう。]

 啼鹿を椎の木間に見付たり     同

[やぶちゃん注:「なくしかをしひのこのまにみつけたり」。]

雁がねの竿になる時尚さびし     同

[やぶちゃん注:この句も私は何か惹かれる。]

墨染に眉の毛ながし冬籠り      同

一しぐれしぐれてあかし辻行燈    同

[やぶちゃん注:座五は「つじあんど」。堀切氏前掲書語注に、『辻番所などの前の街路に備えてあった木製で灯籠形の行灯』とあり、別な撰集では座五を「辻燈籠」とするとある。]

 句の年代も内容も一様ではない。しかし去来らしい気稟(きひん)の高さは、どの句をも貫いている。容易に足取の乱れぬ点において、去来は最も完成された作家の一人というを憚らぬ。

[やぶちゃん注:以上、やはり、私は去来には惹かれる句が有意に少ないことが、今回、はっきりと判った。]

2020/07/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 四

 

       

 

 元禄十年の夏、去来は「贈晋渉川先生書」なる一文を草して其角に贈った。其角はこれを自己の撰集たる『末若葉(うらわかば)』の巻尾に掲げたが、去来の説に対しては何も答えなかった。しかるに風国(ふうこく)が『末若葉』と同年に出した『菊の香』を見ると、「贈晋渉川先生書」の外に「贈其角先生書」を録し、後者を「去来が正文」と称している。両者の趣意はほぼ同じものであるが、「贈其角先生書」の方が長くもあり、委曲を尽してもいるように思う。文末の日付は『末若葉』にある方が後になっているから、先ず風国のいわゆる正文を草し、これによって「贈晋渉川先生書」を作ったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。

「贈晋渉川先生書」「晋渉川(しようせん)先生に贈るの書」。「渉川」は其角の号の一つ。

「末若葉」同年刊。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらで原本を見ることができ、去来のそれはここここ但し、其角はこの原書簡にかなりの手を加えて、上手く自身の発句集の跋文に仕立て上げてしまっているのである。其角はやはり一癖二癖ある千両役者である。

「風国」伊藤風国(?~元禄一四(一七〇一)年)は蕉門俳人で京の医師。通称、玄恕(げんじょ)。俳諧選集「初蟬(はつせみ)」を元禄九年九月に出版したが、これが杜撰だと許六に非難されたことがある。芭蕉の作品集の最初の書である元禄十一年刊の「泊船集」の編者として蕉風の伝承に貢献した功労者でもある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」の彼の記載を参考にさせて戴いた)。

「菊の香」前注で出た先行して刊行した「初蟬」の誤りを訂正したもの。同年の九月の自序である。許六の批判に応じたものであろう。

「贈其角先生書」今泉準一氏の論文「芭蕉の其角評価」(『明治大学教養論集』第二五一号所収・PDF)の第四章で、同文の『去来が生前の芭蕉に其角の作風が芭蕉の作風と異なることを芭蕉に質問し、芭蕉がこれに答えた言が載っている』とされ、その当該部分が活字化されているので参照されたい。また、以前に紹介した、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)も大いに参考になる。特に「三 其角――不易を知る人――」では、「贈晋渉川先生書」と「贈其角先生書」とを比較して示されている部分は必読である。]

 

 去来は芭蕉が『奥の細道』の旅を了(お)えて洛に入った頃を以て、蕉門の俳諧一変の機と見ている。『ひさご』『猿蓑』の時代がそれで、去来自身もこの際に当って「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」ほぼその趣を得た。その後に起った新風は即ち『炭俵』『続猿蓑』である。――去来はこれを冒頭にして、俳諧の不易流行の必ずしも二致あるにあらざるを論じ、「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし。たまたま一時の流行に秀たるものは、たゞ己が口質(こうしつ)の時に逢(あう)のみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむ事あたはず」という見解を述べた。去来が其角の句に慊焉(けんえん)たる所以のものは、不易の句をよくせざるがためではない、むしろ流行の句において近来趣を失っている点にある、というのである。

[やぶちゃん注:「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」去来の「贈晋子其角書」の冒頭部分(但し、「末若葉」では其角によって省略されている)。幸い、先の藤井美保子氏の論文に載るので、漢字を正字化して示すと(読みは私が振った)、

   *

故翁奥羽の行脚より都へ越(こし)給ひける比(ころ)、當門の俳諧一變す。我が輩、笈を幻住庵に荷ひ、棒を落柹舍に受けて、略(ほぼ)そのおもむきを得たり。『ひさご』『さるみの』是也。其後又一つの新風を起こさる。『炭俵』『続猿』是也。

   *

「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし」これも「贈晋子其角書」の以上の冒頭に直に続く部分(但し、「末若葉」では其角によって大幅に省略されている。先の原本画像と比較されたい)。同じく藤井氏のそれを参考に、同前の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

去来問曰(とひていはく)、「師の風雅見及(みおよぶ)處、『次韻』にあらたまり、『みなし栗』にうつりてこのかた、しばしば変じて門人、その流行に浴せん事を思へり。我是を聞けり、句に千載不易のすがた有(あり)、一時流行のすがた兩端有(あり)。此(これ)を兩端におしへ[やぶちゃん注:ママ。]給へども、その本(もと)一なり。一なるは共に風雅の誠をとればなり。不易の句を知らざれば本立(たち)がたく流行の句を學び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易を知る人は、往(ゆ)くとしておしうつらずといふ事なし。

   *

なお、藤井氏は「次韻」の箇所に注されて、『延宝九年』(一六八一年)『一月に京都信徳らの『七百五十韻』を継いで千句万尾させたもの』で、『連中は芭蕉・其角・才麿・揚水。俳諧革新をすすめた高い評価の選集。のちの蕉風には遠いが「贈晋子其角書」に「師の風雅見及ぶところ次韻にあらたまり」とある』とある。

「口質」くちぐせ。

「慊焉」「慊」には「満足」と「不満足」との二様の意があるため、「あきたらず思うさま。不満足なさま」と、正反対の(但し、多くは多く下に打消の語を伴って結果して前者同様の意に用いる)「満足に思うさま」の意がある。ここは無論、最初の意でよい。]

 

 其角はこれに答えなかったが、許六が横から出て「贈落柿舎去来書」を草し、其角のために弁ずると同時に、許六一流の俳論を持出した。去来は直に「答許子問難弁」を作り、つぶさに許六の説くところに答えている。これも元禄十年中の事である。その論旨に至っては一々ここに引用している遑(いとま)がないが、芭蕉歿後四年足らずにして、已に有力なる蕉門作家の間にかくの如き意見の対立を見たのであった。

[やぶちゃん注:「贈落柿舎去来書」(「落柿舍去來に贈るの書」)とと「答許子問難弁」(「許子が問難に答ふるの辯」)は既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇として載る。早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。]

 

 子規居士はこの問題に関し、「俳諧無門関」において次のように述べたことがある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。「俳諧無門関」は正岡子規の俳句研究の一篇だが、私は未見。執筆年も不明。]

 

蕉門の迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、道に入るいづれか深く、説をなすいづれか正しき。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心実相無相微妙の法門は芭蕉これを去来に付嘱する時、其角別に変幻自在縦横無尽非雅非俗奇妙の俳門を立てて一世を風靡す。去来より見る、其角は外道(げどう)なり。其角より見る、去来は我見に執す。去来は不易に得て東に進む、其角は流行に得て西に走る。いよいよ進みいよいよ走り、しかして顧れば他の我を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こといよいよ遠きを見る。かつ道(い)へ、那辺(なへん)かこれ風馬牛(ふうばぎゅう)相会する処[やぶちゃん注:「あいかいするところ」。]。

[やぶちゃん注:「風馬牛」本来は「馬や牛の雌雄が、互いに慕い合っても、会うことができないほど遠く隔たっていること」を謂い、転じて「互いに無関係であること。また、そういう態度をとること」を言う出典は「春秋左伝」僖公(きこう)四年の『風馬牛相 (あひ) 及ばず』に拠る。「風」は「発情して雌雄が相手を求める」の意である。]

 

 其角と去来とはその立場を異にし、また進路を異にする。所詮合致すべきものではない。これを同一の傘下に包容するのは、芭蕉の如き大人物の力を俟(ま)たなければならぬ。道を信ずること篤き去来が断々乎として「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」といい放つ以上、両者手を携えて進むことは困難である。芭蕉歿後の俳諧は、外観的には必ずしも衰退を示さなかったかも知れない。ただ芭蕉在時の如き幅を失ったことは、この其角、去来対立の一事を以て見ても、容易に推察し得べき事柄である。

[やぶちゃん注:「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」調べたところ、やはり許六の「俳諧問答」の中の「答許子問難辨」の、その「四」の一節である。私の所持する橫澤三郞校注岩波文庫版(一九五四年刊)は当時発見された善本である「專宗寺本」底本で、少し異なる。【 】は二行割注。

   *

來書曰、かれに及ぶ又門弟も見えず。
去來曰、是おそらく阿兄の過論ならんか。
 角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上
 にいたゞかん。角が句のひきゝを以て論ぜバ、
 我かれを脚下に見ん。况や俊哲の人をや。【予
 亢(アヤマツ)て此ㇾをいふにあらず。同門
 の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄
 もその一人なり。】

   *

編者による頭注があり、「ひきゝ」の部分は従来、同書の底本に用いられていた寛政一二(一八〇〇)年冬十二月板行の蕪村の門の月居序の五冊本では、『いやしき』となっているとある。]

 

 当世の俳諧に慊焉たるだけ、去来の芭蕉に対する思慕の情は一層切なるものがあったに相違ない。

   翁の身まかり給ひし明る年の春
   義仲寺(ぎちゅうじ)へ詣て

 石塔もはや苔づくや春の雨       去来

というのは元禄八年の事であろう。

   芭蕉翁の奥の細道を拝してその
   書写の奥に書付けける

 ぬれつ干つ旅やつもりて袖の露     去来

[やぶちゃん注:「干つ」は「ほしつ」。]

 これは何時(いつ)の句か明(あきらか)でないが、「袖の露」の一語にはやはり追慕の情が籠っているように思われる。

   三回忌

 夢うつゝ三度は袖のしぐれかな     去来

   木曾塚にて

 船馬にまた泣よるや神無月       同

 「船馬」の句は元禄十六年の『幾人水主(いくたりかこ)』に出ている。芭蕉歿後年を重ねた門弟たちが、十月十二日となればあるいは馬に乗り、あるいは船によって栗津の義仲寺に集って来る、その情想いやるべきものがある。「はや苔つく」と去来の歎じた石塔も、更に古びを加えたことであろう。「船馬に」の上五字も、「また泣よるや」の中七字も、重々しいところに去来の面目が現れている。

   故翁の霊を祭りて

 里人も一門なみや魂まつり       去来

[やぶちゃん注:座五は「たままつり」。]

 この句は元禄十一年の『続有磯海』にある。毎年の忌日は固より、盂蘭盆(うらぼん)の来るごとに師翁の霊を祭ったものと見える。句作らぬ里人をも、一門の俳人並にして霊祭をするというのは、去来の去来たる所以であろう。

 芭蕉と去来との間に最も忘れがたい形見をとどめた嵯峨の落柿舎はどうなったか。元禄八年の『笈日記』に

   落柿舎

 放すかと問るゝ家や冬ごもり      去来

[やぶちゃん注:中七は「とはるるいへや」。「笈日記」(おひにつき(おいにっき))は支考編。]

という句があり、同九年の『小文庫(こぶんこ)』には、

   芽立より二葉にしげる柿の実と申侍りしは
   いつの年にや有けむ彼落柿舎もうちこぼす
   よし発句に聞えたり

 やがて散る柿の紅葉も寐間の跡     去来

[やぶちゃん注:「芽立」は「めだち」、座五「柿の実」は「かきのさね」と読む。「彼」は「かの」。]

ともある。「放すか」は手放すかの意であろう。師翁仮寐の迹であるから、永久にこれを存したいというのも一面の人情であるが、その人已に亡し、何を以てかこれをとどめむ、というのもまた一面の人情である。去来のような性格の人にあっては、あるいはこの思出の地に住するに堪えなかったかも知れない。

 「芽立より二葉にしげる」というのは丈艸の句である。従ってここに「うちこぼすよし」を発句で告げ来った者は丈艸であろうと思う。『丈艸発句集』に

   落柿舎すたれける頃

 渋柿はかみのかたさよ明屋敷      丈艸

とあるのがそれに当るのであろうか。かつて師翁もとどまり、自分も起臥した寝間の跡に、やがて散るべき柿の紅葉を想像する。そこに無限の感慨を蔵している。この前書の文章から考えると、落柿舎はこの時已に去来の有でなかったに相違ない。

 元禄十一年の『梟日記(ふくろうにっき)』に支考が長崎で去来に逢ったことを記して、

[やぶちゃん注:以下引用は全体が二字下げ。前後を一行空けた。「梟日記」は支考編。但し、宵曲は「元禄十一年」とするが、元禄十二年刊の誤り。]

 

牡年(ぼねん)魯町(ろちょう)は骨肉の間にして卯七(うしち)素行(そこう)はそのゆかりの人にてぞおはしける、この外の人も人つどひて丈艸はいかに髪や長からん、正秀(まさひで)はいかにたちつけ著る秋やきぬらん、野明(やめい)はいかに、野童(やどう)はいかに、為有(ためあり)が梅ぼしの花は野夫にして野ならず、落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらんと是をとひかれをいぶかしむほどに

[やぶちゃん注:「牡年」久米牡年(くめぼねん 明暦四・万治元(一六五八)年~享保一二(一七二七)年)肥前長崎の人。去来や以下の魯町の実弟。通称は七郎左衛門。長崎町年寄。「有磯海」以前は「暮年」、それ以後は「牡年」の号を用いた。「あら野」・「有磯海」・「韻塞」・「渡鳥集」などに入句する(以下、概ね伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」に拠った)。

「魯町」向井魯町(?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。去来の弟で牡年の兄。通称は小源太。儒学者で長崎聖堂の大学頭(だいがくのかみ)であり、また江戸幕府長崎奉行所の書物改役(あらためやく)も務めた。「有磯海」・「猿蓑」・「己が光」などに入句。去来との兄弟愛は去来の作品にもよく表われている。

「卯七」箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。通称は八平次。去来の義理の従兄弟。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。去来の追善集「十日菊」を編纂、「有磯海」などに入集する。去来との共著「渡鳥集」がある。

「素行」久米素行(くめそこう ?~享保一七(一七三二)年)。長崎の人。久米調内。去来の門人で長崎為替取次役人であった。

「丈艸」内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)。蕉門十哲の一人。尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれたが、内藤家は没落し、彼は武士を捨てて遁世、近江松本に棲んだ。元禄二年、元犬山藩士でもあった仙洞御所に勤める史邦(ふみくに:本「去来」の次の次で独立して語られる)を通じて去来経由で蕉門に入ったものと考えられている。 後に膳所義仲寺境内の無名庵に住み、芭蕉の近江滞在中は芭蕉の身辺で充実した時を過ごした。詩禅一致の道をひた向きに求めながらも、芭蕉の死後、自らの死までの十年の間、ひたすら、師の追善に生涯を捧げて世を去った。享年四十三。本「去来」の次に独立して語られる。

「正秀」水田正秀(みずたまさひで ?~享保八(一七二三)年)。近江生まれで大津膳所の湖南蕉門の有力な一人。通称、孫右衛門。藩士或いは町人であったとも言われ、後に医者となった。初めは尚白に師事したが、元禄三年秋に蕉門に入った。彼は膳所義仲寺に於ける芭蕉のパトロンでもあった。

「たちつけ」「裁ち着け」で袴の一種。膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもので、旅行の際などに用いる。「たっつけばかま」のこと。

「野明」坂井野明(?~正徳三(一七一三)年)。博多黒田家の浪人。姓は奥西とも。去来と親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えたもので、「鳳仭(ほうじん)」とも称した。

「野童」(~元禄一四(一七〇一)年)。仙洞御所の役人。京都蕉門の一人。元禄十四年の夏、御所で落雷に打たれて亡くなった。「猿蓑」・「有磯海」などに入集。

「為有(ためあり)が梅ぼしの花」意味不詳。「為有」という人物も判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野夫」「やぶ」。匹夫野人。

「野ならず」「やならず」と読んでおく。肝心の前部分が判らぬので、ここも意味が判らぬ。

「落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらん」「枕草子」に引かれて人口に膾炙する白居易の知られた七律「香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」(香爐峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す)の第四句「香爐峰雪撥簾看」(香爐峰の雪は簾を撥(かか)げて看る)を諧謔したもの。建物の「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に、上とは異なる仕上げ材を張ることを「腰張り」と称する。「槙」は「真木」で、ここは「良質の木」、木材として優れた杉や檜の類い。「落柿舎の秋は、障子を閉めて、壁の腰張りだけを剝ぎ取って、そこから月の光を室内に通わせる、槇(まき)で出来た扉(とぼそ)も閉じて感じるもの」の謂いであろう。月本体は見ぬのを風雅とするのである。]

 

といい、

 そくさいの数にとはれむ嵯峨の柿    去来

   返し

 柿ぬしの野分かゝへて旅ねかな     支考

という応酬を録している。これではまだ落柿舎は依然たるもののようであるが、その間の消息はよくわからない。去来自身も「嵯峨にひとつのふる家侍る」といい、芭蕉も「処々頽破す」と認めている位だから、落柿舎なるものは早晩何とかせねばならぬ頽齢にあったものかとも考えられる。

[やぶちゃん注:去来と芭蕉の引用はとっくに既出既注。

「そくさい」息災。

「野分」(のわき)は「野の草を風が強く吹き分ける」の意で、秋から冬にかけて吹く暴風。特に二百十日・二百二十日前後に吹く大風。]

 

 去来の句にはまた順礼の途に上ったらしいものが散見する。『笈日記』に

   此夏回国の時みのにて申侍る

 夏かけて真瓜も見えず暑かな      去来

[やぶちゃん注:「真瓜」は「まくは」でスミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa のこと。座五は「あつさかな」。]

とあるのが最も早いようであるが、三年後の『猿舞師(さるまわし)』には「所々順礼して美濃の国に至る」とあり、句も「美濃かけて真桑も見えず暑かな」と改められている。『猿舞師』と同年の『淡路嶋(あわじしま)』

 卯の花に笈弦さむし初瀬山       去来

[やぶちゃん注:「笈弦」は「おひずる」であるが、漢字表記は「笈摺」が正しい。巡礼が着物の上に着る単(ひとえ)の袖なしを指す。羽織に似ており、笈によって背が擦(す)れるのを防ぐために着るものとされるが、構成が左・右・中の三つの部分から成っており、両親のある者は左右が赤地で中央は白地、親のない者は左右が白地で中央に赤地の布を用いるという習慣があった。「おゆずる」とも呼ぶ。

「初瀬山」(はつせやま)は現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山(五四八メートル。グーグル・マップ・データ航空写真)。長谷寺の北西。歌枕。古くは「はつせ」と読んだ。

「猿舞師」種文編。元禄十一年刊。

「淡路嶋」諷竹編。]

 

とあり、元禄十四年の『そこの花』にも

 順礼も仕舞ふや襟に鮓の飯       去来

[やぶちゃん注:「襟」は「えり」。「鮓」は「すし」。

「そこの花」万子編。元禄十四年刊。]

というのがある。こういう撰集に取入れられる句は、必ずしもその年のものに限られているわけではないから、この順礼は思うに同一の場合であろう。『喪(も)の名残(なごり)』(元禄十年)にある

   美濃近江の堺寐物語の茶店にて

 夏の日にねものがたりや棒まくら    去来

という句もあるいは同じ時の作であるかも知れない。去来順礼の事は専門研究家に俟つより仕方がないが、とにかくこういう事実のあったことだけは、如上(じょじょう)の句によって立証することが出来る。もし『笈日記』の出た元禄八年の事と仮定するならば、芭蕉を喪(うしな)った翌年であることに注意すべきであろう。

[やぶちゃん注:「喪の名残」北枝編。

「堺」さかい。国境(くざかい)。

「寐物語」「ねものがたり」。ここ明らかに「美濃」と「近江」の国「堺」の「茶店」に泊まった夜の寝物語という設定であるが、当時は宿駅以外の宿泊は禁じられており、しかも街道の茶店などは人を泊めることは禁ぜられていた。しかし、当然の如く、よんどころない理由で茶店などに一泊を求め、内々にそうしたことを茶店などが許したケースが頻繁にあったようである。例えば、私の「耳囊 卷之九 不思議の尼懺解(さんげ)物語の事」を読まれたい。

「棒まくら」「竹夫人(ちくふじん)」のことであろう。竹で作られた筒状の抱き枕のこと。]

 

 元禄十四年七月、風国が亡くなった。

   悼風国

 朝夕に語らふものを袖の露       去来

という句が『そこの花』にある。去来の俳壇における地位は押しも押されもせぬものであったが、自家勢力の扶植(ふしょく)につとめなかった彼は、門葉を擁する一事になると、其角は勿論、嵐雪にも遠く及ばなかった。風国は去来の甥の一人であるが、同時に有力な俳諧の弟子でもある。最初の芭蕉句集である『泊船集』を編んだ外に、『初蟬』『菊の香』等の撰者として、風国の名は去来門下の随一に算えらるべきであろう。芭蕉が難波で最後の病牀に就いた時、北野の南に一軒の家を借り、養生所に宛てるつもりで心構[やぶちゃん注:「こころがまえ」。]したのは風国であった。「朝夕に」の句は句として大したものでなく、かつて嵐蘭を悼んだ

 千貫のつるぎ埋けり苔の露       去来

[やぶちゃん注:「埋けり」は「うめけり」。]

の如き力は発揮されていないけれども、それだけにまた風国に対する親しさが現れている。朝夕に語らうべき風国を喪ったことは、去来に取って大なる寂寞(せきばく)であったに相違ない。

[やぶちゃん注:「扶植」勢力などを、植えつけ、拡大すること。

「北野」京都の汎称地名。北野天満宮や、現在も北野を冠した町名が多くある。この付近(グーグル・マップ・データ)。]

2020/07/11

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 三

 

      

 『猿蓑』が出版された元禄四年も、芭蕉はなお多くの時を京洛(けいらく)附近の地に過しつつあった。特に四月十八日から五月四日まで、半月余の日子(にっし[やぶちゃん注:日数に同じい。])を落柿舎に送ったことは、芭蕉と去来との交渉を討(たず)ねる上において、最も重要な資料になっている。

 はじめ芭蕉が嵯峨に遊んで落柿舎に到った時は、凡兆も一緒であったが、日暮になって京ヘ帰った。「予は猶しばらくとゞむべきよしにて」というのは、けだし最初から去来の計画だったのであろう。舎中の一間を芭蕉の居間と定め、「机一、硯、文庫、白氏文集、本朝一人一首、世継物語、源氏物語、土佐日記、松葉集を置、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子をもり、名酒一壺盃そへたり」という心遣いを示した。加うるに「夜のふすま調菜の物ども京より持来てまづしからず」という有様であったから、芭蕉をして「我貧賤をわすれて清閑をたのしむ」の感あらしめたのも偶然ではなかったのである。

[やぶちゃん注:以上の引用は芭蕉の「嵯峨日記」の冒頭、元禄四(一六九一)年四月十八日の記載である。「予」は芭蕉であるので注意。正字で全文を示す(「新潮日本古典集成」の「芭蕉文集」を参考に漢字を恣意的に正字化して示した)。

   *

元祿四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨に遊びて去來が落柿舍に至る。凡兆、共に來たりて、暮に及びて京に歸る。予はなほ暫く留(とど)むべき由にて、障子つづくり、葎(むぐら)引きかなぐり[やぶちゃん注:雑草を引き抜いて。]、舍中の片隅一間(ひとま)なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、「白氏文集(はくしもんじふ)」・「本朝一人一首」・「世繼物語」・「源氏物語」・「土佐日記」・「松葉集」を置く。ならびに唐(から)の蒔繪(まきゑ)書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺(いつこ)、盃(さかづき)を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜(てうさい)[やぶちゃん注:副食品の素材材料。]の物ども、京より持ち來たりて乏しからず。わが貧賤をわすれて、淸閑に樂しむ。

   *

「本朝一人一首」は林鵞峰(はやしがほう)編の漢詩集で寛文五(一六六五)年跋で同年板行。「世繼物語」は「栄花物語」と「大鏡」の異名。「松葉集」は宗恵編で万治三(一六五八)年板行の「松葉名所和歌集」のこと。「菓子」は果物や餅菓子といったものを広く指す。]

 

 当時の落柿舎の模様については、去来は「嵯峨にひとつのふる家侍る」といったのみで、多くを語っておらぬが、芭蕉の記すところに従えば、「落柿舎はむかしのあるじの作れるまゝにして処々類破す。なかなかに作りみがゞれたる昔のさまよりも、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁[やぶちゃん注:「うつばり」。]画る[やぶちゃん注:「ゑがける」。]壁も風に破れ雨にぬれて、奇石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたる」云々とあって、昔は相当立派なものだったことが想像される。そういう家の頽破に赴いた一間に、寂然として坐っているのは、幻住庵ともまた違った趣があって、いたく芭蕉の閑情に適したものであろう。来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとしたのと、曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ)をのぼる」とある位のもので、余は全く落柿舎に籠って清閑の気分に浸っていたらしい。客もなく、去来も来ず、雨が降って寂しい日などは、芭蕉一流の含蓄の多い「むだ書」[やぶちゃん注:「むだがき」。]をして遊んだのであった。子規居士はこの嵯峨滞在当時の芭蕉を評して、「この頃の俳句を見るに、全く覇気を脱し円満老熟す。されば人を驚かすの意匠もなく、一通りの事を詠み出でたる如く見ゆれど、境[やぶちゃん注:「きやう」。]と合ひ分(ぶん)に安んずる芭蕉の心情は藹然(あいぜん)としてその中にあらはるるを覚ゆ」といっているが、『嵯峨日記』一巻を世にとどめたについては、芭蕉をして清閑を満喫せしめた去来の功を首(はじめ)に置かねばならぬ。但(ただし)去来の句は『嵯峨日記』には殆ど見えていない。僅に途上所見として語った

 つかみあふ子供のたけや麦ばたけ  去来

が録されているのみである。

[やぶちゃん注:「嵯峨にひとつのふる家侍る」は去来の書いた俳文「落柿舎の記」の冒頭。短いので全文電子化する。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年第七高等学校国語科編「俳諧文選 附・俳句連句選」に載るものを視認した。読みは小学館「日本古典全集」の「近世俳句俳文集」所収のものを参考に歴史的仮名遣で添えた。「友どち」のみ、「近世俳句俳文集」で底本の『友だち』とあるのを訂した。句の「柿」はママ。

   *

    落柹舍             去來

嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柹の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持ち來らず、代(しろ)がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥(わうしやう)が志(こころざし)にもはぢよ、もし鳶(とび)烏(からす)にとられなば、天(あめ)の帝(みかど)のめぐみにもゝれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月(はづき)の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより、商人(あきうど)の來り、立木(たちき)に買ひ求めんと、一貫文さし出(いだ)し悅びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落ちもやまず。明くれば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我(われ)むかふ髮(がみ)の比(ころ)より、白髮(しらが)生(お)ふるまで、此事を業(わざ)とし侍れど、かくばかり落ちぬる柹を見ず。きのふの價(あたひ)、かへしくれたびてんやとわぶ。いと便(びん)なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許(もと)へ消息(せうそこ)送るとて、みづから落柹舍の去來と書はじめけり。

  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山

   *

元禄二(一六八九)年の稿。但し、去来が洛西の嵯峨にこの別荘の持ったのは貞享三(一六八六)年のことであった。少し語注する。

・「代(しろ)がゆる」「代」は「代金」の意で、「金に換える」の意。

・「このみ」「木の実」柿の実。それを留守居の者が収穫して私の所に持って来るということもしないというのである。

・「屋敷もる人」は「屋敷守る人」で留守居の管理人。

・「王祥が志」とは「晋書」(唐の房玄齢らの撰)の「巻三十三 列傳第三」の「王祥」に「有丹奈結實、母命守之、每風雨、祥輒抱樹而泣。其篤孝純至如此。」(丹奈(たんな)有り、實を結ぶ。母、命じて之れを守らしむ。風雨の每(ごと)に、祥、輒(すなは)ち樹を抱きて泣く。其の篤孝、純至なること、此くのごとし。)とある。「丹奈」は唐梨、紅林檎の類。

・「一貫文」一両の四分の一。

・「むかふ髮の頃」前髪にしていた幼少の頃。

・「侘ぶ」しょんぼりとしている。

・「便なければ」気の毒に感じたので。

・「ゆるしやりぬ」許して金を返してやった。

   *

「芭蕉の記すところに……」以下は「嵯峨日記」より。まず、元禄四(一六九一)年四月二十日。前に同じく「新潮日本古典集成」を参考に恣意的に漢字を正字化した。

   *

二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(うこうに)來たる。

去來京より來たる。途中の吟とて語る。

 つかみあふ子共の長(たけ)や麥畠

落柿舍は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破す。なかなかに、作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、 畫(ゑが)ける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹緣(たけえん)の前に柚(ゆ)の木一もと、花かんばしければ、

 柚の花や昔しのばん料理の間(ま)

 ほととぎす大竹藪をもる月夜

   尼羽紅

 又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山

去來兄の室より、菓子・調菜の物など送らる。

今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊帳一はりに上下(かみしも)五人こぞり臥したれば、夜も寢(い)ねがたうて、夜半(よなか)過ぎよりおのおの起き出でて、晝の菓子・盃(さかづき)など取り出でて、曉近きまで話し明かす。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に臥したるに、二疊の蚊帳に四國の人臥たり。「思ふ事よつにして夢もまた四種(よぐさ)」と、書き捨てたる事どもなど、言ひ出だして笑ひぬ。明くれば羽紅・凡兆、京に歸る。去來、なほとどまる。

   *

・「羽紅尼」「凡兆」で見た通り、凡兆の妻。

・「昔のあるじ」元の持ち主は豪商であった。

・「尼羽紅」「又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山」この前書は以下の句の作者であることを示すものであるので注意されたい。

・「去來兄の室」去来の長兄で医師であった向井元端(げんたん)の妻多賀(たが)。

より、菓子・調菜の物など送らる。

・「去年の夏」芭蕉は前年の元禄三年夏にも京に上っていた。

・「四國」「しこく」であるが、四つの別々な国の出の人の意。具体的には伊賀国の芭蕉・肥前国の去来・尾張国の丈草・加賀国の凡兆。

   *

「来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとした」「嵯峨日記」四月十九日の条。

   *

十九日 午(うま)の半ば、臨川寺(りんせんじ)に詣づ。大井川前に流て、嵐山(あらしやま)右高く、松の尾里に續けり。虛空藏(こくうぞう)に詣づる人行きかひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷(こがうやしき)といふ有り。すべて上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り、いづれか確かならむ。かの仲國(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留(こまどめ)の橋といふ、こあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪(やぶ)の内にあり。しるしに櫻を植たり。かしこくも錦繡綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥して、 つひに藪中(そうちゆう)に塵芥(ちりあくた)となれり。昭君村(せうくんそん)の柳、巫女廟(ふぢよべう)の花の昔も思ひやらる。

 憂き節や竹の子となる人の果て

 嵐山藪の茂りや風の筋

斜日に及びて落柿舍に歸る。凡兆、京より來たり、去來、京に歸る。宵より臥す。

   *

・「牛の半ば」正午過ぎ頃。

・「臨川寺」亀山天皇の離宮を禅寺とした臨済宗霊亀山臨川寺。夢窓国師の開基で景勝の地。落柿舎の東南一キロメートルほどの位置(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある。

・「大井川」渡月橋付近での名。ここから上流は保津川、下流は桂川と呼ぶ。

・「松の尾の里」嵐山南麓の現在の松室北松尾(まつむろきたまつお)。

・「虛空藏」行基の開基と伝える真言宗智福山法輪寺の本尊。桂川の落柿舎の対岸にある。

・「小督屋敷」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために退けられて嵐山に隠棲した屋敷。この頃既に嵯峨中に三ヶ所もあったというほど、既に遺跡は定かではなかったのである。現在、法輪寺の対岸に「小督塚」があるが、そこがその一つ。但し、ここでの芭蕉のそれは先の松尾で違う。

・「仲國」源仲国。「平家物語」によれば、高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされる。その際に馬を繋いだ場所が「駒留の橋」(渡月橋の下流直近にあった小橋とされるが、不詳。現在の小督塚とは渡月橋で対称位置の別な場所である。芭蕉の謂いから当時、既にこの橋はなかった模様である)。芭蕉はこの辺りが本当の小督屋敷跡らしい推察している。なお、仲国は宇多源氏で、源実朝と一緒に義時と誤認されて鶴岡八幡宮社頭で公暁に殺害された源仲章の兄である。

・「錦繡綾羅」錦の刺繡を施した織物と、高級な綾絹や薄絹で、高級で豪華な褥(しとね)のことであるが、ここは天皇に侍しての宮中の華麗なる生活を追懐したもの。

・「昭君村」「巫女廟」「白氏文集」の「峽中(けふちゆう)の石上(せきしやう)に題す」の詩の起・承句による。

   *

 題峽中石上     白居易

巫女廟花紅似粉

昭君村柳翠於眉

誠知老去風情少

見此爭無一句詩

 巫女廟(ふぢよべう)の花 紅きこと 粉(こ)に似て

 昭君村の柳 眉(まゆ)よりも翠(みどり)なり

 誠に知る 老い去れば 風情 少なけれど

 此れを見れば 爭(いかで)か 一句の詩 無からん

   *

・「巫女廟」楚の懐王が夢の中で見た巫山(ふざん)の女神を祀った廟。

・「昭君村」とは漢の悲劇の美女王昭君の生まれた村の意。彼女は紀元前三三年、元帝の命により、匈奴の呼韓邪単于 (こかんやぜんう) に嫁し、寧胡閼(ねいこえん)氏と称した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら、遂に生涯を胡地に送った。

   *

『曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬をのぼる」』「嵯峨日記」五月二日の条。

   *

二日

曾良來りてよし野の花を訪ねて、熊野に詣で侍る由(よし)。

武江(ぶかう)舊友・門人の話、彼かれこれ取りまぜて談ず。

 熊野路や分つつ入れば夏の海  曾良

 大峰(おほみね)やよしのの奧を花の果て

夕陽(せきやう)にかかりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて[やぶちゃん注:ママ。]戶難瀨(となせ)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて歸る。

   *

・「武江」武蔵国。江戸。

・「大峰」この句も曾良のもの。吉野の奥の修験道場のメッカ。

・「戶難瀨」渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所で歌枕。

   *

「むだ書」「嵯峨日記」の四月二十二日の条前半に(後半は略したので注意)、

   *

二十二日

朝の間、雨、降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書きしてあそぶ。その言葉、

[やぶちゃん注:以下、参考本では二字下げ。前後を一行空けた。]

 

喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす。

「さびしさなくば憂(う)からまし」と西上人(さいしやうにん)[やぶちゃん注:西行。]のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。

また、詠める、

 

  山里にこは又誰(たれ)を呼子鳥(よぶこどり)

     ひとり住まむと思ひしものを

 

ひとり住むほど、おもしろきはなし。

長嘯隱士の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂、此言葉を常にあはれぶ。予もまた、

 

  憂き我をさびしがらせよ閑古鳥(かんこどり)

 

とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。

   *

・「喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす」「荘子」の「雑篇」の「漁父」篇に出る、「飮酒以樂爲主、處喪以哀爲主」(酒を飮むものは樂しみを以つて主(あるじ)と爲(し)、喪に處(よ)るものは哀しみを以つて主と爲(す))に基づく。

・「さびしさなくば憂からまし」西行の「山家集」の、

 とふひとも思ひ絕えたる山里の

    さびしさなくば住み憂からまし

を指す。

・「山里にこは又誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを」これは西行の「山家集」所収の、

 山里に誰をまたこは呼子鳥ひとりのみこそ住まむと思ふに

の記憶違い。

・「長嘯隱士」武将で俳人の木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。「去来 二」に既出既注。以下の引用は彼の「挙白集」に、『やがてここを半日とす。客はそのしづかなることを得れば、我そのしづかなるを失ふに似たれど、思ふどちの語らひは、いかで空(むな)しからん』の前半の絶対性を示したもの。

・「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」「ある寺にひとり居て言ひし句なり」三重県長島町にある大智院で、元禄二年九月、「奥の細道」を終えて大垣から伊勢参宮に向かう途中で止宿した際の詠の意。但し、その時の初案は、

   伊勢の國長島大智院に信宿ス

 うきわれをさびしがらせよ秋の寺

で、この時、かく改案したものである。

   *

「境と合ひ分に安んずる」今の落柿舎での風致自然に完全に一体となり、自身の「分」(ぶん)を正確に摑み得て泰然自若としている。

「藹然(あいぜん)」気持ちが穏やかで和らいださま。]

 

 芭蕉が東武に帰った後の撰集にも、去来の名は大概見えているが、特に力を用いたと思われるほどのものはない。同じような状態が続いているうちに、元禄七年になって芭蕉は最後の大旅行の途に上った。伊賀から奈良を経て大阪へ出るまでの随行は支考、惟然等で、去来はあまり関係がなかったが、一たび難波(なにわ)に病むの報を得るや、直に馳せてこれに赴いた。

   芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときゝて
   伏見より夜舟さし下す

 舟にねて荷物の影や冬ごもり    去来

の句はその際の実感である。去来が芭蕉の病床に侍したのは十月七日からで、暫時もその側を離れなかった。かつて芭蕉が去来を訪れた時、「誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老(おい)て子のごとくする事侍らず」といったのを聞いて、去来は少からず感激した。自分は世務(せいむ)に累せられて何ほどの事も出来ぬのに、この一言は深く胆に銘じて覚えたから、せめてこの度は御側を離れまいと思う、といったよしが支考の『笈日記』に見えている。これは去来の篤実なる性格を語ると共に、芭蕉との心契の尋常ならざるを窺うべきものであろう。

[やぶちゃん注:「世務に累せられて」世俗のあれやこれやの雑事の関わり合いを受けてしまって。この部分、原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)の十月七日の条で読める。]

 

 芭蕉最後の病床における去来は、寔(まこと)に芭蕉のいわゆる俳諧の西国奉行たるに恥じぬものであった。

 凩の空見なほすや鶴の声     去来

と詠み、

 病中のあまりすゝるや冬ごもり  去来

と詠み、種々に心を砕いたが、芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を形見として、天外に去ってしまった。

 『去来発句集』には「病中の」を改めて「白粥(しらがゆ)の」とし、「翁の病中」なる前書を置いているが、「病中のあまり」では何の事かわからぬ点もあるから、後に修正したのかも知れない。去来の句はもう一つ

 忘れ得ぬ空も十夜の泪(なみだ)かな 去来

というのが伝わっているが、師を喪(うしな)った大なる悲愁は、到底かかる句のよく悉(つく)す所ではなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「凩の」の句は其角の「芭蕉翁終焉記」(リンク先は私のPDF縦書版)によれば、芭蕉が「旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る」と詠んだ元禄七(一六九四)年十月八日の後、「各(おのおの)はかなく覺えて」皆して詠んだ「賀會祈禱の句」の二句目に出る。

「病中の」の句は、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『十月十一日夜――芭蕉が大坂南御堂前花屋仁左衛門方裏座敷で没する前夜』(芭蕉は翌十二日申の刻(午後四時頃)に亡くなった)『のことであるが、集まった門人たちに芭蕉が夜伽の句を要請したときの一句である。病床に臥す師翁の食べ残しを啜りながら、ひっそりと冬籠りをしていると、さまざまの思いにかられることだ、といった句意であろう。「あまりすゝるや」に師を案ずる心が十分に籠められている』とされ、さらに、「浪化日記」所載の『元禄七年十一月筆(十二月四日受)浪化宛去米書簡には上五「病人の」とある』とされ、宵曲の言うように「去来句集」には『「翁の病中」という前書があり、上五も「白粥の」となっている』とある。藤井紫影氏の校になる「名家俳句集」(昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊)の「去來發句集」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ)を見られたい。

「忘れ得ぬ」の句は、前注リンク先では、

   傷亡師終焉

 わすれ得ぬ空も十夜の泪かな

と前書する。]

 

 芭蕉が亡くなった翌年、浪化の手によって『有磯海(ありそうみ)』『となみ山』が上梓された。浪化は元禄七年にはじめて芭蕉に面したので、場所は落柿舎であったというから、去来との交渉はその前からあったものであろう。浪化は芭蕉生前から撰集の志があり、芭蕉は『浪化集』という名にしたらよかろうといったとも伝えられている。『となみ山』は芭蕉追懐の情の著しいもので、『枯尾花』に漏れた追悼の発句、芭蕉に因ある歌仙の類を収めているが、特に其角の筆に成る『刀奈美山引』は、其角、嵐雪、桃鄙、去来の四人が落柿舎に一泊した模様を叙したものとして注目に値する。落柿舎の名がしばしば現れるのは、一面において去来の立場の有力なことを語るものに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「刀奈美山引」は「となみやまのいん」と読み、元禄八年の春の初め頃に書かれたもので、浪化編に成る上記の二冊の撰集の板行を祝したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「芭蕉翁全集」(佐々醒雪・巌谷小波校。大正五(一九一六)年博文館刊)のここで「となみ山」とともに視認出来る。]

 『有磯海』『となみ山』は浪化の撰となっており、去来は

  ありそ海集撰たまひける時、入句ども
  書あつめまいらせけるにそへて祝ス

 鷲の子や野分にふとる有そ海    去来

  賀刀奈美山撰集

 凩や剱を振ふ礪波山        同

の両句を巻末に記しているまでのようであるが、実際は去来の斡旋に成ったものであること、疑うべくもない。其角が『となみ山』の中に

  元禄猪頭勇進之日   其角

   去来丈

    演説し給ヘ

と書いたのも、この意味において看過すべからざるものである。「猪頭勇進」は元禄八年の亥年にかけたまでであるが、芭蕉歿後の俳壇における去来の活動を期待しているらしい様子は、この短い文句からも想像出来る。

[やぶちゃん注:去来のそれは前注で示した「芭蕉翁全集」のここで、其角のそれはここ。「撰」は「えらび」、「賀刀奈美山撰集」は「『砺波山』撰集を賀す」、「元禄猪頭勇進之日」は「元禄猪頭(ちよとう)勇進(ゆうしん)の日」と読む。]

 

  『有磯海』『となみ山』にある去来の句は、さのみ多いというわけではないが、粒は揃っている。

 早稲干や人見え初る山のあし    去来

[やぶちゃん注:上五は「わせぼしや」、「初る」は「そむる」。]

 酒もりとなくて酒のむほしむかへ  同

 臥処かや小萩にもるゝ鹿の角    同

[やぶちゃん注:上五は「ふしどかや」。「小萩」は「こはぎ」。]

 明月や向への柿やでかさるゝ     去来

 しぐるゝやもみの小袖を吹かへし   同

 朝霜や人参つんで墓まゐり      同

 応々といへどたゝくや雪のかど    同

[やぶちゃん注:上五は「おうおうと」。家の中から十人は応えているのであるが、雪に吸い込まれてか、それは訪ねてきた人物の耳に入らず、相変わらずその人は戸を叩いているという情景である。「去来抄」の「同門評」に、

   *

 應々といへどたゝくや雪のかど  去來

丈艸曰、此句不易にして流行のたゞ中を得たり。支考曰、いかにしてかく安き筋より入らるゝや。正秀曰、たゞ先師の聞たまざるを恨るの。曲翠曰、句の善悪をいず、當時作ん人を覺えず。其角曰、眞雪門也。許六曰、尤好句也。いまだ十分ならず。露川曰、五文字妙也。去來曰、人々の評又おのおの其位よりいづ。此句先師遷化の冬の句也。その比同門の人々も難しと、おもへり。今自他ともに此場にとゞまらず。

   *

と全員がそれぞれに褒めている。しかし、ここまで言われると、それほどでもなかろうに、と言いたくなる私がいる。なお、以上からこの句の成立が芭蕉の亡くなった直後の、元禄七年冬であることが判る。なお、堀切氏の前掲書によれば、初案は、

 たゝかれてあくる間しれや雪の門

で、再案は、

 あくる間を扣(たた)きつゞけや雪の門

で、実はともに「小倉百人一首」で知られた右大将道綱母(藤原道綱の母)の一首で「拾遺和歌集」巻第十四の「恋」に載る、

 歎きつつひとりぬる夜の明くる間は

      いかに久しきものとかは知る

から『発想されたものであるが、成案』『では、その本歌の痕跡を全くとどめないまでに推敲されている』とあり、『元禄八年正月二十九日付許六宛去来書簡に』も『「此句のさびのつきたるやうにぞんじられて、此(これ)を自讃仕(つかまつり)候。」とも記している』とある。しかし、正直、推敲過程を知ると、ますます駄句じゃなかろうかと私などは思う。少なくとも「寂び」とする境地の根っこが甚だ浅い諧謔に過ぎなかったという底意が見えてしまうように私には思われるのである。]

 瘦はてゝ香にさく梅の思ひかな     同

 五六本よりてしだるゝ柳かな      同

 花見にもたゝせぬ里の犬の声      同

   元禄七年久しく絶たりける祭の
   おこなはれけるを拝て

 酔顔に葵こぼるゝ匂ひかな       同

[やぶちゃん注:「祭」賀茂祭(かものまつり)、所謂、「葵祭」のこと。かの祭りは、実は中世の戦乱期に中絶してしまっていた。その旧儀を再興しようとする朝廷と神社(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ:通称・上賀茂神社)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:通称・下鴨神社))側の動きを幕府が認めるところとなり、元禄七(一六九四)年四月、百数十年ぶりに祭りが行なわれたのであった。上五は「ゑひがほに」。]

 水札なくや懸浪したる岩の上      同

[やぶちゃん注:「水札」は「けり」で、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus。「計里」「鳧」とも書く。全長約三十五センチメートルで背面は灰褐色、腹は白色で、飛ぶと、翼と尾に鮮やかな黒白の模様が出る。擬傷行為が巧みなことで知られる。アジア東北部に分布し、本邦では近畿以北の限られた地域でのみ繁殖している。ここは河原、それもかなり流れの速い岩場の景である。姿と鳴き声はYouTubeのroido frow氏の「ケリの鳴き声」で視聴されたい。「懸浪」は「かけなみ」。]

   紀の藤代を通ける比、此処に三郎重家の
   末今にありと聞およびぬれば、道より少
   山ぞひに尋入侍しに、門ついぢ押廻シ飼
   たる馬みがきたる矢の根たてかざりてい
   みじきもののふ也、又庭にいにしヘの弓
   懸松とて古木など侍りけり

 藤代やこひしき門(も)に立すゞみ  同

[やぶちゃん注:座五は「たちすずみ」と読む。

「藤代」現在の和歌山県海南市藤白(グーグル・マップ・データ)。歌枕の宝庫。

「三郎重家」源義経に従って源平合戦の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期をともにした鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家」によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主である鈴木重家は、平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる。『義経記』には義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか、『源平盛衰記』にも義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て』、『長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため鈴木山重染寺を建てたと云われる』。『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されている。他に、平泉を脱した後、義経の命により岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。また、ウィキの「藤代鈴木氏」によれば、『鈴木重家の死後、紀伊国に残った次男・重次が跡を継いだ。重次は承久の乱で朝廷方として参加して』正嘉二(一二五八)年八月に六十四歳で『没し、南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇の南朝に属した』。明徳三(一三九二)年には『鈴木重義が山名義理』(やまなよしただ/よしまさ)『に従って大内義弘と戦い戦死し、戦国時代には石山合戦で顕如に味方し』、『神領を失った。大坂の陣では鈴木重興が徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から』六『石の寄進を受けた』。昭和一七(一九四二)年に『最後の当主・鈴木重吉が病気で急死し、藤白神社神主家の鈴木氏は断絶した』とある。]

 「朝霜」の句は丈艸の「朝霜や茶湯(ちやとう)の後のくすり鍋」の句に答えたものである。芭蕉の歿後、丈艸は無名庵におって、健康もすぐれぬような状態にあった。この応酬の間にも、去来と丈艸は自(おのずか)ら相通ずるものを持っている。

 「しぐるゝや」の句は、正秀(まさひで)が評して去来一生の句屑だといった。去来は自ら弁じて「しぐれもて来る嵐の路上に紅(もみ)の小袖吹かへしたるけしきは、紅葉吹おろす山おろしの風と詠(よみ)たるうへの俳諧なるべしと作し侍るまでなり」といっている。「紅葉吹おろす山おろしの風」は『新古今集』にある源信明の歌、「ほのぼのとあり明の月の月影に紅葉ふきおろす山おろしの風」である。同じく寂しい中に艶(えん)なところのある趣であるが、時雨の路上に紅の小袖の吹き返さるる様は、正に俳諧の擅場(せんじょう)であろう。人を描かずに小袖だけ描いた手法の巧よりも、われわれはこの種の句が持つ気稟(きひん)の高さに留意したい。

 「応々と」の句は去来の作として、最も人口に膾炙したものの一である。同門の人、もこれに対する賞讃の辞を惜まなかったらしい。一見大まかなようであって、しかも微妙なものを捉えている。「応々と」の一語に去来らしい響が籠っているのも、この句を重厚ならしむる一因であろう。

 「五六本」の句は眼前見たままの景色に過ぎぬ。ただ「よりてしだるゝ」の中七字に一種の力があって、庸人(ようじん)の企及を許さぬような感じがする。

[やぶちゃん注:「庸人」凡庸な人。一般の人。

「企及」肩を並べること。匹敵すること。]

 

 「酔顔に」の句はやはり気稟の高さを見るべきものである。久しく絶えていた葵祭が元禄七年に再興されたということは、いずれ何かに出ているのであろうが、手近の歳時記などには記されていない。京都の住人たる去来は、固より多大の感激を以てこの祭の復興を眺めたであろう。去来の句は其角の如く時代風俗に忠なるものではないが、時としてこういうものが介在している。この辺凡兆などとは大分違うようである。

 「藤代や」の句は前書がなかったら、多少曲解者を生ずる虞(おそれ)があるかも知れない。「家に譲りの太刀はかん」といい、「鎧著てつかれためさん」といい、「笋の時よりしるし弓の竹」といい、「しら木の弓に弦はらん」といい、「弓矢を捨て十余年」といい、「伏見の城の捨郭」というが如き去来の一面は、この藤代の句にも現れている。もう少し立入っていえば、句よりも前書の方に現れているのであるが、いずれにせよ「家に譲りの太刀はかん」以下の句の作者でなければ、三郎重家の裔(すえ)の住居を「こひしき門ごとして、そこに立涼むことはなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:宵曲の「藤代や」の褒め方はあたかも御大層な画題を附したサルバドール・ダリの絵がどこかその画題に名前負けしている(ダリのタッチはキリコなどに比べたら遙かに繊細で見事ではあるが)感じとよく似ているように私は思う。]

2020/07/05

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 二

 

         

 

 元禄元年、其角が二度目に京に遊んで翌年まで滞在した時、去来は無論これに逢っている。去来の句が其角の撰集に見えるのは貞享四年の『続虚栗』からであるが、その当時已に其角と多少の交渉があったか、単に京洛の一作者としてその句を収めたものか、それはわからぬ。貞享元年に其角が京へ上って、京の俳人と唱和した『蠧集(しみしゅう)』の中には、去來の名はまだ見えぬから、俳人としての去来はその後に及んで形を成したものに相違ない。

[やぶちゃん注:「元禄元年」一六八八年。

「貞享四年」一六八七年。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「貞享元年」一六八四年。

「蠧集(しみしゅう)」当時、二十四歳の其角が上京して春澄らの京都の俳人と座を同じくして同年に京都で板行した其角編の俳諧撰集。書名は同集に載る世吉(よよし:四十四句形式の連句)の「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を拂ひけり」という友静の発句に由る。]

 元禄三年に其角が上梓した『新三百韻』及『いつを昔』は、二度目の上京の記念と見るべきもので、『新三百韻』には去来の名は見当らぬが、『いつを昔』の中にはやや注目すべきものがある。

 朝桜よし野深しや夕ざくら   去来

   ひろさは

 池のつら雲の氷るやあたご山  同

[やぶちゃん注:「ひろさは」嵯峨野の「廣澤の池」。「あたご山」愛宕山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。広沢の池の北西六キロメートル半ほどの位置にある。「いつを昔」に元禄元年『十月廿日 嵯峨遊吟』(其角・凡兆と同行)とする内の一句。]

   臨川寺

 凩の地迄おとさぬしぐれかな  同

[やぶちゃん注:「臨川寺」嵯峨野渡月橋の左岸東北直近にある寺。これも前の句と同じ吟行中の一句であるが、後の「去来抄」に載るものは、

 凩の地にもおとさぬしぐれ哉

と改作している。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、「葛の松原」支考著・不玉編・元禄四年刊)に『よれば「されど、迄といへる文字は未練の叮嚀なれば、ただ地にも落さぬと有るべき」だという芭蕉の教えによって改案したものであり、『去来抄』にも、荷兮の「凩に二日の月のふきちるか」の句との比較の上で、「汝が句は何を以て作したるとも見えず、全体の好句也。たゞ地迄とかぎりたる、迄の字いやしとて直したまへり」と、同じく芭蕉の斧正があった旨を記している。「地迄」では、説明に堕し、天地の空間のひろがりが感じられないのである』とある。]

   大井里

 冬枯の木間のぞかん売屋敷   同

[やぶちゃん注:「大井里」は「おほゐのさと」。嵯峨の奥、保津川沿い。現在の京都府亀岡市のこの付近。「木間」は「このま」。「いつを昔」に前の「池のつら雲の氷るやあたご山」の句と並んで載るので、やはり同じ吟行の作と思われる。]

   続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに
   首尾年ありて此集の人足にくはゝり
   侍る

 鴨啼や弓矢を捨て十余年    同

[やぶちゃん注:「此集」は「いつを昔」のことであるが、この前書は少し判り難い。堀切氏の前掲書の本句の注に、『この句は『いつを昔』に載る去来・嵐雪・其角の三吟歌仙の発句であるが、この句を詠んだ貞享三年冬当時は、この歌仙が未完成だったため、『続虚栗』には間に合わず、その後年を経て首尾したので、『いつを昔』に加えられることになったとの意である』とある。上五は「かもなくや」。「捨て」は「すてて」。堀切氏の評釈によれば、『鴨の鴫き声を聞いて、ふと己れの半生を述懐した句である。弓矢の修業の道を捨てて十余年――もはやすっかりに隠士の境涯にある自分は、いま鴨の淋しげな鳴き声を耳にすると、過ぎし曰のことをしみじみと思い返してしまうことだというのである。かつて剣術・柔術・馬術・兵法などあらゆる武芸の道を究めた去来も、仕官お志を断ってはや十余年、この年、貞享三年にはすでに三十六歳を迎えていたのであった。若き日の己の姿と現在の境涯とを比べて、深い感慨を催しているのである』と、句よりも素敵な解を記しておられる(私は本句に惹かれない)。さらに、其角編とされる「俳諧錦繡緞(きんしゅうだん)」(元禄一〇(一六九七)年刊。但し、近年疑義有り)には『「番匠(ばんしょう)の入口に『俳諧に力なき輩(ともがら)、かたく入(いる)べからず』と定めたるも」と前書。『句集』は下五「十五年」とする』とある。]

 弓になる笋は別のそだちかな  同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

   鉢たゝき聞にとて翁のやどり申されしに
   はちたきまいらざりければ

 箒こせまねても見せん鉢扣   同

[やぶちゃん注:「箒」は「はうき」。「鉢扣」は「はちたたき」。空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名であった。堀切氏前掲書に、『元禄二年の師走二十四日、郷里伊賀から京へ出て、嵯峨の落柿舎(もしくは中長者町堀川の去来宅)に泊まった芭蕉は、鉢叩きがやってくるのを夜通し待ち詫びたが、ついに廻ってこなかった。そこで去来は、待ち詫びた師翁へのせめてもの慰めにしたいので、誰かはやく箒をよこしなさい――わたしが箒を手に持って鉢叩きの恰好をまねてみせましょう、と即興的に吟じたのである。もちろん、実際に鉢叩きの姿をしてみせたというのではなく、この句を献ずることで、慰めの志を示して、自ら興じたものとみてよかろう』とある。実は去来にはこのエピソードを素材にした俳文「鉢扣の辭」がある。宵曲は面倒として後で抄録するが、実際には短いし、去来嫌いの私にして、この一篇は非常に好きな小品なので、以下にフライングして電子化しておく。底本は昭和八(一九三三)年大倉広文堂刊藤井乙男校註「江戸文學新選」を国立国会図書館デジタルコレクションで視認した。読みは私が歴史的仮名遣で附した。一部に読み易く鍵括弧を附した。ロケーションは嵯峨の落柿舎である。

   *

   ○鉢扣の辭

 師走も二十四日、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞(きか)むと例の翁わたりましける。こよひは風はげしく雨そぼふりて、とみに來(きた)らねば、いかに待ち侘び給ひなむといぶかりおもひて

  箒こせ眞似ても見せむ

と灰吹(はひふき)の竹うちならしける。其聲妙(たへ)也。「火宅(くわたく)を出(いで)よ」と仄めしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもあらず。かれが修行は瓢簞をならし、鉦打たゝき、二人三人つれてもうたひ、かけ合(あひ)ても諷(うた)ふ。其の唱歌は、空也の作也。かくて寒の中と、春秋の彼岸は、晝夜をわかず都の外(そと)七所(しちしよ)の三昧(さんまい)をめぐりぬ。無緣の手向(たむけ)のたふとければ、 かの湖春も、「わが家はづかし」とはいへり。常は杖のさきに茶筌(ちやせん)をさし、大路小路に出て、商ふ業(わざ)かはりぬれど、さま同じければ、「たゝかぬ時も鉢扣」とぞ曲翠は申されける。あるひはさかやきをすり、或は四方(しはう)にからげ、法師ならぬすがたの衣(ころも)引(ひき)かけたれど、それも墨染にはあらず、おほくは、萌黃(もえぎ)に鷹の羽(は)打ちがへたる紋をつけて着たれば、「月雪(つきゆき)に名は甚之亟(じんのじよう)」と越人も興じ侍る。されば其角法師が去年(こぞ)の冬、「ことごとく寢覺(ねざめ)はやらじ」と吟じけるも、ひとり聞くにやたへざりけむ。「うちとけて寢たらむは、かへり聞(きか)むも口をしかるべし。明(あか)してこそ」との給ひける。橫雲の影より、からびたる聲して出來(いできた)れり。「げに老ぼれ足よはきものは、友どちにもあゆみおくれて、獨り今にやなりぬらん」と、翁の

  長嘯(ちやうせう)の墓もめぐるか鉢たゝき

と聞え給ひけるは此のあかつきの事にてぞ侍りける。

   *

少し語釈しておく。

・「師走も二十四日」元禄二年十二月二十四日(グレゴリオ暦一六九〇年二月三日)。

・「冬もかぎりなれば」元禄二年は閏一月があったために年内立春となり、この日に寒が明けたのである。

・「とみに」すぐには。

・「灰吹」煙草の灰を入れる竹筒。

・「火宅を出よ」これは鉢叩きがよく詠ずる歌の知られた一節。

・「七所の三昧」当時の洛外七ヶ所の墓地。鳥部野(鳥辺山)・阿弥陀ヶ峰・(新)黒谷・船岡山(蓮台野)・西院(さいいん)・狐塚(栗栖野(くりすの))・金光寺(こんこうじ)。

・「湖春」は北村季吟の嫡男。本名は李重。その一句は「米やらぬわが家はづかし鉢敲き」である。

・「茶筌」鉢叩きの僧はこの時期以外は、茶筌を作って街路で売って身銭としていた。

・「曲翠」は大津膳所藩重臣菅沼外記定常(万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。近江蕉門の重鎮。「曲水」とも記す。晩年、不正を働いた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺し、自らも切腹した。墓所は義仲寺にある。芭蕉の「幻住庵の記」の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵の号である。彼は膳所に於ける芭蕉の経済的支援をもした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。ここでのその一句は「おもしろやたゝかぬ時もはちたゝき」。

・「四方」総髪のこと。

・越人の一句は「鉢扣月雪に名は甚之亟」。修行者であるのに俗人名を名乗っていることを、少し洒落た衣の文様をも含めて、ちゃかして可笑しがったもの。

・其角の一句は「ことごとく寢覺めはやらじ鉢たゝき」。しみじみとした哀感を誘う鉢叩きではあるが、世俗の誰も彼もがそれに心打たれて目を覚ます、というわけでは、ないぜ、という捻りを入れた千両役者其角らしい句であり、去来は其角の字背の思いに徹して添えているのである。

・「橫雲」明け方の山の端にかかる雲。

・「長嘯」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。歌集に「挙白集」がある。長嘯の墓は京都東山高台寺にあり、長嘯の一首にも、

 鉢叩き曉方の一聲は冬の夜さへも鳴く郭公

がある。]

 そのふるき瓢簞見せよ鉢たゝき 同

 「ひろさは」「臨川寺」「大井里」の三つは、いずれも「十月廿日嵯峨遊吟」の作である。この時の同行者は其角、加生(凡兆)の両人であったらしく、各その句をとどめている。其角は元禄二年には江戸に帰っているから、この十月二十日は元年でなければならぬ。去来と凡兆とが当時已に相識であったことは、これによって知ることが出来る。

 「鴨啼や」の句は去来自身の述懐である。『続虚栗』の選に洩れたとあるから、多分貞享年代の作であろう。「十余年」という言葉も漠然たるを免れぬが、姑(しばら)く貞享四年から逆算するとして、去来が弓矢を捨てたのは延宝初年の勘定になるらしい。二十四、五歳と見ていいわけである。

 「弓になる」の句は「舎利講拝み侍りしに十如是(じゅうにょぜ)の心をおもひよせてこの心に叶ふべきを拾ひ出侍る」という十句の中の一で、頭書(かしらがき)に「因」とある。『曠野』に見えた「笹の時よりしるし弓の竹」と殆ど同じ意であるが、句としては数歩を譲らなければならぬであろう。『去来発句集』には「笋」の方のみを採り、「武士の子の生長をいはうて」という前書がついている。これは前書のあった方がよさそうに思う。「弓になる」は「笹」の初案だろうという説もあるが、俄に先後を定めることは困難である。同案として後者を優れりとする外はあるまい。

[やぶちゃん注:「舎利講」仏舎利を供養する法会。本邦では鑑真の渡来以来、唐招提寺を始めとして東寺・延暦寺・法隆寺・薬師寺などで行なわれるに至った。

「十如是」は「法華経」の「方便品」に説かれた因果律のことで、「十如」「諸法実相」とも称する。ウィキの「十如是」によれば、これは鳩摩羅什(くらまじゅう)が訳出した「法華経」に『のみ見られるもので、他の訳や梵文(サンスクリット語)原典には見当たらない』とある。また、『後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である』。十如是とは、相(そう:形相)・性(しょう:本質)・体(たい:形体)・力(りき:能力)・作(さ:作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(ほんまつくきょうとう:以上の「相」から「報」に至るまでの九種の事柄が究極的に無差別平等であること)を指し、『諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この』十『の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている』十『の種類の存在の仕方、方法をいう』とある。]

 鉢敲の二句は元禄二年の作であろう。去来の書いた「鉢扣辞」に「されば其角法師が去来の冬。ことごとくね覚(ざめ)はやらじと吟じけるも。ひとり聞にやたへざりげむ」とあるのが、嵯峨遊吟のあった元禄元年の冬を指すものらしいからである。「鉢扣辞」はこの句を解する上からいっても、鉢敲の風俗を知る上からいっても、看過すべからざる文献であるが、全文を引くのは面倒だから、要点だけを記すと、十二月二十四日に例の翁(芭蕉)が去来のところへやって来た。

 「冬もかぎりなれば鉢たゝき聞む」というのだけれども、その晩は生憎「風はげしく、雨そぼふりて」というわけで、なかなか鉢敲が来ない。「いかに待詫び給ひなむといぶかりおもひて」詠んだのが「箒こせ真似ても見せむ」の句なのである。折角鉢敲を聞きに来た芭蕉のために、なかなか本物が登場しないのをもどかしく思って、箒を持って来い、鉢敲の真似をして御覧に入れよう、といったのは、如何にも去来らしい面目を現している。

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。読点であるべきところが句点なのはママ。]

 

打とけて寝たらむは。かへり聞むも口おし[やぶちゃん注:ママ。]かるべし。明(あか)して社(こそ)との給ひける。横雲の影より。からびたる声して出来(いできた)れり。げに老ぼれ足よはきものは。友どちにもあゆみおくれて。ひとり今にはなりぬらんと。翁の

長嘯の墓もめぐるか鉢たゝきと。聞え給ひけるは。此のあかつきの事にてぞ侍りける。

 

 「鉢扣辞」の最後はこの数行を以て結んである。この一句を得て芭蕉も恐らく満足し、気を揉んだ去来も安堵したのであろう。この鉢敲の句は、句の価値以外に師弟の情の流露するものがあって面白い。

 当時芭蕉は『奥の細道』の大旅行を了(お)え、一たび郷里に帰って後、京畿の地に悠遊しつつあった。芭蕉、去来の交渉の文字に現れたものとしては、これが最初のようであるが、已によほど親しかったらしい様子は、この鉢敲の一条によっても十分に想像される。

 次いで其角の著した『華摘』にも、去来の句は、

 雞のおかしがるらん雉のひな    去来

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」。]

 一昨はあの山越ツ花盛り      同

[やぶちゃん注:「をととひはあのやまこえつはなざかり」。堀切氏前掲書に、『旅の途上、ふと振り返ってみると、遥か後方の山なみには爛漫たる桜の花が雲のように白くたなびいているのが眺望できる。一昨日あの山を越えたときはまだそれほどの開花ではなかったのに、わずか二日の間にもうあれほどの花盛りになったのだなあ、と感慨深く眺め入っているのである。恐らく、吉野あたりを旅した折の吟であろう。明るい花の風景を望んで、浪漫的な世界を歌い上 げているのであるが、また一脈の旅愁も感じられる句である。なによりも、軽くさらっとした詠みぶりであるのがよい』と褒められ、以下(踊り字「〱」を「々」に代えた)、『『旅寝論』に、芭蕉が「此句今ハとる人も有(ある)まじ。猶(なお)二、三年はやかるべし」と評したこと、また「其後よしの行脚の帰(かえり)に立(たち)より給ひて、『日々汝があの山越つ花盛の句を吟行し侍りぬ』と語り給ふ」たことが伝えられる』。『なお、一句の成立は、先の『旅寝論』にもみえる貞享五年三月下旬の芭蕉の吉野行脚のときには、すでに詠まれていたことなどから推して、貞享五年春または同四年春と考えられる』と添えておられる。]

   甲陽軍鑑をよむ

 あらそばの信濃の武士はまぶしかな 同

[やぶちゃん注:「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法・武士道を説く。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家老臣高坂弾正昌信の遺記をもとにして春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと考えられている。

「あらそば」は「荒岨」(切り立った崖(のような荒武者))に「荒蕎麥」を掛けて、「まぶし」も、まずは軍記のイメージから「射翳(まぶし)」(身を隠して獲物や相手が来るのを待ち伏せる所から転じて「待ち伏せすること」や、そうした「伏兵」を指す)がメインで、次に彼らのきっとした「目伏し」(目つき・まなざしの意)に、「眩し」もテンコ盛りに塗(まぶ)し加え、最後に次いでに蕎麦粉を「塗す」をも掛けてあるのかも知れない。]

等があり、俳文「鼠ノ賦(ふ)」一篇も収められているが、去来として特にいうに足るほどのものではない。去来最初の撰集たる『猿蓑』は、『いつを昔』や『華摘』に一年おくれて、元禄四年に上梓されたのであった。

[やぶちゃん注:「鼠ノ賦」昭和一六(一九四一)年芸艸堂刊金井紫雲編「芸術資料」のこちらで全文(と思われる)が読める。博物学的には面白いが、俳文としてはどうということはない。]

 俳壇における『猿蓑』の位置については今改めて説く必要はない。去来、凡兆が如何にこの書の撰に力を入れ、一句の取捨をも忽(ゆるがせ)しなかったかは、何よりもこの書の内容がこれを証している。

 他の手に成る『いつを昔』の巻頭にさえ

      定

   一 俳諧に力なき輩
     此集のうちへかたく
     入べからざるもの也
      月 日        去来校

という高札を掲げた去来が、自らの撰集に臨んで如何なる態度を持するかは、固より想像に難くない。

 いそがしや沖の時雨の真帆片帆  去 来

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に、『大津あたりから琵琶湖上を遠望したものであろう』とある。]

 尾頭のこゝろもとなき海鼠かな  同

[やぶちゃん注:「尾頭」は「をかしら」。海鼠の句としても全く以ってつまらぬ。]

 あら磯やはしり馴たる友鵆    同

[やぶちゃん注:「馴たる」は「なれたる」。座五は「ともちどり」。]

 ひつかけて行や雪吹のてしまござ 同

[やぶちゃん注:「行や」は「ゆくや」。「てしまござ」で「豐島茣蓙」と書く。摂津国豊島(てしま)郡に産した藺 () 茣蓙。酒樽を包んだり、雨具に用いたりした。狭く粗い粗末なものであるが、旅人などが携帯するには手軽であった「てしまむしろ」「としまむしろ」とも呼ぶ。]

 うす壁の一重は何かとしの宿   同

[やぶちゃん注:この薄い茅屋の煤けた壁の向こうにある新しい年とは何だ? という観想的にして人生的な疑義であるが、どうもちっとも迫ってこない。あなたには合わないよ、こういうの。]

 くれて行年のまうけや伊勢くまの 同

 心なき代官殿やほとゝぎす    同

[やぶちゃん注:慣れない社会諷喩詩などに手を出すものではないと思うがね、去来さんよ。]

 たけの子や畠鄰に悪太郎     同

[やぶちゃん注:「悪太郎」悪戯小僧のこと。]

   大和紀伊のさかひはてなし坂にて
   往来の巡礼をとゞめて奉加すゝめ
   ければ料足つゝみたる紙のはしに
   書つけ侍る

 つゞくりもはてなし坂や五月雨  同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書を引く。「はてなし坂」は『大和国(奈良県)紀伊国(和歌山県)の境、大和吉野郡南十津川村にある果無山に通ずる急坂が「はてなし坂」で、ここから熊野本宮まで三里という』。ここ(グーグル・マップ・データ)。『元禄二年夏、田上尼(たがみのあま)と共に熊野の巡礼に出たときの、はてなし坂での即興吟である。ここ「はてなし坂」にさしかかったところ、ちょうど道普請の最中であったが、折からの五月雨に道は泥濘そのもの、この様子では、まさに「はてなし坂」の地名のとおり、普請は果てしもなく、いつまでかかるかわからないように見受けられることだ、と詠んだのである。難儀をきわめる道普請に携わる人たちへの同情と感謝の気持を、地名にひっかけて巧みに示したのであろう。一説(森田蘭『猿蓑発句鑑賞』)には、「はてなし」を前書に出る「奉加」にもかかるものとし、巡礼の奉加もまたはてしなくまきあげられることだ、という諷刺をこめた笑いの句と解している』とある。]

 百姓も麦に取つく茶摘哥     同

   膳所曲水の楼にて

 蛍火や吹とばされて鳰のやみ   同

[やぶちゃん注:「鳰のやみ」琵琶湖の闇の意。「曲水」曲翠に同じ。元禄三(一六九〇)年五月の吟。]

 夕ぐれや屼並びたる雲のみね   同

[やぶちゃん注:「屼」は「はげ」。]

 はつ露や猪の臥芝の起あがり   同

[やぶちゃん注:「臥」は「ふす」。]

 みやこにも住まじりけり相撲取  同

   つくしよりかへりけるにひみといふ
   山にて卯七に別て

 君がてもまじる成べしはな薄   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄二年中秋、郷里長崎から京へ戻るに際し、日見峠』(この付近。グーグル・マップ・データ)『まで見送ってくれた卯七』(『去来の血縁に当たる蕉門俳人。去来の甥とも義理の従弟ともいう)『と別れたときの吟である。秋も深まって、あたり一面には花薄が淋しく扉いている。もう君の姿を見ることはできないが、自分を招き返すかのように扉く、あの薄穂の群の中には、さだめし別れを惜しんで打ち振る君の手も交じっているにちがいない、というのである。まず「君」の姿が消え、次いで打ち振る手が消え、いまは茫漠とした薄原だけしか視界に入ってこないのであろう。巧みな表現の中に、熱い惜別の惜が伝わってくる離別吟である』とある。この句は、悪くない。]

 月見せん伏見の城の捨郭     去 来

[やぶちゃん注:座五は「すてぐるわ」。これは伏見城跡の本城の外に築かれた堀を廻らした郭跡である。]

 一戸や衣もやぶるゝこまむかへ  同

[やぶちゃん注:「一戸」は「いちのへ」で青森の一戸のこと。そこから遠く馬(「駒迎へ」とあるから献上馬である)を引いてきた人の姿を詠む。]

   自題落柿舎

 柿ぬしや梢はちかきあらし山   同

[やぶちゃん注:前書は「自(みづか)ら落柿舎に題す」。堀切氏前掲書の評釈に、『ある日、嵯峨野の別宅にやってきた柿商人に、庭の柿の実を売る約束をし、金まで受けとったが、その夜の大風でほとんど実が落ちてしまい、翌日柿商人に金をとり戻されてしまった――そこで以後、この別宅を「落柿舎」と名付けることにした、という意を含んだ前書である。毎年実が生(な)ることは生っても、嵐山からの風が吹けば、一夜のうちに落ちてしまう落柿舎の柿――それでもとにかく自分はその柿の持ち主であることに変わりはない――そんなように自得して柿の梢を仰ぎ眺めると、大きく延びた梢の先には、近々と嵐山が追って見える、この眺望だけで落柿舎は十分ではないか、といった句意であろう。「梢はちかき」で、すぐ間近にそびえるような嵐山の感じが巧みに描写されているが、その「嵐山」には、一夜で柿の実を吹き落としてしまうような嵐吹く山だから、といったことばの遊びも含まれているのであろう。実がすっかり落ちたため、梢の間の眺望が利くようになって、嵐山が間近に感じられるのだというところに、悠々とした自足の心境がうかがわれ、そこに俳諧らしいおかしみもある』とある。宵曲も語るエピソードをしっかり踏まえた上で鑑賞すると、こうした煽りの優れた映像が見えてくるのである。]

   上﨟の山荘にましましけるに
   候(こう)し奉りて

 梅が香や山路猟入ル犬のまね   同

[やぶちゃん注:「猟入ル」は「かりいる」。堀切氏前掲書の評釈に、『さる高貴な方が山荘に居られるところへ伺候し奉ったとき詠んだ挨拶の句である。どこからか漂ってくる梅の香をたよりに山路を辿ってきたのであるが、あたかもそれは獲物の臭いを追って山中に分け入ってゆく猟犬のようでもあることだ、というのである。山荘の在り処が、それほど山深いところであったことに軽く興じているのであろう。「梅が香」が上前その人の気高さを暗示していることはいうまでもない。なお、自らの行動を犬にたとえたのは、単なる卑下の意であるのか、それとも森川蘭氏が説くように、桃源境の故事をふまえ、そのユートピア幻想のシンボルとして出したものなのか、判然としない』とある。また、『「犬のまね」は、いかに身分制度の厳しい時代とはいえ、あまりに卑屈な言い方であることに疑問が出されている。森田蘭『猿蓑発句鑑賞』は、これを『和漢朗詠渠』巻下「仙家」に出る「奇火花に吠(ほ)ゆ 声紅桃の浦に流る」や陶淵明の名高い「桃花源ノ記」(『陶淵明渠』)中の「雞犬相聞こゆ」、あるいは同じく陶淵明の「園田の居に帰る(其一)(『古文真宝前渠』『陶淵明集』)にみえる「狗(いぬ)は深巷の中(うち)に吠え、鶏は桑樹の巓(いただき)に鴫く」なとがら着想されたもので、そこに桃源境的ユートピアの幻想を描くためのものであったとしている」とあるが、私は「犬のまね」の響きには凡そそのような幻想の透明感が全然感じられない。]

 ひとり寝も能宿とらん初子日   同

[やぶちゃん注:「能宿」は「よきやど」、「初子日」は「はつねのび」。堀切氏前掲書の評釈に、『旅中に新年の子の目を迎えることになった。今日は、本来なら共寝をする日だが、自分は「ひとり寝」をしなければならたい。だから、せめてきれいな宿をとって、ゆっくり寝ることにしよう、洒脱に興じたのである。初子の日を祝っての吟である』とされ、「初子日」については、『正月初めの子の日に、野外に出て小松を引いたり、若菜を摘んだりすること』を指し、『新年(春)の季題。「俳諧七部集大鏡」に『民家宜忌録』を引いて「正月は独寝をいむ月也。(中略)さればそのうへ初子の日とあれば、よき宿とらんと見へるならむ」と説き、『山の井』にも「子の日の遊びとて、いにしへ人々野辺に出で小松を引き、われ人ともに祝ひはべりしこととぞ。(中略)俳諧体に男は女松に腰をすり、女は松ふぐりに心引くなど、言ひなし侍る」とある。「初子日」は「初寝日」に通ずるからか』と目から鱗の解説をして下さっている。]

 鉢たゝきこぬ夜となれば朧なり  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で『元禄三年春の吟か』とされる。]

 うき友にかまれてねこの空ながめ 同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈に、『恋の相手からつれなくされた上に、手など咬まれで、しょんぼり引き下がった牡猫が、ぼんやりと放心した貌つきで空を眺めている風情である。発情期に屋根の上などによくみかける光景であろう。恋に敗れた猫の、滑稽にして、しかも哀れなさまを、「うき友」「空ながめ」といったことばを用いて人間臭くとらえている』とある。この句は映像が浮かぶ佳句である。]

 振舞や下座になほる去年の雛   同

[やぶちゃん注:「ふるまひやしもざになほるこぞのひな」。堀切氏前掲書の評釈に、『桃の節句を迎えて、雛祭りの壇には人形や調度が並べられている。よく見ると、去年の古びた雛は、上座を新しい雛に譲って、つつましく下座の方に控えている――そうした古雛の身の処し方は、あたかも人の世の栄枯盛衰のさまを象徴しているかのようだ、というのである。雛を擬人化してとらえた観相の句である』とある。]

 知人にあはじあはじと花見かな  同

[やぶちゃん注:「知人」「しりびと」。]

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ     同

[やぶちゃん注:「羽」は「は」、「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」。無論、ここは雨に降られて、自然、掻い繕ったように見えているのである。]

 雞もばらばら時か水雞なく    同

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」、「時」は「どき」であろう。ニワトリが一斉にではなく、ばらばらに鶏鳴することを言う。「水雞」は「くひな」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいるから、その景であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。なお、堀切氏前掲書によれば、近江幻住庵での明け方の吟とする。]

 凡兆の四十四句に比べれば及ばざること遠いが、『猿蓑』集中における有力なる作家というを憚らぬ。去来の句の一大特長たる気稟(きひん)の高さは、その第一歩たる『続虚栗』において十分に発揮されており、『曠野』において殆ど完成されたかの観がある。『猿蓑』にある去来の句には、更に何者かを加えたところがあるかも知れぬが、「あら磯や」の句、「はつ露や」の句、「月見せん」の句、「鳶の羽も」の句等の緊密な高い調子は、『曠野』にあった「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の系統に属するもので、その間に著しい軒輊(けんち)を認めることは出来ない。凡兆の句が『猿蓑』に至ってはじめて豁然たる新天地を打開したような消息は、去来には見当らぬように思う。『猿蓑』における去来の作品が比較的多いのは、撰者の句を多く集に入れるという古例に則ったためもあるが、当時芭蕉の鉗鎚(けんつい)を受くる機会の多かった点も考慮すべきであろう。元禄三年は芭蕉が幻住庵に籠った年で、その他の月日も多くは近江と京とにおいて過された。京摂近江の俳人がしばしば幻住庵を訪れたらしいことは、『猿蓑』の「几右日記」にも見えている。「雛もばらばら時か」の一句は「几右(きゆう)日記」中のものである。

[やぶちゃん注:「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。

「鉗鎚」「鉗」は「金(かな)鋏み」、「鎚」は「金槌(かなづち)」の意で、特に禅宗にあって師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことを譬えて言う。]

 純客観派の本尊たる凡兆は、滅多に自己の姿を句中に現さぬに反し、去来は右の二十六句中にもしばしば自己を示している。「つゞくりもはてなし坂」の句、「蛍火」の句、「君がてもまじる成べし」の句、「梅が香」の句等、いずれも前書によってその場合を推し得るが、最も興味あるのは「自題落柿舎」とある「柿ぬしや」の一句であろう。去来の自ら草した「落柿舎記」に従えば、その家の周囲には柿の木が四十本もあった。八月末の或日、京都の商人が来て、その木を欲しいといって一貫文置いて行った。しかるにその日から梢の柿が落ちはじめて、「ころころと屋根はしる音。ひしひしと庭につぶるゝ声。よすがら落もやまず」ということになった。翌日見に来た商人はこの有様を見て長歎し、自分はこの年まで商売にしているが、こんなに実の落ちる柿を見たことがない、これでは困るから昨日の代金を返してもらいたい、といい出した。いうままに返してやったが、その商人の帰る時、友達のところへ托してやった手紙に、自ら「落柿舎去来」と書いてやった、というのである。この逸話は去来の洒落な一面を窺うベきもので、同じような心持は自ら「柿ぬし」と称するこの句の中にも溢れている。四十本の柿の主として、梢に近き嵐山を望む去来の様子が目に浮んで来るような気がする。

[やぶちゃん注:「落柿舎記」は「らくししゃのき」(現代仮名遣)と読む。次の章でも言及されるので、そこで全文を電子化することとする。]

 

2020/06/28

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 一

 

      去  来

 

       

 蕪村が『鬼貫句選』の跋において其角、嵐雪、去来、素堂、鬼貫を五子とし、その風韻を知らざる者には共に俳諧を語るべからずといったことは、前に嵐雪の条に記した。五子なる語はこれにはじまるのであろう。しかるに蕪村の弟子である大魯(たいろ)の閲を経て行われた『五子稿(ごしこう)』は、素堂、去来の外に来山(らいざん)、言水(ごんすい)、沾徳(せんとく)を挙げている。蕪村のいわゆる「五子」がその最も尊重する作家であったことはいうまでもないが、『五子稿』が其角、嵐雪、鬼貫を除いたのは、必ずしもこれを軽んじたものとも思われぬ。右の『鬼貫句選』の跋に「其角嵐雪おのおの集あり、素堂はもとより句少く、去来はおのづから句多きも、諸家の選にもるゝこと侍らず、ひとり鬼貫は大家にして世に伝はる句稀なり」云、とある筆法に従えば、一家の集ある其角、嵐雪、鬼貫の三者を除き、代うるに来山、言水、浩徳を以てしたものとも解釈することが出来る。

[やぶちゃん注:向井去来(慶安四(一六五一)年~宝永元(一七〇四)年)は蕉門十哲の一人。儒医向井元升(げんしょう)の二男として長崎市興善町に生まれた。堂上家に仕え、一時、福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を上達させ、その功あって二十五歳の時、福岡藩に招請されたが、なぜか固辞し、以後、京で浪人生活を送った。貞享初年(一六八四年)から文通によって松尾芭蕉の教えを受け、同三年に江戸に下って初めて芭蕉と会うことを得た。元禄二(一六八九)年の冬には、近畿滞在中の芭蕉を自身に別荘である嵯峨野の落柿舎に招き、同四年の夏には芭蕉の宿舎として落柿舎を提供している。この間、「俳諧の古今集」と称される「猿蓑」の編集に野沢凡兆とともに従事し、芭蕉から俳諧の真髄を学ぶ機会に恵まれた。その著「去来抄」は蕉風俳論の最も重要な文献とされているが、本書にはこのときの体験に基づく記事が多い。篤実な性格は芭蕉の絶大な信頼を得ており、芭蕉は戯れに彼を「西三十三ケ国の俳諧奉行」と呼んだという。しかしこの去来にも、若い頃は女性に溺れるような多感な一面があったらしく、丈草の書簡に「此人(去来のこと)も昔は具足を賣(うり)て傾城にかかり候」と記されてある。彼は、一生、正式な結婚をせず、しかし可南という内縁の女性と暮らしたが、この女性はもとは京都五条坂の遊女であったと伝えられる(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「蕪村」の「『鬼貫句選』の跋」今回は藤井紫影校訂「名家俳句集」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)の蕪村跋を国立国会図書館デジタルコレクションの画像でリンクさせておく。

「前に嵐雪の条に記した」「嵐雪 三」参照。

「五子稿」芦陰舎大魯序は安永三年、麻青菴直生跋は安永四(一七七五)年で大坂の書肆朝陽館編で安永四年板行。原本を早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のこちらで画像で読むことが出来る

「来山」小西来山(承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)は大坂(和泉)生まれ。芭蕉(寛永二一・正保元(一六四四)年生まれ)と同時代の俳人。父は薬種商。七歳で西山宗因門の前川由平に学び、十八歳で俳諧点者となった。禅を南岳悦山に学んで法体(ほったい)となった。延宝六(一六七八)年の西鶴編「物種集(ものだねしゅう)」に初出。元禄三(一六九〇)年以降に活動が活発化し、元禄三年から元禄七年の間に生前に発表された約二百六十句のうちの凡そ九十句が発表されている。その間の元禄五年には「俳諧三物」(来山の独吟表六句を巻頭に置いて他に知友門弟の句を所収)を板行したが、以後、自ら選んだ集は存在しない。元禄十年代以降は雑俳点者としての活躍が甚だしくなり、大坂の雑俳書で来山に無関係のものは殆どないともされる。但し、来山自身は纏まった自分名義の俳書は残していない。「常の詞」による俳諧を説き、素直で平淡な句作りや日常の中に美を求める姿勢を特徴とし、時に卑俗で理屈臭い句が多いともされる(以上はウィキの「小西来山」や諸辞書を参考にしたが、同ウィキの記載にはやや疑問がある)。私は彼の辞世とするものが忘れ難い(伴蒿蹊「近世畸人傳」に拠る)。

 來山は生まれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

「言水」池西言水(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)はやはり芭蕉と同時代の俳人。ウィキの「池西言水」によれば、言水は奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に『第一撰集、『江戸新道』を編集した。その後『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などを編集し、岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある。私の好きな句の一つは、

 凩(こがらし)のはては有りけり海の音

である。特に挙げずとも、俳句を嗜む御仁なら「エッツ!?!」と驚くであろう。特に出さぬが、近現代の誰彼の名句とされるものは粗方、この言水の名句の剽窃に過ぎぬとさえ私は思っているほどに好きな句なのである。

「沾徳」(寛文二(一六六二)年~享保一一(一七二六)年)江戸中期の俳人。姓は門田、のち水間。江戸生まれ。はじめ沾葉と号し、露言に師事。磐城平(いわきたいら)城主内藤風虎(前注参照)の息露沾(蕉門中で最も身分の高い人物として知られる。但し、二十八歳の時に御家騒動によって家老の讒言で貶められて麻布六本木の別邸で部屋住みのままに生涯を終えた世間的には不遇の人であった)から師弟に露・沾の各一字を授かったものとされる。俳壇への登場は延宝六(一六七八)年。露沾の寵を得て内藤家に仕え、山口素堂に兄事し、儒学を林家に、歌学を山本春正・清水宗川に学んだ。風虎没後に同家を去り、貞享四(一六八七)年に姓号を改めて俳諧宗匠となった。素堂の仲介で蕉門の其角と親交を結び、其角没後はその洒落風を継承し、過渡期の江戸俳壇を統率する位置に立ち、点者として一世を風靡した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。彼は赤穂浪士の大高源五(俳号は子葉)の俳句の師として専ら知られるが、私は特にピンとくる句を知らない。]

 去来の名は芭蕉の生前から已に重きを成していた。芭蕉が杉風(さんぷう)を以て東三十三国の俳諧奉行とし、去来を以て西三十三国の俳諧奉行とするといったのは、固(もと)より一場の戯言[やぶちゃん注:「ざれごと」。]であろうが、彼の名は凡兆と共に事に当った『猿蓑』撰集のみを以てしても、永く俳壇に記億さるべきである。しかも凡兆の仕事が竟(つい)に『猿蓑』以外に出なかったに反し、去来は遥に多くの痕迹をとどめている。蝶夢が『去来発句集』の序において、西の去来、丈艸を東の其角、嵐雪に比し、「其角嵐雪は風雅を弘(ひろ)むるを業とし、もつぱら名利[やぶちゃん注:「みやうり」。]の境に遊べばまたその流れを汲む輩(やから)も多くて、其角に五元集、嵐雪に玄峰集といへる家の集ありて世につたふ。さるを去来丈艸は蕉翁の直指[やぶちゃん注:「ぢきし」。直伝(じきでん)のこと。]の旨をあやまらず、風雅の名利を深く厭(いと)ひて、ただ拈華微笑[やぶちゃん注:「ねんげみしやう(ねんげみしょう)」。]のこゝろをよく伝へて、一紙の伝書をも著さず、一人の門人をもとめざれば、ましてその発句を書集むべき人もなし」といったのは、主として俳譜に臨む態度の相違を述べたのであるが、あらゆる意味において其角、嵐雪と好箇の対照をなすものは去来、丈艸の二人であろう。

[やぶちゃん注:「蝶夢」五升庵蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)は江戸中期の時宗僧で俳人(職業俳人ではない)。京の生まれ。出自・俗名などは不詳。幼くして京の法国寺(時宗)に入った。十三歳で阿弥陀寺内の帰白院に転じ、後に住職となったが、この頃より俳諧を志し、早野巴人系の宗屋(そうおく)門下に入るが、宝暦九(一七五七)年、敦賀に赴いたのを契機として都市風の俳諧から地方風の俳諧に転じた。俳人で行脚僧の既白や加賀国出身の二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志した。やがて三十六歳で洛東岡崎に五升庵を結び、芭蕉顕彰の事業に力を注いだ。その活動は義仲寺の復興と護持・粟津文庫の創設・毎年忌日の「しぐれ会」の実施・全国的な地方行脚による芭蕉復興の地方拡大などであった。編著書の大半は芭蕉顕彰に関わるものであり、松尾芭蕉の遺作を研究刊行した「芭蕉翁発句集」・「芭蕉翁文集」・「芭蕉翁俳諧集』の三部作は、始めて芭蕉の著作を集成したものであり、「芭蕉翁絵詞伝」は本格的な芭蕉伝としてとみに知られる(以上はウィキの「蝶夢」他を参照した)。

「去来発句集」蝶夢編で明和八(一七七一)年刊。去来の逝去から六十七年後のことであった。先と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの蝶夢の序の頭の画像をリンクさせておく。]

 去来の「贈晋氏其角書」を読むと、其角の作品に対しては、芭蕉生前から已に不満を懐いていた事がわかる。その意見は千歳不易、一時流行というような語によって現されているが、その本(もと)づくところはやはり其角なり去来なりの人物性行に存するのであろう。「不易の句をしらざれば本[やぶちゃん注:「もと」。]たちがたく、流行の句をまなびざれば風[やぶちゃん注:「ふう」。]あらたまらず。よく不易を知る人は往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀たる[やぶちゃん注:「ひいでたる」。]ものは、たゞおのれが口質[やぶちゃん注:「くちぐせ」。]のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはず」という去来の見解に従えば、其角現在の俳風は芭蕉のそれに一致せず、従って「諸生のまよひ、同門のうらみ」も少くないというのである。芭蕉はさすがに群雄を駕馭(がぎょ)するだけの包容力を具えていたから、去来の論を肯定すると同時に、其角の立場をも認め、「なをながくこゝにとゞまりなば、我其角をもつて剣(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん」という去来の評に対しては、「なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへまたそこばくの風流をばなしいだしきたらんも知るベからず」と戒めている。芭蕉の骨髄は去来、丈艸これを伝えたという蝶夢の見方も一理あるが、其角、嵐雪――去来、丈艸を左右の両翼として進んだものと見た方が、あるいは妥当であるかも知れない。

[やぶちゃん注:「贈晋氏其角書」「晋氏(しんし)其角に贈るの書」。「晋氏」は「晋子」とあるべきところ。これは俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の冒頭に配されたもので、実際に元禄一〇(一六九七)年閏二月附で去来から其角に送られた書簡の写しである。当該書はこれを皮切りに、翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので、「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る。去来は〈不易流行〉論を、許六は万葉・古今から受け継いだ伝統的文芸の〈血脈(けちみゃく)〉説を前面に打ち出して論を戦わせており、蕉風俳論書として第一級の価値を有する。天明五(一七八五)年に浩々舎芳麿により「俳諧問答靑根が峰嶺」として出版され、寛政一二(一八〇〇)年に「俳諧問答」の題で再版された。以上は平凡社「世界大百科事典」を参考にしたが、叙述に不全な点があるので私が手を加えてある。「贈晋子其角書」はそれほど長いものではないので、以下に電子化を試みる。底本は所持する一九五四年岩波文庫刊橫澤三郞校注「許六 去来 俳諧問答」を用いたが、一部の読みは私が推定で歴史的仮名遣で補い、判り易くするために段落を成形し記号も増やした。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 故翁奥羽の行脚より都へ越給ひける比、當門の俳諧一変す。我(わが)輩(ともがら)、笈(おひ)を幻住庵にになひ、杖を落柿舍に受(うけ)て、畧(ほぼ)そのおもむきを得たり。「瓢(ひさご)」・「さるみの」是也。其後またひとつの新風を起さる。「炭俵」「續猿蓑」なり。

 去來問(とひて)云(いはく)、

「師の風雅見及(みおよぶ)處、次韻にあらたまり、『みなし栗』にうつりてよりこのかた、しばしば變じて、門人、その流行に浴せん事をおもへり。」

 吾、これを聞けり。

「句に千載不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを兩端(たん)におしへたまへども、その本(もと)一(ひとつ)なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。不易の句を知らざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば、風、あらたならず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀(ひいで)たるものは、たゞおのれが口質(くちくせ)のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一步もあゆむことあたはず。」

と。

「しりぞいておもふに、其角子はちからのおこのふことあたはざるものにあらず。且つ才麿(さいまろ)・一晶(いつすい)のともがらのごとく、おのれが管見(くわんけん)に息づきて、道をかぎり、師を損ずるたぐひにあらず。みづからおよぶべからざることは、書に筆し、くちに言へり。しかれどもその詠草をかへり見れば、不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり。流行の句にいたりては、近來(ちかごろ)そのおもむきをうしなへり。ことに角子は世上の宗匠、蕉門の高弟なり。かへつて吟跡の師とひとしからざる、諸生のまよひ、同門のうらみすくなからず。」

 翁のいはく、

「なんぢが言(いひ)、しかり。しかれども、およそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。これ角が舊姿(きうし)をあらためざるゆへにして、が流行にすゝまざるところなり。わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに變ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、こゝに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅(ふうが)のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」

 去來のいはく、

「師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風(ふう)は詠にあらはれ、本哥(ほんか)といへども、代々の宗(そう)の樣おなじからず。いはんや誹諧(はいかい)はあたらしみをもつて命とす。本哥は代(よ)をもつて變(へんず)べくば、この道(みち)年をもつて易ふべし。水雪の淸きも、とゞまりてうごかざれば、かならず汚穢(おゑつ)を生じたり。今日諸生の爲に古格(こかく)をあらためずといふとも、なをながくこゝにとゞまりなば、我(われ)其角をもつて、剱(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん。」

 翁のいはく、

「なんじが言愼(つつし)むべし。角や今(ワガ)我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへ、また、そこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。」

 去來のいはく、

「さる事あり。これを待(まつ)にとし月あらんを歎くのみ。」

と、つぶやき、しりぞきぬ。

 翁、なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我、東西雲裏(うんり)のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。

   右                去來稿

   *

かなり判り易いことを言っていると思う。なお、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)がなかなかいい。一読をお勧めする。

「剣の菜刀になりたりとせん」は諺「昔の剣(つるぎ)今の菜刀(ながたな)」のこと。一般には「昔、剣として用いられたものも、今はせいぜい菜刀の役にしか立たない」の意を転じて、「すぐれた人も老いた今は物の役に立たなくなってしまっている」ということ、或いは「すぐれたものも、古くなると時世に合わなくなってしまう」ことの換喩。「昔千里も今一里」と同じ。]

 去来が芭蕉に接近するようになったのは、何時頃からかわからぬが、その句は貞享二年の『一楼賦』(いちろうふ)にあるのが最も古いようである。しかしその句は

 五日経ぬあすは戸無瀬の鮎汲ん  去来

[やぶちゃん注:「いつかへぬあすはとなせのあゆくまん」。「五日経ぬ」は若鮎の遡上が始まったと聴いて五日経ったということか。「戸無瀬」は京嵐山付近の地名でこの辺り(グーグル・マップ・データ)。「鮎汲ん」は春三月の季題で、「若鮎汲(わかあゆくみ)」のこと。若鮎が群れを成して川を遡って来るところを、網を使ってその中へと追い込み、柄杓(ひしゃく)や叉手(さで)で掬(すく)い上げて汲み取る川漁法を言う。所収する「一楼賦」は風瀑編で、貞享二(一六八五)年自序。]

 雪の山かはつた脚もなかりけり  同

[やぶちゃん注:よく意味が判らない。一面雪を被った山々はそうでない時の裾野(脚)の変化も何もなく変容しているさまを謂うのか?]

の二句に過ぎぬ。次いで同三年に

 初春や家に譲りの太刀はかん   去来(其角歳旦帖)

[やぶちゃん注:「其角歳旦帖」は複数あるが、確かに貞亨三年版が存在する。]

 一畦はしばし鳴やむ蛙かな    去来(蛙合)

[やぶちゃん注:「一畦」は「ひとあぜ」。「蛙合」は「かはづあはせ(かわずあわせ)」で、仙化編で、確かに貞享三年刊。]

等がある。「初春や」の句は翌年の『続虚栗(ぞくみなしぐり)』に至って「元日や」と改めたが、調子は「元日や」の方が引緊っていいように思う。作家としての去来の発足は先ず『続虚栗』以後と見るベきで、芭蕉の門下ではそう古い方でもなし、また新しい方でもない。『奥の細道』旅行を境として姑(しばら)く前後に分けるなら前期の弟子に属することになる。『続虚栗』は已に蕉門の醇化期に入っているから、去来の句には最初から生硬晦渋なものは見当らない。

[やぶちゃん注:「続虚栗」其角編。貞享四年刊。]

 蚊遣にはなさで香たく悔みかな   去来

[やぶちゃん注:「蚊遣」は「かやり」。]

 たまたまに三日月拝む五月かな   同

   木津へまかりて

 山里の蚊は昼中に喰ひけり     同

[やぶちゃん注:「昼中」は「ひるなか」、「喰ひけり」は「くらひけり」。]

 更る夜を鄰に効ふすゞみかな    同

[やぶちゃん注:「更る」は「ふける」、「効ふ」は「ならふ」。]

 旅寐して香わろき草の蚊遣かな   同

[やぶちゃん注:「香」は「か」。]

 鎧著てつかれためさん土用干    同

[やぶちゃん注:上五は「よろひきて」。]

   遊女ときは身まかりけるを
   いたみて久しくあひしれり
   ける人に申侍る

 露烟此世の外の身うけかな     同

[やぶちゃん注:「露烟」は「つゆけぶり」、「外」は「ほか」。この句は、いい。]

 躍子よあすは畠の艸ぬかん     同

[やぶちゃん注:「躍子」は「をどりこ」。]

 たれたれも東むくらん月の昏    同

[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」。]

   嵯峨に小屋作りて折ふしの
   休息仕候なれば

 月のこよひ我里人の藁うたん    同

[やぶちゃん注:「仕候」は「つかまつりさふらふ」。後の落柿舎である。貞享二年秋に移った直後の吟であろう。]

 盲より啞のかはゆき月見かな    同

[やぶちゃん注:「盲」は「めくら」、「啞」は「おし」。「かはゆき」は「哀れで見て居られない」の意。]

 長き夜も旅くたびれにねられけり  同

 雲よりも先にこぼるゝしぐれかな  同

 年の夜や人に手足の十ばかり    同

[やぶちゃん注:大晦日に集った人々の夜更けて雑魚寝するさまを詠んだものであろう。]

 頭から一筋にいい下すような去来一流の調子は、この時已に出来上っている。機に臨み時に

応じて千変万化するが如きは、固よりその長伎(ちょうぎ)ではない。一見無造作にいい放ったようで、内に一種の力を蔵しているのが、去来一流の鍛錬を経た所以である。

[やぶちゃん注:「長伎」得意とする技法。]

 かつて目黒野鳥氏が去来の句に語尾を「ん」で止めたものが多いといって、『去来発句集』についてその句を示されたことがあった。『続虚栗』にある十四句のうち、「ん」を用いたものが五つに及んでいるのは、俳句生活の第一歩においてその実例に乏しからざるを語るものであるが、これは去来個人の特徴と見るべきか、この時代における共通の調子と見るべきか、俄に判定しがたいものがある。「ん」を用いたものは『続虚栗』全体で五十を超え、其角の作にも同じく八を算え得るからである。が、いずれにせよ、こういう句法の多いことが、去来の一本調子の作中において、一種の効果を収めているだけは間違ない。

[やぶちゃん注:「目黒野鳥」(めぐろやちょう 明治一四(一八八一)年~昭和三八(一九六三)年)は俳人で俳諧研究者。「芭蕉翁編年誌」(昭和三三(一九五八)年青蛙房刊)などがある。]

 蕉門の句は『続虚栗』より『曠野』に進むに及んで、一層雅馴なものになった。『続虚栗』はその題名が語っているように、『虚栗』一流の圭角(けいかく)がなお多少名残をとどめているけれども、『曠野』に至っては全くこれを脱却し得ている。あまりに平淡に赴いた結果、時に平板に失しはせぬかを疑わしむるものがないでもないが、俳諧史上における『曠野』の特徴は正にこの無特徴に似たところにある。この集に現れた去来の作品は次のようなものである。

[やぶちゃん注:「圭角」「圭」は「玉」(ぎょく)の意で、元は玉の尖った部分。宝玉の角(かど)で、転じて「性格や言動にかどがあって円満でないこと」を言う。]

 何事ぞ花見る人の長刀       去来

[やぶちゃん注:「長刀」は「なががたな」。]

 名月や海もおもはず山も見ず    同

 鶯の鳴や餌ひろふ片手にも     同

[やぶちゃん注:「餌」は「ゑ」。「片手」は「一方で」の意。]

 うごくとも見えで畑うつ麓かな   同

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の注で、元禄二(一六八九)年頃の作と推定されておられる。かなり遠く離れている農作業の景であるが、静止画像かと思われる中に、農具を振り上げる微妙な瞬間が捉えられている。面白い。]

 いくすべり骨をる岸のかはづかな  同

 あそぶともゆくともしらぬ燕かな  同

 笋の時よりしるし弓の竹      同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

 涼しさよ白雨ながら入日影     同

[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち(ゆうだち)」。]

 秋風やしら木の弓に弦はらん    同

[やぶちゃん注:「弦」は「つる」。]

 湖の水まさりけり五月雨      同

[やぶちゃん注:「みづうみのみづまさりけりさつきあめ」。琵琶湖の景。其角や許六が絶賛しているが、私は少しもいいと思わぬ。既にお判りかと思うが、私は嘗て去来の句にいいと思ったことは少ない。どこか理(り)に徹した、冷たさを感じるからである。

 榾の火に親子足さす侘ねかな    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。]

   いもうとの迫善に

 手のうへにかなしく消る蛍かな   同

[やぶちゃん注:「消る」は「きゆる」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の評釈で、貞享五(一六八八)年(去来は満三十七ほど)『五月十五目に没した妹千子(ちね)への追悼吟である。愛する妹の命の象徴である蛍が、自分の掌の中ではかなく消えてしまったのは、なんともつらく悲しいことだ、というのである。千子が辞世吟で「もえやすく又消えやすき蛍かな」(『いつを昔』)と詠んだのに唱和するかたちで、深い哀悼の意を表した句である。蛍は、和泉式部の「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」(『後拾遺和歌集』第二十・雑)の歌以来、人の魂(命)に見立てられることが多かったのである』とされ、「いもうと」に注されて、『向井千代のこと。俳号を千子(ちね)といい、長崎の廻船問屋清水藤右衛門に嫁して一子をもうけたが、貞享五年五月、三十歳にもならぬ若さでなくなった。去来の一族には、妻可南女をはじめ、俳諧を嗜むものが多かったが、千子もそのひとり。貞享三年秋には、去来・千子連れだって『伊勢紀行』の旅をしている』とされ、また「句集では『「妹千子身まかりけるに」と前書する』とある。]

   李下が妻のみまかりしをいたみて

 ねられずやかたへひえゆく北おろし 同

[やぶちゃん注:「李下」(りか 生没年未詳)は蕉門の俳人。延宝九(一六八一年)春に彼が深川の師松尾桃青の草庵に芭蕉の一株を植えた。これを記念してこの翌天和元年三月の千春編の「武蔵曲」以降に、彼は「芭蕉」を名乗るようになったのであった。「曠野」・「虚栗」・「其袋」などに入集する、芭蕉の初期(芭蕉の立机は延宝六(一六七八)年であるが、それ以前に彼は芭蕉に従っていたものと思われる直参である)。李下の妻ゆきも門人であったが、この時(貞亨五・元禄元(一六八八)年秋「ゆき」没か。貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日)に元禄に改元)、芭蕉も彼女に、

   李下が妻の悼(いたみ)

 被(かづ)き伏す蒲團や寒き夜やすごき

追善句を贈っている。]

 『曠野』に収められている去来の句は、量においては必ずしも他を圧するに足らぬけれども、質においては嶄然(ざんぜん)頭角を現している。特に「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の如きは、永く俳諧の天地に光彩を放つべき名句である。『曠野』集中の珍たるのみではない。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 寺田博士が高等学校の生徒だった時分に、はじめて夏目漱石氏を訪うて俳句に関する話を聞いた。その時の談片の中に「秋風やしら木の弓に弦はらん」というようなのはいい句である、ということがあったかと記億する。こういう格の高い句は、去来のような人物を俟ってはじめて得べきものであろう。去来の心より発する一種の力が粛殺(しゅくさつ)の気と共にひしひしと身に迫るのを覚える。「湖の水まさりけり」の句については、許六の『自得発明弁』にこうある。

[やぶちゃん注:「寺田博士」物理学者で随筆家・俳人でもあった寺田寅彦(明治一一(一八七八)年~昭和一〇(一九三五)年)。彼は熊本五に明治二九(一八九六)年に入学するが、当時、同校で英語教師であった夏目漱石と、物理学教師田丸卓郎と出逢い、両者から大きな影響を受けて科学と文学を志し、明治三一(一八九八)年には夏目漱石を主宰とした俳句結社『紫溟吟社』の創設に参加した。東京帝国大学理科大学入学はその翌年のことであった。

「自得発明弁」既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一、予当流入門の頃、五月雨の句すべしとて、

  湖の水もまさるや五月雨

といふ句したり。つくづくと思ふに、此句余り直にして味すくなしとて、案じかへてよからぬ句にしたり。其後あら野出たり。先生の句に

  湖の水まさりけり五月雨

といふ句見侍りて、予が心夜の明たる心地して、初て誹かいの心ん[やぶちゃん注:ママ。]を得たり。是先生の恩なりと覚て、今に此事を忘れず。

 

 ここに先生というのは去来の事である。傲慢不遜なる許六をしてこの言あらしめたのは、ただに同門の先輩であるというばかりでなく、この句に啓発さるるところが多かったためであろう。子規居士は更にこれを敷衍(ふえん)して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

「も」「や」の二字と「けり」の二字と、ただこれ二字、彼に執せば則ち直下に地獄に堕ち、これに依らば則ち忽然として成仏しをはらん。「も」の字元これ悪魔の名、能く妖法を修法を修す。一たび彼に触れんか、十有七字麻了痺了俗了俚了軟了死了す。人々須(すべから)く「も」の字除(よけ)の御符を以て自家頭中の「も」の字を追儺(なやら)ひて一箇半箇の「も」を留(とどむ)る莫れ。乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]天地玲瓏(れいろう)、空裡の一塵を見ん。

[やぶちゃん注:引用元不詳。発見したら追記する。]

 

と説いている。「湖の水まさりけり五月雨」の句は、漠々たる中に天地の大を蔵する概(がい)がある。子規居士の説は「水まさりけり」と「水もまさるや」との差を論破して余薀(ようん)なきものであるが、この差を生ずる所以のものは、やはり去来その人に帰するより外はあるまいと思う。『曠野』における去来の句は、外面的に人目を眩するものを持たぬにかかわらず、内実において慥に人の心を打つ力を具えている。

[やぶちゃん注:相変わらず、くどいが、私はそうは思わない。]

「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五」に「籠の渡し」の注を大幅追加した

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五 /(再々リロード) 凡兆~了

に「籠の渡し」の「閑田随筆」にある記事を引用追加した。挿絵も添えたので、是非、見られたい。

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