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カテゴリー「詩歌俳諧俳句」の194件の記事

2009/10/10

芥川龍之介「靜かさに堪へず散りけり夏椿」の句について 

芥川龍之介の「静かさに堪へず散りけり夏椿」という句は誰を悼んでいるのか?」というネット上の質問にお答えになっている方が、僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集」を引用されているのを今朝見つけた。大変、有難いことではあるが、やや誤解されている部分と、不十分な箇所があるので(残念なことに回答は既に本年10月1日で締め切られてしまっている)補足しておく。
まず、回答者が引用されている句はやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」≪のページでは≫後ろに配した『「芥川龍之介未定稿集」に現われたる句』の中に現れる。そこには、

  悼亡

靜かさに堪へず散りけり夏椿〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕

土雛や鼻の先だけ暮れ殘る〔編者注――自ら「姉さま人形」の土雛を描きて〕

(以上二句、大正十四年)

とある。本日、再確認したが、間違いなく編者葛巻義敏は同書575ページに「(以上二句、大正十四年)」として、掲げている。そして、この『〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕』というのは編者葛巻義敏の編注である。僕(=やぶちゃん)の編注ではない。回答者の表現は、ややその点が誤解を生む。
さて、質問者はこの答えに対して、『私が目にしたのは『芥川竜之介句集 我鬼全句』(永田書房1991)の103ページ。そこには「大正11」とある。』(表記ママ)とされており、それも今、確認した。以下の通りである。

       悼亡

沙羅の花 静かさに堪へず散りけり夏椿

       夏椿は沙羅の異名と知るべし

「沙羅の花」という頭書は編者村山古郷の季題表記、一句の後書きは、その口調から100%芥川龍之介自身のものという≪感じ≫である。そこが「芥川龍之介未定稿集」と大いに異なる。そして、この後書きは以下に示す通り、書簡内の芥川龍之介自身の言葉であることが分かっている。
さて、この質問者(御覧になると分かるが、「回答者」ではない。答えに対するお礼の中で質問者が述べている)は次に『悼亡の句という性格上、私信に添えられた可能性が高い。書簡集をあたったほうがいいのではないか、例えば【大正11年3月19日】あたりの・・・』と記す。その後に、別な回答者の冒頭の西村貞吉宛書簡の『良回答10pt』が示されている。
しかしながら、≪実はこれについては、≫既に僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」で採取してある。僕としては僕のHPを紹介して下さった回答者の方に、こちらのページまでチェックして戴ければ、よりよかったと思うものである(なお、葛巻の作句年代の誤りについて補注を施していない点は僕の不備とも言えよう。本件を受けてはやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当句に注記を施すこととする)。該当句を僕の注記と共に掲げておく(書簡番号は旧全集のもの)。

  悼亡

靜かさに堪へず散りけり夏椿

(一〇〇五 三月十九日 齋藤貞吉宛。齋藤(西村)貞吉は府立三中時代からの芥川の友人である(前掲新全集996書簡参照)。句の直前に「Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ」とあり、句の後に「夏椿は沙羅の異名と知るべし」とある。英文は「大事なことを一言言い忘れた」という意味。この書面全体に漂う芥川のアンビバレントな感情の原因(恐らく齋藤の縁者の死を伝えたのであろう「あんな手紙」の内容)は判然としない。)

このネット上の質問者の、芥川龍之介は誰を悼んでいるか、という答えは、西村の知人・縁者と答える以外にはない。九二六書簡(「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」)に現れる「五郎」なる謎の人物や、回答者の方が提示する「母」のプロットは、その亡くなった人物に繋がっている可能性が大きいようには思われる。「長江游記」の「一 蕪湖」を読んでも、齋藤貞吉にはある種の妙に孤独な影が見え隠れする――が、いずれにせよ、この「悼亡」の追悼句は、その消息文の書き方から見て、≪芥川のその逝去した対象者への深い追悼の念から作句されたものではないこと≫は実感される。寧ろ、乱暴な消息文の言葉遣いと静謐な句表現の中で、芥川は傷心の友齋藤自身を慰藉しているのである。

2009/09/13

DU WARST mein Tod   Paul Celan

DU WARST mein Tod   Paul Celan

DU WARST mein Tod:

dich konnte ich halten,

während mir alles entfiel.

訳は例えば

僕の御用達祭谷一斗氏の「パウル・ツェラン詩文集」の「あなたは」

2009/04/12

どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな

久しぶりに――

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

と書き込みたいなと思ったら――

明日は啄木忌であった――

何だか慄っとしする程、素敵な気分になったのだよ、僕はね――

2009/04/07

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》47首追加計220首 その記念としての「軽井沢にありて」全篇掲載

第二歌集『野に住みて』の入手により、「片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》」に47首を追加、計220首とした。年代推定・注記等も多くをやり直した。この際、ついでにカテゴリに「片山廣子」を創始した。

私の注を排除したすっきりした「軽井沢にありて」歌群全篇をここに掲げてその記念とする。

  軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)

(以下は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の全篇である。)

   日中

    信濃追分にて

はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし

しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ

風あらく大空のにごり澄みにけり山山に白き巻雲をのこし

板屋根のふるび静かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり

さびしさの大なる現はれの浅間山さやかなりけふの青空のなかに

影もなく白き路かな信濃なる追分みちわかれめに来つ

われら三人影もおとさぬ日中(につちう)に立つて清水のながれを見てをる

しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ

土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり来てみればのびろし畑は

明るすぎる野はらの空気まなつ日の荒さをもちて迫りくるなり

日傘させどまはりに日あり足もとの細ながれを見つつ人の来るを待つ

日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ

四五本の樹のかげにある腰掛場ことしも来たり腰かけてみる

しろじろとうら葉の光る樹樹ありて山すその風に吹かれたるかな

われわれも牧場のけものらと同じやうに静かになりて風に吹かれつつ

友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな

をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま

   はじめて六里ヶ原にあそぶ

わがさきに夕だちすぎけむ溶岩のくづれたる路のいちめんの露

わが上をひとむらの雲流れゆく村雨をはりいま青きそら

のぼりこし山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄ろき日のひかり

小瀬渓にこの松山はつづくといふ松の葉光りどこまでも松の山

山あひの空のあかるき日だまりにわれらの煙草のけむり尾をひく

赤砂の浅間のやまの山ひだに光るすぢあり陽にふるへつつ

尾のひかる白き白きけもののかたちして雲一つとほる浅間のおもてに

雨遠くすぎ日の透きとほる草丘は一めんにほそき芒の穂ばかり

草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする

青くさの傾斜のむかふ大ぞらに光る山山は荒浪のごとく

生きものはわれのみと思ひゐたる野原の遠くに牛群れて立てり

とほくて顔もみえざる野うしども野のところどころに時どき動く

八月の空気の中の一ところわが心のまはり暗きかげあり

わがむすめそばなる母を忘れはて野原のなかにさびしげなるかな

雲を見るわが子の瞳くろぐろとこの野のなかに静かなるかな

野のひろさ吾をかこめり人の世の人なることのいまは悲しき

野の遠くに雲の影うごき一ぽんの樹の立つところも曇りたるかな

    碓氷

     見晴台にのぼりて

一ぽんの木もなき山のたひらなりねぼけたる鴉うへを鳴きゆく

山も山も霞の中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山

しめり風いちめんの熊笹に音を立つこの山も今かすみの中ならむ

遠みねのほのかなるいろの山ざくら散りつつやある山つちましろに             

   しろき蛾

      つるや旅館、もみぢの部屋にて

白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに

亡き友のやどりし部屋に一夜寝て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ

あさ暗きねどこに聞けばこの部屋をとりまく樹樹に雨降りてをり

午前九時庭樹あかるし茶をいれてわが飲む音をきけばをかしく

湯上がりのわが見る鏡ふかぶかと青ぐらき部屋の中に澄みたり

せと火鉢湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の来たり畳にとまる

   雨

    昭和十三年六月、軽井沢愛宕の奥に堀辰雄氏を訪ふ

風まじり雨降る山に杉皮の家ぬれてゐたり君はいますや

栗鼠なりしや雨ひかり降る前庭をはしり過ぎたる小さきものは

雨つゆの降りかかる木の間くぐり来て君が家の庭に栗鼠のはしる見たり

そらおほふ木の葉に雨のあたるおと樅の木肌を流れおちる水

むすめらしくほそき姿のわかづまは黒き毛いとの上衣を着たり

フランスの新聞をこまく裂きて堀辰雄暖炉の火をもす

大き炉にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ

   山すその町

かれ葦はら青葦すでに育ちゐてあめつちの動き頼まるるなり

山すその町はひそかに灯をかくし屋根屋根くろく月も曇りたる

   七月

七月の青きいのちはすさまじく馬越(まごえ)の原に葦さやぐなり

葦はらの中の砂地に立ちとまり人がうしろから来るやうにおもふ

わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり

   苔庭

    軽井沢の町のちかき室生犀星氏の庭にて

洞庭の湖(うみ)かたどりし苔庭にゆれ映る日を見ていましけり

   初冬

かれ葦と枯木かさかさ音たつる野みちを過ぎて友が家に来ぬ

夏庭に影をひろげし大木なり一葉も保(も)たず風にふかるる

ふと薪と白樺の枝(え)も古板も大き炉に燃しあたたまる部屋

霜つよく草枯れはつる夜もひるも炉をあかく燃す野のひとつ家

冬来たる野なかの家に炉をもして熱きあづきをもてなされつつ

家ゆする山かぜはげし朴の葉も紅葉も捲きてふきとばさるる

山おろし木の葉吹きちらす野を越えてまさやかに濃く浅間がみゆる

こがらしに雲ちぎれ浮く野に来たり見むとおもはぬ浅間に遇へる

2009/04/06

ひどいミスがいっぱいだ

片山廣子第二歌集「野に住みて」

Nonisumite

 

 

現物を読んでいる(古書で¥15,000はこの薄さでケッコウくるものがある)が、引用元や僕のタイプミスも含めて――

すまん!

廣子!

近日中に直すからね!

2009/04/05

珍しく一首

わが口に

   櫻の小枝(さえだ)

  さし入れて

     先の世にさへ

          花見をぞせむ

                    唯至

こんな戯れ歌を珍しく考えながら――僕は過去に短歌を創った記憶が全くない――髪を染めて、帰ってみたら、片山廣子の「野に住みて」(第二書房・昭和29(1954)年刊)が届いていた。僕は少しばかり、廣子に恋しているのかも知れない――髪を染めてまで……

2009/04/02

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》 9首追加

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》に9首を追加し、計173首。

戦後の第二歌集『野に住みて』を古書店でゲット! 後は『翡翠』だ。

一つ気づいたことがある。論文やブログ記事で、引用されている廣子の短歌が、ダブることが予想外に少ないということである。これは、それだけ、多様な魅力を彼女の歌が持っていることの証左ではなかろうか。多くの人の、微妙に異なる琴線に触れる微細なる多様性をである。僕は、短歌が苦手なのであるが、確かに不思議な誘惑(時に危険でさえある)を彼女の歌は持っていると、僕でさえ思うのである。

2009/04/01

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》 14首追加

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》に14首を追加し、計164首。

正直言うと、だんだん、この底本なしに、いらいらしてきたぞ。

誰か、僕に『翡翠』と『野に住みて』を貸してくれい! と叫びたい――

2009/03/31

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》 18首追加

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》に18首を追加、その前の追加2首と合わせて計150首となった。今回はすべて『翡翠』からの引用であるので、今回分かった冒頭の第一首を先頭に移動した後に18首を追加してある。この18首はどれも印象的な鋭い詩想に富んでいる。彼女の短歌がいいね、と言った貴女に捧げよう。

2009/03/26

魂の窓―永遠の電流体―不可見―詩の病気―肉体の悩気……

象徴は魂の窓である。

最良の詩人は永遠の洞察者である。永遠の電流体である。

不可見の世界を離れて象徴なし。

言葉は詩の病気なり。言葉を失へよ。

肉体の悩気とは何ぞや。永遠が付与する生命なり。美の本質なり。

(三木露風『白き手の猟人』「冬夜手記」より気ままに抜粋)

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