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カテゴリー「南方熊楠」の83件の記事

2019/02/06

南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)

 [やぶちゃん注:本電子化は、本日公開した『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の注の必要上から急遽、電子化したものである。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠った。クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。

 詳注を附す気はないが、私の躓いた部分を先に冒頭で示すと、

・『Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)』というのは、哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ウマグマ Ursus arctos pruinosus である。チベットに棲息し、和名は走る様子が「馬」に似ることに基づく。

・「燧(すい)を鑚(き)りて」は、例の木同士の揉みきりや火打ち石を用いて発火することを指す。

・「籙字」は「ろくじ」でその言語を記すための特殊な符号(文字)のこと。

・「黿」現行ではこれは、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指し、スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis とは異なるマルスッポン属の模式種で、我々の知っている本邦のスッポンの三倍弱の大きさがある。

「越張の封泥」不詳。「封泥」古代中国に於いて、貴重品を収めた箱や竹簡や木簡文書の封緘に用いた粘土塊(縛った紐の結び目などに柔らかいうちに押印して開封の有無を確認した)を指すが、「越張」は不明。軽々に「越の張」という地名とも断じ得ない。

・「格殺(かくさつ)」手で打ち殺すこと。殴り殺すこと。

・「葫蘿蔔」そう訓じているかどうかは別として、「大根」と並列されており、「にんじん」(野菜のニンジン)のことと思う。

・「シビトバナ」「石蒜」「シタマガリ」「カウラバナ」最後の異名を除いて、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名である。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。

・「吹弾」(すいだん)とは、笛などを吹き、琴などを弾くこと。音楽を演奏すること。] 

 

  南方熊楠より柳田国男宛

    明治四十四年九月二十二日

‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり、魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろベルシアとインドに旅せし人なり) は Count Wieihorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出づ。発刊の年は忘る。その中に収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。

[やぶちゃん注:以下の一段落の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 インドの森中に猴(さる)棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バッタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、猿猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。

 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Prizhezalsky, ‘Mongolia, the Tangut Country and the Solitude of Nothern Tibet,’Londonm 1876,vol.ii, p. 249 に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressu クングーレッス(人熊の義)と言う。顔扁たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に良く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入ってTangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる能皮を見るに、高さ四フィート半、喙挺(ぬき)んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後部長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。

 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)なり、大英博物館にあり。支那の熊なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫(つか)む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆(ゆうひ)は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あらざるの臣をもってこれに誓う」と『本草綱目』に出づ。

 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなほだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)

 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」[やぶちゃん注:名論文「神跡考」の誤り。]という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、細目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。

 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもっとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八-五五九頁によれば、ボルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong bula(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐(あざむ)かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで通行く者おのおのその虚言家を誚(そし)りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを滅するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者燧(すい)を鑚(き)りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。

 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本革綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬(か)むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)

 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書く vol. I, pp. 201-202 に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。蒙古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの籙字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき[やぶちゃん注:ママ。]、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、白駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるという。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛(ラマ)僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、黿怪をなすこと多く見え、『録異記』に、腹の下赤きものは黿(げん)となし、白きものは鼈(べつ)となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大黿あって常に深き潭(ふち)にあり、号(なづ)けて黿潭となす。よく魅を作(な)し病を行(はや)らす。戴道柄(たいどうへい)なる者あり、よくこれを視見(うかが)い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大黿あり、径長(わたり)丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺(かくさつ)するに、病める者は立ちどころに愈ゆ。また小黿あり、出でて列び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、黿の条に出でたり)。

 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺(ただ)した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge, ‘The of the
Egyptians,’1904m vol. ii, p.376
によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒(ダークネス)の諸力、および夜叉邪 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。

 当田辺町から二里ばかり朝来(あつそ)村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。Nasinoheso

この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。

 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰(こ)えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田権(ごん)の頭(かみ)、檜杖(ひづえ)の冠者などという旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石をなげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのことをいうと見えたり。

 山男、鋸の目をたつる音忌むということば、前に申し上げたと思う。

 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。

[やぶちゃん注:以下の引用一段落は、底本では全体が二字下げ。]

野尻を去ること四里、立町(たちまち)の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を禱る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型った物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛騨の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目がない。一番終りの村人が「ここは一年が十三カ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除になる、と里人は信じておる。

 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。

 dorit de cuissage (腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。

 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かいし謹んで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁(はつよめ)を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に鳴呼の国人妻を娶りて美なれば兄に薦めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)

 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」[やぶちゃん注:後の「神跡考」。]はおいおい三、四回または六、七回に訳出し差し上ぐべく候。

 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 前文のガウライ(河童) はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。

 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では何故か全体が二字下げである。]

この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイ Guernsey (英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古語を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。

 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古志、佳談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。

 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢谷にカシャソボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方(せんかた)なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。よって村の大日堂に之き護摩の符を貿い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困しむ、と。

 また丸三(まるさん)という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯れに人を弄するなり、と。

 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。

 小川孝七という男、日高郡南部(みなべ)奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。

 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂(まろ)村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。

 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困しますこと、『酉陽雑爼』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑爼』手近になくば抄して進ずべく候。

 ロシアにも水魔を祭るに馬屍を水に按ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上

2019/01/15

南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)

 

[やぶちゃん注:これは現在、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で進行中の「山島民譚集」の「河童駒引」のこちらのパートの最後の注のために緊急電子化する。緊急なれば、必要最小限度の注に留めた。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠る。これは新字新仮名であるが、仕方がない。

 クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。]

 

 

 柳田国男より 南方熊楠宛

   明治四十五年四月二十九日

『雪の出羽路』巻十二、羽後平鹿郡栄村大字大屋寺内の条に、この国秋田、能代、横手、河口等に河童相伝という接骨の薬あり、その主剤はいずれも「扛板帰(こうはんき)」なり。この扛板帰を、地方によりては「河童の尻ぬぐい」といい、または河童草というと有之候が、この植物につきて何か御心当りは無之や伺い上げ候。

 また今西氏説に、朝鮮に「揚水尺」と称する一種の民種あり、妓生もとこれより出で、柳器を製して生を営みしもののよし。水尺とは水を探す杖かと考え候が如何。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月一日夜一時

 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。

 滕成裕の『中陵漫録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云云、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに書を信ずべからざること、かくのごとし。

 さて同書(『中陵漫録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出づる河白(かっぱ)相伝正左衛門薬というあり、よく骨を接(つ)ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人鎌(かま)をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七(いちしち)夜、この人河白に請いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活(いけいか)すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出づるなり。

 扛は『康熙字典』に「横関(かんぬき)を対拳(さしあ)ぐるなり、また挙ぐるなり」 とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛(あ)げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し侯。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見(いしみ)という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。

 多紀安良(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢一療類典』[やぶちゃん注:「一」の横に編者の不審を表わす記号が右に打たれてある。]ごときもの)にもこの事を図し、その神効を説きあり。扛板帰(いしみかわ)をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。

Isimikawatomamakonosirinugui

[やぶちゃん注:南方熊楠直筆の挿絵。右側が「山島民譚集」の「河童駒引」「イシミカハ」(イシミカワ)で、上部に学名「Persicaria perfoliata L.」、左側が「マヽコノシリヌグヒ」(ママコノシリヌグイ)で、上部に学名「Polygonum senticosum Fr. et Sav.」(これは同種の現行の学名 Persicaria senticosa (Meisn.) H.Gross のシノニムである)。ナデシコ目タデ科イヌタデ属ママコノシリヌグイはウィキの「ママコノシリヌグイによれば、「継子の尻拭い」で、「トゲソバ」(棘蕎麦)の別名を持つ一年草で、『和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。韓国では「嫁の尻拭き草」と呼ばれる。漢名は刺蓼(シリョウ)』。『他の草木などに寄りかかりながら』、『蔓性の枝を伸ばし、よく分岐して、しばしば藪状になる。蔓の長さは』一~二メートルで、『茎は赤みを帯びた部分が多く、四稜があり、稜に沿って逆向きの鋭い棘が並んでいる』。『柄のある三角形の葉が互生し、さらに茎を托葉が囲む。葉柄と葉の裏にも棘がある』。五~十月頃、『枝先に』十『個ほどの花が集まって咲く。花弁に見えるのは萼片で』、『深く』五『裂し、花被の基部が白色で、先端が桃色。花後には黒色の痩果がつく』。『東アジアの中国、朝鮮半島から日本の全土に分布』し、『やや湿り気のある林縁や道端などに生える』とある。南方熊楠のキャプションは右から、

「葉柄葉裏(ウラ)ニツク」

「花短キ穗ヲナス」

「花雄藥八」(「雄花を薬に入れる」の意かと思ったが、違う。「八」不詳)

「實南天ノ實ノ

 如ク開(「同」かも知れぬ)ク緑碧白

 紅紫黑■(「抔」か?)異色ニテ

 一寸見事ナリ。」

(以上が「イシミカワ」のキャプションで、以下は「ママコノシリヌグイ」)

「花球顆ヲナス

  花雄藥七」(「七」不詳)

「葉柄葉ノ端ニツク

 表ニツカズ」

「實ハソバノ乾果ノ如シ。」

「托葉莖ヲ抱キ込ムノミ莖托

         葉ノ中心

         ヲ貫カズ」

とある。]

 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。

Unagitukami

[やぶちゃん注:ウナギツカミの図。上に学名「Polygonum sagittatum L.」が記されてある。ウナギツカミは「鰻摑み」でシノニムに「Polygonum sieboldii Meisn.」がある、タデ科タデ亜科タデ属 Polygonum の一年草。異名に「ウナギヅル」がある。茎の下部は地を這って、節から根を下ろし、上部は分枝して立ち上がり、稜角と逆向きの刺(とげ)があって、他物に絡みつき、高さ一メートル余となる。葉は披針形で、先は鈍く時に鋭く、長さ四~八センチメートル、幅一・五~三センチメートルで、基部は心臓形を成し、並行する葉耳(ようじ:岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイトを参照されたい)がある。質は薄く、やや粉白を帯び、無毛。裏面の葉脈上に逆向きの刺がある。葉鞘の縁(へり)は斜めに切れる。花穂は頭状、花は上半部が帯紅色で長さ三ミリメートル、花被は五枚、雄しべは八本、花柱は三本。痩果は卵状三稜形、黒色で、光沢はない。水辺に生え、日本全土、朝鮮、中国、東シベリアに分布する。夏開花するものを「ウナギツカミ」といい、秋開花するものを「アキノウナギツカミ」として区別することがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 右三品いずれも蓼属に属する草なり。㈠㈡[やぶちゃん注:ここに編者注があり、イシミカワとママコノシリヌグイのこととする。]はやや蔓草の体あり、㈢[やぶちゃん注:同前。ウナギツカミのこととする。]はまず偃地[やぶちゃん注:「えんち」。地面に伏せて広がること。]し後に直上す。

 ウナギツカミはこれをもってウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鈎刺(かぎばり)あるゆえ難なく摑み得るなり。ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鈎刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪(にく)む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌグイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得[やぶちゃん注:「とらえう」。]と信ぜるより、カッパ草(ぐさ)ということと存じ候。

 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児[やぶちゃん注:差別用語。中世・近世に於いて家畜などの獣類を殺すことを業とした人。]、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実Matatabinomi と、御承知のごとく猫に食わす実(み)のごときもの実は寄生虫の巣Matatabinokiseityuuno と、二様の実を結ぶゆえ「再実(またたみ)」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐(ねぶ)り霍乱愈(い)え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅(またたび)というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)

 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿舞(まわ)し、伏見より出づるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ[やぶちゃん注:「こしらゆ」。室町時代から、ハ行下二段動詞「こしらふ」がヤ行に転じて使われた古語。]。伏見のも京へば入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度(きっと)装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。

 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。

 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。

 オポのこと、Burtonの『メジナとメッカ記行[やぶちゃん注:ママ。]』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。

 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上

[やぶちゃん注:以下、追伸風で、全体が底本では二字下げとなっている。]

本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接ぐこと膠(にかわ)のごとし(堅固にするゆえ)、石膠(いしみかわ)と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月二日夜十一時

 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気焰最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、目悪く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺(はり)でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありあがら[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。]、カッパノシリヌグイのはその鈎刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。

[やぶちゃん注:底本、「旅館失火全焼」に注して、『明治四十五年五月二日夜、中屋敷町にありし旅館兼料亭五明楼焼く。建坪百十余坪(二階あり)焼失、損害一万余円。(『田辺町史』)』とある。]

2017/05/30

南方熊楠 履歴書(その45)~「履歴書」エンディング 「履歴書」/了

 

 八年ばかり前に、東京商業会議所の書記寺田という人よりの問合せに、インドよりチュールムグーラが日本ではけ行く量と価格を問い来たが、何のことやら知ったものなし。貴下は御存知だろうという人あるゆえ、伺い上やるとのことありし。これは大風子とて(大風とは癩病のこと)、むかしより諸邦で療病薬として尊ぶものに候。専門もよいが、専門家が他のことを一向顧みぬ風もっぱらなるまり、チョールムーダラといえば何のことと問うに知った人ちょっとなし。ポルトガル語の専門家へ聞きにゆくと、それはポルトガル語にあらずというて答えがすむ。マレー語の専門家、支那語の専門家等に尋ぬるも、それはマレー語にあらず、支那語でないというて答えがすむ。知らぬという代りにそれは予の専門にあらずといえば、その学者の答えがすむなり。もしこれが、詳しからずとも一(ひと)通りの諸国の語を知った学者があり、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところなれど、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語と分かったところで字書を引いて大風子と訳すると分かりて、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わさざるべからず。いよいよその何物たるやを詳知(しょうち)せんと思わば植物学者に聞き合わすを要す。しかるに、植物学者は今日支那の本草などは心得ずともすむから、大風子と問うばかりでは答えができず、学名をラテンで何というか調べてのち問いにこいなどいう。それゆえ本邦で、一つなにか調べんと思うと、十人も二十人も学者にかけざるべかちず。槍が専門なればとて、向うの堤を通る敵を見のがしては味方の損なり。そのとき下手ながらも鉄砲を心得おり、打って見れば中ることもあるべし。小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあらず。

[やぶちゃん注:「東京商業会議所の書記寺田」不詳。

「チュールムグーラ」現在は英語として“Chaulmoogra”で載る。英語のネィティヴの発音を音写するなら「チャールムグラ」である。

「はけ行く量」商品として消費され購入される量。

「大風子」東インド原産の高木であるキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana で、その種子から作った油脂「大風子油」は飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステルで、古くはハンセン病治療に使われた。日本に於いては江戸時代以降、「本草綱目」などにハンセン病への対症効用が『書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などはある程度の効果を認めていた』という。明治四五・大正元(一九一二)年、『光田健輔は結節らいを放置すれば』七十五%『は増悪するが、大風子油』を100cc以上、『注射すれば』、投与者の八十八%は『結節を生じないと文献に』記しているが、昭和七(一九三二)年のストラスブールで行われた「第三回国際らい学会」で光田は当該治療は後の『再発率が高いこと』も発表しているという。『上川豊は「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」』で昭和五(一九三〇)年に『京都大学で学位を与えられ』ており、『彼は大風子油注射は網状織内被細胞系あるいはリンパ系統を刺激して局所的ないし全身的抗体産生機能を旺盛ならしめるとしている。結論としてらいの初期は臨床的治療状態を軽減するも、末期重症例では快癒状態に導くのは不可能とある』。『堺の岡村平兵衛は家が油製造業者であったが』、明治二五(一八九二)年『以来、良質の大風子油を製造し、日本国内では、岡村の大風子油として有名であった』。『東京にある、国立ハンセン病資料館には、以前使用されていた、大風子油を熱で融解する巨大な釜が展示されている』ともある(以上は引用を含め、概ねウィキの「大風子油」に拠った)。

「癩病」ハンセン病の旧称。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

 

 小生『大阪毎日』より寄稿をたのまれ、今朝より妻子糊口のため、センチ虫の話と庭木の話をかきにかかり申し候。それゆえ履歴書は、これほどのところにて止めに致し候。もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候。また趣旨書御入用ならば送り申し上ぐべし。御出立も迫りおれば、とても望むべきこととは存ぜねども一口でもあらばと存じ願い上げ置き候。

[やぶちゃん注:「センチ虫」雪隠虫(せっちんむし)の訛り。昔の溜便所にわく蠅の幼虫の蛆のこと。この「せんちむし」の呼称は「日本国語大辞典」では方言としており、そこに示された採集地からは西日本広域の方言である。この「センチ虫の話と庭木の話」というのが現在の彼のどの著作を指すのかは不詳。

「御出立も迫りおれば」矢吹はこの時、国外長期出張の直前でもあったものか?

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 

日本の学者に、小生があきるるほど、小生よりもまだ世上のことにうとき人多し。名を申すはいかがなれど原摂祐(かねすけ)というは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にありしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手たり。この人二千五百円あらば、年来研究の日本核菌譜を出板し、内外に頒ち得るなり。しかるに世上のことにうときより今に金主なし。小生何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思えど、今のところ力及ばず、小生在京中右に申せし処女の薬に感心されたる鶴見局長(今は農務次官?)の世話をたのみ、啓明会より出金しもらわんと小生いろいろ世話したるも、原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金輔助申請書にそえて身体診断証を出せといわるると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことなり、などいい張るゆえ、出(で)るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時、その宿所を問いしに、浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のある処なりなど、漠たることをいう。こんな人に実は世界に聞こえおる大学者多く候。小生は何とぞかかる人の事業を輔成して国のために名を揚げさせたきも、今に思うのみで力及ばざるは遺憾に候。この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたることあり。   匆々謹言

[やぶちゃん注:これを以って本書簡(通称・南方熊楠「履歴書」)は終わっている。

「原摂祐」植物学・菌類学者・昆虫学であった者原摂祐(はら かねすけ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)。ウィキの「原摂祐によれば、『岐阜県恵那郡川上村(現在の中津川市川上)の生まれ』で、『岐阜農学校、名和昆虫研究所を経て』、『東京大学助手に就任』、大正一〇(一九二一)年までは『同大学で昆虫学の講義を担当し』ている。その後、昭和五(一九三〇)年に『岐阜県の農薬会社に就職した』。昭和二(一九二七)年に『白井光太郎』らが大正六(一九一七)年に『出版した日本最初の菌類目録「日本産菌類目録」を改訂、さらに昭和二九(一九五四)年にはそれを再度、『改訂した目録を自費出版し』て、実に約七千三百種の菌類目録を発行している。これはつい二〇一〇年に勝本謙によって「日本産菌類集覧」が『発行されるまで、最も多くの日本産菌類を網羅した目録であった』とある。「南方熊楠コレクション」の注には、彼が南方熊楠を訪問したのは大正一〇(一九二一)年五月十五日のことであったと記されてある。熊楠がここで敢えて名を出してまで追記している気持ちがひしひしと伝わってくる人物ではないか。

「拉語」「拉丁語」(「羅甸語」とも書く)。ラテン語。

「鶴見局長(今は農務次官?)」既出既注の鶴見左吉雄は最後に農商務次官に就任しているが、大正一三(一九二四)年に退官しており、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものであるから、彼はもう農商務次官ではない(後に彼は本格的に実業界に移っている)。

「啓明会」大正八(一九一九)年八月四日に前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎(しもなかやさぶろう)を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体のことか? 啓明会は教員の地位・待遇の向上を目指す職能的な教員組合としての性格と、教育的社会改造運動の性格とを掲げて出発し、翌年五月の第一回メーデーでは教員組合として参加、一般労働組合との組織的連帯を図り、同年九月には全国的な運動への発展を目指して「日本教員組合啓明会」と改称、「教育改造の四綱領」を発表している。日本最初の教員組合運動の出発点とされる組織である。しかし、そこに農商務官僚の鶴見左吉雄が口利きするというのはどうも解せない気もする。識者の御教授を乞う。

「輔助」「ほじよ」。「補助」に同じい。後の「輔成」も「ほせい」で「助成」に同じい。

「この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時」この謂いから、この原の訪問は南方熊楠が寄付金集めのために東京へ出た大正一一(一九二二)年の三月から七月の間のことか? その時期ならば、原は大学の講師職を失っている頃であり(或いは郷里に戻っていた可能性も高い)、状況としておかしくない。]

南方熊楠 履歴書(その44) 遠近法に従わない絵の教訓

 

Smunakatasannjysointohune

 

 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体(てい)に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。

[やぶちゃん注:「小生前般来申しのこせしが」本書簡の冒頭でも宗像三女神の話はしているが、それではなく(船の話はそこにはない)、「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡、通称「棉神考」の補足をさす』とある。私は全集を所持せず、この遠近法に従わない画法と、矢吹が勤める日本郵船と大日本紡績連合会の関係についての判り易い注をすることは出来ない。悪しからず。冒頭及び私の注は僅かながら参考にはなるものとは思う。それにしても、二つの集団の対等性を諷喩するに、非常に面白く、厭味でない謂いと挿画であると私は思う。]

 

 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙(じょ)し、何年何月いずれの国へ差遣(さけん)されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかばできた分三千五百図有之(これあり)、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調(ととの)うるに基本金がかかることに御座候。

[やぶちゃん注:「太陽」博文館が明治二八(一八九五)年一月に創刊した日本初の総合雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『一月号「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話を寄稿、その後大正三』(一九一四)『年より毎年の干支に関する史話と伝説、民俗を寄稿した』(「十二支考」のこと。但し、「鼠に関する民俗と信念」(子)については出版者の都合(不詳)で掲載されず、部分的に『民俗学』及び『集古』(明治二九(一八九六)年十一月に考古と歴史を愛する趣味人の集りである「集古会」の会報『集古會誌』として創刊、後に『集古』と改称して昭和一九(一九四四)年七月まで続いた雑誌。蔵書印譜・花印譜・商牌集の連載物、稀覯書の紹介、伝記資料の翻刻、会員書誌の随筆などを掲載した)に発表された(現在、我々が読めるものは『太陽』のために書かれた一括版に、分割されたものが挿入されたものである)。なお、全十一篇で「牛」(丑)は存在しない。しばしば幻の最後の「十二支考」として都市伝説的に語られることあるが、「牛」についての論考は準備は進められながらも遂に陽の目を見ることはなかったのが事実である)。『太陽』は大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、昭和三(一九二八)年二月まで計五百三十一冊を発行して廃刊した。

「日本及日本人」(にほんおよびにほんじん)は明治四〇(一九〇七)年一月から昭和二〇(一九四五)年二月まで国粋主義者が創始した政教社から出版された、言論の主とした国粋主義色の強い雑誌。前半は思想家三宅雪嶺が主宰した「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『三月号「本邦詠梅詩人の嚆矢」ほかを投稿、没年まで寄稿を続けた』とある。「政教社」も参照されたい。

「植物学雑誌」日本植物学会名義で牧野富太郎が明治二〇(一八八七)年二月に友人らと創刊した植物学の学術雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四一(一九〇八)年『九月「本邦産粘菌類目録」を掲載』が最初の投稿らしく、創刊号から購読していたが、明治二二(一八八九)年『五月から会員となったことがうかがわれる』とある。当時の熊楠はアメリカのアナバー在であった。なお、牧野は熊楠が日本学術雑誌にろくな論文を出していないことを言いつのって、彼を学者として認めていなかった節がある。苦学独歩の牧野にして非常に残念な事実である。

「人類学雑誌」「南方熊楠コレクション」の注では、日本人類学会が明治四四(一九一一)年四月に創刊したとするが、自然人類学者坪井正五郎(彼は南方熊楠と柳田国男を結びつける仲立ちとなった人物でもある)を中心に運営されていた「東京人類学会」の機関誌『人類学雑誌』が前身であり、それは明治一九(一八八六)年の創刊である。熊楠は『明治四十四年六月号「仏教に見えたる古話二則」ほかを寄稿。以後しばしば寄稿している』とある。

「郷土研究」柳田國男らが郷土研究社から大正二(一九一三)年三月に創刊した民俗学雑誌で、創刊当時から熊楠は精力的に投稿した。「南方熊楠コレクション」の注によれば、同年『四月号「善光寺参りの出処」ほかを寄稿、以後大正六年、同誌の休刊まで小品を夥しく投じた』とある。

「日本菌譜」キノコの自筆彩色図譜。遂に刊行することは出来なかった。長女南方文枝氏によって後にその一部が「南方熊楠菌誌」全二巻(昭和六二(一九八七)年~昭和六四・平成元(一九八九)年)として公刊され、別に実寸大複製になる「南方熊楠 菌類彩色図譜百選」(エンタープライズ社一九八九年刊)も刊行されている。この辺りの経緯は紀田順一郎氏の「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」の「柿の木から発見した新種」及び「日々これ観察」の章を参照されたい。]

 

 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなほだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三部氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒(らち)もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。

[やぶちゃん注:「仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬ」「ヴォルニー」なり人物自体が私には不詳。識者の御教授を乞う。

「しまりのよき帳面のごとく」これは前の女性器のそれを洒落てあることは間違いない。]

 

南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記

 

 件(くだん)の紫稍花は朝鮮産の下品のもの下谷区に売店あり、と白井博士より聞けり。しかし災後は如何(いかが)か知らず。小生は山本、岡崎等の頼み黙(もだ)しがたく、東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金を書くれた大株連へ分配せんと思う。山本前農相の好みの処女用のはもっとも難事で、これは琥珀(こはく)の乳鉢と乳棒で半日もすらねばならぬと思う。

[やぶちゃん注:前出既注した「紫稍花」=海綿動物門尋常海綿綱角質海綿亜綱単骨海綿(ザラカイメン)目淡水海綿科ヨワカイメン Eunapius fragilis は、先に掲げた琵琶湖での調査(本種の琵琶湖での調査は複数のものがネット上で閲覧出来る)等、ネット上の種々の海綿類や生物分布調査の学術論文を見る限り、本邦で全国的な分布を示しているように見受けられ(世界的にも広汎に分布する)、環境省のレッドデータリストにも掲げられてはいない(二〇一七年五月現在)。しかし、水質汚染の悪化や外来種の侵入によって必ずしも安泰な種であるとは言えないように感ぜられはする。

「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。ウィキの「白井光太郎によれば、日本に於いて植物病理学(植物の病害(病原体による感染症のみでなく、物理・化学的条件に拠る病気を含む)を診断・予防・治療することを研究対象とする植物学領域。因みに、農業国であった日本の研究レベルは現在の、世界でもトップクラスである)の研究を推進した最初期の学者で、また、旧本草学の『発展に重要な役割を果たした他、考古学にも造詣が深く、史蹟名勝天然紀念物の保存にも深く関わっ』た。明治一九(一八八六)年に『東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業』後、『すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任』、四年後には『帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した』。明治三二(一八九九)年から明治三十四年まで、『ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。この際白井は、日本でほとんど研究が進んでいなかった植物寄生菌の写生図や標本を多数持参し、ヨーロッパで記載されている種と比較を行って、種の確定や新種記載といった研究の進展に大きく貢献した』。帰国して五年後の明治三九(一九〇六)年には『東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これを担当』、翌年、『同大学の教授となった』。明四三(一九一〇)年、理学博士授与。大正九(一九二〇)年に日本植物病理学会を設立、同会初代会長に就任し』、昭和四(一九二九)年に東京帝国大学を定年退官した(従って熊楠の本書簡執筆当時(大正一四(一九二五)年)は同大教授職現役である)。『白井は植物に感染する病原菌の分類、記載を行い』、国内外の研究者『との共同研究も含め』、五〇『種類以上の新種または新変種を記載している、とある。熊楠より四歳年上。

「災後」本書簡執筆の一年四ヶ月前の大正一二(一九二三)年九月一日に発生した関東大震災。

「山本」前出の処女好みの変態政治家山本達雄。後に「山本前農相」とあるが、彼は高橋内閣の解散に伴い、大正一一(一九二二)年六月で農商務大臣を辞任している。本書簡執筆時は大正一四(一九二五)年二月である。

「岡崎」前出の玄人年増漁色政治家岡崎邦輔。

「東京滞在中日光山へゆきし時」既に注したが、熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京した大正一一(一九二二)年三月から八月の最後の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている。

「六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)」詳細事蹟不詳。彼宛ての熊楠の書簡が残っており、ここでの共同採集の様子から見ても、かなり親しくしていたものと思われる。「ろくうたもつ」と読むか。

「大谷川」「だいやがわ」と読む。栃木県日光市を流れる利根川水系の鬼怒川支流。中禅寺湖を水源として東流し、日光市町谷(まちや)で鬼怒川に合流する。日光二荒山(ふたらさん)神社及び東照宮の手前の朱塗りの木橋神橋(しんきょう)の架かるのもこの川。]

 

 植物学よりもこんな話をすると大臣までも大悦びで、これは分かりやすい、なるほど説教の名人だと感心して、多額を寄付され候。貴殿はお嫌いかしらぬが、世間なみに説教申し上ぐることかくのごとし。かかるよしなし言(ごと)を永々書きつけ御笑いに入るるも斯学献立(こんりゅう)のためと御愍笑を乞うなり。

[やぶちゃん注:「大臣」この場合は山本達雄だけを指している岡崎邦輔は加藤高明内閣の農林大臣として入閣しているが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のもので、彼の農林大臣就任はその二ヶ月後の同年四月十七日だからである。

「斯学献立(こんりゅう)」「斯学」(しがく)は、こうした催淫剤研究を含めた性愛学で、そうした学問を大真面目にうち建てようという吾輩の心意気の謂いであろう。「献立(こんりゅう)」は建立(こんりゅう)の誤り、或いは献立(こんだて)でそうした性愛学事始めの「順序・構成」の謂いであろう。なお、この熟語では植物学研究所創設の意味でとるには無理があると私は思うのだが、ただ、後に「愍笑を乞うなり」、憐れんで笑(わろ)うて下され、と言い添えているところでは、世間ではえげつない下ネタと思われるであろう話(注意されたいが、熊楠自身は微塵もそんな卑下は感じていない)で漁色政治家を懐柔して寄付金を集めてでも、南方植物研究所を創設したという私のなりふり構わぬ仕儀を憐れんでお笑い下されよ、という意味にもとれぬことはない。]

 

2017/05/29

南方熊楠 履歴書(その42) 南方熊楠「処女」講談

 

 それには山本農相など処女をすくようだが、処女というもの柳里恭も言いしごとく万事気づまりで何の面白くもなきものなり。しかるに特にこれを好むは、その締(しま)りがよきゆえなり。さて、もったいないが仏説を少々聴聞(ちょうもん)させよう。釈迦(しゃか)、菩提樹(ぼだいじゅ)下に修行して、まさに成道(じょうどう)せんとするとき、魔王波旬の宮殿震動し、また三十二の不祥(ふしょう)の夢を見る。よって心大いに楽しまず、かくては魔道ついに仏のために壊(やぶ)らるべしと懊悩す。魔王の三女、姉は可愛、既産婦の体を現じ、中は可喜、初嫁婦の体、妹は喜見と名づけ山本農相好物の処女たり。この三女菩薩の処に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となりて戯(たわむ)れかかる。最初に処女の喜見が何としたって仏心(ぶっしん)動かず。次に中の可善が昨夜初めて男に逢うた新婦の体で戯れかかると、釈尊もかつて妻との新枕を思い出し、少しく心動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心大いに動き、すでに仏成道をやめて抱きつこうかと思うたが、諸神の擁護で思いかえして無事なるを得た、とある。されば処女は顔相がよいのみで彼処(かしこ)には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光がさすと諺(ことわざ)の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝(まさ)れり。それは「誰(た)が広うしたと女房小言(こごと)いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処(かしこ)が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥井(とりい)のあいだでステッキ一本持ってふるまわすような、何の手ごたえもなきようなが多い。故に洋人は一たび子を生むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後から取ること多し。これをラテン語で Venus aversa と申すなり。(支那では隔山取火という。)されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊(いか)が鰯をからみとり、章魚(たこ)が挺(てこ)に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなれるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦(ふせ)ぎにもなる理屈なり。

[やぶちゃん注:「柳里恭」「りゅうりきょう」は江戸中期の武士で文人画家・漢詩人の柳沢淇園(やなぎさわきえん 元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年。服部南郭・祇園南海・彭城百川(さかきひゃくせん)らとともに日本文人画の先駆とされる。名は里恭(さととも)であったが、後に中国風に「柳里恭」と名乗ることを好んだ(知られる「淇園」号は四十歳頃から使用したと推測されている)。因みに彼はかの側用人で甲府藩主柳沢吉保の筆頭家老であった忠臣曽根保挌(「やすさだ」或いは「やすただ」と読むか。吉保の元服の際の理髪役を務めている)の次男として江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれているが、父保挌は早い時期に柳沢姓を許されて、五千石の知行と吉保の一字をも与えられるほどに寵愛されていたという(ウィキの「柳沢淇園」に拠る。以下も同じ)。ここで南方熊楠の言っている処女についてのそれは、確認したわけではないが、或いは、彼が若き日(享保九(一七二四)年・二十四歳)に書いた随筆「ひとりね」ではあるまいか? 書かれた年に『享保の改革に伴う幕府直轄領の再編に』よって『柳沢氏は大和国郡山への転封を命じられており』(これ以後柳沢家は彼自身の不行跡も手伝って家督相続を差し止められ、改名もさせらてしまう。但し、後に赦されて二千五百石を給された。現存する彼の絵はこれ以降のものが多い)、『その直後から数年の間に記されたと見られている。文章は鎌倉時代の随筆『徒然草』や井原西鶴、江島其磧の用語を取り入れ、和文に漢文体を混ぜていると評されている』。『内容は江戸・甲府における見聞で、特に遊女との「遊び」の道について記されていることで知られる。ほか、甲斐の地誌や甲州弁の語彙を記していることでも知られる。原本は現存せず数十種の写本が知られ、明治期にも出版されている』(下線やぶちゃん)とあり(私は未読)、如何にも熊楠好みの随筆と思われるからでもある。

「魔王波旬」(はじゅん)は「天魔」とも称し「第六天魔王波旬」とも呼ぶ。波旬は悪魔と同義。仏道修行を妨げる魔のこと。以上の説は「大蔵経」の「魔怖菩薩品中」にあるようだ(こちら。但し、白文)。これを南方熊楠は「十二支考 猪に関する民俗と伝説」でも、聖アントニウス(二五一年頃~三五六年)が悪魔から誘惑を受けることを描出する段で、『悉達(しった)太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅(ひっぱら)樹下(じゅげ)に坐して正覚(しょうがく)を期した時、波旬(はじゅん)の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を観みざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に擲(なげう)たんと脅かした』と語っている。

「三十二の不祥」内容不詳。

「初嫁婦」「しょかふ」と読んでおく。新妻となったばかりの女性。

「かつて妻との新枕を思い出し」ゴータマ・シッダールタ(釈迦 紀元前四六三年頃~前三八三年頃)シャカ族の国王シュッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶夫人)を母として太子として生まれ、父から絶大の期待を持たれた。十六歳の時、母方の従妹耶ヤショーダラー(輸陀羅)と結婚し、一人の男子羅睺羅(ラーフラ)をももうけている。妻ヤショーダラーは釈迦の出家後、その弟子となり、比丘尼(尼僧)中の第一人者となったとされ、子ラーフラも同じく帰依し、釈迦十大弟子の一人となり、「密行第一」と称され、十六羅漢の一人に加えられている。

「三十四、五のは後光がさす」私はこのような諺は知らぬ。

「誰が広うしたと女房小言いひ」バレ句の江戸川柳っぽいが、出典は知らぬ。

「九段招魂社」現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社の旧称は「東京招魂社」ではあるが、明治一二(一八七九)年に明治天皇によって現在の名称に既に改称されていたここでの当時でも今でも不敬と言われても仕方がない叙述から見ると、南方熊楠は靖国神社という呼称或いはその存在自体を実はよしとしていなかった可能性もあるように思われる

「後から取る」後背位による性交。

Venus aversa」音写すると「ウェヌス・アーウェルサ」。「後ろ向きのヴィーナス」の意。現在も英語の「後背位」の意味として生きている。

「隔山取火」「山を隔てて火を取る」。中文サイトでも後背位の意と出る。

「挺(てこ)」この場合は、タコだから和船の艪(ろ)のこと。

「丁字型凸起」不詳。子宮頸部のことか。]

 

 マックス・ノールドーの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙(みなかたたいせん)などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女のきをやるを見、女は男のきをやるを見る(仏経には究竟(くきょう)という)、たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思うがごとく、平生はどんな面相でもあれ、その究竟の際の顔をみるは夫妻の間に限る。それを感ずるの深き、忘れんとして忘られぬから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜妻に飽かずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行するもの、荷持ちの山がつのおやじにこんな山中に住んで何が面白いかと問いしに、こんな不躾(ぶしつけ)の身にも毎夜妻の悦ぶ顔を見るを楽しみにこんなかせぎをすると言いしも同理なり。されば年増女のよがる顔を見るほど極楽はなしと知らる。しかるに、右にいうごとくトンネルの広きには閉口だ。ここにおいて柘榴(ざくろ)の根の皮の煎じ汁で洗うたり、いろいろしてその緊縮の強からんことを望むが、それもその時だけで永くは続かず。

[やぶちゃん注:「マックス・ノールドー」性科学者か性愛歴史家か? 事跡はおろか、綴りも不詳。識者の御教授を乞う

「究竟」仏語では「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」の謂いである。さすれば、前の「き」は「喜」ではなく、「帰」か「期」であろう。まあ、こんなことを大真面目に注する私がおかしいのかもしれないが(私は性愛についての議論を不真面目なものとし、殊更に隠蔽する輩こそ猥雑な人間であると考える人種である)、ここで南方熊楠はこうした性愛行為の特異点を、単なる生理学的なオルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)という反応の絶頂という現象面以上に(後の「その究竟の際の顔」とは見かけ上のそれではあるが)、哲学的なニュアンスでも捉えているものと考える。

「たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思う」これは言っていることが実はかなり複雑であると私は考える。即ち、我々のような性欲にまみれまみれた俗界の存在からは想像も出来ない、「天部」に存在する♂であるところの各種上下の階級のある「天人」の中でも、その等級のずっと下がった下級「天人」の♂であっても、その孰れもが、それ相応の同等階級である♀の「天女」のある者を見ては「これほどよい女はないと思う」のが当然であるのと同様に、という謂いである。]

 

 ここに岡崎老の好みあるく大年増の彼処を処女同前に緊縮せしむる秘法がある。それは元の朝に真臘国へ使いした周達観の『真臘風土記』に出でおり。そのころ前後の品の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、と言うた。真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しおるカンボジア国だ。むかしは一廉(ひとかど)の開化あって、今もアンコル・ワットにその遺跡を見る、非常に富有な国だった。しかるに支那よりおびただしく貿易にゆくが、ややもすれば留(とど)まって帰国せぬから支那の損となる。周達観、勅を奉じてその理由を研究に出かけると、これはいかに、真臘国の女は畜生ごとく黒い麁鄙(そひ)な生れで、なかなか御目留(おめどま)りするような女はない。しかるにそれを支那人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄船した船頭はもうけただけ土地の娘の針箱に入れ上げたごとく、貿易の利潤をことごとくその国の女に入れてしまう。故に何度往っても「お松おめこは釘貫(ぬ)きおめこ、胯(また)で挟(はさ)んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられおわり、財産を作って支那に還るは少ない。かかる黒女のどこがよいかとしらべると、大いにわけありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、しめつける力はるかに瓶詰め屋のコルクしめに優れり。どうして左様かというと、この国の風として産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯をにぎり、彼処につめこむ。一口(ひとくち)ものに手を焼くというが、これはぼぼを焼くなり。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れかえる。かくすること一昼夜すると、一件が処女同然にしまりよくなる。「なんと恐れ入ったか、汝邦輔、この授文を首拝して牢(かた)く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱くたかせ、呼び寄せてつめかえやるべし、忘るるなかれ」と書いて即達郵便でおくりやりしに、大悦狂せんばかりで、いつか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなりし由。

[やぶちゃん注:「真臘国」(しんろうこく)初期のクメール人の王国(クメール語)チャンラの漢訳名。現在のカンボジア。

「周達観」(一二六四年頃か一二七〇年か?~一三四六年)は浙江省温州出身の漢族で、元(モンゴル帝国)の第六代皇帝テムル(成宗 一二六五年~一三〇七年)の代の外交官で、航海の経験や知識が深かったという。彼は成宗の命によって真臘招撫の随奉使の従行員に選ばれ、一二九六年に真臘へ赴き、翌年に帰国している。

「真臘風土記」周達観による真臘のアンコール朝後期の見聞録。全一巻。当時の真臘の風土・社会・文化・物産などを記した書。本書は帰国直後に書いた周の私的な著作であるが、凡そ一年半に及んだ滞在時の詳細な調査報告書であり、民俗史料としての価値が高い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「針箱」江戸時代の女性はへそくりを針箱に入れることが多かった。因みに、信州地方の方言(隠語)では売春婦をかく呼んだ。

「おめこ」「ぼぼ」言わずもがな、女性生殖器の隠語。

「一口(ひとくち)ものに手を焼く」一般には「一口物に頬を焼く」で、わずかな熱い食物をうかうかと食って口中をすっかり火傷することから、ちょっとしたことに手を出してしまって思いがけない大失敗をすることの譬えである。

「衆議院の控室」岡崎邦輔は衆議院議員であった(後の昭和三(一九二八)年には当時の上院であった貴族院の議員に勅選されている)。]

 

南方熊楠 履歴書(その41) 催淫剤としての紫稍花

 

 よって説き出す一条は紫稍花(ししょうか)で、これは淡水に生ずる海綿の細き骨なり。海から海綿をとり出し、ただちに水につけて面を掃うと、切られ与三郎ごとく三十余力処もかすり疵(きず)がつく。それは海綿には、こんなふうの

Sisyoukakopen

細きガラス質の刺あり、それを骨として虫が活きおるなり。その虫死してもこの刺は残る。故に海綿を手に入れたら苛性カリで久しく煮てこの刺を溶かし去り、さて柔らかくなりたるを理髪店などに売り用いるなり。痛いというのと痒いというのとは実は程度のちがいで、海綿の海に生ずるものは件(くだん)の刺大なる故つくと痛む。しかるに、淡水に生ずる海綿は至って小さなもの故、その刺(はり)したがって微細で、それでつかれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたごとく、ここに感じここに消えすること止まず。すなわちハシカなどにかかりしごとく温かくて諸処微細に痒くなり、その痒さが動きあるきて一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感ずるなり。それを撫でるとまことに気持がよい。むかし男色を売る少年を仕込むにその肛門に山椒の粉を入れしも、かくのごとく痒くてならぬところを、金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)が一物をつきこみなでまわして快く感ぜしめ、さてこのことを面白く感ぜしむべく仕上げたるなり。ちょうどそのごとく、この淡水生海綿の微細なる刺をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増には一層粗く、と精粗の別を要す)貯えおき、さて一儀に莅(のぞ)み、一件に傅(つ)けて行なうときは、恐ろしさも忘るるばかり痒くなる。(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その薄さが種々に移りあるくをいうなり。)時分はよしと一上一下三浅九深の法を活用すると、女は万事無中になり、妾悔(く)ゆらくは生まれて今までこんなよいことを知らざりしことをと一生懸命に抱きつき、破(わ)れるばかりにすりつけもち上ぐるものなり、と説教すると、山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色の涎(よだれ)を流し、ハハハハハ、フウフウフウ、それはありがたい、などと感嘆やまず。初めの威勢どこへやら小生を御祖師さんの再来ごとく三拝九拝して、寄付帳はそこへおいて被下(いらっしゃ)い、いずれ差し上げましょう、洵(もこと)にありがとうございました、と出口まで見送られた。

[やぶちゃん注:「紫稍花」私は既に私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の電子化注で、そこに絵入りで出現する「紫稍花」を淡水産の海綿である、

海綿動物門 Porifera 尋常海綿綱 Demospongiae 角質海綿亜綱 Ceractinomorpha 単骨海綿(ザラカイメン)目 Haplosclerida 淡水海綿(タンスイカイメン)科 Spongillidaeヨワカイメン Eunapius fragilis

に同定している学術データである渡辺洋子益田芳樹共著琵琶湖棲息本種つい解説(PDF)によれば、本種の海綿体は、『不規則な平板状から塊状で護岸壁、古タイヤ、水生植物の茎などに着生する。体表には多数の凹凸がある。藻類の共生によって緑色になることがあるが、ふつう汚れた黄褐色である。複数の芽球が集まって共通の芽球殻に包まれ芽球の塊を形成し、この芽球の塊が体の底部に敷石状に並ぶ。冬期は芽球を残して体は崩壊する』。ここで南方熊楠が挙げている本種の『骨格骨片は両針体(両方の先が尖る)で平滑。長さ約 170230µm、直径 611µm。芽球骨片は先端が丸いか、または尖った有棘の棒状体で、長さ 75145µm、直径 515µm。遊離小骨片はない』(µmmicrometer(マイクロメートル)一〇〇万分の一メートル=千分の一ミリメートル。旧ミクロンのこと)とある(リンク先PDFで骨片の画像も見られる)。私は他にも寺島良安和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「紫稍花」の部分でも、実在する方の「卷八十五 寓木類 紫稍花」の電子化注も行っているここで南方熊楠は本種のそれを催淫剤の一種として力説しており、それはそれで現象的に納得のゆくものであり、「和漢三才圖會」や江戸時代の古処方を見ても、インポテンツなどの処方として挙げられているから、一種の催淫剤と捉えて問題ない

「切られ与三郎」「いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」の名台詞で知られる歌舞伎の外題「與話情浮名橫櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」(三代目瀬川如皐作・九幕十八場・嘉永六(一八五三)年初演)の主人公「與三郎」の、当時の世間の通称。作品の始めの方でめった切るにされて、傷だらけの面構えとなる。

「苛性カリ」水酸化カリウムKOHpotassium hydroxide)の別称(caustic potash:「腐食性(苛性)のカリウム」の意)。水溶液はつまり強アルカリ性を示し、蛋白質に対して強い腐食性を持つ劇薬。

「金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)」「こんごう」はルビ。所謂、陰間(かげま:江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼)の見習いの少年に付き添い、一人前になるまでの教育係や、なってからの従者(というか、マネージャ)に相当する男のことで、陰間には必ずこの金剛が付き添い、陰間が客に呼ばれて客の家に行くときなでも、必ずこの金剛が供をした。されば、陰間と金剛の間には特に親密な感情が生まれたとされる。これはピクシブ事典の「陰間」に拠ったが、リンク先には詳細な内容が書かれており、必見。但し、かなり具体的なので自己責任でクリックされたい。「妓丁」は遊女見習いの処女を破瓜する男衆のことか。

「莅(のぞ)み」その行為に及ぶに当たって。

「一件」この場合は、効果を考えれば、女性生殖器の方を指すのであろう。

「傅(つ)けて」すりつけて。

「ホメク」「熱(ほめ)く」の「めく」は接尾語で、原義は「ほてる・熱くなる・上気する・赤くなる」であるが、江戸中期頃から「欲情を催す・情事をする」の意で用いられるようになる。但し、熊楠はここでは限定的に、性的絶頂、所謂、オルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)へと向かう生理的経過に対して使っている。

「一上一下三浅九深の法」九浅一深法(くせんいっしんほう)というのは古代中国の性戯法として存在することが中文サイトによって明らかである。ここで熊楠が言っているのもそうした挿入リズムと力を入れる方向及び挿入の深さを指しているようである。

「妾」「わらわ」。

「御祖師」「おそしさま」は各宗派の始祖の尊称であるが、特に日蓮宗で日蓮を指すことが多い。因みに、南方熊楠の宗旨は真言宗である。]

 

 それから十五日に山本氏より寄付金もらい、二十五日朝、岡崎邦輔氏を訪い寄付金千円申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話せしに、僕にもくれぬかとのこと、君のは処女でないからむつかしいが何とか一勘弁して申し上げましょう、何分よろしく、今夜大阪へ下るからかの地でも世話すべしとのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女にきく方法を認め、即達郵便で差し出した。

[やぶちゃん注:「岡崎邦輔」既出既注(或いは)。

「君のは処女でないからむつかしいが」「処女でない女にきく方法を認め」これはまず、かの農相山本達雄が処女を姦淫することを性癖とする変態男であることをまず殊更に言い立て、また「政界の寝業師」の異名をとった岡崎は政界だけではなく、女の方でもそれで、しかも彼は海千山千の熟女(二段後には「ここに岡崎老の好みあるく大年増」と出る)を好んで相手にした漁色家であることを暴露していることになる。まさか、山本も岡崎も南方熊楠がこれほど有名になり、その結果として、自分の猥褻な過去が、かくも二十一紀になって人々に知れ渡ることになろうとは、予想だにしていなかったことであろう。実に面白い!

南方熊楠 履歴書(その40) ハドリアヌスタケ

 

Hadorianusutake

 

 小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に癇癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛芳(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられた夫ある女が来たりしを、花橘(かきつ)の昔のにおい床しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかす訳には行かぬというと、それは出すからとくる。

[やぶちゃん注:この奇態なキノコ(同一個体)について、南方熊楠は後の昭和六(一九三一)年十月十八日附今井三子(いまいさんし 明治三三(1900)年~昭和五一(一九七六)年:北海道帝国大学農業生物学科助手(当時)であった菌類学者)宛書簡でも挿絵入りで解説しているので是非、私の古い電子テクストPhalloideae の一品)を参照されたい。思うにこれは、

菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes スッポンタケ目 Phallales スッポンタケ科 Phallaceae スッポンタケ属 Phallus アカダマスッポンタケ Phallus hadriani

或いは

同スッポンダケ属スッポンダケ Phallus impudicus

或いは

その近縁種

ではないかと推測される。私も南紀白浜の南方熊楠記念館で二〇〇六年九月に当該個体の液浸標本の実物を拝観し、感無量であった。ウィキの「スッポンダケでは本個体をスッポンダケ Phallus impudicus に同定しており(そのように読めるように書かれてある。但し、乾燥した腐敗個体でしかも西インド諸島のものとなると、私はこの断定同定にやや疑問を持つ)、『スッポンタケ(鼈茸)とは、スッポンタケ科スッポンタケ属の食用キノコ』で『英語名はstinkhorn』(「悪臭を放つ角」の意)。『悪臭がするが』、食用は可能である。『初夏から秋にかけて林地などで発生。形は陰茎に似ている。学名もこれにちなむ』(属名 Phallus (ファルス)は「男根」の意。ギリシャ語の「脹らむもの」の意に由来)。『和名は傘の形がスッポンの頭部に似ること』に由来する。『キノコ本体はごく柔らかい。幼菌は卵のような形状で、内部には半透明のゼリー状の物質につつまれた柄と暗緑色の傘がある。この時点では悪臭はしない。しかし、成熟すると柄と傘が展開し、傘の表面に悪臭のする粘液質のものが一面に現れ、悪臭がするようになる。これはグレバで形成された胞子を含むもので、その悪臭は、ハエなどを誘引し、胞子を運ばせるためである。キノコ本体は一日でとろけるように消滅する』。『色については幼菌も含め』、『白だが、傘はグレバ』(gleba:基本体。所謂、通常、我々が「傘(かさ)」と呼称している部分で、子実体の内部に胞子を形成するキノコの胞子形成部分を、菌類学では、かく呼称する)『の色で暗緑色に見える』。『』なお、高級食材として有名な』同じくスッポンタケ科キヌガサタケ属 Phallus キヌガサタケ Phallus indusiaus『はこれにレース状の飾りが付いただけ、と言っていいものである』。『グレバを取り除いた柄の部分や、幼菌は食用である。油で揚げると魚のような味になる。ドイツのいくつかの地域やフランスで食用とされ、中華料理にも利用される』。『その形が勃起した陰茎に非常に似ていることで古くから注目された。学名Phallus impudicusは、phallus(男根)、im-(否定接頭辞)+pudicus「恥じらう」で「恥知らずな男根」という意味である。根もとにはふくらんだツボがあり、これは陰嚢に似ているとも言える。イギリスのビクトリア時代など性に関する規範が厳格だった時期には、このキノコの図は、それを見る人にショックをあたえないように、上下さかさまに描かれることがよくあった。南方熊楠が描いたスッポンタケの絵が残されているが、実際にはない血管状のすじや毛が描きくわえられており、わざと男性器に似せて描いたように見える』(下線やぶちゃん)とあって、熊楠の、少なくとも、本「履歴書」中の本図は手が加えられていると断言してある。確かに、海外サイトの“California Fungi—Phallus hadrianiにリンクされている多数の生態写真を見ると、少なくとも生体には「癇癪(かんしゃく)筋」(陰茎の血管)のようなものは見られない)。

「紀州の内海(うつみ)」(グーグル・マップ・データ)。

「六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人ある」原資料未詳。識者の御教授を乞う。

「それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す」こんな媚薬効果は甚だ怪しい。漁色家の山本の気を引いて寄付金を出させるための嘘であろう。これに山本が膝をすり寄せたのは、熊楠のしめしたやや怪しげな図によって、即ち、まさにフレーザーの言う類感呪術的熊楠術数に完全にハマった結果、である

「政教社」明治中期から大正期の主に国粋主義者が創始した思想・文化団体。明治二一(一八八八)年志賀重昂(しげたか:南進論を唱え、西欧帝国主義による植民地収奪を批判した地理学者)・三宅雪嶺(哲学者)・井上円了ら十三名によって創設され、機関誌『日本人』(後継誌『亞細亞』『日本及(および)日本人』)を発刊、欧米文化の無批判的な模倣に反対し、大同団結運動に参加して立憲主義的政治論を主張した。政府の欧化路線・条約改正に関しては、その欧米屈従の態度に反対して対外独立の国粋主義の立場をとり、日清戦争の開戦世論の喚起に努めた。陸羯南(くがかつなん)主宰の新聞『日本』のグループとは同傾向の思想を持っていて同志的関係にあり、明治四〇(一九〇七)年にこのグループを吸収し、機関誌を『日本及日本人』と改題した。大正一二(一九二三)年、関東大震災直後に三宅が離脱、その後は次第に右傾化、戦争協力体制の翼賛雑誌に堕した(主に小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の箇所はウィキの「政教社でしめた)。

「払い下げられた夫ある女」前の、山本が「処女を撰」んでおいた「下女」で添い寝させ、その結果として「孕」んでしまい、「出入りの町人に景物」(添え金(がね))をつけて「払い下げ」た中の一人。

「花橘(かきつ)の昔のにおい床しくして」「古今和歌集」の「卷第三」の「夏歌」の「よみ人しらず」(但し、本歌は「伊勢物語」の第六十段にも載る)で載る第一三九番歌。

 

  題しらず

 さつき待つ花橘(はなたちばな)の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 

を洒落たもの。

「情(なさけ)が凝って腹に宿り」精神的懊悩ではなく、妊娠してしまったことの比喩である。]

2017/05/27

南方熊楠 履歴書(その39) 山本達雄へのアカデミズム批判と彼への皮肉

 

[やぶちゃん注:以下は遙か前の、前の(底本はそのための字下げ)山本達雄との会見の時にシークエンスが巻き戻されている。南方熊楠を忘れていた山本との対話(というか一方的な山本を暗に皮肉ったアカデミック批判の熊楠の直接話法)である。]

 

 小生いわく、秦の王猛はどてらを着て桓温を尋ねしに、桓温勝軍(かちいくさ)の威に乗じこれを見下し、関中の豪傑は誰ぞと問いしという。実は関中にも支那中にも王猛ほどの人物なかりしに、見下して挨拶が悪かったから、王佐の才を空しく懐(いだ)いて何の答えもせずに去って苻堅に就(つ)き秦を強大にせり。周の則天武后が宰相人を失すと歎ぜしも、かかる大臣あるに出づ。されば政府や世に聞こえた学者にろくなやつなしとて、東(とうしょう)という藜(あかざ)ごときものは、蒙古では非常に人馬の食料となるものなり、しかるに参謀本部から農商務省にこの物の調査どころか名を知ったものなし。支那では康熙帝親征のときみずから沙漠でこの物を食い試み、御製の詩さえあるなり。万事かくのごとしとていろいろの例を挙げ、学問するものは愚人に知られずとて気に病むようでは学問は大成せずとて、貧弱な村に一生おって小学の教師の代用などした天主僧メンデルは、心静かに遺伝の研究をしていわゆるメンデル法則を確定したるに、生前誰一人その名をさえ知らず、死後数年にしてたちまちダーウイン以後の有力な学者と認められた。人の知る知らぬを気兼ねしては学問は大成せず、と言い放つところへ鶴見商務局長入り来たる。この日英皇太子入京にて、諸大臣大礼服で迎いにゆくとて大騒ぎなり。

[やぶちゃん注:「王猛」(三二五年~三七五年)は五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝苻堅(三三七年~三八五年)に仕えた宰相で苻堅の覇業(華北統一)を補佐した賢臣。ウィキの「王猛」によれば、『北海郡劇県(今の山東省寿光市/濰坊市)の出身』で、『漢人の有力貴族の家に生まれた』ものの、当時の家は既に『貧しく、もっこ』『を売って生計を立て』たほどであった。しかし『細事にはこだわらず』、『博学で殊に兵書を好んだ』。三五四年に東晋の武将桓温(三一三年~三七四年:現在の安徽省出身。三四五年、当時は東晋第一の大鎮荊州の刺史となり、蜀の成を滅ぼし、前秦の軍を破り、さらに前燕を討った。桓温の中原出兵の目的は、その成功によって朝廷内の反対勢力を押え、受禅して自ら皇帝となるものであったが、前燕を討った際、枋頭(ほうとう:現在の河南省)で敗れた後、威信が衰え、野望を達成せぬままに亡くなった)『が前秦を北伐したときに訪ねて』、虱を潰しながら、『天下の大事を堂々と論じ合ったという』。『この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、真の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を遠しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ』、『桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った』(「晋書」の「苻堅載記 上」に拠る。下線はやぶちゃん。熊楠の謂いとはかなり違う。熊楠が何の記述に基づいて述べたかは私には定かではない。識者の御教授を乞う。『後に異民族の王・苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった』。『苻堅は「劉備が諸葛亮を得たのと同じように大切な存在だ」と言って王猛を重用した。王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、氐族の力を抑えて民族間の融和を図った。一方、軍事面でも』三七〇年に『前燕に対して王猛自ら軍を率いて侵攻し』、六万の『前秦軍に対し』、前燕は四十万もの『大軍であったが、前燕軍を率い』た慕容評が暗愚であったこともあり、決戦の結果、前秦は五万の『戦死・捕虜を数え、さらに追撃して』十万を『得る大勝を挙げ』、三七六年には前涼と、それぞれを滅ぼして『中国北部を統一し、この時代ではまれにみる平和な時代を築き上げたが、王猛自身は前涼滅亡の前年』に享年五十一で亡くなった、とある。

「則天武后」既出既注。「宰相人を失すと歎ぜし」はそちらの注にある、則天武后の専横に対する反乱軍の檄文を、かの詩人駱賓王が書き、その名文(特に「一抔之土未乾、六尺之孤安在」(一抔(いつぽう)の土 未だ乾かず 六尺(りくせき)の孤 安(いづ)くにか在る」との一節。「先帝の陵墓の土が未だ乾ききらず、先帝の二歳半にしかならぬ遺児は一体何処へ行ってしまったのか」)を読んで思わず感嘆してしまった武則天が、「宰相何得失如此人。」(「宰相、何をもってか此くのごとき人を得失せんとするか。」。「どうして宰相はこのような才能のある者を得ることなく失っているのか!」)と言ったという逸話に基づく。

「東(とうしょう)」砂漠性一年草のアグリオフィルム属モンゴリカヤナギAgriophyllum squarrosumこちらの冨樫智氏の学術論文「内モンゴル、アラシャンにおける砂漠化防止の実践的研究ではアカザ科とし(中文サイトでも同じ)「沙米」と漢字表記がある。

「藜(あかざ)」ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrumウィキの「アカザ」によれば、『英語では、ニワトリのえさにするため Fat Henhen は雌鶏の意)などと呼ばれ』、『葉はゆでて食べることができ、同じアカザ科のホウレンソウ』(アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea)『によく似た味がする。シュウ酸』(蓚酸。ジカルボン酸で有毒)『を多く含むため生食には適しない。ただし、一般的に畑の雑草として駆除されるため好んで食べる人は少ない。種子も食用にできる(同属のキノア C. quinoa は種子を食用にする穀物である)。「藜の羹(あつもの)」は粗末な食事の形容に使われる』とある。

「農商務省」話し相手の山本は当時、農商務大臣であったことをお忘れなく。

「康熙帝親征」清と、十七世紀から十八世紀にかけて現在現在のウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラトが築き上げた遊牧帝国ジュンガルとの間で行われた清・ジュンガル戦争(一六八七年~一七五九年)では、一六九六年に康熙帝自らが軍勢を率いて致命的打撃を与えているが、この時の逸話であろうか。

「御製の詩さえある」不詳。識者の御教授を乞う。

「メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)はオーストリア帝国ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「鶴見商務局長」農商務官僚で実業家の鶴見左吉雄(さきお 明治六(一八七三)年~昭和二一(一九四六)年)か。ウィキの「鶴見左吉雄によれば、大正六(一九一七)年に『水産局長に就任し』、『その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任した』とし、大正一三(一九二四)年退官とある。このエピソードの時制は大正一一(一九二二)年春である。

「この日英皇太子入京」これは後のウィンザー朝第二代国王エドワード世(Edward VIII 一八九四年~一九七二年)が皇太子だった時の来日で、ウィキの「エドワード8世(イギリス王)」によれば、『裕仁親王(後の昭和天皇)の訪欧の返礼として日本を訪問し』、四月十八日に『イギリス王族としては初めて靖国神社に参拝したほか』、五月五日には『大阪電気軌道(現近鉄奈良線)の奈良駅~上本町駅間の電車に乗車した。また、京都などを回って皇族や軍人などと面談したほか、鹿児島県では島津家の邸宅(現・仙巌園)を訪ね、鎧兜を着用して祝賀会に出席した。パーティでは随行員らとともに、着物姿と法被姿を披露した。法被は名入りのものを京都で自らあつらえた。襟に高島屋呉服店配達部とあるものもあり、人力車夫に扮した姿が残されている』とある(下線やぶちゃん)。「入京」「諸大臣大礼服で迎いにゆく」という叙述から、南方熊楠が山本達雄と面会したのは、この四月四日よりも前であると考えて良かろう。]

2017/05/25

南方熊楠 履歴書(その38) 山本達雄の我を覚えざること

 

 咄(はなし)もここまでくれば末なり。よって珍妙なことを申し上げ候。大正十一年春東京にありしとき、四月十二日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地三万坪をもち一坪いくらと売りし人)二氏に伴われ、山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)を訪(おとな)いし。明治三十年ごろ、この人正金銀行の今西豊氏と英国に来たり(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生今西氏とサンフランシスコにて知人たりしゆえ、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並び坐して食事を供せられしことあり。その時山本氏問いに、西洋の婦女は日本のと味が同じかとは、よく好きな人と覚えたり。さて山本氏は小生を知らぬ由をいう。この人小生の研究所の発起人なるに知らずというを小生は面白く思わず、渡英されしときのことどもをいろいろ咄せしに、ようやく臆い出したらしかりしが、なお貴公がそんなに勉学しおるものなら農相たる予が多少聞き知るはずなるに、一向聞き知りしことなきは不思議なという。

[やぶちゃん注:「大正十一年春東京にありしとき」既に述べた通り、南方植物研究所資金募集のための大正三月から八月に上京、奔走した折りのことを指す。これも注したが、実際には七月十七日から八月七日までは日光に採集旅行に出かけている。

「中村啓次郎」既出既注

「堂野前種松」(明治二(一八六九)年〜昭和三〇(一九五五)年)骨董集主家として知られたこと、それらについての幾つかの著述があることぐらいしか判らなかった。識者の御教授を乞う。

「山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)」山本達雄(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家で政治家。男爵ウィキの「山本達雄によれば、『日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した』。『豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれ』、十七歳で『大阪に出』、三年間、『小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため』、『慶應義塾で学んだ期間は短かった』。そこで、『当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した』。『卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し』て『問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として』一年勤めたものの、『ここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から』、明治一六(一八八三)年に『郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った』。そこで実業家川田小一郎に『才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任』、明治二三(一八九〇)年に『当時総裁であった川田の要請によって』『日本銀行に入行』五年後の明治二十八年には、『川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた』。更に翌明治二九(一八九六)年四月には『金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された』。ところが、明治三一(一八九八)年十月に『日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如』、『日本に呼び戻され』、第五代日本銀行『総裁に任じられ』る(下線やぶちゃん)。実に入行から僅か八年、山本は満四十三歳であった。南方熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一九〇〇年である。『日本銀行総裁退任後の』明治三六(一九〇三)年に『貴族院で勅撰議員となり』、明治四二(一九〇九)年には日本勧業銀行総裁に就任している。その二年後の明治四十四年、その年に成立した第二次西園寺内閣に於いて、『西園寺公望総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣したことであった。健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。だが、以後の山本は西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の』第一次山本(海軍大将山本権兵衛)内閣では『政友会の推挙で農商務大臣に就任して、山本の』二『代後の日本銀行総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが』、シーメンス事件(ドイツの当時、軍需関連企業であった「シーメンス」社による日本海軍高官への贈賄事件。大正三(一九一四)年一月に発覚して同年三月に山本内閣は総辞職に追い込まれた)によって『志半ばで挫折する。この農商務大臣在任中に正式に政友会に入党した。政友会による本格的な政党内閣である原内閣においても再度』、農商務大臣を務めている。大正十一年当時は原の暗殺によって、後継となった高橋是清内閣(大正一〇(一九二一)年十一月十三日から大正一一(一九二二)年六月十二日)まで農商務大臣を続けていたから、まさに彼の「農相」最後の折りであったものと思われる。この熊楠との再会当時、山本は満六十六である(熊楠より十一年上)。熊楠は『このボケ・エロ爺いが!』と思ったことであろう。なお、その後、斎藤内閣で内務大臣を勤めている。

「明治三十年」一八九七年。上記の通り、二人の事蹟とも一致する。

「正金銀行の今西豊」不詳であるが、横浜正金銀行の取締役であった山本が、金本位制実施のための準備のため、日銀総裁からロンドンに派遣されていることから、彼と同道というのは腑に落ちる。

「当時山本氏は日本銀行総裁」「日本銀行理事」の誤り。前注参照。

 以下、二段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 かかることは、欧米の挨拶にはよほど人を怒らすを好む人にあらざればいわぬことに候。小生の旧知にて小生キュバ島へ行きし不在中に、小生が預けおいた書籍を質に入れた小手川豊次郎というせむしありし。日本へ帰りてちょっと法螺(ほら)を吹きしが死におわれり。この者都築馨六男と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生れ場所を知らぬ者があるかといいしに、都築男聒(かつ)となりて汝ごとき奴の郷里を知るはずなしといいしを、板垣伯仲裁せしことあり、と新紙で見たことあり。小手川の言は無論として、都築男も品位に不相応な言を吐かれたものと思う。

[やぶちゃん注:「小生キュバ島へ行きし不在中」一八九一年(明治二十四)年九月から翌年の一月まで。

「小手川豊次郎」事蹟不詳ながら、多くの著作があり、内容から見て経済学者らしい。

「せむし」吉井庵千暦著「名士の笑譚」(明三三(一九〇〇)年刊)「小手川豐次郎後藤に殴打る」という話が載り(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読める)、これは同一人物を思われ、そこでは彼に「ドクトル」が冠せられており、「短軀」「丈纔かに三尺背骨高く聳え胸また出づ」とあるので、小手川は佝僂(くる)病或いは脊椎や腰椎の先天性奇形であったのかも知れぬ。

「都築馨六」筑馨六(つづきけいろく 万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。男爵。ウィキの「筑馨六」によれば、貴族院議員・枢密顧問官・法学博士で男爵。「都築」と表記される場合もあるとある。『高崎藩名主・藤井安治の二男として生まれ、西条藩士・都筑侗忠の養子となる。築地大学校、東京開成学校を経て』、明治一四(一八八一)年七月に東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業、翌年『ドイツに留学し』、『ベルリン大学で政治学を学んだ』。明治一九(一八八六)年に帰国して『外務省に入り、公使館書記官兼外務省参事官に就任。外務大臣秘書官』となったが、明治二一(一八八八)年には今度は『フランスに留学』二年後に帰国すると、『内閣総理大臣秘書官とな』り、『以後、法制局参事官、兼内閣総理大臣秘書官、内務省土木局長、兼内閣総理大臣秘書官、図書頭、文部次官、外務省参事官、外務次官などを歴任』、その後、貴族院勅選議員・枢密院書記官長に就任、明治四〇(一九〇七)年四月には『特命全権大使に任じられ』てオランダの『ハーグで開催された』第二回『万国平和会議に委員として派遣され、ハーグ密使事件』(大韓帝国が会議に密使を送って自国の外交権回復を訴えようとしたが国際社会の列強から会議への参加を拒絶されて目的を達成することができなかった事件)『の対応に当っている』。

「板垣伯」板垣退助(天保八(一八三七)年~大正八(一九一九)年)。]

 

関ケ原の戦争に西軍あまり多勢なので東軍意気揚がらず、その時坂崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老たりしが、主を怨(うら)むことありて家康に付きし者、この軍ののち石見国浜田一万石に封ぜられしが、大阪の城落つるとき、秀頼の妻をとり出したらその者の妻にやると聞き、取り出せしに秀頼の後家本多忠刻にほれその妻となる。出羽守怒ってこれを奪わんとし、兵を構えんとするを家臣に弑(しい)せらる。故福地源一郎氏はこのこと虚談といいしが、小生コックスの『平戸日記』を見るに、コックス当時江戸にあり、このことを記したれば実事なり)進み出で、西軍などおそるるに足らず、某(それがし)一人あれば勝軍(かちいくさ)受合いなりと言いしを家康賞美する。出羽守出でてのち小姓ども大いにその大言を笑いしに、家康、かようの際に一人なりとも味方のために気を吐く者あらば味方の勇気が増すものなり、その者の言葉を笑うべきにあらず、と叱りしという。咄の始終も履歴も聞かぬうちに、われは汝にあいし覚えなしなどいわれたら、その者の心はたちまちその人を離るるものなり。スペインのアルフォンソ何世たりしか、華族にあえば知らぬ顔して過ぎ、知らぬ百姓に逢うても必ず色代(しきだい)せしより、百姓ども王に加担して強梁せる華族をことごとくおさえ、王位を安きに置きたり、と承りしことあり。

[やぶちゃん注:「坂崎出羽守」坂崎直盛=宇喜多詮家(うきたあきいえ 永禄六(一五六三)年?~元和二(一六一六)年)。ウィキの「坂崎直盛」によれば、『備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・宇喜多忠家の長男』で、『従弟の宇喜多秀家に仕えた』『が、折り合いが悪かった。そのため』、慶長五(一六〇〇)年一月に『宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君・秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田』二『万石を与えられ、後に同国津和野に』三万石『を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降』、『坂崎直盛と名乗るようになった』。元和元(一六一五)年の『大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる』。『この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説』、『家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説』など『がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説』なども『あり、この他、直盛が千姫を救出したにも関わらず火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もある』という(但し、以上の千姫事件の仮説については、リンク先では要出典要請がかけられてある)。『また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに』、突如、『姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された』 とする説もあるという。『いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが。この計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説』、『立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠』(二蓋笠(にがいがさ))『は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている』。『一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックス』(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)は、ステュアート朝イングランド(イギリス)の貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks)「イギリス商館長日記」 一六一五年から一六二二年まで)はイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級史料)『の日記によれば』、元和二年九月十一日(グレゴリオ暦一六一六年十月十日)の『夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり』。『とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)』。『関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主・小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後』、その十三回忌に、『義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)』とある。

「従弟兼家老」「従弟(いとこ)、兼(けん)、家老」。

「福地源一郎」作家・劇作家で衆議院議員にもなった福地桜痴(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)の本名。

「スペインのアルフォンソ何世たりしか」不詳。民衆に絶大な人気があったという点では何となく思い当たる人物もないではないが、世界史は私の守備範囲でないので、不詳としておく。識者の御教授を乞う。

「色代(しきだい)」会釈。

「強梁」勢力強くのさばること。

 ここまでが底本では二字下げ。]

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