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カテゴリー「芥川龍之介」の648件の記事

2018/12/17

芥川龍之介 西鄕隆盛 (正字正仮名版・附注)

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年一月一日発行『新小説』初出。後に作品集「鼻」「芋粥」に所収された。底本は旧岩波書店刊「芥川龍之介全集」第二巻を用いた(底本を作品集「鼻」とするもの)。

 芥川龍之介満二十五歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)、未だ横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)で、この二月二日には塚本文(満十七歳)と田端の自宅で結婚式を挙げている。本文冒頭に、『昨年の冬鎌倉へ轉居する』と出るのは、大正五年(執筆は大正六年中。最終クレジット参照)十二月一日に横須賀海軍機関学校教官に就任したため、田端の自宅からは通勤が困難であったことから、当時の鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)の「海浜ホテル」側のの間西洋洗濯店の離れに下宿をしたことを指す(この八日後の十二月九日に恩師夏目漱石の逝去に遇う。着任早々であったからか、主なき漱石宅に赴いたのは十一日の昼頃であった。また、この十二月に塚本文と婚約している。鎌倉の下宿は大正六年九月十四日に横須賀市汐入の尾鷲方へ転居しているが、文と結婚後に鎌倉に戻る予定で、実際に大正七年三月二十九日に鎌倉町大町辻の小山別邸内に新居を構えた。因みにここは私の父方の実家の直近でもある)。

 読みは一部の判読で振れると判断したもののみに施した。先行して出ながら、後で振ってある場合は、それに従っている。また、加工用データとして「梅雨空文庫」のこちらのものを利用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。ダッシュやクレジット位置はブラウザを不具合を考えて上に上げてある。読みにあった踊り字は正字化した。

 なお、作中に出る、ネタ元を語ったとする『大學の史學科を卒業した本間さん』や、後に出る老紳士の学者らしき人物もモデル不詳で、芥川龍之介自身の分身のようにも受け取れる。

 簡単に語注しておく。

・「赤木桁平」(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)日)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した。

・「MCC」エジプト製の煙草(cigarette)。明治末期から大正初期にかけては、舶来の巻煙草と言えば、稀にこれが用いられる程度であった、と筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」(昭和四九(一九七四)年刊)にある。調べたところ、略号の意味は判らなかったが、「Best Samos M.C. Carathhanassis & Co」でこれであろう(画像有り。英文の骨董品販売サイト)。

・「俵屋」(たはらや(たわらや))は現在の京都市中京区麩屋町(ふやちょう)にある老舗旅館。創業三百余年で京都で最も古い旅館の一つ。

・「ドクタア・ジヨンソン」イングランドの詩人・批評家・文献学者サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 一七〇九年~一七八四年)。「英語辞典」(一七五五年)の編集で知られ、十八世紀の英国に於いて「文壇の大御所」と呼ばれた。辛口の警句を連発し、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。

・「almanac-maker」「オーマナック・メイカー」。暦・年鑑を作る人。

・「金釦」「きんぼたん」。金ボタン。

・「鐵木眞(てむじん)」チンギス・ハン(成吉思汗 一一六二年~一二二七年)のこと。

・「加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記」加治木常樹(安政二(一八五五)年~大正七(一九一八)は薩摩出身の政治運動家・官吏。妻時子は来島恒喜(くるしまつねき:国家主義者。頭山満らの玄洋社社員となり、後に中江兆民の仏学塾に入ったが、大隈重信外相の条約改正案に反対し、明治二二(一八八九)年十月十八日、外務省前で大隈に爆弾を投じて重傷を負わせ、その場で自殺した)の妹。西南戦争では西郷隆盛に従い、捕らえられて一年の懲役を受けた。後、挙兵の真相が誤伝されていることを憂え、「西南血涙史」(大正元年(一九一二)年十月刊)を書いている。そのプレ資料か。

・「市來(いちき)四郎日記」市来四郎(文政一一(一八二九)年~明治三六(一九〇三)年)は元薩摩藩士で修史家。薩摩藩のために軍艦・銃器の調達を担当し、箱館戦争に従軍した。維新後は島津久光の系統に属して、明治一五(一八八二)年には島津斉彬の言行録を調べ、同十八年からは維新前後にかかる「旧邦秘録」の調査に取り掛かり、島津家の修史事業に従事した。同二十二年には旧大名家を勧誘し、「史談会」を結成、甥の寺師宗徳とともにその運営を推進した。

・「蹌踉(さうろう)たる」足もとがしっかりせず、よろめくさま。

・「窓帷」「カアテン」と読んでおく。筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集」がかくルビを振る。

・「風骨(ふうこつ)」姿。風体(ふうてい)。ここは風格あるそれ。

・「魁偉」(くわいゐ(かいい))顔の造作や身体が人並外れて大きく、逞しい感じを与えること。

・「ウオルタア・ラレエ」イングランド女王エリザベス世の寵臣にして探検家・作家・詩人であったウォルター・ローリー(Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年)。新世界に於ける最初のイングランド植民地を築いた功績で知られる。エリザベス世が一六〇三年に死去すると、内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで監禁された。獄中で彼はギリシャとローマの古代史に関する本「世界の歴史」(A Historie of the World)を著している(未完)ので、これを指すのであろう。ロンドン塔から解放されると、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣されることとなった二度目の探検隊を指揮することになったが、この探検の途中、ローリーの部下達がメンバーのひとりであるローレンス・キーミスの指示の下、スペインの入植地であったサン・ソーム(San Thome)で略奪を行い(この町での最初の戦いでローリーの息子ウォルターは銃撃を受けて死亡している)、ローリーがイングランドに帰還した後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世にローリーの死刑を求め、国家間の思惑からこの要求が受け入れられ、ローリーは一六一八年十月十八日、『ホワイトホール宮殿で斬首刑に処せられた。ローリーの最後の言葉は、斬首を行う斧を見せられた時の、「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」というものであった』という。ローリーの伝記「海の羊飼い」(Shepherd of the Ocean)によれば、『ローリーの妻ベスは彼の首を「防腐処置を施していつも自分のそばに置き、しばしば訪問者達にウォルター卿に会いたいかと尋ねた」。ローリーの首はその後、ウェストミンスター寺院の隣にある聖マーガレット教会に、彼の胴体と共に埋葬された』とある(ここはウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)。

・「狄靑」(てきせい 一〇〇八年~一〇五七年)は北宋の武将。文民優遇の北宋にあって一兵卒から叩き上げで将軍の位まで出世した稀有な人物。庶民からの人気も高い。但し、あまりに出世し過ぎたため、朝廷から疑われ、一〇五六年には枢密正使を免職されて陳州長官され、その後も朝廷の監視を受けて翌年に享年四十九で亡くなった。

・「濃智高」儂智高(のん づうご 一〇二五年~一〇五五年頃)は北宋の大暦国・南天国・大南国の反乱の指導者、チワン族の歴史における民族的英雄。一〇五三年に宋王朝から宋軍狄青部が派遣され、同じ年の春正月の夜中に、狄青は崑崙関(広西の邕寧区と賓陽県の境付近)を越え、邕州で儂智高の反乱軍と会戦し、大勝、儂智高は雲南特磨道(現在の雲南文山チワン族ミャオ族自治州)へと逃亡し、反乱は失敗した(ウィキの「儂智高」に拠る)。この老人の話の謂いはよく判らない。個人ブログ「きんくんの閑談」の「西郷隆盛(3)」によると、彼は『雲南の大理に逃れたとされ』、一〇五五年に『大理国王に殺され、その首が北宋の首都開封に送られてきたとされてい』ると記された上、また、『この戦いの際に、狄青が逃げる儂智高を追おうとする諸将に対し、深追いを避けさせたというのは有名な話ですが、この逸話は聞いたことがありません。史実とは異なる内容なので、俗説でしょうか、あるいは芥川の創作でしょうか』。『私も懐疑論者になってしまいそうです』とある。名前の漢字表記も異なり(異民族への当て字であるから、五月蠅く言う必要もないが)、芥川龍之介はルビも振っていないので、「のうちかう(のうちこう)」と読んでいる可能性が高いか。筑摩全集類聚版は『のんちかう』と振る。悩ましい。

・「誣いて」「しひて(しいて)」「強る」と同語源。事実を曲げて言って。作りごとを言って。

・「スケプテイツク」sceptic(主に英国で用いられる)・skeptic。懐疑主義者。

・「ピルロン」古代ギリシャのエリス出身の哲学者で史上最初の懐疑論者の元祖として知られるピュロン(ラテン文字転写:PyrrōnPyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)。ウィキの「ピュロンによれば、ピュロンはアレクサンドロス三世(大王)の『東征に随い、インドでは裸の哲学者たち、ペルシャではマギたちに学んだとされる。東洋哲学からみると、彼は孤独な生活を受け入れていたように映ったようである。エリスに戻ってからは貧困に生きたが、エリス人たちは彼を尊敬し、またアテネ人たちは彼に市民権を授与した。彼の思想は主に、弟子のプリウスのティモン(Timon of Phlius)による風刺文学によって知られている』。『ピュロンの思想は不可知論』「Acatalepsy」(アッカタレプシイ)『という一言で言い表すことができる。不可知論とは、事物の本性を知ることができない、という主張である。あらゆる言明に対して、同じ理由付けをもってその逆を主張することができる。そのように考えるならば、知性的に一時停止しなければならない、あるいはティモンの言を借りれば、いかなる断定も異なった断定に比べてより良い、ということはない、と言えるだろう。そしてこの結論は、生全体に対してあてはまる。それゆえピュロンは次のように結論付ける。すなわち、何事も知ることはできない、それゆえ唯一適当である態度は、アタラクシア(苦悩からの解放)である、と』。『ピュロンはまた、知者は次のように自問しなければならないと言う。第一は、どのような事物が、どのように構成されているのか。次に、どのように我々は事物と関係しているのか。最後に、どのように我々は事物と関係するべきか。ピュロンによれば、事物そのものを知覚することは不可能であって、事物は不可測であり、不確定であり、あれがこれより大きかったり、あれがこれと同一だったりすることはない、とされる。それゆえ、我々の感覚は真実も伝えず、嘘もつかない。それゆえ、我々はなにも知ることがない。我々は、事物が我々にどのように現れてくるか、ということを知るだけなのであり、事物の本性がいかなるものか、ということについては知ることがない』。『知識を得ることが不可能だということになれば、我々が無知だとか不確実だという点を考慮に入れても、人は無駄な想像をして議論を戦わせていらいらしたり』、『激情を抱いたりすることを避けるだろう。ピュロンによるこの知識が不可能だという主張は、思想史的には不可知論』「Agnosticism」(アグノッスティズム)『の先駆であり』、『また』、『その最も強い主張である。倫理学的には、ストア派やエピクロス主義の理想的な心の平安と比較される』。『重要な点であるが、懐疑論の定める基準によれば、ピュロンは厳密には懐疑論者ではない。そうではなく、彼はむしろ否定的ドグマ主義者』「negative dogmatist」』『であった。世界において事物がいかにあるか、という視点からみるならば』、『彼は「ドグマ主義者」であり、知識を否定するという面から見るならば彼のドグマは「否定的」なのである』。『ピュロンは紀元前』二七〇『年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら』、『弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより』、『不意の死を迎えたと言われている。しかしこの伝説もまた疑われている』とある。

 なお、西郷の最期は、彼の介錯をして自害した薩摩藩士別府晋介のウィキによれば、『洞前に整列した』四十『余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り』(別府は足を負傷して歩行出来なかった)、『「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯し』、『その後、弾雨の中で自決した』。西郷は享年五十一(満四十九)、別府は三十一であった。

 本篇は初期の芥川龍之介の独自の歴史小説論の主張として甚だ面白い。

 因みに、私の父母は従兄妹同士でそれぞれに鹿児島で生きた者の血が混じり、従って私はハイブリッドで薩摩の「血気」を受けている人間である。されば、昨夜の西郷や桐野(享年四十)の死を、脚色とは思いつつも、六十一になってからに涙なくしては見れなかった。【二〇一八年十二月十七日。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の終わった翌日に――藪野直史】]

 

 西 鄕 隆 盛

     ──赤木桁平に與ふ──

 

 これは自分より二三年前に、大學の史學科を卒業した本間さんの話である。本間さんが維新史に關する、二三興味ある論文の著者だと云ふ事は、知つてゐる人も多いであらう。僕は昨年の冬鎌倉へ轉居する、丁度一週間ばかり前に、本間さんと一しよに飯を食ひに行つて、偶然この話を聞いた。

 それがどう云ふものか、この頃になつても、僕の頭を離れない。そこで僕は今、この話を書く事によつて、新小の編輯者に對する僕の寄稿の責を完うしようと思ふ。尤も後になつて聞けば、これは「本間さんの西鄕隆盛」と云つて、友人間には有名な話の一つださうである。して見ればこの話も或社會には存外もう知られてゐる事かも知れない。

 本間さんはこの話をした時に、「眞僞の判斷は聞く人の自由です」と云つた。本間さんさへ主張しないものを、僕は勿論主張する必要がない。まして讀者は唯、古い新聞の記事を讀むやうに、漫然と行を追つて、讀み下してさへくれれば、よいのである。

 

 ─────────────────―――

 

 彼是七八年も前にもならうか。丁度三月の下旬で、もうそろそろ清水(きよみづ)の一重櫻が咲きさうな──と云つても、まだ霙(みぞれ)まじりの雨がふる、或寒さのきびしい夜の事である。當時大學の學生だつた本間さんは、午後九時何分かに京都を發した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒のコツプを前にしながら、ぼんやりMCCの煙をふかしてゐた。さつき米原を通り越したから、もう岐阜縣の境に近づいてゐるのに相違ない。硝子窓(がらすまど)から外を見ると、どこも一面にまつ暗である。時々小さい火の光りが流れるやうに通りすぎるが、それも遠くの家の明りだか、汽車の煙突から出る火花だか判然しない。その中で唯、窓をたたく、凍りかかつた雨の音が、騷々しい車輪の音に單調な響を交してゐる。

 本間さんは、一週間ばかり前から春期休暇を利用して、維新前後の史料を研究かたがた、獨りで京都へ遊びに來た。が、來て見ると、調べたい事もふえて來れば、行つて見たい所もいろいろある。そこで何かと忙しい思をしてゐる中(うち)に、何時か休暇も殘少なになつた。新學期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。さう思ふと、いくら都踊りや保津川下りに未練があつても、便々と東山を眺めて、日を暮してゐるのは、氣が咎める。本間さんはとうとう思ひ切つて、雨が降るのに荷拵へが出來ると、俵屋の玄關から俥を驅つて、制服制帽の甲斐々々しい姿を、七條の停車場へ運ばせる事にした。

 所が乘つて見ると、二等列車の中は身動きも出來ない程こんでゐる。ボーイが心配してくれたので、やつと腰を下す空地は見つかつたが、それではどうも眠れさうもない。さうかと云つて寢臺は、勿論皆賣切れてゐる。本間さんは暫く、腰の廣さ十圍に餘る酒臭い陸軍將校と、眠りながら齒ぎしりをするどこかの令夫人との間にはさまつて、出來るだけ肩をすぼめながら、靑年らしい、とりとめのない空想に耽つてゐた。が、その中に追々空想も種切れになつてしまふ。それから隣(きやうりん)の壓迫も、次第に甚しくなつて來るらしい。そこで本間さんは已むを得ず、立つた後(あと)の空地へ制帽を置いて、一つ前に連結してある食堂車の中へ避難した。

 食堂車の中はがらんとして、客はたつた一人しかゐない。本間さんはそれから一番遠いテエブルへ行つて、白葡萄酒を一杯云ひつけた。實は酒を飮みたい譯でも何でもない。唯、眠くなるまでの時間さへ、つぶす事が出來ればいいのである。だから無愛想なウエエタアが琥珀のやうな酒の杯を、彼の前へ置いて行つた後でも、それにはちよいと唇を觸れたばかりで、すぐにMCCへ火をつけた。煙草の煙は小さな靑い輪を重ねて、明い電燈の光の中へ、悠々とのぼつて行く。本間さんはテエブルの下に長々と足をのばしながら、始めて樂に息がつけるやうな心もちになつた。

 が、體だけはくつろいでも、氣分は妙に沈んでゐる。何だかかうして坐つてゐると、硝子戸の外のくら暗が、急にこつちへはいつて來さうな氣がしないでもない。或は白いテエブル・クロオスの上に、行儀よく並んでゐる皿やコツプが、汽車の進行する方向へ、一時に辷り出しさうな心もちもする。それがはげしい雨の音と共に、次第に重苦しく心をおさへ始めた時、本間さんは物に脅されたやうな眼をあげて、われ知らず食堂車の中を見まはした。鏡をはめこんだカツプ・ボオド、動きながら燃えてゐる幾つかの電燈、菜の花をさした硝子の花瓶、──そんな物が、いずれも耳に聞えない聲を出して、ひしめいてでもゐるやうに、慌しく眼にはいつて來る。が、それらのすべてよりも本間さんの注意を惹いたものは、向うのテエブルに肘(ひぢ)をついて、ウイスキイらしい杯を嘗めてゐる、たつた一人の客であつた。

 客は斑白(はんぱく)の老紳士で、血色のいい兩頰には、聊(いさゝか)西洋人じみた疎な髯を貯へてゐる。これはつんと尖つた鼻の先へ、鐵緣の鼻眼鏡をかけたので、殊にさう云ふ感じを深くさせた。着てゐるのは黑の背廣であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。──その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこつちへ眼をやつた。本間さんはその時、心の中で思はず「おや」と云ふかすかな叫び聲を發したのである。

 それは何故かと云ふと、本間さんにはその老紳士の顏が、どこかで一度見た事があるやうに思はれた。尤も實際の顏を見たのだか、寫眞で見たのだか、その邊ははつきりわからない。が、見た覺えは確にある。そこで本間さんは、慌しく頭の中で、知つてゐる人の名前を點檢した。

 すると、まだその點檢がすまない中に、老紳士はつと立上つて、車の動搖に抵抗しながら、大股に本間さんの前へ步みよつた。さうしてそのテエブルの向うへ、無造作に腰を下すと、壯年のやうな大きな聲を出して、「やあ失敬」と聲をかけた。

 本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚に一寸頭を下げた。

 「君は僕を知つてゐますか。なに知つてゐない? 知つてゐなければ、ゐなくつてもよろしい。君は大學の學生でせう。しかも文科大學だ。僕も君も似たやうな商賣をしてゐる人間です。事によると、同業組合の一人かも知れない。何です、君の專門は?」

 「史學科です。」

 「ははあ、史學。君もドクタア・ジヨンソンに輕蔑される一人ですね。ジヨンソン曰、歷史家は almanac-maker にすぎない。」

 老紳士はかう云つて、頸を後へ反らせながら、大きな聲を出して笑ひ出した。もう大分醉がまはつてゐるのであらう。本間さんは返事をしずに、唯にやにやほほ笑みながら、その間に相手の身のまはりを注意深く觀察した。老紳士は低い折襟に、黑いネクタイをして、所々すりきれたチヨツキの胸に太い時計の銀鎖を、物々しくぶらさげてゐる。が、この服裝のみすぼらしいのは、決して貧乏でさうしてゐるのではないらしい。その證據には襟でもシヤツの袖口でも、皆新しい白い色を、つめたく肉の上へ硬(こは)ばらしてゐる。恐らく學者とか何とか云ふ階級に屬する人なので、完く身なりなどには無頓着なのであらう。

 「アルマナツク・メエカア。正にそれにちがひない。いや僕の考へる所では、それさへ甚(はなはだ)疑問ですね。しかしそんな事は、どうでもよろしい。それより君の特に硏究しようとしてゐるのは、何ですか。」

 「維新史です。」

 「すると卒業論文の題目も、やはりその範圍内にある譯ですね。」

 本間さんは何だか、口頭試驗でもうけてゐるやうな心もちになつた。この相手の口吻には、妙に人を追窮するやうな所があつて、それが結局自分を飛んでもない所へ陷れさうな豫感が、この時ぼんやりながらしたからである。そこで本間さんは思ひ出したやうに、白葡萄酒の杯をとりあげながら、わざと簡單に「西南戰爭を問題にするつもりです」と、かう答へた。

 すると老紳士は、自分も急に口(くち)ざみしくなつたと見えて、體を半分後の方へ扭(ね)ぢまげると、怒鳴りつけるやうな聲を出して、「おい、ウイスキイを一杯」と命令した。さうしてそれが來るのを待つまでもなく、本間さんの方へ向き直つて、鼻眼鏡の後に一種の嘲笑の色を浮べながら、こんな事をしやべり出した。

 「西南戰爭ですか。それは面白い。僕も叔父があの時賊軍に加はつて、討死をしたから、そんな興味で少しは事實の穿鑿をやつて見た事がある。君はどう云ふ史料に從つて、硏究されるか、知らないが、あの戰爭に就いては隨分誤傳が澤山あつて、しかもその誤傳が又立派に精確な史料で通つてゐます。だから餘程史料の取捨を愼まないと、思ひもよらない誤謬(ごびう)を犯すやうな事になる。君も第一に先、そこへ氣をつけた方が好いでせう。」

 本間さんは向うの態度や口ぶりから推して、どうもこの忠告も感謝して然る可きものか、どうか判然(はつきり)しないやうな氣がしたから、白葡萄酒を嘗め嘗め、「ええ」とか何とか、至極曖昧な返事をした。が、老紳士は少しも、こつちの返事などには、注意しない。折からウエエタアが持つて來たウイスキイで、ちよいと喉を沾すと、ポツケツトから瀨物のパイプを出して、それへ煙草をつめながら、

 「尤も氣をつけても、あぶないかも知れない。こう申すと失禮のやうだが、それ程あの戰爭の史料には、怪しいものが、多いのですね。」

 「さうでせうか。」

 老紳士は默つて頷きながら、燐寸(まつち)をすつてパイプに火をつけた。西洋人じみた顏が、下から赤い火に照らされると、濃い煙が疎な鬚をかすめて、埃及の匂をぷんとさせる。本間さんはそれを見ると何故か急にこの老紳士が、小面憎く感じ出した。醉つてゐるのは勿論、承知してゐる。が、いい加減な駄法螺(だぼら)を聞かせられて、それで默つて恐れ入つては、制服の金釦に對しても、面目が立たない。

 「しかし私には、それ程特に警戒する必要があるとは思はれませんが──あなたはどう云ふ理由で、さうお考へなのですか。」

 「理由? 理由はないが、事實がある。僕は唯西南戰爭の史料を一々綿密に調べて見た。さうしてその中(かな)から、多くの誤傳を發見した。それだけです。が、それだけでも、十分さう云はれはしないですか。」

 「それは勿論、さう云はれます。では一つ、その御發見になつた事實を伺ひたいものですね。私なぞにも大に參考になりさうですから。」

 老紳士はパイプを啣へた儘、暫く口を噤んだ。さうして眼を硝子窓の外へやりながら、妙にちよいと顏をしかめた。その眼の前を橫ぎつて、數人の旅客の佇んでゐる停車場が、くら暗(やみ)と雨との中をうす明く飛びすぎる。本間さんは向うの氣色(きしよく)を窺ひながら、腹の中(なか)でざまを見ろと呟きたくなつた。

 「政治上の差障りさへなければ、僕も喜んで話しますが──萬一秘密の洩れた事が、山縣公にでも知れて見給へ。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」

 老紳士は考へ考へ、徐にかう云つた。それから鼻眼鏡の位置を變へて、本間さんの顏を探るやうな眼で眺めたが、そこに浮んでゐる侮蔑の表情が、早くもその眼に映つたのであらう。殘つてゐるウイスキイを勢よく、ぐいと飮み干すと、急に鬚だらけの顏を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、殆ど嚙みつきでもしさうな調子で、囁いた。

 「もし君が他言しないと云ふ約束さへすれば、その中の一つ位(ぐらい[やぶちゃん注:「い」はママ。])は洩らしてあげませう。」

 今度は本間さんの方で顏をしかめた。こいつは氣違ひかも知れないと云ふ氣が、その時突嗟(とつさ)に頭をかすめたからである。が、それと同時に、ここ迄追窮して置きながら、見す見すその事實なるものを逸してしまふのが、惜しいやうな心もちもした。そこへ又、これ位な嚇しに乘せられて、尻込みするやうな自分ではないと云ふ、小供じみた負けぬ氣も、幾分かは働いたのであらう。本間さんは短くなつたMCCを、灰皿の中へ抛りこみながら、頸をまつすぐにのばして、はつきりとかう云つた。

 「では他言しませんから、その事實と云ふのを伺はせて下さい。」

 「よろしい。」

 老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でぢつと本間さんの顏を見た。今まで氣がつかずにゐたが、これは氣違ひの眼ではない。そうかと云つて、世間一般の平凡な眼とも違ふ。聰明な、それでゐてやさしみのある、始終何かに微笑を送つてゐるやうな、朗然とした眼である。本間さんは默つて相手と向ひ合ひながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはゐられなかつた。が、勿論老紳士は少しもそんな事には氣がつかない。靑い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞つて消えてしまふと、その煙の行方を見送るやうに、靜に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂せながら、頭を稍後へ反らせて殆獨り呟くやうに、こんな途方もない事を云ひ出した。

 「細かい事實の相違を擧げてゐては、際限がない。だから一番大きな誤傳を話しませう。それは西鄕隆盛が、城山の戰では死ななかつたと云ふ事です。」

 これを聞くと本間さんは、急に笑ひがこみ上げて來た。そこでその笑を紛(まぎら)せる爲に新しいMCCへ火をつけながら、いて眞面目な聲を出して、「さうですか」と調子を合せた。もうその先を尋(き)きたゞすまでもない。あらゆる正確な史料が認めてゐる西鄕隆盛の城山戰死を、無造作に誤傳の中へ數へようとする──それだけで、この老人の所謂事實も、略(ほゞ)正體が分つてゐる。成程これは氣違ひでも何でもない。唯、義經と鐵木眞(てむじん)とを同一人にしたり、秀吉を御落胤にしたりする、無邪氣な田舍翁の一人だつたのである。かう思つた本間さんは、可笑(をか)しさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出來る丈早く、老人との問答を切り上げようと決心した。

 「しかもあの時、城山で死ななかつたばかりではない。西鄕隆盛は今日までも生きてゐます。」

 老紳士はかう云つて、寧ろ昂然と本間さんを一瞥した。本間さんがこれにも、「ははあ」と云ふ氣のない返事で應じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るやうな微笑をちらりと唇頭に浮べながら、今度は靜な口ぶりで、わざとらしく問ひかけた。

 「君は僕の云ふ事を信ぜられない。いや辯解しなくつても、信ぜられないと云ふ事はわかつてゐる。しかし──しかしですね。何故君は西鄕隆盛が、今日まで生きてゐると云ふ事を疑はれるのですか。」

 「あなたは御自分でも西南戰爭に興味を御持ちになつて、事實の穿鑿をなすつたさうですが、それならこんな事は、恐らく私から申上げるまでもないのでせう。が、さう御尋ねになる以上は、私も知つてゐるだけの事は、申上げたいと思ひます。」

 本間さんは先方の惡く落着いた態度が忌々しくなつたのと、それから一刀兩斷に早くこの喜劇の結末をつけたいのとで、大人氣ないと思ひながら、かう云ふ前置きをして置いて、口早やに城山戰死を辯じ出した。僕はそれを今、詳しくここへ書く必要はない。唯、本間さんの議論が、いつもの通り引證(いんしやう)の正確な、如何にも論理の徹底してゐる、決定的なものだつたと云ふ事を書きさへすれば、それでもう十分である。が、瀨物のパイプを啣(くわ)へた儘、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けてゐた老紳士は、一向辟易したらしい氣色を現さない。鐵緣(てつぶち)の鼻眼鏡の後には、不相變小さな眼が、柔(やはらかな)な光をたたへながら、アイロニカルな微笑を浮べてゐる。その眼が又、妙に本間さんの論鋒を鈍らせた。

 「成程、或假定の上に立つて云へば、君のは正しいでせう。」

 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とかう云つた。

 「さうしてその假定と云ふのは、今君が擧げた加治木(かぢき)常樹城山籠城調査筆記とか、市來(いちき)四郞日記とか云ふものゝ記事を、間違のない事實だとする事です。だからさう云ふ史料は始めから否定してゐる僕にとつては、折角の君の名論も、徹頭徹尾ノン・センスと云ふより外はない。まあ待ち給へ。それは君はさう云ふ史料の正確な事を、いろいろの方面から辯護する事が出來るでせう。しかし僕はあらゆる辯護を超越した、確かな實證を持つてゐる。君はそれを何だと思ひますか。」

 本間さんは、聊か煙に捲かれて、ちよいと返事に躊躇した。

 「それは西鄕隆盛が僕と一しよに、今この汽車に乘つてゐると云ふ事です。」

 老紳士は殆嚴肅に近い調子で、のしかゝるやうに云ひ切つた。日頃から物に騷がない本間さんが、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、この位な事でその權威を失墜しはしない。思はず、MCCの手を口からはなした本間さんは、又その煙をゆつくり吸ひかへしながら、怪しいと云ふ眼つきをして、無言の儘、相手のつんと高い鼻のあたりを眺めた。

 「かう云ふ事實に比べたら、君の史料の如きは何ですか。すべてが一片の故紙(こし)に過ぎなくなつてしまうでせう。西鄕隆盛は城山で死ななかつた。其證據には、今此上り急行列車の一等室に乘り合せてゐる。此位確な事實はありますまい。それとも、やはり君は生きてゐる人間より、紙に書いた文字の方を信賴しますか。」

 「さあ──生きてゐると云つても、私が見たのでなければ、信じられません。」

 「見たのでなければ?」

 老紳士は傲然とした調子で、本間さんの語を繰返した。さうして徐にパイプの灰をはたき出した。

 「さうです。見たのでなければ。」

 本間さんは又勢を盛返して、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。が、老人にとつては、この疑問も、格別、重大な効果を與へなかつたらしい。彼はそれを聞くと依然として傲慢な態度を持しながら、故らに肩を聳かせて見せた。

 「同じ汽車に乘つてゐるのだから、君さへ見ようと云へば、今でも見られます。尤も南洲先生はもう眠てしまつたかも知れないが、なにこの一つ前の一等室だから、無駄足をしても大した損ではない。」

 老紳士はかう云ふと、瀨物のパイプをポケツトへしまひながら、眼で本間さんに「來給へ」と云ふ相圖をして、大儀さうに立ち上つた。かうなつては、本間さん兎に角一しよに、立たざるを得ない。そこでMCCを啣へた儘、兩手をズボンのポケツトに入れて、不承不承に席を離れた。さうして蹌踉(さうろう)たる老紳士の後から、二列に並んでゐるテエブルの間を、大股に戸口の方へ步いて行つた。後には唯、白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲ひかゝる雨の音の中に、寂しくその影をふるはせてゐる。

 

 ─────────────────―――

 

 それから十分ばかりたつた後(あと)の事である。白葡萄酒のコツプとウイスキイのコツプとは、再(ふたゝび)無愛想なウエエタアの手で、琥珀色の液體がその中に充(みた)された。いや、そればかりではない。二つのコツプを圍んでは、鼻眼鏡をかけた老紳士と、大學の制服を着た本間さんとが、又前のやうに腰を下してゐる。その一つ向うのテエブルには、さつき二人と入れちがひにはいつて來た、着流しの肥つた男と、藝者らしい女とが、これは海老のフライか何かを突(つゝ)ついてでもゐるらしい。滑かな上方辯(かみがたべん)の會話が、纏綿として進行する間に、かちやかちや云ふフオオクの音が、しきりなく耳にはいつて來た。

 が、幸(さいはひ)本間さんには、少しもそれが氣にならない。何故かと云ふと、本間さんの頭には、今見て來た驚くべき光景が、一ぱいになつて擴がつてゐる。一等室の鶯茶がかつた腰掛と、同じ色の窓帷と、さうしてその間に居睡(ゐねむ)りをしてゐる、山のやうな白頭(はくとう)の肥大漢(ひだいかん)と、──あゝ、その堂々たる相貌に、南洲先生の風骨(ふうこつ)を認めたのは果して自分の見ちがひであつたらうか。あすこの電燈は、氣のせいか、ここよりも明くない。が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。さうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れてゐる西鄕隆盛の顏であつた。……

 「どうですね。これでもまだ、君は城山戰死を主張しますか。」

 老紳士は赤くなつた顏に、晴々した微笑を浮べて、本間さんの答を促した。

 「…………」

 本間さんは當惑した。自分はどちらを信ずればよいのであらう。萬人に正確だと認められてゐる無數の史料か、或は今見て來た魁偉な老紳士か。前者を疑ふのが自分の頭を疑ふのなら、後者を疑ふのは自分の眼を疑ふのである。本間さんが當惑したのは、少しも偶然ではない。

 「君は今(いま)現(げん)に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶(なほ)史料を信じたがつてゐる。」

 老紳士はウイスキイの杯を取り上げ乍ら、講義でもするやうな調子で語を次いだ。

 「しかし、一體君の信じたがつてゐる史料とは何か、それから先考へて見給へ。城山戰死は暫く問題外にしても、凡そ歷史上の判斷を下すに足る程、正確な史料などと云ふものは、どこにだつてありはしないです。誰でも或事實の記錄をするには自然と自分でデイテエルの取捨選擇をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事實としてするのだから仕方がない。と云ふ意味は、それだけもう客觀的の事實から遠ざかると云ふ事です。さうでせう。だから一見當(あて)になりさうで、實は甚當にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廢した話なぞは、よくこの間(かん)の消息を語つてゐる。あれは君も知つてゐるでせう。實際我々には目前の事さへわからない。」

 本間さんは實を云ふと、そんな事は少しも知らなかつた。が、默つてゐる中に、老紳士の方で知つてゐるものときめてしまつたらしい。

 「そこで城山戰死だが、あの記


唐ノしても、疑ひを挾む餘地は澤山ある。成程西鄕隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戰(たゝかひ)で、死んだと云ふ事だけはどの史料も一致してゐませう。しかしそれは唯、西鄕隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云ふのにすぎないのです。その人間が實際西鄕隆盛かどうかは、自ら又問題が違つて來る。ましてその首や首のない屍體を發見した事實になると、さつきも君が云つた通り、異も決して少くない。そこも疑へば、疑へる筈です。一方さう云ふ疑ひがある所へ、君は今この汽車の中で西鄕隆盛──と云ひたくなければ、少くとも西鄕隆盛に酷似してゐる人間に遇つた。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」

 「しかしですね。西鄕隆盛の屍體は確かにあつたのでせう。さうすると──」

 「似てゐる人間は、天下にいくらもゐます。右腕に古い刀創があるとか何とか云ふのも一人に限つた事ではない。君は狄靑が濃智高の屍(し)を檢(けん)した話を知つてゐますか。」

 本間さんは今度は正直に知らないと白狀した。實はさつきから、相手の妙な論理と、いろいろな事をよく知つてゐるのとに、惱まされて、追々この鼻眼鏡の前に一種の敬意に似たものを感じかかつてゐたのである。老紳士はその間にポツケツトから、又例の瀨物のパイプを出して、ゆつくり埃及(えぢぷと)の煙をくゆらせながら、

 「狄靑(てきせい)が五十里を追うて、大理に入つた時、敵の屍體を見ると、中に金龍(きんりう)の衣を着てゐるものがある。衆は皆これを智高だと云つたが、狄靑は獨り聞かなかつた。『安(いづく)んぞその詐(いつはり)にあらざるを知らんや。寧ろ智高を失ふとも、敢(あへ)て朝廷を誣いて功を貪らじ』これは道德的に立派なばかりではない。眞理に對する態度としても、望ましい語(ことば)でせう。所が遺憾ながら、西南戰爭當時、官軍を指揮した諸將軍は、これ程周密な思慮を缺いてゐた。そこで歷史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換つてしまつたのです。」

 愈(いよいよ)どうにも口が出せなくなつた本間さんは、そこで苦しまぎれに、小供らしい最後の反駁を試みた。

 「しかし、そんなによく似てゐる人間がゐるでせうか。」

 すると老紳士は、どう云ふ譯か、急に瀨物のパイプを口から離して、煙草の煙にむせながら、大きな聲で笑ひ出した。その聲があまり大きかつたせいか、向うのテエブルにゐた藝者がわざわざふり返つて、怪訝な顏をしながら、こつちを見た。が、老紳士は容易に、笑ひやまない。片手に鼻眼鏡が落ちさうになるのをおさへながら、片手に火のついたパイプを持つて、咽を鳴らし鳴らし、笑つてゐる。本間さんは何だか譯がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いた儘、茫然と唯、相手の顏を眺めてゐた。

 「それはゐます。」老人は暫くしてから、やつと息をつきながら、かう云つた。

 「今君が向うで居眠りをしてゐるのを見たでせう。あの男なぞは、あんなによく西鄕隆盛に似てゐるではないですか。」

 「ではあれは──あの人は何なのです。」

 「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は醫者で、傍[やぶちゃん注:「かたはら」。]南畫を描く男ですが。」

 「西鄕隆盛ではないのですね。」

 本間さんは眞面目な聲でかう云つて、それから急に顏を赤らめた。今まで自分のつとめてゐた滑稽な役まはりが、この時忽然として新しい光に、照される事になつたからである。

 「もし氣に障つたら、勘忍し給へ。僕は君と話してゐる中(うち)に、あんまり君が靑年らしい正直な考を持つてゐたから、ちよいと惡戲をする氣になつたのです。しかしした事は惡戲(いたづら)でも、云つた事は冗談ではない。──僕はかう云ふ人間です。」

 老紳士はポケツトをさぐつて、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷つてはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顏をどこで見たか、やつと思ひ出す事が出來たのである。──老紳士は本間さんの顏を眺めながら、滿足さうに微笑した。

 「先生とは實際夢にも思ひませんでした。私こそいろいろ失禮な事を申し上げて、恐縮です。」

 「いやさつきの城山戰死なぞは、中々傑作だつた。君の卒業論文もああ云ふ調子なら面白いものが出來るでせう。僕の方の大學にも、今年は一人維新史を專攻した學生がゐる。──まあそんな事より、大[やぶちゃん注:「おほいに」。]に一つ飮み給へ。」

 霙まじりの雨も、小止みになつたと見えて、もう窓に音がしなくなつた。女連れの客が立つた後(あと)には、硝子の花瓶にさした菜の花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂はせてゐる。本間さんは白葡萄酒の杯を勢よく飮み干すと、色の出た頰をおさへながら、突然、

 「先生はスケプテイツクですね。」と云つた。

 老紳士は鼻眼鏡の後から、眼でちよいと頷いた。あの始終何かに微笑を送つてゐるやうな朗然とした眼で頷いたのである。

 「僕はピルロンの弟子で澤山だ。我々は何も知らない、いやさう云ふ我々自身の事さへも知らない。まして西鄕隆盛の生死をやです。だから、僕は歷史を書くにしても、噓のない歷史なぞを書かうとは思はない。唯如何にもありさうな、美しい歷史さへ書ければ、それで滿足する。僕は若い時に、小家にならうと思つた事があつた。なつたらやつぱり、さう云ふ小を書いてゐたでせう。或はその方が今よりよかつたかも知れない。兎に角僕はスケプテイツクで澤山だ。君はさう思はないですか。」

            (六・十二・十五)

2018/10/22

ブログ1150000アクセス突破記念第三弾(掉尾) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 菊

 

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菊

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。なお、これが底本の「第一高等学校時代」パートの掉尾である。これを以って底本の「第一高等学校時代」パートの全電子化を終わる。

 本作はかなり知られた「今昔物語集」の巻二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」(百濟川成(くだらのかはなり)と飛驒の工(たくみ)と挑む語(こと)第五」の後半の腕比べをダメ押しインスパイアした擬古文で、理智派芥川龍之介を髣髴とさせる仕掛けも用意されてはあるが、原話を知っていると、種明かしが平板にして常套的で今一つの感は拭えない。但し、この僅かな分量で以って、対立していた二人を童子を梃子に大団円させるという手法は、既にストーリー・テラーとしての彼が十分に熟成されていたものとも思われる。これが何時書かれたものか、もっと限定出来るとよいのだが。惜しい。

 老婆心乍ら、少し注しておくと、

・「長江天壍をへだてたる」の「長江天壍」は「ちやうこうてんざん(ちょうこうてんざん)」と読み、「壍」は「塹」に同じで、長江を天然の攻略不能な広大な塹壕、向うの見えない堀と譬える謂いで、ここは二つの対象の距離が想像を絶して隔たっていることを意味する。

・その直後の「おだしかりつれども」は「穩しかりつれども」である。

・「彭澤の陰士」は以下で「東籬の下に採るとも歌ひぬべき」と出るので判る通り、陶淵明のこと。ただ、「彭澤」(ほうたく)彼が最後に県令をしていた県で、私は彼のことを「彭澤の隱士」と呼ぶのを目にしたことはない。そもそもが、「吾、何ぞ五斗米の爲めに腰を折つて郷里の小兒に見(まみ)えんや」、即日、印綬を解いて去った彼をして、その「やってられるか!」の彭沢の「陰士」と呼ばれるのは、私なら厭だね、龍之介君。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第三弾掉尾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

      菊

 

 百濟の川成、とある日、飛驒の匠に語りけるは、わざくらべしことこのごろ世の人々の口々にほめのゝしるをきゝぬ。まことに天が下ひろしとは云へ、われらの右に出でむものあるべしとも思はれずと云へば、心まがまがしく思ひ上れる匠、えせわらひして、わがわざ君のわざとの間には長江天壍をへだてたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ。君はわがつくれる堂には彌勒の世までえこそは入り給ふまじけれども、われはふたゝび君が畫に欺かるゝことを爲さじとののしる。川成もと心ばへおだしかりつれども、流石に匠の人も無げなるが傍いたくいと興ざめければ、さらばいま一たび試みてむとおのが家がりともないゆきつ。折しも長月の末つがた樹々の梢ことごとく紅葉してさながら錦を張れるやうなるに、淸らかにはききよめたる庭の二ひら三ひら爛紅の霜、葉を落したるもゆかしく見ゆ。川成酒を置きて匠にすゝめつゝ、さてかなたの障子を指して問ひけるは「かしこに靑き甁に生けたる黃菊白菊各一もとあり、一はまことの菊、一はわが描ける菊なり、いづれがこれいづれがそれぞ」と云ふ。匠あはれ云ひあてて恥見せむと、あるは首をのべあるは眉をひそめ、あからめもせでしばしうちまもれど、たえて見わくべきすべも知らず、いづれも障子もにほはむばかりに露けくうちかたむきて、さきたる、彭澤の陰士ならましかば東籬の下に採るとも歌ひぬべき風情なれば、むげにほこりたかぶれる匠なれど遂に顏赤めて「得見分くべうもあらず、さきの過言をゆるし給へ」と云ふ。

 川成さこそとほくそ笑みて「君がわざとわがわざとの間には長江天を隔てたるにそを知り給はさる烏滸がましさよ」と匠が言眞似して嘲笑ふ。

 そのとき匠の召具したるわらはべの猿丸と云ふもの、川成のほこりがほなるをにくしとや見にけむ、すゝみ出で「やつがれこそ見分け候へ」と云ふ。川成しやつ何事をか云ふとばかりのけしきにて「さらばいづれぞ」と問へば「白菊こそ描きたりつれ」と答ふ。まことにこのわらはべの云ふ所に違はざりければ、川成いたく驚きて「何故にさはしりたる」と問へば、猿丸笑つぼに入りて「さきのほどより、こゝにありて見つるに虻二つ來りて障子のほとりをとびありく。此虻黃菊にはとゞまれども、白菊にはとゞまらず、さてこそ黃菊はまことの菊ならめと思ひ候、さるを此家の殿のわざと猿丸のわざとの間には長江天塑を隔てたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ」としたりげに鼻をおごかす。飛驒の匠、思はず掌をうちて「我ほどのものも描きたる菊とまことの菊とを見分くることをえせず、川成ほどのものも三尺の童子の眼を欺くことをえせず、何を以てか人に誇らむや、向來共に誇をつゝしみひたすらにわざをはげみなむ」と云へば、川成も大によろこびてこれより後はますます親しく交りけるとなむ。

 

ブログ1150000アクセス突破記念第二弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 梅花

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の句読点なしの字空けはママ。擬古文の美文的創作のであるので、流れを絶たぬよう、若い読者が躓くであろう一部の語句の読みのみを文中で注した。終りの方の「嵯岈」は見かけない熟語であるが、「さが」と読んでおき、「高く突き出た」の意で採ってよかろうと思う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第二弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

    梅 花

 

 都をば霞と共に出でしより、志賀寺の鐘の音、忘れ難く、小夜千鳥聲こそ近く鳴海がた、三保の浦曲[やぶちゃん注:「うらわ」。]、田子の入江、淸見ケ關、不二の煙の春の色、空もひとつのむさし野の原、あやめ咲く淺香の沼、末の松山朝ぼらけ、合歡の花ちる象潟の雨の夕、碓氷のもみぢ、木曾のはゝ木、そゞろ杖をとゞめむ方ぞなきに、猶片枝さす麻生(をふ)の浦。梨ふく風を身にしめむとて、伊勢の海淸き渚の浪の音に、麻績[やぶちゃん注:「をみ(おみ)」。]の大君の昔を偲びつゝも、行く行く「にしふく山」と云ふに、梅の老木ありときゝて、深山の春こそゆかしかんめれと、きさらぎのはじめつ方、ひとりこの山にのぼる。若草の綠 路もせに萌え出でたるに、淡雪のあとほのかにのこりて 氷やとけし、谷川の水さらさらと岩間を下れば、鶯の聲のをちこちに、きこゆるもゆうなりや。西行もとより風流の法師なれば、山のかたち、水のながれのおもしろさに、松、柏の茂れる林をよぎり、靑蘿[やぶちゃん注:「せいら」。]のまつろへる巖を攣ぢ、谷をめぐり、峯を越え、梅やあるとたづぬれども、香をしめし春風の、そよと面をふくだにもあらず。しづ山がつのゆききさへえたるに、途、問はむよすがもなくて、なほ、日ねもす、おぼつかなき山のかひをたどりありく。道のゆくての、さがしきになづみて思はず日入りぬ。

 宵闇の夜のいと暗きに、伏木、岩角のこゞしければ、里に出でむたよりすら失ひて、如何にせむとゆきなやむを、谷ひとつへだてたる山ふところにともしびの光唯一つかすかに見ゆ。幸ありけりとよろこびて、落葉松葉のうづたかくつみたる木下かげを辿り辿り、やうやう至りつきて柴の扉[やぶちゃん注:「とぼそ」。]をほとほととおとなへば、「誰ぞ」となまめきたる聲にて答ふ。「遍參の僧、今宵ばかりの宿をかし給へ」と請ふに、髮のかゝりにほひやかに遠山ずりの色よき衣きて、花くはし櫻が枝の水にうつろひなせる面したる、はたちに足らぬをみなの紙燭かゝげつゝ、「笑止や、山里の春はなほ塞う候を。夜の衾の足らぬをも厭ひ給はずば、入らせ給へ。」扉をひらきてゐやまひ迎ふ。小さき草の屋の程なき庭さへ荒れたれど、細きともしびの光に黑棚のきらめくも床しく見ゆ。香の煙の淡く立ちのぼる傍には、琴、琵琶、各一張を立てたり。主は齡六旬(むそぢ)にや餘れる績麻(うみそ)に似たる髮をつかねたるに、ひはだの衣の淸げなるをまとひし翁なり。されば、さきのたをやめはこの翁がむすめにやありなむ。

 あはれにも、うれしく住みなしつるよと、そゞろ心にくきに、西行ゐやをなして問ふやう、「庵主の御人がら、あてなるわたりの御方と見奉るが、浦安の國久しく、四海の波しでかなる世を、何とてかくは天さかる都の山ずまひし給ふらむ。」翁ほゝえみて「否とよ、翁は山澤の一樵夫。おち方の高根の霞に、春の立てるを覺り、萩の下葉の露に秋のきたれるを知る。若し興あれば松のびゞきに、秋風の樂をたゝへ、水のせゝらぎに、流泉の曲をあやつるのみ。」とて、「客僧こそ、何とてかくゆき暮したまへる、」と問ふ。西行「さればこの山に年へし梅の名木ありときゝしより、いかにもして一見せばやと、そここゝをたづねありくに、思はず行きくらしてこそ候へ」と答ふれば、翁掌をうちて「やさしき御志に、候ものかな、さては世の常の法師にはおはしまさず、風流三昧の御行脚とこそ見奉れ。御僧のたづね給ふ、梅はこのほとりにぞあなる。今宵は此處にやどり給ひて、つとめて往きて見給ふべし、されば山家の梅を題に一首たまへ。」とて、傍のをみなを見かへれば、うちゑみつ、早く硯に色紙とりそへて、西行が前に推しすゝめつ。

 さすがにもだしがたくて、しばしうちかたむきて、やがてかくこそ書いつけける。

 柴の庵によるよる梅の匂ひ來て やさしき方もあるすまひかな  (山家集)

 翁、「あはれ、かうさくや」とて感ずる事大方ならず。高つき、平つきの淸らなるに、木の實、草果物などもりならべてすゝむる程に、むすめもまた筝の琴とり出でて、十三絃をめでたくうち彈じつゝ梢たちくゝのにほひある聲にて、

「ふゝめりと云ひし梅ケ枝今朝ふりし沫雪にあひて吹きぬらむかも(大伴宿禰村上)」とうたひすませば、西行いよいよ興に入りて、平つきの木の箕のまろやかに琥珀の色したるを、何氣なくとりて食ふに、甘く酸きこと齒牙にしみて、風の伽楠[やぶちゃん注:「きやら(きゃら)」。]を過ぎ、雨の薔薇にそゝぐやうなる香りの骨に徹るよと思へば、路の長手のつかれ、俄にいでて何時しか眠るともなく熟く[やぶちゃん注:「よく」。]寐ぬ。

 程へて、現なき心にも、寒かりければ、ふと目さめて起出づるに、身は若草の上にあり。夜ふけて月の夜にあらたまりつと覺えて、影玲瓏として至らぬ隈なけれど、ありし草の庵はいづち行きけむ、見えず。仰げば三更の空、ほの靑うかすみたるに、春の星夢よりも淡うまたゝけり。翁は如何にしつらむとかへり見れば、人は無くて梅の老樹の、めぐり七圍[やぶちゃん注:「しちまはり(しちまわり)」。]にあまりたるが苔むしたる幹を斜に嵯岈たる枝には雪よりも白き花にほやかに咲きみだして立ちぬ。そが傍には又紅梅の若木のやさしくもさきこぼれたる、大空の雲もにほはむばかりの香りに、西行且驚き且訝り、

「さてはよべの翁もをみなも共にこの梅の精にてありけり」と、しばし幹を撫して佇みけるに、琴の調べのなほ耳にある心地しければ、再一首の歌を高らかに誦し出でける。

 ひとりぬる草の枕のうつり香は 老木の梅のにほひなりけり (山家集)

 梅の精やめでたる、山風やふき出でたる、梢さはさはと動くと見れば、墨染の衣の袖に寒からぬ雪は、雲なき空よりこぼれ落ちぬ。

 

[やぶちゃん注:優れた複式夢幻能ではないか。]

ブログ1150000アクセス突破記念第一弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 對米問題

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。但し、冒頭にカリフォルニア州に於ける排日運動の問題が挙げられていることは、一つのヒントにはなろう(但し、執筆年を限定することは難しい)。ウィキの「排日運動」によれば、『アメリカにおける日本人移民排斥は,カリフォルニア州を中心とする太平洋岸に』四千『人程度の日本人が移住しているにすぎない』一八九〇『年代にすでに始まっていた』。『主な原因は、人種差別と経済的理由』であったとし、一八八二年に『東洋系移民に対する差別法の端緒』となる「中国人排斥法」の施行により、『アメリカへ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始め』たが、一九〇〇年には『カリフォルニア州で日系人の漁業禁止法が提案され』、一九〇四年には「中国人排斥法」に『日本人と韓国人を加えるよう』、『動議され』ている。一九〇五年に「日露戦争」が終結すると、『有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことにより、以前からくすぶっていた黄禍論が西洋社会を席巻』し、「アジア人排斥同盟」が結成されたりした。一九〇六年には『日本を仮想敵国とした』「オレンジ計画」(将来、起こり得る日本との戦争へ対処するためにアメリカ海軍が策定した戦争計画。「カラー・コード戦争計画」の一つであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅し、それぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していたわけではない。ここはウィキの「オレンジ計画」に拠った)が開始され、また、同年には『サンフランシスコ教育委員会が中国人と同様に、日本人と韓国人にも学生隔離命令(白人から離し、集中隔離する差別措置)を出』している。一九〇七年、『サンフランシスコで反日暴動』が発生、『日本人移住者が多かった同市とロサンゼルスは排日の本場となり』、「漁業禁止法」や『修学拒否など』、『さまざまな日系人排斥運動が勃発』、メキシコ・ハワイ・カナダ在住の『日本人のアメリカ本土入国』が『禁止』される。一九〇八年に交わされた「日米紳士協定」に『より、日本はごく少数を除き』、『米国への移民を禁止』する代わりに、『アメリカ側は排日法案を作らないことを約束』した。なお、『同年秋、世界一周を名目に、アメリカの海軍力を誇示するため』、『艦隊グレート・ホワイト・フリートで日本に来航し、威嚇』している。そうして、一九一三年にはアメリカは先の「紳士協定」を『破り』、「排日土地法」を『発令。日本人を帰化不能外国人と』してしまった。仮に最後の「排日土地法」の発令と同期させるとなると(一高卒業の年)、龍之介の口調はより具体的、よりきついものとなるはずであるから、本作は少なくとも一九一〇年九月から一九一二年の間(龍之介十八から二十歳)に書かれたものと考えてよかろうとは思う。また、「最吾人に近接せる文藝の方面」という部分からは、その前期をカットした閉区間をも考えてよいとも思っている。ともかくも何らかの授業の作文であったとしても、しっかりした個我を持った、自立した思想に基づく主張である。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の語句に文中で簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第一弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

     對米問題

 

 對米問題は事案に於て、又對歐問題也。吾人は、過般來太平洋の封岸に於て行はれたる、急激なる排日運動の中に、單に日本對加州の問題に止らず、日本對全歐米の問題にすべき或物の伏在するを認めざる能はず。或は之を呼んで人種的偏見と云ひ、或は黃禍論的臆斷と云ふ。亦以て其一面を現すに足るものありと雖も、吾人は其啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]白人の偏見のみならず、黃人の國家的品位が、白人のそれに比して著しく下等なるも亦、此問題の根底に橫はる、大なる因數の一たるを信ぜざる能はず。

 吾人は到底、維新前後の捷夷家の如く、日本の神國たる所以を以て、世界の列國は當然我に劣る、霄壞[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」は「天と地」、転じて天地のように大きな隔たりのあること、大差のあることの喩え。「雲泥」に同じい。]の差あるものと盲信する能はず。又、無邪氣なる帝國主義者の如く、我國に不利なるものは悉[やぶちゃん注:「ことごとく」。]人道に違反するものにして、我國に有利なるものは悉、天下の公道に一致するものなりとの盲斷を下す事を得ず。從つて對米問題に於ても亦、加州人士の運動が一面に於て甚無理なきを感ぜざる能はざる也。吾人は常に現代の日本を憐まざるを得ず。こは如何なる愛國的熱情を以てするも、到底認めざるを得ざる事實なり。經濟情態に於ても文化の程度に於ても日本の如く窮迫せられ、日本の如く貧窮なる國家は、恐らく他に類を見ざる所なる可し。

 金融の逼迫せるは猶忍ぶ可し。文化の幼稚なるも亦已むを得ざるものあらむ。されど日本をして最も列國の嗤笑[やぶちゃん注:「しせう(ししょう)」。嘲(あざけ)り笑うこと。]を招かしむるものは、日本の社會を通じて一般人士の道德的意識が極めて低き水準を保ちつゝあるの一事に存するものの如し。是亦吾人が認むるを喜ばざる、しかも遂に認めざるを得ざる事實也。其實例を求めむ乎、吾人は殆之を指摘するの繁に堪へざらむとすと雖も、試に最吾人に近接せる文藝の方面を一瞥せよ。吾人は隨所に、何等内部の衝動を感ぜずして低級なる享樂に耽溺せる者を見む。是等の和製デカダンは、泰西文明の輸入より來れる生活欲の膨漲が、本來の道義欲を破壞したる好個の實例にして、同時に又、自己内心の要求に耳を傾くるの餘裕なく、遽々然[やぶちゃん注:「きよきよぜん(きょきょぜん)」。俄かに。急に。突如。]として遲れざらむ事を維[やぶちゃん注:「これ」。強調。]努むる輕薄皮相なり。日本の文明が、僅に産出し得たる、憫笑すべき動物也。

 既に對米問題が實は對白人問題なるを云ひ、對白人問題の根底に存するものが白人の偏見以外に、日本の社會的缺陷(經濟上及道德上)なるを云ふ。吾人は此問題に對する解決の決して區々たる[やぶちゃん注:取るに足りないさま。]權利義務の問題に存せざるを信ぜざる能はず。何となれば、對米問題を惹起せるは死したる紛爭にあらずして、生ける白人對日本の國家品位の差異にあるを以て也。吾人が各人個々の修養によりて向上の一路を辿らざる可らざるは單に個人人格の陶冶の爲のみならず、又實に國家としての日本をして、其權利を主張するを得しむべき、唯一不二の手段也。吾人は徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]劍を舞はして倣語[やぶちゃん注:「はうご(ほうご)」。誰かの真似事を言いつらうこと。]する壯士の愚を學ぶ能はず、又策士の妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]舌を弄し計[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を用ふるを陋なり[やぶちゃん注:賤しい。]とす。啻に是等の爲す所を卑むのみならず、其[やぶちゃん注:「それ」。以下同じ。]途に爲す無きを信ずる也。其遂に爲す無きを信ずるのみならず、其反て[やぶちゃん注:「かへつて(かへって)」。]國家に大害を與へむを惧るゝ也。

 吾人豈、太平洋對岸の同胞に同情する、人後に落る者ならむや。豈加州排日案の凌辱に憤らざらむ者ならむや。然れども、吾人は深く、其救濟を爲すの、道德的水準を[やぶちゃん注:底本ではここに編者葛巻氏の『〔この間原稿欠〕』という注がある。]る外に道なきを信ず。願くは默して爲すべきを爲さん。

 

2018/09/11

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 讀孟子 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない。それを信ずるとすれば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間に書かれたものとなる。ただ、内容的な深い洞察や表現から見ても中学以前のものとは私にも到底思われない。以下、私の葛巻氏の編集に対する疑問や推測は、前回の「斷章」の冒頭注に述べたので、繰り返さない。

 各段落末に、私自身にとって本篇が完全に読解し得るようにすることを主目標として、不審を残さぬようにオリジナルに語注を附したつもりである(無論、私は二十一の時にこれだけの文章は書けなかったし、今でも無理である。芥川龍之介、恐るべし)。附していない箇所でお判りにならないものは、ご自身でお調べあれかし。注の後は一行空けた。

 

     讀孟子

 

 事新しく云ふ迄もなく、孟子の哲學は内容に於て完く孔子の哲學也。彼は此點に於て新しき哲學の創唱者に非ずして、單に其祖述者たるに止まりき。然れども、彼が孔子の衣鉢を傳ふるや、彼は殆ど古今に其匹儔を見ざる忠實と熱誠とを以てしたり。彼が孔子の哲學によりて其立脚地を樹立したるが如く、孔子も亦彼を俟ちて、始めて其哲學に牢乎たる根柢と組織とを與へたりと云ふも、恐らくは過褒にあらざるべし。加ふるに彼の犀利なる文章と辯才とは、能く彼をして彼の使命を完ふするを得しめたり。彼の文節は極めて明快にして、其縱論橫議竹を破る、刃を迎へて節々皆解くるが如きの妙に至つては、昌黎の雄鷙眉山の俊爽を以てするも、到底其堂奧を窺ふに足らず、二分の圭角と八分の溫情とを湛たる彼をして毫裡に躍如たらしむる、殆ど憾なきに庶幾し[やぶちゃん注:読点はママ。]。しかも彼の舌鋒は又、其文字の雄なるが如く雄勁にして、虛より實を出し、實より虛を奪ひ、比喩を用ひ、諧謔を弄び、彼と議論を上下するものをして、辭盡き言屈し、又如何とも爲す可らざるに至らしめずんば止まず。其齊の宣王に見えて牢牛を談ぜしが如き、戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したるが如き、彼の踔厲風發、説いて膚寸をも止めざる好箇の例證たらずんばある可らず。

[やぶちゃん注:・「匹儔」(ひつちう(ひっちゅう))は「匹敵すること・同じレベルの存在と見做される相手」の意。

・「牢乎」(らうこ(ろうこ))は「しっかりしているさま・揺るぎないさま」の意。

・「犀利」(さいり)。「犀」は「堅く鋭い」の意で、ここは「才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま」の意。

・「刃を迎へて節々皆解くる」底本では「刃」は「刅」の右端の一画を除去した字体。「やいば」。「切れ味鋭い英知の刃を迎えて、蟠った節々が瞬く間に、皆、鮮やかに剖(き)り解かれる」の意。

・「昌黎の雄鷙」中唐の佶屈聱牙、唐宋八大家の一人であった韓愈のこと。彼は昌黎生まれを称し、人々から韓昌黎(昌黎先生)と呼称された。「雄鷙」は「ゆうし」と読み、「雄々しい猛禽」から「偉大な英雄」のことを言う。

・「眉山の俊爽」眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の出身であった、北宋の英才で唐宋八大家の一人である蘇東坡のこと。「俊爽」(しゆんさう(しゅんそう)」は人品・風物などが優れていること。

・「圭角」「圭」は「玉」に同じい。通常は「人の性格や言動に角があって円満でないこと」を差し、ここも表面上はその意であるが、そこに、原義の稀な輝きを持った「宝玉の尖ったところ・玉の角」、則ち、真の鋭才故の角立った部分を匂わせる。

・「毫裡」(がうり(ごうり))はごく僅かな時間内。瞬時。

・「憾なきに庶幾し」「憾」は音「カン」で読みたい。「非常な心残りとなる残念な思い」が全くなく、「庶幾」(しよき(しょき))はこの場合、「目標に非常に近づくこと」の意。

・「雄勁」(ゆうけい)は力強いこと。元来、この語は書画・詩文などに、力がみなぎっていること。

・「齊の宣王に見えて牢牛を談ぜし」「牢牛」は「ろうぎゆう(ろうぎゅう)」で「牢」は「生贄(いけにえ)」の意。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「七」の話。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」内のこちらで原文と書き下し文(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)が、小田光男氏のサイト内の「我読孟子」のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したる」所謂、知られた「五十歩百歩」の話である。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「三」。同じく柏木恒彦氏のサイト内のこちらの「梁惠王曰寡人之於国章」で原文と書き下し文現代語の通釈が、小田光男氏のサイト内のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「踔厲風發」(たくれいふうはつ)は「才気に優れ、弁舌が鋭いこと」。韓愈の柳宗元の墓誌に記した「柳子厚墓誌銘」が原拠。原文はこれ(中文ウィキ)。訓読(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)と訳は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘(四ノ一)」が良い(後者では「踔」が表記不能漢字となっている)。

・「膚寸をも止めざる」説いた舌鋒が、寸止めでなく、膚でぴたっと止まるの意か。]

 

 啻に之に止らず、業を子思の門人に受けたる彼は、魯中の叟が大經大法の宗を傳ふると共に、又能く天下の儒冠をして推服せしむるに足るの學殖を有したりき。殊に、其詩書に出入するの深き、吾人をして、上は堯舜を追逐して參りて翔して下は禹湯に肩隨して、濁世を救濟するの誠に偶然ならざるを感ぜしめずんばあらず。既に言を以て、異端を叱呼するに足り、學は以て、一世を壓倒するに足る。是に於て、四方の俊才が翕然として其門下に參集したる、亦怪むに足らず。しかも其一生の經歷が彼の先導者たる孔子のそれに酷似したるが如く、彼も亦、孔子が顏囘の賢、曾參の智を打出したると殆ど同じき成功を以て、樂正子の如き、公孫丑の如き、幾多の人材を陶鑄したり。

[やぶちゃん注:・「啻に」「ただに」。限定の副詞。

・「業を子思の門人に受けたる彼」孟子は、孔子の孫であった子思(しし)の、その門人の下で学んだとされる。

・「魯中の叟」魯国の老人で孔子を指す。

・「大經法」「たいけいたいはふ(たいけいたいほう)」。「大經」は「大きな筋道・不変の条理・大道」の、「大法」は「大きな定理・重要な規律」。

・「宗」は「そう」と読んでおく。根本義。原理。

・「儒冠」儒学者。

・「推服せしむる」ある人を敬って心から従わせる。心服させる。

・「吾人をして」「我々をして」。以下の「感ぜしめずんばあらず」が受ける。

・「堯舜を追逐して參りて翔して」「翔」(こうしよう(こうしょう))は「天高く飛び上がること・空を自由に飛ぶこと」。伝説の聖王である堯や舜の正道を忠実に追い、或いはそれをも超越せんとするかのように、理想の高みに自在に飛翔して。

・「禹湯に肩隨して」古代の賢明なる名君たる、夏の禹王や殷の湯王に比肩追随して。

・「濁世」私は個人的には「ぢよくせ(じょくせ)」と仏教語読みしたい。政治や道徳の乱れきった濁り汚れた世の中。「だくせ」という仏教語でない純粋に上記の意味である読みもあるが、私は読みとして好まないからである。

・「叱呼」(しつこ(しっこ))は通常は「大声で呼ぶこと」であるが、ここは正面から名指しして徹底批判すること。

・「翕然」(きふぜん(きゅうぜん))は「多くのものが一つに集まり合うさま」。

・「顏囘の賢」孔門十哲の一人で秀才随一とされた。孔子が最も嘱望した弟子であったが、孔子に先だって亡くなった。

・「曾參の智」曾子(そうし)。先に出た孔子の孫子思は曾子に師事し、子思の教えが孟子に伝わったことから、孟子を重んじる「朱子学」が正統とされるようになると、先の顔回と、この曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。

・「樂正子」(がくせいし)は春秋時代の曽子の弟子であった楽正子春(しゅん)。

・「公孫丑」(こうそんちゆう(こうそんちゅう))は孟子の弟子。「孟子」全十四巻中の二冊「公孫丑章句」の上・下の編纂を担当している。

・「陶鑄」(とうしゆ(とうしゅ))の「陶」は焼成して創る陶器、「鋳」は「金を鋳(い)て器を作ること」で、「陶冶」に同じい。]

 

 彼が卅歳の一白面書生として、鄒の野に先王の道を疾呼してより、七十三歳の頽齡を以て、志を天下に失ひ、老脚蹉跎として故山に歸臥するに至るまで、彼の五十年の一生は、一面に於て不遇と薄命との歷史なれ共、他面に於ては、又教育家として、殆剩す所なき成功の一生涯なりき。

[やぶちゃん注:・「卅歳の一白面書生」「卅歳」で「白面」(はくめん:年が若くて経験の浅いこと。青二才)というのは少々感覚的には皮肉っぽくも感じられるが、芥川龍之介はここで「彼の五十年の一生」と言っているが、孟子は現在、辞書類では紀元前三七二年頃の生まれで、紀元前二八九年頃の没とされており、それに従うなら、八十三歳前後の生涯であったことを考えれば、かの戦国時代にあって、まず「白面」は腑に落ちるとも言える。因みに「卅歳」を前の生年推定に機械的に当てると、紀元前三四二年頃となる。小学館の「日本大百科全書」によれば、その後、孔子の生国である魯に遊学し、そこで孔子の孫の子思の門人に学んだ後、弟子たちを引き連れて「後車数十乗、従者数百人」という大部隊を組んで、梁(魏)の恵王・斉(せい)の宣王・生国である鄒の穆(ぼく)公・滕(とう)の文公などのもとに遊説して回ったが、孰れも不首尾となり、晩年は郷里で後進の指導に当たったとある。

・「鄒」(すう)。孟子は鄒、現在の山東省西南部の済寧市の県旧市である鄒城(すうじょう)市の生まれである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「先王の道」儒家の政治思想に於いては、天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し、それを「先王」と称し、その政道を「王道」と呼んだ。「徳」を政治の原理とする思想は既に「書経」や「論語」などに見られるが、「王道」を覇者が武力や権謀術策によって天下を支配する「覇道」と対比させて明確にしたのは孟子であって、「徳を以つて仁を行ふ者は王たらん」、則ち、「仁義の徳が善政となって流露するのが王道である」と説いた(平凡社「世界大百科事典」に拠った )。

・「疾呼」(しつこ(しっこ))慌ただしく主張し喧伝すること。

・「七十三歳の頽齡」「頽齡」(たいれい)は心身の能力が衰えてしまうほどの高齢・老齢の意。先の「卅歳」やこの「七十三歳」(同前の機械計算では紀元前二九九年となる)という限定年齢は、芥川龍之介が拠った何らかの出典があるものと思われるが、不詳である。しかし、に示した孟子の遊説先の内、在位開始が最も後なのは、斉の宣王で紀元前三一九年から(退位は没した三〇一年)であるから、時制的には違和感はない

・「蹉跎」(さだ)「蹉」「跎」ともに「躓(つまず)く」の意で、「つまずくこと・ぐずぐずして空しく時を失うこと」或いは「落魄(おちぶ)れること・不遇なこと」の意もある。但し、ここで芥川龍之介は「教育家として」「成功の一生涯」と言っているのであるから、単に「老いて足が不自由になること」の意である。

・「殆剩す所なき」「ほとんどあますところなき」。]

 

 然れども、彼の偉大なるは其能く數多の小丘、小孟珂を打出したる教育家としての驚くべき成功の故にあらず、寬厚宏博、天地の間に充つるが如き文章の玄に悟入したるが故にもあらず、抑も又秋霜の辯と河海の學とを抱き、以て一代の學徒として能く仰望敬畏せしめたるが故にもあらず、山夷ぐべく谷煙むべく、而して孟何の名、獨り萬古にして長く存する所以の者は、其孔門の哲學をして、醇乎として醇なる眞面目を具へしめしが故にあり。

[やぶちゃん注:・「其」「それ」。

・「小丘」小さな孔丘(こうきゅう)。「丘」は孔子の諱(いみな:本名)。

・「小孟珂」小さな孟子。軻(か)は孟子の諱。

・「寬厚宏博」心が広くて態度が温厚な上に、広汎なる知識の持ち主であること。

・「文章の玄」微妙で奥深く、深遠な赴きを持った文章。

・「悟入」実体験によって物事をよく理解すること。

・「抑も又」「そもまた」。さても、また。

・「秋霜の辯」弁論が、非常に厳しく厳(おごそ)かであること。

・「河海の學」「史記」の「李斯(りし)伝」に基づく「河海は細流を択(えら)ばず」を意識した。「度量が広く、よく人を容れるところの、大人物の持つ真の学識」の意であろう。

・「仰望敬畏」(ぎやうばうけいい(ぎょうぼうけいい))は敬い慕われ、褒め讃えられること。至上の尊敬と真の敬意を払われること。

・「山夷ぐべく谷煙むべく」思うに、「煙」は「堙」(「埋」の同義有り)の芥川龍之介の誤字、或いは、葛巻義敏の誤判読と思う。「堙」ならば「やま、たひらぐべく、たに、うづむべく」と読めるし、それでこそ意味も腑に落ちるからである。

・「萬古にして」永遠なるものとして。

・「醇乎」心情・行動が雑じり気がなく純粋なさま。後の「醇なる」はその畳語表現。

・「眞面目」「しんめんぼく」と読んでおく。本来の姿。]

 

 其仁義の説の如き、性善の説の如き、五倫の説の如き、四端擴充の説の如き、放心を求むるの説の如き、就中浩然の氣を養ふ説の如き、人をして切に孔子死して九十餘年古聖の肉未冷ならざるを感ぜしめずんばあらず。しかも彼の擴世の奇才を抱きて之を事に施す能はず、楊柳條々として梅花雪の如くなる故山の春光に反きて、幾多門下の高足と共に、短褐蕭々として四方に歷遊するや、王威地に墮ちて、六霸幷び起り、中原の元々皆堵に安んぜず、道廢し、德衰へ、天下貿々然として之く所を知らざりしのみならず、墨子學派の博愛主義の如き、楊子學派の快樂主義の如き、神農學派の農業社會主義の如き、老莊派の極端なる個人主義の如き、無數の思潮は無數の中心をつくりて、隨所に其波動を及ぼし、一度孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎、堯舜三代の大道、一朝にして亡び、先生の遺法、倐忽として瓦の如く碎くる、將に目睫に迫れるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:・「仁義の説」ウィキの「孟子」より引く。『孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう』。

・「性善の説」ウィキの「孟子」より引く。『人間は生まれながらにして善であるという思想』。『当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため』、周の『文王や武王のような明君が現れると』、『民は善を好むようになり』、同じ周でも、『幽王や厲王のような暗君が現れると』、『民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば』、『不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は』、「人の性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と『述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も』、『その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら』、『人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだ』、『とした。そのため』、『孟子は、』「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失はざる者なり」(離婁章句下)、「學問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)『とも述べている』(龍之介が後に言う「放心を求むるの説」はこれ)。『その後、荀子』『は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって』、『多くの儒者に受け継がれた』。

・「五倫の説」ウィキの「五倫」から引く。「書経」の「舜典」には、『すでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている』が、孟子は、『秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した』。①父子の親(『父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない』)・②君臣の義(『君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない』)・③夫婦の別(『夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる』)・④長幼の序(『年少者は年長者を敬い、したがわなければならない』)・⑤朋友の信(『友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない』)がそれで、『孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした』。

・「四端擴充の説」ウィキの「四端説」より引く。性善説を受けて孟子が発展させた『道徳学説。四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の』四『つの感情の総称』。「孟子」「公孫丑章句上」によれば、そこ『に記されている性善説の立場に立って』、『人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている』四『つの心に根拠付けた』。『その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは』、①『「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)』・②『「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)』・③「辞譲」『(譲ってへりくだる心)』・④『「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)』の四つの『道徳感情である』とし、『この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の』四『つの徳に到達すると』説く。『言い換えれば』、『「惻隠」は仁の端』であり、『「羞悪」(「廉恥」)は義の端』、の『「辞譲」は礼の端』の、『「是非」は智の端』である『ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である』。『たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である』。『したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ』(龍之介が後に言う「浩然の氣を養ふ説」はこれ)。『なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来』、『心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった』とある。

・「孔子死して九十餘年」孔子は現在、紀元前五五二年九月二十八日生まれで、紀元前四七九年三月九日に没したとされ、その「没後九十餘年」は紀元前三八三年頃となり、現行の孟子の生年から計算すると、孟子は未だ十四歳頃であるから、先の芥川龍之介の「卅歳」で「鄒の野に先王の道を疾呼し」たというのを上限として受けるとなら、紀元前三四二年頃で、孔子没後百三十七年、「孔子死して百三十餘年」が正確となる。

・「未」「いまだ」。

・「擴世」人倫・人智の在り方を遙かに大きく押し広げるような、の意であろうか。

・「反きて」「そむきて」。

・「高足」(こうそく)は「高弟」に同じい。

・「短褐」(たんかつ)は麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の賤しい者が着る衣服。「短褐穿結(せんけつ)」(「穿結」は「破れていたり、そこを結び合わせてあったりすること」で貧者の粗末な姿の形容である)。

・「蕭々として」もの寂しい感じで。

・「六霸」芥川龍之介が「戦国の七雄」と「春秋六覇」(こちらは「五覇」の方が一般的であるが、「六覇」とも称する)とを混同したものか。前者は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国である。

・「元々」「げんげん」で、これで「人民」の意。

・「堵に安んぜず」「とにやすんぜず」。民草が安穏に暮らすことが出来ず。「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」に基づく「堵に安んずる」(「堵」は「人家の垣根・その内」の意で、「民が住まいに安心して住める、安心して暮らす」の意)。

・「貿々然」ぼんやりとしてはっきりしない様子。「貿」には「視界が悪い」の意がある。

・「之く」「ゆく」。

・「楊子」戦国時代前期の思想家楊朱(ようしゅ)。老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。前期道家思想の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にある」ことを説いたとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「神農學派」神農は中国古代の伝説上の帝王であうが、神農の名前が最初に文献に現れるのは実は「孟子」であり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきである、と主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である「緯書(いしょ)」などに、しばしば神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃の琴を発明したともされる。こうした業績から、「三皇」の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

・「一度」「ひとたび」。

・「孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎」孔子の継承者として誰彼を誤認したものであろうか。

・「倐忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))は「忽(たちま)ち」の意。

・「將に目睫に迫れる」「目睫」(もくせふ(もくしょう)は目と睫毛(まつげ)で、今まさに目前に迫ってしまったことを意味する。]

 

 然り、彼の成敗は彼一人の成敗に止らずして、全儒教の成敗を意味すべき存亡の危機に際したりき。然れども、彼は着々として幾多の創見と發明とを以て、儒教の地盤を定むるに成功したり。而して傍、異端を弁じ、邪説を闢き、歷古の沈迷を開きて、能く聖人の道、彼を得て復明なるの大業を成就したり。彼は彼自身、孔子を崇敬するの厚きを以て、屢自己の創見をも、嘗て孔子の一度之を云へりし如く、人に示したりき。しかも、其全く彼が前聖未發の卓見にして、彼の大才の奕々として這裡に光耀せるは、孟子二百六十一章を通じて、隨所に指示し得るべしと云ふも、亦妨げず。

[やぶちゃん注:・「成敗」ここは孟子とその教えを否定・無化することを指す。

・「傍」「かたはら」。一方で。

・「邪説を闢き」「闢き」は「ひらき」。誤った説を論破して明確に否定し。

・「歷古の沈迷」古き時代からの議論の混迷。

・「復明」正しい理念を復興すること。

・「其」「それ」。

・「未發」未だ発見・発明されていないこと。

・「奕々」(えきえき)は「光り輝くさま」の意。

・「這裡に」「ここに」と読む。]

 

 かくして、彼は孔子の哲學を最も理論的に、しかも又最も實際的に樹立せしめたり。彼の偉大なる祖述としての事業は、玆に完き成功を以て、其局を結びたり。之を措いて、孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ。孟子を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「祖述」(そじゆつ(そじゅつ))は「先人の説を受け継いで述べること」。

・「其局を結びたり」その孔子の真の教えの解明を終わらせた。

・「孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ」「孟子」の対話者として多く出る斉(せい)の宣王は孟子を厚遇した(孟子の献策で燕を制圧しようともしたが、失敗に終わっている)。「快利」は迅速なさま。「三萬四千六百八十五言」は「孟子」「二百六十一章」の総字数。]

 

 韓退之曰、孟子なかりせば、皆服は左袵にして、言は侏離たらむと。又曰、功は禹の下にあらずと。孟子を透見し得て餘蘊なきに似たり。孟子歿して一千二百年の後、後生も亦我を知る者在りとして、彼亦恐らくは泉下に一笑せしならむ。

[やぶちゃん注:・「韓退之」中唐の文人政治家韓愈の字(あざな)。以下は彼の「孟尚書書與」(孟尚書に與ふるの書)の一節、「然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣」(然れども、向(さき)に、孟氏、無かりせば、則ち、皆、服は左袵(さじん)にして、言は侏離(っしゆり)ならん)。個人ブログ「寡黙堂ひとりごとを参照されたい。

・「左衽」衣服を左前に着ることを指す。昔、中国では夷狄の風俗とした。

・「侏離」(しゆり(しゅり))は、元来は古代中国で西方の異民族の音楽のことを指したが、そこから、異民族の言葉を卑しめていう語となり、更にここで使うように「(音声が聞こえるだけで)その意味が全く通じないこと」の意となった。

・「餘蘊」(ようん)は「余分な貯え・残ってしまったもの・あますところ」の意。

・「孟子歿して一千二百年の後」現在の孟子の没年(紀元前二八九年頃)に足すと、九一一年で、中国では唐が亡んだ(九〇七年)後の五代の頃となるが、韓愈は七六八年生まれの八二四年没であり、その没年からだと千百十三年前となるので、まあ、誤差範囲と言ってよかろう。]

2018/09/03

芥川龍之介の――私(わたくし)小説――論三篇 / 『「わたくし」小説に就いて』・「藤澤淸造君に答ふ」・『「私」小説論小見──藤澤淸造君に──』

 

芥川龍之介 「わたくし」小説に就いて

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年七月一日発行の『不同調』(第一年第一号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバー ARZ0759.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で示した。]

 

 「わたくし」小説に就いて

 

 わたしは久米正雄君の「わたくし」小説論に若干の興味を持つてゐる。今その議論を分析して見れば──

 (一)「わたくし」小説は小説になつてゐなければならぬ。

 (二)「わたくし」小説は「わたくし」を主人公にしなければならぬ。(この「わたくし」は必しも一人稱の意味でないことは勿論である。)

 (一)は單なる人生記錄は小説ではないことを力説するものである。が、この立ち場は何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。實際又小説と非小説との境を如何なる一線に求めるかは好箇の論爭點と言はなければならぬ。わたしの所見に從へば、散文藝術に關する諸問題はいづれも多少この立ち場に關係を持つてゐるやうである。

 (二)は「わたくし」を主人公にする藝術的必要を力説するものである。これも亦恐らくは何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。しかし今日の短歌や俳諧は大抵「わたくし」短歌であり、同時に又「わたくし」俳諧である。若しこの事實を何等かの藝術的必要によつたとすれば、何ゆゑにひとり小説だけは「わたくし」小説に終始しないか、その點も十分に考へなければならぬ。

 この短い文章の目的は必しも「わたくし」小説論に贊否の説を表することではない。唯「わたくし」小説論の如何に特色のある議論かと言ふことに匆匆たる一瞥を加へることである。わたしの所見に從へば、久米君の「わたくし」小説論は更に論爭の的になつても好い。又論爭の的になることは確かに我等文藝の士の批評的精神を深める上にも少からぬ利益を與へるであらう。卽ち上記の二點を擧げ、久米君を始め大方の君子の高論を聽かんとする所以である。

 

 

 

芥川龍之介 藤澤淸造君に答ふ

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年九月一日発行の『不同調』(第一年第三号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0768.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で、傍点「ヽ」は太字下線で示した。]

 

 藤澤淸造君に答ふ

 

 僕は「不同調」第一號に「わたくし小説に就いて」と言ふものを書いた。「わたくし小説に就いて」は久米正雄君の「わたくし小説論」の特色を指摘せんと試みた文章である。然るに藤澤淸造君は「不同調」第二號に「何ゆゑに汝は汝自身わたくし小説論を試みないか? 汝の「わたくし小説に就いて」はわづか一二個所へ少しばかり解剖のメスをいれただけである」と書いた。(ヽ印を施したのは藤津君の文章である。)藤澤君の所謂解剖のメスは果して久米正雄君の議論の特色に觸れたかどうか、その是非を檢するのは文藝批評上の問題である。しかし所謂解剖のメスを入れるだけに止めて置いたものかどうか、その曲直を檢することは文藝批評上の問題ではない。では何の問題かと言へば、勿論實踐倫理上の問題である。從つて僕は藤澤君に答へるにも、多言を費す必要を見ない。僕は唯「わたくし小説に就いて」の中に僕の所期を果たした以上、毫も更にわたくし小説是非の論をもしなければならぬ義務のないことを告げるだけである。若し又不幸にも藤澤君にしてかかる義務のないことを認めないならば、紙上たると口頭たるとを問はず、更に何囘でも論戰しよう。但しその時は醉つてゐてはいけない。 (八月五日)

 

 

 

芥川龍之介 「私」小説論小見 ──藤澤淸造君に──

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年十一月一日発行の『新潮』に発表され、後、単行本「梅・馬・鶯」(同年十二月新潮社刊)に収録された。底本は基本、後者を親本(底本の底本)としている。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0810.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「ヽ」は前二篇に合わせて太字下線で示した。]

 

 「私」小説論小見

     ──藤澤淸造君に──

 

 文藝上の作品はいろいろの種類に分たれてゐます。詩と散文と、叙事詩と抒情詩と、「本格」小説と「私」小説と、──その他まだ數へ立てれば、いくらでもあるのに違ひありません。しかしそれ等は必しも本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札に近いものばかりであります。たとへば詩と言ふものを考へて見ても、若し或形式に從つたものだけに詩と言ふ名前を與へようとすれば、あらゆる自由詩や散文詩は除外しなければなりません。若し又自由詩や散文詩にも詩と言ふ名前を與へるとすれば、それ等の作品に共通した特色は廣い意味の「詩的な」こと、──畢竟文藝的なことになるだけであります。韻文藝術と散文藝術との差別もやはりこの詩と散文との差別の複雜になつただけでありませう。成程散文藝術は、――たとへば小説は一見した所、何か詩とは異つてゐます。が、その差別はどこにありませう? 小説は屢々詩に比べると、もつと僕等の實生活に卽した感銘を與へると言はれてゐます。又かう言ふ感銘は小説以外にあるとしても、唯韻文を用ひた小説、──叙事詩にあるばかりだと言はれてゐます。しかし叙事詩と抒情詩との差別も、──客觀的文藝と主觀的文藝との差別もやはり本質的には存在しません。例を西洋に求めないにしても、「アララギ」派の短歌の連作は抒情詩であると共に叙事詩であります。既に叙事詩と抒情詩との差別も消え失せてしまふものとすれば、あらゆる詩は忽ち春のやうにあらゆる散文の埒の中へも流れこんで來るでありませう。

 これだけのことを述べた後、僕はまづ久米正雄君によつて主張され、近頃又宇野浩二君によつて多少の聲援を與へられた「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を考へて見たいと思ひます。が、この議論を考へて見るには「私」小説とは何であるかを明らかにしなければなりません。本家本元の久米君によれば、「私」小説とは西洋人のイツヒ・ロマンと言ふものではない、二人稱でも三人稱でも作家自身の實生活を描いた、しかも單なる自叙傳に了らぬ小説であると言ふことであります。けれども、自叙傳或は告白と自叙傳的或は告白的小説との差別も、やはり本質的には存在しません。これもやはり久米君によれば、たとへばルツソオの懺悔錄は單なる自叙傳に過ぎないものであり、ストリントベルグの「痴人の懺悔」は自叙傳的小説であると言ふことであります。しかし兩者を讀み比べて見れば、僕等は偶々「懺悔錄」の中に「痴人の懺悔」のプロト・タイプを感じることはあるにもしろ、決して本質的に異つたものを感じることはありません。成程兩者は描寫の上とか或は又叙述の上とかには、いろいろ異つてゐるでありませう。(その最も外面的に異つてゐる點を擧げて見れば、ルツソオの「懺悔錄」はストリントベルグの「痴人の懺悔」のやうに會話を別行に印刷してゐません!)しかしそれは自叙傳と自叙傳的小説との差別ではない、時代や地理をも勘定に入れたルツソオとストリントベルグとの差別であります。すると「私」小説の「私」小説たる所以は自叙傳ではないことに存在するのではない、唯その「作家自身の實生活を描いた」こと──卽ち逆に自叙傳であることに存在すると言はなければなりますまい。しかし又自叙傳であることは抒情詩よりも複雜した主觀的文藝であると言ふことであります。僕は前に抒情詩と叙事詩との差別は──主觀的文藝と客觀的文藝との差別は本質的には存在しない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。既に叙事詩は抒情詩と本質的に異つてゐないとすれば、「私」小説も同じやうに本質的には「本格」小説と少しも異つてゐない筈であります。從つて「私」小説の「私」小説たる所以は本質的には全然存在しない、若しどこかに存在するとすれば、それは「私」小説中の或事件は作家の實生活中の或事件と同一視することの出來ると言ふ或實際的事實の中に存在すると言はなければなりません。卽ち「私」小説は久米君の定義の如何に關らず、かう言ふものになる訣であります。──「私」小説は譃ではないと言ふ保證のついた小説である。

 もう一度念の爲に繰り返せば、「私」小説の「私」小説たる所以は「譃ではない」と言ふことであります。これは何も僕一人の誇張による言葉ではありません。現に「どんなに巧妙でも、『私』小説以外の小説は信用する訣に行かない」とは久米君自身も一度ならず力説してゐる所であります。しかし「譃でではない」と言ふことは實際上の問題は兎に角、藝術上の問題には何の權威をも持つてゐません。これは文藝以外の藝術、──たとへば繪畫を考へて見れば、誰も高野の赤不動の前にかう言ふ火を背負つた怪物は實際ゐるかどうかなどと考へて見ないのでも明らかであります。けれどもこれだけの理由により、「譃ではない」と言ふことを一笑に附してしまふのは餘りに簡單でありませう。實際又「譃ではない」と言ふことは何か特に文藝の上には意味ありげに見えるのに違ひありません。ではなぜ意味ありげに見えるかと言へば、それは文藝は他の藝術よりも道德や功利の考へなどと深い關係のあるやうに考へられてゐるからでありませう。が、文藝もかう言ふものと全然緣のないことはやはり他の藝術と異りません。成程僕等は實際的には、――何をいつ誰に公にするか等の問題には道德や功利の考へをも顧慮することになるでありませう。しかしそこを通り越した文藝それ自身としての文藝は何の拘束も持つてゐない、風のやうに自由を極めたものであります。若し又自由を極めてゐないとすれば、僕等は文藝の内在的價値などを云々することは出來ますまい。從つて文藝はおのづから上は「文藝化せられたる人生觀」より下は社會主義の宣傳機關に至る奴隷的地位に立つ訣であります。既に文藝を風のやうに自由を極めたものとすれば、「譃ではない」と言ふことも勿論一片の落葉のやうに吹き飛ばされてしまはなければなりません。いや、「譃ではない」と言ふことばかりではない。「私」小説の問題に多少緣のある謬見を擧げれば、「作家はいつも作品の中では正直にならなければならぬ」と言ふことも、やはり吹き飛ばされてしまふ筈であります。元來「正直になる」或は「他人を欺かぬ」と言ふことは道德上の法律ではあるにしても、文藝上の法律ではありません。のみならず作家と言ふものは既に彼自身の心の中にちやんと存在してゐるものの外は何も表現出來ぬ訣であります。たとへば或「私」小説の作家はその小説の主人公に彼自身の持つてゐない孝行の美德を與へたとして見ませう。成程その小説の主人公は彼と異つてゐる以上、道德的に彼を譃つきと言ふのは當つてゐるかも知れません。が、かう言ふ主人公を具へた或「私」小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在してゐたのでありますから、彼は譃つきどころではない、唯内部にあつたものを外部へ出して見せただけであります。若し又譃をついたとすれば、それは彼が何かの爲に彼の天才を賣淫し、彼の内部的「私」小説を十分に外部化することを(或は表現することを)怠つた場合だけでありませう。

 「私」小説と言ふものは上に述べた通りの小説であります。かう言ふ「私」小説を散文藝術の本道であると言ふのは勿論謬見でありませう。しかしこの議論の誤つてゐるのは必しもそれだけではありません。一體散文藝術の本道とは何のことでありませう? 僕は前に散文藝術と韻文藝術との差別は本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。すると散文藝術の本道と言ふことも「最も文藝的な散文藝術」などと解釋することは出來ません。若しかう解釋することは出來ないとすれば、それは唯「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことに落ちて來なければなりますまい。けれども「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことは畢竟散文藝術と言ふことだけであります。たとへば散文藝術の代りに紙卷煙草を置いて見ても、紙卷は煙草と言ふ本質の上では少しも葉卷と異りません。從つて紙卷の本道と言ふことを「最も煙草的な紙卷」とするのはおのづから滑稽になるでありませう。そこで「最も紙卷的な紙卷」とする外はないとなると、[やぶちゃん注:底本の「後記」によれば、単行本「梅・馬・鶯」ではここは「外はないとすると、」であり、底本はここのみ初出に従っている。]──僕は常識の名前により、諸君に問ひたいと思ひます、──「最も紙卷的な紙卷」とは當り前の紙卷以外に何を指してゐるのでありませう? 散文藝術の本道と言ふのはこの「最も紙卷的な紙卷」と言ふのと同じことであります。かう言ふ例の示す通り、「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論は單に散文藝術の本道を「私」小説に置いた所に破綻を生じたのではありません。散文藝術の本道と言ふ空中樓閣を築いた所に抑々の破綻を生じてゐるのであります。では散文藝術の本道などと言ふものは全然存在しないかと言へば、それは或意味では必しも存在しないとは言はれません。あらゆる藝術の本道は唯傑作の中にだけ橫はつてゐます。散文藝術の本道も若しどこかにあるとすれば、恐らくはこの傑作と言ふ山上にあるのかも知れません。

 僕は久米君によつて主張された「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を略々批評し了りました。僕の立ち場は久米君の立ち場と生憎兩立出來ぬものであります。しかし僕は久米君の議論に少しも敬意のない訣ではありません。たとへば久米君は「私」小説から截然と自叙傳を分ちました。この差別それ自身に僕の賛成出來ないことは既に述べた通りであります。しかしこの差別を立てたことは或意味では最も文壇の時弊に當つてゐると言はなければなりません。僕も亦多少の暇さへ得れば、この差別から出發した小論文を書きたいと思つてゐます。なほ又僕は徹頭徹尾宇野君の議論を閑却しました。それは宇野君は久米君のやうに「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふことを斷々乎と言つてゐない爲であります。尤も宇野君の議論の中にも「僕等日本人の文藝的素質は『本格』小説よりも『私』小説に適してゐる」と言ふことだけは力説されてゐるのに違ひありません。しかしそれは宇野君の常談と見なければなりますまい。なぜ又常談と見るかと言へば、僕は僕等日本人の生んだ「本格」小説的作品の中に源氏物語は暫く問はず、近松の戲曲、西鶴の小説、芭蕉の連句等を數へることを、──いや、それよりも宇野君自身の二三の小説を數へることを大慶に思つてゐるからであります。

 最後につけ加へておきたいことには僕の異議を唱へるのは決して「私」小説ではない、「私」小説論であると言ふことであります。若し僕を目するのに「本格」小説だけに禮拜する小乘甞糞の徒とするならば、それは僕の冤ばかりではない、同時に又日本の文壇に多い「私」小説の諸名篇に泥を塗ることにもなるでありませう。

 

2018/09/02

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 斷 章

  

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない(『(断片)』とあるのみ)。但し、葛巻氏はこのパートの後に「中学時代」(㈠と㈡有り)と「小学時代」が逆編年体で続く形で構成されているから、氏は各パート内も逆編年順に並べている可能性が高い。但し、「寒夜」の冒頭注で私が疑義を呈した通り、彼の執筆時期推定には甚だ疑問がある。取り敢えず、葛巻の指定に無批判に従って創作時期を「第一高等学校時代」とするならば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間とはなる。しかし、くどいが、「寒夜」の冒頭注での執筆時期の私の推のように、これもそれより前に溯る可能性も否定出来ないことは含みおかれて読まれるのがよいかと存ずる。序でに難癖をつけておくと、この「斷章」という題も本当に原稿に書かれているのかどうか、私には疑問が残るのである。作家を目指すも目指さない決まっていなかった龍之介が、作家になってからもそうは使わなかった「斷章」などというタイトルを創作文に附したとは、ちょっと考えに難いからである。

 なお、空欄はママで、〔 〕の文字は葛巻氏が補正追加した字である。

 「餌壺」(ゑつぼ)は鳥の餌を入れる容器のことである。

 因みに私はこの断片に異様に心惹かれる――

 私はこれをモノクロームのショート・フィルムで撮ってみたくてたまらない――タルコフスキイ!……

 ……チケリ!……チケリ!……という鎚音が聴こえ……老人の後ろ姿が見えてくる……

 ……この少年は……

 芥川龍之介であると同時に……

 私自身……だ…………

 

     斷 章

 

 白い土藏の下で十ばかり〔の〕女の子とまゝごとをしてゐた。

 褪紅色の帶をしめて 白地の單物をきて、藍色の大きなリボンをかけた 色の白い子であつた。長い睫の下から、うるんだ眼でじつと人の顏を見る癖のある子であつた。

 その子は自分を蓆の上にすはらせて、小さな蒔繪の御椀に、ぺんぺん草をきざんだのをいれて、

「どうか召上つて下さいまし、おいしくは御座いませんけども」と云つた。自分の前には、水のはひつた硝子の德利がある。砂をもつた黄の餌壺がある。さうして千代紙の三寸ばかりの屛風が二つ立ててある。女の子は

「それがおいやなら、これを上つて頂戴」

 と云つて、大きな晝顏の花を、掌へのせて自分の胸の前へ出した。花びらはいもりの腹のやうな色であつた。自分は、おやと思つた。

「こんなものをどこから、とつて來たんです」

「御くらのうしろで石屋さんが石をきつてゐるの、そこに澤山さいてゐるわ」

 しばらくして自分は、土藏のうしろへ行つた。成程、あかい晝顏の花が一面にさいて、その中に禿頭の老人が後向になつてちけり、ちけりと、石をきつてゐる。花崗石のやうな石は鎚のびゞく度にかけて落ちる。老人は後をむいたなり石を動かしてゐる。石は鎚のひゞく度にかけておちる。

 自分は女の子にやらうと思つて晝顏の花を七つつんだ。さうして又もとの土藏の前へかへつて來た。女の子はどこかへ行つたと見えて、蓆も、千代紙の屛風ものこつてゐなかつた。自分は、丁寧に七つの晝顏の花を、蓆のしいてあつた土の上へならべて女の子のかへつて來るのをまつてゐた。……

 白壁には日の光が一面にあたつてゐる。

 

2018/08/28

ブログ1130000アクセス突破記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寒夜

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作文で、底本(後述)では明治四〇(一九〇七)年頃の作とする。明治四十年ならば、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二・三年次(当時の旧制中学は五年制)で、満十四、十五歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れており、上述の通り、これはおかしい(龍之介の一高入学は明治四三(一九一〇)年九月である)。なお、作品末の葛巻氏の註では、これは、先に電子化した「菩提樹」「ロレンゾオの戀物語」同様、この『「寒夜」も、同じ』学校に提出した『「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 下線(底本は右傍線)及び句読点なしの字空け、第三段落の「絶ゑ」はママである。踊り字「〱」は正字化した。

 本文最終段落冒頭には「この事ありてより早くも十とせを經たり」とある。これを葛巻氏の執筆年代クレジットで逆算するなら、作品内時制は明治三十年か三十一年辺りとなる。当時の龍之介は(既に芥川家の養子)四歳から六歳、江東(えひがし)尋常小学校付属幼稚園入園(明治三〇(一八九七)年四月)から翌年の江東尋常小学校(現在の両国小学校)入学年に当たる。芥川家は当時も執筆時も本所小泉町(現在の墨田区両国三丁目)にあった

 本作内にはこの十年の間に亡くなった作者の主人公「童」の「姊」(あね:「姉」)が登場するが、これは芥川龍之介の事蹟に合わせると、事実ではない(芥川家には子はいない)。彼の実の次姉である「新原(にいはら)ヒサ」は健在であり(龍之介より四歳年上。葛巻義定(底本編者義敏の実父。離婚するも西川の自殺後に復縁)・西川豊に嫁す。昭和三一(一九五六)年没)、長姉の「新原ハツ」は龍之介の生まれる前の明治二一(一八八八)年に三歳に満たずして夭折しているからである。私には、この本文に出る「姊」とは、この次姉「ヒサ」を事実上のモデルとしながらも、実は、龍之介が逢ったこともないにも拘わらず、終生、特異的な親しみを感じ続けた長姉「ハツ」の面影が感じられて仕方がないのである。龍之介晩年の名品で、大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した點鬼簿(私の古い電子テクスト)の「二」を、是非、見られたい。

 「伯父なる人」は不詳。系図を見るに、新原・芥川家には該当する「伯父」はいないように思われる。架空の設定か。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

 

     寒 夜

 

 ほのかなるラムプの火影に、二人の女ありて衣を縫へり。一人は若く、一人は老いたれども、縫へるは共に美しき紅の絹なり。部屋の中狹ければ、うすけれどもともしび隈なく流れて、縫針の寒うきらめくも見ゆ。

 芍薬描ける二枚折りの屛風引きよせたるかたへには、八つあまりのわらべありて、炬燵に足をさし入れつゝ寢ころびて、眞鍮の竪笛を弄べり。古りたれど頰赤きすこつとらんどびとが くゆり濃き琥珀の酒に醉ひて、草野の宵月にふきふくはこれなりと云ふ。伯父なる人の遠き海の彼方より贈りたるを、童は幼き心にもそのさびたる響の中に 白楊と湖との國を夢みて、日も夜も手を離さず弄ぶなり。

 戸の外は雪、未、止まずと覺ゆ。道を行く人は絶ゑたれども庭には折々八つ手のひろ葉をすべり落つる雪の音す。童は西洋紙の手帳を、黄なる書物の上におし廣げつゝ、覺束なき平假名にて其日の日記をつけ始めぬ。書物は、朽葉色の地に紅の蘭の花を描きたるが、そが上に、あらびあんないと物語の金文字うつくしく光りつ。

 二人の女は猶、紅の絹を縫いて止めず。老いたるは鼈甲の緣ある大なる眼鏡をかけたり。折々手をとゞめてほゝえむは童の物かくとてむづかしき顏したるが可笑しければなるべし。若きは手も止めで、童の方を偸み見つゝほゝ笑む 縫へる絹とかたへのすびつの火との赤く頰にうつれる床しく見ゆ。

 母上 またかの薔薇と頰白との物語してきかせ給へ、日記をつけ了れる童は 再 竪笛を手まさぐりつゝ云ふ。母はよべも語りつと老いたる女笑へば、さらば姊上こそと童は若き女の眉をゆすりね。

 風やふき出でし、さらさらと雪の窓をうつ音す。「朝よりふりて止まず。やがて道も絶えなむ」と老いたるが呟けば、若きはともしびをとりつゝ立ちて窓をひらきぬ。童も炬燵より出でてその後に從ふ。よはき燈の光に 白く雪に輝ける道と、向ひの家の掛行燈のおぼろめきたるとが見えたり。「文鳥も寒からむ」と窓を閉しつゝ若き女云ひぬ。「文鳥も寒からむ」 こだまの如く童も答へつ。部屋の隅には朱骨の鳥籠ありて 長く紫の紐を垂れたり。二人は眉を合せつゝ靜に籠の中をさしのぞきつ。されど文鳥は動かず、眼をとぢ頭をたれて止り木にうづくまりたる、眞珠鼠の羽がひもほろろ寒げに見ゆ。「文鳥は眠りぬ われも眠らむ」 程へて童は云ひぬ。

 

 この事ありてより早くも十とせを經たり。その夜の童なりし我の今も雪ふる夜每に思出づるは其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。紅き絹を縫ひ給へる姊上も 眞鍮の竪笛を贈り給へる伯父上も今は共に此世を去り給ひて、彼の薔薇と頰白の物語し給ひし母上のみ、猶、日夜 我が側に衣を縫ひ給ひつゝ、時にふれて我亡き姊上の上を語り給ふも悲し。なつかしきは、其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。あはれ、昔を今になすよしもがな、昔を今になすよしもがな。

 

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) ロレンゾオの戀物語

  

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正元(一九一二)年頃の作かとする。大正元年(明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御により改元)ならば、第一高等学校二・三年次(当時の旧制高校は九月進級)で、満十八、十九歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。本文末に丸括で括られた『我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。』とはあるが、この年及び前年の夏季休暇中には汽船に乗るような旅はしていない。大正元八月十六日から二十日まで友人(中塚癸巳男(きしお)か)と信州から木曾・名古屋を旅してはいる。しかし、言わずもがなであるが、そもそもがこの附記全体が私は作品本文にリアリズムを与えるための確信犯の虚構であると言ってよい。それは、この「嗅煙草かぎつゝ」「汽船の舵手が」「物語」「語れる」というシークエンスが、すこぶるハマりまくった西洋画風の素材であり、この大正元年の七月から八月にかけて龍之介はオスカー・ワイルドの作品を複数読んでおり(宮坂年譜の書簡からの確認で三冊)、この潮風と嗅ぎ煙草の匂いは私には主人公ロレンゾオの故郷イタリアの、ヴェニスやナポリは言うに及ばず、如何にもそれこそ、この「語りの男」の姿はアイルランドの船乗りにこそ相応しいと感じるからである。因みに、この執筆されたとも推定し得る大正元年九月には、東京帝国大学一年の山宮允(さんぐうまこと)に伴われて、吉江孤雁を中心とした「アイルランド文学研究会」に初めて出席してさえいるのである。また、宮坂年譜ではこのクレジット(同年とするならば)の直前の九月二十三日にはガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)の一九〇〇 年の小説Il fuocoの英訳 The Flame of lifeを読了しており、長崎まで流れ流れてきた主人公イタリア人水夫ロレンゾオの香りと親和している事実である。以上から見ても、大正元年執筆の可能性は堅いと私は思う。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、これは先に電子化した「菩提樹」同様、『「ロレンゾオの戀物語」も、「寒夜」』(これに続けて電子化する)『も、同じ「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 以下、私が躓いた語に注を附す。

 三段落目の「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opa l)の和名。

 四段落目の「ゐや」は「禮(礼)(ゐや(いや)」で敬意を表わして頭を下げることの意。

 同じ四段落目の「マルクス寺」はヴェネツィアで最も有名な大聖堂サン・マルコ寺院 Basilica di San Marco)のこと。

 同じく四段落目の「ヘリオトロウプ」はムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属ヘリオトロープ Heliotropium arborescens 及びその仲間を広く指す。ウィキの「ヘリオトロープによれば、『ペルー原産』であるが、『フランスの園芸家が』一七五七年(宝暦七年相当)に『パリに種子を送り、ヨーロッパ』から『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『ヘリオトロープには約』二百五十『種があるといわれる』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異な』り、また、『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』という。『ロジェ・ガレ社(フランス)の『Heliotrope Blanc』(フランスでは』一八九二年(明治二十五年相当)に』『発売)は、日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようになった(有機化合物であるヘリオトロピンがヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)に『判明し、それを天然香料の代用として普及した』)。夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年)の第九章にも、ヘリオトロープの香水が登場している、とある。

 同じ四段落の「ミルテ」とはフトモモ目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis のドイツ語呼名(Myrte)。ウィキの「ギンバイカによれば、地中海沿岸原産の常緑低木で、『花が結婚式などの飾りによく使われるので「祝いの木」ともいう』。『夏に白い』。『弁の花をつけ、雄蕊が多く目立つ。果実は液果で、晩秋に黒紫色に熟し』、『食べられる』。『葉は揉むとユーカリに似た強い芳香を放つことから、「マートル」という名でハーブとしても流通している』らしい。『サルデーニャとコルシカ島では、果実や葉を用いてミルト(Mirto)というリキュールを作る。古代ローマにおいてはコショウが発見される以前はコショウの地位を占めており、油と酒の両方が作られていたと言われる』。『シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花とされ』、『古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされ』て、『花嫁のブーケに使われる』。『生命の樹』『や、エデンの園とその香りの象徴ともされる』とある。

 同じ四段落の「覆盆子」は「いちご」と読む。

 同じ段の末に出る「きほふ」は「競ふ」で「争う・張り合う」の意。

 第五段落「ひさぎぬ」の後の空欄は(句点たるべきところ)はママで、その下の「絶ゑて」の表記もママ。

 第六段落「ジェルザレムメリベラアタの曲」は不詳。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

     ロレンゾオの戀物語

 

 やよひになりて、ロレンゾオは懸になやみぬ。

 悲しくうれしき思たえまなく胸にあふれて、あやしき旅やどりのすまゐなれど、そこはかとなくかぐはしきもののといきのかよひ來て、くれなゐの罌粟の花ざかりにも似たりや。あはれサンタルチアも見そなはせ、ふる里以大利亞(イタリア)を去りしより――かのなつかしきヴェニスの水と鍾のびゞきと白きくゞひの歌とにわかれしより、あるは南、埃及、亞刺比亞の國々、睡蓮の花さく川ぞひの市に黄玉の首環したる遊び女のむれに親み、あるは東印度支那の島々無花果の葉かげの港に、おしろい靑きざればみたる女の數々を見たれど、未此處日本の長崎にて始めてかのひとにあひしばかり、あつきまことの戀を覺えしはあらず。ゆひ髮ふくよかに、小猫の眼ざししたるかのひとのまぼろし、薄べにの薔薇(さうび)の如く、うつゝにもロレンゾオの眼にうかびぬ。かくて蔦の葉しげき赤瓦の軒に群つばめのさゞめきとだえて蛋白石の空に夕月の光うすくにほひそむれば、かれはさびしくひとり夕餉ものしつ。

 やがて色褪せたる天鵞絨のきぬに、靑き更紗模樣のはんけちを頸に結びて、古びしマンドリンをかい抱きつゝ、ものうげにすまゐを出づるは近き海べの酒場に其日のかてを得むとてゆくなり。黃色き窓かけをかけたる酒場の窓は暗き長崎の入江にのぞみて、其處にあかきともしびの光にてらされつゝ、にがよもぎの精なりと云ふ異國の酒を酌みかはす船乘の一むれつどひぬ。ロレンゾオは、物怯ぢしたるさまにて主の翁にゐやをなしつゝ、部屋のかたすみなる椅子に腰かけて、さながら懸人を撫するが如くうれしげにマンドリンを手まさぐるが常なり。もし客の一人「歌へ」と命ずれば直に立ちて歌ふ。歌ふは南歐の俗歌なれども、此時ばかりかれの面の晴れやかなるはあらず。マンドリンの糸のびゞきははなれて久しき以大利亞の夢をよびかへして、其上に櫻草の色したる思ひ出の經緯をひろぐ。日は暖にマルクス寺の金の十字架を照らして、狹き水路は月桂の若葉のかほりにみちたり。白き鳩のむれたや石甃に紅き帽の土耳古人ありて忙しく步みゆくが見ゆ。靑き水にのぞめる家々の窓にはヘリオトロウプ、薔薇、黃水仙などにほへり。音もなくリアルトオの橋をすぎゆくゴンドラよ、いましは何處に行かむとする。南國の日の光に橄欖の如く黑めるロレンゾオの面は、醉心地に赤らみて、マンドリンのトレモロはミルテの靑葉をふく風のやうにすゝりなきぬ。曲終れば、人々拍手して銀貨を投ぐ。其時もしかのひと入り來ればロレンゾオは一杯の麥酒に疲れをいやすさへ忘れて、再マンドリンをかいならしつゝ歌ふ。かのひとはこのあたりの町々に林檎、蜜柑、覆盆子など商ふ「むすめ」の一人なり。年は十五六なるべし、黄なる「べべ、ニッポン」に長き帶むすびさげて、黑く淸らかにほゝゑめる目の媚びたるも、髮にかざせる紅椿のやうに艷なり。ロレンゾオが心には昔ブエノスアイレスの謝肉祭に樓の窓よりかざしの花を落して、待ちたる戀人にくちづけなげたる人と、きほふとも見劣りすまじくや。

 かのひとはかく夜每に來りて果物をひさぎぬ されど絶ゑて、こ若き以大利亞びとがやるせなき思ひをさとらざりき。ロレンゾオはかく夜每に來りて歌ひぬ。されど彼は、かのひとの聲をきく每に絃を彈ずる指のあやしくもをののきて、マンドリンの調べの屢亂るゝを知らざりき。

 卯月これの夜、ロレンゾオは黄さうびの鉢おきたる酒場の机にひと夜を明したれども、かのひとの影は見えざりき。つぎて七夜かれはあだにかのひとを待ちぬ。かくて八日の夜、アプサントの醉頰にのぼりて玻璃圓閣にたばしる霰の如くマンドリンかきならしつゝ、ジェルザレムメリベラアタの曲をうたへる時、客の一人は主の翁にむかひて問ひぬ。「かの果物うる娘はいかにしたる」、耳遠き翁の答はものうかりき。「熱をやみてうせぬ、今宵にて三日目なりときゝしか、あはれなることしてけり。」

 たちまち人々は、青琅玕を碎くやうなるもののびゞきにおどろかされぬ。ロレンゾオがマンドリンの絃斷へたるなり。「如何にしたる」と人々たづぬれど、かれは唯うつむきて聲もなく泣きぬ。黄さうびのかほりほのかにたゞよへる酒場に、唯聲もなく泣きぬ。

 そのあしたより、酒場の人々はロレンゾオの影をみずなりぬ。かれの住める家のあるじに問へど知らずと答ふ。あるは身投げて死しぬと云ひ、あるは以大利亞に歸りぬと傳ふ。かれが部屋の壁には猶、絃斷えたるマンドリンかゝりて、きらびやかなる蔦の葉のまつろへる軒には今も懸わたる燕のかたらひしげけれども。(我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。)


 

2018/08/27

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菩提樹――三年間の回顧――

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正二(一九一三)年の作とする。同年は七月一日に第一高等学校を卒業し(卒業成績は二十六名中二番で、首席は龍之介の盟友井川(後、婿養子となり、恒藤に改姓)恭であった)、九月に東京帝国大学文化大学英吉利文学科に入学しているから、本作は、底本クレジットが誤りでないとすれば、同年一月から恐らくは五月(六月二日に卒業謝恩会が開かれており、十二日から二十日までが卒業試験、二十二日から二十六日までは井川・長崎太郎・藤岡蔵六と赤城山(登頂)・伊香保に旅に出ている)までの間に書かれた、満二十、一歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、『これは、高等学校の、いわゆる「作文」かとも思うが、ほとんど同一の原稿が二種類ある。一は添削を受けたもので、朱点が入っている。その方が「答案」なのであろうと思うが、何故殆ど同じに近いものを二通書いたのかは、今はわからない。この文は、それらの句読点を、兩方共に参酌した』(下線太字やぶちゃん)とある。句読点のない字空けも底本のママである。

 最後に私のオリジナルの簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年6月27日 藪野直史】]

 

     菩提樹

      ――三年間の回顧――

 

 校庭に菩提樹あり。四月のはじめ、にほひよき芽をふきて、たちまち、幅廣き若葉をなす。その綠は、橡にも鈴懸にもみる可らざる、やはらかくあかるき色なれば、まばゆき白日の光は其ひろ葉に落つる每に、すゞしき木かげを、さながら靑琅玕の管玉にともせるともしびの下に、夢ならぬ夢をたどるがごとくほのめかしむるが常なり。秋づけば もののあはれをしること、梧桐にもまさりて、霜の朝霧の夕、大なる鬱金の葉 紛々として樹下に堆をなす。葉落ちつくせば、枝々 珊瑚珠に似たる赤く小さき實をつく。雪もよひの日、鶴の群のなきかはしつゝ、此樹の梢に來るは皆此實をはまむとてなり。

 あゝ、われ 如何にこの菩提樹を愛したる。

 すぎし三年の月日は、まことに此樹下に夢みくらせし三年の月日なりき。われ若くしてうれひ多く、草をしき石に踞して、夕日のむらさきの影にしみたる、おそ春の空のたゝずまひ、若葉のまよりもるゝうす雲のゆきかひに、心 何時しか現ならぬ現におもひふけりて、我にもわかぬ淚の徒に零々として頰をうるほすを覺えしも、亦 この菩提樹の木かげなりき。心なき人と心なきものがたりする ものうきを避けて、ほのかなる若草のかほりと いと遠き小鳥の聲との中に橫はりつゝ、ひとり季長吉の詩集によみふけりて この若くして逝きたる詩人の 見はてぬ夢のうらみてもかひなき生涯をかなしみしも、亦 此菩提樹の樹かげなりき。

 此樹下に母のかきおこせる消息をよみつゝ、葉落ちつくしたる梢の空のほの赤きに百舌の聲のけたゝましきを聞きしは今もわすれず。わが友と、黃なる紅なるあるは代赭なるこの樹の落葉をふみつ、夕空のかすかなる星を仰ぎて沙門悉達のさびしき涅槃の教をかたりしこと そもいくたびぞ。わが新しきふみをひらきし處 新しき友と語りし處 手帳に幼き歌を走りがきせし處 長き日のつれづれに口笛をふきし處 あゝ又これ靑空にそよげる此菩提樹の木かげなりき。

 圖書館の廊下に佇みて、ふみよむにつかれたる身をやすむるとき、教室の机によりて才高く志大なる人々に伍する時、窓硝子のかなた、ほの赤きさうびのかほりにかすかなる雨のびゞきに、さびしげにうなづけるは同じく 此菩提樹の老い木なりき。

 あゝ菩提樹よ、わが三年のよろこびとかなしみとをしるものは汝のみなり。わが三年の心のさゝやきとたましひのすゝり泣きを聞きしものは汝のみなり。菩提樹よ 菩提樹よ、わが祕密をしるものは唯汝のみなり。われ 今近く母校を去らむとして汝と別るゝ日の旬日にあるを思ふ われまた、淚なきを得むや。今 汝にかりて三年の追憶をもらす。言は短なれども意はまことに長し。菩提樹よ さらばわれら長く相別れむかな。

 

[やぶちゃん注:「菩提樹」この木は、まさに、十四年後の芥川龍之介自死の最後の手記「或舊友へ送る手記」のコーダに登場する、あの菩提樹である(同作は昭和二(一九二七)年の死の当日の七月二十四日日曜日の夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で久米正雄によって報道機関に発表され、死の翌日の二十五日月曜日には『東京日日新聞』朝刊に掲載された)。

   *

 附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属種ボダイジュ Tilia miqueliana であろう。

「橡」「とち」と読んでおく。ならば、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「鈴懸」「すずかけ」。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis。プラタナスのこと。

「靑琅玕の管玉」「せいらんかんのくだだま」。青碧色をした半透明の硬玉で出来た、装飾用の管。糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられ、本邦では縄文時代に既に作られていた。

「梧桐」「あをぎり(あおぎり)」と読んでおく。アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「鬱金」「うこん」・濃い黄色。鮮黄色。

「堆」「たい」。高く積み上がっていること。堆(ずたか)くなっていること。

「珊瑚珠」「さんごだま」。

「踞して」「きよして(きょして)」。しゃがんで。

「現」「うつつ」。

「わかぬ」「分かぬ」。何ゆえのそれとはっきりとは判らぬ。

「徒に」「いたづら(いたずら)に」。

「零々として」「れいれいとして」。零(こぼ)れ落ちるさま。

「橫はり」「よこたはり(よこたわり)」。

「季長吉」「りちやうきつ(りちょうきつ)」。私も高校時代から偏愛する、中唐の詩人で「鬼才」と呼ばれた李賀(七九一年~八一七年)の字(あざな)。病いのために二十六の若さで亡くなった。よろしければ、「南山田中行 長平箭頭歌 李賀 やぶちゃん訳」をどうぞ。

「母」養母芥川儔(トモ)。実母フクは明治三五(一九〇二)年十一月二十八日、龍之介十歳(江東小学校高等科一年)の時に満四十二歳で病没している。「かきおこせる消息」とあるのは、寮にいたためである(第一高等学校は二年まで、原則として全寮制を採っていたが、一年次は「通学願書」を提出して自宅(芥川家は内藤新宿の実父新原敏三の持家に龍之介が一高に入学した翌月である明治四三(一九一〇年)十月に本所小泉町から転居している)から通学したが、二学年に進級した九月からはしれは認められず、一年間、寄宿舎南寮に入っている(同室者は井川を含め、十二人。しかし、龍之介は寄宿舎生活に馴染めず毎週土曜には自宅に帰っていた。三年時には寮を出た)。

「ふみつ、」読点はママ。ここは句点、或いは、踊り字「ゝ」であるべきところと思う。

「沙門悉達」「しやもんしつた(しゃもんしった)」梵語「シッダールタ」の漢音写「悉達多」の略。「目的を達した」の意)釈迦の出家以前従って厳密に言えば「沙門」(=僧)はおかしいの名。誕生した際に一切の吉祥瑞相を具えていたことから、この名がつけられたとされる。

「教」「をしへ(おしえ)」。

「志」「こころざし」。

「さうび」「薔薇(さうび)」。バラ。]

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