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カテゴリー「芥川龍之介」の637件の記事

2018/03/10

芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――

 

[やぶちゃん注:本資料は岩波新全集第二十三巻(一九九八年一月刊)で初めて翻刻されたもので、原資料(メモ四枚)は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」(一九九三年同館刊)の画像から起したもので、同全集では「ノート」パートに入れ、『「軍艦金剛航海記」ノート』という仮題がつけられてある。確かに内容から海軍機関学校の英語科教授嘱託であった折りの大正六(一九一七)年六月二十日(本文に従えば午後一時半前後)、当時の日本帝国海軍の誇る超弩級新鋭巡洋艦「金剛」(排水量二万六千三百三十トンで全長は二百十四メートル。イギリスに発注された最後の戦艦であった。大正二(一九一三)年八月十六日に竣工、回航は日本海軍の乗員によって行なわれたが、大艦であったためにスエズ運河を通れず、喜望峰回りで同年十一月五日に横須賀に到着している)に同校生徒の航海見学実習に付添として乗艦、横須賀を発して翌々日の六月二十二日の午後に山口県由宇(ゆう)に到着するまで、稀有の軍艦乗船体験をした。これは後、「軍艦金剛航海記」(「青空文庫」で正字正仮名の正統な形で全文が読める。以下リンクは同じ)として同年七月二十五日から二十九日までの『時事新報』に連載されることとなる。本メモはその時のことを記したものである。但し、後に記すように、別に手帳にも詳細なメモがあることから、これは或いは後日、時系列で記憶をメモランダしたものかも知れないし、或いは別に共時的に記した日記風のものなのかも知れないが、記載内容とその順序が一ヶ月後に発表された「軍艦金剛航海記」との構成一致が顕著であるから、新全集が仮題するように、「軍艦金剛航海記」を書くための構想メモの可能性が大ではある。

 しかも、その新全集の「後記」によれば、これら四枚とは別に、『他に艦の部所の名称を記した五枚もあ』る、とあるのである。私はそれが何故、ここで一緒に電子化されていないのか、大いに不審であり、不満である。ただの名前の羅列だから外したというのであれば、芥川龍之介の手帳類の個人住所も同等であり、寧ろ、個人情報保護の観点から見れば、それをだらだらと住所と名前まで活字化しているのは、遙かに問題の大きい翻刻であるとさえ言い得るからである。

 そうして底本が翻刻しなかった部署の羅列や艦内の図を想起して以下のメモと合わせて考えると、それはもう、私が既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で電子化注した芥川龍之介 手帳 1―15から芥川龍之介 手帳 1-18の内容を髣髴させるものと考えてよかろう(「1-16」等では、まさに以下に出てくる司令塔や砲塔の手書きの模式図・構造図も添えてある)。とすれば、本メモは私の完結したブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」に添えるに、これほど相応しいものはないと考えた。

 底本は無論、岩波新全集第二十三巻に基づいたが、今までの仕儀通り、漢字は概ね、正字化した。用紙の仕様が「後記」には書かれていないのでよく判らないが、罫線(或いは原稿用紙かも知れぬ。その場合は、四百字詰)の引かれたもので、欄外への書き込みが認められる。【欄外】としたものがそれである。用紙ごとに翻刻し、それぞれでオリジナルに注した。なお、本文内のアラビア数字は総て縦書正立(二桁は二桁そのままで)である。【2018年3月10日 藪野直史】]

 

 

□1枚目

【欄外】ブイ赤し 山靑し 空高し

 

午後一時三十分あまり ランチにて金剛に至る 途上 岩邊大佐を榛名におくる

金剛へつく途中 艦長のランチ(はるな)の爲に 舷梯につくをまてり ランチ大にゆる

上れば 右舷砲塔下に四五人の士官 副長と共にあり 白衣 日に光る 帽をとらんとしてとれず 副長の顏 趨雲に似たり[やぶちゃん注:上の「副長の顏 趨雲に似たり」の箇所は改行の可能性もあるが、私はそのようには判断しなかった。]

田中先任部長に導かれ ウアドルームに至る 飛行機を見 艦長をとひ 小憩後 艦内旅行をなす

14吋砲口に 人あるを見る 八田氏にあふ

 

【欄外】ウアドルームは白し 丸窓 バア臺に鏡 銀の花瓶 黑きゴム布をかけし卓 電氣扇 電燈(二つ(1)は 砲の發射の爲やぶると云ふ)

 

部屋定まる 中甲板の一室 机 寢臺 輪旋椅子 白き周圍に眞鍮の金具 赤毛布

機關少尉三人と共に語る 艦は二隻の小蒸氣によりて 方向を轉ぜんとしつつあり 出航準備のラツパなる 少尉一人來る 航海準備のラツパと共に直去る 颯爽たり ドラなる 夕食なり 鮭とさつま汁

 

【欄外】蝶(蛇の目蝶)とぶ さびし

 

[やぶちゃん注:「ランチ」launch。小型の蒸気船。汽艇。

「岩邊大佐」後に海軍中将となる岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)であろう。熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。明治二七(一八九四)年に海軍機関学校卒業後、機関士候補生として防護巡洋艦「高千穂」に乗組み、日清戦争に従軍する。装甲巡洋艦「八雲」回航委員となり、明治三七(一九〇四)年二月には戦艦「八島」分隊長として日露戦争に出征、翌年一月、海軍機関少監に進み、通報艦「八重山」機関長に転じた。明治三九(一九〇六)年、海軍機関少佐に進級、翌年、元小川町長岩辺知言の養子となった。本記載の二年後の大正八(一九一九)年六月(この年の二月に芥川龍之介は既に機関学校を退職している)、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月、横須賀鎮守府機関長に就任している。大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年、予備役。二年後に退役した。以上はウィキの「岩辺季貴」に拠った。本時制は、この下線太字の間となり、当時は大佐になっているわけで、既に当時の横須賀鎮守府の機関長の上層部の一人であったことが判る。この時は伴走した「榛名」に乗船臨検したものか

「榛名」「金剛」型戦艦の三番艦。排水量二万六千三百三十トン・全長二百十四メートル。太平洋戦争では、ガダルカナル島の戦い・レイテ沖海戦を経て、呉に帰港したが、昭和二〇(一九四五)年七月二十四日と二十八日の呉軍港空襲の爆撃によって、大破浸水し、着底してしまった。敗戦後の翌年、解体された。参照したウィキの「榛名(戦艦)」によれば、『榛名は』太平洋戦争『開戦時』で既に艦齢二十六年の『老朽艦で』あった『にも拘らず』、『最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことがなく「幸運の空母」とも賞される空母』「瑞鶴」『と対照的であるが、この』二『艦は駆逐艦』「雪風」『などとともに「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また』、『日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる』とある。この当時の「榛名」艦長は上田吉次大佐(?~昭和三八(一九六三)年:山形出身海軍兵学校を明治三一(一八九八)年第二十六期卒)である。

「艦長のランチ(はるな)の爲に」伴走する「榛名」艦長の上田吉次大佐の乗ったランチが「榛名」の舷梯に到着するのを洋上で待ったというのである。

「趨雲」(?~二二九年)後漢末から三国時代の蜀漢にかけての将軍で、劉備に仕えたことで知られる名雄。「三国志演義」で「五虎大将軍」(彼と関羽・張飛・馬超・黄忠)の一人として、『非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている』とウィキの「趙雲」にある。

「田中先任部長」不詳。「先任部長」は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる、兵学校同期生間での当該職への先任順位を指す(本来の海事用語の「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」は兵員が使用するハンモック(釣床)に記された番号を指す。例えば、兵員に割り当てられたそれに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊第十八班第四部員」であることを意味し、その番号によって艦内での戦闘配置などが自動的に決まった)。海軍ではその差がはっきりしており、同時に同階級に任ぜられて、しかも同じ軍艦等で勤務する同期生の間にあっても「先任」か「後任」の区別は厳然としてあり、軍令承行令による指揮系統の序列は勿論、式典での整列の際などでも、このハンモック・ナンバー(序列)の順に並んだ。以上はウィキの「ハンモックナンバー」に拠った。

「ウアドルーム」wardroom。軍艦内の士官室。

「艦長」当時の「金剛」艦長吉岡範策(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年:当時は大佐かと思われる)。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌高等学校を経て、明治二四(一八九一)年に海軍兵学校第十八期として卒業、海軍少尉となった。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。防護巡洋艦「橋立」艦長から、装甲巡洋艦「浅間」艦長に補せられ、まさにその日に始まった第一次世界大戦に於いて、ドイツ艦隊の捜索や南洋群島の占領作戦に従事、大正四(一九一五)年、巡洋戦艦「筑波」艦長、本巡洋戦艦「金剛」の艦長を経て、大正六年、海軍少将に昇進して教育本部第二部長となった。その後、第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長を歴任、大正十年に海軍中将・海軍砲術学校長となり、大正十三年、五十五歳で予備役となった。「砲術の神様」と称された。以上はウィキの「吉岡範策」に拠った。

14吋砲口」三十五・五六センチメートルであるから、「金剛」が四基装備していた四十五口径三十五・五センチ連装砲のこと。他に五十口径十五・二センチ単装砲が十六基、五十三センチメートル魚雷の発射管が八門、装備されていた。ここはウィキの「金剛(戦艦)」に拠る。砲塔内の掃除をしていた兵が砲塔から頭を出していたのであろう。

「八田氏」「軍艦金剛航海記」の「一」と「三」に「八田機關長」という名が出る。

「夕食」海軍の夕食は早い。午後四時半には食べる

「蛇の目蝶」「じやのめてふ」。鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ジャノメチョウ亜科ジャノメチョウ属 Minois に属するジャノメチョウ、或いは、狭義の和名ジャノメチョウ Minois dryas。翅は表裏ともに一様に茶褐色で、前翅に二つ、後翅に一つの眼状紋を有するが、他のジャノメチョウ亜科亜科 Satyrinaeに多く見られる金色の輪郭がないために、あまり目立たない。「軍艦金剛航海記」では登場しない代わりに、エンデイング(「五」)に『やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黃いろい褄黑蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである』と出る。『褄黑蝶』とは狭義には鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン属ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius であるが、本土では現認されることは非常に珍しい。芥川龍之介がジャノメチョウをかく呼んだのかも知れる。「蛇の目蝶」では如何にも暗い。或いは、龍之介の小説としての俳諧的諧謔季節表示の手法であったのかも知れぬ。しかし、いいコーダではある。]

 

 

□2枚目

前部艦橋に至る speed mark, revolution mark 等の説明をきく(あみ笠狀のもの) 黑の洋傘の連なるもの二つあるは標的をひける所なりと云ふ 一兵あり サウンディングプラットフォームにて 測鉛をふる 古のくさり鎌つかひの如し 十五 十七とさけぶ 尋の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

司令塔 海圖室 無線電信室等を見 艦尾に至る 艦の行く 飛ぶが如きを知る

ウァードルームにかへり 少時にして又 八田機關長と共に前部艦橋に至る 航海長以下 皆海圖を檢して 針路を定めつつあり 天水共に蒼茫 一點 觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ 風涼し

[やぶちゃん注:「艦橋」「かんけう(かんきょう)」は軍艦中央部の高い構築物で、展望が利き、将校が常駐して艦の指揮を執る中枢。所謂、「ブリッジ」である。

speed mark」速力標。マストのヤード(左右に張り出した支柱)から下がっている信号旗を掲げるためのロープの内、マストから見て一番外側にある赤い網状のもの出来た速力標。編隊航行中や洋上給油に於いて、相手に自艦の速力を知らせたり、諸条件下での所定のスクリュー回転数の増減を知らせるための「赤黒マーク」と言われる信号旗。Old Sailor 氏のブログ「Old Sailors never die; they just」の「護衛艦マストの両端に掲げられる速力標と赤黒マークの意味」を参考にさせて戴いた。

revolution mark」不詳。当初、戦闘態勢にあることを示す戦旗標かと思ったが、英語でこのようには言わない。寧ろ、芥川龍之介が直後に『(あみ笠狀のもの)』と言っているのは、前の速力標のことであるから、ここはスクリューの「回転数・旋回のレベル・回転運動・運動周期」のことを言っているのではないかと推理した。

「サウンディングプラットフォーム」sounding platform。測深台(そくしんだい)。主に対象との距離の測定(測程)と水深の測定(測深)に用いるためのもので、古い艦船では上甲板艦尾に突き出すした板状の台であったらしい。個人ブログ「軍艦三笠 考証の記録」の「測深台:Sounding platformを参照されたい。写真有り。但し、ここは艦橋からの眺めなので、測深台は少なくとも船尾ではない。スクリューへの巻きこみの虞れを考えるなら、艦首附近か。

「測鉛」繩の先に錘(おもり)の紡錘型の鉛を附けた測深索条。「古」(いにしへ(いにしえ))の武具である「鎖鎌(くさりがま)使い」のそれのように扱う、という表現が戯作好みの芥川龍之介らしくて楽しい。

「尋」水深の一尋(ひろ)は六尺で、百八十一・六メートル。

の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

「ウァードルーム」前の「ウアドルーム」wardroomのこと。士官室。

「天水」大空と海原。

「蒼茫」見渡す限り、青々として広いさま。

「觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ」大正六(一九一七)年六月二十日当日の神奈川県横浜日没は午後六時五十九分。ここは浦賀水道を抜けて、三浦岬の沖を相模湾に入った辺りである。]

 

□3枚目[やぶちゃん注:「※」の箇所に最初に掲げた手書き図が入る。「□□」は原資料自体の二字分の芥川龍之介自身による欠字。メモであり、内容的に伏字にする必要のあるものとも思かれないから、本メモが後になってから纏めて記されたとすれば、ただ姓を忘れただけかも知れぬ。]

Hammock

かへりて ハムモックの※の如くつれる下をくぐり くぐり 機關長室に至り 雜談す 黃笠の電氣 妻子の寫眞 造花の菊 日蓮上人 法華經等あり 籐倚子及輪轉倚子 丸窓は蓋ありと思ふ程くらし 手を出して 外の空しきを知る

バスに入りて(齋藤君の褌)後 夜食す

 

【欄外】さうめん 酒 ビール

 

醉ひて面白し いつまでもねると云ふ好男兒は 航空隊の□□大尉なり 十二時近く 就寢す

廿一日

砲塔

 

【欄外】下部發令所 彈庫 火藥庫

 

水電室

無線電信室

主機關部

汽罐部 ミルトン

夕方 軍歌をうたふ(勇敢なる水兵) ケープス

[やぶちゃん注:「ハムモック」hammock。ハンモック(麻布製の吊り床)のこと。

「外の空しきを知る」余りに暗黒なので、外にカバーする別な遮蔽蓋があると思って手を突き出して調べてみたが、空しく外気に触れたばかりであった、というのである。

「齋藤君」不詳。付添に同行した海軍機関学校の同僚であろう。

「夜食す」士官室で出た夜食。「軍艦金剛航海記」の「四」の後半の段落に出る。

「さうめん」「素麺(そうめん)」。

「下部發令所」私の「芥川龍之介手帳 1―16」の図を参照されたい。

水電室」不詳。当時、イオン交換法によって有意な電力供給が行われたとは思われない。これは「水雷室」(魚雷室)の誤りではなかろうか?

「ミルトン」不詳。

「軍歌をうたふ」ここは
「軍艦金剛航海記」の「四」の終りのシークエンスに完全に生かされている。

「勇敢なる水兵」日清戦争の逸話に基づく軍歌。佐佐木信綱作詞・奥好義(よしいさ)作曲。明治二八(一八九五)年発表。ウィキの「勇敢なる水兵」によれば、明治二七(一八九四)年九月十七日、『日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、この「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである』。『日本艦隊の旗艦「松島」は清国艦隊の戦艦「鎮遠」の巨弾により大きな被害を受けたが、その激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の向山慎吉少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ね、敵戦艦の「定遠』(ていえん)『」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ』。『この逸話は新聞で報道されるや』、『国民的な感動を呼び起こし』、『佐佐木信綱も感動して』全十『節からなるこの詞を一夜で作り上げたという。この曲は翌』『年の「大捷軍歌」(第三編)に発表された』(後、昭和四(一九二九)年に全八節に改詞されている)とある。You Tube こちらでダーク・ダックスの歌で聴ける。そこには歌詞(全八節版)も載る。

「ケープス」4枚目に続いている語で「ケープスタン」。後注する。

 

 

□4枚目

タンの上にて甲板士官 軍艦旗 落日光

夜 機關長の話

廿二日

朝 主計長の話 干物倉庫及俵倉庫に入る 十呎あまり?

 

【欄外】檣樓へ上る 室戸崎

 

軍醫部 治療室 病室及隔離室 戰時治療所

午 ひるね 句をつくる 柔道 相撲 機關長の氣合 i)腰 ii)喉 iii)背 iv)金丸

探照燈の光(本艦) 標的をてらす

ガンルーム 大導寺中尉

 

【欄外】寫眞 佐多崎 波石崎

[やぶちゃん注:「ケープスタン」capstan。キャプスタン。船舶に於いて碇(いかり)の鎖やロープを巻き上げるための、水平に回転するキノコ型の装置。車地(しゃち)・絞盤などとも呼ぶ。

「十呎」十フィート。約三メートル。四方ということであろう。そこにぎっしりと干物と米俵が詰まっているのである。

「檣樓」艦船のマストの上部にある物見台。「軍艦金剛航海記」の「五」でも、この快挙を語っている。芥川龍之介は木登りが特異で、泳ぎも達者であった。

「金丸」金玉のことか。「氣合」いの名の下に行われた、「精神棒」的な軍隊内の「シゴキ」が窺われる。「精神棒」とは日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい。私の梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(4)を参照されたい。

「ガンルーム」gunroom。元来は大邸宅の狩猟用銃器室を指すが、海軍では、軍艦の下級将校室、士官次室を指す。

「大導寺中尉」不詳。私ならずとも、後の大正一四(一九二五)年一月に『中央公論』にて発表された自伝的小説「大導寺信輔の半生」を思い出されるかも知れぬ。或いはその名の秘かなモデルなのかも、知れない。

「佐多崎」不詳。表記誤認が疑われる。

「波石崎」不詳。同前。]
 

芥川龍之介 保吉の手帳(「保吉の手帳から」初出形+草稿) 増補校訂

十一年前に作成した、芥川龍之介の「保吉の手帳」(「保吉の手帳から」初出形+草稿)を増補校訂した。

2018/01/21

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

『芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種』を、芥川龍之介『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加した。

まあ、ここにも載せとくか。

   *

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

 

[やぶちゃん注:底本は岩波の新しい「芥川龍之介全集」第二十一巻(一九九七年刊)に『「松江印象記」草稿』として載るものを使用したが、私のポリシーに則り、漢字を概ね正字化して示した。標題も仮題でしかないので、以上のように変更した。私は現在の「松江印象記」はやめて、この両草稿に出る「行人抄」にすべきであろうという気さえしている

 私が【草稿(1)】としたものは、底本で『Ⅰ―a』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙二枚半相当のもので、同『後記』では、次の『1―b』に先行して書かれたものと推定されてある。

 私が【草稿(2)】としたものは、底本で『Ⅰ―b』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙一枚相当のものであるが、原稿用紙の『下部三字を空けて』、『一行』当たり、十七『字の形で用いて』いるとある。同『後記』では、井川恭の「翡翠記」が掲載された『松江新報』『への提出原稿に極めて近いものと考えられる。但し』、『現行本文』(これは新全集の編者がどう考えて『現行本文』と謂ったものか知らぬが、厳密には、新旧の岩波全集の妖しげな「松江印象記」(仮題)ではなく、翡翠記十四」の芥川龍之介の「日記より」を指すと、当然、考えるべきものである)『ではこの書き出しの部分は削られている』とある。

 なお、「不可思儀」の「儀」はママ。「餘りに遲鈍である」の部分は底本の行末にあり、「しかし」と直に繋がるのはおかしいので(そうなっているが、これは改行と誤解されるのを防ぐために底本編者が行った仕儀と私は採った)、恣意的に一字空けを施した。【2018年1月21日:井川著「翡翠記」ブログ完全電子化完遂を記念して追加 藪野直史】]

 

【草稿(1)】

 日本に生まれて 日本に育つた自分たちが屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記からさへも)從來自分たちの眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新しい「日本の不可思儀」に就いて 教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究が ゴンクールに依つて始められ 北齋の批評がフェノロサを待つて開かれたのも 偶 此事實の一端を洩らしてゐるものに過ぎない 自分たちが 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも その郷土に對して 屢 盲目の譏を免れないのは 不二山と椿の花と煎茶の煙とを 新しい刺戟として受入れるべく 餘りに長く 「紙と竹との家」の中に居住してゐるからである――自分の 行人抄を書くのが 必しも かう云ふ新しい不可思儀を示す爲であるとは云はない いや さう云ふ目的に役立つには 自分の感受性は 餘りに遲鈍である しかし 習慣を離れ 傳説を忘れて 周圍をあるがまゝに觀じ得る點で(たとへ それが自分の個性によつて色づけられてゐるにもせよ)或は寛大な士人の讀書慾を充す爲に幾分の意味があるかも知れない――行人抄は かう云ふ己惚れの中に胚胎した 一旅客の平凡な松江遊記である

 自分が松江へ來て 始めて見たものは 千鳥城の天主閣であつた 夏とは云ひながら 雨あがりの しめやかな日の午前である 内中原の路上に立つて 菱や蘭の茂つた靜な水の上に高い天主閣の白壁を仰いだ時には 蘆の茂みに鳴くかいつぶりの聲と共に 久しく忘れられた封建時代の記憶が あらゆるエキゾティックな思想の上に 漢詩と俳句とによつて陶冶された 愛すべき「寂(さ)び」をかけて 心さへ 遙な鬼瓦の影に暗くされたかと疑はれた 遠い櫓の下に掛けたつばくらの巢は見るよしもないが 一つ一つの石 山 つ一つの狹間は 昔ながらに 物寂びた城下の町々を見下して 白壁の一角にさした 微な日の光にも 云ふ可らざる追慕の情が喚び起される 自分は棕櫚と無花果とに圍まれた 小さな家つゞきの町を あのさびしい稻荷橋へ出るまで何度 足を止めて 所々にほのかな靑い色を浮かせた灰汁のやうな八月の空の下に この懷しい城樓の姿を眺めたかわからない

 天主閣は その名の示す如く 天主教の渡來と共に はるばる 南蠻から輸入された築城術が日本の戰術に新な變化を與ふ可く 齎し來た建築である……

 

   *

 

【草稿(2)】

       行人抄

 

 日本に生まれて日本に育つた自分達が 反て屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記によつてさへ)從來自分達の眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新なる「日本の不可思儀」を教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究がゴンクウルに依て始められ 北齋の批評がフェノロサを俟て開かれたのも 偶此事實の一端を洩してゐるものと云はなければならない 自分達が 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも屢 其郷土に對して盲目の譏を免れないのは 一つは確に 自分達が 不二山と椿の花と煎茶の匂とを 新なる刺戟として受入れる可く 餘りに長く「紙と竹との家」の中に居住してゐる

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十六」~「翡翠記」全電子化注完遂

 

    二十六

 

 雨がふりしきるので僕たちは一の床まで下りてそこの亭(ちん)の竹椽のうえにあがって行厨(べんとう)をひらいた。雨をしぶく山かぜが襦袢一枚の身に沁みて寒さが肌へ透る。

「斯う成ると常福寺入道の汗くさい襦袢もありがたいわ」と弟が首を縮(すく)めて笑った。

「寒いなあ。これでも幾らか足りに成るだろう」と言いながら僕が行厨を包んで来た風呂敷を頸から肩に巻き付けると、龍之介君それに倣(なら)うた。

 風に吹かれて白い雲はちぎれちぎれに飛んでいた。大きい水盤に一杯に張った水の面を誰かが戯れに息を吹き吹き曇らしているように湖水のうえは晴れたりくもったりした。ある時は雲の群れが山や谷間を躍り越えおどり越えて迫って来ては、すっかり山を包んでしまった。

「あの黒い杜(もり)が天倫寺の山、左りに続くのが荒隈(あらわい)の松原、それから手前にぽっちり見えるのは此間行った摩利支天(まりしてん)の丘だよ。あの辺から毛利の軍勢が繰り出して、田の畔(くろ)や藪のかげをとおって攻め寄せたんだね」

「こゝから好く見えたろうな。併しまったく景勝の地だね。天主閣から見下すのから見ると、この眺めは大分大規模だね」

「だが寒いね。いやにさむいね」と寒がらずには居れなんだ。

 スケッチなんかやっている内に雨が止み間になったので三人はびちゃびちゃぬれた草履(ぞうり)をふみながら山を下りはじめた。雨の雫を一杯に宿した草の葉末が脛(すね)にあたって痒くてたまらない。

 雲を洩れて来るうすい日の光はほそぼそと伸び繁る艸の穂先にほのかに光って、黙って山を下りて行くものの心にさびしい懐古の情をみなぎらせた。折々左手(ゆんで)の山の背の灌木の茂みのあいだから黄鶯(うぐいす)の声が湧いて静かな谷間に流れた。忘れられた人が忘れた人にむかしの恋をうったえる歌のひびきがその声のうちに籠っていた。

 弟は眼に触れる草花を折り折り山を下った。萩や桔梗や女郎花(おみなえし)やくずの花やがその手にあまるほど摘まれたころには僕たちは既にとおく麓に下りていた。常福寺に帰ると和尚さんは松江に出て留守であった。三人は本堂の広稼に裸のまゝ涼んだ。僕たちの為にわざわざ御飯を炊いて昼飯の用意がしてあったけれど、もう弁当をたべたあとなので、それならと言って梵妻(ぼんさい)さんは素麺(そうめん)の御馳走を出した。僕たちはお腹(なか)が太いので弟が代って三人分のそうめんをぞろりと呑んだ。給仕に出た女がすゝめる好意を無にしかねて龍之介君はしよう事なしに皿の南瓜(とうなす)や油揚げをたべた。

「どげだい寺は精進料理で不味(まみ)ないだけんお口に合いませんわね。そんなら此漬物なりとあがってごしなはいませ。旦那はんやつが漬物はお寺の羊羹(ようかん)だててみんな賞翫(しょうかん)しなはいますけん」とすゝめて置いてその女は土瓶を持ってお湯を注しに行った。

「なる程お寺の羊羹は美味(うまい)ぜ」と僕は年を経たらしい瓜の奈良漬の味をほめた。

「お寺の羊羹か。はゝゝゝ」とわらいながら弟は片っ端から奈良つけや沢庵をたいらげはじめた。

「南瓜(とうなす)はおてらの饅頭で油揚はお寺のカステラなんだろう」とわらって来たので誰れもおかしいのを堪えて顔を見合わせた。雨はあがって涼しい風が本堂のなかに通っていた。三人の巴陀迦尊者(はだかそんじゃ)は各自(めいめい)思い思いの行動を取りはじめた。龍之介君は仏像や仏画をスケッチして入念な顔に仕立て上げた。弟は下手な鯱鋒(しゃちほこ)立ちのけい古をはじめた。僕は睡眠不足の頭を広椽の茣蓙(ござ)のうえにころがしてすずしい午睡を貪ろうとこゝろみたが、仏縁拙なくして夢は香はしい果(み)をつかれた頭脳のなかに結ばなかった。

 四時すぎる頃三人は山門を出てぶらりぶらり帰り途をたどり始めた。粟の毬(いが)がたく山枝から覗いている山際に沿うて魚(はえ)の群れのはしり泳ぐ小川の岸を径はうねっている。その小川の浅い流れの底をのぞいては魚を捕ってやろうかなと何辺もつぶやきながら歩んだ。

 

     附  記

 朝の湖水(みずうみ)のあなたの山際に一とすじのほそい煙が白く立ちのぼるのを俥の上からながめながら、大橋を渡った僕は今停車場の一隅(いちぐう)に上りの汽車の来るのを待っている。僕の滞松の時間もあと廿分と迫った。従ってこの翡翠記も篇を終ることにする。

 

[やぶちゃん注:「天倫寺」既出既注

「荒隈(あらわい)の松原」松江市国屋町にあった荒隈城(あらわいじょう)跡。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「荒隈城」によれば、『宍道湖に突き出す丘陵端に位置し、現在丘陵の東西は佐田・松江方面共に陸地となっているが、当時は佐田水海と湿地帯が拡がっており、天然の要害をなしていた』。『白鹿城攻めに先立ち』、『毛利元就により築城されたが、宍道湖に面し』、『水運の利もあることから、白鹿城の落城後も尼子氏が降るまで出雲侵攻の拠点として機能した』。『関ヶ原の戦いの後、出雲に封じられた堀尾氏が再取立てを検討したが、石高に比して城域が広大との忠氏の意見を入れて』、『亀田山を選地し、以後』、『城郭として使用されることはなかった』とある。

「摩利支天(まりしてん)の丘」底本の後注に、『松江城下北西部の平地にある小高い山。頂上に摩利支天神社がある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「魚(はえ)」鮠(はや)のこと。オイカワ・カワムツ・アブラハヤ・ウグイ・タモロコ・モツゴなどの条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae に属する川魚の中で、細長くて流線形をした動きの素早い小魚の総称。

「滞松」「たいまつ」。松江滞在(里帰り)の意。

   *

 以上を以って井川恭の「翡翠記」の全篇が終わっている。なお、底本編者の寺本善徳氏の論文(一九九〇年刊「島根女子短期大学紀要」所載。冒頭には『資料紹介』となっているが、底本の最後の附された本「翡翠記」の追跡と考察の解説と、ほぼ同じコンセプトの内容)井川恭翡翠記と芥川龍之介「松江印象記」がPDFで閲覧出来るので是非、参照されたい。

 最後に、芥川龍之介がこの旅の間と後に友人に送った旅関連の三通、旅から帰った後に井川に送った旅の御礼及びその後の旅絡みの感懐や奇体な夢などを認(したた)めた五通の書簡を電子化して、終りとしたい。頭の数字は岩波旧全集書簡番号。注は原則、附さないが(表記注記等は別)、不審な部分や私が判らなかった箇所には特異的に書き入れた。

 まず、前者。

   *   *   *

一七二

(八月十四日附・松江発信・友人藤岡藏六(一高以来の友人で後に哲学者となった)宛・自筆絵葉書)

松江へ來てからもう十日になる大抵井川君とだべつてくらしてゐる湖水や海で泳いだりもした本は殆よまない少し胃病でよわつてゐる松江は川の多い靜な町である町はづれのハアン先生の家もさびしい井川君のうちは濠の岸にある濠には蘭や蒲が茂つでゐる中で時々かいつぶりが鳴く丁度小さな鳴子をならすやうな聲だ廿日頃に東京へかへる 匆々

    十四日牛後   芥川生

   *

一七三

(八月二十日(松江出立の前日)・松江発信・浅野三千三宛(府立三中時代の後輩で後に薬学者となった)・絵葉書)

出雲は楯縫秋鹿(アイカ)十六(ウブ)類など云ふ地名から中海にあるそりこ舟まで何となく神代めいてゐますこの大社も社殿の建築が上代の住宅の形式と一つになつてゐるので一層古事記めいた興味を感じます杵築は靑垣山をうしろに靜な海にのぞんだ神さびた所です[やぶちゃん注:「アイカ」のルビは「秋鹿」の二字に、「ウブ」は「十六」に対して附されてあると読んだ。「楯縫」(たでぬひ(たでぬい))と「秋鹿」(あいか)は明治二九(一八九六)年四月一日 の郡制の施行まで存在した旧郡名であるが、「十六(ウブ)類」は「十六島」の誤伝か誤記憶か、或いは芥川龍之介に教えた誰かが、或いは、芥川龍之介自身が勝手に「るい」という音に「類」の字を当てたものかも知れぬ。「十六島」は「うっぷるい」(現代仮名遣)と読み(所詮、当て字であろうが)、島根県出雲市の地名(現在の島根県出雲市十六島町。ここ(グーグル・マップ・データ))である。]

   *

一七五

(八月二十四日(松江から帰京した二日後・田端発信・石田幹之助宛・葉書)

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)

   ○○○○○○○

   冷巷人稀暮月明

   ○○○○○○○

   秋風蕭索滿空城

   ○○○○○○○

   關山唯有寒砧急

   ○○○○○○○

   搗破思郷萬里情

關山は一寸洒落れてみただけ天主閤も町も松江は大へんさびしい大概うちにゐますびまだつたらいらつしやい[やぶちゃん注:ここに出した漢詩は、後に示す、先行する井川書簡に、結句の頭を「擣」、「萬」を「万」とした初稿で出、そちらで訓読しておいた。]

   *   *   *

 次に井川恭宛。

一七四

(八月二十三日(帰京翌日。こういうところは芥川龍之介は非常に義理堅く礼節に則る人間である)・封筒を欠く)

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがびない かんにんしてくれ給へ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつたそれから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏[やぶちゃん注:不詳。松江発の際、たまたま同道になった井川の知人か。]が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵の人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

    波根村路

  倦馬貧村路

  冷煙七八家

  伶俜孤客意

  愁見木綿花

    眞山覽古

  山北山更寂

  山南水空𢌞

  寥々殘礎散

  細雨灑寒梅

    松江秋夕

  冷巷人稀暮月明

  秋風蕭索滿空城

  關山唯有寒砧急

  擣破思郷万里情

    蓮

  愁心盡日細々雨

  橋北橋南楊柳多

  櫂女不知行客淚

  哀吟一曲采蓮歌

[やぶちゃん注:前の二篇は既に注で紹介し、そこで訓読したから、ここでは後の二篇を訓読しておく(訓読には一部、筑摩書房全集類聚版のルビを参考にはしたが、必ずしも従ってはいない)。

 

  松江秋夕(しうせき)

冷巷(れいかう) 人 稀れに 暮月(ぼげつ) 明らかなり

秋風(しうふう) 蕭索 空城(くうじやう)に滿つ

關山(くわんざん) 唯だ有り 寒砧(かんこ)の急(きふ)なる

擣破(たうは) 思郷(しきやう) 万里の情

 

  蓮(はす)

愁心(しうしん) 日を盡くす 細々雨(さいさいう)

橋北(けうほく) 橋南 楊柳(やうりう)多し

櫂女(たうぢよ) 知らず 行客(かうかく)の淚(なみだ)

哀吟(あいぎん) 一曲 采蓮(さいれん)の歌(うた)

 

「櫂女」は小舟を漕ぎ行く女の意。]

 

君にもらつた葡萄がいくら食つても食びつくせなくつて弱つた 最後の一房を龜岡[やぶちゃん注:京都府亀岡市。京都駅の西方約十八キロメートル。]でくつた時には妙にうれしかつた 桃は横濱迄あつた 施行案内のすみへ

  葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画[やぶちゃん注:ママ。]の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた[やぶちゃん注:「北垣靜處」筑摩類聚版脚注は不詳とするが、調べてみたところ、松尾敦子氏の論文「画家、豊嶋停雲について」(『美術京都第四十六号(二〇一五年三月刊)所収。PDFで閲覧及びダウン・ロード可能)で判明した。彼は京都の日本画家である。同論文によれば、『北垣は、京都の絵画振興を標榜し、自らを含む青年画家二十名を集め』、明治三五(一九〇二)年一月に「鴨緑茶話会」という画家団体を結成している『北垣は、京都府知事、北海道長官などを歴任した男爵北垣国道の子息で』あるとある(下線やぶちゃん)。この父親はかなりの著名人で、琵琶湖疏水を作ったのも彼である。ウィキの「北垣国道」を参照されたい。]

一しよにのんだぺパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である一しょに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその青年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間際に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである[やぶちゃん注:「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:芥川龍之介より一つ年下)の誤り。岐阜県出身のピアニスト。東京音楽学校器楽科大正四(一九一五)年卒であるから、まさに芥川龍之介が逢ったのは卒業した直後である。大正一四(一九一四)年にドイツに留学し、レオニード・クロイツァーに師事し、帰国後は母校で教えた。昭和二五(一九五〇)年、北海道大学教授となり、その後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他に、国内音楽コンクール、ウィーン国際音楽コンクール及びワルシャワ国際音楽コンクールの各審査員をも務めた。また、現在の皇后美智子にもピアノを教えている。著書に「ピアノの弾き方」「ショパン名曲奏法」がある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。因みに、ここで「一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いた」とする「シヨルツ」というのは恐らく高宮の師であったパウル・ショルツ(一八九九年~一九四四年:大正二(一九一三)年から大正一一(一九二二)年まで東京音楽学校ピアノ教官)のことと思われる(ショルツの件は個人ブログ「calafMusic Life」のこちらの記載に拠った)。]

僕はこの二人の妙な人に偶然逢つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた[やぶちゃん注:「アミエル」はスイスの哲学者で詩人・批評家アンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の日記「アミエルの日記」(Tagebuch(ドイツ語(「ターゲブーフ(ホ)」)で「日記」の意。死後刊行されたもので、一八三九年から一八八一年まで四十二年に亙って記された、一万七千ページにも及ぶものである。私は学生時代に一部を読んで討死にした)。依頼していた本のそれが届いていたということ。]

皆様によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ[やぶちゃん注:「完ちやん」不詳。筑摩全集類聚版脚注で『恒藤』(井川)』『の弟か』とするのにかなり賛同する。「もう一つの手紙」は現存しない模様。]

    廿三日夜九時

   井川恭樣

   *

一七六

(八月三十一日(年は旧全集編者による推定)・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戸をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に焼けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十鏡だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の眉の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた塀があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を抜き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口ヘ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 来るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 従つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

 

   粽解いて道光和尚に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉   芥川龍之介

  井川恭樣

一七八

(九月十九日・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が三字下げである。]

 

  詩四篇

 井川君に獻ず

 

   Ⅰ 受胎

いつ受胎したか

それはしらない

たゞ知つてゐるのは

夜と風の音と

さうしてランプの火と――

熱をやんだやうになつて

ふるへながら寐床の上で

ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり

夜明けのうすい光が

窓かけのかげからしのびこんで

淚にぬれた私の顏をのぞく時には

部屋の中に私はたゞ獨り

いつも石のやうにだまつてゐた

さう云ふ夜がつゞいて

いつか胎兒のうごくのが

私にわかるやうになつてくると

時々私をさいなむ

胎盤の痛みが

日ごとに強くなつて來た

あゝ神樣

私は手をあはせて

唯かう云ふ

 

   Ⅱ 陣痛

海の潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛に

私はくるしみながら

くりかへす

「さはぐな 小供たちよ」

早く日の光をみやうと思つて

力のつゞくだけもがく小供たちを

かはゆくは思ふけれど

私だつてかたわの子はうみたくない

まして流産はしたくない

うむのなら

これこそ自分の子だと

兩手で高くさしあげて

世界にみせるやうな

子がうみたい

けれども潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛は

何の容赦もなく

私の心をさかうとする

私は息もたえだえに

たゞくり返す

「さはぐな 小供たちよ」

 

   Ⅲ めぐりあひ

何年かたつて

私は私の子の一人に

ふと町であつた事がある

みすぼらしい着物をきて

橦木杖をついた

貧弱なこの靑年が

私の子だとは思はなかつた

しかしその靑年は

挨拶する

「おとうさまお早うございます」

私は不愛相に

一寸帽子をとつて

すぐにその靑年に背をそむけた

日の光も朝の空氣も

すべて私を嘲つてゐるやうな

不愉快な氣がしたから

 

   Ⅳ 希望

こんどこそよい子をうまうと

牝鷄のやうに私は胸をそらせて

部屋の中をあるきまはる

今迄生んだ子のみにくさも忘れて

 

こんどこそよい子を生まうと

自分の未來を祝福して

私は部屋のすみに立止まる

ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で

          一九一五 九月十九日

                  龍之介

一七九

(九月二十一日・「京都市吉田町京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君」宛・消印九月二十二日・書簡クレジット九月二十一日夜・田端発信)

あれ以來每日平凡にくらしてゐる 學校は今季年から火木金土の午前だけしか出ない だから大分ひまだ 論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない 尤も氣になつても何かしてゐるが

トーデの本でミケルアンジエロのシスチナのチャペルの畫をみて感心した 感心したでは足りない 頭から足の先までふるひ動かされたとでも云つたらいゝかもしれない あゝ行かなくつちやあ噓だと思つた 何しろ今の所画[やぶちゃん注:ママ。]ではミケロアンジエロほど僕の心を動かす人はない あればたつた一人レムブランド[やぶちゃん注:ママ。]だ レンブランドは二度目のおかみさんの肖像の Colour reproduction [やぶちゃん注:原色複製画。]を手に入れてよかつた レムブランドが落魄した時に自畫像なんかたつた三ぺンスでうつたさうだ 今はどんな複製でも三ペンスよりは高い 次いではゴヤだ ゴヤはドンナイサベラと云ふのに感心した かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる[やぶちゃん注:「トーデ」ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七 年~一九二〇年)はドイツのルネッサンス期を研究した美術史家。芥川龍之介が読んだ当該書は不詳。]

櫻の葉が綠の中に点々[やぶちゃん注:「点」はママ。]と鮮な黃を點じたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黃色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がしたので一層いやに心細くなつた ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした

新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた[やぶちゃん注:井川が『松江新報』に載せた自分の「翡翠記」を送ったのである。芥川龍之介が感心しているのは「十六」。]

定福寺の詩は未に出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた[やぶちゃん注:「竹枝詞」(りくしし)は漢詩の一体で(楚で北方異民族の蛮俗を詠んだものを起源とすると言われる)、その土地の風俗や人情を詠じたものを指す。]

   黃河曲裡暮姻迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版のルビを参考に、訓読しておく。

 

黃河 曲裡(きよくり) 暮姻(ぼえん)迷ふ

白馬 津邊(しんぺん) 夜月(やげつ)低し

一夜 春風(しゆんぷう) 客を吹きて恨む

愁聽(しうちやう) 水上(すゐじやう) 子規(しき)の啼くを

 

無論、「子規」はホトトギスのことである。]

あまりうまくない

矢代幸雄氏は美術學校の講師になつた 西洋給畫史と彫刻史の講義をやるのだから盛である そこで彫刻の本をさがしに美術學校の國書館へはいつたらたつた一册うすい本があつた しかもそれが Famous Tales of Italian Sculptors 云ふのだからふるつてゐると思ふ 尤も美術學校の先生中でABCがよめる人は矢代氏獨りなのださうだ すべての方面で隨分いろんな事がいゝ加減に行つてゐるらしい いつまでそれですんでゆくわけもなからうからその内にどうとかなるのだらうが それにしても大分呆れ返る

   わが指の爪のほそさに立つ秋のあはれはいとゞしみまさりけむ

   秋風はふきぬべからし三越の窓ことごとく白く光れる

   ふき上げの水もつめたくおつるおつる橡(マロニエ)の實のわらけちるあはれ(これは大分窮した)

   橡(マロニエ)の黃なる木ぬれにゆきかよふ風をかなしときゝつゝ行くも(同上)

どうも今日は歌をつくるやうな氣分になつてゐなさうだからやめる又かく

    廿日夜            龍

   恭君

   *   *   *

 最後に、近日中に、新全集に載る芥川龍之介の「松江印象記」(後世の仮題)の草稿を私の『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加で電子化する予定でいることを添えて、終りとする。]

2018/01/20

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十五」

 

    二十五

 

 急勾配に逆落(さかおと)しに成っている谷を瞰下(みおろ)しながら山の脊梁を伝うて城跡(しろあと)の二の床あたりまで登り着いたころわびしい山の雨がかすかな雫を仰のうえに落しはじめた。

 一の床には常福寺の和尚さんがこの春かに建てた小亭があるので、僕たちはその雅趣に富んだ小建築の茅屋根の下に雨を凌ぐことが出来た。携帯して来た弁当の包だのサイダアの瓶だのをそこへ置いたまゝ更に本丸の跡にのぼって、矢張そこにも建てて小亭の下に立って四方(よも)に眼を走らせた。

 眼の届くかぎりの天は雲に充(みち)みちて漂うていた。併しその雲はのべつにちっている一つの塊りでは無くて、広いひろい空のそれぞれの部分にさまざまの働きをいとなんでいる雲の個体の群れであった。彼れ等の中の或る者は日本海の涯に近(ひく)く垂れて沖をもの凄く暗ませていた。他の或る者は湖の南の山々の肩を掠めて瓢々と飛んで行き、又ある者は松江の市街と脚下の山とのあいだを低徊して僕たちの眼から町や城山やを隠そうとこゝろみていた。雲の群れと雲の群れとの間にいくらかの隙目(すきめ)が出来ると日の光は耀やかしくそゝぎ落ちて、それを浴びた山の傾斜が他のけしきの暗い中に一際目立って明るく鮮かな草木の緑りを匂わせた。

 巾三四間[やぶちゃん注:五・五~七・二七メートル。]、長さ廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]にも満たないと思われる山の頂の一角に「山中鹿之助銅像建設地」と書いた木杭(もくひょう)が立っている。これは常宿寺の和尚さんの発企(ほっき)でこの山のうえに建てらるる銅像の敷地らしい。

 僕は龍之介君と語り合った。好い加減な銅像なんか建てる事は止して寧ろいろいろの旧記や遺物を考証した上、その昔の城廓の形を模した建築をこの頂にこさえたらどんなものだろう?今日帝都其他の地に存在している銅像の多くは、現代並びに後世の識者の苦笑を永(とこし)えに買うために存在をつゞけている観がある。優秀な意匠と卓抜な技能との結合から生まれなかった劣悪の製作品は、白痴威(こけおど)しの銅像に過ぎない。

 殊に戦国時代だの封建時代だのの風尚(ふうしょう)[やぶちゃん注:人々の好み。その時代の人の好み。]を、元来が西洋から帰って来た銅像趣味の中に叩き込んで現し出そうとするのは、中々容易に成功しそうな努力では無い。それよりか小さい廟を建てゝ素朴な木像でも祭った方がはるかに奥床しい仕事のように考えられる。

 仮りに例えば鹿之助が三日月を拝んでいる銅像を山頂に建てたとして見る。そのときはるばる山をのぼつて来て其銅像に対した瞬間に、我われの胸のうちに縹緲(ひょうびょう)[やぶちゃん注:これは「はっきりとは分からないさま」の意。]として描かれていた勇ましくなつかしい戦国の勇士の悌(おもかげ)は、そこにある彫刻家の頭脳から型をあたえられ――そして不当に自己を古英雄代表者と主張しながら存在している、一塊の青銅のたふめに遺低(いてい)無く裏切られることであろうと思う。[やぶちゃん注:「たふめ」ママ。意味不詳。「遺低無く」意味不詳。前者は「ために」の衍字か。後者は「余すところなく、徹底的に」の意か。不学な私には判らぬ。]

 雄々しかった戦国の武士たちは山を削り谷を掘って、真山という巨きい山全体を以て、尼子の武名を幾千年の後までも伝えるべき絶好の記念物を造った。「時(たいむ[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])」は荒廃の手法の若干を夫れと和して山は自(おのず)からなる二会術品の風貌を具えるに至った。一基の銅像はあるいは俗衆の眼を惹くに足るかも知れないが、山の威厳と古城の寂びとに何等の貢献を加えることが出来よう?若し何等か後の人の為すべきものありとしたならば、其昔の武人の経営の跡を偲ぶよすがをこゝろつゝましく造りもうけることにありはしまいか?

 

[やぶちゃん注:「山中鹿之助」山中幸盛(天文一四(一五四五)年?~天正六(一五七八)年)は尼子氏の重臣で富田城主尼子義久の近習。後世の軍記物その他の記録では「鹿之介」或いは「鹿之助」と記されている場合が多いが、本人の自署は孰れも「鹿介」となっている。鹿介の名が初めて「雲陽軍実記」や「陰徳太平記」などの軍記物に登場するのは、永禄61563)年に毛利元就軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、この時、尼子軍は敗退し、以後、尼子勢は富田城に籠城して落城、尼子氏は滅亡した(既注)。落城後、出雲を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久を擁して、島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、結局、毛利の援軍と布部山(ふべやま・現在の安来(やすぎ)市)で戦って大敗、出雲奪回の夢は断たれた。しかし、その後も執拗に再興を図って、各地を転戦、織田信長を頼って、その西征に望みを繫いだ。天正五(一五七七)年、信長の部将羽柴秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加、上月(こうづき)城(現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町)に主君勝久とともに籠ったが、毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、結局、勝久は自殺して落城し、遂に降伏した。鹿介は備中松山城(現在の岡山県高梁(たかはし)市)の毛利輝元のもとに護送される途中、高梁川(たかはしがわ)の渡しで殺された。その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾心に徹したものであった(小学館の「日本大百科全書」に拠った)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十四」

 

    二十四

 

 鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)飛ぶ小川に沿うて、曼珠沙華(ひがんばな)咲く径を暫く辿って行き、流れに架けた土橋を渡ると、灌木と雑草とに蔽われた山の裾が僕たちの行方に塞(ふさが)り立っていた。

 露滋(しげ)い[やぶちゃん注:ママ。]草叢を分けながら僕は先頭に立って山をのぼり始めた。含み切れない程雨の気をふくんだ雲の塊りが日の光をぬすみながら急ぎ足して頭上の空を過ぎて行った。

 緑りさびしい秋艸(あきくさ)はのぼって行く三人を取り巻いて山一面に茂りしげっていた………萩、なでし子、女郎花(おみなえし)の花など、山蔭を吹く秋かぜに馴染んで色淡(うす)くかたち仄かに咲く艸の花が、右にも左にも前にも背後(うしろ)にも咲きみちていた。山帰来(さるとりいばら)の長い蔓にはつぶらな果(み)が鈴(すず)生って居り、蓋(さら)をかぶったどんぐりは青い葉かげに黙って隠れていた。[やぶちゃん注:太字「どんぐり」は底本では傍点「ヽ」。]

 微かに蒸れる草の葉のかおり、木の葉の芳(かお)りにまじって、短い生命(いのち)のせつなさを歌う虫の声が静かな谷から谷へひゞいて行くのを聴きながら山を蔽う艸のはなのそれ此れに眼路(めじ)を移してはかなく覚束なげな色どりを眸(ひとみ)が映したとき、稚い頃から胸に刻まれている「秋」という季節の観念ははっきりと心に喚(よ)びさまされた。

 春や夏や冬やの訪れよりも「秋が来たな」と思わせる自然の物象の暗示のなかにこそ、季節の推移の底にひそむ或るものの意味は一層切実に語られているように思われる。勿論そうした心持のうちには因襲的な分子も少からず含まれているには相違無いが、あの華麗な光と豊満な熱とにかゞやき誇っていた夏の栄えが凋落(ちょうらく)と頽廃と静寂とを交えた火炉(かろ)の中へ投げ込まれて亡びて行くと云う――不可抗の運命律の基調の年々(ねんねん)の繰返しを経験するところの心が、自分自身の存在の反省からおのずと涌いて来る不安の情(こころ)に浸りながら、鋭敏な感触の眼(まなこ)を徐(しず)かに穏かにながれて行く萬象(ばんしょう)の推移の裡(うち)に潜ませているのではあるまいか。

 繊細な軽微な刺戟が心に伝えられたとき、或る複雑な原因からして、例えば鋭く尖った針のさきを揉(も)み込んだように、その刺戟が心の深い暗い窪みを穿って、そこにながい間懶(ものう)い眠りをつゞけている人生観に剃那的の痛覚を与えることがある。

 「秋だな」と云う感じの反面にはそれに類した心の揺(うご)きがあった。瞬時撹(か)きみだされた心の底が再び沈潜の状態に復(かえ)ったとき、其処に「秋」は細微の一点の痛みの痕(あと)と成って宿っていた。

 山の襞(ひだ)を縫うて登って、山の脊梁の一部分にたどり着くと、そこから路は丹(あか)い土の肌の露出している上を次第に山の脊梁の高い部分へと導いている。ねずみ槇(まき)だの黄楊(つげ)だの筑波根(つくばね)うつぎだのと云ったような灌木が裸かな山の胸にしがみ付いて匍匐(はらば)うているあいだには、古びた毛氈(もうせん)を敷きつめたように乾からびた羊歯(しだ)の葉がぎっしり茂っていた。

 「この山は簡単(てがる)に高山(こうざん)に登ったような気のする山だね。なんだか山の相(すがた)がばかに高山染みていて」と龍之介君が微笑した。

 「麓までが近くて、わけ無くのぼれて、それでいて眺めが佳いんだからね」と僕は自分の有(も)っている物を誇るような口調で云った。

 

[やぶちゃん注:「鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)」トンボ目イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrataウィキの「ハグロトンボ」によれば、成虫の体長は五十七~六十七ミリメートル、後翅長は三十五~四十四ミリメートルほどで、『トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干大きいが、大差はない。翅が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色の金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある』とある。グーグル画像検索「Calopteryx atrataをリンクさせておく。

「山帰来(さるとりいばら)」「さるとりいばら」というルビに拠るならば、単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china となる。果実は直径七ミリメートル程の球形の液果で、秋に熟すと、赤くなる。これ(リンク先はウィキの「サルトリイバラ」の実の画像)。「山帰来」という漢字表記に拘ると、ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓)Smilax glabra を指すが、同種は本邦に植生しない(中国南部、台湾に自生する多年生草本。この塊茎は「山帰来(サンキライ)」という生薬で、「日本薬局方」にも収録されている。吹出物・肌荒れなどに効果があるとし、古くは梅毒の治療薬ともされた)から違う。同属のサルトリイバラを「山帰来」と呼称することもある、とウィキの「ドブクリョウ」にあるので、前者でとってよく、井川の誤りでもない。

「眼路(めじ)」「目路」とも書く。目で見通した範囲・視界の意。

「ねずみ槇(まき)」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ(犬槇)Podocarpus macrophyllus の異名か。ウィキの「イヌマキ」によれば、ニンギョー(山口県)・ニンギョノキ(大分県・長崎県)・ネンネンゴ(静岡県)・ヤゾーコゾー(静岡県)・サルモモ(静岡県・福井県・島根県・山口県)・サルミノ(大阪府・山口県)・サルノキンタマ(山口県)という異名が記されてあるが、別種かも知れぬ。識者の御教授を乞う。ともかくも、グーグル画像検索「Podocarpus macrophyllusをリンクさせておく。

「黄楊(つげ)」被子植物門双子葉植物綱ツゲ目ツゲ科ツゲ属 Buxus microphylla 変種ツゲ Buxus microphylla var. japonicaグーグル画像検索「Buxus microphylla var. japonicaをリンクさせておく。

「筑波根(つくばね)うつぎ」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科ツクバネウツギ属ツクバネウツギ Abelia spathulataグーグル画像検索「Abelia spathulataをリンクさせておく。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十三」

 

    二十三

 

 松江を中心とした此地方の風景を遺憾無く観照し度いと思ったら、少くとも附近の丘陵の一つに登って、眺嘱(ちょうしょく)を縦(ほしいまま)にするのが必要である。[やぶちゃん注:「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察し、意味を明らかに知ること、或いは、美学用語としては、対象の美を直接的に直観として感じとることを指す。「眺嘱」万葉語。現行、「万葉集」では、この二字で「ながむ」と訓じている。]

 或る物に即くと云うことは観照の態度から遠ざかることを意味するし、或る物から離れると云うことは其反対を意味するものとすれば、若干の自然の景象(けいしょう)の組合せから成り立つ或る地方の風景を、夫れ自身一つの天成の芸術品として観照するためには、高きに登って眸(ひとみ)を放つことが必要であるとの断定が正当と成って来る。[やぶちゃん注:「即く」「つく」。]

 東から北から南から松江を取り巻いて立っている山の数はかなり沢山ある。東には嵩山(だけさん)に羽久羅山(はくらやま)、北には枕木山(まくらぎやま)、澄水山(しみずさん)、蛇山(じゃやま)、臥牛山(がぎゅうざん)、真山(しんやま)、朝日山(あさひさん)、南には茶臼山(ちゃうすやま)、天狗山(てんぐやま)、星上山(ほしかみやま)、京羅木山(きょうらぎさん)などを挙げることが出来る。最高の天狗山から最低の茶臼山まで二千四五百尺から五六百尺の海抜を示している丘陵であるが、何しろ平原から直ちに崛起(くっき)しているので、高さの割合には登路(とうろ)が長く且つ山頂の眺望が開闊(かいかつ)である。[やぶちゃん注:各山は最後に注する。「崛起(くっき)」山などが高く聳え立っていること。「開闊」気持ちよく、広く開けていること。「二千四五百尺」約七百二十八メートルから七百五十七・五八メートル。「五六百尺」約百五十二メートルから百八十一・八二メートル。]

 僕は之れ等の山々のいずれも少くとも一回、多きは十回くらい登った事があって、夫れぞれの山が有(も)っている性格に一種のなつかしみを感じているが、僕の好みから云うと、蛇山の頂からの眺めが一等勝れているように思われる。殊に秋も長けた十月ごろあの山の絶巓に踞(こしか)けて、涯もなく茂りつづく銀の穂芒(ほすすき)のあいだから、秋の日光(ひざし)にほのかに匂う海やみずうみや野や市街やのけしきをうっとり眺めるうつくしさ快さは、いつ迄も忘れ得ないもゝのひとつである。山の相(すがた)からから云っても僕はこの山を最も愛している。

 併し登る路の楽なこと、麓までの里程の短いこと、しかもその割合に眺めの住い点に於ては僕は嵩山と真山との二つを推奨する。そう云う理由から、東京から来た友人を所々案内したのち帰京の日が迫ったとき、僕はこの二つの山を挙げて、その孰れかに登ってみようと言い出した。

 二つの山をいろいろの点から比較したのち僕たちは真山を登臨(とうりん)の目的に選んだ。尼子(あまご)の城跡があると云う事と、登りが割合に短いと云う事との二つのこの選択を決定する最要件であった。

 大きい灰色の雲が頭上の空を蔽うて渡って行くのを仰ぎながら、如何(どう)も怪しいなと言い言い龍之介君と僕と弟と三人家を出かけた。

 西原(にしばら)から法吉(ほっき)の村へ入って川沿いの石ころ道を辿って行くと間も無く常福寺の丹瓦(あががわら)の屋根が竹薮のうえに現れた[やぶちゃん注:「薮」はママ。次の段では「藪」である。]。

 庫裏に訪れると梵妻(だいこく)さんがいつ見ても肥りたるんだ体躯(からだ)をはこんで出て来て挨拶する。そこへ「どうも井川さんの声らしいがと思った」と言いながら和尚さんが畑か藪の中からか帰って来て、「まあ少し休んでから山へあがりなされ」と勧めて呉れる儘、三人は本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ。

 それから龍之介君と僕とは肌衣一枚に成り、弟はシャツを着て来なかったので裸の体にズボン下をはいて出かけようとすると、和尚さんが「まあ是れでも引っかけてお出でや」と言って襦袢(じゅばん)を貸してやった。

 三人は寺で借りた藁草履をはいて山門の外の石段を降り細い谷川に沿う径をあゆみはじめた。

 「和尚さんの襦袢の汗臭いには少々閉口だわ」と後から踉(つ)いて来る弟がつぶやいて笑わせた。

 

[やぶちゃん注:ここで、時計が巻き戻って、再び、芥川龍之介が登場する。井川の芥川龍之介への思いが痛いほど判る作品構成となっているのである。

「嵩山(だけさん)」島根県松江市川原町にある標高三百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ。以下、既に出た山もあるが、ここでは標高は総て国土地理院地図で統一した。登山サイトの標高とはかなり有意に異なるものもあるので注意されたい)。

「羽久羅山(はくらやま)」恐らく、現在の松江市上東川津町にある和久羅山のこと。標高二四十四メートルの山。ここ。誤りかどうかは不明。何故なら、以下の名前も現行と異なるものがあるからで、古名や当時の通称名・異名である可能性も捨てきれないからである。

「枕木山(まくらぎやま)」松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌(ちくみ)にある標高四百五十三メートルの山。ここ

「澄水山(しみずさん)」松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。ここ

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市島根町大芦にある滝空山(たきそらやま)。標高四百七十五メートルの山。ここ

「臥牛山(がぎゅうざん)」現在の蛇山(東方)と同じく島根県松江市島根町大芦にある大平山(おおひらやま)。標高五百二・八メートルの山。ここ

「真山(しんやま)」松江市西持田町にある標高二百五十六・二メートルの山。ここ。「新山」とも書く。ここは本文にある通り、尼子氏と毛利氏の攻防戦の場として知られる個人サイト「中国地方の登山紀行 法師崎のやまある記」のこちらが詳しく、実際の登頂記録が写真で掲載されている。必見。なお、芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の真山での感懐を、

 

   眞山覽古

 山北山更寂

 山南水空𢌞

 寥々殘礎散

 細雨灑寒梅

    眞山覽古

  山北(さんぼく) 山(やま) 更に寂し

  山南(さんなん) 水(みづ) 空を𢌞(めぐ)る

  寥々(れうれう)として 殘礎(ざんそ) 散り

  細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ

 

という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にはしたが、從っていない部分もある)。

「朝日山(あさひさん)」松江市東長江町にある標高三百四十一・八メートルの山。ここ

「茶臼山(ちゃうすやま)」松江市山代町にある標高百七十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データだと城跡名だけなので、ここでは国土地理院地図を用いた。一切、画面を移動させず、左下の「+」ボタンだけで拡大されたい)。

「天狗山(てんぐやま)」松江市八雲町熊野にある標高六百十・四メートルの山。ここ(また、グーグル・マップ・データに戻す)。

「星上山(ほしかみやま)」松江市八雲町東岩坂にある標高四百五十八メートルの山。ここ

「京羅木山(きょうらぎさん)」星上山の東方、松江市東出雲町(まち)上意東(かみいとう)にある標高四百七十三メートルの山。ここ

「尼子」大名としての最後の当主は尼子義久(天文九(一五四〇)年~慶長一五(一六一〇)年:出雲国の戦国大名尼子晴久の次男)。永禄九(一五六六)年十一月、義久は兵糧攻めを受けていた月山富田(がっさんとだ)城の開城を決意し、毛利元就に降伏する旨を伝えた。元就は義久の身柄を安堵することを記した血判を送って開城となった。この富田城陥落によって、出雲国内で抵抗していた尼子十旗(あまごじっき:根城富田城の防衛線として出雲国内に配した主要な十の支城)の城将達も次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、取り敢えず、安芸の円明寺に幽閉した。これを以って大名としての尼子氏は滅亡したが、その後、義久は天正一七(一五八九)年、元就の孫毛利輝元によって、毛利氏の客分として遇され、安芸国志道(しじ)に居館を与えられ、慶長元(一五九六)年、長門国阿武郡嘉年(かね)にあった五穀禅寺(現在の極楽寺)に於いて剃髪、出家して「友林」と号し、十四年後、享年七十一で死去している。毛利家の意向により、甥(義久の弟倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で、尼子氏を継いでいる。尼子と言えば、私の偏愛する上田秋成の「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」だなぁ。

「西原(にしばら)」現在、松江市奥西原という地名が残るが(中央附近(グーグル・マップ・データ))、井川の叙述から考えると、その北の現在の松江市春日町((グーグル・マップ・データ))を含む広域の古い地名であろうと推察する。

「法吉(ほっき)」現在の島根県松江市法吉町(ほっきちょう)。(グーグル・マップ・データ)。真山のピークは現在の村域では、ごく僅かに東にずれるようだ。

「常福寺」松江市法吉町二五八に現存。(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。開基・開山は不詳。毛利と尼子の白鹿合戦の際、白鹿城城主で尼子の勇将であった松田左近将監満久はここの僧であった、また満久の末弟であった普門西堂は常福寺丸(この寺の後背の山)に砦を構えて奮戦したが、落城の時に自刃したとも伝えられている。寺はこの合戦によって荒廃したが、寛永一〇(一八三三)年清光院 高厳栄甫大和尚が再建した。現在の本堂は明治四〇(一九〇七)年に建てられた(データ他に拠る)とあるから、まさに芥川龍之介が訪れた時のままということになる。

「梵妻(だいこく)」は僧侶の妻のこと。大黒天が厨(くりや)に祀られたことから。「大黒」とも書く。先に紹介した井川と芥川の連句の中に、龍之介の句として、

 

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

 

があり、句の後に『この句を定福寺の老梵妻にささげんとす』という添書きもある。

「本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ」グーグル・マップ航空写真現在、北側。この真山方向を向いて開かれた板縁で彼らは裸になって涼んだのだった。

「細い谷川に沿う径をあゆみはじめた」グーグル・マップの航空写真でそのルートが判る。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十二」

 

    二十二

 

[やぶちゃん注:以下の短歌群は底本の五十四ページから始まるのであるが、五十四ページは短歌のみで、それは裏の五十三ページを透かして見ると、総て一字下げで印刷されてあることが判る。ところが、最後の六首は五十五ページに載り、その後半部は次章「二十三」本文となっているのであるが、そこでは六首総てが、行の頭、一字目から記されてあるのである。そこで、ブラウザ上での見た目の悪さも考えて、総てを一字目から表記することとした。また、短歌には表記その他に複数の不審があるが、総てそのまま示し、後の注で疑問を挙げておいた。]

 

 ほそい雨が冷たい滴を落しながら早くもすがれた庭の杏の梢に降りそゝぐ静かなあさ、久しぶりにおちついた歌をかんがえて見た。城山の杜かげの草叢にすだく虫の音は、緑りのいろの白く濁った濠の水のうえを渡ってひる間もさびしくひびいて来るのであった。

 たちまち、視界のうすれて行く境をあかるい藍色の光が礫(つぶて)をなげうつ様に過ぎ去った。眼をあげて光のゆくてを追うと、お濠の岸から岸へ翔(かけ)って行く翡翠(かわせみ)の翅(はね)のいろであることが知れた。

 

わが生(よ)哀し日の没(お)りぎわの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土蔵(くら)の扉のかな錆(さび)もさ青むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は黙(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かいな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに揺するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな帰り来そ

海をみつめて立てる男の横顔くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆうかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり真菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土蔵の鉄(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚児(おさなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けうちくとう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

みずうみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家毎に住みならはせりうきくさのはな

人いとをしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちぢく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が帰ってしまった後の、井川の中の欠落感・寂寥感を彼は美事にこの章で短歌に託して示して美事である。……さてもさても、「芥川龍之介は帰ってしまったのか」とあなた(本ブログの読者)も淋しく思われるであろう(事実、帰っちゃったんだけれども)、ところが、どっこい――なんだな、これが……♪ふふふ♪……

 まず、歴史的仮名遣の誤りを訂した上で、短歌全文を恣意的に正字化して以下に示すこととする(仮名遣を訂した箇所は太字下線とした)。

   *

 

わが生(よ)哀し日の沒(お)りぎの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土藏(くら)の扉のかな錆(さび)もさ靑むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は默(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに搖するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな歸り來そ

海をみつめて立てる男の橫顏くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり眞菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土藏の鐵(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚兒(さなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けちくう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

うみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家每に住みならはせりうきくさのはな

人いとしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

   *

 以下、私の正字正仮名版で引いて注する。

「わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かひな)かもいのちかなしき」の「浪をうちゝつ」が私には意味が判らない。私は「浪をうちつゝ」の錯字(錯記号)かと思ったのだが。「うちちつ」で意味が通るということであるから、どうか、御教授下されたい

「城山(しろやま)の木のうれに群れて暗く鳥のゆふかたまけて飛び散らひけり」「城山」は旧松江城(千鳥城の異名の方がこの一首には相応しい)跡を指す。因みに、現在は(公園となっているが)「しろやま」よりも「じょうざん」「じょうやま」と呼び慣わすことが多く、小泉八雲が好んで散歩し、愛した城山稲荷神社も「じょうざんいなりじんじゃ」である。「うれ」は「末」で草木の新しく伸びた末端、梢の意。「ゆふかたまけて」万葉語。「夕片設けて」で「夕方を待ち受けて(受けるように)」の意。

「牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ」井川が借り、芥川龍之介と一緒に滞在した内中原町の濠端の家から南方直近の、現在、島根県立図書館(ここ(グーグル・マップ・データ))がある場所には、当時、刑務所があった。猶、位置の確認は出来ないものの、井川の実家内中原町御花畑。この「御花畑」という地名は堀尾吉晴が藩主であった頃に整備されたが、武家の屋敷町であると同時に、藩主の庭園(御花畑)とされたことに由来するらしい)も、この濠沿いであったことは間違いない)もこの借家のごく近くであったと考えられ、調べて見たところ、まさに現在、この島根県立図書館(旧刑務所)の西側の通りが、「お花畑通り」と呼称されているようである。]
 

2018/01/19

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十一」

 

    二十一

 

 友は次のような松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘、彼がふるさとたる東京を指して帰って行って、その第一篇を紹介した僕は、此続篇をも公にする事を妥当と信じている。

   日記より(二)

               芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して単にそれが過去に属するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な属性を除き去つても、尚是等の物がその芸術的価値に於て、没却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は独り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺(げつせうじ)に於ける松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の増加をも決して忌憚しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山の公園に建てられた光栄ある興雲閣(こううんかく)に対しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌悪の情以外に何物も感ずることは出来ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に対しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全国の都市の多くは悉くその発達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な発達の径路に縁(よ)ると云ふ事ではない。否寧ろ先達たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特権である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屡(しばしば)外国の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電灯とを以て広告と称する下等なる装飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹の養成とである。自分はこの点に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも処々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空気とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に関しても松江はその窓と壁と露台(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天恵(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

               芥川龍之助

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の実をつづる下に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように[やぶちゃん注:「ように」はママ。]靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子(がらす[やぶちゃん注:ルビは全集版では「ガラス」に変更されている。]))板のやうな光沢のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら随所に空と家とその間に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此処に住む人間の耳に伝え[やぶちゃん注:「え」はママ。]つゝあるのである。この水を利用して、所謂水辺(すゐへん)建築を企画するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる関係に立つてゐるのである。決して調和を一松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委ぬべきものではない。

 自分は、此盂蘭盆会(うらぼんゑ)に水辺の家々にともされた切角灯籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匂にみちた黄昏(たそがれ)の川へ静な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雑な印象記を井川恭氏に獻[やぶちゃん注:正字はママ。]じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(おはり[やぶちゃん注:ママ。全集版では「をはり」。])

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

 

    二十一

 

 友は次のやうな松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘(まま)彼がふるさとたる東京を指して歸つて行つて、その第一篇を紹介した僕は、此續篇をも公にする事を妥當と信じてゐる。[やぶちゃん注:これは勿論、井川恭の筆になるもので、恣意的に底本のそれを正字正仮名に改めておいた。]

 

   日記より(二)

                   芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して單にそれが過去に屬するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な屬性を除き去つても、尚是等の物がその藝術的價値に於て、沒却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は獨り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺(てんりんじ)の禪院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の增加をも決して忌憚(きたん)しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山(じやうざん)の公園に建てられた光榮ある興雲閣に對しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌惡の情以外に何物も感ずることは出來ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に對しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全國の都市の多くは悉くその發達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な發達の徑路に緣(よ)ると云ふ事ではない。否(いな)寧ろ先達(せんだつ)たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特權である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屢(しばしば)外國の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電燈とを以て廣告と稱する下等なる裝飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹(がいじゆ)の養成とである。自分はこの點に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入(はひ)ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも處々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空氣とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に關しても、松江はその窓と壁と露臺(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天惠(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

                     芥川龍之助

 

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の實をつづる下(した)に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門(なだもん)の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子板(がらすいた[やぶちゃん注:ルビは全集版では「がらす」は「ガラス」に変更されている。])のやうな光澤のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に變るまで、水は松江を縱橫に貫流(くわんりう)して、その光と影との限りない調和を示しながら隨所に空と家とその間(あひだ)に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此處に住む人間の耳に傳へつゝあるのである。この水を利用して、所謂水邊(すゐへん)建築を企畫するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる關係に立つてゐるのである。決して調和を一(いち)松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委(ゆだ)ぬべきものではない。

 自分は、此(この)盂蘭盆會(うらぼんゑ)に水邊(すゐへん)の家々にともされた切角燈籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匀[やぶちゃん注:底本では「匂」であるが、岩波版旧全集が「匀」であり、芥川の好んだこちらを採用する。]にみちた黃昏(たそがれ)の川へ靜(しづか)な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雜な印象記を井川恭氏に獻じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(をはり)[やぶちゃん注:この一文は全集では全体が一字下げでしかもポイント落ちとなっているが、底本に従った。]

 

   *

「月照寺(げつせうじ)」島根県松江市外中原町にある浄土宗の名刹。芥川龍之介の言うように境内には松江藩主松平家の廟所があり、現在、国史跡に指定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「月照寺(松江市)」によれば、かつて『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として』寛文四(一六六四)年に、『この寺を再興』、『浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた。直政は二年後の寛文六年に『江戸で死去したが、臨終の際』、『「我百年の後命終わらば』、『此所に墳墓を築き、そこの所をば』、『葬送の地となさん」と遺した』第二代藩主綱隆(直政の長男)は、父『直政の遺命を継ぎ』、『境内に直政の廟所を営』み、その際、『山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後』、九『代藩主までの墓所となった』。『茶人藩主として著名な』第七代藩主松平治郷(はるさと:号の「不昧(ふまい)」で知られる)の『廟門は松江の名工・小林如泥』(じょでい 文化一〇(一八一三)年~宝暦三(一七五三)年:木彫・木工家で、代々、出雲松江藩主松平家大工方として仕えた。酒を好み、常に酔って泥の如しであったと伝え、不昧公よりこの「如泥」の号を賜ったという)『の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。明治二四(一八九一)年に『松江に訪れた小泉八雲は』、『この寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。また、第六代藩主宗衍(むねのぶ)の『廟所にある』『碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ』、『下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという』(これは私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)』を参照されたい)。『この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は』三十『キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり』、『「親孝行岩」として現在も信仰されている。現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある。

「天倫寺」松江市堂形町にある臨済宗の寺。宍道湖が眼下にあり、その眺望は「宍道湖十景」や「松江八景」に挙げられた絶景である。「島根県観光連盟」の「しまね観光ナビ」の同寺の解説によれば、慶長一六(一六一一)年、『松江開府の祖堀尾吉晴の創建した龍翔山瑞応寺(りゅうしょうざんずいおうじ)を、堀尾氏のあと』に『入封した京極氏が宍道湖南の地に移して円成寺とした。この跡地に松平直政が』寛永一六(一六三九)年に『信州から僧東愚を招き、神護山天倫寺(臨済宗妙心寺派)を開山、今日に至っている。なお』、『その後』、『一時、興陽山本城寺と称していたこともある。鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で、細密精巧な彫刻がほどこされ、また「高麗国東京内廻真寺(こうらいこくとうけいないかいしんじ)」の鐘銘が刻まれて国の重要文化財。もともといまの簸川郡多伎町田儀の本願寺にあったが、堀尾吉晴が陣鐘にするため徴発、城内においた。しかし』、『松平氏になってから』、『城内に梵鐘は不吉だと天倫寺に寄進されたもの』である。江戸中期の『文人画家池大雅(いけのたいが)』『はこの鐘声を賞(め)でて、当寺に逗留し、大幅』「赤壁図(せきへきのず)」の秀作を残した、とある。リンク先には地図もあるので、位置はそれで確認されたい。

「忌憚」ここは「嫌って厭(いや)がること」の意。

「興雲閣(こううんかく)」既出既注であるが、再掲しておく。旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農工銀行」明治二九(一八九六)年に制定された「農工銀行法」に基づき、各府県に設立された特殊銀行。農工業の改良発達のための貸付を目的としたが、大正一〇(一九二一)年に「勧農合併法」が制定され、漸次、日本勧業銀行に合併された。その松江支店は現在の松江市殿町(県庁の東)にある「松江センチュリービル」の位置にあった(ここ(グーグル・マップ・データ))。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治四一(一九〇八)年十月に新築されたとあり、その新築記念絵葉書で芥川龍之介が評価したハイカラな建物を見ることが出来る

「街衢(がいく)」「衢」は四方に分かれた道で、「人家などの立ち並ぶ土地・町」の意。

「井然(せいぜん)」整然に同じい。

「幽鬱(ゆううつ)」文中で注した通り、歴史的仮名遣は「いううつ」が正しい。「憂鬱」に同じいが、ここは、木が周囲が暗くなるほどに盛んに茂ることの意で、ネガティヴ一辺倒のマイナスの陰鬱の謂いではない。

「灘門」「なだもん」と読む。この「翡翠記」を井川による長歌とすれば、それの応じた相聞歌に当たるものが、実は存在する。「翡翠記」以上に読まれることが少ないと思われるものであるが、この旅で井川と芥川が交わした連句で現在、岩波新全集で「松江連句」という仮題で初めて活字化されたもので、松江を舞台として春夏秋冬を描いた壮大な二人による百韻である。私は既にやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺でそれを電子化注しているが、その中に、井川の「冬」の句として、

 

 灘門(なだもん)に人のけはひす夜を寒み

 

及び、

 

 雪あかり灘門とざす女かな

 

という二句が登場している。「灘門」については筑摩全集類聚版脚注では『「水門」か』と推理している。ここで言う「水門」とは、宍道湖には中海経由で潮水が入ってくるため、それが堀に逆流して田畑に塩害をもたらさないために作られたものを指すと思われるが(江戸末期の古地図を見ると、そのような水門が二箇所に視認は出来る)、しかしこれを句の「灘門」と解するには私は非常な無理があると考える。何故なら、これら二句は孰れも夜の景で、おまけに後者では灘門を閉じているのは女性だからである。万一、想像されるそれなりに大きな海水を閉鎖するための水路「水門」を、雪中の夜、女性が閉じに来る、という景は、一般的感覚では奇異にして不審だからであるこの「灘門」については、このやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を公開した後、そこで疑問を呈したところ、現地の方々の非常な協力を得、問題を解決することが出来た。同ページの注でも記してあるが、ここに引くと、松江では、堀や川に面した部分を持つ住居にあっては、それらの家が面している水域を「灘(なだ)」と呼称し、その水場(みずば:水仕事を行えた)への出入り口を「灘門(なだもん)」と言ったのである。以下にその写真を掲げる(なお、本写真は著作権の確認が出来ないが、本件では重要な資料であるので紹介する。万一、著作権抵触の指摘を受けた場合は公開を停止する。但し、以下の証言者の家が映っている以上、撮影者はその家の持ち主から逆に写真の取り下げを求められる可能性もあることを附記しておく)。本件への回答を下さった方(まさにこの注に相応しい女性の方である)の灘門の回想が素敵なので一部、公開する(表記の一部に手を加えた)。

Photo08

   *

(前略)灘門はね、下のほうに、十センチぐらいだったかしら? 少し隙間があるんです。水が増えてくると、そこへ降りる段段へ、それこそ「だんだん」水があがってきて、小さな魚や亀なんかが、うちのなかへ入ってくる状態になるんです。それが嬉しくて、楽しみで、大水になると日に何度もそこへいって見たものです。「○段目まであがったよー!」って親に報告するわけです。六、七段もあったでしょうか?

   *

因みに、この回想回答された方の御宅は、まさに、上の写真の中にある、とのことであった。

LIFELIKE」ここは「あたかも生き物であるかのような」という意。底本の後注では、芥川龍之介が大正三(一九一四)年四月に『心の花』に「柳川隆之介」の署名で発表した「大川の水」の一節を引いている。同箇所(前を少し増やした)をリンク先の私の電子テクストで引いておく。

   *

 海の水は、たとへば碧玉(ヂヤスパア)の色のやうに餘りに重く緑を凝らしている。と云つて潮の滿干を全く感じない上流の川の水は、云はゞ緑柱石(エメラルド)の色のやうに、餘りに輕く、餘りに薄つぺらに光りすぎる。唯淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷な青に、濁つた黄の暖みを交へて、何處となく人間化(ヒユーマナイズ)された親しさと、人間らしい意味に於て、ライフライクな、なつかしさがあるやうに思はれる。

   *

引用部の語はリンク先で私が詳注しているので参照されたい。

「アアサア、シマンズ」イギリスの詩人で文芸批評家のアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)。「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」は庄子ひとみ氏の論文「コスモポリタンのまなざし――アーサー・シモンズのヴェネツィア紀行」(PDFでダウン・ロード可能)の記載からみて、紀行文“Venice”(“Cities”一九〇三年/“Cities of Italy”一九〇七年の合本らしい)の中の一節らしい。

「松崎水亭(まつざきすゐてい)」宍道湖湖畔の当時の松江を代表する料亭。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治六(一八七三)年の創業で、現在は玉造に移って「松の湯」という温泉旅館となっている、とある。旧所在地は、その記載から、この中央附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「盂蘭盆会(うらぼんゑ)」芥川龍之介が訪れた時を旧暦に直すと、松江到着の八月五日が旧暦六月二十五日、八月二十一日が旧暦七月十一日に当り、旧暦七月十五日よりも前になる。しかし、この文章は彼がその実景を見ているように書いているから、既に当時、松江では、新暦の八月十五日に盂蘭盆会をやっていたと読むべきであろう。

「切角灯籠(きりこどうろう)」盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形になっている吊り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すか)し模様や六字名号(南無阿弥陀仏)などを書き入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある(小学館の「日本大百科全書」に拠る)。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)の私の注を参照されたい。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十」

 

    二十

 

 海から上って二人は風呂場をさして行った。

  ごえもんぷろ

「ヤッ五右衛門風呂だね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」

と龍之介君が大に無気味がる。

「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏(おどり)をするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。[やぶちゃん注:「せないでも無い」はママ。西日本方言圏の表現という気がする。]

 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸(つか)っていたが、

「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。

 湯からあがって海をながめているとおかみさんが魚づくめの夕飯の膳を持って来た。

 それをお腹(なか)におさめたあと二人は追々暗く成って行く海の面に見惚れながらいろんなことを話していた。

 たちまち闇の中に一点の光が閃いてしずかに瞬きはじめた。光が光の伴侶(つれ)を呼ぶように更にひとつの光がそれに並んで輝きを放ち始めた。三つ四つ五つと光の列は漸次(しだい)にながく成って海のはてに広がった。

「海の向うに街があって、灯(ともしび)の光を水に落しているようだね」

「光が一つひとつ浪のうえを此方へあゆんで来るような気もするし、お出で、おいでと手招きするようにも見えるね」

 二人は勝手な想像を描きながら漁り火をみつめた。

 大分つかれたので床をとらせて蚊帳の中にはいったが和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた。

 あくる朝めざめると暁の海は軽快な透明なうしおのいろをたゝえながらながい弓形(ゆみなり)の砂は夫(それ)に抱かれていた。

 朝飯をすませてから鰐走(わにばし)りのあたりまで散歩した。そこにかゝつている橋の欄干に凭れながら、浄らかに水の面の澄んでいる波根の湖水のあなたに三瓶山の秀抜な峯の容(すがた)をながめるけしきは、人の心を深く引付ける趣をそなえている。

 宿にかえるとまた浜辺へ下りてみずを泳いだ。およいでは浜にあがって日光(ひ)に照れている砂のうえに身を投げてあたゝめた。龍之介君が砂のピラミッドをきずくと、僕は砂のスフヰンクスをつくったが、スフヰンクスは自分の首の重さに耐えかねてがくりと砂の頭をうつむけた。

「年代(タイム)は斯うして一切の営みを亡ぼすのだ」と砂のくずれを指して僕はわらうた。

 龍之介君はせっせと砂を盛り上げて日本アルプスのひな形をつくりはじめた。それが出来上った時、

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」と説明したが、その群嶺も間もなく僕たちの足の下に踏みくずされた。

 それから正午(ひる)過の汽車に乗って僕たちは今市に向った。

「愛すべき波根の村よ!うつくしかった昨夕の日没よ!」とこゝろの中にさけびながら、隧道(トンネル)の中に呑まれて行こうとする汽車の窓から僕はうしろを振返ってみた。

 

[やぶちゃん注:「漁り火」日本海の夏の風物詩である烏賊釣り舟の漁火(いさりび)である。

「和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた」芥川龍之介は稀代の怪奇談蒐集家であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介の怪談採録集「椒圖志異」を参照されたい。

「鰐走(わにばし)り」底本後注に『波根』海岸の『西の奇巌「掛戸の岩」などのある岩場』とある。景色(グーグル・マップ・データの写真)。また、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖の「7.掛戸開削」も是非、参照されたいここは現在のとなっては幻の波根湖からの排水路として切り開かれた(と伝わる)ものであることが判る。『掛戸の床面は海面高度とほぼおなじで、排水のための水路がその床面に掘り下げられている』とあり、私はこれを読んで何となく「鰐走り」の名が腑に落ちた。

「波根の湖水」現在の地図ばかり見ていると、この意味が判らない。何故、私が前の注の、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖を太字にしたか? そこの「2.砂州が湾をふさぐ」を読んでいないと、この井川や芥川の目に映っている景色が判らないからである。井川が「湖水」と言っているように、当時、ここには波根湖という巨大な「潟湖」があったのである。そこの七十前の地図を見られよ!

「三瓶山」大田(おおだ)市三瓶町(さんべちょう)志学。島根県のほぼ中央にある標高千百二十六メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。掛戸からは直線で南東に十五キロメートル弱の位置にある。大山隠岐国立公園内の名峰である。

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」芥川龍之介はこの六年前の明治四二(一九〇九)年、三中の三年生(十七歳)の夏(八月八日出発で十日頃に槍ヶ岳に登攀、十二か十三日に帰宅(この頃はまだ本所)している模様)に同級生の中原・中塚・市村・山口と五人で槍ヶ岳に登っており、この時の日記も残っている(日記は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収の「槍ケ岳紀行」。なお、彼には大正九(一九二〇)年に『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」がある(「青空文庫」ので読める)が、驚くべきことに芥川龍之介は作家になってからまた槍ヶ岳に行ったと信じ込んでいる研究者(言っとくが、ただの龍之介好きの読者なんかではなく、芥川龍之介研究者を公に名乗っている奴である)がいたのには、ビックらこいた。これは、この十七の時の記憶と日記を元に彼がフェイクで作った立派な創作物、小説なのである)。]

 

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