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カテゴリー「夏目漱石「こゝろ」」の203件の記事

2017/11/10

江戸川乱歩 孤島の鬼(10) 明正午限り

 

   明正午限り

 

 深山木幸吉との約束の一週間が過ぎて、七月の第一日曜のことであった。よく晴れた非常に暑い日であった。朝九時ごろ、私が鎌倉へ行こうと着換えをしているところへ、深山木から電報がきた。会いたいというのだ。

 汽車は、その夏最初の避暑客で可なり混雑していた。海水浴には少し早かったけれど、暑いのと第一日曜というので、気の早い連中が、続々湘南の海岸へ押しかけるのだ。

 深山木家の前の往来は、海岸への人通りが途絶えぬほどであった。空地にはアイスクリームの露店などが、新しい旗を立てて商売をはじめていた。

 だが、これらの華やかな、輝かしい光景に引き換えて、深山木は例の書物の中でひどく陰気な顔をして、考え込んでいた。

「どこへ行っていたのです。僕は一度お訪ねしたんだけど」

 私がはいって行くと、彼は立ちあがりもしないで、そばの汚ないテーブルの上を指さしながら、

「これを見たまえ」

 というのだ。そこには、一枚の手紙ようのものと、破った封筒とがほうり出してあったが、手紙の文句は鉛筆書きのひどく拙(つたな)い字で、次のように記されてあった。

 

 貴様はもう生かしておけぬ。明正午限り貴様の命はないものと思え。しかし、貴様の持っている例の品物を元の持ち主に返し、きょう以後かたく秘密を守ると誓うなら、命は助けてやる。だが、正午までに書留小包にして貴様が自分で郵便局へ持って行かぬと、間に合わぬよ。どちらでも好きな方を選べ。警察に言ったってだめだよ。証拠を残すようなへまはしないおれだ。

 

「つまらない冗談をするじゃありませんか。郵便できたんですか」

 私はなにげなく尋ねた。

「いや、ゆうべ、窓からほうり込んであったんだよ。冗談じゃないかもしれない」

 深山木はまじめな調子で言った。彼はほんとうに恐怖を感じているらしく、ひどく青ざめていた。

「だって、こんな子供のいたずらみたいなもの、ばかばかしいですよ。それに正午限り命をとるなんて、まるで映画みたいじゃありませんか」

「いや、君は知らないのだよ。おれはね、恐ろしいものを見てしまったんだ。おれの想像がすっかり的中してね。悪人の本拠を確かめることはできたんだけれど、そのかわり変なものを見たんだ。それがいけなかった。おれは意気地がなくて、すぐ逃げ出してしまった。君はまるで何も知らないのだよ」

「いや、僕だって、少しわかったことがありますよ。七宝の花瓶ね。何を意味するのだかわからないけれど、あれをね諸戸道雄が買って行ったんです」

「諸戸が? 変だね」

 深山木は、しかし、それには一向気乗りのせぬ様子だった。

「七宝の花瓶には、一体どんな意味があるんです」

「おれの想像が間違っていなかったら、まだ確かめたわけではないけれど、実に恐ろしいことだ。前例のない犯罪だ。だがね、恐ろしいのは花瓶だけじゃない、もっともっと驚くべきことがある。悪魔の呪いといったようなものなんだ。想像もできない邪悪なのだ」

「一体、あなたには、もう初代の下手人がわかっているのですか」

「おれは、少なくとも彼らの巣窟(そうくつ)をつきとめることはできたつもりだ。もうしばらく待ちたまえ。しかしおれはやられてしまうかもしれない」

 深山木は彼のいうところの悪魔の呪いにでもかかったのであるか、ばかに気が弱くなっていた。

「変ですね。しかし、万一にもそんな心配があるんだったら、警察に話したらいいじゃありませんか。あなた一人の力で足りなかったら、警察の助力を求めたらいいじゃありませんか」

「警察に話せば、敵を逃がしてしまうだけだよ。それに、相手はわかっていても、そいつを挙げるだけの確かな証拠をつかんでいないのだ。いま警察がはいってきては、かえって邪魔になるばかりだ」

「この手紙にある例の品物というのは、あなたにはわかっているのですか。一体なんなのです」

「わかっているよ、わかっているから怖いのだよ」

「それを先方の申し出どおり送ってやるわけにはいかぬのですか」

「おれはね、それを敵に送り返すかわりに」彼はあたりを見廻すようにして、極度に声を低め「君に宛てて書留小包で送ったよ。きょう帰ると、変なものが届いているはずだが、それを傷つけたり毀(こわ)したりしないように、大切に保管してくれたまえ。おれの手元に置いては危ないのだ。君なら幾ぶん安全だから。非常に大切なものなんだから間違いなくね。そして、それが大切なものだっていうことを、人に悟られぬようにするんだよ」

 私は深山木のこれらの、あまりにも打ちとけぬ秘密的な態度が、なんだかばかにされているようで、こころよくなかった。

「あなたは、知っているだけのことを、僕に話してくださるわけにはいかないのですか。一体この事件は、僕からあなたにお願いしたので、僕のほうが当事者じゃありませんか」

「だが、必らずしもそれがそうでなくなっている事情があるんだ。しかし、話すよ。むろん話すつもりなんだけれど、では、今夜ね、夕飯でもたべながら話すとしよう」

 彼はなんだか気が気でないといったふうで、腕時計を見た。

「十一時だ。海岸へ出てみないか。変に気が滅入っていけない。一つ久しぶりで海につかってみるかな」

 私は気が進まなかったけれど、彼がどんどん行ってしまうものだから、仕方なく彼のあとに従って、近くの海岸に出た。海岸には眼がチロチロするほども、けばけばしい色合いの海水着がむらがっていた。

 深山木はいきなり猿股(さるまた)一つになると、何か大声にわめいて、波打ち際へ駈けて行き、海の中へ飛び込んだ。私は小高い砂丘に腰をおろして、彼の強(し)いてはしゃぎ廻る様子を妙な気持で眺めていた。

 私は見まいとしても、時計が見られてしようがなかった。まさかそんなばかなことがと思うものの、なんとなく例の脅迫状の「正午限り」という恐ろしい文句が気にかかるのだ。時間は容赦なく進んで行く、十一時半、十一時四十分と正午に近づくにしたがって、ムズムズと不安な気持が湧き上がってくる。それにそのころになって、私を一層不安にした事柄が起こった。というのは、果然、私は果然という感じがした、かの諸戸道雄が、海岸の群衆にまじって、遥か彼方に、チラリとその姿を見せたのである。彼がちょうどこの瞬間、この海岸に現われたのは、単なる偶然であっただろうか。

 深山木はと見ると、子供好きの彼は、いつの間にか海水着の子供らに取り囲まれて、鬼ごっこか何かをして、キャッキャッとその辺を走り廻っていた。

 空は底知れぬ紺青(こんじょう)に晴れ渡り、海は畳のように静かだった。飛び込み台からは、うららかな掛け声と共に、次々と美しい肉弾が、空中に弧を描いていた。砂浜はギラギラと光り、陸に海に喜戯(きぎ)するあまたの群衆は、晴れ晴れとした初夏の太陽を受けて、明るく、華やかに輝いて見えた。そこには、小鳥のように歌い、人魚のようにたわむれ、小犬のようにじゃれ遊ぶもののはかは、つまり、幸福以外のものは何もなかった。このあけっ放しな楽園に、闇の世界の罪悪というようなものが、どこの一隅を探しても、ひそんでいようとは思えなかった。まして、そのまっただ中で血みどろな人殺しが行われようなどとは、想像することもできなかった。

 だが、読者諸君、悪魔は彼の約束を少しだってたがえはしなかったのだ。彼は先には、密閉された家の中で人を殺し、今度は、見渡す限りあけっばなしの海岸で、しかも数百の群衆のまん中で、その中のたった一人にさえ見とがめられることなく、少しの手掛りをも残さないで、見事に人殺しをやってのけたのでゝある。悪魔ながら、彼はなんという不思議な腕前を持っていたのであろうか。

[やぶちゃん注:この海岸は明らかに由比ヶ浜である。高い確率で材木座海岸である。しかもこのシチュエーションには明らかに、同じ場所の設定である、夏目漱石の「の「先生」と「私」が出逢うシーンへのオマージュがあると私は思われてならないのである(リンク先は私の初出電子化注)。あの「こゝろ」が、同性愛を全篇の字背に潜ませていることからも、私は偶然のロケーションとは到底、思えないのである。]

2017/09/14

演じてみたい役 追加

 

僕が今もベケットの「クラップ最後のテープ」を演じてみたいことは以前にも何度も書いたが、昨夜、寝しなにふと、
 
「あれなら――是非やりたい。急にやりたくなったのだ。」
 
と思った役があったのだ。
 
漱石の「こゝろ」の「ある役」だ。
 
「先生」では無論、ない。もう「先生」の年齢の倍近く生きてしまったからね(「先生」を爺さんだと思っている愚かな連中がいっぱいいるが、先生が自殺したのは満で35歳ぐらいだよ。私の論考を見給え)。だから「K」も「私」も無理だ。「私」の「父」も魅力ない。
 
もういないだろうって?
 
いや、僕の年でもやれる役がある。しかも頗る魅力的なのだ。
 
多分、誰も当たらない。台詞もないチョイ役だからだ。
 
でも無性にやりたいと思ったのだ。
 
僕の初出の電子化から引こう。例の雑司ヶ谷で「私」が「先生」に再会するシークエンスに登場する「彼」だ――
 
   *

 
  先生の遺書

 
      (五)
 
 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の縁が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。
 
 「何うして‥‥、何うして‥‥」
 
 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。
 
「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」
 
 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。
 
 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。
 
 「誰の墓へ參りに行つたか、妻が其人の名を云ひましたか」
 
 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」
 
 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」
 
 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。
 
 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。
 
 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。
 
 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黄葉して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。
 
 向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。
 
 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の歩く方へ歩いて行つたた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に歩いて行つた。
 
 「すぐ御宅へ御歸りですか」
 
 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」
 
 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。
 
 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。
 
 「いゝえ」
 
 「何方の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」
 
 「いゝえ」
 
 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程歩いた後で、先生が不意に其處へ戻つて來た。
 
 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」
 
 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」
 
 「さうです」
 
 先生は其日是以外を語らなかつた。
 
   *
 
そうだ。
 

雑司ヶ谷の墓地の中で「凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男」だ。「鍬の手を休めて」「私」と「先生」を凝っと見つめている男だ。
 
あれを演じたい。

何故かって? 僕はね、やっぱり彼は「Kの亡靈」だと思うからだよ(それは確信犯で僕のフェイク小説「こゝろ佚文」にも登場させたんだからね)、「Kの亡靈」なら、六十の爺でいいんだ、いや、寧ろ、六十の爺の方がいいんだよ…………

2017/06/12

江藤淳に

貴様は「先生」の自死を『自我の暴威』を主因とする行為だったと断じたことを忘れるな。

貴様は自死して死んだ。

貴様の自死の動機が何だったか――直前の妻の死や脳梗塞の後遺症なんど言われる時、およそ、貴様は下らぬ物言いとしてそれを拒否するに違いない――そんなことは、問題ではないし、興味もない。

私は貴様の、あの「こゝろ」論の、あの糞のような、忌まわしい似非日本主義の凡庸な結構に括られた
――さればこそ大衆に受け入れられ易いところの二項対立の――
自死論が大々大嫌いである。

貴様が自分の晩年を形骸に過ぎないなどと宣うていたとしても、それを「先生」は断固としてせせら笑う。

貴様は貴様の自死も――否――貴様のそれをこそ――素直に鮮やかに『自我の暴威』と断ずるべきだったのではないか?

さすればこそ――「先生」は――貴様の墓前に――花を手向けたであろうに…………

2017/05/25

Ars longa vita brevis.

21日からのここまでの16タイトルが今私の目の前のデスク・トップに出してある作業中電子テクスト注群。他に「博物学」フォルダになかなか進まぬ江戸時代の本草関連書8タイトルがある。全く以って――Ars longa vita brevis.――ですね、「先生」……


 

Kokoro1



2015/09/08

私は是で大變執念深い男なんだから……

……君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから……
 
(漱石「こゝろ」より)

2014/08/15

私の小説「こゝろ佚文」PDF版

私の小説「こゝろ佚文」PDF版をサイト・トップに公開した。例によって正字の一部(狀・噓・摑など)が横転するため、已む得ず新字に直した。悪しからず。

2014/08/11

「こゝろ」の「先生」の家の間取り

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月5日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十六回で注したものだけど、これはしょぼい。夫婦の寝室を忘れとるわ……

Seiseinouti

「こゝろ」の「先生」の高等下宿の間取り

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回のシンクロニティで僕が載せたもの――


Gesyuku

「こゝろ」の最終回は今日

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

4年前の僕のブログの電子化テクスト――こんな暑い最中に人々はあの「こゝろ」の最終回に邂逅したのだった――

2014/05/15

朝日新聞の「こゝろ」(「心」)の復刻掲載について

今日は「先生の遺書」(十九)――Kの「變死」が「靜」から「私」に告げられる大事なシーン――

だが……
僕は少々失望しているのだ。……
何故か?――

今回の再連載は当時の連載と同じと名打っているが、実は土日には掲載していないために、既にしてタイム・ラグが生じているからである。例えば今日のそれは、大正3(1914)年5月8日分であって、既ににして致命的に、一週間もの差が生じてしまっているのである。――

僕が2010年にこのブログで同じように連載を試みた時のその最大の核心は、当時の人々が「心」をアップ・トゥ・デイトに、どのような季節や時間やの中で読んだか、それこそが大切だと心得ていた。――
僕はそれを最後まで守った。――

しかし乍ら――一つ、素晴らしいことは――ある。――

それはデジタル版で夏目漱石「こころ」連載当時の掲載紙面全部を読むことが出来る点である(リンク先は「朝日新聞デジタル」の会員登録をしないと見ることは出来ないので注意されたい。無料登録も可能で僕もそれである)。

そこではまさに、記事や広告によって当時当日の世俗が体感出来るからである。今日の同紙面には「米國で低能移民に課する試件驗 人種改良學の影響」という驚くべき記事がすぐ脇に載っているのだ。

是非、ご覧あれ。

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