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カテゴリー「芥川龍之介」の678件の記事

2020/11/27

片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について

例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、

『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』

と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。

ヒントだけ示しておく。

私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――

「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版公開

四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。

――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。

精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。

お読みあれかし!

2020/11/25

新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを書き上げた

三年越しの懸案であった「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」の公開された同書簡類の新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを、先程、完成させた。これをHTMLにするのがまた一苦労だが、今年中には完成させて公開する。死んでも死に切れんからな――

2020/07/22

芥川龍之介 「續晉明集」讀後 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

[やぶちゃん注:本篇は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』と題して掲載されたもので、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の題で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。同書の解説者勝峯晉風(しんぷう)氏も校訂者遠藤蓼花(れうくわ(りょうか))氏も跋文らしきものを記した河東碧梧桐氏さえも、これには微苦笑せざを得なかったに相違あるまい。いや、それが実に、いい、のである。

 底本は岩波書店版旧全集第七巻(一九七八年刊)を用いた。発句や前書部分はブラウザでの不具合を考え、底本よりずっと上に引き上げてある。

 なお、これは現在、ブログで進行中の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々」の現在準備中の「丈草」の章の注のために、これ、どうしても必要となったため、急遽、電子化したものである。されば、語注等は附していない。一箇所だけ注しておくなら、「五老井主人」(ごらうせいしゆじん(ごろうせいしゅじん))は森川許六の別号である。将来的には注を追記として附したいとは思っている。]

 

  「續晉明集」讀後

 

 「續晉明集」一卷は勝峯晉風氏の解說と遠藤蓼花氏の校訂とを加へた几董句稿の第二編である。(古今書院出版)僕はこの書を讀んでゐるうちにかういふ文章を發見した。發見といふのは大袈裟かも知れない。現に勝峯氏も解說のうちにちやんとその件を引用してゐるが僕の心もちからいへば、正に發見にちがひなかつた。

 『僧丈草は蕉門十哲の一人なり。而して句々秀逸を見ず。蓋この序文においては群を出づといふべし。支考許六に及ばざるものなり。』(原文は漢文である。)

 僕はこの文章に逢著した時、發見の感をなしたといつた。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拜した餘り、晉明と號した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まないであらう。が、丈艸を輕蔑してゐたことは一層その面目を明らかにするものといはなければならぬ。

 許六はその「自得發明の辨」にかう云ふ大氣焰を吐いてゐる――「第二年の追善、深川はせを庵に述べたり。予自畫の像を書せたる故に、その前書をして、

  鬢の霜無言の時の姿かな

とせし也。(中略)誰一人秀たる句も見えず。さてさてはかなきこころざしにてあはれなり。

  なき人の裾をつかめば納豆かな  嵐 雪

 師の追善にかやうのたわけを盡くす嵐雪が俳諧も世におこなはれて口すぎをする、世上面白からぬことなり。」(下略)

 これは大氣焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶ふの句に光焰を放つたものはなかつたのであらうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問はず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤なるものである。いや、僕の所信によれば、寧ろ許六の悼亡よりも深處の生命を捉へたものである。

   芭蕉翁の墳にまうでてわが病身をおもふ。

  陽炎や墓よりそとにすむばかり

 尤も許六も丈艸を輕蔑してゐたわけではない。

 「丈艸が器よし。花實ともに大方相應せり。」

とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といひ、其角を「器きはめてよし」といつたのを思ふと、甚だ重んじなかつたといはなければならぬ。けれども丈艸の句を檢すれば、その如何にも澄徹した句境は其角の大才と比べて見ても、おのづから別乾坤を打開してゐる。

  大原や蝶の出て舞ふおぼろ月

  春雨やぬけ出たままの夜着の穴

  木枕の垢や伊吹にのこる雪(前書略)

  谷風や靑田を𢌞る庵の客

  町中の山や五月の上り雲(美濃の關にて)

  小屛風に山里すずし腹の上

  夜明まで雨吹く中や二つ星

  蜻蛉の來ては蠅とる笠の中(旅中)

  病人と撞木に寢たる夜寒かな

  鷄頭の晝をうつすやぬり枕

  屋根葺の海をふりむく時雨かな

  榾の火や曉がたの五六尺

 手當り次第に拔いて見ても丈艸の句はかういふ風に波瀾老成の妙を得てゐる。たとへば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この殘雪の美しさは誰か丈艸の外に捉へ得たであらう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と稱してゐる。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と稱してゐる。

 「續晉明集」の俳諧史料上の價値は既にこの書の本文の終に河東碧梧桐氏もいひ及んでゐる。しかしそれは俳諧史家以外に或は興味を與へないかも知れない。が、几董の面目――天明の俳人の多い中にも正に蕪村の衣鉢を傳へた一人の藝術家の面目は歷々とこの書に露はれてゐる。これは僕等俳諧を愛し俳諧を作るものにとつては會心の事といはなければならぬ。卽ち「續晉明集」を同好の士にすすめる所以である。 (一三・七・一四)

 

2020/07/17

ブログ1,390,000アクセス突破記念 芥川龍之介「Karl Schatzmeyer と自分」(未定稿)/「ERNST MÜLERと自分」(未定稿) / ■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収「Karl Schatzmeyer と自分」後半部 附・藪野直史注

 

[やぶちゃん注:以下は、新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年刊。写真版。私は現物を見たことがない)を底本とした「Karl Schatzmeyer と自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記を参考にして正字化したものである。実は、後者は、その「編者註」で葛巻氏が冒頭、

   《部分引用開始》

『これは「Karl Schatzmeyer と自分」、「Ernst Müllerと自分」と云う二つの原稿を、編者の手で編集し直したものである。その二つの原稿は、何処かへ発表するつもりであったのか、「芥川龍之介」と云う署名がされて、二つとも、「カル シヤマイエル」、「エルンスト ミー」と、その横文字の名前のわきに、わざわざ振り仮名までふられている原稿である。が、その内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど回じで、――これらの先後して、(いずれかが書き直しのつもりで)書かれた原稿のいずれが「清書」とも、また最初のものとも、筆蹟その他等からも、一切わからない。(編者は唯比較的に読みやすく書かれた方の原稿「カル シヤマイエルと自分」の方を採って、絶えず「エルンスト ミーと自分」と引合せながら、編者独自の採択を行った。――それらの両原稿ともに、これだけの範囲内でも、いずれも完全なかたちとして残されていなく、欠けた部分を他で補わなければならなかったが、いまは一々それらを註しなかった。それらはどこまでも編者の編と云う点に拠った。しかし、句読点その他の一切の加筆や削滅は行わなかった。ただこれらの原稿は或時代の彼の原稿の書き方のため、読点を用いない一字アケの非常に多い文章で、――他との均合い上、如何かとは思われたが、編者はそれらの原型を敢て保存することにした。』[やぶちゃん注:以下略。この『編者註』はかなりの分量があり、葛巻氏による原稿が書かれた経緯や内容への推理・考察が記されてある。それでも不充分であったものか、末尾にもさらに追記風に『編者註』が加えられてもいる。その考察の中には非常に興味深いもの(後の芥川龍之介の晩年に書かれた私の偏愛する「彼 第二」(芥川が参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあり、龍之介とも友人となり、非常に親しかったアイルランド人新聞記者トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年:芥川が彼と知り合ったのは、まさに本未定稿が書かれたと推定される大正五年の年初前後と推定されている)を主人公とするもの。リンク先の私の電子化の注を参照されたい。彼のことは他にも「上海游記」の「二 第一瞥(上)」「三 第一瞥(中)」や、「北京日記抄」の「二 辜鴻銘先生」にも出、芥川龍之介の大正八(一八一九)年の日記「我鬼窟日錄」でも二人の緊密さがよく判る(孰れも私のオリジナル全電子化注。特に最初の注では教え子が上海の彼の墓を探索して呉れた結果が必見である))との強い連関性である。私もそれ――即ち、ドイツ人 Karl Schatzmeyer 或いは Ernst Müller とは、このアイルランド人 Thomas Jones がモデルではないかという示唆――を支持するものである。そもそもこの時期に芥川龍之介がドイツ人青年と親しかった事実は少しも見当たらないのである)も含まれてある。紹介したいところだが、葛巻氏の著作権は存続しているので、詳しくは葛巻氏の原本を読まれたい。]

   《部分引用終了》

述べおられるところの、甚だ復元とは言えない不審点を多く感ずる〈作品断片〉なのである。以上の葛巻氏の謂いからお判り戴けるものと思うが、「Ernst Müller」或いは「エルンスト ミー」或いは「エルンスト」或いは「ミユラアー」の名は葛巻氏のそれには一切出現しない。即ち、葛巻氏は「Ernst Müllerと自分」という未定稿原稿の《Ernst Müller》なる人物を《Karl Schatzmeyer》に置き換えて両原稿を恣意的にカップリングした、しかも『欠けた部分を他』の原稿断片らしきもので『補』い、しかもその補った『他』の正体を一切『註しな』い状態でそれを行った、と述べておられるわけで、まさにそれは葛巻氏自身が図らずも述べてられる通り、『それらはどこまでも編者の編』、則ち、芥川龍之介原作を用いた葛巻氏の手になる、葛巻氏のみの確信犯で作り上げられた、にも拘わらず「芥川龍之介未定稿」の一つと名打った結合改作物であると言うことになるのである。しかも、基礎底本とした新全集第二十二巻の「未定稿」には、本篇とは別に「芥川龍之介資料集・図版1・2」底本の「ERNST MÜLLERと自分」という別な未定稿がちゃんと載るのである。

 その「ERNST MÜLLERと自分」(当該新全集の「後記」では、推測で、「ERNST MÜLERと自分」の方は『中に「欧州の大戦乱が勃発」と記されていることなどから』、大正五(一九一六)年頃に執筆されたものであろうとし、「Karl Schatzmeyer と自分」よりも十三篇も前(同巻は編年構成である)に配されてある)は同様の仕儀で、故あって、この最後に電子化する。最初に言っておくが、少なくとも「新全集」の「Karl Schatzmeyer と自分」と「ERNST MÜLLERと自分」を読み比べても、またそれぞれの「後記」を読んでみても、現存する両原稿のそれは葛巻氏の言うような『内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど同じ』ものなどではないのである。

 立ち戻って、当該新全集の「後記」によれば、この「Karl Schatzmeyer と自分」の方は推定で大正五~六年頃に執筆されたものであろうとある。大正五~六年は東京帝国大学卒業から海軍機関学校嘱託教官時代である。

 本文冒頭の「Karl Schatzmeyer」へのルビは基礎底本でも「芥川龍之介未定稿集」でも「カルル シヤツマイエル」であるが、ここは葛巻氏の『註』にある表記法をそのままに用いた。読点なしの字空けは散在するのは基礎底本のママである。

 適宜、当該語句を含む各段落末に注を挿入した。

 なお、本電子化は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,390,000アクセスを突破した記念として公開する【2020717日 藪野直史】]

 

   Karl Schatzmeyer と自分

 

 成瀨が自分を Karl Schatzmeyer(カル シヤマイエル)に紹介してからもう三年になる。何でも成瀨の伯父さんが伯林にゐた時、この男の親父(おやぢ)に世話になつたとか何んとか云ふので、先、伯父さんが成瀨に紹介し、それから又 成瀨が自分に紹介してくれたのである。

[やぶちゃん注:「伯林」ベルリン。]

 自分の記憶に誤がないとすれば、始めて遇つたのは十一月の末である。成瀨から電話で 今夜シヤマイエルと云ふ男が遊びに來るが遇つて見ないかと云つて來た。勿論 こつちの獨乙語は人並みに遇つて見ようなどと云へた義理のものではない。しかし自分は前から、その男が浮世繪の蒐集をしてゐるとか、源氏物語の插繪を自分で描(か)きたがつてゐるとか云ふやうな事を、ちよいちよい耳にはさんでゐた。さう云ふ人間なら、天氣と基督敎の事ばかり話してゐる宣敎師などとは違つて、話の種に困るやうな事は先 なからう。それに一人だと いくら何でも 聊たぢろぐが 成瀨の二人なら高等學校の時に習つた獨乙會話篇の文句を代り代り饒舌つても どうにか胡麻化せるに違ひない。自分はかう考へたから 早速承知の旨を答へてやつた。

[やぶちゃん注:「たぢろぐ」室町時代まではかく表記したので誤りではない。]

 日が暮れてから 成瀨の家へ行つて見ると先方はもう餘程 前から來てゐるものと見えて、暖爐(カミン)の前へ椅子を据ゑながら 和漢名畫選を膝の上にひろげて、友の落ちさうになる紙卷を口に啣ヘたり指にはさんだり 大に持てあつかつてゐる。成瀨は又 ひとりで太刀打ちをつづけるのに内心可成辟易してゐたらしい。それは自分が扉をあけてはいると、さも助かつたやうな顏をして 急に元氣よく語尾變化の怪しい獨乙語で 自分を紹介してくれたのでも、知れるのである。シヤツマイエルは自分の顏を見ると、紙卷を灰皿の中へ抛りこんで 勢よく椅子から立ち上りながら、[やぶちゃん注:参考底本にはここに『七字欠』とあり、葛巻編の「未定稿集」では『数字分欠』とある。]とか何とか云つて 手をのばした。

[やぶちゃん注:「暖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語で「壁に取り付けた暖炉」のことを指す。

「大に」「おほいに」。]

 自分も仕方がないから 學校で敎はつた通り、

 「お目にかかれて大變愉快です」と云ひながら、向うの手を握つた。雀斑のある 大きな白い手である。自分はその時 はじめてこの男をよく見る事が出來た。

[やぶちゃん注:「雀斑」「そばかす」。]

 先第一に眼を惹くのは この男の鼻である。華奢な鼻柱が始はまつすぐに上から下りて來たが 途中で 氣が變つて ちよいと又元來た上の方を顧眄したとでも形容したらよからう。先の方が抓んで持上げたやうに上を向いてゐる。かう云ふ鼻は いくら西洋人でも 到庭滑稽の感を免れない。自分は之を見ると、昔讀本(リイダア)か何かで讀んだ事のある ナポレオンが鼻の上を向いた男ばかり集めて近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した。シヤツマイエルは正にこの近衞兵になる資格のある男である。しかし遺憾ながら 體格が餘りよくない。尤も 背だけは普通の日本人よりも少し高いが 胸が狹くつて、瘦せてゐる所が 自分によく似てゐる。自分は椅子をひきよせて腰をかけながら私の同病相憐れんだ。シヤツマイエルは 瘦せてゐる癖に 昂然と頭をあげて 自分と成瀨とを等分に見比べながら 例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。

[やぶちゃん注:「顧眄」(こべん)は振り返って見ること。「眄」は「見回す」・「横目で見る」の意。]

 

 それからぽつぽつ會話をやりはじめた。それも「あなたは麥酒が好きですか」と云ふやうな事から 話し出すより外に仕方がない。元來自分は西洋人と話をする時には その前に必とつときの文句を拵へて置く。さうして話をする時には それを小出しの金のやうに少しづつ出して使ふのである。だから一時間位は、どうにでも融通をつける事が出來る。――しばらくして自分はそのとつときの文句の中から、シユウインドの畫はどうだと云ふやうな事を云つた。

[やぶちゃん注:「シユウインド」葛巻版では『シンド』。不詳。ドイツ・ロマン主義時代の画家となると、カール・シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg 一八〇八年~一八八五年)臭い感じはするが、彼はロマン主義ではなく、小市民的日常の観察に立った「ビーダーマイヤー」(Biedermeier)時代を代表する作家である。]

 すると、シヤシヤツマイエルは 上を向いた鼻を一層上を向けて 何か大に辯じ出した。卓勵風發と云ふ語は こんな時に使ふにちがひない。それも始めの中こそ シュウィンドの浪漫主義はオオベルレンデルに比べてどうとかだから 好箇の並行線をどうとかすると云ふやうな事だと思つたが、少し經つともう誰の事を何と云つてゐるのだか一向判然しなくなつた。シユウインド Oberlaender Stuck Klinger などと云ふ名が無暗に出る。自分と成瀨とは わかつたやうな顏をして、首をふりながら聞いてゐた。勿論 話の大部分はわからないが、どうもシユウインドの惡口を云つてゐるらしい。そこでシヤツマイエルが口をつぐむと、自分は「至極同感に思ふ シユウインドの畫は自分も好まない」と云つた。すると先方は人が好ささうに笑ひながら Ja と云つて、何度も合點をして見せる。自分は反つて 恐縮した。

[やぶちゃん注:「卓勵風發」正しくは「踔厲風發」で「たくれいふうはつ」と読む。議論などが他に優れて鋭く、風が吹くように勢いよく口から出ることを指す。「踔厲」は「卓絕嚴厲」の略。

「オオベルレンデル」次のアダム・アドルフ・オーベルレンダーのことであろうか。

Oberlaender」葛巻版では『Oberländer』。これはドイツの風刺漫画作家・イラストレーターのアダム・アドルフ・オーベルレンダー(Adam Adolf Oberländer 一八四五年~一九二三年) と考えてよい。

Stuck」ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家のフランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck 一八六三年~一九二八年)。一八九五年からミュンヘン美術院の教授となり、教え子にはパウル・クレーやワシリー・カンディンスキーがいる。

Klinger」ドイツの画家・版画家・彫刻家で、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われるマックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。私の好きな作家である。

Ja」ドイツ語で「はい」「yes」に当たる「ヤー」。]

 所が自分のこの答は大に成瀨を發奮させたと見えて、今度は成瀨の方から突然千萬人と雖も我往かんと云ふ調子で「エドガア・アラン・ポオの作品を君はどう思ふ」と訊(き)き出した。シユウインドとポオとどう云ふ關係があるのか それは成瀨に訊いて見なければわからない。シヤッツマイエルも聊 話題の急變したのに勝手が違つたやうであつたが、すぐにまあ卓勵風發をやり出した。今度は Kubin と云ふ名が時々出る。すると成瀨は大に景氣づいて、自分のやうに首をふつて聞いてゐるばかりでなく 何とか短い返事を加へ出した。尤も成瀨の獨乙語はシヤッツマイエルのよりも自分にわからない これはその時ちよいと感心したが 後で聞いて見たら その前の目にカビンの插畫を入れた Aurelia と云ふ本の獨譯が成瀨の所へ屆いてゐたので、それでどうにか話を合せて行けたのである。

[やぶちゃん注:「Kubin」「カビン」葛巻版では後者は『クビン』。ボヘミア生れのオーストリアの画家アルフレード・レオポルド・イジドール・クービン(Alfred Leopold Isidor Kubin 一八七七年~一九五九年)。マックス・クリンガー、ゴヤ、ビアズリーの影響を受け、独自の幻想的世界を描いた。ポー・ホフマン・ネルヴァル・カフカ・トラークルなどの錚錚たる幻想作家の作品の挿絵を描いた。キリコやクレーに影響を与えた。やはり私の好きな作家で、彼自身が書いた “Die andere SeiteEin phantastischer Roman (一九〇八年発表。私は法政大学出版一九七一年刊の野村太郎氏訳「対極 デーモンの幻想」で読んだ)は私が殊の外偏愛する幻想怪奇小説(無論、挿絵も彼)である。

Aurelia」フランスのロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval 一八〇八~一八五五年)の遺作の幻想小説。原題は“Aurélia ou le rêve et la vie” (「オーレリア、或いは夢と人生」。一八五五年作)。クービンのイラスト入りのドイツ語訳は一九一〇年刊。

 以上で参考底本の新全集の「Karl Schatzmeyer と自分」は終わっている。冒頭からここまでは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」とは一部の助詞の違いや表記の違い、空白部に読点がより打たれてあることなどの外は、有意な異同は認められない。ところが、葛巻版は――この後が――行空けもなく――普通に改行して佗上記の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の分量の二倍以上も続いている――のである。

 前注で示したように、葛巻氏は「ERNST MÜLLERと自分」と「Karl Schatzmeyer と自分」とを、カップリングして辻褄の合うように恣意的に操作を加えていることは間違いない。

 しかし、これが――単なる恣意的な葛巻氏の掟破りの自分勝手な断片合成或いは葛巻氏の創作挿入でないとするなら――或いは、現在は既に失われた芥川龍之介の今一つの幻の未定稿の余香を残すものであるとするなら――これを無視する訳には当然、行かない。しかもこれは「芥川龍之介未定稿集」に芥川龍之介のそれらと同資格で以って所収・並置されているものなのであって、葛巻義敏の作ではない(編したのは自分であるとおっしゃってはいるが、それを葛巻の著作権や編集権が発生するものとするには明らかに無理がある)。

 そこで、現存する「Karl Schatzmeyer と自分」は以上に示したので、以下では、参考として葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」の、上記部分に続いている箇所を総て示しておくこととする。なお、これが葛巻の編集権(連結したという断片素材の実物を示さず、また、恣意的に繋げたにも拘わらず、「芥川龍之介未定稿」の一つとする場合には、それは最早「編集」とは言えず、「改竄」である)なるものを侵すとするなら、それ以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」自体が芥川龍之介の未定稿集を詐称して改竄したものを出版した点をこそ、まず問題とせねばならぬこととなる。

 

    *   *   *

 

■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の上記パートに続く後半部分

[やぶちゃん注:以上のような経緯のある非常に問題のあるものであるので、少し迷ったが、同じように注を附した。なお、葛巻氏は本篇末の註で、『この時代の』芥川龍之介の『原稿の書き方――読点なしに、一枡を一字分だけあけることを含んでいる。――に就いては既に前』(当該書の別な前の作品での註を指す)『に註したが、その他の用字や用語についても、この時代にはまだ、「訳」(「訣」字でなく)、「可成(かなり)」、「不思儀」、「小供」、「之(これ)」、「饒舌る」、「はひる」、その他等々後年の彼の表現とは違うものを混用していることも、一言註して置きたい。(それらは、一つの例として、強いてここでは改めなかった。草稿であり、一未定稿と云う意味からも。)』と述べておられる。そのままに以下に電子化し、ママ注記も一部の除いて打たなかった。なお、底本のルビは総て採った。これは、底本凡例に於いて『本文のルビは総て芥川が附けたものである』と述べているからである(但し、実は私はこの断言にやや疑問を抱いてはいる)。]

 

 それから 一週間ほど後に成瀨と二人で 始めて 彼を訪問した。その時の事は 比較的よく覺えてゐる。彼はその頃 四谷北伊賀町の或しもた家の二階に 下宿してゐた。八疊と四疊半と二間つづきで 兩方とも床の間はない。安普請ではあるが、新しいだけが取柄であらう。その八疊のまん中に 大きな机を据ゑて 机の前に輪轉椅子が一つ置いてある。あと外(ほか)には豐國や國芳の役者繪を一々ピンで叮嚀にとめた 銀色の黑く燒けた、二枚折りの古屛風が一つ、――黃大津の壁側にならべてある、籐の肘掛椅子が二つに 背の低い書棚が三つばかり ――外には、何の裝飾もない。

[やぶちゃん注:「四谷北伊賀町」現在の新宿区四谷三栄町(よつやさんえいちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「黃大津」「きおほつ」。壁土の一種。黄色の埴(へなつち)に牡蠣灰(かきばい)と籾莎(もみすさ:稲藁を二センチメートル程度の大きさに刻んで揉み解したもの)を混ぜたもので、上塗りに用いる。]

 

 シヤツマイエルは、何時も この八疊に陣取つてゐる。

 その時も 自分たちがはいつて來るのを見ると、人が善ささうに 鼻の先へ皺をよせて笑ひながら 何でも「Guten Morgen」位な事を云つて 少しきまりが惡さうに手を出した。雀斑のある、大きな白い手である。

[やぶちゃん注:「Guten Morgen」「グーテン・モルゲン」。ドイツ語で(以下略す)「おはよう」。]

 

 自分たちは この手を握りながら 高等學校で習つた、日獨會話篇のとほり Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ? とか何とか云つて 出たらめな 挨拶をした。

[やぶちゃん注:「Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ?」「ヴィ・ゲーツ・イーネン、ヘェアァ・シャッツマイヤー?」。「シャッツマイヤーさん、お元気ですか?」。]

 

 それから 籐椅子に腰を下して 所謂會話を始めた。――この男が、浮世繪の蒐集をしてゐる事は 前にも書いたが、この時、はじめて 彼が日本に來てから 蒐集した 浮世繪を 見せてもらつた。

 日本へ來てゐる西洋人で、浮世繪を難有がらない者はないが、それは 御多分に洩れず、――廣重の江戶名所が 六七枚に、國芳の、「見立提灯藏」が揃つてゐる外には 皆、碌なものではなかつた。

[やぶちゃん注:「見立提灯藏」「みたてちやうちんぐら」。歌川国芳の大判錦絵で十一枚揃い。弘化4(一八四七)年から翌嘉永元年にかけて制作された、様々な美人の姿を「仮名手本忠臣蔵」の各段の著名な場面に見立てたもの。参照した「立命館大学所蔵貴重書アーカイブ」のこちらを見られたい。]

 

 中には、六圓で買つたと云ふ北齋は、新しい複製でさへ あつた。それにもかかはらず 彼は、この不二がどうだとか、この海の藍がどうだとか さも感心したらしい 批評をつけ加へた。

 特に、その批評の中で 刀をさしたり 上下(かみしも)をつけたりしてゐる人物が出て來ると、彼は 必 Heldenと云ふ語(ことば)をつかふ。無理もない 事には、――ちがひなかつたが、團七九郞兵衞と左平次との二人立ちを Zwei kämpfende Helden(二人の鬪へる英雄)と呼んだ時には 到頭、自分は たまらなくなつて、吹き出してしまつた。彼が 妙な顏をして、吃りながら「何が可笑しい」と云つたのを思ひ出すと、自分は 今でも 恐縮する位である。

[やぶちゃん注:「Helden」「Zwei kämpfende Helden」「ツァイ・カンプフンダ・ヘルデン」。

「團七九郞兵衞と左平次」「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ:延享二(一七四五)年大坂竹本座初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲の合作)」の「七段目「長町裏」(通称「泥場」)の段であろうが、「左平次」は「義平次」の誤り。団七九郎兵衛が義父義平次を惨殺する下りである。詳しくはウィキの「夏祭浪花鑑」を参照されたい。]

 

 しかし、彼の浮世繪評は 曖味であつたが、その知識と云ふ點になると、日本にゐて日本の事を知らない自分たちよりは 遙かに、確な所があつた。國貞が生れたのは千八百何年で 死んだのが何年だから、豐國を襲名した何年は、丁度 何歲の時だらうなどと云ふ。さうかと思ふと、寫樂は能役者だつたとか 豐國は道樂をしたとか云ふ。その時も 歌川といふ名の系譜のやうな事を 根氣よく述べ立てた。かう云ふと、さも 衒學的な人間のやうに聞えるが、それは 決してさうではな[やぶちゃん注:ここには葛巻氏が脱字と判断して補った『〔く〕』が入っている。]、この男が喋るのは ただ神經質で、話と話との間がとぎれるのを ひどく氣にするのである。

 その上、どうかすると 彼には時々 吃るくせがあつた。現に成瀨の所で 獨乙の繪の話か何かになつて Kubin がどうとかしたと云つてゐる中に KKKK-と吃り始めた。そのクビンが一つうまく云へると 後は今まで吃つて遲れた時間を 取返す氣なのかと思ふ程 早口で辯じつづけた。さうなると 獨乙語の未熟な人間なのだから 愈 何が何だかわからなくなる。自分は 例の上を向いた鼻の下で 薄い唇が痙攣的に動くのを眺めながら 今更のやうに南蠻鴃舌と云ふ成語を思ひ出した。

[やぶちゃん注:「南蛮鴃舌」「なんばんげきぜつ」と読む。五月蠅いだけで意味の通じない外国語を卑しめて言った卑称語。「孟子」の「滕文公(とうぶんこう)上」による。「鴃舌」は鳥のモズの鳴き声を指す。]

 

 神經的な自分は 今でも その吃る時小供のやうに赤い顏をするのを見て 妙にこの男を氣の毒に思つた事を覺えてゐる。もしこの男にかう云ふ癖がなかつたら 自分との交情はもつと疎遠になつたのにちがひない。――

 德川時代の寂びた色彩を眺めながら その絵の說明を獨乙語で聞かされた時の不思儀な心もちを 今でもはつきり 自分は覺えてゐる。洋服の膝の上へ 自分たちは 過去の空氣の中に 何十年を寂びつくした江戸錦繪をひろげながらそれらを聞いてゐたのである。

 かうやつて 怪しい會話をつづけてゐる間にやがて晝飯の時刻になつた。食事は階下の六疊でするのである。

 二階を下りて見ると もう ちやぶ臺の上に茶碗と箸とが自分たちを待つてゐる。そのまん中には 赤と金とによい程の時代がついた九谷燒の德利さへあつた。これはシヤツマイエルが 古道具屋をあさつて買つて來たものだと云ふ。自分たちは その德利の酒をのみながら 膳の上の酢の物をつついた。伯林にゐた時から持つたとか云ふので 彼は箸が自由に使へる。坐るのには勿論 困らない。

「剌身と澤庵ととろろを除けば 何でも食べられる。」

 かう云ひながら 彼は得意さうに 例の上を向いた鼻を 一層上へむけて 自分たちの顏を見𢌞した。

「これからあなたの所へ日本の事を ききに來ませうか」 かう云つて自分たちは 笑つた。

「ええ 來て下さい。その代り獨乙の事はあなた方の方がよく知つてゐませう。私は獨乙の事をききます。獨乙の今の作家の事を。知らなくとも 私よりあなた方の方が 彼等に同情のある事はたしかでせう。……」

 その日の訪問は こんな事で完つた。それから一月ばかりたつて 今度は自分一人で行つて見ると この獨乙人は――銘仙の綿入れに 大嶋の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管で煙草をふかしながら 端然とその輪轉椅子に腰を落着けてゐたのだから 奇拔である。さう云ふ異樣ななりをしながら その朱羅宇の煙草を持ちかへて 自分に 雀斑のある 犬きな白い手をひろげて出す。勿論 握手をしろと云ふ合圖である。

[やぶちゃん注:「完つた」「おはつた」。

「朱羅宇」「しゆらう」。朱色をした、煙管(キセル)の火皿(ざら)と吸い口とを繋ぐ竹の管のこと。古くラオス産の竹を使ったことから「羅宇」と当てて書く。]

 

 この時 彼がはいてゐる黑繻子の足袋が十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話も 着物も一反では足りない 二反かかつたと云ふ事も聞いた。見ると成程、唯でさヘ一反では覺束ない所を その裾が又 べらぼうに長く出來てゐる。話を よく聞いて見ると 之(これ)は浮世繪の中に出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく 特別 彼が仕立てさせたものであつた。

[やぶちゃん注:「黑繻子」「くろおしゆす(くろしゅす)」。「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。

「十三文半」凡そ三十センチメートル前後か。]

 

 その日も又、この男の口から 獨乙語で浮世繪の說明を 刻み煙草の煙りと一しよに 長々と聞かせられた。自分は 理由のない輕蔑から それらの說明を輕蔑してゐたが 併し亦 妙な興昧もあつた。彼はその時 浮世繪の裝飾的特質と云ふ事を しきりに說明してゐたが さて 實際に、浮世繪を 室内の裝飾に使ふと云ふ段になると 少からず當惑した。どうも額へ入れて 壁ヘつるすのは 不調和だと云ふやうな議論だつたと思ふ。自分は勿論、日本間へ輪轉椅子を置いてその上へ銘仙のお引きずりを前で 腰をかけてゐる彼に 調和不調和の問題を論ずる資格など あるまいと(不法にも)その時は 思つてゐた。さうして 豐國や國芳の役者繪を一一ピンで 叮嚀に この色の變つた 銀の古屛風に 貼りつけてあるのも、その調和不調和の考へから 來てゐるのだらうと思つた。――さうして 亦、この古屛風を後(うしろ)にして 輸轉椅子に お引きずりの銘仙の 綿入れを着て 早口に喋りつづけてゐる この異樣ななりをした外國人と――不思儀にも、自分がこんなにも早く(何時の間にか、)親しくならうと云ふ事などは 夢にも考へなかつた。――しかし 不思儀にも 間もなく シヤツマイエルと自分とは 親しい間がらとなつて行つた。――この日は 歸りにハムズンの獨譯を二三册 借りて歸つた。

[やぶちゃん注:太字「不法」は底本では傍点「ヽ」。

「お引きずり」「御引き摺り」。着物の裾を引きずるように着ること

「ハムズン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)のことか。後の一九二〇年、作品「土の恵み」でノーベル文学賞を受賞したが、ナチスを支持し続けたため、戦後、名誉は失墜した。]

 

 四度目には――さう一一 會つた時の事を 全部 書立てなくとも善い。唯 自分はこの男と自分との交涉を 多少 ここに小說めかしく 書きつければ 好いと思つてゐる。

 彼と自分とは又、東京中を 當てもなしに 足にまかせて 步き𢌞つた。――淺草の觀音堂のまはりを鳩に豆をやりながら 根氣よく半日ばかり 散步した事もある。[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔二字分缺〕』が入る。]から電車で 永代まで行つて 永代から一錢蒸氣で吾妻橋へ來て 吾妻橋から步いて向島へ行つて 長命寺の櫻餅を、晝飯代りに食つた事もある。中でも一番 記憶に殘つてゐるのは、一しよに銀座の松下へ行つた歸りに 何かの道順で 白粉の匂のする 狹い 裏通りを拔けた時のことである。

[やぶちゃん注:「永代」永代橋(えいたいばし)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「吾妻橋」ここ

「長命寺」現在の東京都墨田区向島にある天台宗宝寿山遍照院長命寺。「長命寺桜もち」で知られる。

「銀座の松下」後述からは料理店らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 狹い往來の兩側には、みがきこんだ格子戶の中に 御神燈がぶら下つてゐたり、水を打つた三和土(たたき)の上に盛鹽がしてあつたり 白い菊の花が活けてあつたりした。すると シヤツマイエルがこれを見つけて、この町にはどんな階級の人間が往んでゐるかと訊(き)くから、自分は無造作に藝者だと敎へてやつた。所が この答がシヤツマイエルの好奇心を動かしたと見えて、彼はそれ以來 女さへ通れば 自分に「あれは藝者か?」と 尋ねた。勿論 獨乙語で尋ねるのだから、彼は先方の女には 何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で 「藝者か?」ときく。それには 自分は、少からず 弱らされた。――彼は亦 何かの話の序から Madame Chrysanthèmeを思だすとも云つた。それはその「お菊さん」のやうな人を、紹介してくれと云つたのか どうか知らないが――自分は、いま以て 白い菊の花と、ロティと、この獨乙人とが、一しよになつて 思ひ出される。……

[やぶちゃん注:「Madame Chrysanthème」「マダーム・クリザンテーム」。フランス海軍士官で、世界各地を航海して訪れた土地を題材にした小説や紀行文をものした作家ピエール・ロティ(Pierre Loti:本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー Louis Marie-Julien Viaud 一八五〇年~一九二三年)が一八八七年に発表した小説。邦訳は専ら「お菊さん」。]

 

 彼を訪ねると、机の上に 妙な火入れ見たいなものが 出してある。元來は 杯洗か何か[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の欠字註『〔に〕』が入る。]使はれたものに[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔ちがひ〕』が入る。]ない。彼は机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出して こちらへよこして、日本語で、「ドウダ?」と云つて、すすめてくれる。それから 銘仙の襟を、かき合せて 今度は獨乙語で、「大學は 面白いか?」とくる。この二つは 前の手を出すのと 一般で 天氣の如何にかかはらず、やらない事はない。さうして、自分が「日本の大學位 退屈な所はなからう」と答ヘると、「獨乙の大學も同じだ」と こたへる。さもなければ「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ。どつちがほんたうなのか 未(いまだ)に わからない。

[やぶちゃん注:「杯洗」(はいせん)は酒席で一つの盃を複数で使い回す際に用いる、盃を洗うためのやや大振りの器。

「抽匡」「抽斗」或いは「抽筐」の芥川龍之介の誤字であろう。「ひきだし」。]

 

 彼の所へ行くのは 唯、漫然と饒舌(しやべ)りに行つた事もあれば、本のわからない所を聞きに行つた事もあつた。どちらか と云へば、大抵 前の場合の方が多い。後の場合でも、自體が根氣のいい男だから、彼は 繰返し 繰返し 敎へてくれるが、その親切氣には 今でも感謝してゐるが その繰返す度に せき込んで來て、無暗と口が早くなるには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落着いて話してゐても、碌に向うの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから、さうなつて來ると 愈 何を云つてゐるのだか わからなくなつてしまふ。唯、神經的に唇の動いてゐるのを、見つめてゐるしかない。また、こつちから、喋るにも 中々骨が折れた。何しろ 高等學校の時に習つた日獨會話篇を應用するより 仕方がないのだから、第一 噓をつく事になる。ほんたうの事を云はうとすると、その語(ことば)さへも、なかなか 見つからない。話題は 重に 文學の話とか、美術の話とかであつたが、一度 ケスの話か何かをした序(ついで)に 彼と戰爭論をはじめてしまつたのも、元をただせば、全く これに崇られた お蔭らしい。――

[やぶちゃん注:「ケス」不詳。後で示す「ERNST MÜLLERと自分」のこれと類似した箇所では『ケルネル』とある。これは或いは、ドイツの劇作家で詩人であったカール・テオドール・ケルナー(Karl Theodor Körner 一七九一年~一八一三年)のことではないかと考える。戯曲「ツリニー」(Zriny :一八一二年) により文名を確立し、対ナポレオン解放戦争の愛国詩人として活躍、義勇軍に加わって戦死した。死後、父親の手によって編纂された詩集「琴と剣」(Leyer und Schwert :一八一四年刊) は熱狂的に迎えられた、と「ブリタニカ国際大百科事典」にある人物である。]

 

 獨乙人と云へば、必ず 麥酒よりも 人と喧嘩をする事の方が それ以上に好きだと思つてゐた自分には、このシヤツマイエルと云ふ男が、獨乙帝國の カイゼルの臣民の 一人だと思ふと、どうも 少し 矛盾が感ぜられて ならなかつた。――何しろ 喋り出すと、加速度で口の早くなる男だから、その喋つてゐる事の全部が全部 わかつた譯ではないが――シヤツマイエルは 元来 戰爭と云ふものが嫌ひらしく、例の 朱羅宇の煙管で 自分の膝をたたきながら むきになつて 辯じ出した。(この時の事は 可成、はつきりと覺えてゐる。)元來、戰爭と云ふものが 嫌ひらしく、戰爭と云ふ言葉を聞くと 顏をしかめて 例の鼻を上へ向けて、「トルストイが云つてゐる通り」と云つて、「自分もさう思ふ」と 答へる。それから、さも 人を莫迦にしたやうに 鼻を一層、上へ向けて「死ニタイカ アナタハ?」と 來る。自分が nein とこたへたのは 勿論である。すると、彼は「私モ死ニタクナイ」と云つて それから 妙な身ぶりをした。遺憾ながら自分は、之(これ)を妙な身ぶりと云ふより外に仕方がない。强ひて說明すれば 兩足を少し前へ出してちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとか云つて シヤツマイエルの非戰論に反對した。すると、彼は 急に むきになつて 何度も「トルストイが云つてゐる通り 自分もさう思ふ」を繰返しながら、あの朱羅宇の煙管を、恰も「さう思ふ」の代表者であるかの如く 自分の服の前へつきつけると 二三囘ふりまはして見せて、滔々と 自說を 辯じ出した。今も云つた通り 加速度に口が早くなつて行くのだから 何を云つてゐるのだか その全部はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に、並べ立て出したのは 確かであるらしい。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 別にこれと云つて 大した主張がある訳でも 何でもないのだから 自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく 參つてしまつた。それを見て 彼が例の鼻を 意地惡く 自分の顏の側へ持つて來て、「主戰論者が さう容易に 降參していいのか?」と云つたのを思出すと 今で心 少し忌々しい。…… それから 暫くして、歐洲の犬戰亂が 勃發してしまつたから つまり われわれの戰爭論が 惡讖に なつてしまつたのである。――あの開戰の號外の出た日 自分は彼に誘はれて、松下へ食事をしに行つて その歸りに あの狹い裏通りを通つた事は 既に 書いた通りである。

[やぶちゃん注:「nein」「ナイン」。「いいえ」。

「娓々」「びび」と読み、飽きずに続けるさま、くどくどしいさまを言う。

「惡讖」「あくしん」と読み、「悪い不吉な予言」の意。

 なお、この後は底本自体が一行空けになっているので、ここでは二行空けておく。]

 

 彼と自分との關係は、日本と獨乙とが 戰爭をはじめるやうになつてから 或緊張したものになつた。或日、突然やつて來て、「暇かね?」と云ふから、「うん 少ししかけた仕事があるけれど、まあ 上つて行くさ」と云ふと「なに 又來てもいい」と 彼は云つた。

「いや 手がはなせないやうな仕事なら 僕の事だから さう云つて斷るが、さうではないから上つて話してゆき給へと云ふのだ。」

 これには 噓があつた。實際 仕事は手をはなしたくない性質のものだつた。が 何か 何時ものやうに ぶつきらぼうに 斷はる氣になれなかつたのである。

[やぶちゃん注:「斷はる」はママ。なお、末尾には『・・・』が打たれてあるが、これは葛巻氏が底本の他の断片でよくやる癖なので除去した。]

 

    *   *   *

 

[やぶちゃん注:以下は、先の「Karl Schatzmeyer と自分」と同じく新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」を底本とした「ERNST MÜLLERと自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記等を参考にして正字化したものである。字空けに就いては葛巻版に照らして変更を加えた箇所があり、そこは注記してある。

 各仕儀は以上の電子化注に従ったが、前に注したものは省略した。表記違いでも、前の参考文で比較して示したものもダブらせることはしていない。なお、本文冒頭の「Erst Muller」のルビを示した読み表記部分は、基礎底本では「エルンスト ミユラア」であるが、ここのみは葛巻氏の註にあるそれを用いた。]

 

    ERNST MÜLLERと自分

 

 自分が Erst Muller(エルンスト ミー)と近づきになつてから もう四年になる 始は 成瀨の紹介で會つた。その時 どんな事を話したか 今ではまるで覺えてゐない。二度目に會つたのは 自分が始めてこの獨乙人の下宿を訪問した時である。たしか半日ばかり話して 歸りに獨譯のハムスンを二三册借りて來たかと思ふ。三度目は――さう一一 會つた時の事を 書き立てる必要はない。自分は唯 この男と自分との交情を 幾分か小說らしく話しさへすればいいのである。

 ミユラアは その頃 上野櫻木町の或しもた家に下宿してゐた。六疊と四疊半と二間つづきで 安普請ながら 家は可成新しい。六疊のまん中には 大きな机があつて 机の前に輪轉倚子が一つ置いてある。あとは銀の色が黑く燒けた二枚折の古屛風と 籐の肘掛倚子が二つあるばかりで 外に別段これと云ふ裝飾もない。屛風には 過去の空氣の中から堀り出された豐國や國芳の役者繪が 一一に叮嚀にピンでとめてある。これは 額緣に入れて 壁へぶらさげるのが不調和だと云ふ考からであらう――ミユラアは何時でもこの屛風を後にして 端然と尻をセセツシオン式の輪轉倚子の上に落着けてゐた。

[やぶちゃん注:「上野櫻木町の或しもた家」「上野櫻木町」は現在の桜木町ではないので注意。寛永寺を中心とした、現在の上野桜木地区である。ところが、先に示した葛巻版「Karl Schatzmeyer と自分」では、ここが『四谷北伊賀町の或しもた家』と、南西に五・八キロメートルも離れた方向違いの地名になっているのである。これは「新全集」が拠った原稿(画像)以外にそう記した葛巻が見た全く別の原稿の存在を強く感じさせるものである。葛巻が統合編集するに当たって地所を変更するの必要性が全く存在しないからである(私は例えばモデルかも知れぬトマス・ジョーンズとの絡みでそうした可能性を考えて調べたが、ジョーンズの住んだ幾つかの場所とは一致しないから、その線はないと思う)。

 

 それも唯 落着けてゐるだけなら 特筆する必要は少しもない。所がこの男は 秩父銘仙の綿入れに 大島の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管を口に啣へながら 右の膝の上へ左の膝をのせて大納りに納つてゐるのだから奇拔である。始めてたづねた時に 自分は彼のはいてゐる黑繻子の足袋が 十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話を聞いた。それから 着物も一反では足りなくつて 二反かかつたと云ふから 見ると成程 唯でさヘ一反では覺束ないと思ふ所へ 裾が又べらぼうに長く出來上つてゐる。よくよく聞いて見ると 之は浮世繪の中へ出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく特別に彼が仕立てさせたものであつた。

 ミユラアは かう云ふ異樣ななりをしながら 自分が行くと 必その朱羅宇の煙艸を持ちかへて[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔五字欠〕』と入っている。]とか何とか 世にも不精な挨拶をする。さうして それと同時に 自分の眼の前へ 雀斑(そばかす)のある 細い手をひろげて出す 勿論 握手をしろと云ふ合圖である が 自分は面倒臭いから 未嘗 一度握つた[やぶちゃん注:ママ。]事はない それでも 行きさへすれば 必ひろげて出す。自分が握らないと云ふ事を考へるより 手の出る方が先なのであらう。

 行くと 自分は何時でも 籐の肘掛倚子にかけさせられた。机の上には の[やぶちゃん注:字空けママ。]妙な火入れが出てゐる。何でも元來は杯洗か何かにちがひない。ミユラアは机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出してその火入れと一しよに 日本語で「ドウダ」と云ひながら すすめてくれる。それから 秩父銘仙の襟をかき合せて 今度は獨乙語で「大學は面白いか」と來る。この二つも 前の手を出すのと一般で 天氣模樣に變らず やらない事はない。さうして 自分が「日本の大學位 退屈な(ラングワイリヒ)所はなからう」と云ふと 「獨乙の大學も退屈だ」と云ふ。さもなければ 「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ どつちがほんとうなのだか 未にわからない。

[やぶちゃん注:「退屈な(ラングワイリヒ)」三文字に対するルビ。Langweilig。]

 

 話題には 一番文學上の問題が上つた。ミユラアは自體根氣のいい男だから 自分が何か質問でもすると 繰返し繰返し敎へてくれる。その親切氣には 今でも感謝してゐるが 繰返す度に せきこんで來て 無暗に口が早くなるのには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落ついて話してゐても 碌に向ふの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから さうなつて來ると 愈 誰の事を何と云つてゐるのだか それさへもわからない。自分は ミユラアの唇がめまぐるしく動き出すと 何時でも南蠻𩾷舌と云ふ成語を 今更のやうに思ひ出しながら あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた。

[やぶちゃん注:「さうなつて來ると 愈」底本では「さうなつて來ると」で行末で「愈」が次行一字目であるが、違和感があるので、葛巻版に従い、一字空けた。

「あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた」も「あつけにとられて」で行末で次行が頭から「唯……」とあるのだが、どうも生理的におかしい感じがするので、特異的に一字空けた。]

 

 鼻と云へば この男の鼻は 實際 人が眺めるばかりでなく、當人が眺めるのにも 甚都合よく出來上つてゐた。華奢(きやしや)な鼻柱が 始は素直に上から下りて來たが 途中で不意に氣が變つて 又元來た上の方を 眄一眄したとでも 形容したらいいのだらう。先の方が まるで抓(つま)んで持上げたやうに 上を向いてゐる。いくら西洋人でもかう云ふ鼻は 餘り上品に見えるものではない。自分はこの鼻を見てゐると よく ナポレオンか誰かが 鼻の上を向いた男ばかり集めて 近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した 兎に角 三十何才かの獨乙人にしては 氣の毒な鼻である。

 ミユラアは 鼻こそ近衞兵になる資格があるが 體格は甚振はない 瘦せてゐて 胸の狹い所が自分によく似てゐる 獨乙人と云へば 必麥酒がすきで 人と喧嘩をする事が それより猶すきな人間のやうに思つてゐた自分は この男が獨乙帝國の臣民だと思ふと どうも矛盾の感があつた。――自分がケルネルの話か何かした序(ついで)に ミユラアと戰爭論をはじめたのも 元をただせば 全くこの矛盾の感に崇られたおかげである。

 その時の事は 今でも可成覺えてゐる ミユラアは 戰爭と云ふと さも人を莫迦にしたやうな顏をして 例の鼻を一層上へむけながら 日本語で「死ニタイカ アナタハ」は來た。自分が nein と答へたのは 勿論である。すると 彼は 「私モ死ニタクナイ」と云つて それから妙な身ぶりをした。遺憾ながら 自分は 之を妙な身ぶりと云ふより仕方が外にない。强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して ちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとかと云つて ミユラアの非戰論に反對した。すると 彼は急にむきになつて何度も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔六字欠〕』と入っている。葛巻版では『「トルストイが云つてゐる通り 自分もそう思ふ」』となっている。]を繰返しながら あの朱羅宇の煙管を恰も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔三字欠〕』と入っている。葛巻版では『「そう思ふ」』となっている。]の代表者であるかの如く 自分の眼の前へつきつけて 滔々と自說を辯じ出した。何しろ殆 加速度で口が早くなつて行くのだから 詳しい事はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に並べ立てた事だけは確である。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 今も云つた通りミユラアの體格が獨乙帝國の臣民たるべく餘りに貧弱な所から起つたので 別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない。だから自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく參つてしまつた。それを見て ミユラアが例の鼻を意氣惡く 自分の顏の側へ持つて來ながら 主戰論者がさう容易に 降參してもいいのか と云つたのを思ひ出すと 今でも少し忌々しい……

 それから 暫くして 歐洲の大戰亂が勃發した。つまり 戰爭論が 惡讖になつたのである。――あの開戰の號外が出た日 自分はミユラアに誘はれて 松下へ食事をしに行つた さうしてその歸りに 二人で 銀座の裏通りを散步した。狹い往來の兩側には みがきこんだ格子戶の中に御神燈がぶら下つてゐたり 水を打つた三和土の上に盛鹽がしてあつたりする。するとミユラアがそれを見て この町にはどんな階級の人間が住んでゐると訊(き)くから 自分は無造作に藝者だと敎ヘてやつた。所がこの答がミユラアの好奇心を動かしたと見えて 彼はそれ以來 女さへ通れば 自分にあれは藝者かと尋ねる 勿論 獨乙語で尋ねるのだから 彼は先方の女には何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で「藝者か」と云ふ 自分は少からず弱らされた。――ミユラ

[やぶちゃん注:以上で底本は断ち切れている。

「强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して」同前改行で葛巻版に従って字空けを施した。

「別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない」の「訳」の字体は葛巻版の当該相当部に従った。

「降參してもいいのか」の後の字空けは読み易さから補った。]

 

2020/04/11

芥川龍之介「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」再校閲+作品集『三つの寶』佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を挿入


芥川龍之介の「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」に昨日、小穴隆一の二葉の挿絵を挿入、また本日、半日かけて全面的に厳密に再校閲して誤りを正し、さらに作品集『三つの寶』に載る佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を恣意的に「作品集『三つの寶』版」の前後に挿入した。特に佐藤のそれは実にしみじみとして、良い。以下に示す(画像は雰囲気を味わって戴くためのもので、本文の前半のみの原本(復刻本)の部分画像である)。

   *

Takaihenotegami
 

他界へのハガキ 

 芥川君
 君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了(しま)ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴(をあな)君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの校了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直(なほ)して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本をきたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜しかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、來て一つそれを僕に敎へてくれたまへ。ヸリヤム・ブレイクの兄弟がヰリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕(てが)るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもら度(た)いと思ふ――夢にでも現(うつつ)にでも。君の嫌(きらひ)だった犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記錄があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
  下界では昭和二年十月十日の夜      佐 藤 春 夫

2019/12/30

芥川龍之介 長への命 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本篇は「長(とこしな)への命(いのち)」と読み、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の掉尾に載る「長への命」の漢字表記を参考にしつつも、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「長への命」(但し、漢字は新字表記)を底本とした。しかし、同新全集の「後記」によれば、本篇は明治四一(一九〇八)年二月二十八日発行の回覧雑誌『碧潮』第三号所収であり、これは葛巻が配置した小学校時代ではなく(そもそもが葛巻自身が末尾に『(明治四十年頃、「くづれ」の署名で。回覧雑誌『碧潮』第三号)』と記しているように、彼は既に明治三八年三月に江東小学校を卒業し、翌月四月に三中に入学しているのである)、東京府立第三中学校三年次のものである。葛巻氏もそれは判っていて、後注で『このお伽噺は、必しも小学校時代のものとは云えないかもしれない。――しかし、その「日の出界」、「お伽一家」』(『お伽一束』が正しく、また、これは別回覧誌ではなく、『日の出界』の臨時号の名である)『(小学校時代)にはじまる、一連の回覧雑誌中の一例(サムプル)』(「例」のみのルビ)『として、ここに掲げる』という苦しい弁解をされている。しかし、これは同書のパート立てを全く逸脱していて納得出来ないし、流れとして、これをここへ持って来たいという意図は、まあ、判るとは言えるものの、だったなら、初めっから、逆編年形式とか、時代別などをしなければよかったではないかと私は思う。それぞれに注を附しておけば事足りることではないか。こういう妙なところに、葛巻氏が芥川龍之介の原稿を小出しに、しかも恣意的にちらつかせては、出そうか出すまいか、と、何やら思案されているような姿が私には垣間見えてしまうのである。

 以上、漢字を「未定稿集」に主に従って正字で示した以外(「竒」などのように新全集の方が正しい字体で記している箇所もある)、葛巻氏の整序(第一段落末の句点打ち等)を施した部分も含めて文字列(字空けや改行)は完全に新全集版に基づいたもので示した。

 なお、故あって、本電子化を以って2019年の最後の私の仕儀とする。……では……よいお年を――

 

   長への命

 

        

 愚なる國王ありき 如何にもして長への命を得むと思ひて 多くの從者(ズサ)を召しつれつ 遠く東方の諸國に不老の泉を求めぬ

[やぶちゃん注:「一」は「未定稿集」にはなく、後で「二」と出るので不審ではあった。

「ズサ」のルビは「未定稿集」にはない。]

 行き行きてアゼンスの市近く來りし時遂に一行はとある山かげの岩に不老の泉の銀の如く湧き出るを見出しぬ 王喜ぶこと不斜 自ら馬より下りて之を掬へば 竒しや 白髯雛面の老爺は忽ち綠髮紅顏の壯夫となンぬ 王歡喜して云ふ「嬉しき哉 我は長の命のうま酒を得たり」

[やぶちゃん注:「岩」「未定稿集」では『岩〔窟〕』と補正注を添えてあるが、ここは、いらぬお世話であると私は思う。

「不斜」「なのめならず」。

「掬へば」「すくへば」。

「竒しや」「あやしや」。「未定稿集」は「竒」が「奇」である。

「雛面」はママ。「未定稿集」は『皺面』とする。確かに「雛面」ではおかしく、葛巻氏のの断りなしの補正は正しいかとは思う。]

        

 春風秋雨億萬々年 逐に地球永遠に眠るべき――生命(イノチ)あるものの悉く亡ぶべき――時は來りぬ 然も愚なる國王は未死す不能也

 月明なる夜 彼は枯骨の岡に立ちて氷河をかくるヒマラヤの絕嶺をのぞみ白雪に掩はるゝヨーロツパの大陸を眺め月に澄みたる蒼空の無窮を仰ぎ長く嘆じて云ふ「あゝ長の命は苦しかりき」

[やぶちゃん注:「あゝ長の命は苦しかりき」「未定稿集」では『あゝ 長の命は苦しかりき』と字空けが入る。

「ヨーロツパ」は「未定稿集」では『ヨーロッパ』である。]

 

[やぶちゃん注:「アゼンス」ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読み。但し、この「國王」がどの時代の人物で、彼にモデルがあるやなしやも判らぬ。識者の御教授を乞う。

 さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の本篇の解説で坂本昌樹氏は(なお、そこで当時の芥川龍之介を『中学四年』とされているが、これは三年の誤りである)、『典型的な不老不死譚を逆手にとった作品構成の巧妙さが、後の芥川独特の機知を既に彷彿させている。無為な不老長寿に対する否定的発想は、二年後の「義仲論」』(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版。冒頭に初出書誌を示してある)『に於ける木曽義仲の評価「彼の一生は短けれども彼の教訓は長かりき」』(「三 最後」の最終段落の一節)『を連想させる。徒らな「長への命」を懐疑し、短いながらも充実した義仲の「男らしき生涯」を肯定する志向に、当時の芥川の関心の一面を窺うことも可能かもしれない』と述べておられる。同感であるが、寧ろ、芥川龍之介自身の最期を考えると、これは、また、酷く皮肉な一篇ともなっているということに気づくではないか。]

芥川龍之介 春の夕べ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「春の夕べ」の漢字表記を参考にし、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「春の夕べ」(藤沢文書館蔵。恐らくは葛巻義敏旧蔵品。但し、漢字は新字表記)の明治三六(一九〇三)年二月発行の回覧雑誌『日の出界』臨時発行号の『お伽一束』に基づいて構成表記し直したものである。則ち、漢字を「未定稿集」に従って正字で示した以外、葛巻氏の整序した部分も含めて文字列(字空けや改行)は新全集版に基づいたものである。

 本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年)頃、「芥川龍雨」の署名で。回覧雑誌「お伽一家」)』とするが、「家」は誤判読であろう。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科一年次の満十歳の終り(芥川龍之介は三月一日生まれ)であった。

 やや讀み難いが、躓く部分については後注を施した。]

 

   春の夕べ

 

「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」

と今日學校でをそわつた唱歌をうたいながら樂しげに 步んできた二人の少年

「ねー重ちやん今日の「かすみてみヽゆる」んとこねー大へんむづかしかつたね」

「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時

「一寸をたづね申します」

と見苦しき老僧は こしをかゞめてといかけた

「あの○○町の方へ行くのはどういつたらよろしいのでしよう」

「エ あの○○町なの こゝをまつすぐにいつて この橫丁から三番目の橫丁をはいると つきあたりがそうよ」

と美ちやんは丁寧に指さしてをしへた老僧は

「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々

とくりかへしてさししめされた方がくへ とぼとぼと步んで行つた

 

[やぶちゃん注:一読、芥川龍之介が心から尊敬して交わった先達の文豪泉鏡花の小説の冒頭のように見まごう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同作品の篠崎美生子(みおこ)氏の解説でも、『会話文を多量に含むやわらなか文体には、泉鏡花の影響があることが想像される。「愛読書の印象」』(大正九(一九二〇)年八月『文藝倶樂部』初出)『によれば、芥川は「中学へ入学前から(中略)鏡花氏の「風流線」を愛読していた」とのことであるが、初期文章の段階で、既にさまざな文体が試みられていることは注目に値しよう』と述べておられる。さて、以下、表記上の問題点及び「未定稿集」との違いについて述べる。

・冒頭の「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」は、まず、歴史的仮名遣の誤りは総てママ。なお、「ヽ」であって「ゝ」ではない点に注意されたい。「チュてん」とでも言うべきか、通常はカタカナの繰り返しにしか用いない記号である。「未定稿集」では『にーをー』と長音符である。私は正直、そっちの方が、唱歌を歌っているのであるからには違和感がない。実際、長音符使用は今回纏めて行った初期の文章に散見するからでもある。以下の何箇所かも葛巻氏のそうするように、長音符の方がいいだが、ここは皆、新全集に従った。この唱歌、歌詞を整序してみると、「あさひに」「にほふ山の櫻の」「かすみてみゆる」「さくらのはなの」である。しかし、完全にこれに一致するものは私は知らない。但し、知られた「さくらさくら」又は「さくら」(日本古謡とされるが、実際には幕末に江戸で子供用の箏の手ほどきの一曲として作られたもので、作者は不明)の歌詞と単語と表現が酷似しているから、恐らく、芥川龍之介が仮想の鏡花的幻想小説世界へのトバ口として、それを少し弄った架空のもののように私には思われる。もし、完全一致する歌詞があるとなれば、御教授願いたい。

・「をそわつた」「未定稿集」も新全集もママ。

・『「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時』の鍵括弧閉じるがないのはママ。「未定稿集」は「むづかしかつたよ」で鍵括弧を閉じ、しかもそこで改行している。葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。「さくらのはゝなの」は「未定稿集」では「さくらのはーなの」である。

・「いをゝと」前に徴して見るに芥川龍之介は「いをーと」としたつもりかもしれぬ。「言はうと」の意の誤記或いは訛りである。「未定稿集」も新全集もママ。

・「よろしいのでしよう」の「しよう」は「未定稿集」も新全集もママ。

・『「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々』の鍵括弧閉じるがないのはママ。前と合わせて、これは落としたというより、芥川龍之介は確信犯でそう表記したのであると私は思う。「未定稿集」鍵括弧を閉じてある。やはり葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。

 「芥川龍之介未定稿集」が「全集」の中に晴れて正当に組み込まれることがなく、今に至るまで一種の鬼っ子のような扱われ方がされ、しかも総じて芥川龍之介研究者の間で葛巻氏の評判があまり芳しくないのは、彼が芥川龍之介の未定稿や原稿断片を小出しにして発表したことや、さらにはそれらを恣意的に結合したり、断りなしに書き変えたりしたからである。しかし本篇については以上のように原本と比べて見ると、全体に「未定稿集」版の葛巻氏の操作は、本篇を読むに躓かぬようにという配慮をされての手入れと言え、概ね納得出来る操作であるとは言える。寧ろ、近年の勝手な機械的な漢字の新字化や、歴史的仮名遣の現代仮名遣への変換に比べれば、私は殆んど罪がないものであるとも言おう。

 泉鏡花や夏目漱石や森鷗外ばかりではない――既に鷗外を物理的に読めない高校生は甚だ多い――芥川龍之介の正字正仮名の作品をさえ――若者たちの多くが物理的に読めなくなってしまう――「こんなもん、読めるわけねえじゃん」とほくそ笑んで言い出すのも――そう遠くないように思われる。高校の国語で「こゝろ」や「舞姫」はおろか――「羅生門」も読まずに卒業して最高学府へ進学する若者が、これからカリキュラム上から、事実、生れてくるのだ――私はそら恐ろしい気が、今、確かにしている。

芥川龍之介 昆虫採集記 (二篇) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈠」及び「昆蟲採集記㈡」を基礎底本としたが、「昆蟲採集記㈠」の方は岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)に原本画像に拠って載る(但し、漢字は新字表記)ので、それと校合した。

 その新全集「後記」によれば、「昆蟲採集記㈠」(新全集では『実話 昆虫採集記』。「実話」は新全集では右から左へ横書でポイント落ち。以下本文でもその題名をポイント落ち一字空けで採用した。なお、「未定稿集」では『昆蟲採集記㈠(實話)』となっている)の方は小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の第三編、推定で明治三五(一九〇二)年五月発行のそれに載ったものである(葛巻氏は『(明治三十六、七年)』と最後にクレジットしている)本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい)。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科に入学したばかりの満十歳であった。

 以上の通り、最初のそれは「實話 昆蟲採集記」とし、漢字表記は「未定稿集」に従ったものの、新全集のそれでは一箇所を除いて句読点が一切ないのを採用し、最後の採集参加者名簿も並べて下方三字上げインデントで記されてあるのを真似て、引き上げて各人改行で示した。「未定稿集」では本文に続いて句読点附きで記されてはあるものの、原本には『並べて下に記されている。もちろん彼』(芥川龍之介)『の筆蹟のまま』(回覧雑誌は手書きである)と注してある。

 実は芥川龍之介は昆虫少年であったのである。]

 

    實話 昆蟲採集記

 

余は五月六日友上瀧汎上瀧嵬野口眞造吉田春夫の四人とつごう五人昆蟲採集におもむいた

仲間の中での笑わせ屋の野口は種々な笑種を出て笑せるしくたびれやの吉田はくたびれたと妙な顏をする嵬先生はあついといつて蛙が小便をなめたような顏しているし汎君は平氣でさきへあるいて行く。余は唯腹が空たといふばかりでる

[やぶちゃん注:「上瀧汎」「こうたきひろし」か。こちらの近代資料刊行会のサイトの雑誌集成の『社会事業の友』の目次の、同誌第七十六号(昭和一〇(一九三五)年三月発行)の中の、『台湾総督府主催第八回社会事業講習会』に『釈放者保護事業に就て 上瀧 汎』とあるのは、姓名の特異性からみて、恐らく、後の、この人物ではないかと思われる。最初に記しているところを見ると、以下の上瀧嵬(こうたきたかし)の兄か?

「上瀧嵬」(明治二四(一八九一)年~?)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「我が交友錄 學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月『中央公論』)では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。

「野口眞造」(明治二五(一八九二)年~昭和四〇(一九七五)年)は芥川龍之介とは江東尋常小学校附属幼稚園入学時以来の友人で私立商工中学校卒後、染織工芸家となった。日本橋呉服屋「大彦」の次男で、父の経営をする問屋や工場で、染色の考案・製作を学んだ。大正一四(一九二五)年、父の死に伴って「大彦」を継いだ。昭和二(一九二七)年には「大彦染織美術研究所」を設立し、伝統的な染色刺繡の研究や復元及びそれらに自身の創案を加味した正統的衣装捜索を活発に行う。皇室慶事の調製、大劇場の緞帳や大パネルなども手がけている(以上は「芥川龍之介私的データベース」の彼の記載に拠った)。同じく「我が交友錄 學校友だち」に、『野口眞造 これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」とも読む。]の若旦那。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經経質なること想(おも)ふべし。小學時代に僕と冒險小說を作る。僕よりもうまかりしかも知れず』と記している。兄の功造とともに芥川龍之介とは終生交際が続いた。

「吉田春夫」芥川龍之介の江東小・三中までは同級生であった人物と思われ、三中時代の回覧雑誌『流星』(明治三九(一九二二)年四月発行)の近未来戦争小説「廿年後之戰爭」の終りで、

   *

空前の大發明

 大軍醫吉田春夫氏 あらゆる病患を癒すべき藥品を發見す原名ヨークオッコルと云ふ由空前の大發明也

   *

と登場させているからには回覧雑誌にも加わっていたか、せめても、その読者ではあったものと思われる。

「出て」「だして」。

「笑種」「未定稿集」では「種」に『だね』のルビを振るが、これは葛巻氏の添えであることが判る。

「空た」「すいた」。

「でる」「である」の脱字。]

 やがて上野公園へきた

 そこで「アゲハノチヤウ」及「トンボ」をとらゑたが余空腹のためて食事をした

[やぶちゃん注:「とらゑた」ママ。

「空腹のためて」ママ。葛巻氏は補正したようで「ためで」となっているが、それでもおかしい。寧ろ「ために」の誤記であろうと思われる。]

 それより步む事一里餘にして木立暗き山に出でた、他の者はそこでべんとうをしようとしたが向をみると一つの森林があるからあすこにしようと細道をつたわつてそこにゆき他の者はべんとうを食たが、我は柏餅をくつた[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なしで以下全部続いている。]

[やぶちゃん注:「べんとう」ママ。後も同じ。

「つたわつて」ママ。]

其後そばの立木をけづり[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なし。]

下のようにしたゝめた

               上瀧  汎

               芥川龍之助

               上瀧  嵬

               野口 眞造

               吉田 春夫

 

 

[やぶちゃん注:以下は「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈡」(新全集には載らない)。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年頃、「芥川龍雨の署名で。回覧雑誌「日の出界」)』と記す。但し、明治三六(一九〇四)年五月以降に発行された『日の出界』は確認されていない。しかし、この葛巻氏の注の書き方は現物雑誌を前にしているとしか思われない。現存しないか。〔 〕は葛巻氏の補正挿入。「とらゑた」「ようよう」「かゑつた」の表記はママ。]

 

   昆蟲採集記㈡

 

 今迄に私が一番面白かつた事をといふのですか 宜しい私が一つ話て見ませう

 時は六月三十日晴天を幸に友人二人と つごう三人網をかついで昆蟲採集に出かけた

 みるとよこの木枝に一個のはちのすがあつた さあこれこそ今日の得物にせよと一同 其はちのすをとつたところが中より數匹のはち劒をふつて我等にむかつてきた

 一生けん命向見ずにかけだしたところが 前にあつたどぶの中へズルズルボチヤリ

 ようよう上へ上つた 上では友が多くのはち〔を〕とらゑた所だ

 が我が着物 泥だらけだから それをぬぎ 友が二枚きていた着物を一枚まとひようよう實家にかゑつた(終)

 

芥川龍之介 彰仁親王薨ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版・三種テクスト表示)

 

[やぶちゃん注:底本は、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「彰仁親王薨ず」(既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである)及び本篇を所収している岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)のそれ(但し、漢字は新字表記)を校合し、手を加えて、特異的に三種のテクストを示してある。

 その新全集「後記」や平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介作品事典」及び新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の明治三六(一九〇三)年二月二十五日臨時発行の「お伽一束」に掲載されたもの(江東尋常小学校高等科一年次の終り。芥川龍之介満十歳(十一直前)。芥川龍之介は三月一日生まれである)である。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「回覧雑誌」の項によれば、この回覧雑誌『日の出界』は『半紙を紐で綴じた』形態であり、『芥川は編集主幹的立場にあり、毛筆で清書している。ただし、「表紙絵は悉く養父道章の筆になるもの」』(この引用は底本の「芥川龍之介未定稿集」の大パート「初期の文章」の頭にある葛巻氏の注の引用)『だという』とある。現在、『日の出界』は刊行時期(一九〇二年と翌年)の異なる時期の発行になる四冊が見つかっており、他に明治三七(一九〇四)年発行の別な名称の回覧雑誌『實話文庫』の存在も判っている(回覧雑誌癖は府立三中時代も続いている)。

 本篇は明治三六(一九〇三)年二月十八日に満五十七歳で病死した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の死を悼むものである。

 小松宮彰仁親王(弘化三(一八四六)年~明治三六(一九〇三)年)は陸軍軍人で官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第八王子。安政五(一八五八)年に仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受けて純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任したが、慶応三(一八六七)年、復飾を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。明治維新にあって議定・軍事総裁に任ぜられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執っている。明治三(一八七〇)年、宮号を東伏見宮に改めた。明治七(一八七四)年に勃発した「佐賀の乱」には征討総督として、また、同十年の西南戦争でも旅団長として出征、乱の鎮定に当たった。明治一四(一八八一)年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められ、翌明治十五年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」に改称している。親王はヨーロッパの君主国の例に倣って、皇族が率先して軍務に就くことを奨励し、自らも率先して範を示したのであった。明治二三(一八九〇)年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長・参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督に任ぜられ、旅順に出征している。明治三一(一八九八)年に元帥府に列せられた。一方で国際親善にも力を入れ、明治一九(一八八六)年にはイギリス・フランス・ドイツ。ロシア等のヨーロッパ各国を歴訪し、明治三五(一九〇二)年のイギリス国王エドワードⅦ世の戴冠式には明治天皇名代として臨席している。社会事業では日本赤十字社・大日本水産会・大日本山林会・大日本武徳会・高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。その他の功績の一つとしては蝦夷地(北海道)の開拓に清水谷侍従と共に深く関わった(以上はウィキの「小松宮彰仁親王」に拠った)。死因は過労による脳充血発作とされる。「芥川龍之介作品事典」の熊谷信子氏の本篇の解説で、『少年期の芥川がなぜ小松宮彰仁親王に傾倒していたのか、作家論からのアプローチが待たれるところである』と擱筆されておられるが、芥川龍之介は「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)で、

   *

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併(しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

   *

と述べている。海軍軍人というのは当時の男児の定番の希望ではあるが、彰仁親王の海外歴訪や活発にして多様な社会事業への参与などが、新時代の人物としての魅力を持っていたものとも言えるのではあるまいか。

 標題脇附の『――つゝしみて 芥川龍之助記――』は新全集の「後記」にも記されてある署名である。但し、新全集では前後のダッシュはないので、それを除いて示した。「芥川龍之助」の「助」表記は当時の彼の自筆署名に見られる。芥川龍之介は後年、この「助」の字を嫌い、その宛名で書かれた書信には返事を出さなかったという伝説もあるが、この「芥川龍之助」は底本の『〔小学時代㈡〕』の葛巻氏の最後の注に、この「助」は芥川家での慣用表記であって、実名はやはり本名「芥川龍之介」であって、この本名は『実父のみではなく、その実母共々の銘々でもあり、「長女初、次女久。長男芥川龍之」』(太字は底本では傍点「○」。以下、この注内引用では同じ)『と明らかに二回暑された、その実母の一冊の「手控え」を編者は今日も所蔵している』とあり、新原家除籍と芥川家への養子縁組のために明治三七(一九〇四)年八月三十日、『本所区役所に届けられた届では、まだ芥川家での慣用のまま、一時「龍之」として届けられ、間もなく彼』(芥川龍之介)『自身の意志も加わり、両親達が名付け、判決正本』(新原家推定家督人廃除の訴訟の判決を指す)『通り、「龍之」と改められた。因に養父道章(みちあき)は、その幼名を「長之助」とも言った』とあることで、芥川家で「助」の字が用いられた慣用名を名乗らされた理由もこれで判り、「芥川龍之介は芥川龍之助が正しい」とする風説はこれで誤謬であることがはっきりするのである。

 底本は各段落一字下げとなっているが、新全集版は字下げがない。後者に従った。また、底本も新全集も孰れも総ルビ(標題と数字を除く)であるが、それだけを示すと、甚だ読み難いことから、まず、①ルビを除去したものを示し、そのあとに、②読みを新全集(「後記」の「凡例」に原稿の読みはそのままに写したとする。現代仮名遣部分が殆んどで誤表記も複数認められる)で示し、その後に③底本の葛巻氏によって補正されたものらしい歴史的仮名遣に従ったそれを附したものを掲げることとした。

 

①ルビ排除版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風は凄颯として草木悲み雲は暗淡として山川憂ふ鳴呼之明治三十六年二月十八日曉天の光景にあらずや

此の日此の時元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下御腦症を以て橋場の御別㙒に薨去せらる

あゝ殿下の功烈かぞへ來れば日も亦た足らず殿下は實に故有栖川大將宮故北白川大將宮と共に明治の三柱とぞとなへられさせ給ふ

天は何故に我が國に幸をさづけざるぞ先に有栖川宮殿下を失ひ次に北白川宮殿下を失ひ今又小松宮殿下を失ふあゝ悲きかな

 

②一九九七年岩波書店刊の新全集「芥川龍之介全集」のルビに従った版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(そうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいじ)三十六年(ねん)二月(がつ)十八日(にち)曉天(ぎようてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしようだいくんいこまつのみやあきひとしんのーでんか)御腦症(ごのーしよう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(がうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがわたいしようのみや)故北白川大將宮(こきたしらかわたいしようのみや)と共(とも)に明治(めいじ)の三柱(ちう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆへ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかわのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

③一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の正仮名ルビ版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(さうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいぢ)三十六年(ねん)二月(ぐわつ)十八日(にち)曉天(げうてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしやうだいくんゐこまつのみやあきひとしんわうでんか)御腦症(ごなうしやう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(こうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがはたいしやうのみや)故北白川大將宮(こきたしらかはたいしやうのみや)と共(とも)に明治(めいぢ)の三柱(ちゆう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆゑ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかはのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

[やぶちゃん注:「橋場」現在の東京都台東区橋場(グーグル・マップ・データ)。

「別㙒」別荘。

「有栖川大將宮」有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう 天保六(一八三五)年~明治二八(一八九五)年一月十五日)。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持、元治元(一八六四)年に国事御用掛に任ぜられたが、同年の「蛤御門の変」(禁門の変)で長州藩士に荷担した故を以って謹慎を命ぜられた。慶応三(一八六七)年十二月、王政復古とともに総裁職に就任、翌年の戊辰戦争では、二月に東征大総督となり、官軍を率いて東下して江戸に入った。後、兵部卿・福岡県知事・元老院議長を務め、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣・参謀本部長・参謀総長を歴任した。日清戦争では広島大本営で軍務をとったが、病を得て没した(以上は小学館「日本大百科全書」他を参照した)。

「北白川大將宮」北白川宮能久親王(よしひさしんのう 弘化四(一八四七)年~明治二八(一八九五)年十月二十八日)か。伏見宮邦家親王第九子。青蓮院・梶井門跡を経て、安政五(一八五八)年十月、親王宣下により、能久の名を受け、得度して公現と称した。慶応三(一八六七)年五月、輪王寺門跡を相続したが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、寛永寺で謹慎していた徳川慶喜を救解すべく、駿府城に赴いて、東征大総督熾仁親王に嘆願。その後、彰義隊に擁され、寛永寺に立て籠ったが、新政府軍の攻撃を受け、会津に脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元(一八六八)年九月、奥州が鎮定されると、謝罪状を提出、親王停止と謹慎処分を受けたが、翌年十月に赦免されて伏見宮に復した。同五年、北白川宮を相続した。一方それに先立つ明治三年十二月より、兵学研究のためにドイツに留学、明治十(一八七七)年に帰国した後、陸軍中佐・少中将と昇進し、明治二十八年には近衛師団長となって日清戦争に出征、台湾鎮定に当たったが、同年三月、台湾で抗日の兵が決起、その鎮圧に当たる中、台南にて病没した(以上は「朝日日本歴史人物事典」他を参照した)。彼は亡くなった時は陸軍中将であったが、死後に贈大将されている。]

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