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カテゴリー「早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】」の60件の記事

2020/04/12

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 跋 + 目次 / 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 全電子化注~了 

 

   

 えて冬に有がちな天候であつた。夏分にあるアブラ日と云ふのとも異つて、ドンヨリ落付いて、晴とも曇とも、境目の判らぬやうな空合である。かうした日に限つて、物の隈がはつきり浮いて、遠くの山の木の葉も、一枚一枚算へられる。大小樣々の恰好をした山のツルネに圍まれた中は、丸で水の底のやうな靜けさを保つて、次の瞬間に、何事か待ち受けてゞも居さうな一刻である。

[やぶちゃん注:「えて」「得て」。「得てして」の意。ある様態になりそうな傾向のあるさま。ややもすると。ともすると。

「アブラ日」油を流したように風のない日のことか。

「空合」「そらあひ」。空模様。

「ツルネ」所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」によれば、『連峰のこと。山』の脊梁『線が著しい高低なしに続いている地形』で、『峰、連峰、峰から峰へ続く脊梁、ツンネとも尾根ともいう』とあり、使用地域の中に愛知を挙げている。]

 かうした折であつた。體中の血も暫く流れを止めたやうに、懶くて、肉體が表面から段々ぼかされて溶けて、まわりの空氣から土の中へ沁み込んででもゆくやうである。何處か斯う、地の果からでも湧いて來るらしい、幽かな喧燥が、次々に漂つて來た、それが一度、肉體の何處かに觸れたと思ふと、忽ち異常な緊張が蘇つて來る。それが何であるか說明は出來ぬが、アツ何處かで猪を追(ほ)つて居る、と口の端へはもう出て來たのである。凝と耳を澄すと、如何にも何處かでホイホイと掛聲がする、キヤンキヤンと細い犬の鳴聲も聽へる。成程猪追ひらしい、軈てそれ等の響が、次第に近づいてはつきりして來る。風が峯を渡つて來るやうだ。

[やぶちゃん注:「懶くて」「ものうくて」。

「まわり」ママ。

「猪」「しし」。以下でもそう読んで貰いたい。

「追(ほ)つて居る」「猪 一 狩人を尋ねて」に「猪追(しゝぼ)ひ」で既出既注であるが、再掲する。矢ヶ﨑孝雄氏の論文「岐阜県下白山東・南麓における猪害防除」(『石川県白山自然保護センター研究報告』第二十四集・PDF)を読むに、少なくとも中部地方では「猪」或いは「猪狩り」を「ししぼい」と呼んでいることが判る。サイト「横手/方言散歩」のこちらに拠れば、「広辞苑」には「ぼう」で「追ふ」として「追(お)う」に同じとし、「ぼいだす」(追ひ出す)で「追い出す」・「たたき出す」、「ぼいまくる」(追ひまくる)とある。しかも、角川書店版「古語辞典」には「ぼいだす」を「たたきだす」、「ぼいまくる」(ぼい捲くる)で「追いまくる・追い払う」として、「ぼふ」「ぼひ」は方言ではなく、ちゃんとした古語であること認定している。秋田県でも「ぼう」は全県で「おふ(追ふ)」の意であるという。]

 狩人が猪を追つて、山を越えて近づきつゝあるのだ。鐵砲の音がした、矢聲が續けさまに響く、猪追ひは今まさに酣であつた。畑に働いて居る者も、路を步いて居た者も、もう昵として居られぬやうな氣がした。何處だらうと、仕事の手を休めただけでは濟まされない。思はず宛もなく走り出す者もあつた。人々の胸には、猪の走つてゆく姿が、明らかに眼に映つて居たのである。

[やぶちゃん注:「矢聲」射手が放った際に大声を揚げること。ここはでは鉄砲の射手の声。

「酣」「たけなは」。]

 村の人々にとつては、猪追ひそのものが、單なる興味ばかりでなかつた。別に何物か劇しく心をひかれるものが、體の何れかに、未だひそんで居たのである。

 かうした村の人々が、獸の話に興味を抱き、好んでそれを物語つたり聽かうとしたのも、實は由來が遠かつたのである。狩の話が面白くて忙しい仕事も忘れて、畑の隅に踞んだまゝ、半日潰してしまつたなどの事も、ちつとも無理ではなかつたのである。

 

    ○

 

 猪・鹿・狸と、山の獸の名が麗々と竝んで居ながら、獸そのものゝ話が、至つて尠かつた事は、語る者としても誠に遺憾である。獸の話が尠い理由は、實は別にあつたのであるが、話の内容としては、此話の全部が、本來「三州橫山話」と一緖に語るべき性質であつた。從つて話の範圍も、橫山の村を中心とした、僅か數里に亘る地方より以外には、殆ど及んで居なかつた。悉く其處で生れて、成長したものである。そこで「橫山話」とは絕えず觸合つて居ながら、どちらか一方に纏めて、筋目立てる事の出來なんだのは、誠に齒痒い限りである。

[やぶちゃん注:「三州橫山話」早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」PDFで総てが読める。]

 自分にとつては、橫山は祖先以來の地で、生まれて十數年間は、殆ど一步も外の地を踏まずに、育くまれて來た因緣の土地である。境遇も感情も、只の村人に成り切つて居たであらう、もともと普通の百姓家に生れて、村一般の仕來り[やぶちゃん注:「しきたり」。]の中で育つたのだから、これは當り前のことである。話にしても、村の人が興味を持つて語る事を、そのまゝ素直に享け入れたまでである。餘り村の人そのまゝである事に、今でも驚いて居る位である。然し假にこの物語の内容に、村の人らしくない、心持に隔りがあつたとすれば、それはこの話をする現在である。東京に十幾年暮らして居た爲である。その爲なまじい都會人らしい常識が混つて來たとしたら、話そのものゝ爲には、本意ない譯合である。然しその事はどうとも致方ない。どうやら橫山に咲いて、小さいながらも、實を結んだのが、東京だつたとするより詮ないことである。

 

    ○

 

 獸の話が少なかつた理由は、第一には蒐集が未だ充分で無かつたことにも據るが、それよりも、本來を言ふと、橫山附近の土地が、渠等[やぶちゃん注:「かれら」。]獸にとつて、既に足跡の餘り濃い地方では無かつたかと考へられる。地勢から言うても、附近の狀況から見ても、さうではないかと思ふ。假に足跡が濃厚だつたとしても、もう久しい以前のことで、近世では、渠等の爲に一箇所取遺された場所に過なかつた。そんな風に考へられるのである。斯う言ふと、話の内容と、大分矛盾する點もあるが、渠等が土地から姿を匿したのは、村の人々が信じて居た如く、三十年四十程度のもので無くて、その間に、もつと隔りがあるのではないか。實は話にしても、事實にしても、正に盡きんとする爐の榾火[やぶちゃん注:「ほだび」。]が、炭に變る時の、最後の輝きを見せられて居たので、例へば話の一ツ一ツを克明に辿つて見ても、どうもそれ以前に、大分影が淡くなつて居たらしい形蹟が認められる。

 勿論程度の問題であるが、例へば明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]頃の、段戶山中に現れた夥しい鹿の群なども、實は久しい言傳への幻影であつて、事實は嘗てある時代に、峯から峯を越えて、霧の如く消え去つたもののやうに考へられる。假に此判斷が誤つて居たとしても、四周[やぶちゃん注:「まはり」と当て訓しておく。]の狀況から見て、何處迄も話の儘を事實として言張れない氣がする。

 今一つの理由は橫山の地勢であつた。山地とは言ひ條、一方外界との交涉がはげしくて、靜かに話を繰返して居るには、あまりに忙しすぎた。早くから汽車の笛を聞くやうになつた事が、獸以上に、早く話を亡びさせてしまつた原因の一つであつた。

 

    ○

 

 橫山は東三河を縱貫した豐川の上流で、遠江國境には、三四里の路程にある一寒村である。村から言ふと、西南方卽ち豐川の下流地方と、北東山地との境界に當つて居た。東海道筋からは入つて、豐川の流れに沿つた七里の路は、稍平坦な丘陵を縫うて走つて居たが、此處から急に山が高くなつて、路は山又山の間を、信濃に向つて辿つて居たのである。其間は所謂北三河の山地で、現今の北設樂郡で、昔の振草の里であつた。段戶山を初め、月(つき)の御殿山(ごてんやま)、三ツ瀨の明神山など、代表的深山で、其處は未だ文明の光も透さぬ、天狗山男の世界の如く永い事信じられて來たのである。山稼ぎを職とする杣木樵[やぶちゃん注:「そま・きこり」。]の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]も多く入り込んでいた。その連中が、珍しい物語を運んで來て流布したのである。自分などもそれを好んで聽いて信じたものであつた。猪鹿[やぶちゃん注:「しし・しか」。]を初め多くの獸の本據も又其處にあつて、村が山續きに續いて居る如く、獸も又其處と連絡して居ると信じて居た。恰度表口と背戶のやうに、一方東海道筋の明るい交涉を受けながら、背戶口は依然として、昔の儘の山の影響が深かつたと云ふのが、橫山の實際だつたのである。

[やぶちゃん注:「振草の里」愛知県北設楽(きたしたら)郡東栄町(とうえいちょう)大字振草(ふるくさ)(グーグル・マップ・データ)。

「段戶山」「だんどざん」。北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称(グーグル・マップ・データ)。

「月(つき)の御殿山(ごてんやま)」北設楽郡東栄町大字中設楽にある御殿山(ごてんざん)。標高七百八十九メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「三ツ瀨の明神山」北設楽郡東栄町大字本郷にある明神山(国土地理院図)。標高千十六・三メートル。「三ツ瀨」の集落は東の谷間にある。]

 然しながら、村の者が、獸の本據の如く考へて居た山の實際も、今日では話その物と大分の隔りが出來た。今年の正月、北から南へ振草の里を越して見ると、自分が步いた範圍では、猪鹿の類もとくに姿を消して了つて、もう二十年も經つて居た。猪などは反つて、吾が在所の方が本據のやうに思はれた。實は以前から信じて居た、山續きの交涉は、いつか斷たれて居たのである。して見れば橫山の猪なども全く孤立した山陰に取遺された集團の一つに過ぎなかつた。それも、僅かな數であつた。一個の猪の影を、地を代へ人を代へて、幾つにも見た程度のものである。

[やぶちゃん注:「今年の正月」本書は大正一五(一九二六)年十一月刊。]

 こゝに集まつた話が恰度それであつた。山陰に取遺されたもので、とくに消えて居た筈のものである。それだけに、内容の無い、影の淡い話ばかりだつた。其上にも話の一つ一つが、何年前の事、何處の出來事と、その折々に孤々の聲を擧げたものばかりでなく、話が生れると同時に、もう久しい傳承の衣を着けて居たらしいのである。

 

    ○

 

 獸ばかりでない、猪鹿狸に絡んだ人間のことや家の物語もさうであつた。一々正確な事實の記錄とばかり極められなかつた。例へば鳳來寺行者越の一ツ家である。そんなに古くも無いことが、幾通りにも語られて居た、劍術使ひの又藏老人が、死んだのは明治になつてらしいが、相貌の說明にも二通りあつた。一眼であつたと言ふ一方に、いやさうで無いと言張る者があつた。いやたしかに一ツだつた、現に一ツは弓術の遺恨から、大野町の某に、欺討ちにされたと言ふのである。然し斯うした問題は、年次に據つて、どうとも解釋せられたから文句は無いが、四尺幾寸の小男であつた事は確らしいのに、立派な體格だつたなどゝ、途方も無いことを語る者のあつた事である。斯うなると、話も何を的に聽いて宜いか判らなかつた。話し手の精神狀態から硏究して掛る必要も生じて來る。然しそれは到底不可能な事である。せめて話手の姓名年齡から、出來れば性質も少しは擧げる必要がある。性質は未だしも、姓名と年齡は是非共言はねばならぬ。それが多くの場合不充分であつた。實は大抵判つて居るのであるが、いろいろの筋合から、わざと省いた事である。それには話の煩はしさを考へた結果もあるが、もつと大きな理由は、その人々への遠慮であるが、讀者には誠に相濟まぬ次第であるが、かうした類の話の種になつた事を、何か馬鹿にでもされた如く、思込んで居る人が、未だあるらしいのである。勿論その人々とて、それが眞の心持ではないと思ふが、さうした心遣ひから、話に迄手加減した點も又あつたであらう。

[やぶちゃん注:「鹿 十一 一ツ家の末路」を参照。「大野町」もそこで注しておいた。]

 

    ○

 

 この話が世に出るについて、第一に思出さねばならぬことがある。東京の山の手の、樫の木立に圍まれた家であつた、其處は外濠に近い高臺の屋敷町で、東京の町中で居ながら電車の響も大分遠かつた。西向に庭を控へた部屋の、片隅に置かれた椅子に腰を下すと、硝子戶越に、うつすりと靑苔を被つた庭土が見えた。恰度その中央あたりに、櫻桃が不調和に枝を伸して居て、それと向ひ合つて、古いドウダンの株があつた。庭の行詰りは、高く伸た[やぶちゃん注:ママ。「のびた」。]カナメの株が竝んで居た。今思ふと、もう幾年かになつた。その部屋を訪れる度、次から次へ、きまりもなく語つた話が、いつとなしに溜まつてしまつた。たとひ塵埃にしても、これだけになつて見れば、此儘更に谷や川へ持出して捨てゝ了ふのは惜しい、何とか成らぬかと言はれるまゝ、思ひ切つて似よりの物だけづゝ、又小分けに拾ひ上げて見る事になつた。それが此處に集めたものだつたのである。考へると、可成り永い間だつた。或時は櫻桃の花がもう散りかけて居た。それが實を結んで、幾度か花を持つたのだ。カナメの葉が、一枚一枚日に輝いて、ハツキリ讀まれた事もあつた。寒いみぞれの來さうな日に、虎鶫が一羽何處からか迷ひ込んで、頻りに苔をついばんで居た、暑い夏の日盛りを、白い猫が、靜かに飛石の間を步いて行つた事もあつた。今思ひ出して恐縮する程、よくも臆面もなく、橫山の村の爐緣を持出したやうな話を續けたものだ、さう言へば、あの椅子の前に在つた四角な火鉢臺が、その爐緣の役目をしたのである。してみると語手の自分は橫座に向つて坐つた木尻の客だつたのである。假に火鉢臺に心があれば、そんな吞氣話を、此處でされてたまるかと、さう言うたかも知れぬ、その間に、部屋の長押に掛つて居た、六つかしい維新の元勳の書が、いつか橫山の山を描いた額に變つて居たのも偶然だつた。

[やぶちゃん注:「櫻桃」「あうたう(おうとう)」。サクランボの木。恐らくはバラ亜綱バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ Prunus avium であろう。

「ドウダン」ツツジ目ツツジ科ドウダンツツジ亜科ドウダンツツジ属ドウダンツツジ Enkianthus perulatus。漢字表記は「灯台躑躅」「満天星」。

「カナメ」バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra。要黐。

「虎鶫」スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma

「木尻」「きじり」と読む。炉端の末席に当たる。横座(主人の座)の対面で、使用人などが座る座を指す。薪をここからくべるので、薪の尻が向くことから生じた名称(デジタル「大辞泉」のこちらの画像で位置関係を確認出来る)。]

 木尻の客は、話が濟んで腰を上げて、暇乞をして玄關を出るとホツとした。何かしら口に言現はせない、體中汗ばんだやうな興奮があつた。外には明るい都會らしい日が照つて居た。足を電車通りの方へ運ぶ間、名殘の夢でも惜しむやうに、暫くは村を思ひつゞけた。さうして、甞て自分に語つてくれた村の人々の顏が、何の屈託も忘れて居そうな目付が、しきりに胸に蘇るのを感じた。

 その人々の中には、語り了つた時に、眼を眞赤に泣腫らして居た人もあつた。遇つたら話さうと、忙しい仕事の間にも、忘れまいと心掛けて居てくれた人もある。ほんの子供の頃聽いた話を、何十年か胸に藏つて置いて、問はれた爲に語つたといふ女もあつた。その人々の顏付だけ思ひ出してみても、語つた時は自分と同じ心持だつた事が判つた。よし明かに意識はしなくとも、尠くも話て居た間だけでも、話さぬより幸福だつたに異ひなかつた。

 その人々の中には、もう死んでしまつた人もいる。一遍は語つても、仕事や境遇に追はれて、再び思ひ出さぬ人もあるであらう。このまゝ放つて置いたら、何れは何處とも無く消えてゆくに決つて居る。して見ればこの小篇は、それ等の人々の爲にも、或は又山陰で淋しく亡びて行つた猪や鹿や狸の爲にも、一基の供養塔であつた。形はよし拙なくとも、建てたその者は因緣が薄くとも、永く山口の草に埋もれつゝも殘るであらう。斯う考へれば、あの橫座の主に迷惑を掛た[やぶちゃん注:ママ。「かけた」。]のも、火鉢臺に退屈さした事も、この供養塔の建つ因緣だつた。どうしても吾一人の問題では無かつた。さう思へば、後から後から、多勢の人や獸が動いて居るやうだ、そうだその人々に代つても、先づ第一に溜息を吐く程の大きな感謝を、あの橫座の主に捧げねばならぬ。さうして今一人、この供養塔の爲に決して忘れてはならぬ恩人があつた事である。

 

  大正十五年十月    早 川 孝 太 郎

 

 

 

[やぶちゃん注:以下に奥附があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの底本画像のそこにリンクさせるだけで、省略する。]

 

 

 

[やぶちやん注:以下、目次を配する。リーダと「頁」とページ番号は省略した。章番号は半角漢数字二桁であるが、見難いので章のそのままに全角で採用した。そのため、字配を独自に揃えた。それぞれにリンクを張るほどには私はお目出度い人間ではない。カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』で開いて頂ければ、容易に見つかる。悪しからず。]

 

     目   次

凡  例

 一  狩人を尋ねて

 二  子猪を負んだ狩人

 三  猪の禍ひ

 四  猪垣の事

 五  猪の案山子

 六  村の變遷と猪

 七  猪除けのお守

 八  空想の猪

 九  猪の跡

一〇  猪に遇つた話

一一  猪狩の笑話

一二  昔の狩人

一三  山の神と狩人

一四  猪買と狩人

一五  猪の膽

一六  手負猪に追はれて

一七  代々の猪擊

一八  不思議な狩人

一九  巨猪の話

 

鹿

 一  淵に逃げこんだ鹿

 二  鹿の跡を尋ねて

 三  引き鹿の群

 四  鹿の角の話

 五  鹿皮のタつケ

 六  鹿の毛祀り

 七  山の不思議

 八  鹿に見えた砥石

 九  鹿擊つ狩人

一〇  十二歲の初狩

一一  一つ家の末路

一二  鹿の玉

一三  淨瑠璃御前と鹿

一四  親鹿の瞳

一五  鹿の胎兒

一六  鹿捕る罠

一七  大蛇と鹿

一八  木地屋と鹿の頭

一九  鹿の大群

 

一   狸の怪

二   狸の死眞似

三   狸の穴

四   虎挾みと狸

五   狸を拾つた話

六   砂を振りかける

七   狸と物識り

八   狸の火

九   呼ばる狸

十   眞黑い提灯

十一  鍬に化けた狸

十二  狸か川獺か

十三  娘に化けた狸

十四  狸の怪と若者

十五  塔婆に生首

十六  緋の衣を纏つた狸

十七  狸寄せの話

十八  狸と印籠

十九  古茶釜の話

二十  古い家と昔話

二十一 狸の最後

    ――――――――――――――――

 

 

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 二十一 狸 の 最 後 / 早川孝太郎「猪・鹿・狸」本文~了

 

     二十一 狸 の 最 後

 村の狸の話もはや末であつた。屋敷近くの森や窪に居た狸は、家の者と呼くらして[やぶちゃん注:「よびくらして」。呼び返し比べをして。]負けて、腹を上にして、とくに軒下へ來て死んで居た。その他の古狸の多くも、大方は狩人に鐵砲で打殺されたり、カンシヤク玉を嚙まされて、口中を打割つて死んでしまつた。煮て喰つたが肉が恐ろしくこはかつた位で、簡單に結末が着いて居た。甞て多くの物語を遺したものにしては、あつ氣ない最後であつた。それからもう一ツ、呼び負けたり鐵砲で打たれたで無く、稍狸らしい最後を遂げたものがある。鐵道が通じたと同時に、汽車に化けて、反つて汽車に轢殺されたのである。何處にもある話で、餘り煩はしいが、一通り言うて見る。

 明治三十幾年であつた。豐川鐵道が初めて長篠へ通じた時である。川路の正樂寺森の狸が、線路工事の爲めに穴を荒らされた仕返しに、或晚機鑵車に化けて走つて來て、此方から行く汽車を驚かした。初の時は汽鑵手もうつかりして、慌てゝ汽車を止めたが、次の晚には、向ふも同じやうに警笛を鳴らしたが構はず走らせると、その汽鑵車は、フツと消えて、何やらコトリと轢いたと思つたが、只それだけでもう何事も無かつた。翌る朝見ると線路に古狸が一疋轢かれて死んで居た。それを線路工夫が拾つて煮て喰つたげな、あの川路の停車場から少し長篠寄りの、山をえらく掘割つた處だと、最もらしい話だつた。それから正樂寺の森へは、ちつとも狸が出ぬと言ふ。

[やぶちゃん注:「明治三十幾年」「豐川鐵道が初めて長篠へ通じた時」豊川鉄道株式会社は現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の前身となる鉄道路線を運営していた鉄道会社で、吉田駅(現在の豊橋駅)から長篠駅(現在の大海駅)までの区間及び豊川駅から西豊川駅までの支線を運営していた。ここで言うのは、その現在の大海駅である(グーグル・マップ・データ)。現在の「大海駅」は明治三三(一九〇〇)年に開業され、昭和一八(一九四三)年に国有化されるまでは、南へ向かう豊川鉄道と北へ向かう鳳来寺鉄道の境界の駅であったが、この二つの私鉄時代には、一部の時期を除いて「長篠駅」と称した

「川路の正樂寺森」サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」の本篇を見ると(PDF)、編者によって『正楽寺(勝楽寺)森』と編者によって補正されている。現在の新城市川路(かわじ)夜燈(やとう)にある曹洞宗聖堂山勝楽寺(グーグル・マップ・データ)。航空写真に切り替えると、寺の背後(北)に森があるが、それが現在の飯田線で北の尾根と見事に分断されていることがよく判る。

「川路の停車場から少し長篠寄りの、山をえらく掘割つた處」勝楽寺の東直近の現在の「三河東郷」は旧「川路駅」である。]

 妙な事に此話の生れる前に、同じ類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]の話を自分なども既に聽いて知つて居た。話は川路よりは遠かつたが、初めて東海道へ汽車が通じた時だと言ふ。寶飯郡の五油と蒲郡の間のトンネルで、古狸が汽車に化けて轢かれたと專ら言うた。トンネルが出來て穴を毀された恨みと言ふのも前の話と違はなかつた。汽車が第一に運んで來た土產だつた事はよく判る。如何な狸の奴でも、汽車には叶うまいなどゝ、感心したものであるが、一方から考へると、狸にとつての汽車は、トンネル工事で穴を毀される以上に、憎い憎い敵であつたかも知れぬ、さうして結果は狸が負けて亡びて行つたのである。

[やぶちゃん注:「寶飯」(ほい)「郡の五油」(ごゆ)「と蒲郡」(がまごほり)「の間のトンネル」この「御油」は実際の御油ではなく(東海道本線は旧東海道の宿場として知られた御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)を経由していない)、今の「愛知御津(あいちみと)駅」(グーグル・マップ・データ。左右に蒲郡駅と愛知御津駅を配した)が明治二一(一八八八)年から昭和二三(一九四八)年の間は「御油駅」を名乗っていたのである「今昔マップ」のこちらを見られたい)。さて、そのまま「今昔マップ」を蒲郡方向に移動させてもらうと判る通り、トンネルはここしかない。愛知県蒲郡市三谷町のこのトンネルである(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 トンネルの事から、もう一ツ連想する話があつた。明治の初年、長篠の湯谷から、川傳ひに牧原(まきはら)へ越す峠を、獨力で開鑿してトンネルにした者がある。その後其處の山の狸が、穴を荒された腹癒せに、每晚出て惡戲をする、日が暮ると、マンボ(トンネル)の中程に傘をさして立つて居て嚇すと言うた。穴を荒した主で無しに、通行人に仇をしたのは聞えぬ譯合[やぶちゃん注:「わけあひ」。]だつたが、此方[やぶちゃん注:「こつち」。]は汽車で無かつたゞけ、狸の方は太平樂でやつて居て、結局、通行人が永い事迷惑したのである。然し其處の狸は、格別殺された話も聞かなんだが、近年人道の下を更に汽車のトンネルが通じたから、或は又變な眞似をして轢殺されたかしれぬ。然し未だ聞いて居なかつた。或はとくに何處かへ安住の地を求めて去つたのかも知れぬ、もう大した噂も聞かなかつた。

[やぶちゃん注:「長篠の湯谷」(ゆや)「から、川傳ひに牧原へ越す峠」思うに「牧原」は現在の「槙原」であろう。現在の飯田線で「三河槙原」南一本手前が「湯谷温泉」駅である(国土地理院図)。例えば、この分岐で止った道が一つ候補である(現在の宇連川右岸の人道は飯田線と並行しているので問題にならない。「近年人道の下を更に汽車のトンネルが通じた」となると、神社記号(大當峰神社)の下のトンネルか、その先の短いそれしか、現在はない)。

「マンボ」「トンネル」の方言。小学館「日本国語大辞典」の「まんぼ」によれば、採取範囲は新潟県・静岡県榛原(はいばら)郡・愛知県北設楽郡・三重県北牟婁郡・滋賀県彦根・石川県江沼郡・福井県・三重県阿山郡・京都府何鹿(いるか)郡を挙げる。他に「まんぼう」「まんぶ」「まんぶり」があり、中部・近畿を中心にかなり広く用いられていることが判る。岐阜県「瑞穂市」公式サイトのこちらを見ると、地下用水路や鉄道構造物としての各種トンネルを指す語として登場するものの、こちらでは『マンボの語源には諸説あると』あり、『谷崎潤一郎は小説「細雪」の中で「オランダ語が語源」としています。ちなみに、作品中のマンボは現在の兵庫県西宮市近辺のもので、一部は現存しています。その他にも坑道を表す「間歩(まぶ)」に由来するとか、マンホールに由来するとかいう説もあるそうなのですが、結局のところよく分かっていないようです』とあって、「日本国語大辞典」で「まぶ」(漢字は「間府」「間分」「真吹」を当てて『鉱山の穴。鉱石を取るために掘った横穴。鉱道。坑道』とある)を『調べた』ところ、その『語源初出が』慶長一七(一六一二)年で『あることを考えると、上の説のうち「間歩」説が正しいように思われます。戦国時代後期から江戸時代初期にかけて、西欧の影響により金銀山の採掘技術が発達しました(例えば世界遺産の石見銀山など)。この技術が農業用水に転じ、関ケ原などの大規模地下水路に活かされたと考えるのが自然でしょうか』とある。この記載、どこから「間歩」を出してきたのか判らないことや、そもそも「まんぼ」と「まぶ」を安易に同一としているのが果たして正しいかどうかというところが杜撰ではあるが、読み物としては甚だ面白い。]

 半殺しの狸ではないが、未だ言殘した事が一ツある。橫山から東へ、遠江引佐郡別所(べつしよ)の、本龍寺と云ふ古寺では、夜になると狸が雪隱[やぶちゃん注:「せつちん」。]に來て惡さをすると謂ふ。或時寺に居た娘が用足に行つて、靑くなつて逃げて來た。寺婆が檢分に行くと白髮のえらい爺が、中に踞んで居たと言ふ。明治初年の事で、その婆さんから直接聞いた話が傳つて居た。又狸が雪隱の戶を鳴す話は外にも聽いたものである。誰も居ないのに、キーと音がするのは、狸だなどゝ言うた。此話と關係があるかどうか知らぬが、山小屋などでも、狸が雪隱について困ると言ふ事を度々聽いた。

[やぶちゃん注:「遠江引佐」(いなさ)「郡別所の」「本龍寺」現在の静岡県浜松市北区引佐町別所にある曹洞宗本龍寺(グーグル・マップ・データ)。

「明治初年」慶応四・明治元年。日本では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで旧暦を採用していたため、そこまで西暦とはずれが生ずる。グレゴリオ暦では旧暦明治元年一月一日から十一月十八日までが、一八六八年一月二十五日から十二月三十一日までで、旧暦明治元年十一月十九日から十二月三十日までが、一八六九年の一月一日から二月十日までとなる。さらに面倒なことに慶応四年九月八日に明治に改元したものの、「慶応四年を以って明治元年とする」としているため、旧暦の慶応四年一月一日に遡って明治元年は適用されるのである。なお、慶応四年九月八日は西暦一八六八年十月二十三日である。また、この年の一年は閏四月のある十三ヶ月間で三百八十三日間あった。(以上はウィキの「明治元年」に拠った)。実に凡そ百五十年前。明治は遠くなりにけり、である。

 因みに、この蒸気機関車に化けて本物とタイマンして轢かれて化け狸が滅亡した「偽汽車」の都市伝説はよく知られている。本邦の鉄道開通は明治五(一八七二)年九月十二日(新橋―横浜間)であったが、柳田國男は大正七(一八一八)年(九月『たぬき』初出)に「狸とデモノロジー」という短文を発表して、その中で既に(「ちくま文庫」版全集に拠る)、

   *

よく貉が汽車に化けて軌道を走り、そして本当の汽車に轢かれて往生したなどという話をもの聴き、下らぬ惡戯をする滑稽な動物だと、実はつい近頃までも思っていたのだ。

   *

と述べており(「一」末尾)、また、最後の「四」では、狸は「化け試みるをもってしてもその術の拙きゆえんが知れる」として、

   *

狸が酒蔵に棲み、造酒の時ならぬのに董事(とうじ)の造酒の歌を謡って人を驚かしたなどという話もある。私の親戚の家に奉公した男に醬油屋をしていたものがおったが、その醬油庫は昔村の繁昌の時に作った芝居小屋の後であった。そこに狸が潜んで夜な夜な三味を弾くやら義太夫を謡うやら、宛(あたか)も芝居でする樗蒲(ちょぼ)[やぶちゃん注:芝居の「義太夫語り」のこと。語り目をチヨボ点で記して置いたのに始まる。]というような事をしたという話であった。東海道の鉄道沿線には狸がよく汽車の真似をする。まず遠くに赤い燈光が見えると思うと次第にガーガーと凄じい音響が加わるので何であろう、貨物列車も通る時間じゃないと思うて間近くなるや、燈光は車輪の響きとともにバッタリ跡方もなく消え失せる、これは狸の仕業だという話もある。また常陸の霞浦附近、すなわち土浦辺ではよく狸が河蒸気の真似をして、ポーポーッと威勢よく入って来る。今夜は常よりも少し早く入って来たなと思って岸に出てみると何の影もないという話も聴いた。これらは多少目の方も混じているげれども、総じて耳を欺くに傾いている。がこれとても狸のみに限った訳ではない。前に咄した本所のおいてけぼりもやはり耳を欺くものだ。この類の咄はどこにもある。土佐にも広島にもある。窓先に煤掃くように声がする、誰だろうとて急いで開げてみると何もいない。耳を澄ますと前の声が一丁ばかり遠い処になってやはり幽かに聞え渡るなどとも言う。紫宸殿の怪物の「その声鵺(ぬえ)に似たりけり」などあるもこの類だ。越後にも小豆洗いという化物がある。多く水辺で、深夜耳を峙てて聞けば、ザクザクとちょうど穀類を磨ぐような声がするという。どうしてそれを小豆磨ぐ声と聞き定めたかそれは分らぬが。これもやはり耳を欺く化物だ。また木挽坊(こぼきぼう)というものもある。これは深山大沢の中で木挽の木を挽く真似をするのだ。次には天狗倒(てんぐだお)しといい、樵夫(しょうふ)が幽谷に入ると、たちまち幾抱えもある大木の倒れるごとき音がしてびっくりさせる。しかもその音はまったく空音でなんらの形の認むべきものがないというの類だ。かくのごときば日本の至る所に聞く妖怪談でつまり国民的のお化けといってよろしい。だいたい説明の付け得ぬ音響がするとただちに不思議として、あるいはこれを狸の仕業に帰するのだが、果してそれが狸の所業であるという事については確証がない。前の汽車の話にしたところが、狸自身が私がいたしましたと名乗りて出たものなら間違いがなかろうが、そんな事のできるはずもなげれば、ただ人間が勝手にこれは不思議だ、必定狸の悪戯であろうというに止(とど)まるのだ。砂播きも同じ事でやはり狸の自白した訳でもない。いったい誰でも道を歩くと、耳の錯覚からか、なんらか一種砂播くような声を耳にする事があるものだ。定かにそれとは分らぬながら、それかと思えばそれとも聞き取らるる事がある。その時日頃心に描きおる憎い狸を引き出して、それの所行に人間の方から定(き)めてしまうまでの事だ。ちょうど新聞記事などに悪い事が見えると、これは誰が書いたのだろう。あいつだろう。いやこいつであろうと種々邪推の結果、最後にきっと誰々だと、平素いちばん憎く思っているものをそれに擬して定めてしまうようなものだ。播州の私の郷里から二里隔った所に寺のような建築があってそこに父が塾生を置きなどしたが、庭の一部分は荒廃してそこに用いられぬ茶室があった。誰いうとなく狸が棲むという話が伝えられたが、夜寝ると母堂が必ず魘(うな)される。それを狸の所業だといっていたが、母堂のヒステリーにもとづくので何も狸の知った事ではなかったであろう。また東京へ来て下谷の御徒町に住まった時に、兄がどうした事か夜な夜な魘されて仕方ない。兄はそれを気にしていたが、一日どこで聞いて来た事か知らぬけれども、その家は狸屋敷だと話したものがあったそうで、それから兄は、警戒し始め、何か庭先を通る音でもするとすぐにこれは狸じゃないかと言う始末、その時分兄は大きな八角の樫の棒を持っていたが、ある夜更けにはしなく雨戸を敲く音がした。すわというので雨戸を開け放って見ると何の事だ大きな猫であった。かくのごときも狸の怪談の信用ならぬ証拠であろう。目に訴えた感覚にもこれに類した話はいくらもある。まず朧気なる感覚を強いて誤りやすい方のあるエジェントに帰してしまうのである。日本全国到る所にお化話はあるが皆これである。まあイリュージョン・オブ・オバケという解釈からするとこうだ、いやかくのごときはお化けにとってイヴォリューションか、ディヴォリューションか分らぬ。

   *

と擱筆している(「エジェント」は “agent”(エージェント)で「代理者」、「イヴォリューション」は“evolution”で「進化」、「ディヴォリューション」は“devolution”で「退化」の意)。ここでは聴覚的眩暈に柳田が着目しているのは非常に鋭く、そこから「天狗倒し」に遡るのは非常に評価出来る。ウィキの「偽汽車」でも最初に民俗学的に汽車に化ける狸に着目したのを柳田としている。そこで『偽汽車の話は鉄道開通間もない頃と語られる事が多いが、松谷みよ子は、鉄道開通後の運転手がイギリス人だった時代には狸が轢死した・化かしたなどのうわさの報告が無い事を指摘し、明治』一二(一八七九)『年以降に、汽車の運転手が日本人になったことが偽汽車の話の誕生に関係していると推測している』とある。これは松谷みよ子の「現代民話考」(立風書房刊。私は全巻所持している)第三巻の「偽汽車・船・自動車の笑いと怪談」(一九八五年刊)の枕の部分の「偽汽車考」の一節であるが、都市伝説の上限が確かに正確に遡り得る、非常に興味深い指摘である。岩手の例は、かの「遠野物語」(リンク先は私のカテゴリ「柳田國男」。「遠野物語」を全電子化注してある)の原作者佐々木喜善の「東奥異聞」(大正一五(一六二六)年坂本書店刊)で、その話の梗概は以下である(「偽汽車・船・自動車の笑いと怪談」より)。

   *

 岩手県和賀郡和賀(わが)町。自分の所から二十里ほどの後藤野[やぶちゃん注:「ごとうの」。]の話。なんでもこの野に汽車がかかってからほど近いじぶんのことであろう。いつも夜行のときで汽車が野原を走っていると、ときでもない列車が向こうからも火を吐き笛を吹いてぱっぱっやってくる。機関士は狼狽して汽車を止めると向こうも止まる。走ればやっぱり走り出すといったような案配式で、野中に思わぬ時間をとりそのためにとんでもない故障や過ちが出来てしまつにおえなかった。そんなことがしばしばあるとどうも奇怪な節が多いので、ある夜機関士が思いきっていつものように向こうから非常に勢いこんで驀然と走ってきた汽車に、こちらから乗りこんでゆくと、ちょうど真にあっけなく手ごたえがなさすぎる。それで相手の汽車はたあいなく消滅したので翌朝調べてみると、そこには大きな古ギツネが数頭無惨に轢死しておったというのである。

   *

これは正直、元の文章をかなり圧縮したもので、「礫川全次のコラムと名言」の『佐々木喜善「偽汽車の話」(1923)』の初出形を読まれた方がよい。そうして、冒頭で佐々木は『此の偽汽車(ニセキシャ)だけは極く新しい最近に出来た話である。ずつと古いところで明治十二三年から廿年前後のものであろう。其れにしては分布の範囲は鉄路の伸びるに連れて長く広い。克明に資料を集めて見たら、奥は樺太蝦夷が島の果てから、南は阿里台南の極みまで走つて居るかも知れない。自分は資料を多く集める機会をもつて居らぬが、誰でもこの話はどつかで一度は聞いたことがあるだらう。そこで自分の方の話から初めにして、次ぎに諸君から聴き度いと思ふのである』と述べている。ただ、この佐々木の話自体はロケーションから見て、「偽汽車」濫觴期よりもかなり後であると考えられる。何故なら、まず『よくは訊いて見ぬが奥州の曠原に汽車のかゝつたのは何でも明治廿二三年頃のことであらう』と佐々木は述べ、ここでのロケーションを『陸中和賀郡』『後藤野の話』としている点である。東北本線の全線開通は明治二四(一八九一)年であるが、この話は実は東北本線軌道上の出来事ではあり得ないからである。この陸中和賀郡の後藤野という場所は、その「和賀町」とあるのに言い換えてみても、東北本線より西にあるからで、佐々木が敢えて「後藤野」と限定して言っている点では、国土地理院図の「和賀町後藤」はここになるからである(東北本線から九キロメートルも西である)。そして、そこの南を走っている北上線の方の全線開業は、大正一三(一九二四)年十一月十五日のことだからである。則ち、佐々木の当該書は大正一五(一六二六)年刊なのだから、佐々木の前振りの通り、文字通り、「後藤野」を「夜汽車」が走るとなら、それは大正十三年末から佐々木が聴き取るまでのごく短い間のまさに出来立てほやほやの「新しい噂話」だった。だからこそ、佐々木は敢えてそのような前振りをして語り出したのではなかったか?

 但し、松谷氏の当該書では多くの「偽汽車」伝承を収録しているが、北海道の例はない。これは本来はアイヌ民族の民俗社会としての北海道や(但し、アイヌに於いてもタヌキはやはり人を化かすようである)、入植と開墾という歴史を考えると、噂話としての発生のタイミングが微妙にずれ、しかも急速に近代化してゆく中で「汽車に化ける」というシチュエーションの発生する機会を時代遅れなものに変えてしまったものと私には思われる(なお、北海道には哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ亜種エゾタヌキNyctereutes procyonoides albus のみがおり、本州・四国・九州のホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus とは異なる亜種である。エゾタヌキはホンドタヌキよりもやや被毛が長く、四肢もやや長めである)。

 さて、この「偽汽車」伝説の発生したとする時制の上限を明治十二、十三年とするのを受けて、松谷氏は「偽汽車考」で明治一〇(一八七七)年十一月二十七日附『読売新聞』の記事を引き、『汽車の笛も遠く響きて今月二十四日の夜十時の蒸汽車が、高輪八ツ山下』(無論、品川のかのゴジラが上陸した品川区北品川である)『へ来る時、一匹の大狸が駆け出して線路を横切るところを汽車に轢かれ、そのまま死にましたが、大方狸仲間に身を置きかねることがあって、この頃流行の鉄道往生のまねをしたのでありましょう』とあるのを引いておられ、また、この事実記事が都市伝説としてどう変形するかを、「偽汽車」本文冒頭の「狸や狐、汽章に化けて衡突……」という東京都の望月新三郎氏の語りで示している。

   《引用開始》

 むかしは、鉄道といったって、今の汽車と比べたら、まるで、玩具みてえなもんだった。陸蒸気[やぶちゃん注:「おかじょうき」。]といって、足の早い者なんか、追い越しちまったくれえだ。

 その頃の品川あたりは、今じゃ、屠殺場の向うまで埋め立てちまったけど、波がパシャン、パシャンとくる海岸ぷちを走っていたもんだ。そら、淋しいところで、狸や狐もいっぱいいたな。夜になると、こう、陸蒸気が走っていくと、シュ、シュ、ポッポ、ポォーって音がしてきて、向う側から汽笛を鳴らして、陸蒸気がやってくるだってよ。はじめのうちは、機関士も、こら、衝突しちゃ、かなわねえから、その度に停っちゃ、様子をみてたんだ。

 ところが、一向に汽車はやってこない。こらあ、おかしいってわけで、ある目の夜、いつものように、シュ、シュ、ポッポ、ポォーて音がして、汽笛が聞こえてきたが、えい、かまうもんかっていうんで、スピードを出して突っ走ったんだ。

 するてえと、正面衝突するかと思ったら、何ごともなく走っていっただよ。

 一夜明けて、八ツ山の下あたりの線路のところに、大狸が死んでいたということだ。まだ、陸蒸気の頃は、単線だったんだから、向うから、むやみに汽車がやってくるわけはないんだよ。まあ、狸は物真似が好きだったんだな。

   《引用終了》

さて。ともかくも私はこれらの話に、滑稽よりも、民俗社会の変容の哀れを感じてしまうのである。文明開化の心なき科学技術としての汽車や電灯が、人を化かす狸を轢き殺し、魑魅魍魎の跳梁する闇を隅から隅まで照らし出して追い込み、旧態然とした彼らを完全に駆逐してしまったかのように見せる、古典的妖怪の死の瞬間を思うのである。しかし、アーバン・レジェンドとして装いも新たにしたトレンドでハイブリッドな現代的妖怪として、彼等はまた百年後に「口裂け女」や「人面犬」となって蘇生したのではあった。

 以上で、早川孝太郎「猪・鹿・狸」の本文は終わっている。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 二十 古い家と昔話

 

     二十 古い家と昔話

 鳳來寺村峯の某の家は、おそろしく古い家で、何代前に建てた事か想像も出來ぬ程煤に埋もれて居たと謂ふ。どうした譯か此家には、昔から狸が棲んで居るといふ噂があつた。姿を見せるとは言はなんだが、夜など客が爐に向つて主人と話して居ても、時折バサリと變な音がして、急に燈火が暗くなる事がある。その時は自在鍵の上から、何やら箒のやうな物が下つて居る。それが狸の尻尾だとも謂うた。それで居て格別その狸が惡い事をするとも聞かなんだが、或時若主人が、近所の噂を氣にして、狸退治をする事にした。爐に靑杉の葉を山と積んで、ドンドン燻し[やぶちゃん注:「いぶし」。]立てると、遉がの古狸も閉口したと見えて、壁から壁へサツと尾を打ちつけては、天井から天井を遁げ廻る音を聞いたが、遂に取押へる事は出來なんださうである。然し其事以來狸は屋敷を遁げ出して行つたらしく、それらしい事もなかつたという。或は尙居るなどゝもいうたが、十數年前家を取毀してしまつたと言ふから、何れにしてももう何處かへ宿替へした事であらう。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村峯」国土地理院図のここに「峰」がある。]

 北設樂郡本鄕の、某といふ酒屋の土藏にも、狸が棲んで居ると謂うた。永い事酒を呑んで、腹のあたりが赤い色をして居る。それでその土藏を取毀した時には、澤山の同類と共に、次から次へ遁げて出たとも謂うた。

[やぶちゃん注:「北設樂郡本鄕」愛知県北設楽(きたしたら)郡東栄町(ちょう)大字本郷(グーグル・マップ・データ)。]

 長篠の城跡の近く、寒峽川と三輪川の渡合にあつた長盛舍という運送問屋の荷倉にも、狸が棲んで居ると專らいうた。其荷倉は久しい前に取毀してしまつたが、おそろしく長い建物で、中へは入ると、一方の端は見かすむ程だつたと言ふ。如何にも狸が棲みさうだと言うた者もあつた。其處の狸が、時折近所へ出かけて、人を化すとも言うたが、時折倉の中で亂癡氣騷ぎをやつて、その太鼓や笛の音が川を越した乘本(のりもと)や久間(ひさま)迄手に取るやうに聞こえたさうである。

[やぶちゃん注:「寒峽川と三輪川の渡合」「わたしあひ」と読み、合流点のこと。「三輪川」は宇連川の別称。長篠城北直下のここ(グーグル・マップ・データ)。]

 此の荷倉の話でもさうであるが、古い大きな建物の形容に、狸が出さうだとは一般にいうた事である。

 これで狸の話も略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]材料が盡きるから、八疊敷の昔話をしてそろそろ終りとする。自分等が聽いた昔話の中で、狸を扱つたものは文福茶釜にカチカチ山位なものであつたが、別にきんたま八疊敷と謂ふのがあつた。此話は二通りあつたやうで、子供の頃度々聽かされたものであるが、話が下品とでも思つたせいか、詳しく記憶せなんだのは遺憾である。

 先づ一人の博奕打[やぶちゃん注:「ばくちうち」。]があつて、どうした譯だつたか狸の化けた賽ころを手に入れる。その賽ころは男の言ふ通りに目が出るので、大分具合がよい。それでいろいろな物に化けさせたが、或時隣家に婚禮があつて、何か祝ひ物をせねばならぬが生憎何も無い。そこで賽の目に鯛と出ろと言ふと、見事な赤鯛になる。男がそれを持つて隣家へ呼ばれて行く。鯛はいろいろ譽言葉[やぶちゃん注:「ほめことば」。]を受けて、軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]臺所へ下げられ、料理の段になつて、爼[やぶちゃん注:「まないた」。]に載せられると、急に跳ね出して、遂々[やぶちゃん注:「たうとう」と訓じておく。]床下へ跳込んでしまふ。そんな譯で男が無理な註文ばかりするので、狸が愛想を盡かす、いよいよ別れる段になつて、八疊敷きを見せる事になる。そして立派な靑疊を敷き詰めた座敷になるが、男が見惚れて煙草の喫殼[やぶちゃん注:「すひがら」。]を落すので、ジヾと音がして座敷は忽ち消えてしまつて、男は一人廣い野原の眞中に坐つて居たと言ふやうな筋だつた。

 今一ツは、一人の小僧が道で皺くちやになつた、袋のやうな物を拾ふ、觸ると溫かで、柔らかでモヂヤモヂヤしたものである。その袋が、前の話と同じやうに、小僧の言ふ儘いろいろの物になつて見せる。最後に小僧が八疊敷と言ふと、見事な座敷になつたが、中に一ヶ所變な括り目[やぶちゃん注:「くくりめ」。]のやうな處がある。小僧がそれを氣にして、針の先でチヨイと突くと、ジヾと音がして元の毛だらけの變な物になつてしまつて、もう役に立たなんだと謂ふのである。

 

2020/04/11

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十九 古茶釜の話

 

     十九 古 茶 釜 の 話

 文福茶釜の話の次手に、狸とは直接緣を引いて居ないかも知れぬが、在家の爐口に吊してあつた茶釜の話がある。話の端が、幾分でも狸の問題に觸れて來ればめつけものである。

 近在で使用して居た茶釜は、もつとも多く寶飯[やぶちゃん注:「ほい」。]郡の金屋(かなや)で出來たものと謂ふ。棗形で底に疣が三つ出て居た。肩の處に蔓が附いて居た。別に丸形の中央が膨れて、腰鍔のある茶釜をば、文福茶釜と呼んだのである。文福茶釜を使つてゐる家は滅多になかつた。爐に掛けるに工合が惡かつたからである。

[やぶちゃん注:「寶飯郡」「ほいぐん」。

「金屋(かなや)」愛知県豊川市金屋町(かなやちょう)であろう。古くからの鋳物師の町である。

「棗形」「なつめがた」。

「疣」「いぼ」。

「腰鍔」「こしつば」。釜本体の中央部分円周に水平に飛び出している羽のこと。]

 前にも度々話した追分の村の中根某の家は、家としても古かつたが、爐に掛かつて居る茶釜がおそろしく古い物だつた。形は普通で心持ち丸形だつた。天正時代、長篠城三茶釜の一ツで、大したものだなどゝ謂うた。近頃になつて、其家の老人が時々思ひ出したやうに、其の茶釜を流れに持出して磨いて居るといふ話を聞いた。今に三百兩位で何處からか買手が出て來るだらうなどゝ、一人極め[やぶちゃん注:「ひとりぎめ」。]して居たさうであるが、此頃でも矢張爐に掛かつて居るといふ。

[やぶちゃん注:「追分」現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ)。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。後者は一五八二年十月十五日から行用されたが、日本では天正十年九月十九日に当たる。]

 自分の家の近所にも一個古いと言うふ茶釜を持つて居る家があつた。爐に吊してある處を通りかゝつた棒手振が見て、これなら五兩迄買ふと保證したとかで、大切にして居た。格別見た處變つても居なかつたが、底に疣のないのが普通の茶釜と異つて居た。

[やぶちゃん注:「棒手振」「ぼてぶり」と読む。「振り売り」とも。近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態で、笊(ざる)・木桶・木箱・籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、種々の商品を売ったり、頼み仕事や物品買い取りなど多様なことを行った。]

 長篠村西組の赤尾某の家は、大して立派な暮らしもして居なかつたが、長篠戰爭時代から續いた舊家と言うた。此家の爐に掛かつて居た茶釜は、戰爭當時用ひた陣茶釜であると謂ふ。極く小形のもので、如何にも只の茶釜でない事は肯かれた。然し永い間問題にもならずに來たが、家が不如意になつて、小さな處に住むやうになつてから、近くの醫王寺の和尙が目を附け出して、大變な執心で遂に主人を口說[やぶちゃん注:「くどき」。]落して、永代祠堂金の代に寺へ引取つて行つたと謂ふ。和尙はそれを、前からあつた長篠役の遺物の中に加へて、來客に茶を立てたりして珍重して居たが、明治三十幾年醫王寺の出火に遇つて、殆ど形ばかりに成つてしまつた。寺へ遣つたばかりにあんな事になつたと、元の持主の老人が澪して[やぶちゃん注:「こぼして」。]居るのを聞いた事がある。

[やぶちゃん注:「長篠村西組」まさに医王寺を中心にしたこの広域(グーグル・マップ・データ)であろう。

「長篠戰爭」「長篠の戦い」。天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)にこの三河国長篠城を巡って、三万八千の信長・家康の連合軍と、一万五千人の武田勝頼の軍勢が戦ったそれ。

「明治三十幾年醫王寺の出火」正確な回禄のデータを知り得なかった。]

 長篠城の倉屋敷の跡に住んで居た林某の家の茶釜も、珍しく古い物で、此家で家財整理をした折に、買取つた者が意外な金儲けをした噂があつた。林某の家も舊家で、長篠合戰の勇士の後裔であつた。

[やぶちゃん注:「長篠城の倉屋敷の跡」「新城市」公式サイト内の「長篠城跡周辺案内図」PDF)によって、長篠矢貝津(やがいつ)のこのT字路の東北角部分に蔵屋敷があったことが判る。]

 八名郡山吉田村新戶(あらと)の某の家の茶釜も、古いものだつたさうである。珍らしく大きな茶釜だつたが、形は變つては居なかつた。湯が沸いて來ると、釜の肌色が赤味を帶んで[やぶちゃん注:「おんで」。帯びて。]來て、何とも言へぬ光澤が出て來るのが不思議であると言うた。後に主人が床の間に持込んで花を活けてあると云ふ話を聞いた。

[やぶちゃん注:「八名郡山吉田」(やまよしだ)「村新戶」現在の新城市下吉田南新戸(しもよしだみなみあらと)(グーグル・マップ・データ)附近かと思われる。]

 斯うして竝べて見ると、古い茶釜の話の家が、どれも舊家であるが、何れも家運が以前程でなくなつて居たのである。勿論不如意になつてこそ、自在鍵に掛けられた茶釜も問題になるのであるが、別に茶釜と家の福分とを、結びつけた何物かがあつて、こんな話も出來て來るのでないかと思ふ。茶釜の中に福の神が居ると言うて、自分なども幼少の頃から八釜しく言はれたものであつた。三州橫山話に書いた村の長者の家は、主婦が誤つて茶釜に錘(つむ)を當てたゝめに、家の福の神が遁出して[やぶちゃん注:「にげだして」。]、忽ち沒落したと言うて居る。今一段と材料を集めて行つたら、福の神の正體が意外な姿を顯はして來さうにも思はれる。

[やぶちゃん注:「三州橫山話に書いた村の長者の家は、主婦が誤つて茶釜に錘(つむ)を當てたゝめに、家の福の神が遁出して、忽ち沒落したと言うて居る」サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」の先行する「三州橫山話」の「村の草分け」である。全文を引用させて頂く。

   *

 村の草分けとも言うべき旧家は、字神田の山口と言う家だとも、宮貝津の早川孫三郎と言う家だとも言い、字神田の長者平は、昔長者の屋敷跡とも言いますが、近い頃まで栄えていたのはこの二軒だけでしたが、今はどちらも没落してありません。

 山口と言う家は百年ほど前までは非常に栄えていたそうで、今でも立派な屋敷跡がありますが、ある時この家の召使が、過って茶釜に紡錘をあてたために、その夜座敷に住んでいた福の神が遁げ出したので、それからだんだん家運が衰えてしまったと言うことです。福の神の姿を見たとは言いませんが、翌朝裏口に、非常に巨きな足跡がたった一つ、後の山の方に向けてあったと言います。(茶釜や茶釜の蓋へ紡錘をあてることを厭む風習があって、蓋へあたったかしら、というぐらいでも早速修験者を招いて祈祷をして、その蓋は川へ流したなどの事実を微かに記憶しています。紡錘を当てるのは、ツム倒れといって厭むとも言います。)

 早川孫三郎と言う家は、今から四〇年前に、一家を挙げて東京へ引き払ったそうで、今は屋敷跡は畑になっていますが、この家の没落は、村の鎮守が、昔は自分の家の地の神であったという理由で、その森を伐り払って、鎮守を自分の所有の芝刈山へ遷座した罰とも言います。家運の乱れるそもそもの最初は、ある朝、この家の家内が井戸で水を汲もうとすると、井戸車へ、ぱっと優曇華が咲いたといって、アレ優曇華が、と言って見返す間に消えてなくなったとも言いました。横山の御館と言えば、近郷に鳴り響いた家柄で、座敷の縁側に立って、眼に入る限りの山や畑が、全部この家の所有であったと言います。伝説には、先祖が横山の字コンニャクと言うところの岩山で金を掘って富を獲たとも言って、そこを現今でも金掘りと称えておりますが、別の話ではそこは後世掘りかけて中止した跡だとも言います。

 横山の村のものなどは、二、三のものを除いては、対談の叶うものはなく、全部が召使のようで、この家の田植に出なかったため、村を追われるところを、詫びを入れてやっとゆるされたなどの話がありました。全盛の最後の人は、村の者が俗に今様と呼んだ人で、体格も勝れて立派であったと言うことですが、子供の頃は類い稀な美少年で、ある年の田植に、畔に立って苗を運んでいる姿を、通りすがりの道者が見て、こんな山深い土地に、かくまで美しい子供があるものかと見とれて行ったと言うような話もありました。

 鎮守の森を伐り払った時は、今から九〇年前だそうですが、故老の話に、幾百年を経過したともはかり知れない古木が、鬱蒼と茂っていて、川を隔てて大海村の鎮守の森と、枝と枝とが相接した間に、無数の群猿が遊んでいた光景は見事なものであったと言います。

   *

・「字神田」これで「あざ」「じんでん」と読む。早川氏手書きの同書の「橫山略圖」PDF)の右下方、寒狭川(早川氏はこの図だけでなく、本書でも一貫して「寒峽川」と表記しておられる。以前に述べた通り、峡谷の川であるから、この表記もありだと思う)の「猿橋」の左岸に「(字神田)」とある。横川(よこがわ)神田(じんでん)(グーグル・マップ・データ航空写真)。

・「宮貝津」神田の南東の横川宮貝津(みやかいづ)(グーグル・マップ・データ航空写真)。

・「長者平」先の地図の「(字神田)」と書かれた位置の左上方の道を隔てた直近に「長者址」とある。

・「茶釜や茶釜の蓋へ紡錘」(つむ)「をあてることを厭む風習」「その蓋は川へ流した」「紡錘を当てるのは、ツム倒れといって厭む」この禁忌は何かで読んだ記憶が確かにあるのだが、思い出せない。思い出したら、追記する。

・「優曇華」「うどんげ」。仏教伝承にある架空の花で、三千年に一度だけ花を咲かせるといい、その時に金輪王(こんりんおう:転輪王の一柱で、転輪王の中で一番最後に出現し、金の輪法を感得して四州全体を治めるとされる聖王)が現世に出現するという。

・「御館」「おやかた」と訓じておく。

・「横山の字コンニャク」「現今でも金掘りと称えております」先の地図の中央上部の山稜の、少し左手に行った谷に「(コンニヤク)」と「金掘址」とある。妙な地名とお思いだろうが、実は寒狭川を挟んだ向かい側の山中(かなり離れる)にも、新城市浅谷蒟蒻があるのである。

・「今様」「いまさま」か。

・「鎮守の森を伐り払った時は、今から九〇年前だそう」「三州横山話」は大正一〇(一九二一)年の刊行だから、一八三一年前後で文政十三年・天保元年・天保二年前後に相当する。先の地図の右下の寒狭川左岸一帯に「鎭守址」とあるのがそれであろう。

・「大海村」新城市大海(おおみ)(グーグル・マップ・データ)。そ「の鎮守の森と、枝と枝とが相接した間」はこの付近となる(グーグル・マップ・データ航空写真)。

 さて本書の本文に戻ると、最後に「今一段と材料を集めて行つたら、福の神の正體が意外な姿を顯はして來さうにも思はれる」と早川氏が示唆するのは、以上に引用した「三州橫山話」で「裏口に、非常に巨きな足跡がたった一つ、後の山の方に向けて」残して去ってしまった、その「福の神の正體が」実は狸の化身であったという可能性があるのではないかと言うことであろうと私は読むのである。

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十八 狸と印籠

 

     十八 狸 と 印 籠

 狸から福分を授かつたと謂ふ類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]話が、極く微か[やぶちゃん注:「かすか。]ではあつたが遺つて居た。長篠村大字富榮(とみさか)字富貴(ふうき)の某家には、昔、諸國行脚の狸から讓られたと謂ふ一個の印籠があつた。諸國行脚の狸はちと恠しいが、大方僧侶に化けた狸の事でもあつたらうか。その爲め家が永く富み榮えて、家數三四戶しかない僻村を、冨貴と呼んだのも、その家に依つて出來た名と謂うた。その印籠が轉々して今は近くの村の物持の家に祕藏されて居る。從つて代々の持主であつた家も、早昔の面影が無くなつて居るのは是非もない事だつた。その印籠は、仔細あつて自分も一度見た事がある。黑塗りの中は、粗末な梨地に塗つてあつた。惜しい事に蓋は久しい前に失つたとかで見當らなかつた。打見た[やぶちゃん注:「うちみた」。ちょっと見た。]處では、格別狸が吳れたらしい處もない、只の印籠である。妙な事にその印籠の由來について、別に柳生十兵衞が武術修行の折に、遺身に置いて行つたとも言うて居る事であつた。狸と柳生の劍術使ひと、何の緣故も無さゝうなのに、どうしてそんな說が出來たかは判らない。

[やぶちゃん注:「印籠」江戸時代、武士が裃(かみしも)を着た際に腰に下げた小さな容器状の装身具。左右両端に紐を通して、緒締(おじ)めで留め、根付(ねつけ)を帯に挟んで下げる。室町時代に印や印肉の器として明国から伝わり、後に薬を入れるようになった。三重・五重の円筒形・袋形・鞘形などがあり、蒔絵・堆朱(ついしゅ:朱漆を何回も厚く塗り重ねたものに花鳥・山水・人物などの文様を彫ったもの)・螺鈿などの精巧な細工が施されているものが多い。

「長篠村大字富榮(とみさか)字富貴(ふうき)」新城市富栄富貴(グーグル・マップ・データ)。

「梨地」梨の実の表面のようにザラザラした状態や印象を与える対象物に表面の感じを指す。伝統工芸では織物や蒔絵の加工の一つ。

「柳生十兵衞」江戸前期の旗本で剣豪として知られる柳生三厳(みつよし 慶長一二(一六〇七)年~慶安三(一六五〇)年)。十兵衞は通称。大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪柳生宗矩(むねのり)の子。初めは徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり(寛永三(一六二六)年二十歳の時。であるが、理由は不明)、後に許されて書院番を務めた(寛永一五(一六三八)年)。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)の発展に努めたが、家督を継いでほどなく、鷹狩りのために出かけた先の弓淵(現在の京都府相楽郡南山城村)で急死した。死因は不明(脳卒中や狭心症説がある)。享年四十四。著書に流祖上泉信綱以来の新陰流の術理を纏め上げた「月之抄(つきのしょう)」寛永一九(一六四二)年完成)や、「武蔵野」(前半部は「月之抄」同様の口伝・目録の解説書であるが、後半部は難解な禅問答のようになっている)などがある。参照したウィキの「柳生三厳」によれば、『家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの』十二『年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ』、宝暦三(一七五三)年に『成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の』百『年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている』とある。

「遺身」これはこれで「かたみ」と読める。改訂版では『遺品』となっている。]

 富貴の村から、谷一つ越えた長篠村内金には、文福茶釜を持傳へると言ふ家があつた。街道からは山寄りの、村人が入(い)りと呼ぶ家で、正福寺と謂ふ古い禪宗の寺の門前に屋敷があつた。つひ先代迄は村一番の物持で、兼て村の草分けでもあつた。文福茶釜の由來として言傳へて居る處では、先祖が正福寺のずつと以前の和尙から讓られたもので、その茶釜のある爲めに永く福運が續いて來たと言ふだけである。昔話にあるやうに、狸が化けた類の話は、自分は未だ聽いた事がない。從つて正福寺に狸の和尙が居たとも何とも言はぬ事である。どうも話が幾通りもあつて煩はしいが、別の話では、その茶釜は天正時代[やぶちゃん注:]、長篠の城にあつた物で、城主が國替への節遺して行つたもので、從つて此家は先祖が、武士であつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「長篠村内金」「内金」は「うちがね」と読む。現在の長篠内金(グーグル・マップ・データ)はここであるが、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、この辺り一帯の広域(グーグル・マップ・データ航空写真)を「内金」と呼んでいたことが判り、「正福寺」は現在の新城市長篠杉下の曹洞宗正福寺(しょうふくじ)(グーグル・マップ・データ)で前の航空写真で見ると、この寺の東北はまさに山林で「入り」と呼ぶに相応しいことが判る。

「文福茶釜」詳しくはウィキの「文福茶釜」を見られたいが、それによれば、『おとぎ話では、和尚が手放した茶釜(狸の化身で、頭・足・尻尾が生える)が、綱渡りなどの芸をし、これを見世物商売に屑屋が財を築き、茶釜を元の寺(茂林寺)に返還する』。『茂林寺は群馬県館林市に実在する寺で、現在も文福茶釜を所蔵する』。但し、『寺の縁起は、狸の化けた釜とはせず、古狸(貉)の老僧守鶴愛用の「福を分ける」分福茶釜であるとする。千人の僧が集まる法会で茶をたてたが、一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかったと記される』。『狸や狐が茶釜に変化(へんげ)する昔話(民話)は、全国に分布する。人間に恩あるか』、或いは『言いくるめられて』、『茶釜に化け、寺の和尚などに売りつけられる』ものの、『正体が発覚する、という粗筋の類話群である。狸が芸をする要素(モチーフ)は民話例に』は『少ない。民俗学・民話研究では、狐の恩返し系の動物の報恩譚が原形とされ』るという。『「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜には八つの功徳があり、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説明や』、『沸騰する音の擬声語という説がある』。『また「文武火の茶釜」とも表記されるが』、この『文火は弱い火、武火は強い火を指す』。『同じ語釈は、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』「茂林寺釜(もりんじのかま)」の添え文でも述べられており、文武火の釜が正しい名であるとしている』とある。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。後者は一五八二年十月十五日から行用されたが、日本では天正十年九月十九日に当たる。

「城主が國替への節遺して行つた」ウィキの「長篠城」によれば、長篠城はまず、家康に攻められた第四代城主であった菅沼正貞(今川を見限って武田に組みしていた)が天正元(一五七三)年八月に開城して退去している(返り咲きはなし)。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により、城が拡張された(現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている)が、天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)に、父武田信玄の跡を継ぐこととなった四男武田勝頼が、持っていた兵力の大半に当たる一万五千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、「長篠の戦い」が始まった。翌年、長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城(しんしろ)城を築城して長篠城は廃城となっているから、「城主が國替への節遺して行つた」というフレーズからは、菅沼から奥平の間の二人を除いた城主ということになろうが、私はその間の城主を調べ得ない。悪しからず。

 もう十年ほど前になるが、その茶釜を見せて貰ふ爲め、わざわざ訪ねた事がある。以前の屋敷跡の傍に、今は小さな構へを結んで居た。五十恰好の、何處か暗い感じのする内儀が一人居て、詳しい話をしてくれた。二十年前迄は、此處の爐に掛けて使つて居たが、もうありませんとの事だつた。尤もその以前から、蓋と蔓手[やぶちゃん注:「つるで」。金属製の吊手であろう。]は別物だつた。或時鑄掛師に持たせてやると、蓋と蔓を失くして來たのださうである。それ以來蔓手は只の針金で間に合せて居た。その後引續く不運に、茶釜迄も幾何かの[やぶちゃん注:「いくばくかの」。]代に、親類の者に持つて行かれてしまつたのださうである。今は其處に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]ある筈だ、何なら其方[やぶちゃん注:そつち]。]へ行つて見てくれとの挨拶だつた。其折の話の模樣では、肌が赤味を帶んだ[やぶちゃん注:「おんだ」。帯びた。]鐵で、離れて見ると陶器のやうに見えたさうである。一方に鐵甁のやうな口があつて、口の附根から、鹿の角の恰好した三ツ又の脚が出て居たと言ふから、茶釜としては、風變りな物だつた。

 あの茶釜だけは家の寶だで、何としても手放すまいと思つたがと、そつと目を拭いたには、思はずつり込まれて悲しくなつた。未だ他に、系圖と立派な腰の物もあつたが、悉く失くしてしまつたと、散々情けない事を聽かされて歸つて來た。

 後で聞いた話だが、その茶釜は、實は昔話以上に、持つて行つた親類の男の手から、諸方を渡り步いたさうである。豐橋から名古屋東京と、實は思惑で持廻つたのだが、男の思ふやうには金にならなんだと言ふ。それで仕方なく家へ持歸つてあるのださうである。そんな事から、昔話の文福茶釜其儘に、再び元の家の爐口へ、還るやうな日が無いとも言へぬ。

 

2020/04/10

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十七 狸寄せの話

 

     十七 狸 寄 せ の 話

 以前は村々の若い者が五六人集まると、コクリだの西京鼠、其他狐や狸を寄せて、慰み半分に遊んだものであつた。中でも狸寄せは、最も早く滅びて、後には滅多にやる者も無かつたと謂ふ。格別方法が面倒という譯でもなかつたから、矢張流行だつたのだらう。寄せる方法の大體を言うて見ると、目隱しをさせたり、白紙を仕扱いて[やぶちゃん注:「しごいて」。]幣帛のかわりに持たせる事などは、他の神寄せ、狐寄せの類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]と變りはなく只呪文が少し違つたゞけである。左に呪文の全部を揭げて見る。

  テンニトロトロ チニトロトロ

  アサヤマハヤマ ハグロノゴンゲン

  ダイミヨジン

  オイサメ メサレ オイサメ メサレ

 只これだけの文句を、寄る迄は何回でも繰返すのである。狸が寄ると言ふ前後の狀況を言うて見ると、最初被術者の顏色が、段々蒼白くなる。續いて呼吸が急しくなるにつれて、今度は顏色が次第に上氣して、殆ど眞つ赤になる。さうなると體中が激しく震へて、時々坐つた儘踊り上がるやうになる。此時は、狸が道中を急いでやつて來る時などと謂ふ。其處を過ぎると、再び顏から段々血の氣が薄らいで行つて、最後に眞蒼になると、體が急に落込んだやうに、小さくなつてしまふ。斯うなるともう狸が寄つたのであるから、そろそろ問答を初めてもよいのである。勿論これは村の若い衆のやつた方法で、或時旅の行者が狸を寄せた時は、呪文や方法が全然異つて居たさうである。

 寄つた狸を歸す時は、背中に犬の字を書いて、最後の點を强く打てば、それで好いのであるが、此方法を怠つたり、或は目隱しの手拭が自然に解けたゝめ正氣づいた時などは、後になつて近所の子どもや老人に憑いて困つたさうである。その事に付て或老人の話に據ると、事が了つてから、自分の子供に憑くと見えて夜泣をして仕方がなかつた。抱いて居ればさうでもないが、床へ寢かすと、體が急に强直して、火のつくやうに泣き出す、それで來る晚も來る晚も、女房と交る交る[やぶちゃん注:「かはるがはる」。]抱いて居て夜を明す。さうさう家の中にも居られぬので、外に出て子供を搖り搖り步いて居たが、或時などつくづく狸など寄せるものでないと後悔して、子供と一緖に泣いて步いた事もあつたさうである。其間には、種々な魔除けの方法などもやつて見た、短刀をそつと枕邊に置いて見たり、神社の御符を布團の下に敷いて見たり爲たが、一向効めは無かつた。そのうちふツ[やぶちゃん注:ママ。]と思ひ出して、山犬の上顎で造つた根附を出して來て、布團の下へ入れると、それなり噓のやうに夜泣きが止んでしまつたと謂ふ。以前は山犬の上顎を乾上げた物で、根附を作つて魔除けとして持つて居る者がよくあつたのである。顎の内部を紅く漆塗りなどにして、腰に下げて居る人を、現に自分なども見た事があつた。

[やぶちゃん注:「山犬の上顎」サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」本篇PDF)では以上の二ヶ所ともに編集者に拠って『〔下顎〕』と割注が施されてある。]

 狸寄せなども盛に方々でやつて居た頃は、譯もなく寄つたさうであるが、一度流行しなくなつてからは、容易に寄らなんだとも謂ふ。コクリなどもさうであつた。流行して居た頃は、面倒な手數を掛けないでも、酒の席で慰[やぶちゃん注:「なぐさみ」。]半分に箸を三本結へて立て、上に皿を冠せて唱へ言をすると、それでもう膳の上をヨチヨチ動き出したさうである。あのよく寄つた時分には、狸なども其處いらにどれ程でも遊んで居て、こちらが寄せるのを待つて居たかも知れぬなどゝ、眞面目になつて話した老人もあつた。

[やぶちゃん注:「狸寄せ」以下の「コクリ」の一ヴァージョンであるが、私は民俗学的にこの話に興味があり、多数の著作を読んでいるが、「タヌキヨセ」というのはここで初めて聴いた。

「コクリ」「狐狗狸(こくり)」。現行は「コックリさん」と呼ぶことが多いが、私はこおれがその疑似呪法の中で霊対象がある種の質問に「そうだ」(イエス)と答えるのを、肯く霊=「こっくり」さんとダブらせたもので、「狐狗狸」で古くから人に憑くとされた狐・犬・狸にその招聘霊を代表させて当てたのは後付けであろう(以下の引用でもそれを支持している)。但し、ここで問題となる狭義の「コクリ」=「コックリさん」は近代以降に始まった新しい外来の降霊術由来であって、本邦起原ではない。但し、もっと広義の同起原である古代シャーマンの時代からあった単独の巫女なやイタコなどによる「神憑(かみがか)り」「口寄せ」現象や、地方によって古くからあった動物霊信仰に基づくそれらは、古くから本邦にあることは言うまでもないから、全く異質の邪教的・疑似科学的外来侵入のそれではない。ウィキの「コックリさん」によれば、『西洋の「テーブル・ターニング(Table-turning)」『に起源を持つ占いの一種』で、『机に乗せた人の手がひとりでに動く』類いの『現象は心霊現象だと古くから信じられていた。科学的には意識に関係なく体が動くオートマティスム』(フランス語:Automatisme:心理学用語で「筋肉性自動作用」という意。恰も何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象などを指す。自動作用によって筆記を行う現象を「自動書記」などと呼ぶ)『の一種』であり、集団ヒステリーや意識的・無意識的詐欺(トランス状態への対象者の認識に拠る違い)で総てが説明出来る(と私は考えている)。『日本では通常、狐の霊を呼び出す行為(降霊術)と信じられており、そのため「狐狗狸さん」の字が当てられることがある』。典型的な術式は、『机の上に「はい、いいえ、鳥居、男、女、09(出来れば漢字で書いた方が良い)までの数字、五十音表」を記入した紙を置き、その紙の上に硬貨(主に十円硬貨)を置いて参加者全員の人差し指を添えていく。全員が力を抜いて「コックリさん、コックリさん、おいでください。」と呼びかけると硬貨が動く。コックリさんと呼ばず』、「エンジェルさん」などと『呼びかえるバリエーションも存在する』。『その起源は明確ではないが、レオナルド・ダ・ヴィンチが自著において「テーブル・ターニング」と同種の現象に言及しているので、15世紀のヨーロッパでは既に行われていたとも推測される』。『西洋で流行した「テーブル・ターニング」とは、数人がテーブルを囲み、手を乗せる。やがてテーブルがひとりでに傾いたり、移動したりする。出席者の中の霊能力がある人を霊媒として介し、あの世の霊の意志が表明されると考えられた。また、霊の働きでアルファベットなどを記したウィジャボードと呼ばれる板の文字を指差すことにより、霊との会話を行うという試みがなされた』。『井上円了によると、日本においては』明治一七(一八八四)年に『伊豆半島下田沖に漂着したアメリカの船員が自国で大流行していた「テーブル・ターニング」を地元の住民に見せたことをきっかけに、各地の港経由で日本でも流行するようになったという』。『当時の日本にはテーブルが普及していなかったので、代わりにお櫃(ひつ)を』三『本の竹で支える形のものを作って行なった』。『お櫃を用いた机が「こっくり、こっくりと傾く」様子からこっくりこっくりさんと呼ぶようになり、やがてこっくりに「狐(きつね)」、「狗(いぬ)」、「狸(たぬき)」の文字を当て「狐狗狸」と書くようになったという』。『また、「コークリさん」「お狐さん」とも呼ばれる』。『1970年代にはつのだじろうの漫画『うしろの百太郎』の作中でコックリさんが紹介され、少年少女を中心としたブームになったこともある。子供たちが学校などで面白半分に行うケースが多発し、その時代を知る人々は、「絶対にやらないように」と強く警告を発しているケースも多々見られる。生徒への精神的な影響もあり、教師が保護者を含めて厳重注意することもしばしばある』。『韓国でもこっくりさんは分身娑婆(ブンシンサバ)と呼ばれ、主に子供の世代に浸透している。朝鮮半島のこっくりさんは、日本の統治時代に日本で流行した』「こっくりさん」が、『朝鮮に流入し始まったと見られる。台湾ではこれを「碟仙(ディエシェン)」と呼び、新聞の上に皿を乗せる形で行われる。『霊媒や霊能者、チャネラーなどと呼ばれる人々は、「死者の霊が下りてきた」「神や霊に命令されている/体を乗っ取られている」「高次元の存在や宇宙人とチャネリングを行う」などの理由により、無意識的にペンを動かしたり語り始めたりする。これは神霊などがこの世界に接触を図る方法として説明されている。日本ではかつて「神がかり」「お筆先」とも呼ばれていた』。『霊媒による自動作用ではトランス状態で生じる場合と、意識を保ったまま自動作用が発生する場合がある』。『筆記者が知り得ない情報や習得していない言語を筆記した、通常ではありえない速度での筆記などの報告がある』。『心霊主義の立場ではオートマティスムを憑依現象の一種と考えて、霊が霊媒の手を借りて意思表示や創作を行っていると説明している』。『科学的にはオートマティスムは自己催眠の一形態として説明されるケースがある。統合失調症や夢遊病など、何らかの病的要因が潜んでいるケース、薬物などの使用によるケースも指摘されている』。『ウィジャボードやコックリさんの原理は、観念性運動と呼ばれる筋肉の無意識の動きとして説明されている』。『コックリさんの起源である「テーブル・ターニング」については、大流行していた1800年代から著名な科学者たちが、その現象の解明に取り組んだ。1853年にはプロイセン(ドイツ)の数学者カール・フリードリヒ・ガウスやイギリスの科学者マイケル・ファラデーが実験的検討を試みた』。そこで結論された「潜在意識・筋肉疲労説」は以下のようなものである。『参加者の潜在意識(予期意向)が反映され、無自覚に指が硬貨を動かすという説』。『ファラデーや井上円了、フランスの化学者、M・シュブルールなどはこの説をとった。 森田正馬(森田療法で有名)は参加者が霊に憑依されたと自己暗示』(「自己催眠」「祈祷性精神病」と命名)に『罹るとの見方を示した。複数人に同様な症状がおきる感応精神病(フランス語: folie a deux(フォリアドゥ))の発生もよく知られる』。『テレビ番組の『特命リサーチ200X』が小学生を対象とした検証を行った際、信じている人の班だけが動き、信じていない人の班は止まったままだった』。『さらに日本の首都や人気野球選手の背番号といった質問では十円玉が正答を指し示したが、簡単な英語での質問や過去のアメリカ大統領名など、本人達の知識を超えた問い掛けには紙の上を迷走するだけだった。また、被験者の小学生にアイマークレコーダーを装着させ』、『視線の動きを観察したところ、質問を聞いた際、十円玉の動きに先行して回答となる語句の文字を目で追っていた』。『潜在意識説と合わせて、不覚筋動にもよるとされる』。『硬貨に指を添える体勢を取り続ける際にどうしても僅かに腕が動いてしまう。同じ姿勢を取り続けると、あっという間に筋肉が疲労するため、不覚筋動(Ideomotor_phenomenon)が起こる。それらの力が集中しコインが動くと、今度は動いた方向へ力を入れて動かそうとする意識が完全に働くというものである。上記のテレビ番組で解説した理学博士の板倉聖宣は、不覚筋動と潜在意識の混合でコックリさんの動きが起きるとの説を採った』。『井上円了は普及当時から研究に取り組み、「世人のこれを信ずるゆえんを明らかにしたるをもって、ここにその道理を述べて、いささか愚民に諭すところあらんとす」として『妖怪玄談』を記した。その中で「コックリに向かって答えを得るは、極めて単純なることか、または一般に関することに限り、その複雑または細密のことに至りては、コックリの応答を得ること難し。例えば、コックリに向かって明日は雨か晴れかをたずぬるときは、その応答を得べきも、何時何分より雨降り、何時何分に風起こるかをたずぬるも、決してその応答を得べからず。これまた、コックリは鬼神のなすところにあらざる一証なり。」と、予期意向と不覚筋動が原因であると結論付けた』とある。因みに、私は円了に就いては彼の妖怪学関連の著作を総て所持している程度にはフリークである。

「西京鼠」「さいきやうねづみ」と読む。「Hatena Blog」のこちらの記載では、まさに『愛知県三河の西京鼠』として『動物の神霊に頼る俗信』と記されてあり、「西京鼠」はかく名指しているが、実体は特定の鼠や妖鼠ではなく、先に出て注した「管狐」と同様の仮想妖獣と思われ、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「さいきょう鼠」にも、『管孤に類したもので、さいきょう鼠がある。ある1人の人に対して、さいきょう鼠をかける人がしばらく黙視して、その後呪文をかけると催眠状態になる。そうすると要求されることを何でもして、安来節を踊るなどする。また予言などもして的中させるという』とある。なお、これは既に絶滅に近いようで、ネット上では記載が殆んど認められない。なお、最初のリンク先には動物霊信仰として他に『新潟県高田市のお晴見祭り、福島県南会津郡の鼬寄せや犬寄せ』、『神奈川県川崎市のトウガミ』を挙げてある。最初の「お晴見祭り」はよく判らぬが、やはり「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「俗信」に、角川源義の「水信仰と蛇の晴見祭」から、富山県高岡市での採取として、『晴見祭りのために蛇を二匹捕らえて先に捕らえた方を「オハレミ」と称し、祭器に入れて飼う。卯月中の巳の日に占いをする。蛇が箱から顔を出さないと晴天が多く、蛇が箱から顔を出してしきりに舌を出すと火気が多く、蛇が箱から出て床の上に下りたときは雨が多く、蛇が箱から出て案を下りないときは風が強いという。蛇は捕まえてきた者が元のところで放すが、この時蛇の行方を見ると、卜占が変わってしまうといわれている』とあり、そこでは蛇を神霊とした動物占いである。「鼬寄せ」は同データベースの「鼬寄せ」に、福島県南会津郡檜枝岐村での採取として、『いたちよせは、鎮守の境内に燧岳神社の祭場をつくり、よりが中央に座る。のりうつる人は、最初は幣束をもって、のりと呪文を唱える。その周囲をいたちの神よせをする人たちが5人や10人で拝んでまわる。呪文は「だいけんにっそん日のー神、だいじょうがっそん月の神、しんとうかじ」と唱えて印を結び、「玉の如く、かがみの如く、つるぎの如く、清く美しく・・・」などと唱える。やがてよりの手がふるえてきて、すわったまま飛び上がったりし始めると、よりが乗り移ったという。本人は意識がはっきりしなくなっている。このとき質問すると問答のようにこたえるが、これをお託宣という。よりはだれもがなれるものはない。村人の中にやる人がいたが、燧岳に参拝して信心しても行が足りず、いたちがつかなくなった。いたちよせのとき、村人はのてっぽうの幹をとってきて、地面をたたきながらまわったという。女人禁制の儀式である』とあり、同データベースの「犬寄せ」には福島県南会津郡檜枝岐村採取として、『山いぬともおおかみともいわれるような、山の精霊あるいはその使いのいぬを呼び寄せて託宣を聞くいぬよせもあったという』とある。また川崎の「トウガミ」は同データベースの「天狗」に、『トウガミをする時に、ナカザの耳元で唱えごとをすると、イナリサンが寄ってきて、目隠ししたナカザに乗り移る。伺いごとが終わると余興をするが、普段は何もできない人でも、ナカザになると障子の桟を渡ったり、屏風の上にのったりすることができたという。豊川様が一番乗り移りやすく、天狗が乗り移るとすごく荒れるという』とあるから、狐や天狗を神霊とするものであることが判る。他にも「トウガミ」については、大島建彦氏の論文「オカマ憑けと狐踊り――民間シャマニズムの一面――」PDF)に詳しいので参照されたい。また、この大島氏の論文には、本篇の冒頭に掲げられた呪文と共通する唱え言(ごと)が採録されてもある。そこにある長野県上水内(かみみなち)郡信濃町稲附の「イナリオドリ」の唱え言の「天タタラ 地タタラ」というのを見ながら、「テンニトロトロ チニトロトロ」の「トロトロ」は或いは山の製鉄の民の「タタラ」(踏鞴)の転訛かも知れぬと思ったし、「ハヤマ ハグロノゴンゲン」は葉山・羽黒山は言うまでもなく出羽の霊山で山岳信仰のメッカ、「ダイミヨジン」は大明神で山岳信仰で神対象に広く使用され、「オイサメ メサレ」は「お諫め召され」で霊言を乞い求める謙譲表現と読める。]

2020/04/08

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十六 緋の衣を纏つた狸

 

     十六 緋の衣を纏つた狸

 三河の伊良胡岬の丁度中央頃、田原の町からは南に當つて聳えてゐる山を、御津(おつと)の大山(おほやま)と謂うて、岬中では第一の高山であつた。此山の大久保の谷には、昔から惡い狸が棲んで居るとは專ら言傳へて居た。未だ古い出來事ではないと聞いたが、山の南方に當る福江村の者が、朝早く山を越して仕事に出ると、定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]行衞が判らなくなる。それが村の者だけではない、旅商人などで日を暮して通りかゝつた者が皆目知れなくなつた事もある。或時は葬式歸りの和尙と小坊主二人が日暮に山に掛つた儘知れなくなつた。それが或時、行衞の判らなくなつた者の、身に附けて居た手拭が、血に染つて山の途中の木の枝に引掛つて居た事から、何か山の怪の禍[やぶちゃん注:「わざはひ」。]かも知れぬと言う事になつた。それで村中評議の上山狩りをする事になつて、その中の一隊が、大久保の山深く入込むと、一ヶ所未だ誰も知らぬ岩窟があつて、その奧に大きな狸の穴を發見した。然もその手前に、甞て行衞を失つた者の履物が片方落ちて居た。愈々此穴が怪しいとなつて、穴の周圍に矢來を結つて置いて掘りにかゝつた。おそろしく深い穴で、三日續けて、掘つて、やつと最後の穴の奧へ掘り當てたと言ふ。中は廣さ八疊敷程もあつて、その奧に更に一段高い處がある。見ると緋の衣を纏つた大狸が、人々の立騷ぐのを尻目にかけて、端然と坐つて居たさうである。村の者も一度は驚いたが、此奴遁がすものかと、何れも寄つて集つて[やぶちゃん注:「たかつて」。]撲殺した。然し狸は觀念した樣子で、些しも[やぶちゃん注:「すこしも」。]荒れ狂ふ事は無かつたと謂ふ。傍にはそれ迄狸の餌食になつた人々の、衣類や骨の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]が堆く[やぶちゃん注:「うづたかく」。]積んであつた。其時狸の着けて居た緋の衣は、葬式歸りの和尙のものであつたと言ふが、それ以來大久保の山には、何の禍も無くなつたと謂ふ。此話は豐橋の町の或婆さんから聽いたが、本人は、土地の者から直接聞いたと云うて居た。

[やぶちゃん注:「三河の伊良胡岬」(いらごみさき)「の丁度中央頃、田原の町からは南に當つて聳えてゐる山」「御津(おつと)の大山(おほやま)」「越戸(おっと)の大山」のこと(越戸は麓の集落、現在の田原市越戸町(おっとちょう)に由来する)。標高二百三十八メートル。愛知県田原市和地町北山にある渥美半島の最高峰である大山(グーグル・マップ・データ航空写真)。愛知県ではあるが、新城市横山地区からはえらく離れた場所の話で、本書では特異点である。

「大久保の谷」諸地図を見たが、不明。但し、以下の「福江村」の位置から大山方向に入る大きな谷は一つで、そこの地名に現在の田原市山田町大坪(グーグル・マップ・データ航空写真)を見出すことは出来た。

「福江村」現在の田原市福江町附近(同前)。但し、現在の町域は大山の南ではなく、西麓に当たる。]

 緋の衣は着て居なかつたが、狸が人を殺して喰つた話は、未だ他にも聽いた事がある。自分等が子供の頃など、狐と狸と何れが恐ろしいかなどと比較論をやつて、狸は人を殺して喰ふから怖ろしい、狐は只化かしたり憑くだけだなどゝ言うたものである。その自分聞いた話で、八名郡鳥原(とりはら)の山でも、狸の餌食になつた者があつたと專ら噂した。

[やぶちゃん注:「八名郡鳥原(とりはら)の山」新城市鳥原(同「国勢調査町丁・字等別境界データセット」。地図あり)。現在は新城市日吉。南端に三百五十六・七メートルの風切山(かざきりやま)がある。]

 狸が人を取り喰らつた話の一方には、女を誘拐して女房にして居た話がある。寶飯郡八幡村千兩(ちぎり)の出來事であつた。娘が家出して行衞が知れなくて、方々探して居ると、近所の病人に狸が憑いて、俺が連れて行つて女房にして居ると言ふ。場所はこれこれと、村の西北に聳えて居る本宮山の裏山に在る事を漏したので、初めて、山探しをして見ると、果してえらい險しい岩の陰に居たさうである。其處は雨風など自然に防ぐやうに、出來てゐる場所だつたと言ふ。後になつて娘に樣子を問ひ訊す[やぶちゃん注:「ただす」。]と、狸だか何だか知らぬが、山の木の實や果物の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]を、時折運んで來て食はして吳れたと語つたさうである。その娘は平生から、少し足りぬやうな樣子があつたと謂ふ。此話は自分が十二三の頃、隣村の木挽から聽いた話である。

[やぶちゃん注:「寶飯郡八幡村千兩(ちぎり)」愛知県豊川市千両町(ちぎりちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「本宮山」。愛知県豊川市上長山町にある本宮山(ほんぐうさん)(グーグル・マップ・データ地形図)。七百八十九メートル。但し、「村の西北」は地図を見る通り、「東北」の誤りである。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十五 塔婆に生首

 

     十五 塔 婆 に 生 首

 狸の出たといふ場所が、申合せたやうに、村端れや境で、 塞の神や道陸神を祀つた跡であるのも少し氣になり出した。この話もさうした場所での事である。

[やぶちゃん注:「塞の神」「さえのかみ」と読む。「ブリタニカ国際大百科事典」には(コンマを読点に代えた)、『村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで』、「道祖神」・「道陸神(どうろくじん)」・「たむけの神」・「くなどの神」などとも『いう。村落を中心に考えたとき、村境は異郷や他界との通路であり、遠くから来臨する神や霊もここを通り、また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り、また防ぐために設けられた神であるが、種々の信仰が習合し、その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として、伝説と結びついた樹木や岩石があり、七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり、また流行病のときには道切りの注連縄 (しめなわ) を張ったりする。小正月に左義長などの火祭をここで行う場合もある。神祠、神体としては、「塞の神」「道祖神」などの字を刻んだ石を建てたものが多いが、山梨県には丸石を祀ったものもあり、人の姿を刻んだ石や、男根形の石を建てるものも少くない。行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え、また子供の神としてよだれ掛けを下げたり、耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある』とあるが、私は「塞の神」は、本来は村境に祀られて運命共同体としての村に悪疫悪神の侵入を防ぐ神として、道祖神とは別個にあったものが道祖神と集合したものと考えている。道祖神は村境だけでなく、村外のもっと広義の地理的民俗社会的境界や、道の辻・街道の三叉路などにも散在し、中国で紀元前から祀られていた道の神としての「道祖」が起原であろう。ウィキの「道祖神」も参照されたいが、この集合体は広範囲なもので、庚申信仰や三猿信仰、猿田彦信仰や彼の妻とされる天宇受売命ととの男女一対の双体石像による豊穣・和合信仰、さらに神仏混合によって青面金剛や地蔵信仰とも習合している。これは明治の宗教政策で高域に散らばっていたそれらの石像・石塔が無暗に集められて配された結果、近現代人には十把一絡げの一緒くたのものとしてしか映らなくなったという弊害も助長している。但し、以上は私の普遍的な見解であって、実は早川氏は後の改訂版の方では、「塞の神や道陸神を祀つた跡」の部分を『道祖神や六地藏を祀つた跡』と改変している。ということは早川氏は本初版刊行時には、道祖神を「塞の神」、六地蔵のことを「道陸神」(六道の賽の河原にいる仏の謂いか)と誤認していたことが判るのである。

 長篠の醫王寺の近くにあるノツコシの山は、以前から古狸が棲むと言傳へた處だつた。水上(みづかみ)の部落と、長篠の本鄕とを境した、ちよつとした窪合の峠で、道が三ツ辻になつて居た。暮方其處を通ると、道に何やら汚ない袋のやうな物が落ちて居るが、うつかり拾つてはならぬ、狸のきんたまで、化かされるなどゝ聞かされたものである。道を挾んで古木が茂つて居て、辻には石地藏が立つて居た。

[やぶちゃん注:「長篠の醫王寺」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「ノツコシの山」この注の前後の比定から考えると、国土地理院地図のこの百十メートルの小山(現在は前者はグーグル・マップ・データでは「大通寺山」となっている)か、或いはグーグル・マップ・データ航空写真の「天神山陣地」跡、現在の長篠荏柄天神社のあるピークであろう。最後の「三ツ辻」をも読まれたい。

「水上(みづかみ)の部落」ここ。現在は長篠水上。

「長篠の本鄕」長篠城駅を含む宇連川右岸一帯(国土地理院図)。

「窪合」窪地の間に丘陵上になっていることを言うのであろう。

「三ツ辻」どうも困るのは、「峠」で、現行の地図では平地には幾等もあるが、峠の上の三叉路は見当たらないことである。まあ、この中に三叉路は複数見出せる(グーグル・マップ・データ航空写真)が、しかし、現在は十字路かも知れない。しかし拘った。最後にスタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見たところ、実は現在の地図類には認められない「醫王寺」の北の神社記号(長篠荏柄天神社)のあるピーク(現在の「天神山陣地」跡)の北直近を東西に越える細い人道があり、そこに医王寺に向かう人道(実線)がぶつかって三叉路になっているのを発見した。ここなら「峠」っぽい。私はここに比定したい。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で拡大してみると、高圧線の鉄塔と奇妙に人工的に有意に抉れた感じが判る。そこでグーグル・ストリート・ビューで東端の道路から見上げてみると、今は墓となっていて、向こう側にも踏み分けて行けそうな感じなのである。しかし、「早川孝太郎研究会」にある本篇PDF)の写真には「ノッコシ」として本格的なちゃんとした山道の写真が二枚載り、これは前に挙げた墓の道ではない。これ以上はもう私には推理不能である。悪しからず。

 近所の若い衆が此處の山續きで狸の穴を見つけて、遊び日に掘つて居ると、其處へ醫王寺の和尙がやつて來て、皆の衆ご苦勞と言うて去つた。それが實は穴の主の狸が化けたので、何時か拔け穴から逃出して、若い衆をからかつたのだと言うた。或は又その折好い天氣だつたが、急に雨が降つて來て、皆が濡れしよぼれて掘つて居る處へ、和尙が傘を差して來て笑つたげな、村の某もその一人だつたげななどゝ、眞しやかに[やぶちゃん注:「まことしやかに」。]聞かされたものである。

 自分には祖父に當る人の事だつた。或時長篠の本鄕から日を暮して、此處へ差しかゝると、どう道を間違へたのか、醫王寺の方向へ降るのを、ドンドン脇へ外て[やぶちゃん注:「それて」。]行つて、氣が附いた時は、山續きの村の卵塔場へは入つて居た。前に新佛[やぶちゃん注:「にいぼとけ」。]の墓があつて、白張の提灯と新しい塔婆が立つて居る。見るとその塔婆の尖端に、男の生首が突通してあつて、目を開いたと思ふと、クスリと笑つたさうである。祖父は平素から剛膽な人だつたので、それを見ると、初めて狸の惡戯と氣がついた、何だ手前の相手などして居られるかと言置いて、其儘後も見ずにドンドン卵塔場を出て來たさうである。それから家へ歸り着く迄、もう何事も無かつたと云ふ。此話は祖父が若い頃幾度も物語つたさうであるが、自分は祖父の妹に當る人から聞いた話だつた。

[やぶちゃん注:「山續きの村の卵塔場」と言っている以上、「村」は自分の横山(現在の横川)の:「山續きの村」則ち、横山の東の峰を越えた吉村地区(国土地理院図)であろうか。しかし「醫王寺の方向へ降るのを」といっているのはちょっと不審で、吉村へは医王寺を回り込んで相当東北へ行かねばならない。或いはこの「山續きの村」とは山続きになっている自分の横山村の外れにあった「卵塔場」と読むことも出来る(寺がある必要はない。地方では村墓は村落の境界に当たる山蔭や谷奥などに設けられることが多かった)。しかしその場合でも、こことの間には先にも示したかなり深い谷があり、やはり同じく相当に東北に回り込んで行かないと駄目である。しかも道は旧地図にもないから、獣道という感じとなろう。まあ、狸に化かされたのなら、そうしたルートや距離の不審は無化されるとは言えようか。なお「卵塔場」は単に「墓地」の意で用いている。本来の「卵塔」は僧侶の墓や供養塔として用いられる丸い無縫塔を意味する。

「祖父が若い頃幾度も物語つた」とあるから、実体験時制は江戸末期である。]

 ノツコシの峠近くの家では、夕方狸に化かされて、此處の山へ連れ込まれる者が、度々あつたと言ふ。そして又夕方などに其處を通りかゝると、何處からともなく、負んでくれ負んでくれと呼ぶ聲がするとも言うた。内金(うちがね)の某の男は、或晚醫王寺の方へ向けて峠を越して來ると、突然闇の中から負んでくれといふ聲がして、何やら背中へ負さりかゝつた物があつた。男は怖ろしさに夢中で、其まゝ驅け出したが、醫王寺の明りが見える處迄來ると、フツと背中が輕くなつたやうに思つたという。内金の村の左官の某の話であつた。

[やぶちゃん注:「内金(うちがね)」現在のそれは長篠内金(グーグル・マップ・データ)であるが、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、この辺り一帯の広域(グーグル・マップ・データ航空写真)を「内金」と呼んでいたことが判る。]

 此處の狸は、もうとくに狩人が擊殺してしまつて、其後出るのは、山續きの吉村から通つて來るのだとも言うた。さうかと思ふと、いや未だ居る、現に誰それが化かされたなどゝ言ふ。さうかそれぢや擊たれた奴は別の狸かなどゝ、話が又新しくなつて來た。すつかり噂が根を斷つて終ふのは、容易ではないのである。

[やぶちゃん注:「吉村」前の方の注の太字部参照。]

 長篠の本鄕と内金との境にある、施所橋(せしよばし)の上へは、晚方狸が化けて出ると專ら噂した。雨の降る晚、傘を差して先へ立つて行く男が、フイと後を振返つた顏を見たら、三ツ目の大入道だつたとか、又或男が夜更けて通りかゝると、橋の欄干に寄りかゝつて居た男が其儘下へ飛下りて行つたとも言うた。而も此橋などは、橋の袂に迄人家があつて、狸の出る噂の場所はほんの五間か七間の處だつた。狸が出るには、必ずしも人家を離れた場所といふ必要もなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「施所橋(せしよばし)」ここ「早川孝太郎研究会」にある本篇PDF)の「施所橋」の写真とグーグル・ストリート・ビューの写真が一致した。

「五間か七間」約九~十三メートル弱。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十四 狸の怪と若者

 

     十四 狸の怪と若者

 自分の村の池代の山の大窪には、えらい古狸が棲んで居て、地續きの深澤の橋へ出て、通る者を嚇すとは専ら言うた事である。恰度村の中程で、上と下の組の間の谷に架つて居た橋である。もう二十年ばかり前であるが、橋の近くに住んで居た某の男が、夜更けに一人歸つて來ると、橋の欄干に坊主が一人凭れて居たが、それが見る見る大きくなつたのに、膽を潰して逃げて來たと言うた。

[やぶちゃん注:例の早川氏の手書き地図を見ると、右手中央に『(字池代)』とあり、その小流れが下って寒狭川に出たところに『深澤』とある。なお、その横に『𣘺址』とあるが、これは寒狭川に架かっていた橋の跡の謂いであろう。ここには「地續きの深澤の橋」とあるので、ここではなく、この小流れを少し遡ったところで村道と交差する部分にあったものと推定される。現在の新城市横川池代はここ(グーグル・マップ・データ)で、グーグル・ストリート・ビューでここから寒狭川に下がった村道を見たところ、ここに有刺鉄線を張った箇所が見られ、道の外は谷状(写真は山側(池代)方向)になっているから、この辺りに「深澤の橋」はあったのではなかろうか? 「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」本篇のPDF版に「深沢橋から池代の窪」とキャプションする少し古い感じの写真が載るのであるが、グーグル・ストリート・ビューで先の位置から煽りで山側を見ると、この写真と手前の丘陵と山の樹木の形状がかなり一致するように思われるのである。ガードレールに有刺鉄線では化け坊主も凭れたくはなかろう。

「組」村組。村落内部の区分。近接性や縁故によって形成された。]

 村の某の家の者であるが、五十年ばかり前、夜分此處を通りかゝつて、狸に嚇かされたのが因[やぶちゃん注:「もと」。]で、死んでしまつた話がある。未だ宵の口だつたさうであるが、橋の近くにあつた家へ、血相變へて驅け込んで來たと言ふ。よくよく物の怪を見たと見えて、戶口でハアツと言つたぎり、土間へ倒れてしまつて、後は口も利けなんださうである。其夜は其處へ寢かして、翌日家へ連れて行つたと言ふが、四五日して息を引取つたさうである。病んでゐる間も、絕えず怖(おそ)怖がいと言ひ通して居たと言ふが、果してどんな怪を見たことか、家人が堅く祕して居て一切他人には話さなんだといふから判らない。未だ二十かそこいらの若者で、極く實直な男だつたさうであるが、何でも下の村に馴染の女があつて、其處へ通つて行く途中だつたとも言うた。三州橫山話にある、老婆を殺して山へ持つて行つたのも同じ狸の仕業と言ふ事である。深澤の橋には、クダ狐も出ると言うた。或は又其處で幽靈に遇つたと言ふ者もあつた。極く新しい話で、近くの家に葬式があつて、暮方村の者が橋を行つたり來たりして居た。そこへ一人が橋の袂迄來ると、土手に男が凭りかゝつて此方を見て居たが、通り過ぎて振り返つて見ると、もう影も形も無かつた。大方幽靈だらうと言うて、大騷ぎをやつたさうである。

[やぶちゃん注:「五十年ばかり前」本書は大正一五(一九二六)年刊であるから、その五十年前は明治九(一八七六)年となる。

「三州橫山話にある、老婆を殺して山へ持つて行つたのも同じ狸の仕業と言ふ事である」「三州橫山話」は早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城市横川)を中心とした民譚集。「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」にある同書の「狸の話(二話)」PDF)の最初の「老婆を食い殺した狸」を指す。以下の引用させて貰う。

   *

 字池代の大久保という山に住んでいた狸は全身白毛の古狸で、近くの深沢というところの路に出て、坊主に化けて人を嚇すなどと言いました。明治の初め頃、ここに近くの早川孫総という家で、老婆を一人留守において柴刈りに出かけたあとで、この狸が婆さんを食い殺して、山へ持って行ったと言いました。翌日山を探すと、婆さんの頭と肢が、離ればなれのところにあったのを拾ってきて埋めたなどど言いました。この老婆は眼が不自由で、いつも縁側に日向ぼっこをしていたそうです。

   *

「クダ狐」同前の「狐の話(八話)」PDF)の最後に「クダ狐」とあり、そこに『狐に管狐という一種があって、単にクダともクダン狐とも言います。鼬によく似て、鼬より体が小さく、毛の色が心持ち黒味を帯びていると言います』。『狐使いの家などで使うのはこの類で、種々な通力を持っていると言いますが、これに、白飯に人糞をかけて食べさせると、通力を失って馬鹿になると言います』とある。「管狐(くだぎつね)」については「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の私の「飯綱(いづな)の法(はう)」の注を参照されたい。私の「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」には図も出る。他にも私の記事では管狐は常連である。]

 村を出離れて、長篠へ越す途中の、馬崩れの森は、田圃を三四町[やぶちゃん注:凡そ三百二十八~四百三十六メートル。]過ぎた所に、一叢大木が茂つて居て、日中でも薄氣味の惡い處だつた。こゝからずつと長篠の入口迄山續きになるのである。此處にも又惡狸が居て、通る者を時折嚇すと言うた。或は又山犬も惡い狐も出ると言うて、何れにしても問題の場所だつたのである。自分などの此處を通つた經驗でもさうであるが、暮方など未だ明るい田圃道から、暗い森の中へ足を運んで行と[やぶちゃん注:ママ。「ゆくと」。]、地の下へでも入るやうで自づと心持迄滅入つて來る。又反對に暗い森の中から、田圃道へ出るとホツとするが、それだけに何だか後から引張られでもするやうに不氣味を感じたものである。そんな譯でもあるまいが、田圃の手前の、村の取付にある家へは、以前は夜分眞蒼になつた男が、時折驅込んで來たさうである。

[やぶちゃん注:「馬崩れの森」この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狭川左岸の道と思われる。現在の横川地区南端辺りからこの森の辺りまではまさに四百メートルほどに当たる。]

 或男は暮方森の手前に差しかゝると、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程前を、太い尻尾を引ずつて、狸が步いて行くのを見たが、道の中央でくるくる回り出した、そして道下へ飛込んだと思つたら、娘になつて上つて來たなどゝ、狐にでもありさうな事を言うて居た。又某の修驗者は、夜更けて一人行くと、行手を豆絞りの手拭で頰被りをした男が、鼻唄で行くが、どうも樣子が怪しいと思つて、一心に九字を切ると、果して道下の池へ飛込んだと、眞面目になつて語つたものである。

[やぶちゃん注:「又某の修驗者は」実は底本では「某の又修驗者は」となっているが、特異的に訂した。改訂版では「又」自体がカットされている。

「九字」九字護身法。「臨・兵(ひょう)・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災等を祈る呪法である。但し、本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法である、とウィキの「九字護身法」にある。]

 これは自分の祖母の話だつたが、父が未だ少年の頃で、夜遲く二人で通りかゝつた時、恰度森の中程で、何か怪しいものを見たと言ふ。大方狸の惡戯だらうと云うたが、何を見たのか、それ以上聞いても話さなかつた。

[やぶちゃん注:「祖母の話」で筆者の「父が未だ少年の頃」ということであるから、幕末の話である。早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年生まれである。]

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十三 娘に化けた狸

 

     十三 娘に化けた狸

 鳳來寺村門谷[やぶちゃん注:「かどや」。]の、高德(かうとく)の山に、杣が小屋を差して居た時の事だと謂ふ。その小屋には三人泊つて居たさうであるが、或晚一人が山を出て、門谷の馴染の女の許へ寄つて遊んで來た。すると其翌る晚三人が爐に向つて居ると、だしぬけに小屋の垂莚を上げて顏を出した者があつた。見ると若い女で、而も一人が前夜寄つて來た馴染の女だつた。ヘゝゝと笑つて居たさうである。どうも恠しい、これはてつきり狸の惡戯に違ひないと覺つて[やぶちゃん注:「さとつて」。]、それでも面白半分にからかつて見た。お前はどこだいと言ふと、俺(わし)や門谷の田町だと答へたさうである。田町の誰だいと言ふと、ヘゝゝと笑つて口を押へて居る。丁度その時皆んなして鳩を燒いて喰つて居たので、喰はんかいと言うて一串差出すと默つて受取つて喰つてしまつた。それなり娘は歸つて行つた。翌晚も同じやうにやつて來たさうである。三日目の晚に、小屋の入口ヘ鳩の肉を餌にして虎挾を仕掛けて置くと、翌朝一匹の古狸が掛つて死んで居た。それきり娘はもう來なんだ。後で其狸を煮て喰つたが、矢張りこはくて美味くなかつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村門谷の、高德(かうとく)の山」新城市門谷高徳(グーグル・マップ・データ)。鳳来寺参道を入ったところから北方向。国土地理院図の四百九メートルのピークか。同地区の北西に神社マークの南方境に「高徳不動」がある。

「こはくて」硬くて。]

 娘に化けた譯ではなかつたが、鳳來寺村長良(ながら)の村端れの谷に出た狸も、狩人の掛けた虎挾に掛つて、以來出なくなつた。それ迄は崖の上から砂を振りかけたり、石地藏に化けたりして、通る者を惱ましたと言うた。

[やぶちゃん注:「鳳來寺村長良(ながら)」現在の愛知県の旧南設楽郡鳳来町内。現在、新城市の一部となった。しかし、この字名を現在、確認出来ない。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、図の北西部の「鳳來村」の「追分」の北、海老川の寒狭川への合流点の南に「長樂(ナガラ)」を見出すことが出来、国土地理院図に「長楽」としてある。この附近だろうか? 先に出た北山御料林の北西に当たる。]

 狸が石地藏に化けた話は未だあつた。化けたと言ふよりも、使つたと言ふ方が適當だつた。出澤の村から谷下(やけ)へ越す山の途中に、村雀と言ふ神樣があつた。その傍に鉢冠り地藏と言ふがある。その地藏が時折化けて通る人を嚇した。矢張狸の仕業と専ら言うた。或月夜に村の開原某が通りかゝると、地藏がゲラゲラ笑ひ出したさうである。兼て覺悟をして居たので、、腰の刀を拔くや否や斬りつけて、其儘歸つてしまつた。翌朝行つて見ると、地藏が胴を眞二ツに斬られて居た。そのまゝ今に胴中から二ツになつて立つて居る。それ以來もう化けなくなつたさうである。

[やぶちゃん注:「出澤の村から谷下(やけ)へ越す山の途中に、村雀と言ふ神樣があつた」何度も出たが「出澤」は「すざは(すざわ)」と読む。現在の出沢地区の新城市出沢根岸谷下(ねぎしやげ)(改訂版でも「やけ」であるが、現在は濁音)。「村雀と言ふ神樣」は「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」本篇のPDFに写真が載り(本文の「谷下」は現在と同様に「やげ」と濁っている)、『出沢砦跡から、クボ⇒コデロを通って浅谷の谷下に行く途中、坂を登りきった辺りに古木があり、その根元に村雀様があります。鉢冠りの地蔵様は見当たりませんでしたが、村雀様のお祠も、刃物で斬られたように割れていました』。『古老に訊いたところ、斬られて二つになったお地蔵様は、昔は確かにあったが』、『今はどこにいったか判らないとのことでした』とあった。]

 別の話では、鉢冠り地藏は狸の仕業でなくて、地藏自身が化けるのだとも言うた。何れにしても、たしかに俺が化けたと名乘る譯でないから、遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]どつちとも決められない。

[やぶちゃん注:化け地蔵の伝承は存外、各地に多くある。]

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