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カテゴリー「国木田独歩」の100件の記事

2019/03/22

國木田獨步 俳句(二句)



冠掛けて菊千本の主かな    獨步



眼鏡かけて我に髯なき恨哉   獨步



[やぶちゃん注:以上の二句は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第十卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に別刷の投げ込み冊子で挿入されてある全十六ページから成る「学習研究社版 國木田獨步全集第十卷 補遺 追加」(発行者署名は『学習研究社 国木田独歩全集編纂委員会事務局』(新字はママ))の「ⅹⅰ」ページ(全集追加ノンブル『追619』)に『句』として、載る俳句である。同全集本文には俳句パートは存在しない。但し、同全集「第九卷」の解題で日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されているので、後にそこから俳句を抜き出して電子化することとする。前者「冠掛けて菊千本の主かな」は、明治三五(一九〇二)年九月二十九日発行の雑誌『太平洋』に、後者「眼鏡かけて我に髯なき恨哉」は同年十二月十五日発行の同じ『太平洋』に掲載されたものである。國木田獨步満三十一歳の折りの句である。國木田獨步は前年明治三十四年三月に作品集「武藏野」を発表していたが、同作品集はその当時の文壇では評価されなかった。しかし、その年末に「牛肉と馬鈴薯」(十一月『小天地』)、この年には「鎌倉夫人」(十・十一月『太平洋』)・「酒中日記」(十一月『文藝界』)を書き、翌明治三十六年に「運命論者」(三月『山比古』・「正直者」(十月『新著文藝』)を発表する及んで、自然主義の先駆者となった(但し、この時に至っても、文壇は未だ紅・露(尾崎紅葉と幸田露伴)全盛期で、國木田獨步はとてものことに文学で生計を立てられるような状態にはなかった)。因みに、この雑誌『太平洋』というのは週刊誌で、盟友田山花袋が編集していた(この明治三十五年に編集主任に就任)。花袋はまさしくこの年の五月に、本邦に於けるゾライズムの代表作ともされる名篇「重右衛門の最後」を新声社の月刊新作叢誌『アカツキ』の第五編として発表し、小説家としてのデビューを飾っていた。]

友情消ゆ 國木田獨步



  友情消ゆ



貧しきを泣かむや

 名無きを泣かむや

少年の春の經過を泣かず

落々たる雄心の消磨を泣かず

 殘灯に對して默坐す

冷かなる淚一滴

 蒼顏をつたはるは

世にも深かりし友情の

 餘りはかなく

 消えたれば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。本篇を以って底本の「詩」パートは総てを終わっている。]

破壞 國木田獨步



  破  壞



破壞は悲し

 尤も悲し

愛の破壞は

 これを感ずる

われ人里に深からば

 人の淚は

 更に淸きを



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

高峯の雲よ 國木田獨步



  高峯の雲よ



高峰の雲よ心あらば

乘せてもて行き此我を

大海原のたゞ中の

人なき島に送れかし

斯くて此身は浮世より

消え失すとても此我は

天地(あめつち)廣き間にて

人とし生きむ、しばしだに



[やぶちゃん注:「高峯」「高峰」の混在使用はママ。孰れも「たかね」と訓じておく。確定資料では無論ないが、死後の出版の「獨步詩集」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)では本文の「高峰」に「たかね」とルビを振っている(但し、同詩集の標題は「高峰の雲よ」である)。「獨步遺文」より。]

都少女 國木田獨步



  都 少 女



都少女よ春風に

花の振袖きそふとも

甲斐ぞ無からむ塵深き

街の色の朝夕に

なれが心を染めぬかば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



野邊の小路に噴き出でし

菫の花は今日もまた

君がかざしとなりにけり



胸の思を如何にせむ

歌ひてもらす術もがな

君が奏づる琴の音の

調に合はす由もがな



暫時は君の聞けよかし

菫羨むわが歌を



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



春の霞に誘はれて

おぼつかなくも咲き出でし

菫の花よ心あらば

たゞよそながら告げよかし

汝(な)れがやさしき色めでゝ

摘みてかざして歸りにし

少女や今日も來りなば

「君をば戀ふる人あり」と



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

大連灣 國木田獨步



  大 連 灣


茫々夢の如し、憶ふ彼日

悠々日月轉ず、憶ふ彼夜

大連灣今如何

旅順口頭猛鷲旗樹つ



艦隊一條長く

指すや大連灣

秋光波に溶け

高し黃海の天



陸兵背を衝くの日

戰艦前を扼するの約

海陸の計空しく

敵に勇卒無し



見よや和尚島

翩翻たり日章旗

笑聲起る、敵を笑ふなり

歡聲湧く、我を祝ふなり



茫々夢の如し、憶ふ彼の日

悠々日月轉ず、憶ふ彼の夜

大連灣今如何

和尚山頭猛鷲旗樹つ



大同の江の夕まぐれ

花園口のあけの星

夕は燈火を滅し

曉に敵地を窺ふ



咄嗟上陸す三萬の軍

劔光日に映ず遼東の野

風無し、波無し、敵影無し



淸國英をあつむ旅順口

想ふ黃海の殘艦潛むと

黃金山白煙咄として起る

艦側白浪聳つ

空を劈くの霹靂

艦上快哉を叫ぶ



艦を旋らす大連湾

報あり放順落つと



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。國木田獨步(当時、二十三歳)が『國民新聞社』の日本海軍従軍記者として明治二七(一八九四)年十月十九日に大同江(だいどうこう/テドンガン:現在の朝鮮民主主義人民共和国北西部を流れる川)で軍艦千代田に乗艦、以後、大連湾で転戦・勝利した体験を回顧したものである(翌明治二十八年五月五日に呉へ帰還。その間、獨步は、弟収二に宛てるという形式の戦況ルポルタージュ「愛弟通信」を連載、一躍、有名となった。因みに、既に電子化した、現行、最も古い初出である「頭巾二つ 於千代田艦」が詠ぜられたのは、この従軍から帰った七ヶ月後であった)が、創作年代は不詳

「猛鷲旗」「あらわしき」か。海軍の旭日旗のことか。当初、Z旗かとも思ったが、Z旗が海軍に於いて特別な意味(所謂、言うところの「皇國ノ興廢此一戦ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」)を持って意識されるようになるのは後の日露戦争中の、明治三四(一九〇五)年五月の「日本海海戦」での旗艦「三笠」での掲揚を嚆矢とするので違うと思われる。

「陸兵背を衝くの日」上陸した兵軍がすっくと立って順調に進軍するその日のさまの意か。

「戰艦前を扼するの約」戦艦は湾の中でどっしりと場を占めて、湾を閉塞するという任務をしっかりと守っているさまの意か。

「海陸の計空しく」日本軍が海軍・陸軍ともに相応に準備万端の戦略を以って立ち向かったにも拘らず。「敵に勇卒無」ければ、それが無駄になった、という謂いであろうか。

「和尚島」「をしやうじま」と訓じておく。現在の大連湾湾奧にある大連市甘井子区和尚島(グーグル・マップ・データ)。大和尚山がある。

「花園口」「くわゑんこう」音読みしておく。大連湾の東北約百キロメートルの黄海に面した町。遼寧省大連市荘河市花園口(グーグル・マップ・データ)。日清戦争で日本軍が最初に上陸した地点として知られる(後の日露戦争でも日本軍は同じくここから上陸している)。個人ブログ「HBD in Liaodong Peninsula」の「花園口―日清戦争での日本軍上陸の地」の写真を見ると、恐ろしく遠浅の海が広がっている。以下に今や、まず読まれることのない「愛弟通信」の、「上陸地の光景」の全文を全集から引用する。但し、読み(総ルビではない)は一部に留めた。

   *

       上陸地の光景

愛弟、吾れ已に上陸したり。軍兵上陸の模樣を語る前に、御身をして先づ上陸地の槪況を知らしめんと欲す。

海岸一帶は、艦上より眺めたる如く、凡て斷崕(だんがい)なり。所々入澳(にふいく)[やぶちゃん注:入り江。]ありて自から濱をなす。艦上より平蕪(へいぶ)の曠原(くわうげん)と見しは、總て大耕作地にして、滿目茫々、殆ど玉蜀黍(たうもろこし)の刈株(かりかぶ)のみなりし。樹木甚だ少し、少なしと雖も其丈は高し。數珠の高樹、丘陵の斜傾(しやけい)せる邊(あたり)に樹ち、其の木陰(こかげ)に農家二三の小村を作る。首(かしら)をたれ尾をふり、悠々然(いういうぜん)と步み居るは牛と驢馬(うさぎうま)なり。壁を以て圍まれたる庭の隅々に集りたるは雞(にはとり)なり、耕作地の畦(あぜ)を、無頓着(むとんぢやく)に鼻の先にて突きつゝあるは豕(ぶた)なり。吾等の近づくを見て、聲を限りに吠へつくは例の犬、少しも變りなし。平陵急に裂けて泉をなす處、家鴨(あひる)群(むれ)をなせり。地質は乾砂(かんさ)と赤土(あかつち)とを混和したるものらしく見へ、雨の日など泥濘(でいねい)にして步み難きを推し得べく、近日の晴天は土を灰の如くならしめ、荷車の轍(わだち)の跡、遠くうねりて丘の頂(いたゞき)を過ぎ、樹木の下を橫ぎり、何れの村にか通ふめり。

小丘の半腹(はんぷく)、海に面して突如と立つものは、一種異樣の寺院なり。周圍一木なく、平野に裸出して、夕陽(ゆうよう)を橫領し顏(がほ)なるは他見(よそめ)だけに羨やまし。住まば三日もたまらざる可し。

海岸總て遠淺にて干潮の際は沼をなし、断崕の突出せるものは、岩骨(がんこつ)直立して壁をなす。東南の風若(も)し激(げき)せば、滿潮の時必ず怒濤の咆哮(はうこう)すべきを推するに難からず。

此の地を花園口と云ふ。蓋し花園河の口に當ればなりと土人謂へり。花園河何處にかある、あたりには見へざりき。

潮(しほ)退(ひ)きたる跡に鴫(しぎ)群がれるを見て、獵銃を携へざりしを悔むは艦長なり。崕角(がいかく)[やぶちゃん注:崖の端或いはその下。]に息(いこ)ふ兵士、坂を上ぼりゆく一隊、今しもボートをこぎ着けたる一組、見渡す限り際限なき蒼海(さうかい)、沖に繫がる無數の大船、點々相連なる通船(かよひせん)[やぶちゃん注:上陸用舟艇。]、潮(うしほ)にぬれたる岩礁、丘上に飜る旗、此等の光景に茫然たる吾は、實に米僊氏なきをうらみたり。[やぶちゃん注:「米僊氏」明治期の画家で画報記者であった久保田米僊(べいせん 嘉永五(一八五二)年~明治三九(一九〇六)年)。京都生まれ。名は寛。慶応三(一八六七)年に鈴木百年に師事し、維新後、京都画壇の興隆を目指して、明治一一(一八七八)年に画学校の設立を建議した。師風を継ぐ雄渾な画風で知られ、内国絵画共進会・内国勧業博覧会で受賞を重ねた。また一八九〇(明治二二)年のパリ万博で金賞を受賞し、渡仏して『京都日報』に寄稿、明治二十四年には上京し、『国民新聞社』に入社し(則ち、独歩入社の三年前で彼の先輩に当たるのである。年齢は獨步より十九歳上)、一八九三(明治二六)年のシカゴ万博や、翌年の日清戦争従軍の記事を報じた(但し、獨步とは行動をともにしてはいない)。「米僊漫遊画譜」「米僊画談」などの著書があるが、明治三三(一九〇〇)年に失明、以後は俳句や評論活動を行った。]

吾等の千代田艦を發したるは、午前八時なり。上陸地に到着したるは九時半を過ぎたり。而して歸艦したるは殆ど午後二時なりとす。陸上に在ること三時間計り。

   *

「黃金山」大連湾の約五十キロメートル弱南西にある旅順の非常に狭い湾口の、北の岬のピーク、現在の大連市旅順口区黄金山。砲台があった。かなり長いが、この最後の二連に圧縮された事実を確認するために、「愛弟通信」の「艦隊の旅順攻擊」の全文を全集から引用する(前と同じ仕儀とした。一部、改行の有無の判別し難い部分があったが、国立国会図書館デジタルコレクションの単行本「愛弟通信」(明四一(一九〇八)年十二月左久良書房刊)で校合した。但し、同単行本は遙かに改行を施してあり、底本全集とは異同がある)。特に関連の強い箇所を太字で示した

   *

     艦隊の旅順攻擊

       千代田艦にて

愛弟

吾第二軍の花園口に上陸したる以來殆ど一ケ月、玆に愈〻旅順口の大攻擊となりけり。二十一日こそ海陸總掛りの當日なりければ、吾も今度こそは愈〻海軍の方にも多少の抵抗を受け、少しは目覺ましき戰もあることならんと、前以て大に樂しみ居たり。

二十一日午前一時、吾が艦隊大連灣を發す。大連灣に居殘りたるは第三遊擊隊のみ。此の居殘る軍艦こそ氣の毒の至りなれ。

先づ本隊には松島、千代田、嚴島、橋立第一遊擊隊には吉野、高千穗、秋津洲、浪速、第二遊擊隊には扶桑、比叡、金剛、高雄、第四遊擊隊には筑紫、赤城、大島、摩耶、愛宕、鳥海、之れに加ふるに水雷艇九艘を以てす。而して特務艦なる八重山は、前日已に威海衞偵察のため先達したり。[やぶちゃん注:「威海衞」(いかいゑい)は現在の山東省最東部に位置する威海市。渤海の湾口の南の遼東半島端に当たる。]

是より先き陸軍にては、已に旅順方面に向て進擊し、敵軍の全く旅順港内に退却する迄に、我が軍に士官三名、下士十四名、兵卒三十二名の死傷を生じたる程の戰ありしなり。其の砲聲の大連灣に聞こへたることは前信申上げたる如くなり。

されば二十一日の戰こそ、旅順口の運命の決する所、敵は所謂る袋の中の鼠、如何に臆病風に吹きまくられたる支那兵と雖も、死もの狂ひに戰ふ可ければ、戰(いくさ)は必ず猛烈なるべしとは兼て待設(まちまう)けし所なりき。昨日の事今日より顧みれば、夢見し如くにて昨日の事とも思はれず。已に十年の昔しの樣なる心地す。

午前一時、我が艦隊が大連灣を出で行きし光景は、定めて壯觀なりしならんも、余は猶ほ熟睡のうちに在りし。

突然呼び起すものあり。藤木少尉なり。戰(たゝかひ)は已に始まれりといひ捨てゝ去りぬ。サテは寢過したるかと、衣も匇々に着更へて甲板に躍り出たるに、夜は未だ明けざりけり。

艦隊は今しも旅順口の前面、數哩のあたりを通過しつゝあるなり。則ち右舷に旅順の山艦を見つゝ進むなり。遙かに明滅するものは何ぞやと問ひしに、是れ金州半島の極端、老鐡山の一角に立つ燈臺の光なりき。[やぶちゃん注:この南端附近か(グーグル・マップ・データ)。]

第四遊擊隊は已に砲擊を始め居たり。砲臺より放つ大砲の彈丸やゝもすれは、吾が軍艦の船體近く落つるを見たり。東天の金雲(きんうん)次第に其の色あせると共に、夜は全く明けなんとす。

陸上盛んに砲聲を聞く、南軍已に接したるなり。亙砲を連發するが如くなるは、砲戰の猛烈なるを推し得べし。吾が艦隊は只だ此等の光景を眺めつゝ、旅順口の前面を一直線に進みゆく。

八重山艦威海衞より歸り來り報じて曰く、港内の模樣前日の如く、敵艦出で來る樣子なしと。支那艦隊は旅順口を見殺しにせんとす。

旗艦已に老鐡山の沖合に來るや、左轉して再び旅順の前面を通過せんとす。

かくて我等は再び旅順の前面に來り、多少其の模樣を觀察し得たり。陸上の砲擊斷續す。惜ひ哉、艦隊は砲臺よりの砲擊を避け、常に遠隔離に在りて望觀すること故、望遠鏡を以てするも、猶は十分に陸上の事條(じぜう)を見る能はざりき。

旗艦更らに方向を轉換して、三度(みた)び旅順の前面を通過せんとす。

旗艦命(めい)を下して、水雷艇をして諸艦の左側に來らしむ、見る見る水雷艇矢の如く馳せて艦と艦との間を通過せり。暫時にして其の隊形を整へ、常に砲臺より諸艦を蔭にして進む。

不思議にも海岸砲臺よりは、一發も艦隊に向て砲發せざる也。思ふに全力を背面防禦にあつめしならん。吾が陸軍の苦戰思ふ可し。

旗艦此の度は、方向を左側に轉換せずして、少しく右に折れ、直ちに老鐡山を右舷に、鳩灣の方を指して遙かに旅順の側面に進む。[やぶちゃん注:「鳩湾」後の日露戦争のウィキの「旅順攻囲戦」にある当時の地図によって、旅順から南の老鐡山を廻り込んで、渤海側に入った最初の東に貫入した半島南西部の湾であることが判る。]

忽ち前程に煤煙を認めたり。之れ滊船(きせん)なり。旗艦命じて、第一遊擊隊、則ち吉野以下をして、急に之を檢察せしむ。命を受けて第一遊擊隊は直に列を出で急馳(きふち)して、本隊以下の前程に突進せるを見たり。

彼の滊船は小蒸滊なりき。鳩灣に逃げ込みしかば、水淺くして大艦窮追(きゆうつゐ)するを得ず、吉野乃(すなは)ち旗艦に水雷艇を以て捕獲すべきを請ふ。吉野を以て鷲(わし)に比すべくば水雷艇は實に鷹なり。

小鷹號以下の水雷艇數艘、籔林(そうりん)にひそみたる雀を捕ふる如くに、苦もなく鳩灣の奧にかくれたる彼の小蒸規を捕へたり。小蒸滊は不思議にも英船なりき。不思議にも、實(じつ)に不思議にも。[やぶちゃん注:この時に先立つこと、僅か三ヶ月前の明治二七(一八九四)年七月十六日に「日英通商航海条約」が締結されており、大英帝国は日清戦争に対して中立の立場を示していた。]

小蒸滊名を金龍といふ、蓋し大沽あたりの曳船(ひきふね)なり。旗艦忽ち之を放ちやりぬ。雀は喜ばしげに逃げ去りぬ。始終吾が艦隊に附隨して見物してありし、英國軍艦ポーポイズは『感謝す』の旗信をなして、小蒸滊の跡を追ひたり。吾れ何となく狂言を見る心地せりき。其の小蒸滊何の恐るゝ所ありて鳩灣に逃げ込みしか、逃げ込みしに非ずとせば何の用ありて鳩灣に入(い)りしか、而して斯(かゝ)る疑惑を被り易き老を放ちたるに際し、不思議にも英の軍艦は感謝せり。是れ吾れの見擊(けんげき)したる事實なり。[やぶちゃん注:「大沽」(たいこ)は現在の渤海湾奥西の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)内の地名。天津から海河に沿って南東に下った河口地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。「英國軍艦ポーポイズ」大英帝国の十二門の軍艦「ポーパス」(Porpoise:意味は「イルカ」或いは「ネズミイルカ」(哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科ネズミイルカ科 Phocoenidae)を指す)。]

鳩灣の口まで入り込みたるは乃ち吾が千代田號なり。千代田尚ほ本隊の列に在る時、鳩灣の右岸なる丘上(きうじやう)に、烏の如く集り、蟻の如く動く者を見る。忽ち丘上に現はれ、忽ち背後にかくる。散じては集り、集りては散ず。よくよく見れば支那兵なり。

旗艦、千代田に命あり、丘上のもの若し支那兵ならば、進みて砲擊せよと。是に於て千代田は列を出でゝ、鳩灣近く進みゆきぬ。

先づ丘上に向て二發を放つ。憫(あはれ)む可し支那兵、已に吾が陸軍の追ひまくる所となり、袋底(たいてい)全く遁れ出づる所もなくして[やぶちゃん注:「袋底」は不詳。「囊底」(なうてい(のうてい))と同じだとして、深く隠れ逃げ込むところが最早ないことを強調しているものとは思われる。]、僅かに此の丘上に落ちのびたりと思へば、忽ち海面より巨丸頭上に飛び來りて破裂す。見よ、蛛(くも)の子を散らす如しとは此の事なり。十二サンチ砲の榴彈彼等の眞上に破裂せしよと見る間に、今まで集りたる一群、パツト散り亂れて山腹指してサツト駈け下り、谷の如く凹みたる處にひれ伏す。進退維(これ)谷(きはま)るとは是より出でしならめなど笑(わらつ[やぶちゃん注:ママ。])て許す。これも一時の興とは言へ、敵ながら氣の毒の思ひありたり。[やぶちゃん注:「榴彈」榴弾砲の弾。榴弾砲は十七世紀頃に一般化した火砲で、平射で長距離を狙う「カノン砲」と、曲射で近距離を狙う「臼砲(きゅうほう)」の中間型の砲種として、火砲の基本的な型の一つとなった。本来の榴弾砲は、臼砲と同様に、援護物後方の目標を攻撃し、また、砲台や軍艦甲板を上方から破壊するのが目的であるが、臼砲よりも弾速や射程が勝っている。近代以後,口径十センチメートル内外の野戦榴弾砲が戦場で重宝がられるようになり、日本の後の旧陸軍では重・軽の二種を用い、軽榴弾砲は口径 十センチメートル、最大射程一万メートル、重榴弾砲は口径十五センチメートルで最大射程は一万五千メートルであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、ここでは巡洋艦「千代田」の主砲であったアームストロング十二センチ(四十口径)単装速射砲の打ち出したものである。]

なほ進みて、灣内の陸上に向て二發を放ちぬ。

左岸の丘上に隊伍嚴然として整列せる者を見出しぬ。まぎれもなき吾が皇軍の一部なりき。ズボンは赤く胸には黃條(わうじやう)をかけたり。之れ騎兵に非ずや。皆な馬より下りて息(いこ)ふものゝ如し。山頂に馬を立つる一騎あり。視點(してん)何處をか指すぞ。列をはなれて集まる數人(すにん)あり。議する事何ぞ。

千代田列(れつ)に歸り、艦隊又旅順口の前面に向て航す。日已に西に傾く。

海面を拔くこと一千五百尺の老鐡山、半ばは密雲(むつうん)の閉ざす處となりぬ。遙かに旅順の丘を見渡すに黑雲(こくうん)低く垂れて、光景極めてものすごし。[やぶちゃん注:「一千五百尺」四百五十四・五四メートル。ある学術論文のデータでは、現在の正式な老鉄山の標高は四百六十五・六メートルである。]

陸戰の模樣如何と心配し乍ら進みゆくうち、一信を得たり。旅順右側の砲臺は已に吾軍の占領する處となりたりとの事、先づは一安心と思ふ間もなく、突然左側海岸砲臺の一個より、吾が艦隊に向て射擊をはじめたり。

第一に落下したる彈丸は、橋立、嚴島の艦側百間(?)計り[やぶちゃん注:凡そ百八十二メートル。]の處に落ち、潮水(てうすゐ)直立して空中にはね上る事數丈もあらんかと思はれ、其の勢の猛烈なること、嘗て陸上にて想像せしが如き者に非ず。一發又一發遠く落ち近く墮(お)つ。

砲臺より白煙起りし時は、則ち發砲せし時なり。今か今かと思ひつゝ、何處(いづこ)に落つるぞと、見廻はすうち、一秒もいや長く感じて、やゝ暫くして轟然と海中に落つ。彈丸海中に落つるや否や、砲聲遠雷の如く響き、彈丸の空をきる音、雲も亦振動するかと思はるゝ程の、一種魂の底に沁み渡るが如き響を以て來る。白煙バツと發し、彈丸落下するまで、今か今かと待つ時など、餃り氣味のよきものに非ず。

玆に可笑(をか)しかりしは、彼の英國軍艦ポーポイズが何心なく、砲臺のもとを通過せんとしたる時、支那兵已に非常に狼狽したるならめ、忽ち英艦に向て發砲したり。二丸船尾近く海水に落ちぬ。ポーポイズ先生の驚きは如何、全速力を以て沖合に向け馳逃(はせに)げたり。

砲臺より頻りに擊ちたれども、幸にして一發も達せず、吾が艦隊よりは一發も應戰せずして悠々然と通過したり。

日は暮れなんとす。風雲益〻慘憺(さんたん)を加ふ。見る! 旅順の入口より滊船走り出でたり。水雷艇は波を蹶(けつ)て驀地(まつしぐら)に追かけたり。後(のち)の報告に曰く、滊船自から陸に乘り揚げたりと。

更らに一信を得、曰く吾が陸軍已に背面防禦の一部を破りたり、今夜か明朝のうち海岸砲臺に迫まる筈なれば、艦隊よりの射擊は停止せられたし云々。

顧みれば旅順海岸の連山、今や全く雲の底に埋(うづ)まりぬ。雨や降る、雪や來る、風や襲ふ、何か無くては叶ふまじき光景なり。天も亦昏(くら)し、艦上に默(もく)して立つ人をして、愴然として淚あらしむ。

今夜此の如く漫航し、明朝再び旅順に歸るべし、陸戰の結果を見るぞ樂しみなる、など語りて吾れ早く寢(ね)たり。

烈風果して襲ひ來りぬ。艦隊列を解き、思ひ思ひに大連灣指して一先づ引き揚げたるは今朝(こんてう)なり。

   *

「報あり放順落つと」ウィキの「日清戦争」によれば、同年九月二十一日、「黄海海戦」『勝利の報に接した大本営は』『旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した』。『その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした』。十月八日、『「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じ』、二十一『日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約』百キロメートル『の花園口に決定した』。『第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った』二十四日、『第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に』三十キロメートル『離れた港で糧食・弾薬を揚陸』、十一月六日、『第一師団が金州城の攻略に成功』、十四日には、『第二軍』が『金州城の西南』五十キロメートルの『旅順を目指して前進』を開始し、十八日には『偵察部隊等が遭遇戦を行った』。十一月二十一日、『総攻撃をかけると』、『清軍の士気などが低いこともあり』(約一万二千人の清の兵士の内、約九千人が新規募集兵であった)、翌二十二日までに『堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死』者四十名、戦傷者二百四十一名、行方不明七名に『対し、清軍』の戦死者は四千五百名(内、金州(大連)及び金州から旅順までの戦闘で約二千名)で、捕虜は六百人であったとある。]

2019/03/21

告天子 國木田獨步



  告 天 子



身をば心に任せつゝ

心を天にまかせつゝ

花野のかげの塒をば

あけの眞珠の星に立つ



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。

「告天子」とは雲雀、スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis の異名(漢異名由来)で、通常は「かうてんし(こうてんし)」と読むのが一般的である。但し、ここはこれで「ひばり」と素直に私は読みたい。個人的に種としてのヒバリが好きだし、その「ひばり」の響きも好きだからである。本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が、冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「塒」老婆心乍ら、「ねぐら」と読む。]

亡き友 國木田獨步



  亡 き 友



墓を隔てし君なれば

我世の樣や見えざらん

天にまします君なれば

此世の今を挑むらん

我に理想の光無く

國に正義の響絕え

雨濛々の夕まぐれ

ひとへに君を思ふ哉



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。「國に正義の響絕え」……これはまさに――今現在そのものである――]

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