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カテゴリー「石川啄木」の10件の記事

2020/02/27

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ。満二十六歳で没した)の遺構歌文集にして第二歌集である「悲しき玩具」の初版は、彼の逝去から二ヶ月後の明治四五(一九一二)年六月二十日に刊行された(発行は二年前の第一歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月一日発行)と同じ東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店)。総歌数百九十四首。定価五十銭。

 啄木は既に「一握の砂」の冒頭注で述べた通り、明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、明治四十三年四月より彼が主担当となっていた(病気のために続けられなくなり、当該事務の引継ぎは明治四十四年十二月一日に療養中の自宅で行われた)。啄木はこの明治四十四年一月十三日に同僚記者の紹介で、後に本遺稿集を纏めることとなる歌人土岐哀果(善麿 明治一八(一八八五)年~昭和五五(一九八〇)年)と逢い、意気投合、文芸詩想雑誌『樹木と果實』の創刊を企図している(同誌は同三月に土岐が編集したが、印刷所の不誠実から発行が難航、結局、契約を破棄し、創刊は実現しなかった。土岐はこの最晩年・末期の啄木をよく支えた)。しかし同月末頃に体調不調に気づき、同年二月一日、東京帝大医科大学付属医院で「慢性腹膜炎」の診断を受けて入院(この間、「余病無し」と診察されて結核病室から一般病室に移っている)、三月十五日に退院、以後、自宅療養となる。しかし、同年七月二十八日、同病院で妻節子が「肺尖加答兒(カタル)」(肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変)で伝染の危険性を指摘された。さらに明治四十五年一月二十三日には二人の医師の診断によって母カツが年来の結核と診断されて老齢(数え六十六)であることから生命の危険ありとされる(彼らの感染順序は明らかでない)。そのおよそ一ヶ月後の三月七日にセツは逝去した。四月五日には啄木重態の報知を受け、室蘭にいた父一禎が上京している。四月九日、土岐の奔走(実際には前日に見舞いに来た土岐とも親しかった若山牧水がその経緯の中に入っている)で第二詩集出版の契約を結び、窮乏を極めていた啄木の懇請で原稿料前借二十円を得、これが啄木最期の薬料となった。四月十三日早朝、危篤に陥り、午前九時三十分、父・節子・牧水に看取られて永眠。妻節子は二ヶ月後の六月十四日に次女房江を産むが、夫の死に遅れること僅か一年、翌大正二年五月五日、同じく肺結核により亡くなった(以上の事績は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でも概ねそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」同様、「悲しき玩具」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多く、底本が初版に拠るものが少ない。底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」(私が人生で最初に買った一回払いでは最も高額な叢書だった)の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。四六版判・並製雁だれ表紙・天金・アンカット装(今回この電子化のために初めてカットした)・ジャケット付。表紙は焦茶色霜降紙に本文共紙の題簽(墨・濃茶の二色刷)貼。見返しと本文はともに簀目入り洋紙。ジャケットは白色簀目入り洋紙に墨・茶の二色刷である(この装本データは同セットの解説書に拠った)。底本の一部を画像で配しておいた。但し、歌集本文では、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「悲しき玩具〔一握の砂以後〕」(日本語正字正仮名表記)を加工データとして使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは先の「一握の砂」などで幾つかの問題点(最も問題なのはルビがないこと)や誤植(冒頭二首からして三行目の一字下げが行われていないことや、読点の脱落が有意に散見される)が見出せること、更に歌の順列に錯誤もあり、初版の歌集の後に載る評論(原本目次では「(感想)」とある)「一利己主義者と友人との對話」「歌のいろいろ」(「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」)が載っていないこと等々から、私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審点は注記を加えた。また、注では「一握の砂」に引き続き、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」を参考にさせて戴く。

 なお、底本本文の短歌群はほぼ総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。

 本歌文集「悲しき玩具」という標題は、末尾に載る「歌のいろいろ」(明治四三(一九一〇)年十二月十日・十二日・十八日・二十日『東京朝日新聞』初出)の掉尾にある、

   *

○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

   *

に基づく。底本の「紫陽花セット」解説書の小田切進氏の解説によれば、土岐は歌稿ノートの扉にある『一握の砂以後――四十三年十一月末より』をそのまま表題としようとしたが、『東雲堂から、それでは『一握の砂』とまぎらわしいので困ると言われ』、ここから『採ってこの第二歌集の表題としたという』とある。

 「一握の砂」の冒頭注でも述べたが、或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月二十七日始動 藪野直史】]

 

Gangukaba

 

[やぶちゃん注:カバー(両端の内折りは広げていない)。背の部分の汚点は私の底本の三十七年の経年劣化による染み汚損。ガラス書棚の中に防虫・乾燥剤とともに入れてあったが、保護ケースを外していたために汚れてしまった。]

 

Ganguhyousi

 

[やぶちゃん注:本体の表紙・背・裏表紙。]

 

 

[やぶちゃん注:扉。印刷された左ページのみを示した。以下に電子化して本電子データの標題とする。]

 

悲 し き 玩 具

(一握の砂以後)

石 川 啄 木

 

――(四十三年十一月末より)――

 

 

[やぶちゃん注:扉を開くと左(右ページは白紙)中央に、以下の目次。「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」。]

 

   内  容

一握の砂以後百九十四首   (歌)

一利己主義者と友人との對話 (感想)

歌のいろいろ           (感想)

 

[やぶちゃん注:以上をめくると、左(右ページは白紙)中央に、改めて以下の中表紙。]

 

 

 悲 し き 玩 具

    ――一握 の 砂 以 後――

 

 

[やぶちゃん注:以下、歌集本文に入る(ノンブル開始。『 2 』。ここからアンカット装が始まる。版組を味わって戴くために、最初の四首の見開きページのみ画像で示す。]

 

Kanasikihonbun1

 

 

呼吸(いき)すれば、

胸(むね)の中(うち)にて鳴(な)る音(おと)あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音(おと)!

 

 呼吸すれば、

 胸の中にて鳴る音あり。

  凩よりもさびしきその音!

[やぶちゃん注:三行目の一字下げはママ(第二首目も)。以降に出版された本歌集に於いても踏襲されており、筑摩版全集でもそうなっている。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、『巻頭作品であるが』、『その表現形式と内容から、明治四十四』(一九一一)『年晩秋から晩冬にかけての作と思われる』とされ、『この一首と次の「眼閉(めと)づれど」の歌は歌集の原稿となった啄木の「一握の砂以後」という歌稿ノートにはなかったもので、友人の土岐哀果が歌集の編集をしたおり、啄木の遺品の中より発見した紙片に書かれていたものである』とある。]

 

   *

 

眼(め)閉(と)づれど、

心(こころ)にうかぶ何(なに)もなし。

 さびしくも、また、眼(め)をあけるかな。

 

 眼閉づれど、

 心にうかぶ何もなし。

  さびしくも、また、眼をあけるかな。

 

   *

 

途中(とちう)にてふと氣(き)が變(かは)り、

つとめ先(さき)を休(やす)みて、今日(けふ)も、

河岸(かし)をさまよへり。

 

 途中にてふと氣が變り、

 つとめ先を休みて、今日も、

 河岸をさまよへり。

 

   *

 

咽喉(のど)がかわき、

まだ起(お)きてゐる果物屋(くだものや)を探(さが)しに行(ゆ)きぬ。

秋(あき)の夜(よ)ふけに。

 

 咽喉がかわき、

 まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。

 秋の夜ふけに。

 

   *

 

遊(あそ)びに出(で)て子供(こども)かへらず、

取(と)り出(だ)して、

走(はし)らせて見(み)る玩具(おもちや)の機關車(きかんしや)。

 

 遊びに出て子供かへらず、

 取り出して、

 走らせて見る玩具の機關車。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、「子供」は当時『五歳の長女京子』である。京子は戸籍は「京」で、明治三九(一九〇六)年の年末十二月二十九日に盛岡の妻の実家で生まれた(出生当時の啄木は渋民尋常高等小学校の代用教員であった)。]

 

   *

 

本(ほん)を買ひたし、本を買ひたしと、

あてつけのつもりではなけれど、

妻に言ひてみる。

 

 本を買ひたし、本を買ひたしと、

 あてつけのつもりではなけれど、

 妻に言ひてみる。

 

   *

 

旅(たび)を思(おも)ふ夫(をつと)の心(こころ)!

叱(しか)り、泣(な)く、妻子(つまこ)の心(こころ)!

朝(あさ)の食卓(しよくたく)!

 

 旅を思ふ夫の心!

 叱り、泣く、妻子の心!

 朝の食卓!

 

   *

 

家(いへ)を出(で)て五町(ちやう)ばかりは、

用(よう)のある人(ひと)のごとくに

步いてみたれど――

 

 家を出て五町ばかりは、

 用のある人のごとくに

 步いてみたれど――

[やぶちゃん注:「五町」約五百四十五メートル半。「五」にルビはない。]

 

   *

 

痛(いた)む齒(は)をおさへつつ、

日(ひ)が赤赤(あかあか)と

冬(ふゆ)の靄(もや)の中(なか)にのぼるを見(み)たり。

 

 痛む齒をおさへつつ、

 日が赤赤と、

 冬の靄の中にのぼるを見たり。

 

   *

 

 

いつまでも步(ある)いてゐねばならぬごとき

思(おも)ひ湧(わ)き來(き)ぬ、

深夜(しんや)の町町(まちまち)。

 

 いつまでも步いてゐねばならぬごとき

 思ひ湧き來ぬ、

 深夜の町町。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『秀才文壇』明治四四(一九一一)年一月号で、初出形は、

 

 いつまでも步いてゐねばならぬ如き

 思ひ湧き來ぬ

 深夜の都

 

『とあるとことから、「深夜の町町」は東京であることがわかる』とある。]

 

   *

 

なつかしき冬(ふゆ)の朝(あさ)かな。

湯(ゆ)をのめば、

湯氣(ゆげ)がやはらかに、顏に(かほ)かかれり。

 

 なつかしき冬の朝かな。

 湯をのめば、

 湯氣がやはらかに、顏にかかれり。

 

   *

 

何(なん)となく、

今朝(けさ)は少(すこ)しくわが心(こころ)明(あか)るきごとし。

手(て)の爪(つめ)を切(き)る。

 

 何となく、

 今朝は少しくわが心明るきごとし。

 手の爪を切る。

 

   *

 

うつとりと

本(ほん)の插繪(さしゑ)に眺(なが)め入(い)り、

煙草(たばこ)の煙(けむり)吹(ふ)きかけてみる。

 

 うつとりと

 本の插繪に眺め入り、

 煙草の煙吹きかけてみる。

 

   *

 

途中(とちう)にて乘換(のりかへ)の電車(でんしや)なくなりしに、

泣(な)かうかと思(おも)ひき。

雨(あめ)も降(ふ)りてゐき。

 

 途中にて乘換の電車なくなりしに、

 泣かうかと思ひき。

 雨も降りてゐき。

 

   *

 

二晚(ふたばん)おきに

夜(よ)の一時頃(じごろ)に切通(きりどほし)の坂(さか)を上(のぼ)りしも――

勤(つと)めなればかな。

 

 二晚おきに

 夜の一時頃に切通の坂を上りしも――

 勤めなればかな。

[やぶちゃん注:「一」にルビはない。岩城氏前掲書によれば、『この歌は歌集初出であるが、記事順からみて歌稿ノート開始時期の作と考えられる』とされつつ、『今井泰子氏は歌稿ノートの開始を明治四十四』(一九一一)『年一月十八日以後二十九日以前と推定』されておられることから、それが正しいとすれば、『この一首は啄木が夜勤した時期ではなく、「その夜勤をやめた後の作で、終電車の過ぎたあと湯島の坂をのぼり本郷の家に辿りついた夜々を回想しているのである。」(本林勝夫氏)ということになろう』とされ、『月額十円になる夜勤を中止しなければならぬほど当時の啄木の健康は蝕まれていたのである』と評しておられる。されば、彼が東京朝日新聞社の夜勤勤務をやめた時期が判らないが、この回想内時制は入院した(冒頭注参照)明治四十四年二月四日よりも有意に前であって(彼が同新聞社に入社したのは明治四十二年三月一日で既に本郷に住んでいたが、歌の順列とロケーションからみて、家族を呼び寄せて新居を本郷区本郷弓町二丁目(現在の文京区本郷二丁目のここ「文京区」公式サイトのこちらで確認した。グーグル・マップ・データ)に構えた同年六月十六日より後のことであることは確実と思われる)、明治四十三年中の可能性が高いように思われる。]

 

   *

 

しつとりと

酒(さけ)のかをりにひたりたる

腦(のう)の重(おも)みを感(かん)じて歸(かへ)る。

 

 しつとりと

 酒のかをりにひたりたる

 腦の重みを感じて歸る。

 

   *

 

今日(けふ)もまた酒(さけ)のめるかな!

酒(さけ)のめば

胸(むね)のむかつく癖(くせ)を知(し)りつつ。

 

 今日もまた酒のめるかな!

 酒のめば

 胸のむかつく癖を知りつつ。

 

   *

 

何事(なにごと)か今(いま)我(われ)つぶやけり。

かく思(おも)ひ、

目(め)をうちつぶり、醉(ゑ)ひを味(あぢは)ふ。

 

 何事か今我つぶやけり。

 かく思ひ、

 目をうちつぶり、醉ひを味ふ。

 

   *

 

すつきりと醉(ゑ)ひのさめたる心地(ここち)よさよ!

夜中(よなか)に起(お)きて、

墨(すみ)を磨(す)るかな。

 

 すつきりと醉ひのさめたる心地よさよ!

 夜中に起きて、

 墨を磨るかな。

 

   *

 

眞夜中(まよなか)の出窓(でまど)に出(い)でて、

欄干(らんかん)の霜(しも)に

手先(てさき)を冷(ひ)やしけるかな。

 

 眞夜中の出窓に出でて、

 欄干の霜に

 手先を冷やしけるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『早稲田文学』明治四四(一九一一)年一月号で、『啄木が住んでいた喜之床』(きのとこ:新井理髪店)『の二階は三尺幅のバルコニーを隔てて弓町二丁目の通りに面していたが、この歌の「出窓」と「欄干」はこのバルコニーをさす』とある。俳諧で非常にお世話なっている個人サイト内の「啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡」を見られたい。現在、当時の「喜之床」の建物が明治村に復元されてあり、その写真もある。]

 

   *

 

どうなりと勝手(かつて)になれといふごとき

わがこのごろを

ひとり恐(おそ)るる。

 

 どうなりと勝手になれといふごとき

 わがこのごろを

 ひとり恐るる。

 

   *

 

手(て)も足(あし)もはなればなれにあるごとき

ものうき寐覺(ねざめ)!

かなしき寐覺(ねざめ)!

 

 手も足もはなればなれにあるごとき

 ものうき寐覺!

 かなしき寐覺!

 

   *

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

撫(な)でてかなしむ、

下(した)にして寢(ね)た方(はう)の腿(もも)のかろきしびれを。

 

 朝な朝な

 撫でてかなしむ、

 下にして寢た方の腿のかろきしびれを。

 

   *

 

曠野(あらの)ゆく汽車(きしや)のごとくに、

このなやみ、

ときどき我(われ)の心(こころ)を通(とほ)る。

 

 曠野ゆく汽車のごとくに、

 このなやみ、

 ときどき我の心を通る。

 

   *

 

みすぼらしき鄕里(くに)の新聞(しんぶん)ひろげつつ、

誤植(ごしよく)ひろへり。

今朝(けさ)のかなしみ。

 

 みすぼらしき鄕里の新聞ひろげつつ、

 誤植ひろへり。

 今朝のかなしみ。

[やぶちゃん注:仕事柄の哀しい因果である。当時、啄木は東京朝日新聞社の校正係であった。岩城氏前掲書によれば、『「郷里の新聞」は盛岡の「岩手新報」であろう。当時』、『岩手新報の主筆は啄木の盛岡高等小学校時代の恩師新渡戸仙岳であったので、東京時代の啄木は毎日』、『同紙の寄贈を受けていた』とある。]

 

   *

 

誰(たれ)か我(われ)を

思(おも)ふ存分(ぞんぶん)叱(しか)りつくる人(ひと)あれと思(おも)ふ。

何(なん)の心(こころ)ぞ。

 

 誰か我を

 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。

 何の心ぞ。

 

   *

 

何(なに)がなく

初戀人(はつこひびと)のおくつきに詣(まう)づるごとし。

郊外(こうぐわい)に來(き)ぬ。

 

 何がなく

 初戀人のおくつきに詣づるごとし。

 郊外に來ぬ。

[やぶちゃん注:「初戀人」を同定する評論も盛んにあるようだが、私は寧ろ、「初戀人のおくつきに詣づるごと」き、誰にも普遍化され得る回想郷愁の感懐を大切にして鑑賞するのがよいと感ずる。]

 

   *

 

なつかしき

故鄕にかへる思ひあり、

久し振りにて汽車に乘りしに。

 

 なつかしき

 故鄕にかへる思ひあり、

 久し振りにて汽車に乘りしに。

 

   *

 

新(あたら)しき明日(あす)の來(きた)るを信(しん)ずといふ

自分(じぶん)の言葉(ことば)に

噓(うそ)はなけれど――

 

 新しき明日の來るを信ずといふ

 自分の言葉に

 噓はなけれど――

 

   *

 

考(かんが)へれば、

ほんとに欲(ほ)しと思(おも)ふこと有(あ)るやうで無(な)し。

煙管(きせる)をみがく。

 

 考へれば、

 ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。

 煙管をみがく。

 

   *

 

今日(けふ)ひよいと山(やま)が戀(こ)ひしくて

山(やま)に來(き)ぬ。

去年(きよねん)腰掛(こしか)けし石(いし)をさがすかな。

 

 今日ひよいと山が戀ひしくて

 山に來ぬ。

 去年腰掛けし石をさがすかな。

 

   *

 

朝寢(あさね)して新聞(しんぶん)讀(よ)む間(ま)なかりしを

負債(ふさい)のごとく

今日(けふ)も感(かん)ずる。

 

 朝寢して新聞讀む間なかりしを

 負債のごとく

 今日も感ずる。

[やぶちゃん注:この一首、彼が朝日新聞社社員であることをまず念頭に置かずに漫然と読んではいけない。]

 

   *

 

よごれたる手(て)をみる――

ちやうど

この頃(ごろ)の自分(じぶん)の心(こころ)に對(むか)ふがごとし。

 

 よごれたる手をみる――

 ちやうど

 この頃の自分の心に對ふがごとし。

 

   *

 

よごれたる手(て)を洗(あら)ひし時(とき)の

かすかなる滿足(まんぞく)が

今日(けふ)の滿足(まんぞく)なりき。

 

 よごれたる手を洗ひし時の

 かすかなる滿足が

 今日の滿足なりき。

 

2020/02/24

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 手套を脱ぐ時 (その2) / 「一握の砂」~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。]

 

 

よく怒(いか)る人(ひと)にてありしわが父(ちち)の

日(ひ)ごろ怒(いか)らず

怒(いか)れと思(おも)ふ

 

 よく怒る人にてありしわが父の

 日ごろ怒らず

 怒れと思ふ

 

 

あさ風(かぜ)が電車(でんしや)のなかに吹(ふ)き入(い)れし

柳(やなぎ)のひと葉(は)

手(て)にとりて見(み)る

 

 あさ風が電車のなかに吹き入れし

 柳のひと葉

 手にとりて見る

 

 

ゆゑもなく海(うみ)が見(み)たくて

海(うみ)に來(き)ぬ

こころ傷(いた)みてたへがたき日(ひ)に

 

 ゆゑもなく海が見たくて

 海に來ぬ

 こころ傷みてたへがたき日に

 

 

たひらなる海(うみ)につかれて

そむけたる

目(め)をかきみだす赤(あか)き帶(おび)かな

 

 たひらなる海につかれて

 そむけたる

 目をかきみだす赤き帶かな

 

 

今日(けふ)逢(あ)ひし町(まち)の女(をんな)の

どれもどれも

戀(こひ)にやぶれて歸(かへ)るごとき日(ひ)

 

 今日逢ひし町の女の

 どれもどれも

 戀にやぶれて歸るごとき日

 

 

汽車(きしや)の旅(たび)

とある野中(のなか)の停車場(ていしやば)の

夏草(なつくさ)の香(か)のなつかしかりき

 

 汽車の旅

 とある野中の停車場の

 夏草の香のなつかしかりき

 

 

朝(あさ)まだき

やつと間(ま)に合ひし初秋(はつあき)の旅出(たびで)の汽車(きしや)の

堅(かた)き麺麭(ぱん)かな

 

 朝まだき

 やつと間に合ひし初秋の旅出の汽車の

 堅き麺麭かな

[やぶちゃん注:「ぱん」はママ。全集も同じ。]

 

 

かの旅(たび)の夜汽車(よぎしや)の窓(まど)に

おもひたる

我(わが)がゆくすゑのかなしかりしかな

 

 かの旅の夜汽車の窓に

 おもひたる

 我がゆくすゑのかなしかりしかな

 

 

ふと見(み)れば

とある林(はやし)の停車場(ていしやば)の時計(とけい)とまれり

雨(あめ)の夜(よ)の汽車(きしや)

 

 ふと見れば

 とある林の停車場の時計とまれり

 雨の夜の汽車

 

 

わかれ來(き)て

燈火(ひかり)小暗(をぐら)き夜(よ)の汽車(きしや)の窓(まど)弄(もてあそ)ぶ

靑(あを)き林檎(りんご)よ

 

 わかれ來て

 燈火小暗き夜の汽車の窓弄ぶ

 靑き林檎よ

 

 

いつも來(く)る

この酒肆(さかみせ)のかなしさよ

ゆふ日(ひ)赤赤(あかあか)と酒(さけ)に射(さ)し入(い)る

 

 いつも來る

 この酒肆のかなしさよ

 ゆふ日赤赤と酒に射し入る

 

 

白(しろ)き蓮沼(はすぬま)に咲(さ)くごとく

かなしみが

醉(ゑ)ひのあひだにはつきりと浮(う)く

 

 白き蓮沼に咲くごとく

 かなしみが

 醉ひのあひだにはつきりと浮く

 

 

壁(かべ)ごしに

若(わか)き女(をんな)の泣(な)くをきく

旅(たび)の宿屋(やど)の秋(あき)の蚊帳(かや)かな

 

 壁ごしに

 若き女の泣くをきく

 旅の宿屋の秋の蚊帳かな

 

 

取(と)りいでし去年(こぞ)の袷(あはせ)の

なつかしきにほひ身(み)に沁(し)む

初秋(はつあき)の朝(あさ)

 

 取りいでし去年の袷の

 なつかしきにほひ身に沁む

 初秋の朝

 

 

氣(き)にしたる左(ひだり)の膝(ひざ)の痛(いた)みなど

いつか癒(なほ)りて

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 氣にしたる左の膝の痛みなど

 いつか癒りて

 秋の風吹く

 

 

賣(う)り賣(う)りて

手垢(てあか)きたなきドイツ語(ご)の辭書(じしよ)のみ殘(のこ)る

夏(なつ)の末(すゑ)かな

 

 賣り賣りて

 手垢きたなきドイツ語の辭書のみ殘る

 夏の末かな

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、『このドイツ語の辞書は啄木がドイツ語の自習を始めた明治三十九』(一九〇六)『年八月、そのころ東京帝国大学に在学中の友人金田一京助より譲られた、明治三十年販の井上哲次郎著『新独和辞典』で、現在』、『市立函館図書館に遺品として保存されている』とある。]

 

 

ゆゑもなく憎(にく)みし友(とも)と

いつしかに親(した)しくなりて

秋(あき)の暮(く)れゆく

 

 ゆゑもなく憎みし友と

 いつしかに親しくなりて

 秋の暮れゆく

 

 

赤紙(あかがみ)の表紙(へうし)手擦(てず)れし

國禁(こくきん)の

書(ふみ)を行李(かうり)の底(そこ)にさがす日(ひ)

 

 赤紙の表紙手擦れし

 國禁の

 書を行李の底にさがす日

[やぶちゃん注:「赤紙の表紙」「國禁」から社会主義関連の書物であることは明白。岩城氏前掲書に、それが『手擦れているのは、この書物がひそかに同志の手から手に渡っている間にそうなったことを示している』とある。]

 

 

賣(う)ることを差(さ)し止(と)められし

本(ほん)の著者(ちよしや)に

路(みち)にて會(あ)へる秋(あき)の朝(あさ)かな

 

 賣ることを差し止められし

 本の著者に

 路にて會へる秋の朝かな

 

 

今日(けふ)よりは

我(われ)も酒(さけ)など呷(あふ)らむと思(おも)へる日(ひ)より

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 今日よりは

我も酒など呷らむと思へる日より

秋の風吹く

 

 

大海(だいかい)の

その片隅(かたすみ)につらなれる島島(しまじま)の上(うへ)に

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 大海の

 その片隅につらなれる島島の上に

 秋の風吹く

 

 

うるみたる目(め)と

目(め)の下(した)の黑子(ほくろ)のみ

いつも目(め)につく友(とも)の妻(つま)かな

 

 うるみたる目と

 目の下の黑子のみ

 いつも目につく友の妻かな

 

 

いつ見(み)ても

毛糸(けいと)の玉(たま)をころがして

韈(くつした)を編(あ)む女(をんな)なりしが

 

 いつ見ても

 毛糸の玉をころがして

 韈を編む女なりしが

 

 

葡萄色(ゑびいろ)の

長椅子(ながいす)の上(うへ)に眠(ねむ)りたる猫(ねこ)ほの白(じろ)き

秋(あき)のゆふぐれ

 

 葡萄色の

 長椅子の上に眠りたる猫ほの白き

 秋のゆふぐれ

 

 

ほそぼそと

其處(そこ)ら此處(ここ)らに蟲(むし)の鳴(な)く

晝(ひる)の野(の)に來(き)て讀(よ)む手紙(てがみ)かな

 

 ほそぼそと

 其處ら此處らに蟲の鳴く

 晝の野に來て讀む手紙かな

 

 

夜(よる)おそく戶(と)を繰(く)りをれば

白(しろ)きもの庭(には)を走(はし)れり

犬(いぬ)にやあらむ

 

 夜おそく戶を繰りをれば

 白きもの庭を走れり

 犬にやあらむ

 

 

夜(よ)の二時(にじ)の窓(まど)の硝子(ガラス)を

うす紅(あか)く

染(そ)めて音(おと)なき火事(かじ)の色(いろ)かな

 

 夜の二時の窓の硝子を

 うす紅く

 染めて音なき火事の色かな

 

 

あはれなる戀(こひ)かなと

ひとり呟(つぶや)きて

夜半(よは)の火桶(ひをけ)に炭(すみ)添(そ)へにけり

 

 あはれなる戀かなと

 ひとり呟きて

 夜半の火桶に炭添へにけり

 

 

眞白(ましろ)なるラムプの笠(かさ)に

手(て)をあてて

寒(さむ)き夜(よ)にする物思(ものおも)ひかな

 

 眞白なるラムプの笠に

 手をあてて

 寒き夜にする物思ひかな

 

 

水(みづ)のごと

身體(からだ)をひたすかなしみに

葱(ねぎ)の香(か)などのまじれる夕(ゆふべ)

 

 水のごと

 身體をひたすかなしみに

 葱の香などのまじれる夕

 

 

時(とき)ありて

猫(ねこ)のまねなどして笑(わら)ふ

三十路(みそぢ)の友(とも)のひとり住(ず)みかな

 

 時ありて

 猫のまねなどして笑ふ

 三十路の友のひとり住みかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、歌稿では、最初、

 時ありて猫のまねなどしてみせる友をこの頃哀れと思ふ

と詠んだのを、

 時ありて猫のまねなどして笑ふ三十路の友が酒のめば泣く

と推敲し、初出の明治四三(一九一〇)年八月十五日附『東京朝日新聞』では、

 時ありて猫の眞似などして笑ふ友を此頃哀れと思ふ

と直し、本作品集で、かく改稿したとある。]

 

 

氣弱(きよわ)なる斥候(せつこう)のごとく

おそれつつ

深夜(しにゃ)の街(まち)を一人(ひとり)散步(さんぽ)す

 

 氣弱なる斥候のごとく

 おそれつつ

 深夜の街を一人散步す

[やぶちゃん注:「斥候」敵情や地形などを秘かに探るために差し向けられた兵。]

 

 

皮膚(ひふ)がみな耳(みみ)にてありき

しんとして眠ねむ)れる街(まち)の

重(おも)き靴音(くつおと)

 

 皮膚がみな耳にてありき

 しんとして眠れる街の

 重き靴音

[やぶちゃん注:前歌との組み写真である。]

 

 

夜(よる)おそく停車場(ていしやば)に入(い)り

立(た)ち坐(すわ)り

やがて出(い)でゆきぬ帽(ぼう)なき男(おとこ)

 

 夜おそく停車場に入り

 立ち坐り

 やがて出でゆきぬ帽なき男

[やぶちゃん注:これは実景でもよいが、私は自己写像の客観描写であると断ずる。]

 

 

氣(き)がつけば

しつとりと夜霧(よぎり)下(お)りて居(を)り

ながくも街(まち)をさまよへるかな

 

 氣がつけば

 しつとりと夜霧下りて居り

 ながくも街をさまよへるかな

 

 

若(も)しあらば煙草(たばこ)惠(めぐ)めと

寄(よ)りて來(く)る

あとなし人(びと)と深夜(しんや)に語(かた)る

 

 若しあらば煙草惠めと

 寄りて來る

 あとなし人と深夜に語る

[やぶちゃん注:「あとなし人」浮浪者。]

 

 

曠野(あらの)より歸(かへ)るごとくに

歸(かへ)り來(き)ぬ

東京(とうきやう)の夜(よ)をひとりあゆみて

 

 曠野より歸るごとくに

 歸り來ぬ

 東京の夜をひとりあゆみて

 

 

銀行(ぎんかう)の窓(まど)の下(した)なる

鋪石(しきいし)の霜(しも)にこぼれし

靑(あを)インクかな

 

 銀行の窓の下なる

 鋪石の霜にこぼれし

 靑インクかな

 

 

ちよんちよんと

とある小藪(こやぶ)に頰白(ほおじろ)の遊(あそ)ぶを眺(なが)む

雪(ゆき)の野(の)の路(みち)

 

 ちよんちよんと

 とある小藪に頰白の遊ぶを眺む

 雪の野の路

 

 

十月(じふぐわつ)の朝(あさ)の空氣(くうき)に

あたらしく

息吸(いきす)ひそめし赤坊(あかんぼ)のあり

 

 十月の朝の空氣に

 あたらしく

 息吸ひそめし赤坊のあり

[やぶちゃん注:作歌は明治四三(一九一〇)年十月四日。この日、啄木の妻節子は東京帝国大学構内の医科大学付属病院産婦人科で長男を分娩、「眞一」と名づけた。岩城氏前掲書によれば、六日後の『十月十日』に『盛岡の友人岡山儀七にこの旨を』書簡で『伝え、三首の歌を書きそえているが、その一首がこの歌で』あったとある。]

 

 

十月(じふぐわつ)の產病院(さんびやうゐん)の

しめりたる

長(なが)き廊下(らうか)のゆきかへりかな

 

 十月の產病院の

 しめりたる

 長き廊下のゆきかへりかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『前歌の』『前に掲げられているので、これは愛児の忌まれる前の、妻の安産を祈って産病院の長い廊下をそわそわと行きつ戻りつしている啄木の父親としえの心境を歌ったものと解したい』と述べておられる。]

 

 

むらさきの袖(そで)垂(た)れて

空(そら)を見上(みあ)げゐる支邦(しなじん)人ありき

公園(こうゑん)の午後(ごご)

 

 むらさきの袖垂れて

 空を見上げゐる支邦人ありき

 公園の午後

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で今井泰子氏の評を引用され、この中国人が来ている服の色の『「紫は中国では貴紳が着用する高貴な色であるからこの清国人は相当の家柄のひとであろう。袖垂れているのは平常でも拱手の姿勢をとっている中国人にとってはくつろいだ姿勢であった」と評し、この中国人の着ている中国服は今日の工人服ではなく昔の旗袍(チーパオ)であろうと指摘している』とある。「工人服」は中国で通常の労働者が着ていた作業服で、「旗袍(チーパオ)」は現行では所謂「チャイナドレス」を指すが、ここは男性であろうと私は思うので「満洲服」の意と採る。但し、これは中国人の主体である漢民族の民族服(漢服)ではなく、「満洲人の民族衣装に西洋の要素を融合した服」である。]

 

 

孩兒(をさなご)の手(て)ざはりのごとき

思(おも)ひあり

公園(こうえん)に來(き)てひとり步(あゆ)めば

 

 孩兒の手ざはりのごとき

 思ひあり

 公園に來てひとり步めば

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、作歌は明治四十三年十月十三日夜とする。長男真一は、この五日後の二十七日夜零時過ぎ死亡した。

 

 

ひさしぶりに公園(こうゑん)に來(き)て

友(とも)に會(あ)ひ

堅(かた)く手握(てにぎ)り口疾(くちど)に語(かた)る

 

 ひさしぶりに公園に來て

 友に會ひ

 堅く手握り口疾に語る

[やぶちゃん注:「口疾に」口早やに。岩城氏前掲書によれば、『この友は北原白秋らしく』、啄木死後の『大正十五』(一九二六)『年七月刊行の』「アルス名歌選十三編」の『『石川啄木選集』を白秋が選集したおり、その序文に「彼の死の一年前、私は思ひがけなく浅草のルナパアク園庭で彼と邂逅した事があつた。彼は私を見てやアと顔をかがやかした。而も固く握手しながら口疾に二人は二人はしやべつた。これは彼の歌にもある。」と書いている』とある。『彼の一年前』というのはやや不審であるが(啄木の死去は明治四五(一九一二)年四月十三日で、本歌集刊行はその二年前の明治四十三年十二月一日刊行で、本歌の初出は『創作』明治四十三年十一月号であるから、二人の邂逅はその年の十月以前である)、これはまあ、確かにそれらしくは見える。]

 

 

公園(こうえん)の木(こ)の間(ま)に

小鳥(ことり)あそべるを

ながめてしばし憩(いこ)ひけるかな

 

 公園の木の間に

 小鳥あそべるを

 ながめてしばし憩ひけるかな

[やぶちゃん注:岩城氏は諸資料から、この「公園」は浅草公園とされる。]

 

 

晴れし日の公園に來て

あゆみつつ

わがこのごろの衰へを知る

 

 晴れし日の公園に來て

 あゆみつつ

 わがこのごろの衰へを知る

 

 

思出(おもひで)のかのキスかとも

おどろきぬ

プラタヌの葉(は)の散(ち)りて觸(ふ)れしを

 

 思出のかのキスかとも

 おどろきぬ

 プラタヌの葉の散りて觸れしを

[やぶちゃん注:「プラタヌ」プラタナスであるが、本邦で見かけるのはヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis と同属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis との交配種であるモミジバスズカケノキPlatanus × acerifolia であることが多い。]

 

 

公園(こうゑん)の隅(すみ)のベンチに

二度(にど)ばかり見(み)かけし男(をとこ)

このごろ見(み)えず

 

 公園の隅のベンチに

 二度ばかり見かけし男

 このごろ見えず

 

 

公園(こうゑん)のかなしみよ

君(き)の嫁(とつ)ぎてより

すでに七月(ななつき)來(こ)しこともなし

 

 公園のかなしみよ

 君の嫁ぎてより

 すでに七月來しこともなし

[やぶちゃん注:これについては特異的に岩城氏の前掲書の評釈の総てを引用させて戴く。初出は『創作』『明治四十三年十月号。作歌』は『明治四十三年九月九日夜。この歌で問題になるのは「君の嫁ぎて」の「君」であろう。啄木の閲歴の中で「君」と歌われ親しまれているのは橘智恵子、堀田秀子、小奴(近江ジン)の三人である。この作歌は九月であるから』、『その「七月」前は明治四十三年二月ということになる。しかし橘智恵子と堀田秀子はこの時期結婚していない。とすると芸者小奴ということになる。彼女は当時釧路で大阪炭鉱を経営する大阪鉱業会社の重役逸見豊之輔の愛人であったが、明治四十三年一月二十八日逸見の子の貞子を生んだ。したがってこの歌のモデルは小奴で、正式の結婚ではないが、その直後逸見の子供をもうけたことを知った啄木がその事実を「嫁ぎて」と表現したのであろう。啄木は以後小奴と疎遠になるが、彼の胸中には失われた美しい面影に対する無限の哀惜があったことをこの一首は物語っている』とある。]

 

 

公園(こうゑん)のとある木蔭(こかげ)の捨椅子(すていす)に

思(おも)ひあまりて

身(み)をば寄(よ)せたる

 

 公園のとある木蔭の捨椅子に

 思ひあまりて

 身をば寄せたる

[やぶちゃん注:前歌と同じ日の創作であり、組写真と考えてよい。]

 

 

忘(わす)られぬ顏(かほ)なりしかな

今日(けふ)街(まち)に

捕吏(ほり)にひかれて笑(ゑ)める男(をとこ)は

 

 忘られぬ顏なりしかな

 今日街に

 捕吏にひかれて笑める男は

 

 

マチ擦(す)れば

二尺(にしやく)ばかりの明(あか)るさの

中(なか)をよぎれる白(しろ)き蛾(が)のあり

 

 マチ擦れば

 二尺ばかりの明るさの

 中をよぎれる白き蛾のあり

[やぶちゃん注:「マチ」。マッチ(match)。燐寸。]

 

 

目(め)をとぢて

口笛(くちぶえ)かすかに吹(ふ)きてみぬ

寐(ね)られぬ夜(よる)の窓(まど)にもたれて

 

 目をとぢて

 口笛かすかに吹きてみぬ

 寐られぬ夜の窓にもたれて

 

 

わが友(とも)は

今日(けふ)も母(はは)なき子(こ)を負(お)ひて

かの城址(しろあと)にさまよへるかな

 

 わが友は

 今日も母なき子を負ひて

 かの城址にさまよへるかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、「城址」は盛岡城(不来方(こずかた)城)とする。また、『「一握の砂」第五章「手套を脱ぐ時」はこの歌をもって終わる予定であったが、歌集の校正刷を見た十月二十九日が、愛児真一の火葬の日であったため』、『挽歌七首を追加し』たとある。

 

 

夜(よる)おそく

つとめ先(さき)よりかへり來(き)て

今(いま)死(し)にしてふ兒(こ)を抱(だ)けるかな

 

 夜おそく

 つとめ先よりかへり來て

 今死にしてふ兒を抱けるかな

 

 

二三(ふたみ)こゑ

いまはのきはに微(かす)かにも泣(な)きしといふに

なみだ誘(さそ)はる

 

 二三こゑ

 いまはのきはに微かにも泣きしといふに

 なみだ誘はる

 

 

眞白(ましろ)なる大根(だいこん)の根(ね)の肥(こ)ゆる頃(ころ)

うまれて

やがて死(し)にし兒(こ)のあり

 

 眞白なる大根の根の肥ゆる頃

 うまれて

 やがて死にし兒のあり

 

 

おそ秋(あき)の空氣(くうき)を

三尺(さんじやく)四方(しはう)ばかり

吸(す)ひてわが兒(こ)の死(し)にゆきしかな

 

 おそ秋の空氣を

 三尺四方ばかり

 吸ひてわが兒の死にゆきしかな

 

 

死(し)にし兒(こ)の

胸(むね)に注射(ちうしや)の針(はり)を刺(さ)す

醫者)(いしや)の手(て)もとにあつまる心(こころ)

 

 死にし兒の

 胸に注射の針を刺す

 醫者の手もとにあつまる心

[やぶちゃん注:詮無いカンフル注射である。「注射」の歴史的仮名遣は「ちゆうしや」で構わない。]

 

 

底知(そこし)れぬ謎(なぞ)に對(むか)ひてあるごとし

死兒(しじ)のひたひに

またも手(て)をやる

 

 底知れぬ謎に對ひてあるごとし

 死兒のひたひに

 またも手をやる

 

 

かなしみの强(つよ)くいたらぬ

さびしさよ

わが兒(こ)のからだ冷(ひ)えてゆけども

 

 かなしみの强くいたらぬ

 さびしさよ

 わが兒のからだ冷えてゆけども

 

 

かなしくも

夜明(よあ)くるまでは殘(のこ)りゐぬ

息(いき)きれし兒(こ)の肌(はだ)のぬくもり

 

 かなしくも

 夜明くるまでは殘りゐぬ

 息きれし兒の肌のぬくもり

 

 

 

             ――(をはり)――

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥付であるが、リンクで示し大方をここで述べて省略する。クレジットは、

 明治四十三年十一月廿八日印刷

 明治四十三年十二月 一 日發行

で、「著者」は

             石川 啄木

「發行者」は

             西村寅次郞

「發行所」は。

 東京市京橋區南傳馬町三丁目十番地

             東雲堂書店

で、「定價金六拾錢」とある。因みに、奥附裏には啄木の詩集「あこがれ」の広告が載り、後に同書店の広告が連なる。]

2020/02/21

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 手套を脱ぐ時 (その1)

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。なんだか疲れたので、二つに分割して示す。]

 

    手套を脫ぐ時

 

手套(てぶくろ)を脫(ぬ)ぐ手(て)ふと休(やす)む

何(なに)やらむ

こころかすめし思(おも)ひ出(で)のあり

 

 手套を脫ぐ手ふと休む

 何やらむ

 こころかすめし思ひ出のあり

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月号とし、この時、『作者の心をかすめた思い出は、東京日日新聞明治四十三年四月八日号に掲げられたこの歌の原型ともいうべき「褐色(かついろ)の皮の手套脱ぐ時にふと君が手を思ひ出(で)にけり」から察することができる』と述べておられる。]

 

 

いつしかに

情(じやう)をいつはること知(し)りぬ

髭(ひげ)を立(た)てしもその頃(ころ)なりけむ

 

 いつしかに

 情をいつはること知りぬ

 髭を立てしもその頃なりけむ

 

 

朝(あさ)の湯(ゆ)の

湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載(の)せ

ゆるく息(いき)する物思(ものおも)ひかな

 

 朝の湯の

 湯槽のふちにうなじ載せ

 ゆるく息する物思ひかな

[やぶちゃん注:以下四首は、底本としている「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版が、画像作成ミスで「214」頁と「215」頁が飛んでしまっているために視認出来ない。そこで、ずっと新しいが、国立国会図書館デジタルコレクションの「一握の砂」(昭和二一(一九四六)年高須書房刊)の当該歌を確認したが、それはルビを省略してあるものであるため、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文のルビを補い、本文も校合した。

 

 

夏來(なつく)れば

うがひ藥(ぐすり)の

病(やまひ)ある齒(は)に沁(し)む朝(あさ)のうれしかりけり

 

 夏來れば

 うがひ藥の

 病ある齒に沁む朝のうれしかりけ

 

 

つくづくと手(て)をながめつつ

おもひ出(い)でぬ

キスが上手(じやうず)の女(をんな)なりしが

 

 つくづくと手をながめつつ

 おもひ出でぬ

 キスが上手の女なりしが

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月三十一日附『東京朝日新聞』。また、『「キスが上手の女」は釧路時代』、『交遊のあった芸者小奴であろう。明治四十一年十二月一日、上京した彼女と再会した啄木は、上野の不忍(しのばず)の池(いけ)のほとりを手をとって歩き、日記にも「別れる時キツスをした」と書いている』とある。]

 

 

さびしきは

色(いろ)にしたしまぬ目(め)のゆゑと

赤(あか)き花(はな)など買(か)はせけるかな

 

 さびしきは

 色にしたしまぬ目のゆゑと

 赤き花など買はせけるかな

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「一握の砂」(昭和二一(一九四六)年高須書房刊)の当該歌を確認したが、「ゆゑ」が「ゆへ」となっており、歴史的仮名遣を誤っている。しかし、基礎底本である「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版の次のページから、幸いなことに辛うじて裏が透けて見え、正しく「ゆゑ」と書かれていることが判り、筑摩書房版石川啄木全集で確認し、「ゆゑ」とした。

 

 

新(あたら)しき本(ほん)を買(か)ひ來(き)て讀(よ)む夜半(よは)の

そのたのしさも

長(なが)くわすれぬ

 

 新しき本を買ひ來て讀む夜半の

 そのたのしさも

 長くわすれぬ

 

 

 

旅(たび)七日(なのか)

かへり來(き)ぬれば

わが窓(まど)の赤(あか)きインクの染(し)みもなつかし

 

 旅七日

 かへり來ぬれば

 わが窓の赤きインクの染みもなつかし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月十八日附『東京朝日新聞』であるが、全集年譜(同じく岩城氏編)でこれ以前の直近を遡ってみても、上京以後、一週間の旅をした事実は見当たらない。従ってこれは上京以前の過去に遡った追想によるものであると考えられる。]

 

 

古文書(こもんじよ)のなかに見(み)いでし

よごれたる

吸取紙(すひとりがみ)をなつかしむかな

 

 古文書のなかに見いでし

 よごれたる

 吸取紙をなつかしむかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書では、「古文書」を文字通りのそれではなく、啄木自身の『古い草稿の類をさす。啄木は』自分が過去に書いた『古い小説の原稿や詩稿の中にまじっていた一枚の、「よごれた吸取紙」に創作に熱中した過去の自己の姿を想起して、懐かしく思ったのである』とあり、腑に落ちる、というより、自分の過去の草稿を「古文書」と表現するのは詩語としてはかなり無理があるのであるが、「吸取紙をなつかしむかな」という感慨によって、それでなくてはならぬなという読者側の読みが決定するようになっており、自然、そう読めるようになっていると言える。穿って考えれば、自己のたかだか数年前の草稿類を「古文書」と意識する辺りに、啄木の微苦笑の向こうに、いかにもやるせない憂鬱な触覚的悲哀的感情の発露があるように思われる。

 

 

手(て)にためし雪(ゆき)の融(と)くるが

ここちよく

わが寐飽(ねあ)きたる心(こころ)には沁(し)む

 

 手にためし雪の融くるが

 ここちよく

 わが寐飽きたる心には沁む

 

 

薄(うす)れゆく障子(しやうじ)の日影(ひかげ)

そを見(み)つつ

こころいつしか暗(くら)くなりゆく

 

 薄れゆく障子の日影

 そを見つつ

 こころいつしか暗くなりゆく

 

 

ひやひやと

夜(より)は藥(くすり)の香(か)のにほふ

醫者(いしや)が住(す)みたるあとの家(いへ)かな

 

 ひやひやと

 夜は藥の香のにほふ

 醫者が住みたるあとの家かな

 

 

窓硝子(まどガラス)

塵(ちり)と雨(あめ)とに曇(くも)りたる窓硝子(まどガラス)にも

かなしみはあり

 

 窓硝子

 塵と雨とに曇りたる窓硝子にも

 かなしみはあり

 

 

六年(むとせ)ほど日每日每(ひごとひごと)にかぶりたる

古(ふる)き帽子(ぼうし)も

棄(す)てられぬかな

 

 六年ほど日每日每にかぶりたる

 古き帽子も

 棄てられぬかな

[やぶちゃん注:最後は無論、「どうしても捨てられないものだなあ」である。また、その前の累加の係助詞「も」は私には――「私自身」と同様に――というアイロニーをも感ずるものである。]

 

 

こころよく

春(はる)のねむりをむさぼれる

目(め)にやはらかき庭(には)の草(くさ)かな

 

 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやはらかき庭の草かな

 

 

赤煉瓦(あかれんぐわ)遠(とほ)くつづける高塀(たかべい)の

むらさきに見(み)えて

春(はる)の日(ひ)ながし

 

 赤煉瓦遠くつづける高塀の

 むらさきに見えて

 春の日ながし

 

 

春(はる)の雪(ゆき)

銀座(ぎんざ)の裏(うら)の三階(さんがい)の煉瓦造(れんぐわづくり)に

やはらかに降(ふ)る

 

 春の雪

 銀座の裏の三階の煉瓦造に

 やはらかに降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は明治四十三年五月十六日附『東京朝日新聞』で、そこでは「春の雪滝山町(たきやまちやう)の三階の煉瓦造(れんぐわづくり)によこさまに降る」であるとある。而して『この歌は啄木が勤務した東京朝日新聞社のあった瀧山町(現在の中央区銀座六丁目朝日ビル前の並木通り)附近の煉瓦造りの建物に降る春の雪を歌ったことがわかる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

よごれたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)に

降(ふ)りて融(と)け降(ふ)りては融(と)くる

春(はる)の雪(ゆき)かな

 

 よごれたる煉瓦の壁に

 降りて融け降りては融くる

 春の雪かな

 

 

目(め)を病(や)める

若(わか)き女(をんな)の倚(よ)りかかる

窓(まど)にしめやかに春(はる)の雨降(あめふ)る

 

 目を病める

 若き女の倚りかかる

 窓にしめやかに春の雨降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年五月二十一日附『東京朝日新聞』で、「手帳の中より」と題する五首の中の一首であるが、初出形は、

 目を病める女の夜(よる)の獨唱(そろ)よりも猶しめやかに春の雨降る

であるとされる。私は初出の方が好きだ。]

 

 

あたらしき木(き)のかをりなど

ただよへる

新開町(しんかいまち)の春(はる)の靜(しづ)けさ

 

 あたらしき木のかをりなど

 ただよへる

 新開町の春の靜けさ

 

 

春(はる)の街(まち)

見(み)よげに書(か)ける女名(をんなな)の

門札(かどふだ)などを讀(よ)みありくかな

 

 春の街

 見よげに書ける女名の

 門札などを讀みありくかな

[やぶちゃん注:「見よげ」如何にも「さあ! 御覧なさいよ!」といった感じに、の意。]

 

 

そことなく

蜜柑(みかん)の皮(かは)の燒(や)くるごときにほひ殘(のこ)りて

夕(ゆふべ)となりぬ

 

 そことなく

 蜜柑の皮の燒くるごときにほひ殘りて

 夕となりぬ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出の明治四十二年十二月号『スバル』では、

 そことなく蜜柑の皮のやくる如き香ひ殘りて夕となりぬ

とあまり変わらないものの、この一首、同年二月十七日附『国民新聞』にも再掲されているが、そこでは、

 そことなく蜜柑(みかん)の皮の燒くるごときにほひ殘りき君去りしのち

と一度大きく改変してあって、こちらは映像が全く異なるが、これは前の女の表札じゃあないが、如何にもでろりとしたこれ見よがしで、決定稿が、やはり、よい。]

 

 

にぎはしき若(わか)き女(をんな)の集會(あつまり)の

こゑ聽(き)き倦(う)みて

さびしくなりたり

 

 にぎはしき若き女の集會の

 こゑ聽き倦みて

 さびしくなりたり

 

 

何處(どこ)やらに

若(わか)き女(をんな)の死(し)ぬごとき惱(なや)ましさあり

春(はる)の霙降(みぞれふ)る

 

 何處やらに

 若き女の死ぬごとき惱ましさあり

 春の霙降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月二十八日附『東京朝日新聞』。初出形は、

 何處やらに肺病患者(やみ)の死ぬ如き惱ましさあり春の霙(みぞれ)降る

であるとする。「やみ」は「患者」二字へのルビである。]

 

 

コニヤツクの醉(ゑ)ひのあとなる

やはらかき

このかなしみのすずろなるかな

 

 コニヤツクの醉ひのあとなる

 やはらかき

 このかなしみのすずろなるかな

[やぶちゃん注:「すずろなる」はここでは「何とはなしに」「そこはかとなく」の意。]

 

 

白(しろ)き皿(さら)

拭(ふ)きては棚(たな)に重(かさ)ねゐる

酒場(さかば)の隅(すみ)のかなしき女(をんな)

 

 白き皿

 拭きては棚に重ねゐる

 酒場の隅のかなしき女

[やぶちゃん注:丁度、今、展覧会が開かれている私の好きな後ろ姿の女性を多く描いたデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi 一八六四年~一九一六年)の絵を想起させる。]

 

 

乾(かは)きたる冬(ふゆ)の大路(おほぢ)の

何處(いづく)やらむ

石炭酸(せきたんさん)のにほひひそめり

 

 乾きたる冬の大路の

 何處やらむ

 石炭酸のにほひひそめり

[やぶちゃん注:「石炭酸」フェノール (phenol:ベンゾール(benzenol))は有機化合物でC6H5OH。芳香族化合物の一種。常温では白色の結晶を成し、水彩絵具のような特有の鼻を衝く薬品臭を持つ劇薬。水で薄めたものが消毒液として用いられ、嘗てはよく街に撒かれた。]

 

 

赤赤(あかあか)と入日(いりひ)うつれる

河(かは)ばたの酒場(さかば)の窓(まど)の

白(しろ)き顏(かほ)かな

 

 赤赤と入日うつれる

 河ばたの酒場の窓の

 白き顏かな

 

 

新(あた)しきサラドの皿(さら)の

酢(す)のかをり

こころに沁(し)みてかなしき夕(ゆふべ)

 

 新しきサラドの皿の

 酢のかをり

 こころに沁みてかなしき夕

[やぶちゃん注:「サラド」サラダ(salad)。]

 

 

空色(そらいろ)の罎(びん)より

山羊(やぎ)の乳(ちち)をつぐ

手(て)のふるひなどいとしかりけり

 

 空色の罎より

 山羊の乳をつぐ

 手のふるひなどいとしかりけり

[やぶちゃん注:詠歌対象はカフェか酒場の女給であろう。]

 

 

すがた見(み)の

息(いき)のくもりに消(け)されたる

醉(ゑ)ひのうるみの眸(まみ)のかなしさ

 

 すがた見の

 息のくもりに消されたる

 醉ひのうるみの眸のかなしさ

[やぶちゃん注:憂愁の自己ポートレート。]

 

 

ひとしきり靜(しづ)かになれる

ゆふぐれの

厨(くりや)にのこるハムのにほひかな

 

 ひとしきり靜かになれる

 ゆふぐれの

 厨にのこるハムのにほひかな

[やぶちゃん注:酒場のキッチンの嗅覚的スケッチ。]

 

 

ひややかに罎(びん)のならべる棚(たな)の前(まへ)

齒(は)せせる女(をんな)を

かなしとも見(み)き

 

 ひややかに罎のならべる棚の前

 齒せせる女を

 かなしとも見き

 

 

やや長(なが)きキスを交(かは)して別(わか)れ來(き)し

深夜(しんや)の街(まち)の

遠(とほ)き火事(くわじ)かな

 

 やや長きキスを交して別れ來し

 深夜の街の

 遠き火事かな

 

 

病院の窓のゆふべの

ほの白き顏にありたる

淡き見覺え

 

 病院の窓のゆふべの

 ほの白き顏にありたる

 淡き見覺え

 

 

何時(いつ)なりしか

かの大川(おほかは)の遊船(いうせん)に

舞(ま)ひし女(をんな)をおもひ出(で)にけり

 

 何時なりしか

 かの大川の遊船に

 舞ひし女をおもひ出にけり

 

 

用(よう)もなき文(ふみ)など長(なが)く書(か)きさして

ふと人(ひと)こひし

街(まち)に出(で)てゆく

 

 用もなき文など長く書きさして

 ふと人こひし

 街に出てゆく

 

 

しめらへる煙草(たばこ)を吸(す)へば

おほよその

わが思(おも)ふことも輕(かる)くしめれり

 

 しめらへる煙草を吸へば

 おほよその

 わが思ふことも輕くしめれり

 

 

するどくも

夏(なつ)の來(きた)るを感(かん)じつつ

雨後(うご)の小庭(こには)の土(つち)の香(か)を嗅(か)ぐ

 

 するどくも

 夏の來るを感じつつ

 雨後の小庭の土の香を嗅ぐ

 

 

すずしげに飾(かざ)り立(た)てたる

硝子屋(ガラスや)の前(まへ)にながめし

夏(なつ)の夜(よ)の月(つき)

 

 すずしげに飾り立てたる

 硝子屋の前にながめし

 夏の夜の月

 

 

君(きみ)來(く)るといふに夙(と)く起(お)き

白(しろ)シヤツの

袖(そで)のよごれを氣(き)にする日(ひ)かな

 

 君來るといふに夙く起き

 白シヤツの

 袖のよごれを氣にする日かな

 

 

おちつかぬ我(わ)が弟(おとうと)の

このごろの

眼(め)のうるみなどかなしかりけり

 

 おちつかぬ我が弟の

 このごろの

 眼のうるみなどかなしかりけり

[やぶちゃん注:啄木(本名は一(はじめ))には弟はいない(姉二人と妹二人)。岩城氏の前掲書によれば、この「弟」は、『彼が』渋民尋常小学校の『代用教員時代』に、『二階を間借りしていた家の』『「我が弟」といって可愛がった』『少年』『斎藤佐蔵』であるとある。彼は盛岡中学校の後輩にも当たり、後、長く岩手郡下の校長を務めた。]

 

 

どこやらに杭打(くいう)つ音(おと)し

大桶(おほおけ)をころがす音(おと)し

雪(ゆき)ふりいでぬ

 

 どこやらに杭打つ音し

 大桶をころがす音し

 雪ふりいでぬ

 

 

人氣(ひとけ)なき夜(よ)の事務室(じむしつ)に

けたたましく

電話(でんわ)の鈴(りん)の鳴(な)りて止(や)みたり

 

 人氣なき夜の事務室に

 けたたましく

 電話の鈴の鳴りて止みたり

 

 

目(め)さまして

ややありて耳(みみ)に入(い)り來(きた)る

眞夜中(まよなか)すぎの話聲(はなしごゑ)かな

 

 目さまして

 ややありて耳に入り來る

 眞夜中すぎの話聲かな

 

 

見(み)てをれば時計(とけい)とまれり

吸(す)はるるごと

心(こころ)はまたもさびしさに行(ゆ)く

 

 見てをれば時計とまれり

 吸はるるごと

 心はまたもさびしさに行く

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『前歌と連作』とある。]

 

 

朝朝(あさあさ)の

うがひの料(しろ)の水藥(すゐやく)の

罎(びん)がつめたき秋(あき)となりにけり

 

 朝朝の

 うがひの料の水藥の

 罎がつめたき秋となりにけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月二十六日附『東京朝日新聞』で、評釈に今井泰子氏の評を引いて、『「初出の月や同時発表に諸歌の主題からみて秋の歌ではなく、指先の触感がとらえた『秋』の印象に仮託して、悲しくものなつかしい感情をうた」』『ったものであろう』とされる。]

 

 

夷(なだら)かに麥(むぎ)の靑(あを)める

丘(をか)の根(ね)の

小徑(こみち)に赤(あか)き小櫛(をぐし)ひろへり

 

 夷かに麥の靑める

 丘の根の

 小徑に赤き小櫛ひろへり

[やぶちゃん注:「夷」には「平らか・穏やか・平らにする」の意がある。]

 

 

裏山(うらやま)の杉生(すぎふ)のなかに

斑(まだら)なる日影(ひかげ)這(は)ひ入(い)る

秋(あき)のひるすぎ

 

 裏山の杉生のなかに

 斑なる日影這ひ入る

 秋のひるすぎ

 

 

港町(みなとまち)

とろろと鳴(な)きて輪(わ)を描(ゑが)く鳶(とび)を壓(あつ)せる

潮(しほ)ぐもりかな

 

 港町

 とろろと鳴きて輪を描く鳶を壓せる

 潮ぐもりかな

 

 

小春日(こはるび)の曇硝子(くもりガラス)にうつりたる

鳥影(とりかげ)を見(み)て

すずろに思(おも)ふ

 

 小春日の曇硝子にうつりたる

 鳥影を見て

 すずろに思ふ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木の小説「鳥影(ちょうえい)』(『東京朝日新聞』明治四十一年十一月から十二月に連載)『によると、盛岡地方ではガラスに鳥影がうつると客が来るという言い伝えがあるといわれる』とある。同小説の当該部は「(五)の一」の末尾のシークエンスであるが、鳥の影が映るのは『障子』である。

「小春日」冬の初め頃の、暖かく穏やかな、一見、春のような日やその日差し。]

 

 

ひとならび泳(およ)げるごとき

家家(いへいへ)の高低(たかひく)の軒(のき)に

冬(ふゆ)の日(ひ)の舞(ま)ふ

 

 ひとならび泳げるごとき

 家家の高低の軒に

 冬の日の舞ふ

 

 

京橋(きやうばし)の瀧山町(たきやまちやう)の

新聞社(しんぶんしや)

灯(ひ)ともる頃(ころ)のいそがしさかな

 

 京橋の瀧山町の

 新聞社

 灯ともる頃のいそがしさかな

[やぶちゃん注:「京橋の瀧山町」既出既注であるが、当時、啄木が勤務していた東京朝日新聞社は、この頃は東京府東京市京橋区瀧山町であった。こちらで同町の詳しい変遷史が判る。]

2020/02/19

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「忘れがたき人人 一」はこちら

 學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パート全二十二首は総て恋歌で、『いずれも啄木が教鞭をとった函館区立弥生尋常小学校の同僚の女教師橘智恵子(戸籍チエ)を詠めるものである』井上伸興氏の「啄木と三人の女性」に三回に分けて橘智恵子についての記載がある。井上氏の記載その他によれば、彼女は札幌郊外の農園主の娘として明治二二(一八八九)年に生まれ(啄木より三歳年下)で、明治三九(一九〇六)年三月二十七日に北海道庁立札幌高等女学校補修科を修了、同日附で弥生尋常小学校の訓導となった。啄木は翌明治四十年六月十一日に同校の代用教員となった。後の明治四三(一九一〇)年、智恵子は牧場主北村謹(きん)と結婚したが(このデータはサイト「asahi.com」の「愛の旅人」の「石川啄木と橘智恵子」に拠った)、大正一一(一九二二)年十一月、産褥熱で三十四歳の若さで死去したとある。井上氏は『啄木が智恵子に会って直接話したのは二度しかない。一度目は、彼が函館の大火で札幌に移転することを決めて、大竹校長に退職願を提出するため、同家を訪問した際、偶然その席に智恵子もいたのである』とされる一方で、彼女との関係は『啄木の片恋などとは断定できないのであって、この二人は相思相愛であったと見るのが正しい判断であると私は考えている』と述べておられる。同ページでは他に先に出た「芸者小奴」(三回分割)と妻「石川節子」(全二十六回)も載る。]

 

   

 

いつなりけむ

夢(ゆめ)にふと聽(き)きてうれしかりし

その聲(こゑ)もあはれ長(なが)く聽(き)かざり

 

 いつなりけむ

 夢にふと聽きてうれしかりし

 その聲もあはれ長く聽かざり

 

 

頰(ほ)の寒(さむ)き

流離(りうりの旅(たび)の人(ひと)として

路問(みちと)ふほどのこと言(い)ひしのみ


 頰の寒き

 流離の旅の人として

 路問ふほどのこと言ひしのみ

 

 

さりげなく言(い)ひし言葉(ことば)は

さりげなく君(きみ)も聽(き)きつらむ

それだけのこと

 

 さりげなく言ひし言葉は

 さりげなく君も聽きつらむ

 それだけのこと

 

 

ひややかに淸(きよ)き大理石(なめいし)に

春(はる)の日(ひ)の靜(しづ)かに照(て)るは

かかる思(おも)ひならむ

 

 ひややかに淸き大理石に

 春の日の靜かに照るは

 かかる思ひならむ

 

 

世(よ)の中(なか)の明(あか)るさのみを吸(す)ふごとき

黑(くろ)き瞳(ひとみ)の

今(いま)も目(め)にあり

 

 世の中の明るさのみを吸ふごとき

 黑き瞳の

 今も目にあり

 

 

かの時(とき)に言(い)ひそびれたる

大切(たいせつ)の言葉(ことば)は今(いま)も

胸(むね)にのこれど

 

 かの時に言ひそびれたる

 大切の言葉は今も

 胸にのこれど

 

 

眞白(ましろ)なるランプの笠(かさ)の

瑕(きず)のごと

流(りうり)離の記憶(きおく)消(け)しがたきかな

 

 眞白なるランプの笠の

 瑕のごと

 流離の記憶消しがたきかな

[やぶちゃん注:これは単独で読めば、啄木の「流離」の孤独な境涯を詠んだだけに見えるが、岩城氏は前掲書で、『北海道流浪時代の忘れ得ぬ女性』(無論、橘智恵子を指す)『の思い出を、「眞白なるランプの笠の瑕のごと」とたとえている』と評釈されておられる。]

 

 

凾館(はこだて)のかの燒跡(やけあと)を去(さ)りし夜(よ)の

こころ殘(のこ)りを

今(いま)も殘(のこ)しつ

 

 凾館のかの燒跡を去りし夜の

 こころ殘りを

 今も殘しつ

[やぶちゃん注:この函館大火は明治四〇(一九〇七)年八月二十五日のもの。「函館市」公式サイトの「函館の大火史(説明)」によれば、午後十時二十分頃、東川(ひがしかわ)町にあった石鹸製造所から出火(洋燈の転落によるという説がある)し、『非常に強い東風と飛火により』、『各所に延焼したため,消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して』二十町に及ぶその『一部を焼失し』、翌二十六日午前九時二十五分に『ようやく鎮火した』とあり、被害は罹災面積四十万坪・焼失戸数一万二千三百九十戸・死者八名・負傷者一千『名に達した』とある。岩城氏の前掲書によれば、この時、『啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校も、また遊軍記者となって入社したばかりの函館日日新聞社も焼失、結局』、『代用教員であった彼は九月十一日』に同校『校長に辞表を提出し、家族を残したまま九月十三日の夜』、『函館を去ったのである。「こころ残り」は橘智恵子に対する未練。九月十二日の日記に「橘女史を訪ふて相語る二時間余。我が心は今いと静かにして、然も云ひ難き楽しみを覚ゆ」とある』とある。]

 

 

人(ひと)がいふ

鬢(びん)のほつれのめでたさを

物書(ものか)く時(とき)の君(きみ)に見(み)たりし

 

 人がいふ

 鬢のほつれのめでたさを

 物書く時の君に見たりし

 

 

馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲(はなさ)く頃(ころ)と

なれりけり

君(きみ)もこの花(はな)を好(す)きたまふらむ

 

 馬鈴薯の花咲く頃と

 なれりけり

 君もこの花を好きたまふらむ

[やぶちゃん注:ジャガイモの開花期は啄木の代用教員採用時期と合致する。]

 

 

山(やま)の子(こ)の

山(やま)を思(おも)ふがごとくにも

かなしき時(とき)は君(きみ)を思(おも)へり

 

 山の子の

 山を思ふがごとくにも

 かなしき時は君を思へり

 

 

忘(わす)れをれば

ひよつとした事(こと)が思(おも)ひ出(で)の種(たね)にまたなる

忘(わす)れかねつも


 忘れをれば

 ひよつとした事が思ひ出の種にまたなる

 忘れかねつも

 

 

病(や)むと聞(き)き

癒(い)えしと聞(き)きて

四百里(しひやくり)のこなたに我(われ)はうつつなかりし



 病むと聞き

 癒えしと聞きて

 四百里のこなたに我はうつつなかりし 

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『橘智恵子は、明治四十二年の春、急性肋膜炎のため二か月ほど入院、そのため』当時の『勤務先の札幌女子高等学校小学校を明治四十二年二月十五日付で退職している』(啄木はこの当時は既に東京にあった)。『啄木は二月二十日』、『智恵子の母より彼女が急性肋膜炎で入院した旨』の『通知を受け、二十二日付で長文の見舞いを出している。また智恵子より三月二十六日に退院したという葉書を四月七日に受け取っている』とある。井上伸興氏の「啄木と三人の女性」の「橘智恵子 ⑵」も参照されたい。]

 

 

君(きみ)に似(に)し姿(すがた)を街(まち)に見(み)る時(とき)の

こころ躍(をど)りを

あはれと思(おも)へ

 

 君に似し姿を街に見る時の

 こころ躍りを

 あはれと思へ

[やぶちゃん注:後の芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「徴候」の二条目、

   *

 又戀愛の徴候の一つは彼女に似た顏を發見することに極度に鋭敏になることである。

   *

を想起させる。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 徴候(二章)』を参照されたい。]

 

 

かの聲(こゑ)を最一度(もいちど)聽(き)かば

すつきりと

胸(むね)や霽(は)れむと今朝(けさ)も思(おも)へる

 

 かの聲を最一度聽かば

 すつきりと

 胸や霽れむと今朝も思へる

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書の評釈に、明治四二(一九〇九)年『四月九日のローマ字日記にも、「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時、一度は谷地頭の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で――そうだ、予が『あこがれ』を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。/ああ! 別れてからもう二十ヵ月になる!」とある』とある。]

 

 

いそがしき生活(くらし)のなかの

時折(ときをり)のこの物(もの)おもひ

誰(たれ)のためぞも

 

 いそがしき生活のなかの

 時折のこの物おもひ

 誰のためぞも

 

 

しみじみと

物(もの)うち語(かた)る友(とも)もあれ

君(きみ)のことなど語(かた)り出(い)でなむ

 

 しみじみと

 物うち語る友もあれ

 君のことなど語り出でなむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月十七日附『東京毎日新聞』で、『「君のことなど」五首中の一首。この歌がうたわれた五月、橘智恵子は良縁を得て北海道岩見沢市郊外の空知(そらち)郡北村第二区の北村牧場に嫁いだ。新郎は兄橘儀七の友人で北村謹という若き牧場主であった』とある。]

 

 

死(し)ぬまでに一度(いちど)會(あ)はむと

言(い)ひやらば

君(きみ)もかすかにうなづくらむか

 

 死ぬまでに一度會はむと

 言ひやらば

 君もかすかにうなづくらむか

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『この一首の解答として明治四十二年四月二十四日の啄木のローマ字日記にある智恵子の手紙が参考になろう。それには「札幌の橘智恵子さんから……『函館にてお目にかかりしは僅かの間に候いしがお忘れもなくお手紙……お嬉しく』――と書いてある。『この頃は外を散歩する位に相成り候』と書いてある。『昔偲ばれ候』と書いてある。そして『お暇あらば葉書なりとも――』と書いてある。」とある』とある。]

 

 

時(とき)として

君(きみ)を思(おも)へば

安(やす)かりし心(こころ)にはかに騷(さわ)ぐかなしさ

 

 時として

 君を思へば

 安かりし心にはかに騷ぐかなしさ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『四十二年四月九日のローマ字日記にも「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」と書いている』とある。]

 

 

わかれ來(き)て年(とし)を重(かさ)ねて

年(とし)ごとに戀(こひ)しくなれる

君(きみ)にしあるかな

 

 わかれ來て年を重ねて

 年ごとに戀しくなれる

 君にしあるかな

 

 

石狩(いしかり)の都(みやこ)の外(そと)の

君(きみ)が家(いへ)

林檎(りんご)の花(はな)の散(ち)りてやあらむ

 

 石狩の都の外の

 君が家

 林檎の花の散りてやあらむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は『文章世界』明治四三(一九一〇)年十一月号とあり、以下、『橘智恵子の実家は北海道札幌郡札幌村十四番地にあった。父橘仁は越中富山の射水郡長慶寺村の庄屋の次男で、津田梅子の父仙の経営する学農社の出身』で、『明治十六』(一八八三)年に『北海道に渡り』、『札幌村で林檎園を営んでいた。母のイツは尾州刈谷藩の家老矢野貞胤の三女で東京府師範学校の出身、渡道後も札幌師範学校付属小学校等に教鞭をとった。父の仁は果樹園芸に生涯をかけ、明治三十八年十一月北海道果樹協会主催の大規模な果実品評会で、彼が出品した林檎「柳玉」が最高賞をとった』とある。なお、ここのみ、岩城氏の「鑑賞」の総てを引用させて戴いた。]

 

 

長(なが)き文(ふみ)

三年(みとせ)のうちに三度(みたび)來(き)ぬ

我(われ)の書(か)きしは四度(よたび)にかあらむ

 

 長き文

 三年のうちに三度來ぬ

 我の書きしは四度にかあらむ

[やぶちゃん注:本歌を以って「忘れがたき人人 二」は終わり、「忘れがたき人人」も終わっている。岩城氏は前掲書で、本「忘れがたき人人 二」について、『これらの作品が作られた期間』、『啄木と智恵子の音信はとぎれ、彼女の結婚さえ知らなかった。したがってこれらの作品は』、『実在の智恵子の動静とは無縁に成立していることがわかる。そこに清新な抒情が形成され、ひたすら思慕の情を抒情する美しい二十二首の作品群が生まれたのである』と記しておられる。]

2020/02/18

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。……正直……この数週間……自分の誕生日さえも含めて……嬉しいことは一つもなく痙攣的に厭なことしかなかった……今も憂鬱であり……今後も恐らくはそうであろう……ともかくも……これをアップするためだけに今日は頑張った……とだけ言っておく…………

 

     忘れがたき人人

 

    

 

潮(しほ)かをる北(きた)の濱邊(はまべ)の

砂山(すなやま)のかの濱薔薇(はまばら)よ

今年(ことし)も咲(さ)けるや

 

 潮かをる北の濱邊の

 砂山のかの濱薔薇よ

 今年も咲けるや

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、やはりロケーションは啄木が愛した北海道函館市大森町の大森海岸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の砂山である。

「濱薔薇」バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節ハマナス Rosa rugosa の異名の一つ。漢字表記では「浜茄子」「浜梨」の他、漢名「玫瑰」もよく用いられる。初夏から夏季中に赤い花(稀に白花)を咲かせる。]

 

 

たのみつる年(とし)の若(わか)さを數(かぞ)へみて

指(ゆび)を見(み)つめて

旅(たび)がいやになりき

 

 たのみつる年の若さを數へみて

 指を見つめて

 旅がいやになりき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月九日附『東京朝日新聞』。初出形は、

 たのみつる我の若さも漸くにたのみ少なし旅がいやになりぬ

で、『この初出歌から』、『たのみの少ない「我が若さ」が旅』(転々とする彷徨生活)『がいやになった原因であることがわかる。この年』(発表時)『啄木二十五歳。』(数え)『北海道へ渡ったのはその三年前の二十二歳のことである』とある。]

 

 

三度(さんど)ほど

汽車(きしや)の窓(まど)よりながめたる町(まち)の名(な)なども

したしかりけり

 

 三度ほど

 汽車の窓よりながめたる町の名なども

 

 したしかりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『渡道の途中』、『汽車の窓より眺めた東北本線の沿線の町の回想。今井泰子氏も「歌の配置された位置からみえ、この『町の名』は好摩(こうま)以北の東北線沿線の町。啄木には四十年の北海道移住以前に二度』『の渡道経験がある』(「二度」とは明治三七(一九〇四)年秋と明治三九(一九〇六)年春のこと)」と述べている、とある。]

 

 

凾館(はこだて)の床屋(とこや)の弟子(でし)を

おもひ出(い)でぬ

耳(みみ)剃(そ)らせるがこころよかりし

 

 凾館の床屋の弟子を

 おもひ出でぬ

 耳剃らせるがこころよかりし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、宮崎郁雨氏の「函館の砂――啄木の歌と私と」によれば、函館山の麓の現在の函館市谷地頭町(やちがしらちょう)にあった小室理髪店であるとある。個人的に私は下句が体感的に非常によく判る。そんな快感を私も中学・高校時代に高岡市伏木の理髪店で味わい、それを楽しみにしていたものだった。因みにトリビアとして言っておくと、北海道では行政区画名の「~町」は道南の北海道茅部(かやべ)郡森町(もりまち)の一箇所だけが「まち」と読み、他は総て「ちょう」と読む。]

 

 

わがあとを追(お)ひ來(き)て

知(し)れる人(ひと)もなき

邊土(へんど)に住(す)みし母(はは)と妻(つま)かな

 

 わがあとを追ひ來て

 知れる人もなき

 邊土に住みし母と妻かな

[やぶちゃん注:啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を妹光子を連れて離れ、新天地を求めて五月五日に函館に到着(この時は母は渋民の知人宅へ、妻子は盛岡の実家に寄せさせた。なお、次の歌はその時の津軽海峡上での追懐である)、短歌雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』(宮崎大四郎(後の啄木上京時には啄木の家族を託され、自宅の貸家に居住させている。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイト内の宮崎の事蹟に拠った)主宰・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)発行)編集者・函館商業会議所の臨時雇いを経て、同年六月十一日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員となれたことから、七月七日に妻子が渡道、八月四日には啄木が迎えに行った母も加わって、一家五人の生活となった。]

 

 

 

船(ふね)に醉(ゑ)ひてやさしくなれる

いもうとの眼(め)見(み)ゆ

津輕(つがる)の海(うみ)を思(おも)へば

 

 船に醉ひてやさしくなれる

 いもうとの眼見ゆ

 津輕の海を思へば

 

 

目(め)を閉(と)ぢて

傷心(しやうしん)の句を誦してゐし

友(とも)の手紙(てがみ)のおどけ悲(かな)しも

 

 目を閉ぢて

 傷心の句を誦してゐし

 友の手紙のおどけ悲しも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『以下三首いずれも』青森県八戸生まれの『函館郵便局に勤務する苜蓿社同人岩崎白鯨(はくげい)(本名正(ただし))を歌えるもの。啄木と同年齢の歌才に秀でた人物であった』とある。白鯨の歌を見たいと思ったが、ネット上には見当たらない。]

 

 

をさなき時

橋の欄干に糞塗りし

話も友はかなしみてしき

 

 をさなき時

 橋の欄干に糞塗りし

 話も友はかなしみてしき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『白鯨は郷里の青森県八戸の中学校に在学中』、『裁判所判事であった父親が死んだため、中学校を退学し、以後』、『一家の支柱となって働いたが、生活は貧しく志を得ぬ不遇の日』を送っていたとある。]

 

 

おそらくは生涯(しやうがい)妻(つま)をむかへじと

わらひし友(とも)よ

今(いま)もめとらず

 

 おそらくは生涯妻をむかへじと

 わらひし友よ

 今もめとらず

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書には、『白鯨は大正三』(一九一四)『年九月五日肺結核のため結婚することなく函館で死んだ。享年二十九歳である』とある(確かに啄木と同年である)のだが、サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、詩・短歌に『すぐれた才能を持ち、『明星』『スバル』等にたくさんの作品を発表している。晩年』、『気が狂って亡くなるが、啄木の詩に影響を与えた』とあった。]

 

 

あはれかの

眼鏡(めがね)の緣(ふち)をさびしげに光(ひか)らせてゐし

女敎師(をんなけうし)よ

 

 あはれかの

 眼鏡の緣をさびしげに光らせてゐし

 女敎師よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは函館時代』の『啄木が勤務した弥生(やよい)尋常小学校の代用教員高橋すゑ(結婚後高田姓)で、宮崎郁雨も「何処となく色っぽい感じのする美しい顔と、それによく似つく金縁の眼鏡が印象的」』であった『と語っている』とある。]

 

 

友(とも)われに飯(めし)を與(あた)へき

その友(とも)に背(そむ)きし我(われ)の

性(さが)のかなしさ

 

 友われに飯を與へき

 その友に背きし我の

 性のかなしさ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『友は渡道時』、『世話になった松岡蕗堂(ろどう)、沢田天峯(てんぽう)、吉野白村(はくそん)らをさす』とある。前に示したサイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録に「吉野章三(白村)」として、当時二十七歳で、『短歌に優れたセンスを持ち』、『『明星』で活躍した。吉野の素直な歌が、啄木の歌を美文調から平易な言葉へと変えていったのではないか』とある。]

 

 

凾館(はこだて)の靑柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ

友(とも)の戀歌(こひうた)

矢(や)ぐるまの花(はな)

 

 凾館の靑柳町こそかなしけれ

 友の戀歌

 矢ぐるまの花

[やぶちゃん注:「靑柳町」明治四〇(一九〇七)年、函館に来て二ヶ月後、妻子を迎えて住んだ現在の函館市青柳町のここ。]

 

 

ふるさとの

麥(むぎ)のかをりを懷(なつ)かしむ

女(をんな)の眉(まゆ)にこころひかれき

 

 ふるさとの

 麥のかをりを懷かしむ

 女の眉にこころひかれき

 

 

あたらしき洋書(ようしよ)の紙(かみ)の

香(か)をかぎて

一途(いちづ)に金(かね)を欲(ほ)しと思(おも)ひしが

 

 あたらしき洋書の紙の

 香をかぎて

 一途に金を欲しと思ひしが

 

 

しらなみの寄(よ)せて騷(さわ)げる

凾館(はこだて)の大森濱(おほもりはま)に

思(おも)ひしことども

 

 しらなみの寄せて騷げる

 凾館の大森濱に

 思ひしことども

 

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

支那(しな)の俗歌(ぞくか)をうたひ出(い)づる

まくら時計(どけい)を愛(め)でしかなしみ

 

 朝な朝な

 支那の俗歌をうたひ出づる

 まくら時計を愛でしかなしみ

[やぶちゃん注:オルゴール附きの枕元におく置時計であろう。]

 

 

漂泊(へうはく)の愁(うれ)ひを敍(じよ)して成(な)らざりし

草稿(さうかう)の字(じ)の

讀(よみ)みがたさかな

 

 漂泊の愁ひを敍して成らざりし

 草稿の字の

 讀みがたさかな

[やぶちゃん注:初出は岩城氏の前掲書に『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号とある。

「漂泊の愁ひを敍して成らざりし」「草稿」とは、同じく岩城氏のそれによれば、『函館青柳町時代』(明治四〇(一九〇七)年七月から九月上旬)に『執筆された未完の小説「漂泊」などを念頭において作られたものであろう。このほか』『中絶』した『原稿には「札幌」「菊池君」「北海の三部」などがある』とある。「漂泊」は『紅苜蓿』明治四十年七月号に「㈠」が発表されただけで、「㈡」から「㈣」は未発表で未完の函館を舞台とした小説。「札幌」は明治四十一年八月稿の実体験を擬した未完小説、「菊池君」も明治四十一年五月稿の「札幌」と同じような体裁の未完小説で、「北海の三部」は明治四十一年五月六日起稿で未完の評論的随想である。]

 

 

いくたびか死(し)なむとしては

死(し)なざりし

わが來(こ)しかたのをかしく悲(かな)し

 

 いくたびか死なむとしては

 死なざりし

 わが來しかたのをかしく悲し

[やぶちゃん注:自殺願望の告白。岩城氏前掲書によれば、この『東京時代に書いた「彼の日記の一節」と題する断片にも自殺を暗示するくだりがあるので、啄木は函館時代から東京時代にかけてたえず死の誘惑にかられていたことがわかる』とある。「彼の日記の一節」小説の構想メモ風のもので大半が英語表記で、登場人物のイニシャルや英語の詩のようなパラグラフと作品内ロケーションかと思われる地図のみの破片であるが、冒頭に、

   *

 人は唯才のある、氣の輕い愉快な男とみられてゐて、突然自殺した男の遺した日記の一節――

   *

とのみ、日本語で書かれてある(引用は筑摩版全集第三巻をもとに漢字を正字化して示した)のを岩城氏は指しているのであろう。]

 

 

凾館(はこだて)の臥牛(ぐわぎう)の山(やま)の半腹(はんぷく)の

碑(ひ)の漢詩(からうた)も

なかば忘(わす)れぬ

 

 凾館の臥牛の山の半腹の

 碑の漢詩も

 なかば忘れぬ

[やぶちゃん注:「臥牛の山」が寝そべったような山様による函館山(標高三百三十四メートル・周囲約九キロメートル)の別名。

「碑」戊辰戦争の特に箱館戦争に於ける旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑「碧血碑」(へきけつひ)。函館山に明治八(一八七五)年五月に建立されたもの。土方歳三や中島三郎助などを始めとする約八百名の戦死者を弔うもの。ウィキの「碧血碑」によれば、「碧血」とは「荘子」の「外物篇」にある「萇弘(ちやうこう)は蜀に死す。其の血を藏すること三年にして、化して碧と爲(な)る」(萇弘死于蜀、藏其血三年而化爲碧)から『来ており、忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で宝石の碧玉と化すという伝説にちなむ』(萇弘は周の楽官であったが、主君を諌めて追放され、郷里の蜀に戻った後、自刃した。蜀の民が哀れに思い、その血を器に入れておいたところ、三年後、それが美しい碧玉になったという故事で、そこから「極めて強い忠誠心」「碧血丹心」(へきけつたんしん)という成句が生まれた。「碧」は「青」、「丹心」は「真心」の意)。高さ約六メートルで、『碑石は伊豆産の石を使い、東京霊岸島で造り、海路運搬された』。『碑石の文字は大鳥圭介』(元幕臣で教育者・外交官)『のものだと言われるが定かではない』。『碧血碑の裏側には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」との文字が刻まれている。これは、「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読』む。「厥の」は指示語で「その」。明治二年己巳(つちのとみ)年(一八六九)年。但し、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)までは本邦では旧暦が使用された)は『箱館戦争で五稜郭の旧幕府軍が降伏し』(明治二年五月十八日(一八六九年六月二十七日))『戊辰戦争が終結した年であるが、建立当時でも』、『そうした経緯に具体的に触れることがはばかられていたことが推測される表現となっている』。『箱館・五稜郭の防衛戦で、賊軍とされた旧幕府軍戦死者の遺体は戦闘終結後も埋葬が許されず、斃れた場所に腐敗するまま放置された。哀れに思った箱館の侠客柳川熊吉は遺体を回収して埋葬しようとした。実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し、子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。柳川熊吉は』安政三(一八五六)年に『江戸から箱館へ渡り、請負(人材派遣)業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者の供給に貢献した人物』で、『榎本武揚ら幕臣とも交流を持っていた』。『賊軍の慰霊を行ってはならないとの明治政府からの命令に反した熊吉は追及を受けたが、熊吉の堂々とした態度に官吏は埋葬を黙認したという。また、新政府軍の薩摩藩士・田島圭蔵は、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせ、熊吉は無罪釈放となった』。二年後の明治四年、『熊吉は函館山の土地を買い、そこに箱館戦争戦死者を実行寺より改葬した』。明治七(一八七四)年八月十八日になって、やっと『明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可すると、箱館戦争の生き残りである榎本武揚、大鳥圭介らが熊吉と協力して』、明治八年五月に『この碧血碑を建立した』という経緯がある。『晩年の熊吉は、碧血碑の傍で余生を過ごしながら、大正』二(一九一三)年、八十九歳で『生涯を閉じた。同年、熊吉』八十八『歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、碧血碑の側に碑を建てている』。『現代においては、箱館五稜郭祭などに際して碑前で慰霊祭が行われている』とある。但し、ここでは漢詩と言っているので、この碑文の文字ではなく、その「碧血碑」の前にある、小さな碑、

のそれを指す。この碑は明治初期の外交官で、後の元老院議官・貴族院議員などを歷任した官僚宮本小一(こいち(おかず)  天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年:号は鴨北(こうほく))が明治三四(一九〇一)年八月に本碑を訪れた際に詠じた七絶で、

 戰骨全收海勢移

 紛華誰復記當時

 鯨風鰐雨凾山夕

 宿草茫々碧血碑

である。訓読は幾つかのものがネットに掲げられてあるが、納得出来ない部分があるので、自然流で示すと、

 戰骨 全(すべ)て收め 海勢 移る

 紛華 誰(たれ)か復た當時を記(しる)せん

 鯨風 鰐雨(がくう) 凾山(かんざん)の夕べ

 宿草 茫々たり 碧血の碑

「海勢」は社会情勢の換喩であろう。「紛華」華麗な詩文。文華。「鰐雨」吹き荒ぶ雨。「宿草」冬には地上部位が枯れて地下部分が休眠状態で越冬し、春に再び生長開花する多年草。「道南ブロック博物館施設等連絡協議会」公式サイト内のこちらで画像が見られる。]

 

 

むやむやと

口(くち)の中(なか)にてたふとげの事(こと)を呟(つぶや)く

乞食(こじき)もありき

 

 むやむやと

 口の中にてたふとげの事を呟く

 乞食もありき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『この歌は明治末年から大正にかけて函館市内を徘徊した乞食万平(本名矢野万平)を歌ったもの。啄木はこの乞食に関心をもち、函館大火後』(明治四〇(一九〇七)年八月二十五日)『友人の大島経男に宛てた明治四十年八月二十九日の書簡にもこの万平の消息を記している』とある。当該書簡の追伸で啄木が万平の棲み処かであるが臥竜窟が焼け、見舞いに行ったところ、焼け跡から何やらん拾っていた、とある。焼け出された乞食を見舞う詩人とは正統に風狂ではないか。]

 

 

とるに足(た)らぬ男(をこと)と思(おも)へと言(い)ふごとく

山(やま)に入(い)りにき

神(かみ)のごとき友(とも)

 

 とるに足らぬ男と思へと言ふごとく

 山に入りにき

 神のごとき友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『函館時代交友のあった苜蓿社主筆大島経男を歌えるもの。大島は流人(るじん)または野百合と称し、啄木が渡道した当時』、『私立靖和(せいわ)女学校の国語教師をしていたが、教え子石田松江との恋愛結婚の破綻から教職を辞し、郷里の北海道日高国(ひだかのくに)静内(しずない)の山中に隠棲してしまった。「神のごとき友」というのは』、『この大島の出所進退があまりにも自己にきびしく、敬虔なクリスチャンにふさわしい態度であったので』、『かく歌ったのである』とある。サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、大島は『啄木が生涯』に於いて『「先生」と呼んだ』『二人』の内の一人で、『一人は森鴎外、もう一人が大嶋だった。わずか数カ月の触れ合いだが大きな影響を持った』とある(ここでは「大島」ではなく「大嶋」とある)。]

 

 

卷煙草(まきたばこ)口(くち)にくはへて

浪(なみ)あらき

磯(いそ)の夜霧(よぎり)に立(た)ちし女(をんな)よ

 

 卷煙草口にくはへて

 浪あらき

 磯の夜霧に立ちし女よ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、ロケーションは大森海岸で、明治四三(一九一〇)年六月十三日本郷発信の岩崎正宛書簡の中で、如何にもこのシチュエーションらしい追懐を述べている(筑摩版全集第七巻の書簡を参考に漢字を正字化して示した)。

   *

僕が海といふものと親しんだのは、実に靑柳町の九十日間だけであつた。嵐のあとの濡砂の上を步いたこともあつた。塩水に身を浸してもみた。秋近い瓦斯(ガス)が深く海面を罩めて[やぶちゃん注:「こめて」。]、ガスの灰色の中から白浪の崩れて來るのを眺めながら、卷煙草を吸ふ女の背後から近づいて來るのを感じたこともあつた。

   *

岩城氏は続けて、『モデルは万歳という芸者で松岡蕗堂のなじみであった』とされる。(蕗堂は前の注で既出)。]

 

 

演習(えんしふ)のひまにわざわざ

汽車(きしやに乘(の)りて

訪(と)ひ來(き)し友(とも)とのめる酒(さけ)かな

 

 演習のひまにわざわざ

 汽車に乘りて

 訪ひ來し友とのめる酒かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、訪ねに来てくれた「友」は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人の歌人宮崎郁雨(明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年:啄木より一つ年上)で、『郁雨は当時』、『勤務召集で見習士官として旭川の連隊にあったが、機動演習ので江別(えべつ)まで来たとき、小樽に移住した』(明治四〇(一九〇七)年九月二十七日)『啄木の身を案じて』同『年十月十二日』、『小樽花園町に啄木夫妻を訪ね』て呉れた折りの追懐である。本書冒頭の自序で献辞されており、既注であるが、簡単に再掲しておくと、郁雨は雅号。本名は大四郎。明治四十年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。この時は軍人であったが、啄木の死後、家業の味噌醤油醸造業を継いだ。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後(実は、その直前に妻節子に対する不倫の猜疑を啄木からかけられて絶交されてしまっていた(既注)のは不幸な出来事であった)も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたい。続く二首も彼を詠んだもの。]

 

 

大川(おほかは)の水(みづ)の面(おもて)を見(み)るごとに

郁雨(いくう)よ

君(き)のなやみを思(おも)ふ

 

 大川の水の面を見るごとに

 郁雨よ

 君のなやみを思ふ

[やぶちゃん注:これは恐らく郁雨が啄木の妻節子の妹堀合ふき子と結婚する以前の彼の憂愁を、遠い東京で一人暮らしをしている啄木が遙かに時間を遡って追想したものである。

「大川」隅田川。]

 

 

智慧(ちゑ)とその深(ふか)き慈悲(じひ)とを

もちあぐみ

爲(な)すこともなく友(とも)は遊(あそ)べり

 

 智慧とその深き慈悲とを

 もちあぐみ

 爲すこともなく友は遊べり

 

 

こころざし得(え)ぬ人人(ひとびと)の

あつまりて酒(さけ)のむ場所(ばしよ)が

我(わ)が家(いへ)なりしかな

 

 こころざし得ぬ人人の

 あつまりて酒のむ場所が

 我が家なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、函館青柳町時代の追想歌で、「人々」は苜蓿社同人らとされる。]

 

 

かなしめば高く笑ひき

酒をもて

悶を解すといふ年上の友

 

 かなしめば高(たか)く笑(わら)ひき

 酒(さけ)をもて

 悶(もん)を解(げ)すといふ年上(としうへ)の友(とも)

[やぶちゃん注:

「悶を解す」憂いを銷(け)す。]

 

 

若(わか)くして

數人(すにん)の父(ちち)となりし友(とも)

子(こ)なきがごとく醉(ゑ)へばうたひき

 

 若くして

 數人の父となりし友

 子なきがごとく醉へばうたひき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、モデルは吉野白村(章三)。彼の『妻ていは函館区立宝高等小学校訓導で、いわゆる共稼ぎであったが、長男真一、母きよの、弟喜代志、友八、妹きよ、ときよの八人家族であったから経済的には苦しかった。この一首は当時二十七歳の白村にたくさんの子がいたという意味ではなく、家族の事情から若くして一家の支柱となり四人の弟妹を扶養して、その父親代わりとなって働かねばならないこの友人の不幸な境遇を歌ったものである』とある。「国立国会図書館」公式サイト内の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、彼は『宮城県柴田郡舟岡村出身』で、明治一四(一八八一)年生まれで啄木より五歳年長で、大正七(一九一八)年胸部疾患で享年三十八歳で亡くなった。『啄木が函館に来て初めて出逢った文学人であり、函館東川小学校の教員をしていた。苜蓿社の主要メンバーの』一人で、『啄木は函館滞在時は白村と度々逢っていたほか、釧路にやってきてからも白村を釧路に呼ぼうと考えていたなど、白村の人柄を大変気に入っていた。それは啄木が釧路に滞在していた間には叶わず、白村は』明治四一(一九〇八)年八月十七日に『函館東川小学校から釧路天寧小学校』『校長として赴任』したものの、その前年に『啄木は既に上京して』しまっていた。『校長として赴任したが、実際は生活が苦しく』、『後に退職し、釧路運輸事務局に勤め』、『生涯をそこで務め』て当地で没した、とある。]

 

 

さりげなき高(たか)き笑(わら)ひが

酒(さけ)とともに

我(わ)が膓(はらわた)に沁(し)みにけらしな

 

 さりげなき高き笑ひが

 酒とともに

 我が膓に沁みにけらしな

 

 

呿呻(あくび)嚙(か)み

夜汽車(おぎしや)の窓(まど)に別(わか)れたる

別(わか)れが今(いま)は物足(ものた)らぬかな

 

 呿呻嚙み

 夜汽車の窓に別れたる

 別れが今は物足らぬかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四〇(一九〇七)年九月十三日の追懐。全集年譜(同岩城氏編)によれば、弥生小学校代用教員を辞した彼は、日刊紙『北門(ほくもん)新報』に校正係として就職するため、函館を去って札幌に向かった。]

 

 

雨(あめ)に濡(ぬ)れし夜汽車(よぎしや)の窓(まど)に

映(うつ)りたる

山間(やまあひ)の町(まち)のともしびの色(いろ)

 

 雨に濡れし夜汽車の窓に

 映りたる

 山間の町のともしびの色

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前の歌と同日のもので、函館と小樽間の車窓景の追懐とする。年譜によれば、啄木は翌日に小樽で途中下車し、姉夫妻山本千三郎とトラの家を訪ねている。以下の二首も同じ。]

 

 

雨(あめ)つよく降(ふ)る夜(よ)の汽車(きしや)の

たえまなく雫(しづく)流(なが)るる

窓硝子(まどカラス)かな

 

 雨つよく降る夜の汽車の

 たえまなく雫流るる

 窓硝子かな

 

 

眞夜中(まよなか)の

倶知安驛(くちあんえき)に下(お)りゆきし

女(をんな)の鬢(びん)の古(ふる)き痍(きず)あと

 

 眞夜中の

 倶知安驛に下りゆきし

 女の鬢の古き痍あと

[やぶちゃん注:「倶知安驛」現在の北海道虻田郡倶知安町にある函館本線倶知安駅(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この三年前の明治三七(一九〇四)年十月に北海道鉄道(初代。現在の函館本線)の駅として開設されたばかりの駅であった。なお、「くっちゃん」という地名由来は諸説あって不明であるが、それらがウィキの「倶知安町」に掲げられてあるので見られたい。]

 

 

札幌に

かの秋われの持てゆきし

しかして今も持てるかなしみ

 

 札幌(さつぽろ)に

 かの秋(あき)われの持(も)てゆきし

 しかして今(いま)も持(も)てるかなしみ

 

 

アカシヤの街(まち)にポプラに

秋(あき)の風(かぜ)

吹(ふ)くがかなしと日記(にき)に殘(のこ)れり

 

 アカシヤの街にポプラに

 秋の風

 吹くがかなしと日記に殘れり

[やぶちゃん注:年譜によれば、実は札幌の『北門新報』での勤務は九月十六日から二十七日と短く、この十七日には辞職して小樽日報社へ赴任している。即ち、札幌滞在(到着は九月十四日)は僅か十四日間であった。

「アカシヤ」マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ(針槐)属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia。別名「ニセアカシア」で北アメリカ原産。日本には明治六(一八七三)年に導入された。熱帯・温帯產の種群である真正のマメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia とは全くの別種であり、こちらは日本では関東以北では栽培が困難である種群が多く、北海道のものは総て前者とされる。

「ポプラ」ヨーロッパ原産キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパクロポプラ Populus nigra。別名をヨーロッパクロヤマナラシとも呼ぶ。日本にはやはり明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた。]

 

 

しんとして幅廣(はばひろ)き街(まち)の

秋(あき)の夜(よ)の

玉蜀黍(たうもろこし)の燒(や)くるにほひよ

 

 しんとして幅廣き街の

 秋の夜の

 玉蜀黍の燒くるにほひよ

 

 

わが宿(やど)の姉(あね)と妹(いもと)のいさかひに

初夜(しよや)過(す)ぎゆきし

札幌(さつぽろ)の雨(あめ)

 

 わが宿の姉と妹のいさかひに

 初夜過ぎゆきし

 札幌の雨

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、この時の宿は『札幌市北七条四丁目四番地の田中サトという未亡人の下宿屋で』、この姉妹は『十八歳になる姉のヒサと十二歳になる妹英(ひで)である』とある。ここで現在の札幌駅のごく直近である。]

 

 

石狩(いしかり)の美國(びくに)といへる停車場(ていしやば)の

栅(さく)に乾(ほ)してありし

赤(あか)き布片(きれ)かな

 

 石狩の美國といへる停車場の

 栅に乾してありし

 赤き布片かな

[やぶちゃん注:「美國」岩城氏前掲書に、これは「美唄(びばい)」或いは「美瑛(びえい)」の『記憶の誤りであろう』とされ、『美国という地名は石狩地方にはなく』、『後志(しりべし)地方にある』(北海道積丹郡積丹町大字美国(びくに)町)『が、明治四十』(一九〇七)『年当時はもとより現在に至る』まで『駅はない』(しかも方角が全くおかしい)。『したがって』、『この歌は第一句の「石狩の」から考えて啄木が釧路赴任』(小樽日報社内の内紛で事務長に暴力を振るわれ、怒った啄木は明治四十年十二月二十一日に退社し、翌明治四十一年一月、釧路新聞社に入社し、同月十九日に単身赴任で小樽を出発、翌二十日に釧路に着いている)『の途中に通』った『美唄駅か美瑛駅と考えたい』とある。当時、札幌から釧路に行くには函館本線をさらに北上して旭川まで行き、そこから十勝線(現在の富良野線)で南東へ下って行くという大きく北に迂回するルートしかなかった。

「赤き布片」所謂「赤ゲット」であろう。サイト「AKARENGA」のこちらに、『明治初期、政府は軍隊用にイギリスから赤い毛布を大量に輸入します。毛布はその後』、『民間に払い下げられ、さまざまな形で利用されました。「赤いブランケット」から通称「赤ゲット」と呼ばれ、赤地に数本の黒い筋を入れたものが多く、旭川や札幌などの呉服店で売られたほか、農村漁村では行商が販売しました』。『当時はそのまま身にまとうほか』、外套に『仕立てたり、脚絆(きゃはん)や手袋を作ったり、端切れはツマゴ(ワラ製の深靴)をはくときに足に巻くなど、人びとの生活に浸透していきます。明治』二十〜三十『年代には東北や北海道からこれを着て上京する人が多かったため、赤ゲットが「田舎者」とか「おのぼりさん」の代名詞になったほどです』とあり、写真もある。元軍隊用であったとは知らなかった。]

 

 

かなしきは小樽(をたる)の町(まち)よ

歌(うた)ふことなき人人(ひとびと)の

聲(こゑ)の荒(あら)さよ

 

 かなしきは小樽の町よ

 歌ふことなき人人の

 聲の荒さよ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書を参考にすると、これは啄木の「明治四十年丁未日誌」の十二月二十七日に、当時、親交のあった啄木をして「快男児」と言わしめたという、『函館日日新聞』主筆斎藤大硯(たいけん 明治三(一八七〇)年~昭和六(一九三一)年:本名は哲郎。啄木より十六年上。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらを参照されたい)が訪れた際の談話が素材とある。以下にその日の日記の冒頭を示す(例の仕儀で正字化した)。

   *

十二月二十七日

 大硯君來り談ず。君も浪人なり、予も浪人なり、共に之天が下に墳墓の地を見出さざる不遇の浪人なり。二人よく世を觀る、大いに罵りて哄笑屋を搖がさむとす。「歌はざる小樽人」とは此日大硯君が下したる小樽人の頌辭なり。淵明は酒に隱れき、我等は哄笑に隱れむとするか。世を罵るは軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]自らを罵るものならざらむや。

   *

「頌辭」(しようじ(しょうじ))は通常は功績を褒め讃える言葉であるが、ここは多分にアイロニカルでもある。]

 

 

泣(な)くがごと首(くび)ふるはせて

手(て)の相(さう)を見(み)せよといひし

易者(えきしや)もありき

 

 泣くがごと首ふるはせて

 手の相を見せよといひし

 易者もありき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『啄木が小樽時代』に『間借した花園町』(ここ)『十四番地の』煎餅屋の『二階には』、襖『一枚へだてて天口堂海老名(えびな)又一郎という易者が住んでいた』とある(彼の名は日記にも登場する)。とすれば、このシークエンスは戸外の辻占ではない可能性が高い。]

 

 

いささかの錢借(ぜにか)りてゆきし

わが友(とも)の

後姿(うしろすがた)の肩(かた)の雪(ゆき)かな

 

 いささかの錢借りてゆきし

 わが友の

 後姿の肩の雪かな

[やぶちゃん注:かの借金の達人啄木に金を借りるというのは凄い。いや、寧ろ、その友の後ろ姿の寂寥に借金だらけの自身の後ろ姿を投影していると読むのが正しかろう。]

 

 

世(よ)わたりの拙(つたな)きことを

ひそかにも

誇(ほこ)りとしたる我(われ)にやはあらぬ

 

 世わたりの拙きことを

 ひそかにも

 誇りとしたる我にやはあらぬ

[やぶちゃん注:最後は否定形の反語で、強い肯定である。]

 

 

汝(な)が瘦(や)せしからだはすべて

謀叛氣(むほんぎ)のかたまりなりと

いはれてしこと

 

 汝が瘦せしからだはすべて

 謀叛氣のかたまりなりと

 いはれてしこと

[やぶちゃん注:ただ読むと啄木の自虐的な感懐のように見えるが、岩城氏の前掲書を見ると、全く違う。これは小樽日報社内での内紛の前期を素材としたもので、歌われたのは排斥(啄木は排斥派)されて辞任に追い込まれた主筆の岩泉江東(泰)とその一派に対する辛口評であるらしい。沢田信太郎氏の「啄木散華―北海同時代の回顧録―」の「二」がそれを詳細に伝えている。なお、後の社内紛争の展開で啄木が辞任する至る部分は、同じ沢田氏のそれの「三」に詳しいので、そちらも参照されたい。]

 

 

かの年(とし)のかの新聞(しんぶん)の

初雪(はつゆき)の記事(きじ)を書(か)きしは

我(われ)なりしかな

 

 かの年のかの新聞の

 初雪の記事を書きしは

 我なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、これは明治四〇(一九〇七)年十月二十七日附『小樽日報』第六号に啄木が書いた記事「昨朝の初雪」であるとされる。筑摩版全集第八巻所収の「小樽のかたみ」パートにある当該記事を参考に、例の仕儀で示す。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 

 昨朝の初雪

 

 名にし負ふ蝦夷(えぞ)が島根の紅葉時(もみぢどき)も老(ふ)け初めて、朝な朝なに顏洗ふ水の冷たさ、井戸端に散り布(し)く落葉に霜重くて、於古發(おこばち)川の濁水もどうやら流れゆく秋の聲爽かになりし此頃の天候、一昨日(をとゝひ)よりメツキリと寒さ募りて、冬衣(ふゆぎ)の仕度出來ぬ人は肩をすぼめて水鼻垂らす不風流も演じけらし。寒い寒いと喞(かこ)ちながら寢入りし其夜は明けて、雪が雪がと子供の騷ぐ聲に目をさませる。昨日の朝楊子くはへて障子綱目に開け見れば、成程白いものチラチラと街ゆく人の背を打ちて、黑綾の被布(コート)に焦茶の肩掛(シヨール)昨日よりは殊更目に立ちて見えぬ。道路にはまだ流石に積る程でもなけれど、四方(よも)の山々は紅葉と雪のだんだら染、内地では見られぬ景色と見惚(みと)れしが、由來風流は寒いものと寢卷姿の襟を押へて逃げ込み、斑(まだ)らの雪に兎の足跡追ふて今朝獵夫(かりうど)の山路に入りつらむなど想ひつづけぬ。編輯局も昨日よりは筆の暇々大火鉢の傍賑はひて、晝頃の大霙(おほみぞれ)に窓の目貼りを建議したる人もありし。

   *]

 

 

椅子いす)をもて我(われ)を擊(う)たむと身構(みがま)へし

かの友(とも)の醉(ゑ)ひも

今(いま)は醒(さ)めつらむ

 

 椅子をもて我を擊たむと身構へし

 かの友の醉ひも

 今は醒めつらむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、以下五首は先にも注した、啄木が小樽日報社を辞任する動機となった、同社事務長小林(後に中野姓となる)寅吉との諍(いさか)いを歌ったものとする。「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、彼は会津出身とある。それによれば、彼は後、憲政会の衆議院議員を経て、晩年、会津の『法用寺の住職となった』とある。]

 

 

負(ま)けたるも我(われ)にてありき

あらそひの因(もと)も我(われ)なりしと

今(いま)は思(おも)へり

 

 負けたるも我にてありき

 あらそひの因も我なりしと

 今は思へり

[やぶちゃん注:確かに、新谷保人氏のサイト「人間像ライブラリー」のこちら(「小樽の街を歩こう 第十回」(『短大図書館だより』二〇〇一年十二月号)の記事によれば、直接の原因は啄木の側に非があるようである。『無断欠勤していた』啄木が『夕方』になってから『社に出て』来たのを『事務長』の彼が『見とがめ』、『口論になり、激怒した事務長が』彼を『殴ってしまった』とあるからである。]

 

毆(なぐ)らむといふに

毆(なぐ)れとつめよせし

昔(むかし)の我(われ)のいとほしきかな

 

 毆らむといふに

 毆れとつめよせし

 昔の我のいとほしきかな

 

 

汝(なれ)三度(さんど)

この咽喉(のど)に劍(けん)を擬(ぎ)したりと

彼(かれ)告別(こくべつ)の辭(じ)に言(い)へりけり

 

 汝三度

 この咽喉に劍を擬したりと

 彼告別の辭に言へりけり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『従来この歌は』紛争の前期に辞任した『主筆の岩泉江東を詠めるものとされているが、歌集の順序からいってやはり小林寅吉を歌えるものであろう。小林は東京専門学校の出身で、以前に啄木の義兄山本千三郎の下で小樽駅助役をしていたので、啄木がなにかにつけて』、『義兄のもとの部下といった態度で接したので』、『反感をかったのである』とある。因みに、前の歌の評釈で岩城氏は『小林事務長もまもなく』この暴力事件の『責任をとって辞任し、明治四十一』(一九〇八)『年六月』、『北海道庁衛生部の警部となった』とあるから、ここは当時既に東京にあった啄木が人伝てにその告別の挨拶の話を聴いたものと思われる。]

 

あらそひて

いたく憎(にく)みて別(わか)れたる

友(とも)をなつかしく思(おも)ふ日(ひ)も來(き)ぬ

 

 あらそひて

 いたく憎みて別れたる

 友をなつかしく思ふ日も來ぬ

 

 

あはれかの眉(まゆ)の秀(ひい)でし少年(せうねん)よ

弟(おとうおと)と呼(よ)べば

はつかに笑(ゑ)みしが

 

 あはれかの眉の秀でし少年よ

 弟と呼べば

 はつかに笑みしが

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代交遊のあった文学少年高田紅果(こうか)(本名治作)を歌えるもの。紅果が啄木を訪ねてその指導を受けたのは十七歳のときで、短い期間であったが』、『啄木に接したことは生涯の思い出になった』とある。]

 

 

わが妻(つま)に着物(きもの)縫(ぬ)はせし友(とも)ありし

冬(ふゆ)早(はや)く來(く)る

植民地(しよくみんち)かな

 

 わが妻に着物縫はせし友ありし

 冬早く來る

 植民地かな

[やぶちゃん注:「植民地」北海道(小樽)のことを指す。]

 

 

平手(ひらて)もて

吹雪(ふぶき)にぬれし顏(かほ)を拭(ふ)く

友(とも)共產(きようさん)を主義(しゆぎ)とせりけり

 

 平手もて

 吹雪にぬれし顏を拭く

 友共產を主義とせりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『北門新報』の『記者小国露堂(ろど)(本名善平)を歌ったものであろう。小国は』同日報の『創刊にあたって啄木を推挙した』とある。]

 

 

酒(さけ)のめば鬼(おに)のごとくに靑(あを)かりし

大(おほ)いなる顏(かほ)よ

かなしき顏(かほ)よ

 

 酒のめば鬼のごとくに靑かりし

 大いなる顏よ

 かなしき顏よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前に出た『函館日日新聞』主筆であった斎藤大硯であろうとされる。啄木が「快男児」と呼んだというに相応しい。次の一首も大硯を詠んだものとされる。]

 

 

樺太(からふと)に入(い)りて

新(あたら)しき宗敎(さいうけう)を創(はじ)めむといふ

友(とも)なりしかな

 

 樺太に入りて

 新しき宗敎を創めむといふ

 友なりしかな

[やぶちゃん注:斎藤大硯を詠んだもの。先に示した「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらによれば、函館の『大火で、新聞社を焼失した大硯は小樽に移り、すでに小樽に来ていた啄木と旧交をあたため』た。『かつて北方経営を夢見ていた大硯は、浪々の身を小樽で過ごしているうちに、樺太に理想郷を開拓しようと、樺太庁長官を宿に訪ねるというほどの情熱家でもあった』が、『「函館日日新聞」の再刊に際して帰函し、その後は社会事業に』携わり、『函館学生会を設けて進学生を援助し、教育会、図書館、函館慈恵院などにも尽力し、函館慈恵院の主事から常務理事を務めた』とある。]

 

 

治(をさ)まれる世(よ)の事無(ことな)さに

飽(あ)きたりといひし頃(ころ)こそ

かなしかりけれ

 

 治まれる世の事無さに

 飽きたりといひし頃こそ

 かなしかりけれ

 

 

共同(きようどう)の藥屋(くすりや)開(ひら)き

儲(まう)けむといふ友(とも)なりき

詐欺(さぎ)せしといふ

 

 共同の藥屋開き

 儲けむといふ友なりき

 詐欺せしといふ

 

 

あをじろき頰(ほほ)に淚(なみだ)を光(ひか)らせて

死(し)をば語(かた)りき

若(わか)き商人(あきびと)

 

 あをじろき頰に淚を光らせて

 死をば語りき

 若き商人

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代』、先に詠まれた『紅果と』ともに『啄木の指導を受けた文学少年藤田武治(たけじ)(本名南洋)を歌えるもの。当時』、『藤田は市内の雑貨問屋浜名商会に店員見習として勤務していた』とされ、これは啄木の日記により、明治四〇(一九〇七)年十二月二十二日の夜の啄木の部屋でのシチュエーションであるとある。そこで啄木は人生の在り方を訊ねる彼に『大に個人主義を說』いたと記している。]

 

 

子(こ)を負(お)ひて

雪(ゆき)の吹(ふ)き入(い)る停車場(ていしやば)に

われ見送(みおく)りし妻(つま)の眉(まゆ)かな

 

 子を負ひて

 雪の吹き入る停車場に

 われ見送りし妻の眉かな

[やぶちゃん注:これは岩城氏の前掲書によれば、先に注した釧路への単身赴任の当日の景。明治四一(一九〇八)年一月十九日。]

 

 

敵(てき)として憎(にく)みし友(とも)と

やや長(なが)く手(て)をば握(にぎ)りき

わかれといふに

 

 敵として憎みし友と

 やや長く手をば握りき

 わかれといふに

[やぶちゃん注:相手は小林寅吉と考えられている。但し、「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、国際啄木学会評議員三留昭男氏の話として、中野(旧姓小林)寅吉は『「反骨、実直な努力力行型の熱血漢」』であったとし、『その熱血漢を』時間経た後、『啄木は情感を込めて歌った。ただ』、『三留さんは、別れの握手は啄木が複雑な胸中を再構成したフィクションと』断定されておられるそうだ。しかし、そうだろうか? この歌をここに挟み込むというのは、虚構としては唐突に過ぎる気がする。意想外に寅吉が駅頭に秘かに見送りに来たのを見つけた啄木が、思わず走り寄って、別れの握手を交わしたとしてそれは決して不思議ではない。いや、寧ろ直情径行の熱血漢であると同時に、「直き心」の持ち主であったように思われる寅吉にして、これは十分にあり得ることである。でなくて、一連の歌で寅吉を終始「友」と呼ばうはずはないと私は思うのである。さればこそこれをフィクションと片付けるのには強い抵抗を覚えるのである。]

 

 

ゆるぎ出(い)づる汽車(きしや)の窓(まど)より

人先(ひとさき)に顏(かほ)を引(ひ)きしも

負(ま)けざらむため

 

 ゆるぎ出づる汽車の窓より

 人先に顏を引きしも

 負けざらむため

 

 

みぞれ降(ふ)る

石狩(いしかり)の野(の)の汽車(きしや)に讀(よ)みし

ツルゲエネフの物語(ものがたり)かな

 

 みぞれ降る

 石狩の野の汽車に讀みし

 ツルゲエネフの物語かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽出発後』、『札幌をへて岩見沢』(ここ。ここで啄木は途中下車して姉トラの家に一泊している。当時、義兄山本千太郎は岩見沢駅駅長をしていたのであった)『に至る旅行中の思い出を詠めるもの』とある。

「ツルゲエネフの物語」私の偏愛するイワン・セルゲーエヴィチ・トゥルゲーネフ(Ивáн Сергéевич Тургéнев/ラテン文字転写:Ivan Sergeevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)の、中でも「猟人日記」(Записки охотника)であって欲しいと感ずる。私は自身のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で「猟人日記」中の十二篇と彼の「散文詩」全篇の邦訳を電子化注している。また、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」でも多数の邦訳を公開している。]

 

 

わが去(さ)れる後(のち)の噂(うはさ)を

おもひやる旅出(たびで)はかなし

死(し)ににゆくごと

 

 わが去れる後の噂を

 おもひやる旅出はかなし

 死ににゆくごと

 

 

わかれ來(き)てふと瞬(またた)けば

ゆくりなく

つめたきものの頰(ほほ)をつたへり

 

 わかれ來てふと瞬けば

 ゆくりなく

 つめたきものの頰をつたへり

 

 

忘(わす)れ來(き)し煙草(たばこ)を思(おも)ふ

ゆけどゆけど

山(やま)なほ遠(とほ)き雪(ゆき)の野(の)の汽車(きしや)

 

 忘れ來し煙草を思ふ

 ゆけどゆけど

 山なほ遠き雪の野の汽車

 

 

うす紅(あか)く雪(ゆき)に流(なが)れて

入日影(いりひかげ)

曠野(あらの)の汽車(きしや)の窓(まど)を照(てら)せり

 

 うす紅く雪に流れて

 入日影

 曠野の汽車の窓を照せり

 

 

腹(はら)すこし痛み(いた)出(い)でしを

しのびつつ

長路(ちやうろ)の汽車(きしや)にのむ煙草(たばこ)かな

 

 腹すこし痛み出でしを

 しのびつつ

 長路の汽車にのむ煙草かな

 

 

乘合(のりあひ)の砲兵士官(ほうへいしくわん)の

劍(けん)の鞘(さや)

がちやりと鳴(な)るに思(おも)ひやぶれき

 

 乘合の砲兵士官の

 劍の鞘

 がちやりと鳴るに思ひやぶれき

 

 

名(な)のみ知(し)りて緣(えん)もゆかりもなき土地(とち)の

宿屋(やどや)安(やす)けし

我(わ)が家(いへ)のごと

 

 名のみ知りて緣もゆかりもなき土地の

 宿屋安けし

 我が家のごと

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木は一月二十日午後三時十五分旭川に下車。駅前の宮越屋に投宿し』、札幌から釧路へ戻る、これから啄木が勤務することとなる『釧路新聞』社長白石義郎(次の歌で注する)と合流し、『翌二十一日午前六時半の旭川発一番の釧路行に乗った』とある。現在の旭川市宮下八丁目の「西武」のB館エレベーター入口近くの外の植込に「石川啄木宿泊の地」の表示板が建っている。サイト「啄木の息」の「啄木文学散歩 北海道:岩見沢~旭川 5」を参照されたい。]

 

 

伴(つれ)なりしかの代議士(だいぎし)の

口(くち)あける靑(あを)き寐顏(ねがほ)を

かなしと思(おも)ひき

 

 伴なりしかの代議士の

 口あける靑き寐顏を

 かなしと思ひき

[やぶちゃん注:釧路行の車内の景。

「代議士」『小樽日報』と『釧路新聞』の社長であった白石義郎(しらいしよしろう/しろいしよしお 文久元(一八六一)年~大正四(一九一五)年)。この当時は「代議士」ではなかったが、これ以前の明治三一(一八九八)年三月の第五回衆議院議員総選挙で福島県第三区から出馬して当選していたこと(後、第一次大隈内閣の北海道庁長官杉田定一の要請を受け釧路支庁長から初代釧路町長に就任し、北海道会議員などを務めた)と、本歌集「一握の砂」刊行の二年前の明治四一(一九〇八)年五月(啄木上京直後)の第十回総選挙で北海道庁根室外三支庁管内から出馬して当選し、立憲政友会に所属、衆議院議員を通算二期務めたことから、かく呼んだものである。彼は明治四〇(一九〇七)年に『小樽日報』を創刊(但し、半年後に廃刊)、同紙の初期には啄木と野口雨情が記者を務めており、啄木を『釧路新聞に移籍』させ、実質上の編集長(名目は主任)に任じたのも彼であった。以上はウィキの「白石義郎」と全集年譜に拠った。]

 

 

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

泊りし宿屋の

茶のぬるさかな

 

 今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

 泊りし宿屋の

 茶のぬるさかな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、ここを前後させて旭川の宮越屋とし、意想外に『十畳間に白石社長と共に寝』ることとなり、遂に思いを果たせなかった『やるせなさを、「宿屋の茶のぬるさ」に託して』詠んだものと解しておられる。]

 

 

水蒸氣(すゐじようき)

列車(れつしや)の窓(まど)に花(はな)のごと凍(い)てしを染(そ)むる

あかつきの色(いろ)

 

 水蒸氣

 列車の窓に花のごと凍てしを染むる

 あかつきの色

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『以下四首旭川駅出発後』、『下富良野(しもふらの)から空知川の岸辺に沿うて上る車窓の光景を歌ったもの』とされ(この付近)、明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記冒頭にも(同前の仕儀を施した)、

   *

                於釧路

午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川發に乘つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此邊が所謂最も北海道的な所だ。

   *

次の一首以降、暫く車中からの景を詠じたものが続く。]

 

 

ごおと鳴(な)る凩(こがらし)のあと

乾(かわ)きたる雪(ゆき)舞(ま)ひ立(た)ちて

林(はやし)を包(つつ)めり

 

 ごおと鳴る凩のあと

 乾きたる雪舞ひ立ちて

 林を包めり

 

 

空知川(そらちがは)雪(ゆき)に埋(うも)れて

鳥(とり)も見(み)えず

岸邊(きしべ)の林(はやし)に人(ひと)ひとりゐき

 

 空知川雪に埋れて

 鳥も見えず

 岸邊の林に人ひとりゐき

[やぶちゃん注:私の好きな作家國木田獨步の先行する小説「空知川の岸邊」(明治三五(一九〇二)年作)を想起させる(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]

 

 

寂寞(せきばく)を敵(てき)とし友(とも)とし

雪(ゆき)のなかに

長(なが)き一生(いつしやう)を送(おく)る人(ひと)もあり

 

 寂寞を敵とし友とし

 雪のなかに

 長き一生を送る人もあり

 

 

いたく汽車(きしや)に疲(つか)れて猶(なほ)も

きれぎれに思(おも)ふは

我(われ)のいとしさなりき

 

 いたく汽車に疲れて猶も

 きれぎれに思ふは

 我のいとしさなりき

 

 

うたふごと驛(えき)の名(な)呼(よ)びし

柔和(にうわ)なる

若(わか)き驛夫(えきふ)の眼(め)をも忘(わす)れず

 

 うたふごと驛の名呼びし

 柔和なる

 若き驛夫の眼をも忘れず

 

 

雪(ゆき)のなか

處處(しよしよ)に屋根(やね)見(み)えて

煙突(えんとつ)の煙(けむり)うすくも空(そら)にまよへり

 

 雪のなか

 處處に屋根見えて

 煙突の煙うすくも空にまよへり

 

 

遠(とほ)くより

笛(ふえ)ながながとひびかせて

汽車(きしや)今(いま)とある森林(しんりん)に入(い)る

 

 遠くより

 笛ながながとひびかせて

 汽車今とある森林に入る

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

日一日(ひいちにち)

汽車(きしや)のひびきに心(こころ)まかせぬ

 

 何事も思ふことなく

 日一日

 汽車のひびきに心まかせぬ

 

 

さいはての驛(えき)に下(お)り立(た)ち

雪(ゆき)あかり

さびしき町(まち)にあゆみ入(い)りにき

 

 さいはての驛に下り立ち

 雪あかり

 さびしき町にあゆみ入りにき

[やぶちゃん注:先に示した明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記の、省略した後半を見ると。釧路着は夜午後九時半で、午前零時過ぎまで、町長や道会議員と小宴となったことが記されてある。]

 

 

しらしらと氷(こほり)かがやき

千鳥(ちどり)なく

釧路(くしろ)の海(うみ)の冬(ふゆ)の月(つき)かな

 

 しらしらと氷かがやき

 千鳥なく

 釧路の海の冬の月かな

[やぶちゃん注:「千鳥」はチドリ目チドリ亜目チドリ科チドリ属コチドリ Charadrius dubius か。日本最小のチドリ類の一種で、黄色いアイリングが目立つ。「バードウォッチングパラダイス ひがし北海道 釧路」のこちらを見られたい。鳴き声はYouTube Shinji kawamura氏の「コチドリの親子」がよい(北海道ではなく、季節ももっと後)。さて、岩城氏は前掲書の評釈中で、この歌は『一般に』は『きびしい冬の釧路の海岸を歌った叙景歌として知られているが、渡り鳥の千鳥がこの釧路を訪れるのは、毎年三月中旬より四月上旬にかけてである』(上記最初のリンク先では見られる時期としては四月以降で三月はついていないが、飛来のプレととれば問題ない。後の「よりそひて/深夜の雪の中に立つ/女の右手のあたたかさかな」の私の注に引いた啄木の日記を見よ。千鳥が鳴いている。北海道ならば「三月」を「冬」と呼んでも違和感はない)。『したがってこの一首は』、その『時期の海岸を詠める歌と考えてよい』とされる。実は啄木の釧路滞在は、短かく(上司であった主筆日景安太郎に対する不満と東京での作家活動への憧れに由る)、これまた、二ヶ月半後の四月五日には函館に戻り、同月二十四日には宮崎郁雨の厚意に縋って、家族を函館に残したまま、海路で上京しているから、こ「千鳥なく」釧路の景は殆んど釧路生活最後の頃に措定出来る。]

 

 

こほりたるインクの罎(びん)を

火(ひ)に翳(かざ)し

淚(なみだ)ながれぬともしびの下(もと)

 

 こほりたるインクの罎を

 火に翳し

 淚ながれぬともしびの下

 

 

顏(かほ)とこゑ

それのみ昔(むかし)變(かは)らざる友(とも)にも會(あ)ひき

國(くに)の果(はて)にて

 

 顏とこゑ

 それのみ昔に變らざる友にも會ひき

 國の果にて

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『「友」は啄木が』嘗て『神田養精館(ようせいかん)という下宿屋で一緒だった佐藤衣川(いせん)(本名巌(いわお))で』、『釧路新聞』の『三面の記者をしていた』とある人物とする。但し、岩城氏はそれを明治三八(一九〇五)年の秋のことと指定されるのであるが、その年は節子との婚姻後、盛岡を離れていない模様でおかしい。同氏の編に成る全集年譜では、それは一年前の明治三十七年の十一月のことである(『神田区駿河台袋町八養精館』とある。入居は十一月八日、そこから牛込区に転居したのが十一月二十八日であるから、佐藤との邂逅はその閉区間となる)。

 

 

あはれかの國(くに)のはてにて

酒(さけ)のみき

かなしみの滓(をり)を啜(すす)るごとくに

 

 あはれかの國のはてにて

 酒のみき

 かなしみの滓を啜るごとくに

 

 

酒(さけ)のめば悲(かな)しみ一時(いちじ)に湧(わ)き來(く)るを

寐(ね)て夢(ゆめ)みぬを

うれしとはせし

 

 酒のめば悲しみ一時に湧き來るを

 寐て夢みぬを

 うれしとはせし

 

 

出(だ)しぬけの女(をんな)の笑(わら)ひ

身(み)に沁(し)みき

厨(くりや)に酒(さけ)の凍(こほ)る眞夜中(まよなか)

 

 出しぬけの女の笑ひ

 身に沁みき

 厨に酒の凍る眞夜中

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書は『釧路の料亭での真夜中の出来事』とする。]

 

 

わが醉(ゑ)ひに心(こころ)いためて

うたはざる女(をんな)ありしが

いかになれるや

 

 わが醉ひに心いためて

 うたはざる女ありしが

 いかになれるや

[やぶちゃん注:岩城は前掲書で、啄木は『釧路新聞』に「紅筆(べにふで)だより」と題する釧路の『花柳界の艶種(つやだし)を連載し、その取材と』『称して料亭に出入りしてい』た。最初は『芸者小静を贔屓としていたが、やがてその関心は「釧路粋界の花形小奴、市子」に移り、特に十九歳の小奴』(こやっこ:本名は近江ジン)『を愛して』、連日、料亭に繰り出していたらしい。『この一首はこれらの芸者の一人を歌ったものである』とされる。]

 

 

小奴(こやつこ)といひし女(をんな)の

やはらかき

耳朶(みみたぼ)なども忘(わす)れがたかり

 

 小奴といひし女の

 やはらかき

 耳朶なども忘れがたかり

 

 

よりそひて

深夜(しんや)の雪(ゆき)の中(なか)に立(た)つ

女(をんな)の右手(めて)のあたたかさかな

 

 よりそひて

 深夜の雪の中に立つ

女の右手のあたたかさかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四十一年三月二十日の日記から、同日の午前零時半頃で、相手は送って行く小奴である。日記より例の仕儀で引く。この時はまだ、既に啄木は釧路を離れる決心をしていないことが判る。

   *

何かは知らず身體がフラフラする。高足駄を穿いて、雪路の惡さ。手を取り合つて、埠頭の邊の濱に出た[やぶちゃん注:知人(しりと)海岸附近]。月が淡又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の緣に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーンと云ふ浪の音。幽かに千鳥の聲を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。[やぶちゃん注:一段落分中略。]

 月の影に波の音。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]忘られぬ港の景色であつた。〝妹になれ〟と自分は云つた。〝なります〟と小奴は無造作に答へた。〝何日までも忘れないで頂戴、ネ〟と云つて舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。]を離れた。步きながら、妻子が遠からず來る事を話した所が、非常に喜んで、來たら必ず遊びにゆくから仲よくさして吳れと云つた。郵便局前まで來て別れた。[やぶちゃん注:後略。]

   *

別な歌の評釈に彼女の経歴が記されてあり、それによれば、明治二三(一八九〇)年函館生まれ(啄木より四つ年下)。『十勝国大津の伯父坪松太郎の養女となって坪ジンと名乗ったが、伯父が死んだため』、『帯広の函館屋という小料理屋にあずけられ芸事を覚えた。その後釧路の近江屋旅館に再婚した母ヨリを慕ってこの地に来て、鶤寅(しゃもとら)という料亭の専属となり』、『自前で左褄をとり』、『十九歳のとき』、『啄木を知った』とある。また、彼女は『昭和四十』(一九六五)『年二月十七日』、『東京都南多摩郡多摩町の老人ホーム一望荘で』亡くなった。『享年七十六歳。「六十路(むそぢ)過ぎ十九の春をしみじみと君が歌集に残る思出」の歌がある。法名甚深院釈尼京泉』ともあった。]

 

 

死(し)にたくはないかと言(い)へば

これ見(み)よと

咽喉(のど)の痍(きず)を見(み)せし女(をんな)かな

 

 死にたくはないかと言へば

 これ見よと

 咽喉の痍を見せし女かな

 

 

藝事(げいごと)も顏(かほ)も

かれより優(すぐ)れたる

女(をんな)あしざまに我(われ)を言(い)へりとか

 

 藝事も顏も

 かれより優れたる

 女あしざまに我を言へりとか

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると「かれ」は小奴』自身で、『「かれより優れたる女」は』小奴の『姉芸者の小蝶(本名甲斐谷しも)で小奴と同じ料亭鶤寅(しゃもとら)の専属芸者。評判の芸者だった。「女あしざまに我を言へり」とある』ものの、『実際は小奴と啄木が親しくなりすぎるのを心配した忠告のようで、明治四十一年三月二十日の啄木日記にも、「〝小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪く[やぶちゃん注:「えらく」。]なる人なんだから、惚る[やぶちゃん注:「ほれる」。]のは構わないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。〟」という小奴の言葉がある』とある。]

 

 

舞(ま)へといへば立(た)ちて舞(ま)ひにき

おのづから

惡酒(あくしゆ)の醉(ゑ)ひにたふるるまでも

 

 舞へといへば立ちて舞ひにき

 おのづから

 惡酒の醉ひにたふるるまでも

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、次の二首と合わせて、これは小奴の啄木に対する純情な愛の姿を、り代わって詠んだものとされるようである。]

 

 

死(し)ぬばかり我(わ)が醉(ゑ)ふをまちて

いろいろの

かなしきことを囁(ささや)きし人(ひと)

 

 死ぬばかり我が醉ふをまちて

 いろいろの

 かなしきことを囁きし人

 

 

いかにせしと言(い)へば

あをじろき醉(ゑ)ひざめの

面(おもて)に强(し)ひて笑(ゑ)みをつくりき

 

 いかにせしと言へば

 あをじろき醉ひざめの

 面に强ひて笑みをつくりき

 

 

かなしきは

かの白玉(しらたま)のごとくなる腕(うで)に殘(のこ)せし

キスの痕(あと)かな

 

 かなしきは

 かの白玉のごとくなる腕に殘せし

 キスの痕かな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると、ある日酔客が彼女に「キス」をさせよと乱暴な振舞いをしてその腕に歯形を残したが、啄木はこれを見て「ずいぶん乱暴なことをする人もあるものだ。」と憤慨したという』とある。]

 

 

醉(ゑ)ひてわがうつむく時(とき)も

水(みづ)ほしと眼(め)ひらく時(とき)も

呼(よ)びし名(な)なりけり

 

 醉ひてわがうつむく時も

 水ほしと眼ひらく時も

 呼びし名なりけり

[やぶちゃん注:無論、モデルは小奴。]

 

 

火(ひ)をしたふ蟲(むし)のごとくに

ともしびの明(あか)るき家(いへ)に

かよひ慣(な)れにき

 

 火をしたふ蟲のごとくに

 ともしびの明るき家に

 かよひ慣れにき

 

 

きしきしと寒(さむ)さに踏(ふ)めば板(いた)軋(きし)む

かへりの廊下(らうか)の

不意(ふい)のくちづけ

 

 きしきしと寒さに踏めば板軋む

 かへりの廊下の

 不意のくちづけ

[やぶちゃん注:モデルは小奴と思われる。以下も同じ。]

 

 

その膝(ひざ)に枕(まくら)しつつも

我(わ)がこころ

思(おも)ひしはみな我(われ)のことなり

 

 その膝に枕しつつも

 我がこころ

 思ひしはみな我のことなり

 

 

さらさらと氷の屑が

波に鳴る

磯の月夜のゆきかへりかな

 

 さらさらと氷(こほり)の屑(くづ)が

 波(なみ)に鳴(な)る

 磯(いそ)の月夜(つきよ)のゆきかへりかな

 

 

死(し)にしとかこのごろ聞(き)きぬ

戀(こひ)がたき

才(さい)あまりある男(をとこ)なりしが

 

 死にしとかこのごろ聞きぬ

 戀がたき

 才あまりある男なりしが

[やぶちゃん注:この一首について岩城氏は前掲書で、『北海道時代の追想歌の中に収められているが、その作歌時期』である明治四二(一九〇九)年四月二十二日か二十三日と、『初出時』(『スバル』明治四十二年五月号)『から考えて、盛岡中学校時代の同級生で』、英語学習グループ『ユニオン会の会員であった小野弘吉を歌ったものと推定される。小野は七高を』経て、『東京帝国大学農科に学んだが、卒業論文を書くために帰郷し、岩手県九戸郡江刈村に旅行中、急性腹膜炎で四十一年二月二十一日、二十五歳の若さで死んだ。啄木は同年三月四日の日記にこの友の死を悼んでいる』とあるが、全集では確認出来ない。]

 

 

十年(ととせ)まへに作(つく)りしといふ漢詩(からうた)を

醉(ゑ)へば唱(とな)へき

旅(たび)に老(お)いし友(とも)

 

 十年まへに作りしといふ漢詩を

 醉へば唱へき

 旅に老いし友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『釧路時代交遊のあった「北東新報」の記者菊池武治を歌ったもの。菊池は鷲南(しゅうなん)、啄木の小說「菊池君」のモデルで、啄木日記にも「年将に四十、盛岡の生れで、恐ろしい許りの髯面、」と書いている。啄木は釧路退去の直前の三月二十六日の夜』、『この友人と酒盃を傾け』、『互いに漢詩を詠じているが、啄木は菊池の志を得ぬ流転の生活に、事故に通じる悲しみを見てこのように歌ったのである』と評しておられる。]

 

 

 

吸(す)ふごとに

鼻(はな)がぴたりと凍(こほ)りつく

寒(さむ)き空氣(くうき)を吸(す)ひたくなりぬ

 

 吸ふごとに

 鼻がぴたりと凍りつく

 寒き空氣を吸ひたくなりぬ

 

 

波(なみ)もなき二月(にぐわつ)の灣(わん)に

白塗(しりぬり)の

外國船(ぐわいこくせん)が低(ひく)く浮(う)かべり

 

 波もなき二月の灣に

 白塗の

 外國船が低く浮かべり

[やぶちゃん注:釧路港の景であろう。]

 

 

三味線(さみせん)の絃(いと)のきれしを

火事(くわじ)のごと騷(さわ)ぐ子(こ)ありき

大雪(おほゆき)の夜(よ)に

 

 三味線の絃のきれしを

 火事のごと騷ぐ子ありき

 大雪の夜に

[やぶちゃん注:騒ぐのは喜びから。岩城氏前掲書に、この芸妓は鹿島屋の市子で、『啄木の「紅筆だより」に「一昨五日の晩の事例の市ちやん三味線の一の弦を切らしたので縁起がよいと許り躍り上つて喜び」とある』とある。]

 

 

神(かみ)のごと

遠(とほ)く姿(すがた)をあらはせる

阿寒(あかん)の山(やま)の雪(ゆき)のあけぼの

 

 神のごと

 遠く姿をあらはせる

 阿寒の山の雪のあけぼの

[やぶちゃん注:「阿寒の山」雌阿寒岳(めあかんだけ)。標高千四百九十九メートル。少し離れて雄阿寒岳(標高千三百七十一メートル)があるが一般に「阿寒岳」と称した場合は、前者の雌阿寒岳を指すことが多い。釧路市街から北西に聳える。]

 

 

郷里(くに)にゐて

身投(みな)げせしことありといふ

女(をんな)の三味(さみ)にうたへるゆふべ

 

 郷里にゐて

 身投げせしことありといふ

 女の三味にうたへるゆふべ

[やぶちゃん注:身投げした経験を語っているのは、三味線を弾く芸妓自身の経験談である。]

 

 

葡萄色(えびいろ)の

古(ふる)き手帳(てちやう)にのこりたる

かの會合(あいびき)の時(とき)と處(ところ)かな

 

 葡萄色の

 古き手帳にのこりたる

 かの會合の時と處かな

[やぶちゃん注:「かの會合」は釧路花柳界での一齣。]

 

よごれたる足袋穿(たびは)く時(とき)の

氣味(きみ)わるき思(おも)ひに似(に)たる

思出(おもひで)もあり

 

 よごれたる足袋穿く時の

 氣味わるき思ひに似たる

 思出もあり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木の小説「病院の窓」』(明治四一(一九〇八)年五月脱稿の小説であるが、未発表)『の梅野看護婦のモデルとなった、釧路協立笠井病院の薬局助手梅川ミサホを歌えるもの。啄木日記によると』、『梅川は啄木を慕っていうようであ』ったが、『啄木は彼女との交渉を避けてこれを近づけなかった。この一首は』、その彼女『との「気味わるき」思い出を歌ったものである』とされる。]

 

 

わが室(へや)に女(をんな)泣(な)きしを

小說(せうせつ)のなかの事(こと)かと

おもひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが室に女泣きしを

 小說のなかの事かと

 おもひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「わが室」は釧路区北州崎町一丁目の関という下宿の一室。この部屋で泣いた女は』前の歌に出た『梅川ミサホ。「小説のなかの事かと」は明治四十一年三月二十一日の啄木日記にある、夜半の小奴と梅川の恋のさやあてめいた事件をいうのであろう』とある。なかなかスリリングな出来事であるが、こういう事実に私はあまり興味がないので(こういう現場に居合わせたくないので)特に私は電子化したいとは思わぬ。筑摩版全集第五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の二百三十五ページ以下を参照されたい。]

 

 

浪淘沙(らうたうさ)

ながくも聲(こゑ)をふるはせて

うたふがごとき旅(たび)なりしかな

 

 浪淘沙

 ながくも聲をふるはせて

 うたふがごとき旅なりしかな

[やぶちゃん注:「浪淘沙」岩城氏の前掲書に、『「浪淘沙」は浪淘沙詞の意で』楽府(がふ)題である、長『江辺の商人の妻が遠く家郷を離れた夫を憶うの情を述べた唐詩で、劉禹錫(りゅううしゃく)や白楽天の詩が有名であるが、啄木が親しんだのはおそらく白楽天であろう』とされる。白居易のそれは以下と思われる。

   *

 

 浪淘沙 六首

 

白浪茫茫與海連 平沙浩浩四無邊

暮去朝來淘不住 遂令東海變桑田

 

海底飛塵終有日 山頭化石豈無時

誰道小郞抛小婦 船頭一去沒囘期

 

借問江潮與海水 何似君情與妾心

相恨不如潮有信 相思始覺海非深

 

靑草湖中萬里程 黃梅雨里一人行

愁見灘頭夜泊處 風飜暗浪打船聲

 

隨波逐浪到天涯 遷客西還有幾家

却到帝都重富貴 請君莫忘浪淘沙

 

一泊沙來一泊去 一重浪滅一重生

相攪相淘無歇日 會敎東海一時平

 

   *

所持する複数の白楽天の詩集にも載らないので、概ね意味は分かるつもりだが、訓読は控える。]

2020/02/13

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 秋風のこころよさに(全)

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。]

 

    秋風のこころよさに

 

ふるさとの空(そら)遠(とほ)みかも

高(たか)き屋(や)にひとりのぼりて

愁(うれ)ひて下(くだ)る

 

 ふるさとの空遠みかも

 高き屋にひとりのぼりて

 愁ひて下る

[やぶちゃん注:先に言っておくと、「屋」は如何に注するように、「屋根」ではなく、三階建ての下宿の三階の「高い場所にある部屋」の謂いである。恐らくは誤読されていた方は多いと思う。私もそうであった。

「遠みかも」「遠み」は形容詞「とほし」の語幹に原因・理由を表わす接尾語「み」がついたもので、「遠いので」の意の古語。「かも」は終助詞で詠嘆。疑問の係助詞「か」に詠嘆の係助詞「も」がついて一語化したもの。

 さて、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『明星』明治四一(一九〇八)年十月号で、作歌は同年九月十一日であるが、筑摩版全集年譜(同じく岩城氏編)や日記と照応すると、この五日前の九月六日、啄木は金田一京助の厚意で本郷区森川町一番新坂にあった高台にある「新しい三階建」の「高等下宿」であった蓋平館(がいへいかん)に移っている。九月十一日の日記の中にも(全集底本であるが、漢字を恣意的に正字化した)、

   *

 四時頃からしとしと雨。音もなき秋の雨に、遠くの物の煙つて見える景色は、しめやかに故鄕を思はせた。

  故鄕の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る

   *

と本歌を記している。着後は三階の部屋に入った。九月八日の日記の一節に、

   *

九番の室に移る。珍妙な間取の三疊半、稱して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳か[やぶちゃん注:「はるか」。]に小石川の高臺に相對してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、斷間なく吐く黑煙が怎やら[やぶちゃん注:「どうやら」。何となく。]勇ましい。晴れた日には富士が眞向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。

 天に近いから、一碧廓寥[やぶちゃん注:「くわくれう(かくりょう)」。広々として寂しいさま。]として目に廣い。蟲の音が遙か下から聞えて來て、遮るものがないから。秋風がみだりに室に充ちてゐる。

   *

とある。以上が載る筑摩版全集第五巻の丁度、九月十一日の日記始まるところに、その日の午前或いは前の三日間の間に日記に描いたものであろうか、「九号室の眺」という啄木のスケッチが挿入されているので、掲げておく。

 

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左端に砲兵工廠の煙突が描かれおり、或いは右手の彼方に線でピラミッド型に描いてあるピークが或いは富士なのかも知れない。ここは現在東京都文京区本郷六丁目(グーグル・マップ・データ)で、まさに「旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)」の碑が立つ。――しかし俄然!――私は驚いたのだ! 「砲兵工廠」と出た辺りからうすうす気づいていたのだが、この啄木が描いた景色の、その向こうの高台の中央当たりにこそ、かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年)の「先生」と「K」が下宿することになる、あの家があることになっているからである。《あの家》については、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の私の考証を見られたいが、そこで示した「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」の地図を見て戴ければ、この蓋平館別荘が真東の向かいにあることが判然とするはずである(私が「こゝろ」の下宿に推定比定したのはこの付近(文京区小石川二丁目の内)で、そこから六百メートルほど谷(現在の白山通り)を隔てて殆んど真正面に啄木のこの時の下宿があったことになる)。しかも、啄木はこの年の本歌集刊行の前から漱石と親交を持っていた(五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年七月一日に胃腸病で入院していた漱石に社用と見舞いを兼ねて訪ね、担当していた「二葉亭全集」についての指導を受けている)。漱石は門弟の森田草平を通じて二度に亙って結核が進行していた啄木に見舞金を届けており、葬儀にも出席して、若き詩人の死を強く惜しんだのである。私の考証では(私の『「こゝろ」マニアックス』を参照されたい)啄木がここへ来た時から十年前の明治一〇(一八九八)年に「先生」はこの軍人の未亡人の素人下宿に移っているから、この景色は殆んど変わっていないと考えてよいと思う。東京大学の近くであるから、別段、偶然とも言えようが(しかも「こゝろ」は創作で「奥さん」と「お孃さん」のいる素人下宿など実在しないのであるが)、私はこの啄木のスケッチにそのロケーションが含まれることに激しく感動したのである。「こゝろ」フリークの私には驚くべき奇縁としか言いようがないのである。

 

 

皎(かう)として玉(たま)をあざむく小人(せうじん)も

秋來(あきく)といふに

物(もの)を思(おも)へり

 

 皎として玉をあざむく小人も

 秋來といふに

 物を思へり

[やぶちゃん注:「皎」白く明るく光って清いこと。

「小人」少年。]

 

 

かなしきは

秋風(あきかぜ)ぞかし

稀(まれ)にのみ湧(わ)きし淚(なみだ)の繁(しじ)に流(なが)るる

 

 かなしきは

 秋風ぞかし

 稀にのみ湧きし淚の繁に流るる

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年十月号『明星』で、歌稿では、

 かなしきは秋風ぞかしけながくも忘れゐし人を思出けり]

が初案。]

 

 

靑(あを)に透(す)く

かなしみの玉(たま)に枕(まくら)して

松(まつ)のひびきを夜(よ)もすがら聽(き)く

 

 靑に透く

 かなしみの玉に枕して

 松のひびきを夜もすがら聽く

 

 

神寂(かみさ)びし七山(ななやま)の杉(すぎ)

火(ひ)のごとく染(そ)めて日入(ひい)りぬ

靜(しづ)かなるかな

 

 神寂びし七山の杉

 火のごとく染めて日入りぬ

 靜かなるかな

[やぶちゃん注:「神寂びし」「神さぶ」は「神々(こうごう)しくなる・荘厳(そうごん)に見える」の意。

「七山」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

そを讀(よ)めば

愁(うれ)ひ知(し)るといふ書(しよ)焚(た)ける

いにしへ人(ひと)の心(こころ)よろしも

 

 そを讀めば

 愁ひ知るといふ書焚ける

 いにしへ人の心よろしも

[やぶちゃん注:始皇帝の焚書を想起した詠。]

 

 

ものなべてうらはかなげに

暮(く)れゆきぬ

とりあつめたる悲(かな)しみの日(ひ)は

 

 ものなべてうらはかなげに

 暮れゆきぬ

 とりあつめたる悲しみの日は

 

 

 

水潦(みづたまり)

暮(く)れゆく空(そら)とくれなゐの紐(ひも)を浮(うか)べぬ

秋雨(あきさめ)の後(のち)

 

 水潦

 暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ

 秋雨の後

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で「くれなゐの紐」を水溜まりに浮かんでいる実際の何かから解けて落ちた赤い紐ととっておられるが、私は、岩城氏が引かれる今井泰子氏の解釈『くれないの紐は「夕焼けに染った細い雲」とする解釈も参考になろう』という今井氏の隠喩を支持する。]

 

 

秋立(あきた)つは水(みづ)にかも似(に)る

洗(あら)はれて

思(おも)ひことごと新(あた)しくなる

 

 秋立つは水にかも似る

 洗はれて

 思ひことごと新しくなる

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、作歌は明治四一(一九〇八)年九月十四日から十五日で、初出は同年十月号『明星』である。なお、同年の暦上の立秋は八月八日である。]

 

 

愁(うれ)ひ來(き)て

丘(をか)にのぼれば

名(な)も知(し)らぬ鳥(とり)啄(ついば)めり赤(あか)き茨(ばら)の實(み)

 

 愁ひ來て

 丘にのぼれば

 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の實

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、作歌は明治四十一年八月八日の千駄ケ谷歌会で、初出は同年十月号『明星』である。岩城氏は、『啄木は当時』、『与謝蕪村の句集を愛読しているので、この歌は蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」の句を』インスパイアして『作られたものであろう。また、同年七月号の『心の花』に載った北原白秋の』

見るとなく淚ながれぬ

かの小鳥

在ればまた來て、茨(いばら)のなかの紅き實を啄(ついば)み去るを。

あはれまた、

啄み去るを。

『の影響も感じられる』と評されておられる。蕪村の句は推定(尾形仂(つとむ)校注「蕪村俳句集」一九八九年岩波文庫刊)で安永四(一七七五)年四月で、夏の句であり、白秋のそれは、後の詩集「思ひ出」(明治四四(一九一一)年刊。郷里福岡県柳川における幼年時代を追懐した抒情詩集)の「斷章」の八番目に配されたものである。]

 

 

秋(あき)の辻(つぢ)

四(よ)すぢの路(みち)の三(み)すぢへと吹(ふ)きゆく風(かぜ)の

あと見(み)えずかも

 

 秋の辻

 四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の

 あと見えずかも

 

 

秋(あき)の聲(こゑ)まづいち早(はや)く耳(みみ)に入(い)る

かかる性(さが)持(も)つ

かなしむべかり

 

 秋の聲まづいち早く耳に入る

 かかる性持つ

 かなしむべかり

 

 

目(め)になれし山(やま)にはあれど

秋(あき)來(く)れば

神(かみ)や住(す)まむとかしこみて見(み)る

 

 目になれし山にはあれど

 秋來れば

 神や住まむとかしこみて見る

 

 

わが爲(な)さむこと世(よ)に盡(つ)きて

長(なが)き日(ひ)を

かくしもあはれ物(もの)を思(おも)ふか

 

 わが爲さむこと世に盡きて

 長き日を

 かくしもあはれ物を思ふか

 

 

さらさらと雨(あめ)落(お)ち來(きた)り

庭(には)の面(も)の濡(ぬ)れゆくを見(み)て

淚(なみだ)わすれぬ

 

 さらさらと雨落ち來り

 庭の面の濡れゆくを見て

 淚わすれぬ

[やぶちゃん注:最後は「泣くことをふと忘れてしまっていた」というのである。]

 

 

ふるさとの寺(てら)の御廊(みらう)に

踏(ふ)みにける

小櫛(をぐし)の蝶(てふ)を夢(ゆめ)にみしかな

 

 ふるさとの寺の御廊に

 踏みにける

 小櫛の蝶を夢にみしかな

[やぶちゃん注:「寺」父が住職をしていた渋民村の万年山宝徳寺。一歲から九歳(渋民中学校卒業の明治二八(一九八五)年三月)までの閉区間の中の幼少期の追懐であろう。

「小櫛の蝶」岩城氏は前掲書で『故郷の宝徳寺の廊下で、踏んだことのある蝶の模様のついた小さな櫛を夢にみたことであるよ』と訳しておられるが、どうも何か隠れた意味がありそうに思われたので調べたところ、大沢博氏の論文「啄木の短歌創造過程の心理学的研究㈦」(『岩手大学教育学部研究年報』第四十四巻第一号(一九八四年十月発行・PDF)で、この歌を取り上げて(四百二十三番)、

   《引用開始》

宝徳寺の墓地でつい踏んでしまった、少女サダのものとみなした小さな骨片のことを、夢にみたというのであろう。蝶も、鳥と同じように、昔から死者の霊魂の象徴とされてきた動物である。特に少女の霊魂の象徴としてふさわしいものである。

   《引用終了》

とされ、以下、そうした解釈をした証左を以下に述べておられる。この啄木の幼馴染みの三歳年上の少女沼田サダについて、大沢氏は同前の『年報』の先行する第三十六巻(一九七六年発行)の「啄木の作歌動機の心理学的分析」PDF)の中で、この『サダは、宝徳寺再建の功労者、大工沼田末吉の娘で』あったが、『啄木が八歳の時に、ジフテリアのため十一歳で急死した少女である』とされる。ショッキングな解釈ではある。但し、「御廊」を「墓地」とは訳せないし、「小櫛の蝶」を少女サダの遺骨とする換喩を元に復元することは容易ではない。但し、この一首に何らかの秘密が隠されていることはこの歌の確信犯的な夢表現から見ても明らかではある。こちらの記事によると、大沢氏は「石川啄木の秘密」(昭和五二(一九七七)年光文社刊)で既にこのショッキングな解釈を発表されておられ、梗概を纏めたサイト主の記載によれば、『啄木には幼なじみの沼田サタ(通称サダ子)がいたが、啄木八歳のとき』、『彼女は十一歳でジフテリアにかかり死んでしまう』。『啄木が三歳のとき妹光子が生まれて、長姉さだが母に代わって啄木の世話をしたが』、『啄木が六歳のとき姉さだは嫁いでいってしまった』。『それから啄木はサダ子とよく遊んだ。(証言する啄木の年上の女性たち)』(丸括弧内は同書のパートの柱(標題)か)『彼女の姿をひと目見たくて』、『啄木は墓を掘っているところを大人たちに見つけられ』、『厳しく叱られる』。『「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに」』という知られた本「一握の砂」の歌は、実は『幼い啄木が土葬の墓を手で掘っていたら』、『骨が出てきたことを、詠んだのだと大沢先生は説明する』とある。あり、精神分析的な手法を導入することは私は問題ないと思うが、こうした象徴変換をやりだすと、本来の文学鑑賞の領域との共有性や語彙の齟齬が甚だしくなってしまうので、分析手法には賛同するが、その結果として至った《解読》には微妙に留保をしたくなる。但し、その中では、本歌の分析解釈は、それなりに私には受け入れ易い内容であるとは言える。少しでも、墓を掘って骨を出すだの、墓場で露出した骨を踏むだのという匂わせをしたでは、猟奇となって、これはもう夢野久作の「獵奇歌」群の一首と化してしまう(私は個人的にはそれでもよいと思う人種であるが)。されば、「墓地」を「御廊」(この「廊」はふと見間違えれば「廟」にも見え、それならば墓地の謂いとなる)とし、「小さな少女の遺骨の儚い破片」を「小櫛の蝶」とする象徴変換はかなり腑に落ちると私は思うのである。]

 

 

こころみに

いとけなき日(ひ)の我(われ)となり

物言(ものい)ひてみむ人(ひと)あれと思(おも)ふ

 

 こころみに

 いとけなき日の我となり

 物言ひてみむ人あれと思ふ

 

 

はたはたと黍(きび)の葉(は)鳴(な)れる

ふるさとの軒端(のきば)なつかし

秋風(あきかぜ)吹(ふ)けば

 

 はたはたと黍の葉鳴れる

 ふるさとの軒端なつかし

 秋風吹けば

 

 

摩(す)れあへる肩(かた)のひまより

はつかにも見(み)きといふさへ

日記(にき)に殘(のこ)れり

 

 摩れあへる肩のひまより

 はつかにも見きといふさへ

 日記に殘れり

[やぶちゃん注:「はつかにも」僅かにも。]

 

 

風流男(みやびを)は今(いま)も昔(むかし)も

泡雪(あはゆき)の

玉手(たまで)さし捲(ま)く夜(よ)にし老(お)ゆらし

 

 風流男は今も昔も

 泡雪の

 玉手さし捲く夜にし老ゆらし

 

 

かりそめに忘(わす)れても見(み)まし

石(いし)だたみ

春(はる)生(お)ふる草(くさ)に埋(うも)るるがごと

 

 かりそめに忘れても見まし

 石だたみ

 春生ふる草に埋るるがごと

[やぶちゃん注:「かりそめに忘れても見まし」『現在の既婚者である私という事実を忘れて「かりそめに」も恋をしてみたいものだ』の謂いであろう。岩城氏の前掲書によれば、『この一首は当時啄木が短歌を指導していた大分県臼杵(うすき)の文学少女菅原芳子を対象』として『架空の恋を歌ったものであろう』と述べておられる。]

 

 

その昔(むかし)搖籃(ゆりかご)に寢(ね)て

あまたたび夢(ゆめ)みし人(ひと)か

切(せち)になつかし

 

 その昔搖籃に寢て

 あまたたび夢みし人か

 切になつかし

[やぶちゃん注:純化された永遠の恋人として〈母〉像を、現在の掻き毟るような人恋しさに転換して詠んだものである。]

 

 

神無月(かみなづき)

岩手(いはて)の山(やま)の

初雪(はつゆき)の眉(まゆ)にせまりし朝(さ)を思(おも)ひぬ

 

 神無月

 岩手の山の

 初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

 

 

ひでり雨(あめ)さらさら落(お)ちて

前栽(せんざい)の

萩(はぎ)のすこしく亂(みだ)れたるかな

 

 ひでり雨さらさら落ちて

 前栽の

 萩のすこしく亂れたるかな

 

 

秋(あき)の空(そら)廓寥(くわくれう)として影(かげ)もなし

あまりにさびし

烏(からす)など飛(と)べ

 

 秋の空廓寥として影もなし

 あまりにさびし

 烏など飛べ

[やぶちゃん注:「廓寥」広々として寂しいさま。

「烏飛べ」と命じたところに作者の孤独の眼目が愕然と発揮されている。]

 

 

雨後(うご)の月(つき)

ほどよく濡(ぬ)れし屋根瓦(やねがはら)の

そのところどころ光(ひか)るかなしさ

 

 雨後の月

 ほどよく濡れし屋根瓦の

 そのところどころ光るかなしさ

 

 

われ饑(う)ゑてある日(ひ)に

細(ほそ)き尾(を)を掉(ふ)りて

饑(う)ゑて我(われ)を見(み)る犬(いぬ)の面(つら)よし

 

 われ饑ゑてある日に

 細き尾を掉りて

 饑ゑて我を見る犬の面よし

[やぶちゃん注:犬の面が作者の顔とオーヴァー・ラップするところが凄絶である。]

 

 

いつしかに

泣(な)くといふこと忘(わす)れたる

我(われ)泣(な)かしむる人(ひと)のあらじか

 

 いつしかに

 泣くといふこと忘れたる

 我泣かしむる人のあらじか

 

 

汪然(わうぜん)として

ああ酒(さけ)のかなしみぞ我(われ)に來(きた)れる

立(た)ちて舞(ま)ひなむ

 

 汪然として

 ああ酒のかなしみぞ我に來れる

 立ちて舞ひなむ

[やぶちゃん注:「汪然」は本来は「水が深く広いさま」であるが、転じて「涙が盛んに流れるさま」を言う。]

 

 

蛼(いとど)鳴(な)く

そのかたはらの石(いし)に踞(きよ)し

泣(な)き笑(わら)ひしてひとり物言(ものい)ふ

 

 蛼鳴く

 そのかたはらの石に踞し

 泣き笑ひしてひとり物言ふ

[やぶちゃん注:「蛼(いとど)」通常、「いとど」は狭義には剣弁亜(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis かその近縁種(七種いる)を指す(ご存じの通り、鳴かない)が、この場合はコオロギの古名である。私の『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「五」の「コホロギ」・「クツワムシ」・「カンタン」』の私の注を参照されるのが手っ取り早い。]

 

 

力(ちから)なく病(や)みし頃(ころ)より

口(くち)すこし開(ひら)きて眠(ねむ)るが

癖(くせ)となりにき

 

 力なく病みし頃より

 口すこし開きて眠るが

 癖となりにき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四三(一九一〇)年四月二十五日附『東京毎日新聞』初出である。前にも述べたが、啄木が顕在的な結核の罹患症状らしきもの自覚は翌明治四十四年一月末頃とされているから、これを確信犯的な結核の認識と読むことは的を外す。但し、周囲に多数の結核罹患者やそれによる死者がいる中で、何らかの呼吸器症状を既に呈しており、それを「病気」と言っている可能性はある。しかし寧ろこの「病みし」とは精神や心の憂愁感の昂りを指していると読んだ方がよいと私は思う。]

 

 

人(ひと)ひとり得(う)るに過(す)ぎざる事(こと)をもて

大願(たいぎわん)とせし

若(わか)きあやまち

 

 人ひとり得るに過ぎざる事をもて

 大願とせし

 若きあやまち

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、歌稿は、

 人一人うるにすぎざる事をもて大願とするあやまちはよし

であるとされ、『啄木は世上若きあやまちとして非難される早熟な』今の妻節子との『恋愛も、彼自身は生涯これを懐かしみ、是認していたのである』と喝破されておられる。同感である。]

 

 

物(もの)怨(え)ずる

そのやはらかき上目(うはめ)をば

愛(め)づとことさらつれなくせむや

 

 物怨ずる

 そのやはらかき上目をば

 愛づとことさらつれなくせむや

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『うらみごとをいうときの彼女のあのやわらかな上目が可愛らしいと思って、わざとつれなくするのであろうか』と訳しておられる。前歌の続きとして妻節子を詠んだものとまずはとっておく。]

 

 

かくばかり熱き淚は

初戀の日にもありきと

泣く日もまたなし

 

 かくばかり熱き淚は

 初戀の日にもありきと

 泣く日もまたなし

[やぶちゃん注:特にこれを新たな恋の発露ととる必要はない。但し、そうでないと断定も出来ない。岩城氏は前掲書で『主題は秋の憂愁』とされるが、そのような感覚的感懐であると断定も出來はしない。]

 

 

長(なが)く長(なが)く忘(わす)れし友(とも)に

會(あ)ふごとき

よろこびをもて水(みづ)の音(をと)聽(き)く

 

 長く長く忘れし友に

 會ふごとき

 よろこびをもて水の音聽く

 

 

秋(あき)の夜(よ)の

鋼鐵(はがね)の色(いろ)の大空(おほぞら)に

火(ひ)を噴(ふ)く山(やま)もあれなど思(おも)ふ

 

 秋の夜の

 鋼鐵の色の大空に

 火を噴く山もあれなど思ふ

 

 

岩手山(いはてやま)

秋(あき)はふもとの三方(さんぱう)の

野(の)に滿(み)つる蟲(むし)を何(なに)と聽(き)くらむ

 

 岩手山

 秋はふもとの三方の

 野に滿つる蟲を何と聽くらむ

 

 

父(ちち)のごと秋(あき)はいかめし

母(はは)のごと秋(あき)はなつかし

家(いへ)持(も)たぬ兒(こ)に

 

 父のごと秋はいかめし

 母のごと秋はなつかし

 家持たぬ兒に

 

 

秋(あき)來(く)れば

戀(こ)ふる心(こころ)のいとまなさよ

夜(よ)もい寢(ね)がてに雁(かり)多(おほ)く聽(き)く

 

 秋來れば

 戀ふる心のいとまなさよ

 夜もい寢がてに雁多く聽く

 

 

長月(ながつき)も半(なか)ばになりぬ

いつまでか

かくも幼(をさな)く打出(うちい)でずあらむ

 

 長月も半ばになりぬ

 いつまでか

 かくも幼く打出でずあらむ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、歌稿は、

 長月も半ばになりぬいつまでかかくも幼き戀するものか

であることから、先に示した通り、啄木は当時、短歌を指導していた少女菅原芳子に、『つれずれなるままに恋文を送っている』ことから、『この一首は彼女に対する恋とはいえぬ恋を求める自己をあわれんだ歌である』と評しておられる。この『恋とはいえぬ恋』という謂いには私は留保をしたいとは思う。次の歌も参照。]

 

 

思(おも)ふてふこと言(い)はぬ人(ひと)の

おくり來(こ)し

忘(わす)れな草(ぐさ)もいちじろかりし

 

 思ふてふこと言はぬ人の

 おくり來し

 忘れな草もいちじろかりし

[やぶちゃん注:明白な現存在の相聞歌であり、「おくり來し」相手は当然の如く妻節子ではない。]

 

 

秋(あき)の雨(あめ)に逆反(さかせ)りやすき弓(ゆみ)のごと

このごろ

君(きみ)のしたしまぬかな

 

 秋の雨に逆反りやすき弓のごと

 このごろ

 君のしたしまぬかな

[やぶちゃん注:「逆反りやすき弓」私は弓の弓柄(ゆづか:「握(にぎり)」。右手で持つ弦(つる)を支える部分)が、湿気を含んで反りが致命的に逆に戻ってしまうことを言っていると読む。]

 

 

松(まつ)の風(かぜ)夜晝(よひる)ひびきぬ

人訪(ひとと)はぬ山(やま)の祠(ほこら)の

石馬(いしうま)の耳(みみ)に

 

 松の風夜晝ひびきぬ

 人訪はぬ山の祠の

 石馬の耳に

 

 

ほのかなる朽木(くちき)の香(かを)り

そがなかの蕈(たけ)の香(かほ)りに

秋(あき)やや深(ふか)し

 

 ほのかなる朽木の香り

 そがなかの蕈の香りに

 秋やや深し

[やぶちゃん注:「蕈(たけ)」茸(きのこ)。但し、岩城氏前掲書によれば、作歌は明治四二(一九〇二)年四月十一日で、初出は同年五月号の『スバル』であるから、追懐か想像句である。]

 

 

時雨降(しぐれふ)るごとき音(おと)して

木傳(こづた)ひぬ

人(ひと)によく似(に)し森(もり)の猿(さる)ども

 

 時雨降るごとき音して

 木傳ひぬ

 人によく似し森の猿ども

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四十一年九月十二日平野万里炷徹夜会での作。追懐というよりも幻想性がより強い感じが私はする。]

 

 

森(もり)の奧(おく)

遠(とほ)きひびきす

木(き)のうろに臼(うす)ひく侏儒(しゆじゆ)の國(くに)にかも來(き)し

 

 森の奧

 遠きひびきす

 木のうろに臼ひく侏儒の國にかも來し

[やぶちゃん注:前歌と同じく強い幻想性が感じられる。]

 

 

世(よ)のはじめ

まづ森(もり)ありて

半神(はんしん)の人(ひと)そが中に火(ひ)や守(まも)りけむ

 

 世のはじめ

 まづ森ありて

 半神の人そが中に火や守りけむ

[やぶちゃん注:私は「半神」をギリシア神話のパンやサテュロスのような四足獣と人間のハイブリッドの獣人を想起する必要はないと考える(但し、女好きの啄木には彼らは相応しいとは言えようから、排除するものではない)。人と神がある意味でより密接な形であった原始人(それは幻想的には寧ろ「半神」であってよいと思う)の意識に遡った古代幻想である。]

 

 

はてもなく砂(すな)うちつづく

戈壁(ゴビ)の野(の)に住(す)みたまふ神(かみ)は

秋(あき)の神(かみ)かも

 

 はてもなく砂うちつづく

 戈壁の野に住みたまふ神は

 秋の神かも

[やぶちゃん注:「戈壁(ゴビ)」中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。ゴビ砂漠。「ゴビ」はモンゴル語で「沙漠・乾燥した土地・礫が広がる草原」などを意味する(ここはウィキの「ゴビ砂漠」に拠った)。]

 

 

 

あめつちに

わが悲(かな)しみと月光(げつくわう)と

あまねき秋(あき)の夜(よ)となれりけり

 

 あめつちに

 わが悲しみと月光と

 あまねき秋の夜となれりけり

 

 

うらがなしき

夜(よる)の物(もの)の音(ね)洩(も)れ來(く)るを

拾(ひろ)ふがごとくさまよひ行(ゆ)きぬ

 

 うらがなしき

 夜の物の音洩れ來るを

 拾ふがごとくさまよひ行きぬ

 

 

旅(たび)の子(こ)の

ふるさとに來(き)て眠(ねむ)るがに

げに靜(しづ)かにも冬(ふゆ)の來(き)しかな

 

 旅の子の

ふるさとに來て眠るがに

げに靜かにも冬の來しかな

[やぶちゃん注:「がに」接続助詞。願望を受けてその理由を「~が出来るように」の意。]

2020/02/11

石川啄木日記のスケッチに「こゝろ」の「先生」と「K」の下宿がある!!

石川啄木歌集「一握の砂」の「秋風のこころよさに」パートの冒頭の以下の一首に注をつけようとして、驚くべきことに気がついた!…………


ふるさとの空(そら)遠(とほ)みかも

高(たか)き屋(や)にひとりのぼりて

愁(うれ)ひて下(くだ)る

 

 ふるさとの空遠みかも

 高き屋にひとりのぼりて

 愁ひて下る

さてもこれは、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『明星』明治四一(一九〇八)年十月号で、作歌は同年九月十一日である。筑摩版全集年譜(同じく岩城氏編)や日記と照応すると、この五日前の九月六日に啄木は金田一京助の厚意で本郷区森川町一番新坂にあった高台にある「新しい三階建」の「高等下宿」であった蓋平館(がいへいかん)に移っている。九月十一日の日記の中にも(筑摩版全集底本であるが、漢字を恣意的に正字化した)、

   *

 四時頃からしとしと雨。音もなき秋の雨に、遠くの物の煙つて見える景色は、しめやかに故鄕を思はせた。

  故鄕の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る

   *

と本歌を記している。着後は三階の部屋に入った。九月八日の日記の一節に、

   *

九番の室に移る。珍妙な間取の三疊半、稱して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳か[やぶちゃん注:「はるか」。]に小石川の高臺に相對してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、斷間なく吐く黑煙が怎やら[やぶちゃん注:「どうやら」。何となく。]勇ましい。晴れた日には富士が眞向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。

 天に近いから、一碧廓寥[やぶちゃん注:「くわくれう(かくりょう)」。広々として寂しいさま。]として目に廣い。蟲の音が遙か下から聞えて來て、遮るものがないから。秋風がみだりに室に充ちてゐる。

   *

とある。以上が載る筑摩版全集第五巻の丁度、九月十一日の日記始まるところに、その日の午前或いは前の三日間の間に日記に描いたものであろうか、「九号室の眺」という啄木のスケッチが挿入されているので、掲げておく。

 

Sangainokei

 

左端に砲兵工廠の煙突が描かれおり、右手の彼方に線でピラミッド型に描いてあるピークが、或いは富士なのかも知れない。ここは現在東京都文京区本郷六丁目で、まさに「旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)」の碑が立つ。

 私はしかし激しく驚いたのだ! 「砲兵工廠」と出た辺りからうすうす気づいていたのだが、この啄木が描いた景色の、その向こうの高台の中央当たりにこそ、かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年発表)の「先生」と「K」が下宿することになる、あの家があることになっているからである。《あの家》については、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の私の考証を見られたいが、そこで示した「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」の地図を見て戴ければ、この蓋平館別荘が真東の向かいにあることが判然とするはずである。

 しかも、啄木はこの年の本歌集刊行の前から漱石と親交を持っていた(五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年七月一日に胃腸病で入院していた漱石に社用と見舞いを兼ねて訪ね、担当していた「二葉亭全集」についての指導を受けている)。後に漱石は門弟の森田草平を通じて二度に亙って結核が進行していた啄木に見舞金を届けており、葬儀にも出席し、若き詩人の死を強く惜しんだのである。私の考証では(私の『「こゝろ」マニアックス』を参照されたい)啄木がここへ来た時から十年前の明治一〇(一八九八)年に、「先生」はこの軍人の未亡人の素人下宿に移っている設定であるから、この景色は殆んど変わっていないと考えてよいと思う。東京大学の近くであるから、別段、偶然とも言えようが、私はこの啄木のスケッチにそのロケーションが含まれることに激しく感動したのである。「こゝろ」フリークの私には奇縁としか言いようがないのである! 漱石が啄木への秘かにして迂遠なオマージュとしてここを選んだのではないとは、誰も断言は出来ぬと私は思うのである。

 

2020/02/10

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 二

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「煙 一」はこちら

 なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「煙 一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、本「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である(計全百一首)。]

 

    

 

ふるさとの訛(なまり)なつかし

停車場(ていしやば)の人(ひと)ごみの中(なか)に

そを聽(き)きにゆく

 

 ふるさとの訛なつかし

 停車場の人ごみの中に

 そを聽きにゆく

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京毎日新聞』。「停車場」は言わずもがなであるが、東北本線の始発駅であった(現在は東京駅に変更された)上野駅である。]

 

 

やまひある獸(けもの)のごとき

わがこころ

ふるさとのこと聞(き)けばおとなし

 

 やまひある獸のごとき

 わがこころ

 ふるさとのこと聞けばおとなし

 

 

ふと思(おも)ふ

ふるさとにゐて日每(ひごと)聽(き)きし雀(すずめ)の鳴(な)くを

三年(みとせ)聽(き)かざり

 

 ふと思ふ

 ふるさとにゐて日每聽きし雀の鳴くを

 三年聽かざり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四十三年八月十四日附『東京朝日新聞』初出で、作歌は同年八月三日夜から翌日の夜にかけてである。啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を出て以来、一度も帰っていない(この日を以って一家は一度離散し、啄木は妹ミツを連れて函館へ向かった。その後、札幌・小樽・釧路と転々し、明治四十一年四月二十八日、東京に着いた)。いや、実際には啄木は実は死ぬまで故郷盛岡にも渋民にも帰ってはいないのである。即ち、啄木は正真正銘の完璧に悲壮な永遠の故郷喪失者であったのである。言わずもがなであるが、東京で雀の鳴くのは聴こえるが、彼は「ふるさと」(彼の出生地は岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)の父一禎(いってい)が住職であった曹洞宗日照山常光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったが、父の万年山宝徳寺への住職転出により、翌年四月二十六日に渋民村に一家転住している)で「日每」「聽」いていたあの懐かしい田舎の長閑な感じに「雀の鳴く」のを、もう三年も聴いていないと嘆いているのである。都会生活の殺伐としたどんよりと曇ったモノクロームの景と、何か癇に障る都会の雀の鋭い声が背景に浮かんでくるではないか。]

 

 

亡(な)くなれる師(し)がその昔(むかし)

たまひたる

地理(ちり)の本(ほん)など取(と)りいでて見(み)る

 

 亡くなれる師がその昔

 たまひたる

 地理の本など取りいでて見る

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で渋民尋常小学校時代の追懐とする。渋民時代を注しておくと、明治二四(一八九一)年五月二日満五歳で渋民尋常小学校(渋民村大字渋民第十三地割(愛宕下)。この中央付近か(国土地理院図))に入学、明治二十八年三月に同校を卒業している(満九歳。当時の尋常小学校は修業年限四年であった)。その後、同年四月二日に盛岡高等小学校に入学し、盛岡市仙北組町(この中心付近)にあった母方の伯父工藤常象(つねかた)の家に寄寓した(在学中は保護者を常象が引き受けている)。同校を明治三一(一八九八)年三月に四年に進級するが、四月十八日に百二十八名中十番の好成績で盛岡尋常中学校に合格(同月二十五日に一年級に編入)している。]

 

 

その昔(むかし)

小學校(せうがくかう)の柾屋根(まさやめ)に我(わ)が投(な)げし鞠(まり)

いかにかなりけむ

 

 その昔

 小學校の柾屋根に我が投げし鞠

 いかにかなりけむ

[やぶちゃん注:「柾屋根」台形の木製の薄い杮板(こけらいた)の、厚みのある方を下に重ね重ねにして屋根を葺いたもの。瓦屋根より安価であったが、風に飛ばされたり、腐ったりして、持ちが悪い。柾葺き屋根。]

 

 

ふるさとの

かの路傍(みちばた)のすて石(いし)よ

今年(ことし)も草(くさ)に埋(うづ)もれしらむ

 

 ふるさとの

 かの路傍のすて石よ

 今年も草に埋もれしらむ

 

 

わかれをれば妹(いもと)いとしも

赤(あか)き緖(を)の

下駄(げた)など欲(ほ)しとわめく子(こ)なりし

 

 わかれをれば妹いとしも

 赤き緖の

 下駄など欲しとわめく子なりし

[やぶちゃん注:「妹」ミツ。二つ年下。岩城氏の前掲書によれば本作(初出は明治四三(一九一〇)年八月十六日附『東京朝日新聞』で、作歌は同年八月三日夜から翌日夜)『当時』は『彼女は日本聖公会の夫人教役者(伝道師)をめざして名古屋の聖使女学院に在学していた』とあり、『明治四十三年三月旭川で神学校入学試験に合格し』ていたとある。]

 

 

二日前(ふつかまへ)に山(やま)の繪(ゑ)見(み)しが

今朝(けさ)になりて

にはかに戀(こひ)しふるさとの山(やま)

 

 二日前に山の繪見しが

 今朝になりて

 にはかに戀しふるさとの山

 

 

飴賣(あめうり)のチヤルメラ聽(き)けば

うしなひし

をさなき心(こころ)ひろへるごとし

 

 飴賣のチヤルメラ聽けば

 うしなひし

 をさなき心ひろへるごとし

[やぶちゃん注:「チヤルメラ」ポルトガル語「charamela」(シャラメーラ)。木管楽器の一つ。前面に七つ、背面に一つ指孔 (ゆびあな) があり、先端は朝顔状に開く。「唐人笛」とも呼んだ。ウィキの「チャルメラ」によれば、『明治期には水飴の行商人に主に使用されており、上田敏の詩』「ちやるめら」(詩集「牧羊神」所収。「青空文庫」のこちらで読める)に『登場するのは飴屋を想定したチャルメラである。中華そばで用いられるようになったのは大正期からとされている』とある。]

 

 

 

このごろは

母(はは)も時時(ときどき)ふるさとのことを言(い)ひ出(い)づ

秋(あき)に入(い)れるなり

 

 このごろは

 母も時時ふるさとのことを言ひ出づ

 秋に入れるなり

[やぶちゃん注:これは啄木への書信の中で母がそう記しているというのであろう。]

 

 

それとなく

郷里(くに)のことなど語(かた)り出(い)でて

秋(あき)の夜(よ)に燒(や)く餅(もち)のにほひかな

 

 それとなく

 郷里のことなど語り出でて

 秋の夜に燒く餅のにほひかな

 

 

かにかくに澁民村は戀しかり

おもひでの山

おもひでの川

 

 かにかくに澁民村は戀しかり

 おもひでの山

 おもひでの川

[やぶちゃん注:渋民村(ポイントは現在の岩手県盛岡市渋民渋民)からは真西に岩手県最高峰の岩手山(標高二千三十八メートル)が、真西に独立峰でピラミッド型をした姬神山(千百二十三メートル)が、村の中央を北上川が南に貫流する。]

 

 

田(た)も畑(はた)も賣(う)りて酒(さけ)のみ

ほろびゆくふるさとの人(ひと)に

心寄(こころよ)する日(ひ)

 

 田も畑も賣りて酒のみ

 ほろびゆくふるさとの人に

 心寄する日

 

 

あはれかの我(われ)の敎(をし)へし

子等(こら)もまた

やがてふるさとを棄(す)てて出(い)づるらむ

 

 あはれかの我の敎へし

 子等もまた

 やがてふるさとを棄てて出づるらむ

[やぶちゃん注:啄木は満十九歳の明治三八(一九〇五)年六月四日に放浪をやめて盛岡に帰り、父母・妹光子との同居で節子との新婚生活に入った(一家の扶養は啄木が一身に背負わねばならない形となった)。翌明治三十九年四月十四日より、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務を始めたが、明治四十年三月中、北海道での新生活を決意し、四月一日に学校に辞表を提出したが、各方面から慰留を勧められた。しかし、四月十九日に高等科の生徒を先導して校長排斥ストライキを敢行、二十一日附で免職となった(校長も転任)。既に述べた通り、五月四日に一家離散となった。彼が渋民で子らを教えたのは僅か一年足らずであった。]

 

 

 

ふるさとを出(い)で來(き)し子等(こら)の

相會(あひあ)ひて

よろこぶにまさるかなしみはなし

 

 ふるさとを出で來し子等の

 相會ひて

 よろこぶにまさるかなしみはなし

 

 

石をもて追はるるごとく

ふるさとを出でしかなしみ

消ゆる時なし

 

 石をもて追はるるごとく

 ふるさとを出でしかなしみ

 消ゆる時なし

[やぶちゃん注:実際に啄木が渋民を去らねばならなくなったのは、彼が懸命に行った父一禎の住職復職運動が無に帰したからであった。私の若い頃の飲み仲間の父親の実家は渋民で、まさに石川一家を「石をもて追」い払った側の一家であったと述懐していたのを思い出す。初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号。]

 

 

やはらかに柳(やなぎ)あをめる

北上(きたかみ)の岸邊(きしべ)目(め)に見(み)ゆ

泣(な)けとごとくに

 

 やはらかに柳あをめる

 北上の岸邊目に見ゆ

 泣けとごとくに

[やぶちゃん注:啄木絶唱の一首である。これ以上の悲痛にして美しい望郷詩は私は、ない、と思う。本歌集初出。]

 

 

ふるさとの

村醫(そんい)の妻(ちゅま)のつつましき櫛卷(くしまき)なども

なつかしきかな

 

 ふるさとの

 村醫の妻のつつましき櫛卷なども

 なつかしきかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村の村医瀬川章太郎の妻で美人の評判の高かった瀬川アイ』(明治一六(一八八三)年~大正一三(一九二四)年:啄木より三つ上)『で、この歌の作られたとき』(『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号)『二十八歳であった』とある。追懐だから逆算すると、啄木が見た時は二十五歳以前となる。]

 

 

かの村(むら)の登記所(とうきしよ)に來(き)て

肺病(はいや)みて

間(ま)もなく死(し)にし男(をとこ)もありき

 

 かの村の登記所に來て

 肺病みて

 間もなく死にし男もありき

[やぶちゃん注:「登記所」個人・法人・動産・不動産・物権・債権などの権利や義務を届け出て保護する担当部門。現在の法務局の出張所に相当する。]

 

 

小學(せうがく)の首席(しゆせき)を我(われ)と爭(あらそ)ひし

友(とも)のいとなむ

木賃宿(きちんやど)かな

 

 小學の首席を我と爭ひし

 友のいとなむ

 木賃宿かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村小学校の同級生工藤千代治で』、同級生ではあったが、年齢は『啄木より四歳上。渋民村役場の書記として勤務するかたわら』、『小さい宿屋を経営していた』。彼は『二十二歳で結婚』し、『のちに』村役場の『収入役。助役を』経て、『渋民村村長となった』とある。次の歌も参照。]

 

 

千代治(ちよぢ)等(ら)も長(ちやう)じて戀(こひ)し

子(こ)を擧(あ)げぬ

わが旅(たび)にしてなせしごとくに

 

 千代治等も長じて戀し

 子を擧げぬ

 わが旅にしてなせしごとくに

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『啄木が小学校の旧友の中で特に工藤千代治』のこと『を思い出したのは』、前の歌の「小學の首席を我と爭ひし」ことの思い出の他に、『啄木が小学校二年生の秋まで』は『母親の戸籍に入れられ、「工藤一(くどうはじめ)」と名乗っていたので、特にこの工藤姓の友が懐かしく思い出されたのであろう』と述べておられる。これは全集年譜(これも岩城氏の編)によれば、『曹洞宗の僧籍にある者の』当時の『習慣から』、父『一禎表が表』向き、『妻帯を遠慮して妻の入籍をし』てい『なかった』ことによるものである。これは別段、おかしなことではない。明治中頃までは、浄土真宗以外の僧は世間的には妻帯することへの仏教教学上では、批判がかなり強かった。このことはあまり知られていないと思われるので言い添えておく。]

 

 

ある年(とし)の盆(ぼん)の祭(まつり)に

衣(きぬ)貸(か)さむ踊(をど)れと言(い)ひし

女(をんな)を思(おも)ふ

 

 ある年の盆の祭に

 衣貸さむ踊れと言ひし

 女を思ふ

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年満二十歳の時の、「渋民日記」に(全集に拠ったが、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

〇九月二日三日四日は陰曆七月の十四十五十六日、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]田舍で一年中の最樂時たる盂蘭盆會であつた。盆踊例年の如し。

 予は十四日の晩から十八日の晩まで、五夜つゞけて踊つた。

 踊りが濟んで、曉近い霧の寄せて來る頃、月下の焚火にあたつて、「あゝ疲れた」といふ心地!

   *

と記しているが、或いはこの時のエピソードか。前掲書で岩城氏も評釈でこの部分を引いておられる。或いは手元不如意で晴れ(盆踊りは神聖な「はれ」の時空間である)の綺麗な浴衣がないから踊りに行けぬと、「ある女」の前で啄木は呟いて、その女がかく慫慂したのだったかも知れない。既に妻帯者である啄木(前年五月婚姻)を考えると、アブナい歌ともとれる。日記はバレるから、その辺りを書かなかったのではなかったか? ということは毎夜、外でこっそり着替えていたとすると、ますます怪しくないか?]

 

 

うすのろの兄(あに)と

不具(かたわ)の父(ちち)もてる三太(さんた)はかなし

夜(よる)も書讀(ふみよ)む

 

 うすのろの兄と

 不具の父もてる三太はかなし

 夜も書讀む

 

 

我(われ)と共(とも)に

栗毛(くりげ)の仔馬(こうま)走(はし)らせし

母(はは)の無(な)き子(こ)の盜癖(ぬすみぐせ)かな

 

 我と共に

 栗毛の仔馬走らせし

 母の無き子の盜癖かな

 

 

大形(おほがた)の被布(ひふ)の模樣(もやう)の赤(あか)き花(はな)

今(いま)も目(め)に見(み)ゆ

六歲(むつ)の日(ひ)の戀(こひ)

 

 大形の被布の模樣の赤き花

 今も目に見ゆ

 六歲の日の戀

[やぶちゃん注:「被布」は着物の上に羽織る上着の一種で、江戸末期に茶人や俳人などの風流好みの男性が好んで着用したが、後に女性も着用するようになり、現在の着物用コートの原型であるが、ここは特に少女の晴れ着としてのそれであろう。少女用の「袖なし被布」は七五三にお出かけ用の着物として上着に多く用いられている。参照したウィキの「被布」によれば、『大抵は緋色の綸子が使われており、大人用の被布と違って袖が無く、絹紐で作った菊結びの飾りが打ち合わせ部分の両肩に縫い付けられていることが多い。汚れを防ぐためのものだろうが、十歳未満の少女が着用する場合がほとんどであり、少年や年長の少女が着用する機会は少ない』とある。グーグル画像検索「被布」をリンクさせておく。私も四歳の頃の遠い思い出に、これと全く同じものがあるのだ。]

 

 

その名(な)さへ忘(わす)られし頃(ころ)

飄然(へうぜん)とふるさとに來(き)て

咳(せき)せし男(をとこ)

 

 その名さへ忘られし頃

 飄然とふるさとに來て

 咳せし男

[やぶちゃん注:自己の仮想写像ではなく、そうした人物が渋民村にぶらり帰ってきた過去の実体験と読む。さればこそ、啄木自身とそれがダブって見えて痙攣的な衝撃を与えるのである。]

 

 

意地惡(いぢわる)の大工(だいく)の子(こ)などもかなしかり

戰(いくさ)に出(い)でしが

生(いき)きてかへらず

 

 意地惡の大工の子などもかなしかり

 戰に出でしが

 生きてかへらず

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『日露戦争で戦死した故郷の大工の子の薄幸不遇の生涯に深い同情を寄せた一首。モデルは渋民村の立花宗太郎で、彼は明治九年[やぶちゃん注:一八七六年。]四月一日同村立花茂助の長男として生まれたが、母死亡のため渋民の大工立花喜兵衛の妻の乳で育てられ、やがて喜兵衛の養子となった。しかしその後養家に実子が生まれたため継子いじめを受けて不幸な日々を送った。やがて彼は日露戦争[やぶちゃん注:明治三七(一九〇四)年二月八日から明治三八(一九〇五)年九月五日。]に応召、戦地に向かったが、養父の喜兵衛は村の習慣を破って歓送の催しをせず』、『さびしく宗太郎を出征させ』、『村人を憤らせた。この歌の「意地悪の大工」はこの養父の大工喜兵衛を歌ったものである。宗太郎は明治三十八年一月一日』、『清国盛京省蘇麻保で戦死』し、『再び故郷に帰ることがなかった』とある。岩城氏も指示しておられる通り、「意地惡の養父であった人でなしの「大工」喜兵衛にのみ掛かっていることに注意されたい。恐らくそうではなく読んでいた方も多いのではないか? 私も今日の今日までそう誤読していた。啄木より十歳も年上であるが、啄木は渋民尋常小学校時代に触れ合った記憶があったのであろう。]

 

 

肺(はい)を病(や)む

極道地主(ごくだうぢぬし)の總領(そうりやう)の

よめとりの日(ひ)の春(はる)の雷(らい)かな

 

 肺を病む

 極道地主の總領の

 よめとりの日の春の雷かな

 

 

宗次郎(そじろ)に

おかねが泣(な)きて口說(くど)き居(を)り

大根(だいこん)の花(はな)白(しろ)きゆふぐれ

 

 宗次郎に

 おかねが泣きて口說き居り

 大根の花白きゆふぐれ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『ある日の故郷の夕暮れ時の光景を』回想して『歌った作品で、第四句に詩的な初夏の情緒が感じられる。モデルは渋民の農業沼田惣次郎夫婦で、通称おかねさんと呼ばれた女房のイチが酒飲みの夫をつかまえて泣きながら処世の苦しみを訴えていたある日の光景を歌ったもの』とある。「宗次郎」「おかね」「口説き」と並べられると、浄瑠璃の一節か一場面かと見紛う。それも啄木は計算済みだったのであろう。]

 

 

小心(せうしん)の役場(やくば)の書記(しよき)の

氣(き)の狂(ふ)れし噂(うわさ)に立(た)てる

ふるさとの秋(あき)

 

 小心の役場の書記の

 氣の狂れし噂に立てる

 ふるさとの秋

 

 

わが從兄(いとこ)

野山(のやま)の獵(かり)に飽(あ)きし後(のち)

酒(さけ)のみ家賣(いへう)り病(や)みて死(し)にしかな

 

 わが從兄

 野山の獵に飽きし後

 酒のみ家賣り病みて死にしかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは啄木が「我が従兄弟」と呼んだ』(ということは実際の従兄弟ではないか)『渋民の秋浜善右衛門』で、『啄木の日記にも「資産ゆたかなる家に生れ、愚かな男でもなかつたが、放漫な若旦那育ちの無意義なる生活と家庭の平和のため、所謂『生命の倦怠疲労』を感じて、酒を呑む、醉ふては乱暴する、脳髄が散漫になる、心臓が狂ふ、かくて彼は三十一の男盛り、人からは笑ひ物にされて、日夜酒びたり。借財がかさむ、」』とあるとする。但し、その日記のクレジットを明三九(一九〇六)年三月十九日とされているものの、当該条を探し得なかったのでそのまま引いた。]

 

 

我(われ)ゆきて手(て)をとれば

泣(な)きてしづまりき

醉(ゑ)ひて荒(あば)れしそのかみの友(とも)

 

 我ゆきて手をとれば

 泣きてしづまりき

 醉ひて荒れしそのかみの友

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この人物は前の歌の『秋浜善右衛門であろうか』とされる。]

 

 

酒(さけ)のめば

刀(かたな)をぬきて妻(つま)を逐(お)ふ敎師(けうし)もありき

村(むら)を逐(お)はれき

 

 酒のめば

 刀をぬきて妻を逐ふ敎師もありき

 村を逐はれき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは渋民小学校校長相馬徳次郎。酒を飲んで刀を抜いて妻を追いまわすなど教育者にふさわしくない奇行があったため』、『啄木たちの排斥を受け、明治三十七』(一九〇四)『年三月三十一日付で隣村の滝沢村立篠木尋常高等小学校長に耘出したが、翌年の三月八日死亡した。自殺であるといわれる』とある。全集年譜では、同年三月十七日に啄木が岩手県視学平野喜平宛で彼の排斥に就いての親書を送付している。]

 

 

年(とし)ごとに肺病(はいびやう)やみの殖(ふ)えてゆく

村(むら)に迎(むか)へし

若(わか)き醫者(いしや)かな

 

 年ごとに肺病やみの殖えてゆく

 村に迎へし

 若き醫者かな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは明治三十五年』(一九〇二年)に『渋民に移住』して、『瀬川医院を開業した瀬川彦太郎』(明治七(一八七四)年~昭和二(一九二七)年)で、渋民に来た『当時』は『二十九歳である』とある。]

 

 

ほたる狩(がり)

川(かは)にゆかむといふ我(われ)を

山路(やまぢ)にさそふ人(ひと)にてありき

 

 ほたる狩

 川にゆかむといふ我を

 山路にさそふ人にてありき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『故郷の忘れがたい女性の一人を歌ったもの。モデルは渋民生まれの佐々木もと』(明治二三(一八九〇)年~昭和五五(一九八〇)年)で、『啄木の明治四十二』(一九〇九)『年ローマ字日記にも「――我が『螢の女』いそ子も今は医者の弟の妻になって弘前(ひろさき)にいるという。」とある。彼女は』日記『当時二十歳』で、前の歌に詠まれた『医師瀬川彦太郎の弟貞治と結婚して好摩』(現在の岩手県盛岡市好摩(こうま)。グーグル・マップ・データ。渋民から少し北方)『にいた。いそ子はいたこ(巫女)からつけてもらった通称』とある。]

 

 

 

馬鈴薯(ばれいしよ)のうす紫(むらさき)の花(はな)に降(ふ)る

雨(あめ)を思(おも)へり

都(みやこ)の雨(あめ)に

 

 馬鈴薯のうす紫の花に降る

 雨を思へり

 都の雨に

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号であるが、『降り続く都会の』秋『雨に憂鬱になった作者が、ふと故郷の梅雨を思い出し、馬鈴薯のうす紫の花に降る雨にその郷愁を託したもの』と評釈しておられる。ジャガイモの花は白・紫・薄紫などさまざまな色がある。収穫まで百日が目安で、春と秋の年に二回の栽培が可能であるが、東北地方では春に植え付けたものは梅雨少し前に咲くようである。]

 

 

あはれ我(わ)がノスタルジヤは

金(きん)のごと

心(こころ)に照(て)れり淸(きよ)くしみらに

 

 あはれ我がノスタルジヤは

 金のごと

 心に照れり淸くしみらに

[やぶちゃん注:「ノスタルジヤ」(英語「nostalgia」はギリシャ語由来で、ラテン文字転写では「nostos」(return home:故郷へ帰る)と「algos」(pain:痛み)の合成語で、古くは「懐郷病」、即ち、「故郷を想うことによる死に至る重い郷愁感情」のニュアンスがあった。私の偏愛する映像詩人アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Тарковский 一九三二年~一九八六年)は、その「ノスタルジア」(Nostalghia:一九八三年にイタリアで製作したイタリア・ソ連合作映画)について(配給元「フランス映画社」のチラシ解説より引用・訳者不詳)、

   *

 詩とはなんでしょうか? それは世界について思考し、説明しようとする深く独特の方法です。ある人間が他の人間の近くを通りすぎる。他人をながめながら、実は見ていない人がいるが、反対に、ながめて、通りすぎて、そして突然微笑む人もいる。他人が自分なかにある共通する強い感覚をもたらしたからです。

 今日、詩で生きることはできません。詩集が出版されるまで数ヶ月も数年もかかるのに、社会は詩人の必要性を感じなくなった。芸術とて同様です。こうした「狂人」がいなくなれば、次は自分が消失する番だということを忘れたがっているようです。

 ノスタルギアはロシア語では、死に至る病の感覚を含んでいます。別な人間が抱く苦悩に強烈に自己同一する感覚です。

   *

と述べている(私の「Андрей Тарковский 断章」より)。

「しみらに」「繁(しみ)みらに」。副詞でひまなく連続して。一日中。「しめらに」とも言い、万葉以来の古語。「学研全訳古語辞典」によれば、「夜はすがらに」に対して、常に「昼はしみらに」の形で使う、とある。]

 

 

友(とも)として遊(あそ)ぶものなき

性惡(しやうわる)の巡査(じゆんさ)の子等(こら)も

あはれなりけり

 

 友として遊ぶものなき

 性惡の巡査の子等も

 あはれなりけり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『モデルは渋民村巡査高橋隼之助の長男精一と次男等』(ひとし)『であろう。高橋等はのちに友松家へ養子に行き医師となった。父親の隼之前は福島県田村郡三春町の出身で』、『渋民には明治二十一年』(一八八八年)『より二十六年まで勤務した。侍気質の剛腹な人物であったが、酒好きで』、『福島県人特有の頑固な性格であったので』、『村人に恐れられたといわれる。この歌の「性悪」は「巡査の子」ではなく「巡査」にかかる修飾語であろう』とされる。私もそう思う。]

 

 

閑古鳥(かんこどり)

鳴(な)く日(ひ)となれば起(おこ)るてふ

友(とも)のやまひのいかになりけむ

 

 閑古鳥

 鳴く日となれば起るてふ

 友のやまひのいかになりけむ

[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus の別名。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照されたい。岩城氏は前掲書で、『雑木林に囲まれた万年山宝徳寺で育った啄木にとって、閑古鳥の声は故郷の象徴である。故郷を回想するにあたって彼はまず春より夏にかけて鳴く閑古鳥のことを思い出し、同時に季節の変わり目に出る友の持病のことを思ってこのように歌ったのである』と評釈しておられる。]

 

 

わが思(おも)ふこと

おほかたは正(ただ)しかり

ふるさとのたより着(つ)ける朝(あした)は

 

 わが思ふこと

 おほかたは正しかり

 ふるさとのたより着ける朝は

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『今井泰子氏は「おほかたは正しかり」を大方は正しかったと訳し、朝故郷からの手紙を読んで、「平常自分が故郷に関して思う悲しい推測が『おほかたは正し』いことを確かめ心を暗くする。」と解釈しているが、私はこの一首を故郷からの懐かしい便りが着いた朝は、とかく都会生活に疲れて正常を欠くわが心もなごみ、ほぼ正しい思考となるの意に解釈したい』と述べておられ、私も岩城氏に解釈を支持する。]

 

 

今日(けふ)聞(き)けば

かの幸(さち)うすきやもめ人(びと)

きたなき戀(こひ)に身(み)を入(い)るるてふ

 

 今日聞けば

かの幸うすきやもめ人

きたなき戀に身を入るるてふ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『初出は歌集「一握の砂」。「今日」は明治四十二』(一九〇八)『年五月二日』とされ、『「幸うすきやもめ人」は啄木の妻節子の女学校時代の親友金谷信子』であるとされる。『彼女はある男と婚約、数か月同棲したが』、『その後』、『婚約を解消して渋民小学校に勤務し、独身の和久井校長と恋愛した。その後』、『退職して和久井と結婚、生涯幸福に暮らした。しかし村人の中にはこの恋愛を「きたなき恋」としてあしざまに噂する者が多かった。上京してきた村の助役の息子の岩本実からこの噂を聞いた啄木は、妻の友人の身の上を案じ』、『村人の噂を信じこのように歌ったのである』と述べておられる。]

 

 

わがために

なやめる魂(たま)をしづめよと

讚美歌(さんびか)うたふ人(ひと)ありしかな

 

 わがために

 なやめる魂をしづめよと

 讚美歌うたふ人ありしかな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『以下四首』は『渋民小学校の上野さめ子訓導』(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より三つ年上)『を歌えるもの。上野女教師は敬虔なクリスチャンであった』とされる。]

 

 

あはれかの男(をとこ)のごときたましひよ

今(いま)は何處(いづこ)に

何(なに)を思(おも)ふや

 

 あはれかの男のごときたましひよ

 今は何處に

 何を思ふや

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木はこの上野さめ子を渋民時代の日記に、「渋民の小天地に於て、『新婦人』の典型を示してくれた人である。真に立派な、男優りな、見識の高い、信仰の厚い人であつた。」と書いている。「今は何処に何を思ふや」と歌ったとき、さめ子は京都大学文学部哲学科出身のクリスチャン滝浦文弥と結婚して、夫の勤務先和歌山市内に幸福な新生活を送っていた』とされる。よかった。]

 

 

わが庭(には)の白(しろ)き躑躅(つつじ)を

薄月(うすづき)の夜(よ)に

折(を)りゆきしことな忘(わす)れそ

 

 わが庭の白き躑躅を

 薄月の夜に

 折りゆきしことな忘れそ

 

 

わが村(むら)に

初(はじ)めてイエス・クリストの道(みち)を說(と)きたる

若(わか)き女(をんな)かな

 

 わが村に

 初めてイエス・クリストの道を說きたる

 若き女かな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『上野さめ子』『は明治三十七年』(一九〇四年)『の春岩手師範学校女子部を卒業、訓導として渋民尋常高等小学校に赴任、村人に信仰の道を説いた』と記しておられる。]

 

 

霧(きり)ふかき好摩(かうま)の原(はら)の

停車場(ていしやば)の

朝(あさ)の蟲(むし)こそすずろなりけれ

 

 霧ふかき好摩の原の

 停車場の

 朝の蟲こそすずろなりけれ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『現在』、『東北本線には渋民駅ができているが、啄木の時代は盛岡に出るにも東京に行くにも好摩の駅から乗らなければならなかった。したがって「好摩の原の停車場」は故郷への関門としてなによりもまず心に浮かぶ忘れがたい思い出の場所であったのである』と記しておられる。好摩の位置は既注。]

 

 

汽車(きしや)の窓(まど)

はるかに北(きた)にふるさとの山(やま)見(み)え來(く)れば

襟(えり)を正(ただ)すも

 

 汽車の窓

 はるかに北にふるさとの山見え來れば

 襟を正すも

 

 

ふるさとの土(つち)をわが踏(ふ)めば

何(なに)がなしに足(あし)輕(かる)くなり

心(こころ)重(おも)れり

 

 ふるさとの土をわが踏めば

 何がなしに足輕くなり

 心重れり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『初出は歌集「一握の砂」。作歌明治四十三』(一九一〇)『年八月二十八日』で、『盛岡での生活に行き詰まった啄木一家は、明治三十九』(一九〇六)『年の春』、『再び居を渋民村に移した。しかし父親が宝徳寺の住職を罷免されて退去した村に帰ることは』、『白眼と嘲笑と憐惘の中に生活をすることを意味し、住みなれた故郷の禅房を前に、古びた農家の一室に寄寓する啄木の心は重かった。この一首は懐かしい故郷に帰った喜びと、そうした復雑な心境を示すものである』と評しておられる。]

 

 

ふるさとに入(い)りて先(ま)づ心傷(こころいた)むかな

道(みち)廣(ひろ)くなり

橋(はし)もあたらし

 

 ふるさとに入りて先づ心傷むかな

 道廣くなり

 橋もあたらし

 

 

見もしらぬ女敎師(をんなけうし)が

そのかみの

わが學舍(がくしや)の窓(まど)に立(た)てるかな

 

 見もしらぬ女敎師が

 そのかみの

 わが學舍の窓に立てるかな

 

 

かの家(いへ)のかの窓(まど)にこそ

春(はる)の夜(よ)を

秀子(ひでこ)とともに蛙(かはづ)聽(き)きけれ

 

 かの家のかの窓にこそ

 春の夜を

 秀子とともに蛙聽きけれ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば『故郷における若い女教師との別離の思い出を歌ったもの。「秀子」は啄木が渋民小学校代用教員時代、上野さめ子の後任として赴任してきた堀田秀子訓導』(明治一八(一八八五)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より一つ年上)『である。啄木と彼女との関係は同僚の教師としての交際にとどまり、その期間も秀子が着任した明治三十九年九月二十九日から、啄木が北海道へ去った五月四日までの約半年間にすぎないが、啄木日記に書かれた彼女についての記事は、思慕にも似た感情がほのかに感じられる。この一首は啄木が故郷を去るにあたって』、『別れのため』、『秀子の家を訪れた夜の光景を歌ったもので、その背景は明治四十年五月三日の啄木日記に詳しい』とある。全集の「明治四十丁未歳日誌」より当該部分を例の仕儀で電子化する。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 夜ひとり堀田女史を訪ふ。雨時々落し來ぬ。程近き田に蛙の聲いと繁し。あはれ、この室にしてこの人と相對し、恁く[やぶちゃん注:「かく」]相語ること、恐らくはこれ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがりて、所思多く、豫は多く語るを得ざりき。友も亦多く語らざりき。誠に、逢ふは別るゝの初めならむ。しかれども、別るゝは必ずしも逢ふの初めならざらむ。予は切に運命を思へり。

 胸を拱ぎて[やぶちゃん注:「こまねぎて」。]蛙の聲をきく。この聲は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたきを想ひ𢌞さしめき。さながらこれ一種生命の音樂也。

 人、心のそよげる時、樂しき事を思ひ、心の動かず鎭まれる時、必ず哀しき事を思ふ。喜びを思ふて心嚴かなるはなく、哀しきを思ふて心浮き立つことなし。悲哀は常に嚴肅也。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、淚は決して安價なるものにあらざりき。

 思出長かるべき夜、家にかへりてよりも予は尚さまざまの思に驅られたり。

   *]

 

 

そのかみの神童(しんどう)の名(な)の

かなしさよ

ふるさとに來(き)て泣(な)くはそのこと

 

 そのかみの神童の名の

 かなしさよ

 ふるさとに來て泣くはそのこと

 

 

ふるさとの停車場路(ていしやばみち)の

川(かは)ばたの

胡桃(くるみ)の下(した)に小石(こいし)拾(ひろ)へり

 

 ふるさとの停車場路の

 川ばたの

 胡桃の下に小石拾へり

[やぶちゃん注:「停車場路」の「停車場」は先に注した好摩であろう。]

 

 

ふるさとの山(やま)に向(むか)ひて

言(い)ふことなし

ふるさとの山(やま)はありがたきかな

 

 ふるさとの山に向ひて

 言ふことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

[やぶちゃん注:前に徴して「山」の主体は岩手山と姫神山であろう。]

2020/02/09

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。

 なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である。(計全百一首)。]

 

 

    

 

病(やまひ)のごと

思鄕(しきやう)のこころ湧(わ)く日(ひ)なり

目(め)にあをぞらの煙(けむり)かなしも

 

 病のごと

 思鄕のこころ湧く日なり

 目にあをぞらの煙かなしも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年十一月号『スバル』。]

 

 

己(おの)が名(な)をほのかに呼(よ)びて

淚(なみだ)せし

十四(じふし)の春(はる)にかへる術(すべ)なし

 

 己が名をほのかに呼びて

 淚せし

 十四の春にかへる術なし

[やぶちゃん注:明治四三(一九一〇)年の作として満二十四、この「十四」は数えであるから明治三二(一八九九)年相当となる。岩手県盛岡尋常中学校一年次末から二年次(四月一日附けで校名が岩手県盛岡中学校に変更された)に当たる。この年、啄木は後に妻となる堀合節子(啄木より八ヶ月遅れの同年(明治一九(一八八六)年十月)生まれ)と知り合っている。節子はこの年の三月二十四日に盛岡高等小学校を卒業し、四月一日に私立盛岡女学校二年に編入学している。]

 

 

靑空(あをぞら)に消(き)えゆく煙(けむり)

さびしくも消(き)えゆく煙(けむり)

われにし似(に)るか

 

 靑空に消えゆく煙

 さびしくも消えゆく煙

 われにし似るか

 

 

かの旅(たび)の汽車(きしや)の車掌(しやしやう)が

ゆくりなくも

我(わ)が中學(ちゆうがく)の友(とも)なりしかな

 

 かの旅の汽車の車掌が

 ゆくりなくも

 我が中學の友なりしかな

 

 

ほとばしる喞筒(ポンプ)の水(みづ)の

心地(ここち)よさよ

しばしは若(わか)きこころもて見(み)る

 

 ほとばしる喞筒の水の

 心地よさよ

 しばしは若きこころもて見る

[やぶちゃん注:「喞筒」「pump」の当て字。「喞」(音「ショク・ソク」)の字には「集(すだ)く・虫が集まって鳴く」と「かこつ・不平を言って嘆く」以外に「水を注ぐ」の意がある。手押しポンプ式の井戸のシチュエーションと私はとる。]

 

 

師(し)も友(とも)も知(し)らで責(せ)めにき

謎(なぞ)に似(に)る

わが學業(がくげふ)のおこたりの因(もと)

 

 師も友も知らで責めにき

 謎に似る

 わが學業のおこたりの因

[やぶちゃん注:これはその怠業の原因は実は師や友ばかりではなく、誰にも、即ち、啄木自身にも全くの「謎」のようなものであったというのであろう。近年の研究で啄木は低血糖症状を持っていたとされるが、返す当てもない多額の借金を絶え間なく重ねたこと、過剰なまでの女色癖、それに比して妻節子への異様な嫉妬心の発動、そしてこれら短歌群に見られるようなハイ・テンションとネガティヴなどん底の極端な回帰性を示す感情曲線を見るに、所謂、慢性的なかなり重い双極性障害(躁鬱病)が疑われるように私は思う。但し、啄木は小学校時代の卒業時は学業・行状・認定総てが五段階評定の最高位の「善」(盛岡仁王尋常小学校)で、中学校(岩手県で最初の中学校として設立された岩手県尋常盛岡中学校。途中で「尋常」を外して改名)入学試験は百二十八名中十番、第一年次修了成績は学年百三十一名中二十五番、二年次は百四十名中四十六番の好成績者であったから、そこまで以前、満十四歳頃以前に遡る内容ではない。但し、その後、教員の欠員と、学校内の教師支配による陰湿な雰囲気に対してそれを刷新すべきとする三年生と四年生が、授業ボイコットとストライキに発展、それに啄木も参加しており(三月一日附で県知事裁決による教員に大異動が発令されて同校校長・職員定員二十八名の内、校長以下実に二十四名が休職・転任・依願退職となっている。生徒側は首謀者とされた三年の及川八楼が諭旨退学で、完全な生徒側の勝利となった)、そのためでもあろうか、三年次は百三十五名中八十六番、四年次は百十九名中八十二番と急降下し、しかもこの四年次の学年末試験で不正行為を行ったとして譴責処分を受け、しかも五年次第一学期の成績も甚だ悪く、校則に照らすと、五年次を修了出来ずに落第する恐れが極めて高い状態にあった。その結果でもあろう、五年次の明治三五(一九〇二)年十月十七日、「家事上の都合により」を理由として退学願を提出し、受理された(この十月三十一日に上京した)経緯があるから(太字部の主たる事実は筑摩版全集筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」に拠った)、この一首はその閉区間のことととれるので、さすれば、この「おこたりの因」は実は「謎」ではなく、極めて明白な原因――学校組織への激しい不信感や、彼が行ったとされる不正行為への自己嫌悪、或いはそれが無実の濡れ衣であったとすればそれへの激しい怒り――が見てとれると言えるのである。

 

 

敎室(けうしつ)の窓(まど)より遁(に)げて

ただ一人(ひとり)

かの城址(しろあと)に寢(ね)に行(ゆ)きしかな

 

 敎室の窓より遁げて

 ただ一人

 かの城址に寢に行きしかな

[やぶちゃん注:「かの城址」前注も参照されたいが、追懐内の過去時制は盛岡中学校の四~五年次(満十五~十六歳)の頃のこととなる。同中学校は現在の盛岡第一高等学校の前身ではあるが、校舎の位置が全く異なり、当時は現在の盛岡市内丸、即ち、旧盛岡城の城跡内か辺縁にあった。]

 

 

不來方(こずかた)のお城(しろ)の草(くさ)に寢(ね)ころびて

空(そら)に吸(す)はれし

十五(じふご)の心(こころ)

 

 不來方のお城の草に寢ころびて

 空に吸はれし

 十五の心

[やぶちゃん注:「不來方(こずかた)」現在の岩手県盛岡市を指す言葉ウィキの「不来方」によれば、『「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも』五百七十『の間』、存在し続けている『由緒ある名であることから、現在』も『盛岡の雅称として使われることがある』。『南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」』(現在の盛岡城のこと)『であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった』。『伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」』(らせつ)『と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている』。『また』これを祝祭して『「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている』。『不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主南部利直が』、『この名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる』。『永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる』。

 幾春も華の惠の露やこれ

   寶の珠の盛る岡山

『城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められ』、『町名として「不来方」が残ること』も『無かった』とある。また、『現在の盛岡市中心部は「岩手郡仁王郷不来方」』(いわてのこおりにおうごうこずかた)『に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、「陸奥話紀」の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが「逆志方」』で、これは「不来方」であるとされる。『南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという』。但し、『一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が「不来方城」と解されているが、厳密には両者は別の城である』。永享一一(一四三九)年に『福士氏が城代として定着し、「不来方殿」と呼ばれたのが「不来方城」の始まりであり、「不来方城」を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の「盛岡城」である』。『現在の岩手医科大学附属病院の北辺(盛岡市本町通)には、不来方町の石碑が残っている』;とある。

「十五」数えであるから明治三三(一九〇〇)年、盛岡中学校三年次に当たる。これが前の想定と齟齬するというのは当たらない。追懐はそこで止まらねばならない必要はないからである。寧ろ、ここで城跡で寝転んで空を見上げている、未だ成績のよかった聡明な少年啄木の面影は、寧ろ透明に幸福な追想として無限に美しいではないか。]

 

 

かなしみといはばいふべき

物(もの)の味(あぢ)

我(われ)の嘗(な)めしはあまりに早(はや)かり

 

 かなしみといはばいふべき

 物の味

 我の嘗めしはあまりに早かり

[やぶちゃん注:あくまで漠然としている。「あまりに早」い時期に「我」は「物の味」を「嘗め」た、それは確かな人生「かなしみ」の具体な対象現象であったというのである。前後の歌の追懐時制からジャンプすることなく考えるなら、私はこれが上京以前の盛岡中学校時代の追想でなくてはならないととる。さすれば、答えはすこぶる容易であるように思われる。それは――若い男の人生に於ける、ある大いなる「かなしみ」に何時か繋がるところの、ある「物」(対象現象)の持っている独特の「味」わい――である。恋愛である。筑摩書房版全集年譜を見ると、盛岡中学四年次である明治三四(一九〇一)年(満十五歳)の条の最後に、『この年堀合節子との恋愛が急速に進んだ』とある。『急速に』は意味深長である。

 

 

晴(はれ)れし空(そら)仰(あふ)げばいつも

口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きたくなりて

吹(ふ)きてあそびき

 

 晴れし空仰げばいつも

 口笛を吹きたくなりて

 吹きてあそびき

 

 

夜(よる)寢(ね)ても口笛(くちぶえ)吹(ふ)きぬ

口笛(くちぶえ)は

十五(じふご)の我(われ)の歌(うた)にしありけり

 

 夜寢ても口笛吹きぬ

 口笛は

 十五の我の歌にしありけり

 

 

よく叱(しか)る師(し)ありき

髯(ひげ)の似(に)たるより山羊(やぎ)と名(な)づけて

口眞似(くちまね)もしき

 

 よく叱る師ありき

 髯の似たるより山羊と名づけて

 口眞似もしき

 

 

われと共(とも)に

小鳥(ことり)に石(いし)を投(な)げて遊(あそ)ぶ

後備大尉(こうびたいゐ)の子(こ)もありしかな

 

 われと共に

 小鳥に石を投げて遊ぶ

 後備大尉の子もありしかな

[やぶちゃん注:「後備大尉」後備役(こうびえき)の大尉。旧陸海軍で現役定限年齢に達した者又は予備役(現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送るが、非常時には召集されて軍務に服するもの)を終えた者が服したさらなる追加兵役。昭和一六(一九四一)年に廃止されて予備役に吸収されている。]

 

 

城址(しろあと)の

石(いし)に腰掛(こしか)け

禁制(きんせい)の木(こ)の實(み)をひとり味(あぢは)はひしこと

 

 城址の

 石に腰掛け

 禁制の木の實をひとり味はひしこと

[やぶちゃん注:「禁制の木の實」は無論、譬喩である。岩城氏前掲書によれば、『友人の小笠原謙吉宛ての』後の『明治三十九』(一九〇六)『年一月十八日の書簡の一節に、「早く十四歲の頃より続けられし小生と節子との恋愛は、」とあるので、すでにこの年盛岡女学校二年の堀合節子と恋愛関係あったことがわかる』とある。]

 

 

その後(のち)に我(われ)を捨(す)てし友(とも)も

あの頃(ころ)はともに書讀(ふみよ)み

ともに遊(あそ)びき

 

 その後に我を捨てし友も

 あの頃はともに書讀み

 ともに遊びき

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この友というのは、『中学三年生のとき啄木の提唱で結成された英語の勉強会』「ユニオン会」の仲間を指すとされる。『メンバーは啄木と同級生』『五名』であったが、後、『結婚前後の啄木の行動を非難して彼等は交友を絶った』とある。]

 

 

學校(がくかう)の圖書庫(としよぐら)の裏(うら)の秋(あき)の草(くさ)

黃(き)なる花(はな)咲(さ)きし

今(いま)も名(な)知(し)らず

 

 學校の圖書庫の裏の秋の草

 黃なる花咲きし

 今も名知らず

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この花を『「きれんげ」「こがねばな」と呼ばれる「都草」のことであろう』とされる。マメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicusグーグル画像検索「Lotus japonicusをリンクさせておく。]

 

 

花散(はなち)れば

先(ま)づ人(ひと)さきに白(しろ)の服着(ふくき)て家出(いへい)づる

我(われ)にてありしか

 

 花散れば

 先づ人さきに白の服着て家出づる

 我にてありしか

[やぶちゃん注:初夏の訪れには誰よりも真っ先に白い夏服を着て家を出て闊歩する私であったよ、の意。]

 

 

今(いま)は亡(な)き姉(あね)の戀人(こひびと)のおとうとと

なかよくせしを

かなしと思(おも)ふ

 

 今は亡き姉の戀人のおとうとと

 なかよくせしを

 かなしと思ふ

[やぶちゃん注:「今は亡き姉」長姉サダ(婚姻後は田村姓)。啄木より十歳年上。明治三九(一九〇六)年二月二十五日肺結核のために三十歳で逝去した。岩城氏前掲書によれば、「姉の戀人」は渋民村の駐在所の巡査であった高橋隼之助(はやのすけ)で、『その弟はのちに医師となった友松等(ひとし)で啄木の小学校時代の同級生である』とある。]

 

 

夏休(なつやす)み果(は)ててそのまま

かへり來(こ)ぬ

若(わか)き英語(えいご)の敎師(けうし)もありき

 

 夏休み果ててそのまま

 かへり來ぬ

 若き英語の敎師もありき

[やぶちゃん注:「來(こ)ぬ」打消しである。

岩城氏前掲書によれば、この教師は『盛岡中学校助教諭美濃部三郎であろう。彼は明治三十二』(一八九九)『年十二月十六日盛岡中学校に就職し』たが、理由は不明だが、僅か二年足らず後の『三十四年九月二十六日付で依願退職となった。三十四年九月といえば啄木の夏休みの終わった直後のこと』であるとある。]

 

 

ストライキ思(おも)ひ出(い)でても

今(いま)は早(は)や我(わ)が血(ち)躍(をど)らず

ひそかに淋(さび)し

 

 ストライキ思ひ出でても

 今は早や我が血躍らず

 ひそかに淋し

 

 

盛岡(もりをか)の中學校(ちゆうがくかう)の

露臺(バルコン)の

欄干(てすり)に最一度(もいちど)我(われ)を倚(よ)らしめ

 

 盛岡の中學校の

 露臺の

 欄干に最一度我を倚らしめ

[やぶちゃん注:「露臺(バルコン)」フランス語“balcon”。英語は“balcony”。]

 

 

神有(かみあ)りと言(い)ひ張(は)る友(とも)を

說(と)きふせし

かの路傍(みちばた)の栗(くり)の樹(き)の下(した)

 

 神有りと言ひ張る友を

 說きふせし

 かの路傍の栗の樹の下

 

 

西風(にしかぜ)に

内丸大路(うちまるおほぢ)の櫻(さくら)の葉(は)

かさこそ散(ち)るを踏(ふ)みてあそびき

 

 西風に

 内丸大路の櫻の葉

 かさこそ散るを踏みてあそびき

[やぶちゃん注:現在の盛岡城跡公園の北から盛岡市内を貫通する「大通り」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があってそれかと思ったりするが、サイト「Stanford Digital Repository」の明治二十年代の盛岡の地図を見ると、公園の西側は広大な農学校の敷地であって、この通りは存在しないから、恐らくは城跡北西のかどを上がった現在の県道一号から二号に下って盛岡駅に行くルートがそれであろうか。因みに、その県道一号沿いの岩手県盛岡市中央通には「啄木新婚の家」がある。]

 

 

そのかみの愛讀(あいどく)の書(しよ)よ

大方(おほかた)は

今(いま)は流行(はや)らずなりにけるかな

 

 そのかみの愛讀の書よ

 大方は

 今は流行らずなりにけるかな

 

 

石(いし)ひとつ

坂(さか)をくだるがごとくにも

我(われ)けふの日(ひ)に到(いた)り着(つ)きたる

 

 石ひとつ

 坂をくだるがごとくにも

 我けふの日に到り着きたる

 

 

愁(うれ)ひある少年(せうねん)の眼(め)に羨(うらや)みき

小鳥(ことり)の飛(と)ぶを

飛(と)びてうたふを

 

 愁ひある少年の眼に羨みき

 小鳥の飛ぶを

 飛びてうたふを

 

 

解剖(ふわけ)せし

蚯蚓(みみづ)のいのちもかなしかり

かの校庭(かうてい)の木栅(もくさく)の下(もと)

 

 解剖せし

 蚯蚓のいのちもかなしかり

 かの校庭の木栅の下

 

 

かぎりなき知識(ちしき)の欲(よく)に燃(も)ゆる眼(め)を

姉(あね)は傷(いた)みき

人戀(ひとこ)ふるかと

 

 かぎりなき知識の欲に燃ゆる眼を

 姉は傷みき

 人戀ふるかと

[やぶちゃん注:「姉」はやはり長姉サダ。彼女は明治二四(一八九一)年(啄木五歳)十月二十一日に田村末吉(翌年に名を「叶(かのう)」と改名)と結婚した。岩城氏前掲書によれば、『啄木は中学時代の後半』、『この姉夫妻の家に世話になり、四年』次と五年次『は知識欲に渇して、手あたり次第に本をよみながら、独り高く恃していたので、その燃えるような真剣な目を』「人戀ふるかと」『心配したのであろう』とある。いや、彼女は誤ってはいない。既に述べたように、この時期、節子と恋愛関係も急速に進んでいたからである。]

 

 

蘇峯(そほう)の書(しよ)を我(われ)に薦(すす)めし友(とも)早(はや)く

校(かう)を退(しりぞ)きぬ

まづしさのため

 

 蘇峯の書を我に薦めし友早く

 校を退きぬ

 まづしさのため

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「友」は啄木の同級生古木巌。啄木はこの友人と中学四年のとき』、『回覧雑誌「三日月」を編集した。「せいの低い口の達者な文学青年で、徳富蘇峰の文体を真似た文章を書いた」(伊藤圭一郎『人間啄木』岩手日報社、昭和』三四(一九五九)年刊)『といわれる。明治三十五』(一九〇二)『年の秋盛岡中学校退学後』、『岩手郡太田村尋常小学校の代用教員となり、明治三十七年十二月』、『日本鉄道株式会社に就職。翌年七月』に『東北本線の車掌となった』とある。

「蘇峯」ジャーナリストで歴史家・評論家であった徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。『國民新聞』を主宰し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全百巻の膨大な史書「近世日本国民史」を著したことで知られる。本名は猪一郎(いいちろう)。小説家徳冨蘆花の実兄。]

 

 

おどけたる手(て)つきをかしと

我(われ)のみはいつも笑(わら)ひき

博學(はくがく)の師(し)を

 

 おどけたる手つきをかしと

 我のみはいつも笑ひき

 博學の師を

 

 

自(し)が才(さい)に身(み)をあやまちし人(ひと)のこと

かたりきかせし

師(し)もありしかな

 

 自が才に身をあやまちし人のこと

 かたりきかせし

 師もありしかな

[やぶちゃん注:石川啄木自身が、結局、この轍を踏んだと言える。

「自(し)」「其(し)」で「自分」の意の反照代名詞(自称・対称・他称の別に拘わらず、「彼(私・あなた)は自分(おのれ)の愚かさに気付いた」の「自分」「おのれ」などのように、その動作が動作主自身に返ってくることを表わす代名詞)の一つ。平安の昔からある古語である。]

 

 

そのかみの學校一(がつかういち)のなまけ者(もの)

今(いま)は眞面目(まじめ)に

はたらきて居(を)り

 

 そのかみの學校一のなまけ者

 今は眞面目に

 はたらきて居り

[やぶちゃん注:全集年譜によれば、最終的に退学することとなる(明治三十五十月二十七日附)、盛岡中学校五年次一学期成績報告書では修身・作文・代数・図画の四教科で成績不成立、課目中の英語訳解・英文法・歴史・動物が不合格点であり、出席時数百四時間に対し、欠席時数は実にその倍の二百七時間もあった。文字通り、「學校一のなまけ者」であったと言える。]

 

 

田舍(ゐなか)めく旅(たび)の姿(すがた)を

三日(みか)ばかり都(みやこ)に曝(さら)し

かへる友(とも)かな

 

 田舍めく旅の姿を

 三日ばかり都に曝し

 かへる友かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京朝日新聞』。「友」の『モデルは啄木の中学時代の友人で「岩手毎日新聞」の編集長岡山儀七(ぎひち)(不衣(ふい))といわれる。岡山は』この時、『新聞社主催の東京遊覧団体を連れて三日ばかり上京したが、この歌はこの時の儀七を詠』んだものとされているらしい。発表日辺りの啄木はといえば、担当していた「二葉亭全集」第一巻の校正が終わった頃に当たっている。]

 

 

茨島(ばらしま)の松(まつ)の並木(なみき)の街道(かいだう)を

われと行(ゆ)きし少女(をとめ)

才(さい)をたのみき

 

 茨島の松の並木の街道を

 われと行きし少女

 才をたのみき

[やぶちゃん注:「茨島(ばらしま)」は現在の地名として地図上で探すのが非常に困難だが、「Stanford Digital Repository」のこちらで、盛岡の北の「くりやがは」(厨川)の東北本線の駅を探し、そこを少し線路上で北上すると、道路が交差する部分を見出せ(「種馬育成所」の東)、そこに「茨(バラ)島」の地名を見出せる。他にも「茨島」の旧地名があるようでもあるが、恐らく現在の岩手県盛岡市下厨川鍋屋敷のここで間違いないと思われる。何故なら、この部分、現在、新幹線が下を走り、それを「盛岡市厨川茨島(ばらしま)跨線橋」と呼んでいるからで、「岩手県」公式サイト内の「都市計画課」が作成したと思われる「いわての残したい景観」の「盛岡市厨川茨島跨線橋附近から見る4号線北方の景観」の解説に(下線太字は私が附した)、『盛岡から北上する国道には、昔から道の左右に赤松、ケヤキその他の広葉樹の大緑木がトンネルの様に路上を覆っていて、まるで市街地をはずれると突然原生林の中に導び』かれたかの『ような気分にさ』せ『られる、全国でもまれに見る素晴らしい景観、環境でした。現在は開発に依り虫食い状に緑の景観が破壊された部分もありますが、まだまだ充分価値ある景観として守り、また愛していきたいものです』。平成一七(二〇〇五)年には『国土交通省岩手河川国道事務所などにより、この区間の松並木の愛称が「巣子の松街道」と決まりました』とあり、本歌のロケーションと一致するからである。]

 

 

眼(め)を病(や)みて黑(くろ)き眼鏡(めがね)をかけし頃(ころ)

その頃(ころ)よ

一人(ひとり)泣(な)くをおぼえし

 

 眼を病みて黑き眼鏡をかけし頃

 その頃よ

 一人泣くをおぼえし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、友人『宮崎郁雨の思い出によると』、『中学校を退学した直後の啄木は「くろめもんつ」と呼ばれ』てい『たという。黒眼鏡の紋付姿の男の意』という。但し、この時期に彼が眼疾患を患っていたことは年譜などには見られない。]

 

 

わがこころ

けふもひそかに泣(な)かむとす

友(とも)みな己(おも)が道(みち)をあゆめり

 

 わがこころ

 けふもひそかに泣かむとす

 友みな己が道をあゆめり

 

 

先(さき)んじて戀(こひ)のあまさと

かなしさを知(し)りし我(われ)なり

先(さき)んじて老(お)ゆ

 

 先んじて戀のあまさと

 かなしさを知りし我なり

 先んじて老ゆ

[やぶちゃん注:本書出版時、啄木は満二十四歳。私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「長安有男兒 二十心已朽」(長安に男兒有り 二十にして心已に朽ちたり:「贈陳商」)を想起させる。]

 

 

興(きよう)來(きた)れば

友(とも)なみだ垂(た)れ手(て)を揮(と)りて

醉漢(ゑひどれ)のごとくなりて語(かた)りき

 

 興來れば

 友なみだ垂れ手を揮りて

 醉漢のごとくなりて語りき

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏はこのモデルを金田一京助とされ、『金田一氏もその思い出』「回想の石川啄木」昭和四二(一九六七)年八木書店刊]『の中でこの歌が同氏を歌った作品であることを認めている』とある。]

 

 

人(ひと)ごみの中(なか)をわけ來(く)る

わが友(とも)の

むかしながらの太(ふと)き杖(つゑ)かな

 

 人ごみの中をわけ來る

 わが友の

 むかしながらの太き杖かな

 

 

 

見(み)よげなる年賀(ねんが)の文(ふみ)を書(か)く人(ひと)と

おもひ過(すぎ)ぎにき

三年(みとせ)ばかりは

 

 見よげなる年賀の文を書く人と

 おもひ過ぎにき

 三年ばかりは

 

 

夢(ゆめ)さめてふつと悲(かな)しむ

わが眠(ねむ)り

昔(むかし)のごとく安(やす)からぬかな

 

 夢さめてふつと悲しむ

 わが眠り

 昔のごとく安からぬかな

 

 

そのむかし秀才(しうさい)の名(な)の高(たか)かりし

友(とも)牢(らう)にあり

秋(あき)のかぜ吹(ふ)く

 

 そのむかし秀才の名の高かりし

 友牢にあり

 秋のかぜ吹く

 

 

近眼(ちかめ)にて

おどけし歌(うた)をよみ出(い)でし

茂雄(しげを)の戀(こひ)もかなしかりしか

 

 近眼にて

 おどけし歌をよみ出でし

 茂雄の戀もかなしかりしか

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏は、『盛岡中学時代』、『一級下の文学仲間で、後年』、『産婦人科医として活躍した小林茂雄を歌』ったものとし、「茂雄の戀もかなしかりしか」というのは、『啄木の妹光子に寄せた初恋である』と明言されてある。]

 

 

わが妻(つま)のむかしの願(ねが)ひ

音樂(おんがく)のことにかかりき

今(いま)はうたはず

 

 わが妻のむかしの願ひ

 音樂のことにかかりき

 今はうたはず

[やぶちゃん注:「音樂のことにかかりき」音楽に関わることに携わることであった。]

 

 

友(とも)はみな或日(あるひ)四方(しはう)に散(ち)り行(ゆ)きぬ

その後(のち)八年(やとせ)

名擧(なあ)げしもなし

 

 友はみな或日四方に散り行きぬ

 その後八年

 名擧げしもなし

 

 

わが戀(こひ)を

はじめて友(とも)にうち明(あ)けし夜(よる)のことなど

思(おも)ひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが戀を

 はじめて友にうち明けし夜のことなど

 思ひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、節子との恋愛は『十四歳ころより始』まった『初恋で』、それを『友に打ち明けたのは』、『その翌年の中学三年生のときであろう』と述べておられる。明治三三(一九〇〇)年四月から翌年三月までとなり、年譜ではその明治四十三年中に二人の関係は親密になったとされる。]

 

 

 

絲(いと)きれし紙鳶(たこ)のごとくに

若(わか)き日(ひ)の心(こころ)かろくも

とびさりしかな

 

 絲きれし紙鳶のごとくに

若き日の心かろくも

とびさりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年十一月三日附『岩手日報』。]

2020/02/07

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ)の第一歌集「一握の砂」の初版は、明治四三(一九一〇)年十二月一日、東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店より刊行された。総歌数五百五十一首。定価六十銭。啄木満二十四歳。

 啄木はこの前年の明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、この明治四十三年四月より彼が主担当となっていた。また、その後の同年九月には『東京朝日新聞』に「朝日歌壇」が設けられ、啄木がその選者に抜擢されている(彼による選歌は翌明治四十四年二月二十八日までの八十二回、投稿者百八十三名、総歌数五百六十八首に及んだ)。なお、この明治年六月五日に所謂「大逆事件」報道(幸徳秋水の拘引報道は六月三日。幸徳ら被告二十六名の大審院特別刑事部の大逆罪公判開始の決定は刊行の前月十一月九日で、第一回公判は刊行九日後の十二月十日であった)に激しい衝撃を受け、社会主義への強い関心を示した。プライベートでは刊行二ヶ月前の十月四日に妻節子(明治一九(一八八六)年十月十四日~大正二(一九一三)年:南岩手郡上田村に岩手郡役所に勤務する士族堀合忠操(ちゅうそう)の長女として生まれる。盛岡女学校卒。盛岡女学校在学中に啄木と知り合い、明治三八(一九〇五)年五月に結婚した。故郷を追われた夫とともに函館・小樽・東京と移り住む。啄木の素質は彼女との恋愛によって目覚め、輝きを増したとも言われる。啄木没年の翌年、大正二(一九一三)年五月五日に同じく結核で逝去した。満二十六歳の若さであった)が長男真一を生んだが、同月二十七日に亡くなっている(死因不明。啄木の日記によれば『生れて虛弱』とはある。以下の自序参照)。この年の文芸面では短歌活動が主であったが、五月下旬から六月上旬にかけて小説「我等の一団と彼」を執筆、文芸評論・社会評論にも手を染めている(以上の事蹟は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でもそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多いこと、底本が初版に拠るものが少ないことから、本仕儀をまず始動することとした(ブログ・カテゴリ「石川啄木」を新設)。底本は「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版を視認した。但し、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「一握の砂」(日本語正字正仮名表記)を使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは初版底本と照らし合わせても、冒頭の啄木の序の頭の「函館」が「凾館」となっていたり、初版の最初に掲げられてある藪野椋十(むくじゅう)の序文がカットされているなど、かなり問題があり、読みが一切附されていないのも問題で、一部の本文には明白な誤植も有意に複数あり、実に十八年間も放置されたまま(二〇〇二年に保存した時のものと対照したが、現在も修正されていない)である)。さればこそ私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審な部分には注記を加えた。

 なお、底本本文の短歌群は総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。なお、向後も啄木の作品を電子化するためにブログ・カテゴリ「石川啄木」を創始したことを言い添えておく。

 或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月六日始動 藪野直史】]

 

一握の砂

 

石川啄木著

 

[やぶちゃん注:表紙。孰れも右から左へ手書き記載。中央に絵。名取春仙(明治一九(一八八六)年二月七日~昭和三五(一九六〇)年三月三十日)画。名取は『東京朝日新聞』に連載された二葉亭四迷の小説「平凡」の挿絵を描いたことが縁となり、明治四二(一九〇九)年に同社に入社、大正二(一九一三)年の退社まで、夏目漱石の「虞美人草」・「三四郎」・「それから」・「明暗」などの挿絵でジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を描いた。他にも森田草平「煤煙」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、泉鏡花「白鷺」などの名作のそれも手掛けた。彼は妻の繁子とともに青山の高徳寺境内の名取家の墓前にて服毒自殺している(以上はウィキの「名取春仙」に拠る)。彼は啄木とほぼ同期で、年も同じ同僚であったのである。]

 

 一握の砂   石川啄木著

 

[やぶちゃん注:。書名は大ぶりのゴシック太字。]

 

   一   握   の   砂

 

    石 川 啄 木 著

 

     東 雲 堂 版

 

[やぶちゃん注:。総て右から左書き。]

 

 

世の中には途法も無い仁(じん)もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い處が卽ち新の新たる極意かも知れん。

定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手當り次第に繰り展げた處が、

 

   高きより飛び下りるごとき心もて

   この一生を

   終るすべなきか

 

此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出來たら、至極ぢや。面白い處に氣が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。

 

   非凡なる人のごとくにふるまへる

   後のさびしさは

   何にかたぐへむ

 

いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覺えずに過す人が、所謂當節の成功家ぢや。

 

   何處やらに澤山の人が爭ひて

   鬮引くごとし

   われも引きたし

 

何にしろ大混雜のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大槪は空鬮(からくじ)ぢや。

 

   何がなしにさびしくなれば

   出てあるく男となりて

   三月にもなれり

 

   とある日に

   酒をのみたくてならぬごとく

   今日われ切に金を欲りせり

 

   怒る時

   かならずひとつ鉢を割り

   九百九十九割りて死なまし

 

   腕拱みて

   このごろ思ふ

   大いなる敵目の前に躍り出でよと

 

   目の前の菓子皿などを

   かりかりと嚙みてみたくなりぬ

   もどかしきかな

 

   鏡とり

   能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

   泣き飽きし時

 

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ

 

   よごれたる足袋穿く時の

   氣味わるき思ひに似たる

   思出もあり

 

さうぢや、そんなことがある、斯ういふ樣な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた此の著者と此の讀者との間にすら共通の感ぢやから、定めし總ての人にもあるのぢやらう。然る處俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大膽に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が此の集中に滿ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合點して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出來る歌も亦當節新發明に爲つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。

 

       犬の年の大水後

            藪 野 椋 十

 

[やぶちゃん注:末尾の添え辞と署名はもっと下にあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げた(以下、同様の仕儀を施した箇所がある)。「新派」明治中期、主に「古今和歌集」に拠ったところの旧来の和歌の一派「御歌所(おうたどころ)派」が「旧派」和歌と称された一方、華々しく登場した若き精鋭与謝野鉄幹と正岡子規のそれらが「新派」短歌として、短歌革新運動の最たる存在として位置付けられていた。

「拱みて」「くみて」。

「犬の年の大水後」本書が刊行された明治四三(一九一〇)年は庚戌(かのえいぬ)で、この年の八月十日の「早川の大洪水」(豪雨により川が決壊、宮城野では三十六棟の家屋と水田の三分の二が流出、箱根湯本では三枚橋とその近くの線路が流出、その後再建されたが、線路は対岸側に移設された。塔ノ沢温泉では老舗旅館の福住楼が客室もろとも押し流され、歌舞伎作家の川尻宝岑夫妻ら宿泊客が死亡している。ここはウィキの「早川」に拠った)に代表されるように、大雨による、東海道全域に亙った降雨・洪水被害が発生した。

「藪野椋十」(やぶのむくじゅう)は当時の啄木の上司であった渋川玄耳(げんじ 明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)の完全なペン・ネーム(よく聞かれるので断っておくが、私の藪野家とは何の関係もない)。ジャーナリストで随筆家・俳人。佐賀県生まれ。本名は渋川柳次郎。ウィキの「渋川玄耳」によれば、『長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し』、現在の『福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務』した。この『熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。漱石が英国留学で不在時には、池松迂巷らと紫溟吟社を支え、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献』した。『日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、東京朝日新聞特派員の弓削田精一』(ペンネーム「秋江」。二葉亭四迷と交友があり、「二葉亭全集」の編集も担当した)『と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ』て『評判を呼』び、『弓削田の推薦で熊本出身の池辺三山主筆に請われ』、明治四〇(一九〇七)年三月に『東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図』った。『「取材法」や「記者養成システム」を』導入して『現在につながる』手法を『革新』していった。『熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、石川啄木を抜擢して『朝日歌壇』を創設』したのも彼であった。明治四三(一九一〇)年に『中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある杉村楚人冠とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた』。『名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立』し、『自身の離婚問題なども重なり』、大正元(一九一二)年十一月、『東京朝日新聞を退社』、『以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった』とある。]

 

 

函館なる郁雨宮崎大四郎君

同國の友文學士花明金田一京助君

この集を兩君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを兩君の前に示しつくしたるものの如し。從つて兩君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。

また一本をとりて亡兒眞一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の藥餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。

              著   者

 

[やぶちゃん注:石川啄木の自序。底本では全体が四字下げ。

「郁雨宮崎大四郎」宮崎郁雨(いくう 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は歌人。郁雨は雅号。大四郎が本名。明治四〇(一九〇七)年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたいが、そこにある通り、啄木の死の前年の明治四四(一九一一)年九月、『郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを』啄木が『読み、これを妻の不貞と採った』彼『は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交』(但し、亡くなるまで節子との離婚は成立していない)している。

「花明金田一京助」(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は同じ岩手出身の友人(盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)・盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)以来の先輩の友人であり、啄木の死まで親交が続いた。啄木より四つ年上)の言語学者で、アイヌ語研究の本格的創始者として知られる。「花明」(くわめい(かめい))は雅号で、若い頃から和歌を作り、与謝野鉄幹の『明星』の同人となっていた。法名も「寿徳院殿徹言花明大居士」である。啄木は明治四一(一九〇八)年四月に単身、上京するが、ウィキの「金田一京助」によれば、上京早々(初めは鉄幹の新詩社に滞在)の五月四日、『中学で一学年上だった金田一京助の』好意で彼のいた『本郷区菊坂町赤心館に止宿』している。その後、『生計のため』に『小説を売り込』んだが、『成功せず』、『逼迫した生活の中』(以下は先の年譜で確認した)、同年六月二十三日から二十五日にかけて「東海の小島」「たはむれに母を背負ひて」「己が名をほのかに」などの、後に広く知れ渡る歌が作られ、この時に書かれた百十四首を、翌月の『明星』に「石破集」に発表している。詳しい事蹟はウィキの「金田一京助」を見られたい。

「この集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき」逝去の翌日の十月二十九日。

 以下の附記は、上記の自序の裏、本文開始(左)の右ページに全体が八字下げで記されてある。]

 

 

明治四十一年夏以後の作一千餘首中より五百五十一首を拔きてこの集に收む。集中五章、感興の來由するところ相邇きをたづねて假にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の記念なり。

 

 

[やぶちゃん注:「相邇き」「あひちかき」。「相近き」に同じい。

 以下、枠入りの目次。上部の横枠内に右から左に「目次」。但し、リーダとページ数は略した。「手套」は「てぶくろ」。]

 

目  次

 

我を愛する歌

秋風のこころよさに

忘れがたき人人

手套を脫ぐ時

 

 

    我を愛する歌

 

 

東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に

われ泣(な)きぬれて

蟹(かに)とたはむる

 

 東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

[やぶちゃん注:「東海の小島の磯」は広義の日本の海辺の意。「白砂」とあるから「磯」は岩礁性海岸ではなく、広義の「海岸」の意で、ここは無論、砂浜海岸である。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、このロケーションは『函館の大森海岸を念頭において作ったものであろう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。一連の砂山や砂浜歌群も概ねここが回顧された舞台と考えてよい。同書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』である。] 

 

頰(ほ)につたふ

なみだのごはず

一握(いちあく)の砂(すな)を示(しめ)しし人(ひと)を忘(わす)れず

 

 頰につたふ

 なみだのごはず

 一握の砂を示しし人を忘れず

 

 

大海(たいかい)にむかひて一人(ひとり)

七八日(ななやうか)

泣(な)きなむとすと家(いへ)を出(い)でにき

 

 大海にむかひて一人

 七八日

 泣きなむとすと家を出でにき

 

 

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ

砂山(すなやま)の

砂(すな)を指(ゆび)もて掘(ほ)りてありしに

 

 いたく錆びしピストル出でぬ

 砂山の

 砂を指もて掘りてありしに

 

 

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)來(きた)りて築(きづ)きたる

この砂山(すなやま)は

何(なん)の墓(はか)ぞも

 ひと夜さに嵐來りて築きたる

 この砂山は

 何の墓ぞも

[やぶちゃん注:「夜さ」「夜去(よさ)り」の略。「去り」は「来る」の意の古語。夜。私は中学・高校を富山県で過ごしたが、現地では今も「夜」を「よさり」と呼ぶ。]

 

 

砂山(すなやま)の砂(すな)に腹這(はらば)ひ

初戀(はつこひ)の

いたみを遠(とほ)くおもひ(い)出づる日(ひ)

 

 砂山の砂に腹這ひ

 初戀の

 いたみを遠くおもひ出づる日

 

 

砂山(すなやま)の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に

あたり見(み)まはし

物言(ものい)ひてみる

 

 砂山の裾によこたはる流木に

 あたり見まはし

 物言ひてみる

 

 

いのちなき砂(すな)のかなしさよ

さらさらと

握(にぎ)れば指(ゆび)のあひだより落(お)つ

 

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ

 

 

しつとりと

なみだを吸(す)へる砂(すな)の玉(たま)

なみだは重(おも)きものにしあるかな

 

 しつとりと

 なみだを吸へる砂の玉

 なみだは重きものにしあるかな

 

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて歸り來れり

 

 大(だい)といふ字(じ)を百(ひやく)あまり

 砂(すな)に書(か)き

 死(し)ぬことをやめて歸(かへ)り來(きた)れり

 

 

目(め)さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ兒(こ)の癖(くせ)は

かなしき癖(くせ)ぞ

母(はは)よ咎(とが)むな

 

 目さまして猶起き出でぬ兒の癖は

 かなしき癖ぞ

 母よ咎むな

 

 

ひと塊(くれ)の土(つち)に涎(よだれ)し

泣(な)く母(はは)の肖顏(にがほ)つくりぬ

かなしくもあるか

 

 ひと塊の土に涎し

 泣く母の肖顏つくりぬ

 かなしくもあるか

[やぶちゃん注:現在(二十代前半或いはそれよりも少し前の追懐)の涎(唾(つば))を滴らせて土くれを捏(こ)ねて柔らかくし、そこに自分の母の似顔絵を泥絵として描いたのである。ヌーヴェル・ヴァーグの一シークエンスのように鮮烈である。]

 

 

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我(われ)あり

父(ちち)と母(はは)

壁(かべ)のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

 

 燈影なき室に我あり

 父と母

 壁のなかより杖つきて出づ

[やぶちゃん注:父と母は健在である(母は啄木の死の直前に亡くなった)。啄木の父石川一禎(いってい 嘉永三(一八五〇)年~昭和二(一九二七)年)は曹洞宗の僧であったが、宗費滞納(百十三円余り)のため、曹洞宗宗務院から住職罷免処分を受け、明治三八(一九〇五)三月二日、渋民村(現在の盛岡市渋民)の万年山宝徳寺を一家で退去しなくてはならなくなった。啄木らは村内の別な場所に転居し、後、啄木は渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務する一方、父の復職運動を行ったが、父自身が精神的な弱さから家出し、明治四十年三月にそれも無に帰し、啄木は函館移住を決意することになる。啄木十九から二十一歳の、人生の一大転機となった出来事であった。母カツは弘化四(一八四七)年生まれで、明治四五(一九一二)年三月七日没(結核)で、啄木の死(同年四月十三日。満二十六歳)の一か月前であった。カツと妻節子とはしばしばぶつかったようである。石川啄木についての恐るべき強力な近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、本歌は先に記した明治四一(一九〇八)年六月二十五日の夜に作られた一群に含まれるもので、全集の日記の当日の記載によれば、『頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だこの日の夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら』と記されてあり、近藤氏は『その最初の歌が』この一首であるとされ、

   《引用開始》

上記「四十首」中に

津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子

という歌がありますが、当時父一禎は青森県野辺地の寺で食べらせてもらっています。母は北海道函館で嫁節子・孫京子とともに宮崎郁雨の世話になっています。自分は東京で小説を書けなくて絶望的になっています。

そんな日々の東京本郷の下宿の一部屋に、明かりを消してひとり居ると幻想が浮かびます。津軽海峡をはさんで向き合う野辺地と函館に暮らす父と母が、ますます老いて杖をつき、長男の自分を頼って歩いてくるのです、壁の中から。

   《引用終了》

と近藤氏は解説しておられる。なお、ここに限らず、リンク先では「一握の砂」の全歌が緻密に解説・評釈されてあり、検証は他の追従を許さぬ凄いものである。必見必読である! ただ、私はあくまで表現で私が気になったこと、語句として私が確かに躓いたことを、ある意味、極めて愚鈍な私のレベルで注しているだけである。ただ、勘所として、どうしても必要と思われる場合は、積極的に近藤氏の見解を掲げたく思っている。]

 

 

たはむれに母(はは)を背負(せお)ひて

そのあまり輕(かろ)きに泣(な)きて

三步(さんぽ)あゆまず

 

 たはむれに母を背負ひて

 そのあまり輕きに泣きて

 三步あゆまず

[やぶちゃん注:既出の學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』。その解説によれば、当時の啄木は上京したものの、『創作生活に失敗し』『函館の老母や妻子を呼び寄せることができず』、『煩悶の日々を送』る中で詠んだ全くの『仮構にすぎぬが』、『作者の』複雑した『悲しみが一首の基底となっている』とある。私は「たはむれ」ではなく、確かに母を背負った(「母を背負う」)。そうしてそれを確かに覚悟した(「母を確かに背負って行こう」)。しかしその四ヶ月半後に母は亡くなったのだった(「聖子テレジアは天国に召されました 直史ルカ記」)。

 

 

飄然(へうぜん)と家(いへ)を出(い)でては

飄然(へうぜん)と歸(かへ)りし癖(くせ)よ

友(とも)はわらへど

 

 飄然と家を出でては

 飄然と歸りし癖よ

 友はわらへど

 

 

ふるさとの父(ちち)の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く

咳(せき)の出(い)づるや

病(や)めばはかなし

 

 ふるさとの父の咳する度に斯く

 咳の出づるや

 病めばはかなし

 

 

わが泣(な)くを少女等(をとめら)きかば

病犬(やまいぬ)の

月(つき)に吠(ほ)ゆるに似(に)たりといふらむ

 

 わが泣くを少女等きかば

 病犬の

 月に吠ゆるに似たりといふらむ

[やぶちゃん注:容易に連想されるであろう萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の刊行は大正六(一九一七)年で本作品集の七年後のことである。同詩集の標題の由来詩篇である『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜』(私の電子化注。後も同じ)を見ると、朔太郎の意識の中には確実にこの啄木の一首が影響を与えていると私は感ずる。岩城氏も前掲書の本歌の評釈で、同詩集の「序」で朔太郎が『月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は靑白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。』の部分を示され、『月に吠ゆる犬が「病犬」であることを示しているので、この啄木の歌の影響下にこの書名がつけられたと考えられる』と述べておられる。]

 

 

何處(いづく)やらむかすかに蟲(むし)のなくごとき

こころ細(ぼそ)さを

今日(けふ)もおぼゆる

 

 何處やらむかすかに蟲のなくごとき

 こころ細さを

 今日もおぼゆる

 

 

いと暗(くら)き

穴(あな)に心(こゝろ)を(す)吸はれゆくごとく思(おも)ひて

つかれて眠(ねむ)る

 

 いと暗き

 穴に心を吸はれゆくごとく思ひて

 つかれて眠る

[やぶちゃん注:「こゝろ」はママ。底本ではこの繰り返し記号は特異点である。]

 

 

こころよく

我(われ)にはたらく仕事(しごと)あれ

それを仕遂(しと)げて死(し)なむと思(おも)ふ

 

 こころよく

 我にはたらく仕事あれ

 それを仕遂げて死なむと思ふ

 

 

こみ合(あ)へる電車(でんしや)の隅(すみ)に

ちぢこまる

ゆふべゆふべの我(われ)のいとしさ

 

 こみ合へる電車の隅に

 ちぢこまる

 ゆふべゆふべの我のいとしさ

 

淺草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに

まぎれ入(い)り

まぎれ出(い)で來(き)しさびしき心(こころ)

 

 淺草の夜のにぎはひに

 まぎれ入り

 まぎれ出で來しさびしき心

 

 

愛犬(あいけん)の耳(みみ)斬(き)りてみぬ

あはれこれも

物(もの)に倦(う)みたる心(こころ)にかあらむ

 

 愛犬の耳斬りてみぬ

 あはれこれも

 物に倦みたる心にかあらむ

[やぶちゃん注:後の梶井基次郎の「愛撫」(昭和五(一九三〇)年五月稿)の猫の耳を強く想起させる。]

 

 

鏡(かがみ)とり

能(あた)ふかぎりのさまざまの顏(かほ)をしてみぬ

泣(な)き飽(あ)きし時(とき)

 

 鏡とり

 能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

 泣き飽きし時

 

 

なみだなみだ

不思議(ふしぎ)なるかな

それをもて洗(あら)へば心(こころ)戲(おど)けたくなれり

 

 なみだなみだ

 不思議なるかな

 それをもて洗へば心戲けたくなれり

 

 

呆(あき)れたる母(はは)の言葉(ことば)に

氣(き)がつけば

茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

 

 呆れたる母の言葉に

 氣がつけば

 茶碗を箸もて敲きてありき

 

 

草(くさ)に臥(ね)て

おもふことなし

わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥(とり)は空(そら)に遊(あそ)べり

 

 草に臥て

 おもふことなし

 わが額に糞して鳥は空に遊べり

 

 

わが髭(ひげ)の

下向(したむ)く癖(くせ)がいきどほろし

このごろ憎(にく)き男(をとこ)に似(に)たれば

 

 わが髭の

 下向く癖がいきどほろし

 このごろ憎き男に似たれば

 

 

森(もり)の奧(おく)より銃聲(じうせい)聞(きこ)ゆ

あはれあはれ

自(みづか)ら死(し)ぬる音(おと)のよろしさ

 

 森の奧より銃聲聞ゆ

 あはれあはれ

 自ら死ぬる音のよろしさ

[やぶちゃん注:ルビ「じうせい」はママ。「銃」は歴史的仮名遣は「じゆう」でよい。]

 

 

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳(みみ)あて

小半日(こはんにち)

堅(かた)き皮(かは)をばむしりてありき

 

 大木の幹に耳あて

 小半日

 堅き皮をばむしりてありき

[やぶちゃん注:「小半日」半日近く。岩城氏前掲書によれば、初出(『スバル』明治四二(一九〇九)年五月号)は「小半晌(とき)」である。推敲よし。]

 

 

「さばかりの事(こと)に死(し)ぬるや」

「さばかりの事(こと)に生(い)くるや」

止(よ)せ止(よ)せ問答(もんだふ)

 

 「さばかりの事に死ぬるや」

 「さばかりの事に生くるや」

 止せ止せ問答

 

 

まれにある

この平(たひら)なる心(こころ)には

時計(とけい)の鳴るもおもしろく聽(き)く

 

 まれにある

 この平なる心には

 時計の鳴るもおもしろく聽く

 

 

ふと深(ふか)き怖(おそ)れを覺(おぼ)え

ぢつとして

やがて靜(しづ)かに臍(ほそ)をまさぐる

 

 ふと深き怖れを覺え

 ぢつとして

 やがて靜かに臍をまさぐる

[やぶちゃん注:「臍(ほそ)」古くは「ほぞ」ではなく清音であったので問題ない。筑摩版全集もルビは『ほそ』である。ネットを見ると勝手に「ほぞ」にしているテクストが有意に見られる。誤りである。

 

 

高山(たかやま)のいただきに登(のぼ)り

なにがなしに帽子(ばうし)をふりて

下(くだ)り來(き)しかな

 

 高山のいただきに登り

 なにがなしに帽子をふりて

 下り來しかな

 

 

何處(どこ)やらに澤山(たくさん)の人(ひと)があらそひて

鬮引(くじひ)くごとし

われも引(ひ)きたし

 

 何處やらに澤山の人があらそひて

 鬮引くごとし

 われも引きたし

 

怒(いか)る時(とき)

かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り

九百九十九(くひやくくじふ)割(わ)りて死(し)なまし

 

 怒る時

 かならずひとつ鉢を割り

 九百九十九割りて死なまし

 

 

いつも逢(あ)ふ電車(でんしや)の中(なか)の小男(こをとこ)の

稜(かど)ある眼(まなこ)

このごろ氣(き)になる

 

 いつも逢ふ電車の中の小男の

 稜ある眼

 このごろ氣になる

 

 

鏡屋(かがみや)の前(まへ)に來(き)て

ふと驚(おどろ)きぬ

見(み)すぼらしげに步(あゆ)むものかも

 

 鏡屋の前に來て

 ふと驚きぬ

 見すぼらしげに步むものかも

 

 

何(なに)となく汽車(きしや)に乘(の)りたく思(おも)ひしのみ

汽車(きしや)を下(お)りしに

ゆくところなし

 

 何となく汽車に乘りたく思ひしのみ

 汽車を下りしに

 ゆくところなし

 

 

空家(あきや)に入(い)り

煙草(たばこ)のみたることありき

あはれただ一人(ひとり)居(ゐ)たきばかりに

 

 空家に入り

 煙草のみたることありき

 あはれただ一人居たきばかりに

 

 

何(なに)がなしに

さびしくなれば出(で)てあるく男(をこと)となりて

三月(みつき)にもなれり

 

 何がなしに

 さびしくなれば出てあるく男となりて

 三月にもなれり

 

 

やはらかに積(つも)れる雪(ゆき)に

熱(ほ)てる頰(ほ)を埋(うづ)むるごとき

戀(こひ)してみたし

 

 やはらかに積れる雪に

熱てる頰を埋むるごとき

戀してみたし

 

かなしきは

飽(あ)くなき利己(りこ)の一念(いちねん)を

持(も)てあましたる男(をとこ)にありけり

 

 かなしきは

 飽くなき利己の一念を

 持てあましたる男にありけり

 

 

手(て)も足(あし)も

室(へや)いつぱいに投(な)げ出(だ)して

やがて靜(しづ)かに起(お)きかへるかな

 

 手も足も

 室いつぱいに投げ出して

 やがて靜かに起きかへるかな

 

 

百年(ももとせ)の長(なが)き眠(ねむ)りの覺(さ)めしごと

呿呻(あくび)してまし

思(おも)ふことなしに

 

 百年の長き眠りの覺めしごと

 呿呻してまし

 思ふことなしに

[やぶちゃん注:「呿呻(あくび)」「呿」(音「キャ・キョ・コ」など)は「口を開く」「欠伸(あくび)をする」で、「呻」(音「シン」)は「うめく・うなる」の意で、この二字で「あくび」と読むのは必ずしも特異な用法ではない。]

 

 

腕(うで)拱(く)みて

このごろ思(もも)ふ

大(おほ)いなる敵(てき)目(め)の前(まえ)に躍(をど)り出(い)でよと

 

 腕拱みて

 このごろ思ふ

 大いなる敵目の前に躍り出でよと

[やぶちゃん注:「拱」の字は一般には「拱(こまね)く」と訓じて、フラットな意味で「両手を胸元で組み合わせる」で本来は中国の礼式の動作であった。但し、後に専ら「手出しせずに、或いは手出し出来ずに、ただ何もせずに傍観している」の意で「手を拱いているばかり」のように用いることが殆んどになった。しかし、ここは本来のフラットな意味であり、毅然とした超然たるポーズであることは言うまでもない。]

 

 

手(て)が白(しろ)く

且(か)つ大(だい)なりき

非凡(ひぼん)なる人(ひと)といはるる男(をとこ)に會(あ)ひしに

 

 手が白く

 且つ大なりき

 非凡なる人といはるる男に會ひしに

[やぶちゃん注:前景書で岩城氏はモデルとして一般には、東京市長であった尾崎咢堂や高村光太郎などが挙げられているが、『この歌が啄木が朝日新聞社に就職した直後の明治四十二年』(一九〇九年)『四月二十一日ないし二十三日の作であるので、これは啄木を校正係に採用した「朝日」の名編集長佐藤北江(真一)』(ほっこう:明治元(一八六九)年~大正三(一九一四)年)『であろう。彼が佐藤にはじめて会ったのは同年二月二日である』とある。]

 

こころよく

人(ひと)を讃(ほめ)めてみたくなりにけり

利己(りこ)の心(こころ)に倦(う)めるさびしさ

 

 こころよく

 人を讃めてみたくなりにけり

 利己の心に倦めるさびしさ

 

 

雨(あめ)降(ふ)れば

わが家(いへ)の人(ひと)誰(たれ)も誰(たれ)も沈(しづ)める顏(かほ)す

雨(あめ)霽(は)れよかし

 

 雨降れば

 わが家の人誰も誰も沈める顏す

 雨霽れよかし

 

 

高(たか)きより飛(と)びおりるごとき心(こころ)もて

この一生(いつしやう)を

終(をは)るすべなきか

 

 高きより飛びおりるごとき心もて

 この一生を

 終るすべなきか

 

 

この日頃(ひごろ)

ひそかに胸(むね)にやどりたる悔(くい)あり

われを笑(わら)はしめざり

 

 この日頃

 ひそかに胸にやどりたる悔あり

 われを笑はしめざり

 

 

へつらひを聞(き)けば

腹立(はらた)つわがこころ

あまりに我(われ)を知(し)るがかなしき

 

 へつらひを聞けば

 腹立つわがこころ

 あまりに我を知るがかなしき

 

 

知(し)らぬ家(いへ)たたき起(おこ)して

遁(に)げ來(く)るがおもしろかりし

昔(むかし)の戀(こひ)しさ

 

 知らぬ家たたき起して

 遁げ來るがおもしろかりし

 昔の戀しさ

 

 

非凡なる人のごとくにふるまへる

後のさびしさは

何にかたぐへむ

 

 非凡(ひぼん)なる人(ひと)のごとくにふるまへる

 後(のち)のさびしさは

 何(なに)にかたぐへむ

 

 

大(おほ)いなる彼(かれ)の身體(からだ)が

憎(にく)かりき

その前(まへ)にゆきて物(もの)を言(い)ふ時(とき)

 

 大いなる彼の身體が

 憎かりき

 その前にゆきて物を言ふ時

[やぶちゃん注:啄木は身長一メートル五十八センチ、体重四十五キロで小兵であった。岩城氏の前掲書の評釈には吉田孤羊の「啄木短歌の背景」(昭和四〇(一九六五)年洋々社刊)で吉田氏が『このモデルは東京朝日新聞主筆の池辺三山(吉太郎)であると述べている。三山は西郷隆盛を思わす巨体であった』とある。]

 

 

實務(じつむ)には役(やく)に立(た)たざるうた人(びと)と

我(われ)を見(み)る人(ひと)に

金(かね)借(か)りにけり

 

 實務には役に立たざるうた人と

 我を見る人に

 金借りにけり

 

 

遠(とほ)くより笛(ふゑ)の音(ね)きこゆ

うなだれてある故(ゆゑ)やらむ

なみだ流(なが)るる

 

 遠くより笛の音きこゆ

 うなだれてある故やらむ

 なみだ流るる

 

 

それもよしこれもよしとてある人(ひと)の

その氣(き)がるさを

欲(ほ)しくなりたり

 

 それもよしこれもよしとてある人の

 その氣がるさを

 欲しくなりたり

 

 

死(し)ぬことを

持藥(ぢやく)をのむがごとくにも我(われ)はおもへり

心(こころ)いためば

 

 死ぬことを

 持藥をのむがごとくにも我はおもへり

 心いためば

[やぶちゃん注:「持藥」用心のために何時も持っている常備薬。]

 

 

路傍(みちばた)に犬(いぬ)ながながと呿呻(あくび)しぬ

われも眞似(まね)しぬ

うらやましさに

 

 路傍に犬ながながと呿呻しぬ

 われも眞似しぬ

 うらやましさに

 

 

眞劍(しんけん)になりて竹(たて)もて犬(いぬ)を擊(う)つ

小兒(せうに)の顏(かほ)を

よしと思(おも)へり

 

 眞劍になりて竹もて犬を擊つ

 小兒の顏を

 よしと思へり

 

ダイナモの

重(おも)き唸(うな)りのここちよさよ

あはれこのごとく物(もの)を言(い)はまし

 

 ダイナモの

 重き唸りのここちよさよ

 あはれこのごとく物を言はまし

[やぶちゃん注:「ダイナモ」dynamo。発電機。]

 

 

剽輕(へうきん)の性(さが)なりし友(とも)の死顏(しにがほ)の

靑(あを)き疲(つか)れが

いまも目(め)にあり

 

 剽輕の性なりし友の死顏の

 靑き疲れが

 いまも目にあり

[やぶちゃん注:『近藤典彦「石川啄木伝」』のこちらによれば、初出は『東京朝日新聞』の明治四三(一九一〇)年五月二十六日で初出形は、

剽輕の性なりし友の死顏の靑き疲勞(つかれ)が長く目にあり

であるとされ、『この「友」については管見の限り』、『誰もふれていませんが、考えられる人は』一『人しかいません』。「渋民日記」の明治三九(一九〇六)年『「八月中」の終わりにある次の記述中の「沼田千太郎」で』あるとされる。『予は十一歳(?)の頃死んだ母方の伯父の棺に入つた死を見た外には死人を見た事がない。その時は小児の時の事だから、種々の空想を刺戟された外には別に深くも考へなかつた。今度、三十二で死んだ友人沼田千太郎の死後一時間許りのところを見て、数日の間忘るることが出来なかつた』。『生前かるがるしく滑稽に振る舞っていた友の死顔には、今や隠しようもなく生きていた時の疲れが浮き出ていた』とされ、『啄木もまた日常の振る舞いの陰に潜めている、自分自身の生きる辛さや悲しさを思ってい』るのだと記され、『啄木は『一握の砂』の歌の半分を創出し』、明治四三(一九一〇)年十月四日から十六日に『おいて、全日記を読み返し活用したのであり、『これは『一握の砂』創造の』一『源泉として確実で重要な事実で』あったが、『最近もう一つの時期にも日記が歌の源泉になったと推定して』おり、『それは短歌に啄木調を確立した』同年四月・五月のことで、この『歌もその一例と言え』ると述べておられる。沼田千太郎氏については詳しい事蹟は判らないので、ここまでとしておく。

「剽輕」現代仮名遣「ひょうきん」「剽」も「軽い」の意で、「軽」の「キン」は唐音。気軽でおどけた感じのすること。]

 

 

氣(き)の變(かは)る人(ひと)に仕(つか)へて

つくづくと

わが世(よ)がいやになりにけるかな

 

 氣の變る人に仕へて

 つくづくと

 わが世がいやになりにけるかな

 

 

龍(りよう)のごとくむなしき空(そら)に躍(をど)り出(い)でて

消(き)えゆく煙(けむり)

見(み)れば飽(あ)かなく

 

 龍のごとくむなしき空に躍り出でて

 消えゆく煙

 見れば飽かなく

 

 

こころよき疲(つか)れなるかな

息(いき)もつかず

仕事(しごと)をしたる後(のち)のこの疲(つか)れ

 

 こころよき疲れなるかな

 息もつかず

 仕事をしたる後のこの疲れ

 

 

空寢入(そらねいり)生呿呻(なまあくび)など

なぜするや

思(おも)ふこと人(ひと)にさとらせぬため

 

 空寢入生呿呻など

 なぜするや

 思ふこと人にさとらせぬため

[やぶちゃん注:「空寢入(そらねいり)」狸寝入り。「生呿呻(なまあくび)」は普通は眠気がないのに出る欠伸(あくび)を指すが、ここは歌意から意識的に欠伸をわざとすることを指している。]

 

 

箸(はし)止(と)めてふつと思(おも)ひぬ

やうやくに

世(よ)のならはしに慣(な)れにけるかな

 

 箸止めてふつと思ひぬ

 やうやくに

 世のならはしに慣れにけるかな

 

 

朝(あさ)はやく

婚期(こんき)を過(す)ぎし妹(いもうと)の

戀文(こいぶみ)めける文(ふみ)を讀(よ)めりけり

 

 朝はやく

 婚期を過ぎし妹の

 戀文めける文を讀めりけり

[やぶちゃん注:「妹」ミツ(明治二一(一八八八)年~昭和四三(一九六八)年:通称は光子)。啄木より二つ年下。明治四〇(一九〇七)年に小樽のメソジスト教会で洗礼を受け、後、日本聖公会の婦人伝道師養成学校である兵庫県芦屋市の聖使女学院(啄木の年譜では明治四三(一九一〇)年時に既に在学している)を卒業し、北海道札幌市・福岡県久留米市・東京都江東区深川や奈良県など、各地で伝道師として活動した。啄木の死後十年後の大正一一(一九二二)年に、聖公会の司祭三浦清一と結婚した。ウィキの「三浦ミツ」を参照されたい。]

 

 

しつとりと

水(みづ)を吸(す)ひたる海綿(かいめん)の

重(おも)さに似(に)たる心地(ここち)おぼゆる

 

 しつとりと

 水を吸ひたる海綿の

 重さに似たる心地おぼゆる

 

 

死(し)ね死(し)ねと己(おのれ)を怒(いか)り

もだしたる

心(こころ)の底(そこ)の暗(くら)きむなしさ

 

 死ね死ねと己を怒り

 もだしたる

 心の底の暗きむなしさ

 

 

けものめく顏(かほ)あり口(くち)をあけたてす

とのみ見(み)てゐぬ

人(ひと)の語(かた)るを

 

 けものめく顏あり口をあけたてす

 とのみ見てゐぬ

 人の語るを

 

 

親(おや)と子(こ)と

はなればなれの心(こころ)もて靜(しづ)かに對(むか)ふ

氣(き)まづきや何(な)ぞ

 

 親と子と

 はなればなれの心もて靜かに對ふ

 氣まづきや何ぞ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、この一首の初出は明治四三(一九一〇)年四月七日の『東京朝日新聞』で、

 親と子とはなればなれの心もて食卓に就く気拙かりけり

が初出形であるとある。漠然と私は「親」は父一禎(いってい)であろうと考えていたが、それを厳密に立証されておられる。]

 

 

かの船(ふね)の

かの航海(かうかい)の船客(せんかく)の一人(ひとり)にてありき

死(し)にかねたるは

 かの船の

 かの航海の船客の一人にてありき

 死にかねたるは

 

 

目(め)の前(まへ)の菓子皿(くわしざら)などを

かりかりと嚙(か)みてみたくなりぬ

もどかしきかな

 

 目の前の菓子皿などを

 かりかりと嚙みてみたくなりぬ

 もどかしきかな

 

 

よく笑(わら)ふ若(わか)き男(をとこ)の

死(し)にたらば

すこしはこの世(よ)のさびしくもなれ

 

 よく笑ふ若き男の

 死にたらば

 すこしはこの世のさびしくもなれ

 

 

何がなしに

息きれるまで驅け出してみたくなりたり

草原などを

 

 何がなしに

 息きれるまで驅け出してみたくなりたり

 草原などを

[やぶちゃん注:一読、後の鬼才宮澤賢治を想起させる。]

 

 

あたらしき背廣(せびろ)など着(き)て

旅(たび)をせむ

しかく今年(ことし)も思(おも)ひ過(す)ぎたる

 

 あたらしき背廣など着て

 旅をせむ

 しかく今年も思ひ過ぎたる

[やぶちゃん注:「しかく」「斯(しか)く」。そのように。]

 

 

ことさらに燈火(ともしび)を消(け)して

まぢまぢと思(おも)ひてゐしは

わけもなきこと

 

 ことさらに燈火を消して

 まぢまぢと思ひてゐしは

 わけもなきこと

 

淺草(あさくさ)の凌雲閣(りようんかく)のいただきに

腕組(うでく)みし日(ひ)の

長(なが)き日記(にき)かな

 

 淺草の凌雲閣のいただきに

 腕組みし日の

 長き日記かな

[やぶちゃん注:「凌雲閣」現在の東京都台東区浅草公園にあった煉瓦造十二階建ての高層展望塔。本書刊行の二十年前の明治二三(一八九〇)年に建設され、東京名所となったが、後の大正一二(一九二三)年の関東大震災で半壊し、撤去された。通称「十二階」。]

 

 

尋常(じんじやう)のおどけならむや

ナイフ持(も)ち死(し)ぬまねをする

その顏(かほ)その顏(かほ)

 

 尋常のおどけならむや

 ナイフ持ち死ぬまねをする

 その顏その顏

[やぶちゃん注:次の歌も合わせて実景ではなく、啄木自身の自棄的幻想と読む。但し、岩城氏の評釈は金田一京助との類似エピソードを記す。]

 

 

こそこその話(はなし)がやがて高(たか)くなり

ピストル鳴(な)りて

人生(じんせい)終(をは)る

 

 こそこその話がやがて高くなり

 ピストル鳴りて

 人生終る

 

 

時(とき)ありて

子供(こども)のやうにたはむれす

戀(こひ)ある人(ひと)のなさぬ業(わざ)かな

 

 時ありて

 子供のやうにたはむれす

 戀ある人のなさぬ業かな

 

 

 

とかくして家(いへ)を出(い)づれば

日光(につくわう)のあたたかさあり

息(いき)ふかく吸(す)ふ

 

 とかくして家を出づれば

 日光のあたたかさあり

 息ふかく吸ふ

 

 

つかれたる牛(うし)のよだれは

たらたらと

千萬年(せんまんねん)も盡(つ)きざるごとし

 

 つかれたる牛のよだれは

 たらたらと

 千萬年も盡きざるごとし

 

 

路傍(みちばたの切石(きりいし)の上(うへ)に

腕拱(うでく)みて

空(そら)を見上(みあぐ)ぐる男(をとこ)ありたり

 

 路傍の切石の上に

 腕拱みて

 空を見上ぐる男ありたり

 

 

何(なに)やらむ

穩(おだや)かならぬ目付(めつき)して

鶴嘴(つりはし)を打(う)つ群(む)を見(み)てゐる

 

 何やらむ

穩かならぬ目付して

鶴嘴を打つ群を見てゐる

 

 

心(こころ)より今日(けふ)は逃(に)げ去(さ)れり

病(やまひ)ある獸(けもの)のごとき

不平(ふへい)逃(に)げ去れり

 

 心より今日は逃げ去れり

 病ある獸のごとき

 不平逃げ去れりげ

 

 

おほどかの心(こころ)來(きた)れり

あるくにも

腹(はら)に力(ちから)のたまるがごとし

 

 おほどかの心來れり

 あるくにも

 腹に力のたまるがごとし

 

 

ただひとり泣(な)かまほしさに

來(き)て寢(ね)たる

宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

 

 ただひとり泣かまほしさに

 來て寢たる

 宿屋の夜具のこころよさかな

 

 

友(とも)よさは

乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ

餓(う)ゑたる時(とき)は我(われ)も爾(しか)りき

 

 友よさは

 乞食の卑しさ厭ふなかれ

 餓ゑたる時は我も爾りき

[やぶちゃん注:「よ」は呼びかけの感動詞で、「さは」「然(さ)は」で、副詞の「そうんな風には」の謂いと採る。]

 

 

新(あたら)しきインクのにほひ

栓(せん)拔(ぬ)けば

餓(う)ゑたる腹(はら)に沁(し)むがかなしも

 

 新しきインクのにほひ

 栓拔けば

 餓ゑたる腹に沁むがかなしも

 

 

かなしきは

喉(のど)のかわきをこらへつつ

夜寒(よざむ)の夜具(やぐ)にちぢこまる時(とき)

 

 かなしきは

 喉のかわきをこらへつつ

 夜寒の夜具にちぢこまる時

 

 

一度(いちど)でも我(われ)に頭(あたま)を下(さ)げさせし

人(ひと)みな死(し)ねと

いのりてしこと

 

 一度でも我に頭を下げさせし

 人みな死ねと

 いのりてしこと

[やぶちゃん注:「てし」は文法的には厳しい。強意の副助詞で「まさに祈ってのことさ!」の意が一番腑には落ちる。過去の助動詞では「て」が致命的におかしい。]

 

 

我(われ)に似(に)し友(とも)の二人(ふたり)よ

一人(ひとり)は死(し)に

一人(ひおり)は牢(らう)を出(い)でて今(いま)病(や)む

 

 我に似し友の二人よ

 一人は死に

 一人は牢を出でて今病む

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この二人を盛岡中学時代の友人であった、小野弘吉と宮永佐吉に同定されておられる。]

 

あまりある才を抱きて

妻のため

おもひわづらふ友をかなしむ

 

 あまりある才を抱きて

 妻のため

 おもひわづらふ友をかなしむ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この人物を啄木が敬愛していた友人の国語教師大島経男であるとする。]

 

 

打明(うちあけ)けて語(かた)りて

何(なに)か損(そん)をせしごとく思(おも)ひて

友(とも)とわかれぬ

 

 打明けて語りて

 何か損をせしごとく思ひて

 友とわかれぬ

[やぶちゃん注:この「何か損をせしごとく思ひて」は意識の流れのブレイクを表わした上手い改行と思う。]

 

 

どんよりと

くもれる空(そら)を見(み)てゐしに

人(ひと)を殺(ころ)したくなりにけるかな

 

 どんよりと

 くもれる空を見てゐしに

 人を殺したくなりにけるかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四三(一九一〇)年十二月号初出である。私が十二の夏、痛烈に惹かれた一首である。]

 

人並(ひとなみ)の才(さい)に過(す)ぎざる

わが友(とも)の

深(ふか)き不平(ふへい)もあはれなるかな

 

 人並の才に過ぎざる

 わが友の

 深き不平もあはれなるかな

 

 

誰(たれ)が見(み)てもとりどころなき男(をこと)來(き)て

威張(ゐば)りて歸(かへ)りぬ

かなしくもあるか

 

 誰が見てもとりどころなき男來て

 威張りて歸りぬ

 かなしくもあるか

 

 

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)樂(らく)にならざり

ぢつと手(て)を見(み)る

 

 はたらけど

 はたらけど猶わが生活樂にならざり

 ぢつと手を見る

[やぶちゃん注:恐らく、啄木の一首で最も人口に膾炙した一首であろうが、これは事実に於いては啄木の実際の境涯を表象するものとは、今は私は全く思わない。しかし、詠んだが勝ちであることは言うまでもない。]

 

 

何(なに)もかも行末(ゆくすゑ)の事(こと)みゆるごとき

このかなしみは

拭(ぬぐ)ひあへずも

 

 何もかも行末の事みゆるごとき

このかなしみは

拭ひあへずも

 

 

とある日(ひ)に

酒(さけ)をのみたくてならぬごとく

今日(けふ)われ切(せつ)に金(かね)を欲(ほ)りせり

 

 とある日に

 酒をのみたくてならぬごとく

 今日われ切に金を欲りせり

 

 

水晶(すいしやう)の玉(たま)をよろこびもてあそぶ

わがこの心(こころ)

何(なに)の心(こころ)ぞ

 

 水晶の玉をよろこびもてあそぶ

 わがこの心

 何の心ぞ

 

 

事(こと)もなく

且(か)つこころよく肥(こ)えてゆく

わがこのごろの物足(ものた)らぬかな

 

 事もなく

 且つこころよく肥えてゆく

 わがこのごろの物足らぬかな

 

 

大(おほ)いなる水晶(すゐしやう)の玉(たま)を

ひとつ欲(ほ)し

それにむかひて物(もの)を思(おも)はむ

 

 大いなる水晶の玉を

 ひとつ欲し

 それにむかひて物を思はむ

 

 

うぬ惚(ぼ)るる友(とも)に

合槌(あひづち)うちてゐぬ

施與(ほどこし)をするごとき心(こころ)に

 

 うぬ惚るる友に

 合槌うちてゐぬ

 施與をするごとき心に

 

 

ある朝(あさ)のかなしき夢(ゆめ)のさめぎはに

鼻(はな)に入(い)り來(き)し

味噌(みそ)を煮(に)る香(か)よ

 

 ある朝のかなしき夢のさめぎはに

 鼻に入り來し

 味噌を煮る香よ

 

 

こつこつと空地(あきち)に石(いし)をきざむ音(おと)

耳(みみ)につき來(き)ぬ

家(いへ)に入(い)るまで

 

 こつこつと空地に石をきざむ音

 耳につき來ぬ

 家に入るまで

[やぶちゃん注:私はこの一首を読むと、フランツ・カフカの「審判」のエンディングを想起するのを常としている。

 

 

何(なに)がなしに

頭(あたま)のなかに崖(がけ)ありて

日每(ひごと)に土(つち)のくづるるごとし

 

 何がなしに

 頭のなかに崖ありて

 日每に土のくづるるごとし

 

 

遠方(ゑんぱう)に電話(でんわ)の鈴(りん)の鳴(な)るごとく

今日(けふ)も耳鳴(みみな)る

かなしき日(ひ)かな

 

 遠方に電話の鈴の鳴るごとく

 今日も耳鳴る

 かなしき日かな

[やぶちゃん注:これはまさに今の私の左耳の確かな実際の激烈な絶え間なき地獄である。]

 

 

垢(あか)じみし袷(あはせ)の襟(えり)よ

かなしくも

ふるさとの胡桃(くるみ)燒(や)くるにほひす

 

 垢じみし袷の襟よ

 かなしくも

 ふるさとの胡桃燒くるにほひす

 

 

死(し)にたくてならぬ時(とき)あり

はばかりに人目(ひとめ)を避(さ)けて

怖(こは)き顏(かほ)する

 

 死にたくてならぬ時あり

 はばかりに人目を避けて

 怖き顏する

[やぶちゃん注:「はばかり」便所。恐らく、こうした馬鹿馬鹿しい注が、向後、必要になるであろう。]

 

 

一隊(いつたい)の兵(へい)を見送(みおく)りて

かなしかり

何(なん)ぞ彼等(かれら)のうれひ無(な)げなる

 

 一隊の兵を見送りて

 かなしかり

 何ぞ彼等のうれひ無げなる

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年八月三日夜から翌四日の夜で、初出は『東京朝日新聞』の同年八月十四日とある。この月の二十九日、日本は大韓帝国を併合して統治下に置く「韓国併合」を行い、朝鮮半島を領有化している。]

 

 

邦人(くにびと)の顏(かほ)たへがたく卑(いや)しげに

目(め)にうつる日(ひ)なり

家(いへ)にこもらむ

 

 邦人の顏たへがたく卑しげに

 目にうつる日なり

 家にこもらむ

[やぶちゃん注:「邦人(くにびと)」という表現から前歌の詩想や背景との密接な関連が推定される。近藤典彦「石川啄木伝」のこちら(以下、数回に亙る)を見ると、やはりそうした解釈をなさっておられる。是非、読まれたい。なお、本歌の初出は『スバル』明四三(一九一〇)年十一月号で、創作は同年十月四日から十六日と示されある。]

 

 

この次(つぎ)の休日(やすみ)に一日(いちにち)寢(ね)てみむと

思(おも)ひすごしぬ

三年(みとせ)このかた

 

 この次の休日に一日寢てみむと

 思ひすごしぬ

 三年このかた

 

 

或(あ)る時(とき)のわれのこころを

燒(や)きたての

麺麭(ぱん)に似(に)たりと思(おも)ひけるかな

 

 或る時のわれのこころを

 燒きたての

 麺麭に似たりと思ひけるかな

 

 

たんたらたらたんたらたらと

雨滴(あまだれ)が

痛(いた)むあたまにひびくかなしさ

 

 たんたらたらたんたらたらと

 雨滴が

 痛むあたまにひびくかなしさ

 

 

ある日(ひ)のこと

室(へや)の障子(しやうじ)をはりかへぬ

その日(ひ)はそれにて心(こころ)なごみき

 

 ある日のこと

 室の障子をはりかへぬ

 その日はそれにて心なごみき

 

 

かうしては居(ゐ)られずと思(おも)ひ

立(た)ちにしが

戶外(おもて)に馬(うま)の嘶(いなな)きしまで

 

 かうしては居られずと思ひ

 立ちにしが

 戶外に馬の嘶きしまで

[やぶちゃん注:歌意は単純に、外を通った馬の嘶きを異様な何かの事態・天災と聴き誤って、思わず『こうしていられないぞ!』と感じて立ち上がったと、自身を諧謔しているように一見読めるが、この「嘶き」は日本全土に広がった大陸侵略への軍靴の音の凶兆の表象のように私には読める。]

 

 

氣(き)ぬけして廊下(らうか)に立(た)ちぬ

あららかに扉(とびら)を推(お)せしに

すぐ開(あ)きしかば

 

 氣ぬけして廊下に立ちぬ

 あららかに扉を推せしに

 すぐ開きしかば

[やぶちゃん注:前歌とは内的な感覚上の組み歌のように思われる(但し、シチュエーションが同一だというのではない)。ただ「廊下」という表現が、この歌のロケーションは自宅ではないように思われる。近藤典彦「石川啄木伝」では、こちらで、『「扉」がドア式である。喜之床の』二『階つまり今借りている部屋の出入口はドア式ではあるまい。ドア式で若い男が「あららかに」推さないと開かないような出入口では』、『老母や』四『歳未満の京子』(明治三九(一九〇六)年十二月二十九日生まれの啄木の長女)『は生活できないだろうから。職場東京朝日新聞社の日常使う編集室のドアがそんなに固いはずはなかろう。偉い記者たちもたくさん出入りするのである。ガタピシドアであるとは思えない』。『この「扉」=ドアのある部屋は、節子が出産のために入っている東大病院の病室であろうと思われる』。『それだと』、『ドアの調子が今一つ分からなくても不自然ではない。おそらく入室するとき、ドアが固かったのではなかろうか。でなければ前回出るときに固かったか』。『<訳>気抜けして病院の廊下に立ってしまった。このドアは固いと思い込んで、体重をかけて荒っぽく推したところ、すっと開いてしまったので。』とある。なお、本歌は「一握の砂」初出で、作歌時期は明四三(一九一〇)年の十月四日から十六日とある。既に注した通り、長男真一は十月四日生まれである(同月二十七日死亡)。]

 

 

ぢつとして

黑(くろ)はた赤(あか)のインク吸(す)ひ

堅(かた)くかわける海綿(かいめん)を見(み)る

 

 ぢつとして

 黑はた赤のインク吸ひ

 堅くかわける海綿を見る

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらでは、驚くべき注意深さで、この一首の極めて具体的な状況を解析しておられる。是非読まれたい。

「はた」副詞。動作・状態が短時間に変わるさま。]

 

誰(たれ)が見(み)ても

われをなつかしくなるごとき

長(なが)き手紙(てがみ)を書(か)きたき夕(ゆふべ)

 

 誰が見ても

 われをなつかしくなるごとき

 長き手紙を書きたき夕

 

 

うすみどり

飮(の)めば身體(からだ)が水(みづ)のごと透(す)きとほるてふ

藥(くすり)はなきか

 

 うすみどり

 飮めば身體が水のごと透きとほるてふ

 藥はなきか

[やぶちゃん注:私は結核の不快症状を背景に考えていたが、啄木の顕在的な結核の罹患症状らしきものは明治四四(一九一一)年一月末頃に自覚されているようで、近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本歌の初出は『スバル』の明四三(一九一〇)年十一月号で、作歌時期は同年十月四日から十六日とあり、時期が前で、合わない。私のそれは思い込みであることが判った。而して、近藤氏はそこで、上田博氏のこの歌の評釈から、これは『透明人間願望の歌であ』り、かのHG・ウェルズのSF小説「透明人間」(Invisible Man:一八九七年刊)に触発されたもという見解を示しておられる。但し、近藤氏は『まだ邦訳されてはいないまでも、透明な人間の物語がイギリスで読まれている、くらいのことを啄木は耳にしていたかも知れ』ないとされる。ウィキの「石川啄木」によれば、彼は、この二年前の明治四十二年四月十三日、『「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記に』記しており、『次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はHG・ウェルズの作品『宇宙戦争』を翻案したもので』一九〇九年三月に出版されている』とあって、啄木がウェルズのSF小説に関心を持っていたことが判る。立ち戻って、さらに近藤氏は、木股知史氏の評釈を引かれ、『透明になることは、<見られる自己>を消滅させるという願いを意味し』、『この歌では、他者のまなざしからの自由を希求している。『うすみどり』と『透きとほる』が呼応して、空想にふさわしい軽く明るいイメージを作っている』とあり、訳されて、『うすみどりで、それを飲むと身体が水のように透きとおるという薬はないものか。あればしばしの間透明人間を楽しめるのだが』とされており、すこぶる腑に落ちた。]

 

 

いつも睨(にら)むランプに飽(あ)きて

三日(みか)ばかり

蠟燭(らふそく)の火(ひ)にしたしめるかな

 

 いつも睨むランプに飽きて

 三日ばかり

 蠟燭の火にしたしめるかな

 

 

人間(にんげん)のつかはぬ言葉(ことば)

ひよつとして

われのみ知(し)れるごとく思(おも)ふ日(ひ)

 

 人間のつかはぬ言葉

 ひよつとして

 われのみ知れるごとく思ふ日

 

 

あたらしき心(こころ)もとめて

名(な)も知(し)れぬ

街(まち)など今日(けふ)もさまよひて來(き)ぬ

 

 あたらしき心もとめて

 名も知れぬ

 街など今日もさまよひて來ぬ

 

 

友(とも)がみなわれよりえらく見(み)ゆる日(ひ)よ

花(はな)を買(か)ひ來(き)て

妻(つま)としたしむ

 

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 花を買ひ來て

 妻としたしむ

 

 

何(なに)すれば

此處(ここ)に我(われ)ありや

時(とき)にかく打驚(うちおどろ)きて室(へや)を眺(なが)むる

 

 何すれば

 此處に我ありや

 時にかく打驚きて室を眺むる

 

 

人(ひと)ありて電車(でんしや)のなかに唾(つば)を吐(は)く

それにも

心(こころ)いたまむとしき

 

 人ありて電車のなかに唾を吐く

 それにも

 心いたまむとしき

 

 

夜明(よあ)けまであそびてくらす場所(ばしよ)が欲(ほ)し

家(いへ)をおもへば

こころ冷(つめ)たし

 

 夜明けまであそびてくらす場所が欲し

 家をおもへば

 こころ冷たし

 

 

人(ひと)みなが家(いへ)を持(も)つてふかなしみよ

墓(はか)に入(い)るごとく

かへりて眠(ねむ)る

 

 人みなが家を持つてふかなしみよ

 墓に入るごとく

 かへりて眠る

 

 

何(なに)かひとつ不思議(ふしぎ)を示(しめ)し

人(ひと)みなのおどろくひまに

消(きえ)えむと思(おも)ふ

 

 何かひとつ不思議を示し

 人みなのおどろくひまに

 消えむと思ふ

 

 

人(ひと)といふ人(ひと)のこころに

一人(ひとり)づつ囚人(しうじん)がゐて

うめくかなしさ

 

 人といふ人のこころに

 一人づつ囚人がゐて

 うめくかなしさ

 

 

叱(しか)られて

わつと泣(な)き出(だ)す子供心(こどもごころ)

その心(こころ)にもなりてみたきかな

 

 叱られて

 わつと泣き出す子供心

 その心にもなりてみたきかな

 

 

盗(ぬす)むてふことさへ惡(あ)しと思(おも)ひえぬ

心(こころ)はかなし

かくれ家(が)もなし

 

 盗むてふことさへ惡しと思ひえぬ

 心はかなし

 かくれ家もなし

 

 

放(はな)たれし女(をんな)のごときかなしみを

よわき男(をとこ)の

感(かん)ずる日(ひ)なり

 

 放たれし女のごときかなしみを

 よわき男の

 感ずる日なり

[やぶちゃん注:「放たれし女のごとき」旧日本の(今もその亡霊はしっかりいるが)束縛され差別されてきた女性の内から出現した、男と同様に個人として覚醒して解放された女性像のような存在が持つところの。]

 

 

庭石(にはいし)に

はたと時計(とけい)をなげうてる

昔(むかし)のわれの怒(いか)りいとしも

 

 庭石に

 はたと時計をなげうてる

 昔のわれの怒りいとしも

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本「一握の砂」初出、作歌は明四三(一九一〇)年九月九日夜で、『「昔」住んだ「庭石」のある家といえば』、渋谷村の『宝徳寺か盛岡市加賀野磧町の家(結婚後まもなく移り住んだ)であろう。「いとし」は「かわいい」の意味であるから、思い出は宝徳寺時代の、それも少年期のものであろう』とされ、この『「時計」は目覚まし時計であろうとされた上で、『「昔のわれ」は何に対して怒ったのであろう。家族に対してか。時計そのものに対してか。自分自身に対してか。どうも見当がつかない。はっり言えるのはその怒りが個人的なものだったということである』。『「昔のわれの怒り」の裏側にある「現在のわれの怒り」は作歌が』上記の通り『であるから』、『歴史的社会的なものであ』り、『「現在のわれの怒り」はまさに「韓国併合と時代閉塞の現状」への怒りなのである。表現の自由への狂気じみた弾圧の嵐の今、怒りは鬱屈せざるを得ない』と記しておられる。]

 

 

顏(かほ)あかめ怒(いか)りしことが

あくる日(ひ)は

さほどにもなきをさびしがるかな

 

 顏あかめ怒りしことが

 あくる日は

 さほどにもなきをさびしがるかな

 

 

いらだてる心(こころ)よ汝(なれ)はかなしかり

いざいざ

すこし呿呻(あくび)などせむ

 

 いらだてる心よ汝はかなしかり

 いざいざ

 すこし呿呻などせむ

 

 

女(をんな)あり

わがいひつけに背(そむ)かじと心(こころ)を碎(くだ)く

見(み)ればかなしも

 

 女あり

 わがいひつけに背かじと心を碎く

 見ればかなしも

 

 

ふがひなき

わが日(ひ)の本(もと)の女等(をんなら)を

秋雨(あきさめ)の夜(よ)にののしりしかな

 

 ふがひなき

 わが日の本の女等を

 秋雨の夜にののしりしかな

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらが、明晰に本歌の背景と作者の怒りを分析しておられる。是非、読まれたい。]

 

 

男(をこと)とうまれ男(をとこ)と交(まじ)り

負(ま)けてをり

かるがゆゑにや秋(あき)が身(み)に沁(し)む

 

 男とうまれ男と交り

 負けてをり

 かるがゆゑにや秋が身に沁む

 

 

わが抱(いだ)く思想(しそう)はすべて

金(かね)なきに因(いん)するごとし

秋(あき)の風(かぜ)吹(ふ)く

 

 わが抱く思想はすべて

 金なきに因するごとし

 秋の風吹く

 

 

くだらない小說(せうせつ)を書(か)きてよろこべる

男(をとこ)憐(あは)れなり

初秋(はつあき)の風(かぜ)

 

 くだらない小說を書きてよろこべる

 男憐れなり

 初秋の風

[やぶちゃん注:「くだらない小說」近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とされ、この「くだらない小說」とは啄木の「我等の一團と彼」(同年五月下旬から六月上旬にかけて執筆された)を指すとされる。現在、同小説は高く評価されている。「青空文庫」のこちらで読める(正字正仮名)。近藤氏の引用された加藤周一氏と井上ひさし氏のの評価を読まれたい。]

 

秋(あき)の風(かぜ)

今日(けふ)よりは彼(か)のふやけたる男(をとこ)に

口(くち)を利(き)かじと思(おも)ふ

 

 秋の風

 今日よりは彼のふやけたる男に

 口を利かじと思ふ

 

 

はても見(み)えぬ

眞直(ますぐ)の街(まち)をあゆむごとき

こころを今日(けふ)は持(も)ちえたるかな

 

 はても見えぬ

 眞直の街をあゆむごとき

 こころを今日は持ちえたるかな

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

いそがしく

暮(くら)らせし一日(ひとひ)を忘(わす)れじと思(おも)ふ

 

 何事も思ふことなく

 いそがしく

 暮らせし一日を忘れじと思ふ

 

 

何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ

すこし經(へ)て

またも俄(には)かに不平(ふへい)つのり來(く)

 

 何事も金金とわらひ

 すこし經て

 またも俄かに不平つのり來

 

 

誰(た)そ我(われ)に

ピストルにても擊(う)てよかし

伊藤(いとう)のごとく死(し)にて見(み)せなむ

 

 誰そ我に

 ピストルにても擊てよかし

 伊藤のごとく死にて見せなむ

[やぶちゃん注:前年の明治四二(一九〇九)年十月二十六日、元韓国統監(同年六月辞任)であった伊藤博文はロシアの財務大臣と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために訪れたハルビン駅頭で、大韓帝国の民族運動家安重根(アン・ジュングン)によって射殺された。近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四十三年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とある。本歌の解釈は二回に亙る近藤氏の評釈を読まれたい。下句が英雄的人物としての伊藤(私は彼のことを全くそう思わないが)讃美であることが判る。]

 

 

やとばかり

桂首相(かつらしゆしやう)に手(て)とられし夢(ゆめ)みて覺(さ)めぬ

秋(あき)の夜(よ)の二時(にじ)

 

 やとばかり

 桂首相に手とられし夢みて覺めぬ

 秋の夜の二時

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は前歌と同じ明治四三(一九一〇)年九月九日夜。初出も同前である。そこで近藤氏は『いきなり強い力で桂首相に腕をつかまれた。びっくりして目が覚めた。秋の夜の』二『時だった。(「強権」との闘いを呼びかける文章を書いたばかりだからだろうか。強権政治の親玉が怖い目をして夢に現れたのだった。)』と訳しておられる。

 以下は私の印象であるが、「やとばかり」に緊迫は感じられるが、短歌という性質上、強烈なインパクトを表現しきれてはいない。特に前の伊藤博文のそれと並べられると、逆にソフトな誤った印象を与える。私は啄木が本作の「我を愛する歌」の掉尾にこれを持ってきたのは決して成功しているとは言えない気がしている。大方の御叱正を俟つ。

「桂首相」桂太郎(弘化四(一八四八)年~大正二(一九一三)年)は元長州(萩)藩士。明治三一(一八九八)年の第三次伊藤博文内閣で陸軍大臣に就任し、同年、大将に昇進、軍備拡張政策を推進して藩閥の一員として政党勢力と対立した。明治三十四年に首相となり日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)を指導、その際、原敬と五度会談し、戦後の西園寺公望への政権委譲を条件に立憲政友会の支持を得た。しかし、「ポーツマス講和条約」に対する国民の不満が「日比谷焼き打ち事件」という形で顕在化する中で退陣、西園寺と交代した。明治四十一年に成立した第二次桂内閣では、日露戦争後の困難な財政再建を図るとともに、満州での勢力範囲を「第二次日露協約」により確定し、明治四十三年に韓国を併合した。また、社会政策である工場法を制定する一方で、「大逆事件」に代表される社会主義者への弾圧を行った。後、第三次桂内閣を組織したが、詔勅を乱発したため、非立憲との批判が高まり、自らも政党を作るべく立憲同志会創設を宣言したが、護憲運動が民衆暴動と化し、大正二(一九一三)年二月にわずか五十三日で総辞職した。その後、新政党の勢力拡大を図っている最中に病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

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