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カテゴリー「芥川多加志」の7件の記事

2014/11/04

芥川龍之介 短歌雜感 附やぶちゃん注

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「短歌雜感」(附やぶちゃん注)を公開した。

たまにはサイトにかっちりした新作をアップしたくなったのだと思し召されよ。

注が、バクハツした――

2012/10/04

芥川龍之介「子供の病気」の謎の言葉「しほむき」解明!

昨日の夕刻、「TINA」様という未知の女性の方から、「しほむきについて」と題されたメールを頂戴した。
僕が九月二十九日のブログで、公開した芥川龍之介「子供の病氣」の中の、唯一つ、遂に正体の分らない語句として示した、芥川が用いた「しほむき」についての情報であった。それは、

これは、病気の乳児の多加志の額に芥川が唇を押し当てて熱を見るシーン、

『自分は色の惡い多加志の額(ひたひ)へ、そつと脣(くちびる)を押しつけて見た。額は可也(かなり)火照(ほて)つてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた。』

とある「しほむき」である。一応、電子テクストの当該注では、

〇「しほむき」不詳。本来は「汐剥き」「塩剥き」で、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言うが、「自分は色の惡い多加志の額へ、そつと脣を押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた」という直後の描写からすると、額に唇を当てた際に視界に入る蟀谷(こめかみ)の青筋、静脈のことを言っているか? それとも剥き身の貝に近いというなら唇か? いろいろ調べてみたが、遂に分からない。識者の御教授を乞うものである。

と書いた「しほむき」である。

「TINA」様の御意見は――まさに目から鱗――であった。

「しほむき」はまさに芥川の「目」の前にあったのである――
子を育てたことのない僕には、「乳児」を間近に抱きしめたことの殆んどない僕には、気付けぬことであった――
謂わば、それは――
「目」を「むき」、そうだったかと、これを「しほ」に「頭」を隠したくなるような――
「子供」の『ひよめき』の如く、大人の僕の「目」が驚きで「ひよむ」くような――
そんな事実であったのである!

結論を最初に述べる。

――芥川龍之介が言う「しほむき」とは「ひよめき」=乳児の頭頂部前方(おでこの髪の生え際辺りの中央部)にある「大泉門」のことを指している――

私はこれを以って「しほむき」の謎は完全に解明されたと考えている。
以下、検証したい。

まず、「TINA」様のメールの一部を引用させて戴く(本日早朝、メール引用の許諾を頂いた)。


   《引用開始(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた》
九月二十九日のブログ拝読しました。
全くの私見ですが、「しほむき」は「大泉門」のことではないでしょうか?
赤ちゃんのおでこの髪の生え際の少し上のあたりに、柔らかいぷよぷよした所があって、小さいうちはそこがひよひよと動きます。
大泉門は二歳ころには閉じると言われていますので、この時の多加志の年齢を考えると、まだ拍動していて、熱を見るために唇を近づければその動きは目に入ったと思われます。
私の母は、生きていれば九十四歳になりますが、大泉門のことを「ひよめき」とか、その場所が「ひよめいている」と言っておりました。
「しほむき」となんとなく通ずるものがあるかとも思います。
以上、ひらめいたままを書き、何の根拠もないことなのですが。
   《引用終了》
   *

「大泉門」という語は、不学にして初見であったが、赤ん坊の頭部にある柔らかい箇所というのには、流石に数少ない乳児を抱かせてもらった経験の中でうっすらとはあった。
「大泉門」を調べた(複数の育児・小児科等の医学的に信頼出来る記載に基づく)。

大泉門 英名 anterior fontanelle/anterior fontanel/bregmatic fontanel  ラテン語 fonticulus anterior
(私の所持する昭和二七(一九五二)年研究社刊田中秀央編「羅和辞典」によれば、“fonticulus”は「小さな泉」の、“anterior”は「前にある・先にある」の意で、和名はこれに由来する。“fonticulus ”の項には医学用語として「顖門」とも書かれているが、これは音「シンモン」で、この大泉門・ひよむきのことを指す。)
乳児のおでこの正中線を頭頂部に向かって触れてゆくと、頭髪の生え際より少し上の部分に菱形をした柔らかいぷよぷよした部分があり、これを「大泉門」と呼称する。これは乳児の頭蓋骨の発達が未だ十分でないために生じている複数の頭骨(頭蓋骨は左右前頭骨・左右頭頂骨及び後頭骨の五枚から構成されている)間の縫合部にある比較的大きな隙間(ブレグマ(Bregma):矢状縫合と冠状縫合の交点のこと。)であり、他にも後頭部上部に「小泉門」、頭部左右眼窩上部水平位置前寄り、大泉門から下がったところに一対の「前側頭泉門」、その同水平位置の後頭部下方(耳の十時位置)の小泉門から下がったところに一対の「後側頭部泉門」がある(分かり易い図は「川崎医科大学附属川崎病院」の広報誌「医療の話題 シリーズ 脳手術の今 第八回」の附図1「小児の頭蓋骨」を参照。但し、このページ自体には乳児の頭骨についての記載はない)。
育児関連サイト「e-育児」の「育児用語辞典 大泉門」によれば、これらの隙間は分娩時には骨と骨が重なり合い、結果として頭部のサイズを小さくすることが可能となり、狭い産道をも通ることが出来るという機能を持っているとする。触れるとぺこぺことして柔らかく、観察すると、心臓の拍動に伴って頭部の皮膚が脈打っているのが視認出来ることもあると記されている。「大泉門」は生後九箇月から十箇月までは増大するが、その後は縮小して生後十六箇月には頭皮上から触知出来なくなり、個人差はあるが、完全に閉鎖するのは大体二歳を経過した頃であるとする(後頭骨と左右の頭頂骨との間にある小泉門は生後一箇月で閉じる)。
なお、「大泉門」は他に、既に示したように、「顖門」や「顋門」とも書き(後者は音「サイモン」で、「顋」はあご・えらの意であるが、古くは頭骨と顎骨は一緒くたに表現された)、辞書類ではこれらも「ひよめき」と訓じている(勿論、当て読みである)。

さて、当時の芥川多加志は注で示した通り、本シークエンス内では生後六箇月である。従って「大泉門」は、はっきりと視認出来た。

さらに、当該部の描写に立ち戻るならば、

『自分は色の惡い多加志の額(ひたひ)へ、そつと脣(くちびる)を押しつけて見た。額は可也(かなり)火照(ほて)つてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた。』

――芥川(未確認であるが彼の身長は私と同じ一六七センチメートルであったという。当時としては低くはなく普通の背丈である)は伯母に抱かれた多加志の額に屈む形で額に唇を押し当てて熱を計っている。
――その目線は多加志のおでこの上方髪の生え際の直近にある

そう、考えてこそ自然である。

即ち、熱を測る芥川の目の前にあったのは――

「大泉門」=「ひよめき」

であったのだ。

   *

次に、芥川がこれを「しほむき」と呼称している点について私なりの考察を試みる。

私の所持する昭和五〇(一九七五)年小学館刊「日本国語大辞典」の名詞「ひよめき」【顖門・顋門】の項には、

(ひよひよと動く意から)幼児の頭蓋骨で、骨と骨がまだ結合していないために呼吸のたびにひくひく動く頭頂の部分。頭のいちばんやわらかい部分。おどり。おどりこ。しんもん。
*雑排・野の錦「ひよめきへ雪を覚る峰の坊」
*歌舞伎・御摂勧進帳―二番目「まだひよめきも堅まらぬ態(ざま)をして」

と記載、続く「発音」の項には〈なまり〉として、

ヒクメキ〔山梨奈良田・壱岐〕

ヒコメキ〔岐阜〕

ヒョーメキ・ヒョーメギ〔千葉〕

フェトメギ・ヘトビキ〔秋田〕

フエメギ・フエメギ〔山形〕

ヘットビキ・ヘットメキ〔仙台方言〕

で、標準アクセントは以下の通り(現代京都のそれも同じ)。

低高高高
ひよめき

この「発音」の項の内、本所両国育ち芥川の母語としたものに最も近い可能性があるのは、千葉方言の、

ヒョーメキ・ヒョーメギ

である。

芥川は江戸っ子である。従って「火箸」を「しばし」と発音する世界に生きた。されば、この、

「ヒョーメキ」

「ショーメキ」
若しくは
「シーメキ」

と発音された可能性が考えられる。この内、「ショー」は「シォー」に音転訛し易いように私には感じられる。さすれば、

「しょーめき」→「しぉーめき」→「しおめき」

で「しお」は「塩」の訓に類似するから、表記が、

「しょーめき」は「しほめき」へ変わった

と考えても、強ち無理はないように思われる(そうした変化が容易に起こるという事実を言語学的学問として私が学んだという訳ではない。ただ、牽強付会でなく、本件とは無関係に、自分なら恐らく容易にそうする、という実感である)。
ところが実際に発音してみると分かるが、この「しほめき」は如何にも同発音の異義も見当たらず、しかも発音し難い(と私は大いに感じる)。
私は、熟語の形成と記憶とは、それ固有でありながら、発音が似ているか同一のものとの区別化から生じるものではないか、と考えている。総てが全く異なった固有発音では、我々の言語や記憶はパンクしてしまうから、ある程度、それぞれの語彙の中で相同類似発音の別な語へと傾斜する属性を我々の言語進化は持っているように感ずる。
しかも「しほめき」の下部音節の頭音は「メ」でマ行音、「ム」に音列が近い。すると、

「しほめき」に近い知られた語彙は――「しほむき」――とはなりはしまいか?

さて、

「しほむき」は「しおむき」で「汐剥き」「塩剥き」と表記し、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言う

語である。
「ひよめき」の方言「ヒョーメキ・ヒョーメギ」は、潮干狩りで知られる千葉である。
芥川の育った本所両国のの直近、深川は、まさにアサリの剥き身を用いた深川飯で知られる。
即ち、これらの地域は、貝の「しほむき」が知られた一般名詞としてあった地域である(勿論、この私の仮説は千葉や本所深川から大泉門を「しほむき(しおむき)」と呼称した若しくはしている、というデータが求められなければならない。このブログの記載をお読みになった方で、それを傍証して下さる方が手を挙げて下さると、恩幸これに過ぎたるはない)。

つけ加えて、更に想像を逞しくするならば――

赤ん坊の凹んだ頭部で拍動する柔らかな「ひよめき」

生の貝の剥き身の感じ

との間に、連想関係がないとは言えないようにも思われる。いや、寧ろ、私は強い親和性さえ、そこに認められるように感じられもするのである。

   *

以上、私は小児科医でもないし、言語学者でもないし、最早、一介の国語教師でもない――しかし、

芥川龍之介が「子供の病氣」で使った「しほむき」とは「ひよむき」であり「大泉門」のことを指している

と断定することを最早、躊躇しないものである。

以上に基づき、私の芥川龍之介「子供の病氣」の当該注も訂正・加筆を施した。

   *

最後に。

六年の電子テクスト作業の中で、数少ないわくわくする体験の場を与えて下さった、

TINAさんへ――ありがとう!
“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!――

2012/09/29

芥川龍之介 子供の病氣 附やぶちゃん詳細注 / 「しほむき」とは何か?

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に正字正仮名で芥川龍之介「子供の病氣」(附やぶちゃん詳細注)を公開した。

正字正仮名版はネット上では初、本文の約三倍の僕の詳細注は、マニアックとまではいかないまでも、本作を読んだ若い読者が感ずるであろう、あらゆる疑問点に、可能な限り答えたつもりである。

唯一つ、遂に正体の分らない語句がある。病気の乳児の多加志の額に芥川が唇を押し当てて熱を見るシーン、

『自分は色の惡い多加志の額ひたひへ、そつと脣くちびるを押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた。』

の「しほむき」である。一応、注では、

〇「しほむき」不詳。本来は「汐剥き」「塩剥き」で、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言うが、「自分は色の惡い多加志の額へ、そつと脣を押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた」という直後の描写からすると、額に唇を当てた際に視界に入る蟀谷(こめかみ)の青筋、静脈のことを言っているか? それとも剥き身の貝に近いというなら唇か? いろいろ調べてみたが、遂に分からない。識者の御教授を乞うものである。

と書いた。まっこと、識者の御教授を乞う――

【二〇一二年一〇月四日追記】「TINA」様という未知の女性の方から、「しほむきについて」と題されたメールを頂戴し、本件の謎を解明し得た。補塡したテクスト注又は当該解明過程を記したブログを御覧になられたい。

2012/09/28

俺は

テツテ的に――やる――ゼ

……これは……直近では……現在作業中の、ある芥川龍之介のテクスト注への僕の本懐でもある……

2007/11/23

芥川多加志 舞踏會と怖ろしい犬

   舞踏會と怖ろしい犬   芥川多加志

毒物の金文字の舞踏、大舞踏。
旋囘、旋囘する音符の鎖、
波打つチョコレート菓子の群、
赤い假面、
今や涯まで來てしまつた!

 Bow―Wow――a――nnn!

犬の遠吠、
死人まで起き上つて耳を澄ますといふ
この叫聲。
だがそんなものさへ吹き消される
叫喚、沸き起る叫喚、
樂長の指、
流れる床、
靴の踵、それの踏みにじる赤青の光線、
大叫喚!

 damuna,umuna,damuna,umuna……

流れろ、流れろ、行つちまへ、
唐辛(とうがらし)野郎!
あの鍵穴から覗く眼、
あの黒い犬が
もうここまでやつて來た。
しかし
黒檀のテーブル、
金剛石の器、
その中でとんぼ返へる無數の花々、
それから多くの顏
言葉、時々「愛するひとよ」などといふ……
默れ、靜かに!
あゝ、あの眼!
 Bow―wow――a――nnn!
爆彈は
百萬の人間の立つてゐる床下で爆發した、
旋囘、旋囘する波、光、音、
氣狂ひ舞踏、
 Ho! Ho!
劍は宙を飛び
はるか彼方にぐさと刺さつた!
 Ja-Ja-Ja-jaaannn!
私は七人の娘を持つてゐる、
 Clara,
 Hélène,
 Sarah,
 Madelaine……
死ぬときは
默つてゐらつしやい、
扉を閉めて、
カーテンを引いて、
燈火(あかり)を消して。
倒れた柱の間に、
未だ呟く原子共、
 damuna,umuna,damuna,umuna……

         十六年十二月

この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年4月20日発行の第2号に発表したものである。底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分(一部はママとした。底本口絵により「黒」は「黑」でないことを確認している)は正字とした。

本詩の黙示録的内容は驚愕に値する。天満女史もその点を上記著作の中で、すこぶる共感できる言辞で語っている(なお、このリンク先の新潮社の引用サイトにもこの詩は底本より掲載されているが、詩中の女性名“Hélène”の綴りの二つの“e”の、それぞれ“accent aigu” アクサン・テギュ( ´)と“accent grave ”アクサン・グラーヴ( `)とが欠落している)。僕は、天満女史のこの著作を是非、多くの方々に読んでもらいたい。従って、多くを語るのはやめよう。

彼女の情熱なしに、芥川多加志のこれらの詩や小説は、この世に日の目を見なかったであろう。一部のブック・レビューには女史の評伝作家としての無能をなじるものがあるが(そこには心情的に同感できる評もないことはない)、ではしかし、君がやればよかったのだと私は言おう。そうして自身に出来たかと問うがいい。それでも忸怩たるものが微塵もないとなれば、あなたは芥川多加志の伝導者ではない、というだけのことではないか――

多くを語るのはやめる――しかし、お分かり頂けるであろう。その終曲は、彼が知るすべのなかった、まさにチェレンコフの業火を描いて余りあるではないか!――

奇しくも、僕は先の記事の生田春月の碑を撮った生涯初めての一人旅で(それは前立腺癌に冒され余命幾許もない鹿児島の祖父に最後の別れをするための旅の帰りであったのだが)、日本人としてのアイデンティティとして、広島の旅を自らに課した。広島はその時も、そうして今も、僕には永遠に刻まれる存在である――Doumu2_3

Doumu1_2

1975年8月20日撮影

2007/11/17

蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜

   蒼白   芥川多加志

雨滴
今は眞夜中

(時計の音に混つて……)

握りしめたおまへの手を開いてごらん
その力なく慄へてゐる血塗れの哀れなものは何
もしそれがわたしの胸から奪ひとつたものでないとしたら……

今、おまへの手から逃れたわたしは
星々の間をあてどなく彷徨ふことができる
この暗闇を
わたしは旅する
わたしは立止り
また歩き出し
そして耳を傾ける、何ものかの歌に
意味のない歌
意味のない歌……

雨滴の音
夜半を過ぎて。

                             十七年二月

注:冒頭の「雨滴」には「あまだれ」のルビがつく。

この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年4月20日発行の第2号に発表したものである。
底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分は正字とした。

芥川多加志(1922-1945)
大正11(1922)年11月8日、芥川龍之介・文の次男として東京府北豊島郡瀧野川町字田端に出生。
命名は画家にして龍之介の盟友、小穴隆一の「隆」を訓読みしたものである。
龍之介は良く知られる彼自身の小穴による肖像「白衣」(二科展出品)を、この丁度二ヶ月前の9月8日の二科展招待日に小穴と一緒に鑑賞に赴いている。しかし、その小穴には不幸が訪れる。多加志誕生から19日後の11月27日、小穴の右足に脱疽の診断が下る。12月2日に右足第四指を切断するも手遅れで、翌大正12(1923)年1月4日に、右足首から下を切断した。この2度の手術に龍之介は立ち会っている。御存知のように、小穴は龍之介が遺書で遺児たちに、父と思えと、命じた人物である。しかし、文も遺児達も皆、龍之介の死後に彼からは縁遠くなってゆく。
著作関連では、多加志誕生の5日後の11月13日に未完の単独作品「邪宗門」が刊行され、翌年の1月1日の「文藝春秋」に「侏儒の言葉」の最初の発表がなされる。
昭和2(1927)年7月24日の龍之介自死の際は4歳、聖学院附属幼稚園入園の3箇月後であった。鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(河出書房新社1992年刊)の自死前日の下りから引く。7月23日の『昼食は夫人や三児と楽しく談笑しながらとり、多加志が食卓を蹴ったので龍之介は多加志にお灸をすえた。』――死を美事に決していた龍之介に灸をすえられた多加志――私にはそこに龍之介の多加志への愛を見る。
たとえばこれを、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)で頗る臨場感のある印章的暗示的な場面として描いている(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのであるが)。

昼飯の卓袱台で、比呂志が父の龍之介に描いてもらった絵を多加志に見せびらかし、多加志が父に今直ぐに僕にも描いてと駄々を捏ね、卓袱台の足を蹴る。その罰として灸のシーンとなるのである。おびえる多加志に心の中で語りかける。

『よくないことをしたら心が熱くなる。その熱さと痛みをおまえが忘れないように、お父さんはおまえにお灸をすえるのだ』。

しかし、多加志に足の小指に灸をすえた直後、多加志が

「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」

と泣き叫ぶと、それを心配そうに見ていた伯母フキが

「似ているねえ。同じことを言っているよ」

と言う。

『ふと龍之介は自分が幼い多加志になったような錯覚を抱いた。』

そうして、

『灸の熱が多加志のあしの小指の皮膚につたわる寸前で、龍之介はもぐさを手でつまみあげた。手を焼く熱の痛みが胸に痛いほどに感じられて、龍之介は涙をこぼしそうになった。』

とあって、陽気な団欒の昼御飯となる。その後、龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして

『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。

訝る多加志に龍之介はこう言う。

『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』

『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』

『その花はね、魂なんだよ』

『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』

と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆくのである――

ちなみに、この「スマトラの忘れな草」は龍之介の「沼」に登場する――

昭和4(1929)年、豊島師範学校附属小学校入学。
昭和10(1935)年、私立暁星中学校入学。
昭和15(1940)年、東京外国語高等学校(現在の東京外語大)仏語部文科入学するも、重度の肋膜炎で一年余、休学。
昭和18(1943)年11月28日、出征。陸軍朝鮮第二十二部隊入営。
昭和19(1944)年6月29日、ビルマ戦線起死回生の投入のための陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士として朝鮮を出発。
昭和20(1945)年4月13日、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死。享年22歳であった。

戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――

以上は先に掲げた天満ふさこ及び文中の鷺只雄・小沢章友らの著作を参考にして、僕が自由に作成したものである。芥川多加志が参加し、天満女史が遂に探しえなかった幾つかの回覧雑誌「星座」が何処よりか見出されんことを祈る。芥川多加志の魂が、時を得て、また蝶となって飛びたつために……

2007/11/07

芥川多加志 墓地

   墓地   芥川多加志

月の光で冷えきつた石甃の上を歩いて

錆びついた鐵門を押しあけた。

二、三本の眞黑な椎の木

人の如く佇んで呟きつゞける

道に

施された錢を數へに時々やつて來る托鉢僧の

冷たく殘して行つた足跡

散り敷く青ざめた落葉の群をかきわけて。

苔むした墓石の上に

身動きもせぬ一羽の何か黑い鳥を見た。

この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年1月3日発行の創刊第1号に発表したものである。底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分は正字とした。

……これはフリードリヒの“FRIEDHOFSEINGANG”――「墓地の入り口」であるCemetery_at_dus_2

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