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カテゴリー「夏目漱石「こゝろ」」の228件の記事

2020/07/14

今日、先生はKと房州旅行に出る――「斯うして海の中へ突き落したら何うする」――「丁度好い、遣つて吳れ」――

Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市塲(しぢやう)に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれました。

 私は其處に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに默つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽つてゐるのか、景色に見惚(みと)れてゐるのか、若しくは好きな想像を描いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口答へる丈でした。私は自分の傍(そば)に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸(さぞ)愉快だらうと思ふ事が能くありました。それ丈ならまだ可(い)いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです。すると落ち付いて其處に書物をひろげてゐるのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩(てぬる)い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後(うしろ)からぐいと攫(つか)みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向(うしろむき)の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月14日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十二回より。太字下線は私が附した)

   *

漱石は論理をこねくる傾向が強く、概して視覚的映像的描出が甚だ上手くないのであるが、このシークエンスは「こゝろ」の中で最も忘れ難い現地ロケの白眉である。

2020/07/12

今日、先生の不審が始まる……そうして「お孃さん」の例の〈笑い〉の初登場の日でもある……

 ある日私は神田に用があつて、歸りが何時もよりずつと後れました。私は急ぎ足に門前迄來て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥(たしか)にKの室から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、といふ間取なのですから、何處で誰の聲がした位(くらゐ)は、久しく厄介になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ己(や)みました。私が靴を脫いでゐるうち、―私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐたのですが、―私がこゞんで其靴紐を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違ひかも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室を拔(ぬけ)やうとして、襖を開けると、其處に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲(せゐ)か其簡單な挨拶が少し硬いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御孃さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈の事です。

 奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈だつたのです。私は一寸首を傾けました。今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默しました。

   *

 私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋(さかなや)が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ說明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ己(や)めました。

   *

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月12日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十回より。「己(や)めました」の「己」は「已」の誤植。この誤りは初出では複数回存在する)

2020/07/08

今日、先生はKの「前に跪まづく事を敢て」し、遂にKを「私の家」に連れて来てしまう――

Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて强い人になるのが自分の考だと云ふのです。それには成るべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸で醉狂です。其上窮屈な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも强くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです。私は仕方がないから、彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虛な言葉でもなかつたのです。Kの說を聞いてゐると、段段さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたいと發議(はつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まづく事を敢てしたのです。さうして漸(やつ)との事で彼を私の家に連れて來ました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月8日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十六回より。下線太字は私が附した)

   *

 「兎に角あまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから」

 「そりや何ういふ意味ですか」

 「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己(おの)れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此(この)淋(さび)しみを味はわなくてはならないでせう」

 私はかういふ覺悟を有つてゐる先生に對して、云ふべき言葉を知らなかつた。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月3日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十四回より。同前)

   *

先生は「私の家」と言っている。私(藪野)が先生ならせめても「私の下宿屋」へと書く。それが当然であり、普通である。このさりげない表現にから、下宿屋の主人である「奥さん」の「止せ」という制止を振り切ってまでKを連れ込んでしまうことが出来るのは、取りも直さず、先生が事実上の半ば意識的にも――この「家」と「奥さん」と「靜」の支配者になっているとどこかで自任してしまっている――ということに気づかねばなるまい。それは社会的自立者であることの無意識の自認であり、総ての事柄が自分の要求通りになる、通りにする、と先生が自己肥大を起こしているのだと私は思うのである。

2020/07/07

今日、先生ばかりでなく、Kも同じく『故郷喪失者』となる――Kのプロフィル(Ⅱ)

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月7日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十五回

   *

◎Kのプロフィル(Ⅱ)

・Kは自尊心・自立心が強い

 →極めて自律的な存在としてのKに先生は何処かで自分にはないタイプの精神の「強さ」を見、羨ましさ(嫉妬)を抱いている

・Kが「剛情」であるのは継母(生母とは死別)に育てられた結果であろうという私の推測

 →Kには母性愛の欠損及び抑圧され変形したエディプス・コンプレクスがあると考えてよい(それは漱石の生活史と重なる)

 

2020/07/06

今日の「心」に例の忘れ難い数珠のシークエンスが出る――

 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉强するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍(そば)の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉强が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數(じゆず)を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月6日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十四回より)

   *

私は再三述べているが、この先生の述懐は遺書の中でも超弩級に重いものである。ここを深く鑿(うが)つことなしに「こゝろ」の核心には到底達し得ないと言えるのである――

2020/07/05

今日遂にKが登場する――

 

 私は其友達の名を此處にKと呼んで置きます。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月5日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十三回冒頭)

   *

以下と比較せよ――

   *

 私(わたし)は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々(よそ/\)しい頭文字抔(など)はとても使ふ氣にならない。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第一回冒頭)

   *

 Kの養子先も可なりな財產家でした。Kは其處から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのは私と一所でなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。

   *

「檻の中で抱き合ひながら」という同性愛的(プラトンの「パイドロス」に拠れば、男女の愛は賤しく、男同士のそれこそが至高の愛の形である)比喩を忘れてはならない!――

「K」とは何者か?

実はこれは先生のトリック・スターではないか?

「我輩は猫である」の先生は「苦沙彌先生」でK、「坊つちやん」の「清」もK、そして漱石の本名も夏目金之助で「K」である。

   *

 以下、懐かしい私の板書。

   *

◎Kのプロフィル(Ⅰ)

・同郷(新潟)の幼馴染みで浄土真宗の僧侶の次男

 →実家は(先生と同じく)財産家。

・医者の家に養子に行く

 →当然のこととして養家の跡継ぎとして医者にならねばならない。

・Kは「強い」

 →我々は二人とも「真面目」であったが彼は私より遙かに「強い」。

・Kは常に「精進」という言葉を使用

 →寺に生れたからでもあるが、Kは実際の僧よりも遙かに僧らしい性格であった。

・Kは実生活に於いてもその「精進」を完全実践

 →私はそんなKを内心畏敬していた。

・Kは中学時代から宗教・哲学を好んで語った

 →そうした関心の主因が僧である父の直接の影響なのか、それとももっと血脈的な彼の属した寺という家系に属すものであるかは定かではないが、兎も角私には難しい問題ばかりで困らせられた。

・Kは「道のためなら」養父母を欺いても構わないと公言

 →医師になる気は全くない。「道のため」の学問を自律的に選び取る覚悟を持つ。

   *

2020/07/04

今日、遂に遺書に初めてKのことが語られる――(「もう一人」の「男」・「其男」として末尾に登場する)

……『奥さんは急に改たまつた調子になつて、私に何う思ふかと聞くのです。その聞き方は何をどう思ふのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御孃さんを早く片付けた方が得策だらうかといふ意味だと判然(はつきり)した時、私は成るべく緩(ゆつ)くらな方が可(い)いだらうと答へました。奥さんは自分もさう思ふと云ひました。

 奥さんと御孃さんと私の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅へ引張つて來たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隱さず打ち明けて、奥さんに賴んだのです。所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつたのです。だから私は私の善(い)いと思ふ所を强ひて斷行してしまひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月4日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十二回より。太字は私が施した)

   *

「ければならない事にな」ったという先生、

「其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐ」ると、現在形で述懐する先生、

しかも「もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつた」という先生、

そうして悍(おぞ)ましくも

「私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ」だ

と言い放つ先生を見よ!

「手もなく」「其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ 」というどこか自己責任回避としか思えない弁解にならない弁解は何だ?!

「魔」とは何か?! いやさ、誰か?!

私は「こゝろ」の先生の遺書の中で唯一、今も甚だしい不快感を持たずには読めない数少ない箇所であることを「自白」する――

   *

なお、「自白」という言葉は、現在、我々の知り得る遺書の中では三度目の出現である。最初は後の「先生と遺書」冒頭部分の『然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです』(『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回)で、次は故郷を永遠に去った直後の金の話で、『自白すると、私の財產は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです』である。

遺書を読む学生が君だったら、どう感じるか考えて見給え。

遺書はのっぴきならない絶対の告白書であり、自白書である。されば、学生は「自白」という言葉に甚だ敏感に反応するはずである。

しかし、この三つを並べて見た時、どうか?

先生の考え方から、第一のそれには、先生が生死の問題を常に意識している土壇場にあったことを除外して考えれば、

「世間的手蔓を求める君の依頼なんぞは私にはそれだけでも実は努力に値いしないものであることは判っていましょう」

という例の調子の含みが「自白」されているに過ぎないことは、後を読まずとも、直ちに判ることだ。

二つ目はどうだ? 高等遊民の癖に、

「金の話ですが、まあ、この程度の小金持ちに過ぎなかったのですよ」

という軽い「いなし」の「自白」でしかないではないか。

そうした「自白」項目の三番目が、これだ。

ここに「先生」の、いやさ、作者漱石自身の社会認識の偏頗性と哀れな自己合理化のそれが見え透いてくる。それこそが、例えば、私のこの箇所の文々(もんもん)に対する激しい生理的嫌悪感の正体であるように思うのである。

 

2020/06/30

今日、「先生」は言う――「本当の愛は宗敎心とさう違つたものでない」――

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗敎だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗敎心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭(にほひ)を帶びてゐませんでした。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月30日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十八回より)

2020/06/29

家デ『朝日新聞』夕刊ヲ購ツテヰル「こゝろ」ヲ愛スル高校生諸君總テニ告グ!

本日の夕刊の三頁目を殘して置きなさい。

「まちの記憶 小石川界隈」だ。其處にある地圖の中に――「こゝろ」の「先生」と「K」と「お孃さん」「靜」と「奥さん」の居た家は――この中に――あるのですよ!!!

私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」がヒントです。

いや……さうして……今日のこの新聞記事を讀んでゐて私(わたくし)は――「はつ」と――氣附いたのです。……

「蒟蒻閻魔」ですよ!……

「蒟蒻閻魔」が「こゝろ」に登場するのは――まさに上記の――あの――決定的致命的瞬間――なのです!

……私は知らなかつた……蒟蒻閻魔の閻魔像は……右目が……濁つて、ゐるのです…………

「先生」も「心」の片目が致命的に濁つてゐたのではないですか?……さればこそ……「先生」は遂に眞實を――「K」の眞意を――致命的に讀み違へる――魔へ――陷ることとなつたのではないでせうか?…………

 

2020/06/27

先生――靜に逢う――

 斯んな話をすると、自然其裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでせう。移つた私にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣が豫備的に私の自然を損なつたためか、又は私がまだ人慣れなかつたためか、私は始めて其處の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顏をしました。

 私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

(中略)

 私は喜んで此下手な活花(いけはな)を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾(かたぶ)けました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回より)

   *

リンク先注で下宿先の推定平面図を示してある。この図は私のブログ内でもアクセスの特異点である。

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