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カテゴリー「国木田独歩」の104件の記事

2019/03/28

荒野吟 國木田獨步 /國木田獨步詩歌群電子化注~了

 

     ○荒 野 吟

 

   功名によりて進み利達の爲めに

                退く

   此の如き進退我はよくせず

我ニ祖母あり母あり弟あり知己あり亦愛人あり

   我が衷には靈動き

   いと高き處には神在す

 人生天職あり天意に遵ひて天功を亮スるのみ

  アヽ救主、四十日四十夜荒野の試み

 這般の苦心人知るや否や

 

[やぶちゃん注:「ニ」及び「ス」のカタカナはママ。以上の詩一篇は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「○荒野吟」として載るものである。底本解題によれば、『前田重氏の研究ノート中に挾まれてゐた「獨步筆跡」と裏書した寫眞草稿。』無署名ではあるが、筆蹟が獨步のものとみられるので掲げた』とある。詠吟時期や背景は一切不明のようである。老婆心乍ら、言っておくと、「我が衷」の「衷」は「うち」で「心裏」に等しく、「在す」は古語で「います」と読み、「遵ひて」は「したがひて」、「天功」は「天の成した技(わざおぎ)。人智を超えた大自然の働き」の意、「亮スる」は「りやうする(りょうする)」で「扶助する」の意であろう。「這般」は「しやはん(しゃはん)」と読み、「這」は中国語の俗語で「此」の意で、「これら・この辺・このたび・今般。通常、かく、格助詞「の」を伴って用いる。

 以上の他にも國木田獨步の詩歌(漢詩)等は散見されるが、底本全集が明確に抽出したものは以上であり、一先ず、これを以って國木田獨步詩歌群電子化注は終りとする。他に見い出し得、追記したいものが発見出来た場合はここで追加する。

2019/03/27

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の短歌群

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の短歌


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


初春の花見る每に父母の
  傾く年を獨り寢に泣く、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月十四日の作(國木田獨步満二十一歳)。三月十五日の日記の冒頭に『昨夜歌一首を得。曰く、』として載せ、歌の後に、『アヽ天地悠々、歲月は逝』(ゆ)『いて止まず、明年は如何、明々年は如何、十年の後は如何、將た百年の後は如何、百年回顧しれば一夢の如く、千年回顧すれば一瞬のみ、人間の恩愛は萬古の情。』(太字は底本では傍点「◦」)と記している。彼の逝去はこの十五年後であった。]


今更らに此世の風の身に沁みて、
      いとゞ戀しき父母のひざ。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十二日の作。三月二十三日の日記の中に、『昨日自由社より歸や、書を裁して國もとに送る、收二』(國木田獨步の実弟)『宿舍入舎の相談也。其の他色々。』/(改行)『中に一首、』としてこの歌を記し、後に『あゝ「五年は經過せり」、』(この五年前、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。後述は誕生起点の値)『二十年餘は經過せり、父老ひ[やぶちゃん注:以下とともにママ。]母老ひ吾亦た壯年に達して、尚ほ且つ父母を安ずる能はず、理想の責任徒らに重く、燈火の悲慨空しく深し、切に回顧して父母の膝下を懷ふ』と記している。]


弱ければ弱きに付けて猶ほ弱く、
     吾は迷へる羊なるかな。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十四日の条に出る。日記冒頭、『此の記を書するに先たちて左に一首、』として以上を掲げた上、歌の後に、
   *
アヽ昨朝は意志の冷靜健猛たらんことを自誡して、而も今は淚と共に此の歌を歌はざる可からざる吾の如何に弱きぞ。
若し斯くの如くして日一日を送らば、狂死にあらずんば堕落なり。
狂死か堕落か、狂死猶ほ可、堕落して生を放樂に偸むる[やぶちゃん注:ややおかしいが、「ぬすむる」。]に至りては、神明の罰終に如何。
思ふに精神靈性の弱きはたまたま以て身體の衰弱を招き、狂死に非ず、堕落に非ず、元より事業成功に非ず、何事も成し能はず、以て命を消さんとする如きに了らんも計る可からず。
   *
と記している。以上で当日の日記全文となる。]


こつこつとつとむる外に味もなく、
  望もわざもせんすべもなし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月三十一日の日記の掉尾に、前書で『左の一首を三月に送る』と記して、載せる。]


しねとならば死ぬる此身は惜まねど
    生れし心あだに消す可き。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年七月六日の日記より。後に大久保余所五郞(よそごろう)宛の手紙に書き添えたものである旨の記載があり、書簡にも見える。]


冬枯れの野邊に主なく燃ゆる火の
   燈は月の光ならまし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年十一月二十三日の作。三日後の二十六の日記に載せる。この前月、國木田獨步は先に注した大分県佐伯にあった私立鶴谷学館教頭に就任していた。日記より、歌に関わる箇所を抜き出す。
   *
木曜日二十三日の夜は月の光、夕の香をこめて僅に照りそめし頃、たまらず、家を出でぬ。弟を伴ひたり。
船頭河岸(せんどがし)に出でたり。晝間のさわがしきに似ずいと靜かなり。白馬一ツ繫ぎ居るを見たり。忽ち馬子乘りて牽て石階を下り渡船に乘らんとす。馬をそれてのらず、二三の人船と岸とに立ちて危ぶみて眺めぬ。馬よふよふ船に乘りたり。月已に川にみち居たりし也。海岸(かし)[やぶちゃん注:「海」はママ。]の石階の上に理髮所あり燈かゞやき居たり、其の前に四五人の見守り達集りて頻りに小兒を搖りつゝ唄ひ居たり。聲あはれなりき。渡船河の中流に出でし時、斜めに下流の峯より射す月の光を受けて馬白く人黑く舟危く、古色ありて、今眼前に眺め乍らも懷古の情と等しく一種の哀れを感じぬ。かゝる時人々の笑ふ聲、靜けさを破りて聞ゆるなどは却て哀れを增す者なり。
船廻りし時、吾等も乘りて渡りぬ。曩の[やぶちゃん注:「さきの」。]洪水に流されし橋の杭のこり立ちて趣きをそへぬ。
「渡」を渡れは堅田道なり。水田と河の入江とを貫きたる眞すぐの道にて家なし。此處野邊甚だ開けて山々のふもとを去るや、遠く、蒼煙はるかに地上をこめ月光白く空にみち、人なく聲なく、山默々、田の面に、くゞし火燃へ居たり。只だ獨り靜かにもへ[やぶちゃん注:ママ。]居たり煙低[やぶちゃん注:底本にここに編者により「く」の脱字を推定する割注有り。]はひて月の光これにこもりて 蒼く甚だ寂漠をたすけぬ。一首を得たり


[やぶちゃん注:「くゞし」は「くぶし」と言い、農作業で刈った草を燃やすこと及びその焚火を指す語。湿った生草のようなものを山のように積み、見た目では煙だけで燃やしているように見えることが多い。単に不要のそれを燃やすのであるから、炎や火の粉が舞い上がらぬよう、しかもこのシークエンスのように、夜、そばに人がおらずとも安全にごくゆっくりと燃えればよいのである。]


   *


として一首を掲げる。因みに歌の後には、時制がずれるから、この一首とは直接の関係はないが、


   *


昨夜友にやる書狀認め了はりし時は夜已に甚だ更けぬ、月の光のみ醒めたり。草あり、口笛なり。何處の少年ぞ、可憐なる。


   *


と書いて擱筆している。印象的なので言い添えておく。]


吹くからに柳の絲の亂るなれ、
    天の戶閉るその人もがな。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月十四日の作。十五日の日記に所収。それによれば、


    *


德富[やぶちゃん注:蘇峰。]氏一首の和歌、一篇の漢詩を寄せらる。曰く、
  吹く風に靡きそめたる靑柳の、
       絲の亂れをとく由もがな。
今日の政界を慷慨したるもの也。
吾返歌を作る。曰く、


    *


としてこの歌を掲げている。]


散にけり、いざ事問はん村びとよ
   花のさかりをいかに眺めし。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば(抹消線は底本編者のそれで復元した。太字は底本では傍点「◦」、下線は左傍線)、
   *
昨日の黑澤行を誌し置く可し。(二日朝認む)[やぶちゃん注:「黑澤」は現在の大分県佐伯市黒沢(グーグル・マップ・データ)。]
昨日は日曜日。教會の人々と共に黑澤と稱する處に櫻見物に出行きぬ。此黑澤の櫻と稱する云ふは、吾が佐伯に來りし時以茶己にしばく耳にする虛なりし也。佐伯町を去る三里半の山奧に在り。
拜禮終はりし後、同行者八人午前十時半頃出發す。歸宅したるは午後七時半なりし。
櫻花は已に散り居たり、只だ落花紛々の景を賞するを得たりしのみ。吾等それのみにても滿足したり。
櫻樹は二本あるのみ、されど何百年を經たりしとも知れざる老樹なり。なかなか世にめづらしき大木なり。立派なる庵あり、東光庵と稱す。
   散にけり、いざ事問はん村びとよ
        花のさかりをいかに眺めし。
此邊はまことに遠村なり、されど人は住み花は咲き、其處に人生あり。其處に老若男女あり、其處に吾あるなり
知りぬ、己れの吾を以て尤も大なる吾と心得、其の吾をのみ中心として齷齪[やぶちゃん注:「あくせく」。]することの極めて愚なることを。見よや、乾坤の間、人類至る處に生滅す。何れか其吾を保たざらん。希くは此の吾をして其等凡ての吾に住まはしめよ。
余は此の凡ての吾に同化するを得て天地悠々の哀感のうちに、神聖者の信仰に生き、以て他の吾達の爲めに美妙を發揮し得る文士となりて一生を幸福に送るが願のみ。
英勵風發、美妙何處にかある。[やぶちゃん注:「英勵」の右に底本では編者のママ注記がある。何の誤字か不明。]
美妙はシエクスピヤーの筆の上ぼりたる處にあり。ユーゴーの筆に上りたる方面に在り。ウオーツウオースの筆に上りたる處に在り。はた老子信仰の人生觀に在り。はたクリスト信仰の人生觀に在り。はた李白が詩の聲のうちに在り。はたシヨウペンハウエルが哲理のうちに在り。美妙は至る處に在り。大我同情の眼を以てすれば至る處に在るなり。人性の暗處も描けば美となる。社會の暗黑も寫せば美となる。自然の美勿論然り。
   *
と述べている。]


櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。


[やぶちゃん注:前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収し、
   *
昨日、老櫻に別れて歸路につき、來ること一二丁ならずして路傍にいと古びたる墳墓四ツ五ツ並びて草のうちに立ち居たり。吾、人々を顧みて問ふて曰く此の墓と彼の老櫻といづれか老いた年を經たる。人々の曰く勿論老櫻こそと。然り。されど墓も已に其の形と云ひ其の朽碎せる樣と云ひ全然近代のものにあらず。今一首を得。
 櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。
   *
とある。]


鶯の啼なる方をふれされば
    木の間がくれに花の散るなり。


[やぶちゃん注:「ふれされば」はママ。「振りされば」(振り返ってみると)の意か。前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば、
   *
黒澤にゆく路は常に溪流に伴ふて進むなり。此流れ曲折するにつれて路は或は時に其の岸に沿ひ或は之を橫る[やぶちゃん注:「よこぎる」。]、南側の山脈より分派せる山の尾にたちきられ村落各所に散在す。山櫻いたる處の谷に在り。鶯も亦た處々に啼く。農夫野に在り。のどかなる景色なり。若葉萌へ出ずる樣陽氣空にみつ。
  鶯の啼なる方をふれさけば
      木の間がくれに花の散るなり。
  櫻花なもなき山に咲き出でゝ
      ゆかしさまさる鶯の聲。
  茅の屋をみごしの山の花さきて
      春日のどかに翁眠れり。
     俗調一ツ。
  春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
      野邊の花まで迎へ顏。
   *
と四首を並べる。後の三首は改めて以下に掲げる。]


櫻花なもなき山に咲き出でゝ
    ゆかしさまさる鶯の聲


[やぶちゃん注:前歌注参照。]


茅の屋をみごしの山の花さきて
    春日のどかに翁眠れり。


[やぶちゃん注:前々歌注参照。なお、これは実景と見てよいが、実はこの前年の十一月に獨步は「竹取物語」を読んおり、この直近の四月三十日には詩「竹取」の改作第一章を書いているから、この一首はそれと強い親和性があると見てよいように思われる。無論、これは詩篇「かぐや姫」(明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』発表)のプロトタイプと考えられるものである。


   俗調一ツ。
春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
    野邊の花まで迎へ顏。


[やぶちゃん注:三首前の短歌注を参照されたい。そこに電子化したように所収する日記では前書風にある辞を添えて出した。]


世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
        寂びしく暮す、一家なり。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてあるが、これは短歌ではなく、既に『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』で示した通り、纏まったソリッドな五七調の一詩篇の部分と読む方が正しいと私は考えている。


伊豆相模、峰の白雪ふかけれど
     わがすむ庵は春雨の音


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年二月二十七日の条に載る。歌の後に『春雨蕭々、閑居の思ひ長し。』と記している。短かった佐々城信子との結婚生活中の一首(結婚は前年明治二十八年十一月十一日)。この翌々月の四月十二日、教会礼拝からの帰途、信子は失踪し、同月二十四日に離婚を決した。]


わが戀の深き心は戀すてふ
  浮名も消えし苔の下かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月二十三日の条に載る。歌の後に『信子、信子、われは此の歌を愛吟して滿足するのみ』と記し、前文でも信子への未練を強く滲ませている。]


戀すてふ浮名や消えし後もなほ
   戀しきものは戀にぞありける


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月十九日の条に以下の三首とともに列載する。歌の前に(但し、歌群との間には罫線がある)『余が感情は再び荒れんとせり。再び昨年信子を知らざりし以前の余の感情に立ちかへらんとせり』と記している。]


朝な夕な身に沁みまさる秋風に
   さびしく獨り戀ひまさるかな


[やぶちゃん注:同前。]


花に狂ふ蝶の羽風のたよりだに
   君がことづて聞くよしもがな


[やぶちゃん注:同前。]


わぎもこの北にいませば北風の
   身に沁めかしと野邊路さまよふ


[やぶちゃん注:同前。]


 


○國木田獨步書簡所収の短歌(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


波風の荒き時のみ尊きかは
    まことの友は又たの吾が身ぞ


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年七月二十三日附大久保余所五郞宛(底本全集書簡番号四)より。大久保余所五郞については、『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』の注で既注。]


君を待つほの夕なぎに
  やくやもしほの身をこがしつゝ


[やぶちゃん注:明治二四(一八九一)年五月二十八日附水谷眞熊宛より(底本全集書簡番号補一一)。書簡では歌は丸括弧で括られてあるが、除去した。水谷眞熊(明治三(一八七〇)年~大正一四(一九二五)年)は熊本出身の友人。東京専門学校邦語政治科卒で、在学中、国木田独歩らと親交を結び、『靑年文學』同人となる。一時は雑誌編集の中心であった。後、郷里にて農政・社会事業に尽くした(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]


大言を吐て今年も過ぎたれど
   心細きは年の暮かな


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年『正月元日』附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号一五)。歌の前に一字下げで、『僕歲暮の感てふ一狂歌あり大兄の下に年玉として進呈致す事也曰く』と記す。]


 ○君に告ぐ
死して後やまん心のますらほのちかひしことの末を見よ君


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年六月二十五日附河手忠宛より(底本全集書簡番号一九)。以下の三首と列挙する。歌にはそれぞれ前後に鍵括弧が附されてあるが、除去した。河手は山口での旧友と思われる。]


 ○獨り昂然として
うてばちる葉末の露の玉となるも瓦となりて何にながらへん君


[やぶちゃん注:同前。]


 ○出立の際
立てば行く行けば倒れんそれ迄ではいくるも死ぬも神のまにまに


[やぶちゃん注:同前。これより前の書簡内容からは、若き日、山口から上京した折りを追懐しての吟と推定される。]


 ○客舍の暮雨旅魂將に寂漠たるの際忽ち亡友古川兄を思ふて
友は逝きのこりし吾の此の命せめては國のためにさゝげん


[やぶちゃん注:同前。]


富士の山、いつの世にか崩れなん、
 雲の峰たへはせじ、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月六日附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号三二)。前で『君が夏雲、富岳に秀づるを見ての秀咏に對へて』として、次の一首と併置する。]


雲の峰いつの世にかたへはてん
 美の心つきはせじ


[やぶちゃん注:同前。二首の後に『以上は歌なり之れにつぎて以下は文章なり。』/『かるが故につきせぬ心は美の心、吾が心は則ち美の心、之れを以て富岳大と雖も雲峰偉なりと雖も吾が方寸の中に在り』と記している。]


關留る柵ぞなき泪川
いかにながるゝ浮身
       なるらん


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日附大久保余所五郞宛書簡(底本全集書簡番号三二)の末尾クレジット・署名前に配す。本書簡には既に出した「わが宿は星滿つ夜(よる)の琵琶湖かな」の俳句も前の方に記している。老婆心乍ら、上句は「せきとむるしがらみぞなきなみだがは」と読む。]


大神の御心われは知らねども
  日の本の民救はざらめや


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年二月二十四日附田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六二)。書簡末尾(追伸位置)にあり、前には、
   *
人眠之時吾醒ナリ
夢漠々時、淚潛々
  *
という和漢文が記されて一行空けて短歌を記している。「潛々」は音で「センセン」か。訓じるなら「さめざめ」である。田村三治は「頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步」で既注。]


春くれバ草木をのづと萌へいづるに
何とて民の枯れまさるらん


[やぶちゃん注:「をのづと」はママ。明治二七(一八九四)年三月十日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号六四)。後に『此失望的の口調あれども慷慨の餘りのみ 草々』と擱筆している。]


木の葉ちり秋も暮にしかた岡の
 さびしき杜に冬は來にけり


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月二十七日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号七九)。末尾追伸位置に次の歌と併置してある。次注も参照のこと。]


昔思ふ秋のねさめの床の上に
 ほのかにかよふ峯の秋風


[やぶちゃん注:同前。前の歌との間に『の時節には少しく間もある事ながら』と挟む。]

2019/03/26

國木田獨步 短歌 三首

 


鳴きつれて行くかりかねの行へさへ
      知らではかなき懸にくちなんぬる。


こしかたの夢に焦るゝ現世の
      戀てふものは夢にぞありける


武士の心は何と人間はゝ碎けて後の玉と答へん


[やぶちゃん注:以上の三首の短歌は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「短歌」として載るものである。底本解題によれば、獨步の『短歌はかなりの數にのぼり、書簡、「明治二十四年日記」』、日記『「欺かざるの記」その他に散見する』が、前二首は「獨步遺文」の「韻文篇」の中の、『「戀緖」の總題を有する四首のうち、二首のみが他に見當らないので、こゝに收錄した。この四首には、本間久雄氏所藏の草稿がある。おそらくは、『遺文』に用ひられた原稿と思はれるが、總題の「戀緖」は獨步の筆ではないらしい。はじめの二首、「花に狂ふ……」と、「朝な夕な……」とは『欺かざるの記』の明治二十九年十一月十九日の記述中にある』(ブログでは後掲する)。『終りの二首を、本間氏の好意により、草稿を底本として收錄した』とし、最後の『「武士の心は……」は』の一首は、『水谷眞熊のノート『金蘭帖』中から採錄した』とある。一首目の抹消線は本文の注記に従って再現したものである。なお、俳句と同様、「欺かざるの記」と書簡内の短歌は別に後に電子化する。]

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の俳句


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


朝な朝な起き出でゝみる冬景色


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年十二月十七日の条の二行目に記す。國木田獨步満二十三歳。一行目は『近來天甚だ寒く、月漸く冷なり』と記し、この句を掲げた後、『ぶらぶらなすなく暮す此頃、なすなしと雖もなさんと欲するの熱情は愈〻燃ゆる也』と記し、続いて『昨日生徒を合手にナシヨナル第二を教へ居たる時、突然自ら客觀して思はず自笑せり。朽つる命、何を爲さんとするぞ。』(「合手」はママ)/(改行)『今朝めさめて頭を舉げてガラス越しに灘山の背後朝輝の天に漲ぎるを望む忽然として感ずらく嗚呼、大なる美なる確かなる此自然、吾は人なり、爾の中に生く、爾老ひず、吾豈老ひんや、吾あに死せんやと』(「老ひ」はママ)『然り「自然」は一致なり、古來幾億の生命、此自然が呑吐したる現象に非ずや、吾も人なり、安ぜよ、吾甚だ獨立を感ず然り吾甚だ吾がソールの獨立を感ず』(「ソール」は「soul」であろう)/『要するに吾ソールを此自然の中に見出す也』『ソールソール 汝は自由なり、自然なり、獨立なり。』(傍線は右)と記している。獨步はこの直前の同年十月、大分県佐伯(さえき:後に訛りの実発音の「さいき」に改称し、現在の公称も佐伯(さいき)市)町にあった私立鶴谷学館の英語と数学(代数学)の教師兼教頭として赴任していた(小学校卒業後の子弟を対象とした中等以上の教育を行う補助教育機関。德富蘇峰と矢野龍溪の紹介による。但し、十ヶ月後の翌年七月末を以って退職した)。]



野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。


月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。


誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。


名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


[やぶちゃん注:以上《四句》は明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてある。当日の日記冒頭には、『昨夜船を蕃匠の流に泛べ月光に掉[やぶちゃん注:ママ。]して、富永氏を灘村の校舍に訪ひぬ。同舟者は尾間、山口、收二の三人。吾を加へて四人。』/『月明、流れに滿ち山岳の影、倒さまに水に落ち來四顧寂々、ああかも湖面をゆくが如し。』/『歸來、此の美景、眼にのころ、心に生く』『吾は美を信ぜんことを欲す。』(太字は底本全集「第七卷」では傍点「◦」)/『わきには吾只た[やぶちゃん注:ママ。]美の力を信じたり、曰く美を信ず。と。是れ非なり。』/『寂漠、幽遠、光明、暗澹の世界。吾が生、こゝに在り。古人の生こゝに消へぬ[やぶちゃん注:ママ。]。吾、何處に適歸せん。』/『四顧茫々然。嗚呼吾信仰を欲す。』/『虛榮、小我、比較、焦念、束縛の衣よ去れ』/『信仰、自由、大我、眞實の生命よ來れ』とあった後に、実際には以上は、罫線に挟まれる形で、間に明らかな短歌風の一首を挟み、


   *


野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。
月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。
誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。
世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
           寂びしく暮す、一家なり。
名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


   *


となっているのである。全集「第九卷」の「解題」では、これらを五つに分離し、無理矢理、俳句と短歌に分けているのであるが、しかし、これはどう見ても、俳句+短歌一首、ではなく、纏まったソリッドな五七調の一詩篇と読む方が正しいとしか私には思えない。


「富永」は鶴谷学館の生徒富永德麿。独歩の退職帰京に伴い上京し、牧師となった。「收二」は獨步の実弟。なお、御存じない方のために言っておくと、獨步は熱心なクリスチャンであった。同学館では彼を尊崇する生徒がいた一方、その熱烈な信仰を毛嫌いする生徒も有意におり、後者は彼を排斥する運動行動に出たりしていた。そうした中、この時、獨步は既に学館を辞職して東京へ帰る意志を固めていた。


もぐらもち土をもたぐる狹霧かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月二十六日の条に記されてある。句の前に『今日は終日狹霧たちこめて野も林も永久の夢に入りたらんごとく靜かなりき。午後獨り散步に出かけ犬を伴ひぬ。默視し、水流を睇視して空想に馳せたり。をりをり時雨の落葉の上をわたりゆく樣の靜けさ。』(「睇視」(ていし)は「目を細めて見ること」或いは「横目で見ること」であるが、前者でよかろう)。「林の奥に座して四顧)としてこの句が示され、後に『狹霧の靜寂を歌ひたる也』と記す。この年の四月、結婚から五ヶ月にして佐々城信子に逃げられて離縁しており、九月に渋谷(現在の渋谷駅の直近)に転居、この前月十月二十六日には名作「武藏野」の構想が既に成っていたことが日記から判る。一方、先の引用の後、には罫線を引いた後に、『信子を懷ふて和歌及び新體詩成れり。』と記している。和歌は後掲する当該首がある。「新體詩」は発表年月日の判っているものの中で、直近のものである「森に入る」「聞くや戀人」が、その一部に当たるのではないか、とは推理可能ではある。]


 


○國木田獨步書簡所収の俳句(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


東海の富士を枕にあくび哉


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年八月十五日相模小田原消印の田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六)。句に続けて『(まくらと云ふ題で)』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記す。國木田獨步満二十九歳で、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)英語普通科第二年級。小田原は学年末休業中の旅行滞在(但し、底本全集年譜ではそれを八月四日から八日としており、不審)。前に『夏の暑さにつれ、堪へ兼て、うつらうつらの宵の間(ま)にあらうれしやな、うれしの□□□□、夢かまぼろし(三月あとに主のたよりをあらうれしやなあふぐ團扇の風で聞く、(うちわと云ふはうた)』(太字は底本では傍点「ヽ」。「うちわ」はママ。取消線は抹消部、□は底本の判読不能字と思われる)とあり、句の後に有意な字下げで、『こんなめそめそしき事は此れでよす!』とある。なお、底本では句を含め、一部が崩しの変体仮名であるが、表記出来ないので正字化した。]


わが宿は星滿つ夜(よる)の
      琵琶湖かな


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日武蔵東京麹町消印の大久保余所五郞(よそごろう)宛書簡より(底本全集書簡番号三二)。書簡本文から、大久保が琵琶湖を綴った先行書簡に想を得た想像吟であることが判り、句の後に『僕が寓所の窓より滿天の星影輝〻たるを望み且つ遠く湖上の夜を想ふ時は心耳遙かに磯打つ波の音を聞くの思。眼底直ちに星空たれて水面に連なるの想ありとの意に候』とある。大久保は独歩の友人で後の第二次松方内閣で勅任参事を務めた。筆名を湖州と称し、「家康と直弼」など(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、文筆にも優れた。芥川龍之介に「大久保湖州」がある(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]


友なくば何が都の秋の月


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年五月十六日附クレジットで、大分県佐伯町発信の中桐確太郞宛書簡より(底本全集書簡番号六九)。前に注した鶴谷学館教頭時代のもので、句の直後に学生の國木田獨步に対する排斥運動は『已にトツクニをさまり候今は八九名の有爲の靑年小生を愛し小生を信じ小生も亦た心を盡して職に當り、甚だ幸福の有樣に御座候間御安心あれ』と記しているが、実際にはこの二日前には上京の相談を知人・生徒らと行っており、既に辞任の意志は固まりつつあった。]

2019/03/22

國木田獨步 俳句(二句)



冠掛けて菊千本の主かな    獨步



眼鏡かけて我に髯なき恨哉   獨步



[やぶちゃん注:以上の二句は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第十卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に別刷の投げ込み冊子で挿入されてある全十六ページから成る「学習研究社版 國木田獨步全集第十卷 補遺 追加」(発行者署名は『学習研究社 国木田独歩全集編纂委員会事務局』(新字はママ))の「ⅹⅰ」ページ(全集追加ノンブル『追619』)に『句』として、載る俳句である。同全集本文には俳句パートは存在しない。但し、同全集「第九卷」の解題で日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されているので、後にそこから俳句を抜き出して電子化することとする。前者「冠掛けて菊千本の主かな」は、明治三五(一九〇二)年九月二十九日発行の雑誌『太平洋』に、後者「眼鏡かけて我に髯なき恨哉」は同年十二月十五日発行の同じ『太平洋』に掲載されたものである。國木田獨步満三十一歳の折りの句である。國木田獨步は前年明治三十四年三月に作品集「武藏野」を発表していたが、同作品集はその当時の文壇では評価されなかった。しかし、その年末に「牛肉と馬鈴薯」(十一月『小天地』)、この年には「鎌倉夫人」(十・十一月『太平洋』)・「酒中日記」(十一月『文藝界』)を書き、翌明治三十六年に「運命論者」(三月『山比古』・「正直者」(十月『新著文藝』)を発表するに及んで、自然主義の先駆者となった(但し、この時に至っても、文壇は未だ紅・露(尾崎紅葉と幸田露伴)全盛期で、國木田獨步はとてものことに文学で生計を立てられるような状態にはなかった)。因みに、この雑誌『太平洋』というのは週刊誌で、盟友田山花袋が編集していた(この明治三十五年に編集主任に就任)。花袋はまさしくこの年の五月に、本邦に於けるゾライズムの代表作ともされる名篇「重右衛門の最後」を新声社の月刊新作叢誌『アカツキ』の第五編として発表し、小説家としてのデビューを飾っていた。]

友情消ゆ 國木田獨步



  友情消ゆ



貧しきを泣かむや

 名無きを泣かむや

少年の春の經過を泣かず

落々たる雄心の消磨を泣かず

 殘灯に對して默坐す

冷かなる淚一滴

 蒼顏をつたはるは

世にも深かりし友情の

 餘りはかなく

 消えたれば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。本篇を以って底本の「詩」パートは総てを終わっている。]

破壞 國木田獨步



  破  壞



破壞は悲し

 尤も悲し

愛の破壞は

 これを感ずる

われ人里に深からば

 人の淚は

 更に淸きを



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

高峯の雲よ 國木田獨步



  高峯の雲よ



高峰の雲よ心あらば

乘せてもて行き此我を

大海原のたゞ中の

人なき島に送れかし

斯くて此身は浮世より

消え失すとても此我は

天地(あめつち)廣き間にて

人とし生きむ、しばしだに



[やぶちゃん注:「高峯」「高峰」の混在使用はママ。孰れも「たかね」と訓じておく。確定資料では無論ないが、死後の出版の「獨步詩集」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)では本文の「高峰」に「たかね」とルビを振っている(但し、同詩集の標題は「高峰の雲よ」である)。「獨步遺文」より。]

都少女 國木田獨步



  都 少 女



都少女よ春風に

花の振袖きそふとも

甲斐ぞ無からむ塵深き

街の色の朝夕に

なれが心を染めぬかば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



野邊の小路に噴き出でし

菫の花は今日もまた

君がかざしとなりにけり



胸の思を如何にせむ

歌ひてもらす術もがな

君が奏づる琴の音の

調に合はす由もがな



暫時は君の聞けよかし

菫羨むわが歌を



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

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