フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「早川孝太郎「猪・鹿・狸」」の33件の記事

2020/03/28

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十四 親鹿の瞳

 

     十四 親 鹿 の 瞳

 開創の始めから、鹿とは因緣深い鳳來寺であつたが、明治に改まつたと思ふと、もう馬鹿々々しい鹿を弄り殺し[やぶちゃん注:「なぶりごろし」。]にした話がある。

 前にも言うた岩本院は、本堂の西方寄り、俗に大難所と呼んだ高い岩壁の下にあつて白木造りの立派な建物だつたさうである。その岩壁の上を、每朝きまつて通る、五六匹の引鹿があつた。寺男の一人が、とうからそれを知つて居たが、何分山内の事で、どうする事も出來ぬ。そこで生捕りにして山内を引出せばよいと、勝手な理窟を考へた。それで或日麓の門谷へ下りて、若者達を語らつて、靑竹を籠目に組んで、鹿が踏みこんだら動きの取れぬやうな 罠を掛けたさうである。翌朝行つて見ると、十四五貫[やぶちゃん注:五十二・五~五十六・二五キログラム。]もある雄鹿が掛つて居た。それを多勢して寄つて集つて[やぶちゃん注:「たかつて」。]頸から肢に滅茶苦茶に繩を掛けた。さうして口へは馬にするやうな轡[やぶちゃん注:「くつわ」。]を嵌めてしまつた。二人の男がその口を把つて、多勢が後から鹿の尻を打ち打ち、引出したさうである。そして何百段かの御坂を下つて、門谷の町へ出て來た。軒每にそれを見せびらかしながら、正月初駒を曳くやうな氣で、彼方此方[やぶちゃん注:「あつちこつち」。]多勢の見物の中を引張り廻したさうである。鹿は如何にも觀念したやうで、ちつとも抵抗せなんださうである。町の有力者の庄田某が、遉がに見兼ねて、その鹿は助けてやつてくれと、 幾干[やぶちゃん注:「いくばく」。]の金包を取らしたさうである。然し若者達は、其場だけ承知して軈て村端れから再び山の中へ引込んで、殺して煮て喰つてしまつたと言ふ。よくよく鳳來寺も沒落の凶兆が來たと語り合つた者もあつたと言ふ。實は鳳來寺の權威も地に墜ちて、一山が引くり返るやうな騷ぎの、明治四年の事だつたさうである。

[やぶちゃん注:「岩本院」前の「十二 鹿の玉」で示した旧境内図を見られたいが、現在のこの附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。見ると現在も北面の断崖が確認出来る。

「明治四年」一八七一年(但し未だ旧暦)。慶応四(一八六八)年三月に発せられた太政官布告、通称「神仏分離令」「神仏判然令」の後、明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などに触発されて起こった愚かな廃仏毀釈の混乱を指す。]

 まるきり弄り物では無かつたが、狩人の中には、生まれて間も無い小鹿を囮[やぶちゃん注:「おとり」。]にして、親鹿を捕る者があつた。狩人が夏山を稼げば、崖の下やナギ(山崩れ)の跡などに、滑り込んで居る子鹿を拾ふ事があつた。さうした時は、親鹿が近くに居る事は判つて居るので、直ぐ殺さずに、木に繫いで置いて、ギーギー鳴かせて親鹿を誘びき出したのである。親鹿は子鹿の姿が見える間は、幾日でも其處を去らなんだ、何處かしらから、昵と見て居たのである。若し狩人が居ればその目を注意して居るので、此方がそれと氣附いて瞳と瞳とが遇ふと、直ぐ遁げてしまつた。それで此獵法は、餘程の技巧を要するさうである。何度も失敗を重ねると、遂こちらも意地になつて、一日位其場に寢込んで待つ事もあつたが、さうなつては、決して擊てる者ではなかつたと言うた。子が捕られゝば、親が見えがくれに見守つて居たが、親鹿を擊つと、子鹿が其傍を離れなんださうである。犬でも居れば格別だが、さもない時は、親鹿を舁いで來ると、後から隨いて來たさうである。

[やぶちゃん注:とても哀れな映像ではないか。]

 餘計な事だが、子鹿の事を矢張りコボウ又はコンボウと言うた。而して二歲鹿の角に未だ枝の無い物を、ソロ又はソロツポウと言うたのである。

[やぶちゃん注:「コボウ又はコンボウ」小学館「日本国語大辞典」に「こぼう」で「小坊」(歴史的仮名遣「こばう」)とし、「小坊主」と同義としつつ、方言として広汎に子供・小牛・子馬の意とし、「こんぼう」も「小坊」として方言で小牛(静岡県・愛知北設楽郡)、子馬(神奈川足柄郡・静岡県庵原郡飯田)を挙げる。

「ソロ又はソロツポウ」小学館「日本国語大辞典」に「そろ」の②に『二歳鹿の叉(また)のない角を、中部地方でいう。候という字の草書体からの連想で、そうろうづのともいう』とする。また、「そろっぽう」には『そうろうづの(候角)』に同じ』とし、方言とし、『⦅そろっぽ⦆角が一本の鹿』として山梨県大菩薩付近・長野県飯田付近・静岡県磐田郡水窪を採取地とする。「候」の草書体はこちら(リンク先は「人文学オープンデータ共同利用センター」の「「候」(U+5019) 日本古典籍くずし字データセット」)。]

2020/03/27

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十三 淨瑠璃御前と鹿

 

     十三 淨瑠璃御前と鹿

 鳳來寺の傳說では、光明皇后は鹿の胎内より生まれ給ふたとなつて居る。開祖利修仙人が、甞て西北方にある煙巖山の岩窟に籠つて修法中、一日山上に出でゝ四方を顧望する内、偶々尿を催して、傍の薄に放したる處、折柄一匹の雌鹿來つて其の薄を舐め、忽ち孕んだとある。月滿ちて玉の如き女子を產んだが、仙人修法中とて其處置に窮し、ひそかに其子を人に托して鄕里奈良に遣はし、一日あるやんごとなき邸の門前に捨てしむと言ふ。その女子成長して後に光明皇后となり給うたが、鹿の胎内に宿り給ひし故、生れながらにして足の指二ツに裂け、恰も鹿の爪の如くなりしと言ふ。皇后之を嘆き給ひ、宿業滅亡の爲め鳳來寺に祈願を籠め、兼て御染筆の扁額を納め給ふと言ふのである。これは鳳來寺々記の中に載せた事であつたが、別に元祿時代に書いた、同寺所藏の掃塵夜話と言ふ寫本には、その事を實際化して、利修無聊に依つて、夜々西方山麓の里に通ひ、賤[やぶちゃん注:「しづ」。]の女と契り遂に一女を設く云々などゝ、最もらしく說明してあつた。

[やぶちゃん注:本篇は前項「十二 鹿の玉」に出た「淨瑠璃姬」=「淨瑠璃御前」絡みで続きの形をとっている。

「光明皇后」(大宝元(七〇一)年~天平宝字四(七六〇)年)は聖武天皇の皇后。藤原不比等の娘。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

「煙巖山」「えんごんさん」は鳳来寺の山号でもあるが、サイト「YAMAP」のこちらを読むと、利修仙人所縁の「仙人様コース」という登山ルートがあり、『仙人様コースは鳳来寺山が煙巌山と呼ばれていた頃のピークがあり、一部の資料では別々の地名として記載されている。元々護摩所から昇る煙から名付けられたらしく、利修仙人の護摩所はまさしく行場らしい神聖さがあった。途中の険しい岩場はやはり修験道、山岳信仰の道と実感。地図にある鳥居と建物を探したが、よく分からなかった』が、『利修仙人が現在登山道としているルート、護摩所―煙巌山―瑠璃山―鏡岩―行者返し(越え)』と、『元々遡行ルートと思われる表参道のなど』、『おなじみのコースを修行場として原初開拓したのだと実感できる』とあり、現地の案内板の地図のこの写真でこの煙巌山の位置が確認出来る。国土地理院図のこの中央のピークがそれである。

「指二ツに裂け」「裂足」と呼ばれる四肢の指の先天性奇形で、例えば親指は分離するが、人差し指以下の四指の縦方向への足の趾放射が欠損するものはそのように見える。

「鳳來寺々記」不詳。或いは「国文学研究資料館」内の「日本古典籍総合目録DB」のこちらにある「三河國鳳來寺略緣起」の異名か?

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「掃塵夜話」前々注のリンク先で注で出した縁起と一緒に書名のみは確認出来る。]

 然し自分らが耳で聞いた傳說では、之とは稍趣を異にして、淨瑠璃御前の話になつて居た。矢作(やはぎ)の兼高長者が、子のない事を憂いて、藥師堂に十七日の參籠をして、子種を一ツ授け給へと祈つた處、恰も滿願の夜の夢に、藥師は大なる白鹿となつて顯れ、汝の願ひ切なるものあれ共、遂に汝に授くべき子種は無ければとて、一個の丸[やぶちゃん注:「たま」。]を授けらると見て、胎むと言ふのである。又別の話では、藥師が白髮の翁となつて現はれ、鹿の子を授くと告げて消え失せ給うたとも謂うた。軈て月滿ちて生れた子が淨瑠璃御前で、輝く如く美しかつたが、足の指が二ツに裂けて居る事を、長者が悲しんで、それを隱す爲め布を以てその足を纏うて置いたが、これが足袋の濫觴であると言ふ。

[やぶちゃん注:「矢作」愛知県岡崎市矢作町(やはぎちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「兼高長者」個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」が非常に詳しくてよいので読まれたい。それによれば(岩波書店の「浄瑠璃御前物語」(新日本古典文学大系90「古浄瑠璃説経集」をもととするとある)、『浄瑠璃姫の父は三河の国司源中納言兼高といい、母は矢矧宿の長者でいくつもの蔵を持つ海道一の遊女である』とあって以下、「浄瑠璃御前物語」のシノプシスが載るので、是非、読まれたい。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。]

 今から三四十年前迄は、淨瑠璃御前一代の譚として、その事を謠つた文句を歌つて居た者もあつたさうであるが、今日では、如何にしてもそれを聽く事は出來なかつた。又村の處々に、御前の姿を描いた小さな掛物を、藏つてある家もあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「淨瑠璃御前一代の譚」「譚」は「はなし」と読んでおく。先の個人ブログ「矢作町界隈記」の「浄瑠璃姫伝説」の「浄瑠璃御前物語」に濫觴を同じくする浄瑠璃節。]

 一方鹿の話は、それからそれと糸を引いて、妹背山の入鹿の話に迄持て[やぶちゃん注:「もつて」。]行つた。鳳來寺の東方山麓に、東門谷と言ふ山に圍まれた小さな部落があるが、村としては古かつた。そこの彌右衞門某の屋敷の背戶に、いるかが池とて形ばかりの赤錆の浮いた池があつたと謂ふ。鹿が入鹿大臣を產んだ處故に斯く言うたとは恠しかつた。その池の水を笛に濕して吹けば、如何なる鹿でも捕れるなどと言うたが、果して今も跡があるかどうか知らぬ。或は鹿が子を產んだと言ふ傳說と、いるかが子を產んだ話と、何れかを誤り傳へたかとも考へられる。

[やぶちゃん注:「妹背山」(いもせやま)「の入鹿」(いるか)「の話」人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん:近松半二他の合作。全五段。明和八(一七七一)年大坂竹本座初演)。私は何度も見ているので、ここで言っている意味が判るが、ご存じない方はウィキの「妹背山婦女庭訓」を見られたいが、ざっくり言えば、同作では悪玉蘇我入鹿は父蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたことから、尋常ならざる力を持っており、それを以って自ら本邦の支配者たらんと宣言して王権を奪おうとし、その魔力を無力化させる方法のアイテムの中に「爪黒(つまぐろ)の鹿の血」や「鹿笛」が配されてあるのである。

「東門谷」「ひがしかどや」。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、現在の新城市門谷前畑附近に、「東門谷」の地名が認められる。ここを下っている川の名は「東門谷川」である。ただ、この辺りだと、「山麓」というよりは「山腹」である。現在の国土地理院図に「東門谷」で出る

「いるかが池」現行それらしいものは見当たらない。なお、名前としての「入鹿池」なら、七十キロメートルも北西に離れた愛知県犬山市に入鹿池はある。]

 東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)は、前に言うた鹿が皇后を產んだ跡と言うて居る。

[やぶちゃん注:「東門谷から峯一ツ越えた、鳳來寺村峯の地内にある產田(うぶた)」地名としては「峯の地」「產田」孰れも不詳だが、早川氏が「峯一ツ越えた」という時、早川氏が実家を無意識の起点と考えているとするなら(私ならそう認識する)、先の現在の国土地理院図の中央附近(「東門谷」の峰を東北に越えた沢の突き当り)がしっくりくる。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十二 鹿の玉

 

     十二 鹿  の  玉

 

Sikanotama

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿の玉」。]

 

 行者越の一ツ家が潰れたのも、實は鳳來寺の蓑運が大いに關係したのである。山内に藥師と東照宮を祀り、天台眞言の兩學頭が並び立つて、千三百五十石の寺封を與へられて全盛を極めた鳳來寺も、明治の改廢と數度の出火に遇つて、昔の面影はもう無かつたのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺」の沿革は注していなかったので、ここでウィキの「鳳来寺」から引く。『愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来』。『参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮』『及び仁王門は国の重要文化財に指定されている』。『また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である』。『寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという』。『鎌倉時代には源頼朝によって再興されたと伝え』、『参道の石段も頼朝寄進と』される。『当時、寺内に在った多くの僧坊の1つ、医王院において、平治の乱で落ち延びてきた頼朝が匿われたのが一因という。ただし、3年も匿われたという点で疑問も残る。なお、近世に記された地誌『三河刪補松』では、鎌倉幕府の有力御家人で三河守護でもあった安達盛長が建立した「三河七御堂」の一つとして鳳来寺弥陀堂を挙げている』。『鳳来寺境内の鏡岩下遺跡からは、灰釉陶器の碗1点、渥美窯産44点、瀬戸窯産23点、常滑窯産11点など計194点の土器が出土している。これによって、鳳来寺では12世紀後半~13世紀初頭に経塚が造営されたのち、13世紀以降は渥美窯産や古瀬戸、常滑窯産の蔵骨器を用いた納骨やそれを伴わない骨片を埋葬する中世墓となり、室町時代から岩壁に鏡の埋納が始まり、江戸時代には納鏡が最盛期を迎えたことが判明する。本堂をはじめ寺内でたびたび火災が発生して文書史料の多くが焼失している鳳来寺において、これら考古資料は中世から近世にかけて、鳳来寺がある特定の高貴な階層の人々による信仰の対象としての聖地(霊山)から本尊薬師如来を対象とする民間信仰の霊場に変容した様子を明らかにする貴重な資料である』。『戦国時代には、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けた。だが、豊臣秀吉の治世では300石のみを許されただけで、他は悉く没収された』。『江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄えた。徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、慶安4年(1651年)に完成をみたのである(東照宮などに限る)。最終的には、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となった』。『なお、家綱将軍の治世になっても諸僧坊の増築は続』き、多数の僧坊が建てられた。『東海道御油宿から延びる街道は鳳来寺道と呼ばれるなど、秋葉山本宮秋葉神社と並んで、この地方では数多くの参詣者を集めた』。「東海道名所図会」には、『煙厳山鳳来寺勝岳院(神祖宮 鎮守三社権現 六所護法神 開基利修仙人堂 常行堂三層塔 鏡堂 八幡宮 伊勢両太神宮 弁才天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 名号題目石 八王子祠 妙法滝 奥院 六本杉 煙厳山 勝岳院 瑠璃山 隠水 高座石 巫女石 尼行堂 行者帰 猿橋篠谷山伏堂 馬背 牛鼻)と、詳細な記載がある』。『明治に入るまで、東照宮の祭事を社僧や別当が行っていたため、新たに祠官が派遣された。ここに寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、東照宮が命脈を保つ一方で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかった』。『困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)112日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。他にも賢成住職の奔走による旧寺領の復権活動が実り、有償ながら国有林の譲渡が実現された』。『窮乏に喘いでいながらも譲渡資金は何とか捻出され、余剰金を残すことができた。この時、傷みの激しい堂宇の改築費用に充てることも考えられたが、賢成住職は地域住民に還元することを決断。鳳来寺鉄道、田口鉄道の敷設資金、鳳来寺女子学園の設立資金に使われた』。『大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建された。なお、明治初期まで存在した諸僧坊も度重なる火災と明治以降の窮乏で廃絶となり、今では松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。廃絶の諸僧坊跡地には石碑が立てられている』とある。

「十六 手負猪に追はれて」の「鳳來寺山三禰宜」の私の注を参照されたいが、]

 明治維新前、鳳來寺が未だ全盛の頃の事である。山内十二坊中の岩本院で正月十四日の田樂祭りに、七種(なゝいろ)の開帳と言ふのがあつた。開祖利修仙人が百濟から將來した瑠璃の壺、龍の玉、熊の角、鹿の玉、一寸八分の籾、淨瑠璃姬姿見の鏡、東照公佩用の鎧兜の七種で、一人十二文づゝの料金を取つて拜觀させたと謂ふ。

[やぶちゃん注:「岩本院」「新編鎌倉志卷之一」で非常にお世話になった s_minaga氏のサイトの三河鳳来寺三重塔」のページの絵図その他で旧鳳来寺の全僧坊の位置が判る。同氏は著作権主張をされていないので、その中の追記のある一図「鳳来寺境内及寺有林図」を添えて参考に供し、これを以って旧鳳来寺寺域内の解説に代える。

Horaiji97

 

「田樂祭り」「田樂」は、初め、民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。田植えの際に、「田の神」を祭って歌い舞ったのが原形で、鎌倉時代から室町時代に流行し、専業の田楽法師も出た。能楽のもとである猿楽との関係が深い。鼓・腰鼓・笛・銅鈸子(どびょうし)・ささらなどを奏しながら舞う田楽踊りと、高足などの散楽系の曲芸のほか、物真似芸や能なども演じた。現在では民俗芸能として各地に残る(ここまでは小学館「大辞泉」に拠る)。ここはそれを集合した修験道・仏教・神道が取り入れた祭事である。

「利修仙人」ブログ「法螺貝の会 白山龍鳴会」のこちらによれば、利修は飛鳥時代の欽明天皇三一(五七〇)年に『山城の国(京都と奈良の間)に生まれたと』伝えられ、一説に『修験道の開祖である役行者の血縁だったという伝説もあ』るという。斉明天皇元(六五五)年、八十五歳の老齢で、『百済へ渡り、学問や仏教を修め、徳高い修験者として、広く知られて』いた。『利修仙人は、鳳来寺山の木の祠の中に住み、仙術を使って鳳凰に乗り、空を自由に駆け巡り、竜と仲良くしながら修行を続け』、『さらに』は三匹の『鬼を自在に使っ』たという。『仙人は、この山にあった霊木、七本杉の一本を切って、薬師如来を始め、幾つかの尊い像を彫刻し』たが、『これを岩上に祭ったのが鳳来寺の始まりで』、現在、『利修仙人の護摩場』と呼ばれるものは『鳳来寺の境内地より離れた岩場にあるため、鳳来寺開山の前に修行していたと思われ、日本でも最古級の護摩場であると推察でき』るとある。

「瑠璃の壺」古代のガラス製であろう。但し、鳳来寺の本尊は利修作と伝える薬師如来で、その像は普通、左手に瑠璃製の薬を入れる壺を持っているから、それを模したものである可能性が高い。

「龍の玉」お定まりのそれなら水晶の玉か。

「熊の角」無論、熊に角はないので、大型のツキノワグマの牙か爪であろう。或いは、熊に生じた硬質の角状の奇形腫瘍かも知れない。

「鹿の玉」後述される。

「一寸八分の籾」巨大な五・四五センチメートルもある籾(もみ)。

「淨瑠璃姬」次の「十三 淨瑠璃御前と鹿」に語られるが、この地の長者の娘で、後に義経の愛人となり、奥州へ去った彼の跡を慕って、ここに庵を結んで亡くなったという伝説上の女性である。小学館「日本国語大辞典」の「浄瑠璃姫」の記載は『三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界の統率者、薬師如来の申し子。三河国の峰の薬師(鳳来寺)に祈誓して授かった姫君で、牛若丸が奥州に下る途中長者の館に宿し、姫と契ったという伝説が「十二段草子(浄瑠璃物語)」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となる』とある。

「東照公」徳川家康。]

 名前を聞くと何れも珍寶揃いであつた。その後如何になつたか消息を知らぬが、その中の鹿の玉だけは、岩本院沒落の後、不思議な譯で取殘されて、附近の家に祕藏して居る。ふとした動機から一度見た事があつた。鷄卵大の稍淡紅色を帶んだ玉で、肌の如何にも滑らかな紛れも無い鹿の玉であつた。此類のものは、未だ他にも竊かに藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家があつて、昵は前にも見た事があつたのである。祕藏者は前から岩本院に緣故のある者であつた。いよいよ沒落の折、方丈がその者を前に呼んで、これだけは此土地に殘して置くとあつて、讓られたものと言ふ。其一方には、ドサクサ紛れに盜み出したなどゝ、惡口を言ふ者もあつた。何れにしても傳へ殘して居たのは目出度かつた。

 かゝる物が、如何にして鹿の肉體中に生じたかは別問題として、土地の言傳へに依ると、澤山の鹿が群れ集つて、その玉を角に戴き、角から角に渡しかけて興ずるので、これを鹿の玉遊びと謂うて、鹿が無上の法樂であると謂ふ。あんな玉を角から角へ渡すのは、容易であるまいなどの事は一切言はぬ事にして、扨て[やぶちゃん注:「さて」。]其玉を家に祕藏すれば、金銀財寶が自づから集り來ると謂ふ。自分などが聞いた話でも、舊家で物持だなどゝ言えば、彼處[やぶちゃん注:「あそこ」。]には鹿の玉があるげなゝどと言うた。

 狩りを渡世にした者でも、滅多には手に入らぬ、よくよくの老鹿でない獲られ無いと言うた。それで一度び[やぶちゃん注:「ひとたび」。]手に入れゝば、物持などに隨分高く賣れたさうである。前に言うた行者越の狩人なども、曾て手に入れた事があると聞いた。

 或はそれに生玉(いきだま)死玉(しにだま)の區別があつて、如何に見事でも、鹿を殺して獲た物では何の効きめも無いと謂ふ。群鹿が玉遊びに興じて居る、それでなくば駄目だと言うのである。鳳來寺の岩本院にあつたのがそれだと、祕藏して居た老人は改めて掌に取つて見せた。そしてかう握りつめて居ると、自づと溫り[やぶちゃん注:「ぬくもり」。]があつて、幽かに脉[やぶちゃん注:「みやく」。脈。]が打つて來るなどゝ言うて昵と[やぶちゃん注:「じつと」。]目を瞑り[やぶちゃん注:「つむり」。]ながら、不思議なる脉を聞かうとするやうな風であつた。最後に叮嚀に紫の袱紗に包んで、元の箱に納めると、奧まつた部屋へ藏ひに立つて行つた。

 通例玉を祕藏して居る者は、金かなどのやうに[やぶちゃん注:金(かね)か何か等のように。]、祕密にして、玉があるなどとは、更におくびにも出さなんだのである。さうしてコツソリ祕藏して居る者が、案外其方此方[やぶちゃん注:「そちこち」。]の村にあるらしいのである。

[やぶちゃん注:「鹿の玉」は所謂、「鮓荅(サトウ/へいさらばさら)」のことである。これは真正のものは所謂、「結石」であって、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと推測される体内異物である。漢方では現在でも高価な薬用とされているらしい。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。他に「犬の玉」(「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」)や「牛の玉」(私の「耳囊 卷之四 牛の玉の事」を参照)などもある。但し、ただの石や人造物などの偽物も非常に多く出回っていたものと思う。

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十一 一ツ家 の 末 路

 

     十一 一家 の 末 路

 丸山某の養家であつた行者越の一ツ家は、 旅籠[やぶちゃん注:「はたご」。]渡世もしたが、實は代々の狩人であつた。養父といふ人は、狩人こそして居たが、一方、えらい劍術使ひで、由ある者の成れの果だらうとも言うた。それで家には鎗長卷の類が幾振も飾つてあつた。體は四尺幾寸しかなくて、一眼のちつとも引立たぬ構へであつたが、劍を把つては並ぶ者は無かつた。行者の又藏と言へば、遠國迄響いて居たと言ふ。

[やぶちゃん注:「十 十二歲の初狩」の続き。次の「十二 鹿の玉」にさえも枕として続いており、本書ではかくも内容が連続するのは珍しい。それだけ早川氏には魅力的な忘れ難い人物であったのであろう。

「長卷」(ながまき)は刀剣の一種で、大太刀から発展した武具。ウィキの「長巻」によれば、『研究者や資料によっては「薙刀(長刀)」と同一、もしくは同様のものとされていることもあるが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」であるのに比べ、長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」であり、刀剣のカテゴリーに分類される武器である』。『鎌倉時代になり武士が社会の主導権を握るようになると、武人として剛漢であることを誇るために、三尺(約90cm)を超える長大な刀身をもった太刀が造られるようになり、これらは「大太刀」「野太刀」と称される』『ようになった。こうした長大な太刀は腕力のある者にこぞって使われたが、たとえ腕力と体力に溢れた者であっても、長大な分非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくい』『ものであった。そのため、「野太刀」として使われるに従って柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めた』『ものが作られるようになった。このように改装した野太刀は「中巻野太刀(なかまきのだち)」と呼ばれ、単に「中巻(なかまき)」とも呼ばれた。これら「中巻」は、小柄であったり非力であったりと大太刀を存分に振ることの難しい者でも用いることが出来、通常の刀よりも威力が大きく、振る、薙ぐ、突くと幅広く使える為に広く普及した』。『やがて野太刀をわざわざ改装するのではなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じもしくは多少長い柄を付けたものが造られるようになり、長い柄に刀と同じように柄巻を施したことから「長巻拵えの野太刀」、「長巻野太刀」となり、単に「長巻」の名で呼ばれるようになった。室町時代に登場し、戦国時代に大いに使われた武器である』とある。リンク先にある画像を見られたい。]

 どうした譯で代々こんな處に住んで狩人をして居たかは聞かなんだが、家は草葺の大きな構へであつた。明治維新の折、此邊にも長州兵が幕府方の者の後を追つて入込んだ事があつた。拔身を提げた荒くれ武士が十六人、袴の股立をとつて鳳來寺道をやつて來た時は、街道筋の者は全部戶を締め切つて、隱れて居たと言ふ。その連中が行者越の家へかゝつた時、軒に吊してある草鞋を拔身で指して、幾何か[やぶちゃん注:「いくらか」。]と訊いた事から、店に坐つて居た又藏老人と喧嘩になつて、あはや十六人が飛びかゝるかと思はれた時、老人が落ちつき拂つて名を名乘ると、びつくり這ひつくばつて無禮を侘びたと言ふ。別れ際に老人が、誰やらにも行者の又藏から宜しくと言ふと、ヘヽツと丁寧に挨拶して去つたなどゝ言うた。狩人としての逸話はあまり聞かなんだが、劍術使ひとしての話は未だあつた。

[やぶちゃん注:「袴の股立をとつて」サイト「目で見て解かる時代小説用語」の「袴の股立を取る(ももだちをとる)」の画像を見られたい。そこには『「股立ち」(ももだち)とは袴の側面の下向きに切れ込んでいる所(左の写真の赤丸部分)のことで、動きやすくするために股立ちの所をつまみ上げて帯に挟み込むことを「股立ちを取る」と言う』とある。]

 或時旅の劍客と術比べをやつたが、その武士が座敷に突立つて居て、やつと言ふと天井を一回蹴つて居た。これに反して又藏の方はやつと言ふ間に、二回宛蹴つて勝つたと言ふ。又近くの者が多勢集つた席で、誰でも宜いから俺を押へて見よと言うて、疊の下を潜つて步いたが、それが速くてどうしても押へる事が出來なんだと言ふ。然しそれ程の又藏でも、たつた一度失敗した事があつたさうである。橫山の某の物持とは懇意にしてよく遊びに行つた。そして其處の下男に、隙があつたら何時でも俺を打てと約束したさうである。然しどうしてもその隙が無かつたが、或日のこと又藏が主人と畑で立話をして居た、下男は知らぬ顏で傍で麥に肥料を掛けて居た。そして肥料を掛けながら畝を步いて行つて、又藏の足元へ柄杓の先が行つた時、肥料のは入つたま儘パツと脚を打つと、遉がに避ける間がなくて着物の裾を肥料だらけにしたと言ふ。其時許りは俺に油斷があつたと云うて、閉口したさうである。

 此男の娘が、前言うた養子を迎へたのであるが、女に似氣ない[やぶちゃん注:「にげない」。]氣丈夫であつた。或時一人で留守をして居ると、深夜に門を叩く者があつて、大野から來たが一宿賴み度いと言ふ。その言葉に恠しい[やぶちゃん注:「あやしい」。]節があつたので、そつと二階に上つて外をの覗くと、黑裝束の男が九人、手に手に拔身を持つて立つて居た。女房は鐵砲を片手に握つて、只今開けますと言ひながら、開けると同時にドンと二ツ丸を放したさうである。恠しい男達はそれに驚いて、慌てゝ前の坂を駈降りて行つた。中に一人腰を拔かした奴があつた。後から又仲間が引返して來て、其奴を引摺つて行つたさうである。

[やぶちゃん注:「大野」新城市大野。「八名郡大野町」も同じ。]

 その女房は、もうとくに死んださうである。たつた一人血統を繼いだ男の子があつた。もう久しい前であるが雜誌少年世界の記者が、健氣な少年として誌上に紹介した事があつた。小學校を卒業すると間もなく八名郡大野町へ奉公に出て、その翌年かに、主人の子供が川に溺れたのを助けに飛込んで、共に溺れて死んでしまつた。昔を知る老人達の中には、ひどく惜しんで居る者もあると聞いた。然しもう何とも仕樣はなかつた。數年前その一ツ家も、引拂つてしまつたさうである。

[やぶちゃん注:「少年世界」巌谷小波を主筆として明治二八(一八九五)年一月に創刊し、昭和八(一九三三)年頃まで博文館が発行した少年向け総合雑誌。記事を確認出来ないが、これは「健氣な少年として誌上に紹介した」という謂いから見て、この亡き少年のその犠牲的な死を悼んだ記事ではなく、山中の一つ家で猟師の血統を継ぐことを義務としている「健氣」(けなげ)「な少年」の紹介記事ということであろうと私は思う。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十 十二歲の初狩

 

     十 十 二 歲 の 初 狩

 鳳來寺山行者越(ぎやうじやごえ)の一ツ家に、五十幾年の狩人生活を送つて、名代のがむしやら者などと言はれた丸山某は現に生きて居る。行者越は鳳來寺の裏道で、以前は鳳來寺から遠江の秋葉山への道者路に當つて居た。昔、役の小角が開いたと言ふ傳說の地で、或は小角が此處より登る事能はず、引返した跡とも言うて、別に行者返りの名もあつた。鳳來寺へ一里、麓の湯谷(ゆや)へ一里、文字通りの一ツ家であつた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村行者越」この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「秋葉山」(静岡県浜松市天竜区春野町宮川の秋葉山(あきはさん)(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。標高八百六十六メートル)。中世以降の修験道の霊場で天狗信仰の山でもある。山頂近くに火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉大権現の後身である秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称でもある。秋葉大権現は両部神道で秋葉社と秋葉寺の両方があったが、廃仏毀釈によって分離され、秋葉神社上社は秋葉山山頂に、曹洞宗秋葉寺は秋葉山中腹の杉平にある。鳳来寺の東約二十六キロ。

「役の小角」「えんのおづぬ」(「おづの」とも)は奈良時代の山岳呪術者。「役の優婆塞」(えんのうばそく)とも称される。ずっと下って江戸時代の寛政一一(一七九九) 年になって修験道開祖と仰がれるようになり、「神変大菩薩」の勅諡号を受けた。大和国南葛城郡茅原に生まれ、三十二歳の時、葛城山に登って孔雀明王の像を岩窟に安置して草衣木食(もくじき)し、持呪観法して不思議の験術を得たと伝える。また、諸山岳を踏破し、大和の金峯山・大峰山などを開いて修行したが、彼の呪術は世人を惑わすものであるとされ、伊豆に流された。後に許されて京に帰ったが、以後の消息は不明である。山岳信仰と密教とが合流するようになって修験者の理想像とされ、平安時代以降あった一般の信仰を受け、その足跡を伝える説話が全国の霊山幽谷の地に形成されたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「湯谷」現在の新城市能登瀬上谷平(かみやだいら)の湯谷温泉附近。]

 會つて話して居る間にも、昔の狩人はかうもあらうかと思はれる程、一本氣の氣儘さがあつた。而して何物の力をも信じない冷酷さが、言葉の端々に迄感じられた。話の中でも、てんで此方の言ふ事など耳に入れて居ない樣子で、言ひ度い放題を甲高い聲で喋舌つて[やぶちゃん注:「しやべつて」。]居た。生れたのは更に山奧の、北設樂郡黑川在で、今の家へは養子ださうである。

[やぶちゃん注:「北設樂郡黑川」北設楽郡豊根村上黒川・下黒川附近であろう。]

 生家も代々狩人だつたさうである。當人が狩の最初は、十二の年の秋、燒畑の傍で擊つた鹿だつた。初めの丸は尻に中つて惜しくも急所を外れたが、續いて逃げる鹿を追つてゆくと、遙かのタワで犬が止めて居た。そこで泡吹きの大木に身を凭せて、第二發を送ると、鹿は谷に向けて轉がり落ちたさうである。直ぐ後を搜し求めて、藤蔓を取つて橫に背負ひ上げたが、重いのと谷が嶮しくて、上る事が出來ない。仕方が無いので、鹿には上衣を脫いで掛け、自身は谷を上つて歸つて來た。そして遙かに我家を望む處迄來て、立木に上つて枝を叩いて合圖をしたと言ふ。其折家で下男同樣に使つて居た、乞食とも何ともつかぬ男があつて、それが迎ひに來てくれて運んだ。十六貫七百目[やぶちゃん注:六十二キロ六百二十五グラム。]あつたさうである。その鹿を、更に五里隔つた津具(つぐ)村の鹿買ひの處へ、一人で負つて出かけたが、折よく途中で鹿買ひに遇つて取引をした、二兩二分二朱に賣れたと言うて居た。

[やぶちゃん注:「タワ」既出既注。方言ではない。「嵶」「乢」「垰」。或いは「峠」と書いて「タワ」と読む場合がある。これは「撓(たわ)む」から出来た地形・山岳用語で、尾根が撓んだ低い場所(ピークとピークの間)を言う。但し、急峻なそれ(コルやキレット)ではなく、緩やかなそれを指す。向後は注さないので覚えて頂きたい。

「泡吹きの大木」落葉高木のヤマモガシ目アワブキ科アワブキ属アワブキ Meliosma myriantha。和名は枝を焚き木にすると切り口から泡を吹くからとか、白い花が泡を吹いているように見えることからという説もある。樹高は十~二十メートル。

「津具(つぐ)村」愛知県北設楽郡設楽町津具

「二兩二分二朱」本書刊行は大正一五(一九二六)年で、「五十幾年」を切り上げて六十として「十二」を足して引くと、この猟師丸山某の生まれは嘉永七(一八五四)年以降で、数え十二当時は元治二・慶応元(一八六五)年以降になるので、金単位は腑に落ちる。但し、幕末は激しいインフレが起きているから、一両は現在の約四千円から一万円ほどにまで価値が下落していた。一両=四分、一両=十六朱であるから、高く見積もっても、二万六千五百二十円ほどにしかならない。]

 未だいたいけな十二の年に、十六貫餘の鹿を負つて步く程の者だけに、子供の頃から不敵者で、十七の時には、早家を飛出した。そして山から山を渡り步く内、今の家へ見込まれて養子になつたさうである。若い頃から獲物を追つて、何處とも知らぬ山中に、夜を明した事は、幾度であつたか知れぬ、それで居て更に疲れる事は知らなんだと言ふ。鳳來寺山麓の門谷の人々は、此男が山中で、百貫に餘る巨大な朽木を負うて步くのを、時折見たと言うた。會つて見た感じでは、瘦形のもう六十幾つといふ年配で、異常な體力を備へて居るなどとは思へなかつた。

[やぶちゃん注:「門谷」新城市門谷は鳳来寺を含む広域であるが、「鳳來寺山麓の」とあるので、鳳来寺参道のこの付近(同航空写真)であろう。

「百貫」三百七十五キログラム。]

 一代の間に捕つた獲物は、鹿だけでも幾百を數へて、一冬に六十二の鹿を捕つた年もあつたと言ふ。もう三十年も前の事で、その頃は獵犬のよいのが居たさうである。タカにテジにフジだと、幾度か犬の名を繰り返して聽かせた。中でもテジと謂ふ犬は、一冬に九貫目[やぶちゃん注:三十三・七五キログラム。]以下ではあつたが七ツの鹿を捕つた事があると謂ふ。そして一度手負にすれば、後はそれ等の犬が追かけて肢を噛切つたさうである。熊も七ツ捕つたと語つた、或時大木の高い洞[やぶちゃん注:「ほら」。]に居るのを、一人で登つて行つて、山刀で前肢を叩き切つて斃したと言うた。その折の光景を旅の繪師に描かせたと言うて、粗末な掛軸を出して來て見せてくれた。惡いから默つて何も言はなんだが、功名談とは似もつかぬ、氣の毒な程貧弱な熊と狩人が描いてあつた。

 

2020/03/25

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 九 鹿擊つ狩人

 

     九 鹿 擊 つ 狩 人

 もう五十年も前に死んだが、東鄕村出澤の鈴木小助と言ふ男は、名代の鐵砲上手であつたと謂ふ。屋敷の前の柿の木には、いつも鹿の二ツ三ツは吊してある程だつた。或時家の緣先に居て、二ツの鹿を一度に擊ちとめた事があつた。朝未だ床の中にうとうとして居ると、前に起きた女房が、早向ふの道を引鹿が通ると呼ぶ聲に、ムツクリ起上るか否や、枕元の鐵砲を取つて緣先へ出ると、如何にも見事な雄鹿が二ツ後になり先になりして、谷向ふを、谷下村へ越す道を登つて行つた。その鹿が二つ重なり合つた時を待つて、打放した彈が見事に手前から後ろの鹿を筒拔けに斃したと言ふのである。

[やぶちゃん注:「五十年も前」本書の刊行は大正一五(一九二六)年であるから、明治九(一八七六)年頃。

「東鄕村出澤」複数回既出既注であるが、「出澤」は「いざは」と読み、現在の新城市出沢(いざわ)(グーグル・マップ・データ)。

「引鹿」「ひきじか」は夜間に山から里方へ下りて餌を漁った鹿が明け方に山へ戻ることを言う。

「谷下村」「やげむら」。スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、「出澤」の南に「谷下」の地名が見える。現在の出沢地区にも「根岸谷下」(グーグル・マップ・データ航空写真)の地名が残るが、山中であるから、恐らくは現在の新城市浅谷(あさや)「谷下新田」(グーグル・マップ・データ航空写真)の出沢以南の周辺広域であろう。スタンフォード版では「谷下」地区の南に「淺谷」の地名がある。]

 小助は名の如く體は至つて小さかつたが、鐵砲は名人であつたと言うて、今に噂が殘つて居る。猪鹿買ひが獲物拂底の折は、必ず小助の家へやつて來て、上り端へ寢込んださうである。すると澁々支度をして出かけたが、出かけ端に、若し鐵砲が鳴つたら、その方へ迎ひにお出でと言ふのが癖だつた。曾て一度も其言葉に誤りは無かつたさうである。小助も鐵砲上手に違ひなかつたが、獲物も又餘計に居た事も事實だつた。

[やぶちゃん注:「上り端」「あがりは(ば)な」。家に上がってすぐの所。

「出かけ端」「でかけばな」。出かける時。]

 小助が鐵砲上手の話は未だあつた。その頃村の梅の窪と言ふ所に、性惡る狐が棲んで居て、時々村の者を惱ましたさうである。その狐が、小助の鐵砲ならチツトモ恐しくないと嘲つたさうである。そして小助の老母に取憑いて、どうしても離れなんだ。これには遉がの小助も弱つてしまつた。そこで或時鐵砲に紙丸[やぶちゃん注:「かみだま」。]を詰めて、一發天井に向けて放して置いて、今度は眞丸[やぶちゃん注:「ほんだま」。]で擊つと嚇したさうである。それには狐が閉口して、明日の朝は間違ひなく出て行くからと、誓ひを立てたさうである。そんなら確かな證しを見せよと掛合つて、行掛けに屋敷向ふの谷下村へ越す途中で、片肢上げて相圖をする約束をさせた。その代り擊つてくれるなと狐が念を押したさうである。承知して朝になるのを待つて居た。翌朝早く起きて屋敷から見て居ると、如何にも谷下村へ越す坂を、狐が一匹ブラリブラリ登つて行つた、その内恰度屋敷の正面邊りへ來た處で、如何にも片肢上げて相圖をした。其處をドンと一發欺し擊ちに擊つてしまつたと言ふ。

 此小助の兄弟であつたか、或は親類であるか判然記憶せぬが、長篠村淺畑(あさばた)に、某音五郞という狩人があつた。鹿狩には矢張り名代の剛の者であつたと言ふ。格別逸話としては聞かなんだが、或朝起きて戶を明けると、表の眞中に巨きな山犬が坐つて、口を開いて何やら嘆願する樣子であつた、傍へ寄つて口中を檢めて[やぶちゃん注:「あらためて」。]見ると太い骨が咽喉に立つて居る、それを除いてやると、嬉しさうに尾を振つて立ち去つた、そして翌朝になると見事な大鹿が、門口に持つて來てあつた。猪の話の中にも言うた山犬の報恩話の一ツである。

[やぶちゃん注:「梅の窪」不詳。前にも述べたが、出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名がある(航空写真)。

「長篠村淺畑(あさばた)」スタンフォード大学の「三河大野」を見ると、旧「鳳來寺口驛」、現在の本長篠駅から少し東北へ行った宇連川右岸に「淺畑」の地名が見える。現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)である。

「猪の話の中にも言うた山犬の報恩話」「四 猪垣の事」参照。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 八 鹿に見えた砥石

 

     八 鹿に見えた砥石

 姬女郞の仕業かどうかは知らなんだが、丸山某の狩人が明治二十年[やぶちゃん注:一八八七年。]頃の事、鳳來寺山續きの、長篠村柿平(かきだひら)の山で、仲間二人と追出して擊つた鹿は、確かに右の後肢を傷つけたと言ふ。後肢を引摺りながら、山から谷へ、雪の眞白に降積つた上を、村の卵塔場を拔けて走り去る姿を明らかに見屆けた。それにも拘らず後には肢跡こそあれ一滴のノリ(血)も零れては居なかつた。脂肪の多い猪には間々ある事だつたが、鹿には甞て無い不思議であつた。遉がに仲間の一人は 怖氣づいて、再び追ふ事を肯かぬ[やぶちゃん注:「きかぬ」。]ので、そのまゝ遂に見遁したと言うた。然しどうしても諦められず、翌日更に狩出して、見事胴中を擊つて仕止めたと言うた。前日擊つた丸を調べると膝の骨を打碎いて居たが、如何にも血の流れた樣子は無かつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「長篠村柿平」スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、現在の柿平駅附近に「柿平」があり、「鳳來寺山續き」とあるから、その北の山(グーグル・マップ・データ航空写真)である。

「卵塔場」「卵塔」は本来は僧侶の丸みを帯びた無縫塔を指すが、ここは単に墓地の意である。]

 同じ男が或年の十二月、八名郡七鄕村名號(みやうご)の山で擊つた鹿は、僅か七貫目[やぶちゃん注:二十六・二五キログラム。]に足らぬ雄鹿であつた。それが時ならぬに雪よりも白い斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が肌に現はれて居たと言うた。これも山の不思議であつたが、實は何でも無い病ひ鹿で、夏毛のまゝ毛替りのせなんだ迄であると言ふ。丸山某は、名代のがむしやら者だつたのである。

[やぶちゃん注:「八名郡七鄕村名號」「七鄕村」は既出で「ななさと」と読む。先のスタンフォード大学の「三河大野」の柿平の東の、宇連川左岸に地名が打たれてあり、現行も新城市名号として旧柿平対岸の広域地名である(グーグル・マップ・データ航空写真)ことが判る。

「名代の」「なだいの」。評判の。]

 敢て不思議でも何でも無かつたが、某の男が鳳來寺村の淸澤の谷で擊つた鹿は、二匹捕つてそれが揃つて、見事な四ツ又の角を戴いて居たと言うた。鹿の角は三ツ又を限りとしてあつた。形こそ變つた物はあつても、完全に四ツ又に岐れた物は、珍しかつたのである。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村の淸澤の谷」不詳。]

 話は丸で違つて居たが、山の不思議を一段と具體化した話が、本宮山(ほんぐうさん)の口碑にあつた。本宮山は鳳來寺の西南方に當つて、豐川の西岸に聳えて居た高山である。頂上に國幣小社砥鹿[やぶちゃん注:「とが」。]神社の奧宮があつた。祭神は大己貴命であるが、別に天狗だとも謂うた。或時麓に住む狩人の一人が、鹿を追うて山中にわけ入つて、最初の鹿は遂に見失つたが、別に谷を隔てゝ一頭の大鹿の眠れるを見出した。直に矢を番へて放したが更に手應へは無かつた。幾度やつても同じなので、不審に思つて近づいて見ると、實は鹿と見たのは大なる砥石であつた。その時忽ち神意を感じて、その砥石を神として祀つたと言ふ。或は鹿に化けて居た天狗の話(拙著「三州橫山話」參照)などと、關係ある話かとも思はれる。

 本宮山には、以前は澤山の鹿が居つたもので、而も此處に產した鹿は、他に比べて遙かに大きかつた。俗に本宮鹿と言うて、特種だつたのである。三又の鹿なら普通十七八貫はあつた。一番と言へば先づ二十貫處が標準であつた。食物の關係で斯く大きかつたと言ふ。角振と言ひ姿と言ひ、申分の無い鹿だつたさうである。

[やぶちゃん注:「本宮山」「鳳來寺の西南方に當つて、豐川の西岸に聳えて居た高山」愛知県豊川市上長山町にある本宮山(ほんぐうさん:グーグル・マップ・データ地形図)。七百八十九メートル。早川氏の実家のあった横山(鳳来寺の南西の山麓)からは西南西に十二キロほど離れる。

「砥鹿神社の奧宮」本宮山山頂の少し南の長山町本宮下にある三河國一之宮砥鹿(とが)神社奧宮(グーグル・マップ・データ航空写真)。里宮は豊川市一宮町西垣内にある(グーグル・マップ・データ)。但し、公式サイトの里宮の歴史には、『「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある』「とが」は現在の社名の「砥鹿」と同音である)。『そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河 国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正二年)は次の様に伝えている』。『文武天皇の大宝年間[やぶちゃん注:七〇一年~七〇四年。]に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣[やぶちゃん注:「くさかどきんのぶ」。この使者の名も社名の由来とするものである。]卿が勅使として「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を取り上げて、七重の棚を作り』、『七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥三年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観十八年には従四位上に至った。こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである』。『その後江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、文政十年に正一位が授けられ、また明治四年には国幣小社筆頭に列せられた』とあって、社名とここに語られる里俗の伝承は交わるところが全くない。鹿の形をした砥石説は民俗社会で独自に形成されたものと思われる。

「大己貴命」「おほなむちのみこと」。大国主命の別称。底本では「大已貴命」(改訂版も同じ)であるが、誤植と断じて特異的に訂した。

「番へて」「つがへて」。

「鹿に化けて居た天狗の話(拙著「三州橫山話」參照)」「三州橫山話」は早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川)を中心とした民譚集。これは、既に掲げた早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」というページの、「三州橫山話」の中の「天狗の話」四話の中の第二話「鹿に化けていた天狗」であろう。リンク先のそれはPDFであるので以下に転写しておく(新字新仮名)。

   *

 某という猟師が、朝早く本宮山へ鹿を撃ちに行くと、行く手の大きな岩の上に、一頭の大鹿が眠っているので、早速丸ごめをして、狙いを定めて撃ったところが、さらに感じないで、鹿は相変わらず眠っているので、次から次と、六発撃っても何の手応えもないので、不審に思って、黄金の丸を出して撃とうとすると、そのときまで眠っていた鹿が、むくむくと起き上がったと思うとたちまち鼻の高い老人になって、さっきからの丸はみんなここへおくから、どうか命は助けてくれと言って、掌に持っていた丸をみんな岩の上において逃げていったという話を、出沢村の鈴木戸作という男から聞きました。

   *

「十七八貫」六十三・七五~六十七・五キログラム。

「二十貫」七十五キログラム。]

2020/03/24

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 七 山の不思議

 

     七 山 の 不 思 議

 山の神の手心から、獲物を匿される事は、前の猪の話にも言うた。それとは異つて、現在捕つて其處に置いてある獲物を、ちよつとの間、水を呑みに谷へ下つたりした隙に、影も無くなる事があつた。四邊に人影も無い深山の中であつて見れば、不思議と言ふより外なかつた。狩人はさうした時の用意に、獲物の傍を離れる時は、鐵砲と山刀を上に十字に組んで置いた。或は半纏などを掛けて置く事もあつた。鳳來寺山中などで、時折さうした目に遇つた。山犬の所爲とも言うたが、或は山男のなす業とも信じられた。

[やぶちゃん注:「山の神の手心から、獲物を匿される事は、前の猪の話にも言うた」「猪 十三 山の神と狩人」参照。

「山男」妖怪・異人・ヒト(サル)型異獣としてのそれ。山人(やまびと)・大人(おおひと)などとも呼称する。私のカテゴリ「怪奇談集」にも枚挙に暇がないほど出現する。例えば「谷の響 二の卷 十五 山靈」「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖(やまをとこ)が事」(私の注で「北越雪譜」の「異獸」も電子化してある)・「北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)」と同書の「北越奇談 巻之四 怪談 其十一(山男その二)」「北越奇談 巻之四 怪談 其十二(山の巨魁)」などを見られたい。ウィキの「山男」がよく纏まっているので参照されたいが、その概要によれば、『外観は、多くは毛深い半裸の大男とされる。言葉は、土地によって話す』ケースや、『まったく話さないなど』、変化がある。『人を襲ったり』、『これに出遭った人は病気になるなど』といった『人間に有害な伝承も』ないことはないが、『基本的には』妖怪・異人の中では特異的に『友好的で、人間に対して煙草や食べ物など少量の報酬で、荷物を運んだり』、『木の皮を剥いだりといった大仕事を手伝ってくれる』ケースが有意に見られる。『柳田國男によれば、山男との遭遇談は、日本の概ね定まった』十『数ヶ所の山地のみに伝えられており、小さな島には居ないと』するとある。]

 鳳來寺山は、全山九十九谷と言傳へて、地續きの牧原御料林を合せて、殆ど四里四方に亘る一大密林であつた。山中の地獄谷と稱する所などは、密林中に高く瀧が落ちかゝつて、風景絕佳であると言うたが、一度び奧へ入込めば、出る事は叶はぬとさへ言うた。その爲め一部の狩人の外消息を知る者も無かつた。偶々鰻釣りに入つた者の話では、思ひの外に谿川[やぶちゃん注:「たにがは」。]の樣が綺麗で、甞て釣を試みた者もあるらしいと語つた。隨分久しい前の話らしいが、八名郡能登瀨村の某家では、牧原御料林から、不思議な裸體の靑年を二人捕へて來て、農事を手傳はせたと言ふ。力が强くて主人の言付をよく守つたが、言葉が更に通じなくて困つたと言ふ。或は山男でないかとも言うたが、それ以上詳しい事は聞かなかつた。

[やぶちゃん注:「牧原御料林」個人ブログの「鳳来寺鉄道三河槙原駅加周組専用線(?)」の「鳳来寺有林」の記事によれば、『鳳来寺は愛知県でも有数の山岳寺院で江戸期には徳川将軍家から鳳来寺山などの寺領を安堵され』、『財政的にも豊かだったのが』、『明治期に寺有林を国有林として召し上げられた上に境内で火災が相次ぐなどすっかり疲弊していました』。『元寺有林だった国有林はさらに宮内省御料局(後の帝室林野局)の手に渡り』、『御料林となっていましたが』、『大正初期に鳳来寺再興のため服部賢成住職を中心として御料林払下げを嘆願、1919(大正8)年に3,112町歩、実測見込面積1,551haの寺有林を6677,130円で払い下げを受けることに成功します』。『帝室林野局としては近隣で面積が広く林相も良い段戸山の施業に集中したかったようで、鳳来寺山の御料林は飛び地となるため』、『所有することに左程意味が無かったのかも知れません』とあるので、現在の三河槙原駅の北方、鳳来寺の東北部の「愛知県立安城農林高校第二演習林」や「愛知県民の森」附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の旧称或いは俗称であろうと思われる。

「八名郡能登瀨村」現在の新城市能登瀬(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。前記地区の南直近である。]

 鳳來寺山から東に當つて、三輪川を隔てた八名郡大野町の奧の、山吉田村阿寺(あてら)は、ひどい山間の部落であるが、部落内に七瀧(なゝたき)と言ふ瀧があつた。その水源である栃の窪からハダナシの山へかけての山中は、昔から狩人が獲物を奪られる[やぶちゃん注:「とられる」。]と言傳へた場所だつた。現に經驗した者はもう聞かなんだが、その山に住むヒメン女郞(姬女郞)の仕業と謂うた。而も一方には、山の主が美しい片脚の上﨟と言ふ傳說もあつた。附近へ入込む者が、紙緖[やぶちゃん注:「かみを」。和紙で作った鼻緒。]の草履を穿いて居ると、必ず片つ方を奪られたと謂ふのである。

[やぶちゃん注:「三輪川」宇連川の別称。

「八名郡大野町」新城市大野

「山吉田村阿寺(あてら)」「部落内に七瀧(なゝたき)と言ふ瀧があつた」新城市下吉田ハダナシに現存する(サイド・パネルに写真あり)。

「栃の窪」不詳。

「ハダナシの山」前注の通り、小字地名としては残るが、山は不詳。

「ヒメン女郞(姬女郞)」ウィキの「片脚上臈」によれば、『片脚上臈(かたあしじょうろう)は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)に伝わる妖怪』で、『栃の窪という地からハダナシ山という山にかけて現れるという、美しい上臈姿の片脚の妖怪。紙製の鼻緒の草履を履いた者がいると、その片方を奪うという。山吉田村の阿寺には栃の窪を水源とする阿寺の七滝という滝があり、そこには不妊の女性に子宝の霊験のある子抱き石という石があったが、そこへ行くには紙緒の草履を履いていかなければならないとされ、そのような女性が片方の草履を奪われたという』。『また山中で、猟師が獲物を一時的に置いて水を飲みに行ったときなど、その隙に獲物を奪い取るともいい、獲物から離れなければならないときなどに、猟銃と山刀を十字に組んでおくか、袢纏をかけておくと、片脚上臈の怪異を避けるまじないになるという』。『獲物を奪うのは山男の仕業ともいわれるが、実際には山犬の仕業との説もある』とあり、これは総て(次段参照)本篇を元にして書かれてある。何故、片脚なのか(片目にされた一夜神主との通底が窺われ、或いはこの原型には山の神への生贄として捧げられた処女のイメージが隠されているのかも知れない)、また、紙緒(切れ易いので山入りの者の草履に紙緒は向かない。次段冒頭参照)が狙われるのかは定かでないが、紙緒は神事を行う者が用いることと関係があるのかも知れない。]

 山中で紙緖草履を穿く者も無かつたと思はれるが、實は別の話が絡んで居たのである。狩とはなんの關係も持たぬ餘計な事だつたが、話の次手[やぶちゃん注:「ついで」。]に、ヒメン女郞の傳說の結末をつけておく。

 前言うた七瀧の上に、子抱き石の出る個所があつた。子抱き石とは、石の中に更に別の小石を孕んだものである。子種の無い婦人が、其處へ行つて、一ツを拾つて懷にして返れば、懷姙すると言ふ言傳へがあつた。女連れなどで出かける者も少なくなかつた。その折紙緖草履を穿いていれば、必ずヒメン女郞に奪られたと言うたのである。現に草履を奪られて、いつか裸足になつて居たという女もあつた。

2020/03/23

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 六 鹿の毛祀り

 

     六 鹿 の 毛 祀 り

 狩人が鹿を擊つた時は、其場で襟毛を拔いて山の神を祀つた事は、猪狩の毛祀りと何等變はつた事は無かつた。只鹿に限つての慣習として、其場で臟腑を割いて、胃袋の傍にある何やら名も知らぬ、直徑一寸長さ五六寸の眞黑い色をした物を、山の神への供へ物として、毛祀りと一緖に、串に挿し或は木の枝に掛けて祀つた。これをヤトオ祀りと言うた。ヤトオは前にも言うたが、矢張り串であつた。その眞黑い物は何であつたか、狩人の悉くが名を知らぬのも、不思議だつた。腎臟だらうと言うた人もあつたから、或はさうかも知れぬ。ずつと以前は、兩耳を切つて、ヤトオ祀りをしたと言ふが、近世では耳の毛だけを串に挾んで祀る者もあつた。然し後には臟腑を割く事をも略して、只毛祀りだけで濟ましたものもあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「ヤトウは前にも言うた」「三 猪の禍ひ」を参照されたい。またここでの祭祀法は「十三 山の神と狩人」も参照のこと。]

 狩人としては、一度び傷を負はした獲物は、たとへ二日が三日を費しても、後をとめて倦む事をしらぬのが嗜であると言うた。某の狩人は、或時朝早く、出澤の村のコヤン窪で一頭の鹿を追出した時、鹿は驀地に峯へ向けて逃げ去つた。それを何處迄もと追縋つて、或時は山續きの谷下(やげ)の村を追い通し、更に引返して出澤の村の東に當るフジウの峯に追ひ込み、峯を越してその日の午過ぎには、瀧川の村に出た。又もや山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の、赤目立の林に追込み、又もや峯一ツ越えて作手(つくて)の荒原(あはら)村の手前の舟の窪で、やつと仕止たと言うた。十六の年から狩りをしたが、此の時ほどの骨折は先づ無かつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「後をとめて」「とめて」は「とむ」=「尋む・求む・覓む」で、後を追い求めて、の意。

「嗜」「たしなみ」。猟師の常に守るべき心得。絶対的な心構え。殺生を敢えてする以上、そうする以上はなるべく苦しめずに往生させるべきことへの自戒としての意識である。

「驀地に」「まつしぐら(まっしぐら)に」と読む。「驀地」の音は「バクチ」。「地」は地面の上の意ではなく、中国語で副詞を作る接尾語である。

「出澤の村」前にも注したが、「出澤」は「すざは」と読む。新城市出沢(すざわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「コヤン窪」不詳。次の「谷下」を「山續きの」と言っているところからは、この付近(航空写真)の山中の幾つかある窪地の一つであろう。

「谷下(やげ)」現在の新城市出沢根岸谷下(ねぎしやげ)であろう。

「出澤の村の東に當るフジウの峯」改訂本では『藤生(ふじふ)』とあるが、この地名は現認出来ず、古い地図でも見当たらない。しかし、「出澤」は寒狭川(豊川)の右岸部分で東は終わる(対岸が早川孝太郎氏に故郷である横川(旧横山))から、この附近の出沢地区の東北に走る複数の尾根の孰れか(航空写真)と考えてよい。

「瀧川の村」国土地理院を見ると、出沢の北に接して寒狭川沿いに「滝川」の地名を見出せ、スタンフォードの古い地図でも「瀧川」とある。

「赤目立」「あかめだち」か。地名は不詳だが、「瀧川の村」から「山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の」とあるから、スタンフォードの古い地図で、「瀧川」の西の「272」ピークと、その先の「532」ピーク辺りまで追い込んだと読める。距離から見て、その先の出沢の北直近の現在の新城市布里(ふり)地区にこの「赤目立の林」はあったと考えられる。そこから南西に沢を下れば(と言ってもなかなかの深山である)、現在の新城市作手荒原(つくであわら)で、ここが「作手(つくて)の荒原(あわら)村」であるからである。

「舟の窪」不詳。ただ「窪」と言い、「荒原(あはら)村の手前」と言うところからは、国土地理院の「669」ピークに南麓、航空写真の現在の作手荒原の人家のある「寺木野」のこの辺りではないかとも思われる(但し、その北西の山中にも人家はある)。ともかくも、ここまで実働十二時間ぐらいは経過している計算になる。]

 同じ男が舟著連山の七村で、大鹿を追出した時は、その鹿が峯から谷、谷から村と、終日目まぐるしい程逃げ回るので、何處迄もと追つて行く内、行く先々で、その鹿を目がけて鐵砲を放す者があつた。大方他の狩人達も、目がけて居るとは豫期して居たが、最後に大平の奧に追詰めて斃した時、其處へ集まつて來た狩人を數へると、總勢三十六人あつた。而もその狩人連が、放した彈は全部で十三發で、その十三發が一ツ殘らず中つて居たには、呆れ返つたと言ふ。三十幾人の狩人が何の連絡も無しに、一ツの鹿を一日追通したのである。こんな馬鹿々々しい事は、昔も聞いた事が無いと、みんなして大笑ひに笑つたさうである。

[やぶちゃん注:「舟著連山の七村」改訂版では『舟着山麓に七村(なゝむら)』とある。旧「八名村」なら舟着山の南西麓に見出せるが、「七村」は見当たらない。サイト「歴史的行政区域データセット」の「愛知県八名郡七郷村(ななさとむら)」(明治三九(一九〇六)年に合併して出来た旧村)の地図を見ると、「舟着山」連山の東北の尾根の間の辺りが七郷村の下方の飛地に当たることが判る。ここか?]

 さうかと思ふと、狩人は一人で、獲物ばかりが多くて、弱つた事もあつた。或時出澤の茨窪(ばらくぼ)の人家の背戶へ一匹の鹿を追込んだ狩人は、思ひがけなく行手の木立から、雄鹿ばかり七つ、モヤモヤと角を揃へて走り出したのに、狙ひつける的に迷つて、悉く逸してしまつた事があつた。その狩人の話だつた、狩りの運は別として、雄鹿が七ツ角を揃へて駈け出した處は賑やかなもので、見た目だけでも豐樂であつたと言ふ。

 前の話もさうであるが、かうした出來事を總て山の神の手心と言うたのである。

[やぶちゃん注:「出澤の茨窪(ばらくぼ)」出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名があるが(航空写真)、多量の鹿の出現はこの辺りなら相応しい気はする。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 五 鹿皮のタツヽケ

 

     五 鹿皮のタツヽケ

 

Tattuke

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。キャプションは「鹿皮のタツヽケ」。]

 

 鹿の角が忽ち家々から消えて了つたのも、實は角買が盛に入込んで、買つて行つたのが、最も大きな原因だつた。

[やぶちゃん注:「タツヽケ」「裁付」で現代仮名遣では「たっつけ」。労働用の山袴(やまばかま)のこと。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)をセットした形態で、膝下がぴったりした実働性に富んだ袴である。元は地方武士の狩猟用の服であったが、戦国時代に一般化し、江戸時代には広く庶民の仕事着となった。角兵衛獅子或いは相撲の呼出しなどが着用した。]

 或家では、以前狩人だつたにも依るが、主人が昔風を改め得ない性分も手傳つて、もう何處の家にも無くなつてから、軒や土間の隅に幾本も吊してあつた。事實さうしてあれば、何彼[やぶちゃん注:「なにか」。]につけて都合もよかつたさうである。

 それが近頃になつて、角買が目をつけ出した。賣れ賣れと執こく[やぶちゃん注:「しつこく」、]責めるのに、遂に斷り切れなくなつて、若主人が全部引外して、纏めて賣つてしまつた。家中を探し集めたら、十七八本もあつたさうである。その金で先祖代々の位牌を拵へたと言うた。鹿の角が無くなつても、格別不自由はせなんだが、只簔などの置場が無くなつて、埒もなく其處[やぶちゃん注:「そこいら」。]へ丸めたり載せて置いたりして、始末が惡くなつたさうである。

 角と共に、鹿が村へ殘して行つたとも言へる物に、鹿の皮のタツヽケがあつた。秋から冬にかけて村々を步けば、白い皮のタツヽケを穿いた男を時折見た。麥畑に耕作して居たり、山から薪を負つて出て來たりした。多くはタツヽケと同じやうな、老人であつた。畑などに穿いて出ると、忽ち皮の色が汚れてしまつたが、一日山を步いて來れば、木の枝や茨で洗濯されて、眞白になつたさうである。

 家々を尋ねて廻つたら、どの家も同じやうに、以前はあつたがもう無いと言ふ。老人が死んでから、久しく物置に投げ込んで奥内、いつか蟲が附いて居たのに、慌てゝ谷へ捨てたのもあつた。ボロと一緖に棒手振などに賣つたのもあつた。女達が少しづゝ剪つて、針止めや針山を作り作りする内、紐ばかりになつたのもあつた。よくよく丹念な心掛の善い家か、老人でもある家の外は、無くなつて居たのである。律義者で通つた或老人は、親類への年始廻りに、必ず著けて來たと言ふ。

[やぶちゃん注:「棒手振」「ぼてぶり」。商品を天秤棒で担いだりして売り歩いた商人。近距離で小規模の行商であるが、山村では何でも屋的な仲介者として民の売買に係わった。]

 以前はタツヽケ屋と言ふ專門の職人が、時折回つ來たさうであるが、多くは大鹿を獲つた每に狩人自身が拵へたものである。何でも以前のタツヽケは、鹿が二頭なくては、作れぬとも言うた。前に言うた、鳳來寺三禰宜の一人だつた平澤某は、作るに妙を得て居て、方々から賴まれたものと言うた。そのタツヽケを、未だ大切に藏つてある[やぶちゃん注:「しまつてある」。]家もあつた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺三禰宜猪」「十六 手負猪に追はれて」を参照。]

 いろいろの話を總合すると、鹿皮のタツヽケを狩人が着けたのは、餘り古くは無かつた。以前は物持などでない限り、滅多に着けなんだ。狩人が、山で雨に遇つた時など、慌てゝ脫脫いで丸めたと言ふからは、よくよく大切な狩衣であつたのである。

 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「澄江堂遺珠」という夢魔 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐藤春夫 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 津村淙庵「譚海」 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芸術・文学 萩原朔太郎 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏