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2019/02/22

団三郎狸関連新情報

「古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説」

私に団三郎狸の資料を下さった団三郎貍の末裔の方の新たな踏査と考証がアップされた。面白い!

2018/05/08

鴾(松森胤保「両羽博物図譜」より)

 

008

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用い、トリミングや補正は一切行っていない。この図の前頁に松森胤保による解説が載る(リンク先は同図書館の当該頁の画像)ので、本図の上部の箇所も含め、以下に翻刻した。但し、同サイトでは前頁部分については、新字で電子化翻刻がなされているので、それを加工用(口幅ったいが、私には私なりの電子化ポリシーがあり、訓読も私の解釈に従って行っている)に使用させて貰った。]

 

□翻刻1(原典のまま。【 】は二行割注。「霍」の字は「鶴」の異体字で、原典表記に一番近いと判じてそれで示した。最初の標題は原典では第一行は二字下げであるが、ブログのブラウザの不具合を考えて三行は引き上げてある)

鴾屬【鴾ハ古ノ俗字トス】 鸛霍部屬別之第三屬

 鴾類   鴾(トキ)屬類別之其一類

 (トキ)種   鴾類種別之其一種

鴾屬朱鷺ニ作テ通用ス大サ大鷺ノ如シ然トモ

嘴翼大ニ其法ヲ異ニシ鷺觜直鋭(トキ)觜弯弱鷺羽

大重(トキ)羽小捷且霍ハ飛時首足ヲ延ヘ鷺ハ足ヲ

テ首ヲ疊ミ首ヲ延ベテ足ヲ疊ム啼声ダ

ヲーダヲート云カ如シ故俗又ダヲ又ドート云

春初百鳥ニ先テ來松樹ニ巢冬初去若鳥羽白ク

後ニ美ナリ肉血腥【或紅霍又(チヤウ)又鴾又唐鳥(トウカラス)又ドウカラス

又桃花鳥又私記(トキ)又豆木(トキ)又登木等ニ作】

 

《改頁(上記画像部)》

(トキ《右ルビ》/ドウ《左ルビ》)【明治十二年四月十三日】

一見而㒵怪物ノ如シ

田畔ニ遊ヒ丘蚓等ヲ

獲レハ洗テ食フト云フ

水田ニ獵シ山林ニ宿シ松樹

ヲ好ンテ之ニ巢フ

 

 

□翻刻2(概ね、カタカナをひらがなとし、句読点・記号等を添え、送り仮名の一部を推定で本文に出し、一部に推定で〔 〕で読みを歴史的仮名遣で附し、一部に読み易さを考えて[ ]で語句を添え、一部を連続させた。「如し」は漢文訓読法に従い、平仮名とした)

鴾屬【鴾は古〔いにし〕への俗字とす。】 鸛霍〔こふづる〕部屬別の第三屬

 鴾類   鴾(トキ)屬類別の其の一類

 (トキ)種   鴾類種別の其の一種

鴾屬、朱鷺に作りて通用す。大いさ、大鷺〔おほさぎ〕のごとし。然れども、嘴〔くちばし〕・翼、大いに其の法を異にし、鷺、觜、直鋭[なるも]、(トキ)[は]、觜、弱く弯〔(まが)れり〕。鷺、羽、大重[なるも]、(トキ)、羽、小[さくして]捷〔はや〕し。且つ、霍〔つる〕は飛ぶ時、首・足を延べ〔れども〕、鷺は足を延べて首を疊み、[この]は、首を延べて足を疊む。啼き声、「ダヲーダヲー」と云ふがごとし。故、俗、又、「ダヲ」、又、「ドー」と云ふ。春の初め、百鳥に先だつて來たり、松樹に巢くふ。冬の初め、去る。若鳥、羽、白く、後に美なり。肉、血腥さし【或いは「紅霍」、又、「(チヤウ)」、又、「鴾」、又、「唐鳥(トウカラス)」、又、「ドウカラス」、又、「桃花鳥〔トキ〕」、又、「私記(トキ)」、又、「豆木(トキ)」、又、「登木」等に作る。】。

《改頁(上記画像部)》

(トキ《右ルビ》/ドウ《左ルビ》)」【明治十二年四月十三日。】

重さ

長さ

一見して、㒵[かほ]、怪物のごとし。田の畔〔あぜ〕に遊び、丘蚓〔みみず〕等を獲れば、洗ひて食ふ、と云ふ。水田に獵し、山林に宿し、松樹を好んで、之れに巢くふ。

 

[やぶちゃん注:鳥綱新顎上目ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属Nipponia Reichenbach, 1853種トキ Nipponia nippon (Temminck, 1835)。既に電子化した和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)や、トキの美麗な図森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「とき」も参照されたい。

「鸛霍〔こふづる〕部」これは「鸛」(こうのとり)の別名である。現在の上記の通り、トキはペリカン目 Pelecaniformes に属すが、実は近年までコウノトリ目 Ciconiiformes に入れられいたので、当時としては松森の認識は正しいのである。

「其の法」形状や生態上の機能。

「明治十二年」一八七九年。

「重さ」以下、「足」までは後の実測を期しての欠字となっているものと思われる。

「丘蚓〔みみず〕」ママ。蚯蚓。ミミズ。]

2018/05/01

人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)

人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)

 

006

 

Ninngyokanzanti

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた。最初に掲げた画像はそのままで、トリミングや補正は行っていないが、二枚目のそれは、図に示された各部のサイズ(これではよく判らぬので)をメートル法に換算した数値を、私が印刷した当該画像に手書きで書き入れたもので、かなりの補正(汚損除去)をしてある

 翻刻は上記の「両羽博物図譜の世界」の「兩羽魚類圖譜」の「海魚部」の「人魚部」「人形屬」「人魚類」「人魚種」に分類された、この(①とする。以下同じ)・この頁(②・上記の一枚目の画像頁)・この頁(③)・この頁(④)から人魚について記した部分を採り上げた(記述のみの頁は画像として掲げないので、対照されたい方は、上記リンク先を別ウィンドウでそれぞれ開かれたい)。上記「両羽博物図譜の世界」では、かなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあり、本図についてもそれがなされている。但し、カタカナがひらがなに直されており、しかも多くの漢字が新字であるので、加工用に使用させて戴いたものの、一字一句について、総て、一から私が判読し直したものであることを最初にお断りしておく。また、当該の電子化された判読には従えない部分が複数箇所あり(読み易さを考えて確信犯で変えてある箇所が殆んどであり、私の判読では同じようにした箇所も多い)、独自に読み変えた箇所もある。しかし、それは私の判読の趣味嗜好からなのであって、当該判読に異論を唱えたり、批判する意図は全くないので、その異同については特に述べていない。なお、松森は「魚」を「𩵋」と書いているのであるが、この異体字、私自身が生理的に非常に気持ち悪く感じるので、勝手乍ら、総て「魚」とさせて戴いた

 

□翻刻1(原典のまま。【 】は割注様の二行表示)

〈①〉

【兩羽】魚類圖譜第一

 海魚部

  人魚屬

予人魚ノ事ヲ略論スルニ漢土ニ於テハ秦ノ始

皇カ驪山ノ陵ニ其油ヲ以テ火ヲ點セシト云フ

ヲ始トシテ我カ國ノ雜書俗談ニ掛ルモノ一ト

シテ不經ノ妄説ニ係ラサルモノヲ知ラス從テ

其物ヲ見ルヿ一ニシテ止ラスト雖皆擬物タル

ニ過キ洋人ハ烏有ノ物トナスモ眞ニ故アリ然

ルニ独リ此ニ圖スル所ノ原物ハ毫モ人造ノ跡

ヲ踪スヘキナク殊ニ人面ニシテ隱然トシテ獣

相ヲ備ヘ縱令人造ナラシムルモ決シテ看過ス

可キモノニ非ス依テ暫ク此ニ列ス

 

 

〈②〉[やぶちゃん注:「一腰ヨリ下」と「此圖ノ如ク」の間の★部分には、その下に示した画像が入る。原画像から当該部をトリミングしてそのまま示した。縦書であるので、この画像だけは正立画像である。

      人魚類

          人魚種

一腰ヨリ下★圖ノ如ク左ニ曲レリ

Ningyokasinokatati_6

一靣ノ長サ二寸二分

一肩巾四寸

一腹巾二寸五分

ヨリマテ四寸五分

ヨリマテ二寸五分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ寸欠

ヨリマテ一寸六分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸

ヨリマテ寸一

[やぶちゃん注:「寸一」はママ。但し、右に何か記号(上下入れ替え?)のようなものがあるようも見える。孰れにせよ、他のサイズと比較して「一寸」でよいと思われるので、「翻刻2」では特異的に「一寸」に代えた。

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸七分

ヨリマテ三寸

ヨリマテ三寸

ヨリマテ二寸五分

ヨリマテ一寸五分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸

[やぶちゃん注:「ヲ」に相当するものが判別しにくいが、見開き頁中央の右頁の「ロ」の下方の魚体部の右胸鰭らしきものの生えている根元にある三画目の左払いがないために「ニ」に見えるが、これが「ヲ」である(松森は描いた絵のそこに皺(或いは鰓蓋か)があり、それが「ヲ」で見えにくくしてしまうのを恐れて最終画を記さなかったのだと思う)。「ニ」は順に脂鰭(あぶらびれ)らしきものの右端(頂点)に既に打たれている。]

 

人魚【干燥物ノ写眞】

[やぶちゃん注:これは図のキャプション標題。]

 

 

〈③〉

此ノ人魚ハ安政三年寫眞スル所ヲ明治十六年一月

八日ニ覆寫スルモノナリ其産所ハ詳ナラスト

雖モ其頃ヨリ我カ庄内ノ物トナレリ初メテ見シ

時ハ圖ノ如ク顏靣及指間胸骨ノ邊ニモ薇綿(ゼンマイ)ノ

如キ毛アリシガ二十七年カ程ヲ歴テ昨年再タ

ヒ之ヲ見シ時圖ニ在ル所ノ細毛ハ剝脱殆ト尽ク

ルニ至レリ

又云自然ノ物ニシテハ独不都合ナルモノアリ

人ノ胸尽キタランニハ魚ノ腹之ニ屬スベキノ理

ノ如シ然ルニ否セス人胸尽テ魚胸次ク理果シ

テ如何ントス

一明治十六七月二十六日ノ郵便報知新聞ヲ見ル

[やぶちゃん注:上の「一」は原文では本文全体より一字分飛び出ている。]

ニ云神奈川縣下久良岐郡根岸本牧村ノ漁父田

沼九十郎カ三四日跡金澤沖ニ於イテ漁業ノ際綱

[やぶちゃん注:「綱」はママ。「網」の誤りであろう。「翻刻2」では特異的に「網」とした。]

ニカケテ引キ揚ケタル魚ハ體ノ長サ二尺五寸ニ

テ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣ハ人ニ彷彿トシテ

全身ニ黒キ短毛ヲ生ジ尾ハ疊針ヲ十二本列ヘ

種タルガ如クニシテ【胤保案スル是レ全ク尾ノ骨ヲ云フナル可シ】蹼ニモ

【胤保案スルニ鰭ト云ハスシ蹼ト云フヲ見レハ通常ノ鰭ニ非ルコトヲ知ヘシ】中本ノ

大針アル異形ノ魚ナレハ怪シトテ其ノ趣キヲ戸長役

場ヘ屆ケ出シト云フ胤保案スルニ亦此人魚ノ

一ナルヘシ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣人ニ彷彿

トシテト有ルハ尤要所ナリ人靣ニシ蓋シ獣相

[やぶちゃん注:「要所」は初め「腰所」と書いたものを、「月」の上をごちゃごちゃとして消してあるので、かく表記した。]

ナルモノナルヘシ予カ此ニ圖スル所ノモノモ

 

 

〈④〉

則前ニ誌スカ如ク隱然トシテ獣相ヲ備ヘ天造

ノ妙人工ノ及ハサル所ヲ有ス

因ニ云フ橘ノ南溪カアラワス所ノ西遊記ニ日

向ノ國カノ山中ニ於テ兎路(ウチ)弓ヲ以異物ヲ斃ス

全体全ク女ニシテ裸体色白ク髮黒ク人間ニ異

ナラスト雖獣相アリ之ヲ山女トスルヨシ見エ

タレト人悉之ヲ疑フモ予ハ其ノ獣相ノ字アルヲ

以テ其眞物ヲ見シコト有ルモノニ非レハ知ルヿ

能ハサル所ト信シ倂セテ其ノヿノ虚談ニ非ルヲ

信スルナリ

 

 

□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みを添え、送り仮名や語を添えた整序版)

〈①〉

「【兩羽】魚類圖譜」第一

 海魚部

  人魚屬

 予、人魚の事を略論するに、漢土に於いては、秦の始皇が驪山(りざん)の陵に其の油を以つて火を點ぜしと云ふを始めとして、我が國の雜書俗談に、掛るものを、一つとして不經(ふけい)の妄説に係らざるものを、知らず。從つて、其の物を見ること、一(いつ)にして止(とど)まらずと雖(いへ)ど、皆、擬物(まがひもの)たるに過きず。洋人は、烏有(ういう)のものとなすも、眞(まこと)に故あり。然るに、獨り、此(ここ)に圖する所の原物は、毫(がう)も人造の跡を踪(のこ)す[やぶちゃん注:本字には「あと・あしあと」などの意しかなく、このような意味はないが、こう読むしかない。]べきなく、殊に人靣(じんめん)にして、隱然として、獣相(じうさう)を備へ、縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず。依つて、暫く、此に列す。

〈②〉[やぶちゃん注:サイズは、それぞれの下に《 》でメートル法換算値を示した。]

       人魚類

        人魚種

一 腰より下、「★」、此の圖のごとく、左に曲れり。

Ningyokasinokatati_7

一 靣(かほ)の長さ、二寸二分。《67㎜弱》

一 肩巾(かたはば)、四寸。《約12㎝》

一 腹巾(はらはば)、二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで四寸五分。《136㎜》

一 よりまで二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで寸欠(たらず)。《3㎝未満》

一 よりまで一寸六分。《48㎜》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸七分。《約5㎝》

一 よりまで三寸。《約9㎝》

一 よりまで三寸。《約9㎝》

一 よりまで二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで一寸五分。《45㎜》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

 

「人魚」【干燥物の写眞。】

 

〈③〉

 此の人魚は、安政三年、寫眞する所を、明治十六年一月八日に覆寫するものなり。其の産所は、詳かならずと雖(いへど)も、其の頃より、我が庄内の物となれり。初めて見し時は、圖のごとく、顏靣及び指の間、胸骨の邊りにも、薇綿(ぜんまい)のごとき毛ありしが、二十七年が程を歴(へ)て、昨年、再び、之れを見し時、圖に在る所の細毛は、剝げ脱け、殆んど尽くるに至れり。

 又、云はく、自然の物にしては、獨(ひと)り、不都合なるものあり。人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす。

一、明治十六年七月二十六日の『郵便報知新聞』を見るに、云はく、『神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村の漁父田沼九十郎が、三、四日跡(まへ)、金澤沖に於いて漁業の際、網にかけて、引き揚げたる魚は、體の長さ、二尺五寸《約62㎝》にて、頭は、猿のごとく、顏靣の模樣は人に彷彿として、全身に黒き短毛を生じ、尾は疊針を十二本列(なら)べ種(し)きたるがごとくにして【胤保、案ずるに、是れ、全く尾の骨を云ふなるべし。】、蹼(みづかき)にも【胤保、案ずるに、「鰭」と云はずして「蹼」と云ふを見れば、通常の「鰭」に非ざることを知るべし。】中本(ちうほん)の大針(おほばり)ある異形の魚なれば、「怪し」とて、其の趣きを戸長役場(こちやうやくば)へ屆け出でしと云ふ。胤保、案ずるに、亦、此れ、人魚の一つなるべし。頭は、猿のごとく、顏靣の模樣、人に彷彿として、と有るは、尤も要所なり。人靣にして、蓋(けだ)し、獣相なるものなるべし。予が、此に圖する所のものも、〈以下、④〉則ち、前に誌すがごとく、隱然として、獣相を備へ、天造の妙、人工の及ばざる所を有す。

 因みに云ふ、橘の南溪があらわす所の「西遊記」に、『日向の國、かの山中に於いて、兎略弓(うぢゆみ)を以つて、異物を斃(たふ)す。全体、全く女にして、裸體、色、白く、髮、黒く、人間に異ならずと雖も、獣相あり。之れを「山女(やまをんな)」とする』よし、見えたれど、人、悉く、之れを疑ふも、予は、其の「獣相」の字あるを以つて、其れ、眞物(しんぶつ)を見しこと有るものに非ざれば、知ること、能(あた)はざる所と信じ、倂(あは)せて、其のことの虚談に非ざるを信ずるなり。

 

[やぶちゃん注:一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」に載る本図について、磯野先生は、『この「人魚」図は、サルの頭骨とスズキ型の魚の骨格を継いだものらしい』(これは当該書の巻末に「文献」として挙げてある、一九八八年発行の『ミクロスコピア』五巻三号に載る「松森胤保『両羽博物図譜』、その一 海の魚」に拠る見解と思われる)『が、よほど精巧にできていたとみえて、多くの「人魚」を偽物と否定した胤保も、これは本物と受け取った。人魚の実在を信じていたのは胤保の古さを示すが、彼独特の分類体系』『にとって不可欠の存在だからでもあったことを理解する必要があ』り、『「二つの種類のあいだには必ず中間の種類が存在する」というのが彼の根本理論で、したがって人間と魚との間に人魚が存在することが、彼の理論にとっては重要な証拠だったのである』と述べておられる。無論、狭義の意味での「人魚」は存在しないから、彼の認知は決定的な誤りではあるのだが、これはある意味、ダーウィンの進化論的な系統的変遷の認識に繋がる〈ミッシング・リンク〉の捉え方としては面白いものだと私は思う。但し、磯野先生のスズキ型の魚というのには疑問がある。図を見ても判る通り、下半身の魚体部には、明白な脂鰭が見られるからである。脂鰭はサケ(サケ目 Salmoniformes)及び同じサケ目のマス類やアユ(キュウリウオ目 Osmeriformes)などの背鰭と尾鰭との間にある肉質状の特殊な鰭で、多くの海水産魚類や河川遡上性のそれらである、条鰭綱棘鰭上目スズキ目 Perciformes の魚類には見られない鰭だからである。捏造したとして、わざわざ脂鰭を附けたとしても、長い年月の間には、それは容易に脱落してしまう可能性が極めて高いと思われ、私は寧ろ、脂鰭を持つサケ・マスの大型個体の乾燥個体を猿の木乃伊(ミイラ)に繫いだと考えるのが妥当であると考える

「秦の始皇」中国最初の秦の皇帝である始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年/在位:紀元前二二二年~紀元前二一〇年)。

「驪山」中国、西安の東、陝西(せんせい)省臨潼県城の東南にある山。標高千三百二メートル。山麓に温泉があり、秦の始皇帝はここで瘡を治療し、即位して直ぐに、ここに自身の陵墓建設に着手している。その規模は格段に大きく、「史記」によれば、始皇帝の晩年には、同地区への阿房宮の建築とともに、その作業のため、徒刑者七十万人が動員されたともされる。ウィキの「始皇帝」によれば、『木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が』百『本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたと』され、『珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた』。『これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間』八十『里は閣道で結ばれた』。一九七四年に『井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった』。『ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される』。『現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約』百『倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された』とある。なお、ここは唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために華清宮を建てたことでも知られる。

「其の油を以つて火を點ぜし」これもよく知られた伝承であるが、これは海産の大型哺乳類(クジラやジュゴン等)等から得たものであろうと私は推測する。

「不經(ふけい)」常軌を逸し、道理に外れていること。

「烏有」(うゆう:現代仮名遣)は「烏(いづく)んぞ有らんや」の絶対反語の意で、全くないこと。何も存在しないことを指す。

「獨り」副詞。一つだけ。

「人靣」「人面」に同じい。

「隱然」表面にははっきりとは表われないが、陰では強い実在性や影響力を持っていることを指す。

「縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず」仮にこれが人の手によってでっち上げられたものであったとしても、だからと言って決して(人魚の存在を)否定してよいものではない。

「列す」書き綴る。

「安政三年」一八五六年。

「寫眞」実物を写生すること。

「明治十六年」一八八三年。

「覆寫」複写。再度、写し直したもの。

「庄内」出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)。既に述べた通り、安政三年当時、松森は庄内藩支藩の出羽松山藩付家老(就任は文久二(一八六二)年)であった。

「薇綿(ぜんまい)」薇(ぜんまい)。シダ植物門シダ綱ゼンマイ科ゼンマイ属ゼンマイ Osmunda japonica

「獨(ひと)り」決定的な一点に於いて。

「人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす」私には、よく意味が判らない。「呼吸を掌る胸部が究極に於いてヒトの進化の結果であるとすれば、その以前は魚類の腹部(鰓を指すか?)が元であるはずであるのが理窟というものであろう。ところが、そうではない、則ち、必要でないはずのものが、あるではないか? 胸が人の進化の結果であるはずであるのに、魚類の胸が、それに繋がっているという、この「人魚」の生態的構造の理窟に合わない状況、これは、さても、果たしてどう考えたらいいのか?」という謂いか? より正確な真意を読み取れる方は、是非、御教授あられたい。

「郵便報知新聞」現在の『スポーツ報知』の大元の前身。明治五(一八七二)年七月十五日に前嶋密らによって創刊された新聞。ウィキの「報知新聞」によれば、『草創期には旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務め、藤田茂吉・矢野龍渓(文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした』。明治十年に『西南戦争が勃発すると、当時記者であった犬養毅による従軍ルポ「戦地直報」を掲載し』た。明治一四(一八八一)年に『矢野龍渓は大隈重信と謀って同社を買収』、『犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙となった』。なお、『当時』、『記者だった原敬はこれに反発して退社している』。『政論新聞(大新聞)は自由民権運動の退潮とともに人気が低下』し、明治十九年に『同社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図』ったとあり、その後、明治二七(一八九四)年、『三木善八が社主に就任』し、同年十二月二十六日に『報知新聞』と改題したとある。

「神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村」現在の神奈川県横浜市中区本牧。この附近(グーグル・マップ・データ)。私はこの近くの神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校に最も長く勤務した。私の教員生活の中で、一番、幸せな時代であった。

「三、四日跡(まへ)」「まへ」は推定訓。「前」。

「金澤沖」旧久良岐郡金沢村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の沖合。現在の横浜港の南方で、浦賀水道を抜けた狭義の東京湾の湾口の西方海域。

「種(し)き」「敷き」に同じ。

「中本(ちうほん)の大針(おほばり)」不詳。中ぐらいの太さを持った大きな針状の部位を指すか。哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae の尾部が疾患などによって腐敗し、骨が露わになったものを指すようは思われ、松森もそのようなものとして捉えているように思われる

「戸長役場」明治初期に区・町・村に設置された行政事務責任者である戸長が戸籍事務などを執った役所のこと。現在の町村役場の前身。

『橘の南溪があらわす所の「西遊記」』医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、「東遊記」やこの「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や、随筆「北窓瑣談」等で知られている。ここに出る「山女」は「西遊記」の巻二に載る日向国(宮崎)での聞書き。所持する東洋文庫本で示す(気持ちの悪い新字新仮名であるが)。

   *

 日向国飫肥(おび)領の山中にて、近き年菟道弓(うじゆみ)にてあやしきものを取りたり。惣身女の形にして、色殊の外に白く、黒き髪長くして赤裸なり。人に似て人にあらず。猟人も是を見て大いに驚きあやしみ、人に尋ねけるに、山の神なりというにぞ、後のたたりもおそろしく、取すてもせず其ままにして捨置きぬ。見る人も無くて腐り果てけるが、何のたたりも無かりしとなり。又、人のいいけるは、是は山女というものにて、深山にはまま有るものといえり。惣(すべ)て彼(かの)辺にては、菟道弓というものを作りて獣を取る事也。けものの通う道をウジという。其道を考え知りて、其所へ弓をしかけ置き、糸を踏めば弓発して貫く機関(からくり)なり。狼、猪なども皆此弓にて多く取得るとぞ。誠に辺国には種々の怪敷ものも有りけり。

 但し、九州には天狗の沙汰甚だ稀なり。薩州鹿児島辺にはたえてきかず。四国には天狗多しという。伊勢の辺には別して多し。皆高山には是有る様子なり。かかるたぐいも国々の風土によりて多少あるか。

   *

「飫肥」は現在の宮崎県南部日南市中央部にある地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。「菟道弓(うじゆみ)」は本文に出る「兎略弓(うぢゆみ)」で、この引用で最早、注する必要はなくなったと考える。

 なお、私はご多聞に漏れず「人魚フリーク」で、古くは、

南方熊楠「人魚話」やぶちゃん注

に始まり、

寺島良安和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「人魚」の項

でも考証した。そこではモデル論としては、哺乳綱のジュゴン目(海牛目)Sirenia

ジュゴン科 Dugongidae のジュゴン亜科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon(一属一種)

を真っ先に挙げ、以下、同じジュゴン目のマナティー科 Trichechidae マナティー属に属する三種

アマゾンマナティー Trichechus inunguis

アメリカマナティー Trichechus manatus

アフリカマナティー Trichechus senegalensis

も挙げねばならないとし、更に、近代に人類が絶滅させたジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae

ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

も、その我々の愚かな行為を忘れないために、掲げた。ステラーダイカイギュウについては、南方熊楠「人魚話」やぶちゃん注の私の注13を是非お読み頂きたい。但し、本邦本土にやって来るとなれば、やはり

食肉(ネコ)目 Carnivora のアシカ科 Otariidae のアシカやオットセイ

鰭脚(アシカ)亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ

等もモデル生物として挙げておいた、松森は魚類とヒトの中間型生物の措定を真面目に考えていたのであるが、アーバン・レジェンド(都市伝説)としての人魚伝説は今も頗る健在である。調査捕鯨の関係者の間で噂されると言い、映像にも撮られたとする謎の生物「ヒトガタ」「ニンゲン」「人型物体」……流石に、フリークの私も呆れて物が言えぬ。博物図譜では、非常に優れたものとして、

毛利梅園「梅園魚譜」の「人魚

を電子化注している。未見の方には、特にこれをお勧めする。古典で記事の古さから言えば、

「今昔物語集」の「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七

も見逃せない(これは私の訳注附き)。最近の私の仕儀では、

柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注「物言ふ魚」

がある。因みに、私は勝手に、

動物界脊椎動物門哺乳綱正獣下綱サル目(霊長類)サル亜綱サル下目(狭鼻猿類)ヒト科ヒト属ニンギョ(人魚)亜種 Homo nostosalgos sapiens Yabunovich Tadasky,2008

という学名もつけている。]

2018/04/30

オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館が「慶応義塾大学HUMIプロジェクト」の協力によって全五十九冊をデジタル化した同図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた(以下の理由から、トリミングや補正は一切、行っていない)。当該「両羽博物図譜の世界」には本画像の使用についての注意書きがどこにも書かれておらず、ネット検索を掛けると、個人ブログやSNSの投稿に多数使用されており、それらが同図書館から削除要請された形跡がないこと、文化庁のパブリック・ドメインの平面的作物をそのまま写した写真には著作権は発生しないという見解があること等から、画像を掲げて翻刻することにした。万一、同図書館から削除要請があれば、画像は削除する。翻刻は私が行った。因みに、上記「両羽博物図譜の世界」ではかなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあるが、本図については行われていないので、私のオリジナルである。なお、私は一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」(抄録で約百四十図を載せる)を所持しており、その図版解説や巻末にある詳細な「松森胤保と『両羽博物図譜』」の解説を参考にさせて戴いた。

 松森胤保(たねやす 文政八(一八二五)年~明治二五(一八九二)年)は博物学者で、もとは庄内藩支藩の松山藩付家老であった。ウィキの「松森胤保」(二重鍵括弧部分はその引用)及び上述の磯野先生の解説、また、酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」によれば、庄内藩士長坂市右衛門治禮(読み不明。「はるゆき」「はるのり」「はるあき」などとは読める)の長男として鶴岡二百人町(現在の鶴岡市)に出生した。『幼少時より』、『自然観察に優れ、海岸で綺麗な石を採集したり』、『小鳥を飼育したほか、鉱物や昆虫、化石、石器、土器等に関心を寄せ』、十二歳頃からは、『鳥の絵を数多く描いた』、十三歳で『藩校致道館に入り、儒学の素養に励むとともに書道にも才能を発揮』した。十四歳頃に『描いた鳥の図が「大泉諸鳥写真画譜」に残』っている。十六歳で『藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習い、この年の夏元服して名前を「胤保」と改め』ている。十八歳で『宝蔵院の槍術を学び、加えて居合、砲術、水練も習得』、二十二歳で『結婚するもまもなく離婚』、三十二歳で『藩医・松山道任知剛の長女鉄井と再婚』し、五男六女に恵まれた。文久二(一八六二)年、三十八歳で『長坂家を相続、翌年』六月には『出羽松山藩付家老に任ぜられ』た。元治元(一八六四)年には『江戸詰めとなり、市中警備に当たる一方、小鳥屋や見世物小屋、書籍店などを回り、見聞を広め』た。『家老職だけに許された猟銃も使えた』。慶応元(一八六五)年五月に松山に戻ったが、その年から慶応三(一八六七)年初冬までの二年半余は銃猟に明け暮れて過ごした。同年十二月四日には命を受けて江戸へ上り、江戸市中の警護に当たったが、折しも大政奉還(慶応三年十月十四日(一八六七年十一月九日)直後で、江戸は騒然としており、それに乗じて薩摩藩が浪人等を使って、騒擾を起していた。その挑発に乗った幕府が十二月二十五日、幕府兵並びに庄内藩等に命じて三田の薩摩藩邸を焼き討ちさせた(戊辰戦争の端緒となった事件。ここの部分は概ね、磯野氏解説に拠った)。この時、胤保は『庄内藩先鋒として松山藩兵の指揮を執っ』ている。慶応四(一八六八)年)四月には『軍務総裁に任ぜられ』、五『月には奥羽越列藩同盟結成に当たり、七月に『庄内戦争が勃発すると、松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として出征、新庄』、中村、横手、花楯、角館、上淀川『を転戦、いずれも勝利を収めた。この間の軍功により松山藩主から「松守」姓を賜る』。その時は固辞したが、辞退は許されず、明治三(一八七〇)年になって、漸く「松森」に変えて名乗るようになったという(磯野氏解説)。『戊辰敗戦後の』明治二(一八六九)年、『松山改め松嶺藩の執政、公儀人に任ぜられる。東京で写真機や顕微鏡を入手したの』は、この頃であった。その後』、『同藩大参事、松嶺区長、旧松嶺藩校里仁館惣管兼大教授、松嶺開進中学校長等を歴任、多難な戦後処理と新体制移行業務全般を司』った。明治一二(一八七九)年に鶴岡に戻り、明治一四(一八八一)年には山形県会議員、次いで明治十七年四月に『酒田町戸長とな』ったが、翌明治十八年七月、病のため、六十一歳で総ての公職を辞した。『晩年は研究著述に専念』し、『奥羽人類学会会長として尽力』、その間、長年かけて綴ってきたこの「両羽博物図譜」や、「南郊開物径歴」(これは『洋式築城方式の設計、自転車理論、水陸両用車、飛行機、綿縫器(ミシン)等のアイデアを披瀝』したもので、『発明家としても面目躍如ぶりをみせ』たものである)の完成に尽力したが、明治二五(一八九二)年四月、鶴岡にて逝去した。享年六十九。『胤保は公職に精励する一方、動植物学、物理学、化学、工学、歴史学をはじめ』、『音響学、建築学、民族学、考古学、人類学等多面的な研究に没頭、生涯に三百冊を超える膨大な著述を成した。どんな物事についても』、『文章で表現するとともに、細密な自筆の絵を加えているのが』、特徴で、『酒田市立光丘文庫所蔵の松森文庫』百八十七『冊はその主なものだが、特に』この「両羽博物図譜」は『圧巻で、その分類法において』、『近代のそれに迫るものがある』とする。『慶應義塾大学名誉教授で理学博士の磯野直秀は「日本を飛び越えて大英博物館から目をつけられても不思議ではない」と言っており、また植物学の権威牧野富太郎理学博士も』昭和五(一九三〇)年八月、光丘文庫を訪れ、「両羽博物図譜」を見て、『感嘆の言葉を述べ』ている。胤保は、その著「求理私言」(明治八(一八七五)年四月著の地学・宇宙論)で、『「太古世上には微細な生物が化生によって出現し、これは子生によって代を継ぎ進化によって複雑化し、動物では偶生変、交接変が行われたと考え、植物では子生変、交接変、尾生変、枝生変によるものとする」と記して一種の進化論を説い』ているが、これは明治十年にエドワード・S・モースがお雇い外国人として来日し、東京大学で『チャールズ・ダーウィンの進化論を紹介する以前のことである』とある(因みに私はブログ・カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳でモースの日本での体験記録の全電子化注を完成させている)。酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」の最後には、『松森胤保は、動物学、植物学、考古学、物理学、天文学、民俗学など多彩な調査と研究に取り組み、合わせて政治家としても活躍した。小さなものはミジンコから大宇宙にわたり、飛行機の発想までも考え残した人物胤保は、西洋のレオナルド・ダビンチにも匹敵する博物学者であった』とある。

「両羽博物図譜」(兩羽博物圖譜)は「酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の松森胤保の「著作一覧」及び上記の「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」の磯野直秀先生の解説によれば、「両羽博物図譜」は天保一三(一八四二)年九月から逝去に至るまで、実に半世紀にも亙って書かれたもので、「両羽獣類図譜」二冊(動物分類・名称・発生・人類の起源等の上巻と、下巻の哺乳類図譜六十点)・「両羽禽類図譜」十四冊(鳥類。最初の二冊が総論、残りが図譜で六百五十六点)・「両羽爬虫図譜」一冊(爬虫類。三十五点)・「両羽魚類図譜」四冊(魚類ほか。哺乳類七種、魚類約百四十五種、円口類二種)・「両羽貝螺図譜」二冊(貝類他。洋書からの模写と思われるものを除いて四百十七点。海産動物は貝類二百四十八点、頭足類九点、甲殻類五十六点、腕足類三点、棘皮動物二十五点、腔腸動物六点、海鞘(ホヤ)類二点などで、淡水動物は貝類二十五点、甲殻類二十点。陸生貝類が十四点。陸生扁形動物一点のほかに化石十八点を所載する)・「両羽飛虫(とびむし)図譜」八冊(昆虫類ほか。第一冊から第三冊まではミツバチを、第五冊と第六冊に蝶蛾を当て、残りの三冊で多足類や蜘蛛を含む虫類四百二十一点)・「両羽植類図譜」二十八冊(植物類(十七点の珊瑚等の腔腸動物とコケムシを含む)。総論一冊、キノコ類一冊、海藻類を含む「水植物」一冊。全二千九百点弱)の全五十九冊(八帙に分納)に及ぶ、膨大な図譜群の総称である。]

 

019

 

□翻刻1(原典そのまま)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物臨寫

 明治二十二年

  四月一日

 

一小物ノ

上頭ヲ切去テ少シク其内

部ヲ見ル青色ノ所ハ青

白光

 

□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みと送り仮名や、語を添えた整序版)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物(しんぶつ)の臨寫。

 明治二十二年四月一日

 

一(ひと)つの小さき物の、上の頭を切り去りて、少しく、其の内部を見る。青色の所は、青白く光れり。

 

[やぶちゃん注:底本とした酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」では「魚類図譜 貝螺変部」の中の一図(冒頭注で示した「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」では「兩羽貝螺圖譜」の中の一図とする)。右頁最下段の図はイカで本図とは無関係。何故、松森がこれをここに描いたかは不明。にしても、この巻貝のようなものが、頭足類のであることを、どこからか聞き伝えしていて想像でこんなものが、この貝の中にいたかも、という想像図を描いたのではないかと思われてならない(従って私はこのイカの種同定をする気になれないのである。悪しからず。


 ここに描かれた四つの図は、言わずもがな、「生きた化石」とも称される、

頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属オウムガイ
 Nautilus pompilius

である。「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」でも磯野先生は同種に確定同定されておられ(但し、同書の掲載図は左頁の二図のみ)、その解説で『生息地はフィリピンや南太平洋だが、死後もガスの浮力で殻は海面を漂い、黒潮に乗って北上、対馬海流に入ったものが時折酒田辺までたどりつく』と言い添えておられる。但し、右上の二つの図は別種の可能性を否定出来ない左の松森が実際に観察して描いた個体と、右の図のそれは同一物でないことは、殻口部の形状の違いからはっきりしており、そもそも左の下図では殻の巻いた奥の箇所を水平にカットしているのだから、右のような断面図は描けないことから考えても(複数個体を入手したとなれば可能ではある。「一(ひと)つの小さき物」と言っているところはその可能性を高めてはいる)、別個体であることは明白で、私は右の二図は他の博物画(洋書である必然性はない。私の毛利梅園の「梅園介譜」の「鸚鵡螺」を見よ。但し、裁断図があるのは洋書の方が可能性は高いかも知れぬ)から転写したものではないかと思っており、或いはその書にとんでもない噓の軟体部として最下部のイカの図が添えられていたのではないか? とも疑っているのである。何故なら、そう考えたときに初めて、この唐突なイカの絵の意味が私には腑に落ちるからである

 ウィキの「オウムガイ」によれば、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百メートルから六百メートル『に棲む。深海を好むというイメージもあるが、水深が』八百メートル『を超えた所では』、『殻が水圧に耐えきれず』、『壊れてしまう。その祖先(チョッカクガイ』(頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱直角石(オルトセラス)目† Orthocerida。古生代のオルドビス紀中期(本種はその示準化石)に繁栄した)『に近い)は』四億五千万年前~五億年前に誕生しており、本種はその時の『原始的性質を色濃く残した生物とされる』。『餌を捕食するために』九十『本ほどの触手を使い、触手にあるたくさんの皺で』、『ものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない』が、『水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって』、『自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をしている。ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると』、『殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイト』(頭足綱アンモナイト亜綱†Ammonoidea)『にも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイなどと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイ』は『現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『現在オウムガイの仲間として確認されている種はオウムガイ』の他、パラオオウムガイ(Nautilus belauensis)・ヒロベソオウムガイ(Nautilus crobiculatus)・コベソオウムガイ(Nautilus stenomphalus)・オオベソオウムガイ(Nautilus macromphalus)『等である。基本的に、名前の呼び方はオウムガイだが、たまに、「オオムガイ」と呼ぶこともある』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語』の“nautilos”、「水夫・船舶」の意である。

「真物」本物。

「明治二十二年」一八八九年。]


 

2018/04/27

今日は他のテクストを総て休止して以下の一本にかけることする

私は既に「栗氏千蟲譜」の海産動物のパートを原文・訓読・原画画像・オリジナル注附で、自己サイト「鬼火」「心朽窩旧館」の「栗本丹洲」に於いて、

巻七及び巻八より――蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ ホタルムシ 丸薬ムシ 水蚤

巻八より――海鼠 附録 雨虎(海鹿)

巻九 全

巻十 全

を公開している。私は以上で「千蟲譜」に載る海産動物は総てを電子化注したと思っていた。ところが、たまたま所持する丹洲の「栗氏千蟲譜」(国立国会図書館蔵の曲直瀬愛旧蔵写本「栗氏千蟲譜」を底本とした、昭和五七(一九八二)年恒和出版刊『江戸科学古典叢書』第四十一巻)を久し振りに眺めていたところ、奇妙なものを見つけた。

それは、第六巻で、図版はクモ類から始まり、かなりの量のクモの図が終わると、ゲジゲジ一図とムカデの三図が続いた、次の頁であった。

ムカデに似た生物(にその時は見えた)二頁に亙って全部で五個体描かれていた。

しかし、その図を見るに脚の描き方が明らかにムカデではないことに気づいた。初めは、脚の体幹部からの出方(でかた)が複数本のように見えたことから、

「ヤスデかな?」

と思ったが、どうも、これまた、全体のフォルムがヤスデらしからぬのだ

次の瞬間、私の冥い脳内に、白熱電球が

「パッ!」

と灯った!

急いでキャプションを読む。

案の上、小川の中で見つかった奇虫とあるじゃあないか!

場所も書いてあるので、確認する(後で翻刻し、注で示す)。

「うん! 海に近いぞッツ!!」

と思わず、膝を叩いたんだ!

次いで、急いで、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。同国立国会図書館は五種の「千蟲譜」写本を蔵するが(「千蟲譜」の丹洲の自筆本は残念ながら存在しない)、その内の三種を見た。これとこれ(こちらはコマが分かれ、ここと、ここになる)とこれ(所持する恒和出版本はこれ)である(後でそれぞれの書誌は示し、また画像も改めて掲げる)。これら(所持する先の本は高い本だったが、全ページ、モノクローム画像)は孰れもカラー画像なのが嬉しい!

そうして――そうして――いやはや、赤、黒、黄色、緑に白、五色(ごしき)だぞッツ!

そうして――そうして――その鮮やかな色彩を見て、私の思いは確信犯となったのである!

「これはバチだ! イトメだよ!」

と、独り、暗い書斎で叫んだ!

これは、図の流れのムカデ(節足動物門 Arthropoda 多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda なんぞとは全く無縁な、河川の河口附近や、その近くの汽水域及びそこに繋がっている淡水域(河川下流域)や田圃等にまで広く分布し、大潮の夜になると、生殖体勢体に変形して淡水域に遡上し、そこで生殖群泳を展開する、かの、

環形動物門 Annelida毛綱 Polychaetaサシバゴカイ目 Phyllodocidaゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

に間違いないのであった!

知らない? 釣りをする方ならよく知っていよう。餌にする、あれ、である。

釣もしない、元国語教師のお前が、そんなもんに詳しいのか? ってテカ?

おう! 豈にはからんや、詳しいんだよな、これがさ!

何ってたって、以前には、新田清三郎先生の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――(全十回。リンク先は第一回。最終回はこちら)を電子化注したり、同じ生殖群泳で知られ、食用にする(というか、イトメも食べられるよ! 生ガキっぽくて結構、美味い! ウィキの「イトメ」にも、『中国語の標準名は「疣吻沙蚕」』『というが、中国広東省の順徳料理や広州料理では「禾虫」(広東語 ウォーチョン)の名で、生殖体を陳皮風味の卵蒸し』『や炒め物などの料理にして食用にする。シャリシャリした食感があり、タンパク質と脂肪が多く、アミノ酸バランスもよい』『とされる。珠江デルタにある水田には多く生息しており』五月から六月と、八月から九月の彼らの『繁殖期に水田に水を入れると』、『流れに乗って集める事ができるため、採り集めて出荷する』とあるからね。お前はどこで食ったかって? 釣りの餌だよ、あれを生食してみたんだっつーの!)、多毛綱イソメ目 Eunicida イソメ科 Eunicidae Palola属タイヘイヨウ(太平洋)パロロ Palola siciliensis(英名:Pacific paloloについて書かれた『博物学古記録翻刻訳注 10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』なんてものも手掛けてる、謂わば俺は〈イトメ・フリーク〉なのさ。

 閑話休題。

 そこで以上の「千蟲譜」のそのパートだけを電子化注することとした。

 図は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で三種(同図書館は他に「千蟲譜」二種を蔵する)を掲げ(書誌はそれぞれの画像で述べる)、キャプションはほぼ同文であるが、読み易い曲直瀬愛(まなせめぐむ 嘉永四(一八五一)年~?:詳しくは「栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動」の私の注を参照)旧蔵本のそれを底本とし、適宜、他の二種と校合した。

2018/04/25

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「かう」

 

かう

 

Kaunotori

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

かう 【一名かうのとり】

 鸛

 味甘酸小毒あり味佳腫病を發

 す

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「かう」 【一名、「かうのとり」。】

 「鸛(くわん)」。

 味(あぢは)ひ、甘(あま)く、酸(さく)、小毒あり。味、佳(よ)からず。腫病(はれやまひ)を發(はつ)す。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。解説の名は問題なく、また、図は後肢が赤くない点に不審は残るものの、拡大して観察してみると、嘴の基部及び眼の周囲(コウノトリでは前者は特徴の一つで、眼周も皮膚が赤く露出している)に微かに朱が点(う)たれているのが確認出来るところから、

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

と同定してよい。詳しくは私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕の私の注を読まれたいが、ウィキの「コウノトリによれば、『明治時代以前は樹上にとまったり営巣しないタンチョウ』(ツル目ツル科ツル属タンチョウ Grus japonensis)『と混同され、「松上の鶴」など絵画のモチーフになっていたとされる』。『日本国内では鶴とつく地名があるが、実際は冬鳥として飛来するタンチョウなどのツル科』(Gruidae)『の構成種ではなく』、『本種と混同されていたと考えられている。松の樹上に巣を作る本種(ツル科はアフリカに分布するカンムリヅル』(ツル科カンムリヅル亜科カンムリヅル属カンムリヅル Balearica pavonina)『を除き』、『樹上にとまらない)は瑞鳥としてツル類と混同され、絵画や装飾のモチーフとして昭和初期まで用いられていた』。『日本では元々は広域に分布して』おり、十九『世紀には江戸市中でも繁殖していた記録がある』。『古文書から葛西の樹上・青山や蔵前の寺院の屋根で営巣していたとする記録があ』り、野生動物を扱うドイツ人商人で、ヨーロッパ各地の動物園やサーカスなどに動物を提供していたカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 一八四四年~一九一三年:柵の無い放養式展示の近代的動物園を作ったことで知られる)も『駿府城の樹上や、横浜市で飛来していたのを目撃したと記録している』これは小宮輝之「ニホンコウノトリ 衰退と飼育の歴史」『世界の動物 分類と飼育8(コウノトリ目・フラミンゴ目)』(黒田長久・森岡弘之監修/東京動物園協会/一九八五年・五十九~六十四頁からの引用と注があるのだが、気になって調べた限りでは、ハーゲンベック本人が明治初期に来日した記録を確認出来なかった。識者の御教授を乞う)。しかし、『明治時代に乱獲により激減し』、『日本での繁殖個体群は兵庫県但馬地区と福井県若狭地区の個体群を除いて絶滅した』。『但馬地区(豊岡市周辺)では出石藩であった頃に藩主により本種が霊鳥として保護されていたことから、保護意識があり絶滅をまぬがれたとされている』。明治四一(一九〇八)年に『禁猟とされ』、大正一〇(一九二一)年には『生息地が天然記念物に指定された』。昭和五(一九三〇)年の『但馬地区での生息数は最大で』約』百『羽と推定されている』が、『第二次世界大戦中に営巣地であった松林が松根油を採取するために伐採されたことや、食糧増産のための水田を荒らす害鳥として駆除されたことにより豊岡市周辺でも生息数が激減し』、『太平洋戦争前後の食料不足の中で食用にされたこと』などもあった。戦後も高度経済成長期の水質・土壌汚染によって個体数減少に歯止めがかからず、昭和四六(一九七一)年、『豊岡市で野生個体を捕獲したことで、日本産の個体群は野生絶滅した』。その後、中国やロシアから譲り受けた個体群の人工繁殖に成功、二〇一二年現在では『再導入された個体数は』約六十羽『に達し』、『大陸から飛来し』、『周年生息するようになった個体と繁殖させる試みも進められている』とある(下線太字やぶちゃん)。

「酸(さく)」以前にぎ」で注した漢方の「五味」の一つ。「五臓」の「肝」に対応し、筋肉等を引き締める収斂効果を持つ。

「小毒あり」といっても、後述される、恐らくはアレルギー性の「腫病(はれやまひ)」(蕁麻疹)、或いは、浮腫(むくみ)を発症させることがあることを指している。]

2018/04/24

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「へらさぎ」

 

へらさき

 

Herasagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

へらさぎ

 漫畫【范淶典籍便覧】

 味鷺同じうして稍劣れり

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「へらさぎ」

 「漫畫(まんぐわ)」【范淶〈はんらい〉「典籍便覧(てんせきべんらん)」。】

 味(あぢは)ひ、鷺(さぎ)に同(おな)じうして、稍(やゝ)劣(おと)れり。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

ペリカン目トキ科ヘラサギ属ヘラサギ Platalea leucorodia

 

である。詳しくは私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 箆鷺(ヘラサギ)の私の注を見て戴きたいが、さても、「和漢三才圖會」の良安センセー! ほんまの箆鷺ちゃ、こうでなけんな、あきまへんで!

『范淶〈はんらい〉「典籍便覧(てんせきべんらん)」』明の范泓(はんおう)の纂輯にして范淶の補注になる類書(百科事典)と思われる。]

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」

 

あをさき

 

Awosagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

あをさぎ

 蒼鷺【崔禹錫食經】

 性味功能鷺同し但味最甘美汗を止め小便

 を利するの効あり

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「あをさぎ」

 「蒼鷺(さうろ)」【崔禹錫〈さいうしやく〉「食經〈(しよくけい)〉」。】

 性(せい)・味(み)・功能(こうのう)鷺(さぎ)に同(おな)じ。但(たゞ)、味(あぢは)ひ、最(もつと)も甘(あま)く美(うま)し。汗(あせ)を止(とゞ)め、小便(せうべん)を利(り)するの効(こう)あり。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は、ときと同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 私の好きな鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。分布・生態・習性等については、私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)を参照されたい。

『崔禹錫「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食經」。「崔禹錫食経」は平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚して原本は存在しない。従って、無論、これもそうしたものの孫引きである。しかし、後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「鷺(さぎ)」先行する直前の「華鳥譜」「さぎ」を参照されたいが、されば、これは「鷺」というよりも「白鷺」を指すと読むべきであろう。]

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「さぎ」

 

さき

 

Sagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

さぎ【一名しらさぎ】

 鷺

 味鹹平毒なし脾胃を補ひ痩をいやし氣を

 益す夏月は味最甘美

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「さぎ」【一名、「しらさぎ」。】

 「鷺(う)」

 味(あぢは)ひ、鹹(しほから)く平(たひら)に、毒(どく)なし。脾胃(ひゐ)を補(おぎな)ひ、痩(やせ)をいやし、氣(き)を益(ま)す。夏-月(なつ)は、味(あぢは)ひ、最(もつと)も甘-美(うまし)。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下左右をトリミング)は、ときに引き続き、国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 「さぎ」「鷺」は鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae の多様なサギ類の総称であるが、『一名、「しらさぎ」』とも記しているから、その場合は、サギ科 Ardeidae の中で、ほぼ全身が白いサギ類の総称通称、ということになって限定される。事実、絵もそうであるから、後者で採るのがよいと思われる。但し、「シラサギ」という和名の種がいるわけではないので注意が必要ではある。限定される種群は和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)の私の注を見られたい。

「鹹(しほから)く平(たひら)に」「鹹」は漢方の「五味(ごみ)」(「酸」・「苦」・「甘」・「辛」・「鹹」)の一つで、通常は「カン」と音読みする。五味は単なる味覚だけに終わらず、例えば五臓では「腎」に対応し、また、物を和らげる属性を持つとされる。「平」は通常、音「ヘイ」で漢方の「五性」(温性・熱性・寒性・涼性・平性)の一つである。体を温めたり冷やしたりする属性を持たないものを指す。故にどんな状態や体質であっても、広く摂取可能な食物とも言えるものに当たる。

「脾胃(ひゐ)」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語である。

「氣(き)」漢方で言う陽気。]

2018/04/22

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「とき」


とき

 

Sessaitokizu

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

とき

 朱鷺【禽經】 紅鶴【汪頴食物本草】

 味甘微温毒なし婦人血證を治し肉性良からず

 能小瘡を發す

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「とき」

 「朱鷺(しゆろ)」【「禽經〈きんけい〉」。】 「紅鶴(こうかく)」【汪頴〈わうえい〉「食物本草」。】

 味(あぢ)、甘(あま)く、微(すこ)し温(あたゝ)か。毒なし。婦人血證(ふじんけつしやう)を治(ぢ)し、肉(にく)、性(せい)、良(よ)からず、能(よ)く小瘡(せうさう)を發(はつ)す。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下左右をトリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 立案者である森立之(たつゆき/りっし 文化四(一八〇七)年~明治一八(一八八五)年)は元、備後(広島)福山藩医で、伊沢蘭軒に師事し、渋江抽斎とも交流があった。芝居好きが災いして一時、免職となったが、後に帰藩を赦され、幕府医学館講師として「医心方」の校訂に当たったりした。維新後は文部省等に勤務。通称は養竹。号は枳園(きえん)。

 私がことさらに偏愛するこの絵を描いたのは、服部雪斎(文化四(一八〇七年)~没年不詳(明治中期。推定は後述))は、ウィキの「服部雪斎によれば、『生い立ちはよく分かっていないが、谷文晁門下で田安家の家臣遠坂文雍』(とおさかぶんよう 天明三(一七八三)年~嘉永五(一八五二)年:南画家)『の弟子であることから、雪斎も田安家と関係の深い武家出身である可能性が高い。没年は不明であるが、作品に記された年代から』明治二〇(一八八七)年までは存命していたことが『確認されている』。彼の代表作は武蔵石壽編の「目八譜」(私は(遅々として進まぬが)カテゴリで電子化中)であるが、他に本図譜と同じ森(枳園)立之編の「半魚譜」や、栗本丹州編「千蟲譜」の模写、及び、維新後の田中芳男・小野職愨編「有用植物圖説」等がある、稀有の達筆の博物画家である。「華鳥譜」は食用鳥類の図説で、底本とした国立国会図書館デジタルコレクション「華鳥譜」の磯野直秀氏の解題によれば、その『図は正確。立之自筆の解説には、薬効・能毒・味を記す。「華」の字を分解すれば』、六『個の「十」と一個の「一」となるので』、六十一『種の鳥を描いたと立之は序でいう。実際には』六十五『図あるが、チドリ・ニワトリ・ナンキンチャボ・カラスの』四『種がそれぞれ』二『図ずつだから、計算すれば 』六十五から四を引き、確かに六十一『種となる。トキもコウノトリも描かれており、当時は食用にもされていたらしいが、トキは「肉性良からず、能(よく)小瘡を発す」、コウノトリは「味、佳からず」とある。雪斎は維新後も活躍し、明治初期の作らしい』雪斎の写生になる「草木鳥獣図」や最晩年の「服部雪斎自筆写生帖」が国立国会図書館に『残る。後者に所収されている「三河島菜花」は』明治二一(一八八八)年三月三十日の写生であるが、『これ以後の雪斎の写生図は知られていない』とある(下線やぶちゃん)。

 本図は、

鳥綱 Avesペリカン目Pelecaniformesトキ科 Threskiornithidaeトキ亜科Threskiornithinaeトキ属トキ Nipponia nippon

である。詳細はウィキの「トキ」、及び、先ほど私が公開した「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」の本文及び私の注を見られたい。そこでも述べたが、再度、言う。私は昨年の三月、佐渡で、待望の自然の空を飛んでいるつがいのトキを見た。この「ニッポニア・ニッポン」という名の美しい鳥を殺した日本は――万死に値する――

「禽經〈きんけい〉」春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

『汪頴〈わうえい〉「食物本草」』各種食品の薬効と料理方法などが記載された中国の本草書であるが、成立に不審な点があり、一つは、古く、元の李杲(りこう:号は東垣(とうえん))著とされるものの、名借りた別人である、この汪頴なる人物が明の一六二〇年に刊行したものともされる。全七巻。

「温(あたゝ)か」漢方で適度に体温を高める効果を有することを指す。

「婦人血證(ふじんけつしやう)」ここは広義の漢方で言う「血の道症」(月経・妊娠・出産・産後及び更年期などの女性ホルモンの変動に伴って現れる精神不安や苛立ちなどの精神神経症状及び身体症状)というよりも、もっと狭義の女性生殖器関連の出血性の不具合やおりもの等の不快感(特に産後のそれ)を指していると読むべきであろう。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」の私の注を参照されたい。

「能(よ)く小瘡(せうさう)を發(はつ)す」食すと、決まって小さな発疹が肌に生ずる。アレルギー性の蕁麻疹のようである。]

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