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カテゴリー「伊良子清白」の281件の記事

2019/06/30

閑居松風・閑居雀  伊良子暉造(伊良子清白) / (伊良子清白十六の夏の今様二首) 

 

   閑居松風

心しつかに暮さんと、のかれてすめる柴の戶に、

峯の松風おとつれて、またもうき世となりにけり。

 

   閑居雀

世のうきふしはたえてなき、竹の庵のむらすゞめ、

千代とさへつる聲々も、いと樂しけにきこゆなり。

 

[やぶちゃん注:以上は、二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の俳句パート(伊良子清白の俳句は同書を底本にサイトで「伊良子清白句集」として全電子化済み)の末尾に『【今樣】』(この二首のみ)として載るもの。明治二七(一八九四)年八月十五日発行の『少年文庫』(第十二巻第一号)に載った。署名は本名「伊良子暉造」。清白、満十六歳の夏の詠である。]

野菊 (清白(伊良子清白)によるウーラントの訳詩) / 伊良子清白詩篇全電子化注~完遂

 

野 菊

 

 

  さゝなきしては

 

さゝなきしては鶯の

空音つくるぞきこえける

あざむくなかれ鶯よ

まことの歌をうたへかし

 

しげみの奧は暗くとも

いかに空音はたくむとも

春の鶯聲あげて

何戀ならぬ歌やある

 

 

  秋風白く

 

秋風白くあかあかと

夕日傾く波の上

悲むなかれ海士の子よ

かれの沈むはうみならず

 

なれらの胸に日は入りて

なれらの胸を日は昇る

晝は炎をあげよかし

夜は靜かに眠れかし

 

 

  少女の死を悼みて

 

何を悲む百合の花

なにをはぢらふ花さうび

なにを怖るゝ蓮のはな

夏の夕をただ一人

少女は行きぬうらぶれて

 

打かたぶける百合の花

紅なせる花さうび

色靑ざめし蓮の花

戰(ふる)ひつ泣きつ悲しみつ

夏の夕を語るなり

 

 

  墓場をいでゝ

 

墓場をいでて少女子は

盆(ぼに)の踊にまじりけり

白き衣を身にまとひ

萎(しを)れし花を手にもちて

 

踊の群は散りにけり

月靑白く秋の夜を

死にし少女ぞ踊るなる

むかしのうたをうたひつつ

 

月靑白く秋の夜を

萎れし花ぞ靡(なび)くなる

萎れし花も落ち散りて

少女は死ににけり (Uhland のうたのこゝろを)

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十二月十五日発行の『文庫』(第二十四巻第五号)に掲載されたものを完全復元した。署名は「清白」。「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」は後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」で二篇をそれぞれ独立させて載せている。なお、「盆(ぼに)」は誤りではなく、平安時代、「ぼん」の「ん」の字の使用が一般的に普及していない頃、「に」と表記したもので、盆或いはその折りの供物を指す語として普通に使われているものである。添え辞の「Uhland のうたのこゝろを」というのは、翻案というのではなく、ドイツ語の力を謙遜しての伊良子清白の謂いと採りたい。ドイツ語は解せないので、原詩は指示出来ない。

 清白、満二十六歳、この年は彼にとって波乱の年であった。「春の歌」の私の注を見られたい。

 これを以って二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の詩篇パートのオリジナル電子化注を完遂した。]

ウーランド(盾持ちローランドの原作者) 伊良子暉造 /(評論)

[やぶちゃん注:以下は、伊良子清白によるドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩「盾持ちローランド」の最後の部分が「下」として発表された明治二八(一八九五)年七月発行の『もしほ草紙』(第三号)に同時に掲載されたウーラントについての評論である。署名は本名の「伊良子暉造」。確信犯の佶屈聱牙な表現部では、かなりの誤字が認められるものの、満十七歳の青年医学生のものとはとても思えない、かなり力(りき)の入った本格的なドイツ近代詩史を踏まえたウーラント論である。「盾持ちローランド」に添える形で特に電子化した。底本は同じく二〇〇三年岩波書店刊の「伊良子清白全集第二巻 散文篇」に拠ったが、この第二巻は第一巻の「詩歌篇」と違って、漢字が新字体になってしまっている。発表時制と文章が歴史的仮名遣の擬古文であることから、恣意的に概ね漢字を正字化して示した。私はドイツ語を解せないので、各所に出るドイツ語にはろくな注を附せなかったことをお断りしておく。判らぬながらも、主にドイツ語ウィキ「Ludwig Uhland」とそのリンク先に拠った。当時のヨーロッパの勢力関係は世界史に冥い私には不明な箇所が多いので自分のために注を附した。五月蠅いが、自身の確認のためであるので悪しからず。なお、中には遂に突き止められなかった詩人がいる。捜し得ないのは清白のカタカナ音写に問題があるものと思われるが、或いはとんでもなく有名な詩人なのかも知れない。お判りになる方は是非御教授あられたい。]

 

 

 ウーランド

   (盾持ちローランドの原作者)

 

   其 小 傳

 

 獨逸の文豪、ルードゥイヒ、ウーランドLudwig Uhand 氏は、一千七百八十七年四月廿六日を以て、本國チエービンゲンに生れぬ。其が兩親といふは極めて熱心なる人物なりしかば、ウーランドも亦此性を享け、一旦事に從ふ時は、一向專念敢へて飽かざるの氣性を有したり。優雅なる敎育に因り、武家氣質の間に成長しゝかば、其氣風自ら快活にして、彼の天才の美玉は益々琢磨せられぬ。生地は名勝舊蹟いと多く、歷史的の事實に富みたる鄕里なりしをもて、廢頽せる古城、剝落する寺院、苔むす奧城處、鎧掛ける老松、など趣味多き山水の間を逍遙して、古代の武者物語、さては名蹟の緣起など慈母の御伽談するを聞き、漫ろに詩的生活を送りぬ、ウーランドは少時よりかの有名なる騎士遊戲 Ritterspiel などをも好みしなるべし。六歲の頃より其鄕の小學校に入りぬ。固より多聞多識、才氣橫溢、の寧馨兒いかでか人後に落ちむや。萬綠叢中の紅一點常に級の首席を占めて、嶄然たる頭角を露はしぬ。特に奇なるは就中文才に長じ、詩は最も得意とする所にして、羅甸[やぶちゃん注:「ラテン」。]の六言詩なとを物しぬ。時の敎師之を驚嘆して、ウーランドの詩才は魔力なり。余は之を添刪する能はず唯だ悅ん之を讀むのみと、曰へり。以て其異常の神童なりしを知るに足るべし。長ずるに從がひて、囊錐いよいよ現はれ、僅々十四歲の弱年にして、Im Tanneheim Bitteum die Frühlings vakang を出しぬ[やぶちゃん注:不詳。ドイツ語サイトのウーラントの書誌記載でもこの書名は見当たらない。不審。]。越えて四年、十八歲に至て、有數の名作、Die Kapelle, Schafers Sonntagslied 等を公になしたり[やぶちゃん注:前者は「チャペル」でウルムリンガー礼拝堂を詠じた一篇。後者は「羊飼いの日曜日の歌」。孰れも一八一五年発表。]。此頃より彼の勉學は非常なるものにて、專ら古代の詩材をあさるに力を盡しぬ。牧者安息日歌の如き僅々三章六十餘言の短詩なりと雖、牧者一天麗らかに晴れ渡り、雲なく風なく、いと長閑なる曠野に塵世を脫して梵鐘の殷々たるを聞きて、專念上帝を拜し、心は六臺萬有と融合する樣、讀者をして自ら、

  Anbetend knie Ich hier

と叫ばしむ[やぶちゃん注:上記のドイツ語は、こちらのウーラントの原詩と訳によって先の「Schäfers Sonntagslied」の一節で、意味は『讃え祈りながら』、『ここにひざまずく』とある。]。純潔髙雅なる詩趣、格調の雙絕なるを見るべし。實にや此短詩が國歌の撰に上ぼりて、國民の賞讚かまびすしき迄なりしこと左もありぬべし、此の如くウーランドの幼時、少年時代を思へば、其遺傳、敎育、鄕地の風景は大に詩才を養ひたるや論なし。「詩人は天成なり、人爲に非ず」てふ古諺は彼に於ては適切にして「詩人は恰も告天子[やぶちゃん注:ヒバリの異名。]に似たり、外物の影響と境遇の勢力とに制せらるゝ事なくして歌ふ者也」といへる格言は甚だ不適當なり、蓋し彼は天然の兒にして人工の子に非らざれば也。

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む。「寧馨」は中国の晋・宋時代の俗語で「あのような・このような」の意で、かくも取り立てて讃えるべき「優れた子・神童・麒麟児」を指す。「晋書」の「王衍伝」を出典とする。

「嶄然」の「嶄」は「高く嶮(けわ)しい」の意で、転じて「一段と高く抜きん出ているさま。一際目立つさま」を指す。

「囊錐」「なうすい」と音読みしておく。「嚢中(のうちゅう)の錐(きり)」(現代仮名遣)の略。袋の中の錐はその先が袋の外に突き出ることから、「すぐれた人は多くの人の中にあっても、その才能が自然に外に現れて目立つこと」の喩え。「錐の嚢中に処(お)るがごとし」とも言う。「史記」の「平原君伝」に由来する成句。]

 ウーランドは斯くの如く溢るゝばかりの詩才を有しゝかども、詩によりて麺麭を得んとは願はざりき、兩親の勸告もありし上に、詩は職業となすべからざる事を看破しゝかば、專ら法律學に熱中して、三十歲の頃には早くも一個の法律家となりぬ。然りと雖ももそが螢雪の間も、成業の後も、一日片時詩神を離るゝ事なかりき。ムーゼも彼を護りたるなるべし。これに付きておのれは一言すべき事あり。現今の靑年――文學書生など多く詩を以て衣食を供給せんと欲する者あり。是れ大なる誤といふ可し。蓋し詩の詩たる所以すなはち其高尙深遠なる點は、全く職業以外に立つて超然たる地位を有するに在り。されば衣食と關係し、隨て金錢と關聯したる職業を以て、直に詩を適合せしめむと欲するは無用の徒事なり。是れ詩と職業とは反對の位置にあれば也。若し疑はしくば本邦從來詩人の職業を見よ、王朝の歌人も幕世の俳人も悉く別に職業を有したりき。而して職業のなき詩人は、遠く塵世を解脫して詩を以て職業と迄は爲さざりき、芭蕉西行など此類なり。殊に近世わが帝國は新世界の空氣を吸ふに忙はしく、殖產興業の道に專らなる時代なれば、鶯囀燕舞[やぶちゃん注:「あうてんえんぶ」。天然自然に自由に詠む喩え。]、悠々たる作詩のみに耽るは國家に對しても不忠といふべし。されば將來詩壇に立て天才を發揮せんと欲せば、必ず先づ別に一個の職業に從事せざる可からざる也。ウーランドの如き、實に其理を了解したるものと謂はざる可からず。いさゝか附記するになむ。

[やぶちゃん注:この文章を書いた時、伊良子清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。既にして彼自身の将来の実際の在り方も、この時、既にして決していたということが、ここで今、判るのである。]

 ウーランドの詩的生涯は之を分て四期と爲す可し。

 彼に三人の親友あり、ケルネル氏、ヘルデルリン氏、マイエル氏、すなはち是れ也。其他同好の士を集めて一文會を組織しぬ。其機關として一雄誌を日曜每に發刊したり。文學史上シュワーベン詩壇なるものは則ちこれなり。ウーランドは此誌上に敍情詩を連載して、非常の賞讚を博し、世より詩聖ゲーテに並馳すべき名家なりとの好評を獲たりき。これすなはち第一期なり。

[やぶちゃん注:「ケルネル」ドイツのロマン主義詩人で医師・神秘主義者でもあったユスティヌス・アンドレアス・クリスティアン・ケルナー(Justinus Andreas Christian Kerner 一七八六年~一八六二年)。抒情的な民謡調の詩を多く書いたが、次第に神秘的傾向に傾き、霊力・交霊などを信じてその方面の著作も多い。次注のヘルダーリンの診察もしている。

「ヘルデルリン」ドイツの詩人で思想家ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin 一七七〇年~一八四三年)。説教師の子として生まれ、テュービンゲン大学で神学生としてヘーゲルやシェリングとともに哲学を学んだ。しかし卒業後は神職に就くことを拒否し、各地で家庭教師をしながら詩作を行い、書簡体小説「ヒュペーリオン」(Hyperion:第一部は一七九七年、第二部は一七九九年に刊行))や多数の賛歌・頌歌を含む詩を執筆した。しかし三十歳頃、統合失調症を発症し、狂人とされ、その後半生は不遇であった。一八〇七年から「ヒュペーリオン」の熱狂的な愛読者であった家具職人エルンスト・フリードリヒ・ツィンマーに引き取られ、死の年までの実に三十七年間、そのツィンマー家の、川に臨んだ塔の中で過ごした(軟禁ではない)のであった。ウィキの「フリードリヒ・ヘルダーリン」には、『生前はロマン派からの評価を受けたものの』、『大きな名声は得られなかったが、古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な文学世界はロマン主義』・『象徴主義の詩人によって読み継がれ、また』、『ニーチェ、ハイデッガーら思想家にも強い影響を与えた』とある。

「マイエル」詩人で弁護士であったカール・フリードリヒ・ハルトマン・メイヤー(Karl Friedrich Hartmann Mayer 一七八六年~一八七〇年)のことかと思われる。

「シュワーベン詩壇」小学館「日本大百科全書」の「シュワーベン詩派」(Schwbische Dichterkreis)によれば、『ドイツ後期ロマン派の一詩派』で、『狭義にはウーラント、J・A・ケルナー、シュワープほか、ウュルテンベルク出身のロマン派詩人仲間をさし、広くはメーリケ、ハウフなども加える。しかしこの名称は、これらの詩人の仕事すべてを包括するには十分ではなく、今日、但し書なしに使用されることはまずない』。一八〇三年、『ウーラントを中心にチュービンゲン大学に形成された学生文学グループが起点となっている。このグループの解消後もウーラント、ケルナーの両者はシュワーベン・ロマン派の旗印のもとに同調者を集めた。彼らは、家郷の風土、詩的伝統を愛し、民謡調のバラード、物語詩などを表現形式として好んだ。アンチ・ロマンの「青年ドイツ派」とは反目し』、『別格扱いのウーラント以外は、ハイネなどの批判を浴びたが、彼らの運動の後代への影響は小さくない』とある。]

 彼が嗜好物なる、古事探究は年を積むに隨て愈佳境に入り文學、言語、小說、傳記、一として讀まざるなく、詩囊益重く、學識いよいよ博きを加へけれども、猶ほ滿足せざりけむ。其の熱心は逬發[やぶちゃん注:「はうはつ(ほうはつ)」で迸(ほとばし)り出ること。]して、ウーランド、其三十二歲の時、佛國巴里に遊び、數月滯在の末其圖書館に入り、諸多の珍書奇籍を獵涉し、大に古學探究の材料を得たり。其熱心なる、手をもおとさむばかりなる嚴冬積雪の日も、火氣なき寒威骨に徹する圖書館の一室に在りて側目もふらず一心に勉學してありしといふ。試に思へ當時、獨佛の間戰端開け(猶後に評論すべし)氷炭[やぶちゃん注:「ひようたん」。相違の甚だしいものを喩えて言う語。]相容れざるの間に非ずや。而して其本國を離れ不倶戴天の敵國に入る其熱心亦甚しと謂ふべし。この熱心の效果は乍ち[やぶちゃん注:「たちまち」。]あらはれて歸國の後、古代佛國詩歌論 Ueber das altfranzösische Epos の好論文と成りぬ[やぶちゃん注:一八一二年作。]。江湖の好評噴々として、洛陽の紙價爲めに價を加ふるに至れり。借問す、日本現今の文學者、日淸戰爭正に酣なるの際深く支那の内地に入り、以て其古蹟を探究するの勇氣あるや否や。

 此時に當り獨佛の葛藤結んで解けず、祖國多難、兵馬悾愡[やぶちゃん注:「こうそう」と読み、「忙しくて思うことが出来ないさま」を指す。なお、この後に読点はない。]社會は正に暗黑の中に棄擲せられたり。老者は黨を組みて、村間を守り、壯者は募に應じて國運に斃るゝの間も、彼の詩筆は一日も休む事なく、堂々整々、Fürs Vaterland を朗吟して獨逸國の森嚴と必勝を歌ひぬ[やぶちゃん注:「Fürs Vaterland」は「祖国のために」。現在のドイツ連邦共和国国歌の原型である「Deutschlandlied」(ドイツの歌)であろう。ウィキの「ドイツの歌」に載る三番の歌詞に「Für das deutsche Vaterland!」(父なる祖国ドイツのために!)とある。]。彼が從軍の希望は、其國ユルテンベルヒの仇敵ナボレヲンに同盟せるの故を以て果さざりしも、粉骨碎身、自個の職分を盡すに餘念なかりき千八百十五年ナボレヲン敗亡して、諸國安康と成りしの后、彼は故鄕の公役に從事して勉勵至らざるなく、其結婚の夜、新婦と客人とをして待つこと多時ならしめたりき、是れやがて其二期なり。

[やぶちゃん注:「ユルテンベルヒ」彼の生地テュービンゲン(Tübingen)は現在のバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)であるが、ここは当時はヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)であった。この一八一五年にドイツ連邦に加盟。]。

 新婦名をエミーと呼び名族の女なり。ウーランドは此結婚に因りて大に幸福なる生活を得、和氣洋々たる家庭をつくり從來自個の性質に適合せざりし公役は之を避けて、公會議所に出ることも少かりき。左れば其境遇は一變して、蜜よりも嗜みたる詩神に近接せざるの日なく、本來の詩人たる境涯を送りぬ。一千八百二十九年、テユービンゲン大學の員外敎授と成り、獨逸文學幷に語學の講延を開きしが、蘊蓄の學識は滾々として盡きざること湧泉の如く、議論明晰、紛糺雜亂の語學を解釋し一糸亂れず。大に學生の好望を獲たり。これやがて第三期なり。

[やぶちゃん注:「エミー」一八二〇年に彼は十二歳下のエミリィエ・アゥグステ・フィッシャー(Emilie Auguste Vischer 一七九九年~一八八一年)と結婚している。裕福な商人の娘であった。]

 其後ウーランドは國會の議長に當選せられ、公共の義務辭するに語なく、且は諸多の有志者の推選もだし難くて、七年の長日月、國會議場に勤務したり。其後はチユービンゲンに住し、其友、カルヽ、マイエル、グスタフ、シユワープと共に互に往來して、作詩を以て樂めり。名聲益々籍甚し、一時はゲーテを壓する計りなりき。

[やぶちゃん注:「カルヽ、マイエル」で既出既注の詩人カール・メイヤーであろう。

「グスタフ、シユワープ」でウーラントやケルナーとともにシュワーベン・ロマン派の代表的詩人であったドイツの詩人グスタフ・ベンジャミン・シュワープ(Gustav Benjamin Schwab 一七九二年~一八五〇年)のこと。チュービンゲン大学で哲学と文学を学んだ。民謡風の小曲・学生歌・物語詩でウーラントの詩業を継ぐとともに、『教養人の朝刊』紙の文芸欄編集者として後輩を育成した。ギリシア・ローマ神話集「古典古代の伝説」(Sagen des klassischen Altertums 一八三八年~一八四〇年)の編者としても知られる。]

 ウーランド甚だ攝生に注意したりと見え、晚年に至りても衰弱の體格見えず、依然矍鑠たる老翁なりしが、親友ケルネルの葬式に臨みて、感冒症に罹り、遂に八十四歲の高齡を以て千八百六十二年十一月三日遠く天國に旅立ちけり。會葬するもの數千人、未だ一面識なきものにして、此大詩人が最終の葬禮に遇はむと欲するもの道路堵[やぶちゃん注:「かき」。垣根。]の如くなりき。其盛榮實に羨む可しと爲す、十七世紀の大文豪、チユービンゲンの麒麟兒はかゝる光榮の裡に消滅せり、亦溟目して可なりといふ可し。これやがて第四期なり。

 余は猶以上の傳記中、彼が性格上に於て一二の觀察を試みむと欲す。

 ウーランドは瓢逸快闊なる人なりき。其詩中にあらはるゝ人物の悉く滑稽的風趣に富める、實に彼自身の陰影なりき。

 ウーランドは專心熱中の人なりき。公務の餘課作詩に耽りたる、古事の探究に敵國に入り嚴冬猶寒風を忘るゝに至り、或は公務に忠勤にして新婦と客人とをして待たしむこと多時ならしめたる等其熱中なる性格は行爲の上にあらはれたりと謂ふ可し。

 ウーランドは愛國の情念に富みたる人なりき。ひたすら祖國の美を謠ひ、士氣を鼓舞せしめたるが如き、或は從軍を願ひて、敵國と戰はむと欲したるが如き、國會議事堂に議長として七年の長月日を勤務したる等以て其の一般を知るに足らむ。

 ウーランドは溫和朴良なる人なりき。夫人エミーに對する愛情、親友ケルネル、ヘルデルリンに對する友情、など懇切深厚なりしを見れば、明白なり。

 批評淺薄、例證甚だ乏しと雖、氏の性格として大差なきを信ずる也。

 

   其 時 代

 

 近古獨逸帝國が英雄割據の狀を呈してより、一たびは佛の食狼、ルードイヒ十四世の爲に國内を擾亂せられ、一たびはコルシカの大怪物ナポレヲンの爲めに、獨立を蹂躪せられ畧んど亡國の慘狀に陷落したりしもの、遠く其源を探究すれば人心の背離に因せずむばあらず、而して人心の背離は國語國文の獨立を失ひたるに因る、蓋し中古の末葉より十七世紀の末葉に至る迄は獨逸文學極衰の時期なりき。當時專ら流行せしは羅甸文にして、一般の學者悉く之に熱中し、誰一人として自個固有の國語を發揮するものなかりき。十六世紀の初葉、熱心なる愛國者ウツテンなる人あり、國語の衰頽を憂ひしきりに獨逸文を以て書を著はさむと心掛けしかど、到底羅甸文もて認むる如く巧妙なる能はざるを悟りて思ひ止りぬ。然るに千古の奇傑、路の崛起[やぶちゃん注:「くつき」。俄かに事が起こること。多数の中から頭角を現わすこと。]するあり、宗敎改革を唱へて從來の弊風を打破し、天主敎を剪除[やぶちゃん注:「せんじよ」で、ここでは本質を見失った教会体制の腐った部分を綺麗に刈り取って除去することを指している。]する一代方便として、基督敎聖書を俗語もて(所謂新高獨逸語)飜譯したりしより、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]聖書の趣旨を一般人民に知らしむるのみならず、自個固有の國語を一般人民の用語に確定するを得たり。蓋し十六世紀の最大著書にして、亦最大現象なりき。然れども文學的散文、韻文、戲曲に至ては他國摸倣の弊風、依然として去らず、當時英國の喜劇など頗る獨逸人の嗜好に適ひ、文學者の之を摸倣するもの甚だ多かりき。十七世紀の初葉、各國に文學會數多設立せられたるが、そがうち、シレシア文學會の創立者なる、マーテン、オビツツ氏は一千六百二十四年を以て、獨逸詩歌書を公にせしが、此趣味豐富なる詩歌集は、忽ち時人の嗜好に投じ、同六十九年迄には第九版を發兌[やぶちゃん注:「はつだ」。発行。]するに至れり。此著述は獨逸に於ける韻文改革の基礎となりて、續々異論を出し、極衰時代を警醒するもの多かりき。惜い哉、氏の改良は唯詩の結構に止り、其精神を改良するに及ばざりしかば、其理想猶他國詩人の餘唾[やぶちゃん注:「よだ」。]に過ぎざりき。飜て當時の散文を見れば、路惕の情熱未だ冷へざるに、或る學者の如きは、趣味の如何を問はずして獨逸的羅甸文を用ゐ、或る學者の如きは佛語、伊太利語、西班牙語[やぶちゃん注:「ポルトガルご」。]、を詞間に插入する風を爲し此際大學校に於ては、歷史、法律、理化學、工藝、其他の諸學の講義錄には羅甸語を用ゐ、卒業論文にもー切羅甸を應用して無趣味、粗雜なること洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]甚しかりき。當時戲曲家アンドレアス、グリフヲスなる人あり、憂國の熱情を以て、種々の戲曲を草し、工に[やぶちゃん注:「たくみに」。]當時の弊風を戒めたり。殊に共著「ホルビリクリブリフアツクス」に於ては、軍人の粗野なる風俗を描き、當時の通弊たる國語の混淆を冷嘲せる樣、頗る興味あり乃ち劇中の一人物は學校敎師にして拙き羅甸語を話し、一人は獨逸羅甸混交語を話し、又一人は間違ひたる佛語を話し更に一人は猶太人にしてへブリウ語[やぶちゃん注:ヘブライ語。]と拙き獨逸語とを混淆せり。語學紛亂、國文支離滅裂の時代を活寫せるものと謂ふ可し。加ふるに此時代は獨逸語にも外國語にも誤謬多く、文體粗野にして虛飾に亙り、往々自負誇大の言を加へたるを以て最も厭ふ可しと爲す。要するに上下四百年の間は獨逸文學極衰の時代にして、當時の短哥、長歌、諷詩、通俗說敎文、民間滑稽文等は之を緊要なる歷史として見るを得へきも[やぶちゃん注:「へきも」はママ。]、文學上より觀察すれば、寧ろ斥くべきの現象なりとす。或は曰はむ「哲學神學に關する羅甸文の著作は、續々發兌して枚擧するに暇あらざる可く、學術上の名著述また少からず」と、然り洵に然り、然りと雖も斯る名著述は、國文學殊に韻文學上の進步には寸效なしといひて可なり。鳴呼、斯くもすさみたる荒蕪の田園、天長く之を放置する者ならむや、忽ち一大偉人を下して開墾拓植の任を與えぬ[やぶちゃん注:「與えぬ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「ウツテン」宗教改革期にカトリック教会を激しく批判したドイツの思想家ウルリヒ・フォン・フッテン(Ulrich von Hutten 一四八八年~一五二三年)。ウィキの「ウルリヒ・フォン・フッテン」によれば、『現在のヘッセン州フルダ南西のシュテッケルベルク城(現在はシュリュヒテルン市に含まれる)生まれで、騎士身分であった。ドイツ・イタリアの大学で学んだ。ラテン語の詩を書き』、一五一七年には『神聖ローマ皇帝マクシミリアン』Ⅰ『世から桂冠詩人の称号を受け』ている。『ロイヒリン』(Johann Reuchlin:『ヘブライ語研究を行ったためカトリック教会から異端の疑いをかけられた)を擁護し、同志と』「Epistolae obscurorum virorum」(「無名人士の手紙」)『を著し』、そ『の中で聖職者の偽善、腐敗、貪欲さなどを辛辣に批判した』。『一時』、『ルターを支持』した。『また、フッテンの思想的影響を受け、反カトリック的な騎士階層がトリーア大司教領を攻撃した(トリーア大司教は選帝侯を兼ねていた)。しかし、カトリック支持の諸侯から反撃を受け』て『敗退(騎士戦争』:一五二二年~一五二三年)し、『チューリヒのツヴィングリのもとに逃れるが、まもなく病死した』とある。

「高獨逸語」ドイツ語の言語変種で高地ドイツ語(Hochdeutsch)のこと。「ドイツ語高地方言」とも呼ばれる。また、現在の「標準ドイツ語」のことを「高地ドイツ語」と呼ぶ場合もある。「新」はまずは新訳であろうが、所謂、当時の「現代口語」の意味での「新」でもある。]

「マーテン、オビツツ」ドイツの詩人マルティン・オーピッツ(Martin Opitz 一五九七年~一六三九年)。ハイデルベルク・ライデンなどで学び、『成果をもたらす協会』(Die Fruchtbringende Gesellschaft)の一員として「ドイツ語浄化運動」に参加、「アリスタルコス」(Aristarchus:一六一七年)を著わし,「シュレジエン詩派」の中心人物として、また、バロック文学の理論的指導者として同時代人に大きな影響を与えた。「ドイツ詩学の書」(Buch von der deutschen Poeterey:一六二四年)ではアクセントを重視し、フランス詩のアレクサンドランの移入を唱えた。ほかにソフォクレスの「アンチゴネ」の翻訳などもものしている。なお本文の「シレジア」と「シュレジエン」は同じで(Silesia:Schlesien)、中部ヨーロッパのオーデル川上・中流域の地方名。現在、大半はポーランド領(ポーランド名「シロンスク」)で、一部はチェコ領。中世以来、ボヘミア・ポーランドの勢力下にあったが、十二世紀以後、ドイツ人の入植が盛んになり、急速にドイツ化した。十六世紀からはボヘミアとともにオーストリアのハプスブルク家の支配下になったが、十八世紀の「オーストリア継承戦争」の際、プロシアのフリードリヒⅡ世が侵入して占拠し、プロシア領となった。十九世紀後半には商工業が発展してプロシアで最も富裕な地となっていた。以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「路惕」これには惑わされた。これで「ルテル」と読む。かの「宗教改革」で知られる聖アウグスチノ修道会所属のマルティン・ルター(Martin Luther 一四八三年~一五四六年)の「ルター」の漢字表記であった。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一四(一八八一)年刊の物的爾(ウエルテル)他著の珀爾倔訳・西村茂樹重訳になる「泰西史鑑」下編の巻之一の「第二 馬尓丁路惕(マルチニュスルテル)」を見よ。

「アンドレアス、グリフヲス」バロック期を代表するドイツの詩人で劇作家のアンドレーアス・グリューフィウス(Andreas Gryphius 一六一六年~一六六四年)。「三十年戦争」を背景として無常観・厭世観に基いた作品を残した。ここに出る「ホルビリクリブリフアツクス」はイタリアの即興劇に影響を受けた風刺喜劇で「ホリビリクリブリファックス・トイッチュ 愛人選び」(Horribilicribrifax Teutsch:一六四七年~一六五〇年)である。]

 

  其時代(承前)

 

 偉人とは誰ぞ、十八世紀初葉の文豪、レツシング是れ也。氏空前の大手腕を以て、空前の大事業を成功し、玆に摸倣的精神と、混淆的國語を改良して千古文運の基礎を定めたり。固よりフレデリツヒ大王の功績、オビツツ、ウルフ、ライプニツツ諸氏の遺叢など預て力ありと雖、そもそも亦氏の火眼的[やぶちゃん注:聞いたことがない熟語だ。「炯眼」の誤りか。]敏腕に因らずむば非ざる也。奇拔なる批評は氏の得意とする所にして、摸倣的著作家に對する問答の最も簡單なる比喩(氏は最も比喩に長ぜり)は左の如し。

[やぶちゃん注:「レツシング」ドイツの劇作家・批評家ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)。フランス古典劇の亜流であった従来のドイツ演劇を否定し、ギリシア劇・シェークスピア劇の精神を採り入れることによって、近代的な市民劇の創始者となった。また、演劇の他、美学・神学の評論を通して啓蒙思想を説き、ドイツ市民文化の発展に貢献した。美学評論「ラオコーン」(Laokoon: 一七六六年)はよく知られる。

「フレデリツヒ大王」第三代プロイセン王フリードリヒⅡ世(Friedrich II 一七一二年~一七八六年)。ウィキの「フリードリヒ2世(プロイセン王)」によれば、『優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど』、『学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全』三十『巻にも及ぶ膨大な著作』『を著し』、「哲人王」『とも呼ばれ、功績を称えて』「フリードリヒ大王(Friedrich der Große)」と『尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた』とある。

「ウルフ」ドイツの哲学者で近世自然法論者のクリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff 一六七九年~一七五四年)であろう。ライプニッツからカントへの橋渡し的存在である。

「ライプニツツ」かの「モナド(単子論)」で知られるドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 一六四六年~一七一六年)。

 なお、以下の引用は全体一字下げなので、ブラウザ上の不都合を考えて一行字数を減じた。]

 猿、狐に言へらく「余が摸倣し得べからざる

 動物は何か、あらば之れを列擧せよ」狐答ふ

 らく「世に汝に摸倣せんと欲する程輕蔑すべ

 き動物ありや、あらば之を列擧せよ」

痛快なりと謂ふべし、氏の刺戟はいみじう劇し[やぶちゃん注:「はげし」。]かりけむ。獨逸當時の文學界は忽ち亢奮し來りて、所謂文學崛起時代を形成しぬ。

 シヱークスピーヤに對する熱中、オシアン及北方神仙譚に對する狂熱、佛國的模倣は、急劇なる潮流によりて斥けられたり。敬虔のクロプストツクは雄壯劇烈なる國文により、人情、自由、愛國の觀念を謠ひ、溫雅なるウヰーランドはクロプストツクに反對して、優麗婉曲の文辭に因り、オブロン、アガトン、等の名作を出し、深酷なるヘルデルは高妙なる哲學的觀察を以て、神明、戀愛の妙諦を解析しぬ。是より先、ライプチヒ、ハルレ、ヱナ、ゲッチンゲン諸大學の學生間には多くの熱心なる國文獨立論者を出し、外國文學摸擬の弊風を一變して自國美文の發揚を計り、他國文學に對峙せしめむと勉めたり。該世々紀二十年の頃よりライプチヒの敎授ゴツトセツドとチユーリヒの敎授ボートメルとの間に爭論を生じ、甲は佛文學を尊び、乙は英文學を悅び、甲は詩を以て自然の直寫にして思想力の發表に外ならずとなし、ミルトンの失樂園を難じ、乙は之を駁して、詩は想像を主とするもの也と爲し、パラダイスロストを以て最上乘の傑作と定めたり。此論爭は彼のクロブストツクが勇士譚メツシアスの著述より、一層の熱を騰め[やぶちゃん注:「たかめ」。]來り、一時は辨駁の聲囂々たりき。ライプチヒ派にはゲルネルありて、其風韻滑稽人をして舞はしめ、其崇高森嚴人をして危然たらしめたり。ボートメル派にはグライム、ウツの諸氏あり、巧妙なる敍情詩を以て、互に對峙したり。後クロブストツクの之が判決を與ふるに至て、玆に初めて一段落をなし、同時に獨逸文學上一種の改新を與えたりき[やぶちゃん注:ママ。]。降て十八世紀の末葉より十九世紀初葉に於ては、千古の大文學者、大詩人なるゲーテの輩出するあり、敏活淸麗なるシルレルの起るあり。こゝに於てか獨逸文學は大成しぬ。

[やぶちゃん注:「オシアン」Ossian は三世紀頃、イギリスのスコットランド高地地方及びアイルランドに居住した古代ケルト人の英雄フィン(またはフィンガル)の子として生まれ、ターラの宮廷に仕えた勇者で、吟唱詩人として幾多の叙事詩をつくったとされる伝説的人物。十八世紀に至って、スコットランドの詩人マクファーソンが、オシアンの詩をゲール語から散文詩風に英訳したものと称して、「スコットランド高地地方で集めゲール語から訳した古代詩集の断章」(一七六〇年)・「フィンガル」(一七六二年)・「テモラ」(一七六三年)の三編を発表した。さらに好評に応え、一七六五年にこれらを「オシアン作品集」として二巻にまとめるに及び、古代ケルト世界の醸し出すその縹渺たるロマン的情調は、イギリスのみならず、ヨーロッパ各国語にも訳され、ワーズワースをはじめ、ゲーテ」ヘルダー・シラー・シャトーブリアンら、いわゆるロマン派の作家・詩人たちに大きな影響を与えた。しかし、発表当時から、その真偽に関して論議があり、マクファーソンによる偽作とする説もかなり有力であったが、むしろ今日では、「オシアン原作説」はともかく、古代ケルト人の間に語り継がれた英雄叙事的主題を元に、マクファーソン自身が英語・ゲール語両方に亙る知識を縦横に駆使して創作したものと考えられている。二十世紀に於いて、詩人イェーツは「アシーン」(Oisin)の名のもとに、アイルランド文芸復興のシンボルとして歌っている。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った。

「クロプストツク」ドイツの詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock 一七二四年~一八〇三年)。当時支配的であった合理主義的な啓蒙文学に対抗して、敬虔主義に根ざした感情溢れる作品を書いた。特に一七四八年に有力雑誌『ブレーマー・バイトレーゲ』(Bremer Beiträgen:「ブレーメン寄与」)に叙事詩「救世主」(Der Messias:一七四八年~一七七三年)の一部を発表、フランス詩法を排し、ドイツ詩に新しい躍動的な推進力を与えて新境地を開いたものとして、後代の詩人にも多大の影響を与えた。また,抒情詩「チューリヒ湖」(Der Zürchersee:一七五〇年)・「春祭り」(Die Frühlingsfeier:一七五九年)などは青年層に熱狂的に迎えられた。彼は主に叙事詩によって有名になったが、その類い稀な才能が最もよく現れたのは抒情詩であり、また、頌歌も賛美歌に似た荘厳さでよく知られている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「ウヰーランド」ドイツの詩人・翻訳家・作家クリストフ・マルティン・ヴィーラント(Christoph Martin Wieland 一七三三年~一八一三年)。ゲーテやシラーなどと並ぶドイツ古典主義時代に於ける重要勝大きな影響力を持った啓蒙主義の一人。

「オブロン」ヴィーラントが一七八〇年に発表した彼の代表作の詩篇「オーベロン」(Oberon)。

「アガトン」ヴィーラントが一七六六年から一七六七年にかけて著わした代表作の物語「アーガトン物語」(Agathon)。

「ヘルデル」ドイツの哲学者・文学者・詩人・神学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder 一七四四年~一八〇三年)。カントの哲学などに触発され、若き日のゲーテや「シュトゥルム・ウント・ドラング」・ドイツ古典主義文学及びドイツロマン主義に多大な影響を残すなど、ドイツの文学と哲学の両面に影響を及ぼした人物。優れた言語論や歴史哲学、詩作を残した他、一世を風靡していたカントの超越論的観念論の哲学と対決し、歴史的・人間発生学的な見地から自身の哲学を展開して、カントの哲学とは違った面で二十世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。ここはウィキの「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」に拠った。

「ハルレ」ハレ大学(Universität Halle)。ドイツ東部のハレ市にある大学。一六九四年、プロイセン王フリードリヒⅢ世により創設され、学問・思想の自由を大学の本質として重んじた。一八一七年、ウィッテンベルク大学と合併して「マルティン=ルター大学ハレ‐ウィッテンベルク」となった。「ハレ」は「ハルレ」とも音写表記する。

「ヱナ」イエナ大学。現在の「フリードリヒ・シラー大学イェーナ」(Friedrich-Schiller Universitt Jena)。ドイツ中央よりやや東側に位置する、チューリンゲン州の都市イエナにある。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒにより一五四八年に設立されたアカデミーを創建起源とし、一五五八年、ドイツ皇帝から大学としての認可を得た。十八世紀末から十九世紀初頭にかけて最も栄え、哲学部を中心にシラーやヴィルヘルム・フンボルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ゲーテらが教授陣として活躍した。

「ゴツトセツド」ドイツ啓蒙主義の文学者ヨハン・クリストフ・ゴットシェート(Johann Christoph Gottsched 一七〇〇年~一七六六年)。ウィキの「ヨハン・クリストフ・ゴットシェート」によれば、『ケーニヒスベルクに牧師の子として生まれ、ザクセンに移住して』一七三四『年からライプツィヒ大学で詩学・哲学の教授として、フランスの合理主義思想を鼓吹した。哲学ではゴットフリート・ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフの系譜をひく。当時のバロック風の歪曲・誇張された傾向に対してドイツの演劇・文学・言語の革新を志した。ゴットシェートは「文学の革新は全ドイツの共同の栄誉を目標とすべきである」と考えていたが、当時のドイツ文学は取るに足らぬ伝統しかないために、フランスのピエール・コルネイユとジャン・ラシーヌや』、『詩学ではニコラ・ボアロー=デプレオーを〈良き趣味〉の手本として推奨した。劇場が正統派ルター派にとっては悪魔の説教壇であった時代で、演劇に関心を持ち、俳優の地位と演目内容の向上、さらに近代標準語の純化と普及に功績があった』。一七二七年から一七四〇年『頃の名声は非常に高かったが、チューリヒの大学教授でイギリスのミルトンを模範とすべきと主張するボードマー』(次注)『やブライティンガーと論争をし、それを境としてゴットシェートの名は学問を鼻にかける愚物の代名詞となり、軽蔑にさらされる』こととなった。

「ボートメル」スイスの文献学者ヨハン・ヤーコプ・ボードマー (Johann Jakob Bodmer 一六九八年~一七八三年)。ウィキの「ヨハン・ヤーコプ・ボードマー」によれば、『大学で神学を学び、商人の修業を経た後、スイスの歴史と政治の教授としてチューリヒのギムナジウムに勤める。彼の活動で重要なのものは、中高ドイツ語文学の再発見と、ホメロスおよびジョン・ミルトンの翻訳である。他方、彼が、ホーエンエムス城の図書館でニーベルンゲンの歌の写本Cを実際に発見したヤーコプ・ヘルマン・オーベライトから、その栄誉を奪ったことも知られる』。『ボードマーがドイツ語文学の歴史にはたした決定的な貢献は、彼が友人のヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガーとともに、ドイツ語文学の「文壇の法王」だったヨハン・クリストフ・ゴットシェートに対して行った論争である。ボードマーは』一七四〇年の著書「ポエジーにおける不思議なものに関する批判的論考」(Critische Abhandlung von dem Wunderbaren in der Poesie)で『自分の文学理論の原則を表明している。彼は、ゴットシェートが推奨するフランスの手本に対し、ミルトンのイギリス感覚主義を好意的に扱い、そして古典崇拝に対して、中世を高く評価した。これによって彼はロマン主義に決定的な影響を与えることになった。ボードマー、ブライティンガー、ゴットシェートの間で繰り広げられた論争は、ある意味、フランスでの「新旧論争」のドイツ語版であった』とある。

「ミルトンの失樂園」イングランドの詩人で共和派の運動家であり、オリバー・クロムウェルを支持したジョン・ミルトン(John Milton 一六〇八年~一六七四)が一六六七年に発表した「旧約聖書」の「創世記」をテーマとした壮大な初期近代英語の叙事詩「Paradise Lost」。

「勇士譚メツシアス」ウィキの「フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック」によれば、クロプシュトックがまだイエナ大学の神学生だった頃、そこで最初の「救世主」(Messias)の最初の三つの歌を散文で作成、一七四六年にライプツィヒに移った後の一七四八年、「救世主」の三つの歌が出版された。『ドイツ文学の新しい時代』が始まるとともに、『著者の名前はすぐに知られるようになった。ライプツィヒで彼はたくさんの頌を書い』ている。一七四八年に『大学を離れて、ランゲンザルツァで親戚の家族の家庭教師になった』が、『従姉妹への報われぬ恋が彼の平安をかき乱した』。それもあって、一七五〇年、『「失楽園」の訳者ボードマーから、チューリッヒへの誘いを受け』て移り、『ここで、クロプシュトックは最初』は『あらゆる親切と尊敬をもって扱われ、かれの精神は急速に回復した。しかしながらボードマーは、救世主の作者の若い詩人が、強くこの世に関心を持つ男であることを知って失望し』、二『人の友情には亀裂が走った』。『この危機の時に、デンマーク王フレデリク』Ⅴ『世から』『大臣の推薦によって、「救世主」の完成を見込んで』、『コペンハーゲンに年俸』四百『ターラーで定住するという誘いを受け、彼はその提案を受けた。クロプシュトックがコペンハーゲンへ向かう途中、ハンブルクでマルガリータ・モラーに出会った』。一七五四『年に彼の妻になるマルガリータは、彼の詩の熱狂的な崇拝者だった。彼の幸せは短く、彼女は』一七五八『年に死去し』てしまう。『彼女を失った彼の嘆きは、「救世主」の』十五『曲目の悲しみの表現に見られる』という。『詩人は妻の著作集を出版し』、『それらは、優しさと感受性と深い宗教的精神の証拠を与え』たものの、『クロプシュトックは悲観主義に陥り、アイデアは失われ、詩は一層あいまいに不明瞭になった』とある。

「ゲルネル」不詳。

「グライム」後にドイツ啓蒙主義の代表者となる詩人で作家のヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライム(Johann Wilhelm Ludwig Gleim 一七一九年~一八〇三年)。

「ウツ」不詳。

「シルレル」ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者で詩人・歴史学者・劇作家・思想家であったヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)。]

 獨逸文學は此の如くにして其獨立を得、進で[やぶちゃん注:ママ。]他國を凌駕したり、加ふるに文運の進步と共に他國の名著述は悉く輸入せられ、此輸入文學は盡く獨逸魂に同化せられて、文學の上にあらわれぬ。ウヰーランドはホレースの手簡文、及び諷詩、ルシアンの全著作、シセルの手簡文、アリストフアンスの喜劇等を飜譯し、又シヱークスピーヤの戲曲類をも巧に譯述したり。シユレーゲルは希臘羅馬歌史を著し、羅甸民族の文學、並にシヱークスピーヤの著述を紹介し、フォスは希臘の古文ホメルを獨譯しぬ。

[やぶちゃん注:「ホレース」古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウス(Horatius紀元前六五年~紀元前八年)のことであろう。彼の書簡詩「詩について」(Ars poetica)はアリストテレスの「詩学」と並んで、古典主義詩論に於いて重要視された。

「ルシアン」ギリシャ語で執筆したシリア人風刺作家ルキアノス(Lucianos/英語:Lucian of Samosata 一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)。

「シセル」共和政ローマ末期の政治家で文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前一〇六年~紀元前四三年)。

「アリストフアンス」古代ギリシャの喜劇詩人アリストファネス(Aristophanēs 紀元前四四五頃~紀元前三八五頃)。

「フォス」ドイツの詩人・翻訳家ヨハン・ハインリッヒ・フォス(Johann Heinrich Voß 一七五一年~一八二六年)。ウィキの「ヨハン・ハインリッヒ・フォス」によれば、祖父は農奴。『ノイブランデンブルクのギムナジウムに就学の後、一七七二年に学費を家庭教師をして稼ぎながら』、『ゲッティンゲン大学に通い、言語学を学ぶ。「詩人年鑑」り発行に携わり、それで多少の収入を得た。彼の周囲に若い詩人が集まり、それが』「ゲッチンガー・ハイン同盟」となった。「ハイン」(神苑)は、『ギリシアのパルナス山にちなんで名付けられた。ドイツの詩神の憩う場所の意味をもたせたものである』。『ホメーロスの作品を初め』、『ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる』とある。

「希臘の古文ホメル」「ホメル」は古代ギリシャの紀元前八世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされるホメロス(Homerus/英語:Homer)のことであろう。フォスは彼の長編叙事詩「オデュッセイア」(Odyssea:訳一七八一年刊)と「イーリアス」(Ilias:訳一七九三年刊)を始めとして、ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる。]

 この間に崛起したる詩人こそウーランドなれ。

 此時に當り、歐羅巴各國には一大變動を湧起し來り、政治上由々敷時代とは成りぬ。佛蘭西の天地慘憺たる光景を極め、路易十六世は廢黜せられて死刑に處せられ[やぶちゃん注:「路易」は「ルイ」と読む。Louis XVI(一七五四年~一七九三年)のこと。「廢黜」は「はいちゆつ(はいちゅつ)」で罷免の意。「フランス革命」に於いて「革命広場」(現在の「コンコルド広場」)でギロチンによって斬首刑にされた。]、昔日の榮華一夢に歸し。盟合黨派紛々として亂麻の如く、暴徒四方に起り、物情騷然、人心恟々[やぶちゃん注:「きようきよう」。恐れ慄くさま。]、一日の安きなく、殘忍酷剝[やぶちゃん注:「こくはく」。「刻剥」と同じで、「人を虐(しいた)げ痛めつけること・厳しく惨(むご)いこと」の意であろう。]、英澳[やぶちゃん注:「えいあう(えいおう)」でイギリスと「澳太利亞(オーストリア」。]諸國はしきりに佛國を窺ふの際、天の一角忽ちにして偉人生み、攻むれば取り、戰へば勝ち、連戰連捷、歐州の大半は、悉く彼が兵馬に蹂躪せられぬ。埃及の遠征、議院の解散、施政長、伊太利征討よりして、一躍帝位に昇り、威權赫々、名聲中外に轟き、ナボレヲンを知らざるなきに至れり。獨逸も亦此大怪物の侵略する所と成り、千八百八年バヽリヤ王、ユルテンベルヒ王並に其他の諸侯同盟して、獨逸帝の配下を脫し、ナポレヲンを奉して盟主と爲し、所謂ライン同盟を物しぬ。蓋し是れより先[やぶちゃん注:「さき」。読点が欲しい。]澳帝フランシス一世佛軍に抗する能はざるを知り、自ら屈してナポレヲンの帷幕に來り、和を乞ひ成を行ひ、二萬平方里の地を與えむ[やぶちゃん注:ママ。]ことを約す、ナポレヲン之を許し、バヽリヤ、ユルテンベルヒの二侯に送るに王號を以てしたるもの大に力ありしや論なし。外既に此の如し、獨逸の命運は將に旦夕に迫らむとするに當り、恰も國内騷擾の起るあり、プロイス、オストライヒの鬪爭連年連歲結んで解けず、獨逸國の瓦解は將に其極度に達するに至れり。憂國の士慨世の人は數多起りて此落日の勢を挽囘せんと欲し、愛國の詩人は、祖國歌、飛檄、刀劍詠を歌ひて國民の元氣を振興せんと計れり。ケルネル、アルント、シエンケンドルフ等の諸氏則ち是れ也。蓋し當時獨逸士人の士氣を挽囘し、斃て[やぶちゃん注:「たふれて」。]後止むの決心を誘導し得たる者、是等憂國詩人の賜物なりと謂はざる可からず、既にして佛國衰頽し、威權赫々、旭日を凌ぎたる當年の野心帝も絕海孤島裏一片の煙となりしより、國民の感情は獨逸帝國の合一を望めども、普澳兩國心の覬覦[やぶちゃん注:「きゆ」と読む。身分不相応なことを窺い狙うこと。非望を企てること。]は獨逸帝國の霸權を爭ひ、未だ全く合一をなすに至らず。

 この間に成長したる詩人こそウーランドなれ。

[やぶちゃん注:「バヽリヤ王」ババリア(Bavaria)はドイツ南部のバイエルン(Bayern)地方の英語名。ここは最後のバイエルン選帝侯(在位:一七九九年~一八〇五年)及び初代バイエルン王(在位:一八〇六年~一八二五年)であったマクシミリアンⅠ世(Maximilian I 一七五六年~一八二五年)。

「ユルテンベルヒ王」ドイツ南部のヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)初代国王(在位:一八〇五年~一八一六年)フリードリヒⅠ世(Friedrich I 一七五四年~一八一六年)。

「ライン同盟」(ドイツ語:Rheinbund/フランス語:Confédération du Rhin)一八〇六年七月にフランス皇帝ナポレオンⅠ世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯が名目だけ存続していた帝国を離脱し、フランス帝国と同盟成立したナポレオンを盟主とした国家連合。一八一三年に起きた「ライプツィヒの戦い」でのナポレオンの敗退とともに解体した。

「澳帝フランシス一世」神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位:一七九二年~一八〇六年)で最初のオーストリア皇帝としてフランツⅠ世(Franz I 在位一八〇四年~一八三五年)を名乗ったフランツⅡ世(Franz II 一七六八年~一八三五年)。

「アルント」ドイツの愛国詩人で歴史家のエルンスト・アルント(Ernst Moritz Arndt 一七六九年~一八六〇年)。後にフランクフルト国民議会の議員となった。

「シエンケンドルフ」ドイツの愛国詩人マックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf 一七八三年~一八一七年)。ケーニヒスベルク大学に学び、プロシアの参事官となったが、「ナポレオン戦争」に参加するうち、歌曲を創るようになった。決闘によって片腕をなくしていたが、「解放戦争」に参加し、戦後はコブレンツの事務官となった。軍隊と民衆に愛唱された愛国詩「母国語」「自由」などで知られる。]

 

   其 詩

 

 此の如くにしてルードゥイヒ、ウーランドは一方に於ては文學崛起時代に生れ、一方に於ては國運多難の期運に會しぬ。彼の精密なる古詩の硏究は、全く文學崛起時代に一生面[やぶちゃん注:「いち(つ)せいめん」。新しい工夫。新生面。新機軸。]を開きたるものにして、其採究したる中古の言語、文學、小說、傳記は悉く溢れて詩想の上に表はれぬ。蓋し中古の末葉、十七世紀の末葉に至る、上下四百年間、文學極衰の原因は、全く語學を等閑視したるや明かなり。隨て中古の言語、文學、小說、傳記など誰一人硏察して、後世に傳へたるものなく、殊に興味深き言語の如きは全く放擲せられて、瓦礫中に埋沒せられたれば折角の美玉も見る人なしに埋れぬ。ウーランドが畢世の事業として、中古文學硏究に從事したるは洵に悅ぶ可し、換言すれば彼は非常なる國語尊崇家にして、同時に非常なる外國語排斥者なりき。故に彼は一代の責任義務として、寧ろ嗜好餘樂として、全く暗黑中に葬られたる中古の國語硏究に從事しぬ。漢文極盛時代の我國文學が現今に傳らざるもの多きが如く、一時半獨逸、半外國、と成りし獨逸語の、之を遡上りて、檢索する甚だ困難の事業なり。然りと雖文人の一大急務は自國の古文學を發揚するに在り、徒に煙滅埋沒せしむるは抑も亦不忠の行爲と爲さゞるを得ず、獨逸中古の文學は一種の趣味を有するものにして、其末葉こそ奇矯、摸倣の弊に流れたれ、ホーヘンストーフヱン朝の文學(自一千百五十七年至一千二百五十四年)の如き見るべきもの少からず、ニベランゲンリー、ガドランの如き良著作と謂ふ可し、此二作は當時の史詩にして、重に想像を以て成れり。一は勇壯なる戰爭談にして其敍事能く實況を穿ちたり。一は優雅なる史詩にして、戀愛、誠實、貞操、忍耐の分子を以て成立せり。加ふるに當時の稗史は武俠的事實に富み、其傑作パージヴアル及びツリスタン二書の如き兩々其理想文章に於て反するとは云へ、各自特得の長處あるは爭ふ可からず、十四世紀に於ける樂詩亦佳なりとす、要するに中古の文學は勿論進步せざる文學にして多少の短處ありしとはいへ、獨逸文學の一異彩として保存する價値は十分なり。況んや作家の技倆次第如何樣に嶄新に應用せらるゝに於てをや。何の點より論ずるもウーランドの硏究は賞讚せざる可からざる也。

[やぶちゃん注:「ホーヘンストーフヱン朝」ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)朝は正確には一一三八年から一二〇八年、一二一五年から一二五四年までドイツ国王(皇帝)の地位を占めた中世ドイツの王朝。

「ニベランゲンリー」中高地ドイツ語で書かれた叙事詩「ニーベルンゲンの歌」(Das Nibelungenlied)のこと。英雄で龍殺しのジークフリートの非業の死と、ジークフリートの妻のクリームヒルトの復讐劇を描く。現在、「ニーベルンゲンの歌」は、他の詩篇などとの関わりから一二〇〇年から一二〇五年頃に成立したと考えられているとウィキの「ニーベルンゲンの歌」にあるから、伊良子清白が上記の時期を指定したのは正しい。

「ガドラン」不詳。

「パージヴアル」専ら、中世スペインを舞台とした聖杯伝説を巡るワグナーの楽劇「パルジファル」(Parsifal)で知られるが、これは中世の叙事詩に基づいて、ワグナー自身が再構築して台本をものした。その原型のこと。

「ツリスタン」トリスタン(英語:Tristan)は、中世宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語で騎士トリスタンと主君マルク王妃イゾルデ(Isolde)の悲恋を描く「トリスタンとイゾルデ」や、は中世の騎士道物語「アーサー王物語」などに登場する伝説の人物。ウィキの「トリスタン」によれば、『アーサー王伝説においては「円卓の騎士」の一人となっている』が、『もともと』はトリスタン伝承は全く別の伝説であったものが、後代、『アーサー王物語に』『組み込まれた』ものである。『「トリスタン」という名前がピクト』(Picts:ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族)『系であり、またトリスタンの父親の名前もピクト系であることから』、『トリスタンの起源はピクト人の伝承にあるのではないかと思われている。そして、この物語がコーンウォールを経て、ブルターニュへ、そして西洋の各地に移ったと見られる』。『フランス語での名称はトリスタン』、『ドイツ語ではトリスタン』乃至『トリストラント』『とされる』とあるが、同ドイツ語ウィキの標題は「Drystan fab Tallwch」となっている。]

 ウーランドは國家多難、兵馬悾愡の間に成長しゝかば、其軍勢、戰爭に接する每に憂國の熱情は養成せられ、加ふるに彼が天性なる熱心を以てしゝかば、益慷慨の念止み難く、其詩に現はるゝ處多く慷慨の語氣を含みぬ。猶一層彼をして感奮せしめたるは友人ケルネルなりき。ケルネルは前述の如く慷慨悲歌の士にして、刀劍詠、祖國歌などに熱中しゝかばウーランドの同情を動す事多く、自然に感化せられて彼は全然愛國詩人と成りぬ。彼が生國なるユルテンベルヒは仇敵たるナボポレヲンと合一して、獨逸帝國に背きしかば、感憤愈措く能はず、其硏究したる古語を以て巧に國家的觀念を歌ひぬ。其材とする所悉く中古の勇士譚にして、其間彼が天性なる滑稽を含みしかば、時人爭ふて愛讀し、其益する所隨て大なりき。

 惟ふに人逆境に處せされば其言肺腑より出でず。逆境に處るの人初めて眞摯の語あり。國運旦夕に迫り、落旦孤城、極めて逆運に會するの時に非らざれば鬱勃たる國民の聲を聞く能はず當時獨逸の天地最大逆境に望み、十數ケ國の人民、神[やぶちゃん注:「しん」。精神・神経。]昂り氣激し、血燃え情熱し、抑へむと欲するも抑ゆる[やぶちゃん注:ママ。]能はず、鬱勃たる熱情、溢れて鮮血となりぬ。ウーランド一代の才識を、枝の筆に托し、切齒淚を奮て絕叫しぬ。語らむと欲して語る能はず、告げむと欲して告ぐる能はず、鬱然、勃然忽ち破裂して詩と成る所、眞情眞詩、極めて時人を感動せしめ、深く人心の根底に愛國公共の心を植し、南獨逸に帝國合一の氣運を盛ならしめたり。世彼を稱して愛國詩人といふ全く此に存す。

 ウーランドの特色は其詩材を中古の勇士譚に限りたると、語調多く古雅にして質朴なりし事と、趣向は平易にして文字極めて解し易き事と、合せて三つの點に在り。彼が好んで中古の事實に熱中したりし結果は、正しくかゝる勇士讚を推鼓せしめたるに相違なかるべきも、彼の詩材を此に取りしものそもそも亦理由無くむば非らず、蓋中古は獨逸がカルヽ家に統一せられて、豪雄輩出、國運隆盛の時代なり。是れ正しくウーランドがこの山櫻匂ふ如き極盛時代を謠詠して、當時四分五裂せる、獨逸國民の腦裏より、中古統一の獨逸帝國を銘じ國民公共團結の氣風を養成せしめんとしたる所以なり。太平記の軍話は如何に維新志士の心膽に貫徹せられたるよ、八犬傳の忠君愛國主義はいかに幕府末期の民心を沸騰せしめたるよ。吾人はレツシングが比喩的眼孔を知らざるに非らず、クロプストツクが深酷なる同情を知らざるに非らず、ウヰーランドが優雅なる筆致を賞せざるに非らず、ゲーテのフヲスト[やぶちゃん注:「ファウスト」(Faust)。]が絕世の妙作なるを贊せざるに非らず、シルレルがウヰルヘルムテルの愛國談として好談柄なるを知らざるに非らず、しかも猶、十八世紀末葉の文豪として、ゆるすに愛國詩人を以てするもの豈に他あらむや。彼か結構字句の末を解脫して、遠く着眼を精神理想の上に及ぼし、愛國の熱血を漑ぎて[やぶちゃん注:「そそぎて」。]、一字一淚、從て詩と成るもの、遠く他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]所に非らざれば也。古昔蘇東坡評して曰く、古人詩人多し、而れども唯杜子美を以て首と爲す者[やぶちゃん注:「は」。]、豈に其飢寒流落して、而して一日も未だ嘗て國を忘れざるの故に非らずやと。近世の詩家梁川星巖氏、志士の盟主と成り、慷慨の餘、文詩を綴賎して其滿腔の熱血を吐露したるもの、彼等は皆、詩を以て時を傷み、亂[やぶちゃん注:「みだれ」。]を念ふの要具となしたる也。ウーランドの如きは實に獨逸の杜子美、梁巖と謂ふ可し。古聖の世道人心を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けや役に立つこと。]するの語、此に於てか全し。一言すればウーランドの詩は氣を以て勝りたるもの也。ウーランド去つて既に三十年、其名聲今に至て衰へず、國民擧てウーランド祭に熱中する者、彼が詩の感化なるを知るに足らむ。

[やぶちゃん注:「梁川星巖」(やながわせいがん 寛政元(一七八九)年~安政五(一八五八)年)は江戸時代後期の漢詩人。名は卯後に孟緯、通称は新十郎、「星巖」は号。美濃国生れ。古賀精里・山本北山に学び、初め、宋詩を学んだ後、唐詩に開眼し、広く元・明・清諸家の精を探り、律・絶を得意とした。妻の紅蘭と、足かけ五年に及んで西遊し、各地の名士と交わり、天保三(一八三二)年、江戸に「玉池吟社」を開いた。後、京で勤王の志士と交わり、「尊王攘夷」を唱えたことで知られる。]

 ウーランドの特色として古語を用ゐたるもの、亦大に理由の存するものあり。飜りて、近世古學の勃興に連れて、加茂、本居諸大家の崛起するあり、其著書、其歌謠が如何に、王政復古を誘導したるを知らば、思ひ半ばに過ぐるものあらむ。ウーランドは奇巧をてらはむが爲に、博識を誇らむが爲に極めて解し難き、古語を混へたるに非ざる也。其古語――其聯感はいみじうめでたき結果を賦與すべきを豫期したれば也、彼の「盾持ちローランド」中に於て一二の例を引けば、Wald をFaun、Die Waffe を Das Waffen、Hell を Degen Rauntt Kwunt、最と最と多なり。格調の何處となく質朴を覺ゆるは、彼が元來の特長にして、到底他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]可からざるの妙處を有す。

[やぶちゃん注:「Wald をFaun」前者は「森」で、後者は「牧神」であるが、こちらのドイツ語「ウィキソース」の原詩では後者は使用していない。どうもリンク先は古語が現代ドイツ語に書き変えられているようだ。

「Die Waffe を Das Waffen」孰れも「武器」の意。伊良子清白の示したものは孰れも定冠詞であるが、こちらの原詩で使用されているのは不定冠詞を附けた「Ein Waffen」(一箇所のみ)である。

「Hell を Degen Rauntt Kwunt」「Hell」は「明るい」の意で、こちらの原詩では「Degen」は一度使われているが、これは「剣」の意だし、「Rauntt」「Kwunt」(孰れも意味不明)に至っては一字も見えない。]

 彼が三特長の外、一個の愛矯として等閑に附す可からざるものあり。そは無邪氣なる詼謔[やぶちゃん注:「諧謔」に同じい。]なり。Siegfried Schwert[やぶちゃん注:「ジークフリートの剣」。]にてジーゲフリードが小童にして太刀を鑄造する、König Karls Meerfahrt[やぶちゃん注:ウーラントの一八一五年の詩篇。「カール王の航海」か。原詩はこちら(ドイツ語「ウィキソース」以下同じ)。]にて諸勇士が陸上に死する時の勇氣にも似ず風波を恐れて進むこと得ざるが如き、可憐なる詼謔、趣味豐富なりと謂ふ可し。「盾持ちローランド」に於ても十分滑稽の分子を含むは諸君の知り給ふ所なるべし。彼の詩が美詞麗文の修飾あるに非ず、幽遠玄妙の哲理あるに非ず、對句比喩の巧妙あるに非らず、然かも讀み去り讀み來りて、念慮轉た[やぶちゃん注:「うたた」。]爽快、手にして放つ能はざるもの、其純朴にして滑稽の趣味に富みたれば也。

 敍情詩のゲーテと並稱せられたることは小傳中に略述しぬ

 Schaers Sonntagslied, Lied eines Armenrs, Des Knaben Berglied, Das Schloß am Meere の如き皆良好の作なり。

[やぶちゃん注:「Schaers Sonntagslied」既出既注の「Schäfers Sonntagslied」。

「Lied eines Armenrs」一八一五年作の「Lied eines Armen」(「貧しい人の歌」)。原詩はこちら

「Des Knaben Berglied」同年の「少年の山の歌」。原詩はこちら。後の「山童歌」もこれであろう。

「Das Schloß am Meere」同年の「海の上の城」。原詩はこちら。]

 Roland Schildtrager の如きは敍事詩中の勇壯なるものなり。艷麗なる者に至りては Die Kapelle, Fruhlingsglaube を推し奔放雄健なるは山童歌に及ぶものなし。

[やぶちゃん注:「Die Kapelle」既出既注。

「Fruhlingsglaube」一八一三年作。「春の信仰」。原詩はこちら。]

 ウーランドは可笑[やぶちゃん注:「をかし」と訓じておく。]の妙味のみを加へしと雖も、亦悲痛慘憺の文字と森嚴崇高の格調を有せざるに非らず。其著 Bertran de Born の如き實に悲痛の極致にして、ベルトランが勃々たる非望心を匿藏し、加ふるに其美妙なる魔力の音樂を以てし、王子王女を誘拐して父王に反せしめ、以て其大望を全ふせむと欲せしかども、事志と違ひ、王子は軍中にべルトランが腕に因りて沒し、殘卒は悉く牢獄につながれ、我が半身の力能く王を破らむと揚言したるベルトランも、今は全身の力其鐵縛を解く能はず、空しく淚をのんで、面縛[やぶちゃん注:「めんばく」。両手を後ろ手にして縛って顔を前に突き出させて晒すこと。後に読点が欲しい。]王の前に立てるの狀。讀者をして思はず扼腕せしむ。に至りては其敍事の森嚴にして崇高なる、ウーランド作中、稀に見る所なり。高樓天に聳へ[やぶちゃん注:ママ。]、玉欄山を壓す、滿園の春花硏を爭ひ、階上の侍臣羅星に似たり。暴王喫然この間に坐すたちまち聽く、洋々奏樂の聲、梁上の塵爲めに舞ひ、花間の黃鶴敢て囀[やぶちゃん注:「てん」と音で読みたい。]せず、一言なく一語なく、寂々寞々唯天上の妙音響くのみ、伶人父子胡弓を取りて一偶に坐す、父歌へば子和し、子歌へは[やぶちゃん注:ママ。]父和す、靈音靜鏦として殿堂に滿ち、寶珠亂墮して玉盤碎く、聽く者情に耐へず、流涕潛然[やぶちゃん注:「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは甚だ脆弱である。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさま。]、肉血振動、后妃感動措く能はず、乍ち胸間の紅薔薇を取て伶人に按ず、暴王怒號、若伶人を殺す。老樂手大聲呪詛すれば、殿堂折け[やぶちゃん注:「くだけ」と読んでおく。]、花苑荒れ、曠野茫々、一の求むるなし。此詩全篇十六章又傑作と爲す可し。

[やぶちゃん注:「可笑」「をかし」と訓じておく。

「Bertran de Born」は「泉のベルトラン」か。原詩は「Balladen.de」のこちら

「喫然」意味不明。独りどっしりと構えるさまの「屹然」の誤りではないか?

「靜鏦」意味不明。「さうさう」と読んでおく。それは「鏦」は音「ショウ・シュ」では「鉾」・「刺す・突く」・「鐘や鼓を打つ」、或いは音「サウ(ソウ)」では「鏦鏦」「鏦錚(サウサウ)」で「金属が鳴る音の形容」だからである。しかし、こんな熟語はない。伊良子清白は金属製の打楽器の音を「鏦錚」とするところを誤って書いたか、植字工の誤植か。

「潛然」「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは如何にも脆弱で採れない。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさまである。]

 ウーランド戲曲を草せざるに非らず。Ernst, Herzog von Schwaben, Ludwig der Baier 等は彼の作也。然れども舞臺の配付、臺詞の調合等彼の短處なりき。    (完)

[やぶちゃん注:「Ernst, Herzog von Schwaben」(「エルンスト・シュヴァーベン公」)で一つの題名。一八一五から一八一七年にかけて書かれた作。

「Ludwig der Baier」(「バイエルのルートビヒ」)一八一九年作。幸い、以上の二作については、武田昭氏の論文「ウーラントの二つの戯曲」(PDF)で梗概と解説批評が読める。それによれば、この二篇だけが完成作で、他に二十四もの未完成戯曲があるとある。]

2019/06/29

盾持ちローランド (伊良子暉造(伊良子清白)によるヨハン・ルートビヒ・ウーラントの訳詩)

[やぶちゃん注:以下、底本の「未収録詩篇」の伊良子清白による翻訳詩パート。二篇あるが、孰れもドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派(Schwbische Dichterkreis)の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年:生地チュービンゲン大学で法律を修め、パリに遊学、専攻の法学よりも、フランスやドイツの中世文学に傾倒した。弁護士を経て、自由民権の闘士として、州議会やフランクフルト国民議会の代議士となって活躍する一方、詩作と文学の研究をも続け、その学殖を認められて、一時、出身大学でドイツ文学の員外教授となった。ドイツ統一の夢が破れると、ドイツの中世文学や民謡の研究に専念した。その素朴な叙情詩は自然と郷土への親愛感に溢れ、洗練された格調で、人々に共通の心情や体験を詠じた。伝説や史実に拠る叙事的物語詩が特に優れ、「若きジークフリート」「良き戦友」「居酒屋の娘」などは好んで朗読され、歌曲としても愛唱されている。民謡収集・研究の成果である「ドイツ古民謡集」(一八四四年~一八四五年)は詳しい論考・注釈附きの最初の学問的ドイツ民謡集であり、ドイツの伝説や文学史の論著とともに、今なお高く評価されている。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)のものである。既に先に昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収された「七騎落」(ウーラントの詩篇による翻案詩)及びウーラントの詩篇に基づく「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」(次に出す総標題「野菊」四篇中の最後の二篇をそれぞれ独立させたもの)と、明白にウーラントの訳詩である「森を穿ちて」「ひばり」「狩人のうた」は電子化している。

 本作「盾持ちローランド」は全三十連から成る長詩で、明治二八(一八九五)年の五月・六月・七月発行の『もしほ草紙』(第一号・第二号・第三号)に「上・中・下」に分割して発表したものである。署名は孰れも本名の「伊良子暉造」である。当時、清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。『もしほ草紙』第三号には訳詩完結に合わせてかなりの量の原作者についての評論「ウーラント」も載せており、これは本篇を味読する上で有意に価値があると思われるので、次回、全文を電子化する。

本作の原題は最後に伊良子清白が注記している通り、原題は「Roland Schildträger」(カタカナ音写「ローラント・シルト-トレーガァ」で「盾持ちのローラント」。一八一五年刊)で原詩はドイツ語版ウィキソースのこちらにある。中世フランスの伝説の名騎士ローラン(フランス語:Roland(ローラン)/イタリア語:Orlando(オルランド)):中世ルネサンス期の文学作品に於いて「シャルルマーニュの聖騎士((Paladin:パラディン:高位の騎士称号)」(Charlemagne はフランク王国国王・西ローマ皇帝のカール大帝(七四二年~八一四年)のフランスでの呼称)の筆頭として登場する人物で、シャルルマーニュの甥に当たるとされる。イタリア・フランスの武勲詩の中でもその勇猛果敢な活躍が描かれ、十二世紀始めに成立した「ローランの歌」でとみに知られる。詳しくはウィキの「ローラン(シャルルマーニュ伝説)」「ローランの歌」を参照されたい)の少年時代の武勇伝を扱った非常な長篇叙事詩である。世界史に冥い私には、とてものことに注を附けきれないので、表記上の不審箇所以外は略すこととした。悪しからず。]

 

 

盾持ちローランド

 

 

   其一

 

御階の柳うち靡き、

春面白さアーヘンの、

宮居に來鳴く鶯は、

君が千年や祝ふらむ。

菫の花をむしろにて、

雲雀の聲を歌として、

ゆたけき御代の酒うたげ、

御門カルヽは國々の、

たけき武夫召し集へ、

たのしく遊び給ひけり。

 

   其二

 

御心たけき大君の、

集へる人にの給く、

「白金黃金あや錦、

千々の寶も何かせむ。

森陰くらきアルデネル、

光まばゆき天津日の、

てれるが如く照り渡る、

くしく妙なる玉こそは、

世に類なきたからなれ、

その寶こそその森の、

深き巖間にひそみたる、

巨人の手には隱れたれ。

あはれ雄々しき武夫は、

かくも妙なる寶玉を、

尋ねに行くは誰やらむ。」

 

   其三

 

せ丈の高きバイヱルン、

走るに奔きハイモンや、

弓矢に長けしトルビン侯。

くち鬚しげきガリン伯、

相撲につよきリカルドや、

槍に名を得しミロンなど、

いくさのなきを嘆きたる、

つよく雄々しき武夫の、

鎧をかたに駒に鞍、

巨人の方に向はむと、

ねがはぬ者はなかりけり。


   其四

ミロンの子なるローランド、

二葉の松の霜ゆきも、

知らぬ年にてありながら、

父の袂をひきとめて、

言葉をゝしくいひけるは、

「名譽(ほまれ)も玉も積みそえて、

錦着飾る父上の、

今霄の夢ぞ思はるゝ。

あはれ父上願くは、

おのがたのみを容れ給へ、

年幼くてなかなかに、

森の巨人にむかはむは、

かよわき力のおよばじと、

思ひ給へど父上は、

今日の門出の初陣に、

いとめざましく戰はむ、

槍と盾とをたのみにて、

力を添えむ父上に。」

 

   其五

 

あがきそろえて武夫の、

六人はやがて門出しぬ。

彌生の空のうらゝかに、

吹き來る風も長閑にて、

霞の中にほのぼのと、

一きはしるきアルデネル、

森のすがたも見ゆるなり。

駒も早めて武夫の、

かたみに先をきそひつゝ、

越方遠くなるまゝに、

木立も近く見え初めて、

苔の細道はるばると、

旅の行衞ををしへけり。

嵐をたえて姬小松、

かはらぬ綠行末の、

千世をしめたるローランド、

盾と槍とを右左、

こをどりしてぞ勇みける。

 

   其六

 

朝日の上るあしたにも、

夕月てらすゆふべにも、

たゆまずうまず武夫は、

巖間の寶尋ねけり。

蓬茂れる尾上にも、

落葉かさなる谷間にも、

巖のかげも草叢も、

人のすがたはなかりけり。

春の長日をかりくらし、

一夜の友は草枕、

結びもあへず明けて行く、

曉衣くりかへし、

尋ねあぐみて疲れけむ、

さすがに剛きミロンさへ、

日影をさふる柏樹の、

木の下かげにねぶりけり。

 

   其七

 

折しもあれや遠近の、

木の葉の數も見ゆるまで、

光りまばゆく照り渡り、

木の間を走る小男鹿の、

うは毛のつゆも見ゆるなり。

御空の雲はさながらに、

錦を織りしごとくにて、

谷の小川にうつりては、

黃金の浪をくだくなり。

奇しき光はいやましに、

光まばゆくなりにけり。

心雄々しきローランド、

さとき眼のいち早く、

山のそば路下りくる、

怪しきかげを見とめけり。

 

   其八

 

幼心にローランド、

心靜かに思ふやう、

「あはれ奇しき光かな。

この光こそやがてかの、

世に類なき寶なれ。

さまし奉らんか父上を、

いかにかせまし父上を、

いなわが父はねふるとも、

刀も盾もさめてあり。

駒もねぶらでつなぎたり。

槍もち添えてわれ行かむ。

われも眠りて醒めたれば。」

 

   其九

 

心雄々しく定めたる、

年いとけなき武夫は、

父の燒太刀腰に帶き、

槍を左に盾を右手、

ひたすら父をさまさじと、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をあゆませぬ。

手綱をとりてとめくれば、

松の木立の疎らにて、

落つる雫もおのづから、

黃金を散らすごとくなり。

谷の小川の岨みちを、

つたひつたひて行く程に、

光はいよゝ近きて、

巨人の姿あらはれぬ。

大音聲にローランド、

名のりをあげて呼ひけり。

[やぶちゃん注:「近きて」「ちがづきて」であろう。]

 

   其十

 

いはの峽間につきしとき、

巨人はひくき聲音にて、

いと冷やかに笑ひけり。

笑ひながらもいへるよう、

「峯の砂路にこぼれたる、

藤の木の實のたねよりも、

なほさゝやけき童べ子の、

なにをせむとてなれはかく、

深山路遠くきたるらむ。

なれの騎りたる駒を見よ、

木の間にすくふさゝがにの、

とわたるさまにことならず。

なれの帶びたる太刀を見よ、

秋野の末のかまきりか、

斧をふるふにさも似たり。

笹にもたぐふ其やりと、

紙よりうすきその盾と、

何をせんとて汝はかく、

深山路深く來るらむ、

あかるき中に歸り行け、

道しるべせむなれの爲め。」

 

   其十一

 

「深山路ふかく尋ね入る、

年いとけなきローランド、

いづこをさして歸るべき。

みちしるべこそなかなかに、

汝にこそせめ汝の爲め、

笑ふをやめていざや來よ。

父の傳へしこの槍の、

斬味見せむ今日こそは、

いざやよみ路の道しるべ、

太刀は硏ぎたり燒太刀は、

駒は勇めりあら駒は、

あら面白の今日の日や、

來れや來れ疾(と)く早く。」

 

   其十二

 

巨人の姿見てあれば、

怒りの眼血にあへて、

逆立つ髮のふり亂れ、

こぶしかためし其樣は、

鬼の長(をさ)にもにたりけり。

折しも空のかきくれて、

あやめもわかぬ木下闇、

折々まじる稻妻の、

はためくさまも物凄し。

星かと見ゆる寶玉の、

きらめく方をめあてにて、

槍をすごきてなげ付けぬ。

なげつと思ふひまもなく、

あやしの盾はさかしまに、

飛び來るやりをはねつけぬ。

 

   其十三

 

さとく雄々しきローランド、

手早く太刀をぬき放ち、

盾とたからをこゝろにて、

巨人のすきをうかがびぬ。

さらぬもくらき木下蔭。

嵐の音もそはりきて、

春ともわかぬ物すごさ。

聲をたよりにかけ合す、

太刀の稻妻ひらめきて、

またゝくひまもあらばこそ、

あなやとさけぶ一擊に、

血汐の瀧の沸きあがり、

いはほの上におちつらむ、

あやしき物のびゞきして、

巨人のうではたゝれけり。

 

   其十四

 

たゝれしうでと諸共に、

盾も寶もちりうせて、

怪しく奇(く)しき光さへ、

いつしか分かずなりにけり。

嵐のおとの靜まりて、

村雲遠く立ち別れ、

うらゝに晴るゝ禰生空、

なくなる鳥の聲そえて、

谷の小川の音淸し。

たえなる盾と寶玉は、

巖の上にすてられぬ。

あやしき迄にいたみけむ、

流るゝ血汐にたえかねて、

霜野にすだく蟲の聲、

巨人のいきはたえにけり。

 

   其十五

 

せわしきいきの絕間なく、

年いとけなき武夫は、

うす紅いろの面ばせに、

えならぬ笑みをうかべつゝ、

いくたびとなく行きかへり、

こおどりしては謠ひつゝ、

さては刀をふりかざし、

巨人の髮を手握りて、

右にひだりに前うしろ、

硏ぎたるまゝにこゝかしこ、

太刀にまかせて斬りつけぬ。

血汐のながれみなぎりて、

谷の小川をそめてけり。

[やぶちゃん注:「こおどり」はママ。]

 

   其十六

 

あやしき盾にかくれたる、

妙なる玉をしつかにも、

右のかくしにかくし入れ、

出しては入れつまた出しつ、

まばゆき光をよろこびぬ。

小川の岸を折れ下り、

裳裾の血汐うちそゝぎ、

かわきしのどをうるほしつ、

心もきよくなりぬれば、

太刀をさや帶き盾をもち、

ゆん手に槍をかいこみて、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をかへりきぬ。

柏の木蔭すゞしくて、

うまいの夢のさめやらず、

ミロンはなほも眠りけり。

さすがにたけき童子も、

いとゞいぐさにつかれけむ、

父のかたへを小床にて、

やがて夢路をたどりけり。

[やぶちゃん注:「しつかにも」はママ。「しっかりと」の意であろう。]

 

   其十七

 

柏の廣葉のうちそよぎ、

夕風淸く吹き初めて、

ほのめきいづる三日月の、

細きひかりもあはれなり。

おつる雫に夢さめて、

草の小床をおきはなれ、

森かげ遠くながむれば、

夕といへる手弱女は、

御空靜かに下りつゝ、

薄墨いろの衣手は、

こなたかなたに廣ごりて、

行くべき方も見えわかず、

いぬるわが子をよびさまし、

「はや日も暮れぬ月くらし、

いは間のたから尋ねむは、

今宵をおきていつかある。」

ミロンはをゝしくよばひけり。

[やぶちゃん注:「夕といへる手弱女は」は「ゆふべと言へる手弱女(たをやめ)」で、「『夕(ゆう)べ』という『手弱女(たおやめ)』」、夜を女性に擬人化したもの。]

 

   其十八

 

さゞめく川をたよりにて、

くらき木の間のつゞら折、

右にひだりに行き曲り、

しげる蓬をふみ分て、

二人は遠くたどり來ぬ。

流るゝ星の影見えて、

木立まれなる細みちを、

つたひつたひて來る程に、

月のひかりは暗けれど、

さやかにそれと見とめけり、

あけにそみたる岩が根に、

巨人のからはたふれたり。

 

   其十九

 

年いとけなきローランド、

あたりの樣をながめつゝ、

いともあやしく思ひけり。

巨人の左手は影もなく、

あやしき盾も散りうせて、

よろひも太刀もなかりけり、

針の黑髮たにぎりて、

うちにうちたるかうべさへ、

ありし姿のあともなく、

形見に殘るものとては、

あけにそみたるからなれば。

 

   其二十

 

「深山のおくの森かげに、

杣やま人の切りすてし、

其切株のひろさにて、

幹のすがたぞ思はるゝ。

いふにもまさるこのからは、

森の巨人の名殘なり。

あはれしばしのうたゝ寐に、

名譽も玉もうしなひぬ。

末のうき世の末かけて、

悲しきことのきはみなり。」

ミロンは空をうちあふぎ、

泪に袖をしぼりけり。

 

   其二十一

 

百鳥千鳥囀へつりて、

霞長閑けきアーヘンの、

春の宮居のうつくしさ、

玉の高殿まばゆくて、

天津都を見るばかり。

御門カルヽは白金の、

欄干ちかくたゞずみて、

彼方を遠く眺めつゝ、

「きのふも今日も歸らぬは、

いかにあへなく成りつらむ。

世に武夫のいさましく、

猛夫の中のかの六人、

いづこをさしてたどるらむ。

あなや彼處にきらめくは、

走るに奔きハイモンの、

槍の穗先にあらざるか。」

[やぶちゃん注:「囀へつりて」はママ。]

 

   其二十二

 

しぼれし面わ何となく、

うきをふくめるさま見えて、

駒の手綱も力なく、

御門のまゑを伏し拜み、

血にまみれたる生かうべ、

槍の穗先に貫きぬ。

「たどるも暗き森中に、

眩ゆき玉はあさり得で、

よしなきものゝ生かうべ、

捧くることの耻かしや、

さはさりながらこれもまた、

森の巨人の名殘なり。

これに代えてもいかでわが、

重きつみをもゆるしませ。」

[やぶちゃん注:「まゑ」はママ。「生かうべ」は「なまかうべ」で「生首」のことであろう。「され(しやれ)かうべ」では骨になってしまうから「血にまみれたる」に齟齬する。]

 

   其二十三

 

たけにもあまる手束弓、

張りしまゝにて荒駒の、

あがきをいたく疾めつゝ。

弓矢をほこるトルビンの、

血汐したゝる黑金の、

巨人の右手をさし出し、

先きにはめたる手袋を、

笑ひながらに外づしつゝ。

「しばし御門も見給へよ、

いみじき形見にはべらずや、

世に二つなきこの重荷、

駒のつかれも思はずて、

こゝまで運び候ひぬ。」

 

   其二十四

 

雲をしのぐとたゞゆべき、

高き背丈にくらべては、

類まれなるバイヱルン、

巨人の棒をうちふりて。

御門の方をなかめつゝ、

「土產を見給へこの土產を、

きらめきわたるこの土產は、

おのが丈にもくらぶべき、

長くするどき黑金よ、

寶は得ずていたづらに、

汗とつかれをになひ來ぬ。

うま酒一つたまはれよ、

それこそおのが寶なれ。」

[やぶちゃん注:「たゞゆ」はママ。「讚(稱・頌)(たた)ゆ」(但し、だったら「たたふ」が正しい)であろう。]

 

   其二十五

 

流石に駒もつかれけむ。

徒步のまゝにてリカルドは、

轡をとりてあゆみつゝ、

相撲につよき右の手に、

巨人の太刀を携えつ、

かぶとを腰に結び付け、

御門の方にさしよりぬ。

「森の中にて尋ねなば、

なほ物の具は多からむ。

探らまほしく思ひしも、

いとゞ重荷にかなはずて、

兜と太刀をあさりきぬ。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。]

 

   其二十六

 

くち鬚多きガリン伯、

うれしき事やあるならむ。

遠き方より聲あげて、

巨人の盾をうちふりぬ。

「ガリンは盾をさしあげぬ。

やがて寶もあるならむ。

うれしき聲にとめ來るは、

はやもほまれも歌ふらむ。」

御門カルヽはのたまひぬ。

「あはれ話をきゝ給へ、

岩のそばにてゆくりなく、

おのれは盾を拾ひ來ぬ。

玉はいづこと尋ねしも、

すでに剝がれて候ひき。」

ガリンはやがて答へけり。

 

   其二十七

 

いと勇ましく立出し、

門出の夢はいつしかに、

さめてはかなきアルデネル、

森の木陰のうたゝねに、

名譽も玉も失ひて、

鎧の袖もいとゞ猶、

包みかねたるうき思ひ、

ミロンは首をかたむけつ、

物思はしげなる面もちに、

くもりがちなる眼さしは、

かなしき數をこむるらむ。

父にはかへてローランド、

いと笑ましげにほゝえみつ、

鋭き槍はひだり手に、

盾は右手にたづさえぬ。

 

   其二十八

 

宮居に近く成りしとき、

御門カルヽはうれしげに、

ミロンの方を見給ひぬ。

はぢらふ父は後にして、

心をゝしきローランド、

盾にえりたるくさぐさの、

黃金の飾り剝き去りつ、

かくしの中にひそみたる、

寶をそれに代へければ、

妙なる玉はたちまちに、

朝日の光放ちけり。

 

   其二十九

 

ミロンの盾にさやかなる、

玉のひかりをながめつゝ、

御門カルヽはうれしげに、

手をさしあげてのたまはく、

「あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ、

槍に長けたるミロンこそ、

森の巨人とたゝかひて、

血汐の果のいさをしに、

寶を得たる猛夫なれ。

あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ。

今日のいさをの名譽には、

なれこそやがてかしらなれ。」

 

   其三十

 

まばゆき玉の面影に、

ミロンはいたくあやしみぬ。

「つばらに語れローランド、

いづこの誰にその玉を、

なにの緣に貰ひたる。

類まれなるその玉を、

いかなる人の携えし。」

「父君父君ゆるしませ、

今は語らむ神かけて、

君がうまいのそのひまに、

われは巨人をたふしたり。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。

 以下、伊良子清白の注は底本では全体が本文で一字下げで、ポイントも小さい。]

本詩は獨乙詩人ヨハン、ルードゥイッヒ、ウーランドの作也。原詩 Roland Schildtrager といふ。氏最も滑稽に長じ、其詠ずるところ、多くは中古の勇士譚にあり。本詩も亦その一なり。予今や之を譯す、意を一篇の趣向にとりて、敢へて字句章段の上に及ぼさず。蓋し直譯的文字却て原詩の眞面目を失すれば也。譯詩多く拙劣の文字、一意の條をたまはば幸甚。

2019/06/28

題詩 / (毛布小林)に寄す / (毛布小林)を送る   伊良子清白

 

[やぶちゃん注:以下の三篇は昭和一九(一九四四)年六月五日刊の小林政治著「毛布五十年」という私家版の書籍に載る伊良子清白名義の詩篇である。「題詩」の「躍てゐた」はママ。しかし……かの珠玉の詩集「孔雀船」の詩人の最後の詩篇がこの戦意高揚詩染みたものであったというのは……如何にも淋しい…………

 小林政治(明治一〇(一八七七)年~昭和三一(一九五六)年)ペン・ネームを天眠と称した元小説家で、伊良子清白と同じ『青年文』『文庫』『明星』『よしあし草』といった文芸誌の常連であったが、早くに創作活動から離れ、毛布商人として成功した。与謝野鉄幹とは終生の盟友であったという。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、十五歳で大阪へ奉公に出、二十二歳で毛布問屋を開業後、「大阪変圧器」を設立するなど、実業家として活動、その傍ら「小林天眠」のペンネームで小説を書き、明治二九(一八九六)年に『少年文集』に小説「難破船」を発表、翌年には「浪華青年文学会」を結成して『よしあし草』創刊に協力。『よしあし草』『関西文学』『新小説』『万朝報』などに小説を書いた。また与謝野寛・晶子夫妻の後援者(パトロン)として、晶子に「源氏物語」の全釈をさせるなどし、文人らの物質的援助をしたとあった。

 この年、伊良子清白は満六十七。なお、本篇を以って底本の創作詩篇のパートは終わっている。則ち、生前に公表された詩篇としては、これが現在知られる最後のものとなる。

 伊良子清白は依然として鳥羽小浜で開業医を続けていたが、この翌昭和二十年七月、三重県度会郡七保(ななほ)村大字打見(うちみ)(現在の三重県度会郡大紀町(たいきちょう)打見(グーグル・マップ・データ))へ疎開し、村医として七保村診療所を営んだ。敗戦後の昭和二一(一九四六)年一月十日、七保櫃井原(ひついばら)に於いて、急患の往診途上、脳溢血を起こして倒れ、逝去した。村民はこぞってその死を悼み、十二日、村葬により、「諦翁観山居士」として打見の墓所に葬られた(以上は底本全集年譜に拠った)。満六十八歳と三ヶ月の生涯であった。

 

 

題 詩

 

三代功業の千生瓢簞が

輝くあなたの老後を飾る

あの沸きかへるやうな心齋橋筋の人波に

小林商店の看板は躍てゐた

 

船場の町の發祥地の毛埃は

走り步きの前垂の紐にたまり

たゝかふ上方商人の意欲が

大阪經濟界の側面史を描いた

 

大東亞の島陸山谷都市港灣

「毛布五十年」の展望は賑はふ

「小林產業株式合社」の發足を

次の縹緲の世界が謳ふであらう

 

 

(毛布小林)に寄す

 

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

一億(おく)國民の赤誠(せきせい)が

今日(けふ)の今日(けふ)から

米英擊滅(げきめつ)の焰(ほのほ)となり

大東亞建設(けんせつ)の底力(そこぢから)となる

新(あたら)しい血

新(あたら)しい肉

美(うつく)しい獻(さゝ)げもの

淸(きよ)い飛行機

光る愛國飛行機を

限りなくたてまつる

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

陛下の赤子(せきし)が

陛下(へいか)にたてまつる獻げもの

こんなうれしいことが

 世界の何處(どこ)にあるか

こんな有難(ありがた)いことが世界(せかい)の

 どこの國にあるか

百姓、商人、工員、

勤め人、家妻(いへづま)

老(お)いも若きも男も女も

手に手に

まごころの獻(さゝ)げ物いたす

日本は强い

   

飛行機獻る

わが友小林政治君は

かしこみて「毛布小林」を

 たてまつる

光る愛國飛行機を獻る

今日(けふ)の今日(けふ)から

皇軍(みいくさ)のため、國のため

「毛布小林」は强い

輝(かゞや)く翼(つばさ)

轟(とゞろ)く爆音(ばくおん)

新(あたら)しい雲

新しい風(かぜ)

陛下(へいか)の飛行機「毛布小林」は征(ゆ)く

貴い姿

たのもしい形容(かたち)

全身感激(かんげき)に滿(み)ちて

意氣に燃(も)えて

「毛布小林」は征(ゆ)く

 

 

(毛布小林)を送る


   

ほざく月產一萬機

何んの蚊蜻蛉輪破れ笠

手まひまいらぬ荒料理

今に日本の底力

思ひしらせる時が來る

   

勇士は睨む空の雲

前にうしろに蹴散らかす

凄い一機が體當り

送れ飛行機前線に

一億決死の意氣込(いきごみ)で

   

不二の朝雲今朝(けさ)晴れて

光る愛國新鋭機

「毛布小林」魁けて

爆音高し轟々と

征(ゆ)くよ戰線まつしぐら

   

遠いヒマラヤ印度洋

ガダルカナルやアッツ島

恨を晴らす太平洋

東亞の曙來(く)るまでは

「毛布小林」たのんだぞ

2019/06/26

サイト「鬼火」開設十四周年記念 伊良子清白句集(附・縦書版)

本日のサイト「鬼火」の開設十四周年記念として「伊良子清白句集」縦書版も附けた)を公開した。

2019/06/25

序に代へて 伊良子清白 /(歌集の序の代わりとした詩篇)

 

序に代へて

 

 

   

 

若き人達集(つど)ひて、

涼しき夏の濱邊に、

オリンポスの神々の如(ごと)、

若やかなる饗宴を開きぬ。

靑き髮微風に縺れ、

微笑(ほゝゑみ)の唇忘我の花匂へり。

殘燻未だ山の端に薄く、

蒼茫として萬波一頃(けい)を湛ふ。

島の上投げ揚げられし月の球は、

おどけたる樣(さま)に空に浮び、

雲の林水脈(みを)曳きて、

あるかなきかに漂ふ。

 

   

 

此時我は思ふ。

⦅あはれ、人生の哀求(あいぐ)は、

血の夕暮、淚の曉を過ぎて、

なほ滿し難し。

何故の生死(いきしに)ぞ!、

かの永遠をおもふて、

寂しさ限りなし。

刹那(せつな)の蝶を眼前に追ひ、

愁(うれ)ひの市(まち)に幻(まぼろし)を繫ぐ。

ああ朱(あか)き陽(ひ)は虞淵(ぐゑん)に沒りぬ。

われは老いて之を知る、

われは哭(な)きて人に告ぐ、

紅顏の因緣(いはれ)を、

欒園の悲哀(ひあい)を。

死者よ、紺碧の氷河を越えて去れ。

嬰兒(みどりご)よ、月界の崫(いはや)を開きて來れ。

すべてはとどまらず、すべては慌(あわただ)し、

滅(ほろ)びの奏鳴曲(ソナタ)!、

時の妖魔(あやかし)蒼ざめて立つ。

パンドーラの小筐(ばこ)の紐は美し⦆と。

 

   

 

おお、黃金の牡牛よ、

偉大の肉體よ、

健康の立像よ

淸艶の薔薇(せうび)に

聖愛の祠(ほこら)を齋(いつ)きて

光耀(くわうゑう)の白鳥(はくてう)は

魂(たましひ)の故鄕(ふるさと)に翔(かけ)る。

ああ、今し滿ちきたる新潮(にひじほ)の音、勝利の響

とうとうとして、トリトン螺(ら)を吹く。

(饗宴の莚(むしろ)、酣なりや)

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年二月二十五日志支良社刊の「志支浪歌集」。署名は「伊良子清白」。「!、」の読点はママ。「虞淵(ぐゑん)」と後の「光耀(くわうゑう)」のルビの「ゑ」は孰れもママ。「小筐(ばこ)」の「ばこ」は「筐」一字へのルビ。本歌集は清白が特別同人となっていた三重歌壇の代表的歌人印田巨鳥(いんだきょちょう 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)の主宰した歌誌『志支浪』(しきなみ)の単行アンソロジー歌集である。但し、この月を以って同誌は休刊しているから(戦後に復刊している)、その名残の集大成とも言うべきものであろう。清白は本書に「歸鄕」と総標題した十二首の新作短歌を発表している。なお言っておくと、私は大の短歌嫌いなので、向後、伊良子清白の短歌群を電子化する意思は残念ながら全くない。悪しからず。それはまた、私のような好事家で短歌好きの方がやってくれることを期待されよ。但し、詩篇電子注化も残すところ五篇なので、近々、伊良子清白の全俳句は電子化するつもりではある。

「頃(けい)」は本来は中国古代からの田畑の面積単位で百畝相当(時代によって大きさは異なる)であるが、ここは「萬頃」(ばんけい)の熟語で「水面が広々としていること」を指す。

「虞淵(ぐゑん)」(歴史的仮名遣は「ぐえん」でよい)は中国の伝説上の、太陽の没するところとされる場所。]

2019/06/24

種子 伊良子清白

 

種 子

 

初冬の

晴れたる緣に

夕顏の種子(たね)を干し

厚き紙に包み

机の抽斗(ひきだし)に深く藏めぬ

 

落葉して

冬の眠に入る

木々と共に

夕顏の種子は

生きてあり

 

大地柔らぎて

夕顏の播かるる日

一粒の種子は

夢よりさめて

靜かに

眼(まなこ)開かん

 

  また

 

稚子の齒ににたる

うす白(じろ)き

夕顏の種子を

掌(たなぞこ)にのせ

動かせば

つぶやく音して

寄りあひぬ

 

  また

 

深山幽谷に

落ちる木の實が

岩の上で

ころがるやうに

わたしのてのひらに

夕顏のたねは

あそんでゐる

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年一月一日発行の『女性時代』(第十二年第一号)。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、当年満六十四。同年十二月八日、太平洋戦争勃発。]

學歌 伊良子清白 / 現在の京都府立医科歯科大学(伊良子清白の出身校の後身)の公式学歌

 

學 歌

 

   一

比叡(ひえ)は明(あ)けたり鴨(かも)の水(みづ)

學城(がくじやう)立(た)てり儼(げん)として

眞理(まこと)の證(あかし)神祕(くしび)の扉(と)

生命(いのち)の燭火(ともし)常(とこ)照(て)りて

星(ほし)の群花(むればな)地(つち)を灼(や)く

   二

鐘鳴(かねな)る白晝(まひる)かうかうと

橘井(きつせい)の健兒(けんじ)眉(まゆ)昂(あが)る

制霸(せいは)の業(げふ)を受(う)け繼(つ)がん

豪邁(がうまい)の歌(うた)鑠石(しやくせき)の

巷(ちまた)の風(かぜ)に轟(とゞろ)きぬ

   三

見(み)よ夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の月(つき)

靑蓮(せいれん)の花(はな)今(いま)咲(さ)きて

圓(まど)に匂(にほ)ふ史(ふみ)の色(いろ)

永久(とは)の學府(がくふ)の榮光(かゞやき)は

綠(みどり)の旗(はた)の虹(にじ)の橋(はし)

   四

神(かみ)と澄(す)むもの雪(ゆき)祭(まつ)り

醫道(いだう)古賢(こけん)の敎(をしえ)あり

生贄(いけにへ)の日(ひ)の曙(あけぼの)に

燃(も)ゆる血潮(ちしほ)を捧(さゝ)げ來(き)ぬ

仁慈(めぐみ)の愛(あい)の赫灼(あかあか)と

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年作の母校京都医学校の後身である京都府立医科歯科大学の学歌作詞の依頼を受けて、八月に完成したもの。署名は「伊良子清白」。作曲は服部正。「をしえ」はママ。本年、清白、満六十三。同大学「学生便覧」(PDF)の六十八ページに楽譜附きで載る。なお、校歌は別にあり、金子伊昔紅(いせきこう)作詞で(俳人金子兜太の父で医師で俳人)、次のページに載る(但し、金子伊昔紅の名を「金子伊音紅」と誤っている)こちらで全曲を混声合唱とオーケストラで聴くことが出来る(それによればこの曲は通称「比叡は明けたり」と呼ばれているらしい)。京都府立医科大学校史パンフの一部と思われるものの、第五章「激動の医科大学――戦争と民主化の渦にもまれて」(PDF)の最後にも載るが(作詞・作曲の次行に皇紀で『紀元二千六百年九月』と附すから、公式に学校・学生へ披露されたのは翌九月であったことが判る)、ここでは「教」のルビが正しく「をしへ」となっているものの、一番の「燭火(ともし)」が「独火」と致命的に誤っている

 同大学公式サイトの沿革によれば、同校は、京都市民らの請願を受けた僧侶が発起人となり、寺院・町衆・花街などから寄附を募って設立、運営を京都府に乞い、明治五(一八七二)年十一月、京都東山の名刹粟田口にある青蓮院内に仮療病院を設け、患者の治療を行う傍ら、医学生を教育したものが発祥であった。明治一三(一八八〇)年七月に現在地である上京区河原町通広小路上る梶井町に療病院を移転し、明治十五年、「文部省達第四号医学校通則」に準拠し「甲種医学校」と認定された(伊良子清白は明治三二(一八九九)年にここを卒業した)。後、明治三六(一九〇三)年六月に「専門医学令」により「京都府立医学専門学校」となり、大正一〇(一九二一)年十月には「大学令」により「京都府立医科大学」を設置(同時に予科を開設)している。

「學歌」とは校歌とは異なり、学生たちの歌のニュアンスなのであろうか。

「橘井(きつせい)」医者のこと。西晋・東晋期の葛洪(かっこう)著と伝えられる神仙書「神仙伝」に、漢の蘇仙公が死に臨んで母に遺言して、「来年は疫病が流行するが,庭の井戸水と軒端の橘の葉とを用いれば、病を治すことができる」と告げ,果たしてその通りとなった。この故事から転じて「橘井」を医師の敬称となった。因みに、京都府立医科大学の校章には「橘の葉」がデザインされており、現在の「京都府立医科大学リポジトリ」の名は「橘井(きっせい)」である。

「鑠石(しやくせき)」石をも溶かす暑さを言う。この四番歌は恐らくは四季をイメージしているもので、とすれば「二」は夏で、苛烈な京の夏の暑さを意識しつつ、医学生の医道研鑚への熱意を掛けたものと私はとる。]

2019/06/23

ゆく春三章 伊良子清白

 

ゆく春三章

 

 

  ほのぼの遠き

 

ほのぼの遠き海の果

白帆はすぎて春山幾日(いくひ)

椿は落ちぬ音もなく

岩の峽間(はざま)の波のうへ

 

躑躅(つゝじ)花燃え山煙り

鷗(かもめ)叫びて海靑し

いそのこちごち霞立つ

春のわかれの浪の音

 

 

  東の、東の

 

東(ひんがし)の、東(ひんがし)の

見えざる遠(とほ)に伊豆はあり

伊豆の七島(なゝしま)まぼろしの

沖のとよもす潮騷(しほさゐ)は

そなたよりこそきこえくれ

牡丹繪がける鰹舟

燒津(やいづ)のふねも往くらんか

 

 

  磯のかけぢの

 

磯の懸路(かけぢ)の

夜の空は

星影淡(あは)く

波靜か

漕ぎ囘(た)む舟の

櫓の軋(きし)み

夜網揚ぐるか

岸づたひ

ぬすむがごとき

水の音

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年六月一日『花椿』(第三巻第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白六十二歳。

「懸路(かけぢ)」原義は「険しい道」であるが、近世、崖の中腹に懸けた桟道の意でも用いた。ここは後者で私はとる。

「囘(た)む」マ行上二段活用の上代よりの古い自動詞。「ぐるりと巡る」の意。]

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