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カテゴリー「芥川龍之介」の644件の記事

2018/09/11

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 讀孟子 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない。それを信ずるとすれば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間に書かれたものとなる。ただ、内容的な深い洞察や表現から見ても中学以前のものとは私にも到底思われない。以下、私の葛巻氏の編集に対する疑問や推測は、前回の「斷章」の冒頭注に述べたので、繰り返さない。

 各段落末に、私自身にとって本篇が完全に読解し得るようにすることを主目標として、不審を残さぬようにオリジナルに語注を附したつもりである(無論、私は二十一の時にこれだけの文章は書けなかったし、今でも無理である。芥川龍之介、恐るべし)。附していない箇所でお判りにならないものは、ご自身でお調べあれかし。注の後は一行空けた。

 

     讀孟子

 

 事新しく云ふ迄もなく、孟子の哲學は内容に於て完く孔子の哲學也。彼は此點に於て新しき哲學の創唱者に非ずして、單に其祖述者たるに止まりき。然れども、彼が孔子の衣鉢を傳ふるや、彼は殆ど古今に其匹儔を見ざる忠實と熱誠とを以てしたり。彼が孔子の哲學によりて其立脚地を樹立したるが如く、孔子も亦彼を俟ちて、始めて其哲學に牢乎たる根柢と組織とを與へたりと云ふも、恐らくは過褒にあらざるべし。加ふるに彼の犀利なる文章と辯才とは、能く彼をして彼の使命を完ふするを得しめたり。彼の文節は極めて明快にして、其縱論橫議竹を破る、刃を迎へて節々皆解くるが如きの妙に至つては、昌黎の雄鷙眉山の俊爽を以てするも、到底其堂奧を窺ふに足らず、二分の圭角と八分の溫情とを湛たる彼をして毫裡に躍如たらしむる、殆ど憾なきに庶幾し[やぶちゃん注:読点はママ。]。しかも彼の舌鋒は又、其文字の雄なるが如く雄勁にして、虛より實を出し、實より虛を奪ひ、比喩を用ひ、諧謔を弄び、彼と議論を上下するものをして、辭盡き言屈し、又如何とも爲す可らざるに至らしめずんば止まず。其齊の宣王に見えて牢牛を談ぜしが如き、戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したるが如き、彼の踔厲風發、説いて膚寸をも止めざる好箇の例證たらずんばある可らず。

[やぶちゃん注:・「匹儔」(ひつちう(ひっちゅう))は「匹敵すること・同じレベルの存在と見做される相手」の意。

・「牢乎」(らうこ(ろうこ))は「しっかりしているさま・揺るぎないさま」の意。

・「犀利」(さいり)。「犀」は「堅く鋭い」の意で、ここは「才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま」の意。

・「刃を迎へて節々皆解くる」底本では「刃」は「刅」の右端の一画を除去した字体。「やいば」。「切れ味鋭い英知の刃を迎えて、蟠った節々が瞬く間に、皆、鮮やかに剖(き)り解かれる」の意。

・「昌黎の雄鷙」中唐の佶屈聱牙、唐宋八大家の一人であった韓愈のこと。彼は昌黎生まれを称し、人々から韓昌黎(昌黎先生)と呼称された。「雄鷙」は「ゆうし」と読み、「雄々しい猛禽」から「偉大な英雄」のことを言う。

・「眉山の俊爽」眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の出身であった、北宋の英才で唐宋八大家の一人である蘇東坡のこと。「俊爽」(しゆんさう(しゅんそう)」は人品・風物などが優れていること。

・「圭角」「圭」は「玉」に同じい。通常は「人の性格や言動に角があって円満でないこと」を差し、ここも表面上はその意であるが、そこに、原義の稀な輝きを持った「宝玉の尖ったところ・玉の角」、則ち、真の鋭才故の角立った部分を匂わせる。

・「毫裡」(がうり(ごうり))はごく僅かな時間内。瞬時。

・「憾なきに庶幾し」「憾」は音「カン」で読みたい。「非常な心残りとなる残念な思い」が全くなく、「庶幾」(しよき(しょき))はこの場合、「目標に非常に近づくこと」の意。

・「雄勁」(ゆうけい)は力強いこと。元来、この語は書画・詩文などに、力がみなぎっていること。

・「齊の宣王に見えて牢牛を談ぜし」「牢牛」は「ろうぎゆう(ろうぎゅう)」で「牢」は「生贄(いけにえ)」の意。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「七」の話。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」内のこちらで原文と書き下し文(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)が、小田光男氏のサイト内の「我読孟子」のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したる」所謂、知られた「五十歩百歩」の話である。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「三」。同じく柏木恒彦氏のサイト内のこちらの「梁惠王曰寡人之於国章」で原文と書き下し文現代語の通釈が、小田光男氏のサイト内のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「踔厲風發」(たくれいふうはつ)は「才気に優れ、弁舌が鋭いこと」。韓愈の柳宗元の墓誌に記した「柳子厚墓誌銘」が原拠。原文はこれ(中文ウィキ)。訓読(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)と訳は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘(四ノ一)」が良い(後者では「踔」が表記不能漢字となっている)。

・「膚寸をも止めざる」説いた舌鋒が、寸止めでなく、膚でぴたっと止まるの意か。]

 

 啻に之に止らず、業を子思の門人に受けたる彼は、魯中の叟が大經大法の宗を傳ふると共に、又能く天下の儒冠をして推服せしむるに足るの學殖を有したりき。殊に、其詩書に出入するの深き、吾人をして、上は堯舜を追逐して參りて翔して下は禹湯に肩隨して、濁世を救濟するの誠に偶然ならざるを感ぜしめずんばあらず。既に言を以て、異端を叱呼するに足り、學は以て、一世を壓倒するに足る。是に於て、四方の俊才が翕然として其門下に參集したる、亦怪むに足らず。しかも其一生の經歷が彼の先導者たる孔子のそれに酷似したるが如く、彼も亦、孔子が顏囘の賢、曾參の智を打出したると殆ど同じき成功を以て、樂正子の如き、公孫丑の如き、幾多の人材を陶鑄したり。

[やぶちゃん注:・「啻に」「ただに」。限定の副詞。

・「業を子思の門人に受けたる彼」孟子は、孔子の孫であった子思(しし)の、その門人の下で学んだとされる。

・「魯中の叟」魯国の老人で孔子を指す。

・「大經法」「たいけいたいはふ(たいけいたいほう)」。「大經」は「大きな筋道・不変の条理・大道」の、「大法」は「大きな定理・重要な規律」。

・「宗」は「そう」と読んでおく。根本義。原理。

・「儒冠」儒学者。

・「推服せしむる」ある人を敬って心から従わせる。心服させる。

・「吾人をして」「我々をして」。以下の「感ぜしめずんばあらず」が受ける。

・「堯舜を追逐して參りて翔して」「翔」(こうしよう(こうしょう))は「天高く飛び上がること・空を自由に飛ぶこと」。伝説の聖王である堯や舜の正道を忠実に追い、或いはそれをも超越せんとするかのように、理想の高みに自在に飛翔して。

・「禹湯に肩隨して」古代の賢明なる名君たる、夏の禹王や殷の湯王に比肩追随して。

・「濁世」私は個人的には「ぢよくせ(じょくせ)」と仏教語読みしたい。政治や道徳の乱れきった濁り汚れた世の中。「だくせ」という仏教語でない純粋に上記の意味である読みもあるが、私は読みとして好まないからである。

・「叱呼」(しつこ(しっこ))は通常は「大声で呼ぶこと」であるが、ここは正面から名指しして徹底批判すること。

・「翕然」(きふぜん(きゅうぜん))は「多くのものが一つに集まり合うさま」。

・「顏囘の賢」孔門十哲の一人で秀才随一とされた。孔子が最も嘱望した弟子であったが、孔子に先だって亡くなった。

・「曾參の智」曾子(そうし)。先に出た孔子の孫子思は曾子に師事し、子思の教えが孟子に伝わったことから、孟子を重んじる「朱子学」が正統とされるようになると、先の顔回と、この曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。

・「樂正子」(がくせいし)は春秋時代の曽子の弟子であった楽正子春(しゅん)。

・「公孫丑」(こうそんちゆう(こうそんちゅう))は孟子の弟子。「孟子」全十四巻中の二冊「公孫丑章句」の上・下の編纂を担当している。

・「陶鑄」(とうしゆ(とうしゅ))の「陶」は焼成して創る陶器、「鋳」は「金を鋳(い)て器を作ること」で、「陶冶」に同じい。]

 

 彼が卅歳の一白面書生として、鄒の野に先王の道を疾呼してより、七十三歳の頽齡を以て、志を天下に失ひ、老脚蹉跎として故山に歸臥するに至るまで、彼の五十年の一生は、一面に於て不遇と薄命との歷史なれ共、他面に於ては、又教育家として、殆剩す所なき成功の一生涯なりき。

[やぶちゃん注:・「卅歳の一白面書生」「卅歳」で「白面」(はくめん:年が若くて経験の浅いこと。青二才)というのは少々感覚的には皮肉っぽくも感じられるが、芥川龍之介はここで「彼の五十年の一生」と言っているが、孟子は現在、辞書類では紀元前三七二年頃の生まれで、紀元前二八九年頃の没とされており、それに従うなら、八十三歳前後の生涯であったことを考えれば、かの戦国時代にあって、まず「白面」は腑に落ちるとも言える。因みに「卅歳」を前の生年推定に機械的に当てると、紀元前三四二年頃となる。小学館の「日本大百科全書」によれば、その後、孔子の生国である魯に遊学し、そこで孔子の孫の子思の門人に学んだ後、弟子たちを引き連れて「後車数十乗、従者数百人」という大部隊を組んで、梁(魏)の恵王・斉(せい)の宣王・生国である鄒の穆(ぼく)公・滕(とう)の文公などのもとに遊説して回ったが、孰れも不首尾となり、晩年は郷里で後進の指導に当たったとある。

・「鄒」(すう)。孟子は鄒、現在の山東省西南部の済寧市の県旧市である鄒城(すうじょう)市の生まれである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「先王の道」儒家の政治思想に於いては、天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し、それを「先王」と称し、その政道を「王道」と呼んだ。「徳」を政治の原理とする思想は既に「書経」や「論語」などに見られるが、「王道」を覇者が武力や権謀術策によって天下を支配する「覇道」と対比させて明確にしたのは孟子であって、「徳を以つて仁を行ふ者は王たらん」、則ち、「仁義の徳が善政となって流露するのが王道である」と説いた(平凡社「世界大百科事典」に拠った )。

・「疾呼」(しつこ(しっこ))慌ただしく主張し喧伝すること。

・「七十三歳の頽齡」「頽齡」(たいれい)は心身の能力が衰えてしまうほどの高齢・老齢の意。先の「卅歳」やこの「七十三歳」(同前の機械計算では紀元前二九九年となる)という限定年齢は、芥川龍之介が拠った何らかの出典があるものと思われるが、不詳である。しかし、に示した孟子の遊説先の内、在位開始が最も後なのは、斉の宣王で紀元前三一九年から(退位は没した三〇一年)であるから、時制的には違和感はない

・「蹉跎」(さだ)「蹉」「跎」ともに「躓(つまず)く」の意で、「つまずくこと・ぐずぐずして空しく時を失うこと」或いは「落魄(おちぶ)れること・不遇なこと」の意もある。但し、ここで芥川龍之介は「教育家として」「成功の一生涯」と言っているのであるから、単に「老いて足が不自由になること」の意である。

・「殆剩す所なき」「ほとんどあますところなき」。]

 

 然れども、彼の偉大なるは其能く數多の小丘、小孟珂を打出したる教育家としての驚くべき成功の故にあらず、寬厚宏博、天地の間に充つるが如き文章の玄に悟入したるが故にもあらず、抑も又秋霜の辯と河海の學とを抱き、以て一代の學徒として能く仰望敬畏せしめたるが故にもあらず、山夷ぐべく谷煙むべく、而して孟何の名、獨り萬古にして長く存する所以の者は、其孔門の哲學をして、醇乎として醇なる眞面目を具へしめしが故にあり。

[やぶちゃん注:・「其」「それ」。

・「小丘」小さな孔丘(こうきゅう)。「丘」は孔子の諱(いみな:本名)。

・「小孟珂」小さな孟子。軻(か)は孟子の諱。

・「寬厚宏博」心が広くて態度が温厚な上に、広汎なる知識の持ち主であること。

・「文章の玄」微妙で奥深く、深遠な赴きを持った文章。

・「悟入」実体験によって物事をよく理解すること。

・「抑も又」「そもまた」。さても、また。

・「秋霜の辯」弁論が、非常に厳しく厳(おごそ)かであること。

・「河海の學」「史記」の「李斯(りし)伝」に基づく「河海は細流を択(えら)ばず」を意識した。「度量が広く、よく人を容れるところの、大人物の持つ真の学識」の意であろう。

・「仰望敬畏」(ぎやうばうけいい(ぎょうぼうけいい))は敬い慕われ、褒め讃えられること。至上の尊敬と真の敬意を払われること。

・「山夷ぐべく谷煙むべく」思うに、「煙」は「堙」(「埋」の同義有り)の芥川龍之介の誤字、或いは、葛巻義敏の誤判読と思う。「堙」ならば「やま、たひらぐべく、たに、うづむべく」と読めるし、それでこそ意味も腑に落ちるからである。

・「萬古にして」永遠なるものとして。

・「醇乎」心情・行動が雑じり気がなく純粋なさま。後の「醇なる」はその畳語表現。

・「眞面目」「しんめんぼく」と読んでおく。本来の姿。]

 

 其仁義の説の如き、性善の説の如き、五倫の説の如き、四端擴充の説の如き、放心を求むるの説の如き、就中浩然の氣を養ふ説の如き、人をして切に孔子死して九十餘年古聖の肉未冷ならざるを感ぜしめずんばあらず。しかも彼の擴世の奇才を抱きて之を事に施す能はず、楊柳條々として梅花雪の如くなる故山の春光に反きて、幾多門下の高足と共に、短褐蕭々として四方に歷遊するや、王威地に墮ちて、六霸幷び起り、中原の元々皆堵に安んぜず、道廢し、德衰へ、天下貿々然として之く所を知らざりしのみならず、墨子學派の博愛主義の如き、楊子學派の快樂主義の如き、神農學派の農業社會主義の如き、老莊派の極端なる個人主義の如き、無數の思潮は無數の中心をつくりて、隨所に其波動を及ぼし、一度孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎、堯舜三代の大道、一朝にして亡び、先生の遺法、倐忽として瓦の如く碎くる、將に目睫に迫れるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:・「仁義の説」ウィキの「孟子」より引く。『孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう』。

・「性善の説」ウィキの「孟子」より引く。『人間は生まれながらにして善であるという思想』。『当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため』、周の『文王や武王のような明君が現れると』、『民は善を好むようになり』、同じ周でも、『幽王や厲王のような暗君が現れると』、『民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば』、『不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は』、「人の性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と『述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も』、『その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら』、『人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだ』、『とした。そのため』、『孟子は、』「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失はざる者なり」(離婁章句下)、「學問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)『とも述べている』(龍之介が後に言う「放心を求むるの説」はこれ)。『その後、荀子』『は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって』、『多くの儒者に受け継がれた』。

・「五倫の説」ウィキの「五倫」から引く。「書経」の「舜典」には、『すでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている』が、孟子は、『秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した』。①父子の親(『父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない』)・②君臣の義(『君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない』)・③夫婦の別(『夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる』)・④長幼の序(『年少者は年長者を敬い、したがわなければならない』)・⑤朋友の信(『友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない』)がそれで、『孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした』。

・「四端擴充の説」ウィキの「四端説」より引く。性善説を受けて孟子が発展させた『道徳学説。四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の』四『つの感情の総称』。「孟子」「公孫丑章句上」によれば、そこ『に記されている性善説の立場に立って』、『人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている』四『つの心に根拠付けた』。『その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは』、①『「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)』・②『「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)』・③「辞譲」『(譲ってへりくだる心)』・④『「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)』の四つの『道徳感情である』とし、『この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の』四『つの徳に到達すると』説く。『言い換えれば』、『「惻隠」は仁の端』であり、『「羞悪」(「廉恥」)は義の端』、の『「辞譲」は礼の端』の、『「是非」は智の端』である『ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である』。『たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である』。『したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ』(龍之介が後に言う「浩然の氣を養ふ説」はこれ)。『なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来』、『心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった』とある。

・「孔子死して九十餘年」孔子は現在、紀元前五五二年九月二十八日生まれで、紀元前四七九年三月九日に没したとされ、その「没後九十餘年」は紀元前三八三年頃となり、現行の孟子の生年から計算すると、孟子は未だ十四歳頃であるから、先の芥川龍之介の「卅歳」で「鄒の野に先王の道を疾呼し」たというのを上限として受けるとなら、紀元前三四二年頃で、孔子没後百三十七年、「孔子死して百三十餘年」が正確となる。

・「未」「いまだ」。

・「擴世」人倫・人智の在り方を遙かに大きく押し広げるような、の意であろうか。

・「反きて」「そむきて」。

・「高足」(こうそく)は「高弟」に同じい。

・「短褐」(たんかつ)は麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の賤しい者が着る衣服。「短褐穿結(せんけつ)」(「穿結」は「破れていたり、そこを結び合わせてあったりすること」で貧者の粗末な姿の形容である)。

・「蕭々として」もの寂しい感じで。

・「六霸」芥川龍之介が「戦国の七雄」と「春秋六覇」(こちらは「五覇」の方が一般的であるが、「六覇」とも称する)とを混同したものか。前者は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国である。

・「元々」「げんげん」で、これで「人民」の意。

・「堵に安んぜず」「とにやすんぜず」。民草が安穏に暮らすことが出来ず。「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」に基づく「堵に安んずる」(「堵」は「人家の垣根・その内」の意で、「民が住まいに安心して住める、安心して暮らす」の意)。

・「貿々然」ぼんやりとしてはっきりしない様子。「貿」には「視界が悪い」の意がある。

・「之く」「ゆく」。

・「楊子」戦国時代前期の思想家楊朱(ようしゅ)。老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。前期道家思想の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にある」ことを説いたとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「神農學派」神農は中国古代の伝説上の帝王であうが、神農の名前が最初に文献に現れるのは実は「孟子」であり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきである、と主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である「緯書(いしょ)」などに、しばしば神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃の琴を発明したともされる。こうした業績から、「三皇」の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

・「一度」「ひとたび」。

・「孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎」孔子の継承者として誰彼を誤認したものであろうか。

・「倐忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))は「忽(たちま)ち」の意。

・「將に目睫に迫れる」「目睫」(もくせふ(もくしょう)は目と睫毛(まつげ)で、今まさに目前に迫ってしまったことを意味する。]

 

 然り、彼の成敗は彼一人の成敗に止らずして、全儒教の成敗を意味すべき存亡の危機に際したりき。然れども、彼は着々として幾多の創見と發明とを以て、儒教の地盤を定むるに成功したり。而して傍、異端を弁じ、邪説を闢き、歷古の沈迷を開きて、能く聖人の道、彼を得て復明なるの大業を成就したり。彼は彼自身、孔子を崇敬するの厚きを以て、屢自己の創見をも、嘗て孔子の一度之を云へりし如く、人に示したりき。しかも、其全く彼が前聖未發の卓見にして、彼の大才の奕々として這裡に光耀せるは、孟子二百六十一章を通じて、隨所に指示し得るべしと云ふも、亦妨げず。

[やぶちゃん注:・「成敗」ここは孟子とその教えを否定・無化することを指す。

・「傍」「かたはら」。一方で。

・「邪説を闢き」「闢き」は「ひらき」。誤った説を論破して明確に否定し。

・「歷古の沈迷」古き時代からの議論の混迷。

・「復明」正しい理念を復興すること。

・「其」「それ」。

・「未發」未だ発見・発明されていないこと。

・「奕々」(えきえき)は「光り輝くさま」の意。

・「這裡に」「ここに」と読む。]

 

 かくして、彼は孔子の哲學を最も理論的に、しかも又最も實際的に樹立せしめたり。彼の偉大なる祖述としての事業は、玆に完き成功を以て、其局を結びたり。之を措いて、孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ。孟子を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「祖述」(そじゆつ(そじゅつ))は「先人の説を受け継いで述べること」。

・「其局を結びたり」その孔子の真の教えの解明を終わらせた。

・「孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ」「孟子」の対話者として多く出る斉(せい)の宣王は孟子を厚遇した(孟子の献策で燕を制圧しようともしたが、失敗に終わっている)。「快利」は迅速なさま。「三萬四千六百八十五言」は「孟子」「二百六十一章」の総字数。]

 

 韓退之曰、孟子なかりせば、皆服は左袵にして、言は侏離たらむと。又曰、功は禹の下にあらずと。孟子を透見し得て餘蘊なきに似たり。孟子歿して一千二百年の後、後生も亦我を知る者在りとして、彼亦恐らくは泉下に一笑せしならむ。

[やぶちゃん注:・「韓退之」中唐の文人政治家韓愈の字(あざな)。以下は彼の「孟尚書書與」(孟尚書に與ふるの書)の一節、「然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣」(然れども、向(さき)に、孟氏、無かりせば、則ち、皆、服は左袵(さじん)にして、言は侏離(っしゆり)ならん)。個人ブログ「寡黙堂ひとりごとを参照されたい。

・「左衽」衣服を左前に着ることを指す。昔、中国では夷狄の風俗とした。

・「侏離」(しゆり(しゅり))は、元来は古代中国で西方の異民族の音楽のことを指したが、そこから、異民族の言葉を卑しめていう語となり、更にここで使うように「(音声が聞こえるだけで)その意味が全く通じないこと」の意となった。

・「餘蘊」(ようん)は「余分な貯え・残ってしまったもの・あますところ」の意。

・「孟子歿して一千二百年の後」現在の孟子の没年(紀元前二八九年頃)に足すと、九一一年で、中国では唐が亡んだ(九〇七年)後の五代の頃となるが、韓愈は七六八年生まれの八二四年没であり、その没年からだと千百十三年前となるので、まあ、誤差範囲と言ってよかろう。]

2018/09/03

芥川龍之介の――私(わたくし)小説――論三篇 / 『「わたくし」小説に就いて』・「藤澤淸造君に答ふ」・『「私」小説論小見──藤澤淸造君に──』

 

芥川龍之介 「わたくし」小説に就いて

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年七月一日発行の『不同調』(第一年第一号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバー ARZ0759.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で示した。]

 

 「わたくし」小説に就いて

 

 わたしは久米正雄君の「わたくし」小説論に若干の興味を持つてゐる。今その議論を分析して見れば──

 (一)「わたくし」小説は小説になつてゐなければならぬ。

 (二)「わたくし」小説は「わたくし」を主人公にしなければならぬ。(この「わたくし」は必しも一人稱の意味でないことは勿論である。)

 (一)は單なる人生記錄は小説ではないことを力説するものである。が、この立ち場は何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。實際又小説と非小説との境を如何なる一線に求めるかは好箇の論爭點と言はなければならぬ。わたしの所見に從へば、散文藝術に關する諸問題はいづれも多少この立ち場に關係を持つてゐるやうである。

 (二)は「わたくし」を主人公にする藝術的必要を力説するものである。これも亦恐らくは何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。しかし今日の短歌や俳諧は大抵「わたくし」短歌であり、同時に又「わたくし」俳諧である。若しこの事實を何等かの藝術的必要によつたとすれば、何ゆゑにひとり小説だけは「わたくし」小説に終始しないか、その點も十分に考へなければならぬ。

 この短い文章の目的は必しも「わたくし」小説論に贊否の説を表することではない。唯「わたくし」小説論の如何に特色のある議論かと言ふことに匆匆たる一瞥を加へることである。わたしの所見に從へば、久米君の「わたくし」小説論は更に論爭の的になつても好い。又論爭の的になることは確かに我等文藝の士の批評的精神を深める上にも少からぬ利益を與へるであらう。卽ち上記の二點を擧げ、久米君を始め大方の君子の高論を聽かんとする所以である。

 

 

 

芥川龍之介 藤澤淸造君に答ふ

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年九月一日発行の『不同調』(第一年第三号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0768.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で、傍点「ヽ」は太字下線で示した。]

 

 藤澤淸造君に答ふ

 

 僕は「不同調」第一號に「わたくし小説に就いて」と言ふものを書いた。「わたくし小説に就いて」は久米正雄君の「わたくし小説論」の特色を指摘せんと試みた文章である。然るに藤澤淸造君は「不同調」第二號に「何ゆゑに汝は汝自身わたくし小説論を試みないか? 汝の「わたくし小説に就いて」はわづか一二個所へ少しばかり解剖のメスをいれただけである」と書いた。(ヽ印を施したのは藤津君の文章である。)藤澤君の所謂解剖のメスは果して久米正雄君の議論の特色に觸れたかどうか、その是非を檢するのは文藝批評上の問題である。しかし所謂解剖のメスを入れるだけに止めて置いたものかどうか、その曲直を檢することは文藝批評上の問題ではない。では何の問題かと言へば、勿論實踐倫理上の問題である。從つて僕は藤澤君に答へるにも、多言を費す必要を見ない。僕は唯「わたくし小説に就いて」の中に僕の所期を果たした以上、毫も更にわたくし小説是非の論をもしなければならぬ義務のないことを告げるだけである。若し又不幸にも藤澤君にしてかかる義務のないことを認めないならば、紙上たると口頭たるとを問はず、更に何囘でも論戰しよう。但しその時は醉つてゐてはいけない。 (八月五日)

 

 

 

芥川龍之介 「私」小説論小見 ──藤澤淸造君に──

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年十一月一日発行の『新潮』に発表され、後、単行本「梅・馬・鶯」(同年十二月新潮社刊)に収録された。底本は基本、後者を親本(底本の底本)としている。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0810.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「ヽ」は前二篇に合わせて太字下線で示した。]

 

 「私」小説論小見

     ──藤澤淸造君に──

 

 文藝上の作品はいろいろの種類に分たれてゐます。詩と散文と、叙事詩と抒情詩と、「本格」小説と「私」小説と、──その他まだ數へ立てれば、いくらでもあるのに違ひありません。しかしそれ等は必しも本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札に近いものばかりであります。たとへば詩と言ふものを考へて見ても、若し或形式に從つたものだけに詩と言ふ名前を與へようとすれば、あらゆる自由詩や散文詩は除外しなければなりません。若し又自由詩や散文詩にも詩と言ふ名前を與へるとすれば、それ等の作品に共通した特色は廣い意味の「詩的な」こと、──畢竟文藝的なことになるだけであります。韻文藝術と散文藝術との差別もやはりこの詩と散文との差別の複雜になつただけでありませう。成程散文藝術は、――たとへば小説は一見した所、何か詩とは異つてゐます。が、その差別はどこにありませう? 小説は屢々詩に比べると、もつと僕等の實生活に卽した感銘を與へると言はれてゐます。又かう言ふ感銘は小説以外にあるとしても、唯韻文を用ひた小説、──叙事詩にあるばかりだと言はれてゐます。しかし叙事詩と抒情詩との差別も、──客觀的文藝と主觀的文藝との差別もやはり本質的には存在しません。例を西洋に求めないにしても、「アララギ」派の短歌の連作は抒情詩であると共に叙事詩であります。既に叙事詩と抒情詩との差別も消え失せてしまふものとすれば、あらゆる詩は忽ち春のやうにあらゆる散文の埒の中へも流れこんで來るでありませう。

 これだけのことを述べた後、僕はまづ久米正雄君によつて主張され、近頃又宇野浩二君によつて多少の聲援を與へられた「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を考へて見たいと思ひます。が、この議論を考へて見るには「私」小説とは何であるかを明らかにしなければなりません。本家本元の久米君によれば、「私」小説とは西洋人のイツヒ・ロマンと言ふものではない、二人稱でも三人稱でも作家自身の實生活を描いた、しかも單なる自叙傳に了らぬ小説であると言ふことであります。けれども、自叙傳或は告白と自叙傳的或は告白的小説との差別も、やはり本質的には存在しません。これもやはり久米君によれば、たとへばルツソオの懺悔錄は單なる自叙傳に過ぎないものであり、ストリントベルグの「痴人の懺悔」は自叙傳的小説であると言ふことであります。しかし兩者を讀み比べて見れば、僕等は偶々「懺悔錄」の中に「痴人の懺悔」のプロト・タイプを感じることはあるにもしろ、決して本質的に異つたものを感じることはありません。成程兩者は描寫の上とか或は又叙述の上とかには、いろいろ異つてゐるでありませう。(その最も外面的に異つてゐる點を擧げて見れば、ルツソオの「懺悔錄」はストリントベルグの「痴人の懺悔」のやうに會話を別行に印刷してゐません!)しかしそれは自叙傳と自叙傳的小説との差別ではない、時代や地理をも勘定に入れたルツソオとストリントベルグとの差別であります。すると「私」小説の「私」小説たる所以は自叙傳ではないことに存在するのではない、唯その「作家自身の實生活を描いた」こと──卽ち逆に自叙傳であることに存在すると言はなければなりますまい。しかし又自叙傳であることは抒情詩よりも複雜した主觀的文藝であると言ふことであります。僕は前に抒情詩と叙事詩との差別は──主觀的文藝と客觀的文藝との差別は本質的には存在しない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。既に叙事詩は抒情詩と本質的に異つてゐないとすれば、「私」小説も同じやうに本質的には「本格」小説と少しも異つてゐない筈であります。從つて「私」小説の「私」小説たる所以は本質的には全然存在しない、若しどこかに存在するとすれば、それは「私」小説中の或事件は作家の實生活中の或事件と同一視することの出來ると言ふ或實際的事實の中に存在すると言はなければなりません。卽ち「私」小説は久米君の定義の如何に關らず、かう言ふものになる訣であります。──「私」小説は譃ではないと言ふ保證のついた小説である。

 もう一度念の爲に繰り返せば、「私」小説の「私」小説たる所以は「譃ではない」と言ふことであります。これは何も僕一人の誇張による言葉ではありません。現に「どんなに巧妙でも、『私』小説以外の小説は信用する訣に行かない」とは久米君自身も一度ならず力説してゐる所であります。しかし「譃でではない」と言ふことは實際上の問題は兎に角、藝術上の問題には何の權威をも持つてゐません。これは文藝以外の藝術、──たとへば繪畫を考へて見れば、誰も高野の赤不動の前にかう言ふ火を背負つた怪物は實際ゐるかどうかなどと考へて見ないのでも明らかであります。けれどもこれだけの理由により、「譃ではない」と言ふことを一笑に附してしまふのは餘りに簡單でありませう。實際又「譃ではない」と言ふことは何か特に文藝の上には意味ありげに見えるのに違ひありません。ではなぜ意味ありげに見えるかと言へば、それは文藝は他の藝術よりも道德や功利の考へなどと深い關係のあるやうに考へられてゐるからでありませう。が、文藝もかう言ふものと全然緣のないことはやはり他の藝術と異りません。成程僕等は實際的には、――何をいつ誰に公にするか等の問題には道德や功利の考へをも顧慮することになるでありませう。しかしそこを通り越した文藝それ自身としての文藝は何の拘束も持つてゐない、風のやうに自由を極めたものであります。若し又自由を極めてゐないとすれば、僕等は文藝の内在的價値などを云々することは出來ますまい。從つて文藝はおのづから上は「文藝化せられたる人生觀」より下は社會主義の宣傳機關に至る奴隷的地位に立つ訣であります。既に文藝を風のやうに自由を極めたものとすれば、「譃ではない」と言ふことも勿論一片の落葉のやうに吹き飛ばされてしまはなければなりません。いや、「譃ではない」と言ふことばかりではない。「私」小説の問題に多少緣のある謬見を擧げれば、「作家はいつも作品の中では正直にならなければならぬ」と言ふことも、やはり吹き飛ばされてしまふ筈であります。元來「正直になる」或は「他人を欺かぬ」と言ふことは道德上の法律ではあるにしても、文藝上の法律ではありません。のみならず作家と言ふものは既に彼自身の心の中にちやんと存在してゐるものの外は何も表現出來ぬ訣であります。たとへば或「私」小説の作家はその小説の主人公に彼自身の持つてゐない孝行の美德を與へたとして見ませう。成程その小説の主人公は彼と異つてゐる以上、道德的に彼を譃つきと言ふのは當つてゐるかも知れません。が、かう言ふ主人公を具へた或「私」小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在してゐたのでありますから、彼は譃つきどころではない、唯内部にあつたものを外部へ出して見せただけであります。若し又譃をついたとすれば、それは彼が何かの爲に彼の天才を賣淫し、彼の内部的「私」小説を十分に外部化することを(或は表現することを)怠つた場合だけでありませう。

 「私」小説と言ふものは上に述べた通りの小説であります。かう言ふ「私」小説を散文藝術の本道であると言ふのは勿論謬見でありませう。しかしこの議論の誤つてゐるのは必しもそれだけではありません。一體散文藝術の本道とは何のことでありませう? 僕は前に散文藝術と韻文藝術との差別は本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。すると散文藝術の本道と言ふことも「最も文藝的な散文藝術」などと解釋することは出來ません。若しかう解釋することは出來ないとすれば、それは唯「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことに落ちて來なければなりますまい。けれども「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことは畢竟散文藝術と言ふことだけであります。たとへば散文藝術の代りに紙卷煙草を置いて見ても、紙卷は煙草と言ふ本質の上では少しも葉卷と異りません。從つて紙卷の本道と言ふことを「最も煙草的な紙卷」とするのはおのづから滑稽になるでありませう。そこで「最も紙卷的な紙卷」とする外はないとなると、[やぶちゃん注:底本の「後記」によれば、単行本「梅・馬・鶯」ではここは「外はないとすると、」であり、底本はここのみ初出に従っている。]──僕は常識の名前により、諸君に問ひたいと思ひます、──「最も紙卷的な紙卷」とは當り前の紙卷以外に何を指してゐるのでありませう? 散文藝術の本道と言ふのはこの「最も紙卷的な紙卷」と言ふのと同じことであります。かう言ふ例の示す通り、「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論は單に散文藝術の本道を「私」小説に置いた所に破綻を生じたのではありません。散文藝術の本道と言ふ空中樓閣を築いた所に抑々の破綻を生じてゐるのであります。では散文藝術の本道などと言ふものは全然存在しないかと言へば、それは或意味では必しも存在しないとは言はれません。あらゆる藝術の本道は唯傑作の中にだけ橫はつてゐます。散文藝術の本道も若しどこかにあるとすれば、恐らくはこの傑作と言ふ山上にあるのかも知れません。

 僕は久米君によつて主張された「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を略々批評し了りました。僕の立ち場は久米君の立ち場と生憎兩立出來ぬものであります。しかし僕は久米君の議論に少しも敬意のない訣ではありません。たとへば久米君は「私」小説から截然と自叙傳を分ちました。この差別それ自身に僕の賛成出來ないことは既に述べた通りであります。しかしこの差別を立てたことは或意味では最も文壇の時弊に當つてゐると言はなければなりません。僕も亦多少の暇さへ得れば、この差別から出發した小論文を書きたいと思つてゐます。なほ又僕は徹頭徹尾宇野君の議論を閑却しました。それは宇野君は久米君のやうに「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふことを斷々乎と言つてゐない爲であります。尤も宇野君の議論の中にも「僕等日本人の文藝的素質は『本格』小説よりも『私』小説に適してゐる」と言ふことだけは力説されてゐるのに違ひありません。しかしそれは宇野君の常談と見なければなりますまい。なぜ又常談と見るかと言へば、僕は僕等日本人の生んだ「本格」小説的作品の中に源氏物語は暫く問はず、近松の戲曲、西鶴の小説、芭蕉の連句等を數へることを、──いや、それよりも宇野君自身の二三の小説を數へることを大慶に思つてゐるからであります。

 最後につけ加へておきたいことには僕の異議を唱へるのは決して「私」小説ではない、「私」小説論であると言ふことであります。若し僕を目するのに「本格」小説だけに禮拜する小乘甞糞の徒とするならば、それは僕の冤ばかりではない、同時に又日本の文壇に多い「私」小説の諸名篇に泥を塗ることにもなるでありませう。

 

2018/09/02

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 斷 章

  

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない(『(断片)』とあるのみ)。但し、葛巻氏はこのパートの後に「中学時代」(㈠と㈡有り)と「小学時代」が逆編年体で続く形で構成されているから、氏は各パート内も逆編年順に並べている可能性が高い。但し、「寒夜」の冒頭注で私が疑義を呈した通り、彼の執筆時期推定には甚だ疑問がある。取り敢えず、葛巻の指定に無批判に従って創作時期を「第一高等学校時代」とするならば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間とはなる。しかし、くどいが、「寒夜」の冒頭注での執筆時期の私の推のように、これもそれより前に溯る可能性も否定出来ないことは含みおかれて読まれるのがよいかと存ずる。序でに難癖をつけておくと、この「斷章」という題も本当に原稿に書かれているのかどうか、私には疑問が残るのである。作家を目指すも目指さない決まっていなかった龍之介が、作家になってからもそうは使わなかった「斷章」などというタイトルを創作文に附したとは、ちょっと考えに難いからである。

 なお、空欄はママで、〔 〕の文字は葛巻氏が補正追加した字である。

 「餌壺」(ゑつぼ)は鳥の餌を入れる容器のことである。

 因みに私はこの断片に異様に心惹かれる――

 私はこれをモノクロームのショート・フィルムで撮ってみたくてたまらない――タルコフスキイ!……

 ……チケリ!……チケリ!……という鎚音が聴こえ……老人の後ろ姿が見えてくる……

 ……この少年は……

 芥川龍之介であると同時に……

 私自身……だ…………

 

     斷 章

 

 白い土藏の下で十ばかり〔の〕女の子とまゝごとをしてゐた。

 褪紅色の帶をしめて 白地の單物をきて、藍色の大きなリボンをかけた 色の白い子であつた。長い睫の下から、うるんだ眼でじつと人の顏を見る癖のある子であつた。

 その子は自分を蓆の上にすはらせて、小さな蒔繪の御椀に、ぺんぺん草をきざんだのをいれて、

「どうか召上つて下さいまし、おいしくは御座いませんけども」と云つた。自分の前には、水のはひつた硝子の德利がある。砂をもつた黄の餌壺がある。さうして千代紙の三寸ばかりの屛風が二つ立ててある。女の子は

「それがおいやなら、これを上つて頂戴」

 と云つて、大きな晝顏の花を、掌へのせて自分の胸の前へ出した。花びらはいもりの腹のやうな色であつた。自分は、おやと思つた。

「こんなものをどこから、とつて來たんです」

「御くらのうしろで石屋さんが石をきつてゐるの、そこに澤山さいてゐるわ」

 しばらくして自分は、土藏のうしろへ行つた。成程、あかい晝顏の花が一面にさいて、その中に禿頭の老人が後向になつてちけり、ちけりと、石をきつてゐる。花崗石のやうな石は鎚のびゞく度にかけて落ちる。老人は後をむいたなり石を動かしてゐる。石は鎚のひゞく度にかけておちる。

 自分は女の子にやらうと思つて晝顏の花を七つつんだ。さうして又もとの土藏の前へかへつて來た。女の子はどこかへ行つたと見えて、蓆も、千代紙の屛風ものこつてゐなかつた。自分は、丁寧に七つの晝顏の花を、蓆のしいてあつた土の上へならべて女の子のかへつて來るのをまつてゐた。……

 白壁には日の光が一面にあたつてゐる。

 

2018/08/28

ブログ1130000アクセス突破記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寒夜

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作文で、底本(後述)では明治四〇(一九〇七)年頃の作とする。明治四十年ならば、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二・三年次(当時の旧制中学は五年制)で、満十四、十五歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れており、上述の通り、これはおかしい(龍之介の一高入学は明治四三(一九一〇)年九月である)。なお、作品末の葛巻氏の註では、これは、先に電子化した「菩提樹」「ロレンゾオの戀物語」同様、この『「寒夜」も、同じ』学校に提出した『「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 下線(底本は右傍線)及び句読点なしの字空け、第三段落の「絶ゑ」はママである。踊り字「〱」は正字化した。

 本文最終段落冒頭には「この事ありてより早くも十とせを經たり」とある。これを葛巻氏の執筆年代クレジットで逆算するなら、作品内時制は明治三十年か三十一年辺りとなる。当時の龍之介は(既に芥川家の養子)四歳から六歳、江東(えひがし)尋常小学校付属幼稚園入園(明治三〇(一八九七)年四月)から翌年の江東尋常小学校(現在の両国小学校)入学年に当たる。芥川家は当時も執筆時も本所小泉町(現在の墨田区両国三丁目)にあった

 本作内にはこの十年の間に亡くなった作者の主人公「童」の「姊」(あね:「姉」)が登場するが、これは芥川龍之介の事蹟に合わせると、事実ではない(芥川家には子はいない)。彼の実の次姉である「新原(にいはら)ヒサ」は健在であり(龍之介より四歳年上。葛巻義定(底本編者義敏の実父。離婚するも西川の自殺後に復縁)・西川豊に嫁す。昭和三一(一九五六)年没)、長姉の「新原ハツ」は龍之介の生まれる前の明治二一(一八八八)年に三歳に満たずして夭折しているからである。私には、この本文に出る「姊」とは、この次姉「ヒサ」を事実上のモデルとしながらも、実は、龍之介が逢ったこともないにも拘わらず、終生、特異的な親しみを感じ続けた長姉「ハツ」の面影が感じられて仕方がないのである。龍之介晩年の名品で、大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した點鬼簿(私の古い電子テクスト)の「二」を、是非、見られたい。

 「伯父なる人」は不詳。系図を見るに、新原・芥川家には該当する「伯父」はいないように思われる。架空の設定か。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

 

     寒 夜

 

 ほのかなるラムプの火影に、二人の女ありて衣を縫へり。一人は若く、一人は老いたれども、縫へるは共に美しき紅の絹なり。部屋の中狹ければ、うすけれどもともしび隈なく流れて、縫針の寒うきらめくも見ゆ。

 芍薬描ける二枚折りの屛風引きよせたるかたへには、八つあまりのわらべありて、炬燵に足をさし入れつゝ寢ころびて、眞鍮の竪笛を弄べり。古りたれど頰赤きすこつとらんどびとが くゆり濃き琥珀の酒に醉ひて、草野の宵月にふきふくはこれなりと云ふ。伯父なる人の遠き海の彼方より贈りたるを、童は幼き心にもそのさびたる響の中に 白楊と湖との國を夢みて、日も夜も手を離さず弄ぶなり。

 戸の外は雪、未、止まずと覺ゆ。道を行く人は絶ゑたれども庭には折々八つ手のひろ葉をすべり落つる雪の音す。童は西洋紙の手帳を、黄なる書物の上におし廣げつゝ、覺束なき平假名にて其日の日記をつけ始めぬ。書物は、朽葉色の地に紅の蘭の花を描きたるが、そが上に、あらびあんないと物語の金文字うつくしく光りつ。

 二人の女は猶、紅の絹を縫いて止めず。老いたるは鼈甲の緣ある大なる眼鏡をかけたり。折々手をとゞめてほゝえむは童の物かくとてむづかしき顏したるが可笑しければなるべし。若きは手も止めで、童の方を偸み見つゝほゝ笑む 縫へる絹とかたへのすびつの火との赤く頰にうつれる床しく見ゆ。

 母上 またかの薔薇と頰白との物語してきかせ給へ、日記をつけ了れる童は 再 竪笛を手まさぐりつゝ云ふ。母はよべも語りつと老いたる女笑へば、さらば姊上こそと童は若き女の眉をゆすりね。

 風やふき出でし、さらさらと雪の窓をうつ音す。「朝よりふりて止まず。やがて道も絶えなむ」と老いたるが呟けば、若きはともしびをとりつゝ立ちて窓をひらきぬ。童も炬燵より出でてその後に從ふ。よはき燈の光に 白く雪に輝ける道と、向ひの家の掛行燈のおぼろめきたるとが見えたり。「文鳥も寒からむ」と窓を閉しつゝ若き女云ひぬ。「文鳥も寒からむ」 こだまの如く童も答へつ。部屋の隅には朱骨の鳥籠ありて 長く紫の紐を垂れたり。二人は眉を合せつゝ靜に籠の中をさしのぞきつ。されど文鳥は動かず、眼をとぢ頭をたれて止り木にうづくまりたる、眞珠鼠の羽がひもほろろ寒げに見ゆ。「文鳥は眠りぬ われも眠らむ」 程へて童は云ひぬ。

 

 この事ありてより早くも十とせを經たり。その夜の童なりし我の今も雪ふる夜每に思出づるは其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。紅き絹を縫ひ給へる姊上も 眞鍮の竪笛を贈り給へる伯父上も今は共に此世を去り給ひて、彼の薔薇と頰白の物語し給ひし母上のみ、猶、日夜 我が側に衣を縫ひ給ひつゝ、時にふれて我亡き姊上の上を語り給ふも悲し。なつかしきは、其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。あはれ、昔を今になすよしもがな、昔を今になすよしもがな。

 

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) ロレンゾオの戀物語

  

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正元(一九一二)年頃の作かとする。大正元年(明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御により改元)ならば、第一高等学校二・三年次(当時の旧制高校は九月進級)で、満十八、十九歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。本文末に丸括で括られた『我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。』とはあるが、この年及び前年の夏季休暇中には汽船に乗るような旅はしていない。大正元八月十六日から二十日まで友人(中塚癸巳男(きしお)か)と信州から木曾・名古屋を旅してはいる。しかし、言わずもがなであるが、そもそもがこの附記全体が私は作品本文にリアリズムを与えるための確信犯の虚構であると言ってよい。それは、この「嗅煙草かぎつゝ」「汽船の舵手が」「物語」「語れる」というシークエンスが、すこぶるハマりまくった西洋画風の素材であり、この大正元年の七月から八月にかけて龍之介はオスカー・ワイルドの作品を複数読んでおり(宮坂年譜の書簡からの確認で三冊)、この潮風と嗅ぎ煙草の匂いは私には主人公ロレンゾオの故郷イタリアの、ヴェニスやナポリは言うに及ばず、如何にもそれこそ、この「語りの男」の姿はアイルランドの船乗りにこそ相応しいと感じるからである。因みに、この執筆されたとも推定し得る大正元年九月には、東京帝国大学一年の山宮允(さんぐうまこと)に伴われて、吉江孤雁を中心とした「アイルランド文学研究会」に初めて出席してさえいるのである。また、宮坂年譜ではこのクレジット(同年とするならば)の直前の九月二十三日にはガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)の一九〇〇 年の小説Il fuocoの英訳 The Flame of lifeを読了しており、長崎まで流れ流れてきた主人公イタリア人水夫ロレンゾオの香りと親和している事実である。以上から見ても、大正元年執筆の可能性は堅いと私は思う。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、これは先に電子化した「菩提樹」同様、『「ロレンゾオの戀物語」も、「寒夜」』(これに続けて電子化する)『も、同じ「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 以下、私が躓いた語に注を附す。

 三段落目の「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opa l)の和名。

 四段落目の「ゐや」は「禮(礼)(ゐや(いや)」で敬意を表わして頭を下げることの意。

 同じ四段落目の「マルクス寺」はヴェネツィアで最も有名な大聖堂サン・マルコ寺院 Basilica di San Marco)のこと。

 同じく四段落目の「ヘリオトロウプ」はムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属ヘリオトロープ Heliotropium arborescens 及びその仲間を広く指す。ウィキの「ヘリオトロープによれば、『ペルー原産』であるが、『フランスの園芸家が』一七五七年(宝暦七年相当)に『パリに種子を送り、ヨーロッパ』から『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『ヘリオトロープには約』二百五十『種があるといわれる』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異な』り、また、『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』という。『ロジェ・ガレ社(フランス)の『Heliotrope Blanc』(フランスでは』一八九二年(明治二十五年相当)に』『発売)は、日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようになった(有機化合物であるヘリオトロピンがヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)に『判明し、それを天然香料の代用として普及した』)。夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年)の第九章にも、ヘリオトロープの香水が登場している、とある。

 同じ四段落の「ミルテ」とはフトモモ目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis のドイツ語呼名(Myrte)。ウィキの「ギンバイカによれば、地中海沿岸原産の常緑低木で、『花が結婚式などの飾りによく使われるので「祝いの木」ともいう』。『夏に白い』。『弁の花をつけ、雄蕊が多く目立つ。果実は液果で、晩秋に黒紫色に熟し』、『食べられる』。『葉は揉むとユーカリに似た強い芳香を放つことから、「マートル」という名でハーブとしても流通している』らしい。『サルデーニャとコルシカ島では、果実や葉を用いてミルト(Mirto)というリキュールを作る。古代ローマにおいてはコショウが発見される以前はコショウの地位を占めており、油と酒の両方が作られていたと言われる』。『シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花とされ』、『古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされ』て、『花嫁のブーケに使われる』。『生命の樹』『や、エデンの園とその香りの象徴ともされる』とある。

 同じ四段落の「覆盆子」は「いちご」と読む。

 同じ段の末に出る「きほふ」は「競ふ」で「争う・張り合う」の意。

 第五段落「ひさぎぬ」の後の空欄は(句点たるべきところ)はママで、その下の「絶ゑて」の表記もママ。

 第六段落「ジェルザレムメリベラアタの曲」は不詳。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

     ロレンゾオの戀物語

 

 やよひになりて、ロレンゾオは懸になやみぬ。

 悲しくうれしき思たえまなく胸にあふれて、あやしき旅やどりのすまゐなれど、そこはかとなくかぐはしきもののといきのかよひ來て、くれなゐの罌粟の花ざかりにも似たりや。あはれサンタルチアも見そなはせ、ふる里以大利亞(イタリア)を去りしより――かのなつかしきヴェニスの水と鍾のびゞきと白きくゞひの歌とにわかれしより、あるは南、埃及、亞刺比亞の國々、睡蓮の花さく川ぞひの市に黄玉の首環したる遊び女のむれに親み、あるは東印度支那の島々無花果の葉かげの港に、おしろい靑きざればみたる女の數々を見たれど、未此處日本の長崎にて始めてかのひとにあひしばかり、あつきまことの戀を覺えしはあらず。ゆひ髮ふくよかに、小猫の眼ざししたるかのひとのまぼろし、薄べにの薔薇(さうび)の如く、うつゝにもロレンゾオの眼にうかびぬ。かくて蔦の葉しげき赤瓦の軒に群つばめのさゞめきとだえて蛋白石の空に夕月の光うすくにほひそむれば、かれはさびしくひとり夕餉ものしつ。

 やがて色褪せたる天鵞絨のきぬに、靑き更紗模樣のはんけちを頸に結びて、古びしマンドリンをかい抱きつゝ、ものうげにすまゐを出づるは近き海べの酒場に其日のかてを得むとてゆくなり。黃色き窓かけをかけたる酒場の窓は暗き長崎の入江にのぞみて、其處にあかきともしびの光にてらされつゝ、にがよもぎの精なりと云ふ異國の酒を酌みかはす船乘の一むれつどひぬ。ロレンゾオは、物怯ぢしたるさまにて主の翁にゐやをなしつゝ、部屋のかたすみなる椅子に腰かけて、さながら懸人を撫するが如くうれしげにマンドリンを手まさぐるが常なり。もし客の一人「歌へ」と命ずれば直に立ちて歌ふ。歌ふは南歐の俗歌なれども、此時ばかりかれの面の晴れやかなるはあらず。マンドリンの糸のびゞきははなれて久しき以大利亞の夢をよびかへして、其上に櫻草の色したる思ひ出の經緯をひろぐ。日は暖にマルクス寺の金の十字架を照らして、狹き水路は月桂の若葉のかほりにみちたり。白き鳩のむれたや石甃に紅き帽の土耳古人ありて忙しく步みゆくが見ゆ。靑き水にのぞめる家々の窓にはヘリオトロウプ、薔薇、黃水仙などにほへり。音もなくリアルトオの橋をすぎゆくゴンドラよ、いましは何處に行かむとする。南國の日の光に橄欖の如く黑めるロレンゾオの面は、醉心地に赤らみて、マンドリンのトレモロはミルテの靑葉をふく風のやうにすゝりなきぬ。曲終れば、人々拍手して銀貨を投ぐ。其時もしかのひと入り來ればロレンゾオは一杯の麥酒に疲れをいやすさへ忘れて、再マンドリンをかいならしつゝ歌ふ。かのひとはこのあたりの町々に林檎、蜜柑、覆盆子など商ふ「むすめ」の一人なり。年は十五六なるべし、黄なる「べべ、ニッポン」に長き帶むすびさげて、黑く淸らかにほゝゑめる目の媚びたるも、髮にかざせる紅椿のやうに艷なり。ロレンゾオが心には昔ブエノスアイレスの謝肉祭に樓の窓よりかざしの花を落して、待ちたる戀人にくちづけなげたる人と、きほふとも見劣りすまじくや。

 かのひとはかく夜每に來りて果物をひさぎぬ されど絶ゑて、こ若き以大利亞びとがやるせなき思ひをさとらざりき。ロレンゾオはかく夜每に來りて歌ひぬ。されど彼は、かのひとの聲をきく每に絃を彈ずる指のあやしくもをののきて、マンドリンの調べの屢亂るゝを知らざりき。

 卯月これの夜、ロレンゾオは黄さうびの鉢おきたる酒場の机にひと夜を明したれども、かのひとの影は見えざりき。つぎて七夜かれはあだにかのひとを待ちぬ。かくて八日の夜、アプサントの醉頰にのぼりて玻璃圓閣にたばしる霰の如くマンドリンかきならしつゝ、ジェルザレムメリベラアタの曲をうたへる時、客の一人は主の翁にむかひて問ひぬ。「かの果物うる娘はいかにしたる」、耳遠き翁の答はものうかりき。「熱をやみてうせぬ、今宵にて三日目なりときゝしか、あはれなることしてけり。」

 たちまち人々は、青琅玕を碎くやうなるもののびゞきにおどろかされぬ。ロレンゾオがマンドリンの絃斷へたるなり。「如何にしたる」と人々たづぬれど、かれは唯うつむきて聲もなく泣きぬ。黄さうびのかほりほのかにたゞよへる酒場に、唯聲もなく泣きぬ。

 そのあしたより、酒場の人々はロレンゾオの影をみずなりぬ。かれの住める家のあるじに問へど知らずと答ふ。あるは身投げて死しぬと云ひ、あるは以大利亞に歸りぬと傳ふ。かれが部屋の壁には猶、絃斷えたるマンドリンかゝりて、きらびやかなる蔦の葉のまつろへる軒には今も懸わたる燕のかたらひしげけれども。(我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。)


 

2018/08/27

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菩提樹――三年間の回顧――

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正二(一九一三)年の作とする。同年は七月一日に第一高等学校を卒業し(卒業成績は二十六名中二番で、首席は龍之介の盟友井川(後、婿養子となり、恒藤に改姓)恭であった)、九月に東京帝国大学文化大学英吉利文学科に入学しているから、本作は、底本クレジットが誤りでないとすれば、同年一月から恐らくは五月(六月二日に卒業謝恩会が開かれており、十二日から二十日までが卒業試験、二十二日から二十六日までは井川・長崎太郎・藤岡蔵六と赤城山(登頂)・伊香保に旅に出ている)までの間に書かれた、満二十、一歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、『これは、高等学校の、いわゆる「作文」かとも思うが、ほとんど同一の原稿が二種類ある。一は添削を受けたもので、朱点が入っている。その方が「答案」なのであろうと思うが、何故殆ど同じに近いものを二通書いたのかは、今はわからない。この文は、それらの句読点を、兩方共に参酌した』(下線太字やぶちゃん)とある。句読点のない字空けも底本のママである。

 最後に私のオリジナルの簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年6月27日 藪野直史】]

 

     菩提樹

      ――三年間の回顧――

 

 校庭に菩提樹あり。四月のはじめ、にほひよき芽をふきて、たちまち、幅廣き若葉をなす。その綠は、橡にも鈴懸にもみる可らざる、やはらかくあかるき色なれば、まばゆき白日の光は其ひろ葉に落つる每に、すゞしき木かげを、さながら靑琅玕の管玉にともせるともしびの下に、夢ならぬ夢をたどるがごとくほのめかしむるが常なり。秋づけば もののあはれをしること、梧桐にもまさりて、霜の朝霧の夕、大なる鬱金の葉 紛々として樹下に堆をなす。葉落ちつくせば、枝々 珊瑚珠に似たる赤く小さき實をつく。雪もよひの日、鶴の群のなきかはしつゝ、此樹の梢に來るは皆此實をはまむとてなり。

 あゝ、われ 如何にこの菩提樹を愛したる。

 すぎし三年の月日は、まことに此樹下に夢みくらせし三年の月日なりき。われ若くしてうれひ多く、草をしき石に踞して、夕日のむらさきの影にしみたる、おそ春の空のたゝずまひ、若葉のまよりもるゝうす雲のゆきかひに、心 何時しか現ならぬ現におもひふけりて、我にもわかぬ淚の徒に零々として頰をうるほすを覺えしも、亦 この菩提樹の木かげなりき。心なき人と心なきものがたりする ものうきを避けて、ほのかなる若草のかほりと いと遠き小鳥の聲との中に橫はりつゝ、ひとり季長吉の詩集によみふけりて この若くして逝きたる詩人の 見はてぬ夢のうらみてもかひなき生涯をかなしみしも、亦 此菩提樹の樹かげなりき。

 此樹下に母のかきおこせる消息をよみつゝ、葉落ちつくしたる梢の空のほの赤きに百舌の聲のけたゝましきを聞きしは今もわすれず。わが友と、黃なる紅なるあるは代赭なるこの樹の落葉をふみつ、夕空のかすかなる星を仰ぎて沙門悉達のさびしき涅槃の教をかたりしこと そもいくたびぞ。わが新しきふみをひらきし處 新しき友と語りし處 手帳に幼き歌を走りがきせし處 長き日のつれづれに口笛をふきし處 あゝ又これ靑空にそよげる此菩提樹の木かげなりき。

 圖書館の廊下に佇みて、ふみよむにつかれたる身をやすむるとき、教室の机によりて才高く志大なる人々に伍する時、窓硝子のかなた、ほの赤きさうびのかほりにかすかなる雨のびゞきに、さびしげにうなづけるは同じく 此菩提樹の老い木なりき。

 あゝ菩提樹よ、わが三年のよろこびとかなしみとをしるものは汝のみなり。わが三年の心のさゝやきとたましひのすゝり泣きを聞きしものは汝のみなり。菩提樹よ 菩提樹よ、わが祕密をしるものは唯汝のみなり。われ 今近く母校を去らむとして汝と別るゝ日の旬日にあるを思ふ われまた、淚なきを得むや。今 汝にかりて三年の追憶をもらす。言は短なれども意はまことに長し。菩提樹よ さらばわれら長く相別れむかな。

 

[やぶちゃん注:「菩提樹」この木は、まさに、十四年後の芥川龍之介自死の最後の手記「或舊友へ送る手記」のコーダに登場する、あの菩提樹である(同作は昭和二(一九二七)年の死の当日の七月二十四日日曜日の夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で久米正雄によって報道機関に発表され、死の翌日の二十五日月曜日には『東京日日新聞』朝刊に掲載された)。

   *

 附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属種ボダイジュ Tilia miqueliana であろう。

「橡」「とち」と読んでおく。ならば、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「鈴懸」「すずかけ」。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis。プラタナスのこと。

「靑琅玕の管玉」「せいらんかんのくだだま」。青碧色をした半透明の硬玉で出来た、装飾用の管。糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられ、本邦では縄文時代に既に作られていた。

「梧桐」「あをぎり(あおぎり)」と読んでおく。アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「鬱金」「うこん」・濃い黄色。鮮黄色。

「堆」「たい」。高く積み上がっていること。堆(ずたか)くなっていること。

「珊瑚珠」「さんごだま」。

「踞して」「きよして(きょして)」。しゃがんで。

「現」「うつつ」。

「わかぬ」「分かぬ」。何ゆえのそれとはっきりとは判らぬ。

「徒に」「いたづら(いたずら)に」。

「零々として」「れいれいとして」。零(こぼ)れ落ちるさま。

「橫はり」「よこたはり(よこたわり)」。

「季長吉」「りちやうきつ(りちょうきつ)」。私も高校時代から偏愛する、中唐の詩人で「鬼才」と呼ばれた李賀(七九一年~八一七年)の字(あざな)。病いのために二十六の若さで亡くなった。よろしければ、「南山田中行 長平箭頭歌 李賀 やぶちゃん訳」をどうぞ。

「母」養母芥川儔(トモ)。実母フクは明治三五(一九〇二)年十一月二十八日、龍之介十歳(江東小学校高等科一年)の時に満四十二歳で病没している。「かきおこせる消息」とあるのは、寮にいたためである(第一高等学校は二年まで、原則として全寮制を採っていたが、一年次は「通学願書」を提出して自宅(芥川家は内藤新宿の実父新原敏三の持家に龍之介が一高に入学した翌月である明治四三(一九一〇年)十月に本所小泉町から転居している)から通学したが、二学年に進級した九月からはしれは認められず、一年間、寄宿舎南寮に入っている(同室者は井川を含め、十二人。しかし、龍之介は寄宿舎生活に馴染めず毎週土曜には自宅に帰っていた。三年時には寮を出た)。

「ふみつ、」読点はママ。ここは句点、或いは、踊り字「ゝ」であるべきところと思う。

「沙門悉達」「しやもんしつた(しゃもんしった)」梵語「シッダールタ」の漢音写「悉達多」の略。「目的を達した」の意)釈迦の出家以前従って厳密に言えば「沙門」(=僧)はおかしいの名。誕生した際に一切の吉祥瑞相を具えていたことから、この名がつけられたとされる。

「教」「をしへ(おしえ)」。

「志」「こころざし」。

「さうび」「薔薇(さうび)」。バラ。]

2018/06/26

サイト「鬼火」開設十三周年記念 「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

サイト「鬼火」の開設十三周年記念(本日)として、

「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

「心朽窩旧館」に公開した。

本テクストはネット上には未だ電子化されていないと思われ、また、読んだことがある方も非常に少ないと思う。

2018/03/10

芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――

 

[やぶちゃん注:本資料は岩波新全集第二十三巻(一九九八年一月刊)で初めて翻刻されたもので、原資料(メモ四枚)は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」(一九九三年同館刊)の画像から起したもので、同全集では「ノート」パートに入れ、『「軍艦金剛航海記」ノート』という仮題がつけられてある。確かに内容から海軍機関学校の英語科教授嘱託であった折りの大正六(一九一七)年六月二十日(本文に従えば午後一時半前後)、当時の日本帝国海軍の誇る超弩級新鋭巡洋艦「金剛」(排水量二万六千三百三十トンで全長は二百十四メートル。イギリスに発注された最後の戦艦であった。大正二(一九一三)年八月十六日に竣工、回航は日本海軍の乗員によって行なわれたが、大艦であったためにスエズ運河を通れず、喜望峰回りで同年十一月五日に横須賀に到着している)に同校生徒の航海見学実習に付添として乗艦、横須賀を発して翌々日の六月二十二日の午後に山口県由宇(ゆう)に到着するまで、稀有の軍艦乗船体験をした。これは後、「軍艦金剛航海記」(「青空文庫」で正字正仮名の正統な形で全文が読める。以下リンクは同じ)として同年七月二十五日から二十九日までの『時事新報』に連載されることとなる。本メモはその時のことを記したものである。但し、後に記すように、別に手帳にも詳細なメモがあることから、これは或いは後日、時系列で記憶をメモランダしたものかも知れないし、或いは別に共時的に記した日記風のものなのかも知れないが、記載内容とその順序が一ヶ月後に発表された「軍艦金剛航海記」との構成一致が顕著であるから、新全集が仮題するように、「軍艦金剛航海記」を書くための構想メモの可能性が大ではある。

 しかも、その新全集の「後記」によれば、これら四枚とは別に、『他に艦の部所の名称を記した五枚もあ』る、とあるのである。私はそれが何故、ここで一緒に電子化されていないのか、大いに不審であり、不満である。ただの名前の羅列だから外したというのであれば、芥川龍之介の手帳類の個人住所も同等であり、寧ろ、個人情報保護の観点から見れば、それをだらだらと住所と名前まで活字化しているのは、遙かに問題の大きい翻刻であるとさえ言い得るからである。

 そうして底本が翻刻しなかった部署の羅列や艦内の図を想起して以下のメモと合わせて考えると、それはもう、私が既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で電子化注した芥川龍之介 手帳 1―15から芥川龍之介 手帳 1-18の内容を髣髴させるものと考えてよかろう(「1-16」等では、まさに以下に出てくる司令塔や砲塔の手書きの模式図・構造図も添えてある)。とすれば、本メモは私の完結したブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」に添えるに、これほど相応しいものはないと考えた。

 底本は無論、岩波新全集第二十三巻に基づいたが、今までの仕儀通り、漢字は概ね、正字化した。用紙の仕様が「後記」には書かれていないのでよく判らないが、罫線(或いは原稿用紙かも知れぬ。その場合は、四百字詰)の引かれたもので、欄外への書き込みが認められる。【欄外】としたものがそれである。用紙ごとに翻刻し、それぞれでオリジナルに注した。なお、本文内のアラビア数字は総て縦書正立(二桁は二桁そのままで)である。【2018年3月10日 藪野直史】]

 

 

□1枚目

【欄外】ブイ赤し 山靑し 空高し

 

午後一時三十分あまり ランチにて金剛に至る 途上 岩邊大佐を榛名におくる

金剛へつく途中 艦長のランチ(はるな)の爲に 舷梯につくをまてり ランチ大にゆる

上れば 右舷砲塔下に四五人の士官 副長と共にあり 白衣 日に光る 帽をとらんとしてとれず 副長の顏 趨雲に似たり[やぶちゃん注:上の「副長の顏 趨雲に似たり」の箇所は改行の可能性もあるが、私はそのようには判断しなかった。]

田中先任部長に導かれ ウアドルームに至る 飛行機を見 艦長をとひ 小憩後 艦内旅行をなす

14吋砲口に 人あるを見る 八田氏にあふ

 

【欄外】ウアドルームは白し 丸窓 バア臺に鏡 銀の花瓶 黑きゴム布をかけし卓 電氣扇 電燈(二つ(1)は 砲の發射の爲やぶると云ふ)

 

部屋定まる 中甲板の一室 机 寢臺 輪旋椅子 白き周圍に眞鍮の金具 赤毛布

機關少尉三人と共に語る 艦は二隻の小蒸氣によりて 方向を轉ぜんとしつつあり 出航準備のラツパなる 少尉一人來る 航海準備のラツパと共に直去る 颯爽たり ドラなる 夕食なり 鮭とさつま汁

 

【欄外】蝶(蛇の目蝶)とぶ さびし

 

[やぶちゃん注:「ランチ」launch。小型の蒸気船。汽艇。

「岩邊大佐」後に海軍中将となる岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)であろう。熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。明治二七(一八九四)年に海軍機関学校卒業後、機関士候補生として防護巡洋艦「高千穂」に乗組み、日清戦争に従軍する。装甲巡洋艦「八雲」回航委員となり、明治三七(一九〇四)年二月には戦艦「八島」分隊長として日露戦争に出征、翌年一月、海軍機関少監に進み、通報艦「八重山」機関長に転じた。明治三九(一九〇六)年、海軍機関少佐に進級、翌年、元小川町長岩辺知言の養子となった。本記載の二年後の大正八(一九一九)年六月(この年の二月に芥川龍之介は既に機関学校を退職している)、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月、横須賀鎮守府機関長に就任している。大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年、予備役。二年後に退役した。以上はウィキの「岩辺季貴」に拠った。本時制は、この下線太字の間となり、当時は大佐になっているわけで、既に当時の横須賀鎮守府の機関長の上層部の一人であったことが判る。この時は伴走した「榛名」に乗船臨検したものか

「榛名」「金剛」型戦艦の三番艦。排水量二万六千三百三十トン・全長二百十四メートル。太平洋戦争では、ガダルカナル島の戦い・レイテ沖海戦を経て、呉に帰港したが、昭和二〇(一九四五)年七月二十四日と二十八日の呉軍港空襲の爆撃によって、大破浸水し、着底してしまった。敗戦後の翌年、解体された。参照したウィキの「榛名(戦艦)」によれば、『榛名は』太平洋戦争『開戦時』で既に艦齢二十六年の『老朽艦で』あった『にも拘らず』、『最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことがなく「幸運の空母」とも賞される空母』「瑞鶴」『と対照的であるが、この』二『艦は駆逐艦』「雪風」『などとともに「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また』、『日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる』とある。この当時の「榛名」艦長は上田吉次大佐(?~昭和三八(一九六三)年:山形出身海軍兵学校を明治三一(一八九八)年第二十六期卒)である。

「艦長のランチ(はるな)の爲に」伴走する「榛名」艦長の上田吉次大佐の乗ったランチが「榛名」の舷梯に到着するのを洋上で待ったというのである。

「趨雲」(?~二二九年)後漢末から三国時代の蜀漢にかけての将軍で、劉備に仕えたことで知られる名雄。「三国志演義」で「五虎大将軍」(彼と関羽・張飛・馬超・黄忠)の一人として、『非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている』とウィキの「趙雲」にある。

「田中先任部長」不詳。「先任部長」は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる、兵学校同期生間での当該職への先任順位を指す(本来の海事用語の「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」は兵員が使用するハンモック(釣床)に記された番号を指す。例えば、兵員に割り当てられたそれに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊第十八班第四部員」であることを意味し、その番号によって艦内での戦闘配置などが自動的に決まった)。海軍ではその差がはっきりしており、同時に同階級に任ぜられて、しかも同じ軍艦等で勤務する同期生の間にあっても「先任」か「後任」の区別は厳然としてあり、軍令承行令による指揮系統の序列は勿論、式典での整列の際などでも、このハンモック・ナンバー(序列)の順に並んだ。以上はウィキの「ハンモックナンバー」に拠った。

「ウアドルーム」wardroom。軍艦内の士官室。

「艦長」当時の「金剛」艦長吉岡範策(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年:当時は大佐かと思われる)。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌高等学校を経て、明治二四(一八九一)年に海軍兵学校第十八期として卒業、海軍少尉となった。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。防護巡洋艦「橋立」艦長から、装甲巡洋艦「浅間」艦長に補せられ、まさにその日に始まった第一次世界大戦に於いて、ドイツ艦隊の捜索や南洋群島の占領作戦に従事、大正四(一九一五)年、巡洋戦艦「筑波」艦長、本巡洋戦艦「金剛」の艦長を経て、大正六年、海軍少将に昇進して教育本部第二部長となった。その後、第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長を歴任、大正十年に海軍中将・海軍砲術学校長となり、大正十三年、五十五歳で予備役となった。「砲術の神様」と称された。以上はウィキの「吉岡範策」に拠った。

14吋砲口」三十五・五六センチメートルであるから、「金剛」が四基装備していた四十五口径三十五・五センチ連装砲のこと。他に五十口径十五・二センチ単装砲が十六基、五十三センチメートル魚雷の発射管が八門、装備されていた。ここはウィキの「金剛(戦艦)」に拠る。砲塔内の掃除をしていた兵が砲塔から頭を出していたのであろう。

「八田氏」「軍艦金剛航海記」の「一」と「三」に「八田機關長」という名が出る。

「夕食」海軍の夕食は早い。午後四時半には食べる

「蛇の目蝶」「じやのめてふ」。鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ジャノメチョウ亜科ジャノメチョウ属 Minois に属するジャノメチョウ、或いは、狭義の和名ジャノメチョウ Minois dryas。翅は表裏ともに一様に茶褐色で、前翅に二つ、後翅に一つの眼状紋を有するが、他のジャノメチョウ亜科亜科 Satyrinaeに多く見られる金色の輪郭がないために、あまり目立たない。「軍艦金剛航海記」では登場しない代わりに、エンデイング(「五」)に『やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黃いろい褄黑蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである』と出る。『褄黑蝶』とは狭義には鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン属ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius であるが、本土では現認されることは非常に珍しい。芥川龍之介がジャノメチョウをかく呼んだのかも知れる。「蛇の目蝶」では如何にも暗い。或いは、龍之介の小説としての俳諧的諧謔季節表示の手法であったのかも知れぬ。しかし、いいコーダではある。]

 

 

□2枚目

前部艦橋に至る speed mark, revolution mark 等の説明をきく(あみ笠狀のもの) 黑の洋傘の連なるもの二つあるは標的をひける所なりと云ふ 一兵あり サウンディングプラットフォームにて 測鉛をふる 古のくさり鎌つかひの如し 十五 十七とさけぶ 尋の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

司令塔 海圖室 無線電信室等を見 艦尾に至る 艦の行く 飛ぶが如きを知る

ウァードルームにかへり 少時にして又 八田機關長と共に前部艦橋に至る 航海長以下 皆海圖を檢して 針路を定めつつあり 天水共に蒼茫 一點 觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ 風涼し

[やぶちゃん注:「艦橋」「かんけう(かんきょう)」は軍艦中央部の高い構築物で、展望が利き、将校が常駐して艦の指揮を執る中枢。所謂、「ブリッジ」である。

speed mark」速力標。マストのヤード(左右に張り出した支柱)から下がっている信号旗を掲げるためのロープの内、マストから見て一番外側にある赤い網状のもの出来た速力標。編隊航行中や洋上給油に於いて、相手に自艦の速力を知らせたり、諸条件下での所定のスクリュー回転数の増減を知らせるための「赤黒マーク」と言われる信号旗。Old Sailor 氏のブログ「Old Sailors never die; they just」の「護衛艦マストの両端に掲げられる速力標と赤黒マークの意味」を参考にさせて戴いた。

revolution mark」不詳。当初、戦闘態勢にあることを示す戦旗標かと思ったが、英語でこのようには言わない。寧ろ、芥川龍之介が直後に『(あみ笠狀のもの)』と言っているのは、前の速力標のことであるから、ここはスクリューの「回転数・旋回のレベル・回転運動・運動周期」のことを言っているのではないかと推理した。

「サウンディングプラットフォーム」sounding platform。測深台(そくしんだい)。主に対象との距離の測定(測程)と水深の測定(測深)に用いるためのもので、古い艦船では上甲板艦尾に突き出すした板状の台であったらしい。個人ブログ「軍艦三笠 考証の記録」の「測深台:Sounding platformを参照されたい。写真有り。但し、ここは艦橋からの眺めなので、測深台は少なくとも船尾ではない。スクリューへの巻きこみの虞れを考えるなら、艦首附近か。

「測鉛」繩の先に錘(おもり)の紡錘型の鉛を附けた測深索条。「古」(いにしへ(いにしえ))の武具である「鎖鎌(くさりがま)使い」のそれのように扱う、という表現が戯作好みの芥川龍之介らしくて楽しい。

「尋」水深の一尋(ひろ)は六尺で、百八十一・六メートル。

の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

「ウァードルーム」前の「ウアドルーム」wardroomのこと。士官室。

「天水」大空と海原。

「蒼茫」見渡す限り、青々として広いさま。

「觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ」大正六(一九一七)年六月二十日当日の神奈川県横浜日没は午後六時五十九分。ここは浦賀水道を抜けて、三浦岬の沖を相模湾に入った辺りである。]

 

□3枚目[やぶちゃん注:「※」の箇所に最初に掲げた手書き図が入る。「□□」は原資料自体の二字分の芥川龍之介自身による欠字。メモであり、内容的に伏字にする必要のあるものとも思かれないから、本メモが後になってから纏めて記されたとすれば、ただ姓を忘れただけかも知れぬ。]

Hammock

かへりて ハムモックの※の如くつれる下をくぐり くぐり 機關長室に至り 雜談す 黃笠の電氣 妻子の寫眞 造花の菊 日蓮上人 法華經等あり 籐倚子及輪轉倚子 丸窓は蓋ありと思ふ程くらし 手を出して 外の空しきを知る

バスに入りて(齋藤君の褌)後 夜食す

 

【欄外】さうめん 酒 ビール

 

醉ひて面白し いつまでもねると云ふ好男兒は 航空隊の□□大尉なり 十二時近く 就寢す

廿一日

砲塔

 

【欄外】下部發令所 彈庫 火藥庫

 

水電室

無線電信室

主機關部

汽罐部 ミルトン

夕方 軍歌をうたふ(勇敢なる水兵) ケープス

[やぶちゃん注:「ハムモック」hammock。ハンモック(麻布製の吊り床)のこと。

「外の空しきを知る」余りに暗黒なので、外にカバーする別な遮蔽蓋があると思って手を突き出して調べてみたが、空しく外気に触れたばかりであった、というのである。

「齋藤君」不詳。付添に同行した海軍機関学校の同僚であろう。

「夜食す」士官室で出た夜食。「軍艦金剛航海記」の「四」の後半の段落に出る。

「さうめん」「素麺(そうめん)」。

「下部發令所」私の「芥川龍之介手帳 1―16」の図を参照されたい。

水電室」不詳。当時、イオン交換法によって有意な電力供給が行われたとは思われない。これは「水雷室」(魚雷室)の誤りではなかろうか?

「ミルトン」不詳。

「軍歌をうたふ」ここは
「軍艦金剛航海記」の「四」の終りのシークエンスに完全に生かされている。

「勇敢なる水兵」日清戦争の逸話に基づく軍歌。佐佐木信綱作詞・奥好義(よしいさ)作曲。明治二八(一八九五)年発表。ウィキの「勇敢なる水兵」によれば、明治二七(一八九四)年九月十七日、『日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、この「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである』。『日本艦隊の旗艦「松島」は清国艦隊の戦艦「鎮遠」の巨弾により大きな被害を受けたが、その激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の向山慎吉少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ね、敵戦艦の「定遠』(ていえん)『」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ』。『この逸話は新聞で報道されるや』、『国民的な感動を呼び起こし』、『佐佐木信綱も感動して』全十『節からなるこの詞を一夜で作り上げたという。この曲は翌』『年の「大捷軍歌」(第三編)に発表された』(後、昭和四(一九二九)年に全八節に改詞されている)とある。You Tube こちらでダーク・ダックスの歌で聴ける。そこには歌詞(全八節版)も載る。

「ケープス」4枚目に続いている語で「ケープスタン」。後注する。

 

 

□4枚目

タンの上にて甲板士官 軍艦旗 落日光

夜 機關長の話

廿二日

朝 主計長の話 干物倉庫及俵倉庫に入る 十呎あまり?

 

【欄外】檣樓へ上る 室戸崎

 

軍醫部 治療室 病室及隔離室 戰時治療所

午 ひるね 句をつくる 柔道 相撲 機關長の氣合 i)腰 ii)喉 iii)背 iv)金丸

探照燈の光(本艦) 標的をてらす

ガンルーム 大導寺中尉

 

【欄外】寫眞 佐多崎 波石崎

[やぶちゃん注:「ケープスタン」capstan。キャプスタン。船舶に於いて碇(いかり)の鎖やロープを巻き上げるための、水平に回転するキノコ型の装置。車地(しゃち)・絞盤などとも呼ぶ。

「十呎」十フィート。約三メートル。四方ということであろう。そこにぎっしりと干物と米俵が詰まっているのである。

「檣樓」艦船のマストの上部にある物見台。「軍艦金剛航海記」の「五」でも、この快挙を語っている。芥川龍之介は木登りが特異で、泳ぎも達者であった。

「金丸」金玉のことか。「氣合」いの名の下に行われた、「精神棒」的な軍隊内の「シゴキ」が窺われる。「精神棒」とは日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい。私の梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(4)を参照されたい。

「ガンルーム」gunroom。元来は大邸宅の狩猟用銃器室を指すが、海軍では、軍艦の下級将校室、士官次室を指す。

「大導寺中尉」不詳。私ならずとも、後の大正一四(一九二五)年一月に『中央公論』にて発表された自伝的小説「大導寺信輔の半生」を思い出されるかも知れぬ。或いはその名の秘かなモデルなのかも、知れない。

「佐多崎」不詳。表記誤認が疑われる。

「波石崎」不詳。同前。]
 

芥川龍之介 保吉の手帳(「保吉の手帳から」初出形+草稿) 増補校訂

十一年前に作成した、芥川龍之介の「保吉の手帳」(「保吉の手帳から」初出形+草稿)を増補校訂した。

2018/01/21

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

『芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種』を、芥川龍之介『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加した。

まあ、ここにも載せとくか。

   *

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

 

[やぶちゃん注:底本は岩波の新しい「芥川龍之介全集」第二十一巻(一九九七年刊)に『「松江印象記」草稿』として載るものを使用したが、私のポリシーに則り、漢字を概ね正字化して示した。標題も仮題でしかないので、以上のように変更した。私は現在の「松江印象記」はやめて、この両草稿に出る「行人抄」にすべきであろうという気さえしている

 私が【草稿(1)】としたものは、底本で『Ⅰ―a』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙二枚半相当のもので、同『後記』では、次の『1―b』に先行して書かれたものと推定されてある。

 私が【草稿(2)】としたものは、底本で『Ⅰ―b』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙一枚相当のものであるが、原稿用紙の『下部三字を空けて』、『一行』当たり、十七『字の形で用いて』いるとある。同『後記』では、井川恭の「翡翠記」が掲載された『松江新報』『への提出原稿に極めて近いものと考えられる。但し』、『現行本文』(これは新全集の編者がどう考えて『現行本文』と謂ったものか知らぬが、厳密には、新旧の岩波全集の妖しげな「松江印象記」(仮題)ではなく、翡翠記十四」の芥川龍之介の「日記より」を指すと、当然、考えるべきものである)『ではこの書き出しの部分は削られている』とある。

 なお、「不可思儀」の「儀」はママ。「餘りに遲鈍である」の部分は底本の行末にあり、「しかし」と直に繋がるのはおかしいので(そうなっているが、これは改行と誤解されるのを防ぐために底本編者が行った仕儀と私は採った)、恣意的に一字空けを施した。【2018年1月21日:井川著「翡翠記」ブログ完全電子化完遂を記念して追加 藪野直史】]

 

【草稿(1)】

 日本に生まれて 日本に育つた自分たちが屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記からさへも)從來自分たちの眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新しい「日本の不可思儀」に就いて 教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究が ゴンクールに依つて始められ 北齋の批評がフェノロサを待つて開かれたのも 偶 此事實の一端を洩らしてゐるものに過ぎない 自分たちが 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも その郷土に對して 屢 盲目の譏を免れないのは 不二山と椿の花と煎茶の煙とを 新しい刺戟として受入れるべく 餘りに長く 「紙と竹との家」の中に居住してゐるからである――自分の 行人抄を書くのが 必しも かう云ふ新しい不可思儀を示す爲であるとは云はない いや さう云ふ目的に役立つには 自分の感受性は 餘りに遲鈍である しかし 習慣を離れ 傳説を忘れて 周圍をあるがまゝに觀じ得る點で(たとへ それが自分の個性によつて色づけられてゐるにもせよ)或は寛大な士人の讀書慾を充す爲に幾分の意味があるかも知れない――行人抄は かう云ふ己惚れの中に胚胎した 一旅客の平凡な松江遊記である

 自分が松江へ來て 始めて見たものは 千鳥城の天主閣であつた 夏とは云ひながら 雨あがりの しめやかな日の午前である 内中原の路上に立つて 菱や蘭の茂つた靜な水の上に高い天主閣の白壁を仰いだ時には 蘆の茂みに鳴くかいつぶりの聲と共に 久しく忘れられた封建時代の記憶が あらゆるエキゾティックな思想の上に 漢詩と俳句とによつて陶冶された 愛すべき「寂(さ)び」をかけて 心さへ 遙な鬼瓦の影に暗くされたかと疑はれた 遠い櫓の下に掛けたつばくらの巢は見るよしもないが 一つ一つの石 山 つ一つの狹間は 昔ながらに 物寂びた城下の町々を見下して 白壁の一角にさした 微な日の光にも 云ふ可らざる追慕の情が喚び起される 自分は棕櫚と無花果とに圍まれた 小さな家つゞきの町を あのさびしい稻荷橋へ出るまで何度 足を止めて 所々にほのかな靑い色を浮かせた灰汁のやうな八月の空の下に この懷しい城樓の姿を眺めたかわからない

 天主閣は その名の示す如く 天主教の渡來と共に はるばる 南蠻から輸入された築城術が日本の戰術に新な變化を與ふ可く 齎し來た建築である……

 

   *

 

【草稿(2)】

       行人抄

 

 日本に生まれて日本に育つた自分達が 反て屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記によつてさへ)從來自分達の眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新なる「日本の不可思儀」を教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究がゴンクウルに依て始められ 北齋の批評がフェノロサを俟て開かれたのも 偶此事實の一端を洩してゐるものと云はなければならない 自分達が 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも屢 其郷土に對して盲目の譏を免れないのは 一つは確に 自分達が 不二山と椿の花と煎茶の匂とを 新なる刺戟として受入れる可く 餘りに長く「紙と竹との家」の中に居住してゐる

 

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