フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「芥川龍之介」の672件の記事

2019/12/30

芥川龍之介 長への命 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本篇は「長(とこしな)への命(いのち)」と読み、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の掉尾に載る「長への命」の漢字表記を参考にしつつも、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「長への命」(但し、漢字は新字表記)を底本とした。しかし、同新全集の「後記」によれば、本篇は明治四一(一九〇八)年二月二十八日発行の回覧雑誌『碧潮』第三号所収であり、これは葛巻が配置した小学校時代ではなく(そもそもが葛巻自身が末尾に『(明治四十年頃、「くづれ」の署名で。回覧雑誌『碧潮』第三号)』と記しているように、彼は既に明治三八年三月に江東小学校を卒業し、翌月四月に三中に入学しているのである)、東京府立第三中学校三年次のものである。葛巻氏もそれは判っていて、後注で『このお伽噺は、必しも小学校時代のものとは云えないかもしれない。――しかし、その「日の出界」、「お伽一家」』(『お伽一束』が正しく、また、これは別回覧誌ではなく、『日の出界』の臨時号の名である)『(小学校時代)にはじまる、一連の回覧雑誌中の一例(サムプル)』(「例」のみのルビ)『として、ここに掲げる』という苦しい弁解をされている。しかし、これは同書のパート立てを全く逸脱していて納得出来ないし、流れとして、これをここへ持って来たいという意図は、まあ、判るとは言えるものの、だったなら、初めっから、逆編年形式とか、時代別などをしなければよかったではないかと私は思う。それぞれに注を附しておけば事足りることではないか。こういう妙なところに、葛巻氏が芥川龍之介の原稿を小出しに、しかも恣意的にちらつかせては、出そうか出すまいか、と、何やら思案されているような姿が私には垣間見えてしまうのである。

 以上、漢字を「未定稿集」に主に従って正字で示した以外(「竒」などのように新全集の方が正しい字体で記している箇所もある)、葛巻氏の整序(第一段落末の句点打ち等)を施した部分も含めて文字列(字空けや改行)は完全に新全集版に基づいたもので示した。

 なお、故あって、本電子化を以って2019年の最後の私の仕儀とする。……では……よいお年を――

 

   長への命

 

        

 愚なる國王ありき 如何にもして長への命を得むと思ひて 多くの從者(ズサ)を召しつれつ 遠く東方の諸國に不老の泉を求めぬ

[やぶちゃん注:「一」は「未定稿集」にはなく、後で「二」と出るので不審ではあった。

「ズサ」のルビは「未定稿集」にはない。]

 行き行きてアゼンスの市近く來りし時遂に一行はとある山かげの岩に不老の泉の銀の如く湧き出るを見出しぬ 王喜ぶこと不斜 自ら馬より下りて之を掬へば 竒しや 白髯雛面の老爺は忽ち綠髮紅顏の壯夫となンぬ 王歡喜して云ふ「嬉しき哉 我は長の命のうま酒を得たり」

[やぶちゃん注:「岩」「未定稿集」では『岩〔窟〕』と補正注を添えてあるが、ここは、いらぬお世話であると私は思う。

「不斜」「なのめならず」。

「掬へば」「すくへば」。

「竒しや」「あやしや」。「未定稿集」は「竒」が「奇」である。

「雛面」はママ。「未定稿集」は『皺面』とする。確かに「雛面」ではおかしく、葛巻氏のの断りなしの補正は正しいかとは思う。]

        

 春風秋雨億萬々年 逐に地球永遠に眠るべき――生命(イノチ)あるものの悉く亡ぶべき――時は來りぬ 然も愚なる國王は未死す不能也

 月明なる夜 彼は枯骨の岡に立ちて氷河をかくるヒマラヤの絕嶺をのぞみ白雪に掩はるゝヨーロツパの大陸を眺め月に澄みたる蒼空の無窮を仰ぎ長く嘆じて云ふ「あゝ長の命は苦しかりき」

[やぶちゃん注:「あゝ長の命は苦しかりき」「未定稿集」では『あゝ 長の命は苦しかりき』と字空けが入る。

「ヨーロツパ」は「未定稿集」では『ヨーロッパ』である。]

 

[やぶちゃん注:「アゼンス」ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読み。但し、この「國王」がどの時代の人物で、彼にモデルがあるやなしやも判らぬ。識者の御教授を乞う。

 さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の本篇の解説で坂本昌樹氏は(なお、そこで当時の芥川龍之介を『中学四年』とされているが、これは三年の誤りである)、『典型的な不老不死譚を逆手にとった作品構成の巧妙さが、後の芥川独特の機知を既に彷彿させている。無為な不老長寿に対する否定的発想は、二年後の「義仲論」』(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版。冒頭に初出書誌を示してある)『に於ける木曽義仲の評価「彼の一生は短けれども彼の教訓は長かりき」』(「三 最後」の最終段落の一節)『を連想させる。徒らな「長への命」を懐疑し、短いながらも充実した義仲の「男らしき生涯」を肯定する志向に、当時の芥川の関心の一面を窺うことも可能かもしれない』と述べておられる。同感であるが、寧ろ、芥川龍之介自身の最期を考えると、これは、また、酷く皮肉な一篇ともなっているということに気づくではないか。]

芥川龍之介 春の夕べ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「春の夕べ」の漢字表記を参考にし、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「春の夕べ」(藤沢文書館蔵。恐らくは葛巻義敏旧蔵品。但し、漢字は新字表記)の明治三六(一九〇三)年二月発行の回覧雑誌『日の出界』臨時発行号の『お伽一束』に基づいて構成表記し直したものである。則ち、漢字を「未定稿集」に従って正字で示した以外、葛巻氏の整序した部分も含めて文字列(字空けや改行)は新全集版に基づいたものである。

 本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年)頃、「芥川龍雨」の署名で。回覧雑誌「お伽一家」)』とするが、「家」は誤判読であろう。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科一年次の満十歳の終り(芥川龍之介は三月一日生まれ)であった。

 やや讀み難いが、躓く部分については後注を施した。]

 

   春の夕べ

 

「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」

と今日學校でをそわつた唱歌をうたいながら樂しげに 步んできた二人の少年

「ねー重ちやん今日の「かすみてみヽゆる」んとこねー大へんむづかしかつたね」

「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時

「一寸をたづね申します」

と見苦しき老僧は こしをかゞめてといかけた

「あの○○町の方へ行くのはどういつたらよろしいのでしよう」

「エ あの○○町なの こゝをまつすぐにいつて この橫丁から三番目の橫丁をはいると つきあたりがそうよ」

と美ちやんは丁寧に指さしてをしへた老僧は

「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々

とくりかへしてさししめされた方がくへ とぼとぼと步んで行つた

 

[やぶちゃん注:一読、芥川龍之介が心から尊敬して交わった先達の文豪泉鏡花の小説の冒頭のように見まごう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同作品の篠崎美生子(みおこ)氏の解説でも、『会話文を多量に含むやわらなか文体には、泉鏡花の影響があることが想像される。「愛読書の印象」』(大正九(一九二〇)年八月『文藝倶樂部』初出)『によれば、芥川は「中学へ入学前から(中略)鏡花氏の「風流線」を愛読していた」とのことであるが、初期文章の段階で、既にさまざな文体が試みられていることは注目に値しよう』と述べておられる。さて、以下、表記上の問題点及び「未定稿集」との違いについて述べる。

・冒頭の「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」は、まず、歴史的仮名遣の誤りは総てママ。なお、「ヽ」であって「ゝ」ではない点に注意されたい。「チュてん」とでも言うべきか、通常はカタカナの繰り返しにしか用いない記号である。「未定稿集」では『にーをー』と長音符である。私は正直、そっちの方が、唱歌を歌っているのであるからには違和感がない。実際、長音符使用は今回纏めて行った初期の文章に散見するからでもある。以下の何箇所かも葛巻氏のそうするように、長音符の方がいいだが、ここは皆、新全集に従った。この唱歌、歌詞を整序してみると、「あさひに」「にほふ山の櫻の」「かすみてみゆる」「さくらのはなの」である。しかし、完全にこれに一致するものは私は知らない。但し、知られた「さくらさくら」又は「さくら」(日本古謡とされるが、実際には幕末に江戸で子供用の箏の手ほどきの一曲として作られたもので、作者は不明)の歌詞と単語と表現が酷似しているから、恐らく、芥川龍之介が仮想の鏡花的幻想小説世界へのトバ口として、それを少し弄った架空のもののように私には思われる。もし、完全一致する歌詞があるとなれば、御教授願いたい。

・「をそわつた」「未定稿集」も新全集もママ。

・『「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時』の鍵括弧閉じるがないのはママ。「未定稿集」は「むづかしかつたよ」で鍵括弧を閉じ、しかもそこで改行している。葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。「さくらのはゝなの」は「未定稿集」では「さくらのはーなの」である。

・「いをゝと」前に徴して見るに芥川龍之介は「いをーと」としたつもりかもしれぬ。「言はうと」の意の誤記或いは訛りである。「未定稿集」も新全集もママ。

・「よろしいのでしよう」の「しよう」は「未定稿集」も新全集もママ。

・『「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々』の鍵括弧閉じるがないのはママ。前と合わせて、これは落としたというより、芥川龍之介は確信犯でそう表記したのであると私は思う。「未定稿集」鍵括弧を閉じてある。やはり葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。

 「芥川龍之介未定稿集」が「全集」の中に晴れて正当に組み込まれることがなく、今に至るまで一種の鬼っ子のような扱われ方がされ、しかも総じて芥川龍之介研究者の間で葛巻氏の評判があまり芳しくないのは、彼が芥川龍之介の未定稿や原稿断片を小出しにして発表したことや、さらにはそれらを恣意的に結合したり、断りなしに書き変えたりしたからである。しかし本篇については以上のように原本と比べて見ると、全体に「未定稿集」版の葛巻氏の操作は、本篇を読むに躓かぬようにという配慮をされての手入れと言え、概ね納得出来る操作であるとは言える。寧ろ、近年の勝手な機械的な漢字の新字化や、歴史的仮名遣の現代仮名遣への変換に比べれば、私は殆んど罪がないものであるとも言おう。

 泉鏡花や夏目漱石や森鷗外ばかりではない――既に鷗外を物理的に読めない高校生は甚だ多い――芥川龍之介の正字正仮名の作品をさえ――若者たちの多くが物理的に読めなくなってしまう――「こんなもん、読めるわけねえじゃん」とほくそ笑んで言い出すのも――そう遠くないように思われる。高校の国語で「こゝろ」や「舞姫」はおろか――「羅生門」も読まずに卒業して最高学府へ進学する若者が、これからカリキュラム上から、事実、生れてくるのだ――私はそら恐ろしい気が、今、確かにしている。

芥川龍之介 昆虫採集記 (二篇) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈠」及び「昆蟲採集記㈡」を基礎底本としたが、「昆蟲採集記㈠」の方は岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)に原本画像に拠って載る(但し、漢字は新字表記)ので、それと校合した。

 その新全集「後記」によれば、「昆蟲採集記㈠」(新全集では『実話 昆虫採集記』。「実話」は新全集では右から左へ横書でポイント落ち。以下本文でもその題名をポイント落ち一字空けで採用した。なお、「未定稿集」では『昆蟲採集記㈠(實話)』となっている)の方は小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の第三編、推定で明治三五(一九〇二)年五月発行のそれに載ったものである(葛巻氏は『(明治三十六、七年)』と最後にクレジットしている)本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい)。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科に入学したばかりの満十歳であった。

 以上の通り、最初のそれは「實話 昆蟲採集記」とし、漢字表記は「未定稿集」に従ったものの、新全集のそれでは一箇所を除いて句読点が一切ないのを採用し、最後の採集参加者名簿も並べて下方三字上げインデントで記されてあるのを真似て、引き上げて各人改行で示した。「未定稿集」では本文に続いて句読点附きで記されてはあるものの、原本には『並べて下に記されている。もちろん彼』(芥川龍之介)『の筆蹟のまま』(回覧雑誌は手書きである)と注してある。

 実は芥川龍之介は昆虫少年であったのである。]

 

    實話 昆蟲採集記

 

余は五月六日友上瀧汎上瀧嵬野口眞造吉田春夫の四人とつごう五人昆蟲採集におもむいた

仲間の中での笑わせ屋の野口は種々な笑種を出て笑せるしくたびれやの吉田はくたびれたと妙な顏をする嵬先生はあついといつて蛙が小便をなめたような顏しているし汎君は平氣でさきへあるいて行く。余は唯腹が空たといふばかりでる

[やぶちゃん注:「上瀧汎」「こうたきひろし」か。こちらの近代資料刊行会のサイトの雑誌集成の『社会事業の友』の目次の、同誌第七十六号(昭和一〇(一九三五)年三月発行)の中の、『台湾総督府主催第八回社会事業講習会』に『釈放者保護事業に就て 上瀧 汎』とあるのは、姓名の特異性からみて、恐らく、後の、この人物ではないかと思われる。最初に記しているところを見ると、以下の上瀧嵬(こうたきたかし)の兄か?

「上瀧嵬」(明治二四(一八九一)年~?)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「我が交友錄 學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月『中央公論』)では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。

「野口眞造」(明治二五(一八九二)年~昭和四〇(一九七五)年)は芥川龍之介とは江東尋常小学校附属幼稚園入学時以来の友人で私立商工中学校卒後、染織工芸家となった。日本橋呉服屋「大彦」の次男で、父の経営をする問屋や工場で、染色の考案・製作を学んだ。大正一四(一九二五)年、父の死に伴って「大彦」を継いだ。昭和二(一九二七)年には「大彦染織美術研究所」を設立し、伝統的な染色刺繡の研究や復元及びそれらに自身の創案を加味した正統的衣装捜索を活発に行う。皇室慶事の調製、大劇場の緞帳や大パネルなども手がけている(以上は「芥川龍之介私的データベース」の彼の記載に拠った)。同じく「我が交友錄 學校友だち」に、『野口眞造 これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」とも読む。]の若旦那。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經経質なること想(おも)ふべし。小學時代に僕と冒險小說を作る。僕よりもうまかりしかも知れず』と記している。兄の功造とともに芥川龍之介とは終生交際が続いた。

「吉田春夫」芥川龍之介の江東小・三中までは同級生であった人物と思われ、三中時代の回覧雑誌『流星』(明治三九(一九二二)年四月発行)の近未来戦争小説「廿年後之戰爭」の終りで、

   *

空前の大發明

 大軍醫吉田春夫氏 あらゆる病患を癒すべき藥品を發見す原名ヨークオッコルと云ふ由空前の大發明也

   *

と登場させているからには回覧雑誌にも加わっていたか、せめても、その読者ではあったものと思われる。

「出て」「だして」。

「笑種」「未定稿集」では「種」に『だね』のルビを振るが、これは葛巻氏の添えであることが判る。

「空た」「すいた」。

「でる」「である」の脱字。]

 やがて上野公園へきた

 そこで「アゲハノチヤウ」及「トンボ」をとらゑたが余空腹のためて食事をした

[やぶちゃん注:「とらゑた」ママ。

「空腹のためて」ママ。葛巻氏は補正したようで「ためで」となっているが、それでもおかしい。寧ろ「ために」の誤記であろうと思われる。]

 それより步む事一里餘にして木立暗き山に出でた、他の者はそこでべんとうをしようとしたが向をみると一つの森林があるからあすこにしようと細道をつたわつてそこにゆき他の者はべんとうを食たが、我は柏餅をくつた[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なしで以下全部続いている。]

[やぶちゃん注:「べんとう」ママ。後も同じ。

「つたわつて」ママ。]

其後そばの立木をけづり[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なし。]

下のようにしたゝめた

               上瀧  汎

               芥川龍之助

               上瀧  嵬

               野口 眞造

               吉田 春夫

 

 

[やぶちゃん注:以下は「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈡」(新全集には載らない)。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年頃、「芥川龍雨の署名で。回覧雑誌「日の出界」)』と記す。但し、明治三六(一九〇四)年五月以降に発行された『日の出界』は確認されていない。しかし、この葛巻氏の注の書き方は現物雑誌を前にしているとしか思われない。現存しないか。〔 〕は葛巻氏の補正挿入。「とらゑた」「ようよう」「かゑつた」の表記はママ。]

 

   昆蟲採集記㈡

 

 今迄に私が一番面白かつた事をといふのですか 宜しい私が一つ話て見ませう

 時は六月三十日晴天を幸に友人二人と つごう三人網をかついで昆蟲採集に出かけた

 みるとよこの木枝に一個のはちのすがあつた さあこれこそ今日の得物にせよと一同 其はちのすをとつたところが中より數匹のはち劒をふつて我等にむかつてきた

 一生けん命向見ずにかけだしたところが 前にあつたどぶの中へズルズルボチヤリ

 ようよう上へ上つた 上では友が多くのはち〔を〕とらゑた所だ

 が我が着物 泥だらけだから それをぬぎ 友が二枚きていた着物を一枚まとひようよう實家にかゑつた(終)

 

芥川龍之介 彰仁親王薨ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版・三種テクスト表示)

 

[やぶちゃん注:底本は、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「彰仁親王薨ず」(既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである)及び本篇を所収している岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)のそれ(但し、漢字は新字表記)を校合し、手を加えて、特異的に三種のテクストを示してある。

 その新全集「後記」や平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介作品事典」及び新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の明治三六(一九〇三)年二月二十五日臨時発行の「お伽一束」に掲載されたもの(江東尋常小学校高等科一年次の終り。芥川龍之介満十歳(十一直前)。芥川龍之介は三月一日生まれである)である。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「回覧雑誌」の項によれば、この回覧雑誌『日の出界』は『半紙を紐で綴じた』形態であり、『芥川は編集主幹的立場にあり、毛筆で清書している。ただし、「表紙絵は悉く養父道章の筆になるもの」』(この引用は底本の「芥川龍之介未定稿集」の大パート「初期の文章」の頭にある葛巻氏の注の引用)『だという』とある。現在、『日の出界』は刊行時期(一九〇二年と翌年)の異なる時期の発行になる四冊が見つかっており、他に明治三七(一九〇四)年発行の別な名称の回覧雑誌『實話文庫』の存在も判っている(回覧雑誌癖は府立三中時代も続いている)。

 本篇は明治三六(一九〇三)年二月十八日に満五十七歳で病死した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の死を悼むものである。

 小松宮彰仁親王(弘化三(一八四六)年~明治三六(一九〇三)年)は陸軍軍人で官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第八王子。安政五(一八五八)年に仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受けて純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任したが、慶応三(一八六七)年、復飾を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。明治維新にあって議定・軍事総裁に任ぜられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執っている。明治三(一八七〇)年、宮号を東伏見宮に改めた。明治七(一八七四)年に勃発した「佐賀の乱」には征討総督として、また、同十年の西南戦争でも旅団長として出征、乱の鎮定に当たった。明治一四(一八八一)年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められ、翌明治十五年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」に改称している。親王はヨーロッパの君主国の例に倣って、皇族が率先して軍務に就くことを奨励し、自らも率先して範を示したのであった。明治二三(一八九〇)年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長・参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督に任ぜられ、旅順に出征している。明治三一(一八九八)年に元帥府に列せられた。一方で国際親善にも力を入れ、明治一九(一八八六)年にはイギリス・フランス・ドイツ。ロシア等のヨーロッパ各国を歴訪し、明治三五(一九〇二)年のイギリス国王エドワードⅦ世の戴冠式には明治天皇名代として臨席している。社会事業では日本赤十字社・大日本水産会・大日本山林会・大日本武徳会・高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。その他の功績の一つとしては蝦夷地(北海道)の開拓に清水谷侍従と共に深く関わった(以上はウィキの「小松宮彰仁親王」に拠った)。死因は過労による脳充血発作とされる。「芥川龍之介作品事典」の熊谷信子氏の本篇の解説で、『少年期の芥川がなぜ小松宮彰仁親王に傾倒していたのか、作家論からのアプローチが待たれるところである』と擱筆されておられるが、芥川龍之介は「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)で、

   *

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併(しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

   *

と述べている。海軍軍人というのは当時の男児の定番の希望ではあるが、彰仁親王の海外歴訪や活発にして多様な社会事業への参与などが、新時代の人物としての魅力を持っていたものとも言えるのではあるまいか。

 標題脇附の『――つゝしみて 芥川龍之助記――』は新全集の「後記」にも記されてある署名である。但し、新全集では前後のダッシュはないので、それを除いて示した。「芥川龍之助」の「助」表記は当時の彼の自筆署名に見られる。芥川龍之介は後年、この「助」の字を嫌い、その宛名で書かれた書信には返事を出さなかったという伝説もあるが、この「芥川龍之助」は底本の『〔小学時代㈡〕』の葛巻氏の最後の注に、この「助」は芥川家での慣用表記であって、実名はやはり本名「芥川龍之介」であって、この本名は『実父のみではなく、その実母共々の銘々でもあり、「長女初、次女久。長男芥川龍之」』(太字は底本では傍点「○」。以下、この注内引用では同じ)『と明らかに二回暑された、その実母の一冊の「手控え」を編者は今日も所蔵している』とあり、新原家除籍と芥川家への養子縁組のために明治三七(一九〇四)年八月三十日、『本所区役所に届けられた届では、まだ芥川家での慣用のまま、一時「龍之」として届けられ、間もなく彼』(芥川龍之介)『自身の意志も加わり、両親達が名付け、判決正本』(新原家推定家督人廃除の訴訟の判決を指す)『通り、「龍之」と改められた。因に養父道章(みちあき)は、その幼名を「長之助」とも言った』とあることで、芥川家で「助」の字が用いられた慣用名を名乗らされた理由もこれで判り、「芥川龍之介は芥川龍之助が正しい」とする風説はこれで誤謬であることがはっきりするのである。

 底本は各段落一字下げとなっているが、新全集版は字下げがない。後者に従った。また、底本も新全集も孰れも総ルビ(標題と数字を除く)であるが、それだけを示すと、甚だ読み難いことから、まず、①ルビを除去したものを示し、そのあとに、②読みを新全集(「後記」の「凡例」に原稿の読みはそのままに写したとする。現代仮名遣部分が殆んどで誤表記も複数認められる)で示し、その後に③底本の葛巻氏によって補正されたものらしい歴史的仮名遣に従ったそれを附したものを掲げることとした。

 

①ルビ排除版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風は凄颯として草木悲み雲は暗淡として山川憂ふ鳴呼之明治三十六年二月十八日曉天の光景にあらずや

此の日此の時元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下御腦症を以て橋場の御別㙒に薨去せらる

あゝ殿下の功烈かぞへ來れば日も亦た足らず殿下は實に故有栖川大將宮故北白川大將宮と共に明治の三柱とぞとなへられさせ給ふ

天は何故に我が國に幸をさづけざるぞ先に有栖川宮殿下を失ひ次に北白川宮殿下を失ひ今又小松宮殿下を失ふあゝ悲きかな

 

②一九九七年岩波書店刊の新全集「芥川龍之介全集」のルビに従った版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(そうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいじ)三十六年(ねん)二月(がつ)十八日(にち)曉天(ぎようてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしようだいくんいこまつのみやあきひとしんのーでんか)御腦症(ごのーしよう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(がうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがわたいしようのみや)故北白川大將宮(こきたしらかわたいしようのみや)と共(とも)に明治(めいじ)の三柱(ちう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆへ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかわのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

③一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の正仮名ルビ版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(さうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいぢ)三十六年(ねん)二月(ぐわつ)十八日(にち)曉天(げうてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしやうだいくんゐこまつのみやあきひとしんわうでんか)御腦症(ごなうしやう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(こうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがはたいしやうのみや)故北白川大將宮(こきたしらかはたいしやうのみや)と共(とも)に明治(めいぢ)の三柱(ちゆう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆゑ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかはのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

[やぶちゃん注:「橋場」現在の東京都台東区橋場(グーグル・マップ・データ)。

「別㙒」別荘。

「有栖川大將宮」有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう 天保六(一八三五)年~明治二八(一八九五)年一月十五日)。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持、元治元(一八六四)年に国事御用掛に任ぜられたが、同年の「蛤御門の変」(禁門の変)で長州藩士に荷担した故を以って謹慎を命ぜられた。慶応三(一八六七)年十二月、王政復古とともに総裁職に就任、翌年の戊辰戦争では、二月に東征大総督となり、官軍を率いて東下して江戸に入った。後、兵部卿・福岡県知事・元老院議長を務め、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣・参謀本部長・参謀総長を歴任した。日清戦争では広島大本営で軍務をとったが、病を得て没した(以上は小学館「日本大百科全書」他を参照した)。

「北白川大將宮」北白川宮能久親王(よしひさしんのう 弘化四(一八四七)年~明治二八(一八九五)年十月二十八日)か。伏見宮邦家親王第九子。青蓮院・梶井門跡を経て、安政五(一八五八)年十月、親王宣下により、能久の名を受け、得度して公現と称した。慶応三(一八六七)年五月、輪王寺門跡を相続したが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、寛永寺で謹慎していた徳川慶喜を救解すべく、駿府城に赴いて、東征大総督熾仁親王に嘆願。その後、彰義隊に擁され、寛永寺に立て籠ったが、新政府軍の攻撃を受け、会津に脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元(一八六八)年九月、奥州が鎮定されると、謝罪状を提出、親王停止と謹慎処分を受けたが、翌年十月に赦免されて伏見宮に復した。同五年、北白川宮を相続した。一方それに先立つ明治三年十二月より、兵学研究のためにドイツに留学、明治十(一八七七)年に帰国した後、陸軍中佐・少中将と昇進し、明治二十八年には近衛師団長となって日清戦争に出征、台湾鎮定に当たったが、同年三月、台湾で抗日の兵が決起、その鎮圧に当たる中、台南にて病没した(以上は「朝日日本歴史人物事典」他を参照した)。彼は亡くなった時は陸軍中将であったが、死後に贈大将されている。]

2019/12/29

芥川龍之介 暑中休暇の日誌 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の最初に載る「暑中休暇の日誌」に拠った。既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである。

 本篇は明治三七(一九〇四)年の七月二十一日(木曜)から同年八月三十一日(水曜)までの、当時、芥川龍之介が在学していた江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校の前身であるが、明治四十一年に江東小学校は相生尋常小学校を併合して相生尋常小学校に変わり、校名変更が四度あった後、昭和二六(一九五一)年三月一日に東京都墨田区立両国小学校と校名変更している。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)によれば、芥川龍之介在学当時の校名「江東」の読みは「こうとう」であり、また、関東大震災によって校舎が全壊・全焼したため、芥川龍之介の学籍簿等は、現在、残っていないとある)高等科(同小学校入学は満六歳の明治三一(一八九八)年四月で、高等科入学は明治三十五年四月)三年次の夏季休暇中の日記である。

 しかも、この年と、この日記の期間は芥川龍之介にとっては忘れられぬ年であったはずである。何故なら、先立つ同年三月九日、実家新原(にいはら)家では親族会議が行われ、龍之介を新原敏三の推定家督相続人から廃除する訴訟の請求が決せられ、五月四日、東京地方裁判所民事部法廷に十二歳の龍之介が当該訴訟の被告として出廷させられ、裁判長の尋問を受け、六日後の五月十日に推定家督相続人から廃除の判決を受けているからである。しかも、当該日には何らの記載もないが、実は夏季休暇の終わる直前、八月三十日、新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組して(本所区役所へ届出)龍之介は芥川家の養嗣子となって、新原龍之介は芥川龍之介となったのであった。なお、本日記当時の芥川家は本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号。グーグル・マップ・データ)にあった。

 平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、原稿が現存し、山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集」(一九九三年刊)に載り、新全集の宮坂覺氏の年譜の同年の記載の多くは、それ、則ち、本篇の原稿に依って記載されてある。私は「芥川龍之介資料集」の現物さえ見たことがないので、ここでは宮坂年譜の記載と内容を校合した

 標題脇には葛巻氏による、

   〔――満十二歳――〕

と言う添え辞があるが、除去した。

 読点は一切ない。〔 〕は葛巻氏による補正挿入で、多数ある。踊り字「〱」は正字化した。日録の間は行空けがないが、一行空けた。]

 

   暑中休暇中の日誌

 

 七月二十一日 曇後晴

 下女に搖り起されて 折角樂しく進んで居た夢の國を離れたのは 丁度五時三十分でした いやなセピア色をした雲が二ツ三ツ 御用[やぶちゃん注:右に葛巻氏による『〔五葉〕』の補正注がある。]の松の木のかげから靜かに吹き透る朝風にあほられて面白いよー[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の箇所が何度も出てくるが、注しない。]に流れて行くのを眺めながら 朝飯をしたゝめました 食後一定の復習を完へ 二三の友人を訪れたり 地圖の制作や 作文の原稿を作つたりして 十時迄費しました

 十時半頃 弟と叔母とが來たので 折角樂しみにして居た讀書も 十二分に出來ませんでした 晝頃 弟が晝寐をしてゐる中に又々地圖や圖畫をかきました が 起きはしないかと氣づかふ有樣は とんだ賴山陽先生でありました 今夜 叔母と弟〔は〕自分の家に泊る事になりました 寢床九時二十分

 

[やぶちゃん注:今時の中一生も、当時の私も、自らを歴史家・漢詩人で画人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)に擬するような仕儀は成し得ない。早くも芥川龍之介の自負が垣間見える。但し、事実、小学校入学時の芥川龍之介は洋画家志望であったことは余り知られていないであろうから、言い添えておく。

「弟」芥川龍之介の異母弟で七つ下の新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。芥川の実父新原敏三と、実母フクの妹(芥川龍之介の叔母)であったフユとの間に生まれた。この当時は、未だ満五歳。龍之介がやさしい気遣いをしているのが微笑ましい。彼は父敏三に似た野性的な激しい性格の持ち主で、後、上智大学に進学したが、中退した。岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、文筆には満足出来ず、後、日蓮宗に凝りだしたりして、しばしば芥川を悩ませた。芥川は死に際しての妻文(あや)宛の遺書の一つで、実姉ヒサ(底本編者葛巻義敏氏の実母で龍之介より四歲年上)及びこの得二とは絶縁せよと命じていたともされる(推定される当該部分が破棄されているために確言は出来ない)。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の私の注を参照されたい。

「叔母」新原(旧姓芥川)フユ。芥川龍之介にとっては義母でもあるが、彼は彼女のことを「芝の叔母」と呼んだ。]

 

 七月二十二日 曇後[やぶちゃん注:以下、なし。]

 起床 六時四十分

 今朝はステキに朝寢坊をしたが 復習 地圖共に少し許りやりました しかし 許〔り〕と云つても 決してなまけたのではないので 讀書は弟にかくれて思ふ樣やりました

 夕方弟や叔母とつれ立て叔母の家に赴きました 叔母の家は芝なので三田行の電車に駕して居ねむりを仕い仕い[やぶちゃん注:「しいしい」。]目的地(大げさですが)についたのは八時頃でした 寐床八時三十分

[やぶちゃん注:「寐床」「びしやう(びしょう)」と読んでおく。就寝。]

 

 七月二十三日 半晴半曇後雷雨[やぶちゃん注:土曜日。]

 今朝は昨日の失策を取りかへして臥床をはなれたのは午前四時でありました 直さま [やぶちゃん注:「すぐさま」。]屋根傳[やぶちゃん注:「づたひ」。]に火見に登〔つ〕て 淸らかな朝景色をながめた時の心持は眞に何とも言へない感にうたれて 丁度神樣の前へびざまづいた樣でありました 讀書で一日を暮しました 夕方 霹靂空をつんざき雷光目に燒金をさすが如しの恐しい光景が演ぜられて 自分は蚊帳の中にうづくまり「桑原桑原」をつゞけました 此の日の雷は大凡二十三所ばかりもをちた[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の表記が多数出るが、注さない。]と云ふ事です 落雷した所のさけた竹のくづや杉の皮などをもらひに來る者がたくさんあるとは迷信者の多い世の中哉[やぶちゃん注:「かな」。] 但それが雷よけになると云ふので

[やぶちゃん注:「火見」「ひのみ」でこれは「火の見櫓」の略であるが、ここは家の屋根の上の物干し台のような場所であろう。]

 

 七月二十四日 半晴半曇

 晝迄は兼てたづさへて來た敎科書をひもときました 晝過 叔父及姊弟と共に新宿の角力を見物しました

 夕方 そばの草原でとらへた甲虫を御生大事とぶらさげて櫓〔太〕鼓の音に送られながら家に(叔母の)かへつたのは六時三十分でした 寐床七時三十分(頗る早寐です)

[やぶちゃん注:当時の夏場所は新宿で興行されていたものか。因みに面白いことに、先代の国技館は京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。幼少期の芥川龍之介の馴染みの遊び場である。但し、その旧国技館は明治四二(一九〇九)年竣工である。]

 

 七月二十五日 雨後曇

 起き上りざま雨戶を開けばチヨツ失敬な 太陽はザーザーザーザー雨をふらしているので「ひどい奴」と少からず太陽をうらんだが その恨言が聞えたと見えてやがて雨もふりやみました

 晝過 父がむかひに來たのでつれだつて家にかへりました かへりに星の光が二ツ三ツハイ左樣ならとでも云ふよーに雲間からもれていました。

[やぶちゃん注:「父」とは、ここでは未だ養子縁組が行われていない芥川道章(実母フクの兄)のことであることに注意。芥川龍之介は生れて未だ八ヶ月の時に母フクが精神疾患を発症したために、フクの実家であった道章の家に引き取られ、そのままそこで道章とその妻儔(とも)及び伯母フキ(実母フクの姉で道章の妹。芥川龍之介に大きな影響を与えた人物である)に養育されてきたのである。以下での単なる「父」は総て芥川道章である。]

 

 七月二十六日 曇後晴

 今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステツキ(木刀にちかい)をふりまはしながら 大川端を散步しました 綠の糸をたるゝ柳や まつくろな木立や 淸々した川の流れや 蟹の甲らをならべたよーな石崖などが のどかな朝日に照らされて 〔一〕緖によろこびの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡つています 此の趣のある氣高い[やぶちゃん注:ここに底本では『〔この間脫字〕』ありと葛巻氏の割注がある。]見とれて暫く往來に立づんで[やぶちゃん注:ママ。]をりました 家にかへつてから父に日記を見せたところが「もう一寸字をきれいに御書き」と云はれました

 

 本日 新宿から攜へてきた甲蟲を標本に製作し 又地圖に[やぶちゃん注:「に」の右横に葛巻氏は『〔は〕』と訂正注を施すが、寧ろ「には」の「は」の脱字とした方がよいようにも思われる。]一日をくれましたが 今日で全部出來ました

[やぶちゃん注:芥川龍之介は昆虫好きの少年であった。後に「昆蟲採集記」(二篇)を電子化する予定である。]

 

 七月二十七日 曇

 今日から二つ役目を〔引〕受けました 曰く庭掃除 曰く掃除 掃除と云ふのは 自分の居間と食堂と寐室とを兼ねている四疊半の一間を片づけるのです 復習讀書 例如

 夕方 のりの强いゆかたを着て庭の松の下の影に涼みました えも云はれぬ涼風に 思はず 夕月と此の秋風を吾一人こゝに占たり[やぶちゃん注:「しめたり」。]菩提樹の影の歌を思ひ出しました 松と菩提樹 夏と秋 ところ違へ 涼しさの甲乙はありますまい

[やぶちゃん注:一首の作者と出所は不明。識者の御教授を乞う。]

 

七月二十八日曇後雷雨

「今日は」と筆をもつてももう書きつゞけることは出來ない次第 一學期の御褒費[やぶちゃん注:ママ。褒美の芥川龍之介の誤字。]として兼て文してあつた蘆花の思ひ出の記がきたので 復習も何もかも休んで之を通讀しました 蓋しこの本は自分にとつては唯一の興奮ざい[やぶちゃん注:「劑」。]で 少なからず「勉强は幸福の基」と云ふ格言をたしかめる事が出來ました

 けれ共 むらむらも〔え〕出た勵[やぶちゃん注:「はげみ」。]の焰は いつ怠惰の水に消される事やら

[やぶちゃん注:「蘆花の思ひ出の記」德冨蘆花(明治元(一八六八)年~昭和二(一九二七)年:彼は「冨」字に拘ったのでここでもその表記を用いた)の自伝的長編小説「思出の記」(おもひでのき:明治三四(一九〇一)年五月民友社刊。初出『国民新聞』明治三三(一九〇〇)年三月から翌年三月連載)。小学館「日本大百科全書」から引くと、『九州の士族、菊池慎太郎は、幼時、家業の破産と父の死に』遇い、『母に家名再興を迫られて』、『発奮』、『やがて出郷』し、『苦難を重ね』て『帝国大学文科を卒業し、愛するお敏(とし)と結婚、在野の評論家として身をたてるまでになる。その間、キリスト教に触れ、自由人的な生き方に目覚める』。作品の終りの『帰省の場面に描かれている新吾の炭鉱経営と松村の農業』の生計の姿は、『蘆花の理想であった。明治前期の時代の上昇気運を明るく描いた浪漫』『主義文学の傑作で』、蘆花はチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)の名作で自伝的小説「デビッド・カパーフィールド」(David Copperfield:初出は雑誌連載で一八四九年から一八五〇年)を手本としつつ、『蘆花自身の思い出の断片を生かして書』いたものとされる。さても私も蘆花の大ファンなのだが、最初に「自然と人生」を読んだのは高校二年の時だった。ただ、蘆花の家庭小説は当時、「不如帰」(明治三十三年民友社刊。初出『国民新聞』一八九八年から翌年連載)で爆発的流行作家となり、多くの若者に読まれた。芥川龍之介の「小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(大正八(一九一九)年一月一日発行の『新潮』初出。リンク先は私のもの)では『德富蘆花の「思ひ出の記」や、「自然と人生」を、高等小學一年の時に讀んだ』とある。本日記三年次であるが、これは記憶の錯誤というよりも、初出の『国民新聞』版を幾つか読んでいたものと混同している可能性もあろう。]

 

 七月二十九日 曇後雷雨

 昨日の日記は筆が走つて何だか解らぬ事を書いてしまつたので 後で氣がついたがもう駄目 後の後悔前にたゝずでした

 晝頃から叔母が(但弟をつれずに)來て 雜多な話をしている中にポツリポツリ豆粒(チト誇大なれど)の雨がをちてくると同時に ガラガラガラと前から恐がつていた雷公が 雷獸の皮ではつたらしい太鼓をたゝきはじめました しかしさのみはげしくはないです

 雨が晴れる 叔母が歸る 號外が出る 父が歸つてくる 蛙がとび出す 日が暮る 蚊音樂を奏す 足が赤くふくらがる 蚊張をつる 寐る 後は有耶無耶の鄕

[やぶちゃん注:「號外が出る」この日の号外とは日露戦争に於ける「旅順攻囲戦」の前哨戦のそれである。日本陸軍第三軍は同年七月二十六日に旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、その主目標を東方の大孤山とした。三日間続いた戦闘で、日本軍二千八百名、ロシア軍千五百名の死傷者を出し、三十日、ロシア軍は大孤山から撤退している。この明治三十七年七月二十九日附の『報知新聞』の『第二號外』の現物写真をオークション・サイトで見つけた。そこには(「●」は現物では中央が小さく丸く白抜きである。画像は小さかったが、拡大して以下のように全文を判読出来た)、

   *

   ●旅順の大海戰

      (敵艦隊の殲滅)

今朝七時旅順の敵艦は數を盡して突出し我東鄕艦隊と激戰を交へたり

敵艦は我艦隊の大打擊を受けて殆んど殲滅され我艦隊にも多少の損害ありたり

[やぶちゃん注:以上は上段。以下は下段で現物ではポイント落ち。]

右は部下の某所に達したる報道なるが我社の門司特派員より午前七時旅順方面に大砲聲ありたりと急報し來れる特電に照合すれば事實海戰ありしものゝ如し尙ほ確報を得て詳報すべし

   *

と読めた。芥川龍之介が見たものがこれとは限らぬが、まず、この事件の号外であろう。但し、前に記した前哨戦は陸軍によるもので、それと平行して海軍が海戦を行ったとする記載は私は見出せなかった。別にこうした海戦があったものか、それとも陸戦の誤認か、或いは、海軍が陸軍の孤山攻略に援護射撃をした結果としてロシア艦隊との間に小競り合いがあった事実か風説かが、よく判らぬ。]

 

 七月三十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日は兼て入會すると云〔は〕れていた宇田君や 坂口君や 村越君や 深町君へ送りとゞける遊泳協會(自分の行つている水練場)の規則書を 前にも云つた 諸君へとゞけました 但深町君は住所がわからぬので宇田君に托してきました 其他 復習 讀書

 夕方 前の諸君(但深町君を除て)と柳橋の内外裝飾株式會社へ水泳帽子を求めに赴き歸途兩國廣小路の燈籠を見物しましたけれども あンまり面白い繪はなく 大體殘〔酷〕な繪や馬鹿馬鹿しい繪ばかりでした

[やぶちゃん注:成人した芥川龍之介が文字通りの「河童」で水泳が得意であったことはよく知られえいるが、この日記は――河童になる芥川龍之介の記録――でもあるのである。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項のコラムによれば、『龍之介の江東小学校時代の頃の大川(隅田川)は、水は汚れておらず、水泳に適し、川端には水泳場が用意されていた。身体の弱かった龍之介は、級友の清水昌彦・吉田春夫らと、ここに通って水泳を習った』とある。また、芥川龍之介が恋慕した一人佐野花子氏(海軍機関学校英語教官であった時の同僚の若妻。芥川龍之介の研究者は一人残らず、彼女が芥川龍之介に愛されたと主張する当該書は妄想の類いとして全く問題にしないが、私は誤認やある種の病的な錯誤部分はあるものの、佐野花子氏のそれは芥川龍之介研究の中でもっと正当に扱われ、復権されるべき書物であると大真面目に思っている人間である)『「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)』のシークエンスが私は忘れられないが(同書は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊で佐野花子・山田芳子(花子の娘)著)、芥川龍之介の「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)にも「水泳」の条がある。

   *

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絕望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

   *

引用に登場する「淸水昌彦」(?~大正一四(一九二五)年)は江東小学校及び東京府立第三中学校時代の芥川龍之介の親友で回覧雑誌仲間の一人。明治三九(一九〇六)年の三中一年次生だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戰争」(回覧雑誌『流星』に書いたもの)の中で、好戦の末、轟沈する『帝國一等裝甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。さらに、芥川龍之介の「本所兩國 附草稿 附やぶちゃん注」(昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二日分が休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」を附して連載されたもの。芥川龍之介は大阪毎日新聞社の社員である)から「大川端」の一部を引用しよう。

   *

僕の水泳を習ひに行つた「日本ゆう泳協會」[やぶちゃん注:「ゆう」のひらがなはママ。]は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代將軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを發見し、滑稽に近い今昔の感を催さない譯には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。

   *

「柳橋」東京都台東区柳橋(グーグル・マップ・データ)。

「兩國廣小路」中央区東日本橋にある両国橋の両袂を指す(グーグル・マップ・データ)。

「燈籠」名越祭りの燈籠祭りか。鎌倉のぼんぼり祭りみたようなものか。]

 

 七月三十一日 大雨大雷後曇

 本日は二十三日の雷のよーに鳴て鳴り通し をちてをちてをちとーしました なんぼ多く落るにしろ 三十五ケ所迄をちるとは 實に驚くより外はありません

 復習も何も休で 水の中ヘポチャポチャ入て遊びました 寐床八時

 

 八月一日 晴

 今日 朝から大島君が來たので 晝迄二人して遊びました 晝過 宇田 坂口 村越の諸君と水泳を試みたが(大島君も一しよに行つたが 御藏橋の邊に釣を見ていられた)水が獨待つている[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のと大島君が待つているので 早くかへりました 四時頃大島君歸宅 寐床九時十分

[やぶちゃん注:「大島」大島敏夫。回覧雑誌仲間の一人。]

 

 八月二日 晴

 早朝 庭前で赤蛙を一匹殺しました 蓋し骨格を作る目的で

 復習 讀書 如例 綠のかげをなす柳の下で禁を破つて 晝寐をしました 晝過 いつもの如く水泳 寐床十時二十分前

[やぶちゃん注:「禁を破つて」こう書くからには、これは単に芥川龍之介自身が自身に課したものであったのであろう。]

 

 八月三日 曇小雨

 いやなまつくろな雲が二つ三つ北の方にあたまを出したと思ふともう空一面にひろがつて まるでうすゞみの樣な色になつたので 樂しい水泳も出來ず 復習と讀書とにふけりました。午前小雨がありました

 

 八月四日 曇小雨

 又今日も曇……雨さへショボショボふつてくるし「チエースト天とうの馬鹿野郞め」抔[やぶちゃん注:「など」。]と氣狂のよーにどなつたりしていました 今日も又讀書復習遊戲 寐床八時二十分

 

 八月五日 晴

 上天氣上天氣 紺丈色[やぶちゃん注:「紺靑色」の誤記。]をした限りない大空は 待ち兼ていた僕等にその顏を見せました 讀書復習例如水泳後ザツと湯をあびて いゝこゝろ持に寐たのは 九時十五分

 

 八月六日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日晝前は例によつて復習讀書洒掃 童すぎ水泳 夕方友人K生(名前は云はぬが江東學校の人ではない)と 明治座の活動寫眞を見物しました 寢床十一時

[やぶちゃん注:「洒掃」は「さいさう(さいそう)」で、「灑掃」とも書き、「洒」も「灑」もともに「水を注ぐ」の意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすることで、「清掃」に同じい。]

 

 八月七日 晴

 今朝昨夜のつかれで八時迄寐すごしました 復習讀書水泳例如 但し復習はまだ少し寐い[やぶちゃん注:「眠(ねむ)い」の誤記。]ので十分に出來ませんでした 寐床八時十分

 

 八月八日 晴

 今朝? いや大分前から冒頭へ今朝ををく[やぶちゃん注:ママ。]が 今朝 朝の内は散步をし かえるとすぐ復習 と云ひたいが これは今日は休みました 讀書水泳例如

[やぶちゃん注:頭の部分は自分の自動作用に批判を述べているのである。流行作家になった後の芥川龍之介も、自身の創作活動の自動作用的傾向には敏感でよく自己批判をしている。「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行『新潮』初出、リンク先は私のサイト版)の一節で龍之介はこう書いている。

   *

 樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。

   *]

 

 八月九日 晴

「水泳くらい愉快なものはあるまいよ 海國男子の本分とする云々」と云う議論をはいて大に水ををそれている[やぶちゃん注:「をそれ」「いる」孰れもママ。]所謂 猫また男をしてへこましたのは今朝の九時ごろでした 讀書復習例の如し

 

 八月十日 晴

 今日はもうずつと前に作り完つた地圖を出して見たところが アジア露西亞の部が氣に喰ぬので 新に作〔つ〕たり何かして晝迄を消しました[やぶちゃん注:「過ごしました」「費(ついや)しました」などの誤記か。] 其他無事

 

 八月十一日 晴

今日はひる前から弟と叔母とが來て晝前はまるで遊んでくらしました 晝過水泳 但今日は弟がいるので早くかへつてきました 弟は夕方「今日はおうちの方に花火があンのよ」と云ふてかへりました その日が芝浦の花火があつたので

 

 八月十二日 晴

 今日水練揚にいつて見ると 昨日迄僕と一つ五級生でいた人が四級生になつて居るので その譯をきいて見ると 昨日自分がかへつた後で試驗があつたとの事 自分少なからず否非常に怒り且非常に口悔しがりました 復習讀例如

 

 八月十三日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 水練の事で持ちきりますが 今日自分と靑田君とは四級生の試驗をうけて まづまづ及第しました

 うれしまぎれに直[やぶちゃん注:「すぐ」。]吉田君と協會をとび出して 柳橋へ級章を買に行きました

 

 八月十四日 晴

 晝前は復習讀書

 晝過は水泳

 最も今日は遠泳會を催す筈のが延期して やつぱりいつもの通り水泳があるのです

 

 八月十五日 晴

 復習は今日休で 遊戲と讀書とで晝迄を費し 晝すぎは例の通り水泳ですが 三級生や二級生にもぐらされて二三杯氷の變躰をのまされました

[やぶちゃん注:「氷の變躰」水の洒落。]

 

 八月十六日 晴

 復習水泳讀書等 例〔の〕如し 夕方宇田君と帽子をかひに行きました それから杉江君も訪て

 

 八月十七日 晴

 一寸云てをきますが 日記が七月の三十一日以來短くなつたのは あまり前に長たらしく書たので紙數に缺乏をつげそうなのです

 今朝自分の幼稚園時代の折物や何かをとりだして見ましたが 自分がこんなものを書いたり拵へたりしたかと思と何となく床しいよーな感が起て……その中に目の前へ幼稚園時代の人々の姿が夢のよーにあらはれて「御久しぶり」抔と昔の通な[やぶちゃん注:「とほりな」。]あどけない聲で話かける あゝ昔にかへつたかと顏をあげると矢張自分の部屋 なんにもいない 晝時の號砲にこのくだらない夢想をやぶられました

 水泳讀書共平日の通り 寐床八時十五分

[やぶちゃん注:当初より感じているが、この日誌は学校から提出を命ぜられているのではないかと私は推測している。ここの弁解染みた敬体で書かれたそれも、そうした提出物として教師に読まれることを強く意識しているのとしか思われない。

「缺乏をつげそうなのです」「そう」はママ。「つげそう」(正しくは「つげさう」)は「とげそう(同前「とげさう」)の誤記か、葛巻氏の誤判読ではなかろうか。

「幼稚園時代」実は江東小学校の濫觴は、「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項によれば、明治五(一八七二)年に、少年期の芥川龍之介のフィールドであった回向院(グーグル・マップ・データ)の民家を借りて戸枝一(「とえだはじめ」か)が幼育社という寺子屋を起こしたのに始まるそうで、明治八年十月に回向院に隣接した場所に学舎が建ち、小学校となった初めから幼稚園が附属していた。芥川龍之介もその江東尋常小学校附属幼稚園に明治三十(一八九七)年四月五歳の時に入園し、一年間通っている。先に引いた芥川龍之介の「追憶」にも、

   *

       幼稚園

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

 「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

   *

とある。或いは……十二歳の芥川龍之介も……まさにその女の子の姿や声を……この時……思い出していたのではなかったろうか…………

「折物」不詳。折(をり)の物の脱字か。]

 

 八月十八日 晴

 起床五時十分前

 起き早々昨夜種板を入れてをいたカメラを小脇にして目的もなく手當次第二三枚うつしてかへりました

 現像もうまくいつてまあまあ ボンヤリ?出來ました 復習讀例如 但水泳も

[やぶちゃん注:「ボンヤリ?出來ました」はママ。「?」の後には字空けはない。

「種板」「たねいた」。写真の感光板。

「カメラ」ピンホール・カメラであろう。]

 

 八月十九日 晴

 今日は別段之と云て記すべき事もないので只明日の花火に使ふと云ふ摸造[やぶちゃん注:「もざう」。「模造」に同じい。]軍艦レトウイザンを見ました 復習讀書水泳例如

[やぶちゃん注:「軍艦レトウイザン」レトヴィザン(Ретвизан:原音音写は「リトヴィザーン」に近い/ラテン文字転写:Retvizan)はこの当時はロシア帝国海軍の戦艦。日露戦争に参加したロシア戦艦中で唯一のアメリカ製の軍艦であった。日露戦争の「旅順攻囲戦」でこの年の十二月六日に旅順港内で日本陸軍(第三軍。司令官乃木希典大将)麾下の二十八センチメートル榴弾砲の曲射砲撃により大破して沈没したが、戦後、引揚げられて修理され、日本海軍の戦艦「肥前」となった。ウィキの「レトウイザン(戦艦)」を見られたいが、勿論、ここはそれを模した、嘗ての両国川開き花火大会用のミニチュアの模造品である。次の日記でそれがどんな目に遇わされたかがよく判るが、まさか、芥川龍之介に限らず、同戦艦が文字通り、四ヶ月に日本軍によってこの模造品同様に沈没させられたばかりか、後に日本の戦艦になって蘇るとは、これ、思っていた者は誰もおるまいよ。

 

 八月二十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日の復習は解〔け〕なかつた「潅槪[やぶちゃん注:「灌漑」の誤字。]」の講義も出來て(これはこの講義が解ぬ[やぶちゃん注:「とけぬ」。]ので五六日前先生の所へうかゞいに上〔つ〕たのでそれが今日又あつたからです)まづ樂になつたので 讀書 晝過水泳 夕方から花火見物をしました しかし折角の軍艦燒打は見ませんでした

[やぶちゃん注:前半の部分は「灌漑」という文字と、その意味する行為がどのようなものであるかを理解し、自分で文章にすることであろう。今時、中学一年生には意味は分かっても、「灌漑」の漢字自体が殆んどの者が書けず、読める者も半分もいないであろう。]

 

 八月二十一日 晴

 復習讀書例如 今日水練場で三級生の試驗をしましたがその結果は十中の九箇九分の八は落第です 寐床九時二十分

[やぶちゃん注:「十中の九箇九分の八」九十九・八%の謂いか。]

 

 八月二十二日 晴

 復習は休んで讀書と遊戲とで一日を完りました 水泳にも行〔つ〕て それから書き落しましたが、一昨日夜になつてから弟が來たので それで復習を休〔ん〕だので言譯のよーですが一寸と云〔つ〕てをきます 今日夕方弟と叔母とは芝へかへりました 寐床十時二十分前

 

 八月二十三日 晴

 今年は昨年のよーに房州にも行〔け〕なければどこへも行〔け〕ないと云ふのは 親類に重病人が出來て食物萬端皆灌腸して腹中にをさめるので 完にはそれさへきかなくなつて仕まつたので親類の事ではあるしするからそれを見合せたのだそうです

 今年は河に飽きた躰を漫々たる夏の大海原にさらし 町に倦〔ん〕だ躰を鬱蒼たる樹林に橫へて仙人然たる境がい[やぶちゃん注:「境涯」。]にせめて休暇の半分もをくる[やぶちゃん注:ママ。]つもりであつたのが悉く破れて矢張東京の塵くさい空氣を呼吸する事になりました 讀書復習水泳いづれも例の如し

[やぶちゃん注:「昨年のよーに房州にも行〔け〕なければ」この前年の明治三六(一九〇三)年の夏には、千葉勝浦の鈴木太郎左衛門(芥川龍之介の実父新原敏三の経営する牛乳業「耕牧舎」の霊岸島支店にいた南雲多吉の親戚)に、新原・芥川両家の人々と一緒に訪れている。参照した新全集の宮坂年譜には『鈴木方には、この年から大正初年まで、ほとおんど毎年出かけた』とある。

「親類に重病人が出來て」不詳。義母である道章の妻儔(とも)の縁者であろうか。]

 

 八月二十四日 晴

 今日は復習を休〔ん〕で讀書と遊戲と水泳で日をくらしました 但今日水泳場で水泳帽子を失したので 今日四級になつた湊君とそれを藏前へ買ひに行きました

 

 八月廿五日 晴

 讀書復習水泳例如 水泳から歸〔つ〕てきて自分の部屋の市區改制を行〔つ〕て 本箱机等を整理しました

[やぶちゃん注:「市區改制」ウィキの「市区改正」より引く。都市近代化政策としてのそれは、明治二一(一八八八)年に『内務省によって東京市区改正条例』『が公布され、東京市区改正委員会(元府知事の芳川顕正が委員長)が設置された。建築物の規制などは当初検討されたものの』、『結局』、『行われなかった』。翌一八八九年には『委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった』ものの、『財政難のため』、『事業は遅々として進まなかった』。しかし急激な『都市化の進展から事業の早期化が必要』となり、本日記の前年である明治三六(一九〇三)年に『計画を大幅に縮小(新設計)し』、『日露戦争後の』明治三九(一九〇六)年には『東京市に臨時市区改正局を設置、外債を募集して、日本橋大通りなどの整備を急速に進め』、大正三(一九一四)年に『ほぼ新設計』通りの『事業が完成した』。『主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた。神田・日本橋・京橋付近では道路拡幅に伴い、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられるようになり、人目をひいた。これらの建物は当時の建築家から「洋風に似て非なる建築」と評された』(太字は私が附した)とある。則ち、「市區改制」はまさにアップ・トウ・ディトな(或いは遅々として進まぬお役所仕事の皮肉もたっぷりと含んで)流行語であったのである。]

 

 八月二十六日 半晴半曇

 行く筈で無かつた海岸行が急に一日の淸興をむさぼる事にして大森行と定りました 處が此日は暑いどころか寒い(誇大ですが)ので單衣[やぶちゃん注:「ひとへ」。]の二三枚も重着[やぶちゃん注:「かさねぎ」。]をしてガタガタふるへていました 歸途アイルランド御伽噺の二人半助を求〔め〕てこれを見ながら夢の國に赴たのは午後八時四十分

[やぶちゃん注:……「大森」の「海岸」……「御伽噺」を帰りに買って貰う……おお!――あれだ! 芥川龍之介の「少年」だ!(大正一三(一九二四)年四月発行の雑誌『中央公論』に「三 死」までが、また同雑誌五月発行分に「少年續編」の題で「四 海」以下が掲載されたのを初出とする。リンク先は私の古いサイト版)……さてもその「四 海」を読まれたい。

「アイルランド御伽噺の二人半助」この日記よりも後の刊行だが、巌谷小波編「世界お伽噺」第六十編に「二人半助」という作品がある(こちらの書誌データに拠った)。時制の矛盾はあるが、単発の冊子でそれ以前に発売されたものとみて全く違和感はない。僕の少年期まではそんな薄手の御伽話の袖珍本があったものだ。但し、話の中身が判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。何てったって、アイルランドだよ!?! 芥川龍之介が最初に読んだアイルランドだよ! アイルランドは後の龍之介とは、これ、深い深い、縁があるんだ!!!

 

 八月二十七日 半晴半曇[やぶちゃん注:土曜日。]

 讀書復習共例如

 水泳はちと寒そうなので中止にしました 晝すぎ淸水君が訪れられて此間の試驗に君は及第したと云〔は〕れる あやしみながら水練場できくと 眞だと云ふので 淸水君と三級生の帽子を買に行きました 淸水君に本を貸して左樣ならとさけんで家にかへりました 寐床八時五分

 

 八月二十八日 半晴半曇

 今日は水練場に競技會がある日であるが 坂口君や村越君も行かないよーだから出席を見合せました 晝すぎ淸水君が本を返しに來られました すると間もなく淸水君の處の女中が來て淸水君は居ぬかと聞れる 「もうさつき御歸りです」と答へて歸しました さては淸水君は家にかへらぬで途中にどこかで遊んでいるなと思ひました 讀書復習例如

 

 八月廿九日 曇微少雨

 朝ばらばら降てきた雨もやがてやんでしまつて晴の樣な曇のよーな妙手古林[やぶちゃん注:「みやうてこりん」。「へんちくりん」に同じい。]な御天氣になりました 復習は休みました 晝過水泳 さぶいので二囘でかへつて來ました またまた本箱の整理で日を完りました

 

 八月三十日[やぶちゃん注:火曜日。]

 朝から怪しかつた空は晝迄こらへきれずふり出しました 復習讀書 其他無事

 今日荒井先生からいひつかつた粘土細工の「なす」が出來ました 但駄作です

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、この日、彼は新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組し、龍之介は芥川家の養嗣子となり、晴れて「新原龍之介」は「芥川龍之介」となったのである。それは彼自身理解していた。それを全く日録に書かなかった彼の想いを考えると、私は涙を禁じ得ない。茄子のフィギアをもくもくと作る新生芥川龍之介を想うべし!

 

 八月三十一日

 朝の中は粘土細工の賽[やぶちゃん注:「さい」。骰子(さいころ)。]を作りました 復習讀書例如

 晝すぎ梅田君から借りていた本を返し それから坂口君を訪れました そこへ村越君が來たので 少し寒いかしれないが行つてみよーと水練場へ行〔く〕と今日は休業と大きくかいてありました それから淸水君の家で遊んで三人うちつれて家にかへりました

 但 坂口村越の兩君は家へよつて遊んでゆきました 夕方出校準備をしました 暑中休暇の日記は以上で完ります

 私はこの暑中休暇に於て地圖や圖畫や作文に此迄の休暇にうけない苦〔しみ〕をしましたが 又天造の寶庫 見渡す限り水天一髮の大海や綠の毛氈をしきつめしが如き草原や或は爆布となり或は溪水となる水についてや 種々雜多の事柄を記憶(オボエ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ました これも休暇の賜物と云はなければなりますまい 休暇 その文字を以ても平日の勞を癒すのに違ないですが その中にあつて遊びつゝ目にふれ耳にきく事物について觀察したならば いと趣味ある事でありませう

[やぶちゃん注:「水天一碧」が知られる。これは「水と空とが一続きになって、一様に青々としていること」を言うが、誤字・誤判読とも断じ得ない。何故なら、「一髮」には遠くの山々等の景色が一本の髪の毛のように幽かに見えることの意があり、また、後の作であるが、明治四一(一九〇八)年刊行の押川春浪・阿武激浪庵(怒濤庵少尉)共著「冒險的壯快譚 水天一髮」があるからである。]

芥川龍之介 (明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』の掉尾に載る「〔明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令〕」に拠った。標題は〔 〕で括られているからには正字表現ではあるものの、葛巻氏が附したものと思われる。しかし、適当な標題がないので、これを( )に代えて標題とした。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同じような演習の記事である「芥川龍之介 十月二日発火演習記事」の方の解説によると、「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載った、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号には、「十月二日發火演習記事」の前に『五乙』の『田中』の署名の「十月廿三日發火演習記事」が芥川龍之介の「十月二日發火演習記事」前に載っており、『それによれば』この時の演習では『芥川は中隊長の任に就いている』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜によると、これは「十月二日發火演習記事」に記された同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)の二十一日後の、明治四十二年の同じ月である十月二十三日(土曜日)に参加した際の、この時は中隊長役となった芥川龍之介が発令した軍事演習命令そのものである。

 底本では「際」で改行して二行で表記している。ブログ・ブラウザでの不具合を考え、本文のそれは三行に分かった。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。命令本文は全体が一字下げであるが、行頭に引き上げた。命令本文には読点は一切ない。]

 

   (明治四十二年十月廿三日、

    東京府立第三中學校 發火演習ノ際

    芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令)

 

   命令 【十月二十三日午前十時中矢切村南端に於て】

一、情報によれば敵の一部隊は金光明寺附近に出沒しつあり

二、我北軍部隊は市川停車場を占領する目的を以て、松戶街道を前進中なり

三、我中隊は此左側衞として、金光明寺附近に出沒する敵軍を警戒すべき任務を有す

四、第一小隊は前衞第二 第三小隊は本隊 本隊は第二小隊長之を指揮せよ

五、余は前衞と共に行進す

           中隊長 芥川龍之介

   ○敵に關する注意

  一、敵は帽に日覆を附せず

  二、空砲は三發を使用せよ

  三、漫に耕作地に入るべからず

[やぶちゃん注:「矢切村」千葉県松戸市にある「上矢切(かみやきり)」・「中矢切(なかやきり)」・「下矢切(しもやきり)」の三地区の総称で、嘗つては、それぞれ、上矢切村・中矢切村・下矢切村という独立した村であったが、松戸町との合併により、現在は松戸市の一部となっている。なお、その合併は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行に伴うもので、松戸駅・小山村・上矢切村・中矢切村・下矢切村・栗山村が合併して東葛飾郡松戸町(旧)が発足しているから、本演習の際には最早村ではなかった。三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見るに、本文にある「南端」は下矢切地区であることが判る。因みに、知られた「矢切の渡し」の東方直近に当たる。

「金光明寺」これは恐らく現在の市川市国分にある真言宗国分山国分寺(下総国分寺)である(グーグル・マップ・データ)。松長哲聖氏の優れた寺社案内サイトの同寺の記載に、『国分寺は』、天平一三(七四一)年の『詔勅によると「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、この年には下総国の国分寺として当寺が建立されたと』され、『其の後まで』、「国分山金光明寺」と称し、『薬師堂の別当を勤めていたといい、慶安』二(一六四九)『年には江戸幕府より寺領』十五『石の御朱印を拝領、明治』二二(一八八九)『年に国分山国分寺と改称したと』されるとあるから、この寺を「金光明寺」(こんこうみょうじ)と呼んで何らおかしくない。ロケーションも一致する。

「市川停車場」先の「今昔マップ」を見ても、現在の市川駅と同じ位置にある。

「松戶街道」千葉県道一号市川松戸線の愛称。千葉県市川市市川の国道十四号・千葉県道六十号市川四ツ木線(千葉街道)との交点である「市川広小路」交差点を起点として、松戸市小山の国道六号(水戸街道)、千葉県道五号松戸野田線・千葉県道五十四号松戸草加線(流山街道)との交点である「松戸二中前」交差点を終点とする県道。ここ(グーグル・マップ・データで「下矢切」をポイントし、その東を南北に走る同街道の中央に国道記号が見えるように示した)。]

2019/12/28

芥川龍之介 十月二日発火演習記事 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「十月二日發火演習記事」に拠った。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説や新全集の宮坂覺氏の年譜によって、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名で載ったもので、同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた、同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)に参加した際の報告記事である。文中に出る「中隊長」「砂岡豐次郞」というのは無論、軍人ではなく、生徒である。この後に電子化する同月二十二日の発火演習の芥川龍之介の記録では、龍之介自身が中隊長のとして参加している。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。

 それにしても、同誌には実に、芥川龍之介による「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載るというのは「編輯を完りたる日に」で、『本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした』と言っているのを、やや不快に感じた同誌の読者もいたであろうことは想像に難くはない気がする。少なくとも私ならそう思う。芥川龍之介のそれらが優れた文章群であることは認めるにしても、である。

 

   十月二日發火演習記事

 

○ 南軍靑山を發す。午前七時。十月の光、白秋の空にあふれて、農家の庭にコスモスの紅に咲き亂れたる、蕎麥の花白き畑に農夫の歌の聞ゆる、初秋の思自ら湧くを覺ゆ。軍既に澁谷をすぐれば、稻田の黃なるあなた、落葉せる林の上に國境の山々、紫にそびゆるを見る。

○ 澁谷を去る里餘にして、溫厚沈着の砂岡中隊長、命令を下して曰。

[やぶちゃん注:以下の中隊命令は底本では全体が一字下げで、二行に亙る場合は一字下げとなっているが、行頭まで引き上げ、前後を一行空けた。最後の署名も下三字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

  ○中隊命令 【十月二日午前八時四十分澁谷村西端に於て】

一、情報によれば敵は多摩川二子の渡しを通過しつゝあり。我大隊は敵の渡河を妨害する目的を以て、大山街道を二子方面に派遣せられたり。

一、我中隊は左側衞となり。下馬引澤村方向に出發せむとす。

一、第三小隊前衞、第二第一小隊本隊、本隊は第一小隊長之を指揮せよ。

一、余は前衞と共に行進す。

           中隊長 砂岡豐次郞

[やぶちゃん注:「多摩川二子の渡し」ここ(グーグル・マップ・データ)

「大山街道」大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の内の「青山通り大山道」。ウィキの「大山道」によれば、「矢倉沢往還」の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。その経路は赤坂――青山――渋谷――三軒茶屋――二子の渡しで、この演習ルートと完全に一致する。なお、私は大学のある教授の授業で(誰の何の授業だったかは忘れた)、『今の「青山通り」なんてえのは、昔は本当は「大山通り」だったのだが、格好つけて「青山通り」に代えただけだ』と教わった。しかし、ウィキの「青山通り」には、「大山」由来の記事はなく、『江戸時代には厚木街道と呼ばれていた。五街道に次ぐ主要な街道の一つであった』とある。しかし、厚木方面に向かう江戸庶民の大半は「大山詣で」であったはずだから、私は「大山通り」説を今も信じている。

「下馬引澤村」東京都世田谷区下馬。因みに、ここには源頼朝所縁の「葦毛塚」があることで私は知っている。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)』を参照されたい。また、三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見られよ。「下馬引澤」の旧地名が記されてあり、その北に後に出る「砲兵練兵場」、「駒沢練兵塲」が広がり、その西端には「砲兵旅團司令部」が記されてあるのが判る。

「小岳」不詳だが、前の注の「今昔マップ」を見ると、練兵場東外に「宿山」、その南西に「蛇崩」の地名が認められ、この辺りが、丘陵状になっていた可能性を窺わせる。]

 

 令、既に下り、士氣大に振ふ。再落葉をふみて、林の道を辿れば、露草の花夢の如くさき出たる、戎衣の身にもうれしかりき。

[やぶちゃん注:「戎衣」(じゆうい(じゅうい)」は軍服のこと。この場合の「戎」は兵(つわもの)の意。]

○ すゝみて稻田を橫り、小岳の下に出づれば機を見ること石火の如き宮崎小隊長は、直に斥候を渡して敵情を窺はしめぬ。

○ 機は來れり。宮崎小隊先進み、西川中山の二小隊次いで手に唾して戰機を待ち、令一度下らば將に突破、敵陣を碎かむとす。しかも敵の臆病なる、未一彈を交へざるに悉く退却し、宮崎小隊をして、直に下馬引澤村砲兵練兵場の南端に出でしめたり。我軍既に地の利を得たり。宮崎小隊長の得意や知るべきのみ。

○ 然りと雖も、敵軍豈、空しく退かむ哉[やぶちゃん注:「しりぞかむや」。]。我先鋒、曠野の遠緣に出づると共に敵は、忽扇形の散兵線をひらき一擧にして我軍を破らむとする。砂岡中隊長、是に於て、秋水一閃、宮崎小隊をして、直に敵の中堅にむかはしめ、鳴彈始めて原頭の寂寞をやぶれり。

[やぶちゃん注:「秋水一閃」(しうすいいつせん(しゅうすいいっせん))は「秋水」が「切れ味鋭い研ぎ澄まされたような居合いの名刀」で、その眼にも止まらぬ一振りを言う語で、ここは果敢にして素早い判断を指している。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。]

○ 敵亦之に應じて、猛射益急。敵兵の白帽の陰見する、敵將校の長劍の日に輝く、既に我軍の指顧にあり。顧て我軍を望めば、砂岡中隊長、從容として迫らず。中原〔一字不明〕準士官亦莞爾として其傍にあり。將に是サドワ原頭、ビスマークとモルトケとが、相見、相笑つて、墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]の竪軍を擊破せるの槪あるもの。我軍の意氣愈昂る。

[やぶちゃん注:「サドワ」一八六六年六月から八月にかけて起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との普墺(ふおう)戦争に於いて、七月三日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村(Sadová /ドイツ語:Sadowa:現在はチェコ)の中間地点で発生した「ケーニヒグレーツの戦い」(ドイツ語:Schlacht bei Königgrätz)が行われた場所。分進合撃(分散した部隊が集中するように機動・攻撃する軍略)に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲して決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。「サドワの戦い」とも呼ぶ。詳しくはウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」を参照されたい。

「ビスマーク」言わずと知れたプロイセン王国及びドイツ帝国の「鉄血宰相」(Eiserne Kanzler)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。

「モルトケ」プロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。「芥川龍之介 一学期柔道納会」に既出既注ウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」によれば、『部隊の前進により、プロイセン首脳(ヴィルヘルム』Ⅰ『世、ビスマルク、大モルトケ等)は』六月二十九日に『ベルリンを発して、ギッチン経由で戦場に接近し』、七月三日朝、『プロイセン王太子の率いる第二軍は未着であったが、地勢に有利なクルム高地のオーストリア軍』二十四『万に対し、第一軍とエルベ軍の約』十四『万のプロイセン軍が攻撃を開始し』て会戦、『前夜の雨は上がっていたが』、『泥濘の中で、優勢なオーストリア軍の抵抗にあい』、『プロイセン軍は進むことが出来なかった。特にオーストリア軍左翼に配置されたザクセン王国軍は高所の布陣により』、『プロイセン軍右翼のエルベ軍を苦戦させた』。『午前』九『時から午後』一『時まで』四『時間が経過したが』、『戦局を打開するはずのフリードリヒ』Ⅲ『世王太子の率いるプロイセン軍第二軍は現れず、本営では度重なる救援要請の伝令に観戦していたビスマルクが焦り出したが、葉巻のケースを差し出されたモルトケが、良い葉巻を選り好みしている様を見て「作戦を立てた人間がこれだけ落ち着いておれば大丈夫だ」と安心したという。このとき、ヴィルヘルム』Ⅰ『世も自ら総攻撃を命じようとしたが、モルトケに諫められたという』。『午前中からの戦闘はオーストリア軍が優勢であったが、午後になって約』十二『万人のプロイセン第二軍が戦場に到着し、作戦通りの三方からの包囲攻撃が成立』するや、形勢が『一転し、第二軍が攻撃したオーストリア軍右翼が崩れはじめると、中軍も動揺して退却が始まった。オーストリア軍司令官のベネディクは総予備を投入して一時クルム高地を奪回したが』、『大勢は覆せず、再度陣地を放棄して退却することとなった。プロイセン軍では奪取した高地に砲兵を挙げて退却するオーストリア軍を砲撃するだけでなく、騎兵と歩兵による追撃を続けた。オーストリア軍はエルベ川へ追い落とされて全滅する危機にあったが、砲兵』二百『門と騎兵師団』一『万が殿軍』(でんぐん:しんがり)『となって抵抗し、犠牲になることで退却を助けた』。『こうして戦闘は一方的な結果となり、プロイセン軍の死傷者は』九『千人に留まったのに対し、オーストリア軍の死傷者約』二万四千人、捕虜二万人、大砲の損失百八十七『門を数えた。モルトケはヴィルヘルム』Ⅰ『世に向かって「陛下は本日の戦闘に勝たれたのみならず、今回の戦争にも勝たれました」と言ったという』とある。芥川龍之介の謂いは、まさにその葉巻のシークエンスであろう。

槪[やぶちゃん注:「ガイ」。「おもむき」でもよいが、やはりここは音読みだろう。]

○ 戰酣[やぶちゃん注:「せん、たけなは」。]にして、西川中山兩小隊第一線に加はり、彈を飛ばす雨の如し。敵亦必死 銃火を我に加へ、銃聲地を搖りて拒守益嚴。時に令あり。「交互に着け劍」。

[やぶちゃん注:「敵亦必死 銃火を我に加へ」の字空けはママ。読点なし。]

○ 機既に熟す。然りテルモビレーを陷るべきの機は既に熟す。南軍の勝敗此一擧にあり。忽ち見る、白煙濠々として霧の如くなる中より、砂岡中隊長の長劍、白虹[やぶちゃん注:「びやくこう」と読みたい。]を吐いて、突擊に前への號令下ると共に、健兒一百 蹶然として奔流の如く突進するを。

[やぶちゃん注:「兒一百 蹶然として」の字空けはママ。読点なし。

「テルモビレー」紀元前四八〇年、ペルシャの三百万の大軍に対し、スパルタがレオニダス王以下、僅か四千の兵で戦い、激戦の末にスパルタが全滅した「テルモビレーの戦い」(「ピ」であることに注意)の戦地。世界戦史に於ける代表的玉砕戦として知られる。音写は「テルモピュライの戦い」とも。編集時の誤り、芥川龍之介或いは葛巻氏の判読の誤りともとれる。ウィキの「テルモピュライの戦い」によれば、『テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で』十五『メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも』、『終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった』。『スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ』二・五『メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった』。『翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって』、『山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢』一千兵『は、ペルシア軍に遭遇すると』、『これに対峙すべく』、『山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた』『(一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の』三百人・テーバイ四百人、テスピアイ兵七百人の合計千四百人(又はスパルタの軽装歩兵一千人を加えて二千四百人)は、『共にテルモピュライに残った』。『朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーラン・ラベ(来たりて取れ)」であった』。『決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前』十『時頃に全軍の進撃を指示』して、『レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た』。『凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること』、四『回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた』。『彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は』二『万人にのぼったとされる』。『この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした』とある。場所はここ(同ウィキのの地図)。]

○ 步一步。躍一躍。銃劍霜の如く閃いて、遇進する、江河の堤を決するが如し、凛乎[やぶちゃん注:「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。りりしいさま。凜然。]として聲あり。「乘込め。」喊聲大に起る。再考あり。「乘込め。」喊聲更に起る。三度聲あり。「突込め。」健兒大呼して劍戟をかざす、敵を去る僅に三十米。創尖相觸れむとして忽に休戰の令下る。

○ 休戰の令既に下る。南北兩軍の豼貅、野に滿ちてしかも野靜なる[やぶちゃん注:「の、しづかなる。]事人無きが如し。時正に十一時四十分。次いで渡邊小川兩先生の講評あり。演習是に終る。

[やぶちゃん注:「貔貅」「ひきう(ひきゅう)」はは伝説上の猛獣の名。一説に「貔」が♂、「貅」が♀ともされる。転じて「勇ましい兵卒」の譬え。]

芥川龍之介 一学期柔道納会 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「前號批評」に拠った。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――中学五年――〕

とあるが、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説で、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名(本篇末尾にある)で載ったもので、同校五年次の『自らも出場した一学期の柔道納会の記録である』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、本文にもある通り、前年の明治四十二年七月十九日に行われ、芥川龍之介(当時満十七歳で「白軍」)は『中堅として一人を破った』とある。

 踊り字「〱」は正字化した。]

 

   一學期柔道納會

 

○ 李の實も黃色くなれば、待宵草の花も咲きそめる七月十九日と云ふに、柔道部の納會が雨天體操場でひらかれる。

○ まだ試合のはじまらない道場の靑疊には、曖な日の光がさして、萩原先生が番組を見ながら、ニコニコ笑つてゐる。向うの隅では部員が大勢、小川先生をかこんで何か話してゐる。さうかと思ふと、吉田が謄寫版ですつた番組をくばつて步くのが見える。

○ 試合は校長の開會の辭と共にはじまる。一本勝負は石川先生、三本勝負は萩原先生が、檢證の勞をとつて下さる。

○ 試合にうつると直、紅軍の若武者井關が、白軍の戰士を四人迄倒した。これを紅軍の一番槍とする。次いで橋田(紅)が、又白軍を二人破る。白軍の意氣は頗る振はない。

○ 背の高い瀨川(白)が、其背の高いのを利用して紅軍の小冠者を三人も倒したが(一年の驍將[やぶちゃん注:「げうしやう(ぎょうしょう)」。強く勇ましい大将。]古澤も背の低い悲しさに脆くも抑へこまれて仕舞つた)白軍の旗幟[やぶちゃん注:「きし」。「旗と幟」から転じて「軍勢」或は「軍の形勢」。]は不相變亂れて、遂には紅軍の松田をして、撫斬[やぶちゃん注:「なでぎり」。]の功名を恣[やぶちゃん注:「ほしいまま」。]にさせた。稻村も松田に破られた一人だ。流石の稻村もよくよく景氣が惡かつたと見える。

○ 三本勝負に移つてからも、紅軍の意氣は益盛で[やぶちゃん注:「ますますさかんで」。]庭球部の重鏡石崎が(白)力戰して拒いだが、紅軍の雙槍將小川に、破られて仕舞ふと云ふ始末。白軍の運命は、愈孤城落月に迫つて來た。

[やぶちゃん注:「雙槍將」は「さうさうしやう(そうそうしょう)」で、「水滸伝」に登場する梁山泊第十五位の好漢董平(とうへい)の渾名。両手にそれぞれ一本ずつ槍を持っていたことに由来する。

「孤城落月」孤立した城と沈もうとする月。ひどく心細い様子の譬え。]

○ 然しながら白軍、豈人なからむやである。モルトケ將軍佐々木(白)の立つと共に、形勢は一變した。加納と中野(紅)とが相次いで破られる。

[やぶちゃん注:「モルトケ將軍」ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard von Moltke 一八〇〇年~一八九一年) はプロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。一八五八年から一八八八年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。「近代ドイツ陸軍の父」と呼ばれる。最終階級は元帥(以上はウィキの「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」に拠った)。]

○ 佐々木が山田(紅)に拔かれると急に急霰の樣な拍手が起る。白軍の靑天飇長島が、躍然として白軍の陣頭にあらはれたのである。長島は張飛が長槍を橫へて堅陣を碎くやうに、一擊して山田を破つた、つゞいて精悍、機敏を以て知られた人見(紅)も亦、長島の橫捨身で仆される。長島が菅沼に拔かれると芥川が菅沼を破る。

[やぶちゃん注:「靑天飇」「せいてんへう(せいてんひょう)」は一点の雲無き晴天に突如吹く「飇」(つむじかぜ)の謂いか。]

○ 此時にもし紅軍の副將堀内が、短兵疾驅、白軍の中堅を衝かなかつたなら、紅軍は或は敗滅の恥辱を蒙つたかも知れない。堀内は芥川を破り、馬場を破り、(馬場は久しく稽古を休んだ後だつたので此勝負は、多少割引して見る必要があるかもしれない)直に白軍の副將角張と相對した。さうして分をとつた[やぶちゃん注:引き分けとなった。]。堀内は技に於て勝つてゐる。角張は氣に於て勝つてゐる。兎に角此勝負は注目する價値のある勝負だつた。

○ 兩軍の大將軍、加藤と淸水とが立つた。淸水(白)は氣鋭の飛將軍だ。驍名の轟いた古武者の加藤(紅)に比しても、敢て遜色を認めない。けれども此勝負は加藤が勝つた。加藤は矢張柔道部の領袖たるの技と力とを備へてゐる。かくして凱歌は紅軍によつて擧げられた。「漢家火德終燒賊。」白軍の旗幟は遂に蹂躙せられて仕舞つた。

[やぶちゃん注:「漢家火德終燒賊。」「漢家(かんか)の火德 終(つい)に賊を燒く。」。清の文学者袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年:食通で「随園食単」の作者として知られる)の詩「赤壁」の一節。サイト「関西吟詩文化協会」のこちらで詩全篇の原文・読み・語釈・字解が載る。それによれば、『漢家火德』は『蜀(漢)は五行(ごぎょう)(木=もく・火=か・土=ど・金=ごん・水=すい)からいって』、『火の徳を以て王となることになっていた蜀が魏を破るに』、『火攻めの計を用いたことに』基づく『表現である』とあり、『蜀漢の火德が、魏の曹操の軍を焼きつくし』たと訳されてある。]

○ 試合が完ると茶話會が講堂で開かれた。諸先生の御講話がある。窓からは、若葉の香がほのかにくゆらいで靑年らしい話聲と笑聲とが元氣よく響き渡る。會の完に試合の成蹟[やぶちゃん注:ママ。]によつて定めた級の發表がある。一級松崎、二級加藤、長田、三級峯、角張、堀内であつた。(五甲 芥川)

 

芥川龍之介 前号批評 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「前號批評」に拠った。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――「学友会雑誌」――〕

とあるが、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の書誌情報の中に、本篇は前の「編輯を完りたる日に」と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に載った同雑誌の記事批評である旨の記載があり、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年である五年次生の時のものである。「芥川龍之介作品事典」の関口安義氏の本篇の解説には全体に『寸評ながらことばを選んで的確に文章を批評している。歯に衣着せぬ批評である。批評家芥川龍之介の片鱗が、早くも現れているという点で興味深い文章である』と評しておられ、同感である。]

 

   前號批評

 

○ 流水吟(五乙 田中君)

 願くは書くに先立つて讀んで見給へ。詩として君の詩に對する時は其後に始めて來るだらう。正直の所、僕はこの、なつてゐないのを悲しむ者だ。

○ 瘦馬(五乙 春敬君)

 少し乾燥し過ぎた樣だ。「西窓の淡き光」の一節がよかつた。難を云へば技巧にも感情にも踏襲的な所が見える。同じ人の「インキ壺」は之を歌ふのにはより微細な情緖と、より鍊敏な感受性とを要する樣に思はれる。

○ 春二十句(四乙 空山居君)

 韻文欄の白眉である。「狂女來て」「とかくして」「山かげの」「宿とるや」がいゝと思つた。僕の最氣に入つたのは「はきたむる」である。栗色の裏庭に掃きためた古雛の袴の樣な落椿――僕も好きだ。「人稀に」は作者の得意な句であらう。「百卷の」「座敷から」「江に臨む」は感心しない。

○ 我書齋(二學年)

 同じ題でかゝれた五篇が五篇とも、皆嬉しく出來てゐた。僕には大原君のと永谷君のとが好かつた。大原君の寫眞の所や時間表の所はそゞろに人をほゝえませる。最後の一行は割愛したらどうだらうと思ふ。永谷君の曆や石膏細工の獅子もいゝ。トルストイの生立ち記の一節でも讀でゐるやうな氣がする。靑木君のは少し簡單な個條書のやうになりすぎてはゐないだらうか。袴田君のも此傾がある。僕は一寸した事だが同君の「妹の本箱の蓋の手掛がとれさうで中々とれない」と云ふのが面白かつた。梶川君のはきはめて達者に書いてあるがあまり器用に、「三尺の庭」を眞似たので大分感興を殺がれるやうだ。

 以上は僕の讀過の際の感じにすぎない。印象的な批評と云ふ事がゆるされるならこれだ。これは一寸エンファサイズしておく。

[やぶちゃん注:「トルストイの生立ち記」批評された原文が読めないのでよく判らないが、文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)の「幼年時代」(Детство:一八五二年)・「少年時代」(Отрочество:一八五四年)・「青春時代」(Юность:一八五六年)の三部作或いはその中の孰れかを指すものであろう。芥川龍之介は英訳で読んだものか徳田秋江訳の「生ひ立ちの記 青年編」があるが、これは単行本は明治四五(一九一二)年(東京国民書院)刊で本篇よりも後の刊行である。

「エンファサイズ」emphasise(英国英語)/emphasize(米国英語)は「強調する」の意。]

芥川龍之介 編輯を完りたる日に 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』の冒頭に載る「編輯を完りたる日に」に拠った(葛巻氏が中学時代をこの二パートに分けた理由は私にはよく判らない。ただ、この『〔中学時代㈡〕』パートは総てが東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年である五年次生の時のものではある。しかし、それを纏めたと言うのなら、もこちらに配するべきであるから、不審であり、そもそもが葛巻氏は底本に於いて逆編年体で作品を並べていることからも、このパートはそれに外れていて、それに従うなら、パート㈠と㈡は逆転してしかるべきであるから、それも解せないのである)。読みは「へんしふををはりたるひに」。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――「淡交会学友会雑誌」――〕

とあるが(葛巻氏は底本では自身の文章は新字新仮名で記している)、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。しかし、東京府立第三中学校の学友会の名称が「淡交會」であることは、芥川龍之介の諸書誌には出ず(確認したところ、現在の両国高等学校のそれも同名である)、この名称がこれで知れた。

 底本の末尾の葛巻氏が添えたクレジットは明治四十二年(一九〇九年)である。但し、これは執筆時で(執筆は本文にある通り、同年十二月六日)、以下が載った府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』は、翌明治四三(一九一〇)年二月発行の第十五号である。この第十五号は本篇で判る通り、芥川龍之介自身が編集委員の一人であり、しかもこれには、かの芥川龍之介の「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)も発表されている、芥川龍之介にとって忘れ難い本格論文の初出誌でもあるのである。「義仲論」は全三章から成る四百字詰原稿用紙換算で九十枚に及ぶ力作であり、龍之介自身が後に『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載)と名実ともに作家以前の作として自負する評論である。但し、上記引用に続けて龍之介は『しかし、當時ではまだ作家にならうといふやうな考は浮ばなかつた。將來は歷史家にならうといふやうに思つてゐた』という述懐も添えてこう。

 

   編輯を完りたる日に

 

○ 僕は僕たちの手になつた雜誌の發刊を嬉しく思ふ。これが僕たちの拓いたさゝやかな路だ。僕たちの挑げた微な燈火だ。僕たちの努力は遂にこれだけの事しか出來なかつた。

○ しかしながら祖先は夢み子孫は行ふと云ふ。僕は何年かの後に、僕たちの夢みてゐる或物を此雜誌から生み出す人のあるのを信じてゐる。僕たちは、新に編輯の任に當る人々の眞擊な努力が望ましいと思ふ。

○ 編輯は五學年の雜誌部の委員諸君と共にした。又校報欄は各學年の委員諸君を煩した所が多い。これはこゝに御禮を云ふ。

○ 表紙は、豐田君(五丙)が、カットは中塚君(五甲)高森君(五乙)水倉君(五乙)がかいて吳れた。併せて之もこゝろから感謝する。

○ 例年の事だが編輯の日が試驗に近かつたので、實は試驗と一緖になつたので、編輯の上には、幾多の缺點があるにちがいないと思ふ。殊に本號の發刊が非常に遲延したのも完く此爲に外ならないので、これは僕が吳々も御詫をする。

○ 本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした。一一、揭げなかつた投稿の名を擧げるのは煩しいからやめる。諸君は編輯者の意を諒として頂きたい。

○ 編輯を完つて此記を書く。靜な夜だ。外では風が海の樣な聲をたててゐる。掃きよせた落葉がかさこそとなる。僕は多少の滿足を以て、此稿の筆を擱いた。(十二月六日夜記)

[やぶちゃん注:文中に出る「中塚君」は恐らく、芥川龍之介の同級生の中塚癸巳男(「なかつかきしお」と読むか 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)で、龍之介とは親友で、芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行している。にしても、「投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした」と述懐しながら、自分の大著「義仲論」を掲載している事実を見ても、龍之介が「義仲論」に並々ならぬ自信を持っていたことが窺えるのである。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art Caspar David Friedrich Miscellaneous Иван Сергеевич Тургенев 「プルートゥ」 「一言芳談」【完】 「今昔物語集」を読む 「北條九代記」【完】 「宗祇諸國物語」 附やぶちゃん注【完】 「新編鎌倉志」【完】 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】 「明恵上人夢記」 「栂尾明恵上人伝記」【完】 「澄江堂遺珠」という夢魔 「無門關」【完】 「生物學講話」丘淺次郎【完】 「甲子夜話」 「第一版新迷怪国語辞典」 「耳嚢」【完】 「諸國百物語」 附やぶちゃん注【完】 「進化論講話」丘淺次郎【完】 「鎌倉攬勝考」【完】 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】 「鬼城句集」【完】 アルバム ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」【完】  ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】 中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)【完】 中島敦 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 伊東静雄 伊良子清白 佐藤春夫 八木重吉「秋の瞳」【完】 北原白秋 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編【完】 南方熊楠 博物学 原民喜 和漢三才図会巻第三十九 鼠類【完】 和漢三才図会巻第三十八 獣類【完】 和漢三才圖會 禽類【完】 和漢三才圖會 蟲類【完】 和漢三才圖會卷第三十七 畜類【完】 国木田独歩 土岐仲男 堀辰雄 増田晃 夏目漱石「こゝろ」 夢野久作 大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】 宇野浩二「芥川龍之介」【完】 宮澤賢治 富永太郎 小泉八雲 尾形亀之助 山之口貘 山本幡男 山村暮鳥全詩【完】 忘れ得ぬ人々 怪奇談集 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 映画 杉田久女 村上昭夫 村山槐多 松尾芭蕉 柳田國男 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 柴田宵曲 栗本丹洲 梅崎春生 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】 橋本多佳子 武蔵石寿「目八譜」 毛利梅園「梅園介譜」 毛利梅園「梅園魚譜」 江戸川乱歩 孤島の鬼【完】 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」【完】 津村淙庵「譚海」 海岸動物 火野葦平「河童曼陀羅」【完】 片山廣子 生田春月 由比北洲股旅帖 畑耕一句集「蜘蛛うごく」【完】 畔田翠山「水族志」 石川啄木 神田玄泉「日東魚譜」 立原道造 篠原鳳作 肉体と心そして死 芥川多加志 芥川龍之介 芥川龍之介 手帳【完】 芥川龍之介「上海游記」【完】 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】 芥川龍之介「北京日記抄」【完】 芥川龍之介「江南游記」【完】 芥川龍之介「河童」決定稿原稿【完】 芥川龍之介「長江游記」【完】 芥川龍之介盟友 小穴隆一 芸術・文学 萩原朔太郎 蒲原有明 藪野種雄 西東三鬼 詩歌俳諧俳句 貝原益軒「大和本草」より水族の部 野人庵史元斎夜咄 鈴木しづ子 鎌倉紀行・地誌 音楽 飯田蛇笏