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カテゴリー「詩歌俳諧俳句」の339件の記事

2017/03/06

小景異情   室生犀星




 小景異情

 

 

  その一

 

白魚はさびしや

そのくろき瞳はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる餉(げ)をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと

ききともなやな雀しば啼けり

 

 

  その二

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

歸るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ淚ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

 

  その三

 

銀の時計をうしなへる

こころかなしや

ちよろちよろ川の橋の上

橋にもたれて泣いてをり

 

 

  その四

 

わが靈のなかより

綠もえいで

なにごとしなけれど

懺悔の淚せきあぐる

しづかに土を掘りいでて

ざんげの淚せきあぐる

 

 

  その五

 

なににこがれて書くうたぞ

一時にひらくうめすもも

すももの蒼さ身にあびて

田舍暮しのやすらかさ

けふも母ぢやに叱られて

すもものしたに身をよせぬ

 

 

  その六

 

あんずよ

花着け

地ぞ早やに輝やけ

あんずよ花着け

あんずよ燃えよ

ああ あんずよ花着け

 

 

2017/01/24

小穴隆一「二つの繪」(44) 「河郎之舍」(3) 「河童の宿」 / 芥川龍之介の新発見句!!!

 

     河童の宿

 

Umanoniburasagarukappa

 

畫は久米正雄、賛と三汀の署名は芥川、三汀の二字久米の書體に似せてゐる。

 

[やぶちゃん注:画中の右手には、

 

提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

とあって(私は、「燈」と「灯」の書き方に明らかな違いを感じる。しかも一つのごく短い賛句の中で同一の字を用いるのは甚だお洒落でないからでもある)下方に

 

   三汀

 

と記されてあり、底本では挿絵の左手下方に二行で以上のキャプションが活字で打たれてあるが、除去した。

 今回は小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)の画像と比較視認し、明らかに本書に画像挿入される際に生じた汚れと判断出来る部分を清拭して示した

 小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」ではこれは『圖版36』として、これを「馬の尾にぶらさがる河童」という題で掲げられており、『久米正雄畫 芥川龍之介贊』と添書きし、

   *

 酒がこぼれて盃を手にした久米が畫をのぞきこんで、ほう、といひ、また一杯ほして、どれ、どれ、と芥川の手から筆と游心帖をとりあげて、馬の尾にぶらさがつた河童を畫いてみせた。すると芥川が、ちようつ、ちよつ、と筆をとりもどし、〔提燈のやうない鬼灯岸に生へ〕、と贊をしたうへに、久米の筆蹟に似せて三汀と落款をいれた。三汀といふのは久米の號である。

   *

と解説する(末尾に『小穴隆一藏』とある。下線はやぶちゃん)。なお、絵を描いた久米正雄も既にパブリック・ドメインである。

 即ち、この戯画は、

 

河童が尾にぶら下がった馬とそれを繫いだ木という〈絵の部分〉は久米正雄の筆になるもの

 

であるが、右手に添えられた

 

「提燈のやうな鬼灯岸に生へ」と「三汀」は実は〈芥川龍之介が久米正雄の筆跡を真似て賛したもの〉

 

だというのである。ここの最後に注で記すが、この以下の解説とこのキャプションから、実は今回、驚くべき新発見の事実が判明することになるのである。

 なお、これと次の絵はともに現行では大正一一(一九二二)年の作と比定されている。因みに、これと次のそれにインスパイアされた芥川龍之介それらは所謂、河童の駒引きという伝承に基づく形象である。]

 

Hutatunoe_umanikeraretakappa

 

久米は芥川のいたづらをみると、芥川が河童が馬に蹴とばされたところを畫うのを待つてて、それと言ふなり芥川龍と書き、似てるだらうと言つてゐた。本郷の江知勝で三人が飯を食つた時のあそびである。

 

[やぶちゃん注:底本では、掲げた「芥川龍」(本文にある通り、薄っすらと「龍」に○印が打たれているのがよく見ると判る)という久米のサインの左部分に以上のキャプションが活字で組み込まれてあるが、除去した。

 「本郷の江知勝」現在も文京区湯島二丁目で営業する、明治四(一八七一)年創業のすき焼き屋の老舗。

 実は「芥川龍之介遺墨」の同画を見ると、小穴隆一はこの絵を本に入れるに際して、芥川龍之介の描いた絵の位置と、久米が真似した「芥川龍」の位置をキャプションを挿入するために、かなり操作していることが判ったので、以下に参考までに「芥川龍之介遺墨」版の写真図版を掲げておく。これが正しい本図である。

 

Umanikerareakappa

 

 さて、これは前の絵の芥川龍之介の「いたづら」(久米の筆跡を真似して賛をし、落款したこと)に発奮した久米が、今度は――芥川龍之介が描いた馬が河童を蹴飛ばす絵に添えて――芥川龍之介の筆跡を真似て「芥川龍」という落款をした――と小穴隆一は証言しているのである。即ち、こちらは――絵が芥川龍之介の描いたもの――「芥川龍」という落款が久米正雄の手になるもの――ということなのである。小穴はこれを「芥川龍之介遺墨」で『圖版37』として掲げ、それに「馬に蹴られた河童」という題を附し、やはり、

   *

 久米の畫に三汀と落款をいれてにやにやした芥川は、筆をすてずにこんどは馬に蹴とばされてる河童を畫いてた。この畫の芥川龍といふ落款は、久米が芥川の筆法にあはせて書きいれたものだが、龍を丸でかこつたところに久米のほろ醉をみせてゐるのではなからうか。わたしは芥川自身が畫に芥川龍といふ落款をつかつた場合をみてはゐないのだ。

 いつであつたか、芥川の書齋にサムホールといふ小型のスケッチ箱があつて、そのなかにニュートンのながい四インチチューブといふ明治の頃のものがはいつてゐたのがなつかしく、笑つてゐたら芥川は、それは久米と房州にゆくとき、むかふから夏目先生に畫をおくらうといふので、二人がいつしよに買つた物だといつてゐたことがあつた。

   *

と、この二枚の戯画が書かれた際の当時の詳しい経緯(いしさつ)を詳細に解説している(前と同じく末尾に『小穴隆一藏』とある)。「サムホール」は既注であるが、再掲しておくとthumbhole或いはthumb-holdで、小型のスケッチ箱とスケッチ用の板を指す。箱の底の穴に親指を入れて持つことから、この名がある。「ニュートン」ウィンザー・アンド・ニュートン(Winsor & Newton:略称:W&N)社。一八三二年に化学者のウィリアム・ウィンザー(William Winsor)と、芸術家のヘンリー・ニュートン(Henry Newtonによって設立された、絵画などに使用される絵具や筆等を販売するイギリスのロンドンに現存する画材会社のこと。「四インチ」一〇・一六センチメートル。]

 

 我鬼時代の芥川の畫といふものは、同じ妖怪を畫いてゐても、その妖怪にどことなく愛敬があつたものである。僕はいつか佐佐木茂索の家の芥川の河童の額をみて、河童も晩年には草書となるかといふ感をしみじみと抱いた。「捨兒」「鼠小僧次郎吉」等を書きあげてゐた頃の、着物の下に黑の毛糸のジャケツトを着込んでゐた芥川の漁樵問答に依つた水虎、芥川の河童も始めは二疋立ちの畫であつたのが、「山鴫」の頃には、斧、釣竿を捨てて、一疋立ちの河郎となつてをり、さらに「玄鶴山房」「河童」の頃に至ると、蒲の穗さへ捨ててゐる河童の姿に、僕をもつて言はしむれば、河童もまた晩年には草書となるかとの感がある。河童の畫もまた晩年には明らかに疲れてゐる。しかしながら、一ツ目の怪の畫のごとき河童にあらざる數枚の物は、晩年に至つて堂々たると言つてもよろしいかたちを具へてきてゐるので、甚だ面白い對照と考へる。

[やぶちゃん注:「佐佐木茂索の家の芥川の河童の額」小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の解説によると、佐佐木茂索は推定で三枚の河童図を所持していた。二枚は同書で見られるが、これがその二枚の孰れかであるのか、はたまた今一枚のものであるかは私には比定出来ない。

「河童も晩年には草書となるかといふ感」この小穴隆一の感懐は、芥川龍之介の数々の河童図を編年的に眺めてみると非常に腑に落ちる。初期のそれはまさに正しく諧謔的な戯画で、二匹の河童の河童では微笑ましい交感風景として描かれたものさえあるものが、次第に河童の滑稽な温もりを失い、孤高にして枯瘦、鬱然とした空ろな眼つきの真正に病的な鬼趣を帯びてゆく。それはある意味、私には一見、判読し難い妖しい草書体のように見えるから、である。

「捨兒」大正九(一九二〇)年七月発行の『新潮』初出。

「鼠小僧次郎吉」同じく大正九年一月発行の『中央公論』初出。

「漁樵問答」世俗を離れて暮らす漁師と木樵を描いた画題として中国の昔から知られるものであるが、ここで小穴隆一が言っている芥川龍之介が元にした原作品が誰のどれを指すかは知らぬが、大正九年九月二十二日附小穴隆一書簡(葉書)に描かれた、知られた龍之介の「水虎問荅図」(表記は芥川龍之介の表記で示した。以下の画像を参照のこと)のことを念頭に置いた謂いであることは間違いない。二人の河童が描かれ、右の河童が斧を、左の河童が釣竿を持っている、旧全集書簡番号七七四とし出るそれである。小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」より示す。

 

Suikomondouzu

 

画の左の署名は「三拙漁人」で、同書の小穴隆一の解説によれば『詩、書、畫、共に優秀ならずといふ卑下から使ったものであらう』とある。

「山鴫」大正一〇(一九一一)年一月発行の『中央公論』初出。

「玄鶴山房」昭和二(一九二七)年一月及び二月発行の『中央公論』初出。

「河童」同昭和二年三月発行の『改造』初出。

「一ツ目の怪の畫」小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」より示す。

 

Hitotume

 

なお、これを含む芥川龍之介筆の妖怪画群は、小穴隆一の命名のままに現行、「化物帖」と呼ばれ、現在では(小穴は描かれた時期を比定していない)大正一三(一九二四)年頃の芥川龍之介の作品と推測比定されている。]

 僕はまだ河童をみてもをらず、河童といふものが地上に棲息するかどうかも知らないが、「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀れるのがあたりまへだよ、君、」とあとで芥川が言つてゐた布佐行、そもそも書く會をやらばやの僕ら、僕らはなぜ芥川の伊豆箱根説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、いまにして思へば、僕らは芥川を河童の畫の名題の妙手、小川芋錢のゐる牛久沼のほとりへ無意識に誘つてゐたといふことになるが、僕ら芥川、碧童、遠藤たちの四人が、我孫子で降りて、布佐の辨天を振出しに、靑い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ步きに步き、日暮れて行きつくところで泊つた旅籠屋、ああいふのが河童の宿かも知れない。大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを何なすとなく、何話すとなく、終日步るきそのまた翌日も步いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされてゐたのかも知れない。河童の宿の主は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯に行つてくれと湯札をだした。(湯にはいかなかつたが、女郎屋の入口を皆で見てすぐ戾つた。)旅籠賃があまりに安いので、それ相當に、四人の頭で壹圓の茶代をだすと、手拭のかはりに敷島四個をうやうやしく盆の上にのせてよこした。僕はその旅籠屋を河童の宿と思つてゐるが、宿の主のほうでは僕らを河童だと思つてゐたのかも知れない。なぜならば、女中は四人の床を昨夜は並べて敷いておいた、朝になるとそれが昔のロシヤ帝國の旗のやうに襷になつてゐた。僕らはほの暗い電燈の下を中心にして臥せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌、句、畫などを書いてゐただけであつたのであるが、人の寢るその恰好にはそれ相應の恰好があらうといふもので、僕らのやうな眞似をしてゐるものこそ、宿の人には利根の河童にみえたかも知れない。

  今日布佐行繪卷となつて芥川家にあるものが、この時のものなのである。

[やぶちゃん注:以上は「布佐」とあるが、正しくは「布施(ふせ)」である(但し、寄せ書きの冒頭には「布佐入」と記している)。大正一〇(一九二一)年一月三十日徒と三十一日に一泊で布佐弁天、現在の千葉県柏市布施にある真言宗紅龍山東海寺(本尊は弁才天で、寛永寺弁天堂(不忍池弁天堂)・江島神社とともに関東三弁天の一つに数えられ、地名から「布施弁天」とも称される。ここ(グーグル・マップ・データ))方面に、小穴隆一・小澤碧童・遠藤古原草と四人と旅行した旅や、その泊まりの宿で皆で詩歌や絵を寄せ書きしたことを記したものである。この折りの旅の様子は恐らくこの小穴隆一のこの叙述のみでしか詳しい内容を知ることは出来ないと思われ、そういう意味でも非常に貴重な記録である。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は日本画家。本名は茂吉。ウィキの「小川芋銭」によれば、生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。彼は私が愛する数少ない日本画家である。

「昔のロシヤ帝國の旗」これは「襷」とある以上、ロシア帝国旗ではなく、ロシア海軍旗(十七世紀末にピョートル大帝のデザインによる白地に青十字の聖アンドレイ旗が海軍の軍艦旗に定められた。日本海海戦等、小穴隆一たちはロシア帝国旗よりもこれらの海軍旗でロシア帝国をイメージしたに違いない)であろう。これこれである(前者がロシア海軍軍艦旗で、後者がロシア海軍国籍旗。孰れもウィキの「軍艦旗」のもの)。]

 

[やぶちゃん最終注:以上から、我々は、ある驚くべき事実を知ることになる。

 即ち、この知られた馬の尾に河童がぶら下がった久米正雄の絵の右に記された、

 

 提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

は、「三汀」と落款していても、久米三汀久雄の賛ではなく、芥川龍之介の賛だということである。しかも、この賛は、明らかに五・七・五の定型俳句の構造を持ち、「鬼灯」という初秋の季語も詠み込まれてある

 これに対して、以下のような反論をされる向きがあるかも知れぬ。

 

――これは芥川龍之介が久米正雄の句を写したものだろう

――そもそも小穴隆一だけがこう言っているのであって本当かどうか判らぬ。賛も自賛で落款(「三汀」の署名)も久米自身のものであり、従ってこの賛句も久米自身の俳句である

 

それは、私なら、鼻でせせら笑う。

 まず、この賛は絵の馬の尻尾にぶら下がった久米の河童の図の、河童の上肢と頭の部分、下肢の曲げた形態を「鬼灯のようじゃないか」と――よく言えば好意的に「諧謔した」――悪く言えば余り上手くないと「茶化し囃した」――ものであるという点にある。河童を画いたのに、それが鬼灯見たようだ、と自ら諧謔することは、まず、あり得ないと私は思う。自己韜晦や自己諧謔としても、このような自賛は私なら、しない。何故なら、それは画いた最低限の自分の思いや自負を自ら致命的毀損し、絵自体を無化することに他ならないからである。

 従って、久米が自分の既存或いは即興のこの句を自賛として記すことはないと言い得る。

 では、誰ならそうし得るか?

 それはまさに古くからの無二の悪友芥川龍之介ただ一人である。

 そうして、悪戯っ子である龍之介なら、皮肉な賛をした上に、恰もその賛を久米自身が成したように旧友に筆跡を真似て「三汀」と記し得る(正直、「三汀」の字を偽造するのはそう難しくないことと私は思う)

 また、小穴隆一がこんな複雑な事実(絵や賛や署名が別人がねつ造したということ)をわざわざ捏造し、殊更に証言する必要性が全くないということである。確かに小穴隆一は変奇な性格ではあるが、小穴はまさに真正の画家であり、その彼が戯画とは言え、他人の画いた絵に纏わるフェイクをさらに「フィク」して読者を煙に巻いて悦に入るようなタイプの最下劣な男ではないと考える。

 

 即ち、この、

 

 提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

は、

 

――芥川龍之介自作自筆の俳句である――

 

と断言し得る、と私は考えるのである。しかも、現在まで刊行されている芥川龍之介俳句集や句に関わる記載で、

 

――この句を芥川龍之介の句としているものは存在しない――

 

と思う。刊行された最新のものとしては加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」(二〇一〇年岩波文庫刊)があるが、これにも所収しない(なお、この句集は実際には加藤が芥川龍之介の句を渉猟したものではなく、岩波の編集者が掻き集めたもので、以前に私は『岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること』で指弾したが、俳句の造詣が深くない者によって俳句でないものまでが句として誤って挙げられてしまった(1085番)トンデモ句集とも言えるものである。なお、私は私の注釈附きの「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集 全五巻」が現在、芥川龍之介句を最も多く渉猟しているものと内心、秘かに自負している。私の心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」に配してあるので参照されたい)。

 久米正雄の自作句帖なるものが存在し、そこにこの句が確かに久米の句として記されており、しかもそれが大正一一(一九二二)年の絵が描かれた以前作と断定出来るというのであれば、私は以上の見解を総て否定し、以上でしめした注を改稿することに吝かではない。反論をお待ちしている。]

 

2017/01/14

少女   リルケ 茅野蕭々譯

 

 少女

           リルケ 茅野蕭々譯

 

他の人々は長い路を

ほの暗い詩人の許へ行かなくてはならない。

人の歌ふのを、

弦の上に手を置くのを見なかつたかと、

常に誰かに問(き)かなくてはならない。

ただ少女ばかりは問(き)かない、

どの橋が形象に通ずるかとは。

白銀の皿につける眞珠の紐よりも

なほ明るく微笑むだけだ。

 

少女等の生活からは、どの扉も

詩人に通ずる。

それから世界へ。

 

2016/12/31

(お前たち少女は四月の夕の)    リルケ 茅野蕭々譯

 

 (お前たち少女は四月の夕の)

           リルケ 茅野蕭々譯

 

お前たち少女は四月の夕の

花園のやうだ。

春は數多の路の上にあるが、

なほ何處とめあてもない。

 

 

[やぶちゃん注:これは詩集「我が祝いに」(Mir zur Feier 一八九九年:詩集題の訳は茅野の「リルケ抄」の巻末のリルケについての解説に出る邦訳題)の中の「少女の歌」詩群の序詩である。

 本詩を以ってランダム引用は休憩することとする。]

(私に二つの聲を伴はし給へ。)   リルケ 茅野蕭々譯

 

 (私に二つの聲を伴はし給へ。)

           リルケ 茅野蕭々譯

 

私に二つの聲を伴はし給へ。

私を再び都會と心配の中へ蒔き散ら給へ。

彼らと共に私は時代の怒の中にゐませう。

私の歌の響であなたの寢床を作りませう。

あなたが望む到る處に。

 

(私の生活は、私が急いでゐる)   リルケ 茅野蕭々譯

 

 (私の生活は、私が急いでゐる)

           リルケ 茅野蕭々譯

 

私の生活は、私が急いでゐる

この嶮しい時間ではない

私は私の背景の前の一本の樹、

私の澤山の口のただ一つ、

而も一番早く閉ざされるあの口だ。

 

私は、死の音が高まらうとするので――

拙いながら互に馴れ合ふ

二音の間の休息(やすみ)だ。

 

しかし暗いこの間隙(インタアヷル)の中に、

慄へながら二つの音は和解する。

      そして歌は美しい。

 

(これが私の爭だ。)   リルケ 茅野蕭々譯

 

 (これが私の爭だ。)

           リルケ 茅野蕭々譯

 

これが私の爭だ。

憧憬に身をささげて

每日を步み過ぎる。

それから、強く廣く

數千の根の條で

深く人生に摑み入る――

惱みを經て

遠く人生の外に熟す。

時代の外に。

 

石像の歌   リルケ 茅野蕭々譯

 

 石像の歌

           リルケ 茅野蕭々譯

 

誰だ。樂しい生命を捨てる程、

私を愛するのは誰だ。

若し一人が私の爲めに海で溺れると、

私は再び石から解かれて、

生命に、生命に歸るのだ。

 

私はそれ程鳴り繞(めぐ)る血にあこがれる。

石はほんたうに靜かだ。

私は生命を夢みる、生命は好ましい。

私をば蘇生させる

勇氣を誰も持たないか。

あらゆる最美なものを與へる

生命さへ私が得れば――

―― ―― ―― ―― ―― ―― ――

さうしたら私はひとり、

泣くだらう。石に焦れて泣くだらう。

葡萄酒のやうに熟すとも、私の血が何の役に立たう。

私を最も愛したその一人を

海から呼戻すことは出來ない。


 

[やぶちゃん注:底本校注によれば、二行目の「私を愛するのは誰だ。」は「リルケ詩抄」では「私を愛するは誰だ。」となっており、後の「リルケ詩集」でかく訂されてあるのを本文では反映した、とする。ここはそれに従った。]

 

女等が詩人に與へる歌   リルケ 茅野蕭々譯

 

 女等が詩人に與へる歌

           リルケ 茅野蕭々譯

すべてが開かれるのを御覽なさい。私だちもさうです。

私たちはさうした祝福に外ならない。

獸の中で血と闇とであつたものは

私たちの中で魂に育つた。そして

 

更に魂として叫んでゐる。あなたへも。

あなたは勿論それを風景のやうに

眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。

それ故私たちは思ふ、あなたは

 

呼ばれる人ではないと。しかしあなたは

私たちが殘りなく全く身を捧げる人ではないのか。

誰かの中で私たちはより多くなれませうか。

 

私たちと一緒に無限なものは過ぎ去る。

あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く爲に。

あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。

 

(これは私が自分を見出す時間だ。)   リルケ 茅野蕭々譯

 

 (これは私が自分を見出す時間だ。)

           リルケ 茅野蕭々譯

 

これは私が自分を見出す時間だ。

うす暗く牧場は風の中にゆれ、

凡ての白樺の樹皮は輝いて、

夕暮がその上に來る。

 

私はその沈默の中に生ひ育つて、

多くの枝で花咲きたい、

それもただ總てのものと一緒に

一つの調和に踊り入る爲め……

 

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