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カテゴリー「南方熊楠」の88件の記事

2020/12/03

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)

 

○犬 犬を祀りし例は峯相記に、又粟賀犬寺者、當所本主秀府と云者有り、高名獵師也、彼僕、秀府の妻女を犯し、剩へ秀府を殺して夫婦に成んと云密契有り、郞從秀府を狩場え[やぶちゃん注:ママ。]誘出して、山中にて弓を引き矢を放たんとす、既に害に及ぶ時、秀府が祕藏の犬大黑小黑とて二疋あり、かの郞從に飛かゝり、左右の手を喰へて引張る。秀府刀を拔き飛懸りて仔細を尋る處に、有の儘に承伏す、郞從を殺害し、妻妾を厭却して、道心を發し出家入道す。臨終に及ぶ時、男女子のなき間、所帶を二疋の犬に與へ畢る、犬二疋死後、領家の計ひとして、彼田畠を以て一院を建立し秀府並に二疋の犬の菩提を訪ふ(?)堂塔僧房繁昌し佛法を行ふ、炎上の時、尊像十一面觀音秀府二疋の犬の影像北山へ飛移る、その所を崇て法樂寺と號す云々、本寺の跡に一堂一宇今に有り」と、是れ貞和四年(五百五十二年前)の記也。之に似たること、アゾールスに犬の記念に建てし寺あり、天主敎の尊者「ロシユ」、黑死病者を救ふこと數萬にして、自ら之に罹り困みし時、此犬、食を運びて之を助けしと云ふ(Notes and ueries, 9th Ser. xii. pp. 18q, 236, sept.1903,)。アラビヤ及び歐州に行はれし、犬が僧正に遺產を進ぜしてふ譚に付ては Axon, The Dog who made Will, N. Q., Dec. 24, 1904, p. 501. を見よ、倭漢三才圖會卷六九にも忠犬を祀れる話有り、云く、犬頭社在參河國上和田森崎、社頭四十石、犬尾社在下和田、天正年中、領主宇津左門五郞忠茂、一時獵入山家、有白犬從走、行倒一樹下、忠茂俄爾催睡眠、犬在傍咬衣裾引稍寤復寢、犬頻吠于枕頭、忠茂怒妨熟睡、拔腰刀斬犬頭、頭飛于樹梢、嚙著大蛇頸、主見之驚、切裂蛇而還家、感犬忠情、埋頭尾於兩和田村、立祠祭之、家康公聞之甚感嘆焉、且以有往々靈驗賜采地云々、之を作り替へたりと覺しき譚、馬文耕の近世江都著聞集に有り、吉原の遊女薄雲、厠に入らんとするに、日頃愛せし猫共に入らんとするを亭主其首を斬りしに、忽ち厠の下隅に落て、薄雲を見込みし蛇を咬殺せしより、薄雲そのために猫塚を築けりとなり。續搜神記(淵鑑類函卷四三六に引り)に、會𥡴の張然、年久しく家に歸らぬ内、その妻奴と私通し、夫の歸るを待ち殺さんとて毒を飯肉に加へて供せしを、然〔しかして〕其飯肉を狗に與へしに食はず、惟注睛砥唇視奴、奴食催轉急なりしかば、然大いに狗の名を呼び烏龍と曰しに、狗たちまち奴の頭に咋付く處を然奴を斬り、婦を官に付して殺せる條有り。法苑珪林卷四十五に、僧祗律を引いて、那俱羅蟲、梵士の子を救て毒蛇を殺せしに梵士其蟲の口血に塗れたるを見、誤て、その子を害せる者とし、之を殺せし誕〔たん/はなし有り。動物が主人に忠を盡し、却つて害を爲すものと誤られ、殺さるる話多くClouston, ‘Popular Tales and Fictions,1987. に擧たり。古話には、本來其土に特生せると他邦より傳來せると二種ありて、之を判ずること頗る容易ならざるあるも(早稻田文學四十一年六月の卷に揭げたる、予の「大日本時代史に載れる古話三則」參照)、話の始末符合せること多きより攷れば、犬寺及び犬頭禮の傳記は今昔物語卷廿九、陸奧國狗山狗咋殺大蛇語などを通じて、明らかに支那、インドの譚より出たるを知るべし。附言、那倶羅(ナクラ)[やぶちゃん注:「(ナクラ)」はルビではなく、本文。]、實は獸、「イクニュウモン」の梵名也。

 又山二二四頁に、四國に今も存する犬神の迷信を記し落とされたり、備前の人に聞くに、「この迷信尤も伊豫に猖〔さかん〕んに行なわれ、諸部落に犬神筋の家一二軒づつ有り、その家主家族に惡感を懷かしむる事あらば、必ず犬神加害者に憑〔よ〕り、發熱して犬の擧動を爲しむ、仍て財物を寄附して漸く其害を解くといふ。此病に罹る者備前邑久郡[やぶちゃん注:「おくぐん」。]朝日村、一里沖に在る犬島の犬石宮に祈るに甚驗し有りとて、參詣多し、もとは特立の一社なりしが例の合祀の爲、同島天滿宮に合併され了りしも、犬形の神石は、依然島側の一嶼にあり。此犬島は、菅公流罪の時風波を避て船を寄せしに、犬別れを惜みて鳴き、化して石と成れりといふ、依て天滿宮と犬石宮を建たり云々」。

 

[やぶちゃん注:「峯相記に、……」「みねあひき(みねあひき)」(但し、音読みして「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読むらしい)は鎌倉末から南北朝期の播磨国地誌。作者不詳であるが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇って廃寺となった)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌となっており、同時期の社会を知る上で貴重な史料とされる。中でも柿色の帷子を着て、笠を被り、面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をしたと描かれてある播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残っている。以下は「国文学研究資料館」の電子データの、ここから(右頁二行目末から左頁六行目まで)読める(写本と思われるが、訓点と本文平字が混在するものだが、非常に読み易い)。熊楠の起こしたものとは伝本が違うか、やや異同があるので、以下に示す。漢字は全て正字とした(リンク先のそれは略字が多い)のままに電子化した。

   *

又粟賀犬寺者當所本主秀府ト云者有高名獵師也彼僕秀府カ妻女ヲ犯シ、剩秀府夫婦ト成ント云有密契郞從秀府狩塲誘出山中ニテ弓ヲ引キ矢ヲ放ントス既ニ害及時秀府祕藏犬大黑小黑トテ有二疋彼郞從飛懸左右秀府刀ヲ拔キ飛懸テ仔細ヲ尋處有マヽニ承伏ス則郞從ヲ害シ妻妾ヲ厭却乄發道心出家入道ス臨終ニ及時男女ノ子無之故所帶ヲ二疋與畢ヌ犬二疋死後頷家ノ計ト乄以彼田畠立一院秀府并二疋菩提弔僧房繁昌乄行佛法炎上ノ時尊像十一面觀音秀府二疋影像北山飛移其所法樂寺と號す

   *

ここに出る粟賀犬寺は現存する。兵庫県神崎郡神河町にある真言宗金楽山法楽寺(グーグル・マップ・データ)で、本尊も十一面千手観音であり、別名を「粟賀犬寺」「播州犬寺」或いは単に「犬寺」と呼ぶ。同寺公式サイト内の「縁起」に伝承が記されてあるので読まれたい。なお、以下の引用例の多くは(全てではない)、南方熊楠の、後のかの〈十二支考〉の一つである「犬に關する民俗と傳說」(初出は大正一一(一九二二)年に『太陽』に連載)分割ででも取り上げている。

「是れ貞和四年(五百五十二年前)の記也」本主篇は明治四四(一九一一)年七月発表であるから、「五百六十三年前」の誤りである。

「アゾールス」大西洋の中央部マカロネシアにある、ポルトガル領のアゾレス諸島(英語:The Azores)のことであろう。島名の発音はポルトガル語ではアソーレス (Açores) である。但し、『犬の記念に建てし寺あり、天主敎の尊者「ロシユ」、黑死病者を救ふこと數萬にして、自ら之に罹り困みし時、此犬、食を運びて之を助けしと云ふ』についての現存情報や事実・伝承は本文では確認出来なかった。それ以上、調べる気はない。

Notes and ueries, 9th Ser. xii. pp. 18q, 236, sept.1903,9th」は底本では「qth」であるが、おかしいので、平凡社選集で特異的に訂した。

「アラビヤ及び歐州に行はれし、犬が僧正に遺產を進ぜしてふ譚」不詳。

「倭漢三才圖會卷六九にも忠犬を祀れる話有り、……」同巻の「參河」の「當國 神社佛閣名所」にある「犬頭社(けんづのやしろ)」。既に「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」で、所持する原本で原文と訓読文を示してあるので参照されたいが、他に「諸國里人談卷之一 犬頭社」でも調べて詳細に注してあるので、そちらも併せて見られたい。この社は、当時の位置から少し移動しており、愛知県岡崎市宮地町馬場に合祀されて「糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)」として現存する。

「馬文耕の近世江都著聞集」馬文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)は江戸中期の講釈師で。本姓は中井。伊予出身で、江戸に出て、名を文右衛門と改め、文耕と号し、初めは易術で生計を立てていたという。諸家に出入りして、座敷講釈をする一方で、第八代将軍徳川吉宗を賛美するエピソードや、時事問題を題材とした実録小説を書き、貸し本屋に売って暮らしを立てていた。性、闊達で、豊かな学識を持っていたが、世に入れられぬ不満から、講釈中にも第九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗すること多く、宝暦八(一七五八)年九月、当時、御家騒動で有名だった美濃郡上八幡城主金森頼錦(かなもりよりかね)の収賄事件を「珍説もりの雫」と題して、話のなかに取り込み、さらに小冊「平かな森の雫」を公刊したため、捕縛され、幕政を批判した科(とが)で打首獄門となった。閲歴には不詳な点が多いが、吉宗に仕えた下級の幕臣であったとも言われる。「近世江戸著聞集」(「近世江都著聞集」に同じ。宝暦六(一七五七)年刊)の他、「当世武野俗談」「大和怪談」などの著で知られる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。原本は活字本を持っているのだが、見当たらない。ネットで二種ほどが画像で見られるが、崩し字で甚だ読み難く、電子化は諦めた。但し、この遊女薄雲と忠猫(ちゅうびょう)の話はかなり知られた話で、浮世絵にもなっており、太田記念美術館主席学芸員の日野原健司氏が「猫が大好き過ぎる花魁・薄雲のお話」で浮世絵の画像とその翻刻をされておられるので、是非、見られたい。

「續搜神記(淵鑑類函卷四三六に引り)に、……」「惟注睛砥唇視奴、奴食催轉急」は「睛」は底本「晴」であるが、意味が通らず、原拠を確認し、かく特異的に本文を訂した。また、「烏龍」も底本は「烏龍」は「鳥籠」であるが、如何にもおかしいので原拠を確認したところ、かくあったので、特異的に訂した。

「續搜神記」は志怪小説集「搜神後記」の別名。東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)に倣って、後の六朝時代の陶淵明撰とされるが、偽作と考えてよい。同書の第九巻に、

   *

會稽句章民張然、滯役在都、經年不得歸。家有少婦、無子、惟與一奴守舍、婦遂與奴私通。然在都、養一狗、甚快、名曰「烏龍」、常以自隨。後假歸、婦與奴謀、欲得殺然。然及婦作飯食、共坐下食。婦語然、「與君當大別離、君可强啖。」。然未得啖、奴已張弓拔矢當戶、須然食畢。然涕泣不食、乃以盤中肉及飯擲狗、祝曰、「養汝數年、吾當將死、汝能救我否。」。狗得食不啖、惟注睛舐唇視奴。然亦覺之。奴催食轉急。然決計、拍膝大呼曰、「烏龍、與手。」。狗應聲傷奴。奴失刀仗倒地、狗咋其陰。然因取刀殺奴。以婦付縣、殺之。

   *

 会稽句章の民、張然、滯役して都に在り、年を經て歸り得ず。家に、少婦、有り。子、無く、惟(だ)一(ひとり)の奴(やつこ)と、舍(いへ)を守るも、婦、遂に奴と私通せり。然、都に在りて、一狗を養ふに、甚だ快く、「烏龍」と名づけ、常に以つて自らに隨はせり。後。假(かり)に歸るに、婦、奴と謀(はか)り、然を殺-得(ころさ)んと欲す。然、婦、飯食を作るに及び、共に坐下に食ふ。婦、然に語りて、

「君と、當(まさ)に大きに別離しつべし、君、强ひて啖(く)ふべし。」

と。

 然、未だ啖ふを得ず。

 奴、已に、弓を張り、箭(や)を拔き、當に戶(とぼそにた)つべし。須(すべか)らく、然、食ひ畢(をは)らんとするも、然、涕泣して、食はず。乃(すなは)ち、盤中の肉及び飯を以つて、狗に、與(あた)へ、祝ひて曰はく、

「汝を養ふこと、數年、吾、將に死せんとすべきに、汝、能く我を救ふや否や。」

と。

 狗、食ひ得るに、啖はず。惟(ただ)、睛(ひとみ)を注ぎ、唇を舐(ねぶ)り、奴を、視る。

 然、亦、之れを覺る。

 奴、食を催すに、転(うたた)、急なり。

 然、計を決し、膝を拍(う)ち、大いに呼びて曰はく、

「烏龍、手を與(くみせ)よ。」

と。

 狗、聲に應じ、奴を傷つく。

 奴、刀杖を失(しつ)し、伏して地に倒(たふ)れ、狗、遂に其の陰を咋(くた)ふ。

 然、因りて、刀を取りて奴を殺し、婦を以て縣に付し、これを殺す。

   *

「法苑珪林卷四十五に、……」二番目の「梵士」(ぼんじ:梵天を崇める者のことで、バラモン教徒を指す)は底本では「梵土」。誤植と断じ、特異的に訂した。「法苑珠林」(ほうおんじゅりん)は唐の道世が著した仏教典籍の類書(百科事典)。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は、仏教のみならず、儒家・道教・讖緯・雜著など、実に四百種を超え、また、現在は散逸してしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」なども引用しており、インドの歴史地理研究上でも重要な史料となっている(以上はウィキの「法苑珠林」に拠った)。「僧祗律」は「摩訶僧祇律」(まかそうぎりつ)で、東晋の仏陀跋陀羅と法顕の共訳になる、小乗仏教の大衆部に伝わる律。全四十巻。「那俱羅蟲」は、後の「犬に關する民俗と傳說」の「一」の末尾で(引用は平凡社「南方熊楠選集2」(一九八四年刊)に拠った)、

   *

『摩訶僧祇律』三にいわく、過去世に婆羅門あり。銭財なきゆえ、乞食して渡世す。その妻、子を産まず、家に那倶羅(なくら)虫あって一子を生む。婆羅門これを自分の子のごとく愛し那倶羅の子もまた父のごとく彼を慕う。少時して妻一子を生む。夫いわく、那倶羅虫が子を生んだはわが子生まるる前兆だった、と。一日、夫乞食に出るとて妻に向かい、汝外出するなら必ず子を伴れて出よ、長居せずと速やかに帰れと命じた。さて妻が子に食を与え隣家へ舂(うす)つきに往くとて、子を伴れ行くを忘れた。子の口が酥酪(そらく)[やぶちゃん注:ここは「乳(ちち)」の意。]で香う[やぶちゃん注:「におう」。]を齅(か)ぎつけて、毒蛇来たり殺しにかかる。那倶羅の子、わが父母不在なるに蛇わが弟を殺さんとするは忍ぶべからずと惟い[やぶちゃん注:「おもい」。]、毒蛇を断って七つに分かち、その血を口に塗り、門に立って父母に示し喜ばさんと待ちおった。婆羅門帰ってその妻家外にあるを見、かねて訓え[やぶちゃん注:「おしえ」。]置いたに何ゆえ子を伴れて出ぬぞと恚(いか)る。門に入らんとして那倶羅子の唇に血着いたのを見、さてはこの物われらの不在にわが児を噉(く)い殺したと合点し、やにわに杖で打ち殺し、門を入ればその児庭に坐し、指を味わうて戯(たわむ)れおり、側に毒蛇七つに裂かれおる。この那倶羅子わが児を救いしを、われよく観ずに[やぶちゃん注:「みずに」。]殺したと悔恨無涯で地に倒れた。時に空中に天あり、偈(げ)を説いていわく、「よろしく審諦(あきらか)に観察すべし、にわかなる威怒を行なうなかれ。善友の恩愛離れ、枉害(おうがい)[やぶちゃん注:捻じ曲がった認識の及ぼす悪い結果。]は信(まこと)に傷苦(いたま)し」と。那倶羅は、先年ハブ蛇退治のため琉球へ輸入された、英語でモングースというイタチ様の獣で、蛇を見れば神速に働いて逃がさずこれを殺す。その行動獣類よりも至ってトカゲに類す(ウッド『博物図譜』一)。したがって音訳に虫の字を副えて那倶羅虫としたのだ。『善信経』には黒頭虫と訳しおる。

   *

と記している。「モングース」は、言わずもがな、食肉目マングース科 Herpestidae のマングース類で、沖縄本島が最初の導入で、明治四三(一九一〇)年に、今や悪名高き動物学者渡瀬庄三郎の慫慂によって、エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus が持ち込まれ、今や、生態系破壊の悪質外来種となってしまっているあれである。

『犬寺及び犬頭禮の傳記は今昔物語卷廿九、陸奧國狗山狗咋殺大蛇語などを通じて』底本では当該話を「卷卅九」とするが、誤りなので、特異的に訂した。「陸奧國(みちのくのくに)の狗山(いぬやま)の狗(いぬ)、大蛇(だいじや)を咋(く)ひ殺せる語(こと)第三十二」は、私の「柴田宵曲 妖異博物館 で蟒と犬」で既に電子化してあるので、参照されたい。

 

 

、明らかに支那、インドの譚より出たるを知るべし。附言、那倶羅(ナクラ)[やぶちゃん注:「(ナクラ)」はルビではなく、本文。]、實は獸、「イクニュウモン」の梵名也。

「山二二四頁」私が電子化した『山中笑「本邦に於ける動物崇拝」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拝」の執筆動機となった論文)』の「犬及狼」の条には、

   *

犬及狼 火防盜人を除き、及、小兒を保護す。

     上州椿埜山の神犬。

     武州御嶽の大口眞神。

     備後木野山の御犬。

     相甲境王瀨龍の御犬。

     秩父三蜂の犬。

     南都法華寺の犬守。

     犬張子。

     上總海岸に流行神とせられし死犬の靈。

   *

とあり、熊楠の指す、「二二四」ページでも、

   *

犬と狼 御嶽三峯、金峯椿埜、其他、諸國に犬を書きたる戶守を出す神社あり。犬の門戶を守るよう、盜賊、火災を知らず、と信じたるより起りしなれど、狼は門を守る如き獸にもあらぬに、武藏御嶽より出す札守には、狼を𤲿き、其上に大口眞神と記せり。萬葉集に「大ロの眞神(マガミ)の原に」と云へるあれど、狼の口、大きなるをいふにて、まがみは眞神(マガミ)の意にあらず。嚼(カム)にて、眞に甚敷[やぶちゃん注:「はなはだしき」。]を云ふにて、神のことにあらず。此の如き誤りより、狼の𤲿、守を信ず者あるに到れり。

若狡三方郡向陽寺より出す狼の守は、住職が狼の咽喉にたちし骨をぬきやりし恩返しに與へし守札と云へり。

越前今立郡上池田日野宮神社の神使は狼なりと信ずるより、此狼、盜人除をなす、と信ぜり。之前に云へる犬の門を守るより、移り來りし誤りなり。

犬守、犬張子等、犬の子育、丈夫なるより來れる俗信なり。犬の死靈、魚漁の幸を與へしとて、上總より安房の海岸に流行神となりしことあり。偶然の出來ごと[やぶちゃん注:濁音化した。]を迷信せしより起りしなり。

   *

とあるばかりで、確かに、最も知られている(少なくとも今はそうである)四国の犬神伝承が欠落している。

「備前邑久郡朝日村」岡山県岡山市東区宝伝(グーグル・マップ・データ)附近。

「犬島」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「犬石宮」この「犬ノ島」(グーグル・マップ・データ)に現存するようである。個人ブログ「旅、島、ときどき、不思議」の「5月3日は犬石宮の例大祭で犬ノ島に上陸可能」に拠った。

「同島天滿宮」ここであろう。]

2020/12/01

山中笑「本邦に於ける動物崇拝」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拝」の執筆動機となった論文)

 

[やぶちゃん注:本作は『東京人類学会雑誌』(二百八十八号二一六ページから二二九ページ)に論文パートではなくして『雜錄』とするパートに発表された。これが南方熊楠の興味を惹き、現在、私がブログ・カテゴリ「南方熊楠」で電子化注を進行中の熊楠版「本邦に於ける動物崇拝」が書かれる元となった論考である。筆者山中笑(えむ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)は改名後の本名で、ペンネームは山中共古。牧師で民俗学者・考古学者。幕臣の子として生まれ、御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

 底本は、「j-stage」にある原雑誌画像抜粋(当該論考全文が載る)の「本邦における動物崇拜」PDF)で視認した。

 南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」は本論文に喚起されただけでなく、それを補足し、補填する内容をも持っており、篇中で、本山中の「本邦に於ける動物崇拜」を指示注している箇所があるため、急遽、電子化することとした。そのような背景から、急に必要性が出てきたものなので、今回は私の注はなし(ごく一部の読者が戸惑う部分にのみ短く添えた)で電子化する。後に落ち着いたら、注を添える予定である。但し、本文には読点が一切なく、句点も少なく、やや読み難いので、禁欲的に句読点を打った。「こと」の約物は正字に直した。【2020121日 藪野直史】]

 

 

    ○本邦に於ける動物崇拜

          山  中   笑

何れの民族も、其幼稚宗敎として、動物崇拜の思想を有せざるはな、く宗敎進化の順序、此如き信念を生ぜしこは免がれざることなるが、予が記せんとするは、一般の動物崇拜にあらずして、本邦に於ける、現時、動物崇拜に就て、動物の如何なる種類が崇拜さるゝか、又は、宗敎的信念を以て取扱れてあるか、又、何んに因て、此の如き信念を生ぜしやを記し、諸氏の敎示を乞ふこととす。

    崇拜さるゝ動物の種類

     哺乳類

      獅子       虎

      象        馬

      牛        兎

      鹿        犬

      狼        狐

      狸        猪

      猫        鼠

      猿        貘

      白澤(ハクダク) 雷獸

      虁        水虎

以上二十種、其中、十五は實在、五は想像上のものなり。

[やぶちゃん注:「貘」(ばく)は本邦では、専ら、悪夢を食って呉れるとされる、中国起原(性質が本邦とは異なる)の仮想幻獣。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貘(ばく) (マレーバク・ジャイアントパンダその他をモデルとした仮想獣)」を参照されたい。

「白澤(ハクダク)」人語を解し、万物に精通するとされる中国の仮想聖獣であるが、「はくたく」と濁らない方が通常の読み。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 白澤(はくたく) (仮想聖獣)」を参照されたい。

「雷獸」落雷とともに地上へ落ちて来て、人畜を殺傷したり、樹木を引き裂いたりするとされた想像上の動物で、基本的には本邦産の幻獣。中国のそれは、一種の雷撃の激烈印象から平行進化した産物であって、本邦のそれの起原とは私は思わない。私の電子化では多数の記載があるが、今は急ぐので、一つだけ、「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」をリンクさせておく。

「虁」(き)は中国神話上の龍の一種、或いは、牛に似たような一本足の妖獣、或いは妖怪の名。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)」の「犩牛(き〔ぎう〕)」の注の引用を読まれたい。

「水虎」(すいこ)で河童の異名。私の「柴田宵曲 妖異博物館 河童の藥」の注に引いた山崎美成の随筆「三養雜記」などを参照されたい。なお、私は河童は、基本、本邦独自の仮想幻獣と認識している。]

     鳥類

      鴉        鷄

      鳩        鷲

      鴻        雷鳥

      白鳥       鷽

      姑獲鳥(ウブメ) 鴟鵂

      鷺        鵜

以上十二、其中、姑獲鳥は想像上の鳥。此等の鳥は鳴聲又は其擧動によりて人事の吉凶を豫知するものと信ぜらる。

[やぶちゃん注:「鴻」(こう)は大型の水鳥、特に種としてはオオヒシクイ或いはオオハクチョウを指すことが多いが、後で山中が指すそれはコウノトリである。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照されたい。

「鷽」「うそ」と読む。種としてのウソ。「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸒(うそどり) (鷽・ウソ)」を参照されたい。

「姑獲鳥(ウブメ)」:妖怪にして妖鳥の「姑獲鳥(うぶめ)」で「産女」「憂婦女鳥」等とも表記する。但し、鳥形象のそれは極めて少なく、概ね、下半身が血だらけの赤子を連れた人形(ひとがた)の妖怪であることが多い。私のブログ記事では「怪奇談集」を中心に十数種の話を電子化している、最も馴染み深く、産婦の死して亡霊・妖怪となるという点で個人的には非常に哀れな印象を惹起させる話柄が多いように感ずる。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」も参考にされたい。

「鴟鵂」「みみづく」と読む。種群としてのミミヅク類。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を参照されたい。]

    

     匐匍類

      龍        蛇

[やぶちゃん注:「匍匐」(ほふく)「類」ではなく「匐匍」(ふくほ)「類」となっているので注意。或いは、ただの誤植かも知れぬ。]

     魚類

      鯉        鯛

      鯖        白鰻

      鯰魚       鰶(コノシロ)

      虎魚(オコゼ)

[やぶちゃん注:「白鰻」(ウナギ類のアルビノ)を挙げるなら、同じアルビノの白蛇のように各地で神使に引き上げられている他の類も立項しなくては嘘になるので、今一つ、しっくりこない。鰻は通常の鰻を食べることがない集落で鰻を祀っているのを知っている。されば、この「白」は除去すべきであろう。]

以上七種の魚類に加ふべきは、

      章魚(タコ)   蟹

      田螺(タニシ)

     虫類

      蟻        蠶

      蝶        蜈蚣

    如何に此等の動物が崇拜されてあるか。

動物を崇拜するは、動物中に人類に利盆を與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]あり、危害を蒙すあり。故に利あるは、迎ゐ[やぶちゃん注:ママ。]、害あるは除かん爲に崇拜するは蠻野[やぶちゃん注:「ばんや」。未開地域。]の地に行はるゝ動物崇拜の主要なるが、本邦のは、直接、動物其物を拜するは希にして、多くは、神佛其他の緣故により崇拜せるにて、後方にある神佛の威力によりて、特種の權[やぶちゃん注:「けん」。権威。]を有すると信せる[やぶちゃん注:「しんぜる」か。]による者なり。前記の動物に就て云へば、

   獅子 惡魔を追彿ふ權威あるものとす。

      神輿の先に持行く獅子頭。

      獅子舞。

      神社の左右に置かるゝもの。

   虎  疾病を除き佛天の使命をなすと、

      毘沙門天の使者又は好み給ふもの。

      藥師佛の十二神將中の一。

      阪地道條町神農祭所出、張子虎。

[やぶちゃん注:「道條町神農祭」これは「薬の町」として知られる大阪府大阪市中央区道修町(どうしょうまち)の誤植であろう。そこにある日中の薬の神を祀った少彦名(すくなびこな)神社で行われる神農祭のことである。緑の「五葉笹」につり下げた黄色い張り子の虎のお守りで知られる。]

   象  象頭山信仰に關し。

[やぶちゃん注:「象頭山」(ざうずさん)は香川県琴平町の象頭山に鎮座する金刀比羅宮(ことひらぐう)の神仏分離以前の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の御神体。信仰の元になったその山の原型はインドにあり、訳せば。やはり「象頭山」である。]

   馬  神馬。

      𤲿馬。

[やぶちゃん注:「𤲿馬」「ゑま」。]

      馬頭觀音に關し。

      古蹄鐵、及、馬わらじ。

   牛

      牛頭天王。

      牛の宮。

      牛の御前。

      牛天神。

      羽黑山の牛。

      淸澄山の牛。

      善光寺の牛。

      撫牛。

      牛石。

   兎  因幡國白菟神。

   鹿  春日の神鹿。

      鹿嶋の神使。

   犬及狼 火防盜人を除き、及、小兒を保護す。

      上州椿埜山の神犬。

[やぶちゃん注:「上州椿埜山」不詳。識者の御教授を乞う。以下、今は注さないが、総てが既知のものであるわけではない。]

      武州御嶽の大口眞神。

      備後木野山の御犬。

      相甲境王瀨龍の御犬。

      秩父三蜂の犬。

[やぶちゃん注:「蜂」は「峰」の誤植であろう。]

      南都法華寺の犬守。

      犬張子。

      上總海岸に流行神とせられし死犬の靈。

   狐  稻荷の神使として。

      稻荷社へ納めし土燒製の狐。

   狸  おたぬき樣。

   猪  摩利支天信仰に關し。

   猫  阪地天王寺の守猫。

      肥前杵島郡の猫大明神。

      招猫(マネギネコ)

[やぶちゃん注:「ネ」は「子」を当ててある。]

   鼠  大黑天の神使。

      子の聖權現。

   猿  日吉山王の神使。

      帝程天の使猿。

      庚申尊の猿。

      甲州猿橋の猿の社。

   貘  惡夢を喰ふと信ぜらるゝもの。

   白澤 招福避惡を與ふると。

   雷獸 電雷中雲に乘りて恐るべき力を有すと。

   虁(キ) 甲斐東山梨郡鎭目村虁の神。

   水虎 祈願する者には水難を免かれしむと。

次に鳥類に就て云へば、

   鴉  熊野の牛王、及、神使として。

      鳴聲によりて吉凶を豫知さするものと。

   鷄  荒神の好み給ふものと。

      火災を知らすものと。

      山城伏見觀音所出、鷄の書。

   鳩  八幡宮の神使。

      山城虫八幡の土鳩。

      東京淺草觀音の豆鳩。

   鷙  酉の市鳥大明神に關し、招福の鳥とす。

[やぶちゃん注:「鷙」「わし」。「鷲」に同じ。「酉の市」の行われる神社は鷲神社である。]

   鴻  下總鴻の巢神社の鴻。

[やぶちゃん注:神社の公式サイトを見る限り、伝説のそれは社名通り、コウノトリである。]

   雷鳥 除雷。

   白鳥 武尊の故事により。

[やぶちゃん注:「武尊」やまと「たけるのみこと」。]

   鷽(ウソ) 天滿宮鷽替の神事の鷽。

   姑獲鳥(ウブメ) 產婦死して此鳥になると。

   鴟鵂 鳴聲、凶事を知らす。

   鷺  鷺大明神として疱瘡を輕くす。

   鵜  伊賀島ケ原村鵜宮の神使として。

鳥類に就て、迷信、大略、右の如くなれば、龍蛇龜魚の類を記るさん。

   龍  乞雨防火として。

      龍神。

      九頭龍權現。

   白蛇 辨才天の使又は化身として。

      北辰妙見の使。

      宇賀神として。

   海蛇 出雲大社の龍蛇。

   龜  延命長壽を祈願し、生き龜を放すことゝす。

      京都松尾明神の神使。

   鯉  年歷經たる鯉、池の主となると云ふこと。

   鯛  夷與神の好まるゝ魚と。

      安房鯛の浦の日蓮上人に關する鯛。

[やぶちゃん注:「夷與神」「ゑびす神」のことであろうが、こんな表記は見たことがない。]

   鯖  東京芝の鯖稻荷、鯖の繪馬。

   鰻  虛室藏菩薩を信ずる者、又は

      其佛を守佛とする者は鰻を食せず。

      河野家の者、これを食せず。

   鯰  地震を起す大鯰魚、地中にありと。

      遠江の鴨江の辮天。澱風(ナマヅ)を

      病む者。鯰魚の額を納め。鯰を食せず

      と誓願す。

[やぶちゃん注:「澱風(ナマヅ)」皮膚表面に斑点を生じる皮膚病。表皮が癜風 (でんぷう) 菌という真菌に感染することで発症し、冒された皮膚の色により、「白なまず」・「黒なまず」と称する。]

   鰶(コノシロ) 駿河山宮の淺間の氏子、

      鰶を食せず。

      鰶を身代に葬禮して病氣快復を祈願す。

   虎魚(オコゼ) 日向奈須の山村。おこぜを

      祭りて獵を祈ること、柳田國男氏の

      後狩詞記に載す。

   鱏(アカヱ) 阪地今宮の森廣神社に鱏の

      繪馬を納め又は鱏をたちて痔疾を祈る。

   章魚 章魚藥師に關し、禁食、又、繪馬とし、

      納む。

   蟹  安房地方、蟹の繪馬を地藏尊に納めて

      手足の痛を治すべく祈願す。

   田螺 藥師佛に眼病を祈る者、食せず。

蟲類に關するは、多くあらず。

   蟻  紀州及泉州にある蟻通明神に關し。

   蠶  養蠶家は蟲の稱をなさず、人の稱を

      以てす。蠶神とし、蠶祭りをなす。

   蝶  人の魂魄、蝶に乘り移り來り、又は

      化身すと信ぜらる。

   蜈蚣 昆沙門天の神使として。

此等動物崇拜、及、信念は、動物地理上の分布に關せず。又、其者の實在の有無に關せず。又、甲地にては崇拜信念を以てこれに對するも、乙地には何等の信念をも拂はざるあり。丙人、或動物を崇拜するも、丁人、之に向て更に何等の信念を有することなし。

    此等の動物崇拜さるゝ原因

     其一 各自に就て

獅子 總て、動物其者を直接崇拜するは、至て希にして、神佛の威力により特種の權力を有すと信ぜらるゝにより崇拜さるゝにて、獅子の如き、それなり。故に實物の獅子に對して何等の信念も起さゞるが、山王神田の祭に於て、神輿に先立つ獅子頭には、諸人、賽錢を投じて、これを拜す。元來、獅子は支那朝鮮に產せず、西域より漢土に渡りしにて、南史梁武帝時、波斯國獻生獅子と、又、司馬虎の續漢書に章和元年安息國献上子と。此等の記錄によれば、漢土へ渡來の年代を知り得べし。此頃より繪𤲿彫刻織物等に獅子の圖形を用ひ、宮殿の裝飾、墳墓の石獸等に獅子を作るに到れるなり。

天智以下、元明帝の頃、唐代の文化、輸入され、宮殿、大寺の飾り、織物の紋樣にも獅子形を用ひ來り、戶扉を留める爲の鎭子(オサエ)として製作されしもありしなり。東大寺南門の石獅子、筑前宗像神社の石獅子、其他、諸國神社に存する古き石獅子等、何れも其始め、鎭子より起り、倂て裝飾となされしことなり。近世、獅子より轉じて石狐、石牛、石猿等を神社の左右に作れるに到れり。

佛敎傳來とゝもに、獅子舞の、隨唐を經て、本邦に傳はり、雅樂の一となり、東大寺、興福寺等に獅子舞ありしより、諸國神社に行はるゝ獅子舞となり、伊勢、尾張の太神々樂となり、又、田舍獅子、角兵衞獅子等を出せるなり。

此等、建築上よも飾りとし、又、鎭子として作られしものと、雅樂舞より來りし獅子頭とは、獅子崇拜の重なる原因となれるにて、神社を離れて神視さるゝものにはあらず[やぶちゃん注:原本の「す」を濁音化した。]。夫故、活き獅子には崇拜の念、起らぬことなり。

虎 古くは韓國の虎ちふ神と萬葉集によまれ、又、四神の白虎、藥師十二神將の眞達羅大將、寅童子、昆沙門天、藥師佛の緣日等になされてあれど、虎に對する信念は至ら希にて[やぶちゃん注:ママ。「至つて希にて」の誤植ではなかろうか。]、大阪道條町神農祭の張子の虎が惡疫を除けると信ぜらるゝにすぎず。支那は虎を崇び、神仙張、天師虎に乘り來るを信じ、虎は惡人を喰殺せど、善人には危害をなさず、と云へど、本邦には虎に就ての信念なきは、鬼將軍淸正の虎狩、俗信を破りて力ありしことと思はる。

象 象形の歡喜天を信ずる者あれど、生象を拜する者なく、普賢、白象に乘り居るを信ずるも、象を崇拜せず。維新前、象頭山金比羅を信仰せし者、象形の上に神號を朱印せし御影を信ぜし者あり。元來、象形の歡喜天は婆羅門敎の加那沙と稱する神の佛敎に移りて、密家の祕神大聖歡喜天となりしもの。又、普賢の象、金比羅の象頭山等は、只、夫等の佛神に緣あと云ふのみなり。

馬 神佛の乘り玉ふ馬は、或特別なる權を有すと信じ、神馬に豆を與へては、小兒頭瘡を治すべく祈願す。これ馬は草を食す故に、小兒の頭瘡を「クサ」と云へば、馬に「クサ」を食はせて治す、との俗信より起りしなり。淺草觀音の白馬の如き好例なり。

馬崇拜に關し、馬頭觀音を信ずる者あれど、馬に關せる佛尊にあらず。華嚴鳳潭撰觀音纂玄紀に、馬頭尊に就て諸經を引て說かれたるも、馬に關することはあらず、此の尊の權威を如輪王馬巡履四洲一切時處去心不ㇾ息云云と說きあるのみなり。

𤲿馬は、馬を紳社へ奉る代りに、馬を𤲿きて納めしより起りたる納物なるが、一度納めし繪馬を借り受け來りて、守札となせる地方あり。武藏比企郡岡村の馬頭尊の繪馬の如き一例なり。

古き鐵蹄を戶口に掛けて守りとする信仰は、北歐人の、三日月信仰より三日月形を崇拜せる歐洲迷信の入り來りしなり。

[やぶちゃん注:これはちょっと私には信じられない。]

馬の草鮭を戶口に掛けて疱瘡又は惡病除けとなすものあり。夫には、馬の草鞋の新しき片足を拾ひしに限る、と馬草鞋の片足、未だ土につかぬのは、落す者に希にてあれば、殊に希の物を得たるを以て、禁咒の類とせしにすぎず。

牛 素盞鳴尊を祀れる神社を佛家祇園精舍の守護神牛頭天王の垂迹し玉ふとせしより、牛頭人身の御影を出し、土牛を作りて守りとせし等より、牛の繪馬、牛の玩具などを此等の神社に納め、又は、受け來りて守とせるなり。

牛天神は管公[やぶちゃん注:「菅公」の誤植。以下の「管神社」も同じ。]の牛に乘られしとの傳說より管神神に牛を彫し置かるゝより、牛名[やぶちゃん注:ママ。「名」は意味不明。]を崇拜する者あり。龜戶天神、及、牛天神等の牛石、其例なり。

羽黑山の牛の圖は、火防として受ける者あり。羽黑山建築の時、材木を曳し牛と云ふ。

安彥淸澄山火防の牛と云ふ圖は、此等に存する左甚五郞の彫刻の牛を圖𤲿として出せるなり。

善光寺の牛は、佛者の善巧方便より起りたる說にて、牛の縁起などもあり。

撫牛(ナデウシ)は、寬政年間、上方より流行して、一時、盛に崇拜されしものにて、頭に大黑天をつけたる牛なり。木彫、又は、土燒にて作らる。

兎 因幡の白兎は大穴牟遲神の故事により、白菟神社として因幡國氣賀郡内海(ウツミ)に祀られてあり。

鹿 春日の神、鹿島の神使として、之を殺傷するを禁じ[やぶちゃん注:清音を濁音化した。]、鹿を殺す者は死刑にされしと云はるゝ程なりし。今は囿を設けて、之を飼養し居れり。徂徠の南留別志には鳰を八幡の使者、猿を山王の使者といへるも、八幡の山王のをとりていへる事成るべし。鹿を春日と云も、カ、もじ成るべし、記されたるが。緣語より出たるにあらず、神社の在る地に生活する動物を神使などゝ云へるにて、奈良春日の地、神社無き時より、群鹿、住たる地なるべし。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」である。]

犬と狼 御嶽三峯、金峯椿埜、其他、諸國に犬を書きたる戶守を出す神社あり。犬の門戶を守るよう、盜賊、火災を知らず、と信じたるより起りしなれど、狼は門を守る如き獸にもあらぬに、武藏御嶽より出す札守には、狼を𤲿き、其上に大口眞神と記せり。萬葉集に「大ロの眞神(マガミ)の原に」と云へるあれど、狼の口、大きなるをいふにて、まがみは眞神(マガミ)の意にあらず。嚼(カム)にて、眞に甚敷[やぶちゃん注:「はなはだしき」。]を云ふにて、神のことにあらず。此の如き誤りより、狼の𤲿、守を信ず者あるに到れり。

若狡三方郡向陽寺より出す狼の守は、住職が狼の咽喉にたちし骨をぬきやりし恩返しに與へし守札と云へり。

越前今立郡上池田日野宮神社の神使は狼なりと信ずるより、此狼、盜人除をなす、と信ぜり。之前に云へる犬の門を守るより、移り來りし誤りなり。

犬守、犬張子等、犬の子育、丈夫なるより來れる俗信なり。犬の死靈、魚漁の幸を與へしとて、上總より安房の海岸に流行神となりしことあり。偶然の出來ごと[やぶちゃん注:濁音化した。]を迷信せしより起りしなり。

孤 稻荷の神使として狐を崇拜するの起りの、山城稻荷山に登宇女の社、又、命婦の社と稱して、三つの狐を祭りあるより、神使などゝ言ひ出せしことなり。夫に又、佛敎天部の吨枳尼天は稻荷神の本地と云へるより、此佛天の、天狐に乘りたまへる御影などゝ、孤を命婦と稱せしより、稻荷神を女性と誤信し、狐崇拜を高めしことなり。京の吉田山、伏見の稻荷山、其他、此神を祭れる地に、狐穴、多くあるより、神使などゝ俗信するに到りたるなり。

[やぶちゃん注:「吨枳尼天」は荼枳尼天(だきにてん)のことだが、こんな字は見たことがない。「吒」の誤植であろう。]

狸 狐狸とならび稱さるれど、狸崇拜は、後だての神力なき故に、至て憐れなる者なりし。江戶時代、本鄕大根畑、及、下谷御、徒町邊に、お狸樣とて、小さき土燒の狸を出したる家ありしが、今は絕えたり。之を受る者、布團を敷き、招福の迷信を以て、崇拜せしなり。

猫 猫崇拜は花柳社會に行はるゝ招き猫とて、手を耳の上にあげ、手招く如き樣したる玩具の猫の、布團を重ね神酒、燈明を供じて、來客を招き込むべく祈願す。此の起り、近年のことなるが、招猫は諸國に廣まれり。こは、文政の末年、淺草觀音境内に老婆あり、今戶燒の招き猫の玩具を賣れり。此猫の印しに[やぶちゃん注:手書きの組み込みなので、以下に原本を拡大したものをスクリーン・ショットしてトリミングしたものを掲げた。]、

Marine

を附たり。「九る〆に招き込」の吉語、人氣を得て、流行せしより、今に及びしなり。酉陽雜爼[やぶちゃん注:底本は「酉」が「西」になっている。特異的に訂した。]に猫洗面而過耳則客至と。之によりて作りしか。

猪 魔利支天の乘り玉ふ獸としてあれど、崇拜する者なし。此天を信ずる者、猪肉を食せざるのみ。

鼠 白鼠は大黑天の神使、福を持來るものと信ずる者あり。古事記に鼠が鳴鏑(ナリカブラ)を食ひし故事も大國主神に就てのことなれば、神使と信ぜしことと見ゆ。又、武藏秩父の子聖(ネノヒジリ)權現の使者も、鼠なゐ[やぶちゃん注:「なり」の誤植か。]と信ずる者あり。其他、賴豪の靈、鼠となりしを祀れる社、叡山に在りと云へば、鼠に關し、或一種の崇拜を起せしなり。

猿 猿を日吉山王の神使と俗信せるは、叡山に多く住居たる野猿と、傳敎大師の不見不聞不言の三猿說等より、庚申尊、帝繹天等、猿を使者となさるゝとのことも、傳敎の三猿說より出たることならん。

甲斐猿橋の猿の社は、猿の藤曼を傳ふて向岸へ達せし智を學び、掛橋せしより、其猿を崇拜せると云ふ。

獏(バク)惡夢を喰ふとの想像上の動物なり。本草に獏之主治辟邪氣と。又、年中風俗考に、白氏文集、獏屏贊序を引きて、寢其皮辟ㇾ瘟圖其形辟ㇾ邪云々。これらの文によれば、獏の皮を敷ば、瘟疫を辟くの功あり、と云はれしより、惡夢を食ふ、との說も出しと見ゆ。

白澤(ハクダク) 總身に眼あり。白長毛、人面、三目、六角馬足の怪獸。此圖を室内に掛置ば[やぶちゃん注:濁音化した。]、妖怪も災をなすこと能ず、と支那傳來の俗信なり。

雷獸 電雷、大樹を裂き、落雷の跡を殘すを、雷獸の瓜にてさきたるものと信じ、恐るゝ者あり。雷神は此獸を神使し玉ふと信ず。

虁(キ) 此獸を神視し、除雷開運守護として崇拜するは、甲斐東山梨郡鎭目村山梨岡神社あるのみ。徂徠の峽中紀行の山梨神社を記せし條に、有木刻獨足獸一祠祝不ㇾ識爲何獸問ㇾ祠奉何神卽大山祇命也。傳云山之怪虁魍魎豈是耶、と記せる、之なり。元來、社前に、年經し木彫の高麗犬の、後部と前足の一つ、缺とれ、一足獸の如くなりしを、徂徠の紀行文により、虁神と名付、雷除などゝ云ひ出せしことにて、嘉慶板の增補萬寳全書に、東海有獸其狀如牛蒼身首無角一足出入有風雨其音如雷名曰虁と、其音如雷などより、雷除と云へるならん。

水虎(カツパ) 享和の初年、江戶南八丁堀の漁師十右衞門なるもの、川童(カツパ)の御影を出し、水難除と信ぜし者ありしが、今は絕えたり。只、夏日、兩國、又は、永代の橋上より、黃瓜を川水に投じて水虎に祈願し、水難を免かるべく祈る者あり。

鴉 熊埜の牛王と關係して鴉は神使とされ、牛王に書きし誓文を破れば、鴉の一羽、死す、と云はれたり。熊野の山に、山鴉、多く住むより、神使なり、と云へるならん。夫に又、牛王の文字、書體、大師樣より、鴉の如く見なせしによるとならんが、熊と鴉の黑色の關係もありしことと見ゆ。

加州白山に白鴉あらはれ、此鳥の𤲿を門戶に張り置けば、惡疫を免かる、との迷信は、天保の頃より、云ひ出せり。

鶴[やぶちゃん注:「鷄」の誤植。] 鷄、夜鳴すれば、火災あり、と信ぜらる。塒に居る鷄、深夜、火光を見て、東明と誤り、鳴立しことなどありしならん。爲めに、火災を防ぎなど致せしより、荒神、鷄を以て使者とし玉ふ說の出しとならん。

鳩 八幡神社の神使とし、白鳩、旗の上に飛べば[やぶちゃん注:濁音化した。]、勝軍の吉兆なり、と源氏武士の喜びしことは、今に存し居るなり。八幡宮の社地、多く鳩住みたる故に、神の好み玉ふ鳥とし、使者なりしと、土製の鳩を納め、鳩の𤲿馬を納めて、祈願なす者あり。

鳩は、豆を吞下すに、喉に閊へることなきとて、土燒の豆鳩を箸箱に入れ置く、とあり。淺草觀音堂より、此類の鳩を出す。

鷲 酉の市とて、東京各所の鷲大明神の市ある。熊手を買ひ求めて、招幅のものとす。鷲の瓜[やぶちゃん注:「爪」の誤植であろう。]と、熊手の形ち、摑み、搔込むゆゑに、拜金宗の我欲者、酉の市の熊手を喜ぶなり。

鴻 下總鴻巢神社の故事に、鴻の、蛇神を殺せしより、神に祀れり、との說あり。此地の者、鴻を神視するあり。

雷鳥 加州白山に雷鳥と云ふ鳥住むと、此鳥の形を𤲿き置かば、落雷の難なしと信ず。

白鳥 武尊の靈、白鳥となられしとの傳說あり。

鷽 天滿宮鷽替の神事、虛言(ウソ)と鷽と、邦音、通する故に、一年中の虛を鷽に代て、眞に致す、との意あり。此神事をなす。

姑獲鳥 佛者の方便より出たるならん。

鴟鵂 夜中、此の鳥の鳴聲、淋しものゆゑ、不吉と云へるならん。

鷺 庖瘡の守神に、鷺大明神と云ふあり。此神の愛で玉ふ鳥と云ふ。

鵜 鵜宮の神使なりと。

龍蛇崇拜は支那傳來と本邦古代よりのと原因をなせしと見ゆ。神代卷、素盞鳴尊の蛇(オロチ)を可畏(カシコ)之神と曰へる、とあり。古語(ミ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は蛇なり。和名抄に水神、又、蛟、和名、美豆知、と云ふは、水中蛇なり。書記[やぶちゃん注:ママ。]に云ふ、靇の字は龍なり。萬葉に、吾岡之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武(ワガヲカノオカミニイヒテツラセタルユキノクダケシソコニチリケム)。此等の語、龍蛇を神視せしを證すに足れり。漢土傳來の龍、及、佛敎の龍王說等、亦、此崇拜を高めしことなり。

龍 龍騨、雨を降らすの信仰は古く、請雨經曼茶羅など有しによつて、知らる。龍は水を自由になすの權ありと信ぜられしにより、水の火を消す故に、火防の祈願をなすものあるに到れるなり。

白蛇 辨才天の使者、又は、化身として崇拜さるれど、經文に、其證、無し。頓得如意寳珠陀羅經上略其形如天女頂上有寳冠中有白蛇中略此神王身如白蛇如白玉下略とあれども[やぶちゃん注:「あれども」は底本では「あれとも」。]、此經、僞經なること、沙門浮嚴の大辨才天秘訣に、詳に辨明あり。淨嚴は、最勝王經の大辨才天品は眞經なれど、自餘、悉く僞經なり、と說けり。大辨才天品には、白蛇に關せる文、なし。されば、白蛇崇拜は僞經より出たる、となり。白蛇の宇賀神說も、前記の僞經より、起りしなり。

海蛇 此崇拜の著き者は、出雲佐田社の神事なり、舊曆十月十一日より十五日迄の間に、錦紋の小蛇、海上に浮み來るあり。神官、其來るを待て、海藻を以て之を受け、神前に奉ず。此蛇、火災水難を除くと信ぜられ、崇拜さる。予、之を見しに、鰻の如き尾を有す、海蛇なり。之と同し海蛇、駿河沼津の海岸に流れつく、とあり。漁夫は龍宮の御使なりとて、尊敬し、大切に致し置くこととす。

龜 龜を放ちて長生を求め、龜の長壽說を信じて、死を嫌ふの情より、かゝることをなす者あり。又、松尾明神は壽命の神にて、龜を神使となし玉ふとて、信ずる者あり。

魚類、蟲類に就ては、取り立て記すべき程のことも無き故に、大體につきて、云はんのみ。

鯉 古池の主に年經たる鯉魚なり居る、との俗信あり。

鯛 房州鯛浦の鯛は、日蓮上人、漁を禁じたるとて、今に漁せずと云ふ。之を漁すれば、火災ありと信ず。

鯖 芝の鯖、稻荷の好み玉ふとて、之を供じ、又、繪馬とす。

鰻 虛空藏を信ずる者、之を食せず。又、河野家にては、祖先が、戰諍中、船の穴に、鰻、這り居りて、難を免かれしとありとて、食せぬこととす。

鯰 鹿島の要石(カナメ)は、地震を起す大鯰を抑へをると云はれ、又、澱風(ナマヅ)と鯰と、國音、通ずる故に、鯰魚を禁食し、澱風を治すべく祈る者あり。

鰶(コノシロ) 子(コ)の代(シロ)として、小兒成長を祈願し、鰶を身代りに、葬式する者あり。又、駿河富士郡大宮、及、山宮淺間の氏中は、鰶を食せぬ者あり。神女の身代りになりし魚と云ふ傳說ありて、食せぬなり。

虎魚(オコゼ) 此魚を祭る日向奈須山村の奇風俗に就ては、柳田國男氏の後狩詞記に「海漁には山おこぜ、山獵には海おこぜを祭る。効驗多し、と云ふ。其方法は、おこぜを一枚の白紙に包み、告げて曰はく、おこぜ殿、おこぜ殿、近々、我に一頭の猪を獲させ玉へ。さすれば、紙を解き開きて、世の明りを見せ參らせん、と。次て、幸に一頭を獲たるときは、又、告て、前の如く云ひて、幾重にも包み置と」ぞ[やぶちゃん注:鍵括弧閉じるの位置はママ。]。之、おこぜを欺きつゝ、崇拜する奇風と云ふべし。

此等の他、章魚、田螺、及、蟲類に關する迷信上の崇拜は、格別に記るす程のことも無ければ、略す。

     其二 一般の原因に就て

以上、各自に於て記せし如く、單に動物を崇拜するは、殆ど無之、何者か動物の後方に立つ者ありて、信念を起さするにて、本邦の動物崇は、神佛を離れて成立つものにあらず。偖、此等、崇拜の一般原因として見るべきは、

 一本邦古代の傳說より

 二近世神道者流の說より

 三佛敎中の傳說より

 四僞經の文より

 五神使說より

 六緣日より

 七支那傳來の說より

本邦神代の白菟美豆知等より來れるのと、宣長翁の玉鉾白首に「神といへばみなひとしくや思ふらん、鳥なるもあり、蟲なるもあり」「いやしけど、いかづち、こたま、きつね、とら、龍のたぐひも、神のかたはし」稻掛大平の、之を解して云へるに、鳥獸鍛魚のたぐひまでも、あやしく、くすしき勢ひ、しわざある者は、みな、神なり」と國學者宣長の如き、大平の如き此等の動物を、神の片端と云ふに至りては、思想、卑き劣れる者、如何で此等を崇拜せずに居るべき。此慮に於いて、大口眞神(狼)を拜み、命婦(狐)を神使視するに到れるなり。前にも云へる如く、山王の猿、春日の鹿、八幡の鳩、熊野の鴉、稻荷の狐などの類、其社の所在地に多く住む處の禽獸を、神使などゝ信ぜしより、起り、又、佛家緣日と云へる者より起りしもあることにて、藥師佛の寅辨財天の巳の如き、此等も正しき經典には見へぬとなり。巳の日の如き、最勝王經卷第七、大辨財天女品第十五に、黑月九日十一日於此時中當供養の文あれど、巳の日のとなし、寅の日の藥師佛に就て、天野信景は、鹽尻に云ヘり、日本紀略に、山城太秦藥師は長和三年甲寅五月五日甲寅安置、とあるより出るならんと。然らん。此等の外に、支那傳來のもの、道敎より導かれし龍の、又は、佛敎の雨乞などより、龍蛇崇拜も起りしことなり。以上、要するに、人心、無形的思考せる神を、覺性的に見んことを欲し、而て、之を、見らるべき外界に求め、神佛無形の權は、動物有形の灌を通じて、人に其意を告知すと信じ、種々の動物を神視し、迷信して、崇拜をなすに至れるなり。

 

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(3:鼬)

 

○鼬、倭漢三才圖會卷三九に、鼬群鳴すれば、不祥と爲すとは、今も然〔しか〕信ずる人あり。或夜中有焰氣高昇如立柱、呼爲火柱、其消倒處必有火災蓋羣鼬爲妖也と斯る迷信今も存ずるや否を知らず、稍や之に似たるは、丁抹〔デンマーク〕國等に建築中材木より火出で飛ぶは、その家火災に罹る兆なりと傳ふることなれども、鼬の所爲たりと言はず(H. F. Feilbery, ‘Ghostly Lights.’ Folk-Lore, vol. vi. p.288 Seqq.  1896.)源平盛衰記卷十三に、鼬躍り鳴きて程なく、後白河法皇、鳥羽殿より還御のことあり、又義經記か曾我物語に、泰山府君の法を修して、成就の徵しに鼬現はるゝ話ありしと記憶すれば、別に崇拜されしと聞かざるも、古來邦人の迷信上、鼬はなかなか一癖ある獸と知られたり。

[やぶちゃん注:「倭漢三才圖會卷三九に、……」江戸前・中期の医師寺島良安(承応三(一六五四)年~?:生まれは出羽能代(一説に大坂高津とも)生まれの商人の子とされる。後に大坂に移って、伊藤良立・和気仲安の門人となり、医学・本草学を学んだ。後にこの業績が評価され、大坂城入りの医師となり、法橋に叙せられた。この間、明代の医学の影響を受けた著書を多く刊行した。その最晩年の事蹟は不明であるが、享保(一七一六年~一七三六年)の頃に没したとされる)の主著である正徳二(一七一二)年に刊行した類書(百科事典)「和漢三才圖會」(「和」は「倭」とも表記する)。全三百巻から成り、明の類書「三才圖會」(明の一六〇九年に刊行された王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻)の分類・構成を参考にして執筆された本邦初の絵入り百科事典である。但し、本草部は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」を基礎記載を用いている。本文は漢文体であるが、丁寧に訓点が打たれてある。私は本書を偏愛しており、サイトで「和漢三才圖會」の水族(海藻・海草・淡水藻の他に菌類・菌蕈類・蘚苔類・地衣類・シダ類等を含む)の部全七巻、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び、

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、以下、一部を除いてブログで動物部の、

卷第三十七 畜類

卷第三十八 獸類

巻第三十九 鼠類

卷第四十  寓類 恠類(これはサイト版)

卷第四十一から巻第四十四 禽部

卷第五十二から巻第五十四 蟲部

を、実に十二年半かけてオリジナル電子化訓読注をし終えている。その「巻第三十九 鼠類」(良安は「本草綱目」に従い、鼠類に分類し、その最後に配している)の記載は「和漢三才圖會卷第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」にある。その内の訓読文を示す。下線太字は私が附した。

   *

「本綱」、鼬、狀〔(かたち)〕、鼠に似て、身、長く、尾、大〔なり〕。黃色に赤を帶ぶ。其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し。其の毫〔(がう)〕[やぶちゃん注:細い毛。]尾と與(とも)に筆に作るべし。其の肉【甘、温。小毒有り。】〔は〕臭し。此の物、能く、鼠及び禽〔(とり)〕・畜〔(けもの)〕を捕ふ。亦、能く、蛇・虺〔(まむし)〕を制す。

△按ずるに、鼬、其の眼、眩(かがや)き、耳、小さく、吻〔(くちさき)〕黒く、全體、黃褐色。身、長くして、柔〔かく〕撓〔(たをや)かなり〕。小〔さき〕隙〔(すき)〕・竹の筒と雖も、反轉して出でざるといふこと無し。能く、鳥・鼠を捕へて、惟だ、血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず。其の聲、木を輾(きし)る音のごとし。群鳴すれば、則ち、以つて不祥[やぶちゃん注:不吉の前兆。]と爲す。或いは、夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す。其の消へ[やぶちゃん注:ママ。]倒るゝ處、必ず、火災、有りといふは、蓋し、群鼬、妖を作〔(な)〕すなり。

水鼬〔(みづいたち)〕 本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕。常に屋壁の穴に棲みて、瀦池(ためいけ)を覘(ねら)い[やぶちゃん注:ママ。]、水に入りて、魚を捕る。性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る。故に魚を養(か)ふ池邊に瓢簞を安(お)く。

   *

学名及び本邦産種群(四種七亜種ほど)はリンク先の私の注を見られたいが、江戸時代までの民俗社会では、上記の下線太字部で判る通り、狐狸同様に人間に化ける或いは人間を化かす妖怪として認識されていた。されば、古いその根元に於いては、敬して遠ざくるに若かざる獣魔神としてのトーテムの属性を有していたと考えてよい。謂わば、零落したのである。

H. F. Feilbery, ‘Ghostly Lights.’」この資料(「鬼火」或いは「妖火」「怪しき火光群」とでも訳しておく)は見当たらないが、欧文書誌資料(但し、英語ではなく、デンマーク語っぽい)の中に頻繁にこの「H. F. Feilbery」という人物の名が見える。民間の伝承研究家か。因みに、この作者と標題のフル・フレーズで検索すると、あろうことか、日本各地に伝わる怪火の一種である「天火」(てんか/てんび/てんぴ)のウィキを英訳した英語版タイトル「Tenka (atmospheric ghost light)」(空中の怪光現象)が一番にに掛かってくるのは面白い。熊楠もニンマリだろう。

「源平盛衰記卷十三に、鼬躍り鳴きて程なく、後白河法皇、鳥羽殿より還御のことあり」所持する(平成六(一九九四)年三弥井書店版刊)「源平盛衰記(三)」で確認した。「法皇鳥羽殿より還御」の冒頭近くである。カタカナをひらがなに直し、漢字を正字化し、漢文表記部は訓読し、句読点・記号を・改行も増やして示す。踊り字「〱」は正字化した。一部表記を別本で変えた。

   *

 一院は年をへて、月を重ぬるに付ても、「新大納言成親父子が如く、遠國遙(はるか)の島にも放遷さんずるやらん」と思召けるに、城南離宮にして春もすぎ夏にも成ぬれば、「さていかなるべきやらん」と御心ぼそく思召て、御轉讀の御經も彌(いよいよ)心肝に銘ジテ思し召されける。五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の何(いづ)より來り參たり共(とも)御覽ぜざりけるに、御前に參り、二、三返走り𢌞り、大に、きゝめきて[やぶちゃん注:鳴き叫びて。]、法皇に向ひ參(まひらせ)て躍上、躍上、目影(まかげ)[やぶちゃん注:後脚肢で立ち上がって、前肢を挙げ、その掌を両目の上に翳すこと。鼬は人を見ると、この行動をとるとされた。]なんどして失にけり。大に淺間しく思召て、

『禽獸鳥類の怪をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に樣有べしと覺たり。去(され)な籠(こめ)置たるも、猶、飽足らず思て、入道が、朕を死罪などに行(おこなふ)べき計(はからひ)などの有にや。』

と思召(おぼしめす)に付ては、

「南無一乘守護普賢大士・十羅刹女、助させ給へ。」

と御祈念有けるぞ、悲き。

 源蔵人仲兼と申者あり、後には近江守とぞ申ける。法皇の鳥羽殿に遷され御座て參り寄(よる)人もなき事を歎けるが、思に堪ず、

『如何なる咎に合(あふ)とても、いかゞはせん。』

思て、忍つゝ參たり。

 法皇、御覽じて、

「哀、あれはいかにして參たるぞ。」

とて、やがて、御淚を、のごはせ給ふ。

「さても、只今、然々[やぶちゃん注:「しかしか」。鼬のそれを指す。]怪異あり、急き聞召たく思召に[やぶちゃん注:自敬表現。]、折節、參りあへる事、神妙神妙。」

とて、御占形[やぶちゃん注:「おんうらかた」。占うべき対象を記した下し文であろう。]を賜て、

「泰親がもとへ。」[やぶちゃん注:陰陽寮陰陽頭(おんみょうのとう)安倍泰親。]

と勅定[やぶちゃん注:「ちよくぢやう」。]あり。

 仲兼、急ぎ京へ馳上り、院陽頭泰親が樋口京極の宿所に行向て、御占形を以つて勅定をのぶ。

 泰親、相傳の文書、よくよく披(ひらき)て見て、

「今月今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悅、後、大なる御歎也。」

と勘(かんがへ)申たり。

 仲兼、先(まづ)嬉くて、件の勘文を以て鳥羽の御所に歸參して、此由を奏す。

 法皇は、

「いさいさ、何故にか、左程の御悅は。」

と、思し召されける程に、法皇の御事、大將[やぶちゃん注:平宗盛。]、强(あながち)歎き申されけるによりて、入道、さまざまの悪事、思直て、同十四日、に鳥羽殿より、八條烏丸御所へ還入進す[やぶちゃん注:「かんじゆ、しんす」。還御すること。]。是にも軍兵、御車の前後に打圍てぞ候ける。

 十二日の先表[やぶちゃん注:前兆。]、同十四日の還御、三箇日の中の御悅と占申たりける事、つゆ違はず。

『「後の大なる御歎」とは、又、いかなる事の有べきやらん。』

と、御心苦く思召ける。

 法皇は、去年の十一月より、御意ならず鳥羽殿に籠らせ給ひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽(かすか)なりし御住居引替て、御心廣く思召ける程ニ、還御の日しも、第二御子高倉宮の御謀叛の御企ありとて、京中の貴賤、靜ならず。去四月九日、潜(ひそか)に令旨をば下されたれども、源三位入道父子・十郎蔵人の外には知人もなし、蔵人は関東へ下向しぬ、いかにして洩にけるやらん、浅ましとも云計なし。

   *

というシークエンスである。清盛によるクーデタで、後白河院政は完全に停止(ちょうじ)され、治承三(一一七九)年十一月二十日に、洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となっていたが、治承四年五月十四日に後白河院が武士三百騎の警護により、八条坊門烏丸邸に遷った折りが、最後のシーンである。

「義經記か曾我物語に」掟破りの引用原拠不確定表示で手古摺ったが、これは恐らく前者であろう。但し、それは引用元が不確かであった如く、熊楠の謂うような、「泰山府君の法を修して、成就の徵しに鼬現はるゝ話」とはなっておらず(むしろある種の注意喚起を示す警戒的兆しと言うべきものである)、熊楠の記憶の錯誤である。少し長いが、以下に「曾我之物語」の王堂本の巻第二の頭にある「大見・八幡(やはた)をうつ事」(プレ・ストーリー)で伊東九郎祐清が父祐親入道の命に従い、八幡三郎の首を獲った話の直後に配された、「いたちの怪異(けい)の事泰山府君の事」を示す。岩波文庫本穴山孝道校訂の上巻(一九三九年刊)を底本とした。記号を追加し、段落を成形したが、読みは一部に限った(カタカナは原本のものなので総てとった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。底本本文の歴史的仮名遣の誤りの内、穴山氏が訂正注を施しておられる部分は、そちらをとった。

   *

 さても、八幡の三郞が母は、くずみの入道寂心が乳母子(めのこと)なり。すでに八旬にあまりけるが、のこりのあまりにくどきけるは、

「御主(しゆう)の爲に、命を捨つる事は、本望なれども、此の亂のおこりをたづぬれば、おやのゆずりをそむき給しによつて也。しかるにじやくしん、世にましましし時、きんだちあまた並みすゑて、酒宴なかばのをりふし、もち給ひつるさかづきの中へ、空より大きなるいたち一つおち入つゝ、ひざのうへにとびおりぬとみえしが、いづくともなくうせにけり。稀代(けだい)のふしぎなりとて、やがて勘(かんが)へさすせたまひければ、

『おほきなるへうじ[やぶちゃん注:表示。予兆。]なり、つゝしみ給へ。』

と申したりしを、さしたる祈禱もなくてすぎ給ひぬ。さていくほどなくして、じやくしんは、かくれ給ひけり。さればにや、後しら河の法皇も、鳥羽の離宮にわたらせ給ひし時、大きなるいたちまゐりて、なき騷ぎけり。博士に御たづねありければ、

『三日のうちに御よろこび、又は御なげき。』

と申しけるにあはせて、つぎの日法皇をとば殿より出したてまつりて、八條烏丸の御所へ入たれまつる。これ御よろこび也。又御なげきと申けるは、そのまたの日、たかくらのみやの御むほん[やぶちゃん注:以仁王の挙兵を指す。]あらはれて、都を出ましましてつひに奈良路(ならぢ)に討たれさせ給けるなり。かやうのためしをもつてむかしを思ふに、大國に大王おはしけり。樓閣を好き給ひて、あけくれ宮殿をつくり給ふ。中にも上かう殿と號してたかさ廿よ丈の高樓をたてらる。はしらはあかがね、けた・うつばりは金銀(きんぎん)也。軒には珠玉瓔珞(しゆぎよくやうらく)をさげ、壁には、靑蓮(しやうれん)の華鬘(けまん)をつけ、内には瑠璃の天蓋をさゝげ、四方に、瑪瑙(めなう)のはたをつり、庭には、珊瑚琥珀をしきみちて、ふく風ふる雨のたよりに、蘭麝(らんじや)のにほひにたゞよへり。山を築(つ)きては亭を構へ、池をほりては舟をうかぶ。水にあそべる鴛鴦(ゑんあう)のこゑ、ひとへに淨土の莊嚴(しやうごん)にことならず。人民こぞりて圍繞(いねう)す。佛菩薩の影向(やうがう)も、これにはしかじとぞみえし。然れば、大王玉樓金殿に座してつねに遊覽をなし給ふ。あるときかうらうのはしらにいたち二つ來つて、なき騷ぐ事七日なり。大王あやしみ給て、博士を召して、卜(うらな)はせらる。すなはちかんがへ奏して申さく、

『此柱の中に、七尺の人形(ニンギヤウ)に大王の御容(かたち)をことごとくつくりうつして、封じこめ、すなはち調伏(てうぶく)の壇をかまへ、幣帛(へいはく)をたて、供具(くぐ)をそなへ、大わうを咒詛(じゆそ)したてまつる也。これを割りてだんをやぶらせ給へ。そうじて御えきの與黨七百人候なり。』

と。大わうおほきにおどろきたまひ、いそぎかの柱をわりてみ給ふに、はかせの申せしにすこしもたがはず、すさまじくおそろしきありさまなり。すなはちだんをやぶらせられてのち、諸人をことごとくめしあつめ、其中にあやしき者どもをめしとつて拷問せされられければ、はく狀する者七百人に及べり。これらをみな縛(いまし)めて、すなはち首(くび)をきられしほどに、すでに三百人の首をきりて、のこり四百人をきらんとする時、天下俄(にわか)にくらやみとなりて、夜晝(よるひる)のさかひもなし。人民道路にたふれふし、泣きかなしむ事なのめならず。其時大わう大きにおどきてのたまはく、

『我つゆほどもわたくしの心をもつてかれらがくびをきるにはあらず。下(しも)としてかみをあざける下剋上(ゲコクジヤウ)のものを誅罰して、いましめを後世につたへんとおもふゆゑなり。もし又我にわたくしあらば、天我を罰すむべし。』

とちかひて、三七日のあいだ[やぶちゃん注:ママ。]飮食(をんじき)をとゞめ、たかき床(ゆか)のうへにのぼりて御あしのゆびをつまだてたまふ。

『あやまりあらば一めいこゝにきえぬべし。あやまりなくば諸天あはれみ給へ。』

とて貴(たつと)きひじりを請(しやう)じで、仁王(にんわう)經をかゝせられ、祈誓いをなし給ふ。三七日に滿ずる時、七星(しつせい)[やぶちゃん注:北斗七星。]眼前にあまkだり現(げん)じ給ふ。やゝあつて又日月星宿(シヤウシユク)ひかりをかゞやかし給ふ。さればこそまつりごとによこしまなしとて、のこる四百人をもきらせられけり。こゝにまた博士(はかせ)參内してそうしけるは、

『大てきほろび侍りぬれば御くらゐ長久なるべき事餘儀(よぎ)なし。されども、調伏の大行(ぎやう)、其の功(こう)遺(のこ)りておそろしければ、しよせん、あまくだり給へる七星(セイ)をまつり、しやうかう殿にたからをつみ、一時(じ)にこれを焚(や)きすててさいなんをはらひ給ふべし。』

と申ければ、

『左右(さう)に及ばず。』

とて、たちまちに上件(くだん)の曜宿(ようしやく)を請じをたてまつり、かの御てんにたからをつみあげ焚きすてられにけり。さてこそ、今の世までも、いたち鳴きさはげば、つゝしみて水をそそぎまじなふ事、この時よりぞおこりける。されば七百人のてきほろび、七星眼前にあまくだつて光をかゞやかし給ふ事、七難卽滅、七福(フク)卽生(そくしやう)の明文(めいもの)にかなひぬるものなり。今の泰山府君(タイザンフクン)といふまつりはすなはちこれなり。大王、彼の殿(でん)をやき、まつりごとをし給ひて、御くらゐ長生殿に榮へて春秋をわすれ、不老門に日月のかげしづかにめぐり、吹風枝をならさず、降る雨つちくれをやぶらず、永久にさかへ給ふぞめでたかりける。

   *]

2020/11/30

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(2:熊)

 

○熊、古事記に、神武天皇熊野村にて大熊に遇玉〔あひたま〕ひしことを載せ、伴嵩蹊の說に、栂尾山所藏「熊野緣起」に、同帝三十一年辛卯、髙倉下尊〔たかくらじのみこと〕、紀南にて長〔たけ〕一丈餘にて金光を放てる熊を見、また靈夢を感じ、寶劒を得たりとある由、熊野の名之に始まると云ふ今も紀州に予の如く熊を名とする者多きは、古え[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]熊をトテムとせる民族ありしやらん。蝦夷人が熊を崇めて神とすると考へ合すべし。北越雪譜初編卷上に、「山家の人の話に、熊を殺すこと二三疋或ひは年歷たる熊一疋を殺すも、其山必ず荒るゝことなり。山家の人これを熊荒〔くまあれ〕といふ、此故に山村の農夫は需〔もとめ〕て熊を捕る事無し」と云ひ、想山著聞奇集卷四に、熊を殺す者、その報ひにて常に貧乏する由記せるも、古え熊を崇めし痕跡なるべし。

[やぶちゃん注:「古事記に、神武天皇……」「古事記」の「中つ卷」の冒頭の神武天皇記の一節に、

   *

故神倭伊波禮毘古命。從其地𢌞幸。到熊野村之時。大熊。髣髴出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命。鯈忽爲遠延。及御軍皆遠延而伏。此時。熊野之高倉下。齎一橫刀。到於天神御子之伏地而。獻之時。天神御子卽寤起。詔長寢乎。故受取其橫刀之時。其熊野山之荒神。自皆爲切仆。爾其惑伏御軍。悉寤起之。故天神御子。問獲其橫刀之所由。高倉下答曰。己夢云。天照大神。高木神。二柱神之命以。召建御雷神而詔。葦原中國者。伊多玖佐夜藝帝阿理那理。我之御子等。不平坐良志。其葦原中國者。專汝所言向之國故。汝建御雷神可降。爾答曰。僕雖不降。專有平其國之橫刀。可降是刀。降此刀狀者。穿高倉下之倉頂。自其墮入。「故建御雷神敎曰。穿汝之倉頂。以此刀墮入。」故阿佐米餘玖汝取持。獻天神御子。故如夢敎而。旦見己倉者。信有橫刀。故以是橫刀而獻耳。

   *

 故(かれ)[やぶちゃん注:そして。]、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)[やぶちゃん注:神武天皇の国風の呼称。]、其地(そこ)より𢌞(めぐ)り、熊野の村に幸到(いたりま)しし時に、大きなる熊、髮(くさ)[やぶちゃん注:叢。]より出で入りて、卽ち、失(う)せぬ。

 爾(ここ)に神倭伊波礼毘古命、倐忽(にはか)に遠延(をえま)し[やぶちゃん注:病み疲れなさり。]、御軍(みいくさ)及(まで)も、皆、遠延(をえ)て伏しき。

 此の時、熊野の高倉下(たかくらじ)[やぶちゃん注:人名。朝廷の倉を管理する者か。]、一横刀(ひとたち)を齎(も)ちて、天つ神の御子の伏(こや)せる地(ところ)に到(いた)りて之れを獻(まつ)る時、天つ神の御子、卽ち、寤(さ)め起(た)ち、

「長く寢(ぬ)るや」

と詔(の)りたまひき。故、其の横刀を受け取りたまふ時に、其の熊野の山の荒ぶる神、自(おのづか)ら皆、切り仆(たふ)さえき。爾(ここ)に、其の惑(を)え伏せる御軍、悉く、寤め起ちき。

 故、天つ神の御子、其の横刀を獲(と)りつる由(ゆゑ)を問ひたまひしかば、高倉下、答へ曰(まを)さく、

「己(おの)が夢(いめ)に云(まを)さく、天照大神(あまてらすおほみかみ)・高木(たかき)の神二柱(ふたはしら)の神の命(みこと)を以ちて、建御雷神(たけみかづちのかみ)を召(よ)びて詔りたまはく、

『葦原の中つ國は伊多(いた)く佐夜(さや)ぎて阿(あ)りなり。我が御子等(ども)、不平(やくさ)み坐(ま)すらし[やぶちゃん注:病んで、悩んでおられるようである。]。其の葦原の中つ國は、専(もは)ら汝(いまし)が言向(ことむ)けつる國故(ゆゑ)、汝(かれ)、建御雷神、降(おも)らさね。』

と、のりたまひき。

爾(ここ)に答へ曰(まを)さく、

『僕(やつこ)降(あも)ずとも、専ら其の國を平(ことむ)けし横刀、有り。是の刀(たち)を降さむ。此の刀を降さむ狀(かたち)は、高倉下の倉の頂(むね)を穿(うが)ちて、其こより墮(おと)し入れむ。故、阿佐米余(あさめよ)く[やぶちゃん注:「朝目宜く」で、「朝、起きて見れば、うまくそこに」の意か。]、汝(なれ)、取り持ち、天つ神の御子に(まつ)れ。』

と、のりたまひき。故(かれ)、夢(いめ)の教(をし)への如(まま)、旦(あした)に己(お)のが倉を見しかば、信(まこと)に、横刀、有りき。故、是の横刀を以ちて獻(まつ)らくのみ。」

と、まをしき。

   *

訓読や意味は、概ね、角川文庫「古事記」(武田祐吉訳注他・昭和五六(一九八一)年第六版)に拠った。後半部を採ったのは、この熊が相応の呪力(身体を疲弊させる)を持つ土着神の示現であったことを理解するためである。

「伴嵩蹊」(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」や随筆「閑田耕筆」「閑田次筆」。熊野地名由来譚として原文に当たりたいが、熊楠の引用元が判らぬ。識者の御教授を乞う。【2020年12月1日追記】いつもお世話になっているT氏より、「關田次筆」の巻之三にあるという御指摘を戴いた。

〇古事記神武天皇條に、「大熊髮出入卽失」といふ文面、諸先達、皆、解得(ときえ)ず。然るに、栂尾山の古文書の「熊野緣記」の所に、「古事記」の文、二行を引し中に、「大熊髣髴出入」と見ゆ。是にて明白也。「此古文書は三百年斗以前のもの也。夫より後に寫誤る成べし」と、竹苞樓主、語れり。
所持する吉川弘文館随筆大成版で確認、T氏の指示して下さった国立国会図書館デジタルコレクションの画像も視認して、電子化した。T氏は『「金光を放てる熊」も「熊野の名之に始まると云ふ」も出てきません』と述べておられる通りで、ここのところ、注を作成する中で感じていることであるが、南方熊楠は、和書の場合は自分の記憶に頼っていて、原本に当たって確認していないのではないか? という強い疑いを感じていたが、これを見るに、その疑惑を強くした。T氏に感謝申し上げる。

「熊をトテムとせる民族」「トテム」はトーテム(totem)。特定の社会集団に於いて、婚姻・禁忌などに関連して特殊な関係を持つ動植物・鉱物などの自然物を指す。語はアメリカ先住民(インディアン)の一つであるオジブワ族の言葉「ototeman」(「彼は私の一族のものである」の意)に由来する。熊楠も述べているように、本邦では先住民族であるアイヌがイオマンテの祭儀によって熊を神に送り返す儀式の中に熊をトーテムとした信仰が認められることは周知の通りである。

「北越雪譜初編卷上に……」「北越雪譜」現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買(ちぢみなかがい)商と質屋を営んだ随筆家鈴木牧之(まきゆき 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)が越後魚沼の雪国の生活を活写した名作。初編三巻・二編四巻で計二編七巻からなる。天保八(一八三七)年に初編が江戸で出版されるや、ベスト・セラーとなった。真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの海岸で読み耽ったほどの私の愛読書である。以上は同書の「初編 卷之上」の「白熊(しろくま)」の条の附記。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。初編卷之上)を視認して示す。読みは一部に留め、句読点を打った。【 】は原本の二行割注。

   *

      ○白熊(しろくま)

熊の黑きは、雪の白がごとく天然の常なれども、天公(てんこう)、機を轉じて、白熊(はくいう)を出せり。

○天保三年[やぶちゃん注:一八三二年。]辰の春、我が住(すむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内、浦佐(うらさ)宿の在(ざい)、大倉村の樵夫(きこり)八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊(こくま)を虜(いけど)り、世に珍しとて、飼ひおきしに、香具(かうぐ)師【江戶にいふ見世もの師の古風なるもの。】、これを買もとめ、市場又は祭禮、すべて人の群(あつま)る所へいてゝ、看物(みせもの)にせしが、ある所にて余(よ)も見つるに、大さ、狗(いぬ)のごとく、狀(かたち)は全く熊にして、白毛、雪を欺(あざむ)き、しかも、光澤(つや)ありて天鵞織(びらうど)のごとく、眼(め)と爪は紅(くれなゐ)也。よく人に馴なれて、はなはだ愛すべきもの也。こゝかしこに持あるきしが、その終(をはり)をしらず。白亀の改元、白鳥(しらとり)の神瑞(しんずゐ)、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国(みくに)の祥象(しやうせう)なれば、天機(てんき)、白熊(はくいう)をいだししも 昇平萬歲(しようへいばんぜい)の吉瑞成べし。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

  山家の人の話に、熊を殺すこと、二、三疋、或ひは年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、かならず、荒(ある)る事あり。山家(さんか)の人、これを「熊荒(あれ)」といふ。このゆゑに、山村の農夫は需(もと)めて熊を捕る事なし、と、いへり。熊に㚑(れい)ありし事、古書(こしよ)にも見えたり。

   *

「白亀の改元」養老八年二月四日(七二四年三月三日)に紀(きの)朝臣家から、手に入れた白いカメの献上があったことから、それを瑞祥として「神龜」(しんき/じんき)と改元され、また、神護景雲四年十月一日(七七〇年十月二十三日)光仁天皇即位(同年同月同日)に際し、肥後国より相次いで白い亀が献上されたことから、それを吉祥として「寶龜」に改元されたことを指す。

「白鳥の神瑞」記紀に見える、垂仁(すいにん)天皇の皇子誉津別命(ほむつわけのみこと 生没年未詳:一説に垂仁天皇五年に焼死したとする)は、生まれてから成人するまで言葉を発さなかったが、ある日、鵠(くぐい。白鳥)が空高く渡る様子を見て、「是、何物ぞ。」と初めて言葉を発し、天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じ、鵠を遊び相手にさせると、誉津別命は普通に会話が出来るようになったと伝える。

「想山著聞奇集卷四に……」「想山著聞奇集」は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作。動植物奇談・神仏霊異・天変地異など、五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。私は全篇の電子化注を本ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で終わっている。熊楠の示すものは、「美濃の國にて熊を捕事」の追記部分の最後に現われる。追記部を総て示す。

   *

「北越雪譜」に、山家(さんか)の人の話に、『熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり』云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕(とる)事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五、六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の、五、七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。

   *

下線部が熊楠の縮約の元である。]

2020/11/29

南方熊楠 南方隨筆 始動 / 画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「南方隨筆」の電子化注を始動する。「南方隨筆」は大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、平凡社「南方熊楠選集3」(一九八四年刊)の「南方随筆」(新字新仮名)をOCRで読み込み、使用した。難読語が多い割に、何時もの通り、熊楠はルビを殆んど振らないので、若い読者のために、〔 〕で私の推定の歴史的仮名遣による読みを添えた。

 博覧強記の南方熊楠の作品に注を附すのは至難の技だが、私が躓いた箇所に禁欲的に附した。

 なお、私は既にサイト版で、本作中の「俗傳」パートにある、

「山神オコゼ魚を好むということの話」

「イスノキに関する里伝」

「奇異の神罰 附やぶちゃん詳細注」

「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」

「通り魔の俗説」

「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」

臨死の病人の魂、寺に行く話」

「睡中の人を起こす法」

「魂空中に倒懸すること」

等をかなり昔に電子化しているが、それらは新字新仮名であることから、ここで改めて電子化してブログ版で正字正仮名版を完結する予定である。【20201129日 藪野直史】]

 

 

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 南 方 熊 楠 著

 

 南 方 隨 筆

 

        岡  書 院 版

 

[やぶちゃん注:扉。後でこの題簽の文字のことが編者の序で述べられるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして掲げておいた。]

 

 

大正九年八月二十三日、南方氏は小畔四郞氏と
携へて高野山に粘菌採集に赴き、一乘院に宿り
飮み且つ談じて數日を送られた。寫眞は二十六
日に同院で撮影したものである。向つて左方は
南方氏、同右方は小畔氏である

 

Mz1

 

[やぶちゃん注:写真は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして正立させて用いた。上記はそのキャプション。

「大正九年」一九二〇年。

「小畔四郞」小畔四郎(こあぜしろう 明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年:熊楠より八つ下)は熊楠が亡くなるまで有能な助手として彼を支えた人物。所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年講談社(現代新書)刊)の中瀬喜陽(ひさはる)氏の記載によれば、新潟県長岡生まれとするが、詳細は未詳で、明治二七(一八九四)年に横浜高等小学校を卒業、後に『日本郵船に入社、日露戦争に従軍して陸軍中尉となる。退役後、近海郵船神戸支店長、内国通運専務、石原汽船顧問などを歴任した』。『小畔がはじめて熊楠に出会った日のことを「それは十二月末か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。那智のことは御木本(みきもと)の養殖真珠の顧問西川理学士から聞いていたのでした。中川烏石』(那智大社の観音堂の前の「中川不老軒」という石を扱う珍物店(現存。グーグル・マップ・データ。私はこの近くの宿坊尊勝院に泊ったことがあり、この店も知っている)の主人)『さんのことも聞いていたのでした。随分珍しいものを持っていると――。さて滝を見ようと一、二町手前まで行った時に、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に興味をもって研究していたので「どうですか」と話しかけたが、フンとかウンとか言って一向相手になってくれない。それで蘭の話をもちかけるとやっと話に乗って来た。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、わたしは名刺を出して、郵船につとめているのだというと、その大坊主先生『ワシは微生物の研究をしているのだが郵船の連中ならロンドン時代によく知っている』とロンドンの話がでた」(「南方先生を偲ぶ」『紀伊新報』昭和十七年一月十八日)と回想しているが、熊楠の日記では、それは一九〇二(明治三十五年)一月十五日のことで、「午後那智滝に之(ゆく)、越後長岡の小畔四郎にあふ。談話するに知人多くしれり。共に観音へ参り、堂前の烏石といふ珍物店主を訪」と記し、同様のことは後年の「履歴書」にも出る』(「履歴書」は、このカテゴリ「南方熊楠」で全電子化注を終えているが、その「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」にそのシークエンスが出る)『この出会いから意気投合した二人はしきりに文を交わす。熊楠の日記には小畔に送るべき風蘭を集めた記事もある。おそらくは、小畔に見返りとして寄港の先々で目についた藻や粘菌の採集を頼んだにちがいない。そうした中で、小畔は粘菌の方でもひとかどの研究者として育っていった』とある。以下、続くが、同書は「南方熊楠資料研究会」公式サイト内で有意な部分が電子化(全篇電子化予定であるが未だ途中)されているので、こちらで続きを読まれたい。

「一乘院」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

大正十年十一月三日、南方氏は單身高野山に登り、一乘院に
投宿して粘菌の採集に努めた。天か時か、獲るところが頗る
多く、欣喜禁ずる能はず、矢立の禿筆を呵して獲たる菌類を
前に、右手に好める酒壺を、左手に筆を持てる自畫像を描き
左の事を記して在大連の小畔氏に寄せた。南方氏が得意と滿
足との絕頂に達した時の記念である。 

 拜呈一昨日登山、去年ノ一乘院ノ室ニトマリ菌ヲ畫

 スルコト夥シ、昨日苔ノ新屬一本發見致シ候 

  久さびらは幾劫へたる宿對ぞ 

               熊 楠 畫

 

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[やぶちゃん注:画像とキャプション。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 

 

      編 者 序

 

一、夙に刊行さるべき筈の南方氏の書物が、我が國で刊行されなかつたに就ては相當の理由がある。氏は日本の現在の國情に愛憎を盡かしてゐる。就中、學者を尊重せぬ氣風を嫌厭してゐる。從つて發表すべきものがあれば外國でするとて、是れまで誰がすゝめても首を縱に振らなかつた。これが氏の書物刊行されなかつた大なる原因である。然るに今度は如何なる風の吹き廻しにや、容易に承諾されて、然も南方隨筆ば啻〔ただ〕に第一輯のみならず、續南方隨筆、更に第三輯を續刊することまで許されたのである。

一、その代りと言ふ譯でもないが、原稿の取捨から排列の次第、序文、校正まで一切私にやれとのことであつた。私は決して其の器でないことを知つてゐるので、出來るものなら辭退したいと思ふたのであるが、下手にそんなこと言ひ出して、又もや冠を曲げられてはと思ひ返して引受けることゝした。元より器でない私がやつたことゝて南方氏にも愛讀者にも、不滿と不足を與ヘたことゝ恐縮してゐる次第である。

一、本書の原稿は各項に附記した如く南方氏が執筆された東京人類學雜誌と鄕土硏究から抽出し、それを論考俗傳の二篇に分類し、やゝ年時を趁〔お〕ふて編輯した。勿論、この分類が嚴正を欠き、年時が次第に從はぬなどあるのは私の罪である。

一、各篇の標題は出來るだけ改めぬやうにしたが、中に一二は體裁の上から改めたものもある。然しそれは他意ある譯ではなく全く編輯の便宜から來たゞけのことである。

一、南方氏の行文運墨には、氏一流の語法があつて、猥りに他人の容喙〔ようかい〕[やぶちゃん注:横から口出しをすること。]を許さぬ。それ故に假名遣ひや送り假名や句讀なども、原文そのまゝとして敢て觸れぬことゝした。下手なことして一喝を食ふより此の方が仕事も樂だからである。

一、校正は嚴密にした積りであるが、何分にも引用文は和漢梵洋と來てゐるのだし、一々原書に就かうにも南方氏以外は持つてゐぬ珍本奇籍が多いことゝてそれも出來ず、且つ當世放れした用字が多いので活版所も私も可なり泣かされた。然し魯魚焉馬の誤りの尠く無いことは全く私の罪である。再版の折には更に嚴重に訂正したいと思うてゐる。

一、本書の題簽に就ては、岡書院主と額を鳩〔あつ〕めて種々相談して見たが名案が浮ばぬので、是非なく弘法大師の筆蹟から蒐めて是れに充てた。これは南方氏が代々眞言宗の信徒であつて、且つ故高野山座主土宜法龍師とこは倫敦〔ロンドン〕以來の飮み仲間でもあり、それに氏の發見せる黏菌の多數は高野山で獲られたものと聞いてゐるので、それやこれやで斯う極めたのである。恐らく此の題簽だけは六つかしやの南方氏も岡氏と私の苦心を買つてくれることだらうと信じてゐる。更に裝幀に就ては全く岡書院圭が南方式の氣分を出したいと瘦せるほど苦心をされたのである。これも南方氏が我が意を得たものとて悅んでくれる事だらう。

一、今昔物語の硏究に就ては、曩〔さき〕に刊行された芳賀矢一氏の攻證校訂の今昔物語に、南方氏の學說及び考證が澤山取入れられてゐるにもかゝはらず、その事が一言半句も明記されてゐぬので、本書に收めたそれが却つて芳賀氏の攻證に負ふところがありはせぬかとの誤解を受けては困るから、その點は判然と然も明確にして書いてくれとのこと故に、茲に其の事を明かに記述して置く。卽ち芳賀氏の攻證は全く南方氏の考證を受け容れたものであると云ふ事を。

一、續南方隨筆には、氏が考古學雜誌、變態心理及びその他に寄稿したもののうちから抽出して編輯する考へである。而して記事索引は續集に二册分を整理して付ける考へである。敢て江湖の淸鑑を仰ぐ次第である。

 

        大 正 丙 寅 五 月

               中 山 太 郞 識  

 

[やぶちゃん注:こんなに面白い編者注というのも珍しい。

筆者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:熊楠より九歳年下)は本名を中山太郎治と言い、柳田國男・折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者である。ウィキの「中山太郎」を見ると、柳田とも折口とも晩年は絶縁状態にあったことが判る。本書の最後に跋文様の「私の知れる南方熊楠氏」も記している。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加したの後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

「芳賀矢一」(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)は知られた国文学者。越前出身。明治三五(一九〇二)年に東京帝国大学教授となり、後に国学院大学長を兼ねた。ドイツ文献学の方法を取り入れ、現代国文学研究の基礎を築いたとされ、国定教科書の編集にも関与した。ここで問題されているのは大正二(一九一三)年から大正一〇(一九二一)年にかけて富山房から刊行した「攷証今昔物語集」(上・中・下三巻)編であろう。国立国会図書館デジタルコレクションで三巻とも読める。「今昔物語の硏究」に至るまでは、大分、時間がかかる。どこをどう剽窃したのか、ダウン・ロードして、じっくり読んでみる。

「大正丙寅」(ひのえとら/へいいん)大正十五年で一九二六年。

 以下、目次であるが、最後に回す。]

 

 

   論  考

 

 

       本邦における動物崇拜

 

 人類學會雜誌二八八號二一六二二九頁に、山中笑君「本邦における動物崇拜」の一篇有り。讀んで頗る感興を催し、往年在英中「アストン」「ジキンス」諸氏のために、このことについて聚錄せる材料中より、追加すること次の如し。

[やぶちゃん注:以下、この論文の主本文の初出は明治四四(一九一一)年七月発行の『東京人類學會雜誌』(熊楠は「人類學會雜誌」と記しているがこちらが、正式な誌名で、そもそも組織名自体が「東京人類學會」であった)二十五巻二百九十一号であった。「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。

「山中笑」名は「えむ」と読む(改名後の本名)。ペンネームは山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)。牧師で民俗学者・考古学者。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。彼の「本邦における動物崇拜」も「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。本篇の執筆動機となったものであるから、この注で電子化しようとも思ったが、少し分量があるので、近日中に、別立てで電子化することとする。

「アストン」ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)はイギリスの外交官で日本学者・朝鮮語学者。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで、初期日本研究の著名な一人。熊楠は直接会ったことはなかった模様である。

「ジキンス」フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)はイギリスの日本文学研究者・翻訳家。イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めたが、初の本格的英訳とされる「百人一首」を始めとして、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られ、アーネスト・サトウとも交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援を受けており、深い交流があった(ここはウィキの「フレデリック・ヴィクター・ディキンズ」に拠った)。]

 本邦上古蛇狼虎等を神とし、はなはだしきは皇極天皇の御時、東國民が、大生部多(オホイクベノオホシ)に勸められて、橘樹等に生ずる常世の蟲を神とし、祭って富と壽を求めたること、伴信友の驗の杉に述べられたり。されど後世に迨〔および〕ては、直接動物そのものを神とし拜するは希にて、多くは神佛、法術等に緣〔ちなん〕で、多少の宗敎的畏敬を加えらるるに過ぎざること、まことに山中氏が述べられたるごとく、それすら、目今舊を破り故を忘るるの急なるに當たり、此邊僻の地(紀伊田邊)に在〔あつ〕て、孰れが果たして已に過去の夢と成り畢〔をは〕り、孰れが今も行なわれ居るかを判斷するは、望むべからざることたるを以て、暫く管見の儘、現時なほ多少、其曾て崇拜されたる痕跡を留存するらしいと思はるゝ者をここに擧ぐべし。動物名の右に○を印せるは、山中君の論文已に列記せるものにて、山何頁と書せるは、同論文の何頁めにこの說ありという意なり。

[やぶちゃん注:「大生部多」ウィキの「大生部多」では、「おおうべのおお」と読んで、生没年不詳とし、『飛鳥時代の人物。シャーマン。姓は』なかったとする。『大生部は職業部』(べ)『の内の壬生部』(みぶべ)『(諸皇子の養育に携わる人々とその封民)の一つであり、平城京木簡によると』、『その殆どが伊豆国田方郡吉妾郷』(比定地は現在の沼津市大字西浦木負(にしうらきしょう)を中心とした内浦重寺(うちうらしげでら)から西浦江梨(にしうらえなし)までの一帯。この付近。グーグル・マップ・データ)『を拠点としている』という。『多は駿河国の不尽河(富士川)辺の人』で、皇極天皇三(六四四)年に『タチバナやイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサン』(鱗翅目ヤママユガ科シンジュサン属シンジュサン Samia cynthia pryeri :翅を開張すると十四~十六センチメートルになる大きな蛾で、翅の色は褐色を呈し、全ての翅に一つずつ特徴的な三日月形の白紋を有する)『の幼虫)を常世神であると称し、それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返ると吹聴した。そのため、人々は虫を台座に安置し、舞い踊り』、『家財を喜捨して崇め、往来で馳走を振る舞い、歌い踊り恍惚となり富が訪れるのを待った』。『やがてこの騒動は都のみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出して社会問題となる。渡来系の豪族であった秦河勝はこの騒動を懸念して鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐(生死不明)した』。『常世の虫に関しては、道教の「庚申待」と「三尸」説の影響を感じるものとする意見がある』とある。

「伴信友」(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)は国学者で「驗の杉」(しるしのすぎ)は天保六(一八三五)年に成った稲荷神社(伏見稲荷大社)についての考証書。表題のそれは、古くから伏見稲荷大社にある神木の杉で、参詣者が折り帰った杉の枝を植え、久しく枯れなければ、祈願の験(しるし)があったとされたものに因む。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションで同書をざっと見たが、見当たらなかった。]

 ○猿は產の安きものとて、今は知らず、二十年計り前迄、和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、婦人產月近づく每に之に詣で、禮拜して其の像を借受け枕頭に祭り、安產し畢れば、同樣の猿像一を添へ禮賽して件の祠へ返納せり。

[やぶちゃん注:「和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、……」これは和歌山県和歌山市有本にある若宮八幡神社である。そのサイド・パネルでも猿の像が、ここと、ここで見られる。「朝日新聞」の「わかやま動物ウオッチング」の記事「177 連綿と継がれた瓦猿の信仰」に、「瓦猿(かわらざる)」の話が載り、『瓦猿は日吉山王神社(和歌山市有本)に子授けや安産祈願として奉納されています。山王総本宮の日吉大社(大津市)の神の使いは猿です。本社禰宜(ねぎ)の矢頭英征さんによると、神が宿る比叡山に生息するサルが信仰の対象となって、本社では神猿(まさる)として、厄よけ(魔が去る)や必勝(勝る)祈願がなされるそうです。瓦猿を通じての安産祈願は紀州での民間信仰とみられます』。『日吉山王神社宮司の岩橋利茂さんによると、鎌倉時代の』建久九(一一九八)年に『後鳥羽上皇が熊野詣の帰りに神社に立ち寄った際に、お供に命じて境内に瓦の窯を造らせ、安産祈願として瓦猿を作らせたという言い伝えがあるそうです』。『拝殿には奉納された瓦猿が、何十体も厳かに並べられていました。子授けや安産を願う人は、この縁起の良い瓦猿を』一『体、お守りとして持ち帰り、無事出産したら新しい瓦猿をもう』一『体買いそろえて、自分と生まれた子どもの』二『体にして奉納するそうです。現在も毎年』二十から三十『件の奉納があるそうで、一体一体が尊い命を象徴し、ご加護を願う信仰が長い年月継がれてきたことの重みを感じました。「奉納した人が赤ちゃんを抱いて神社に来られた時はうれしい」と、岩橋さんは目を細めました』。『江戸時代の紀州の人々の暮らしの中にも瓦猿があったことを示す証拠があります。町屋だった鷺ノ森遺跡(和歌山市西鍛冶屋町)の発掘調査』(一九九一年)『で、江戸時代の地層から、頭の幅』十二センチメートルや、身長五センチメートル『ほどの大小様々な瓦猿が』二十『体ほど出土しました。発掘に携わった和歌山市教委文化振興課の前田敬彦さんに出土品の写真を見せていただくと、大半の猿が何も持っておらず、物を持つ猿で確認できたのは鶏が』二『体、扇子や桃のようなものが各』一『体。姿形がバリエーション豊かで、どの猿も親しみがあり、当時の人が猿にどのような思いや信仰を抱き、この形に作り、瓦猿を通じてやりとりしたのだろうと興味を抱きました』。『江戸時代の中で写実的なものから、光沢ある現在の瓦猿の型に移ったとも考えられるそうです。前田さんは発掘によって「瓦猿の制作や信仰が確実に江戸時代にまでさかのぼるのが分かったことは重要だと思います」と話しました』とある。また、ブログ「ユーミーマン奮闘記」の「和歌山市歴史マップ 有本 若宮八幡宮界隈」によると、『日吉神社は江戸時代には八幡宮から少し小字南島にある常念寺の東にあったもの』が、『明治維新の神仏分離令の頃、寺の横にあった神社は若宮八幡宮境内へと移され』たとし、『有本村に住む古老の方によると、社殿の引越しは夜中』に行われ、『解体せずに』、『村の人たちが建物ごと担ぎあげ』、『静かに八幡宮境内まで運んだと伝わってい』るとあり、『もとの日吉神社があったとされる場所からは安産祈願のために奉納した瓦で焼いた猿の人形が出土したと』いうとあって、さらに、『江戸時代には田中町にある瓦職人が内職として安産祈願用の瓦猿を焼いていた』といい、『日吉神社に安産祈願に訪れる人が神社から瓦猿を』一『本仮り受け、無事出産すると』、『田中町の瓦屋で瓦猿を購入し』、二『本にして神社に返す習慣があったようで、現在でも瓦猿を奉納する人がある』とある。]

 古え猿と蛇を神として齋〔いつ〕ぎて、美作の國人美女を牲〔いけにへ〕とし、每年これを祭れるを、東國の獵夫來てこの弊風を止めしこと、宇治拾遺に見えたり。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺に見えたり」「宇治拾遺物語」の「東人(あづまびと)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる事」であるが、先行する「今昔物語集」に同文的同話(両書のソースは同一と考えられる)が「巻第二十六」に「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと)第七(しち))があり、それを私は「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」の注で全電子化しているので、そちらを参照されたい。「今昔物語集」の中でもサスペンスに満ちた私の好きな一篇である。

 吾國猿舞ひの基因は、馬の爲に病を禳〔はら〕ひし[やぶちゃん注:底本は「穰」であるが、意味が通らないので、平凡社「南方熊楠選集」版のそれを採った。]に在りと云說あり。五雜俎卷九に、置狙於馬厩、令馬不疫[やぶちゃん注:「不」は底本では「下」となっているが、漢文として「下」ではおかしいから、熊楠が誤ったのではなく、植字ミスか編集ミスである。原拠が「不」であるので、特異的に訂した。]、西遊記謂天帝封孫行者弼馬温、蓋戲詞也と見え、古くより猿舞し行なわれしを、後にかかる支那說より故事附けたるべし、一八二一年、暹羅〔シヤム〕[やぶちゃん注:タイの旧名。]に使節たりしクローフヲード、王の白象厩に二猿を蓄〔か〕へる[やぶちゃん注:「飼へる」。]を見、厩人に問うてその象の病難豫防のためなるを知りし由自記せり(J.Crawford, ‘Journal on an Embassy to the Courts of Siam and Cochinchina,1828, p. 97)。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻九の「物部一」にある以下の一節。前の部分も引いておく。

   *

京師人有置狙於馬廐者、狙乘間輒跳上馬背、揪鬣搦項、嬲之不已、馬無如之何。一日、復然、馬乃奮迅斷轡、載狙而行、狙意猶洋洋自得也。行過屋桁下、馬忽奮身躍起、狙觸於桁、首碎而僕。觀者甚異之。餘又見一馬疾走、犬隨而吠之不置、常隔十步許。馬故緩行、伺其近也、一蹄而斃。靈蟲之智固不下於人矣。

置狙於馬廐、令馬不疫。「西游記」謂天帝封孫行者爲弼馬溫、蓋戲詞也。

   *

熊楠の引用した部分だけを訓読しておくと、

狙(さる)を馬廐(むまや)に置き、馬をして疫(えき)せざらしむ[やぶちゃん注:流行り病いに罹らぬようにさせる。]。「西遊記」に謂ふ、『天帝、孫行者を封じて「弼馬温(ひつばおん)」と爲す』と。「孫行者」は孫悟空。「弼馬温」は天帝の御廐の番人。

「クローフヲード」一八二一年にイギリス政府の命令でシャムとコーチシナに派遣された医師・植民地管理官・外交官にして作家であったジョン・クロフォード(John Crawford 一七八三年~一八六八年)が報告した「シャムとコーチシナの裁判所に提出せる大使館宛記録」。]

2019/02/06

南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)

 [やぶちゃん注:本電子化は、本日公開した『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の注の必要上から急遽、電子化したものである。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠った。クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。

 詳注を附す気はないが、私の躓いた部分を先に冒頭で示すと、

・『Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)』というのは、哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ウマグマ Ursus arctos pruinosus である。チベットに棲息し、和名は走る様子が「馬」に似ることに基づく。

・「燧(すい)を鑚(き)りて」は、例の木同士の揉みきりや火打ち石を用いて発火することを指す。

・「籙字」は「ろくじ」でその言語を記すための特殊な符号(文字)のこと。

・「黿」現行ではこれは、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指し、スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis とは異なるマルスッポン属の模式種で、我々の知っている本邦のスッポンの三倍弱の大きさがある。

「越張の封泥」不詳。「封泥」古代中国に於いて、貴重品を収めた箱や竹簡や木簡文書の封緘に用いた粘土塊(縛った紐の結び目などに柔らかいうちに押印して開封の有無を確認した)を指すが、「越張」は不明。軽々に「越の張」という地名とも断じ得ない。

・「格殺(かくさつ)」手で打ち殺すこと。殴り殺すこと。

・「葫蘿蔔」そう訓じているかどうかは別として、「大根」と並列されており、「にんじん」(野菜のニンジン)のことと思う。

・「シビトバナ」「石蒜」「シタマガリ」「カウラバナ」最後の異名を除いて、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名である。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。

・「吹弾」(すいだん)とは、笛などを吹き、琴などを弾くこと。音楽を演奏すること。] 

 

  南方熊楠より柳田国男宛

    明治四十四年九月二十二日

‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり、魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろベルシアとインドに旅せし人なり) は Count Wieihorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出づ。発刊の年は忘る。その中に収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。

[やぶちゃん注:以下の一段落の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 インドの森中に猴(さる)棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バッタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、猿猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。

 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Prizhezalsky, ‘Mongolia, the Tangut Country and the Solitude of Nothern Tibet,’Londonm 1876,vol.ii, p. 249 に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressu クングーレッス(人熊の義)と言う。顔扁たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に良く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入ってTangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる能皮を見るに、高さ四フィート半、喙挺(ぬき)んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後部長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。

 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)なり、大英博物館にあり。支那の熊なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫(つか)む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆(ゆうひ)は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あらざるの臣をもってこれに誓う」と『本草綱目』に出づ。

 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなほだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)

 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」[やぶちゃん注:名論文「神跡考」の誤り。]という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、細目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。

 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもっとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八-五五九頁によれば、ボルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong bula(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐(あざむ)かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで通行く者おのおのその虚言家を誚(そし)りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを滅するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者燧(すい)を鑚(き)りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。

 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本革綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬(か)むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)

 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書く vol. I, pp. 201-202 に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。蒙古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの籙字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき[やぶちゃん注:ママ。]、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、白駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるという。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛(ラマ)僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、黿怪をなすこと多く見え、『録異記』に、腹の下赤きものは黿(げん)となし、白きものは鼈(べつ)となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大黿あって常に深き潭(ふち)にあり、号(なづ)けて黿潭となす。よく魅を作(な)し病を行(はや)らす。戴道柄(たいどうへい)なる者あり、よくこれを視見(うかが)い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大黿あり、径長(わたり)丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺(かくさつ)するに、病める者は立ちどころに愈ゆ。また小黿あり、出でて列び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、黿の条に出でたり)。

 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺(ただ)した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge, ‘The of the
Egyptians,’1904m vol. ii, p.376
によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒(ダークネス)の諸力、および夜叉邪 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。

 当田辺町から二里ばかり朝来(あつそ)村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。Nasinoheso

この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。

 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰(こ)えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田権(ごん)の頭(かみ)、檜杖(ひづえ)の冠者などという旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石をなげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのことをいうと見えたり。

 山男、鋸の目をたつる音忌むということば、前に申し上げたと思う。

 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。

[やぶちゃん注:以下の引用一段落は、底本では全体が二字下げ。]

野尻を去ること四里、立町(たちまち)の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を禱る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型った物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛騨の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目がない。一番終りの村人が「ここは一年が十三カ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除になる、と里人は信じておる。

 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。

 dorit de cuissage (腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。

 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かいし謹んで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁(はつよめ)を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に鳴呼の国人妻を娶りて美なれば兄に薦めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)

 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」[やぶちゃん注:後の「神跡考」。]はおいおい三、四回または六、七回に訳出し差し上ぐべく候。

 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 前文のガウライ(河童) はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。

 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では何故か全体が二字下げである。]

この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイ Guernsey (英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古語を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。

 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古志、佳談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。

 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢谷にカシャソボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方(せんかた)なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。よって村の大日堂に之き護摩の符を貿い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困しむ、と。

 また丸三(まるさん)という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯れに人を弄するなり、と。

 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。

 小川孝七という男、日高郡南部(みなべ)奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。

 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂(まろ)村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。

 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困しますこと、『酉陽雑爼』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑爼』手近になくば抄して進ずべく候。

 ロシアにも水魔を祭るに馬屍を水に按ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上

2019/01/15

南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)

 

[やぶちゃん注:これは現在、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で進行中の「山島民譚集」の「河童駒引」のこちらのパートの最後の注のために緊急電子化する。緊急なれば、必要最小限度の注に留めた。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠る。これは新字新仮名であるが、仕方がない。

 クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。]

 

 

 柳田国男より 南方熊楠宛

   明治四十五年四月二十九日

『雪の出羽路』巻十二、羽後平鹿郡栄村大字大屋寺内の条に、この国秋田、能代、横手、河口等に河童相伝という接骨の薬あり、その主剤はいずれも「扛板帰(こうはんき)」なり。この扛板帰を、地方によりては「河童の尻ぬぐい」といい、または河童草というと有之候が、この植物につきて何か御心当りは無之や伺い上げ候。

 また今西氏説に、朝鮮に「揚水尺」と称する一種の民種あり、妓生もとこれより出で、柳器を製して生を営みしもののよし。水尺とは水を探す杖かと考え候が如何。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月一日夜一時

 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。

 滕成裕の『中陵漫録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云云、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに書を信ずべからざること、かくのごとし。

 さて同書(『中陵漫録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出づる河白(かっぱ)相伝正左衛門薬というあり、よく骨を接(つ)ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人鎌(かま)をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七(いちしち)夜、この人河白に請いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活(いけいか)すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出づるなり。

 扛は『康熙字典』に「横関(かんぬき)を対拳(さしあ)ぐるなり、また挙ぐるなり」 とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛(あ)げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し侯。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見(いしみ)という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。

 多紀安良(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢一療類典』[やぶちゃん注:「一」の横に編者の不審を表わす記号が右に打たれてある。]ごときもの)にもこの事を図し、その神効を説きあり。扛板帰(いしみかわ)をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。

Isimikawatomamakonosirinugui

[やぶちゃん注:南方熊楠直筆の挿絵。右側が「山島民譚集」の「河童駒引」「イシミカハ」(イシミカワ)で、上部に学名「Persicaria perfoliata L.」、左側が「マヽコノシリヌグヒ」(ママコノシリヌグイ)で、上部に学名「Polygonum senticosum Fr. et Sav.」(これは同種の現行の学名 Persicaria senticosa (Meisn.) H.Gross のシノニムである)。ナデシコ目タデ科イヌタデ属ママコノシリヌグイはウィキの「ママコノシリヌグイによれば、「継子の尻拭い」で、「トゲソバ」(棘蕎麦)の別名を持つ一年草で、『和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。韓国では「嫁の尻拭き草」と呼ばれる。漢名は刺蓼(シリョウ)』。『他の草木などに寄りかかりながら』、『蔓性の枝を伸ばし、よく分岐して、しばしば藪状になる。蔓の長さは』一~二メートルで、『茎は赤みを帯びた部分が多く、四稜があり、稜に沿って逆向きの鋭い棘が並んでいる』。『柄のある三角形の葉が互生し、さらに茎を托葉が囲む。葉柄と葉の裏にも棘がある』。五~十月頃、『枝先に』十『個ほどの花が集まって咲く。花弁に見えるのは萼片で』、『深く』五『裂し、花被の基部が白色で、先端が桃色。花後には黒色の痩果がつく』。『東アジアの中国、朝鮮半島から日本の全土に分布』し、『やや湿り気のある林縁や道端などに生える』とある。南方熊楠のキャプションは右から、

「葉柄葉裏(ウラ)ニツク」

「花短キ穗ヲナス」

「花雄藥八」(「雄花を薬に入れる」の意かと思ったが、違う。「八」不詳)

「實南天ノ實ノ

 如ク開(「同」かも知れぬ)ク緑碧白

 紅紫黑■(「抔」か?)異色ニテ

 一寸見事ナリ。」

(以上が「イシミカワ」のキャプションで、以下は「ママコノシリヌグイ」)

「花球顆ヲナス

  花雄藥七」(「七」不詳)

「葉柄葉ノ端ニツク

 表ニツカズ」

「實ハソバノ乾果ノ如シ。」

「托葉莖ヲ抱キ込ムノミ莖托

         葉ノ中心

         ヲ貫カズ」

とある。]

 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。

Unagitukami

[やぶちゃん注:ウナギツカミの図。上に学名「Polygonum sagittatum L.」が記されてある。ウナギツカミは「鰻摑み」でシノニムに「Polygonum sieboldii Meisn.」がある、タデ科タデ亜科タデ属 Polygonum の一年草。異名に「ウナギヅル」がある。茎の下部は地を這って、節から根を下ろし、上部は分枝して立ち上がり、稜角と逆向きの刺(とげ)があって、他物に絡みつき、高さ一メートル余となる。葉は披針形で、先は鈍く時に鋭く、長さ四~八センチメートル、幅一・五~三センチメートルで、基部は心臓形を成し、並行する葉耳(ようじ:岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイトを参照されたい)がある。質は薄く、やや粉白を帯び、無毛。裏面の葉脈上に逆向きの刺がある。葉鞘の縁(へり)は斜めに切れる。花穂は頭状、花は上半部が帯紅色で長さ三ミリメートル、花被は五枚、雄しべは八本、花柱は三本。痩果は卵状三稜形、黒色で、光沢はない。水辺に生え、日本全土、朝鮮、中国、東シベリアに分布する。夏開花するものを「ウナギツカミ」といい、秋開花するものを「アキノウナギツカミ」として区別することがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 右三品いずれも蓼属に属する草なり。㈠㈡[やぶちゃん注:ここに編者注があり、イシミカワとママコノシリヌグイのこととする。]はやや蔓草の体あり、㈢[やぶちゃん注:同前。ウナギツカミのこととする。]はまず偃地[やぶちゃん注:「えんち」。地面に伏せて広がること。]し後に直上す。

 ウナギツカミはこれをもってウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鈎刺(かぎばり)あるゆえ難なく摑み得るなり。ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鈎刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪(にく)む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌグイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得[やぶちゃん注:「とらえう」。]と信ぜるより、カッパ草(ぐさ)ということと存じ候。

 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児[やぶちゃん注:差別用語。中世・近世に於いて家畜などの獣類を殺すことを業とした人。]、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実Matatabinomi と、御承知のごとく猫に食わす実(み)のごときもの実は寄生虫の巣Matatabinokiseityuuno と、二様の実を結ぶゆえ「再実(またたみ)」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐(ねぶ)り霍乱愈(い)え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅(またたび)というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)

 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿舞(まわ)し、伏見より出づるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ[やぶちゃん注:「こしらゆ」。室町時代から、ハ行下二段動詞「こしらふ」がヤ行に転じて使われた古語。]。伏見のも京へば入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度(きっと)装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。

 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。

 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。

 オポのこと、Burtonの『メジナとメッカ記行[やぶちゃん注:ママ。]』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。

 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上

[やぶちゃん注:以下、追伸風で、全体が底本では二字下げとなっている。]

本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接ぐこと膠(にかわ)のごとし(堅固にするゆえ)、石膠(いしみかわ)と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月二日夜十一時

 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気焰最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、目悪く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺(はり)でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありあがら[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。]、カッパノシリヌグイのはその鈎刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。

[やぶちゃん注:底本、「旅館失火全焼」に注して、『明治四十五年五月二日夜、中屋敷町にありし旅館兼料亭五明楼焼く。建坪百十余坪(二階あり)焼失、損害一万余円。(『田辺町史』)』とある。]

2017/05/30

南方熊楠 履歴書(その45)~「履歴書」エンディング 「履歴書」/了

 

 八年ばかり前に、東京商業会議所の書記寺田という人よりの問合せに、インドよりチュールムグーラが日本ではけ行く量と価格を問い来たが、何のことやら知ったものなし。貴下は御存知だろうという人あるゆえ、伺い上やるとのことありし。これは大風子とて(大風とは癩病のこと)、むかしより諸邦で療病薬として尊ぶものに候。専門もよいが、専門家が他のことを一向顧みぬ風もっぱらなるまり、チョールムーダラといえば何のことと問うに知った人ちょっとなし。ポルトガル語の専門家へ聞きにゆくと、それはポルトガル語にあらずというて答えがすむ。マレー語の専門家、支那語の専門家等に尋ぬるも、それはマレー語にあらず、支那語でないというて答えがすむ。知らぬという代りにそれは予の専門にあらずといえば、その学者の答えがすむなり。もしこれが、詳しからずとも一(ひと)通りの諸国の語を知った学者があり、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところなれど、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語と分かったところで字書を引いて大風子と訳すると分かりて、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わさざるべからず。いよいよその何物たるやを詳知(しょうち)せんと思わば植物学者に聞き合わすを要す。しかるに、植物学者は今日支那の本草などは心得ずともすむから、大風子と問うばかりでは答えができず、学名をラテンで何というか調べてのち問いにこいなどいう。それゆえ本邦で、一つなにか調べんと思うと、十人も二十人も学者にかけざるべかちず。槍が専門なればとて、向うの堤を通る敵を見のがしては味方の損なり。そのとき下手ながらも鉄砲を心得おり、打って見れば中ることもあるべし。小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあらず。

[やぶちゃん注:「東京商業会議所の書記寺田」不詳。

「チュールムグーラ」現在は英語として“Chaulmoogra”で載る。英語のネィティヴの発音を音写するなら「チャールムグラ」である。

「はけ行く量」商品として消費され購入される量。

「大風子」東インド原産の高木であるキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana で、その種子から作った油脂「大風子油」は飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステルで、古くはハンセン病治療に使われた。日本に於いては江戸時代以降、「本草綱目」などにハンセン病への対症効用が『書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などはある程度の効果を認めていた』という。明治四五・大正元(一九一二)年、『光田健輔は結節らいを放置すれば』七十五%『は増悪するが、大風子油』を100cc以上、『注射すれば』、投与者の八十八%は『結節を生じないと文献に』記しているが、昭和七(一九三二)年のストラスブールで行われた「第三回国際らい学会」で光田は当該治療は後の『再発率が高いこと』も発表しているという。『上川豊は「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」』で昭和五(一九三〇)年に『京都大学で学位を与えられ』ており、『彼は大風子油注射は網状織内被細胞系あるいはリンパ系統を刺激して局所的ないし全身的抗体産生機能を旺盛ならしめるとしている。結論としてらいの初期は臨床的治療状態を軽減するも、末期重症例では快癒状態に導くのは不可能とある』。『堺の岡村平兵衛は家が油製造業者であったが』、明治二五(一八九二)年『以来、良質の大風子油を製造し、日本国内では、岡村の大風子油として有名であった』。『東京にある、国立ハンセン病資料館には、以前使用されていた、大風子油を熱で融解する巨大な釜が展示されている』ともある(以上は引用を含め、概ねウィキの「大風子油」に拠った)。

「癩病」ハンセン病の旧称。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

 

 小生『大阪毎日』より寄稿をたのまれ、今朝より妻子糊口のため、センチ虫の話と庭木の話をかきにかかり申し候。それゆえ履歴書は、これほどのところにて止めに致し候。もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候。また趣旨書御入用ならば送り申し上ぐべし。御出立も迫りおれば、とても望むべきこととは存ぜねども一口でもあらばと存じ願い上げ置き候。

[やぶちゃん注:「センチ虫」雪隠虫(せっちんむし)の訛り。昔の溜便所にわく蠅の幼虫の蛆のこと。この「せんちむし」の呼称は「日本国語大辞典」では方言としており、そこに示された採集地からは西日本広域の方言である。この「センチ虫の話と庭木の話」というのが現在の彼のどの著作を指すのかは不詳。

「御出立も迫りおれば」矢吹はこの時、国外長期出張の直前でもあったものか?

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 

日本の学者に、小生があきるるほど、小生よりもまだ世上のことにうとき人多し。名を申すはいかがなれど原摂祐(かねすけ)というは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にありしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手たり。この人二千五百円あらば、年来研究の日本核菌譜を出板し、内外に頒ち得るなり。しかるに世上のことにうときより今に金主なし。小生何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思えど、今のところ力及ばず、小生在京中右に申せし処女の薬に感心されたる鶴見局長(今は農務次官?)の世話をたのみ、啓明会より出金しもらわんと小生いろいろ世話したるも、原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金輔助申請書にそえて身体診断証を出せといわるると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことなり、などいい張るゆえ、出(で)るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時、その宿所を問いしに、浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のある処なりなど、漠たることをいう。こんな人に実は世界に聞こえおる大学者多く候。小生は何とぞかかる人の事業を輔成して国のために名を揚げさせたきも、今に思うのみで力及ばざるは遺憾に候。この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたることあり。   匆々謹言

[やぶちゃん注:これを以って本書簡(通称・南方熊楠「履歴書」)は終わっている。

「原摂祐」植物学・菌類学者・昆虫学であった者原摂祐(はら かねすけ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)。ウィキの「原摂祐によれば、『岐阜県恵那郡川上村(現在の中津川市川上)の生まれ』で、『岐阜農学校、名和昆虫研究所を経て』、『東京大学助手に就任』、大正一〇(一九二一)年までは『同大学で昆虫学の講義を担当し』ている。その後、昭和五(一九三〇)年に『岐阜県の農薬会社に就職した』。昭和二(一九二七)年に『白井光太郎』らが大正六(一九一七)年に『出版した日本最初の菌類目録「日本産菌類目録」を改訂、さらに昭和二九(一九五四)年にはそれを再度、『改訂した目録を自費出版し』て、実に約七千三百種の菌類目録を発行している。これはつい二〇一〇年に勝本謙によって「日本産菌類集覧」が『発行されるまで、最も多くの日本産菌類を網羅した目録であった』とある。「南方熊楠コレクション」の注には、彼が南方熊楠を訪問したのは大正一〇(一九二一)年五月十五日のことであったと記されてある。熊楠がここで敢えて名を出してまで追記している気持ちがひしひしと伝わってくる人物ではないか。

「拉語」「拉丁語」(「羅甸語」とも書く)。ラテン語。

「鶴見局長(今は農務次官?)」既出既注の鶴見左吉雄は最後に農商務次官に就任しているが、大正一三(一九二四)年に退官しており、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものであるから、彼はもう農商務次官ではない(後に彼は本格的に実業界に移っている)。

「啓明会」大正八(一九一九)年八月四日に前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎(しもなかやさぶろう)を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体のことか? 啓明会は教員の地位・待遇の向上を目指す職能的な教員組合としての性格と、教育的社会改造運動の性格とを掲げて出発し、翌年五月の第一回メーデーでは教員組合として参加、一般労働組合との組織的連帯を図り、同年九月には全国的な運動への発展を目指して「日本教員組合啓明会」と改称、「教育改造の四綱領」を発表している。日本最初の教員組合運動の出発点とされる組織である。しかし、そこに農商務官僚の鶴見左吉雄が口利きするというのはどうも解せない気もする。識者の御教授を乞う。

「輔助」「ほじよ」。「補助」に同じい。後の「輔成」も「ほせい」で「助成」に同じい。

「この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時」この謂いから、この原の訪問は南方熊楠が寄付金集めのために東京へ出た大正一一(一九二二)年の三月から七月の間のことか? その時期ならば、原は大学の講師職を失っている頃であり(或いは郷里に戻っていた可能性も高い)、状況としておかしくない。]

南方熊楠 履歴書(その44) 遠近法に従わない絵の教訓

 

Smunakatasannjysointohune

 

 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体(てい)に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。

[やぶちゃん注:「小生前般来申しのこせしが」本書簡の冒頭でも宗像三女神の話はしているが、それではなく(船の話はそこにはない)、「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡、通称「棉神考」の補足をさす』とある。私は全集を所持せず、この遠近法に従わない画法と、矢吹が勤める日本郵船と大日本紡績連合会の関係についての判り易い注をすることは出来ない。悪しからず。冒頭及び私の注は僅かながら参考にはなるものとは思う。それにしても、二つの集団の対等性を諷喩するに、非常に面白く、厭味でない謂いと挿画であると私は思う。]

 

 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙(じょ)し、何年何月いずれの国へ差遣(さけん)されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかばできた分三千五百図有之(これあり)、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調(ととの)うるに基本金がかかることに御座候。

[やぶちゃん注:「太陽」博文館が明治二八(一八九五)年一月に創刊した日本初の総合雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『一月号「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話を寄稿、その後大正三』(一九一四)『年より毎年の干支に関する史話と伝説、民俗を寄稿した』(「十二支考」のこと。但し、「鼠に関する民俗と信念」(子)については出版者の都合(不詳)で掲載されず、部分的に『民俗学』及び『集古』(明治二九(一八九六)年十一月に考古と歴史を愛する趣味人の集りである「集古会」の会報『集古會誌』として創刊、後に『集古』と改称して昭和一九(一九四四)年七月まで続いた雑誌。蔵書印譜・花印譜・商牌集の連載物、稀覯書の紹介、伝記資料の翻刻、会員書誌の随筆などを掲載した)に発表された(現在、我々が読めるものは『太陽』のために書かれた一括版に、分割されたものが挿入されたものである)。なお、全十一篇で「牛」(丑)は存在しない。しばしば幻の最後の「十二支考」として都市伝説的に語られることあるが、「牛」についての論考は準備は進められながらも遂に陽の目を見ることはなかったのが事実である)。『太陽』は大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、昭和三(一九二八)年二月まで計五百三十一冊を発行して廃刊した。

「日本及日本人」(にほんおよびにほんじん)は明治四〇(一九〇七)年一月から昭和二〇(一九四五)年二月まで国粋主義者が創始した政教社から出版された、言論の主とした国粋主義色の強い雑誌。前半は思想家三宅雪嶺が主宰した「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『三月号「本邦詠梅詩人の嚆矢」ほかを投稿、没年まで寄稿を続けた』とある。「政教社」も参照されたい。

「植物学雑誌」日本植物学会名義で牧野富太郎が明治二〇(一八八七)年二月に友人らと創刊した植物学の学術雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四一(一九〇八)年『九月「本邦産粘菌類目録」を掲載』が最初の投稿らしく、創刊号から購読していたが、明治二二(一八八九)年『五月から会員となったことがうかがわれる』とある。当時の熊楠はアメリカのアナバー在であった。なお、牧野は熊楠が日本学術雑誌にろくな論文を出していないことを言いつのって、彼を学者として認めていなかった節がある。苦学独歩の牧野にして非常に残念な事実である。

「人類学雑誌」「南方熊楠コレクション」の注では、日本人類学会が明治四四(一九一一)年四月に創刊したとするが、自然人類学者坪井正五郎(彼は南方熊楠と柳田国男を結びつける仲立ちとなった人物でもある)を中心に運営されていた「東京人類学会」の機関誌『人類学雑誌』が前身であり、それは明治一九(一八八六)年の創刊である。熊楠は『明治四十四年六月号「仏教に見えたる古話二則」ほかを寄稿。以後しばしば寄稿している』とある。

「郷土研究」柳田國男らが郷土研究社から大正二(一九一三)年三月に創刊した民俗学雑誌で、創刊当時から熊楠は精力的に投稿した。「南方熊楠コレクション」の注によれば、同年『四月号「善光寺参りの出処」ほかを寄稿、以後大正六年、同誌の休刊まで小品を夥しく投じた』とある。

「日本菌譜」キノコの自筆彩色図譜。遂に刊行することは出来なかった。長女南方文枝氏によって後にその一部が「南方熊楠菌誌」全二巻(昭和六二(一九八七)年~昭和六四・平成元(一九八九)年)として公刊され、別に実寸大複製になる「南方熊楠 菌類彩色図譜百選」(エンタープライズ社一九八九年刊)も刊行されている。この辺りの経緯は紀田順一郎氏の「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」の「柿の木から発見した新種」及び「日々これ観察」の章を参照されたい。]

 

 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなほだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三部氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒(らち)もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。

[やぶちゃん注:「仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬ」「ヴォルニー」なり人物自体が私には不詳。識者の御教授を乞う。

「しまりのよき帳面のごとく」これは前の女性器のそれを洒落てあることは間違いない。]

 

南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記

 

 件(くだん)の紫稍花は朝鮮産の下品のもの下谷区に売店あり、と白井博士より聞けり。しかし災後は如何(いかが)か知らず。小生は山本、岡崎等の頼み黙(もだ)しがたく、東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金を書くれた大株連へ分配せんと思う。山本前農相の好みの処女用のはもっとも難事で、これは琥珀(こはく)の乳鉢と乳棒で半日もすらねばならぬと思う。

[やぶちゃん注:前出既注した「紫稍花」=海綿動物門尋常海綿綱角質海綿亜綱単骨海綿(ザラカイメン)目淡水海綿科ヨワカイメン Eunapius fragilis は、先に掲げた琵琶湖での調査(本種の琵琶湖での調査は複数のものがネット上で閲覧出来る)等、ネット上の種々の海綿類や生物分布調査の学術論文を見る限り、本邦で全国的な分布を示しているように見受けられ(世界的にも広汎に分布する)、環境省のレッドデータリストにも掲げられてはいない(二〇一七年五月現在)。しかし、水質汚染の悪化や外来種の侵入によって必ずしも安泰な種であるとは言えないように感ぜられはする。

「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。ウィキの「白井光太郎によれば、日本に於いて植物病理学(植物の病害(病原体による感染症のみでなく、物理・化学的条件に拠る病気を含む)を診断・予防・治療することを研究対象とする植物学領域。因みに、農業国であった日本の研究レベルは現在の、世界でもトップクラスである)の研究を推進した最初期の学者で、また、旧本草学の『発展に重要な役割を果たした他、考古学にも造詣が深く、史蹟名勝天然紀念物の保存にも深く関わっ』た。明治一九(一八八六)年に『東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業』後、『すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任』、四年後には『帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した』。明治三二(一八九九)年から明治三十四年まで、『ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。この際白井は、日本でほとんど研究が進んでいなかった植物寄生菌の写生図や標本を多数持参し、ヨーロッパで記載されている種と比較を行って、種の確定や新種記載といった研究の進展に大きく貢献した』。帰国して五年後の明治三九(一九〇六)年には『東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これを担当』、翌年、『同大学の教授となった』。明四三(一九一〇)年、理学博士授与。大正九(一九二〇)年に日本植物病理学会を設立、同会初代会長に就任し』、昭和四(一九二九)年に東京帝国大学を定年退官した(従って熊楠の本書簡執筆当時(大正一四(一九二五)年)は同大教授職現役である)。『白井は植物に感染する病原菌の分類、記載を行い』、国内外の研究者『との共同研究も含め』、五〇『種類以上の新種または新変種を記載している、とある。熊楠より四歳年上。

「災後」本書簡執筆の一年四ヶ月前の大正一二(一九二三)年九月一日に発生した関東大震災。

「山本」前出の処女好みの変態政治家山本達雄。後に「山本前農相」とあるが、彼は高橋内閣の解散に伴い、大正一一(一九二二)年六月で農商務大臣を辞任している。本書簡執筆時は大正一四(一九二五)年二月である。

「岡崎」前出の玄人年増漁色政治家岡崎邦輔。

「東京滞在中日光山へゆきし時」既に注したが、熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京した大正一一(一九二二)年三月から八月の最後の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている。

「六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)」詳細事蹟不詳。彼宛ての熊楠の書簡が残っており、ここでの共同採集の様子から見ても、かなり親しくしていたものと思われる。「ろくうたもつ」と読むか。

「大谷川」「だいやがわ」と読む。栃木県日光市を流れる利根川水系の鬼怒川支流。中禅寺湖を水源として東流し、日光市町谷(まちや)で鬼怒川に合流する。日光二荒山(ふたらさん)神社及び東照宮の手前の朱塗りの木橋神橋(しんきょう)の架かるのもこの川。]

 

 植物学よりもこんな話をすると大臣までも大悦びで、これは分かりやすい、なるほど説教の名人だと感心して、多額を寄付され候。貴殿はお嫌いかしらぬが、世間なみに説教申し上ぐることかくのごとし。かかるよしなし言(ごと)を永々書きつけ御笑いに入るるも斯学献立(こんりゅう)のためと御愍笑を乞うなり。

[やぶちゃん注:「大臣」この場合は山本達雄だけを指している岡崎邦輔は加藤高明内閣の農林大臣として入閣しているが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のもので、彼の農林大臣就任はその二ヶ月後の同年四月十七日だからである。

「斯学献立(こんりゅう)」「斯学」(しがく)は、こうした催淫剤研究を含めた性愛学で、そうした学問を大真面目にうち建てようという吾輩の心意気の謂いであろう。「献立(こんりゅう)」は建立(こんりゅう)の誤り、或いは献立(こんだて)でそうした性愛学事始めの「順序・構成」の謂いであろう。なお、この熟語では植物学研究所創設の意味でとるには無理があると私は思うのだが、ただ、後に「愍笑を乞うなり」、憐れんで笑(わろ)うて下され、と言い添えているところでは、世間ではえげつない下ネタと思われるであろう話(注意されたいが、熊楠自身は微塵もそんな卑下は感じていない)で漁色政治家を懐柔して寄付金を集めてでも、南方植物研究所を創設したという私のなりふり構わぬ仕儀を憐れんでお笑い下されよ、という意味にもとれぬことはない。]

 

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