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カテゴリー「柴田宵曲」の159件の記事

2017/09/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「狐の化け損ね」

 

 狐の化け損ね

 

 狐の化け損つた話で最も愛敬のあるのは、「寓意草」の中の一話であらう。鳥取の士坂川彦左衞門が雉子打ちに出た時、松原の中から現れたのを見ると、下僕の形をしながら顏は狐であつた。今日は御狩でございますか、私も暇でございますからお供を致しませう、といふので、鐡砲を持たせることにした。知人の門に來て、その狐に雉子を見張つて居れと命じ、自分は中に入り、今をかしなやつが來るが實はぬやうに、と注意して置いた。錢砲持ちの狐はやがてやつて來て、鳥はどこにも見えません、と云ふ。家の人も心得て笑はずに茶を出す。私は水をいたゞきたいと云ふので、その通り水を注いだ茶碗を差出したが、その水にうつる顏を一瞥するなり、狐はあわてふためいて逃げ出した。居合せた人はどつと笑ふ。坂川彦左衞門は翌日も雉子打ちに出たところ、草むらの中から彦左衞門の名を呼び、昨日はをかしうございました、と云つて笑ふ者がある。化け損ねの狐にきまつてゐるが、姿は遂に見せなかつた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段)から視認出来る。それを読むと、不審に思った「雉子を見張つて居れ」の箇所が合点した。原話では坂川は『いで奴雉子のありやなしやみをりてのこれ』(いで、奴(やつこ)、雉子(きじ)のありや、なしや、見居りて殘れ)で、「さあ、従者(ずさ)よ、獲物に出来る雉子がいるかいないか、ここに暫く残って探索しおれ。」と命じたのである。]

 

 筑前國福岡の城下を一里餘り離れた岡崎村といふところに、高橋彌左衞といふ馬乘りが住んで居り、夕方から用事で城下まで出かけたが、夜になると間もなく歸つて來た。妻女はいさゝか不審を懷き、どうして早くお歸りなされたかと尋ねると、いや、先方の家の近くまで行つたら、用事は濟んだといふ使ひの者に出逢つたので、直ぐ引返した、と云ふ。何しろ疲れたからと直ぐ臥所に入り、供に連れた下僕も食事を濟まして寢てしまつた。その時年久しく使はれてゐる老婆が妻女の袖を引いて、旦那樣のお眼が違つて居ります、とさゝやいた。高橋は片眼盲(めし)ひて居つたが、それは右眼であるのに、今歸つたのは左眼だといふのである。妻女も驚いたけれど、しかと見極めた上にしたいといふので、婆が急に腹痛を起しました、藥を飮ませて下さい、と云つて起した。こんなに疲れてゐるのに、とぶつぶつ云ひながら目をさましたのを見れば、成程左眼が潰れてゐる、最早妖怪に紛れもないと、雨戸をさし固め、脇差を咽喉に當て、老婆はうしろから續け樣に撲り付け、こんこんくわいくわいと鳴いたところを突き殺した。供に化けた狐は家來どもに殺された。――「新著聞集」にあるこの話は、主人に化けて家族をたぶらかすつもりだつたのであらうが、うつかり眼を取り違へた爲に一命を失つたのである。狐が化けるに當り眼を取り違へた話は、他にも例がないことはない。

[やぶちゃん注:「岡崎村」不詳。

「高橋彌左衞」以下に見る通り、「高橋彌左衞門」の誤り

「こんこんくわいくわい」底本では「くわい」の後半のみに踊り字「〱」があり、これでは「こんこんくわいくわいこんこんくわいくわい」となるが、以下の原典に従い、「くわい」のみを繰り返した。

 以上は「新著聞集」の「第十七 俗談篇」の冒頭に置かれた以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○鈍狐害をかふむる

筑前福岡の城下より、一里あまり過て、岡崎村に、馬乘の高橋彌左衞門といふ者あり。用事有て、入相のころより、城下に出ゆきしが、夜に入とひとしく歸りしかば、いかで早く歸りたまふと、妻のとひしに、されば、道今すこしになりて、かの方より、用も足れりとてとめ侍りし。餘りにつかれたるとて、閨に入り、供の僕は物くふて臥りぬ。此家に、年おひたる婆ありけるが、妻の袖をひき、主人、常は右の目、盲たまへるに、只今は、左の目、盲たるこそいぶかしと告げければ、妻おどろき、さらば、少し出し見んとて、姥が俄に腹痛しぬ。藥をあたへられよといひしかば、かく疲れていねたるにとつぶやき、漸くに出しをみれば、左の目盲たり。さては疑もなき妖ものなりしかば、妻かいがいしくも、最早婆も快く侍りしまゝ、いねさせよとて、ねやの戸をしめ、四方のかこみを、嚴しくたてこめ、脇指を、臥たる上より咽にあて、姥は後より、たゝみかけ打ければ、こんこんくわいくわいと鳴し所を、つき殺しける。又家來の老共は、供の狐をたゝき殺しけり。未熟の狐にや。妖け損じけるこそおかしかりし。

   *]

 

「文化祕筆」に出てゐるのだから、時代は大分後である。豐後國岡といふところの或人が、鐡砲を持つて山へ出かけ、狐を一疋打つて歸つた。然るに四五日ばかりして殿樣より使ひがあり、その方去る何日何山に於て狐を打つた由であるが、右の狐は殿樣御祕藏のものである。不屆の次第につき切腹仰せ付けられる、といふことであつた。君命は如何ともしがたい。畏りました、然らば家内の者に暇乞ひを致し、その用意を仕りまするから、暫時御猶豫下されい、と答へ、勝手に行つて母親に委細を話した。母親の云ふのには、狐を一疋殺したぐらゐの事で切腹仰せ付けられるのは、何分合點が往きかねる、一つ御使ひの樣子を見屆けよう、とあつて唐紙の隙から窺つて見た。使ひに來た大目付の何某は右の片眼である筈なのに、左の片眼であるのみならず、左に差すべき大小を右に差してゐる。心を落ち著けて見たらよからうと云はれ、自分も覗いて見ると正にその通りである。これは狐の仕業に相違ないと思つたから、刀を拔いて唐紙を押し開いた。狐は忽ち正體を現し、塀を飛び越して逃げるところを斬り付けたが、遂に取り逃したといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「豐後國岡といふところの或人」同国直入(なおいり)郡竹田(現在の大分県竹田市)に藩庁をおいた外様藩岡藩の藩士であろう。

「文化祕筆」著者不詳。所持しないので提示出来ない。]

 

 その人の特徴である片眼を捉へて化けながら、左と右とを取り違へるなどは、やはり爭はれぬ獸の智慧で、狐の顏のまゝ鐡砲を持つて供をした鳥取の狐と兄たり難く弟たり難いものであらう。智慧の點では遙かに狐を上𢌞つてゐるつもりの人間にしても、凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山が、高頰の黑子といふ特徴を閑却してゐるやうなもので、由來化けるといふことは、かうした手落ちを伴ひ勝ちのものなのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山」「天保六花撰」と称されたアウトローたちの生き様を描く歌舞伎の世話物の傑作「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」。河竹黙阿弥作で初演は明治一四(一八八一)年。私は歌舞伎が嫌いなので、の梗概をどうぞ。

「高頰」頬の高くなった部分。複数の諸解説を読むと、芝居では河内山宗俊が自分のトレード・マークである黒子を隠し忘れてしまい、凌雲院大僧正に化けて松江出雲守をうまく騙すのであるがが、最後の最後にその黒子でばれるという設定だそうである。]

 

「窓のすさみ」にある話は、延寶頃といふから、今まで擧げた中では一番古い。これは疱瘡の藥を作るために狐の生き肝(ぎも)を取るといふ一條があるので、狐の恨みを買ふ度合も強いわけであるが、その家第一の重臣である中川某が物頭の許(もと)に乘り込んで、一通の書付けを示した。その内容は狐などには關係なく、物頭が靑年時代より壯年に至る間に犯した過失を書き上げたものであつた。物頭は全部見了つて、これは血氣時代の仕損じでござる、只今の事でないからと申して、申し開きの致しやうはござらぬ、と答へるに、然らば切腹候へ、と申し渡された。「文化祕筆」と同じ成行きである。家族にその旨を告げ、家の中は俄かに滅入つてしまつたが、切腹に先立つて沐浴すべき湯を沸かしてゐた下僕が、ひよいと亭の庭を見たところ、塀の上に多くの狐が頭を竝べて覗いて居り、まだかまだかと云ふのに、供の士が手を振つて、まだと答へた。この事を主人にさゝやいたので、そんな事もあらうと思つた、この上は使者を斬り捨て、もし間違つたならば、その時こそ切腹して果てよう、と決心して亭へ出て來たら、早くもその氣を悟つたと見えて、狐は一疋もゐなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「延寶」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱及び徳川綱吉の治世。

「物頭」「ものがしら」と読む。諸藩に於いては、歩兵である足軽や同心などから編成された槍(長柄(ながえ))組・弓組・鉄砲組などの頭たる「足軽大将」を指し、侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)に次ぐ地位にあった。

「窓のすさみ」以前に述べた通り、所持しないので原典は示せない。]

 

 この話には左右の眼を取り違へるといふやうな破綻はない。重臣に化けた狐は、過去の失策を算へ立てた書付けを持參し、それに對し申開きは出來ないと云つたのだから、八九分通り成功したものと見てよからう。最後の一段に至つて失敗に導いたのは、塀の上に頭を竝べた腹心の狐どもである。同じ話を何遍も例に引くやうだが、最後に革袋に入つてアリ・ババの邸内に運ばれた三十七人の盜賊が、悉くモルギアナのために返り討ちに遭ふのも、袋の中から聲を出して、もう飛び出してもいゝかどうかを尋ねたからであつた。塀の上の狐はそれほどへまを演じたわけではないけれど、とにかく彼等の擧動によつて狐の一黨であることを看破され、主人は切腹すべき刀を以て使者を斬らうとする逆轉作用を見るに至つた。こゝまで破綻なしに詰め寄せながら、最後の一段に至つてやり損ふところに、化けることのむづかしさがあるわけであらう。

[やぶちゃん注:NHK「アリババと40人の盗賊」 アラビアンナイト(語り:戸川京子)の「scene06 三十七このかめ」でシークエンスが判る。盗賊の頭と女奴隷モルギアナを勘違いし、隠れていた手下が「おかしら、もうじかんですかい」と声を発してしまい、ばれるのある。]

2017/08/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」

 

 猿の妖

 

「輟耕錄」にある「鬼」といふ話は猿の妖を書いたものである。陝西の老婆の家に道士が來て食を乞ふ。老婆は少しも厭な顏をせずに給してゐたが、一日道士は、お前の家は妖異のために苦しめられて居りはせぬかと問ひ、老婆が然りと答へるのを聞いて、それならわしが退治してやると云つて、囊の中から符を取り出して火の中に投じた。忽ち落雷のやうな響きがすると、道士は老婆を顧みて、妖は已に退治したが、一つだけ取り逃してしまつた、二十年ばかりたつて、この家に災難が來るだらう、その時はこれを焚くがいゝ、と告げ、鐡簡を與へて立ち去つた。老婆には娘が一人あり、長ずるに從つて非常な美人になつたが、或日大王なる者が大勢の供を連れて老婆の家に宿り、お前の家に異人から授かつた鐡簡があるさうな、それを見せろ、と云ふ。老婆はその前から鐡簡を見せろといふ人が屢屢あるので、ひそかに僞物を作つてこれを示し、眞物は肌身離さぬやうに持つてゐた。大王に見せたのも無論僞物の方であつたが、彼はそれを返さぬのみならず、娘に酒の酌をさせろなどと云ひ出して、いくら辭退しても承知しない。老婆は道士の云つたことを想ひ起し、勘定して見ればあれから丁度二十年になる。災難といふのはこれかも知れぬと氣が付いたので、腰に付けてゐた鐡簡を竈の下に抛り込んだ。いつかと同じ落雷のやうな響きと共に電光が閃き、家の中は煙で一杯になつた。その煙が薄れてから見ると、何十疋といふ猿が斃れて居り、その最も大きなのが大王と稱したやつで、道士が一つだけ逃したと云つた者に相違ない。彼等の携帶した金銀寶玉の類は、老婆からの訴へにより悉く官庫に沒收された。

[やぶちゃん注:「鬼」原典を見ると「鬼贓」で、これならば鬼の「贓品」(不正な手段で手に入れた品物)の意で腑に落ちる。

「鐡簡」鉄製の札。恐らくは呪力を封じた、或いは、そうした力を持った呪符や呪言(じゅごん)を記したものであろう。

 以上は「輟耕錄」の「卷六」の「鬼贓」。

   *

陝西某縣一老嫗者、住村莊間、日有道流乞食、與之、無吝色。忽問曰、「汝家得無爲妖異所苦乎。」。嫗曰、「然。」。曰、「我爲汝除之。」。卽命取火焚囊中符篆。頃之、聞他所有震霆聲。曰、「妖已誅殛。才遁其一、廿年後、汝家當有難。今以鐵簡授汝、至時、亟投諸火。」。言訖而去。自是久之、嫗之女長而且美、一日、有曰大王者、騎從甚都、借宿嫗家、遣左右謂曰、「聞嘗得異人鐵簡、可出示否。」。蓋嫗平日數爲他人借觀、因造一僞物、而以眞者懸腰間、不置也。遂用僞獻。還、謂曰、「可呼汝女行酒。」。以疾辭、大王怒、便欲爲姦意。嫗竊思道流之説、計算歳數又合、乃解所佩鐵簡投酒灶火内、既而電掣雷轟、煙火滿室。須臾、平息、擊死獼猴數十、其一最巨、疑卽向之逃者。所齎隨行器用、悉系金銀寶玉。赴告有司、籍入官庫。泰不華元帥爲西臺御史日、閲其案朱語、曰鬼髒云。餘親聞泰公説甚詳、且有鈔具案文、惜不隨卽記錄、今則忘邑裏姓名歳月矣。

   *

この話は岡本綺堂「中國怪奇小説集」に「鬼の贓品」として訳されてある。「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 この話をそのまゝ日本の舞臺に持つて來たのが「御伽百物語」の「宮津の妖」である。道士といふのは工合が惡いから、順禮の僧とし、大王も「なま上達部(かんだちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男」と大分格下げになつてゐるが、全體の筋は同じ事で、最後に金銀の類を官家の貨殖に收めるところまで殆ど變りがない。それが「御伽空穗猿」の「猿官人に化て婦女を奪ひし事」になると、木曾の駒ガ嶽に話を持つて行つた。鐡札を與へた行脚の沙門は順禮の僧と大差ないが、こゝでは國主の使者に對し、先づ鐡札を香爐にかざして退散させ、愈々國主自ら乘り込んだといふ時、圍爐裏に投じて猿の一族を滅盡するといふ二段になつてゐる。たゞ最後の金銀寶玉の一條はこの話にはない。

[やぶちゃん注:「順禮」諸国巡礼。

「なま上達部(かんだちめ)」若い公卿。三位以上の公家の総称。参議は四位であるが、特例としてこれに準ぜられた。

「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕えて雑務に携わった者。

 「御伽百物語」の「宮津の妖(ばけもの)」は以下。活字本二種を持つが、今回は早稲田大学古典籍総合データベースの画像を視認して示す。読みは一部に限り、踊り字〱は正字化した。適宜、句読点や記号を打った。直接話法等は改行した。挿絵は画像が綺麗な所持する国書刊行会「江戸文庫」版を用いた。一部に注を附したが、二次創作でもあり、地名等のそれは省略した。

   *

 

      宮津の妖

 

Otogihyakumiyadunoyou

 

 丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ[やぶちゃん注:互いに突(つつ)き合う。励ます意或いは居眠りを注意することであろう。]、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、源(げん)といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりはひ)のわき在所、伊祢といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其此しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、品をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜は此後家が方へたよりて、夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寢る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事もかなはず。まして外(そと)より來たる人は、此寢たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寢し也。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、

「誠に此とし比、こゝに起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、何をがなと思へど、世をいとひし身れば、今さら報ずべき此世の覺えもしらず。さりながら此家のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」

といへば、あるじの女のいうやう、

「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊祢(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:夫。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(つけ)の故なり。」

とかたれば、僧のいふやう、

「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅にをもむく也。いでや、先づ、こよひの内に此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」

と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。]、水をあびなどして、何やらん、冗(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、あつ松[やぶちゃん注:不詳。「向うの松」の謂いか?]のかたより、ふり來たるよ、と見えしが、伊祢の山もくづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかりひまなく、時ならぬ大ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は氣もたましゐも身にそはで、ちゞまり居たる内、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比、かの僧のいひけるは、

「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。さりながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」

と、鐵の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つゐ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで、心ばへ、やさしく、容顏、いつくしく、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の「雜餉(ざつしやう)なりける男、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、此丹後に聞えたる切戸(きれと)[やぶちゃん注:京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗智恩寺。]・成相(なりあひ)[やぶちゃん注:丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺。境内から天橋立が一望される。]の寺々をもおがまばやとて、うち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)ね、ぬなわの浦、水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし體(てい)にて、暮れかゝるより此磯に舟をかけさせ、船人にとい聞き、浦の海士にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、歌をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出だし、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、

『都の人とこそいへ、大やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾ともとこそ祈りつれ。』

とおもへば、なかなか、よそ事に聞きて返事もせず。彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ聞きおきし、何かの事を、ひとつ、(われ)我しりがほにいふ内、

「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何やうのものぞ。見せよ。」

と望めば、彼の母、つねに此まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)つよく、

「彼のむすめを我にくれよ。」

と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはさりしかば、今は、都人も大(おほき)に怒り、はら立、

「所詮、こよひの内に下部はら、殘る隈なく家さがしして、理不盡に娘を奪ひとれ。都へとく具してゆくべし。」

と罵るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり、大雨、しきりにして、いなづまの、かげより、はたと落ちかゝるかみなり、あやまたず、此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ、と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。

   *

「御伽空穗猿」「おとぎうつぼざる」と読む。浮世草子怪談集。江戸中期の戯作者摩志田好話(ましだこうわ 生没年未詳。後に静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)と名乗る)の作。「猿官人に化て婦女を奪ひし事」はその「卷之一」の二話目。所持するはずなのだが、見当たらない。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、原典は早稲田大学古典籍総合データベースのこちらの十四コマ以降で視認出来る。]

 

 

 猿はキツプリングの「ジャングル・ブック」あたりを見ても、常に同類群居し、團體行動を營んでゐる。「輟耕錄」の大王なる者は、どのくらゐの與黨を持つてゐたかわからぬが、衆を恃んでゐたことは慥かである。「今昔物語」の人身御供(ひとみごくう)の話にしても、大勢の眷屬を從へて居つた。「白猿傳」の如く單騎獨行する例は、極めて稀であるらしい。

[やぶちゃん注:『キツプリングの「ジャングル・ブック」』イギリス統治下のインドを舞台にした作品や児童文学で知られるボンベイ(ムンバイ)生まれのイギリス人小説家で詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年)が一八九四年に出版した短編小説集The Jungle Book。翌年には続編The Second Jungle Book)も出版されている)。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli:「蛙」の意)が主人公。参照したウィキの「ジャングル・ブック」及び同英語版によれば、猿の群れが登場するのは、Kaa's Hunting(カー、狩りをする)の章で、『前作で人間の世界に戻る前の物語。モウグリは猿の群「バンダー・ログ」』(Bandar-logs)『にさらわれ、ジャングルの中の、廃墟となった人間の元宮殿に送られる。「バンダー・ログ」はモウグリの賢さを利用し、自分たちのリーダーにしようとしていた』。クマのバルー(Baloo)と黒豹のバギーラ(Bagheera)は、トンビのチリ(Chil)や『巨大なニシキヘビのカーの助けをうけて、モウグリを助ける』とある。小学生の時に読んだ記憶だけはあるのだが、哀しいかな、皆、忘れて、思い出せない。

『「今昔物語」の話』先行する「人身御供」の注で電子化済み。

「白猿傳」先行する「白猿傳」を参照。]

 

 

「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治は、「剪燈新話」の「申陽洞記」に據つたものと云はれてゐる。隴西の李生なる者が騎射をよくし、膽勇を以て稱せられながら、未だ志を得ずにゐる時、錢翁といふ豪家の愛孃が忽然として行方不明になつた。もし女の所在を知る者あらば、家財の半分を與へる、女もその人に嫁せしむる、といふ懸賞條件まで發表されたが、少しも消息がわからぬ。一日獵に出た李生が麞(くじか)の走るを逐ひ、山深く入るほどに日が暮れてしまつた。たまたま山頂に古い廟のあるのを認め、そこまで辿り著いて見ると、全く荒れ果てて鳥獸の跡があるのみである。李生も氣味が惡かつたが、已むを得ずその軒下に一夜を明すことにした。ところが一睡もせぬのに、遙かに警蹕(けいしつ)の聲が聞える。こんな山中に深夜何者も來る筈がない、鬼神でなければ山賊であらう、と思つたので、廟の欄を攀ぢ上り、梁(はり)に身を隱し、樣子を窺つてゐると、やがて二つの紅燈を眞先に門のところまでやつて來た。首領らしい者は紅い冠をかぶり、淡黃色の袍(うわぎ)を著て、神座の前の案(つくゑ)に著坐し、武器を持つた者などが階下に居ならぶ。なかなかいかめしい樣子ではあるが、彼等の容貌は人間ではない、大猿である。李生が腰に帶びた矢を取り出し、首領を狙つて放つと、矢はあやまたず臂に中(あた)り、皆うろたへて散亂した。夜が明けて神座のほとりを見れば、點々たる鮮血の痕がある。その痕を尋ねて南へ五里ばかり行つたら、果して大きな穴があり、血の痕はその中に入つてゐる。李生は穴のほとりを徘徊してゐるうちに、足を滑らしてその穴に轉落してしまつた。

 穴は深かつたけれども幸ひに無事であつた。路らしいものがあるのを探り探り、眞暗な中を進むこと百步ばかりで、急に明るいところへ出た。そこに石室があつて、申陽洞といふ立札がしてある。門を守つてゐるのはいづれも昨夜見た妖怪であつたが、李の姿を見て驚いた。何者でどうしてこゝへ來たかと問はれたので、私は城中の醫者でございますが、山へ藥草を採りに參りまして、つい足を踏み外してこゝへ落ちました、どうか御勘所下さいまし、と丁寧に答へた。醫者だと聞くと、彼等は皆喜んだ樣子で、實は主君申陽侯が昨夜出遊の際、流れ矢に中つて病牀に居られる、お前が醫者なら幸ひだから治療して貰ひたい、と云ひ出した。李生は彼等に案内されて曲房深く入る。華麗な奧の間の石榻に橫はつてゐるのは一の老猿で、絶世の美人が三人、その傍に侍してゐる。李は子細らしくその疵を見て藥を與へ、群妖の請ひに任せてまた藥を與へた。その藥といふのは矢の先に塗つて猛獸猛禽を發すのに使ふ、恐るべき毒であつたから、群妖は立ちどころに昏倒した。壁にかゝつてゐた寶劍を執り、三十六の首を斬り、三人の美人も倂せて斬らうとしたが、彼女等は皆人で、その一人は例の錢翁の愛孃であることがわかつた。李は思ひがけず一擧に群妖を討滅し得たが、地底を脱出する方法がない。思案の途も盡きたところへ、虛星の精と名乘る老人が現れ、今まで妖怪の爲に屛息してゐた次第を語り、李及び三人の美女のこゝを脱する法を講じてくれた。老人の言に從つて、半時ほど目を閉ぢてゐる間、絶えず風雨の聲がしてゐたが、その聲が止んだので目を開いたら、大きな白鼠が直ぐ前に居り、鼠や豕の如き者が穴を穿ちつゝあつた。浮世に還つた李生は約束通り錢翁の壻となつたことは云ふまでもない。

 この話は多少「白猿傳」に似たところがある。人界より良家の美女を奪ひ去るあたり特に然りであるが、申陽洞はいさゝか賊寨じみてゐて、「白猿傳」の如き豪快味がない。妖は一ながら相距(さ)ること遠しである。

[やぶちゃん注:『「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治』瀧澤馬琴の「南總里見八犬傳」は妻の愛読書で、彼女は通して三度ほど読み返しているらしいが、私は部分的にしか読んだことがないので、ウィキの「南総里見八犬伝」の「庚申山の妖猫退治」より引く。『諸国を経て下野国を訪れた現八は、庚申山山中にて妖猫と対峙し、弓をもって妖猫の左目を射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は赤岩一角を名乗り、自らを殺した妖猫が「赤岩一角」に成り代わっていることを告げる。山を降りた現八は、麓の返璧(たまがえし)の里に一角の実子・犬村角太郎の草庵を訪って語らう。角太郎の妻・雛衣の腹は身に覚えのない懐妊の模様を示しており、角太郎は不義とみなして雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していた』。『偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに角太郎を訪れ、雛衣を復縁をさせたが、これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。孝心に迫られて窮した角太郎を救い、みずからの潔白を明かすために割腹した雛衣の胎内からは、かつて誤飲した珠が飛び出して偽一角を撃った。角太郎は現八と共に、正体を現した妖猫を退治し、名を大角と改めて犬士の一人に加わる』とある。

『「剪燈新話」の「申陽洞記」』原文も訳本も所持しているが、長いので引かない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、頭注のある訓点附きをここから視認出来る(明治三三(一九〇〇)年青木嵩山堂刊の「剪燈新話」)。また、「青空文庫」で岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「申陽洞記」及び田中貢太郎訳の「申陽洞記」がそれぞれ読める。また、本話は浅井了意の「伽婢子」で「隱里(かくれざと)」として翻案もされている。

「隴西の李生」名は徳逢(とくほう)。

「麞(くじか)」獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。体長約一~一・三メートル小型のシカ。

「警蹕(けいしつ)」貴人の通行などの際に先払いの者が掛け声を掛けて人々をいましめたその声。

「臂」音「ヒ」であるが、ここは「ひじ」で訓読みしておく。但し、この語は肩から手首までの腕部分を広範囲に指す語である。

「五里」「剪燈新話」は明代の作品であるから、一里は五百六十メートル弱であるから、二キロ八百メートル程。

「石榻」「せきとう」で石製の寝台のこと。

「虛星の精」二十八宿の一つ虚宿(きょしゅく/とみてぼし)。北方玄武七宿の第四宿で実在する星として主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」及び「こうま座α」の二つ。鼠はこの虚星の精であるとされた。]

 

 倂し猿の妖を説く以上、「廣異記」の一小話を閑却するわけには往くまい。戸部尚書韋虛已の子、晝間閣中に獨坐してゐると、軒に妙な物音がして、地獄の圖にある牛頭(ごづ)のやうな顏が、中を窺つてゐるのが見えた。韋の子が小さくなつてぢつとしてゐると、今度は階を上つて牀前に現れ、覗き込むやうにしてゐる。かういふことが二三度あつて、韋の子は恐ろしくてそこにゐられなくなつた。思ひきつて外へ出ようとし、枕を取つてそのものに投げ付けたけれど中らなかつた。門を開いて逃げ出したら、うしろから追駈けて來る。韋の子は恐怖の叫びを擧げながら、そこにある空井戸の周圍をぐるぐる𢌞るうちに、たうとうつかまりさうになつたので、井戸の中に飛び込んだ。底から仰ぎ見れば、井戸に據つて坐つてゐるのは一疋の猿であつた。叫び聲を耳にして家人が駈けて來た時は、猿は已にどこかへ行つてしまひ、井戸の傍には踏み荒した足跡が殘つてゐた。韋の子は直ぐに發見され、下げた綱に縋つて上つて來たが、茫然として何も云はず、三日ほどたつて漸く恐ろしかつた話をするやうになつた。倂し一月餘りで亡くなつたさうである。この話は小規模ではあるが、妖味は頗る多い。牛頭の如きものの内を窺ふあたり、特にさうである。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「畜獸十一」に載る「廣異記」を出典とする「韋虛己子」版である。

   *

戸部尚書韋虛己。其子常晝日獨坐閤中。忽聞簷際有聲、顧視乃牛頭人、眞地獄圖中所見者、據其所下窺之。韋伏不敢動、須臾登階。直詣牀前。面臨其上。如此再三、乃下去。韋子不勝其懼。復將出内、卽以枕擲之、不中、乃開其門、趨前逐之。韋子叫呼、但遶一空井而走。迫之轉急。遂投于井中。其物因據井而坐、韋仰觀之、乃變爲一猿。良久、家人至、猿卽不見。視井旁有足跡奔蹂之狀、怪之、窺井中、乃見韋在焉。懸縋出之、恍惚不能言、三日方能説。月餘乃卒。

   *]

2017/08/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「白猿傳」

 

 白猿傳

 

 御伽草子は「五朝小説」の中の話をよく染め返したものといふ「文會雜記」の説は、どれほど實例が擧るか知らぬけれど、最も有名な話で成程と思はれるのは、大江山の酒呑童子(しゆてんどうじ)であらう。酒呑童子は丹波の大江山に住んで、近國他國よりみめよき女房を奪つて行く。それが源賴光の鬼退治になる動機は、池田の中納言の最愛の娘が、或日の暮れ方に行方不明になつたことに在つた。唐の「白猿傳」も、歐陽紇の妻が一夕陰風晦黑の裡に何者かに奪ひ去られるのにはじまる。その地に神あつて美女を盜むといふ警告は、前以て受けてゐたのだから、大江山の評判と似たやうなものである。賴光は四天王一人武者を倂せ一行六人に過ぎなかつたが、紇は壯士三十人を率ゐてゐる。賴光等が谷川に衣を洗ふ花園中納言の姫に逢つて、酒呑童子の樣子を尋ねたやうに、紇も怪物に囚はれた女達から討つべき手だてを聞いた。酒を飮ませて醉つたところを討つのは同じであるが、賴光等が山伏と稱して童子の面前に出たに反し、紇は一切を婦人のはからひに任せ、醉うて手足を縛せられたのを斃すのである。最も似てゐるのは、童子が晝は人の姿で夜になれば鬼形に變ずるといふことで、「白猿傳」の怪物も白衣を著けた美髯の丈夫と見えたのに、縛されたのは大白猿であつた。酒呑童子が多くの徒黨を擁し、白猿が飽くまで單騎獨行するやうな相違は無論あるけれど、子細に點檢するまでもなく、酒呑童子が「白猿傳」に負ふところの多いのは明瞭であると思はれる。

[やぶちゃん注:「御伽草子」ウィキの「御伽草子」から引く。『鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式』を持った物語で、広義には『室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる』。『平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。テーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる』。御伽草子に含まれるものは、四百編を超えるものが存在するとされているが、その中でも人口に膾炙するそれは凡そ百編強とも言われる(現在は研究が進んで漸増している)。但し、『同名でも内容の違うものや、その逆のパターンなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には』「御伽物語」や「新おとぎ」といった『「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された』が、「御伽草子」という名で呼ばれるようになったのは、十八世紀前期、凡そ享保年間(一七一六年~一七三六年)に『大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の』二十三『編を刊行してからのことである』。但し、これも十七『世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である』。元来、「御伽草紙」という『語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの』二十三『種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの』二十三『種に類する物語も指すようになった。現在では、「御伽草紙(子)」と言ったら』、この二十三『種の物語草紙を指し、物語草紙全体は「お伽草紙(子)」と表記するのが通例で』、その二十三の話とは、「文正草子」・「鉢かづき」・「小町草子」・「御曹司島わたり」・「唐糸草子」・「木幡(こはた)狐」・「七草草子」・「猿源氏草子」・「物ぐさ太郎」・「さざれ石」・「蛤の草子」・「小敦盛」・「二十四孝」・「梵天國(ぼんてんこく)」・「のせ猿草子」・「猫の草子」・「濱出(はまいで)草子」・「和泉式部」・「一寸法師」・「さいき」・「浦島太郎」・「酒呑童子」・「橫笛草子」を指す。

「五朝小説」明代に編纂された「魏晋小説」・「唐人百家小説」・「宋人百家小説」・「皇明百家小説」から成る志怪小説叢書。編者は桃源居士や馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)とし、諸本があり、それらの内容は必ずしも一致しない。

「文會雜記」「常山紀談」で知られる江戸中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた主に徂徠学派の言行を纏めたもの。その「卷之三上」に(以下は吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示した)、

   *

一 オトギ婢子(ハウコ)ハ至テ好書ナリ、ト君修ノ評ナリ。五朝小説ノ中ノ咄ヲヨク染メカヘシタルモノ也。ト君修ノ友人小説ヨク讀ム人ノ云ヘルトナリ。

   *

とある。この「オトギ婢子(ハウコ)」は別本では「オトギ册子」と表記され、以前は柴田宵曲が言うように先の「御伽草子」のことと解釈されるのが一般的であったようだが、これは思うに、浅井了意の「伽婢子」(その内容は確信犯で中国の志怪小説をインスパイアしていることは言を俟たない)と採るのが正しいように思われるから、この宵曲のそれはややピント外れであると私は考えている。しかもここでその説を述べているのは、常山自身ではなく、「君修」、則ち、常山が親しかった太宰春台門下の年下の篠山藩士で漢学者であった才人松崎観海(享保一〇(一七二五)年~安永四(一七七六)年:「君修」は彼の字(あざな))である点でも、宵曲の謂いは正確ではない

「酒呑童子」「御伽草子」中のそれは別名を「大江山絵詞(えことば)」とも呼び、名の表記も酒顛童子・酒天童子・朱点童子などとも書く。源頼光・碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時(金時)・藤原保昌が大江山の酒呑童子を退治する話。中世に流行した英雄伝説・怪物退治譚の代表作で、絵巻物としても流布し、江戸時代には浄瑠璃・青本・黒本で同名の影響作が多数ある。各地に伝わる伝承や同伝説をもとにした作品群の詳細はウィキの「酒呑童子」を参照されたい。

「池田の中納言」一条院に仕えた池田中納言国隆。

「白猿傳」作者不詳の唐代初期或いは中期に書かれた伝奇小説。正式書名は「補江總白猿傳(ほこうそうはくえんでん)」でこれは「江總」の書いた「白猿傳」を「補」筆したという意であるが、実在した人物としては実在する本作の主人公歐陽紇(おうようこつ:南朝最後の王朝陳の将軍)友人で大物文人官僚であった江総(五一九年~五九四年)がいるものの、彼が「白猿傳」という原作を書いた事実はない。「白猿傳」は、紇が南方遠征中に妻を猿の妖怪白猿神に攫われ、山中深く分け入って白猿を探し出して殺し、妻を取り返す。しかし、彼女は既に猿の子を妊娠しており、その生まれた子は後に成人して知られた文人書家となったという物語である(その前に紇は陳の武帝に誅殺されたと記す。但し、実在した紇を処刑したのは陳の高宗宣帝陳頊(ちんぎょく 在位五六八年~五八二年)である。なお、ここまでの事実事蹟は二〇〇五年明治書院刊中国古典小説選第四巻を参照した)。因みに、この生まれた子も、実在する、かの唐代の名書家欧陽詢(五五七年~六四一年)を明らかに指していると読める。本話は「大平廣」の「卷四百四十四 畜獸十一」に「歐陽紇」として載る(リンク先は中文ウィキの原文)。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の一篇として訳されてある(リンク先は「青空文庫版」)。

「花園中納言」不詳。]

 

「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる。その後いはゆる奇談小説の時代になつて、「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」なども、「白猿傳」の翻案であることは疑ひを容れぬ。場所は飛彈と信濃の境で狒々谷といふことになつてゐるが、三須守廉の妻が行方不明になるにはじまり、妖物が雷火に擊たれて死するに了る。その間には人を惑はす妖術があつたり、孔雀明王の法を修する道人が出たりして、複雜怪奇の度を加へてゐるものの、大體に於て「白猿傳」の筋書を離れず、酒呑童子を連想せしむるところは殆どない。この話の流れは更に後になつて、「蜑(あま)の下草」などの中にも面影をとゞめてゐる。場所は美濃の靑野ガ原、主人公は織田信長の郎黨で、怪しい老翁の規模も大分小さくなつた。この話だけ讀めばうつかり看過するかも知れぬが、「白猿傳」「繁野話」と竝べて見る時、その系統に屬するものであることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:『「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる』同書の「卷之一」の「歐陽紇」。所持するが、長く、しかも概ね、原典の訳であるので省略する。

『「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」』「繁野話」は江戸中期の医師で漢学者・読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~?:大坂の出身。他にも、当時、流行した中国の白話文学を翻案して「英草紙(はなぶさぞうし)」と本書と「莠句册(ひつじぐさ)」の三部作を書いて大いに売れ、読み本の祖とされた。学者としても優れ、安永九(一七八〇)年には「康煕字典」を校訂して出版している)の作で、明和三(一七六六)年刊で五巻六冊。中国の小説や日本の古典を翻案した奇談集。

「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」「しらぎくのかた、さるかけのきしに、くわいこつをいること」と読む。「繁野話」の「第三卷(だいさんのまき)」の「五」(第三巻総てが本話)。同書は所持するが、非常に長尺な話なので、国立国会図書館デジタルコレクションの松山米太郎校訂「雅文小説集」(大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊)に載る同作をリンクさせておくに留める。「白菊の下」もあって、画像「126」コマから「143」コマまでが当該全話である。なお、本作は研究者によって明代の白話小説「陳從善梅嶺失渾家」及び「平妖傳」さらには「水滸伝」なども参照されていることが指摘されてある。「猿掛」は山の名で現在の岡山県倉敷市から矢掛町に跨る標高二百四十三メートルの猿掛山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狒々谷」「繁野話」原典では「ひゝたに」とルビする。本文では『後世其處さだかならず』と誤魔化してある。如何にもな名ではある。

「三須守廉」「繁野話」原典では「みすのもりかど」とルビする。彼は原典によれば、『備中の國窪屋(くぼのや)大領』(郡司)の弟で、『信濃掾(しなのゝぜう)とな』って妻女ととともに赴任する途中での出来事とする。

「孔雀明王の法」密教で孔雀明王(毒蛇を食う孔雀を神格化したもので、人間の三悪を呑食して衆生の業障罪悪や諸病の痛みを除くことを本願とする。金色の孔雀に乗る四臂(しひ)で、明王中では例外として忿怒相でなく慈悲相の菩薩の形相(けいそう)として示される)を本尊として息災・祈雨を修する秘法。

「蜑(あま)の下草」不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃の靑野ガ原」現在の岐阜県大垣市とその西の不破郡垂井町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

「繁野話」が雷火を持ち出したについて、思ひ浮ぶのが「閲微草堂筆記」の中の一話である。これは發端からして妖怪に奪はれることなどはなく、人に買はれて知らぬ土地に伴はれる。その女を買つた道士は、山に入るに當つて目を閉ぢよと云ふ。風の中を飛ぶやうに覺えて、やがて目を開いたら已に高峯の上に在つた。そこには立派な建物があり、婦女ばかり二十何人も居る。調度その他、王侯の如くである。彼女等はこゝを仙府と稱し、道士を祖師と崇めてゐたが、毎月一度祖師は金管を用ゐて、婦女の身體から血を吸ひ取る。このところ頗る靑野ガ原の老翁の乳を吸ふ話と相通ずる點がある。土地はよはど高いと見えて、雲も眼下を行き、雨も遙か下に降るのであつたが、一日俄かに黑雲が起り、恐ろしい風が吹き出した。目もくらむやうな稻光りにつれて、雷鳴がとどろき渡ると、道士は顏色を變へ、そこにゐる女達を全部呼び集めて、肉屛の如く自分を取り圍ませた。雷は愈々近く、閃々たる火光が幾度か室内に入ると思ふうちに、大きな龍の爪が空中に現れて、重圍の中に小さくなつてゐる道士を攫み去つた。同時に言語に絶する大きな雷鳴があつて、天地晦冥になる。女が氣が付いた時は、全然知らぬ里の路傍に倒れてゐた。

[やぶちゃん注:これは「閲微草堂筆記」の「第二十二卷 灤陽續錄四」にある以下。

   *

門人王廷紹言、忻州有以貧鬻婦者、去幾二載。忽自歸、云初被買時、引至一人家。旋有一道士至、攜之入山。意甚疑懼、然業已賣與、無如何。道士令閉目、卽聞兩耳風颼颼。俄令開目、已在一高峰上。室廬華潔、有婦女二十餘人、共來問訊、云此是仙府、無苦也。因問、「到此何事。」。曰、「更番侍祖師寢耳。此間金銀如山積、珠翠錦繡、嘉肴珍果、皆役使鬼神、隨呼立至。服食日用、皆比擬王侯。惟每月一囘小痛楚、亦不害耳。」。因指曰、「此處倉庫、此處庖廚、此我輩居處、此祖師居處。」。指最高處兩室曰、「此祖師拜月拜斗處、此祖師煉銀處。」。亦有給使之人、然無一男子也。自是每白晝則呼入薦枕席、至夜則祖師升壇禮拜、始各歸寢。惟月信落紅後、則淨盡褫外衣、以紅絨爲巨綆、縛大木上、手足不能絲毫動、並以綿丸窒口、喑不能聲。祖師持金管如箸、尋視脈穴、刺入兩臂兩股肉、吮吸其血、頗爲酷毒。吮吸後、以藥末糝創孔、卽不覺痛、頃刻結痂。次日、痂落如初矣。其地極高、俯視雲雨皆在下。忽一日、狂飈陡起、黑雲如墨壓山頂、雷電激射、勢極可怖。祖師惶遽、呼二十餘女、並裸露環抱其身、如肉屛風。火光入室者數次、皆一掣卽返。俄一龍爪大如箕、於人叢中攫祖師去。霹靂一聲、山谷震動、天地晦冥。覺昏瞀如睡夢、稍醒、則已臥道旁。詢問居人、知去家僅數百里。乃以臂釧易敝衣遮體、乞食得歸也。忻州人尚有及見此婦者、面色枯槁、不久患瘵而卒。蓋精血爲道士採盡矣。據其所言、蓋卽燒金御女之士。其術靈幻如是、尚不免於天誅、況不得其傳、徒受妄人之蠱惑、而冀得神仙、不亦傎哉。

   *

なかなか猟奇的で面白い話なので、小山裕之氏のサイト内のにある現代語訳を引用させて戴く。注記号と一部の句点を除去した。読み易さを考え、改行と記号を追加した。

   《引用開始》

 門人の王廷紹が言った。

――忻州に貧しいために妻を売った者がおり、去って二年に近かった。突然、ひとりで帰ってき、

「買われた当初、一人が家に引いていった。」

と言った。

 突然、一人の道士が来、引きつれて山に入った。心はたいへん疑い恐れていたが、売ってしまったので、どうしようもなかった。道士は目を閉ざさせ、すぐに両耳に風が颼颼[やぶちゃん注:「そうそう/しゅうしゅう」と読み、雨や風の音が幽かにあるさま。]とするのが聞こえた。にわかに目を開かせると、すでに高い峰の上にいた。居室は華麗清潔で、婦女二十余人がおり、ともに尋ねてき[やぶちゃん注:「訊ねて来」であろう。]、

「こちらは仙府だから、苦しむことはない。」

と言った。そこで尋ねた。

「こちらに来たのはどうしてだ。」

「交代で祖師さまの寝所に侍しているのでございます。こちらは金銀が山のように積まれ、珠翠錦繍、嘉肴珍果は、すべて鬼神を使役し、呼びますとたちまち来ます。服食日用は、みな王侯に肩を並べんばかりです。毎月一回の小さな痛みも、障りはございません。」

そこで指して言った。

「こちらは倉庫、こちらは厨房、こちらはわたしたちの居ります所、こちらは祖師さまのおわす所でございます。」

もっとも高い処にある二つの部屋を指して言った。

「こちらは祖師が月を拝し、北斗を拝する処で、こちらは祖師が煉銀[やぶちゃん注:錬金術の一種。]される処です。」

やはり給仕する人がいたが、一人の男子もいなかった。

 それから白昼になるたび呼び入れて枕席に進み、夜になり、祖師が祭壇に登って礼拝すると、はじめてそれぞれ帰って寝た。

 月信落紅(つきのもの)の後だけは、内外の衣をすべて剥ぎ、紅い絨いとを巨きな縄にし、大きい木に縛り、手足はすこしも動かせず、綿の丸で口を塞ぎ、黙って声を出せなかった。祖師は金管を箸のように持ち、脈穴を探し、両腕や両股の肉に刺し込み、その血を吸い、すこぶる残酷であった。吸った後、薬の粉末を創の孔に撒けば、すぐに痛みを覚えなくなり、まもなく痂[やぶちゃん注:「かさぶた」。]ができ、翌日になれば、痂は落ち、元通りになるのであった。

 その地はきわめて高く、俯いて見ると雲雨はすべて下にあった。

 とある日、狂飈[やぶちゃん注:「きょうひょう」と読み、吹き荒れる大風・暴風のこと。]はにわかに起きず[やぶちゃん注:「は」と「ず」は衍字か?]、黒い雲が墨のように山頂を圧し、雷電が閃き、勢はたいへん恐ろしかった。

 祖師は慌て恐れ、二十余の女を呼び、みな裸になってその身を抱きかかえたが、肉屏風のようであった。火光が部屋に入ること数回、いずれも一回伸びてすぐに帰った。

 にわかに一匹の龍、爪の大きさは箕のようなものが、人ごみの中から祖師を攫って去った。霹靂の音がし、山谷は震動し、天地は暗くなった。

 ぼんやりと眠って夢みているかのようであるのを覚え、やや醒めれば、すでに道端に臥していた。

 住民に尋ねると、家から数百里にすぎないことが分かった。

 そこで臂(釧うでわ)を敝衣(ぼろぎ)に換えて体を蔽い、乞食して帰ることができた。

 忻州の人にはなおこの妻を見られた者がいたが、面色は枯槁で、まもなく癆咳を患って亡くなった。

 そもそも精血を道士にとり尽くされていたのであった。

 かれの言うことに拠れば、そもそも焼金[やぶちゃん注:引用元の注に『方術の士が丹砂を鍛えて黄金にすること』とある。]して女と交わる士であった。

 かれの術がこのように霊妙でも、なお天誅を免れなかった。ましてその伝授を得ていないのに、いたずらにでたらめなものの蠱惑を受け、神仙となることを願うのは、まちがったことではないか。

   《引用終了》]

 

「關微草堂筆記」はこの雷火を以て天誅と解してゐる。この話が「白猿傳」に似たところは、その居所が深山高峯に在ること、婦女ばかりで一人の男子も居らぬことであるが、白猿の類でない代りに、白日の下に雙劍を舞はすやうな、武術の心得はなかつたやうである。泉鏡花は嘗て「買はれた女」といふ題で、この話を女自身體驗を語るやうに書いてゐた。

[やぶちゃん注:最後の鏡花のそれは大正三(一九一四)年四月に発表された「みつ柏(がしは)」の二篇目。「青空文庫」ので読める。]

2017/08/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「牛になつた人」

 

 牛になつた人

 

 蕪村に「食うて寢て牛にならばや桃の花」といふ句がある。牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣があるが、さういふむづかしい事を持ち出さないでも、のんびりした趣の上で調和を見出すことが出來る。飯を食つて直ぐ寢ると牛になるといふのはよく云ふことで、これものんびりした話には相違ない。

[やぶちゃん注:「食うて寢て牛にならばや桃の花」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)の明和年間(一七六四年から一七七二年)の句。「蕪村句集」所収。

『牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣がある』「史記」の「周本紀」に、

   *

縱馬於華山之陽、放牛於桃林之。偃干戈、振兵釋旅、示天下不復用也。

(馬を崋山の陽(みなみ)に歸(かへ)し、牛を桃林の虛(きよ)に放ち、天下に復た用ゐざることを示す。)

   *

とある。「虛」はひっそりとした野原。これは、周の武王が暴虐の殷を滅ぼし、戦さに用いた兵馬を崋山の南へと帰してやり、武器などを運搬させた牛を城塞であった「桃林」(河南省内)の跡地に放牧して、最早、天下にそれらを二度と用いぬことを示したことから、特にその牛の方を擬人化し、「桃林處士」と異名するようになった。「處士」とは優れた能力を持ちながら在野の士であることを指す語である。]

 

「今昔物語」などを讀むと、牛になつた人間の話が出て來るが、これは前世の因果によつて畜生に墮在(だざい)するのだから、決してのんびりしてはゐない。その牛が父親だつたり母親だつたりするに至つては、のんびりどころの話ではないのである。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」の「卷二十」の「延興寺僧惠勝依惡業受牛身語第二十」(延興寺(えんこうじ)の僧惠勝(ゑしよう)惡業に依りて牛に身を受くる語(こと)第二十)であろう。

   *

 今は昔、延興寺と云ふ寺、有り。其の寺に、惠勝と云ふ僧、住みけり。年來(としごろ)、此の寺に住む間(あひだ)に、寺の温室分(うんしつぶん)[やぶちゃん注:浴室用。]の薪(たきぎ)一束(そく)を取りて、人に與へたりけるに、其の後(のち)、償ふ事無くて、惠勝、死にけり。

 而る間、其の寺の邊(ほとり)に、本(もと)より牸(めうし)、有けり。一つの犢(こうし)を生みてけり。

 其の犢、長大して後、其の犢に車を懸けて、薪を積みて、寺の内に入る。

 其の時に、知らぬ僧、寺の門に出で來て、此の犢を見て云く、

「惠勝法師は生きたりし時、涅槃經を明け暮れ讀み奉りしかども、車引く事こそ、哀れなれ。」

と。犢、此れを聞きて、淚(なむだ)を流して、忽ちに倒れて死す。

 犢の主(あるじ)、此れを見て、大いに瞋(いか)りて、其の知らぬ僧を詈(の)りて、

「汝が此の牛をば咀(のろ)ひ殺しつる也(なり)。」

と云ひて、卽ち、僧を捕へて、公(おほや)けに將(い)て行きて、此の由を申す。

 公け、此れを聞(きこ)し食(め)して、其の故を問はしめ給はむとして、先(まづ)、僧を召して見給ふに、僧の形・有樣、端正にして、只人(ただびと)と思へず。然(しか)れば、驚き怪しび給ひて、忽ちに咎(とが)行はむ事を恐れて、淨(きよ)き所に僧を居(す)へて、止事無(やむごとな)き繪師共(ども)を召して、

「此の僧の形・有樣、世に似ず、端正(たんじよう)也。然(さ)れば、此の形を謬(あやま)たず、書きて奉るべし。」

と。

 繪師、宣旨を奉(うけたまは)りて、各々、筆を振るひて、書寫(しよしや)して持(も)て參りたる。

 公け、此れを見給ふに、本(もと)の僧には非ずして、皆、觀音の像也。

 其の時に、僧、搔き消(け)つ樣(やう)に失せぬ。

 然(しか)れば、公け、驚き恐れ給ふ事、限り無し。

 此れ、現(あらは)に知りぬ、觀音の惠勝が牛と成れる事を、人に知らしめむが爲(ため)、僧の形と成りて、示(しめ)し給ふ也けり。牛の主(ぬし)、此れを知らずして、僧に咎を行はむと爲(す)る事を悔ひ悲しみけり。

 人、此れを以て知るべし。一塵の物也と云ふとも、借用せし物をば、慥(たしか)に返すべき也。返さずして死ぬれば、必ず、畜生と成りて、此れを償ふ也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 田舍とばかりあつて、どこの話ともわからぬが、富裕な百姓がいゝ牛を飼つて居つた。飼料も潤澤に與へられるから、象のやうに肥え太つて、力も甚だ強い。人の牛と鬪はせて見るのに必ず勝つので、飼ひ主も面白くなつて、かういふ立札をした。何人たりとも牛を牽き來つて突き合されよ、此方の牛負けたらば料足百貫目を進ずべし、餘所の牛負けたらば料足は取らず、たゞその牛を取るべきなり、といふのである。この札を見て牛を牽き來り、百貫文取らうとした人は澤山あつたが、皆負けて牛を取られてしまふ。取つた牛は賣つて金に換へるので、飼ひ主は愈々分限になつた。

 

 その百姓の家から五六里離れたところに、斑牛を一頭飼つてゐる男があつた。左の肩から右の脇まで黃色、その外は皆黑い。瘦牛で弱いため、田を鋤(す)かせることもなく、重荷も負はせず、いたはつて使ふことが多年に及んだ。然るに或晩この牛が飼ひ主の夢に現れて、私は年久しくお養ひを受け、御憐愍にあづかりながら、かひがひしくお役に立つこともなく、徒らに飼料を費して居りますのは、まことに本意ない次第でございます、こゝから五六里南の方に、有福の百姓が牛を持つて居りまして、人の牛と突き合せて、自分の牛が負けたら百貫文出す、餘所の牛が負けたら錢でなしにその牛を取るといふことです、どうか私を連れて行つて突き合せて下さい、私が突き勝つて百貫文お取らせ申し、年頃の御恩報じを致します、と云ふかと思へば目が覺めた。

 

 倂し先方は音に聞えた大牛である。この瘦牛が勝つことは思ひもよらぬ。牛を取られに牽いて行つても仕方がない、と問題にせずにゐたところ、再び夢に現れて、何故牽いておいでなされませぬか、私は必ず勝ちます、お疑ひめされますな、と云ふ。それほどに云ふなら、或は百貫文取れるかも知れぬといふので、人を誘ひ合せて牽いて行つた。先方の在所に著くと、先づ傍の桃林に牛を繫ぎ、彼の家に行つて案内を乞うた。立札の表に任せ五六里先より參りました、と申し入れたところ、先方は大いによろこんで、その牛が見たいと云ふ。瘦牛を牽き出したのを見て大いにあざ笑ひ、例の大牛を牽いて來た。聞き及んだよりも大きな牛で、一同目を驚かすところへ、瘦牛は進んで大道の眞中に行く。大牛も近く寄つて立ち向つたが、何となく大牛の方が恐れる體である。頭を脇へ振つてそのまゝ逃げ去るのみならず、自分の家の門を入つて後庭に逃び込んだ。瘦牛はあとを追駈けて後庭に迫ひ詰めたから、大牛は逃げ場を失ひ、膝を折つてうなだれてしまつた。瘦牛が飛びかゝらうとするのを牛の主が引き止めて、私の牛が勝ちましたと云ふ。亭主も今は致し方なく百貫文を出して渡した。

[やぶちゃん注:「逃び込んだ」恐らくは「とびこんだ」と訓じている。]

 

 自分の牛のあまり腑甲斐ない有樣に、大いに腹を立ててゐると、今度は大牛が亭主の夢に現れた。お腹立ちは御尤もでございますが、これには深い子細のあることなのです、私の前生は山の上の禪寺の僧でございました、住持は瘦せた人でしたが、福分がありまして、皆がその錢を借ります、私も澤山借りて暮しながら、その借錢を九牛の一毛も返さずに死んでしまひました、この世では私が牛に生れてこの家に養はれますと、住持も山の下の檀越(だんをち)の家の牛に生れて居られます、あの左の肩から右の脇まで、毛色の黃なのは袈裟の色なのです、僧の時にも瘦せてゐましたから、牛になつても瘦せてゐますが、住持の德には田を鋤くこともなし、重荷を負はずにいたはられてゐるわけです、今日來たのをどこの牛とも知らず立ち向ひましたら、住持なのに弱りました、借錢のある身では逃げる外はありません、百貫文の御損をおかけ申したのは、まことに不本意でございますが、これが世間の評判になれば、愈々方々から牛を牽いて參りませう、それを思ふ存分に突き勝つて、牛が澤山お手に入るやうに致しましたら、百貫文の御損は間もなく取り返せます、御安心下さいまし――。この牛の話を聞いて亭主が滿足したと思つたら目が覺めた。

 

「奇異雜談集」にあるこの話も甚だ理詰めで、あまりのんびりしてゐない。大牛も瘦牛も共に夢枕に立つあたり、趣向としても窮した點がある。前世の借錢のために勝を讓らなければならぬなどは、牛になつても義理はきびしいものらしいが、どこかに滑稽の分子を含んでゐるのは、牛そのものの持ち味であらうか。

[やぶちゃん注:これは「奇異雜談集」の「卷第三」の「二 牛(うし)觖合(つきあひ)て勝負をいたし前生(ぜんしよう)を悟る事」である。早稲田大学古典総合データベースのの4から9までの画像で読める。挿絵もある。]

 

 ルーマニアに「奇牛の角」といふ話がある。これは右の角を握れば直ちに食物が得られるといふ不思議な牛であるが、この牛が黃金橋と白銀橋とで二度大牛を相手にして勝ちながら、最後に來た瘦牛と朱銅(あかがね)橋で鬪ふことになつた時は、はじめから元氣がなく、左の角を形見に殘して相手の牛と共に下の谷へ轉げ落ちてしまつた。前世に借銀をしたわけでもないらしいのに、瘦牛に勝ち得なかつたところを見ると、何かさういふ話の型があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:この民話は不詳。ネット検索でも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「黃金橋と白銀橋」あとが「あかがね」と訓じているのであるから、「こがねばし」と「しろがねばし」と読んでおく。]

 

 その後「太平廣記」を讀んだら、前世に借錢を償はなかつた爲に、牛に生れ替る語が二つあつた。いづれも何等かの證迹を毛色にとゞめてゐるが、路伯達とか崔某とかいふ人の生れ替つた犢(こうし)は、額上にその姓名が白く讀まれたさうである。黃金の犢に黑で笏の形が現れたなどといふ話もある。借金のために鬪牛の場で勝を讓るといふほど、義理に絡んだのはないやうだが、袈裟の形が黃色に現れるなどといふ話にも、自ら由つて來るところがありさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「自ら由つて來る」「おのづからよつてきたる」。暗に宵曲は前の「奇異雜談集」の一部はこれらがヒントではなかろうかと言っているようである。

 これらは、一つは「太平廣記」の「畜獸一」の「路伯達」で、「法苑珠林」を出典とする以下。

   *

永徽中、汾州義縣人路伯達、負同縣人錢一千文。後共錢主佛前爲誓曰。我若未還公、吾死後、與公家作牛畜。話訖、逾年而卒。錢主家牸牛生一犢子、額上生白毛、成路伯達三字。其子姪耻之、將錢五千文求贖、主不肯與。乃施與濕成。縣啓福寺僧眞如、助造十五級浮圖。人有見者、發心止惡、競投錢物、以布施焉。

   *

もう一つは同じ「畜獸一」の「路伯達」の次の次に載る、「宣室志」を出典とする「河内崔守」であろう。

   *

有崔君者、貞元中爲河内守、崔君貪而刻、河内人苦之、常於佛寺中假佛像金、凡數鎰。而竟不酧直。僧以太守、竟不敢言。未幾、崔君卒於郡。是日、寺有牛産一犢。其犢頂上有白毛、若縷出文字曰崔某者。寺僧相與觀之、且嘆曰。、崔君常假此寺中佛像金、而竟不還。今日事、果何如哉。崔君家聞之、卽以他牛易其犢。既至、命剪去文字、已而便生。及至其家、雖豢以芻粟、卒不食。崔氏且以爲異、竟歸其寺焉。]

 

2017/08/02

柴田宵曲 續妖異博物館 「馬にされる話」

 

 馬にされる話

 

「幻異志」に見えた三娘子(さんぢやうし)は、板橋店にひとり住んで居る。深夜木牛と木人とを動かして床前の地を耕し、蕎麥の種を蒔く。蕎麥は忽ちに花咲き實熟するのを、粉にして燒餠を作る。翌朝この點心を口にした者は、皆驢馬になつてしまつたが、趙季和なる者ひとり鄰室に在つて三娘子の所爲を窺ひ、早く脱出したため驢馬になることを免れた。季和都よりの歸りに再び板橋店に一宿すると、三娘子が木牛木人を以て蕎麥を作ること前日に變らなかつた。翌朝點心を喫するに當り、ひそかに用意した一枚とすり換へ、これを三娘子にすゝめたので、彼女はたちどころに驢馬に變ずる。木牛木人はあとに殘つたが、季和の手ではどうにもならぬ。乃ち驢馬に鞭つて諸州を周遊すとある。

[やぶちゃん注:以上は私が異様に好きな一篇であるが、「幻異志」のそれよりも同じ唐代伝奇の「河東記」の「板橋三娘子」の方が纏まっていて、ストーリーも摑み易い。「太平廣記」の「幻術三」に載るそれを示す。

   *

 唐汴州西有板橋店。店娃三娘子者、不知何從來。寡居、年三十餘、無男女、亦無親屬。有舍數間、以鬻餐爲業。然而家甚富貴、多有驢畜。往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之。人皆謂之有道。故遠近行旅多歸之。

 元和中、許州客趙季和、將詣東都、過是宿焉。客有先至者六七人、皆據便榻。季和後至、最得深處一榻。榻鄰比主人房壁。既而三娘子供給諸客甚厚。夜深致酒、與諸客會飮極歡。季和素不飮酒、亦預言笑。至二更許、諸客醉倦、各就寢。三娘子歸室、閉關息燭。

 人皆熟睡、獨季和轉展不寐。隔壁聞三娘子悉窣、若動物之聲。偶於隙中窺之、卽見三娘子向覆器下、取燭挑明之。後於巾廂中、取一副耒耜、並一木牛、一木偶人、各大六七寸。置於竈前。含水噀之、二物便行走、小人則牽牛駕耒耜、遂耕牀前一席地、來去數出。又於廂中、取出一裹蕎麥子、受於小人種之。須臾生、花發麥熟、令小人收割持踐、可得七八升。又安置小磨子。磑成麵訖、却收木人子於廂中、卽取麵作燒餠數枚。

 有頃雞鳴、諸客欲發。三娘子先起點燈。置新作燒餠於食牀上、與客點心。季和心動遽辭、開門而去、卽潛於外窺之。乃見諸客圍牀、食燒餠未盡、忽一時踣地、作驢鳴、須臾皆變驢矣。三娘子盡驅入店後、而盡沒其貨財。季和亦不告於人、私有慕其術者。

 後月餘日。季和自東都囘、將至板橋店、預作蕎麥燒餠、大小如前。既至、復寓宿焉。三娘子歡悦如初。其夕更無他客、主人供待愈厚。夜深、殷勤問所欲。季和曰、「明晨發、請隨事點心。」。三娘子曰、「此事無疑、但請穩睡。」。半夜後、季和窺見之、一依前所爲。

 天明、三娘子具盤食、果實燒餠數枚於盤中訖、更取他物。季和乘間走下、以先有者易其一枚、彼不知覺也。季和將發、就食、謂三娘子曰、「適會某自有燒餠、請撤去主人者、留待他賓。」。卽取己者食之。方飮次、三娘子送茶出來。季和曰、「請主人嘗客一片燒餠。」。乃揀所易者與噉之。纔入口、三娘子據地作驢聲。卽立變爲驢、甚壯健。季和卽乘之發、兼盡收木人木牛子等。然不得其術、試之不成。季和乘策所變驢、周遊他處、未嘗阻失、日行百里。

 後四年、乘入關、至華岳廟東五六里、路傍忽見一老人。拍手大笑曰、「板橋三娘子、何得作此形骸。」。因捉驢謂季和曰、「彼雖有過、然遭君亦甚矣。可憐許、請從此放之。」。老人乃從驢口鼻邊、以兩手擘開、三娘子自皮中跳出、宛復舊身、向老人拜訖、走去。更不知所之。

   *

 以下、二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻を参考にしながら、語注を附す。

「店娃」(てんあ)は旅館の女主人。

「無男女、亦無親屬」子どものいない寡婦で、親類縁者もなかった。

「往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之」乗り物を引いたり、載るための動物が足りない旅人には、その沢山飼っていた驢馬を安値で用立ててやって助けた。

「有道」道義に富んだ親切な人物。

「元和」八〇六年~八二〇年。

「東都」洛陽。

「便榻」(べんとう)は簡易ベッド。

「二更」午後十時頃。

「悉窣」(しつそく)は「かそこそ」というオノマトペイア。

「一副耒耜」一揃えの鋤(すき)。「巾廂」(きんそう)は小箱であるからミニチュア。

「六七寸」唐代の一寸は三・一一センチメートルであるから、十八~二十一センチメート「一席地」蓆(むしろ)一枚を敷くばかりのごく僅かな地面。

「持踐」脱穀。

「七八升」唐代の一升は五十九ミリリットルであるから、四リットル強から四・七リットル。

「小磨子」ミニチュアの臼(うす)。

「燒餠」(しやうへい)はシャオピン。平たい肉饅頭。

「踣地」「地に踣(たふ)れ」。地面に倒れ。

「私有慕其術者」「私(ひそ)かに其の術を慕ふ者(こと)有り」。季和は恐れたのではなく、逆にその幻術にあこがれて、習得したいと思ったのである。だから後で「兼盡收木人木牛子等」だのであったが、しかし「不得其術、試之不成」なのである。

「適會」偶々。

「某」「それがしに」。私には。

「自有燒餠」「自(みづか)ら燒餠有り」。(すっかり忘れていたのですが)自分で作った焼餅があることに気づきました。

「請主人嘗客一片燒餠」「請ふ、主人、客の一片の燒餠を嘗(あじみ)んことを。」。

「關」潼関(どうくわん)。現在の陝西省渭南市にあった関所。 洛陽と長安との交通の要所。

 全現代語訳ならば田中貢太郎「蕎麦餅」がよい(リンク先は青空文庫版)が、次の段で林羅山の「怪談全書」版の古文訳を示しておいたので、まずはそれを読まれるのがよかろうとは存ずる。]

 

 この話は室町時代に成つた「奇異雜談集」に「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」といふのがあるから、早く日本に渡來したものであらう。「老媼茶話」にある行脚僧は、手を園爐裏に入れて、指に燈をともしたり、足を打ち碎いて薪にしたり、奇々怪々なものであるが、二三寸ばかりの人形二三百を吐き出し、それが座中を耕して稻を作り、忽ちに數升の米を得る一段は、三娘子の話から脱化したと思はれる。たゞ「老媼茶話」には人を化して馬にする事はない。

[やぶちゃん注:前注に示した二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻の「板橋三娘子」の「余説」によれば、岡田充博氏の本作の詳細な考証論文によれば、恐らくは本邦で最初にはっきりとこれが紹介されたのは林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「怪談全書」の「三娘子」であるとする(「奇異雜談集」(作者不詳)の開板は貞享四(一六八七)年)。「奇異雜談集」の「卷三」の「三」のそれを岩波文庫版の高田衛編「江戸怪談集(上)」から恣意的に正字化して示す。読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附し、一部に句読点を追加して、直接話法を改行して読み易くした。

   *

 遙かの昔、丹波の國、奧の郡(こほり)の事なるに、山ぎはに大なる家一軒あり、隣もなし。人數十人あまり、渡世、心やすく見えたり。農作をもせず、職をもせず、商ひをもせず。心やすき事、人みな、不審す。馬を買ひゆくとも見えぬに、よき馬を賣れり。一月に、二疋、三疋、賣るゆへに、これまた、人不審するなり。

 街道なるゆへに、旅人一宿する事あり。ないない、人の申すは、

「亭主大事の私術をつたへて、人を馬になして賣る。」

といへり。一定(いちじやう)をば知らざるなり[やぶちゃん注:確かなことは不明ではあった。]。

 あるとき、旅人六人、つきたり。五人は俗人、一人は會下僧(ゑげそう)[やぶちゃん注:師に従って修行する僧。]なり。亭主うちへ請じ入れて、枕を六つ出だして、

「御くたびれなるべし、先づ、御休みあれ。」

といふ。俗人、みな、臥したり。

 客僧は丹後にて粗(ほぼ)聞くことあるゆへに、用心する也。座敷の奧にゐて、臥さず。垣のひまより内をのぞけば、忙はしくみえたり。小刀(こがたな)にて、垣のひまを少しくりあけてよく見れば、疊の臺ほどなるものに、土、一杯あり。その上に物の種をまきて、上に薦(こも)をきせたり。釜には飯をたき、汁をたき、鍋に湯をたけり。茶、四、五服のむほどして、

「もはやよかるべし。」

とて、薦をとれば、靑々(あをあを)としたる草、二、三寸に生ひ繁りたり。葉は蕎麥に似たり。

 それを取つて、湯に煮て、蕎麥のごとくに和(あ)えて、大なる椀にもりて、菜(さい)にして、飯を出だしたり。俗人、起きて、みな、食す。

「珍らしき蕎麥かな。」

といふて賞翫す。

 僧は食する由して[やぶちゃん注:ふりをして。]、隅の簀子(すのこ)の下へすてたり。

 饌(ぜん)[やぶちゃん注:膳。]をあげてのち、風呂を焚きて、

「たちて候。一風呂、御入りあれ。」

といへば、

「もつとも然るべし。」

とて、みな、入れり。僧は入る由して、脇へはづして、東司(とうす)[やぶちゃん注:この僧は禅僧か。主に禅家で厠のことをかく称する。]のうちに隱れ居て、よく見れば、亭主、きり、金鎚、金釘をもちきたりて、風呂の戸を打ちつけたり。

 客僧、

「ここに居て、人に見つけられては曲(きよく)なし[やぶちゃん注:折角難を遁れたうま味がない。]。」

とて、くらまぎれに出でて、風呂の簀子の下へ入りて、靜まりゐてみれば、良(やや)ありて、亭主、

「もはやよきぞ、戸をあけよ。」

といひて、釘ぬきにて戸をあくれば、馬一疋出でて、いなないて走りゆく。夜にて門をさすゆへに、庭に踊りまはる。又、一疋出で、又、一疋出で、五疋、出でたり、

「今一疋出づべし。」

とて、まてども出でず。火をあかしてみれば、何もなし。

「今一人は、いづかたへ行きたるぞ。」

と、尋ぬる間に、簀子の下より出でて、後ろの山にのぼりて、遠く行くなり。

 翌日、國の守護所にゆきて、上(うへ)くだんの樣(さま)を具(つぶ)さにかたれば、守護のいはく、

「曲事(くせ)なり。聞きおよびし事、さては、まことなり。」

とて、人數(にんず)を卒して彼に發向し、人を、みな、打ち殺して果たすなり。

 右、靈雲の雜談なり。

   *

気になるのは最後に、皆、「打ち殺して果た」したとするところ。罪もなき馬に変ぜられた俗人五人も一緒に一網打尽にされたというわけである。ちょっと哀しい気がする。

 この際、序でだから、「怪談全書」のそれ、「卷五」の「三娘子(さんらうし)」(読みはママ)を以下に電子化しておく。底本は「日本名著全集」の「第一期第十卷 怪談名作集」を用いた。(但し漢字カタカナ交じりのそれを漢字ひらがなに換え、読みは一部に留め、改行を施した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

唐(たう)の汴州(へんじう)の西、板橋店(はんけうてん)と云ふ所に、三娘子と云ふ女あり。孀(やもめ)にして居ること三十餘年、子もなく親類(しんるい)もなし。數間(すけん)の屋に居て、食物を賣るを以て業(げふ)とす。然れども家甚だ豐(ゆたか)にして驢馬多くあり。往來の諸人、車馬もたざる者はきたりて、驢馬を買ふ。其あたひやすうして是を賣る。これにて旅客おほく聚(あつま)る。

元和年中、許州(きよじう)の趙季和(てうきくわ)と云ふ人、東都に行かんとする時、この所に寄宿す。旅人六七人、さきだち到る。趙季和はおそく到る。三娘子よく饗(もてな)す。諸客(かく)よろこんで酒をのむ。季和は下戸(げこ)なりといへども、其座中に交る。亥の刻ばかり、皆つかれて臥せり。三娘子入つて戸をさし燈(ともしび)をけす。

季和獨(ひとり)いまだねいらず。壁を隔てゝ、三娘子が物をうごかす聲を聞いて、透間よりこれをのぞけば、火をともし箱の中より鋤耒(すきくは)をとり出し、一の木牛(うし)、一の木人形、各(おのおの)六七寸ばかりなる物を、竃(かまど)の前におき水を吐く。其木人形はしり行き、牛を牽來(ひきき)て耒(くは)を以て床の前の地を掘り耕す。又箱の中より一包の蕎麥をとり出しこれを植ゆ。やがて花さき、そば熟す。是をかりとりて、七八升あり。又小(すこし)き臼(うす)にてすりて粉(こ)となす。卽ち木牛、木人形、幷(ならび)にすきくはを箱の中へ收む。蕎麥をとり燒餅(やきもち)六七枚に作る。

しばらくありて、鷄鳴に至つて、諸客出(いで)んとするとき、三娘子早くまず興(お)きて、かの燒餅を床の上に置き、客(かく)に食(くら)はしむ。季和これを見てむなさわぎし、暇乞(いとまごひ)して出づるまねして、潜(ひそか)に門外よりこれを伺へば、諸客皆燒餅を食ふ時に、地に倒れて驢馬の鳴くまねして即ち形(かたち)變じて驢馬となる。三娘子あまたの驢馬を牽いて馬屋のうしろへ入れて、諸客の財寶を悉くとり納む。

季和(きくわ)つくづく見て人に語らず。珍しき術(じゆつ)なりと思へり。

月を經て後、季和東都より歸り、この所にいたらんとする時、豫(あらかじ)め蕎麥の燒餅を作り、其大小、さきに見たる所のごとくす。板橋店に至りて、また宿を假る。三娘子、悦びて饗(もてな)すこと始の如し。此日、季和答へて

「明朝(めいてう)早く出づべし。燒餅(やきもち)の點心(てんしん)せよ」

と云ふ。

三娘子

「これはやすきことなり。よくしづかにねむれ」

と云ふ。

夜半(やはん)過ぎて、季和ひそかに伺へば、三娘子がする所、先(さき)の日の如し。夜明けて三娘子、食物菓子をそなへ、燒餅數枚(すまい)を並べ置く。別物をとらんとする時、季和その隙(ひま)を見て、走つて三娘子が餅(もち)一枚をとりて、己(おのれ)が餅一枚にとりかへて、季和物食(ものくら)ふ時に三娘子に向つて

「我も亦燒餅(やきもち)あり。主人の餅を殘して、他の客人にくらはしめん」

と云ひて、先にとりかへたる己が餅を見知りて食(くら)ふ。三娘子茶をさゝげて來る。季和云ひけるは

「己が餅一つ主人、試みに食(くら)へ」

と云ふ。主人

「くらはし」

と答ふ。季和先の替へ置きたる主人の餅を、我手より出(いだ)しとりて與ふ。主人これを口に入るゝとひとしく、三娘子うつぶき臥し驢(うま)[やぶちゃん注:読みはママ。]の鳴くこえをなして、即ち變じて驢馬(ろば)となる。其力すくやかなり。季和これに乘つて出づ。その木にて作れる人と牛とをとると云へども、其術を知らざればすることあたはず。季和、この驢(うま)に乘つて所々(ところところ)を往來(ゆきき)すれども、つまづくことなし。毎日ありくこと百里計(ばかり)なるべし。

其後四年、この驢(うま)にのりて華山の廟(べう)の東に到る。五六里許(ばかり)の路次(ろじ)にて一人の老人にあふ。老人、手を打(う)つて笑つて

「板橋(はんけう)の三娘子、何故に驢馬の形となるや」

と云ひて、驢(うま)をとらへて季和に云ひけるは

「彼(かの)人、罪ありといへども、君に逢うて、はづかしめらるゝこと甚だし。あはれなるかな。今よりゆるしはなて」

と云ひて、老人、兩手(ふたつのて)を以て驢馬の口鼻(くちはな)の邊(へん)より、これを引きさきければ、三娘子その驢(うま)の皮の内より躍出(をどりい)づ。卽ち本(もと)よりの三娘子なり。老人に向つて禮拜し畢つて、走去(はしりさ)る。

其行く所を知らず。

   *

「老媼茶話」のそれは「卷之六」の「飯綱の法」の最後に附された例。以下に江戸文庫版からいつもの仕儀でその部分のみ示す。読み難い箇所があるので一部に読点を追加し、改行を施した。

   *

 またいつの頃にや有けん、武州川越の御城主秋元但馬守殿領分三の丁と云處江、行脚の僧壱人來り。宿をかりけるに、あるじ、けんとん[やぶちゃん注:慳貪。]成る者にて宿をかさゝりけり。僧ひたすらに歎き、

「日はくるゝ、いたく草臥一足も引れ不申。せめては軒の下なりと御かし候へ。夜明は早々出行可申」

と云。主(アルシ)、是非なく、しふしふ立て戸を開き、態と燈をも立す。坊主内へ入、水を求、手足を洗ひ、たはこを呑、休息し、

「燈はなく候哉」

といふ。

「是なし」

といふ。其時、坊主、左の手をいろりの内へ差入、五ッのゆびを火にもやし、燈となし、目を張、こふしを握り、鼻の穴へ入るゝ事、ひちまて[やぶちゃん注:「肘(ひぢ)迄」。]也。其後、鼻をしかめ、口をあき、くさめ[やぶちゃん注:「嚏」。]をすれは、長、二、三寸斗の人形共、貮、三百、吐出す。此人形共立上り、てん手に鍬を以、座中をからすき、忽、苗代田の形をなし、水を引、籾を蒔、靑田となし、穗に出てあからむを、人形共、鎌を取大、勢にて刈取、つきふるひ、數升の米となしたり。其後、坊主、人形共をかき集、大口をあき、一のみに飮納、

「鍋來れ鍋來れ」

と呼に、庭の片角の竃にかけし鍋、おのれとおとりて、坊主か前に來りけれは、坊主、ふたを取、米・水を鍋に入、左右の足を踏のべ、いろりの緣(フチ)へ當て傍(カタハラ)に有ける大なたを以て、膝節より打碎き打碎き、薪となし、火にくへて、程なく、飯を焚納め、數升の米、不殘、喰盡し、水を一口呑、いろりに向ひ、吹出しけるに、忽、いろり泥水と成り、蓮の葉、浮ひ出て、蓮の花一面に咲、數百の蛙、集りかまひすしく泣さわく。あるし、みて、大きに驚き、ひそかに表へ出て若き者共を呼集め、件の事共を語りけれは、聞者とも、

「夫は慥に化物なるへし。取逃すな」

と訇[やぶちゃん注:「ののし」と読む。]り、てん手に棒まさかりを取持て、くつ強(キヤウ)の若男十四、五人斗、家の内へ押入、見る。坊主、ゆたかに伏て、いひき[やぶちゃん注:鼾(いびき)。]の音、高し。

「しすましたり」

と坊主か伏たる跡先を取かこみ、手足をとらへ、頭を強く押へからめ、是をとらへんとするに、坊主目を覺し、押へける手の下より、ふつ、と、拔出る。是をみて、てん手に棒をふり上、たゝき伏せんとするに、かけろふ・いなつま[やぶちゃん注:「陽炎・稻妻」。]のことく飛𢌞り、手にたまらす、片原[やぶちゃん注:傍ら。]に有ける大きなる德利の内へ飛入たり。

「取逃すな」

と寄り、この德利をとり上るに、おもくして、あからす、德利、おのれと、こけまわる。

「さらば打碎」

と棒まさかりを振上るに、德利の中より黑煙り、吹出し、德利の中、鳴はためき、終に二ッにわれたり。其ひゝき大雷のことし。十四、五人の者とも、氣を取失ひ、爰かしこに倒れふす。このさわきの内に坊主はいつかたへ行たりけん、跡形もなく失けりとなり。

 昔、松永彈正久秀、永祿の頃、多門の城にありし時、果心居士といふ魔術者、久秀をまとはしける事あり。果心も此類にや。

   *

「果心居士」は章として既出。]

 

「高野聖」(泉鏡花)では山中の孤屋に住む美人によつて、越中富山の藥賣りが馬にされてしまふ。この一段は無論陰になつてゐるので、讀者は前に藥賣りを見、後に馬を見るに過ぎぬが、三娘子の話を知る者がこれを讀めば、「高野聖」のヒントが那邊に存するか、想像するに難くないと思はれる。然るに鏡花は三娘子の話を讀んでゐなかつたと「文壇人國記」(橫山健堂)に書いてある。もし三娘子でないとすれば、同じやうな題材を「アラビアン・ナイト」に求めなければならぬ。

[やぶちゃん注:泉鏡花の「高野聖」は「鏡花花鏡」の正字正仮名版(PDF)をお薦めする。

『「文壇人國記」(橫山健堂)』評論家横山健堂(明治五(一八七二)年~昭和一八(一九四三)年)の明治四四(一九一一)年刊の作品。私は未見。]

 

 魔法つかびの女王ラーブは、夜宮殿の中に大麥を蒔き、その實を粉にしてサウイークを作る。サウイークは麥こがしのやうなものださうである。國王べドル・バーシムはこのサウイークをすり換へたため、自分が驢馬にされるのを免れたのみならず、反對に女王を驢馬にしてしまふ。驢馬になつた女王の運命は、三娘子と同じであつた。三娘子は華嶽廟の東まで來た時、一人の老人が現れて、超季和に向ひ、もう赦してやつてもよからうと云ひ、再び昔の姿に還つて、更に行くところを知らずといふので了つてゐるが、ラーブはその母親である老婆の手によつて、もう一度人間に戾り、べドル・バーシムを醜い鳥にして報復するといふ話が加はつてゐる。「高野聖」の美人は反魂丹賣りを馬にして賣り飛ばした。この邊は三娘子と同じであるが、孤屋のほとりに徘徊する猿や蟇や蝙蝠の事を考へると、ラープの方に近くなつて來る。三娘子は點心を食はして驢馬にする以外の方法を知らなかつた。三娘子と「アラビアン・ナイト」との繫がりは輕々に斷ぜられぬが、「高野聖」の著想は先づ後者によつたものと見てよからう。かういふ題材を參謀本部の地圖の通用する世界に持つて來て、悠々と描き去る作家は、この人以外にありさうもない。

[やぶちゃん注:ここで説明されているのは「アラビアン・ナイト」の『「柘榴の花」と「月の微笑」の物語』(第五百二十六夜~第五百四十九夜)のことらしい。ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」の当該の物語の項を参照されたい。]

 

 人を馬にする話は、三娘子系統の外にもう一つある。「寶物集」に擧げた天竺安息國の王、馬を好んだ結果、人を馬に化する術を習ひ得た。葉の狹い草を食はせれば人が馬になり、葉の廣い草を食はせればまた人に還るといふのだから、三娘子の方法より遙かに簡單である。この事を知らぬ一人の商人がやつて來て、忽ち馬にして繫がれてしまつた。形は馬でも心は人なので、一商人歎き悲しむけれども、顧る人もない。商人の子、父の歸らざることを悲しみ、あとからやつて來て、宿の亭主から人を馬にする草の祕密を聞かされた。最近馬にされた商人は、栗毛の馬の眉に斑があると聞き、首尾よく尋ね當てて、葉の廣い草を食はせたら、忽ち父親になつたので、一緒に本國へ歸つたといふのである。西洋のお伽噺にも果物を食べて鼻が長くなるとか、角が生えるとかいふのがあり、また他の果物を食べれば舊に復する筋であつたと思ふ。草の葉の廣狹もこれと似たやうなものらしい。「老媼夜譚」(佐々木喜善)に收錄された奧州の民譚の中にも、伊勢參宮の途中、見知らぬ町の安宿で草餠を食はされ、一夜にして馬になる話がある。馬にされてから座頭(ざとう)の淨瑠璃を聞く機會があつたが、その文句の中に、那須野ガ原の奧の沼のほとりの朝日の眞當りに生えてゐる縞の芒(すすき)を食めば、もとの人間になるとあるのを耳にし、早速那須野ガ原へ出かけて行つて、縞の芒を見付け、人間の姿になることが出來た。「老媼夜譚」 の話は大體三娘子と同じ事で、宿屋から草餠を盜み出し、參宮の戾り道に宿の者に食はせて馬にする、といふところまで往つてゐる。たゞ縞の芒を嚙んで人間に還るといふのは三娘子にない事だから、「寶物集」にある天竺の話が何かの徑路によつて、奧州の民謠に溶け込んだものであらう。日本に傳はつた馬になる話には、二つの系統があると見なければならぬ。

[やぶちゃん注:以上の「寶物集」』(ほうぶつしゅう:平安末期に成立した平康頼著になる仏教説話集)の話は「卷第一」の「親馬になされたるを子の助けし事」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから次の頁で視認出来る。

佐々木喜善「老媼夜譚」は昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の「馬になつた男」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「朝日の眞當り」朝日が真正面から当たる辺りの謂いであろう。佐々木の原文自体がそうなっている。]

 

 三娘子や「アラビアン・ナイト」は勿論、「寶物集」の話にしたところで、慥かに童話的な要素を具へてゐるが、こゝに最も現實的で殺風景なのは「今昔物語」の「通四國邊地僧至不知所被打成馬語」である。三人の僧が四國の山中で道に迷ひ、漸く一軒の家に逢着する。居住者は六十ばかりの僧で、恐ろしい顏をした男であつたが、先づ三人に食事をふるまひ、然る後庭に引落して笞(むち)で打つ。百敲かれて起された時は已に馬になつてゐた。これは笞にさういふ魔力があるのか、先づ食はせたものに三娘子の點心のやうな作用があるのか、「今昔物語」の文章だけではよくわからぬ。南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる。この話でも轡は用ゐられるが、それは已に馬になつてからで、笞で打ち据ゑた後、引き起すと馬になつてゐるのが「今昔物語」の特色ださうである。とにかくこの方法によつて三人のうち二人までは忽ち馬にされてしまふ。殘る一人は主僧の寢入つた間に逃げ出し、途中で逢つた女房のはからひで一命だけは助かる。いづれにしても百敲きにして馬にするなどは殺風景極まる上に、その馬は土に埋めて殺すといふのだから、この主僧なる者は三娘子や安息國の王に覆輪かけた兇惡の徒である。支那とも天竺とも違ふ筋で、南方翁のいはゆる特色を具へてゐるに拘らず、從來あまり話の種にならなかつたのは、徹頭徹尾不愉快なためかと思はれる。

[やぶちゃん注:以上の「今昔物語集」の話は「卷第三十一」の「通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」(四國の邊地(へんぢ)を通る僧、知らぬ所へ行きて馬(むま)に打ち成さるる語(こと)第十四」)である。

   *

 今は昔、佛の道を行ひける僧、三人(みたり)伴なひて、四國の邊地と云ふは、伊豫・讚岐・阿波・土佐の海邊の𢌞(めぐ)り也、[やぶちゃん注:恐らくは元は「四國の邊地を𢌞る」とあったのを挿入句形式で注したのであろう。]其の僧共、其(そこ)を𢌞りけるに、思ひ懸けず、山に踏み入りにけり。深き山に迷ひにければ、海邊に出でむ事を願ひけり。

 終ひには人跡絶えたる深き谷に踏み入りにければ、彌(いよい)よ歎き悲みて、荊棘(うばらからたち)を分けて行ける程に、一つの平らなる地(ところ)有り。見ば、垣など拵(しつら)ひ𢌞(めぐら)したり。

「此(ここ)は人の栖(すみか)にこそ有りぬれ。」

と思ふに、喜(うれ)しくて、入りて見れば、屋(や)共(ども)有り。譬ひ、鬼の栖(すみか)也とも、今は何(いか)がせむ、道をも知らねば、行くべき方も思えで、其の家に寄りて、

「物申さむ。」

と云へば、屋の内に、

「誰(た)そ。」

と問ふ。

「修行仕る者共の、道を踏み違(たが)へて參りたる也。何方(いづかた)へ行くべきか教へ給へ。」

と云へば、

「暫(しばらく)。」

と云ひて、内より人、出で來たるを見れば、年六十許りなる僧也。形ち、糸(いと)怖氣(おそろしげ)也。呼び寄すれば、

「鬼にても神にても今は何にかはせん。」

と思ひて、三人乍ら、板敷の上に昇りて居たれば、僧の云く、

「其達(そこたち)は極(こう)じ給ひぬらむ。」

と云ひて、程無く糸淸氣(きよげ)なる食ひ物を持ち來たり。

「然(さ)は、此れは例の人なめり。」[やぶちゃん注:「例の」は鬼ではなく「普通の」の意。]

と、糸喜しく思ひて、物打ち食ひ畢(は)てて居たる程に、家主(いへあるじ)の僧、糸氣怖氣(けおそろしげ)に成りて人を呼べば、

「怖ろし。」

と思ひて有るに、來たる人を見れば、怖し氣なる法師也。

主、

「例の物共、取りて來たれ。」

と云へば、法師、馬の轡頭(くつわづら)[やぶちゃん注:手綱。]と笞(しもと)とを持ち來たり。

 主の僧、

「例の樣(やう)にせよ。」

と俸(おき)つれば[やぶちゃん注:(部下の法師に)指図すると。]、一人の修行者を板敷より取りて引き落とす。今二人は、

「此(こ)は何にせむずるぞ。」

と思ふ程に、庭に引き落として、此の笞を以つて背を打つ。

 慥かに五十度、打つ。

 修行者、音(こゑ)を擧げて、

「助けよ。」

と叫べども、今二人、何(いか)がは助けむとする[やぶちゃん注:反語。]。

 然(さ)て亦、衣を引き去(の)けて、膚(はだへ)を亦、五十度、打つ。

 百度打たるれば、修行者、低(うつぶし)に臥したるを、主の僧、

「然て引き起せ。」

と云へば、法師、引き起こしたるを見れば、忽ちに馬に成りて、身振ひ打ちして立つれば、轡頭(くつわがしら)を□□て引き立てたり。[やぶちゃん注:欠字は「嵌め」か。]

 殘りの二人の修行者、此れを見るに、

「此(こ)は何(いか)なる事ぞ。此の世には非(あら)ぬ所也けり。我等をも此(か)くせむずる也けり。」

と思ふに、悲しくして、更に物も思(おぼ)えで有る程に、亦一人の修行者を板敷より引き落として、前の如く打てば、打ち畢はりて、亦、引き起こしたれば、其れも馬に成りて立てれり。然れば、二疋の馬に轡頭を□□て引き入れつ。

 今一人の修行者、

「我をも引き落として、彼等が樣に打たむずらむ。」

と思ふに、悲しければ、憑(たの)み奉る本尊に、

「我を助け給へ。」

と心の内に念ずる事、限り無し。

 其の時に、主の僧、

「其の修行者(しゆぎやうじや)をば暫らく然(さ)て置きたれ[やぶちゃん注:そのままにしておけ。]。」

と云ひて、

「其(そこ)に有れ。」

と云ひつる所に居たる程に、日も暮れぬ。

 修行者の思はく、

「我れ馬に成りてむよりは、只、逃げむ。追はれて捕へられて死なむも、命を棄てなむ事は同じ事也。」

と思へども、知らぬ山の中なれば、何方(いづかた)へ逃ぐべしとも思えず。亦、

「身を投げて死なまし。」

と、樣々に思ひ歎く程に、家主(いへあるじ)の僧、修行者を呼べり。

「候ふ。」

と答ふれば、

「彼の後ろの方に有る田(た)には水は有りやと、見よ。」

と云へば、恐々(おづお)づ行きて見るに、水、有れば、返りて、

「水、候ふ。」

と答ふ。

「此れも我を何にせむとて云ふにや。」

と思ふに、生きたる心地も爲(せ)ず。

 然る間、人皆(ひとみな)、寢(い)ぬる時に、修行者、

「只逃げなむ。」

と偏ねに思ひ得て、負(おひ)をも棄てて、只、身一つ走り出でて、足の向きたる方(かた)に走る程に、

「五、六町は來ぬらむ。」

と思ふに、亦、一つの屋(や)、有り。

「此(ここ)も何(いか)なる所ならむ。」

と恐しく思ひて、走り過ぎむと爲(す)るに、屋の前に女房一人立ちて、

「彼(あ)れ[やぶちゃん注:そこを行くは。]は何なる人ぞ。」

と問へば、修行者、恐々づ、

「然々(しかしか)の者の此(か)く思ひ得て[やぶちゃん注:かくなる思いを致し。]、身を投げても死なむとて罷り候ふ也。助けさせ給へ。」

と云へば、女、

「哀れ、然(さ)る事、有らむ。糸惜(いとほ)しき事かな。先づ、此(ここ)へ入り給へ。」

と云へば、入りぬ。

 女の云く、

「年來(としごろ)、此(か)く踈(う)き事共(ども)を見居(みゐ)たれども、我れ、力、及ばず。但し、其(そこ)をば構へて[やぶちゃん注:何とかして。]助け聞えむと思ふ。我れは、其(そこ)の御(おは)しつらむ御房(ごばう)の大娘(だいぢやう)[やぶちゃん注:正妻。]也。此(ここ)より下に然許(さばか)り去りて、丸(まろ)が弟なる[やぶちゃん注:私の妹である。]女房御(おは)す。然々有(しかしかあ)る所也[やぶちゃん注:ここは具体的な描写部分を読者に伏せたもの。]。其の人のみぞ、其(そこ)をば助け聞えむ。『此(ここ)よりぞ』とて、其へ御(おは)せ。消息(せうそく)を奉らむ。」

と云ひて、書きて取らせて云はく、

「二人の修行者をば既に馬に成して、其(そこ)をば土に掘り埋づめて殺さむと爲(し)つる也。『田に水や有る』と見せけるは、掘り埋まむが爲也。」

と云ふを聞くに、

「賢くぞ、逃げにける。暫しの命も有るは、佛の御助(おほんたす)け也。」

と思ひて、消息を取るままに、女に向かひて手を摺りて泣々(なくな)く臥し禮(をが)みて、走り出でて、教へつる方(かた)を指して、

「廿町許りは來たらむ。」

と思ふ程に、片山の邊(ほと)りに、屋、有り。

「此(ここ)なんめり。」

と思ひて、寄りて人を以つて、

「然々(しかしか)の御文(おほんふみ)、奉らむ。」

と云ひ入れたれば、便(すなは)ち、取りて入りて、返りて、

「此方(こなた)へ入り給へ。」

と云へば、入りぬ。

 亦、女房、有りて云はく、

「我れも年來(としごろ)踈(う)き事と思ひつるに、姉の、亦、此(か)く云ひ遣(おこ)せたれば、助け聞えむと思ふ也。但し、此には極(いみ)じく恐しき事、有る所也。暫く此(ここ)に隱れて御(おは)せ。」

とて、一間(ひとま)なる所に隱し居(す)ゑて、

「努々(ゆめゆめ)、音(おと)、な爲(し)給ひそ。時、既に吉(よ)く成りぬ[やぶちゃん注:前の「いみじく恐ろしき事」の起こる時間となったことを言っている。]。」

と云へば、修行者、

「何事ならむ。」

と恐しく思ひて、音も立てず、動かで居たり。

 暫し許り有れば、恐ろし氣(げ)なる氣(け)はひしたる者、入り來たる。

 生臭(なまぐさ)き香(か)、薫(にほ)ひたり。

 恐しき事限無し。

「此れも何なる者ならむ。」

と思ふ限りに入り來たりて、此の家主(いへあるじ)の女房と物語など打ちして、二人、臥すなり。

 聞けば、懷抱して[やぶちゃん注:まぐわいして。]返りぬ。

 修行者、此れを心得る樣、

「此れは鬼の妻にして、常に來て、此樣に懷抱して返る也けり。」

と思ふにも、極めて氣六借(めむつか)し[やぶちゃん注:何とも言えず、ひどく気味が悪い。]。

 然(さ)て、女房、行くべき道を教へて、

「實(まこと)に奇異(あさま)しき命[やぶちゃん注:まさに失うべき命。]を存(そん)し給ひぬる人かな。喜(うれ)しと思(おぼ)せ。」

と云へば、修行者、前の如く泣々く伏し禮(おが)みて、其の所を出でて、教へけるままに行きければ、夜も曙方(あけがた)に成りぬ。

「今は百町許りは來(き)ぬらむ。」

と思ふ程に、夜(よ)、白々と成りぬ。

 見れば、例の直(うるは)しき道[やぶちゃん注:普通の正しい道。]に出でぬる也けり。

 其の時にぞ、心、落り居(ゐ)ける。喜(うれ)しと云へば愚か也(なり)や。

 其(そこ)よりなむ、人里を尋ねて行きて、人の家に這ひ入りて、然々(しかしか)の事の有つる樣(さま)を語りければ、其の家の人も、

「奇異(あさま)しかりける事かな。」

と云ひけり。里の者共も聞き繼ぎて、來たりてぞ問ひ合ひたりける。其の逃て出たりける所は、□□の國の□□郡□□郷也。

 然(さ)て、二人の女房の修行者に口固(くちかた)めける事は、

「此く有り難き命を助け聞えつ。努々(ゆめゆめ)『此(かか)る所有りつ』と人にな語り給ひそ。」

とぞ、返々(かへすがへ)す云ひけれども、修行者、

「然許(さばか)りの事をば、何(いか)でか然(さ)ては止まむ。」

とて、普ねく語りければ、其の國の人の、年若くて勇みたる兵(つはもの)の道に堪ふるは[やぶちゃん注:腕に覚えある者は。]、

「軍(いくさ)を發(おこ)して[やぶちゃん注:軍勢を集めて。]行きて見む。」

など云ひけれども、道の行き方も無かりければ、然(さ)て[やぶちゃん注:そのまま。]止みにけり。

 然(しか)れば、彼(か)の僧も、修行者の逃げぬるを、

「道の無ければえ逃げじ。」

と思ひて、忩(いそ)ぎても追はざりけるにこそ。

 然(さ)て、修行者、其よりなむ、傳はりて[やぶちゃん注:回国した後に。]京に上りたりける。

 其の後(のち)、其の所を何(いど)こに有りと云ふ事、聞えず。

 現(あら)はに人を馬に打ち成しける、更に心得ず。

 畜生道などにや有らむ。

 彼の修行者の、京に返りて、二人の同法(どうぼふ)[やぶちゃん注:同僚の修行僧。]の馬の爲に、殊に善根(ぜんごん)を修(しゆ)しけり[やぶちゃん注:懇ろに供養を施した。]。

 此れを思ふに、身を棄てて行ふと云ひ乍らも、無下(むげ)に知らざらむ所には行くべからず。

 修行者の正(まさ)しく語りけるを聞き傳へて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *

「南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる」出典不詳。判り次第、追記する。]

2017/07/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「虎の皮」

 

 虎の皮

 

  虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。

[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。

「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。

   *

崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。

   *]

 

 これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。

   *

天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。

   *]

 

「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。

[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。

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申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。

   *]

 

 虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。

「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。

「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。

「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。

   *

鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。

   *]

 

 尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。

「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。

「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。

「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。

   *

明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。

   *

原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]

 

 由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。

[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。

最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。

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石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。

   *

この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる

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 後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。

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開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、皆豪強。數有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。

   *]

 

 かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。

 以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。

   *

向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。

異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。

   *

例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。

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 向杲

 

 向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。

 そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、

 「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」

 母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。

 荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。

 それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。

 ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。

 嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、

 「とにかく、これと易(か)えなされ」

 と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。

 杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。

 趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。

 家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。

 しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、

 「虎は、おれさ!」

 と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。

   *

天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、

――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――

といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]

2017/07/19

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その2)~「龍の變り種」了

 

 盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。

   *

故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。

   *]

 

 支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。

[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。

「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。

『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。

「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。

   *

「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」

   *

 以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。

   *

唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。

   *]

 

「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。

「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。

 以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。

   *

於陵曲銀臺公、讀書樓上、陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。

   *

 柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。

   *

 

 蟄竜(ちつりゅう)

 

 暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、

 「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」

 と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。

   *

「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]

 

「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。

「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。

「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。

 以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。

   *

李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。

   *]

 

 日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。

 

 高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。

「折々草」は既出既注。

「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。

 以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。

   *

 

    龍石をいふ條

 

 大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。

 主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる

 何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は 接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。

 此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。

 又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。

 かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。

   *]

 

 龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。

 

2017/07/18

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その1)

 

 龍の變り種

 

 山道を歩いてゐて妙な石を拾つた人がある。雞卵ほどの大きさで、靑や赤の斑が甚だ美しい。持ち歸つて五六年も箱に入れて置いたが、子供が持ち出して遊んだことから遂に見失つてしまつた。數日後の晝間、風雨晦冥になって、庭前の木を垂れる雨水が、あだかも瀧のやうに見える。皆珍しがつて眺めてゐるうちに風雨がやみ、木の下に忽然としてこの石が現れた。石は已に破れて卵の殼のやうになつてゐたので、人々ははじめてこの石が龍の卵であつたことを知つた(原化記)。

[やぶちゃん注:「原化記」は「太平廣記」に載るものが残存する総てである。以上は「龍七」の「斑石」である。

   *

京邑有一士子、因山行、拾得一石子。靑赤斑斕、大如雞子。甚異之。置巾箱中五六年。因與嬰兒弄、遂失之。數日、晝忽風雨暝晦、庭前樹下、降水不絶如瀑布狀。人咸異其故。風雨息、樹下忽見此石已破、中如雞卵出殼焉。乃知爲龍子也。

   *]

 

 これも山中の話であるが、華山に遊んだ人が盛夏の事で暑くて堪らず、溪川のほとりに休んでゐると、大きさ掌ぐらゐの葉が一枚流れて來た。眞赤な色をして如何にも美しいので、拾つて懷ろに入れてゐると、何だか妙に重くなつたやうに感ぜられる。氣味が惡くなつて取り出して見たら、葉の表面に鱗のやうなものがあつて、むづむづ動いてゐる。びつくりしてこれを林の中に棄て、同行者にその話をしたところ、それはきつと龍に相違ない、早く歸らうと云ふ。忽ち白い烟が林中にひろがり、遂に谷一杯になつて、一同が山を下るより早く大風雨が襲つて來た(酉陽雜俎)。

[やぶちゃん注:「華山」現在の陝西省華陰市にある中国五名山(東岳泰山(他の四つは山東省泰安市泰山区)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)・北岳恒山(山西省大同市渾源県)の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

有史秀才者、元和中、曾與道流遊華山。時暑、環憩一小溪。忽有一葉、大如掌、紅潤可愛、隨流而下。史獨接得、置懷中。坐食頃、覺懷中漸重。潛起觀之、覺葉上鱗起、栗栗而動、史驚懼、棄林中、遽白衆曰、「此必龍也、可速去矣。」。須臾、林中白煙生、彌於一谷。史下山未半、風雷大至。

   *]

 

 この二つの話は龍が昇天に先立つて、意外なものに化けてゐた例であるが、靑赤斑爛たる雞卵大の石は一見して異樣なものを感ぜしめる。掌大の紅葉が溪を流れて來る間は、たゞ人目を惹く程度だつたのが、先づ懷中に在つて重くなり、次いで鱗をむづむづ動かし、林中に棄てられるに及んで、白姻濠々と林中に立ちこめて來る。この徐々漸々と進む工合が甚だ龍らしい。無氣味ながら美しい話として掌大の紅葉を推さざるを得ぬ。

 

 朱梁の尹皓が華州に居つた時分、若干の兵を連れて巡警に出た途中、荒地の中で石のやうな卵のやうなものを拾つた。「原化記」の記事と似たものであるが、この方は色が靑黑く、光滑愛すべしとなつてゐる。左右の者に命じてこれを拾はせ、二三十里行つたところで佛寺に一宿した。その夜は恭しく本尊の前に安置して寢たところ、夜半に大雷雨となり、すさまじい大雨の中に雷が落ち、寺は燒けてしまつたが、佛像は無事であつた。院外の柳樹數百株が悉く根こぎになつたといふのだから、風雨の烈しかつたことは想像出來る。皓の拾つたのは龍卵であつたので、妄りにこれを拾つて携帶したことが、彿寺を燒く災厄を齎したらしい。雷雨去つた後は龍卵も行方不明になつてゐた(玉堂閑話)。

[やぶちゃん注:「朱梁」既注であるが、再掲しておくと、後梁(こうりょう)のこと。五代の最初の王朝で、唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝から禅譲されて建国した。

「尹皓」「インコウ」と読んでおく。

「華州」前段の陝西省の「華山」附近の広域地名。

以上は「玉堂閑話」の「尹皓」(「太平廣記」に引く)。以下に示す。

   *

朱梁尹皓鎮華州、夏將半、出城巡警、時蒲、雍各有兵戈相持故也。因下馬、於荒地中得一物如石、又如卵、其色靑黑、光滑可愛、命左右收之。又行三二十里、見村院佛堂、遂置於像前。其夜雷霆大震、猛雨如注。天火燒佛堂、而不損佛像、蓋龍卵也。院外柳樹數百株、皆倒植之、其卵已失。

   *]

 

 釣りの好きな人が川の寫眞を見て、この川にはきつと鮎がゐると云つた話があるが、唐時代には水を一見しただけで、そこに龍が栖んでゐるかどうかわかるといふ人があつた。この人が龍を持つて歸るといふ評判があつた時、華州刺史であつた李納は、虛妄だと云つて信じない。その龍といふのを見せて貰ふと、瓶の中に泳いでゐるのは二尾の鰍魚であつた。納は怒つたやうな顏をして、どうして龍だとわかるか、と詰め寄ると、相手は平然として、これを證明するのはむづかしい事ではありません、小さな穴を掘つて水を入れて下さい、と云つた。云はれるまゝに穴を掘つて、水中に魚を放つたところ、二尾が相逐うて泳ぎ𢌞り、尾が穴の緣に觸れる每に、四隅は次第に崩れ、水もずんずん殖えて、忽ち何尺もある闊(ひろ)い穴になつた。その人李納に向ひ、如何でせう、これ以上穴が大きくなつては、私の手に合はなくなります、と云ふが早いか、魚を捕へてもとの瓶に入れてしまつた。納大いに奇とし、多くの錢帛を贈る。鰍魚は無事都に持ち歸ることが出來たと「中朝故事」に見えてゐる。この話はまだ龍にならぬ狀態であるが、もし李納がいつまでも強情を張つて、魚の泳ぐに任せてゐたら、恐らく天地晦冥になつて風雨到り、龍は華州に於て昇天し去つたことであらう。

[やぶちゃん注:「鰍魚」「シウギヨ」或いは「どぢやう」と当て読みしておく。本邦では「鰍」は条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(華州の位置から同種の純淡水産の河川型)を指すのであるが、これは国字であって、中国ではあくまで「鰍」はかの泥鰌(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)のみを意味するからである。

「中朝故事」は五代南唐の尉遲偓(いちあく)の撰した随筆。以上はその「卷下」の冒頭にある以下。但し、中文サイトの二種を見たが、「李納」ではなく「李訥」(りとつ)である。

   *

古有豢龍氏、長安有豢龍戸、觀水卽知龍色目、有無悉知之。懿皇朝、龍戸上言、「龍池中走失兩條。」。往關東尋訪數十日、東都魏王池中見之、取而歸闕。經華州、時李訥爲華州刺史。訥父名建杓、向與白居易相善。訥爲人正直、聞得龍來、大以爲虛妄、命就公府視之。則於一小瓶子中、倒於盆、乃二細鰍魚也。訥怒目曰、「何以爲驗。」。其人對曰、「驗非難也。」。請於地中鑿一穴、闊一尺、已而注水其間、收鰍投水内。魚到水中、相趁旋轉、尾觸穴四隅、隨觸而陷、水亦暴漲。逡巡、穴已闊數尺。其人諮訥云、「恐穴更廣、卽難制也。」。遂搦入瓶中。訥方奇之、厚贈錢帛、攜歸輦下。

   *]

 

 龍が水中に潛むことを考へれば、雲を得る以前に於て魚の形を取るのも、一應尤もなやうな氣がするが、魚族に關する話はいろいろある。韋顏子の壻が井戸替への際に捕へたといつて、一尾の鯉を齎らした。長さ五尺餘りあつて、鱗が金色に光るのみならず、その眼光は人を射る如くであつた。これが雨龍であつたといふし、汾水のほとりに住む老婆の獲た緋鯉も顏色自ら普通の魚と異なつてゐた。老婆これを憐れみ、小さな池を掘つて放して置くと、一月ばかりたつた後、その池から雲霧が立ちのぼる。緋鯉は騰躍逡巡の體であつたが、遂に風雲に乘じ汾水の中に入る。その際空中より落した珠が靈藥で、後に老婆の子の難病を治するといふ話が「瀟湘錄」にある。嘗て「病牀讀書日記」(正岡子規)を讀み、「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐ろしと思ふ」とあるのを不思議に思つたが、鯉と龍とに密接な關係のあることを知らぬためであつた。

[やぶちゃん注:「韋顏子の壻」「韋顏子」は柴田の誤読(或いは「韋顏の子」の脱字)と思われる。以下の原文通り(後掲)、「韋顏」なる官人の娘の婿(むこ)の意である。

「汾水」汾河。山西省を南北に流れる大河で渭河に次ぐ黄河第二の支流。ここを流れている川(グーグル・マップ・データ)。

「病牀讀書日記」正岡子規の晩年の公開日記。明治三三(一九〇〇)年七月のクレジットを持つが、内容は前年のものであろう。その十一月十一日のクレジットを持つ記載の冒頭に出る。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。

「鯉と龍とに密接な關係のある」柴田は明治三十年生まれで、恐らくはごく少年期に子規のそれを読んだものの、未だその頃は登龍門の故事(治水伝説の夏の聖王禹(う)が山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いて出来た急流の瀧「龍門」を登ることが出来た鯉は龍となるという伝説)を知らなかったというのである。博覧強記の宵曲の言としてはちょっと意外である。

 以上の前者「韋顏」の話の出典を柴田は落しているが、これは「太平廣記」の「龍六」に「劇談錄」(唐の康駢撰の志怪小説集)を出典として載せる「崔道樞」(さいどうすう)である。私は中国語が読めないので、後半の展開はよく判らぬが、以下に見る通り、結構、長いものである。

   *

唐中書舍人韋顏、子婿崔道樞舉進士者屢屢。一年春下第、歸寧漢上所居。因井渫、得鯉魚一頭長五尺、鱗鬣金色、其目光射人。衆視異於常魚。令僕者投於江中。道樞與表兄韋氏、密備鼎俎、烹而食之。經信宿、韋得疾暴卒。有碧衣使人引至府舍、廨宇頗甚嚴肅。既入門、見廳事有女子戴金翠冠、著紫繡衣、據案而坐。左右侍者皆黃衫巾櫛、如宮内之飾。有一吏人從後執簿領出。及軒陛間、付雙環靑衣、置於繡衣案上。吏引韋生東廡曹署、理殺魚之狀。韋引過。道樞云、「非某之罪。」。吏曰、「此雨龍也、若潛伏於江海湫湄、雖爲人所食、卽從而可辨矣。但昨者得之於井中、崔氏與君又非愚昧、殺而食之、但難獲免。然君且還、試與崔君廣爲佛道功德、庶幾稍減其過。自茲浹旬、當復相召。」。韋忽然而寤、且以所説、話於親屬、命道樞具述其事。道樞雖懷憂迫、亦未深信。才及旬餘、韋生果歿。韋乃道樞之姑子也。數日後、寄魂於母云、「已因殺魚獲罪、所至之地、卽水府、非久當受重譴。可急修黃道齋、尚冀得寬刑辭。表弟之過亦成矣、今夕當自知其事。」。韋母泣告道樞。及暝、昏然而寢、復見碧衣人引至公署、俱是韋氏之所述。俄有吏執黑紙丹文書字、立道樞於屛側、疾趨而入。俄見繡衣舉筆而書訖、吏接之而出、令道樞覽之。其初云、「崔道樞官至三品、壽至八十。」。後有判云、「所害雨龍、事關天府。原之不可、案罪急追。所有官爵、並皆削除。年亦減一半。」。時道樞冬季、其母方修崇福力、才及春首、抱疾數日而終。時崔妻拿咸在京師、韋顏備述其事。舊傳夔及牛渚磯是水府、未詳道樞所至何許。

   *

また、後者(汾水の河畔の老婆の逸話)は「瀟湘錄」の「汾水老姥」である。以下に示す。

   *

汾水邊有一老姥、獲一赬鯉、顏色異常、不與眾魚同、既攜歸、老姥憐惜、且奇之、鑿一小池、汲水養之。經月餘後、忽見雲霧興起、其赬鯉騰躍、逡巡之間、乃漸升霄漢、其水池卽竭、至夜、又復來如故。人見之者甚驚訝、以爲妖怪、老姥恐爲禍、頗追悔焉、遂親至小池邊禱祝曰、「我本惜爾命、容爾生、反欲禍我耶。」。言才絶、其赬鯉躍起、雲從風至、卽入汾水、唯空中遺下一珠、如彈丸、光晶射人、其老姥得之、眾人不敢取。後五年、老姥長子患風、病漸篤、醫莫能療、老姥甚傷、忽意取是珠、以召良醫、其珠忽化爲一丸丹、老姥曰、「此赬鯉遺我、以救我子、答我之惠也。」。遂與子服之、其病尋愈。

   *]

 

 鯉には限らぬ、魚の話は他にもある。「錄異記」には古井戸の中に長さ六七寸の魚が住んで居り、これが上の方に浮むと、必ず井の水が湧き返る。この井戸には龍がゐると傳へられて居つた。饒州の柳翁は常に小舟に乘つて鄱陽江に釣り、水族の事、山川の事に關しては知らざるものなしといふ人であつたが、嘗て江の南岸の一箇所を指し、今日はこゝに小龍が居る、だから魚が澤山集まつてゐるのだと教へた。人々はこれを信じなかつたけれど、網を入れた結果は果して大漁であつた。獲物を大桶に放つて見ると、中に一二尺ばかりの鱓魚があり、兩眼明かに長い鬚を動かしてゐる。鱓にはいろいろな意味があるやうだが、こゝは魚の一種類と見て置けばよからう。この魚が桶の中を泳ぎ𢌞ると、他の魚はこれに隨從するやうに見える。舟を北岸に著けた頃には、もうどこへ行つたかわからなかつたと「稽神錄」に出てゐる。これが柳翁のいはゆる小龍だつたのであらう。

[やぶちゃん注:「天祐年間」唐の最後の昭宗の治世に用いられた元号。「天佑」とも書く。九〇四年~九〇七年であるが、ウィキの「天祐(唐)」によれば、唐の滅亡後も河東・鳳翔・淮南地方では『天祐を使用し続け、石碑碑文に「天祐二十年」の用例がある。また前蜀、南漢、呉、呉越では唐滅亡後も天祐の年号を使用している』とある。

「饒州」(じょうしゅう:現代仮名遣)は現在の江西省上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鄱陽江」鄱陽の西部は広大な鄱陽湖となっている。そこの入り江或いは鄱陽の市街地に流れ込む往時の長江の支流の名か。

「鱓」国字では海産のウツボ(条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)であるが、これは中国で好んで食べられ、多く棲息する条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus  albus のことである(後掲するある訳者の訳文でも「タウナギ」としてある)。柴田は「こゝは魚の一種類と見て置けばよからう」などとお茶を濁しているが、先の「鰍魚」も丸投げで、どうも彼は魚類同定の興味にはあまり食指が動かぬらしい

 「錄異記」のそれは「卷五」に載る以下の短文。

   *

成都書臺坊武侯宅南乘煙觀古井中、有魚長六七寸、往往游於井上、水必騰涌。相傳、井有龍。

   *

 「稽神錄」のそれは「第四卷」に載る「柳翁」。

   *

天祐中、饒州有柳翁、常乘小舟釣鄱陽江中、不知其居處妻子、亦不見其飮食。凡水族之類與山川之深遠者、無不週知之、凡鄱陽人漁釣者、咸諮訪而後行。呂師造爲刺史、修城掘濠、至城北則雨止、役則晴、或問柳翁、翁曰、「此下龍穴也、震動其土則龍不安而出穴、龍出則雨矣。掘之不已、必得其穴、則霖雨方將爲患矣。」。既深數丈、果得大木、長數丈、交加構疊之、累之數十重、其下霧氣衝人、不可入、而其木上皆腥涎縈之、刻削平正、非人力所致。自是果霖雨爲患。呂氏諸子將網魚於鄱陽江、召問柳翁、翁指南岸一處、「今日惟此處有魚、然有一小龍在焉。」。諸子不信、網之、果大獲。舟中以瓦盆貯之、中有一鱓魚長一二尺、雙目精明、有二長鬚、繞盆而行、羣皆翼從之。將至北岸、遂失所在。柳翁竟不知所終。

   *

こちらに訳が載る(メイン・ページが判らないので訳者を紹介出来ない)。引用させて戴く(注記記号を省略した)。

   *

 天祐年間、饒州に柳翁がおり、つねに小舟に乗り、鄱陽江で釣していたが、その住居と妻子を知らず、飲食するところも見なかった。水族の類と山川の深遠なところも、すべて知っていた。およそ鄱陽の人で漁や釣りするものは、みなかれに尋ねてからいった。呂師造は刺史となり、城を修理し、濠を掘鑿したが、城の北にゆけば雨がふり、工事が終われば晴れた。あるひとが柳翁に尋ねると、翁は言った。「この下は龍穴で、その土を震わして動かせば龍は不安となって穴を出、龍が出れば雨が降るのです。掘ってやまなければ、きっとその穴にたどり着きますが、霖雨が禍をなしましょう。」深さ数丈になると、ほんとうに大木が見つかったが、長さは数丈、たがいに重なり合い、数十重に累積し、その下は霧気が人を衝き、入れなかった。そしてその上の木にはすべて腥い涎が纏いついていた、彫刻はきちんとしており、人力によって致されたものでなかった。それからほんとうに霖雨が禍をなした。呂氏の子供たちが鄱陽江で魚を網でとろうとし、柳翁を召して尋ねると、翁は南岸の一か処を指し、言った。「今日はこちらにだけ魚がいますが、一匹の小さな龍がいます。」子供たちは信じず、網すると、ほんとうにたくさん捕らえた。舟の中で瓦盆に貯えたが、中に一匹の鱓魚(タウナギ)がおり、長さは一二尺、両目は澄明で、二つの長い鬚があり、盆を巡ってゆくと、魚たちはみな従った。北岸に着こうとすると、所在を失った。柳翁は最後はどこで死んだか分からなかった。

   *

訳者は「龍穴」に『山の気脈の結ぶところをいう。墓穴を作るのによい』、「瓦盆」に『陶瓦製の口の広い容器』と注しておられる。]

2017/07/16

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍に乘る」

 

 

 

 龍に乘る

 

「今昔物語」に陸奧國で鷹の子を取るのを業としてゐる男の話がある。鷹の方でも年々育てようとする子を皆取られてしまふので、大海に臨んだ屛風のやうな巖の遙か下の方に生えてゐる木の梢に巣をかけた。男は方々搜し𢌞つて、漸く巣の在るところを見付けたけれど、所詮人間の到り得べき場所ではない。失望して家に歸り、生活の途の絶えたことを歎いてゐると、鄰りの家の男がかういふ智慧を貸してくれた。この巖の上に何かしつかりした木を打ち立て、長い繩を結び付け、その繩の末に大きな籠を付けて、巣のところまで下ればいゝ、といふのである。計量はその通り實行され、鷹取りは自分が籠に入つて、鷹の巣のところに達することが出來た。先づ目的物を籠に入れて引上げて貰ひ、その次に上るつもりでゐたところ、籠はもう下りて來ない。繩を持つた滯りの男は、鷹の子を手に入れてしまふと、再び籠を下ろすことをせずに、自分だけどんどん家に歸つてしまつたのである。

 

 かういふ惡事は古來多くの話の中で、共同作業者によつて屢々繰返されてゐる。取り殘された鷹取りは、觀念して死を待つより仕方がなかつた。人間はこの期に臨んで深い自責の念を起す。この男も長年鷹の子を取り、それを育てた擧句、今度はその鷹に鳥を捕らせる。年來の罪業が身の上に報いを與へたことを思ひ、一心不亂に觀世音菩薩を念じ、この世はこれで終るとも、後世は必ず淨土に迎へ給へと祈つた。然るに觀世音菩薩の姿は見えず、大海の中から大蛇が現れて、切立てたやうな巖をするすると昇つて來た。こゝで大蛇に呑まれるくらゐなら、海に落ちて死んだ方がいゝと決心した男は、刀を拔いて大蛇の頭に突き立てる。大蛇は驚きながらも昇ることをやめなかつたので、男の身體は自然に絶壁の上に出た。氣が付いた時には大蛇はどこへ行つたか、影も形も見えなかつた。男は觀世音菩薩の冥助とよろこび、空腹の足を引き摺つて家に歸る。鄰りの男から海に落ちて死んだと聞いて、物忌(ものいみ)の札を立てて門を閉してゐた妻子は、男の無事な姿を見て淚を流してよろこんだ。

 

 鷹取りは平生深い佛心があつたわけでもないが、毎月十八日だけは精進して觀音經を讀むことを怠らなかつた。死ぬべき命を助かつて歸つた後、間もなく十八日になつたので、觀音經を讀誦するつもりで經筥(きやうばこ)をあけて見ると、經の軸に刀が立つてゐる。それは紛れもない、死を決して大蛇の頭に突き立てた自分の刀であるから、あの大蛇は全く觀世普菩薩の化身であつたと知り、直ちに髻(もとどり)を切つて法師となつた、といふのがこの結末である。

[やぶちゃん注:以上は「法華驗記」を典拠としつつ、オリジナルにインスパイアしてある「今昔物語集」の「卷第十六」の「陸奧國鷹取男依觀音助存命語第六」(陸奧國(みちのおくのくに)の鷹取の男(をのこ)觀音の助けに依りて命を存する語(こと)第六)である。

   *

 今は昔、陸奧國に住みける男、年來(としごろ)、鷹の子を下(おろ)して、要(えう)にする人に與へて、其の直(あたひ)を得て、世を渡りけり。

 鷹の樔(す)を食(く)ひたる所を見置きて、年來、下けるに、母鷹、此の事を侘びけるにや有りけむ、本(もと)の所に巣を食はずして、人の可通(かよ)ふべき樣も無き所を求めて、樔を食ひて卵(かひご)を生みつ。巖(いはほ)の屛風を立てたる樣なる崎(さき)に、下は大海(だいかい)の底ひも不知(しら)ぬ荒磯(あらいそ)にて有り。其れに、遙に下(さが)りて、生ひたる木の大海に差し覆(おほ)ひたる末(すゑ)に生みてけり。實(まこと)に、人可寄付(よりつくべ)き樣(やう)無き所なるべし。

 此の鷹取の男、鷹の子を可下(おろすべ)き時に成りにければ、例(れい)巣食ふ所を行きて見るに、何しにかは有らむずる[やぶちゃん注:反語。]、今年は樔食ひたる跡も無し。男、此れを見て、歎き悲しむで、外(ほか)を走り求むるに、更に無ければ、

「母の鷹の死にけるにや。亦、外に樔を食ひたるにや。」

と思ひて、日來(ひごろ)を經て[やぶちゃん注:毎日毎日。]、山々峰々を求め行(あ)りくに、遂に此樔の所を幽(かすか)に見付けて、喜び乍ら寄りて見るに、更に人の可通(かよ)ふべき所に非ず。上より可下(くだるべ)きに、手を立てたる樣なる巖の喬(そば)[やぶちゃん注:断崖絶壁。]也。下より可登(のぼるべ)きに、底(そこ)ゐも知らぬ大海の荒磯也。鷹の樔を見付けたりと云へども、更に力不及(およば)ずして、家に返りて、世を渡らむ事の絶えぬるを歎く。

 而るに、鄰(となり)に有る男に此の事を語る。

「我れ、常に鷹の子を取りて、國の人に與へて、其の直を得て、年の内に貯へとしては年來を經つるに、今年、既に鷹の巣を然々(しかしか)の所に生みたるに依りて、鷹の子を取る術(ずつ)絶えぬ。」

と歎くに、鄰の男の云く、

「人の構へば[やぶちゃん注:人間が何か工夫をすれば。]、自然(おのづか)ら取り得る事も有りなむ。」

と云ひて、彼の樔の所に、二人相ひ具して行きぬ。

 其の所を見て教ふる樣、

「巖の上に大なる楴(はしだて)[やぶちゃん注:「梯」。杭。]を打ち立てて、其の楴に百餘尋(ひろ)[やぶちゃん注:人体尺。一尋(比呂)は両腕を広げた長さで百五十一・五センチメートルであるから、百五十二メートル超以上。]の繩を結ひ付て、其の繩の末に大なる籠(こ)を付けて、其の籠に乘りて、樔の所に下(お)りて可取(とるべ)き也。」

と。

 鷹取の男、此れを聞きて、喜びて家に返て、籠(こ)・繩・楴(はしだて)を調へ儲(まう)けて、二人相ひ具して、樔の所に行きぬ。支度の如く楴を打ち立てて、繩を付けて、籠を結び付けて、鷹取、其の籠に乘りて、鄰の男、繩を取りて、漸(やうや)く下ろす。遙かに樔の所に至りぬ。鷹取、籠より下りて、樔の傍(かたはら)に居(ゐ)て、先づ鷹の子を取りて、翼を結びて、籠に入れて、先づ、上げつ。我れは留まりて、亦、下りむ度(たび)昇らむと爲(す)る間(あひだ)、鄰の男、籠を引き上げて鷹の子を取りて、亦、籠を不下(おろさず)して、鷹取を棄てて家に返りぬ。鷹取が家に行きて、妻子に語りて云く、

「汝が夫(をうと)は、籠に乘せて然々(しかし)か下ろしつる程に、繩切れて、海の中に落ちて死ぬ。」

と。妻子、此れを聞きて、泣き悲しむ事、限り無し。

 鷹取は樔の傍に居て、籠を待ちて昇らむとして、

「今や下ろす、下ろす。」

と待つに、籠を不下(おろさず)して日來(ひごろ)を經ぬ。狹(せば)くして少し窪める巖に居(ゐ)て、塵(ちり)許(ばか)りも身を動かさば、遙かに海に落ち入りなむとす。然れば、只、死なむ事を待ちて有るに、年來、此く罪を造ると云へども、毎月十八日に、精進にして、觀音品(くわんおむぼむ)を讀み奉りけり。爰(ここ)に思はく、

「我れ、年來、飛び翔(か)ける鷹の子を取りて、足に緒(を)を付けて繋ぎ居(す)へて、不放(はなた)ずして鳥を捕らしむ。此の罪に依りて現報を得て、忽ちに死なむとす。願くは大悲觀音、年來、恃(たの)み奉るに依りて、此の世は、今は、此くて止みぬ、後生(ごしやう)に三途(さむづ)[やぶちゃん注:ここは広義の三悪道たる地獄道・餓鬼道・畜生道。しかし、この鷹取りはちゃっかりしていて、その対世界の三善道(天上道・人間(じんかん)道・修羅道)どころか輪廻を解脱して極楽浄土へ往生させてくれと言っている。]に墮ちずして、必ず、淨土に迎へ給へ。」

と念ずる程に、大なる毒蛇(どくじや)、眼は鋺(かなまり)の如くにして、舌甞(したなめず)りをして大海(だいかい)より出でて、巖の喬(そば)より昇り來て、鷹取を呑まむとす。

 鷹取の思はく、

「我れ、蛇(じや)の爲に被呑(のま)れむよりは、海に落ち入りて死なむ。」

と思ひて、刀を拔きて、蛇(じや)の我に懸かる頭(かしら)に突き立つ。

 蛇(じや)、驚きて昇るに、鷹取、蛇に乘りて、自然(おのづか)ら岸(きし)[やぶちゃん注:断崖。]の上に昇りぬ。其の後(のち)、蛇(じや)、搔き消つ樣に失せぬ。爰(ここ)に知りぬ。

「觀音の蛇じや)と變じて、我れを助け給ふ也けり。」

と知りて、泣々(なくな)く禮拜(らいはい)して、家に返る。

 日來、物食はずして、餓へ羸(つか)れて、漸(やうや)く步みて家に返りて、門(かど)を見れば、今日、七日(なぬか)に當りて、物忌(ものいみ)の札を立てて門(かど)閉ぢたり。門を叩き、開けて入りたれば、妻子、淚を流して、先づ、返り來たれる事を喜ぶ。其の後、具(つぶ)さに事の有樣を語る。

 而る間、十八日に成りて、沐浴精進にして、觀音品を讀み奉らむが爲に、經筥(きやうばこ)を開(ひら)きて見るに、經の軸に、刀、立てり。我が彼(か)の樔にして蛇の頭(かしら)に打ち立てし刀也。

「觀音品の蛇(じや)と成りて、我れを助け給ひける。」

と思ふに、貴(たふと)く悲き事、限り無し。

 忽ちに道心を發して、髻(もとどり)を切りて法師と成りにけり。

 其の後(のち)、彌(いよい)よ勤め行ひて、永く惡心を斷つ。

 遠く、近き人、皆、此の事を聞きて、不貴(たふとば)ずと云ふ事、無し。但し、鄰の男、何(いか)に恥かりけむ。[やぶちゃん注:鷹取は。]其れを恨み惡(にく)む事、無かりけり。

 觀音の靈驗の不思議、此(かく)なむ御(おはし)ましける。世の人、此れを聞きて、專(もはら)に心を至して念じ可奉(たてまつる)べし、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この鷹取りの話によく似てゐるのが、元時代の「湛園靜語」にある。廬山の南、大江に臨んだ絶壁の中途に、藤蔓のからんだ古木があり、その上に蜂の巣が四つあつた。奧の大きさから云つて蜜の分量も大體想像出來るが、場所が場所なので誰も手が出ない。たまたま二人の樵夫が相談して、利益は山分けといふことにして蜂の巣取りにかゝつた。一人が腰に繩を付け、二三十丈も下つて蜜を取る。他の一人が繩を持つて、引上げては下ろし、引き上げては下ろししてゐたが、蜜も取り盡したと思はれる時分に、上の男は繩を切つてどこへか行つてしまつた、すべて「今昔物語」と同じ筋書である。

[やぶちゃん注:「湛園靜語」(たんえんせいご(現代仮名遣))は元の白珽(はくてい 一二四八年~?)の著。]

 

 取り殘された樵夫は不信心だつたと見えて、別に紳備に祈念を凝らしたりしてはゐない。巣に餘つてゐる蜜をすゝつて飢ゑを凌ぎながら、一路の活を求めて石の裂け目を攀ぢて行くうちに、一つの穴を見出した。深い穴の奧には蛟(みづち)か蟒(うはばみ)のやうなものが蟠(わだかま)つてゐるらしく、非常に腥(なまぎさ)い。時に大きな眼を開くと、暗い中に爛々と輝いた。樵夫は恐ろしくて堪らぬけれども、逃げる路もなし、穴の中は暖いので、出たり入つたりしてゐる。或日雷鳴が聞えると同時に、穴の中の物が俄かに動き出した。二度目の雷鳴が耳を驚かした時は、もう穴から拔け出さうとしてゐる。樵夫は運を天に任せて、巨大な物の上に攀ぢ上つたが、空中を一二里も行つたかと思ふと、忽ち地上に振り落された。倂し死にもせず、大した怪我もなかつた。――前半は洞中に蟄して動かず、後半は懸命に縋(すが)り付いてゐる形だから、その正體ははつきりせぬが、どうも尋常の蟒らしくない。雷鳴に乘じ、雲に駕して天外に飛び去る龍だらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一二里」以下に見る通り、原典もそうなっている。元代の一里は現在の五百五十二・九六メートルしかないから、

 これは「湛園靜語」の以下。せいぜい一キロ百メートルちょっとの短い距離である。短いと言っても、龍の身に貼り付いて、しかも空中をこの距離は私でも勘弁ではある。次段の半日は想定外である。

   *

廬山之陽、顚崖千尺、下臨大江、崖之半懸絡古木藤蔓、有蜂室其上、如五石甕者四、過而利之者、下睨無策。俄有二樵謀取之、得其利、可以共濟。於是一人縋巨木而下、約二三十丈達、得蜜無算。一人於其顚、引繩上下之。蜜且盡、則上之人欲專其利、繩而去、不顧。一人在下叫號久之、知不免、采餘蜜並其滓食之、因不饑。蹣跚石罅、得一穴、頗深暗、顧見一物、如蛟蟒蟄其中、腥穢不可近。又久之、忽開兩目如鉦、光焰爍人、然亦不動。其人怖甚、而無地可遁避、且其中氣燠可禦寒、因出沒焉、待盡而已。忽一日、雷聲作、其物蜿然而起、雷再作、則挺身由穴而出。其人自念等死爾、不若附之而去、萬一獲免。遂攀鱗而躍、約一二里頃、竟爲此物所掉著地、得不死。後訴於官、捕專利者、杖殺之。廣信朱復之説。

   *

因みに、中国の伝奇や志怪小説でしばしば不満に思うのは、現世での報恩返報に非常に拘る中国人であるはずなのに、この話のように主人公を裏切った人物(この場合、もう一人の木樵り)に対する後日談が語られないケースにしばしば遭遇することである。恰も、前半の話の導入設定をすっかり忘れてしまったかのような塩梅のものをかなり見かけるのである。或いは、書写を繰り返すうちについ漏れてしまったか、或いは実は後半を全く別人が書き加えたかとも疑われることがよくあるのである。]

 

 支那にはかういつた話がまだいくつもあるらしい。「太平廣記」に見えた韋氏の話も趙齊嵩の話も嶮しい路を馬で進むに當り、誤つて谷底に落ちる。數百丈乃至千餘仞(じん)の絶壁であるから、同行者は救ふべからずとして立ち去つてしまふが、本人は枯葉の積つた上か何かに落ちて、命に別條はない。韋氏の方は木の葉に雪を裹(つつ)んで食べたりして、一箇月もその谷底にながらへてゐると、傍の嚴穴の奧に一點の燈の如きもののあつたのが、漸く大きくなつて二つになり、遂に五六丈もある龍が姿を現し、遂に天をさして昇り去つた。その時は懼(おそ)れて見てゐるだけであつたが、暫くしてもう一つの龍が現れる さうになつた時、意を決してこれに跨がつた。龍は半日ばかり空を翔つた後、次第に低空飛行となり、海岸に近い草木などが目に入つて來たので、水に投ずる覺悟で龍から離れると、一旦絶息してまた蘇る。齊嵩の方は谷底に落ちた翌日、已に雷鳴があつて、石窟の中から雲氣が渦卷き起り、鱗甲煥然として雙角四足を具へた龍が現れる。これに跨がつて南海に到り、低空飛行の磯を窺つて身を投じ、蘆葦の間に墮ちて命を全うするあたり、韋氏と相似た成行きである。この二つの話はいづれも奇禍によつて谷底に落ちるので、鷹の子や蜂蜜を取る前日譚もなし、觀世音の御利益を知る後日譚もない。特に韋氏が女性であるのは、この種の話の中に在つて頗る異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:「趙齊嵩」「ちょうせいすう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「數百丈乃至千餘仞(じん)」話柄設定(後掲する原典参照)を唐代とする。唐代の一丈は三・一一メートルであるから、大真面目に換算すると、千八百メートル程度となり、「仞」は先に掲げた人体尺の「尋(比呂)」と同義であるから、機械的換算では千五百十五メートル越えというトンデモ落差となる。まあ、中国お得意の誇張表現だから気にすることはあるまい。

「五六丈」十六~十九メートル弱。

 最初の話は「太平廣記」の「卷第四百二十一 龍四」にある「韋氏」。「原化記」を出典としてある。

   *

京兆韋氏、名家女也、適武昌孟氏。唐大曆末、孟與妻弟韋生同選、韋生授揚子縣尉、孟授閬州錄事參軍、分路之官。韋氏從夫入蜀、路不通車輿、韋氏乘馬、從夫至駱谷口中、忽然馬驚、墜於岸下數百丈。視之杳黑、人無入路。孟生悲號、一家慟哭、無如之何。遂設祭服喪捨去。韋氏至下、墜約數丈枯葉之上、體無所損、初似悶絶、少頃而蘇。經一日、饑甚、遂取木葉裹雪而食。傍視有一岩罅、不知深淺。仰視墜處、如大井焉。分當死矣。忽於岩谷中、見光一點如燈、後更漸大、乃有二焉。漸近、是龍目也。韋懼甚、負石壁而立。此龍漸出、可長五六丈。至穴邊、騰孔而出。頃又見雙眼、復是一龍欲出。韋氏自度必死、寧爲龍所害。候龍將出、遂抱龍跨之。龍亦不顧、直躍穴外、遂騰於空。韋氏不敢下顧、任龍所之。如半日許、意疑已過萬里。試開眼下視、此龍漸低。又見江海及草木。其去地度四五丈、恐負入江、遂放身自墜、落於深草之上。良久乃蘇。韋氏不食、已經三四日矣、氣力漸憊。徐徐而行、遇一漁翁、驚非其人。韋氏問此何所、漁翁曰、「此揚子縣。」。韋氏私喜、曰、「去縣幾里。」。翁曰、「二十里。」。韋氏具述其由、兼饑渇。漁翁傷異之、舟中有茶粥、飮食之。韋氏問曰、「此縣韋少府上未到。」。翁曰、「不知到未。」。韋氏曰、「某卽韋少府之妹也。倘爲載去、至縣當厚相報。」。漁翁與載至縣門。韋少府已上數日矣。韋氏至門、遣報孟家十三姊。韋生不信、曰、「十三姊隨孟郎入蜀、那忽來此。」。韋氏令具説此由、韋生雖驚、亦未深信。出見之、其姊號哭、話其迍厄、顏色痿瘁、殆不可言。乃舍之將息、尋亦平復。韋生終有所疑。後數日、蜀中凶問果至、韋生意乃豁然、方更悲喜。追酬漁父二十千、遣人送姊入蜀。孟氏悲喜無極。後數十年、韋氏表弟裴綱、貞元中、猶爲洪州高安尉。自説其事。

   *

 後の話は「太平廣記」の同じく「龍四」の「趙齊嵩」。「博異志」を出典とする。

   *

貞元十二年、趙齊嵩選授成都縣尉、收拾行李兼及僕從、負劄以行、欲以赴任。然棧道甚險而狹、常以馬鞭拂小樹枝、遂被鞭梢繳樹、猝不可、馬又不住、遂墜馬。枝柔葉軟、不能碍輓、直至谷底、而無所損。視上直千餘仞。旁無他路、分死而已。所從僕輩無計、遂聞於官而歸。趙子進退無路、墜之翌日、忽聞雷聲殷殷、乃知天欲雨。須臾、石窟中雲氣相旋而出。俄而隨雲有巨赤斑蛇。麄合拱。鱗甲煥然。擺頭而雙角出、蜿身而四足生。奮迅鬐鬣、搖動首尾。乃知龍也。趙生自念曰、「我住亦死、乘龍出亦死、寧出而死。」。攀龍尾而附其身、龍乘雲直上、不知幾千仞、趙盡死而攀之。既而至中天、施體而行。趙生方得跨之、必死於泉矣。南視見雲水一色。乃南海也。生又歎曰。「今日不塟於山。卒於泉矣。」。而龍將到海、飛行漸低。去海一二百步、捨龍而投諸地。海岸素有蘆葦、雖墮而靡有所損。半日、乃行路逢人、問之、曰、「淸遠縣也。」。然至於縣、且無伴從憑據、人不之信、不得繾綣。迤𨓦以至長安。月餘日。達舍。家始作三七齋、僧徒大集。忽見趙生至、皆驚恐奔曰、「魂來歸。」。趙生當門而坐、妻孥輩亦恐其有復生。云、「請於日行、看有影否。」。趙生怒其家人之詐恐、不肯於日行。踈親曰。若不肯日中行、必是鬼也。」。見趙生言、猶云、「乃鬼語耳。」。良久、自叙其事、方大喜。行於危險、乘騎者可以爲戒也。

   *

「貞元十二年」は唐の徳宗の治世で西暦七九六年。]

 

 以上の話より時代が下つて「輟耕錄」の中にも「誤墮龍窟」といふのがある。或商人が難船して小さな嶋に吹き寄せられ、辛うじて岸に匍ひ上つたが、深夜の眞暗な中で穴に落ち込んでしまつた。いくらもがいても攀ぢ登れるやうな、なまやさしい穴ではない。そのうちに夜が明けたらしく、薄明りの中に無數の大蛇の蟠つてゐるのが目に入つた。はじめは恐怖に堪へなかつたけれど、彼等は商人を呑まうともせぬ。いさゝか安心すると共に、今度は俄かに腹が減つて來た。蛇は時々石壁の間にある小石を舐める外、絶えて飮食をせぬので、自分もその眞似をして小石を口に含むと不思議に飢渇を忘れる。そのうちに一日雷鳴が聞えたら、大蛇ははじめて身を動かし、穴から外へ出ようとする。これは單なる大蛇でない、神龍であるとわかつたから、その尾に縋つて地上に出で、船を搜して家に還ることが出來た。穴の中で口に含んだ小石を何十か持ち歸り、都の人に見せた結果、皆貴重な寶石と鑑定された。話としては最も單純であるが、雷鳴を聞いて龍が上騰せんとし、その機を逸せずに龍窟を脱するところは、大體前の話と步調を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「輟耕錄」の「卷二十四」にある「誤墮龍窟」。

   *

徐彦璋云、商人某、海船失風、飄至山島、匍匐登岸、深夜昏黑、偶墜入穴、其穴險峻、不可攀緣。比明、穴中微有光、見大蛇無數、蟠結在内。始甚懼、久、稍與之狎、蛇亦無吞噬意。所苦饑渴不可當。但見蛇時時砥石壁間小石、絶不飮咽。於是商人亦漫爾取小石之、頓忘饑渇、一日、聞雷聲隱隱、蛇始伸展、相繼騰升、才知其爲神龍、遂挽蛇尾得出、附舟還家、攜所小石數十至京城、示識者、皆鴉鶻等寶石也、乃信神龍之窟多異珍焉。自此貨之、致富。璋親見商人、道其始末如此。

   *

2017/07/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「木馬」

 

 木馬

 

 トロイの木馬は少し古過ぎる。あの木馬は巨大な點で人を驚かしたかも知れぬが、腹中に人が潛んで、城を陷れる謀略用に供せられたものだから、話としての妙味は寧ろ少い。「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る。ペルシャ王に獻ぜられたこの馬は、昇降の裝置が出來てゐるので、昇る裝置だけ教へられた王子は、暫く空を飛び續ける外はなかつたが、そのうちに漸く下る裝置を見出して、或王宮の屋根に下りる。話はその後二三曲折があつた末、王子が姫と同乘して故國に飛び戾るといふ大團圓になる。不思議な木馬に伴ふ謀計は無論あるけれど、トロイの木馬のやうな大がかりなものでないだけに、話の興味もあれば、童話的な親しみもあるわけである。

[やぶちゃん注:「トロイの木馬は少し古過ぎる」木馬の奇策戦法についてはトロイアの木馬を参照されたい。小アジアのトロイア(現在のトルコ北西部のダーダネルス海峡以南にあったとされる。私は行ったことがあり、遺跡の入り口には木馬の複製が建てられてあった)に対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争トロイア戦争については、紀元前一二五〇年頃にトロイアで大規模なモデルとなった戦争があったとする説もあれば、全くの絵空事であるという説もあるという(ウィキの「トロイア戦争」による)。

『「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る』梗概は、ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」にある黒檀の馬奇談(第414夜 - 第432夜)の項を参照されたい。]

 

 空を飛ぶ木馬は支那にもあつた。話は極めて簡單なもので、或童子が歸りがけに馬を請うた時、戲れに木馬を作つて與へた。童子は困ると思ひの外、私は泰山府君の子です、この馬は有難く頂戴いたします、と一禮して、ひらりと跨がると同時に、木馬は忽ち天空に騰り去つたと「太平廣記」にある。あまり簡單過ぎて「アラビアン・ナイト」に對抗することは出來ぬが、頭も尻尾もなしにいきなり飛び去るところに、木馬奇譚らしい面白味がないでもない。

[やぶちゃん注:「騰り」「のぼり」或いは「かけあがり」と訓じているか。

「頭も尻尾もなしに」別に与えた木馬が頭も尻尾もない馬だったのではない。話の頭も尻尾もよく判らぬうちに忽ちに終わる短章だからである。以下の通り、原典は字数にしてたった四十六字である。

 以上は「太平廣記」の「妖怪二」に載る「後魏書」にあったとする「段暉」。

   *

段暉、字長祚、有一童子辭歸、從暉請馬。暉戲作木馬與之、童子謂暉曰、「吾泰山府君子、謝子厚贈。」。言終、乘木馬、騰空而去。

   *]

 

 宋の紹興元年、兵亂を避けて江南に居つた人々が、だんだん故郷へ歸らうとする中に、山陽地方の士人が二人あつた。准揚を通過して北門外に宿を取らうとしたが、宿の主人は丁寧に謝絶した。長い兵亂の後で家も穢くなつて居り、盜賊どもが徘徊するので甚だ物騷である、こゝから十里ばかり先に呂といふ家があるから、そこへ行つてお泊りになつたらよからう、僕や馬を添へてお送りさせる、といふのである。呂といふのは前から知つてゐる家なので、二人は主人の云ふ通りにした。主人は別れを告げるに當り、日が暮れたから馬にお召し下さい、と云ひ、歸りにもまた寄つて貰ひたい、と云つた。僕二人、馬二頭の道中は何事もなかつたが、呂氏の家ではいろいろ物騷な噂のある折から、二人が夜を冒して來たのを怪しむ樣子であつた。そこで前の宿の話によつてこゝまで辿り着いた事情を説明し、馬から下り立たうとすると、馬も人も全然動かない。燈に照らして見た結果、人と思つたのは二本の太い竹、馬と思つたのは二脚の腰掛けであることがわかつた。支那では竹を切つて人の身代りにすることがよくあるが、腰掛けの馬はあまり聞かぬやうである。役目を果した木と竹は、その場で燒かれてしまつたけれど、何も怪しい事は起らなかつた。五六箇月たつて北門外へ行つて見たら、その家は空家で、主人らしい姿も見えなかつた(異聞總錄)。

[やぶちゃん注:「紹興元年」底本は「紹與」であるが、中国の「宋」を名乗った国の元号にこんなものはない。以下の原文によって誤字と断じ、特異的に訂した。南宋時代に高宗の治世で用いられた元号で元年は一一三一年。この五年前の一一二六年、北宋は靖康(せいこう)の変(北宋が女真族(後の満州族の前身)を支配層に戴く金(きん)に敗れて華北を失って北宋が滅亡した事件。靖康は北宋の最後の当時の年号)によって宋は一旦、滅び、戦闘こそ収束したものの、国内は著しく混乱していた。

「山陽」現在の西安の南東にある陝西省商洛市山陽県か。(グーグル・マップ・データ)。

「淮揚」淮陽か。であれば、現在の江蘇省淮安市淮陰区西部附近。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「異聞總錄」の「卷之四」に出る以下。

   *

紹興十年、兩淮兵革甫定、避地南渡者、稍複還郷。山陽二士子歸理故業、道經淮揚、舍於北門外、日已暮矣、主人慰諭綢繆、云、「吾主張此邸、惟恐客寓不久、然於二君之前、不敢不以誠白、是間殊不潔淨、又有盜、不可宿也。距此十里呂氏莊、寬雅幽肅、且有御寇之備、願往投之、當以僕馬相送。」。士子見其忠告、且素熟呂莊、頷之而去、主人殷勤惜別、仍囑囘途見過、遣兩健僕控馬、其行甚穩。夜未半抵莊、莊乾出迎、云此地多鬼物、何爲夜行、士子具道所以、方解鞍、僕馬屹立不動、亟躍下、取火視之、但見大枯竹兩竿、木橙兩條而已、卽碎而焚之、後亦無他。歷數月再到其處、北門寂然、無所謂主人也。

   *

この話は岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にも「竹人、木馬」として訳が載る。青空文庫」で読める。]

 

 この話の山は愈々目的地に達して氣が付いたら、人も馬も武人腰掛けに變つてゐたといふ一點に在る。物騷な夜道をとぼとぼと行く腰掛けの馬は、百鬼夜行の圖に漏れた愛すべき化物でなければならぬ。

 

 「廣異記」の高勵が桑の木の下に立つて、人の家の麥打ちを見てゐるところへ、東の方から馬を飛ばして來る男があつた。高勵の前に來て再拜し、お願ひでございます、馬の足をなほしていただきたう存じます、と云ふ。わしは馬醫者ではないから、馬の療治などは出來ないと答へたら、その男は笑つて、いえ、そんなむづかしい事ではありません、たゞ膠(にかわ)で付けていたゞけばよろしいのです、と云ふのである。高勵には先方の云ふことがよくわからぬので默つてゐると、男ははじめて自分の事を説明した。實は私は人ではありません、この馬も木馬なのです、あなたが膠で付けてさへ下されば、この木馬でずつと先まで行けるのです――。高はまだ十分腑に落ちなかったけれど、云はれるまゝに膠を持つて來て、火にかけて溶かしてやつた。男の話によれば馬の病氣は前足に在るといふことなので、その箇所に膠を付けてやり、膠を煮た鍋を片付けてもう一度出て來たら、馬は見違へるやうに元氣になつて、いづれへか走り去つた。

 

 膠を高に乞うた男は、自ら人に非ずと云つた。「太平廣記」はこの話を鬼の部に入れてゐるから、いづれその邊に所屬するのであらう。倂し前足を痛めた木馬に跨がつて、どこからどこへ行かうとしたのか、高を見かけて膠を乞うたのは全くの偶然か、それとも何か因緣があつたのか、さういふ點に關しては「廣異記」は何も書いてない。通りがかりにこんな事を賴まれただけで、別に後腐れがなかつたのは、高に取つては幸ひであつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「鬼二十三」に「廣異記」を出典として「高勵」で載るもの。

   *

高勵者。崔士光之丈人也。夏日、在其庄前桑下、看人家打麥。見一人從東走馬來、至勵再拜、云。請治馬足。勵云。我非馬醫、焉得療馬。其人笑云。但爲膠黏即得。勵初不解其言、其人乃告曰。我非人、是鬼耳。此馬是木馬。君但洋膠黏之。便濟行程。勵乃取膠煮爛、出至馬所、以見變是木馬。病在前足。因爲黏之。送膠還舍、及出、見人已在馬邊。馬甚駿。還謝勵訖。便上馬而去。

   *]

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