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カテゴリー「石川啄木」の60件の記事

2020/05/25

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 炎の宮

 

   炎 の 宮

 

女(をみな)は熱(ねつ)にをかされて、

終焉(いまは)の床に叫ぶらく、──

『我は炎の宮を見き。

宮は、初めは生命の

綠にもゆる若き火の、

たちまちかはる生火渦(いくはうづ)、

赤龍(せきりゆう)をどる天塔(てんたふ)や。

見ませ今はた漸々(やうやう)に、

ああ我が夫(つま)よ、神々(かうがう)し

御燭(みあかし)に咲く黃の花と

もゆる炎の我が宮を。

やがては融(と)けて白光(びやくくわう)の

雲輪(うんりん)い照る日とならば、

君をつつみて地の上に

天(あめ)の新宮(にひみや)立ちぬべし。』

 

『見ませ、』と云ふに、『何處(いづこ)に、』と

問(と)へば、『此處(こゝ)よ、』と、眞白(ましろ)なる

腕(かひな)に抱く玉の胸。──

胸は、いまはの息深く、

愛の波、また死(し)の波の

寄せてはかへすときめきを

照らすは月の白き影。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。

「い照る」の「い」は前に「い渡る」で注した意味を強めて語調を整える接頭語。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 壁畫

 

   壁  𤲿

 

破壞(はゑ)が住みける堂の中、

讃者(さんじや)群れにしいにしへの

さかえの色を猶とめて

壁𤲿(かべゑ)は壁に虫ばみぬ。

おもひでこそは我胸の

かべゑなるらし。熄(き)えぬ火の

炎のかほり傳へつつ、

沈默(しゞま)に曳(ひ)ける戀の影。

 

古(ふ)りぬと壁𤲿こぼちなば、

たえぬ信(まこと)のいのちしも

何によりてか記(しる)すべき。

虫ばみぬとて思出の

糸をし斷たば、如何にして、

聖(きよ)きをつなぐ天の火の

光に、かたき戀の戶に、

心の城を守るべき。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。

「さかえ」はママ。初出は「榮え」であるから、「さかへ」でなくてはならない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 天火盞

 

   天 火 盞

 

戀は天照(あまて)る日輪(にちりん)の

みづから燒けし蠟淚(ろふるい)や、

こぼれて、地に盲(し)ひし子が

冷(ひえ)にとぢける胸の戶の

夢の隙(すき)より入りしもの。

 

夢は、夢なる野の小草、

草が天(あめ)さす隙間(すきま)より

おちし一點(ひとつ)の火はもえて、

生野(いくの)、生風(いくかぜ)、生幾熖(いくほむら)、

いのちの野火(のび)はひろごりぬ。

 

日光(ひかげ)うけては向日葵(ひぐるま)の

花も黃金の火の小笠(をがさ)。

燬(や)かれて我も、胸もゆる

戀のほむらの天火盞(あまほざら)、

君が魂をぞ燒きにける。

           (甲辰十一月十八日)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『白百合』。初出の有意な変異を認めない。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 枯林

 

   枯  林

 

うち重(かさ)む楢(なら)の朽葉(くちば)の

厚衣(あつごろも)、地(つち)は聲なく、

雪さへに樹々(きゞ)の北蔭(きたかげ)

白銀(しろがね)の楯(たて)に掩へる

冬枯の丘の林に、

日をひと日、吹き荒(すさ)みたる

凩(こがらし)のたたかいひ果(は)てて、

肌寒(はだざむ)の背(そびら)に迫る

日落(ひお)ち時、あはき名殘(なごり)の

ほころびの空の光に

明(あか)に透く幹(みき)のあひだを

羽(はね)鳴らし移りとびつつ、

けおさるる冬の沈默(しゞま)を

破るとか、いとせはしげに、

羽强(はづよ)の胸毛赤鳥(むなげあかどり)

山の鳥小さき啄木鳥(きつつき)

木を啄(つゝ)く音を流しぬ。

 

さびしみに胸を捲(ま)かれて、

うなだれて、黃葉(きば)のいく片(ひら)

猶のこる楢(なら)の木下(こした)に

佇めば、人の世は皆

遠のきて、終滅(をはり)に似たる

冬の晚(くれ)、この天地に、

落ちて行く日と、かの音と、

我とのみあるにも似たり。

 

枝を折り、幹を撓(たわ)めて

吹き過ぎし破壞(はゑ)のこがらし

あともなく、いとおごそかに、

八千(やち)とせの歷史(れきし)の如く、

また廣き墓の如くに、

しじまれる楢の林を

わが領(りよう)と、寒さも怖(を)ぢず、

氣負(きお)ひては、音よ坎々(かんかん)、

冬木(ふゆき)立(た)つ幹をつつきて

しばらくも絕間(たえま)あらせず。

いと深く、かつさびれたる

その響き遠くどよみて、

山彥は山彥呼びて、

今はしも、消えにし音と

まだ殘る音の經緯(たてぬき)

織(を)りかはす樂(がく)の夕浪(ゆふなみ)、

かすかなるふるひを帶びて、

さびしみの潮路(うしほぢ)遠く、

林こえ、枯野をこえて、

夕天(ゆふぞら)に、また夕地(ゆふづち)に

くまもなく溢れわたりぬ。

 

われはただ氣も遠々(とほどほ)に、

瘦肩(やせがた)を楢にならべて、

骨の如、動きもえせず、

目を瞑(と)ぢて、額(ぬか)をたるれば、

かの響き、今はた我の

さびしみの底なる胸を

何者か鋭(と)きくちはしに

つつきては、靈(たま)呼びさます

世の外(ほか)の聲とも覺(おぼ)ゆ。

 

ああ我や、詩(うた)のさびし兒(ご)、

若うては心よわくて、

うたがひに、はた悲哀(かなしみ)に

かく此處(こゝ)に立ちもこそすれ。

今聞けよ、小(ちひ)さき鳥に、──

いのちなき滅(めつ)の世界に

ただひとり命(めい)に勇みて、

ひびかすは心のあとよ、

生命(せいめい)の高ききほひよ。

强(つよ)ぶるふ羽のうなりは

勝ちほこる彼(かれ)の凱歌(がいか)か、

はた或は、我をあざける

矜(たかぶ)りの笑ひの聲か。

かく思ひわが頤(おとがひ)は

いや更に胸に埋(うま)りぬ。

細腕(ほそうで)は枯枝なして

ちからなく膝邊(ひざべ)にたれぬ。

しづかにも心の絃(いと)に

祈(いの)りする歌も添ひきぬ。

 

日は既(すで)に山に沈みて

たそがれの薄影(うすかげ)重く、

せはしげに樹々(きゞ)をめぐりし

啄木鳥(くつつき)は、こ度(たび)は近く、

わが凭(よ)れる楢の老樹(おいき)の

幹に來て、今日(けふ)のをはりを

いと高く膸(ずゐ)に刻みぬ。

           (甲辰十一月十四日)

 

[やぶちゃん注:表題は作品の孤高にして凄絶なヴィジョンからは「コリン」と音で読みたくなるが、まあ、「かればやし」であろう。初出は明治三七(一九〇四)年十二月号『太陽』で「野調」(「のしらべ」か)という総題で本篇と「お蝶」という二篇を載せる。初出の有意な変異を認めない。なお、「お蝶」の方は「あこがれ」には採られていない。お蝶という母を失った少女の物語詩で「枯林」とのセット性は認められない。

「掩へる」は「おほへる」。覆われた。

「羽强(はづよ)の胸毛赤鳥(むなげあかどり)」は「啄木鳥(きつつき)」のこと。この場合、前者の謂いから、本邦のキツツキ目キツツキ科キツツキアカゲラ属アカゲラ亜種アカゲラ Dendrocopos major hondoensis と考えてよかろう。但し、胸の毛ではなく、有意に下方の腹部や尾羽基部の下面(下尾筒)が赤い羽毛で覆われ、♂の成鳥は後頭部も赤い羽毛で覆われ、よく目立ち、和名の由来にもなっている。因みに虹彩も暗赤色を呈する。

「領(りよう)」はママ。歴史的仮名遣は「りやう」が正しい。

「怖(を)ぢず」はママ。歴史的仮名遣はそのまま「おぢず」でよい。

「經緯(たてぬき)」総て。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 江上の曲

 

  江 上 の 曲

 

水緩(ゆる)やかに、白雲(しらくも)の

影をうかべて、野を劃(かぎ)る

川を隔(へだ)てて、西東、

西の館(やかた)ににほひ髮

あでなる姬の歌絕えず、

東の岸の草蔭に

牧(まき)の子ひとり住(すま)ひけり。

 

姬が姿は、弱肩(よわがた)に

波うつ髮の綠(みどり)なる

雲を被(いあづ)きて、白龍(はくりゆう)の

天(あめ)の階(はし)ふむ天津女(あまつめ)が

羽衣ぬげるたたずまひ。

牧の子が笛、それ、野邊の

白き羊がうら若き

瞳をあげて大天(おほあめ)の

圓(まろ)らの夢にあこがるる

おもひ無垢(むく)なる調なりき。

 

されども川の西東、

水の碧(みどり)の胸にして、

月は東に、日は西に

立ちならびたる姿をば

靜かに宿す時あれど、

二人が瞳、ひと日だに

相逢ふ事はなかりけり。

 

ふたりが瞳ひと日だに

あひぬる事はあらざれど、

小窓(をまど)、櫻の花心地(はなごゝち)

春日(はるび)燻(くん)ずる西の岸、

とある日、姬が紫の

とばりかかげて立たす時、

綠(みどり)草野(くさの)の丘(をか)遠く

いとも和(やは)らに、たのしげに

春の心のただよひて、

糸遊(いという)なびく野を西へ、

水面をこえて浮びくる

牧の子が笛聞きしより、

何かも胸に影遠き

むかしの夢の仄(ほの)かにも

おとづれ來(く)らむ思ひにて、

晝はひねもす、日を又日、

姬があでなる俤(おもかげ)は、

廣野(ひろの)みどりのあめつちを

枠(わく)のやうなる浮彫(うきぼり)と、

やかたの窓に立たしけり。

 

また、夕されの露の路、

羊を追ふて牧の子が

草の香深き岸の舍(や)に

かへり來ぬれば、かすかにも

薄光(うすあかり)さす川面(かはおも)に

さまよひわたる歌聲の

美(うるは)し夢に魂ひかれ、

ただ何となくその歌の

主(ぬし)を戀しみ、獨木舟(うつろぶね)、

朽木(くちき)の杭(くひ)に纜(ともづな)を

解(と)きて、夜な/夜な牧の子は

西の岸にと漕(こ)ぎ行きぬ。

 

ああ、ああされど日を又夜、

ふたりが瞳、ひとたびも

相あふ時はあらざらき。

姬が思ひはただ遠き

晝(ひる)の野わたるたえだえの

笛のしらべの心にて、

牧の子が戀、それやはた、

帳(とばり)ゆらめく窓洩れて

灯影(ほかげ)とともにゆらぎくる

淸(すゞ)しき歌の心のみ。

 

姬は夢見ぬ、『かの野邊の

しらべぞ、夜半(よは)のわが歌の

天(あめ)よりかへる反響(こだま)なれ。』

また夢見けり、牧の子も、

『かの夜な夜なの歌こそは、

白晝(まひる)わが吹く小角(くだ)の音の

地心(ちしん)に泌(し)みし遺韻(なごり)よ。』と。

 

牧の子は野に、いと細き

希望(のぞみ)の節(ふし)の笛を吹き、

姬はさびしく、紫の

とばりを深み、夜半(よは)の窓、

人なつかしのあこがれの

柔(やは)き歌聲うるませて、

かくて日每に姬が目は

牧野(まきの)にわしり、夜な夜なに

牧の子が漕ぐうつろ舟

西なる岸につながれて、

櫻花散る行春(ゆくはる)や、

行きて、いのちの狂ひ火の

狂ふ熖(ほむら)の深綠(ふかみどり)、

ただ燃えさかる夏の風

野こえてここにみまひけり。

 

ああ夏なれば、日ざかりの

光にきほふ野の羊、

草踏み亂し、埒(らち)を超(こ)え、

泉の緣(ふち)のたはぶれに

鞭(むち)ををそれぬこをどりや、

西の岸にも、葉櫻に、

南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)、

來て啼く歌は、かがやかの

生(い)ける幻誘ふ如、

ふる里(さと)とほき南(みんなみ)の

燃(も)えにぞ燃ゆる戀の曲(きよく)、

照る羽つくろひ、瞳(め)をあげて、

のみど高らに傳(つた)ふれど、

さびしや、二人、日を又夜、

相見る時はあらざりき。

胸に渦卷くいのちの火

その熖(ほむら)にぞ燬(や)かれつつ、

ああ燬(や)かれつつ、かくて猶、

捉(とら)へがたなき夢追ふて、

水ゆるやかの大川の

(隔(へだ)てよ、さあれ浮橋(うきはし)の)

西と東に、はかなくも

影に似る戀つながれぬ。

 

夏また行きぬ。かくて猶、

ああ夢遠きあこがれや、

はかなき戀はつながれぬ。

牧野(まきの)の草に、『秋』はまづ

野菊と咲きて、小桔梗(をぎきやう)に、

水引草(みづひきさう)にいろいろの

露染衣(つゆぞめごろも)、虫の音も、

高吹(たかふ)く風も追々(おひおひ)に、

ひと葉ひと葉と水に散る

岸の櫻の紅葉(もみぢ)さへ、

夢追ふ胸になつかしく

また堪へがたき淋しさを

この天地にさそひ來ぬ。

 

ひと夜、月いと明(あか)くして、

咽(むせ)ぶに似たる漣(さゞなみ)の

岸の調(しらべ)も何となく、

底ひ知られぬ水底(みなぞこ)の

秘めたる戀の音にいづる

おとなひの如聞かれつつ、

まろらの月のおもて、また

わが心をばうつすとも

見えて、ああその戀心(こひごゝろ)

いと堪へがたき宵なりき。

牧の子が舟ゆるやかに

東の岸をこぎ出でぬ。

 

高窓洩れて、夢深き

月にただよふ姬が歌、

今宵ことさら澄み入りて、

ああ大川も今しばし

流れをとどめ、天地の

よろづの魂もその聲の

波にし融(と)けて浮き沈み、

ただ天心(てんしん)の月のみか

光をまして、その歌の

切(せち)なる訴(うた)へ聽くが如、

この世の外の白鳥の

かがなき高き律(しら)べもて、

水面(みのも)しづかにいわたれば、

しのびかねてや、牧の子は

櫂(かひ)なげすてて、中流(ちうりう)の

水にまかする獨木舟(うつろぶね)、

舟をも身をも忘れ果て、

息もたえよと一管(ひとくだ)の

笛に心を吹きこみぬ。

 

たちまち姬が歌やみて、

窓はひらけぬ。 月影に

今こそ見ゆれ、玲瓏(れいろう)の

光に浮ぶ姬が面(おも)。

小手(こて)をばあげて招(まね)げども、

櫂なき舟はとどまらず。

舟も流れて、人も流れて、

笛のしらべも遠のくに、

呼ぶ名知らねば、姬はただ

慣(な)れにし歌をうたひつつ、

背(せ)をのびあがり、のびあがり、

あなやと思ふまたたきに、

袖ひらめきて、窓の中

姿は消えぬ。 川のおも

月は百千(もゝち)にくだかれぬ。

 

かくてこの夜の月かげに

姬がみ魂も、笛の音も

はてなき天(あめ)にとけて去り、

かなしき戀の夢のあと

獨木(うつろ)の舟ともろともに、

人知りがたき海原の

秘密の底に流れけり。

           (甲辰九月十七日夜)

 

[やぶちゃん注:実はこの詩篇以降は前の「秋風高歌」の最後の二篇の全体字下げ位置のままで本文詩篇が組まれてしまっている(本篇の開始ページを底本の早稲田大学図書館古典総合データベースの画像で示す。この前のページと比較されたい。なんなら、全体(HTML見開き各個版ならこちらで、PDF一括ならこちら)を見て戴いてもよい)。どうもこれは、「秋風高歌」の最後の二篇の字下げを、本詩篇から引き上げるのを忘れた校正係がそのままやらかした誤りとしか思われない。されば、本篇以降は特に字下げを行わない。

 句点の後の字空けは見た目を再現した。

 さて、二ヶ所に現われる「櫂」(最初の方の「かひ」の読みはママ。歴史的仮名遣は「かい」でよいが、これはママとした)であるが、実は底本では「擢」となっている。しかし「擢」(音「タク」・「ジョク(ヂヨク)」・「テキ」(慣用音))は訓「ぬく」・「ぬきんでる」で、「抜擢」に見る「抜く」・「抜きん出る」・「より抜いて選び出す」・「取り去る」・「伸びる」・「長い」の意味しかなく、「櫂」(音「トウ(タウ)」・「ジョウ(デウ)」とは全く違う漢字で音も異なり、舟を漕ぐ「かい」(櫂・橈)の意味や代用慣用もない。筑摩版全集は二ヶ所ともそのまま「擢」としている。初めに「擢(かひ)」と読みが振ってあっても私ははっきり躓いた。しかし、初出((『明星』明治三七(一九〇四)年十月号。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。初出では全体が「一」から「四」のゴシック太字表記の整然とした四章構成となっている)でもこの誤った「擢」が二ヶ所とも使用されていることが判るのである(そちらでは二ヶ所とも正しい仮名遣で「かい」とある)ここここである。ところが、筑摩版全集の「雑誌に発表された詩」の「江上の曲」では二ヶ所とも「櫂」に消毒されてあるのである。してみれば、私は筑摩版「あこがれ」には従えない。特異的に二ヶ所ともに漢字を「擢」から「櫂」に訂したことをお断りしておく。

表題「江上の曲」は私は「かうしやうのきよく(こうしょうのきょく)」と読む。

「糸遊」陽炎(かげろう)。

「小角(くだ)」管(くだ)の形をした小さな笛。本来は古く中国で戦場で吹いたとされる動物の角で出来たホルン型のものを指すが、本邦ではまず見られないから、啄木のそれは牧羊神パンの吹くようなそれをイメージしてよかろう。

第八連八行目「牧野(まきの)にわしり」の「わしり」は「走り」に同じ。素早く牧野に向かって目を走らせ、の意。

同連の「をそれぬ」はママ。

「南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)」啄木が如何なる鳥をイメージしているかは確定出来ぬが、一般的には「風鳥(ふうちょう)」、スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae のフウチョウ類をイメージするであろう。所謂、「極楽鳥」である。ゴクラクチョウは正式和名ではないので注意されたい。

「のみど」は「飲み門()」「のみと」「のみど」で漢字表記「喉」「咽」で「咽喉(のど)」のこと。

「水引草(みづひきさう)」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae亜連イヌタデ属ミズヒキ Persicaria filiformis

「いわたれば」「い渡れば」。響き渡ってゆくので。「い渡る」は万葉以来の古語で「い」は意味を強めて語調を整える接頭語。

「玲瓏(れいろう)」対象が美しく光り輝くこと。

「招(まね)げども」初出(前掲)は「招けども」となっている。ここ。しかし私は古文の中で「まねぐ」という濁音表記を見た記憶があるのでママとした。筑摩版も濁音のままである。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 秋風高歌⦅雜詩十章甲辰初秋作⦆ / 附 初出形

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 寂寥

 

秋 風 高 歌 ⦅雜詩十章甲辰初秋作⦆

 

   黃 金 向 日 葵

 

我(わ)が戀は黃金向日葵(こがねひぐるま)、

曙いだす鐘にさめ、

夕の風に眠るまで、

日を趁(お)ひ光あこがれ、まろらかに

眩(まば)ゆくめぐる豐熱(ほうねつ)の

彩(あや)どり饒(おほ)きこがねの花なれや。

 

これ夢ならば、とこしへの

さめたる夢よ、こがねひぐるま。

これ影ならば、あたたかき

瑞雲(みづぐも)まとふ照日(てるひ)の生(い)ける影。

 

圓(まろ)らかなれば、天蓋(てんがい)の

遮(さへぎ)りもなき光の宮の如。

まばゆければぞ、王者(わうじや)にすなる如、

百花(もゝはな)、見よや芝生(しばふ)にぬかづくよ。

 

今はた、似たり、かなたの日輪(にちりん)も、

わが戀の日にあこがれて

ひねもすめぐるみ空の向日葵(ひぐるま)に。

             (八月二十二日)

 

   我 が 世 界

 

世界の眠り、我ただひとり覺(さ)め、

立つや、草這(は)ふ夜暗(やあん)の丘(をか)の上。

息をひそめて橫たふ大地(おほつち)は

わが命(めい)に行く車(くるま)にて、

星鏤(ちりば)めし夜天(やてん)の浩蕩(かうたう)は

わが被(かづ)きたる笠の如。

 

ああこの世界、或は朝風の

光とともに、再びもとの如、

我が司配(つかさどり)はなるる時あらむ。

されども人よ知れかし、我が胸の

思の世界、それこの世界なる

すべてを超ゑし不動(ふどう)の國なれば、

我悲しまず、また失(うしな)はず、

よしこの世界、再びもとの如、

蠢(うごめ)く人の世界となるとても。

             (八月二十二日)

 

   黃 の 小 花

 

夕暮野路(のぢ)を辿りて、黃に咲ける

小花(をばな)を摘(つ)めば、淚はせきあへず。

 

ああ、ああこの身この花、小(ちい)さくも

いのちあり、また仰(あふ)ぐに光あり。

この野に咲ける、この世に捨(す)てられし、

運命(さだめ)よ、いづれ、大慈悲(おほじひ)の

かくれて見えぬ惠みの業(わざあ)ならぬ。

 

よし我、黃なる花の如、

霜にたをるる時あるも、

再び、もらす事なき天(あめ)の手(て)に

還(かへ)るをうべき幸もてり。

 

ああこの花の心を解(と)くあらば

我が心また解(と)きうべし。

心の花しひらきなば、

またひらくべし、見えざる園の門(かど)。

             (八月二十二日)

 

   君 が 花

 

君くれなゐの花薔薇(はなさうび)、

白絹(しらぎぬ)かけてつつめども、

色はほのかに透(す)きにけり

いかにやせむとまどひつつ、

墨染衣袖かへし

掩(おほ)へども掩へどもいや高く

花の香りは溢れけり。

 

ああ秘めがたき色なれば、

頰(ほゝ)にいのちの血ぞ熱(ほて)り、

つつみかねたる香りゆゑ

瞳(ひとみ)に星の香(か)も浮きて、

佯(いつ)はりがたき戀心(こひごゝろ)、

熄(き)えぬ火盞(ほざら)の火の息に

君が花をば染めにけれ。

              (九月五日夜)

 

   波は消えつつ

 

波は消えつつ、碎けつつ

底なき海の底より湧き出でて、

朝より眞晝(まひる)、晝(ひる)より夜に朝に

不斷(ふだん)の叫びあげつつ、帶(をび)の如、

この島根(しまね)をば纒(まと)ふなり。

 

ああ詩人(うたびと)の興來(きようらい)の

波も、消えつつ、碎けつつ。

はかり知られぬ『秘密』の胸戶(むなど)より、

劫風(ごふふう)ともに千古の調にして、

不滅の敎宣(の)りつつ、勇ましく

人の心の岸には寄するかな。

             (九月十二日夜)

 

   

 

ああ君こそは、靑淵(あをぶち)の

流轉(るてん)の波に影浮けて

しなやかに立つ柳(やなぎ)なれ。

 

流轉(るてん)よ、さなり流轉よ、それ遂に

夢ならず、また影ならず、

照る世の生日(いくひ)進み行く

生命(いのち)の流れなればか、春の風

燻(くん)じて波も香にをどり、

ひと雨每(あめごと)に梳(くしけ)づる

愛の小櫛(をざし)の色にして、

見よ今、枝の新裝(にひよそひ)、

靑淵波もたのしげに

世は皆戀の深綠(ふかみどり)。

              (九月十四日)

 

   愛 の 路

 

高きに登り、眺むれば、

乾坤(けんこん)愛の路通ふ

靑海原のはてにして、

安らかに行く白帆影。──

  波は休まず、撓(たゆ)まずに

  相嚙(か)みくだけ、動けども、

  安らかに行く白帆影。

 

路のせまきに、せはしげに

蠢(うご)めく人よ、來て見よや、──

   花を虐(しひた)げ、景(けい)を埋(う)め、

   直(すぐ)なるみちをつくるとて、

   狹き小暗さ愁嘆(しうたん)の

   牢獄(ひとや)に落ちし子よ、見よや、──

大海みちはなくして、縱橫(じうわう)の

みちこそ開け、愛の路。

              (九月十四日)

 

   落 ち し 木 の 實

 

秋の日はやく母屋(おもや)の屋根に入り、

ものさびれたる夕をただひとり

紙障(しさう)をあけて、庭面(にはも)にむかふ時、

庭は風なく、落葉の音もたえて、

いと靜けきに、林檎(りんご)の紅(あけ)の實(み)は

かすかに落ちぬ、波なき水潦(みづたまり)。

 

夕のあはき光は箒目(はゝきめ)の

ただしき地(つち)に隈(くま)なくさまよひて、

猶暮れのこるみ空の心のみ

一きは明(あか)くうつせる水潦(みづたまり)、

今色紅(あけ)の木の實の落ち來しに

にはかに波の小渦(さゝうづ)立てたれど、

やがてはもとの安息(やすらぎ)うかべつつ、

再び空の心を宿しては、

その遠蒼(とをあを)き光に一粒(いちりふ)の

りんごのあたり緣(ふち)どりぬ。

 

ああこの小さき木の實よ、八百千歲(やはちとせ)、

かくこそ汝(なれ)や靜かに落ちにけむ。

またもも年(とせ)の昔に、西人(にしびと)が

想ひに耽る庭にとおとなひて、

尊とき神の力(ちから)の一鎖(ひとくさり)、

かくこそ落ちて、彼(かれ)には語りけめ。

 

我今人のこの世のはかなさに

つらさに泣きて、運命(さだめ)の遠き路、

いづこへ、若(わか)きかよはきこのむくろ

運(はこ)ばむものと秘(ひそ)かに惑(まど)へりき。

落ちぬる汝(なれ)を眺めて、我はまた、

辛(つら)からず、はたはかなき影ならぬ

たふとき神の力の世をば知る。

 

汝(なれ)何故にかくまで靜けきぞ、──

人はみづから運命(さだめ)に足(た)りかねて、

さびしき廣みはてなき暗の野の

躓(つまづ)き、にがき悲哀(ひあい)の實を喰(は)むに、

何故汝のかくまで安けきぞ、──

足(た)るある如く、落ちては動かずに

心に何か深くも信賴(たよ)る如。

 

夜の步みは漸く迫(せま)り來て、

羽弱(はよは)か、群(むれ)に後れし夕鴉(ゆふがらす)

寂(さび)ある聲に友呼ぶ高啼(たかな)きや、

水面(みのも)にうきしみ空の明(あか)るみも

消えては、せまきわが庭黝(くろず)みぬ。

ああこの暗の吐息のたゞ中(なか)よ、

灯(ひ)ともす事も、我をも忘(ぼう)じては、

よみがへりくる心の光もて

か黑き土(つち)のさまなる木の實をば

打眺めつつ、靜かに跼(ひざま)づく。

             (九月十九日夜)

 

     秘  密

 

  花蠟(はなろふ)もゆる御簾(みす)の影、

  琴柱(ことぢ)をおいて少女子(をとめご)の

  小指(をゆび)やはらにしなやかに

  絃(いと)より絃に轉(てん)ずれば、

  さばしり出る幻の

  人醉(ひとよ)はしめの樂(がく)の宮、

  ああこの宮を秘(ひ)め置きて

  とこあらたなる琴の胸、

  秘密ならずと誰か云ふ。

 

  八千年(やちとせ)人の手(て)に染(そ)まぬ

  神の世界の大胸に

  深くするどくおごそかに

  我が目うつれば、ちよろづの

  詩(うた)は珠(たま)なし淸水(しみづ)なし、

  光の川と溢れくる。

  ああこの水の美しく、

  休(やす)む事なく湧き出(づ)るを

  秘密なりとは誰か知る。

             (九月十九日夜)

 

    あ ゆ み

 

  始めなく、また終りなき

  時を刻むと、柱なる

  時計の針はひびき行け。

  せまく、短かく、過ぎやすき

  いのち刻むと、わが足(あし)は

  ひねもす路を步むかも。

             (九月十九日夜)

               『秋風高歌』畢

 

[やぶちゃん注:最後の二篇が有意な字下げになっているのはママ。早稲田大学図書館古典総合データベースの画像で示すと「秘密」がここ、次の「あゆみ」がここ初出は明治三七(一九〇四)年『時代思潮』十月号と十一月号に分割されて掲載された。後掲する。

「黃金向日葵」の「趁(お)ひ」は「追ひ」に同じい。

「我が世界」の「浩蕩(かうたう)」(現代仮名遣「こうとう」)は広広として大きなさま。

「君が花」の「火盞(ほざら)」は「火皿 (ほざら)」に同じい。

「柳」の「影浮けて」はママ。確信犯であろう。「影を受けて」いるのだが、それは波に「浮」きてあると掛けるものと採る。

「落ちし木の實」の「紙障(しさう)」は「障子」のこと。本来ならば歴史的仮名遣は「しやうじ」であるが、これは誤りではなく、嘗て、拗音に発音された或いはされたと思われる漢字音を直音の仮名で表記する直音表記(「しゃ(者)」・「しゅ(主)」・「しょ(所)」をそれぞれ「さ」「す」「そ」と書く類い。中古・中世の文献に見られ、高校古文にも幾らも出現する)である。

同詩篇の「心に何か深くも信賴(たよ)る如。」の「信賴(たよ)る」は二字へのルビ。

 さても初出であるが、初出は「秋風高歌」という表題のみで、本「あこがれ」のようなパート表題は存在しない。その代わりに、パートごとに「○」が挿入されてある。なお、掲載分割の切れ目は十一月号が「愛の路」以下の二篇分であるものの、そこでは三篇分の「○」によるパート分割が行われてある。この詩篇は推敲甚だしく、一部で内容も順列も激しく異なるため、以下に筑摩版石川啄木全集の「第二巻 詩集」(昭和五四(一九七九)年刊)初出(漢字新字)を参考に、恣意的に漢字を概ね正字化して示す。雑誌分割部は続ける。その際、存在しない「○」を補った。但し、読みはそこにあるもののうち、必要と私が判断したもののみに附した。

   *

 

  秋風高歌

 

    ○

 

我戀は、こがねひぐるま、

曙いだす鐘にさめ、

夕の凧に眠るまで、

日を趁(お)ひ、ひかり憧(あく)がれ、圓(まろ)らかに

眩ゆくめぐる豐熱の

彩どり饒(おほ)き白晝(まひる)の花なれや。

 

これ夢ならば、とこしへの

覺めたる夢よ、こがね日車。

これ影ならば、うつろはぬ

瑞雲(みづくも)纏ふ照日(てるひ)の生ける影。

 

まろらかなれば、天蓋の

遮りもなき光の宮の如、

眩ゆければぞ、「物(もの)」は皆、

首(かうべ)をたれて、歌ふは愛の曲。

 

似たり、かなたの日輪も、

我が戀の日にあくがれて、

ひねもすめぐるみ空の日車花(ひぐるま)に。

 

    ○

 

世界の眠(ねむり)、我たゞひとり覺(さ)め、

立つや草這ふ夜暗(やあん)の丘の上。

息をひそめて橫たふ大地(おほつち)は

我が命(めい)に行く車にて、

星鏤(ちりば)めし夜天(やてん)の浩蕩(かうたう)は

我が被(かづ)きたる笠の如。

 

ああこの世界、或は朝風の

光と共に、再びもとの如、

わが司配(つかさどり)はなるる時あらむ。

 

されども人よ知れかし、わが胸の、

神祕の世界、それ、この世界なる

渾(すべ)てを超えし不動の國なれば、

我れ悲しまず、また失はず、

たとへ、この世の天と地が、

蠢めく人の世界となるとても。

 

    ○

 

夕ぐれ野路を辿りて、黃に咲ける

小花を摘めば、淚はせきあへず。

ああ我神よ、わが身をつくれるも、

またこの花に整へる

姿と香をば此の埜に飾りしも、

皆爾(な)が高き惠みの業(わざ)なれや。

 

よし我れ、黃なる花の

霜にたをるる時あるも、

それわが魂は再び天(あめ)の手に

還るを得べき幸(さち)もてり。

小さき花の心を解(と)きえなば、

また我心ときうべし。

心の花しひらきなば、

また開らくべし、見えざる園の門(と)も。

 

    ○

 

朝に夕に水をかひ、

また朝每に日の香る

南の椽(えん)にはこび出で、

夕ぐれ每に薰風の

窓のうちにと取り入れて、

育てあげたる鉢の百合

白無垢薰(にほ)ふ花とぞ咲きにけり。

我は思ひぬ、この花の、

我こそ、尊(たか)きまことの親にして、

その香も、色も、けだかき趣きも、

皆わが胸の惠みの泉より

あふれし露ぞ凝りぬる姿よと。

 

されば淸冽の朝風に

ほのかに花の匂ひのただよひて

胸に入る時、我云ひぬ。――

ああ我がいとし寵兒(まなご)よ、汝(なれ)が根は

土にはあらず、胸なる心より

詩歌の如く咲きぬる花なれ、と。

 

ああ、ああされど、ひと日の夕まぐれ、

我ただ一人森路をさまよひて

ひらける綠夏野出でし時、

そこに、圓(まろ)らに走るせせらぎの

鏡にかげを宿して、白百合の

數こそ亂れ咲きけれ、限りなき

自然の胸の匂ひを集めつつ。

 

我は思ひぬ、(家にして

にほへる花をおもひつつ)

ああ此の野邊の白百合、誰か來て

汝に淸水の糧(かて)をばめぐみしや、

はた誰ありて汝をば守りしと。

又思ひけり、かくある我が生(せい)の

眞(まこと)の親は天(あめ)にか、地(つち)にかと。

 

日暮れて暗の息せまる

路をば我はひそかに慰みて

ほほゑみつつぞ家にはかへり來ぬ。

歸りて花の鉢をばかき抱き、

我は祈るよ、ああ世の「すべて」こそ

また「ひとつ」にて、大いなる

愛に生れし我人(われひと)の

行くべき路は、ただその大いなる

愛の光を隈なく地心(ちしん)まで

かがやかしめむ自然の法(のり)のみ、と。

 

   ○

 

高きに登り、眺むれば、

乾坤けんこん)愛の道通ふ

靑海原の涯(はて)にして、

安らかに行く白帆影。――

  波は休まず、撓まずに

  相嚙み碎け動けども、

  安らかに行く白帆かげ。

みちの狹きにせはしげに

うごめく人よ、來て見よや、

  花を虐(しい)たげ、景(けい)を埋め、

  直(すぐ)なるみちを作るとて、

  せまき小暗き愁歎の

  牢獄(ひとや)に落ちし子(こ)よ、見よや、

大海道(みち)はなくして、縱橫の

みちこそ開け、愛の道。

 

    ○

 

始めなく、又終りなき

「時」を刻むと、柱なる

時針の針はひびき行け。

 

せまく、短かく、過ぎ易き

いのち刻むと、我足は

ひねもす地(つち)を步むかも。

 

    ○

 

ひと夜床(とこ)にと立てかけし

琴をとり出(で)て、乙女子の

小指(をゆび)和らに、しなやかに、

絃(いと)より絃に轉ずれば、

さばしりいづる幻(まぼろし)の

樂(がく)の宮居(みやゐ)は立ちにけり。

ああこの音色、新らしく

つきせず出す琴の胸、

祕ならずと誰か云ふ。

八千歲(やちとせ)人の手に染まぬ

神の世界の大胸(おほむね)に

深く、鋭どく、おごそかに

わが目うつれば、ちよろづの

詩(うた)は珠(たま)なし、淸水なし、

光の川と流れけり。

ああこの水の美しく

休む事なく湧き來るを、

祕密なりとは誰か知る。

 

    ○

 

秋の日はやく母屋(おもや)の根屋に入り、

もの寂びれたる夕べを、ただ一人、

障子(しやうじ)をあけて庭面(にはも)に對すれば、

庭は風なく、落葉の音も絕えて

いと靜けきに、林檎の紅き實は

かすかに落ちぬ、波なき水潦(みづたまり)。

夕べの淡き光は、箒目(はゝきめ)の

ただしき地(つち)に隈なくさまよひて、

猶暮れ殘るみ空のみ心のみ、

ひと際(きは)明(あか)くうつせる水潦(みづたまり)、

今、色深き木(こ)の實の落ち來しに、

にはかに波の小渦(さゝうづ)立てたれど、

やがてはもとの安息(やすらぎ)うかべつつ、

再び空の心をやどしては、

その遠蒼(とほあを)き光に、一粒の

林檎のあたり緣どりぬ。

 

ああこの小さき木の實よ、八百千年(やほちとせ)、

汝(なれ)かくこそは靜かに落ちにけむ。

また百年(もゝとせ)の昔に、西人(にしびと)が

想にふける庭にとおとなひて、

たふとき神のちからの一鎖(ひとくさり)、

かくこそ落ちて彼には語りけむ。

 

我今、人のこの世のはかなさに、

辛(つら)さに、泣きて、運命(さだめ)の遠き路、

この幻(まぼろし)のむくろを何處(いづこ)へか

運ばむもの、と私(ひそ)かに惑へりき。

落ちたる汝を眺めて、我はまた、

つらからず、また、はかなき影ならぬ

尊とき神の力の世をば知る。

 

何故汝はかくまで靜けきぞ、

人は自(みづか)ら、さだめに足りかねて、

幻趁(お)ふて、我また幻と

夢にも似たる悲哀を覓(もと)むるに、

何故汝はかくまで安けきぞ、

足るある如く、動かず迷はずに、

心に何か深くも依賴(たよ)る如。

 

夜の步みは漸く迫り來て、

水面に浮きしみ空の明るみも

消えては狹き我庭黝(くろず)みぬ。

ああこの暗の吐息のただ中に、

灯(ひ)ともす事も、我をも忘(ぼう)じては、

よみがへりくる心の光もて、

黯(かぐ)ろき塊(つち)のさまなる木の實をば

打(うち)みつめつつ、靜かに跼(ひざま)づく。

 

   *

「根屋」はママ。「あこがれ」では「屋根」であるから、ほぼ誤植であると断定してよいと思われるが、意味が採れないわけではないのでそのままとした。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 寂寥

 

   寂  寥

 

片破月(かたわれづき)の淋しき黃の光

破窓(やれまど)洩(も)れて、老尼(らうに)の袈裟(けさ)の如、

靜かに細うふるひて、讀みさしの

書(ふみ)の上(へ)、さては默座(もくざ)の膝に落ちぬ。

草舍(くさや)の軒(のき)をめぐるは千萬(ちよろづ)の

なげきの絲(いと)のたてぬき織(を)り交(ま)ぜて

しらべぞ繁(しげ)き叢間(くさま)の蟲(むし)の歌。

夜の鐘遠く、灯(ともし)も消えがてに、

  ああ美しき名よ、寂寥!

天地(あめつち)眠り沈みて、今こそは

汝(な)がいと深き吐息(といき)と脈搏(みやくはく)の、

ひとりしさめて物思(ものも)ふわが胸と

すべての根(ね)ざす地心(ちしん)にひびく時。

 

壁には淡き我が影。堆(うづ)たかく

亂れて膝をかこめる黃卷(くわうくわん)は

さながら遠き谷間の虛洞(うつろ)より

脫(ぬ)け出で來ぬる『祕密』の精(せい)の如。──

かかる夜幾夜、見えざる界(さかひ)より、

  美しき名よ、寂寥!

汝(われ)この窓を音なく、月影の

鈍色被衣(にびいろかづき)纒(まと)ひてすべり入り、

なつかし妻の如くも親しげに

ほほゑみ見せて側(かた)へに座(すわ)りけむ。

 

見よ、汝(な)が吐息靜かに吹く所、

人の心の曇(くも)りは拭はれて、

あたりの『物』の動きに、動かざる

まことの『我』の姿の明らかに

宿るを眺め、汝(な)が脈搏(みやくう)つ所、

すべての音は潜みて、ただ洪(ひろ)き

心の海に漂ふ大波の

寄せては寄する響のきこゆなる。

  美しき名よ、寂寥!

ああ汝(なれ)こそは、鋭(するど)き斧(をの)をもて

この人生(じんせい)の假面(かめん)を剝(は)ぎ去ると

命(めい)負(お)ひ來つる有情(うじやう)の使者(つかひて)か。

 

汝(な)がおとづれは必ず和(やは)らかに、

またいと早く、恰も風の如。

二人(ふたり)のあるや、汝(な)が眼(め)は一すじに

貫ぬくとてか、胸にとそそぎ來て、

その微笑(ほゝゑみ)もまことに莊嚴(おごそか)に、

たとへば百(もゝ)の白刄(しらは)の剱(つるぎ)もて

守れる暗の沈默(しゞま)の森の如、

聲なき言葉四壁にみちみちて、

おのづと下(くだ)る頭(かうべ)はまた起(お)きず。

  美しき名よ、寂寥!

かくて再び我をば去らむとき、

淚は涸(か)れて、袂(たもと)はうるほへど、

あらたに胸にもえ立つ生命の

石炭(うに)こそ汝が遺(のこ)せる紀念(かたみ)なれ。

 

  美しき名よ、寂寥!

甞ては我も多くの世の人が

厭(いと)へる如く、汝(なれ)をばいとへりき。

そはただ春の陽炎もゆる野に

とび行く蝶の浮きたる心には、

汝(な)が手のあまり霜には似たればぞ。

さはあれ、汝(なれ)やまことに涯もなき

大海にして、不斷の動搖に、

眞面目(まじめ)と、常に高きに進み行く

心の奧の鍵(かぎ)をぞ秘めたれば、

遂には深き崇高(けだか)き生命の

勇士の胸の門(かど)をばひらくなり。

 

  美しき名よ、寂寥!

たとへば汝は秘密の古鏡(ふるかゞみ)。

人若し姿投(とう)ぜば、いろいろの

假裝(よそひ)はすべて、濡(ぬ)れたる草の葉の

日に乾(かは)く如、忽ち消えうせて、

おもてに浮ぶまろらの影二(ふた)つ、──

それ、かざりなき赤裸(せきら)の『我』と、また

『我』をしめぐる自然の偉(おほ)いなる

不朽の力(ちから)、生火(いくひ)の燃ゆる門。

げに寂寥(さびしみ)にむかひて語る時、

人皆すべて眞(まこと)の『我』が言葉、

『我』が聲をもて眞(まこと)を語るなる。

 

  美しき名よ、寂寥!

汝また長き端(はし)なき鎖(くさり)にて、

とこしへ我を繫(つな)ぎて奴隷(しもべ)とす。

家をば出でて自然に對す時、

うづ卷く潮(しほ)の底より、天(あま)そそる

秀蜂(ほつみね)高き際(きは)より、さてはまた、

黃に咲く野邊の小花(をばな)の葉蔭より

雀躍(こをど)り出でて、胸をば十重二十重(とへはたへ)

犇(ひし)と捲きつつ、尊とき天(あめ)の名の

現示(あらはれ)の前(まへ)、頭(かうべ)を下げしむる

それその力(ちから)、ああまた汝にあり。

 

  美しき名よ、寂寥!

戀する者の胸より若しも汝が

おとづれ絕たば、言語(ことば)も闡(ひら)きえぬ

心の奧の叫びを語るべき

慰安(いあん)の友の滅びて、彼遂に

たへぬ惱みに物にか狂ふべし。

またかの善(よき)と眞(まこと)を慕(した)ふ子に、

若し汝行きて、みづから自らに

敎ふる時を與ふる勿(なか)りせば、

遂には彼の心も枯るるらむ。

 

  美しき名よ、寂寥!

寂寥(さびしみ)人を殺すと誰か云ふ。

靈なきむくろ、花なき醜草(しこくさ)は

汝がおごそかの吐息に、げに或は

死にもやすべし。朽木(くちき)に花咲かず。

ああ寂寥よ、汝が脈搏つところ、──

我と我との交はる所にて、

うちめぐらせる靈氣の 八重垣(やへがき)に

詩歌(しいか)の花の戀しきみ園あり。

そこに我が魂しづかにさまよふや、

おのづと起る唸(うめ)きの聲は皆、

歷史と堂と制規(さだめ)を脫(ぬ)け出でて、

親(した)しく自然を司(つかさど)どる

慈光(じくわう)の神に捧ぐる深祈禱(ふかいのり)。

あふるる淚、それまた世の常の

淚にあらず、まことの生命の

源ふかく歸依(きえ)する瑞(みづ)の露。

 

  美しき名や、寂寥!

汝こそげにも心の在家(ありか)にて、

見えぬ奇(くし)かる界(さかひ)に門(かど)ひらき、

またこの生けるままなる世の態(さま)に

却(かへ)りて大(おほ)き靈怪(くしび)の隱(かく)れ花(ばな)

かしこに、ここに、各自(かたみ)の胸にさへ

咲けるを示し、無言の敎垂れ、

想ひをひきて自在の路告(つ)ぐる

豐麗無垢の尊とき靈の友(とも)。

ああこの世界ひとりの『人』ありて、

若し我が如く、美し寂寥の

腕(うで)に抱かれ、處(ところ)と時を超(こ)え、

あこがれ泣くを樂しと知るあらば、

我この月の光に融け行きて、

彼にか問(と)はむ、『榮華(えいぐわ)と黃金(わうごん)の

まばゆき土(つち)の値(あたひ)や幾何(いくばく)』と。 (甲辰八月十八日夜)

 

[やぶちゃん注:今回より労多くして需要無き読みの一部の除去版(実際、当て訓多く、振れのある訓もあって半分も除去出来ないケースがあるからである)は示さないことにした。本篇初出は『明星』明治三七(一九〇四)年九月号。初出の同詩は「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る(視認して比べられる限りは、ここでは、以下、大きな異同があっても電子化はしない)。

「黃卷(くわうくわん)」(こうかん)は書物・本の異名。古く中国では紙に虫がつくのを防ぐために黄蘗 (おうばく) の葉で紙を黄色に染めたことに拠る。

第四連三行目「二人のあるや、汝(な)が眼は一すじに」の「すじ」はママ。

「石炭(うに)」伊賀の山中で採れた泥炭の方言。恐らくは「烏丹(うに)」か。

第六連六行目「おもてに浮ぶまろらの影二つ、──」の「まろらの」は「まろらかなる」「円形の」。

「生火(いくひ)」この場合は文字通りそれ自体が生きている火である。

第八連後ろから三行目「若し汝行きて、みづから自らに」の「自らに」は同じく「みづからに」と読ませている。なお、初出形ではここが、「若し汝(なれ)行きて、みづから自(みづか)らを」と助詞が異なる。

「靈怪(くしび)」動詞「くしぶ」(靈ぶ・奇ぶ)の連用形の名詞化。霊妙なこと・不思議なこと。]

2020/05/10

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 光の門

 

   光 の 門

 

よすがら堪へぬなやみに氣は沮(はゞ)み、

黑蛇(くろへみ)ねむり、八百千(やはち)の梟(ふくろふ)の

暗聲(やみごゑ)あはす迷ひの森の中、

あゆみにつるる朽葉(くちば)の唸(うめ)きをも

罪にか誘ふ陰府(よみぢ)のあざけりと

心責めつつ、あてなくたどり來て、

何かも、どよむ響のあたらしく

胸にし入るに、驚き見まもれば、

今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。

 

ああ我が長き悶(もだえ)の夜は退(しぞ)き、

香もあたらしき朝風吹きみちて、

吹き行く所、我が目に入るところ、

自由と愛にすべての暗は消え、

かなしき鳥の叫びも、森影も、

うしろに遙か谷間(たにま)にかくれ去り、

立つは自然の搖床(ゆりどこ)、しろがねの

砂布(し)きのべし朝(あした)の磯の上。

 

不朽(ふきう)の勇み漲る太洋(おほわだ)の

張りたる胸は、はてなく、紫の

光をのせて、東に、曙(あけ)高き

白幟(しらはた)のぼる雲際(くもぎは)どよもしぬ。

ああその光、──靑渦(あをうづ)底もなき

海底(うなぞこ)守る祕密の國よりか。

はた夜と暗と夢なき大空(おほぞら)の

紅玉(こうぎよく)匂ふ玉階(たまはし)すべり來し

天華(てんげ)のなだれ。 或は我が胸の

生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──

蒼空(あをぞら)かぎり、海路(うなぢ)と天(あめ)の門(と)の

落ち合ふ所、日輪(にちりん)おごそかに

あたらしき世の希望に生れ出で、

海と陸(くが)とのとこしへ抱く所、

ものみな荒(すさ)む黑影(くろかげ)夜と共に

葬り了(を)へて、長夜(ながよ)の虛洞(うつろ)より、

わが路照らす日ぞとも、わが魂は

今こそ高き叫びに醒めにたれ。

 

明け立ちそめし曙光(しよくきわう)の逆(さか)もどり

東の宮にかへれる例(ためし)なく

一度(ひとたび)醒(さ)めし心の初日影、

この世の極み、眠らむ時はなし。

ああ野も山も遠鳴(とほな)る海原も

百千(もゝち)の鐘をあつめて、新らしき

光の門(かど)に、ひるまぬ進軍(しんぐん)の

歡呼(くわんこ)の調の鬨(とき)をば作れかし。

 

よろこび躍り我が踏む足音に

驚き立ちて、高きに磯雲雀(いそひばり)

うたふや朝の迎(むか)への愛の曲。

その曲、浪に、砂(いさご)に、香藻(にほひも)に

い渡る生(せい)の光の聲撒(ま)けば

わが魂はやく、白羽の鳥の如、

さまよふ樂(がく)の八重垣(やへがき)うつくしき

曙光の空に融け行き、翅(は)をのべて、

名たたる猛者(もさ)が弓弦(ゆんづる)鳴りひびき

射出す征矢(そや)もとどかぬ蒼穹(あをぞら)ゆ、

靑海、巷(ちまた)、高山(たかやま)、深森(ふかもり)の

わかちもあらず、皆わがいとし兒(ご)の

覺(さ)めたる朝の姿と臨(のぞ)むかな。

           (甲辰八月十五日夜)

 

   *

 

   光 の 門

 

よすがら堪へぬなやみに氣は沮(はゞ)み、

黑蛇(くろへみ)ねむり、八百千(やはち)の梟の

暗聲(やみごゑ)あはす迷ひの森の中、

あゆみにつるる朽葉の唸きをも

罪にか誘ふ陰府(よみぢ)のあざけりと

心責めつつ、あてなくたどり來て、

何かも、どよむ響のあたらしく

胸にし入るに、驚き見まもれば、

今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。

 

ああ我が長き悶(もだえ)の夜は退(しぞ)き、

香もあたらしき朝風吹きみちて、

吹き行く所、我が目に入るところ、

自由と愛にすべての暗は消え、

かなしき鳥の叫びも、森影も、

うしろに遙か谷間にかくれ去り、

立つは自然の搖床(ゆりどこ)、しろがねの

砂布きのべし朝(あした)の磯の上。

 

不朽の勇み漲る太洋(おほわだ)の

張りたる胸は、はてなく、紫の

光をのせて、東に、曙(あけ)高き

白幟(しらはた)のぼる雲際どよもしぬ。

ああその光、──靑渦底もなき

海底(うなぞこ)守る祕密の國よりか。

はた夜と暗と夢なき大空の

紅玉匂ふ玉階(たまはし)すべり來し

天華(てんげ)のなだれ。 或は我が胸の

生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──

蒼空かぎり、海路(うなぢ)と天(あめ)の門(と)の

落ち合ふ所、日輪おごそかに

あたらしき世の希望に生れ出で、

海と陸(くが)とのとこしへ抱く所、

ものみな荒む黑影夜と共に

葬り了へて、長夜の虛洞(うつろ)より、

わが路照らす日ぞとも、わが魂は

今こそ高き叫びに醒めにたれ。

 

明け立ちそめし曙光の逆もどり

東の宮にかへれる例(ためし)なく

一度(ひとたび)醒めし心の初日影、

この世の極み、眠らむ時はなし。

ああ野も山も遠鳴(とほな)る海原も

百千(もゝち)の鐘をあつめて、新らしき

光の門(かど)に、ひるまぬ進軍の

歡呼の調の鬨をば作れかし。

 

よろこび躍り我が踏む足音に

驚き立ちて、高きに磯雲雀

うたふや朝の迎への愛の曲。

その曲、浪に、砂(いさご)に、香藻(にほひも)に

い渡る生の光の聲撒けば

わが魂はやく、白羽の鳥の如、

さまよふ樂の八重垣うつくしき

曙光の空に融け行き、翅(は)をのべて、

名たたる猛者が弓弦(ゆんづる)鳴りひびき

射出す征矢もとどかぬ蒼穹(あをぞら)ゆ、

靑海、巷、高山(たかやま)、深森(ふかもり)の

わかちもあらず、皆わがいとし兒の

覺めたる朝の姿と臨むかな。

           (甲辰八月十五日夜)

[やぶちゃん注:最終連の後ろから三行目の「巷」は底本では(くさかんむり)に「大」と(「氾」-「氵」)を立に組んだ奇妙な字体であるが、表記出来ない。筑摩版全集も「巷(ちまた)」であり、同全集の初出も「巷(ちまた)」であるので、それで表記した。句点の後の字空けは見た目を再現した。初出は明治三七(一九〇四)年九月号『白百合』で、総表題「高風吟」で、本篇「光の門」と前の「鷗」が載る。初出は、以下が有意に異なる。

・第一連の最後の「今こそ立ちぬ、光の門(かど)に、我れ。」が「我れこそ今立ちたれ光(ひかり)の門(と)。」となっている。

・第三連「生火(いくひ)の焰もえ立つひらめきか。──」が「生火(いくひ)の焰(ほむら)もえ立つひらめきか。」となっており、しかもそこで第三連が終わっており、連が一つ増えている。

・第四連頭の「明け立ちそめし曙光(しよくきわう)の逆(さか)もどり」が第五連冒頭となって、しかも「明け立ち初(そ)めし曙光(しよくきわう)のまた更に」となっている。

「沮(はゞ)み」「阻(はば)み」に同じ。初出では「砠」となっているが、これは「石山」「土山」の意の名詞で誤用。]

2020/05/03

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 鷗

 

   

 

藻の香に染みし白晝(まひる)の砂枕(すなまくら)、

ましろき鷗(かもめ)、ゆたかに、波の穗を

光の羽(はね)にわけつつ、碎け去る

汀の漚(あは)にえものをあさりては、

わが足近く翼を休らへぬ。

 

諸手(もろて)をのべて、高らに吟(ぎん)ずれど、

鳥驚かず、とび去らず、

ぬれたる砂にあゆみて、退(しぞ)き、また

寄せくる波をむかへて、よろこびぬ。

 

つぶらにあきて、靑海の

匂ひかがやく小瞳は、

眞珠の光あつめし聖の壺(つぼ)。

はてなき海を家とし、歌として、

おのが翼を力(ちから)と遊べばか、

汝(な)が行くところ、瞳(ひとみ)の射る所、

狐疑(うたがひ)、怖れ、さげしみ、あなどりの

さもしき陰影(かげ)は隱れて、空蒼(あを)し。

 

ああ逍遙(さまよひ)よ、をきての網(あみ)の中

立ちつつまれてあたりをかへり見る

むなしき鎖解(と)きたる逍遙(さまよひ)よ、

それただ我ら自然の寵兒(まなご)らが

高行く天(あめ)の世に似る路なれや。

來ても聞けかし、今この鳥の歌。──

さまよひなれば、自由(まゝ)なる戀の夢、

あけぼの開く白藻(しらも)の香に宿り、

起伏つきぬ五百重(いほへ)の浪の音に

光と暗はい湧きて、とこしへの

勇みの歌は、ひるまぬ生(せい)の樂(がく)。

 

ああ我が友よ、願ふは、暫しだに、

つかるる日なき光の白羽をぞ

翼なき子の胸にもゆるさずや。

汝(な)があるところ、平和(やはらぎ)、よろこびの

軟風(なよかぜ)かよひ、黃金(こがね)の日は照(て)れど、

人の世の國けがれの風長く、

自由の花は百年(もゝとせ)地に委して

不朽(ふきう)と詩との自然はほろびたり。

           (甲辰八月十四日夜)

 

   *

 

 

   

 

藻の香に染みし白晝(まひる)の砂枕、

ましろき鷗、ゆたかに、波の穗を

光の羽にわけつつ、碎け去る

汀の漚(あは)にえものをあさりては、

わが足近く翼を休らへぬ。

 

諸手をのべて、高らに吟ずれど、

鳥驚かず、とび去らず、

ぬれたる砂にあゆみて、退(しぞ)き、また

寄せくる波をむかへて、よろこびぬ。

 

つぶらにあきて、靑海の

匂ひかがやく小瞳は、

眞珠の光あつめし聖の壺。

はてなき海を家とし、歌として、

おのが翼を力と遊べばか、

汝(な)が行くところ、瞳の射る所、

狐疑(うたがひ)、怖れ、さげしみ、あなどりの

さもしき陰影(かげ)は隱れて、空蒼し。

 

ああ逍遙(さまよひ)よ、をきての網の中

立ちつつまれてあたりをかへり見る

むなしき鎖解きたる逍遙よ、

それただ我ら自然の寵兒(まなご)らが

高行く天(あめ)の世に似る路なれや。

來ても聞けかし、今この鳥の歌。──

さまよひなれば、自由(まゝ)なる戀の夢、

あけぼの開く白藻(しらも)の香に宿り、

起伏つきぬ五百重(いほへ)の浪の音に

光と暗はい湧きて、とこしへの

勇みの歌は、ひるまぬ生の樂。

 

ああ我が友よ、願ふは、暫しだに、

つかるる日なき光の白羽をぞ

翼なき子の胸にもゆるさずや。

汝があるところ、平和(やはらぎ)、よろこびの

軟風(なよかぜ)かよひ、黃金(こがね)の日は照れど、

人の世の國けがれの風長く、

自由の花は百年(もゝとせ)地に委して

不朽と詩との自然はほろびたり。

           (甲辰八月十四日夜)

[やぶちゃん注:「をきての網(あみ)の中」の「をきて」はママ。初出は『おきての網(あみ)の中』。感覚的に見て「掟」の意であろうから、「を」は誤りである。初出は『白百合』明治三七(一九〇四)九月号に「高風吟」の総表題で前に次の「光の門」を配して二篇。

「汀」「みぎは」。初出にはそうルビする。

「漚(あは)」「泡」に同じい。

「小瞳」初出では「こひとみ」とルビする。

「狐疑(うたがひ)」二字へのルビ。通常はそのまま「こぎ」と読む。狐が疑い深い動物だとされることから、「疑い深いこと」「猜疑心を持つこと」を謂う。

「自由(まゝ)なる」二字へのルビ。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) ひとつ家

 

   ひ と つ 家

 

にごれる浮世の嵐に我怒(いか)りて、

孤家(ひとつや)、荒磯(ありそ)のしじまにのがれ入りぬ。

捲き去り、捲きくる千古の浪は碎け、

くだけて悲しき自然の樂(がく)の海に、

身はこれ寂寥兒(さびしご)、心はただよひつつ、

靜かに思ひぬ、──岸なき過ぎ來(こ)し方、

あてなき生命(いのち)の舟路(ふなぢ)に、何處へとか

わが魂(たま)孤舟(こしう)の楫(かぢ)をば向けて行く、と。

 

夕浪懶(ものもう)く、底なき胸のどよみ、

その色、音皆不朽(ふきう)の調和(とゝのひ)もて、

捲きては碎くる入日(いりひ)のこの束(つか)の間(ま)──

沈む日我をば、我また沈む日をば

凝視(みつ)めて叫ぶよ、無始(むし)なる暗、さらずば

無終(むしう)の光よ、渾(すべ)てを葬むれとぞ。

           (甲辰六月十九日)

 

   *

 

   ひ と つ 家

 

にごれる浮世の嵐に我怒りて、

孤家(ひとつや)、荒磯(ありそ)のしじまにのがれ入りぬ。

捲き去り、捲きくる千古の浪は碎け、

くだけて悲しき自然の樂の海に、

身はこれ寂寥兒(さびしご)、心はただよひつつ、

靜かに思ひぬ、──岸なき過ぎ來し方、

あてなき生命(いのち)の舟路に、何處へとか

わが魂(たま)孤舟の楫をば向けて行く、と。

 

夕浪懶(ものもう)く、底なき胸のどよみ、

その色、音皆不朽の調和(とゝのひ)もて、

捲きては碎くる入日のこの束の間──

沈む日我をば、我また沈む日をば

凝視(みつ)めて叫ぶよ、無始なる暗、さらずば

無終の光よ、渾(すべ)てを葬むれとぞ。

           (甲辰六月十九日)

[やぶちゃん注:「無終(むしう)」のルビはママ(後掲する通り、初出では正しく振っている)。筑摩版全集(昭和五四(一九七九)年刊)は問題がある。本篇は二連構成であるのに、一連になってしまっているのだ。本篇はここ(底本の「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)であるが、ノンブル位置と本文組みをこの見開きだけで比べて見ても一目瞭然、「133」の初行は有意に空いているのはど素人にも判る。どうもこの筑摩版全集は少なくとも「あこがれ」に関しては全集として杜撰としか言いようがない。初版そのままを底本とする謳っていながら、ここのようにそれを再現出来ていない箇所が複数あるからである。しかも詩集では一番気をつけなくてはならぬ改ページ部分にある行空けである。これは我々読者でさえも最も注意して読む部分であり(少なくとも私はそうだ)、ここは誰が見ても行空けがあることが判る部分だ。正直、呆れ果ててものも言えない。初出は『時代思潮』明治三七(一九〇四)年七月号で、総表題「低唱」三篇の、次の「壁の影」(後に出る「壁なる影」はその改題)と、既出の「月と鐘」の間に配されてある。初出では、以下(総ルビであるが、五月蠅いので必要と思われるもののみのパラルビとした)。

   *

 

   ひとつ家

 

にごれる浮世の嵐にわれ怒りて、

ひとつ家(や)、荒磯(ありそ)の沈默(しじま)にのがれ入りぬ、――

捲き去り、捲き來る千古の浪は碎け、

碎けて、悲しき自然の樂の海に、

身はこれ寂寥兒(さびしご)、心は漂ひつゝ、

靜かに思ひぬ、岸なき過ぎ來し方、

あてなき生命(いのち)の舟路に、何處(いづこ)へとか、

わが靈(たま)孤舟の楫をば向けて行くと。

 

夕浪懶(ものもう)く、――底なき胸のどよみ、

其色、音(おと)皆(みな)不朽の調和(とゝのひ)もて、──

捲きては碎くる入日のこの束の間、

沈む日我をば、我また沈む日をば、

みつめて叫ぶよ、無始なる暗(やみ)、さらずば、

無終(むしゆう)の光よ、「全(すべて)を」葬(はうむ)れとぞ。

   *]

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