フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

カテゴリー「南方熊楠」の57件の記事

2017/04/29

南方熊楠 履歴書(その21) 書簡「中入り」

 

 ここまで書き終わったところ、友人来たり小生に俳句を書けと望むことはなはだ切なり。ずいぶん久しく頼まれおることゆえ、止むを得ずなにか書くことと致し候。この状はここで中入りと致し候。右の俳句を書き終わりて、また後分(あとぶん)を認(したた)め明日差し上ぐべし。今夜はこれで中入りと致し、以上只今まで出来たる小生の履歴書ごときものを御覧に入れ申し候。蟹は甲に応じて穴をほるとか、小生は生れも卑しく、独学で、何一つ正当の順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常人の軌轍(きてつ)をさえはずれたものなれば、その履歴とてもろくなことはなし。全く間違いだらけのことのみ、よろしく十分に御笑い下されたく候。かつこれまでこんなものを書きしことなく、全く今度が終りの初物(はつもの)なれば、用意も十分ならず、書き改め補刪(ほさん)するの暇もなければ、垢だらけの乞食女のあらばちをわるつもりで御賞玩下されたく候。ただしベロアル・ド・ヴェルヴィユの著に、ある気散じな人の言に、乞食女でもかまわず、あらばちをわり得ば王冠を戴くよりも満足すべしと言いし、とあり。小生ごときつまらぬものの履歴書には、また他のいわゆる正則に(正則とは何の変わったことなき平凡きわまるということ)博士号などとりし人々のものとかわり、なかなか面黒きことどもも散在することと存じ申し候。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然、美しいばかりで何の面白みもなきが、茶屋女や旅宿の仲居、空一どんの横扁(ひら)たきやつには、種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがあると一般なるべしと存じ候。

 大正十四年二月二日夜九時

[やぶちゃん注:書き出しは「大正十四年一月三十一日早朝朝五時前」であったから、途中で他のこともしている訳だが、起筆からここまでで既に実に二日と十六時間が経過している。

「軌轍(きてつ)」原義は車が通って出来た車輪の轍(わだち)。転じて、前人の行為のあと。前例。

「補刪(ほさん)」一般には「刪補(さんぽ)」。削ることと補うこと、取り去ったり、付け加えたりすること。刪除(=削除)と補足。

「あらばちをわる」「新鉢割る」は性的な隠語としては、処女と関係することを指す。破爪する。

「ベロアル・ド・ヴェルヴィユ」諸本注なし。南方熊楠の「十二支考」の「犬に関する伝説」の第四章の中に『十六世紀に仏国で出たベロアルド・ド・ヴェルヴィユの『上達方』などには、犬の声を今の日本と同じくワンとしおり』と出るのと同一人物であろうと思われるが、私の引用した平凡社の選集にも注は、ない。調べてみたところ、恐らくはフランスのルネサンス期後半の詩人で作家のフランシワ・ベロアルド・ド・ベェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六二六年)ではないかと思われる。冒険小説や錬金術者にも手を染め、ウィキを管見すると、かなり猥褻な内容のものも書いているようだ。日本語訳にもそれらしい小西茂也氏訳の「艶笑十八講」(昭和二九(一九五四)年六興出版社刊)と言うのを見出せる(原作名不詳)。

「面黒きことども」「面白き」を反則させたブラック・ユーモア。或いは……いやいや……あまりに猥褻な推理なので……これは……言わずにおこう…………

「お三どん」主に厨(くりや)で働く下女。飯炊き女。広く女中の意でも用いる。

「横扁(ひら)たきやつ」西洋の女のような高い鼻の彫りの深い顔立ちではなく、如何にも当時の日本人にありがちな「横に平たい顔つき」の、所謂、面白くなさそうな「不細工な顔」。しかしそういう女に限って、「種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがある」ので一般的真理にて御座る、と南方熊楠は謂うのである。]

 

南方熊楠 履歴書(その20) 哀れな奴とはどういう輩を言うか

 

 友人(只今九大の農芸部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府より傭いにきたとき、拙妻は神主の娘で肉食を好まず、肉食を強いると脳が悩み出すゆえ行き能わざりし時、田中氏が傭われ行きし。この人の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草字、物産学よりも質が劣る、と。これは強語(きょうご)のごときが実に真実語(しんじつご)に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口(ここう)の方便とせんとのみ心がけ各ゆえ、おちついて実地を観察することに力(つと)めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。御承知通り本邦の暖地に松葉蘭(まつばらん)と申すものあり。このものの胞子が発生して松葉蘭となるまでの順序分からず、その隣近の諸類、羊歯(しだ)、木賊(とくさ)、石松(ひかげ)等の発生順序はみな分かりおるに、この松葉蘭のみ分からぬなり。前年平瀬作五郎氏(七十四歳で今年一月四日死亡。この人は銀杏(いちょう)の授精作用を発見して世界を驚かしたるが学位なしで死なれし)に恩賜賞金を下されし時、小生と協同してその賞金をもって松葉蘭の発生順序の研究に尽瘁することとし、小生この宅に多く松葉蘭を栽(う)えて実地検証し、平瀬氏は京都におりて毎年当地へ下り来たり、小生の報告と生本を受けてもち帰り、もっぱら解剖鏡検することと定め、十四年の久しきに渉(わた)って研究せし結果、小生鰹(かつお)の煮汁(にじる)を地に捨てて生ぜる微細の菌を万年青(おもと)の根に繁殖せしめ、それに松葉蘭の胞子をまけば発生するということをつきとめたり。しかるに、吾輩が研究せんとする状態は毎度地中にあって行なわれ、新芽が地上に現わるるときは吾輩が知り明らめんとする状態はすでに失われおる。しかしながら、この植物が必ず発生するようその胞子をまく方法を知った上は、件(くだん)の状態を明らめうるは遠きことにあらざるべしと二人ますます協力奮発するうち、濠州の二学者が相期せずして、この松葉蘭の発生順序を発見し、エジンバラの学会に報告したりとのことを聞き出して、小生より平瀬に報じたるに、平瀬東大へ聞き合わせてその実事たるを知り、力を落として多年の研究を止めしは去る大正九年ごろのことなりし。小生はたとい濠州の二学者がそんな発見ありたりとも、小生が気づきし松葉蘭の胞子を発芽せしむる方法とは別箇の問題なれば(同一のこととするも発見の方法は別途なれば)今に屈せず研究を続けおれり。さて平瀬にこのことを報じたる某博士は、小生がこの田舎にありて今に屈せず研究を続けおるを愍然(びんぜん)なことと笑いおると聞けり。

[やぶちゃん注:「田中長三郎」既出既注。米国招聘の件についてもリンク先を参照されたい。因みに、ここでは南方熊楠は彼を「友人」と称しているが、南方植物研究所設立の挫折後、台北大学教授となって赴任したが(熊楠によれば左遷)、そこでの書簡による田中の要請や不誠実な態度に強い不満を持ち(熊楠によれば、田中は自身の起死回生のために、熊楠をダシにして日本本土にアメリカ式の自身のための植物研究所を設立しようとしていたのだとする)、後に菌類図譜出版の援助を申し出た田中に対しても、信頼感を失っており、申出に躊躇している様子が窺える(一九九三年講談社現代新書刊「南方熊楠を知る事典」の月川和雄氏の田中長三郎の解説に拠る。ここで言っておくと、サイト「南方熊楠資料研究会」内の「南方熊楠を知る事典」は同書の全電子化は成されていないので注意されたい。私は原本を所持している)。

「松葉蘭」シダ植物門 Pteridophyta マツバラン綱 Psilotopsidaマツバラン目 Psilotales マツバラン科 Psilotaceae マツバラン属 Psilotum マツバラン Psilotum nudum。「生きた化石」の頭種とされる。ウィキの「マツバランによれば、『マツバラン科では日本唯一の種である。日本中部以南に分布する』。『茎だけで葉も根ももたない。胞子体の地上部には茎しかなく、よく育ったものは』三〇センチメートル『ほどになる。茎は半ばから上の部分で何度か』二又に『分枝しする。分枝した細い枝は稜があり、あちこちに小さな突起が出ている。枝はややくねりながら上を向き、株によっては先端が同じ方向になびいたようになっているものもある。その姿から、別名をホウキランとも言う。先端部の分岐した枝の側面のあちこちに粒のような』胞子嚢をつける。胞子嚢(実際には胞子嚢群)は三つに『分かれており、熟すと黄色くなる』。『胞子体の地下部も地下茎だけで根はなく、あちこち枝分かれして、褐色の仮根(かこん)が毛のように一面にはえる。この地下茎には菌類が共生しており、一種の菌根のようなものである』。『地下や腐植の中で胞子が発芽して生じた配偶体には葉緑素がなく、胞子体の地下茎によく似た姿をしている。光合成の代わりに多くの陸上植物とアーバスキュラー菌根』(菌根の中で大多数の陸上植物の根にみられるもの。根の外部形態には大きな変化は起こらず、根の細胞内に侵入した菌糸が「樹枝状体」(arbuscule)、種によっては「嚢状体」(vesicle)とを形成する。根の外部には根外菌糸が纏わりついて周囲に胞子を形成することも多い。この菌根はかつては構造的特徴からVA菌根(Vesicular-Arbuscular Mycorrhiza)と呼ばれていたが、嚢状体は見られないこともあるので、現在ではアーバスキュラー菌根と呼ばれる)『共生を営むグロムス門』(Glomeromycota:菌界の門の一つで現在は約二百三十種が記載されている。陸上植物の胞子体の根(シダ植物や種子植物といった維管束植物)や配偶体(コケ植物やシダ植物)の大半と共生してアーバスキュラー菌根を形成し、リン酸の吸収を助けていることで知られる。一般的には陸上植物に栄養を依存する(偏性生体栄養性)と考えられているが、いくつかの種は植物と共生せずに生存出来る可能性も指摘されている。全世界の地中に生息し、陸上植物の八割以上と共生することが出来る)『の菌類と共生して栄養素をもらって成長し、一種の腐生植物として生活する。つまり他の植物の菌根共生系に寄生して地下で成長する。配偶体には造卵器と造精器が生じ、ここで形成された卵と精子が受精して光合成をする地上部を持つ胞子体が誕生する』。『日本では本州中部から以南に、海外では世界の熱帯に分布する』。『樹上や岩の上にはえる着生植物で、樹上にたまった腐植に根を広げて枝を立てていたり、岩の割れ目から枝を枝垂れさせたりといった姿で生育する。まれに、地上に生えることもある』。『日本ではその姿を珍しがって、栽培されてきた。特に変わりものについては、江戸時代から栽培の歴史があり、松葉蘭の名で、古典園芸植物の一つの分野として扱われる。柄物としては、枝に黄色や白の斑(ふ)が出るもの、形変わりとしては、枝先が一方にしだれて枝垂れ柳のようになるもの、枝が太くて短いものなどがある。特に形変わりでなくても採取の対象にされる場合がある。岩の隙間にはえるものを採取するために、岩を割ってしまう者さえいる。そのため、各地で大株が見られなくなっており、絶滅した地域や、絶滅が危惧されている地域もある』とある。個人ブログ「シンガポール熱帯植物だより+あるふぁ」の記事も画像が多数あり、必見。

「順序」「発生順序」発生の動機とそのステージの変化の連続した様態。発生機序。

「木賊」シダ植物門トクサ綱 Equisetopsidaトクサ目 Equisetalesトクサ科 Equisetaceaeトクサ属 Equisetumトクサ Equisetum hyemale。同種は、あの茎の先端に土筆(つくし)の頭部のような胞子葉群をつけ、ここで胞子を形成する。

「石松(ひかげ)」植物界ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaヒカゲノカズラ綱 Lycopodiopsidaヒカゲノカズラ目 Lycopodialesヒカゲノカズラ科 Lycopodiaceaeヒカゲノカズラ属 Lycopodiumヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum。広義のシダ植物であるが、見た目は巨大な苔の様相を呈する。ウィキの「ヒカゲノカズラによれば、『山野に自生する多年草で、カズラという名をもつが、つる状ながらも他の植物の上に這い上ることはなく、地表をはい回って生活している。針状の細い葉が茎に一面に生えているので、やたらに細長いブラシのような姿である』。『茎には主茎と側枝の区別がある。主茎は細長くて硬く、匍匐茎となって二又分枝しながら地表を這う。所々から根を出し、茎を地上に固定する。表面には一面に線形の葉が着いているが、葉はほぼ開出しているので、スギゴケ』(マゴケ植物門 Bryophytaスギゴケ綱 Polytrichopsidaスギゴケ目 Polytrichalesスギゴケ科 Polytrichaceaeスギゴケ属 Polytrichumスギゴケ Polytrichum juniperinum)『などのような感じになっている。側枝は短くて、数回枝分かれをし、その全体にやや密に葉をつける』。『夏頃に、胞子をつける。まず茎の所々から垂直に立ち上がる枝を出す。この茎は緑色で、表面には鱗片状になった葉が密着する。茎は高さ』五~一五センチメートル、『先端近くで数回分枝し、その先端に』胞子嚢穂をつけ、それは長さが二~一〇センチメートルで円柱形を呈する。胞子嚢を『抱えた鱗片状の胞子葉が密生したもので、直立し、やや薄い緑色』である、とある。

「平瀬作五郎」(安政三(一八五六)年~大正一四(一九二五)年一月四日)は植物学者。福井出身。ウィキの「平瀬作五郎によれば、福井藩中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学、『油絵を学ぶ。卒業後、同校の中進業生図画教授助手を拝命』するが、明治六(一八七三)年に『油絵を学ぶために上京』、二年後には『東京での油絵留学から帰郷、岐阜県中学校図画教授方を拝命する』。明治二一(一八八八)年、『帝国大学理科大学』『植物学教室に画工として勤務』するようになり、二年後には『技手となる。主として図画を描いていたが、植物学に興味をいだき、明治二六(一八九三)年、『イチョウの研究を始める』。翌年一月に『最初の論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を』『植物學雜誌』に発表し、明治二十九年には『イチョウの精子を世界ではじめてプレパラートで確認した』。『平瀬作五郎によるイチョウの精子の』最初の『発見は、池野成一郎によるソテツの精子の発見に先立つ』明治二十七年一月であったとされており、『平瀬は、寄生虫かと思って当時助教授だった池野成一郎に見せたが、池野は一目見るなり「精子だ」と直感したという』。その後、明治二十九年九月九日に「花粉管端より躍然精蟲の遊動して活發に轉々突進する狀況を目擊」し、十月には「いてふノ精蟲に就テ」『という論文を発表している。これが世界で初めての裸子植物における精子の発見となり、池野成一郎によるソテツの精子の発見と合わせて、日本人による植物学への最も輝かしい貢献となった』。その後、一年して彼は『彦根中学へ転出し、一時は研究も断念、不幸な時期を体験している。しかし』明治四五・大正元(一九一二)年、『恩師ともいえる池野成一郎とともに、それぞれイチョウとソテツの精子の発見を高く評価されて、帝国学士院恩賜賞を授与された。ほとんど学歴のない平瀬に恩賜賞が授与される、というのは異例のことであった。もっともはじめは平瀬作五郎の授与は予定されていなかったらしく、「平瀬が貰わないのなら、私も断わる」と池野成一郎がいうので』、二人しての受賞となったという(下線やぶちゃん。ご覧の通り、彼の正規の最終学歴は福井藩中学校卒である)。『後半生は』京都の『花園中学校で教鞭をとった』。『平瀬作五郎が精子を発見したイチョウの木は、今でも東京都文京区白山にある東京大学理学部付属植物園の中に保存されている』とある。南方熊楠より十一年上

「生本」生体資料標本。

「万年青(おもと)」単子葉植物綱Liliopsidaユリ目 Lilialesユリ科 Liliaceaeオモト属Rohdea オモトRohdea japonica

「エジンバラの学会」エディンバラ植物学会。エディンバラ大学(University of Edinburgh)に置かれたものと思われる国際的な植物学会であろう。

「愍然(びんぜん)」可哀想なさま。憐れむべきさま。

 以下の二つの段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 小生はそんな博士を愍然と冷笑するなり。身幸いに大学に奉職して、この田舎にあり万事不如意なる小生よりは早く外国にこの研究を遂げたる者あるの報に接したりとて、その人が何のえらきにあらず。言わば東京にある人が田辺にあるものよりは早く外国の政変を聞き得たというまでのことなり。小生外国にありしうちは、男のみかは婦女にして、宣教または研学のためにアフリカや濠州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱き地に入つて、七年も入牢も世界の大勢はおろか生れ故郷よりの消息にだに通ぜず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしきは獣に食われ疫(やまい)に犯されて死せしものを多く知れり。これらは、事、志と違い半途にして中止せしは愍然というべきが、決して笑うべきにあらず。同情の涙を捧ぐべきなり。

 

 御殿女中のごとく朋党結托して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥るる、蕞爾(さいじ)たる東大などに百五十円や二百円の月給で巣を失わじと守るばかりがその能(のう)で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの外になき博士、教授などこそ真に万人の愍笑(びんしょう)の的なれ。件(くだん)の博士は学問が好きで子を何人持つか覚えぬ人の由、桀紂(けつちゅう)がその身を忘ると孟子は言ったが、自分の生んだ多くもあらぬ子の数を記臆せずなどいうも、また当世はやりの一種の宣伝か。

[やぶちゃん注:ここに出る似非科学者の好色博士の実名を南方熊楠が記さなかったのは、返す返すも惜しい!

「蕞爾(さいじ)」非常に小さいさま。]

 

2017/04/27

南方熊楠 履歴書(その19) 熊野での採集成果

 

 そのころは、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧(もうまい)といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上きわめて尊かりし所以(ゆえん)で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。例せば、只今小生唯一の専門のごとく内外人が惟う粘菌ごときは、東大で草野博士が二十八種ばかり集めたに過ぎざるを、小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し候。その多くは熊野の産なり。さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畔氏奮発して一意採集されてより、只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候。しかし、小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおついであらば当地へ見に下(くだ)られたく、主として熊野で採りし標品が、幾万と計えたことはないが、極彩色の画を添えたものが三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたごとく、世界有数の大集彙なり。また淡水に産する藻は海産の藻とちがい、もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし。その淡水藻をプレパラートにおよそ四千枚は作り候。実に大きな骨折りなりしが、資金足らずしてことごとく図譜を作らぬうちに、プレパラートがみな腐りおわり候も、そのまま物語りの種にまで保存しあり。実に冗談でないが沙翁(シェイクスピア)の戯曲の名同然 Lover’s Labour’s Lost ! なり。

[やぶちゃん注:「惟う」「おもう」。思う。

「粘菌」真核生物アメーバ動物門(Amoebozoa:アメーボゾア)コノーサ綱 Conosea変形菌亜綱 Myxogastria に属し、ツノホコリ亜綱 Ceratiomycetidae・真正粘菌亜綱 Myxogastromycetidae・ムラサキホコリ亜綱 Stemonitomycetidae に分かれ、さらに Parastelida 目・ハリホコリ目 Echinosteliida・コホコリ目 Liceida・ケホコリ目 Trichiida・ムラサキホコリ目 Stemonitida・モジホコリ目 Physarida に分類される生物群で、「変形体」と呼ばれる栄養体形態では、移動しながら微生物などを摂食する〈動物的〉性質を持ちながら、一方で、小型の「子実体」を形成して胞子によって繁殖するという〈植物的〉或いは〈菌類的〉性質を併せ持った特殊なライフ・サイクルを持つ生物群を指す。詳しくは私が参照したウィキの「変形菌」などを読まれたい。

「草野博士」草野俊助(明治七(一八七四)年~昭和三七(一九六二)年)は植物学者で日本に於ける菌・粘菌学研究の先駆者の一人。福島県出身。大正一四(一九二五)年に母校である東京帝国大学の教授となり、東京文理科大学教授も勤めた。「壺状菌類の生活史に関する研究で」で昭和八(一九三三)年に帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞、日本学士院会員で日本菌学会初代会長。

「小畔氏」南方熊楠の粘菌研究の高弟小畔四郎。既出既注。まさにこの勝浦行の折りに那智の瀧で初めて出逢って意気投合したのが始まり。

「一意」「いちい」。一つのことに精神を集中すること。

「只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候」ウィキの「変形菌」によれば、変形菌は現在、世界で約四百種が知られている(現在では一般にはその総てを「変形菌門コノーサ綱変形菌亜綱」に属させており、南方熊楠の研究当時とは分類学的にはかなり異なり、分子生物学の台頭により向後も変化し、種数も恐らくは爆発的に増えるのではないかと私には思われる。実は私も二十代の頃、南方熊楠を知った当時、採取・研究を志そうと思ったことがある)。

「菌類」(きんるい)は広義には菌界 Fungiの当時の伝統的な四大分類で言う、ツボカビ門 Chytridiomycota・接合菌門 Zygomycota・子嚢菌門 Ascomycota・担子菌門 Basidiomycota に属する所謂、茸(キノコ)・黴(カビ)・酵母などと呼称される生物群の総称であるが、熊楠の時代には実は粘菌(変形菌類)も菌類として扱われていた。但し、混同して貰っては困るのはこの場面に於いて南方熊楠が言っている「菌類」はもっと限定的で、主に担子菌門や子嚢菌門に属するところのキノコ類を指している点である。なお、現在(二〇〇八年発表)の既知の菌類の種数は約九万七千種とされるが、総種数については、一九九一年にイギリスのホークスワース(Hawksworth)が総現存種数を百五十万程度と推定しており、研究者によってその推定数値は五十万から九百九十万種と非常な幅がある(国立科学博物館 植物研究部の細矢剛氏の「日本には菌類が何種くらいいるか」(PDF)を参照されたい。ホークスワースの推定計算式も出ている)。本邦に植生するキノコの種数も約二千五百種が記載されているが、実際には四千から五千種が植生するとされる。さすれば、南方熊楠の標本数「三千五百種」「一万」というのは、同種のステージの違いなどのダブりを勘案したとしても、今現在でも驚異的と言え、「世界有数の大集彙なり」は自画自賛の誇大広告でもなんでもなく、まっこと凄い資料数なのである。

「田中長三郎」既出既注

「淡水に産する藻」淡水性藻類は多様な種に及び、淡水の河川・湖沼・湿地・水たまりに生育する藻類の他、樹幹・岩石・土壌・苔などの多少とも湿気のある所に植生する気生藻、氷や雪の上に生える氷雪藻、温泉に生える温泉藻、更には動物・植物・菌類・地衣類に共生している共生藻なども含まれる。藻類の内、褐藻類(不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae)や紅藻類(紅色植物門 Rhodophyta)は主に海産で淡水にはごく限られた種類が見られるだけであるが、緑藻類(緑藻植物門Chlorophyta 緑藻綱 Chlorophyceae)・珪藻類(オクロ植物門 Ochrophyta カキスタ亜門 Khakista 珪藻綱 Diatomea)などは海水・淡水の両方に産し、ミドリムシ類(ユーグレナ藻綱 Euglenophyceae ユーグレナ(ミドリムシ)目 Euglenales ユーグレナ(ミドリムシ)科 Euglenaceae ミドリムシ属 Euglena)はほぼ淡水産、ストレプト植物門 Streptophyta 車軸藻綱 Charophyceae シャジクモ目 Charales シャジクモ科 Characeae に属する車軸藻類は全淡水産である。現在、地球上には約三万種の藻類が知られているが、淡水藻類と海産藻類の割合はほぼ二分の一ずつである(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。この記載に従えば、淡水藻類は凡そ世界で一万五千種で、熊楠がその「プレパラート」を「四千枚」作製したとあるのは単純に全種異種であるとするなら、現生淡水藻の四割弱の標本数となり、やはり驚異の数値となる。但し、藻類もやはりライフ・サイクル内での変形・変態が甚だしいから、これが総て異種である可能性は極めて低いと思われはする。

「もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし」金にならぬ生物の研究は、基本、南方熊楠が生きた時代から少しも進歩していない。明治の子どもが抱いた生物の不思議への素朴な疑問の多くは、未だに専門的に解き明かされてはいないのである。例えば、そうだな、私の「アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ」をお読みあれ。これを面白いと思われる奇特な御仁には私の盗核という夢魔もお薦めする。

Lover’s Labour’s Lost !」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)作の喜劇「恋の骨折り損」。一五九五年~一五九六年頃の作とされる。]

 

2017/04/26

南方熊楠 履歴書(その18) 勝浦へ向かう

 

 かくて小生舎弟方に寄食して二週間ならぬうちに、香の物と梅干しで飯を食わす。これは十五年も欧州第一のロンドンで肉食をつづけたものには堪えがたき難事なりしも、黙しておるとおいおいいろいろと薄遇し、海外に十五年もおったのだから何とか自活せよという。こっちは海外で死ぬつもりで勉学しおったものが、送金にわかに絶えたから、いろいろ難儀してケンプリジ大学の講座を頼みにするうち、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよくば何とぞ今一度渡英して奉職したしと思うばかりなるに、右ごとき薄遇で、小使い銭にも事をかかす始末、何をするともなく黙しおるうち、翌年の夏日、小生海水浴にゆきて帰る途中小児ら指さし笑うを見れば、浴衣の前破れてきん玉が見えるを笑うなり。兄をしてかかるざまをせしむることよというに、それが気に入らずばこの家を出よと迫る。その日はたまたま亡父母をまつる孟蘭盆(うらぼん)の日なるに、かくのごとき仕向け、止むを得ず小生はもと父に仕えし番頭の家にゆき寄食す。しかるに、かくては世間の思わく悪しきゆえ、また甘言をもって迎えに来たり、小生帰りておると、秋に向かうに随い薄遇ますますはなはだし。ここにおいて、一夕大乱暴を行ないやりしに辟易して、弟も妻も子供も散り失せぬ。数日して、もと亡父在世の日第一の番頭なりしが、大阪で十万円ばかり拵(こしら)へたる者を伴い来たる。この者は亡父の恩を受けしこと大なるに、亡父の死後、親には恩を受けたり子らには恩を受けずなどいい、大阪に止まって、兄が破産せしときも何の世話も焼かざりしものなり。よって烈しくその不忠不義を責めしに、語塞(ふさ)がる。よって、この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに、なお八百円のこりあり、ほしくば渡すべしという。かかる不義の輩に一任して、そのなすままに計えしめてすら八百円のこりありといいしなれば、実は舎弟が使いこみし小生の遺産はおびただしかりしことと思う。しかるに、小生はそんな金をもろうても何の用途もなければとて依然舎弟に任せ、その家で読書せんとするも、末弟なるもの二十六歳になるに父の遺産を渡されず常々怏々(おうおう)たるを見て、これもまた小生同席中弟常楠にかすめられんことを慮り、常楠にすすめて末弟に父の遺産分け与えしめ妻を迎えしめたり。しかるに、小生家に在ってはおそろしくて妻をくれる人なし。当分熊野の支店へゆくべしとのことで、小生は熊野の生物を調ぶることが面白くて、明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候。

[やぶちゃん注:「翌年の夏日」帰国の翌年であるから、明治三四(一九〇一)年の満三十四歳の夏である。本段落の最後に「明治三十五年」とあるが、これは南方熊楠の記憶違いで「明治三十四年である。

「語塞(ふさ)がる」意味がとりにくいが、唾を飛ばして不忠を指弾した後に逆接の接続助詞「に」で、しかもこの後で、「この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに」と続くとなれば、そこでこの男に、悠々と「まあ、まあ、ちょっとそこいらでお話をさせて下さい。」と口を挟まれ、亡父の遺産について「残高を計算を致して見ましょう」(第一の番頭だから相応しいといえば、相応しい)と話を変えられてしまった、ということであろう。義憤の口調から言えば、「話を突如、遮られた。」というニュアンスか。

「末弟」南方楠次郎(明治九(一八七六)年~大正一〇(一九二一)年)。熊楠の弟常楠より六つ下の末弟。後に西村家に入籍した。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の記載によれば、『兄熊楠を尊敬し、熊楠の在外中に蔵書、筆写本の整理に当っている。熊楠も九歳年下のこの末弟をもっとも可愛がり、在英中には楠次郎を呼び寄せて学問をさせたいと常楠に訴えたり、帰国後は自分の目にかけたお手伝いの女性を楠次郎の嫁にと奨めたりしたこともあった』とある。

「怏々」不平不満のあるさま。

「明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候」河出書房新社の「新文芸読本 南方熊楠」の年譜によれば、年だけでなく月も誤っている。それによれば、不仲の常楠と離れて、南紀の陸上植物類・藻類・菌類・粘菌類等の調査を始めるために現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)に向かったのは明治三四(一九〇一)年の十月末のことである。]

2017/04/25

南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生

 

 故菊池大麓男は、小生毎度英国の『ネーチュール』、東京の『東洋学芸雑誌』へ寄書するを読んで、はなはだ小生をほめられたと下村宏氏に徳川頼倫侯が話されたと聞く。この大麓男の言に、英国人は職業と学問を別にする、医者が哲学を大成したり、弁護士で植物学の大家があったりする、人間生活の安定なくては遠大の学業は成らぬということを知り抜いたからと申されし。すべて習慣が第二の天性を成すもので、初め学問を大成せんがために職業を勉めし風が基(もと)となりて、英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業を勉めずに楽に暮らし得る身なるに、なお余事に目をふらずに学問をもっぱら励むもの多し。いわゆる amateur(アマチュール)素人(しろうと)学問ながら、わが国でいわゆる素人浄瑠璃、素人角力と事かわり、ただその学問を糊口の方法とせぬというまでにて、実は玄人(くろうと)専門の学者を圧するもの多し。スペンセル、クロール、ダーウイン、いずれもこの素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり。これを見まねてか literary men(文士)と称するものまた多し。上述の、小生が小便をひっくりかえしたる陋屋の近処ながら、小生のとかわり立派な町通りに住居せし故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろの小説や詩作を不断出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばぬ大議論を立て、英人中もっとも精勤する人といわれたり。この人などは大学出の人で多くの名誉学位を帯びたが、博士など称せず、ただ平人同様ミストル・ラングで通せしなり。

[やぶちゃん注:「菊池大麓」(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵。元東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。

「東洋学芸雑誌」明治一四(一八八一)年に東洋学芸社から創刊された自然科学を含む月刊誌。日本で最初の学術総合雑誌で、杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が、井上哲次郎や磯野徳三郎らの協力のもと、その範をまさにイギリスの科学雑誌Natureに採り、啓蒙を目的として編集された。初期には文芸作品も掲載するなどで多くの読者を獲得したが、加藤弘之や菊池大麓を始めとした官学系学者を多用、一八九〇年代半ばからは科学啓蒙誌としての性格を強めていった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「下村宏」(明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は官僚・政治家。歌人としても知られ、佐佐木信綱主宰の竹柏会に所属して『心の花』に多くの作品を発表、生前に五冊の歌集をものしている。号は海南。ウィキの「下村宏」によれば、『玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られている』。南方熊楠と同じく『和歌山県出身』で、『和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業』後、明治三一(一八九八)年に『逓信省へ入省。郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学』、帰国後は為替貯金局長から台湾総督府の明石元二郎に招かれて民政長官となり、更に総務長官となった。大正一〇(一九二一)年に『台湾総督府を退官』して『朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した』。昭和一二(一九三七)年には『貴族院議員に勅選され、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任』。昭和一八(一九四三)年、『社団法人日本放送協会会長となり』、敗戦の年の四月に組閣された『鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。終戦直後戦犯として一時拘留された後に公職追放を受け、東京商業学校』(後に私立東京学園高等学校)『の運営に関わ』ったりした。

「徳川頼倫」(よりみち 明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)紀州徳川家第十五代当主で侯爵・貴族院議員。田安徳川家第八代当主徳川慶頼六男として東京に生まれた。明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主(旧和歌山藩主)であった徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。学習院に入学したものの、成績不振のため、中等学科を中退、山井幹六の養成塾に入っている。明治二九(一八九六)年、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻、この留学中に南方熊楠と知り合い、彼の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文とも逢っている。明治三十一年に帰国、明治三十五年四月に東京市麻布区飯倉町(現在の東京都港区麻布台)の邸内に私設図書館。南葵(なんき)文庫を設立している。明治三九(一九〇六)年、徳川茂承の家督を継いだ。大正二(一九一三年に日本図書館協会総裁、大正一一(一九二二)年には宮内省宗秩寮(そうちつりょう:旧宮内省に所属した一部局で、皇族・皇族会議・華族・爵位などに関する事務を職掌した)総裁となっている(以上は人名事典等の複数の記載を参考に纏めた)。

「スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。

「クロール」不詳。並列される人物と年順が齟齬するが、或いは、イギリスの牧師でアマチュア鉱物学者でもあったウィリアム・グレゴール(William Gregor:一七六一年~一八一七年:姓の音写は「グレガー」とも)か? ウィキの「ウィリアム・グレゴール」(及び同英文他)によれば、イングランド南西端のコーンウォール(Cornwall)での『牧師の時代に、鉱物の収集と分析を行い、アマチュアながら優れた分析技術をもつ鉱物学者となった。コンウォールの彼の教区内のメナカン谷』(Manaccan valley)『から採取した磁性の砂の中にこれまで知られていない元素の酸化物があることを発見』、一七九一年にmanaccanite(メナカナイト)と命名して『論文にした』が、その四年後の一七九五年、ドイツの化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロート(Martin Heinrich Klaproth 一七四三年~一八一七年:彼は他にもウラン・ジルコニウム・セリウム・テルルの発見や、それらの幾つかの元素の命名者でもある)が『別の鉱石から発見し』、「チタン」チタン(ドイツ語:Titan/英語:titanium/ラテン語:titanium:原子番号二十二。元素記号Ti)と『命名した金属と同じ物であったことが』後に証明されたことから、「チタン」の発見者ともされる。『グレゴールは風景画、エッチング、音楽にも才能を示した』とあり、如何にも熊楠好みの人物ではある。

「アンドリュー・ラング」(Andrew Lang 一八四四 年~一九一二年)はスコットランド生まれの詩人・作家・民俗学者。七冊の詩集の他、イギリス・ヴィクトリア朝を代表する詩人テニソン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)の伝記や、処刑された悲劇のスコットランド女王メアリー・ステュアート(Mary Stuart 一五四二年~一五八七年)の研究書、その他、小説など六十巻を超す著作があるが、Custom and Myth(「習慣と神話」 一八八四年)・The Making of Religion(「宗教の起源」 一八九八年)等の文化人類学的業績、ホメロスの「オデュッセイア」(一八七九年)・「イーリアス」(一八八三年)などの翻訳が有名で一八七八年には「イギリス民俗学会」の設立にも尽力し、神話伝承の研究の先駆者としても知られているが、本邦では専ら、「アンドルー・ラング世界童話集」(Andrew Lang's Fairy BooksAndrew Lang's "Coloured" Fairy Books:童話を収集した十二冊の双書の総称。ラングが収集した広範囲な伝承民話集。ウィキの「アンドルー・ラング世界童話集」を参照されたい)の編著者としての方が馴染み深い。

「ミストル」“Mr.”。]

 

 しかるに、わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を妨ぐること多きは百も御承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこ卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆が時々世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思いおりたり。しかるに国許(もと)の弟どもはこれを悦ばず、小生が大英博物館に勤学すると聞いて、なにか是の博覧会、すなわちむかしありし竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)ごとき処で読書しおることと思いおりたるらしく、帰朝の後も十五年も海外におりて何の学位をも得ざりしものが帰ってきたとて仏頂面をする。むかしも尾張の細井平洲は四方に遊学せしが、法螺だらけの未熟な教師に就いたところが、さしたる益なしと悟って、多く書籍を買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大儒となれりと申す。こんなことは到底、早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟には分からず。いわんや、平凡なむかしの和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻には分からぬこと一層にて、この者ども小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のごとくで立派だが、実は小生は不図帰朝したので、小生が亡父より譲られた遺産墨弟が兄の破産の修繕に藉口して利用したるを、咎められはせぬかとの心配より出でし小言と後に知れ申し候。

[やぶちゃん注:「福沢先生」福澤諭吉(天保五(一八三五)年~明治三四(一九〇一)年)は摂津国大坂堂島浜(現在の大阪府大阪市福島区福島)にあった豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助次男として生まれ、安政元(一八五四)年、十九の時に長崎へ遊学して蘭学を学んだ。以下、ウィキの「福澤諭吉」によれば、翌年、大坂を経て江戸へ出る計画を強行するも、兄から制止され、医師で蘭学者の緒方洪庵の「適塾(適々斎塾)」で学ぶこととなった。しかし腸チフスに罹患、回復後は一時、中津へ帰国している。安政三年、再び、大坂へ出て学んだ。同年には兄が死んで福澤家の家督を継いだものの、『遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書』『を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととな』った。安政四年には最年少二十二歳で『適塾の塾頭とな』っている。『適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた』。但し、生来、『血を見るのが苦手であったため』、『瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある』。『幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか』四十石の『勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで』、安政五年に『諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられ』、『江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾』『の講師となるために』『江戸へ出』た。『築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた』。『この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている』。『元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大き』かったという。安政六年、『日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、諭吉自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった』。『諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所へ入所した』ものの、『英蘭辞書が持ち出し禁止だったために』たった一日で退所している。安政六(一八五九)年の冬、『日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣すること』となり、万延元年一月十九日(一八六〇年二月十日)、『諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立』った。この辺りまでが、彼の本邦での福澤の修学時代で、以降の事蹟詳細はリンク先を参照されたが、この渡米からさらに渡欧して各国を視察して帰国、「西洋事情」(慶応二(一八六六)年から明治三(一八七〇年刊)を刊行して欧米文明の紹介に努め、芝新銭座に「慶應義塾」を創設、活発な啓蒙活動を展開、「学問のすゝめ」(初版は十七編で、明治五(一八七二)年から四年に亙って断続的に出版された)はベスト・セラーとなった。また『時事新報』を創刊、政治・時事・社会問題や婦人問題など、幅広く論説を発表した。

「二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業」徹底した独立自尊を訴えるための見かけ上の自己韜晦であるが、既に冒頭で彼は「明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成蹟よろしからず。十九年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、十九年の十二月にサンフランシスコヘ渡りし」と記しているので嘘というのではない。南方熊楠は和歌山中学を卒業後、上京して共立学校で高橋是清から英語を学び(またこの頃、既に菌類研究への本格的意思が芽生えた)、翌明治一七(一八八四)年九月に東京大学予備門の入試を受けて合格、入学している(同期に夏目漱石・正岡子規・山田美妙らがいた)。しかし、翌年十二月には試験に落第し、明治一九(一八八六)年二月に帰省し、退学となった。渡米はその年の十二月二十二日であった。

「竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)」近代日本の百貨商品陳列所明治一〇(一八七七)年に上野公園で「第一回内国勧業博覧会」が開催されたが、その閉会後、出品者に売れ残りの品を返却したものの、出品者の希望があって、その一部を残留陳列して販売することとなり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが「勧工場(かんこうば)」の始まりとなった。最初の開設場所には麹町辰ノ口(たつのくち)にあった旧幕府伝奏屋敷の建物を当てた。

「細井平洲」(ほそいへいしゅう 享保一三(一七二八)年~享和元(一八〇一)年)は儒学者。尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の農家に生まれた。本姓は紀氏。ウィキの「細井平洲」によれば、『幼くして学問に励み』、十六の時に『京都に遊学するが、当時』、有為な学者は殆んどが『江戸幕府や諸藩に引き抜かれていた』ため、失望、帰郷した。この時、『尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する』。『後に中西の薦めにより』延享二(一七四五)年に『唐音研究のために長崎に遊学』。宝暦元(一七五一)年二十四歳の時、『江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。また、西条藩・人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の藩に迎えられ』、宝暦一三(一七六三)年、『上杉治憲(後の鷹山)の師とな』った(『治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩が財政再建を成功させたことは有名』)。明和八(一七七一)年、米沢藩在国を一ヶ年とすること、神保綱忠らを付き添わせること等を条件として、月俸十人扶持を与えられ、『米沢藩の江戸におけるお抱え文学師範となって米沢に下向した』(この時と併せて三次に渡って米沢に下向、講義を行っており、藩校「興譲館」は平洲が命名している)。安永九(一七八〇)年五十三歳の時、御三家筆頭の『尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)になった』。寛政八(一七九六)年六十九歳の時には第三次の米沢下向を実現しているが、『この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用された』。『平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である』。山形県米沢市丸の内にある松岬(まつがさき)神社には藩主上杉鷹山とともに彼も祀られている、とある。

「早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟」弟南方常楠のこと。常楠は卒業と同時に、父弥兵衛とともに酒造業を起こしたことは既に述べた。

「不図」「ふと」。予告もせずに急に。

「藉口」「しゃこう」と読む。何かにかこつけること。口実をもうけて言い訳をすること。]

 

2017/04/24

南方熊楠 履歴書(その16) 帰国

 

 帰国して見れば、双親すでに下世して空しく卒塔婆(そとば)を留め、妹一人も死しおり、兄は破産して流浪する、別れしとき十歳なりし末弟は二十五歳になりおる。万事かわりはており、次弟常楠、不承不承に神戸へ迎えに来たり、小生の無銭に驚き(実は船中で只今海軍少将たる金田和三郎氏より五円ほど借りたるあるのみ)、また将来の書籍標品のおびただしきにあきれたり。しかして兄破産以後、常楠方(かた)はなはだ不如意なればとて、亡父が世話した和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寓せしめたり。しかるに、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士(かし)和佐某あり(この人今は大阪で自働車会社を営み、大成金で処女を破膜することをのみ楽しみとすと聞く)。これは和佐大八とて、貞享四年四月十六日京の三十三間堂で、一万三千の矢を射てそのうち八千三十三を通せし若者の後裔なるが、家禄奉還後零落(れいらく)してこの寺にいささかの縁あっておりたるなり。小生この人と話すに、和歌山の弟常楠方は追い追い繁盛なりという。兄の破産が崇って潰(つぶ)れたように聞くがというに、なかなか左様のことなし。店も倉も亡父の存日より大きく建て増せしという。不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子。これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候。

[やぶちゃん注:「帰国」前段で記した通り、南方熊楠の帰国は明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であった。

「下世」「げせい」と読んでおく。

「妹一人も死しおり」熊楠より五歳下の妹であった南方藤枝(南方熊楠表記「ふじえ」/戸籍表記「ふじゑ」 明治五(一八七二)年~明治二〇(一八八七)年)のことと思われる。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の南方藤枝の項によれば、『病弱であったことは母すみの日記等でうかがわれるが、熊楠の渡米の翌年九月五日、十六歳で死去した。妹の死を知ってほどなく』、『熊楠は植物採集中のアンナーバーの深林で大吹雪に遭遇した。その時、生後四十日ほどの子猫が現われ』、『足許で鳴いた。熊楠はこの小猫があるいは死んだ妹の生れ変わりかと思うと』不憫になり、『吹雪の中を抱えて走った。ようやく羊の放たれてある柵に来て、子猫を放ったが、その猫は、柵に沿うて熊楠の後を追っていつまでも鳴いていたという。「これを今もあはれなことと思ひ居る」と熊楠は回想している』とある。霊感鋭き熊楠らしい、忘れ難い話である。

「南方常楠」(明治三(一八七〇)年~昭和二九(一九五四)年)は既注であるが、再掲しておく。熊楠より三つ下の弟。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、父弥右衛門とともに酒造業を始め、南方酒造(現在も続く清酒「世界一統」で、こちらの公式サイトの「沿革」を参照されたい)の基礎を作り、和歌山市議会議員なども務めた。先行するに出る実父弥右衛門の臨終の遺言も参照されたい。

「金田和三郎」不詳乍ら、ネット情報を見ると、戦艦設計学を学んだ海軍技術者でもあった。事実、南方熊楠の「十二支考」の「馬に関する民俗と伝説」(大正七(一九一八)年『太陽』連載)の中で、『ロンドンで浜口担氏と料理屋に食した時、給仕人持ち来た献立書を見て、分らぬなりに予が甘麪麭(スイートブレット)とある物を注文し、いよいよ持ち来た皿を見ると、麪麭(パン)らしく見えず、蒲鉾(かまぼこ)様に円く豆腐ごとく白浄な柔らかなもの故、これは麪麭でないと叱ると、いかにも麪麭でないが貴命通り甘麪麭(スイートブレット)だと言い張り、二、三度言い争う。亭主予(かね)て予の気短きを知れば、給仕人が聞き違うた体に言い做なし、皿を引き将(も)て去らんとするを気の毒がり、浜口氏が自分引き取りて食べ試みると奇妙に旨(うま)いとて、予に半分くれた。予食べて見るに味わい絶佳だから、間違いはその方の不調法ながら旨い物を食わせた段感賞すと減らず口利(き)いて逃げて来た。翌日近処で心安かったから亭主に会って、あれは全体何で拵(こしら)えたものかと問うと、牝牛の陰部だと答えた。しかるに字書どもには甘麪麭は牝牛の膵(すい)等の諸腺と出づれど、陰部と見えず。ところが帰朝のみぎり同乗した金田和三郎氏(海軍技師)も陰部と聞いたと話されたから、あるいは俗語郷語に陰部をもかく呼ぶのかと思えど、この田舎ではとても分らず、牛驢の陰具を明の宮中で賞翫(しょうがん)した話ついでに録して、西洋通諸君の高教を俟(ま)つ』と出る(下線やぶちゃん)。

「和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院」現在の大阪府泉南(せんなん)郡岬町(みさきちょう)(当時は深日(ふけ)村)多奈川(たながわ)谷川(たにがわ)に現存する真言宗宝珠山光明寺理智院。天平五(七三三)年に行基により創建。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトは

「和佐某」不詳。「大阪で自働車会社を営」んでいた「大成金」ならば判ろうという気もするが、どうも「処女を破膜することをのみ楽しみとす」というのでは、軽々に候補を示すわけにも行かぬので調べるのをやめた。

「和佐大八」江戸前期の紀州藩士で紀州竹林派の弓術家で、「通し矢の天下一」と讃えられた和佐範遠(のりとお 寛文三(一六六三)年~正徳三(一七一三)年)。ウィキの「和佐範遠によれば、『紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山県和歌山市和佐)に生まれた。父実延は、紀州竹林派の佐武源大夫吉全の弓術の弟子だった。範遠も紀州竹林派吉見台右衛門経武(法名:順正)』に師事、『弓術を学んだが、技量が優れていたので藩より稽古料を給された』という。貞享二(一六八五)年一一月、『父は借金で問題を起こし禄を召し上げられたが、範遠は許された』。貞享三(一六八六)年四月二十七日(南方熊楠は「貞享四年四月十六日」とするが、こちらの記載の方が詳細で正しい感じがする)、『京都三十三間堂で大矢数を試み、総矢数』一万三千五十三本の内、通し矢八千百三十三本で「天下一」となった。『この記録は以後破られることはなかった。だが、フェア・プレイの精神に欠けるところがあり、射る度に少しずつ前に進んだという』。範遠はこの記録達成の功績により、知行三百石に加増され、その後、貞享五(一六八八)年には紀州藩第三代藩主徳川綱教(つなのり)附きの射手役となり、二百石を加増されている。元禄八(一六九五)年には頭役並となっており、この間、元禄二(一六八九)年三月には師吉見順正から印可を得ている。しかし、理由は不明であるが(リンク元には書かれていない)、宝永六(一七〇九)年三月十三日に安藤陳武お預けとなり、田辺城に幽閉されてしまい、そのまま四年後、『失意のうちに、病に罹り』田辺城内で死去した(享年五十一)。但し、『遺跡は長男貞恒が継い』でおり、『和佐家は以降も代々藩の弓術師範役とな』って存続した、とある。その貞享三年四月二十七日に行われた『京都三十三間堂での大矢数』は、実に前日の『暮れ六つ』(午後六時頃)より開始されたが、翌日の朝辺りになって『調子が悪くなり』、『通し矢』の矢数『が少なくなった。そこに当時の天下一の記録保持者星野勘左衛門茂則が現れ、範遠の左手を小刀で切って』鬱血を治したところ、『調子を取り戻したという』とある。その末裔とはいえ、しかし、何とまあ、南方熊楠という男、どこにどんなになって居ようとも、傍には必ずトンデモない奴が一緒にいるもんだ!

「不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子」不審なのは、理智院と和歌山市街は直線で十キロも離れていないことで、何故、熊楠は独りではなく、和佐を誘ったものか? 日本一の大立者と呼ばれんとせんとする大志を抱いて飛び出したものの、勝手気儘に外地に行き、結局、見かけ上は故郷に錦を飾るわけでもなく、実金銭はスッカラカンの無一文で帰ってきた彼は、流石に堂々と実家や弟に対峙する気概は実はなかったのかも知れぬ。そうしてみると、続く「これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候」という恨み節も、熊楠のそれにしては、いつものガツンとした悲憤慷慨調が妙になく、寧ろどこか、哀調をさえ帯びていることが判る。物蔭から遠慮がちに故郷の生家を覗き見るというポーズに、私はどこか、放蕩息子の帰還とまでは言わぬが、彼の〈puer eternus(プエル・エテルヌス/永遠の少年)〉性を感ずるシークエンスである。]

 

2017/04/23

南方熊楠 履歴書(その15) ロンドンにて(11) 大英博物館出入り禁止から帰国へ

 

 こんなことにて兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に苦辛したが、亡父存日すでに亡父の一分と常楠の一分を含め身代となし、造酒業を開きおりしゆえ、兄の始末も大抵かたづけし。しかるに兄破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為換(かわせ)、学資を追い追い送り来たらず。小生大いに困りて正金銀行ロンドン支店にて逆為替を組み、常楠に払わせしもそれもしばらくして断わり来たれり。よって止むをえず翻訳などしてわずかに糊口し、時々博物館に之(ゆ)きて勤学するうち、小生また怒って博物館で人を撃つ。すでに二度までかかることある以上は棄ておきがたしとあって、小生はいよいよ大英博物館を謝絶さる。しかるにアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝あり、八百屋か何かの書記より奮発して小説家となり、著名な人なり。今も存命なるべし)熊楠の学才を惜しむことはなはだしく、英皇太子(前皇エドワード七世)、カンターベリーの大僧正、今一人はロンドン市長たりしか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方たりしゆえ)、サー・ロバート・ダグラスまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰せり。この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言しくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。しかるに、今度という今度は慎んでもらわにゃならぬとて、小生の座位をダグラス男の官房内に設け、他の読書者と同列せしめず。これは小生また怒って人を打つを慮(おもんぱか)ってなり。小生このことを快からず思い、書をダグラス男に贈って大英博物館を永久離れたり。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に献納した物あり。今も公衆に見せおるならん。高野管長たりし土宜(どき)法竜師来たとき小生の着せる袈裟法衣等も寄付せり。ダグラス男に贈った書の大意は、日本にて徳川氏の世に、賤民を刑するにも忠義の士(倒せば大石良雄)を刑するにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口宣(こうせん)せり。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読みきかすに足らぬもの、また忠義の士はこれを重んずるのあまり、将軍の代理としてその言を書き留むるまでもなく、口より耳へ聞かせしなり。さて西洋にはなにか手を動かすと、これを発作狂として処分するが常なり(乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う)。日本人が人を撃つにはよくよく思慮して後に声をかけて撃つので決して狂を発してのことにあらず。今予を他の人々と別席に囲いてダグラス男監視の下に読書せしむるは、これ予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多かるべく、予を尊んでのことと思う人は少なかるべければ、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力しくれた上はこの上の厚志を無にせぬよう当館に出入せざるべしと言いて立ち退き申し候。大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候。

[やぶちゃん注:「逆為替」金の受取側が「振出人」で、支払側が「名宛人」となる「為替手形」。現行では専ら、輸出代金の回収で用いられている。

「正金銀行」既出既注

「小生また怒って博物館で人を撃つ」前回の殴打事件が一八九七年十一月八日、今回のそれはそのほぼ一年後の一八九八年十二月六日で、しかも前回と同じ閲覧室であった。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの牧田健史氏の「英国博物館 The British Museum」によれば、この時のトラブルは『女性閲覧者の私語が原因となって館員との間で紛争となったもの』とある。

「大英博物館を謝絶さる」南方熊楠は閲覧室への出入禁止だけでなく、同博物館図書室自体の許されていた利用許可が停止されてしまったのである。

「アーサー・モリソン」イギリスのジャーナリストで作家、また東洋美術蒐集家でもあったアーサー・ジョージ・モリスン(Arthur George Morrison 一八六三年~一九四五年)。ウィキの「アーサー・モリソン」によれば、『ロンドンのイースト・エンドで生まれる。少年時代や教育については詳しいことは分かっていない』。一八八六年から一八九〇年まで『事務員として働いた後、新聞界に身を転じ、『ナショナル・オブザーヴァー』に籍を置いた。彼はここで様々な寄稿をするとともにロンドンのスラム街を描いた作品を発表、本として出版して評判を得た。以後スラムの生活を描いた小説などを多く発表』(Tales of Mean Streets(「貧民街の物語」 一八九四年)等)、『作家として名声を得た。東洋美術の第一人者としても著名で、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている』。一八九四年に『シャーロック・ホームズが『最後の事件』によって連載終了になると、その穴を埋めるべく『ストランド・マガジン』はモリスンに新しい推理小説の連載を依頼した。こうして』一八九四年から一九〇三年まで、『探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説が連載されることになる。マーチン・ヒューイットは決して超人的ではない平凡な探偵だが、ロンドンの風俗描写やシドニー・パジェットの挿絵などでなかなかの人気を博した。後年ヴァン・ダインやその他の評論家からも高く評価されている』とある。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「モリソン Morrison, Arthur 1863-1945」によれば、『熊楠とは一八九八年頃から頻繁に付き合っていたようである』とあるから、この二度目の殴打事件の年の事件前に出逢いがあったものであろう。松居氏は続けて、『モリソンには、のちに日本美術に関する著作があり、あるいはそうした関心がもとで熊楠と知り合ったかと想像される。熊楠の方も、他の年配の学者連とは違って、そう歳の変わらないモリソンとは気楽に付き合っていたのだろう。英国国王も会員となっているサヴィジ・クラブで遇されたことを「モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし」といぶかしがっていたくらいである』。『ところが、それから十数年経った一九一二年に、熊楠は最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にモリソンの略伝を見出す。生存中の人物のために一項を設けることはたしかに破格の扱いであり、やっと熊楠もモリソンの名声の高さに気が付いたのであった。それにしても、次のように描きだされたモリソンの飾らぬ横顔は、読むものに好感を抱かせずにはいないであろう』として、大正三(一九一四)年六月二日附柳田国男宛書簡から以下を引いておられる。『この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。』。

「大英百科全書」前注に出、以前にも注したEncyclopædia Britannica(エンサイクロペディア・ブリタニカ:「ブリタニカ百科事典」)。

「英皇太子(前皇エドワード七世)」(Edward VIIAlbert Edward 一八四一年~一九一〇年)は当時は母ヴィクトリア女王が在位しており、「プリンス・オブ・ウェールズ」(皇太子)の立場にあった。彼の王としての在位は一九〇一年から一九一〇年までの九年に過ぎず、崩御とともに次男ジョージ五世(George VGeorge Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)が王位を継いだ。

「カンターベリーの大僧正」当時のカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury:イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教)はフレデリック・テンプル(Frederick Temple 一八二一年~一九〇二年)。

「ロンドン市長」事件は一八九八年末であるから難しい。ネット上のデータでは一八九八年はSir John Moore なる人物で、翌一八九九年ならば、Alfred Newton なる人物である。後者か。

「サー・ロバート・ダグラス」既出既注

「加藤高明」既出既注

「小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)」小池張造(ちょうぞう 明治六(一八七三)年~大正一〇(一九二一)年)は外交官。松川藩士の子として福島県に生まれた。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官補となって朝鮮に勤務、翌年、英国在勤となり、加藤高明公使に能力をかわれた。明治三十三年に加藤が第四次伊藤博文内閣の外相に就任すると、秘書官兼書記官として本省に戻されたが、翌年には清国、翌々年には英国の公使館書記官となった。その後、ニューヨーク・サンフランシスコ・奉天の各総領事を勤め、明治四五(一九一二)年に英国大使館参事官となった。第一次山本権兵衛内閣では外務省政務局長、続く第二次大隈重信内閣の外相は再び加藤となり、その下で対華二十一カ条要求や中国第三革命をめぐって精力的に活動したが、外務官僚としては異例の志士的心情を持っていたことから何かと物議を醸した。寺内正毅内閣下で英国大使館参事官に任命されたが、辞職、阪神財閥の一つである久原本店の理事となって実業界入りした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「書をダグラス男に贈って」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『同日付の「陳状書」には、前回の事件を含めて日本人への度重なる侮辱があったと述べている』とある。

「高野管長たりし土宜(どき)法竜師」簡単に既注している。明治二(一八六九)年より高野山の伝法入壇に入った高僧。当時、真言宗法務所課長(明治一四(一八八一)年に二十七歳で就任)であった彼は、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗の代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)・芦津実全(天台宗)・八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時、ロンドンで横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて南方熊楠と面会、以来、没するまでの三十年間に渡って膨大な往復書簡を交わしている。南方熊楠より十三年上。なお、彼が高野山(派)管長となるのは後の大正九(一九二〇)年であるので注意されたい。但し、ここは南方熊楠の誤りではなく、この書簡執筆時には「高野管長」であったのだから、問題ない。しかし、彼が「来たとき」に「小生」南方熊楠が「着」していた「袈裟法衣等も寄付せり」というのは私にはよく意味が判らない。土宜は自身の着替えの予備として持って来ていた袈裟や法衣を熊楠に贈ったものででもあったか。

「乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う」乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)年九月十三日)の自刃は熊楠の帰国から十二年後のことである。この熊楠の断定的謂いは、その頃に手紙のやりとりをしていた外国人からの情報の基づくものと思われる。

「大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候」これはかなり意外な自己分析と言える。彼はその暴力事件の最初にして最大の原因は弟の送金不通に対する鬱憤の山積に基づくと言っているからである。これは熊楠が自己の精神状態を平静に保てずに、他虐的行為によって代償的に暴行を揮ったという心的複合{コンプレクス)を認めている内容であり、はなはだ興味深いからである。]

 

 しかるに、このことを気の毒がるバサー博士(只今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支たるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書きし人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、時々美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれたり。かくて乞食にならぬばかりの貧乏しながら二年ばかり留まりしは、前述のロンドン大学総長ジキンスが世話で、ケンブリジ大学に日本学の講座を設け、アストン(『日本紀』を英訳した人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めんとしたるなり。しかるに不幸にも南阿戦争起こり、英人はえらいもので、かようのことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はジキンスより金を出しもらい、フランスの美術商ビング氏(前年本願寺の売払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸しもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋をエドウィン・アーノルド方へ食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり。アーノルドも持て余せしなり)という何ともならぬ喧嘩好きの男を使い売りあるき、買ってくれさえすれば面白くその画の趣向や画題の解説をつけて渡すこととせしが、これも銭が懐中に留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永くつづき、ケンブリジに日本学講座の話しも立消えになったから、決然蚊帳(かや)のごとき洋服一枚まとうて帰国致し候。外国にまる十五年ありしなり。

[やぶちゃん注:「バサー博士」イギリスの古生物学者で特に棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulata に属するウミユリ類を専門に研究していたフランシス・アーサー・バサー(Francis Arthur Bather 一八六三年~一九三四年)。当時は大英博物館地質学部助手。因みに、彼は明治二六(一八九三)年夏に日本を訪れ、東京帝国大学理科大学を見学、動物学教授箕作嘉吉や飯島魁らと逢い、三浦の臨海実験所も訪問していることから、日本への近親感があったことも、南方熊楠との関係をよいものとしたものと言える。熊楠とは一九九三年講談社現代新書刊の「南方熊楠を知る事典」によれば、『交際は一八九四年からはじまったようだが、一八九七年六月十三日には、熊楠バサー夫妻に軍艦富士を見学させ、翌年十一月一日には、英国で建造された軍艦敷島の進水式に招いている。バザー夫人はスウェーデン人で』、『熊楠はこの夫人とも親しくなったようで、浮世絵を贈ったりしている』。『また、熊楠を大英博物館の植物学部長ジョージ・マレーに紹介したのも』彼で、後年の名著、冠輪(かんりん)動物上門腕足(わんそく)動物門 Brachiopoda の腕足類の化石をテーマとした考証論文「燕石考(えんせきこう)」の『執筆においても、熊楠はバザーから多大の恩恵を受け』た。熊楠より四歳年上。

「ナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)」ロンドン・サウスケンジントンにある「ロンドン自然史博物館」(Natural History Museum)のこと。この当時は大英博物館の一部門で、永らくその扱いであったが、一九六三年には独自の評議委員会を持つ独立博物館となって大英博物館分館扱いではなくなっている。

「スキンナー」不詳。綴りは“Skinner”か。

「ストレンジ」不詳。綴りは“Strange”か。

「ヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)」現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる四百万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫のアルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。前身は一八五一年のロンドン万国博覧会の収益や展示品をもとに、一八五二年に開館した産業博物館であった。現在、先の自然史博物館・人類学博物館・科学博物館・インペリアル・カレッジ・ロンドンなどと隣接している(以上はウィキの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」に拠る)。

「ロンドン大学総長ジキンス」既出既注

「ケンブリジ大学」ケンブリッジ大学(University of Cambridge)。ウィキの「ケンブリッジ大学」によれば、『イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は』一二八四年の創立で、『アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジョン・メイナード・ケインズ等、近世以降の人類史において、社会の変革に大きく貢献した数々の著名人を輩出してきた』大学である。

「アストン」既出既注

「南阿戦争」「なんあせんそう」は「ボーア戦争」(Boer WarAnglo Boer War)のこと。イギリスとオランダ系アフリカーナ(ボーア人或いはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った二回に亙る戦争全体を指す呼称であるが、ここは時制上、第二次ボーア戦争(独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と、大英帝国の間の戦争(一八九九年十月十一日~一九〇二年五月三十一日)の開戦を指す。

「フランスの美術商ビング氏」サミュエル・ビング(Samuel Bing 本名:Siegfried Bing  一八三八年~一九〇五年)のことであろう。ウィキの「サミュエル・ビング」によれば、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、一八七一年にフランスに帰化している。『日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に寄与したことで有名』。『ハンブルクで生まれる。実家は祖父の代からフランスの陶器やガラス器の輸入業をしていた』。一八五〇『年代に父親がパリに店を開き』、一八五四『年にフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取ったのをきっかけに、ハンプルグで学業を終えたのち渡仏』、『普仏戦争後に日本美術を扱う貿易商となり』、一八七〇『年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功する。初来日は』明治八(一八七五)年で、日本を訪問後は、『古いものから近代のものまで幅広く扱うようにな』った。『ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われており』、『また、ベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する』四千『点の浮世絵もビングから購入したコレクターのものである』。『そのほか、パリの装飾美術博物館はもとより、オランダのライデン国立考古学博物館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、ヨーロッパ各地の美術館に日本美術を納品した』。一八八八年より一八九一年まで、『日本美術を広く伝えるために複製図版と挿絵が掲載された』Le Japon artistique(「芸術の日本」)『という大判の美術月刊誌を』四十『冊発行し、展覧会も企画した。毎号数多くの美しい浮世絵で彩られた『芸術の日本』は、フランス語、英語、ドイツ語の』三『か国語で書かれ、美術情報だけでなく、詩歌、演劇、産業美術といった各分野の識者による寄稿によって日本文化そのものへの理解に貢献した』。一八九五年には『「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた。日本美術だけでなく、ルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、店はアール・ヌーヴォーの発源地として繁盛した』とある。

「高橋入道謹一」(生没年不詳)はここに見るように、イギリス時代の熊楠の破天荒な相棒。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「高橋謹一 たかはし きんいち 生没年不詳」によれば、『広島県出身。熊楠の「新庄村合併について(十二)」によると、高橋ははじめ、シンガポールで事業を興すという大井憲太郎』(天保一四(一八四三)年~大正一一(一九二二)年:豊前宇佐生まれの政治家・社会運動家。二十で長崎で蘭学を学び、後に江戸に出て、幕府の開成所舎密局世話心得となった。明治維新後は自由民権運動の急先鋒として活躍、フランス革命思想に感じて「仏国政典」「仏国民選議院選挙法」を邦訳、明治七(一八七四)年の「民撰議院設立建白書」では尚早論を唱えた加藤弘之と論戦した。「愛国社」設立に参加、明治一五(一八八二)年立憲自由党に入党、明治十七年の秩父事件などの過激自由民権運動を指導、明治十八年十一月に朝鮮独立党への援助が露見して大阪で逮捕された。明治二五(一八九二)年には「東洋自由党」を創設、さらに日本労働協会・小作条例調査会を組織して機関誌『新東洋』発刊した)『について渡ったが』、『こと成らず、日本領事館、藤田敏郎らが醵金(きょきん)して、本人の希望するロンドンへ送り出したという。その時、藤田は大倉組龍動(ロンドン)出張所支配人大倉喜三郎に紹介状を書いた。それには、「此高橋謹一なる者、先途何たる見込無御座候へども、達(たつ)て貴地へ赴き度と申に故、其意に任せ候間だ、可然(しかるべく)御厄介奉願上候」とあったという。大倉は高橋を雇い入れたが、暇さえあれば台所を手伝うふりしてビールを飲んで眠ってばかりいるので、大倉夫人から疎まれそこを出たという。その時大倉出張店に、熊楠の中学時代の恩師鳥山啓(ひらく)の息子、嵯峨吉が勤めていて、鳥山が』「熊楠なら世話好きだから面倒を見てくれるだろう」と『話したので』、『高橋は大英博物館へ熊楠を訪ねてやって来た。明治三十(一八九七)年のことである』。『熊楠は高橋をエドウィン・アーノルド男爵』(後注参照)『宅へ世話したが、ここでも酒を飲んでは大声で歌をうたったりするので追い出されてしまう。しかし、ロンドンへ来て二ヵ月ほど経っていて言葉もどうやら話し、また書くことができるようになっていたので、骨董商の加藤章造』(サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『ロンドンで、日本の美術品・骨董品などの輸入販売の店を開いてい』た人物で、熊楠は『たびたび加藤章造の店を訪ねて』親しくしていたらしい。また、『熊楠のロンドン時代の手記には「武州忍藩の家老職の子」とあ』ると記す)『と組んで古道具の売買をして糊口をふさぐ術は心得ていた』。『そのうち熊楠が、大英博物館で乱暴を働いたとして出入りが止められる。高橋は、報恩はこの時だ、一緒に商売をしようと言って熊楠に浮世絵の解説を書かせた。この商売が当って画家ウルナー女史が二十点を九百円という大金で買い上げて熊楠らを驚かせたことがある』。『こうして一年あまりを過ごし、明治三十三年(一九〇一)九月一日、熊楠は帰国の途につくが、熊楠を見送ったのは、たった一人この高橋謹一だけであった。後日譚ではあるが、熊楠のもとへ大正十五年六月二十四日差出の加藤章造、富田熊作の連名の絵ハガキがロンドンから届いている。文中、ロンドンの近況を述べたあと、「高橋謹一の消息は不明」とあった。異郷で人知れず亡くなったのであろうか』とある。

「エドウィン・アーノルド」サー・エドウィン・アーノルド(Sir Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)のことではなかろうか? イギリスのジャーナリスト・紀行文作家・東洋学者・仏教学者にして詩人。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる』。詳しくはリンク先を見られたい。この彼のところへ「食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり」は私は全集を所持しないので不詳。

「外国にまる十五年ありしなり」南方熊楠が渡米してサンフランシスコに着いたのは、明治二〇(一八八七)年一月七日で、イギリスから日本に帰国したのは明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であるから、実際の滞英期間は十二年と約九ヶ月であった。数えとしても十四年で、年数がおかしい。]

 

2017/04/22

南方熊楠 履歴書(その14) ロンドンにて(10) 母の死・放蕩の兄南方弥兵衛のこと

 

 こんなことをいいおると果てしがないから、以下なるべく締めて申す。けだし、若いときの苦労は苦中にも楽しみ多く、年老(と)るに及んでは、いかな楽しきことにあうても、あとさきを考えるから楽しからぬものなり。小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおったので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。仏国のリットレーは若きときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が現に眼前にあるようだと嘆きし由。東西人情は古今を通じて兄弟なり。小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が淚出るをこらえる体(てい)、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が瘖然(いんぜん)黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致し、天下不死的の父母なし、人間得がたきものは兄弟、この千万劫(ごう)にして初めて会う値遇(ちぐう)の縁厚き兄弟の間も、女性が一人でも立ち雑(まじ)ると、ようやく修羅(しゅら)と化して闘争するに及ぶ次第は近々述べん。

[やぶちゃん注:「ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。」南方熊楠がロンドンについたのは明治二五(一八九二)年九月二十六日で、母すみは明治二九(一八九六)年二月二十七日に五十八歳で亡くなっている当時、熊楠満二十八であった。

「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方すみ」によれば、これは藤原伊周の一首とし(但し、私の所持する歌集類では見出せなかった。収録歌集等、識者の御教授を乞うものである)、熊楠は母逝去の報を知って、この和歌を以って『その死を悼(いた)み、弟から送られてきた、母の枕辺に兄弟が並んだ写真を見て自らを慰めた、という』とある。

「リットレー」フランスの医学史家・哲学者・文献学者・辞書編纂者にしてアカデミー会員であったエミール・マクシミリアン・ポール・リトレー(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一年~一八八一年)のことであろう。数ヶ国語を操り、ヒポクラテスのギリシア語校訂版と仏訳を完成(一八三九年~一八六一年)、コントの実証主義思想に共感して、コントが神秘主義的になった後も、理性を最重視する合理主義を説いた。彼を特に有名にしたのは、俗に「リトレ辞典」と呼ばれる四巻からなるDictionnaire de la langue franaise(「フランス語大辞典」一八六三年~一八七三年刊/補遺一八七七年刊)の編纂で、この辞書は語義と例文の他に、語源・語史・文法事項をも記述した画期的な辞典で、十九世紀から二十世紀の文人に大きな影響を与えたことで知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「瘖然(いんぜん)」激しい失意によって言葉を発することも出来ないさま。

「悽然」(せいぜん)は深い悲しみに沈むさま。この「黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致」すはずである、という箇所は、単に熊楠の父母を失った深い悲しみが今も続いていることの過剰なデフォルマシオンなのではないことに注意されたい。これはかなり知られたことであるが、南方熊楠は博覧強記だっただけでなく、ある種の「博乱狂気」的側面もあり、高野山山中の採集中にも幽霊を実際に見たと主張し、幽冥界を視認するような霊的な能力を持っていたと自認していた節がある。ここもそうした霊界を、今ここに現出させおるし、それを貴君(書簡の相手である日本郵船株式会社大阪支店副長矢吹義夫)がここに居られたならば実感させることさえも可能であるととんでもないことを言っているのである(と私は採る)。

「値遇(ちぐう)」「ちぐ」とも読み、縁あってめぐりあうこと、特に、仏縁あるものにめぐりあうことを指す。]

 

 この母が死せしころ、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががらあきになりおった。この人は酒は飲まねど無類の女好きで、亡父の余光で金銭乏しからざりしゆえ、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(ほうかん)ごとき雑輩を親愛するのみゆえ、世人に面白く思われず。そのころ和歌山第一の美女というものあり。紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)の孫にて、この久野家は今まであらば男爵相当だが絶してしまえり。この女が若後家たりしを兄が妾とし、亡父が撰んでくれた本妻を好まず(これは和泉の尾崎という所の第一の豪家の女なり)、久野の孫女の外になお四人の女を囲いおりたり。そんなことにて万事抜り目多くて、亡父の鑑定通り、父の死後五年に(明治三十年)全く破産して身の置き処もなく、舎弟常楠の家に寄食し、その世話で諸方銀行また会社などへ傭われ行きしも、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さき相場に手を出し、たまたま勝たば女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類どもより本妻を保続するか妾(久野家の孫女)を保続するかと問いしに、三子まで生みたる本妻を離別して、妾と共棲すべしという。そのうち、この妾は借屋住居の物憂さに堪えず、䕃(かげ)り隠れて去りぬ(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となりしが、先年死におわる)。

[やぶちゃん注:「紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)」現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)田丸(たまる)字城郭にあった田丸城は、中世より伊勢神宮を抑える戦略的要衝として古くから争奪戦が繰り返された古城砦で、江戸時代には元和五(一六一九)年に徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩所領となり、遠江久野(くの)城城主であった付家老久野(くの)宗成が駿府藩徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま随員となって、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与えて田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は紀州藩家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置いて政務を執らせた。久野氏はその後八代続いて明治維新に至っているから(ここまではウィキの「田丸城に拠る)、その最後の紀州藩田丸城代家老久野家八代当主久野丹波守純固(すみかた 文化一二(一八一五)年~明治六(一八七三)年の孫と思われる。純固は家臣を佐久間象山らに入門させて西洋式砲術を学ばせたり、領内に砲術練習場を設立したりしており、また、俳句・和歌・漢詩に巧みな文人でもあったという(ここはウィキの「久野純固に拠る)。ウィキではそれ以降の久野家の記載は追跡出来ないから(ウィキの「久野でも)、熊楠の言うように断絶してしまったものらしい。

「亡父が撰んでくれた本妻」「和泉の尾崎という所の第一の豪家の女」「女」は「むすめ」と訓じていよう。この本妻は「愛」という名で、「尾崎」は現在の大阪府阪南市尾崎町であろう。(グーグル・マップ・データ)。彼女と兄弥兵衛との間に生まれた長女南方くすゑ(明治二一(一八八八)年生まれ)は、後年、熊楠が可愛がった親族の一人であった。

「抜り目」「ぬかりめ」。抜けたところ。判断がいい加減、処理が不適切且つ不全なこと。

「父の死後」既出であるが、再掲しておくと、明治二五(一八九二)年。

「明治三十年」一八九七年。

「浮田桂造」(弘化三(一八四六)年~昭和二(一九二七)年)は実業家・衆議院議員。大坂生まれで、旧姓は梅咲。大阪府議・南区長を経て、明治二三(一八九〇)年の第一回総選挙で衆院議員に当選し、二期を務めた。また大阪舎密工業社長・東洋水材防腐取締役・関西水力電気取締役、及び共同火災海上運送保険・北浜銀行・浪速銀行等の役員を務め、大阪鉄道・天満(てんま)紡績の創立にも関わっている。

 因みに、放蕩息子兄弥兵衛は、晩年、和歌山を去って現在の呉市吉浦西城町(よしうらにしじょうちょう)で大正一三(一九二四)年に六十五歳で亡くなっている。]

 

南方熊楠 履歴書(その13) ロンドンにて(9) ロンドン交友録・「ブーゴニア伝説」の考証

 

 小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄き男なり。金銭あれば書籍を購(か)う。かつて福本日南が小生の下宿を問いし時の記文(日南文集にあり)にもこのことを載せ、何とも知れぬ陋室(ろうしつ)に寝牀(ねどこ)と尿壺(にょうつぼ)のみありて塵埃払えども去らず、しかれども書籍と標本、一糸乱れず整備しおるには覚えず感心せり、とありしと記臆す。いつもその通りなり。ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬部屋の二階のようなものなりし。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男を訪れし翌日、男より小生へ電信を発せられしも、町が分からずして(あまりの陋ゆえ)電信届かざりしことあり。しかして、この二階へ来たり泊(とま)り、昼夜快談せし人に木村駿吉博士等の名士多く、また斎藤七五郎中将(旅順海戦の状を明治天皇御前に注進申せし人。この人は仙台の醤油作るため豆を踏んで生活せし貧婦の子なり。小生と同じく私塾にゆきて他人の学ぶを見覚え、帰りて記臆のまま写し出して勉学せしという)、吉岡範策(故佐々友房氏の甥、柔道の達人、只今海軍中将に候)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙、オステン・サツケン男等その他多し。

[やぶちゃん注:「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家。ウィキの「福本日南」によれば、『福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれる。本名は福本誠。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた』。明治九(一八七六)年、『司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、原敬・陸羯南』『らと共に退校処分となる』。『その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年には彼と同じく南進論者であった『菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、明治二二(一八八九)年に陸羯南らと、『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯』、『日南を尊敬していたという』。明治二十四年七月には小沢豁郎・白井新太郎とともに発起人となって、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』。明治三八(一九〇五)年には、招かれて、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』している。明治四十年の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選。同年』、「元禄快挙録」の『連載を『九州日報』紙上で開始』した。これは『赤穂浪士称讃の立場に』立つ日南が、『忠臣蔵の巷説・俗説を排して史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリ・ロンドンに滞在しており、この時、南方熊楠と邂逅、そ『の時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を』、後の明治四三(一九一〇)年の『大阪毎日新聞』に連載、これは熊楠の存在を全国に初めて紹介した記事ともされる、とある(下線やぶちゃん)。

「前田正名」(まさな 嘉永三(一八五〇)年~大正一〇(一九二一)年)は経済官僚で地方産業振興運動の指導者。鹿児島で薩摩藩藩医の子として生まれ、慶応年間(一八六五年~一八六八年)に長崎に留学したが、明治二(一八六九)年、フランスに渡ってフランス農商務省で行財政を学び、明治一〇(一八七七)年に帰国、内務省御用掛となた。後、「大隈財政」下の大蔵省にあって、直輸出論を提唱、大隈ブレーンの一人となった。明治十四年には農商務・大蔵大書記官となり、欧州経済事情調査に出張、明治十六年の帰国後は品川弥二郎らと組み、経済政策を構想、「松方財政」を批判して殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張、松方正義大蔵卿と対立した。明治二十一年に山梨県知事、翌年には農商務省工務局長・農務局長に復帰、その後は農商務次官・元老院議官・貴族院勅選議員となったものの、政府中枢の政策に同調出来ず、官界を去り、明治二五(一八九二)年以降は地方産業振興運動を指導し、地方実業団体・全国農事会等を系統的に組織化しては政府・議会にそれら団体の要求を建議する活動を行ったりしたが、晩年は不遇に終わった。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。「頼まれ」たとあるのは、既に官界を去って地方産業振興運動に力を入れていた日本にいる前田から依頼されたのである。

「キュー皇立植物園」イギリスの首都ロンドン南西部のキュー地区にある王立植物園キュー・ガーデン(Kew Gardens:キュー植物園)。一七五九年に宮殿併設の庭園として始まり、現在では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を所蔵・保存している。

「シスルトン・ダイヤー男」イギリスの植物学者で、キュー・ガーデンが王立植物園となった後の第三代園長ウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアー男爵(Sir William Turner Thiselton-Dyer 一八四三年~一九二八年)。

「木村駿吉」既出既注

「斎藤七五郎」(明治二(一八七〇)年~大正一五(一九二六)年)は海軍軍人。南方熊楠が記すように、仙台の麹屋斎藤七兵衛の子として生まれ、苦学して進学したが、学費が続かず、小学校の教員となった。海軍軍人を志して上京、明治二六(一八九三)年、二十四歳で海軍兵学校を卒業、日清戦争(一八九四年~一八九五年)・北清事変(一九〇〇年)に従軍した後、日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)では「旅順口閉塞作戦」に「仁川(じんせん)丸」・「弥彦丸」の指揮官を勤め、その沈勇を謳われた。戦後は練習艦隊や軍令部の参謀を務め、アメリカ・イギリス駐在を経た後、第一次大戦(一九一四年~一九一八年)では巡洋艦「八雲」艦長としてインド洋方面の警備を担当した。大正七(一九一八)年の少将・呉鎮守府参謀長から、後、中将となって第五戦隊司令官・練習艦隊司令官を歴任、大正一三(一九二四)年に軍令部次長に就任、ワシントン会議後の海軍の指導者として嘱望されたが、在任中に病没した。但し、ロンドンでの南方熊楠は、この事蹟(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)では見出し得ないが、サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、海軍少尉であった頃に、彼の乗船していた「富士」が滞在中、南方熊楠が艦員を大英博物館へ案内したとあり、調べてみると、この「富士」はイギリス・ロンドンのテームズ社製で、明治三〇(一八九七)年八月十七日に竣工し、直ちに日本に回航されていることから(同年十月三十一日横須賀到着)この回航委員の一人として彼がイギリスに向かい、その折りに斎藤と熊楠は邂逅したと考えるのが自然のようである。また大正九(一九二〇)年には田辺を少将となった彼が訪れてもいるとある。

「吉岡範策」(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年)は海軍軍人。海軍中将。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌卒業。明治二四(一八九一)年に海軍兵学校を卒業して海軍少尉となり、日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、「富士」回航委員などを経て、明治三四(一九〇一)年に海軍大学校(二期生)を卒業し、明治三十七年には海軍少佐となった。日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。その後、海軍演習審判官や「橋立」艦長を経て、大正三(一九一四)年八月二十三日に「浅間」艦長に補された。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日でもあり、吉岡は第一次世界大戦に出征している。翌年、「筑波」艦長となる(同艦は翌年実施された観艦式に於ける大正天皇御召艦であった)。「金剛」艦長を経て、大正六(一九一七)年に海軍少将に昇進、その後、第一艦隊参謀長や連合艦隊参謀長を経て、大正十年には海軍中将・海軍砲術学校長となった(大正十三年予備役)。彼は「砲術の神様」とも呼ばれた(以上はウィキの「吉岡範策」に拠った)。

「佐々友房」(さっさともふさ 嘉永七(一八五四)年~明治三九(一九〇六)年)は政治家。肥後(熊本県)出身で、西南戦争では西郷軍に参加している。明治一四(一八八一)年に「紫溟(しめい)会」を結成して「国権主義」を唱えた。明治二十三年、熊本国権党副総理、同年衆議院議員(後、当選九回)。国民協会・帝国党・大同倶楽部などで指導的役割を果した。

「加藤寛治」(ひろはる 明治三(一八七〇)年~昭和一四(一九三九)年)は軍人。海軍大将。越前(福井県)出身で海軍兵学校卒。戦艦「三笠」の砲術長として日露戦争に出征、大正一〇(一九二一)年、ワシントン軍縮会議の随員となり、対米七割の強硬論を主張した。大正15年、連合艦隊司令長官、昭和四(一九二九)年には軍令部長となるが、翌年、ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張して政府と対立、統帥権干犯問題(海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものとして右翼や政友会が当時の浜田内閣を攻撃した騒擾)を引き起こして辞職した。ロンドンでの南方熊楠との接点は確認出来なかった。

「鎌田栄吉」既出既注

「孫逸仙」既出の孫文。

「オステン・サツケン男」カール・ロバート・オステン・サッケン(Carl Robert von Osten-Sacken/ロシア名:Роберт Романович Остен-Сакен 一八二八年~一九〇六年)男爵はロシアの外交官で昆虫学者。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「オステン=サッケン Osten-Sacken, Baron 1828-1906」によれば、『ペテルスブルク生まれのロシアの男爵。一八五六年から七七年まで、外交官としてアメリカに二十年以上滞在した』(本文の次の段落冒頭で熊楠は「オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり」と記している)。『幼少時より昆虫学を愛好、北アメリカ産の膜翅類(まくしるい)(虻(あぶ)や蜂の類)に関する目録を作っている。ヨーロッパへ戻ってからは、ハイデルベルクに居住し、虻と蜂の分類法に取り組んだ』とし、『晩年のサッケンは、こうした自らの膜翅類に関する研究をさらにフォークロアの解釈にまで広げていくのだが、熊楠との付き合いもそこから始まることになる。すなわち、一八九四年、サッケンは前年発表した自らの「古代のビュゴニアについて」という聖書の中の蜂の伝説に関する論文を補完するための材料を提供してくれるよう、『ネイチャー』読者投稿欄に質問状を送った。これに対して応えたのが、熊楠の『ネイチャー』への第三作、「蜂に関する東洋人の諸信」だったのである』(次段で絵入りで簡単に語られている。この論文の題名と発表はSome Oriental Beliefs about Bees and Wasps(「ミツバチ類やジカバチ類についての幾つかの東洋の俗信」 NATURE, 1894.5.10))。この『熊楠の投稿論文に対して、すぐさまサッケンからの反応があったことは、次の一八九四年五月十六日付日記からわかる』。

   *

 夕(ゆう)ハイデルベルヒのバロン・オステン・サッケンより來書。予がネーチュールに出せるブンブン蟲の事を謝し、並に謝在杭の事實等を問はる。[やぶちゃん注:引用元の漢字を恣意的に正字化して示した(後の引用も同じ処理を施した)。「謝在杭(しゃざいこう)」は志怪小説や博物学的考証をも含む「五雜組」の著者謝肇淛(しゃちょうせい)の字(あざな)であって、誤記ではない。]

   *

『これに応えて、熊楠は翌日さっそくサッケンに返書を投函し、以後、文通が始まることになった。そして、この年の八月、サッケンがロンドンに滞在した折には、わざわざ熊楠の下宿を訪ねてさえいる』。以下がその一八九四年八月三十一日附の日記。

   *

 午後四時過、バロン・オステン・サッケン氏來訪され、茶少しのみ、二十分斗りはなして歸る。六十餘と見ゆる老人なり。魯國領事として新約克(ニューヨーク)にありしとのこと。

   *]

 

 オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、斯学の大権威たりし。この人を助けて小生『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾長きもの Hanaabuyoutyu )が羽化せる虻(あぶ)で、きわめて蜜蜂に似たもの)を蜜蜂と間違えて、かかる俗信が生ぜし由を述べ、ハイデルベルヒで二度まで出板し、大英博物館にも蜜蜂とブンブンを並べ公示して、二虫間に天然模擬の行なわるるを証するに及べり。このことは近日『大毎』紙へ載するから御笑覧を乞いおく。このサツケン男(当時六十三、四歳)小生の弊室を訪れし時茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人なり。ロンドンへ来たりしとき、ほとんど文(もん)なしで予を訪れ、予も御同様ゆえ、詮方なくトマトを数個買い来たり、パンにバターをつけて食せしも旨(うま)からず、いっそ討死(うちじに)と覚悟して、あり丈(た)け出してビールを買い来たり、快談して呑むうち夜も更け渡り、小便に二階を下りると、下にねている労働者がぐずぐずいうから、室内にある尿壺、バケッツはもちろん、顔洗う水盆までも小便をたれこみ、なお、したくなると窓をそっと明けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくりかえし、追い追い下の室に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らず。正にこれ「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大眼玉を頂戴したことあり。一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が百円送られしこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢たりしなれ。まかぬ種ははえぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して百円となったものと見え候。

[やぶちゃん注:文中に挿入された「ブンブン」(後注参照)の幼虫(蛆)の絵を底本より画像で挿入した。

「両翅虫学 Dipterology 」昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目 Diptera(カ・ガガンボ・ハエ・アブ・ブユなどを含むグループで、極地を除くほぼ全世界に分布する。種数は約九万種に及び、昆虫類の中では甲虫類(Coleoptera:三十五万種超)・鱗翅(チョウ)目(十四万種超。蝶類よりも蛾類の方が多い(三分の二近く)。私は常々、和名の目の学名を「チョウ目」と呼ぶのは甚だおかしいと考えている)・膜翅(ハチ)目(Hymenopter)に次いで種数が多い。

「『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話」「旧約聖書」の「士師(しし)記」の「第十四章」。以下に、日本聖書協会の一九五五年訳から当該全章を引く(引用元はウィキソースのこちら)。節番号は除去したが、節改行は残した。

   *

サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。

彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。

父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。

父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。

かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。

時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。

サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。

日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。

彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。

そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。

人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。

サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。

しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。

サムソンは彼らに言った、「食らう者から食い物が出、強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。

四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。

そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。

七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。

サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。

   *

「ブンブン」所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊。訳本で訳者は松居竜五・田村義也・中西須美氏)の当該論文の松居竜五氏の解説によれば、これは双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科 Syrphidae 『ハナアブ』(これは狭義の種としては、

ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

を指す。但し、総称との混同が甚だしいために現行では種としての和名「ハナアブ」は「ナミハナアブ」と呼ばれることが多くなってきている)に同定している。英文のEristalis tenaxのウィキを見ると、素人目には「きわめて蜜蜂に似たもの」に見え、また、何よりも、そこに“Rat-tailed maggot”(「鼠の尾のような蛆」)というキャプションで幼虫の写真が出るが、まさにこれは南方熊楠が描いたそれと非常によく似ていることが判り、以下に示すサッケンの論文にもこの種の学名がはっきりと記されてある

「雪隠虫」ハエ類の蛆のこと。

「ハイデルベルヒで二度まで出板し」これはオステン・サッケンがハイデルベルグで一八九四年に刊行した論文On the Oxen-born bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis tenax, a Two-winged Insect(「牛から生まれた蜂類の古典(ブーゴニア)と、双翅目昆虫の一種であるナミハナアブとの関係」)、及びそれを増補・改訂した同じくハイデルベルグで一八九五年に刊行したAdditional Notes in Explanation of the Bugonia-Lore of the Ancients, Eristalis tenax in Chinese and Japanese Literature(「古代人のブーゴニア伝説の解説への追補、第六 中国と日本の文献に現われるナミハナアブ」)を指していよう。なお、「ブーゴニア伝説」とはローマの代表的詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~紀元前一九年)の書いた「ゲオルギカ」(「農耕詩」 全四巻。紀元前二九年頃成立か)の第四巻に書かれてある蜜蜂の飼育に関わる叙述の中の「アリスタエウス物語」という蜜蜂の喪失と回復の伝承及びそれを濫觴とすると思われる牛や獅子を殺して腐らせるとそこから蜜蜂が生ずるという化生(けしょう)伝説を指す。こちらの「研究発表要旨」の冒頭にある上野由貴氏の「蜜蜂とアリスタエウスウェルギリウス『ゲオルギカ』における農業の担い手たち」を参照されたい。これらの南方熊楠の投稿論文とサッケンとのやりとりと、その両者への影響については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「蜂のフォークロアに関する連作論文」に詳しいので参照されたい。

「天然模擬」自然界に於ける疑似的形態や生態。ミツバチ類、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis

と、ハナアブ類、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

の(目レベルで異なる全くの別種一種の平行進化の結果としての外見上の酷似性を指している。これはベイツ型擬態(Batesian mimicry:毒や毒針を持つ生物とは違う種が同じ警戒色等を用いて捕食されないようにする擬態。擬態研究で進化論の発展に寄与したイギリスの博物学者・昆虫学者ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に由来する)の好例とされている。また、ウィキの「ハナアブによれば、ハナアブ類は、『その名の通り、成虫は花に飛来して蜜や花粉を食べるものが多いが、そうでないものもあ』り、『幼虫は有機物の多い水中でデトリタスを食べるもの、朽木内で育つもの、捕食性、植食性、きのこ食性など多様な生態に適応放散しており、それに合わせてその形態も著しく多様である』とある。

「このことは近日『大毎』紙へ載する」このようなものが『大阪毎日新聞』に載ったかどうかは私は承知していない(全集を持たないので確認出来ない)。識者の御教授を乞う。

「サツケン男(当時六十三、四歳)」当時のサッケンは満六十六歳であるから、寧ろ、やや若く見えたか。

「茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし」柳田国男宛明治四四(一九一一)年十一月二十八日午前二時附書簡の中にも、サッケンのことを記した部分で、『小生近処より茶器かり來たり茶を出せしに、小生の生活あまりにきたないから茶を呑めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり』と綴っている(引用は底本選集の別巻(柳田國男と南方熊楠の往復書簡集)を用いた)。

「一昨々年上京」本「履歴書」(書簡)は大正一四(一九二五)年一月三十一日筆であるが、南方熊楠はこの三年前の大正一一(一九二二)年に「南方植物研究所」設立資金募集のために上京している。

「交詢社」明治一三(一八八〇)年に創立された社交俱楽部。前年の九月に福沢諭吉や矢野文雄(龍溪)ら三十一名が会合して創設を決定、当時の中心メンバーは福沢(常議員会長)とし、以下は慶応義塾関係者で占められ、「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん:参考として他の機関などに意見を問い求めること。「諮問」に同じい)」ことを目的に掲げた。単なる社交組織に留まらず、実際には立志社・愛国社系の自由民権運動に対抗するという政治的狙いを持っていたと見られている。全国的な組織活動の結果、発足時千八百名の社員を擁し、構成員は地主・豪農層や商工業者・銀行家・官吏・学者・言論人・教員等、中央や地方の有力者で構成されていたから、まさに熊楠のような資金集めを目的としていた者には欠かせぬ場所であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

2017/04/19

南方熊楠 履歴書(その12) ロンドンにて(8) 「落斯馬(ロスマ)論争」

 

 オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより、見苦しき国民攻撃となり、ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬(ロスマ)と申すは Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出づ。これを、その文を倉皇読んで Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)(一角魚(ウニコール))とシュレッゲルは言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv Für Ethnologie)にて、シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ、右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに、わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。さていわく、汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵(かく)して引用する(実は日本ではありふれたる書)『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある。むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり。汝は日本人に向かって議論をふきかけながら、負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわりをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引をはくゆえ片足を開かねば小便できず、このところ犬に似たり)、自分で自分の無礼に気づかざるものなり、と。いわゆる人を気死せしめるやり方で、ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを、小生の力、居多(きょた)なれば、小生の名を前に出さしめ A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタおよびF. Victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き、後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出板するに及び、誰がしたものか、ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。しかるに小生かねて万一に備うるため、本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しおきたるを、果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ、小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。

[やぶちゃん注:「グスタヴ・シュレッゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustave SchlegelGustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ウィキの「グスタフ・シュレーゲル」他によれば、ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授で、オランダ語読み音写では「スフレーヘル」とも表記される。著書は「中国星辰考」「天地会」「地誌学的問題」等。一八九〇年に東洋学研究の学術雑誌『通報』(当初の正式な雑誌名は『通報 若しくは アジア・オリエンタル(中国・日本・朝鮮・インドシナ・中央アジア及びマレーシア)の歴史・言語・地理及び民族に関する研究のための記録』(T’oung Pao ou Archives pour servir a l’etude de l’histoire, des langues, la geographie et l’ethnographie de l’Asie Orientale (Chine, Japon, Coree, Indo-Chine, Asie Centrale et Malaisie) )をフランスの東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに創刊している。

「正字通」中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。その当該部分は以下。

   *

落斯馬長四丈許足短居一海底罕出水面皮堅剌之不可入額一角似鉤寐時角桂石蠱日不醒

   *

このシュレーゲルとの「落斯馬(ロスマ)論争」は、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「シュレーゲル(スフレーヘル) Schlegel, Gustav 1840-1903」によれば、南方熊楠が一八九七年一月三十日附でロンドンの南方が、ライデンのシュレーゲルに宛てて書いた書簡で反論をしたのが最初であった。そこには『「シュレーゲル教授は一八九三年の『通報』誌上で、十七世紀中国の辞書『正字通』にあらわれた『落斯馬(ロスマ)』という動物をイッカク(前頭部に長い角を持つイルカに似た海の哺乳類)であるとしているが、これは誤りである。『落斯馬』とはおそらくノルウェー語のロス(馬)・マル(海)に由来する西洋起源の言葉であり、海馬つまりセイウチのことを指している」。』と記されてあるという(「南方熊楠コレクション」の注によれば、この書簡を皮切りに『三月上旬まで数回の書簡の応酬があった』とする。この「イッカク」本文の「一角魚(ウニコール)」は、

脊椎動物亜門哺乳綱鯨偶蹄(偶蹄)目Whippomorpha 亜目 Cetacea 下目ハクジラ小目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros

を、「セイウチ」、本文の「Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」は、

哺乳綱食肉目イヌ型亜目アシカ上科セイウチ科セイウチ属セイウチ Odobenus rosmarus

を指す。老婆心乍ら、この二種は海洋性獣類ではあっても、目レベルで異なる全くの別種である。なお、この前後の出来事は南方熊楠の「人魚の話」の中にも出てくる。リンク先は私の古い電子テクストである。未見の方は、どうぞ。

Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」「ロス マール」が「Ros Mar」のルビで、「(馬 海の)」は本文である。

「十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)」フランドル出身のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年)。ウィキの「フェルディナント・フェルビースト」によれば、『清代の中国を訪れ、康熙帝に仕えながら布教活動を行った。漢名は南懐仁』とした。『ヨーロッパの天文学、地理学など科学技術を中国に紹介、また中国の習慣を身につけて中国語で書物を著し、日本を含め近世初期の中国および周辺諸国の科学技術に大きな影響を与えた』。一六二三年に『南ネーデルラントのコルトレイク近郊のピテム(Pittem, 現在はベルギー、ウェスト=フランデレン州)に、役人で徴税人をしていたヨース・フェルビースト(Joos Verbiest)の第一子として生まれる。ブルッヘ、コルトレイクでイエスについて学び、ルーヴェンのルーヴェン・カトリック大学に進学して哲学と数学を学ぶ。メヘレンでも学んだ。その後、セビリャ、ローマで天文学、数学を学ぶ』。その頃、『ヨーロッパではプロテスタントが急増していた。カトリック教会はその覇権を維持拡張するために、航海技術の発達に』合わせ、『アジア、アメリカなど世界各地に宣教師を派遣した。このような背景により』、『東アジアにもその活動が広がっていた』。彼は一六四一年九月にイエズス会に入会し、一六五七年、『マルティーノ・マルティーニ(Martino Martini)とともに中国に向かい』、一六五八年、『マカオから清に入り、南懐仁(ナン・ファイレン)を名乗って山西省で布教活動を行った』。一六六〇年には『北京へ移り、欽天監副(天文台副長)として欽天監正(天文台長)』となっていたドイツのイエズス会士で科学者でもあったヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:中国名:湯若望)を補佐し、『天球儀なども製作した』が、一六六四年から一六六五年にかけて『カトリックを嫌う守旧派官吏の湯光先らにより、アダム・シャールとともに入獄させられ』た。しかし、『湯光先は暦法改定を行っていたが、これを完結できず失脚し、フェルビーストがこれを任され、中国の太陰暦とヨーロッパの太陽暦を比較し』、一六六八年に『中国の天文暦法を改定した』。一六七三年から一六八八年まで『欽天監正となり、シャールの後を継いだ』。一六七四年の三藩(さんぱん)の乱(清の第四代康熙帝の治世の一六七三年に起こった漢人武将による反乱)では『大砲を製作した。また、工部侍郎までなった。満洲語も習得しており康熙帝から信頼を置かれ、天文学・数学・地理学なども満洲語で講義した』。『フェルビーストは北京で亡くなり』、『マテオ・リッチらの眠るそばに埋葬された』とある。

「坤輿図説」フェルビーストが一六七二年に刊行した、当時のヨーロッパ技術による世界地図。これは清とロシアとの国境制定へも影響を与えた。

「倉皇」(そうこう)は「慌てて」の意(形容動詞語幹)。

Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)」「ナル ウワル」は「Nar Hhal」のルビ、「(死白の 鯨)」は本文。

「一角魚(ウニコール)」「ウニコール」は「一角魚」のルビ。

「『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある」私は原本影印も訳本も所持しているが、未だこれがどこに載っているのか、提示出来ない。発見し次第、追記する。

「むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり」出所不詳。識者の御教授を乞う。

「気死」(きし)は憤死すること。或いは、怒りのあまり、気絶すること。

「『方丈記』を共訳せり」サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらで、その英訳が読める。

『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』The Journal of the Royal Asiatic Society

A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタ」「Thoreau」はアメリカの作家で詩人・博物学者でもあった、かのヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau 一八一七年~一八六二年)である。鴨長明を「十二世紀の日本のソロー」と訳したのもアジだねえ!(鴨長明は久寿二(一一五五)年生まれで建保四(一二一六)年に亡くなっており、「方丈記」は建暦二(一二一二)年成立で、十二世紀の、冠するのはごく自然である)。

 以下の二段落は底本では全体が二字下げ。]

前年遠州に『方丈記』専門の学者あり。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件(くだん)の『亜細亜(アジア)協会雑誌』に出でたる『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し、万国袖珍文庫本の寸法から出板年記、出板会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや、『日本及日本人』に漱石の伝を書いて、その訳するところの『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出づ、とありし。大正十一年小生上京中、政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏来訪されしおり、現物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに、漱石の訳本は未刊にて、氏死するとき筐底に留めありし、と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも、わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。

ついでに申す、むかし寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり。長崎の浜田弥兵衛、かの商船の持主末次茂房に頼まれ行きて、オランダ人を生け捕って帰り大功名せしことあり。平田篤胤の『伊吹おろし』その他の日本書にはただただ浜田氏が猛勇でこの成功ありしよう称揚して措(お)かざれども、実は当時この風聞ペルシア辺まで聞こえ、仏人当時ペルシアでこの話を聞いて賞讃して長文を書き留めたるを見るに、浜田氏のそのときの挙動所置一々条理あり、実に何国の人も難の打ちどころなかりし美事なるやり方なりしと見え候。今日の米人なども無茶な人ばかりのようなれども、実は道理の前には心を空しうして帰服するの美風あり。これに対する者、例の日本男児など独讃的の自慢でなく、いずれの国にても通ずるような公然たる道理を述べ筋道を立てられたきことなり。

[やぶちゃん注:「遠州に『方丈記』専門の学者あり」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『簗瀬一雄を指すか』とある。簗瀬一雄(明治四五(一九一二)年~平成二〇(二〇〇八)年)は国文学者。東京生まれ。早稲田大学卒業。昭和三五(一九六〇)年に「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士となった。豊田工業高等専門学校教授から豊橋技術科学大学教授となって定年退官後、同大名誉教授。昭和三四(一九五九)年から謄写版で「碧冲洞叢書」として未刊古典の翻刻を百冊も続けた(ウィキの「簗瀬一雄」に拠る。リンク先を見ると、鴨長明関連の研究書の著作物が多い)。

「大毎社」「だいまいしゃ」。大阪毎日新聞社の略。

「寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり」「台湾(タイオワン)事件」別名「ノイツ事件」。これは寛永五(一六二八)年に長崎代官末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争。ウィキの「タイオワン事件によれば、『朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した』。『当時、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり』、一六二二年には明の『マカオにあるポルトガル王国居留地をネーデルラント』が攻撃したが、敗退、そこでオランダは『対策として台湾の澎湖諸島を占領し』、『要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため』、二年後の一六二四年(寛永元年)』、『ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に』十%の『関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが』、浜田弥兵衛(生没年未詳:長崎代官で朱印船貿易商の一人でもあった博多の商人末次平蔵政直(すえつぐへいぞう 天文一五(一五四六)年)頃~寛永七(一六三〇)年)の配下の朱印船船長)ら『日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し』、一六二七年(寛永四年)、『将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め』て『江戸に向かわせた』。『ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出』同年、『浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて』十六『人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく皆一様に疱瘡を患っていたため』、『理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から』二『度と連れて来ないようにと言われたという話もあり』、『具体的な話が進められたわけではなく、遠路から労いも含め皆、将軍家光から贈り物を授か』って、一旦、『帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った』。一六二八年六月(寛永五年五月)『タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが』、『それを拒否し続けるノイツに対し』、『弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ』、『人質にとる実力行使に出た』。『驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも』、『人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに』五『人ずつ人質を出しあい』、『互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くと』、『オランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らは』、『そのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう』。『この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン』で、『状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕府』第三『代将軍徳川家光に会うため』に『江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば』、『将軍はポルトガルを憎んでいるので』、『オランダが貿易を独占できるように取り計らう」というもので』、『ヤンセンは将軍に会えないまま』、『バタヴィアにこの返書を持ち帰った』。『しかしヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年』、『日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜き』、『ヤンセンを再び日本に派遣した』。『以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが』、『閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため』、『切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある』。『オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため』、『オランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し』、『日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは』一六三二年から一六三六年まで日本に抑留された。寛永一三(一六三六)年、『ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは』、将軍家光に拝謁し、『銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って』、『返礼として銀』三百『枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝が』、『ノイツの釈放を願うと』、『すぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている』。寛永九(一六三二)年、『閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開』し、寛永一一(一六三四)年には『日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治し』た、とある。

「末次茂房」これは南方熊楠の誤り。茂房は第三長崎代官となった政直の子の名である。彼もまた「平蔵」を名乗っていたことによる誤認と思われる。

「平田篤胤の『伊吹おろし』」「伊吹於呂志(いぶきおろし)」(他の漢字表記もある。彼の号にも「気吹舎(いぶきのや)」がある)。神道家で国学者の平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の講説を門人が筆記したもの。刊行年不詳。]

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Art | Caspar David Friedrich | Miscellaneous | Иван Сергеевич Тургенев | 「プルートゥ」 | 「一言芳談」 | 「今昔物語集」を読む | 「北條九代記」 | 「新編鎌倉志」 | 「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳 | 「明恵上人夢記」 | 「栂尾明恵上人伝記」 | 「澄江堂遺珠」という夢魔 | 「無門關」 | 「生物學講話」丘淺次郎 | 「甲子夜話」 | 「第一版新迷怪国語辞典」 | 「耳嚢」 | 「進化論講話」丘淺次郎 | 「鎌倉攬勝考」 | 「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記) | 「鬼城句集」 | アルバム | ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」  | ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ | 中島敦 | 中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 | 人見必大「本朝食鑑」より水族の部 | 伊東静雄 | 佐藤春夫 | 八木重吉「秋の瞳」 | 北原白秋 | 十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」第二十三編 | 南方熊楠 | 博物学 | 原民喜 | 和漢三才圖會 蟲類 | 土岐仲男 | 堀辰雄 | 増田晃 | 夏目漱石「こゝろ」 | | 夢野久作 | 大手拓次詩集「藍色の蟇」 | 宇野浩二「芥川龍之介」 | 宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 | 富永太郎 | 小泉八雲 | 尾形亀之助 | 山之口貘 | 山本幡男 | 山村暮鳥全詩 | 忘れ得ぬ人々 | 怪談集 | 映画 | 杉田久女 | 村上昭夫 | 村山槐多 | 松尾芭蕉 | 柳田國男 | 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 | 柴田宵曲 | 梅崎春生 | 梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 | 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 | 橋本多佳子 | 武蔵石寿「目八譜」 | 毛利梅園「梅園介譜」 | 毛利梅園「梅園魚譜」 | 沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 | 津村淙庵「譚海」 | 海岸動物 | 火野葦平「河童曼陀羅」 | 片山廣子 | 生田春月 | 由比北洲股旅帖 | 畑耕一句集「蜘蛛うごく」 | 畔田翠山「水族志」 | 神田玄泉「日東魚譜」 | 立原道造 | 篠原鳳作 | 肉体と心そして死 | 芥川多加志 | 芥川龍之介 | 芥川龍之介 手帳 | 芥川龍之介「上海游記」 | 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) | 芥川龍之介「北京日記抄」 | 芥川龍之介「江南游記」 | 芥川龍之介「河童」決定稿原稿 | 芥川龍之介「長江游記」 | 芥川龍之介盟友 小穴隆一 | 芸術・文学 | 萩原朔太郎 | 蒲原有明 | 藪野種雄 | 西東三鬼 | 詩歌俳諧俳句 | 諸國百物語 附やぶちゃん注 | 貝原益軒「大和本草」より水族の部 | 野人庵史元斎夜咄 | 鈴木しづ子 | 鎌倉紀行・地誌 | 音楽 | 飯田蛇笏