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カテゴリー「忘れ得ぬ人々」の47件の記事

2009/08/17

蝉とりの少女

昨日の夕方――アリスと散歩――公園――一人の少女が蝉とりをしている――僕は「あそこ……」と蝉のとまっている木の幹の何箇所かをそっと指で指した――少女は首尾よく二匹ばかりを虫籠に入れた――立ち去る僕とアリス――後ろから――「ありがとう!」――と少女の澄んだ綺麗な声が高く空に舞い上がった――鬱鬱とした一日のほんの一瞬の心の晴れた空に――

2009/08/09

礼文利尻手帳――ブログ記載2000件目

8月4日(火)
◎稚内。アイヌ語「ヤム(冷たき)ワッカ(水)ナイ(川)」。
○ノシャップ寒流水族館。拘縮しつつある右腕をドクター・フィッシュの餌食とす。其肌舐め触り、得も言はれぬ快感なること請け合ひ。ダンゴウオ。バイガイの隠者。零細なる経営・袋小路式順路、正しく寒流の名に相応し。されど我水族館訪問史にありては、思ひ出深し。
○ノシャップ(野寒布)岬。アイヌ語「ノッ(岬)サム(突き出でし)」。
○稚内港。北防波堤ドーム。極北のパルテノン神殿。
◎礼文。アイヌ語「レプン(沖なる)シリ(島)」。
○町は干物が臭ひに満てり。海岸線に張り付ける家々。各々の家屋は背後に山上へと向かふ道やら梯子やらを有するも、その先は悉く緑蕪に塞がれてゐたり。又雪崩防止が為、斜面各所に多数の突き出でたる柵有。恰も山への登攀を拒むに似たり。其が街の名を「香深」と言ふ。道標にローマ字有。“Kafuka”。――知れり。是、カフカの「城」也――
○Petie Hotel Korinsian(コリンシアン)泊。海近し。海上鏡面の如くにして潮騒の一転声無し、否、窓全開せるも開きたるを感ぜしめず。部屋の装飾、その無類の静謐、アイゼナッハのワルトブルグ城をちと思ひ出せし。昨年開鑿せるラドン温泉に入る。

8月5日(水)
○朝、散策。エゾタマキガイと思はるる多量の貝殻に埋め尽くされし海浜。屍骸の壮観。
○一日、Hotel Korinssian コンシェルジュ日沼景子女史の案内にて車にて礼文を回る。銭屋五兵衛碑。スコトン(須古頓)岬。「日本最北限の岬」「日本最北限のトイレ」のクレジット有。
○スカイ(澄海)岬。木彫師仁吉“nikichi”の店にてホオズキ他求む。ナマコ・ホヤの実物大彫刻有らば求めんに惜し。仁吉氏の飼ひし老犬「チャ」。スカイ(澄海)の字は余りにまんまなればこそ、アイヌ語にては他の意味ならん。
○高山植物培養センター(植物園)。レブンアツモリソウ見る。時期外れなれど客が為に冷蔵庫にて時期を錯誤させ園地に植ゑ込みて見せる也。可憐なる白色。今朝、一輪はカラス(推定)の悪戯せし故に散れるなりと。日高女史を知れる課長飯野氏の好意にて、奇形なればとて間引きせるレブンアツモリソウの剖検を特別に見学す。レブンアツモリソウの袋状をせる花中雄蕊雌蕊及び昆虫をば誘ひ込まんとする柔毛に至る迄具さに見る。総花序も撮影す。稀有の体験也。学校の子らに斯くなる試技を示し見せレブンアツモリソウへの本当の理解と保護の精神を促したしてふ飯野氏の言葉に心底打たれたり。
○漁協ウニ加工場。海洋生物を好む客也と日高女史言へば、漁労長、奥にウニの解剖図を取りに行かれ、厳かにウニを剖検す。綺麗に出だされし Aristotle's lantern を観察、生を食す(是は既に昨夜の夕食にて体験済)。親しく塩雲丹の製造法につきて質問するに、私的に昨日漬けた色悪きものの商品にならざるものの一夜漬けの塩雲丹、再び奥より出だし、下さる。一含み、我、生涯に於いて斯く美味なる雲丹を食ひたるは初めての事なり。又又稀有の体験。
○東海岸。岩礁に列臥しイナバウアーを演じたる天然の十数匹のワモンアザラシの群れ、目と鼻の先にて見る。飽きること無し。
○レブンウスユキソウ群生地に登る。見下ろす眼前に青き海とレブンウスユキソウ。其れ、稀有の取り合わせ(日高女史も曰、エーデルワイスを海と一緒に見らるるは世界中に此処のみとなり)。絶景。車中、礼文の地図北端に知床てふ地名を発見す。女史曰、アイヌ語でシレトコは地の果ての地てふ意なりと。合点せり。
○西海岸。桃台。地蔵岩。猫岩。桃台は桃の形をせる巨なる岩塊、地蔵岩は大いなる舟形光背の形せる海岸にそそり立つ岩。猫岩は耳を立てし猫の稍傾きて坐れる後姿なる海辺の岩也。香深のフェリー乗り場の旗振りで知られしユースホステル桃岩荘の近在也。飯野氏と言ひ漁労長と言ひ日沼女史と言ひ島人の誠意に触れし一日なり。礼文案内なれば日沼景子女史の右に出る者無し。
○Pesion Uniy(うーにー)泊。夜食事に出でし糠(ぬか)ホッケ佳。生ハムに匹敵せる味。夜、部屋から見下ろした植え込みに南洋の白きダチュラの花を見る。妻も認む。

8月6日(木)
○出しなに前栽見るも花無し。うーにーの女将にダチュラの花ならんと言ふも、あれはイタドリ、そんなお洒落な名前の花は聞いたことなしと言ふ。確かに昨夜の位置には大きなるイタドリの葉の黄ばみしがあるのみ。我と妻、幻のエンジェルズ・トランペットを見し乎。
○香深フェリータミナル前松岡支店にて、昨夜食せる糠ホッケ冷凍十本を配送依頼。
○香深港発。利尻鴛泊に近づきて遂に快晴。満を持して利尻富士の全容を拝す。ブロッケン山へ!
◎利尻。アイヌ語「リイ(高き)シリ(島)」。
○鴛泊港にて高山植物に詳しい元漁師富士ハイヤーの和島英樹氏の案内にて富士野園地から沓形へ。海岸線の隠れたる花園を見る。リシリヒナゲシ。昆布干場。養殖リシリコンブの柄部にヒドロ虫の付着せるを見る。今年は特にヒドロ虫付きて等級の下がる由、悩みの種也となり。
○Island Inn Rishiri(アイランド イン リシリ)泊。連泊。
○利尻島の駅「海藻の里・利尻」。世界で唯一の本格海藻押し花。バラやフキノトウの押し葉には驚愕せり。
○アイランド イン リシリの浴場、高濃度炭酸泉・海洋深層水とリシリコンブ(我も出汁となれる乎)・利尻山湧水の加熱水三種。夜、雲丹の土瓶蒸佳。レシピ聞くも企業秘密。同夜。快晴。満月美天。尖れる山並、さながらワルプルギュスの景。

8月7日(金)
○観光バスにて利尻一周。我等滞在中、鴛泊沓形間を都合5度通りしより、利尻島2回+1/4走破すに等し。
○ポンモシリ沼と見返園地にて利尻山頂を現はす。全く以て山頂を見ずして離島せる客もあるなるなれば、我等如何にも幸運の極み。アイヌ語「ポン(小さき)モシリ(島)」。
○利尻島郷土資料館。Ranald MacDonaldラナルド・マクドナルド。ペリーに先立つ5年前日本に憧れて来し24 歳のアメリカ人青年の物語。ヒグマの海を渡りて利尻に泳ぎ来たれる写真。彼の稚内北防波堤ドーム建設が為、消え去りし鴛泊がペシ岬の根の岩山の話。
○仙法師御崎公園。天然岩礁の生簀中にアザラシのワカメちゃんとコンブちゃん。昨日の和島氏の言を入れ、リシリコンブは漁協直売所にて買ふなり。
○同夕。快晴。オレンジの落日。同夜。快晴。昨夜に続き夜天美月。屋上にて、360度を望天、心無しか近き大きなるかな北斗、峨々たる利尻、見えぬ精霊、跳梁せるサバト。昼の浴場と同じく客無く貸切。
8月8日(土)
○島離れる船の汽笛にゐる(三十数年前の18の折の於小豆島旧句也)

2008/07/23

「忘れ得ぬ人々17 ポンペイのドイツ人」写真追加

教え子やマイミクに好評だった「忘れ得ぬ人々17 ポンペイのドイツ人」の写真を掘り出した。1991年7月31日(イタリア日時)のポンペイにて。

Doic2_3 公衆浴場の温浴室跡にて。ポンペイの可愛い野良犬と。左に坐っている老人が彼。

Doic1_3 レストランにて。彼は撮っている妻の方を見ている。左端のおじさんは英語ツアーのイタリア人ガイド。

2008/06/24

忘れ得ぬ人々17 ポンペイのドイツ人

1991年夏、僕はポンペイの灼熱の太陽の下にいた――

――妻と一緒にザックを担いだバックパッカー染みた14日間の無謀なフリーのイタリア行……ヴェネチアではべろべろに酔ってバポレットの上で大声でイカサマのイタリア語のサンタ・ルチアを歌って欧米旅行者の老人集団のやんや喝采を浴び(あんなに拍手をもらったのは多分生涯であれっきり)……シエナのカンポ広場では、夕涼みの地元の太ったおばあちゃんに逢って、意味も分からず分かった振りをしてヘラヘラ笑って頷いていたら、最後に究極のキス攻撃に逢った……という話は、「忘れ得ぬ人々 2」でとっくに書いていたね――

ローマのポンペイ遺跡英語ツアーに参加したが、ナポリで一人の背の高い痩せた老人がバスに乗り込んで来た。後で81歳だと知った。

ポンペイはピーカンで、フライパンの上を歩いているのと同じだった。老人は少し足元がふらついており、ツアーのアメリカ人の若者が時々、気にかけている。しかしその若者は新婚らしく、若い女性が常に少し離れて寄り添っていて、僕は何だかその二人が可愛そうな気もして、その若者に声をかけると、途中からその老人の腕をとって一緒に歩いたのだった。

Doic2

 

老人はドイツ人だった。鼻が悪いらしく、しきりに褐色の如何にも高級な絹のハンカチーフで、鼻をかんでいるのであった。それは正しく「鼻びしびし」というに相応しい、妙な言い方だが、「ドイツ人らしい」きっぱりとした、正に「びしっ」とした、確かな「かみ」様であったのである。

僕は黙ってその手をとって歩いていたが、先来のアメリカ人が頻りに彼に話しかけて笑っていたのを思うと、幾分か、情けない気持ちになってくる自分を意識しないではいられなかったことも事実であった。

そこで僕は、一つ気が付いたことがあって、思い切って首からぶら提げたコンタックス(当時唯一ドイツ製Carl Zeissのレンズが装着できる国産カメラの名。風邪薬ではない)の、重たくだらしなく下方を向いたPlanar T*f/2 100レンズ(望遠135ミリ)を指さすと、

「これはドイツ製カール・ツァイスの100ミリレンズです。僕の自慢なのです。」と乏しい英語で言った(この異様に重い交換レンズは生粋の西ドイツ製で、カビをはやかしてしまって(!)修理に出したときには、1ヶ月半かかり、、戻っていた時にはドイツ語の点検箇所詳細とドイツ人技師のサイン入り検査証明書が同封されていた。この開放値F2のレンズ、友人のカメラマンに言わせると、今でも逸品だそうである。但し、お恥ずかしながら、僕はもうかれこれ4年近くこのカメラもレンズも仕舞い込んだまま、この記述のために、久々に見たという体たらく……)。

老人は如何にも、という感じで眼をむくと、僕の好きな英国人俳優ジョン・ギールグッドのシェイクスピアの台詞回しよろしく、

“Are you professional?”

と重厚に厳かに発音した。そこで僕が、如何にも「ダメな」日本人に有り勝ちな卑屈な笑みを浮かべながら黙ってしまったことは、言うまでも、ない。……

満面に汗をかき、ほとんど分からない英語ガイドに飽きた頃、やっと昼食のレストランに着いた。僕ら夫婦は、その老人と一緒で、同じテーブルには韓国人の若夫婦もいて、5人。韓国人の奥さんは、老人のしっきりなしの「鼻びしびし」に、見るからに嫌そうな顔をあからさまにした。いや、食事中であればこそ、分からぬではない。分からぬではない、が、やっぱり少し、老人が可愛そうに思って、彼を見てみると、そういった周囲への関心は彼には幸いにして全くなく、相変わらずビシビシ、ニコニコしている。僕は心から安堵したのであった。

たどたどしい会話(主に勿論、僕のせい)の中で81歳と知り、大袈裟に驚愕しながら(演技ならお手のものだ。いや、確かに81には驚いたのだけれど)、どうして(「その歳で」というところは勿論言わなかったし、僕の英語力では表現できなかったというのが正しい)ここへ? と聞くと、彼、またしてもギールグッドのように、ゆっくりと(それは僕が如何にも英語が分からないことを分かっていたからとも言えるのだが)答えた。

「私は50年前、この港からドイツの戦車兵として、アフリカに渡ったのだ。」

――僕はここで心底、驚愕したのであった。50年前とは、1941年――彼はロンメル将軍率いるあの最強の機甲師団の一人だったのだ!――僕はもう、舞い上がって、「ロンメル」とか「タイガー戦車」とか「砂漠の鼠」(如何にも恥ずかしい。あの時、彼はその言葉に、ニヤリとしながら合槌を打ってくれたが、「砂漠の狐」と言うべきで、「鼠」は連合軍側だ!)とか、単語を散発しながら、僕は失礼ながら好きな戦争映画を見た手に汗握る感じ以上に、この老人の手を実際に握りつつ、何とかこの、歴史的(?)邂逅への感動を(それをオタクと呼ぶも底が浅いと呼ぶもご勝手に)、この老人に伝えたかったのだった……

彼は、しかし確かに、この如何にも浅薄な、如何にも愚鈍な僕の奇妙な感動を受け入れてくれ、ドイツ語交じりの、残念ながら最早僕には意味の分からない感懐を、しみじみと語り続け、そうして、分かったような顔をして少し涙ぐんでいる(それは演技ではなった。幾分かは、思いを伝えられない、分からないという悔し涙ではあったかもしれないが)僕の両手をとると、如何にも強く痛い握手を、上下に、ドイツ人らしく振ったのだった――

――ポンペイで泊まるといって、その大きな手を挙げると、彼は、僕らと別れた。

Doic1_2

 

帰りのバスから見えた、バールのテラスの椅子に一人腰掛けた、海を見つめている彼の姿が、僕には、今も忘れられない――

2008/03/31

忘れ得ぬ人々16 久成寺山門青空美術展の子ら

Aozaratennrannkai 昨日の西原のお兄ちゃんのメールの一文にあった

「そしてお寺の山門で開いた展覧会の情景を思い出します。
自分もそんな時代があったのだと。」

――僕はこの写真が大好きだ。「忘れ得ぬ人々」と言いながら、僕はこの写真を撮られた時のことを、全く覚えていない。もう結核性カリエスに罹患していた。画面の左の方に、父と一緒にいるのが僕である。病みががった呆けた表情をしている。しかし、そんなことは、どうでもいい。

左端の如何にもいい笑顔の好々爺は、この寺、日蓮宗久成寺の当時の住職である。この寺の門前に、何棟もの長屋があった。

その長屋の子どもたちは、みんな日曜になると道を挟んだ向かいの山の上にぽつんと建つ我が家にやってきた。父が無償で絵を教えていた。その画題の一つには、悪戯をする僕の姿もあったに違いない――そうして僕の父は、彼らにとって、真に「最初の教師」であったのかも知れない――

この子どもたちの、生き生きとした表情を味わいたい。昭和の、あの貧しかった時代(映画の台詞じゃあなく)、しかし確かに心だけは豊かだったってことが、この笑顔から伝わってくるではないか――

2008/03/30

忘れ得ぬ人々15 西原のお兄ちゃん

「忘れ得ぬ人々14 西原のお兄ちゃんのオモニ」の写真は、そのお兄ちゃんが僕の父を訪ねてくれたことで、アップ出来たのであった。

そのお兄ちゃんが、今、僕にメールを呉れた。僕は、20代の頃、お兄ちゃんにお酒をおごってもらったことがある。例によって、僕はべろべろに酔っ払って、そうして、偉そうに、朝鮮の人々の哀しみがわかります、なんどと言い放った自分の恥ずかしさを今、思い出す。

でも、それは西原のお兄ちゃんが、ご自身のお子さんの誕生に「人の痛みを分かる人間になって欲しい」と語られたことを、父母への手紙で知っていたからであった。

僕はお兄ちゃんの、不肖であっても、「弟」なのである。であればこそ、僕は、確かに「わかる」のでなくては、ならなかったし、僕は確かに、南北に分断されているこの一つの同胞、一つの民族の、あってはならなかった悲劇を、不断に忘れない。

あの、先日公開した僕の「『高校生による「こゝろ」講義後小論文』最新一篇「トゥワイス・ボーン」追加」論文の作者も、在日朝鮮人である。そうして、彼は今の日本の教育に失望し、明日、アメリカに旅立つのだった――

錯綜する表現をお許し頂きたい――

そのお兄ちゃんのメールを一部紹介する。

今日の僕は、今日の僕を、久し振りに「僕らしく生きられた」気がするのである――

先日、たぁちゃんのお父さん・お母さんとお会い出来、感激の時間を持つことが出来ました。

[やぶちゃん注:「たぁちゃん」とは僕の幼少の頃の呼び名である。]

そして、今日メールを開くと、先生からの追伸を頂きました。
そのメールに触れると、何故か目頭が熱くなりました。
そして、たぁちゃんのメールアドレスとブログが記されておりました。

[やぶちゃん注:「先生」とは「忘れ得ぬ人々14」に記した絵を教えた父のことを指す。]

私自身はブログ等を検索するのは始めての経験であり、「忘れ得ぬ人々14」にたどり着くのにかなりの時間を要しましたが、その文章に触れ、夫婦二人して心温まるのを感じました。

昔、おふくろの作ってくれたキムチの味が改めて思い起こされます。
そしてお寺の山門で開いた展覧会の情景を思い出します。
自分もそんな時代があったのだと。

私の心が高揚しているのは自分でも分かります。

近々にはお会いできるよう、たぁちゃんの活躍を期待しています。

――お兄ちゃん、非力な僕です。そんなに期待しないで下さい。でも、また、一緒に、お酒、飲んで下さい。

2008/03/29

「忘れ得ぬ人々14 西原のお兄ちゃんのオモニ」の写真

Image0003_2 「忘れ得ぬ人々14 西原のお兄ちゃんのオモニ」に書いたオモニの写真が出てきた。先の記事とここに掲げる。オモニへの敬意を籠めて。

――僕たちは一体、何を語れるだろうか? 彼女のこの深い皺の、しかし少女のような笑顔の前に――

これは昭和56(1981)年、僕はまだ教員三年目、24の頃、僕が持っているのは、オモニが「これ、持っていきなさい!」と、背景に写る豆腐屋さんから買ってくれた豆腐である。この行商の豆腐屋さんも、この5~6年後には、来なくなった。僕にとって、そしてオモニにとって、この写真は昭和という時代の終焉でもあったのかも知れない――

2008/03/18

「忘れ得ぬ人々 れんげ畑」の写真

Image00040001_2 そうして、また一枚、2007/10/01に記載した「忘れ得ぬ人々 れんげ畑」の写真を見つけた。先の記事とここに写真をアップしておく。懐かしい大泉学園のれんげ畑の中の、母と僕――この一枚も確かに「三丁目の夕日」のかすかな、あの遠い日のれんげ畑の匂いがする――僕は母の膝の温もりを永遠に忘れない……

2008/03/16

「忘れ得ぬ人々15 米谷さんちのお手伝いさん」の彼女の写真

Image0037_2 2007/07/03に記載した「忘れ得ぬ人々15 米谷さんちのお手伝いさん」の写真を見つけた。先の記事とここに写真をアップしておく。懐かしい大泉学園の伯父の家の隣りの空地。僕と彼女――この一枚には確かに「三丁目の夕日」の匂いがする――僕は、そしてこの永遠の姐さんに恋焦がれている自分を、昨今、とんと感じない確かな「自分」として感じている。こんな自分を僕を何時何処で忘れてしまったのだろうか……

2008/02/09

悼猪瀬達郎先生

今日、僕が唯一国語の教師の「師」として尊敬する猪瀬達郎先生が、一月二十一日に肝不全で亡くなったことを知った(故人の遺志により自由葬・御香料・御供物等一切無用とのこと)。

梶井基次郎論が卒論であり、主任教授だった吉田精一が大学院に残って一緒に研究しないかと水を向けた切れ者、舞岡高校で御一緒してからというもの、定年後も肝臓癌と同棲しながら、僕の青臭い文学論を昔と変わらず酒を介して対等に相手してくれた気骨ある国語教師、昨年冨永太郎文学展に御一緒した折ここ一番小説を書くことを薦め、その気になったおられたのに――いや、何よりも文学者は須らく売文の士に過ぎぬことを教えてくれた唯一の「僕のラビ」であった――

その最後の言葉を奥様から頂いた御手紙から引用する。

一年ほど前から予感はありました。

しかし老少不定 人それぞれに定命というものがある。

自分の一生をふり返ってみると苦労の連続の中で成長し、長ずるに及んでは、さしたる社会的貢献もせずに今日まで来てしまった。しかし格別の悔いもない。

平々凡々の人生に今は満足して宇宙の塵になるつもりです。

 では 皆様さようなら

                 猪  瀬  達  郎

                 平成二十年一月十日 記

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