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カテゴリー「芥川龍之介」の654件の記事

2019/07/22

芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 三 最後 ~ 芥川龍之介「義仲論」正字正仮名正規表現・オリジナル注釈 完遂

 

      最 後

 

鳳闕の礎空しく殘りて、西八條の餘燼、未暖なる壽永二年七月二十六日、我木曾冠者義仲は、白馬金鞍、揚々として、彼が多年、夢寐の間に望みたる洛陽に入れり。超えて八月十日、左馬頭兼伊豫守に拜せられ、虎符を佩び皐比に坐し、號して旭日將軍と稱しぬ。今や、彼が得意は其頂點に達したり。彼は其熱望したるが如く遂に桂冠を頂けり。壽永の革命はかくして彼が凱歌の下に其局を結びたり。然りと雖も、彼と賴朝とが、相應呼して、獵し得たる中原の鹿は、果して何人の手中にか落ちむとする。若し彼にして之を得む乎、野心滿々たる源家の吳兒にして焉ぞ、手を袖にして、傍觀せむや。若し賴朝にして之を得む乎、固より火の如き血性の彼の默して止むべきにあらず。双虎一羊を爭ふ、彼等が劍を橫へて陣頭に相見る日の近きや知るべきのみ。しかも、シシリーに破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門に降ると雖も、捲土重來、幢戟南伊太利の原野に滿ちて、再カンネーに會稽の恥を雪がずンばやまず。鳳輦西に向ひて、西海に浮びたる平氏は、九州四國の波濤の健兒を糾合して、鸞旗を擁し征帆をかゝげ、更に三軍を從へて京師に迫るの日なくンばやまず。風雪將に至らむとして、氷天霰を飛ばす、義仲の成功と共に動亂の氣運は、再洪瀾の如く漲り來れり。

[やぶちゃん注:「鳳闕」「ほうけつ」。禁裏。漢代、宮門の左右にある高殿に銅製の鳳凰を飾ったところから王宮の門を指したものから転じた。瑞鳥鳳凰については私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「壽永二年七月二十六日」治承七年。一一八三年。ユリウス暦八月十五日、グレゴリオ暦換算八月二十二日。この前日、七月二十五日に平家は都落ちしていた。

「夢寐」「(むび)「の間に」眠って夢を見ている間さえ。

「虎符」「こふ」。古代中国の虎の形に作った銅製の割符。参戦する将軍が兵を徴発する際の証明として天子から与えられた。

「皐比」「かうひ(こうひ)」。「皐」は虎、「比」は皮革の意で、原義は「虎の毛皮」。転じてそれを敷く将軍の座や地位を指す。

「旭日將軍」「征東大将軍」の異名。「二 革命軍」の最初の段落の「旭の出づる方」の私の注を参照。

「吳兒」三国時代の呉国の若者。後に出るように侵略する魏の曹操を美事に赤壁で破った若武者たち或いはそれを献策指揮した呉の軍師周瑜(当時三十三歳)で、ここは義仲を指す。ところが、筑摩書房全集類聚版注が、これを『頼朝をさす』としているのは甚だ不審である。ここは後の部分と対句表現になっているので、「若し彼にして之を得む乎……」は当然、「若し賴朝にして之を得む乎……」の対なのであって、屋上屋や畳掛けであろうはずがないのである。思うに注した人物は「傍觀せむや」に引かれて誤読したものと思われる。これは自分が京を無血開城したのに、それを源家嫡流にして東国で旗揚げをして東海道を西下して平家を滅ぼさんとしつつある頼朝の別働隊の配下扱いに成り下がって、これから後を「傍觀」していられるなどということは逆立ちしても出来る相談じゃない、と言っていると読むべきであろう。

「シシリー」(現在のイタリア共和国内の地中海最大の島であるシチリア島(イタリア語: Sicilia)のこと)「に破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門」(「ゑんもん」:軍門)「に降ると雖も、捲土重來、幢戟』(とうげき:軍旗と旗矛)『南伊太利の原野に滿ちて、再カンネーに會稽の恥を雪がずンばやまず」「カルセーヂ」は紀元前八一四年から紀元前一四六年まで、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家カルタゴ(ラテン語: Carthāgō 又は Karthāgō/英語: Carthage)のこと。カルタゴは強力な海軍力を有しており、その進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシア・ローマとの対立を増大させ、特にカルタゴの玄関口に当たるシケリア(シチリア島)の覇権がその戦争の焦点となった。この「シケリア戦争」は実に紀元前六〇〇年から紀元前二六五年の間、継続的に戦われた。「シケリア戦争」はかなり複雑な経緯を辿っており、簡単には概要が摑めないが、ウィキの「シケリア戦争」を読む限り、芥川龍之介が言っているのは紀元前二一二にシケリアが完全に共和政ローマの属州となったことと、同時期から後の、ローマとカルタゴとの間で紀元前二一九年から紀元前二〇一年にかけて戦われた「第二次ポエニ戦争」に於いて、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(「一 平氏政府」で既出既注)がイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したことを言っている。「カンネー」アプリア地方(現在のイタリア南部のプッリャ州(Puglia))のカンナエ(カンネー(英語:Cannae))で、ここで紀元前二一六年八月二日に行われた、「第二次ポエニ戦争」における会戦の一つ「カンネー(カンナエ)の戦い」。ウィキの「カンナエの戦い」によれば、『ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上』『名高』く、二『倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった』とある。

「鳳輦」(ほうれん)屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿。土台に二本の轅を通し、肩で担ぐ。天皇専用の乗り物で、通常は即位・大嘗会・節会など、晴れの儀式の行幸に用いた。なお、この時、後鳥羽天皇(治承四(一一八〇)年~延応元(一二三九)年/在位:寿永二(一一八三)年八月二十日~建久九(一一九八)年)が安徳天皇が退位しない状態で即位しているため、ここから元暦二/寿永四(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での安徳の入水と平家滅亡までの一年七ヶ月の間、天皇が重複している。ここは無論、安徳天皇の載るそれを指す。

「鸞旗」(らんき)上記の飾りを施した天子の車駕に立てる旗。架空の瑞鳥「鸞」については私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん)(幻想の神霊鳥/ギンケイ)」を参照されたい。

「洪瀾」(こうらん)大波。]

 

然り、彼は成功と共に失敗を得たり。彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長驅、白旗をひるがへして洛陽に入れるの日に兆したり。彼は、其勃々たる靑雲の念をして滿足せしむると同時に、彼の位置の頗る危險なるを感ぜざる能はざりき。彼は北方の强たる革命軍を率ゐて洛陽に入れり、而して、洛陽は、彼等が住すべきの地にはあらざりき。劍と酒とを愛する北國の健兒は、其兵糧の窮乏を感ずると共に、直に市邑[やぶちゃん注:「しいう(しゆう)」。]村落を掠略したり。彼等のなす所は飽く迄も直截にして、且飽く迄も亂暴なりき。彼等は、馬を靑田に放つて秣ふ[やぶちゃん注:「まぐさかふ」。]を憚らざりき。彼等は伽藍を壞ちて[やぶちゃん注:「こぼちて」。]、薪とするを恐れざりき。彼等は、彼等の野性を以て、典例と儀格とを重ンずる京洛の人心をして聳動せしめたり。而して天下は、彼等を指して「平氏にも劣りたる源氏なり」と嘲笑したり。是、實に彼が入洛と共に、蒙りたる第一の打擊なりき。しかも獨り彼等の狼藉に止らず、悍馬に跨り長槍を橫へ、圍を潰し將を斬るの外に、春雨に對して雲和を彈ずるの風流をも、秋月を仰いで洞簫を吹くの韻事をも解せざりし彼等は、彼等が至る所に演じたる滑稽と無作法とによつて、京洛の反感と冷笑とを購ひ得たり。

[やぶちゃん注:「粟津」現在の滋賀県大津市南部の地名。同市粟津町(あわづちょう)はここ(グーグル・マップ・データ)。

「聳動」(しようどう(しょうどう))恐れ動揺すること。

「圍を潰し」(ゐをつぶし)公私有地の垣を破って侵入し。

「平氏にも劣りたる源氏なり」「平家物語」では百二十句本の巻第八の「法住持合戦」の前に『平家に源氏はおとりたり』と出、「源平盛衰記」の「古 巻第三十三」の終りに『人倫の所爲とも覺ず、遙かに替へ劣りたる源氏也』(国立国会図書館デジタルコレクションではここ。右ページの最後から四行前)とある。但し、私は以前からこの乱暴狼藉には疑問を持っていた。今回、個人サイト「朝日将軍木曽義仲洛中日記」の『「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造』を拝読、溜飲が下がった。そこには、

   《引用開始》

 「平家物語」によると、木曽義仲軍は京都での乱暴などの悪評により、鎌倉の頼朝・義経軍に討たれた事になっている。九条兼実の日記「玉葉」にも義仲軍の乱暴の記述がある。しかし、九条兼実の弟で僧侶の慈円による歴史書「愚管抄」の記述には、平家軍の京都からの退却の時、平家屋敷に火事場泥棒が発生した。さらに法皇・貴族が比叡山に退避した時、一般市民などが互いに略奪した。そして義仲軍等の入京後は乱暴や略奪は無い。公家の日記「吉記」にも僧兵や一般市民などが放火や略奪をした記述がある。最近では二00三年イラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見た。同様の略奪事件が起きたようだ。平家物語には、このような火事場泥棒や一般市民の略奪の記述は無い。

 「平家物語」は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その庶民の前で火事場泥棒や庶民の略奪を語る事は出来ない。木曽義仲軍の京都での乱暴説は「平家物語」の捏造(ねつぞう、作り話)であり、「玉葉」による伝聞の大袈裟(おおげさ)な表現による。真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である。

 「平家物語」は多くの歴史研究者が指摘するように史書ではなく単なる文学作品である。例えば歴史小説の記述は事実かと問うのと同じである。平家物語では他の史料と比較して史実上のミス、又は創作が指摘されている。

 原作者は案外事実を忠実に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で、一般市民の略奪などの聴衆に不都合な場面は削除された。原作本が紛失し、後日、再度文書化されたときは、かなり史実と異なる諸本が多く残ったようである。

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者である鎌倉の頼朝や京都の朝廷の批判は困難である。負けた平清盛や木曽義仲だけが悪く、頼朝や義経は正しいと表現せざるを得ない。義経でさえ美男子だったかもしれないのに「色白で反っ歯の小男」と表現されている。もっともこれは最後まで義仲に味方した山本義経という武将の容貌が誤って伝えられた、又は、わざと誤報を流したという説もある。朝廷の後白河法皇や鎌倉の頼朝の良くない表現は当然有り得無い。

 歴史は勝者に都合の良いように記録される。敗者の善行は語られないが、勝者の善行は大いに語られる。敗者の悪事は大袈裟に捏造され語られるが、勝者の悪事は大事でも秘密にされる。

 後世の小説家や歴史解説者の多くが「平家物語」と「玉葉」の一部の記述を鵜呑(うの)みにして義仲軍だけが乱暴を働いたと解説しているが、実は平家物語や玉葉にも平家軍・頼朝軍ともに乱暴の記述がある。「吾妻鏡」には平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍や義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」に任命された鎌倉武士の乱暴の記述が多数ある。

   《引用終了》

とあるのである。同サイトの「目次」の他の幾つかのページでは、具体的な資料を掲げてある(但し、現代語訳)ので一見をお薦めする。

「雲和」名琴(きん)の一種。「雲和材式」。「Facebook」の伏見无家氏の記事に(所属しなければ見られないのでリンクは張らない。引用元には図入りの漢籍の画像が添えられてある)、

   《引用開始》

雲和とは地名(今の中国浙江省麗水市に位置する雲和県)で、そこは最良の琴材を産出し、それで琴を作ればその音は清亮、すなわち透きとおってよく通るといいます。雲和の材で製した琴は、冬至の日に円形の壇(圜丘)にて奏する琴であり、また空桑(河南省東部、安徽省北部あたり)の地で製した琴は夏至の日に沢の中の四角い壇(方丘)にて奏し、龍門(河南省洛陽市)の材で製せられた琴は宗廟(みたまや)で奏す琴だということです。なぜなら雲和の木は天と相い応じ、空桑の木は大地と相い協[かな]い、龍門の木は鬼神と相い和すからです。雲和式琴の額の両脇にある丸については不明です。また徽の位置の意味についてもわかりません。これは琴の裏面の図ではないかと思います。かつて、唐代の詩人蕭祐[しょうゆう]はこの琴を弾きました。蕭祐、別名蕭祜[しょうこ]は琴の名手で書画にも精妙な作があり、名人高士の友人たちを集めてよく山林に遊んだ文人です。

   《引用終了》

とある。

「洞簫」(どうせう(どうしょう))。所謂、「簫の笛」。中国・朝鮮の縦笛で、指孔は前面五孔・背面一孔。竹管の上端の一部を内側に斜めに削(そ)いでエッジとした縦笛で、外側に削ぐ日本の尺八とはエッジの附け方が相違している。長短種々あり、短いものは「短簫」という。唐代にはこれを「尺八」と称し、それが日本の古代の尺八(正倉院現存)の先駆である。近世日本の尺八を「洞簫」と雅称することがある(「ブリタニカ国際大百科事典」)。以上の記載を考えると、筑摩書房全集類聚版注の『尺八の類』というのは正しい注とは言えない。

「韻事」(ゐんじ(いんじ))詩歌を作って楽しむ風流な遊び。]

 

加ふるに此時に當りて西海に走れる平軍は、四國の健兒を麾いて[やぶちゃん注:「さしまねいて」。]、瀨戶内海の天塹に據り、羽林の鸞輿を擁するもの實に十萬餘人。赤旗將に八島の天に燃えむとす。平氏は、眞に海濤の勇士なりき。「坂東武者は馬の上にてこそ口はきき候へども、船軍をば、何でふ修練し候ふべき、たとへば魚の木に上りたるにこそ候はむずらめ」とは、彼等が僞らざる自信なりき。而して平門の周郞たる、新中納言知盛は、絕えず宗盛を擁して、囘天の大略を行はむと試みたりき。是、豈、彼が勁敵の一たるなからむや。内にしては、京洛の反感をかひ、外にして平氏の隆勢に對す、かくの如くにして革命軍の將星は、秋風と共に、地に落つるの近きに迫り來れり。彼が嘗つて、北越七州の男兒を提げ、短兵疾驅、疾風の威をなして洛陽に入るや、革命軍の行動は眞に脫兎の如く神速なりき。而して翠華西に向ひて革命軍の旗、翩々[やぶちゃん注:「へんぺん」。]として京洛に飜るや、其平氏に對する、寧ろ處女の如くなるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:「天塹」(てんざん)敵の攻撃を防ぐに足る天然の塹壕様の凹地形や堀のこと。

「羽林」近衛中将・少将の唐名。

「鸞輿」(らんよ)先の「鳳輦」と同じく天子の乗る輿。

「坂東武者は馬の上にてこそ口はきき候へども、船軍をば、何でふ修練し候ふべき、たとへば魚の木に上りたるにこそ候はむずらめ」「平家物語」巻第十一の「遠矢」での、平家方の藤原悪七兵衛景清の台詞。かなり近い流布本(この後がじきに「先帝入水」である)を示す。

   *

「それ坂東武者は、馬の上にてこそ、口はきき候はんずらめ、船軍(ふないくさ)をば、いつ調練し候ふべき。譬へば、魚の木に上つたるにこそ候はんずらめ。一々に取つて、海に漬けなんものを。」

   *

「周郞」三国時代の呉の名将周瑜(しゅうゆ 一七五年~二一〇年)の渾名。字は公瑾。廬江 (安徽省) の人。早くから孫権に従った。二〇八年、華北をほぼ平定した曹操が南下しようとした際、呉では降伏論が盛んであったが、瑜は戦いを主張し、軍を率いて曹操の大軍を赤壁で破った(「赤壁の戦い」)。さらに逃げるのを追って南郡を平定し、南郡太守に任ぜられている。後、孫権に益州(四川)攻略の計を献じて入れられたが、事が進まぬうちに病に倒れた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「處女の如くなる」恥じらう乙女のように手控えに動かなくなる。]

 

彼は自ら三軍を率ゐて平氏を征するを欲せざりき。何となれば、彼を疎んじたる朝廷の密謀は、彼を抑ふるに源兵衞佐を以てせむとしたれば也。彼は之が爲に、其後を襲はるゝを恐れたれば也。しかも、彼が北陸宮をして、天日の位につけ奉らむと試みしより以來、彼と快からざる後白河法皇は、賴朝に謳歌して彼を除かむと欲し給ひしを以て也。彼が馬首西を指して、遠駕、平賊と戰ふ能はざりしや、知るべきのみ。然れども、院宣は遂に彼をして、征西の軍を起こして、平氏を水島に討たしめたり。北陸の健兒由來騎戰に長ず、鐵兜三尺汗血の馬に鞭ちて、敵を破ること、秋風の落葉を拂ふが如くなるは、彼等が得意の擅場[やぶちゃん注:「せんじやう」。]也。彼等は日本のローマ戰士也。彼等は山野の霸王也。然りと雖も、水上の戰に於ては、遂にカルセーヂたる平氏が、獨特の長技に及ばざりき。恰も長江に養はれたる、吳の健兒が、赤壁に曹瞞八十萬の大軍を鏖殺し、詩人をして「漢家火德終燒賊」と歌はしめたるが如く、瀨戶内海に養はれたる波濤の勇士は、遂に、連勝の餘威に乘じたる義仲の軍鋒を破れり。源軍首を得らるゝもの三千餘級、白旄地に委して、平軍の意氣大に振ふ。彼が百勝將軍の名譽は、此一敗によつて汚されたり。彼は、更に精鋭を率ゐて平軍と雌雄を決せむと欲したり。然れども、彼は、賴朝の大擧、彼が背を討たむとするを聞きて危機既に一髮を容れざるを知り、水島の敗辱を雪ぐに遑[やぶちゃん注:「いとま」。]あらずして、倉皇として京師に歸れり。是實に壽永二年十一月十五日、法住寺の變に先つこと僅に三日。彼は京師に歸ると共に、直に賴朝に應戰せむと試みたり。

[やぶちゃん注:「三軍」古兵法で先陣・中堅・後拒、又は左翼・中軍・右翼を指す兵法用語であるが、転じて全体の軍隊。全軍。

「北陸宮」(ほくろくのみや 永万元(一一六五)年又は仁安二(一一六七)年~寛喜二(一二三〇)年)は本名未詳であるが、以仁王の第一王子である。ウィキの「北陸宮」によれば、治承四(一一八〇)年五月、『父が平氏との合戦で敗死すると、出家して乳母の夫・讃岐前司重秀に伴われて越前国へ逃れた。以仁王の王子である宮には追っ手がかかる可能性があったが』、九『月には信濃国で以仁王の令旨をかかげた木曾義仲が挙兵』し、『宮はその庇護を受けるかわりに、義仲軍の「錦の御旗」に奉じられることとなった。義仲は越中国宮崎に御所をつくらせると、そこで宮を還俗させると同時に元服させた。この知らせには鎌倉の源頼朝も動揺したようで、これに対抗して意図的に「以仁王は生存しており』、『鎌倉で匿われている」という流言を広め』たりしている。寿永二(一一八三)年七月、『平家を都落ちさせた義仲の軍勢がついに入京を果たした』が、『この軍中に北陸宮の姿はなく、宮はこの頃』、『加賀国に滞在していた。義仲は親しかった俊堯僧正を介し』、『宮を皇儲』(こうちょ:天皇の世継ぎ)『にと後白河法皇に働きかけたが、法皇はこれに耳を傾けること』なく、八月二十日に『安徳天皇の異母弟・四ノ宮を皇位に即けた(後鳥羽天皇)』。宮は九月十八日に『なって京都に入り、法皇とともに法住寺殿に身を寄せていたが、義仲が』「法住寺合戦」に『踏み切る前日の』十一月十八日に逐電、その後は『行方知れずとなった』。『宮が再びその姿をみせるのは』二『年後の文治元年』(一一八五年)十一月の『ことで、頼朝方の庇護のもとに帰洛を果たしている。法皇に賜源姓降下を願ったが』、『許されず、その後』、『嵯峨野に移り住んで中御門宗家の女子を室に迎えた。後に土御門天皇の皇女を養女にし、持っていた所領の一所を譲ったという』とある。義仲の後白河への進言は実は論理的には非常に正当である。しかし、法皇も公卿も一人としてそれを聴かなかった。山猿としか思っていない義仲ふぜいが皇嗣を云々することに激しい忌避感を感じたからであろう。

「天日の位」(てんじつのくらゐ)天皇(日継ぎ)の位。

「水島」寿永二年閏十月一日(ユリウス暦一一八三年十一月十七日)に源義仲軍と平氏軍との間で現在の備中国水島(現在の倉敷市玉島)で行われた「水島の戦い」。ウィキの「水島の戦い」によれば、『当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため』、寿永二(一一八三)年九月二十日に『義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが』、この日、『四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の同族である武将足利義清・足利義長兄弟と海野幸広(海野氏)であ』ったが、『平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科盛家(仁科氏)といった諸将を失い』、『壊滅、京都へ敗走することになった。この勝利により』。『平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り』、「一ノ谷の戦い」を『迎えることとな』った。『なお、この戦いの最中に』九十五%『ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」等の資料によって確認されて』おり、『当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから、平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある』という。

「鐵兜三尺」(てつとう/さんじやく)この「三尺」(九十センチ)は「三尺の秋水(しゅうすい)」(「秋水」は研ぎ澄まされた刀身」の光沢の意)で刃長(はちょう:柄を含めず鍔から先の刀身部分)が約九十一センチメートルある大刀の意であろう。現代の分類では刃長六十センチメートル以上のもの「太刀」と称し、それ以下は太刀として作られたものでも「脇差」と呼ぶ。

「汗血の馬」(かんけつのうま)駿馬が走る際、血のような汗を流すとされるところから「駿馬」の意。

「カルセーヂたる平氏」既に注で述べた通り、カルタゴは強力な海軍力で地中海の覇権を握っていた。一方、平氏も前段で芥川龍之介が引用しているように、『清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった』(ウィキの「平氏政権」より引用)経緯があって、やはり優れた水軍としての能力集団を擁していたのである。「驕る平氏」やら、壇ノ浦に至るまでのイメージを哀れな潰滅的敗走といった認識で押さえてしますと、とんだ誤りをしでかす。

「曹瞞」(さうまん(そうまん))は曹操の幼名。これを使うこと自体が、驕った曹操を卑下してるいることは言うまでもない。

「鏖殺」(あうさつ(おうさつ))皆殺しにすること。

「漢家火德終燒賊」清の詩人袁枚(えんばい 一七一六年~一七九七年:詩は格式に捉われず、自己の感懐を自由に表現すべきものとする「性霊(せいれい)説」を主張した。「随園食単」で食通としても知られる)の七律「赤壁」の一節。

   *

 赤壁

一面東風百萬軍

當年此處定三分

漢家火德終燒賊

池上蛟龍竟得雲

江水自流秋渺渺

漁燈猶照荻紛紛

我來不共吹簫客

烏鵲寒聲靜夜聞

 一面の東風 百萬の軍

 當年此の處 三分を定む

 漢家の火德 終(つひ)に賊を燒き

 池上の蛟龍 竟(つひ)に雲を得たり

 江水 自ら流れ 秋 渺渺(べうべう)

 漁燈 猶ほ照す 荻 紛紛(ふんぷん)

 我れ來りて共にせず 吹簫(すゐせう)の客

 烏鵲(うじやく)の寒聲 靜夜に聞く

   *

訳は個人ブログ「一五一会の音色に乗せて」の「長江紀行、赤壁を想う」がよい。

「地に委して」地に捥(も)ぎ捨てられて。

「法住寺の變」寿永二年十一月十九日(ユリウス暦一一八四年一月三日)、義仲が院御所であった法住寺殿(ここ(グーグル・マップ・データ)。三十三軒堂の東隣り)を襲撃して北面武士及び僧兵らと戦って後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデタである「法住寺合戦」。ウィキの「法住寺合戦」より、事件に至る経緯(かなり長い)の一部を省略して引く。義仲入城後の京中の騒擾や治安悪化に業を煮やした後白河は十九日に『義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」』『と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え』、『出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった』。その『義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」』『と朝廷を大いに喜ばせるものであった。その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず』、『国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した』。これを受けて十月九日、『後白河は頼朝を本位に復して赦免』、十四『日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与え』た。『ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた』。『高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」』『と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ』、『義仲の完全な排除を求めて譲らなかった』。『一方、義仲は西国で苦戦を続けていた。閏』十月一日の「水島の戦い」では『平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中』、『義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり』、『数万の兵を率いて上洛するという情報だった』、『義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏』十月十五日『に少数の軍勢で帰京する。義仲入洛の報に人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」』『であったという。後白河と頼朝の橋渡しに奔走していた平頼盛はすでに逃亡しており』、『親鎌倉派の一条能保・持明院基家も相次いで鎌倉に亡命した』。『義仲の帰京に慌てた院の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。藤原範季は「義仲は、法皇が頼朝と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を抱いている。義仲の疑念を晴らすため、また平氏追討のために法皇は播磨国』(この時義仲の西討本陣が置かれていた)『に臨幸すべきである」という案を出す』。『高階泰経・静憲も賛同するが、この案が実行に移されることはなかった』。同二十日、『義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした』。『義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給』、『志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河が認めるはずもなかった。義仲の敵はすでに平氏ではなく』、『頼朝に変わっていた』。この前日の十九『日の』義仲側の『源氏一族の会合では』、『後白河を奉じて関東に出陣するという案が飛び出し』、二十六『日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された』。『しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のもの』であった。十一月四日、『義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしていたが』、七『日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始める。頼朝軍入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派が逼塞し』、『主戦派が台頭していた』。「愚管抄」に『よると、北面下臈の平知康・大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と進言したという。特に知康は伊勢大神宮の託宣を受けたと称するなど』、『主戦派の急先鋒だった』。八『日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず』、『平氏追討のため』、『京を離れた。後白河と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した』。十六『日になると、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて』、『僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ』、『法住寺殿の武装化を進めた。摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方となり、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため』に『西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず』、『義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった』。『これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」としている』。『義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが』、十七『日夜に八条院』、翌日には『上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電、入れ替わるように』、『後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる』。十九日午の刻(午後零時頃)、『兼実は黒煙を天に見た。申の刻(午後』四『時頃)になって入った情報は「官軍悉く敗績』(はいせき:敗れて今までの功績を失う意。戦いに敗れること)『し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」というもので、兼実は「夢か夢にあらざるか。魂魄退散し、万事覚えず」と仰天した。この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した』。「吉記」は『「後に聞く」として「御所の四面、皆悉く放火、其の煙偏に御所中に充満。万人迷惑、義仲軍所々より破り入り、敵対するあたわず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸。参会の公卿十余人、或いは馬に鞍し、或いは匍這う四方へ逃走。雲客以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形」と戦場の混乱を記している。記主の吉田経房は「筆端及び難し」と言葉を濁しているが、慈円は』「愚管抄」に『明雲・円恵法親王について詳細に記している。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」』『と慨嘆し』ている。院御所の襲撃は「平治の乱」で『前例があるが、藤原信頼の目的はあくまで信西一派の捕縛だった。今回の襲撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が武士により完膚なきまでに叩き潰されたと言う点でかつてないものであり、およそ』この四十年後の「承久の乱」に『先駆けるものであった』。十一月二十(或いは二十一)日、『五条河原で源光長以下百余の首がさらされ、義仲軍は勝ち鬨の声を挙げ』、二十一日、『義仲は松殿基房と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」』『と命じ』、二十二日には『基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。基房は師家の摂政就任を後白河に懇願して断られた経緯があり』、『娘の伊子を義仲に嫁がせて復権を狙っていた』のであった。二十八日、『新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることが決定された。これについて兼実は「狂乱の世なり」としている』。『同日、中納言・藤原朝方以下』四十三人が解官されている、とある。]

 

此時に於て、彼をして此計畫の斷行を止めしめしものは、實に、十郞藏人行家の反心なりき。行家はもと賴朝と和せずして、義仲の軍中に投ぜしもの、情の人たる義仲は、一門の長老として常に之を厚遇したり。彼が北陸の革命軍を提げて南を圖るや、行家亦、鑣[やぶちゃん注:「くつわ」。]を彼と並べて進みたりき。彼が、緋甲白馬、得々として洛陽に入るや、行家亦肩を彼と比して朝恩に浴したりき。行家の義仲に於ける交誼かくの如し。而して多恨多淚、人の窮を見る己の窮を見るが如き、義仲は、常に行家を信賴したり。信賴したるのみならず、帷幄の密謀をも彼に漏したり。然れ共、行家は、一筋繩ではゆかぬ老奸雄なりき。彼は革命軍の褊裨を以て甘ぜむには、餘りに漫々たる野心と、老狐の如き姦策とに富みたりき。彼は、義仲の法皇を擁して北越に走らむとするを知るや、竊に之を法皇に奏したり。而して法皇の、人をして、義仲を詰らしめ給ふや、彼は平氏追討を名として、播磨國に下り、舌を吐くこと三寸、義仲の命運の窮せむとするを喜びたりき。義仲が相提携して進みたる行家は、かくして彼の牙門を去れり。しかも、東國を望めば、源軍のリユーポルト、九郞義經は、源兵衞佐の命を奉じて、帶甲百萬、鼓聲地を撼して[やぶちゃん注:「ゆるがして」。]將に洛陽にむかつて發せむとす。彼の悲運、豈、憫むべからざらむや。

[やぶちゃん注:「行家」(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三)年頃~文治二(一一八六)年)は何度か注しているが、ここで再度、注しておく。源為義の子で、頼朝の叔父に当たる(頼朝より四~七歳ほど、義仲より十一~十四歳ほど年上)。本名は義盛。「保元の乱」で父為義が敗れて後、熊野新宮に隠れ、新宮十郎と称した。治承四(一一八〇)年、以仁王を奉ずる源頼政に召し出され、名を行家と改め、山伏姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨を伝えた。まもなく、以仁王と頼政は敗北し、行家は尾張・三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたが、いれられず、やがて行家は義仲と結んだ。義仲とともに入京して後白河法皇に謁し、従五位下備前守となった。しかしその後、義仲と対立するに至り、紀伊に退いた。平氏滅亡後は頼朝と不和となった源義経に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦(兵庫県尼崎市)をたったが、大風にあって遭難、和泉に隠れたが、翌年、関東の討手常陸房昌明(しょうみょう)に攻められ、赤井河原で斬られた(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「褊裨」(へんぴ)大将の補佐。副将 。

「リユーポルト」イングランドの軍人で初代カンバーランド公及び初代ホルダネス伯ルパート(Prince Rupert 一六一九年~一六八二年)。プファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒⅤ世と妃エリザベス・ステュアート(イングランド王ジェームズⅠ世(スコットランド王ジェームズⅥ世)の娘)の三男としてボヘミア王国のプラハに生まれた。後、イングランドに渡り、王党派(騎士党)の中心的存在となり、清教徒革命(イングランド内戦)では叔父チャールズⅠ世率いる国王軍の指揮官を務めた。但し、形勢不利となり、議会派との和睦を主張したが、徹底抗戦を貫くチャールズⅠ世から遠ざけられ、一六四六年に大陸へ戻っている(一六六〇年に共和政が終わってチャールズⅡ世の王政復古がなるとイングランドに戻り、そこで亡くなった。詳しくは参照したウィキの「ルパート(カンバーランド公)」を見られたい)。]

 

かくの如くにして彼は步一步より、死地に近づき來れり。然れ共彼は猶、防禦的態度を持したりき。彼は猶從順なる大樹なりき。然り、彼は猶、陰謀の挑發者にあらずして、陰謀の防禦者なりき。しかも、彼をして、弓を法皇にひかしめたるは、實に、法皇の義仲に對してとり給へる、攻擊的の態度に存したりき。而して、法皇をして義仲追討の擧に出でしめたるは、輕佻、浮薄、無謀の愚人、嘗て義仲の爲に愚弄せられたるを含める斗筲の豎兒、平判官知康なりき。事を用ふるを好み給へる、法皇は、知康の暴擧に贊し、竊に、南都北嶺の僧兵及乞食法師辻冠者等をして、義仲追討の暴擧に與らしめ[やぶちゃん注:「あづからしめ」。]給へり。而して十一月十八日仁和寺法親王、延曆寺座主明雲、亦武士を率ゐて法住寺殿に至り、遂に義仲に對するクーデターは行はれたり。法皇は事實に於て、義仲に戰を挑み給へり。彼の前には唯、叛逆と滅亡との兩路を存したり。燃ゆるが如くなる、血性の彼にして、焉ぞ手を袖して誅戮を待たむや。彼は憤然として意を決したり、あらず、意を決せざるべからざるに至れる也。彼は劍を按じて絕叫したり。「いかさまこは鼓判官がきようがいと覺ゆるぞ。軍能うせよ、者共。」而して白旗直に法住寺殿を指し、刀戟霜の如くにして鐵騎七千、稻麻の如く御所を圍み亂箭を飛ばして、天臺座主明雲を殺し、院側の姦を馘るもの[やぶちゃん注:「くびきるもの」。]一百十餘人、其愛する北國の勇士、革命の健兒等をして凱歌を唱へしむる、實に三たび。木曾の野人のなす所はかくの如く不敵にして、しかもかくの如く痛激なり。彼は其云はむと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を爲す、敢て何等の衒氣なく何等の矯飾なかりき。然り彼は不軌の臣也、然れども、彼は不軌の何たるかを知らざりし也。

[やぶちゃん注:「斗筲」(とさう/としやう(とそう/としょう))。一斗を入れる枡と、一斗二升を入れる竹の器の意で、転じて「度量の狭いこと。器量の小さいこと」を謂う。

「平判官知康」(生没年未詳)は北面の武士。壱岐守平知親の子。検非違使・左衛門尉。鼓の名手で「鼓の判官(ほうがん)」と呼ばれた。参照したウィキの「平知康」によれば、『北面武士で、後白河院の信任篤く近臣となる』。『義仲が』『入京すると、法皇の使いとして幾度か義仲を訪れている』。「平家物語」では『兵の乱暴狼藉を鎮めるよう求めたところ、義仲から「和殿が鼓判官といふは、万(よろず)の人に打たれたか、張られたか」と尋ねられて面食らい、法皇に義仲討伐を進言したとされる』。『知康は院御所の法住寺殿に兵を集めて、公然と義仲に対決姿勢を示した。法皇方は義仲に洛外退去を要求し、応じねば追討の宣旨を下すと通告した。怒った義仲は』、『法住寺殿を攻撃、知康が防戦の指揮を執るが、さんざんに敗れて、後白河院は義仲に捕らえられ』、『幽閉されてしまった』。『敗れた知康は解官される』。元暦二(一一八五)年には『検非違使に復官、在京していた源義経に接近』したが、『平家滅亡後に、源頼朝と義経が不和になり、義経が都落ちすると、知康は再び解官されてしまう』。元暦三(一一八六)年、『この弁明のために鎌倉へ下向すると』、第二代将軍『源頼家の蹴鞠相手として留め置かれ、その側近とな』った。十七年後の建仁三(一二〇三)年、『頼家が追放され』、『伊豆国修禅寺に幽閉されると、知康は』帰京を命ぜられている。その後の事蹟は不明。

「仁和寺法親王」守覚法親王(しゅかくほっしんのう 久安六(一一五〇)年~建仁二(一二〇二)年)。父は後白河天皇。真言宗仁和寺第六世門跡。永暦元(一一六〇)年に覚性入道親王に師事して出家、仁安三(一一六八)年、伝法灌頂。翌嘉応元年、覚性入道親王が没した跡を継ぎ、仁和寺門跡に就任した。高倉天皇の第一皇子言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈禱を行っている。建仁二(一二〇二)年、仁和寺喜多院で死去した。和歌に優れ、家集に「守覚法親王集」「北院御室御集」がある。また、仏教関係の著書多く、日記「北院御日次記」も残る。「平家物語」「源平盛衰記」の「経正都落」の条には、平経正が都落ちの際、仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領した琵琶「青山」を返上した折り、別れを惜しみ、歌を交わした記事が残る(以上はウィキの「守覚法親王」に拠った)。

「延曆寺座主明雲」(みょううん 永久三(一一一五)年~寿永二(一一八四)年)は天台座主で六条・高倉・安徳各天皇の護持僧、後白河天皇・平清盛の戒師。父は源顕通で、梶井門跡最雲法親王の弟子となった。仁安二(一一六七)年、快修を追放して天台座主となる。安元三(一一七七)年四月、後白河上皇の近臣藤原師光(後の西光)の子で加賀国国司であった藤原師高と弟の目代師経が、白山中宮涌泉寺を焼いたことから、白山の本寺延暦寺衆徒が日吉・白山神輿を奉じて、師高・師経と師光の追放を迫り、朝廷は師高を尾張国に配流したが、擾乱のかどで明雲の座主職を解任し、知行寺務を没収、還俗の上、伊豆国に流罪とした。護送中、瀬田の辺りで延暦寺衆徒の手で奪回されたが、直後に「鹿ケ谷の謀議」の露見が発生、西光・師高が処刑されたため、流罪は沙汰止みとなり、明雲は大原に籠居した。治承三(一一七九)年十一月、清盛が院の近臣の官を解き、院政を停止すると、同時に明雲は僧正に任ぜられ、再び座主に就任、同四年には四天王寺別当、養和元(一一八一)年には白河六勝寺別当となり、同二年、大僧正に任じられた。後白河上皇の法住寺殿に参内中、義仲の兵の流れ矢に当たり、没した。「平家の御持僧」(「愚管抄」)と称され、清盛の信任厚く、内乱時に延暦寺の反平氏勢力を抑える役割を果たしたが、平氏の盛衰とともに運命を共にした形となった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。なお、既に注で述べた通り、在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初である。

「遂に義仲に對するクーデター」(フランス語:coup d'État:一般には暴力的な手段の行使によって引き起こされる支配階級内部での政変闘争事態を指す。フランス語で「国家に対する一撃」を意味し、発音はカタカナ音写するなら「クゥ・デタ」である。私は昔から「クーデタ」と表記することにしている。ここで面白いのは芥川龍之介の謂いである。現行、一般な史的記載では「法住寺合戦」は〈義仲のクーデタ〉として記される。しかし、この経緯を仔細に見るとき、後白河が義仲に反意を持ち、一方的に兵を集め固めて臨戦態勢を成したによって、正規に認められた将軍である義仲が自身を敵視する不条理なその行動に対処せざるを得なくなったのであり、クーデタを起こしたのは、芥川の言う通り、義仲ではなく、後白河側なのである。少なくともこの認識で読まないと、後もおかしくなるので注意されたい。

「いかさまこは鼓判官がきようがい」(凶害:讒言)「と覺ゆるぞ。軍能うせよ、者共。」「平家物語」巻第八「法住寺合戦」の義仲出陣の際の一節。纏まりの良い「百二十句本」で示すと、

   *

 すでに院の御氣色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郞兼平、木曾殿に申しけるは、

「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人(かうにん)に參らせ給へかし。」[やぶちゃん注:「十善の帝王」は後白河法皇を指す。前世で十の善を成した者はその果報で帝王となれるとされた。]

と申せば、木曾殿のたまひけるは、

「われ、信濃の國橫田川の軍(いくさ)よりはじめて、北國・礪波・黑坂・志保坂・篠原・西國にいたるまで、度々(どど)のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは參るまじけれ。これは鼓判官が凶害(きようがい)とおぼゆるぞ。あひかまへてその鼓め、打ち破つて捨てよ。」

とぞのたまひける。

   *

芥川龍之介の「軍能うせよ、者共」の部分は、流布本の台詞の最後に、

「……打ち破つて捨てよ。且(かつう)は兵衞佐賴朝が還り聞かんずる所[やぶちゃん注:伝え聞くであろうこと。]もあり。軍(いくさ)、ようせよ、者ども。」

とある。

「不軌」法律や規則などに従わないこと、或いは、謀反を企てること。無論、後者。]

 

今や彼は、劍佩の響と共にクーデターに與りたる[やぶちゃん注:「あずかりたる」。]卿相四十餘人の官職を奪ひ、義弟藤原師家をして攝政たらしめ、賴朝追討の院宣と征夷大將軍の榮位とを得、壯心落々として賴朝と戰はむと欲したり。然れ共彼が此一擧は、遂に盜を見て繩を綯ふ[やぶちゃん注:「なふ」。]に類したりき。魚に臨ンで網を結ぶに類したりき。何となれば、反心を抱ける行家は、既に河内によりて義仲に叛き、九郞義經の征西軍は早くも尾張熱田に至り、鎌倉殿の號令一度下らば、「白日秦兵天上來」の勢を示さむとしたれば也。是に於て彼は懼然として恐れたり。出でて賴朝と戰はむ乎、水島室山の戰ありてより連勝の餘威を恃める平氏が、龍舟錦帆、八島を發し鸞輿を擁して京洛に入らむとするや、火を見るよりも明也。退いて洛陽に拒守せむ乎、鞍馬の頑兒と、蒼髯の老賊とが、鼙鼓を打つて來り迫るや知るべきのみ。彼の命運や窮したり。勇名一代を震撼したる旭日將軍もかくして、日一日より死を見るの近きにすゝめり。しかも、彼の平氏に對して提したる同盟策が、濶達勇悍の好將軍知盛によつて、拒否せらるゝや、彼が滅亡は漸く一彈指の間に迫り來れり。

[やぶちゃん注:「義弟藤原師家」松殿師家(まつどのもろいえ 承安二(一一七二)年~嘉禎四(一二三八)年)。ウィキの「松殿師家」を引く。関白『松殿基房の三男。官位は正二位・内大臣、摂政』。『母方の花山院家は後白河院・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って大きな影響力を保持していた。その花山院家への配慮から、父・基房は師家を三男ながら正嫡として遇しており、治承』三(一一七九)年には僅か』八『歳にして権中納言に補任される。しかし、これは師家の従兄である近衛基通を超越しての昇進であり、摂関家の正統な後継者を基通から師家に変更することを意味する措置であった。基通の父近衛基実は平清盛の娘の平盛子と婚姻しており、基実の死後は盛子を名義人として清盛が摂関家領を管理していた。盛子の死後は』、『やはり清盛の女婿である基通を通じて摂関家領の管理を継続することを望んでいた清盛が』、『この人事に激怒したことが、治承三年の政変のもっとも重大な契機となった。基房・師家父子は官職を奪われ、基房は出家に追いこまれた。基房が務めていた関白には基通が補任された』。四『年後の』寿永二(一一八三)年、『平家西走と源義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。娘(藤原伊子とされる)を義仲の正室として差し出して姻戚関係を結び』、『同年』十一『月、摂政基通を解任し、僅か』十二『歳の師家を後任の摂政とした』。『しかし翌年』一『月、源範頼・義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚してしまう。師家は在任数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降』、『官に復することもなかった』。

「賴朝追討の院宣と征夷大將軍の榮位とを得」「法住寺合戦」の翌月十二月一日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて、軍事の全権を掌握し、同十日には、源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式上の官軍の体裁を整えた。寿永三(一一八四)年一月六日、鎌倉軍が墨俣(すのまた)を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、恐懼した彼は、同月十五日、自らを「征東大将軍」(「征夷大将軍」ではないことは既注済み)に任命させている(ウィキの「源義仲」に拠る)。

「壯心落々」この「落々」は「心が広くゆったりとして小事に拘らないさま」の意。

「白日秦兵天上來」筑摩書房全集類聚版注は出典未詳とするが、これは晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)の「楚宮怨 二首」の「其一」の結句である。

   *

  楚宮怨 二首

 其一

十二山晴花盡開

楚宮雙闕對陽臺

細腰爭舞君沉醉

白日秦兵天上來

 其二

獵騎秋來在内稀

渚宮雲雨溼龍衣

騰騰戰鼓動城闕

江畔射麋殊未歸

   *

戦国時代、楚が秦に圧迫されて衰微し、紀元前二二三年に滅びた、それを懐古するもの。「白日 秦兵 天上より來たる」と訓じておく。

「懼然」「くぜん」。怖れるさま。

「室山の戰」寿永二(一一八三)年十一月二十八から二十九日に播磨国室山(現在の兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)(グーグル・マップ・データ)の港の背後にある丘陵)でそこに陣を張った平氏軍に対し、源行家軍が攻撃して敗れた戦い。

「鞍馬の頑兒」義経。

「蒼髯の老賊」行家。

「彼の平氏に對して提したる同盟策が、濶達勇悍の好將軍知盛によつて、拒否せらるゝ」驚天動地の内容だが、これは既に「一 平氏政府」の「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」で電子化した「源平盛衰記」の「榎巻 第三十四」の「木曾平家に与(くみ)せんと擬(ぎ)す竝びに維盛歎き事」の冒頭部である。しかし、事実とは到底、思えない。当時の状況を総合的に冷静に見て仮想してみても、今の今までさんざん殺戮し合った義仲軍と平家軍が合作するというのは、これ、実現しようがないと私は思う。]

 

壽永三年正月、彼が、股肱の臣樋口次郞兼光をして行家を河内に討たしむるや、兵を用ふること迅速、敏捷、元の太祖が所謂、敵を衝く飢鷹の餌を攫むが如くなる、東軍の飛將軍、源九郞義經は、其慣用手段たる、孤軍長驅を以て、突として宇治に其白旄をひるがへしたり。同時に蒲冠者範賴の大軍は、潮の湧くが如く東海道を上りて、前軍早くも勢多に迫り、義仲の北走を拒がむ[やぶちゃん注:「ふせがむ」。]と試みたり。根井大彌太行親、今井四郞兼平、義仲の命を奉じて東軍を逆ふ。其勢實に八百餘騎、既にして兩軍戈[やぶちゃん注:「ほこ」。]を宇治勢多に交ふるや、東軍の精鋭當るべからず。北風競はずして義仲の軍大に破れ、士卒矛をすてて走るもの數百人、東軍の軍威隆々として破竹の如し。是に於て壯士二十人を從へて法皇を西洞院の第に守れる彼は、遂に法皇を擁して北國に走り、捲土重來の大計をめぐらすの外に策なきを見たり。而して彼、法皇に奏して曰「東賊、既に來り迫る、願くは龍駕を擁して醍醐寺に避けむ」と、法皇從ひ給はず。彼憤然として階下に進み劍を按じ眦[やぶちゃん注:「まなじり」。]を決して、行幸を請ふ、益々急。法皇止む事を得ずして將に六馬行宮[やぶちゃん注:「あんぐう」。]を發せむとす。時に義仲の騎來り報じて曰「東軍既に木幡伏見に至る」と。彼、事愈危きを知り、遂に一百の革命軍を從へて、決然として西洞院の第を出でぬ。赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧きて、鍬形うつたる兜の緖をしめ、重籐の弓のたゞ中とつて、葦毛の駒の逞しきに金覆輪の鞍置いて跨つたる、雄風凛然、四邊を拂つて、蹄聲戞々、東に出づれば、東軍の旗幟既に雲霞の如く、七條八條法性寺柳原の天を掩ひ戰鼓を打ちて閧をつくる、聲地を振つて震雷の如し。義仲の勢、死戰して之に當り、且戰ひ、且退き、再、院の御所に至れば、院門をとぢて入れ給はず、行親等の精鋭百餘騎、奮戰して悉く死し、彼遂に圍を破つて勢多に走る、從ふもの僅に七騎、既にして、今井四郞兼平敗殘の兵三百餘を率ゐて、粟津に合し、鑣[やぶちゃん注:「くつわ」。]をならべて北越に向ふ。時實に壽永三年正月二十日、粟津原頭、黃茅蕭條として日色淡きこと夢の如く、疎林遠うして落葉紛々、疲馬頻に嘶いて悲風面をふき、大旗空しく飜つて哀淚袂を沾す[やぶちゃん注:「うるほす」。]。嘗て、木曾三千の健兒に擁せられて、北陸七州を卷く事席[やぶちゃん注:「むしろ」。]の如く、長策をふるつて天下を麾ける[やぶちゃん注:「さしまねける」。]往年の雄姿、今はた、何處にかある。嘗て三色旗を陣頭に飜して加能以西平軍を破ること、疾風の枯葉を拂ふが如く、緋甲星兜、揚々として洛陽に入れる往年の得意、今、はた、何處にかある。而してあゝ、翠帳暖に春宵を度るの處、膏雨桃李花落つるの時、松殿の寵姬と共に、醉うて春に和せる往年の榮華、今はた、何處にかある。是に於て彼悵然として兼平に云つて曰「首を敵の爲に得らるゝこと、名將の恥なり、いくさやぶれて自刄するは猛將の法なりとこそ聞き及びぬ」と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍將は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の國府迄のがれ給へ」と、然れども多淚の彼は、兼平と別るゝに忍びざりき。彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。而して行く事未幾ならず[やぶちゃん注:「いまだいくばくならず」。]、東軍七千、喊聲を上ぐること波の如く、亂箭を放ち鼙鼓を打つて、彼を追ふ益々急也。彼、兼平を顧み決然として共に馬首をめぐらし、北軍三百を魚鱗に備へ長劍をかざして、東軍を衝き、向ふ所鐵蹄縱橫、周馳して圍を潰すこと數次、東軍摧靡[やぶちゃん注:「さいび」。]して敢て當るものなし。然れ共從兵既に悉く死し僅に慓悍、不敵の四郞兼平一騎を殘す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心靜に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」と、是に於て、彼は、單騎鞭聲肅々、馬首粟津の松原を指し、從容[やぶちゃん注:「しようよう」。]として自刄の地を求めたり。しかも乘馬水田に陷りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜を射て鏃[やぶちゃん注:「やじり」。]深く面に入る。而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。兼平彼の討たるゝを見て怒髮上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み[やぶちゃん注:「ふくみ」。]馬より逆[やぶちゃん注:「さかさま」。]に落ちて死す。

[やぶちゃん注:「壽永三年正月」一一八四年。この四月十六日に元暦に改元。但し、平家方ではこの元号を使用せず、寿永を引き続き、使用。

「股肱」(ここう)「股」は「腿」、「肱」は「肘(ひじ)」で「手足」の意。主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下。腹心。

「樋口次郞兼光」(?~元暦元年二月二日(ユリウス暦一一八四年三月十五日/グレゴリオ暦換算三月二十二日))は義仲の育て親中原兼遠の次男。今井兼平の兄。義仲四天王の一人。ウィキの「樋口兼光」によれば、『信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した』。『乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕え』、『義仲挙兵に従って各地を転戦』、「倶利伽羅峠合戦」『などで重要な役割を果たし』、寿永二(一一八三)年七月、『義仲と共に入京』、九月に『後白河法皇の命により、義仲は水島の戦いで西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した』「法住寺合戦」(同年十一月十九日(一一八四年一月三日))『で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した』。元暦元(一一八四)年正月、『義仲に離反した源行家』『を討伐するため、河内国石川へ出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津の戦いで討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られた』。二十六日、『義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され』、二月二日に『斬首された』。「吾妻鏡」に『よれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという』以下に「平家物語」巻第九の「樋口被斬」に於ける『兼光の最期の様子を記す』。『樋口は源行家を紀伊国名草に向かっていたが、都に戦ありと聞いて取って返したところ、大渡の橋で今井兼平の下人に会い、木曾義仲も兼平も既にこの世にないことを知った。樋口は涙を流し、「これを聞きたまえ方々、主君に志を思い参らす人々は、これより早くいづこへも落ち行き、いかような仏道修行をもして、主君の菩提を弔いたまえ。兼光は都へ上り討ち死にし、冥途でも主君に面謁し、今井をももう一度みたいと思うためである」と述べて都へ上った。鳥羽離宮の南の門を過ぎるときに、その勢はわずか二十余騎になっていた。その後、何とか命ばかりは助けようと考える児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。源範頼と義経は院に伺いをたてたところ、院中の公卿、局の女房、女童までも「木曾が法性寺を焼き滅ぼし、多くの高僧が亡くなったのは今井と樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と述べたため』、『死罪が決まった。義仲と他五人の首が大路を渡される際、供をつとめることを頻りに申し出、藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従い、その次の日に斬られた』とある。

「をして行家を河内に討たしむるや」「河内」ではなく、紀伊でなくてはいけない。ここは「討たせに行かせた」の意。この時に行家は討たれてはいないので注意(それは筆者芥川龍之介も承知している。後文で判る)。行家は既に注した通り、義仲と離反した後は紀伊に退いた。平氏滅亡後、今度は頼朝と対立した義経に協力し、頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられるも、文治二(一一八六)年、頼朝に追われ、隠れ住んだ和泉で捕まり、殺されている。

「元の太祖」チンギス・カン(漢字:成吉思汗 一一六二年~一二二七年)。

「源九郞義經」(平治元(一一五九)年~文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)。享年三十一歳。敢えて注したのは前の注と並ぶからである。私は同一人物説は都市伝説の類いとして退けるものの、義経が大陸へ渡航して逃げた可能性は否定出来ないとは考えている。しかし、当時のかの地での造船・操船技術では辿り着くことが出来ずに難破した可能性が大であるとも思っている。ウィキの「義経=ジンギスカン説」はかなり詳しい。

「蒲冠者範賴」(かばのかじや(かじゃ)のりより 久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)は義朝の六男。頼朝の異母弟にして義経の異母兄。ウィキの「源範頼」によれば、『遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ』、『伊豆国に流された』。最後の部分は、建久四(一一九三)年五月二十八日、富士の巻狩りの晩に「曾我兄弟の仇討ち」が起こった際、鎌倉に『頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし』、『政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは』「保暦間記」にしか『記されておらず、また』、『曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある』。八月二日、『範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した』。十『日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと』、『当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は』、『十七日に範頼を伊豆国に流した』(「吾妻鏡」)。八月十七日、『伊豆国修禅寺に幽閉され』たが(この起請文の経緯は「北條九代記 範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎」の私の注で「吾妻鏡」を引用しながら詳しく見てあるので是非、参照されたい)、「吾妻鏡」では『その後の範頼については不明』で、「保暦間記」などに『よると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから』(以下略。それを根拠とした仮説はリンク先を読まれたい)、謀殺説は怪しく、没年も不明である。

「勢多」現在の滋賀県瀬田(グーグル・マップ・データ)。

「根井大彌太行親」「二 革命軍」の私の注の中で既注。

「今井四郞兼平」仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年:義仲より二歳年上)は私の注では何度も出たが、ここで注しておく。ウィキの「」を引く。『父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に』先に注した『樋口兼光、弟に今井兼光、妹に』義仲の妾となった女武将『巴御前がいる』(但し、これは「源平盛衰記」の記載。「源平闘諍録」(「平家物語」読み本系の異本の一つ。特異的に漢文表記)では樋口次郎兼光の娘としており、これらは後代に設定されたものであり、彼女は単に女丈夫の召使いと考えるべきである。なお今一人、款冬(やまぶき)という女性もいたが、こちらは倶利伽羅合戦で討ち死にしたとされる)。『信濃国今井』『の地を領して今井を称した』。『義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える』。義仲の『挙兵に従い、養和元』(一一八一)年五月の「横田河原の戦い」で城助職を破り、寿永二(一一八三)年の「般若野の戦い」「倶利伽羅合戦」「篠原の戦い」で平氏軍を破って、『義仲と共に入京』、十月、「福隆寺縄手の戦い」で平家方の妹尾兼康を破った。十一月、『後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元』(一一八四)年一月二十日、『鎌倉軍に追われ』、『敗走する義仲に従い』、「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した』。享年三十三であった』。『その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる』。「平家物語」の『「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている』。『「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し』、『「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ』、『義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと』、『「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯』だ『理』(り)『を枉』(ま)『げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた』。『義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ』、『自害した』。『(現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。)』(ウィキの筆者は流布本を参考にしているようである)。

「逆ふ」「さかふ」と読んでおく。敵として対峙する。

「東軍の精鋭當るべからず」鎌倉方である東軍の精鋭が取り立てて先陣に出るまでもなかく。

「北風」北から南へ進撃する鎌倉方の比喩。

「壯士二十人を從へて……」筑摩書房全集類聚版注には、『この部分からは「大日本史」の構文を敷衍し』、『適当に書きかえてある』とある。これは「巻之二百三十」の「列伝第百五十七 叛臣四」の冒頭の「義仲」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ最終行)から次の次のコマ(間に兄兼光の条を挟む)の左ページの兼平の条(同ページ十二行目まで)が相当部である但し、この国立国会図書館デジタルコレクション版は全漢文で返り点のみ附されたものである。芥川龍之介は飾るに、「平家物語」の巻第九「兼平」の知られた名文「木曾の最後」(授業でよくやったよねぇ)の前後も効果的に使用している。

「西洞院の第」筑摩書房全集類聚版注に、『京都』の『西洞院の屋敷。大膳大夫成忠の宿所』とする。「大膳大夫成忠」は平業忠(永暦元(一一六〇)年~建暦二(一二一二)年)。ウィキの「平業忠」によれば、父『信業』(のぶなり)『と共に後白河法皇に院近臣として仕え』、治承二(一一七八)年、『従五位下に叙爵されるが、法皇と平清盛の対立による』「治承三年の政変」で解官されている。寿永二(一一八三)年の法皇と源義仲の対立による「法住寺合戦」の後は、この『六条西洞院の業忠の邸が法皇の御所とされた。「平家物語」「河原合戦」の章段では』、業忠が、『義仲によって法皇が幽閉された御所内から土塀に登って様子をうかがい、源義経率いる鎌倉源氏軍が来たことに喜び、転倒しながらも』、『法皇に鎌倉軍の到着を伝えた場面が描かれている』。『長きに』亙って『左馬権頭の官職にあったが、文治元年』(一一八五)年十一月、『義経謀反への荷担を理由として、源頼朝の要請により』、『左馬権頭を解官され』ている。文治四(一一八八)年一月には『大膳大夫に任ぜられ』(従ってここにその職を冠するのはおかしい)、建久三(一一九二)年三月十三日、上北面の職に『あったが、後白河院崩御にあたり』、『入棺役を務め』ている。最後に『相撲による負傷が原因で』死去したとある。現在の京都府京都市下京区西洞院町はここ(グーグル・マップ・データ)。

「六馬」(りくば)中国神話で天帝の息子が乗る六頭の馬車を引く馬のこと。ここは法皇の輿。

「木幡伏見」現在の京都府宇治市から伏見区にかけて。後の伏見桃山城附近(グーグル・マップ・データ)。

「重籐」(しげどう)「滋籐」とも書く。弓の竹を籐(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae:熱帯性で蔓性の種が多い。東南アジア・中国南部・台湾などに分布するが、本邦には植生しない)の蔓で何度も何度も巻いたもの。

「戞々」(かつかつ)。堅い物の触れる音を表わすオノマトペイア。

「法性寺」(ほつしやうじ)現在は京都府京都市東山区本町にある浄土宗大悲山。延長三 (九二五) 年に藤原時平の発願によって創建され、寺名は当時の、菅原道真の怨霊を鎮めたとされる天台宗十三世延暦寺座主法性房尊意の名に由来する。嘗つてこの寺は法性寺大路の名の残る鴨川の東・九条の南にあったが(現在位置の鴨川対岸の南西のこの辺りか(グーグル・マップ・データ))、「応仁の乱」で兵火に遇い、ここに移ったものらしい。

「柳原」京都市上京区のこの附近(グーグル・マップ・データ)。木曾追討の義経軍はこの描写に從うなら、京に東と北から侵攻したことになる。

「壽永三年正月二十日」ユリウス暦一一八四年三月四日(グレゴリオ暦換算:三月十一日)。義仲。享年三十一。

「黃茅」(くわうばう(こうぼう))枯れて黄色くなった茅(かや)。

「加能」(かのう)加賀国・能登国。現在の石川県相当。

「星兜」(せいとう)星兜(ほしかぶと)。平安中期頃に発生した兜の一形式。ウィキの「星兜」によれば、『兜本体(鉢)を形成する鉄板を接ぎ留める鋲の頭を、鉢の表面に見せたもの。鋲の頭を星と呼ぶところから星兜の名が付いた』。『平安時代には』十『数枚の鉄板から成り』、『星が大きい厳星兜(いがぼしかぶと)が大鎧に付く兜として流行したが、時代が下るにつれ』、『板数は増し』、『星が小型化した小星兜(こぼしかぶと)に変化した。筋兜の流行により室町時代前期に一時衰退するが、戦国期に再び使用されるようになり』、『江戸時代に至る』とある(リンク先に小星兜の画像有り)。

「翠帳」(すいちやう)「暖」(あたたか)「に春宵」(しゆんしやう)「を度」(わた)「るの處、膏雨」(かうう:恵みの雨。潤いを与える雨)「桃李花落つるの時」白居易の「長恨歌」の、玄宗が初めて楊貴妃を招いた夜の、

芙蓉帳暖度春宵

 芙蓉の帳(とばり)暖かくして 春宵を度る

と、玄宗が貴妃亡き後、帰洛したの折りの、寂寞を描く、

春風桃李花開夜

 春風 桃李 花開くの夜(よ)

を捻ったものと思われる。

「松殿」松殿(藤原)基房。既注。

「悵然」(ちやう(ちょうぜん))悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。

『兼平に云つて曰「首を敵の爲に得らるゝこと、名將の恥なり、いくさやぶれて自刄するは猛將の法なりとこそ聞き及びぬ」と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍將は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の國府迄のがれ給へ」と』「源平盛衰記」の「伝巻第三十五」の「粟津合戦の事」の一節。ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページの二行目から)。

   *

「敵の爲めに得らるる事、名將の恥なり。軍(いくさ)敗れ、自害するは、猛將の法なり。」

と申ければ、兼平、申けるは、

「勇士は食(しよく)せず、飢ゑず、疵(きず)を被(かうむ)りて屈せず、軍將は難を遁れて勝つことを求む、死を去つて、辱(はぢ)を決す、就中(なかんづく)、平氏、西海(さいかい)に在(ま)す。軍將、北州(ほくしう)に入り給はば、天下、三つに分かち、海内(かいだい)發亂せんか、先づ、急いで越前國府まで遁れ給へ。兼平、此(ここ)にて敵を相ひ禦(ふせ)ぐべし。」

と云ひて旗を擧(あ)ぐ。

   *

「魚鱗」「ぎよりん」。戦さに於ける陣立ての一つ。中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形。「△」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置し、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く、遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため、駆動性の高い平野の会戦には適さないが、山岳・森林・河川などの地形要素が複雑な本邦では、戦国時代によく使われた。全兵力を完全に一枚の密集陣に編成・集合するのではなく、数百人単位の横列隊(密集陣)を単位とすることで、個別の駆動性を維持したまま、全体としての堅牢性を確保することが出来る。多くの兵が散らばらない状態で局部の戦闘に参加出来、また、一陣が壊滅しても、次陣をすぐに繰り出せるため、消耗戦に強い。一方で、横隊を要素とした集合であるため、両側面や後方から攻撃を受けると、混乱が生じ易く、弱い。また、包囲もされ易く、複数の敵に囲まれた状態の時には用いない。特に、敵より少数兵力の場合、正面突破には有効な陣形である。対陣の際、前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易であることから、駆動性能も優れる(ここはウィキの「陣形」に拠った)。

『不敵の四郞兼平一騎を殘す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心靜に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」と是に於て、彼は、單騎鞭聲肅々、馬首粟津の松原を指し、從容として自刄の地を求めたり。しかも乘馬水田に陷りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜」(うちかぶと:兜の眉庇(まびさし)の内側。覆いのない額(ひたい)部分)「を射て鏃深く面に入る。而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。兼平彼の討たるゝを見て怒髮上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み馬より逆に落ちて死す』「源平盛衰記」の「伝巻第三十五」の「粟津合戦の事」の一節。ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右ページ最終行から次のコマの六行目まで)。私の好きな忘れ難い優れたシークエンスなれば、前後や芥川龍之介がカットしてしまった部分も含めて電子化する。

   *

 木曾殿、鐙(あぶみ)踏ん張り、弓杖(ゆんづゑ)衝(つ)きて、今井に宣ひけるは、

「日來(ひごろ)は何と思はぬ薄金(うすがね)が、などやらん、重く覺ゆるなり。」

と宣へば、兼平、

「何條(なんでう)去る事侍(はんべ)るべき、日來に金(かね)もまさらず[やぶちゃん注:普段の金鎧(かねよろい)と変わりなく。]、別(べち)に重き物をも附けず、御年三十七、御身(おんみ)盛りなり。御方(みかた)に勢(せい)のなければ、臆し給ふにや、兼平一人をば、餘(よ)の者千騎萬騎とも思(おぼ)し召し候ふべし、終(つひ)に死すべき物故(ゆゑ)に、わるびれ見え給ふな[やぶちゃん注:お恥ずかしく思われなさるな。]、あの向ひの岡に見ゆる一村(ひとむら)の松の下に立ち寄り給ひて、心閑(しづか)に念佛申して御自害候へ。其の程は防矢(ふせぎや)仕(つかまつ)りて、軈(やが)て御伴(おんとも)申べし。あの松の下(した)へは、廻(まは)らば、二町、直(すぐ)には一町にはよも過ぎ侍らじ、急ぎ給へ。」[やぶちゃん注:一町は百九メートル。]

と泣々(なくなく)淚を押さへ、詢(くど)きければ、木曾は遺(なご)りを惜みつつ、

「都にて如何にも成るべかりつれども、此(ここ)まで落ちきつるは、汝と一所にて死なんとなり。何迄も同じ枕に討死にせんと思ふなり。」

と宣へば、今井、

「いかに角(かく)は宣ふぞ。君、自害し給はば、兼平、則ち、討死になり。是れをこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵(へい)の剛(がう)なると申すは、最後の死を申すなり。さすが、大將軍の宣旨を蒙むる程の人、雜人(ざふにん)の中に打ち伏せられて首をとられん事、心憂かるべし。疾々(とくとく)落ち給ひて御自害(ごじがい)あるべし。」

と勸めければ、木曾、

『誠に。』

と思ひ、向ひの岡、松を指して馳せ行けり。

 今井は木曾を先き立(だ)てて、引き返し引き返し、命も惜しまず、戰ひけり。

 木曾は今井を振り捨てて、畷(なはて)に任せて步ませ行く。

 比(ころ)は元曆(げんりやく)元年正月廿日の事なれば、峯の白雪(しらゆき)深くして、谷の氷も解けざりけり。向ひの岡へ直違(すぢかひ)にと志す。

 つらら[やぶちゃん注:薄氷り。]むすべる田を橫に打つ程に、深田(ふかだ)に馬を馳せ入れて、打てども打てども、行かざりけり。

 馬も弱り、主(ぬし)も疲れたりければ、兎角すれども、甲斐ぞなき。

 木曾は、『今井やつゞく』と思ひつつ、後ろへ見返へりたりけるを、相摸國の住人、石田の小太郞爲久[やぶちゃん注:三浦氏の一族。]が、能(よ)つ引(ぴ)いて放つ矢に、内甲(うちかぶと)を射させて、間額(まつかふ)を馬の頭(かしら)に當てて、俛(うつぶ)しに伏しにけり。

 爲久が郞等二人、馬より飛んで下(お)り、深田に入りて、木曾を引き落とし、やがて、首をぞ、取りてける。

 今井、是れを見て、

「今ぞ、最後の命(いのち)なる、急ぎ御伴(おんとも)に參らん。」

とて、進み出でて申しけるは、

「日比(ひごろ)は音にも聞きけん、今は目に見よ、信濃國の住人中(ちう)、三權頭(さんごんのかみ)兼遠が四男、朝日將軍の御乳母子(おんめのとご)、今井四郞兼平なり。鎌倉殿までも知ろし召したる兼平ぞ。首取つて見參(げんざん)に入れよや。」

とて、數(す)百騎の中に蒐(か)け入つて、散々(さんざん)に戰ひけれども、大力(たいりき)の剛(がう)の者成りければ、寄つて組む者はなし。唯だ、開きて遠矢(とほや)にのみぞ、射ける。去れども、冑(よろひ)よければ裏(うち)かかず、あきまを射ねば、手も負はず。

 兼平は、箙(えびら)に胎(のこ)る八筋(やすぢ)の矢にて、八騎、射落としける。

 太刀を拔いて申しけるは、

「日本一(にほんいち)の剛の者、主の御伴に自害する。見習へや、東八箇國の殿原(とのばら)。」

とて、太刀の切鋒(きつさき)口にくはへ、馬より逆(さかさま)に落ち貫ぬきてぞ、死にける。

 兼平自害して後(のち)は、粟津の軍(いくさ)も無かりけり。

   *]

 

嗚呼、死は人をして靜ならしむ、死は人をして粉黛[やぶちゃん注:「ふんたい」。]を脫せしむ、死は人をして肅然として襟を正さしむるもの也。卒然として生と相背き、遽然として死と相對す、本來の道心此處に動き、本然の眞情此處にあらはる、津々として春雨の落花に濺ぐ[やぶちゃん注:「そそぐ」。]が如く、悠々として秋雲の靑山を遶る[やぶちゃん注:「めぐる」。]が如し。夫[やぶちゃん注:「それ」。]鳥の將に死せむとする其鳴くや哀し、人の將に死せむとする、其言や善し。人を見、人を知らむとする、其死に處するの如何を見ば足れり。我木曾冠者義仲が其燃ゆるが如き血性と、烈々たる靑雲の念とを抱いて何等の譎詐なく、何等の矯飾なく、人を愛し天に甘ンじ、悠然として頭顱を源家の吳兒に贈るを見る、彼が多くの短所と弱點とを有するに關らず、吾人は唯其愛すべく、敬すべく、慕ふべく、仰ぐべき、眞個の英雄兒たるに愧ぢざるを想見せずンばあらず。嶽鵬擧の幽せらるゝや、背に盡忠報國の大字を黥し、笑つて死を旦夕に待ち、項羽の烏江に戮せらるゝや、亭長に與ふるに愛馬を以てし、故人に授くるに首級を以てし、自若として自ら刎ね、王叔英の燕賊に襲はるゝや、沐浴して衣冠を正し南拜して絕命の辭を書し、泰然として自縊して死せり。彼豈之に恥ぢむや。彼の赤誠は彼の生命也。彼は死に臨ンで猶火の如き赤誠を抱き、火の如き赤誠は遂に彼をして其愛する北陸の健兒と共に從容として死せしめたり。是實に死して猶生けるもの、彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光榮あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。

[やぶちゃん注:この段落、筑摩書房全集類聚版も新全集も改行しないが、従わない。

「遽然」(きよぜん(きょぜん))俄かであるさま。「突然」に同じい。

「譎詐」(きつさ(きっさ))偽り。

「矯飾(けうしよく(きょうしょく))上辺(うわべ)を取り繕って飾ること。

「頭顱」(とうろ)頭部。首。

「嶽鵬擧」南宋の名将岳飛(一一〇三年~一一四二年)の字(あざな)。ウィキの「岳飛」によれば、『元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。やがて』二十一『歳の時、北宋末期の』一一二二『年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し』一一三四『年には節度使に任命された』。しかし、日増しに高まる名声が、北宋の宰相秦檜(しんかい)のグループの『反感と嫉視を招くことになる』。一一四〇『年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜』(オジュ)『の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により』、『友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた(但し、これは「宋史」の記録で、「金史」には『この会戦の記録はない』)。『その後、秦檜により』、『金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭で』『民衆の絶大持った岳飛は危険な存在であり』、一一四一年、『秦檜は岳飛、岳飛の子の岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は』三十九『歳、岳雲は』二十三『歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)「尽(精)忠報国」の』四『文字があったという』とある。

「黥し」(げいし)刺青(いれずみ)をし。

「王叔英」(?~一四〇二年)明の学者で高級官僚。筑摩書房全集類聚版注には、『名は原采。燕の賊兵に対抗しようとしてできず』とあるのみでよく判らない。中文ウィキの「王叔英」はあるが、中国語が読めないのでこれもよく判らない。ただ、そこに書かれた年から、これは明王朝初期の政変(内乱)である「靖難(せいなん)の変」(一三九九年~一四〇二年:華北の燕王朱棣(明の第三代皇帝となる永楽帝)が挙兵し、一四〇二年六月に南京を陥落させた事件に関わる人物である。

「彼の三十一年の生涯」満二十九か三十。因みに――芥川龍之介は三十五歳と五ヶ月足らずであった。]

 

かくして此絕大の風雲兒が不世出の英魂は、倏忽として天に歸れり。嗚呼靑山誰が爲にか悠々たる、江水誰が爲にか汪々たる。彼の來るや[やぶちゃん注:「きたる」。]疾風の如く、彼の逝くや朝露の如し。止ぬるかな[やぶちゃん注:「やんぬるかな」。]、止ぬるかな、革命の健兒一たび逝きて、遂に豎子をして英雄の名を成さしむるや、今や七百星霜一夢の間に去りて、義仲寺畔の孤墳、蕭然として獨り落暉に對す。知らず、靑苔墓下風雲の兒、今はた何の處にか目さめむとしつつある。

[やぶちゃん注:「倏忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))忽ち。俄かに。

「汪々」(わうわう(おうおう))水域の広く深いさま。

「止ぬるかな」(やんぬるかな)今となっては、どうしようもないことだ!

「豎子」頼朝。

「義仲寺」(ぎちゆうじ)現在の滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山義仲寺(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「義仲寺」によれば、『この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが』、天文二二(一五五三)年頃、『近江守護の六角義賢によって再興された。当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には園城寺に属した』。『俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により』、元禄七(一六九四)年十月、『義仲墓の横に葬られた。又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名。その後、再び荒廃した同寺だが、京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけて明和』六(一七六九)年に『中興』し、寛政五(一七九三)年には『盛大に芭蕉百回忌を主催した』とある。

 以下、底本では一行空け。ここでは二行空けた。]

 

 

彼は遂に時勢の兒也。欝勃たる革命的精神が、其最も高潮に達したる時代の大なる權化也。破壞的政策は彼が畢生の經綸にして、直情徑行は彼が一代の性行なりき。而して同時に又彼は暴虎馮河死して悔いざるの破壞的手腕を有したりき。彼は幽微を聽くの聰と未前を觀るの明とに於ては入道相國に讓り、所謂佚道を以て民を使ふ、勞すと雖も怨みず、生道を以て民を殺す、死すと雖も怨みざる、治國平天下の打算的手腕に於ては源兵衞佐に讓る。而して彼が壽永革命史上に一頭地を抽く[やぶちゃん注:「ぬく」。]所以のものは、要するに彼は飽く迄も破壞的に無意義なる繩墨と習慣とを蹂躙して顧みざるが故にあらずや。

[やぶちゃん注:「暴虎馮河」(ぼうこひようが)虎に素手で立ち向かい、黄河を徒歩で渡ろうとすること。血気にはやって無謀なことをすることの譬え。「論語」の「述而」で愛弟子子路の蛮勇を窘(たしな)めた孔子の言葉。

「佚道」(いつだう(いつどう))民を安らかに楽しませるやり方。「孟子」の「尽心 上」に出る語に基づく。この場合の「佚」は「気儘にのんびりする」の意。]

 

彼は眞に革命の健兒也。彼は極めて大膽にして、しかも極めて性急也。彼は手を袖にして春風落花に對するが如く、悠長なる能はず。靑山に對して大勢を指算するが如く幽閑なる能はず。炎々たる靑雲の念と、勃々たる霸氣とは常に火の如く胸腔を炙る。彼は多くの場合に於て他人の喧嘩を買ふを辭せず。如何なる場合に於ても膝をつき頭をたれて哀を請ふ事をなさず。而して彼は世路の曲線的なるにも關らず、常に直線的に急步せずンば止まず。彼は衝突を辭せざるのみならず、又衝突を以て彼の大なる使命としたり。彼が猫間中納言を辱めたる、平知康を愚弄したる、法住寺殿に弓をひきたる、皆彼が此直線的の行動に據る所なくンばあらず。水戶の史家が彼を反臣傳中の一人たらしめしが如き、此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其餘りに近眼なるに失笑せざる能はざる也。彼は身を愛惜せず、彼は燎原の火の如し。彼は己を遮るすべてを燒かずンば止まざる也。すべてを燒かずンば止まざるのみならず、彼自身をも燒かずンば止まざる也。彼が法皇のクーデターを聞くや、彼は「北國の雪をはらうて京へ上りしより一度も敵に後を見せず、假令十善の君にましますとも甲を脫ぎ弓の弦をはづして降人にはえこそまゐるまじけれ」と絕叫したり。若し兵衞佐賴朝をして此際に處せしめむ乎。彼は如何なる死地に陷るも、法住寺殿の變はなさざりしならむ。賴朝は行はるゝ事の外は行ふことを欲せず。彼は、其實行に關らず、唯其期する所を行はむと欲せし也。是豈彼が一身を顧みざるの所以、彼が革命の使命を帶びたる健兒たるの所以、而して賴朝が甘じて反臣傳に錄せらるゝをなさざりし所以にあらずや。

[やぶちゃん注:「猫間中納言」藤原光隆(大治二(一一二7)年~建仁元(一二〇一)年)。ウィキの「藤原光隆」によれば、官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された』。「『平家物語」巻第八「木曾猫間の対面」においては、寿永二(一一八三)年に、入洛した『源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲の家で光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸』(     菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)『の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである』とある。以下。

   *

 木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。

 あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしたれば[やぶちゃん注:相談なさりたいことがおありになられたので。]、郞等ども、

「猫間殿と申す人の、『見參(げんざん)申すべきこと候ふ』とて、入らせ給ひて候ふ。」

と申せば、木曾、これを聞き、

「猫もされば、人に見參することあるか、者ども。」

とのたまへば、

「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上﨟にてましまし候。『猫間殿』とは、御所の名とおぼえて候ふ。」

と申せば、そのとき、

「さらば。」

とて入れたてまつりて對面す。

 木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、

「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ[やぶちゃん注:食事の支度をせよ。]。」

とぞのたまひける。

 中納言、

「ただいま、あるべうも候はず。」[やぶちゃん注:「今は食事時にてはあらっしゃいません」。当時の公家は一日二食で昼食を食べる習慣はなかったが、武士は三食であった。]

とのたまへば、

「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやあるべき。」

なにも、あたらしきは無鹽(ぶえん)といふと心得て[やぶちゃん注:当時は多くの食材を保存を高めるために塩漬けにしていた。ここは塩を用いていない新鮮な食材を指す。]、

「ここに無鹽の平茸やある。とくとく。」

と、いそがせけり。

 根の井の小彌太といふ者の急ぎて陪膳す。田舍合子(ゐなかがふし)[やぶちゃん注:如何にも田舎っぽい粗野な蓋付きの漆塗りの椀。]の荒塗りなるが、底深きに、てたてしたる飯[やぶちゃん注:新潮社「日本古典集成」の注には『洗米していない籾まじりの飯のことか』とする。]をたかくよそひなし、御菜三種(さんじゆ)して、平茸の汁にて參らせたり。

 木曾殿のまへにもすゑたりけり。木曾は箸をとり、これを召す。

 中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。

 木曾は同じ體(てい)にてゐたりけるが、殘り少なくせめなして、

「猫殿は少食(せうじき)におはしけるや。召され給へ。」

とぞ、すすめける。

 中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ歸られぬ。

   *

以上は「三百二十本」であるが、流布本では、最後が、

   *

 中納言は餘りに合子のいぶせさに[やぶちゃん注:汚なさに不快を催して。]召さざりければ、木曾、

「きたなう思ひ給ひそ。それは義仲が精進合子[やぶちゃん注:精進潔斎する際の清浄な椀。]で候ふぞ。疾う疾う。」

と勸むる間、中納言、召さでもさすが惡しかりなんとや思ひけん、箸取つて召す由して[やぶちゃん注:一度は食べようとするポーズをして。]さし置かれたりければ、木曾、大きに笑つて、

「猫殿は小食にておはすよ。聞ゆる『猫おろし』し給ひたり。かい給へ、かい給へ。」[やぶちゃん注:「そら、名の通り、猫がようする「食べ残し」をなさっとる。それ! かっこみなされ! もそっつと召されよ!」。]

とぞ、責めたりける。

 中納言殿は、かやう事に、萬(よろ)づ興さめて、宣ひ合はすべき事ども、一言(ひとことば)も言ひ出さず、急ぎ歸られけり。

   *

と終始、テツテ的に猫間を愚弄し続けている。

「平知康を愚弄したる」既注。

「水戶の史家」「大日本史」編纂指揮者である水戸光圀。

「此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其餘りに近眼なるに失笑せざる能はざる也」黄門嫌いの私(藪野直史)は激しく同感する。

「北國の雪をはらうて京へ上りしより一度も敵に後を見せず、假令十善の君にましますとも甲を脫ぎ弓の弦をはづして降人にはえこそまゐるまじけれ」既に出した「平家物語」巻第八の「鼓判官」の一節であるが、それは、

   *

「われ、信濃の國橫田川の軍(いくさ)よりはじめて、北國・礪波・黑坂・志保坂・篠原・西國にいたるまで、度々(どど)のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは參るまじけれ。これは鼓判官が凶害(きようがい)とおぼゆるぞ。あひかまへてその鼓め、打ち破つて捨てよ。」

   *

といったもので、諸本を縦覧して見ても、この引用文の表現とぴったりくるものを見出せなかった。発見し次第、追記する。]

 

彼は彼自身、彼を信ずる事厚かりき。彼は、其信ずる所の前には、天下口を齊うして[やぶちゃん注:「ひとしうして」。]之に反するも、猶自若として恐れざりき。所謂自反して縮んば千萬人と雖も、我往かむの氣象は欝勃として彼の胸中に存したりき。さればこそ彼は四郞兼平の諫[やぶちゃん注:「いさめ」。]をも用ひず、法住寺殿に火を放つの暴行を敢てせしなれ。彼の法皇に平ならざるや、彼は「たとへば都の守護してあらむずるものが馬一疋づゝ飼ひて乘らざるべきか、幾らともある田ども刈らせて秣にせむをあながちに法皇の咎め給ふべきやうやある」と憤激したり。彼は彼が旗下幾萬の北國健兒が、京洛に行へる狼藉を寧ろ當然の事と信じたり。而して此所信の前には怫然として、其不平を法皇に迄及ぼすを憚らざりき。請ふ彼が再次いで鳴らしたる怨言を聞け。「冠者ばらどもが、西山東山の片ほとりにつきて時々入取せむは何かは苦しかるべき。大臣以下、官々の御所へも參らばこそ僻事ならめ」彼は、彼に對するクーデターの理由をかゝる見地を以て判斷したり。而して、彼に一點の罪なきを信じたり。既に靑天白日、何等の不忠なきを信ず、彼が刀戟介馬法住寺殿を圍みて法皇を驚かせまゐらせたる、豈偶然ならずとせむや。

[やぶちゃん注:「自反して縮」(なほく)「んば」自分で内省してみても、そのことが確かに正しいと認知し得たならば。「孟子」の「公孫丑 上」に出る孟子が引用する曾子(そうし)が弟子の子㐮を諌めるのに挙げた孔子の言葉。

   *

子好勇乎。吾嘗聞大勇於夫子矣。自反而不縮、雖褐寬博、吾不惴焉。自反而縮、雖千萬人吾往矣。

(子、勇を好むか。吾れ、嘗つて大勇(たいゆう)を夫子(ふうし)に聞きけり。『自(み)づから反して縮(なほ)からずんば、褐寬博(かつくわんはく)と雖も、吾れ、惴(おそ)れざらんや。自づから反して縮ければ、千萬人と雖も、吾れ、往ゆかん』と。)

   *

この「褐寬博の輩」の「褐」は粗末な服、「寛博」は運動性能がよい広く緩やかな着物。転じて身分の卑しい無頼漢どもを指す。ここは「そんな奴らが挑発してきても私は恐れることなく、決してことを成さぬ」というのである。

「たとへば都の守護してあらむずるものが馬一疋づゝ飼ひて乘らざるべきか、幾らともある田ども刈らせて秣にせむをあながちに法皇の咎め給ふべきやうやある」「冠者ばらどもが、西山東山の片ほとりにつきて時々入取せむは何かは苦しかるべき。大臣以下、官々の御所へも參らばこそ僻事ならめ」既に引用した「平家物語」巻第八「法住寺合戦」の義仲出陣の際の冒頭であるが、芥川龍之介は流布本のそれを引いている。煩を厭わず同パートを示す。

   *

 たとへば都の守護してあらんずる者が馬一疋づつ飼うて參らざるべきか。幾らもある田ども刈らせ、秣(まぐさ)にせんを强ちに法皇の咎め給ふべきやうやある。兵粮米盡きぬれば冠者ばらあどもが西山東山の片邊(かたほと)りについて、時々入り取(ど)り[やぶちゃん注:徴用。]せんはなじかは苦しかるべき。大臣以下(いげ)、宮々の御所へも參らばこそ僻事(ひがごと)ならめ、如何樣、これは鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。その鼓め、打ち破つて捨てよ。今度(こんど)は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらんずるぞ。且(かつう)は兵衞佐賴朝が還り聞かんずる所もあり 。軍、ようせよ、者ども。」

とて、打ち出でけり。

   *]

 

彼は、如上の性行を有す、是眞に天成の革命家也。輕浮にして輕悍なる九郞義經の如き、老猾にして奸雄なる藏人行家の如き、或は以て革命の健兒が楯戟[やぶちゃん注:「じゆんげき」。]の用をなす事あるべし。然れども其楯戟を使ふべき革命軍の將星に至りては、必ず眞率なる殉道的赤誠の磅薄として懷裡に盈つる[やぶちゃん注:「みつる」。]ものなくンばあらず。然り、狂暴、驕悍のロベスピエールを以てする尙一片烈々たる殉道的赤誠を有せし也。

[やぶちゃん注:「磅薄」(は(ば)うはく(ほ(ば)うはく)広がり蔓延(はびこ)ること。]

 

彼は唯一の赤誠を有す。一世を空うするの[やぶちゃん注:「むなしうするの」。]霸氣となり、行路の人に忍びざるの熱情となる、其本は一にして其末は萬也。夫大川の源を發す、其源は溪間の小流のみ。彼が彼たる所以、唯此一點の靈火を以て全心を把持する故たらずとせむや。彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也、願くは賴朝の彼と戰を交へむとしたるに際し、彼が賴朝に答へたる言を聞け。「公は源家の嫡流也。我は僅に一門の末流に連り、驥尾に附して平民を圖らむと欲するのみ。公今干戈を動かさむとす、一門相攻伐するが如き、是源氏の不幸にして、しかも平氏をして愈々虛に乘ぜしむるもの也。我深く憂慮に堪へず。」と。何ぞ其言の肝膽を披瀝して、しかも察々として潔きや。辭を低うして一門の爲に圖つて忠なる、斯くの如し。啻に辭を低うするに止らず、一片稜々の意氣止むべからずして愛子を賴朝の手に委したる[やぶちゃん注:「まかしたる」。]が如き、赤誠の人を撼す、眞に銀河の九天より落つるが如き槪あり。

[やぶちゃん注:「公は源家の嫡流也。我は僅に一門の末流に連り、驥尾に附して平民を圖らむと欲するのみ。公」/「今」/「干戈を動かさむとす、一門相』(あひ)『攻伐するが如き、是源氏の不幸にして、しかも平氏をして愈々虛」(きよ:「うっかり油断すること」で「無駄に安心させる」ことか?)「に乘ぜしむるもの也。我深く憂慮に堪へず。」筑摩書房全集類聚版注に『出典未詳』とする。今回、いろいろ調べて見たが、確かに見当たらない。識者の御教授を乞うものである。「驥尾」(きび)は「驥尾に附す」で成句。「優れた人に従って行けば、それなりに何かは成し遂げられる」で、「先達を見習って行動すること」を遜(へりくだ)った気持ちで言う言葉。青蠅が「驥」=駿馬の「尾」につかまって一日で千里の遠方へと行ったという「史記」の「伯夷伝」の故事に基づく。出現するとすれば,義高を人質に差し出す直前でないと、後文の「啻に辭を低うするに止らず、一片稜々の意氣止むべからずして愛子を賴朝の手に委したる」と齟齬するし、頼朝の木曾追討軍が進発する前にはとてものことに余裕も何もあったもんじゃない。「源平盛衰記」が一番怪しいのだが、やはり見当たらない。そもそもが、「源氏の不幸」とか「虛」とか「憂慮に堪へず」とか、どうも私には時代的も義仲の直文としても、何やらん不自然な語の用法が気になる。

「察々」潔(いさぎよ)く清いこと。邪念がなく澄んでいるさま。]

 

再云ふ彼は眞に熱情の人也。實盛の北陸に死するや、彼其首級を抱いて泫然として泣けり。水島の戰に瀨尾主從の健鬪して仆るゝや、彼「あつぱれ强者や。助けて見て。」と歎きたりき。陣頭劍を交ふる敵を見る尙かくの如し。彼が士卒に對して厚かりしや知るべきのみ。彼が旗下は彼が爲に「死且不辭」の感激を有したりき。彼敢て人を容るゝこと光風の如き襟懷あるにあらず。敢て又、人を服せしむる麒麟の群獸に臨むが如き德望あるにあらず。彼の群下に對する、唯意氣相傾け、痛淚相流るゝところ、烈々たる熱情の直に人をして知遇の感あらしむるによるのみ。彼が旗下の桃李寥々たりしにも關らず、四郞兼平の如き、次郞兼光の如き、はた大彌太行親の如き、一死を以て彼に報じたる、是を源賴朝が源九郞を赤族し、蒲冠者を誅戮し、藏人行家を追殺し、彼等をして高鳥盡きて良弓納めらるゝの思をなさしめたるに比すれば、其差何ぞ獨り天淵のみならむや。

[やぶちゃん注:「泫然」涙がはらはらとこぼれるさま。さめざめと泣くさま。

『瀨尾主從の健鬪して仆るゝや、彼「あつぱれ强者や。助けて見て。」と歎きたりき』「瀨尾」は「せのを」で平氏方の武将妹尾兼康(せのおかねやす 保安四(一一二三)年或いは大治元(一一二六)年~寿永二(一一八三)年)。姓は瀬尾とも呼ばれた。ウィキの「妹尾兼康」によれば、『出生については謎が多く』、『鳥羽上皇とその官女であった妹尾保子との間に京都八条の平忠盛』(清盛の父)『邸にて生まれたという説』がある。『早くから平氏に仕え』、「保元物語」「平治物語」「平家物語」などに『平家方の侍としてその名が記されている』。治承四(一一八〇)年には、『南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため』、『多くの死傷者を出し』ており、『このことが』同年末の『平重衡らによる』「南都焼き討ち」(治承四年十二月二十八日(一一八一年一月十五日)に)『へとつながっている。その後』、寿永二(一一八三)年の「倶利伽羅合戦」でも『平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れ』、(ここからはより詳しいウィキの「福隆寺縄手の戦い」を主文として引く)。『兼康は木曾義仲方の武将倉光成澄に捕らえられる。義仲は兼康の武勇を惜しんで助命し、身柄を成澄の弟倉光成氏に預けた。兼康は義仲に従いながらも、反撃の機会を伺っていた』。『同年』七『月に平家一門は都を落ち、兼康は』十『月に平家を追討すべく西国へ向かった義仲軍に加わる』。「水島の戦い」で『義仲軍が敗れたのち、兼康は自領である備前国妹尾荘に案内すると成氏を誘い出して殺害』、『出迎えた嫡子妹尾宗康や』、『備前・備中・備後三ヶ国で現地に残っていた平家方の武士たちをかき集め』、実に『軍勢二千余人をもって福隆寺縄手の笹の迫(笹が瀬川の流域、坊主山と鳥山の間の』津島笹が瀬付近。グーグル・マップ・データ)『に要塞を構え、木曾軍に反旗を翻した』。『兼康方は木曾軍の猛攻に激しく抵抗するが、寄せ集めの勢であり、木曾の大軍の前に城郭は攻め落とされる。妹尾兼康は落ち延びようとするが、取り残された子の宗康』(「平家物語」によれば、二十歳ほどであったが、著しい肥満の大男であったため、走ることも困難であったとし、一度は逃げ遅れた)のために引き返し、今井兼平の軍勢に突入して討ち死にした。義仲は備中国鷺が森にかけられた兼康主従三人の首を見て』、「あはれげの者かな、いま一度助けで」(助けてやりたかった)と『その武勇を惜しんだという』。「覚一本」の最善本とされる「龍谷大学本」ではここの義仲の台詞は「あつぱれ、剛(かう)の者かな。是れをこそ一人當千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あつたら者どもを助けて見で。」とある。

「死且不辭」(死すら且つ辭せず)は、これもさんざんやったねぇ、「史記」の「鴻門の会」の圧縮だ。元犬殺しの強者樊噲(はんかい)が、宴席に踊り入って、大杯の酒を一気に飲み乾し、出された硬い豚の肩の生肉を肴に食って、項羽に「壯士なり。能く復た飮むか。」と訊ねたその最初の台詞だよ。「臣、死且不避、卮酒安足辭。」(臣、死すら且つ避けず。卮酒(ししゆ)安(いづくん)ぞ辭するに足らん。)。原文は実際、「避」でなく、「辭」を使っているものもある。

「光風」(くわうふう(こうふう))は雨あがりなどの、日をあびた草木に吹く風。また、春の日がうららかに照っている時、爽やかに吹く風を言うが、ここはそのようなさっぱりとした爽やかな性質(たち)の比喩。

「襟懷」(きんくわい(きんかい))心の中。胸の内。

「桃李」自分が推挙した人材。自分がとりたてた弟子や家臣。中唐の詩人で政治家の劉禹錫(りゅううしゃく)の詩「宣上人遠寄和禮部王侍郞放榜後詩因而繼和」(「宣上人、和禮部王侍郞の放榜の後の詩を遠く寄す、因りて繼いで和す」か)の、

一日聲名徧天下

滿城桃李屬春官

 一日 聲名 天下に徧(あまね)く

 滿城の桃李 春官に屬(しよく)す

に基づく。詩の原義は科挙で試験官が採用した優れた学生(桃李)で、教師が優れた門下生を世に輩出させることの比喩である。

「寥々」(れうれう(りょうりょう))数少なく寂しいさま。

「源九郞」義経。

「赤族」(せきぞく)大修館書店「新漢和辞典」(昭和五〇(一九七五)年改訂四版)に、『①一族ことごとく殺されること。赤は空。②一族の者全部』とある。「空」とは「クウ」で、「赤」には「虚しい・何もない」の意があるからであるが、但し、「赤」には別に「滅ぼす・皆殺しにする」の意がある(同辞典の「赤」の意味で前者が④番目、後者がその後の⑤番目に出るから、⑤は④から派生した意味として「空」を挙げるか。⑤の意でよいと思うのだが。但し、この熟語、多くの辞書は所収しない。ネットで調べても、使用例を見ない。現在では死語に近いようである。

「高鳥盡きて良弓納めらる」「史記」の「淮陰侯(韓信)列伝」の一節。忠臣であった韓信が疑い深い劉邦に謀反人の冤罪を受けて捕縛された際、「狡兎死、良狗烹、高鳥盡、良弓藏、敵國破 謀臣亡。」(「狡兎(こうと)死して良狗(りやうく)烹(に)られ、高鳥(こうてう)盡きて良弓(りやうきゆう)藏(かく)れ、敵國敗れ、謀臣亡ぶ」と言う故事を呟いたことに基づく。「高鳥」は高く飛ぶ捕獲し難い敏捷にして高貴な鳥がいなくなれば、それを射落とせる勝れた強弓(ごうきゅう)も仕舞われて顧みられなくなるという比喩。

「天淵」(てんえん)天と淵(ふち)で、天地。転じて、非常にかけ離れていること。]

 

三たび云ふ、彼は眞に熱情の人也。彼が將として成功し、相として失敗したる、亦職として之に因らずンばあらず。百難を排して一世を平にし、千紛を除いて大計を定む、唯大なる手の人たるを要す。片雲を仰いで風雪を知り、巷語を耳にして大勢を算す、唯大なる眼の人たるを要す。相印を帶びて天下に臨む、或は一滴の淚なきも可也。李林甫の半夜高堂に默思するや、明日必殺ありしと云ふが如き、豈此間の消息を洩すものにあらずや。然りと雖も、三軍を率ゐて逐鹿を事とす、眼の人たらざるも或は可、手の人たらざるも亦或は可、唯若し淚の人たらざるに至つては、斷じて將帥の器を以てゆるす可からず、以て大樹の任に堪ふ可からず。彼は此點に於て、好個の將軍たるに愧ぢざりき。而して彼に歸服せる七州の健兒は、彼の淚によりて激勵せられ鼓吹せられ、よく赤幟幾萬の大軍を擊破したり。しかも彼の京師に入るや、彼は其甲冑を脫して、長裾を曳かざる可からざるの位置に立ちたりき。彼は冷眼と敏腕とを要するの位置に立ちたりき。彼は唱難鼓義の位置より一轉して撥亂反正の位置に立ちたりき。約言すれば彼は其得意の位置よりして、其不得意の位置に立ちたりき。然れども彼は天下を料理するには、餘りに溫なる淚を有したりき。彼は一世を籠罩するには、寧ろ餘りに血性に過ぎたりき。彼は到底、袍衣大冠[やぶちゃん注:「はういたいくわん」。]して廟廊の上に周旋するの材にあらず、其政治家として失敗したる亦宜ならずとせむや。壽永革命史中、經世的手腕ある建設的革命家としての標式は、吾人之を獨り源兵衞佐賴朝に見る。彼が朝家に處し、平氏に處し、諸國の豪族に處し、南都北嶺に處し、守護地頭の設置に處し、鎌倉幕府の建設に處するを見る、飽く迄も打算的に飽く迄も組織的に、天下の事を斷ずる、誠に快刀を以て亂麻をたつの槪ありしものの如し。賴朝は殆ど豫期と實行と一致したり。順潮にあらずンば輕舟を浮べざりき。然れども義仲は成敗利鈍を顧みざりき、利害得失を計らざりき。彼は塗墻に馬を乘り懸くるをも辭せざりき。かくして彼は相として敗れたり。而して彼が一方に於て相たるの器にあらざると共に、他方に於て將たるの材を具へたるは、則ち義仲の義仲たる所以、彼が革命の健兒中の革命の健兒たる所以にあらずや。

[やぶちゃん注:「李林甫の半夜高堂に默思するや、明日必殺ありしと云ふ」李林甫(六八三年~七五三年)盛唐の宰相。唐の宗室出身で諸官を歴任したが、「口に蜜あり,腹に剣あり」と評された佞臣であった。七三四年、宰相となると,政敵を次々に退ける一方、玄宗の寵姫の武恵妃や寵臣の宦官高力士に取り入って玄宗のお気に入りとなり、権勢を揮った。権勢維持のために大軍を率いる節度使に異民族を登用したが、安禄山もその一人で、これが「安史の乱」の遠因となった。没後、楊国忠には生前に突厥と結んで謀反の企みがあったとされ、官爵を剥奪されて子供は流罪となっている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここでの表現が何を出典としているかは判らなかったが、要はウィキの「李林甫」にあるように、七四六年から七四七年にかけては、『李林甫の謀略により、皇太子李璵』(りよ:後の粛宗)『の周辺の人物や李林甫が嫌っていた人物を中心が数多く陥れられた。杜有隣らは処刑され、韋堅・皇甫惟明』(こうほ いめい)『・李邕』(りよう)『・裴敦復』(はいとんふく)『らは左遷させられた上で殺され、李適之・王琚が自殺に追い込まれた。裴寛・李斉物』(りさいぶつ)『・王忠嗣らも左遷させられている。李林甫のために働いた楊慎矜』(ようしんきょう)『も玄宗の意にかなってきたため、冤罪により』、『自殺に追い込まれた。その後も皇太子の引きずりおろしに腐心し、楊釗』(ようしょう)『らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった』という粛清の嵐の中の凄然残忍たる予告シーンなのであろう。

「大樹」近衛大将・征夷大将軍の唐名。大樹将軍。後漢の時代、諸将が手柄話をしているときに馮異(ふうい)はその功を誇らず、大樹の下に退いたことに由来する(「後漢書」の「馮異伝」)。

「七州」義仲が掌握した北陸道七州(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)を命数として数え得るが、ここは必ずしも「七」に拘らず、彼に従った「多くの国衆」の謂いであろう。

「唱難鼓義」(しやうなんこぎ(しょうなんこぎ))筑摩書房全集類聚版注に、『(為政者に対して)難を唱え』、『正しい道を説く』とある。次との対句表現であるから、恐らく出典は漢籍にありそうだが、調べ得なかった。

「撥亂反正」(はつらんはんせい)乱れた世を治め、本来の正しい状態に戻すこと。「春秋公羊伝」の哀公十四年(紀元前四八一年)の条の「撥亂世反諸正、莫近諸春秋」(亂世を撥(をさ)めて、諸(これ)を正に反(かへ)すは、春秋より近きは莫し)に由る。

「籠罩」(ろうたう(ろうとう))「罩」も「こめる・入れ込む」の意であるから、「総てを一つにする・統一すること」の意。

「守護地頭の設置」文治元(一一八五)年。現行では一般に「鎌倉幕府の」事実上の「建設」はこの全国の支配権の獲得を以ってする見解が有力であるが、厳密には、

・治承四(一一八〇)年十月七日/頼朝が鎌倉に入って、実質上の東国の支配者となり、侍所を設置する。

・寿永二(一一八三)年十月/頼朝が後白河法皇から宣旨を受け、東海・東山両道の国衙領支配権を認められる。

・元暦元(一一八四)年十月六日/公文所・問注所を設置し、ここに実際の幕府の政治行政機構が始まった。

・文治元(一一八五)年十一月/守護・地頭が設置され、頼朝の権力は西国まで及ぶ。

・建久元(一一九〇)年十月/頼朝上洛、権大納言・右近衛大将(このえのだいしょう)に任ぜられる(同年十二月に辞任)。この年、その居館を初めて「幕府」と称した。

・建久三(一一九二)年七月十二日/頼朝が征夷大将軍に任ぜられる(これはその任官に反対していた後白河の死去から四ヶ月後のことであった)。

の十二年間に成立したとするのが論理的には正しい。

「塗墻」(としやう(としょう))築地(ついじ)。]

 

彼は野性の兒也。彼の衣冠束帶するや、天下爲に嗤笑[やぶちゃん注:「ししやう」。]したり。彼が弓箭を帶して禁闕を守るや、時人は「色白うみめはよい男にてありけれど、起居振舞の無骨さ、物云ひたる言葉つきの片口なる事限りなし」と嘲侮したり。葡萄美酒夜光盃、珊瑚の鞭を揮つて靑草をふみしキヤバリオルの眼よりして、此木曾山間のラウンドヘツドを見る、彼等が義仲を「袖のかゝり、指貫のりんに至るまでかたくななることかぎりなし」と罵りたる、寧ろ當然の事のみ。しかも彼は誠に野性の心を有したりき。彼は常に自ら顧て疚しき所あらざりき。彼は自ら甘ぜむが爲には如何なる事をも忌避するものにはあらざりき。彼は不臣の暴行を敢てしたり。然れども、彼が自我の流露に任せて得むと欲するを得、爲さむと欲するを爲せる、公々然として其間何等の粉黛の存するを許さざりき。彼は小兒の心を持てる大人也。怒れば叫び、悲めば泣く、彼は實に善を知らざると共に惡をも亦知らざりし也。然り彼は飽く迄も木曾山間の野人也。同時に當代の道義を超越したる唯一個の巨人也。猫間黃門の彼を訪ふや、彼左右を顧て「猫は人に對面するか」と尋ねたりき。彼は鼓判官知康の院宣を持して來れるに問ひて「わどのを鼓判官と云ふは、萬の人に打たれたうたか、張られたうたか」と云ひたりき。彼の牛車に乘ずるや、「いかで車ならむからに、何條素通りをばすべき」とて車の後より下りたりき。何ぞ其無邪氣にして兒戲に類するや。彼は「田舍合子[やぶちゃん注:「ゐなかがふし」。]の、きはめて大に、くぼかりけるに飯うづたかくよそひて、御菜三種して平茸の汁にて」猫間黃門にすゝめたり。而して黃門の之を食せざるを見るや、「猫殿は小食にておはすよ、聞ゆる猫おろしし給ひたり、搔き給へ給へや」[やぶちゃん注:「搔き給へ給へや」の「給へ」の二度目は底本では踊り字「〱」であるが、正字化した。ここのみで使用されている。]と叫びたりき。何ぞ其頑童の號叫するが如くなる。かくの如く彼の一言一動は悉、無作法也。而して彼は是が爲に、天下の嘲罵を蒙りたり。然りと雖も、彼は唯、直情徑行、行雲の如く流水の如く欲するがまゝに動けるのみ。其間、慕ふべき情熱あり、掩ふ可からざる眞率あり。換言すれば彼は唯、當代のキヤバリオルが、其玉盃綠酒と共に重じたる無意味なる禮儀三千を縱橫に、蹂躙し去りたるに過ぎざる也。彼は荒くれ男なれ共あどけなき優しき荒くれ男なりき。彼は所詮野性の兒也。區々たる繩墨、彼に於て何するものぞ。彼は自由の寵兒也。彼は情熱の愛兒也。而して彼は革命の健兒也。彼は、群雄を駕御し長策をふるつて天下を治むるの隆準公にあらず。敵軍を叱咜し、隻劍をかざして堅陣を突破するの重瞳將軍也。彼は國家經綸の大綱を提げ[やぶちゃん注:「ひつさげ」。]、蒼生をして衆星の北斗に拱ふ[やぶちゃん注:「むかふ」。]が如くならしむるカブールが大略あるにあらず。辣快、雄敏、鬻拳の兵諫を敢てして顧みざる、石火の如きマヂニーの俠骨あるのみ。彼は壽永革命の大勢より生れ、其大勢を鼓吹したり。あらず其大勢に乘じたり。彼は革命の鼓舞者にあらず、革命の先動者也。彼の粟津に敗死するや、年僅に三十一歲。而して其天下に馳鶩したるは木曾の擧兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。彼の社會的生命はかくの如く短少也。しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に與ふるに新なる意義と新なる光榮とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歷史は蹉跌の歷史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也

[やぶちゃん注:最後の太字は底本では傍点「ヽ」。ここのみで使用されている。

「色白うみめはよい男にてありけれど、起居振舞の無骨さ、物云ひたる言葉つきの片口なる事限りなし」流布本「平家物語」の巻第八の「猫間」の冒頭に出る。

   *

 康定、都へ上がり、院參して、御坪(おつぼ)の内に畏まつて、關東の樣(やう)を具さに奏聞申したりければ、法皇、大きに御感ありけり。公卿も殿上人も、笑壺(ゑつぼ)に入らせおはしまし、如何なれば、兵衛佐は、かうこそゆゆしうおはしせしか。當時、都の守護して候はれける木曾義仲は、似も似ず惡(あ)しかりけり。色白う眉目(みめ)は好い男(をのこ)にてありけれども、起居(たちゐ)のふるまひの無骨さ、もの言ひたる詞續(ことばつづ)きの頑(かたく)ななる[やぶちゃん注:賤しくみっともない。]事、限りなし。理(ことわり)かな、二歳より三十に餘るまで、信濃國木曾と云ふ片山里(かたやまざと)に住み馴れておはしければ、何(なじ)かはよかるべき。

   *

「葡萄美酒夜光盃」よくやったねぇ、私の好きな「唐詩選」の王翰の「涼州詞」だ。

   *

葡萄美酒夜光杯

欲飮琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古來征戰幾人囘

 葡萄の美酒 夜光の杯

 飮まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す

 酔(ゑ)ひて沙場に臥す 君 笑ふこと莫かれ

 古來 征戰 幾人か囘(かへ)る

   *

「キヤバリオル」Cavaliers。音写するなら「キャヴァリアーズ」。「騎士党」と訳される(もとは「婦人に親切な男・婦人に付き添う男」で古語で「騎士」を指す)。ウィキの「騎士党によれば、『イングランド内戦』(「清教徒革命」)『期から空位期、王政復古期』(一六四二年~一六八〇年)にかけて、『イングランド王チャールズ』Ⅰ『世・チャールズ』Ⅱ『世父子に忠誠を誓い』、『支持した人々を指す用語であり、敵対者である』「議会派」(Parliamentarians。「円頂党」とも)により卑称として『使われた。チャールズ』Ⅰ『世の甥で』、『国王軍の中心的な軍司令官だったルパート・オブ・ザ・ラインがその典型と言われる』。『「キャヴァリアー(Cavalier(s))」は、俗ラテン語で「騎士」を意味する「caballarius」、またそのスペイン語形である「caballero」に由来する』が、先だって、ウィリアム・シェイクスピアは史劇「ヘンリーⅣ世」の第二部(一五九六年から一五九九年の間の書かれたとされ、一六〇〇年には書籍出版業組合に記録されてある)の『中で、「cavaleros」という語を「威張り散らす洒落者」という意味で使って』おり、『この言葉はその後、イングランド内戦で議会と対立するチャールズ』Ⅰ『世の支持者たる王党派を、議会派が非難、侮蔑する文脈で使うようになった』とある。

「ラウンドヘツド」Roundheads。前注の「議会派」=「円頂党」のこと。ウィキの「円頂党」によれば、『イングランド内戦』に於いて『議会を支持した人々を指し』、『絶対君主主義や王権神授理論を標榜するイングランド王チャールズ』Ⅰ『世とその支持者である王党派(騎士党)と敵対した』。『円頂党の政治的な目標は、議会(立法府)による行政組織の完全な支配を実現させることであった』。『大多数の円頂党員は立憲君主制を望んでいたが』、一六四九『年に第二次イングランド内戦(英語版)が終わる頃には』、『オリバー・クロムウェルを始めとする共和派の指導者が権力を握り、王制を完全に廃止してイングランド共和国(コモンウェルス)を樹立した。第一次イングランド内戦』『における円頂党の最高司令官だったトーマス・フェアファクス卿や、第』二『代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギューら円頂党指導層の大半は立憲君主体制の支持者であり続けた』。『円頂党は主にピューリタンや長老派から構成され』ていたが、『少数の政治的な徒党も含まれていた』。『当時、議会派に属する清教派の一部は頭を短く刈り上げていたが、この髪型はロンドン宮廷の派手好みな男性たちに流行していた長い巻き髪とは対照的であった』ことから、『このピューリタンの丸刈り頭が円頂党(ラウンドヘッド)の語源』となった、とある。

「袖のかゝり、指貫のりんに至るまでかたくななることかぎりなし」やはり「平家物語」の巻第八の「猫間」の猫間がほうほうの体で義仲の元を逃げ出した後のパートの一節。流布で示す。

   *

 その後(のち)、義仲、院參(ゐんざん)しけるが、官(くわん)加階したる者の直垂(ひたたれ)にて出仕せんこと、あるべうもなしとて、にはかに布衣(ほうい)[やぶちゃん注:布製の狩衣。]取り、裝束(しやうぞく)、冠際(かぶりぎは)、袖のかかり[やぶちゃん注:着方。]、指貫(さしぬき)[やぶちゃん注:袴の一種。裾を括(くく)るようになっている。]の輪(りん)[やぶちゃん注:袴の裾を別の布で輪状に縁(へり)どったもの。]にいたるまで、頑ななること限りなし。鎧取つて着、矢搔き負ひ、弓押し張り、兜の緖を締め、馬(むま)に打ち乘つたるには、似も似ず、惡しかりけり。されども車に屈(こが)み乘んぬ。

 牛飼ひは屋島の大臣(おほいとの)[やぶちゃん注:宗盛。]の牛飼ひなり。牛車(うしくるま)もそ[やぶちゃん注:指示語。もと宗盛のもの。]なりけり。逸物(いちもつ)なる牛の、据ゑ飼うたるを[やぶちゃん注:大切に車を引かせることもなく飼ったものを。]、門(かど)出づるとて、一楉(ひとずばえ)[やぶちゃん注:一鞭(ひとむち)。]當てたらうに、何(なじ)かはよかるべき。牛は飛んで出づれば、木曾は車の内にて、仰向(あふのき)に倒(たふ)れぬ。蝶の羽根を廣げたる樣に、左右(さう)の袖を廣げ、手をあがいて、起きん起きんとしけれども、何(なじ)かは起きらるべき。木曾、牛飼ひとは、え云はで、

「やれ、子牛健兒(こうしこでい[やぶちゃん注:「こでい」は「こんでい」の転訛で雑事に使役した者のこと。])よ、やれ、子牛健兒よ。」

と云ひければ、『「車を遣れ」と云ふぞ』と心得て、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]こそ足搔かせけれ。

 今井の四郞、鞭鐙を合はせて追つ付き、

「何とて御車(おんくるま)をば、かやうには仕るぞ。」

と言ひければ、

「餘りに御牛(おうし)の鼻が恐(こは)う候うて。」[やぶちゃん注:「鼻が恐い」で進まんとする勢いが強いことを指す。]

とぞ述べたりける。

 牛飼ひ、木曾に仲直(なかなほ)りせんとや思ひけん、

「それに候ふ手形(てがた)と申まうすものに、取り付かせ給へ。」[やぶちゃん注:「手形」牛車の榜立(ぼうだて:前後の口の左右にある板)につかまる時の手掛かりとする彫られた孔のこと。]

と言ひければ、木曾、手形にむずと摑み付いて、

「あつぱれ支度(したく)や、子牛健兒が計らひか、殿の樣(やう)か。」[やぶちゃん注:宗盛大臣がかくも考案したものか。]

とぞ問うたりける。

 さて院の御所へ參り、門前にて、車かけ外(はづ)させ、後ろより下りんとしければ、京の者の雜色(ざつしき)に召し使はれけるが、

「車には召され候ふ時こそ、後ろよりは召され候へ。下りさせ給ふ時は、前まへよりこそ下りさせ給ふべけれ。」

と言ひければ、木曾、

「いかでか車ならんがらに[やぶちゃん注:公卿の牛車だからと言って。]、なんでふ、素通どほりをばすべき。」[やぶちゃん注:「乗降を一方通行せねばならん理由があるかっつ!」]

とて、遂つひに後ろよりぞ下りてげる。

 その外を可笑かしきことども多かりけれども、恐れてこれを申まうさず。

 牛飼ひは終(つひ)に斬られにけり。

   *

「公々然」(こうこうぜん)。「公然」の強調形。おおっぴらであるさま。

「猫間黃門の彼を訪ふや、……」原文電子化は既注。「黃門」は中納言の唐名。

「田舍合子の、……」同じく原文電子化は既注。

「眞率」(しんそつ)真面目で飾りけがないこと。

「隆準公」(りゆうせつこう(りゅうせつこう))。「りゅうじゅん」の読みは誤り。一般名詞で「鼻柱の高い人」であるが、ここは漢の高祖劉邦の別称。

「重瞳」(ちやうどう(ちょうどう))「將軍」項羽のこと。項羽は生まれつき瞳孔が重なって二重にあったとされる。ウィキの「重瞳」によれば、症例として実在し、先天性と、事故など物理的衝撃を受けて「虹彩離断」が著しく悪化した後天的なものとがあり、「虹彩離断」の場合は通常は物が二重に見える症状を呈するため、外科的手術が必要となる。但し、作家で歴史家でもあった『郭沫若は、「項羽の自殺」という歴史短編で、重瞳とは「やぶにらみ」のことであろうと言って』おり、また、『作家の海音寺潮五郎は、徳川光圀、由井正雪などについても重瞳であったという説を紹介した上、「ひとみが重なっている目がある道理はない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために』、『中心にある眸子がくっきりときわだち、あたかもひとみが重なっている感じに見える目を言うのであろう」と論じている』とある。私は、項羽の場合は、この海音寺の説であるように感じている。

「カブール」ガリバルディ及びマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される、サルデーニャ王国首相・イタリア王国首相(初代閣僚評議会議長)・同初代外務大臣を歴任したイタリアの政治家カヴール伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(Camillo Paolo Filippo Giulio Benso 一八一〇年~一八六一年)は、「カミッロ・カヴール」や「コンテ・ディ・カヴール(conte di Cavour:カヴール伯爵)」の通称で知られる。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、ピエモンテの名門貴族出身で、トリノ士官学校を卒業したが、自由主義思想を抱いて、一八三一年、軍役を退き、フランスとイギリスへの旅に出、自由主義経済と議会主義に深い確信を持って帰国、広大な領地に資本主義的大農場経営を導入して農業改革に努め、工業化の課題に取組むため、銀行設立・鉄道敷設の事業を熱心に進めた。 一八四七年、新聞『イル・リソルジメント』(Il Risorgimento:イタリア語の「再び・生まれる・事」の合成語で、フランス語の「ルネサンス」(Renaissance)と同意義となる)を創刊して政治的経済的な自由主義の主張を掲げ、翌一八四八年には、新たに開設されたサルジニア王国議会の議員となり、政治活動に足を踏み入れた。中道右派の立場に立ってM.アゼリオ内閣で農商工相や財務相を務め、中道左派の指導者U.ラタッツィと連合を結び,一八五二年、自ら首相の地位を得た。以後、一八五九年七月まで、産業振興策を積極的に推進し、自由貿易主義の見地に立つ低関税政策と英仏両国との通商拡大、金融信用制度の充実などを成し遂げた。その自由主義的政策は当時のイタリア各国の亡命者を惹きつけ、ピエモンテを「リソルジメント運動」の中心地とする効果を齎した。外交政策では、一八五八年にナポレオンⅢ世と「プロンビエルの密約」を結んでオーストリアに対する独立戦争の準備を進め、一八五九年に戦端が開かれて勝利の見通しが強まったとき、突如として「ビラフランカの和議」がなされたため、これに抗議して、彼は同年七月、首相を辞任した。しかし、一八六〇年一月に復帰し、同年三月には中部イタリアの併合に成功、続いてシチリアとナポリに遠征したG.ガリバルディと対抗しつつ、 十月に南イタリアを併合、イタリアの統一と独立に貢献した。一八六一年三月、「イタリア王国」の成立が宣言されて初代首相に任ぜられたが、山積する課題を残して六月に急死した、とある。

「辣快」(らつくわい(らつかい))「辣」「快」も孰れも「激しい」の意であるから、以下の「雄敏」との並列から見て、激しく厳しいやり方で物事をてきぱきと処理すること、「辣腕」と同じであろう。

「鬻拳」(いくけん ?~紀元前六七五年)は春秋時代の楚の大夫で、時に、巴と黄の侵略に戦いを挑んで一度破れ、意気消沈していた文王を諌めるに、剣を抜いて脅迫して意気を鼓舞させた。その直後、彼は「君王に対して自分のしたことは大罪である」として自分の両足を自らたたき切った名臣。ネットには日本語の記載が少ないが、大田牛二氏作の小説「春秋遥かに」の「第三章 天下の主宰者」の「鬻拳」が非常によい。

「マヂニー」フランスの軍人で第一帝政下の元帥であったアンドレ・マッセナ(André Masséna 一七五八年~一八一七年)。ナポレオン戦争では主に方面軍司令官を務め、スイス戦役や半島戦争などに従事した。ウィキの「アンドレ・マッセナ」によれば、『ニースの貿易商の息子に生まれた。幼い頃に両親を失い、石鹸製造業を営む叔父に引き取られたが』、十三歳の『時に家出し、武装商船(一種の私掠船、海賊)の船員になった』。一七七五年、『船員を辞め、一兵卒としてフランス陸軍に入隊し、ロイヤル・イタリアン連隊に配属された。下士官の最高位である曹長(准尉)まで昇進したものの、貴族出身者以外にはそれ以上の昇進の見込みがなかったため』、一七八九年に『除隊した。その後、密輸業を営んでいたが』、一七九一年に『再び軍に入隊した。かつての軍歴が評価され』、翌『年までに大佐に昇進した』。『フランス革命戦争が進行する中、マッセナはイタリア方面軍で着実に功績を上げ』、二年で『将軍まで昇進した』。一七九四年八月の「サオルジオの戦い」で『最初の勝利を挙げ』、翌年八月三日に「ロナートの戦い」において、『オーストリア軍を破ったことは、彼にとって初の著名な勝利となった。また、この戦いで初めてナポレオン・ボナパルトと対面した』。一七九六年、『ナポレオンが新任のイタリア方面軍司令官となると、マッセナは彼の指揮下に入り、イタリア遠征を進めていった』。翌年一月十四日の「リヴォリの戦い」で、『マッセナは驚異的な機動によってオーストリア軍の後背をつき、勝利の立役者となった』。一七九九年、『マッセナはスイス方面軍司令官に任命され、第二次対仏大同盟に基づいてヘルヴェティア共和国(スイスに樹立されたフランスの傀儡国家)へ侵攻してきたロシア・オーストリア同盟軍と戦った』。同年九月二十五日から二十六日に『かけて行われた第二次』の「チューリッヒの戦い」でも『同盟軍を破り、大いに名声を高めた』。同年の「ブリュメールのクーデタ」に『よってナポレオンが第一執政とな』ると、一八〇〇年、『マッセナはイタリア方面軍司令官に任じられ、イタリアに派遣された。しかし、数で勝るオーストリア軍の攻勢の前に、フランス軍は防戦に回らざるをえなくなった。また、フランス軍は盛んに略奪を働いたため、現地人の不満を招いた。同年』三『月、ジェノヴァで包囲され』、三ヶ月に亙る『篭城戦の後』、六月四日に降伏した。このため、マッセナ軍は』六月十四日の「マレンゴの戦い」には『参加できなかった。その後、マッセナは一時』、『軍籍を離れ、立法院議員を務めた』。一八〇四年、『皇帝に即位したナポレオンは、マッセナを軍務に復帰させ、合わせて元帥に昇進させた』。翌『年、再びイタリア方面軍司令官に任命され、ヴェローナを制圧してオーストリア軍の進軍を阻み、さらに同年』十月三十日の「カルディエロの戦い」で『オーストリア軍を破って多数の捕虜を得た』。一八〇六年、『ナポレオンの兄ジョゼフがナポリ王になると、マッセナはナポリ軍の指揮権を与えられた。しかし、このときも略奪を働いたために現地人の反感を買っ』ている。一八〇九年、第五次の「対仏大同盟」が『結成されると、マッセナは第』四『軍団司令官となり、オーストリアへ侵攻した』。「アスペルン・エスリンクの戦い」で『フランス軍の前衛が敗退したとき』には、マッセナの第四軍団が『友軍を救援し、さらに橋頭堡を守り抜いた。この功績と、続く』「ヴァグラムの戦い」で『上げた功績により』、彼は『エスリンク大侯爵に叙せられ』ている。一八一〇年、『マッセナはポルトガル方面軍司令官に任命され、半島戦争に加わ』り、同年九月二十七日、「ブサコの戦い」で『初めて同盟軍と衝突した。イギリス軍司令官の初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、決戦を避けて同盟軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ軍はトレス・ヴェドラス線を抜けないまま、徐々に消耗して』ゆき、一八一一年、『イギリス軍の援軍が到着すると戦況』が逆転、同年三月五日の「バロッサの戦い」、同年五月三日の「フェンテス・デ・オニョーロの戦い」などで『フランス軍は敗退を繰り返し』、『マッセナは軍司令官を解任され、マルセイユの司令官に降格された』。『その後、ナポレオンが退位し』、ルイXVIII世に『よって王制が復古されても、マッセナはマルセイユ司令官を務め続けた。エルバ島からナポレオンが脱出し、いわゆる』「百日天下」が『始まると、マッセナは彼を支持したが、軍に加わることはなかった』。「ワーテルローの戦い」(一八一五年六月十八日)で『ナポレオンが敗北した後、王制を支持しなかったことを理由に、全ての軍務を解任され』、二年後の一八一七年四月四日、『パリで死亡した』。満五十八であった。『マッセナは独占欲が強く、貪欲な人柄であったとされている。また、戦場に男装させた愛人を連れて歩くほどの女好きでもあった。その性格からしばしば問題を起こし、特にイタリアやスペインでの大々的な略奪行為は批判されている』。『一方』、『軍事指揮官としては非常に優秀な人物であり、特に』「リヴォリの戦い」に『見られたような機動戦を得意とした。マッセナをナポレオン麾下の元帥の中で最優秀と評価する歴史家もいるほどである。ナポレオンも彼の能力を高く評価しており、一時は軍務を離れていたマッセナを、即位後』、『直ちに元帥に復帰させたことはその表れといえるだろう。半島戦争で敵となったウェリントンも、マッセナの後任司令官となったスールトと比較し、マッセナの力量の方が上であると評価している』とある。

「馳鶩」(ちぶ)馬を走らせる。「鶩」も「馳せる」の意。]

 

彼の一生は短かけれども彼の敎訓は長かりき。彼の燃したる革命の聖檀の靈火は煌々として消ゆることなけむ。彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々[やぶちゃん注:「りうりう」。]として止むことなけむ。彼逝くと雖も彼逝かず。彼が革命の健兒たるの眞骨頭は、千載の後猶殘れる也。かくして粟津原頭の窮死、何の憾む所ぞ。春風秋雨七百歲、今や、聖朝の德澤一代に光被し、新興の氣運隆々として虹霓[やぶちゃん注:「こうげい」。]の如く、昇平の氣象將に天地に滿ちむとす。蒼生鼓腹して治を樂む、また一の義仲をして革命の曉鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。

[やぶちゃん注:底本では最後に改行して下インデントで『(明治四十三年二月、東京府立第三中學校學友會誌)』(明治四十三年は一九一〇年)あるが、これは全集編者によるものであるので、ここに示した。

「眞骨頭」(しんこつとう)は「真骨頂」に同じい。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。

「春風秋雨七百歲」これはただの私の直感なのだが、これは、義仲を深く尊崇して死後もその傍らに自らの墓を作らせた松尾芭蕉の、かの「奥の細道」の平泉の金色堂での元禄二年五月十三日(グレゴリオ暦一六八九年六月二十九日)の名吟「」に続く句、

 五月雨を降りのこしてや光堂

の前句形である、

 五月雨や年々降りて五百たび(初期形)

 五月雨や年々降るも五百たび(推敲形)

の句のイメージを漢文調に書き換えたもので、本「義仲論」発表の明治四三(一九一〇)年から溯る義仲の死(寿永三年一月二十日(ユリウス暦一一八四年三月四日/グレゴリオ暦換算:三月十一日)までの七百二十六年を「五百たび」に合わせて「七百歳」に切り下げて表現したものではないかと推理している。

なお、以上の句形推敲については、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂』を参照されたい。

「德澤」恩恵。

「光被」(こうひ)光が広く行きわたること。君徳などが広く世の中に行き亙ること。

「昭代」聖代或いは「当代」の美称。ここはこの論文を書いた今現在をその当代に利かせたものと私は読む。

 なお、以上三分割で完成に十三日を要したため、途中で歴史的仮名遣と現代仮名遣の読みの表示方式を変えたりなどしたが、溯って統一することはしていない。悪しからず。引用リンクも多数になったので、当初秘かに考えていたサイト一括版は作成しないことにした。その強力な語彙力と博覧強記の十七歳の芥川龍之介に完全に脱帽であるが、私としては満足出来るものとはなったと考えている。ネット上には本作の注釈したものはおろか、正字による正規表現の電子テクストさえ見当たらない。芥川龍之介が生涯で最初に書いた本格的評論として自負している本作を、かく公開出来たことを私は内心、誇りに思っている。]

2019/07/18

芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 二 革 命 軍

 

        革 命 軍

 

賴政によりて刺戟を與へられ、更に以仁王の令旨によりて擧兵の辭を與へられたる革命軍は、百川の旭の出づる方に向つて走るが如く、刻一刻により、平氏政府に迫り來れり、而して此焦眉の趨勢は遂に、平氏政府に於て福原の遷都を喚起せしめたり。請ふ吾人をして福原の遷都を語らしめよ。何となれば此一擧は、入道相國が政治家としての長所と短所とを、最も遺憾なく現したれば也。

[やぶちゃん注:「百川」「ひやくせん」。あらゆる河川。「旭の出づる方」東はこの折りの京より東の主に関東の源氏勢力を暗示させるのであろうが、同時に後に義仲が入洛後、後白河法皇が与えた「征東大将軍」の異名「朝日将軍(旭将軍)」の称号をも遠く利かせているように読める。なお、「征東大将軍」については、ウィキの「木曾義仲」の注釈の「1」に、従来は「吾妻鏡」などを『根拠に、義仲が任官したのは「征夷大将軍」とする説が有力で』、「玉葉」に『記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派だったが』、「三槐荒涼抜書要」所収の「山槐記」建久三(一一九二)年七月九日の『条に、源頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、「大将軍」を要求した頼朝に対して、朝廷では検討の末、義仲の任官した「征東大将軍」などを凶例としてしりぞけ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」を吉例として、これを与えることを決定したという。こうして義仲が任官したのは「征東大将軍」だったことが同時代の一級史料で確認できたため、今日ではこちらの説の方がきわめて有力となっている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」』(『明月記研究』第九号・二〇〇四年)とあるのに従った。]

 

彼は、一花開いて天下の春を知るの、直覺的烱眼を有したりき。而して又彼が政治家としての長所は、實に唯此大所を見るの明に存したりき。吾人は、彼が西海を以て其政治的地盤としたるに於て、彼の家人をして諸國の地頭たらしめしに於て、海外貿易の鼓吹に於て、音戶の瀨戶の開鑿に於て、經ケ島の築港に於て、彼が識見の宏遠なるを見る、未嘗て源兵衞佐の卓識を以てするも武門政治の創業者としては遂に彼の足跡を踏みたるに過ぎざるを思はずンばあらず。(固より彼は多くの點に於て、賴朝の百尺竿頭更に及ぶべからざるものありと雖も)見よ、彼は瀨戶内海の海權に留意し、其咽喉たる福原を以て政權の中心とするの得策なるを知れり。彼は南都北嶺の恐るべき勢力たるを看取し、若し、彼等にして一度相應呼して立たば、京都は其包圍に陷らざるべからざるを知れり。而して彼が此胸中の畫策は、源三位の亂によりて、反平氏の潮流の滔々として止る[やぶちゃん注:「とむる」。]べからざるを知ると共に、直に彼をして福原遷都の英斷に出でしめたり。彼が治承四年六月三日、宇治橋の戰ありて後僅に數日にして、此一擧を敢てしたる、是豈彼が烱眼の甚だ明、甚だ敏、甚だ弘なるを表すものにあらずや。福原の遷都はかくの如く彼が急進主義の經綸によつて行はれたり。然れども彼は此大計を行ふに於て、餘りに急激にして、且餘りに强靭なりき。約言すれば、福原の遷都は彼が長所によつて行はれ、彼が短所によつて、破れたりき。

[やぶちゃん注:「音戶の瀨戶の開鑿」広島県呉市にある本州と倉橋島の間の海峡(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「音戸の瀬戸」によれば、『音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという』。『伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている』。『当時海岸はすべて砂浜で、警固屋』(けごや:地名。広島県呉市警固屋(グーグル・マップ・データ))と僅か幅三尺(約九十センチメートル)の『砂州でつながってい』たので、人々は『その付近の集落を』「隠れて渡る」ようにしたことから、『隠渡あるいは隠戸と呼んだ』とし、『ここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのが』、『この名の始まりであるという』。『その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある』。『瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された』もので、『古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれ』『その主要航路で』「潮待ちの港」が『存在し、更に遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど』、『古来から造船の島であった』。『音戸北側に渡子』(とのこ)『という地名があり』(現存。広島県呉市音戸町(ちょう)渡子(グーグル・マップ・データ)、これは七世紀から九世紀に『交通の要所の置かれた公設渡船の』「渡し守(場)」に『由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている』。『つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている』。『この海峡で有名なのは永万元年』(一一六五年)旧暦七月十日に『完成した平清盛が開削したとする伝説である』。『この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている』。『この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思い』、『ここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した』。『工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した』が、『工事は思ったように進まなかった』。工事が『あと少しで完成』せんとした折り、日が沈み、『観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち』、『金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと』、『日は再び昇った。これで工事は完成した』とか、『沈む夕日を呼び戻し』て一『日で開削したとする伝説もある』。また、「清盛の『にらみ潮』伝説」というのもある。『清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため』、『清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが』、『逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると』、『潮の流れが変わり』、『船を進めた』というものである。また、『工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたと』も『言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である』とある。『音戸とはこの清盛の』『塔が由来とも言われて』おり、『他にも、警固屋』『はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから』、『音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所』から『と』も『言われている』。また、清盛の死(治承五(一一八一)年)は、この日招きが祟ったもの『とも言われている』。但し、『この話は古くから真偽』が『疑われている』。その大きな理由の一つは、『当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである』。しかし、『清盛が安芸守であったこと、厳島神社を造営したこと、大輪田泊(現神戸港)や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園』「安摩荘」は『清盛の弟である平頼盛が領主であった』『ことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高』く、『記録がないのは、源氏による鎌倉幕府が成立して以降平氏の歴史が消去されていったためと推察されて』おり、『地元呉市ではこの伝説は事実として語られている』。『一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある』。『地理学的に考察すると』、『そもそもつながっていなかったとする説があ』り、また仰天の「日招き伝説」は『日本全国に点在』しているが、その起源は前漢の皇族で学者の劉安撰になる「淮南子」に載る『説話で、そこから広まったことが定説となっている』。「にらみ潮」も、やはり「淮南子」の『中に同じような話がある』。また、『人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は』、「平家物語」では『経が島のことである』。『文献で見ると』、康応元(一三八九)年の今川貞世の「鹿苑院殿厳島詣記」に、『この海峡を通過した情景は書かれている』ものの、『清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば』、『室町ごろに成立したものと考えられている』。『時代が下』って、天正八(一五八〇)年の厳島神社神官棚守房顕が記した「房顕覚書」に『「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」』と出、『安土桃山時代に書かれた平佐就言』(ひらさなりこと(と読むか?):毛利輝元家臣)の「輝元公上洛日記」には『「清盛ノ石塔」が書かれて』はある。結論から言うと、『この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が儒学者によって再評価される流れとなったことと』、『寺社参詣の旅行ブームの中でのことである』。『中国山地壬生の花田植にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている』。『この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話は』、『こうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている』。『ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった』とある。なお、これ以降の中世にあって、『瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった』。『航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった』。『これが警固衆(水軍)の起こりである』とある。

「經ケ島の築港」ウィキの「経が島」を引く。『日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に』、『交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島』。承安三(一一七三)年竣工。その広さは「平家物語」に『「一里三十六町」とあることから』、三十七『ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く』。『塩槌山』(しおづちやま:この中央附近にあったか(グーグル・マップ・データ))『を切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したため』。『迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることにな』ったとも言う。『一説には、平清盛は』、『何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使』い(前注に出た「経石」)、『その後、事故などもなく』、『無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる』。『ただし、実際の工事は清盛生存中には完成せず、清盛晩年の』治承四(一一八〇)年には、『近隣諸国や山陽道・南海道に対して人夫を徴用する太政官符が出され』ており、『最終的な完成は平家政権滅亡後に工事の再開を許された東大寺の重源によって』建久七(一一九六)年に『なされたとされている』。「平家物語」では、『清盛自身、死後に円實という僧によって経が島に埋葬されたと記述されている』。『現在では、度重なる地形変化等により』、この島の位置は『特定できずにいるが、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速』三『号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられており、松王丸の石塔が伝えられている兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)周辺とする説もある』とある。前者は先の地図のやや南に動かした位置、後者は先の地図の西の「古代大輪田泊(おおわだのとまり)の石椋(いわくら)」のある近く。

「百尺竿頭」「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」の略。「既に到達した極点よりもさらに向上の歩を進めること」を言う。これは唐代の禅僧長沙景岑(けいしん)のもので(石霜和尚と長沙景岑禅師の百尺の竿頭についての問答中のもの)、「景徳伝燈録」(宋代の仏教書。全三十巻。道原著。一〇〇四年成立。禅宗の伝灯(正法を伝える意味)の法系を明らかにしたもので、過去七仏から始めてインド・中国歴代の諸師千七百一人の伝記と系譜を述べ、中国禅宗史研究の根本資料とされる)の「第十」の中の「百尺竿頭須ㇾ進ㇾ歩、十方世界是全身」(百尺竿頭に須(すべか)らく歩を進むべし、十方(じつぱう)世界、是れ、全身)に拠るとする辞書が多い。その原文は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで見られ(寛永一七(一六四〇)年版本。訓点附き)、その偈に、

百丈竿頭不動人 雖然得入未爲眞

百丈竿頭須進步 十方世界是全身

 百丈の竿頭 人を動ぜず

 然も得入(とくじゆ)すと雖も 未だ眞たらず

 百丈の竿頭 須らく步を進むべし

 十方(じつぱう)世界 是れ 全身

とある。また、これはそれを受けた少し後の「無門関」(宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集。私には遠い昔の仕儀で暴虎馮河の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」がある)の「四十六 竿頭進歩」にも、

石霜和尚云、百尺竿頭、如何進步。又古德云、百尺竿頭坐底人、雖然得入未爲眞。百尺竿頭、須進步十方世界現全身。

(石霜和尚云く、「百尺の竿頭、如何が步を進めん。」と。又、古德云く、「百尺の竿頭、坐して底(てい)する人、入り得て然ると雖も、未だ眞と爲さず。百尺の竿頭、須らく步を進めて、十方世界に全身を現ずべし。」と。)

ともある。「厳しい修行の修行の末に悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはない、さらに一歩を進めよ」の意。

「經綸」「けいりん」。国家の秩序を整え、治めること。或いは、その方策。]

 

彼は、より無學にして、しかも、より放恣なる王安石也。彼は常に一の極端より他の極端に走りたりき。彼は今日計を定めて、明日其效を見るべしと信じたりき。詳言すれば彼は理論と事實との間に、幾多の商量すべく、打算すべく、加減すべき摩擦あるを知らざりき。而して又彼は、彼が信ずる所を行はむが爲には、直線的の突進を敢てするの執拗を有したりき。彼の眼中には事情の難易なく、形勢の可否なく、輿論の輕重なく、唯彼の應に[やぶちゃん注:「まさに」。]行はざる可からざる目的と之を行ふべき一條の徑路とを存せしのみ。王安石は云へり、「人の臣子となりては、當に四海九州の怨を避くべからず」と。彼をして答へしめば、將に云ふべし、「一門の榮華を計りては、天下の怨を避くべからず」と。然れども彼の刈りたるは、僅に彼の蒔きたるものゝ半ばに過ぎざりき。彼は其目的を行はむには、餘りに其手段を選ばざりき。餘りに輿論を重んぜざりき、餘りに、單刀直入にすぎたりき。彼は、疲馬に鞭ちて、百尺の斷崖を越えむと試みたり。而して、越え得べしと信じたりき。是豈、却て疲馬を死せしむるものたらざるなきを得むや。

[やぶちゃん注:「王安石」(一〇二一年~一〇八六年)は北宋の政治家。下級地方官の家に生まれ、一〇四二年の進士科に高位で及第したが、中央のポストには就かず、自ら望んで地方官を歴任して行政の経験を積んだ。仁宗(在位:一〇二二年~一〇六三年)の末年に中央に帰ると、十数年の体験を纏めた長文の報告書「万言の書」を皇帝に提出し、政治改革の必要性を説いたが、当時は大臣たちに相手にされなかった。その後、江寧(現在の南京)に帰って母の喪に服し、喪が明けた後もここに留まっていたが、一〇六七年、青年皇帝神宗が即位すると、皇帝の政治顧問である翰林学士に任命されて朝廷に召され、国政改革を委ねられた。一〇六九年に参知政事(副宰相)に上り、年来の抱負を実行に移すことになった。先ず、皇帝直属の審議機関である制置三司条例司を設けて、ここに少壮官僚を集めて新政策の立案に当たらせ、出来上がったものから発布して行った。一〇七〇年に同中書門下平章事(宰相)に上ると、条例司は必要がなくなり、廃止された。彼の新政策は、まとめて「王安石の新法」とよばれ、均輸法に始まり、青苗(せいびょう)法・農田水利法・市易法・募役法・保甲法・保馬法など多数に上り、これらによって北宋中期以来の財政赤字を解消し、国力を増強することを当面の目的とした。これらの新法に対し、従来甘い汁を吸っていた大地主・官僚・豪商らは猛然と反対の声を挙げたが、神宗の強力な支持を得て遂行され、効果を上げた。ただ、新法は富国強兵のみを目的としたのではなく、究極においては、士大夫の気風を一新し、実務に堪能で政治に役だつ人材を養成することにあり、その方策として、官吏に法律を学ばせ、学校教育を重視し、三舎法を定めて、卒業者をそのまま官僚に任命する制度をも作った。一〇七六年に引退し、江寧の鍾山(しょうざん)に住み、余生を送った。彼は学者・文人としても当代一流で、経学では、政治改革の理想とする「周礼(しゅらい)」に自ら注釈を加えた「周官新義」を著はし、学校のテキストとして用いて、新法の指針とした。散文は欧陽脩を師とし、警抜な発想を以って明晰で迫力ある文体を創り、唐宋八大家の一人に数えられている。詩も高い評価を受けてきたが、鍾山に隠棲してからの、自然を詠じた作品が特に優れているとされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。筑摩書房全集類聚版注には、「乃公(だいこう)出でずんば、天下の草生を如何」(この俺が出てやらなければ、他の者には何が出来るものか)の語は有名とある。

「人の臣子となりては、當に四海九州の怨を避くべからず」筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、中文サイトの「続資治通鑑」の「宋紀」の「七十一」に、安石の弟で官吏であった安国の言葉として、「安國曰、『非也。吾兄自以爲人臣不當避怨、四海九州之怨悉歸于己、而后可爲盡忠于國家。』とあるのがそれらしい。]

 

彼が遷都の壯擧を敢てするや、彼は、桓武以來、四百年の歷史を顧みざりき。彼は「おたぎの里のあれやはてなむ」の哀歌に耳を傾けざりき。一世の輿論に風馬牛なる、かくの如くにして猶遷都の大略を行はむと欲す、豈夫[やぶちゃん注:「あに」「それ」。]得べけむや。果然、新都の老若は聲を齊うして[やぶちゃん注:「ひとしうして」。]、舊都に還らむことを求めたり。而して彼の動かすべからざる自信も是に至つて、聊か欹傾せざる能はざりき。彼は始めて、舊都の規模に從つて福原の新都を經營するの、多大の財力を費さゞる可からざるを見たり。而して此財力を得むと欲せば、遷都の不平よりも更に大なる不平を蒙らざる可からざるを見たり。しかも頭を囘らして東國を望めば、蛭ケ小島の狡兒、兵衞佐賴朝は二十萬の源軍を率ゐて、既に足柄の嶮[やぶちゃん注:「けん」。]を越え、旌旗劍戟岳南の原野を掩ひて、長驅西上の日將に近きにあらむとす。彼の胸中にして、自ら安ずる能はざりしや、知るべきのみ。加ふるに嫡孫維盛の耻づべき敗軍(治承四年十月)は、東國の風雲益[やぶちゃん注:「ますます」。]急にして、革命の氣運既に熟せるを報じたるに於てをや。是に於て、彼は福原に退嬰するの平氏をして、天下の怨府たらしむる所以なるを見、一步を退くの東國の源氏をして、遠馭長駕の機を得しむるを見、遂に策を決して、舊都に還れり。嗚呼、彼が遷都の英斷も、かくの如くにして、空しく失敗に陷り了りぬ。

[やぶちゃん注:「おたぎの里のあれやはてなむ」「平家物語」巻第五の「都遷(うつ)し」(福原遷都。治承四年六月二日(ユリウス暦一一八〇年六月二十六日)に移ったが、僅か半年後の十一月二十三日(十二月十一日)には京都へ還都した。京都還幸は源氏の挙兵に対応するために清盛が決断したとされる)の章で、旧の京の都の内裏の柱に記されてあったとして出る、二首の落首の最初の一首の下句。二首目も後段で掲げられるので二首とも示す。

   *

百年(ももとせ)を四(よ)返りまでに過ぎ來にし

   愛宕(をたぎ)の里の荒れや果てなむ

咲き出づる花の都を振り捨てて

   風ふく原の末(すゑ)ぞ危ふき

   *

「百年(ももとせ)を四(よ)返り」平安京は延暦十三年十月二十二日(七九四年十一月二十二日)に桓武天皇によって長岡京から遷都しているから、この福原遷都は数えで三百八十七年後となる。「愛宕」は平安京のあった山城国愛宕(おたぎ)郡。「平家物語」ではかくするが、歴史的仮名遣でも「おたぎ」でよい。

「岳南」富士山麓の現在の静岡県側。

「嫡孫維盛の耻づべき敗軍(治承四年十月)」故重盛の嫡男維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年:享年二十六)は「富士川の戦い」(治承四年十月二十日(一一八〇年十一月九日)及び「倶利伽羅合戦」(寿永二年五月十一日(一一八三年六月二日))の二大決戦で、ろくな戦闘も無き無面目の潰走(次段にも出る前者)と後者の壊滅的な敗北を喫した。既に注した通り、鬱状態が昂じ、平氏一門の都落ちの途中に屋島の戦線から離脱(脱走)してしまい、那智の沖で入水して死んだと伝えられる(生き延びて相模で病死したとする別説もある)。

「退嬰」「たいえい」。進んで新しいことに取り組もうとする意欲を欠くこと。]

 

今や、平氏の危機は目睫の間に迫り來れり。維盛の征東軍、未一矢を交へざるに空しく富士川の水禽に驚いて走りしより、近江源氏、先響[やぶちゃん注:「まづ」、「ひびき」。]の如く應じて立ち、別當湛增亦紀伊に興り、短兵疾驅、莊園を燒掠する、數を知らず。園城寺の緇衣軍、南都の圓頂賊、次いで動く事、雲の如く、將に、旗鼓堂々として、平氏政府を劫さむとす[やぶちゃん注:「おびやかさむとす」。]。是豈、烈火の如き入道相國が、よく坐視するに堪ふる所ならむや。然り、彼は舊都に歸ると共に、直に天下を對手として、赤手をふるひて大挑戰を試みたり。彼が軌道以外の彗星的運動は、實に是に至つて其極點に達したりき。如何に彼が破壞的政策にして、果鋭峻酷なりしかは、左に揭ぐる冷なる日曆之を證して餘りあるにあらずや。

[やぶちゃん注:「近江源氏」

「別當湛增」前の「一 平氏政府」の最終段落の注を参照。

「短兵疾驅」「短兵」は短い刀剣類を指すので、軽装備で身軽にすばしっこく走り回る武人・兵士を指している。

「園城寺の緇衣軍」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台宗園城寺(おんじょうじ:通称・三井寺)は、延暦寺と対立を繰り返してきた(元は宗門内の対立で、平安中期の比叡山は円珍の門流と慈覚大師円仁の門流との二派に分かれており、円珍派が比叡山を下りて園城寺に移った)ことからも想像がつくように(比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで十回、小規模なものまで含めると五十回にも上る)、園城寺も強力な「緇衣軍」(しいぐん)=僧兵団を有していた。源氏は、かの源頼義が「前九年の役」で園城寺に戦勝祈願をしたことから、歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にもこれに協力し、平家滅亡後、源頼朝は当寺に保護を加えている。

「赤手」何の武器も持たないこと。素手。ここはしっかりした準備も計画性もなしに以下に列挙するような蛮行を敢えて行使したことを指していよう。

「果鋭」果断にして気性の鋭いこと。

「峻酷」非常に厳しく情け容赦がないこと。

 以下の丸印附きの箇条部は全体が二字下げでポイント落ち。区別するために、前後を一行空けた。なお、芥川龍之介は何を元にしたのか(「平家物語」と「源平盛衰記」の幾つかを見てみたが、孰れとも合わない)、一部に重大な日付の誤り(或いは現在知られている史実日時)があるので、各条の後に注を挿し入れた。なお、筑摩書房全集類聚版注はそれを指摘していない。]

 

○治承四年十月二十三日 入道相國福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。

[やぶちゃん注:既に示した通り、福原から京への還都は治承四(一一八〇)年十一月二十三日の誤りであり、以下の条より後のこととなる。但し、記載から見て芥川龍之介はこの誤った時系列に沿って本文を書いていることが判る。]

○十二月二日 平知盛等を東國追討使として關東に向はしむ。

[やぶちゃん注:「平知盛等を東國追討使として關東に向はしむ」「東國追討使」は大将軍(総大将)に故重盛の嫡男維盛、それに清盛の異母弟忠度と、清盛の四男知盛(仁平二(一一五二)年~文治元(一一八五)年)平治元(一一五九)年八歳で従五位下、治承元 (一一七七)年従三位。同四年挙兵した源頼政を「宇治川の戦い」で破った。寿永元(一一八二 年、従二位権中納言。翌年、源義仲に追われ、一門とともに西走、解官された。同三年、「一ノ谷の戦い」で奮戦したが、敗れて屋島に逃れ、翌文治元(一一八五)年の「屋島の戦い」で義経に敗れ、「壇ノ浦の合戦」で、安徳天皇始め一門の女性とともに入水した)を将とする三名が選出され、これに平家の侍大将藤原(伊藤)忠清らの平家家人が加わった大軍であった。但し、追討使本軍は九月二十二日に福原京を出発、翌二十三日に旧都平安京に到着したが、ここの出発日の吉凶を巡ってトラブルが発生し、九月二十九日になってやっと進発するという致命的な遅れを犯してしまっている(芥川龍之介の日付は全くの誤り)。この辺りから関東での源氏を中心とした勢力の膨脹と西進に就いては、およまる氏のブログ「ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて」の「東国追討使の派遣【治承・寿永の乱 vol.48】」が非常に詳しく、読ませる。]

○同十日 淡路守淸房をして、園城寺をうたしむ。山門の僧兵園城寺を扶けて、平軍と山科に戰ふ。

 同日 淸房園城寺を火き、緇徒を屠る。

[やぶちゃん注:「淡路守淸房」平清房(?~寿永三(一一八四)年)は清盛の八男。治承三年のクーデタで淡路守に任官した。寿永三年の「一ノ谷の戦い」では、兄知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備したが、源範頼軍に陣を突破され、覚悟を決め、従兄弟の経俊や義弟の清貞とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。なお、彼の指揮による園城寺焼き討ちは「玉葉」「山槐記」の十二月九日から十二日の条に記載があるので概ね正しい(十一日。次注参照)ものと思われる。]

○同二十五日 藏人頭重衡をして、南都に向はしむ。

○同廿八日 重衡、兵數千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十餘級。

○同廿九日 重衡都へ歸る。

[やぶちゃん注:「重衡」平盛の五男重衡(保元二(一一五七)年~文治元(一一八五)年:

享年二十九)。ウィキの「平重衡」を見ると、彼は清房の園城寺焼き討ちにも参加してらしく、十二月十一日に『園城寺を攻撃し寺を焼き払うと』、十二月二十五日には、『大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を巡らせて迎え』打ったが、『河内方面から侵攻した重衡の』四『万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫』り、二十八日、『重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた』。「平家物語」では、『福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける』ため『に民家に火をかけたところ』、『風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが』、延慶本「平家物語」では、『計画的放火であった事を示唆』する書き方になっている。『放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる』とあり、『この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた』その後、寿永二(一一八三)年)二月の「一ノ谷の戦い」(『平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し』た)、の負け戦さの最中、『重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは』、「平家物語」では『梶原景季と庄高家』、「吾妻鏡」では『梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され』、『土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営を置く平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。しかし』「玉葉」の二月十日の条に『よると』、『この交換は重衡の発案によるものであり』、『使者は重衡の郎党だった』という。同年三月、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている』。「平家物語」では、その『鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とする。元暦二(一一八五)年三月、「壇ノ浦の戦い」で『平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子』(ほし/すけこ)『は助け上げられ』、『捕虜になっている』。『同年』六月九日、焼き討ちを『憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立』、二十二日に『東大寺の使者に引き渡された』。「平家物語」には、『一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている』。「愚管抄」にも『日野で重衡と輔子が再会したという記述がある』。二十三日、『重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年』二十九であった。『なお、斬首前に法然と面会し、受戒している』。なお、彼は美少年として知られ牡丹の花に喩えられたという。

「山門」比叡延暦寺。ここで僧兵らは往年の敵とともになって全面的に平氏に向かったのである。]

 

彼が駕を舊都に還してより、僅に三十餘日、しかも其傍若無人の行動は、實に天下をして驚倒せしめたり。彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。然れども彼は僧徒の橫暴を抑へむが爲に、然かせるにあらず。内、自ら解體せむとする政府を率ゐ、外、猛然として來り迫る革命の氣運に應ぜむには、先、近畿の禍害を掃蕩するの急務なるを信じたるが爲めのみ。而して彼は、此一擧が平氏政府の命運を繫ぎたる一縷の糸を切斷せしを知らざる也。彼が此破天荒の痛擊は、久しく平氏が頭上の瘤視[やぶちゃん注:「りゆうし(りゅうし)」。]したる南都北嶺をして、遂に全く屛息し去るの止むを得ざるに至らしめたりと雖も、平氏は之が爲に更に大なる僧徒の反抗を喚起したり。啻に僧徒の反抗を招きたるのみならず、又實に醇篤なる信仰を有したる天下の蒼生をして、佛敵を以て平氏を呼ばしむるに至りたりき。形勢、既にかくの如し。自ら蜂巢[やぶちゃん注:「はうそう(そうそう)」。]を破れる入道相國と雖も、焉ぞ奔命に疲れざるを得むや。時人謠ひて曰く「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」と、然り眞に「風ふく原の末ぞ」あやふかりき。平氏は、福原の遷都を、掉尾の飛躍として、治承より養和に、養和より壽永に、壽永より元曆に、元曆より文治に、圓石を萬仞の峯頭より轉ずるが如く、刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき。

[やぶちゃん注:「屛息」「へいそく」。恐れて縮こまり、息を殺して凝っとしていること。

「醇篤」純粋でしっかりしていること。

「蒼生」「さうせい(そうせい)」。注で既出既注。「人民」の意。

「奔命」主君の命を受けて奔走すること。転じて、忙しく活動すること。ここは後者。

「時人」「じじん」、当時の民。

「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」既出既注。「平家物語」巻第五の「都遷(うつ)し」(福原遷都)の章の、旧の京の都の内裏の柱に記されてあったとして出る、二首の落首の二首目。「咲き出づる花の都を振り捨てて風ふく原の末ぞ危ふき」の相似歌。諸本の異同か。

と、然り眞に「風ふく原の末ぞ」

「治承」安元三年八月四日(ユリウス暦一一七七年八月二十九日)から治承五年七月十四日(一一八一年八月二十五日)。但し、頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き、使用した。

「養和」治承五年七月十四日から養和二年五月二十七日(一一八二年六月二十九日)まで。

「壽永」養和二年五月二十七日から寿永三年四月十六日(一一八四年五月二十七日まで。但し、ウィキの「寿永」によれば、『源氏方ではこの元号を使用せず』、『以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた』寿永二(一一八三)年以降は、『京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようにな』った。反して、『平家方では都落ちした後も』、『次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永を』、『その滅亡まで引き続き』、『使用した』とある。

「元曆」寿永三年四月十六日から元暦二年八月十四日(一一八五年九月九日)まで。なお、加工データとした「青空文庫」の「木曾義仲論」はここを『天暦』(遥か前の九四七年から九五七年)としている。ママ注記も一切ないから、恐らく入力の誤りであろう。注意されたい。「青空文庫」はもう永く誤りを通知出来るシステムを休止している。これは老舗の権威的電子テクスト・サイトとしては頗る致命的であると言わざるを得ない。

「文治」元暦二年八月十四日から文治六年四月十一日(一一九〇年五月十六日)に建久に改元するまで。

 以下、底本では本文で初めて一行空けが施されている。ここでは二行空けた。]

 

 

將門、將を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、將門の出なりき。彼は六條判官源爲義の孫、帶刀先生義賢の次子、木曾の山間に人となれるを以て、時人稱して木曾冠者と云ひぬ。久壽二年二月、義賢の惡源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。重能彼の幼弱なるを憫み、竊に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]之を齋藤別當實盛に託し、實盛亦彼を東國にあらしむるの危きを察して、之を附するに中三權頭兼遠を以てしぬ。而して中三權頭兼遠は、實に木曾の溪谷に雄視せる豪族の一なりき。時に彼は年僅に二歲、彼のローマンチツクなる生涯は、既に是に兆せし也。

[やぶちゃん注:遂に木曾義仲が語られ始める。丁度、論文全体の真ん中少し前に当たる。

「將門、將を出すと云へるが如く」ここは個人名でのそれではなく、「しやうもん(しょうもん)」で、「大将の家柄・将軍を出すところの一門」の意なので、注意。以下の二つの注も参照。

「六條判官源爲義」源為義(永長元(一〇九六)年~保元元(一一五六)年)は義家の孫で、父は義親。叔父の義忠暗殺後に河内源氏の棟梁を称した。これは広義の武家集団の中の頭(大将)と言える。なお、父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。頼朝・義経らの祖父。「保元の乱」で崇徳上皇方の主力として戦ったが敗北し、後白河天皇方についた長男義朝の手で処刑された。

「帶刀先生義賢」「たちはきのせんじやう(じょう)よしかた」(「たてはき」でもよい)と読む。生年不詳で久寿(きゅうじゆ)二(一一五五)年没。保延五(一一三九)年に後の近衛天皇となる東宮躰仁(なりひと)親王を警護する帯刀の長となったことから、「東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)」と呼ばれた。これは皇太子護衛官である武官集団の指揮官であるから、やはり広義の「大将」と言ってよいであろうウィキの「源義賢」によれば、『翌年、滝口源備』(みなもとのそなう)『殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していた』(犯人を匿ったとされる)『として帯刀先生を解官され』、『その後藤原頼長に仕える』。康治二(一一四三)年には『頼長の所有する能登国の預所職となるが』、久安三(一一四七)年年、『貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になってい』たらしい(「台記」久安四年一月五日の条に拠る)。『京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり』、『関東に下っていた兄・義朝が』、仁平三(一一五三)年に『下野守に就任し』て『南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により』、『義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んで』、『その娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力を』伸ばした。久寿二(一一五五)年八月(芥川龍之介の「二月」は誤りか)、『義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平』(永治元(一一四一)年~永暦元(一一六〇)年:義朝の長子で頼朝・義経らの異母兄。父とともに戦って敗れた「平治の乱」後に逃走し、清盛の暗殺を狙ったが、翌年、捕えられて六条河原で処刑された。享年二十歳)『に大蔵館を襲撃され』、『義父・重隆とともに討たれた。享年は』三十『前後とされる』(この戦いは、秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものであった)。『大蔵館にいた義賢の次男で』二『歳の駒王丸は、畠山重能』(しげよし 生没年未詳:武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)の豪族。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で畠山氏の祖。晩年まで平家方にあったが、嫡男畠山重忠は初期に頼朝を追討するも、開幕後は有力御家人となった(但し、北条時政の謀略により滅ぼされた)『・斎藤実盛』(?~寿永二(一一八三)年:芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫。出身は越前であるが、武蔵国播羅(はら)郡長井(現在の埼玉県熊谷市)に移った。この時、幼い義賢の遺児義仲を助け、信濃の豪族中原兼遠(かねとお)に託した。初め、源為義・義朝に仕え、「保元・平治の乱」では義朝に従ったが、「平治の乱」で義朝が敗れ、東国に逃れる途中で別れ、その後は平氏に従い、頼朝が挙兵した際にも、「石橋山の合戦」でこれと戦い、次いで平維盛に属して「富士川の戦い」にも出陣している。寿永二年、やはり維盛に従って北陸に出陣、かつての養い子である義仲と戦ったが、「加賀の篠原の戦い」で手塚光盛に討たれた。その際、老年を隠すため、鬢髪を黒く染めて出陣した話はよく知られる)『らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)とな』り、『京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ』て『養子となっている』とある。

「中三權頭兼遠」「ちゆうざうごんのかみかねとう」。前注に出た通り、信濃国木曾地方に本拠とした豪族中原兼遠(?~治承五(一一八一)年?)。右馬少允中原兼経の子。木曾義仲の乳母父。ウィキの「中原兼遠」によれば、『木曾中三(中原氏の三男)を号した』。『朝廷で代々大外記を務めた中原氏』から続く『系図がある。父の兼経は朝廷で正六位下・右馬少允に叙任された後、信濃国佐久郡に移住し牧長を務めたとされる』。『平安時代末期には兼経の長男である木曾中太が』「保元の乱」で『源義朝・源為義に従軍している』。先の事件の後、『駒王丸を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育』した。『この時、信濃権守であったという。駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って』、「治承・寿永の乱」に『おいて平家や源頼朝と戦う。兼遠の子である樋口兼光・今井兼平はともに義仲の重臣となっている』。「源平盛衰記」では、『巴御前は兼遠の娘で義仲の妾となっており、また一説によると』、『もう一人の娘は義仲の長男義高を生んでいると』も言う。]

 

吾人は、彼の事業を語るに先だち、先づ木曾を語らざるべからず。何となれば、彼の木曾に在る二十餘年、彼の一生が此間に多大の感化を蒙れるは、殆ど疑ふべからざれば也。請ふ吾人をして源平盛衰記を引かしめよ。曰、

[やぶちゃん注:以下「所にあらずと。」までは底本では全体が一字下げ。区別するために前後を一行空けた。]

 

木曾と云ふ所は究竟の城廓なり、長山遙に連りて禽獸稀にして嶮岨屈曲也、溪谷は大河漲り下つて人跡亦幽なり、谷深く棧危くしては足を峙てゝ步み、峯高く巖稠しては眼を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思を費す、東は信濃、上野、武藏、相模に通つて奧廣く、南は美濃國に境道一にして口狹し、行程三日の深山也。縱、數千萬騎を以ても攻落すべき樣もなし、況や、棧梯引落して楯籠らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。

[やぶちゃん注:「源平盛衰記」巻第二十六の「木曾謀叛の事」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。左の十行目から十四行目部分。別伝本を底本としたか、「嶮岨屈曲也、溪谷は」などはないが、他には有意な異同は認められない。読みがないと、かなり読み難いが、注で挟むと五月蠅くなるので、ここでは本文では附さずに、以下に必要と私が判断した箇所に読みを添えたものを再掲することとする。

   *

木曾と云ふ所は究竟(くきやう)の城廓なり、長山(ちやうざん)遙に連りて禽獸稀にして嶮岨屈曲也、溪谷は大河漲り下つて人跡亦幽(かすか)なり、谷深く棧(かけはし)危(あやし)くしては足を峙(そばだ)てゝ步み、峯高く巖(いはほ)稠(きびしう)しては眼(まなこ)を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思(おもひ)を費(つひや)す、東は信濃、上野(かうづけ)、武藏、相模に通(とほ)つて奧廣く、南は美濃國に境(さかひ)道(みち)一にして口(くち)狹(せば)し、行程(ゆくほど)三日の深山(みやま)也。縱(たとひ)、數(す)千萬騎を以ても攻落(せめおと)すべき樣もなし、況や、棧梯(せんてい)引落(ひきおと)して楯籠(たてこも)らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。

   *

「眼を載せて行く」というのは、桟道を行く際の目も眩む危うさを言っていよう。なお、底本は「相模」であるが、諸本はここを「相摸」とする(律令時代の公文書では「相摹」であるから正規表現は「相摸」ではある)。しかし私の校合した「源平盛衰記」は「相模」である。新全集は「相摸」だが、校訂表に変更したとする記載がない。そもそもが新全集は新字体を用いているのだから、ここだけ使用漢字にしたのだとしても実体全体のテクストとしては何ら意味を成さないと思うと言っておく。]

 

是、東海の蜀道にあらずや。惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私鬪に怯[やぶちゃん注:「けふ(きょう)」。]にして公戰に勇なる秦人を生めるが如く、革命の氣運既に熟して天下亂を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健兒を率ゐ、長驅、六波羅に迫れる旭日將軍の故鄕として、はた其事業の立脚地として、恥ぢざるの地勢を有したりと云ふべし。然り、彼が一世を空うする[やぶちゃん注:「むなしうする」。]の霸氣と、彼が旗下に投ぜる木曾の健兒とは、實に、木曾川の長流と木曾山脈の絕嶺とに擁せられたる、此二十里の大峽谷に養はれし也。然らば彼が家庭は如何。麻中の蓬をして直からしむものは、蓬邊の麻也。英雄の兒をして英雄の兒たらしむるものは其家庭也。是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴學ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三權頭兼遠の人物を想見せざる能はず。彼の義仲に於ける、猶北條四郞時政の賴朝に於ける如し。彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范增なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乘じて中原の鹿を爭はしめたるに於ては、遂に其歸趣を同くせずンばあらず。

[やぶちゃん注:「麻中の蓬をして直からしむものは、蓬邊の麻也」「麻中(まちゆう(まちゅう))の蓬(はう(ほう))をして直(なほ)からしむものは、蓬邊(はうへん)の麻(あさ)也(なり)」と読んでおく。「軟弱で曲がり易い蓬(よもぎ)のような草でも、真っ直ぐに伸びる習性を持った麻(あさ)の中に入って育てば、曲がらずに伸びる」、則ち、「人は善良な人と交われば自然に感化を受け、だれでも善人になる」という喩え。「荀子」の「巻第一 勧学篇第一」にある「蓬生麻中、不扶而直、白沙在涅、與之俱黑」(蓬(はう)も麻中に生ずれば扶(たす)けずして直(なほ)く、白沙も涅(どろ)に在れば、之れと俱(とも)に黑し)の前半部に基づく。

「ハミルカル」カルタゴの将軍ハミルカル・バルカ(Hamilcar Barca(s) 紀元前二七五年頃~紀元前二二八年)。ウィキの「ハミルカル・バルカ」によれば、『家族名のバルカはフェニキア語の「バラク』『(電光)」に由来』するとある。『第一次ポエニ戦争(紀元前二六四年~紀元前二四一年)の際』、『ローマ軍と戦い、シチリア島での戦いでは陸と海でローマ軍を挟みうちにし』て『ローマを苦しめたが、本国カルタゴが敗れ、ローマとの講和を余儀なくさせられた』。『ハミルカルにより約束されていた』傭兵らの『報酬は、大ハンノを中心とするカルタゴ政府内の反ハミルカル勢力により反故にされ、傭兵たちは反乱を起こしてしまう。危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前』二三七年、『ハミルカルは傭兵の反乱を鎮圧に成功する。これによりハミルカルのアフリカでの名声と影響力を世に知らしめる』。『反乱鎮圧の後、ハミルカルの影響は強まり、彼の政敵は日増しに力を増す彼に抗する事ができなかった。この名声を背景に彼は自分の軍隊を募る。軍には』『各地からの傭兵を集めて訓練を施し、ヒスパニアへ出征してカルタゴ政府からの干渉を受けない』、『自らの王国を築く事を決意する。新天地の開拓により、シチリア島を失ったカルタゴを支援できうると考えての行動であった。また遠征には息子ハンニバルも随行した。幼き日の息子ハンニバルを神殿に連れて行き、打倒ローマを誓わせた逸話は非常に有名』とある。

「ハンニバル」カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca 紀元前二四七年~紀元前一八三年又は紀元前一八二年)。ハミルカル・バルカの長子。ウィキの「ハンニバル」によれば、『第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた』。二千『年以上経た現在でも、その戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど、戦術家としての評価は非常に高い』とある。

「鄭家の奴」「ぢやうけのど」。後漢の学者鄭玄(じょうげん 一二七年~二〇〇年)の家の使用人。鄭玄は各地を遊学後、四十を過ぎて郷里高密(山東省)に帰った。清貧をよしとし、農耕しつつ、諸生に教授したという。その学徳を慕って来たり学んだ者は一千人に達した。権勢に近づかず、朝廷や貴戚の徴召を断って、ひたすら研究に専念した「純儒」で、漢代経学の集大成者であり、すこぶる業績に富む(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。五経の一つである「詩経(毛詩)」は現在、完全に伝わっているものは、毛氏の解釈にこの鄭玄が補注を加えた「毛伝鄭箋」だけである。

「乳人」「ちひと」。乳母。ここは乳母親の意。

「胄子」「ちゆうし(ちゅうし)」家督を継ぐことになっている子。後継ぎ。「胄」は「世継・血筋」の意。

「歸趣」物事が最終的に落ち着くこと。行き着くところ。「帰趨」に同じい。]

 

義仲が革命の旗を飜して檄を天下に傳へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」と叫びたりき。「立馬吳山第一峯」の野心、此短句に躍々たるを見るべし。始め、實盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本國の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大將軍ともなし奉らむ」と獨語したりき。彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老將たりしや知るべきのみ。年少氣鋭、不盡の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。彼が悍馬に鞭ちて[やぶちゃん注:「むちうちて」。]疾驅するや、彼が長弓を橫へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」と云へり。かゝる家門の歷史を有し、かゝる溪谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる靑雲の念を鼓動せしめたり。彼は實に木曾の健兒也。其一代の風雲を捲き起せるの壯心、其眞率にして自ら忍ぶ能はざるの血性[やぶちゃん注:「けつしやう」。]、其火の如くなる功名心、皆、此「上有橫河斷海之浮雲、下有衝波逆折之囘川」の木曾の高山幽壑の中に磅礴したる、家庭の感化の中より得來れるや、知るべきのみ。吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が如何なる人物にして、彼が雄志の那邊に向へるかは、吾人の解說を待つて之を知らざる也。

[やぶちゃん注:「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」「平家物語」巻第六の「義仲謀叛」の冒頭部の一節。

   *

そのころ、信濃國に、木曾の冠者(くわんじや)義仲といふ源氏ありと聞こえけり。これは故六条判官(はんぐわん)爲義が次男、帶刀(たてはき)の先生(せんじやう)義賢が子なり。父義賢は久壽二年八月十六日、武藏國大倉にて、甥の惡源太義平(あくげんだよしひら)がために誅せられたり。そのとき、義仲二歳なりけるを、母、泣く泣くいだいて、信濃に越えて、木曾の中三(ちゆうざう)兼遠がもとへ行き、

「いかにもしてこれを育て、人になして見せ給へ。」

と言ひければ、兼遠、請けとつて、かひがひしう二十餘年、養育す。

 やうやう人となるままに、力も世(よ)にすぐれて强く、心も並ぶ者なし。つねには、

「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや。」

と申しける。兼遠よろこんで、

「その料(れう)にこそ[やぶちゃん注:そのためにこそ。]、君(きみ)をばこの二十四年、養育申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿[やぶちゃん注:義家。]の御末(おんすゑ)とも思(おぼ)えさせ給へ。」

と申しければ、木曾、心、いとどたてくなつて、根の井の大彌太(おほやた)滋野(しげの)の幸親(ゆきちか)[やぶちゃん注:生年未詳で元暦元(一一八四)年没か。義仲四天王の一人。佐久郡根々井の住人。根井(ねのい)国親の子。「滋野」は氏(うじ)正確にはその庶流である望月氏の出。「保元の乱」では源義朝に従って活躍したとされる。この治承四年に信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い、各地に転戦したが、元暦元(一一八四)年一月二十日の「宇治川の戦い」で、子の楯親忠(たてのちかただ:義仲四天王の一人で行親の六男。義仲と父に従って「横田河原の戦い」や「倶利伽羅合戦」などに参戦し、活躍した)や源義広らとともに三百余騎で宇治の防衛に当たったが、二万五千騎の義経軍に突破された。この時、一族の武将らと前後して敗死したとされ、同年一月二十六日、義仲・今井兼平・高梨忠直らとともに東洞院の北にある獄門の木に梟首された。]をはじめとして、國中(こくちゆう)の兵(つはもの)をかたらふに、一人もそむくはなかりけり。上野國(かうづけのくに)には、故帯刀先生義賢のよしみによつて、那波(なは)の廣澄をはじめとして、多胡(たこ)の郡(こほり)の者ども、皆、從ひつく。

「平家、末(すゑ)になる折りを得て、源氏年來(ねんらい)の素懷をとげん。」

と欲す。

   *

「立馬吳山第一峯」金(一一一五年~一二三四年:中国北半を支配した女真族の王朝)のの太祖阿骨打(アクダ)の庶長子である遼王斡本(オベン)の次男で第四代皇帝となった。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。殺害後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから、「海陵王」と史称される。これは彼の詠じた七言絶句の結句。参照したウィキの「海陵王」によれば、『宗室の子である』ことから一一四〇年の奉国上将軍となったのを皮切りに宰相格の重職を歴任した。『堂々たる容貌であり、文官としても武将としても優れた才能を発揮し』たが、『一方で大いなる野心を抱い』ていた。一一四九年、『皇帝であった従兄の熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣ら』『と謀って熙宗を殺害し、自ら皇帝に即位した。即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という』三『つの夢を打ち明けている』。『金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った。その一方で、猜疑心が強く残忍な性格で』、『一一五二年には、皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗本)と烏帯(宗言)ら大叔父・太宗の子孫』七十『余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)』五十『余人など』、『金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清し』、『さらに、彼らの妻妾を奪取して後宮に入れ』ている。その後も残忍な粛清を続けた。一一六一年には周囲の反対を押し切って、『南宋に遠征した』が苦戦し、しかも『留守中の本国』では『海陵王の反対派が従弟に当たる葛王烏禄(世宗)を擁立し』、海陵王は『南征中の陣中で』『部下』『の軍隊によって殺害された』。詩は以下。南宋を征服せんとする意気込みを詠んだ一篇である。

   *

萬里車書一混同

江南豈有別疆封

提兵百萬西湖上

立馬吳山第一峰

 萬里の車書(しやしよ) 盡く混同

 江南 豈に 疆封(きやうほう)の別(べつ) 有らんや

 兵 百萬を提(す)ぶ 西湖の上(ほとり)

 馬を立てん 呉山(ござん)の第一峰

   *

訓読は漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩に拠った。御注も豊富なのでそちらを見られたい。

「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本國の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大將軍ともなし奉らむ」「孤」は「みなしご」。筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、これは「源平盛衰記」の「濃巻 第二十六」の一節であろう。但し、芥川龍之介はこれを斉藤別当実盛の心内語として以下も叙述しているが、そこでは、実盛の慫慂を受け、母が駒王丸を信濃に連れて来て、中原兼遠に保護を懇請した際の、兼遠の心内語である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(心内語は九行目から始まる)。読み易く書き換えて示す。芥川の引用とは一部異なるが、以下に示す通り、後には「これは平家を攻むべき手ならひ」もあるので、間違いない。なお、後の部分をかなり引いたが、そこの後に先に示した芥川龍之介の引用の「木曾と云ふ所は究竟の城廓なり……」の部分が直に続くのである。

   *

兼遠、

『哀れ。』

と思ひける上、

『此の人は正(まさ)しく八幡殿には四代の御孫(まご)なり。世の中の淵は瀨となる喩へもあり。今こそ孤子(みなしご)にて御座(おはし)ますとも、知らず、世の末には、日本國の武家の主とも成りやし給はん。如何樣(いかさま)にも養ひ立てて、北陸道の大將軍になし奉つて、世にあらん。』

と思ふ心有りければ、憑(たの)もしく請け取りて、木曾の山下と云ふ所に隱し置きて、二十餘年が間、育(はごく)み養ひけり。

 然(しか)るべき事にや、弓矢を取つて人に勝れ、心、甲(がふ)に、馬に乘りて能(よし)、保元・平治に、源氏、悉く亡びぬと聞こえしかば、木曾、七、八歲のをさな心に安からず思ひて、

『哀れ、家を討ち失うて世を取らばや。』と思ふ心あり。

『馬を馳せ、弓を射るも、是れは平家を責むべき手習ひ。』

とぞあてがひける。

 長大の後、兼遠に云ひけるは、

「我は孤(みなしご)なりけるを、和殿(わどの)の育(はご)くみに依つて成人せり。懸かるらよりなき身に、思ひ立つべき事ならねども、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を徐(よそ)に見るべきに非ず。平家を誅して世に立たばやと存ず、いかゞ有るべき。」

と問ふ。兼遠、ほくそ咲(ゑ)みて、

「殿を今まで育(やしな)ひ奉る本意(ほんい)、偏へに其の事にあり。憚り候ふ事なかれ、と云ひければ、其の後(のち)は、木曾、種々(しゆじゆ)の謀(はかりごと)を思ひ廻らして、京都へも度々忍び上(のぼ)つて伺ひけり。片山陰(かたやまかげ)に隱れ居て、人にもはかばかしく見知れられざりければ、常は六波羅邊(へん)にたゝずみ、伺ひけれども、平家の運、盡きざりける程は、本意を遂げざりけるに、高倉の宮の令旨を給はりけるより、今は憚るに及ばず、色に顯はれて謀叛を發(おこ)し、國中の兵を駈(か)り從へて、既に千萬騎に及べりと聞こゆ。[やぶちゃん注:以下略。というより、ここに芥川龍之介]

   *

「驥足」(きそく)「を伸べむ」「驥足を展ばす」「驥足」は「名馬の脚力」のこと。「一日に千里を走る駿馬が、さらに脚力を発揮して前進する」ことから、「優れた人物がその才能を十分に発揮する」ことの喩え。「三国志」の「蜀書」の「龐統(ほうとう)伝」に基づく。

「老將」「斯老」(しらう(しろう):かくも老練なる人物)孰れも前に注した通り、芥川龍之介は誤認した斉藤実盛を指して言っている。

「上有橫河斷海之浮雲、下有衝波逆折之囘川」李白の楽府題の「蜀道難」の一節に、

上有六龍囘日之高標

下有衝波逆折之囘川

 上には六龍(りくりよう)囘日(くわいじつ)の高標(かうへう)有り

 下には衝波(しようは)逆折の囘川(くわいせん)有り

訓読は漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩に拠った。その注に訳が示されてあり『上の方には、(太陽神というべき羲和が太陽を載せた)六匹の龍が挽(ひ)く車でも太陽を(載せて)迂回する高峰があり』とされた後、改訳されて、『上の方には、六頭立ての龍車に乗って運行する太陽でさえも道を譲らなければ高い山の峰があり』とあり、次の句は『下の方には、激しい真っ直ぐな流れの波に、逆方向に折れ曲がって流れる渦巻く川がある』とある。芥川龍之介のそれは、調べて見たところ、グーグルブックスの中文の「李白詩全集」の「蜀道難」に、この前の句が一本では、

上有橫河斷海之浮雲

とあるとあった。これだと、

 上には橫河(わうが)斷海(だんかい)の浮雲有り

で、「上野方には、大いなる黄河に悠々と相並んで大海をも断ち切って在る浮雲が流れ」といった謂いか。個人的には意味に於いて、比喩の河川が出て次句の実景のイメージとのダブりがあるそれより、知られた「上有六龍囘日之高標」の方が遙かによいと思う。

「幽壑」「いうがく(ゆうがく)」。奥深い渓谷。

「磅礴」「はうはく(ほうはく)」。「ぼうはく」(現代仮名遣)とも読む。ここは「広がり満ちること」の意。]

 

今や、跼天蹐地の孤兒は漸くに靑雲の念燃ゆるが如くなる靑年となれり。而して彼は滿腔の霸氣、欝勃として抑ふべからざると共に、短褐孤劍、飄然として天下に放浪したり。彼が此數年の放浪は、實に彼が活ける學問なりき。吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屢京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し。彼は、恐らく、此放浪によりて天下の大勢の眉端に迫れるを、最も切實に感じたるならむ。恐らくは又、其功名の念にして、更に幾斛[やぶちゃん注:「いくこく」。]の油を注がれたりしならむ。想ふ、彼が獨り京洛の路上に立ちて、平門の貴公子が琵琶を抱いて落花に對するを望める時、殿上の卿相が玉笛を吹いて春に和せるを仰げる時、はた入道相國が輦車を驅り、兵仗を從へ、儀衞堂々として、濶步せるを眺めし時、必ずや、彼は其胸中に幾度か我とつて代らむと叫びしなるべし。然り、彼が天下を狹しとするの雄心は、實に此放浪によつて、養はれたり。彼が靈火は刻一刻より燃え來れり。彼は屢、長劍を按じたり。然れども、彼は猶、機を窺うて動かざりき。將に是、池中の蛟龍が風雲の乘ずべきを待ちて、未立たざるもの、唯機會だにあらしめば、彼が鵬翼の扶搖を搏つて[やぶちゃん注:「うつて」。]上ること九萬里、靑天を負うて南を圖らむとする日の近きや知るべきのみ。思ふに、彼は、鹿ケ谷の密謀によりて、小松内府の薨去によりて、南都北嶺の反心によりて、平賊の命運、既に旦夕に迫れるを見、竊に莞爾として時の到らむとするを祝せしならむ。然り、機は來れり、バスチールを壞つ[やぶちゃん注:「こぼつ」。]べきの機は遂に來れり。天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に應じたり。而して、彼が傳家の白旗は、始めて木曾の山風に飜されたり。時に彼、年二十七歲、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を重ね、鍬形の兜に黃金づくりの太刀、鷗尻に佩き反らせたる、誠に皎として、玉樹の風前に臨むが如し。天下風[やぶちゃん注:「かぜ」。]を仰いで其旗下に集るもの、實に五萬餘人、根井大彌太行親は來れり、楯六郞親忠は來れり、野州の足利、甲州の武田、上州の那和、亦相次いで翕然として來り從ひ、革命軍の軍威隆々として大に振ふ。圖南の鵬翼既に成れり。是に於て、彼は戰鼓を打ち旌旗を連ね、威風堂々として、南信を出で、軍鋒の向ふ所枯朽を摧くが如く、治承四年九月五日、善光寺平の原野に、笠原平五賴直(平氏の黨)を擊つて大に破り、次いで鋒を轉じて上野に入り、同じき十月十三日、上野多胡の全郡を降し、上州の豪族をして、爭うて其大旗の下に參集せしめたり。是實に賴朝が富士川の大勝に先だつこと十日、かくの如くにして、彼は、殆ど全信州を其掌中に收め了れり。

[やぶちゃん注:「跼天蹐地「きよくてんせきち」。「詩経」の「小雅」の「正月」に基づくもので「天は高いにも拘わらず、背を縮めてしまい、地は厚いのに、抜き足差し足で歩くこと」を指し、転じて「肩身が狭く、世間に気兼ねしながら暮らすこと」の意。

「吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屢京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し」芥川龍之介が前段の注で私が引用した「源平盛衰記」の終りの方を参考にして述べていることが判然とする。

「輦車」「れんしや」。平安以来、特に大内裏の中を貴人を乗せて人力で引く車を指す。宮城門から宮門までの間を乗用した。大内裏外の交通は一般には牛車・乗馬で、ここで輦車を乗用するにはそのための「輦車の宣旨」が必要で、東宮以下、大臣を始め、大僧正が乗ることを許され、また女御や一部の更衣にも許された。輦車は、方形の屋形(やかた)に付属する轅(ながえ)の中央に車輪が附いたもので、数人の者が車の前後から轅を持って手で引き、運行させた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「兵仗」「ひやうぢやう(ひょうじょう)」武器を持った武官である随身(ずいじん)、及び内舎人(うどねり:文官であるが、武装して皇族らの雜役や警護に当たった。嘗つては五位以上の子弟から召したが、後には諸家の侍、特に源氏・平氏の中から選ばれた)などの称。

「儀衞」「ぎゑい」。天子や要人の警護をすること、及びその者。儀仗兵。

「鵬翼の扶搖を搏つて上ること九萬里、靑天を負うて南を圖らむ」知られた「荘子」の冒頭「逍遙游第一」の一節。

   *

窮髮之北有冥海者、天池也。有魚焉、其廣數千里、未有知其脩者、其名爲鯤、有鳥焉、其名爲鵬、背若太山、翼若垂天之雲、摶扶搖羊角而上者九萬里、絕雲氣、負靑天、然後圖南、且適南冥也、斥鷃笑之曰、「彼且奚適也。我騰躍而上、不過數仞而下、翱翔蓬蒿之間、此亦飛之至也、而彼且奚適也。」、此小大之辯也。

   *

窮髮の北[やぶちゃん注:極北の地。]に冥海有るは、天池なり。魚、有り、其の廣さ數千里、未だ其の脩(なが)さを知る者有らず、其の名を「鯤(こん)」と爲す。鳥、有り、其の名を「鵬」と爲す。背は太山のごとく、翼は垂天の雲のごとし。扶搖(ふえう)[やぶちゃん注:旋風(つむじかぜ)。]に摶(はねう)ち、羊角して[やぶちゃん注:羊の角のように激しい螺旋を描いて。]上(のぼ)る者(こと)九萬里、雲氣を絕(こ)え[やぶちゃん注:「超え」。]、靑天を負ひて、然る後に南を圖(はか)り、且(まさ)に南冥に適(ゆ)かんとするなり[やぶちゃん注:成層圏を突きぬけて大空を背負うと、そこで初めて南方を目指して、南の海の果てを目指して天翔(あまが)けんとするのである。]。斥鷃(せきあん:沢に住む雀に似た小鳥)之れを笑ひて曰はく、「彼、且に奚(いづ)くに適(ゆ)かんとするや。我れ、騰躍(とうやく)[やぶちゃん注:跳躍。]して上るも、數仞(すうじん)に過ぎずして下(お)ち、蓬蒿(はうこう)[やぶちゃん注:蓬の草叢。]の間に翱翔(こうしやう)す[やぶちゃん注:飛び回るんだ。]。此れも亦、飛ぶの至りなり[やぶちゃん注:これだって他の鳥に比べりゃ、大した飛び方なんだ。]。而るに、彼、且に奚くに適かんとするや。」と。此れ、小・大の辯(わかち)なり[やぶちゃん注:人の矮小なる知性では広大無辺な宇宙の真智は想像もつかない大きさであることを謂う。]。

「バスチールを壞つべきの機は遂に來れり」「フランス革命」の始まりとされる一七八九年七月十四日にフランス王国パリの民衆が、同市内の「バスティーユ牢獄」を襲撃した「バスティーユ監獄の襲撃」(prise de la Bastille)。王府がここに武器弾薬を多量に集積させていたのを奪取するためと、政治犯解放が目的であったが、実際には政治犯はおらず、騒擾の罪で収監されていた老人が七人いただけであったという。

「高倉宮の令旨」以仁王の令旨。彼の邸宅は三条高倉にあったことから、別に「高倉宮」と称された。

「紫裾濃の鎧」「むらさきすそご」鎧縅(よろいおどし)の一つ。全体に紫色であるが、上方は薄く、下方になるにつれて濃くなるように組んだ鎧。

「鷗尻」太刀の尻を有意に上へ反らせて佩くこと。水上の鷗の尾が上へ撥ね上がっている形に似るところからの呼び名。

「皎として」「かう(こう)として」。眩しく白く輝くようで。

「玉樹」美しい木だが、風姿の高潔な人の比喩に使うので、それを利かせたもの。

「根井大彌太行親」私の注で既出既注。

「楯」(たて)「六郞親忠」(ちかただ)は義仲四天王の一人で行親の六男。同前。

「上州の那和」筑摩書房全集類聚版注に、『那和太郎弘澄。藤原秀郷の子孫』とのみある。義仲マニ屋」の「木曽軍武将」に、『藤原姓足利氏』(これは確かに秀郷の後裔である)『淵名氏流。那波、名和とも。太郎。源義賢家人』とし、『上野国那波郡(淵名庄)に住した』。「保元の乱」に『源義朝方に那波太郎の名が見える(父の名だと思われる)』。但し、『父・秀弘、娘婿の大江政広も那波太郎を称しているので注意が必要』とする。『佐位氏(高山党)・桃井氏と交流があったと思われ、各氏と並び』、『横田河原合戦に参戦。木曽義仲が京を落ちる途中の六条河原合戦まで』、『近くに付き従っているが、その後』、『消息不明』とある。

「翕然」「きふぜん(きゅうぜん)」多くの対象が一つに集まり合うさま。

「南信」信州南部。

「善光寺平」長野盆地。

「笠原平五賴直(平氏の黨)」治承四(一一八〇)年九月七日に行われた「市原合戦」の義仲の相手。ウィキの「市原合戦」によれば、「善光寺裏合戦」とも呼ばれ、『史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。『平家に与する信濃の豪族・笠原平五頼直』(『中野市笠原が支配地域と考えられる』)『が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた』。『それを察した源氏方(信濃源氏の井上氏の一族)の村山七郎義直』『と栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で』『濃国水内郡市原』『付近で』『戦いが行われた』。『勝敗は中々決着せず、ついに日没に至』り、『矢が尽きて劣勢となった村山方は、源義仲に援軍を要請した。それに応じて大軍を率いて現れた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却し』、『越後の豪族・城氏の元へと逃げ込んだ』(「吾妻鏡」同日の条)。『このため』、『城資職』(じょうのながもと)『が源義仲軍の討滅を期して大軍を率いて信濃国に侵攻した。そして川中島への千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸に当たる横田城に布陣した』。これがその後の「横田河原の戦い」(後段で注する)へと『続くこととなった』とある。

「上野多胡」(たご)郡は現在の群馬県高崎市と藤岡市に相当する旧郡域。

 以下、底本では一行空け。ここでは二行空けた。]

 

 

革命軍の飛報、頻々として櫛の齒をひくが如し。東夷西戎、並び起り、三色旗は日一日より平安の都に近づかむとす。楚歌、蓬壺をめぐつて響かむの日遠きにあらず。紅燈綠酒の間に長夜の飮を恣にしたる平氏政府も、是に至つて遂に、震駭せざる能はざりき。如何に大狼狽したるよ。平治以來、螺鈿を鏤め金銀を裝ひ、時流の華奢を凝したる、馬鞍刀槍も、是唯泰平の裝飾のみ。一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ、之を以て波濤の如く迫り來る革命軍に當らむとす、豈朽索を以て六馬を馭するに類する事なきを得むや。今や平氏政府の周章は其極點に達したり。然れ共、入道相國の剛腸は猶猛然として將に仆れむとする平氏政府を挽囘せむと欲したり。彼は、東軍の南海を經て京師に向はむとするを聞き、軍を派して沿海を守らしめたり。彼は西海北陸兩道の糧馬を以て、東軍と戰はむと試みたり。彼が、困憊、衰殘の政府を提げて、驀然として來り迫る革命軍に應戰したるを見る、恰も、颶風の中に立てる參天の巨樹の如き槪あり。吾人思うて是に至る、遂に彼が苦衷を了せずンばあらず。關東に源兵衞佐あり、木曾に旭日將軍あり、而して京師に入道相國あり、三個の風雲兒にして各々手に唾して天下を賭す。眞に是れ、靑史に多く比を見ざるの偉觀也。しかも運命は飽く迄も平氏に無情なりき。平宗盛を主將とせる有力なる征東軍が羽檄を天下に傳へて、京師を發せむとするの前夜(養和元年閏二月一日)天乎命乎、入道相國は俄然として病めり。征東の軍是に期を失して發せず、越えて四日、病革りて[やぶちゃん注:「あらたまりて」。]祖龍遂に仆る。赤旗光無うして日色薄し、黃埃散漫として風徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]肅索、帶甲百萬、路に滿つれども往反の客、面に憂色あり。嗚呼、絕代の英雄兒はかくの如くにして逝けり。平門の柱石はかくの如くにして碎けたり。棟梁の材既になし、かくして誰か成功を百里の外に期するものぞ。見よ見よ西海の沒落は刻々眉端に迫れる也。

[やぶちゃん注:「三色旗」「フランス革命」に始まる現在のフランス国旗。ここでは源氏勢力による歴史的革命的趨勢を象徴的に言ったもの。

「楚歌」項羽の「四面楚歌」の故事。周縁に湧き起こる平氏打倒の兵鼓の雄叫びを比喩した。

「蓬壺」蓬萊山と方壺山(方丈山とも)。これに瀛洲を加え、古代中国に於ける東方渤海の果てにあるとされた仙人が住むとされた三神山。ここは禁中・内裏の比喩。

「紅燈綠酒」不夜城の華やかな灯明と緑色に澄んだ高級な美酒。歓楽と飽食に明け暮れること。

「一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ」「娘子軍」「ぢやうしぐん(じょうしぐん)」。武家であることを忘れて軟弱になった平氏に対する芥川龍之介の蔑笑的換喩。

「朽索」(きうさく(きゅうさく))」を以て六馬」(ろくば)「を馭するに類する」腐った縄で六頭の馬を操るようなこと。非常に困難で危険なことの喩え。「書経」の「五子之歌」に基づく。

「驀然」「ばくぜん」。まっしぐらに進むさま。俄かに起こるさま。

「颶風」「ぐふう」。暴風。台風。

「靑史」歴史。歴史書。記録。紙の無かった時代、青竹の札を炙ったものに文字を記したことに由る。

「羽檄」「うげき」。急ぎの徴兵の触れ文(ぶみ)。昔、中国で国家有事の際、急いで徴兵する場合などに用いた檄文は、木簡に書いて鳥の羽根を附け、急を要する意を示したことに由る。

「平宗盛」(久安三(一一四七)年~文治元年六月二十一日(一一八五年七月十九日)は清盛の三男。同腹の妹徳子が高倉天皇の中宮となったことから、重盛に次ぐ昇進をして仁安二(一一六七)年には公卿となり、治承元(一一七七)年には重盛の左大将と並んで、右大将となり、平氏の栄華を天下に誇った。同三年に重盛が亡くなってからは平氏長者としてその総帥となったが、同四年に以仁王の反乱が、続いて、東国で源氏の反乱が起きると、父清盛を説得して都を福原から戻し、翌年一月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、「墨俣川(すのまたがわ)の戦い」で東国軍を破った(墨俣川は現在は長良川の別称であるが、かつては木曾・長良・揖斐(いび)三川その他の中小河川が美濃国安八(あんぱち)郡墨俣(洲股)で合流して大河となり、濃尾の国境を成しており、軍事上の要衝として、度々、東西両勢力が接触する戦場となった。養和元(一一八一)年三月、頼朝の叔父源行家と頼朝の弟義円が率いる尾張・三河の軍勢と、平重衡以下の平氏軍が、この川を挟んで東西に対峙したが、平氏の先制夜襲により、源氏軍は惨敗を喫し、平氏方に久方ぶりの勝利を齎すとともに、これ以後、暫くの間は東海道方面の戦線は膠着状態に陥った)。清盛の死後は、後白河法皇の復活を認めつつ、反乱軍に対応したが、折からの飢饉に悩まされて畿内近国からの兵糧[やぶちゃん注:「ひやうらうまい(ひょうろうまい)」。]米の徴収もままならず、寿永元(一一八二)年に内大臣になるも、具体的な政治的な方針を示すことが出来ないまま、翌年四月に北陸に送った源義仲追討軍が惨敗し、遂に七月に「平家都落ち」となって、安徳天皇を擁し、西海に逃れた。その後、源氏の内紛もあって、勢力を盛り返したこともあったが、元暦元(一一八四)年の「一の谷の戦い」に続き、讃岐の屋島、長門の壇の浦と次々と敗れ、壇の浦で身を海に投じた。しかし、捕らえられて鎌倉に送還され、後、京都に送り返される途中で謀殺的に斬首された。「平家物語」は宗盛について厳しい評価を与え、無能で器量なし、としている。また、「源平盛衰記」は時子の実子ではないとの異説も載せている。ただ、兄重盛や弟知盛との対照性から、そうした役割を与えられた面が色濃く、実像は不明な部分が多いという。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、しかし私は芥川龍之介の評言の通り(次段参照)、平氏の中で唯一、彼を全くの無能にして存命をのみ求めた最下劣な人間としか思っていない。

「養和元年閏二月一日」現在、清盛の没日は養和元年閏二月四日(ユリウス暦一一八一年三月二十日/グレゴリオ暦換算三月二十七日)とされている。症状から見て、重度の熱性マラリアと推定される。

「天乎命乎」「てんかめいか」。天がかく判じて断罪したものか? 単に命数が尽きただけか? まあ、そのようにインク臭く採らず、三英雄揃い踏みのこの時ににして彼が逝ったことへの、芥川龍之介の限りない慨嘆の表現とした方がよかろう。

「赤旗光無うして日色薄し、黃埃散漫として風徒に肅索」これは白居易の「長恨歌」で玄宗の蒙塵の途上、馬嵬坡で楊貴妃が縊り殺されたシークエンスの直後の部分、

黃埃散漫風蕭索

雲棧縈紆登劍閣

峨嵋山下少人行

旌旗無光日色薄

 黃埃(かうあい) 散漫 風 蕭索

 雲棧(うんさん)縈紆(えいう) 劍閣を登る

 蛾媚山下 人 行くこと 少(まれ)に

 旌旗(せいき) 光 無く 日色薄し

を真似たものである。私もこの詩なら、十七歳の時に暗誦したものだったし、このシークエンスは飛びっきりに好きなところだった。やっと自分の年齢と一致する場面に遭遇した感じがした。]

 

入道相國逝いて宗盛次いで立つ。然れども彼は不肖の子なりき。彼は經世的手腕と眼孔とに於ては殆ど乃父[やぶちゃん注:「だいふ」。]淨海の足下にも及ぶ能はざりき。彼は興福東大兩寺の莊園を還附し、宣旨を以て三十五ケ國に諜し興福寺の修造を命ぜしめしが如き、佛に佞し[やぶちゃん注:「ねいし」]僧に諛ひ[やぶちゃん注:「へつらひ」。]、平門の威武を墜さしむる、是より大なるは非ず。彼は直覺的烱眼に於ては乃父に劣る事遠く、天下の大機を平正穩當の間に補綴し、人をして其然るを覺えずして然らしむる、活滑なる器度に於ては、重盛に及ばず。懸軍萬里、計を帷幄の中にめぐらし、勝を千里の外に決する將略に於ては我義仲に比肩する能はず。しかも猶、其不學、無術を以て、天下の革命軍に對せむとす。是、赤手を以て江河を支ふるの難きよりも、難き也。泰山既に倒れ豎子台鼎の重位に上る、革命軍の意氣は愈昂れり[やぶちゃん注:「たかまれり」。]。しかも、此時に於て平氏に致命の打擊を與へたるは、實に其財政難なりき。平家物語の著者をして「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」と、驚歎せしめたる一門の榮華は、遂に平氏の命數をして、幾年の短きに迫らしめたり。夫[やぶちゃん注:「それ」。]水蹙れば[やぶちゃん注:せばまれば」。]魚益躍る。是に於て平氏は、恰も傷きたる猪の如く、無二無三に過重なる收斂を以て、此窮境を脫せむと欲したり。平氏が使者を伊勢の神三郡に遣りて、兵糧米を、充課したるが如き、はた、平貞能の九州に下りて、徭を重うし、賦を繁うし、四方の怨嗟を招きしが如き、是、平氏の財力の既に窮したるを表すものにあらずや。あゝ大絃急なれば小絃絕ゆ、さらぬだに、凶年と兵亂とに苦める天下の蒼生は、今や彼等が倒懸の苦楚に堪ふる能はず、齊しく立つて平氏を呪ひ、平氏を罵り、平氏に反き、空拳を以て彼等が軛[やぶちゃん注:「くびき」。]を脫せむと試みしなり。是に於て、靄の如く天下を蔽へる蒼生は、不平の忽にして、革命軍の成功を期待するの、盛なる聲援の叫となれり。しかも此危險に際して、猶諸國に命じて南都の兩寺を修せしめしが如き、傘張法橋の豚犬兒が、愚なる政策は、此聲援をして更に幾倍の大を加へしめたり。入道相國逝いて未三歲ならず、胡馬洛陽に嘶き、天日西海に沒せる、豈宜ならずとせむや。

[やぶちゃん注:「懸軍萬里」(けんぐんばんり)は軍隊の一部が本隊と遠く離れて進軍するさま、軍隊の一部が本隊と連絡が取れないままに敵地の奥に入り込んで行くさまを謂う。但し、ここはフラットな意味で、前線部隊と遠く離れていても、的確な戦術・戦略を立て、それを指揮出来る才能を指している。

「赤手を以て江河を支ふる」素手で長江と黄河の流れを支える。

「台鼎」(たいてい)「の重位に上る」「台鼎」は天皇を補佐する太政大臣・左大臣・右大臣の総称。前に注した通り、宗盛は三十六歳で寿永元(一一八二)年十月三日に内大臣にはなっている。しかし、但し、これは令外官の一つで左大臣・右大臣に次ぐ官職でしかなく、太政大臣・左右大臣の「三公」を「三台星」と呼ぶのに対し、「かげなびく星」とも呼ばれる、本来は左大臣及び右大臣の両人が欠員の場合や、何らかの事情のために出仕不能の場合に、代理として政務・儀式を司った役職であって、「重職」ではあるが、「台鼎」ではない。

「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」「平家物語」巻第一の「我が身の榮華」の掉尾の一文。

   *

日本秋津嶋(につぽんあきつしま)は纔(わづか)に六十六箇國、平家知行(ちぎやう)の國(くに)三十餘箇國、既に半國に超えたり。その外、莊園・田畠(でんばく)、いくらといふ數(かず)を知らず。綺羅(きら)[やぶちゃん注:華麗なる衣装。]、充滿して、堂上(たうしやう)花(はな)の如し。軒騎(けんき)[やぶちゃん注:車馬。]、郡集(くんじゆ)して、門前、市(いち)をなす。楊州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、吳郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、七珍萬寶(しつちんまんぼう)、一つとして闕(か)けたる事なし。歌堂舞閣(かたうぶかく)の基(もとゐ)、魚龍爵馬(ぎよりようしやくば)の翫(もてあそび)もの、恐らくは帝闕(ていけつ)も仙洞(せんとう)も[やぶちゃん注:宮城も、上皇の御所も。]、是れにはす過ぎじとぞ見えし。

   *

「伊勢の神三郡」(しんさんぐん)伊勢神宮では古くから伊勢国多気郡と度会郡を神領として寄せられていたが、後に飯野郡を加えて特にこれを神三郡と称した。伊勢神宮を中心に志摩半島の根の部分の南北広域に当たる。

「平貞能」(さだよし 生没年不詳)は平氏家人(けにん)の武将。清盛の「専一腹心者」とされ、政所家令を務め、筑前・肥後守などの受領を歴任。「保元の乱」「平治の乱」に参戦し、源平争乱では侍大将として近江・美濃の追討に従事した後、養和元(一一八一)年には肥後の菊池隆直らの反乱の鎮圧に当たり、平定に成功した。寿永二(一一八三)年、九州の兵を率いて上洛したが、義仲の入洛によって一門とともに都落ちした。その際、貞能は一旦、再入洛し、平重盛の墓に詣でたという。彼は平氏一門の太宰府から屋島への脱出には従わず、出家し、平資盛とともに豊後の武士に捕らえられたともされる。文治元(一一八五)年、宇都宮朝綱を頼って源頼朝に降伏し、助命されて朝綱に預けられたが、その後の消息は不明。貞能は重盛やその子息たちと密接な関係を持ち、西走後の独自の行動も一門内で孤立した重盛の子の資盛らの立場と関係していたという(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「徭」公民に賦課した税としての労役。これが出ているので、後の「賦」は狭義の物品による賦課税。

「大絃急なれば小絃絕ゆ」琴や琵琶などの弦を張る際、太い弦を強く懸ければ、小弦は切れてしまうことから、「民を治めるには寛容が大切であり、過酷な政治を行なえば、民を疲れさせ、国を滅ぼす元となるだけである」という喩え。

「倒懸の苦楚」「たいけんのくそ」。「倒懸」は、人の手足を縛って逆さまに吊るすことで、「苦楚」は苦痛(この「楚」は「打つ・痛む」の意)。そのような非常な苦しみの喩え。

「傘張法橋の豚犬兒」「源平盛衰記」の「衛巻 第四十三」の「知盛船掃除附(つけたり)海鹿(いるか)を占ふ竝(ならびに)宗盛取替子事」には「壇ノ浦の戦い」の終りに醜態を晒す息子を見た時子が「宗盛は清盛と自分の子ではない」と言い、「清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えた」と驚天動地の述懐をするシーンがある。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像。右ページの六行目から)に出る。

   *

二位殿は今を限りにこそと聞き給ひければ、

「宗盛は入道大相國の子にも非ず、又、我が子にもなし。されば小松内府(だいふ)が心にも似ず、思ひおくれたるぞとよ、海に入り、自害などもせで、虜(いけどら)れて憂き目などをや見(み)んずらん、心憂くこそ覺れ。」

とぞ宣ひける。宗盛、入道の子に成りける故は、二位殿、重盛を嫡子に儲けて後、又、懷姙したりけるに、入道、

「弓矢取る身は男子(なんし)こそ寶よ、嫡子に一人あれば心苦し、必ず弟儲けて給へ、とぎにせさせん。」[やぶちゃん注:最後は「一生、可愛がってやるから」の謂いか。]

と云ふ。二位殿、斜(なの)めならず、佛神(ぶつじん)に祈り申し、月、滿(まん)じて生れたれば、女子(によし)なり。

「音(こゑ)なせそ。如何がせん。

とて、方々(はうばう)、取り替へ子を尋ねける程に、淸水寺の北の坂に、唐笠(からかさ)を張りて商ふ僧あり。憖(なまじひ)に僧綱(そうがう)[やぶちゃん注:僧官と僧位の総称。僧正・僧都・律師と及び法印・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)。]に成りたりければ、異名(いみやう)に「唐笠法橋(からかさほつけう)」と云ひける者が許(もと)に、男子を產みたりけるに取り替つゝ、入道に男子儲けたる由、告げたれば、大に悅こんで、產所(さんしよ)もはてざりけれども、嬉しさには穢(きたな)き事も忘れて、女房の許に行き、

「あゝ、目出たし、目出たし。」

とぞ悅び給ひける。入道、世に有りし程は、露(つゆ)の言葉にも出だし給はず、檀の浦にてぞ、初めて角(かく)語り給ひける。

   *

無論、これは「源平盛衰記」にのみ出る話で、同書の作者の悪趣味な創作に過ぎぬであろう。ウィキの「大原御幸」の「畜生道について」にも、「源平盛衰記」は他にも、『徳子と宗盛の姦淫を都落ち以前にまで遡及させ、安徳天皇を宗盛の子としたり、徳子と義経の姦淫もあったと記す。これらは他本にはなく』、同書の『加筆と判断して間違いない』。「源平盛衰記」は『荒唐無稽な話を多く挿入し、全体的に暴露趣味・露悪趣味といった傾向がある。零落した元中宮・国母に対して卑俗な視線を注いだ編者がいたことを示すものといえる』とある。

「胡馬洛陽に嘶き」古く中国で北・西方の未開民族を「胡」と呼び、名馬を産した。ここは反平氏軍が京へと陸続と進撃してくるさまを指す。

 以下一行空け。ここでは二行空けた。]

 

 

吾人をして、再、我木曾義仲に、かへらしめよ。天下を麾いで[やぶちゃん注:「さしまねいで」。]既にルビコンを渡れる彼は、養和元年六月、越後の住人、城四郞長茂が率ゐる六萬の平軍と、橫田川を隔てて相對しぬ。俊才、囊中の錐の如き彼は、直に部將井上九郞光盛をして赤旗を立てて前ましめ[やぶちゃん注:「すすましめ」。]、彼自らは河を濟り[やぶちゃん注:「わたり」。]、戰鼓をうつて戰を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乘じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾擊せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり。是實に、淮陰侯が、井陘に成安君を破れるの妙策、錐は遂に悉く穎脫し了れる也。越えて八月、宗盛、革命軍の軍鋒、竹を破るが如きを聞き、倉皇として北陸道追討の宣旨を請ひ、中宮亮平通盛、但馬守平經正等を主將とせる征北軍を組織し、彼が奔流の如き南下を妨げしめたり。然れども、九月通盛等の軍、彼と戰つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも[やぶちゃん注:「ふせぎしも」。]遂に支ふる能はず、首尾斷絕して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の耻を免るゝを得たり。是に於て、革命軍の武威、遠く上野、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前を風靡し、七州の豪傑、嘯集して其旗下に投じ、劍槊霜の如くにして介馬數萬、意氣堂々として已に平氏政府を呑めり。薄倖の孤兒、木曾の野人、旭將軍義仲の得意や、知るべき也。北陸既に定まり、兵甲既に足る。彼は速に、遠馭長駕、江河の堤を決するが如き勢を以て京師に侵入せむと欲したり。而して大牙[やぶちゃん注:「たいが」。]未南に向はざるに先だち、恰も關八州を席の如く卷き將に東海道を西進せむとしたる源兵衞佐賴朝によつて送られたる一封の書簡は、彼の征南をして止めしめたり。書に曰、

[やぶちゃん注:「ルビコン」ルビコン川(ラテン語:Rubico:ルビコー)は、共和政ローマ末期にイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界になっていた川。ローマ内戦開戦時、ユリウス・カエサル(シーザー)が元老院の命令を犯して紀元前四十九年、「賽(さい)は投げられた」と叫んで、この川を渡ってローマに進軍、ポンペイウスを追放して政権を握った。

「養和元年六月」一一八一年。鎌倉方では治承五年。

「城四郞長茂」城長茂(じょうのながもち 仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)初諱は助茂(すけもち)或いは助職(すけもと)で後に長茂に改称した。ウィキの「城長茂」によれば、『越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟』。治承五年二月、『平氏政権より』、『信濃で挙兵した木曾義仲追討の命を受けていた兄の資永が急死したため、急遽、助茂が家督を継ぎ、この頃、「長茂」と改称した』。『同年』六『月、惣領家の平清盛の命を受けて信濃に出兵した。長茂は同族の平家から絶大な期待を寄せられていたが、長茂は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく』、一『万の大軍を率いていながら』、三千『ほどの義仲軍の前に大敗した(これが以下に示す「横田河原の戦い」である)。『その直後、長茂は奥州会津へ入るが』、『奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる』。同年八月十五日、『惣領家の平宗盛による義仲への牽制として越後守に任じられ』たが、『都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している』。『しかし越後守となるも』、『長茂は国衙を握る事は出来』ず、寿永二(一一八三)年七月の『平家都落ちと同時に越後守も罷免された』。『その後の経歴はほとんどわかっていないが』、元暦二(一一八五)年に『平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる』。後、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」で、『景時の仲介により』、『従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた』。『頼朝の死後』、「梶原景時の変」(正治元(一一九九)年十月二十五日~正治二年一月二十日)で『庇護者であった景時が滅ぼされると』、一『年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げ』、正治三(一二〇一)年、『軍を率いて景時糾弾の首謀者の』一『人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた』(「建仁の乱」)。享年五十であった。『身長は七尺(約二メートル十二センチ)の大男であったという』とある。

「城四郞長茂が率ゐる六萬の平軍と、橫田川を隔てて相對しぬ」「横田河原の戦い」。なお、「平家物語」(巻第六「城の四郎官途」)では寿永元(一一八二)年九月十一日とし、「吾妻鏡」も同年十月九日として載せるが、孰れも誤り。「吾妻鏡」は後年に編集した際、一部で「平家物語」を始めとした語り物系の記載を参考資料としたことによる誤謬と思われる。治承五(一一八一)年六月のこととして「玉葉」に記されているのが正しい(「源平盛衰記」は「於 巻第二十七」の「信濃横田川原軍(いくさ)の事」で正しく治承五年六月(二十五日と日付まで入れる)とするが、痛いことにそこでは城助茂を「資職」「後には資永と改名す」という兄の名と混同する痛い誤りをしてしまっている(国立国会図書館デジタルコレクションのこちら)。以下、ウィキの「横田河原の戦い」を引く。『信濃で挙兵した源義仲らの諸源氏に対して平氏方の越後の城助職が攻め込んで発生した戦い』。治承四(一一八〇)年九月『頃には源(木曾)義仲、源(岡田)親義、井上光盛などの信濃の源氏が以仁王の令旨を報じて挙兵した。これを受けて市原(現長野市若里市村)の渡し付近で平氏方の笠原氏と源氏方の村山氏や栗田氏との間で前哨戦があったが』、『決着が付かなかった』(「市原合戦」)。『それに対して、平氏は信濃に隣接する越後の実力者城助職をもって対抗させようとし』、翌治承五(一一八一)年六月、『城助職は大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣する。それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)を集結して北上』、六月十三日、『横田河原において両者が激突する。その際、千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河接近し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという井上光盛の奇策が功を奏した』(ここを芥川龍之介は詳述している)。『また』、『越後軍には長旅の疲れや油断もあって』九千『騎余が討たれたり逃げ去り、兵力では城軍に遥かに劣る信濃勢が勝利を収め』た(「平家物語」でも城・平家方の軍勢は四万余騎で、芥川龍之介の「六萬」というのは先に引いた「源平盛衰記」の記載に拠ったものと思われる。ここまで読んでくると、芥川龍之介は我々の馴染んでいる「平家物語」諸本ではなく、多くを「源平盛衰記」の叙述に基づいて記していることが判然としてくるのである)。『助職は負傷して』三百『騎ばかりで越後に逃げ帰るが』、『敗戦後は離反者が相次ぎ、奥州会津へと撤退することを余儀なくされる。その後、助職は会津にて奥州藤原氏の攻撃を受けそこも撤退させられ、一連の戦いの後、城氏は一時』、『没落を余儀なくされ』た。『一方』、『勝利を収めた義仲は越後国府に入り、越後の実権を握る。この信濃勢の勝利の後、若狭、越前などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発になり』、『義仲は後に倶利伽羅峠の大勝を得て』、『北陸を制覇する基盤を獲得することになる』。『また、平氏は北陸の味方を失い』、この『治承・寿永の乱で不利な立場に立たされることとなった』とある。

「囊中の錐」「なうちゆう(のうちゅう)のきり」。袋の中の錐は、その先が袋の外に突き出るところから、「勝れた人は多くの人の中にいても、その才能が自然に外に現れて目立つこと」の喩え。錐の嚢中に処(お)るが若(ごと)し。「史記」の「平原君伝」の「夫賢士之處世也、譬若錐之處囊中、其末立見」(夫(そ)れ、賢士の世に處(を)るや、譬へば錐の嚢中に處るがごとく、其の末(すゑ)立(たちどこる)に見(あら)はる)に基づく。

「井上九郞光盛」(?~元暦元(一一八四)年)信濃国高井郡保科を発祥とする土豪保科党を率いた。頼季流清和源氏で信濃源氏の代表格とされる。「横田河原の戦い」の後は義仲の上洛には従軍せず、源頼朝に従ったらしいが、甲斐源氏の一条忠頼(?~暦元(一一八四)年:「一 平氏政府」で既注)されたとともに頼朝に危険視され、駿河国蒲原(かんばら)駅(現在の静岡県静岡市清水区蒲原)で誅殺された。「吾妻鏡」元暦元(一一八四)年七月十日の条に、

   *

十日。丙申。今日。井上太郎光盛於駿河國蒲原驛被誅。是依有同意于忠賴之聞也。光盛日來在京之間。吉香船越輩含兼日嚴命。相待下向之期。討取之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

丙申。今日、井上太郎光盛、駿河國蒲原驛に於て誅せらる。是れ、忠賴に同意するの聞え有るに依つてなり。光盛、日來(ひごろ)、在京の間、吉香(きつか)・船越(ふなこし)の輩(やから)、兼日の嚴命を含み[やぶちゃん注:既に兼ねてより幕府からの誅殺の厳命を受けていたことから。]、下向の期を相ひ待ち、之れを討ち取ると云々。

   *

とある。「吉香・船越」は地名及び当地の豪族。前者は現在の静岡県静岡市清水区吉川(きっかわ)、後者は同清水区船越。

「赤旗を立てて前ましめ、彼自らは河を濟り、戰鼓をうつて戰を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乘じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾擊せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり」先の「源平盛衰記」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。左ページの最終行から次のコマへと進まれたい。但し、そこでは名が『井上九郞光基(みつもと)』となっている。

「淮陰侯」前漢の高祖劉邦の勇将韓信(?~紀元前一九六年)。当初、項梁・項羽に従ったが重用されず、高祖の軍に寝返り、蕭何(しょうか)の推薦によって大将となった。戦略に勝れ、高祖の覇業は彼の献策や戦績に負うところが多い。初め斉王に封ぜられたが、漢の統一後は異姓諸侯王圧迫策のために楚王に移され、次いで淮陰侯に左遷され、後、反逆の疑いで呂后(りょこう)に処刑された。

「井陘に成安君を破れるの妙策」「井陘(せいけい)の戦い」のこと。ウィキの「井陘の戦い」を引く。『楚漢戦争の中で漢軍と趙軍とが井陘(現在の河北省石家荘市井陘県)にて激突した戦い。韓信と常山王張耳ら率いる漢軍が背水の陣という独創的な戦術を使って趙軍を打ち破った』。『劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏を降し、代を降して趙へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった』。『一方、趙は趙王歇』『と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわり』、『これを却下した』。『陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。ただ外交面で考えれば、漢と楚、当時の二大強国のどちらとも敵対的だった趙としては、攻めさせない必要が高かったので妥当な判断でもある』。『韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められれば』、『ひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った』。『そして、傅寛』(ふかん)、『張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また』、『兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった』。『井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し』、『城壁を築いた』。「尉繚子天官編」には『「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうと』、『ほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった』。『韓信は初め』、『迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった』。『趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね』、『被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのであ』った。『大量にはためく漢の旗を見て』、『趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり』、『敗れた』。『陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水』(ちすい)『で処刑され、逃亡した趙王歇も襄国(現在の河北省邢台市邢台県)で処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従い』、『燕を労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」』(「史記」の「淮陰侯列伝」)『という言葉は有名である』。『後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸や曹沬』(そうばつ:魯の荘公に仕えた将軍。身分の低い出であったが、戦術に長けた)『のように勇戦力闘する)」』(「孫子」の「九地篇」)『と答えている。これが背水の陣である』。『現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなく』、『わざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落として最終的に勝つための方策も行っているのである』。『城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければ』、『さすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう』。『これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち』、『情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである』。「背水の陣」の故事は十四『世紀まで日本では無名であったが、文学作品として初めて、「太平記」が『物語に取り入れたという』。「太平記」巻第十九の、「青野原の戦い」(延元三/暦応元(一三三八)年一月)で、『後醍醐天皇方北畠顕家に足利方が負けると、婆娑羅大名として名高い佐々木道誉らが足利方へ援軍に来たが、その』時、『道誉の進言で黒地川(黒血川)を背にして背水の陣を敷いたのが、日本の戦史上における初見である』。『ただし、これは文学作品的な誇張表現であって、黒地川を背に陣取ったのは地形的な必然で、歴史的事実としては「背水の陣」という故事を意識して敷くほど足利方が劣勢にあったわけではないようである』。『その後、伊勢宗瑞(北条早雲)や吉川元春を始めとする戦国武将が』「太平記」の『研究に励み、同書が戦国時代の戦術に影響を与えたのは周知の通りである』とある。

「穎脫」「えいだつ」。才智が人より抜きん出ること。「穎」は稲の穂先に突き出る尖った芒(のぎ)のこと。

「倉皇」「さうくわう(そうこう)」。「蒼惶」とも書く。慌てふためくさま。慌ただしいさま。

「平通盛」(みちもり 久寿二(一一五五)年頃?~元暦元(一一八四)年)は清盛の異母弟教盛の嫡男。弟に猛将教経がいる。「一の谷の合戦」で討死した。「平家物語」では治承四(一一八〇)年の南都攻撃では副将軍、寿永二(一一八三)年の北国追討には大将軍として発向、都落ち直前には宇治橋を固め、都落ち以後も西国で戦うさまが描かれている。また、愛人小宰相があとを追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。ふたりの恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「平經正」(?~寿永三(一一八四)年)清盛の異母弟経盛の長男。かの敦盛の兄。和歌・琵琶に秀でた。若年で仁和寺宮守覚法親王に師事し、親王秘蔵の琵琶「青山」を賜わった。寿永二(一一八三)年の平家一門の都落ちに際しては、名器「青山」が戦乱で喪失するのを虞れ、仁和寺宮を訪れて返却し、別れに数曲を弾いたところ、聴く者の涙を誘ったという。翌年、「一ノ谷の戦い」に敗れ、自刃した(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「九月通盛等の軍、彼と戰つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも遂に支ふる能はず、首尾斷絕して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の耻を免るゝを得たり」養和元(一一八一)年九月、追討軍の将通盛は越前国国府にいたが、同国には賊徒が乱入して各地に放火、彼が京へ「国中が従わない状態になっている」と報告した直後、越前国水津(すいづ:現在の福井県敦賀市杉津(すいづ))で義仲の軍(厳密には先陣していた根井太郎行親の軍)と戦い、敗退、国府を放棄して津留賀城(金ケ崎城。別名敦賀城であるが、戦国期の敦賀城とは異なる山城。ここが遺跡(グーグル・マップ・データ)。所謂後の「敦賀城」の東北一・六キロメートル位置にあった)へ退却した。彼はそこで京に援軍を求め、平教経・行盛らが送られることが決まったが、支えきれなくなった通盛は城を放棄して山林を敗走、十一月になってやっと帰京を果たした。これを以って北陸道は義仲に制圧されてしまったのである。寧ろ、この事実は「敗滅」ならざる敗走の「耻」と謂うべきであろう。

「嘯集」「せうしふ(しょうしゅう)」。人々を呼び集めること。

「劍槊」「けんさく」。剣と矛。

「介馬」「かいば」。馬鎧を装着した兵馬。

「書に曰」これは「源平盛衰記」の「俱巻 第二十八」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右ページの三行目以降)。

 以下「誅し奉るべし。」までは、底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

平家朝威を背き奉り、佛法を亡すによりて、源家同姓のともがらに仰せて、速に追討すべき由、院宣を下され了ンぬ。尤も夜を以て日についで、逆臣を討ちて、宸襟をやすめ奉るべきのところ、十郞藏人私[やぶちゃん注:「くらうど」、「わたくし」。]のむほんを起し、賴朝追討の企ありと聞ゆ。然るをかの人に同心して扶持し置かるゝの條、且は一門不合[やぶちゃん注:「ふがふ」。]、且は平家のあざけりなり。但、御所存をわきまへず、もし異なること仔細なくば、速に藏人を出さるゝか、それさもなくば、淸水殿(義仲の子淸水冠者義高)をこれへ渡し玉へ、父子の義をなし奉るべし。兩條の内一も、承認なくンば、兵をさしつかはして、誅し奉るべし。

[やぶちゃん注:先のリンク先の本文と比べても大きな異同はない。言わずもがなであるが『(義仲の子淸水冠者義高)』は芥川龍之介による附注である。

「十郞藏人」(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三)年頃~文治二(一一八六)年:頼朝より六~七歳年上)源為義の十男。義朝の弟で頼朝の叔父。「保元の乱」に敗れて父が殺されると熊野に潜み続け、治承四(一一八〇)年、源頼政の召に応じて名を行家と改め、以仁王の令旨を東国の源氏に伝えた。養和元(一一八一)年、美濃に拠って、平重衡らと墨俣川で戦ったが、敗れ、既に鎌倉にあった頼朝を頼って所領を求めたが、拒まれたため、信濃の源義仲と結んだ。寿永二(一一八三)年七月、義仲とともに入京し、後白河法皇に拝謁して従五位下備前守となった。後、義仲とも対立し、紀伊に退いた。平氏滅亡後は、今度は頼朝と対立した義経に協力し、頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられた。しかし、頼朝に追われ、隠れ住んだ和泉で捕まり殺された(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「淸水殿(義仲の子淸水冠者義高)」源義高(承安三(一一七三)年?~元暦元(一一八四)年四月二十六日(ユリウス暦六月六日/グレゴリオ暦換算六月十三日))は義仲の長男。母は今井兼平の娘。寿永二(一一八三)年、ここに示された通り、父と頼朝の和睦のため、頼朝の長女大姫(治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)と婚約、鎌倉に入った。しかし翌年、父が討たれ、自分も殺害されることを知り、大姫とその侍女及び近習らの手引き(蔭で頼朝の妻政子も黙認していたものと私は信ずる)によって四月二十二日(元暦元(一一八四)年。寿永三年は四月十六日に改元されている)の未明、鎌倉を脱出したが、四日後、武蔵入間川の河原で、頼朝の命を受けた討手によって殺された。当時、僅か十二歳前後であった。この討手は流人時代からの頼朝の直参の家来である堀藤次(ほりのとうじ)親家の郎党藤内(とうない)光澄であったが、大姫はこれを知って半狂乱となり、水も飲まなくなって様態が悪化した。これに政子が頼朝に激怒し、驚くべきことに頼朝は仕方なく光澄を晒し首にしているのである(これが私の義高逃走不作為犯の政子共犯説の一証である)。大姫は当時僅か六歳であったが(誕生を溯らせて九歳とする新説もある)、これによって重度の PTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)と思われる症状を発症し、激しい抑鬱状態が生涯、続いた。後の縁談も拒み、後鳥羽天皇への入内も持ち上がったが、実現することなく、僅か二十歳で夭折した。私が鎌倉史の中で一番に挙げる悲恋である。私の「北條九代記 木曾義仲上洛 付(つけたり) 平家都落」及び「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」で詳しい注(特に後者では事件の子細を記す「吾妻鏡」の電子化もしてある)を附してあるので、是非、読まれたい。

 

是、實に彼にとりては不慮の云ひがかりなりし也。蓋し、賴朝の彼に平ならざる所以は、啻に、賴朝と和せずして去りたる十郞藏人行家が、彼の陣中に投じたるが爲のみにあらざりき。始め、賴朝の關八州をうちて一丸と爲さむとするや、常陸の住人信太三郞先生義廣、獨り、膝を屈して彼の足下に九拜するを潔しとせず、走つて義仲の軍に投じぬ。「爲人不忍」の彼は、義廣の枯魚の如くなる落魄を見るに堪へず、喜ンで彼をして其旗下に止らしめたり[やぶちゃん注:「とどまらしめたり」。]。是實に賴朝の憤れる所なりき。しかも義仲、已に霸を北陸に稱す、汗馬刀槍、其掌中にあり、鐵騎甲兵、其令下にあり。彼にして一たび野心を挾まむ乎、帶甲百萬、鼙鼓を擊つて鎌倉に向はむの日遠きにあらず、是實に賴朝の畏れたる所なりき。加ふるに義仲と快からざる、武田信光が、好機逸すべからずとして、彼を賴朝に讒したるに於てをや。三分の恐怖と七分の憤怨とを抱ける賴朝は、是に於て、怫然として書を彼に飛ばしたり。而して自ら十萬の逞兵を率ゐて碓日を越え、馬首東を指して彼と雌雄を決せむと試みたり。今やかくの如くにして、革命軍の双星は、戟を橫へて茫漠たる信の山川に其勇を競はむとす、天下の大勢は彼が一言に關れり。彼は直に諸將を集めて問へり。「戰はむ乎否乎」と、諸將躍然として答へて曰「願くは戰はむ」と、彼、默然たり。諸將再切齒して曰「願くは、臣等の碧蹄、八州の草を蹂躙せむ」と、然れども、彼は猶答へざりき。彼は遂に情の人也。彼は、戈を逆にして一門の血を流さむには、餘りに人がよすぎたり。彼は此無法なる云ひがかりに對しても、猶、賴朝を骨肉として遇したり。而して彼は、遂に義高を送りて、賴朝の怒を和め[やぶちゃん注:「なごめ」。]たりき。然り、彼は遂に情の人也。彼は、行家義廣等の窮鳥を獵夫の手に委すに忍びざりき。彼は豆を煮るに、豆莢を燃やすを欲せざりき。彼は兒女の情を有したり。彼は行路の人に忍びざる情を有したり。あゝ「如此殺身猶洒落」なるもの、豈、獨り西楚の霸王に止らむや。請ふ吾人をして恣に推察せしめよ。若し彼にして決然として、賴朝の挑戰に應ぜしならば、木曾の眠獅と蛭ケ小島の臥龍との敢戰は、更に幾倍の偉觀をきはめしなるべく、天下は漢末の如く三分せられしなるべく、而して中原の鹿誰が手に落つべき乎は未俄に斷ずべからざりしなるべし。かくして、春風は再、兩雄の間に吹けり。賴朝は、旌旗をめぐらして鎌倉に歸れり。而して彼は遂に、久しく其豫期したるが如く、豼貅五萬、旗鼓堂々として南に向へり。

[やぶちゃん注:「信太三郞先生義廣」源為義の三男で行家の兄である源義広(?~元暦元(一一八四)年)。別名志田(信太)三郎先生(しださぶろうせんじょう)。「先生」は義仲の父義賢の注で既注であるが、再掲しておくと、「東宮帯刀先生」(とううぐうたれわきせんじょう:皇太子護衛官指揮官)で、義広のが若き日に受けた官位に基づく通称である。ウィキの「源義広(志田三郎先生)」によれば、『義広は初め』、『同母の次兄』で義仲の父であった『義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向した』。仁平三(一一五一)年十二月、『常陸国に志田庄を立荘する。この時の志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛であった』。『この時点において義広が平頼盛に接近していたことが窺え』、『一方』、『義賢は』久寿二(一一五五)年の「大蔵合戦」で『義朝の長男・源義平に討たれた』「保元の乱」(一一五六年)に『際しては、金刀比羅宮本』「保元物語」では、『為義・為朝らと崇徳上皇方に加わったとするが、義広の名を記さない本も何系統かあり』、公家平信範の日記「兵範記」にも『義広参戦の事は見えない。また続く』「平治の乱」に『おいても』、『一時上京していたという説もあるが、具体的にどのような行動を取ったのかは不明である。以後、平清盛の平氏政権が栄華を極めるのを横目にしながらも、特にこれに反抗する様子もなく』、二十『余年の間』、『信太荘を動くことはなかった』。「平家物語」では、治承四(一一八〇)年五月の『以仁王の挙兵の際、末弟の源行家が甥の源頼朝に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとし』、「吾妻鏡」では同年八月に『頼朝が挙兵したのち』、十一月の「金砂城(かなさじょう)の戦い」(治承四(一一八〇)年十一月四日に常陸国金砂城(現在の茨城県常陸太田市金砂郷地区)で行われた頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦い。頼朝軍が勝った)の『後に義広が行家と共に頼朝に面会したとするが、合流する事はなく、その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した』ようである。寿永二(一一八三)年二月二十日、『義広は鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発し、下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合』、二『万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ常陸国より下野国へと進軍した。しかし、鎌倉攻撃の動きは頼朝方に捕捉され、下野国で頼朝軍に迎え撃たれることとなる』。『下野国の有力豪族小山朝政は』、『始め』、『偽って義広に同意の姿勢を見せて下野国野木宮(現栃木県野木町)に籠もっていたが』、二十三『日、油断した義広の軍勢が野木宮に差し掛かった所を突如』、『攻めかかり、激しい戦いとなった。義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った』(「野木宮合戦」)。『その後、同母兄』である『義賢の子』『木曾義仲』の『軍に参加する。常陸国から下野国へ兵を進めたのも、義仲の勢力範囲を目指した行動であったと見られる。義広の鎌倉の頼朝攻撃の背景には、義仲の存在があった』ことがこれで判明する。『このことが義仲と頼朝との対立の導火線となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。以降、義広は義仲と共に北陸道を進んで一方の将として上洛し、入京後に信濃守に任官され』ている。元暦元(一一八四)年一月の「宇治川の戦い」では、『頼朝が派遣した源義経軍との戦いで防戦に加わるが』、「粟津の戦い」で『義仲が討ち死にし、敗走した義広もまた逆賊として追討を受ける身となる。同年』五月四日、『伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)に拠って抵抗を試みるが、波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊と大内惟義の家人らと合戦の末、斬首された』とある。

「爲人不忍」読めない? さんざんやった「史記」の「鴻門之会」でやったじゃないか。劉邦を殺そうとしない項羽に痺れを切らした范増が項羽の従弟である項荘を秘かに呼び出して、「剣舞にかこつけて殺(や)っちまえ!」と命ずる台詞の頭のところさ。「君王爲人不忍。」(君王、人(ひと)と爲(な)り、忍びず)だよ。「項羽様は残忍なことがお出来にならない御気性だ。」だよ。

「鼙鼓」「へいこ」。戦場で用いる鼓。攻め太鼓。「へいく」とも読む(「く」は「鼓」の呉音)。

「武田信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年?)は源新羅三郎義光を始祖とする甲斐武田氏の第五代当主。伊豆守・甲斐国・安芸国守護。ウィキの「武田信光」によれば、『甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する』。『馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された』。「吾妻鏡」に拠れば、治承四(一一八〇)年の『頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという』(「鉢田の戦い」)。『甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え』、『挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になって』、『この話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている。元暦元年』(一一八四年)、『義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の』「一ノ谷の戦い」でも『戦功を挙げた』。『父の信義は駿河や甲斐の守護に任じられていたとする説もあるが、この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。信光は武田有義(左兵衛尉、逸見氏の出自か)や加賀美遠光らの兄弟や従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追及を免れているが、信義も謀反の疑いを掛けられており』、文治二(一一八六)年には『父信義が隠居している』(但し、「吾妻鏡」では死没とする)。『信光は家督を継いで当主となり、鎌倉で起こった』「梶原景時の変」(正治元(一一九九)年十月二十五日~正治二年一月二十日)では、それに『乗じて有義を排斥』している。文治五(一一八九)年には『甲斐源氏の一党を率いて奥州合戦に参加し、このときに安芸国への軍勢催促を行っていることから』、『この時点で安芸国守護に任じられていたとも考えられている』(ずっと後の承久三(一二二一)年ともされる)。『その後も幕府に仕え』、建久四(一一九三)年には『小笠原長清と、頼朝の富士の巻狩に供している。阿野全成の謀反鎮圧にも携わり、甲斐の御家人も分裂して争った』、建保元(一二一三)年の『和田合戦でも鎌倉へ参陣して義盛追討軍に加わっている。乱では都留郡を治めた古郡』(ふるごおり)『氏が和田方に属して滅ぼされており、信光は恩賞として同郡波加利荘(大月市初狩)などを与えられており』、『甲斐源氏が都留郡へも勢力を及ぼしている』。承久三(一二二一)年の「承久の乱」においても、『長清とともに東山道大将軍として』五『万の兵を率いており、同年』七月十二日『には都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している』。『安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している』。暦仁二・延応元(一二三九)年、『出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した』。「吾妻鏡」によれば、仁治二(一二四一)年には『上野国三原荘をめぐ』って『海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが、同年』十二月二十七日『には次男の信忠を義絶する形で服従している』。『信光の死後に武田氏に関する史料は減少し、信光の孫の代には甲斐国に残留した石和系武田氏と安芸国守護職を継承した信時系武田氏に分裂している』とある。

「怫然」「ふつぜん」。怒りが顔に出るさま。「憤然」に同じい。

 

「逞兵」「ていへい」。逞(たくま)しく勇ましい兵士。

「碓日」「うすひ」。長野県と群馬県の境にある旧の碓氷峠。「平家物語」の「巻台七 平家北国下向」では、頼朝が寿永二年二月頃に、信濃へ発向し、今井兼平が会い、弁解するが、却って頼朝の憤りを買い、討手が差し向けられるも、義仲が嫡子義高を差し出したので鎌倉へ連れて帰り、事なきを得たとあるが、これは嘘だろう。「吾妻鏡」にそんなことは全く書いてないし、この時期に頼朝が鎌倉を離れることはちょっとありそうもない。但し、調べたところ、「長野県立歴史館」公式サイト内の「キッズ・ページ」(笑ってはいけない!)の「信州と源頼朝」のページに、『その昔、善光寺には源頼朝の像があって、この像を武田信玄が甲斐』『国(山梨県)に移した』。『この源頼朝像は現在も残っているし、頼朝は善光寺を復興した功労者としても知られている』。さらに、『頼朝の家来、相良』(さがら)『氏が記した古文書には』、後の建久八(一一九七)年『の法要に頼朝が善光寺を訪れたことが書かれて』おり、『これらのことから頼朝の善光寺参拝は、歴史的事実だと考えられる』とある。確かに。「吾妻鏡」は頼朝生存時の附近に意図的な欠損があるしね。その頃の開幕の安定期なら、彼が善光寺に行ったとしても少しも不思議じゃない。因みに、芥川龍之介、やはりこの辺りも「源平盛衰記」の記載(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページの九行目から次のコマまで)を元に、かなりノリノリになって脚色している感じが濃厚だ。

「信」信州。信濃国。

「碧蹄」「へきてい」。(軍)馬の蹄(ひづめ)。

「彼は豆を煮るに、豆莢を燃やすを欲せざりき」「古文真宝」などに出る、「七歩詩」(「應聲而作詞」(「聲に應じて作詞す)に基づく。魏の文帝曹丕(そうひ 一八七年~二二六年)が何時も苛めていた弟の東阿王曹植(そうち 一九二年~二三二年)に向かって、

七步中作詩、不成行大法。

(七步の中に作詩せよ、成さずんば大法を行ふ。)

と言い放つと(後半は「国法に従って処刑する」の意)、即座に詩を作って、

煮豆燃豆萁

豆在釜中泣

本是同根生

相煎何太急

 豆を煮るに 豆萁(まめがら)を燃やさば

 豆は釜の中に在りて 泣く

 本(もと)是れ 同根に生ぜしに

 相ひ煎(に)ること 何ぞ太(はなは)だ急なる

芥川龍之介の「豆莢」は「とうきやう(とうきょう)」とも「まめざや」とも読める。

「如此殺身猶洒落」筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、これは、清の七律「烏江項王廟」の第八句の引用の誤り(或いは異表記か。しかし、調べる限りでは「灑」が正しい)ではないかと思われる。全詩はこちらの中文サイトで見つけた。

   *

 烏江項王廟    清 蔣士銓

暗鳴獨滅虎狼秦

絕世英雄自有真

俎上肯貽天下笑

座中維覺沛公親

等閒割地分強敵

慷慨將頭贈故人

如此殺身猶灑落

憐他功狗與功臣

   *

蔣士銓(しょうしせん 一七二五年~一七八五年)は清代の詩文家で劇作家。字は心余、苕生。号は清容、蔵園。江西鉛山の人で一七五七年に進士となり、翰林院編修となった。後に紹興の蕺山(しゆうざん)書院や杭州の崇文書院、揚州の安定書院の山長を歴任し、国史館纂修官となっている。詩は古文辞、戯曲は湯顕祖の作風を学んだ。乾隆期の劇作家の第一に推され「一片石」「四絃秋」などの「蔵園九種曲」の作があるという(平凡社「世界大百科事典」のに拠る)。訓読は判らないが、

此くのごとく身を殺(さつ)し 猶ほ灑落(さいらく)するがごとし

か。しかも、「灑落」は「さっぱりしていて物に拘らないこと」の意で、本邦ではこれを慣用音で「しゃらく(しゃらく)」と読むから、芥川龍之介はこれに「洒落」を当てたとしても強ち誤りとは言えまい。私の愛する項羽の死にざまは、確かに「灑落」と言うに相応しい。

「西楚の霸王」項羽の異称。

「敢戰」決死の覚悟で戦うこと。必死の戦闘。

「漢末の如く三分せられしなるべく」「黄巾の乱」を契機として後漢の支配力は完全に失われ、各地に群雄が割拠し、華北を平定した曹操、江南に拠る孫権、蜀に入った劉備によって三国が鼎立した。

「豼貅」「ひきう(ひきゅう)」。元は「史記」の「五帝紀」に出、古代の伝説に見える猛獣の名で虎或いは熊に似ると言い、「豼」が牡、「貅」が牝とし、飼い馴らして戦争に用いたとする幻獣。後に、それを描いた旗の名で兵車に立てたことから、転じて、勇猛な兵士、強者(つわもの)の意となった。]

 

老いても獅子は百獸の王也。革命軍の鋭鋒、當るべからざるを聞ける宗盛は、是に於て、舞樂の名手、五月人形の大將軍右近衞中將平維盛を主將とせる、有力なる征北軍を組織し、白旄黃鉞、肅々として、怒濤の如く來り迫る革命軍を、討たしめたり。平軍十萬、赤旗天を掩ひ精甲日に輝く。流石に、滔天の勢を以て突進したる我北陸の革命軍も、平氏が此窮鼠の如き逆擊に對しては、陣頭の自ら亂るゝを禁ずる能はざりき。我義仲が、富樫入道佛誓をして守らしめたる燧山城の要害、先[やぶちゃん注:「まづ」。]平軍の手に歸し、次いで林六郞光明の堅陣、忽ちにして平軍の擊破する所となり、遂に革命軍が血を以て購へる加賀一州の江山をして、再び平門の豎子が掌中に收めしむるの恨事を生じたり。既に源軍を破つて意氣天を衝ける平軍は、是に至りて三萬の輕鋭を分ちて志雄山に向はしめ、大將軍、維盛自らは、七萬の大軍を驅つて礪波山に陣し、長蛇捲地の勢をなして、一擧、革命軍を越中より、掃蕩せむと欲したり。然りと雖も、平右近衞中將は、決して我義仲に肩隨すべき將略と勇氣とを有せざりき。越後にありて革命軍の敗報を耳にしたる義仲は、直ちに全軍を提げて越中に入れり。越中に入れると共に直ちに、藏人行家をして志雄山の平軍を討たしめたり。志雄山の平軍を討たしむると共に、直ちに鼓噪して黑坂に至り維盛と相對して白旗を埴生の寒村に飜せり。數を以てすれば彼は實に平軍の半にみたず、地を以てすれば、平軍は已に礪波の嶮要を擁せり。彼の之を以て平軍の鋭鋒を挫き、倒瀾を既墜にめぐらさむと欲す、豈難からずとせむや。然れ共、彼は、泉の如く湧く敏才を有したりき。彼は、其夜猛牛數百を集め炬を其角に縛し、鞭ちて之を敵陣に縱ち、源軍四萬、雷鼓して平軍を衝きぬ。角上の炬火、連ること星の如く、喊聲鼓聲、相合して南溟の衆水一時に覆るかと疑はる。平軍潰敗して南壑に走り、崖下に投じて死するもの一萬八千餘人、人馬相蹂み[やぶちゃん注:「ふみ」。]、刀戟相貫き、積屍陵をなし、戰塵天を掩ふ。維盛僅に血路をひらき、殘軍を合して加賀に走り、佐良岳の天嶮に據りて、再革命軍を拒守せむとしたるも、大勢の赴く所亦如何ともなすべからず。志雄山の平軍既に破れ、義仲行家疾馳して平軍に迫る、無人の境を行くが如く、安宅の渡を涉りて篠原を襲ひ、遂に大に征北軍を擊破し、勇奮突破、南に進むこと、猛虎の群羊を驅るが如く、將に長驅して京師に入らむとす。かくして、壽永二年七月、赤幟、洛陽を指して、敗殘の平軍、悉く都に歸ると共に、義仲は北陸道より近江に入り、行家は東山道より大和に入り、革命軍の白旗、雪の如く、近畿の山河に滿てり。

[やぶちゃん注:「白旄黃鉞」「はくばうくわうえつ(はくぼうこうえつ)」。旗の白毛の総と黄金で飾った斧。天子の軍が用いる。

「滔天」「たうてん(とうてん)」。天まで漲(みなぎ)ること。勢いが非常に盛んなこと。

「富樫入道佛誓」「とがしのにゆうだうぶつせい」。富樫泰家(とがしやすいえ 生没年未詳)は当時の義仲に従った武将。後に鎌倉幕府御家人となった。ウィキの「富樫泰家」によれば、富樫氏第六代当主。かの「義経記」の安宅の関の関守富樫介や能「安宅」の富樫の何某、歌舞伎「勧進帳」の『富樫左衛門に比定される』人物である。『富樫氏は藤原北家・藤原利仁を祖とする家系だといわれている』。寿永二(一一八三)年の『源義仲の平氏討伐に』対し、『平維盛率いる大軍と』、『加賀国・越中国国境の倶利伽羅峠にて対陣』し、『燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかけ』、『この大胆な戦略が功を奏して大勝』(「倶利伽羅合戦」)。寿永三(一一八四)年に『義仲が』、『頼朝の命を受けた源範頼・義経に討たれた後は加賀守護に任ぜられ』ている。文治三(一一八七)年、兄『頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉』『を目指していた義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と』、『武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという』しかし、『そのことにより』、『頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に剃髪し』、『法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り』、『義経と再会を果た』した。『その後』は『しばらく平泉に留まったが、後に野々市』(ののいち:石川県中部。現在、野々市市)『に戻り、天寿を全うした』という。

「燧山城」「ひうちやまじやう」。現在の福井県南条郡南越前町(ちょう)今庄(いまじょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にあった火打(ひうち)城での戦い。ウィキの「火打城の戦い」によれば、『越前・加賀の在地反乱勢力とそれを追討すべく出撃した平氏との寿永年間における戦いのうちの緒戦である。火打城は燧城、燧ヶ城の表記もある』。『養和元年』(一一八一年)『夏頃、北陸在地豪族たちの反平氏の活動が活発化していた。それに対して平氏は平通盛・平経盛らが率いる軍を派遣するが、活発化した反乱勢力を鎮圧することができずに都に引き返した(養和の北陸出兵)』。翌養和二年は『養和の大飢饉の影響が深刻化したなどの要因もあり』、『鎮西以外への出兵はされなかった』が、寿永二(一一八三)年に入って『飢饉はようやく好転し、平氏は東国反乱勢力活動を再開する。その矛先の第一は兵糧の供給地たる北陸道の回復であった』。寿永二(一一八三)年四月十七日、『平氏は平維盛を大将として北陸に出陣』、四月二十六日『には平家軍は越前国に入った』。二十七日、『越前・加賀の在地反乱勢力が籠もる火打城を取り囲むが』、『火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため』、『平氏側は城に攻め込むことができなかった。数日間』、『平氏は城を包囲していたが、城に籠もっていた平泉寺長吏』(白山の別当寺であった天台宗霊応山平泉(へいせん)寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社)の総管理職)『斉明』(さいめい:越前の河合斎藤氏(芥川龍之介の「芋粥」に出る藤原利仁の後裔一流)の一族)『が平氏に内通』、『人造湖の破壊の仕方を教え』、『平氏は得た情報を元に湖を決壊させて』、『城に攻め入り、火打城を落とした』。『その後』、『平氏は加賀国に入った』。『なお、この寿永の北陸の追討の宣旨は「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣』『に仰せ追討せしむべし」という内容であったということが』「玉葉」に『記されており、源義仲が当初から追討の目的であったという認識は当時の都の人々にはなかった』とある。この解説には「富樫入道佛誓」の名はないが、「平家物語」巻第七「火打合戦(ひうちがっせん)」の冒頭の義仲の命を受けた武将の中に、「平泉寺の長吏斎明威儀師(「威儀師」は法会の指揮役の職名)として彼の名がある。

「林六郞光明」(みつあきら)。北加賀で最も勢力を有した武士団林氏の棟梁で、やはり、前注の引用の途中に出た、斉明と同じく藤原利仁の後裔で、同じく「平家物語」巻第七「火打合戦(ひうちがっせん)」の冒頭の義仲の命を受けた武将の中に、「林の六郞光明」と彼の名がある。

「輕鋭」敏捷で強いこと。

「志雄山」「しをやま(しおやま)」。石川県羽咋(はくい)郡宝達(ほうだつ)志水町の東部にある宝達丘陵の別名。県境の臼ケ峰を越えて富山県氷見市へ向かう山道が通じる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「礪波山」「となみやま」。富山・石川県境にある砺波山地。北方の宝達丘陵と南方の両白山地との間にあり、最高標高は二百七十七メートル。越中と加賀を結ぶ通路が開け、倶利伽羅峠は軍事の要衝でもあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「平右近衞中將」維盛。彼の最終官位は蔵人頭・右近衛権中将・従三位であった。

「鼓噪」「こさう(こそう)」。戦場で戦いの開始や士気を高めるために太鼓を鳴らすこと。

「黑坂」「源平盛衰記」の「屋 巻第二十九」の「礪竝山合戰事」冒頭(国立国会図書館デジタルコレクションのここの左ページ)に『木曾は礪竝山黑坂の北の麓、埴生八幡林より、松永、柳原を後ろにして、黑坂口に南に向かつて陣を取る。平家は倶利伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始めて、是れも黑坂口に進み下つて、北に陣を取る』とあるので、現在の矢立山と砺波山の尾根筋の坂を謂うか。グーグル・マップ・データの矢立山を見ると、東北位置に富山県小矢部市埴生と同地区内に護国八幡宮があり、矢立山南下に松永の地名(矢立山自体が現在の富山県小矢部市松永である)を見出せる。現在、猿ヶ馬場が倶利伽羅古戦場・平家軍本陣跡とされている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「倒瀾」(たうらん(とうらん):何もかも打ち倒すような大波)「を既墜」(きつい)「にめぐらさむ」筑摩書房全集類聚版注に、『傾いた大勢を元にもどす』とする。「墜」は「土を落とす」の意であるから、津波によって崩された陸を「既」(つまるところ)元に戻すの謂いであろうか。

「彼は、其夜猛牛數百を集め炬』(きよ(きょ):松明(たいまつ))『を其角に縛し、鞭ちて之を敵陣に縱ち、源軍四萬。雷鼓して平軍を衝きぬ。角上の炬火、連ること星の如く、喊聲鼓聲、相合して南溟」(南方の大海。但し、「南」とする意味は私にはよく判らない)「の衆水一時に覆るかと疑はる。平軍潰敗して南壑」(「なんがく」。ここは倶利伽羅山を指す)「に走り、崖下に投じて死するもの一萬八千餘人、人馬相蹂み、刀戟相貫き、積屍陵をなし、戰塵天を掩ふ」所謂、知られた「火牛(かぎゅう)の計」のシークエンス。「源平盛衰記」の先の次のコマ「67」の右ページの五行目から「70」コマ目まで続く(途中に挿絵有り)。但し、私はこれは事実ではないと考えている。何より、これだけの頭数(「源平盛衰記」には『四五百疋』(!)とある)の牛を現地で徴用することは無理だと思うからである。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」にも、『平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍』七『万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍』十『万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った』(この戦術は現実的で事実として受け入れられる)。『この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年』七『月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた』と記すも、「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国』(紀元前三八六年~紀元前二二一年)『の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである』とある。

「佐良岳」加賀国宮腰佐良岳浜。恐らくは地勢から見て、現在の石川県金沢市金石(かないわ:犀川河口右岸。リンクはグーグル・マップ・データ)にあった砂丘状の小丘陵と思われる。ここ

「安宅の渡」義経の北向のエピソードで知られる、現在の石川県小松市安宅町(あたかまち)の梯(かけはし)川の渡し。「勧進帳」の舞台とされた関所跡はここ(グーグル・マップ・データ)。

「篠原」筑摩書房全集類聚版注は『石川県加賀市片山津』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。安宅との位置関係からは問題ない。

「壽永二年七月」治承七年。一一八三年。この七月二十五日に平家の都落ちが決せられた。ユリウス暦八月十四日、グレゴリオ暦換算八月二十一日のことであった。]

 

此時に於て、平氏と義仲との間に橫はれる勝敗の決は、一に延曆寺が源平の何れに力を寄すべき乎に存したりき。若し、幾千の山法師にして、平氏と合して、楯を源軍につきしとせむ乎、或は革命軍の旗、洛陽に飜るの時なかりしやも、亦知るべからず。然れども延曆寺は、必しも平氏の忠實なる味方にはあらざりき。延曆寺は平氏に對して平なる能はざる幾多の理由を有したりき。平氏が兵糧米を山門領に課せるが如き、嚴島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたるが如き、豈其の一たるなからむや。反平氏の空氣は山門三千の、圓頂黑衣の健兒の間にも充滿したり。彼等は恰も箭鼠の如し、彼等は撫づれば、撫づるほど其針毛を逆立たしむる也。淸盛の懷柔政策が彼等の氣焰をして却つて、高からしめたる、素より偶然なりとなさず。今や、山門は、二人の獵夫に逐はれたる一頭の兎となれり。二人の花婿に戀はれたる一人の花嫁となれり。而して平氏は、其源軍に力を合するを恐れ、平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延曆寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辭を以て其歡心を買はむと欲したり。然れども山門は冷然として之に答へざりき。同時に義仲の祐筆にして、しかも革命軍の軍師なりし大夫坊覺明は、延曆寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に應じて、明に平氏に對して反抗の旗をひるがへしたり。是、實に平氏が蒙りたる最後の痛擊なりき。山門既に平氏に反く、平氏が、知盛、重衡等をして率ゐしめたる防禦軍が、遂に海潮の如く迫り來る革命軍に對して、殆ど何等の用をもなさざりしも豈宜ならずや。かくの如くにして、革命の激流は一瀉千里、遂に平氏政府を倒滅せしめたり。平氏は是に於て最後の窮策に出で至尊と神器とを擁して西國に走らむと欲したり。龍駕已に赤旗の下にあらば又以て、宣旨院宣を藉りて四海に號令するを得べく、已に四海に號令するを得ば再天日の墜ちむとするを囘らし、天下をして平氏の天下たらしむるも敢て難事にあらず。平氏が胸中の成竹は實にかくの如くなりし也。しかも、機急なるに及ンで法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ。百事、悉、齟齬す、平氏は遂に主上を擁して天涯に走れり。翠華は、搖々として西に向ひ、霓旌は飜々として悲風に動く、嗚呼、「昨日は東關の下に轡をならべて十萬餘騎、今日は西海の波に纜を解きて七千餘人、保元の昔は春の花と榮えしかども、壽永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」然り、平氏は、遂に、久しく豫期せられたる沒落の悲運に遭遇したり。

   ふるさとを燒野のはらとかへり見て

      末もけぶりの波路をぞゆく

[やぶちゃん注:最後の一首は一行ベタ書きであるが、ブラウザ上の不具合を考え、下句を改行して字下げで配した。

「嚴島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたる」治承四(一一八〇)年三月、高倉上皇は清盛の強い要請により、厳島神社へ参詣している(三月二六日御幸、四月八日還御)。『しかし上皇の最初の参詣は、石清水八幡宮・賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行うことが慣例だったため、宗教的地位の低下を恐れる延暦寺・園城寺・興福寺は猛然と反発した。三寺の大衆が連合して高倉院・後白河院の身柄を奪取する企ても密かに進行していた』とウィキの「後白河天皇にある。

「箭鼠」「せんそ」。ハリネズミ(哺乳綱 Eulipotyphla 目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のこと。

「平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延曆寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辭を以て其歡心を買はむと欲したり。然れども山門は冷然として之に答へざりき」「源平盛衰記」の「摩 巻第三十」の「平家延暦寺願書の事」にかくある(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページから。願書全文が載る)。

「大夫坊覺明」「たいふばうかくみやう(たゆうぼうかくみょう)」。「一 平氏政府」に出た「西乘坊信救」と同一人物。そちらの注を参照されたい。

「延曆寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に應じて、明に平氏に對して反抗の旗をひるがへしたり」「源平盛衰記」の「摩 巻第三十」の木曽山門牒状の事」から「覚明山門に語を語らふ事」と「山門僉議牒状の事」に続く三章に詳しい(国立国会図書館デジタルコレクション。牒状全文と受諾した叡山側の書状まで総てが載る)。

「至尊」安徳天皇。都落ち当時、満五歳にさえなっていない。壇ノ浦に入水した当時は、歴代天皇最年少の数え年八歳、満六歳と四ヶ月であった。

「法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ」都落ちの意図を察知した後白河法皇はその当日七月二十五日の未明、秘かに二名の近習だけを連れて輿に乗り、法住寺殿を脱出し、鞍馬路・横川を経て、比叡山に登り、東塔円融坊に着御した(ウィキの「後白河天皇」に拠る)。

「翠華」「すいくわ(すいか)」。中国で天子の旗を翡翠(かわせみ)の羽で飾ったことから、 天子の御旗。

「霓旌」「げいせい」。羽毛を五色に染めて綴った旗。天子の儀仗旗。「霓」は龍の名、自然現象の虹を中国では古来、その雄が「虹」、雌が「霓」だとする。

「昨日は東關の下に轡をならべて十萬餘騎、今日は西海の波に纜を解きて七千餘人、保元の昔は春の花と榮えしかども、壽永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」「平家物語」巻第七「平家一門都落ち」の掉尾「福原落ち」の一節。

   *

 平家、福原の舊里に一夜を明かれける。をりふし、秋の月は下(しも)の弓張(ゆみはり)なり。深更(しんがう)の空夜[やぶちゃん注:更けきった深夜の月の未だ出ぬ空。]、閑(しづ)かにして旅寢の床(とこ)の草枕、淚も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ歸るべきともおぼえねば、故入道相國(しやうごく)の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、雪見御所、萱(かや)の御所とて見られけり。馬場殿、二階の棧敷(さじき)殿、人々の家々、五條大納言邦綱卿の造りまゐられし里内裏(さとだいり)、いつしか三年(みとせ)に荒れはてて、舊苔、道をふさぎ、秋草(しうさう)、門(かど)を閉ど、瓦に松生ひ、垣に蔦しげり、臺(うてな)かたぶいて、苔むせり。松風のみや通ふらん。簾、絕えて、閨(ねや)あらはなり。月かげのみぞやさし入りけん。

 明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々、御船に召されけり。都を立ちしばかりはなけれども[やぶちゃん注:嘗つて福原京として離れた折りほどではなかったが。]、これも名殘は惜しかりけり。海士(あま)のたく藻の夕煙(ゆふけぶり)、尾上(をのへ)[やぶちゃん注:ここは播磨国加古郡高砂の尾上。]の鹿のあかつきの聲、渚々(なぎさなぎさ)に寄る波の音、袖に宿借(か)る月の影、千草(ちくさ)にすだくきりぎりす[やぶちゃん注:コオロギ。]、すべて目に見え、耳にふるること、一つとして、哀れをもよほし、心をたたましめずといふことなし。昨日は東山の麓に轡(くつばみ)を並べ[やぶちゃん注:出陣の用意を指す。]、今日は西海の波の上に纜(ともづな)をとく。雲海、沈々として、靑天(せいでん)、まさに暮れなんとす。孤島(こたう)に霧へだたつて、月、海上に浮かぶ。極浦(ぎよくほ)[やぶちゃん注:遠い浦。]の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。

 修理大夫(しゆりのだいぶ)經盛の嫡子皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)經正、行幸(ぎやうがう)に供奉すとて、泣く泣く、かうぞ、のたまひける。

  行幸(みゆき)する末も都とおもへども

     なほなぐさまぬ波のうへかな

 平家は、日數(ひかず)を經(ふ)れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。「はるばる來ぬる」[やぶちゃん注:「伊勢物語」の東下りの章段の引用。以下もあれを踏まえる。]と思ふにも、ただ盡きせぬものは淚なり。波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言(こと)問ひし、名もむつまじき[やぶちゃん注:懐かしい。]都鳥かな」とあはれなり。

 壽永二年七月二十五日、平家都を落ちはてぬ。

   *

・「五條大納言邦綱卿」は藤原邦綱(保安三(一一二二)年~養和元(一一八一)年:この時既に故人)。文章生蔵人雑色(もんじょしょうくろうどざつしき)という低い身分であったが、関白藤原忠通に家司として仕え、周到な気配りで重用された。忠通死後はその息子の関白基実に仕え、蔵人頭・参議・右京大夫となり、その間、遠江権守を始めとして壱岐・和泉・越後・伊予・播磨・周防の国守などを歴任して財力を蓄えた。仁安元(一一六六)年、基実の死に当たっては平清盛の娘で基実の妻であった盛子に広大な摂関家領の大半を相続させるように計らい、自身は盛子の後見役となった。息子の清邦を清盛の猶子とし、財力を基盤に「清盛の片腕」として政界で活躍した。治承元(一一七七)年には正二位・権大納言に上りつめた。同四年の福原遷都にも携わった。清盛と同月に死去しており、同じ死因(熱性マラリア)かともされる(ここは主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「修理大夫經盛」(天治元(一一二四)年~文治元(一一八五)年)は平忠盛の三男で清盛の異母弟。平敦盛らの父。歌人としてはよく活動した。

・「皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)經正」既出既注。

「ふるさとを燒野のはらとかへり見て末もけぶりの波路をぞゆく」先の「平家物語」巻第七「平家一門都落ち」の「福原落ち」の前の「和歌述懐」に出る前注した平経盛の一首。

   *

 平家は小松の三位中將維盛のほかは、大臣殿以下、みな、妻子を具し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。夜がれをだにも嘆きしに、後會(こうくわい)その期を知らず[やぶちゃん注:嘗つては夜の通いが途絶えることすら嘆いていたものが、今ではこの後、再会することが出来ることがどうかも判らず。]、妻子を捨ててぞ、落ち行きける。相傳譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに[やぶちゃん注:少しも。]先へはすすまざりけり。おのおのうしろをかへり見て、都の方は、かすめる空の心地して、煙(けぶり)のみ心細くぞ立ちのぼる。そのなかに、修理大夫經盛、都をかへり見給ひて、泣く泣く、かうぞ、のたまひける。

  ふるさとを燒け野の原とかへり見て

     末もけぶりの波路をぞゆく

薩摩守忠度、

  はかなしや主(ぬし)は雲井にわかるれば

     あとはけぶりと立ちのぼるかな

まことに、故鄕(ふるさと)をば、一片の煙塵(えんぢん)にへだて、前途萬里の雲路におもむき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。ならはぬ磯邊の波枕、八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂(かい)のしづく、落つる淚にあらそひて、袂もさらに乾しあへず。駒に鞭うつ人もあり、あるいは船に棹(さを)さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。

   *

・「薩摩守忠度」(ただのり 天養元(一一四四)年~元暦元(一一八四)年)は清盛の弟。「一ノ谷の戦い」で討たれた。少年期より藤原俊成について和歌を学んだ。「平家物語」の「忠度都落ち」で、平家一門の運命を自覚した忠度が都落ちに当たって今生の思い出として俊成に詠草一巻を託し、勅撰集への入集を乞うという執心の話はよく知られる。その中の一首、

さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山さくらかな

は「千載和歌集」に「よみ人知らず」として載る。]

2019/07/14

芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 一 平氏政府

 

[やぶちゃん注:本作は明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『東京府立第三中學校學友會誌』第十五号に掲載されたものである。当時、芥川龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校の第四学年の終わり(当時の旧制中学の修業年限は五年)に当たる。彼は三月一日生まれなので、満十八歳になる直前であるが、執筆は前年の十二月六日以前(龍之介は、当時、この雑誌の編集委員を務めており、この日に編集を終えていることに拠る)であるから、十七歳の若書きである。全三章から成る四百字詰原稿用紙換算で九十枚に及ぶ力作であり、龍之介自身が後に『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載)と名実ともに作家以前の作として自負する評論である。

 底本は一九七八年岩波書店刊の「芥川龍之介全集」第十二巻を基礎底本とした。但し、加工用データとして「青空文庫」版の新字旧仮名の「義仲論」(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏/一九九九年一月三十日公開/二〇〇四年二月二十六日修正版。但し、そこでは標題が『木曾義仲論』となっている。これは現行の諸資料の「義仲論」という題名と齟齬する。当該電子データは底本が昭和四三(一九六八)年筑摩書房刊の「現代日本文学大系」第四十三巻「芥川龍之介集」を底本(底本の親本の記載なし)としていることに拠るものと思われるが、現在の正規の芥川龍之介の書誌では総て「義仲論」であり、これは甚だ奇怪と言わざるを得ない)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、一九九七年岩波書店刊の「芥川龍之介全集」第二十一巻(底本を私の拠った旧全集とするが、漢字は新字。但し、原稿及び初出及び芥川龍之介旧蔵の同誌(山梨県立文学館蔵)の書入れと校合した結果、三十五箇所の新たな校訂が行われている)によって一部を修正したが(煩雑になるので、一部を除き、その部分を指示はしていない。気持ちの悪い新字旧仮名の新全集を求められよ)、改行等、校訂リストに載らない疑問の箇所もあり、必ずしも総てに無批判に従ってはいない)

字配・ポイント落ち等もなるべく底本の旧全集に合わせてある。段落の冒頭字下げがないはママである。但し、注を附した関係上、見易くするために各段落の後(注がある時はその後)を一行空けた。

 本篇にはルビは全くない。一部難読漢字もあるので、各段落末で(一部、短い読みだけのものは文中に)私の躓いた箇所を中心に若い読者を意識しつつ、注を附した(但し、初出部に注した後に同語が出ても読みは一部の難語附さないのでそこで覚えて頂きいたい)。当初、「ストイックに注した」と書いたのだが、結局、第一章の半ばにあって、何時もの私の悪い癖で、あれもこれもとなって膨大な注になってしまったので書き変えた。但し、人物については知られた人物は概ね(本文との絡みで詳細に注した例外はある)注さないか、生没年のみにした。正直、後の文豪とはいえ、十七歳の若造の文章で判らないというのは自分が情けなくなるという内心がかくさせたものであることを自白しておく。そこでは一部、筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」第八巻(昭和四六(一九七一)年刊)の「義仲論」にある注を特に参考にさせて頂いた。但し、この注は既に古くなっており、誤りや誤認と思われる部分も散見される。不遜乍ら、一部ではそれをも指摘しておいた。【二〇一九年月日藪野直史】]

 

 

  義 仲 論

 

        平氏政府

 

  祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。
  驕れる者久しからず、唯春の夜の夢の如し。

流石に曠世の驕兒入道相國が、六十余州の春をして、六波羅の朱門に漲らしめたる、平門の榮華も、定命の外に出づべからず。莊園天下に半して子弟殿上に昇るもの六十餘人、平大納言時忠をして、平門にあらずンば人にして人にあらずと、豪語せしめたるは、平氏が空前の成功也。而して平氏自身も亦其成功の爲に仆る[やぶちゃん注:「たふる」。]べき數を擔ひぬ。

[やぶちゃん注:新全集はここで改行していないが、従わない。冒頭の「平家物語」巻首のそれは底本では全文続いていて、全文二字下げ位置で示されているが、ブログ・ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。

「曠世」「くわうせい(こうせい)」。世に稀れなこと。希代。

「驕兒」「きやうじ(きょうじ)」。驕(おご)り昂ぶった我儘な人間。

「平大納言時忠」(大治五(一一三〇)年~文治五(一一八九)年)は平時信の子で、清盛の妻時子及び後白河院妃建春門院滋子の兄。応保元(一一六一)年に妹滋子が生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)を東宮に立てようと謀ったため、解官(右衛門権佐・右少弁・正五位下)され、出雲に流されたが、永万元(一一六五)年に許され、翌仁安元(一一六六)年に復位し、次第に昇進、同二年、参議正四位下、嘉応元(一一六九)年、権中納言へと昇り、清盛の側近として平氏政権を支える重要な役割を占めた。同年、院と平氏の微妙な対立から、再び流罪となったが、一月余りで召還され、承安元(一一七一)年には建春門院滋子の側近として活躍、寿永二(一一八三)年、権大納言となった。平氏滅亡後は壇ノ浦で源義経の捕虜となり、娘を薦めて身の安全を図ったが、頼朝によって能登に流され、そこで没した。

「平門にあらずンば人にして人にあらず」知られた文々であるが、これは「平家物語」の冒頭から直ぐの「禿童(かぶろ)」に(基本は昭和四七(一九七二)年講談社文庫刊の高橋貞一校注「平家物語(上)」(流布本底本)に拠るが、一部手を加えてある。以下同じ)、

   *

 かくて淸盛公、仁安三年[やぶちゃん注:一一六八年。]十一月十一日、歲五十一にて、病ひに侵され、存命の爲にとて、卽ち出家入道す。法名をば淨海とこそつき給へ。その故にや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。出家の後も、榮耀(えいえう)は猶ほ盡きずとぞ見えし。おのづから人の從ひつくき奉る事は、吹く風の草木(くさき)をなびかすが如く、世の仰げる事も、降る雨の國土を潤すに同じ。六波羅殿の御一家(ごいつけ)の君達(きんだち)とだにいへば、華族も英雄も、誰(たれ)肩を雙(なら)べ、面(おもて)を向ふ者なし。又、入道相國の小舅(こじうと)、平(へい)大納言時忠の卿の宣ひけるは、「この一門にあらざらむ者は、皆、人非人なるべし」とぞ宣ひける。されば、如何なる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかき樣に至るまで、何事も六波羅樣(やう)といひてしかば、一天四海の人、皆、これを學ぶ。

   *

とあるのに基づく。なお、ウィキの「平時忠」によれば、時忠は承安四(一一七四)年正月に建春門院の御給(ごきゅう)により従二位に叙せられたが、『平氏の栄華をたたえて「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(現代語訳した「平家にあらずんば人にあらず」で有名な語)との発言をしたのはこの時期とされる』。『ただし、この「人非人」とは「宮中で栄達できない人」程度の比較的軽い意味だという説が有力である(当時の宮中人全般にとって、宮中人ではない下級武家や庶民が自分たちと同じ「人」ではないことはわざわざ言うもまでない自明の理であった)』とある。

「數」命数。運命。]

 

天下太平は武備機關の制度と兩立せず。生產的發展は爭亂の時代と並存せず。今や平氏の成功は、其武備機關の制度と兩立する能はざる天下太平を齎せり[やぶちゃん注:「もたらせり」。]。天下太平は物質的文明の進步を齎し、物質的文明の進步は富の快樂を齎せり。單に富の快樂を齎せるのみならず、富の渴想を齎せり。單に富の渴想を齎せるのみならず、又實に富の崇拜を齎し來れり。長刀短褐、笑つて死生の間に立てる伊勢平氏の健兒を中心として組織したる社會にして、是に至る、焉ぞ[やぶちゃん注:「いづくんぞ」。]傾倒を來さゞるを得むや。

[やぶちゃん注:「短褐」麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。]

 

平氏が藤門の長袖公卿を追ひて一門廟廊に滿つるの成功を恣[やぶちゃん注:「ほしいまま」。]にせるは、唯彼等が剛健なりしを以て也。唯彼等が粗野なりしを以て也。唯彼等が菜根を嚙み得しを以て也。詳に云へば、唯彼等が、東夷西戎の遺風を存ぜしを以て也。彼等は富貴の尊ぶべきを知らず、彼等は官爵の拜すべきを解せず、彼等は唯、馬首一度敵を指せば、死すとも亦退くべからざるを知るのみ。しかも往年の高平太が一躍して太政大臣の印綬を帶ぶるや、彼等は彼等を圍繞[やぶちゃん注:「ゐねう(いにょう)」。]する社會に、黃金の勢力を見、紫綬の勢力を見、王笏の勢力を見たり。彼等は、管絃を奏づる公子を見、詩歌を弄べる王孫を見、長紳を拖ける月卿を見、大冠を頂ける雲客を見たり。約言すれば彼等は始めて富の快樂に接したり。富の快樂は富の渴想となり、富の渴想は忽に富の崇拜となれり。

[やぶちゃん注:「高平太」「たかへいた」平清盛の無位無官の少年時代(十四~十五歳)の「京童」(後出)のつけた蔑称。無粋な繩緒の「高」下駄を履いた「平」家の「太」郎(長男)の謂い。

「王笏」「わうしやく(おうしゃく)」。「笏」は「こつ」と読んでもよい。「笏」は束帯の際に威儀を正すために用いた長さ一尺二寸(約四十センチメートル)の板状のものであるが、ここはそれを持つ天皇以下の高級公家の喩え。

「拖ける」「ひける」。長紳(正装の際に附ける大帯)を後ろに「垂らして引いてゆく」ことを指す。]

 

海賊と波濤とを敵とせる伊勢平氏の子弟にして、是に至る、誰か陶然として醉はざるを得るものぞ。然り、彼等は泥の如くに醉へり。恰も南下漢人を征せる、拓跋魏の健兒等が、其北狄の心情を捨てゝ、悠々たる中原の春光に醉へるが如く、彼等も亦富の快樂に沈醉したり。於是、彼等は其長紳を拖き、其大冠を頂き、其管絃を奏で、其詩歌を弄び、沐猴にして冠するの滑稽を演じつゝ、しかも彼者自身は揚々として天下の春に謳歌したり。

[やぶちゃん注:「伊勢平氏」清盛の五代前の平安中期の武将平維衡(これひら 生没年不詳)が伊勢守となり、伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となり、その子正度(まさのり)らの活動によって確固たる勢力を築いた。

「南下漢人を征せる、拓跋魏の健兒等」南下して侵略してくる漢民族を征討する北魏(三八六年~五三四年)の若武者たち。北魏は南北朝時代に鮮卑族(せんぴぞく:紀元前三世紀から六世紀にかけて中国北部にいた遊牧騎馬民族)の拓跋氏(たくばつし:中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を持っていた鮮卑拓跋部の中心氏族。狭義には拓跋鄰の直系で、後に鮮卑を統一して北魏を建国した家系)によって建てられた。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。

「沐猴にして冠する」「もつこう(もっこう) にしてかん(或いは「かむり」)す」で、項羽が都とするのに適した関中の地を去って故郷に帰りたがったのを、ある者が「所詮、猿が衣冠をつけたようなもので、天下をとれる人物ではない」と嘲ったという「史記」の「項羽本紀」の「人言、楚人沐猴而冠耳、果然」に基づく故事成句。外見は立派でも内実がそれに伴わない人物の喩え、或いは、小人物が相応しくない任にあることを喩える。]

 

野猪も飼はるれば痴豚に變ず。嘗て、戟を橫へて、洛陽に源氏の白旄軍を破れる往年の髭男も、一朝にして、紅顏涅齒、徒に巾幗の姿を弄ぶ三月雛となり了ンぬ。一言すれば、彼等は武士たるの實力をすてゝ、武士たるの虛名を擁したりき。武士たるの習練を去りて、武士たるの外見を存したりき。平氏の成功は天下太平を齎し、天下太平は平氏の衰滅を齎す。

[やぶちゃん注:「野猪」基礎底本は「豪猪」(狭義にはヤマアラシ(哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科 Hystricomorpha のヤマアラシ科 Hystricidae 及び アメリカヤマアラシ科 Erethizontidae)を指す。強いイノシシの積りで記したものであろう)。芥川龍之介自身の書入れで訂した。

「白旄」「はくばう(はくぼう)」。白毛の旗の総飾(ふさかざ)りで、白旗を旗印とした源氏を指し、その「軍を破れる」で「保元・平治の乱」を謂ったもの。

「涅齒」「でつし(でっし)」。お歯黒。鉄漿(かね)で歯を黒く染めることで、当時の公卿の習慣。

「巾幗」「きんくわく(きんかく)」。本来は女性の髪飾り(一説では女性が喪中に被る頭巾)を指すが、ここは「女性的」の意。]

 

彼等がかくの如く、長夜の惰眠に耽りつゝありしに際し、時勢は駸々として黑潮の如く、革命の氣運に向ひたりき。あらず、精神的革命は、既に冥默の間に成就せられし也。

[やぶちゃん注:「駸駸」「しんしん」。原義は「馬の進みの速いさま」で、転じて「時間・歳月などの早く進みゆくさま」「物事の進行の早いさま」を謂う。]

 

平氏の盛運は、藤原氏の衰運なりき。法性寺關白をして「此世をば我世とぞ思ふ」と揚言せしめたる、藤門往年の豪華は遠く去りて、今や幾多の卿相は、平氏の勃興すると共に、彼等が漸[やぶちゃん注:「やうやく」。]、西風落日の悲運に臨めるを感ぜざる能はざりき。嘗て彼等が夷狄を以て遇したる平氏は、却て彼等を遇するに掌上の傀儡[やぶちゃん注:「くわいらい」。]を以てせむとしたるにあらずや。嘗て彼等が、地下の輩と卑めたる平氏は、却て彼等をして其殘杯冷炙に甘ぜしめむとしたるにあらずや。而して嘗て屢々京童の嘲笑を蒙れる、布衣韋帶の高平太は、却て彼等をして其足下に膝行せしめむとしたるにあらずや。約言すれば、彼等は遂に彼等對平氏の關係が、根柢より覆されたるを、感ぜざる能はざりき。典例と格式とを墨守して、悠々たる桃源洞裡の逸眠を貪れる彼等公卿にして、かゝる痛烈なる打擊の其政治的生命の上に加へられたるを見る、焉ぞ多大の反感を抱かざるを得むや。然り、彼等は平氏に對して、はた入道相國に對して、漸くに抑ふべからざる反感を抱くに至れり。彼等は秩序的手腕ある大政治家としての入道相國を知らず。唯、鎌倉時代の遊行詩人たる琵琶法師をして、「傳へ承るこそ、言葉も心も及ばれね」と、驚歎せしめたる、直情徑行の驕兒としての入道相國を見たり。權勢攝籙の家を凌ぎ、一門悉、靑紫に列るの橫暴を恣にせる平氏の中心的人物としての入道相國を見たり。狂悖暴戾、餘りに其家門の榮達を圖るに急にして彼等が莊園を奪つて毫も意とせざりし、より大膽なるシーザーとしての入道相國を見たり。是豈彼等の能く忍ぶ所ならむや。

[やぶちゃん注:「法性寺關白」「ほつしやうじかんぱく(ほっしょうじかんぱく)」。平安後期の公卿藤原忠通(承徳元(一〇九七)年~長寛二(一一六四)年)のこと。忠実の長男で摂政・関白。美福門院と結んで父及び弟頼長と対立し、「保元の乱」の起因を作った。但し、ウィキの「藤原忠通」によれば、本来、『対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった』とある。

「此世をば我世とぞ思ふ」「法性寺關白をして」は誤り。筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」の注によれば、『この歌は忠通ではなく、法性寺摂政、御堂関白と称した』遙か前の、かの『藤原道長の作である』。「小右記』(しょうゆうき)『」寛仁二』(一〇一八)年『十月十六日の条』や「大日本史」に出ている』とある。この時、道長の娘威子(いし/たけこ)が後一条天皇の中宮となり、その立后の儀の後、道長の自宅で酒宴が開かれた際に詠んだもので、一首は、

 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

である。この誤認は芥川龍之介にして、ちと、痛い。

「殘杯冷炙」「ざんぱいれいしや(れいしゃ)」。そっけない扱いをされ、辱めをうけること。 「殘杯」は「他の人が口をつけて残した酒」、「冷炙」は「焼いたあと時間が経って冷めてしまった肉」の意。

「布衣韋帶」「ふいゐたい」。無位無官の貧しく身分の低い人を指す。「布衣」は「粗末な木綿の布で作った衣服」、「韋帶」は野蛮な「鞣(なめ)し革で出来た帯」のこと。「漢書」の「賈山伝」による故事成句。

「傳へ承るこそ、言葉も心も及ばれね」「平家物語」巻頭の「祇園精舍」の中間部の一節。

「攝籙」「せつろく」。「籙」は「符」の意。天子に代わって籙を摂(と)るの意から、摂政関白のことを指す。

「狂悖暴戾」「きやうはいぼうれい(きょうはいぼうれい)」と読む。「狂悖」は「非常識で不道徳な言動をすること」、「暴戾」は「荒々しく、道理に反する行いをすること」。]

 

彼等が平氏に對して燃ゆるが如き反感を抱き、平氏政府を寸斷すべき、危險なる反抗的精神をして、霧の如く當時の宮廷に漲らしめたる、寧ろ當然の事となさざるを得ず。かくの如くにして革命の熱血は沸々として、幾多長袖のカシアスが脈管に潮し來れり。是平氏が其運命の分水嶺より、步一步を衰亡に向つて下せるものにあらずや。しかも平氏は獨り、公卿の反抗を招きたるのみならず、王荊公に髣髴たる學究的政治家、信西入道が、袞龍の御衣に隱れたる黑衣の宰相として、屢謀を帷幄の中にめぐらしゝより以來、寒微の出を以て朝榮を誇としたる院の近臣も亦、平氏に對する恐るべき勁敵なりき。彼等は素より所謂北面の下﨟にすぎずと雖も、猶龍顏に咫尺して、日月の恩光に浴し、一旦簡拔を辱うすれば、下北面より上北面に移り、上北面より殿上に進み、遂には親しく、廟堂の大權をも左右するに至る。かくの如き北面の位置が、自ら大膽にして、しかも、野心ある才人を糾合したるは、蓋又自然の數也。而して此梁山泊に集れる十の智多星、百の霹靂火が平氏の跋扈[やぶちゃん注:「ばつこ(ばっこ)」。]を憎み、入道相國の專橫を怒り、手に唾して一擧、紅幟の賊を仆さむと試みたる、亦彼等が位置に、頗る似合たる事と云はざるべからず。しかも彼等は近く、平治亂に於て、源左馬頭の梟雄を以てするも、猶彼等の前には、敗滅の恥を蒙らざる可からざるを見たり。七世刀戟の業を繼げる、源氏の長者を以てするも、亦斯くの如し。平門の小冠者を誅するは目前にありとは、彼等が、竊に恃める所なりき。名義上の勢力に於ても、外戚たる平氏に劣らず、事實上の勢力に於ても莊園三十余州に及ぶ平氏に多く遜らざる彼等にして、かくの如き自信を有す。彼等が成功を萬一に僥倖して、劍を按じて革命の風雲を飛ばさむと試みたる、元より是、必然の事のみ。試に思へ、西光法師が、平氏追討の流言あるを聞いて、白眼瞋聲、「天に口なし人を以て云はしむるのみ」と慷慨したる當時の意氣を。傍若無人、眼中殆んど平氏なし。彼は院の近臣の心事を、最も赤裸々に道破せるものにあらずや。

[やぶちゃん注:「カシアス」共和政ローマ末期の軍人政治家ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(ラテン語:Gaius Cassius Longinus 紀元前八七年又は紀元前八六年頃~紀元前四二年)。所謂、シーザー、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar 紀元前一〇〇年~紀元前四四年)を暗殺した首謀者の一人。

「潮し來れり」「てうしきたれり(ちょうしきたれり)」表面に表わし来った。

「王荊公」宋の政治家にして詩人・文章家の唐宋八大家の一人王安石(一〇二一年~一〇八六年)の尊称。儒教史上に於いて新学「荊公新学」の創始者であることに因む。

「信西」(しんぜい 嘉承元(一一〇六)年~平治元(一一六〇)年)は藤原南家貞嗣流の公家で学者・僧侶。信西は出家後の法名で、号は円空、俗名は藤原通憲(みちのり)又は姓を高階とも。正五位下・少納言。中世国家の国制を固めた人物。父(大江匡房の「江談抄」の筆録をした藤原実兼)が早く亡くなったため、受領の高階経敏の養子となって世に出た。苦労して幾多の学問を修め、やがて政治への意欲を深めたが、鳥羽上皇・待賢門院の判官代から日向守になった段階で出世の壁に突き当たり、そこで出家を望んで藤原姓に戻って少納言を最後として出家したが、逆にその身軽な立場を利用して政治の中枢へと踏み込んだ。法体(ほったい)の鳥羽法皇に接近を図り、妻の紀伊(藤原朝子)が後白河天皇の乳母となっていたことから、自身は乳父となってその皇位継承を求めた。近衛天皇が亡くなり、次の天皇が問題になった際、鳥羽法皇の寵妃美福門院が養子の守仁親王(後白河天皇の実子。後の二条天皇)を推したのに対し、摂関家の藤原忠通と謀り、父を差しおいて子が帝位につくのは不当と訴え、遂に後白河の即位を実現させた。だが、崇徳上皇の勢力もあり、皇位も間もなく譲らなければならない約束が美福門院との間にあったことから、ここで彼が政治的敏腕を発揮することとなった。 保元元(一一五六)年七月に鳥羽法皇が亡くなると、それを機会に源氏・平氏の武士を動員して、崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り(保元の乱)、長い年月停止されていた死刑を復活して(弘仁九(八一八)年の嵯峨天皇の「弘仁格」の発布以来、三百三十八年間もの間、本邦では公的な死刑は一切行われていない)、武士を斬首し、頼長の所領などを没収して天皇直轄領の後院領とすることで、少ない荘園所領から出発した天皇の経済的な基盤の拡充に努め、後白河天皇の立場を不動のものとし、「九州の地は一人の有(も)つところなり、王命の外、何ぞ私威を施さん」と、王権による日本国の支配を高らかに宣言して保元の新制を定めた。それに沿って記録所を置いて荘園を整理し、悪僧・神人(じにん)の濫行を取り締まり、京都の整備や大内裏の再興を果たすなど、天皇の支配権の下に新たな体制を実行に移した。古い行事や公事の復興にも努め、内宴を復活するなど、芸能も再興した。ここに中世国家の基本的な枠組みは整った。しかし、「保元の乱」後、数年にして政敵に倒される。美福門院が守仁親王の即位を求めてきて後白河が退位したのがその始まりで、やがて上皇になった後白河が院近臣の藤原信頼を寵愛したことを、中国の玄宗の長恨歌を絵巻にして諫めたものの、逆に信西によって近衛の大将の望みを拒否されて恨んでいた信頼の謀反によって「平治の乱」が引き起こされてしまう。信西は大和をへ逃げようとしたが、途中で発見され、自死に追い込まれた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「袞龍の御衣」「こんりゆうのぎよい」。天子の龍の縫い取りを飾った礼服。

「帷幄」「ゐあく」。謀り事をめぐらす本営。参謀本部。

「寒微の出」出自が貧しく身分が賤しいこと。

「勁敵」「けいてき」。強敵。

「咫尺」「しせき」。「咫」は周代の長さの単位で八寸(当時の一寸は二・二五センチメートルしかないので、十八センチメートル)、「尺」は十寸(二十二・五センチメートル)で「距離が非常に近いこと」から転じて、「貴人の前近くに出て拝謁すること」を謂う。ここは前の天子の顔を意味する「龍顏」があるから、まさに後者。

「簡拔を辱うすれば」「かんばつをかたじけのうすれば」。畏れ多くも特に選び出して登用戴いてからというものは。

「糾合」「きうがふ(きゅうごう)」。「糾」は「縄を縒(よ)り合せる」の意で、ある目的の下に人々を寄せ集めて一つに纏めること。

「自然の數」当然の成り行き。

「智多星」「水滸伝」中の呉用の綽名。ウィキの「呉用」によれば、『天機星』(星辰学の南斗六星(射手座の一部)第三星。知恵・精神・理想・認識・計画性・温厚などを属性とする)『の生まれ変わりで、序列は梁山泊第三位の好漢』。『天下に並びない智謀の持ち主で、軍師として神算鬼謀の限りを尽くした。しかし』「三国志演義」の臥龍諸葛亮孔明(一八一年~二三四年:後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家で軍師)の『ような神懸り的な人物ではなく、失敗もすれば』、『冗談も飛ばす人間的な人物である。戦略や謀略の才には長けているが、実践の戦術や兵法に関する造詣は次席の軍師・朱武に多少』、『劣る。また、鎖分銅の使い手でもある』とある。

「霹靂火」(へきれきくわ)は「水滸伝」中の秦明(しんめい)の綽名。ウィキの「秦明」によれば、『天猛星』(天罡(てんこう)星(北斗星)三十六の一つ)『の生まれ変わりで、序列は梁山泊第七位の好漢。渾名は霹靂火で、非常に短気で剛直な性分と、大変大きな怒鳴り声を稲妻に例えたもの』。『狼牙棒という六尺余りの鉄棒の先にサボテン状の多数の棘のある重りが付いた、敵を兜や鎧ごと叩き潰す武器を得意とする。剛直で短気な絵に描いたような猛将で、戦場ではその武勇と勇猛さで大いに活躍するが、その性格が災いして不覚を取ることも多い』とある。

「紅幟の賊」「こうしきのぞく」。赤旗に象徴される平氏を指す。

「源左馬頭」「みなもとのさまのかみ」。当代の源氏(河内源氏)の統領源義朝(保安四(一一二三)年~平治二(一一六〇)年)。

「梟雄」「けうゆう(きょうゆう)」。残忍で強く荒々しいこと。通常は主として悪者などの首領に言うが、ここはフラットな勇猛果敢な武士の統領の謂い。

「七世刀戟の業」「ななせいたうげきのげふ(たたせいとうげきのぎょう)」源氏の正統な濫觴とされる平安中期の六孫王経基の嫡男で多田源氏の祖である多田(源)満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)から数えて義朝まで、七代に亙って武将の家柄であったことを指す。源満仲の三男源頼信(安和元(九六八)年~永承三(一〇四八)年)が河内国石川郡壺井を本拠地として河内源氏の祖となり、義朝はその嫡流六代後が義朝である。

「遜らざる」「おとらざる」。「劣らざる」。

「西光法師」(?~治承元(一一七七)年)は廷臣にして僧。俗名は藤原師光。もとは阿波国の在庁官人であったという。藤原家成の養子で藤原信西の乳母子。内舎人・滝口・院北面・左衛門尉。「平治の乱」に敗れた信西の死に際し、出家して西光と称した。出家後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。治承元(一一七七)年、「鹿ケ谷の謀議」が発覚、六月一日、平清盛に捕らえら、法皇及び藤原成親ら近臣との謀議を白状し、その夜、斬首された。「平家物語」では西光の最期について「もとよりすぐれたる大剛の者」と評して、清盛と対決し、その経歴を罵倒する様子を描いている(ここは「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。

「僥倖」「げうかう(ぎょうこう)」。思いがけない幸い。偶然に得た幸運。

「瞋聲」「しんせい」。激しい怒りの声。

「天に口なし人を以て云はしむるのみ」「天に口無し、人を以つて言はしむ」の句形で知られる。「天には口がないので何も語らぬけれども、その意思は人々の口を通して告げられるものである」の意。その故事成句の出典は未詳であるが、ここは「平家物語」巻第一の「淸水炎上(きよみづえんしやう)」(叡山延暦寺の僧兵達が対抗勢力であった奈良興福寺の末寺であった清水寺を焼き討ちした事件の下り)の一節の西光の台詞に拠る。流布本を参考に前後を示す。

   *

 淸水寺(せいすいじ)やけたりける朝(あした)、

『觀音火坑變成池(くわんおんくわけうへんじやうち)は如何に』

と札(ふだ)を書きて、大門(だいもん)の前にたてたりければ、次の日、又、

『歷劫(りやくこふ)不思議力(ちから)及ばず』

と、かへしの札をぞ打つたりける。

 衆徒(しゆと)歸り上(のぼ)りにければ、一院[やぶちゃん注:後白河上皇。]、六波羅より還御なる。重盛卿(しげもりのきやう)ばかりぞ御送りには參られける。父の卿は參られず。猶ほ用心の爲めかとぞ見えし。

 重盛卿御送りより歸られたりければ、父の大納言、宣ひけるは、

「一院の御幸こそ大きに恐れ覺ゆれ。かけても思し召しより仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞ゆらめ。それにも猶打ち解け給ふまじ[やぶちゃん注:そなたもゆめゆめ心を許し申し上げてはならぬぞ。]。」

とのたまへば、重盛卿、申されけるは、

「この事、ゆめゆめ、御氣色(おんけしき)にも、御詞にも出ださせ給ふべからず。人に心つけ顏に、なかなか、惡しき御事なり。これにつけても、叡慮に背き給はで、人の爲めに御情(おんなさけ)をほどこさせましまさば、神明三寶(しんめいさんぼう)、加護(かご)あるべし。さらんに取つては、御身の恐れ候ふまじ[やぶちゃん注:そのように致せば、父上の御不安も生じますまい。]。」

とて、立たれければ、

「重盛卿はゆゆしく大樣(おほやう)なるものかな。」

とぞ、父の卿も宣ひける。

 一院、還御の後、御前に疎(うと)からぬ近習者達(きんじゆしやたち)、數多(あまた)候はれけるに、

「さても、不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを[やぶちゃん注:自敬表現。]。」

と仰せければ、院中(ゐんぢう)の切者(きりもの)[やぶちゃん注:切れ者。]に西光法師といふ者あり。折節、御前(ごぜん)近う候ひけるが、

「『天に口なし、人(にん)を以つて云はせよ』と申す。平家、以つての外に過分に候ふ間、天の御計(おんぱか)らひにや。」

とぞ申しける。人々、

「この事、よしなし。壁に耳あり。恐ろし恐ろし。」

とぞ、各(おのおの)私語(ささや)きあはれける。

   *

少し注する。

・札の落書「觀音火坑變成池は如何に」というのは、『「法華経普門品」には「観音の功徳は業火を吹き出す火の穴をも清浄な池に変ずる」とあるのにこの有様はどういうことなんや?』という揶揄で、返しの「歷劫不思議力及ばず」は表向きは『観音力(かんのんりき)の不可思議なることは深遠にして測り難きものしにして人知の及ぶところではない』の意であるが、しかしこれは前の落書を受けたもので、『観音力やら不思議やらもちいとも力が及ばなんだということやて』の含みであると私は読む。

・「大樣」は器量が大きいこと。

・後白河上皇の「さても、不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを」というのは、この「淸水炎上」の前の方で、『何者の申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆(だいしゆ)に仰せて、平家を追討せらるべし」と聞えしかば』とい流言飛語を指す。]

 

しかも、彼等の密邇し奉れる後白河法皇は、入道信西をして、「反臣側[やぶちゃん注:「かたはら」。]にあるをも知ろしめさず。そを申す者あるも、毫も意とし給はざる程の君也」と評せしめたる、極めて敢爲の御氣象に富み給へる、同時に又、極めて術數を好み給ふ君主に、おはしましき。かくの如き法皇にして、かくの如き院の近臣に接し給ふ、欝勃たる反平氏の空氣が、遂に恐るべき陰謀を生み出したる、亦怪むに足らざる也。此時に於て、隱忍、輕悍、驕妬の謀主、新大納言藤原成親が、治承元年山門の爭亂に乘じ、名を後白河法皇の院宣に藉り、院の嬖臣を率ゐて、平賊を誅せむとしたるが如き、其消息の一端を洩したるものなりと云はざるべからず。小松内大臣が「富貴の家祿、一門の官位重疊せり。猶再實る木は其根、必傷るゝとも申しき。心細くこそ候へ」と、入道相國を切諫したる、素より宜[やぶちゃん注:「むべ」。]なり。若し夫[やぶちゃん注:「それ」。]、唯機會だにあらしめば、弓をひいて平氏政府に反かむとするもの、豈獨り、院の近臣に止らむや。一葉落ちて天下の秋を知る。平治の亂以來、茲に[やぶちゃん注:「ここに」。]十八星霜、平氏は此陰謀に於て、始めて其存在の價値を問はむとするものに遭遇したり。是、壽永元曆の革命が、漸くに其光茫を現さむとするを徵するものにあらずや。

[やぶちゃん注:「密邇」「みつじ」。間近く接すること。

「反臣側にあるをも知ろしめさず。そを申す者あるも、毫も意とし給はざる程の君也」筑摩書房全集類聚版注には、九条兼実(記載当時は右大臣・内覧)の日記『「玉葉」寿永三年』(一一八四)『三月十六日、大外記』清原頼業(よりなり 保安三(一一二二)年~文治五(一一八九)年)『から聞いたこととして載せる』(これは過去の故信西の話を記載したもの。この年の七月二十五日には平家は都落ちしている)が、或いはこれは『他にも出典があるか』とある。

「敢爲」「かんゐ」。困難に屈することなく物事をやり通すこと。敢行。

「輕悍」「けいかん」。動きが素早く、気性が荒いこと。

「驕妬」「けうと(きょうと)」。嫉み深く、我儘なこと。

「藤原成親」藤原成親(なりちか 保延四(一一三八)年~安元三(一一七七)年)。当時は正二位・権大納言。「鹿ヶ谷の謀議」で西光の自白により安元三年六月一日に拘束され、一旦は助命されて備前国に配流されたが、食物を与えられずに崖から突き落とされて殺害された。

「治承元年」一一七七年。

「山門の爭亂」「白山(はくさん)事件」のこと。筑摩書房全集類聚版注に、『治承元年』『五月、西光父子』(西光の子には藤原師高・師経・師平・広長らがいる)『の讒言により天台座主明雲』(みょううん 永久三(一一一五)年~寿永二(一一八四)年:後の「平家都落ち」には同行せず、延暦寺に留まったが、翌寿永二(一一八三)年に源義仲が後白河法皇を襲撃した「法住寺合戦」の際、義仲四天王(他に今井兼平・樋口兼光・根井光親)の一人楯親忠(たてのちかただ)の放った矢に当たって落馬し、親忠の郎党に斬首された。義仲は差し出された明雲の首を「そんなものが何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初であった。ここはウィキの「明雲」に拠った)『が伊豆へ流されようとしたのを、山門(比叡山延暦寺)の僧たちが取り返した』騒擾事件。これが『後白河法皇と山門の対立となった』とある。

「嬖臣」「へいしん」。お気に入りの近臣。

「小松内大臣」平重盛。

「富貴の家祿、一門の官位重疊せり。猶再實る木は其根、必傷るゝとも申しき。心細くこそ候へ」「平家物語」巻之二の「烽火之沙汰」の冒頭の、重盛が、後白河法皇を幽閉しようと計画する入道を袖を濡らしながら説得し続けるシークエンスの重盛の言葉の一節。

   *

「是れは君(きみ)の御理(おんことはり)にて候へば、叶はざらむまでも、院中(ゐんぢう)を守護し參らせ候ふべし。其の故は、重盛、敍爵より、今、大臣の大將(だいしやう)に至るまで、しかしながら[やぶちゃん注:総て。]君の御恩ならずと云ふ事なし。この恩の重(おも)き事を思へば、千顆萬顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にも越え、其の恩の深き色を案ずるに、一入再入(いちじふさいじふ)の紅(くれなゐ)[やぶちゃん注:二度も濃く染め上げた紅色。]にも猶ほ過ぎたらん。然(しか)らば、院中へ參り籠り候ふべし。其の儀にて候はば、重盛が身に代り、命(いのち)に代らんと契りたる侍(さぶらひ)ども、少々、候ふらん。これらを召し具して、院の御所法住寺殿(ほふぢうじどの)を守護し參らせ候はば、さすが以つての外の御大事(おんだいじ)でこそ候はんずらめ。悲しきかな、君の御爲めに奉公の忠を致さんとすれば、迷盧(めいろ)八萬の頂きより猶ほ高き父の恩、忽ちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御爲めには既に不忠の逆臣となりぬべし。進退(しんだい)、惟れ、窮まれり、是非いかにも辨へ難し。申し請くるの所詮は[やぶちゃん注:詰るところは。]、ただ重盛が頸を召され候へ。その故は、院參(ゐんざん)の御供(おんとも)をも仕るべからず。かの蕭何(せうが)は、大功、かたへに越えたるに依つて、官、大相國(たいしやうこく)に至り、劍(けん)を帶し、沓(くつ)を履きながら殿上にのぼる事を許されしかども、叡慮に背く事ありしかば、高祖、重う警(いまし)めて、深う罪せられにき。かやうの先蹤(せんじよう)を思へば、冨貴と云ひ、榮華といひ、朝恩と申し、重職(ちようじよく)と云ひ、かたがた、極めさせ給ひぬれば、御運(ごうん)の盡きんこと、難かるべきにあらず。冨貴の家には、祿位、重疊(ちようでふ)せり。再び實(み)なる木は、其の根、必ず傷(いた)むと見えて候ふ。心細うこそ候へ。いつまでか命生きて、亂れん世をも見候ふべき。只だ末代に生(しやう)を受けて、かかる憂き目に逢ひ候ふ重盛が果報の程こそ、つたなう候へ。ただ今、侍(さぶらひ)一人(いちにん)に仰せ付けて、御坪(おんつぼ)[やぶちゃん注:院御所の御内庭。]のうちに引き出だされて、重盛が首(かうべ)の刎(は)ねられん事は、易い程の御事でこそ候へ。是れを、各(おのおの)聞き給へ。」

とて、直衣(なほし)の袖も絞る許りにかき口說き、さめざめと泣き給へば、その座に並み居給へる平家一門の人々、皆、袖をぞ濡らされける。

   *

少し注しておく。

・「迷盧(めいろ)八萬の頂き」「迷盧」は世界の中央に聳えるとする須弥山(しゅみせん)のこと。八万由旬(「倶舎論」などでは一由旬を約七キロメートルとするから、それで換算すると五十六万キロメートルになる)ある須弥山の頂上。梵語「スメール」の漢音写「蘇迷盧(そめいろ)」の略。

・「蕭何」(しょうか ?~紀元前一九三年)は秦末から前漢初期にかけての政治家で劉邦(後の後に出る漢の「高祖」)の天下統一を支えた三傑の一人。ウィキの「蕭何」によれば、漢の成立後、疑い深い劉邦も当初、『蕭何だけは信用していたため』、『功績により、臣下としては最高位の相国に任命され』た。『しかし』次第に『劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし財産を国に差し出したりして、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのであ』った。『長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因』と『なった』。そこで『蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期』、『投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した』(この辺りのことを重盛は言っているようである)。『劉邦の死の』二『年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる』とある。

「一葉落ちて天下の秋を知る」「落葉が早い青桐(あおぎり)の葉が一枚落ちるのを見て秋の来たことを知る」の意から転じて、「僅かな前触れから将来の大きな動きを予知することが可能である」ことの喩え。「淮南子」の「説山訓」の「見一葉落、而知歲之將暮」(一葉(いちえふ)の落つるを見て、歳(とし)の將に暮れなんとするを知る」に基づく。

「壽永元曆の革命」ここは狭義に、栄華を誇った平家が滅亡に至った「治承・寿永の乱」の最後の戦いである元暦二/寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日)の中の「壇ノ浦の戦い」を指すと考えてよい。この二年前の寿永二年八月二十日、安徳の後を神鏡剣璽がないままに後鳥羽天皇が即位してしまい、「元暦」と改元された。この芥川龍之介の謂いは、平氏の側がこの改元を認めず、それまでの「寿永」の元号をその滅亡まで使い続けたことに拠る。]

 

かくの如くにして、平氏政府は、浮島の如く、其根柢より動搖し來れり。然れ共、吾人は更に恐るべき一勢力が、平氏に對して終始、反抗的態度を、渝へ[やぶちゃん注:「かへ」。]ざりしを忘るべからず。

[やぶちゃん注:「根柢」底本は「根底」であるが、ここは新全集に拠った。筑摩書房全集類聚版も「根柢」である。

「吾人」「ごじん」。一人称人代名詞。「私(わたくし)」、或いは一人称複数の人代名詞。「我々」。ここは後者。芥川龍之介は本作で何度も用いているが、中には前者の意味でも使用している。]

 

更に恐るべき一勢力とは何ぞや。曰く南都北嶺の僧兵也。僧兵なりとて妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]笑ふこと勿れ。時代と相容るゝ能はざる幾多、不覊不絆の快男兒が、超世の奇才を抱いて空しく三尺の蒿下に槁死することを得ず。遂に南都北嶺の緇衣軍に投じて、僅にその幽憤をやらむとしたる、彼等の心事豈[やぶちゃん注:「あに」。]憫む可からざらむや。請ふ再吾人をして、彼等不平の徒を生ぜしめたる、當時の社會狀態を察せしめよ。

[やぶちゃん注:「南都北嶺」強大な寺社勢力の内、特に強力であった奈良興福寺と比叡山延暦寺のことを指す。

「不覊不絆」「ふきふはん」。物事に束縛されることなく、行動が自由気儘であること。

「蒿下に槁死する」「こうかにかうし(こうし)する」。草の蓬(よもぎ)の下に枯れて死ぬ。

「緇衣軍」「しいぐん・しえぐん」「緇衣」は僧が着る墨染めの法衣を指し、転じて僧を意味する。ここはこの三字で僧兵のこと。]

 

平和の時代に於ける、唯一の衞生法は、すべてのものに向つて、自由競爭を與ふるにあり。而して霸權一度、相門を去るや、平氏が空前の成功は、平家幾十の紈袴子をして、富の快樂に沈醉せしむると同時に、又藤原氏六百年の太平の齎せる、門閥の流弊をも、蹈襲せしめたり。是に於て平氏政府は、其最も危險なる平和の時代に於て、新しき活動と刺戟とを鼓吹すべき、自由競爭と、完く兩立する能はざるアンチポヂスに立つに至りぬ。かくの如くにして社會の最も健全なる部分が、漸に平氏政府の外に集りたる、幾多の智勇辨力の徒が既に、平氏政府の敵となれる、而して平氏政府に於ける、位爵と實力とが將に反比例せむとするの滑稽を生じたる、亦宜ならずとせむや。此時にして、高材逸足の士、其手腕を振はむとする、明君の知己に遇ふ、或は可也。賢相の知遇を蒙る、亦或は可也。然れ共、若し遇ふ能はずンば、彼等は千里の駿足を以て、彼等の轗軻に泣き、彼等の不遇に歎じ、拘文死法の中に宛轉しつゝ、空しく槽櫪の下に朽死せざる可からず。夫、呑舟の大魚は小流に遊ばず。「男兒志願是功名」の壯志を負へる彼等にして無意義なる繩墨の下に其自由の餘地を束縛せられむとす。是豈彼等の堪ふる所ならむや。是に於て、彼等の或者が、「衆人皆醉我獨醒」を哂ひて佯狂の酒徒となれるが如き、彼等の或者が麥秀の悲歌を哀吟して風月三昧の詩僧となれるが如き、はた、彼等の或者が、滿腔の壯心と痛恨とを抱き去つて南都北嶺の圓頂賊に投ぜしが如き、素より亦怪しむに足らざる也。加ふるに彼等僧兵の群中には幾多、市井の惡少あり、幾多山林の狡賊あり、而して後年明朝の詩人をして「橫飛双刀亂使箭、城邊野艸人血塗」と歌はしめたる、幾多、慓悍なる日本沿海の海賊あり。是等の豪猾が、所謂堂衆なる名の下に、白晝劍戟を橫へて天下に橫行したる、彼等の勢力にして恐るべきや知るべきのみ。想ひ見よ、幾千の山法師が、日吉權現の神輿を擁して、大法鼓をならし、大法螺を吹き、大法幢を飜し、咄々として、禁闕にせまれるの時、堂々たる卿相の肝膽屢是が爲に寒かりしを。狂暴狼藉眼中殆ど王法なし。彼等が橫逆の前には白河天皇の英明を以てするも、「天下朕の意の如くならざるものは、山法師と双六の采と鴨川の水とのみ」と浩歎[やぶちゃん注:「かうたん(こうたん)」。]し給はざるを得ざりしにあらずや。

[やぶちゃん注:「相門」「さうもん(そうもん)」。大臣の家柄。ここは藤原氏を指す。

「紈袴子」「ぐわんこし(がんこし)」。「紈袴」は白練りの絹で仕立てた袴のことで、昔、中国で貴族の子弟が着用したことから、転じて「紈袴子」で「貴族の子弟」、特にその「柔弱な者」を指す。

「アンチポヂス」antipodes。対蹠(たいせき)地。「地球上で正反対の側にある二つの地点」「正反対の対象」の意。ギリシャ語で「~と正反対のところに足の位置する」「反対の足」の意が語源。英語の場合のカタカナ音写は「アンティパディーズ」が近いが、語源のそれからは「アンティポデス」で芥川龍之介の音写はそれに拠る。

「轗軻」「かんか」。「車が思うように進まないこと」の意から転じて、「世間に認められないこと・志を得ないこと」の意。

「拘文死法」役に立たぬ規則や法律。

「槽櫪」「さうれき(そうれき)」馬の飼い葉桶。或いは馬小屋。

「男兒志願是功名」「男兒の志願、是れ、功名のみ」か。筑摩書房全集類聚版は『出典未詳』とし、少しばかり調べてみたが、ぴったりと一致するものは見当たらなかった。

「繩墨」「じようぼく(じょうぼく)」法律・規則。原義は文字通りの「墨縄(すみなわ)」で、木材に真っ直ぐな線を引くために用いる墨壺に巻き込まれてある糸のこと。

「呑舟の大魚は小流に遊ばず」「舟を丸呑みするほどの大魚は、小さな川には棲まない」で、「大人物はつまらない者と交わったりはしないこと」「高遠な志を抱く者は小事には関わらないこと」の喩え。「列子」の「楊朱」の「呑舟之魚不游支流」(呑舟の魚は支流に游(およ)がず)に拠る。

「衆人皆醉我獨醒」筑摩書房全集類聚版は『出典未詳』とするが、これは解せない。高校の漢文の定番である「楚辞」の「漁父辞」の一節、

 衆人皆醉

 我獨醒

  衆人 皆 醉ひ

  我れ獨り 醒めたり

だぜ? 普通の高校生なら誰でも知ってるはずだけどな?

「佯狂」「やうきゃう(ようきょう)」。偽って狂気を装うこと。

「麥秀の悲歌」「史記」の「宋微子世家」で知られる「麦秀の嘆」のこと。「秀」は麦の穂が伸びるさまを指す。国が滅亡したことを嘆くことを指す。殷の紂王の暴虐を諌めた賢臣の箕子(きし)が、殷の滅んだ後、旧都の跡を通りかかったが、栄華の面影もなく、一面に麦の穂が伸びているのを見て、

 麥秀漸漸兮

 禾黍油油

 彼狡僮兮

 不與我好兮

  麥 秀でて 漸漸たり

  禾黍(かしよ) 油油(ゆゆ)たり

  彼(か)の狡僮(かうどう)

  我と好からざりき

と詠って嘆息したという故事に基づく。「漸漸」麦の穂の麦の秀でるさま。「兮」(音「ケイ」)は語調を整える助辞。「禾黍」稲や黍(きび)。「油油」潤いを以って艶やかに生えているさま。「狡僮」悪餓鬼。狡賢(ずるがしこ)い奴。紂王を指す。「不與我好」は「私とは折りが合わなかったな」の意。その彼が国とともに滅んだ感慨を強く含む。なお、ウィキの「箕子」によれば、武王が殷を倒して周を建国したが、武王は箕子を崇めて家臣とせずに朝鮮侯に封じた。箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、そこで礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また、「犯禁八条」を実施して民を教化し、箕子朝鮮を建国したとされる。

「圓頂賊」僧兵。

『明朝の詩人をして「橫飛双刀亂使箭、城邊野艸人血塗」と歌はしめたる』筑摩書房全集類聚版注では、『未詳。詩は倭寇を詠んだもの』として、『横飛する双刀、乱使する箭、城辺の野草』は『人血にまみ』れていった感じで注するが、調べて見た結果、明代の進士で官吏であった王問という人物の「彼倭行」という詩篇の一部であることが、石原道博氏の論文「明代の日本美術文化論(下):日中美術文化の交流・第四部」(『茨城大学五浦美術文化研究所報』(一九七五年八月発行・リンク先は「OSEリポジトリいばらき(茨城大学学術情報リポジトリ)」でPDF)で判明した。当該論文の二十一ページにこの二句が載る。

「慓悍」「へうかん(ひょうかん)」。素早い上に荒々しく強いこと。

「堂衆」筑摩書房全集類聚版注に、『本来は延暦寺三塔』(東塔・西塔(さいとう)・横川(よかわ))『に花を奉る役、転じて僧兵』とある。

「日吉權現」「ひえ」と読んでおく。現在の比叡山の麓の滋賀県大津市坂本にある日吉(ひよし)大社。最澄が比叡山上に延暦寺を建立した際、比叡山の地主神である当社を寺の守護神として崇敬したことから、延暦寺や朝廷の信仰が厚かった。

「大法幢」「だいほふどう」。僧兵の掲げた旗鉾(はたほこ)。但し、一般にこの語は「仏法」の比喩として用いられる。

「禁闕」「きんけつ」。禁裏・禁中に同じい。御所。「闕」は宮城の門のこと。

「白河天皇」(在位:延久四(一〇七三)年~応徳三(一〇八七)年)。当時、摂関家の勢力減退に乗じ、実権を伸ばした。第三皇子善仁親王(堀河天皇)に譲位するも、その後も上皇として院政を開始した。仏教に帰依し、永長元(一〇九六)年に剃髪して法皇となったが、依然として院政を執り、それは堀河・鳥羽・崇徳の三代にも亙った。法勝寺を始めとする多くの造寺造仏や鳥羽離宮などの大土木工事は、富裕な受領層の力によるところが多かった。その治世は通常、「天下三不如意」、則ち、「山法師、賀茂川の水、双六の采(さい)」として伝えられているが、これは当時の世相の混乱を示すものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、この言葉、以下に示す「平家物語」以外には記載が見られないことはあまり知られていないと思うので、言い添えておく。

「天下朕の意の如くならざるものは、山法師と双六の采と鴨川の水とのみ」この場合は「平家物語」巻第一「願立(ぐわんだて)」冒頭の引用。

   *

『賀茂川の水、雙六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまぼふし)、是れぞ、わが心に叶(かな)はぬもの』と、白河院(しらかはのゐん)も仰せなりけるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の御時、越前の平泉寺(へいせんじ)を山門へつけられけるには、當山を御歸依あさからざるによつて、『非をもつて理(り)とす』とこそ宣下せられて、院宣をば、下されけり。江帥匡房卿(がうぞつきやうばうのきやう)の申されしは、

「神輿を陣頭(ぢんどう)へ振り奉つて訴訟を致さば、君(きみ)、如何(いかに)御許(おんぱから)ひ候ふべき。」

と申されければ、

「げにも、山門の訴訟は默止(もだ)しがたし。」

とぞ仰せける。

   *

この「江帥」(ごうのそつ)大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:彼は大宰府権帥に二度就任している)の言葉は「源平盛衰記」によれば、寛治六(一〇九二)年に同僚の実務官僚藤原為房が、自身の下人が日吉神社の神人(じにん)を殺害したとの理由によって延暦寺の衆徒から訴えられ、阿波権守に左遷された事件(但し、翌年に赦されて帰京している)の折りのものとされるようである(新潮社「日本古典文学集成」の注を参照した)。

「浩歎」「かうたん(こうたん)」大いに歎くこと。]

 

然れ共、彼等の恐るべきは是に止らざる也。彼等は、彼等の兵力以外に、更に更に熱烈なる、火の如き信仰を有したりき。彼等は上、王侯を知らず、傍、牧伯を恐れず、彼等は僅に唯佛恩の慈雨の如くなるを解するのみ。然り、彼等は、より剛勇なるサラセンの健兒也。苟も、佛法に反かむとするものは、其攝關たると、弓馬の家たると、はた、萬乘の尊たるとを問はず、悉く彼等の死敵のみ。既に彼等の死敵たり、彼等は何時にても、十萬橫磨の劍を驅つて[やぶちゃん注:「かつて」。]、之と戰ふを辭せざる也。見よ、西乘坊信救は、「太政入道淨海は、平家の糟糠、武家の塵芥」と痛罵して、憚らざりしにあらずや。彼の眼よりすれば、海内の命を掌握に斷ぜる入道相國も、唯是剛情なる老黃牛に過ぎざる也。しかも彼等は、平刑部卿忠盛が、弓を祇園の神殿にひきしより以來、平氏に對して止むべからざる怨恨を抱き、彼等の怨恨は、平氏の常に執り來れる高壓的手段によつて、更に萬斛の油を注がれたるをや。所謂、靑天に霹靂を下し、平地に波濤を生ずるを顧みざる彼等にして、危險なる不平と恐怖すべき兵力を有し、しかも、觸るれば手を爛燒せむとする、宗敎的赤熱を帶ぶ、天下一朝動亂の機あれば、彼等が疾風の如く起つて平氏に抗するは、智者を待つて後始めて、知るにあらざる也。

[やぶちゃん注:「牧伯」「牧」にはもともと中国では古く「地方の長官」を指す意味があり、これも同義で、それを国字では転じて「大名」の意味に使用している。筑摩書房全集類聚版注では『諸侯』と注するが、これも国字としては大名の意である。しかし時代的に「大名」ではおかしいので、公家の中級の遥任国司或いは上級の武家豪族の内で任官(遥任・実務を含む)していた連中を総称して指していると考えてよかろう。

「サラセン」Saracen。ヨーロッパで、古代にはシリア付近にいたアラブ人の、中世にはイスラム教徒の総称。特に七世紀にアラビア半島に興り、八世紀まで広範な地域を領有したイスラム帝国の通称。ここは後者でよかろう。但し、「サラセン」は他称であり、そこにはイスラムに対する誤った理解が付き纏うとして、近年では殆んど用いられない。

「萬乘の尊」「なんじようのそん」。天皇のこと。「乗」は「車」で、周代、天子は直轄地から戦時に兵車一万台を徴発することが出来たことによる別称。

「十萬橫磨の劍」筑摩書房全集類聚版注に、『磨(と)いだ剣をつけた十万の兵士』とある。

「西乘坊信救」「さいじょうぼうしんきゅう(現代仮名遣)」は大夫房覚明(たゆうぼうかくめい)の別称(「覚明」は「かくみょう」、「信救」は「しんぎょう」とも読む)。生年不詳で仁治二(一二四一)年没か。源義仲の右筆。ウィキの「覚明」によれば、『元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られ』、『俗名は道広といい、勧学院で儒学を学び、蔵人などを務めたが、発意あって出家し、最乗房信救と名乗った。最初は比叡山に入り、南都にも行き来していたという』。治承四(一一八〇)年の『以仁王の挙兵に際し、以仁王の令旨によって南都寺社勢力に決起を促されると、覚明は令旨に対する南都の返書を執筆し、文中で平清盛に対し「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」」と激しく罵倒して清盛を激怒させた。平氏政権によって身柄の探索を受けた覚明は北国へ逃れ、その過程で源義仲の右筆となって大夫房覚明と名乗』った。『その後』、『義仲の上洛に同道し、比叡山との交渉で牒状』(ちょうじょう:順に回して用件を伝える書状。回状)『を執筆するなどして活躍した』。義仲の没後は『元の名の信救得業を名乗り、箱根山に住んだ。鎌倉でも活動しており』、「吾妻鏡」によれば、建久元(一一九〇)年五月三日、『源頼朝・北条政子夫妻列席の下、頼朝の同母妹である坊門姫の追善供養を行い、足利義兼を施主とする一切経・両界曼荼羅供にも参加している』。一寸ブレイクする。「吾妻鏡」が出ては、凝っとしておれないのが私の悪い癖。

【「吾妻鏡」の記載は以下。

三日丙辰 於南御堂。爲一條殿追善。被修佛事。導師信救得業。被供養繪像阿彌陀三尊。二位家幷御臺所有御聽聞。前少將時家取導師被物。左衛門尉祐經引同馬云々。

○やぶちゃんの書き下し文

三日丙辰 南御堂に於いて、一條殿[やぶちゃん注:一条能保(よしやす 久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)。後白河法皇に仕えたが、源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えていたことから、頼朝の信頼が厚く、朝廷と幕府のパイプ役として、敵も多かったが、よく活躍した。後代の幕府第四代将軍九条頼経は頼朝の同母姉妹であるこの坊門姫の曾孫であることを理由として将軍に擁立されたものである)。]の追善と爲(し)て、佛事を修せらる。導師は信救得業(しんきうとくごふ)。繪像の阿彌陀三尊を供養せらる。二位家[やぶちゃん注:頼朝。]幷びに御臺所、御聽聞有り。前少將時家[やぶちゃん注:平時家(?~建久四(一一九三)年)。先に出た権大納言平時忠の次男。従四位下・右少将。平家一門でありながら、源頼朝に味方してその側近として仕えた。但し、平家滅亡後に「信時」と改名しているのでこの「吾妻鏡」の表記(後に編集されたもの)は正しくない。]、導師の被物(かづけもの)を取り、左衛門尉祐經(すけつね)[やぶちゃん注:工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四(一一九三)年六月二十八日)。頼朝の寵臣であったが、この三年後、曾我祐成・時致(ときむね)兄弟に父河津祐泰(かわずすけやす)の仇きとして討たれた。]、同じく馬を引くと云々。】

但し、建久六(一一九五)年十月十三日の条には、『頼朝により箱根神社への蟄居が命じられたことが記録されており、何らかの忌避に触れたものと見られる』。同前。

【「吾妻鏡」の記載は以下。

十三日乙丑 故木曾左馬頭義仲朝臣右筆有大夫房覺明者。元是南都學侶也。義仲朝臣誅罰之後。歸本名。號信救得業。當時住筥根山之由。就聞食及之。山中之外。不可出于鎌倉中幷近國之旨。今日被遣御書於別當之許云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日乙丑[やぶちゃん注:「甲子」の誤り。]故木曾左馬頭義仲朝臣が右筆に大夫房覺明(かくめい)なる者、有り。元は是れ、南都の學侶なり。義仲朝臣誅罰の後、本名に歸(き)し、信救得業(しんきうとくごふ)と號す。當時、筥根山(はこねさん)に住むの由、之れを聞こし食し及ぶに就きて、山中の外、鎌倉中幷びに近國に出づべからざるの旨、今日、御書を別當の許へ遣はさると云々。】

『文学的才能に長け、箱根神社の縁起を起草し』、「和漢朗詠集私注」を著している』。「沙石集」では『覚明について、その文才と舌鋒の鋭さによって各所で筆禍事件を起こしている様子が記されている』。ブレイクする。これは現行の通行する流布本ではなく、古本にあるもので以下。底本は一九六六年刊の岩波日本古典文学大系「沙石集」(渡邊綱也校注)の末に載る「拾遺」に拠った(その八十二項目)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

ソノカミ東大寺法師ニテ、信救得業トテ、才覺ノ仁アリケリ。朗詠注ナドシタル物也。山法師ノ事ヲ、一卷ノ眞言ニツクリテ、陀羅尼ヲ說テ曰、唵山法師、腹黑々々、欲深々々、アラニクヤ娑婆訶トツクレリ。信救ゾシツラントテ、山法師イキドヲリフカヽリケレバ、本寺ヲハナレテ、田舎ニ住ケリトイヘリ。是ヲ思ニ、唵ノ下ヲトリカヘテ、ナラ法師・京法師・田舍法師モ、俗士モ女人モ、老少貴賤トリカへトリカヘ、カキ入ヌべキ世中也。

   *

文中の「唵」は「オン」と読み、梵語の漢音写。インドの宗教や哲学に於いて、神聖にして神秘的な意味を持つとされる発語。仏教でも真言や陀羅尼の冠頭に置かれることが多い。「帰命(きみょう)」(「南無」に同じ。本来は身体を屈して敬礼することを指し、特に合掌することを指すが、転じて「全身全霊をもって仏陀に傾倒すること」などと解釈されるようになった語)・「供養」・「仏の三身」を表わすとするなど、種々の解釈がある。また「娑婆訶」は原文の「蘇婆訶・薩婆訶」の誤記であろう。「そはか(そわか)」で、密教に於いて呪文の最後に附ける語。密教ではさまざまに解釈するが、元来は仏への感嘆・呼びかけの語である。

『覚明については謎と伝承に彩られており、その後についても、義仲の遺児にまつわる覚明神社(広島県尾道市向島)の落人伝説や、海野幸長と同一人物とする説、西仏と名乗って親鸞や法然に帰依したとの説もあるが、伝承の域を出ない』。なお、「平家物語」には『覚明著とされる願文などが複数収められている事から、物語成立への』彼の『関与も指摘されている』とある。

「太政入道淨海は、平家の糟糠、武家の塵芥」「淨海」は清盛の法名。「平家物語」巻第七「木曾の願書」の一節。私の好きなシークエンスでもあり、前の部分の途中の覚明登場のシーンから願書の提示部までを引く。

   *

大夫房覺明(だいふばうかくめい)を召して、

「義仲こそ何(なに)となう寄すると思ひたれば、幸ひに新(いま)八幡の御寶前(ごほうぜん)に近か付き奉つて、合戰を既に遂げんとすれ。さらんにとつては、且(かつう)は後代(こうたい)の爲め、且は當時の祈禱にも、願書(ぐわんじよ)を一筆(ひとふで)書いて參らせばやと思ふは如何に。」

覺明、

「尤もしかるべう候ふ。」

とて、馬(むま)より下りて書かんとす。覺明が爲體(ていたらく)、褐(かち)の直垂(ひたたれ)に黑革威(くろかはをどし)の鎧着て、黑漆(こくしつ)の太刀を帶(は)き、廿四、差(さ)いたる黑母呂(くろぼろ)[やぶちゃん注:鷲の「ほろ羽」(両の翼の下に連なる羽)で矧(は)いだ矢。]の矢負ひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓、脇に挾み、甲(かぶと)をば脫ぎ、高紐にかけ、箙(えびら)より小硯(こすずり)、疊紙(たたうがみ)取り出だし、木曾殿の御前(おんまへ)に畏まつて願書(ぐわんじよ)を書く。あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける。

 この覺明はもと儒家(じゆけ)の者なり。藏人(くらんど)道廣(みちひろ)とて、勸學院にありけるが、出家の後は、最乘房信救(しんぎう)とぞ名のりける。常は南都へも通ひけり。髙倉宮の園城寺(をんじやうじ)に入らせ給ひし時、山・奈良へつかはしたりけるに、南都の大衆(だいしゆ)如何思ひけん、その返牒(へんでふ)をば、この信救にぞ書かせたりける。『抑(そも)淸盛入道は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんがい)』と書いたりける。入道、大(おほ)きに怒つて、

「何條(なんでふ)、その信救めが、淨海(じやうかい)程の者を、平氏の糟糠(ぬかかす)、武家の塵芥(ちりあくた)と書くべき樣(やう)こそ奇怪なれ。急ぎ、その法師め捕つて、死罪に行なへ。」

と宣ふ間、これに依つて、南都には堪へずして、北國(ほつこく)へ落ち下り、木曾殿の手書(てかき)して、大夫房覺明とぞ名乘る。

 その願書(ぐわんじよ)に云はく、

『歸命頂禮(きみやうちやうらい)、八幡大菩薩は、日域朝廷(じちいきてうてい)の本主(ほんじゆ)、累世明君(るいせいめいくん)の曩祖(なうそ)なり。寶祚(はうそ)を守らんがため、蒼生(さうせい)[やぶちゃん注:人民。]を利せんが爲めに、三身(さんじん)の金容(きんよう)[やぶちゃん注:法身(ほっしん:仏性)・報身(ほうじん:仏性の顕在的属性としての修行して成仏する姿)・応身(おうじん:仮に人として出現した釈迦)の三様態を具足した金色(こんじき)の尊い姿。別に八幡の本地を弥陀三尊とする謂いとも。]をあらはし、三所(さんじよ)[やぶちゃん注:八幡の祭神である応神天皇・神功皇后・姫大神。]の權扉(けんぴ)[やぶちゃん注:「權」は本地に対する垂迹のことを指す。]を排(おしひら)き給へり。ここに頃年(しきりのとし)[やぶちゃん注:近年。]よりこのかた、平相國といふ者あり。四海を管領(くわんりやう)し、萬民を惱亂せしむ。是れ、既に佛法の怨(あた)、王法(わうぼふ)の敵(かたき)なり。義仲、いやしくも弓馬の家に生(むま)れて、纔かに箕裘(ききう)[やぶちゃん注:父祖伝来の家業。]の塵(ちり)を繼ぐ。かの暴惡を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道(てんたう)に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、兇器を退けんとす。然(しか)るに鬪戰(たうせん)、兩家(りやうか)、陣を合はすと雖も、士卒、未だ一致の勇(いさみ)を得ざる間、區々(まちまち)の心、恐れたる處に、今、一陣、旗を擧ぐ。戰場にして、忽ちに三所(さんじよ)和光の社壇を拜す。機感(きかん)の純熟、明らかなり[やぶちゃん注:感応成就の機の熟せること、明白である。]。凶徒誅戮、疑ひなし。歡喜(くわんぎ)、淚(なんだ)翻(こぼ)れて、渴仰(かつがう)、肝(きも)に染む。就中(なかんづく)、曾祖父(ぞうそぶ)前(さきの)陸奧守義家(ぎかの)朝臣、身を宗廟の氏族(しぞく)に歸附(きふ)して、名を「八幡太郞」と號(かう)せしより以來(このかた)、門葉たる者、歸敬(ききやう)せずと云ふ事なし。義仲、その後胤として首(かうべ)を傾けて年久し。今、この大功を起こす事、譬へば、嬰兒の貝を以つて巨海を量り、蟷螂(たうらう)が斧を怒らかいて隆車(りうしや)に向ふが如し。然りと雖も國の爲め、君(きみ)の爲めにして、これを起こす。全く家の爲め、身の爲めにしてこれをを起こさず。志しの至り、神感、空(そら)にあり。憑(たのも)しきかな、悅(よろこ)ばしきかな。伏して願はくは、冥顯(みやうけん)[やぶちゃん注:ここはあらゆる神仏の意。]、威(ゐ)を加へ、靈神、力を戮(あ)はせて、勝つ事を一時(いつし)に決し、怨(あた)を四方に退け給へ。然(しか)れば則ち、丹祈(たんき)冥慮(みやうりよ)に叶ひ、玄鑑(げんかん)[やぶちゃん注:神仏の照覧。]加護(かご)をなすべくんば、先づ一つの瑞相を見せしめ給へ。壽永二年五月十一日源義仲、敬(うやま)つて白(まう)す。』

と書いて、我が身を始めて十三騎が上矢(うはや)の鏑(かぶら)を拔き、願書(ぐわんじよ)に取り添へて、大菩薩の御寶殿にこそ納めけれ。憑(たのも)しきかな、大菩薩、眞實の志し、二つなきをや、遙かに照覽し給ひけん、雲の中より、山鳩三つ飛び來つて、源氏の白旗(しらはた)の上に翩飜(へんばん)す。

   *

「老黃牛」「らうわうぎう」と音読みしていよう。訓ずれば、「おい」たる「あめうし」(「あめうじ」とも読んだ)で、飴色の毛色の牛。古くは体質が強健な上に暑さにも強く、農耕牛として貴ばれた。

「平刑部卿忠盛が、弓を祇園の神殿にひきし」清盛の父平忠盛(永長元(一〇九六)年~仁平三(一一五三)年)。これは久安三(一一四七)年六月十五日に起こった「祇園闘乱事件」。但し、矢を放ったのは忠盛(その場には彼ではなく、清盛がいた。以下の引用を参照)ではなく、彼の家の郎党である。ウィキの「祇園闘乱事件」によれば、この日は祇園社(の現在の八坂神社)臨時祭であったが、その『夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎められたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり』、『多数の負傷者が発生する騒ぎとなった。しばらくは何事も起こら』なかったが、十一日後、『祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院して』鳥羽法皇に『闘乱の事を訴えた。これに対して忠盛は先手を打って、下手人』七『人の身柄を院庁に差し出し、法皇はこれを検非違使庁に引き渡した』。『しかし延暦寺は納得せず』、二十八『日、大衆が日枝社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。法皇は大衆の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向かわせて防備を固めた』。『大衆は徒党を組み、わめき叫ぶ声が洛中に響き渡ったという。法皇は側近の藤原顕頼を奏者として院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると約束したため、大衆は一旦』、『引き下がった』。三十『日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿が集まり、祇園闘乱についての議定が開かれた。忠盛は事件に関知していないので責任はない、下手人を尋問すべきという意見が大勢を占める中、頼長は』「春秋左氏伝」の宣公二年(紀元前六〇七年)の『故事を引き合いに出し、本人が関知していなくても』、『山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、責任を免れることはできない』、『と持論を展開』、『顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず』、『現場を検分する使者を出すという方針が定まった。その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、大衆の主張と食い違う部分もあったという』。七月五日、『検非違使庁で拷問を受けた下手人が、田楽の集団の背後にいたところ』、『社内で闘諍があったので矢を射たと自白した』。同月八『日、延暦寺・祇園社の書状、検分による被害の調査報告書、検非違使庁の尋問記録に基づいて法家に清盛の罪名を勘申するよう宣旨が下った』。『一方、裁決の遅れに憤激した延暦寺の大衆は、再び強訴の態勢に入った。法皇は天台座主・行玄に大衆を制止するよう院宣を下し』、十五『日には北面武士を西坂下に、「諸国の兵士」(畿内近国の国衙の武士)を如意山路並びに今道に配備して、大衆の入京を断固阻止する姿勢を示した。武士は』三『日交替で厳重な警戒に当たり、洛中では大規模な閲兵と行軍が数次に渡って展開された』。二十三『日、再び議定が開かれるが』、『欠席者が多く延期となり』、二十四『日の議定も「諸説繁多」で結論が出なかった』。しかし『夜になって法皇が裁決を下し、清盛を「贖銅』(しょくどう/ぞくどう:実刑の代わりに罪相当額の銅を官司へ納入する罰金刑。「養老律令」の時代に最初に制定された)『三十斤」の罰金刑に処すことが決まった』。二十七『日、闘乱を謝罪する奉幣使が祇園社に派遣され』、八月五日には贖銅の太政官符に捺印の儀式があり、事件に一応の区切りがつけられた』。『延暦寺の大衆にとっては大いに不満の残る結末となり、怒りの矛先は強訴に協力的ではなかった寺内の上層部に向けられた。延暦寺では』十一『日から』十三『日にかけて、無動寺にあった天台座主・行玄の大乗房が大衆に襲撃される騒動が勃発し、以後』、三『ヵ月に渡って内紛が続くことになる。法皇は延暦寺の不満を宥めるため、翌久安』四年二月二十日に『祇園社で法華八講を修し、忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進し』ているとある。]

 

かくの如くにして、卿相の反感と、院の近臣の陰謀とは、疎膽、雄心の入道相國をして、遂に福原遷都の窮策に出で、僅に其橫暴を免れしめたる、烈々たる僧兵の不平と一致したり。しかも、平氏は獨り彼等の反抗を招きたるに止らず[やぶちゃん注:「とどまらず」。]、今や入道相國の政策の成功は、彼が滿幅の得意となり、彼が滿幅の得意は彼が空前の榮華となり、彼が空前の榮華は、時人をして「入る日をも招き返さむず勢」と、驚歎せしめたる彼が不臣の狂悖となれり。天下は亦平氏に對して少からざる怨嗟と不安とを、感ぜざる能はざりき。彼が折花攀柳の遊宴をにしたるが如き、彼が一豎子の私怨よりして關白基房の輦車を破れるが如き、將[やぶちゃん注:「まさに」。]彼が赤袴三百の童兒をして、飛語巷說を尋ねしめしが如き、平氏が天下に對して其同情を失墜したる亦宜ならずとせず。是に於て平氏政府は、刻々ピサの塔の如く、傾き來れり。

[やぶちゃん注:「疎膽」「そたん」。粗暴なる心。

「福原遷都」治承四(一一八〇)年六月、平清盛は京都から摂津福原(現在の神戸市兵庫区・中央区附近)に都を移した。以仁王と源頼政の挙兵(同年五月)等の政情不安や、寺院勢力の圧迫を避けるために行ったが、都城造営も進まぬうち、十一月には再び京に都を戻している。

「滿幅」ある限り全部。完全に総て。「全幅」に同じい。

「入る日をも招き返さむず勢」これは特に引用ではなく、擬古文でそれらしく見せたものであろう。ありがちな伝承表現である。

「不臣の狂悖」筑摩書房全集類聚版注はこれ全体で、『臣下として』狂い、『道にそむく行いをする』と注する。

「折花攀柳」「せつくははんりう」。女性を慰みものにすることの喩え。

「一豎子の私怨よりして關白基房の輦車を破れる」清盛の嫡男重盛の次男資盛(応保元(一一六一)年~寿永四(一一八五)年)が九歳の童子(「豎子」(じゆし(じゅし))であった嘉応二(一一七〇)年七月(或いは十月)、当時の摂政松殿基房(事件当時は満二十五、六歳)の一行が女車に乗った平資盛と出遭い、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父重盛の武者が基房の従者を襲撃して報復を行った「殿下乗合(てんがのりあい)事件」。ウィキの「殿下乗合事件」によれば、「平家物語」では、『報復を行った首謀者を資盛の祖父』『清盛(重盛の父)に設定し、「平家悪行の始め」として描いている』。「玉葉」、慈円の「愚管抄」、「百錬抄」(鎌倉末期に成立した編年体通史。現在は全十七巻の内、初めの三巻が欠落。著者不明であるが、鎌倉後期の公家と考えられる)等記載によれば、同年七月三日のこととし、『法勝寺での法華八講への途上、基房の車列が女車と鉢合わせをした。基房の従者たちがその女車の無礼を咎め、乱暴狼藉を働いた』。『その車の主が資盛であることを知った基房は』、『慌てて使者を重盛に派遣し、謝罪して実行犯の身柄の引き渡しを申し出る。激怒した重盛は謝罪と申し出を拒否して使者を追い返した。重盛を恐れた基房は、騒動に参加した従者たちを勘当し、首謀者の身柄を検非違使に引き渡すなど』、『誠意を見せて』、『重盛の怒りを解こうとした』。『しかし、重盛は怒りを納めず』、『兵を集めて報復の準備をする。これを知った基房は恐怖の余り』、邸内に籠り、『参内もしなくなっ』てしまう。『しかし、高倉天皇の加冠の儀には摂政として参内しないわけには行かず』、十月二十一日、その参内途上、『重盛の軍兵に襲われ、前駆』五『名が馬から引き落とされ』、四『人が髻』(もとどり)『を切られたという。基房が参内できなかったため』、『加冠の儀は延期されたとされている』。但し、二十四日には『基房と重盛は同時に参内しており、両者間の和解が成立したようである。また、同年』十二『月に基房が太政大臣に就任したのは』、『清盛が謝罪の気持ちで推挙したためとも言われている』。『だが』、「玉葉」では『報復した犯人の名前は書かれておらず、重盛と断定していない』。また、この報復が行われたその日、清盛は福原にいたことを以って清盛は犯人ではないとする説もあるが、こうした報復は、無論、『命令をして部下にやらせるのが常であり、重盛がやったと風聞する事』もまた、『幾らでも可能であり』、結局のところ、『実際の真犯人』(教唆犯と実行犯)『は不明と言ってもよい』。『資盛もこの件で昇進が止まる』結果と『なり、浮上は鹿ケ谷の陰謀後となる』。一方、「平家物語」の描写では同年十月十六日のこととし、『参内途上の基房の車列が』、『鷹狩の帰途にあった』『資盛の一行と鉢合わせをした』が、『資盛が下馬の礼をとらな』かった『ことに怒った基房の従者達が』、『資盛を馬上から引き摺り下ろして辱めを加えた』とする。『これを聞いた祖父の清盛は』十月二十一日に『行われた新帝元服加冠の儀のため』に『参内する基房の車列を』三百『騎の兵で襲撃し、基房の随身たちを馬から引き摺り下ろして髻を切り落とし、基房の牛車の簾を引き剥がすなどの報復を行い、基房は参内できず』、『大恥をかいた。これを聞いた重盛は騒動に参加した侍たちを勘当した他、資盛を伊勢国で謹慎させた。これを聞いた人々は平家の悪行を怒ると』ともに、『重盛を褒め称えた』とする。「平家物語」に於ける『記述は、清盛を悪役、重盛を平家一門の良識派として描写する、物語の構成上の演出のための創作であると考えられている』とある。「平家物語」巻第一の「殿下乘合(てんがののりあひ)」(「殿下」は当時は摂政・関白の敬称)当該部も以下に示しておく。

   *

平家も又、別して朝家を恨み奉る事もなかりしほどに、世の亂れ初(そ)めける根本(こんぼん)は、去(いん)じ嘉應二年十月十六日、小松殿の次男、新三位中將(しんざんみのちゆうじやう)資盛、その時は未だ越前守とて生年十三になられけるが、雪ははだれに降つたりけり。枯野の景色、誠に面白かりければ、若き侍(さぶらひ)ども三十騎斗り召し具して、蓮臺野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)にうち出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉(うづら)・雲雀(ひばり)を追つ立て、終日(ひねもす)に狩り暮し、薄暮に及んて六波羅へこそ歸られけれ。

 その時の御攝籙(ごせつろく)[やぶちゃん注:摂政。]は松殿にてぞましましける。東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門(いうはうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門(おほいのみかど)を西へ御出(ぎよしゆつ)なるに、資盛朝臣(すけもりのあそん)、大炊御門猪熊(おほいみかどのゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に、鼻つきに[やぶちゃん注:出会い頭に。]參り合ふ。御(お)ともの人々、

「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乘物より下り候へ、下り候へ。」

といらでけれども[やぶちゃん注:苛立って叫んだけれども。]、餘りに誇り勇(いさ)み、世を世ともせざりける上、召し具したる侍ども、皆、二十(にじふ)より内の若者どもなりければ、禮儀骨法(こつぽふ)[やぶちゃん注:作法に同じい。]わきまへたる者一人(いちにん)もなし。殿下(てんが)の御出とも云はず[やぶちゃん注:であること自体を問題ともせず。]、一切(いつせつ)[やぶちゃん注:全く。]下馬(げば)の禮儀(れいぎ)にも及ばず、只だ驅け破つて通らんとする間、暗さは暗し、つやつや[やぶちゃん注:少しも。]入道の孫とも知らず、又、少々は知うたれども、そら知らずして、資盛朝臣を始めとして、侍ども、皆、馬(むま)より取つて引き下(おろ)し、頗る恥辱に及びけり。

 資盛朝臣、はふはふ、六波羅へ歸りおはして、祖父(おほぢ)の相國禪門にこの由訴へ申されければ、入道、大(おほ)きに怒つて、

「縱(たと)ひ殿下(てんが)なりとも、淨海があたりをば憚り給ふべきに、左右無(さうなき)う[やぶちゃん注:遠慮もなく。]、あの少(をさな)き者に恥辱を與へられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人には欺(あざむ)かるるぞ[やぶちゃん注:侮られることになるのだ。]。この事、殿下に思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや。」

と宣へば、重盛卿、申されけるは、

「是れは少しも苦しう候ふまじ。賴政・光基(みつもと)なんど申す源氏どもにあざむかれて候はんは、誠に一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子どもとて候はんずる者が、殿(との)の御出(ぎよしゆつ)に參り逢(あ)うて、乘物より下り候はぬこそ尾籠(びろう)に候へ。」[やぶちゃん注:「光基」(別本では「時光」)は多田源氏の一流の人物らしいが、同定出来ないようである。]

とて、その時、事に逢うたる侍ども、皆、召し寄せて、

「自今以後(じごんいご)も、汝等、よくよく心得べし。誤まつて殿下(てんが)へ無禮の由を申さばやと思へ。」

とて、歸(かへ)られけり。

 その後、入道相國、小松殿にはかうとも宣ひも合はせず、片田舍の侍の、きはめてこはらかにて入道殿の仰せより外は、世に又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)・瀨尾(せのを)[やぶちゃん注:難波次郎経遠・瀬尾太郎兼康。孰れも清盛の近習。]を始めとして、都合六十餘人、召し寄せて、

「來(きたる)二十一日、殿下(てんが)御出(ぎよしゆつ)あるべかんなり。いづくにても待ち受け奉り、前驅(せんぐ)・御隨身(みずゐじん)どもが髻(もとどり)、切つて、資盛が恥、すすげ。」

とこそ宣ひける。

 殿下(てんが)是れを夢にもしろしめさず、主上(しゆしやう)明年(みやうねん)御元服(ごげんぶく)・御加冠・拜官の御(おん)さだめの爲めに、御直盧(ごちよくろ)[やぶちゃん注:摂政・関白の宿所。]にあるべきにて、常(つね)の御出(ぎよしゆつ)よりも引きつくろはせ給(たま)ひ、今度(こんど)は待賢門より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門を西へ御出(ぎよしゆつ)なるに、猪熊堀川(ゐのくまほりかは)の邊(へん)に、六波羅の兵(つはもの)ども、直甲(ひたかぶと)[やぶちゃん注:全員が完全に鎧兜で武装していること。フルメタル・ジャケット。]三百餘騎、待ち受け奉り、殿下を中に取り籠め參らせて、前後より一度に、鬨(とき)を、

「どつ。」

とぞ、つくりける。前驅(せんぐ)・御隨身(みずゐじん)どもが、今日(けふ)を「はれ」と裝束(しやうぞ)いたるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に凌礫(りようりやく)[やぶちゃん注:辱めて。]して、一々(いちいち)に、皆、髻を切る。隨身十人の内、右の府生(ふしやう)[やぶちゃん注:近衛府の武官。]武基(たけもと)が髻も切られてげり。その中に、藤藏人大夫(とうくらんどのたいふ)隆敎(たかのり)が髻を切るとて[やぶちゃん注:「藤」は藤原姓。「玉葉」にはこの事件の時の前駆(まえがけ)として「高範」の名を記す。]、

「これは汝が髻と思ふべからず。主(しゆ)の髻と思ふべし。」

といひ含めてきつてげる。

 その後(のち)は、御車(おんくるま)の内へも、弓(ゆみ)の弭(はず)、突き入れなどして、簾、かなぐり落とし、御牛(おうし)の鞅(むながい)・鞦(しりがい)、切り放ち、かく散々(さんざん)にし散らして、悅びの鬨をつくり、六波羅へこそ參りたれば、入道、

「神妙(しんべう)なり。」

とぞ宣ひける。

 御車副(おんくるまぞひ)には、因幡の先使(さいづかひ)[やぶちゃん注:公卿が国守を兼帯している場合に在庁官人に訓示する文書を届けさせるための使者のこと。]、鳥羽の國久丸(くにひさまる)と云ふ男(をのこ)、下﨟なれども、さかざかしき者にて、御車をしつらひ、乘せ奉つて、中御門の御所へ還御なし奉る。

 束帶の御袖(おんそで)にて御淚をおさへさせ給ひつつ、還御の儀式のあさましさ、申すも、なかなか、おろかなり。

大織冠(たいしよくくわん)[やぶちゃん注:藤原鎌足。]・淡海公(たんかいこう)[やぶちゃん注:藤原不比等。]の御事はあげて申すに及ばず、忠仁公(ちゆうじんこう)[やぶちゃん注:藤原良房。皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在で、良房の子孫達は相次いで摂関となった。無論、基房は藤原北家である。]・昭宣公(しやうぜんこう)[やぶちゃん注:藤原基経。叔父であった良房の養子となり、摂政となった。]より以降(このかた)、攝政・關白のかかる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。これこそ平家の惡行(あくぎやう)の始めなれ。

 小松殿、この由を聞き給ひて、大(おほ)きに恐れ騷がれけり。その時、行き向うたる侍(さぶらひ)ども、皆、勘當せらる。

「縱ひ入道、如何なる不思議を下地(げぢ)し給ふとも、など重盛に夢ばかり知らせざりけるぞ。凡そは、資盛、奇怪なり。『栴檀は二葉より香(かうば)し』とこそ見えたれ。既に十二、三にならんずる者が、今は禮儀を存知(ぞんぢ)してこそ振る舞ふべきに、かやうに尾籠を現(げん)じて、入道の惡名(あくみやう)を立つ。不孝の至り、汝獨りに、あり。」

とて、暫く、伊勢の國へ追ひ下さる。されば、この大將(だいしやう)をば、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありけるとぞ聞えし。

   *

私は若き日にここを読んだ時に如何にも嘘臭い話だと思った。理由は簡単だ。時刻は十月も暗くなってからだ(「薄暮」)。だのに何故基房はこんな時間に参内するのか? 参内は普通、御前の早い時間にするもので、こんな時間の参内などあり得ないのではないか? 火急の要件ならば、逆に非礼を咎めている(従者に咎めさせている)余裕などあろうはずものない(それこそ基房自身が非礼となる)と考えたからである。「平家物語」の諸本の注もこの部分は多くの不審を掲げてあり、前の引用でもある通り、脚色が激しい。あの時の私の何とも言えぬ違和感は正しかったわけだ。今、その時の文庫本は読み散らしてバラバラだが、今も手元で現役である。

「彼が赤袴三百の童兒をして、飛語巷說を尋ねしめし」所謂、清盛が組織したとされる私的な少年諜報組織「禿童(かむろ)」である。ウィキの「禿」によれば、「平家物語」には、『平清盛が実権を握った際、「禿、禿童」(かぶろ、かむろ)と呼ばれた多数の禿』(肩までで切り揃えた髪型)『の頭髪の童子(及び童形の者)を平安京内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報などを集めて密告させた』。十四、五歳の童を三百人選んで、』『髪を』『かむろに切りまわし、赤い直垂を着せ、京の市中を徘徊させ、平家のことをあしざまにいうものがあれば、これを聴きだして、その家に乱入し、資財、雑具を没収し、当人をとらえて六波羅に検束した。市中のものはおそれて関わらないようにした。禿童は自由に宮中にさえではいりし、禁門をとおっても姓名をたずねる者さえなかった』とある但し、『同時期に編まれた』「玉葉」や「愚管抄」にはそれに関わる記載は見られないとするが、私は存在したものと信ずる。「平家物語」の巻第一「禿童(かぶろ)」から引く。

   *

 如何なる賢王賢主の御政(おんまつりごと)、攝政・關白の御成敗も、世にあまされたる徒者(いたづらもの)などの[やぶちゃん注:世間から受け入れられなかった社会的落伍者らが。]、かたはらに寄り合ひて、何(なに)となう誹(そし)り傾(かたぶ)け申す事は常の習ひなれども、この禪門世盛(よざか)りの程は、聊か、ゆるがせにも申す者、なし。その故は、入道相國の謀(はかりごと)に、十四、五の童部(わらはべ)を三百人、揃へて、髮を禿(かぶろ)に切りまはし、赤き直垂(ひたたれ)を著せて、召し使はれけるが、京中(きやうぢゆう)にみちみちて、往反(わうばん)[やぶちゃん注:往復。]しけり。おのづから平家の御事(おんこと)、あしざまに申す者あれば、一人(いちにん)聞き出ださるるほどこそありけれ[やぶちゃん注:たった一人の禿に聴きつけられただけだでも。]、餘黨(よたう)に觸れ廻はし、かの家に亂入し、資財・雜具(ざふぐ)を追捕(ついふく)し[やぶちゃん注:没収し。]、その奴(やつ)を搦めて、六波羅へ率て參る。されば、目に見、心に知るといへども、言葉にあらはれて申す者、なし。「六波羅殿の禿」といへば、道を過ぐる馬(むま)・車(くるま)も、皆、よぎてぞしける。『禁門を出入(しゆつにふ)すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師(けいし)の長吏、これが爲めに目を側(そば)む[やぶちゃん注:(最下級身分の公的な捕吏である「長吏」でさえもこうした事実から、彼らのことを甚だ恐れて)見て見ぬ振りをする。]』と見えたり。

   *]

 

然れ共、平氏が猶其の覆滅を來さゞりしは、實に小松内大臣が、圓融滑脫なる政治的手腕による所多からずンばあらず。吾人は敢て彼を以て、偉大なる政治家となさゞるべし。さはれ彼は、夏日恐るべき乃父淸盛を扶けて、冬日親むべき政略をとれり。如何に彼が其直覺的烱眼[やぶちゃん注:「けいがん」。]に於て、入道相國に及ばざるにせよ、如何に彼が組織的頭腦に於て、信西入道に劣る遠きにせよ、如何に一身の安慰を冥々に求めて、公義に盡すこと少きの譏[やぶちゃん注:「そしり」。]を免れざるにせよ、如何に智足りて意足らず、意足りて手足らず、隔靴搔痒の憂を抱かしむるものあるにせよ、吾人は少くも、彼が大臣たる資格を備へたるを、認めざる能はず。彼は一身を以て、嫉妬に充滿したる京師の空氣と、烈火の如き入道相國との衝突を融和しつゝも、尙彼の一門の政治的生命を强固ならしめ、上は朝廷と院とに接し、下は野心ある卿相に對し、勵精、以て調和一致の働をなさむと欲したり。彼はこれが爲に、一國の重臣私門の成敗に任ずべからざるを說いて、謀主成親の死罪を宥めたりき[やぶちゃん注:「なだめたりき」。]。彼はこれが爲に、君臣の大義を叫破して法皇幽屛の暴擧を戒めたりき。彼が世を終る迄は、天下未[やぶちゃん注:「いまだ」。]平氏を去らず。入道相國の如きも、動もすれば[やぶちゃん注:「ややもすれば」。]暴戾不義の擧を敢てしたりと雖も、猶一門を統率して四海の輿望を負ふに堪へたりし也。彼若し逝かずンば、西海の沒落は更に幾年の遲きを加へたるやも亦知るべからず。惜むべし、彼は、治承三年八月三日を以て、溘焉として白玉樓中の人となれり。彼一度逝く、入道相國は恰も放たれたる虎の如し。其狂悖の日に募るに比例して、天下は益々平氏にそむき、一波先づ動いて萬波次いで起り、遂に、又救ふ可らざる禍機に陷り了れり。加ふるに、京師に祝融の災あり。飇風地震惡疫亦相次いで起り、庶民堵に安ぜず、大旱[やぶちゃん注:「だいかん」。]地を枯らして、甸服の外、空しく赤土[やぶちゃん注:「せきど」。]ありて靑苗[やぶちゃん注:「せいびやう」。]將に盡きなむとす。「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御邊一度立つて麾かば[やぶちゃん注:「さしまねかば」。]天下は風の如く、靡きなむ」と、勇僧文覺をして、抃舞、蛭ケ小島の流人を說かしめしは、實に此時にありとなす。平氏政府の命數は、既に眉端に迫れる也。危機實に一髮。

[やぶちゃん注:「圓融滑脫」「物事を要領良く処理していくさま」或いは「言葉遣いや行動が自在で、相手の感情を刺激することなく応対して、争い事を起こさないこと」。「圓融」は「角立っておらずまろやかで滑らかに転がる」と意から「物事が停滞することなく進むこと」の喩えで、「滑脫」は「滞ることなく臨機応変に自由自在に変化する」の意から「失敗や間違いのない対処をすること」の喩えである。

「乃父」「だいふ」と読む。「乃」は「汝」の意で原義は、父親が自分の子に対して一人称で言う語。転じて「父」の意。

「輿望」「よばう(よぼう)」。世間一般の人々から寄せられる信頼や期待。

「治承三年八月三日」誤り。重盛は治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)に逝去している。享年四十二歳であった。なお、彼の死因は胃潰瘍を主説とし、他に背中に発生した悪性腫瘍や脚気衝心などとする説がある。

「溘焉」「かふえん(こうえん)」俄かなさま。多くは人の死去に用いる。

「祝融の災」大火。「祝融」は中国神話の火の神。炎帝の子孫と言われ、火を司るとされた。安元三年四月二十八日(一一七七年六月三日)から翌日にかけて平安京内で発生した「安元の大火」。ウィキの「安元の大火」によれば、「太郎焼亡」とも呼ばれる。同日亥の刻(午後十時前後)、『樋口富小路付近で発生』、『南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約』八十四『メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮』『平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日』の『辰の刻(午前』八『時頃)になっても鎮火しなかったという』(「玉葉」同二十九日の条)。『焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は』貞観一八(八七六)年・天喜六(一〇五八)年に『次いで三度目であったが、内裏』に於ける『天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており、以後は再建されることはなかった』とある。

「飇風」「へいふう」。旋風(つむじかぜ)。「平家物語」は治承三(一一七九)年五月十二日のこととし、「源平盛衰記」は同年六月十四日とする。今回は所持する両方を示す。但し、この年の旋風発生は資料には見えず、以下の叙述は「方丈記」の治承四年四月に発生した旋風(こちらは藤原定家の日記「名月記」・内大臣中山忠親の日記「山槐記」・「百錬抄」に治承四年四月二十九日相当の箇所に旋風の発生が記されてある)の表現とそっくりな記述を見るので、両書のそれはその事実を前にずらした虚構の可能性が高い。最後に両書が参考にしたことが確実な「方丈記」のそこも示す。まず「平家物語」巻第三の「辻風(つじかぜ)」。底本は今までと同じく、昭和四七(一九七二)年講談社文庫刊の「平家物語(上)」。

   *

さるほどに同じき五月十二日の午の刻許り、京中に、辻風、夥(おびたた)しう吹いて、人屋(じんをく)多く顛到(てんだう)す。風は中御門(なかのみかど)・京極より起こつて、坤(ひつじさる)[やぶちゃん注:南西。]の方(かた)へ吹いて行くに、棟門(むねかど)平門(ひらかど)を吹き拔いて、四、五町、十町[やぶちゃん注:約四百三十七めーとるから一キロ九十一メートル。]許り吹きもてゆき、桁(けた)・長押(なげし)・柱などは、虛空に散在す。檜皮(ひはだ)、葺板(ふきいた)の類(るゐ)、冬の木の葉の風に亂るるが如し。夥(おびたた)しう鳴りどよむ音は、かの地獄の業風(ごふふう)なりとも、これには過ぎじとぞ見えし。只だ舍屋(しやをく)の破損(はそん)ずるのみならず、命を失なふ者も多し。牛馬(ぎうば)の類(たぐ)ひ、數(かず)を盡くして打ち殺さる。「是れ、只事(ただごと)にあらず、御占(みうら)あるべし」とて、神祇官にして御占あり。「今、百日の中(うち)に、祿(ろく)を重んずる大臣の愼み、別しては天下(てんが)の大事(だいじ)、佛法・王法(わうぼふ)、共に傾(かたぶ)きて、兵革(へひやうがく)相續(さうぞく)すべし」とぞ、神祇官・陰陽寮(おんやうれう)共に占ひ奉る。

   *

以下は「源平盛衰記」巻第十一の「旋風」。平成五(一九九三)年三弥井書店刊の松尾葦江校注「源平盛衰記㈡」に拠ったが、漢字を恣意的に正字化し、原文のカタカナをひらがなに代え、漢文部分は訓読し、読みも一部を外へ出して読み易く書き換えた。

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 六月十四日、旋風夥しく吹きて、人屋、多く顚倒す。風は中御門京極の邊より起りて、坤の方へ吹き以つて行き、平門・棟門などを吹き拂ひて、四、五町、十町、持て行きて、抛(なげう)となどしける、上は桁・梁・垂木(たるき)・こまい[やぶちゃん注:「木舞・小舞」。「壁の下地として縦横に組んだ竹や細木」或いは「垂木の上に横に渡して屋根裏板や杮板(こけらいた)などを受ける細長い材木」を指す。ここは後者。]などは、虛空に散在して、此彼(ここかしこ)に落ちけるに、人馬六畜[やぶちゃん注:牛・馬・羊・豚・鶏。当時の一般的な家畜類のこと。]、多く打ち殺されけり。屋舍の破損はいかゞせん、命を失ふ人、是れ、多し。其の外、資財・雜具・七珍萬寶の散失すること、數を知らず。「これ、徒事(ただごと)に非ず」とて御占(おんうら)あり。「百日の中の大葬、白衣の怪異、又、天子の御愼み、殊に重祿大臣の愼み、別しては、天下、大いに亂逆し、佛法・王法、共に傾き、兵革打ち續き、飢饉・疫癘(えきれい)の兆しなり」と、神祇官幷びに陰陽寮共に占申しけり。係(かかり)ければ、「去るにては、我が國、今はかうにこそ」と、上下、歎きあへり。

   *

この「白衣の怪異」、「びやくえのかいい」と読むか。意味不明。白衣を着た妖怪が都に出現するとでも言うのか? 識者の御教授を乞う。

 以下、「方丈記」。冒頭から少しいったところに出る。参考にしたのは一九八九年岩波文庫刊の市古貞次校注「新訂 方丈記」であるが、漢字を恣意的に正字化し、一部の表記を変えてある。

   *

又、治承四年卯月のころ、中御門・京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで吹ける事、侍りき。三、四町を吹きまくる間(あひだ)に、こもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒(たふ)れたるもあり、桁・柱ばかり殘れるもあり。門(かど)を吹き放ちて、四、五町が外(ほか)に置き、又、垣を吹き拂ひて隣りと一つになせり。いはむや、家のうちの資材、數を盡して空(そら)にあり。檜皮・葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るるが如し。塵を煙(けぶり)のごとく吹きたてたれば、すべて、目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ聲も聞えず。彼(か)の地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。家の損亡(そんまう)せるのみにあらず、是れを取り繕ふ間に、身を損なひ、片輪(かたわ)づける人[やぶちゃん注:身体が損傷した人。]、數も知らず。この風、未の方(かた)[やぶちゃん注:南南西。]に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。辻風はつねに吹く物なれど、かゝる事やある。「たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか」などぞ、疑ひ侍りし。

   *

「地震」筑摩書房全集類聚版注は、元暦二年七月九日の大地震かとするが、元暦二年七月九日(ユリウス暦一一八五年八月六日)のそれは「壇ノ浦の戦い」の約四ヶ月後のものであり、この文脈ではおかしい。

「惡疫」筑摩書房全集類聚版注に、『養和元年』(一一八一年)『から二年にかけて、大飢饉に加え、伝染病が流行した』とある。ウィキの「養和の飢饉」によれば、『前年の』治承四(一一八〇)年『極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した』。「方丈記」には『「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と述べて、「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ」と記したように、京都は何ごとにつけて地方の農業生産に依存しているにもかかわらず、年貢のほとんど入って来ない状況となってしまい、市中の人びとはそれによって大きな打撃をこうむった』。「方丈記」の記載によれば、『京都市中の死者を』四万二千三百人と『記し、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香』、『世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」として、市中に遺体があふれ、各所で異臭を放っていたことが記されている。また、死者のあまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝える。こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動』(一一八〇年挙兵、一一八三年上洛)『を容易にする遠因となっていたことも考えられており』、寿永二(一一八三)年五月の「砺波山の戦い」(「倶利伽羅合戦)まで『平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況が』続いた『背景としても』、『この飢饉の発生が考えられる』。『こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。一方、源頼朝は、年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせた(寿永二年十月宣旨)』とある。

「堵に安ぜず」「とにやすんぜず」と読む。「堵」は「垣根」の意で民屋を指す。「人民が住居に安心して住む・安心して暮らして安心する」の意で、出典は「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」。

「甸服」「でんぷく」。古代中国に於いて、王城を中心として五つに分けた地を「五服」と称したその一つで、王城の周囲五百里以内の地域を指すが、ここは平安京の周囲、則ち、畿内(京に近い山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヶ国)を指す。

「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御邊一度立つて麾かば天下は風の如く、靡きなむ」「平家物語」巻第五「伊豆院宣」の一節。

   *

 その後(のち)[やぶちゃん注:文覚(もんがく)はこの前の場面で、京の高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、源頼政の知行国であった伊豆国へ配流されていた。]、文覺をば、當國の住人近藤四郞國高に仰せて、奈古屋(なごや)が奥にぞ住みける。

 さる程に、兵衞佐殿(ひやうゑのすけどの)[やぶちゃん注:頼朝。]おはしける蛭が小島も程近し。文覺、常は參り、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。或る時、文覺、兵衞佐殿に申しけるは、

「平家には小松大臣殿(おほいどの)こそ、心も剛(かう)に、策(はかりごと)も勝れておはせしか、平家の運命の末になるやらん、去年(こぞ)の八月、薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、御邊(ごへん)程、將軍の相(さう)持つたる人はなし。早々(はやはや)謀反起こさせ給ひて、日本國(につぽんこく)、隨(したが)へ給へ。」

と云ひければ、兵衞佐殿、

「それ、思ひも寄らず。われは故(こ)池尼御前(いけのぜんに)に助けられ奉つたれば、その恩を報ぜんが爲めに、每日、法華經一部轉讀し奉る外は、また、他事(たじ)なし。」

とぞ宣ひける。

 文覺、重ねて、

「天の與ふるを取らざれば、却つてその咎(とが)を受く。時至たるを行なはざれば、却つてその殃(あう)[やぶちゃん注:禍(わざわ)い。]を受くといふ本文(ほんもん)あり[やぶちゃん注:「史記」の「准陰(わいいん)侯列伝」(劉邦の側近で張良・蕭何とともに漢の三傑の一人である韓信の列伝)に『蓋聞天與不取、反受其咎、時至不行、反受其殃』(蓋し聞く、「天の與ふるを取らざれば、反(かへ)りて其の咎を受け、時の至るを行はざれば、反りて其の殃を受く」と)に基づく。]。かやにう申せば、御邊の心をかなびかんとて[やぶちゃん注:ちょっと試しに惹いてみようと。]、申すとや思し召され候はん。その儀では候はず。先づ、御邊(ごへん)の爲めに志しの深い樣(やう)を見給へ。」

とて、懷より白い布に裹(つつ)んだる髑髏(どくろ)を一つ取り出だす。

 兵衞佐殿、

「あれは如何に。」[やぶちゃん注:「それは何か?」]

と宣へば、

「これこそ、わ御邊の父、故左馬頭殿の頭(かうべ)よ。平治の後(のち)は、獄舍の前なる苔の下に埋もれて、後世(ごせ)弔(とぶ)ふ人も無かりしを、文覺、存ずる旨ありて[やぶちゃん注:思うところのあって。]、獄守(ごくもり)に乞ひ、頸(くび)に懸け、山々寺々修行して、この二十餘年が間、弔ひ奉つたれば、今は定めて一劫(いちごふ)も浮び給ひぬらん[やぶちゃん注:地獄の気の遠くなる永い時間も幾分かは短くなられたことで御座ろう。]。されば、故頭殿(かうのとの)の御爲めには、さしも奉公の者にて候ふぞかし。」

と申しければ、兵衞佐殿、一定(いちぢやう)とはおぼえねども[やぶちゃん注:流石にその髑髏が本物とは思わなかったものの。]、父の頭(かうべ)と聞く懷しさに、先づ、淚をぞ流されける。

 ややありて、兵衞佐殿、淚を押へて宣ひけるは、

「抑(そもそも)、賴朝、勅勘を赦(ゆ)りずしては[やぶちゃん注:赦(ゆる)されない限りは。]、爭(いかで)か謀反をば起こすべき。」

と宣へば、

「それ、易い程の事なり。やがて上つて申し宥(ゆる)し奉らん。」

兵衞佐殿、あざ笑うて、

「わが身も勅勘の身にてありながら、人の事、申さうど宣ふ聖(ひじり)の御坊(おんばう)のあてがひ樣(やう)こそ[やぶちゃん注:請け合うと言うなんぞは。]、大(おほ)きに誠(まこと)しからね。」

と宣へば、文覺、大きに怒つて、

「わが身(み)の咎を赦(ゆ)りうど申さばこそ、僻言(ひがごと)ならめ、わ殿(どの)の事、申さうに、なじかは僻事ならん。これより今の都福原の新都へ上(のぼ)らうに、三日に過ぐまじ。院宣、伺ふに、一日(いちにち)の逗留ぞあらんずらん。都合七日(なぬか)八日(やうか)には過ぐまじ。」

とて、つき出でぬ。[やぶちゃん注:「つき」は強調の接頭語。或いは擬態語「つと」の誤記。]

   *

「文覺」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)元武士で真言僧。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。かの名僧明恵は孫弟子。ウィキの「文覚」によれば、『摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが』、十九『歳で出家した』。既に前の引用中に注した通り、『神護寺の再興を後白河天皇に強訴した』結果、『伊豆国に配流され』、『そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺』『、高野山大塔、東大寺』、『江の島弁財天』『など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり』、『建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護』した。『頼朝が征夷大将軍として存命中は』、『幕府側の要人として、また』、『神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると』、『将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり』、「三左衛門事件」(頼朝急逝直後の正治元(一一九九)年二月に一条能保・高能父子の遺臣が、権大納言土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件。「三左衛門」とは捕らえられた後藤基清・中原政経・小野義成が孰れも左衛門尉であったことに由来する)に『連座して源通親に佐渡国へ配流される。通親の死後』、『許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに』、元久二(一二〇五)年には『後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した』。「玉葉」に『よれば、頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたと言う』。「愚管抄」には、『乱暴で、行動力はあるが』、『学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ』、『また、文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとする』。「平家物語」で『巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝に』、事実、『わずか八日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代』(はせろくだい)『」では頼朝に直接』、『六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政』(まつりごと)『を批判したため』、『隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする』。但し、『いずれも史実との食い違いが多く』、「平家物語」『特有のドラマチックな脚色がなされていると言える』。「源平盛衰記」は、『出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする』。この数奇な悲劇の出家譚は、後に芥川龍之介自身が「袈裟と盛遠」で小説化している。リンク先は私の古いテクストだが、末尾に、芥川が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」巻第十九の「文覚発心」も電子化(但し、新字)しているので、是非、参照されたい。

「抃舞」「べんぶ」。喜びのあまり、手を打って舞い踊ること。

「蛭ケ小島」現在の静岡県伊豆の国市四日町(グーグル・マップ・データ)。狩野川の右岸但し、資料では伊豆国に配流された記されたばかりで、「蛭ヶ島」という地名は後世の記述に出現するものであり、真偽のほどは不明である。]

 

天下の大勢が、かくの如く革命の氣運に向ひつゝありしに際し、諸國の源氏は如何なる狀態の下にありし乎。願くは吾人をして、語らしめよ。甞て、東山東海北陸の三道にわたり、平氏と相並んで、鹿を中原に爭ひたる源氏も、時利あらず、平治の亂以來逆賊の汚名を負ひて、空しく東國の莽蒼に雌伏したり。然りと雖も八幡公義家が、馬を朔北の曠野に立て、亂鴻を仰いで長驅、安賊を鏖殺したる、當年の意氣豈悉[やぶちゃん注:「あに、ことごとく」。]消沈し去らむ哉[やぶちゃん注:「や」。]。革命の激流一度動かば、先[やぶちゃん注:「まづ」。]平氏政府に向つて三尖の長箭を飛ばさむと欲するもの、源氏を措いて又何人かある。是平氏政府自身が恆に戒心したる所にあらずや。

[やぶちゃん注:「甞て」の漢字字体はママ。ここまでは「嘗」である。新全集・筑摩書房全集類聚版は「嘗」を使う。誤字ではないのであるから、底本を採った。

「鹿を中原に爭ひたる」「鹿」は覇権、「中原」は天下の喩え。

「莽蒼」「まうさう(もうそう)」。青々とした草木が生い茂っている原野。

「馬を朔北」(北方:「朔」自体も北の方角を指す語。「朔」は「一日(ついたち)」の意味がある通り、「始め」の意であり、十二支の「子(ね)」が「始め」でしかも方位では北となることに由る)「の曠野」(あらの)「に立て、亂鴻」(らんこう:飛ぶ雁の列が乱れること)「を仰いで長驅、安賊』(「安」は前九年の役で源頼義・義家父子と清原武則が滅ぼした安倍頼時・貞任・宗任父子のことであろう。しかし、「賊」はそれに加えて以下に示す「後三年の役」で最終的に滅ぼされた清原家衡・武衡を含めていると読まないと話が前後して上手くない)『を鏖殺」(あうさつ(おうさつ):皆殺しにすること)「したる」これは永承六(一〇五一)年から康平五(一〇六二)年まで続いた「前九年の役」と、その二十年後に勃発した(永保三(一〇八三)年から寛治元(一〇八七)年まで続いた)「後三年の役」を指す。源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)は孰れにも出陣しているが、「安」を除いて考えると、ここは「後三年の役」の説明でよかろうかと思われる(以下「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。出羽の豪族清原氏の内訌に乗じて、これを滅ぼした戦い。「前九年の役」で功のあった清原氏は、真衡の代になって、その異母弟家衡と母の連れ子清衡が、嫡子真衡と家督を巡って争い、内紛を生じた。永保三年に陸奥守として現地に入った義家は、真衡の要請に応じて家衡・清衡を制圧したが、真衡が病没したので、その所領を折半して二人に与えた。しかしその後、両人が対立して争うようになると、応徳三(一〇八六)年、義家は清衡を助けて家衡を討ち、翌年、これを平定した(清衡は養子であったので、清原氏はここに滅亡し、清衡は奥州藤原氏の祖となったのである)。この「役」を朝廷は私戦と断じて勧賞は勿論、戦費の実費も拒絶し、そればかりでなく、義家は陸奥守を罷免されてしまう。結果、義家は主に関東から出征してきた将兵に私財を投じて恩賞を出し、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後、源氏は東国に勢力を確立することとなったのであった。さても「亂鴻」はウィキの「午後三年の役」の「雁行の乱れ」の項から引いておく。義家『軍が家衡・武衡軍の籠もる金沢柵へ行軍中、西沼(横手市金沢中野)の付近を通りかかった。義家が馬を止め』、『上空を見ると、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が』、『乱れ飛んでいた。それを見た義家は』、『かつて大江匡房』(まさふさ:既注)『から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の伏兵ありと察知し、これを殲滅した。義家は「江師(ごうのそつ)』『の一言なからましかば』、『あぶなからまし」と語ったという』。嘗つて「前九年の役」の『後、京の藤原頼通邸で源義家の戦功話を評していた際、「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」と匡房がつぶやいたということが、義家の家人を通じて義家本人に伝わり、怒り出すどころか』、彼は『辞を低くして匡房の弟子となったと伝えられている。また、匡房は義家の弟の義光に笙の笛の秘伝を教えたともいう。後に匡房の曾孫大江広元は鎌倉幕府創建に功をなした』。なお、「後三年合戦絵詞」の中では、『知識の多い老人である匡房から兵法を教わり、そのことがあったために伏兵を悟ったということになっているが、実際は大江匡房は義家よりも若いため、そのようなことはありえない。そのため』、『絵巻は匡房にたいして「老賢人」としてのイメージが出来上がってから描かれていることがわかり、この「雁行の乱れ」のエピソード自体が作られた話』か、若しくは、『もともとあった小競り合いに物語性を出すために匡房の話を付け加えたものである可能性が非常に高い』という『ことが言える』とある。

「三尖の長箭」「さんせんのちやう(ちょう)せん」鏃の尖端部が三角形に鋭く尖っており(当然の如く実戦用の中でも殺傷力が高い)、矢の箆(の:本体の棒部分)が非常に長い矢(それだけ強く引かねば射ることが出来ないから結果して飛距離が延びることとなる)。]

 

然り、源氏は眞に平氏の好敵手たるに恥ぢず。彼は平氏に對する勁敵中の勁敵也。賴義義家が前九後三の禍亂を鎭めしより以來、東國は其半獨立の政治的天地となり、武門の棟梁は、其因襲的の尊稱となれり。しかも平氏は、平氏自身の立脚地が西國にあるを知りしを以て、敢て其得意なる破壞的政策を東國に振はず。(恐らくは是最も賢き、最も時機に適したる政策なりしならむ)勇夫と悍馬とに富める、茫々たる東國の山川は、依然として、源氏の掌中に存したり。約言すれば、保元平治以前の源氏と保元平治以後の源氏とは其東國に有せる勢力に於て殆ど何等の逕庭をも有せざりし也。然りと雖も、彼等の勢力は未だ以て中原を動かすに足らざりき。駿河以東十餘ヶ國の山野は、野州の双虎と稱せられたる小山足利の兩雄、白河の御館[やぶちゃん注:「おやかた」。]と尊まれたる越後の城氏、慓悍、梟勁を以て知られたる甲斐源氏の一黨、はた、下總に龍蟠せる千葉氏の如き、幾多の豪族を其中に擁したりと雖も、霸を天下に稱ふるものは、僅に、所謂、周東、周西、伊南、伊北、廳南、廳北の健兒を糾合して八州に雄視する、上總の霸王上總介氏と、十七萬騎の貫主、北奧の蒼龍、雄名海内を風摩せる藤原秀衡との兩氏あるのみ。而して、此双傑の勢力を以てするも、猶、後顧の憂なくして西上の旗を飜すは、到底不可能の事となさざる可らず。何となれば彼等は、猶個々の小勢力なりしを以て、しかも互に相掣肘しつゝありしを以て也。遮莫[やぶちゃん注:「さもあらばあれ」。]、彼等は過飽和の溶液也。一度之に振動を與へむ乎、液體は忽に固體を析出する也。一度革命の氣運にして動かむ乎、彼等は直に劍を按じて蹶起するを辭せざる也。彼等豈恐れざる可からざらむや。然れども彼等は、未平氏に對して比較的從順なる態度を有したりき。請ふ彼等を以て、妄に生を狗鼠の間に偸む[やぶちゃん注:「ぬすむ」。]ものとなす勿れ。彼等が平氏に對して溫和なりしは、唯平氏が彼等に對して溫和なりしが爲のみ。嘗て、吾人の論ぜしが如く、平氏の立脚地は西國にあり。平氏にして、相印を帶びて天下に臨まむと欲せば、西國の經營は、其最も重要なる手段の一たらずンばあらず。さればこそ、入道相國の烱眼は、瀨戶内海の海權を收めて、四國九州の勢力を福原に集中するの急務なるを察せしなれ。西南二十一國が平氏の守介を有したる豈此間の消息を洩したるものにあらずや。既に平氏にして西國の經營に盡瘁す。東國をして單に現狀を維持せしめむとしたるが如き、亦怪しむに足らざる也。而して、自由を愛する東國の武士は此寬大なる政策に謳歌したり。謳歌せざる迄も悅服したり。悅服せざる迄も甘受したり。彼等は實に此優遇に安じて二十年を過ぎたりし也。然れ共今や平氏は完く其成功に沈醉したり。而して平氏の醉態は、平氏自身をして天下の怨府たらしめしが如く、亦東國の武士をして少からざる不快を抱かしめたり。嘗て、馬を彼等と並べて、銀兜緋甲[やぶちゃん注:「ぎんとうひかふ」。]、王城を守れる平門の豎子が、今は一門の榮華を誇りて却て彼等に加ふるに痴人猶汲夜塘水の嘲侮を以てするを見る、彼等の心にして焉ぞ平なるを得むや。切言すれば、彼等は、漸に其門閥の貴き意義を失はむとするを感じたり。嗚呼、「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」と叫破せる彼等にして、焉ぞ此侮蔑に甘ずるを得むや。加ふるに大番によりて京師に往來したる多くの豪族は、京師に橫溢せる、危險なる反平氏の空氣を、冥默の間に彼等の胸奧に鼓吹したり。而して、平氏が法皇幽屛の暴擧を敢てすると共に、久しく欝積したる彼等の不快は、一朝にして勃々たる憤激となれり。

[やぶちゃん注:「逕庭」「けいてい」。「逕」は「小径(こみち)」、「庭」は「広場」の意で、これで「隔たりの甚だしいこと・かけ離れていること」を謂う。「荘子」の「逍遙遊」を出典とする。

「小山」「おやま」と読む。藤原秀郷を祖とする小山氏。当時は第二代当主小山朝政(おともまさ 久寿二(一一五五)年)頃~嘉禎四(一二三八)年)下野国小山庄寒河御厨(さむかわのみくりや:平安末期は後白河院領であったが、仁安元(一一六六)年に伊勢神宮に寄進されて御厨となった)を本貫地とした豪族。後、頼朝直参の御家人となり、晩年まで幕府宿老として力を持ち続けた。

「足利」同じく藤原秀郷を祖とする下野国足利荘を本拠地とした藤姓足利氏。当代の当主は第四代当主足利俊綱(?~養和元(一一八一)年九月又は寿永二(一一八三)年九月)及びその子で第五代当主足利忠綱(長寛二(一一六四)年?~?)。ウィキの「足利忠綱」によれば、『同族である小山氏と勢力を争い』、『「一国之両虎」と称されていた』(これが芥川の謂う「双虎」)。「吾妻鏡」によると、治承四(一一八〇)年の以仁王の挙兵の際、『小山氏』は『以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏』には令旨が来なかった『ことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は』十七『歳であったというが』、『一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃し』、後の「宇治川の戦い」では先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた』。しかし、結果、開幕後は不遇であった(父俊綱は頼朝に追討され、追討軍が襲う前に身内に裏切られて殺害されている。忠綱は晩年には行方不明となり、その後の事蹟は不明である)。なお、この藤姓足利氏の宗家は早々に滅亡してしまったが、俊綱の代の広義の足利一門の多くは、それぞれに幕府に取り入り、御家人として存続し続け、鎌倉政権に組み込まれていった。但し、後の幕府後期に力を持ち、足利尊氏を出すそれは源姓足利氏であって、直接の密接な系流関係はない。因みに、「兩虎」は「吾妻鏡」の治承五(一一八一)年閏二月二十三日の条の一節に、

亦小山與足利。雖有一流之好。依爲一國之兩虎。爭權威之處。

(亦、小山と足利と、一流の好(よしみ)有りと雖も、「一國の兩虎」たるに依つて權威を爭ふの處、……)

とあるのに基づく。但し、「吾妻鏡」の一本では「兩虎」を「龍虎」ともする。

「城氏」当代は城資永(じょうのすけなが ?~治承五(一一八一)年)。ウィキの「城資永」によれば、『城氏は桓武平氏維茂流で、越後平氏と呼ばれた。平氏政権期において越後国を支配していた。資永はその棟梁として、保元の乱においても惣領家の平清盛に従』って『活躍し』、『都で検非違使を務めていたこともあり、北国における有力豪族の筆頭として、同族の清盛らの信頼は厚かった』。『清盛の死後の治承』五(一一八一)年、『後を継いだ平宗盛から信濃で挙兵した木曾義仲の追討を命じられる。自信に満ちた資永は「甲斐・信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」と平家に願い出たという』(「玉葉」治承四年十二月三日の条)。『平家の絶大な期待の』もとに『越後、会津四郡、出羽南部の軍兵一万を集めるが、出陣直前の』二月二十四日『に卒中を起こし、翌』二十五『日に急死した。資永の急死は』、『相次ぐ反乱の対処に追われる平家に大きな打撃となった』。『資永の後は弟の助茂(長茂)が継ぐが、平家の没落とともに徐々に衰退を余儀なくされた』とある。

「梟勁」「けうけい(きょうけい)」。既出既注の「梟雄」と同義。

「甲斐源氏」ウィキの「甲斐源氏」によれば、『甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称』であるが、『「甲斐源氏」の呼称について』は、『治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている』。しかし、鎌倉時代には「吾妻鏡」を始めとして「帝王編年記」(漢文編年体の歴史書。現存本は神代から後伏見天皇までの二十七巻。編者は僧永祐と伝えられるが、定かではない。成立は正平一九/貞治三(一三六四)年から天授六/康暦二(一三八〇)年の間と推定される)「日蓮遺文」『などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する』。『以仁王の令旨が東国各地に伝わると、武田信義・安田義定らが挙兵』し、治承四(一一八〇)年九月には『信濃諏訪郡に攻め込んで影響下に置いた(これによって信濃に安定した基盤を確保することが困難になった木曾義仲は、信濃平定を断念して北陸道に信濃に替わる基盤を求めることになる)。続く』「黄瀬川の戦い」では『平維盛らの平家軍と対峙の折』り、『源清光(逸見冠者清光)の子で甲斐源氏』四『代目の源信義(武田太郎信義)を棟梁とする武田氏はじめ』、『個々に独立勢力を張っていた甲斐源氏一族は、「一人の誉れよりは甲斐源氏として武勲をあげよう」と』、『一族結束して退却する平家に攻め入った』。『安田義定は』寿永二(一一八三)年に『源義仲とともに入京し、従四位下・遠江守に叙任されている』。但し、元暦元(一一八四)年一月には、『源範頼・義経の軍勢に安田義定・一条忠頼が加わり、粟津合戦において』同族である『義仲を滅亡させ』ている。『さらに同年』の「一ノ谷の戦い」では、『義定・武田有義・板垣兼信らが平氏追討に参加して』おり、『有義はさらに範頼の軍勢に属し』、『西国へ出陣している』。『一方、この頃には頼朝による甲斐源氏の粛清が開始され、同年には一条忠頼が鎌倉において誅殺されている』(一条忠頼は生年不詳。武田信義の子で甲斐源氏の嫡流。甲斐国山梨郡一条郷を領して一条氏を名乗った。治承四年の挙兵では父や安田義定とともに兵を挙げ、信濃国に出陣して平家余党を制圧、その後、駿河国に赴き、頼朝軍に合流、源義仲追討戦などで活躍したが、忠頼の勢力の強大さや、甲斐源氏の勢力拡大が頼朝の危惧するところとなり、同年六月、幕府御所にて宿老御家人が居並ぶ中、頼朝の密命を受けた小山田有重・天野遠景らによって殺された)。それでも甲斐源氏の多くは『治承・寿永の乱の軍功により』、『分家にも領地が与えられ、加賀美遠光を祖とする、南部氏や小笠原氏などの庶流が』、『やがて大名化していった』とある。

「千葉氏」下総国千葉郡の豪族。千葉国造流と桓武平氏良文流があるが、平氏流が有名で、この当時、千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)・上総(かずさ)(千葉)広常が出て、源頼朝の挙兵を援助した。二人は「石橋山の戦い」敗退後の頼朝を出迎え、完全にバック・アップしたが千葉常胤は幕府御家人の重鎮として終生重んじられたのに対し、広常の方は(但し、その遅参や尊大な態度は頼朝らに悪印象を与えており、後注で引く「吾妻鏡」を見て頂きたいが、驚くべきことにそこでは小説のように二心あることを一人称の心内語であからさまに記している)、後に頼朝から謀反の疑いをかけられ、密命を帯びた梶原景時によって、鎌倉十二所(じゅうにそ)の広常の館で景時と双六をしている最中、切り殺されてしまう。しかし、直後に謀反は晴れ、頼朝は広常を殺したことを後悔している。

「周東」(すとう)「周西」(すさい)は中世より前に上総国の南西、概ね小糸川流域にあった周淮(すえ)郡が中世に東西に分割された際の郡名(江戸初期には統合してもとの形で復活した)。周淮郡は現在の木更津市の一部・君津市の一部・富津市の一部に相当する。郡域は参照したウィキの「周淮郡」で確認されたい。

「伊南」「伊北」上総国夷隅郡内に中世に作られた荘園伊隅荘(いすみのしょう)のこと。ウィキの「伊隅荘」によれば(太字下線はやぶちゃん)、『鎌倉時代に入ると、全体としては伊隅荘と総称されながらも実際には南北に分割(地域的には南北ではなく東西)されて支配されていたため、それぞれ伊隅荘の北を伊北荘、南を伊南荘と称された』。『荘域は現在のいすみ市、勝浦市、夷隅郡大多喜町、同郡御宿町に跨る地域で、鎌倉時代に入ると、全体としては伊隅荘と総称されながらも実際には南北に分割され統治された』。『現在の研究では伊北荘の範囲は、現在の大多喜町及びいすみ市の一部に勝浦市北部を含んだ地域であり、伊南荘は御宿町・いすみ市の一部に跨る地域に相当すると考えられている』。『荘園領主は鳥羽上皇により創建された金剛心院』。『当荘の成立経緯は不明だが、旧夷隅郡がほとんどそのまま伊隅荘として立荘されたものと考えられる。治承年間には上総氏の支配下にあった。そして上総氏が滅亡した後は和田義盛が伊北荘を支配したが、和田合戦で北条方に敗れた後は三浦胤義がこの地を支配した。しかし、当荘が南北両荘に分割して支配されたことは南北朝時代に至っても変わらなかったことが覚園寺文書からわかっている』とある。旧郡域のだいたいの範囲はウィキの「夷隅郡」にある地図を参照されたい。

「廳南」(ちやうなん)「廳北」(ちやうほく)は現在の長生郡・茂原市、及び、いすみ市の一部・大網白里市の一部に相当する。旧郡域のだいたいの範囲はウィキの「長生郡」にある地図を参照されたい。

なお、この部分、芥川龍之介は「吾妻鏡」の以下の治承四(一一八〇)年九月十九日の条の頭を引いている。

   *

十九日戊辰。上總權介廣常、催具當國周東。周西・伊南・伊北・廳南・廳北輩等。率二萬騎。參上隅田河邊。武衞頗瞋彼遲參。敢以無許容之氣。廣常潛以爲。如當時者。率土皆無非平相國禪閤之管領。爰武衞爲流人輙被擧義兵之間。其形勢無高喚相者。直討取之。可獻平家者。仍内雖插二圖之存念。外備歸伏之儀參。然者。得此數萬合力。可被感悅歟之由。思儲之處。有被咎遲參之氣色。殆叶人主之體也。依之忽變害心。奉和順云々。陸奥鎭守府前將軍從五位下平朝臣良將男將門虜領東國企叛逆之昔。藤原秀鄕僞稱可列門客之由而入彼陣之處。將門喜悅之餘。不結肆所梳之髪。卽引入烏帽子謁之。秀鄕見其輕骨。存可誅罰之趣退出。如本意獲其首云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日戊辰。上總權介廣常、當國、周東・周西・伊南・伊北・廳南・廳北の輩等を催し具し、二萬騎を率して、隅田河の邊に參上す。武衞、頗(すこぶ)る彼が遲參を瞋(いか)り、敢へて以つて許容の氣、無し。廣常、潛かに以爲(おもへら)く、

『當時のごときは、率土(そつと)[やぶちゃん注:日本国中。]、皆、平相國禪閤の管領に非ずといふこと無し。爰(ここ)に武衞、流人として輙(たやす)く義兵を擧げらるの間、其の形勢(ありさま)、高喚(かうくわん)[やぶちゃん注:ここは「武士として注意を惹きつけるような技量」の謂いであろう。]の相(さう)無くんば、直(すぐ)に之れを討ち取り、平家に獻ずべし。』

者(てへ)れば、仍つて内には二圖(にと)の存念を插(さしはさ)むと雖も、外には歸伏の儀を備へて參ず。然(さ)れば、

『此の數万(すまん)の合力(かふりよく)を得て、感悅せらるべきか。』

の由、思ひ儲(まう)くる處、遲參を咎めらるるの氣色(きしよく)有り。殆(ほとほ)と、人主の體(てい)に叶ふなり。之れに依つて、忽ち、害心を變じ、和順奉ると云々。

陸奥鎭守府前將軍、從五位下平朝臣良將(よしまさ)の男(なん)將門、東國を虜領(りよりやう)して叛逆を企つるの昔、藤原秀鄕、僞りて、

「門客に列すべし。」[やぶちゃん注:御味方の一人にお加えあれ。]

の由を稱して、彼の陣に入るの處、將門、喜悅の餘りに、梳(くしけづ)る所の髪を肆(ゆ)はず[やぶちゃん注:解いてざんばらにしていた髪を髷に結うこともせず。]、卽ち、烏帽子に引き入れ、之れと謁す。秀鄕、其の輕骨(きやうこつ)[やぶちゃん注:軽はずみなこと。如何にも軽率なさま。]を見て、誅罸すべきの趣きを存じ、退出す。本意(ほい)のごとく、其の首を獲(え)たりと云々。

   *

「八州」関八州。関東の八ヶ国の称。相模・武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・安房・上総・下総(しもうさ)・常陸。現在の関東地方に当たる。但し、この謂い方は江戸時代のもの。

「上總介氏」千葉広常の通称。

「貫主」首領。

「蒼龍」五行説の四神の一つである青竜の別名。

「藤原秀衡」(保安三(一一二二)年?~文治三(一一八七)年)は奥州藤原氏第三代当主。鎮守府将軍・陸奥守。

「狗鼠」「くそ」犬と鼠であるが、ここは「下らない人間たち」の意。

「相印」「しやういん(しょういん)」宰相の印形(いんぎょう)。

「守介」「かみ」「すけ」。ともに国守を指す。

「盡瘁」「じんすい」。「瘁」は病み疲れる意で、自身の労苦を顧みることなく全力を尽くすこと。

「彼等は實に此優遇に安」(やすん)「じて二十年を過ぎたりし也」ウィキの「平氏政権」によれば、『平氏政権の成立時期については、仁安』二(一一六七)年五月の宣旨の(これは一般に『「六条天皇宣旨」と解されているが、実態は後白河上皇の院宣に基づいて発給されたものであった』と注がある)『を画期とする見解と、治承三年の政変』(一一七九年)『の時点とする見解とが出されている』とあり、『前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であ』るとあるので、この前段階で清盛は完全に力を有していたと考えられるから、「壇ノ浦の戦い」で平氏一門が滅亡し、安徳天皇が入水したのは元暦二年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日/グレゴリオ暦換算:五月二日)で、この「二十年」というのは現在の歴史的見解から見ても、正鵠を射ていると言える。

「痴人猶汲夜塘水」「碧巌録」第七則の「頌(じゅ)」(「偈(げ)」(禅宗で悟りの境地などの宗教的内容を表現する漢詩)に同じ)の一節に、

超禪師當下大悟處、如三級浪高魚化龍、痴人猶戽夜塘水。

(超禪師の當下(ただち)に大悟せし處は、「三級の浪、高くして、魚の龍に化せる」がごとくなるに、「痴人、猶ほ戽(く)む、夜塘の水」と。)

とある。サイト「茶席の禅語選」のこちらによれば、「三級」は『三段になった滝のこと』とあり、入矢義高監修・古賀英彦編著「禅語辞典」には、『「竜門の三段の堰の高なみを上って魚はすでに竜となったのに、愚かものが魚を捕えようと、なお夜の淵の水をかい出している。言葉づらにとらわれて、勘所を押さえきれない愚かさを喩える」とあり、また、「禅語字彙」には、『「禹帝治水の時、龍門の瀧を切り開きて三段と爲せり。此三段の瀧を、春三月三日桃花の咲く時鯉魚が跳び越へると、火を發して尾を焦き角を生じて龍となるといふ。鯉魚が已に龍と化したのも知らずに、愚人は暗夜の池水を汲み干して鯉を探して居るは見るに堪へぬ」とある』とある。

「切言」「せつげん」。きっぱりと厳しく言うこと。

「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」私は「源平盛衰記」巻第三十一の「木曾、平家に與(くみ)せんと擬す竝びに維盛歎きの事」の清盛の三男で智将であった平知盛の台詞を切り詰めたものと思う。当該巻は所持しない(私は活字本は前半部しか所持していない)ので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(明四五(一九一二)年有朋堂刊「源平盛衰記 下」)を視認して当該章全部を電子化してみた(読み易さを考え、漢文体の個所は訓読し、読みは一部に留め、一部は読みの一部を外に出した。読点・記号も増やし或いは変更した。改行もした。踊り字「〱」「〲」は正字化した)。当該部を太字で示した。

   *

 平家は、室山・水島、二箇度(かど)の合戰に打ち勝つて、木曾追討の爲に西國(さいこく)より責め上(のぼ)ると聞えけり。左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)は、東西に詰め立てられて如何(いかゞ)せんと案じけるが、兵衞佐(のすけ)に始終中よかるまじ、今は平家と一に成つて、兵衞佐をせめんと思ふ子細を、讚岐の屋島へ申したりければ、大臣殿[やぶちゃん注:「おほいとの」で当時の平家頭領で凡才の平宗盛(清盛三男)のこと。]は大に悅び給ひけり。祈る祈りの甲斐有りて、帝運のかさねてひらけ、再び故鄕に御幸(ごかう)あらん事、目出たければ、申す處、本意(ほんい)に思し召し、

「御迎ひに參るべし。」

と宣ひけるを、新中納言の計らはれ申しけるは、

「都に歸り上らん事は實(まこと)に嬉しけれ共、木曾が爲めに花洛を攻め落とされ、今、又、義仲と一つにならん事、然るべからず。賴朝が存知(ぞんち)、思はん處、恥かしかるべし。弓矢取る身は後の代(よ)までも名こそ惜しけれ、十善の君(きみ)、角(かく)て御渡(おんわたり)あれば、冑(よろひ)を脫ぎ、弓を平(ひら)めて降人(かうにん)に参り、帝王を守護し奉るべしと仰せあるべしとこそ存ずれ。」

と宣ひければ、

「最も。此の儀、然るべし。」

とて、其の定めに返事せられけり。

 木曾、是を聞きて、

「降人とは何事ぞ、武士の身と生まれて、手を合はせ、膝をかゞめて敵に向はん事、身の恥、家の疵(きず)なり。昔より源平力を竝べて、士卒、勢を諍(あらそ)ふ、今更、平家に降(かう)を乞ふべからず。頼朝返りきかん事も、後代(こうだい)の人の口も面目(めんぼく)なし。」

とて降(がう)ぜざりけり。

 木曾、都へ打ち入りて後は、在々所々を追捕して、貴賤上下、安堵せず、神領・寺領を押領して、國衙(こくが)。庄園、牢籠(らうろう)せり。はては、法住寺の御所を燒き亡ぼして、法皇を押し籠め奉り、高僧・侍臣を討害(とうがい)し、公卿・殿上人を誡(いまし)め置き、四十九人の官職を止(とゞ)めなんど、平家、傳へ聞きて、寄り合ひ々々口々(くちぐち)に申されけるは、君も臣も山門も南都も、此の一門を背きて源氏の世になしたれども、人の歎きはいやましましなりと嬉しき事におぼして、興に入てぞ笑ひ勇み給へる。権亮(ごんのすけ)三位中將維盛[やぶちゃん注:故重盛の嫡男。この直後に脱走し、那智の沖で入水したとされる。]は、月日の過ぎ行く儘(まゝ)には、明けても晩れても故鄕のみ戀しく思(おぼ)しければ、假初(かりそめ)なる人をも語らひ給はず、與三兵衞重景[やぶちゃん注:「よさうびやうゑしげかげ」。]、石童丸[やぶちゃん注:「いしどうまる」。]など、御傍(そば)近く臥して、

「さても此人人は如何なる形勢(ありさま)にて、いかにしてか御座(おはしま)すらん、誰かは哀れ、糸惜(いとほし)共(とも)云ふらん、我身の置き所だにあらじに、少(をさな)き者共(ども)をさへ引き具して、いか計りの事、思ふらん、振り捨てて出でし心づよさも去る事にて、急ぎ迎へとらんとすかし置きし事も程經(ふ)れば、如何に恨めしく思ふらん。」

なんど、宣ひつゞけて、御淚(おんなみだ)せきあへず流し給けるぞ糸惜(いとほ)しき。

 北の方は、此の有樣(ありさま)傳へ聞き給て、

「只だ、いかならん人をも語らひ給ひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚かなるべきかは、心苦くこそ。」

とて、常は引きかづき臥し給ふ。盡きせぬ物とては、是も、御淚ばかりなり。

   *

なお、筑摩書房全集類聚版注では、これを『巻三十八にみえる新中納言知盛のことば』とするのであるが、巻三十八のそれは、恐らく一番近いのは、「熊谷(くまがへ)、敦盛の頸を送る竝びに返狀の事」の初めの部分(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、かの知られた熊谷直実が敦盛の首を泣く泣く取った後のシーンで、熊谷の心内語として『弓矢取る身とて、なにやらん子孫の後(のち)を思つゝ』とあるもので、これを或いは誤認したものではないかとも思われる。万一、そこに知盛の台詞としてあるというのであれば、お教え願いたい。

「大番」「おほばん」。大番役(おおばんやく)のこと。平安後期から室町初期にかけて地方の武士に京(鎌倉時代には京と鎌倉両方)の警護を命じた時限の警備役職を指す。

「法皇幽屛」清盛が治承三(一一七九)年十一月十四日に起こしたクーデターにより、後白河法皇は同月二十日、法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉されたことを指す。]

 

しかも、天下の風雲は日に日に急にして、革命的氣運は、將に暗潮の如く湧き來らむとす。是に於て、彼等の野心は、漸に動き來れり。野心は如何なる場合に於ても人をして、其力量以上の事業をなさしめずンばやまず。泰山を挾みて北海を越えしむるものは野心也。精衞をして滄溟を埋めしむるものは野心也。所謂天民の秀傑なる、智勇辨力ある彼等が、大勢の將に變ぜむとするを見て、抑ふべからざる野心を生じ來れる、固より宜なり。既に彼等にして、其最大の活動力たる、野心と相擁す、彼等が天荒を破つて、革命の明光を、捧げ來る[やぶちゃん注:「きたる」。]日の、近かるべきや知るべきのみ。啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]野心に止らず、平氏の暴逆は、又彼等をして、二十周星の久しきに及びて、殆ど忘れられたる源氏の盛世を、想起せしめたり。彼等は彼等が、旌旗百萬、昂然として天下に大踏[やぶちゃん注:「おほぶみ」か。]したる、彼等が得意の時代を追憶したり。而して、顧みて、平氏の跳梁を見、源氏の空しく蓬蒿の下に蟄伏したるを見る、彼等が懷舊の淚は、滴々、彼等が雄心を刺戟したり。彼等はかくの如くにして、彼等の登龍門が今や目前に開かれたるを感じたり。彼等は其傳家丈八の綠沈槍を、ふるふべき時節の到來したるを覺りたり。治承四年、長田入道が、惶懼、書を平忠淸に飛ばして、東國將に事あらむとするを告げたるが如き、革命の曙光が、既に紅を東天に潮したるを表すものにあらずや。

[やぶちゃん注:「泰山を挾みて北海を越えしむる」「太山を挾みて北海を超ゆ」。途轍もなく高く大きな太山(山東省泰安市ある泰山(グーグル・マップ・データ。その東北の遼東半島と山東半島の間にある湾状海域が渤海)。標高千五百四十五メートルで最高峰は玉皇頂と呼ぶ)を脇に抱えて、北海(渤海)を飛び越えること。「人の力ではどうにも出来ないこと」を喩えたもの。「孟子」の「梁惠王 上」の一節。

   *

曰、不爲者與不能者之形、何以異、曰、挾太山以超北海、語人曰我不能、是誠不能也、爲長者折枝、語人曰我不能、是不爲也、非不能也、故王之不王、非挾大山以超北海之類也、王之不王、是折枝之類也。[やぶちゃん注:以下略。]

(曰く、「爲(な)さざると、能(あた)はざるとの形は、何以(いか)に異なるや。」と。曰く、「太山を挾(わきばさ)みて以つて北海を超えんこと、人に語りて『吾れ能はず』と曰ふは、是れ、誠に能はざるなり。長者[やぶちゃん注:目上の人。]の爲めに枝(し)[やぶちゃん注:「肢」。手足。]を折ること[やぶちゃん注:手足を曲げて正しく礼をすること。]、人に語りて『我れ能はず』と曰ふは、是れ、爲さざるなり。能はざるに非ざるなり。故に王の王たらざるは、大山を挾みて以つて北海を超ゆるの類ひにあらざるなり、王の王たらざるは、是れ枝を折るの類ひなり。)

   *

「精衞をして滄溟を埋めしむる」「精衞」とは古代中国の女神女娃(じょあ)が変じたという化鳥(けちょう)の名。ウィキの「女娃」によれば、「山海経」の「北山経」によれば、天帝の一柱として『南方を守護する炎帝神農氏の少女(末女)で』あったが、『東海地方(推定』で現在の山東地方辺りの『黄海沿岸部)を遊歴中に海』で『溺死し、その恨みを晴らすべく』、『鳥と化して』、現在の太行山脈の中の、山西省にある『発鳩山(はつきゅうさん)』『に棲み、東海を埋めんと』、『周囲の山から木石を銜え運んで』は『海中に投下するようになったといい、化した後の姿は烏に似て』、『頭に文様があり』、『嘴は白く足は赤く、「セイエイ、セイエイ」と鳴く』ことから、『精衛(せいえい)と名付けられた』『という』とある。無論、「滄溟」(そうめい)=大海は遂に(というか今も)埋めることは出来ていないわけで、これ全体で「不可能」の喩えである。

「天荒を破つて」「破天荒」に同じ。前人の成し得なかったことを初めてやること。「前代未聞」「未曽有」に同じい。唐の時代、荊州の地からは、毎年、多くの人が科挙を受けに来たが、合格者が全く出ないため、この地方は「天荒」(原義は「未開の荒地」)と呼ばれていた。ところが、荊州の劉蛻(りゅうぜい)という者が始めて合格したため、「天荒を破った」と言われたことに由来するという。

「二十周星」これは「二十一紀」と同じで、中国の古天体学で歳星(木星)が天空を一周する期間を「一紀」=十二年としたもの。則ち、二百四十年。判り易く、の「壇ノ浦の戦い」(一一八五年四月二十五日)から機械的に逆算すると、天慶八(九四五)年前後となるが、まさに清和源氏の始祖とされる源経基(応和元(九六一)年?:「保元物語」によれば父は清和天皇の第六皇子貞純親王)がまさに生きていた時期で腑に落ちる。

「旌旗」「せいき」。旗や幟(のぼり)。軍旗。「旌」は旗竿の先に「旄(ぼう)」と称した旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗を指し、古く天子が士気を鼓舞するのに用いた。

「蓬蒿」「ほうかう(ほうこう)」。ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の生えた草叢。

「丈八の綠沈槍」一丈八尺の長大な、かの名槍「綠沈槍」のようなもの。蜀の名将姜維が持っていたという名槍の愛称。陸游の詩「隴頭水」に「壯士夜挽綠沈槍」(壯士 夜 挽(ひ)く 綠沈槍)と出てくる。漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩を見られたい。

「長田入道」義朝を騙し討ちにした長田忠致(おさだただむね ?~建久元(一一九〇)年?)。ウィキの「長田忠致」によれば、『長田氏は桓武平氏良兼流で』、「尊卑分脈」によれば、『忠致は道長四天王の』一『人とされた平致頼の』五『世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年』(一一五九年)、「平治の乱」に『敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという』。『義朝を討った功により』、『忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買い』、『処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。そのあさましい有様を』、「平治物語」は終始』、『批判的に叙述している』。『後に源頼朝が兵を挙げると』、『その列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば』、『美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り』、『懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としないが』、「保暦間記」によると、建久元(一一九〇)年十月の『頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっている。また』、治承四(一一八〇)年十月に、「鉢田(はちた)の戦い」(武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い)で『橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説』『がある。また』、『処刑方法も打ち首ではなく』、『「土磔(つちはりつけ)」と言って』、『地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし』、『顔の皮を剥ぎ、肉を切り』、『数日かけて殺したという。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守』(かみ)『身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた』という。『その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。また、徳川氏譜代家臣の永井氏や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している』とある。なお、筑摩書房全集類聚版注は名を『長田忠政』と誤っている。

「惶懼」「くわうく(こうく)」。恐れ畏(かしこ)まること。恐れ入ること。恐懼。

「平忠淸」藤原忠清(?~文治元(一一八五)年)。平氏の家人。別名、忠景、伊藤五とも称した。伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ、「保元の乱」に参戦。治承三(一一七九)年の政変後には従五位下・上総介に任ぜられている。また坂東八ヶ国の侍を奉行したとされ、翌年の源頼朝挙兵の際、追討軍の大庭景親に指示を下している。「富士川の戦い」には副将として参戦したが、平氏の不利を察知し、総大将の平維盛に退却を勧めている。清盛の死後、出家し、平氏の都落ちには同道せず、京に留まったが、元暦元(一一八四)年、平田家継らの蜂起に参加したが、翌年、志摩で捕らえられ、京の六条河原で斬首された。一族とともに平氏軍制の中核を占めた家人であった(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

今や熱烈なる東國武士の憤激と、彼等が胸腔に滿々たる野心と、復古的、革命的の思想を鼓吹すべき、懷舊の淚とは、自ら一致したり。若し一人にしてかくの如くンば一人を擧げて動く也。天下にしてかくの如くンば、天下を擧げて動く也。動亂の氣運、漸に天下を動かすと共に、社會の最も健全なる部分――平氏政府の厄介物たる、幾十の卿相、幾百の院の近臣、幾千の山法師、はた幾萬の東國武士の眼中には、既に平氏政府の存在を失ひたり。彼等の腦裡には、入道相國も一具の骸骨のみ。平門の畫眉涅齒も唯是瓦鷄土犬[やぶちゃん注:「ぐわ(が)けいどけん」。]のみ。西八條の碧瓦丹檐[やぶちゃん注:「へきぐわ(が)たんえん」。]も、亦丘山池澤[やぶちゃん注:「きう(きゅう)ざんちたく」。]のみ。要言すれば、社會の直覺的本能は、既に平氏政府の亡滅を認めたり。反言すれば、精神的革命は既に冥默の中に、成就せられたり。夫、燈は油なければ、卽ち滅し、魚は水なければ、卽ち死す。天下の人心を失ひたる平氏政府が、日一日より、沒落の悲運に近づきたる、豈、宜ならずとせむや。然り、桑樹に對して太息する玄德、靑山を望ンで默測する孔明、玉璽[やぶちゃん注:「ぎよくじ」。]を擁して疾呼する孫堅、蒼天を仰いで苦笑する孟德、蛇矛[やぶちゃん注:「だぼう」。]を按じて踊躍[やぶちゃん注:「ようやく」。]する翼德、彼等の時代は漸に來りし也。之を譬ふれば、當時の社會狀態は、恰も蝕みたる[やぶちゃん注:「むしばみたる」。]老樹の如し。其仆るゝや、日を數へて待つべきのみ。天下動亂の機は、既に熟したる也。

[やぶちゃん注:「西八條」清盛の邸宅があった場所。「平安京探偵団」のサイト「平安京を歩こう」によれば(地図有り)、現在の『梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり』で、『梅小路公園の中には』『説明板が立てられてい』るとある。その地図から見ると、現在の京都府京都市下京区八条坊門町(グーグル・マップ・データ)とほぼ一致するようである。

「反言」「はんげん」。言い換えること。

「桑樹に對して太息する玄德」「玄德」は蜀漢の初代皇帝劉備(一六一年~二二三年)の字(あざな)。ウィキの「劉備」によれば、「漢晋春秋」に『幼い時に、家の前に生えている大きな桑の木を見て少年だった劉備は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ』、『「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという』とあるのに基づく。

「靑山を望ンで默測する孔明」「孔明」は蜀漢の政治家・軍師であった諸葛亮(一八一年~二三四年)の字。気象予報士松岡賢也氏の「新気象学(その四十二):レッドクリフ(赤壁の戦い)」(ワード文書でダウン・ロード可能)に、『諸葛孔明は普段からこの』赤壁の『地を散策し、四季において観察し、風の動き、雲の動き、山や河の地勢に通じ、観察による正確な科学的気象学の目を持っていたのではないかと考えられている。現在の我々気象予報士は数値予報による天気図、衛星画像、気象レーダー等を用いて前線の通過及び風向の変化を正確に時間単位で予想することができるが』、『今から約』千八百『年前にこれらの近代兵器を持たない孔明が』、『風向の変化を経験と五感(観天望気)で予知していた事が事実とすると』、『たいへんな優秀な隠れ気象予報士とも考えられる。祈祷師のような行動は単なる表面上のパーフォーマンスに過ぎないとも考えられる。現在、オカルト学者孔明科学者孔明の虚実両面の諸葛孔明観が浮かび上がってくるが』、『どちらが正しいかは今後の研究によってもっと明らかになってくるものと考えられる』と語られ(太字はママ)、当地の『「南屏山(なんべいざん)に祈祷のための七星壇(しちせいだん)を築いて結界を作ってください」と依頼した』こと、『軍議にて「暖冬の折りに、東の空が黒い気に覆われ、太陽の輝きが気に隠れている、という現象が重なると、長江沿岸の山が険しく川幅の広い』九『つの場所で穏やかな南東の風である陸湖風(りくこふう)が起こる」』(この部分引用原文では赤字)と述べこと、山と川との関係から川霧の発生を予見していたこと等が記されており、芥川の言うところとよく一致するように思われる。非常に興味深い論文なので、是非読まれんことをお薦めする。

「玉璽を擁して疾呼する孫堅」三国時代の呉を建国した孫権の父孫堅(一五五年又は一五六年~一九一年又は一九二年)。ウィキの「孫堅」によれば、「三国志演義」の第六回で、『孫堅は董卓の政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞ぐ。その最中、宮中の古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見する。程普によって印璽が伝国璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿する。その現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」』『と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散』してしまい、『ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する』とあるのに基づくものであろう。

「蒼天を仰いで苦笑する孟德」「孟德」は後漢末の武将で政治家の曹操(一五五年~二二〇年)の字。私は「三国志」に冥いので何とも言えないが、曹操の名言の一つである「英雄は天に先んず」辺りとの絡むか。

「蛇矛を按じて踊躍する翼德」後漢末から蜀の将軍で政治家の張飛(?~二二一年)の字。但し、本来は「益德」が正しい。バルカ氏のサイト内の「三国志」の「張飛の字は益徳か翼徳か?」に、『張飛の字(あざな)は、小説によっては「益徳」であったり、また「翼徳」であったり』するが、正史「三国志」の「蜀書」の「張飛伝」では『「益徳」とされているので、こちらが正解で』あるとされた後、しかし『元代の「中原音韻」という書』では、「益」と「翼」は同音とされており、『現代の中国語でも、「益」と「翼」はどちらも「yi(イー)」で同音で』、『古代の文献では、同音による誤字や当て字が頻繁なので、張飛の字』の誤用も『その例の一つ』であろうとある。「蛇矛」とはウィキの「蛇矛」によれば、「じゃぼう」とも読み、『柄が長く、先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため、そう呼ばれる矛』で、小説「三国志演義」の中で、『程普や張飛が使う武器で、劉備、関羽と義兄弟の契りを結び、義兵団を結成したとき(桃園結義)に、劉備の「雌雄一対の剣」と、関羽の「八十二斤の青龍偃月刀」と一緒に張飛がそろえさせたものだといわれている。小説』「水滸伝」に『登場する林冲も張飛になぞらえ、この武器を使っている』。『実際にこのような武器が生まれたのは、三国時代や北宋時代よりもさらに後年の』、「三国志演義」や「水滸伝」が掻かれた『明の時代であるといわれている。一丈八尺(』約四・四〇メートル、一説には六メートル『以上)で』、『敵を刺したときに、傷口を広げ』、『よりダメージを大きくさせることを目的としている』とある。ウィキの「張飛」にも、「三国志演義」には、張飛は身の丈八尺(約一メートル八十四センチ)もあり、『豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(「身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬」)』『と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている』とある。グーグル画像検索「蛇矛」をリンクさせておく。]

 

「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」しかも平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して、後白河法皇を鳥羽殿に幽し奉り、新院に迫りて其外孫たる三歲の皇子を册立せし橫暴は、更に、其亡滅の日をして早からしめたり。是に於て、小松内大臣の薨去によりて我事成れりと抃舞したる、十のマラー、百のロベスピエールは、平氏政府の命數の既に目睫に迫れるを見ると共に、劍を撫し手に唾して、蹶起したり。

[やぶちゃん注:「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」筑摩書房全集類聚版注に『出典未詳』とする。しかし、これ、例えば、新渡戸稲造の「自警録」(昭和四(一九二九)年刊。リンク先は「青空文庫」)の第三章の末尾、「己おのれに克かつものが世界に勝つ」の条の一節に、

   *

[やぶちゃん注:前略。]精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克(か)つ者は己(おの)れに克(か)つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。

   外(そと)よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗(くり)のいがかな

 栗(くり)のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪(た)える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

と殆んど同じ狂歌が出るし、調べたところ、福成寺大仙述の「親鸞聖人 高祖聖人四幅御絵伝の御絵解(上巻)」(PDF)」の「第八段 入西観察之段」の「石を枕」(四十五~四十六ページ目)の絵解き文句の中にも、『要害を内から破る栗のいが』という相似内容の川柳染みたものが出るから、人口に膾炙したものであることは間違いない。但し、表現から見て江戸も中期以降のものではあろうと思われる。

「鳥羽殿」現在の京都市南区上鳥羽及び伏見区下鳥羽・竹田・中島附近。朱雀大路の延長線上にあった(平安京の羅城門から南に約三キロメートル)。敷地面積は百八十万平方メートルにも及んだ(以上はウィキの「鳥羽離宮」に拠った)。この鴨川と桂川の合流地点である中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「新院」元の高倉天皇応保元(一一六一)年~治承五(一一八一)年/在位:仁安三(一一六八)年~治承四(一一八〇)年三月(病死))。後白河天皇第七皇子。

「平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して」既に注した、治承三(一一七九)年十一月に清盛が軍勢を率いて京都を制圧し、後白河院政を停止した「治承三年の政変」の際に行った「陟罰」(ちよくばつ(ちょくばつ):官位を上げることと罰すること)。ウィキの「治承三年の政変」によれば、十一月十四日、『清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず』、『騒擾を極めた』。翌十五『日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命された。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れた』が、十六日には『天台座主・覚快法親王が罷免となり』、『親平氏派の明雲が復帰』し、十七日、『太政大臣・藤原師長以下』三十九『名(公卿』八『名、殿上人・受領・検非違使など』三十一『名)が解官される。この中には一門の平頼盛や縁戚の花山院兼雅などが含まれており、この政変の発端となった越前守の藤原季能にしても清盛の次男の平基盛の娘が妻であった。諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国はクーデター前の』十七『ヶ国から』三十二『ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに』六十六『ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」(『平家物語』)という状態となった』。十八日、『基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まった』(ここまでの解任者を数えると、ほぼ芥川龍之介の言う「四十三人」ほどになる)。『これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示している』。二十日の午前八時頃、『後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移された。鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(藤原成範・藤原脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げた。次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされた』。『後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった』とある。

「小松内大臣の薨去」既に注した重盛の逝去。「治承三年の政変」に先立つ三月半前の治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)。

「マラー」(Jean-Paul Marat 一七四三年~一七九三年)はフランスの革命家。「フランス革命」にあたって『人民の友』紙を発刊し、民衆の運動を賞賛。国民公会議員に選出後は、「山岳派」(Montagnards:フランス革命期の国民公会に於ける左翼系議員の集団を指す。議場内の高い位置にある座席を占めたのでこの名がつけられた)の指導者として活躍した。「ジロンド派」(Girondins:フランス革命期の立法議会・国民公会における党派の一つ。党名は指導者の内の三人がジロンド県出身の議員であったことに由来する。商工業ブルジョアジーを代表する穏健な共和主義派で、「ジャコバン派」(Jacobins:パリのジャコバン修道院内に本部を置いた、フランス革命期の急進的政治党派。マラー・ダントン・ロベスピエールらを指導者としてジロンド派と対立、一七九三年から独裁体制を執り、恐怖政治を行ったが、一七九四年の「テルミドールの反動(クーデタ)」(Raction thermidorienne)で瓦解した)と対立。一時は多数を占めたが、一七九三年、国民公会から追放された)没落後、支持者の女性に刺殺された。

「ロベスピエール」マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre 一七五八年~一七九四年)はフランスの政治家。大革命期の一七九二年に国民公会の議員となり、「ジャコバン派」の中心人物として「ジロンド派」を追放し、「革命の防衛」の名の下に恐怖政治を強行、封建制の全廃などの諸改革を行ったが、「テルミドールの反動」によって処刑された。]

 

夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。平門の犬羊、いづれの日にか、其跳梁を止めむとする。

 

嗚呼、誰か天火を革命の聖檀に燃やして、長夜の闇を破るものぞ、誰か革命の角笛を吹いて、黑甜の逸眠を破るものぞ。果然、老樹は仆れたり。平等院頭、翩々として、ひるがへる白旗を見ずや。

[やぶちゃん注:「黑甜鄕裡」「こくてんきやうり(きょうり)」。「黑甜」は「昼寝」或いは「ぐっすりと安眠すること」。「昼寝心地よい夢の世界の中」の意。

「平等院」ウィキの「以仁王の挙兵」によれば、治承四(一一八〇)年に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が打倒平氏を掲げて挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、計画の準備不足のために露見してしまい、逆に平氏の追討を受け、以仁王と頼政は「宇治平等院の戦い」で五月二十六日に敗死し、『早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である』「治承・寿永の乱」が勃発した。]

 

然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老將、源三位賴政の手によつて、飛ばされたり。

[やぶちゃん注:「廉悍」毅然としてきびきびしており元気がよいこと。

「源三位」(げんさんみ)「賴政」(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)源仲正の長男で「平治の乱」では平清盛方につき、平家政権下で唯一、源氏として残ったが、最後に挙兵を図るも、破れて自死した。享年七十七歳。鵺(ぬえ)退治の伝説や歌人としても著名である。ウィキの「源頼政」によれば、彼は酒呑童子退治で知られる源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:平安中期の武将。鎮守府将軍源満仲の長子で清和源氏第三代。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に「大和源氏」の源頼親、後に義家・義朝・頼朝へ連なる武家源氏の主流となる「河内源氏」の源頼信がいる)『の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵のようなもの)の任に就いていた』。『頼政は平氏政権下で中央政界に留まり、源氏の長老の位置を占めた』。仁安二(一一六七)年、『従四位下に昇叙。頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕え、また』、『後白河法皇の武力として活動している』。安元三(一一七七)年に、『院近臣の西光と対立した延暦寺大衆が強訴に攻め寄せた時には』、『平重盛らとともに御所の警護に出動している』。永く『頼政の位階は正四位下』であった『が、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があった』。七十『歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んで』おり、治承二(一一七八)年になって、やっと『清盛の推挙により念願の従三位に昇叙した』。「平家物語」巻第四の「鵺」では、清盛が『頼政の階位について完全に失念しており』、そこで頼政が、

 上(のぼ)るべき便り無き身は木(こ)の下(もと)に椎(しゐ)を拾ひて世を渡るかな[やぶちゃん注:「椎」に「四位」を掛けた。]

『という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという』。『史実でも』、『この頼政の従三位昇進は相当』な『破格の扱いで、九条兼実が日記』「玉葉」に『「第一之珍事也」と記しているほどである』(次の段で芥川龍之介が「未」だ「其」の「比」(ひ)「を見ざる」というのはそれを言っている)。『清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時』既に七十四『歳であった』とある。]

 

彼は、源攝津守賴光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、對平氏關係の甚、圓滿なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。若し彼にして平和を愛せしめしならば、或は榮華を平氏と共にして、溫なる昇平の新夢に沈睡したるやも亦知るべからず。さはれ、老驥櫪に伏す。志は千里にあり。彼は滔々たる天下と共に、太平の餘澤に謳歌せむには、餘りに不覊なる豪骨を有したりき。彼は、群を離れたる鴻雁なれども、猶萬里の扶搖を待つて、双翼を碧落に振はむとするの壯心を有す。彼は平門の紈袴子が、富の快樂に沈醉して、七香の車、鸚鵡の盃、揚々として、芳槿一朝の豪華を誇りつゝありしに際し、其烱眼を早くも天下の大勢に注ぎたり。而して、彼は既に、平門の惰眠を破る曉鐘の聲を耳にしたり。彼は思へり、「平家は、榮華身に餘り、積惡年久しく、運命末に望めり」と。彼は思へり、「上は天の意に應じ、下は地の利を得たり、義兵を擧げ逆臣を討ち、法皇の叡慮を慰め奉らむ」と。彼は思へり、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を、駈具せば天が下何ものをか恐るべき」と。胸中の成竹既に定まる。彼は是に於て、其袖下に隱れて大義を天下に唱ふべき名門を求めたり。而して彼の擁立したるは、實に後白河法皇の第二の皇子、賢明人に超え給へる、而して未親王の宣下をも受け給はざる、高倉宮以仁王なりき。見よ。彼の烱眼は此點に於ても、事機を見るに過たざりし[やぶちゃん注:「あやまたざりし」。]にあらずや。彼は近く平治の亂に於て主上上皇の去就が、よく源平兩氏の命運を制したるを見たり。彼は、朝家を挾ンで天下に號令するの、天下をして背く能はざらしむる所以なるを見たり。而して彼は、宣旨院宣、共に平氏の手中に存するの時に於て、九重雲深く濛として、日月を仰ぐ能はざるの時に於て、革命の壯圖を鼓舞せしむるに足るは、唯、竹園の令旨のみなるを見たり。然り、最も天下の同情を有する竹園の令旨のみなるを見たり。彼が以仁王を擁立したる所以は、實に職として是に存す。かくの如くにして彼の陰謀は、步一步より實際の活動に近き來れり[やぶちゃん注:「ちがづききたれり」。]。而して治承四年五月、革命の旗は遂に、皓首の彼と長袖の宮との手によつて、飜されたり。天下焉ぞ雲破れて靑天を見るの感なきを得むや。

[やぶちゃん注:「老驥櫪に伏す。志は千里にあり」「老驥(ろうき:老いた駿馬)櫪(れき:馬を繫いでおく横木)に伏す」とも「志」(こころざし)「は千里にあり」で、駿馬は老いて厩(うまや)に繋がれても、なお、千里を走ることを思うこと。「英雄俊傑の老いてもなお志を高く持って英気の衰えぬさま」の喩え。「曹操」の詩「碣石(けつせき)篇」の一節、

 老驥伏櫪

 志在千里

 烈士暮年

 壮心未已

「鴻雁」「こうがん」。雁(かり・がん)。「鴻」はここではガンの大きなもの。ガンについては「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」の私の注を見られたい。

「扶搖」「ふえう(ふよう)」。旋風(つむじかぜ)であるが、ここは「萬里の」とあるので、その強力なもの、台風・暴風の謂い。

「碧落」大空、或いは遠い場所。

「紈袴子」既出既注であるが、特別に再掲しておく。「ぐわんこし(がんこし)」。「紈袴」は白練りの絹で仕立てた袴のことで、昔、中国で貴族の子弟が着用したことから、転じて「紈袴子」で「貴族の子弟」、特にその「柔弱な者」を指す。

「七香の車」「しちかう(こう)のくるま」。種々の香木で拵えたような、優れて美しく飾った牛車(ぎっしゃ)。

「鸚鵡の盃」「あうむのさかづき(おうむのさかずき)」。オウムガイ(頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属オウムガイ Nautilus pompilius)で拵えた酒杯。オウムガイは私の『オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)』『毛利梅園「梅園介譜」 鸚鵡螺』を参照されたい。孰れも図有り。中国では古くから本種の貝殻を加工し酒の盃としたものが好まれた。中文サイト「中華酒文化」の「隋唐酒器:鸚鵡杯」で、明らかにオウムガイを用いた唐代の酒器「鸚鵡杯」の写真が見られる。また、同じものが載る中文サイト「每日頭條」の「鸚鵡螺杯,歐洲皇室的奢華器皿!」の、一九六五年に南京象山東晉王興の夫婦墓から出土した「鸚鵡螺杯」も、同種の外形をよく残した上(最初の隔壁の中央の水管部を封じてあるのであろう)、内部の隔壁を見せて飾りとして添えてあるもので、必見!

「芳槿」「はうきん(ほうきん)」。アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus、或いはアサガオ(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)の別名。中国では古くは前者を指したものと考えられる。

『彼は思へり、「平家は、榮華身に餘り、積惡年久しく、運命末に望めり」と。彼は思へり、「上は天の意に應じ、下は地の利を得たり、義兵を擧げ逆臣を討ち、法皇の叡慮を慰め奉らむ」と。彼は思へり、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を、駈具せば天が下何ものをか恐るべき」と』以上は孰れも、「源平盛衰記」巻第十三の「高倉宮廻宣」の、治承四(一一八〇)年四月九日、頼政が以仁王を訪れて挙兵の趣きをびしっと語り上げて、宣旨を受け取る中の、彼の語りの一節を引用或いは加工したものである。最初の「平家は、榮華身に餘り、……」の部分は、ここ(先に引いた国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)の右ページの八~九行目(そこでは積惡年久しく」は「惡行年久成(なつ)て」)、次の「上は天の意に應じ、……」は同じ画像の左ページの(漢文体箇所になっている)四~五行目(画像を訓読すると、「上、天意に應じ、下、地の利を得たり、義兵を擧げて逆臣(げきしん)を討つて、法皇の叡慮を慰め奉り、」)、最後の「六孫王の苗裔、……」は、その次のコマの、六~八行目の挙兵に賛同して蝟集する面子をずらっと並べた最後に(末尾は義経である)、「此等は皆六孫王の苗裔、多田新發滿仲(ただのしんほつまんちゆう)が後胤、賴義義家が遺孫也、家子(いへのこ)郎等(らうどう)駈(かり)具せば、日本國に誰かは相從集らざるべき、」とあるのを圧縮して加工したものである。但し、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を」は私はよろしくないと感ずる。「六孫王の苗裔、源氏と、其の家子郞等を」とすべきところであろうと思う。なお、「六孫王」とは、前に注した清和源氏の濫觴たる、清和天皇第六皇子貞純親王の経基王(源経基)のこと。皇籍にった頃は彼が自身を「六孫王」と名乗ったとされることに拠る(但し、当時の文献にこの自称・他称は見られないので怪しい呼称である)。

「成竹」「せいちく」。竹の絵を描く際、胸中にその構図をしっかりと描いた後に掻き始めるの意から、「前もって立てている計画・十分な見通し・成算」の意。蘇軾の画論「文與可畫篔簹谷偃竹記」(「篔簹」(うんとう)は大きくて節と節との間が長い竹の名)に基づく語。「胸中に成竹あり」とも言う。返り点のみの原文でよければ、国立国会図書館デジタルコレクションのここにある。私は歯が立たない。

「竹園」「ちくゑん」。皇族の異称。竹の園生(そのう)。漢代の梁の孝王が東庭に竹を植えて修竹苑と称したことに基づく。

「最も天下の同情を有する竹園の令旨のみなるを見たり。彼が以仁王を擁立したる所以は、實に職として是に存す」以仁王(仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年:享年三十)は。幼少より英才の誉れ高く、学問・詩歌・書・笛に秀で、母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良いことから、皇位継承の最有力候補と見られていたが、弟(のちの高倉天皇)の母平滋子の妨害を受け、仁安元(一一六六)年には母方の伯父藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことから、皇位継承の可能性がなくなり、彼は親王宣下さえも受けられなかった点で、芥川龍之介の謂うそれが腑に落ちる。

「治承四年五月」治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日/グレゴリオ暦換算六月二十七日)。但し、既に述べた通り、事前に露見して追討されたもので、宇治平等院の戦いで二人とも敗死した(以下に示される通り、以仁王は討死、頼政は自害した)。

「皓首」「かうしゆ(こうしゅ)」白髪の頭。老人。]

 

然れ共、彼、事を南都に擧げむとして得ず、平軍是を宇治橋に要し、宇治川を隔てゝ大に戰ふ。劍戟相交ること一日。平軍既に鞭を宇治川に投じ流を斷つて、源軍に迫る。是に於て革命軍の旗幟[やぶちゃん注:「きし」。]頻に亂れ、源軍討たるゝ者數を知らず。驍悍を以て天下に知られたる渡邊黨亦算を亂して仆れ、赤旗平等院を圍むこと竹圍の如し。弓既に折れ箭既に盡く、英風一世を掩へる源三位も遂に其一族と共に自刃して亡び、高倉宮亦南都に走らむとして途に流矢に中りて薨じ給ひぬ。かくして革命軍の急先鋒は、空しく敗滅の耻を蒙り了れり。

[やぶちゃん注:「驍悍」「げうかん(ぎょうかん)」。気性が激しく力が強いこと。勇猛であるさま。

「渡邊黨」摂津国の「渡辺の津」(現在の大阪市及び~兵庫県南東部の湊(みなと))を拠点とした武士団。嵯峨源氏で、源頼光の四天王の一人渡辺綱を祖先とする(綱は武蔵国箕田の生れであるが、源満仲の婿源敦の養子となり、その縁で満仲の息頼光に仕えたとされる)。また、忠文(ただふみ)流藤原氏の武士遠藤氏も渡辺氏と姻戚関係を結び、「渡辺党」を形成した。渡辺氏は弓術の名手として滝口や衛門府官人となり、平安末期からは渡辺惣官職(そうかんしき)を相伝した。渡辺の地は淀川河口の要港で国衙所在地でもあり、また大江御厨(おおえのみくりや)の一部であったことから、魚介類の貢進や港湾政務が惣官の任務であった。また遠藤氏も摂津一宮坐摩(いかすり)神社長者職や四天王寺執行職)しぎょうしき)を相伝しており、「渡辺党」は摂津国の中枢を握る武士団として発展した。源平の争乱では、遠藤氏出身の文覚が頼朝に決起を催したり、ここに見る通り、渡辺氏も源頼政の郎等として「宇治合戦」に参戦して多くの戦死者を出すなど、源氏方として活躍した。鎌倉期は、「承久の乱」に於いて朝廷方について没落した家系もあったが、越後などに地頭職を得、発展した一族もあり、特に遠藤氏は北条氏に重用され、一時は惣官職も得た。後、一党は惣官職を争い、分立するようになり、南北朝の争乱では後醍醐方や足利方に分かれ、足利方についたグループは四国・九州や中国地方を転戦し、現地で領主化する場合もあった。渡辺氏の主流は天皇方として楠木氏に従い、惣官に補されたが、渡辺での勢力は失われていった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、およまる氏のブログ「ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて」の「摂津源氏とつながりの深い武士団 【渡辺党〔わたなべとう〕】」は渡辺党の展開を判り易く、しかも面白く書いておられる(例えば、彼らの諱が悉く漢字一字であるとか)。必見!]

 

さもあらばあれ、こは一時の敗北にして、永遠の勝利なりき。壽永元曆の革命は、彼によつて其導火線を點ぜられたり。彼は、荒鷄の曉に先だちて曉を報ずるが如く、哀蟬[やぶちゃん注:「あいぜん」、]の秋に先だちて秋を報ずるが如く、革命に先だちて革命を報じたり。あらず、革命に先だちて革命の風雲を動かしたり。彼は、ルーテルたらざるもヨハネスフツス也。項羽たらざるも陳勝吳廣也。彼の播きたる種子は少なれども、參天の巨樹は、此中より生じ來れり。彼は、彼自身を犧牲として、天下の源氏を激勵したり。彼は活ける模範となりて天下の源氏を蹶起せしめたり。然り彼は一門の子弟に彼の如くなせと敎へたり、而して爲せり。此時に於ては、懦夫も猶立つべし。況や、氏神と傳說とを同うせる、雲の如き天下の源氏にして、何ぞ徒然として止まむや。

[やぶちゃん注:「ルーテル」ドイツ宗教改革の指導的神学者マルティン・ルター(Martin Luther 一四八三年~一五四六年)。

「ヨハネスフツス」チェコ出身の宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus 一三六九年頃~一四一五年:チェコ語「Jan Hus」は、フス自身が使い始めた彼の生誕地の略語であり、当初彼は「フシネツのヤン」(Jan Husinecký)、ラテン語で「Johannes de Hussinetz」として知られていた)。参照したウィキの「ヤン・フス」によれば、『ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを』一四一一年に『破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された』とある。

「陳勝」(?~紀元前二〇八年)は秦末の農民反乱の指導者。字は渉。劉邦や項羽に先んじて秦に対する反乱を起こしたが、秦の討伐軍に攻められて、自身の馭者に裏切られて殺害された。

「吳廣」(?~紀元前二〇八年)は陳勝と並び称される反乱の指導者。字は叔。陳勝とともに反乱を起こしたが、秦軍に大敗し、部下に殺された。この死の辺りの反乱軍の崩壊は陳勝と絡みがあるので、ウィキの「陳勝」を読まれたい。

「彼の播きたる種子は少なれども」「少」は底本では「小」であるが、意味から見てよりよい、原稿に從った新全集のそれを採った。

「參天」天と並ぶように聳え立つこと。

「懦夫」「だふ」。意気地のない男。臆病な男。

「氏神と傳說とを同うせる」武家の守護神たる八幡神。鎌倉時代には既に神仏習合の中で応神天皇や聖武天皇八幡神と結合して祀られていた。則ち、十七歳の芥川龍之介はここで、当時の国家神道とそれを利用した軍産共同体としての日本軍部をも射程に入れて、近代に於いて完全に変質してしまう以前の、神仏習合の日本思想の永い蜜月時代を冷徹に見ている、と私は読むのである。大方の御叱正を俟つものではある。批判は結構だが、芥川龍之介が最期に際して、どのような文学的思潮的思想的窮迫の中に追い込まれて自死するかを、批判される方は、やはり射程に入れて私に反論して戴きたいということだけは言い添えておきたいのである。]

 

「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」殘雪の間に萠え出でたる嫩草[やぶちゃん注:「わかくさ」。]の綠は、既に春の來れるを報じたり。柏木義兼は近江に立ち、別當湛增は紀伊に立ち、源兵衞佐は伊豆に立ち、木曾冠者は信濃に立てり。今や平家十年の榮華の夢の醒むべき時は漸に來りし也。

[やぶちゃん注:「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」鎌倉時代の私家集「壬二(みに)集」(藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年:鎌倉前期の公卿で歌人)の詠草を寛元三 (一二四五) 年に前内大臣藤原基家が編纂したもの)の「上 後京極摂政家百首春草」の中の一首。「日文研」の「和歌データベース」の「壬二集」で校合確認した。

「柏木義兼」(よしかね 生没年不詳)は平安末期の武将。ウィキの「柏木義兼」によれば、『新羅三郎義光の系譜を引く近江源氏。父は山本義定。兄は山本義経(源頼朝の弟の源義経とは同名の別人)。治承・寿永の乱の初期に兄義経とともに近江国で挙兵した』。『出家して甲賀入道を名乗』った。治承四(一一八〇)年十一月二十一日、『諸国の源氏の旗上に同調して、兄の山本義経とともに近江国の勢多・野路で挙兵。義経と義兼は琵琶湖をおさえて北陸道からの年貢を止め、水軍をもって三井寺に討ち入り、寺々に押し入った。九条兼実の』「玉葉」は、『義兼は左右なく(京へ?)打ち入ろうと欲するが、甲斐源氏が使者を送って、無勢で攻め寄せても追い返される恐れがあるので、援軍が到着するまで暫く攻撃を止めさせている』、『という伝聞を記している』。十二月一日、『平氏方の平家継(平田入道)が近江へ攻め込み、源氏方の手嶋冠者を討ち、更に義兼の居城を落とした。美濃源氏の軍勢が義経・義兼の援軍に到着するが』、十二月五日に『平知盛を大将軍とする追討使に追い散らされる。義経・義兼は三井寺に拠るが、平氏軍がこれを攻めて落と』し、『義経・義兼は逃れて山本城に籠るが』、十二月十五日、『知盛・資盛の軍勢に攻められて落城』した。「玉葉」は、『討ち取られた首級に義兼の首があったとの噂を伝えるが、これは誤報であったと訂正して』いる。『この後、兄の義経は落ち延びて、鎌倉の源頼朝を頼っている』。「源平盛衰記」では、寿永二(一一八三)年、『義兼は源義仲の軍に加わり、信濃国、加賀国の住人とともに先陣の大将として越前国へ攻め込み、燧城を構えて』、『立て籠もって』健在であり、『義仲が平氏を逐って入京すると、義兼は兄の義経とともに京の警護に任じられた』(これは公卿吉田経房の日記「吉記(きっき)」にも記されているので、生きていたのは事実であろう)。『以後の消息は不明』とある。

「別當湛增」(たんぞう 大治五(一一三〇)年~建久九(一一九八)年)は当時の熊野三山の社僧(法体)にして第二十一代熊野別当。ウィキの「湛増」を見ると、『伊第十八代別当湛快の次子で、源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当た』り、『伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれている』。しかし、源氏の血を引いていたものの、「平治の乱」では、『父湛快』『が平清盛方につき』、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、平氏政権のもと、熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた』、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し』、承安二(一一七二)年『頃には京都の祇陀林寺周辺に屋敷を構え、日頃から』、『隅田俊村などの武士を従者として養い』『つつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた』。承安四(一一七四)年には、『新宮別当家出身の範智が』第二十『代別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐』した。治承四(一一八〇)年五月、『湛増は、新宮生まれの源行家』(義朝の弟。新宮十郎。以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物として知られる)『の動きに気づき、平氏方に味方して』、『配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した』が、『すぐさま』、『源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。しかし、同年』十『月、源頼朝の挙兵を知』るや、『それ以後、新宮・那智と宥和を図るとともに、熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し、源氏方に味方した』(「玉葉」に拠る)。治承五(一一八一)年一月、『源氏方が南海(紀伊半島沖合)を周り、京都に入ろうとしたため、平家方の伊豆江四郎が志摩国を警護』したが、『これを熊野山の衆徒が撃破し、伊豆江四郎を伊勢方面に敗走させた』(但し、『大将を傷つけられたため退却した』)。元暦元(一一八四)年十月、湛増は』第二十一『代熊野別当に補任され』、『源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかの最終決断を揺れ動く熊野の人々に促すため、新熊野十二所神社(現闘雞神社、和歌山県田辺市)で紅白の闘鶏をおこない』、『神慮を占ったとされる』(「平家物語」)。『学者の中にはこれを否定する人もいる』『が、長い時間の経過と』、『めまぐるしく変転する政局をめぐり、湛増を中心とした関係者側に』、『改めてこのような儀式をおこなう事情がありえたことを考慮すべきであろう』。而して元暦二(一一八五)年、源義経の』援助『によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は』二百『余艘(一説では』三百『艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢』二千『人(一説では』三千『人ともいう)を率いて平氏と戦い、当初から源氏方として』、「壇ノ浦の戦い」に参加、『河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した』。『これらの功績により』、文治二(一一八六)年、『熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められ』、また、文治三(一一八七)年には、『法印に叙せられ』、『改めて熊野別当に補任され』ている。建久六(一一九五)年、『上京していた鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と対面し、頼朝の嫡男源頼家に甲を献じ、積年の罪を赦された』。さて、筑摩書房全集類聚版注では、『ここは芥川の誤りで、湛増は平家重恩の身であり、源氏の新宮十郎義盛の居城を攻めて敗れたのである』とする。これは以上の通り、時制的史実的に正しい。後の源氏への寝返りの部分を芥川龍之介は遡及させて叙述してしまった誤認と言えよう。

「源兵衞佐」頼朝。

「木曾冠者」義仲(久寿元(一一五四)年~寿永三年一月二十日(ユリウス暦一一八四年三月四日/グレゴリオ暦換算:三月十一日:享年三十一。従兄弟の頼朝より七つ歳下)。ウィキの「源義仲」によれば、『河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる』。「平家物語」「源平盛衰記」に『よれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により』、「大蔵合戦」(久寿二(一一五五)年八月、従兄弟源義平が義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたもので、「保元の乱」の前哨戦ともされる)で『義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時』二『歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという』。「吾妻鏡」に『よれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている』。「源平盛衰記」に『よると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある』。『諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺』(かなさしの)『盛澄に預けられて修行したといわれている。こうした事とも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている』。この治承四(一一八〇)年に『以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は』、五『月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している』。同年九月七日、『義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう』。二『ヵ月後に信濃国に戻り、小県』(ちいさがた)『郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている』。翌治承五年六月、『小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など』三『千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職』(じょうのながもち:越後平氏)を「横田河原の戦い」で『破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年』(一一八二年)、『北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める』。寿永二(一一八三)年二月、『頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この』二『人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また』、「平家物語」「源平盛衰記」では、『武田信光が』、『娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに』、「義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしている」『と讒言したとしている』。しかし、『両者の武力衝突寸前に和議が成立』、三『月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく』とある。さても標題以降、驚くべきことに、ここに至って初めて本文に「義仲」の名が出るのである。則ち、ここまでは芥川龍之介「義仲論」のこれから後の義仲への論考への壮大な枕としての〈「平氏政府」前史〉なのである。]

2019/07/13

木曽義仲深田入り込み状態

芥川龍之介十七歳の「義仲論」の恐るべき語彙力と博覧強記に舌を巻いたままでは居られず、すっかり注で深田に嵌まって抜け出せない。しかし、討ち死にするわけには行かぬ。第一章(全三章で四百字詰原稿用紙換算で九十枚)は明日か明後日には公開出来るか。

2019/07/05

「Blog鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年一月一日発行の『新潮』の「出世作を出すまで――文壇の人となつた徑路と一般的に認められた作を書いた當時のことども……(新進十二家の感想」の大見出しのもとに上記標題で掲載されたもの。底本は一九七七年刊の岩波旧全集第二巻に拠ったが、同底本では副題に「――出世作を出すまで――」があるものの、これは改題により全集編者が副えたものであるので除去した。傍点「・」は太字に代えた。

 書かれたのは大正七年末であろうが、当時、芥川龍之介は満二十六歳で、未だ海軍機関学校に勤務していたものの、既に辞任の意志を固めていた(但し、学校の都合もあり、辞職は翌年三月三十一日附。新たに大阪毎日新聞社客員社員となった)。過ぐる二月二日に塚本文と結婚していた。大正七年の作品ではざっと見ても、五月の「地獄変」(『大阪毎日新聞』連載。リンク先は私の電子テクスト。別立てのオリジナル詳細注もある)、七月一日発表の初めての童話「蜘蛛の糸」(『赤い鳥』。リンク先は私の「傀儡師」版。私は別に岩波旧全集版も電子化し、両者の詳細な校異も別に作成してある)、九月一日の「奉教人の死」(『三田文学』リンク先は私の岩波旧全集版。私は本作には強い拘りがあり、他に作品集『傀儡師』底本版「奉教人の死」テクストや、本作の種本である斯定筌(Michael Steichen 1857-1929)著「聖人傳」の「聖マリナ」、さらには自筆原稿復元版(ブログ版)等も電子化している)、十月一日の「枯野抄」(『新小説』リンク先は私の岩波旧全集版。他にも作品集『傀儡師』版「枯野抄」本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版同HTML横書版も用意してある)といった彼の代表作となる優れた作品群が書かれている。また、この大正八年一月十五日は満を持した第二作品集「傀儡師」(リンク先は私の芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)。全収録作品が読める)を新潮社から刊行している。「傀儡師」は芥川文学の一つのピークを象徴する優れた作品集である。この文章末尾の自負がまっこと、腑に落ちる。

 私が躓いた部分のみを注しておく。

「山宮」は詩人で英文学者の山宮允(さんぐうまこと 明治明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。山形県生まれ。芥川の二歳年上で一級上。第一高等学校から年東京帝国大学英文科卒。大正三(一九一四)年の第三次『新思潮』の創刊に参加した一人。大正六(一九一七)年、川路柳虹らと「詩話会」を結成し、翌年には評論集「詩文研究」を上梓している。第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られる。

「珠邨談怪」「しゆそんだんくわい」。明初期の朱翊清(よくせい 生没年未詳)の撰になる小説。恐らくは志怪小説集であろう。

 なお、本電子テクストは、本ブログ「Blog 鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念として公開するものである。【2019年7月5日 藪野直史】]

 

 

 小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い

 

 小學校に通つてゐる頃、私の近所にあつた貸本屋の高い棚に、講釋の本などが、澤山並んでゐた。それを私は何時の間にか端から端迄すつかり讀み盡してしまつた。やがて、さうしたものから導かれて、まづ「八犬傳」を讀み、「西遊記」「水滸傳」を讀み、馬琴のもの、三馬のもの、一九のもの、近松のものを讀み始めた。傍ら十歲位の時から始めてゐた英語と漢學とを習つた。德富の「思ひ出の記」や、「自然と人生」を、高等小學一年の時に讀んだ。中學時代には、泉鏡花のものに沒頭して、それを悉く讀んだ。漢詩も可成り讀んだ。續いて夏目さんのもの、さんのものも大抵皆讀んでゐる。中學の五年の時に「義仲論」といふ論文を校友會雜誌に出した。これが一番始めに書いて出して見た文章であつた。しかし、當時ではまだ作家にならうといふやうな考は浮ばなかつた。將來は歷史家にならうといふやうに思つてゐた。

 中學を卒業してから、無試驗で一高の英文科に入學した。もう歷史家になる考もなかつた。相變らず小說を讀んでゐた。主に德川時代のものが多かつた。德川時代の淨瑠璃や小說の次には、西洋のものにも移つた。丁度自然主義運動で當時我文檀に流行したツルゲーネフ、イブセン、モウパッサンなどを出鱈目に讀み獵つた。

 高等學校から大學に進むと、小說は支那のものに移つた。「珠邨談怪」「新齊諧」「西廂記」「琵琶行」などを無闇と讀んだ。日本の作家のものゝうち、志賀直哉氏の「留女」を好きで讀んだ。武者小路實篤氏のものも讀んだ。その頃讀んだものゝ中で、殊に感激させられたものは、ジヤン・クリストフであつた。

 以上は主にこれまでにもお話したことのある私の讀んだものに就ての、大あらましの筋道だが、創作を書き出した動機といふと、大學一年の時、豐島だの、山宮だの、久米だので第三次の「新思潮」を出した時に、「老年」といふ短篇を書いたのが初めである。それでもまだ作家になる考がきまつてゐたのではなかつた。その頃久米がよく小說や戲曲などを書くのを見て、あゝいふものなら自分達でも書けさうな氣がした。そこへ久米などが書け書けと煽動するものだから、書いて見たのは、「ひよつとこ」と「羅生門」とだ。かういふ次第だから、書き出した動機としては、久米の煽動に負ふ所が多い。「ひよつとこ」も「羅生門」も「帝國文學」で發表した。勿論兩方共誰の注目も惹かなかつた。完全に默殺された。現に「羅生門」の如きは、今日親しく交際してゐる赤木桁平すらも默殺した。

 その後新たに出た第四次の「新思潮」の同人に加はつて、その初號に「鼻」といふ小說を書いた。それが夏目さんを始め、小宮君や、鈴木三重吉君や、赤木の目にとまつて、褒められた。三重吉君の如きは、それを動機として、その年の「新小說」の特別號に小說を書かしてくれた。それが「芋粥」である。前の「羅生門」も「芋粥」も「今昔物語」から材料を取つてゐる。「今昔物語」は當時でも今日でも、私は愛讀を續けてゐる。その後今日まで小說を書き續けてゐるが、本當に小說を書いて行かうといふ勇氣を生じて來たのは、最近半年ばかりの事である。

 

「Blog鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) (私は十八年目の誕生日をむかへました。……) 芥川龍之介



[やぶちゃん注:かく書いても当時の年齢は数えであり、しかも桃の節句のシークエンスが過去形で書かれているから、芥川龍之介満十七歳の、明治四二(一九〇九)年三月三日以降に書かれたものと私は推定する。この当時、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校。本文末尾に出る通り、明治三八(一九〇五)年四月入学)の第四学年の終わりから最終学年である第五学年(当時の旧制中学の修業年限は五年)になった時期に当たる。彼の全集に載る優れた長文論考(四百字詰原稿用紙換算で九十枚)で、龍之介自身が『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載。これは現在、電子化されていないので、今回、この次の記事で合わせて電子化した)と名指している「義仲論」リンク先は「青空文庫」版(新字旧仮名)。但し、そこでは標題が『木曾義仲論』となっている。これは現行の諸資料の「義仲論」という題名と齟齬する。当該電子データは底本が昭和四三(一九六八)年筑摩書房刊の「現代日本文学大系」第四十三巻「芥川龍之介集」を底本としていることに拠るものと思われるが、現在の正規の芥川龍之介の書誌では総て「義仲論」であり、これは甚だ奇怪と言わざるを得ない。近い将来、旧全集に拠って正字でオリジナル注も附して電子化しようと考えている)が書かれたのは、この年の十二月六日以前である(龍之介は、当時、この『学友会雑誌』の編集委員を務めており、この日に編集を終えているが、その当該号に彼の「義仲論」は掲載されているからである。但し、当該誌が発行されたのは、翌明治四十三年の二月十日である)。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『十八年目の誕生日……』に拠ったが、その後書き註で葛巻氏は、『この原稿は、半紙に墨で下書きされた二種類がある。いずれもが、ほとんど読めないほど、字が乱れている。――が、彼が知る筈のない生れた家と、其附近のことが出て来るので、出来るだけ判読してみた。もちろん、他の一つで他の一つをお互いに補い合いながらである。――』と記しておられる。則ち、この「芥川龍之介未定稿集」が未だにどこかで鬼っ子扱いされている主原因たる、葛巻氏による本文操作(結合や書き変え)が、本篇でもかなり有意に行われているものとして読まねばならないことは言うまでもない。標題も葛巻氏によるものと考え、採用せず、冒頭の一文にリーダを附して丸括弧表示とした(本文では示さない)。始めの一段落目と二段落目の初めの部分を除き、殆んど句読点なしであり、字空けは総てママである(字空けも葛巻氏による附加である可能性が高いが、これをカットすると甚だ読み難くなるので採用した)。後半部の行空けもママ。文中と文末の二箇所の『・・・』は葛巻氏の処理とも考えられるが、後の芥川龍之介も原稿でこれを使用するケースが見られたので、そのまま示した。〔 〕は葛巻氏が補った部分や注である。踊り字「〱〲」は正字に代えた。

 第二段落に引かれる英文の一句は、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の代表的単詩篇の一つ、「人生の讃歌」(A Psalm of Life:一八三八年)の第三連の一行目、

Art is long, and Time is fleeting,

の後半部である。原詩詩篇全文と解説は英語のウィキの「A Psalm of Life」がよい。この原詩の一行は……しかし……まさに後の……かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年発表。リンク先は私の初出復元注の、後の「上 先生と私」パート相当部)の初版の見開きに捺印されたあのラテン語「Ars longa, vita brevis(リンク先は私の古い記事)の英訳と一致するのだ……私はこれを満十七歳の芥川龍之介の述懐の中に見出し……何やらん慄っとするものを……感じた……

 第三段落「私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれた」とあるが、芥川龍之介(本姓新原(にいはら))の出生(明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)地は東京市京橋区入船町八丁目一番地、現在、中央区明石町一-二五の聖路加国際大学の一角の「芥川龍之介生誕の地」の表示版が立つ(グーグル・マップ・データ)が、そこから一区画分南とする説もある。但し、葛巻氏が言っている通り、芥川龍之介がここでの記憶を持っていることはあり得ない。何故なら、十月二十五日頃、実母の突然の精神疾患発症によって、龍之介は急遽、フクの実家である本所小泉町十五番地にあった芥川家(現在の墨田区両国三-二二-一一。現在、「芥川龍之介生育の地」が立つ。グーグル・マップ・データ)に預けられたため、実際に龍之介がこの生家に居たのは生後八ヶ月間だけであったからである。しかも、新原家は翌明治二十六年に芝へ転居している。則ち、ここで語られるそれは、龍之介が後に想像した(芥川家から入船町の旧新原家跡は直線で四キロメートルほどしか離れていないから、ごく少年期の龍之介が旧跡を訪れて見た可能性は極めて高い)偽記憶である。或いは、既にして創作の確信犯をここに読むことも出来ると言えるのである。なお、本篇が書かれた当時もこの本所に龍之介はいた。

 同段の「低い腰掛が二かはに行儀よくならだ」というのは、或いは「低い腰掛が二」(ふたつ)「かは」(川)「に行儀よくなら」ん「だ」の意ではないかと想像した。入船町八丁目は芥川龍之介生誕八年前の「五千分一東京図測量原図(農研機構)Map in Tokyo Central (1883 (Meiji 17), 1:5000)」で見ると(検索ボックスで「中央区明石町」を検索し、東へ少し移動して現在の聖ルカ礼拝堂付近へ運んで少し拡小すると旧地図となり、そこに「入舩町八丁目」が見える)、南と西側が当時は有意な川幅の運河であることが確認出来る。

 第四段落の「父」とは、実父新原敏三ではなく、養父芥川道章(どうしょう)である。龍之介の正式な芥川道章との養子縁組は明治三七(一九〇四)年八月で、龍之介満十二歳、江東小学校高等科三年の時であった。

 「脩竹」は「しうちく(しゅうちく)」で「修竹」とも書き、長く伸びた竹のこと。

 なお、本電子テクストは、本ブログ「Blog 鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念として公開するものである。【2019年7月5日 藪野直史】]

 

 

 私は十八年目の誕生日をむかへました。

 私の誕生日は三月の一日です。川やなぎの芽だちも白くなつて、桃もちらほら咲いてゐました。雛段の下で 姊に白酒をすゝめられた時に、私は ほのかな暗愁に胸を押されて 小さな盃を持つた手がふるへずにはゐられませんでした 障子に暖な日ざしがさして 時々鶯の零さへきこへる春の日の靜けさが身にしみる樣な日です 私は限りないなつかしい思出に醉ひながら「time is fleeting」と云ふ句を耳のほとりにさゝやかれる樣な氣がしていつか目がうるみました

 私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした 家のうしろが小さな教會でこもりした柊の木立の間から 古びた煉瓦の壁が見えて 時々やさしい歌の聲が 其中からもれて來たのと 低い腰掛が二かはに行儀よくならだ 薄暗い部屋のつきあたりに黑い髮の女の大きな額がかゝつてゐたのとは 未だにはつきり覺えております 私は裏庭の日あたりのいゝ葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが 何よりも樂〔しみ〕でした 海は直 ちかくだつたので よく下女に負ぶさつて見に行きました あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて靜に海の上をすべツてゆくのや 勢のいゝ船歌や 黃色がかつた水がたぷたぷと石垣をなめてゐるのが 下女に舟幽靈の話や人魚の話をしてもらひながら 海の底にある國の事を考へてゐた幼兒に どな感じをおこさせたかは たしかに覺えてゐません

 いくつの時でしたか 本所へ住む樣になつて こゝから學校へかよひました 小學校にゐた私は 意氣地のない女々しい子供で 始終皆にいぢめられて 泣いてばかり居りました 庭の無花果(いちじゆく)の木の下でしくしくないてゐますと 父が「なくぢやないよ。」と云ひながら 無花果をとつてくれましたので 猶 悲しくなつて 大きな聲をあげてないた事もありました 今でも あの無花果の小暗い葉かげを見ますと 夕やけのした雲を眺めながら 泣きずすりをしてゐた瘦せた子供を思ひ出します

 其時分は家のうしろに――今の兩國停車場のあるところです。――廣い原があつて 低い灌木のしげみや 冬の鳥の眼をひく野いばらの實の色づいたのに野葡萄がからんだ脩竹のやぶや 蘆が白くうらがれては鴨が時々とび出した小さな沼や 野菊がさいた中に狐の穴の在つた岡が 私たちにとつては いゝ遊び場所でした

 蛇いちごの たくさん成つてゐた草の上で 相撲をとつた事もあります 空氣銃を持つて一日百舌をねらひくらして 榎の黑い枝ごしに 宵の明星を見た事もあります 蒲の一ぱいはえてゐた池で〔一字不明〕の石の中(あひだ)から大きな蛇をひき出して殺した事もあります其頃の事を考へると ツルゲーネフか誰かの「森のそゞろあるき」が胸に浮で 少年の日の悲しみがしみじみと心に・・・

 

 私は大がい内で 御伽噺をよだり 繪の具いじりをしてゐました 女の〔二字分欠〕樣な綾とりや〔数字不明〕をやつた事もあります

 白い小さい柳の花が ひつきりなしにおちる時分でした うすぐらい〔数字不明〕で 下女と二人きりで 草双紙の繪を見てゐた私は つくづくひとり法師(ぼつち)のさびしさが 胸にしみたやうに思はれます

 私が中學へはひつたのは 三十八年頃でした・・・



2018/12/17

芥川龍之介 西鄕隆盛 (正字正仮名版・附注)

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年一月一日発行『新小説』初出。後に作品集「鼻」「芋粥」に所収された。底本は旧岩波書店刊「芥川龍之介全集」第二巻を用いた(底本を作品集「鼻」とするもの)。

 芥川龍之介満二十五歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)、未だ横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)で、この二月二日には塚本文(満十七歳)と田端の自宅で結婚式を挙げている。本文冒頭に、『昨年の冬鎌倉へ轉居する』と出るのは、大正五年(執筆は大正六年中。最終クレジット参照)十二月一日に横須賀海軍機関学校教官に就任したため、田端の自宅からは通勤が困難であったことから、当時の鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)の「海浜ホテル」側のの間西洋洗濯店の離れに下宿をしたことを指す(この八日後の十二月九日に恩師夏目漱石の逝去に遇う。着任早々であったからか、主なき漱石宅に赴いたのは十一日の昼頃であった。また、この十二月に塚本文と婚約している。鎌倉の下宿は大正六年九月十四日に横須賀市汐入の尾鷲方へ転居しているが、文と結婚後に鎌倉に戻る予定で、実際に大正七年三月二十九日に鎌倉町大町辻の小山別邸内に新居を構えた。因みにここは私の父方の実家の直近でもある)。

 読みは一部の判読で振れると判断したもののみに施した。先行して出ながら、後で振ってある場合は、それに従っている。また、加工用データとして「梅雨空文庫」のこちらのものを利用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。ダッシュやクレジット位置はブラウザを不具合を考えて上に上げてある。読みにあった踊り字は正字化した。

 なお、作中に出る、ネタ元を語ったとする『大學の史學科を卒業した本間さん』や、後に出る老紳士の学者らしき人物もモデル不詳で、芥川龍之介自身の分身のようにも受け取れる。

 簡単に語注しておく。

・「赤木桁平」(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)日)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した。

・「MCC」エジプト製の煙草(cigarette)。明治末期から大正初期にかけては、舶来の巻煙草と言えば、稀にこれが用いられる程度であった、と筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」(昭和四九(一九七四)年刊)にある。調べたところ、略号の意味は判らなかったが、「Best Samos M.C. Carathhanassis & Co」でこれであろう(画像有り。英文の骨董品販売サイト)。

・「俵屋」(たはらや(たわらや))は現在の京都市中京区麩屋町(ふやちょう)にある老舗旅館。創業三百余年で京都で最も古い旅館の一つ。

・「ドクタア・ジヨンソン」イングランドの詩人・批評家・文献学者サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 一七〇九年~一七八四年)。「英語辞典」(一七五五年)の編集で知られ、十八世紀の英国に於いて「文壇の大御所」と呼ばれた。辛口の警句を連発し、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。

・「almanac-maker」「オーマナック・メイカー」。暦・年鑑を作る人。

・「金釦」「きんぼたん」。金ボタン。

・「鐵木眞(てむじん)」チンギス・ハン(成吉思汗 一一六二年~一二二七年)のこと。

・「加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記」加治木常樹(安政二(一八五五)年~大正七(一九一八)は薩摩出身の政治運動家・官吏。妻時子は来島恒喜(くるしまつねき:国家主義者。頭山満らの玄洋社社員となり、後に中江兆民の仏学塾に入ったが、大隈重信外相の条約改正案に反対し、明治二二(一八八九)年十月十八日、外務省前で大隈に爆弾を投じて重傷を負わせ、その場で自殺した)の妹。西南戦争では西郷隆盛に従い、捕らえられて一年の懲役を受けた。後、挙兵の真相が誤伝されていることを憂え、「西南血涙史」(大正元年(一九一二)年十月刊)を書いている。そのプレ資料か。

・「市來(いちき)四郎日記」市来四郎(文政一一(一八二九)年~明治三六(一九〇三)年)は元薩摩藩士で修史家。薩摩藩のために軍艦・銃器の調達を担当し、箱館戦争に従軍した。維新後は島津久光の系統に属して、明治一五(一八八二)年には島津斉彬の言行録を調べ、同十八年からは維新前後にかかる「旧邦秘録」の調査に取り掛かり、島津家の修史事業に従事した。同二十二年には旧大名家を勧誘し、「史談会」を結成、甥の寺師宗徳とともにその運営を推進した。

・「蹌踉(さうろう)たる」足もとがしっかりせず、よろめくさま。

・「窓帷」「カアテン」と読んでおく。筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」がかくルビを振る。

・「風骨(ふうこつ)」姿。風体(ふうてい)。ここは風格あるそれ。

・「魁偉」(くわいゐ(かいい))顔の造作や身体が人並外れて大きく、逞しい感じを与えること。

・「ウオルタア・ラレエ」イングランド女王エリザベス世の寵臣にして探検家・作家・詩人であったウォルター・ローリー(Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年)。新世界に於ける最初のイングランド植民地を築いた功績で知られる。エリザベス世が一六〇三年に死去すると、内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで監禁された。獄中で彼はギリシャとローマの古代史に関する本「世界の歴史」(A Historie of the World)を著している(未完)ので、これを指すのであろう。ロンドン塔から解放されると、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣されることとなった二度目の探検隊を指揮することになったが、この探検の途中、ローリーの部下達がメンバーのひとりであるローレンス・キーミスの指示の下、スペインの入植地であったサン・ソーム(San Thome)で略奪を行い(この町での最初の戦いでローリーの息子ウォルターは銃撃を受けて死亡している)、ローリーがイングランドに帰還した後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世にローリーの死刑を求め、国家間の思惑からこの要求が受け入れられ、ローリーは一六一八年十月十八日、『ホワイトホール宮殿で斬首刑に処せられた。ローリーの最後の言葉は、斬首を行う斧を見せられた時の、「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」というものであった』という。ローリーの伝記「海の羊飼い」(Shepherd of the Ocean)によれば、『ローリーの妻ベスは彼の首を「防腐処置を施していつも自分のそばに置き、しばしば訪問者達にウォルター卿に会いたいかと尋ねた」。ローリーの首はその後、ウェストミンスター寺院の隣にある聖マーガレット教会に、彼の胴体と共に埋葬された』とある(ここはウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)。

・「狄靑」(てきせい 一〇〇八年~一〇五七年)は北宋の武将。文民優遇の北宋にあって一兵卒から叩き上げで将軍の位まで出世した稀有な人物。庶民からの人気も高い。但し、あまりに出世し過ぎたため、朝廷から疑われ、一〇五六年には枢密正使を免職されて陳州長官され、その後も朝廷の監視を受けて翌年に享年四十九で亡くなった。

・「濃智高」儂智高(のん づうご 一〇二五年~一〇五五年頃)は北宋の大暦国・南天国・大南国の反乱の指導者、チワン族の歴史における民族的英雄。一〇五三年に宋王朝から宋軍狄青部が派遣され、同じ年の春正月の夜中に、狄青は崑崙関(広西の邕寧区と賓陽県の境付近)を越え、邕州で儂智高の反乱軍と会戦し、大勝、儂智高は雲南特磨道(現在の雲南文山チワン族ミャオ族自治州)へと逃亡し、反乱は失敗した(ウィキの「儂智高」に拠る)。この老人の話の謂いはよく判らない。個人ブログ「きんくんの閑談」の「西郷隆盛(3)」によると、彼は『雲南の大理に逃れたとされ』、一〇五五年に『大理国王に殺され、その首が北宋の首都開封に送られてきたとされてい』ると記された上、また、『この戦いの際に、狄青が逃げる儂智高を追おうとする諸将に対し、深追いを避けさせたというのは有名な話ですが、この逸話は聞いたことがありません。史実とは異なる内容なので、俗説でしょうか、あるいは芥川の創作でしょうか』。『私も懐疑論者になってしまいそうです』とある。名前の漢字表記も異なり(異民族への当て字であるから、五月蠅く言う必要もないが)、芥川龍之介はルビも振っていないので、「のうちかう(のうちこう)」と読んでいる可能性が高いか。筑摩全集類聚版は『のんちかう』と振る。悩ましい。

・「誣いて」「しひて(しいて)」「強る」と同語源。事実を曲げて言って。作りごとを言って。

・「スケプテイツク」sceptic(主に英国で用いられる)・skeptic。懐疑主義者。

・「ピルロン」古代ギリシャのエリス出身の哲学者で史上最初の懐疑論者の元祖として知られるピュロン(ラテン文字転写:PyrrōnPyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)。ウィキの「ピュロンによれば、ピュロンはアレクサンドロス三世(大王)の『東征に随い、インドでは裸の哲学者たち、ペルシャではマギたちに学んだとされる。東洋哲学からみると、彼は孤独な生活を受け入れていたように映ったようである。エリスに戻ってからは貧困に生きたが、エリス人たちは彼を尊敬し、またアテネ人たちは彼に市民権を授与した。彼の思想は主に、弟子のプリウスのティモン(Timon of Phlius)による風刺文学によって知られている』。『ピュロンの思想は不可知論』「Acatalepsy」(アッカタレプシイ)『という一言で言い表すことができる。不可知論とは、事物の本性を知ることができない、という主張である。あらゆる言明に対して、同じ理由付けをもってその逆を主張することができる。そのように考えるならば、知性的に一時停止しなければならない、あるいはティモンの言を借りれば、いかなる断定も異なった断定に比べてより良い、ということはない、と言えるだろう。そしてこの結論は、生全体に対してあてはまる。それゆえピュロンは次のように結論付ける。すなわち、何事も知ることはできない、それゆえ唯一適当である態度は、アタラクシア(苦悩からの解放)である、と』。『ピュロンはまた、知者は次のように自問しなければならないと言う。第一は、どのような事物が、どのように構成されているのか。次に、どのように我々は事物と関係しているのか。最後に、どのように我々は事物と関係するべきか。ピュロンによれば、事物そのものを知覚することは不可能であって、事物は不可測であり、不確定であり、あれがこれより大きかったり、あれがこれと同一だったりすることはない、とされる。それゆえ、我々の感覚は真実も伝えず、嘘もつかない。それゆえ、我々はなにも知ることがない。我々は、事物が我々にどのように現れてくるか、ということを知るだけなのであり、事物の本性がいかなるものか、ということについては知ることがない』。『知識を得ることが不可能だということになれば、我々が無知だとか不確実だという点を考慮に入れても、人は無駄な想像をして議論を戦わせていらいらしたり』、『激情を抱いたりすることを避けるだろう。ピュロンによるこの知識が不可能だという主張は、思想史的には不可知論』「Agnosticism」(アグノッスティズム)『の先駆であり』、『また』、『その最も強い主張である。倫理学的には、ストア派やエピクロス主義の理想的な心の平安と比較される』。『重要な点であるが、懐疑論の定める基準によれば、ピュロンは厳密には懐疑論者ではない。そうではなく、彼はむしろ否定的ドグマ主義者』「negative dogmatist」』『であった。世界において事物がいかにあるか、という視点からみるならば』、『彼は「ドグマ主義者」であり、知識を否定するという面から見るならば彼のドグマは「否定的」なのである』。『ピュロンは紀元前』二七〇『年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら』、『弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより』、『不意の死を迎えたと言われている。しかしこの伝説もまた疑われている』とある。

 なお、西郷の最期は、彼の介錯をして自害した薩摩藩士別府晋介のウィキによれば、『洞前に整列した』四十『余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り』(別府は足を負傷して歩行出来なかった)、『「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯し』、『その後、弾雨の中で自決した』。西郷は享年五十一(満四十九)、別府は三十一であった。

 本篇は初期の芥川龍之介の独自の歴史小説論の主張として甚だ面白い。

 因みに、私の父母は従兄妹同士でそれぞれに鹿児島で生きた者の血が混じり、従って私はハイブリッドで薩摩の「血気」を受けている人間である。されば、昨夜の西郷や桐野(享年四十)の死を、脚色とは思いつつも、六十一になってからに涙なくしては見れなかった。【二〇一八年十二月十七日。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の終わった翌日に――藪野直史】]

 

 西 鄕 隆 盛

     ──赤木桁平に與ふ──

 

 これは自分より二三年前に、大學の史學科を卒業した本間さんの話である。本間さんが維新史に關する、二三興味ある論文の著者だと云ふ事は、知つてゐる人も多いであらう。僕は昨年の冬鎌倉へ轉居する、丁度一週間ばかり前に、本間さんと一しよに飯を食ひに行つて、偶然この話を聞いた。

 それがどう云ふものか、この頃になつても、僕の頭を離れない。そこで僕は今、この話を書く事によつて、新小の編輯者に對する僕の寄稿の責を完うしようと思ふ。尤も後になつて聞けば、これは「本間さんの西鄕隆盛」と云つて、友人間には有名な話の一つださうである。して見ればこの話も或社會には存外もう知られてゐる事かも知れない。

 本間さんはこの話をした時に、「眞僞の判斷は聞く人の自由です」と云つた。本間さんさへ主張しないものを、僕は勿論主張する必要がない。まして讀者は唯、古い新聞の記事を讀むやうに、漫然と行を追つて、讀み下してさへくれれば、よいのである。

 

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 彼是七八年も前にもならうか。丁度三月の下旬で、もうそろそろ清水(きよみづ)の一重櫻が咲きさうな──と云つても、まだ霙(みぞれ)まじりの雨がふる、或寒さのきびしい夜の事である。當時大學の學生だつた本間さんは、午後九時何分かに京都を發した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒のコツプを前にしながら、ぼんやりMCCの煙をふかしてゐた。さつき米原を通り越したから、もう岐阜縣の境に近づいてゐるのに相違ない。硝子窓(がらすまど)から外を見ると、どこも一面にまつ暗である。時々小さい火の光りが流れるやうに通りすぎるが、それも遠くの家の明りだか、汽車の煙突から出る火花だか判然しない。その中で唯、窓をたたく、凍りかかつた雨の音が、騷々しい車輪の音に單調な響を交してゐる。

 本間さんは、一週間ばかり前から春期休暇を利用して、維新前後の史料を研究かたがた、獨りで京都へ遊びに來た。が、來て見ると、調べたい事もふえて來れば、行つて見たい所もいろいろある。そこで何かと忙しい思をしてゐる中(うち)に、何時か休暇も殘少なになつた。新學期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。さう思ふと、いくら都踊りや保津川下りに未練があつても、便々と東山を眺めて、日を暮してゐるのは、氣が咎める。本間さんはとうとう思ひ切つて、雨が降るのに荷拵へが出來ると、俵屋の玄關から俥を驅つて、制服制帽の甲斐々々しい姿を、七條の停車場へ運ばせる事にした。

 所が乘つて見ると、二等列車の中は身動きも出來ない程こんでゐる。ボーイが心配してくれたので、やつと腰を下す空地は見つかつたが、それではどうも眠れさうもない。さうかと云つて寢臺は、勿論皆賣切れてゐる。本間さんは暫く、腰の廣さ十圍に餘る酒臭い陸軍將校と、眠りながら齒ぎしりをするどこかの令夫人との間にはさまつて、出來るだけ肩をすぼめながら、靑年らしい、とりとめのない空想に耽つてゐた。が、その中に追々空想も種切れになつてしまふ。それから隣(きやうりん)の壓迫も、次第に甚しくなつて來るらしい。そこで本間さんは已むを得ず、立つた後(あと)の空地へ制帽を置いて、一つ前に連結してある食堂車の中へ避難した。

 食堂車の中はがらんとして、客はたつた一人しかゐない。本間さんはそれから一番遠いテエブルへ行つて、白葡萄酒を一杯云ひつけた。實は酒を飮みたい譯でも何でもない。唯、眠くなるまでの時間さへ、つぶす事が出來ればいいのである。だから無愛想なウエエタアが琥珀のやうな酒の杯を、彼の前へ置いて行つた後でも、それにはちよいと唇を觸れたばかりで、すぐにMCCへ火をつけた。煙草の煙は小さな靑い輪を重ねて、明い電燈の光の中へ、悠々とのぼつて行く。本間さんはテエブルの下に長々と足をのばしながら、始めて樂に息がつけるやうな心もちになつた。

 が、體だけはくつろいでも、氣分は妙に沈んでゐる。何だかかうして坐つてゐると、硝子戸の外のくら暗が、急にこつちへはいつて來さうな氣がしないでもない。或は白いテエブル・クロオスの上に、行儀よく並んでゐる皿やコツプが、汽車の進行する方向へ、一時に辷り出しさうな心もちもする。それがはげしい雨の音と共に、次第に重苦しく心をおさへ始めた時、本間さんは物に脅されたやうな眼をあげて、われ知らず食堂車の中を見まはした。鏡をはめこんだカツプ・ボオド、動きながら燃えてゐる幾つかの電燈、菜の花をさした硝子の花瓶、──そんな物が、いずれも耳に聞えない聲を出して、ひしめいてでもゐるやうに、慌しく眼にはいつて來る。が、それらのすべてよりも本間さんの注意を惹いたものは、向うのテエブルに肘(ひぢ)をついて、ウイスキイらしい杯を嘗めてゐる、たつた一人の客であつた。

 客は斑白(はんぱく)の老紳士で、血色のいい兩頰には、聊(いさゝか)西洋人じみた疎な髯を貯へてゐる。これはつんと尖つた鼻の先へ、鐵緣の鼻眼鏡をかけたので、殊にさう云ふ感じを深くさせた。着てゐるのは黑の背廣であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。──その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこつちへ眼をやつた。本間さんはその時、心の中で思はず「おや」と云ふかすかな叫び聲を發したのである。

 それは何故かと云ふと、本間さんにはその老紳士の顏が、どこかで一度見た事があるやうに思はれた。尤も實際の顏を見たのだか、寫眞で見たのだか、その邊ははつきりわからない。が、見た覺えは確にある。そこで本間さんは、慌しく頭の中で、知つてゐる人の名前を點檢した。

 すると、まだその點檢がすまない中に、老紳士はつと立上つて、車の動搖に抵抗しながら、大股に本間さんの前へ步みよつた。さうしてそのテエブルの向うへ、無造作に腰を下すと、壯年のやうな大きな聲を出して、「やあ失敬」と聲をかけた。

 本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚に一寸頭を下げた。

 「君は僕を知つてゐますか。なに知つてゐない? 知つてゐなければ、ゐなくつてもよろしい。君は大學の學生でせう。しかも文科大學だ。僕も君も似たやうな商賣をしてゐる人間です。事によると、同業組合の一人かも知れない。何です、君の專門は?」

 「史學科です。」

 「ははあ、史學。君もドクタア・ジヨンソンに輕蔑される一人ですね。ジヨンソン曰、歷史家は almanac-maker にすぎない。」

 老紳士はかう云つて、頸を後へ反らせながら、大きな聲を出して笑ひ出した。もう大分醉がまはつてゐるのであらう。本間さんは返事をしずに、唯にやにやほほ笑みながら、その間に相手の身のまはりを注意深く觀察した。老紳士は低い折襟に、黑いネクタイをして、所々すりきれたチヨツキの胸に太い時計の銀鎖を、物々しくぶらさげてゐる。が、この服裝のみすぼらしいのは、決して貧乏でさうしてゐるのではないらしい。その證據には襟でもシヤツの袖口でも、皆新しい白い色を、つめたく肉の上へ硬(こは)ばらしてゐる。恐らく學者とか何とか云ふ階級に屬する人なので、完く身なりなどには無頓着なのであらう。

 「アルマナツク・メエカア。正にそれにちがひない。いや僕の考へる所では、それさへ甚(はなはだ)疑問ですね。しかしそんな事は、どうでもよろしい。それより君の特に硏究しようとしてゐるのは、何ですか。」

 「維新史です。」

 「すると卒業論文の題目も、やはりその範圍内にある譯ですね。」

 本間さんは何だか、口頭試驗でもうけてゐるやうな心もちになつた。この相手の口吻には、妙に人を追窮するやうな所があつて、それが結局自分を飛んでもない所へ陷れさうな豫感が、この時ぼんやりながらしたからである。そこで本間さんは思ひ出したやうに、白葡萄酒の杯をとりあげながら、わざと簡單に「西南戰爭を問題にするつもりです」と、かう答へた。

 すると老紳士は、自分も急に口(くち)ざみしくなつたと見えて、體を半分後の方へ扭(ね)ぢまげると、怒鳴りつけるやうな聲を出して、「おい、ウイスキイを一杯」と命令した。さうしてそれが來るのを待つまでもなく、本間さんの方へ向き直つて、鼻眼鏡の後に一種の嘲笑の色を浮べながら、こんな事をしやべり出した。

 「西南戰爭ですか。それは面白い。僕も叔父があの時賊軍に加はつて、討死をしたから、そんな興味で少しは事實の穿鑿をやつて見た事がある。君はどう云ふ史料に從つて、硏究されるか、知らないが、あの戰爭に就いては隨分誤傳が澤山あつて、しかもその誤傳が又立派に精確な史料で通つてゐます。だから餘程史料の取捨を愼まないと、思ひもよらない誤謬(ごびう)を犯すやうな事になる。君も第一に先、そこへ氣をつけた方が好いでせう。」

 本間さんは向うの態度や口ぶりから推して、どうもこの忠告も感謝して然る可きものか、どうか判然(はつきり)しないやうな氣がしたから、白葡萄酒を嘗め嘗め、「ええ」とか何とか、至極曖昧な返事をした。が、老紳士は少しも、こつちの返事などには、注意しない。折からウエエタアが持つて來たウイスキイで、ちよいと喉を沾すと、ポツケツトから瀨物のパイプを出して、それへ煙草をつめながら、

 「尤も氣をつけても、あぶないかも知れない。こう申すと失禮のやうだが、それ程あの戰爭の史料には、怪しいものが、多いのですね。」

 「さうでせうか。」

 老紳士は默つて頷きながら、燐寸(まつち)をすつてパイプに火をつけた。西洋人じみた顏が、下から赤い火に照らされると、濃い煙が疎な鬚をかすめて、埃及の匂をぷんとさせる。本間さんはそれを見ると何故か急にこの老紳士が、小面憎く感じ出した。醉つてゐるのは勿論、承知してゐる。が、いい加減な駄法螺(だぼら)を聞かせられて、それで默つて恐れ入つては、制服の金釦に對しても、面目が立たない。

 「しかし私には、それ程特に警戒する必要があるとは思はれませんが──あなたはどう云ふ理由で、さうお考へなのですか。」

 「理由? 理由はないが、事實がある。僕は唯西南戰爭の史料を一々綿密に調べて見た。さうしてその中(かな)から、多くの誤傳を發見した。それだけです。が、それだけでも、十分さう云はれはしないですか。」

 「それは勿論、さう云はれます。では一つ、その御發見になつた事實を伺ひたいものですね。私なぞにも大に參考になりさうですから。」

 老紳士はパイプを啣へた儘、暫く口を噤んだ。さうして眼を硝子窓の外へやりながら、妙にちよいと顏をしかめた。その眼の前を橫ぎつて、數人の旅客の佇んでゐる停車場が、くら暗(やみ)と雨との中をうす明く飛びすぎる。本間さんは向うの氣色(きしよく)を窺ひながら、腹の中(なか)でざまを見ろと呟きたくなつた。

 「政治上の差障りさへなければ、僕も喜んで話しますが──萬一秘密の洩れた事が、山縣公にでも知れて見給へ。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」

 老紳士は考へ考へ、徐にかう云つた。それから鼻眼鏡の位置を變へて、本間さんの顏を探るやうな眼で眺めたが、そこに浮んでゐる侮蔑の表情が、早くもその眼に映つたのであらう。殘つてゐるウイスキイを勢よく、ぐいと飮み干すと、急に鬚だらけの顏を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、殆ど嚙みつきでもしさうな調子で、囁いた。

 「もし君が他言しないと云ふ約束さへすれば、その中の一つ位(ぐらい[やぶちゃん注:「い」はママ。])は洩らしてあげませう。」

 今度は本間さんの方で顏をしかめた。こいつは氣違ひかも知れないと云ふ氣が、その時突嗟(とつさ)に頭をかすめたからである。が、それと同時に、ここ迄追窮して置きながら、見す見すその事實なるものを逸してしまふのが、惜しいやうな心もちもした。そこへ又、これ位な嚇しに乘せられて、尻込みするやうな自分ではないと云ふ、小供じみた負けぬ氣も、幾分かは働いたのであらう。本間さんは短くなつたMCCを、灰皿の中へ抛りこみながら、頸をまつすぐにのばして、はつきりとかう云つた。

 「では他言しませんから、その事實と云ふのを伺はせて下さい。」

 「よろしい。」

 老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でぢつと本間さんの顏を見た。今まで氣がつかずにゐたが、これは氣違ひの眼ではない。そうかと云つて、世間一般の平凡な眼とも違ふ。聰明な、それでゐてやさしみのある、始終何かに微笑を送つてゐるやうな、朗然とした眼である。本間さんは默つて相手と向ひ合ひながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはゐられなかつた。が、勿論老紳士は少しもそんな事には氣がつかない。靑い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞つて消えてしまふと、その煙の行方を見送るやうに、靜に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂せながら、頭を稍後へ反らせて殆獨り呟くやうに、こんな途方もない事を云ひ出した。

 「細かい事實の相違を擧げてゐては、際限がない。だから一番大きな誤傳を話しませう。それは西鄕隆盛が、城山の戰では死ななかつたと云ふ事です。」

 これを聞くと本間さんは、急に笑ひがこみ上げて來た。そこでその笑を紛(まぎら)せる爲に新しいMCCへ火をつけながら、いて眞面目な聲を出して、「さうですか」と調子を合せた。もうその先を尋(き)きたゞすまでもない。あらゆる正確な史料が認めてゐる西鄕隆盛の城山戰死を、無造作に誤傳の中へ數へようとする──それだけで、この老人の所謂事實も、略(ほゞ)正體が分つてゐる。成程これは氣違ひでも何でもない。唯、義經と鐵木眞(てむじん)とを同一人にしたり、秀吉を御落胤にしたりする、無邪氣な田舍翁の一人だつたのである。かう思つた本間さんは、可笑(をか)しさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出來る丈早く、老人との問答を切り上げようと決心した。

 「しかもあの時、城山で死ななかつたばかりではない。西鄕隆盛は今日までも生きてゐます。」

 老紳士はかう云つて、寧ろ昂然と本間さんを一瞥した。本間さんがこれにも、「ははあ」と云ふ氣のない返事で應じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るやうな微笑をちらりと唇頭に浮べながら、今度は靜な口ぶりで、わざとらしく問ひかけた。

 「君は僕の云ふ事を信ぜられない。いや辯解しなくつても、信ぜられないと云ふ事はわかつてゐる。しかし──しかしですね。何故君は西鄕隆盛が、今日まで生きてゐると云ふ事を疑はれるのですか。」

 「あなたは御自分でも西南戰爭に興味を御持ちになつて、事實の穿鑿をなすつたさうですが、それならこんな事は、恐らく私から申上げるまでもないのでせう。が、さう御尋ねになる以上は、私も知つてゐるだけの事は、申上げたいと思ひます。」

 本間さんは先方の惡く落着いた態度が忌々しくなつたのと、それから一刀兩斷に早くこの喜劇の結末をつけたいのとで、大人氣ないと思ひながら、かう云ふ前置きをして置いて、口早やに城山戰死を辯じ出した。僕はそれを今、詳しくここへ書く必要はない。唯、本間さんの議論が、いつもの通り引證(いんしやう)の正確な、如何にも論理の徹底してゐる、決定的なものだつたと云ふ事を書きさへすれば、それでもう十分である。が、瀨物のパイプを啣(くわ)へた儘、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けてゐた老紳士は、一向辟易したらしい氣色を現さない。鐵緣(てつぶち)の鼻眼鏡の後には、不相變小さな眼が、柔(やはらかな)な光をたたへながら、アイロニカルな微笑を浮べてゐる。その眼が又、妙に本間さんの論鋒を鈍らせた。

 「成程、或假定の上に立つて云へば、君のは正しいでせう。」

 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とかう云つた。

 「さうしてその假定と云ふのは、今君が擧げた加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記とか、市來(いちき)四郞日記とか云ふものゝ記事を、間違のない事實だとする事です。だからさう云ふ史料は始めから否定してゐる僕にとつては、折角の君の名論も、徹頭徹尾ノン・センスと云ふより外はない。まあ待ち給へ。それは君はさう云ふ史料の正確な事を、いろいろの方面から辯護する事が出來るでせう。しかし僕はあらゆる辯護を超越した、確かな實證を持つてゐる。君はそれを何だと思ひますか。」

 本間さんは、聊か煙に捲かれて、ちよいと返事に躊躇した。

 「それは西鄕隆盛が僕と一しよに、今この汽車に乘つてゐると云ふ事です。」

 老紳士は殆嚴肅に近い調子で、のしかゝるやうに云ひ切つた。日頃から物に騷がない本間さんが、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、この位な事でその權威を失墜しはしない。思はず、MCCの手を口からはなした本間さんは、又その煙をゆつくり吸ひかへしながら、怪しいと云ふ眼つきをして、無言の儘、相手のつんと高い鼻のあたりを眺めた。

 「かう云ふ事實に比べたら、君の史料の如きは何ですか。すべてが一片の故紙(こし)に過ぎなくなつてしまうでせう。西鄕隆盛は城山で死ななかつた。其證據には、今此上り急行列車の一等室に乘り合せてゐる。此位確な事實はありますまい。それとも、やはり君は生きてゐる人間より、紙に書いた文字の方を信賴しますか。」

 「さあ──生きてゐると云つても、私が見たのでなければ、信じられません。」

 「見たのでなければ?」

 老紳士は傲然とした調子で、本間さんの語を繰返した。さうして徐にパイプの灰をはたき出した。

 「さうです。見たのでなければ。」

 本間さんは又勢を盛返して、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。が、老人にとつては、この疑問も、格別、重大な効果を與へなかつたらしい。彼はそれを聞くと依然として傲慢な態度を持しながら、故らに肩を聳かせて見せた。

 「同じ汽車に乘つてゐるのだから、君さへ見ようと云へば、今でも見られます。尤も南洲先生はもう眠てしまつたかも知れないが、なにこの一つ前の一等室だから、無駄足をしても大した損ではない。」

 老紳士はかう云ふと、瀨物のパイプをポケツトへしまひながら、眼で本間さんに「來給へ」と云ふ相圖をして、大儀さうに立ち上つた。かうなつては、本間さん兎に角一しよに、立たざるを得ない。そこでMCCを啣へた儘、兩手をズボンのポケツトに入れて、不承不承に席を離れた。さうして蹌踉(さうろう)たる老紳士の後から、二列に並んでゐるテエブルの間を、大股に戸口の方へ步いて行つた。後には唯、白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲ひかゝる雨の音の中に、寂しくその影をふるはせてゐる。

 

 ─────────────────―――

 

 それから十分ばかりたつた後(あと)の事である。白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとは、再(ふたゝび)無愛想なウエエタアの手で、琥珀色の液體がその中に充(みた)された。いや、そればかりではない。二つのコツプを圍んでは、鼻眼鏡をかけた老紳士と、大學の制服を着た本間さんとが、又前のやうに腰を下してゐる。その一つ向うのテエブルには、さつき二人と入れちがひにはいつて來た、着流しの肥つた男と、藝者らしい女とが、これは海老のフライか何かを突(つゝ)ついてでもゐるらしい。滑かな上方辯(かみがたべん)の會話が、纏綿として進行する間に、かちやかちや云ふフオオクの音が、しきりなく耳にはいつて來た。

 が、幸(さいはひ)本間さんには、少しもそれが氣にならない。何故かと云ふと、本間さんの頭には、今見て來た驚くべき光景が、一ぱいになつて擴がつてゐる。一等室の鶯茶がかつた腰掛と、同じ色の窓帷と、さうしてその間に居睡(ゐねむ)りをしてゐる、山のやうな白頭(はくとう)の肥大漢(ひだいかん)と、──あゝ、その堂々たる相貌に、南洲先生の風骨(ふうこつ)を認めたのは果して自分の見ちがひであつたらうか。あすこの電燈は、氣のせいか、ここよりも明くない。が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。さうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れてゐる西鄕隆盛の顏であつた。……

 「どうですね。これでもまだ、君は城山戰死を主張しますか。」

 老紳士は赤くなつた顏に、晴々した微笑を浮べて、本間さんの答を促した。

 「…………」

 本間さんは當惑した。自分はどちらを信ずればよいのであらう。萬人に正確だと認められてゐる無數の史料か、或は今見て來た魁偉な老紳士か。前者を疑ふのが自分の頭を疑ふのなら、後者を疑ふのは自分の眼を疑ふのである。本間さんが當惑したのは、少しも偶然ではない。

 「君は今(いま)現(げん)に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶(なほ)史料を信じたがつてゐる。」

 老紳士はウイスキイの杯を取り上げ乍ら、講義でもするやうな調子で語を次いだ。

 「しかし、一體君の信じたがつてゐる史料とは何か、それから先考へて見給へ。城山戰死は暫く問題外にしても、凡そ歷史上の判斷を下すに足る程、正確な史料などと云ふものは、どこにだつてありはしないです。誰でも或事實の記錄をするには自然と自分でデイテエルの取捨選擇をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事實としてするのだから仕方がない。と云ふ意味は、それだけもう客觀的の事實から遠ざかると云ふ事です。さうでせう。だから一見當(あて)になりさうで、實は甚當にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廢した話なぞは、よくこの間(かん)の消息を語つてゐる。あれは君も知つてゐるでせう。實際我々には目前の事さへわからない。」

 本間さんは實を云ふと、そんな事は少しも知らなかつた。が、默つてゐる中に、老紳士の方で知つてゐるものときめてしまつたらしい。

 「そこで城山戰死だが、あの記


唐ノしても、疑ひを挾む餘地は澤山ある。成程西鄕隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戰(たゝかひ)で、死んだと云ふ事だけはどの史料も一致してゐませう。しかしそれは唯、西鄕隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云ふのにすぎないのです。その人間が實際西鄕隆盛かどうかは、自ら又問題が違つて來る。ましてその首や首のない屍體を發見した事實になると、さつきも君が云つた通り、異も決して少くない。そこも疑へば、疑へる筈です。一方さう云ふ疑ひがある所へ、君は今この汽車の中で西鄕隆盛──と云ひたくなければ、少くとも西鄕隆盛に酷似してゐる人間に遇つた。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」

 「しかしですね。西鄕隆盛の屍體は確かにあつたのでせう。さうすると──」

 「似てゐる人間は、天下にいくらもゐます。右腕に古い刀創があるとか何とか云ふのも一人に限つた事ではない。君は狄靑が濃智高の屍(し)を檢(けん)した話を知つてゐますか。」

 本間さんは今度は正直に知らないと白狀した。實はさつきから、相手の妙な論理と、いろいろな事をよく知つてゐるのとに、惱まされて、追々この鼻眼鏡の前に一種の敬意に似たものを感じかかつてゐたのである。老紳士はその間にポツケツトから、又例の瀨物のパイプを出して、ゆつくり埃及(えぢぷと)の煙をくゆらせながら、

 「狄靑(てきせい)が五十里を追うて、大理に入つた時、敵の屍體を見ると、中に金龍(きんりう)の衣を着てゐるものがある。衆は皆これを智高だと云つたが、狄靑は獨り聞かなかつた。『安(いづく)んぞその詐(いつはり)にあらざるを知らんや。寧ろ智高を失ふとも、敢(あへ)て朝廷を誣いて功を貪らじ』これは道德的に立派なばかりではない。眞理に對する態度としても、望ましい語(ことば)でせう。所が遺憾ながら、西南戰爭當時、官軍を指揮した諸將軍は、これ程周密な思慮を缺いてゐた。そこで歷史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換つてしまつたのです。」

 愈(いよいよ)どうにも口が出せなくなつた本間さんは、そこで苦しまぎれに、小供らしい最後の反駁を試みた。

 「しかし、そんなによく似てゐる人間がゐるでせうか。」

 すると老紳士は、どう云ふ譯か、急に瀨物のパイプを口から離して、煙草の煙にむせながら、大きな聲で笑ひ出した。その聲があまり大きかつたせいか、向うのテエブルにゐた藝者がわざわざふり返つて、怪訝な顏をしながら、こつちを見た。が、老紳士は容易に、笑ひやまない。片手に鼻眼鏡が落ちさうになるのをおさへながら、片手に火のついたパイプを持つて、咽を鳴らし鳴らし、笑つてゐる。本間さんは何だか譯がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いた儘、茫然と唯、相手の顏を眺めてゐた。

 「それはゐます。」老人は暫くしてから、やつと息をつきながら、かう云つた。

 「今君が向うで居眠りをしてゐるのを見たでせう。あの男なぞは、あんなによく西鄕隆盛に似てゐるではないですか。」

 「ではあれは──あの人は何なのです。」

 「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は醫者で、傍[やぶちゃん注:「かたはら」。]南畫を描く男ですが。」

 「西鄕隆盛ではないのですね。」

 本間さんは眞面目な聲でかう云つて、それから急に顏を赤らめた。今まで自分のつとめてゐた滑稽な役まはりが、この時忽然として新しい光に、照される事になつたからである。

 「もし氣に障つたら、勘忍し給へ。僕は君と話してゐる中(うち)に、あんまり君が靑年らしい正直な考を持つてゐたから、ちよいと惡戲をする氣になつたのです。しかしした事は惡戲(いたづら)でも、云つた事は冗談ではない。──僕はかう云ふ人間です。」

 老紳士はポケツトをさぐつて、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷つてはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顏をどこで見たか、やつと思ひ出す事が出來たのである。──老紳士は本間さんの顏を眺めながら、滿足さうに微笑した。

 「先生とは實際夢にも思ひませんでした。私こそいろいろ失禮な事を申し上げて、恐縮です。」

 「いやさつきの城山戰死なぞは、中々傑作だつた。君の卒業論文もああ云ふ調子なら面白いものが出來るでせう。僕の方の大學にも、今年は一人維新史を專攻した學生がゐる。──まあそんな事より、大[やぶちゃん注:「おほいに」。]に一つ飮み給へ。」

 霙まじりの雨も、小止みになつたと見えて、もう窓に音がしなくなつた。女連れの客が立つた後(あと)には、硝子の花瓶にさした菜の花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂はせてゐる。本間さんは白葡萄酒の杯を勢よく飮み干すと、色の出た頰をおさへながら、突然、

 「先生はスケプテイツクですね。」と云つた。

 老紳士は鼻眼鏡の後から、眼でちよいと頷いた。あの始終何かに微笑を送つてゐるやうな朗然とした眼で頷いたのである。

 「僕はピルロンの弟子で澤山だ。我々は何も知らない、いやさう云ふ我々自身の事さへも知らない。まして西鄕隆盛の生死をやです。だから、僕は歷史を書くにしても、噓のない歷史なぞを書かうとは思はない。唯如何にもありさうな、美しい歷史さへ書ければ、それで滿足する。僕は若い時に、小家にならうと思つた事があつた。なつたらやつぱり、さう云ふ小を書いてゐたでせう。或はその方が今よりよかつたかも知れない。兎に角僕はスケプテイツクで澤山だ。君はさう思はないですか。」

            (六・十二・十五)

2018/10/22

ブログ1150000アクセス突破記念第三弾(掉尾) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 菊

 

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菊

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。なお、これが底本の「第一高等学校時代」パートの掉尾である。これを以って底本の「第一高等学校時代」パートの全電子化を終わる。

 本作はかなり知られた「今昔物語集」の巻二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」(百濟川成(くだらのかはなり)と飛驒の工(たくみ)と挑む語(こと)第五」の後半の腕比べをダメ押しインスパイアした擬古文で、理智派芥川龍之介を髣髴とさせる仕掛けも用意されてはあるが、原話を知っていると、種明かしが平板にして常套的で今一つの感は拭えない。但し、この僅かな分量で以って、対立していた二人を童子を梃子に大団円させるという手法は、既にストーリー・テラーとしての彼が十分に熟成されていたものとも思われる。これが何時書かれたものか、もっと限定出来るとよいのだが。惜しい。

 老婆心乍ら、少し注しておくと、

・「長江天壍をへだてたる」の「長江天壍」は「ちやうこうてんざん(ちょうこうてんざん)」と読み、「壍」は「塹」に同じで、長江を天然の攻略不能な広大な塹壕、向うの見えない堀と譬える謂いで、ここは二つの対象の距離が想像を絶して隔たっていることを意味する。

・その直後の「おだしかりつれども」は「穩しかりつれども」である。

・「彭澤の陰士」は以下で「東籬の下に採るとも歌ひぬべき」と出るので判る通り、陶淵明のこと。ただ、「彭澤」(ほうたく)彼が最後に県令をしていた県で、私は彼のことを「彭澤の隱士」と呼ぶのを目にしたことはない。そもそもが、「吾、何ぞ五斗米の爲めに腰を折つて郷里の小兒に見(まみ)えんや」、即日、印綬を解いて去った彼をして、その「やってられるか!」の彭沢の「陰士」と呼ばれるのは、私なら厭だね、龍之介君。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第三弾掉尾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

      菊

 

 百濟の川成、とある日、飛驒の匠に語りけるは、わざくらべしことこのごろ世の人々の口々にほめのゝしるをきゝぬ。まことに天が下ひろしとは云へ、われらの右に出でむものあるべしとも思はれずと云へば、心まがまがしく思ひ上れる匠、えせわらひして、わがわざ君のわざとの間には長江天壍をへだてたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ。君はわがつくれる堂には彌勒の世までえこそは入り給ふまじけれども、われはふたゝび君が畫に欺かるゝことを爲さじとののしる。川成もと心ばへおだしかりつれども、流石に匠の人も無げなるが傍いたくいと興ざめければ、さらばいま一たび試みてむとおのが家がりともないゆきつ。折しも長月の末つがた樹々の梢ことごとく紅葉してさながら錦を張れるやうなるに、淸らかにはききよめたる庭の二ひら三ひら爛紅の霜、葉を落したるもゆかしく見ゆ。川成酒を置きて匠にすゝめつゝ、さてかなたの障子を指して問ひけるは「かしこに靑き甁に生けたる黃菊白菊各一もとあり、一はまことの菊、一はわが描ける菊なり、いづれがこれいづれがそれぞ」と云ふ。匠あはれ云ひあてて恥見せむと、あるは首をのべあるは眉をひそめ、あからめもせでしばしうちまもれど、たえて見わくべきすべも知らず、いづれも障子もにほはむばかりに露けくうちかたむきて、さきたる、彭澤の陰士ならましかば東籬の下に採るとも歌ひぬべき風情なれば、むげにほこりたかぶれる匠なれど遂に顏赤めて「得見分くべうもあらず、さきの過言をゆるし給へ」と云ふ。

 川成さこそとほくそ笑みて「君がわざとわがわざとの間には長江天を隔てたるにそを知り給はさる烏滸がましさよ」と匠が言眞似して嘲笑ふ。

 そのとき匠の召具したるわらはべの猿丸と云ふもの、川成のほこりがほなるをにくしとや見にけむ、すゝみ出で「やつがれこそ見分け候へ」と云ふ。川成しやつ何事をか云ふとばかりのけしきにて「さらばいづれぞ」と問へば「白菊こそ描きたりつれ」と答ふ。まことにこのわらはべの云ふ所に違はざりければ、川成いたく驚きて「何故にさはしりたる」と問へば、猿丸笑つぼに入りて「さきのほどより、こゝにありて見つるに虻二つ來りて障子のほとりをとびありく。此虻黃菊にはとゞまれども、白菊にはとゞまらず、さてこそ黃菊はまことの菊ならめと思ひ候、さるを此家の殿のわざと猿丸のわざとの間には長江天塑を隔てたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ」としたりげに鼻をおごかす。飛驒の匠、思はず掌をうちて「我ほどのものも描きたる菊とまことの菊とを見分くることをえせず、川成ほどのものも三尺の童子の眼を欺くことをえせず、何を以てか人に誇らむや、向來共に誇をつゝしみひたすらにわざをはげみなむ」と云へば、川成も大によろこびてこれより後はますます親しく交りけるとなむ。

 

ブログ1150000アクセス突破記念第二弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 梅花

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の句読点なしの字空けはママ。擬古文の美文的創作のであるので、流れを絶たぬよう、若い読者が躓くであろう一部の語句の読みのみを文中で注した。終りの方の「嵯岈」は見かけない熟語であるが、「さが」と読んでおき、「高く突き出た」の意で採ってよかろうと思う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第二弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

    梅 花

 

 都をば霞と共に出でしより、志賀寺の鐘の音、忘れ難く、小夜千鳥聲こそ近く鳴海がた、三保の浦曲[やぶちゃん注:「うらわ」。]、田子の入江、淸見ケ關、不二の煙の春の色、空もひとつのむさし野の原、あやめ咲く淺香の沼、末の松山朝ぼらけ、合歡の花ちる象潟の雨の夕、碓氷のもみぢ、木曾のはゝ木、そゞろ杖をとゞめむ方ぞなきに、猶片枝さす麻生(をふ)の浦。梨ふく風を身にしめむとて、伊勢の海淸き渚の浪の音に、麻績[やぶちゃん注:「をみ(おみ)」。]の大君の昔を偲びつゝも、行く行く「にしふく山」と云ふに、梅の老木ありときゝて、深山の春こそゆかしかんめれと、きさらぎのはじめつ方、ひとりこの山にのぼる。若草の綠 路もせに萌え出でたるに、淡雪のあとほのかにのこりて 氷やとけし、谷川の水さらさらと岩間を下れば、鶯の聲のをちこちに、きこゆるもゆうなりや。西行もとより風流の法師なれば、山のかたち、水のながれのおもしろさに、松、柏の茂れる林をよぎり、靑蘿[やぶちゃん注:「せいら」。]のまつろへる巖を攣ぢ、谷をめぐり、峯を越え、梅やあるとたづぬれども、香をしめし春風の、そよと面をふくだにもあらず。しづ山がつのゆききさへえたるに、途、問はむよすがもなくて、なほ、日ねもす、おぼつかなき山のかひをたどりありく。道のゆくての、さがしきになづみて思はず日入りぬ。

 宵闇の夜のいと暗きに、伏木、岩角のこゞしければ、里に出でむたよりすら失ひて、如何にせむとゆきなやむを、谷ひとつへだてたる山ふところにともしびの光唯一つかすかに見ゆ。幸ありけりとよろこびて、落葉松葉のうづたかくつみたる木下かげを辿り辿り、やうやう至りつきて柴の扉[やぶちゃん注:「とぼそ」。]をほとほととおとなへば、「誰ぞ」となまめきたる聲にて答ふ。「遍參の僧、今宵ばかりの宿をかし給へ」と請ふに、髮のかゝりにほひやかに遠山ずりの色よき衣きて、花くはし櫻が枝の水にうつろひなせる面したる、はたちに足らぬをみなの紙燭かゝげつゝ、「笑止や、山里の春はなほ塞う候を。夜の衾の足らぬをも厭ひ給はずば、入らせ給へ。」扉をひらきてゐやまひ迎ふ。小さき草の屋の程なき庭さへ荒れたれど、細きともしびの光に黑棚のきらめくも床しく見ゆ。香の煙の淡く立ちのぼる傍には、琴、琵琶、各一張を立てたり。主は齡六旬(むそぢ)にや餘れる績麻(うみそ)に似たる髮をつかねたるに、ひはだの衣の淸げなるをまとひし翁なり。されば、さきのたをやめはこの翁がむすめにやありなむ。

 あはれにも、うれしく住みなしつるよと、そゞろ心にくきに、西行ゐやをなして問ふやう、「庵主の御人がら、あてなるわたりの御方と見奉るが、浦安の國久しく、四海の波しでかなる世を、何とてかくは天さかる都の山ずまひし給ふらむ。」翁ほゝえみて「否とよ、翁は山澤の一樵夫。おち方の高根の霞に、春の立てるを覺り、萩の下葉の露に秋のきたれるを知る。若し興あれば松のびゞきに、秋風の樂をたゝへ、水のせゝらぎに、流泉の曲をあやつるのみ。」とて、「客僧こそ、何とてかくゆき暮したまへる、」と問ふ。西行「さればこの山に年へし梅の名木ありときゝしより、いかにもして一見せばやと、そここゝをたづねありくに、思はず行きくらしてこそ候へ」と答ふれば、翁掌をうちて「やさしき御志に、候ものかな、さては世の常の法師にはおはしまさず、風流三昧の御行脚とこそ見奉れ。御僧のたづね給ふ、梅はこのほとりにぞあなる。今宵は此處にやどり給ひて、つとめて往きて見給ふべし、されば山家の梅を題に一首たまへ。」とて、傍のをみなを見かへれば、うちゑみつ、早く硯に色紙とりそへて、西行が前に推しすゝめつ。

 さすがにもだしがたくて、しばしうちかたむきて、やがてかくこそ書いつけける。

 柴の庵によるよる梅の匂ひ來て やさしき方もあるすまひかな  (山家集)

 翁、「あはれ、かうさくや」とて感ずる事大方ならず。高つき、平つきの淸らなるに、木の實、草果物などもりならべてすゝむる程に、むすめもまた筝の琴とり出でて、十三絃をめでたくうち彈じつゝ梢たちくゝのにほひある聲にて、

「ふゝめりと云ひし梅ケ枝今朝ふりし沫雪にあひて吹きぬらむかも(大伴宿禰村上)」とうたひすませば、西行いよいよ興に入りて、平つきの木の箕のまろやかに琥珀の色したるを、何氣なくとりて食ふに、甘く酸きこと齒牙にしみて、風の伽楠[やぶちゃん注:「きやら(きゃら)」。]を過ぎ、雨の薔薇にそゝぐやうなる香りの骨に徹るよと思へば、路の長手のつかれ、俄にいでて何時しか眠るともなく熟く[やぶちゃん注:「よく」。]寐ぬ。

 程へて、現なき心にも、寒かりければ、ふと目さめて起出づるに、身は若草の上にあり。夜ふけて月の夜にあらたまりつと覺えて、影玲瓏として至らぬ隈なけれど、ありし草の庵はいづち行きけむ、見えず。仰げば三更の空、ほの靑うかすみたるに、春の星夢よりも淡うまたゝけり。翁は如何にしつらむとかへり見れば、人は無くて梅の老樹の、めぐり七圍[やぶちゃん注:「しちまはり(しちまわり)」。]にあまりたるが苔むしたる幹を斜に嵯岈たる枝には雪よりも白き花にほやかに咲きみだして立ちぬ。そが傍には又紅梅の若木のやさしくもさきこぼれたる、大空の雲もにほはむばかりの香りに、西行且驚き且訝り、

「さてはよべの翁もをみなも共にこの梅の精にてありけり」と、しばし幹を撫して佇みけるに、琴の調べのなほ耳にある心地しければ、再一首の歌を高らかに誦し出でける。

 ひとりぬる草の枕のうつり香は 老木の梅のにほひなりけり (山家集)

 梅の精やめでたる、山風やふき出でたる、梢さはさはと動くと見れば、墨染の衣の袖に寒からぬ雪は、雲なき空よりこぼれ落ちぬ。

 

[やぶちゃん注:優れた複式夢幻能ではないか。]

ブログ1150000アクセス突破記念第一弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 對米問題

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。但し、冒頭にカリフォルニア州に於ける排日運動の問題が挙げられていることは、一つのヒントにはなろう(但し、執筆年を限定することは難しい)。ウィキの「排日運動」によれば、『アメリカにおける日本人移民排斥は,カリフォルニア州を中心とする太平洋岸に』四千『人程度の日本人が移住しているにすぎない』一八九〇『年代にすでに始まっていた』。『主な原因は、人種差別と経済的理由』であったとし、一八八二年に『東洋系移民に対する差別法の端緒』となる「中国人排斥法」の施行により、『アメリカへ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始め』たが、一九〇〇年には『カリフォルニア州で日系人の漁業禁止法が提案され』、一九〇四年には「中国人排斥法」に『日本人と韓国人を加えるよう』、『動議され』ている。一九〇五年に「日露戦争」が終結すると、『有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことにより、以前からくすぶっていた黄禍論が西洋社会を席巻』し、「アジア人排斥同盟」が結成されたりした。一九〇六年には『日本を仮想敵国とした』「オレンジ計画」(将来、起こり得る日本との戦争へ対処するためにアメリカ海軍が策定した戦争計画。「カラー・コード戦争計画」の一つであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅し、それぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していたわけではない。ここはウィキの「オレンジ計画」に拠った)が開始され、また、同年には『サンフランシスコ教育委員会が中国人と同様に、日本人と韓国人にも学生隔離命令(白人から離し、集中隔離する差別措置)を出』している。一九〇七年、『サンフランシスコで反日暴動』が発生、『日本人移住者が多かった同市とロサンゼルスは排日の本場となり』、「漁業禁止法」や『修学拒否など』、『さまざまな日系人排斥運動が勃発』、メキシコ・ハワイ・カナダ在住の『日本人のアメリカ本土入国』が『禁止』される。一九〇八年に交わされた「日米紳士協定」に『より、日本はごく少数を除き』、『米国への移民を禁止』する代わりに、『アメリカ側は排日法案を作らないことを約束』した。なお、『同年秋、世界一周を名目に、アメリカの海軍力を誇示するため』、『艦隊グレート・ホワイト・フリートで日本に来航し、威嚇』している。そうして、一九一三年にはアメリカは先の「紳士協定」を『破り』、「排日土地法」を『発令。日本人を帰化不能外国人と』してしまった。仮に最後の「排日土地法」の発令と同期させるとなると(一高卒業の年)、龍之介の口調はより具体的、よりきついものとなるはずであるから、本作は少なくとも一九一〇年九月から一九一二年の間(龍之介十八から二十歳)に書かれたものと考えてよかろうとは思う。また、「最吾人に近接せる文藝の方面」という部分からは、その前期をカットした閉区間をも考えてよいとも思っている。ともかくも何らかの授業の作文であったとしても、しっかりした個我を持った、自立した思想に基づく主張である。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の語句に文中で簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第一弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

     對米問題

 

 對米問題は事案に於て、又對歐問題也。吾人は、過般來太平洋の封岸に於て行はれたる、急激なる排日運動の中に、單に日本對加州の問題に止らず、日本對全歐米の問題にすべき或物の伏在するを認めざる能はず。或は之を呼んで人種的偏見と云ひ、或は黃禍論的臆斷と云ふ。亦以て其一面を現すに足るものありと雖も、吾人は其啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]白人の偏見のみならず、黃人の國家的品位が、白人のそれに比して著しく下等なるも亦、此問題の根底に橫はる、大なる因數の一たるを信ぜざる能はず。

 吾人は到底、維新前後の捷夷家の如く、日本の神國たる所以を以て、世界の列國は當然我に劣る、霄壞[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」は「天と地」、転じて天地のように大きな隔たりのあること、大差のあることの喩え。「雲泥」に同じい。]の差あるものと盲信する能はず。又、無邪氣なる帝國主義者の如く、我國に不利なるものは悉[やぶちゃん注:「ことごとく」。]人道に違反するものにして、我國に有利なるものは悉、天下の公道に一致するものなりとの盲斷を下す事を得ず。從つて對米問題に於ても亦、加州人士の運動が一面に於て甚無理なきを感ぜざる能はざる也。吾人は常に現代の日本を憐まざるを得ず。こは如何なる愛國的熱情を以てするも、到底認めざるを得ざる事實なり。經濟情態に於ても文化の程度に於ても日本の如く窮迫せられ、日本の如く貧窮なる國家は、恐らく他に類を見ざる所なる可し。

 金融の逼迫せるは猶忍ぶ可し。文化の幼稚なるも亦已むを得ざるものあらむ。されど日本をして最も列國の嗤笑[やぶちゃん注:「しせう(ししょう)」。嘲(あざけ)り笑うこと。]を招かしむるものは、日本の社會を通じて一般人士の道德的意識が極めて低き水準を保ちつゝあるの一事に存するものの如し。是亦吾人が認むるを喜ばざる、しかも遂に認めざるを得ざる事實也。其實例を求めむ乎、吾人は殆之を指摘するの繁に堪へざらむとすと雖も、試に最吾人に近接せる文藝の方面を一瞥せよ。吾人は隨所に、何等内部の衝動を感ぜずして低級なる享樂に耽溺せる者を見む。是等の和製デカダンは、泰西文明の輸入より來れる生活欲の膨漲が、本來の道義欲を破壞したる好個の實例にして、同時に又、自己内心の要求に耳を傾くるの餘裕なく、遽々然[やぶちゃん注:「きよきよぜん(きょきょぜん)」。俄かに。急に。突如。]として遲れざらむ事を維[やぶちゃん注:「これ」。強調。]努むる輕薄皮相なり。日本の文明が、僅に産出し得たる、憫笑すべき動物也。

 既に對米問題が實は對白人問題なるを云ひ、對白人問題の根底に存するものが白人の偏見以外に、日本の社會的缺陷(經濟上及道德上)なるを云ふ。吾人は此問題に對する解決の決して區々たる[やぶちゃん注:取るに足りないさま。]權利義務の問題に存せざるを信ぜざる能はず。何となれば、對米問題を惹起せるは死したる紛爭にあらずして、生ける白人對日本の國家品位の差異にあるを以て也。吾人が各人個々の修養によりて向上の一路を辿らざる可らざるは單に個人人格の陶冶の爲のみならず、又實に國家としての日本をして、其權利を主張するを得しむべき、唯一不二の手段也。吾人は徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]劍を舞はして倣語[やぶちゃん注:「はうご(ほうご)」。誰かの真似事を言いつらうこと。]する壯士の愚を學ぶ能はず、又策士の妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]舌を弄し計[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を用ふるを陋なり[やぶちゃん注:賤しい。]とす。啻に是等の爲す所を卑むのみならず、其[やぶちゃん注:「それ」。以下同じ。]途に爲す無きを信ずる也。其遂に爲す無きを信ずるのみならず、其反て[やぶちゃん注:「かへつて(かへって)」。]國家に大害を與へむを惧るゝ也。

 吾人豈、太平洋對岸の同胞に同情する、人後に落る者ならむや。豈加州排日案の凌辱に憤らざらむ者ならむや。然れども、吾人は深く、其救濟を爲すの、道德的水準を[やぶちゃん注:底本ではここに編者葛巻氏の『〔この間原稿欠〕』という注がある。]る外に道なきを信ず。願くは默して爲すべきを爲さん。

 

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