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カテゴリー「芥川龍之介」の675件の記事

2020/07/22

芥川龍之介 「續晉明集」讀後 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

[やぶちゃん注:本篇は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』と題して掲載されたもので、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の題で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。同書の解説者勝峯晉風(しんぷう)氏も校訂者遠藤蓼花(れうくわ(りょうか))氏も跋文らしきものを記した河東碧梧桐氏さえも、これには微苦笑せざを得なかったに相違あるまい。いや、それが実に、いい、のである。

 底本は岩波書店版旧全集第七巻(一九七八年刊)を用いた。発句や前書部分はブラウザでの不具合を考え、底本よりずっと上に引き上げてある。

 なお、これは現在、ブログで進行中の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々」の現在準備中の「丈草」の章の注のために、これ、どうしても必要となったため、急遽、電子化したものである。されば、語注等は附していない。一箇所だけ注しておくなら、「五老井主人」(ごらうせいしゆじん(ごろうせいしゅじん))は森川許六の別号である。将来的には注を追記として附したいとは思っている。]

 

  「續晉明集」讀後

 

 「續晉明集」一卷は勝峯晉風氏の解說と遠藤蓼花氏の校訂とを加へた几董句稿の第二編である。(古今書院出版)僕はこの書を讀んでゐるうちにかういふ文章を發見した。發見といふのは大袈裟かも知れない。現に勝峯氏も解說のうちにちやんとその件を引用してゐるが僕の心もちからいへば、正に發見にちがひなかつた。

 『僧丈草は蕉門十哲の一人なり。而して句々秀逸を見ず。蓋この序文においては群を出づといふべし。支考許六に及ばざるものなり。』(原文は漢文である。)

 僕はこの文章に逢著した時、發見の感をなしたといつた。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拜した餘り、晉明と號した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まないであらう。が、丈艸を輕蔑してゐたことは一層その面目を明らかにするものといはなければならぬ。

 許六はその「自得發明の辨」にかう云ふ大氣焰を吐いてゐる――「第二年の追善、深川はせを庵に述べたり。予自畫の像を書せたる故に、その前書をして、

  鬢の霜無言の時の姿かな

とせし也。(中略)誰一人秀たる句も見えず。さてさてはかなきこころざしにてあはれなり。

  なき人の裾をつかめば納豆かな  嵐 雪

 師の追善にかやうのたわけを盡くす嵐雪が俳諧も世におこなはれて口すぎをする、世上面白からぬことなり。」(下略)

 これは大氣焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶ふの句に光焰を放つたものはなかつたのであらうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問はず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤なるものである。いや、僕の所信によれば、寧ろ許六の悼亡よりも深處の生命を捉へたものである。

   芭蕉翁の墳にまうでてわが病身をおもふ。

  陽炎や墓よりそとにすむばかり

 尤も許六も丈艸を輕蔑してゐたわけではない。

 「丈艸が器よし。花實ともに大方相應せり。」

とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といひ、其角を「器きはめてよし」といつたのを思ふと、甚だ重んじなかつたといはなければならぬ。けれども丈艸の句を檢すれば、その如何にも澄徹した句境は其角の大才と比べて見ても、おのづから別乾坤を打開してゐる。

  大原や蝶の出て舞ふおぼろ月

  春雨やぬけ出たままの夜着の穴

  木枕の垢や伊吹にのこる雪(前書略)

  谷風や靑田を𢌞る庵の客

  町中の山や五月の上り雲(美濃の關にて)

  小屛風に山里すずし腹の上

  夜明まで雨吹く中や二つ星

  蜻蛉の來ては蠅とる笠の中(旅中)

  病人と撞木に寢たる夜寒かな

  鷄頭の晝をうつすやぬり枕

  屋根葺の海をふりむく時雨かな

  榾の火や曉がたの五六尺

 手當り次第に拔いて見ても丈艸の句はかういふ風に波瀾老成の妙を得てゐる。たとへば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この殘雪の美しさは誰か丈艸の外に捉へ得たであらう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と稱してゐる。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と稱してゐる。

 「續晉明集」の俳諧史料上の價値は既にこの書の本文の終に河東碧梧桐氏もいひ及んでゐる。しかしそれは俳諧史家以外に或は興味を與へないかも知れない。が、几董の面目――天明の俳人の多い中にも正に蕪村の衣鉢を傳へた一人の藝術家の面目は歷々とこの書に露はれてゐる。これは僕等俳諧を愛し俳諧を作るものにとつては會心の事といはなければならぬ。卽ち「續晉明集」を同好の士にすすめる所以である。 (一三・七・一四)

 

2020/07/17

ブログ1,390,000アクセス突破記念 芥川龍之介「Karl Schatzmeyer と自分」(未定稿)/「ERNST MÜLERと自分」(未定稿) / ■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収「Karl Schatzmeyer と自分」後半部 附・藪野直史注

 

[やぶちゃん注:以下は、新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年刊。写真版。私は現物を見たことがない)を底本とした「Karl Schatzmeyer と自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記を参考にして正字化したものである。実は、後者は、その「編者註」で葛巻氏が冒頭、

   《部分引用開始》

『これは「Karl Schatzmeyer と自分」、「Ernst Müllerと自分」と云う二つの原稿を、編者の手で編集し直したものである。その二つの原稿は、何処かへ発表するつもりであったのか、「芥川龍之介」と云う署名がされて、二つとも、「カル シヤマイエル」、「エルンスト ミー」と、その横文字の名前のわきに、わざわざ振り仮名までふられている原稿である。が、その内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど回じで、――これらの先後して、(いずれかが書き直しのつもりで)書かれた原稿のいずれが「清書」とも、また最初のものとも、筆蹟その他等からも、一切わからない。(編者は唯比較的に読みやすく書かれた方の原稿「カル シヤマイエルと自分」の方を採って、絶えず「エルンスト ミーと自分」と引合せながら、編者独自の採択を行った。――それらの両原稿ともに、これだけの範囲内でも、いずれも完全なかたちとして残されていなく、欠けた部分を他で補わなければならなかったが、いまは一々それらを註しなかった。それらはどこまでも編者の編と云う点に拠った。しかし、句読点その他の一切の加筆や削滅は行わなかった。ただこれらの原稿は或時代の彼の原稿の書き方のため、読点を用いない一字アケの非常に多い文章で、――他との均合い上、如何かとは思われたが、編者はそれらの原型を敢て保存することにした。』[やぶちゃん注:以下略。この『編者註』はかなりの分量があり、葛巻氏による原稿が書かれた経緯や内容への推理・考察が記されてある。それでも不充分であったものか、末尾にもさらに追記風に『編者註』が加えられてもいる。その考察の中には非常に興味深いもの(後の芥川龍之介の晩年に書かれた私の偏愛する「彼 第二」(芥川が参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあり、龍之介とも友人となり、非常に親しかったアイルランド人新聞記者トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年:芥川が彼と知り合ったのは、まさに本未定稿が書かれたと推定される大正五年の年初前後と推定されている)を主人公とするもの。リンク先の私の電子化の注を参照されたい。彼のことは他にも「上海游記」の「二 第一瞥(上)」「三 第一瞥(中)」や、「北京日記抄」の「二 辜鴻銘先生」にも出、芥川龍之介の大正八(一八一九)年の日記「我鬼窟日錄」でも二人の緊密さがよく判る(孰れも私のオリジナル全電子化注。特に最初の注では教え子が上海の彼の墓を探索して呉れた結果が必見である))との強い連関性である。私もそれ――即ち、ドイツ人 Karl Schatzmeyer 或いは Ernst Müller とは、このアイルランド人 Thomas Jones がモデルではないかという示唆――を支持するものである。そもそもこの時期に芥川龍之介がドイツ人青年と親しかった事実は少しも見当たらないのである)も含まれてある。紹介したいところだが、葛巻氏の著作権は存続しているので、詳しくは葛巻氏の原本を読まれたい。]

   《部分引用終了》

述べおられるところの、甚だ復元とは言えない不審点を多く感ずる〈作品断片〉なのである。以上の葛巻氏の謂いからお判り戴けるものと思うが、「Ernst Müller」或いは「エルンスト ミー」或いは「エルンスト」或いは「ミユラアー」の名は葛巻氏のそれには一切出現しない。即ち、葛巻氏は「Ernst Müllerと自分」という未定稿原稿の《Ernst Müller》なる人物を《Karl Schatzmeyer》に置き換えて両原稿を恣意的にカップリングした、しかも『欠けた部分を他』の原稿断片らしきもので『補』い、しかもその補った『他』の正体を一切『註しな』い状態でそれを行った、と述べておられるわけで、まさにそれは葛巻氏自身が図らずも述べてられる通り、『それらはどこまでも編者の編』、則ち、芥川龍之介原作を用いた葛巻氏の手になる、葛巻氏のみの確信犯で作り上げられた、にも拘わらず「芥川龍之介未定稿」の一つと名打った結合改作物であると言うことになるのである。しかも、基礎底本とした新全集第二十二巻の「未定稿」には、本篇とは別に「芥川龍之介資料集・図版1・2」底本の「ERNST MÜLLERと自分」という別な未定稿がちゃんと載るのである。

 その「ERNST MÜLLERと自分」(当該新全集の「後記」では、推測で、「ERNST MÜLERと自分」の方は『中に「欧州の大戦乱が勃発」と記されていることなどから』、大正五(一九一六)年頃に執筆されたものであろうとし、「Karl Schatzmeyer と自分」よりも十三篇も前(同巻は編年構成である)に配されてある)は同様の仕儀で、故あって、この最後に電子化する。最初に言っておくが、少なくとも「新全集」の「Karl Schatzmeyer と自分」と「ERNST MÜLLERと自分」を読み比べても、またそれぞれの「後記」を読んでみても、現存する両原稿のそれは葛巻氏の言うような『内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど同じ』ものなどではないのである。

 立ち戻って、当該新全集の「後記」によれば、この「Karl Schatzmeyer と自分」の方は推定で大正五~六年頃に執筆されたものであろうとある。大正五~六年は東京帝国大学卒業から海軍機関学校嘱託教官時代である。

 本文冒頭の「Karl Schatzmeyer」へのルビは基礎底本でも「芥川龍之介未定稿集」でも「カルル シヤツマイエル」であるが、ここは葛巻氏の『註』にある表記法をそのままに用いた。読点なしの字空けは散在するのは基礎底本のママである。

 適宜、当該語句を含む各段落末に注を挿入した。

 なお、本電子化は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,390,000アクセスを突破した記念として公開する【2020717日 藪野直史】]

 

   Karl Schatzmeyer と自分

 

 成瀨が自分を Karl Schatzmeyer(カル シヤマイエル)に紹介してからもう三年になる。何でも成瀨の伯父さんが伯林にゐた時、この男の親父(おやぢ)に世話になつたとか何んとか云ふので、先、伯父さんが成瀨に紹介し、それから又 成瀨が自分に紹介してくれたのである。

[やぶちゃん注:「伯林」ベルリン。]

 自分の記憶に誤がないとすれば、始めて遇つたのは十一月の末である。成瀨から電話で 今夜シヤマイエルと云ふ男が遊びに來るが遇つて見ないかと云つて來た。勿論 こつちの獨乙語は人並みに遇つて見ようなどと云へた義理のものではない。しかし自分は前から、その男が浮世繪の蒐集をしてゐるとか、源氏物語の插繪を自分で描(か)きたがつてゐるとか云ふやうな事を、ちよいちよい耳にはさんでゐた。さう云ふ人間なら、天氣と基督敎の事ばかり話してゐる宣敎師などとは違つて、話の種に困るやうな事は先 なからう。それに一人だと いくら何でも 聊たぢろぐが 成瀨の二人なら高等學校の時に習つた獨乙會話篇の文句を代り代り饒舌つても どうにか胡麻化せるに違ひない。自分はかう考へたから 早速承知の旨を答へてやつた。

[やぶちゃん注:「たぢろぐ」室町時代まではかく表記したので誤りではない。]

 日が暮れてから 成瀨の家へ行つて見ると先方はもう餘程 前から來てゐるものと見えて、暖爐(カミン)の前へ椅子を据ゑながら 和漢名畫選を膝の上にひろげて、友の落ちさうになる紙卷を口に啣ヘたり指にはさんだり 大に持てあつかつてゐる。成瀨は又 ひとりで太刀打ちをつづけるのに内心可成辟易してゐたらしい。それは自分が扉をあけてはいると、さも助かつたやうな顏をして 急に元氣よく語尾變化の怪しい獨乙語で 自分を紹介してくれたのでも、知れるのである。シヤツマイエルは自分の顏を見ると、紙卷を灰皿の中へ抛りこんで 勢よく椅子から立ち上りながら、[やぶちゃん注:参考底本にはここに『七字欠』とあり、葛巻編の「未定稿集」では『数字分欠』とある。]とか何とか云つて 手をのばした。

[やぶちゃん注:「暖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語で「壁に取り付けた暖炉」のことを指す。

「大に」「おほいに」。]

 自分も仕方がないから 學校で敎はつた通り、

 「お目にかかれて大變愉快です」と云ひながら、向うの手を握つた。雀斑のある 大きな白い手である。自分はその時 はじめてこの男をよく見る事が出來た。

[やぶちゃん注:「雀斑」「そばかす」。]

 先第一に眼を惹くのは この男の鼻である。華奢な鼻柱が始はまつすぐに上から下りて來たが 途中で 氣が變つて ちよいと又元來た上の方を顧眄したとでも形容したらよからう。先の方が抓んで持上げたやうに上を向いてゐる。かう云ふ鼻は いくら西洋人でも 到庭滑稽の感を免れない。自分は之を見ると、昔讀本(リイダア)か何かで讀んだ事のある ナポレオンが鼻の上を向いた男ばかり集めて近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した。シヤツマイエルは正にこの近衞兵になる資格のある男である。しかし遺憾ながら 體格が餘りよくない。尤も 背だけは普通の日本人よりも少し高いが 胸が狹くつて、瘦せてゐる所が 自分によく似てゐる。自分は椅子をひきよせて腰をかけながら私の同病相憐れんだ。シヤツマイエルは 瘦せてゐる癖に 昂然と頭をあげて 自分と成瀨とを等分に見比べながら 例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。

[やぶちゃん注:「顧眄」(こべん)は振り返って見ること。「眄」は「見回す」・「横目で見る」の意。]

 

 それからぽつぽつ會話をやりはじめた。それも「あなたは麥酒が好きですか」と云ふやうな事から 話し出すより外に仕方がない。元來自分は西洋人と話をする時には その前に必とつときの文句を拵へて置く。さうして話をする時には それを小出しの金のやうに少しづつ出して使ふのである。だから一時間位は、どうにでも融通をつける事が出來る。――しばらくして自分はそのとつときの文句の中から、シユウインドの畫はどうだと云ふやうな事を云つた。

[やぶちゃん注:「シユウインド」葛巻版では『シンド』。不詳。ドイツ・ロマン主義時代の画家となると、カール・シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg 一八〇八年~一八八五年)臭い感じはするが、彼はロマン主義ではなく、小市民的日常の観察に立った「ビーダーマイヤー」(Biedermeier)時代を代表する作家である。]

 すると、シヤシヤツマイエルは 上を向いた鼻を一層上を向けて 何か大に辯じ出した。卓勵風發と云ふ語は こんな時に使ふにちがひない。それも始めの中こそ シュウィンドの浪漫主義はオオベルレンデルに比べてどうとかだから 好箇の並行線をどうとかすると云ふやうな事だと思つたが、少し經つともう誰の事を何と云つてゐるのだか一向判然しなくなつた。シユウインド Oberlaender Stuck Klinger などと云ふ名が無暗に出る。自分と成瀨とは わかつたやうな顏をして、首をふりながら聞いてゐた。勿論 話の大部分はわからないが、どうもシユウインドの惡口を云つてゐるらしい。そこでシヤツマイエルが口をつぐむと、自分は「至極同感に思ふ シユウインドの畫は自分も好まない」と云つた。すると先方は人が好ささうに笑ひながら Ja と云つて、何度も合點をして見せる。自分は反つて 恐縮した。

[やぶちゃん注:「卓勵風發」正しくは「踔厲風發」で「たくれいふうはつ」と読む。議論などが他に優れて鋭く、風が吹くように勢いよく口から出ることを指す。「踔厲」は「卓絕嚴厲」の略。

「オオベルレンデル」次のアダム・アドルフ・オーベルレンダーのことであろうか。

Oberlaender」葛巻版では『Oberländer』。これはドイツの風刺漫画作家・イラストレーターのアダム・アドルフ・オーベルレンダー(Adam Adolf Oberländer 一八四五年~一九二三年) と考えてよい。

Stuck」ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家のフランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck 一八六三年~一九二八年)。一八九五年からミュンヘン美術院の教授となり、教え子にはパウル・クレーやワシリー・カンディンスキーがいる。

Klinger」ドイツの画家・版画家・彫刻家で、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われるマックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。私の好きな作家である。

Ja」ドイツ語で「はい」「yes」に当たる「ヤー」。]

 所が自分のこの答は大に成瀨を發奮させたと見えて、今度は成瀨の方から突然千萬人と雖も我往かんと云ふ調子で「エドガア・アラン・ポオの作品を君はどう思ふ」と訊(き)き出した。シユウインドとポオとどう云ふ關係があるのか それは成瀨に訊いて見なければわからない。シヤッツマイエルも聊 話題の急變したのに勝手が違つたやうであつたが、すぐにまあ卓勵風發をやり出した。今度は Kubin と云ふ名が時々出る。すると成瀨は大に景氣づいて、自分のやうに首をふつて聞いてゐるばかりでなく 何とか短い返事を加へ出した。尤も成瀨の獨乙語はシヤッツマイエルのよりも自分にわからない これはその時ちよいと感心したが 後で聞いて見たら その前の目にカビンの插畫を入れた Aurelia と云ふ本の獨譯が成瀨の所へ屆いてゐたので、それでどうにか話を合せて行けたのである。

[やぶちゃん注:「Kubin」「カビン」葛巻版では後者は『クビン』。ボヘミア生れのオーストリアの画家アルフレード・レオポルド・イジドール・クービン(Alfred Leopold Isidor Kubin 一八七七年~一九五九年)。マックス・クリンガー、ゴヤ、ビアズリーの影響を受け、独自の幻想的世界を描いた。ポー・ホフマン・ネルヴァル・カフカ・トラークルなどの錚錚たる幻想作家の作品の挿絵を描いた。キリコやクレーに影響を与えた。やはり私の好きな作家で、彼自身が書いた “Die andere SeiteEin phantastischer Roman (一九〇八年発表。私は法政大学出版一九七一年刊の野村太郎氏訳「対極 デーモンの幻想」で読んだ)は私が殊の外偏愛する幻想怪奇小説(無論、挿絵も彼)である。

Aurelia」フランスのロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval 一八〇八~一八五五年)の遺作の幻想小説。原題は“Aurélia ou le rêve et la vie” (「オーレリア、或いは夢と人生」。一八五五年作)。クービンのイラスト入りのドイツ語訳は一九一〇年刊。

 以上で参考底本の新全集の「Karl Schatzmeyer と自分」は終わっている。冒頭からここまでは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」とは一部の助詞の違いや表記の違い、空白部に読点がより打たれてあることなどの外は、有意な異同は認められない。ところが、葛巻版は――この後が――行空けもなく――普通に改行して佗上記の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の分量の二倍以上も続いている――のである。

 前注で示したように、葛巻氏は「ERNST MÜLLERと自分」と「Karl Schatzmeyer と自分」とを、カップリングして辻褄の合うように恣意的に操作を加えていることは間違いない。

 しかし、これが――単なる恣意的な葛巻氏の掟破りの自分勝手な断片合成或いは葛巻氏の創作挿入でないとするなら――或いは、現在は既に失われた芥川龍之介の今一つの幻の未定稿の余香を残すものであるとするなら――これを無視する訳には当然、行かない。しかもこれは「芥川龍之介未定稿集」に芥川龍之介のそれらと同資格で以って所収・並置されているものなのであって、葛巻義敏の作ではない(編したのは自分であるとおっしゃってはいるが、それを葛巻の著作権や編集権が発生するものとするには明らかに無理がある)。

 そこで、現存する「Karl Schatzmeyer と自分」は以上に示したので、以下では、参考として葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」の、上記部分に続いている箇所を総て示しておくこととする。なお、これが葛巻の編集権(連結したという断片素材の実物を示さず、また、恣意的に繋げたにも拘わらず、「芥川龍之介未定稿」の一つとする場合には、それは最早「編集」とは言えず、「改竄」である)なるものを侵すとするなら、それ以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」自体が芥川龍之介の未定稿集を詐称して改竄したものを出版した点をこそ、まず問題とせねばならぬこととなる。

 

    *   *   *

 

■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の上記パートに続く後半部分

[やぶちゃん注:以上のような経緯のある非常に問題のあるものであるので、少し迷ったが、同じように注を附した。なお、葛巻氏は本篇末の註で、『この時代の』芥川龍之介の『原稿の書き方――読点なしに、一枡を一字分だけあけることを含んでいる。――に就いては既に前』(当該書の別な前の作品での註を指す)『に註したが、その他の用字や用語についても、この時代にはまだ、「訳」(「訣」字でなく)、「可成(かなり)」、「不思儀」、「小供」、「之(これ)」、「饒舌る」、「はひる」、その他等々後年の彼の表現とは違うものを混用していることも、一言註して置きたい。(それらは、一つの例として、強いてここでは改めなかった。草稿であり、一未定稿と云う意味からも。)』と述べておられる。そのままに以下に電子化し、ママ注記も一部の除いて打たなかった。なお、底本のルビは総て採った。これは、底本凡例に於いて『本文のルビは総て芥川が附けたものである』と述べているからである(但し、実は私はこの断言にやや疑問を抱いてはいる)。]

 

 それから 一週間ほど後に成瀨と二人で 始めて 彼を訪問した。その時の事は 比較的よく覺えてゐる。彼はその頃 四谷北伊賀町の或しもた家の二階に 下宿してゐた。八疊と四疊半と二間つづきで 兩方とも床の間はない。安普請ではあるが、新しいだけが取柄であらう。その八疊のまん中に 大きな机を据ゑて 机の前に輪轉椅子が一つ置いてある。あと外(ほか)には豐國や國芳の役者繪を一々ピンで叮嚀にとめた 銀色の黑く燒けた、二枚折りの古屛風が一つ、――黃大津の壁側にならべてある、籐の肘掛椅子が二つに 背の低い書棚が三つばかり ――外には、何の裝飾もない。

[やぶちゃん注:「四谷北伊賀町」現在の新宿区四谷三栄町(よつやさんえいちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「黃大津」「きおほつ」。壁土の一種。黄色の埴(へなつち)に牡蠣灰(かきばい)と籾莎(もみすさ:稲藁を二センチメートル程度の大きさに刻んで揉み解したもの)を混ぜたもので、上塗りに用いる。]

 

 シヤツマイエルは、何時も この八疊に陣取つてゐる。

 その時も 自分たちがはいつて來るのを見ると、人が善ささうに 鼻の先へ皺をよせて笑ひながら 何でも「Guten Morgen」位な事を云つて 少しきまりが惡さうに手を出した。雀斑のある、大きな白い手である。

[やぶちゃん注:「Guten Morgen」「グーテン・モルゲン」。ドイツ語で(以下略す)「おはよう」。]

 

 自分たちは この手を握りながら 高等學校で習つた、日獨會話篇のとほり Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ? とか何とか云つて 出たらめな 挨拶をした。

[やぶちゃん注:「Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ?」「ヴィ・ゲーツ・イーネン、ヘェアァ・シャッツマイヤー?」。「シャッツマイヤーさん、お元気ですか?」。]

 

 それから 籐椅子に腰を下して 所謂會話を始めた。――この男が、浮世繪の蒐集をしてゐる事は 前にも書いたが、この時、はじめて 彼が日本に來てから 蒐集した 浮世繪を 見せてもらつた。

 日本へ來てゐる西洋人で、浮世繪を難有がらない者はないが、それは 御多分に洩れず、――廣重の江戶名所が 六七枚に、國芳の、「見立提灯藏」が揃つてゐる外には 皆、碌なものではなかつた。

[やぶちゃん注:「見立提灯藏」「みたてちやうちんぐら」。歌川国芳の大判錦絵で十一枚揃い。弘化4(一八四七)年から翌嘉永元年にかけて制作された、様々な美人の姿を「仮名手本忠臣蔵」の各段の著名な場面に見立てたもの。参照した「立命館大学所蔵貴重書アーカイブ」のこちらを見られたい。]

 

 中には、六圓で買つたと云ふ北齋は、新しい複製でさへ あつた。それにもかかはらず 彼は、この不二がどうだとか、この海の藍がどうだとか さも感心したらしい 批評をつけ加へた。

 特に、その批評の中で 刀をさしたり 上下(かみしも)をつけたりしてゐる人物が出て來ると、彼は 必 Heldenと云ふ語(ことば)をつかふ。無理もない 事には、――ちがひなかつたが、團七九郞兵衞と左平次との二人立ちを Zwei kämpfende Helden(二人の鬪へる英雄)と呼んだ時には 到頭、自分は たまらなくなつて、吹き出してしまつた。彼が 妙な顏をして、吃りながら「何が可笑しい」と云つたのを思ひ出すと、自分は 今でも 恐縮する位である。

[やぶちゃん注:「Helden」「Zwei kämpfende Helden」「ツァイ・カンプフンダ・ヘルデン」。

「團七九郞兵衞と左平次」「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ:延享二(一七四五)年大坂竹本座初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲の合作)」の「七段目「長町裏」(通称「泥場」)の段であろうが、「左平次」は「義平次」の誤り。団七九郎兵衛が義父義平次を惨殺する下りである。詳しくはウィキの「夏祭浪花鑑」を参照されたい。]

 

 しかし、彼の浮世繪評は 曖味であつたが、その知識と云ふ點になると、日本にゐて日本の事を知らない自分たちよりは 遙かに、確な所があつた。國貞が生れたのは千八百何年で 死んだのが何年だから、豐國を襲名した何年は、丁度 何歲の時だらうなどと云ふ。さうかと思ふと、寫樂は能役者だつたとか 豐國は道樂をしたとか云ふ。その時も 歌川といふ名の系譜のやうな事を 根氣よく述べ立てた。かう云ふと、さも 衒學的な人間のやうに聞えるが、それは 決してさうではな[やぶちゃん注:ここには葛巻氏が脱字と判断して補った『〔く〕』が入っている。]、この男が喋るのは ただ神經質で、話と話との間がとぎれるのを ひどく氣にするのである。

 その上、どうかすると 彼には時々 吃るくせがあつた。現に成瀨の所で 獨乙の繪の話か何かになつて Kubin がどうとかしたと云つてゐる中に KKKK-と吃り始めた。そのクビンが一つうまく云へると 後は今まで吃つて遲れた時間を 取返す氣なのかと思ふ程 早口で辯じつづけた。さうなると 獨乙語の未熟な人間なのだから 愈 何が何だかわからなくなる。自分は 例の上を向いた鼻の下で 薄い唇が痙攣的に動くのを眺めながら 今更のやうに南蠻鴃舌と云ふ成語を思ひ出した。

[やぶちゃん注:「南蛮鴃舌」「なんばんげきぜつ」と読む。五月蠅いだけで意味の通じない外国語を卑しめて言った卑称語。「孟子」の「滕文公(とうぶんこう)上」による。「鴃舌」は鳥のモズの鳴き声を指す。]

 

 神經的な自分は 今でも その吃る時小供のやうに赤い顏をするのを見て 妙にこの男を氣の毒に思つた事を覺えてゐる。もしこの男にかう云ふ癖がなかつたら 自分との交情はもつと疎遠になつたのにちがひない。――

 德川時代の寂びた色彩を眺めながら その絵の說明を獨乙語で聞かされた時の不思儀な心もちを 今でもはつきり 自分は覺えてゐる。洋服の膝の上へ 自分たちは 過去の空氣の中に 何十年を寂びつくした江戸錦繪をひろげながらそれらを聞いてゐたのである。

 かうやつて 怪しい會話をつづけてゐる間にやがて晝飯の時刻になつた。食事は階下の六疊でするのである。

 二階を下りて見ると もう ちやぶ臺の上に茶碗と箸とが自分たちを待つてゐる。そのまん中には 赤と金とによい程の時代がついた九谷燒の德利さへあつた。これはシヤツマイエルが 古道具屋をあさつて買つて來たものだと云ふ。自分たちは その德利の酒をのみながら 膳の上の酢の物をつついた。伯林にゐた時から持つたとか云ふので 彼は箸が自由に使へる。坐るのには勿論 困らない。

「剌身と澤庵ととろろを除けば 何でも食べられる。」

 かう云ひながら 彼は得意さうに 例の上を向いた鼻を 一層上へむけて 自分たちの顏を見𢌞した。

「これからあなたの所へ日本の事を ききに來ませうか」 かう云つて自分たちは 笑つた。

「ええ 來て下さい。その代り獨乙の事はあなた方の方がよく知つてゐませう。私は獨乙の事をききます。獨乙の今の作家の事を。知らなくとも 私よりあなた方の方が 彼等に同情のある事はたしかでせう。……」

 その日の訪問は こんな事で完つた。それから一月ばかりたつて 今度は自分一人で行つて見ると この獨乙人は――銘仙の綿入れに 大嶋の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管で煙草をふかしながら 端然とその輪轉椅子に腰を落着けてゐたのだから 奇拔である。さう云ふ異樣ななりをしながら その朱羅宇の煙草を持ちかへて 自分に 雀斑のある 犬きな白い手をひろげて出す。勿論 握手をしろと云ふ合圖である。

[やぶちゃん注:「完つた」「おはつた」。

「朱羅宇」「しゆらう」。朱色をした、煙管(キセル)の火皿(ざら)と吸い口とを繋ぐ竹の管のこと。古くラオス産の竹を使ったことから「羅宇」と当てて書く。]

 

 この時 彼がはいてゐる黑繻子の足袋が十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話も 着物も一反では足りない 二反かかつたと云ふ事も聞いた。見ると成程、唯でさヘ一反では覺束ない所を その裾が又 べらぼうに長く出來てゐる。話を よく聞いて見ると 之(これ)は浮世繪の中に出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく 特別 彼が仕立てさせたものであつた。

[やぶちゃん注:「黑繻子」「くろおしゆす(くろしゅす)」。「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。

「十三文半」凡そ三十センチメートル前後か。]

 

 その日も又、この男の口から 獨乙語で浮世繪の說明を 刻み煙草の煙りと一しよに 長々と聞かせられた。自分は 理由のない輕蔑から それらの說明を輕蔑してゐたが 併し亦 妙な興昧もあつた。彼はその時 浮世繪の裝飾的特質と云ふ事を しきりに說明してゐたが さて 實際に、浮世繪を 室内の裝飾に使ふと云ふ段になると 少からず當惑した。どうも額へ入れて 壁ヘつるすのは 不調和だと云ふやうな議論だつたと思ふ。自分は勿論、日本間へ輪轉椅子を置いてその上へ銘仙のお引きずりを前で 腰をかけてゐる彼に 調和不調和の問題を論ずる資格など あるまいと(不法にも)その時は 思つてゐた。さうして 豐國や國芳の役者繪を一一ピンで 叮嚀に この色の變つた 銀の古屛風に 貼りつけてあるのも、その調和不調和の考へから 來てゐるのだらうと思つた。――さうして 亦、この古屛風を後(うしろ)にして 輸轉椅子に お引きずりの銘仙の 綿入れを着て 早口に喋りつづけてゐる この異樣ななりをした外國人と――不思儀にも、自分がこんなにも早く(何時の間にか、)親しくならうと云ふ事などは 夢にも考へなかつた。――しかし 不思儀にも 間もなく シヤツマイエルと自分とは 親しい間がらとなつて行つた。――この日は 歸りにハムズンの獨譯を二三册 借りて歸つた。

[やぶちゃん注:太字「不法」は底本では傍点「ヽ」。

「お引きずり」「御引き摺り」。着物の裾を引きずるように着ること

「ハムズン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)のことか。後の一九二〇年、作品「土の恵み」でノーベル文学賞を受賞したが、ナチスを支持し続けたため、戦後、名誉は失墜した。]

 

 四度目には――さう一一 會つた時の事を 全部 書立てなくとも善い。唯 自分はこの男と自分との交涉を 多少 ここに小說めかしく 書きつければ 好いと思つてゐる。

 彼と自分とは又、東京中を 當てもなしに 足にまかせて 步き𢌞つた。――淺草の觀音堂のまはりを鳩に豆をやりながら 根氣よく半日ばかり 散步した事もある。[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔二字分缺〕』が入る。]から電車で 永代まで行つて 永代から一錢蒸氣で吾妻橋へ來て 吾妻橋から步いて向島へ行つて 長命寺の櫻餅を、晝飯代りに食つた事もある。中でも一番 記憶に殘つてゐるのは、一しよに銀座の松下へ行つた歸りに 何かの道順で 白粉の匂のする 狹い 裏通りを拔けた時のことである。

[やぶちゃん注:「永代」永代橋(えいたいばし)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「吾妻橋」ここ

「長命寺」現在の東京都墨田区向島にある天台宗宝寿山遍照院長命寺。「長命寺桜もち」で知られる。

「銀座の松下」後述からは料理店らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 狹い往來の兩側には、みがきこんだ格子戶の中に 御神燈がぶら下つてゐたり、水を打つた三和土(たたき)の上に盛鹽がしてあつたり 白い菊の花が活けてあつたりした。すると シヤツマイエルがこれを見つけて、この町にはどんな階級の人間が往んでゐるかと訊(き)くから、自分は無造作に藝者だと敎へてやつた。所が この答がシヤツマイエルの好奇心を動かしたと見えて、彼はそれ以來 女さへ通れば 自分に「あれは藝者か?」と 尋ねた。勿論 獨乙語で尋ねるのだから、彼は先方の女には 何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で 「藝者か?」ときく。それには 自分は、少からず 弱らされた。――彼は亦 何かの話の序から Madame Chrysanthèmeを思だすとも云つた。それはその「お菊さん」のやうな人を、紹介してくれと云つたのか どうか知らないが――自分は、いま以て 白い菊の花と、ロティと、この獨乙人とが、一しよになつて 思ひ出される。……

[やぶちゃん注:「Madame Chrysanthème」「マダーム・クリザンテーム」。フランス海軍士官で、世界各地を航海して訪れた土地を題材にした小説や紀行文をものした作家ピエール・ロティ(Pierre Loti:本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー Louis Marie-Julien Viaud 一八五〇年~一九二三年)が一八八七年に発表した小説。邦訳は専ら「お菊さん」。]

 

 彼を訪ねると、机の上に 妙な火入れ見たいなものが 出してある。元來は 杯洗か何か[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の欠字註『〔に〕』が入る。]使はれたものに[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔ちがひ〕』が入る。]ない。彼は机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出して こちらへよこして、日本語で、「ドウダ?」と云つて、すすめてくれる。それから 銘仙の襟を、かき合せて 今度は獨乙語で、「大學は 面白いか?」とくる。この二つは 前の手を出すのと 一般で 天氣の如何にかかはらず、やらない事はない。さうして、自分が「日本の大學位 退屈な所はなからう」と答ヘると、「獨乙の大學も同じだ」と こたへる。さもなければ「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ。どつちがほんたうなのか 未(いまだ)に わからない。

[やぶちゃん注:「杯洗」(はいせん)は酒席で一つの盃を複数で使い回す際に用いる、盃を洗うためのやや大振りの器。

「抽匡」「抽斗」或いは「抽筐」の芥川龍之介の誤字であろう。「ひきだし」。]

 

 彼の所へ行くのは 唯、漫然と饒舌(しやべ)りに行つた事もあれば、本のわからない所を聞きに行つた事もあつた。どちらか と云へば、大抵 前の場合の方が多い。後の場合でも、自體が根氣のいい男だから、彼は 繰返し 繰返し 敎へてくれるが、その親切氣には 今でも感謝してゐるが その繰返す度に せき込んで來て、無暗と口が早くなるには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落着いて話してゐても、碌に向うの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから、さうなつて來ると 愈 何を云つてゐるのだか わからなくなつてしまふ。唯、神經的に唇の動いてゐるのを、見つめてゐるしかない。また、こつちから、喋るにも 中々骨が折れた。何しろ 高等學校の時に習つた日獨會話篇を應用するより 仕方がないのだから、第一 噓をつく事になる。ほんたうの事を云はうとすると、その語(ことば)さへも、なかなか 見つからない。話題は 重に 文學の話とか、美術の話とかであつたが、一度 ケスの話か何かをした序(ついで)に 彼と戰爭論をはじめてしまつたのも、元をただせば、全く これに崇られた お蔭らしい。――

[やぶちゃん注:「ケス」不詳。後で示す「ERNST MÜLLERと自分」のこれと類似した箇所では『ケルネル』とある。これは或いは、ドイツの劇作家で詩人であったカール・テオドール・ケルナー(Karl Theodor Körner 一七九一年~一八一三年)のことではないかと考える。戯曲「ツリニー」(Zriny :一八一二年) により文名を確立し、対ナポレオン解放戦争の愛国詩人として活躍、義勇軍に加わって戦死した。死後、父親の手によって編纂された詩集「琴と剣」(Leyer und Schwert :一八一四年刊) は熱狂的に迎えられた、と「ブリタニカ国際大百科事典」にある人物である。]

 

 獨乙人と云へば、必ず 麥酒よりも 人と喧嘩をする事の方が それ以上に好きだと思つてゐた自分には、このシヤツマイエルと云ふ男が、獨乙帝國の カイゼルの臣民の 一人だと思ふと、どうも 少し 矛盾が感ぜられて ならなかつた。――何しろ 喋り出すと、加速度で口の早くなる男だから、その喋つてゐる事の全部が全部 わかつた譯ではないが――シヤツマイエルは 元来 戰爭と云ふものが嫌ひらしく、例の 朱羅宇の煙管で 自分の膝をたたきながら むきになつて 辯じ出した。(この時の事は 可成、はつきりと覺えてゐる。)元來、戰爭と云ふものが 嫌ひらしく、戰爭と云ふ言葉を聞くと 顏をしかめて 例の鼻を上へ向けて、「トルストイが云つてゐる通り」と云つて、「自分もさう思ふ」と 答へる。それから、さも 人を莫迦にしたやうに 鼻を一層、上へ向けて「死ニタイカ アナタハ?」と 來る。自分が nein とこたへたのは 勿論である。すると、彼は「私モ死ニタクナイ」と云つて それから 妙な身ぶりをした。遺憾ながら自分は、之(これ)を妙な身ぶりと云ふより外に仕方がない。强ひて說明すれば 兩足を少し前へ出してちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとか云つて シヤツマイエルの非戰論に反對した。すると、彼は 急に むきになつて 何度も「トルストイが云つてゐる通り 自分もさう思ふ」を繰返しながら、あの朱羅宇の煙管を、恰も「さう思ふ」の代表者であるかの如く 自分の服の前へつきつけると 二三囘ふりまはして見せて、滔々と 自說を 辯じ出した。今も云つた通り 加速度に口が早くなつて行くのだから 何を云つてゐるのだか その全部はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に、並べ立て出したのは 確かであるらしい。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 別にこれと云つて 大した主張がある訳でも 何でもないのだから 自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく 參つてしまつた。それを見て 彼が例の鼻を 意地惡く 自分の顏の側へ持つて來て、「主戰論者が さう容易に 降參していいのか?」と云つたのを思出すと 今で心 少し忌々しい。…… それから 暫くして、歐洲の犬戰亂が 勃發してしまつたから つまり われわれの戰爭論が 惡讖に なつてしまつたのである。――あの開戰の號外の出た日 自分は彼に誘はれて、松下へ食事をしに行つて その歸りに あの狹い裏通りを通つた事は 既に 書いた通りである。

[やぶちゃん注:「nein」「ナイン」。「いいえ」。

「娓々」「びび」と読み、飽きずに続けるさま、くどくどしいさまを言う。

「惡讖」「あくしん」と読み、「悪い不吉な予言」の意。

 なお、この後は底本自体が一行空けになっているので、ここでは二行空けておく。]

 

 彼と自分との關係は、日本と獨乙とが 戰爭をはじめるやうになつてから 或緊張したものになつた。或日、突然やつて來て、「暇かね?」と云ふから、「うん 少ししかけた仕事があるけれど、まあ 上つて行くさ」と云ふと「なに 又來てもいい」と 彼は云つた。

「いや 手がはなせないやうな仕事なら 僕の事だから さう云つて斷るが、さうではないから上つて話してゆき給へと云ふのだ。」

 これには 噓があつた。實際 仕事は手をはなしたくない性質のものだつた。が 何か 何時ものやうに ぶつきらぼうに 斷はる氣になれなかつたのである。

[やぶちゃん注:「斷はる」はママ。なお、末尾には『・・・』が打たれてあるが、これは葛巻氏が底本の他の断片でよくやる癖なので除去した。]

 

    *   *   *

 

[やぶちゃん注:以下は、先の「Karl Schatzmeyer と自分」と同じく新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」を底本とした「ERNST MÜLLERと自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記等を参考にして正字化したものである。字空けに就いては葛巻版に照らして変更を加えた箇所があり、そこは注記してある。

 各仕儀は以上の電子化注に従ったが、前に注したものは省略した。表記違いでも、前の参考文で比較して示したものもダブらせることはしていない。なお、本文冒頭の「Erst Muller」のルビを示した読み表記部分は、基礎底本では「エルンスト ミユラア」であるが、ここのみは葛巻氏の註にあるそれを用いた。]

 

    ERNST MÜLLERと自分

 

 自分が Erst Muller(エルンスト ミー)と近づきになつてから もう四年になる 始は 成瀨の紹介で會つた。その時 どんな事を話したか 今ではまるで覺えてゐない。二度目に會つたのは 自分が始めてこの獨乙人の下宿を訪問した時である。たしか半日ばかり話して 歸りに獨譯のハムスンを二三册借りて來たかと思ふ。三度目は――さう一一 會つた時の事を 書き立てる必要はない。自分は唯 この男と自分との交情を 幾分か小說らしく話しさへすればいいのである。

 ミユラアは その頃 上野櫻木町の或しもた家に下宿してゐた。六疊と四疊半と二間つづきで 安普請ながら 家は可成新しい。六疊のまん中には 大きな机があつて 机の前に輪轉倚子が一つ置いてある。あとは銀の色が黑く燒けた二枚折の古屛風と 籐の肘掛倚子が二つあるばかりで 外に別段これと云ふ裝飾もない。屛風には 過去の空氣の中から堀り出された豐國や國芳の役者繪が 一一に叮嚀にピンでとめてある。これは 額緣に入れて 壁へぶらさげるのが不調和だと云ふ考からであらう――ミユラアは何時でもこの屛風を後にして 端然と尻をセセツシオン式の輪轉倚子の上に落着けてゐた。

[やぶちゃん注:「上野櫻木町の或しもた家」「上野櫻木町」は現在の桜木町ではないので注意。寛永寺を中心とした、現在の上野桜木地区である。ところが、先に示した葛巻版「Karl Schatzmeyer と自分」では、ここが『四谷北伊賀町の或しもた家』と、南西に五・八キロメートルも離れた方向違いの地名になっているのである。これは「新全集」が拠った原稿(画像)以外にそう記した葛巻が見た全く別の原稿の存在を強く感じさせるものである。葛巻が統合編集するに当たって地所を変更するの必要性が全く存在しないからである(私は例えばモデルかも知れぬトマス・ジョーンズとの絡みでそうした可能性を考えて調べたが、ジョーンズの住んだ幾つかの場所とは一致しないから、その線はないと思う)。

 

 それも唯 落着けてゐるだけなら 特筆する必要は少しもない。所がこの男は 秩父銘仙の綿入れに 大島の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管を口に啣へながら 右の膝の上へ左の膝をのせて大納りに納つてゐるのだから奇拔である。始めてたづねた時に 自分は彼のはいてゐる黑繻子の足袋が 十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話を聞いた。それから 着物も一反では足りなくつて 二反かかつたと云ふから 見ると成程 唯でさヘ一反では覺束ないと思ふ所へ 裾が又べらぼうに長く出來上つてゐる。よくよく聞いて見ると 之は浮世繪の中へ出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく特別に彼が仕立てさせたものであつた。

 ミユラアは かう云ふ異樣ななりをしながら 自分が行くと 必その朱羅宇の煙艸を持ちかへて[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔五字欠〕』と入っている。]とか何とか 世にも不精な挨拶をする。さうして それと同時に 自分の眼の前へ 雀斑(そばかす)のある 細い手をひろげて出す 勿論 握手をしろと云ふ合圖である が 自分は面倒臭いから 未嘗 一度握つた[やぶちゃん注:ママ。]事はない それでも 行きさへすれば 必ひろげて出す。自分が握らないと云ふ事を考へるより 手の出る方が先なのであらう。

 行くと 自分は何時でも 籐の肘掛倚子にかけさせられた。机の上には の[やぶちゃん注:字空けママ。]妙な火入れが出てゐる。何でも元來は杯洗か何かにちがひない。ミユラアは机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出してその火入れと一しよに 日本語で「ドウダ」と云ひながら すすめてくれる。それから 秩父銘仙の襟をかき合せて 今度は獨乙語で「大學は面白いか」と來る。この二つも 前の手を出すのと一般で 天氣模樣に變らず やらない事はない。さうして 自分が「日本の大學位 退屈な(ラングワイリヒ)所はなからう」と云ふと 「獨乙の大學も退屈だ」と云ふ。さもなければ 「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ どつちがほんとうなのだか 未にわからない。

[やぶちゃん注:「退屈な(ラングワイリヒ)」三文字に対するルビ。Langweilig。]

 

 話題には 一番文學上の問題が上つた。ミユラアは自體根氣のいい男だから 自分が何か質問でもすると 繰返し繰返し敎へてくれる。その親切氣には 今でも感謝してゐるが 繰返す度に せきこんで來て 無暗に口が早くなるのには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落ついて話してゐても 碌に向ふの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから さうなつて來ると 愈 誰の事を何と云つてゐるのだか それさへもわからない。自分は ミユラアの唇がめまぐるしく動き出すと 何時でも南蠻𩾷舌と云ふ成語を 今更のやうに思ひ出しながら あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた。

[やぶちゃん注:「さうなつて來ると 愈」底本では「さうなつて來ると」で行末で「愈」が次行一字目であるが、違和感があるので、葛巻版に従い、一字空けた。

「あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた」も「あつけにとられて」で行末で次行が頭から「唯……」とあるのだが、どうも生理的におかしい感じがするので、特異的に一字空けた。]

 

 鼻と云へば この男の鼻は 實際 人が眺めるばかりでなく、當人が眺めるのにも 甚都合よく出來上つてゐた。華奢(きやしや)な鼻柱が 始は素直に上から下りて來たが 途中で不意に氣が變つて 又元來た上の方を 眄一眄したとでも 形容したらいいのだらう。先の方が まるで抓(つま)んで持上げたやうに 上を向いてゐる。いくら西洋人でもかう云ふ鼻は 餘り上品に見えるものではない。自分はこの鼻を見てゐると よく ナポレオンか誰かが 鼻の上を向いた男ばかり集めて 近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した 兎に角 三十何才かの獨乙人にしては 氣の毒な鼻である。

 ミユラアは 鼻こそ近衞兵になる資格があるが 體格は甚振はない 瘦せてゐて 胸の狹い所が自分によく似てゐる 獨乙人と云へば 必麥酒がすきで 人と喧嘩をする事が それより猶すきな人間のやうに思つてゐた自分は この男が獨乙帝國の臣民だと思ふと どうも矛盾の感があつた。――自分がケルネルの話か何かした序(ついで)に ミユラアと戰爭論をはじめたのも 元をただせば 全くこの矛盾の感に崇られたおかげである。

 その時の事は 今でも可成覺えてゐる ミユラアは 戰爭と云ふと さも人を莫迦にしたやうな顏をして 例の鼻を一層上へむけながら 日本語で「死ニタイカ アナタハ」は來た。自分が nein と答へたのは 勿論である。すると 彼は 「私モ死ニタクナイ」と云つて それから妙な身ぶりをした。遺憾ながら 自分は 之を妙な身ぶりと云ふより仕方が外にない。强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して ちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとかと云つて ミユラアの非戰論に反對した。すると 彼は急にむきになつて何度も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔六字欠〕』と入っている。葛巻版では『「トルストイが云つてゐる通り 自分もそう思ふ」』となっている。]を繰返しながら あの朱羅宇の煙管を恰も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔三字欠〕』と入っている。葛巻版では『「そう思ふ」』となっている。]の代表者であるかの如く 自分の眼の前へつきつけて 滔々と自說を辯じ出した。何しろ殆 加速度で口が早くなつて行くのだから 詳しい事はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に並べ立てた事だけは確である。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 今も云つた通りミユラアの體格が獨乙帝國の臣民たるべく餘りに貧弱な所から起つたので 別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない。だから自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく參つてしまつた。それを見て ミユラアが例の鼻を意氣惡く 自分の顏の側へ持つて來ながら 主戰論者がさう容易に 降參してもいいのか と云つたのを思ひ出すと 今でも少し忌々しい……

 それから 暫くして 歐洲の大戰亂が勃發した。つまり 戰爭論が 惡讖になつたのである。――あの開戰の號外が出た日 自分はミユラアに誘はれて 松下へ食事をしに行つた さうしてその歸りに 二人で 銀座の裏通りを散步した。狹い往來の兩側には みがきこんだ格子戶の中に御神燈がぶら下つてゐたり 水を打つた三和土の上に盛鹽がしてあつたりする。するとミユラアがそれを見て この町にはどんな階級の人間が住んでゐると訊(き)くから 自分は無造作に藝者だと敎ヘてやつた。所がこの答がミユラアの好奇心を動かしたと見えて 彼はそれ以來 女さへ通れば 自分にあれは藝者かと尋ねる 勿論 獨乙語で尋ねるのだから 彼は先方の女には何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で「藝者か」と云ふ 自分は少からず弱らされた。――ミユラ

[やぶちゃん注:以上で底本は断ち切れている。

「强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して」同前改行で葛巻版に従って字空けを施した。

「別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない」の「訳」の字体は葛巻版の当該相当部に従った。

「降參してもいいのか」の後の字空けは読み易さから補った。]

 

2020/04/11

芥川龍之介「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」再校閲+作品集『三つの寶』佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を挿入


芥川龍之介の「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」に昨日、小穴隆一の二葉の挿絵を挿入、また本日、半日かけて全面的に厳密に再校閲して誤りを正し、さらに作品集『三つの寶』に載る佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を恣意的に「作品集『三つの寶』版」の前後に挿入した。特に佐藤のそれは実にしみじみとして、良い。以下に示す(画像は雰囲気を味わって戴くためのもので、本文の前半のみの原本(復刻本)の部分画像である)。

   *

Takaihenotegami
 

他界へのハガキ 

 芥川君
 君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了(しま)ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴(をあな)君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの校了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直(なほ)して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本をきたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜しかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、來て一つそれを僕に敎へてくれたまへ。ヸリヤム・ブレイクの兄弟がヰリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕(てが)るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもら度(た)いと思ふ――夢にでも現(うつつ)にでも。君の嫌(きらひ)だった犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記錄があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
  下界では昭和二年十月十日の夜      佐 藤 春 夫

2019/12/30

芥川龍之介 長への命 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本篇は「長(とこしな)への命(いのち)」と読み、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の掉尾に載る「長への命」の漢字表記を参考にしつつも、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「長への命」(但し、漢字は新字表記)を底本とした。しかし、同新全集の「後記」によれば、本篇は明治四一(一九〇八)年二月二十八日発行の回覧雑誌『碧潮』第三号所収であり、これは葛巻が配置した小学校時代ではなく(そもそもが葛巻自身が末尾に『(明治四十年頃、「くづれ」の署名で。回覧雑誌『碧潮』第三号)』と記しているように、彼は既に明治三八年三月に江東小学校を卒業し、翌月四月に三中に入学しているのである)、東京府立第三中学校三年次のものである。葛巻氏もそれは判っていて、後注で『このお伽噺は、必しも小学校時代のものとは云えないかもしれない。――しかし、その「日の出界」、「お伽一家」』(『お伽一束』が正しく、また、これは別回覧誌ではなく、『日の出界』の臨時号の名である)『(小学校時代)にはじまる、一連の回覧雑誌中の一例(サムプル)』(「例」のみのルビ)『として、ここに掲げる』という苦しい弁解をされている。しかし、これは同書のパート立てを全く逸脱していて納得出来ないし、流れとして、これをここへ持って来たいという意図は、まあ、判るとは言えるものの、だったなら、初めっから、逆編年形式とか、時代別などをしなければよかったではないかと私は思う。それぞれに注を附しておけば事足りることではないか。こういう妙なところに、葛巻氏が芥川龍之介の原稿を小出しに、しかも恣意的にちらつかせては、出そうか出すまいか、と、何やら思案されているような姿が私には垣間見えてしまうのである。

 以上、漢字を「未定稿集」に主に従って正字で示した以外(「竒」などのように新全集の方が正しい字体で記している箇所もある)、葛巻氏の整序(第一段落末の句点打ち等)を施した部分も含めて文字列(字空けや改行)は完全に新全集版に基づいたもので示した。

 なお、故あって、本電子化を以って2019年の最後の私の仕儀とする。……では……よいお年を――

 

   長への命

 

        

 愚なる國王ありき 如何にもして長への命を得むと思ひて 多くの從者(ズサ)を召しつれつ 遠く東方の諸國に不老の泉を求めぬ

[やぶちゃん注:「一」は「未定稿集」にはなく、後で「二」と出るので不審ではあった。

「ズサ」のルビは「未定稿集」にはない。]

 行き行きてアゼンスの市近く來りし時遂に一行はとある山かげの岩に不老の泉の銀の如く湧き出るを見出しぬ 王喜ぶこと不斜 自ら馬より下りて之を掬へば 竒しや 白髯雛面の老爺は忽ち綠髮紅顏の壯夫となンぬ 王歡喜して云ふ「嬉しき哉 我は長の命のうま酒を得たり」

[やぶちゃん注:「岩」「未定稿集」では『岩〔窟〕』と補正注を添えてあるが、ここは、いらぬお世話であると私は思う。

「不斜」「なのめならず」。

「掬へば」「すくへば」。

「竒しや」「あやしや」。「未定稿集」は「竒」が「奇」である。

「雛面」はママ。「未定稿集」は『皺面』とする。確かに「雛面」ではおかしく、葛巻氏のの断りなしの補正は正しいかとは思う。]

        

 春風秋雨億萬々年 逐に地球永遠に眠るべき――生命(イノチ)あるものの悉く亡ぶべき――時は來りぬ 然も愚なる國王は未死す不能也

 月明なる夜 彼は枯骨の岡に立ちて氷河をかくるヒマラヤの絕嶺をのぞみ白雪に掩はるゝヨーロツパの大陸を眺め月に澄みたる蒼空の無窮を仰ぎ長く嘆じて云ふ「あゝ長の命は苦しかりき」

[やぶちゃん注:「あゝ長の命は苦しかりき」「未定稿集」では『あゝ 長の命は苦しかりき』と字空けが入る。

「ヨーロツパ」は「未定稿集」では『ヨーロッパ』である。]

 

[やぶちゃん注:「アゼンス」ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読み。但し、この「國王」がどの時代の人物で、彼にモデルがあるやなしやも判らぬ。識者の御教授を乞う。

 さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の本篇の解説で坂本昌樹氏は(なお、そこで当時の芥川龍之介を『中学四年』とされているが、これは三年の誤りである)、『典型的な不老不死譚を逆手にとった作品構成の巧妙さが、後の芥川独特の機知を既に彷彿させている。無為な不老長寿に対する否定的発想は、二年後の「義仲論」』(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版。冒頭に初出書誌を示してある)『に於ける木曽義仲の評価「彼の一生は短けれども彼の教訓は長かりき」』(「三 最後」の最終段落の一節)『を連想させる。徒らな「長への命」を懐疑し、短いながらも充実した義仲の「男らしき生涯」を肯定する志向に、当時の芥川の関心の一面を窺うことも可能かもしれない』と述べておられる。同感であるが、寧ろ、芥川龍之介自身の最期を考えると、これは、また、酷く皮肉な一篇ともなっているということに気づくではないか。]

芥川龍之介 春の夕べ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「春の夕べ」の漢字表記を参考にし、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「春の夕べ」(藤沢文書館蔵。恐らくは葛巻義敏旧蔵品。但し、漢字は新字表記)の明治三六(一九〇三)年二月発行の回覧雑誌『日の出界』臨時発行号の『お伽一束』に基づいて構成表記し直したものである。則ち、漢字を「未定稿集」に従って正字で示した以外、葛巻氏の整序した部分も含めて文字列(字空けや改行)は新全集版に基づいたものである。

 本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年)頃、「芥川龍雨」の署名で。回覧雑誌「お伽一家」)』とするが、「家」は誤判読であろう。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科一年次の満十歳の終り(芥川龍之介は三月一日生まれ)であった。

 やや讀み難いが、躓く部分については後注を施した。]

 

   春の夕べ

 

「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」

と今日學校でをそわつた唱歌をうたいながら樂しげに 步んできた二人の少年

「ねー重ちやん今日の「かすみてみヽゆる」んとこねー大へんむづかしかつたね」

「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時

「一寸をたづね申します」

と見苦しき老僧は こしをかゞめてといかけた

「あの○○町の方へ行くのはどういつたらよろしいのでしよう」

「エ あの○○町なの こゝをまつすぐにいつて この橫丁から三番目の橫丁をはいると つきあたりがそうよ」

と美ちやんは丁寧に指さしてをしへた老僧は

「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々

とくりかへしてさししめされた方がくへ とぼとぼと步んで行つた

 

[やぶちゃん注:一読、芥川龍之介が心から尊敬して交わった先達の文豪泉鏡花の小説の冒頭のように見まごう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同作品の篠崎美生子(みおこ)氏の解説でも、『会話文を多量に含むやわらなか文体には、泉鏡花の影響があることが想像される。「愛読書の印象」』(大正九(一九二〇)年八月『文藝倶樂部』初出)『によれば、芥川は「中学へ入学前から(中略)鏡花氏の「風流線」を愛読していた」とのことであるが、初期文章の段階で、既にさまざな文体が試みられていることは注目に値しよう』と述べておられる。さて、以下、表記上の問題点及び「未定稿集」との違いについて述べる。

・冒頭の「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」は、まず、歴史的仮名遣の誤りは総てママ。なお、「ヽ」であって「ゝ」ではない点に注意されたい。「チュてん」とでも言うべきか、通常はカタカナの繰り返しにしか用いない記号である。「未定稿集」では『にーをー』と長音符である。私は正直、そっちの方が、唱歌を歌っているのであるからには違和感がない。実際、長音符使用は今回纏めて行った初期の文章に散見するからでもある。以下の何箇所かも葛巻氏のそうするように、長音符の方がいいだが、ここは皆、新全集に従った。この唱歌、歌詞を整序してみると、「あさひに」「にほふ山の櫻の」「かすみてみゆる」「さくらのはなの」である。しかし、完全にこれに一致するものは私は知らない。但し、知られた「さくらさくら」又は「さくら」(日本古謡とされるが、実際には幕末に江戸で子供用の箏の手ほどきの一曲として作られたもので、作者は不明)の歌詞と単語と表現が酷似しているから、恐らく、芥川龍之介が仮想の鏡花的幻想小説世界へのトバ口として、それを少し弄った架空のもののように私には思われる。もし、完全一致する歌詞があるとなれば、御教授願いたい。

・「をそわつた」「未定稿集」も新全集もママ。

・『「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時』の鍵括弧閉じるがないのはママ。「未定稿集」は「むづかしかつたよ」で鍵括弧を閉じ、しかもそこで改行している。葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。「さくらのはゝなの」は「未定稿集」では「さくらのはーなの」である。

・「いをゝと」前に徴して見るに芥川龍之介は「いをーと」としたつもりかもしれぬ。「言はうと」の意の誤記或いは訛りである。「未定稿集」も新全集もママ。

・「よろしいのでしよう」の「しよう」は「未定稿集」も新全集もママ。

・『「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々』の鍵括弧閉じるがないのはママ。前と合わせて、これは落としたというより、芥川龍之介は確信犯でそう表記したのであると私は思う。「未定稿集」鍵括弧を閉じてある。やはり葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。

 「芥川龍之介未定稿集」が「全集」の中に晴れて正当に組み込まれることがなく、今に至るまで一種の鬼っ子のような扱われ方がされ、しかも総じて芥川龍之介研究者の間で葛巻氏の評判があまり芳しくないのは、彼が芥川龍之介の未定稿や原稿断片を小出しにして発表したことや、さらにはそれらを恣意的に結合したり、断りなしに書き変えたりしたからである。しかし本篇については以上のように原本と比べて見ると、全体に「未定稿集」版の葛巻氏の操作は、本篇を読むに躓かぬようにという配慮をされての手入れと言え、概ね納得出来る操作であるとは言える。寧ろ、近年の勝手な機械的な漢字の新字化や、歴史的仮名遣の現代仮名遣への変換に比べれば、私は殆んど罪がないものであるとも言おう。

 泉鏡花や夏目漱石や森鷗外ばかりではない――既に鷗外を物理的に読めない高校生は甚だ多い――芥川龍之介の正字正仮名の作品をさえ――若者たちの多くが物理的に読めなくなってしまう――「こんなもん、読めるわけねえじゃん」とほくそ笑んで言い出すのも――そう遠くないように思われる。高校の国語で「こゝろ」や「舞姫」はおろか――「羅生門」も読まずに卒業して最高学府へ進学する若者が、これからカリキュラム上から、事実、生れてくるのだ――私はそら恐ろしい気が、今、確かにしている。

芥川龍之介 昆虫採集記 (二篇) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈠」及び「昆蟲採集記㈡」を基礎底本としたが、「昆蟲採集記㈠」の方は岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)に原本画像に拠って載る(但し、漢字は新字表記)ので、それと校合した。

 その新全集「後記」によれば、「昆蟲採集記㈠」(新全集では『実話 昆虫採集記』。「実話」は新全集では右から左へ横書でポイント落ち。以下本文でもその題名をポイント落ち一字空けで採用した。なお、「未定稿集」では『昆蟲採集記㈠(實話)』となっている)の方は小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の第三編、推定で明治三五(一九〇二)年五月発行のそれに載ったものである(葛巻氏は『(明治三十六、七年)』と最後にクレジットしている)本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい)。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科に入学したばかりの満十歳であった。

 以上の通り、最初のそれは「實話 昆蟲採集記」とし、漢字表記は「未定稿集」に従ったものの、新全集のそれでは一箇所を除いて句読点が一切ないのを採用し、最後の採集参加者名簿も並べて下方三字上げインデントで記されてあるのを真似て、引き上げて各人改行で示した。「未定稿集」では本文に続いて句読点附きで記されてはあるものの、原本には『並べて下に記されている。もちろん彼』(芥川龍之介)『の筆蹟のまま』(回覧雑誌は手書きである)と注してある。

 実は芥川龍之介は昆虫少年であったのである。]

 

    實話 昆蟲採集記

 

余は五月六日友上瀧汎上瀧嵬野口眞造吉田春夫の四人とつごう五人昆蟲採集におもむいた

仲間の中での笑わせ屋の野口は種々な笑種を出て笑せるしくたびれやの吉田はくたびれたと妙な顏をする嵬先生はあついといつて蛙が小便をなめたような顏しているし汎君は平氣でさきへあるいて行く。余は唯腹が空たといふばかりでる

[やぶちゃん注:「上瀧汎」「こうたきひろし」か。こちらの近代資料刊行会のサイトの雑誌集成の『社会事業の友』の目次の、同誌第七十六号(昭和一〇(一九三五)年三月発行)の中の、『台湾総督府主催第八回社会事業講習会』に『釈放者保護事業に就て 上瀧 汎』とあるのは、姓名の特異性からみて、恐らく、後の、この人物ではないかと思われる。最初に記しているところを見ると、以下の上瀧嵬(こうたきたかし)の兄か?

「上瀧嵬」(明治二四(一八九一)年~?)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「我が交友錄 學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月『中央公論』)では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。

「野口眞造」(明治二五(一八九二)年~昭和四〇(一九七五)年)は芥川龍之介とは江東尋常小学校附属幼稚園入学時以来の友人で私立商工中学校卒後、染織工芸家となった。日本橋呉服屋「大彦」の次男で、父の経営をする問屋や工場で、染色の考案・製作を学んだ。大正一四(一九二五)年、父の死に伴って「大彦」を継いだ。昭和二(一九二七)年には「大彦染織美術研究所」を設立し、伝統的な染色刺繡の研究や復元及びそれらに自身の創案を加味した正統的衣装捜索を活発に行う。皇室慶事の調製、大劇場の緞帳や大パネルなども手がけている(以上は「芥川龍之介私的データベース」の彼の記載に拠った)。同じく「我が交友錄 學校友だち」に、『野口眞造 これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」とも読む。]の若旦那。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經経質なること想(おも)ふべし。小學時代に僕と冒險小說を作る。僕よりもうまかりしかも知れず』と記している。兄の功造とともに芥川龍之介とは終生交際が続いた。

「吉田春夫」芥川龍之介の江東小・三中までは同級生であった人物と思われ、三中時代の回覧雑誌『流星』(明治三九(一九二二)年四月発行)の近未来戦争小説「廿年後之戰爭」の終りで、

   *

空前の大發明

 大軍醫吉田春夫氏 あらゆる病患を癒すべき藥品を發見す原名ヨークオッコルと云ふ由空前の大發明也

   *

と登場させているからには回覧雑誌にも加わっていたか、せめても、その読者ではあったものと思われる。

「出て」「だして」。

「笑種」「未定稿集」では「種」に『だね』のルビを振るが、これは葛巻氏の添えであることが判る。

「空た」「すいた」。

「でる」「である」の脱字。]

 やがて上野公園へきた

 そこで「アゲハノチヤウ」及「トンボ」をとらゑたが余空腹のためて食事をした

[やぶちゃん注:「とらゑた」ママ。

「空腹のためて」ママ。葛巻氏は補正したようで「ためで」となっているが、それでもおかしい。寧ろ「ために」の誤記であろうと思われる。]

 それより步む事一里餘にして木立暗き山に出でた、他の者はそこでべんとうをしようとしたが向をみると一つの森林があるからあすこにしようと細道をつたわつてそこにゆき他の者はべんとうを食たが、我は柏餅をくつた[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なしで以下全部続いている。]

[やぶちゃん注:「べんとう」ママ。後も同じ。

「つたわつて」ママ。]

其後そばの立木をけづり[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なし。]

下のようにしたゝめた

               上瀧  汎

               芥川龍之助

               上瀧  嵬

               野口 眞造

               吉田 春夫

 

 

[やぶちゃん注:以下は「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈡」(新全集には載らない)。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年頃、「芥川龍雨の署名で。回覧雑誌「日の出界」)』と記す。但し、明治三六(一九〇四)年五月以降に発行された『日の出界』は確認されていない。しかし、この葛巻氏の注の書き方は現物雑誌を前にしているとしか思われない。現存しないか。〔 〕は葛巻氏の補正挿入。「とらゑた」「ようよう」「かゑつた」の表記はママ。]

 

   昆蟲採集記㈡

 

 今迄に私が一番面白かつた事をといふのですか 宜しい私が一つ話て見ませう

 時は六月三十日晴天を幸に友人二人と つごう三人網をかついで昆蟲採集に出かけた

 みるとよこの木枝に一個のはちのすがあつた さあこれこそ今日の得物にせよと一同 其はちのすをとつたところが中より數匹のはち劒をふつて我等にむかつてきた

 一生けん命向見ずにかけだしたところが 前にあつたどぶの中へズルズルボチヤリ

 ようよう上へ上つた 上では友が多くのはち〔を〕とらゑた所だ

 が我が着物 泥だらけだから それをぬぎ 友が二枚きていた着物を一枚まとひようよう實家にかゑつた(終)

 

芥川龍之介 彰仁親王薨ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版・三種テクスト表示)

 

[やぶちゃん注:底本は、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「彰仁親王薨ず」(既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである)及び本篇を所収している岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)のそれ(但し、漢字は新字表記)を校合し、手を加えて、特異的に三種のテクストを示してある。

 その新全集「後記」や平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介作品事典」及び新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の明治三六(一九〇三)年二月二十五日臨時発行の「お伽一束」に掲載されたもの(江東尋常小学校高等科一年次の終り。芥川龍之介満十歳(十一直前)。芥川龍之介は三月一日生まれである)である。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「回覧雑誌」の項によれば、この回覧雑誌『日の出界』は『半紙を紐で綴じた』形態であり、『芥川は編集主幹的立場にあり、毛筆で清書している。ただし、「表紙絵は悉く養父道章の筆になるもの」』(この引用は底本の「芥川龍之介未定稿集」の大パート「初期の文章」の頭にある葛巻氏の注の引用)『だという』とある。現在、『日の出界』は刊行時期(一九〇二年と翌年)の異なる時期の発行になる四冊が見つかっており、他に明治三七(一九〇四)年発行の別な名称の回覧雑誌『實話文庫』の存在も判っている(回覧雑誌癖は府立三中時代も続いている)。

 本篇は明治三六(一九〇三)年二月十八日に満五十七歳で病死した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の死を悼むものである。

 小松宮彰仁親王(弘化三(一八四六)年~明治三六(一九〇三)年)は陸軍軍人で官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第八王子。安政五(一八五八)年に仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受けて純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任したが、慶応三(一八六七)年、復飾を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。明治維新にあって議定・軍事総裁に任ぜられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執っている。明治三(一八七〇)年、宮号を東伏見宮に改めた。明治七(一八七四)年に勃発した「佐賀の乱」には征討総督として、また、同十年の西南戦争でも旅団長として出征、乱の鎮定に当たった。明治一四(一八八一)年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められ、翌明治十五年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」に改称している。親王はヨーロッパの君主国の例に倣って、皇族が率先して軍務に就くことを奨励し、自らも率先して範を示したのであった。明治二三(一八九〇)年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長・参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督に任ぜられ、旅順に出征している。明治三一(一八九八)年に元帥府に列せられた。一方で国際親善にも力を入れ、明治一九(一八八六)年にはイギリス・フランス・ドイツ。ロシア等のヨーロッパ各国を歴訪し、明治三五(一九〇二)年のイギリス国王エドワードⅦ世の戴冠式には明治天皇名代として臨席している。社会事業では日本赤十字社・大日本水産会・大日本山林会・大日本武徳会・高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。その他の功績の一つとしては蝦夷地(北海道)の開拓に清水谷侍従と共に深く関わった(以上はウィキの「小松宮彰仁親王」に拠った)。死因は過労による脳充血発作とされる。「芥川龍之介作品事典」の熊谷信子氏の本篇の解説で、『少年期の芥川がなぜ小松宮彰仁親王に傾倒していたのか、作家論からのアプローチが待たれるところである』と擱筆されておられるが、芥川龍之介は「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)で、

   *

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併(しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

   *

と述べている。海軍軍人というのは当時の男児の定番の希望ではあるが、彰仁親王の海外歴訪や活発にして多様な社会事業への参与などが、新時代の人物としての魅力を持っていたものとも言えるのではあるまいか。

 標題脇附の『――つゝしみて 芥川龍之助記――』は新全集の「後記」にも記されてある署名である。但し、新全集では前後のダッシュはないので、それを除いて示した。「芥川龍之助」の「助」表記は当時の彼の自筆署名に見られる。芥川龍之介は後年、この「助」の字を嫌い、その宛名で書かれた書信には返事を出さなかったという伝説もあるが、この「芥川龍之助」は底本の『〔小学時代㈡〕』の葛巻氏の最後の注に、この「助」は芥川家での慣用表記であって、実名はやはり本名「芥川龍之介」であって、この本名は『実父のみではなく、その実母共々の銘々でもあり、「長女初、次女久。長男芥川龍之」』(太字は底本では傍点「○」。以下、この注内引用では同じ)『と明らかに二回暑された、その実母の一冊の「手控え」を編者は今日も所蔵している』とあり、新原家除籍と芥川家への養子縁組のために明治三七(一九〇四)年八月三十日、『本所区役所に届けられた届では、まだ芥川家での慣用のまま、一時「龍之」として届けられ、間もなく彼』(芥川龍之介)『自身の意志も加わり、両親達が名付け、判決正本』(新原家推定家督人廃除の訴訟の判決を指す)『通り、「龍之」と改められた。因に養父道章(みちあき)は、その幼名を「長之助」とも言った』とあることで、芥川家で「助」の字が用いられた慣用名を名乗らされた理由もこれで判り、「芥川龍之介は芥川龍之助が正しい」とする風説はこれで誤謬であることがはっきりするのである。

 底本は各段落一字下げとなっているが、新全集版は字下げがない。後者に従った。また、底本も新全集も孰れも総ルビ(標題と数字を除く)であるが、それだけを示すと、甚だ読み難いことから、まず、①ルビを除去したものを示し、そのあとに、②読みを新全集(「後記」の「凡例」に原稿の読みはそのままに写したとする。現代仮名遣部分が殆んどで誤表記も複数認められる)で示し、その後に③底本の葛巻氏によって補正されたものらしい歴史的仮名遣に従ったそれを附したものを掲げることとした。

 

①ルビ排除版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風は凄颯として草木悲み雲は暗淡として山川憂ふ鳴呼之明治三十六年二月十八日曉天の光景にあらずや

此の日此の時元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下御腦症を以て橋場の御別㙒に薨去せらる

あゝ殿下の功烈かぞへ來れば日も亦た足らず殿下は實に故有栖川大將宮故北白川大將宮と共に明治の三柱とぞとなへられさせ給ふ

天は何故に我が國に幸をさづけざるぞ先に有栖川宮殿下を失ひ次に北白川宮殿下を失ひ今又小松宮殿下を失ふあゝ悲きかな

 

②一九九七年岩波書店刊の新全集「芥川龍之介全集」のルビに従った版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(そうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいじ)三十六年(ねん)二月(がつ)十八日(にち)曉天(ぎようてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしようだいくんいこまつのみやあきひとしんのーでんか)御腦症(ごのーしよう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(がうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがわたいしようのみや)故北白川大將宮(こきたしらかわたいしようのみや)と共(とも)に明治(めいじ)の三柱(ちう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆへ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかわのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

③一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の正仮名ルビ版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(さうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいぢ)三十六年(ねん)二月(ぐわつ)十八日(にち)曉天(げうてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしやうだいくんゐこまつのみやあきひとしんわうでんか)御腦症(ごなうしやう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(こうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがはたいしやうのみや)故北白川大將宮(こきたしらかはたいしやうのみや)と共(とも)に明治(めいぢ)の三柱(ちゆう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆゑ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかはのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

[やぶちゃん注:「橋場」現在の東京都台東区橋場(グーグル・マップ・データ)。

「別㙒」別荘。

「有栖川大將宮」有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう 天保六(一八三五)年~明治二八(一八九五)年一月十五日)。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持、元治元(一八六四)年に国事御用掛に任ぜられたが、同年の「蛤御門の変」(禁門の変)で長州藩士に荷担した故を以って謹慎を命ぜられた。慶応三(一八六七)年十二月、王政復古とともに総裁職に就任、翌年の戊辰戦争では、二月に東征大総督となり、官軍を率いて東下して江戸に入った。後、兵部卿・福岡県知事・元老院議長を務め、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣・参謀本部長・参謀総長を歴任した。日清戦争では広島大本営で軍務をとったが、病を得て没した(以上は小学館「日本大百科全書」他を参照した)。

「北白川大將宮」北白川宮能久親王(よしひさしんのう 弘化四(一八四七)年~明治二八(一八九五)年十月二十八日)か。伏見宮邦家親王第九子。青蓮院・梶井門跡を経て、安政五(一八五八)年十月、親王宣下により、能久の名を受け、得度して公現と称した。慶応三(一八六七)年五月、輪王寺門跡を相続したが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、寛永寺で謹慎していた徳川慶喜を救解すべく、駿府城に赴いて、東征大総督熾仁親王に嘆願。その後、彰義隊に擁され、寛永寺に立て籠ったが、新政府軍の攻撃を受け、会津に脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元(一八六八)年九月、奥州が鎮定されると、謝罪状を提出、親王停止と謹慎処分を受けたが、翌年十月に赦免されて伏見宮に復した。同五年、北白川宮を相続した。一方それに先立つ明治三年十二月より、兵学研究のためにドイツに留学、明治十(一八七七)年に帰国した後、陸軍中佐・少中将と昇進し、明治二十八年には近衛師団長となって日清戦争に出征、台湾鎮定に当たったが、同年三月、台湾で抗日の兵が決起、その鎮圧に当たる中、台南にて病没した(以上は「朝日日本歴史人物事典」他を参照した)。彼は亡くなった時は陸軍中将であったが、死後に贈大将されている。]

2019/12/29

芥川龍之介 暑中休暇の日誌 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の最初に載る「暑中休暇の日誌」に拠った。既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである。

 本篇は明治三七(一九〇四)年の七月二十一日(木曜)から同年八月三十一日(水曜)までの、当時、芥川龍之介が在学していた江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校の前身であるが、明治四十一年に江東小学校は相生尋常小学校を併合して相生尋常小学校に変わり、校名変更が四度あった後、昭和二六(一九五一)年三月一日に東京都墨田区立両国小学校と校名変更している。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)によれば、芥川龍之介在学当時の校名「江東」の読みは「こうとう」であり、また、関東大震災によって校舎が全壊・全焼したため、芥川龍之介の学籍簿等は、現在、残っていないとある)高等科(同小学校入学は満六歳の明治三一(一八九八)年四月で、高等科入学は明治三十五年四月)三年次の夏季休暇中の日記である。

 しかも、この年と、この日記の期間は芥川龍之介にとっては忘れられぬ年であったはずである。何故なら、先立つ同年三月九日、実家新原(にいはら)家では親族会議が行われ、龍之介を新原敏三の推定家督相続人から廃除する訴訟の請求が決せられ、五月四日、東京地方裁判所民事部法廷に十二歳の龍之介が当該訴訟の被告として出廷させられ、裁判長の尋問を受け、六日後の五月十日に推定家督相続人から廃除の判決を受けているからである。しかも、当該日には何らの記載もないが、実は夏季休暇の終わる直前、八月三十日、新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組して(本所区役所へ届出)龍之介は芥川家の養嗣子となって、新原龍之介は芥川龍之介となったのであった。なお、本日記当時の芥川家は本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号。グーグル・マップ・データ)にあった。

 平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、原稿が現存し、山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集」(一九九三年刊)に載り、新全集の宮坂覺氏の年譜の同年の記載の多くは、それ、則ち、本篇の原稿に依って記載されてある。私は「芥川龍之介資料集」の現物さえ見たことがないので、ここでは宮坂年譜の記載と内容を校合した

 標題脇には葛巻氏による、

   〔――満十二歳――〕

と言う添え辞があるが、除去した。

 読点は一切ない。〔 〕は葛巻氏による補正挿入で、多数ある。踊り字「〱」は正字化した。日録の間は行空けがないが、一行空けた。]

 

   暑中休暇中の日誌

 

 七月二十一日 曇後晴

 下女に搖り起されて 折角樂しく進んで居た夢の國を離れたのは 丁度五時三十分でした いやなセピア色をした雲が二ツ三ツ 御用[やぶちゃん注:右に葛巻氏による『〔五葉〕』の補正注がある。]の松の木のかげから靜かに吹き透る朝風にあほられて面白いよー[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の箇所が何度も出てくるが、注しない。]に流れて行くのを眺めながら 朝飯をしたゝめました 食後一定の復習を完へ 二三の友人を訪れたり 地圖の制作や 作文の原稿を作つたりして 十時迄費しました

 十時半頃 弟と叔母とが來たので 折角樂しみにして居た讀書も 十二分に出來ませんでした 晝頃 弟が晝寐をしてゐる中に又々地圖や圖畫をかきました が 起きはしないかと氣づかふ有樣は とんだ賴山陽先生でありました 今夜 叔母と弟〔は〕自分の家に泊る事になりました 寢床九時二十分

 

[やぶちゃん注:今時の中一生も、当時の私も、自らを歴史家・漢詩人で画人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)に擬するような仕儀は成し得ない。早くも芥川龍之介の自負が垣間見える。但し、事実、小学校入学時の芥川龍之介は洋画家志望であったことは余り知られていないであろうから、言い添えておく。

「弟」芥川龍之介の異母弟で七つ下の新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。芥川の実父新原敏三と、実母フクの妹(芥川龍之介の叔母)であったフユとの間に生まれた。この当時は、未だ満五歳。龍之介がやさしい気遣いをしているのが微笑ましい。彼は父敏三に似た野性的な激しい性格の持ち主で、後、上智大学に進学したが、中退した。岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、文筆には満足出来ず、後、日蓮宗に凝りだしたりして、しばしば芥川を悩ませた。芥川は死に際しての妻文(あや)宛の遺書の一つで、実姉ヒサ(底本編者葛巻義敏氏の実母で龍之介より四歲年上)及びこの得二とは絶縁せよと命じていたともされる(推定される当該部分が破棄されているために確言は出来ない)。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の私の注を参照されたい。

「叔母」新原(旧姓芥川)フユ。芥川龍之介にとっては義母でもあるが、彼は彼女のことを「芝の叔母」と呼んだ。]

 

 七月二十二日 曇後[やぶちゃん注:以下、なし。]

 起床 六時四十分

 今朝はステキに朝寢坊をしたが 復習 地圖共に少し許りやりました しかし 許〔り〕と云つても 決してなまけたのではないので 讀書は弟にかくれて思ふ樣やりました

 夕方弟や叔母とつれ立て叔母の家に赴きました 叔母の家は芝なので三田行の電車に駕して居ねむりを仕い仕い[やぶちゃん注:「しいしい」。]目的地(大げさですが)についたのは八時頃でした 寐床八時三十分

[やぶちゃん注:「寐床」「びしやう(びしょう)」と読んでおく。就寝。]

 

 七月二十三日 半晴半曇後雷雨[やぶちゃん注:土曜日。]

 今朝は昨日の失策を取りかへして臥床をはなれたのは午前四時でありました 直さま [やぶちゃん注:「すぐさま」。]屋根傳[やぶちゃん注:「づたひ」。]に火見に登〔つ〕て 淸らかな朝景色をながめた時の心持は眞に何とも言へない感にうたれて 丁度神樣の前へびざまづいた樣でありました 讀書で一日を暮しました 夕方 霹靂空をつんざき雷光目に燒金をさすが如しの恐しい光景が演ぜられて 自分は蚊帳の中にうづくまり「桑原桑原」をつゞけました 此の日の雷は大凡二十三所ばかりもをちた[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の表記が多数出るが、注さない。]と云ふ事です 落雷した所のさけた竹のくづや杉の皮などをもらひに來る者がたくさんあるとは迷信者の多い世の中哉[やぶちゃん注:「かな」。] 但それが雷よけになると云ふので

[やぶちゃん注:「火見」「ひのみ」でこれは「火の見櫓」の略であるが、ここは家の屋根の上の物干し台のような場所であろう。]

 

 七月二十四日 半晴半曇

 晝迄は兼てたづさへて來た敎科書をひもときました 晝過 叔父及姊弟と共に新宿の角力を見物しました

 夕方 そばの草原でとらへた甲虫を御生大事とぶらさげて櫓〔太〕鼓の音に送られながら家に(叔母の)かへつたのは六時三十分でした 寐床七時三十分(頗る早寐です)

[やぶちゃん注:当時の夏場所は新宿で興行されていたものか。因みに面白いことに、先代の国技館は京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。幼少期の芥川龍之介の馴染みの遊び場である。但し、その旧国技館は明治四二(一九〇九)年竣工である。]

 

 七月二十五日 雨後曇

 起き上りざま雨戶を開けばチヨツ失敬な 太陽はザーザーザーザー雨をふらしているので「ひどい奴」と少からず太陽をうらんだが その恨言が聞えたと見えてやがて雨もふりやみました

 晝過 父がむかひに來たのでつれだつて家にかへりました かへりに星の光が二ツ三ツハイ左樣ならとでも云ふよーに雲間からもれていました。

[やぶちゃん注:「父」とは、ここでは未だ養子縁組が行われていない芥川道章(実母フクの兄)のことであることに注意。芥川龍之介は生れて未だ八ヶ月の時に母フクが精神疾患を発症したために、フクの実家であった道章の家に引き取られ、そのままそこで道章とその妻儔(とも)及び伯母フキ(実母フクの姉で道章の妹。芥川龍之介に大きな影響を与えた人物である)に養育されてきたのである。以下での単なる「父」は総て芥川道章である。]

 

 七月二十六日 曇後晴

 今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステツキ(木刀にちかい)をふりまはしながら 大川端を散步しました 綠の糸をたるゝ柳や まつくろな木立や 淸々した川の流れや 蟹の甲らをならべたよーな石崖などが のどかな朝日に照らされて 〔一〕緖によろこびの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡つています 此の趣のある氣高い[やぶちゃん注:ここに底本では『〔この間脫字〕』ありと葛巻氏の割注がある。]見とれて暫く往來に立づんで[やぶちゃん注:ママ。]をりました 家にかへつてから父に日記を見せたところが「もう一寸字をきれいに御書き」と云はれました

 

 本日 新宿から攜へてきた甲蟲を標本に製作し 又地圖に[やぶちゃん注:「に」の右横に葛巻氏は『〔は〕』と訂正注を施すが、寧ろ「には」の「は」の脱字とした方がよいようにも思われる。]一日をくれましたが 今日で全部出來ました

[やぶちゃん注:芥川龍之介は昆虫好きの少年であった。後に「昆蟲採集記」(二篇)を電子化する予定である。]

 

 七月二十七日 曇

 今日から二つ役目を〔引〕受けました 曰く庭掃除 曰く掃除 掃除と云ふのは 自分の居間と食堂と寐室とを兼ねている四疊半の一間を片づけるのです 復習讀書 例如

 夕方 のりの强いゆかたを着て庭の松の下の影に涼みました えも云はれぬ涼風に 思はず 夕月と此の秋風を吾一人こゝに占たり[やぶちゃん注:「しめたり」。]菩提樹の影の歌を思ひ出しました 松と菩提樹 夏と秋 ところ違へ 涼しさの甲乙はありますまい

[やぶちゃん注:一首の作者と出所は不明。識者の御教授を乞う。]

 

七月二十八日曇後雷雨

「今日は」と筆をもつてももう書きつゞけることは出來ない次第 一學期の御褒費[やぶちゃん注:ママ。褒美の芥川龍之介の誤字。]として兼て文してあつた蘆花の思ひ出の記がきたので 復習も何もかも休んで之を通讀しました 蓋しこの本は自分にとつては唯一の興奮ざい[やぶちゃん注:「劑」。]で 少なからず「勉强は幸福の基」と云ふ格言をたしかめる事が出來ました

 けれ共 むらむらも〔え〕出た勵[やぶちゃん注:「はげみ」。]の焰は いつ怠惰の水に消される事やら

[やぶちゃん注:「蘆花の思ひ出の記」德冨蘆花(明治元(一八六八)年~昭和二(一九二七)年:彼は「冨」字に拘ったのでここでもその表記を用いた)の自伝的長編小説「思出の記」(おもひでのき:明治三四(一九〇一)年五月民友社刊。初出『国民新聞』明治三三(一九〇〇)年三月から翌年三月連載)。小学館「日本大百科全書」から引くと、『九州の士族、菊池慎太郎は、幼時、家業の破産と父の死に』遇い、『母に家名再興を迫られて』、『発奮』、『やがて出郷』し、『苦難を重ね』て『帝国大学文科を卒業し、愛するお敏(とし)と結婚、在野の評論家として身をたてるまでになる。その間、キリスト教に触れ、自由人的な生き方に目覚める』。作品の終りの『帰省の場面に描かれている新吾の炭鉱経営と松村の農業』の生計の姿は、『蘆花の理想であった。明治前期の時代の上昇気運を明るく描いた浪漫』『主義文学の傑作で』、蘆花はチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)の名作で自伝的小説「デビッド・カパーフィールド」(David Copperfield:初出は雑誌連載で一八四九年から一八五〇年)を手本としつつ、『蘆花自身の思い出の断片を生かして書』いたものとされる。さても私も蘆花の大ファンなのだが、最初に「自然と人生」を読んだのは高校二年の時だった。ただ、蘆花の家庭小説は当時、「不如帰」(明治三十三年民友社刊。初出『国民新聞』一八九八年から翌年連載)で爆発的流行作家となり、多くの若者に読まれた。芥川龍之介の「小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(大正八(一九一九)年一月一日発行の『新潮』初出。リンク先は私のもの)では『德富蘆花の「思ひ出の記」や、「自然と人生」を、高等小學一年の時に讀んだ』とある。本日記三年次であるが、これは記憶の錯誤というよりも、初出の『国民新聞』版を幾つか読んでいたものと混同している可能性もあろう。]

 

 七月二十九日 曇後雷雨

 昨日の日記は筆が走つて何だか解らぬ事を書いてしまつたので 後で氣がついたがもう駄目 後の後悔前にたゝずでした

 晝頃から叔母が(但弟をつれずに)來て 雜多な話をしている中にポツリポツリ豆粒(チト誇大なれど)の雨がをちてくると同時に ガラガラガラと前から恐がつていた雷公が 雷獸の皮ではつたらしい太鼓をたゝきはじめました しかしさのみはげしくはないです

 雨が晴れる 叔母が歸る 號外が出る 父が歸つてくる 蛙がとび出す 日が暮る 蚊音樂を奏す 足が赤くふくらがる 蚊張をつる 寐る 後は有耶無耶の鄕

[やぶちゃん注:「號外が出る」この日の号外とは日露戦争に於ける「旅順攻囲戦」の前哨戦のそれである。日本陸軍第三軍は同年七月二十六日に旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、その主目標を東方の大孤山とした。三日間続いた戦闘で、日本軍二千八百名、ロシア軍千五百名の死傷者を出し、三十日、ロシア軍は大孤山から撤退している。この明治三十七年七月二十九日附の『報知新聞』の『第二號外』の現物写真をオークション・サイトで見つけた。そこには(「●」は現物では中央が小さく丸く白抜きである。画像は小さかったが、拡大して以下のように全文を判読出来た)、

   *

   ●旅順の大海戰

      (敵艦隊の殲滅)

今朝七時旅順の敵艦は數を盡して突出し我東鄕艦隊と激戰を交へたり

敵艦は我艦隊の大打擊を受けて殆んど殲滅され我艦隊にも多少の損害ありたり

[やぶちゃん注:以上は上段。以下は下段で現物ではポイント落ち。]

右は部下の某所に達したる報道なるが我社の門司特派員より午前七時旅順方面に大砲聲ありたりと急報し來れる特電に照合すれば事實海戰ありしものゝ如し尙ほ確報を得て詳報すべし

   *

と読めた。芥川龍之介が見たものがこれとは限らぬが、まず、この事件の号外であろう。但し、前に記した前哨戦は陸軍によるもので、それと平行して海軍が海戦を行ったとする記載は私は見出せなかった。別にこうした海戦があったものか、それとも陸戦の誤認か、或いは、海軍が陸軍の孤山攻略に援護射撃をした結果としてロシア艦隊との間に小競り合いがあった事実か風説かが、よく判らぬ。]

 

 七月三十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日は兼て入會すると云〔は〕れていた宇田君や 坂口君や 村越君や 深町君へ送りとゞける遊泳協會(自分の行つている水練場)の規則書を 前にも云つた 諸君へとゞけました 但深町君は住所がわからぬので宇田君に托してきました 其他 復習 讀書

 夕方 前の諸君(但深町君を除て)と柳橋の内外裝飾株式會社へ水泳帽子を求めに赴き歸途兩國廣小路の燈籠を見物しましたけれども あンまり面白い繪はなく 大體殘〔酷〕な繪や馬鹿馬鹿しい繪ばかりでした

[やぶちゃん注:成人した芥川龍之介が文字通りの「河童」で水泳が得意であったことはよく知られえいるが、この日記は――河童になる芥川龍之介の記録――でもあるのである。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項のコラムによれば、『龍之介の江東小学校時代の頃の大川(隅田川)は、水は汚れておらず、水泳に適し、川端には水泳場が用意されていた。身体の弱かった龍之介は、級友の清水昌彦・吉田春夫らと、ここに通って水泳を習った』とある。また、芥川龍之介が恋慕した一人佐野花子氏(海軍機関学校英語教官であった時の同僚の若妻。芥川龍之介の研究者は一人残らず、彼女が芥川龍之介に愛されたと主張する当該書は妄想の類いとして全く問題にしないが、私は誤認やある種の病的な錯誤部分はあるものの、佐野花子氏のそれは芥川龍之介研究の中でもっと正当に扱われ、復権されるべき書物であると大真面目に思っている人間である)『「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)』のシークエンスが私は忘れられないが(同書は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊で佐野花子・山田芳子(花子の娘)著)、芥川龍之介の「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)にも「水泳」の条がある。

   *

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絕望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

   *

引用に登場する「淸水昌彦」(?~大正一四(一九二五)年)は江東小学校及び東京府立第三中学校時代の芥川龍之介の親友で回覧雑誌仲間の一人。明治三九(一九〇六)年の三中一年次生だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戰争」(回覧雑誌『流星』に書いたもの)の中で、好戦の末、轟沈する『帝國一等裝甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。さらに、芥川龍之介の「本所兩國 附草稿 附やぶちゃん注」(昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二日分が休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」を附して連載されたもの。芥川龍之介は大阪毎日新聞社の社員である)から「大川端」の一部を引用しよう。

   *

僕の水泳を習ひに行つた「日本ゆう泳協會」[やぶちゃん注:「ゆう」のひらがなはママ。]は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代將軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを發見し、滑稽に近い今昔の感を催さない譯には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。

   *

「柳橋」東京都台東区柳橋(グーグル・マップ・データ)。

「兩國廣小路」中央区東日本橋にある両国橋の両袂を指す(グーグル・マップ・データ)。

「燈籠」名越祭りの燈籠祭りか。鎌倉のぼんぼり祭りみたようなものか。]

 

 七月三十一日 大雨大雷後曇

 本日は二十三日の雷のよーに鳴て鳴り通し をちてをちてをちとーしました なんぼ多く落るにしろ 三十五ケ所迄をちるとは 實に驚くより外はありません

 復習も何も休で 水の中ヘポチャポチャ入て遊びました 寐床八時

 

 八月一日 晴

 今日 朝から大島君が來たので 晝迄二人して遊びました 晝過 宇田 坂口 村越の諸君と水泳を試みたが(大島君も一しよに行つたが 御藏橋の邊に釣を見ていられた)水が獨待つている[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のと大島君が待つているので 早くかへりました 四時頃大島君歸宅 寐床九時十分

[やぶちゃん注:「大島」大島敏夫。回覧雑誌仲間の一人。]

 

 八月二日 晴

 早朝 庭前で赤蛙を一匹殺しました 蓋し骨格を作る目的で

 復習 讀書 如例 綠のかげをなす柳の下で禁を破つて 晝寐をしました 晝過 いつもの如く水泳 寐床十時二十分前

[やぶちゃん注:「禁を破つて」こう書くからには、これは単に芥川龍之介自身が自身に課したものであったのであろう。]

 

 八月三日 曇小雨

 いやなまつくろな雲が二つ三つ北の方にあたまを出したと思ふともう空一面にひろがつて まるでうすゞみの樣な色になつたので 樂しい水泳も出來ず 復習と讀書とにふけりました。午前小雨がありました

 

 八月四日 曇小雨

 又今日も曇……雨さへショボショボふつてくるし「チエースト天とうの馬鹿野郞め」抔[やぶちゃん注:「など」。]と氣狂のよーにどなつたりしていました 今日も又讀書復習遊戲 寐床八時二十分

 

 八月五日 晴

 上天氣上天氣 紺丈色[やぶちゃん注:「紺靑色」の誤記。]をした限りない大空は 待ち兼ていた僕等にその顏を見せました 讀書復習例如水泳後ザツと湯をあびて いゝこゝろ持に寐たのは 九時十五分

 

 八月六日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日晝前は例によつて復習讀書洒掃 童すぎ水泳 夕方友人K生(名前は云はぬが江東學校の人ではない)と 明治座の活動寫眞を見物しました 寢床十一時

[やぶちゃん注:「洒掃」は「さいさう(さいそう)」で、「灑掃」とも書き、「洒」も「灑」もともに「水を注ぐ」の意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすることで、「清掃」に同じい。]

 

 八月七日 晴

 今朝昨夜のつかれで八時迄寐すごしました 復習讀書水泳例如 但し復習はまだ少し寐い[やぶちゃん注:「眠(ねむ)い」の誤記。]ので十分に出來ませんでした 寐床八時十分

 

 八月八日 晴

 今朝? いや大分前から冒頭へ今朝ををく[やぶちゃん注:ママ。]が 今朝 朝の内は散步をし かえるとすぐ復習 と云ひたいが これは今日は休みました 讀書水泳例如

[やぶちゃん注:頭の部分は自分の自動作用に批判を述べているのである。流行作家になった後の芥川龍之介も、自身の創作活動の自動作用的傾向には敏感でよく自己批判をしている。「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行『新潮』初出、リンク先は私のサイト版)の一節で龍之介はこう書いている。

   *

 樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。

   *]

 

 八月九日 晴

「水泳くらい愉快なものはあるまいよ 海國男子の本分とする云々」と云う議論をはいて大に水ををそれている[やぶちゃん注:「をそれ」「いる」孰れもママ。]所謂 猫また男をしてへこましたのは今朝の九時ごろでした 讀書復習例の如し

 

 八月十日 晴

 今日はもうずつと前に作り完つた地圖を出して見たところが アジア露西亞の部が氣に喰ぬので 新に作〔つ〕たり何かして晝迄を消しました[やぶちゃん注:「過ごしました」「費(ついや)しました」などの誤記か。] 其他無事

 

 八月十一日 晴

今日はひる前から弟と叔母とが來て晝前はまるで遊んでくらしました 晝過水泳 但今日は弟がいるので早くかへつてきました 弟は夕方「今日はおうちの方に花火があンのよ」と云ふてかへりました その日が芝浦の花火があつたので

 

 八月十二日 晴

 今日水練揚にいつて見ると 昨日迄僕と一つ五級生でいた人が四級生になつて居るので その譯をきいて見ると 昨日自分がかへつた後で試驗があつたとの事 自分少なからず否非常に怒り且非常に口悔しがりました 復習讀例如

 

 八月十三日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 水練の事で持ちきりますが 今日自分と靑田君とは四級生の試驗をうけて まづまづ及第しました

 うれしまぎれに直[やぶちゃん注:「すぐ」。]吉田君と協會をとび出して 柳橋へ級章を買に行きました

 

 八月十四日 晴

 晝前は復習讀書

 晝過は水泳

 最も今日は遠泳會を催す筈のが延期して やつぱりいつもの通り水泳があるのです

 

 八月十五日 晴

 復習は今日休で 遊戲と讀書とで晝迄を費し 晝すぎは例の通り水泳ですが 三級生や二級生にもぐらされて二三杯氷の變躰をのまされました

[やぶちゃん注:「氷の變躰」水の洒落。]

 

 八月十六日 晴

 復習水泳讀書等 例〔の〕如し 夕方宇田君と帽子をかひに行きました それから杉江君も訪て

 

 八月十七日 晴

 一寸云てをきますが 日記が七月の三十一日以來短くなつたのは あまり前に長たらしく書たので紙數に缺乏をつげそうなのです

 今朝自分の幼稚園時代の折物や何かをとりだして見ましたが 自分がこんなものを書いたり拵へたりしたかと思と何となく床しいよーな感が起て……その中に目の前へ幼稚園時代の人々の姿が夢のよーにあらはれて「御久しぶり」抔と昔の通な[やぶちゃん注:「とほりな」。]あどけない聲で話かける あゝ昔にかへつたかと顏をあげると矢張自分の部屋 なんにもいない 晝時の號砲にこのくだらない夢想をやぶられました

 水泳讀書共平日の通り 寐床八時十五分

[やぶちゃん注:当初より感じているが、この日誌は学校から提出を命ぜられているのではないかと私は推測している。ここの弁解染みた敬体で書かれたそれも、そうした提出物として教師に読まれることを強く意識しているのとしか思われない。

「缺乏をつげそうなのです」「そう」はママ。「つげそう」(正しくは「つげさう」)は「とげそう(同前「とげさう」)の誤記か、葛巻氏の誤判読ではなかろうか。

「幼稚園時代」実は江東小学校の濫觴は、「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項によれば、明治五(一八七二)年に、少年期の芥川龍之介のフィールドであった回向院(グーグル・マップ・データ)の民家を借りて戸枝一(「とえだはじめ」か)が幼育社という寺子屋を起こしたのに始まるそうで、明治八年十月に回向院に隣接した場所に学舎が建ち、小学校となった初めから幼稚園が附属していた。芥川龍之介もその江東尋常小学校附属幼稚園に明治三十(一八九七)年四月五歳の時に入園し、一年間通っている。先に引いた芥川龍之介の「追憶」にも、

   *

       幼稚園

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

 「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

   *

とある。或いは……十二歳の芥川龍之介も……まさにその女の子の姿や声を……この時……思い出していたのではなかったろうか…………

「折物」不詳。折(をり)の物の脱字か。]

 

 八月十八日 晴

 起床五時十分前

 起き早々昨夜種板を入れてをいたカメラを小脇にして目的もなく手當次第二三枚うつしてかへりました

 現像もうまくいつてまあまあ ボンヤリ?出來ました 復習讀例如 但水泳も

[やぶちゃん注:「ボンヤリ?出來ました」はママ。「?」の後には字空けはない。

「種板」「たねいた」。写真の感光板。

「カメラ」ピンホール・カメラであろう。]

 

 八月十九日 晴

 今日は別段之と云て記すべき事もないので只明日の花火に使ふと云ふ摸造[やぶちゃん注:「もざう」。「模造」に同じい。]軍艦レトウイザンを見ました 復習讀書水泳例如

[やぶちゃん注:「軍艦レトウイザン」レトヴィザン(Ретвизан:原音音写は「リトヴィザーン」に近い/ラテン文字転写:Retvizan)はこの当時はロシア帝国海軍の戦艦。日露戦争に参加したロシア戦艦中で唯一のアメリカ製の軍艦であった。日露戦争の「旅順攻囲戦」でこの年の十二月六日に旅順港内で日本陸軍(第三軍。司令官乃木希典大将)麾下の二十八センチメートル榴弾砲の曲射砲撃により大破して沈没したが、戦後、引揚げられて修理され、日本海軍の戦艦「肥前」となった。ウィキの「レトウイザン(戦艦)」を見られたいが、勿論、ここはそれを模した、嘗ての両国川開き花火大会用のミニチュアの模造品である。次の日記でそれがどんな目に遇わされたかがよく判るが、まさか、芥川龍之介に限らず、同戦艦が文字通り、四ヶ月に日本軍によってこの模造品同様に沈没させられたばかりか、後に日本の戦艦になって蘇るとは、これ、思っていた者は誰もおるまいよ。

 

 八月二十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日の復習は解〔け〕なかつた「潅槪[やぶちゃん注:「灌漑」の誤字。]」の講義も出來て(これはこの講義が解ぬ[やぶちゃん注:「とけぬ」。]ので五六日前先生の所へうかゞいに上〔つ〕たのでそれが今日又あつたからです)まづ樂になつたので 讀書 晝過水泳 夕方から花火見物をしました しかし折角の軍艦燒打は見ませんでした

[やぶちゃん注:前半の部分は「灌漑」という文字と、その意味する行為がどのようなものであるかを理解し、自分で文章にすることであろう。今時、中学一年生には意味は分かっても、「灌漑」の漢字自体が殆んどの者が書けず、読める者も半分もいないであろう。]

 

 八月二十一日 晴

 復習讀書例如 今日水練場で三級生の試驗をしましたがその結果は十中の九箇九分の八は落第です 寐床九時二十分

[やぶちゃん注:「十中の九箇九分の八」九十九・八%の謂いか。]

 

 八月二十二日 晴

 復習は休んで讀書と遊戲とで一日を完りました 水泳にも行〔つ〕て それから書き落しましたが、一昨日夜になつてから弟が來たので それで復習を休〔ん〕だので言譯のよーですが一寸と云〔つ〕てをきます 今日夕方弟と叔母とは芝へかへりました 寐床十時二十分前

 

 八月二十三日 晴

 今年は昨年のよーに房州にも行〔け〕なければどこへも行〔け〕ないと云ふのは 親類に重病人が出來て食物萬端皆灌腸して腹中にをさめるので 完にはそれさへきかなくなつて仕まつたので親類の事ではあるしするからそれを見合せたのだそうです

 今年は河に飽きた躰を漫々たる夏の大海原にさらし 町に倦〔ん〕だ躰を鬱蒼たる樹林に橫へて仙人然たる境がい[やぶちゃん注:「境涯」。]にせめて休暇の半分もをくる[やぶちゃん注:ママ。]つもりであつたのが悉く破れて矢張東京の塵くさい空氣を呼吸する事になりました 讀書復習水泳いづれも例の如し

[やぶちゃん注:「昨年のよーに房州にも行〔け〕なければ」この前年の明治三六(一九〇三)年の夏には、千葉勝浦の鈴木太郎左衛門(芥川龍之介の実父新原敏三の経営する牛乳業「耕牧舎」の霊岸島支店にいた南雲多吉の親戚)に、新原・芥川両家の人々と一緒に訪れている。参照した新全集の宮坂年譜には『鈴木方には、この年から大正初年まで、ほとおんど毎年出かけた』とある。

「親類に重病人が出來て」不詳。義母である道章の妻儔(とも)の縁者であろうか。]

 

 八月二十四日 晴

 今日は復習を休〔ん〕で讀書と遊戲と水泳で日をくらしました 但今日水泳場で水泳帽子を失したので 今日四級になつた湊君とそれを藏前へ買ひに行きました

 

 八月廿五日 晴

 讀書復習水泳例如 水泳から歸〔つ〕てきて自分の部屋の市區改制を行〔つ〕て 本箱机等を整理しました

[やぶちゃん注:「市區改制」ウィキの「市区改正」より引く。都市近代化政策としてのそれは、明治二一(一八八八)年に『内務省によって東京市区改正条例』『が公布され、東京市区改正委員会(元府知事の芳川顕正が委員長)が設置された。建築物の規制などは当初検討されたものの』、『結局』、『行われなかった』。翌一八八九年には『委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった』ものの、『財政難のため』、『事業は遅々として進まなかった』。しかし急激な『都市化の進展から事業の早期化が必要』となり、本日記の前年である明治三六(一九〇三)年に『計画を大幅に縮小(新設計)し』、『日露戦争後の』明治三九(一九〇六)年には『東京市に臨時市区改正局を設置、外債を募集して、日本橋大通りなどの整備を急速に進め』、大正三(一九一四)年に『ほぼ新設計』通りの『事業が完成した』。『主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた。神田・日本橋・京橋付近では道路拡幅に伴い、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられるようになり、人目をひいた。これらの建物は当時の建築家から「洋風に似て非なる建築」と評された』(太字は私が附した)とある。則ち、「市區改制」はまさにアップ・トウ・ディトな(或いは遅々として進まぬお役所仕事の皮肉もたっぷりと含んで)流行語であったのである。]

 

 八月二十六日 半晴半曇

 行く筈で無かつた海岸行が急に一日の淸興をむさぼる事にして大森行と定りました 處が此日は暑いどころか寒い(誇大ですが)ので單衣[やぶちゃん注:「ひとへ」。]の二三枚も重着[やぶちゃん注:「かさねぎ」。]をしてガタガタふるへていました 歸途アイルランド御伽噺の二人半助を求〔め〕てこれを見ながら夢の國に赴たのは午後八時四十分

[やぶちゃん注:……「大森」の「海岸」……「御伽噺」を帰りに買って貰う……おお!――あれだ! 芥川龍之介の「少年」だ!(大正一三(一九二四)年四月発行の雑誌『中央公論』に「三 死」までが、また同雑誌五月発行分に「少年續編」の題で「四 海」以下が掲載されたのを初出とする。リンク先は私の古いサイト版)……さてもその「四 海」を読まれたい。

「アイルランド御伽噺の二人半助」この日記よりも後の刊行だが、巌谷小波編「世界お伽噺」第六十編に「二人半助」という作品がある(こちらの書誌データに拠った)。時制の矛盾はあるが、単発の冊子でそれ以前に発売されたものとみて全く違和感はない。僕の少年期まではそんな薄手の御伽話の袖珍本があったものだ。但し、話の中身が判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。何てったって、アイルランドだよ!?! 芥川龍之介が最初に読んだアイルランドだよ! アイルランドは後の龍之介とは、これ、深い深い、縁があるんだ!!!

 

 八月二十七日 半晴半曇[やぶちゃん注:土曜日。]

 讀書復習共例如

 水泳はちと寒そうなので中止にしました 晝すぎ淸水君が訪れられて此間の試驗に君は及第したと云〔は〕れる あやしみながら水練場できくと 眞だと云ふので 淸水君と三級生の帽子を買に行きました 淸水君に本を貸して左樣ならとさけんで家にかへりました 寐床八時五分

 

 八月二十八日 半晴半曇

 今日は水練場に競技會がある日であるが 坂口君や村越君も行かないよーだから出席を見合せました 晝すぎ淸水君が本を返しに來られました すると間もなく淸水君の處の女中が來て淸水君は居ぬかと聞れる 「もうさつき御歸りです」と答へて歸しました さては淸水君は家にかへらぬで途中にどこかで遊んでいるなと思ひました 讀書復習例如

 

 八月廿九日 曇微少雨

 朝ばらばら降てきた雨もやがてやんでしまつて晴の樣な曇のよーな妙手古林[やぶちゃん注:「みやうてこりん」。「へんちくりん」に同じい。]な御天氣になりました 復習は休みました 晝過水泳 さぶいので二囘でかへつて來ました またまた本箱の整理で日を完りました

 

 八月三十日[やぶちゃん注:火曜日。]

 朝から怪しかつた空は晝迄こらへきれずふり出しました 復習讀書 其他無事

 今日荒井先生からいひつかつた粘土細工の「なす」が出來ました 但駄作です

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、この日、彼は新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組し、龍之介は芥川家の養嗣子となり、晴れて「新原龍之介」は「芥川龍之介」となったのである。それは彼自身理解していた。それを全く日録に書かなかった彼の想いを考えると、私は涙を禁じ得ない。茄子のフィギアをもくもくと作る新生芥川龍之介を想うべし!

 

 八月三十一日

 朝の中は粘土細工の賽[やぶちゃん注:「さい」。骰子(さいころ)。]を作りました 復習讀書例如

 晝すぎ梅田君から借りていた本を返し それから坂口君を訪れました そこへ村越君が來たので 少し寒いかしれないが行つてみよーと水練場へ行〔く〕と今日は休業と大きくかいてありました それから淸水君の家で遊んで三人うちつれて家にかへりました

 但 坂口村越の兩君は家へよつて遊んでゆきました 夕方出校準備をしました 暑中休暇の日記は以上で完ります

 私はこの暑中休暇に於て地圖や圖畫や作文に此迄の休暇にうけない苦〔しみ〕をしましたが 又天造の寶庫 見渡す限り水天一髮の大海や綠の毛氈をしきつめしが如き草原や或は爆布となり或は溪水となる水についてや 種々雜多の事柄を記憶(オボエ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ました これも休暇の賜物と云はなければなりますまい 休暇 その文字を以ても平日の勞を癒すのに違ないですが その中にあつて遊びつゝ目にふれ耳にきく事物について觀察したならば いと趣味ある事でありませう

[やぶちゃん注:「水天一碧」が知られる。これは「水と空とが一続きになって、一様に青々としていること」を言うが、誤字・誤判読とも断じ得ない。何故なら、「一髮」には遠くの山々等の景色が一本の髪の毛のように幽かに見えることの意があり、また、後の作であるが、明治四一(一九〇八)年刊行の押川春浪・阿武激浪庵(怒濤庵少尉)共著「冒險的壯快譚 水天一髮」があるからである。]

芥川龍之介 (明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』の掉尾に載る「〔明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令〕」に拠った。標題は〔 〕で括られているからには正字表現ではあるものの、葛巻氏が附したものと思われる。しかし、適当な標題がないので、これを( )に代えて標題とした。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同じような演習の記事である「芥川龍之介 十月二日発火演習記事」の方の解説によると、「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載った、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号には、「十月二日發火演習記事」の前に『五乙』の『田中』の署名の「十月廿三日發火演習記事」が芥川龍之介の「十月二日發火演習記事」前に載っており、『それによれば』この時の演習では『芥川は中隊長の任に就いている』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜によると、これは「十月二日發火演習記事」に記された同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)の二十一日後の、明治四十二年の同じ月である十月二十三日(土曜日)に参加した際の、この時は中隊長役となった芥川龍之介が発令した軍事演習命令そのものである。

 底本では「際」で改行して二行で表記している。ブログ・ブラウザでの不具合を考え、本文のそれは三行に分かった。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。命令本文は全体が一字下げであるが、行頭に引き上げた。命令本文には読点は一切ない。]

 

   (明治四十二年十月廿三日、

    東京府立第三中學校 發火演習ノ際

    芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令)

 

   命令 【十月二十三日午前十時中矢切村南端に於て】

一、情報によれば敵の一部隊は金光明寺附近に出沒しつあり

二、我北軍部隊は市川停車場を占領する目的を以て、松戶街道を前進中なり

三、我中隊は此左側衞として、金光明寺附近に出沒する敵軍を警戒すべき任務を有す

四、第一小隊は前衞第二 第三小隊は本隊 本隊は第二小隊長之を指揮せよ

五、余は前衞と共に行進す

           中隊長 芥川龍之介

   ○敵に關する注意

  一、敵は帽に日覆を附せず

  二、空砲は三發を使用せよ

  三、漫に耕作地に入るべからず

[やぶちゃん注:「矢切村」千葉県松戸市にある「上矢切(かみやきり)」・「中矢切(なかやきり)」・「下矢切(しもやきり)」の三地区の総称で、嘗つては、それぞれ、上矢切村・中矢切村・下矢切村という独立した村であったが、松戸町との合併により、現在は松戸市の一部となっている。なお、その合併は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行に伴うもので、松戸駅・小山村・上矢切村・中矢切村・下矢切村・栗山村が合併して東葛飾郡松戸町(旧)が発足しているから、本演習の際には最早村ではなかった。三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見るに、本文にある「南端」は下矢切地区であることが判る。因みに、知られた「矢切の渡し」の東方直近に当たる。

「金光明寺」これは恐らく現在の市川市国分にある真言宗国分山国分寺(下総国分寺)である(グーグル・マップ・データ)。松長哲聖氏の優れた寺社案内サイトの同寺の記載に、『国分寺は』、天平一三(七四一)年の『詔勅によると「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、この年には下総国の国分寺として当寺が建立されたと』され、『其の後まで』、「国分山金光明寺」と称し、『薬師堂の別当を勤めていたといい、慶安』二(一六四九)『年には江戸幕府より寺領』十五『石の御朱印を拝領、明治』二二(一八八九)『年に国分山国分寺と改称したと』されるとあるから、この寺を「金光明寺」(こんこうみょうじ)と呼んで何らおかしくない。ロケーションも一致する。

「市川停車場」先の「今昔マップ」を見ても、現在の市川駅と同じ位置にある。

「松戶街道」千葉県道一号市川松戸線の愛称。千葉県市川市市川の国道十四号・千葉県道六十号市川四ツ木線(千葉街道)との交点である「市川広小路」交差点を起点として、松戸市小山の国道六号(水戸街道)、千葉県道五号松戸野田線・千葉県道五十四号松戸草加線(流山街道)との交点である「松戸二中前」交差点を終点とする県道。ここ(グーグル・マップ・データで「下矢切」をポイントし、その東を南北に走る同街道の中央に国道記号が見えるように示した)。]

2019/12/28

芥川龍之介 十月二日発火演習記事 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「十月二日發火演習記事」に拠った。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説や新全集の宮坂覺氏の年譜によって、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名で載ったもので、同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた、同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)に参加した際の報告記事である。文中に出る「中隊長」「砂岡豐次郞」というのは無論、軍人ではなく、生徒である。この後に電子化する同月二十二日の発火演習の芥川龍之介の記録では、龍之介自身が中隊長のとして参加している。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。

 それにしても、同誌には実に、芥川龍之介による「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載るというのは「編輯を完りたる日に」で、『本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした』と言っているのを、やや不快に感じた同誌の読者もいたであろうことは想像に難くはない気がする。少なくとも私ならそう思う。芥川龍之介のそれらが優れた文章群であることは認めるにしても、である。

 

   十月二日發火演習記事

 

○ 南軍靑山を發す。午前七時。十月の光、白秋の空にあふれて、農家の庭にコスモスの紅に咲き亂れたる、蕎麥の花白き畑に農夫の歌の聞ゆる、初秋の思自ら湧くを覺ゆ。軍既に澁谷をすぐれば、稻田の黃なるあなた、落葉せる林の上に國境の山々、紫にそびゆるを見る。

○ 澁谷を去る里餘にして、溫厚沈着の砂岡中隊長、命令を下して曰。

[やぶちゃん注:以下の中隊命令は底本では全体が一字下げで、二行に亙る場合は一字下げとなっているが、行頭まで引き上げ、前後を一行空けた。最後の署名も下三字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

  ○中隊命令 【十月二日午前八時四十分澁谷村西端に於て】

一、情報によれば敵は多摩川二子の渡しを通過しつゝあり。我大隊は敵の渡河を妨害する目的を以て、大山街道を二子方面に派遣せられたり。

一、我中隊は左側衞となり。下馬引澤村方向に出發せむとす。

一、第三小隊前衞、第二第一小隊本隊、本隊は第一小隊長之を指揮せよ。

一、余は前衞と共に行進す。

           中隊長 砂岡豐次郞

[やぶちゃん注:「多摩川二子の渡し」ここ(グーグル・マップ・データ)

「大山街道」大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の内の「青山通り大山道」。ウィキの「大山道」によれば、「矢倉沢往還」の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。その経路は赤坂――青山――渋谷――三軒茶屋――二子の渡しで、この演習ルートと完全に一致する。なお、私は大学のある教授の授業で(誰の何の授業だったかは忘れた)、『今の「青山通り」なんてえのは、昔は本当は「大山通り」だったのだが、格好つけて「青山通り」に代えただけだ』と教わった。しかし、ウィキの「青山通り」には、「大山」由来の記事はなく、『江戸時代には厚木街道と呼ばれていた。五街道に次ぐ主要な街道の一つであった』とある。しかし、厚木方面に向かう江戸庶民の大半は「大山詣で」であったはずだから、私は「大山通り」説を今も信じている。

「下馬引澤村」東京都世田谷区下馬。因みに、ここには源頼朝所縁の「葦毛塚」があることで私は知っている。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)』を参照されたい。また、三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見られよ。「下馬引澤」の旧地名が記されてあり、その北に後に出る「砲兵練兵場」、「駒沢練兵塲」が広がり、その西端には「砲兵旅團司令部」が記されてあるのが判る。

「小岳」不詳だが、前の注の「今昔マップ」を見ると、練兵場東外に「宿山」、その南西に「蛇崩」の地名が認められ、この辺りが、丘陵状になっていた可能性を窺わせる。]

 

 令、既に下り、士氣大に振ふ。再落葉をふみて、林の道を辿れば、露草の花夢の如くさき出たる、戎衣の身にもうれしかりき。

[やぶちゃん注:「戎衣」(じゆうい(じゅうい)」は軍服のこと。この場合の「戎」は兵(つわもの)の意。]

○ すゝみて稻田を橫り、小岳の下に出づれば機を見ること石火の如き宮崎小隊長は、直に斥候を渡して敵情を窺はしめぬ。

○ 機は來れり。宮崎小隊先進み、西川中山の二小隊次いで手に唾して戰機を待ち、令一度下らば將に突破、敵陣を碎かむとす。しかも敵の臆病なる、未一彈を交へざるに悉く退却し、宮崎小隊をして、直に下馬引澤村砲兵練兵場の南端に出でしめたり。我軍既に地の利を得たり。宮崎小隊長の得意や知るべきのみ。

○ 然りと雖も、敵軍豈、空しく退かむ哉[やぶちゃん注:「しりぞかむや」。]。我先鋒、曠野の遠緣に出づると共に敵は、忽扇形の散兵線をひらき一擧にして我軍を破らむとする。砂岡中隊長、是に於て、秋水一閃、宮崎小隊をして、直に敵の中堅にむかはしめ、鳴彈始めて原頭の寂寞をやぶれり。

[やぶちゃん注:「秋水一閃」(しうすいいつせん(しゅうすいいっせん))は「秋水」が「切れ味鋭い研ぎ澄まされたような居合いの名刀」で、その眼にも止まらぬ一振りを言う語で、ここは果敢にして素早い判断を指している。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。]

○ 敵亦之に應じて、猛射益急。敵兵の白帽の陰見する、敵將校の長劍の日に輝く、既に我軍の指顧にあり。顧て我軍を望めば、砂岡中隊長、從容として迫らず。中原〔一字不明〕準士官亦莞爾として其傍にあり。將に是サドワ原頭、ビスマークとモルトケとが、相見、相笑つて、墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]の竪軍を擊破せるの槪あるもの。我軍の意氣愈昂る。

[やぶちゃん注:「サドワ」一八六六年六月から八月にかけて起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との普墺(ふおう)戦争に於いて、七月三日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村(Sadová /ドイツ語:Sadowa:現在はチェコ)の中間地点で発生した「ケーニヒグレーツの戦い」(ドイツ語:Schlacht bei Königgrätz)が行われた場所。分進合撃(分散した部隊が集中するように機動・攻撃する軍略)に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲して決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。「サドワの戦い」とも呼ぶ。詳しくはウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」を参照されたい。

「ビスマーク」言わずと知れたプロイセン王国及びドイツ帝国の「鉄血宰相」(Eiserne Kanzler)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。

「モルトケ」プロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。「芥川龍之介 一学期柔道納会」に既出既注ウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」によれば、『部隊の前進により、プロイセン首脳(ヴィルヘルム』Ⅰ『世、ビスマルク、大モルトケ等)は』六月二十九日に『ベルリンを発して、ギッチン経由で戦場に接近し』、七月三日朝、『プロイセン王太子の率いる第二軍は未着であったが、地勢に有利なクルム高地のオーストリア軍』二十四『万に対し、第一軍とエルベ軍の約』十四『万のプロイセン軍が攻撃を開始し』て会戦、『前夜の雨は上がっていたが』、『泥濘の中で、優勢なオーストリア軍の抵抗にあい』、『プロイセン軍は進むことが出来なかった。特にオーストリア軍左翼に配置されたザクセン王国軍は高所の布陣により』、『プロイセン軍右翼のエルベ軍を苦戦させた』。『午前』九『時から午後』一『時まで』四『時間が経過したが』、『戦局を打開するはずのフリードリヒ』Ⅲ『世王太子の率いるプロイセン軍第二軍は現れず、本営では度重なる救援要請の伝令に観戦していたビスマルクが焦り出したが、葉巻のケースを差し出されたモルトケが、良い葉巻を選り好みしている様を見て「作戦を立てた人間がこれだけ落ち着いておれば大丈夫だ」と安心したという。このとき、ヴィルヘルム』Ⅰ『世も自ら総攻撃を命じようとしたが、モルトケに諫められたという』。『午前中からの戦闘はオーストリア軍が優勢であったが、午後になって約』十二『万人のプロイセン第二軍が戦場に到着し、作戦通りの三方からの包囲攻撃が成立』するや、形勢が『一転し、第二軍が攻撃したオーストリア軍右翼が崩れはじめると、中軍も動揺して退却が始まった。オーストリア軍司令官のベネディクは総予備を投入して一時クルム高地を奪回したが』、『大勢は覆せず、再度陣地を放棄して退却することとなった。プロイセン軍では奪取した高地に砲兵を挙げて退却するオーストリア軍を砲撃するだけでなく、騎兵と歩兵による追撃を続けた。オーストリア軍はエルベ川へ追い落とされて全滅する危機にあったが、砲兵』二百『門と騎兵師団』一『万が殿軍』(でんぐん:しんがり)『となって抵抗し、犠牲になることで退却を助けた』。『こうして戦闘は一方的な結果となり、プロイセン軍の死傷者は』九『千人に留まったのに対し、オーストリア軍の死傷者約』二万四千人、捕虜二万人、大砲の損失百八十七『門を数えた。モルトケはヴィルヘルム』Ⅰ『世に向かって「陛下は本日の戦闘に勝たれたのみならず、今回の戦争にも勝たれました」と言ったという』とある。芥川龍之介の謂いは、まさにその葉巻のシークエンスであろう。

槪[やぶちゃん注:「ガイ」。「おもむき」でもよいが、やはりここは音読みだろう。]

○ 戰酣[やぶちゃん注:「せん、たけなは」。]にして、西川中山兩小隊第一線に加はり、彈を飛ばす雨の如し。敵亦必死 銃火を我に加へ、銃聲地を搖りて拒守益嚴。時に令あり。「交互に着け劍」。

[やぶちゃん注:「敵亦必死 銃火を我に加へ」の字空けはママ。読点なし。]

○ 機既に熟す。然りテルモビレーを陷るべきの機は既に熟す。南軍の勝敗此一擧にあり。忽ち見る、白煙濠々として霧の如くなる中より、砂岡中隊長の長劍、白虹[やぶちゃん注:「びやくこう」と読みたい。]を吐いて、突擊に前への號令下ると共に、健兒一百 蹶然として奔流の如く突進するを。

[やぶちゃん注:「兒一百 蹶然として」の字空けはママ。読点なし。

「テルモビレー」紀元前四八〇年、ペルシャの三百万の大軍に対し、スパルタがレオニダス王以下、僅か四千の兵で戦い、激戦の末にスパルタが全滅した「テルモビレーの戦い」(「ピ」であることに注意)の戦地。世界戦史に於ける代表的玉砕戦として知られる。音写は「テルモピュライの戦い」とも。編集時の誤り、芥川龍之介或いは葛巻氏の判読の誤りともとれる。ウィキの「テルモピュライの戦い」によれば、『テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で』十五『メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも』、『終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった』。『スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ』二・五『メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった』。『翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって』、『山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢』一千兵『は、ペルシア軍に遭遇すると』、『これに対峙すべく』、『山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた』『(一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の』三百人・テーバイ四百人、テスピアイ兵七百人の合計千四百人(又はスパルタの軽装歩兵一千人を加えて二千四百人)は、『共にテルモピュライに残った』。『朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーラン・ラベ(来たりて取れ)」であった』。『決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前』十『時頃に全軍の進撃を指示』して、『レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た』。『凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること』、四『回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた』。『彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は』二『万人にのぼったとされる』。『この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした』とある。場所はここ(同ウィキのの地図)。]

○ 步一步。躍一躍。銃劍霜の如く閃いて、遇進する、江河の堤を決するが如し、凛乎[やぶちゃん注:「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。りりしいさま。凜然。]として聲あり。「乘込め。」喊聲大に起る。再考あり。「乘込め。」喊聲更に起る。三度聲あり。「突込め。」健兒大呼して劍戟をかざす、敵を去る僅に三十米。創尖相觸れむとして忽に休戰の令下る。

○ 休戰の令既に下る。南北兩軍の豼貅、野に滿ちてしかも野靜なる[やぶちゃん注:「の、しづかなる。]事人無きが如し。時正に十一時四十分。次いで渡邊小川兩先生の講評あり。演習是に終る。

[やぶちゃん注:「貔貅」「ひきう(ひきゅう)」はは伝説上の猛獣の名。一説に「貔」が♂、「貅」が♀ともされる。転じて「勇ましい兵卒」の譬え。]

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