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カテゴリー「芥川龍之介」の606件の記事

2017/12/04

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 死相(葛巻義敏編集)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠った。葛巻氏の推定(底本では本文末に彼の推定クレジットがある)によれば、本篇の執筆時期は先に電子化した狂人とほぼ同時期か少し後の、明治四二(一九〇九)年或いはその翌年とされる。芥川龍之介十七、八歳、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)五年生(当時の旧制中学は五年生)か、東京帝国大学予科第一高等学校一年生の時のもので、同じく、青年期の芥川龍之介の最初期の本格小説の一篇と言える。但し、葛巻氏は恣意的な文脈合わせのための複数原稿の継ぎ接ぎを行ってしまって(底本の資料価値が研究者の間で著しく評価されない(例えば本「死相」は芥川龍之介の作品として挙げていない芥川関連書も多い)のはそのため)、整序されたものであることを了解した上で読まなくてはならない。冒頭の「編者註」にもそのことを含めつつ、『この一篇は、書式・其他等も、前の「老狂人」と変りなく、改良半紙に墨書きされたものであるが』、「老狂人」などより、遙かに『草稿の草稿であったらしく、無數の書きかえ部分と、その判讀しがたいまでの訂正のあととをとどめている。――(従ってこれは云う迄もなく、当然編者による、つなぎ合せ原稿である。)執筆の年代は相、「老狂人」よりも遅いかと思うが、(これはその亂れて書かれている筆蹟や墨のいろから判斷して、)しかし、それは幾ら遅いと考えても、中學の最高年級から高等学校の初年級までのものとしか思われない。――前の「老狂人」の場合には、偶然にもしろ、そのノオト斷片の樣なものがあったが、これについてはその文字なり、何からなり、想像し、その年代を推定するしかない。いま、それらの編者なりの詳しい「考証」は省くが、此處にも、――どこか、その天折と云うことに對しての、かなり強い關心が見られる。しかしそれは弱々しいものとしてあるのでなく、かなり鮮かな色彩感を以て在る事に、編者はかなり興味を感じている』と記し、こ『れには「不思議な、生への」情熱が感じられはしなかろうか。その作品の外貌とは別に』と述べておられる。

 〔 〕は編者の補訂字及び割注(判読不能注記)である。これがないと、そこで躓いてしまうので、敢えて採用させて貰った。傍点「ヽ」は太字に代え、踊り字「〱」は正字化した。「出刃」の「刃」は底本では異体字の「刀」の最終画左払いの左側面に離れて縦に点が打たれたものである。

 なお、冒頭の「蹠」は、私は「あうら」と読みたい。足の裏の意である。「暖な」は「あたたかな」である。【2017年12月4日 藪野直史】]

 

 死相

 

 年をとつた占者(うらなひ)は、白い眉の間に皺をよせながら、下から自分の顏を見た。

 長い衣が蹠がかくれる位にひきずつて、栗色の衣に、靑藍色の帶に、黃色い皮の袋に、白い眉をして、この易者は下から窺きこむやうに、自分の顏を見た。――(其袋の中には、多分――大方、天眼鏡でもはいつてゐるのであらう。――)頭には、毛が一本もなく、褐色の顏には、干からびた唇が久しい前から開いた事のない樣に、閉じてゐる。

 自分は頤に襟にうづめて、この腰かけた老人と向ひ合つて立つてゐた。――老人は、「ふうむ。」と、何度もうなづく樣に、自分の顏を見上げ、見下ろした。

「そんなに、何故、人の顏を見るのですか。――」

「見やう筈よ。」

 老人は、見るたびに、かう云つた。

 自分は、この易者と向び合つてゐるのが厭になつた。――算木も筮竹も持つてゐない易者は、自分の眉の間を指して、かう云つた。

「眉の間に、曇りがあるわ。――若死の證據よ。眉の間が、曇つてゐるのは。――」

「それが、どうしたと云ふのです。――」

「どうしたと云ふて、ただ、それだけの事ぢやよ。――」

「何時、死ぬのでせう。」と、自分はきいた。――思はぬ事に、自分の聲は、かすかにふるえてゐた。

「日輪がの。――日のうちに、暮(くら)くなる日が來るのぢや。――赤い日のおもてを、暗いかげが、蝕(は)む日よ。それを知らず、烏(からす)のむれが、輪をかいて鳴かう日よ。――その日には、向日葵(ひまはり)が散るがの。その花が散りつくすと、――やがて、若い命が亡(ほろ)ぶのぢや。それそれ、おぬし、向日葵のやうな命が、散りつくさう日よ。――」……老人は、「たゞ、それだけの事ぢやて。――へ、へ、へ、」と、その黑ずんだ、紫の唇で答へただけの事だつた。

 自分は默つてうなづいた。さうして、下を向いて、自分は自分の死ぬ日の事を考へながら、うちへかへつて來た。

 庭には、大きな向日葵(ひまはり)が黃色い花瓣の底に、黃色をした杯ほどの芯をつゝんで、――鮮かな〔葉〕の上に、暖な日の光を吸つてゐた。この花が散りつくしてしまふと、自分は死ななければならない。この花さへちらなければ、――自分は早速、この向日葵の根もとに、水をやつた。

 それから每日、向日葵に水をやつては、空の日を眺めてゐた。

 每日、大きな赤い日は東から出て、西へ沈んだ。しかし、日のおもては、燒金(やけがね)のやうに赤いばかりだつた。自分は老人が噓をついたのかと疑つた。かうやつて、何日向日葵(ひまはり)の根に水をやつたかわからない。さうして、水は何度柔かな土をしめしたかわからない。けれども向日葵は每日その黃色い花を東から西へ動かし、赤い日は每日、東から西へ、明(あかる)い空をめぐつてゐた。

 その中(うち)に、ある日まつ赤(か)な日が空のたゞ中へ來ると、暗い影が、その右の端にやどりはじめた。自分は息をとめて、その影が蟻のはふやうに、日のおもてを往(ゆ)くのを眺めた。暗い色がひろがるにつれて、空が夕方のやうにうす暗くなつて往つた。

 さうすると、西からも東からも、南からも、北からも、――黑い鳥が、木の葉のふるやうに、日のめぐりに集つて來た。黑い鳥は大きな輸を描いて、嬉しさうにないた。――それが皆、烏であつた。

 向日葵は、東から西へめぐるのをやめた。

 大きな黃金(わうごん)色の花は、眞つ暗い日を仰いだまゝ、じつと動かずに立つてゐた。自分も向日葵(ひまはり)のもとにすはつて、矢張暗い日を仰いで、――老人の云つた事は、ほんたうだと思つた。

 さうすると、黃色い出刃のやうな形をした、其大きな花群がぽたりと、――自分の胸の上へ落ちた。

「一つ。」――と、自分は勘定した。しばらくすると、又思ひ出したやうに、ぽたりと黃色い花瓣が散つた。「二つ。」――と、自分は漸く數へる。

 どす黑く濁つた空からは、絶えずものゝ聲が聞えて來た。それは〔以下数字分不明〕れたのを、つぶやくやうな聲であつた。――自分は、鳥が啼くのだと考へた。

 さうすると、三番目の花瓣が又、重たさうに、濕(しめ)つた黑い土の上に、黃色い瓣をつけた。

 空はだんだん暗くなる。――向日葵の眞つ黃色な花は、絶えまなく散つた。かうして、――自分は死ななければ、ならない。

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 老狂人

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠った。葛巻氏の推定(底本では本文末に彼の推定クレジットがある)によれば、本篇の執筆時期は明治四一(一九〇八)年或いはその翌年とされる。芥川龍之介十六、七歳、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)四、五年生(当時の旧制中学は五年生)の時のもので、青年期の芥川龍之介の最初期の本格小説の一篇と言える。しかし、その末尾の龍之介少年の懺悔の述懐は、「西方の人」を書き上げた直後に自死した後の芥川龍之介を髣髴とさせ、初読、私は激しい身震いを感じたものであった。

 〔 〕は編者の補訂字である。ないとそこで躓いてしまうので、敢えて採用させて貰った。踊り字「く」「〲」は正字化した。一部の字の大きさは私の推定判断で変えてある。

 以下、先に簡単に語注を施しておく。

 冒頭に出る「兎合菜」は不詳。識者の御教授を乞う。

 「大神宮」は伊勢神宮。

 「無花果(いちじゆく)」イチジクの語源説には「一日に実が一粒ずつ熟(じゅく)する」からというのがあり、則ち、「一熟(いちじゅく)」の音転訛とするもので、これが正しとすれば(かなり有力な説と思われる)、「いちじく」が正しく、しばしば目にする「いちぢく」は誤りであることが判る。実際、他の作家のものでも無花果を「いちじゆく(いちじゅく)」と訓じているものがある。

 「十六むさし」日本の子供の遊びとしての伝統的ボード・ゲーム。少なくとも、江戸から明治にかけてよく遊ばれた。二人で行なう非対称なアブストラクト・ゲームで、漢字では「十六武蔵」「十六六指」などと書かれた。詳しくは参照したウィキの「十六むさしを見られたい。

 「丁うど」は衍字。丁度(ちょうど)。

「白粉の花」「おしろひのはな」でオシロイバナのこと。

【2017年12月4日 藪野直史】]

 

 老狂人

 

 小さな豆腐屋です。

 黃色く油をひいた腰障子にあかあかと秋の夕日がさして、よく兎合菜をいれる黑ずだ桶が二つ三つならんでほしてあつたのを、未だにはつきりと覺えてゐます。

 家の中をのぞきこで見ますと、濡れた流しがうす靑く光つて、低い軒さきにはひからびた烏瓜がさびしくぶらさがつて居りました。時によると、うすぐらい中で豆をひく聲がごとごと――あの雨もよひの晩に蟇(ひき)のなくのをきくやうに――きこえましたが、大抵はしんとして、これでも人が住ンでゐるかと疑つたくらゐでした。

 私たちが秀(ひで)馬鹿とよだ老狂人は、この豆腐屋の隱居なので、母の話では、もとは何百石とかの旗本でまだ母が唐人髭に〔ゆ〕つて赤い布をかけてゐた時分には、滑な式の鏡板が人の顏もうつしさうな玄關には、金蒔繪の定紋をおいた長持やら黑ぬりの鞘をかけた手槍やらが、挨もかぶらずに古(いにしへ)の俤を見せてゐましたが、唯主人が切支丹の信者だとか云ふうはさがあつたので、人はあまりよく言はなかつたと云ひます。

 主人が氣が違つたのは、瓦解の後間もなくで、世間では切支丹を信じて大神宮樣の御ふだを燒いた罰だと云つたさうですが、この狂人が其正教徒――舊日本のあらゆる嚴酷な宗教の制度に反抗したキリスト教徒の一人だつたと云ふ事はまんざら噓でもありませんでした。

 私はよく覺えてゐます。このうすよごれ〔た〕靑い毛布を腰にまいて、黑い皮の表紙の 大きな本を抱きながら、さも肩の上にのしかゝつた、かぎりない不安に堪へないやうに、力のない目で往來の人の顏を一人一人ながめるかと思ふと又、うつむきがちにたえず唇をうごかして獨言(ひとりごと)をいひながら、絶望したやうに頭をたれて、雨あがりの深い轍(わだち)のついた其堅い泥の道をよろめきながら步いてゆく年老つた狂人の後姿は、いつも幼い私に朧げな宿命の嘆きを感じさせました。

 そればかりではありません。私はこの老狂人について忘れがたい、ふかい記憶を持つてゐるのでした。

 夏の夕がたです。私は、幸さんの家へ遊びに行きました。

 幸さんは、私のやうに氣のよはい、どつちか〔と〕云へば、女々しい〔子〕だつたので、學校ではいつでも、私と幸さんとがいぢめられるもの〔と〕、きまつて居ました。打(ぶ)たれたり、石を投げられたりするたびに、二人は一緒に泣いて、なぐさめ〔合つた〕小學生でした。

 幸さんの居間になつてゐた六疊の緣先が、大きな無花果(いちじゆく)のある狹い庭で、私たちは家の内で十六むさしをしたり、五目ならべをしたりするのに倦きますと、よくこの庭へ出て、遊び遊びしたものです。

 その時も二人でこの庭で遊で居ますと、幸さんは、ふいに笑ひながら「秀馬鹿の泣いてるのを見たかい。」ときゝました。「見ない」と、私が答へますと、「見給へ、可笑しいから。」と云つて又、私のけゞんな顏をしてゐるのを笑ひます。

「どこで泣いてるの。」「あすこでさ、毎晩夕が〔た〕になると大抵ないてるだよ。」幸さんは、私をつれて無花果の靑い大きな實のかげにはいりました。

 さうして二人で、垣根のやぶれた處から、むかうをのぞきました。

 丁うど幸さんの處と豆腐屋の庭とは、垣根を一つへだてゝとなりあつてゐるのです。じめじめした小さな庭には、所々に紙くづがちらばつてそれが夕〔や〕みの中に、ほの白く見え、まだ、ランプをつけない豆腐屋の中はまつくらで、其奧の方から、鈍いおもい響がごとことと呟くやうにきこえて來ます。大方豆をひいてゐるのでせう。

 其じめじめした小さな豆腐屋の庭は、ひよひよした白粉の花が、夕たそがれの中にもほの白くさいて、所々に紅色のもまざりながら、そのあまい香と、無花果の樹のさゝやきとが、しつとりとした夏の夜の大氣に水のやうなしづけさを漂はせて居りました。

 私たちは垣根にぴたりと身をつけて、家の中をすかして見ました。それでも夕闇みの中には唯、あの向(むかう)の聲はきこえるばかりで、物のかげは見え〔ませ〕ん。

「居ないぢないか。」「居るだよ、君、くらいから見えないだ。」

「いつまでまつたつて見えないよ、きつと。」「もう少し待ち給へ。ね、――もう少し。」

 こんな呟(つぶやき)が、二人の所から洩れました。何だか昔話にある、封印をうつた瓶をひらいて、あやしいものゝかくして置いた濃綠色の酒でものむやうなものずきな心が、小さい胸をうごかしたので、私たちは蚊にくはれながら何分か、このくらい無花果の葉かげに立ちくらしました。

 ふいにあたりがあかるくなりました。月が出たのです。と、うす靑い光は、白粉の花の上を流れながら、豆腐屋の、低い緣側の邊もぬらしました。さうして私たちには、その右側の柱によりかゝつて兩膝を抱きながら、頭を其間にうづめた老人のすがたが、見えました。側(かたはら)には、大きな本がひらいたまゝ置いてあります。あの黑い皮の、表紙の本でせう。私たちは、息をひそめました。

 たよりない、さびしい聲が、あのうつむけた、白髮の下からきこえて來るのです。

「天にまします………さんたまりあ……… つみ人を……」きれぎれな、しかも深い感激にみちた、祈禱の言(ことば)が、低く、かなしく、刺すやうに、私たちの耳に、ひゞきました。

 その聲が、とぎれたと思ふと、やるせのない、慟哭の聲が、更に強く、更にかなしく、限(かぎり)ない、多く〔の〕人々の胸を通じて、びゞいてゐる、生の孤獨を訴へる聲が、この人々にかはつて、この老人の口からもれたやうな、――私には、その興奮した息づかひまで、きこえたやうに思はれました。あらゆる苦しみをわすれた、あらゆる樂しみをわすれた、唯、奧ふかい、まことの「我」から起つてくる、淚がとめどなく、あふれるの〔で〕せう。老狂人は、いくども、慟哭の聲をつゞけてゐました。

 ――其の中に、忍び笑の聲が、くすくすと、幸さんの唇からもれました。

 私もつりこまれて、笑ひました。さうして、二人で、「可笑しな奴だね、」と呟きました。

 其時には、もう月の光は、緣側にさゝなくなり、まつ暗な家の中には、うすぐらいランプが、煙つたやうな黃色い灯(ひかり)をとぼしても、老狂人の姿は、たゞ影のやうに見えました。

「可笑しな奴だね」と笑つた私は、今では、その「可笑しい奴」に、深い尊敬を感ぜずにはゐられません。あの祈禱と慟哭、信徒を磔刑處したと云ふ、封建時代の教制に反抗した殉道の熱誠、――私は、〔未〕だに、あの時老狂人に加へ〔た〕嘲笑を、心から恥ぢてゐます。

2017/12/03

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 註文無きに近し


[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年三月発行の『新潮』に「家と庭の隨筆」の大見出しの元に掲載された。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介全作品事典」の中村良衛氏の解説によれば、これは複数作家への「家と庭の隨筆」という企画での依頼原稿で、『他に近松松江、吉田絃二郎、室生犀星、加藤武雄が執筆しているが、』他の作家たちの原稿は『平均九枚前後の分量であり、芥川のだけが極端に短い』とある。自死の凡そ五ヶ月前の発表である。

 底本とした岩波旧全集では、その大見出しが編者によって仮の副題としてダッシュで挟んで添えられているが、除去した三段落構成で各段落間に一行行空きがあるのはブラウザ上の仕儀ではなく、ママである。最後に注を附した。【2017年12月3日 藪野直史】]

 

 註文無きに近し

 

 家には格別註文もない。第一註文し始めれば際限ないことはわかつてゐる。一昨年書齋を拵へたものの、冬は寒いのにやり切れない。おまけに米材が黑み出すのにはかなさを感ずるばかりである。

 

 庭にも註文のないことは同樣である。のみならず僕は室生君のやうに心から庭を作らうと思つてゐない。──と云ふよりも作らうと思ふほど、精神的に餘裕がないのだらう。善い加減に矢竹や唐棕梠を植ゑた、田端の庭にも不滿はない。

 

 唯現在の僕に欲しい家は何よりも先に日當りの善い、暖房設備の行き屆いた、しかも家賃の安い家である。庭も多少の空地だけ欲しい。そこへ室生君とも相談の上、澤庵石に松の木でも植ゑれば、少くとも僕には不足のない庭になることと信じてゐる。

 

[やぶちゃん注:「米材」「べいざい」。アメリカ産の材木の意。大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災後、建材の需要が増えた結果、その不足を補うためにアメリカから輸入された復興用外材(主に杉・檜)を指す。

「室生」室生犀星には造園趣味があった。龍之介は彼から庭の蹲(つくばい:手水鉢)を貰ったりもしている。大正一三(一九二四)年一月(『サンデー毎日』)に発表された芥川龍之介の「野人生計の事」の「二 室生犀星」の後半を引く(リンク先は私の古い電子化注)。

   *

 室生はまだ陶器の外にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑたり、叡山苔を匍はせたり、池を掘つたり、葡萄棚を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を拂つてゐる借家の庭に入らざる數寄を凝らしてゐるのである。

 或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絶えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の外に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。

「ああ、あれか、あれはあすこのつくばひへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い管をさして……」

 室生は澄まして説明した。室生の金澤へ歸る時、僕へかたみに贈つたものはかういふ因緣のあるつくばひである。

 僕は室生に別れた後、全然さういふ風流と緣のない暮しをつづけてゐる。あの庭は少しも變つてゐない。庭の隅の枇杷の木は丁度今寂しい花をつけてゐる。室生はいつ金澤からもう一度東京へ出て來るのかしら。

   *

「矢竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ Pseudosasa japonica。和名は矢の箆(の)(竹製の幹部。矢柄(やがら)・矢軸)の主材としたことに拠る。

「唐棕梠」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属トウジュロ Trachycarpus wagnerianus。中国原産の帰化植物であるが、江戸時代の大名の庭園には既に植えられていたらしい。

田端の庭にも不滿はない」芥川龍之介は本篇発表の前年大正一五(一九二六)年(十二月二十五日に昭和に改元)末までは鵠沼に家を借りて療養(寧ろ、結果的にはある種の現実逃避、或いは、心機一転の新生活というよりも悲愴な自死模索のためとなった)していたが、鵠沼での生活はその末を以って断念した。形の上では本篇発表のこの昭和二(一九二七)年三月まで鵠沼の借家は借りていたものの、昭和二年になってからは殆んど滞在せず、同三月二十八日に退去整理のために赴き、四月二日まで滞在したのが、恐らくは最後であった。ここで芥川龍之介が敢えて「田端の庭」を挙げ、「にも」と添えたのには、過ぎ去った日の鵠沼の庭の思い出が揺曳していると言え、その、今の田端の庭に向けている龍之介の視線はまさに〈末期の眼〉としてのそれであることを看過してはならない。冒頭注で示した「芥川龍之介全作品事典」の中村氏の解説でも、この短文に『神経衰弱や精神的圧迫感をここに読みとるのはさほど困難ではない』とされ、『かつて彼の骨董趣味や詩趣を刺激したはずの田端の家に対するそっけないほどの言辞は、精神的に追いつめられた彼のありようを痛々しいまでに伝えている。庭に対して望んだ「沢庵石」と「松の木」の取り合わせに、単なる景観とは異なる暗い翳を見ることはあながち強引ではないはずである』との見解に、私は激しく共感するものである。]

2017/11/30

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)  猪・鹿・狸

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された。「猪・鹿・狸」は画家から民俗学者となった早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)が大正一五(一九二六)年十一月に郷土研究社から刊行した表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡横山村(後注参照)を中心とした民譚集で、本篇はその書評である。底本は岩波旧全集を用いた。但し、元は総ルビであるが、読みが振れると私が判断したもののみのパラ・ルビとした。傍点「ヽ」は太字とした。簡単な注を後に附した。因みに、私はこの早川孝太郎の「猪・鹿・狸」を、いつか、全篇、電子化注したいと思っている。【2017年11月30日 藪野直史】]

 

 猪・鹿・狸

 

 僕の養母の話によれば、幕末には銀座界隈にも狸の怪のあつたといふことである。酒に醉つた經師屋(けうじや)の職人が一人(或は親方だつたかも知れない)折か何かぶらさげながら、布袋屋(ほていや)の橫町へさしかゝると、犬が一匹道ばたに寢てゐた。犬は職人が通りかゝるが早いか、突然尾でも踏まれたやうにきやんと途方もない大聲を出した。職人は勿論びつくりした。するといつか下げてゐた折も足もとの犬も見えなくなつてゐた。これは狸が折を盜むために職人を化したとかいふ噂だつた。……

 今日(こんにち)の銀座界隈に狸のゐないことは勿論である。いや、早川孝太郎さんの「猪・鹿・狸」(郷土研究社出版)の教へるところによれば、遠江の國橫山にさへ狸の人を化すことはだんだん稀になつて行くらしい。しかしその話だけは未(いま)だに澤山殘つてゐる。のみならずそれは人跡の少ない山澤(さんたく)の氣(き)を帶びてゐるだけに經師屋の職人の話よりも底氣味(そこきみ)の惡いものを含んでゐる。

         *

 ──或男が日暮方(ひぐれがた)に通りかゝると、道の脇の石に腰をかけてゐる人があつた。かたはらへ寄つて見たら、それが男だか女だか、又前向きだか後向きだか薩張(さつぱ)り分らなんださうである。──

 かういふ話は、世間に多い怪談より餘程無氣味である。尤も「猪・鹿・狸」はその標題の示す樣に狸の話ばかり書いたものではない。同時に又前に擧げたやうに氣味の惡い話ばかり書いたものでもない。僕はこの本を讀んでゐるうちに、時々如何にも橫山じみた美しい光景にも遭遇した。

         *

 ──又自分の村の山口某(ぼう)は山中の杣小屋(そまごや)へ、村から飛脚に立つた時途中の金床平(かなとこだひら)の高原で夥しい鹿を見たというた。(中略)金床平へ掛かつた時は、八月十五夜の滿月が晝のやうに明るかつたさうである。見渡す限り廣々とした草生(くさふ)へ掛かつて、初めて鹿の群(むれ)を見た時は、びつくりしたといふ。丸で放牧の馬のやうに、何十とかず知れぬ鹿が月の光を浴びて一面に散らかつてゐたさうである。人間の行くのも知らぬ氣に平氣で遊んでゐたのは恐ろしくもあつたが、見物(みもの)でもあつた。中には道の中央に立ふさがつたり、脇から後を見送つてゐるのもあつた。──

 かういふ鹿の大群の話に、フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節を思ひ出すものは僕ばかりではないかも知れない。「猪・鹿・狸」は民俗學の上にも定めし貢獻する所の多い本であらう。しかし僕の如き素人にもその無氣味さや美しさは少からず魅力のある本である。僕は實際近頃にこのくらゐ愉快に讀んだ本はなかつた。卽ち「オピアム・エツクス」をのむ合ひ間にちよつとこの紹介を草することにした。若し僕の未知の著者も僕の「おせつかい」をとがめずにくれれば仕合せであると思つてゐる。(一五・一一・二七)

 

[やぶちゃん注:「僕の養母」芥川龍之介の実母フクの兄で養父となった道章の妻トモ(儔)。

「經師屋」書画の幅(ふく)や屏風・襖(ふすま)・御経などを表装する職人。表具師。

「布袋屋」銀座(当時は尾張町)にあった呉服店の屋号。

「遠江の國橫山」現在の静岡県浜松市天竜区横山町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「自分の村の山口某(ぼう)は……」これは「猪・鹿・狸」の「鹿」のパートの「十九 木地屋と鹿の頭」の掉尾にある話で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像 で視認出来る。

「金床平」恐らくは愛知県新城(しんしろ)市黄柳野金床(つげのかなどこ)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「フロオベエル」フランスの小説家ギュスターヴ・フローベールGustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)。

『「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節』一八七七年に刊行されたフロベールの短編小説集「三つの物語」(Trois Contes)の中の、聖人を題材にした「聖ジュリアン伝」(La Légende de Saint Julien l'Hospitalier)の第一節の後半、ジュリアンが狩りに出、擂鉢状の谷に無数の鹿が群れているのを発見し、残らず射殺すシークエンスを指す(ここは筑摩書房全集類聚版芥川龍之介全集の注記に拠った)。

「オピアム・エツクス」opium extract か。ケシから抽出された阿片エキス。アヘン末をエタノールに浸出させたもの。この頃、芥川龍之介は痛み止め(主に悪化していた痔疾に由来する痛み)や睡眠薬(神経衰弱)として齋藤茂吉から本剤を処方して貰っていたことが書簡(本脱稿の六日前の齋藤茂吉宛同年十一月二十一日附〔旧全集書簡番号一五二九(『アヘンエキス』送付懇請)・一五三〇(「オピウム」受領御礼)〕・同宛同年十二月四日附〔旧全集書簡番号一五三六(『オピウム每日服用致し居り』)〕・同宛同年十二月十三日〔旧全集書簡番号一五四一・『鴉片丸乏しくなり心細く』〕(総て鵠沼から)によって確認出来る。鴉片エキスの他、ホミカ・下剤・ベロナール・痔の座薬等、まさに薬漬けの痛ましい毎日であったことが知れる。

(一五・一一・二七)」脱稿日。大正一五(一九二六)年十一月二十七日。この凡そ一ヶ月後の十二月二十五日に昭和に改元。自死のほぼ八ヶ月前。因みに本篇の発表された十二月六日の三日後の十二月九日は師夏目漱石の祥月命日で、盟友小穴隆一によれば、芥川龍之介はこの日に自殺を決行しようと考えていた時もあったとしている。私の『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介全作品事典」で本篇を担当した中島和也氏は『満月の光を浴びて高原に群なす鹿の姿を記した』早川の本文の『引用から「フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩の一節を思ひ出す」芥川の眼は、近代の日本が駆逐した幻想性の魅力に注がれる。そして、「僕は実際近頃にこのくらゐ愉快に読んだ本はなかつた」と率直に評しながら、一方で「オピアム・エツクス」を(麻酔薬)を飲む合間の仕事と』、『日常の薄暗さをシニカルに垣間みせる。当時の芥川の苦悶さえ窺わせる書評である』と評しておられるのには激しく同感するものである。満身創痍の龍之介の、たかが書評、されど、である。

2017/10/29

芥川龍之介が中国旅行で「黄鶴楼」として登ったのは「黄鶴楼」ではなく「奥略楼」である

芥川龍之介は中国旅行の紀行の掉尾としてアフォリズム小品「雜信一束」を残している(リンク先は私の電子化注)が、その「三 黃鶴樓」で、

   *

       三 黃鶴樓
 
 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、
 僕――鸚鵡洲は?
 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。
   *

と、如何にも感興を削いだ形で呟いているのが、ずっと気になっていた。私はただ、新築復元されていた黄鶴楼が、龍之介には、田舎芝居の安物の大道具のようにしか見えなかったからだろう、ぐらいにしか憶測したに過ぎなかった。

ところが、昨日、中国在住の教え子が以下の興味深い考察――恐らくは芥川龍之介研究家の誰も認識していないであろう事実――を呉れた。以下に引用して示す。写真も彼の送ってくれたものである(1・2・4は写真から絵葉書(或いはそれを複写掲載した古書)と判断出来、それをこの考証の真偽を高める参考引用資料として使用することは著作権上の問題ないと考える。3も恐らくは同じように推定されるが、万一、個人写真で、現在も著作権が存続している場合、当該著作権保有者からの直接親告があれば除去する)。

   *

現在の黄鶴楼は一九八五年竣工。それ以前はどうだったのでしょうか。清代再建の黄鶴楼は現在のように丘の上ではなく、長江のほとり、現在の長江大橋の橋脚が立つ地点にありました。しかしそれは一八八四年に焼けてしまいました(写真1)。同じ場所に一九〇四年、警鐘楼という西洋風楼閣が建てられました(写真2)。続いてその東側、長江から見て奥(二つの建築が同時に見える写真3。その建物の形状と地形から、位置関係が明らかです)に、一九〇七年、風度楼(写真4)という中国風楼閣も建てられ、竣工後に奥略楼と改名されました。西洋人向けの絵葉書などには、警鐘楼が誤って黄鶴楼として紹介される例もありました(写真2がその例)。しかし概ね奥略楼が黄鶴楼と誤認される時期が続きました。一九五五年、二つの建築はともに長江大橋建設のため撤去されます。
さて、龍之介の武漢訪問は一九二一年です。したがって彼が立っていたのは明らかに現在の黄鶴楼ーー長江から一キロも離れた丘の上に立つコンクリート製の楼閣ではありませんでした。それは奥略楼だったのです。念のため申し添えておくと、なぜ警鐘楼ではないのでしょうか。それは、まず『目の下に並んだ瓦屋根』という彼の表現です。警鐘楼の下には瓦屋根の建物はありません。次には、私の確信です。西洋の城郭みたいな建築が黄鶴楼だなんて、龍之介が受け入れるはずはありません。
結論をもう一度繰り返します。龍之介が立ったのは、現在見られる黄鶴楼ではありません。河岸の奥略楼でした。現在の長江東岸、長江大橋がまさに長江の上に伸びて行く直前の、橋脚聳える場所です。どうかいま一度警鐘楼の写真をみてください。もしここに唐代の黄鶴楼があったのだとしたら、漢詩《黄鶴楼送孟浩然之広陵》で想像される景色『孤帆遠影碧空尽  唯見長江天際流』は、随分と違ったものになるのではないでしょうか。


写真1

Koukakrou1

写真2

Koukakrou2

写真3

Koukakrou3

写真4

Koukakrou4


   *


龍之介よ、君が登ったのは黄鶴楼ではなかったのだ。


幽かな憂鬱が、一つ、消えた。
 
 

2017/06/14

急告! 芥川龍之介が死の床で着ていた中国産浴衣は現存するか?

芥川龍之が愛用し、死後の作品集「大導寺信輔の半生」で小穴隆一が装幀にその図柄を用いたと推定される――私の「推理:芥川龍之介の死出の旅路の浴衣の背中の紋様は、これではないか?」を参照のこと――死の床で着ていた中国産浴衣は現存するか? 芥川龍之介を研究しておられる若きスペインの研究家が著作の資料のために現存すれば見たいとメールしてこられた。現存し、その所蔵者を知っておられる方は、是非、お教え願いたい。

 
Siyukata


2017/02/27

鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介と盟友の画家小穴隆一の二人(ににん)句集で、大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と小穴一游亭隆一の発句五十句から成るものとして発表されたものである。私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。

 今回、小穴隆一の随筆集「鯨のお詣り」の全電子化注をブログで完遂したが、その中に小穴隆一分の「鄰の笛」が掲載されていた。そこで岩波書店の正字の旧「芥川龍之介全集 第九卷」の「詩歌」に載る「鄰の笛」の芥川龍之介分と、その小穴隆一分を合わせて、形の上での初出形を、推定復元したものが本テクストである。当該「芥川龍之介全集第九卷」の編者の「後記」によると、文末に「後記」で始まる一文があるとされているので、そこに載るその「後記」を小穴隆一分の後に配してみた。順序は芥川龍之介・小穴隆一とした。小穴隆一を前に持ってくることは改造社側が認めなかったであろうと推断したからである。また、柱がないとおかしいので、頭にそれぞれ「芥川龍之介」「小穴隆一」という署名を配した芥川龍之介のパートの最後に『――計五十句――』とあるので、同じものを小穴隆一パートの最後にも附してみた。くどいが、推定復元であって、初出実物は見ていないので注意されたい

 なお、大正十四年七月、芥川龍之介は、この二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている(ちなみに筑摩書房全集類聚版の同書簡では、ここが八十二字分削除されてある)。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである)。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の小穴隆一の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を「米搗虫」は、

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。さらに、「鯨のお詣り」の「鄰の笛」の後には、追加するように、

 

  小春日

蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし

 

  歳暮の詞

からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる

 

ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

  アパート住ひの正月二日

けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな

 

四句が掲げられて、その後に前の「隣りの笛」を含めて『大正九年――大正十四年』のクレジットを打っている。このことから、小穴隆一が自分の五十四句の中から、芥川龍之介の五十句に合わせるために送られてきた「鄰の笛」校正刷で削除した四句は以上の四句である可能性が高いと私は考えている。

 芥川龍之介の「鄰の笛」は、既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」で電子化注しているが、今回、初学者向けに注を大幅に追加した。相同句や改稿句があり、それらについて注をしたものが「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」にあるので、それらも参照されたい。

 芥川龍之介と小穴隆一の友情の思い出に――【2017年2月27日 藪野直史】]

 

 

 

 鄰の笛

   ――大正九年より同十四年に至る年代順――

 

 

 

 芥川龍之介

 

 

竹林や夜寒のみちの右ひだり

 

木枯や目刺にのこる海のいろ

 

臘梅や枝まばらなる時雨ぞら

 

[やぶちゃん注:「臘梅」「らふばい(ろうばい)」と読む。双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ Chimonanthus praecox。中国原産。一月から二月にかけて、やや光沢を持った外側の花弁が黄色、内側中心にある花弁が暗紫色の、香りの強い花を開く。「梅」と附くが、バラ科サクラ属スモモ亜属ウメ Prunus mume の仲間と思われがちであるが、全くの別属である。唐の国から来たこともあり唐梅とも呼ばれ、また中国名も蠟梅であったことに因む。本草綱目」によれば花弁が蠟のような色であって尚且つ臘月(旧暦十二月の異名)に咲くことに由来するという(以上は主にウィキの「ロウバイ」の記載を参考にした)。]

 

お降りや竹深ぶかと町のそら

 

[やぶちゃん注:「お降り」「おさがり」と読む。元日又は三が日の雪又は雨を言う。新年の季語。]

 

  一游亭來る

草の家の柱半ばに春日かな

 

白桃の莟うるめる枝の反り

 

[やぶちゃん注:「白桃」は「はくたう(はくとう)」で桃(バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica)の品種水蜜桃の一種。明治三二(一八九九)年に岡山県で発見された。

「莟」「つぼみ」と読む。]

 

炎天にあがりて消えぬ箕のほこり

 

[やぶちゃん注:「箕」「み」と読む。穀物を篩(ふる)って、殻(から)や芥(ごみ)を分けるための農具。]

 

桐の葉は枝の向き向き枯れにけり

 

元日や手を洗ひをる夕ごころ

 

  湯河原

金柑は葉越しにたかし今朝の露

 

  あてかいな、あて宇治の生まれどす

茶畠に入日しづもる在所かな

 

白南風(しらばえ)の夕浪高うなりにけり

 

[やぶちゃん注:「白南風」は「しろはえ」とも読み、梅雨が明ける六月末ごろから吹く南風を言う。夏の季語。]

 

秋の日や竹の實垂るる垣の外

 

[やぶちゃん注:「竹の實」種によって大きく異なるが、竹類(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideae)は非常に長いスパン(六十年から百二十年周期)で開花し、尖塔状部の頭にごく小さな実をつけ、全個体が枯死する。人間の寿命から見ると非常に珍しい現象に見え、竹林全体(同一個体群であることから)や同一種群が大規模に共時的且つ急速に衰滅することから、鼠が多量に発生するとか、広く凶事の前兆ともされてきた。タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides で百二十年周期とされ、地球規模で一九六五年から一九七〇年頃に一斉開花したことから、次期の開花は孟宗竹(タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla forma pubescens)で推定六十七周期と言われる(但し、事実上の確認は二度しかなされていない)。私は確かに小学校六年の終り、一九六八年の冬に裏山で沢山のそれを見た。先っぽには米粒のような小さな白い実が入っていた。次期の真竹の開化は二〇九〇年前後、私はもう、いない。]

 

野茨にからまる萩のさかりかな

 

荒あらし霞の中の山の襞

 

  洛陽

麥ほこりかかる童子の眠りかな

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の中国特派を素材とした随想「雜信一束」の「十 洛陽」を参照されたい(リンク先は私の注釈附電子テクスト)。]

 

秋の日や榎の梢(うら)の片なびき

 

[やぶちゃん注:「梢(うら)」「末」とも書く。「梢(こずえ)」と同義で枝先のこと。]

 

 

  伯母の言葉を

薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に、全集後記によると「冬十題」という大見出しで掲載された(これは諸家十人の冬絡みの小品と言う意味であろう)、「霜夜」参照とある。該当部分をすべて以下に引用する。太字「はんねら」は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

        霜 夜

 

 霜夜の句を一つ。

 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。

 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。

     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

   *

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。]

 

庭芝に小みちまはりぬ花つつじ

 

  漢口

ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏

 

[やぶちゃん注:先に引いた「雜信一束」の「二 支那的漢口」では、この句を示す前の本文に「漢口」に対して「ハンカオ」とルビしている。ここでもそう読むべきであろう。

「籃」は「かご」。

「巴旦杏」は「はたんきよう(はたんきょう)」と読む。これは本来は、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウPrunus dulcis、所謂「アーモンド」のことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではないように私は思う。実は中国から所謂「スモモ」が入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏(ぼたんきょう)」・「巴旦杏(はたんきょう)」という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina の意でこれを用いていると考えるのが妥当であると私は考えている。]

 

  病中

赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら

 

[やぶちゃん注:「赤とき」は「曉(あかつき)」に同じい。

「蛼」は「いとど」。本来、狭義には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis を指すが、本種は無翅で鳴かないので、ここは、剣弁亜目コオロギ上科 Grylloidea のコオロギ類を指すと読んでよかろう。]

 

唐黍やほどろと枯るる日のにほひ

 

[やぶちゃん注:「唐黍」「たうきび(とうきび)」で玉蜀黍(とうもろこし)のこと。

「ほどろ」は、はらはらと散るさまであるが、ここでは唐黍の穗のほおけたさまを指すのであろう。]

 

しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり

 

[やぶちゃん注:「堀江」は大阪市の真ん中、道頓堀と長堀の間にある地名。堀江堀がそこを南北に分けていて、待合茶屋が多かった。]


  再び長崎に遊ぶ

唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

 

[やぶちゃん注:唐寺は唐四箇寺とも呼ばれ、中国様式建築の顕著な崇福(そうふく)寺・興福寺・福済(ふくさい)寺・聖福(しょうふく)寺の四寺があるが、これはその中で最も古いとされる崇福寺と思われる。]

 

木の枝の瓦にさはる暑さかな

 

蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花

 

  一游亭を送る

霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

 

  園藝を問へる人に

あさあさと麥藁かけよ草いちご

 

山茶花の莟こぼるる寒さかな

 

  菊池寛の自傳體小説「啓吉物語」に

元日や啓吉も世に古簞笥

 

[やぶちゃん注:「啓吉物語」は大正一三(一九二三)年二月に玄文社より出版されたもの。岩波版新全集「隣の笛」の本句の注解で山田俊治氏は『「啓吉」「雄吉」「準吉」などの作者を思わせる人物[やぶちゃん補注:作者とは菊池。]を主人公にして、その幼年期から学生時代、そして結婚生活を描いた短編を収録。この句はその表紙を飾る』とあり、更に「世に古簞笥」については『「世に経(ふ)る」を掛ける。』とし、太祇(該当注解では「祗」を用いているがこれは誤りである)の「元日の居ごころや世にふる疊」『を参考にして新婚の菊池の箪笥が古くなるように、啓吉物も一巻になったことを祝す』歳旦句と解説している。]

 

雨ふるやうすうす燒くる山のなり

 

  再び鎌倉の平野屋に宿る

藤の花軒ばの苔の老いにけり

 

[やぶちゃん注:(京都の平野屋の支店)」現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。]

 

  震災の後、增上寺のほとりを過ぐ

松風をうつつに聞くよ夏帽子

 

春風の中や雪おく甲斐の山

 

[やぶちゃん注:『改造』初出はこれ但し、この句、底本の岩波旧全集では、芥川龍之介の他でのこの句の上五が総て、

 

春雨の中や雪おく甲斐の山

 

となっていることから、誤植と判断して改めている(後記からの推定)。確かに「春風」では句としても変である。]

 

竹の芽も茜さしたる彼岸かな

 

風落ちて曇り立ちけり星月夜

 

小春日や木兎をとめたる竹の枝

 

[やぶちゃん注:「木兎」は「づく(ずく)」或いは「つく」で、所謂、「ミミズク」のこと。鳥綱フクロウ目フクロウ科 Strigidae のフクロウ類の内、羽角(うかく。兎に「耳」のように毛が立っている部分)を持つ種の総称である。古名は「つく」であるが、ここは「ずく」と読みたい。]

 

切利支丹坂は急なる寒さ哉

 

[やぶちゃん注:「切利支丹坂」現在の文京区小石川にあった切支丹屋敷近くの急坂。現行では「庚申坂」の方が一般的。サイト「東京坂道ゆるラン」の「謎多き数々のキリシタン坂」に江戸時代から現代に至る地図と詳しい解説が載る。「切支丹坂」と呼ばれた場所は複数あり、リンク先を見ると、文京区公認の切支丹坂が如何にもそれらしいが、しかし、芥川龍之介がそこを確かに名指していると明確な断定は出来ぬ。]

 

初午の祠ともりぬ雨の中

 

乳垂るる妻となりつも草の餠

 

[やぶちゃん注:大正十三年五月二十八日付室生犀星宛旧全集書簡番号一一九八書簡によれば、五月十五日に犀星の世話で兼六公園内の茶屋三芳庵別荘に二泊した旅での詠吟の改作。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」を参照されたい。]

 

松かげに鷄はらばへる暑さかな

 

[やぶちゃん注:「鷄」は「とり」。鷄(にわとり)。]

 

苔づける百日紅や秋どなり

 

[やぶちゃん注:「百日紅」はフトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica であるが、音数律から見て、音の「ひやくじつこう(ひゃくじつこう)」で読んでいよう。]

 

 

  室生犀星金澤の蟹を贈る

秋風や甲羅をあます膳の蟹

 

  一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに

餠花を今戸の猫にささげばや

 

[やぶちゃん注:「一平逸民」漫画家岡本一平。「逸民」(いつみん)とは、世を逃れて気楽に暮らしている人のこと。この句については芥川龍之介の「澄江堂雜詠」(リンク先は私の電子テクスト)の『四 「今戸の猫」』の本文と私の注を参照されたい。

「カリカテユア」カリカチュア(英語:caricature:イタリア語語源)。戯画・漫画・風刺画の意。]

 

明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす

 

[やぶちゃん注:「ちろり」は銅や真鍮製のお燗に用いる容器。筒形や円錐形で下の方がやや細く、注ぎ口と取手とがある。この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「二 ちろり」参照されたい。]

 

  寄内

臀立てて這ふ子おもふや笹ちまき

 

[やぶちゃん注:「寄内」は漢文表記で「内(ない)に寄す」で、妻への贈答句の意。]

 

日ざかりや靑杉こぞる山の峽(かひ)

 

臘梅や雪うち透かす枝のたけ

 

[やぶちゃん注:この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「一 臘梅」を参照されたい。]

 

春雨や檜は霜に焦げながら

 

鐵線の花さき入るや窓の穴

 

[やぶちゃん注:「鐵線」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 連センニンソウ属 Clematis subgenus Clematis亜属Clematis section Viticella Clematis subsection Floridae テッセン Clematis florida。原産地は中国で、現地では「鉄線蓮」と呼ばれ、本邦への移入は万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一一(一六七一)年頃とされる。]

 

            ――計五十句――

 

 

 

 小穴隆一

 

 

  信濃洗馬にて

雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

 

[やぶちゃん注:「洗馬」は「せば」と読む。中山道の宿名。現在の長野県塩尻市洗馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ)

 

百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

 

  雨日

熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

  庚申十三夜に遲るること三日 言問の

  渡に碧童先生と遊ぶ

身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

 

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る

 

山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

 

[やぶちゃん注:「山鷄(やまどり)」鳥綱キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii を指すが、ここは広義の山野の鳥の謂いで、必ずしも同種に限定する必要はなく、もっと違う小型の山野鳥のように思われる。

「霞網(かすみ)」二字へのルビ。]

 

手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

 

  厠上

木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。]

 

鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪

 

  暮秋

豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

 

[やぶちゃん注:「豆菊(まめぎく)」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒナギク属ヒナギク Bellis perennis のことか。]

 

籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

 

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。]

 

  冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな

 

壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉

 

鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり)

 

大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに

 

尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち)

 

まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉

 

  三の輪の梅林寺にて

厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。]

 

  すでに冬至なり そこひの伯父は

  庭鳥の世話もづくがなければ賣つ

  ぱらふ

餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

 

[やぶちゃん注:「そこひ」漢字では「底翳」と書き、視力障害を呈する眼疾患の広く指す古語。現在でも以下の眼疾患の俗称として用いられている。「白そこひ」(白内障)・「青そこひ」(緑内障)等。

「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。]

 

連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

 

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。ここは姉妹か兄弟か、孰れにせよ童子をキャスティングするのがよい。]

 

  望郷

四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉

 

庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉

 

  端午興

酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな

 

豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

 

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。♀の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。]

 

餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絶ゆる夜長かな

 

  澄江堂主人送別の句に云ふ 

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

  卽ち留別の句を作す

木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

 

  望郷

山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月

 

しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉

 

庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ

 

  長崎土産のちり紙、尋あま少なるを貰ひて

よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

  大正十二年正月脱疽にて足を失ふ

  松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに

  及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ

 

[やぶちゃん注:「小町園」鎌倉の現在の横須賀線ガードから東北部分にあった料亭。芥川龍之介が独身の時から贔屓にしていた。なお、後にここの女将(おかみ)となった野々口豊(とよ)は既婚者であったが、龍之介と彼女とは間違いなく関係があったと推定され、彼女に龍之介は心中を懇請した可能性も深く疑われている。]

 

  短夜

水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

 

[やぶちゃん注:「水盤」(すいばん)は底の浅い平らな陶製又は金属製の花活け。楕円形や長方形のものが多く、盛り花や盆栽・盆景などにも使用される。夏の季語。]

 

  平野屋にて三句

藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)

 

月かげは風のもよりの太鼓かな

 

  思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

[やぶちゃん注:「鯨のお詣り」の「游心帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」。

「蒔淸遠藤藤兵衞」遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。「蒔淸」は「まきせい」でその組み合わせによる、一種の綽名であろう。「海紅」同人で、前に出た小澤碧堂や、また小説家仲間の滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合った。]

 

しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

 

[やぶちゃん注:「茘枝」は「れいし」で、ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花はこれ(ウィキ画像)。]

 

  よき硯をひとつほしとおもふ

ゆく秋を雨にうたせて硯やな

 

  せつぶんのまめ

よべの豆はばかりまでのさむさかな

 

みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな

 

笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

 

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。]

 

ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属する小型昆虫の総称。但し、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。仰向けになると自ら跳ねて音を立てて元に戻る種が多く、それが米を搗く動作に似ていることからの呼称である。]

 

            ――計五十句――

 

 

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

2017/02/18

芥川龍之介の幻の作品集「泥七寶」のラインナップを推理して見た――

 

 小穴隆一の「鯨のお詣り」の「影照斷片」のここ を読むと、どうしても推理して見たくなるのである。この時点で芥川龍之介が平安朝物ばかりを集めた幻の作品集「泥七寶」に収録しようとした作品はなんだったのか?

 この前の彼の作品集は第六作品集「春服」(大正一二(一九二三)年五月十八日春陽堂刊・収録作品十五篇)が、

「六の宮の姫君」・「トロッコ」・「おぎん」・「往生繪卷」・「お富の貞操」・「三つの寶」・「庭」・「神神の微笑」・「奇遇」・「藪の中」・「母」・「好色」・「報恩記」・「老いたる素戔嗚尊」・「わが散文詩」

で(下線やぶちゃん。これが純然たる王朝物四篇)、他に切支丹物三篇・古代物一篇・開化物一篇・中国物(「奇遇」。但し、現代物入子形式)・開化物一篇でこれら歴史小説が計十一篇、それに現代小説が三篇と童話一篇で、これまでの芥川龍之介の面目たる、歴史小説集の体裁を維持していると言える。

 ところが、この、ぽしゃった「泥七寶」の直後に出た、第七作品集「黃雀風」(大正十三年七月新潮社刊・収録作品十六篇)では、

「一塊の土」・「おしの」・「金將軍」・「不思議な島」・「雛」・「文放古」・「糸女覺え書」・「子供の病氣」・「寒さ」・「あばばばば」・「魚河岸」・「或戀愛小説」・「少年」・「保吉の手帳から」・「お時儀」・「文章」

で、「おしの」「金將軍」「糸女覺え書」の三篇のみが歴史小説で、しかもこれは近世初期を舞台とするものであり、それ以外は現代小説で埋められ、芥川龍之介の創作志向表明の方向転換が明確に打ち出されていることが判る。

 しかも前回の「春服」刊行以降、芥川龍之介は新たな本格物の王朝物を書いていないのである。

 則ち、芥川龍之介がこの時期、平安朝物ばかりを集めた作品集「泥七寶」を刊行しようと思ったのは、そうした、文壇への進出と流行、そこで中心核としてきた或いはされてきたところの歴史小説に仮託した創作姿勢への、一つの訣別の記念としての標(しるべ)、墓標としての意味があったと私は考える。

 では、そうした観点から、収録を予定していたものは何であったか?

 これはそうした彼の歴史小説作家としての前半生へのオマージュである以上、先行する単行本所収との重複や未完成の除外(禁則)はまずは無視してよいであろう(それらも候補としてよいということ、である)。さらに作品集の標題を「泥七寶」と称した以上、芥川龍之介は自作遺愛のそれから「泥七宝」と呼ぶに相応しい独特の色に変じた七篇を選んだと考えて自然であると思う。実は芥川龍之介の平安時代を舞台とした本格的な王朝物は前期に集中し、しかも意想外にそう多くはない。

 

「羅生門」・「鼻」・「芋粥」・「道祖問答」・「運」・「偸盗」・「地獄變」・「邪宗門」・「龍」・「往生繪卷」・「好色」・「俊寛」・「藪の中」・「六の宮の姫君」

 

十四篇が、幻の作品集「泥七寶」収録予定作品の候補の最大公約数と私は考えてよいように思う。

 まず消去法で行こう。この内、まず「邪宗門」は確実に除外される。何故なら、この未完中断作品を芥川龍之介はわざわざ既に未完のまま単独一作で大正一一(一九二二)年阿一一月十三日に春陽堂から単行本化しているからである。

次に除外される可能性が高いのは「龍」であろう。芥川龍之介は藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月『新潮』)で、『樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた』と世間に告白してしまっているからである(リンク先は私のテクスト)。これは龍之介のダンディズム、否、矜持からも絶対に入れられない(私は個人的には入れたいが)

 次に芥川龍之介が必ず選ぶであろうものを考える。

 実際の公的処女作であり、第一作品集の標題ともした「羅生門」は絶対で、漱石絶賛の「鼻」も勿論、その漱石の激励に応えた「芋粥」(当時も今もやや失敗作とされることが多いが、瘧に彼に強い愛着があるはずである)も外せない

 未完と言えるピカレスク・ロマン「偸盗」も龍之介は愛したし(彼の手帳メモなどから明らかに続篇執筆の強い希望があったことが判る)及び、自他共に力作の自信作であった、自身に擬えられたような芸術至上主義者の破滅を描く「地獄變」も当然の如く選ぶと考えねばならぬ。

 「藪の中」は私的な愛憎からも必ず入集したであろう。

 ここまでで六篇。残り一篇をどうするか。

……「道祖問答」……「運」……「往生繪卷」……「好色」……「俊寛」……「六の宮の姫君」…………

 私なら迷わずに「六の宮の姫君」(大正一一(一九二二)年八月『表現』)である。これはまさに王朝物の最後の作品であるが、長く評価の悪い一作であった。私はこの作品はまさに芥川龍之介の王朝物群の中で、〈滅びの美〉ならぬ〈滅びの生の実相〉を描いた鬼気迫るものとしてすこぶる偏愛する作品だからである。

 以上、

 

私の幻の芥川龍之介の王朝物作品集「泥七寶」七篇(推定)のラインナップ――

 

「羅生門」

「鼻」

「芋粥」

「偸盗」

「地獄變」

「藪の中」

「六の宮の姫君」

 

である。これなら、絶対、私は買う。買いたいし、続けて読んでみたい。

 どうぞ、皆さんもオリジナルな芥川龍之介作品集「泥七寶」を、これ、お考えあれかし――

2017/02/15

完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介を素材とした実名小説である。昭和三一(一九五六)年二月「小説新潮」に発表された。表記漢字は底本自体が正字現代的仮名遣(但し、ひらがなの拗音は拗音表記されていない)である。

 底本は、十年前、初出誌を神奈川県の公立図書館に正規に有料コピーを依頼して入手したものを使用した。底本の傍点「ヽ」はブログでは太字とした。

 小説家田中純(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は広島県広島市生まれ。関西学院神学部及び早稲田大学英文科卒。春陽堂に入社して『新小説』の編集主任を勤めた。クロポトキンやツルゲーネフ、ドライサーの「アメリカの悲劇」などの翻訳を手掛けた。久米正雄・里見弴らの知遇を得、文芸評論・小説・戯曲などにも手を染め、大正八(一九一九)年に里見らと『人間』を創刊、翌年の「妻」が代表作である。彼の作品はパブリック・ドメインである。

 挿絵を担当した画家佐藤泰治(たいじ 大正四(一九一五)年~昭和三五(一九六〇)年) は洋画家。東京生まれ。川端画学校に学び、宮本三郎に師事した。新聞小説や雑誌などの挿絵を多く描き、代表作としては川端康成の「舞姫」の挿絵が知られる。彼の作品もパブリック・ドメインである。佐藤氏の挿絵は私が最も適切と判断した箇所に配した(冒頭の一葉は底本でも冒頭に配されてある)。

 私は既にこの実名小説の元となった実在する佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の随筆「芥川龍之介の思い出」(昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)。これは田中純に提供されたものを後に改稿したものである)を電子化している本文のみのHTML版ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での同注釈附分割ブログ版・同一括ワード縦書版(私のこちらの「心朽窩旧館」からのダウンロード方式)の三種であるが、それ以外にも佐野花子の「芥川龍之介の思い出」についてはブログで複数の小攷を試みているので(前記テクスト冒頭にリンクさせてある)、そちらも参照されたい)。

 なお、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の中でも、実は本作への言及が、その末尾にある。未読の方は本作を読む前に佐野花子の「芥川龍之介の思い出」全篇をまず読まれんことを強く求めるものである。末尾のそこでは、この発表の翌月の同じ『小説新潮』三月号の「文壇クローズアップ」欄に十返肇が書いたとする「芥川への疑惑」という本小説への評をかなり長く引用している(但し、現物は私は未見)。それは佐野花子の引用意図とは別に、この田中の、実名小説という形式に対する、強い批判が含まれている。是非、そこもお読み戴きたい。

 因みに言っておくと、本作冒頭に出る、資料の原執筆者と措定される佐野花子に当たる人物を指して、『昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつた』としているのは、田中の小説上の技巧であって事実に反する。廃人同様となった人間に本作公開の後、あのような緻密な改稿作業は不可能だからである。佐野花子(彼女の没年は既に示した通り、昭和三六(一九六一)年(八月)で本作発表から五年後のことである)の名誉のために言い添えておく。

 以下、老婆心乍ら、先に幾つかの注をしておく。それ以外については、恐らく、私の佐野花子「芥川龍之介の思い出」の方の詳細注で事足りるはずと心得る。

・「博士」不詳。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」には登場しない。

・「ストーム」は「storm」(嵐)を語源とする、本邦の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校・新制大学などの学生寮などに於いて、学生たちがしばしば行ったバンカラ(蛮行)の一種で、高歌放声のどんちゃん騒ぎを考えればよい。

・「蠟勉」は「ろうべん」と読む。かつての一高寄宿舎では夜十二時で消灯が決まりで、それ以後に勉強したい者は蠟燭を買っておいて灯し、こっそりと勉強した。そのことを指す学生間の隠語である。

・「河童踊り」ネット情報によると、一高以来、主に水泳部(一高水泳部は明治二七(一八九四)年創部)を中心に行われた校内の学生間の準年中行事と思われる。本来は初冬の寒中水泳であったか。現在の東京大学水泳部には、この「部踊り」としての「河童節」が残り、時々、河童踊りも行われているようである。但し、「河童節」は大正一〇(一九二一)年誕生で、公式の初演は昭和五(一九三〇)年の紀念祭で((PDF)の東京大学水泳部の準公式と思われるデータに拠る)、芥川龍之介は大正二年一高卒・大正五年東京帝大卒であるから、ここにこの話が出るのはやや不審な気がする。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」にも「ストーム」「蠟勉」と合わせて、出ない。

・「若宮堂」この場合は鎌倉の鶴岡八幡宮下宮、特にその舞殿を指す(但し、これは近代に設営されたものであって鎌倉時代に静が舞ったのは上宮の回廊部分である)。言い添えておくと、それ以下の由比が浜のシークエンスを含め、この建長寺から天園のロケーション部分は、田中の完全な創作(嘘っぱち)であって、実際の芥川龍之介の水泳の場面は横須賀の海岸での佐野花子の思い出のそれを操作捏造したものである。無論、小説であるからにはそれを咎め立てするには当たりはしない。続くところの本作の題名に関わる印象的場面を撮るには演出行為としては上手いと思わぬでも、ない。しかし、私はこの如何にもなそれを(原資料の佐野花子の芥川龍之介の水泳シーンはすこぶる映像的で印象的で美しい故にこそ)はなはだ生理的に不快極まりないものとして強く映ずるものであることは言い添えておきたい。

・「靜」のルビ「しずか」はママ。

・「村夫子」は「そんふうし」或いは「そんぷうし」と読む。「村で一目置かれる学者のような存在」「田舎暮らしの在野の先生」の謂いであるが、別に「見識の狭い学者」という卑称でもある。

・「淚線」はママ。

 最後に。本電子データは私の完全還暦記念として公開するものである。【2017年2月15日――満60歳の私の誕生日に――本作に対する複雑な愛憎を込めて――藪野直史】

 

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 二本のステッキ

 

             田中   純

             佐藤 泰治畫

 

 この三四年間、私の親しく接して、來た作家たちの印象を筆にすることの多かつた私は、ずいぶん多くの未知の人々から手紙を貰つた。そうした手紙の中にははじめから喧嘩腰で、筆者の解釋の不當をなじつたり、誤謬を指摘して來たりしたのもあつたけれども、その多くは、こちらには勿髓ないほどの好意を示して、賛意を表したり、未知の事實を知らせてくれたりするものだつた。

 「芥川龍之介と女たち」を書いたときも、私は幾通かの善意に溢れた手紙を受け取つた。中には芥川君の親戚の人からの、懇切に私の疑問を解く手紙などもあつて、ともかくも私の文章が、甚だしく故人の德を傷つけていないらしいことを知つてほッとしたのであるが、そうした頃の或る日、私は一通の分厚い封書と一緒にハトロン紙包みの小さい小包郵便を受け取つたのである。

 差出人は橫須賀市の山口靖子とある。もちろん未知の人だ。私の文章を讀んだのでにわかに思い立つてこの手紙を書くという書き出しで、しつかりした字畫の若々しい文字で書いてあるところによると、彼女の父は若い頃、橫須賀の海軍機關學校の教官をしていたことがあり、同じ學校の教官であつた芥川龍之介と相當に親しく交わつたようである。殊にその頃お茶ノ水女高師の文科を卒業したばかりの母は、まだ文學に靜かな情熱を抱いている時代でもあり、芥川の美しい人柄や泉のような才筆にすつかり魅せられたようで、このような若い天才を家庭の友として持つていることに、この上もない喜びと誇りとを、父とともに感じていたようであつた。ところが、こうした親しい交りが二年も續いた後に、突然、芥川から、理由の判らない絶交を宣せられた形になつた。これは靜かで平凡な生涯を送つた父母にとつては、終生最大のショックであつたようである。殊にあれほどに芥川を信じ愛した母は、その理由が全く判らないだけに一層苦しんでいたようで、最近まで一人娘である彼女に、

「どうして芥川さんは私たちにあんなことをなすつたのだろうねえ。」

 と言つて嘆いていた。この母は、昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつたし、父もまた十數年前に世を去つている。もちろん芥川も自ら生命を絶つた今日では、その理由を確かめるてだては全くなくなつているけれども、ただ一つ、母がその晩年に書き遺して置いたノートがあり、これには芥川と父母との交遊の樣子を相當にくわしく書いている。このノートを讀んでも、どうして芥川が父母に對してあんな仕打ちをしたのか、その理由が自分たちには判らないけれども、その頃の芥川と親しい交遊があり、且また文筆者の心理にも通じている筈の貴下は、このノートによつて何かの解釋を得られるかも知れない。もし何かの結論を得られたら、母の心の最後の平和のためにも、それを知らせてほしい。うした願いをこめて、右のノートや、その頃の父母の寫眞などを送るからよろしく賴む。

 手紙の文意は大體右のようなもので、更に最後に、自分たちは決して貴下の「芥川龍之介をめぐる女たち」に名乘りをあげるつもりでこんな手紙を差し上げるのではないし、芥川の非情を非難するつもりで貴下に訴えるわけでもない。父や母がその一生にわたつてどんなに芥川を愛し敬していたかはこのノートを見てくれれば判ることだから、その點誤解のないように願いたいという意味がつけ加えてあつた。

 手紙を讀み終ると、私はさつそく小包を開いて見た。二つの手記があつた。一つは原稿紙三十枚ばかりの「私」と題するもので、母なる人の生い立ちの記のようなものらしい。今一つのが大判の大學ノート一筋にぎつしりと書きこまれたもので、表紙には「芥川樣の思い出」と橫書きしてあり、その下に小さく佐原春子と署名してあつた。そして別に一封の西洋封筒が添えてあつて、その中に兩親の寫眞と、芥川の手紙と原稿の寫眞が一枚ずつ入れてあつた。

「綺麗な人じアないか。」

 私はそばにいる妻に寫眞を示した。

「ほんと。」

 と、妻も、もう少し黃色を帶びて來ている古い寫眞に見入つて、「とてもゆたかな感じの人じアないの。」

「クラシカルだけれども利巧そうだし、好い感じだね。」

「これが芥川さんの戀人?」

「さア、ノートを讀んでみなければ判らないが……」

 その日いちにちかかつて、私はこのノートを讀んだ。ノートの大部分は、彼らがまだ新婚時代に獨身者の芥川とかわした友情の記錄だつた。その追憶の甘さと、敍述のくだくだしさとははじめのうち多少私を退屈させたことは事實であるけれども、やがてこの記錄の持つ不思議に強い情熱に引きこまれて行つた。特にこの筆者の良人なる人の芥川に對する神のような寛容や善意には妙に心を打つものがあつた。むろん私は、どうして芥川がこうした友情にそむいたのか、その理由を讀みとろうと努めた。いろいろな想像が私の頭に浮んだけれども、遂に的確にこれだという理由は摑み得なかつた。結局、私は、彼ら母子の期待に添い得ないことを斷つて、このノートを送り返そうと思つたが、二三日机の上に置いて眺めているうちに、こうした記錄をこのまま娘の筐底に埋めてしまうことの惜しさを感じて來た。むろんこうした交遊は、芥川にとつてはまことに些々たる感傷期の戲れであつたかも知れないけれども、そのために少くとも二つの最も善良な魂が、戸惑つたり悶えたり嘆いたりしていることを考えると、私は何か義憤に近いものさえ感じないでいられなかつた。で、それから二三囘の文通の後に、私はこのノートを公表することの許しを得た。これから書くのがそのノートである。

 もつともこの手記は相當に長いものであるから、ここにその全文を示すわけには行かなかつた。私は思い切つて取捨したり書き改めたりしなければならなかつた。從つてこの一齊の文責は全部作者たる私にあることを斷つて置く。

 

 芥川さんの噂を良人からはじめて聞いたのは、私たちのまだ婚約中のことであつた。その頃私は、仲人である鎌倉の博士のお宅で家事見習いをしながら、ときどき良人と會つていた。信州の片田舍の女學校を卒業して、そのまま女高師の寄宿舍生活に入つていた私は、都會ぐらしの家事については全く何も知つていないのであつた。

「僕の學校の同僚に芥川龍之介という人がいるんですよ。」

 と、或る日、良人は、F博士邸の應接室で二人きりで話しているときに言つた。その頃芥川さんはすでに「羅生門」その他を書いて、若い天才を謳われている時代であつたから、私もよく彼の名を知つていた。

「まア、あんな方が同僚でいらつしやいますの。」

「僕よりも三四年の後輩だけれど、すばらしい秀才です。僕は理科、先生は文科だけれど、二人とも東京の下町生れなので、よく話が合うんです。あなたも文科だから、結婚したらいろいろのことを芥川君に教えていただくと好い。」

「ええ、是非。」

 こんなことを話してから間もなく、いよいよ近づいて來る結婚の準備のために私は信州の里に歸つたが、田舍の古い家の中で何かと忙しく働きながらも、やがて間もなく芥川さんのような方と親しくおつきあいすることになるのだと考えて、何か樂しいような不安なような氣持に陷ることもあるのだつた。

 その年の春、私たちは鎌倉の博士のお屋敷で、内輪ばかりの結婚式を擧げた。橫須賀の新居で新床の一夜を過ごした私たちは、翌日のお午すぎ、箱根、伊豆へかけての新婚旅行に出た。折からのお花見どき、それも土曜日のことなので、この小さい軍港の街路は水兵と工員の姿でいつぱいだつた。二臺の俥を連ねて停車場へ着いた私たちは、人ごみを避けて改札の始まるのを待つていたが、そのときいきなり、

「やア、おめでとう。」

 と聲をかけて、良人の前に立つた紺背廣をつけた瘦身の紳士があつた。私はとつさに、雜誌で見ている寫眞を思い出して、

「あッ、芥川さんだ。」と思つたが、果してその人は、良人の紹介も待たないで、

「僕芥川というものです。」

 と、氣輕い調子で挨拶をされた。實はそれまで、二三の作品を讀んだ印象から、芥川さんという人を非常に神脛質な氣むずかしい人だと想像し、こちらが田舍者だという引け目もあつて、何となく避けたい人のようにも感じていた私であるけれども、彼のこの初對面の氣輕さは、一瞬にして私の氣重さを吹き飛ばしてしまつた。

「どうぞよろしく。」

 生れつきの小心から、小さく口の中で言つたけれども、私の心には何か明るい喜びがあつたような氣がする。

 プラットフォームに出ると、芥川さんは、

「僕あちらですから。」

 と言つて、三等車の方へ行つた。しかし汽車が鎌倉驛に着くと、彼は私たちの窓の外に立つて、

「僕も四五日うちに京都に遊びに行くつもりです。」

 などと言つて、汽車が動き出すまで私たちを見送つてくれた。

「すばらしいだろう、芥川君は。」

「ええ、とても。」

 私たちはそう言つて、新婚最初のなごやかな笑いを笑みかわした。

   春寒や竹の中なる銀閣寺   龍

 こんな句を書いた京都の繪葉書がとどいたのは、こうして私たちが二週間の旅を終つて歸りついた翌日のことだつた。私は大切に自分の新しい文箱にしまい込んだ。

 

Taiji2

 

「今日は芥川君と一緒に、鎌倉の小町園で夕食を食べることにして來たから。」

 學校から戾るなり良人がそう言つたのは、いよいよ新學期が始まつて間のない或る土曜日の午後だつた。突然のことで私は面喰つたけれども、嬉しくないわけではなかつた。

「ほかならぬ芥川君に見て貰うんだから、今日は馬力をかけて綺麗になつて行つてくれ。」

 そう言つた良人が、自分で鏡臺を明るい緣がわに持ち出してくれるのに、私は思わず吹きだしてしまつた。長い學窓生活のために殆んどお白粉になじまない私であつたけれども、良人にそう言われては鏡の前に坐りこまないでいられなかつた。F博士夫人に教えられたことを思い出しながら、丹念に自分の顏を彩つているうちに、いつか若妻らしい思いも湧いて來るのであつた。

 良人に帶を選んで貰つたり、襦袢の襟をかけ換えたりしているうちに、いつか夕暮れが迫つて來た。良人にせき立てられて停車場に急ぎ、鎌倉驛に降りて小町園に行くと、芥川さんはもう奧の離れで、お園さんという美しい女中さんを相手にして、待つていられた。

「やア、おそい、おそい。」

 と言いながら、芥川さんの顏はひどく樂しそうだつた。

「なにしろ新婚最初の外出なので、奧さんのお化粧が手間取つちやつて。」

 良人がさつそく意地惡を言い出すと、

「いや、奧さんはお化粧なぞなさらない方が好いですよ。」

 と言つて、芥川さんはじッと私の顏を見られた。

 やがて膳が運ばれてお酒になつた。お二人とも餘り強いお酒とも見えず、しばらく飮んでいるうちにお話しがはずんで來た。お話しは學校のことやら文壇のことやら、ずいぶんいろいろ出ていたが、そのうちに芥川さんは私の方へ顏をむけて、

「中條百合子つて人、奧さんの生徒じアないんですか。」

 と言われた。

「生徒つてわけではありませんけれども、お茶ノ水の教生として教えたことはございます。」

「こないだ僕、あの人に會見したのですよ。會見することは前から判つていたのだが、初めての僕と會うというのに、あのお孃さん派手な友禪の前掛をかけているんですがね。これが私の趣味ですと説明してましたが、ちよつと變つたお孃さんだと思いましたね。」

「學校でもちよつと變つた生徒だと、いうことになつていたようです。なにしろ國語は滿點なのですけれど、數學となるといつでもゼロだというのですから。」

「ゼロはひどいな。」

 と、良人は笑つて、「しかし龍ちやんなどは、そういう向きの令孃と結婚した方が好いかも知れないな。」

「いや、僕の友人に久米正雄というのがいるんですがね、これが家庭の關係から中條百合子と幼ななじみでしてね、僕に彼女と結婚しろと言うのです。こないだの會見もそういう久米のおせつかいの結果なんですが、まア、問題にはなりませんね。こちらが四六時中、文學の問題で頭を惱ましているのに、細君にまで煽られるのではやり切れませんからね。」

「しかし全然文學に無理解な女でも困るでしよう。」

「まア、こちらの仕事の價値を十分に知つていて、しかも惡く刺戟しないような人があれば理想的ですがね。しかし僕の家庭は相當に複雜ですからね、あまり理想的なことばかりも言つていられないのです。」

 芥川さんはそう言つて、彼の實母が狂人であつたことや、彼が養子であることや、彼を育ててくれた叔母のいることなどを、しんみりした調子で話した。

 その晩、私たちは十時近くまでも話しこんで別れた。汽車に乘ると良人は好い氣持そうに居座りをはじめたが、私は先刻の芥川さんの淋しそうな顏を思い浮べ、あんなに華やかに世に出ている人にも惱みは深いのだ、などと考えていた。

 それから二三日して、私たち二人にあてて芥川さんから手紙が來た。文意は――先夜は御馳走になつた。今度は自分が御馳走したいから、次ぎの土曜日の夕方から小町園に來てほしいというのだつた。私たちにも異存はなかつた。先日は何となく晴れがましく、氣の重かつた私も、今は、はずむような氣持で、その日の來るのを待つた。

 八幡前の櫻はもうすつかり若葉に變つていた。玉砂利を踏む音ものどかに玄關に立つと、

「お待ちかねでいらつしやいますよ。」

 と、お園さんに迎えられた。

 先日と同じように離れ座敷に通ると、芥川さんはもうドテラに着換えていて、

「今日は僕が主人役ですからね、ここに泊ることにしました。あなたがたもお風呂にでもはいつて、終列車まで遊んで行つて下さい。」

 間もなくお園さんが良人のドテラを持つて來て、私たちに入浴をすすめる。大變なことになつたと思つたけれども、結局私も座を立たねばならなかつた。

 

Taji3

 

 その晩も、良人たちは樂しそうだつた。

「僕の從弟に小島政二郎というのがいるんだけど、知つてますか。」

 良人が言うと、

「知つてますとも。とても勉強家でね、有望ですよ。」

「僕たちは同じ下谷生れで、彼の家は呉服屋、僕の家は紙屋なんです。」

 そんな話しから、ひとしきり東京の下町の思い出が續き、食べものの話から、一高の寮生活の話に移つて、ストームだの蠟勉だの河童踊りだのの話がはずんだ。

「ところで今夜は、かねての約束に從つて、君の春子觀を聞きたいんですが。」

 良人がそんなことを言い出したのは、もうだいぶお酒が𢌞つた頃だつた。

「そうだ。まだ大役が殘つてましたね。――實は、奧さん……」

 芥川さんと良人とがこもごも説明するところによると、私たちがまだ婚約中であつた頃、學校の教官室で、既婚の教官たちが良人にむかつて、いろいろと細君操縱術だの、夫婦喧嘩の法だの、細君を叱るコツだのを説いたものだそうである。それを聞いて良人が、

「弱つたなア。結婚生活つてそんなにむつかしいものかねえ。」

 と、困惑した樣子を見せたところ、あとで芥川さんが、

「なに大丈夫ですよ。あなたが結婚したら僕が奧さんを鑑定してあげますからね、あなたはそれに從つてよろしくやれは好いんです。」

 と言われたので、その約束が出來てるのだというのである。

「それで私を鑑定なさいますの。まア、こわい。」

「大丈夫ですよ、奧さん。」

 芥川さんはそう言つて、硯と紙とを女中に持つて來させた。そしてさらさらと何か書いて、良人の前に置き、

  悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し

 と讀み上げてから、

「どうぞ。」

「簡單に言えば、心引かれるような方だ。そういう方を奧さんにされた佐原さんが羨ましい――そういう意味ですよ。だから佐原さんは、操縱術も指導法も何も考えないで、ただただ自然のままにしていられれば好い。そうすればおのずから温かい美しい家庭が出來る。それが僕には羨ましいというんです。」

「ほんとに君、そう思つてくれますか。」

「ほんとですとも。」

「僕は數學と物理との外には何も知らない男だけれども、文筆の大家の君がほんとにそう思つてくれるんだつたら、僕、とても嬉しいな。春子もそう思うだろう?」

 良人が目をきらきらさせて私の顏を見る。私もちよつと淚ぐんで來て、無言にうなずいたけれども、それは芥川さんに褒められた嬉しさというよりも、良人という人の無類に單純な人の好さが、じかに私の胸に解れて來た結果だつたような氣がする。

 しかしこの夜から、私はにわかに芥川さんに親しみを感じるようになり、何か珍しい食べものでも手に入れば必ず良人に芥川さんを誘つて來て貰つて、ささやかな食卓をともにするようになつた。殊に或る日、私の郷里から送つて來た山鳥を調理して、田舍風の鳥鍋を供した時には、特に彼は喜んだようであつた。

「奧さん、これから郷里に手紙を出されるときには、必ずこないだの山鳥はおいしかつたとお書きになるんですね。そうするとまた送つて來ますから、自然に僕も御馳走にありつけるという寸法になりますからね。」

 芥川さんはそんなことを言つてはしやいでいたが、あまりはしやぎすぎたためか、歸るときに玄關で、すつとんと尻餅をついてしまつた。

「山鳥の祟りらしいですね。」

 芥川さんがそう言つたので、私たちは氣の毒さも忘れて笑つてしまつた。

  うららかやげに鴛鴦の一つがひ

 そんな句を紙きれに書いて下さつたのもその夜だつたと思う。

 その頃の或る日、私たちの新婚寫眞が麗々と時事新聞に出たことがあつた。友だちからお祝いの手紙を貰つてはじめてそのことを知つた私たちは隨分驚いた。この寫眞は、ごく少數の親しい人に贈つただけだつたので、どうしてそれが新聞社なぞに𢌞つたのか、私にも良人にも見當がつかないのだつた。すると或る夕方、良人が芥川さんと一緒に歸つて來て、

「おい、重大犯人を連れて來たよ。」

 と言うのでぁる。すると芥川さんもにやにやと笑つて、

「僕今日は奧さんにお詫びに來ました。」

 と言う。

「まア、なんでございますの?」

 と聞くと、それが寫眞のことであつた。

 芥川さんが私たちの新婚寫眞を東京の家に持つて歸つて、机の前に立てかけているところへ、その頃時事新聞の記者をしていた菊池寛さんが訪ねて來て、是非これを新聞に載せさせろと言つたというのである。

「そこで僕、しばらく沈思默考しましたね。これは善行なりや惡事なりやという大問題なのです。結論として僕は、これは善行ではないまでも惡事にあらずと決斷したのです。少くともこれは、奧さんに非常に大きな損害を與える行爲ではない。しかもその結果として、僕は菊池に友情の一端を果すことが出來るし、一新聞社の事業を扶助することも出來る。よろしい、早速持つて歸つて、滿天下の紳士淑女を惱殺することにしたまえ。――まア、こういつた次第です。むろん、僕は最後まで何食わぬ顏で過ごすつもりだつたのですが、その後だんだん教官室の詮議がきびしくなりましてね、僕への嫌疑が濃厚になりそうな傾向が見えて來たので、自分から白狀したわけです。惡かつたらお許し下きい。」

 芥川さんはそう言つて、例の長い髮をばさッと落して、輕く頭をさげた。

「それはもちろん惡いですわ。」

 私は言つたけれども、すぐにみんなの樂しい笑いになつてしまつた。

 それからしばらくたつてからだつたと思う。いつものように私たちの家で三人で晩食をとつたあとで、芥川さんの結婚のことがまた話題になつたことがある。そのとき芥川さんは、自分の家系は餘りに東京人であり過ぎるから、細君にはむしろ田舍の人を貰つた方が好い。肉體的にも精神的にも健康で圓滿で明るい女性がほしい――その點でも佐原が羨ましいなどと言つていたが、突然、

「これは僕の結婚とは別問題ですが。」

 と前置きして、「橫須賀の女學校に汽車通學しているお孃さんに一人すばらしいのがいるんですがネ。僕、毎朝、好いなアと思つて見ているうちに、こないだ思わずそのお孃さんにお辭儀しちやつたんですよ。すぐにはッと思つたのだけど、もう取り返しがつきませんものね。きつと向うでは僕を不良紳士だと思つてるでしよう。」

「まア。」

 と言つた私の心は急にはずんで來た。と言うのは、その頃私は午前中だけの約束で、そ の女學校へ教えに行つていたからである。

「その人どこから汽車に乘りますの?」

「逗子からです。」

「どんなお孃さんでしよう。」

「背の高さは五尺ちよつとくらいですかね。實にすつきりした姿でしてね、あの野暮つたい木綿縞の制服を着ててさえすばらしいんですよ。足の美しさなんぞ、まア、鹿のようだとでも形容しますかね。」

「お顏は?」

「優しくつて、なかなか愛嬌があつて、眉と目とが特に綺麗なんです。鼻がちよつと上向いてますけども、それが却つて可愛らしいのです。」

 私には大體見當がついた。私の教えている實科二年の鈴木たか子だと思えた。それならば成績もよく、性質も好い生徒だつた。

「芥川さんにお辭儀して貰つて、きつと光榮に思つてますわよ。」

「そうだと好いんですがね。」

「ひとつ、どんな家の娘さんか、調べて見ろよ。」

 と、良人が言う。

「ええ、さつそく誰かに聞いて見ますわ。」

 芥川さんはその晩も機嫌よく醉つて歸つて行つたが、私たち二人きりになると、

「芥川君はあんなことを言つてるけれども、ひとり話のきまりそうな相手があるらしいんだよ。それはたしか日本海海戰で戰死した海軍大佐の遺兒でね、今はまだ跡見女學校か何かの生徒らしいんだが、以前から芥川の方から申し入れているらしいんだよ。」

「芥川さんが御自分でお話しになつたの?」

「いや、うちの木崎校長がその大佐と同期だつたとかでね、その未亡人から芥川君の人物をどう思うかつて尋ねて來たらしい。それで校長が二三の文官教師に意見を徴したという話があるんだ。」

「それならはすぐにお話がまとまるでしようのに。」

「ところがなかなか未亡人から返事が來ないらしいんだね。それで芥川君、このごろ少しやきもきしてるところもあるらしいんだ。」

「でも、芥川さんほどの人に、どうしてそんなに御返事がおくれるんでしよう。」

「君はそう思うだろう。僕もそう思うんだ。あれほどの才能のある人物だから、どこの親だつて二つ返事で娘をよこすだろうとね。ところが實際にはなかなかそうでもないんだね。これはここだけの話だけれども、いつか僕、芥川君と一緒に京都に出張したことがあるんだが、そのとき京都大學の或る教授に芥川君のことを話したのだ。そうしたら、自分の娘の婿としてどうだろうという話になつてね、まア見合いというようなことをさせたことがあるんだ。ところがあとからの先方の返事は、あれでは神經が纖細すぎて困ると言うんだよ。僕はよい加減に芥川君にはごまかして置いたけれども、そういう見かたをする人もあるんだね。」

 良人がいかにも不思議そうに言うので、

「その氣持は私にもよく判りますわ。私だつて、芥川さんはずいぶん面白い方だし、人柄も好いし、才氣渙發だし、とても引きつけられていますけれども、あの方を自分の良人として考える場合には、ちよつと考えさせられると思いますわ。全く神經が纖細なのですもの。こちらが姉のようになつて暖かく抱擁して上げられれば、あの方の才能もぐんぐんと伸びて行くし、幸福だろうと思いますけれども、そういうえらい女はめつたにありませんし、私なぞ勿論落第ですわ。」

「そう謙遜しなくとも好いよ。」

「いいえ、謙遜じやアありませんわ。かりにあなたと芥川さんと二人のうちどちらかを良人として選べと言われれば、私だつてあなたを選びますわ。あなたならば、何時でも安心して倚りかかつていられますけれど、芥川さんではちよつと怖い氣がいたしますもの。」

「君は思つたよりも辛辣なんだね。」

 良人はそう言つて、じつと私を抱きしめるのであつた。

 事實、芥川さんの神經の細かさには、私のような田舍育ちのものには想像もつかないようなものがあつて、私たちも芥川さんのために心配したものであつた。

 或るとき芥川さんが、げつそりと瘦せこけて、蒼い顏をして來られたことがあるので、

「どうなさいましたの。」

 と尋ねると、

「よせば好いのに、僕、この頃、谷崎潤一郎と大論爭をやりましてね、それでへトヘトに疲れちやつたのです。それに文壇には批評家なんて人種がいましてね、これが下らないことをブツブツ言いやがるし、まるで神經を搔きむしられる氣がするんです。」

「でも、谷崎さんとはずいぶんお仲が好いんじやアありませんの。」

「仲はよくつても文學上の論爭となれば眞劍勝負です。負ければ殺されるんですからね。」

 芥川さんはそう言つてから、珍しくゴロリと橫になり、

「しかし、谷崎という奴はえらい奴ですよ。僕をこんなに參らせるんですからね。」

「でも、谷崎さんは兎も角として、批評家の言い分なぞにそんなに神經をお使いになる必要はありませんわ。あなたはもつと高いところから、自信を持つて見おろしていらつしやれば好いのですわ。」

「そうだ、ほんとにそうですね。奧さんはやつぱりえらい。」

「あらア……」

 私があきれていると、芥川さんはにわかに元氣にはしやぎ出して、

「僕今晩は英詩の朗讀をやりましよう。何か詩の本はありませんか。」

 その頃私は、家事もだいぶ手につき、時間の餘裕も出來て來たので、學校時代の英語のおさらいなどしていたので、すぐに机の上にあつたロングフェローの「エヴァンゼリン」を持つて來た。

「ああ、エヴァンゼリン。奧さんのお好きらしい詩ですね。」

 彼はなつかしげにページを繰つていたが、やがて聲を擧げてその一節を朗誦し始めた。それは聞き惚れるほど美しい發音で、全文をすつかり理解しているものでなければ示されない深い感動のこもつたものであつた。私がぞくぞくするような思いで聞いているうちに、彼は一時間近くも讀み續けたであろうか。突然ばたりと本を閉じると、

「久しぶりに讀むと、こうしたロマンチックなものも好いですね。これからときどき、奧さんと一緒に、こういうものを讀むことにしましようか。」

「是非お講義お願いしますわ。」

「實はね。」

 と、良人が口を入れて、「僕たち婚約中にね、二人が結婚したら、僕が春子に英語を教えて上げようと約束したのですよ。それでこの頃少しずつやつてるんですがね、散文はともかくとして詩となると僕にはちんぷんかんぷんなのですね。これア駄目だつてわけで、目下授業を中止してるんだけれど、君がやつてくれれば鬼に金棒だ。僕も弟子入りするからやつてくれませんか。」

「いや、講義なんてことは駄目だけれども、ともかくこれから一緒に讀みましようよ。僕も自分ひとりでわざわざロングフェローを讀む氣にはなれないけれども、あなたがたと一緒ならばとても樂しく讀めそうな氣がするから。」

「そのついでに、これの短歌も少し直してやつてくれませんか。」

「短歌は僕、全然やつてないんだけれど、そうですね、そいつも僕勉強のつもりでやりましよう。」

「お願いいたしますわ。」

 と私も、はずむ思いで賴むのであつた。

 それからは、毎週いちにち、日をきめて芥川さんが來てくれることになつたが、勉強の約束はあまり實行されなかつた。夕食のあとの雜談で一夜をすごすことが多かつた。それでも短歌だけはときどき私の作つたのを見て貰つた上、芥川さんのを示されることもあつた。

「奧さんは、土曜の晩には白粉をつけていられるそうですね。」

 と冷やかすように言つて、

  秋立つや白粉うすし虢夫人

  白粉の水捨てしよりの芙蓉なる

              龍之介

     追加

  妻振りや襟白粉も夜は寒き

 と書いて下さつたのもそうした一夜であつた。

 これもその頃の一夜だつた。その日良人は出張のために不在だつたが、良人が、

「僕がいなくても例會はやつた方が好いよ」

 と言うので、芥川さんに來て貰つた。でも、その晩はお酒も出さず、二人で鮨を食べただけで、私の作り貯めていた歌を見て貰うことにした。歌は四十首もあつたであろうか、芥川さんはすつかり讀んでから、

「この中では僕、これが好きだな。」

 と言つて、

 針持ちて物縫ふ折の安らけさ靜けさに只いのち死なまし

 の一首をあげ、

「この心境は奧さんらしくつてすばらしいですよ。僕もときどきこんな心境を經驗することはあるんだけど、奧さんのように身についたものじやアない氣がするんです。奧さんは好いなア。」

 と、たいへん感心した樣子である。

「こんな氣持がそんなに珍しいのでしようか。」

「いや誰でもときどき經驗する氣持ではあるけれども、それが身についているかいないかが大問題なのです。奧さんなぞは……」

 言いかけてから、

「僕はもう奧さんの歌の添例などはよしますよ。奧さんなぞは、どう歌い出してもすばらしい歌の出來る人なんです。それよりもですね。」

 と、彼はしばらく考えこんでいてから、

「これは奧さん、全く假定の話ですけれども、もしもですよ、もしも妻子ある男が處女に戀するとか、あるいは靑年の身でよその夫人に戀するとか、そういうことになつた場合、われわれは一體どうしたら好いのでしよう。僕はそれを一度奧さんに聞いて見たいと思つていたのですが。」

 突然の質問に、私ははッと思つた。假定の上に立つた話ではあるけれども、ひどくわれわれの身に近い、危險な問題だと感じたのである。で、私はしばらく默つていてから、

「そんなむつかしい問題は私にはよく判りませんわ。それこそはあなたの專門の問題じやアございませんか?」

「僕たちの專門だから、專門でない奧さんの意見が聞きたいのです。文筆者の意見は、こういう場合、大抵きまつてますからね。」

「それはやはり、あきらめるしかないのじやアございませんか知ら。」

 私はそう答えるしかなかつた。

「なるほど、奧さんだつたらあきらめられるでしようね。しかしもし、あきらめられなかつたら、――それほどに深く戀してるのだつたら、――義理も名聲も生命も賭けるというような戀だつたら――それでも奧さんはあきらめろとおつしやるんですか。」

「はい」

 と、私はだんだん勇氣のようなものを感じて來て、「それは人にもよりましようけれども、もしもそれが芥川さん御自身の問題でしたら、あきらめて下さいと申し上げますわ。だつて、芥川さんの名譽やお生命(いのち)と懸け替えになるような女が、この世の中にいるとは思えませんもの。」

「そうですか。あきらめるんですか。」

 彼は自分に言い含めるように言つて、しばらく沈痛に默つていたが、

「いや、どうも、有難うございました。」

 と、立ち上りそうにした、私は何だか、このまま彼を歸らせては大變なことになるような氣がした。で、

「あら。まだお早いじやアありませんか。」

 と、彼を引きとめにかかつた。

「でも、變なことを言つて、奧さんを不愉快にしたような氣がしますから。」

「だつて、今夜のは、或る假定の上に立つて、私の意見をお聞きになつただけじやアありませんか。」

「そう。そうですね。」

 と、彼は漸く弱い笑いを頰のあたりに浮べて、「しかし、誤解を招くといけませんから、今夜のお話は二人の間に全くなかつたことにして、永久に抹殺して下さいませんか。」

「え、もちろん、こんなこと、誰にも話せることではございませんわ。」

 彼は再び腰をおろしたが、もうあまり話しこみもせず、間もなく悄然と歸つて行つた。その淋しそうな後姿を玄關に見送り、戸じまりをして、ただひとり自分の座に坐つたとき、でも、私の心は妖しく亂れていた。何かの危難をまぬかれたような安堵の思いとともに、何か貴重なものを取りにがしたような、妙にあとを引かれる氣持だつた。

 もちろん私は、その夜のことについては誰にも――良人にも、全く何も話さなかつた。

 こうしているうちに、私たち結婚後の二度目の夏が近づいて來た。はじめ私たちは、その夏を郷里の涼しい溫泉で過ごそうなどと言つていたのであるが、或る日芥川さんから、東大文學部の公開講演會のことを聞かされてにわかにそれに出席したくなり、良人も賛成してくれたので、芥川さんにその手續きをたのんだ。しかし開講の日に間のない頃、ふだん健康な私には珍しく、劇しい眩暈に惱まされる日が續いた。良人にすすめられて醫者に診て貰うと、

「なに、大丈夫です。おめでたでございます。」

 と言われた。そのために私は、折角の講演會の出席も取りやめて、橫須賀の家で寢たり起きたりの日々を送らねばならなかつたが、或る日、芥川さんから來た長い長い封書は、どんなに私の病床を慰めてくれたか知れなかつた。彼はその手紙で、講演會の樣子をこまごまと知らせてくれたのであつた。そして、この會には某々の名流夫人だの、中條百合子だのが出席していると書いたあとで、自分がこんなことを書くのもただ奧さんの向學心を嬉しく思うからですなどと書いてあつた。

 私は何度も繰返して讀んだあとで、こちらからも長い長い手紙を書いた。すると、彼からもまた長い手紙が來た。その中には「この頃やたらに癇癪が起きて家の者を困らせていたが、今日やつとその原因が、親知らず齒の養生にあることが判つた」などと書いてあつた。

 私たちは何度か長い手紙をやり取りした。かくべつの用件があるわけではなく、ただ日常の境瑣末なことを知らせ合うに過ぎなかつたけれども、私はどんなにその手紙を待つたことだろう。一日に二度も三度も門わきのポストに手を入れて見て、苦笑しながら、戀人の氣持つてこんなものなのか知らと思つたりした。

 その夏もやや終りに近い頃、良人と二人で鎌倉に行つた日のことも忘れられない。私たちは芥川さんを誘つて建長寺の方へ散步した。お寺の裏山に登ると、廣い靑い海が一眸のうちに見渡されて、右手にくつきりと富士の姿が浮んでいた。

「ここの富士は、僕、わりに好きなんです。變になまめかしくつてロマンチックじやありませんか。」

「そうかなア。文學者にはそう見えるのですかねえ。」

 と、良人が感心したように言う。

「でも私は、郷里の信州から見る富士が好きですわ。」

 と、オレンジ色の大氣の中に浮ぶ紫紺色の姿を私が説明すると、

「奧さんはお國自慢だなア」

 と芥川さんは笑つて、「しかし、田舍に郷里を持つてる人は羨ましいですよ。僕だつて壯大な山々にかこまれた自然の中に生れて、荒つぽく育つていれば、もつと線の太いどつしりした、人間になれたかも知れませんからね。」

「いや、しかし、龍ちやんが田舍に行けば退屈するばかりだよ。」

 良人はそう言つて、彼が學生の頃、大いに勉強するつもりで田舍に行つたけれども、淋しすぎて何も出來なかつたことを話し始めるのであつた。

 やがて私たちは山を降りて、八幡宮の方へ歩きだした。小袋坂まで來ると、向うから一匹の大きな黒い牛が、小山の樣な荷を積んだ鼻を引いて上つて來るのに行き遇つた。芥川さんは立ちどまつて、じつと見送つてから、

「僕はいつも、あの牛が鼻の間に鐡の輪を通されているのを見ると、とても悲慘で見ていられない氣がするんですが、考えれば人間だつて、みんな、鼻のさきに鐡の輪をはめられてるようなものですね。人間はそれを意識するだけに悲慘の度は強いとも言えますね。」

「しかし、牛に生れるよりも人間に生れた方が好いですよ。」

 無雜作に言う良人の聲をうしろに聞きながら、私は、單純で幸福な良人と複雜で傷つき易い芥川さんとを、何という遙かな違いであろうと、心にしみて考えるのであつた。

 しかし八幡宮の境内にはいると、芥川さんはまた快活な饒舌家になつていた。若宮堂の前まで來ると、

「おお、靜(しずか)、靜! 偉大なる情熱を包んだ貞節よ! けなげなる意志よ!」

 と劇詩でも朗誦するように叫んだり、石段わきの大銀杏のそばに立つと、別當公曉が金塊集の作者を刺すときの光景を、自分で見ていたように生き生きと描いて聞かせたりした。

 私たちはそれから由井ケ濱の方へ行つた。もう土用波の高い季節ではあつたけれども、それでも海邊は半裸の男女に埋まつていた。

「今日は奧さん、僕の妙技を御覽に入れましようか。」

 彼はそう言つてから、着物をぬいで、水の中に走りこんで行つた。少年の頃、隅田川の水練學校で鍛えたという彼は、なるほど水泳は達者なようだつた。速く沖の方まで泳ぎ出て、私たちの方へ兩手を振つて見せたり、長い間水の中にもぐつて私たちをひやひやさせたり、背泳ぎをして兩足のさきを水の上に出して見せたりしてから、やつと長い髮を搔上げながら私たちのそばに歸つて來た。

「なるほどあれなら妙技のうちにはいるでしよう。」

 良人がすなおに褒めると、

「奧さん、どうです、信州の選手權は取れませんかね。」

 と、彼は樂しそうに笑つた。

 その日、私たちは、彼の下宿している離れ座敷に寄つて日の暮れるの待ち、一緒に海濱ホテルに行つて晩餐をしたためた。日暮れを待つ間にも彼は机によつて立ちどころに今日の所見を十數句の俳句に作つて、私に書いてくれた。

「今日はとてもお元氣ですわね。」

「すばらしい日です。とても調子が好いです。」

 そしてその快活で健康そうな調子は、ホテルで食事をしている間も失われなかつた。その賑やかな食事の間に、良人と芥川さんとは洋行の話をはじめた。芥川さんが西洋よりもさしむき支那へ行きたいと言うのに對して、良人はしきりにドイツへ行きたいと言つた。

「僕が洋行したら、龍ちやんに何をお土産に持つて來るかな。」

 良人が少し醉つて來た調子で言うと、

「そうだな。あまり高いものを言つたのでは約束流れになるから、まア、ステッキとでも言つて置くかな、そうだ、スネークウッドのステッキを買つて來て下さい。」

「ステッキね。好いでしよう。二人お揃いのステッキを買つて來ましよう。」

「當てにしないで待つてますよ。」

「いや、それくらいのものならば大いに當てにして貰つて好いですよ。」

 三人は樂しそうに笑つた。そして、その夜ふけてから、私たちは疲れて橫須賀に歸つた。

 この一日の健康な新鮮な記憶は、その後ずいぶん久しく私の胸から離れなかつた。新學期に入つてしばらくすると、私は出産に備えて女學校の方をよすことにしたが、そうした日日、家にこもつて針仕事などしているとき、いつとはなく胸に浮んで來るのはあの日の芥川さんの靑年らしい姿であり、含蓄に富んだ彼の言葉のはしばしであつた。私はいつか針の手を止め、茫然と灰色の壁を見つめながら、あの幾らか薄い、でも引きしまつた唇や、長い睫の奧に輝く漆黑な瞳や、ときに惱ましげに、ときに剛情ッぱりに見えるあの尖つた頤を思い描いており、はッと氣づいて再び針を動かし出すのであつた。

 私は、自分が芥川さんを好きで好きでたまらないのだということを、今ではみとめないでいられなかつた。私は、自分がもしもつと激情家に生れついていたならば、いつかのあの告白を聞いたときに、彼の腕に身を投げかけていたに違いないと思つた。いや、あの告白をあの時でなく、いま、今日この頃聞いたとしたらどうだろう。あんなに冷たく靜かにしていられただろうか?――考えながら全身で悶えている自分に氣づくことがしばしばであつた。そのくせ、夕方になつて良人が歸つて來ると、晝の間の妄想なぞけろりと落ち去つて、これまた好きで好きでたまらない良人のために、いそいそと夕餉を供する自分になるのも事實であつた。

(私つて娼婦のようなところのある、いけない女なのか知ら。)

 私はときどきそんなことを考えることがあつた。が、それにはすぐ一つの答案が出て來た。

(だつて、良人だつて芥川さんを好きで好きでたまらないのだもの。良人が好きなものを、私が好きになつてはならないという理由があるか知ら。不貞つて屹度こんなものではないわ。)

 こんな思いを毎日のように胸の中に繰りひろげて、水の中に漂(ただよ)うような日々を送つているうちに、思いがけなく、一つの救いが來た。その年の暮れに近づいた或る日、芥川さんが訪ねて來て、

「僕いよいよ結婚することにきめましたから。」

 と告げたからである。結婚の相手はやはり以前から噂のあつた海軍大佐のお孃さんであつた。

「まア、それはよろしゆうございました。心からお喜び申しますわ。」

 私は私自身の内心の窮地からのがれた氣がして、良人とともにお祝いを述べた。

「結婚したら、奧さんの歌の仲間にでも入れて、いろいろのことを仕込んでやつて下さい。」

 芥川さんはそんなことを言つて、嬉しそうに歸つて行つた。そして、年が明けると間もなく、東京で結婚式をあげた。

 新婚の芥川夫婦が私の家に挨拶に來られたとき、私はちようど男の子を生んだあとの産褥についていて親しく會うことが出來なかつた。接待に出た郷里の母が、あんな立派な御夫婦は信州なぞではとても見られないなどと、枕もとに來て話すのを、私は晴れ晴れとした思いで聞いた。これで私は母というものになつたし、芥川さんもやつと一家の主人になれたのだ。――そう思うと美しい苦しい芝居の一幕が終つたような殘り惜しさとともに、しみじみとした落ちつきが感じられるのであつた。

 芥川夫婦は鎌倉大町の或る別莊の離れ屋を借りて、そこで新婚生活を始めた。相變らず良人は毎日のように學校で芥川さんに會つていたけれども、私ほ殆んど會わないで過ごした。馴れない赤ん坊の養育にかかり切つている私は、以前のように氣輕にお招きすることも出來なくなつたし、訪ねることも出來なくなつた。それでも一二度、赤ん坊を連れて、良人と一緒に新居を訪れ、新夫人のもてなしを受けたこともあつたが、むずかる赤ん坊に心を奪われてゆつくり話すことも出來ず、心なくも良人を追い立てるようにして歸つて來るのが落ちだつた。そしてたしか翌年の春、機關學校の教官を辭した芥川さんが、いよいよ東京に引き上げるというときにも、私はとうとう見送りにさえ行けない始末であつた。

 しかし東京に移られた後にも、私たちの間の文通は續いていた。短いけれども旅さきからの絵葉書が來たり、新しい著書を送つて來たりした。

  橫顏賀には善友が揃つていましたけれど

  も東京には惡友が顏を揃えています。僕

  が御不沙汰がちなのは專らそれら惡友の

  ためだと思し召し下さい。

などと、葉書に書いてあることもあつた。そのうちに、たしか大正九年の春だつたと思うが、芥川さんに長男が生れたという噂を、良人が學校から聞いて來た。私たちは早速お祝いの品を贈つて、心からの祝意を表した。それに對して奧さんから懇篤な禮狀がとどいたけれども、それを最後に彼からは全く手紙が來なくなつた。むろん私たちからは、それから數囘、近狀を知りたいという手紙を出したが、彼からは遂に一片の葉書さえ來なくなつてしまつた。

「芥川さんは一體どうなすつたのでしようねえ。あんなにたびたび面白いお手紙を下すつたのに。」

 私と良人とはときどきそう話し合つた。

「きつと仕事が忙がしいんだよ。あの頃と違つて、今では天下の芥川だからね。」

 良人はいつもそう答えて、彼の名聲のいよいよ高まるのを喜ぶ風であつた。

「いくらお忙しいと言つたつて、お葉書くらい下さつてもよさそうなものだわ。」

 私が不滿をおさえかねているような頃の或る日、書店からとどけて來たS畫報を見ているうちに、偶然、芥川さんの短い文章に目を吸いつけられた。それ談話筆記ででもあるらしい文章で、表題は「僕の最も好きな女性」というのである。「僕はしんみりとして天眞爛漫な女性が好きだ」という書き出しで、

  私はかつて或る海岸の小さな町に住ん

 でいたことがありました。そう教養の高

 いというのでもなく、またそう美人とい

 うでもない一婦人と知り合いになつたこ

 とがありますが、この婦人と相對して坐

 つていると恰も滾々として盡きない愛の

 泉に浸つているような氣がして恍惚とな

 つて來ます。私はいつか全身に魅力を感

 じて、忘れようとしても今なお忘れられ

 ません。こういう女性が居ければ多いほ

 ど世界は明るく進步して、男子の天分は

 いやが上にも伸ばされて行くでしよう。

と結んである。讀んでいるうちに私の胸はときめいて來た。「或る海岸の小さい町」というのは、芥川さんが橫須賀のことを書くときにいつも使う言葉である。芥川さんが橫須賀で知り合つた女と言えば、この自分しかない筈だが。………それでは芥川さんは、今でも自分をこんな風に考えていてくれるのであろうか。………

 われにもなく私は、雜誌の上にぽたぽたと淚をこぼしてしまつた。それが昨日までも、彼の理由不明の沈默を恨んでいるやさきであつただけに、彼の眞情を聞いた喜びは深かつた。

 私は良人にも語らないで、この雜話をしまい込んだ。每日とり出しては、くり返して讀んだ。そして、こんなにも好いていてくれたのだつたらと、あの頃のあのこと、このことを思い浮べて、淚をこぼしたり、あらぬ空想に渇いたりするのであつた。そして餘りにも思い亂れる自分を見出して恥ずかしくなつた或る日、私はとうとうこの雜誌を庭に持ち出して燒き棄ててしまつた。

 ところが、それからしばらく經つた或る夕方である。いつも樂しげな良人が、いつになく浮かない顏をしで學校から歸つて來た。

「どうなさいましたの?」

 と聞くと、

「困つたことになつた。」

 と、深い息をついて、「芥川君が僕のことを妙な風に書いてるんだよ。」

「妙な風につて?」

「つまり、僕のことを融通のきかない、のろまな、變人の代表的人物として書いてる――それだけのことなんだけどね、教官室ではみんなぷんぷん言つて怒つているし、教頭も芥川の奴けしからんというわけでね、何かの處置を取ると言つてるんだよ。」

 私の甘い夢はむざんに破られた氣がしたが、それでもまだその文章を自分で讀んで見なければ何とも言えない氣がした。

「その文章はどこにございますの。」

「買つて來たよ。」

 と言つて、良人はカバンから新刊のS雜誌を引き出して、私の前に投げ出した。

 それは「Sさん」という彼の短い隨筆だつた。なるほど海軍機關學校教官のSさんとして明らかに良人だと判る人物が、いかに底ぬけの好人物で、愚直で、滑稽であるかを、彼一流の皮肉と機知と可笑しみのある筆で描いているのである。もちろん良人を極端に戲畫化しているものではあるが、モデルの問題を離れて一つの作品として見れば、必ずしも許せない文章ではない。私はそう思いながら讀み進んだのであるが、しかし最後に、

  この男が三十も過ぎてやつと婚約が出

  來、今や有頂天になつているのは笑止千

  萬である。果してこの男の妻にどんな賣

  れ殘りがやつて來ることだろう。

 といふ意味の文章にまで讀み進むと、私は思わずかあッとなつてしまつた。(私がここに原文のままを出し得ないのは、不愉快のために、その雜誌をすぐに燒き棄ててしまつたからである。)私は何という野卑な下等な文章だろうと思つた。良人ひとりが侮辱されるのは好いとしても、これでは人類全體が侮辱されているではないか。しかもこれが、一年前まではあれほどにもおたがいに尊敬し信賴し合つた筈の芥川さんの文章であろうとは!

 私は見る見るうちに、頭の血がさあッと音を立てて引いて行くのを感じた。續いてくらくらッと、はげしい目まいが襲つて來るのを感じた。私は抵抗もなく、前のめりに倒れてしまつた。烈しい急激な腦貧血が私の意識を失わせたのであつた。……

 二三日の靜養の後に、私は漸く良人と落ちついて話し合えるほどの靜かさを取りもどした。私たちは終日、芥川さんがどうしてこんな文章を書いたのかについて話し合つた。良人は相變らず寛大であつた。

「いや、ああ書かれて見れば、僕という男はああ言う男なのだろうよ。少なくとも芥川君にはそう見えるんだから仕方がないよ。僕自身だつてあれを讀みながら、なるほどねと思つて笑い出したくらいだもの。」

「でも、あの最後の文章は失禮じやアありませんか。」

「いや、あれはああ書かなければ筆の收まりがつかなかつたのだよ。芥川君は小説家だからね。」

「いくら小説家だつて、あんな惡意のある文章を書くことは許せないと思いますわ。」

「うむ。まア、それよりも僕は、あの文章を讀みながら、芥川君が神經衰弱になつてるという氣が強くしたのだがね。」

「神經衰弱ででもなければ、あんなものは書けませんわね。」

「もしそうだとすると、氣の毒だね。僕はどうも、芥川君と奧さんとの間が、うまく行つていないのじアないかと思うんだ。そしてそれには君というものがいて、かつて芥川君の心醉を買つたということも一部の原因をなしているのではないかと、この頃ちよつと考えたのだがね。」

「では、芥川さんの奧さんが私に嫉妬してらつしやるつてわけ?」

「さア、嫉妬と言えるほどはつきりしたものではないかも知れないけれども、結婚前の良人の女友達なんてものは、いずれにしても細君にとつては面白くないものじやアないのかね。」

 芥川さんには鈍物の代表にされる良人が、存外に女の心理の機微を知つているのに、私は妙に皮肉な微笑を感じた。

「でも、それならば、私の惡口でもお書きになれば好いのに、あなたの惡口をお書きになるなんて、全然意味ないじやアありませんか。」

「うむ、まア、今度のことの解釋にはならないがね。」

 幾ら話し合つて見ても、結局、これという理由は、私たちには摑めなかつたけれども、こうした良人の寛容な解釋に影響されたのか、私の怒りもいつか靜まつて行つた。ただ、これほどにも芥川さんを信じ愛している良人に、たとえ文筆上の必要にもせよ、こんな煮え湯を飮ませる芥川さんに對する恨めしさ、殘念さまでも消し去るには、まだその後の長い月日が必要であつた。

「今日學校芥川君に會つたよ。」

 良人がそう言つたのは、それから一カ月ばかりの後のことである。「學校から何か交渉したと見えてね、今日わざわざ謝罪に來たのだよ。」

「あなたにも謝罪なすつた?」

「うむ。ちよつと筆が辷つて、失禮したと言つたよ。」

「それであなたは?」

「僕はちつとも氣にかけていないから安心しろと言つたよ。そして、春子も會いたがつているから歸りに僕の家に寄らないかと言つて誘つたのだがね、今夜は東京で會合があるからとか言つて、歸つて行つたよ。君によろしくつて言つてたよ。」

「そう。」

「しかし、可哀そうだつたね。あの神經質で剛情ッ張りの芥川君が、教官たちの前で頭をさげたのだからね。僕が代つて謝罪してやりたいような氣がしたよ。」

「そうね。お可哀そうと言えばお可哀そうね。」

 と、私も彼の憂欝そうな目の色を思い描いた。

「だから僕たちも、今度のことについてはもう永久に忘れようじやアないか。芥川君も僕たちも、ちよいとした怪我をしただけのことなんだから。」

「そうですわね。私ももう何もなかつたことにして忘れますわ。」

 そう言いながら、良人も私も、いつか淚ぐんでいた。

 

 それから三四年の後、良人は多年の念願がかなつてヨーロッパに留學した。ドイツを中心にして、パリ、ロンドンを𢌞つて、二年の後に歸つて來た良人は、血色こそ少しよくなつていたけれども、以前に變らない村夫子のような風貌を殘していた。そのとき私はもう二人の子供の母親になつていたが、久しぶりの良人を家に迎えた喜びは、新婚時代とはまた違つたなごやかさだつた。私は、書物のほかにはあまり多くもなさそうな土産物の荷物を、子供のような期待で開いて行つた。すると、一つの大きいトランクの底から、細長い紙包みが出て來た。あけて見ると、何の飾りもない、平凡な二本のステッキである。銀座にでも出れば、これよりも上等なのが幾らでもありそうなステッキなのである。

「これもあちらでお買いになつたの?」

 判りきつたことだけれども、私は聞かないでいられなかつた。

「ロンドンだよ。それでもスネークウッドだからね。」

「同じものを二本もお買いになつたのね。」

「以前の約束を思い出してね。一本は芥川君に上げようと思つて。」

 私ははッとした思いで良人の顏を見てから、

「だつて芥川さんは……あちらにお手紙でも下さいましたの?」

「いや、手紙も何もくれないけれどもね。……僕は屹度、芥川君が、嬉んでこれを受けてくれる日があると思つてるのだよ。僕たちの一生は、これからまだ長いからね。」

 かくべつ感傷的でもなく、あたりまえのことのように言う良人であつたが、私はにわかにその座にいたたまれなくなつた。淚がこみ上げて來たのである。私は自分の淚線をさますためにしばらく月光に明るい緣がわあに立つていいたが、滿月に近い月を仰ぐと、思わず、

「芥川さんの意地惡!」

 と、小さく呼びかけないでいられなかつた。

 その翌年の春、私たちは轉住して、日本海沿いの或る港町に移つて行つた。なじみのない土地の樣子もだんだん判つて來、良人の新しい同僚との交遊も始まつて、私たちの新しい生活も漸く軌道に乘つたと感じられて來た頃の或る朝、私は配達された大阪の新聞によつて、芥川さんの死を知つた。芥川龍之介氏劇藥自殺を遂ぐとあるではないか。私は良人の寢室に飛びこんで行つて、彼を搖り起した。はじめ良人は、ちよつと信じないようであつたが、起き直つて新聞を讀んでは事實を認めないでいられないという風であつた。

 私たちはしばらく新聞を前に置いて茫然としていた。何も考えられなかつた。あらゆる思考、あらゆる感情を通りこして、ただ、嚴然たる事實に打ちのめされている自分たちがいるのを感じるだけだつた。

「やつぱり龍ちやんは神經衰弱だつたのだね。」

 やがて、一時間ばかりもたつてから、良人ははじめてそう言つた。

「そうね、みんな御病氣のせいだつたのね。」

 と、私も新聞に載つている彼の暗い肖像寫眞を見つめながら言つた。

「龍ちやんには嫌われても、僕たちは龍ちやんのそばから離れるんじやアなかつたよ。」

 良人はそう言つてから、靜かに泣きだした。一生にただ一度私に見せた良人の淚であつた。

 しかしその良人も、それから十二年の後に、まだ老いもしないのに世を去つた。そしてあとには、二人の子供の教育の義務を背負つた私が取り殘された。私は再び教壇に立たねばならなかつた。そのうちに戰爭が身近にせまつて來た。私は戰火と飢餓とに追われるままに日本海岸、信州、大平洋岸と、この國の脊梁山脈をこえて轉々としなければならなかつた。そしてやつと平和の日が來て、思い出の多いこの「海岸の小さな町」の古巣に舞い戾つて來たときには、以前の持ち物の殆んどすべてを失つていた。だが、そうした乏しい持ち物の中に、或る日、偶然に、あの二本のステッキを見出したときの驚きと喜びとは、私のほかには判らないであろう。私は塵を拂つて眺め入つた。一本はもう良人の手垢に油じんでいるけれども、一本はまだしらじらとした新しさを保つている。永久に歸つて來ない持ち主の手を待つかのように……。

 私はその日から、このノートを書きはじめた。

[やぶちゃん注:最終行の末には二字上げ下インデント(本篇初出は三段組み二十一字詰の組版)で『(了)』とある。]

2017/01/26

綿引香織氏論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」入手

つい先ほど、高校時代の親友の手を借りて、遂に今まで公にされなかった片山廣子の芥川龍之介書簡十四通及び歌稿(これらを全三巻の軸装としたもの)についての、綿引香織氏の論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」を所載した「高志の国文学館 紀要 第1号」を入手した。

震える手でまずは縦覧したが、全書簡の翻刻と、その詳細な注釈には激しく感銘した。

私は以前、

「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」(初版公開2010年10月18日)

の外に、まさにこの幻の片山廣子書簡について、凡そ6年前、

「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」

を公開している(初版公開2010年12月19日)が、そこで私が恣意的に荒っぽく推理した――公開されず、旧所蔵者であった吉田精一・辺見じゅん両氏によって死蔵され続けたために、推理するしかなかった――それらが、遂にここにその全容を見せたのである。

この推定復元をした頃の私は、公開されたら、私の推理部分を除去して、事実原文に差し換えるつもりであったが、この綿引香織氏の労作を前にしては、とても安易にそのようにする気は、今は全く失せた。

芥川龍之介或いは片山廣子に関心のあられる方は、この「高志の国文学館 紀要 第1号」を購入せずんばならず!
とだけ言っておく。

但し、翻刻を精読させて戴いた上で、私の「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」注の推理の決定的誤りや不完全な部分は――片山廣子自身のために――訂正或いは削除せねばならぬことは言うまでもない。それは、じっくりとやろう。まずは御報告まで――

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