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カテゴリー「海岸動物」の71件の記事

2015/06/09

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七

 

 今昔、藤原の信通(のぶみち)の朝臣と云ける人、常陸の守(かみ)にて其の國に有けるに、任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)、風糸(いと)おどろおどろしく吹て、極(いみじく)く荒ける夜、□□の郡の東西の濱と云ふ所に、死人(しにん)被打寄(うちよせ)られたりけり。

 其の死人の長(た)け、五丈餘也けり。臥長(ふしたけ)、砂(いさご)に半ば埋められたりけるに、人、高き馬に乘て打寄(うちより)たりけるに、弓を持たる末(すゑ)許(ばかり)ぞ此方(こなた)に見えける。然(さ)ては其の程を可押量(おしはか)るべし。其の死人、頸(くび)より切(きれ)て、頭(かしら)、無かりけり。亦、右の手、左の足も無かりけり。此れは、鰐(わに)などの咋切(くひきり)たるにこそは。本(もと)の如くにして有ましかば、極(いみ)じからまし。亦、低(うつふ)しにて砂(いさご)に隱たりければ、男女(なんによ)何れと云ふ事を知らず。但し、身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける。國の者共、此れを見て、奇異(あさまし)がりつ、合(あひ)て見喤(みののしり)ける事限無し。

 亦、陸奧(みちのく)の國に海道(かいだう)と云ふ所にて、國司(くにのつかさ)□の□□と云ける人も、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄たりと聞て、人を遣(や)て見せけり。砂(いさご)に被埋(うづまれ)たりければ、男女(なんによ)をば難知(しりがた)し。女にこそ有(あん)めれとぞ見けるを、智(さと)り有る僧なむどの云けるは、「此(こ)の一世界(いつせかい)に此(かか)る大人(おほきなるひと)、有る所有(あり)と、佛、説(とき)給はず。此(これ)を思ふに、阿修羅女(あしゆらによ)などにや有らむ。身成(みなり)などの糸(いと)淸氣(きよげ)なるは、若(も)し然(さ)にや」ぞ疑ひける。

 然(さ)て、國の司(つかさ)、「此(かか)る希有(けう)の事なれば、何(いか)でか國解(こくげ)不申(まうさ)では有(あ)らむ」とて、申上むと既にしけるを、國の者共、「申し上げられなば、必ず官使(くわんし)下(くだり)て見むとす。其の官使の下らむに、繚(あつかひ)大事(だいじ)也(なり)なむ。只(ただ)隱して、此の事は有るべき也(なり)」と云ければ、守(かみ)、不申上(まうしあげ)で隱して止(やみ)にけり。

 而る間、其の國に□□の□□と云ふ兵(つはもの)有けり。此の大人(おほきなるひと)を見て、「若(も)し、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄來(よりき)たらば、何(いか)がせむと爲(す)る。若(も)し箭(や)は立(たち)なむや、試(こころみ)む」と云て射たりければ、箭、糸(い)と深く立(たち)にけり。然(しか)れば、此れを聞く人、「微妙(めでた)く試たり」とぞ、讚(ほ)め感じける。

 然(さ)て、其の死人、日來(ひごろ)を經(へ)ける程に亂(みだれ)にければ、十(じふ)、二十(にじふちやう)町が程には、人否(え)不住(すま)で、逃(にげ)なむどしける。臭さに難堪(たへがた)ければなむ。

 此の事、隱したりけれども、守(かみ)、京に上にければ、自然(おのづか)ら聞えて、此(か)く語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 出典は未詳であるが、二件の記事のカップリングから見ても、創作ではなく、事実として風聞されたものであると考えてよい。小学館「日本古典全集」版の解説では、『三面記事的説話であるが、また巨人伝説的な匂いもある。海流の関係で、常陸・陸奥の海岸には、遠い国々から漂着がまれにあったようだ』とし、『本話は史実に合致する国司の名も見えることから』(後注参照)『誇張はあるが一応事実を伝えたものであろう』と評している。私の授業やサイトに親しんでおられる方は、即座に滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)を想起されるであろう。特に、後半の話に於いて、お上に報告すると、検分の調査団が派遣されて来て、その接待や何やかやで、当方の一方ならぬ難儀となるということで、秘かに握り潰す(「兎園小説」では円盤状の乗り物に乗って漂着した金髪の白人成人女性をまた同船に載せて突き流している)辺り、遠く本話に通底している。

 さらに私は、本話の二例ともに、遺体が非常に大きいこと、首や四肢が大きく欠損しており(腐敗脱落や本文にあるように鮫などに喰われたと考えてよい)、人形(ひとがた)とはいうものの、通常の人体そのままにそれが何倍(前者では「五丈」であるから十倍近い)にもなった生命体であるとは述べていないことに着目する。私はこれはしばしば人魚の正体とされる大型海生哺乳類の遺体ではなかろうか? 知られたジュゴン(哺乳綱 Mammalia 海牛(ジュゴン)目 Sirenia ジュゴン科 Dugongidae ジュゴン属 Dugong ジュゴン Dugong dugon)は三メートルを超える個体もいる。但し、ジュゴンの生息分布が現在は沖繩が北限であることを云々する向きには、後半の陸奥の遺体はアシカ・アザラシ類のそれであると見ておけば問題あるまい。では驚くべき大きさの前者はどうなる、と問われるであろうが、まず現実的な人々は――これはクジラ類の腐敗進行した遺体であろう――と推理されることは想像に難くない。しかし、私は寧ろ、前者も後者も別な生物を考えているのである。「五丈」をありがちな誇張表現と見て、半分の五~六メートルから七~八メートルほどとするならば(そもそもそう考えないと胴高比からそのままではだらんした長々しいものになって人に見えぬ)、ぴったりの生物がいるからである。ジュゴンの仲間で、北方種(寒冷適応型カイギュウ類)である私の愛するステラ、

海牛目ジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属 Hydrodamalis ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

である。本種は通常の成体個体でも体長五~六メートル、大きいものでは七メートルを超え、記録によれば最大八・五メートルにも達し、体重は五~十二トンにもなったと言われる超巨大海獣である。知らない? 当然だ。一七六八年或いはそれ以降に、既にヒトが乱獲したために絶滅してしまったからである(今また沖繩辺野古でジュゴンの棲家が破壊されつつある。こうして人類は着実に己れの身勝手から他の生物を殺戮し根絶やしにする野蛮人である)。詳細はウィキの「ステラーカイギュウ」を参照されたい。最後に。私の電子テクストである南方熊楠「人魚の話」の私の注もご覧戴けるならば、恩幸これに過ぎたるはない。外国サイトのステラの頭骨を見られよ。私はこれを見る都度、涙を禁じ得ないのである。……

・「藤原の信通」(生没年未詳)は底本注によれば、公卿藤原永頼(承平二(九三二)年~寛弘七(一〇一〇)年)の子で、『常陸介には万寿元年(一〇二四)から在任』しており、『同四年、子の永職』(「ながもと」と読むと思われる)について、公卿藤原実資の日記「小右記」に『父、明春、得替(とくたい)』(「得替」とは国司などの任期が終わって交替することをいう)とあることから、『任期は同五年(一〇二八)年まで』とあり、まさに「任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)」がリアルに時制限定出来るのである(下線やぶちゃん)。

・「常陸の守」常陸国は親王が遙任国「守」として任ぜられた国であるが、実務国司であった常陸「介」(ひたちのかみ)を、通称(恐らく特に現地に於いて)では「常陸の守(かみ)」と呼称していた。

・「東西の濱」諸本、所在地未詳とする。

・「長け五丈餘」体長十五・二メートル超。

・「臥長(ふしたけ)」横転しているその胴の高さ。

・「人、高き馬に乘て打寄たりけるに、弓を持たる末許ぞ此方に見えける。然ては其の程を可押量るべし」当時の馬の丈はポニーほどであったから(百三十五~百四十七センチメートル)、高い百五十として、それにに成人男性が跨って漂着個体の向こう側に近づいた際、その左手(ゆんで)に掲げた弓筈(ゆはず)だけが、こちら側で立っている人間に見えた、というのは、両者の立ち位置にもよるが、胴高は二メートル弱はあったことを意味すると思われる。

・「鰐」鮫類の古称。特に大型のものをいう。

・「身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける」「身成り」は見た感じの体つきの意、「秦」は「肌」「膚」の当て字。ウィキの「ステラーカイギュウ」の復元図は黒みの強い灰色であるが、『冬になって流氷が海岸を埋めつくすと、絶食状態になり、脂肪が失われてやせ細った。このときのステラーカイギュウは、皮膚の下の骨が透けて見えるほどだったという』とある。

・「陸奧の國」当時、こう言った場合は福島以北の東北地方全般を指す。

・「海道」底本注で池上氏は『いわゆる浜通り(福島県の太平洋岸)をいうか』とされ、「日本古典全集」版注では不詳としながらも、「大日本地名辞書」を引き、『常陸(茨城県)多珂郡より入り、逢隈の渡し(宮城県曰理郡)に至る間を曰へり」とある』とする。「多珂郡」は多賀郡と同じで、茨城県北端の現在の高萩市・北茨城市・日立市(一部を除く)に相当する。「曰理郡」は現在の亘理(わたり)郡のことであろう。多賀郡に北で接する。因みに私は前話の「東西の濱」というのも、この「浜通り」に接する南部分を言っているのではなかろうかと考えている。とすると「常陸國□□郡」とは「多珂郡」となる。

・「阿修羅女」六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主である阿修羅の女鬼神版。「観音経義疏」には『阿脩羅千頭二千手。萬頭二萬手。或三頭六手。此云無酒。一持不飮酒戒。男醜女端。在衆相山中住。或言居海底。』とある(「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」に拠る)のを、「智り有る僧」なればこそ知っていたのであろう。

・「身成などの糸淸氣なる」僧侶が視認した対象をかく評しているのは興味深い。この個体は死んで間もなかったのであろう。私はアシカやアザラシであったなら、人によっては不快感を懐かずにこう表現すると思う。各地で出現しては話題になるそれらを考えてみれば、納得出来る。

・「ぞ疑ひける」「ぞ」の前の引用の格助詞「と」が脱落したものであろう。

・「繚(あつかひ)」諸注は接待・世話とする。訳の結果はそれでもよいが、本字はもともと、もつれる・まつわる・まきつかせるの意であるから、ここには寧ろ、面倒・厄介のニュアンスが強く感じられると私は思う。

・「十、二十町が程」遺体から半径一キロメートルから二・二キロメートル。倍の差があるのは、風向きによるものであろう。

・「臭さに難堪ければなむ」北方適応型の海産哺乳類の大きな特徴である厚い脂肪が腐って、もの凄い臭気を発しているのである。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

 常陸国の××郡に大きな死人(しん)が漂着した事 第十七

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原の信通(のぶみち)の朝臣(あそん)とおっしゃられたお方が、常陸の守(かみ)として、かの国にあられた――が、それは、そのお方の国司の任の終わられた、その――四月ばかりの頃のことじゃった、と。……

 その日は昼間っから、風がたいそう、おどろおどろしゅう吹いて、そりゃあもう、夜中じゅうひどぅ荒れに荒れたんじゃ。

 その翌朝のことじゃった。××の郡(こおり)の「東西ノ浜」という所ところに、一体の死人(しびと)がこれ、うち寄せられて御座ったじゃ。

 その死人の身の丈けは、何とこれ! 五丈あまりもあった!……

 胴はこれ……そうさな……砂に半ばは埋まって御座ったが、の――傍らに人の立って、その向こうに、丈けの高い馬に乗ったお侍がうち寄せてこられたところが、その騎馬のお侍の、左手(ゆんで)に持って掲げておられた弓筈(ゆはず)ばかりが、ちょっこし、こっち側(がし)から見えた――というこっちゃから、さても、その胴体の高さのほども推し量れようほどに。……

 さて、その死人はの、頸(くび)のところより上は切れて、頭(かしら)はこれ、御座らなんだんじゃ。

 また、右の手(てぇ)も左の足も、ちぎれて、のぅなっておった。

 これは按ずるに、鰐鮫(わにざめ)なんどが、食わんがために噛み切ったものに違いない。……が……もし……もし、頭も右手も左足も皆、元の通り、ちゃんとちゃんとついとったとしたらば……これ……と、とんでもない大きさの人間じゃったに違いなかろうほどに。……

 また、うつ伏しになって砂に半ば埋もれておって、隠しどころは全く見えなんだによって、男女(なんにょ)孰れの巨人なるかは……残念なことに、分からず終いじゃった。が……しかし……そのふくよかなる体つきや……肌の白さや、その柔らかさから推すに……これ――女の巨人――には見えたのぅ。……

 常陸の国の衆(しゅ)は、これを見て、皆、驚き呆れあっては見、見ては大騒ぎすること、果てしがなかった、と。……

   *

 さてもまた、別な似たような一件じゃて。

 これも、常陸からは、ほど遠からぬ陸奧(みちのく)の国の、「海道」と申す海っ端(ぱた)でのことじゃ。

 国司(くにのつかさ)×の××と申さるるお方の許へ、これ、前(さき)の話のようなる、大きなる人間が浜に漂着致いたとの知らせのあったによって、家来を遣して検分させてみた。

 こちらもやはり……下半身の砂に埋もれておったによって……男女(なんにょ)の区別は分からなんだ。が……しかし……やはり、そこはかとなく、これは女に違いなかろうと人々の見て感じておった、と。

 そこへ、土地の学識のある僧なんどのしゃしゃり出て参って言うことには、

「……現世の遍き人間(じんかん)の世界のうちに――かかる巨人の存しておるなんどということ――御仏(みほとけ)はこれ一切――お説きになっておられぬ。――さすればこそ――これ思うに――かの六道の今一つの、修羅道界に住まうところの――阿修羅女(あしゅらにょ)――などと呼ばわるところの女(にょ)の鬼神などにても御座ろうか?……体つきの滑らかなる感じ……なんとも光沢(つや)のあって……えも言われず綺麗なところなんどをみると……もしや、まさに……ひょっとして、ひょっとするかも、知れんのぅ……」

なんどと、分かったような妙なことを申しておった。……

 さて、その国司さまは、これ、かの遣わせる者の報告を受けると、

「……これはもう……まっこと、稀有(けう)の珍事出来(しゅったい)なればこそ……何はさて置き、ともかくも国解(こくげ)を、これ、上申せねばなるまいのぅ。……」

と、まさに国解のための文書をも記し、さても使者を以って都に上(のぼ)せんとしたところが、下役の国の地の者どもがこれ皆、口を揃えて、

「……もし上申なさってしまわるると、これ、必ずや、お上の御使者の方々、こちらへお下りになられ、子細に御検分ということとなりましょう。……そうした官使の方々が、これお下りになられますると……これ、そのぅ……準備やら接待やらなんやかやと……これ、費用も手間も心労も、大きにかかりまして……大変に厄介なことと、なりましょうぞ。……さればこれ……ここは一つ、ただただ、この大女がことは……お隠しになられ……黙っておられまするが、これ、よろしいかと存じ奉るので……御座いまする。……」

と、有体(ありてい)に申し上げた。されば結局、守(かみ)もその謂いをもっともなりと、上申書は出さず終いとなり、奇体な巨女が遺骸の漂着の一件はこれ、全く以って隠し通してしまったとのことで御座った。

 そうこうしておる間のことじゃ。……その国に××の××と申す侍の御座ったが、この者、この漂着した巨人を見物に参り、一目見るや、

「……さても! もし、かかる巨人の我が国へ攻め来ったとならば、これ、一体、どう闘(たたこ)うたらよいものか?……まさか……矢(や)はこれ、この巨体に……果たして……立つものであろうか?……何よりますはそこじゃて! 一つ、試してみようぞッツ!!」

と思い立つや、その場にて即座に、

――よっぴいて、ひょう!

と放った。

 すると矢は、巨人の遺骸へ、尾羽根も隠れんばかりに、

――ぶっす!

と、美事、突き立って御座ったという。

 されば、これを見聴き致いた人々はこれ、

「あっぱれ! 試射し果(おお)せたり!! やんや、やんや!!!」

と、褒めそやして感激せぬ者は、これ、おらなんだ、ということじゃった。

 さて、その大女(おおおんな)の死体、これ、日の経つにつれて、ジュクじゅくジュクじゅくと腐れ朽ちて参ったによって、遺体の周囲、これ実に十~二十町が内は、人が住めずなって逃げ去り、また、立ち入らんとする者も、一人としておらなんだ。

 嗅いだ鼻が腐って落ちんばかりの――あまりの臭さに、堪えきれなんだからであった。

 この後者の一件、先に申した通り、当時、世間にては一切、隠し通してあったのであるが、その×の××と申さるる国司のお方が、その後、任の果てて京にお戻りになられて後、誰からともなく、自然と噂の如く湧き出して、瞬く間に広ごり、かく、語り伝えらるるようになった、とかいうことである。

2015/06/07

博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載

[やぶちゃん注:先般、カテゴリ『毛利梅園「梅園魚譜」』の「ハリセンボン」を翻刻訳注した際、そこに「佐渡には三十種の異魚あり」とあるのに出逢った。諸本を調べてみると、これは滝澤馬琴の考証随筆「燕石雑志」及び「烹雑(にまぜ)の記」がその濫觴らしいことが判明した。そこでこの二つの該当箇所を電子化訳注することとした。

 「燕石雑志」は五巻六冊。文化八(一八一一)年刊。多岐にわたる古今の事物を和漢の書物から引用しつつ、考証したもの。「烹雑の記」も同年刊で、管見するに完全に「燕石雑志」の続編である。

 前者については早稲田大学図書館の画像データベースでダウンロードした原典画像を視認して吉川弘文館「日本随筆大成」第二期第十一巻のそれと校合して、後者は「立命館大学アート・リサーチセンター」の同書の画像及び国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像の二つのデータを同じく「日本随筆大成」の第一期第二十一巻のそれと校合して翻刻した。掲載した図は「烹雑の記」に出る図譜で、「日本随筆大成」第一期第二十一巻のものを使用したが、実は「立命館大学アート・リサーチセンター」の原典の当該画像(以下の-1-2-2下相当画像。同センターの画像はウェヴ公開を商用利用と位置づけて使用許可申請を要求しているので、ここでは以上の通り、リンクを示すのみとした)を見ると、単色乍ら、「日本随筆大成」所収のものとは遙かに異なる画像であることが分かった。特に陰影による魚体のグラデーションやマトウダイの円紋をはっきりと見て取ることが出来る。必見。

 Ⅰでは、ルビは原典画像にあるカタカナをそのまま使用し、一部難読と思われる箇所に歴史的仮名遣で私が読みを附した。読み易さを考えて随筆大成版を参考にしつつ、読点や中黒を追加した。また。原典の角の丸い囲い文字は【 】に代えた。]

 

 

 『滝澤馬琴「燕石雜志」卷之一(十)物の名』より

[やぶちゃん注:《 》は「日本随筆大成」の方にのみ所収が確認出来る頭書で、恣意的に正字化して示した。こちらの引用と訳は、項目ごと、丸々を対象とした。]

原文

近江の源五郎鮒(フナ)は、室町家のとき、錦織(ニシゴリ)源五郎といふもの、湖水(コスイ)の漁猟(ギヨリヤウ)を司(ツカサド)りて、毎朝、大(おほい)なる鮒を京都に進(マヰ)らせしかば、この名ありといふ。佐渡(サド)に鯛の婿(ムコ)源八といふ魚(ウヲ)あり。しか名づけたる故は、しらず。この餘(ヨ)、【トクヒレ】・【瘤鯛】・【針千本】・【箱ふぐ】・【鮫の守り】・【かねたゝき】・【コウフク】・【龍宮の鷄】などいふ魚三十種(シユ)ありとぞ。予(ヨ)、いまだその魚を見ざれば、繪も圖(ヅ)せず。しれる人にたづぬべし。

《こゝに錄せし針千本、箱ふぐの類は、予、いぬる秋、左(さ)の乾(かれ)たるものを得たり。こゝに圖を出さゞるを遺憾とするのみ。》

 

やぶちゃん注

 原典では「」が一字分上に突出している。「日本随筆大成」版では上文に続いて、

   *

靜慮云。古歌当作連歌。蒐玖波集十四雑の連歌、

   草の名も所によりてかはるなり

   難波の蘆はいせの濱荻

   *

と出るが(恣意的に正字化した)、これはどう見ても、次の条(地方によって固有名詞の呼称に大きな違いがあるという記載)の枕であるので除去した。

・「錦織(ニシゴリ)源五郎」原則、注を附さないと言い乍ら、早速に禁則破りであるが、大好きな鮒鮨絡みなれば少しだけ。これ、「フナズシ・ドットコム」の「琵琶湖の話 ニゴロブナの由来」に詳しい。それによると、源五郎は元は琵琶湖の漁師であったとあり、身分違いの大納言の姫君に恋をし、彼が父大納言に立派な焼き鮒を献上して姫が食したところ、その腹中より源五郎の恋文が出て参って二人は結ばれたとある。更に同じ馬琴の別の紀行「壬戌羇旅漫録(じんじゅつきりょまんろく)」にも『近江の源五郎鮒は。一説に佐々木家一國の主たりし時錦織源五郎といふ人。漁獵のことを司る。湖水に漁りたる大鮒を。年々京都将軍に獻ず。その漁獵の頭人たるによりて魚の名によび來たれり。』と引用、「錦織源五郎」が「源五郎鮒」に、それが「似五郎鮒」と転訛したという説を示しておられる。何となく、この「錦織」という姓、まさか、な……と思って調べて見たら……フェイスブックのとある御仁の書き込みに、正真正銘、「この」錦織源五郎、「かの」錦織圭のルーツに繋がる宇多源氏佐々木氏の家来だった、とあった。テニスにゃ、全くも以って興味はないが、一応――うっひゃあ!――と言っておこう。

・「トクヒレ」以下に掲げられる異魚については、後掲する「烹雑の記」で詳細に同定注するので注から原則、外した。「烹雑の記」の本文と図のキャプションでは「禿骨畢列(とこひれ)」。

・「コウフク」「烹雑の記」に出る「カウゴリ」と同一であろう。濁音表記しない「カウコリ」の手書き字は「コウフク」と誤写し易いように思われる。現代語訳ではそのままとした。

・「左(さ)の」「左右」で「さう(そう)」と読む「さ」(そ)を「その」の指示語に当て字したものであろう。

・「こゝに圖を出さゞるを遺憾とするのみ」手に入れた秋には本書が校了しており、版木を彫ってしまった後であったのであろう。だから図を附すことが出来なかったのだと推定される。事実、後に示すように、「烹雑の記」の当該箇所の冒頭には、この時のことを回想して記したと思しい、『しかるに、彼(かの)編刻成(なる)のころ、相川の夏海子(なつみし)、件の異魚の乾(かれ)たるを贈れり。〔凡四品。〕」こゝにおいて、その図を載ざるを遺憾とす。故に今、これを圖す』とあるから、間違いない。

 

やぶちゃん現代語訳

近江の源五郎鮒は、室町幕府のあった頃、錦織(にしごり)源五郎といふ者が、琵琶湖水に於ける漁猟を幕命によって掌っており、毎朝、大いなる鮒をこれ、京都に進上していたことから、この名があると伝える。佐渡には、「鯛の婿源八(むこげんぱち)」という魚がいる。かく、名づけたその由縁は知らぬ。この他にも佐渡にては、「トクヒレ」・「瘤鯛」・「針千本」・「箱ふぐ」・「鮫の守り」・「かねたたき」・「コウフク」・「龍宮の鶏(にわとり)」などという、奇体な魚が三十種もいるとのことである。私は未だその異魚類を見たことがないので、絵も描くことが出来ない。そのうち、知れる人に尋ねてみようと思っている――ここに載せた「針千本」及び「箱ふぐ」の類いについては、私は昨年の秋、その乾したものを手に入れた。入れる余裕がないので図を出せないことを遺憾とするばかりである――

 

 

 『「烹雜の記前集 上二卷」「二 多湊(さはと)ぶり」』より

[やぶちゃん注:同標題内の一条。「多湊(さはと)」とは冒頭で「佐渡はさはとの中略なり」とあるように、この「多湊ぶり」の章は膨大な佐渡の物類呼称及び地誌・物産誌に相当する。ここでは標題の佐渡異魚三十種と、それに続くところの海洋生物関連らしきものを含む記載までとした。但し、図Ⅰはその後に続く佐渡産の奇石類等の絵を多く含んでおり、それがまた、すこぶる興味深く、原文を示して注したい願望に駆られるのであるが、そうするとまたまた本テクストの公開が遅れるので、またの機会としたい(左画面下に画師の署名と落款があるが、これは「辰斎」で、葛飾北斎門人であった柳々居辰斎である)。一つだけ指摘しておくと、奇石の図の中に、さり気なく配されてある中央下の「カニツカ」(右図の左端。蟹塚。蟹の墓場の謂いであろう)、キャプションは『蟹のぬけたるそのはさみ、浪にゆりよせられいくつともなく、つきて、蓮花の如し。これは佐渡ならでもあり。今、童蒙の爲にこゝに圖す』とあって、これは極めて高い確率で足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella のことを指している。佐渡ではカメノテを食べることを私は確認している。〔 〕は割注。《 》は頭書(漢文脈箇所は訓読し、「々」の字を正字化した)。こちらの原典はほぼ総ルビであるが、五月蠅いので取捨選択してパラ・ルビとした。読み易さを考えて一部に改行を施した。]


図Ⅱ-1

Nimaze01
図Ⅱ-2

Nimaze02

本文原文

佐渡に三十種の異魚ありといふ。予、曩(さき)に燕石雜志を編(あめ)るとき、その三、四種を載(のせ)たりしが、いまだ形を見ざりき。しかるに、彼(かの)編刻成(なる)のころ、相川の夏海子(なつみし)、件の異魚の乾(かれ)たるを贈れり。〔凡四品。〕」こゝにおいて、その図を載ざるを遺憾とす。故に今、これを圖す。所云(いはゆる)三十種の異魚は、

「とこひれ」〔文鰩魚(とびうを)に似たり。六ノ稜(かど)、及、小き刺(はり)あり。〕

針千本〔かたち、しほさえふぐといふものに似て、全身に刺(はり)あり。〕

《追考。「和名鈔」に『鯸1(コウイ)、和名布久閉(フクベ)、之を犯ときは則、怒る。怒れは則、腹、脹(ハ)りて水上に浮み出る者なり。』。これ、江戸の俗の、「しほさえふぐ」と唱るものなり。石伏は1なり。「和名鈔」に、『「1」は、音、夷。和名、「伊師布久」、性、伏沈して石間に在る者なり。』。》

[やぶちゃん字注:「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。]

箱河豚〔海すゞめといふものに似たり。〕

鯛の聟(むこ)源八〔鯛に似て、極(きはめ)てちひさし。〕

鮫の守(まも)り〔魚にあらず、海ほうづきといふもの如し。又、そのかたち、藤(ふぢ)まめに似たり。〕

鉦たゝき〔鏡鯛に似たり。〕

かうごり〔末ㇾ詳、石伏(いしふし)の事にや。石伏の一名を「ゴリ」といふ。このもの、二種あり。海・河ともにあり。眞物(まもの)は、腹の下に、ひれありて、杜父魚(とほぎよ)に似て、小なり。声ありて夜(よる)鳴く。ひれに、はりあり。海なるは、やわらかにして、河なるは、するどきよし、「山海名産圖会」にいへり。「カウゴリ」は、河石伏(かふごり)なるべし。〕

瘤鯛(こぶだひ)〔佐渡にてかんたひといふ、これにや。未ㇾ詳。〕

海馬(かいば)〔佐渡ならでもあり。大きなるは稀なり。〕

竜宮雞(りうぐうのとり)〔鬼頭魚の奇品なり。〕

この類、三十種ありとぞ。余はいまだ詳(つばら)ならず。これらを本草に考なば、漢名(かんみやう)のしらるゝも、又、能(のう)・毒もあるべけれど、今、倉卒(さうそつ)の間(あはひ)に錄(ろく)するをもて漏(らう)せり。他日(たじつ)、考(かふがへ)たゞすべし。〔トコヒレ鉦たゝき竜宮の雞は、ある人所蔵の画幅を臨写す。〕

又海中に生ずる異草四種あり。

雪海苔〔土呼(とちのとなへ)は詳ならず。〕

蔓藻〔海藻(もくず)なり。〕

海松(かいせう)

海柳(かいりう)

[やぶちゃん注:ここには原典で改行がある。]

又、海濱(うみべた)に稀に流れよるもの四種。

藻玉(もたま)

蛸船(たこふね)

巨葭(おほよし)

椰子(やし)〔今按ずるに、藻玉(もたま)、一名(いちみやう)「藤榼子(とうかふし)」、一名「猪腰子(ちよようし)」。この物、蛮國に生ず。「本草綱目啓蒙」卷ノ十四の上、「榼藤子(たふとうし)」の条下を考ふべし。蛸舟(たこふね)は、相摸の江ノ島にていふ鰹の烏帽子(えぼし)の類(たぐひ)なるべし。又、按ずるに、「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十、背椰子の條下に、椰子、通名(つうめう)「ヤシホ」、又、津軽にては、「タウヨシノミ」といふよし、見えたり。〕

[やぶちゃん注:ここには原典で改行がある。]

又、花卉(かさう)・鳥獣は、

黒萩(くろはぎ)〔小倉村にあり。他所(たしよ)にあるは葉、短し。〕

白蒿(しろよもぎ)〔小泊村、及、西三河にあり。〕

雪割草〔方言、未だ詳ならず。銀山にあり。又、他所にもあり。〕

福壽草〔小川村・達者村の辺、特に多かり。〕

人參草(にんじんさう)〔長江・栗(くり)ノ口・大野等の村にあり。〕

鷲の巣〔二見(ふたみ)・北2・岩屋口(いわやくち)・関願(せきぐわん)・深浦(ふかうら)・沢崎(さわさき)・大杉(おほすぎ)等(とう)の村々にあり。〕[やぶちゃん字注:「2」「犭」+「夷」。]

寄鯨(よりくじら)〔稀にあり。〕

玳瑁(たいまい)〔このもの、元文三年のころ、獲たりし事ありとぞ。海亀(うみかめ)は常にあれども、玳瑁は、そのゝち、聞えず。〕

海獺(うみをそ)

海豹(かいひやう)〔稀にあり。〕

葦鹿(あしか)〔北海の俗、「トヾ」といふ。〕

山獸は狸と兎のみなり。貉(うじな)ありといへども、狸に混雑して慥(たしか)ならずとなん。

雪なだれ〔形、海月(くらげ)に類す。その色、潔白にして、雪の解(とく)るがごとし。この物、稀にあり。土俗(とちのひと)、これを「雪なだれ」といふ。これ、「大和本草」に所云(いはゆる)、北海に雪魚(ゆきうを)あり。方一丈餘(よ)、その形、鰈(かれい)のごとし。その肉、白くして雪のごとく、脂(あぶら)なし。好(このみ)て海上に睡(ねむ)ると、いへり。これなるべきよし、ある物にしるされたり。〕

 

-1図右上の「針千本」(ハリセンボン)のキャプション

 針千本

かたちは、「しほさへふぐ」の如くして、惣身の刺(ハリ)は、栗のいがの如し。

 

-1図左上中央の「箱フグ」(ハコフグ)のキャプション

 箱フグ

「海すゝめ」に似て、かたち、もつとも四角なり。

 

-1図左上の「鯛ノ聟源八」(マツカサウオ)のキャプション

 鯛の聟 源八

鯛に似て、極めてちひさく、鱗は甚だ、するどし。

 

-2上図の「禿骨畢列」(トクビレ)のキャプション

 禿骨畢列〔とくひれ魚〕

解(とく)、按ずるに、方言「とこひれ」とは、「長鬣魚(とこひれうを)」の義にや。又、「鋭鰭(ときひれ)」の義にや、「こ」と「き」と通ず。この物、鮫の種類ならん歟(か)。目は黄なり。頭より脊(せなか)に至(いたり)て、すべて薄靑(うすあを)色也。鰭の端は褐色(かちいろ)にて、その餘(よ)は水色に薄黒を帯(おび)て、斑(まだら)に点あり。鰓(あぎと)の端、少(すこし)許、紅(あかし)。

[やぶちゃん字注:以下、下段。]

或記云(あるひとのきにいはく)、此(このうを)、全躰(ぜんたい)、文鰩魚(とびうを)に似たり。六の稜(かど)に小(ちひさ)なる刺(はり)あり。針毎(こと)に細脉(こまかなるすぢ)、亀甲の紋の如し。その質(しつ)、堅硬(かたし)。乾枯(ほしからし)たるものは、年を径(ふ)れども壞(やぶ)れず、径(ふ)ること久しければ、褐色(かちいろ)に變じて、漁人(ぎよじん)、肉を食(くら)ふこと、をしまず。只、乾腊(ほしなし)として玩物(もてあそび)に供(けうす)るの者、長大なるものは、長さ尺餘(よ)なり。上下の長鬣(ちやうれう/ナガキヒゲ[やぶちゃん字注:後者は右に附す。])これをひらけば、雨傘(からかさ)の如し。他魚(たのうを)とおなじからず、といふ。

 

-2下図の「龍宮の鷄」(アカナマダ?)のキャプション

 龍宮の鷄

或(あるひと)のいへらく、「龍宮鷄(りうぐうのとり)」とは、佐渡の方言也。これ、「鬼頭魚(おこじ)」の奇品なるものなり。後(うしろ)に冠(かん)ありて、鷄(にわとり)に似たり。横肚(よこはら)に小(ちいさ)なる方点(はうのてん)、高起(たかくいで)て、刻鏤(きざみゑれ)る如し、乾枯(ほしから)したるものは堅硬(かたく)して、海馬(かひば)に似たり。今、按するに、全體、その色、薄紅(うすくれなゐ)にして、火魚(かなかしら)の如し。實に「おこし」の種類なるべし。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション

 鉦敲魚

この魚は佐渡のみにあらず、相(さがみ)・豆(いづ)の海中に多くあり。或(あるひと)いへらく、魚の形、大小、一ならず、大なるものは尺(しやく)許(よ)に至るもあり。鱗、なし。その色、薄黑(うすすみ)に靑と黄を帯(おび)て、光澤(つや)あり。横肚(よこはら)は水色の中に薄紅(うすくれなゐ)を帯(おび)たり。鰺(あぢ)の如し。両面に黒圓(くろまろき)紋(もん)あり。この魚、脂(あぶら)ありて、味(あぢわひ)、美なり。相(さがみ)・豆(いづ)の海中、冬・春の交(あいだ)、多くこれを獲る。漁戸(れうし)、これを「的魚(まとうを)」といふ。又、「賀陀比(かだひ)」と呼ぶとぞ。

[やぶちゃん注:以下、同個体の尾鰭の下方にある。]

今、按するに、これ、江戸にていふ「加々美夛比(かかみたひ)」の奇品なるべし。

 

   琴嶺興継写 (落款)(落款)

 

やぶちゃん注

・「相川の夏海子」佐渡相川生まれの絵師石井夏海(天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)。通称は静蔵、別号に安瀾堂。絵画を谷文晁と紀南嶺に、測量や油絵を司馬江漢に学んだ。佐渡奉行所地方付(じかたつき)絵図師として天保八(一八三七)年、子の文海とともに伊能忠敬作成の「佐渡図」を改訂した。滝沢馬琴・式亭三馬らと親交があり、狂歌も詠んだ。戯作「小万畠双生種蒔(こまんはたけふたごのたねまき)」などの創作もものした(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「日本随筆大成」の丸山季夫氏の解題によれば、この「烹雑の記」に記された膨大な佐渡の情報や資料の多くは、この夏海から齎されたものと言われているとある。個人ブログ「佐渡広場」の「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」で豊富な画像とともに、この石井夏海の業績を知ることが出来る。必見!

・「とこひれ」解説よりなにより、附図を見れば一目瞭然、これは条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カジカ亜目トクビレ科トクビレ亜科トクビレ属 Podothecus sachi である。ウィキの「トクビレ」によれば、『ハッカク(八角)のほか、サチなど多くの地方名』があり、『和名のトクビレ(特鰭)は、雄にみられる大きな背鰭と臀鰭から付けられた。北海道と関東ではハッカクといい、これは角張った体の断面を八角とみた。青森ではサチといい、学名の Sachi はこれによる。他にヒグラン、フナカヘシ、ワカマツなどがある。北海道では雄をワカマツ、雌をマツヨ、あるいは雄をカクヨ、雌をソビヨと呼び分ける地域もある』とある。『トクビレは北日本・ピョートル大帝湾・朝鮮半島の東岸など、太平洋北西部を中心に分布する海水魚である。沿岸の浅い海で暮らす底生魚で、岩礁や砂泥に体を横たえ、甲殻類や多毛類を主に捕食する』。『体は細長く角張っていて、頭が鼻先に向けて尖る。ホウボウの仲間と類似し』、体長は四十~五十センチメートル程度まで成長する。背鰭は八~十本の棘条と、十二~十四本の軟条で構成されるが、鰭の形態に性的二形があり、雄の第二背鰭と臀鰭の軟条が異様に長く発達するのを特異的差異として観察出来る。また、『吻(口先)が長く突き出ており、腹側に』十本以上の『短い口ヒゲを有することが、近縁種との明瞭な鑑別点となる』(附図はそれも描いている)。『本種は味の良い白身魚で、日本では底引き網・定置網・刺網などで漁獲される。刺身・ 塩焼き・干物・軍艦焼き(腹に味噌を詰めて焼く郷土料理)など、さまざまな調理法が知られている』とある。所謂、異形に属する魚体ながら、私も大変に――見るのも食うのも――好きな魚である。

・「文鰩魚(とびうを)」「随筆大成」版は『文鰡魚』とし、ルビを振らないが、原典二種の画像を見る限り、私には「鰩」としか見えず、しかも孰れもはっきりと「とびうを」とルビする。因みに「鰡」はボラである。このトクビレ、ボラとトビウオ、どっちに似ているかといったら、私は断然、トビウオと思う。

・「針千本」条鰭綱刺鰭上目スズキ系フグ目ハリセンボン科ハリセンボン Diodon holocanthus 。附図は怒張し状態に模して乾燥させた加工品の図と思われる。同種の詳細については、私の『毛利梅園「梅園魚譜」ハリセンボン』の注を参照されたい。

・「しほさえふぐ」呼び名からは現在のフグ目フグ亜目フグ科トラフグ属ショウサイフグTakifugu snyderi が想起されるが、ネット情報を見ると、現在でも同じトラフグ属のコモンフグ Takifugu snyderi を「ショウサイフグ」と呼称する地域や市場もあるとあるので、必ずしも特定同定はしない方が無難である。なお、「ショウサイフグ」は漢字では「潮際河豚」「潮前河豚」などと表記するようであるが、参照した「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ショウサイフグ」によれば、『もとは東京、江ノ島、大阪などでの呼び名。意味由来は不明だが、このように細かな斑文のあるコモンフグも「しょうさいふぐ」という地域があり、波の崩れる様を思わせるためか?』とあり、さらに江戸で好んで食われた「フグ」はこのショウサイフグであったことを示唆する内容が書かれてある。さすれば、馬琴がこう言ったことを考えれば(馬琴は頭書で『これ、江戸の俗の、「しほさえふぐ」と唱るものなり』と言っている点にも着目されたい)、ショウサイフグ Takifugu snyderi に同定してよい可能性はかなり高いとも言えるように思われる。

・『「和名鈔」に『鯸1(コウイ)……』(「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。)源順の「和名類聚鈔」には、

   *

1魚 崔禹錫「食經」云、鯸1〔侯怡、二音。和名、布久。一云、布久閉。〕犯之則怒。怒則腹脹、浮出水上者也。

   *

とある。「1」は音「イ」で、「廣漢和辭典」によれば、中国ではフグを指す。

・「石伏」は現在は通常、「いしぶし」と訓じ、小石の多い水底にいる魚の意で、ハゼ科のウキゴリ、カワアナゴ科のドンコ、ハゼ科のヨシノボリといった淡水産のハゼ型をした魚類の別名として通用しているが、どうもその他にも雑多な河川性の淡水魚を広範に指す語と思われる(但し、くどいが中国では「1」はフグを指す)。「和名類聚鈔」には、

   *

1 崔禹錫「食經」云、1〔音、夷。和名、伊師布之〕、性、伏沈在石間者也。

   *

とあり、馬琴の「伊師布久」は誤字或いは誤刻である。

・「箱河豚」フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 。詳しくは、『毛利梅園「梅園魚譜」ハコフグ』の私の注を参照されたい。

・「海すゞめ」ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 。ネット上の記事を読むと、最近、市場ではハコフグと一緒くたにされて売買されているようであるが、ウミスズメには眼の上部や尻鰭の基部の前方に短い棘状突起があることで容易に識別出来る。

・「鯛の聟源八」棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ Monocentris japonica 。詳細については、やはり私の先の『毛利梅園「梅園魚譜」ハリセンボン』の注を参照されたい。

・「鮫の守り」図を見て戴ければこれも一目瞭然、軟骨魚綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame の卵嚢と同定してよかろう。ウィキの「トラザメ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を¥も変更した)トラザメの『雌は輸卵管一本につき一個、合計二個の卵を産む。卵は滑らかで半透明、花瓶型をした黄色い卵鞘に包まれている。卵鞘は幅一・九センチメートル、長さ五・五センチメートルになる。卵鞘の四隅には長い巻きひげがある。卵は特定の成育場に産み付けられ、例えば函館の水深百メートルの地点にそのような場所がある。胚は、三・六センチメートル時点では外鰓を持ち、鰭は未発達で色素はない。五・八センチメートルになると外鰓が消失し、皮膚が小さな皮歯で覆われ始める。七・九センチメートルになると、よく発達した鰭と色素を持つようになり、成体と似た姿になる』。孵化までには水温によって差があり、一五ヶ月から七~九ヶ月がかかり、孵化時の大きさは概ね八センチメートル以上になる、とある。「鮫の御守り」という名は実に言い得て妙の美しい名である。卵嚢の中に小さな鮫がいることから「鮫の」と正しい親が知られ、その形から御守りとした、この美しい日本の古き良き市井の人々を、私は限りなく愛する。英語の“Mermaid Purse”(人魚の財布)の品のなさはどうか! 私の『生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……に絵が出る。

・「海ほうづき」腹足類(巻貝)の卵嚢の呼称。植物のホオズキの実と同様に、口に含んでキュッキュッと音を鳴らして遊んだ。若い人は実物さえ見たことがもうないであろう。少し、哀しい気がする。前に引き続き、是非、『生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……の図と私の注をお読み戴きたい。……キュッ……キュッ……という音とともに……遠い日の……私の思い出が……甦る……

・「藤まめ」マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ Wisteria floribunda の実。グーグル画像検索フジの豆をリンクしておく。

・「鉦たゝき」キャプションをお読みあれ。これはもう、新鰭亜綱棘鰭上目マトウダイ目マトウダイ科マトウダイ属マトウダイ Zeus faber である。冒頭で述べたように、「立命館大学アート・リサーチセンター」の原典の当該画像でキマリだ! ウィキの「マトウダイ」から引く(注記記号は省略した。下線部やぶちゃん)。『口が前に伸びて馬面になる』『が、体側面に弓道の的のような特徴的な黒色斑をもち、マトダイ(的鯛)などとも呼ばれる『地方名に、カガミダイ(福島県、千葉県)、ハツバ(千葉県小湊)、カネタタキ(新潟県、愛媛県宇和島市)、クルマダイ(新潟県、富山県、石川県、福井県)、モンダイ(石川県能登町宇出津)、バト(福井県)、バトウ(京都府与謝郡、島根県)、ツキノワ(鳥取県)、オオバ(山口県萩市)、ホンマト(愛知県豊橋市)、マトウオ(和歌山県太地)、マトハギ(和歌山県串本)、マトウ(兵庫県)、ワシノイオ(福岡県)などがある』。『漢名は「海魴」、別名に遠東海魴、日本的鯛、月亮魚などがあり、英語のdoryに基づく多利魚という言い方もある』。『本種は英語で「John dory」と呼ばれるがその起源ははっきりわかっておらず、フランス語の「jaune d'orée(黄色い辺縁をもつもの)」など、由来については諸説ある。一方、ドイツ語(Petersfisch)・フランス語(Saint-Pierre)・スペイン語(pez de San Pedro)など他の複数の言語では、キリスト教における十二使徒の一人、聖ペトロにちなんだ名前で呼ばれる。聖ペトロは貢物のお金をマトウダイの口から取り出したとする伝承があり、本種の黒色斑はこのときにつけられた聖ペトロの指紋に見立てられている。また、英語でも的に見立てた「target perch」という別名もある』。『マトウダイは西部太平洋・地中海・インド洋・東部大西洋に分布する海水魚である。日本の近海にも多く、本州中部から東シナ海にかけての沿岸域に生息する。温暖な海の海底付近で暮らす底生魚で、群れは作らず単独で遊泳していることが多い』。『通常の食性は魚食性で、ときおり甲殻類や頭足類を捕食する。産卵は冬から春にかけて行われ、具体的な時期は地域によって異なる。卵は分離性浮性卵で、仔魚および稚魚は浅い海で成長した後、次第に』水深五十~百五十メートルの『深みに移行する。成長は比較的遅く、性成熟には』四年を『要することもある』。『左右に平たく、著しく側扁した楕円形の体型をもつ』。全長四十センチメートルほどの個体が多いが、最大では九十センチメートルにまで達する。『口は大きく斜め上向きで、前方に素早く突き出すことができ、そうやって餌をとらえる。稚魚の体はほぼ円形で、黒色~褐色の不規則な縦縞をもつ』。『体の両側面には明瞭な縁取りをもつ円形の黒色斑が存在し、本種の大きな特徴となっている。眼に似ていることから眼状斑とも呼ばれ、幼魚のときは鮮明だが成魚になるとやや不鮮明になる。同じマトウダイ科に所属する近縁のカガミダイ(Zenopsis nebulosa)は本種とよく似た姿をしているが、黒色斑が不明瞭であること、頭部背側がやや陥凹することなどで区別される』。背鰭の棘条は九~十一本で、『前方部の鰭膜は糸状に細長く伸び』背鰭軟条は二十二~二十四本、尻鰭は四本の棘条と二十~二十三本の軟条で構成されている。『鱗は微小で、皮膚に埋もれる』。『白身魚で、味が良いため日本を含む世界各地で食用として利用され』、『旬は産卵期の前で、刺身・煮付け・唐揚げ・フライ・鍋料理などさまざまな方法で調理される。 肝も大きいため食用とされる』とある。

・「鏡鯛」マトウダイ目マトウダイ科カガミダイ属カガミダイ Zenopsis nebulosa 。前注引用にあるように、的が妙に薄くはっきりせず、何よりも、頭部の眼の上のオデコの部分が有意に凹んでいるのでマトウダイとは容易に識別出来る。馬琴先生、キャプションの『これ、江戸にていふ「加々美夛比(かかみたひ)」の奇品なるべし』は蛇足でごわした。

・「かうごり」最後の『「カウゴリ」は、河石伏(かふごり)なるべし』は腑に落ちる。以下、ウィキの「ゴリ」が多様な種を含む「ゴリ」の総説としてよいので、まず引用させてもらう。『ゴリ(鰍、杜父魚、鮖または鮴)は、一般的には典型的なハゼ類の形をした淡水魚を指す一般名、地方名である。ただし、一部にメダカ類やシマドジョウ類を指す地方も存在する』。「ゴリ」は特定魚類の『標準和名ではなく、ゴリの名で呼ばれる魚は地方によって異なる。スズキ目・ハゼ科に属するヨシノボリ類、チチブ類、ウキゴリ類など小型のハゼ類や、カサゴ目・カジカ科に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある。「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである』。『これらはいずれも川底に生息する淡水魚で、ハゼ類に典型的な大きな頭部、飛び出した目、大きな口などが特徴である。体色は褐色から暗褐色』で、概ねかく呼称される魚類は全長数センチメートル程しかない『小型魚である。一般に種類ごとの特徴がわかりにくく、よく似ている。ハゼ科の「ゴリ」では』、二枚の腹鰭が合わさって一つの吸盤のような役割を担っていて、『これで水底の岩などに吸い付くことで流れの比較的速い川にも生息できる。また、宮城県、島根県、高知県、大分県などの沿岸地域ではハゼ類の幼魚をゴリとよぶ場合がある』(カジカ類の腹鰭ではこうした吸盤化は見られない。本記述で馬琴が「眞物は、腹の下に、ひれありて」という叙述はその特徴を指そうとしているように読める点、正確である)。『青森県の南部地方、石川県の一部などでメダカを指す例があり、岐阜県郡上市ではシマドジョウを指す例がある』。『全国的には、淡水に生息するハゼ類がゴリと呼ばれる場合が比較的多い。しかし、琵琶湖近郊やその重要市場である京都市や徳島県などでは、ハゼ科のヨシノボリのことをゴリと呼ぶ』。『高知県、特に四万十川、それに和歌山県の東部ではハゼ科のチチブの幼魚をゴリと呼ぶ』。『地方によっては、ゴリカジカ、ゴリンベト、ゴリンチョ、ゴリンジョ、ゴリンドーなどの呼び名を使う例もある』。『日本語で「鰍」は「ゴリ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「ゴリ」は、「杜父魚」と書かれる』。なお、慣用句の「ごり押し」について、『ハゼ科の「ゴリ」は、吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息するため、漁の際には網が川底を削るように、力を込めて引く必要がある。この漁法が、抵抗があるところを強引に推し進めるという意味の「ごり押し」の語源となっているという説がある』とある。

「このもの、二種あり。海・河ともにあり」一般にはゴリ類は河川性の純淡水産と思われがちであるが、実際には前の引用に出る「ゴリ類」の代表種であるチチブ・ヨシノボリ・ウキゴリなどは海と川を回遊し、河口付近の汽水域にも姿を見せるから、おかしな言いではない。また私は当時の「ゴリ」という呼称はハゼ型の形態を示すあらゆる魚類の汎称であったと考えており、そうすると純海産のマハゼやトビハゼなどをも含んでいたに違いなく、この謂いはしっくりくるのである。

・「杜父魚」最も真正にして代表的な「ゴリ」であるところのカサゴ目カジカ科カジカ(河鹿)Cottus pollux 及びその近縁種の漢名。本邦では「鰍」が一般的(但し、この字は中国ではドジョウを意味する)。以下、ウィキの「カジカ」より引く。『地方によっては、他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。 体色は淡褐色から暗褐色まで、地域変異に富んでいる。日本固有種で、北海道南部以南の日本各地に分布する。ただし、北海道に生息するのは小卵型のみである』。『分類については定説がまだなく、 大卵型(河川陸封型)中卵型(両側回遊型)小卵型(両側回遊型)をそれぞれ別種に、湖沼陸封型は小卵型と亜種に分ける説なども出ている』。『生活型によって、一生を淡水で過ごす河川型を大卵型、孵化後に川を下り稚魚の時期を海で過ごして成魚になると再び遡上する小卵型、琵琶湖固有のものをウツセミカジカ Cottus reinii と分けることが多かったが、近年の研究により小卵型にウツセミカジカを含め、大卵型と小卵型に分けるようになった。また、これらは別種レベルの違いがあると考えられている。大卵型は、山地の渓流などの上流域を中心に、小卵型は中流域から下流域にかけて生息する。石礫中心の川底を好み、水生昆虫や小魚、底生生物などを食べる』。以下、三タイプの解説。河川型(湖沼陸封型)は『淡水を生活圏とし、水棲昆虫を餌とする。きれいな水を好みイワナやヤマメ、アマゴ等の魚と生息域が重なる。カジカ及びカンキョウカジカの性的成熟は』一年魚以上で、は体長七センチメートル、は体長六センチメートルを越えると産卵を行う。『卵には付着性があり卵塊となって石に付き、オスが孵化まで保護をする。産卵床の形成場所は、比較的流れの緩い"平瀬""とろ場"が多く、浮き石や沈み石は用いない。また、泥砂質の河床も利用しない』。開口部が一箇所しかない『洞窟状になった動きにくい石の河床との隙間が多く利用される。水通しの悪い卵塊では、ミズカビに犯され孵化しない』。『山地渓流の個体はダムや砂防堰堤などの構造物の設置によって移動が妨げられ、個体群の分断化がより進行している。また、平地域の個体は、埋め立て、コンクリート護岸化、道路建設などによって生息適地が縮小し、湧水量の減少にともない生息数が減少している』。両側回遊型は『比較的流れの緩やかな砂礫質の川底を好む。広い分布域を持つが、ダムや堰の建設により降海と遡上が阻害され全国的に減少している』。降河回遊型は『河川(淡水)で繁殖を行い、稚魚期を海水中で過ごし河川に遡上する。稚魚期は河口付近の表層を遊泳し、有る程度成長すると着底生活を送』り、孵化後八十日前後の三十ミリメートル程度に成長すると『遡上を開始すると考えられ』ている、とある。なお、「杜父魚」を近縁種であるカジカ科カマキリ Cottus kazika(一般には「アユカケ」の異名の方が知られ、太平洋側は神奈川県相模川以南に、日本海側は青森県岩崎村津梅川以南に分布)に同定する辞書もある。

・「声ありて夜鳴く」これは「河鹿鳴く」の和歌に詠まれ、前の「ゴリ」の代表種であるカサゴ目カジカ科カジカ Cottus pollux に混同誤認された両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル Buergeria buergeri の鳴き声と思われる。現在でもこう誤認されている方は結構多い。因みに、カジカを獲らえた際にキューとかギーとか鳴くというのは、事実ではあるが、凡そ、この反証にはならない。

・「山海名産圖会」五巻から成る物産図会。木村蒹葭堂(けんかどう)序・蔀(しとみ)関月画で、撰者は蒹葭堂ともいうが不詳。「日本山海名物図会」再板(寛政九(一七九七)年板行。五巻。平瀬徹斎編著・長谷川光信画。江戸中期以降の物産会所や物産学の隆盛を背景に初版は宝暦四(一七五四)年板行。鉱山業・農林水産・民芸・軽工業・市など庶民生活に関する産業技術を図解している優れた物産図会である)のあとをうけて寛政十一(一七九九)年大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行されたもの。私は所持していないが、先行する「日本山海名物図会」はあるので一応見てみたところ、こちらにもゴリの記載はあるものの、ここで馬琴が述べている淡水産と海産の相違は語られていないように思われる。

・「瘤鯛」これは現行でもスズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ Semicossyphus reticulatus で、また馬琴が佐渡方言とする「かんたひ」は「カンダイ」であり、これは現行でも方言ではなく、コブダイの、頭部の上下が異様に大きく瘤状に膨れあがっているところの、の呼称である(本種は後で示すように成長過程でからへ性転換する雌性先熟である)。以下、ウィキの「コブダイ」から引く。『日本南部の太平洋、東シナ海、南シナ海に分布している』。は体長八十センチメートルから大型個体では一メートル超に達する。『体色は茶色や黒、白色などが入った赤色』、『雌性先熟で、子供の頃はメスで、卵を産む』が五十センチメートルを超える頃から『コブが張り出してきて、オスに性転換する』。『名前の由来である頭部の上下は大きな瘤状に膨れあがっている。雌はカンダイと呼ばれ、雄に比べて遙かに小さいために、かつては別な種類の魚だとさえ思われており、雄のように頭部が異様な形にはならず、体長も大きくても雄の半分ほどにしかならない。口には巻き貝を砕くために大きな歯と強力な顎を持つ』。『幼魚は体色がオレンジ色で上下の鰭が黒く、白い線が体の横に入り、成魚とは大きく異なる』。『本種はハーレムを創る魚として有名であり、雄は自分のテリトリーを主張し、そこに入ってきた他の雄を容赦なく攻撃して、縄張りを確保しながら、複数の雌を呼び寄せる性質を持つ。また、幼魚には手を出さず、幼魚はそうして成魚に守られながら成長し、学習していくともいわれる』。『非常に強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻ごと食べてしまう。繁殖は雄と雌が海上付近で体をくねらせながら産卵、受精する』。『本種は暖海性だが、死滅回遊魚でもあり、黒潮に乗って、北海道付近にまで北上することもある』。寿命は二十年前後とされている、とある。カンダイは旬である時期から、「寒鯛」かと推定される。

・「海馬」トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の大型種の大型成体個体と思われる。本邦産のタツノオトシゴ類は「本朝食鑑 鱗介部之三 海馬」の私の注を参照されたい。

・「竜宮雞(りゆうぐうのとり)」という訓から容易に連想されるのは「龍宮の使い」という和名であろう。確かにウィキの「リュウグウノツカイ」を見ると、『中国・台湾では「鶏冠刀魚」』と呼ぶとあり、ミクシィの投稿記事には京都府での同種の呼称として「リュウグウノツカイ」が出る。いやいや……極め付けがある……東北芸術工科大学東北文化研究センターのアーカイブズの絵葉書にちゃんとリュウグウノツカイが描かれておってそこには「リュウグウノニワトリ」と書いてありまんがな……しかしでんなぁ、この附図のそれは、どうみても、

新鰭亜綱アカマンボウ目リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ Regalecus glesneグーグル画像検索「Regalecus glesne

にしては体長も如何にも寸詰りやし、「使い」らしゅう、おまへんがな。……かと言うて、少し短そうな、

フリソデウオ科サケガシラ Trachipterus ishikawae(グーグル画像検索Trachipterus ishikawae

も「鷄」にゃあ、見えへんし……そっか、「龍宮の使い」や「鮭の頭(かしら)」(クリチャーのギミックめいた頭部構造から「裂け頭」とついたという説もあるが、私は採らない)みたようなお偉いさんやのぅて……「龍宮の庭先で飼ってるニワトリ」だんがな!……じゃけ、これは紅い鶏冠(とさか)みたようなものがおますんやろ……と、当てずっぽうで調べて見れば、それらしいんは、

アカマンボウ目フリソデウオ科フリソデウオ Desmodema polystictumグーグル画像検索Desmodema polystictum

か? いやいや!

アカマンボウ目アカナマダ科アカナマダ Lophotus capelleiグーグル画像検索「Lophotus capellei

が私にはピン! と来た! 背鰭の紅が鶏冠や! わては勝手にこれに決めました! まずはウィキの「アカナマダ」から解説を引く。体長は七十センチメートルから一メートルを越える程度だが、大型個体では二メートルを越えるものもいる。『太平洋と大西洋の暖海域に分布し、日本でもまれに漁獲され、主に北海道函館沖、神奈川県相模湾から鹿児島県沖、高知県沖、山口県沖などで漁獲、もしくは台風などの後に海岸に打ち上げられる事がある』。『強く側扁した細長い体や灰色の体色、基底が長く、頭部分の張り出しが目立つ赤色の背鰭といった特徴からフリソデウオ科の魚に似るが、臀鰭があることや前頭部が隆起していることで区別できる。口には幾つか歯が生えている』。『うきぶくろの下方に墨汁嚢を持ち、肛門から墨汁のような液を噴出する奇妙な習性がある』。『深海魚なので、詳しい事は不明。他のアカマンボウ目の魚類のように、表層部分を頭部を上にして漂っていると言われるが、定かではない』。『墨汁を吐くのは敵から身を守るためと云われるが、太陽の光が届かない暗黒の深海で墨汁を吐く意味と必要性については確かめられておらず、謎に包まれている』とある。――さても、そもそもがこの附図の個体、頭が如何にもニワトリニワトリしているのが、却って怪しいじゃないか?! 鰓部から上の鶏じみた頭部はこれ、明らかに時間が経って大方の部分が剥落したといった感じで見た方が自然に理解出来ると私は思う。前頭部からひょろりと出ているのが、生体では旗指物のように見える刎部直上に生える赤色の背鰭痕跡であるらしいこと、尻鰭があることなどから私はアカナマダに譲らないのである。なお、アカナマダは「赤波馬駄」と書くらしいが、「ナマダ」というのは関東でウツボを指す語である。これは「赤いウツボみたような変な魚」という意ではなかろうか。

・「鬼頭魚」後で注するように「おこじ」と訓じる箇所が出るし、この「龍宮の鷄」の異形の魚体を見る者は百人が百人、これは新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目 Scorpaeniformes に有象無象巣くうけったいな魚相魚体のオコゼ連中のことだ、と思うに違いない。しかし私は、ここは勝手に、現行でも生きている「シイラ」のことではないか? と直感するのである。それはこの「龍宮の鷄」をアカナマダに同定したことに由来する。アカナマダとシイラとオコゼの仲間を並べて見て貰いたい。これはもう、偏平で頭のでかいシイラとアカナマダにこそ、兄弟の契りはあろうというもんだ! 因みに、シイラという外国語みたような名の由来は「秕(しいな)」であって、これは殻ばかりで実のない籾(もみ)のことを言う。シイラは皮が硬い上に身が扁平で薄いことから可食部分が少ない、という不名誉な呼称なのである。

・「この類、三十種ありとぞ。余はいまだ詳(つばら)ならず」残り、二十種の名前だけでも記して欲しかったです! 馬琴先生!! 「他日、考たゞすべし」て言ってるのに! もう!! 何となく、たとえばミノカサゴとか、ね……佐渡の漁師の方、一つ、三十種数え挙げてみて呉れませんか?

・「倉卒の間(あはひ)」「倉卒」は「さうそつ(そうそつ)」と読み、突然であること。だしぬけ。慌ただしいこと。忙しくて落ち着かないこと。軽はずみであること。いい加減であることで、ここはの意。通常は「倉卒の間(かん)」と読む。「倉」も「卒」も孰れも、にわか・慌てる・慌ただしいの意があり、畳語である。

・「雪海苔」岩海苔。ウィキの「岩海苔」の解説文中に、『雪海苔として知られる新潟県の岩海苔』と出、「産地」の最後にも『雪海苔-北陸地方の日本海沿岸』とある。以下、ここでも今まで通りの詳細な注を附したい願望に駆られるが(特に私は海藻には眼がなく、二度行った佐渡では神馬草(ホンダワラ)を始めとして十種近くの海藻を土産に買ってしまった海藻フリークでもある)、以降は佐渡異魚三十種から外れるので、今は、あさあさと済ませることとする。

・「蔓藻〔海藻(もくず)なり。〕」「日本随筆大成」版は『藻海』とあってルビがない。誤植か。これは不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科イシモズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata と思われる。本邦では産生が少ないモズク属モズク Nemacystus decipiens に比すと、より食感が堅く、佐渡では養殖もされていて、私も最も好む食感のモズクである。因みに種名 Sphaerotrichia は「球+糸」、種小名 decipiens は「二股に分かれた」の意である(以上は、学名の由来も丁寧な私のすこぶる偏愛する海藻図鑑田中次郎氏の解説になる「基本284 日本の海藻」(二〇〇四年平凡社刊)に拠る)。

・「海松(かいせう)」緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル Codium fragile に同定しておく。因みに、「みる」は万葉以来の古称であるが、語源は不明である。不明ゆえにこそ、私は何とも美しい響きと感じるものである。

・「海柳(かいりう)」恐らくは十種ほどしか植生しない日本産海産種子植物の代表種である単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ Zostera marina 、いやさ、最も長い植物名(異名)として知られるリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)であろう。

・「藻玉(もたま)」「藤榼子(とうかふし)」「猪腰子(ちよようし)」『この物、蛮國に生ず。「本草綱目啓蒙」卷ノ十四の上、「榼藤子(たふとうし)」の条下を考ふべし』 マメ目ネムノキ科モダマ(榼藤子)属モダマ Entada phaseoloides というマメ科の常緑蔓性植物があるが、これはアジア・アフリカの熱帯・亜熱帯に分布し、本邦では屋久島乃至は沖繩の海岸近くの樹林に生ずる莢が長さ一メートルほどにもなる巨大なことで知られる陸生植物であるが、そもそもがこれ以降は「海濱(うみべた)に稀に流れよるもの四種」なのであって、海産生物である必然性はないのである。「この物、蛮國に生ず」とし、後に「巨葭」「椰子」が出ることから考えると、このマメ科のモダマの莢が、はるばる対馬海流に乗って佐渡まで漂着したのだと考えても、これ強ち、おかしなことではない。しかも「本草綱目啓蒙」の当該項を読んでみると、蘭山の記述もこれ、明らかにモダマの実と感じさせる叙述なのである。諸州に漂着し、『皆、海藻に混ず。故に拾ひ得るものあれば、誤認して藻實とす。因て「モダマ」の名あり』とし、その実の形は『圓扁、大さ一寸、あつさ三分ばかり。あるひは二寸、あつさ四分許。大小、常ならず。栗殻色あるひは赤を帶、或は黑をおぶ』とあるのである。これはもうモダマ Entada phaseoloides でキマリ、である。

・「蛸船(たこふね)」「蛸舟は、相摸の江ノ島にていふ鰹の烏帽子の類なるべし」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians が生成する貝殻である。タコブネについては「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」の私の注を参照されたい。「鰹の烏帽子の類なるべし」は誤認。「鰹の烏帽子」は言うまでもなく、刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科に属する群体クラゲであるカツオノエボシPhysalia physalis であってタコブネとは何の関係もない(カツオノエボシについては私の『海産生物古記録集1「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載』の注を参照されたい)。タコブネが海上を帆走遊泳するというトンデモ流言による程度の低い安易な敷衍解釈で、稀代の戯作者馬琴先生にしては少々イタい誤りである。私も高校時代、富山の氷見海岸で採取した大型の三個体の殻を宝としている。

・「巨葭(おほよし)」文字通りの、単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ Phragmites australis の大きく成長して植生地の河口附近から脱落して漂着したものであろう。ネット検索をかけると、富山県で今年(二〇一五年)の四月の新聞記事で、富山市神通川河口の海岸沿いに大量のアシが漂着し、住民を困らせている、というニュースを見出せる。

・「椰子(やし)」『「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十、背椰子の條下に、椰子、通名(つうめう)「ヤシホ」、又、津軽にては、「タウヨシノミ」といふよし、見えたり』。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae のヤシ類の実の漂着である。『「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十』この数字は誤りである。少なくとも現行の「重訂本草綱目啓蒙」では「卷之二十七果部」の「果之三」の十五番目に「椰子」はある。巻数ばかりではなく、この「背」も不審である。これは全くの推理に過ぎないのだが、これは原稿には正しく「卷ノ二十七椰子」と書いてあったのではなかったか? 翻刻の誤りの可能性である(訳では勝手に訂した)。七の大字(「壱」「伍」のように改竄や誤認を避けるために単純な字形の漢数字の代わりに用いる漢字)の一つは「柒」で、恐らく草書では「背」に似ているのではなかろうか? なお、「本草綱目啓蒙」の当該箇所では『椰子 通名 ヤシホ トウヨシノミ〔津輕〕』と確かにある。

・「黒萩(くろはぎ)」不詳。ヤマハギの変種で、マメ科ハギ属クロバナキハギ(黒花木萩)Lespedeza bicolor var. higoensis というのがWeblio辞書 植物図鑑」にあるが、分布域が愛知県と熊本県とあって一致しない。

・「小倉村」現在の(以下省略)佐渡市小倉。小佐渡のほぼ中央。棚田で知られる。

・「白蒿(しろよもぎ)」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属シロヨモギ Artemisia stelleriana ウィキの「シロヨモギ」によれば、本邦では『北海道、本州の新潟県・茨城県以北に分布し、日当たりのよい海岸の砂地に生育』し、『全体が白い綿毛でおおわれ、雪白色になるため、シロヨモギ(白蓬)という』とある。

・「小泊村」佐渡市羽茂小泊。小佐渡の西、素浜(そばま)海岸に面する。

・「西三河」佐渡市西三川。小泊の内陸側。砂金山で知られる。施設や地理対象によって「西三河」とも表記されている。

・「雪割草」これはキンポウゲ目キンポウゲ科ミスミソウ Hepatica nobilis var. japonica及び同変種のオオミスミソウHepatica nobilis var. japonica f. magna 及びHepatica nobilis var. japonica f. variegata を指す(現在和名として別に高山植物のツツジ目サクラソウ科サクラソウ属セイヨウユキワリソウ亜種ユキワリソウPrimula farinosa subsp. modesta があるが、これではない)。私の定宿「ホテル大佐渡」のブログの写真をリンクしておく。

・「銀山」佐渡市下相川及び相川北沢町を中心とした大量の金銀を産出した所謂、佐渡金山、相川鉱山のことであろう。

・「福壽草」キンポウゲ目キンポウゲ科フクジュソウ Adonis ramosa 。特に珍しいものではないと思われるが、おそらく夏海から得た情報にリストされてあったのであろう。絵師であった彼にして荒海の佐渡で春を告げる福寿草は、殊の外、忘れ難い美花であったであろうことは想像に難くない。

・「小川村」佐渡市小川。北部の大佐渡の尖閣湾の一部である海府海岸(そとかいふかいがん)の西端に位置する。

・「達者村」佐渡市達者。尖閣湾の一角で小川の東北部。山椒太夫伝承で生き別れとなっていた母とその子厨子王がこの地で再会して互いの達者を喜んだことに由来する。

・「人參草(にんじんさう)」ニンジンソウはざっと調べて見ても、以下の三種が候補に挙がる。

バラ亜綱セリ目セリ科ヤブジラミ           Torilis japonica

       セリ科セントウソウ          Chamaele decumbens

キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属カワラニンジン Artemisia apiacea

同定不能。但し、これも孰れも全国に分布する種である。

・「長江」佐渡市長江。加茂湖の北西。

・「栗(くり)ノ口」不詳。佐渡市栗野江という地名が。小佐渡の内陸寄りにある。

・「大野」長江の北方にある佐渡市梅津大野か。

・「二見」佐渡市二見。大佐渡の最西南端で真野湾の西の端に位置する。

・「北2」(「2」「犭」+「夷」。)不詳。ただ、現在、両津湾の西側の大佐渡に佐渡市北五十里(きたいかり)という地名を見出せる。現代語訳ではこう訓じた。

・「岩屋口」佐渡市岩谷口。大佐渡の北、外海府海岸に位置し、修行僧の籠った岩屋洞窟がある。

・「関願(せきぐわん)」岩谷口の南にある佐渡市関か。

・「深浦」佐渡市深浦。小佐渡の西端の港町。

・「沢崎(さわさき)」佐渡市沢崎(さわさき)。深浦の北側。

・「大杉」佐渡市大杉。小佐渡の本土側の海岸線に位置する。

・「寄鯨(よりくじら)」これは能動的に寄ってくる鯨ではない。死んだり弱ったりして海岸に漂着したクジラを指す語である。

・「玳瑁(たいまい)」鼈甲細工の原料とされて別名「鼈甲亀」とも呼ばれた、一属一種の爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ Eretmochelys imbricata 。彼らはインド洋・大西洋・太平洋の熱帯・亜熱帯の海水域を繁殖域とし、本邦は最北の繁殖地として石垣島や黒島などで少数の産卵が見られるばかりであるから、この佐渡でのタイマイの捕獲(ここは「海亀は常にあれども」「獲たり」とあり、死後の亀甲の漂着ではない感じがする)は、迷走して渡って来たとすると驚異的である(タイマイは珊瑚礁が発達した海洋を棲息域としてカイメン類を常食とするウミガメで、外洋を回遊すること自体が稀だからである。ここはウィキの「タイマイを参照した)。

・「元文三年」西暦一七三八年。

・「海獺(うみをそ)」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類を指す。中でもこれは、本邦に回遊してくるそれではなく、常在的に棲息していたニホンアシカ Zalophus japonicus を指している可能性が濃厚である。そして本種は既に……乱獲され、保護政策が全くとられないうちに絶滅してしまった日本固有種のアシカだったのである(ウィキの「ニホンアシカ」を是非、参照されたい)。……

・「海豹(かいひやう)」イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。ウィキの「アザラシ」によれば、本邦近海では北海道を中心にゴマフアザラシ・ワモンアザラシ・ゼニガタアザラシ・クラカケアザラシ・アゴヒゲアザラシの五種が棲息する。

・「葦鹿(あしか)〔北海の俗、「トヾ」といふ。〕」アシカは前出なので、ここはアシカ類の中でも割注に出るトドで採りたくはなる。一属一種の巨獣アシカ科トド Eumetopias jubatu である。但し、ウィキの「トド」によれば、『"トド"という和名は、アイヌ語の"トント"に由来し、これは「なめし革」を意味する。日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』とあるから、ここも巨大なトドを除く、中型のアシカ類の中で「海獺」と「葦鹿」が区別されていたと考える方が無難のようには思われる。先の「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」で夏海が描くオットセイ(膃肭臍)の図などを手掛かりに考証したくなるところだが、取り敢えず、名残惜しいけれど、ここまでとしておく。

・「山獸は狸と兎のみなり」佐渡には狐はいない。狸もいなかったが、慶長六(一六〇一)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりなのである。こんなことを何で知っているかというと、「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」に出、続く「耳嚢 巻之三 天作其理を極し事」にも出て、さんざん調べたからなんである。

・「貉(うじな)」ネコ目イタチ科アナグマ亜科アナグマ Meles meles のことであるが、「うじな」という読みは初見。

・「雪なだれ」『「大和本草」に所云、北海に雪魚あり。方一丈餘、その形、鰈のごとし。その肉、白くして雪のごとく、脂なし。好て海上に睡ると、いへり』不詳。――形はクラゲに似ている――色はすこぶる白いもので雪が解けかけたもののような印象である――佐渡の人々がその見た感じがそっくりなことから「雪雪崩(ゆきなだれ)」と呼んでいる――貝原益軒の「大和本草」に『北海産の「雪魚」という海洋生物/約三メートル四方の鰈(かれい)に似た、大きさに比べて平たい四角っぽい形を成した生物/肉は全くの白身で脂がない/好んで海面にその巨体を浮かべては眠りこけている生物』であるとある書物に書かれていた生物……さても……私が最初に頭に浮かべたのは

――刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科 Cyanea capillata の大型個体

だ。……しかしなぁ……「白身」や「脂」どころか、刺されたら、これ、てえへんなクラゲだしなぁ……次に……「白味」で「脂」がなくて「鰈」に似ている巨大な「魚」で考えてみたのは吊り上げでしばしば皆、CG合成と見紛う

――新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属タイヘイヨウオヒョウ Hippoglossus stenolepis 

だった。巨大なものは体重二百キログラム超、確かに三メートルを超える……しかし、オヒョウは海面に浮かんで昼寝はせんぜよ!……となると白身で平たくてでっかくて四角くて海面で横たわって寝るとなると……こりゃ、もらもらちゃんや、ないかい?

――条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ Mola mola

しかしだ……何より困ったことには、幾ら捜して見ても、益軒の「大和本草」には、ここに馬琴が引くような記載が見当たらないんである。……おまけに「大和本草」にはマンボウが項目として挙がっているものの、ここに書いてあるのとは、違う、如何にも自然なマンボウ君の話なのである。……最早、識者の御教授を乞うばかりである。よろしくお願い申し上げる。……

 

-2上図の「禿骨畢列」のキャプション・パート

・「解(とく)」滝澤馬琴の本名(元の興邦から改名したもの)。

・「乾腊(ほしな)して」丸干しにして。

・「他魚(たのうを)とおなじからず」この「おなじからず」の部分、判読に自信がなく、意味も良く分からぬ(訳は誤魔化した)。識者の御教授を乞う。

 

-2下図の「龍宮の鷄」のキャプション・パート

・「火魚(かなかしら)」カサゴ目ホウボウ科カナガシラ Lepidotrigla microptera であろう。まあ、全体の頭でっかちの体型と、背面の橙色から赤褐色を呈した派手な雰囲気は、似ていないことはない(が「如し」とまでは私なら言わない。グーグル画像検索「Lepidotrigla micropteraをリンクしておくので、前にリンクしたアカナマダのそれと比較されたい)。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション・パート

・「許(よ)」「餘」に同じい。

・「薄黑(うすすみ)」「黑」はママ。

・「賀陀比(かだひ)」ウィキの「マトウダイ」には別名として、地方名に、カガミダイ・ハツバ・カネタタキ・クルマダイ・モンダイ・バト・バトウ・ツキノワ・オオバ・ホンマト・マトウオ・マトハギ・マトウ・ワシノイオを掲げるが、それらしいものはない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「マトウダイ」を見ると、マツダイ・マテ・マトダイ・マトエ・ツキノワ(月の輪)・ツキ・ヤイトウオ(灸魚)・ワシウオ・ワシダイ・モンダイ(紋鯛)・モンツキ(紋付)・ウマダイ(馬鯛)・ウマウオ(馬魚)・カガミとあり、その中に遂に「ガダイ」というのを見つけた。これはどうも円紋を絵に画いたように見えるという「画鯛」ではあるまいか?

・「加々美夛比」「夛」は「多」の異体字。

・「琴嶺興継写」馬琴の一人息子滝澤興継(おきつぐ)。琴嶺は号。他に宗柏。松前候の医員であった。馬琴はこの子を非常に可愛がり、医師としての評判を上げてやるために自作の作品の中で宣伝をしたり、彼の名で自身が代筆までしているが、正体不明の病いを患い、天保六年(一八三五)に三十八歳で若死にしている。上図の「禿骨畢列」の絵も同じ。署名は「十四屋(?)琴嶺」か。彼は「琴嶺舎」とも号したから「屋」は何となく分かるが「十四」は不詳。識者の御教授を乞う。

 

やぶちゃん現代語訳

[やぶちゃん注:一部の文脈を、より分かり易い位置に変更してある。]

 

 佐渡に三十種の異魚がいるという。私は先に「燕石雑志」編した際、その三、四種をそこに載せたが、実は未だにそれらの実物を親しく見たことがなかったのであった。しかるに、かの編が翻刻なったそも折りも折り、佐渡相川在の石川夏海(なつみ)氏が、件(くだん)の異魚の標本を私に贈って呉れたのであった――その数はおよそ四品――。その時、私はそれらの図を載せなかったことをすこぶる遺憾に思うておった。ゆえに今、これを図すこととした。さても所謂、その三十種の異魚とは、

 

「とこひれ」――文鰩魚(とびうお)に似ている。体側に六つの稜(りょう)及び小さな棘(とげ)を有している。

 

針千本――その形は、当地江戸に於いて「しおさえふぐ」と呼び慣わす魚に似て、全身に棘(とげ)がある。

 

箱河豚――「海すずめ」と呼ぶものに似ている。

 

鯛の聟(むこ)源八(げんぱち)――鯛に似て、極めて小さい。

 

鮫の守り――本品は魚ではない。所謂、「海鬼灯(うみほおずき)」と呼ぶものに似ている。また、その形は藤の豆にも似ている。

 

鉦たたき――鏡鯛(かがみだい)に似ている。

 

こうごり――いまだ詳らかでない。これは「石伏(いしぶし)」のことであろうか? 「石伏」の一名を「ゴリ」とも言う。この「ゴリ」には二種ある。海と河ともに、全く別な魚として棲息しているものを言うのである。一般に知られる真正の「ゴリ」とは、その腹の下に鰭があって、本草書で言うところの「杜父魚(とほぎょ)」に似ており、しかもがたいの小さいものである。これは魚でありながら声を発し、夜(よる)、しきりに鳴く。その鰭には有意な棘(とげ)がある。一方、海産の方の「ごり」なる魚はというと、その鰭が如何にも柔らかであるのに対し、淡水産の「ゴリ」なるものは、すこぶる鋭いと、以上、「山海名産図会」に記されてあった。以上からこの「コウゴリ」というのは「河石伏(こうごり)」の意、と考えてよいであろう。

 

《追考を示す。「和名類聚鈔」には、『鯸1(コウイ)、和名、「布久閉(フクベ)」。これを刺激する際には直ちに、怒る。怒ると、即座にその腹が怒張し、海上に浮かび出るものである。』と。さてもこれは、江戸に於いて俗に「しおさえふぐ」と呼び慣わす魚に他ならない。さればこそ「石伏」は「1(イ)」なのである。「和名類聚鈔」には、『「1(イ)」は、音、(い)。和名は「伊師布久(いしぶし)」、性(しょう)、伏沈(ふくちん)して石の間に棲息する魚である。』と記す。[やぶちゃん字注:「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。]》

 

瘤鯛(こぶだい)――佐渡にては「かんだい」と言うのが、これであろうか。未だ詳らかではない。

 

海馬(かいば)――佐渡でなくても棲息している。しかし、佐渡のように大きなものは稀れである。

 

竜宮の鶏(とり)――鬼頭魚(きとうぎょ)の奇品である。

 

 以上、これら佐渡の異魚の類い、計三十種ある、とのことである。私はいまだ、その三十種すべてを詳しく知っている訳ではない。これらの種に就いて、種々の本草書に照らし合わせ、考証したならならば、その正式な漢名を知ることが出来るであろうし、また、その効能や毒性もこれ、知り得るであろうけれども、今これ、何かと慌ただしい中にあって、それらのことを落ち着いて精査し記録することが、やりたくとも出来ず、本書からは遂に漏れ損ずることと相い成ってしまった。他日(たじつ)を期して、じっくりと考証してみるつもりである。――なお、「トコヒレ」・「鉦たたき」・「竜宮の鶏」の三種については、とある御仁の所蔵せる画幅を以って臨写しておいた。

 

 また、これとは別に、海中に生ずるところの異草四種がある。

 

雪海苔(ゆきのり)――佐渡土俗にては何と呼称しているかは、よく分からない。

 

蔓藻――所謂、「海藻(もずく)」である。

 

海松(かいしょう)

 

海柳(かいりゅう)

 

 また、海辺に稀れに流れ寄せてくるところの稀品四種。

 

藻玉(もだま)

 

蛸船(たこぶね)

 

巨葭(おおよし)

 

椰子(やし)

 

――今、按ずるに、藻玉(もだま)というのは、一名「藤榼子(とうこうし)」、また一名「猪腰子(ちょようし)」と称する。この物は外国に植生するものである。「本草綱目啓蒙」巻の十四の上の「榼藤子(とうとうし)」の条下を参考にされたい。

――蛸舟(たこぶね)は、相模の江の島にて謂うところの「鰹の烏帽子(えぼし)」の類いであろう。

――また、按ずるに、「本草綱目啓蒙」卷の二十七の「椰子」の条下に『椰子、通名(つうみょう)「ヤシホ」、また、津軽にては「トウヨシノミ」と言う』といった記載が見える。

 

 また、佐渡の花卉(かき)・鳥獣については、

 

黒萩(くろはぎ)――小倉村に植生する。他所(よそ)にある黒萩というのは、ここのものよりも遙かに葉が短かい。

 

白蒿(しろよもぎ)――小泊村及び西三河に植生する。

 

雪割草(ゆきわりそう)――当地での方言は未だ詳かでない。当地の銀山に植生する。また、これは佐渡に限らず他所(よそ)にても植生するものではある。

 

福寿草――小川村・達者村の辺りに特に多く植生する。

 

人参草(にんじんそう)――長江(ながえ)・栗ノ口(くりのくち)・大野などの村に植生する。

 

鷲の巣――二見・北2(きたいかり)・岩屋口(いわやくち)・関願(せきがん)・深浦・沢崎(さわさき)・大杉などの村々で現認出来る[やぶちゃん字注:「2」「犭」+「夷」。]。

 

寄鯨(よりくじら)――稀れに見ることがある。

 

玳瑁(たいまい)――このものは元文三年の頃、捕獲したことがあったということである。海亀(うみがめ)は佐渡の臨海に常に棲息しているけれども、玳瑁はこの時の捕獲を以って、その後は漁獲したということを聴かない。

 

海獺(うみおそ)

 

海豹(かいひょう)――稀れに見かける。

 

葦鹿(あしか)――佐渡の北の海の方(かた)にては、俗にこれを「トド」と呼ぶ。

 

山の獣は狸と兎のみである。貉(うじな)もいるとは言うが、狸と雑種化してしまっていて、果たして純粋に貉として独自に生態系を作っているかどうかはこれ、よく分からないという。

 

雪なだれ――その形は海月(くらげ)の仲間と類似している。その色はあくまで混じり気のない純白であって、言うなら、雪が解け始めた折りの状態にそっくりである。このものは稀れに姿を現わす。土地の人はこれを「雪なだれ」と呼んでいる。これはかの「大和本草」に謂うところの『北海に雪魚(ゆきうお)がいる。大きさは一丈四方余り、その形は魚の鰈(かれい)に似ている。その肉は極めて白くて雪のようであり、脂身はない。この生物は好んで海面に寝そべって眠る。』と記してあった。さても、まさにこれこそが、この佐渡の「雪なだれ」に違いないといったことが、これ、とある書文書に記されてあったのである。

 

-1図右上の「針千本」(ハリセンボン)のキャプション

 針千本

形は「しおさえふぐ」に似ていて、惣身の棘(とげ)は栗の毬(いが)にそっくりである。

 

-1図左上中央の「箱フグ」(ハコフグ)のキャプション

 箱フグ

「海すずめ」に似て、形は遙かに四角い様相を呈する。

 

-1図左上の「鯛ノ聟源八」(マツカサウオ)のキャプション

 鯛の聟 源八

鯛に似て、極めて小さく、鱗は、はなはだ鋭い。

 

-2上図の「禿骨畢列」(トクビレ)のキャプション

 禿骨畢列――とくびれ魚

私こと解(とく)が按ずるに、方言である「とこひれ」というのは、「長鬣魚(とこひれうお)」の義ではなかろうか? また、「鋭鰭(ときひれ)」の義でもあろうか? 「こ」と「き」とは音では容易に通ずるものである。この魚はこれ、鮫の一種類であろうか? 目は黄色である。頭より背中(せなか)に至るまで、総て薄青色を呈する。鰭の端は褐色(かちいろ)であって、その他の部分は水色に薄黒を帯びており、斑らに点がある。鰓(えら)の端が少しだけ、紅(あか)い。ある人の記したものによれば、『この魚は、その魚体全体は文鰩魚(とびうお)に似ている。体側に沿って六つの稜(りょう)があり、小さな棘(とげ)を有する。その針ごとにまた、細かな筋があって、それが亀甲(きっこう)の紋様を呈するのである。身の肉質は極めて硬い。乾燥させて干物にしたものは時間が経過しても原形はこれ、一向に崩れず、さらに時を経ると、全体が褐色(かちいろ)に変じて、漁師はまた、そうなった肉を食らうことを、却ってすこぶる好む。ただ丸干しにして子どもの玩具に供する者に至っては、長大なるものは長さ一尺余りになるものもある。この上下の長い鬣(ひれ)を広げた際には、人一人分が入れる唐傘(からかさ)のようでさえある。ともかくもこれ、尋常の他の魚とは、何から何まで、異なっている。』とのことである。

 

-2下図の「龍宮の鷄」(アカナマダ?)のキャプション

 龍宮の鷄

ある人が言うことに、『「龍宮の鶏(とり)」というのは佐渡の方言である。これは「鬼頭魚(おこじ)」の奇品中の奇品とも言うべきものである。後方に冠(かんむり)があって、鶏(にわとり)によく似る。横腹には、小さな四角い点が有意に魚体から盛り上がって浮き出ており、あたかも刻み鏤(え)ったようである。完全に乾燥させたものは、すこぶる硬くして、かの海馬(かいば)の干物に似ている。』と。今、按ずるに、この魚の全身、その色は薄紅(うすくれない)であって、所謂、火魚(かながしら)のようである。実にこの魚は「おこじ」の近縁であるに違いない。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション

 鉦敲魚

この魚は佐渡のみに限らず、相模・伊豆の海中にも多く棲息している。ある人が言うことには、『この魚の形は、大小も一方ならず、大きなものは一尺を超える個体もある。鱗はない。その色は薄墨に青と黄を帯びて、光沢(つや)がある。横腹は水色の中に薄紅を帯びている。鯵に似ている。体側の両面に黒い丸いくっきりとした紋がある。この魚の身は脂(あぶら)がよくのっており、その味わいたるや、まことに美味いものである。相模・伊豆の海中に、冬から春にかけて多くこれを獲る。漁師はこの魚を「的魚(まとうお)」と呼んでいる。また、「賀陀比(かだい)」とも呼ぶ。』とのことである。今、按ずるに、この魚はこれ、江戸で言うところの「加々美夛比(かかみだい)」の奇品と見た。

 

   琴嶺興継(きんれいおきつぐ)写す。(落款)(落款)

2015/06/06

――博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載――を作製中

――博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載――を作製中……

明日には何とか完成出来るかなぁ?……

2015/05/04

博物学古記録翻刻訳注 ■15 栗本丹洲筆自筆本「蛸水月烏賊類図巻」に現われたる「舩頭烏賊 タチイカ」の図

博物学古記録翻刻訳注 ■15 栗本丹洲筆自筆本「蛸水月烏賊類図巻」に現われたる「舩頭烏賊 タチイカ」の図

 

[やぶちゃん注:「蛸水月烏賊類図巻」は「たこくらげいかるいずかん」と読む。二十五種を掲げるが、その内の十九点は蘭癖大名として知られた讃岐高松藩主松平頼恭(よりたか)の編集した図譜「衆鱗図」からの転写である旨、国立国会図書館の「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌」の解説にある(但し、このタチイカがそれであるかどうかは私は「衆鱗図」を未見なので不詳である)。なお、既に本作は海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載で取り上げている。

 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了「蛸水月烏賊類図巻」当該画像を用いた。キャプション以外のテキスト・データのない資料で「博物学古記録翻刻訳注」というのも口幅ったいが、人見必大の「本朝食鑑」の「烏賊魚」の項の電子化訳注に花を添えるために作成した。【2015年5月4日 藪野直史】]

 

   舩頭烏賊 タチイカ

 

Aoriika

 

[やぶちゃん注:「舩」は「船」の俗字。これはもう立派な泥障烏賊(あおりいか)頭足綱 Cephalopoda鞘形亜綱 Coleoidea十腕形上目 Decapodiformes 閉眼目 Myopsida ヤリイカ科 Loliginidae アオリイカ属 Sepioteuthis アオリイカ Sepioteuthis lessoniana であって、「本朝食鑑」で「太刀烏賊(タチイカ)」とする鯣にするイカは閉眼目スルメイカ亜目 Cephalopoda アカイカ科 Ommastrephidae スルメイカ亜科 Todarodinae スルメイカ属 Todarodes スルメイカ Todarodes pacificus ではないので注意されたい(と言うか見りゃ分かる)。イカの和名異名は著しく錯綜していることがこれからも分かる。それにしても何と美しいことだろう!]

2015/04/27

密かにカテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始

1977年平凡社東洋文庫刊の国語学者大島勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本「本朝食鑑」を入手した。流石は国語学者、注の引用がもの凄い堆積である。その代り、生物学的考証記載は失礼乍ら、頗る貧困である。まずは順に「海鼠」から取り掛かってみたが、当初、考えていた公開版を残しての補正は、少なくとも「海鼠」では厳しい。これは僕の誤りが多いというのではなくて、公開から大島本を今日、見るまでの間に、全く個人的に自分の記載に対して、幾つかの補正が必要となったからである。現在、その改稿に着手しているが――これ、なかなか手強い。――しかし、だからこそ面白い。――今暫く、お待ちあれかし。――とりあえず、カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始し、僕の新しいプロジェクトの予告と致す所存である。
 
ガチで――勝負だ!!!

2015/04/23

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

 

[やぶちゃん注:「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」「博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載」「本朝食鑑」の第三弾。私の偏愛するクラゲである。「本朝食鑑」については上記「12」のリンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁から始まる「海月」パートの画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海月」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。二度出て来る「鰕」とした字は原典では「叚」の右部分が「殳」であるが、表示出来ない字であるので、文意からこれと判断して示した。「蔵」「静」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「狀」など)は正字で採った。

 注文するも未だ東洋文庫版は到着せず。――暴虎馮河のオリジナル現代語訳を敢えて公開する。【二〇一五年四月二十三日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したので、追記箇所が分かるようにして補足した。訳のうち、最後の「然れども微温か。未だ詳らかならず」の箇所のみ島田氏の訳を参考に修正を行った。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

海月〔訓久良介〕

 釋名水母〔鰕附從之如子之從母故曰水母源順

 曰食經海月一名水母貌如月在海中

 故以名之凡自古以海月而名者尚矣以形色名

 之則於水母不相當雖圓形而不正其色亦殊一

 種有水海月者色白形圓言之乎陳蔵器

 李時珍俱以江瑤爲海月是形色相當矣〕

 集觧狀如水垢之凝結而成渾然體静隨波逐潮

 浮于水上其色紅紫無眼口無手足腹下有物如

 絲如絮而長曳魚鰕相隨※1其涎沫大者如盤小

[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]

 者如盂其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳江

 東未見之海西最多故煎茶渣柴灰和鹽水淹之

 以送于東而爲魚鱠之伴或和薑醋熬酒以進之

 一種有唐海月者色黄白味淡嚼之有聲亦和薑

 醋熬酒以進之是自華傳送肥之長﨑而來本朝

 亦製之其法浸以石灰礬水去其血汗則色變作

 白重洗滌之若不去石灰之毒則害人一種有水

 海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕

 附之隨潮如飛漁人不采之謂必有毒又有無毒

 者而味不好江東亦多有之古人詠艶情之歌有

 海月遇骨之語是誕妄乎

 氣味鹹平無毒〔或曰鮾則生腥臭然微温乎未詳〕主治婦人朱血

 及び帶下食之而良或謂伏河豚毒

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「尚(ヒサ)シ」・「水海月(クラケ)」(「水」にはない)・「水垢(アカ)」(「水」にはない)とあるのみである。また、「貌」(かたち)には「チ」が、「者」(もの)には「ノ」が、「狀」(かたち)には「チ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕

 釋名 水母〔鰕(えび)、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし。故に水母と曰ふ。源順(みなもとのしたごふ)が曰く、『「食經」、海月、一名、水母。貌(かたち)、月の海中に在るがごとし。故に以つて之れに名づく。』と。凡そ、古へより海月を以つて名づくる者、尚(ひさ)し。形・色を以つて之れに名づくれば、則ち、水母、相ひ當(あた)らず。圓形と雖も不正なり。其の色も亦、殊(こと)なり。一種、水海月(みづくらげ)と云ふ者、有り。色、白く、形、圓(まどか)にして之を言ふか。陳蔵器・李時珍、俱に江瑤(かうえう)を以つて海月と爲(な)す。是れ、形・色、相ひ當れり。〕

 集觧 狀(かたち)、水垢(みづあか)の凝(こ)り結びて成るがごとく、渾然、體(てい)、静かなり。波に隨ひ、潮を逐ふて、水上に浮かぶ。其の色、紅紫。眼・口、無く、手・足、無し。腹の下、物、有りて絲のごとく、絮(ぢよ)のごとくにして、長く曳く。魚鰕、相ひ隨ひて其の涎沫(よだれ)を※1(す)ふ[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]。大なる者は盤のごとく、小さきなる者は盂(はち)のごとし。其の最も厚き者は、海月の頭と爲る。其の味はひ、淡(あは)く微腥(びせい)にして佳なり。江東、未だ之を見ず。海西、最も多し。故に煎茶渣(かす)・柴灰(しばはひ)、鹽水に和して之を淹(あん)じて、以つて東に送りて、魚鱠(うをなます)の伴と爲す。或いは薑醋(しやうがず)・熬酒(いりざけ)に和して、以つて之を進む。一種、唐海月(からくらげ)と云ふ者、有り。色、黄白、味はひ淡く、之を嚼(は)みて、聲、有り。亦、薑醋・熬酒に和して、以つて之を進む。是れ、華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つてして其の血・汗を去る。則ち、色、變じて白と作(な)る。重ねて之を洗ひ滌(のぞ)く。若(も)し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す。一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團(だん)を作(な)し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り。古人、艶情の歌を詠(えい)じて、「海月、骨に遇ふ。」の語、有り。是れ誕妄(たんばう)か。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒、無し。〔或いは曰く、『鮾(あざ)る時は則ち、腥臭(せいしう)生ず。』と。然れども微温か。未だ詳らかならず。〕 主治 婦人の朱血及び帶下(こしけ)、之を食ひて良し。或いは謂ふ、河豚(ふぐ)の毒を伏すと。

 

□やぶちゃん語注(私は既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の――「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)の項――則ち、クラゲの項――の私の注で、包括的なクラゲについての概説と見解を述べてある。出来ればそちらも是非、参照されたい。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕……」以下、「くらげ」の語源説が示されてある「水母」のそれは私には初耳乍ら、その是非は別としても、クラゲの生態をよく観察していて興味深い(後注参照)。本邦の水族館としてのクラゲの本格常設展示の濫觴の後身である新江ノ島水族館の公式ブログ「えのすいトリーター日誌」の『9は9ラゲの9~(その5)「クラゲ」の語源』には、表記としては他に「水月」「鏡虫」「久羅下」を掲げ、

 ・海の中をクラクラと浮遊しているから、クラゲ

 ・暗闇にいる化物→暗化け→クラゲ

 ・目がなくてさぞかし暗いだろうから、暗げ

 ・丸くてくるくる回っている→くるげ→くらげ

 ・いるとなんとなく暗いから、暗げ

という語源説示す。目がないとされたところから「暗い」意或いは「黒い」意とするのは、松永貞徳「和句解」(寛文二(一六六二)年)や貝原益軒「本釈名」(元禄一二(一六九九)年)に載る旨、ネットのQ&Aサイトにあった。また、ウィキの「クラゲ」には別に、『丸い入れ物「輪笥(くるげ)」に由来するとの説』を見出せるが、この一見、古さを感じさせ、まことしやかに見える説については、村上龍男・下村脩共著「クラゲ世にも美しい浮遊生活 発光や若返りの不思議」(二〇一四年PHP研究所刊)の「クラゲの語源」で、『確かに形は似ているかもしれないが、比較的身近にいる生き物より、二つの言葉』(「くるむ」「くるめく」などの「丸い」の意を含む接頭辞「輪(くる)」と食器の「笥(け)」の二語ということ)『が合成されてでき上がった人工物の名のほうが古いとは考えにくいのではなかろうか。実際、「輪笥」という言葉は、古事記にも万葉集にも出てこない』とあり、私も頗る同感である。

 語源は辿れぬものの、私が遙かに興味深いのは、本邦の文学・史書に最初に現われる最初の生物こそが、この「くらげ」である事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書にして神話である「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」は、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽の意。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いてはこの地上の地面そのものがカオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては世界で最初に神によって名指された生物である――ということになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、である。

・「鰕、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし」すぐ頭に浮かぶのは鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchiana であるが(私は二〇〇八年前に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」ではこの共生するエビ類について『ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)』と述べたが、今回、二〇一一年刊の『広島大学総合博物館研究報告』の大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一共著の論文「瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類」によって『コエビ類の共生はエビクラゲのみから確認され』たこと、それによって『宿主特異性が高いこと』が判明していることが分かった)、さらに好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類(この後者の二種は触手動物門や原索動物尾索類だ、などと鬼の首を捕ったように言う勿れ。彼らは広い意味で永く水中を漂う立派な「クラゲ」として「~クラゲ」としてその名を附して呼ばれたり、同じ仲間として認識されてきたのである)に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi などの同クラゲノミ亜目に属するウミノミ類の仲間辺りが挙げられよう。それ以外にも刺胞毒の強いヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali 等に共生(私はエボシダイがクラゲの体の一部を食べることがあること、エボシダイに明白なカツオノエボシの刺胞毒に対する耐性が認められることなどから、寄生或いは胡散臭いので好きな言葉ではないのだが片利共生と考えている)しているスズキ目エボシダイ科エボシダイ Nomeus gronovii の幼体など、調べて見れば、クラゲを「母」とする、特定の「子」は実は決して稀ではないことが分かるはずである。そうしてそういうものを目にしてきた漁師やそれを伝聞した本草家がいたということ、それがこうして記載されていることこそが、幸せな博物学の時代を象徴するしみじみとした事実として私の心を打つのだとだけは言っておきたいのである。

・「源順」(延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の学者で歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫左馬允源挙(みなもとのこぞる)の次男。以下、ウィキの「源順」によれば、若い頃より奨学院において勉学に励んで博学として知られ、二十代で日本最初の分類体辞典「和名類聚抄」を編纂した。天暦五(九五一)年には和歌所の寄人(よりゅうど)となり、「梨壺の五人」の一人として「万葉集」の訓点と「後撰和歌集」撰集に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方、天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子(きし/よしこ)女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元二(九七七)年の斎宮規子内親王の伊勢下向の際にも随行した。『だが、彼の多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらし』い。それでも康保三(九六六)年に『従五位下下総権守に任じられ(ただし、遥任)、翌年和泉守に任じられるなど、その後は受領として順調な昇進を遂げるが、源高明のサロンに出入りしていたことが安和の変』(安和二(九六九)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚)『以後に影響を与え』、以後の昇進は芳しくなかった。『三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている。以下は「和名類聚抄」からの引用。であるが、国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁を視認すると、やや異なる。以下に示す。

   *

海月 崔禹錫食經云海月一名水母〔和名久良介〕貌似月在海中故以名之

   *

・「食經」唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「水海月」現行、狭義のそれ、真正の「ミズクラゲ」は刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita 。なお、本邦には他に北海道に分布するキタミズクラゲ Aurelia limbata がいる。これは傘径が三〇センチメートル前後と大型で(ミズクラゲは十三センチメートル前後)、放射管が網目状になっている点、触手や傘の辺縁部が褐色を帯びる点でミズクラゲ Aurelia aurita と識別出来る。しかし、本項の最後の叙述などを見ると、これは現在の狭義のミズクラゲとは一致しない謂いと私は採る(後注参照)。

・「陳蔵器」(六八一年?~七五七年?)は唐代の医学者で本草学者。浙江省の四明の生まれ。開元年間(七一三年~七四一年)に博物学的医書「本草拾遺」を編纂している。

・「李時珍」(一五一八年~一五九三年)は明代を代表する医学者で本草学者。湖北省の蘄州(きしゅう)の生まれ。中国古来の植物・薬物を研究、兼ねて動物や鉱物を加味しながら主として医用の立場で集成した本草学の確立者にして伝統的中国医療の集大成者。本「本朝食鑑」が模しているところの彼の主著「本草綱目」(五十二巻)は一五九六年頃の刊行で、巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。

 

・「江瑤」「瑤」は美しい宝玉の意。蔵器と時珍は「海月」に相当するものを「江珧」と呼んでいる事実はある。しかし、

 「海月」=「江珧」≠クラゲ

なのである(それは人見も認識しているようである)。例えばこの「江瑤」が、貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」にも以下のように表れている(これは貝の足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギである。学名を示さないのには理由がある。リンク先を必参照)。以下、リンク先で私が書き下したものを示す(下線やぶちゃん)。

   *

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸(はらわた)は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤(かうえう)及び玉珧(ぎよくえう)は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔(えいけつ)にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

   *

この「江瑤」がどこから出て来たものか、今の所、その水源を捜し得ないのであるが、まず「本草綱目」のどこに「江珧」が出るかというと、貝類の載る「介之二」なのである(底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した。下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている。語釈を附すと、痙攣的に注が終わらなくなるので一部を除いて略した。以下の引用でも同じ)。

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海月〔拾遺〕

釋名玉珧〔音姚〕 江珧 馬頰 馬頰〔藏器曰、『海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水時珍曰馬甲、玉珧、皆以形色名萬震贊云、厥甲美如珧玉、是矣。〕

集解〔時珍曰劉恂「嶺表錄異」云海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。段成式「雜俎」云玉珧形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也

附錄海鏡〔時珍曰一名鏡魚、一名瑣、一名膏藥盤、生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞賦云、『瑣※3腹蟹、水母目蝦、即此。〕

 

[やぶちゃん字注:「※3」=「王」+「吉」。]

氣味甘、辛平。無毒。主治消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之〔藏器〕。

   *

「拾遺」というのは「本草拾遺」だから、少なくとも時珍は蔵器の「海月」(ひいては「江珧」)も同一物だと言っているということになって、人見の言と一致はすることになると言える。しかし、この文脈、中国語の出来ない私がぼーぅと読んでいても、これは貝――それも貝柱を食用にする二枚貝、殻の形が月の様に丸いてなことを述べていることぐらいは分かる。即ち、この「海月」は「クラゲ」でないのである。しかもここに出る「海鏡」の形状はこれはまた今度はタイラギではなく、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum 、いや寧ろ、光沢を持つ点では斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科 ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta が同定候補に浮上してくるという、まさに痙攣的な大混戦の様相を呈しているのである。但し、何と! 驚くべき偶然か? ここに出る郭璞の「江賦」からの引用の『水母目蝦』の「水母」というのは、それこそこれ私が前で注した、クラゲとそれに寄生する甲殻類と思われてくるではないか?!

 では戻って、例えば「本草綱目」にクラゲは出ないのかと言えば、これが出ているのである。しかしそれは「鱗之四」の「海※4」(「※4」=「虫」+「宅」。「かいた」或いは「かいだ」。〕なのである。底本はやはり国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した(下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている)。

   *

海※4〔「拾遺」〕

釋名水母〔拾遺〕 樗蒲魚〔拾遺〕 石鏡〔時珍曰作、宅二音。南人訛爲海折、或作蠟、 者、並非。劉恂云閩人曰、※4廣人曰水母。「異苑」、名石鏡也。〕

集解〔藏器曰、※4、生東海、狀如血■、大者如牀、小者如斗、無眼目腹胃、以蝦爲目蝦動。※4沉、故曰水母目蝦亦猶※5※5之與※6※7也。煠出以薑醋進之海人以爲常味。時珍曰、水母、形渾然凝結其色紅紫、無口眼腹。下有物如懸絮、羣蝦附之、其涎沫浮泛如飛。爲潮所擁、則蝦去而※4不得歸。人因割取之、浸以石灰礬水、去其血汁色遂白。其最濃者、謂之※4頭、味更勝。生、熟皆可食茄柴灰和鹽氷淹之良。〕

[やぶちゃん字注:「■」は判読不能。「血」+(「焰」-「火」のような(つくり)か?)。「※5」=「跫」-「足」+「鳥」。「※6」=「馬」+「巨」。「※7」=「馬」+「虛」。

氣味鹹、溫。無毒。主治婦人勞損、積血帶下、小兒風疾丹毒、湯火傷〔藏器〕。療河魚之疾〔時珍出異苑〕。

   *

因みに、後に寺島良安は、この部分を「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で以下のように訓読している(私の語注がリンク先にある)。

   *

「本綱」に『海※2は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に物有り。絮(しよ)を懸けたるがごとし。羣蝦(むれえび)、之に附きて、其の涎沫(よだれ)を(す)ふ。浮汎(ふはん)すること、飛ぶがごとく、潮の爲に擁せらるれば、則ち蝦去りて、※2、歸るを得ず。人、囚りて割〔(わけ)〕て之を取る。常に蝦を以て目と爲す。蝦、動けば、※2、沈む。猶ほ蛩蛩(きようきよう)の※6※7(きよきよ)とのごとし。其の最も厚き者、之を※2頭と謂ふ。味【鹹、温。】、更に勝れり。生・熟、皆、食ふべし。薑醋(しやうがず)を以て之を進む。茄柴の灰、鹽水に和して、之を淹(い)れて良し。又、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つて、其の血汁を去れば、其の色、遂に白し。』と。

   *

 以上で検証は一先ず終りとするが、私にはやはり調べれば調べるほど、人見の叙述は多様な別種を神経症的に羅列し、博物学的には興味深いものの、なかなか真正のクラゲに至っていないやや迂遠な解説、という気がしてならないのだが、如何であろう?【二〇一五年四月二十八日追記】島田氏の注に、「国訳本草綱目」(戦前の刊行なので「支那」とあるので注意)に「和名いたやがひ」とし、その頭注で白井光太郎氏が『海月・王珧、元ト二物、時珍之ヲ合ス誤リナリ』とし、木村康一氏は『海月ハ扇状ノ二枚貝。左右概ネ不同ニ膨ラム。殻表ハ淡褐赤色ナリ。支那本土ニ海岸ニ分布ス』と附しているとある。これだと、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科イタヤガイ Patinopecten albicans ということになる(同定候補としてはそれもありではあろう)。また、島田氏は中国でのその貝の異名として王珧・江瑤・馬頰・角帯子・江珠・楊妃舌・江瑤柱を示しておられる。因みに楊妃舌は現代中国語ではイタヤガイ科のホタテガイ Patinopecten yessoensis を指す。

 

・「渾然」全く差や違和感がなく、一つのまとまりになっているさま、もしくは角や窪みのないさまを言う。まさに、クラゲのためにあるような語である。

・「腹の下、物、有りて絲のごとく、絮のごとくにして、長く曳く」は、主として鉢クラゲ類で目立つ口腕及び一部の種のその口腕の付属器を指しているのであろう。当然、その他の縁弁を含む傘縁触手や有櫛動物の場合の触手も含んでいると考えてよい。「絮」は綿・真綿・草木の綿毛の意。

・「涎沫」音は「センマツ」で、ここもこう音読みしている可能性は高いと思われるが、私は達意の観点から確信犯で「よだれ」と訓じた。唾(つばき)や口から吹いた泡のこと。

・「※く」(「※」=「口」+「匝」)この字は音「サフ(ソウ)」で、射は吸う・啜るの意。

・「盤」食物を盛る大きな皿。盥(たらい)の意もある。

・「盂」本来は中国古代の礼器の一つで土器・青銅器ともにあり、飲食物の容器で大口の深鉢に足と左右の取手が附いているものを言うが、ここは比較的小さな飲食物を盛る口の広い鉢を指している。

・「海月の頭と爲る」クラゲの親分になるというのか? それもおかしいので一応、クラゲの頭部(傘)となると訳しておいた。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注でも『最も厚いところは海月の頭といわれ』と訳しておられた。

・「江東、未だ之を見ず。海西、最も多し」ここでは既にして、食品加工用の特定のクラゲを指している。即ち、鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta 、その近縁種で有明海固有種のヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 、ビゼンクラゲに極似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)である。但し、最後のスナイロクラゲの分布域は九州から陸奥湾に広く分布するのであるが、恐らくは古くより、これらを採取して食品として加工する技術が主に西日本で発達したことに由来する、分布理解の不十分な認識によるものであろう。なお、後で注するが、同科の現在の日本近海では主に有明海と瀬戸内海に棲息する本邦のクラゲ中でも最大級の種としてのエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai は、実は江戸時代には食用クラゲとしての加工の歴史はなかったので、ここには出していない。

・「唐海月」「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)に、

   *

肥前水母【又、唐水母と名づく。】 一物にして、異製なり。其の製、明礬に鹽を和して揉み合はせ、之を漬ける。色、黄白ならしめ、使ふ時、能く洗浄し、礬氣を去る。肥前の産、最も佳し。故に名づく。其の味、淡く、之を嚼(か)むに聲有り。

   *

と出る。これに就いて私は当該注で、以下のように記した。

   *

「肥前水母」ヒゼンクラゲ 良安はこれを塩クラゲの製法違いとしているが、既に横綱エチゼンクラゲに土俵入りしてもらっている以上、やはり種としてのヒゼンクラゲにも控えてもらおう。

 ところが、その前に片付けておかなくてはならない事柄がある。私は実は、肥前(ひぜん:佐賀県と長崎県の一部)や備前(びぜん:岡山県と兵庫県の一部)といった採取された旧国名からついた和名が極めて似ているため、このヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum という種とビゼンクラゲ Rhopilema esculenta という種が同一のクラゲのシノニムであると思っていた(事実、前掲の二冊のかなり新しいクラゲの出版物でも索引にはビゼンクラゲしか載らない)。次に少し経って、ヒゼンクラゲというのは、ビゼンクラゲに極めて類似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi のシノニムではないかとも疑った。ところがレッドーデータ・リスト等を検索する内、実際にはこの三種はすべて別種であるという記載があり、また多くの観察者の記載を見るに、私もこれらは異なった種であろうという印象を持つに至った。即ちクラゲ加工業者の間で「白(シロクラゲ)」と呼称されるヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum は有明海固有種であり、私がシノニムを疑ったスナイロクラゲ Rhopilema asamushi はその分布域が九州から陸奥湾に広く分布するという記述だけで最早同一ではあり得ず、またビゼンクラゲ Rhopilema esculenta は業者が「赤(アカクラゲ)」と呼称するように、傘が有意に褐色を帯びており(但しヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum でも傘に紅斑点があるものがあり、その方が塩クラゲにするには上質とされるらしい)、見るからに異なったクラゲに見えるのである。今後のアイソザイム分析が楽しみである。

 更に付け加えておくと昨今、大量発生で問題になっているエチゼンクラゲについては、実は日本では過去に塩クラゲ加工の歴史はなかった、というのも眼からクラゲであった。昔は来なかったんだよな。はい、江戸博物書の注であっても、やっぱり温暖化の問題は避けて通れませんね。

 更に追伸。「唐水母」という名称は、今の異名としては残っていない。ところが「唐海月」という語ならば、井原西鶴の「好色一代女」卷五の冒頭「石垣戀崩」に『おそらく我等百十九軒の茶屋いづれへまゐつても。蜆やなど吸物唐海月ばかりで酒飲だ事はない。』と出て来る(近世物は苦手なので注釈書が手元にないのでこれまでである)。しかし、これはもしかするともともとは中国製の加工食品としての塩クラゲを言う言葉ではなかったか。その製法が江戸期に日本に伝わり、肥前で作られたものにこの呼称が残ったとは言えまいか(あ、さればそのルーツはまさにエチゼンクラゲ製であったかも知れないぞ)。

 最後にちゃんと名前を挙げよう。鉢クラゲ綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 。種名の頭は「ヒ」! 「ビ」じゃあない!

   *

くどいが、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta とヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum はご覧の通り、違う種である。八年も前の自分の叙述に、不覚にも思わず読み入ってしまった。……

・「華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す」以上述べた通り、中国からの舶来の加工クラゲの原材料は本邦では対象としなかった(或いは漂ってこなかった)エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai のものである可能性が大きく、後者はビゼンクラゲ Rhopilema esculenta・ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum・スナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)であったということになる。味わいの違いはそうした素材種や個体の大小の違い(無論、処理方法の違いもあるであろうが)によるものであったとも言えよう。なお、現行の加工過程は「国立研究開発法人 水産総合研究センター 中央水産研究所」公式サイト内の『水産加工品のいろいろ「塩蔵クラゲ」』がよい。ここでは石灰の使用が記載されていないが、他サイトを見るとやはり使用しているようである。またサイト「くらげ普及協会」もなかなかに必見である。

・「石灰・礬水」「礬水」は「どうさ」と当て字読みし、膠(ニカワ)とミョウバンを水に溶かした液体のことを指す。一般には和紙や絹地の表面に薄く引いて、墨や絵具等が滲むのを防ぐ効果を持つ顔料である。しかし、ここでは単に明礬(ミョウバン)=硫酸アルミニウムカリウム12水和物AlK(SO4)212H2Oの水溶液を指していると考えられる。言うまでもないが「石灰」は消石灰=水酸化カルシウムCa(OH)2のことである。

・「一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團を作し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り」ここまで総てがこの「水海月(みづくらげ)」なるものの、一貫した記載であるとしか読めないのであるが、これはどうもミズクラゲの単種を指しているとはどうしても読めない。まず漁師が「必ず、毒、有る」と確信犯で述べている点である。これは漁師の言としてはやや奇異である。但し、ミズクラゲの刺胞毒は極めて弱いことで知られるが、個人差があってミズクラゲでも刺される人はおり、体質によっては結構な症状を呈する。私の高校時代の友人にもミズクラゲで痛みを感じ、実際に炎症を起こす者がいた。例えば「三重県農林水産部水産資源課」公式サイト内の「ミズクラゲに刺される ミズクラゲを侮るなかれ」を参照されたい(そもそも真正のクラゲ類では、まず刺胞毒が全くないものといのは極めて稀で殆んどないとと言ってもよい。本邦産のものは基本、如何なるクラゲも刺胞には安易に触らぬ神にの類いではある。但し、傘なら安全と言う訳でもない。海外のケースであるが、TV番組で傘だけを持ったレポーターが数日後に激しい炎症を起こした事例を知っている)。話を戻すと、私は当時の漁師にとって「必ず毒がある」としてまず採らないというのは強毒のアカクラゲやカツオノエボシなどで(通称言うところの電気クラゲであるアンドンクラゲなども強い刺胞毒を持つが、この手のクラゲは獲るも獲らないも、小さ過ぎて初めから漁獲対象足り得ないから挙げない)、ミズクラゲに対して、このような忌避表現をするとは思えないというのが一。今一つは、「亦、絲絮を曳きて、魚鰕、之に附く」という部分で、ミズクラゲにも幼魚や甲殻類がいることはあるものの、「絲絮を曳きて」と表現するのは寧ろ、やはりアカクラゲやカツオノエボシで、それらには前に述べたようにエボシダイの幼魚や小海老と言うべきウミノミ類のような寄生や片利共生を容易に現認出来るからである。

・「古人、艶情の歌を詠じて、海月、骨に遇ふの語、有り」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の巻二十七雑九に、

 

  我が戀は浦の月をぞ待ちわたるくらげのほねに逢ふ夜ありやと  仲正

 

とあるのを指すものであろう(寺島は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で本歌をやや手を加えて引いている)。源仲正(仲政とも書く)は平安末期の武士で、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。訳しておくと、

   *

やぶちゃん訳:私の恋は、浦に上る遅い月をひたすら待ち続けるようなもの……意地悪くも、その上ぼる月が水面に映ったかと見紛う海月……その海月の骨に出逢う夜が――世が――時が――やって来るのであろうか? いや、それは海月に骨がないように、私の恋は、決して成就することなどないに違いない……

   *

といった感じである。

・「誕妄」「妄誕」で「ばうたん(ぼうたん)」の方が一般的か。言うことに根拠のないこと、また、その話の意。「妄」は「まう(もう)」と読んでもよい。

・「鮾る」魚肉などが腐る。

・「然れども微温か。未だ詳らかならず」漢方で軽く温める効果を持つものを「微温」と称するが、腐ると腥い臭気を帯びるものは微温ではなく微寒の効果を持つはずなのに、という人見の疑問か? ここ、文脈の繋がり方がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。訳では分からないながらに逐語訳して誤魔化した。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注では、この割注全体は『鹹平。無毒。あるいは鮾敗(くさ)ると腥臭を発生するともいうが、微温かどうかはは未だ詳らかでない』と訳しておられるので、ここは「然れども微温なるかは未だ詳らかならず」で、私の認識とは逆に――腐ると腥(なまぐさ)い臭いを発するという以上、微温の性質であるということであるらしいが、本当にそうかどうかはいまだよく分からない――という意味である。その方が叙述としては自然に感じられるので、私の訳もそのように今回改変した。

・「失血」不詳。漢方用語にはない。以下の並列する「帶下」から考えると貧血ではバランスが悪く、生殖器からの異常な不正出血を指すものか。

・「帶下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

・「河豚の毒を伏す」先の海鼠の記載にも出るが、不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳(読み易さを考えて適宜改行した。一部、前後の文脈との齟齬のある箇所は翻案している。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ずる。〕

 釋名 水母〔小海老がついてきてこれに従う。子が母に從うが如くである。故に「水母」と言う。源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」に言う、『「食経」に、「海月、一名、水母。形(かたち)は月の海中にあるかの如くである。故に以って、かく名づけている。」と。』とある。

 およそ、古えより「海月」を以って名づくる海産動物は、これ、随分とあって、また相応に古いものである。

 形と色を以ってこれに名づけるとするならば、如何にも「水母」というのは相応しくない。そもそも円形を成していると言っても、その形は正円ではなく歪(いびつ)である。さらにその色もまた多種多様で、月の如き清澄な銀色を呈していないものも多い。但し、一種に「水海月(みずくらげ)」という種がおり、その色は確かに白く、形も円(まど)かであるから、これを以って「海月」と称しているものか。陳蔵器や李時珍はともに、二枚貝の「江瑤(こうよう)」を以って「海月」と同定している。これならば形・色ともに、よく当たっている。〕

 集觧 形は水垢(みずあか)が凝結して成った如きもので、渾然一体となった体を持ち、至って静かな生態を持つ。波に随い、潮を追って、水上に浮かんでいる。その色は紅紫色を呈する。眼や口はなく、手足もない。腹の下に一物があって、これは糸の如く、綿毛の如きものであって、それを長く曳いている。魚や小海老が、この垂下物につき随っており、その海月が摂餌の滓(かす)として垂らす涎沫(よだれ)を吸っては、またそれを餌としている。大きなものでは盥(たらい)ほどもあり、小さなものでは小鉢ほどといった感じである。その最も大きく厚い部分が、所謂、「海月の頭(あたま)」、傘となるのである。

 その味わいは、淡くして、やや海の香を香らせて、良きものである。

 東日本では、いまだこの類を見ない。西日本の海に、最も多くこれが認められる。

 故に煎茶の渣(かす)や柴を燃やした残りの灰(はい)に塩水(えんすい)を混ぜて、その液の中に、この生の海月を塩漬けにして、以って東に送って、魚の刺身の友としている。

 或いは生姜酢や熬(い)り酒を加えて、以ってこれを珍味として出だす。

 一種に「唐海月(からくらげ)」と言うものがいる。この色は黄白色を呈し、味わいは頗る淡いもので、これを噛むと、きゅっきゅっという如何にも絶妙な音を立てる。これもまた先と同様に生姜酢や熬酒を注いで、以ってこれを珍味として出だす。これは、中華より肥前の長崎に伝送されて齎(もたら)される舶来の品である。本朝に於いてもまた、これと同じものを製する。

 その方法は、まず、石灰と明礬(みょうばん)の水溶液に海月を浸し、以ってその血や体液を取り去る。すると色が変じて白色となる。これをさらに水で洗って汚れを細かに取り除く。特に万一、この折りに有毒な石灰の除去が不完全であると、食した者に害が及ぶ。

 一種、「水海月(みずくらげ)」というものがいる。色は白くして団塊状をなして、謂わば、水泡が凝結したかの如き形態であり、また、下に糸や綿毛様のものを長々と曳いていて、そこに小魚や小海老が好んで住みついている。潮に随って飛ぶように漂う。漁師はこれを獲らない。何故と謂うに、「必ず、毒があるから。」とのこと。また、毒がないものもいるけれども、その味わいは、これ、良くない、と。この「水海月」は東日本にもまた多くいる。

 古人に、艶情の思いを歌に詠じて、「海月、骨に遇う。」という表現をする。これは、無論、根拠のない戯言(たわごと)というべきものであろう。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒はない。〔或いは言う、『塩海月は腐りかけた時には、すなわち、腥(なまぐさ)い臭いをずる。』と。しかし、本当に「微温」の性質を持つ食材であるかどうかについては、いまだ私にはよく分からない。〕 主治 婦人の失血及び帯下(こしけ)の症状には、これを食して良い効果がある。或いは言う、河豚(ふぐ)の毒をよく制する、とも。
 
 
 

◆華和異同

□原文

   海月

曰水母曰※或名樗蒲魚又名石鏡或謂華之海月

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]

者江瑤也然崔氏食經云海月一名水母貌似月在

海中然則華人以水母亦爲海月惟疑崔氏所言者

以色白者則指水海月而言乎海月色紫不似月之

色若以團容而言則可也南産志曰色正白濛濛如

沫者今之水海月也乎

 

□やぶちゃんの書き下し文

   海月

曰く、水母(すいぼ)。曰く、※(たく)[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは樗蒲魚(ちよぼぎよ)と名づく。又、石鏡(せききやう)と名づく。或いは華の海月と謂ふ者は江瑤(かうえう)なり。然れども崔氏が「食經」に云く、『海月。一名、水母。貌(かたち)、月に似て、海中に在り。』と。然らば則ち、華人、水母を以つても亦、海月と爲す。惟だ、疑ふ、崔氏が言ふ所は、色、白きを以つてする時は、則ち水海月(みづくらげ)を指して、言ふか。海月、色、紫、月の色に似ず。若し、團容(だんよう)を以つて言ふ時は、則ち可なり。「南産志」に曰く、色、正に白にして濛濛(もうもう)として沫(あは)のごときとは、今の水海月ならんや。

 

□やぶちゃん注

・「樗蒲魚」「樗蒲」は「かりうち」とも訓じ、中国から伝来した博打(ばくち)の一種を言う。「かり」と呼ばれる楕円形の平たい四枚の木片を采(さい)とし、その一面を白、他面を黒く塗って、二つの采の黒面に牛、他の二つの采の白面に雉子を描き、投げて出た面の組み合わせで勝負を決するものを言うから、恐らくはその采の形状をクラゲに擬えたものであろう。

・「江瑤」本文の私の同注を参照されたいが、ここで人見はまさにこれをクラゲではない、恐らくは斧足類のタイラギやカガミガイとして理解しようとしているように私には読める。

・「水海月」ここでは、ここに限ってなら、これは現行のミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita と採ることが可能である。

・「海月、色、紫」人見はクラゲの一般的な色彩を「紫」と言っている。鉢虫綱根口クラゲ目ムラサキクラゲ Thysanostoma thysanura は一般には黄褐色(実際には目につくクラゲ類ではこの色のクラゲ類が最も多いように私には思われる)であるが、時に非常に美しい紫色を呈する個体もいる。他の種でも、色彩の変異がしばしば見られ、当時の紫という色範囲が青味の強いものも含むから、ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali まで含まれると考えれば、強ち、おかしな認識とは言えないように思われる。

 

□やぶちゃん現代語訳

   海月

「水母(すいぼ)」と言う。「※(たく)」とも言う[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは、「樗蒲魚(ちょぼぎょ)」と名づける。また、「石鏡(せききょう)」と名づける。或いは、中国に於いて「海月」と言った場合、その物は二枚貝の一種である「江瑤(こうよう)」を指す、とする。しかし、崔禹錫氏の「食経」には、『海月。一名は水母。その形は月に似ており、海中に棲息している。』と述べてある。とするならば、中国人は本邦で言う「水母(くらげ)」を以ってしても、二枚貝の「江瑤」を「海月」というのと別にやはり、「海月」と称しているのである。但し、疑問に思うことは、ある。崔氏が謂うところの生物は、色の白いものを以ってかく称しているということで、則ちこれは、今言うところの「水海月(みずくらげ)」を指して言っているのだろうか、という疑義なのである。何となれば現在、私の知れる一般的な海月(くらげ)の色は基本、紫色であって、白銀の月の色には似ていないからである。但し、もしも海月(くらげ)の頭のその丸い形を以ってして海の「月」と称しているのであるとするならば、それはそれで正しいとも言える。さすれば、「閩書南産志」に曰く、『色は真っ白で、その形は何かぼんやりとしていてはっきりと捉えることが出来ぬ、謂わば水面に浮いた泡のような』とあるのも、現在の「水海月(みずくらげ)」のことを指して言っているのであろうか。

2015/04/20

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」を受けて作成したものである。「老海鼠」は「海鼠」の条の次にあり、ホヤはナマコに劣らず、私の偏愛の対象だからでもある。

 「本朝食鑑」については上記リンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「老海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「老海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。「殻」「帯」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「状」など)は正字で採った。

 「本朝食鑑」は東洋文庫で訳注が出ているが、私は現在所持しないので、語注と現代語訳は全くの我流の産物である。真に学術的なものを求めておられる方は、そちらをお薦めする。何箇所かで意味が通じない箇所にぶつかったため、恣意的な翻案もしてある。大方の御批判を俟つものである。

 なお、この記載はおかしな部分が異様に多い。人見御大には失礼乍ら、注では相当に指弾批難しているので、悪しからず。また、申し上げよう。私の読解は好事家の恣意的なそれではあるが、相応に本気だ。――今朝、アカデミックな東洋文庫の訳注本を全巻注文しておいた。私の拙考や訳が下らないものかどうか? その時は私の記載はそのままに補足を致したく存ずる。……さても……鬼が出るか? 蛇が出るか?……お楽しみあれ――♪ふふふ♪……では、それまでまた……【二〇一五年四月二十日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したが、披見したところ、手を加える必要性を認めなかったので、これをそのまま私の定稿とする(ちょっと残念)。但し、同書(巻四三三〇~三三一頁)にある注四は恐らく平安から近世に至るまでのホヤの記載の蒐録として現在最も詳しい記載と拝察する。必読である。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

老海鼠

 釋名保夜〔此俗訓古亦然〕

 集觧狀如言海鼠之老變而一箇肉片色紫赤外

 雖有如※鼇之殻者而粘石脱去肉味類海鼠而

[やぶちゃん字注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 硬或似鰒耳水母而極堅應節而生花如披人之

 指掌也江淹郭璞同言石蜐乎今芝品川間有之

 相豆總之海濵亦希采海西最多醃而送傳之古

 者若狹作交鮨貢之而不知造法内膳部有參河

 國保夜一斛今未聽國貢也

 氣味鹹冷無毒主治利小水止婦人帯下

 

□訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「間(マヽ)」とあるのみである。また、「今」(いま)には「マ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

老海鼠

 釋名 保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕

 集觧 狀(かた)ち、海鼠(なまこ)の老變(らうへん)と言ふがごとくにして、一箇の肉片。色、紫赤。外、※鼇(けいがう)のごとき殻有ると雖も、石に粘(ねん)じて脱け去る。肉味、海鼠(なまこ)に類して硬し。或いは鰒(あはび)の耳・水母(くらげ)に似て、極めて堅し。節に應じて花を生ず。人の指掌(ししやう)を披(ひら)くがごとし。江淹(かうえん)・郭璞(かくはく)、同じく言ふ、「石蜐(せきけふ)」か。今、芝・品川、間(まま)之れ有り。相(さう)・豆(づ)・總(さう)の海濵にも亦、希れに采(と)る。海西、最も多し。醃(しほづけ)して之を送り傳ふ。古へは若狹、交鮨(まぜずし)と作(な)して之を貢す。造法を知らず。「内膳部」に『參河(みかは)の國、保夜一斛(ひとさか)。』と有り。今、未だ國貢(こくこう)を聽かざるなり。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 氣味 鹹冷(かんれい)。毒、無し。主治 小水を利(り)し、婦人の帯下(こしけ)を止(と)む。

 

□やぶちゃん語注(既に私がものした、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠」

「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」

「海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載」

「海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載」

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ」

などでさんざん注を施してきたので、寧ろ、それらを参考がてら、お読みに戴けるならば、恩幸、これに過ぎたるはない。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「老海鼠」食用としての記載であるから、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓(しゅうさい)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤHalocynthia roretzi 及びアカボヤHalocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。本書より後の寺島良安の「和漢三才図会」では、巻第四十七の「介貝部」に「老海鼠」を入れており(これは現代の一部の魚屋が本種を「ホヤガイ」と呼んで貝類と思い込んでいるのと同じである)、そこでは『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか』と記している。因みに、人見はこの「老海鼠」を棘皮動物の「海鼠」と条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の魚類「海馬」(タツノオトシゴ)の間に挟み入れている(「本邦食鑑」の配列には強い細かな分類意識は働いていないように私は感じられる)。人見も「狀ち、海鼠の老變と言ふがごとくにして」と言っている辺り、海鼠と近縁と考えるにはやや躊躇があったようにも感じられはするが、寺島ほど強い批判的雰囲気は感じられない。

・「保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕」しばしば俗にホヤには強壮効果があって「夜に保つ」ことからこう書くという説があるが、「保夜」は「ホヤ」という生物呼称が成立して以降に生まれた当て字であって誤りである。「ほや」という呼称は平安以前の非常に時代に発生しており、現在はその語源を解き明かすことは出来ない。

・「※鼇」(「※」=(上)「觧」+(下)「虫」)この「※」は「蟹」の異体字と判断する。「鼇」は大亀で、現行では大きなウミガメ(海亀)やスッポン(鼈)の類を指す。確かにホヤの「殻」(皮革質の被嚢)は蟹の甲羅やスッポン及びウミガメ類でも皮骨と鱗から成る比較的軟らかいオサガメの類の甲羅が発達しないタイプのそれによく似ているとは言えると思う。

・「節に應じて花を生ず。人の指掌を披くがごとし」問題の箇所である。この二箇所はどう考えてもホヤの生態、少なくとも食用にするマボヤやアカボヤのそれではあり得ない叙述である。百歩譲って、着底したホヤが成体となることを「花」と言い、被嚢の入水管・出水管の二本と皮革状の表面に発生する疣状或いは突起状のもの三つを合わせて「人の」「掌」(てのひら)や五本の「指」に譬えたのだと措定してみても、それを自然な表現であるとする人はまずいないはずである。あれは「花」には見えないし、五本の指のある人の掌には決して見えない。これがホヤだというのなら、その言っている本人は、実際の海中での生体としてのホヤは勿論、採れたての捌かないホヤを実見したことがない人間による誤った記載としか思われないのである。まず、この「人の指掌を披くがごとし」というのは、「披く」が明白に「花」を受けているから、前の「節に應じて花を生ず」ような運動に対する明白な補足比喩である。しかも後の「石蜐」の注で示すように、これは郭璞の「江賦」の中にある「石砝」(石蜐に同じい)の叙述である『石砝應節而揚葩』という表現を無批判に安易に自分の言葉として使ってしまった誤り(と私は断言する)なのであって、到底、人見が生体のホヤ実見していたとは思えないのである。しかもしかし、ここで一旦、立ち止まってよく見ると、これは、

――「節」(時。季節とは限らない。満潮時・干潮時も立派な「節」である)に「應じ」るかのように、「人の指掌」のようなものが窄(すぼ)んだ状態から、ぱっと「掌」を「披」いたかのように、「花を生」じたかのように見える、それは時によって人の「指」や閉じた「掌」のように見え、時によってそこから「花」に見紛うようなものが「掌」をぱっと開くように出て来る――

という運動を見せる生物体を描写していると読むのが自然であるということが分かってくる。こう書けば、少しでも海岸動物を知っておられる方は、これがホヤなどではなく、

甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

の形状にぴったり一致していることがお分かり戴けるはずである。そうして何より、「石蜐」は現代中国語でまさしくカメノテを指していることがはっきりと分かるのである(例えば中文サイトのここここをご覧あれ)。

・「殻有ると雖も、石に粘じて脱け去る」この叙述もおかしい。生体を水中で鋭利な道具を以って直接切り裂くのでもなければ、如何に乱暴な漁獲法を持ってしても、被嚢は容易には抜け落ちることはない。これを見ても人見はホヤ漁はおろかホヤの無傷の生体個体を実見したことがないように思われてならないのである。

・「肉味、海鼠に類して硬し。或いは鰒の耳・水母に似て、極めて堅し」この描写も、また大いに矛盾する。食用にするホヤの筋体部は硬くなく、寧ろぐにゃぐにゃしている。海鼠のそれに比すならこれは遙かに軟らかいし、凡そアワビの歩足体の外套膜の胴辺縁のように硬いのは筋体ではなく被嚢である。クラゲを出しているのは食用に処理されたクラゲの硬さを言っていると読めるが、ホヤのコリコリする硬い可食部は被嚢との入・出水口の接合部分のぐらいしかない。しかもそれは極めてそれは僅かな部位である。即ち、この人見が異様に硬いと言っているのは、どう考えても食べられない被嚢(皮革)部分を指しているである。これも人見がホヤの実体に極めて疎いことが知れ、彼は実はホヤの可食部をよく分かっていないのではないか、という強い疑惑を抱かざるを得ない奇妙な叙述なのである。

・「江淹」(四四四年~五〇五年)は六朝時代の文学者。河南省考城 の生まれ。字は文通。宋・斉・梁の三代に仕え、梁の時、金紫光禄大夫に至った。貧困の中で勉学に励み、若くして文章で名を挙げた。詩文に清冽な風格をもつが、特に「恨賦」「別賦」は抽象的な感情を題材として精緻な描写のうちに深い情緒を込めた、六朝の賦の一方の代表作とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「江淹」によれば、南宋の詩人厳羽の「滄浪詩話」には「擬古は惟(こ)れ江文通、最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康樂に擬すれば康樂に似、左思に擬すれば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。獨り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」とあるとする。因みに「康樂」は東晋・南朝宋の詩人謝霊運のこと、「左思」は西晋の知られた文学者である(下線はやぶちゃん)。

・「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「石蜐」現代仮名遣「せききょう」(「せきこう」とも読める)。江淹のそれは彼の「石蜐賦序」にある『海人有食石蜐、一名紫𧄤、蚌蛤類也』に基づき、郭璞のそれは、彼の博物的な長江の生物層を詠じた「江賦」の中にある『石砝應節而揚葩』とある「石砝」を指しており、先の「節に應じて花を生ず」という人見の記述も、実はそれに拠っていることが分かる(以上の原文引用は中文サイトの検索による複数の情報から最も信頼出来ると判断したものから引用した)。前注で解き明かした通り、これは――生活史の一部にあって高等な脊索を持った尾索動物のホヤ――とは全く以って無縁で、似ても似つかぬ、逆立ちしたまま固着して動かない(そこは偶然にもホヤの生活史と一致するが)エビ――蔓脚類のフジツボの仲間であるカメノテのこと――なのである。

・「芝」現在の東京都港区芝。浜松町駅の南西、東京タワーの南東に位置し、江戸時代には付近一帯の海岸は「芝浜」と呼ばれ、その中に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれる魚市場があった。江戸前の小魚や魚介類などが豊富に水揚げされ、「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、江戸庶民に賞味され、浅草海苔の生産地としても知られたが、江戸末期以降には漁獲量も減り、周辺の湾岸も徐々に埋め立てられて昭和四五(一九七〇)年には雑魚場のあった海岸も完全に埋めたてられ、その跡は本芝公園となった(この情報は芝四丁目の町内会「本芝町会」公式サイトの「町会の概要」の記載に基づいたものである)。

・「海西、最も多し」不審。皆さんもお分かりのように、ホヤ、特に最も食用に供されるマボヤは海西どころか、東北や北海道に多く、特に牡鹿半島・男鹿半島以北に多い。人見は北前船で回って来たホヤの塩辛が、西で獲れてそこで処理されてもたらされたものと勘違いしているのではあるまいか? とすれば、彼は少なくともホヤに関しては生態どころか、流通経路にも暗かったことになる。あんまり考えたくないが、そう思わないとこの悉くおかしな叙述は私には理解出来ないのである。

・「醃(しほづけ)」音は「エン」で、広く魚・肉・卵・野菜・果物などを塩・砂糖・味噌・油などで漬けることを言うが、ここは塩漬けで訓じた。

・「古へは若狹、交鮨と作して之を貢す」「交鮨」は「まぜずし」と訓じておいたが、これは一般的には見かけない語ではある。ところが「古へは若狹」が大きなヒントなのだ。「福井県文書館」公式サイト内の「『福井県史』通史編1 原始・古代」の「第四章 律令制下の若越 第二節 人びとのくらしと税 三 人びとのくらし」の「漁村のくらし」の中に、「延喜式 主計部 上」に『若狭からの調品目に貽貝保夜交鮨というのがある』とし、前文で紹介されてある若狭国遠敷(のちの大飯)郡青郷(里)に関わる木簡の『貽貝富也交作』や『貽貝富也并作』という記載について、『おそらく木簡にみえる交作・并作は交鮨のことであろう。そうであるならこれは、貽貝と海鞘とを混ぜこんで作った鮨ということになろう』と記されてあるのである。そうしてこれはほぼ間違いなく「いすし」、「飯寿司」「飯鮨」、本邦では非常に古くからあった飯と食材を「交」ぜて乳酸発酵させて作る「なれずし」のことを指しているのである。そうしてそれは平安時代の「土佐日記」や「枕草子」にさえ出ることは「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」で既に述べたところである。

・「内膳部」「延喜式」のそれ。宮内省の内膳司(ないぜんし:皇室・朝廷の食膳を管理した役所。)に関するパート。

・「一斛」一石。「斛」は古代の体積の単位で、一斛は十斗で約百八十リットル。米換算なら百四十キログラムほど。

・「帯下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

老海鼠(ほや)

 釋名 保夜(ほや)〔これは俗訓。古えもまた、この通り。〕

 集觧 形は海鼠(なまこ)の老いて変じたとでも言ふようなものであって、一箇の肉片である。色は赤紫(あかむらさき)。肉の他に、蟹や鼈(スッポン)の如き殻を持ってはいるがしかし、この殻は石に強く附着していて、漁(と)った際に抜け去る。肉の味は、海鼠(なまこ)に類しており、硬い。或いは鮑(あわび)の耳や食用に加工された水母(くらげ)に似て、極めて堅い。

 この生物はまた、時節に応じて花のようなものを体表に生ずる。それは、あたかも人が掌の指をぱっと開くような感じである。

 江淹(こうえん)や郭璞(かくはく)の二人が、孰れも「石蜐(せきこう)」と呼んでいるものは、実はこの老海鼠(ほや)なのか?

 今、武蔵の芝・品川に於いて、まま、これを獲る。相模国・伊豆国・上総国や下総国の海浜にてもまた、稀(まれ)にこれを獲る。

 対して西日本では、これは最も多く漁獲され、塩漬けにして各地へ、その珍味が送られ齎(もたら)されるのである。

 古えは若狭に於いて馴(な)れ鮨(ずし)になして、これを貢納していた。しかし、その造法は詳らかでない。「延喜式 内膳部」にも『三河の国、保夜一斛(ひとさか)。』とある。しかし今は、この古えの「老海鼠の馴れ鮨」なるものが国へ貢納されているということは全く以って聴かない。

 気味 鹹冷(かんれい)。毒はない。主治 小水(しょうすい)の出をよくし、婦人の帯下(こしけ)を抑える。
 
 

◆華和異同

□原文

  老海鼠

石蜐又有紫𧉧〔音却〕紫〔音枵〕龜脚之名南産志曰石𧉧

福曰黄※1泉曰仙人掌莆曰佛爪春而發華故江賦

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]

有石𧉧應節而揚葩之語而謝朓詩亦云紫※2曄春

[やぶちゃん字注:「※2=(くさかんむり)+「噐」。]

流今按春而發華者春月肉吐在外秋冬則否

 

□やぶちゃんの書き下し文

  老海鼠

石蜐(せきけう)。又、紫𧉧しけう)〔音、劫(けう)。〕・紫(しけう)〔音、枵(けう)。〕・龜脚(ききやく)の名、有り。「南産志」に曰く、『石𧉧福に「黄※1」と曰ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]。泉に「仙人掌」と曰ふ。莆(ほ)に「佛爪」と曰ふ。春にして華を發(ひら)く。故に「江の賦」、「石𧉧、節に應じて葩(はな)を揚ぐ」の語、有りて、謝朓(しやてう)が詩にも亦、云く、「紫※2、春流に曄(かゝや)く」と。』と[やぶちゃん字注:「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]今、按ずるに春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否(しから)ず。

 

□やぶちゃん注

・「龜脚」これだけは本邦の「ホヤ」ではなくて「カメノテ」にしっくりくることは言を俟たぬ。但し、その場合もミョウガガイやエボシガイなどもこう表現する可能性が高く、既に本文の「石蜐」の注でさんざんっぱら、いちゃもん考証をしたように他にも全く異なる種を指している可能性があり、必ずしも完全に限定同定は出来ないので注意が必要である。

・「南産志」「閩書南産志」。既注。

・「福」福州。現在の福建省の北の臨海部にある省都。閩江(びんこう)下流北岸にある港湾都市で木材・茶の集散地として知られる。

・「黄※1」(「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。)音不詳。「クワウイン(コウイン)」か?

・「泉」泉州。福建省の台湾海峡に面する港湾都市。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じていた。マルコ=ポーロが「ザイトン」の名でヨーロッパに紹介している。

・「莆」現在の福建省莆田(プーテン)県。古くは興化(現在の江蘇省興化市とは別)とも呼ばれ、莆陽(プーヤン)・莆仙(プーシェン)とも呼ばれる。北は福州と隣接、南は泉州と隣接する。西には戴雲山脈があり、東南は台湾海峡に面している。世界的にも稀な三つの河口を有し、臨海部には百五十に及ぶ島嶼群がある。

・「江の賦」既注の「文選」所収の東晉の郭璞の手になる「江賦」。

・「謝朓が詩」謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)は南朝の斉の詩人。陽夏(現在の河南省)の生まれ。字(あさな)は玄暉(げんき)。宣城の太守であったので謝宣城と呼ばれ、詩人として知られる同族の謝霊運(しゃれいうん 三八五年~四三三年:六朝時代の宋の詩人。字は宣明。)に対して「小謝」とも称された。但し、ここで人見が引く「詩」とは彼の詩ではなく、以下に見るように、まさにその謝霊運の方の詩である。

・「紫※2、春流に曄(かゝや)く」(「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。)前注で示した通り、これは謝朓の詩ではなく、謝霊運の「郡東山望溟海」(郡の東山にて溟海を望む)の一節である。個人の中国史サイト「枕流亭」の掲示板のこちらの過去ログの中にある殷景仁氏の投稿(投稿日三月五日(金)13236秒のもの)によれば(リンク先には原詩が総て載る)、

   *

白花皜陽林 白花 陽林に皜(て)り

曄春流 (しこう) 春流に曄(かかや)く

   *

で、当該部分を、

   《引用開始》

花の白さは南の林の中で映え、よろいぐさの紫色は春の川の流れの中で一際明るく輝く。

   《引用終了》

と訳しておられ、この「紫をセリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica とされている。ロケーションからも(題名に海が出るが、実はこの詩には海の景観は読み込まれていない。リンク先の殷景仁氏の解説を必参照のこと)、この「紫」は「ホヤ」でも「カメノテ」でもないのである。これは全くの人見の見当違いなのである。因みに、これについて東洋文庫の島田氏の訳注が一切、問題にされていないのは、頗る不審と言わざるを得ない。

・「春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否ず」意味不明。ホヤやカメノテの習性にこのような現象は見られない。私がさんざん本文で考証したように、人見は中国の本草書の「石蜐」を安易に一律に「老海鼠」(ホヤ)と同定してしまった結果、自分でも何を言っているのか分からないような、苦しい説明に堕したものと私は判断するものである(そうして言わせてもらうなら、人見はホヤの生態を全く以ってご存じないのに、分かったように書いている事実がここでもはっきりと見てとれるということである)。序でに言わせて頂くと、島田氏の訳(『春に華を発(ひら)くとみえるのは、春月に肉を外に吐き出しているんでおあって、秋・冬にはそんなことはない。』)も失礼乍ら、私には何だか半可通なものである。誤解なら誤解なりに納得出来る訳を心掛けるべきだと、若輩者乍ら、私は思うのである。そういう訳としたつもりである。

 

□やぶちゃん現代語訳

  老海鼠

石蜐(せききょう)。又、紫𧉧(しきょう)〔音、劫(きょう)。〕・紫(しきょう)〔音、枵(きょう)。〕・龜脚(ききゃく)の名がある。「閩書南産志」に曰く、『石𧉧(せききょう)は福州に於いては「黄※1(きいん)」と言い、泉州に於いては「仙人掌」と言い、莆(ほ)州に於いては「仏爪(ぶっそう)」と言う。春になると花を開いたように見える。故に郭璞(かくはく)の「江(こう)の賦」に、「石𧉧、節に応じて葩(はな)を揚ぐ」の語があり、謝朓(しゃちょう)の詩にもまた、「紫※2(しこう)、春流に曄(かかや)く」とある。』と記す。今、按ずるに、春になって華を開くという謂いは、春の時節には、この老海鼠(ほや)がその肉を外にべろりと吐きだしている状態を表現したものである。老海鼠は確かに、秋や冬には、そのような現象を見せない。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]

2015/04/19

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載 《2015年4月27日改訂版に差替え》

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載

 

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に本「本朝食鑑」の「海鼠」内の「海鼠腸」が引用されていたのを受けて作成したものである。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁以降の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。その他の異体字(「黒」「児」など)は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採った。

 「本朝食鑑」には一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本の労作があるが、当初、このテクスト訳注は二〇一五年四月十九日に初稿を公開した際には、私は「本朝食鑑」を所持していなかった。そのため、最初のそれは全くの我流の産物であったのだが、その公開から八日後にたまたま同書を入手し、それと校合してみると私の読解や注に幾つかの問題点を見出した。実は当初は、私の最初の公開分に削除線と追加を施すことで対応しようと不遜にも考えていたが、この「海鼠」に関しては、島田氏の訳注を披見する以前に、さらに自分の中で改稿したい記載不備が幾つか発生していたため、今回、ここでは思い切って全面改稿することとした。但し、改稿の追加分の内で、入手した東洋文庫の島田氏の訳注から少しでも恩恵を被った箇所については、それと分かるように逐一洩らさず『島田氏注に』『島田氏の訳では』などと明記しておいた。従ってそれ以外は私の初稿のオリジナルなものとお考え戴いてよろしい。【二〇一五年四月二十八日改稿】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十一日追記】

 

□原文

 

海鼠〔訓奈麻古〕

 釋名土肉〔郭璞江賦土肉石華文選註曰土肉正

 黒如小児臂大長五寸中有腹無口目

 有三十足故世人

 以似海鼠爲別名〕

 集觧江海處處有之江東最多尾之和田參之柵

 嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多采就中

 小豆嶋最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後

 两口長五六寸而圓肥其色蒼黒或帶黄赤背圓

 腹平背多※1※2而軟在两脇者若足而蠢跂來徃

[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]

 腹皮青碧如小※1※2而軟肉味略類鰒魚而不甘

 極冷潔淡美腹内有三條之膓色白味不佳此物

 殽品中之最佳者也本朝有海鼠者尚矣古事記

 曰諸魚奉仕白之中海鼠不白爾天宇受賣命謂

 海鼠曰此口乎不荅口而以細小刀拆其口故於

 今海鼠口拆也一種有長二三寸腹内多沙味亦

 差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黄

 腸如琥珀淹之爲醬味香美不可言爲諸醢中之

 第一也事詳于後其熬而乾者亦見于後今庖人

 用生鮮海鼠混灰砂入籃而篩之或抹白鹽入擂

 盆中以杵旋磨則久而凝堅其味鮮脆甚美呼稱

 振鼠也

 肉氣味鹹寒無毒〔畏稲草稲糠灰砂及鹽伏河豚毒〕主治滋腎凉

 血烏髮固骨消下焦之邪火袪上焦之積熱多食

 則腸胃冷濕易洩患熱痢者宜少食或療頭上白

 禿及凍瘡

 熬海鼠〔或熬作煎俱訓伊利古〕釋名海參〔李東垣食物曰功

 擅補益故名之乎

 世人間有稱之者

 本朝式稱熬海鼠〕

 集觧造之有法用鮮生大海鼠去沙腸後数百枚

 入空鍋以活火熬之則鹹汁自出而焦黒燥硬取

 出候冷懸列于两小柱一柱必列十枚呼號串海

 鼠訓久志古大者懸藤蔓今江東之海濵及越後

 之産若斯或海西小豆嶋之産最大而味亦美也

 自薩州筑州豊之前後而出者極小煮之則大也

 作熬之海鼠以過六七寸者其小者不隹大抵乾

 曝作串作藤用之先水煮稍久則彌肥大而軟味

 亦甘美或合稲草米糠之類而煮熟亦軟或埋土

 及砂一宿取出洗浄而煮熟亦可也自古用之者

 久矣本朝式神祇部有熬海鼠二斤主計部志摩

 若狹能登隱岐筑前肥之前後州貢之今亦上下

 賞美之

 氣味鹹微甘平無毒主治滋補氣血益五臓六腑

 去三焦火熱同鴨肉烹熟食之主勞怯虛損諸疾

 同猪肉煮食治肺虛欬嗽〔此據李杲食物本草〕殺腹中之悪

 蟲然治小児疳疾

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

 海鼠腸〔訓古乃和多〕集觧或稱俵子造腸醬法先取鮮

 腸用潮水至清者洗浄數十次滌去沙及穢汁和

 白鹽攪勻收之以純黄有光如琥珀者爲上品以

 黄中黒白相交者爲下品今以三色相交者向日

 影用箆箸頻攪之則盡變爲黄或腸一升入雞子

 黄汁一箇用箆箸攪勻之亦盡爲黄味亦稍美一

 種腸中有色赤黄如糊者號曰鼠子不爲珍焉凡

 海鼠古者能登國貢海鼠腸一石主計部有腸十

 五斤今能登不貢之以尾州参州為上武之本木

 次之諸海國采海鼠處多而貢腸醬者少矣是好

 黄膓者全希之故也近世參州柵嶋有異僧守戒

 甚嚴而調和於腸醬者最妙浦人取腸洗浄入盤

 僧窺之察腸之多少妄擦白鹽投于腸中浦人用

 木箆攪勻收之經二三日而甞之其味不可言今

 貢獻者是也故以參州之産爲上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醬以尾州之産爲第一世皆稱

 奇矣

 附方凍腫欲裂〔用鮮海鼠煎濃汁頻頻洗之或用熱湯和腸醬攪勻洗亦好〕頭

 上白禿〔生海鼠割腹去腸掣張如厚紙粘于頭上則癒〕濕冷蟲痛〔及小児疳傷泄痢常食而好又用熬海鼠入保童圓中謂能殺疳蟲〕

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で、

「但(タヽ)」・「略(ホヽ)」・「尚(ヒサ)シ」・「白(マウ)ス/サ」(二箇所)・「天宇受賣命(ノウスメノミコト)」(「天(あめ)」にはない)・「荅へざる口(クチ)」・「拆(サ)ケタリ」・「差(ヤヽ)」・「振鼠(フリコ)」・「烏(クロ)クシ」・「熬海鼠(イリコ)」・「伊利古(イリコ)」・「間(マヽ)」・「串海鼠(クシコ)」・「久志古(クシコ)」・「彌(イヨイヨ)」(後半の「イヨ」は底本では踊り字「〱」)・「コノワタ」(二箇所)・「タワラコ」(「ワ」はママ)

とあるのみである。また、

「中」(なか)には「カ」が、一部の「者」(もの)には「ノ」が(これ以外は「は」と読ませるための区別かとも思われる)、「今」(いま)には「マ」が、「後(のち)」には「チ」が、「處」(ところ)には「ロ」が

それぞれ送られてあるが、総て省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ず。〕

釋名 土肉〔郭璞が「江賦(かうのふ)」に、『土肉石華。』と。「文選註」に曰く、『土肉は正黒(せいこく)、小児の臂(ひ)の大いさのごとくにして、長さ五寸、中に腹(はら)有りて、口・目、無し。三十の足有り』と。故に世人、以つて海の鼠に似たるを別名と爲(す)。と。〕。

集觧 江海、處處、之れ有り。江東、最も多し。尾の和田、參の柵(さく)の嶋(しま)、相の三浦、武の金澤本木(ほんもく)なり。海西にも亦、多く采(と)る。中(なか)ん就(づ)く、小豆嶋、最も多し。狀(かた)ち、鼠に似て、頭と尾、手足、無し。但(た)だ前後に、两口、有るのみ。長さ五、六寸にして圓く肥ゆ。其の色、蒼黒或いは黄・赤を帶ぶ。背、圓(まど)かに、腹、平らかなり。背に※1※2(いぼ)多くして軟かなり。两脇に在る者は足の若(わか)きにして蠢跂來徃(しゆんきらいわう)す[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]。腹の皮、青碧、小※1※2(しやういぼ)のごとくにして軟かなり。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ)に類して甘からず。極めて冷潔淡美。腹内、三條の膓、有り。色、白くして味ひ、佳ならず。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。本朝、海鼠と云ふ有る者(もの)、尚(ひさ)し。「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と。一種、長さ二、三寸、腹内、沙多くして、味も亦、差(やや)短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者有り。腹内、三條の黄腸(きわた)、琥珀のごとくにして之を淹(つけ)て醬(しやう)と爲し、味はひ香美、言ふべからず。諸(しよ)醢(ひしほ)中の第一と爲すなり。事、後(しり)へに詳かなり。其の熬(いり)して乾く者は亦、後へに見えたり。今、庖人(はうじん)、生鮮の海鼠を用ゐて、灰砂に混じて籃に入れて之を篩(ふる)ふ。或いは白鹽を抹(まつ)して擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以つて旋磨(せんま)する時は、則ち久しくして凝堅(ぎやうけん)す。其の味はひ、鮮脆(せんぜい)、甚だ美、呼びて「振鼠(ふりこ)」と稱すなり。

肉 氣味 鹹寒。毒、無し。〔稲草・稲糠・灰砂及び鹽を畏(おそ)る。河豚(ふぐ)の毒を伏す。〕。 主治 腎を滋し、血を凉(すず)しふし、髮を烏(くろ)くし、骨を固くし、下焦(げしやう)の邪火を消し、上焦の積熱(しやくねつ)を袪(さ)る。多く食へば、則ち腸胃、冷濕、洩らし易く、熱痢を患(うれへ)る者、宜しく少食すべし。或いは頭上の白禿(しらくも)及び凍瘡を療す。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ず。〕 釋名 海參〔李東垣(りとうゑん)「食物」に曰く、『功、補益を擅(ほしいまま)にす。』と。故に之(これ)、名づくるか。世人、間(まま)、之を稱する者、有り。「本朝式」に『熬海鼠』と稱す。〕。

集觧 之を造るに、法、有り。鮮生の大海鼠を用ゐて、沙・腸を去りて後(のち)、数百枚、空鍋(からなべ)に入れて、活火(つよび)を以つて之を熬る時は、則ち鹹(しほじる)汁、自ら出でて焦黒(くろくこ)げ、燥(かは)きて硬(かた)きを、取り出し、冷(さむる)を候(うかが)ひて两(りやう)小柱に懸け列(つら)ぬ。一柱、必ず十枚を列ぬ。呼びて「串海鼠(くしこ)」と號す。「久志古(くしこ)」と訓ず。大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵及び越後の産、斯(か)くのごとし。或いは海西、小豆嶋の産、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豊の前後より出ずる者は、極めて小なり。之を煮る時は、則ち、大(おほ)ひなり。熬(い)りと作(な)すの海鼠は、六、七寸を過る者を以てす。其の小きなる者は佳ならず。大抵、乾曝(かんばく)するに串と作(な)し、藤と作(な)し、之を用ゆ。先づ水に煮(に)、稍(やや)久しく時んば、則ち、彌(いよいよ)肥大にして軟なり。味も亦、甘美なり。或いは稲草・米糠の類と合(あは)して煮熟すも亦、軟らかかり。或いは土及び砂に埋(うづ)むこと一宿にして取り出だし、洗浄して煮熟(にじゆく)すも亦、可なり。古へより之を用ゐる者、久し。「本朝式」「神祇(じんぎ)部」に『熬海鼠二斤。』と有り、「主計部」に『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥の前後州、之を貢す。』と。今、亦、上下、之を賞美す。

氣味 鹹、微甘、平。毒、無し。 主治 氣血を滋補し、五臓六腑を益し、三焦(さんしやう)の火熱を去る。鴨肉と同じく、烹熟(はうじゆく)して之を食すれば勞怯・虛損の諸疾を主(すべ)る。猪肉と同じく煮食すれば肺虛・欬嗽(がいそう)を治す〔此れ、李杲(りかう)が「食物本草」に據(よ)る。〕。腹中の悪蟲を殺(さつ)し、然して小児の疳疾を治す。

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然して」の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ず。〕 集觧 或いは俵子(たわらこ)と稱す。腸醬(ちやうしやう)を造る法、先づ鮮腸を取りて潮水の至つて清き者を用ゐて洗浄すること數十次、沙及び穢汁(わいじふ)を滌去(てききよ)して白鹽に和して攪勻(かくきん)して之を收む。純黄の光り有りて琥珀ごとき者を以つて上品と爲(な)す。黄中、黒・白相ひ交じる者を以つて下品と爲す。今、三色相ひ交じる者を以つて日影に向けて箆(へら)・箸を用ゐて頻りに之を攪(か)く時は則ち盡く變じて黄と爲(な)る。或いは腸(わた)一升に雞子(けいし)の黄汁(きじる)一箇を入れ、箆・箸を用ゐて之を攪勻するも亦、盡く黄と爲る。味も亦、稍(やや)美なり。一種、腸中に、色、赤黄(しやくわう)、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰(い)ふ。珍と爲(な)さず。凡そ海鼠、古へは能登の國、海鼠腸一石を貢す。「主計部」に『腸十五斤』と有り。今、能登、之を貢せず。尾州・參州を以つて上と爲し、上武の本木、之に次ぐ。諸海國(かいこく)、海鼠を采る處、多くして、膓醬を貢(けん)する者の少なし。是れ、黄膓は好む者、全く希(まれ)なるの故なり。近世、參州柵(さく)の島(しま)に異僧有り、戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸を取りて洗ひ淨めて盤(うつわ)に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白鹽(なまじほ)を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木篦(きべら)を用ゐて攪勻して之を收む。二、三日を經て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻する者、是なり。故に參州の産を以つて上品と爲(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醬を調へて尾州の産を以つて第一と爲(す)。世、皆、奇なりと稱す。

附方 凍腫裂れんと欲(す)〔鮮海鼠の煎濃汁(せんのうじふ)を用ゐて頻頻(ひんぴん)、之を洗ふ。或いは熱湯を用ゐて腸醬を和し、攪勻して洗ひ、亦、好し。〕。頭上の白禿(しらくも)〔生(なま)海鼠、腹を割(さ)き、腸を去り、掣(お)し張りて厚紙のごとくにして頭上粘する時は則ち癒ゆ。〕。濕冷の蟲痛(ちゆうつう)〔及び小児の疳傷(かんしやう)・泄痢(せつり)、常食して好し。又、熬海鼠を用ゐて保童圓(ほどうゑん)の中に入れて、謂ふ、能く疳の蟲を殺すと。〕。

 

□やぶちゃん語注(この本文を引用した先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で載せた私の注を煩を厭わず再掲しておいた。それが引用元である本書への礼儀でもあろうと考えたからである。原則、再掲であることを断っていないので、既にお分かりの方は飛ばしてお読みになられたい。なお、他にも私の寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の項及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」などからも注を援用しているので、寧ろ、それらも参考にお読みになられんことをお勧めしておく。)

・「海鼠」ここで語られる海鼠は、ほぼ棘皮動物門ナマコ綱楯手目マナマコ科の旧来のマナマコと考えてよいが、実は近年までマナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっている(倉持卓司・長沼毅「相模湾産マナマコ属の分類学的再検討」(『生物圏科学』Biosphere Sci.494954 (2010))に拠る)。これ今までの私のナマコ記載では初めて記す、私は今回初めて知ったことであるが、この学名提案については、サイト「徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部 水圏生産科学研究室(仮称)」の「マナマコの標準体長&学名」の「マナマコの学名について」に、『最近,本種全体に用いられてきた従来の学名 Apostichopus japonicas を赤色型に限定し,青色型と黒色型を Apostichopus armata とすることが提案されています(倉持・長沼,2010)。しかし,この種小名 armata は,過去に北方系のマナマコに提案されたものであり,北方系のマナマコについては南方系マナマコとは別種とみる研究者もおり,その分類学的位置づけは検討段階にあります。仮に北方系マナマコが別種とされた場合には,種小名 armata の使用は北方系のマナマコに限定されることになります。そうすると,種小名 armata を使って記述された論文の追跡が困難になるなどの恐れもあり,現段階では,従来の学名 Apostichopus japonicas を使用し色型と産地を明記する記述スタイルが無難であると考えています』とあるので使用には注意を有する。

・「奈麻古」「和名類聚抄」に(「国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)、

   *

崔禹錫食經云海鼠〔和名古本朝式加熬字云伊里古〕似蛭而大者也

(崔禹錫が「食經」に云く、『海鼠。』〔和名、『古』。「本朝式」に「熬」の字を加へて『伊里古』と云ふ〕。蛭に似て大なる者なり。)

   *

とある。これによれば、本来のナマコの和名古名は文字通り「古(こ)」であって、「延喜式」には後述する煮干して調製した製品をこれに「熬」(いる)の字を加えて「伊里古(いりこ)」と称すというのである。寧ろ、この「いりこ」(熬った古)に対して生じた謂いが「なまこ」(生の古)であり、その「古」の腸(わた)が「古(こ)の腸(わた)」なのであろう。これは国語学者の島田勇雄氏も東洋文庫版の注で推定しておられる。

・「釋名」まず扱う対象の物名及び字義を訓釈すること。本書は李時珍の「本草綱目」の構成を模しており、後の囲み字である「集觧」・「氣味」・「主治」・「附方」は総て同書を真似ている(但し、何故か不思議なことに「本草綱目」には海鼠(海参)に相当するものが載らない)。

 

・『土肉〔郭璞が「江賦」に、土肉」「石華」「文選註」……』以下、非常に注が長くなるのでご注意あれ。しかも答えは……必ずしも出ない。……まず先に『郭璞が「江賦」』を説明する。

 「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

 「江賦」はその郭璞の創った長江(揚子江)を主題とした博物学的な詩賦(賦は中国韻文文体の一つで漢代に形成された抒情詩的要素の少ない事物を羅列的に描写することを特徴とする)で、同じく彼の手になる「海賦(かいのふ)」と対を成す。「文選」に所収する(だから本文に「文選註」が引かれるのである)。しばしば参考にさせて戴いているm.nakajima 氏のサイト「MANAしんぶん」内の「真名真魚字典」の古書名・引用文献注の「江賦」の解説によれば、『実在種を想定できるものから、想像上の生きものまで多種をあげ、幾多の文章に引用され、それがどのような生きものであるかの同定を考証家たちが試みてきた』作品とある。この「江賦」に、

 「王珧海月、土肉石華」(王珧は海月、土肉は石華)

と出るのである(この考証は次の注に譲る)。

 以下、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」で試みた私の注を援用しつつ、この「土肉」以下の考証を進める。

 まず、かの寺島良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項で、

   *

石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大いさ、小兒の臀のごとく、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。炙り食ふべし。』と。

   *

とこの「本朝食鑑」と全く同じ箇所を引いた上で(下線やぶちゃん)、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之れ無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志(ねいはふし)」言ふ所、詳らかなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩(からぶね)長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。そしてこれについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元三巳訳注)には以下の注を記す(《 》部分は私の補填。下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、《「文選」註に》「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の「文選」註の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰の博物誌》を引用したこの文である。《しかし「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか

   《引用終了》

(言わずもがなであるが、編者の下線部の疑問は、寺島の引用の下線部に対応している)この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある。「江」という語は大きな河川を指す語で、海の入江のような海洋域を指すのは国訓で中国語にはない)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定しているとも言えるのである(因みに淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さらに「江賦」が揚子江の博物誌であったとしても、揚子江の河口域を描けば当然そこには海洋生物の海鼠が登場してきたとして、おかしくない。さすれば、「土肉」は「ナマコ」と考えてよい。

 次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、寺島は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名と誤っていると考えてよい(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる。しかし、人見の書き方は、「土肉」の間と「石華」の間に熟語を示すダッシュを入れているだけで一切の送り仮名を振っていないから、これはシンプルに「江賦」の「土肉石華」を引いていて、「土肉は石華」という意で読んでいると考えてよい)。しかし、実はそんな考証は私には大切に思えないのである。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのである(東洋文庫では少なくともここで「石華」の正体について何も語っていない。ということは編者らは「石華」は「海鼠」と無批判に受け入れたということになる。確かに岩礁に触手を開いた彼らを、本邦でもアカナマコと呼びアオナマコと呼びするから、彼らを「石の華」と呼んだとして強ち、おかしくは無いとも言える。しかし本当にそれで納得してよいのだろうか? これは本当に「土肉」=「石華」なのだろうか?

 そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろうと思う。

 「石華」と「土肉」の該当部分は中文ウィキの「昭明文選 卷十二」から容易に見出せる(引用に際し、記号の一部を変更させて貰った)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。記号を追加した。]

郭璞「山海經」注曰、『珧、亦蚌屬也。』。「臨海水土物志」曰、『海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。』。又曰、『土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三十足、炙食。』。又曰、『石華、附石生、肉中啖。』。

   *

これを恣意的に我流で読み下すと、

   *

王姚・海月、土肉・石華。

郭璞「山海經」注に曰く、『珧は亦、蚌の屬なり。』と。「臨海水土物志」に曰く、『海月は、大いさ鏡のごとく、白色、正圓、常に海邊に死し、其の柱、搔頭(かいたう)の大いさのごとく、食ふに中(あ)てる。』と。又、曰く、『土肉は、正黑、小兒の臂の大いさのごとく、長さ五寸、中に腹有り、口・目無く、三十の足有り、炙りて食ふ。』と。又、曰く、『石華、石に附きて生じ、肉、啖ふに中てる。』と。

   *

脱線をすると止めどもなくなるのであるが――「王珧〔=姚〕」は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「王珧」でタイラギ、「海月」は同じく「海鏡」でカガミガイ又はマドガイである(「海鏡」は記載が美事に一致する。なお、それぞれの学名については該当項の注を参照されたい)。――

 さてここに出る「土肉」は、その記載内容からみても最早、間違いなくナマコである。

 では、「石華」はやはり海鼠だろうか? そのようにも読めないことはない。当初、私は極めて少ない記載ながら、これを海藻類と同定してみたい欲求にかられた(勿論、「肉」と言っている点から、海藻様に付着するサンゴやコケムシや定在性のゴカイ類のような環形動物及びホヤ類も選択肢には当然挙がるのだが、「肉は啖(くら)ふに中(あ)てる」という食用に供するという点からは、定在性ゴカイのエラコ Pseudopotamilla occelata  かホヤ類に限られよう)。すると「石花」という名称が浮かび上がってくるのであった。例えば、「大和本草」の「卷之八草之四」の「心太(こころふと)」(ところてん)の条に、「閩書」(明・何喬遠撰)を引いて「石花菜は海石の上に生ず。性は寒、夏月に煮て之を凍(こほり)と成す」とする。即ち、「石華」とは、一つの可能性として紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科マクサ Gelidium crinale  等に代表されるテングサ類ではなかろうかと思ったのである。

 ところが最近、これ以外にも「石華」の強力な同定候補が浮かび上がってきたのである。――「石」に「生じ」(生える)、「華」が開くように鰓を出す、その中身の「肉」が食用になる――それは本条の初回公開の直後にものした『博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』の注で私が示したカメノテである。リンク先を是非、お読みあれ。これも私は立派な「石華」であるように私には思えるのである(但し、まずいことにこれ、「江賦」では「石砝」(石蜐)として別に出るのである)。……ともかくも――「石華」というもの――これは一筋繩ではいかぬということでは、ある。向後も考証を続けたい。

 

・「臂」狭義には肘(腕の関節部)から手首までの「一の腕」を指す語。広義には肩からの腕総てをも指すが、ここは前者でしっくりくる。

・「五寸」約十五センチメートル。マナマコでは大型個体は三十センチメートルに達するものもあるが、伸縮の度合いも甚だしいので、この数値は健康な生体個体の標準値としては低めながら自然な数値で、実際、続く解説中ではより大型個体が示されている。

・「三十の足有り」ナマコは棘皮動物に共通する五放射相称の体制を持ち、腹側には中央とその両側に管足が並ぶ歩帯があり、背側には左右両端に歩帯(管足が変形した疣足が並ぶ)があって、全身はこの放射状に縦に並んだ五本の歩帯(とその間充組織)によって構成されている。腹側の管足は主に移動に用い、先端は吸盤となっている(但し、無足目と隠足目のナマコは管足を持たず、蠕動運動によって移動する。板足目のナマコ類はその多くが深海性で、一部には太く大きな管足を持つ種類もいる。ここはウィキの「ナマコ」に拠った)。無論、管足の本数は三十本ばかりではない。何百本である。

・「集觧」集解。「しつかい(しっかい)」「しふげ(しゅうげ)」とも読むが、私は「しふかい(しゅうかい)」と読んでいる。「觧」は「解」の異体字。対象に就いての解釈を多く集めて纏めることを指す。

・「江東」この場合は東日本を指すとしか読めないが、一般的な語ではない。後に「海西」(島田氏はこれに『さいこく』(西国)とルビされておられる)が現われ、これは明らかに西日本で、その対語としてある以上、東日本(但し、尾張以東である)ととっておく。島田氏はこれに『かんとう』とルビを振られ、関東とされる。続く地名(しかし尾張や三河は今も昔も関東ではない)や流通の集中度や情報の収集域から言えば、それでおかしくはないのであろうが、そうすると東北部が含まれず、海鼠等の場合は頗るおかしな印象を拭えなくなる。「仙臺 きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」の金華山のキンコの例(これは凡そ百年後の文化七(一八一〇)年の刊行ではあるが、既に東北の海鼠類が豊富なことは知られていたはずである)を考えても、ここは関東ではおかしいと私は判断する。

・「尾の和田」「尾」は尾張国。現在の愛知県西部。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地佐久島はここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

・「參の柵の嶋」「參」は三河国。現在の愛知県中部。佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島」によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。

・「武の金澤本木」「武」は武蔵国。現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「五、六寸」十五~十八センチメートル。

・「※1※2(いぼ)」(「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。)「※1」は音「ハイ」でかさぶた・かさ(瘡)/できもの/腫れ物の意である(大修館書店「廣漢和辭典」による)。「※2」については、同じ字が「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)に「痱※2(いらぼ)」(但し私が判読した底本の字が掠れており、読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない)とあり、東洋文庫版現代語訳ではこれを『ぶつぶつ』と訳している(最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある)。以上の「胡瓜」の同全テクストと注は、私の「耳嚢 巻之十 白胡瓜の事」の注に示してあるので参照されたい。なお、島田氏は『※1※2』に『ぶつぶつ』、次の文に再登場する箇所では別に『ふきでもの』とルビを振られており、多様な表現で理解を進めようとなされた面白い訳法である。

・「蠢跂來徃」(若干、字が不鮮明で気にはしていたのだが、この「跂」を私は当初「抜跋」と誤読していた。今回、島田氏の訳を見、「跂」が正しいことを知り、この改稿で訂したことを最初に申し述べておく)「蠢」が蠢(うごめ)く、「跂」が虫が這い歩く、「来徃」は来往で行ったり来たりの意であるから、蠕動して這い歩き回ることを言う。島田氏はこの四字をそのまま訳に用いられ、『蠢跂來往(たえずうごめか)し』と訓じておられる。これはなかなかに面白い訳で、しかもこの場合、島田氏はこれを海鼠本体の移動・運動ではなく、管足が盛んに動く様として訳しておられる。非常に示唆に富む訳であり、海鼠個体の観察としてはその方が正しいようにも感じられるけれども、私としては最初の敷衍訳を変更することを望まない。何故なら実際、この管足を以って海鼠は思ったよりも活発に匍匐運動を行うからである。

・「鰒魚」「あはび」と訓じているかも知れない。本字はフグをも指す語で御丁寧に「魚」までついているが、これは明らかに鮑(あわび)である。事実、後の氣味の項にフグは「河豚」の表記で出る。

・「冷潔淡美」ひんやりとしてすっきりと清らかで、その味わいはさわやかな旨味を持つとことであろう。

・「三條の膓」私の愛読書である昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊の大島廣先生の「ナマコとウニ」では(一二二頁)、この『三条の腸とあるのは、ナマコ類は一般に、その消化管が体の後端んに達して折れ返り、上に向って前端に達し、再び後方に向う。その下向二条、上向一条あるのを合わせて数えたものと見える』と解説なさっておられる。海鼠を捌いたことのない方のために、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのインターネット公開(保護期間満了)の広島文理科大学広島高等師範学校博物学会編「日本動物解剖図説」のナマコの解剖図を以下に示しておく。この、「12」「19」「20」の腸の第一部から第三部というのが、まさにそれに当たる。

・「色、白くして味ひ、佳ならず」この部分、不審。ここは一種の補足か割注のような感じで、例えば、

……腹内、三條の膓、有り〔但し、色の白きは味ひ、佳ならず。〕。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。

とあるならば、腑に落ちるのである。取り敢えず、これは腸(わた)が黄色ではなく、白っぽい色を成しているものは美味しくない、という補足で採り、訳では(  )に入れた。

・「殽品」「殽」は「肴」と同義で、広義の魚、海産生物の調製品の謂い。島田氏は『さけのさかな』とルビされている。島田氏はここに膨大な量の近世の海鼠の調理法を引用されておられ、圧巻である。

・『「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と』島田氏の訳ではこの「細小刀」の箇所を『紐小刀』とする。以下に見る通り「古事記」の原文では確かに「紐小刀」(飾り紐付きの小刀)であるが、私の底本としたものでは明らかに「細」であって「紐」ではない。「天宇受賣命」は、ご存じ、かの閉じられた天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神である。以下に「古事記」から引用する(書き下し文及び訳は上代の苦手な私の仕儀につき、ご注意あれ。過去形で訓読するのが一般的であるが、敢えて現在形で臨場感を出した)。

   *

 

於是送猿田毘古神而、還到、乃悉追聚鰭廣物鰭狹物、以問言、汝者天神御子仕奉耶、之時、諸魚皆、仕奉、白。之中、海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云、此口乎、不答之口、而以紐小刀拆其口。故、於今海鼠口拆也。

 

是に於て猿田毘古神(さるたびこのみこと)を送りて、還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狹物(さもの)を追ひ聚め、以て問ひて言ふ、

「汝(な)は、天つ神の御子に仕へ奉らむや。」

と。之の時、諸々の魚、皆、

「仕へ奉らむ。」

と白(まを)す。この中、海-鼠(こ)のみ白さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云く、

「此の口や、答へざるの口。」

と。而して紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故に、今に於いて海鼠の口、拆くるなり。

 

やぶちゃん訳:天宇受売命は、ここで天孫降臨の先導を務めてくれた猿田毘古神(さるたひこのみこと)を送って帰って来て、即座に海中の大小のあらゆる魚たちを悉く呼び集めて尋ねて言った、

「お前達は天つ神の御子に従順に仕え奉るか?」

と。すると、魚どもは皆、

「お仕へ奉りまする。」

と申し上げる。

 と、その中、海鼠だけは答えようとしない。

 ここに天宇受売命(あめのうずめのみこと)は海鼠に向かって言った、

「この口は、答えぬ口なのね。それじゃあ、こんな口はいらないわ。」

と。

 そして飾り紐の付いた小刀で、その海鼠の口を裂いた。故を以て今に至るまで海鼠の口は裂けているのである。

   *

本説は古来からの大神であったサルタヒコさえ天孫の膝下に下り、そこにダメ押しとしての畜生(衆生)のシンボルたる総魚類の従属を示して、それに従おうとしなかった海鼠が原罪への処罰として口を切られ、その反スティグマは永遠に消えない程に恐ろしいのだと語っているのであろう。私には生理的に厭な話である。この「切られた口」なるものは、ナマコの口部を取り巻く十~三十本の触手(ちなみのこれは管足が巨大に変形したもので、生物学的に五放射体制に対応して触手の数も五の倍数であることが分かっている)を示すのだが、海鼠ぐらい駘蕩として平和主義者然とした哲人はいない。「古事記」のこの女神による海鼠制裁事件は大和朝廷の先住民族への暴政を隠蔽するための冤罪である。とっくに時効ではあるが、ナマコたちよ! 名誉回復のための訴訟には、いつでも私が特別弁護人になって上げるよ!

・「二、三寸」六~九センチメートル。

・「味も亦、差短き者、有り」この「短き」は味が劣るで採った。島田氏も『差短(ややうまくな)い』と訳しておられる。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートル。

・「淹て」島田氏は『淹(しおづけ)して』とされる。これは次の「醬と爲し」からの敷衍訳で結果としては正しいが、単漢字の「淹」には漬けるの意はあっても、塩漬けにするの意はないので従えない。

・「醢」音なら「カイ」、訓では別に「ししびしほ(ししびしお)」。塩漬けの肉や塩辛。

・「振鼠」これは前の記載から「生鮮の海鼠を用」い、一つは「灰砂に混じて籃に入れて之を篩ふ」という調理を経るもの。今一つは「白鹽を抹して」(かける・擦り込む・まぶすの意のように思われる)「擂盆中に入れて、杵を以つて旋磨する」という一番目とはかなり異なった調理を経るもので、しかもこの二つの方法を経て時間を置いたものは、意外にも、全く同じように「凝堅」した塊となり「其の味はひ、鮮脆、甚だ美」であるというのである。現行の生海鼠の調理法によって出来上がった海鼠料理は私は聴いたことがない。前記の大島先生の「ナマコとウニ」にもこの名は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。因みに、知られた処理法として似た響きを持つ「茶振り海鼠」というのは知っている。一応、以下、レシピを「天満屋ハピータウンおすすめレシピ」の「茶ぶりなまこの酢の物」から引いておく(表記法を一部変えさせて戴いている。材料及び分量はリンク先を)。

   *

1 なまこは塩少々をふってぬめりを取り、両端を少し切り落として腹を縦に開き、ワタを除いて水の中で洗い、水けをきる。

2 1のなまこを厚さ七~八ミリメートルの小口切りにし、塩少々をふって十分ほどおく。

3 なべになまこがかぶるぐらいの湯(摂氏七十~八十度)を入れ、番茶の葉をひと握り加える。

4 2のなまこをざるに入れ、3のなべの中で、ざるごとサッとふり洗いして水にとり、水けを切る。

5 合わせ酢にゆずの輪切りとしょうがのせん切りを加え、4のなまこを半日ほどつけて味を含ませる。

   *

但し、私は実は海鼠は総てそのまま生、酢などを加えないものの生食こそが美味だと考える人間で、この「茶振り海鼠」の処理自体には頗る批判的な人間であることを言い添えておく。

・「鹹寒」漢方で、陰陽五行説の相生相克を食物の気(薬性)の働きに当て嵌めたもので、食物を味覚に於いて「酸・苦・甘・辛・鹹」の五つに分ける。さらに食物の保持する特有の性質をやはり「寒・微寒・平・温・微温」の五つに分ける(大別すれば気には「寒・温・平」の三種類があり、その「寒」は食物や生薬が体の中に入った時に冷やす効果を持つもの、「温」は温める効果を持つも、そして「寒」・「温」孰れにも偏らずに働きがフラットとなものを「平」とする。軽く冷やす効果が「微寒」、軽く温めるそれが「微温」である)。漢方では、この「気」の働き「味」の働きを合わせたものを「気味」と称し、その「気味」の組み合わせによって食物や生薬が体に作用する状態をこれらの文字で規定表示している(以上は「自然の理薬局」の「漢方医学の概念」を参照に纏めた)。

・「河豚の毒を伏す」不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

・「下焦」漢方に於ける「五臓六腑」の臓器の「六腑」の一つである「三焦(さんしょう)」。三つの熱源の意で、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦は臍下(さいか)にあり、生命の源である体温を保つために絶えず熱を発生している器官とされる。「みのわた」とも呼ぶ。これはさらに「上焦」「中焦」「下焦」の三つのパートに分けられている。「上焦」は、気を取り入れて邪気を排出する働きを有し、心や肺の燃焼に関わり、「中焦」は食べ物を取り入れて血(栄養)に変える働きを有し、胃・脾・肝などの燃焼に関わり、「下焦」は不要なものを排出する働きを掌り、大腸や膀胱の燃焼させるという。西洋医学上の該当臓器は存在しないが、実際には以上に出た実際にある支配臓器総体を包括した形而上学的な臓器概念のように思われる。

・「邪火」幾つかの漢方サイトを管見するに、これはどうも炎症などの具体な漢方症状ではなく、三焦孰れにもよくない状態として生ずる、「客熱」(本来のものではない異常な熱。他から侵入して来た熱。意識を朦朧とさせるような邪悪な熱気)の邪悪(悪質)な性質を示す語のように見受けられる。

・「上焦」先の「下焦」を参照。

・「積熱」ここは上焦のそれであるが、漢方サイトでは中焦の不具合として、消化管内の停滞によるガス発生や便・炎症による刺激のために腹部膨満感や腹痛、発熱性疾患を引き起こすものとして「腸胃積熱(ちょういという」というのが散見される。また別に「三焦積熱」ともあるから、本来あるべきではない熱源が生命を燃焼させる三焦に鬱積して負荷をかけている状態を指していることが分かる。そもそもここは「下焦」と「上焦」の熱を去ることを言って「中焦」を含む「三焦」全体の温度の正常な状態への就下を言っている。

・「袪」本来は袖・袂の意であるが「去る」(除く)の意をも持つ。

・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、原因菌は主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canisTrichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrumTrichophyton mentagrophytesTrichophyton tonsuransがある』とある。

・「熬海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「熬海鼠」の注を援用追記しておく。「いりこ」という呼称は、現在、イワシ類を塩水で茹でて干したにぼしのことを言うが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡(島田氏注に『関根真隆氏によれば、平城宮出土木簡に「能登国能登郡鹿嶋郷戸主若倭部息島戸同□調□(海カ)鼠六斤、天平宝字三円四月□日」とある由である』とある)や「延喜式」に、能登国の調として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後述されるコノワタやクチコも載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。大島廣先生の「ナマコとウニ」には、明治二九(一八九六)年の調査になる農商務省報告に、各地方に於けるイリコの製法がいちいち詳述されており、それらを綜合した標準製法が示されているとする(以下同書からの孫引だが、カタカナを平仮名に直し、〔 〕で読み・意味を加え、適宜濁点を補った)。

   《引用開始》

「捕獲の海鼠は盤中に投じ、之に潮水を湛〔たた〕へ、而して脱腸器を使用して糞穴より沙腸を抜出し、能く腹中を掃除すべし。是に於て、一度潮水にて洗滌し、而して大釜に海水を沸騰せしめ、海鼠の大小を区別し、各其大小に応じて煮熟の度を定め、大は一時間、小は五十分時間位とす。其間釜中に浮む泡沫を抄〔すく〕ひ取るべし。然らざれば海鼠の身に附着し色沢を損するなり。既に時間の適度に至れば之を簀上〔さくじやう:すのこの上〕に取出し、冷定〔れいてい?:完全に冷えること〕を竢〔まつ=待〕て簀箱〔すばこ〕の中に排列し、火力を以て之を燻乾〔くんかん:いぶして干すこと〕すべし。尤〔もつとも〕晴天の日は簀箱の儘交々〔かはるがはる〕空気に曝し、其湿気を発散せしむべし。而して凡〔およそ〕一週間を経て叺〔かます〕等に収め、密封放置し、五六日許りを経て再び之を取出し、簀箱等に排列して曝乾〔ばつかん〕するときは充分に乾燥することを得べし。抑〔そもそ〕も実質緻密のものを乾燥するには一度密封して空気の侵入を防遏〔ばうあつ:防ぎとどめること〕するときは、中心の湿気外皮に滲出〔しんしゆつ:にじみ出ること〕し、物体の内外自から其乾湿を平均するものなり。殊に海鼠の如き実質の緻密なるものは、中心の湿気発散極めて遅緩なれば、一度密蔵して其乾湿を平均せしめ、而して空気に晒し、湿気を発散せしむるを良とす。已に七八分乾燥せし頃を窺ひ、清水一斗蓬葉〔よもぎば〕三五匁の割合を以て製したる其蓬汁にて再び煮ること凡そ三十分間許にして之を乾すべし」

   《引用終了》

まことに孫引ならぬ孫の手のように勘所を押さえた記述である。なお、最後の「蓬汁」で煮るのは、大島先生によると『ヨモギ汁の鞣酸(たんにん)と鉄鍋とが作用して黒色の鞣酸鉄(たんにんてつ)を生じ、着色の役割をするものである』と後述されている。

・「海參」寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」に、

   *

「五雜組」に云ふ、『海參は、遼東の海濱に之有り。一名、海男子。其の狀、男子の勢(へのこ)のごとし。其の性、温補、人參に敵するに足り、故に海參と曰ふ。』と。

   *

あるように、陽物や朝鮮人参のよう形状、しかも朝鮮人参同様に「功、補益を擅にす」であることから「故に之、名づくるか」と推定しているのである。因みに「補益」とは不足を補い、益を与えることで、漢方の効能の常套表現。

・『李東垣「食物」』李東垣(一一八〇年~一二五一年)は金・元医学の四大家の一人とされる医師。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る)。李東垣「食物本草」の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。

・「本朝式」「延喜式」のこと。

・「自ら出でて」島田氏は『自出(にじみで)て』と訳されている。謂い得て妙の訳である。

・「串海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「串海鼠」の注を再掲しておく。「串海鼠」について前掲書大島廣「ナマコとウニ」に以下のように記す。

   《引用開始》

 串(くし)に貫いて梯子(はしご)のような形にしたものは、筆者も沖繩本島ののハネジイリコで初めて見たのだが(第二十五図[やぶちゃん注:大島先生の著作権は継続中なので省略])、古くは広く行われた方法らしく、いろいろな書物にこれを見ることができる。[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 「串に刺し、柿の如くして乾したるを串海鼠と云ふ」(伊勢貞丈)

 「毎十箇懸張二小柱而如梯之形者名串海鼠」(『倭漢三才図会』)

 「凡(およそ)串(くし)に貫(つらぬ)くものはクシコ、藤に貫くものはカラコと云ふ」(武井周作)

 「海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ。此即八重山串子(ヤエヤマクシコ)ト俗称スルモノニシテ、味甚薄劣下品ノモノナリ」(栗本瑞見)

 この最後の記事は贋物(にせもの)の追加である。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

最後のものは、私が「海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲 (「栗氏千蟲譜」卷八より)」で電子テクスト化した中に現われるもの。そちらも是非、御参照の程! さても贋物と言えば、良安の「食物本草」の引用にはナマコの偽物として「驢馬の陰莖」によるものがあると記している。驢馬一頭を犠牲にしてまで……それは、何か、ひどく哀しい海鼠の歴史ではないか。

・「六、七寸」十五~二十一センチメートル。

・「古へより之を用ゐる者、久し」これを島田氏は『昔からこの方法を用いて久しい』と訳しておられるが、私は「之」は熬海鼠の製法を指すのではなく、熬海鼠という調整品を指すものと解釈する。そう読んでこそ、それを受けて以下の「延喜式」からの引用がごく自然に読めるからである。

・「神祇部」律令制で祭祀を司る神祇官に関わる記載部。

・「二斤」一・二キログラム。

・「主計部」「主計」は訓ずると「かずえ」。主計寮(しゅけいりょう)は律令制に於いて民部省に属した主に税収(特に「調」)を把握・監査した機関。具体的には租税の量を計算して規定量に達しているかを監査した。訓は「かずえのつかさ」(以上はウィキの「主計寮」に拠る)。なお、島田氏の注ではここに熬海鼠貢納についての驚くべき膨大なデータ引用がある。

・「今、亦、上下、之を賞美す」島田氏はここに近世の熬海鼠の調理法を引用されておられる。

・「三焦」先の「上焦」を参照。

・「火熱」先の「積熱」を参照。

・「勞怯虛損」虚損労傷。労怯・労損ともいう。五臓の機能低下による種々の疾病を指す。先天的なものや後天的なもの或いは各種の虚弱や症候などは全て「虚労」の範疇に入るとされ、機能が衰えて体力のないのが「虚」といい、「虚」から戻ることが出来ない状態を「損」とし、「損」が長期間続くものを「労」という。虚・損・労は疾病の発展状況を表わす言葉 である(漢方検索サイトの古いキャッシュより)。「怯」も漢方では甚大な不足を意味する。

・「肺虛」呼吸器系全般の機能低下によって生ずる症状全般を指す。

・「欬嗽」咳。

・「李杲」前掲の李東垣の名。

・「疳」疳の虫によって起こるとされた小児の神経症疾患。夜泣きやひきつけなどの発作を起こす。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛(以下、「攪勻」までの注の多は、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で施した注を概ね再掲したが、「尾張名所図会」は必ずしも本書に忠実に引用していない(例えば別名の「俵子」などは省略されている)ので読みや注に微妙な違いがあるので注意されたい)。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・「俵子」前掲書大島廣「ナマコとウニ」にこの「タワラゴ」という呼称についての複数の語源説について以下のように記す。

   《引用開始》

 「海鼠(ナマコ)の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり」(伊勢貞丈)。

 「俵子(たわらこ)は沙噀の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり」(喜多村信節『嬉遊笑覧』一八五六)。

 「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」(蔀関月)。

   《引用終了》

因みに、文中の『沙噀』は「さそん」と読み、海鼠の別称である。

・「膓醬」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「滌去」洗い去ること。

・「攪勻」ここでは原典を視認するに「カクキン」と音読みしているとしか思われないので、「尾張名所図会」での「攪(か)き勻(なら)して」という訓読とは差別化させた。これは明らかに底本は漢文脈で音読みしているものが多いものと思われること(既に述べたが、それでもつまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所がある)、「尾張名所図会」が有意に前後の仮名文脈表現に影響されて見えることを勘案したものである。

・「一種、腸中に、色、赤黄、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰ふ。珍と爲さず」これは「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ばれる、私垂涎のナマコの卵巣「口子(くちこ)」である。ウィキの「くちこ」によれば、海鼠は厳冬期の一月から三月になると産卵期を迎えて『発達肥大した卵巣を持つようになり、それが口先にあることから「くちこ」と呼ばれている。主な産地は能登半島周辺。 一般的に平たく干したものが能登の高級珍味として親しまれているまとめた卵巣を、横に渡した糸にまたぐように吊るして干すが、このとき水滴が早く落ちるように先端を指でまとめるため、仕上がりは平たい三角形状となる。干した姿が三味線のばちに似ていることから、ばちことも呼ばれている。開いた卵巣を何枚も連ねて一枚に干し上げるが、一枚作るのに十数キロのナマコが必要であるため、大変高価なものとなる。 そのまま食べるか、炙ってから、お吸い物・熱燗に入れても良い』。『生のものは、塩漬けされた塩辛として出回ることが多いが、取り出して瓶などに詰めただけの「生」のものもあ』り、『酒の肴として好適である』とする。「海鼠子」について、前掲書大島廣「ナマコとウニ」には次のように記す。

   《引用開始》

 紐(ひも)状の生殖線[やぶちゃん注:「腺」の誤字。]を海鼠鮞(このこ)という。これを乾したものを俗にくちこ[やぶちゃん注:「くちこ」に「丶」の傍点。]と名づけ、能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られており、ことに能登鳳至郡穴水湾産のくちこは古い歴史をもっている。毎年一二月下旬から翌年一月までの間にナマコを採取してその生殖腺を取り、塩水でよく洗い、之を細い磨き藁(わら)に掛けて乾かすか、又は簀(すのこ)の上に並べて乾す。雅味に富んだ佳肴(かこう)である。

   《引用終了》

口子(クチコ)・干口子(ヒグチコ)は、その製品が三味線の撥(バチ)に似ているのでバチコとも言う。コノワタ以上に珍味とされ、まさに撥大のぺらぺら一枚が軽く五千円を越える。八年前、私は遂に名古屋の料理屋でこれを食したが――掛け値なし――自慢なし――誇張なし――で大枚払って食してみる価値は――確かに――ある珍味である。しかし乍ら……島田氏の注にも「日本山海名産図会」を引き、『一種蝶の中に色赤黄にてのりのごときものあり。号(なづ)けて海鼠子(このこ)といふ。味よからず』と駄目押しがあって、この時代は製したものの好まれなかったとは……ちょっと意外だ……あの血のような色のせいかしらん?……

・「一石」当時の単位で米換算なら約百五十キログラム。俵にして二俵半。

・「十五斤」六百グラム。

・「附方」症例に応じた個別な具体的症状とそれへの処方例及び古い処方例佚文などを纏めたものと私は理解している。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とあって、ここでは丸薬である(以上の下線部はやぶちゃん)。

 

□やぶちゃん現代語訳(さらに読み易くするために、パートごとに行間を空け、適宜、改行も施した。)

 

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ずる。〕

釋名 土肉〔郭璞の「江賦」に、『土肉。』とある。「石華」の「文選註」に謂う、『「土肉」は正黒色をなし、小児の肘ほどの大きさのを示す生き物で、長さ五寸、体内に腸(はらわた)があるけれども、口や目はない。三十の管のような足を持っている。この見た目を以って、世人は「海の鼠」に似ているということから、「海鼠」を別名としている。』とある。〕。

集觧 近海海中の各所にこの生物は棲息する。東日本に最も多い。尾張の和田・三河の柵(さく)の島(しま)・相模の三浦・武蔵の金澤本木(ほんもく)が、その知られた主な産地である。西日本に於いてもまた、これは多く漁獲される。中でも、小豆島が最も多い。

 その形状は、鼠に似ているが、頭と尾及び手足は、ない。ただ、前と後ろに当たる部分に一つ宛(ずつ)開いているばかりである。長さは五、六寸で、円く肥えている。その色は蒼黒或いは黄や赤を帯びている。背は、ふっくらと丸みを帯びており、腹の部分は平らになっている。背には疣(いぼ)状の突起物が多くあって軟らかである。体の体幹の両脇には、これ管の如き足の、生えたばかりの若い部分であって、これを用いてゆっくりと這い蠢き、想像以上に器用に行ったり来たり動く。腹の皮は青碧(おあみどり)で、やはり小さな疣(いぼ)のような感じの突起物があり、背と同じく軟らかである。

 その肉の味は、ほぼ鮑(あわび)に類(るい)したものであるが、甘くはない。極めて冷潔にして淡美な味わいを持つ。

 腹の内に三条の腸(わた)がある(但し、この腸の色の白いものは味が良くない)。この「腸(わた)」なるものこそ、海産物中の最上の佳品とされるものなのである。

 本朝にて於いては、この海鼠という生物のいるということは知られて久しいものである。

 かの最古の歴史書たる「古事記」に、

『――諸々の魚介水族、降臨し給える神に、

「お仕え奉ります。」

と誓詞を言葉に出して申し上げた中で、かの海鼠だけが、黙ったまま、何も申さなかった。

 そこで、同道なされた天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、かの不埒な海鼠に謂い諭しつつ、断じ、

「この口か! 答えぬ口は!」

と言うなり、細き小刀(さすが)を以ってその口を矢庭に拆(さ)いた。

 故に今に於いて、これ海鼠の口は拆(さ)けたままなのである。』

と。

 さてもまた一種、長さ二、三寸とやや短く、しかも腹の内に砂を多く含んでいて、味もこれはまた、やや劣るものがおり、別に一種、長さ七、八寸と大きく、しかもよく肥え太っていて、大きなものもある。

 腹の内にある三条の黄いろい腸(わた)はこれ、琥珀(こはく)の如きものにして、これを塩に漬けて醢(ししびしお)となせば、その味わい、香んばしく美味なること、これ、言いいようもない。本邦のあらゆる塩辛(しおから)の中にあっても第一とするものである。このことは後に詳述する。

 なおまた、これとは別に生の海鼠を煎って乾かした者についてもまた、後述することとなる。

 現在、包丁人が、生きのよい海鼠を用いるに、一つ、灰砂(はいずな)をまぶし、それをそのまま竹籠に入れて、これを篩(ふる)う。或いは一つ、白塩(なまじお)を擦り付けて擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以ってこれをぐるぐると潰さぬように擂り扱(こ)ぐと、これら孰れも、そのまましばらく時の経てば、不思議に等しく同じように、煮凝りのように固まって堅くなる。その口に含んだ時の味わいたるや、如何にもこれ、さわやかにしてしなやか、はなはだ美味で、これを特に呼ぶに、「振鼠(ふりこ)」と称している。

 

海鼠の肉

氣味 鹹寒(かんかん)。毒はない。〔稲藁・稲の糠(ぬか)・灰砂(はいずな)及び塩を畏(おそ)れる。また、河豚(ふぐ)の毒を制する。〕。

主治 腎を健やかにし、熱を持った血を穏やかに下げ、髪を黒々とさせ、骨を堅固にし、下焦(げしょう)の客熱を収め、上焦(じょうしょう)の鬱積した熱を速やかに去る。多く食べると、直ちに腸・胃が急速に冷濕(れいしつ)の性に向かうため、排泄に於いては洩らし易くなるので、熱を伴う痢病(りびょう)を患っている者の場合は、くれぐれも適量たる少量を食すよう、心掛ける必要がある。なお、これとは全く別な附方として、頭部に出来た白癬(しらくも)及び、やや進行した凍傷を療治することが出来る。

 

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ずる。〕

釋名 海参(かいさん)〔李東垣(りとうえん)の「食物本草」に謂う、『その功、あざやかにすばらしく補益を恣(ほしいまま)にする。』と。さればこそ、「海の人参」と名づけたのであろうか? 世人は、まま、この「海参」を以って海鼠を称する者を見かける。古えの「延喜式」にもすでに『熬海鼠』と称して載っている。〕。

集觧 これを造るには特殊な方法がある。

 生の新鮮な大海鼠を用いて、沙や腸を取り去った後(のち)、数百枚を空鍋(からなべ)に入れて、強火を以ってこれを煎る。すると、即座に塩辛い汁が海鼠の体から自ずと出でて、黒く焦げる。十分に水分が出て乾き、硬くなったそれを取り出だし、冷めるのを待って、二本の小柱に懸け列ねる。一柱につき、必ず十枚を列ねるのが決まりで、これを称して「串海鼠(くしこ)」と号している(これは「久志古(くしこ)」と訓ずる)。特に大きなものの場合は、藤蔓(ふじづる)に懸ける。

 今、東日本の海浜及び越後の産は、このようにして製する。或いは西日本は小豆島の産は、この最も大なるものにして、味もまた良い。また、薩摩・筑紫・豊前・豊後より出ずるものはこれ、極めて小さい。しかし乍ら、これを煮る時には、則ち、大きく膨らむ。但し、この「熬(い)り」として製するところの海鼠は、六、七寸を過ぐる大きなものを以ってするのが上製となるであって、そうした小さなものは結局は佳品にはならない。

 大抵、乾して曝(さら)すに串に刺し、或いは藤蔓にて挟み止め、しかしてこれを食材として用いる。

 まず、水にて煮(に)、やや久しく煮込むと、則ち、いよいよ肥大して軟かくなるのである。味もまた、甘美である。

 或いはまた、稲藁や米糠の類と合わせて煮熟(にじゅく)しても、これも軟らかいものになる。

 或いは土及び砂に埋ずめること一夜にして、翌日には掘り出して洗浄して煮熟してもまた、よろしい。

 古えより永くこれを食材として用いる者のあることは久しい。「延喜式神祇(じんぎ)部」にも『熬海鼠(いりこ)二斤(きん)。』と載り、「延喜式主計部」にも『志摩・若狭・能登・隠岐・筑前・肥前・肥後、これを貢(こう)する。』とある。今また、貴賤に拘わらず、これを賞味している。

 

氣味 鹹(かん)・微甘(びかん)にして平(へい)。毒はない。

主治 気血をよく補い、五臓六腑を活性化させ、三焦(さんしょう)の邪火(じゃか)・客熱(きゃくねつ)を去る。鴨の肉と同じく、十分に烹込んでこれを食すれば、あらゆる虚弱虚損に基づく諸疾患を快方へ向かわせる。猪の肉と同じく、煮て食すれば、弱った肺や咳を治癒する〔これは李杲(りこう)の「食物本草」に拠る。〕。また、腹の中の悪しき虫を殺し去り、然して小児の疳の虫をも快癒させる。

 

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ずる。〕

集觧 或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。

 まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。

 至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれ、以って下品とする。

 しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。

 或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。

 一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。

 およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。

 尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近頃の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。

 浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

 僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

 その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

 かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味なのである。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。

 

附方 凍傷が進行して腫れた部分が破れかけている症状〔新鮮な海鼠を煎って、そこで出来た濃い煮汁を用いて、それを以って何度も何度も頻繁にその患部を洗浄する。或いは熱湯を用いてそれに腸醤を和し、掻き均して何度もこれを以って洗うのもまた、良い。〕。頭部に生じた白癬(しらくも)〔生(なま)の海鼠の腹を割(さ)き、腸(わた)を抜き去って、それをそのまま強く患部に押し張って、ちょうど厚紙のようにして患部の頭の上に貼り付けておけば、則ち、快癒する。〕。冷たい湿気に基づく虫痛(ちゅうつう)〔また、それ及び小児の疳の虫に由来するところの痛みや訴えと下痢の症状に対しては、これを常食して効果がある。また、熬海鼠(いりこ)を用いて、知られる処方の保童円(ほどうえん)の中に合わせ入れてそれを用いたならば、伝え聴くところでは、よく疳の虫を殺す効果があるとする。〕。
 
 
 
 

◆華和異同

□原文

  海鼠

崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本

草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]

種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中

之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮

剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰

莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜

俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子

勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按

俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之

生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣

能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲

恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水

土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無

口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者

乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶

 

□やぶちゃんの書き下し文

  海鼠

崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり。李東垣が「食物本草」に曰く、海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。

 

□やぶちゃん注

・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「刮剔」掻き抉り取ること。

・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「勢」陰茎。

・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』の図を参照されたい。

・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。

・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。

・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。

・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U 字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南山志」の誤りか。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作と思われる。

 

□やぶちゃん現代語訳

  海鼠

崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょうけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々はまた、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南産志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?

2015/04/16

博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載

[やぶちゃん注:以下は「尾張名所圖會 附錄卷四」に所収する海鼠腸(このわた)の記載をオリジナルに電子化して訳注を加えたものである。

 「尾張名所図会」は尾張藩儒者深田精一を指導者として、同藩士で歴史家の岡田啓(安永九(一七八〇)年~万延元(一八六〇)年)と野口道直(天明五(一七八五)年~元治二(一八六五)年が編し、尾張名古屋藩士で画家の小田切春江(おだぎりしゅんこう 文化七(一八一〇)年~明治二一(一八八八)年)が挿絵を描いた名所記である。

 このうち、野口道直は春日井郡下小田井村問屋町(現在の清須市西枇杷島町)の青物問屋で枇杷島橋橋守であった七代目市兵衛の長男であったが、藩士山澄家の娘「りう」と婚姻、妻の感化を受けて学問を志したといわれる。神谷三園の主唱による「同好会」に加わって小寺玉晁・細野要斎・水野正信らと親交を深めた。書籍の蒐集にも努め、共著者の岡田啓と並んで、世に「両家の二万巻」と称せられ、塙保巳一が「郡書類従」続編編纂のために閲覧を求めたと伝える。「尾張名所図会」の編纂は彼の最大の業績とされる。「尾張名所図会」は自費出版で資金の大半は道直が負担したが、これにより資産が傾くも顧みなかったというとある(以上の野口道直の事蹟は個人ブログ「美濃街道(美濃路)紀行」の「美濃街道と『尾張名所図会』」を参照させて頂いた)。

 底本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を視認して電子化した。まず、原典と一行字数を一致させたものを示し(但し、ルビと漢文脈の訓点は省略した)、次に連続した文で訓点に従って訓読したものに独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。一部の字の判読にやや迷ったが、私としては自信のないものは特にない。但し、「本朝食鑑」の訓読は我流であり、疑義を感じられた場合には、お知らせ願えれば幸いである。

 使用した挿絵画像は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を用いた(無論、原本はパブリック・ドメインであり、現在、国立国会図書館の「インターネット公開(保護期間満了)」作品の画像は無許可で自由使用が認められている)。

 何? 何で海鼠腸か? 僕は出来ることなら海鼠に生まれ変わりたいほど、ナマコが好きだからさ!【2015年4月16日 藪野直史】]

 

□原文(字体の異同は総て原典のママである。ポイント落ち二行分かち書きの割注は同ポイントとしたが、原典との比較対照をし易くするために改行部はやはり一致させてある。)

 

海鼠膓  大井村の名産すでに名所圖會にのせ置たれど其旨少し

 たがへり 依て再び出す野必大の本朝食鑑に海鼠膓〔訓古乃和多〕以尾州参州

 為上武之本木次之諸國采海鼠處多而貢膓醤者少矣是好黄膓者全

《改頁》

[やぶちゃん注:以下、図見開き。最後は図の右上方のキャプション。因みに図の右頁の罫外には本右頁の帖数を示す『四ノ十五』の文字が、左頁左下の雲形の中には春江の落款が打たれている。]

Konowata

持戒乃

僧海鼠膓に

白鹽を

 ほどこす

 

《改頁》

 希之故也近世参州柵島有異僧守戒甚嚴而調和於腸醤者最妙浦人取

 腸洗浄入盤僧窺之察腸之多少妄擦白塩投腸中浦人用木箆攪勻收之

 経二三日而甞之其味不可言今貢獻者是也故以参州之産為上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醤以尾州之産為第一世皆称奇矣としるせり佳境

 遊覧にしるせるも又是に同し〔大永二年祇園會御見物御成記の献立のうち

 にこのわた桶金臺繪ありと見え 室町殿

 日記に或時秀吉公御咄の人々をめして雜談どもありける所へ或大名かたより

 蛎つべた貝海鼠腸の三種進上申されたれば太閤御覧ありていかに幽齋是に

 つけて一句あるべしと仰られければ畏り候とて かきくらしふるしら

 雪 のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ と申されたれは秀吉公

 おほきに興し給ひたるとしるせり其頃

 このわたを世に賞美せし事を知るべし〕

 

□訓読文(読み易くするために句読点や記号、濁点を適宜配し、挿絵のキャプションは最後に回した(挿絵は省略)。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない(読みについてのみ述べておくと、底本にあるルビは項目の「海鼠膓(このわた)と本文中の「柵(さく)」「本木(ほんもく)」「采(トル)」「攪勻(カキナラシテ)」の五箇所だけである)。原典画像と対比しつつお読みになられたい。なお、判読には同じく近代デジタルライブラリーの「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の海鼠腸パートの画像も参考にした。)

 

海鼠膓(このわた)  大井村の名産。すでに名所圖會にのせ置(おき)たれど、其旨少したがへり。依(よつ)て再び出す。野必大(やひつだい)の「本朝食鑑(ほんてうしよくかん)」に『海鼠膓〔訓「古乃和多(このわた)」。〕、尾州・参州を以つて上と為し、上武の本木(ほんもく)、之れ、次ぐ。諸國、海鼠を采(と)る處、多けれども、膓醤(ちやうしやう)を貢(けん)ずるは少なし。是れ、黄膓を好む者、全く希(まれ)の故なり。近世、参州柵島(さくしま)に異僧有り。戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸(わた)を取りて洗ひ浄めて盤に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白塩を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木箆(きべら)を用ゐて攪(か)き勻(なら)して之を收む。二、三日を経て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻するは、是なり。故に参州の産を以つて上品と為(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醤を調へて尾州の産を以つて第一と為(す)。世、皆、奇なりと称す。』としるせり。「佳境遊覧」にしるせるも、又、是に同じ〔大永二年「祇園會御見物御成記(ぎをんゑおんけんぶとなりのき)」の献立のうちに『このわた桶金臺繪あり』と見え、「室町殿日記」に、『或時、秀吉公御咄(おはなし)の人々をめして雜談どもありける所へ、或る大名かたより、蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸の三種、進上申されたれば、太閤御覧ありて、「いかに幽齋、是につけて一句あるべし。」と仰られければ、「畏り候。」とて

  かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ

と申されたれば、秀吉公、おほきに興じ給ひたる。』としるせり。其頃、「このわた」を世に賞美せし事を知るべし。〕。

 

[やぶちゃん注:挿絵のキャプション。]

 

持戒の僧、海鼠膓に白鹽をほどこす

 

□やぶちゃん注(私の偏愛する海鼠についてはまず、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」のテクストと私の注をお読み戴きたい。そこで、私は海鼠について私が言っておきたいことを粗方述べているからである。)

・「大井村」現在の愛知県知多郡南知多町大字大井と思われる。知多半島の師崎の手前で、以下に出る柵島(佐久島)の五・八キロメートル西に位置する。

・「名所圖會」「尾張名所図会」。本記載は「附録巻四」に載る。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・『野必大の「本朝食鑑」』医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの。但し、この引用は「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の「海鼡腸」の総てではなく、頭が省略されている(リンク先は先に示した近代デジタルライブラリーのパートの画像)。なお、この「本朝食鑑」の「海鼠」の記載は、近日中に本「博物学古記録翻刻訳注」で扱う予定である。

・「尾州」尾張国。現在の愛知県西部。

・「参州」三河国。現在の愛知県中部。

・「上武の本木」「上武」は通常、上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の総称。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「膓醤」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「柵島」佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。また、『愛知県の知多半島や三河地方は弘法大師(空海)信仰が盛んな土地であり、佐久島には四国八十八箇所霊場の写しである佐久島新四国八十八箇所がある。山間や集落の辻々に置かれた祠、寺院に置かれた大師像で』八十八ヶ所の弘法霊場を形成していた』とある(すべてが現存しているわけではない)。但し、これは大正二(一九一三)年に観光開発的な『意図を持って始まった祭祀であり、戦前には知多半島や渥美半島などから団体客が訪れ、主に一泊二日で島内の八十八箇所を巡ったが』、昭和三十年代前半『以降は参拝目的の来島者はほとんどいないという』というから、この僧と佐久島新四国八十八箇所の関係はない。ただ、『東部にある八劔神社・神明社は平安時代の万寿年間』(一〇二四年~一〇二八年)『の創立、江戸時代初期の再建とされ』、東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は』永正二(一五〇五)年の開山と伝えられ『八劔神社で行なわれる正月行事は八日講と呼ばれ、その起源は定かではないが、祭具の中には』宝暦六(一七五六)年『の銘が入った膳もあり、江戸時代中期にはすでに行なわれていたようである。八日講では「鬼」の字が書かれた大凧に向かって厄男が弓矢を射り、島民は災難除けとなる凧の骨を奪い合う。鎌倉時代初期の』建久三(一一九二)年には、鳥羽天皇第七皇子の『覚快法親王が開基とされる崇運寺が建立され、崇運寺には徳川家康が滞在したという言い伝えがある』。現在でも八月十五日には崇運寺で四百年の伝統を持つ『盆踊りが行なわれ、盆踊り後には東西の港から茅(ちがや)で作った船に蝋燭を灯して先祖を送る精霊流しが行なわれる。佐久島弁財天(筒島弁財天)は八百富神社(蒲郡市・竹島)や三明寺(豊川市)と合わせて三河三弁天のひとつであ』るとあり、他にも「教育」の項に、『江戸時代後期から明治時代初期には崇運寺・妙海寺・阿弥陀寺で寺子屋が開かれて』いたとあるから、これらの寺の孰れかであろう。この島の御出身の方、本テクストの情報や春江の絵などからこの僧の居た寺を同定して頂けると嬉しい。

・「盤」これなら皿状のものとなるが、春江の挿絵を見ると、小さな壺である。訳では壺とした。

・「妄りに」ここは、むやみやたらに、一心に、一気に素早くの意であろう。

・「白塩」精製した、粒のやや大きめな乾燥した海塩。

・「攪き勻して」塩分を均等に行き渡らせつつ、激しく攪拌した上、平らにならすという謂いであろう。

・「佳境遊覧」伊董随庸(いとうずいよう)なる人物が江戸後期に書いた尾張藩地誌らしい。「海邦名勝志」「張州名勝志」とも称する。

・「大永二年」西暦一五二二年。室町幕府末期。

・「祇園會御見物御成記」大永二年六月に前年末に第十二代将軍に就任していた足利義晴が三条亭に於いて催した祇園社祭礼見物の記録。

・「このわた桶金臺繪あり」金で出来た高台で上に蒔絵が施された器に、「このわた」が盛られてあったものか。

・「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。

・「御咄の人々」御伽衆(おとぎしゅう)。主君の側近くにあって話相手をする役で、御咄 (おはなし)衆とも呼んだ。戦国時代以降、戦陣の慰安のための話、武士としての心得などについての話が喜ばれた。大内氏や武田氏などで老臣、功労者に話をさせたことに始まり、やがて毛利・豊臣・前田・徳川諸氏の間でも行われるようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「蛎」牡蠣。マガキCrassostrea gigas としておくが、季節が不詳なので、イワガキ Crassostrea nippona の可能性も高いか?

・「つべた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma 。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

・「幽齋」武将にして歌人の細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京都生。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興(ただおき)の父。足利義晴・義輝及び織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統としても仕えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した(講談社「日本人名辞典」に拠る)。

・「かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ」「かきくらす」は「搔き暗す」(他動詞サ行四段活用)で、あたり一面を暗くするを原義とし、さらに心を暗くする、悲しみにくれるの意を持つ。ここは両者の意を掛けるものと思う。それは、童門冬二氏の「小説 千利休 秀吉との命を賭けた闘い」(PHP研究所一九九九年刊)の中に、この狂歌につき、非常に面白い記述があり、それに基づく私の推理である。以下に引用する(私は本書は未見。グーグル・ブックスを視認した)。

   《引用開始》

 この頃の話にこんなものがある。地元の名産物である〝かき〟〝つめた貝〟(球形の貝殻をもつタマガイ科の巻き貝。砂泥をかためてつくる卵絵画茶碗を伏せた形で「砂茶碗」と呼ばれる)〝なまこ〟を献上した。秀吉は喜んで、

「幽斎殿、この献上物を素材に一つ歌を詠んでくださらんか」

 と持ち掛けた。幽斎はニコリと笑ってすぐ詠んだ。

「かきくらしふるしらゆきのつめたさに

  このわためしてあたためぞする」

 秀吉は思わず、

「おおう!」

と声をあげ、並み居る大名たちは歓声を上げた。幽斎の歌は、見事に献上された三つの品を詠み込んだだけではない。もう一つ意味があった。それは、

「このわたを男のシンボルに塗ると、熱を持って袴を突き上げるまともに歩けない」

 という俗信があるからだ。したがって幽斎は、

「関白様、もっと頑張りなさい」

 と暗(あん)にからかったのである。秀吉は妙なことを知っていた。だから、思わず感嘆の声をあげたのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

私は迂闊にも、こんな話は知らなかった。しかし、なかなかお世継ぎの出来なかった秀吉のことを考えると、これ目から鱗だ! 「尾張名所図会」の筆者岡田啓・野口道直(私は秘かにこの記事は野口の記したもののように感じている)も、実はこの詠歌の裏の意味を知っていて、さりげなく出したのではなかろうか? 御伽衆というのは、そうしたぶっ飛んだ傾奇者(かぶきもの)としての一面を持っていたはずであり、その彼らが、幽斎の狂歌に驚いたということを意味する本叙述は、確信犯でその裏の性的な意味を即座に理解したことを示すものであって、それをまた「室町殿日記」の作者は確信犯で理解していたからこそ、かく書いたとしか思われないからである。童門氏に大感謝!

 

□やぶちゃん現代語訳(読み易さを考え、適宜、改行を施した。)

 

海鼠腸(このわた)  大井村の名産。既に「名古屋名所図会」に記載しておいたものであるが、その主旨に幾分、誤りがあったので、依ってここの再び記すこととする。

 人見必大の「本朝食鑑」に、

 

――海鼠腸〔訓は「古乃和多(このわた)」。〕、尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近世の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通り。

一、浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

二、僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(しろじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

三、その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

四、かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味である。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以つて、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。』

と記してある。

 伊董随庸(いとうずいよう)の「佳境遊覧」に記されてあるものもまた、これ同じである。

〇割注

 大永二年の「祇園会御見物御成記(ぎおんえおんけんぶつおなりのき)」の献立の中に、『このわた 桶・金台――蒔絵を施してあり――』

と見え、また楢村長教(ならむらながのり)の書いた「室町殿日記」には、

『ある時、秀吉公、御伽衆(おとぎしゅう)を召されて雑談などをなさっておられたところへ、さる大名方(がた)より、牡蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸(このわた)の三種が進上されて参ったによって、太閤、これを御覧あって、

「さても幽斎! これに附けて一句ものせ!」

と、仰られたところ、幽斎殿、

「畏って御座る。」

と、即座に、

  かきくらし降る白雪(しらゆき)の給(た)べたさにこの綿(わた)召して温まりませ

と申し上げたところ、秀吉公、大いに興じ遊ばされた、ということである。』

と記してある。

 既にその頃には、この「このわた」を世に於いて賞美していたことが分かると言えよう。

2015/02/25

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅸ)

[やぶちゃん注:次の九頁及び十頁に以下の図。画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」のものを用いたが、九頁の画像は暗く細部がよく分からないので補正を加えて明るくしてある。キャプションはそれぞれ、右から左に電子化した。]

 

   A 「いとめ」の精液(擴大)

   B 「いとめ」の卵(擴大)

   C 受精せる卵(擴大)

   D 精 蟲(擴大)

 

Itome3_3

 

   バチの人工受胎模型圖

 

(A)受胎第一日

卵の周圍に一面に精蟲附着すれども卵の中に入ること能はざるもの無數にあるを見る。亦卵に近づくこと能はざるもの卵の間に群をなして活動す。卵は何れも既に受胎せるものなり。

室温平均十五度

氣壓七六五粍

 

(C)十日後の幼蟲

 

(B)受胎後第六日目檢鏡

人工孵化幼蟲、透明色なり。

 

Itome4

 

       四 食鹽水及び淡水による「いとめ」の精蟲及び卵の實驗

 バチの精蟲を4%の食鹽水に入れて檢鏡したるに頭部及び尾部は明かに認められ、3%迄は盛んに活動するが、4%以上の食鹽水に在つては精蟲は活動を停止する。

 卵は0.3%乃至1%の食鹽水中に在つては生理的に破壞されないが、蒸溜水に卵を混図れば十分乃至一時間にして生理的に全部破壞せられる。

 大正十一年十一月十八日深川木場に於ける著者の研究室の實檢に徴するに、隨分の濃度によつて「いとめ」の精蟲の活動に著るしき強弱の差を生ずる。實檢は當日午後六時より九時三十分に渉り、温度三・九度氣壓七六八粍、雨天であつた。實驗に用ひた食鹽水の濃度は

  0.1       0.2%    0.3

  0.4       0.5%    0.6

  0.7       0.8%    0.9

  1         1.5%    2

    3

等であつたが、精蟲は其中

  0.7       0.8         0.9

  1         1.5         2

の各溶液に於て最も盛んに卵に向つて飛び附き、4%の食鹽水中に於ては運動を中止した。又0.8の食鹽水中に在つては百二十時間を經過するも尚ほ盛んに運動を續けてゐた。即ちバチの生殖物に鹽物の必要なることが解る。「いとめ」の生殖群游に潮水の流動を必要とすることは明かである。泥中に於ては性交すること能はざるが故に浮游することは無論であるが、若し潮水の流動が全然不必要であるならば、比較的河底に近き所に於て性交するも差支ない筈である。然るに流動の最も強き表面に浮び出るのは明かに潮水の流動を必要とし、之によって生殖運動を盛んならしむる鹽分中にあつて卵と精蟲との接觸する機會を多からしめる爲である。

 泥中に生存する時は、たとひ干潮時に當りて海水を混ぜざる淡水が流れ來るとも、泥中に或程度までの鹽分を含有するが故に生存に支障を生じない。けれども一度後體部をちぎつて浮び出で、性交受胎し且つ孵化して水中を游ぎ廻りつゝある時に於ては、若し其棲息する河水の干潮時に淡水が一時に流れ來らんには精蟲の運動は不可能となり卵は生理的に破壞せられざるべからず。斯る不利益なる條件の備はる場所に居る時は一時に全滅に歸せざるべからざることは先きに述べたる實驗に徴して明かである。恰も戰時の密集部隊に毒瓦斯を散じたるが如き惨憺たる狀態に陷らざるを得ない。さればバチは干潮時に於ても尚海水の存在する場所まで流れゆかなければならない。これバチが漲潮時に浮ばずして落潮時に群游する所以である。

[やぶちゃん注:「大正十一年十一月十八日」西暦一九二二年のこの日は土曜日。この月十一月の月齢は五日が望で、実験の翌日の十九日が朔であった。前の記載に『朔若しくは望の翌日に群游することが多かつた』とあることから、新鮮な精子と卵子を実験用に得たとすれば、実験用の検体は実験の十二前の十一月六日(月)以降の約十一日間の間で入手されたものかと推測される。

「恰も戰時の密集部隊に毒瓦斯を散じたるが如き惨憺たる狀態に陷らざるを得ない」……木場の赤ひげ先生のこの悲惨な論文らしからぬ比喩、その確信犯に何か私は感ずるものがあるのである。……]

 アルカリ液中に於ては0.1%より0.8%に至る濃度に於てバチの精蟲は尚運動をなせども暫時にして之を休止し、0.8%アルカリ液中に在りては約一分時にして運動を中止する。

 酸の實驗に於ては、弱き溶液中在りてもバチの精蟲は直ちに運動を中止するを見る。

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