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カテゴリー「山村暮鳥全詩」の750件の記事

2017/04/27

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅴ」パート

 

   Ⅴ

 

[やぶちゃん注:「キリストに與へる詩」は異同なし。]

 

 

 

 或る淫賣婦におくる詩

 

女よ

おんみは此の世のはてに立つてゐる

おんみの道はつきてゐる

おんみはそれをしつてゐる

いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ

靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ

おんみはいま何を考えてゐるか

おんみの無智の尊とさよ

おんみのくるしみ

それが世界(よ)の苦みであると知れ

ああそのくるしみによつて人間は赦される

おんみは人間を救つた

おんみもそれですくはれた

どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる

おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時

それをみて石を投げつけたものは誰か

あの野獸のやうな人達をなぐさむるために

年頃のその芳醇な肉體を

ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた

齒を喰ひしばつた刹那の淫樂

此の忍耐は立派である

何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか

おんみは彼等の罪によつて汚れない

彼等を憐め

その罪によつておんみを苦め

その罪によつておんみを滅ぼす

彼等はそれとも知らないのだ

彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ

泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ

どんなことでもつぶさに見たおんみ

うつくしいことみにくいこと

おんみはすべてをしりつくした

おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない

晴晴とした心をおもち

自由であれ

寛大であれ

ひとしれずながしながしたなみだによつて

みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳

聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ

おんみは光りかがやいてゐるやうだ

おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる

ああ地獄の月よ

おんみの行爲は此の世をきよめた

おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ

人人のかはりをつとめた

それだのに捨てられたのだ

ああ正しい

蒼ざめた地獄の月

病める猫よ

おんみはこれから何處へ行かうとするのか

おんみの道はつきてゐる

おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた

大地よ

自分はなんにも言はない

此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ

ああ何でもしつてゐる大地

そして女よ

曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら

ひとときのやすらかさもなかつた

おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ

あらゆるものに永遠の生をあたへ

あらゆるものをきよむる大地

此の大地を信ぜよ

人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか

自分はおんみを拜んでゐる

彼等はなんにもしらないのだ

わかりましたか

そして吾等の骨肉よ

いま一どこちらを向いて

おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ

 

[やぶちゃん注:或る淫賣婦におくる詩には驚くべき異同があるので、長い詩篇であるが、改訂版を以上に掲げた。初版の後半部の初めの方に出る、

 

ああ地獄のゆり

 

(太字は底本では傍点「ヽ」)が、この改版では、

 

ああ地獄の月よ

 

と変えられている。これによって、六行後の

 

いたましい地獄の白百合

 

 

蒼ざめた地獄の月

 

と大きく改変されてある。これはシンボライズの大きな改変である。軽々には私にはどちらがよいとも言えぬ。しかし「ゆり」を「月」と変えた暮鳥には、明らかに死の影の囁きがあったのだと私には直観的に思われる

 また、初版の「いたましい地獄の白百合」の次行の「猫よ」も、改版では「病める猫よ」に変えられてある

 なお、初版で特異的に訂した最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」(初版は「いま一どこららを向いて」)は正しく「こちら」となっている。]

 

 

 

[やぶちゃん注:溺死者の妻におくる詩四行目が初版は、

 

おんみの生(ライフ)は新しく今日からはじまる

 

だったものが、「ライフ」のルビがなくなり、

 

おんみの「生」は新しく今日からはじまる

 

に変更されている。私は萩原朔太郎なんかが好んでやらかした「生(らいふ)」というルビが生理的に大嫌いなので、この改変は好ましく感ずる。]

 

[やぶちゃん注:大きな腕の詩は初版十一行目の「見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ」の「消へて」が正しい仮名遣に訂されている。これ以外は歴史的仮名遣の誤り(二箇所の「見やう」という誤り)も含めて異同はない。]

 

[やぶちゃん注:先驅者の詩は異同なし。

 初版はこれで「Ⅴ」が終わっているが、改版では初版の次の「Ⅵ」にある故郷にかへつた時が、この「Ⅴ」の掉尾に配されてある。詩篇内容の異同はない。]

 

2017/04/25

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅳ」パート

 

   Ⅳ

 

[やぶちゃん注:人間の午後は「憂鬱」の「鬱」が「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:雨の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:荷車の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:歡樂の詩は初版の奇体な「自分の目はまつたく葷み」が、「自分の目はまつたく暈み」と「暈」の字で正しく記されてある。]

 

[やぶちゃん注:海の詩は初版の衍字としか思われない「この憂鬱な波のうねりりは」が正しく「うねりは」となっている。但し、「憂鬱」の「鬱」は「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:ザボンの詩初版の四行目「あひよりそうてゐるそのむつまじさ」が「あひよりそふてゐるそのむつまじさ」となっている。]

 

[やぶちゃん注:此處で人間は大きくなるのだは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:郊外にて初版詩篇中の三箇所(一箇所はもともと「麥穗」)の「麥ぼ」が「麥穗」に総て書き変えられてある。]

 

[やぶちゃん注:波だてる麥畑の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:刈りとられる麥麥の詩四行目「麥畑はすつかりいろづき」の「麥畑」が「麥畠」となっている。]

 

[やぶちゃん注:都會にての詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:大鉞は異同なし。]

 

 

 

 一本のゴールデン・バツト

 

一本の煙草はわたしをなぐさめる

一本のゴールデン・バツトはわたしを都會の街路につれだす

煙草は指のさきから

ほそぼそとひとすぢ靑空色のけむりを立てる

それがわたしを幸福にする

そしてわたしをうれしく

光澤(つや)やかな日光にあててくれる

けふもけふとて火をつけた一本のゴールデン・バツトは

騷がしいいろいろのことから遠のいて

そのいろいろのことのなかにゐながら

それをはるかにながめさせる

ああ此の足の輕さよ

 

[やぶちゃん注:初版一本のゴールデン・バツトでは六行目が「そしてわたしをあたらしく」となっている。この改版のそれは黙読しても朗読してみても、「そしてわたしをうれしく」「光澤(つや)やかな日光にあててくれる」とあるのは、表現上、どうみてもおかしい確信犯の改作とすれば、甚だしい改悪と言わざるを得ない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:初版ではここには詩篇記憶についてが挟まっているが、改版ではカットされている。]

 

[やぶちゃん注:收穫の時は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここ(「Ⅳ」のコーダ)に初版では詩篇が配されてあるが、改版ではカットされている。]

 

2017/04/24

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅲ」パート

 

   Ⅲ

 

[やぶちゃん注:「其處に何がある」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「憂鬱な大起重機の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「耳をもつ者に聞かせる詩」は七行目「そこに此の世界を破壞する憂鬱な力がこもつてゐるのだ」の「憂鬱」の「鬱」が改版では「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:人間に與へる詩は異同なし。初版で注したように、ここでも「ひつ裂き」はママである。これによって、彌生書房版全詩集や加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)の「ひき裂き」は私は正しくないと断ずるものである。]

 

[やぶちゃん注:わすれられてゐるものについては異同なし。]

 

[やぶちゃん注:寢てゐる人間については異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「子どもは泣く」は異同なし。]

 

 

 

 或る朝

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから………

 

 

[やぶちゃん注:初版の「Ⅲ」は「子供は泣く」で終わっているが、改版ではここに、初版の「Ⅱ」パートのコーダの或るが、上記のように改変されて(題名が「或る時」から「或る朝」に変えられた上、リーダ数が七点から九点に変更)ここにかく配されてある。]

 

2017/04/23

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅱ」パート

 

   Ⅱ

 

[やぶちゃん注:「萬物節」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「種子はさへづる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る雨後のあしたの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「十字街の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ポプラの詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風の方向がかわつたは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:はリンク先の私の注で示した通り、初版の最終行「見えない翼はその踵にもひらひらしてゐる」の「踵」は実際には《「路」-「各」+「童」》という異様な漢字活字になっている(底本二本とも確認)。しかし、この漢字は私は知らないし、大修館書店の「廣漢和辭典」にも収録せず、ネットの「Wiktionary」でも、この字を見出すことが出来なかったことから、この漢字をここに入れ込んでも、まず、殆んどの日本人は意味は勿論、それを読む(発音する)ことすら出来ないであろうと考えた。されば、初版ではここのみ、特異的に彌生書房版全詩集及び加工用データとして使った「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)に従い、本文自体を「踵」の字として示したのであるが、案の定、この改版では「踵」になっている

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:としよつた農夫は斯う言つたは、後半の初版の一行「われあ大(でけ)え男になつた」の「大」が改版では「太」になっている(ルビはママ)。孰れが正しいとも判じ得ない。私は普通に「大」でよいと思う。]

 

[やぶちゃん注:よい日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「朝朝のスープ」は初版の四行目の「家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた」「鬱」の字が「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:初版ではこの後に(則ち、「Ⅱ」パートのコーダに)、

 

  或る時

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから‥…‥

 

があるが、この一篇は改版では標題が「或る朝」に変えられ上、リーダ数にも変更が加えられて、Ⅲの最後に配されてある。]

 

2017/04/21

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅰ」パート

 

   Ⅰ

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の上部にデッサン風の挿絵があるが、この絵(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)、誰の描いたものか判らぬので、画像表示は控える。以後のパートでも挿絵が入るが、その指示は略す。]

 

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の冒頭の詩「穀物の種子」(本文から「種子」は「たね」と読むべきである)に異同はない。]

 

 

[やぶちゃん注:「彼等は善い友達である」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「父上のおん手の詩」は最終行「此處ではるかにその手に熱い接吻(くちつけ)をしてゐる」が「くちづけ」と濁音表記となっている以外は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここにあるはずの初版の二行の短詩篇或る朝の詩

 

  或る朝の詩

 

冬も十二月となれば

都會の街角は鋭くなる……

 

は改版では、何故か除去されている。]

 

[やぶちゃん注:曲つた木は、改版では四行目「ねぢれくるはせたのは風のしわざだ」の「しわざ」に傍点「ヽ」が附されており、「小鳥をさえずらせる」が「小鳥をさえづらせる」と中途半端に訂されてある正しくは「さへづらせる」でなくてはならない。因みに彌生書房版全詩集版ではそう訂されてある。]

 

[やぶちゃん注:ランプは異同なし。]

 

 

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも

火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

[やぶちゃん注:初版の「詩」とは八行構成は同じであるものの、改行位置が二ヶ所で異なる。以下に初版を示す。

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける

子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

これは朗読時の印象が著しく異なる特異点の改変と言える。彌生書房版全詩集版は初版を採用している。朗読の印象からは私も初版を支持する。]

 

 

 

[やぶちゃん注:遙にこの大都會を感ずるは、初版の十四行目の「その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く」の頭の指示語「その」が除去されており、また、最後から三行目「此の大都會をしみじみと」及び次行の「此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を」のそれぞれの冒頭の「此の」が孰れも「その」に変更されてある。有意な変更であるが、詩想自身には微塵の変化もないので特異点ではない。]

 

[やぶちゃん注:何處へ行くのかは異同なし。]

  

[やぶちゃん注:梢には小鳥の巣があるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「春」は異同なし。]

 

2017/04/19

改版「風は草木にささやいた」異同検証始動(その1・装幀その他)

 

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:表紙カバー。以下、装幀は早稲田大学図書館蔵本画像で確認した。元版(このリンク先は私の元版の『詩集「風は草木にささやいた」始動 / 序詩「人間の勝利」・自序・穀物の種子』の一括電子化である)とはかなり異なる。濃い橙色で印字。改行はママ。元版詩集には特装と並装があるが、私が元版電子化で依拠した同じ早稲田大学図書館蔵本初版詩集画像(特装か並装かの区別は私には出来ない)では少なくともカバーはない。]

 

 

山村暮鳥詩集・風は草木にささやいた   イデア書院

 

[やぶちゃん注:表紙カバーの背。表紙と同色で縦に印字。最下部に「イデア書院」を同色で右から左に横書き。]

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:本体表紙。緑の濃い黄緑色の下地(背部分からの入り込みは白)の、左上部に凹版(彫り抜き)で下地は見た目、銀色を呈する。]

 

 

山村暮鳥詩集・風は草木にささやいた   イデア書院

 

[やぶちゃん注:本体の背。白地。最下部に「イデア書院」を右から左に横書き。元版は「POEMESYAMAMURAであった。]

 

 

 

山村暮鳥詩集  イデア書院

 

草木にささやいた

 

[やぶちゃん注:扉一(左)。草の実のついた穂が右に配され、その左に緑色の縦罫が入って上記が縦書き。総標題の平仮名分のポイント落ちの右寄せはママ。元版詩集にあった「此の書を祖國のひとびとにおくる」という大上段に振りかぶった献辞は存在しない。]

 

 

  なんぢはなんぢの面に汗して生くべし

 

 

[やぶちゃん注:扉二(左)。元版詩集にあった「Mon P ê re」という献辞と、父の写真は存在しない元版ポイントなんぢはなんぢの面に改行二行表示ていが、こちらでは中央に一行表示でポイントの詩の標題と同じ大きさである。]

 

 

[やぶちゃん注:ここに詩「人間の勝利が入るが、異同はない(「ほほゑんでたほれろ」の「たほれろ」はここでもママである)。]

 

 

[やぶちゃん注:ここにあった元版の「自序」がカットされて、代わりに先に電子化して示した――」が入る(その後に目次が続くが、省略する)。]

2017/04/09

詩集「風は草木にささやいた」改版 山村暮鳥「卷首に」

 

[やぶちゃん注:以下は衰弱が激しくなった大正一三(一九二四)年八月三十日にイデア書院から刊行された詩集「風は草木にささやいた」(初版本は六年前の大正七(一九一八)年十一月十五日白日社刊)の改版の、新たに書き下ろされた山村暮鳥の「卷首に――」と題した序である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの同原本の画像を視認した。]

 

 

   卷首に――

 

 此の詩集を街頭におくりだしてから春秋はいくたびか囘つた。はやいものだ。それと一しよに世にでた千草がもう來春は小學校にあがるのでゐる。その子どものうまれたのと前後して病床にぶつたほされた自分は、だが、まだかうして罅の深くはいつたままの體である。

[やぶちゃん注:山村暮鳥の次女千草は初版刊行の二ヶ月前の大正七(一九一八)年九月生まれで、その出生直後の九月二十八日朝、暮鳥は自宅で大喀血を起こし、病床に臥した。]

 そうしたときのものだけに此の詩集は、自分にとつて、他のどの詩集よりもことさらになつかしまれる。

 それからの自分達の日々がどんなものであつたか。とても、ありのままには書き綴ることができない。此處まで生きのびてきたことは、とにかく奇蹟にもひとしい事實。

 

 まことに此の自然の中でくるしみくるしむものにのみ自然はおのが美と愛とを、人生無上の滋味としてあぢははせるのか。

 いま鮮裝改版し、ひさしく絶本になつてゐた此の詩集をふたたびあたらしく梓刊するにあたつて。そのことが泌々と思ひゐはされる。

[やぶちゃん注:「梓刊」「しかん」。「梓」は「版木に文章や図画を彫って出版すること」の謂いで、「刊梓(かんし)」とも称し、出版のこと。「上梓(じょうし)」に同じい。

「泌々と」「しみじみと」。何度も言ってきたが、誤字ではなく、「泌」には「沁みる・滲みる」の意があり、暮鳥の好きな用字なのである。]

 だがまた讀みかへしてみると、これらの詩章は、いまの自分とは遠く隔つてゐる。それはまるで旅人が自分のたどりたどつてきたその空の彼方をはるかにふりあほいで望むようなもの――その頃の詩境はといへば、まだいかに眞摯であつたとは言へ、まだ自然乃至人生の讃美、讃美にのみ始終してゐたその自然とともどもに汗を流しなみだをながしてはゐなかつた。

[やぶちゃん注:最終一文はママであるが、「讃美にのみ始終してゐた」。「その自然とともどもに汗を流しなみだをながしてはゐなかつた。」であろう。]

 いかにも人生の苦しみの中にはゐた。けれど、その自然と一しよに生きてはゐなかつた。

 

 時分は此の詩集を千にするであらうひとびとに言ふ。それはほかでもない。

 ――かくも自分の讃歎せずにはゐられなかつたその自然と生活との眞只中に燦然と生きてほしいといふ一事である。

 さて、最後にかうして此の詩集がま記もや日の光にふれるようになつたのは、ひとへに小原學兄の懇切なお勸めによる。

 このことを自分は著者の心からの感謝として、ここに銘記しておく。

 

            茨城縣イソハマにて

               山村暮鳥

 

[やぶちゃん注:「小原學」不詳。イデア書院の関係者か。白神正晴氏の「山村暮鳥年譜」の中にイデア書院の関係者に『小原國芳』という名を見出せ、また、底本の奥附の後にイデア書院のポリシーが四条に亙って記されている中の、三条目に『松原、小原兩文學士及びその恩師先輩學友の作品を出版いたします。その外はその方々の推薦による權威あるものにあらざれば出版いたしませぬ。』と記してあるからには、この序の「小原」とはこの『小原』『文學士』なる人物である可能性がすこぶる高いと考えてよかろう。識者の御教授を乞うものである。

「茨城縣イソハマ」磯濱。本詩集刊行当時の暮鳥一家は大正九(一九二〇)年一月二十七日から茨城県磯浜町(いそはまちょう)(現在の大洗町(おおあらいまち)明神町(みょうじんちょう))にいた。]

 

2017/04/04

山村暮鳥全詩電子化注完遂

以上を以って、まずは本ブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩」に於いて、山村暮鳥の全詩(最低でも彌生書房版全詩集版の詩篇総ては含まれている)の電子化注を終えた。
 
 
   ――母聖テレジア聖子の七回忌に捧ぐ――

 
 
 

卷末の詩   山村暮鳥

 

   卷末の詩

 

さて、さて林檎よ

おまへはなんにもいつてくれるな

それでいい

それでいい

そうはいつても

うるさからうがな

こつそりと

ころりと一ど

わたしにだけでも

ころげてみせてくれたらのう

お、お、りんごよ

 

[やぶちゃん注:「そうはいつても」はママ。本詩篇を以って山村暮鳥詩集「月夜の牡丹」の本文は終わって、いる。

 

この後に編者花岡謙二の「詩集の後に」が続くが、花岡の著作権は存続しているので、電子化しない。その叙述によれば、冒頭、『山村暮鳥が死んでから、もう一年半になる』で始まり、本詩集「月夜の牡丹」に収録された詩篇は山村暮鳥の死(大正一三(一九二四)年十二月八日)の直近である同年の初冬に書かれたものであるとする。また、前回の詩集「雲」については『作者自ら校正までして、その本の出來上らぬうちに死んだのであるが、本集は全く作者の知らないことである』とし、原稿は未亡人山村富士が『整理して書留郵便で送って下すつたものの』、詩集出版から発行その他は『全く私の獨斷である』と明記している。その後の下りは重要なので少し纏めて引用しておくと、『校正をしながら、何處かで「餘計なことはするな」と言つたかとおもふと、或る時は暮鳥の溫顏が天上に浮んで、「ありがたう」と言つてゐるやうにもおもへた』としていている。この『餘計なこと』は非常に気になる。これは詩集刊行全体へのみ限った暮鳥の天国からの声なのではなく、花岡の独断的編集(パート編集)に止まらず、暗に原稿の改変をさえも匂わせるからである。さらに続いて、『原稿には題の無い詩が多かつた。只でもつけておかうとおもつたが、奥さんともご相談して、「ある時」とした。これは著者が好んで用ゐた題であつた』とある。このことから、本詩集に限って言うなら、実は「ある時」(パート標題「或る時」は無論)という詩題の多くは実は無題であるということである。それは「ある時」を頭の詩篇とする厖大な「おなじく」も〈同じく〉であるということを意味していると考えてよいと私は思う。これは私にはかなり意外な事実であったし、そのような操作がなされているものとして本詩集の「ある時」を読んできた読者は実は少ないのではないかと杞憂するので特に注意を喚起しておきたく、引いておく。最後の方で花岡は『本書は第五詩集「雲」に發表しきれない全部を一篇も殘さず採錄した。小さいながら、完全に彼が最後の詩集(第六詩集)となつた譯である』と記している。この後書のクレジットは『大正十五年夏』で、その後の奥附の『出版』は(印刷は同年七月十日)手書き訂正されて同年八月一日(塗りつぶしてあるので印刷はよく判らないが、元は七月十■日らしく判読する)である。]

ある時(十六篇)   山村暮鳥

 

   ある時

 

大木の幹をなでつつ

ふと手をとめ

しみじみと

みみをすました

何の氣もなく、何の氣もなく

ちようど脈でもみるやうに

 

なんといふ自分であらう

 

[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。]

 

 

 

   おなじく

 

雨は一粒一粒

よふけてきけ

遠い

遠い

むかしのことを

    ものがたるよ

 

 

 

   おなじく

 

しみじみと

氷の中でめざめるのは

小さな眞珠の月であらう

よあけである

どこかの山の沼である

 

 

 

   おなじく

 

自分はみた──

遠い

むかしの

神々の世界を

小さなをんなの子が

しきりに

花に

お辭儀をしてゐた

 

 

 

   おなじく

 

なんでもしつてゐるくせに

なんにもしらないふりをしてゐる

梅の古木か

ちらほら

雪のやうな花をつけ

雪のやうなその花を匂はせつ

すつきりとしてゐる

 

 

 

   おなじく

 

たふとさはこの重みにあれ!

林檎を掌(てのひら)に

 のせてながめてゐる

 

 

 

   おなじく

 

おう、これは

これは自分の心などより

こんなにも

こんなにも

大きな林檎だ

 

 

 

   おなじく

 

林檎のような

さびしがりはあるまい──

一つあつても

いくつも

いくつも

積み重ねられてあつても

 

[やぶちゃん注:「ような」はママ。]

 

 

 

   おなじく

 

こどもは林檎が好きだから

りんごもこどもがすきなんだ

必定(きつと)、さうだ

 

 

 

   おなじく

 

林檎よ

こどもに食べられろ

こどもにばつかり

    頰ばられろ

 

 

 

   おなじく

 

りんごはいい

ましてや

子どもと妻と

町からかつてきてくれた林檎だ

どうして頰摺りしずにゐられよう

どうして齒なんかがあてられよう

 

 

 

   おなじく

 

どれもこれも

一ようにまつ赤であつた

林檎は……

 

けれどそのなかでの

とりわけ赤い一つは

ああ、よくみると

はやくも蟲蝕まれてゐるではないか

 

[やぶちゃん注:「一よう」はママ。]

 

 

 

   おなじく

 

りんごはいい

たべなくつていい

たべられなくつていい

だが

たべられるところで

なほさらいいのだ

たべられるのにたべないで

ながめてゐるから

さらにさらにいいのだ

 

 

 

   おなじく

 

まつ赤な林檎をみてゐると

きまつて自分は

昵(じつ)としてゐられなくなる

林檎が殘忍をよびおこすんだ

それこそ

美しいものの惡戲(いたづら)である

 

[やぶちゃん注:「昵(じつ)として」のルビ「じつ」はママ。これを漢字音(漢音)として用いる場合なら「ぢつ」が歴史的仮名遣では正しい。しかし「じつとして」という和語ではそれは歴史的仮名遣の誤りではない。彌生書房版全詩集版は「ぢつ」と〈訂〉しているが、私は従えないのである。]

 

 

 

   おなじく

 

くつてしまへ

くつてしまへ

赤い林檎はおそろしい

それは

あんまり美し過ぎる

 

 

 

   おなじく

 

美しいものは

みんな食べてしまふがいい

たべられるような

畫をみせろ

また詩をかけ

赤い林檎のような詩を──

 

汝、暮鳥よ

詩は食べられぬといふてはならない

 

[やぶちゃん注:三行目「たべられるような」の「ような」はママ。六行目「赤い林檎のような詩を──」は、実は原典では「赤い林檎のようふな詩を──」となっている。前の「ような」の用字法から歴史的仮名遣は訂さないとしても「ふ」は読解不能である。されば、この「ふ」は特異的に衍字と断じて除去した。彌生書房版全詩集版は「赤い林檎のやうな詩を──」と美事に優等生の〈消毒〉がなされてある。]

 

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